[#表紙(表紙.jpg)] NR(ノーリターン) 川島 誠 [#改ページ]     0  どこかで音がしてた。  かすかな響き。ブーン、ブーンと、低く、絶え間なく続く。  耳を澄ましていると、少しだけ音が高くなる。それでいて、しばらくすると元に戻ったりする。  なんなんだ?  俺のからだは、すっぽりと包まれていた。柔らかくて、温かくて、安心な何かに。  まったく、嫌になるぜ。  それが「ふとん」っていうものだってわかったのは、ずっとあとのことだ。  光はない。  そのときは、ただ闇の中、「ふとん」にくるまれて、俺は低い音が響いているのを聞いていたんだ。  そうするとね、ブーンていう響きの元が、一種類ではないことがわかってくる。  あちこち違うところで、俺の頭の上のほうや足もと、右側に左側、いろんな方向から似たような音が出ている。  さっき言ったちょっとした音の変化はさ、いくつあるのかわからないけど、そのひとつひとつのスイッチが、入ったり切れたりする組合せのせいみたいなんだ。  そのまま、どのくらい時間がたったんだ?  コツコツ。  コツコツ。  いままでとは全然違う、小さくて硬い音。  コツコツ。  コツコツ。  これは、一定の間隔だ。たぶん、遠くのほうから聞こえてくる。  コツコツ。  コツコツ。  それは、次第に大きくなる。  コツコツ。  コツコツ。  強くたたきつけるように響いていた音が止まった。  そのときには、思ってもみなかったね。こんなもんが、俺にとっての、世界のはじまりとなる音だったなんて。     1 「じゃあ、手を出して。違う、そっちじゃない。左」  言われるままに、俺は手を差し出した。  前に座ってるやつはさ、なんか、とても怒っているみたい。俺は何もしてないんだぜ。いったい、どうなってるんだよ。  俺の手、左腕の上のほうが冷やっとする。幅のあるものが巻き付けられた。  目の前に近づいてきた黒いものが、俺は気になる。前にも見たことがあるような気がする。  近づいてくると、それはひとつみたいだけど、ひとつではない。細い糸みたいなものが集まって、ひとつのかたまりになっている。  不思議だ。 「こら、私のヒゲをさわるんじゃない。おまえは幼稚園児か」  俺の右手が、払いのけられる。指先に残る、固い糸のような感触。  言われたとたんに、わかったね。そんなもん、ヒゲに決まってるじゃないの。  なんで、俺は、男のきったねえヒゲなんか触ろうとしたんだ? 気色悪いぜ。  笑い声がした。  怒っているやつの横で立っている、ほっそりとしたひと。  見上げるとさ、俺のほう向いて、ニコニコしてくれてるの。顔つきが、こっちのほうはすごくいい。  でね、笑っているその顔にヒゲはないし、ふたりが大きく違っている感じがするんで、なんのせいなんだって思ったら、当たり前じゃないの。こっちは女のひと。  その立ってる女は、体を曲げるようにしてて、まだ笑いが止まらないみたい。俺の前のヒゲが、横をチラッと見て言った。 「困ったもんだ。意識がもどって、これで三日目だろう?」  女のひとがうなずく。  ちょっと待てよ。三日だって? いったい、どこから数えてるんだ?  俺は、その三日間、何をしていたんだ? 「はい、深呼吸。あ、わからんか。息を吸うんだ、こうやって大きく」  俺の前に座っている、黒いヒゲをアゴにはやした男が、口を開いて大袈裟《おおげさ》に背をそらすようにする。すると、横に立っている、ヒゲなしの白い帽子の女も、同じように背をそらす。  だから、俺も言われたとおりマネしてみた。  変なの。 「おい、息を吸うんだ。かっこだけじゃない。大きく息を吸って吐く。ああ、もう、いい。知らん。計るぞ」  左の腕に巻き付けられたものが、だんだんと強く腕を締める。ちょっと気持ちいいみたいな妙な感じだ。  俺の前のヒゲ男は、縦長の器械をじっと見ている。管の中を液が上下に揺れている。 「一〇五の六二。で、脈搏《みやくはく》は五四か。まったく正常だな」  器械を机の上に置き、キーボードで打ち込んでいる。 「よし、じゃあ、とりあえず一本打っておこう」  白い帽子の女が、俺の左腕に巻き付けられていた布みたいなものをはずす。そして、小さな柔らかいもので、その下ぐらいのところをこすった。スースーする。  これだって、やっぱ変だぜ。だけど、もっともっとやってほしい気もする。  でも、それはすぐ終わりになってしまい、次に、俺に向かって何かが近づいてきた。前にも見たことがある。よく知ってるはずのものだ。  先がとがってて、光る。そうだ、これは注射器っていうやつだ。  その瞬間、俺の頭の中を電気が走った。  何か言わなきゃいけない。 「あの、インフォームド・コンセントってやつは、しないんですか?」  言葉が飛び出していた。  俺の目の前の男は、息ができなくなってしまった。  やったね。ざまあみろ。 「なんだって? もう一度、言ってくれ。いま、おまえは、なんて言ったんだ?」  アゴヒゲを手で引っ張っている。 「注射の内容の説明ですよ。医者には義務があるでしょ。インフォームド・コンセントは、もはや常識でしょうが」  驚いたねえ。  何も考えてないのに、俺の口から、すらすらと言葉が出てくるんだ。  そうだったな、俺の目の前のやつは、医者だった。ドクターだ。そして、横にいる細い女はナースだ。そんな簡単なことも忘れてたのか?  ヒゲに手をやったまま、医者は唖然《あぜん》として俺を見ている。 「いったい、おまえの頭はどうなっているんだ? 幼稚園児並みの知能かと思ったら、いきなりインフォームド・コンセントだと?」  突然、ドクターは、机をバンとたたいた。 「名前は? おまえの名前だ。いいか、齢は? 答えろ! 生年月日はどうだ? 所属は、性別は?」  俺は首を振った。何回も首を振る。ドクターの言うことに反応できない。ひとつも言葉が浮かび上がってこないのだ。  怒りで顔を真っ赤にしたドクターが、俺に迫ってくる。 「聞いていることに答えるんだ。いいか、職業は? どこで生まれたんだ。親の名前は? 家族は何人いる。国籍は? まだ童貞か? アレルギーはあるのか? 趣味はなんだ。ツベルクリン反応はいつ陽転した? 三種混合ワクチンは接種したのか?」  頭が締め付けられるように痛む。  そのツーンという感覚とともに、俺の頭は完全な空白、ブランクの状態になってしまう。  からだだって動かないんだ。  俺の両目から涙が流れ落ちていくのがわかる。  おいおい、なんで泣いてるんだ?  悲しいわけなんかじゃ、全然ない。でも、涙が出てくる。どうしてだ? 「手におえんな。おまえは、いったい何者なんだ」  ドクターは、ため息をつく。 「うーん。その、実は、すべてが演技だったりはしないな? しっかり回復しているのに、忘れたふりをしてるとか」  ドクターは、もう一度、机を軽くたたいた。 