[#表紙(表紙.jpg)] 800 川島誠 目 次  800   あとがき [#改ページ]      1  なぜ八〇〇メートルを始めたのかって訊《き》かれたなら、雨上がりの日の芝生の匂いのせいだ、って答えるぜ。  陸上競技場は、そんなにも特別なところだ。  いや、形は単純なのよ、形は。  一周四〇〇メートルのトラック、二本の直線と二つの半円で出来たやつが、すり鉢になったスタジアムの底に置かれてるだけだ。  でも、最初にその底に降りたときには、脚が震えたぜ。うん、ビビッたな、正直言って。  俺は、こんなひろい、はれがましいところにいるのは初めてだって気がしたね。空が違って見えるんだ、スタンドで見上げてるやつとは。  メチャクチャ大きい。  ふつうだったらさ、すぐに、じゃまする建物とかあるじゃない。それがね、なにもないの。ガーン、って、空だけ。  ウォーミング・アップで芝生の上にころがるやつがいたのよ。なんか、カッコいいからマネしてみたら、俺、二度と起き上がりたくないって思った。  まっ青な空に白い雲が飛んでて、世界に俺ひとりしかいない。  で、腹這《はらば》いになってアゴを地面につけたら、芝生の草と草の間、ずっと遠くに人が動くのが見えた。四〇〇メートル・トラックの内側に、えんえんと緑のフィールドが続いてて、その向こう。  だいたい、俺は、バスケットボール部だったのよ。薄暗い明かりがついててさ、汗くさーい体育館で、バッシュをキュッキュッいわせてた。  うん、暗かったね、あれは。  俺がいた中学には、陸上部がなかった。それで、市の競技会に借り出されたってわけ。なんでだかわからないけど、俺は、八〇〇メートルだった。競技場のトラックを二周して帰ってくればいい。  やってらんないな、って思ったぜ、そんなもん。俺は、馬じゃないんだって。  ただ、授業がサボれるのが面白かった。なんか選ばれたやつだけでさ(みんな、野球部とか、サッカー部とか、そんなやつら)バス乗って、学校から出ていけるんだ。俺の隣には、バレー部の小川《おがわ》を窓際に座らせて。  こいつ、ちょっと生意気ですましてる子なんだけど、乳首が立ってきてたぜ、やわらかいブラジャーの上からときどき俺がさわってたら。いい匂い、させちゃってさ。眼だって、トローンてなっちゃってんの。  それで、陸上競技場だ。  着いたらね、ドーンって感じ。  いま言ったみたいに、最初はさあ、かったるいなって、雰囲気よ。だって、どうでもいいじゃないの。俺の中学はちっちゃくて、陸上部もなくて、それでも市の大会があるんで体育の教師がカッコだけ間に合わせてやってきた。勝っても負けても関係ないの。  それが、生まれて初めてスパイクはいて、スタートのラインに立ったら違うんだよね。ま、スパイクは学校の、備品、っていうのかな、俺のもんじゃないから、きつかった。俺の足は28センチあるんだ。無理やり突っ込んだけどね。  やっぱ、勝ちたいって気になる。  いま考えてみれば、もう、わけもわからずスタートよ。ピストルがバンって鳴って、ほら、そういうのってコースをわけてなくて、斜めになった線から立ったままスタートするでしょ。あちこちの中学からひとりずつ選んでて、予選なし、実力も関係なくて、一気に飛び出すわけね。そしたら、右にいたやつが、肘《ひじ》はって、押してくるんだよね。  やるじゃないの。  俺はそれまで、陸上なんて、おぼっちゃんのスポーツだって思ってた。なんか上品そう。タイムばっか気にしてて。一生懸命体操やって、それで、あ、脚がつっちゃいました、って感じ。  ふっ、俺はバスケットボール部なんだぜ、プッシングなんて慣れてる。  泳ぐようにして、右腕を伸ばして、こいつのことは、はらいのけてやったね。俺の身長は、一八八センチあった。中学の三年でだぜ。バスケットするうえでも、ちょっとしたもんだった。こんな、ただ走るだけなのに負けてられっかよ。  そんなで、ごちゃごちゃして、気がついたら、もうバック・ストレートになってた。俺、ここの景色を一番覚えてる。たぶん、一生忘れないね。まっすぐ、コースがあるの。それで、その先のスタンドは芝生になってて、で、また、その上にまっ青な空が、ぽかっと見える。  するとね、走ってる俺たちの外で、何の関係もなく棒持って走ってくるやつがいるわけ。こっちに向かって、まじめなつらして。棒高跳びやるやつって、このとき初めて見た。ちょっと奇妙。俺もレースやってたんだけど、なんか、ながめちゃったね。ふーん、っていう感じ。  前には六人ぐらい、いたのかな。  えらい速いやつらだって思ったな。小さいころから走るのは速かったぜ、俺だって。小学校の運動会ではいつもリレーのメンバーだったし、まあ、いつだってクラスの一番か二番、絶対三番までにははいってた。  でもさあ、まだこのあと、だいたい六〇〇メートルは走んなきゃいけない。気が遠くなる。みんな、そんなこと当然って感じでガンガンいくんだ。  やっぱ、陸上部のやつらって偉いのかなあって、感心しながら走ってた。  で、一周してスタートラインにもどってきたら、審判台のわきでうずくまってるやつがいるの。そばに帽子かぶった役員がかがみこんでた。すぐに、俺がやったんだってわかったね。  バスケットボールは格闘技だとか言うじゃない。まあ、それはそうだ。でも、陸上なんてそれどころじゃない、凶器攻撃だぜ。俺、あいつのことスパイクした感触が急によみがえったもの。俺の左足の底にある六本のピンが、しっかりと、あいつの肉をえぐったはずだ。  なんか、ものすごく愉快になったね。  俺は、このスポーツが気にいった。スパイクなんてされるやつの走り方が悪い。これ、絶対にそうだぜ。バスケットやってて知ってるもの。ケガするやつって、そいつが間違った動きしてる。ゲームの流れにのってない。  ほとんど笑いそうになりながら、二周目にはいった。また、棒高跳びのやつらがいた。すわって、緊張した顔で、屈伸やったりしてる。  バックの直線駆け抜けて、コーナーの入口でひとり抜いた。大回りになって損だなって思ったけど、それどころじゃない。  みんな、止まってるんじゃないかって気がしたぜ。俺は走ってるのにさ。どんどん抜けるわけ。もちろん、俺だって苦しくなってた。でも、ぜんぜんスピードが違ってて、ほとんど外側走って直線だった。  スタンドにいるうちの中学のやつらの声が、ちゃんと聞こえてた。俺がバンバン抜くから、キャーキャーいってて、小川が、がんばってえ、とか叫ぶから、俺、勃起《ぼつき》しそうになったな。帰りのバスではがんばってあげるよ、って。  で、俺はギリギリのところで二着だった。  あと五〇メートル、いや三〇メートルあったら抜けてた。そしたら、俺が優勝だった。ま、いいけどね。  ゴールしてからも、まだまだ走れそうだった。体育の教師がとんできたぜ、ストップ・ウォッチのひも振り回して。  スピード違反、スピード違反、って叫んでる。こいつ、まだ若いんだよね。ポリが追いかけて来てる気がしてたからな、とか、俺も言って、愉快だった。最高。  まあ、そんなわけよ。初めて走った八〇〇メートル、ってのは。  悪くなかったね。      2  なぜ八〇〇メートルを始めたのかって訊《き》かれたなら、なんて答えたらいいんだろう。陸上競技をやりたければ、一〇〇メートルでも五〇〇〇メートルでも、もちろん、もっとマニアックにいけば、円盤投げだっていいはずだ。  でも、ぼくは八〇〇メートルという距離を走ることが気にいっている。  それは、不思議な長さだ。  一〇〇や二〇〇みたいに、決められたコースをただ思いっきり走ればいいってもんじゃない。あんなのは何も考えないでできる。本当は考えるんだけどね。スタートとか腕のふりかたとか、いろいろ。  五〇〇〇メートルなら、ともかく持久力。中高生にとって、やっぱり五キロを速く走るっていうのは、スタミナが勝負。  その点、八〇〇メートルは違う。短距離なみのスピードで、四〇〇メートル・トラックを二周(TWO LAPS)する。しかも、コースはひとりひとり分かれてなくてオープンだから、駆け引きがある。勝とうと思ったら、かなりの速さで走りながら緩急をつけなきゃならない。  八〇〇っていう長さを決めた人は天才だって、ときどきぼくは感じる。  中学に入学して陸上部にはいって、そのときは八〇〇メートルなんて考えてもみなかった。足は前から速かったから、トラックをするつもりではいたけど。ロング・ジャンプも少しやってみたかったかな。  一、二年のころは、一〇〇と二〇〇を走ってた。まあまあの短距離選手だった。遅くはないよ。でも、そう注目されるほどじゃない。  悔しいけど認めてしまえば、短距離っていうのは、才能なのだ、たぶん。努力してどうなるかっていうのは、もちろん、努力しなきゃだめで、努力すれば速くなるんだけど、絶対的なところで、生まれもっての才能なんだって気がする。  ぼくにだって、ある程度の才能はある。高三まで続けてたら、電気計時で11秒ちょっとか、うまくいけば一度は10秒台が出せるくらいのランナーにはなれると思う。  インターハイにとどくかっていうのは、スプリント種目で安定した成績を残すには相当の実力が必要だから、断言できない。だけど、一〇〇メートルしてて、全国のトップ・レヴェルは、きっと無理だ。  そんなに計算づくでしたわけでもないんだけど、四〇〇と八〇〇を、去年、中学三年の春から始めた。ちょっと距離をのばしてみたつもり。  これが苦しかった。一〇〇や二〇〇の調子で走れる限界は、三〇〇メートルぐらいにあるんだと思う。最初のうちはそこを越えると、フォームがばらばらになってしまった。  からだがほどけてしまうようで、アゴがあがって、ストライドだけがのびてバタバタ。夏に走り込んで、ようやくこなせるようになった。全国中学生大会には間に合わなかったけど。  結局、中学生としては最後の試合になった秋の終わりの市内中学対抗戦では、八〇〇が一位、四〇〇が二位だった。ちょっとしたものでしょう?  特に八〇〇のほうは大会新。中距離への転向は見事に成功したって言っていいよね。  もちろん、そんなことどうだっていい、といえばいえる。  ひとより速く走るなんてことにね、何の意味があるかって考えると、意味はないんだ。でも、そんなことをいいだしたら、すべてのことが無意味だ。走るのだって、勉強するのだって。おそらく、生きていること自体が。  ただ、たぶん、ひとつだけは、はっきりしてるんじゃないかと思う。  ぼくは、ぼくのからだが好きなのだ。八〇〇メートルを走っているときのぼくのからだが。それが、どんなふうに動いて、どんなふうに感じて、どんなふうに苦しんでいるかが。  この種目をやろうと思えば、六〇〇メートルまでは、だれだって走れる。  その、市の大会のときだってそうだった。  一周目を回ってきたときは、先頭集団の一番後ろで位置をキープしていた。六人のかたまり。結構いいペースだったんで、飛び出さずについていった。  こういうときには集団の中にいると、全体に巻き込まれてスパートできなくなったり、逆にまちがったタイミングで速く走らされたりしちゃうから、いつでも抜けられるところにいたほうがいいのだ。  バック・ストレートにはいって、集団がくずれるのを待った。実力的にこのままで全員がスピードを維持できるようには思えなかったから。  八〇〇メートルっていう種目は、結局、「抑制」なんだって思う。自分のからだ中の筋肉に気をつかって、コントロールして抑える。どれだけうまく抑えて、無駄なエネルギーを使わなかったかが、最後の勝負にひびいてくる。  先頭の集団が細長くのびてくるのを、ひとりずつ、直線で抜いていった。  コーナーにさしかかったところで、二番になっていた。先頭にいるのは、前の年、二年で優勝してて、今日もいちばん最初にコールされたやつ。そのまま抑えてついていった。そして、最後の直線に出るところで、一気に第二コースにふくらんで、並んだ。  そこでもう、勝ったってわかった。  ぼくは一〇〇メートル・ランナーだったのだ。スプリントで負けるはずがない。ていねいに、ていねいに、ラスト・スパートをかけた。予定どおり。  あとで、コーチからビデオを見せてもらって少し驚いた。  ぼくのあとでゴール・インしたのは、ぼくが最後に抜いた選手ではなかった。むちゃくちゃなフォームの、やけに背の高いやつだった。名前も聞いたことのない。      3  名前?  俺の名前だったら、覚えておいて損はないぜ。  ま、そのうち有名になるから、急ぐことないけどさ。何でって、八〇〇メートルでよ、当然。  いまに新聞に、バーンって載る。中沢龍二《なかざわりゆうじ》、日本新、とかね。  で、さあ、どうしてそんなことになってきたのかっていうと、市の陸上競技会のあとに、スカウトがやってきた。  俺の担任と体育の教師とそいつと俺、四人で相談室で話した。 「バスケット部まるだしの、腰がおちたドタバタした走りに限りない可能性を感じた」んだって。おいおい、誉めてんのか、けなしてんのか、わかんないだろ。もっと、はっきりした口きいてよね。  それで、そいつの高校の体育コースに入れてくれるっていう。俺、学校の名前は聞いたことあったけど、陸上のことはあまり知らなかった。県でいちばん強い高校なんだって。  妙になれなれしいやつでさ、そのスカウトってのが。チビのくせして、俺の肩、バンバンたたいて、 「面白いぞ、陸上競技は」  とか言うの。  面白いはずねえだろ、あんなもん走ってるばかりで、とか言ってやろうかと思ったけど、まあ、実際、この前の八〇〇メートルは楽しかったからやめといた。  そいつが帰ってから、三人になって、担任の教師は数学やってるやつだけど、スカウトがいる間はペコペコしてたくせに、なんか急にいつもの調子にもどってさ、難しそうな顔した。 「どうする、中沢、お前の一生のことだぞ」  だからさ、俺、すぐに答えてやった。 「あ、行きますよ」  担任も体育の教師もあきれてた。あんまり俺がいいかげんな気がしたんだろう。両親と相談しろとか、なんだとか。  だけどね、俺、本当に行っていいってふうになってた。  だって、わざわざ来てくれっていうんだから、行ってあげようじゃないの。他に特に行きたい高校があるわけじゃなし。  ひとつにはね、バスケットボールに飽きてたんだろうな。クラブのやつらは、好きだぜ。でもね、どうってことないチームだったのよ。県大会でガンガンやれるほど強くはないし、だからって体育館の裏でメソメソするほど弱くない、はっきり言って、俺でもってたの。  これで受験勉強やって、そこそこの高校に受かって、またバスケットするってのも、なんかねえ。  ボールはさんで、みんなでゴチャゴチャしてんのって、ガキっぽいじゃない。それより、ひとりでビュンビュン走ったらいいかもしれないってね。  親も賛成、っていうか、意見なし。好きにしろって。自分のことなんだから自分で決めろ。  そんな感じ。  で、今は春休み。中学は卒業しちゃって高校はまだなんだけど、変な気分だね。俺、小川に会いに行くの、これから。      4 「それで明後日《あさつて》の昼ならいいだろ、広瀬《ひろせ》。特に用事はないんだろう?」  確かに特に用事はない。  でも、ぼくは、行かないって答える。 「なんだよ、冷たいなあ、あっちはさ、この前会ったので乗り気になってて、お前が来るのが条件なんだぜ」  電話の向こうで斎藤《さいとう》はいらだっている。  ぼくの学校は私立大学の附属校だ。うまく中学に入りさえすれば、普通はそのまま、一応私立では最高と言われている大学に進めることになっている。  小学校の時には勉強させられた。べつにそんなに厭《いや》だってこともなくて、模擬テストで全国の順位が出たりして、上がってると嬉《うれ》しかった。無理をしたつもりもなくて、なんとなく第一志望のこの学校に来てしまった。第一志望というのは親のだったのか自分のだったのか、今となってはよくわからないけれど。  それが良い選択だったかって訊《き》かれたら、答えようがないよね。現実に別の学校、たとえば公立の中学を体験してないんだから、比較のしようがない。  ぼくは気にしてるつもりはない。でも、ひとからよく言われるのは男子校なんだってこと。つまり、女の子がいない。当たり前だ。 「そんな、男ばっかり六学年もいて気持ち悪くないの」  とか訊かれる。  だからね、マンガみたいに若い女の教師が登場するはずないから、購買部の五十を越えたおばちゃんがアイドルになってるの。  これは、嘘。  学校の中に女の子がいないせいなのかなあ、そのぶん、そういうのに一生懸命になる斎藤みたいなやつが多い。受験勉強しないでいいから、自分は遊び人です、っていうのにかけてる。  斎藤とはクラスが三年間一緒だったんで、なんとなく仲がいい。  おっと、でも、本当に怒り出しちゃった。 「お前ねえ、高校に行く前に童貞捨てたいと思わないの? 二、三回つきあえば寝てくれるぜ、結構かわいかっただろ?」  ぼくには、その「つきあう」っていうのが、なんかめんどう。あまり知らない子と何を話したらいいのかわからない。というか、話す気がしない。興味がもてない。  さっき斎藤が言ってた、この前会ったときっていうのは、女子校に行ってる女の子ふたりに斎藤とぼく。背が同じくらい低くて同じくらいよく笑って同じような服着てる子たち。  四人でお茶飲んでボーリングしてご飯食べて。斎藤に言わせると、健全なグループ交際をして、で、あまりおもしろくなかった。  ああいうのって、女の子がジュースのリング・プルが開けられないでいるのを代わりに開けてあげるのが嬉しくなれないとダメみたい。  これって、たいしたこと言ってないから、そんなに考えてくれなくていいよ。  女の子がボールを選ぶのを待ってたり、ソーダについてきたチェリーのくきを蝶結《ちようむす》びにするのを見てたりすると、ぼくは、トラックに行きたくなる。  ひとつ、この学校に来て良かったとはっきり言えるのは、陸上部が中学・高校と一緒に活動していて、レヴェルがかなり高いということだ。たまには大学生と練習することだってあるし、OBのコーチもいる。  設備も整っている。陸上競技部専用の三〇〇メートル・トラックがあるのなんか、相当恵まれてる。  今は春休みの自主練習の期間。家で勝手にやっててもいいし、学校へ行って走ってもいい。こういうふうな自由があるのも、他の運動部と違って知的な感じがするでしょう?  ぼくは、自分で計画をたてて、朝練習と午後の本練に分けてる。本練習の方は、学校に行くこともあるし、ロードを走ることもある。  朝は食事前に海岸の砂浜を七キロぐらいジョッグしてる。これが、いちばん楽しい時間。  リング・プル、なんてね。      5 「手紙書くわ、絶対に」  いいって、いいって。  そりゃ、俺は全寮制の高校に行くけど、すぐ近くにあるんだぜ。土・日だって帰ってくる。だいたい、お前、手紙なんて書いたことあんのかよ。  俺、小川のこと、ベッドに押し倒した。  耳に舌いれたら、眼つぶっちゃって、何も言えなくなってる。ちょっと苦いな。すぐに裸にしちゃって、あとは、いつもと同じ。  後ろからバコバコしてたら、淋《さび》しくなってきた。  似合わねえの。  それで、小川のこと抱いて、優しくひっくりかえして、キスしながら前からした。入れるのは簡単、もうヌルヌルだしね。でも、泣いてるんだよね。  まいったな。  まあ、なんかこれで終わりだって感じよね。お互いに。  俺がいなくなったら、こいつ、すぐサッカー部の高田《たかだ》かなんかと寝るだろうし。俺だってね。そんなもん。ま、俺と小川は一〇回も寝た、と。よくもったほうだ、驚くね。  いつも以上にガンガンやって、くたばってたら、ドアが開くじゃないの。  姉さんとふたり部屋だったんだよね。  小川は、もう、全然動けない。  俺は、高校に八〇〇メートル走りにいくんだぜ。ビンビンの筋肉よ。パッと跳び起きて、おじゃましてまあす、って挨拶《あいさつ》した。  小川の姉さん、俺のこと見上げて(一八八センチあるからさ)、だんだんに目が下にいって、俺のなにの先にコンドームがまだついてんの見て、笑いだした。  十九か二十ぐらいだったよな。からだよじらせて笑いながら、目はさ、あそこから離せないでいるんだぜ。  紫の口紅べっとり。それで同じ紫のミニ・スカートから太腿《ふともも》が、もう、むっちりよ。ストッキングの色が変わるあたりまで見えちゃってて、すげえ、スケベっぽい。  それで、横目でニターってすんの。  俺、そのまま、また立っちゃうかと思った。      6  腕時計のモードはストップ・ウォッチにしていた。  針が2分に近づくと苦しくなる。ぼくの八〇〇メートルのタイムを超えた。ソファの上でうつぶせになってこらえる。胃がびくんびくんと上下する気がする。  激しく息を吐き、次に思いっきり吸い込んだ。  右手で瞬間的に握りしめた腕時計は、2分28秒だった。  まずまず、といったところ。 「お兄ちゃん、また、やってるの?」  妹は、スリッパをパタパタさせると、木の床の上にぼくがほうっておいた新聞をひっくりかえしてテレビ欄を見る。ピンクのマニキュアの手を床につく。 「新記録は出たの?」  かがみこんだ妹の短いスカートから、同じようなピンクのパンティが見えてしまい、ぼくは目をそらす。 「だめだった」  妹は振り向くと、仰向《あおむ》けになっていたぼくの頬にキスし、 「九時から二時間。6チャンネルね、お願い」  と言うと出て行ってしまった。  しかたがないので、ぼくはビデオの予約をはじめる。新記録ではないけど、結構いいタイムだったから、訊《き》いてほしかったんだけど。  リビングには、妹が通り過ぎたあと、ぼくがなんと呼んでいいのかわからない香りが残っていた。  妹は、ぼくが家にいつもいると言ってあきれる。そんなことはない、朝も夕方も外に出てるよ、と言うと、それは走ってるだけじゃない、と八割がた正しい指摘をする。二割分は、走る以外に、ストレッチとか補強運動もしているから。  最後にリモコンのボタンを押すと、予約画面の表示が消える。九時になってビデオが動き出すときに、それでは妹は何をしているのだろう。  春休みの妹は、よく出かける。だから、自分と比べて、家にいることが多いぼくにあきれるのだ。その点に関しては、きっと、斎藤と話が合いそう。  斎藤だけでなく、ぼくの友だちは、よく妹のことを聞きたがる。まあ、単純に、人気があると言っていいのだろう。  ぼくとしては、最近、長時間鏡に向かったあと、目のまわりがくっきりしてたりする、ひとつ年下の妹の評価をするのはむずかしい。うちの学校の購買部でノート売ってたりしたら、たいへんだとは思うけど。 「奈央《なお》ちゃんがだめなら、是非、是非、友だち紹介してもらいたい」  とも、よく言われる。  妹の通ってる女子校は、偏差値は、まあ適当に高い。それよりも、センスがよくて遊びかたがうまい子が多いんで有名、というのが斎藤たちの話。  妹の学校の子を連れてたら、それだけで自慢できるらしい。  たしかに、遊びかたがうまくないのかもしれないぼくの、いちばんの趣味は「息こらえ」なのだろうか。もともとは、趣味というよりトレーニングのつもりだった。大きく息を吸い込んで、止め、そのまま何秒耐えていられるか。一日に数回している。  むしろ、それは毎日の練習の成果のチェックと言うべきかな。  ぼくは、八〇〇メートルは、結局は、最大酸素負債量の勝負なのだと思う。理論書では、同時に最大酸素摂取量も大切だ、と書いてあるけど。  酸素負債量というのは、簡単にいってしまえば、酸素を取り入れないで、からだとしては借金しながら、どのくらい運動が出来るかという能力。酸素摂取量というのは、決まった時間、一分ならその一分間に肺から酸素を取り入れる能力のこと。  八〇〇メートルでは、スタートしてからの二〇〇メートルで、最大酸素負債量の70%に達して、そのあとの六〇〇メートルで残り30%がだんだんと増えていく。だから、二〇〇メートルから先は酸素摂取能力が重要になる、というのが運動理論。  限界に近い酸素負債、つまり、もう借金で酸素が欲しくてたまらない状態でハイスピードを維持しながら、酸素をこんどは思いっきり取り入れていかなければいけない、だから、八〇〇メートル走者(TWO LAP RUNNERS)は、つらい。  でも、ぼくの実感からいくと、なんといっても最大酸素負債量だな。  酸素を吸収する能力も当然いるだろうけど、走っている間、それはそう意識してることではない。感じるのは、筋肉のなかに老廃物がたまって、悲鳴をあげているのを、おさえて、がまんして走り続けてる、そのイメージ。  理想を言うとね、訓練して最大酸素負債量をものすごく大きくしてしまえばいいって思う。からだが、全然酸素なんか必要としないで運動できる。  八〇〇メートルを走ってる間に一度も呼吸しないで、ゴール・インしてからはあはあ[#「はあはあ」に傍点]して取り戻す、それだけの能力があればいいわけじゃない。  もちろん、そんなのは夢だけど。  だから、ぼくの趣味は「息こらえ」。ひとに言わないけどね。  変かなあ。      7  家に帰ったら、宴会。  兄貴が久し振り、一か月ぐらいいなくて、もどってきてた。親父の横であぐらかいてるのがチラッと見えてね。  兄貴ったって、年が十違うし、おふくろも別だからさ、そのへんのふつうの兄弟みたいにベタベタした関係じゃないの。 「すんません、遅くなりました」  でかい声で叫んで、靴、蹴《け》り飛ばして脱いで、土間から上がった。遅くなりました、ったってさ、べつに兄貴がいつ帰ってくるかとか、メシが何時から始まるかなんて、なーにも決まってないのよ。でも、みんなが楽しく宴会する時に、俺みたいないちばん若いやつがいないっていうのは、すっごく悪いことなんだよね。  そりゃそうだろ、ジョーシキ。  上がってすぐのところ、いちばん端の畳に正座してから、もう一回、遅くなってすいません、って、そうね、どっちかっていうと、テーブルの上で湯気たててる鍋《なべ》に向かって頭下げた。  オゥ、とか親父が言って、 「龍二、元気か」  兄貴が訊くから、ハイ、って、また、でかい声で返事した。  当然、元気だぜ。 「まあ、飲め」  また、ハイ、っよ。そんなもん、他に返事のしようは、ないわな。  安《やす》さんが、ビールついでくれた。いただきます、って、俺、叫んでばっかり。  で、ね、コップをぐいってあけて、そしたらさ、指がプーンって匂うの。なにがって、小川よ。小川のあそこの匂い。  俺が、ウッてしてたら、安さん、ニヤニヤして小指たててくんの、俺だけにわかるように。今日、出かけるとこから見られてるからなあ。  そしたら、おふくろがおしぼりを持ってきてくれた。さすがに気がきくね。わかってやってんじゃないだろうけど。  それって、ちゃんと、うちで洗ったやつよ。親父の会社でリースしてる、あのキャバレーなんかにおろす、きったねえやつじゃなくて。  安さんたら、まだニヤニヤしてんの。  このひと、いい味出してるひとでねえ、仕事はもうひとつらしくて、親父が文句いってることもある。でもね、だれにだって、すごくやさしいの。俺なんか、いつもめんどうみてもらってる。  親父の仕事って、職業欄に書くときは建設業。本当よ。中沢総業株式会社代表取締役社長。兄貴は専務、おふくろは監査役。  で、まあ、その他もろもろ。何でもうかってんのかは、よくわかんないけどね。兄貴は、いま工場なんかから安いもの仕入れて、トラックであちこち売って回るのしてる。この仕事はきついぜ、きっと。  それで、今日で一段落ついたみたい。だから、十五人ぐらいの宴会になった。ふたりほど、俺が口きいたことないひともいた。  学校出るまでは、あんまり家の仕事するなって、俺はね、親父に言われてる。荷物積むの手伝ったりはするけど。  俺さあ、こう見えても、わりと成績が良かったのよ、小学校でみんなが勉強しないころは。算数はクラスで五番とか。  で、親父は、機嫌がいいと、大学行けとか医者になれとか言ってた。でも、中学はいって、バスケットばっかしてて勉強しなかったら、テストっていい点とれないじゃない。当然よねえ。  こんど陸上で高校に行くことになって、一応、それはかまわないみたい。高校の名前は有名だし、大学がくっついてる。医者にはなれないけど、まあ、そのまま上にすすめる。あんま先のことは、俺は考えてないし、親父だってそうなんだろうな。  俺、こんな話、好きじゃない。  なんか、もっとパーッといきたいじゃない。けど宴会が終わりに近づいて、そんなことになっちゃったのよね。 「龍二、走るのはおもしろいんか」  兄貴が言ったとき、俺、うどんほおばってて、すぐには答えられなかった。 「まあまあ」  いいかげんな返事だな。  野球とかさ、サッカーやバスケットなんかに比べると、やっぱ、そう楽しそうには見えないわね、ふつう。おもしろいって、俺は答えられるはずなんだけど、ひとにうまく説明できないじゃないの。  兄貴は気分がいいみたい。 「やめたくなったら、やめちまってもいいぜ」  親父は何も言わない。もう、酔っぱらってる。目つきでわかる。  兄貴は高校を中退した。理由は知らない。十年ちかく前のことだ。安さんに言わせると、学校なんかでおとなしくしてられるタマじゃないからって。まあ、そんなとこなんだろ。  で、俺の高校の話が出るくらいだから、座はしらけてて、もうおひらきね。  俺も、三階にある自分の部屋にいった。うちはさ、住込みのひととかいて、ビルになってんの。小さいけど。  なんか、あしたからこのうち出て、寮に行くのかなって思ったら、やっぱ、ちょっと淋《さび》しかったね。うん、小川のときよりも。  窓あけて外見ると、いつもともちろん同じでさ、きったねえ、流れてんだかわかんねえような川があって、その向こうは安アパート、夜なのに洗濯物がいっぱい下がってる。  俺、しんみりしてたのよ。  そしたら、ノックもなしでドアが開いて、だれかと思ったら、兄貴。  これ、もってけって、封筒出すの。渡されて、ちょっと厚みがあるなって気がしたら、十万。こんなにいいよ、親父にだってもらってる、って言った。 「金は多すぎるってことはねえんだ」  兄貴が一度差し出したものをひっこめるはずがないから、ありがたくもらっておいた。 「やめたくなったら、やめちまってもいいんだ。仕事はいくらでもある」  そう言って、兄貴は出てった。  俺、兄貴にはずいぶん殴られたのよね、昔から。  金もらったから言うんじゃないけど、まあ、俺はこのうちが好きなんだろうな。ふだん考えてもみないけど。  開けたままの窓の外がガヤガヤした。  うちの前の道は、サーチライトみたいなので照らしてるから、めっちゃ明るいの。変なやつが隠れてたりできないように。  兄貴が若いもの、ったって、兄貴だってまだ若いんだけど、何人か連れて、親父のベンツに乗りこんだ。今夜はひと晩じゅう遊びなんだろね。  俺は、俺はもう寝るの。明日からは、寮にはいって、八〇〇メートル。      8  こんなことって、テレビドラマの世界だと思っていた。  とんでもない話だよね、朝の海で女の子と知り合うなんて。あまりに安易。  ぼくは、ジョッグをしていた。毎朝の七キロ。からだをほぐすためのやつ。朝練習はその程度で充分。ここで疲れちゃうとね、かえって午後にひびく。  だいたい、日本では練習っていうと、どんなスポーツでも、量をやれば偉いって感じでしょう? 長い時間走るとか、腕立て伏せ一〇〇回とか。  ぼくは、そういうのって、だいっきらい。最低だと思う。苦しい練習して、精神力、根性つけるのが目的なら、朝から晩まで机にかじりついて漢字書き取りするとか、たき火の中を裸足で歩いて渡ってみるとかね、いくらでも他に方法はある。  本当に速く走れるようになりたかったら、無駄に疲れる練習なんてしたらいけないよ。ぼくはいつも思うんだけど、筋肉は絶対にそんなのは望んでない。量よりは質の問題で、適度な刺激を与えて、そのあとは、むしろ回復させるのに時間をかけるべき。だらだら練習してるから、スプリントがなくなっちゃうんだ。  家から砂浜までは舗装された道。ゆっくり、ほとんど速足ぐらいのスピードで、体重をかけずに軽くいく。ときどき出勤のひとを追い抜きながら、分譲地の家々の間を、いったんはくだって、県道に出る。  そして、もういちど坂をのぼりきると、海が見える。  見慣れた光景なのだけれど、坂の頂上では、水平線まで盛り上がっている海の水が、こちら側にあふれて押し寄せてくるような気がいつもする。潮の香りのする風を受けながらかけおり、国道に沿って走る単線の電車の踏切を越えれば、そこはもう海岸だ。  道路から海辺へと続くコンクリートの急な階段を足をすべらさないようにして降りながら、ぼくは、幸せだって感じる。走っていることが。自分が生きていることが。  だって、ぼくの足は、すぐにも砂浜に届くのだ。  やわらかい砂に、ぼくのアシックスのシューズが触れる。おおげさに言えば、それは官能的瞬間だ。砂はぼくの五八キロをそっと包み込むように受けとめる。かたくり粉を握ったときのギスっという感触で。  砂浜のどのコースを選ぶかは、体調にあわせて決めていた。調子のよくないときは、比較的硬めで走りやすい水際。もっとも、潮の干満のかげんで、満潮に近い時間にはそういう硬いコースがない場合もあるんだけどね。  負荷を高めたいときには、いちばん軟らかいところ。波打ち際と、上を国道が走っているコンクリート壁との中間ぐらいを走る。あまり壁に近いあたりは避けることにしていた。乾燥性の植物、昼顔なんかの根が張ってるところがあったり、流木が埋まってたりして、安定していなくて、とっても走りにくい。  その日は、気分がよかった。  春休みが終わって高校生になるなんて、べつに全然|嬉《うれ》しいことじゃない。  それは、陽射しのせい。朝だというのに、光は強く、五月といっても信じられるくらいだった。  くだけては砂浜を滑るように近づいてくる海水が、あまりにキラキラとしているので、からだは軽かったのだけど、ぼくは誘惑に抵抗できず、水際のコースを選んだ。  雨の日用のシューズをはいてくるべきだったのだろう。そのまま、数センチに薄くなった透明な液体のひろがりの中に踏み込んでしまいたかった。  岬まで行って折り返した。細かくなって粒になった貝殻が、潮の流れのせいなのかなあ、うちあげられて集まっているところがある。そこまで来ると、脚を前後に大きくひらいて股関節《こかんせつ》を伸ばした。黒い砂が硬くひきしまっているところでは、五〇メートルぐらいのダッシュ。小さな流れをいくつか飛び越えると、海のにおいが、昨日までよりも強くなっているのがわかる。  でも、そこまでは、ぼくひとりの、いつもの朝だったわけ。  奇妙なことになってしまったのは、砂浜の先のほうで、犬がからまりあっているのが見えたところからだ。初めはじゃれあってるだけなのかと思ったけど、そばに女の子がいた。黄緑色の服が揺れるのが目にとまる。  ぼくは、少しスピードを上げて近づいていった。  からだは快調。四月の朝早く、砂浜を七キロちかくジョッグしても、ぼくは全然疲れていない。汗ばんでさえない。  大きな黒いほうの犬は、前から海岸に住みついているやつだ。  ぼくと顔見知り、っていうのかな、こういう場合も。向こうがぼくを認識しているかどうかは、たぶんしてると思うのだけど、自信はない。  それで、もう一匹の茶色に白がはいっているのは、首輪から赤い散歩用のひもをたらしていた。女の子は、エリー、って呼んだけど、耳を貸さない。  なんかね、女の子はあまり必死って感じじゃなくって、うんざりしてるようにも見える。ウエストのあたりに片手をあてて、小さく、ぶつけるようにエリーって、もう一度犬に向かって言って、そして、ぼくと目があってしまった。  しょうがないから、ぼくは、からまっては少し移動し、止まってはまたからまる犬たちを追いかけ、差別するつもりはなかったのだけど、成り行き上、小さいほうをかかえあげ大きいやつの鼻先を蹴《け》るポーズをした。  女の子の腕の中にもどっても、エリーの興奮はおさまらなかった。もがいては、もう離れていっている大きい犬に向かってキャンキャンほえた。  なさけない。  黒いやつを撫《な》でにいってやろうかと思ってたら、女の子が言った。 「ありがとう、広瀬君でしょう?」  ぼくの顔を見て微笑む。でも、女の子は、犬があばれるので、すぐにそっちに気をとられる。  小学校のときかなんかの知り合いかと思ったけれど、心あたりはなかった。ぼくよりだいぶ年上で、大学生のようにも見える。  黄緑の服は変な形をしていた。厚手のスウェット素材なのだけれど、犬を砂浜におろしてかがんで押さえているだけで、おなかのわきのところから背中まで出てしまった。  ぼくが、ぼんやりとながめていると、彼女は微笑んで、もう一度|訊《き》いた。 「あの、TWO LAPSやってる、広瀬君でしょう?」  