「まあ、いい。気にすることはないんだ。そのうち、なんとかなる。もちろん、場合によっては、なんともならんかもしれんが」  おだやかな、落ち着いた声になっていた。  俺の両肩に、ドクターの手が置かれる。 「とにかく注射だ。頭が楽になる注射を打ってやるよ。それが、私のインフォームド・コンセントだ」     2 「やあ、目が覚めてたのかい?」  ドアのところには、ふたつの影があった。廊下の明りのせいでシルエットになっているんだ。  俺に声をかけたのは、大きいほうのかたまりだった。  そうだね、ふたりの大きさには、たいへんな差があった。高さも、幅も。同じ生き物とは思えないくらい。  部屋の照明がつけられる。俺は、まぶしくて、目をパチパチさせる。 「どんな気分だい? いや、無理に返事する必要はない。君のことは聞いているんだ。たいへんな目にあったね」  その大きな男が言った。 「御家族のことは、なんと言ったらいいのか……。お悔やみのしようもない。君も、とても苦しんでると思うけど……。それで、意識が回復してから二週間になるって?」  家族か。  この前、ドクターも言ってた。俺は、家族を、「事故」によって全部失ったって。そして、それは、とうてい耐えられないような悲劇的なことらしい。  でも、そう聞いたって、俺にしたらなんの感情も起こらないぜ。どんな家族がいたのか、覚えてないんだから。  初めて見る大きな男は、首をかしげて、俺のリアクションを待っている。  俺は、別に言いたいことなんてない。  小さいほうが、一歩踏み出した。こっちは、毎日見ている。もう、見飽きたぐらいだ。  コツコツ、コツコツ、と廊下に靴音を響かせては、決まった時間に部屋にやってくる、俺の主治医。  こいつの靴音を最初に聞いたのは、集中治療室でだった。いろんな医療機器が、ブーン、ブーンって、電気的な雑音を響かせてた。  そのICUから、いま、俺はそれとは別の個室に移されている。 「経過は順調。順調すぎるくらいだ」  ドクターは、自信に満ちた声で言う。  いつもいつも、生意気なやつだ。 「話したとおり、肉体的には完璧《かんぺき》なんだよ、このクランケは。いわゆる肉体、カッコつき肉体だがね。しかし、実際、私たち以外の人間、治療チーム外のものに会うのは今日が初めてなんだ。ハッハ」  いったん言葉を切る。咳《せ》き込む。 「おい、立て! 立ち上がれ!」  急に大声で叫ぶんで、俺は、びっくりしてベッドから飛び出てしまった。 「よし、それでよーし」  ドクターは満足そうに腰に手をあてている。  なんなんだよ、おまえ。ひとに命令なんかして。こんなやつの言うこと、聞かなきゃよかったぜえ。  立っている俺のところに、大きな男が歩みよってくる。  右手を出しているのが見えた。すると、考えてもいないのに、俺の右手がそれを迎えにいく。  そうだ、これは「握手」だ。「挨拶《あいさつ》」の一種のはずだ。  強く手を握られたので、俺も力をこめる。そうやって並んで「握手」をしてたら、大きな男よりも、俺のほうが少しだけ背が高いことがわかった。  だとすると、俺って、相当デカイのか? 「離せ。いつまでも握ってるんじゃない」  ドクターが、俺の手首をたたく。  気がつくと、俺は力いっぱい手を握りしめていたみたいだった。相手の男は、ただ差し出しているだけになっていたのに。  俺は、手を離した。  なんだ。「握手」っていうのは、力比べじゃなかったのか。  男は右手を、痛そうに上下に振った。数回、ひじから大きく。 「十分な握力。クラウチング・スタートで体重を両手の指先で支えるためには、大切な要素だ」 「わかっただろう。問題は、脳なのだ」  ドクターは、男と俺との間に割り込むようにしてはいってきた。 「交通事故などで頭部を強打した場合、記憶を失うのは珍しいことではない。その喪失と回復のメカニズムは、依然として不可知の領域だ」  男と俺を交互に見ると、ドクターは大袈裟にニヤッとした。 「ハッ、簡単に言ってしまえば、本当のところ、脳については、我々は何もわかっていないっていうことだ。記憶を司《つかさど》る海馬《かいば》こそがすべてだ? ふん、笑わせるな。もしかしたら、記憶は脳にはないのかもしれない」  ドクターは歩き出した。 「心肺移植を経験した患者の性格が、ドナーのものにとって代わられてしまうエピソードは、広く知られている。内臓が人間の心を支配しているのだ。あるいは、極端な話、ひとつひとつの体細胞に記憶が存在しているやもしれぬ。ヒトの約六十兆ある細胞のそれぞれが、個人の持つ全記憶を共有し蓄積している。そんな壮大な仮説すら完全に否定することはできないのだから、人類の科学の発展は素晴らしい。我々は、二十一世紀に生きていることを誇りに思うべきだ」 「先生、グラウンドに行けば思い出すんじゃないですか?」  演説しながら窓際のところまで歩いていってしまったドクターの背中に向かって、男が言った。 「毎日、練習していた場所でしょ? トラックとかロッカールームとかを見たら、記憶がよみがえるんじゃありませんか?」  ドクターは、閉まった窓のほうを向いたままだ。  どうしたんだよ。ふたりの会話が、全然、かみあってないじゃないの。 「彼は、高橋は、日本でも指折の素質を持ったランナーなんですよ。これまで競技経験はまったくないけれど、その身体能力の高さが評価されて、特別強化プロジェクトの一員に選ばれた。こんなことは高橋が初めての快挙で、実際、その期待に応《こた》えるだけの成果を上げてきているんです。これまで、彼は陸上競技に命をかけてトレーニングしてるんだから、きっと思い出すんでは?」  男は一気にしゃべった。  なんか、元気なやつ。  しっかし、その、話題になってる高橋っていうのは俺のことなんだろうけど、本当に、俺の話か?  ドクターは、反応を示さなかった。  ゆっくりと振り向くまで、ずいぶんと長い時間がかかった。 「思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。可能性は、ふたつにひとつ。言えることは、それだけだ」  アゴヒゲに手をやっている。 「けれども、命をかける、ねえ……」  口ごもるドクター。  さっきまで気合いはいって演説していたときのね、熱ーい感じは、すっかり冷めちゃってんの。やっぱ、相当の変人だぜ、こいつ。  それで、 「生命に関する、そういった比喩《ひゆ》は、感心しないな」  ぼそぼそつぶやいてんだけど、大きな男もドクターのことが嫌になっちゃったみたいで、無視する。  俺のほうを向いた。 「グラウンドに行かなくても、いま、ぼくを見て、何か思い出すことはないかい? ぼくは、君のコーチをしてきた。君とは信頼関係が出来上がっていたって思いたいよ」  強く見つめられた。じっと。  口のあたりにね、少しだけ笑いを浮かべてるような感じ。俺の返事を待ってるんだ。  日に焼けて引き締まった男の顔には、見覚えがなかった。それ以前に、このコーチだという男の言っていることの多くが、俺には理解できなかった。  グラウンドとかトラックとかロッカールームとかいうところで、いったい、俺は何をしていたんだ? 俺の指折の素質って?  それに、だいたい、その、特別強化プロジェクトっていうのは、なんなんだ? 記憶ってやつを失う前に、いったい、俺はどんな人間だったのだろう。  俺は、首を横に振った。わからない。ともかく、この男は、見たことがない。 「そうか、しかたないな」  男は、がっくりとうなだれた。何か考えているみたい。  俺、ちょっと後悔しちゃったね。こんなに元気をなくすなんて。嘘でもいいから、知っているって言ってあげればよかった。  なんだか、とっても悪いことしたって気になって、俺は、前に立っている男のことを見ていた。  しばらくして、男が顔を上げた。  そしたらね、すごいの。そのときにはね、いい感じになってる。なんていうか、全面的な笑顔。 「わかった。だいじょうぶ。ゆっくりしてくれ。そしたら、そのうち、思い出すよ。でも、あんまり、ゆっくりしてもらっても困るな。トレーニングを再開して、秋の大会には間に合ってくれるといい。リレーのメンバーの問題もある」  気を取り直してくれたみたい。  それだけじゃなくって、俺を元気づけようとしてくれている。  男は右手を再び差し出した。  俺も、それに答えた。今度は、力を入れ過ぎないように注意して。  まあね、それくらい配慮してあげないと。  だって、ドクターに比べたら、このコーチってやつのほうが、ずっと俺のこと大事にしてくれてる気がするんだもん。 「先生、このあとの見込みは……、高橋が、グラウンドにはいつ顔を出せるのか……」 「それは、わからん。この前言った、こいつの叔母《おば》さんだな。彼女がスペインから帰ってきて、こいつを家にひきとって、日常生活を営むようになってからの話だな、具体的な日程は」  あきれたもんだぜ。俺のまったく知らないとこで、俺に関する話が、どんどん進んでいるんだから。 「君への期待は、こんなことがあったって、ひとつも変わらない。君は将来、日本の陸上短距離界を背負って立つ人間になるはずなんだ。先生の許可がもらえたら、病室でもできる練習のメニューを渡すよ」  男は微笑んでいる。 「どんなときも、筋肉をおとさないように。君は生まれつきのアスリートなんだから」  ドクターが男をうながした。俺の面会の時間は制限されているんだろう。  部屋を出ていこうとした男が、振り返って言った。 「あ、それから、事故にあったとき、君の持っていたポータブルプレーヤーのことなんだけど……。北島三郎を聴いてたんだって? 意外だったな」  ちょっと困ったような顔をしている。 「ほら、前に、ぼくが編集して君にあげたやつがあっただろう? 練習の合間のリラックス用に。今度、新しいディスクをつくるときには、北島三郎を入れてあげよう」 「ほお、北島三郎か。いい趣味だな」  いったんは廊下に出ていたドクターが、わざわざもどって来て言った。 「私には、そんな報告は上がってこなかったが。事務員に厳重に注意しなければいかん。そうか、北島三郎か。ふーん……。ちょっと、やってみようか。ほいっ」  ドクターは、いきなり声を張り上げる。 「チャンチャチャチャチャーン、チャンチャチャチャチャーン、チャーチャララララーン、チャチャチャ、チャチャッチャ、はーるばる来たぜ……」  そこで止めると、 「ところで、君は函館出身だったのか?」  ドクターは、俺に質問した。  ハコダテ? それは、なんのことだ?  俺は首を振る。わからない。まったく、わからない。  俺のまわりで起こっていて、俺の理解できない、こういったすべてのことは、どういう仕組みになっているんだろう。  コーチとドクターがいなくなると、俺はベッドに倒れ込んだ。  猛烈に疲れていた。頭が熱くなっていた。中心部に痛みが走る。  いったい、なんなんだ?  俺が知らない、俺っていう生き物。  リクジョウキョウギ? キタジマサブロウ? ハコダテ? 聞いたばかりの言葉が、いくつも頭の中でうなり声を立てている。  そのまま眠ってしまったのだろうか。気がつくと、いつのまにかもどってきたドクターが、俺の上にかがみこむようにしていた。 「かわいそうに。まだ無理だったか。しばらくの間、やはり様子を見るべきだな」  ドクターは、ため息をつく。 「どうだ? どうやら、何も思い出さなかったみたいだな。あの陸上競技のコーチとかいうやつの話を聞いて。それにしても、つまらん男だな。あの大仰な口振りはなんだ? 命をかける? 日本を背負う? しかも、俺の学術的説明を聞こうともしない。自分の関心の範囲を広げられぬのだな。あいつも暗闇に生きている。記憶を失ったおまえと、五十歩百歩だ」  俺はドクターの言葉に、うなずくことも首を振ることもできなかった。それくらい体力を消耗していたのだ。 「さあ、楽になろう。注射をしよう。いつもの注射だ。とにかく眠ることが脳の回復にはいちばんなんだ。ぐっすり眠れる注射だ」     3  目が覚めると、いつもの病室だった。  見慣れてきた白い天井。薄いピンクの壁。  部屋に備えつけられた洗面所で顔を洗う。ごしごし、と。何度も。  鏡をのぞきこむ。まだ、あまり見慣れているとは言いがたい、俺という人間の顔がそこに映っている。  俺は確認する。  昨日と今日、俺は同じ顔をしているだろうか。そこには、確実な連続性っていうのかな、つながりみたいなもんはあるんだろうか。  でもね、たとえ、毎朝、目覚めるたびに別の顔になっていたとしても、たいして困らなかったりして。  洗面所でたっぷり十分は過ごしたあと、ベッドに戻った。  すると、枕の横に、何か白いものがある。封筒じゃないの。さっき起きたときに気づかなかったのか、それとも、いま置かれたものなのか。  寝ている間だって、顔洗ってるときだって、誰かがはいってきたりした気配なんて感じなかったんだけどなあ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  高橋進 様   あなたが事故にあったという知らせをうけたときの私の衝撃は、想像もつかないことと思います。私自身、実際に体験してみて初めて、そのたとえようもないくらいの大きさ、重さを知ったのですから。   命に別状はないと聞いて、ひとまず、安心しました。それで、どうなの、現在のあなたの体調は?   いつごろ退院できるのでしょう。あなたをあせらせるつもりはありません。きちんとした治療を受けてくれるほうがいいに決まっています。