八〇〇メートルのことを、TWO LAPS、なんて呼ぶのは、どう考えても一般的なことではなかった。だいたい、ふつうのひとは、競技場を二周すると八〇〇メートルになるっていうことを知っているかどうかさえあやしい、とぼくは思う。  日本ではマラソンとか駅伝が人気がある。あるいは、逆に一〇〇メートル。  でも、世界的に見たら、陸上競技では中距離、八〇〇とか一五〇〇がいちばん注目を浴びる距離なのだ。  中距離っていったけど、アメリカでは、八〇〇までをDASHと呼んで、それ以上をRUNとして区別している。つまり、八〇〇までは短距離の扱い。八〇〇メートルを走ることが、どんなに楽しくて苦しくて特別なことなのか、少しはわかってもらえるかな?  女の子は立ちあがった。砂のついた手を軽くはたきながら、ぼくを見る。  黄緑の服は、やはり何と呼んだらいいのかわからない形をしていた。  陸上競技をしているの、とぼくが訊くと、首を振った。  歩き出すまで、ぼくは気づかなかったのだ。女の子は、脚をひきずっていた。左足を外に開くようにして砂浜をこすってから踏み出す。一歩ごとに肩が上下した。  ばかな質問をしてしまったと思って凍りついていたぼくに、どうってことないのよ、とわからせるためのように、階段のところで散歩用のヒモをぼくに差し出した。  それは、とても自然な動作だった。  そういうわけで、なぜか、ふたり海岸で犬の散歩をして帰ってきました、という感じになってしまった。ぼくがヒモを持ったまま。  エリーは、ちょっと引いただけで振り向いて、ぼくのことを見て困った顔をし、それから飼い主にとびつく。  どうも落ち着きのないやつだ。  結局、家まで行ってしまった。女の子は、「山口《やまぐち》」と書かれた表札を指でさして、 「これ、私の名字」  と言った。  当たり前だ。  でも、考えてみれば、それまでぼくも尋ねなかったし、女の子も名乗らなかった。毎朝走ってるの、とか訊かれて、うん、とか返事しているだけだったのだ。  山口は、ちょっと待ってて、と言うと、犬を繋《つな》ぎにいった。  広い芝生の隅にある赤くペイントされた犬小屋は、エリーには不相応に大きかった。山口が、左足をひきずりながら金属のボウルに水をいっぱい入れて運んでくるのを、ぼくは見ていた。  海に向かう南斜面に庭を大きくとり、テラスには木製の白い椅子とテーブルがあり、開放的な、結局は、このあたりによくある家のつくりだった。  清潔に磨かれたボウルは、透明な水をたたえ、朝の陽射しを浴びて銀色に光っていた。山口は、顔を突っ込むようにして水を飲むエリーの頭を撫でた。背中がまた、半分ぐらい出る。ぼくは自分ののどの渇きを初めて意識した。  道路との境は、公園にあるような黒く塗られた金属の角柱とその内側の植え込みとでできていた。山口は横に渡された胸の高さぐらいのてすりのようになっている横棒に、芝生の方から両腕を伸ばしてついて、 「きょうは、ありがとう。とても、楽しかった」  と言った。  額に汗がうっすらと浮かんでいた。 「また、陸上の話が聞きたいわ。電話番号、教えてくれる?」  べつに黙秘するのも変だったので、ぼくはうちのを言った。山口もぼくに教えてくれた。  山口の家は、ぼくの家とはひとつ離れた丘の中腹だった。  そこからかけおりてかけのぼって帰ったから、朝の七キロは、ほぼ予定どおり。  なんだか内容はいつもと大きく違う気がしたけど。      9  寮の暮らしなんて、一発で慣れたぜ。  だいたい、俺の家がさ、前に言ったような感じで、いろんなひとが出入りしてるじゃないの。だから、俺、他人には強いの。  朝は六時半に点呼がある。ほとんどアホね、こういうことって。でも、起きりゃいいんだから、ともかく。  起きて食堂に集まってね、それで、朝練開始。  目がさめたばかりで走るのなんて、生まれてから一度もしたことなかったね。これはキツイ。それも、さすがだね、かなり速く走るのよ。高校の陸上部は。  俺は、なんとかついてったけど、新入生じゃ、遅れるやつもでた。そうすると、罰があるわけ。グラウンドをあと三周。  まあ、そんなもんよ。実力のないやつは、努力しなきゃいけないんだから。  朝食はたっぷりでる。これは、いちばん気にいった。俺さ、家にいたときは朝はギリギリまで寝てるから、メシなんてほとんど食ってなかったじゃない。それが走ったあと、猛烈に腹が減って、干物だとか納豆、のり、玉子なんていうんでガンガン、メシが食える。  それで、隣の校舎にいってお勉強。  でもね、これは寝てたっていいわけ。俺、全然知らなかったんだけど、うちの高校は体育コースと進学コースがある。体育コースの方の授業なんて、おまけみたいなもん。学校全体が、そんな雰囲気なのよ。教師は怒らないしね、何してても。ひとりで黒板に数字書いてたり漢文つぶやいたりしてる。  それにね、授業は午前中で終わりなの、何曜日でも。ちょっと素敵でしょ。あとは、昼メシ食って、練習。  俺さあ、練習キライだったのよ、いままでバスケットやってて、あんましそう思わなかったけど。パスだとかシュートの練習、フォーメーション、みんなでギャーギャー冗談言いながらやってて、わりと、おもしろかった。  それがね、陸上の練習って、めちゃくちゃ地味なの。男たちで輪になって、イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、って腿上《ももあ》げやる。  これ、見たら笑うね、絶対。  その場で立ったままさ、出来るだけ膝《ひざ》が高く上がるように足踏みするの。  いつ、レースするんだよって、いつも思う。こんなことして疲れちゃうまえに、競走して決着つけようぜ。  ま、でもさ、言われるままに練習してたのよ、俺。能書きたれるのはさ、半年はがまんしようって思ってた。やっぱ、そのくらいはかかるね、全体の様子がわかるのに。そうしてから、バシバシやってやるつもりだった。  それがさ、ある晩に呼び出された。  四月の終わりぐらい。同じ一年のやつが俺の部屋(これってふたり部屋、三年のハンマー投げのでぶと一緒)やってきてね、 「武田《たけだ》先輩が用事があるんだそうでーす」  とか、間の抜けたことぬかしやがんの。  なんか妙だな、とは気づいた。  だって、俺、その武田ってやつに何の用もないもの。  ほとんど話したこともない。専門は長距離、五〇〇〇とかさ、一〇〇〇〇だとかダラダラやってるやつ。  俺は八〇〇で中距離だけど、同じグループで練習する時間も結構あったから、まあ知ってることは知ってる、そんな程度なのよ。  それで武田の部屋行ったらさ、長距離の三年が五人そろっているの。やばいぜ、俺のこと呼びにきたやつは、なんか俺の顔チラチラ見ながら、ドアのとこまでついてきて、それでいなくなった。 「失礼します」  って叫んで、お辞儀した。 「よし、すわれ」  武田は椅子の背もたれをまたいで腰掛けてる。他のやつは二段ベッドの下の方にすわったり、壁によりかかって立ってたり。  暑苦しいんだよね、こんな狭い部屋に男ばっかで集まっちゃって。 「中沢、何のために陸上やってるんだ」  きたね。俺、気合いがはいってきた。  てめえにそんなこと言われる筋はないんだ。 「レースで勝つためです」  武田の顔ちょっとにらんでから、頭下げて答えた。気合いよ、気合い。 「それならな、勝つために、全力でやってるんか、え?」  椅子のことキーキーいわせんの。うっとうしいやつ。 「おまえがな、この前、遊んでんの見たってのがいるのよ。何人も」  わかった。  そういうことね。  しけたクラブだぜえ。俺らの中学のバスケットのほうがましだね。 「女といちゃいちゃしてて陸上がやってられると思ってんの、え?」  ここから先は、理屈なんてないわけ。  俺がさ、例のあの小川の姉ちゃんの方と会ってたのを誰かが見たんだろうね。それが気に食わなかったと。それだけ。  土曜日には家に帰れるじゃない。先週、兄貴に連れられて飲みにいった。俺、あんまり酒、好きじゃないから、ほとんど飲まないけどね。  兄貴と安さんと俺が三軒目の駅裏のスナックにはいってったら、笑い出す女がいるわけよ。変なやつ、って無視しようと思ったら、小川の姉ちゃんの広美《ひろみ》なわけね。からだにぴったりした、ハデハデの服着てんの。  俺の腰のあたり見てるんだよね、笑いながら。  だから、俺、ちょっと前に突き出すみたいにして、 「御無沙汰《ごぶさた》してます」  って挨拶《あいさつ》した。  兄貴は、 「なんだ、知り合いか」  って。  安さんはさ、ママのほうに身を乗り出しちゃって、なんか話してる。  知り合いったって、ねえ、俺は、あのとき以来で、広美ったら、ときどき俺見てニターってするんだけど、安さんとママは、昔からの付き合いみたいで、わりと、いい雰囲気なの。  それで店閉めるまでいて、俺が小川の姉ちゃんのこと送って帰ることになった。兄貴と安さんは、まだママたちと本腰入れて飲むみたい。  でね、屋台のラーメン食ったのよ。広美のおごり。  陸上部のやつが見たとしたら、まあ、ここなのかな。  それだけの話じゃないの。  なのに、立ち上がってきてさ、 「返事はどうした、え、返事は」  もっと、ましなこと言ってくださいよ、武田先輩。  黙ってたら、 「答えろお」  って叫んで一発ビンタ。自分の声に興奮しちゃったみたいね。  こういうときは、最初が肝腎《かんじん》。みんなも覚えておくこと。  やられるやつになるのか、やるやつになるのか。なめられたら、いけないのよ。  俺は、ゆっくりと立ち上がった。  顔、つきあわせただけで、勝負は決まる。俺は、一八八センチ、七六キロ。武田は例のチビでやせた長距離ランナーのタイプ。一六五で、体重なんて三〇キロぐらいに見えるね。 「休みの日は、何をしててもいいんじゃないんですか」  見下ろしながら、そう言った。  それで武田、ビビルかと思ったんだけど、そうでもないの。まあ、他のやつの手前もあるわな。 「高校生として、スポーツマンらしく休みの日だって過ごすべきだろう、わからんのか」  それで、また一発。  だってね、その日は何もしてないのよ。  家はもちろん知ってるから送ってって、四つ角のとこでキスしてスカートの中に手入れたくらい。そうじゃない、妹の和美《かずみ》のほうが出てきてごらんよ。血いみるぜ。  で、俺、左手で、武田の胸ぐらつかんでしぼりあげた。 「わかりませんね」  何人か立ち上がったね。叫ぶやつもいた。どうでもいいのよ、おまえたち。どうせ観客なんでしょ。まだ、武田のほうがマシよ。  で、俺は、右で武田の顎《あご》にバキッ。  部屋のすみまでころがった。そんなに力入れなかったんだけどなあ。 「あ、すみません、骨、折れてるかも知れません、医者呼んだほうがいいと思いますよ」  そう言って、俺、部屋帰ったの。  そしたら、ハンマー投げのでぶの吉田《よしだ》さんが、 「おっ、もう、おしまい」  って、知ってたらしい。  このひと、ほとんどしゃべらないんだけど、いいひとみたいねえ。  それで、武田は骨折はしてなかったけど、三日間医務室通い。俺は一週間自宅謹慎。武田だって一方的にやられたっていうと恥ずかしいから、自分が先に手出したこと認めたんで、それだけで済んだ。  家に帰らされちゃったわけね。  小川の広美と和美に別々に会うのに、メッチャ気をつかった。      10 「信じらんない。お兄ちゃん、趣味悪い」  ぼくの趣味がいいか悪いかなんて、自分ではわからない。だいたい、「息こらえ」が、たったひとつの趣味だったはずなんだけど。 「山口さんて、ものすごーく評判悪いのよ」  妹は、すごーく、のところに力をこめて、ひきのばした。  外から帰ってくるなり、ぼくの部屋にとびこんできたのだ。そして、ぼくのベッドにすわって文句を言っている。  妹とぼくは、とても仲がいい、ということになっている。隣のおばさんとか、親戚《しんせき》のひとだとか、お互いの友だちとかに言われる。  たしかに仲が悪いとまでは思わないけれど、そんなに積極的に言うほどのものかなあ?兄弟はふたりだけだし、小さいころから両親が家にいない(父親は会計事務所、母親もインテリアの仕事をしてる)ので、一緒にいるのには慣れているとは言える。 「私、ユリコから聞いてあきれちゃった。すぐにね、男とりかえるひとなのよ。ふたまたかけたりとかね。有名なんだから」  ぼくは、妹を見る。  妹は、右手で右の耳たぶのところをいじっている。小さいころから、イライラしたときに見せるしぐさだ。 「お兄ちゃん、女の子に免疫がないでしょう。そりゃあ山口さんは美人だろうけど、なんかちょっと派手な子には、お兄ちゃんて、簡単にだまされちゃうんじゃない?」  右ばっかりひっぱっていると、右の耳だけ長くなっちゃうよ、って、ぼくが言ったら、妹はすごく気にした。これから、左をひっぱることにする、って約束した。まだ、妹が小学生のころの話だ。  癖は全然なおらなかったけれど、その時のことを、妹は覚えているのだろうか。 「私ね、お兄ちゃんは、女の子のこと好きにならないんじゃないかって思ってた。ずっと、女の子に関心がないんだと思ってた。だって、私の友だちで、お兄ちゃんに憧《あこが》れてる子がいっぱいいても無視してたでしょう? それがね、あんな性格が悪いし、脚も悪いひととつきあうなんて」  妹は、大袈裟《おおげさ》にベッドに倒れる。キュロット・スカートから不自由していない二本の脚が伸びる。  横になったまま、妹は右の耳をひっぱっている。      11  うちぐらいの高校になると、校内予選がたいへんなんだぜ。  公式戦の一種目には、ひとつの学校から三人しかでられないからね。校内で選ばれれば県大会の決勝までいける、って顧問の教師は威張ってる。  予選の一週間前からピリピリ。  いつも一緒に練習してんだから、お互いにほぼ実力はわかってるじゃない。俺は八〇〇は当選、超確実。俺、メッチャ速くなってんのよ、高校入って。まあ、前から速かったけど。  で、俺としては、他の距離、あんまりやる気ないわけ。  ふつうはね、八〇〇メートル・ランナーは四〇〇か一五〇〇をやる。タイプによって、どちらかを選ぶ。教師は一五〇〇やれって、俺に言う。しょうがないね、出るだけ出てもいいけど、長くてかったるいのよ、三周以上も走るの。  なのにさ、俺、五〇〇〇にもエントリーしてやった。もちろん、武田にいやがらせ、っていうか、プレッシャーかけるためね。  武田は五〇〇〇と三〇〇〇メートル障害。  障害っていうのは、車イスの人の種目じゃなくて、ホントに馬みたいなことするやつ。水たまり跳び越えるの。これ、ぶったまげたね、初めて見たときには。  春の記録会のときに、俺、自分の種目の間があいてたんで、その水濠《すいごう》の真横に行って見てたのよ。  ダー、って並んで走ってきて、第三コーナーでふつうのトラックのコースから外にふくらむ。そうするとハードルの横に長いやつ、どっちかっていうと体操の平均台みたいなやつが置いてある。で、それに乗って、台の上|蹴《け》って向こうに跳ぶ。その着地するところには、本当に水が溜《た》めてあるの。  金魚すくいの台のでかいやつみたいなんだけど、底が斜めになってるから、遠くに跳べばふくらはぎまで水がはねる程度だけど、失敗してすぐ下に落ちたやつは、悲惨よ。腰ぐらいまでビショビショ。笑ったねえ。  俺なら、金もらったってやらない、三〇〇〇メートル障害は。  校内予選は本格的だった。  気合いいれてやらせるためなのか、近くの会社のトラックを借りる。そこはちょっとした実業団のチームで、四〇〇メートル・トラックもってんの。で、二日もかけてするわけ。  一日目の一五〇〇で、俺、三番だった。三年にはふたり、これが専門で速いやつがいる。でも、これで対外試合の出場権は得た。  もともとの専門は長距離でも、一五〇〇を兼ねるのはわりといてさ、あの日、武田の部屋にいた観客のやつらもね、何人か出てたのよ。  しかも、三年なら高校で最後のチャンスじゃない。それを一人分、一年の俺が追い出した。  そして、二日目。  八〇〇は俺が一番。楽勝、楽勝。一五〇〇で負けた三年のひとたちも振り切った。  俺としては、これで充分満足。家帰って、メシ食って、和美(広美かな?)のとこにでも遊びに行きたかったね。  でも、まだ五〇〇〇メートルが残ってる。武田先輩たちの、命かけてる種目。本気で八〇〇走ったあとだから、疲れてたけど、そんな顔は見せたらいけない。それまでの二時間は、元気そうにフィールド種目の計測、手伝ったりした。  もう、暗くなってきてた。リレーはないから、この五〇〇〇で校内予選は終わり。なかなか緊張した二日間の最後っていうわけね。  エントリーしたやつらがスタートラインに集まって来る。俺はわざとらしくね、すごく気合いはいったかんじで、タッタッ、って走ったり、コースの内側にはいって、エイッ、って声だして腕を振り回したりしてみた。そうするとね、長距離の三年たちが、完全に俺のこと意識してるのがわかるの。  愉快だねえ。  だいたいさあ、俺、五〇〇〇なんて、速いはずないのよ。タイムトライアルもまともにしたことがない。それなのに一五〇〇と八〇〇の順位のせいでビビッてんの。  で、ピストルで飛び出した。  まず、俺、トップね。八〇〇でも一五〇〇でもそうだけど、やっぱ、最初に先頭にたたなきゃ。ひとの背中見ながら走るのっていやでしょ。  それに、今回は、俺、スパイクされるかもしれないもん、囲まれたりしたら。ま、向こうのひとたちもそう思ってるだろうけど。  最初の一周は64秒ぐらいね。  これ、速い。俺はさあ、八〇〇やってるから、どうってことはないけど、五〇〇〇としては、異常なペース。でもね、ついてきてたね。ちゃんと、足音聞いて確かめて走った。俺だけ独走したら意味がないんだから、細心の注意よ。  自分の専門種目で、スタートからはなされたら心配なんだろうな。コーナーでちょっと振り返ってみたら、俺の三メートル後ろに四人ぐらいの集団ができてる。  それで、二周目は75秒ちかくまで落とした。  誰も抜こうとしないの。  俺は先頭のまま、出場してたのは十人かそこらなんだけど、一周目でおいてかれたのも追いついてきて、長い線になってるみたい。  三周目。  また、スピードをあげた。なめらかにね。  ちゃんと、ついてくる。四〇〇を66秒ぐらいかな。  で、俺、また、ペースダウンした。四周目は、二周目よりも遅いかな。  もう、一六〇〇も走ったら、疲れちゃった。  俺としては、充分な長距離よ、これで。でも、最後のひとふんばりで、ペースあげて、ついてこさせて五周したとこで、俺、棄権した。  演技よ、演技。  ちょっと、ピョンピョンして、さも、どこか脚が変なんです、っていう感じね。教師には、ふくらはぎがピリッとしたんで、って報告した。  それで、五〇〇〇メートルの結果は、メチャクチャ。俺の挑発にのったやつは、あといってメロメロなわけ。最初に抑えてイーヴン・ペース守れた二年なんかが勝った。  かわいそうにね。武田君は、四番になれそうだったけど、順位数えて意欲なくしちゃって、ゴール前で抜かれて五番。殴られたうえに、高校生活最後のインターハイの夢も消えちゃったんだからねえ。  自分が悪いのよ。自分が。      12  ぼくは、遠距離通学者に分類されている。  職員室で、そうファイルされているはずだ。直線距離ならたいしたことはないのだけれど、時間がかかる。家のある市と高校のある市を結んでいるJRには、そんなに長く乗っているわけじゃない。せいぜい三〇分ぐらいだ。  けれども、JRに接続するまでの電車が、異様に遅い。単線だから、ときどき反対側の電車が来てすれ違うのを待たなければならない。駅でもないのに、線路がふたまたに分かれているところで、ただ止まっているのを経験したら、あきれるよ。  窓の外を見たって、海しかないんだ。  学校に遅刻しそうになったときは、自転車で海岸ぞいの国道を走って、JRの駅まで行く。ぼくの自転車をこぐスピードは速い。自慢するほどのことではないけど。トレーニングにもなるし、いっそ、いつもそうしたらよさそうなものだけど、電車の方が本が読めるし、だいたい、駅のまわりにはまともな自転車置き場がなくて、へたすると撤去されちゃう。  最近は、特に自転車で行く回数が減ってしまった。  山口は、妹と同じ女子校だった。大人っぽく見えたけど、学年は、ぼくと一緒。妹のひとつ上になる。妹の学校は、単線の電車の終点になっているJRの駅から歩けるところにあった。だから、朝は妹よりぼくのほうが早くに出る。  けれど、山口は駅で待っていた、ぼくのことを。  駅ったってね、土を長方形に盛り上げただけで、どこからでも入れる。駅員もいない。ここも、目の前にはただ海がひろがってて、遠くに伸びる半島と、沖に浮かぶ船が見えるくらい。  ぼくは坂道を下り、電車の線路にそった細い道に曲がって駅に向かう。山口が立っているのがわかる。山口は、いつもカバンを胸のところにかかえ、水平線を見ていた。ホームにあがり近づくぼくに気づいて、微笑む。  妹は言ってたけど、一緒に電車に乗ってるだけで、つきあってるなんてことになるのかなあ。  乗客は通勤と通学が半々ぐらい。途中から混んでくる。  連結器のドアのところまで、ぼくたちははいった。毎朝会っていて、ぼくは何を話したらいいのかわからなかった。たいがいは山口の訊《き》くことに返事をしていた。  今日の授業は何?  どんな練習するの?  三〇〇メートルを十本っていうのは何秒くらいで?  ぼくは、いつも大きなバッグを持っている。  陸上競技というのは、何も道具がいらない単純なスポーツにみえるだろうけど、ウエアの数がすごくいるのだ。汗をかいたら筋肉を冷やさないように、着替えなければならない。  ぼくは、そのバッグが、ひとに押されて山口に当たらないように注意していた。底に板みたいな固いものがはいっているからだ。  途中でひどく混みだすと、ぼくは、ぼくのからだとドアの間に山口のいるスペースをつくろうと努力した。  ウェーブのかかった山口の長い髪は、とてもいい匂いがした。  電車が揺れる。山口の手がぼくに触れる。  ぼくは、からだをひく。      13  雨。  雨の日も練習はあるの。イヤだねえ。  こういうときはさあ、思いきってやめちゃったりしたほうがさあ、気分がいいと思わない?  なんか得した気になるじゃないの。ひとの気持ちってもんがわかんないのかねえ、スポーツマンってやつらは。  長距離組は雨の中ロード、外に走りにいった。ごくろうさん。  俺たちは、校舎の廊下走って、体育館の二階でウェート・トレーニング。こんなもん、奴隷労働だぜ。バーベルあげて、何が面白い。  それでも早めに終わったからさ、部屋でぼんやりしてたら、ハンマー投げのでぶの吉田さんが、 「ねえ、中沢君、トランプしない?」  って言うの。 「ふたりでですか?」 「うん。いや?」  このひとさあ、背はそんなにないんだけど九〇キロ超えてるんだぜ。それが胸のところで、両手でトランプのケース握りしめてんの。 「やりますけど、なにすんですかあ?」 「えーと、七ならべ」  ふ、ふたりで七ならべですか。  よしましょうよ、先輩。      14  天気は快晴。  でも、風が少し出てきていた。これが、問題。  むしろ、雨は降ってくれてもよくて、気分のことは別にしてよほど強く降らない限り、レースに影響を持つのは天気よりも風の方だ。  走り幅跳びのようなフィールド種目や、直線だけの一〇〇メートルと違って、八〇〇メートルはトラックを周回する。国立競技場のように極端に観客席がせり立ったスタジアムでは、風が底でうずを巻いて常に一方向に吹くこともあるけど、たいがいは追い風と向かい風の両方がある。その両方の風向きに合わせた走り方、高度な技術が要求される。  午後の決勝のときには、いまの風がどんな具合に変わってるのかな。  サブ・トラックに向かって歩いていくと、スタンドに山口が来ているのがわかった。赤い服を着ていて目立っていたから気づいた。向こうでもぼくを見つけた、いや、最初から見ていたようで、小さく手を振って、ぼくに合図した。  こういうのって、めんどう。  試合のことは、訊かれるんで、前から話していた。でも、今日は、ぼくは山口には来てほしくなかった。昨日のことがあったから。  ぼくは、走るときには、走ることだけに集中していたい。他のことは何も考えたくない。  サブ・トラックでは、様々なウエア、ウインドブレーカーだったりTシャツだったりランニングだったりの選手たちが、ばらばらの準備運動をしていた。体操をするもの、ジョッグ、軽いダッシュ。みんな自分のからだのことだけを気にしている。  ぼくは、そういう陸上競技が好きだった。  陸上はなんといっても、自分のからだとの対話なのだ。最終的には、結局のところは、レースの相手なんて関係ない。自分のからだを調整して、一〇〇%の力を試合で出せるようにする。そのための準備なのだ。  だから、サブ・トラックにはいつも緊張感がある。ぼくはその選手たちのなかにはいっていくのが好きだった。自分が同じ陸上競技をするものであることが好きだった。  けれど、トラックのアンツーカーは妙に硬い気がした。アップ・シューズのまま五周。からだが重い。  サブ・トラックは一周が三〇〇メートルだから、一五〇〇にしかならない。いつものウォーミング・アップに比べると、かなり短かった。気温が高いから、まあ、いいことにしようか。  五月の陽射しがきつく、ぼくの背中にいやな汗が流れているのがわかった。  トラックの内側、競技場の芝生とは比べものにならないくらい貧弱な、雑草のような草の上にすわってストレッチングをした。両足の裏を合わせて強く膝《ひざ》を曲げからだのほうに引きつける。つま先が額に触れるくらいまで上体も丸めるようにする。股関節《こかんせつ》を柔らかくし、両膝の外側を地面につける。  からだも硬い気がした。シューズの裏にはアンツーカーの人工的な赤い色がべっとりとついていた。  やっぱりね、ぼくには、どうしても頭の中から追い出せないことがある。  昨日もいい天気だった。  試合の前日の練習は完全に各自にまかされている。前にも言ったけど、自分のことは自分で考えるっていうのは、やっぱり、いいスポーツでしょう?  いつも、ぼくは早く上がることにしていた。二〇分間の軽いジョッグ。筋肉に刺激を与えるために一〇〇メートルを二本。それで終わり。レースが翌日にあることに興奮してしまって、こういうときにハードなトレーニングをしたがるのって、ばかげている。試合に疲れを残してはならない。  いつもより早い時間の電車の中は明るかった。駅も明るかった。だから単線の電車との連絡通路になっている地下道が、とても暗く感じられた。階段をのぼると、改札のところに山口が立っているのが見えた。山口は外の光を背にしていて、そのシルエットが浮かび上がる。  電車に乗らないで、海岸に出て歩いて帰ることにした。  放課後に山口と会うのは初めて。そんな約束をしたこと自体、ぼくも高校にはいってから初めての大きな大会に、ちょっと興奮したというか、特別な気分だったのかもしれない。  午後の海というのは、朝とは全然違う。早朝の強さ、鋭さはないけれど、なにか穏やかで、ぼくにはかえって新鮮な気がした。もちろん、初めて午後の海に来たわけじゃない。そういうことに気づいたのが初めてっていう感じ。  それは、たぶん山口と歩いてるからなのだろうと、ぼくにはわかっていた。でも、ぼくは、はいているのが走るためのアシックスのシューズではないせいだと思おうとした。だって、なんか、認めちゃうとね。  JRの駅の近くから家のあたりまで、砂浜をずっと歩いていけるわけではなかった。ところどころに海に流れ込む小さい川がある。幅が広い場合(と言ってもせいぜい三、四メートルぐらい。水量はごくわずかだし、ぼくのロング・ジャンプの実力なら軽く跳び越えられる)には、海岸に沿っている国道にいったんのぼった。小さい流れには、踏み越えられるように石や木が置いてあったりして、ぼくが先に越えてから、山口の手を引いた。  山口は脚が悪い。バランスを崩して、ほとんどぼくが抱きとめるようにもなった。  ぼくは、山口のからだが細いのに驚いた。手を回したときに、制服の上から触れた背骨は、背筋の疲労を気にして自分の背中をさわるときとは、まったく違う。  ぼくは、山口が小さなべつの動物のような気がした。  けれども、ひきあげられたボートのわきの砂浜にすわっていると、山口は、いつもの朝の電車の中と同じ匂いがして、いつもと同じように微笑んだ。  細く長く伸びた半島の向こうに太陽が沈もうとしていた。  山口はちょっとかすれた声で、なぜ陸上競技に詳しいのかを話しだした。それは最初に会った朝以来、なんとなく避けていた話題だ。  山口は、日常の生活には困らないけれど、スポーツをするには脚にハンディキャップがあった。それで、小さいころから足の速い人に憧《あこが》れたのだろう、とひとごとのように解説した。  そして、山口が前につきあっていた相手というのが八〇〇メートルをしていたのだと教えてくれた。  タイムはどのくらいだったの、と、ぼくは反射的に訊《き》いた。これは陸上部の習慣なのだ。〇〇高校の××というあとには必ず、何分何秒、とか何メートル何センチとかがついてまわり、その数字の方に具体的なイメージがある。  山口の返事は、立派な記録だった。高校の三年間のうちにはたぶん達成できるだろうけれど、いまのぼくにはちょっと手が届かないくらいの。  山口は砂をいじっていた。  下を向いて、指の先で砂浜に意味のない模様を描いていた。 「それって……」  ぼくが訊きかけると、山口は、すぐにうなずいた。ぼくのほうを見ないで。 「そう、相原《あいはら》さん」  ぼくは、山口を見ていた。そのまま時間がすごくたった気がした。      15  それでさあ、県大会。  実際、これまでのことなんてどうでもいいの。ここが勝負。  朝、起きて、窓開けたら、天気がメチャクチャよくって、気が狂いそうなくらい。  俺のために晴れてくれたって感じよね。やっぱ、外でやるスポーツは、青い空、白い雲よ。  雲なんてほとんどないけどね、今日は。下の方に少しだけ、うっすらとしてるかね。  そしたら、いきなり、 「暑くなるね。中沢君、だいじょうぶ?」  ハンマー投げのでぶの吉田さんたら、いつのまにか起きてきて俺の後ろに寄りそってんの。 「はあ、たぶん」  たしかに、吉田さんは汗っかきだから、暑いのいやなんだろうねえ。俺は、だいじょうぶよ。これ以上、汗なんてかけないくらい毎日しぼられてるんだから。  で、一年生は早出して、陸上のスタジアムでテント張りのお仕事。  ほとんど、これって、お花見の場所取りの感じね。縁日なんかだったら、仕切ってる人がいるけど、そんなのないから早いもの勝ちで、いいところ、日があんまりあたらなくて風が強くなくて、集合場所からそんなに遠くないところで、うるさくなくて、っていうようなところにテントを張る。  今日のレースに出る出ないは別にして、一年生全員とお目つけ役の二年がやる。まあ、そんなもんよ。一年のハイジャンのやつで、試合に出られることになってるのがバスの中でぶつくさ言ってたけど、いやあねえ、こういう細かいのって。  そりゃあ、中学のころから名前売ってて、ちょっとはでかい面したいんだろうけど、朝、早起きして雑用したくらいで跳べなくなるハイ・ジャンプなら、やめちゃえばいいのに。  俺ね、こういう仕事って、うまいの。  ようするに、要領よ。手際よくやればさ、隣の高校のひとだって、狭いなって思ってたって、つめてくれたりするじゃないの。  そもそも、俺たち、いつも男ばっかで練習してんだから、こんなときぐらい女子校の横にテント張りたいじゃない。陸上競技のいいところっていったら、男女一緒に試合があることぐらいしかないでしょ。  こういうスポーツって珍しい。あとは水泳ぐらい? でも、むこうは裸だわね、ずっとめぐまれてる。  おっと、二年がもたもたしてるから、工業高校にはさまれたところになっちまったぜえ。  最低。  見てて気づいたんだけど、長距離のやつらが、ともかく、どんくさいね。テント張るのにロープも持ってられないのよ。友だちになりたくない。フィールドとか短距離のやつはまだましなんだけど。  まあ、そんなで、楽しい一日が始まった。楽しい? うん、なんていったってね、いくら工業高校のやつにガン飛ばされたって、レースのある日は最高。陸上競技場にいられる。お祭りだよね。  それで、俺、一五〇〇辞退してて、八〇〇だけなの。  校内予選の二、三日あと、練習が終わってから体育教官室に行って、 「あのう、ぼく、今度の大会は、八〇〇にしぼりたいんですけど」  って言ったら、顧問のやつ、昔は円盤投げで相当ならしてたらしいんだけど、立ち上がってきちゃって、 「そうか、お前にもそういうところがあったのか。いままで、俺はお前のことを誤解していたぞ。いや、ありがとう。よかった、よかった」  もう、俺のこと、抱きしめそうなくらい。  そっちの方が、誤解なのよね。俺は、なにも、今年がラスト・チャンスの三年に出番を譲るつもりで言ったんじゃないの。ちんたらちんたら、一五〇〇も走るのがかったるいからなの。そんなんで疲れちゃったら、バシッて、八〇〇で決められないでしょ。  ひとまず、他にどんなに速いやつがいるのか見当はつかないけど、去年の中学のときに負けた広瀬っていうのには勝ちたいじゃない。それが、俺の目標よ。  だって、借りは返しとかなきゃ。  この「先輩のために」一五〇〇やめた話がひろまったら、俺、二年や三年にえらく受けはじめちゃった。昨日なんか、夜、俺んとこにオレンジ持ってきてくれる先輩までいるの。ほとんど、でぶの吉田さんが食べたけど。  これで、もう、この陸上部は、俺のもんだね。      16  全力で走るというのは、動物にとっては、そんなに普通のことではないらしい。外敵に襲われて逃げるとき、あるいはどうしても必要な食料を確保するときに限られる行為。  もちろん、ぼくたちが八〇〇メートルを走るのは、そのどちらの理由でもない。だれにも襲われていないし、生きのびるために、プロとして、職業としてのランナーでいるわけでもない。それはただ、ひとより速く走ることが快感だからだ。  その快感、気持ちのよさというのは、ほら穴に住んでいた原始人の狩猟の生活に基づくのだろうか。いや、はるかそれ以前、進化の手前の両生類や爬虫類《はちゆうるい》といった動物たちが、敵に襲われて逃げ切っては安堵《あんど》し、獲物を捕まえては喜び、DNAに蓄積してきたものが、ぼくたちに伝わってきているのだ。  どんな場合であれ、ある集団を特別視するばかばかしさはわかっているけれど、陸上競技場のトラックに立とうとする人間たちは、たぶん、もの覚えのいい遺伝子をもって生まれついてしまったものたちなのだ。そう、自分がトカゲだったころからの記憶。それは、相原さんも同じだ。  予選のコールが終わって見上げると、スタンドにいる山口と目が合った。山口は何回もレースを見に来ているから、陸上競技の全体の流れがよくわかっているのだろう。  太陽は真上にこようとしていた。強い陽射しを浴びながら、膝《ひざ》の屈伸をくりかえす。  ぼくは、中学二年の春に左膝の内側の腱《けん》を痛めていた。当時の専門だった二〇〇メートルのコーナリングのせいだったのだと思う。レントゲンでははっきりしないのでCTスキャンをかけた。角度によって、骨が腱に当たっていた。そのときの断裂のはいった腱の映像は、悪夢のように頭から離れない。  実際に夢に見たこともあった。寝つきかけたときや、朝方の、眠りの浅い時間。  最初に、左膝の腱の映像が浮かび上がる。そして、小さな、ほとんど眼に見えない傷のようだったその断裂が広がり出す。叫ぼうと思うのだけれど声が出ない。  不思議なのは、夢の中では、恐ろしくてしょうがないのに、傷が大きくなるのを自分の意思で望んでいるかのようだったことだ。どこまでいくのか確かめたい欲望。腱に刻まれた断裂が、徐々に深くなる。やがて、ぼくの左膝の内側の腱は音もなくちぎれる。そして、そのままの勢いで振り子のように振れた左足自体が膝からもげる。  そこで夢はさめた。  ぼくは、汗をかいたパジャマを替え、腱の上からヒルドイドのクリーム剤をくりかえし塗りこんだ。  最近は、そんな夢を見ることもなくなってきていたけれど、膝の不安は頭から離れない。  もうすぐ、スタートだ。  八〇〇メートルの予選は三組ある。ぼくは一組。ここで二着にはいっておけば、決勝に進出できる。一組にエントリーしているメンバーの地区予選でのタイムから判断して、それは確実だ。  スタンディング・スタートの姿勢を、こころもち浅めにセットする。このレースでは、ぼくは自分のペースで走りさえすればいい。  ピストルとともに、軽く飛び出した。  第二コーナーが終わるまではセパレート。ぼくは三コースなので外側の五人を見ながら走ることができる。バック・ストレートの入口のオープンになる地点では少し遅らせるようにして三番手についた。  直線を抑え気味に走る。スパイクが全天候のラバーのトラックをとらえ、突き刺し、後ろへと蹴《け》り、ぼくのからだを前に運ぶ。これは、おそらく、陸上競技をやったことのないひとにはわからない感覚だ。  彼もまた、何回もこれを経験してきたはずだ。ぼくよりも数多く。  相原さんというのは、ぼくの高校の陸上部にいたひとだ。こういうひとというのは、誰でもそうなのだろうか、すでに伝説化が始まっている。  中等部の生徒たちの間では、それは当然かもしれない、まったく会ったことがないか、せいぜい見かけた程度なのだろうから。直接にまともな接触があったと言えるのは、おそらく、ぼくの学年までだろう。  ぼくが、中学の三年になったとき、相原さんは高校の三年だった。二年ですでにインターハイに出場していた。そして、三年では上位入賞が期待されていた。その学年で一番活躍していた選手だった。  ぼくが去年の春、中距離に転向した理由はいろいろとつけられる。でも、結局は、彼に憧《あこが》れたから、というのが正しいのかも知れない。  相原さんは、速かった。本当に速かった。  時に中・高一緒の練習があると、ぼくが六〇〇を走っているときに、八〇〇のゴールにはいっていた。ぼくが口からよだれをたらして乱れた呼吸に苦しんでいるときに、すでに木陰で雑談をしていた。彼こそが、ぼくの知っている最強のTWO LAP RUNNERだった。  あなたの名前は聞いていたのよ、相原さんから、と昨日、山口は言った。泣きやんで、海岸から上がってきてからだ。左脚を、いつもより、もっとゆっくりとひきずっていた。山口がどういうつもりで言ったのかはわからない。ただ、それを聞いたときに、ぼくは一瞬|嬉《うれ》しかった。どのような言及のしかたであれ、その時、彼の意識の中にぼくがいたことが。  一周目のラップは62秒。少し遅い。バックの直線で加速してトップにたつ。向かい風を受けると、からだが重く感じられた。  コーナーを回りながら、ぼくは、スタンドに目がいくのを抑えられない。そして、中央の役員席の上にいる山口の赤い服を見つける。山口がぼくを見ているのだとわかる。  ぼくは、いつが最後に相原さんに会ったときだったのかが思い出せないでいた。でも、いまになってみて、それは、練習が終わってみんなで歩いていたときのことだと思う。そこで、彼を待っている女の子がいたのだ。冷やかすようなことではなく、高校生たちの間では当たり前のことのようだった。あれが山口だったのだろうか。ぼくの記憶では、女の子の姿は完全なブランクになっている。  直線の途中で息を吐いた。一歩一歩のストライドを大きくとり、フローティングに移る。スピードをほぼ維持したまま、ゴールへと向かう。  まだ、からだが重かった。睡眠不足のせいだとは認めたくなかった。試合前に眠れなかったなどというのは、言い訳にもならない。そんなことは陸上を始めた中学の一年以来のことだった。  五割ほどの力で、ぼくは流していた。ぼくの右隣では、オレンジのユニフォームのやつが同じようにフローティングにはいっていた。  ゴール前で、外側、オレンジのもうひとつ大きく向こうを黒のランニングの選手が差してきたのは、隣のオレンジも気づかなかったのだと思う。  ぼくたちはあらためてスピードをあげる間もなく、ゴールだった。けれども、あきらかに、胸ひとつ、ぼくが遅れていた。  三着になっていたのだ。      17  てーんで、だらしないの。  俺は予選の三組だったんで、トラックのわきで眺めてたら、広瀬のやつ、簡単に負けちゃった。こんなのがライヴァルだって思ってたのかねえ。  俺?  俺のことだったら、心配はいらないぜ。  ちゃんと三組の一位で帰ってきた。最初の合流点から最後までずっと先頭。走るっていうのはそういうことなのよ。  これ、俺のいままでのベスト・タイム。  疲れちゃったけど、いいの。午後までには回復する。俺は予選を抑えなきゃなんないほど、やわなからだしてないの。  何よりね、すごい疲労回復剤を見つけちゃった。ふっふっ。まだ、内緒。ヒントは、工業高校。それじゃ、また。      18  クーリング・ダウン。  サブ・トラックを大きく、ゆっくりと。  テントにもどると、みんな、ぼくの方を見ないようにしていた。気をつかってるのが、かえってわかってしまう。 「too passive」  タオルを取ろうとして、横になっているやつをまたいだときに言われた。同じ一年で、棒高跳びで結構いい記録を出してる選手。寝たまま、ひとりごとのように小さい声だった。  passiveな、消極的なわけではない。むしろ、carelessというべきレース展開だったと自分では思うのだけれど、口を開く気がしない。  二周目の第四コーナーの出口で、後ろをもっとしっかりと確認すべきだったこと。ゴール前で流している時点での同じく後方確認。少なくとも耳を澄ますぐらいはする必要がある。トップで直線にはいり、ふたりでフローティングしているのに安心しきっていた。  でも、そういったことは、どうでもよかった。前向きの反省をする元気はわいてこなかった。原因はわかりきっているのだ。  集中力の欠如。 「だいじょうぶ。二着プラス二の二には入れるよ。二組も三組もそんなに速くなかったから」  三年生が励ましてくれたけど、うなずくだけだ。本当にがっくりときたときには、表面的に明るくふるまうこともできない。  服を着替えてテントを出た。  これで山口もわかってくれるだろう、ぼくが相原さんでないことを。彼が一年の春にだしたタイムは知らない。でも、少なくとも山口が見た相原さんは、あんなぶざまなレースはしなかったはずだ。  山口の赤い服を頭の中に置きながら、スタンドをのぼっていった。ロープを張った役員席を避けて裏側の廊下から回り込むと、たしかに山口がいた。でも、その隣の女の子、膝《ひざ》上までのぴったりとしたジーンズにTシャツなのは、妹だ。 「お兄ちゃん、だらしなーい。決勝いけないの?」  妹は、ぼくを見つけると大きな声で話しかける。  うん、だめなんじゃないかな、発表待ちだけど、と答えて、ぼくは少し迷ってから、山口の横にすわった。妹とぼくの間に山口がいることになる。  山口は、いつもととりたてて変わったところはない気がする。階段をのぼっていくぼくに微笑みかけ、ぼくと妹が話すのを聞いていた。  ぼくは、バナナとサンドウィッチとお茶を出して、椅子の上に置く。  ほとんど幼稚園の遠足みたいなメニューだけど、レースの合間の食事にはふさわしいものなのだ。消化がよいので内臓に負担がかからず、血糖値を適当に高められる。  準備段階として、試合の前日から、ぼくは炭水化物中心の食事に切り替えていた。ある程度は自分で料理もする。カーボン・ローディングの理論を実行するために。陸上競技では、食事もトレーニングであり作戦の一部なのだ。  よく間違うのは、スポーツドリンクのようなもので急激に糖分を吸収することだ。そうすると、それに対応するためにインシュリンが過剰に分泌されてしまう。かえって血糖値が下がり、次のレースで筋肉が消費するべきエネルギーが減少するから、試合の間にはよくない。  ぼくの場合、今日はその次の試合というのに出られるかどうかがあやしくなっているので、元気のでない食事ではあるのだけれど。  ふたりにもすすめた。自分がすごく空腹になった場合とか、友だちが欲しがったときとか、ぼくは、いろいろなことを考えて、いつも大量の昼食を用意している。  山口は、 「朝ご飯を食べたばかりだから」  って遠慮する。  まだ十一時にもなってないんだから、当たり前かな。  レースの五時間前には起き、三時間前には食事をすませなければいけないので、ぼくは、予選のレースに備えて、今朝は五時に起きていた。だから、かなりおなかがすいていて、ひとりで食べ始めた。  不作法な気がするけど、こういうのって、車のレースで燃料を補給してタイヤを交換しているようなものなので、しかたがない。このふたりには、その説明は必要ないだろう。  妹は手をのばしてバナナをとり、山口にも一本渡した。  いったい、妹は、ぼくのレースを見ながら、山口に何て言っていたのだろう。あんなに性格も脚も悪い山口さんに向かって。  だいたい、同じ学校の先輩と後輩だとしても、いままでも知り合いだったりするのかなあ? ふたりとも、ぼくには何も言わないのだけど。 「このサンドウィッチ、おいしい。お兄ちゃん、腕があがった」  ありがとう。  妹は、ぼくが中学生のころから、よく陸上競技場に来ていた。  休みの日には友だちと遊びにいくことが多くなってからも、大きな大会には必ず来る。陸上競技場の雰囲気が好きなのだという。  でも、妹は自分ではレースをしたいとは思わない。 「見てるだけでいいの。スタンドにすわって」  そんな話を何回かした。  妹はスポーツをしないわけではない。テニスだとか、スキーとか、そんなものなら。 「お兄ちゃんだって、テレビでお相撲見るのわりと好きだけど、やろうと思わないでしょ。それと同じよ」  同じだろうか。ぼくは、茄子紺《なすこん》のまわしをつけてトラックを走ってるわけではないんだけどなあ。  妹がいることで、ぼくは、ともかく山口とふたりで競技場にいる、という事態からは逃れられた。相原さんのことを考えないですむ。  ぼくばっかり食べていた食事が終わり、三人でトラックを見ていた。  電動車が動いていた。ハードルを運んでいる。あの間隔だと女子の一〇〇メートル・ハードルだ。  けれども、妹は、突然、 「ちょっと、お兄ちゃん、来て」  と言うと、ぼくの返事も聞かずに立ち上がり、さっさと歩き出した。  ぼくは、山口にことわってから、妹を追う。  妹はスタジアムの外へ出るスロープを下った。売店の横を通り過ぎる。ぼくは、しかたなく、ついていく。妹の髪は、同じようなウェーブがかかっているけれど、山口ほど長くない。色も山口の方が淡くて細い。それに妹は脚をひきずるどころか、例の競歩の選手たちみたいに怒っているような歩き方をしているのだ。  でも、後ろから見ていて、どことなく、ふたりは似ているって気がする。なぜなのだろう?  妹は競技場に沿って、何も言わず歩いていく。背中にぼくがいることを確信している。  小さいころから、そうだったのだ。  妹は、ぼくがNOと強く言わないときには、すべてYESなのだと思っている。自分の要求のほとんどは、もともと受け入れられるものなのだと信じている。そのかわり、NOと言ったときの聞き分けは悪くないのだけれど。  駐車場を回って、公園へと続く裏手にでた。こんなところに来る人はめったにいない。まるで、けんかする場所をさがす中学生のようだ。  両側に雑草の茂った敷石の小道に来て満足したのだろうか。妹は、急に立ち止まり振り向いた。 「いったい、何があったの、ボーッとしちゃって。山口さんもお兄ちゃんも。さっきのレースもそう」  べつに、とぼくは答えたのだけれど、妹はそんな返事を期待していない。  スニーカーでスタジアムの壁を蹴《け》り上げてから、 「お兄ちゃん、ホントに免疫ないんだから。きっと、キスしたとか胸をさわったとかで、まいっちゃってるんでしょ。ふたりで見つめあっちゃって」  それだけ言うと、妹は、いきなりぼくに抱きつき、唇を押しつけてきた。  ぼくは、コンクリートの壁を背にして、妹のからだを受けとめる。  それはたしかに山口とのキスとはべつのものだった。  昨日、山口は、相原さんの名前を出してから、静かに泣きだした。それは、しまり切らなかった水道の蛇口から細く垂れていた水がコップにたまり、限界にまで達したあとあふれ、側面をつたって小さい流れが落ちていくかのようだった。  そんなにも穏やかだったのだ。  ボートの脇で、打ち上げられた木にすわり、砂浜にかがみこむようにして山口は泣いていた。ぼくは隣にいて、日が沈んでいくのを見ていた。  こんなふうにひとは泣くのだなと、ぼくは、考えていた。そして、山口は、何回も何回も、そんなふうに泣いてきたのだろう。  ぼくは、ようやく顔をあげ海からの風を受けている、山口の唇にキスした。それは、まだときおり震えていた。  でもね、妹とは、なんて安心な、そして懐かしいものなのだろう。昨日は海の香りがしていたけれど、今日は夏の草の匂い。  妹は舌を入れてきた。ぼくの欲望が刺激される。妹は、ぼくのペニスに触れようとする。ぼくは笑って妹を押しのける。 「ねえ、キスぐらいで、だまされちゃだめよ。私なんか、何人ともしてるんだから。男の子とも、女の子とも。じゃんけんで負けた子どうしキスするゲームとか、お兄ちゃんなんにも知らないでしょ。ホントに遊んでないんだから」  妹は、いらいらして、よくしゃべった。ぼくは、なんだかおかしくて笑っていた。抱きついてくる妹のからだは、山口にくらべたら、しっかりしている。ぼくの腕の中で妹が弾む。どこが似ているって気がしたんだろう? 「山口さんだって、うちの学校の派手な子なんだから、お兄ちゃんのことぐらいだますの簡単よ。ねえ、キスしたくなったら、いつだって私がしてあげる」      19  さっきの問題、考えてた?  いや、すごいの。工業高校ったって、男だけじゃなかったのね。彼女見たときには、俺、マジで震えちゃった。  腹ばいになってマッサージ受けてるときだった。陸上部って、男どうしでからだこすりあう。はじめのうちは、こんな気色悪いもん効くのかよって思ってたけど、ふくらはぎなんか下から上へ手のひらでぐっと押されると、筋肉がウウッとなるわね。  それで、あんまり気持ちいいんでボーッとしてたら、横のテントのはじからね、お尻《しり》が突き出た。黄色のユニフォームがレオタードみたいに張りついてて、下には何もはいてないんじゃないかって感じ。日に焼けた脚の色にぴったりなの。  ちょうど着替えてるとこだったみたい。テントから出てきたらガーンよ。  テレビ見てると、ジャマイカとかなんとか、アメリカの南のほうの国の選手っているじゃない、あれ。  からだが、もう、全然違う。脚は長いは、顔は小さいは。髪も短いんだけどパーマあてちゃって片側に流してて、もろ、レゲェ。あれ、絶対、意識してるね。ジャマイカ。  こんなやつ、高校生にいるのかよ、って思った。  俺がみとれてたら、うちの学校のやつが教えてくれた。伊田《いだ》っていう名前で、一〇〇メートル・ハードルで去年、一年のときに県で優勝してるんだって。  申し分ないね。あれだけきれいで、しかも一番速いなんて、ねえ、俺にぴったりじゃないの。  八〇〇の予選が終わってから決勝まで、俺は何も雑用なしの一年としては特別待遇。だから、伊田のことばっか、追いかけてた。  サブ・トラックにもついてった。  あれ、ハードルの準備体操なんだろうね、片脚を振り上げたりするのが、メチャクチャかっこいい。  それだけ、じっと見てたでしょ。ときどき目が合うから、何回目かに、俺のとっておきの笑顔で合図した。  そしたら、無視すんのよ。  いいねえ、強気の女の子って。小川の和美も広美もめじゃないね、足もとにもおよばないってやつ。  一〇〇メートル・ハードルの決勝は、ゴールで待ってた。スタンドじゃなくてトラックの隅のほう。  ハードルって、ちゃんと見たことある?  俺だって、まともに見んのは初めてよ。  位置について、用意、っで、バンでしょ。そうすると、八人の女の子がバッと一列でとびだしてきて、最初は同じような、でも、ちょっと微妙にズレたタイミングで、ひとつめのハードルを越える。  それで、タッタッタ、バシ、タッタッタ、バシって感じでハードル越えて、どこかで何台か倒れる音がガシャッていって、気がつくとグングン伊田だけ前に出て来てるの。  すごい迫力。  で、そこから、みるみる差がついて、伊田の圧勝。 「ナイス・ラン」  俺、でかい声で叫んで、タオル持って伊田のところに走ってった。ちゃんと、きれいなやつよ。誰のかわかんないけど、いちばん良さそうなの、テントから取ってきちゃった。  伊田は、両手を両|膝《ひざ》に当てて、下を向いて息を整えてたんだけど、俺のこと見て、あきれたって顔してた。  いい顔なのよ。彫りが深くて、ちょっと斜めに俺のこと見るの。視線にパワーがある。  俺から受けとったタオルでゆっくりと顔ふいて、そのあと交互に両方の腕をおさえながら、 「あんた、種目は?」  って言った。  低い声でね。ゾクッとした。 「八〇〇。決勝のときは、ここで待っててよ。優勝するから」  伊田は何も答えないで、フッと笑うと、俺の首にタオルをかけた。そのまま、見つめあっちゃった。伊田はタオルの両はじを持ったまま。  一七〇センチはあるのかなあ。  決まってたね、俺たち。      20  男子八〇〇メートル決勝。  この大会は二着プラス二だから、予選の各組の二着までと、それ以外でタイムのよかったもの二名が選ばれる。ぼくは、その最後の二名の枠にぎりぎりですべりこめた。  妹と別れたあと、スタンドにはもどらなかった。山口の相手は妹がしてくれているだろう。それは、ある意味でずるいことかも知れない。でも、ぼくと山口の間で相原さんについて話したって、何になるというのだろう。  彼の身長が一八〇センチで、ベスト体重が六四キロだったことをぼくは知っている。スタンディング・スタートで位置につくときに、右足でトラックを二、三回ひっかくように蹴《け》る癖があるのを知っている。(このスタジアムの、このスタート地点、何番目かのコース、彼がそうするのを山口は目撃しているかも知れない。)  だけど、そんなことを山口にしゃべったからといって、もちろん、彼が生きかえるわけではない。ものすごい月並みな表現だけど。  相原さんは雨の夜に車にはねられ、救急車で病院に運びこまれた。  事故の三日後、相原さんは病室の窓から飛び降りて死んだ。医者は、担当する患者に起こった事件、彼にとっての不祥事となりかねない問題よりも、むしろ大腿骨《だいたいこつ》を折った患者が窓までたどりつき、身を投げることのできた体力に驚嘆していたという。  陸上部の伝説では、相原さんは、自分が二度と走れないと判断して絶望したことになっている。それはあまりに陸上部的な解釈だ、とぼくは思う。真相はわからない。彼は何のメッセージも残さなかったのだから。  いや、真相なんて必要ない。八〇〇メートルを走っていたひとりの高校生、ひとりの TWO LAP RUNNERがいなくなった、それだけのことだ。  世の中には、常に結果しかなく、結果というのは、いつも恐ろしくシンプルなのだ。  そういったことを、今度こそ頭の中から締め出さねばならなかった。ぼくは、レース前に、試合の展開のイメージをつくりあげた。想像の世界では、すでに八〇〇を二度走り終えていた。  そして、実際にその通りに走るのだ。  ぼくの唇には、妹の唇の感触が残っている。それがぼくに勇気を奮い起こす。(本当かなあ?)  スタートだ。  位置について、というスターターの声に右足をラインぎりぎりにつけ、上体を軽く傾ける。四〇〇までとは違って、八〇〇からはスタンディング・スタートだから、「用意」はない。  ピストル。すぐに続けてもう一発。  フライングだ。八〇〇でのフライングは珍しい。たぶん、緊張感に耐えられなくなった選手が、わざとスタートの姿勢を崩して、ラインを踏みだしたのだろう。  ぼくは八コース、予選の記録が悪いせいで一番外側になってしまった。  二〇〇メートルから八〇〇メートルまでの種目は、コーナーでの距離の差をスタートの位置で階段状に調整している。ぼくは、一番前から走りださねばならず、まわりの状況は見えない。選手全員が、ぼくの後ろにいるのだ。  さあ、もう一度、集中力を取りもどさなくっちゃ。スタート位置を越えて逆方向にそのまま腿《もも》を高く上げ、スパイクを強くたたきつけるようにして走る。  しかし、役員が笛を吹き、早く戻るようにと促した。レースの進行が遅れているのかも知れない。  今度は普通にスタート。  アウト・コースで大切なのは、後ろから来るだろう他の選手たちを気にしないことだ。自分の走りのイメージ、大きな走り方をするように心がけてコーナリングをする。  そのまま、第二コーナーを抜けるとオープン・コースになる。少しずつ斜めにインにはいってゆく。ここでペースを乱さないようにして良い位置を確保しなければならない。  ふくらんだひとかたまり。先頭にたっているのは一年の中沢だ。長身なのですぐにわかる。ぼくは四番手ぐらい、一番外に出ていて、三コースの外のラインを取っている。  ペースはやや遅いようだった。県大会で六位までにはいると南関東のブロック大会への出場権が得られるから、記録より順位を目指しているのだ。  第三コーナーで内側にはいる。中沢が加速していて、かたまりが線に伸びる。  ホームのストレートで、ひとりに抜かれた。中沢がなおも前に出て、二位に三メートルほど差をつけている。力強いフォームだ。  でも、コーナーで見ると、肩に無駄な力がはいっているような感じ。気持ちが先走りして、肩からつっこんでいくため、一歩ごとに上体が安定しない。  バックの直線で、急に向かい風が強まる。ぼくは、前の選手について、体を小さくし、強く腕を振る。あと少しは抑えたままでいくのだ。  ストレートの四分の三ぐらいで、ぼくは外へ出て四位と三位の選手をかわす。そのまま加速気味にコーナーにはいり、二位になっていた中沢を抜く。  ここからだ。  ぼくは持っている全部の力を爆発させる。あと、ひとり。  第四コーナーの出口で外にふくらもうとすると、トップにたっているやつも外へ出てきた。ぼくはそのままインの位置でラスト・スパートする。  ところが、トップのやつは身体半分だけおおいかぶさるようにインにはいってきた。抜けない。かといって外へはまわりにくい。  中途半端なまま、五〇メートルほど走り、ゴールではかえって三メートルほどはなされてしまった。  二着だ。  ゴールのラインを走り抜けてから、いったんとまると脚がガクガクして立っていられなかった。優勝した選手が握手をしにきたのにも、膝をついたまま答えた。  最後がもうひとつだったけれど、これはまあ、成功したレースだ。      21  でかいこと言ったけど、俺、七着だった。早く言えばビリから二番目。最後の直線でボロボロ。  さえないの。  さすがに県大会になると速いやつがけっこういるのねえ。広瀬に負けたのも悔しい。他はトシいってるやつらだけど、こいつは、同じ一年なんだから。  伊田は待っててくれたのよ。ちゃんと。  八〇〇は、ほら、ちょうど二周するからスタートとゴールがいっしょのところでしょ。位置について、で、かがみこむときにチラッと見えてた。  ウォームアップ・スーツ着てたって目立つの、当然。さすがに合図する余裕はなかったけど。  ゴール・インして、俺、フラフラ。  伊田のところまで歩いてって、息ぜいぜいさせながら、 「負けちまったぜえ」  って言って、しゃがみこんだ。  かっこ悪いよねえ。なにしろこのひとは、去年、一年で優勝しちゃったって経歴の持ち主なんだから。  立ってる伊田の足もとで、俺、まだ肩で息してんのよ。それ以上、冗談も思いつかない。  そしたら、軽く頭をこづかれた。 「あんた、いつも、あんなレースしてんの?」  俺、ばかにされてるんだなって思ったぜ。  そういう話し方なのよ、伊田って。低い声で、鼻で笑うみたいにしゃべんの。  俺が見上げたら、 「あんなさ、最初からトップに立って、一周目のラップも取って、抜かれるまで一番でいく気なの?」  どう答えたらいいのかわからないから、 「ああ」  って言った。  伊田はもう一回、俺の頭をこづいて、 「何も、頭使ってないんだ」  そして、フッ、と笑うと、 「気持ちいいレースだね。将来、有望だよ」  ちょっと、嬉《うれ》しかったね、これは。      22  クラブハウスを出ると外はまだ充分に明るかった。  日が長くなっているのだ。  ぼくはグラウンドを横切って、急ぎ足で帰る。他の陸上部員たちは、きっと、まだ雑談をしている。例の、練習のあとのちょっと興奮した会話。着替えのすんでないのだっているだろう。  今朝、電車が終点の駅に着いたとき、ぼくたちは、混雑した車両から最後に降りる乗客だった。集団の最後尾でプラットホームを歩いていた。  山口は、 「駅の近くの店で、待ってていい?」  と訊《き》いた。  ぼくが、 「練習の都合で、遅くなるかも知れないけど」  と答えると、 「それでもいい、一時間ぐらいは平気よ」  と言って、笑った。  いつも、山口とぼくは、JRの改札のところで別れる。時間に余裕のある山口が、そこまでぼくを見送ってくれるのだ。  急ぎ足の人々がいきかう朝の駅、ぼくはホームに続く階段の途中で振り返る。そこが改札から見える最後の場所だ。人込みの中に、ぼくを見ている山口の姿がわかる。ぼくが振り向いたことで喜びの笑みが浮かぶ。  山口は恐れているのだ、ぼくが消えてしまうことを。ある日突然、相原さんがこの世界からいなくなってしまったように。  ぼくは、そんな山口にこたえてあげたいと思う。練習で遅くなったりなんか絶対にしたくなかった。冷めたミルク・ティを前にして、様々な心配をする一時間に、山口が耐えられるとは思えない。  ひとがひとを好きになることに理由なんてない、とぼくは思う。  いや、この世の中のすべてのことに、「理由」とか「原因」なんてないのだ。  もちろん、ひとつの閉じられた理論のなかではべつだ。たとえば、八〇〇メートルをより速く走るための理論。  上体を前に向けて保ったまま、左右の足が一直線上に着地するように腰の回転を使って走る練習をする。これにはちゃんとした「理由」がある。  同じピッチで走るのなら、一歩ごとのストライドが大きい方が速いに決まっている。ストライドをかせぐためには、脚を前に振り出して着地するときに、ウエストの回転を利用して、振り出す側の腰を前方に突き出すようにすればいい。  競歩の歩き方と同じことだ。この理論はまったく正しい、とぼくは思う。もちろん、しっかりと腕を振ることで上体のバランスがとれ、また腹筋と背筋が充分に鍛えられていて、そのことによってピッチが落ちることがないようにしなければならないけれど。  でもね、人間がからんできたら、話は全然違ってきてしまう。ひとは理由があって何かを感じたり行動したりするわけではないのだ、とぼくは思う。  中学受験をしているころ、国語が嫌いだった。勉強していて、早く算数の冷たい世界にもどりたかった。なかでも厭《いや》だったのは、物語の登場人物の気持ち、というようなタイプの設問。なぜ彼はそのような行動をとったのでしょうか、とか。  いろんな可能性を考えるとわけがわからなくなり、「ただ、そうしたかったから」、とか答えて×をもらったことがあった。  なさけない解答だなあ。  入試が近づくころには、パターンで出題者の期待していることが予想できるようになり、ぼくは、単にゲームとして正答にたどりついていった。  話をもどそう。  ひとがひとを好きになることに、理由なんてない。  ぼくは山口を好きになった。山口が美人だから、ということもできるし、山口の脚が悪いから、ということもできる。でも、そんなのはすべてあとからつけた理由、原因さがしだ。ぼくは山口を好きになったから好きになった、それだけだ。  これから、ぼくは山口に会う。  ドアが開くたびに期待をこめて見上げてはがっかりする、そんな繰り返しをしていた山口がぼくを見る。山口のすわっているテーブルまで歩いていくときの山口の表情が、高校の門を通り抜けているいまでも、はっきりと、わかる。      23  それで、もう、次の日に電話したね。  誰に、なんてとぼけたこと言わないでよ。伊田に決まってるじゃないの。  二時間ぐらいの長電話。何、話したかっていうと、えーと、何だったんだろうね。ま、陸上のこととか、つきあってるやつがいるのか、とか。  工業高校っていうのは男が多くて、女は一割ぐらいなんだって。それで適当に遊ぶ相手はいるけど、本気でつきあってるやつはいない、と、どうやらそんな感じ。  楽勝、楽勝。 「じゃあ、俺、立候補ね」  って言ったら、フッフッて、鼻にかかった笑い方するから、グッときちゃった。寮の電話じゃなかったら、俺、パンツおろしてたとこだった。  なんでそんなに伊田のこと気にいったのかって?  単純なことよ。伊田と出会って、伊田と話して、ビューンってぶっとんで好きにならないようなやつは、男じゃないね。  でもねえ、こうなってくると、寮にいるのがうっとおしいの。自由時間がとても短い。練習が終わって夕飯までの一、二時間と、飯食ってから九時の門限まで、これも二時間ぐらい。門限が九時なんてねえ。こどもじゃあるまいし。  と、なったら、手はひとつ。わかる?  前の日に電話して、伊田との待ち合わせはばっちり。はじめは渋ってたっていうか、かわそうとしてたけどね。こういうときは押しの一手、わーわー言ってりゃ、女の子なんてそのうちに、その気になってくるもんなのよ、好かれてりゃ悪い気はしないんだから。  で、あとはハンマー投げのでぶの吉田さん。  ベッドで横になってマンガ読んでるのつかまえて、 「済みません、俺、腹の調子おかしいんです。悪いですけど、俺のも、ふたり分、夕飯食べてくれません? 俺、部屋で寝てます」  これでいいの。 「本当? いいの、ふたつ食べて? 今日はプリンがつく日じゃない? あ、中沢君、からだ、平気?」  そう言いながら、吉田さんたら、目が笑ってる。 「それで、もしかしたら、グラウンド行って、走ってるかもしれませんから」 「はーい」  さて、と。  これでね、五時から九時までは確保できた。  吉田さんて、嘘つくようなひとじゃない、というか、嘘つく能力があるとは思われてないだろうから、だいじょうぶ。吉田さんが、中沢君は部屋で寝てる、って言ってくれたらね。他の人じゃだめよ。  で、俺、ちょっとそこまでってふりして、外に出た。  夕方の街に行くのが、こんなに気持ちがいいなんて思わなかったね。考えてみたら、俺たちって少年院にいるみたいなもんだ。三食決められた飯食って、学校とその隣にあるグラウンドと寮、それだけの世界。  俺は、そのこと自体は、そんなに厭だって思わないけどね。だってさ、家から通ってて、時間が自由に使えて遊べてたらもっと楽しいかって言ったら、そんなもんでもないでしょ。  こうなっていたら、って考えるのって意味ないね。もっと頭が良かったら、とか、すげえ金持ちの家に生まれてたら、とかさ。  人間、どんな条件のもとにいたって、同じよ。俺なんか本当に少年院にいても、わりと楽しくやってみせる自信はあるぜ。俺は、いつだって俺なんだ。  そんなこと考えてると、街、歩いてるひとがさ、みんなそう悪くなく見えてきて、俺もヤキが回ったかって思っちゃうね。だって、ふだんならむかつくやつら、背広着てメガネかけて、髪の毛ペタってして、俺のこと無視するか見下すようにするやつらね、あいつらだって、あいつらなりの人生してるんだろうから。  まあ、でも、なんてったって、いちばんいい人生してるのは俺よ。  ほら、向こうから伊田が歩いてくるじゃない。目立ってるねえ。俺に気づいてさ、ちょっと、ふてくされたような、ばかにしたような感じでだらだら近づく。  いいのよ、ホント。      24  ぼくの部屋に山口がいる。  こういう状況、妹以外の女の子とふたりだけでぼくの部屋にいるというのは、初めてではないのかも知れないけれど、初めてだ。  山口の長い髪が、ぼくの手にすべる。それは細くて茶色がかっていてさらさらしている。  午前中の海がキラキラと光っているのが窓から見える。ぼくの部屋もとても明るい。  いつもの朝のように一緒に電車に乗ってJRまで出たのだけれど、ぼくたちは、そのまま離れたくなかった。ぼくが、今日は学校サボっちゃおうかな、と言ったら、簡単に山口は賛成した。 「私は慣れているの」  山口は身体が弱く、小さいころから学校をよく休んだ。実際、小学校のときには入院による出席不足で留年しかかったという。  結局、折り返しの電車でぼくたちはもどってきてしまった。服装の規定のないぼくは、Tシャツにジャケットでジーンズだったけど、山口の制服姿は目立つのではないかと心配した。  でも、すれ違うひとが見つめたりしても、山口はひとつも気にとめていないようだった。ふだんと同じようにぼくに話しかける。  ぼくの家にだれもいないのはわかっていた。それでも、なんとなく息をひそめるようにして鍵《かぎ》を開け、そっと階段を上った。  窓から海を見ている山口を後ろから抱きしめると、あまりに細くて柔らかいのに驚いてしまう。  カバーをしたままのベッドの上に横になった。  ぼくの腕を枕にして、山口は相原さんのことを話す。ぼくはそれを聞くのが好きになっていた。ふたりの初めてのデート。初めてのキス。待ち合わせの店を勘違いして、お互いに二時間も待ってけんかになったこと。初めてのセックス。  それらは無限に続く物語のように思えた。  ぼくは、電車の中でも、コーヒーを飲みながらでも、駅のホームでも、山口から相原さんの話を聞いていた。山口は、大切に大切に記憶をさぐる。言い間違いをしたら、エピソード自体が壊れて失われてしまうかのように。  山口の相原さんとの思い出は、話されることにより神話となって、ぼくたちに共有される。  へえー、そんなことがあったの。  そのときには、どんなふうに思ったの?  それで?  ふーん。  気持ちよかった?  ぼくは、山口のブラウスのボタンを全部はずした。山口がことばにつまると、励ますために脇腹に触れる。くすぐったがって、山口が笑う。振動がぼくに伝わる。  ぼくは山口の目からあふれる涙にキスするのが好きだ。相原さんのことをしゃべりながら流れ出す涙に。  それは意外に塩からくて、海の匂いがする。鼻水だって吸ってあげるよ、と言うと、山口は声を出して笑って起きあがり、ぼくの上にかぶさると、ぼくの唇を軽く噛《か》む。ぼくの舌の先が山口の舌の先端をとらえる。  試合の前日、海岸で最初に相原さんのことを聞いたとき、ぼくは驚いた。ことばが出なくなった。  戸惑っていたのだ。ぼくが好意を感じ始めていた女の子が、相原さんのことを好きだったという偶然に対して。  ぼくは、ふだんは「偶然」なんてことを信じない。いや、逆にすべてのことが「偶然」で、常に理由なく物事は起こるのだから、特に「偶然」と呼ぶものなんてないと思っていたのに。  そして、その相原さんは、もうこの世に存在しないのだ。  八〇〇メートルの話になった。  そう、ぼくたちは、ぼくと相原さんはTWO LAP RUNNERだ。 「あなたのフォームが相原さんに似ているんで、怖くなったわ」  ぼくは、相原さんが走っているビデオを持っていた。それは特に相原さんだけを撮ったものではなく、陸上部員の研究用に、ひとりひとりの走っている姿が写されているものだ。  それを今の山口に見せてもだいじょうぶだろうか。新たな悲しみを呼び起こすことにはならないだろうか。走り終わった相原さんは、カメラに向かいおどけてVサインをしているのだ。  ぼくは、暗記するくらい繰り返しそのビデオを見ていた。ぼくのフォームは、似ていて当たり前だ。ぼくは自分のからだに、ぼくの身近に知る最強のTWO LAP RUNNERである相原さんをダビングしようとしていたのだから。  それとも、山口はすでにこのビデオを見ている、あるいは持ってたりもするのかも知れない。このことを、どう切りだしたらいいかわからない。  ぼくは山口のスカートのホックをはずす。山口は腰を浮かす。  そのとき、玄関でガチャガチャと鍵の音がした。続いてドアが開いたようだった。母親が急用で帰ってきたのかも知れない。すぐに、ぼくたちの靴に気づくだろうか?  うちの親は、理解があるというよりは自信がないので放任している、と評論家風に言ってみようかな。学校をさぼって、女の子とふたりでいることも、たぶん、どうってことはない。適当な嘘を信じようとしてくれるだろう。服さえ着ていれば。  階段を上がる音が結構すばやい。  ノックの音。セーフ。 「なんだ、お兄ちゃんたち、寝てなかったの」  妹は、許可を求めるわけでもなくずんずんと部屋にはいりこみ、ぼくの机の回転いすにお尻《しり》からチョコンと跳び乗っては一周させる。  学校はどうしたの、とぼくが訊《き》く。  すると、妹は、ゆっくりと、 「学校はどうしたの?」  山口とぼくの顔を半分ずつ見ながら言う。  困ったやつだ。 「ここで問題です。1、私には霊感がある。2、隣のおばさんが目撃し母親に連絡、ただちに駆け付けるように私に指示が届いた。あんまり、ありそうもないなあ。3、……」 「電車がすれちがうところで見つけた」  それまでベッドの上に横座りし、髪を手でなでつけていた山口が急に口を開く。 「当たり。スゴイ」 「わあー」  妹と山口は手をとりあって喜ぶ。  