ただ、あなたが再びあの素晴らしい笑顔を見せてくれるのが待ち遠しくて、つい、問い質《ただ》すようなことがしたくなってしまうのです。   こんな手紙を渡されて、あなたは不思議に思っていることでしょうね。なぜ、直接、会いに来ないのかって。それは、実は、あなたの病院が面会を拒否しているからなのです。あなたが安定した状態ではないからと言って。   これは、どのように考えても異例のことです。ドクターには注意してください。情報はたいへん限られていますが(私が医療関係に様々な人脈があるのは、あなたも知ってるわよね)、それは、彼らの側で、いよいよあなたの身柄の拘束に乗り出したということではないかと思うの。   現在の世界で、あなたの重要性は増すばかりだわ。あなたこそが真の選ばれた人なのだから。それはなにも、あなたが飛び級制度により小学生の年齢で大学への進学を推薦された、などという表面的な事実に基づくわけではありません。   数学と哲学と、そして、あらゆる科学の天才にして、同時にあなたはエル・サルバドール、すなわち救世主《メシア》でもあるのです。   人類に幸福をもたらす、まったく新しいプロジェクトのリーダーとなるべきあなた。だから、私と私たちの研究所は、本当にあなたを必要としているのです。   どうか、この手紙があなたのもとに届きますように。   安心してください。彼らがあなたに危害を加えることはないと思います。それは彼らの側にとってもメリットのないことだから。   この手紙の存在は、だれにも知られてはいけません。まだ、その時期ではないのです。私たちが動いていることを彼らに察知されたくない。   最後に付け加えておきます。あなたについているナースは、あなたの味方よ。ドクターの補助の仕事をしながら、あなたのために役立ってくれるはずです。   ああ、あなたに会いたい。私の心はその日を思うだけで、至上の喜びで天空を駆け巡ってしまいそうです。   そのときを心待ちにしています。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]Kより  俺は、手紙を二度読んでから、元どおり、線に沿ってたたんだ。封筒に戻して、ベッドに放る。  それでね、洗面所のドアを開けた。  ウンコすることにしたの。  便器にすわりながら考えた。こいつは狂ってる、絶対。  俺、自信持って、そう言えるね。  だって、少なくとも俺が、そんな、あらゆる科学の天才とかのはずないじゃないの。手紙の字、読むだけで苦労したくらいなんだから。  まして、なんなのよ、そのエル・サルバドールって。  トイレットペーパーのロールが、からから回った。新しいののストック、どっかにあったかなあ。  彼らの側? 私たちの研究所? 新しいプロジェクト?  この前、見舞いに来てくれた(面会できるじゃねえか)コーチってやつも、プロジェクトとか言っていたはずだ。  世の中では、プロジェクトとかいうのがあふれているのかねえ。  俺は、ベッドに横になった。そしたら、頭の中心部が、だんだん痛んできた。やな感じ。  しっかし、このKってやつは、たぶん女なんだろうけど、狂っているにせよ、どんなやつで、なんのためにこんな手紙を俺によこしたんだ?     4 「起きてくださいよ。高橋さん、起きて。目を開けて」  耳もとに、熱い息がかかる。 「高橋さん、私ですよ、わーたーし」  俺は、肩を揺り動かされていた。 「どうですか、容態は。大きな事故だったらしいですね」  いつもの病室だった。  廊下からの薄明りに、ベッドサイドに痩《や》せた男がひとり立っているのがわかった。 「どうしました? 不思議そうな顔。そうですか、やっぱり本当でしたか」  男は、キョロキョロとあたりを見回す。 「いやあ、それにしてもゴージャスな部屋ですね」  すたすたと歩いていって、洗面所のドアを開ける。 「あっ、トイレだけじゃなくて風呂《ふろ》まで。しかも広い。シティホテルというよりは、リゾートのクラス。あっ、こっちには冷蔵庫発見。冷凍庫までついているです!」  男の動き回る音。  俺は、ようやく目が覚めて、ベッドに上体を起こした。 「ニッポンの病院、すごいね。去年死んだ私のバアちゃん、二十人部屋でしたよ。中国では、死にかけているひとたちが二十人でひと部屋。もう、クサイったらありません」  なんで、深夜に、こいつのおバアちゃんの話を聞いてなきゃならないんだ? 「この個室の費用も、相手側の保険の扱いでしょうか。ニッポンの保険会社、太っ腹あるね」  突然あらわれた面会の客は、壁に立てかけてあった折り畳みのパイプ椅子を開くと、きちんと腰かけた。この病院の他の部屋にたぶん昼間に来ている、ふつうのお見舞いのひとたちのように。 「本当に、私のこと、わからない?」  俺は、うなずく。 「思い出せませんか? 事故の前の晩まで、高橋さんがバイトしてたでしょ? その支配人の陳ですよ、私は。ふつうは、店長って呼んでたでしょ。よく、顔、見てください」  男が、かがみこみ、その顔を近づける。  俺の反応を確かめるように、目を見開いている。 「サリナさん、連れてくればよかったです。高橋さんのこと心配してたし」 「サリナ?」 「あっ、そう。サリナさん。あなた、いま何かわかりましたね、サリナって名前で。思い出せますか? 店の指名リストでは、身長百六十八、体重は載ってません。Fカップってことになってますけど、そんなに大きくはないと思います」  俺は、首を横に振る。知らない。(でも、Fカップ?) 「だめですか」  店長と名乗る男は、悲しそうな目になった。 「前に昼間に来たんですよ。正式に。そしたら、面会謝絶ということで。看護師さんも事務のひとも、高橋さんのこと、何も教えてくれない」  男は顔をゆがめる。 「患者のプライバシーを守るのは当然ですが、どうも、おかしいんですよ。逆に、どんな関係かってしつこく聞かれて。まあ、言いづらいですよ、本当のことは。急に日本語わかんないふりして、中国語でまくしたてて逃げました」  男は胸のポケットから、何かを取り出した。箱から抜き取る。白い棒だ。  その白い細い棒の先に、男は火をつけた。  天井の照明をつけていないから、病室は薄暗かった。棒の先の火が動くのが、俺は気になる。前にも、どこかで見たような。  俺の視線に気づいたのか、男が、 「あっ、これはふつうのタバコです。ハッパが必要なら持ってきますが。もう、病院の暮らしにも飽きてるでしょう?」  なに言ってんのか、わかんねえ。 「で、その後、サリナさんも面会に来たんですよ。親戚《しんせき》のものだって言った。そしたら、どんな親戚かって。高橋さんの親戚はスペインにしかいないはずだって、怪しまれて追い払われました」  タバコという名前らしい棒の先の火が、くるくると円を描いているのを、俺は見ていた。 