ぼくは何をしていたらいいんだろう。 「もう、寝てるころじゃないかと思ったのに」  妹が山口に言う。 「うん、今からするところだったの」  山口は、ブラウスのボタンをいじりながら答える。  ぼくは山口を、そして妹を見る。      25 「よっ、どうだ、中沢、調子は」 「もーっ、最高っすよ」  校舎の廊下歩いてて例の円盤投げしてた顧問に出会った。つい、元気良く返事しちゃったね。 「そうか、そうか。そいつは、よかった」  突き出た腹押さえて満足そうにしてる。単純なやつ。  俺、調子、そんなに良くないのよ。いや、タイムはね、悪くない。  心の問題。  だって、教室にいるときも、グラウンドにいるときも、すぐに伊田のこと考えちゃうんだもの。  だらしねえの。中学生の女の子じゃあるまいし。  こんなのって初めてだね。しかもさ、まだ、手も握ってない。俺、こんどこそ本当にヤキが回ったみたい。  伊田とは、わりと会ってる。  でも、それが中沢君らしくないのよ。ほとんど、俺、追っかけやってんの。毎日電話したり、短い自由時間に(いつも夕食抜くわけにいかないでしょ)無理して出てったり。  土・日だってね、お願いして会ってもらってるみたい。  なんか、おかしなことになってきたねえ。      26  山口の部屋にぼくがいる。  今日は日曜日。山口の両親はふたりでどこかへ行ってしまった。こどもにとっていい親だって、達者で留守、に決まっている。  制服を着ていない山口は、やっぱり、それはそれで、ずっときれい。今日も、ぼくには何て呼んだらいいのかわからないけれど、からだにぴったりとした服を着ていて、おとなびて見える。同い年とは思えない。  でも、「これからする」ために、ぼくは来たのだから、どうせ脱いじゃうのかなあ。  この前は妹が帰ってきたんで、わけがわからない日になってしまった。三人で、妹が最近買ったCD聞いて、おなかがすいてくると、山口と妹が大騒ぎしながらカレーを作った。白ワインが冷えていなかったから、氷を入れて飲んだ。ぼくは一杯だけだったけれど。  夕方になってぼくが走りに行く(学校サボったって練習はしなくちゃね)と言ったら、ふたりがついてきて砂浜にすわって見てた。このふたりは結局、仲がいいのかな。  ぼくは山口の机の上に、相原さんと一緒に撮った写真があったりしないでよかったって思う。そういうのって、見たくないよね。 「相原さんの歯があるの。見る?」  歯?  それも、見たくない。 「歯なら、さわったことあるでしょ。骨はないから、私は歯をもらったの」  山口は、数学の教師が解法を示すように説明する。  けれど、 「どうして、あなたは嫉妬《しつと》しないの? それが、わからない」  山口の質問はいつも唐突だ。ぼくはそのたびに、それまで何を話していたのか忘れてしまう。何か、論理を超越したところがあって、ぼくには、ついていけない。 「相原さんは、嫉妬したの。私はそれが嬉《うれ》しかったから、わざと大学生とドライブに行ったりして、その話を相原さんにした。みっつも年の差があったでしょ。私はとてもこども扱いされてる気がしたから、そういうことで対抗しようとしたんだと思う。  なんで、あなたは、私と相原さんのことを聞いて嫉妬しないの? それは、私のことがあまり好きじゃないせい?」  そんなことはない、とぼくは思う。  ぼくには、おそらく嫉妬という感情がないのだ。ぼくの好きな人間が、ぼくと会ってないときに何をしていようとかまわない。それはその人間にとっての問題ではあっても、ぼくには何の影響も与えない。  そもそも、過去のことに対して、どんな気持ちを持ったらいいのだろう。一秒前の山口と今の山口が同じ人間であるという保証はないのに。  山口だけではない。ぼくだってそうだ。ぼくは自分が連続した、持続したひとりの人間であるという自信はない。過去の自分になんて責任が持てない。ぼくはいつも瞬間に存在するだけだ。  山口の服を脱がすのは簡単だった。ファスナーをおろし、上に持ち上げるだけで、ブラジャーとパンティだけになった。ぼくは女の子の下着があまり好きになれない。妙に飾りが過剰で、本当の肉体以上に、ずっと肉体みたいな気がする。  ぼくは下着を見ないようにして、山口の胸に触れる。 「ちょっと、待って」  山口は、下着姿のままベッドのわきの化粧台の引き出しをさぐり、ぼくに避妊具を手渡す。  それは、残念ながらその全部を使い切ることなく焼却されてしまった相原さんのペニスに装着されるはずだったコンドーム、なのだろうか。  それとも、他にも山口から渡される大学生なり高校生なり中学生なり小学生なりがいたのだろうか。  しかし、それらは、やはり、ぼくの関心の外にあることだ。  ぼくは、再び横になった山口にキスしながら、ブラジャーをはずす。服を着ていたときにはわからなかったのだけれど、ほっそりしている山口なのに、その胸が柔らかくて大きいのにぼくは驚く。  ぼくは、左右の乳首を交互に口にふくむ。  パンティをとるのは、ぴったりしていてむずかしかった。前から、後ろから、横を。脚から抜くときに、左のほうが細いのがわかる。  ぼくは山口のヘアに、ぼくの指をからませる。  山口は、手を伸ばし、まだ大きくなっていないぼくのペニスに触れて言う。 「やっぱり、男の方がいいの?」  え?      27  工場を囲むコンクリートの塀は、ところどころ崩れてた。  欠けたところでは、赤く錆《さ》びた鉄筋がのぞいてる。それで、そこに雨があたるから、流れ出した錆が塀をつたって落ち、どぶ板にまで色をつけてる。  その工場の塀は、先が見えなくなるくらいまで、たっぷり三〇〇メートル以上続く。  俺が全力で走ったって、40秒やそこらはかかるね。塀の前の道は車が一台通るのがやっとの細さで、反対側には庭もない小さな二階建やアパートがならんでた。そのうちのひとつに伊田が住んでる。  つまりは、きったねえ街なわけよ。  この工場か、それとも隣のやつのかはわからないけど、どっかから出てる変な甘い臭いがしてた。小便の臭いだって混じってる、きっと。一階が工員相手の飲み屋やラーメン屋になってるところがあるから。  きったねえって言ったけど、ばかにしてるわけじゃないぜ。  俺の生まれた街も、これと同じだ。小学校で、京浜工業地帯は日本の四大工業地帯のトップで世界に誇る生産量です、とか習ったときには、自分の住んでる街が偉いんだって思ったね。  偉かねえよ。汚れてて、ごちゃごちゃしてて、川はまっ黒、空気もきたねえし、からだに悪いだけだ。カスみたいなやつらもいっぱいいる。こんな街にいたら、そうなるんだ。工場行って、休みの日には競輪かボート、酒飲んで道で寝る。  な、京浜工業地帯で本当にもうけてるやつは、こういうとこなんかに住まないの。どっか他の、もっときれいなとこでのんびりやってんのよ。山手の、丘の上の方でね。  だからさ、最初に送ってったときに、伊田が、あたしはここを出てやるんだって、地面に吐き捨てるみたいに言ったのは、よくわかった。  俺はこういう街が嫌いってわけじゃない。そこにいるやつらも嫌いじゃない。なんてったって、俺が生まれて育ったとこなんだから。  でもね、キャバレーなんかの広告がベタベタ張ってある電柱のわきで伊田がそう言ったとき、俺たちふたりで、こういうところをつくったやつらを見返してやりたいとは思ったね。そう、復讐《ふくしゆう》みたいなもんよ。世間に対して、俺たちはここで生まれた、文句あんのか、って。  ま、それはそれとして、俺、だらしないのよ。何がって、伊田とのこと。聞いてくれる?  いままでの俺だったら、こんな工場の裏のね、暗いとこ歩いてたら、一発で押し倒してたじゃないの。全然そんな気になれないの。伊田に魅力がないからなんて、まぬけなこと言わないでよ。その完全な逆。  きょうだって、すごいの。なにせ一〇〇メートル・ハードルの県大会優勝者(それも二連覇)、スタイルがいいから、ジーンズはいてたって脚の長さが日本人じゃない。ぴっちりしたパンツにTシャツ、その上にあの彫りが深くて小さめの顔がのってたら、もう、まぶしくって、目もあけてられないって感じ。  きっちり見てたけど。  デートのあと送ってって女の子にキスするタイミングって、あんまり家のそばまで行ったらまずいでしょ。だから、俺、あせってたんだけど、その気になってちらっと伊田のほう見て、そしたら、フッ、て笑われちゃって、だめなのよねえ。すぐに家に着いちゃった。  しょうがないんで、さよならって言って、伊田が手を振ってくれちゃって、そんなこどもっぽいことしてくれたら意外なかわいさがあって、俺、ボーッとしてたんだろうね。横から出てきたやつらに気づかなかった。 「よう、生意気なつらさげて歩いてんなあ」  とか、俺に向かって言うの。なーまいき。おまえたちの方よ。  まだ、こども。俺と同じか、ちょっと上ぐらいなのよねえ。  そんなに、気合いはいってるようにも見えない。ま、ちょっとツッパッた服は着てるけど。ついて来いよっていうから、ついてった。まわりを囲まれてね。  そんなことしなくたって、逃げないってば。  ちょっと、やばいことはやばいの。むこうは五人もいる。からだは俺よりでかいやつはいないし、大きめのやつも、たぶんただのデブ。それでもね、まともにやりあうには数で苦しい。ま、いざとなれば一発|蹴《け》り入れて逃げようと思ってたけど。  こういうけんかで一番大事なのは、とにかく足が速いこと。陸上部のやつとやったらダメよ。つかまえられなかったら始まらないんだから。  どこまで行くのかって、思ったね。歩かされる。  で、ちっぽけな暗い公園にはいっていった。ここでカツアゲ始めるんだろうな。小便と、近くのラーメン屋のスープとる、くっさい臭い。うん、やっぱ、俺と一緒にこの街を出ようぜえ、伊田さん。  砂場のなかのコンクリートでできたカバにすわらせられちゃった。それで、また、まわりを囲まれた。俺、あっちのキリンの方が好きなんだけどねえ。背中に乗って、耳持ちたいな。  へたくそな演歌のカラオケがガンガン聞こえる。なるほど。助けが呼べない場所なわけね。 「おい、おまえ、中沢だな」  驚いたねえ。  何がって、俺の名前知ってるってことじゃなくて、こいつら、俺が中沢だって知っててからんでんの。そんなやつ、ふつう、いないぜ。いい根性してるね。  で、何、言いだすかと思ったら、なかではちょっとかっこいいやつが、 「いいか、伊田に手だすんじゃねえよ」  だって。  なーんだ。伊田の親衛隊なわけね。 「出したいんだけどねえ、出させてくれないのよ、どうしたらいいと思う?」  俺って、いつも正直。天国に行ける。 「ふざけんじゃねえよ」  そいつ、でかい声だして、でも俺じゃなくてカバのこと蹴った。かわいそうな、カバさん。  うーん、ますます伊田にあこがれちゃうわね。めちゃくちゃアイドルなんだろうな、こいつらの世界の。この辺に住んでるやつらかも知れないし、同じ学校なのかも。  ん? 俺の名前知ってるってことは陸上部のやつがいたりして。  おっ、そうみたいよ。その、かっこいいやつが木刀を出してきて、俺のふくらはぎに当てて、 「おい、足、折られたいのかよ。約束しないと、二度と走れないからだにしてやるぜ」  それはいやだなあ。俺、この前のレース、七着だった。このままで終わりたくないもんね。  夜の九時。月も出てない、ちびっこ広場。いよいよ立回りかな? 「ちょっと、待てよ」  低い声でドスきかせて、俺、ゆっくりと立ち上がった。もちろん、木刀のこと、注意してね。  別に本気でやるつもりなんて、なかった。ただね、あとあとつきまとわれるとうっとおしいでしょ。だから、格が違うってことをビシって見せつけて、こんなことする気にならないようにさせとかないとね。  俺が立つから、まわりのやつらも身構えた。木刀持ったのなんて緊張して先が震えてる。  そのとき、 「てめえら、何してるんだ」  おっと、声の重さが違う。  まずいなあ、本物が出てきちゃったみたいね。      28  相原さんが、ぼくとのことを山口に話していたとは思わなかった。なぜ、その可能性をぼくは考えなかったのだろう。 「私はすごく悔しかった。さっき言ったみたいにね、それまでは相原さんが私に嫉妬してたの。それが私の番になってしまって、しかもその相手が他の女ならともかく、男の子だなんてね。どうしたらいいかわからないでしょう?」  山口は、本当に、いまでも悔しい、という顔をする。 「それにね、私とより、あなたと寝たときの方がよかったらしいし」  そう言うと、山口は、ぼくのペニスを両手で包みこむ。暖かい手。それはまるで、そうすることでぼくが相原さんを思い出せるようにと促しているみたい。  ぼくが相原さんと寝たといったって、それはたった一度だけのことだ。そのぼくのしたこと、というか、ぼくたちのしたこと(相原さんはどんなふうに話をし、そして、山口はどのように理解しているのだろう?)が、山口というひとりの女の子を苦しめていたことなど、ぼくには、まったく考えてもみないことだった。  もっとも、当時、ぼくは山口を個体認識していない。  相原さんが女の子とつきあっていることは知っていた。でも、それはそれだけのこと、ぼくには関心のないことだった。いま山口に対して嫉妬の感情を覚えないように、ぼくは相原さんに対しても、彼を独占したいなどとは思っていなかったのだ。  そう、この世の中では、いつだって並行していろんなことが起こっている。ぼくらはそれらすべてに気づくことは不可能だからこそ、安心して生きていける。などと、一般論に還元して済む問題ではない。ひとは「一般」ではなく、その個人だけの一回しかない生を生きるのだ。  というのも一般論だなあ。  とにかく、理屈はともかくとして、ぼくは自分のとった、なにげない行動(すべての行動は「なにげない」!)で、目の前にいる、やわらかくていい匂いのするすべすべした小さな生き物に、悲しい思いをさせたのだ。  さて、前に、ひとがひとを好きになることに、理由などない、とぼくは言った。それは正しいと思う。でも、相原さんを好きになったことを考えると、彼がとても速かったから、とだけは言えそうだ。  夕暮のトラック、コーナーを走る相原さんは美しかった。八〇〇メートル・ランナーとして高いレヴェルにある相原さんの脚には、なにひとつ無駄な動きがないように見えた。  太腿《ふともも》の筋肉はくっきりと浮かび上がって収縮と弛緩《しかん》をくりかえし、足首は恐ろしいくらい細かった。  そのころ、ぼくはまだ短距離から転向したばかりの中学三年生だった。練習のメニューは各自の実力に合わせて組み合わされていたから、ぼくは、相原さんのトレーニングの一部に参加し、あとは休息をとりながら見ていることが多かった。  一緒に走るようなときには、まったくついていけなかった。たまに短い距離、一〇〇か二〇〇のレペティション・トレーニングではせりあえることもあった。そんなとき、相原さんは、むきになって、本気で走り出した。それは、なんという喜びだったろう。ぼくの存在が彼を駆り立てたのだから。  相原さんに話しかけられると、ぼくは嬉《うれ》しくて、うまく返事ができなかった。相原さんは、そんなぼくの気持ちを知っていたのだと思う。彼が誘ったわけでも、ぼくが誘ったのでもない。ごく自然なことだった気がする。でも、そんなこと、山口に言ってみたって。  相原さんが事故で入院したとき、陸上部員は、お見舞いを控えるようにと言われていた。大勢でおしかけるには、もう少し回復を待つべきだとされていたのだ。  だから、ぼくにとっては、彼は突然に消滅してしまったのだ。学校のトラック、走り終わって練習のレースを振り返っては、みんなでくだらない冗談を言い合う。相原さんは笑顔でスパイクのひもをほどいている。その姿に消しゴムがかけられていく。  ぼくには八〇〇メートルがあったのだと思う。  八〇〇メートルを速く走ろうとすること、いつかは彼よりも速く走ろうとすること。相原さんの記録はすでに止まってしまったのだ。それを、ぼくが超える。  山口には、そういうものはあったのだろうか。彼との、あのたくさんの思い出以外に。  いま、ぼくの目に、走っている相原さんの姿はすぐに浮かぶ。彼はよく変わった色のウエアを着ていた。色の褪《あ》せた紫や濃い茶色。それらは相原シャツと呼ばれていた。なぜか思い出すのは、そういうつまらない、ささいなことだ。  だけど、ぼくはそのシャツの背中に浸《し》みる汗を見て走っていたのだ。 「私は相原さんのことをすごく責めたの。あなたとのことよ。事故の日に酔っていて車道に飛びだしたっていうのは、それまで、私と会っていたの。私が殺したようなものなのよ」  さて、ぼくはこの事態をどのように処理したらいいのだろう。心の重荷をさらけだした山口は、これまでになく激しく泣いている。山口の論理の飛躍を指摘することはたやすい。けれど、そういう問題でもないだろう。  裸のぼくは裸の山口を、嗚咽《おえつ》する山口を抱きしめる。  ぼくは山口のことを好きだと感じる。とても好きなのだと思う。  たぶん。      29  ひと口でヤーさん、って言うけど、幹部から下っぱ、使いっぱしり、新聞でいう準構成員ってやつね、そんなのまでいろいろ。  中学生や高校生ぐらいのがたまってるとこにこのひとたちが出て来ると、ま、何かが起きる。みんな、もめごとは大好きなんだもの。そんな嫌いな方じゃないけど、俺も。  それに、基本的にリクルートの場なわけでしょ、街は。見どころのあるやつを求めて、ちょっかいだしてくるのは目に見えてる。  特に、若いやつだと、自分は後ろに組しょって偉くなった気でいるから、メッチャ威張ったりね。中学の後輩の顔見知りなんていると、すごいよ。  だから、こういうときは、それなりの関わり方があるっていうか、根性なかったら関わらないほうがいいんだけど、この伊田の親衛隊の諸君は、そのへんのとこ、わかってくれてんのかねえ。 「そのまま、そのまま」  でかい声じゃない。  だけど、逆らえない雰囲気がある。路地の方から公園に、のったりのったりはいってくる三人連れ。格があるじゃないの。  手前にいるのは頭を全部|剃《そ》っちゃってる。もろ、暴力、って感じ。暗くてよく見えないけど、かなりの本物。ヤバイねえ。  俺、公園の逃げ道をそっと確認した。  うまくないことに、出口は、いま、やつらがはいって来たひとつしかない。後ろの方にあるフェンスは、ちょっと高いけど、たぶん、よじ登って路地に飛び降りたら逃げられると思う。まあ、三人以外に仲間がいるようすもないし、あとは駅がどっちの方向になってるかだ。  だって、伊田の親衛隊はなにしろ地元なんだから、あいつらと関係がある可能性は、あんまない気はするけどゼロじゃない。そしたら、成り行きによっては、高校生五人プラス本物ヤクザ三人の八対一になっちゃう。  俺の場合はさあ、へたにつかまって事務所に連れこまれたりしたら、親父の問題があるでしょ。うちはテキヤ系で、まじめに働いてるちっちゃいとこだから、組どうしの話になったりしたら、ものすごくうっとおしい。  さっきまで俺にからんでた木刀を持ったすこしかっこいいやつは、完全にヤクザに気をとられてた。こっちなんか見てないから、俺は、ダッシュして後ろに向かって走ったらいい。  俺、スターティング・ブロック代わりに、砂場に埋め込まれたコンクリートのカバの尻《しり》に右足をかけた。これ蹴《け》って飛び出すつもり。きょうは何度も、何度も、かわいそうなカバさん。  タイミングをはかった。  あまり早いと、ヤーさんたちに路地に回られたりしてもいけないからね。あと二メートル。俺、右足にピクッと力入れて、上半身を後ろにねじった。  さあ、今だ。 「龍二さん」  へ?  振り向くと、一番あとからついてきてた小さい人がニヤニヤしてる。  なんだ、安さんじゃないのお。  前のゴッツイふたりは、見たことない。  でも、頭剃ったのが、 「てめえら、そのひとは、中沢さんとこの坊っちゃんだって、わかっててやってるのか。あー?」  これで、おしまい。  後ろで、安さんはニヤニヤしたまま。もう、早く教えてよね。最初から知ってたんなら。  次の日、俺、日曜で家にいたのよ。  ろうかですれちがったとき、安さんに、 「龍二ちゃん、逃げるの速そうね」  って、言われちゃったぜい。  偶然のおかげで助かったけど、なんか、俺、まぬけ。水戸黄門みたいね。印篭《いんろう》の代わりにマスコットのスパイクのお守りでも用意しとこうかしら。      30  ほら、前にも言ったように、この世の中、すべてが偶然だ。あるいは、だからこそ偶然なんてものはない。  山口は相原さんからぼくのことを聞いていた。そして、相原さんが死んだあと、悲しみにくれる(?)山口は、陸上競技場に行き、ぼくを見つける。なにも偶然ではない。それは無意識的であれ、むしろ、ぼくを捜しに行った行動だ。  その後、ずいぶんたってから、海岸でぼくは犬を連れた山口に出会う。偶然だ。それとも、これも偶然じゃなくて、待ち伏せみたいなものだったのかな。  ともかく、ぼくは山口を好きになった。これは偶然? 妹が言うみたいに、美人で派手な女の子だったら誰でもよかった、というのを否定するだけの根拠はない。  ぼくは、すべての結果を結果として受け入れる。  山口を誘いに、山口の家に行く。歩いて十分もかからない。ぼくは、いつのまにか山口の家族に気にいられてしまったようだ。特に母親。電話なんかすると、ものすごく愛想がいい。  それは山口と相原さんとのことを知っていて(ぼくと相原さんとのことは知らないで)、娘を元気にしてくれる、同じ高校のそれも同じ陸上部員が現われたからなのだろうか。  海に行こうよ、海に。  もうすぐ夏休みなんだから。  タンクトップからむき出しになった山口の腕は白くてとても細い。もっと、ウェート・トレーニングをする必要がある。何キロのバーベルが上がるのだろう。ベンチプレスなら棒だけかも知れない。 「広瀬、おい広瀬だろ、おーい広瀬」  ばかでかい声で呼ばれた。こんなふうに叫ばれる覚えはないんだけどなあ。  あたりを見回すと、よしず張りの海の家の中で、手をおおげさに振っているやつがいる。このあたりはぼくの小学校の学区だ。そのときの同級生かなと思って近づいていった。山口が砂の上を歩くのにあわせて、ゆっくりと。  海の家の中は暗くてよく見えない。でも、なんか、でかいやつがうちわを持って立っている。知らない、こんなの。 「お前なあ、なんだ、あの関東大会は。さえないなあ」  それで、わかった。中沢だ。あの、八〇〇メートルやってる。水着の上に長いTシャツで、陸上選手というより、ちょっとスリム気味のプロレスラーのように見える。  それに関東大会というのは正確でない。甲府でやった南関東ブロックの大会だ。ぼくは県で二位だったのに、ブロックで入賞できなかった。つまり、全国大会には出場できない。  でも、それはそんなものなのだ。タイムとしては確かに県大会より悪かったけど、そういうのはレース展開に左右されるのだから。  中沢は山口を見て、眼を細くして、 「こんちは」  と言う。  山口は、長い髪を片手で押さえ、 「こんにちは」  と、お辞儀をする。 「こんなかわいい子と遊んでるから、勝てなかったんだろ。もう、俺の方が速いぜ、次は」  こいつは何なんだろう。だいたい、どうして、ここにいるんだ? うちわでバタバタと、とうもろこしを焼いている。 「お前、合宿行くんだろ、強化合宿」  それは、県の陸連主催の合同トレーニングのことだ。県下である程度以上の成績をあげている高校生が集まって練習する。日頃、満足なコーチを受けられなかったり、練習相手に不足するような学校の選手のために、主として設けられているのだと思う。でも、ぼくも参加することにしていた。  自分なりに固定してきてしまった練習法の見直しができそうだし、ふだんと違った相手と走るのは、それなりの刺激は得られると考えたからだ。中沢のことは、べつに意識してなかったんだけど。 「おう、じゃ、そこで勝負な」  と言うと、中沢はぼくと山口に、とうもろこしと罐ビールを押しつけた。  お金を払おうとしても受けとろうとしなかった。 「いいの、いいの、このバイトはね、海に女の子見に来るついでなんだから」  と言って。  とうもろこしには、たっぷりと醤油《しようゆ》のたれが効いていておいしかった。そのせいでもないだろうけど、山口は、中沢のことが気にいったみたいだった。 「あんな面白い友だちがいるの」  山口は、笑う。  友だちなのかなあ? 初めて口きいたんだけど。  ぼくは、山口と、炭火焼きとうもろこし醤油たれつきの味と香りのするキスをする。山口の歯の裏についている、とうもろこしの粒の残りを、ぼくはぼくの舌で取り出して食べる。山口が笑って、ぼくに抱きつく。  岩場の陰になったところは、すてきに涼しい。海しか見えないし、波の音しか聞こえない。  山口は、 「相原さんを好きだったふたりが、お互いに好きになるのは、相原さんにとっても嬉《うれ》しいことよね」  と言った。  ぼくは、沖のヨットとそのマストをかすめるように飛ぶかもめを見ていた。  山口の言う言葉は、すぐには意味をなさなかった。  時間的にずれている三流ドラマ的三角関係(でも、それは、妙に正三角形だったりする?)は、どうでもよくなってしまった。飲みなれないビールに酔ってしまったのかも知れない。  いまこの瞬間、地球上にはぼくと山口しかいないのだ。ぼくたちは、このことばの特殊限定的用法であるところの「寝る」までにはいたらなかった。でも、いま、ぼくたちは幸せだ。  たぶん。      31  夏休み。  当然、授業はなくなる。練習はある、このクソ暑いのに。ただ、家から通えるものは、そうしてもいいって。  もちろん、喜んで帰ることにしたね。  だからって、俺、寮にそんなに文句あるわけじゃないのよ。でも、三か月もしたらメシだって似たようなもんの繰り返しになるし、まあ、毎日の生活に飽きてくるわね。それに、ねえ、なんていったって、伊田に会うのが、ずっと楽になるもの。  俺が、荷物(ったって、そんなにないけど)まとめてたら、ハンマー投げのでぶの吉田さんたら、 「つまんないねえ、夏休みは。みんないなくなっちゃって」  って、大きな背中でため息つくの。 「先輩は、帰る家ないんですか?」  つい、俺、訊《き》いちゃった。  実は、このひとのこと、ほとんど知らない。相部屋になってたって、あんまりものしゃべるひとじゃないし。  ハンマー投げの記録は立派なんだから。安定して六〇メートル近くほうれる高校生って、そうはいない。  前に、俺、遊びでやってみた。  自分の練習が始まるまでの時間。ボーリングなんかさせたって、俺って才能あるでしょ。だから、こんなの楽なもんだ、投げりゃいいんだってね。力自慢のおでぶちゃんたちで争ってる種目だけど、俺だってさ、五〇メートルやそこらはいくだろうって思ってた。  で、握って、振ってみたら、なんか違う。  ハンマー投げってどんなもんか知ってる? 金属のワイヤーの先に砲丸がついてるって思ってくれたら、ま、そんなに間違ってないな。  そのワイヤー握って、からだごと三回転か四回転させて、ビューンってほうる。これがね、回すだけでわりと難しいの。最初、からだがグラってきちゃって、おっ、こりゃいかんって思ったから、気合い入れ直した。  それで、俺、ちょっとすぐにほうるのはあきらめて、まず、ターンの練習始めたの。  だって、みっともないでしょ、陸上部で見てるやついるのに、そのへんに、ぽとりって落ちたりしたら。  それで、回しだしたら、おもしろいじゃないの。スピードがでる。  これ、俺がね、ガンガン、メシ食って、からだ鍛えたら、飛ぶね。ま、俺ぐらい身長があって、筋肉で一〇〇キロにもってってごらんよ、日本新だ。  俺は、やっぱ、八〇〇メートルやってたいけどね。そのほうがかっこいいもん、女の子にキャーキャー言われて走ってるほうが。  ふん、ふん、と思って、ハンマー置いたら、金網の向こうで吉田さんがニコニコしてた。白いTシャツの上に紺のランニング、立派な上半身。 「中沢くん、やってみる? ハンマー。教えてあげるよ」  同じフィールドでも、ハイ・ジャンプなんかと比べて人気ないから、誘いたいんだろうな。 「いやっ、いいっすよ。ぼくなんか無理っすよ」  けんそん。 「そんなことないよ。誰でもすぐにうまくなるよ」  先輩、誘い方間違ってますよ。誰でもじゃなくて、中沢くんなら、ですよ。  で、お手本で投げてくれたの。  三回転して、ウワアッ、て叫んで気合い入れて投げる。軽くやってるのに、すごく飛ぶ。吉田さんのこと、ちょっと見直した。ただのでぶじゃなかったのねえ。  それで、夏休みの話。  俺がばかなこと訊いたでしょ。そしたら吉田さんたら、 「そう、家、帰れないんだ」  って言い出すの。 「うちにいると、ご飯ばっかり食べるって嫌われる。無駄飯食いだって。ここだったら寮のおばさんたち優しいから、たくさん、とっといてくれるでしょ」  全然、元気ない。  俺、ジーンとしちゃって、うちに誘った。俺の家なら、ひとがいっぱい出入りしてるし、いくらだってメシ食える。それで、うちの仕事、俺と一緒に手伝ったら気がねはいらないって。  でも、遠慮するの。でぶのくせに細かい神経してるみたい。  それで、そのあと一階の自動販売機に牛乳買いにいって、休憩室に三年のやつらがいたから、 「ああ見えても吉田さんもたいへんなんですねえ。家が貧乏で」  って言ったら、みんな顔を見合わせて、笑うの。  この話、有名なんだって。吉田さんのたったひとつ言える冗談。貧しくて、満足に食べさせてもらえない。  本当は、だいぶ金持ちらしい。だけど、あの腹で言われると信じちゃうよねえ。  今日は、また、見直しちゃった。吉田さん、嘘つけるじゃないの。  でもね、実際、家は嫌いなんだろう。帰ろうとしないんだし。それぞれいろいろある。  ま、そんなわけで、夏休み。      32  冷たい3・6協同組合牛乳は、大きめのグラスに、たっぷんたっぷんしている。  ぼくは、食塩無添加トマトジュースかミルクを愛飲している。炭酸飲料や甘いジュースは飲まない。スポーツドリンクもあまり好きじゃない。  生協のトマトジュースは、200mlあたり、30キロカロリー。たんぱく質が1・4g、カリウムが520mg、ナトリウムは4mg、ビタミンCは一日の必要量の61%がとれる。  特にトマトジュースの偉いところは、カリウムが多いところだと思う。神経の興奮の伝導はナトリウムとカリウムのバランスで成り立っている。ナトリウムは食塩として食事で摂取しすぎるくらいとれるから、積極的にカリウムをとるのはいいこと。  八〇〇メートルを走りながら、瞬間に緩急をつけなきゃいけないときに、脳からの指令が筋肉に届くのが遅れたら、レースでは命とりになりかねない。  だから、朝、起きたら必ずトマトジュース。そして、のどの渇いたいまは、ミルク。  芝生の庭に面した窓は開け放たれ、時折レースのカーテンが大きく舞い上がっていた。のぞくのは雲ひとつない青空だ。  午前十一時。暑がりの父親がいるときを除いて、うちではめったにエアコンを使わない。窓さえ開けていれば、海からの強い風が部屋中を吹き抜ける。時には涼しすぎて閉めにいくこともあるくらい。  階段を降りてくる足音は妹の。いま起きたのだ。半分眠っている不規則な足どりでバス・ルームに向かう。  夏休みで大切なのは、規則正しい生活をすることです。  なんて言うと、小学生が一学期の終わりにもらう注意事項みたい。けれども、これはランナーとしては本当に大事。  毎日学校へ行っていれば、いやおうなしに起きる時間とかは決まってくる。それが夏休みになって不規則な生活になると、てきめんに練習にひびいてくるわけ。だるくて走る気がしなくなったり、設定した本来は可能なペース、たとえば四〇〇メートルを60秒で六本とかいうのがキープできなくなる。  だいたい、一週間練習を休むと、それを取り戻すには二週間はかかるって言われてる。それくらい、スポーツにとっては持続が必要で、コンディションを狂わせるとリカヴァリーがたいへん。もちろん、だらだらトレーニングすればいいっていうんじゃなくて、休養は休養で積極的にとる。週に二日は休む。ただし計画的にね。  さて、陸上競技は基本的には春と秋がシーズンになっている。高校生の場合は学校との都合で夏に全国大会がある。前にも言ったけど、ぼくは南関東ブロックの決勝が限界だったから今年は残念ながら全国には出られない。それで、夏期は次の公式戦である秋の新人戦を一応の短期目標とした練習になる。  ここで重要なのは、その練習に対する考え方だと思う。夏の日中の30度を越えるようなときに強度の大きいトレーニングをするのは、どう見たってばかげてるでしょう? 丸刈りの野球部じゃあるまいし、炎天下でLSDなんてしたらね。  あ、LSDっていうのは、Long Slow Distanceのこと。時間を決めて、ゆっくりと走る。たとえば60分間の持続走とか。文字通り本当にトリップしちゃうよ、真夏にこんなことしたら。  夏は午前中の早い時間とか夕方に、短時間にやるべきことをやればいい、というのがぼくの考え。LSDみたいなのは、精神主義でやるんじゃなければ、冬の錬成期には週に一回ぐらいならしてもいいって思ってる。実はそのへんで今から少し気にしているのは、駅伝のことだ。  ぼくはやっぱり短距離から抜けきれていないのかなあ、ロードレースはやる気になれない。アスファルトやコンクリートの上で試合するなんてね。きっちり規格の定まった第一種陸上競技場の、ラバーやウレタンで成型された全天候トラックで一秒の一〇〇分の一まで争いたい。  それに駅伝に出るとなると、そのための練習がはいってきて、オフ・シーズンがほとんどなくなってしまう。二年の春に好スタートを切りたいものね。ぼくは、あくまで四〇〇、八〇〇を専門のスピード練習に重点をもっていくつもりでいる。  長距離の選手はいまでも人数的には足りてて、でも、三キロや五キロの区間なら、ぼくが走った方が速いっていうことになってしまって、圧力がかかる可能性は充分にある。相原さんだって駅伝に出てたし、そのときに断りきれるかなあ。  というような先の心配もあるのだけれど、ともかく、ぼくは夏休みになっても七時起床を守り、海岸の七キロを春休みと同じように朝練習として続けている。  妹にはそんなぼくの生活が修行僧のように見えるらしい。 「ついでに町内会のラジオ体操も参加したら」  なんて言う。 「うーん。あれは無駄な動作が多いし、ストレッチングが不十分だから嫌だな」  と答えて、ぼくは具体的に関節と筋肉の動きを説明した。  妹は半分ぐらいまで聞いてから、 「降参」  と頭を下げた。  あっ、妹だ。  食堂のテーブルに向かってすわってるぼくの背後に、妹の立つ気配がする。黙ったまま、肩越しに腕を伸ばし、グラスをつかむ。  シャンプーのかおり。ぼくの背に押しつけられた妹のからだには、バス・タオルもバス・ローブもないのではないか、と突然にぼくは気づく。妹の髪から垂れた水滴が、ひんやりとぼくのTシャツににじむ。  風が海のにおいを運んできた。  ぼくにからだをくっつけるようにして、おそらくは裸の妹は、喉《のど》をこくこくと音をさせ、ぼくの白いミルクを飲み込んでいる。      33  学校の前のバス停には、俺と同じように大きな荷物の高校生が三人いた。二人は顔と名前は知ってて、ほとんど話したことはない。もうひとりは、全然知らないけど、黒いバッグが見るからに野球部。その上にすわりこんでる。  夏休みで家に帰れるわけでしょ。それも、普通の四十日間ぐらいを全部ってわけじゃなくて、部によって違ってもせいぜい合わせて三週間ぐらい。それなら、みんなもっと嬉《うれ》しそうにしてたっていいじゃないの、うきうきして。  でも、そうでもないのよね。なんでなんだろ。俺がそう感じるだけなのかな。  バス通りは、ほこりっぽかった。何日も雨が降ってない。俺の高校は市のはずれにある。グラウンドのスペースがいるんで十年ぐらい前に中心部から移転したんだって。朝なんかには、寮で歯をみがいていると山がくっきりと見えて、なんていう田舎に来ちゃったのかって思ったね、最初は。  バスはそっちの、山の方から来る。なかなか来ないんだけども。  四人で黙ったまま、ただバスの来る方向を見てて、俺、なんか、気が滅入ってきちゃった。こいつらも、俺も、いまに吉田さんみたいに、家に帰るより寮に残ってたくなるのかもね。  それが尾を引いたのかねえ、バスに揺られ電車に乗り換えて家に着いて、ちょっと、もうひとつの気分。  おふくろは単純に喜んでくれてるみたい、俺が夏休みで帰ってきたことで。こういうのって本当にありがたいよね。俺を待ってくれているひとがいるっていうのは。  で、夕飯食って、そのあと遅く帰ってきた親父と少ししゃべって寝た。  そしたらさ、夜中に目がさめてしまって、ああ、寮ででぶの吉田さんといるんじゃなくて、これからしばらくは、うちなんだなって、思った。少したってだけど。  変な話だよねえ。俺、高校に入ってまだ三か月程度でしょ。でも、なんか、家が自分のいる場所じゃない気がするの。俺の部屋は、もとのままだった。ま、当然。いままでだって試合のない週末はもどってたんだから。  朝になって、もっと、それがわかったね。この日は練習なし。完全休養なわけ。学校行かなくていいとなったら、俺、何していいのかわかんない。することがない。  それで中学のバスケット部で一緒だったやつに電話した。なんか懐かしいじゃない、久し振りで。  で、二軒かけていないんで、それ以上続ける気がなくなった。はっきし言って、みんな俺の子分みたいなやつらだったのよ、いままでは。俺が声かけりゃすぐに出て来るような。  それがさ、高校行って、それぞれの生活、っていうのも大袈裟《おおげさ》だな、新しいことやってんだろうねえ。あ、就職したやつもいるけど。  いま伊田は走ってるはずだし、電話の前でつまんねえなあって思って、それで思いついて、小川の家にかけた。覚えてる? 妹はバレー部の和美で姉ちゃんが広美ね。どっちが出てもいいやって思って。俺、両方ともずっと会ってないの。  そしたら、母親が出て、このひと昼間働いてたはずなんだけど、今日は家にいて、それで、和美のこと訊《き》いたら、バイトしてるって。俺、元気な仲のいい友だちの感じで話してたら、場所も教えてくれた。  マクドナルドとかじゃなくて、喫茶店ていうのが小川らしいわね、なんとなく。それで出かけてみたら、暗い感じの小さい店。外からは全然見えない。ドア開けて、テーブルがテレビ画面になってないんで良かった。だって、そうなってたら、もろ、賭《か》けポーカーの店じゃない。  いらっしゃいませって声がして、小川と目があったから、よう、って言って、俺、奥の方の席に行った。  小川は最初ちょっと驚いた顔してたね。で、俺の前に水とおしぼり置いて、立ってる。 「レスカ」  俺、とっても愛想よく言ってあげてるのに、すぐに、ぷい、っていなくなっちゃう。なんなのよ。  俺の他には、客は、アタッシュケースのセールスマンふうのふたり連れ。それに、頭がボケちまったみたいな、たぶん近所に住んでるじいさんがひとり。どうみたって忙しい店じゃない。  レモンスカッシュ運んできたときに、 「元気?」  って訊いたら、 「うん」  それだけ。 「高校おもしろい?」 「全然」  それで、また、ひっこもうとする。奥を気にしてんの。振り返ってわかっちゃった。中で作ってる男、髪の毛脱色したやつが、カウンター越しにこっちじーっと見てる。こいつとデキてるってわけね。  ふーん。  ま、いいや、どうでも。わざわざ、がんばるほどの女でもないわな。  俺、雑誌のラックからマンガ取ってきた。開いたら、ピラフのメシがはさまってつぶれてんの。印刷のインクがメシの粒について青く染まってんのを、俺、ずっとながめてた。  外はバッチリ日が照ってた。影もないくらいの真昼。  このレスカ飲み終わって、店出たら、何しよう?      34  ぼくには、したいことがいっぱいある、のかなあ?  八〇〇メートルを速く走るためのトレーニングがしたい。一日中ソファに横になって、SFだとかミステリーだとかを読んでいたい。学校がある時にはできないことだ。  新聞だって読みたい。テレビは、まあ、陸上競技の中継があれば必ず見るし、スポーツは基本的に好き。解説がうるさいんで、野球はあまり見ない。  音楽も聞きたい。割合といろんなジャンル。  もちろん、泳ぎにも行く。  ほら、山口が角を曲がってやってくる。昔風のストローハットに大きなサングラスが似合っている。  玄関に立ったまま、今日最初のキス。  山口は舌をからめてくる。それにぼくが応《こた》えようとすると、唇をとがらせるようにして、ぼくを押し返し、小さい声で、 「だめ」  と言う。  うちの家族のことを気にしているのだ。妹しかいないよ。  はおっている大きめのシャツの裾《すそ》の方から両手を入れて、ぼくは山口を抱き締める。ちょっとすべすべした、弾力のある水着が、ぴったりと山口のからだをおおっている。  ドタドタという音がして、山口は今度は本気でぼくの手から逃れようとする。階段を降りる音だ。可能性は一〇〇%、妹。  じゃーん、と言って最後の一段を両足をそろえて跳ねて降りたぼくの妹は、海の仕度をしている。昨日、山口からかかってきた電話を聞いてたのか。透明なバッグにはタオルとサンオイルまで入ってる。  ぼくは山口と顔を見合わせる。  しょうがない。  今朝、妹はがんばって早起きまでした。ぼくたちは午前中の海が好きだから、十時半出発。  うちを出て駆け降りたら、そこはすぐに海岸だ。  夏休みだね。      35  で、自分の家にいて、どこか居心地が悪かった。親父やおふくろやたまにしかいない兄貴や安さんや、その他うちにいるひとたちみんなが、こんなに短い間に変わるはずがないから、ま、変わったのは俺の方なんだろうね。  でも、そんなふうに簡単に人間て変わっていくようなもんなんだろうか、だいたい。  小川のバイト先行ってから、中学のころのやつらと会う気もしなくなった。なんか、顔を思い浮かべるとさ、昔に話してたこととか、やってたこととかが出てくるでしょ?  ひと晩中コンビニの前でしゃがんで、なんか、くっちゃべってたとかさ。そしたらちょっと恥ずかしい感じで会う気になれない。前はガキっぽかった、っていうような単純なことでもないんだろうけど。  だから、強化合宿が始まったときは嬉《うれ》しかったね。  メンバーは県内から選ばれた有望な一、二年の陸上選手。もちろん、俺なんてまっさきに選ばれる。いや、八〇〇メートルは俺の前に広瀬だったろうけど、この合宿でランキングを逆転する予定。  なによりも、伊田だって参加するの。たった四日間だけど、同じとこに泊まるんだからこうなりゃ修学旅行みたいなもんよ。  それがね、立派な設備なの。どこがって、県のスポーツセンター。トラックに大きな体育館、ホテルとまではいかなくても高校の寮とは段違いの合宿所。脚が速けりゃ、こういうとこでいい目みられる。ただみたいな金で泊まれるんだから。  ともかく、まず部屋に荷物置いて、ウエアに着替えてホールに集合。  陸連の役員の挨拶《あいさつ》だとか、例のほとんど聞く必要のないのがあって、それで種目別に分かれた。  中・長距離でひとつ。自己紹介なんてかったるいことやるのよ。これから四日間を仲良しで過ごすために。ケッて思うね。要は勝負、勝つのが大事でしょ。  いたいた、広瀬クンの番。  立ち上がって、名前と学校名言う。でも、なんなのよ、こいつ。 「その後は中学高校と幸いに同じ環境に恵まれ、指導者もトラックにも変化なく、移行期を継続性のある練習で乗り切れて……」  お、覚え切れねえ。さっき聞いた役員の挨拶の続きみたい。漢字書き取りでしゃべんなよな。  それもスラスラ、冷静にやる。高校生のくせに、若さがないじゃないの。若さが。  それで今年の目標タイムを言って終わり。しっかし、ヌケヌケと、いい数字言うのよねえ。こいつの場合中学から陸上してるし、五月の県大会で二位にはいってるから、有名人。一目置かれてる感じ。  小さく学校の名前のはいったウォームアップ・スーツ着てるんだけど、センスがよくってね。なんか目立ってる。そこいくと、うちのユニフォームのま緑なんて、リハビリじいさんだぜえ。  俺の番になったから、面倒なことは省略して、目標は高校新記録、って言おうかと思ったけど、笑いとってもしょうがないから、新人戦で優勝しますって言って、すわった。それでも、おーっ、とか声があがって。  俺、燃えてきたね。広瀬なんて目じゃない。車座にすわって、ふくらはぎの筋肉さわりながら、ふつふつ沸いてきた。  みんなに、俺のこと注目させてやろうじゃない。おまえら、知らないんでしょ、本当の俺の実力。見せてあげるからね、じっくりと。      36  ぼくは、他人のことはあまり気にならない。というか、関心がない。  個人主義とかなにか立派なことばで呼ぶようなことじゃなくて、結局、ひとのことはどうでもいいのだと思う。もっと単純にエゴイズムって言ってくれたらいい。  他人に関心を持ったところで、どうせ、その人のことがわかるはずがないっていう気がする。だったら、そんな、ひとを気にすることなんて無駄、っていうか、もともと無意味。  と言っても、まあ、山口の場合は少し別なのかな。それにしたって彼女のことがすべてわかるようになるなんて、到底考えられない。たぶん、わかりたいと思ってはいるんだろうけど。  だからね、合同トレーニングに参加しても、他のランナーのことは基本的にどうでもよかった。  気になるのは自分のからだのことだけだ。自分にとって必要な練習とか、いまの自分がするべきこととか、そんなのしか考えない。開会のミーティングで陸連のコーチが言うように「お互いに励ましあって」とか「切磋琢磨《せつさたくま》」なんて感じにはなれないなあ。  まして、「合宿を機会に友情が芽生え」なんていうのは、なんかわざとらしくて、ばかばかしい話だと思ったし、まだ思ってるんだけど、中沢。  こいつが妙になれなれしくしてくる。あの、中沢焼きとうもろこし龍二。  だいたい、ウォーミング・アップのときから並んで走ろうとしてきた。ストレッチングをしてても視線をバチバチ感じる。  専門が同じ八〇〇メートルだからいつも一緒の組で走ることになるんだけど、あれはやっぱりぼくに対抗心を燃やしてるんだろうなあ。うん、ちょっとおもしろいと言えないこともない。  今日のトレーニングは変形のインタヴァルで、(一〇〇+二〇〇+三〇〇+四〇〇+六〇〇)×二だった。  それをね、一本ごとにいちいち勝とうとするわけ。一回目の二〇〇メートルを走ってみたときに、はっきりわかった。明らかにぼくのことを意識してる。中沢のフォームっていうのは、体型のせい(かなりいかり肩だ)もあるんだけど、肩に力がはいってる感じ。それが、今日、隣で走ってて、ぼくに向かってつっかかってくるみたい。  それで、中沢は、胸ひとつでもぼくより前に出てゴールする。そして、なんか、フンフンッ、と嬉しそうにしている。インタヴァルのジョッグしてるときに振り向いてぼくを見る。その目つきがね。  こういうトレーニングでは順位なんてまったく意味がない。練習というのはそういうものではないのだ。勝つのはレースで、それこそ年に一回勝てば、あるいは一生で一回勝てばそれでいい。そのレースから逆算して設定したタイムで、ぼくたちは練習の距離を走り続ける。  そんなとこで中沢みたいなことしてたら、練習そのものの効果があやしくなる。オーバー・ペースで翌日以降に疲労を残したら、合宿の四日間のトータルの結果が悪くなる。ケガの危険性だって高まる。  ぼくは人前でしゃべるのが苦手だし、そんなことしたくないけど、これだけは、弁論大会に出たって言いたい。  スポーツの練習は、いつでも全力でやればいいというものではない。そういう日本の精神主義っていうのは(前に言ったけど)最低。目的意識がない。ただ、がんばりましょう、新学期の小学生の挨拶みたい。  でも、中沢は絶対に負けるまいって感じで張り合う。  そして、こんなの軽いぜって顔をしている。なんか、場を圧するように見回してね。ひとセット終わって休憩しているときには、それこそ小学生のようにはしゃいで水道の蛇口の下に頭を突っ込んで水を浴びていた。  クーリング・ダウンの原則は、あくまでも徐々にだ。  そんなことも知らないでばかなやつだと思ったけれど、あれは限界まで、もしかしたら熱射病の手前まで自分を追い込んでいるのだろうか。後頭部から首筋を冷やしてる。体温調節中枢の間脳があるあたり。  ぼくはそれまでセーブして、目標タイムの範囲内で走ってたのだけど、最後の六〇〇メートルはついレースしてしまった。全力走。  ぼくが勝った。中沢はぼくを見ないようにしているのだけど、すごく悔しそうだ。  うーん。  これはもしかしたら「切磋琢磨」しているのかな。      37  今日は気合いがはいったね。マジに練習しちゃった。なんか一月分ぐらいは一日でやっちゃった感じ。それで、あんまり疲れてない。充実してんのよね、ジュウジツ。俺さあ、一年中、毎日、ここで走ってたい。  高校のあるとこだっていいかげん田舎だけど、ここはほんとにすごい。山の中でちょっとあたりより低くなったところだから、もう、全部が緑に囲まれてるの。トラックの脇で順番待ってると、その山の方から涼しい風がすうーっと吹いてきて、それでね、俺は走り出す。ビューンって。  うちのあたりの街中っていうのは、アスファルトで埋めつくされてるでしょ。それで偶然残ったようなちっぽけな公園は、夏はなんか白っちゃけてるっていうか、ほこりっぽくて、セミがぎゃんぎゃん鳴いて頭痛くなるくらいうるさい。それが、ここだってセミがいないわけじゃないんだろうけど、静かなのね。山が音を吸い込んじゃってるのかもしれない。  短距離のチームの方でピストルがパーンって鳴って、一度だけ小さくこだまして、そのあとは、またシーン。いいね、これは。スタンドの日陰で昼寝してたって。  でもね、寝てなんていられないのよ。何ていったって、ハードルのところには伊田がいるんだから。  最高。  彼女にみっともないとこ見せられないでしょ。自然、めっちゃ気合いがはいってくる。  でもねえ、伊田はもうひとつ元気がないような気がするんだけど。表情でわかるじゃない。もしかしたらあの日なのかしら、とか、ふざけたこと言いたいから、俺、これから会いにいくの。  案外、この合宿は忙しいのよね。走ってウェートしたら他にすることないんだろうって思ってたら、しっかり勉強させられて。陸上競技の歴史だとか運動生理学だとか。そんなに退屈なもんでもない。ふだん走ってることと関係してるから、高校で古文してるのとは違ってる。  でも、これから夜のフリー・タイム。  当然、こうこなくっちゃ。      38  中沢と隣の席でランチを食べた。  ミートボールが四つと魚のフライにコールスローが添えてある。別にトマトとレタス、ピーマンにかいわれのサラダ。ひじきとあげとにんじんの煮物。御飯と味噌汁《みそしる》に牛乳。  ここの昼食は、少しは栄養は考えているみたいだけれど、おいしいかと言われたらどうかなあ。なんか久し振りの学校給食の感じ。  味なんかに興味ないみたいで、中沢はすごい勢いで食事をする。とにかく早い。中沢が食べ終わってつま楊枝《ようじ》をくわえたときには、ぼくはまだ半分以上残っていた。  そしたら、伊田さんがお盆を持ってやってきた。女子の一〇〇メートル・ハードルのひと。  何も言わずに、ぼくたちの向かいにすわった。他にも席はすいてるみたいだったけど。箸《はし》を割りながら、強くウェーブをかけて横に流した髪の下から、ちらっと中沢とぼくを見る。  伊田さんは中学のころから注目されていた。そのころはハードルはやってなくて、スプリンターとして速かった。  この前の南関東ブロック大会のときに県の結団式があったり、同じバスに乗ったりしたけど、まあ、ぼくのことは覚えてないだろうなあ。  急に、中沢が、 「今から食事?」  って、あんまり当たり前のことを訊《き》いた。ランチのお盆取ってきて、割り箸割って、もう味噌汁を口に含んでいて、食事をしないひとはいない。  あんまり当たり前だと思ったらしく、伊田さんは完全に無視した。返事もしないし、うなずきもしない。  それにも全然めげないで、中沢は、 「今日は昨日よりも暑いね」  と、夏休み学習帳のお天気欄みたいなことを言う。  声も大きくなった。そりゃあ、ぼくと隣にいて話してたときよりも、伊田さんは向かいにすわってるから遠いといえばいえるけど、食堂中に響きわたるような声。  そわそわしてる感じなんだけど、中沢は知り合いなのかなあ。いや、こいつなら初対面でも誰とでも話せるんだろう。  だって、ぼくと初めて話したときが、焼きとうもろこし。      39  元気ないのよねえ、ほんとに、伊田ったら。昨日の夜もそうだったし。  彼女の場合は、強化合宿っていうよりは、調整。もうすぐインターハイだから。練習のメニューも、ハードルのグループ内でひとりだけ違ってるらしい。  他にもさ、インターハイに出られるやつは何人かいるけど、彼女の場合は、去年もう全国で入賞してるでしょ。なんか雰囲気が女王様なのよ。  最初のミーティングでも、わざわざ前に呼ばれて紹介されてね、彼女の技術を盗むようにって。だめよ、勝手に盗んじゃ。彼女は俺のものなんだから。  で、だらだら話してたの。昼飯の間。俺はもう食い終わってたんだけど、伊田がメシ食うの待ってて。高校と違って午後の練習が始まるまでは、たっぷり時間がある。  そしたら、突然、広瀬がしゃべりだすじゃないの。俺、こいつがいたこと忘れてたね。 「あの、昨日、たまたま見たんですけど、振り上げ足が流れてません? 南関東ブロックのときと比べて。ぼくは専門外だから、見当違いのことを言ってるかもしれないけど」  伊田は広瀬の方を見た。べつに驚いてるふうでもない。 「足を振り上げるとき、もっと、膝《ひざ》からまっすぐ行くべきなんじゃないかな。それで、こんなことも気づいてるだろうけど、着地の位置がちょっと前に出てしまってて、えーと、こんな感じかな」  広瀬は、テーブルに楊枝並べて説明する。だめじゃないの、伊田のこと見てたら。自分の練習に集中しなさいよ。  それに変なやつ。だって、俺だったら、あのからだ抱き締めたいな、とか思ってわくわくして見るのに、ハードルから何センチ先にスパイクが着いたか注目してるの。こいつ、変態。  伊田は魚のフライを口にくわえたまま聞いてる。 「だから、結局、イメージとしては、こころもちたたきつけるようにして、つまさきから振り上げ足を降ろしたらいいんじゃないのかなあ」  もお、広瀬ったら生意気。伊田に向かってフォームの指導するなんて。だいたい、フォームなんて、どうでもいいのよ。  アメリカの大リーグの選手なんて見てごらんよ、めちゃくちゃじゃないの。それで打てるし速い球投げられるんだから。野球よりベースボールの勝ち。  たぶん野球するやつ以上に、陸上のやつらってせこいね。フォーム、フォームって、うるさい。要はパワーよ。速く走りさえすればいいんだから。ねえ、伊田さん。  広瀬は、しゃべり終わって、ちょっと変な顔してた。恥ずかしそうにしてるのか、それとも言ったことを後悔してるのか、よくわからないけど。  それで、俺がしゃべって、なんか広瀬のこと冷やかして、伊田はちょっと笑ったりしながらメシ食ってた。  で、食い終わると、 「あんた、ありがと。やってみるよ」  って言って、広瀬に向かって微笑んだ。  いい笑顔なの。もう、たまらないね。      40  ぼくはひとと一緒にいるのがあまり好きではない。人間嫌いというほど大袈裟《おおげさ》なことではないと思う。でも、ある程度の時間をひとといると、なんかすぐに疲れてしまう。  窓の外では、小さなざわめき。あちこちの部屋でのおしゃべりなんかが響いているのだろうか。合宿の夜を楽しむ。  ぼくは窓枠に手をつき身を乗り出して、スポーツセンターの敷地を越えた向こうの真の闇、森の中を思う。静かに渡る風が木々の葉を揺らし、小動物たちが夜を眠る森。  下に見える窓の明かりとかざわめきよりも、ぼくはあの闇の中に親しみを感じる。  小さいころはそんなに孤独癖みたいなものは持っていなかったような気がするけど、それもあやしい。ぼくは記憶なんて信じない。それは、現在の自分が好ましいように作りあげた、ひとつの物語の気がする。まず、何よりも、前にも言ったように、ぼくという人間の連続性を信じてないんだし。  ともかく、ぼくはいま、合宿に飽きていた。同室の短距離走者はべつにいやな人間じゃないけれど、もう、口をききたいとは思わない。ひとりになりたい。  まあ、それも今晩までだ。明日の午前中で合宿は終わりだ。そうしたら家に帰れる。自分ひとりの部屋に。  だから、ぼくはドアがノックされ、振り返って中沢が立っていたときには、少しうんざりした。三日間、一緒に走って、何回も食事をしていたのだ。このうえ、いったい何をしようっていうんだ?  でも、中沢はとても元気。 「散歩しに行こうぜえ、今晩が最後だろ?」  って。  ぼくが断る可能性なんて全然考えてない感じ。とても楽しそうにしている。  そして中沢が笑っているのを見てると、まあ、いいかって思ってくるのは、なぜなんだろう?  この男には、基本的にひとを魅きつけるところがある。ぼくみたいな憂鬱《ゆううつ》症タイプの人間には、まったくない要素だ。中沢が誘うんなら、外に行ってもかまわないか、という気にさせる。  けれど、ホールへ続く階段を降りていって驚いた。  ごちゃごちゃと電話が並んでいたり掲示板があったりしているところの反対側、コンクリート打ち放しの、何の飾り気もない大きな壁。そこにもたれているひとがいた。  夜とはいえ夏なのだけれど、きちんとウォームアップ・スーツの上下を着て、両手をポケットにいれて、軽く片足を曲げていた。  中沢は片手を上げて合図する。  伊田さんだった。  彼女は、ぼくたち、ぼくと中沢のことをよく見もせずに、背中を向けて歩き出した。合宿所の建物を出て、ぼくたちは彼女についていく。  外は涼しかった。月が雲の間から出てくるところ。  部屋にこもってなんていなくてよかった、とぼくはすぐに思った。夏の夜に外にいること(しかもスポーツセンターは山の中につくられているのだ)、それはなんて気持ちのよいことなのだろう。  三人で黙って歩いた。いつもはおしゃべりの中沢も静かだった。他の高校生たちから離れて、ぼくたちは共犯者のように静かに。  そう、その勘は正しかったことが、すぐにも証明された。 「ここで、いいや」  と言うと、中沢は、小道の脇のフェンスに飛びついた。  黙って、伊田さんも。  彼女の身長より高いのに、両手でからだを引き上げ、足をかけて簡単に乗り越える。不思議なことではない。一〇〇メートル・ハードルの全国大会での優勝候補なんだから。  何をする気なのかわからなかったけど、ぼくも続いた。  飛び降りた中は、もちろん、陸上競技場だ。      41  なぜ八〇〇メートルを始めたのかっていえば、それは陸上競技場のせいだ、と俺は前に話したね。雨上がりの日の芝生の匂いがしていた。  でも、今は夜遅く、俺たち三人しかいないスタジアム。  三人?  困ったもんだぜ。伊田とふたりだけだったら、どんなによかったかって思うね。俺がさ、散歩に行って競技場に忍び込もうって、伊田を誘ったら、広瀬のこと呼べって言うんだもの。なーによ、それ。  ハードルのことで話があるんだって。ここで拒否できるほど、俺、まだ伊田に対して強く出られないの。  それでも、夜の陸上競技場はすごかった。  きっと、三人ともそう感じてたんだと思う。フェンスを乗り越えて階段のぼって、スタンドのてっぺんに出た。しばらくね、競技場の中、見下ろして、そこで立っていた。  どうってことはないのよ。これまで、三日間、ここで走ってたんだから。どっちかっていったら、見慣れた場所。  はるか下の、すり鉢の底に四〇〇メートル・トラックがあるだけでしょ。  でもね、だれもいないの。  昼間と違ってね。選手もコーチも観客もいない。人の声がしない。もともと、あたりは山ばっかだから、メッチャ静か。風が吹いてる音だけが聞こえる。  ポツンポツンと離れて、ところどころに暗い明かりがついてて、そのあたりだけトラックのコースを示す白線がぼんやりと浮かんで見えていた。  階段になったスタンドを降りてって、観客席から下に飛び降りた。それで、一〇〇メートルのスタート地点に立ったら、ゴールは闇の中だった。  あの、何も見えないゴールめざして、いままで、たくさんのランナーが走ってったんだなって思った。そして、これからもね。  俺が、そんな柄にもないこと考えてたら、広瀬は、ひざまずいて両手をトラックにつけていた。ゴム製のトラックの温度を確かめるみたいに、じっと長く。  俺と伊田が後ろで見てるのに気づいたのかな、広瀬はその姿勢から倒立をすると、数歩手で歩き、直立したところで数秒しっかりと止め、からだを丸めて見事な前転をしてくれた。  俺は、伊田と広瀬をうながして、予定通り、バック・ストレートの方に歩いていった。水のはいってない三〇〇〇障害の水濠《すいごう》の脇を通り、第三コーナーから直線にかけてのところで柵《さく》を乗り越えた。  ホーム・ストレートは階段の観客席になっているけど、ここは芝生の斜面。  俺、絶対にここで横になるのが気持ちいいって、昼間から目をつけていたの。もちろん、伊田とふたりの場合よ、とっても気持ちいいのは。  なるべく照明から遠い、ひとから見つからないところで寝た。伊田が真ん中。俺と広瀬が外側。  これって、川の字じゃないの。  あーあ。      42  ぼくのからだは、機械だ。  それは、外からの刺激に自動的に反応するだけだ。ピストルの音を感知し、瞬時に筋肉を収縮させ、スタートをきる。風、気温、ペース配分、他のランナーの実力と現在の全体の位置どり、自分の筋肉の状態、すべてを計算し、からだの動きを制御する。  ぼくは、だれよりも優秀な機械でいたい。  だれよりも速く八〇〇メートルを走りたい。だから、ぼくは自分がひとときの感情に支配されるようなセンチメンタルな人間からは、ほど遠いと思っていた。  というか、感情だとか、意思、気持ち、なんてものをぼくは信じていないのだと思う。そんなものは何かの都合であとでつけられた説明のようなものなのだ。そんなものを気にしてみたところで、実態はないのだ。  結局、ぼくという機械がうまく作動していくために、それらが阻害要因にならない限り、ぼくは感情と呼ぶようなものには関心がない。べつに、かまわないよ、あったってなくたって。  けれど、さっき陸上競技場のトラックに降りたときの気分は、何と言ったらいいのだろう。  ばかばかしい話だけれど、もし神がいるのだとしたら、ぼくの神は陸上競技場に宿っているのだと思う。夜のトラック、ぼくは合成ゴムとウレタンでできた走路に触れずにはいられなかった。無数のスパイクが突きささり、その反力を利用してランナーが走るところのオール・ウェザーの走路。  砂漠でひれふすイスラムの人々のように、あるいは聖なる川の水を愛するインドの人たちのように、ぼくはトラックに這《は》いつくばり、触れた。  埋め込まれたウレタンのチップでできた表面のでこぼこが、ぼくの両手に伝わる。人工的に一様に着色された硬くて柔らかい走路。  ぼくが、ヘレン・ケラーだったら、ウォーターじゃなくて、トラックって叫んでいただろう。  いま芝生に横になっていて、ぼくは自分があまりに幸福なんで、驚いている。  それは、ただ、この場所にいられることだけで味わえる幸せなのだ。競技場を渡る風、シャツの背中にちくちくする芝の刺激。なんだかわからないけれど、夏の匂い。  ぼくは、このまま、自分がスタジアムに溶け込んで、消えていってしまいそうな気がした。そうなって欲しいと思う、もし、この世からぼくが消滅しなければならないときが来たなら。  救急病院の病室の窓の下、コンクリートにふたつのマンホールの蓋《ふた》が切られていた。ぼくが見たときには、そこには、何の痕跡《こんせき》もなかった。相原さんの体液は、すべて洗い流されていたのだろうか。  隣で急にごそごそいう音がして、ぼくは現実に引き戻された。ぼくは、ひとりで、闇の底に横たわっているような気がしていたのだ。ぼくたち三人は、フェンスを越えて競技場にはいってから、ほとんど何もしゃべっていなかった。  中沢が起き上がって、バッグの中を探っている。  まず、伊田さんに渡したあと、 「広瀬クンも飲む?」  と小さい声で言って、罐ビールをくれた。  スポーツセンター内にはアルコールの販売機はないはずだし、部屋に冷蔵庫もないのに、どうして冷えたビールが用意できるんだろう?  受け取って、ぼくが不思議そうにしているのがわかったのだろうか。  中沢は、 「いや、食堂のおばちゃんとね、仲よくなったのよね」  と言って、自分の罐をプシュっとさせた。  中沢にビールをもらうのはこれで二度目になるな、と思いながら、ぼくも自分のを開けた。 「振り上げ足ね、うまくいったよ。ありがとう」  伊田さんが、空を見上げたまま言う。  ぼくは、どう返事していいかわからない。  中沢が、 「広瀬クンたら、女の子の脚ばっかり見てるの?」  とか、言ったけれど、伊田さんもぼくも笑わなかった。  中沢にしても、何も言うことがないから口を開いたような熱意のない言い方で、それっきり黙っていた。  ときどき、トラックを見渡し、また、空を見上げ、ぼくたちには、ことばはいらなかった。  中沢が飲み終わったビールの罐を握りつぶす音。  永久に時間が続きそうだった。夜のトラックのバック・ストレートの芝生に横になったまま。 「泳ごうよ」  突然、伊田さんが上半身を起こし、言った。      43  プールは、サブ・トラックの、また向こうにあるの。  立派な50メートル・プール。昼間は一般開放してて、きゃーきゃーいうのが聞こえてたから、俺、初日にちゃんと偵察済みよ。  しかし、こうなってくると、俺たちは、もう、窃盗団の雰囲気だね。フェンスを乗り越え、乗り越え。  だいたい合宿中にビール飲んでたのが見つかったら、それだけで充分に謹慎ものでしょ。  まあ、こういったことには俺は慣れてるし、伊田も動じないってのはわかってる。  ばれても、高校野球とは違うから、伊田のインターハイ出場があぶなくなることはないだろう、ってとこまでは考えてた。俺が無理やり誘ったって言えば、絶対にみんな信じるわね。  けど、広瀬クンはいいのかねえ。優等生がこんなことして。      44  中沢が、 「無理して、つきあわなくたっていいのよ」  と、ぼくに言った。陸上競技場のフェンスを乗り越えてからだ。  でも、ぼくは、 「男子50メートル平泳ぎ、決勝」  と、だけ答えた。  中沢は、 「よっしゃ」  と、変な返事をして、走り出した。  フフッ、と小さく伊田さんが笑った。  伊田さんも走り始めたので、中沢の後を追いかけたのかと思った。でも、10メートルほどで、そこに見えないハードルがあるかのように右脚を振り上げ、両腕で上体のバランスをとり、強く左脚を引き付け、またぎこした。  伊田さんのウォームアップ・スーツの紫が、水銀灯の下で曲がり、伸び、躍動した。  ぼくが追いつくのを待っていて、 「どう? 見てた?」  と、伊田さんは訊《き》いた。 「すごい。完璧《かんぺき》」  伊田さんは、声を立てて笑い、 「わかるはずないよ、いまので」  そう言うと、また、笑う。  ぼくたちは、みんなひどく陽気になっていた。アルコールのせいもあっただろうし、さっきまでいた競技場の雰囲気から解放されたこともあったのだろう。  ぼくが「完璧」と言ったのは、ハードリングのフォームのことではない。伊田さんのことなのだ。彼女のからだは、パーフェクトだった。  素晴らしいスプリンターでありハードラーである伊田さんと並んで、ぼくは、ひとりでずいぶん先まで走っていってしまった中沢を追う。  忍び込んだ夜のプールは水面が静かに揺れていた。コース・ロープは、ついてなかった。  ぼくと中沢は、シャツを脱いですぐに飛び込んだ。水音が響くかな、と思ったけど、ここは合宿所からはだいぶ離れてるし、もう細かいことはどうでもいいような気がしていた。  水は思ったよりも暖かかった。外の気温の方が下がっていたのだろう。  3コースと4コースの台の上にのぼった。うしろに回って伊田さんがスターターをする。 「マジね」  中沢が念を押すので、 「うん」  と、答えた。  台を蹴《け》って飛び込むと、パンツの中に水がブハッという感じではいってきておかしかった。でも、ぼくは真剣に平泳ぎをする。  ランナーは一般的に、よいブレストのスイマーになれると思う。クロールというのは、なんと言っても腕にかかる比重が大きい。投擲《とうてき》以外の陸上選手は、脚の筋肉の発達の方が著しいのだ。  平泳ぎなら、ぼくはたいていの水泳部のやつよりは速くて、クラス対抗の試合では、優勝が争えた。おもに海で泳いでいるせいもある。プールと違って波のある海では、顔の出せる平泳ぎが楽だ。  でも、なによりも、ぼくは八〇〇メートル・ランナーだ。かなりのピッチで水をかいたところで、ぼくの筋肉はそれに耐えられるし、その気になれば、三〇や四〇メートルは息継ぎもいらない。  でも、中沢だってTWO LAP RUNNERだったのだ。同じく酸素負債に耐えるし、こいつの長身はぼくよりも水泳向きの体型と言えるかも知れない。  ぼくはゴールの両手をプールの壁に少し強くついてしまった。手首に軽い痛み。はあはあしながら直立する。  ほぼ、同着だった。 「うえっ」  中沢がプールの中に何か吐いた。 「かなぶん、食っちまった」  水面には確かに、緑と濃い茶色とをした虫が鈍く光り、もがいていた。夜のプールにそれは、とても似合っている気がした。 「うおっ」  本当にうるさいやつだ。  今度はかぶと虫でも食べたのかい、とか冗談を言おうと思って中沢を見ると、壁を背にして動けなくなっている。  その理由はすぐにぼくにもわかった。  ほとんど音も立てず、水しぶきもあげない、きれいなクロールがこちらに向かっていた。水面から突き出される腕は、かなぶんよりも輝いていた。  50メートルを泳ぎ切った伊田さんは、ぼくと中沢の間の壁に片手を伸ばしてタッチし、そのままそこに立つと、濡《ぬ》れた髪をかきあげた。陽に焼けていない胸がくっきりと白いのが、水の中にあってもわかった。彼女は小さなパンティを身につけているだけみたいだった。  ぼくたちは、泳ぎ、水をはねかえし、もぐり、こどものように遊んだ。  プールサイドに上がっては、中沢のバッグに一本だけ残っていたビールを回し飲みした。そんなときも伊田さんは、まったく臆《おく》せずに、彼女のからだをぼくたちの視線にさらしていた。  それは、当然のことだ。隠すのではなく、むしろ誇らしくみせびらかすべきものだ。伊田さんのからだは「完璧」だったのだから。  ときおり雲から出る月が伊田さんの太腿《ふともも》に反射した。彼女の肌はオイルを塗りこめたように黒く輝く。  予想外の展開だった。それは三人ともそうだったに違いない。でも、ぼくたちは、その夜を楽しんだ。  巡回の警備員が近づくのも気づかないくらいに。      45  いやー、まいった。まいった。  あせったね。  何がって、決まってるじゃないの。合宿よ、合宿。  最後の夜に、フェンス乗り越えてはいってプールで泳いでるとこ、ガードマンに見つかっちゃった。俺と、伊田、どういうわけか広瀬もいて三人。  でもね、今回はこの広瀬のおかげで助かったの。  懐中電灯の明かりが見えて何か声がすると思ったら、広瀬は、すぐにフェンスのとこ走ってった。そして、下の道路にいるガードマンに向かって、今晩は、とか挨拶《あいさつ》する。さも、ふつうのことしてるみたいに。  それで、明るくしゃべってガードマンの注意を引きつけてくれてたんで、伊田は服を着られた(ほとんど裸だったのよ。濡れてヘアが完全に透けてたの、広瀬クン気づいてたかしら、もったいない)し、俺はビールの罐を隠せた。  いや、たいしたやつだねえ。  俺と広瀬が、三日間、昼間の陸上の練習でせりあって勝負がつかないから、水泳で決着をつけようとした。レフェリー役として頼んで伊田に来てもらった。とか、ペラペラ。  今度だけは、君のこと認めてあげよう。八〇〇メートルより、ずっと、才能があるじゃないの。  そういうのってさあ、広瀬だったから言えたんだと思うね。こいつの顔って、なんか汚れを知らないおぼっちゃんっていう感じじゃない。思わず信じてあげたくなる。俺じゃ、だめだったね。  ガードマンは、自分もスポーツしてる大学生のバイトで、外部の人間じゃなくて合宿中の高校生だっていうんで、心を許したみたい。一応報告まで、ってことで合宿所に連れてかれたけど、広瀬がそこにいた陸連のおっさんに同じことしゃべって、門限が過ぎてることだけ軽く怒られて、それで済んじゃった。  しかもね、水泳で決着、っていう作り話が受けた。 「で、結局どっちが勝ったの?」  なんて、訊《き》く。 「もちろん、ぼくです」  って、広瀬が威張るから、 「負けてやったんすよ、今日は」  って俺が口はさんだ。  それで、陸連の役員のおっさんは、ガハハハハって、大笑い。太っ腹なとこ見せたいのかね。  まったく、スポーツマンって、チョロイやつが多い。  実は、伊田の髪も濡れてたんだけど、気づいたとしたって、風呂《ふろ》上がりぐらいに思ってたんだろうね。まさか裸(しつこいけど、ホントほとんど裸だったのよ)で泳いでたなんて、想像もできないだろう。  