「妙にガードが固いんですよね。いったい、どうなってるのかって思ってたら、ここの病院の医者が店に来て」  男は天井を見上げる。  そして、数回、クックッと笑った。 「酒飲ませたら、しゃべる、しゃべる。患者のプライバシーは、どこへいってしまったのでしょう。サリナさんにせまられて、オール、ゲロです」  男が立ち上がった。白い棒の火を、ベッドのパイプでもみ消した。 「ま、それで、高橋さんが記憶喪失らしいってわかったんですけど」  男は突然、手を伸ばし、俺のパジャマの前をつかんだ。 「しらばっくれては、あっ、しばらっくるでしたか? とにかく、いけません」  絞り上げるようにする。  すごい力だ。小さいからだのくせに、どこからこんなパワーが出てくるんだ? 「アホのマネして、だまそうって考えじゃないでしょうね。中国人、なめたらいけません」  首筋が痛い。前後、左右に振られる。 「どこにあるんですか? アレですよ、アレ。事故の前の日に、高橋さんに渡したです。大切に預かっててくれることになってたはずです。どこ隠したですか」  もう一度、ギュッと締め上げられた。  俺は、両手を伸ばした。指先が男の服に触れる。  男のからだをつかまえて、振り払おうとしたときだった。  俺は、急に突き飛ばされて、解放された。  ベッドに仰向けに崩れる。喉《のど》がぜいぜいいってて、息をするのが苦しい。ひでえことするなあ、俺は病人なんだぜ。  しばらく、咳が止まらなかった。  横になったままの、涙でにじんでいる俺の目に、店長だって男が映った。  パイプ椅子にすわりこんでいる。静かに、ちょこんと、小さくなって。 「本当に覚えてないみたいですね、高橋さん。弱りました。ニッポンのマフィア、怖いですよ。アレがなくなったりしたら、私、指詰めです。ドラム缶に入れられて、海に沈められるかもしれないのです。ああ」  ひどく悲しそうにしている。 「高橋さんが忘れてて、どっかからへたに出てきたりしたら、最悪です。私にも立場ってものがあります」  男は、しばらく、椅子にすわってうなだれていた。 「まあ、しかたないです。店、もどります。とにかく、思い出してください。そしたら、すぐに連絡、いいですか?」  男は立ち上がり、椅子を折り畳んで、ちゃんと元の壁際のところに立てかけた。そして、さっきの白い棒の燃え残りを拾ってポケットに入れると、手をパンパンとはたく。  むちゃくちゃ乱暴なくせに、妙にきちんとしてるじゃない。 「では」  と言うと、男は数歩進んで窓を開けた。  はいってくるときも窓からだったのだろうか? ロックされていたはずなのに。それに、ここは五階だ。  窓枠に足をかけたまま、男が振り向いた。 「あ、それから。高橋さん、事故にあったとき、北島三郎聴いてたそうですね。よしましょうよ、いまさら」  男は、鼻の前で右手をゆらゆらとさせた。 「あれですよね」  息を吸い込むと、 「親のォ血をひィく兄弟よりもォ、堅ァいィ契ィりのォ義兄弟」  男は抑えた声でうなった。  すげえ、うまいよ。歌じゃなくて、日本語が。 「こんな古い演歌は、よっぽど組織の上の方の、オヤッサンの、そのまたオヤッサンたちぐらいしか聴いてませんよ」     5 「退院の心構えはできたかね?」  ドクターは、いつになく、にこやかだ。 「明日は、バルセロナから君の叔母さんが来てくれるってわけだ。そして、君を引き取ってくれる。ようやくな。えらく時間がかかったもんだ。ひどく異例だ」  文句を言いながらも、満足気だ。  俺は、全然、いい気分なんかじゃない。言い返してやってもよかったね。心構えなんて、そんなもん、できてるはずねえだろって。  だってね、顔には出さないようにしてたけど、実際のところ、ふつうは不安に決まってるじゃないの。  意識を回復してからっていうもの、俺はこの病院から一歩も出たことはないんだ。病院の外っていうのがどんなふうになっているのか、ひとつも知らない。  俺にはさ、それまでの、なんていうか、生活の記憶が、まったくないわけ。これから、どこに住んで、毎日、何をしたらいいのか。  退院が現実的になったこの何日か、いろいろ考えてさ、ま、なんとかなるだろう、って思えるようにはなった。  でしょ?  そんなもんね、ぼちぼちやってけば、なんとかなるはずだ。そう。たいがいのことは、時間の問題よね、きっと。  ドクターは、机の上の書類を整理していた。  感じ悪いぜ。もうね、そばにいる俺に関心がないみたいなんだ。  だからさ、ちょっと、俺の存在をアピールするつもりもあってね、聞いてみたのよ。 「あのお、事故の前、俺は、どんなやつだったと思います?」  そしたら、 「それを聞きたいのは、私のほうだ」  いきなり、デッカイ声。  ドクターは、一気に、うんざりだって表情に変わってる。  めちゃくちゃ不機嫌そう。俺よりさ、あんたのほうが、まともな生活ができてるのか、心配になるくらいだぜ。 「おまえは、自分がどんな人間だと思っているんだ?」  ドクターは、怒っているときは、俺のことを「おまえ」と呼ぶ。ふつうのときは「君」という。  俺、学んだの、この入院中の数週間で。  つまんない学習。 「いや、今の質問は訂正しよう。どんな人間だったと思っているんだ? 何をどこまで覚えていて、何を忘れてしまっているんだ?」  俺は、首を振る。 「それがわかったら、苦労しないんで。だいたい、俺は、本当に……、その……、陸上競技とかいうスポーツの選手だったのかな?」 「違うのか? あのコーチとかいうやつの言っていたのは。嘘っぱちなのか?」  ドクターは、大きな声を出した。 「嘘も本当も、覚えてないんだから……」  くっだらねえな。ホント、こんな会話。  俺、席、立とうと思ったのよ。はい、さようなら、長い間、お世話になりましたねって。  するとね、ドクターは、俺の肩に手を置いた。  まじめな顔になってんの。 「いいか、整理しよう。物事はなんでも基本に返ることが大切だ。一見したところ複雑に見える問題も、余分なものを切り捨てさえすれば、いたってシンプルになる。学問に於《お》いても、世間の雑事でも、たとえば恋愛でも同じだ」  ドクターは、咳払いする。顔がちょっと赤味を帯びている。  そんなとこで、恥ずかしがるなよな。 「うん、いいか。私は知っているだけのことは、君に教えたはずだ。君の名前は高橋進。十八歳。約一ヵ月前、交通事故でここに運びこまれてきた。一緒にクルマに乗っていた君の御両親は、残念ながら亡くなられた。君だけが助かったのだ」  そこで一度ポーズをおくドクター。  あの、なんてったっけ、黙祷《もくとう》、みたいな感じ。 「奇跡的に無傷かと思われた君は、頭部の強打のため、記憶の一部を喪失した。やっかいなのは、この一部というやつだ。