伊田はね、こういうとき、黙ってて威厳があるの。かっこいい。俺はヘラヘラしてたけど。  で、翌日の練習は、しんどかった。  プールではしゃいだ疲れなんだろう。広瀬もそうだったらしい。走り終わって、目が合うと、笑っちゃったぜえ。  閉会のミーティングで、中距離の監督が、前の晩のことを冗談まじりで遠回しに触れた。君たちも切磋琢磨《せつさたくま》するのもいいがほどほどに、だって。  まあ、そんな合宿。      46  夏休みも八月になると、少し間延びした感じになる。夏の喜びが少しずつほどけてゆくよね。  けれど、だからって、ぼくは、そんなことでセンチメンタルになったりはしないよ。  夏だけじゃなくて、秋だって、最初は風だとか虫だとか空だとかが面白くても、だんだんに飽きてくる。結局、人間はある一定の刺激にはすぐに慣れてしまうということ。それだけだ。  ただ、この街がもともと海水浴客のために開けた、言ってみれば夏のために生まれた街だということが、夏を特別な季節にしているということはあるかもしれない。  夏は活気が違う。海の家が建つし、風に運ばれて海水浴場から音楽が聞こえてくる。なんかね、歩いてる人の表情まで変わるみたい。  でも、そういったすべてのことが、ぼくにはどうでもいい。  ぼくは外界の変化に左右されたくない。ひとつの独立したシステム、いや、単純に装置でいたい。外の世界に対して受身になって、影響されてしまうのが厭《いや》なのだ。  それに、本来、そんなことはぼくという装置にとってはありえないことだって思う。  だって、ぼくの外にね、確かに世界はあるけど、そもそも、それは、なんていうのかな、ぼくが考えるように存在しているわけでしょう?  簡単に言っちゃえば、ぼく自身が外界を創り上げてるってこと。  ぼくという装置が自分で判断して、ある、って認めたものだけがぼくにとって意味がある。そういったもののみが、本当に存在する。  たとえばね、ぼくが忘れてしまえば、ぼくが外界にあるものとして認めなければ、山口だって相原さんだって、いなかったことになる。  いや、相原さんの場合は、実際に、もう存在していない。  彼だった部分は、そのへんで二酸化炭素になってたり鉄のサビになってたり、一部は山口の部屋でカルシウムのかたまりになってたりする。  なんか変な話になってきちゃった。  それで、妹は、彼女にとっての外界、文字通りの外の世界に出かけるための準備をしている。シャワーを浴び、化粧をする。  さっきまで母親と口論していたのだ。  海岸沿いのクラブのリニューアル・オープンに、友だちと呼ばれてるんだって。  夜遊びにでようとする娘を、母親は家に繋《つな》ぎ止めておきたい。おそらくは日本中のあちこちで支払われているむなしい努力。  そう、ぼくにとっては、まったくひとごとの言い方しかできないよね。どっちに味方したいわけでもない。  それで結局はいつものように妹が母親を押し切って、ぷんぷんしながら支度をはじめる。当てつけにドアをばたんばたんいわせるのが、ぼくの部屋にも聞こえてくる。  ぼくは机に向かってはいるけれど、何をしているわけでもない。昼間の山口とのことを思い出しているだけだ。  健全な交際をするぼくと山口は、妹とは違って、午前中に会った。  電車に乗って街に出て本屋に行って月刊陸上競技を買い(山口はとてもていねいに雑誌を数冊立ち読みしてから、それとはまったく関係なく最初から決まっていたらしい文庫本をレジにもっていく)、駅の裏手にあるこぢんまりとしたイタリア料理の店で、冷たいスープに、アンチョビーのスパゲッティとフェトチーネ、グリーンサラダをとって半分ずつにした。  濃い色の野菜が少し不足していることは問題だけど、それらは、それだけで楽しいことだ。  けれども、ぼくたちは、あらかじめ定められた時刻、山口の母親が家を出る時刻が近づくと、そわそわと席を立つ。  そして、健全な交際をするぼくと山口は、家族の留守の山口の家に行って、山口の部屋のベッドに横になる。エアコンを強にして。  すでに、ぼくたちは裸になっている。  ぼくは、山口の脚に触れる。山口の小さい足の指、それらをぼくの手が包む。山口は、くすぐったそうに、ピクッと縮む。  足の先から手をすべらせていく。走るためではなく生まれてきた脚、いや、少なくともこれまでそんなには走るために使用されていない脚の柔らかさに、ぼくは驚く。  山口の左脚は、膝《ひざ》から上が太くならない。直線によって構成され、同じ太さのまましばらくのぼって、つけねに到着する。  ぼくは左脚を愛撫《あいぶ》する。何回も。何往復も。  それから、ぼくは山口にかがみこむ。  ぼくは、ぼくの顔を山口のヘアに押しつける。そして完全には閉じられることのない両脚のすきまに舌をのばす。  山口の下腹部が、数回、軽く上下する。山口の両手がぼくの頭をおさえ、そしてそれから指をひろげてぼくの髪をすく。それは、それ以上ぼくが進んでいって山口のからだの中にはいっていってしまうのをとどめているようでもあるし、それを望んで誘っているようでもある。  すきまがひろがる。  ぼくは、山口の股間《こかん》にキスする。海の香りが強くなる。夏の朝の海だ。  ぼくは、山口の、おそらくはクリトリスと呼ばれている部分の包皮を舌でめくる。ぼくは、山口の小陰唇をぼくの唇ではさむ。  山口の小陰唇は左側が大きい。ぼくのキスでそれはふくらみ、厚みを増す。  左右の差は山口の不自由な脚の形状によるためなのだろうか。それとも、妹の耳の話みたいに、相原さんが左だけ吸い続けたせいなのだろうか。  ぼくは、山口の両膝の裏に手をあて、それ以上には拡がらないくらい脚を拡げ、抱え込む。なぜかベッドの上で正座したぼくの前に、山口の下半身がある。拡げた脚の間、陰毛の向こうに眼を閉じた山口の顔が見える。  山口は美しい。ベッドに乱れてひろがっている髪の中の山口の顔は、山口の股間よりも、はるかに美しい。  ぼくは感動して、山口の唇にキスするために、寄り添う。ぼくのからだと山口のからだが、まっすぐになる。  山口の手がぼくに向かってのびる。  ぼくのペニスは小さいままだった。まったく、力をもとうとしない、ぼくのペニス。  ぼくは山口のことを愛していた。それは間違いないはずなのに。  しばらく、そのまま、ふたりとも動かないでいた。  ぼくのペニスから手をはなすと、山口は、黙ったまま、からだを起こした。  横になっているぼくの下腹部に山口の髪がすれるのがわかる。山口のあたたかい息がかかる。  やがて、それは冷たいため息に変わる。  本当に、ぼくは、女の子とは寝ることができないのだろうか。  妹の部屋のドアが開く音がする。  ぼくが自分の部屋のドアを開けると、廊下で妹が振り向く。  妹は、光を反射する、とても小さな、ほとんど実用には供さないと思われるバッグを持って立っている。  ぼくは、妹に向かって言う。 「いいかなあ、ぼくも一緒に行って」  妹は、驚き、ぼくの顔を見つめる。  そして、歓迎の微笑みを浮かべる。      47  シューズ買いに行ってたのよ、俺は。  スパイクじゃなくて、アップやジョッグのときにはくやつ。ウエアなんかはさ、ま、どうでもいいようなもんだけど、靴は少しはちゃんとしてないとね。  実際、毎日みたいに走ってると、すぐに底がヘタってくる。新しいの買うと、クッションが全然違うんで気持ちがいいの。  もちろん、俺ぐらい速くなったら、道具なんてあまり関係ないけどね。  うるさいやつがいんのよ、陸上部には。遅いくせに、シューズだとかウエアだとか、そんなもんにばっか気がいってんの。  ランバードのニューモデルがすごくいいとか、スパイクのピンがプラスチックになると金属に比べてあーだとかこーだとか、いっつも、そんな話。おまえら、表出て裸足で勝負しようぜ、って言いたくなる。  夕方になってもムアーって暑い日だった。  で、街を歩いてる女の子たちが肩や背中出してたりするでしょ。そういうの見ると、オーって思ったりして、俺、たまってんのかしら。  シューズ買い終わって、エスカレーターに乗ろうとしてたの。  声かけられちゃった。 「お久し振り」  って。  何よ、このおばちゃん。あの、色がだんだん薄くなるサングラスして、髪をキンキンに染めてる。  俺、変な顔してたのかな、おばちゃんは、サングラスを上にあげた。  なーんだ、広美じゃないの。なんか下着みたいな服着てて、ここは明るいスポーツのための店なんだぜ。全然似合わない。 「何してんの?」  って、思わず訊《き》いちゃった。 「買い物に決まってるでしょ。水着よお、水着」  威張ってんの。  ハワイ行くんだって、お店のママたちと。いいわねえ。  で、俺、その水着選びにつきあうことになった。  地下の売り場。  女の子の水着がドーンって並んでて、なんか、すごい。シーズンとしてはさ、もう盛りを越えた感じじゃない。だって、八月にはいってるんだから。  でも、案外、客はいるのね。ハンガーにかかった水着、からだにあてて鏡に映したりしてんの。それ見たら、伊田のこと思い出しちゃった。俺、学校の体育の時間以外に泳いだのって、あの合宿しかないんだから。  一緒にハワイ行きたいねえ、伊田さん。  広美は、まず自分で目つけたやつ、ふたつ試着してみるって。  でもね、それが、ちゃんとした試着室じゃないの。季節ごとの特別な会場だからなのかな。カーテンの中で着替えるやつ。  それって、下の方がかなりあいてて、足の先が見える。着替えてる子が、いま、どんなかっこうしてるのか想像できて、これ、なかなかいい仕組ね。  広美に会ったのは、たしかに久し振り。  伊田の追っかけしだしてから、電話で話もしてなかった。俺って、そういうとこあったのね。知らなかった。いままでだったら、わりとマメにいろんな子に声かけてたのに、そんなひとりの女の子に一生懸命になるなんて。  それで、広美がカーテン小さく開けて、手出して呼ぶの。  だから、俺がそばに行ったら、いきなり俺の頭つかんでカーテンの中にいれる。何すんだよって思ったけど、 「どう? ちょっと、どんくさい感じじゃない?」  ふつうだったら、こういうのは派手すぎるっていうぜ。腰骨まで切れ上がってるじゃないの。  広美のからだって、肉がたっぷりついてて、尻《しり》なんかちょっと垂れてて、なんかすごくいやらしい。  で、 「そうかもね」  って、適当に返事したら、 「こっち、着てみる」  って。  で、俺、また引き下がった。  店の人はふたりにまかせとこうって考えてんのか、出てこない。俺、からだでかくて昔から年とって見えるけど、広美のボーイフレンドっていうのは、あんまりだぜえ。  また、手が出るんでカーテンの間に顔突っ込んだら、ふたつ目はビキニ。豹《ひよう》の毛皮みたいな柄で、下の方はVみたいな形してんの。 「どうかな?」  広美ったら、そう言いながら、そのVを引っ張り上げる。横から毛がはみでちゃった。  くるっと回って後ろ姿までサービスしてくれんだけど、ほとんど、ふんどし。尻が全部見える。 「もっと、すかしたのないの、ここ?」  お尻振って文句いう。  あのね、この店はスポーツのグッズなのよ、もともと。      48  海岸沿いには、最近いろいろな店が増えてきていた。  増えてる、っていうのは、ぼくが引越してきたころと比べての話。だから、この六年間ぐらい。  数だけじゃなくて、前はサーフ・ショップみたいな小さいのが多くて、どっちかっていうと素朴な、海に直結してた感じだったのが、このごろは大型のレストランというかディスコというかクラブというか、そんなタイプが増えてきた。  で、妹と行ったのも、そういう店のひとつ。夏の途中で改装したあとのパーティ。  妹に言わせると、 「ふつうは簡単にははいれないのよ」  って、自慢するようなことらしい。  でも、うちから歩いて行ける距離にあって、ぼくは毎朝その前の砂浜を走ってるんだけど。それに、この前までは、つぶれちゃったラーメン屋の横の空地だったって印象。  ぼくがたいした反応を示さなかったせいか、 「お兄ちゃんが行ったって言ったら、きっと、斎藤君たち、うらやましがるわよ」  妹はバッグを振り回す。  斎藤がどう思ってもいいんだけど、ぼくの場合、たとえば代々木の国立競技場のトラックに内緒で入れてくれて、八〇〇メートルのタイムトライアルをしてもいいよって言われたら、それはそれは嬉《うれ》しい。  似てはいないのかなあ。  それで、パーティは、盛況と言えるんだろう。DJがしゃべって音楽がかかって挨拶《あいさつ》があってゲームがあって、暗くなったり明るくなったり。  ぼくは、妹の友だちというのに紹介されるのに結構忙しくしていた。店に来てる男は、ほぼみんなぼくより年上で大学生みたいなのが多かったけど、女の子は妹と同じぐらいの子や高校生も。  楽しいかって訊かれたら、楽しいのかな。  ぼくは単なる装置、店内のアンプやスピーカーと同じだから、感情は持たないことにしている。店の中を眺めているだけだ。  そしたら、後ろから腕をつかまれた。  山口だった。 「来るんだったら、最初から一緒に来たかったのに」  山口は、ぼくの腕をつかんだまま。いつもと違って見えるのは化粧が濃いせいなのだろうか。それとも少し酔っている? 「うん。そうだね。いまは夜は走ってないし」  なんか変な返事をしてしまったのは、ぼくもバーボンのソーダ割のせいだ、というわけではない。夕方、別れたときが、山口の家から出てくるときが、どうも、もうひとつだったからだ。  山口はタバコに火をつける。  強く吸い込んでから、また、ぼくの腕をつかむ。  ぼくは、タバコを吸う山口を見るのは初めてだな、と考える。  昼間、いつもぼくと会っているときと、山口はずいぶん違って見えた。それが、ぼくを驚かせる。  けれど、踊っている山口は美しかった。歩いているときのように脚が不自由なのを感じさせない動き。  ぼくは山口を見ているのが好きなのだと思う。パーティに何人女の子がいるのか知らないけれど、踊っている山口よりきれいな子はいない。妹が聞いたら怒るかな。  山口は妹どころではなかった。やたら知り合いがいるようで、ぼくもいろんな男や女に話しかけられて、顔を覚えようという努力をとっくに放棄していた。  そう、ぼくは楽しかったのかもしれない。  パーティが終わらないのを願っていたことに、その時間がきてから気づいたのだから。  妹は友だちと一緒に岬の方でもう一軒行くと言い、たぶんは紹介されただれかの車に乗った。 「お母さんによろしくね」  妹は手を振る。  駐車場が急に静かになった。  ぼくは、山口と砂浜に降りた。  波が砕けるところでは、夜光虫が光を放っていた。沖からきた波が盛り上がり、ひと息にくずれると、帯状に緑の光が走る。ぼくは、あの海の温度を知っている。  夜の海は意外に暖かいのだ。夜光虫の光に包まれたときの記憶。  山口はぼくの手を握る。強く握る。  立ち止まったぼくに、背後から抱きつく。 「ねえ、もう一回試してみよう?」  山口がささやく。      49  熱いの。これは暖かいなんてもんじゃない。  何がって、広美のからだの中に決まってるじゃないの。俺のナニがやけどしちゃうかと思った。  スポーツ用品の店出てね、水着選びにつきあったお礼にメシおごってくれるって広美が言うから歩いてたんだけど、すぐにホテルはいっちゃった。  だって試着でさんざん裸見せられちゃって、俺、興奮してたんだもの。 「あたしたちって、運命的よね。偶然、出会う星のもとに生まれてきてる」  俺がキスしたら、そんなこと口ばしる。  よしてよ、同じ街に住んでるだけじゃない。  で、広美が先にシャワー浴びて、それで俺も浴びて出てきたら、広美ったら、また水着を着てるの。例の豹《ひよう》の模様のビキニ。  壁一面の鏡に映して、ポーズとってる。 「こっちのでよかったかな」  とか。  それで、かがんでビールをひと口。突き出したお尻《しり》がはみ出てる。  俺、すぐに押し倒しちゃった。  Vの形のやつずり下げて、ムリかなって思ったけど、後ろからそのままつっこんだ。ぜーんぜん、ムリなんかじゃない。もう、熱くて。  これ、広美も店の中から、その気になってたんじゃない? あーっ、あっ、とかでかい声だす。  で、バリバリ変な音がするなって思ったら、ビキニの裏側の股《また》のとこに試着用のビニールがついてて、動くとこすれてんの。  これが何人もの女の子のアソコにはりついて(広美みたいに濡《ぬ》れてるのもいたりして)って考えたら、興奮してバコバコして終わっちゃった。  お疲れさん、って、俺、ビール飲んだ。  広美は、ビキニの下のほうを太腿《ふともも》にからませたまま、下半身だけベッドからずり落ちている。肛門《こうもん》まで見せてくたばってるの見てたら、急に、伊田に会いたくなっちゃった。  もったいないんで、もう一発したけど。      50  今朝、練習をサボってしまった。  いや、サボるというような後悔の感覚はない。むしろ、それが不思議だ。走る気がしないから走らなかった。  自然な感じ。何をするわけでもなく部屋にいる。  ぼくという装置。  そのまま高校での午後の本練習にも出ないでいたら、山口から電話があった。わかった。そうしよう。行くよ。  この前とは、別のクラブ。  山口は常連だったらしい。しばらく来てなかったのだけど、と言う。  強い酒。  山口は、自分の吸っていたタバコを、人差し指と中指ではさんで、静かに平行移動させる。ぼくの口に向かって。  ぼくは、山口の指の間にあるタバコをくわえ、吸い込む。  最大酸素摂取量に悪い影響を与えるであろう気体が、ぼくの肺の中へ、肺胞の隅々にまでいきわたる。  一瞬、目の前がクラッとなったぼくに、山口が微笑む。      51  で、暑いったらないの。  字、間違えないでよね。「熱い」じゃないんだから。  ま、夏だから当然よね。でもさあ、合宿で山ん中行って楽な思いしちゃったでしよ。街にいる気がしなくなった。  こうなったら海。単純に。  夏ったら、それっきゃないでしょお。  で、広瀬に電話した。なにせ海水浴場に住んでるっていうんだから、便利なやつ。 「遊びましょ」  って。  なかなか、気がいいぜ。 「すぐに、おいでよ」  って。  だから、伊田も誘った。ハワイじゃなくってもね。  伊田はインターハイで三位になって帰ってきた。いやあ、立派、立派。それで、完全にオフなわけ。  広瀬クンにも友だちの女の子呼ぶように言っといたし、こうでなくっちゃね、夏は。      52  妹は、 「ちょっと、楽しみ」  なんて、昨日の晩から言っていた。  自分も参加するのが当然だと思っている。  今日は朝からペディキュアをなおす中学三年生。  居間のフローリングに新聞の折り込みを広げ、その上に両足を投げ出している。住宅広告の善良そうな親子連れが、妹の形の良いふたつの裸足の下敷きになっている。まっ赤なエナメル。 「お兄ちゃんに友だちができるなんてねえ」  そんな言い方ってないと思うけれどね。  中沢から電話があったとき、すぐにぼくは、泳ぎに行こうって答えた。それはなぜだったのだろう。  友だちがいないわけではもちろんないけれど、たしかにぼくは、あまりつきあいのいい方ではない、っていうのは前から知ってるよね。  not as usual。  でも、そんなことを言い出したら、この前、妹と遊びに出たのだって。走るのをサボってしまっているのだって。  さて、例の命題に逃げ込むことで解決できるのだろうか。ぼくは小さい声でつぶやいてみる。 「ひとの抱く感情やとる行動に、原因、理由なんてない」  妹は顔を上げるけど、聞こえたわけではないらしい。  短く口笛を吹く妹。  ペディキュアを塗り終わったのだ。足をまっすぐ伸ばし、両手を腰のわきの床について乾かしている。なんか新体操のポーズみたいで、バランスがよい。  そういえば小学校のころ、妹は体操教室に通ってた。結構、長い間、楽しそうにやってたよね。  同じ時間にぼくは進学塾に行ってて、母親の車がぐるっと回って迎えにきたりしてた。べつに妹の方がいいとも思わなかったな。  電話。  きっと、中沢からだ。駅に着いたのだろう。      53  やあ、ぶったまげたぜえ。  俺さあ、家の知り合いの仕事の手伝いでこの辺の海の家には来てたけど、それだけだったのね。海岸ぞいの国道に建ってるケンタッキーみたいなとこまでしか知らなかった。  それが、奥がこんなになってたなんてさ。  乗換えの駅で電話しておいたんで、電車降りたら広瀬がホームで待っててくれた。こいつ、試合のときとか合宿所の感じでは愛想悪かったくせに、意外にマメなのね。  手を出して伊田の荷物まで持とうとするの。こういうことが照れずに出来るのって、なんなんだろ。伊田は軽く首振ってことわったけど。  で、 「暑いから、近道しよう」  とか言って、広瀬が前に立って歩き出した。  駅のホームから直接裏山にのぼってくんで、まず、驚いたね。ひとり分の幅しかない狭い階段。それが砂みたいな土みたいなとこに木をあてて作ったやつで、両側は腰ぐらいまで草が生えてる。なんちゅう田舎に来たのかと思ったね。振り返ると、海、だし。  そこを抜けて舗装してある細い道に出た。だらだらした坂になってて両側に家が並んでいる、くっさいなって思って、さすが海の匂いはすごいなって感心してたら、ブロック塀ごしに網が干してあるのが見えるじゃないの。あの、魚とる網よ。  ふーん。  こりゃ、小学校のときの作文。夏休みにおばあちゃんちに行ってきました。おとうさん、おかあさんといっしょに、じゃなくて伊田とだけど。フッフッ。  細い道が突き当たって、崖《がけ》になって行き止まりかと思ったら、また、階段だった。今度はコンクリートに陽が反射してまぶしくて、めちゃくちゃ急。立派な金属の手すりが真ん中についてる。 「ちょっと、たいへんだけど」  って言って、広瀬はのぼってく。  八〇〇メートルのトレーニングには向かないね。ほとんど、登山じゃないの。  休憩するためみたいに広くなったところが途中にあって、そこも越えて階段をのぼり切ると、そこは日本じゃなかった。  いや、ぶったまげたね、ホント。  道の幅が広い。二車線なんだけど、すごくゆったりしてて、車が、もう、ごくたまにしか来ない。歩道もひろい。それで、その歩道にね、椰子《やし》の木なんか植わってんの。なに、このセンス。  建ってる家の一軒一軒の間が、ものすごく離れていた。  空気がきれいで陽射しが強いせいもあるのかな、白っぽい家が多い気がする。それで、道路からはあちこちの庭の芝生。  ふだん物事に動じない感じの伊田も、ちょっと驚いたみたいね。  サンバイザーかぶった女の人がホースで水まいてて、だいぶトシいってるんだろうけど、かっこいいのよ。切れ上がったジョギングパンツにピンクのぴったりした短いタンクトップで、腹出してるの。ブラジャーしてなくて、乳首がプクってしてるのがわかる。  広い道から一本はいったところに広瀬の家があった。  金属の扉の内側に手を入れて鍵《かぎ》を外して、先に中にはいって門を手でおさえたまま、 「どうぞ」  って、広瀬は言った。  なんか、お上品ね。  広瀬の家も、庭はやっぱり青々とした芝生だった。  半地下式になったガレージには二台分のスペースがあって、奥に紺のジェッタが止まってた。もう一台は出かけてるようだった。  広瀬クンちってお金持ちみたいね。  ま、車の話だったら、うちの親父の黒い窓ガラスのベンツには勝てないだろうけど。      54  さて、陸上競技のトレーニングをやめてしまったぼくに、八〇〇メートルを走ること以外に、何があったのかって考えたら、それは、いろいろある。いろんな楽しいことがあるはずだよね。  本を読むことが楽しいし、食事をすること、数学の問題を解くこと。  そう、ホームで海を見ながら電車を待っていて、ぼくは楽しかった。  いい天気だった。  午前中の空っていうのはいいよ。早くも入道雲になろうとする、モクモクした雲のこどもが水平線に見えている。波は穏やか。  それに、引き潮だった。  しばらくはだいじょうぶ。着替えるのにあまり時間をかけさえしなければ、気持ちのいい岩場に案内できる、ってぼくは考えた。  楽しいじゃない?  とても目立つふたり、背の高いふたりが電車から降りてくる。  中沢と伊田さんと歩くぼくは楽しい。  新しくできた「友だち」を家に招いて遊ぶぼくは楽しい。  そうだよね?      55  玄関上がって通された部屋で、思わずドリブルしそうになった。  だだっぴろい板の間なの。でも、バスケットコートみたいにあんなワックスのかかったようなテカテカ光ってるやつじゃなくて、渋い色の床だけど。  広瀬は、 「何か冷たいもの取ってくる」  って言って、いなくなった。  なんかテレビ・ドラマの世界なのよね。  家具が少ない。窓が開けっ放しで、ベランダから陽がまぶしい芝生の庭が見えて、その遠くには海。  うーん、開放的。うちのあたりだったら、窓を開けたら、すぐに隣の家か道路だわね。  壁際のオーディオ・セットだとかさ、絵だとか、庭だとか、俺が歩き回ってキョロキョロしてたら、伊田は変な形したソファに浅く座って、頭の後ろで腕組んでた。かっこいいの。惚《ほ》れなおしちゃう。家具の広告みたいね。  そのソファにしたって、うちのみたいに革張りの黒いやつじゃなくて、紫やピンクがかったぼんやりした柄の布地ので、丸みがあって、へっこんだり出っ張ったりしている。こういうのって何の違いなんだろ。  そんなこと考えてたら、広瀬(お盆持ってんの、お上品!)に続いて女の子がふたりはいってきた。ちょっと背の低い方の子は、なんとオレンジの水着姿なのよ。 「これ、初めて着るから見てもらってたの」  とか広瀬に言ってから、俺たちにあいさつした。  とうもろこし焼いてるときに海岸で会った山口って女の子と、水着の方は妹の奈央ちゃんなんだって。  中学生なのに、わりとおしゃれで大胆なの着てるのよ。前からだとそうでもないんだけど。横向くと布地があまりない。  でも、俺がつい目が離せなくなってても、べつに恥ずかしそうにしてないの。そのままのかっこで、みんなとソファで広瀬の持ってきたグレープフルーツ・ジュースを飲んだ。  はっきりいって、奈央ちゃんは、めっちゃ、かわいい。  顔はね、目のあたりが広瀬とよく似ている。そう思うと、奈央ちゃんが男っぽいのか、それとも広瀬の方が女っぽいのか。  俺、広美のときに、海やプールでならどうってことなくたって、部屋の中に水着の女がいると興奮するって思ったけど、そうでもないのね。ごく自然じゃないの。  それって、奈央ちゃんのせい? それとも、だだっぴろくて明るい部屋のせい?  きっと、俺の心が清くなったせいなんでしょう。 「一緒に連れてくの、迷惑じゃなかったかなあ」  って、広瀬が申し訳なさそうに、俺に言うの。  いいに決まってるじゃないの。  で、もうひとりの、広瀬のガールフレンドの山口っていうのが、なんか変な女なのよ。  ええと、どこがって、自分の家みたいに振る舞うの。態度がでかい。ジュース飲んでる途中でさ、なんかの空き罐取ってきて灰皿代わりにして、タバコ吸い始める。それもね、ほっそいメンソール。  俺はタバコは中学でやめた。陸上選手は肺に悪いことはしない。伊田だって、当然、吸わない。広瀬んちだって家族みんなが吸わないから灰皿が置いてないんでしょ。  ちょっと待ってよ。  アホの教師みたいにタバコ自体がいけないってお説教してんじゃないのよ、もちろん。わけもなく、女は吸うな、とか威張るツッパリ兄ちゃんとも、俺は違う。  でもねえ、なんかその山口のしぐさがさ、わざとらしいのよ。タバコの吸いかたとか、笑いかたとか。  前に見たときは、海岸で広瀬といるとこ見たときは、かわいいって思ったんだけどねえ。  そりゃあね、派手目の顔立ちしてて、長い髪でTシャツと花柄の短いパンツも似合ってる。街ですれちがったら、俺、絶対に振り向く。  でも、なんかさ、いかにも、自分がきれいなの見せつけるみたいに片手で髪をかきあげながら脚組み替えるの。  だから、生意気なんで、俺、じっと見てやったのよ。ジュースのグラスの向こうにいる、意識過剰なやつのことをね。  で、俺、元気なくなってきちゃった。  山口がなんでそんなだったか、わかった気がした。短いパンツから出てる脚がさ、足首は細くて膝《ひざ》の形も悪くなくて(そりゃ、伊田の脚を期待しちゃったらダメよ。世間の平均と比べたら上等の部類)、でもね、そっから上いって、太腿《ふともも》になると違う。  はっきり左の方が細い。  そういえば、最初、海で会ったとき、ちょっと歩くのがガタガタしてたかもしれない。さっきは、奈央ちゃんばっか見てたんで、わかんなかったんだろうけど。  山口はさ、自分の脚の悪いことを早く気づかせるために、わざと俺たちの目の前いったりきたりしたんだよね、たぶん。  俺の小学校にポリオのやつがいて、そいつが、そうだったもん。  なんかね、自分が奇形なのをアピールするようにすんの。脚がだいぶ悪い代わりに腕の筋肉が発達してるから、教室ですぐに逆立ちしたり、グラウンドの鉄棒で懸垂逆上がりとか見せてくれる。鉄棒にはだれかが抱えてやらないと、とびつけないんだけどね。  俺さあ、山口の脚に気づいたときね、そのとたんに、俺が気づいたことを山口に気づかれちゃったと思う。俺って正直だから、急にギコチナクなったはず。  ともかく、俺、こういうやつは、パス。複雑なのは苦手なの。広瀬クンにまかす。  そんなんで、いよいよ海に行くことになった。五人で歩いてね。  玄関出ると晴れた空。風が気持ちいいの。  みんな、水着の上に何かひっかけてるようなかっこなんだけど、奈央ちゃんなんて長めのTシャツだけで、下半身、丸出しじゃないのお。  それで家から外に出られる。  なんなの、このあたりって?  俺の住んでる街だったら、間違いなく、こんなかっこで一歩出た瞬間に押し倒されて強姦《ごうかん》されてるね。  ま、いいわ。さあ、海に行こうぜえ。      56  もちろん、正常か異常かなんてことには何の意味もない。それは、あくまで相対的なものなのだ。  たとえば集団の八割を正常と規定するなら、上下の一割ずつは異常に分類される少数派になる。ほら、生後六か月の赤ちゃんの平均体重なんて話と同じ。ある幅を越えたら、太り過ぎだとかやせ過ぎだとかに無理やりいれられちゃう。  夏休みに連れだって海に泳ぎに行く、一見したところごくノーマルな高校生と中学生のぼくたちも、実は異常者の集団だ。  ぼくの八〇〇メートルを走る速さは、明らかに異常だ。それをいうなら、伊田さんの一〇〇メートル・ハードルはもっと異常だ。全国の高校生で三番目に速いんだから。一割なんてもんじゃなくて、〇・〇一%か〇・〇〇一%か、計算する気にもならないところに属する。  中沢の身長だって(性格も、きっと)、かなり異常に近い。  妹が中学生で化粧をし、酒をのみタバコを吸い、ディスコにいりびたるのは異常の領域のような気がするのだけど、この前の晩、 「今は、みんな、そんなもんよ。お母さんは、高校デビューで遊びまくる、みっともない子になってもらいたいの?」  とか、怒鳴ってたから、よくわからない。  山口の左脚は明白に異常だ。  だから、それには何の意味もない。  そして、ぼくは女の子と寝ることができないのかもしれない。それは相対的に見れば完全に(〇・〇一%や〇・〇〇一%の仲間ってことはない?)異常なことなのだろうけれど、やはり無意味だ。  結局、相対的な比率としてのノーマル/アブノーマルにではなく、ぼく自身のもつ基準だけが、問題なのだ。  ぼくは、走ることにおいて異常な伊田さんとぼくをもちろん受け入れるし、異常なのかもしれない妹と明らかに異常な山口とを受け入れるし、一応、中沢も受け入れる。  それで、ぼくは、女の子と寝ることができないぼくを受け入れられるのだろうか?  単純には、それは、つまらないことだと言える。  日本のロックしか知らないでアイドルを追いかけてて、本当のロックが楽しめないやつみたい。  いまの比喩《ひゆ》は、逆に取り替えたって、ジャズとクラシックにしたって、なんだっていいんだよ。  しかし、そんなにシンプルな話に出来ないのは、相手が存在するからだ。  ぼくは、山口が好きだ、たぶん。それなのに山口と寝ることが出来ない。それが山口を悲しませ、混乱させる。  でも、今日は、ともかくみんなで泳ぎに行く日だ。ぼくたちは、長い時間を海辺で過ごすことができる。  まだまだ、陽は沈まない。  まだ。      57  で、広瀬が連れてってくれたところって、ちょっと変わってた。  海に泳ぎに行くってことになったら、海の家があってスピーカーのついた広告塔が立ってて監視所があって遠浅になってる、砂浜の海水浴場に行っちゃうじゃないの、ふつうは。  それがね、岩場。あんまり人がいない。  大きな岩で平らになってるとこに荷物置いて、上に着てた服をぬぐことになったのよ。それで水着になった伊田のこと見て、奈央ちゃんが、 「わあ」  って言った。  この子、すごく素直ねえ。  ま、それだけ、伊田のね、からだが立派なんだけど。俺なんか、もう、伊田が服脱いだとたんに大きな波がザッパーンて来た感じがしたもの。  伊田の水着はね、えーと、もったいないから、言うのよそうかしら。  黒のね、すごくシンプルなやつなの。こういうのって、よっぽどからだに自信がないと着られないんじゃない? 俺、今年は女の子の水着にくわしいんだから。  いや、奈央ちゃんだってかわいいのよ。例のオレンジ。  それで、 「ちょっと足が痛いかもしれないけど」  って広瀬が言って、海の中はいってく。  たしかにね、海草がぬるぬるして、足ずらすと角のある岩だったりして、かなり歩きにくい。  広瀬は山口のこと、しっかり抱くようにして支えてる。うらやましいねえ。みんなの前で平気なの。まあ、山口の場合は、脚が悪いのはっきりしてるから、できるのよね。  伊田なんて手もつながさせてくれそうにない。ひとりで、沖の方を向いて、ひょいひょい進んでく。  こうなったら奈央ちゃん、どうしてるかと思って振り向いたら、俺、足がすべって倒れちゃった。  膝打って、かなり痛い。  海の中から足を上げて見てみたら、血が流れてはいないんだけど、ぶつけたとこが桃の種みたいないやな色になってて、だんだんじわっと粒になって赤い血がにじんできた。 「だいじょうぶ?」  奈央ちゃんに心配されちゃったぜえ。  ついでに手、引いてもらおうかしら。  ま、そんなふうにしてちょっと苦労して、膝《ひざ》より上だったり腰ぐらいだったりの深さのところ歩いていくと、波が崩れるところを越えた。急に深くなってて、水が冷たい。とっても、きれい。  きもちいいね。  それで、少し泳ぐとね、また浅いところもある。  いつのまにか、海岸からはずいぶん離れてた。  その浅いところは、水が少し暖かくて。  さすが地元の子は違うねえ。こういう海って、外国とかどっかの島に行かなきゃないんだって思ってた。  俺だったら、こんなとこに住んでたら、八〇〇メートルなんてしんどいことやろうって思わないぜ、きっと。  サーファーになっちゃった方が気持ちいいじゃないの。いつだって海の中にいられて。  ねえ。      58  男子50メートル平泳ぎも悪くはないのだけれど、ぼくは海に浮かんでいるのが好きだった。  波が崩れない沖に出て、仰向《あおむ》けになる。両手両足を拡げ、全身の力を抜いて海に身をまかせる。耳が海面の下にはいったり出たりすると、ぼくを取り巻いていた外の世界の音が変化する。  遠くの太平洋から伝わってきた波、地球の重力だとか自転だとか風だとか月の引力だとかで起こされた大きめの波がぼくのからだを上下させる。少しして波が砕ける眠くなるような響きがして、歓声があがる。  ぼくの耳は海の中にはいり、また、世界が遠ざかる。  そう、ぼくは、こうやって、沖でひとりで浮かんで漂っているのが好きだったのだ。でも、今日は違う。  はしゃいでいるのは中沢だ。  山口や妹の声もときおりする。伊田さんもそばにいるのかな。  ゆっくりとからだを回転させ、岸に向かって泳ぎだす。  だれの声の方へ?      59  電車はすいていた。それがなんか寂しい感じ。  伊田も黙ってる。  小学生のころよくあったでしょ。一日中遊んで、もうすぐ家に帰るんだって思うと悲しくなるやつ。あんなふう?  いや、違うね。  疲れてるっていえば、疲れてないわけじゃないけど、それだったら試合やふだんの練習のあとの方がひどい。  JRはさ、千葉行き。東京湾をぐるっと回ってる。どこまで行ったって、汚い海ばかりだぜ。広瀬の家のある相模《さがみ》湾側とは全然違う。  俺の家からは港が近いけど、そこの海なんて油が浮いていて、犬だってはいる気にならない色してるよ。だいたいね、ほとんど岸壁はコンクリートで固められてて、工場があったり高速道路だったりで海に近づくだけでもむずかしい。  俺、実はさ、広瀬のとこの海にいる途中から、ちょっと、イライラしてきてたのよ。だって、こいつらにとっちゃ、当然の、普通の暮らしなんでしょ、今日の一日みたいなのが。  朝起きて、空と海見て、あ、泳ぎにいくのにいい日だ、とか思って、それで家で水着になっちゃって、あまり人に知られてないきれいな水の海岸に行く。  俺なんか、朝起きて、窓開けなくたって、きたねえ小さな川はさんだ向こうのアパートから、こども怒鳴りつけるオバチャンの声だ。  おいおい、べつに俺は、うらやましがってるわけじゃないぜ。いつだって俺は俺。俺よりひとの方がいいなんて思ったことはない。  たださあ、なんなんだって気はするのよ。  俺の言いたいこと、わかってもらえてんのかね。  そうそう、昼飯の話。これ聞いてくれたら、少しは雰囲気がわかる。  もうね、わりと長い間海の中にいたのよ。ちょっと沖に出て、また、もどったり。そしたら、奈央ちゃんが、 「私、おなかすいた」  って。  それ聞いたら、急に腹が減るじゃない。  で、昼飯なんだけど、俺がバイトしてた海の家なんかのいいかげんな、カレーだとかラーメンじゃないの。  海岸からいったん上にあがって、道路を山側に渡る。で、線路を越えてから細い坂道をのぼってく。広瀬んちに行くのとは別の道だけど、似てる。  そうすると、見上げるようなとこに、ちょっとシャレた小さな店があった。屋根はしぶい赤、壁は白のペンキで、ところどころはがれてきてる。  道からは、また石の急な階段を上がるんだけど、その手前に水着の方はお断り、って大きく書いてあるの。  だから、 「いいのかよ」  って、俺、広瀬に訊《き》いた。  だって、俺たち、水着も水着、上にはおってるとはいえ、足なんて砂だらけのゴムぞうりなんだぜ。 「たぶん、入れてくれると思うんだけどなあ」  だって。  ドア細く開けてね、山口が、 「あの、五人で、今日こんなかっこなんですけど、いけます?」  って言うの。  それで、テーブルをセットしてもらうまで、外のビーチパラソルの下で待ってた。奈央ちゃんはベンチに座って、そばにつながれてるデカくて毛のふさふさした暑くるしい犬なでたりしてた。  すごく静かなのよね、あたりが。いままで泳いでたところが目の下。遠くまで海が見える。強い風が吹きつけて、気持ちいいの。俺、立ってても眠くなりそうだった。  昼飯にも夜にも時間が半端なせいなのか、はやんないでいつもすいてるのか、いちばん奥に、やけに背筋のピンとしたじいさんとばあさんのカップルがいるだけだった。  ふたりで海見てお茶飲んで、ケーキかなんか食ってた。めったにしゃべんない。おもしろいのかね、あれで。  で、さあ、山口と広瀬でね、メニュー見ながら、店の女の子と相談してんの。 「あたたかいスープは、何かできますか?」  とかね。  俺なんかさ、店に入ったときには食べるもの決まってるじゃないの。  自動ドアが開いたら、 「ニラレバとギョウザ、ラーメン大盛り」  って叫んで、スポーツ紙握って座る。  注文にものすごく時間かけるんで、あきれちゃった。  最初に広瀬に、どんなもの食べたい、って訊かれて、まかせるぜ、って俺が答えて、伊田もうなずいた。  そのせいで、俺たちのせいで気をつかって悩んでんのかと思ったけど、なんか、ふたり見てると、いつものことみたいね。  俺が少しイライラしてるのに気づいたのかなあ、 「あっ、あのヨット、昨日も出てた」  って、奈央ちゃんが窓から指さす。  で、俺が、 「どれ?」  とか言って、伊田もその青い帆のやつ見てしばらく話して、俺、奈央ちゃんのファンになっちゃう。  そのうちに注文が決まった。それをさ、広瀬はていねいにみんなに説明するの。  そして、 「これで、いいかなあ?」  って、なんか自信なさそうに見回す。  なんなんだろうねえ、こいつのこういうところ。  スタジアムなんかじゃ、ものすごく偉そうにしてるんだぜ。食いもんなんて、まあ、だいたいのとこでいいじゃないの、俺はまかせるって言ってんだから。  で、ビール飲んで、野菜のいっぱいはいったスープ、海老《えび》やイカの乗ったサラダがあって、バターライスにハヤシライスの具がかかったみたいなもんを食って、めちゃくちゃうまかった。 「俺、これ、おかわり」  って、そのバターハヤシライスのこと言ったら、 「私も、少し欲しい」  って、山口が、わりと大きな声で言った。  この女、悪くないじゃないの。  それで、みんなで、まだ食べて、幸せになってたら、 「マスターからです」  って、フルーツの盛り合わせが届いた。パイナップルだとかなんだとか。  奈央ちゃんは、 「わあい」  って、すぐに手を出す。  俺、この店、だいぶ高いなって思ったの、その時。だって、フルーツ盛り合わせって、お店のいちばん値ザヤが稼げるもんじゃないの。  で、俺がレシート取った。広瀬が払いたがるの押し切って。だって、今日は広瀬んちにやっかいになってんだから、当然。  広瀬は、 「いつも、ごちそうになってる」  って、なによ。せいぜい罐ビールじゃない。  で、払ってみたら、すごく安い。  なんか俺の思ってたのの半分というか三分の一というか、そんなもん。海の家のビールやラーメンって気い狂うほど高いし、席料とかとるから、あんま変わらないんじゃない?  へえ、って思ったね。あのフルーツって、本当に、最後に出てきた髭《ひげ》はやしたマスターからだったの。  で、まあ、そんなメシ食って、また海行って、今度は砂浜でごろごろしたりして。  陽が傾き出したんで、広瀬の家帰って、交替でシャワー浴びた。  で、俺、まだ、なんかやっぱりイライラしてね。  五人もいたら、わりと時間かかるじゃないの。女は長いし。その待ってる間もね、芝生に水まいたり、髪とかしたりしながら、なんか静かに話してる。ちょっとしたことを、小さな声で。だれもさ、テレビつけようとしたりなんかしない。  うん、そのときはわかんなかったんだけど、電車がだんだん俺の住んでるとこに近づくにつれて、はっきりしてきたね。  そうね、その広瀬たちとの街の違いってことだ、やっぱ、俺が考えてたのは。  いままで広瀬は、あそこでのんびりと暮らしてきたわけじゃない。妹も、あの山口ってのも。あいつらって、なんか腹をたてたりしない感じ。みんな穏やかで。  俺は、人間は、闘って生きるべきだって思ってた。人生はケンカだ。ナメられたら、いかん、って。  でもね、あいつらの街では、腹をたてるまでもなく物事がうまくいっちゃうような、なんかそんな感じがある。そこだよね、違いは。  伊田が、 「今日は、送ってくれなくていいよ」  って、ぼそっと言った。  ふだんなら、しつこくついてくんだけど(女なんて押しの一手だからね)、 「ああ」  って答えて、それで先に俺の駅で降りた。  疲れてたのかね、結局は。  つまんないの。  駅出て、暗くなった公園の中を通った。浮浪者のオッチャンたちが、なんかで車座になってる。  俺、思い出した。  帰りがけ、わざわざ駅まで見送りにきてくれた広瀬が、 「また、来てくれるかな?」  って、最後に、なんか、本当にお願いしてるって感じで、こどもが泣きそうになるみたいな顔してたのは、あれは、なんだったんだろ?      60  高校のグラウンドにいても夏が終わっていくのはわかる。  それは三〇〇メートルを三本走り、トラックの隅でシャツを着替えようとして樹々の間から見上げた空のまぶしい青さだったり、練習から上がるときの意外な夕闇の濃さだったりする。  もうすぐ二学期だ。  また、毎朝同じ時間に同じ電車に乗って通学する日々が始まるのだ。そこに戻ることが出来るのだろうか。なんて平凡でおおげさで感傷的な疑問は、ぼくは感じないよ。  出来るに決まってる。  毎日同じことを繰り返すのは、むしろ楽なくらいだ。することをあらかじめ外から与えておいてくれるんだから。  たぶん、生きてることは、すべてそんなふうな繰り返しの組み合わせで構成されているはずだ。学校だとか会社、あるいは農業。家事だって。  そば屋の仕事なんて、毎日|完璧《かんぺき》に同じ作業だよね。だしをとって麺《めん》をゆでる。そのつど新しい味になったりしたらいけないんだから。  日常からの脱出とかルーティン・ワークがどうのって言うけど、それはあくまでその「日常」の方がしっかりしているからだ。何も決まってなくて、朝起きたところから新しい選択をせまられたりしたら、人は気が狂う。  たしかにこの夏の後半、ぼくはかなり練習を休んでしまった。個人のトレーニングも、陸上部全体での練習も合わせて。  参加してるときもね、みんなが遠くにいた。風邪をひいて熱があるときみたい。  そんな感じのときも多かったし、自分がそこにいないみたいで、ぼんやりとまわりを見まわしていたときもあった。ぼく自身が走っているのに、なんかひとごとのよう。  記録を出すシーズンではないとはいえ、タイムも低調だった。陸上部員たちは、ぼくの体調のことを本当に心配してくれてるようだった。中学一年からの熱心な練習振りを知っているから。  結局、not as usual、っていうやつ。  でもね、校門から駅へと続く道をだらだら歩きながら、ぼくは、これまでのいつもの練習のあととまったく同じだって気がする。陸上部員たちだって、もうぼくに気をつかってたりしない。  夏に何があったのかっていったら、合同トレーニングで中沢や伊田さんと知り合い、そのあと何回か一緒に泳いだ。山口と少し遠くまで出かけたこともあったし、いくつかクラブに行ってみた。  あるいは、何もしていなかった。  夏休みの前と後で、ぼくのどこかが変わったって言える?  八〇〇メートルを走ることに対する熱意っていうか、そればっかりだったのが、ちょっとボルテージが下がってただけのことだよね。  だから、また、ぼくは、もとの生活にもどる。  高校に通い、速く走れるように練習をし、山口に会う。  山口とは結局、寝ていない。「もう一回、試して」いない。  けれど、なりゆきでどうにかなるんだって思う。つまりは、「日常」だ。人生では小説やドラマみたいに、そんなあっと驚くようなことは起こらないのだ。  駅の改札口から少し離れたところに人がいた。壁によりかかっていたのが、ぼくを見て近づく。  ぼくのまわりの陸上部員のことなど、全然、気にもしていないようす。  伊田さんだった。  驚いた。  とっても。      61  いやあ、驚いた。  ここんとこ、たいへんだったんだから。  親父が逮捕された。  明け方の、まだ四時ぐらい。警察のマル暴が乗り込んできた。俺は二学期が近いんで、寮にもどってて家にいなかった。  もちろん、いたってね、何ができるわけでもない。  突然ドアたたかれて、ま、他の組の襲撃なんて起きるような情勢じゃなかったらしいんでみんな寝てた。何ごとだっていうんで飛び起きて、踏み込まれて、即、タイホ。  それが、ひどい話なの。  うちの建物はかなり古くなってて、おれの部屋なんて雨漏りもするし、手狭なんで、前から建て替えなきゃって言ってた。  それが、近所に小さなアパートで、四十年か五十年たったような木造の、ちょっと住む気にならない、空室だらけのやつがあって、そこ買いとって新しいのを建てようってことになった。  さら地にして基礎打ったとこで逮捕。  建築物の確認申請が出ていないって理由。出てないったって、親父は何回も出しに行ってるのよ。それを役所が受け取らないわけ。地上げした土地への暴力団の組事務所進出は認められない、って。  何、言ってんのよ。  二十畳敷の部屋があるのがいけないっていう。「特殊な目的に使用されると思われ、組事務所になるのは明らか」なんだって。  特殊な目的なんて言われたってねえ、ふつうはせいぜい宴会に使うだけなのよ。広くて掃除が疲れるっておふくろがこぼしてるもん、いまの六畳間がみっつ、ふすま取り払うとくっつくやつだって。  それじゃあ、うちの家族に、どこにも住むなって言ってんのと同じじゃない。  親父の知り合いの弁護士は、書類の手続き上の問題で身柄拘束というのは前代未聞、憲法違反の疑いのある不当逮捕だって息巻いてるらしいけど、理屈はいいから、なんとかしてちょうだいよ。  夕刊に載った親父の顔なんて、情けないくらいショボショボしてて、もうトシなんだから。  俺がそのこと知ったのはずいぶんたってからだった。昼飯で食堂行ったら、練習中に寮に電話があったっていう伝言。  それで、家にかけたら、 「ともかく帰ってこい」  って、兄貴。  こういうことって珍しいから、俺も、 「おふくろが急に倒れたそうなんで」  って、嘘ついて帰った。  言わなきゃよかったね、そんなこと。本当におふくろったら、元気ないの。親父のこと愛してたのかしら。  兄貴がわざわざ俺のこと呼んだのも、おふくろのためだった。 「それじゃなきゃ、おまえがいたってしょうがないしな」  って、まあ、そりゃそうだろうけど、そんなにはっきり言わなくたって。  で、バタバタしてたら、夕方になってデモ隊がきたの。  住民運動っていうやつ。  頭のハゲたおっちゃんとか、きつそうなメガネかけたおばちゃんとかが、そろいのタスキして、うちの下でスピーカーで叫ぶ。 「わたしたちの街に、暴力団は認めないぞお」 「暴力団は出ていけえ」  って。  こんどの引越すはずだったとこの、町内会だとかなんだとかのグループらしいんだけど、出てくったって、どこ行ったらいいのよ。家、建てさせてくんないんだから。  だいたい、うちみたいなテキヤがいなくなったら、お祭りは、どうすんだって言いたいね。つまんないでしょ、夜店がなかったら。ひとが集まんないぜ、絶対。  それに、兄貴の「安売り大魔王」で、五個一〇〇円のティッシュも買えなくなっちゃうでしょおが。わかってんのかね。  俺、窓からうるせえって怒鳴って、ションベンでもかけてやりたかったけど、読まれてるのよねえ。 「今日のとこはおとなしくしてろ」  って、前もって兄貴に釘《くぎ》さされてたの。  それで、安さんが代表っていうことで、うやうやしくデモ隊から要求書とかいうのもらってきた。  デモ隊には、市役所の職員や私服の警察官がつきそってる。おまえら、そんなに暇なの?  最後に、また、 「暴力団は出ていけえ」  ってみんなで声合わせて叫んでから、嬉《うれ》しそうに帰ってくんだけど、俺、ちょっと、あきれたね。  テキヤはたしかに品のいいことばっかりしてるはずないけど、反対するにしたって、今日は親父が逮捕された日じゃないの。  武士の情け、っていうやつもないのかねえ。      62  電車に乗ってふた駅の、ターミナルになってるビルのなかの喫茶店。  昼過ぎに電話したら、妹が、今日は練習の日で五時に終わるはず、って教えてくれたっていう。  陸上部の練習というものは、ミーティングがあってうっとうしい話題が出たりしないかぎり、時間に狂いはない。タイムテーブルどおり正確に決められたメニューをこなすこと自体が、むしろ大切な練習なのだ。それは、もちろん伊田さんも知っている。  だからって、うちの高校のそばの駅でぼくを待ってるなんて。  放課後、あのあたりに手紙やプレゼントをにぎりしめた女の子たちがいるのは、バレンタインデーだけでなくよくあることではあるけれど、それは伊田さんにはまったく似合わない。なんかもっと、フリルをひらひらさせてたり制服が重く湿って臭そうな、小太りの女の子たちのすることだ。  そうだ、相原さんを待っている女の子もいたのだ。ぼくが、おそらくは最後に相原さんと走った日、見かけた子が山口だったのかどうか、本人に確認はしていない。  伊田さんはコーヒーを前にして、いつものように、あまりしゃべらない。  もともと、ぼくは伊田さんに電話番号を教えた覚えはないし、ぼくも伊田さんの家のは知らない。合同トレーニングのあとで中沢には言ってたけど。  ということは、妹との間でなのだろう。  山口と妹と伊田さんは、気があってるのかどうか、よくわからない。中沢もふくめて三回か四回、遊んでいる。  実は、ぼくには妹と山口が仲がいいのかさえわかってない。そういうことは、ぼくの判断の領域外にあることだ。  あまり話は続かなかった。  インターハイでのこと。毎日の練習のこと。中沢のこと。妹のこと。他にどんなことがある?  ふたりのコーヒーカップの底が見えてしまったとき、伊田さんは、うすい唇をちょっと斜めにするようにして低い、けれども強い声で言った。 「寝ようか?」  ぼくは自分の耳が信じられなかった。  顔を上げて戸惑っているぼくに、伊田さんは、もう一度、はっきりと言った。その表情には、何の変化もなかった。まるで、コーヒーをもう一杯飲もうか、とでも言ったかのようだった。      63  親父の面会。  おふくろが行くのに、俺もついてけって。ひとりで行くからいいっておふくろは言ってたんだけど、兄貴がすすめるんで従った。  そのへんは後妻なんで気をつかってるみたいね、兄貴に。  ま、親父が留守の間、兄貴の責任は重い。中心になって家と組の両方を支えてかなきゃなんない。うちみたいな小さいとこでは、そんなに人材がいないんだから。  それに比べて、俺なんておふくろのお守り役。弟っていうのは、だらしないねえ。  差し入れ用品の専門の店があって、母親は適当に下着だとかをみつくろった。慣れてんのね、実は。  それで、ひとりしか面会できないから、俺は外の喫茶店で待ってることになった。暗い店でさ、それなのに、そこらじゅうに鉢植え置きまくってる。  まずいだろうと思ったけど、腹へってたからヤキソバ定食たのんじゃったら、やっぱ本当にまずい。ソースと油がびちゃびちゃで、箸《はし》でソバ持ち上げると皿に流れ落ちる。  ああ、いまごろ伊田は何してるのかしら。      64  骨格についている筋肉には、白筋と赤筋のふたつがある。  白筋は速筋ともいわれて瞬発力に関係する。赤筋は遅筋と呼ばれて、白筋のような瞬発力、強い収縮のパワーはないが、持久力がある。  個人が持つその割合は、生まれつき決まってるって説もあるみたいだけど、ぼくは信じていない。特に成長期のランナーは、トレーニングのやり方によって、どちらかが重点的に発達していくことになる。  八〇〇メートルの場合は、無酸素と有酸素の両方の運動があるから、どちらの筋繊維も必要なんだけど、ぼくは主として速筋を鍛える練習をしている。  なぜなら、高いレヴェルで八〇〇をやるには、持久力なんかに頼っていられないからだ。勝負はたいてい最後の直線で決まるのだから、爆発的な瞬発力、スプリントがいる。  トレーニングでは、一〇〇、二〇〇、三〇〇、四〇〇、六〇〇が基本の距離。だいたいはその組み合わせで、これは季節やレースまでの期間でまったく異なってくるのだけど、週に一回ぐらい八〇〇のタイムトライアルをする。それより長いのは、たまに一〇〇〇を走るくらい。  一〇〇メートル・ハードルを専門とする伊田さんの筋肉の断面は、見た目にもはっきりと白いことだろう。遅筋の割合は、おそらく三割を下回っている。  ぼくが触れる伊田さんのふくらはぎ、腿《もも》、そして腹筋や背中。  それらには、まったく無駄がない。皮下脂肪のそぎおとされた、完璧《かんぺき》なまでの肉体。手をすべらせると、ひとつひとつの腱《けん》や筋肉の形がわかるのだ。  ぼくは胸の痛くなるような喜びを感じる。  これは懐かしさと呼ぶべき感情なのかもしれない。ぼくのからだの下にいまあるからだは、あきらかに陸上選手の肉体だった。  伊田さんの身長は一七〇を越えているだろう。ぼくと七、八センチしか違わない気がする。  重なって動いているぼくたちのからだを、カメラの冷たい眼が見つめたなら、それはふたつの非常によく似た物体に映るのではないだろうか。  伊田さんが、ぼくの肩を噛《か》んだ。      65  電話。  スナックであばれてるやつがいるって。うちの縄張りでこういう事件が起きたら、出かけてって解決しなきゃいけない。そのためにふだんから、みかじめ料もらってんだから。  こういうのって、警察はなかなか来てくれないし、店の中壊されたって、弁償の金を取り立ててくれるわけでもない。  だから、うちみたいなとこは裏の警察でもあるし、弁護士でもある。頼りにされてんのよ。  でも、今晩のはちょっとヤバイはず。  どこかの組がいよいよ乗り出してきたんじゃない? 親父は逮捕されるわ、住民運動のデモがテレビのニュースにでるわで、うちが弱体化してる。つぶすならいまがチャンスって見た。  武士の情けがないって? だって、武士じゃなくて、やくざだもん。  で、兄貴が弁護士(表の。親父の件でね)のとこ行ったあと帰ってないんで、安さんが、まだはたちぐらい、うちに来たばかりの人をひとり連れて出向くことになった。  俺も行くって言ったんだけど、全然聞いてくれないの。留守中になにかあったら親父さんにしかられるからって。  安さんが行ってから、俺、しばらくがまんしてたんだけど、気になる。安さんって、どう見たって強そうじゃないもの。  俺だって、相手がプロだったらどうしようもないけど、まあ、ふつうのクラスなら、ねえ。  店で騒いだりするのは、あくまでうちがどう出るか様子見るだけだろうから、一番下っ端のすることでしょ。俺の場合、からだがでかいから、後ろに突っ立ってるだけで少しは違いそうじゃない。  ウジウジ気にしてるくらいなら行動しちまえ、っていうのが、昔からの俺の方針。 「ちょっと、タバコ切らしちゃったから」  って、おふくろに言って家を出た。  止められなかった。  おふくろ、あきらめてんのかなあ。だって、考えてみたらミエミエよね。俺、タバコやめたの、知ってんだから。  もうちょっとマシなことば思いつかないもんかね。  自分でもあきれながら、「亜也子《あやこ》」ってスナックは駅の裏のたしかこの辺で、って探して、なかなかわかんないのよ。ゴチャゴチャしてて。  で、看板の照明が消えてたのね、見つけにくかったのは。あった、って思ってかけつけて、一発、深呼吸をしてから気合い入れてドア開けた。 「いらっしゃい」  カウンターにすわったオッサンに言われた。 「龍二ちゃん、こどもがお酒飲んだらだめよ」  安さん、気持ちよさそうにビール飲んでる。ひとりだけ。うちの組のひとは帰されたのかしら。 「あら、この子、もう大きいわよ」  カウンターのなかの派手な女が口をはさむ。  俺、めちゃくちゃ緊張してて気づかなかった。ここって、例のあいつのバイト先だったんじゃないのお。 「まあ、言うわね。広美、手がはやいんだから。ねえ、そんなに大きいの?」  と、亜也子ママ。 「やあね、そんな意味じゃないの」  ってことで、三人が声をあわせて笑うんだけど、俺、何しに来たのよ。  足から力が抜けちゃって、ボックス席にすわりこんだ。  ママが俺にもビール持って来てくれて、一気に飲んでなんとなく床見たら、汚れてんの。隅には雑巾《ぞうきん》が丸まってんだけど、これ、血をこすったあとだ。奥のテーブルだってなくなってる。こわれてしまって裏に出したんだろう。  安さん、見かけによらず、やっぱ、プロだったのね。  で、俺、また広美のこと送ってく役。 「今日はダメよ。遅くなったら、ママや安さんにバレるから」  って言いながら、からだくっつけてくる。 「あたし、男のひとが闘ってるの見ると燃えちゃうの」  で、ま、俺だって燃えないこともなくて、公園のトイレの裏でしたんだけど、立ったままって、わりとむずかしいじゃないの。  ビデオって嘘ばっかり。      66  それは、とても簡単で、素晴らしいことだった。  ホテルを出てから、それまでとはうって変わってぼくたちは元気になってしまい、夜の街をよくしゃべって、よく歩いた。  あの県のスポーツセンターの夜にもどったみたいだった。あのときは三人でだったけれど。  近くに住んでいて、いつもこんなふうに伊田さんに会える中沢が少しうらやましい気がした。  それで、 「電話して、中沢も呼び出そうか」  って、ぼくは提案した。  ショーウィンドウの前で立ち止まった伊田さんは、ちょっとの間、ぼくの顔を見てから、 「変なやつだね」  と、言った。  でも、ぼくは本当に、あの夜のように、三人で楽しめるような気がしたのだ。なんならホテルのベッドの上でだって?      67  で、寮にもどってきた。  もっと家にいるって言ったのに、兄貴にもおふくろにも、追い帰された。ま、明日から二学期、授業も始まる。  たしかに家にいたって、俺は、ヤキソバ定食か広美とシコシコだわね。  これでまた、でぶの吉田さんとの同棲《どうせい》生活の始まり。  あ、吉田さんのハンマーは、高校総体で全国五位。優勝候補だったんだけど、ちょっと調子が悪かったんだって。  ずいぶんショボショボしてた。 「あっ、あー」  とかね、グラウンドでよくため息ついてたの。からだ全体つかって。  けど、このあとの秋の国体で勝って大学から推薦もらう、って立ち直ったらしい。 「中沢くん、ぼく、がんばる。家が貧乏で学費もらえないから、絶対に特待生になんなきゃ」  先輩、俺、もうそのギャグ知ってますよお。      68  九月。最初の日曜日。  伊田さんに会うと、今度はすぐにホテルへ行った。  時間がなかったわけではない。ふたりとも練習は休みの日だったから。  でも、すぐにベッドに倒れこんで、ぼくたちはトレーニングをしているみたいだった。似てるよね、陸上競技と。  ここでは、マッサージが先になるけど。  八〇〇メートルみたいに、七〇〇を走ってからの激しいラスト・スパートを、ぼくはかける。ぼくたちは全身の速筋を収縮し弛緩《しかん》させ、また収縮させる。  すべての運動が終了して、ぼくたちは息をととのえる。  でも、すぐにからだの位置を変え、動き出す。こんなのって、インタヴァル・トレーニングみたい。  ぼくにとっては八〇〇メートル×四、伊田さんにとっては一〇〇メートル・ハードル×何本かになるのだろうか。  ぼくたちは、完全に死んだ。  シャワーを浴びる気にさえならなかった。  今日は、駅まで、ほとんどしゃべらないで歩いていって別れた。  激しい練習の日のあとみたいに、からだが充実していた。      69  日曜日、午後四時を回った。  今日は練習なし。試合がない日曜は、だいたい休みになってることが多い。そういう時は土曜のトレーニングのあと寮から帰れる。  それで昨日は急いでもどってきたんだけど、べつに何も起きない。ひと晩家にいてお昼も過ぎたら飽きてきちゃった。  で、伊田も練習はないはずだから電話してみたんだけど、いないのよねえ。友だちと遊びに行ってるって。  ここんとこ家がドタバタしてたでしょ。全然会ってないし、声だって、ほとんど聞いてないの。  だって、たとえ俺が何の役にもたたないとしたって、こんな状態で女のとこに電話かけてるわけにはいかない。いまだって、わざわざ外の公衆電話。それもあまりうちに近いとだれかに見られたとき変だから、久し振りに中学の前まで来ちゃった。苦労してんだから。  この前、寮から伊田にかけたときは、つながるにはつながったんだけど、なんか冷たかった。  いや、もともとね、伊田は冷たくって、そこがまたいいんだけど、その時はひどかったのよ、すぐに切りたがってて。変だなって思った。  夏休みの間は、メッチャうまくいってた。広瀬のとこ泳ぎに行ったりして、長い時間一緒にいて、楽しくやってた。ようやく、ちゃんとした俺の彼女って感じになってきてたのにねえ。  ま、いないんならしょうがねえや、家帰ろうかって思って、どぶ川に沿って歩きながら、俺、伊田の家、押しかけることに決めた。  だって、本当に気になるんだもの。昔から、俺、気になることがあったら悩んでないで行動しちまえって方針。あ、言ったばかりね、これ。  で、いったんうちに顔出して、台所にいたおふくろに、 「ダチんとこ行ってくる」  って言った。  そう言ってから、おれ、少しぐずぐずしてた。  たぶん、まだ、迷いがあったのよね。こんな、親父がいないときに女と会うんで家あけるなんて不謹慎。もし、おふくろが妙な顔でもするようならやめようかな、って。  でも、おふくろ、包丁持って俺に背向けたまま、 「ああ、行っといで。龍二はいない方が安心してられるよ。危なくってねえ」  なんてぬかすのよ。  ひっこみがつかないから、 「じゃ、行くぜえ。メシは食ってくるかもしんない」  って出てきて、電車乗った。  家族連れが多くて、ガキがぎゃあぎゃあ騒ぐ。日曜日だもんね。  ドアのとこ立ってんだけど外見たって、ほら、俺、背が高いでしょ。窓から見えるのって線路だとか、その脇の道ばっか。空なんてすごくかがまないとだめ。  で、赤茶けた石っころと線路がダッダッダッて続くの見てて、俺、わかっちゃった。  俺が、おふくろに止めてもらいたいって感じてたのは、家のことじゃなくて、伊田に会いにいくことの方でだったんだって。  ここまで女を追いかけるなんてカッコ悪いこと、中沢龍二の歴史にない。  そう思ったら、情けなくてやめたくなった。このまま電車乗って、多摩《たま》川渡って、渋谷にでも出ようかって。女なんてさあ、自分の方から俺のこと待ってるように仕向けなくっちゃ、ねえ。  でも、伊田って、死んだってそんなしおらしいことするようなやつじゃないわね。なんてったってあの辺の女王様なんだから。  結局、俺、伊田の駅で電車降りてしまった。ドアが開いて、踏み出すときまで迷ってたんだけど。  改札口を出ると、自転車が何台も、ぐちゃぐちゃになってた。駅の壁に向かって投げつけられたようなやつもある。夜に酔っ払いがやって、それを片づけようとするやつもいない。  片づけたって、同じことなんだろうね、どうせ。  立ってるのだって、チェーンが錆《さ》び付いてたり、前カゴがつぶれてたり。どう見たってもう持ち主がいないようなのもある。そのカゴに、コーラの空き罐やワンカップ大関のビンや競馬の予想紙みたいなのが突っ込んである。  相変わらず、きったねえ街だぜ。  俺、伊田のこと何回も送ってて、このあたり、よーく覚えちゃった。例の親衛隊の諸君に会ったって、もう道はバッチリわかる。  表口の方にはパチンコ屋だとか商店もあるんだけど、こっちは裏に当たるから、ちっぽけな飲み屋にラーメン屋があるくらいで、すぐにアパートみたいなのが立ち並んでる。  伊田の家は、そこの細い道を抜けて、いつもトラックが渋滞している道路を越える。  今日は、日曜なんで、少しマシだった。でも、俺は、歩道橋に上ってみた。なんかズルズル時間延ばししてるみたい。  灰色の街が平らに続いてた。二階の物干しに洗濯物がかかってる。ところどころに工場。その先は海になってるはずなのだけれど、ガスタンクの大きな丸いのがふたつ見えるだけだった。      70  家に帰ると、妹がいた。  珍しい。日曜日に遊びに出かけてないなんて。  それに今日は、父親と母親もいた。  ぼく以外の家族三人が、リビングでケーキを食べていたのだ。ぼくも手と顔を洗ってからそれに参加する。これで四人全員がそろうことになる。  ケーキは、ドイツ風。フルーツとナッツがはいってる。きっと、おそろしいほどカロリーが高い。でも、今日、ぼくは、ハード・トレーニングのあとだ。  妹は、 「お兄ちゃん、デートだったの?」  と、ぼくに話しかける。  その口ぶりは、ぼくが山口と会っていたのではないことを知っている様子だ。伊田さんとだったことまで気づいているのかもしれない。 「さあ、どうだろう」  父親と母親は、ぼくの答えに、顔を見合わせて微笑む。  妹とは違って、勉強とスポーツばかりしていた息子にガールフレンドができたことを喜んでいる?      71  伊田の家の向かいに続いてる、例の工場の長いコンクリート塀ね。そこんとこで、待ってた。  塀にはスプレーで、あの、なんとか参上、ってやつが書いてあるんだけど、だいたいは古い。消されもしないし、あんま見るやつもいないんで、書く気がしなくなったんだろうな。その薄くなってるのがなによりも寂しいね。  さっき、駅降りてから電話したら、まだ帰ってないっていうし。さすがに、そう何度もかけられない。とにかく家の近所にいるしかない。  立ってるのも、目立たないとこ。伊田の家から直接見えないくらい離れて。  女を待ち伏せするなんて、本当に中沢龍二も落ちぶれたもんだって思ったけど、不思議にね、そんな厭《いや》じゃないの。伊田にもうすぐ会えるんだって考えると。  こういうのこそ、ヤキが回りに回ったってことなんだろうね。  それで、もうすぐでもなかった。一時間ぐらいは待った。  広い通りから曲がってきたとたん、伊田だってわかった。うす暗くなってたって、シルエットでわかる。絶対にスタイルが違うもの。足音でだってわかるぜえ、っていうのは嘘だけどね。  で、俺も偶然そのあたり通ったみたいに歩いてって、 「よっ、お帰り」  って、元気よく声かけた。  伊田は驚いてた。返事できないの。  俺、近づきながら、 「友だちと遊んできて、楽しかった?」  伊田は、まだ返事しない。そんな驚く?  立ち止まってたのが、歩き出して、 「あんた何してたの」  あの低い声で、俺に訊《き》く。いいねえ。 「犬の散歩。いま犬に逃げられちゃって探してたとこ」  伊田は俺の横、通り過ぎて家の方に行こうとする。それはないじゃない。たしかにつまんない冗談だけど。 「俺、いそがしくてさあ、会いたかったんだぜ」  一緒に横を歩きながら言った。 「あたしは、べつに会いたくなかったわよ」  キツイの。相変わらず。 「おい、ちょっと、どっか行こうぜ」  俺、伊田の腕とった。  伊田はふりほどくようにして、 「帰りたいの」  って強く言う。で、速足で進む。  いくらなんだって変だって、俺、気づいたね。横から伊田の顔みると、なんかキッと前みつめてる。 「少しならいいだろ。な、五分」  俺、伊田の腕、いまと同じところつかんだ。そして、道を曲がるようにうながした。だって、そのまままっすぐ行ったら、すぐに伊田の家だもの。  伊田にしてみたら、近所で騒ぐわけにもいかないってことなのかな、今度は払おうとしない。でも、速足のまま。 「どしたの、いったい」  伊田は黙ってる。いつも冷たいったって、こんなじゃなかったよねえ。 「今日、何してたんだよ。なんか、いやなことあったの? 俺にだったら話せるだろ」  そう言ったら、伊田は急に強く、俺の手をふりほどいた。 「なんだよ、おまえ」  道の真ん中で、ふたりで向かい合って立った。  街灯はうす暗くって、どこかのうちのテレビの青くなったり赤くなったりする光が伊田の顔を照らしてた。  緊張した表情なんだけど、かっこいいの。日に焼けてツヤがある。全然たるんでなくって。ウェーブした短い髪が額から斜めにたれてて、ジャマイカなの。  俺、スタジアムで最初にタオル渡したときのこと思いだしちゃった。四か月ぐらい前のこと。伊田が一〇〇メートル・ハードル一着で帰ってきて、トラックでふたりで見つめあって立ってた。 「聞きたいんなら、教えてあげる。広瀬と寝てきたんだよ」  光だけじゃなくて、テレビの音もガーンって耳に飛び込んできた。  アニメのさ、ものすごく作った声。日曜の夕方だもんね。ガキが見てる。 「満足した? あたし、帰るよ」  伊田は歩き出す。  どうしていいか、わかんなかったね。こういうときっていうか、いつだって、もともと冗談を言うようなやつじゃない。伊田は。  俺、伊田のあと、ついてった。ことばが出ない。なんで、俺とじゃなくて、広瀬なんかと寝るんだよって、頭の中はそればっか。  この目の前のだぜ、伊田のからだを広瀬が抱いたのかと思ったら、頭がくらくらする。し かも、俺とさあ、仲良くつきあってたはずなのに、伊田はなんでそんなひどいことすんのよ。  そりゃあ、俺だって、また広美としたけど、寝てない。立ったままやったって、こんなときでも、どうしてそんなしょうもないこと思いつくの? 「俺、おまえのこと好きなんだぜ」  くっだらねえセリフ。 「あたしだって、気にいってるよ」  伊田は前を向いたまま。 「俺は、すっごく好きなんだぜ」  もっと、くだらねえ。でも、他に言うことない。 「おい」  俺は黙ってる伊田の腕を、また、つかんだ。 「五分たった。帰る」 「ちょっと、待てよ。いくらなんでも、そりゃないだろ。もうちょっと説明してくれよ。広瀬のどこがいいのよ。あいつなら、俺のほうがいいぜえ」  伊田はゆっくりと歩き出した。  俺もついてく。曲がって曲がってしてたんで、変なとこに出てた。金網の内側に、もろ廃墟《はいきよ》って感じのコンクリートの固まり。なんかの工場だったんだろうけど。  やっぱ、俺、この辺の道わかってない。 「広瀬のぼんやりしたところ。何も考えないで育ったところ」  伊田は俺の訊いたことにマジに答えてくれてんだけど、そんなのどこがいいんだよ。考える気にもならない。 「すごく好きなんだぜ。わかってないんだろ」  俺が言うと、伊田の表情が急に変化した。  