最初のうちは、言語も含めた多くの能力をも喪失しているかと思われた。完全に幼児に返ってしまったかのようにな。しかし、そんなことはなかった。それらは急速に回復、といっても以前の君の知的レベルは知らんがね。検査の結果、あのカードを覚えたりしたやつだ、君の現在の能力には、一応異常は認められていない」  ドクターは、途中からだんだんと面倒くさそうに、早口になってきた。 「ともかく、簡単に言ってしまえば、君は事故以前にあったことを忘れた。たった、それだけのことだ」  事故以前にあったこと、というドクターの言葉を聞いたとき、俺の頭の中で電気が走った。「サリナ」という単語が横切る。 「私たちは、医学的な治療の面では、君に対してやれることはすべてやったんだ。これ以上、病院にいる必要はない」  時計に目を走らせるドクター。 「君をここに閉じ込めておいたなら、一種の社会的入院になってしまう。家族からも世間からも見捨てられた老人が、行くところがなくて病院に入院し続ける。あの例の社会的入院ってやつの仲間だ。それこそが、現在の日本の医療の象徴ではあるがね」  そのとき、ナースが呼ばれた。仕切られた奥の部屋の入口で、若い助手のようなひとに何か説明をしている。  俺も、ドクターの話には、いいかげん、うんざりしてきた。長いじゃないの。あんまり役に立ちそうなことも言わないし。  でも、退院しちゃうんだから、一応、気になってたことを確認しとこうかと思った。 「実は、あの、俺、手紙もらったんですよ。十日ぐらい前かな、目が覚めたら枕もとにあって」  話しながら、俺は、別にたいして期待してなかったのよ。ドクターの反応は。  ところがね、俺が手紙って言ったとたん、やつの手からボールペンが落ちた。ノートから机の上にころがったんだけど、そっちは気にもしない。  で、俺のほうに、向き直った。 「ほお、どんな? 私は聞いていないな」  ドクターの目が光る。 「あの、なんか、この前のコーチの話とは全然違う俺がいたみたいで。でも、それもよくわからなくて」 「その手紙を見せてくれ。まず、実物だ。いま持ってないのなら、すぐに部屋に取りに行け。証拠を検証するのが科学だ。話はそれからだ。さあ」  ドクターは、前かがみになった。えらく、いきごんでる。 「それが、いまはないんですよ。なくなってしまった。引き出しに入れておいたのに」  そうなんだ。  あの狂った手紙はね、俺んとこにないの。診察を受けている合間に処分されてしまったんだろうか。 「それじゃあ、どんなことが書いてあったんだ? 言いなさい。その手紙の内容だ」 「えーと、あなたが事故にあったと聞いてショックだとか……。それから、会える日が楽しみで待ちきれないとか……」  説明しようとして、天才だとか救世主だとかいうのは、あんまりばかばかしくって言う気になれなかった。  だって、えーと、たしか、エル・サルバドールなんだぜ、俺は。 「夢だったんじゃないですか。看護室の方では手紙の配送は承ってませんし。それとも、昔、もらったラブレターの記憶がよみがえってきたとか」  いつのまにかもどってきていたナースが言った。 「ほう。それは、あり得る。脳の回復の状態によっては。まさにラブレターだな、会いたくてたまらない、とかいうのは。君は女の子にもてたのか?」  ドクターは嬉《うれ》しそうな顔をし、ヒゲに手を伸ばした。  ナースは、冷ややかな目つきで、俺を見おろしていた。  その俺が受け取った怪しい手紙の中では、彼女は味方だと書かれていた。でも、全然、そんな感じじゃないじゃないの。  あの手紙が、夢だった?  しかし、だったら、夜中に侵入してきた男のことは?  それも、全部、夢だと言われるかもしれない。俺が頭を強く打ったせいで、リアルなおかしな夢を見るのだと。  そして、実際、それはそうなのか?  弱っちゃうね、まったく。  俺には、現実(過去にあったことは、当然、覚えてない。現在進行中のはずの「現実」だ)と、夢っていうのか幻想っていうのか、その区別がつかないのか? 「バルセロナの叔母さんのことは、君の記憶になくても恐れることはない。実際、君が幼いころに会って以来、親交がなかったっていうんだから。いいか、怯《おび》えるな。ひとまず彼女と話し合ってみろ。君の将来について」  ドクターは、俺を励ましてくれているみたいだった。アドバイスをくれようとしている。 「それで、困ったことがあったら、ここへ帰ってきたらいいんだ。ここは、君の故郷だ。故郷|忘《ぼう》じ難し、と昔から言う。故郷《ふるさと》は遠きにありて思うもの、おっ、これはちょっと違う。とにかくだな、いつだって、ここに私がいる」  ドクターは両手で、そんなに大きくはない両手で、結構大きい俺の両手を包み込もうとすんのよ。なんか、芝居がかってる。  満足気だったのが急に怒りだしたり、面倒くさそうにしてて、とたんに真剣になったり。かと思うと、こんなふうに、妙にやさしい感じになったり。  こいつの感情の変化には、ついていけない。 「君の心配もわかる。ずっと会ってない叔母さんと暮らすわけなんだから。考えてみれば、日本人の親戚づきあいも、ひどくなったもんだ。人情の薄さは紙のごとし。そこへいくと君の好きな北島三郎の時代はよかった」  ドクターは、俺の手を握ったままだ。 「そうだ、彼の名曲にもあるだろう。知ってるかな?」  背筋を伸ばしたドクターは、息を吸い込んだ。 「帰ろかなあー、帰るのよそおかなあー」  同じフレーズを二回、ゆっくりと引き伸ばすように歌うと、 「こんなふうに、ためらいながらでもいい。ここに、診察室にもどっておいで」     6  個室の鏡に向かって、シェービングクリームをつける。二枚刃のカミソリで、ゆっくりと剃《そ》っていく。  俺のヒゲは、ドクターのように濃くはない。毎日剃らなくても、たぶん、そんなには目立たないくらいだと思う。  でもね、入院してて、これといって予定はないんだから、朝起きると必ず剃るようにしてた。一日のうちに、決まったやることがあるのは、安心。  このヒゲ剃りの道具は、ナースが選んで買ってきてくれた。それに、そのときは、まだあまり回復してなかったんだよな。俺がどうやって使うのか思い出せないでいたら、手をとって教えてくれたの。  豪華な部屋で一対一で、ベッドまであるんだから、もっと他のことも指導してくれたんじゃないかって?  あのね、世の中、そんなにうまいこといきません。  実際、ナースがかがみこんだときに、白い制服の背中にブラジャーがくっきりして、俺、ちょっと興奮してさ。  お尻《しり》さわってみたのよ。もう、すごく軽く。そしたら、バシッて平手打ち。  おかしいなあ、あの手紙にはたしか、あなたのために役立ってくれるとか書いてあったはずなのに。こういう役の立ち方は、はいってないのかしらねえ。  