振り返って、俺のこと、にらみつける。 「わかってたよ。ずっと前からわかってたよ。でも、しょうがないじゃない。あたしはそんなに好きになれないんだから」  俺、フェンスに伊田のこと押し付けた。  伊田は全然抵抗しなかった。だから、かえって、俺、何もできない。 「俺が、生まれてはじめて、こんなに女のこと好きになったの、わかんないんだよ、全然わかってない」  自分で何言ってんのか、いや、何言ってもしょうがないんだ。そのことは頭のどこかではっきりそう思ってるのに、おさえられない。  そのまま、フェンスに伊田のことくっつけて、重なったまま時間がたった。 「しつこいよ」  伊田が耳もとで言った。 「ああ」  俺、それだけ。 「自分だけ、傷ついた気になってんだろ」  もう、返事もできないよ。 「あんただけ好きだ、ったって、相手の気持ち考えたことないの?」  だって、いままでね、俺が誘えばみんな女は喜んでついてきたんだ。俺がさわれば、みんなすぐ濡《ぬ》れたんだ。 「いいやつだけどさ、あたしは、このあたりも、親も、ここにいるあたしも嫌いだって前に言っただろ。あきあきしてんのよ。あんたはあたしと同じじゃない」  両手で握ってるフェンスに力を入れた。指がちぎれたっていいって思った。 「みっともないよ、あんた。中沢らしくない」  伊田が、とても優しく、そう言った。  そうだよな、こんなとき、笑って冗談言って、じゃっ、また、って言うべきだよな。  でも、たぶん、人間はすごくみっともないときがあるんだ。  広瀬と寝てきた伊田のからだ、広瀬の汗と精液がしみこんでるかもしれないからだを俺は抱きしめた。  伊田は力を抜いている。  これが伊田との最初のキス。伊田は人形みたいになってる。  俺って、最低だね。      72  ぼくは考えてばかりいる。  何も考えないでいられたらって、思うことがある。たとえば、中沢みたいに。あいつは本能だけで生きてるように見えるけど、何か考えてるのかなあ?  優秀な機械にとって、内省は必要ではない。  山口から電話があった。 「うちに来ない? だれもいないんだけど」  ぼくは、行くって答えた。わかった。行く。  山口の提案に対して、ぼくは一度も反対したことがないのではないか、と思う。山口がそうしたいんなら、そうしようかって気がしてしまう。わざわざ、よっぽど困るような理由がない限り。  よっぽど困るような理由なんて、ふつう、ない。  二学期になっても、ほぼ毎日、朝の電車は一緒だった。でも、それ以外に会うのは、これが最初。  だから、ぼくは考えてしまう。山口が何を考えているのかを。  ぼくは伊田さんと二回会ったことを山口に言っていない。妹が山口に話しているとは思わないけれど、もちろん確認はしていない。  ぼくは丘をくだって、また別の丘をのぼる。くだってる時には目の前に海が広がっている。その色は夏に比べてどこか黒ずんで、というとふさわしくないな、少なくとも濃くなっている気がする。ときおり沖で白い波が立つ。  丘をのぼる時には、斜面を這《は》い上がるようにして家が続く先、残された緑のラインの上に空がある。こっちは夏よりもずっとすっきりした透明な感じ。  ともかく、ぼくは伊田さんと寝ることができた。  ぼくは、伊田さんと恋愛していたわけではない。伊田さんのことは好きだけれど、少なくとも、山口を好きなように好きなわけではない。でも、ぼくは伊田さんと寝ることができて、山口とはできない。  結局、恋愛と欲望とは、本来、関係がないのだ。  恋愛と欲望との間には、何のつながりもなく、もともと無関係!  こういう考えは、すごく、しっくりする。ぼくの体質に合っている。  ぼくは、本当は、この世の中すべてのものに関係なんて成立しないのではないか、と感じている。すべてのものが、孤立して、相互の関わりなんてなくて、バラバラに、ただ存在している。  それは、人間だって同じ。  本質的に、ぼくたちは無関係に生きている。接触があったって、そんなのは一瞬のことだ。ぼくも、山口も、伊田さんも、中沢も、妹も、みんな、ひとりひとり、無関係に生きている。  山口が、ドアを開けてぼくを迎え入れてくれた。  茶色のざっくりとした長袖《ながそで》のセーターが、そのまま長くなったようなワンピースを着ていた。ウエストは太いベルトで、きゅっとひきしめてある。  ミニの丈だけれど、よく見なければ、左脚が細いのはわからないくらいの長さ。  ぼくはあらためて山口の美しさに驚く。  玄関でなんとなく顔を見合わせて、ぼくたちはどちらからともなくキスをする。セーターが手にここちよい。  それは久し振りのキスだ。この前に山口の部屋で失敗(?)して以来、ぼくは山口に触れることを避けて、というほど大袈裟《おおげさ》ではないんだけど、そんな気になれないでいたから。  そして、その山口の部屋に上がる。そこは、当たり前かもしれないが、ひと月前と、何も変わっていないようだ。  ぼくたちは、どちらからともなくベッドカバーのかかったままのベッドに横になる。それは山口の電話の時点から決定していたことのような気がする。  ぼくは山口のセーターというかワンピースというのかの中に手を入れる。ストッキングをはいていないから、すぐに手は小さな柔らかい下着に触れる。その上から、そしてその中に。  ぼくは山口に重なり、取ってしまった下着と同じように小さく柔らかい山口のからだをぼくのからだで包み込むようにして、キスする。山口がそれに応える。  突然、ぼくは、ぼくのペニスに力がみなぎるのを感じる。  ぼくは急いで裸になり、急いで、また山口の上に乗る。ぼくはセーターを着たままの山口の脚を広げ、その間にぼくのからだを割りこませる。  ぼくは、山口の中に押し入る。  山口は驚いたようにからだをずり上げたけれど、ぼくが両肩を押さえ力をこめるとリラックスする。やがてぼくの胸に顔を埋める。ぼくが動くことで、ぼくの下にいる山口が変化する。裸のぼくは、服を着たままの山口を抱きしめる。  ぼくは、ぼくのからだと一緒になっている山口が好きなのだと思う。それは伊田さんのときとは全く異なっているのかもしれないし、結局は、同じことなのかもしれない。  結論なんてない、まだ。あるいは、永遠に。  ぼくは、からだをはなした。  少ししてから、山口は手をのばし、ぼくの手を握った。  ぼくも握りかえす。  ベルトのところまで、山口のセーターがめくれ上がって、ふたりの汗に濡《ぬ》れた陰毛が見えていた。ぼくはセーターのすそをそっとのばしてから、ベルトをはずし、すそから手を入れ、ブラジャーをしていない山口の胸に触れる。  山口が小さく笑った。順番が変だからかな?  ぼくは山口にキスする。  ぼくたちは幸せだ。  きっと。  しばらく、そのまま横になっていた。  山口はぼくの耳に口をつけ、 「下に行って、何か飲もう」  と、ささやいた。まるでだれかに聞かれるのを恐れているかのように。  いつもと違って、声がかすれていた。  圧倒的な脱力感におそわれていたぼくは、 「うん」  とだけ短く返事する。  山口が、また、ささやく。 「やっぱり、伊田さんのおかげって言うべきなんでしょう?」  赤ワインを飲むことにした。ぼくは、コルクに金属のリムーヴァーを回転させる。  もうビールという季節ではない。スポーツ選手とは考え方の異なる山口は、アルコールを常飲している。家族も黙認している。ぼくよりもはるかに強い。  冷蔵庫からオレンジを出してきた。  山口は、伊田さんがぼくのことをよく見ているのに気づいたのだという。そして、つきあっても私はいいけど、って言った。 「あなたの電話番号書いたメモをあげたの。かまわないってこともないんだけど、伊田さんならいいような気がして」  と、ベッドで説明してくれたのだ。 「なぜ、ぼくが伊田さんと寝たって考えたの?」  ぼくは、すごくことばを選んで質問した。 「そんなの、あなたの態度で、すぐに気がついたわ」  山口は、ぼくの努力を無視して、年表に出てる史実と同じくらい既定のことのように、あっさりと言った。 「あなたは、いつだって考えてることが全部顔に出るのよ。私にはわかる」  ぼくは、ことのなりゆきにあきれていた。  栓が抜けた。  ぼくたちは乾杯する。ぼくたちの初めてのセックスに。さすがに伊田さんに感謝、などとは言わなかったけれど。  運動のあとで、ワインを飲んで、ぼくは早くも酔いが回ってきていた。 「そうそう、奈央ちゃん、いまごろどうしてるかしら? 中沢君とデートでしょ」  それも、まったく知らなかった。ぼくから見たら、妹は、いつものように遊びに出かけただけだ。 「奈央ちゃん、中沢君て優しいし精力ゼツリンっていう感じでスゴソォって言うから、試してみなきゃわかんないわよって言ったの」  ぼくは、ワインをがぶりと飲んだ。  目の前にいる山口を見る。 「あなただけじゃなくて、中沢君にだっていいことがなくっちゃね」  山口は下を向き、ちょっと、けだるげにチーズを切っている。  ぼくは、これまでのすべてが山口によって創られたことのような気がしてきた。朝、海岸で出会ったこと。そして、相原さんのこと。中沢に伊田さん。  あり得ないことだろうけど、山口と相原さんがつきあっていたというのも、もしかしたら嘘なのではないか、とぼくはそのとき初めて考えた。  ぼくは立ち上がって、山口のそばに行き、キスする。  ワインとチーズの香りのキス。  山口はグラスを手にしたまま、顔をあげてそれに応える。ぼくの舌と山口の舌が、すてきになめらかにすべり、からまる。  すべてが、この山口の頭の中で創られている物語に過ぎなくて、ぼくはその登場人物のひとり。  それなら、それでよかった。  ぼくはすべてを受け入れ、肯定する。      73  俺? 俺なら、メッチャ元気よお。全然、心配なんていらないぜえ。  バリバリ走ってんの。毎日。  模範的な陸上競技部員してる。これなら、武田先輩(覚えてる? あの長距離の、五〇〇〇とか一〇〇〇〇メートルとかしてて、なんでだかわからないけどアゴ怪我しちゃった三年)だって、ほめてくれるんじゃないかね。  朝練習して、メシ食って、授業でたっぷり眠って、メシ食って、ガンガン走って、メシ食う。スモウトリみたいな暮らししてんだけど、運動量は多いから腹は出てこないぜ。  そうなんだけど昨日の夜、家に帰ってたら、 「龍二ちゃん、電話」  って、安さん。  階段降りるとニヤニヤして小指立ててる。  で、安さんに投げキス(どうして、いつも安さんとだと、こんなにふざけてんだろ。このひとプロだったのよ)してから受話器を受け取ったんだけど、俺、ドキドキしてた。  伊田ってことはありえないってわかってんだけど、女からかかってきたんなら、やっぱ、期待しちゃう。  だって、あの夜から会ってないし、何の連絡もない。俺から電話して、何しゃべっていいかわかんないし、まさか、また待ち伏せするわけにもいかないだろ。死んだって厭《いや》だ。でも、会いたい。 「ごぶさたしてます。だれだかわかる?」  俺、胸がキューン、ってなっちゃった。わかるに決まってんじゃないの。  いまとなっては、せつない、あの夏の日の思い出よね。青い海。冷たいビール。そして、砂浜に立つ水着の伊田。  全然、そんなきれいなもんじゃねえや。苦しいだけだ。  思いっきり、元気だすことにした。  それで、わざとわからないふりして、 「裕子だな。うん? 智美か。おっ、泰子じゃないの。あれ、恵子かあ。久し振りだなあ、順子お」  って、ひとりで早口でやった。  電話の向こうでキャッキャッ笑ってるのがわかる。よかった、受けて。 「奈央です。広瀬奈央」  まだ、少し笑いが残ってる口調。 「わかってましたよお、当然。俺のこと好きになっちゃって、会いたくてたまんないんでしょうお」  俺、ふざけて言ったのよ。  そしたら、 「うん」  だって。 「へ?」  俺、声が裏返っちゃった。  それで、今日、奈央ちゃんとプリン食べてるわけ。  おーっ、甘い。  しかもね、ただのプリンじゃなくてフルーツとかいっぱいついてて、クレーム・ドなんとかって、覚えられないじゃないの、そんな名前。  外に飾ってあるの見て、これにしようよって奈央ちゃんに言って店にはいったの。それでウエイトレスのお姉ちゃんに、 「あの長い名前のプリンね」 「私、コーヒー」  俺、実は、心配だったのよ。電話切ってから。  奈央ちゃんが会おうっていうのが、広瀬や山口も来るっていう話だったんじゃないかって。  冷静に考えてみれば、それなら広瀬がかけてくるだろうし、ま、そんなはずない。  でもねえ、俺、いま広瀬にだけは会いたくない。  奈央ちゃんは、コーヒーについてきたスプーンいじってる。今日は胸がわりとあいてるシャツの上にジャケット着て、なんか渋いの。秋になったら、大人っぽくしたいのかしら。 「ねえ」  俺に、スプーンつきつける。 「なーに」 「私と寝たいって思わない?」  メロン落とすかと思った。  ベッドに腰かけて、ひとまずビール。  ケーキ屋の奥の喫茶室出てから、奈央ちゃんが先に立って案内してくれた。今日のデート(おいおい、冗談のつもりで昨日はそう言ったんだぜ)は、奈央ちゃんの学校のある駅の前のデパートで待ち合わせた。  あたりは観光地で、寺だとか神社だとかいっぱいあるとこ。べつに、じいさんばあさんじゃないから、そんなのどうでもいいんだけど、散歩するにしたって、うちのあたりよりいいじゃない。 「こっちのホテルの方が清潔だって、友だちが言ってたの」  奈央ちゃんはズンズン歩いてった。俺は、あとからついてく。なんか、変だぜえ。  で、結局は、入ってしまって、いま奈央ちゃんがシャワー浴びてる。あのね、奈央ちゃんは気づいてるのかどうかわかんないんだけど、バスとの間のガラスが透き通ってて、えーと、見ていいものかどうか。  こうなったらビールをガンガン飲んで、酔っちゃうしかないでしょお。  奈央ちゃんが、バス・タオル巻いて出てきた。やっぱ、まともに見られないわね。 「お先にいただきました」  ちょっとお、いくらなんでもそのセリフ、わざとらしくない?  何で覚えたの?  俺、見上げたら、目があった。  見つめあってから、同時にふきだしちゃった。ゲラゲラ笑ってたら、奈央ちゃんのバス・タオルが落ちた。 「おっ」  って俺が言ったら、 「キャ」  って、あわてて拾った。  もう、大人じゃない。立派なからだしてるねえ。  バス・タオルごと抱き締めて、ベッドに横にして、キスした。友だちどうしの軽いやつよ。唇の先が触れるか触れないかみたいな。  奈央ちゃんが、硬くなる。 「おい、また、今度にしようぜ」  奈央ちゃんは、黙ってた。  タオルを両手でしっかり押さえてる。 「うん」  ああ、よかった。  俺、インポになったのかね。いや、立つには立つんだけど、あんま、したくない。もしかしたら本当に伊田以外の女の子に興味持てなくなっちゃったのかもしれない。  で、ふたりで宴会。  カラオケがあったんで、奈央ちゃんの歌、いっぱい聞いた。わりとヘタクソ。  それはいいんだけど、やっぱ、顔が似てるじゃないの、広瀬と。  伊田に会いたい、とっても。      74  妹が帰ってきた。  母親が、まず、出迎えているようだ。いつもの文句を言っている。父親はテレビを見ているのだろう。  ぼくが酔っ払って帰ってきたときには、ふたりとも機嫌がよかった。山口の電話はぼくが自分でとったから、女の子のところに行ってたとは思っていない。陸上部の「男同士のつきあい」だと勘違いして歓迎している。  ぼくは、誤解にまかせておいた。  口実が見つかって出してきた父親のウイスキーに少しだけ付き合ってから、ぼくは眠ってしまった。  下で怒鳴り声が聞こえる。父親が参加したのだろう。  でも、それはすぐに終わった。両親とも怒りを持続することは出来ない。本気でこどもを怒れないのだ。  階段をかけあがる音。  突然、妹がぼくの部屋に飛び込んでくる。上着を椅子にほうり投げ、ベッドにのぼる。  妹のからだが意外に重いのに、ぼくは驚く。  妹は、ぼくにキスする。 「お酒くさーい」  妹は起き上がって、窓を開ける。  寝ているぼくの方を向いて言う。 「お兄ちゃん、しようか。いっしょに、息こらえ」      75  昨日は台風だった。  通り過ぎて、今日は最高のコンディション。空気がピン、ってなってる。神様まで俺に気をつかってくれてるぜえ。  陸上競技場の芝生は青々としちゃって、俺、八〇〇メートルやっててよかったって思う。  新人戦だ。  秋の一番大きなレース。俺の目標は、ズバリ、優勝あるのみ。  だってね、春の七位になった県大会から、三年が抜ける。で、俺より速かった一、二年は、二位の広瀬と六位のやつのふたりだけだから、そいつらに勝ちゃいい。単純なこと。  広瀬には、今朝、サブ・トラックで会った。ジョッグしてるのを見つけた。  俺の方から走ってって、 「よっ、調子どう?」  って言った。  広瀬に先に見つけられて、それで、勝ったっていうような顔されて、そうじゃなくても同情っぽいような顔されて、声かけられたりしたらたまらない。  絶対に、俺から話しかけたいって、何日も前から思ってた。  そしたら、 「まあまあ」  って。  ご立派な答え。  こいつの表情は、そう前と変わっているようには見えない。きっと、何も考えないで育って、ボーッとしてるところがいいんだろう。  俺はすごく速くなってるぜ、今日は見てろよ、とか言ってプレッシャーかけてやろうと思った。  そしたら、先に、 「妹が寂しがってるから、ときどき電話してやってくれないかなあ」  って頼まれちゃった。  やめてよ、その話。力が抜けるじゃない。俺に勝つ自信がないからって卑怯《ひきよう》な手を使ったらいけない。  お兄ちゃんたら、知らないんだ。奈央ちゃんが、俺にせまってること。  奈央ちゃんは、とってもかわいい。でも、なんか手を出す気になれない。会って、また今度って逃げるのもねえ。  俺は、陸上競技に生きるんだぜい。  それでさ、俺は、午前中の予選は、予定通り一位で帰ってきた。広瀬は、当然なんだけど、生意気なことに第一シードで、プログラムの一組の一番に名前が出てた。  で、最後に流しに流して、二着でゴール・イン。なんで、いつも、ああいうレースするんだろう。  いよいよ、決勝。  広瀬との勝負だ。俺、燃えてきた。  サブ・トラックから続くスタジアムの入口、一〇〇メートルのスタート地点のところにはいっていったら、 「龍二」  って、でかい声。  ぶったまげたねえ。  スタンドが、そこだけ野球場みたいな感じなのよ。だって、これまで陸上競技場で大洋ホエールズの帽子かぶったおっさんなんて見たことないもの。  安さんたら、メガホンまで持ってる。  いかついからだで目立ってんのは、兄貴。 「龍二、八百長すんなよ」  おいおい、ひとのこと応援すんのに、用語が間違ってるぜ、用語が。競輪じゃないんだから。  で、さあ、ふたりの間に親父とおふくろがいる。  親父は保釈されて、いまは家にいるんだけど、ずいぶん、ふけこんじゃってる。年とっての取り調べはキツイらしい。  俺が、今度の大会は絶対に優勝だって、いつもより気合い入れてたせいなのかな。みんなで来てくれるなんて、小学校の運動会みたいだけど、嬉《うれ》しかった。とても。  俺、高々と右手を上げて、声援に応えた。  やってやるぜ。 「龍二ちゃん、がんば」  あれあれ、メッチャ通る声。  広美に、亜也子のママも。呼んだの、安さん?  しっかし、ここまで来ると何なんだって思うね。お花見気分で盛り上がってるじゃないの。覚醒剤《かくせいざい》でも打ってんのかよ。 「一番になんなきゃ、デートしたげないよ」  スタンドのあちこちから、 「オーッ」  って、喚声があがって、広美ったら受けてんの。  デートなんか、いいよ。デートなんか。俺は、もう、そういうことはしばらく考えたくもない。  それより、これから、八〇〇メートルだ。      76  晴天だった。  朝、駅で電車を待っていて、水平線に島が見えていた。大きいほうの島は、晴れてさえいればよく見えるのだけど、その脇にある小さいのまでわかるのは、年に数回あるくらいだ。  前日までの強い雨が、空気中の微細なほこりなどを洗い流したのだろう。  風はほとんどなかった。さすがに十月ともなると、晴れていても気温はそんなに上がらない。つまりは絶好のコンディション。  さっき、ロッカールームのそばで伊田さんに出会った。  ぼくがちょっと手をあげて合図すると、伊田さんも手を振って笑顔を見せた。ぼくたちは、二回、思いっきり抱き合ったら、なんかとても仲の良い、ふつうの友だちになってしまった。  わざわざ会うことはないけど、よく電話で陸上の話をする。専門は違ってても、共通の話題は多いから、そういうことは山口と話すよりおもしろい。  ぼくが、ずいぶん前に、また寝ませんかって誘ったら、もう、よくなったんだって。なんだかすごくあやしい言い方だけど、結局、伊田さんは、ぼくのからだを試してみたかっただけってことになるのかな。  ぼくが黙ってしまったので、気をつかってくれたのだろうか。電話の向こうの伊田さんは、だからって、気が向いたらまた会ってセックスしないとも限らない、って言ってくれた。 「そうならないことを願うわ」  山口は、ちょっと唇をとがらせる。 「私、自分が嫉妬《しつと》深いの忘れてたの。悔しいから、私も他の男の子と寝ようっと」  ぼくが、 「べつにかまわないよ」  って答えると、  山口は首をかしげて、 「張りあいがないけど、あなたの性格は、まあ、しかたがないっていうべきなんでしょうね」  と、言った。  しかたがない?  そう、人生でかなりのことは「しかたがない」し、「しかたがない」として受け入れるべきなのだろう。  もしかしたら、相原さんは、それが出来なかったのかもしれない。いや、こんなことは単なる思いつきだ。レース前で神経が高ぶっているだけだ。  もうすぐ、決勝。      77  女子の二〇〇メートルの準決勝が終わるのを待ってたのよ。  ホーム・ストレートの脇で屈伸していたら、俺、ユニフォームの背中をつかまれた。 「あんた、ゼッケンが曲がってる」  安全ピンでとめたやつを、いったん、はずして直してくれてる。  声だけで、もちろん、わかった。  忘れられるはずがない。  まわりの音が全部消えちゃって、俺、背中だけで生きてた。 「しっかり、走るんだよ」  そんなこと言われて、俺、 「ああ」  って返事すんのが、やっとだった。  伊田は、俺の背中を軽くたたいて、いなくなった。あの夜から、はじめて聞いた声。俺は、背中が熱くなってて動けなかった。  スターティング・ブロックかかえたやつが、突っ立ったままの俺の横を歩いてく。  なんか、とっても、悲しかったね。やっぱ。  あの振られた夜よりも悲しかったかもしれない。  だって、このレース、俺と広瀬の一騎打ちなんだぜ、だれが見たって。こんなときに、俺のこと励ますようなこと、なんで言うんだよ。  中沢らしくね、平気で笑って後ろ向いて、腰突き出して、こっちも触ってよ、とか言いたかった。  ホイッスル。  男子八〇〇メートル、決勝。  俺は四コースだ。 「位置について」  スタートラインに足をつけてかまえる。  きょうは勝ちたい。このレースだけは。  伊田のためにっていうのか、広瀬に勝って見返してやりたい、みたいなのとは違う。ただ、俺のために勝ちたい。中沢が中沢でいるために。  ピストルで飛び出した。  とにかく、まず、第二コーナーの終わりの合流点でトップに立つことだ。  俺の場合、他のやつの走りなんて、どうでもいい。しょうもないかけひきなんてしない。最初にトップになって、そのまま一位でゴールを駆け抜ける。  それが中沢の八〇〇メートルだ。      78  ゴールのラインのすぐ近くのスタンドに、妹と山口が陣取っていた。  ぼくは一コース。一番内側からのスタートだ。カーブはきつくなるのだけど、ぼくはこのコースは嫌いではない。他のランナーの動きを見ながら走れるから。  腿《もも》から膝《ひざ》を通ってふくらはぎ。両脚を両手でパンパンとたたく。そして、また、その逆の順番で。いつのまにか身についてしまったスタート前の儀式。  きょうはウォーミング・アップのときから、からだがとても軽かった。このレースに合わせた調整がうまくいったようだ。 「予想は?」  って、昨日、妹が訊《き》くから、 「一着、広瀬。二着が中沢」  って答えた。 「中沢君に負ける可能性はないの?」  妹は、ぼくをからかうように言う。  地区予選で、中沢が相当にいいタイムを出したことは、妹に話してあったのだ。 「90%、ない」  確かにぼくは夏の練習が不十分ではあったけれど、中沢とぼくではそれまでの蓄積、というか、もともとの実力、レヴェルが違う。 「相変わらず、すごい自信」  そう言って、妹は笑った。  でもね、90%勝つってことは、10%負ける可能性があるってこと。これは、なかなかなことだよ。相手にならないくらい自信があるなら、99%って言うよ。  スタートラインにつく。  審判による最後の確認。名前とゼッケン。  四コースの中沢は、ただ背が高いだけでなく、前にくらべてからだが引き締まってきた感じがする。  やっぱり要注意だ。 「位置について」  ぼくは右足のつま先に体重をかける。スパイクのピンが全天候のトラックにひっかかるのがわかる。  ピストル。  ぼくは、なめらかに走り出す。ストライドを大きくとるように心がける。力まないことが大切だ。  他の七人の動きが目にはいってくる。中沢が先行している。ぼくはそれに合わせる。  この八〇〇メートルを確実に優勝しておかなければならなかった。それもできれば最小限の疲労で。  新人戦は、学校対抗の得点の争いの場でもあるのだ。記録よりも順位が目標。ぼくは、他にもまだ四〇〇メートルとマイル、一六〇〇メートル・リレーの三走をする。どちらも、入賞を期待されている。  コーナーを抜けるとコースがオープンになる。  だんだんに内側、ぼくの走っているコースへと他のランナーが寄ってくる。中沢が一番前に出てきた。ぼくは、一瞬に加速してインから中沢を抜き、抑える。  ぼくがトップだ。  作戦どおり。      79  やってくれるじゃないの。  広瀬がものすごく積極的。どうせ、また、チンタラチンタラ走ってて、最後に追いかけてくるんだろうと思ってた。そしたら、最初から俺の前に出てくる。こいつがこんな走り方すんの、初めて見た。  嬉《うれ》しくって、ゾクゾクしてくるね。  やっぱ、レースはこうでなくっちゃ。  バック・ストレートはそのまま。俺は広瀬の後ろにぴったりついて行った。抜こうと思っても抜きにくい。俺がしかけると、広瀬が逃げる。かなり速いペース。  直線の向こうに、でっかい青空が見える。俺が初めて八〇〇メートル走った日と同じだ。まっすぐ、まっすぐ走る。そのまま空に飛んでって、吸い込まれそうだぜ。  だけど、俺、ひとの背中見るのは、厭《いや》だ。  ストレートの終わりで広瀬のスピードが鈍ってきた気がしたから、俺、コーナーでもなんでもいいから抜きにかかった。  もう、ここでふたりの勝負に決まった感じね。三位のやつは、七、八メートルぐらい離れてるんじゃないかな。  そしたら、広瀬が少しだけ、アウトへふくらんできた。俺に抜かせないために、なりふりかまわず走路妨害めいたことまでしようっていうの。  いいねえ。  君に欠けてたのは、そういうファイトなのよ。  レースはケンカだ。      80  中沢は明らかに先行逃げ切り型だ。  ぼくは、ラスト・スパートのスプリントに自信がある。ぼくは、もともと一〇〇メートル・ランナーだったのだ。11秒台の半ばのスピードは、全国の高校生の八〇〇メートル・ランナーでも、おそらく一番速いレヴェルにいる。  だから、ぼくの作戦は、中沢をあまり先行させないことだ。10%の敗北を避けるためには、前半に中沢にいい気持ちで走らせないこと。最後の直線にはいるところで中沢が三メートル以内にいれば、ぼくの優勝だ。  バック・ストレートでトップに立ったぼくは、そのまま中沢をおさえて第四コーナーをぬける。  ホームの直線で中沢が並んでくるけど、まだ抜かせない。肩をくっつけたまま、四〇〇メートル。  そのとき、ぼくは、ぼくのからだに力の生まれてくるのを感じた。ぼくのからだが走りたがっているのを感じた。  不思議なことだ。  中沢に負けずにトップをキープするため、ペースはかなり速かった。酸素負債は、もうかなりのところまでいっているはずだ。それなのに、ぼくは、全然疲れていない。スピードを落とす気がしない。  あらかじめの作戦では、あと一周を告げる鐘がなったところ、第一コーナーで中沢に抜かせて、その後ろをついていくつもりだったのだ。そして、七〇〇メートルまでは、その位置で楽に走る。機を見て、スパート。  完璧《かんぺき》な作戦だ。  だけど、ぼくは抜かれたくなかった。  ぼくは、右|肘《ひじ》を突き出し、寄ってきた中沢を外へ押し出す。      81  なかなか広瀬が抜けなかった。  一周してしまう。  スタンドのアナウンスがガーガー言ってんの。 「大会記録も期待できます。ご声援ください」  とか。  そんなこと、どうでもいい、俺には。広瀬に勝って、一位になることだけが大切なんだ。  鐘。  あと四〇〇。  前へ出ようとする俺を、広瀬は肘で突いてくる。  俺の左腕に痛みがはしる。たいしたもんだ。腹は立たなかったね。コーナリングをしながら、さも、外側の腕が自然に開いたみたいに、当ててくる。審判が間近に見てても、気づかないようなうまいやりかただ。  第二コーナーの出口、俺は、一気にダッシュし、上体をやや突っ込むように前に出した。と、同時に、左腕を伸ばして振り払うようにして広瀬をけんせいし、すぐ内側に切れ込む。  俺がトップだ。  バック・ストレート。広瀬が遅れていくのが背中でわかる。どんどん離れていく。  俺、朝から、忘れよう、忘れようとしてきてた。  この新人戦の会場は、夏の強化合宿をしたあのスタジアムなんだ。伊田が走ってハードル跳んでたとことか、伊田と散歩したところとか、みんな見覚えがある。  当然だよ。あれから、まだ、三か月もたってないんだ。伊田は、あのころ、俺の彼女だったんだぜ。  俺、目がいくのを抑えられなかった。  あのバック・ストレートの終わり、第三コーナーにかけてのトラックの外の芝生で、俺たち、横になってた夜があったよな。伊田と、俺と、広瀬とでだ。  あれは、いい夜だったよな、絶対。これから、どんなことがあったって、それだけは、変わんないよな。  七〇〇メートルを越えた。  気持ちいいぜ。やっぱ、走るっていうのは、一番前を走ることだ。  俺はさ、中沢龍二はさ、これからどんなときだって、全力で、トップで生きてくぜ。  見ててくれよな。      82  アップのときから、調子がよかったのを過信していたのかもしれない。  バックの直線、中沢に抜かれて、急に苦しくなった。限界だ。ぼくのからだが、いまにも止まってしまいそうな気がする。錆《さ》びついた、ぼくという装置。  からだが軽いときは、かえって要注意だと言われていたのを、今になって思い出す。そう、それを教えてくれたのは、相原さんだった。  ぼくは、必死になって、中沢に離されまいとついていく。直線がもうすぐ終わる。六〇〇メートルだ。  学校得点の計算からいったなら、ぼくは単に、ここで二位をキープするべきなのだろう。F1なんかとちがって団体戦を重視する高校生の陸上競技では、一位と二位の得点差は一ポイントしかない。  このあとの四〇〇メートルの決勝と明日の一六〇〇メートル・リレーを考えたなら、ぼくは明らかに体力を温存すべきだ。  しかし、ぼくは、計算ができない。  そんなことは、どうでもいいのだ。  ぼくは、八〇〇メートル・ランナーだ。  この距離を速く走るために練習してきたのだ。いちばん長い短距離、人間にとっていちばん苦しい距離に挑戦するために。  ぼくたちは、相原さんも、中沢も、ぼくも、TWO LAP RUNNERなのだ。  ぼくは、からだがきしんでくるのを感じる。  あと、一〇〇メートル。  ホーム・ストレートに出る。中沢は五メートル、いや四メートル前にいる。それは、ぼくにとっては、いつもの余裕があったなら充分に逆転可能な距離だ。でも、今日は、ここまでが異様に速かったのだ。  中沢は、大きなストライド。力強い。あの一年前、ひどいフォームで市内中学対抗戦に出てきた中沢ではない。  ぼくは、負けるかもしれない、と初めて思った。ぼくよりも、速いやつがここにいる。  しかし。  ぼくは、フォームを整え、ラスト・スパートにはいる。  アゴを引き、腕を強く速く小さめに振る。しかも、リラックスをめざす。  少しずつ、少しずつ、中沢の背中が近づいてくる。ぼくは手と脚が、全身の筋肉が熱く痛み、硬直しそうになるのに耐える。  もうすぐ、あと数秒で八〇〇メートルは終わる。そう、ぼくは、負けるかもしれない。でも、ぼくは、一生八〇〇メートルを走り続けるだろうと思う。これから、死ぬまで。  ほら、前に言ったように、ぼくたちTWO LAP RUNNERは、そういう遺伝子を持って生まれてきてしまった生き物なのだ。  スピーカーの音と観客の声が大きくなり、一瞬、消える。  ぼくは、フィニッシュで胸を突き出す。  横の中沢も突っ込んでいる。ぼくは、そのまま足がもつれて、倒れてしまう。  トラックに、人工的なオール・ウェザーのラバーのトラックに手をつき、ぼくは、なんとか上体だけ、起こす。  直線を走り抜き、止まり、戻って来た中沢と眼が合う。  やはり、ぼくの負けだろうか。  肘《ひじ》や膝《ひざ》が擦《す》れて、出血しているようだ。からだがすべて熱くなっていて、痛みはないのだけれど。  いや、中沢は、とても不安そうにキョロキョロしている。階段状になった審判席を見上げた。  どっちだ?  中沢が近づいてくる。  笑いを浮かべているようにも見える。  ぼくは、まだ起き上がれない。 [#改ページ]  あとがき  八〇〇メートルという種目に、関心はおありでしたでしょうか。  物語のなかで広瀬君も言ってますように、日本では陸上競技というと、マラソンや駅伝がポピュラーです。でも、もともとスポーツとしての陸上の歴史が長く、日本とは比較にならないくらい人気があるヨーロッパのようなところでは、八〇〇や一五〇〇が注目を集める。  特に八〇〇は、速いスピードで走りながら、駆け引きしたり、走路妨害したり、時には相手を突きとばしたりするんで、「走る格闘技」と呼ばれ愛されています。これは、そのトラックを二周する八〇〇メートルという特別な距離にのみ情熱を傾ける、TWO LAP RUNNERSをめぐるお話。  私が知る最強のTWO LAP RUNNERは、神奈川県立|秦野《はだの》高校時代の石井隆士さんです。  そのころ、私は湘南《しようなん》高校に入学して八〇〇をはじめたばかりでした。忘れもしない小田原の陸上競技場、男子八〇〇メートル決勝。スタジアムはすでに陽もかげり、で、私はといえば、とっくに予選落ちしていた。  中学のときはバスケットボール部だったのに市の大会で入賞したとか、駅伝では区間賞とったとかいう私の自慢が、高校では全然通用しないの。ふてくされて早く帰りたいとか思いながら、スタンドやトラックの隅の方でダラダラしている情けない一年生だったのですよ。  そんな県大会の決勝で、三年の石井隆士さんが走るのを見たとき、こんな速い人間がいるのが信じられなかった。トラックを二周する八〇〇メートルが、中距離というより「いちばん長い短距離」だと実感できました。  その後の石井隆士さんは、一五〇〇メートルの方で日本新を出し、いまも保持されています。では現在の八〇〇メートルの日本記録はというと、小野友誠さん。長い間破られなかった森本葵さんの記録を一秒以上更新する快挙。  実は、私は、直接にお会いしてサインまでもらっているのです。法政大学のグラウンドで、「どうです、一緒にジョッグしませんか」と小野友誠さんに誘われたときには、震えてしまいました。『800』書いててよかったって思った。  もうひとつ、よかったのは映画。廣木隆一監督。松岡俊介さん、野村祐人さん、袴田吉彦さんたちが演じてくれました。  私もわざわざ泊まりがけでロケに参加、行きずりの海水浴客の役。二場面もやったのに、試写会で見たらすべてカットされていた。  廣木監督、英断です。松岡くんたちと一緒に映ってる自分は見ない方が、私の健康のためにもよかったのでしょう。   二〇〇二年、初夏 [#地付き]川 島  誠   本書は、一九九二年三月に、マガジンハウスより刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『800』平成14年6月25日初版発行          平成15年5月25日7版発行