それで、俺は、運ばれてきた朝食を食べた。  オレンジジュースにコーヒー、トーストとサラダに目玉焼き。薄いピンクの壁に向かって食べる。  ハミガキを終え、紙袋に身の回りの物を片付けると、完全にすることがなくなってしまった。  ベッドに横になり、待つことにした。バルセロナの叔母さんってのが、やって来るのを。     7  彼女が右手を差し出す。  また握手か。俺も右手を出す。必要以上に力を入れないように注意する。  やらされたカード処理テストだとか、なんかの認知ゲームとかいうやつ以外にも学習能力があるってとこを、ドクターに見せておかなきゃ。 「高橋進です。よろしく」 「あなたの叔母の眉子よ。よろしく」  ドクターが大袈裟に手を広げた。 「おい、驚いて欲しいな。このひとが君の叔母さんだっていうんだ。なんで、そんな平然としている。そうか、意味記憶の欠落か? 君の脳には、『叔母』という単語は入力されていないのか?」  ホントに、ばかにしないでほしいよね。  俺は、ドクターに言ってやった。 「そのくらいの言葉、知ってるに決まってますよ。『叔母』っていうのは、父親の姉妹か何かでしょ。あ、母親のでもいいのか。その、女のきょうだい、っていうか、姉妹で……。ああ、めんどくさい」  俺がしゃべる言葉に、握手を終えた目の前の「叔母さん」は、いちいちうなずいてくれている。  だけどね、ドクターは、なんか妙に入れ込んでいるみたいなの。頭に両手をあてて首を振った。興奮するなよ。 「やっぱり、常識に関しては、君には欠陥があるのやもしれぬ。両親いずれかの姉妹だというのなら、ある程度は、十八歳である君の両親に近い年齢であると考えるのがふつうだろう。彼女は、十五歳なんだ。不思議には思わんのか? まったく君に関しては、いろんなことが起こる」 「あら、そんなにおかしなことではありませんよ」  叔母さんが口を開いた。眉子叔母さんね、十五歳の。  こっちは冷静。かっこいいじゃない。 「私の姉は若くして進君を産んで離婚、進君はお父さんにひきとられ、彼女は両親のいるキャリフォーニァへ渡ったんです。私は親が年を取ってからの子供で、年齢は離れていても進君のお母さんと私は姉妹の関係。私と進君は、叔母と甥《おい》の関係です。どこにも矛盾はない」  ドクターは、両手を上に向けて肩をすくめた。  眉子叔母さんは、そんなドクターを露骨に無視した。からだごと、俺のほうに向きなおって話を続ける。 「その後、私たち家族はバルセローナへ移ったの。本来なら姉がここにいるべきなのだろうけれど、彼女は画家として大作に取りくんでいてアトリエを離れることができない。両親は高齢だし、代理として叔母である私が来たのよ」  ドクターは、首を左右に振って、さもあきれたという顔をしてみせる。 「というわけだ。事故で亡くなられた御両親とは別に、君には実母がいた。彼女は、その妹だそうだ。君が彼女を覚えていないのも当然だ。彼女のお姉さん、つまり君のお母さんが、一時帰国して日本で最後に君に会ったとき、君は三歳。一緒にいた彼女ときたら、乳母車の中だったそうだ。ということは、彼女の方でも君のことは、もちろん記憶にない」 「いいえ、私は覚えています。三歳の半ズボン姿の進君を。私は生まれた瞬間からの鮮明な記憶があるの」  眉子叔母さんは、きっぱりと宣言した。 「ハッハ、これは本当の驚きだ。何を言い出すやら」  ドクターは、笑いをこらえるような、皮肉な表情を浮かべる。 「赤ん坊に記憶する能力があることは、すでに実験的に証明されているじゃないですか。生まれたときから自分の母親を認知し、記憶する力がある。それを言葉で表現できないうちに、赤ん坊は記憶を失っていく。なかには例外的に、すべてを覚えている子供がいることが報告されているでしょ?」  まったく冷静に、流れるように叔母さんはしゃべった。  たいしたもんだ。 「出産時に、喜ぶ母に対して父がどんなにうろたえていたかなんてことも、私は覚えてる。あなたには、赤ん坊の記憶力に関する、その程度の医学的知識もないの? そんなひとが私の甥の治療にあたってたなんて。日本ていうのは、姉が言っていたとおり野蛮な国なのね」  ドクターの顔が、パッと赤くなった。 「あ、いや、理論的には知っている。可能性としては、十分に起こり得ることだが……。私をだれだと思っている。しかし、現実に、実際の具体例としてそんなことが、そういう想定は、日常には……」  ドクターは、しどろもどろ。  いやあ、お見事。拍手しようかと思ったね。 「さあ、行きましょう」  眉子叔母さんは、俺に向かって言った。 「こんなところに長居する必要はないわ」     8 「行くって、どこへ?」  病院の廊下を歩きながら、俺は叔母さんに聞いた。 「あなたのアパートメントに決まってるでしょ。あなたは、この街のセントロ、日本語では、中心部? で、ひとり暮らしをしていたんだから」  一階の受付で支払いを済ませる。叔母さんはカードが使えないことを嘆いた。 「医療費は保険会社に請求されるの。当座の諸費用のみの精算なんだけど、日本の紙幣ってサイズが大きくて、数字の桁《けた》もすごい。その割に価値がないから、なんかとても損してるみたい。ユーロに比べると後進国って感じ」  叔母さんが領収書を受け取っているのを見ながら、俺は、自分が金を持ってないってことに初めて気づいた。  安心したのは、その、眉子叔母さんが文句言ってるお札と釣りの硬貨。なんか見覚えがある。数字とその計算も、たぶん、できるな。  いちばん困るのは、俺が、何を覚えていて何を忘れているのか、その自覚がないってことだ。  こんなね、窓口での支払いみたいなことにも、ひとつひとつ、慣れてかなきゃならないんだろう。小学生なみだぜ、記憶喪失のあとに生きていくってのは。  ま、いいけど。  眉子叔母さんは、早足で病院の玄関に向かう。俺は、ちょっと遅れてついていきながら、自分を慰めてみたの。  きっと、こんなのって、全部、時間の問題、だって。  叔母さんはさ、ピンと背筋を伸ばして、俺から見たら自信満々っていう感じで歩いてる。すぐに、あんなふうになれるかはともかくとしてさ、俺、言葉とかいろんな面で、どんどん回復してきてるでしょ。  そうさ、だいじょうぶに決まってるぜ。  結局は、すべてが、単に時間の問題。 「姉は言ってたのよ、実母である自分が日本に行かないことを冷酷だって感じないでほしいって。ましてね、それであなたが不幸な境遇にいると思いこまないでほしい」  タクシーの中で、叔母さんは説明を始めた。 「いま姉がアトリエを離れられないってことは、さっきも言ったけど……。え? あなたのお母さんは絵を描いてて、スペインでは名前も売れてきているわ。あなたの記憶にはないのね。もしかしたら、もともと知らなかったことかも。離婚しているから、亡くなられた御両親との間で複雑な事情があってもおかしくないわね」  俺にとっては、すべてが新しい情報だ。 「それで、事故のあとの処理は、姉が手続きを進めたのよ。契約していたあなたのお父さんの顧問弁護士との間で。あ、私もアボガダを目指しているの。そう、アボガダっていうのは、スペイン語の弁護士ね」  しゃべりながらも、クルマの窓から、叔母さんは街の様子を興味深げにながめている。病院のある郊外から、都心へと向かっているようだ。  俺も、関心がないわけではないのだけれど、窓の外のもの、そのすべてが速すぎた。  静かな病室を出てみると、街には音があふれていたし、行き交うもの、全部がとんでもない速度で動いているように感じられる。  まぶしすぎてね、頭がもう、クラクラ。 「私は自分で日本に来ることを姉に希望したのよ、あなたの事故の話を聞いて。異文化体験もいいかと思ったの。母国を知るってこと。現在、私は三重国籍みたいな状態。成人するときに、出生地であるアメリカか滞在してるスペインか、それとも両親の属している日本かを選べるはず。いまのところ、日本の可能性は限りなくゼロに近いけど、二日目で判断するようなことじゃないわよね。昨日着いて、こちらのアボガド、あ、アボガダの男性形ね、日本の弁護士に会っただけなんだから」  タクシーが停まる。俺が先に降りた。  ここが俺のいたところなのか。  気がつくと、俺の横で叔母さんも建物を見上げていた。 「あなた、こんなとこに住んでいたの?」 「さあ」 「さあ?」 「覚えがない」  眉子叔母さんは、肩をすくめる。  そうだったわね、と言って階段に脚をかけた。  歩道から階段をたっぷり一階分は昇らないと、エントランスにたどりつけない。建物の上の方は、硝子《ガラス》の面が太陽の光を反射していて、まぶしくてよく見えなかった。 「入りましょう」  回転扉の横で、ガードマンが叔母と俺に会釈した。  エントランスの正面は噴水になっていた。吹き上がった水を、水盆が受け止める。その水盆から、また滝のように水が流れ落ちて床でプールになる。  噴水をひと回り、俺は水の動きをながめた。  きらきらしてね、とってもきれいなの。  水盆から流れ落ちてる水は、あふれてまっすぐに落ちるだけじゃなくて、一部はその青緑色した水盆の外側の形に添ってまわりこんでいる。  つまりは、重力の法則に逆らってるわけで、ながめていたら、「分子間力」って言葉が頭に浮かんだ。どういう意味だったっけ? 水の分子と分子が引っ張りあって、まわりこんで流れ落ちるのか?  それから、しばらくして、また、「表面張力」って思いついた。これ、テーブルの上にこぼれた水が盛り上がってるようなやつだよな。その力で、水が水盆から離れないようになっている?  あれ、「毛細管現象」とかいうのも、小学校か中学でやったよな。関係ないか。  よく、わからなかった。ひとつだけわかったのは、やっぱり俺は、怪しい手紙に書いてあった「科学の天才」なんかじゃなさそうだってことだけだ。  噴水を吹き上がってくる水はつながっているのに、頂点に達したあと落ちる水は、ばらばらに千切れているように見えた。  それが水盆の中で再びつながり、水盆から帯になって落ちる。その水の帯を透かして入口の明るいほうを見ていたら、眉子叔母さんがもどってきた。  吹き抜けになっているロビーの奥に、フロントがあった。そこで、部屋の位置を教わってきたんだって。 「このフエンテ、日本語では、えーと……、あっ、噴水っていうの? とってもスペイン風ね。アンダルシーアのパティオにありそう。それが、あなたのアパートメントのエントランスに設置されてるなんて、これは何か、不思議な偶然の一致を感じるわ」  そう言ってから、俺をうながした。  エレベーターに乗って、叔母さんが押した数字は16。  そこにあるパネルの数の中では、いちばん大きい数字だった。俺の文字に関する記憶が間違っていないなら。     9  足もとから見渡す限り、どこまでも町並みが続いていく。ところどころに、俺が今いるところと同じような高いビルがあった。  俺はこの景色を毎日見ていたんだろうか?  焦点をあちこちにしぼってみる。そうすると、左のほうのビルの上に取り付けられた鉄塔に、なんとなく見覚えがあるような気がする。  紅白に塗り分けられた大きなやつは、たしかパラボラアンテナとかいうんだったよな。それが、なんかね、そっと遠くをうかがっているみたいなのが、ちょっと不気味。  眉子叔母さんは、部屋をチェックして回っているようだった。  長い期間、病室にいたせいか、俺は窓からのパノラマから目が離せない。それは見ている間にも微妙に変化する。  雲の流れで光の強さが変わっていくせいなのかな。そうするとね、印象も違ってきて、さっきのパラボラアンテナなんて、一段と大きくなったみたいに見える。  背中から声をかけられた。 「こんないいアパートメントに住んでるとは思わなかったわ。日本の住宅事情は最悪だって聞いてたから、覚悟してたんだけど。立派な暮らしね」  俺には、なんと返事していいのか、わからない。 「いまから、私も早速、ホテルを引き払ってくることにする。ゲスト用のベッドルームもあるから」  眉子叔母さんが出ていってしまうと、見慣れない空間に、俺はひとりでいることになった。  広々としたリビングルーム。そこには生活の匂いがなかった。ベッドルーム。バスルーム。俺が暮らしていた手がかりになるようなものは?  移動しても、記憶に訴えかけてくれるようなものが見つからない。不自然なくらい清潔な、だれも住んでいないようなスペースがひろがっていた。  ソファに座り、頭の後ろに両手を当てて、背にもたれる。  その姿勢のまま、俺は凍りつく。     10 「じゃあ、乾杯。スペイン語ではサルー。あなたの健康のために。退院なんだから、ぴったりよね」  叔母さんが、ビールのグラスを掲げる。俺も同じく。 「そうか、ホテル棟が横にあって、ここはレジデンシアなわけね。だから、24時間のルームサービスがとれる。それと、これはクリーンサービスか、掃除も頼めるのね」  叔母さんは、一階のロビーで手に入れてきたパンフレットのようなものに見入っている。 「バルセローナのハイスクールは、一応、一年間休学にしてきたの。そのくらいあれば、十分に日本がわかるだろうし、あなたの社会復帰も可能よね。それでも、いったいどんな生活になるのかしらって思ってたけど、予想外に快適になりそう。あ、でも、このお寿司ってすごい値段。『季節の握り、赤出し付』だって。ユーロに換算したら……」  眉子叔母さんは、メニューを見てはしゃいでいる。そうしていたら、初めて十五歳に見える。  結構、かわいいほうなんじゃない?  でもね、それはともかくとして、俺としては病院で叔母さんに会う前から考えてたことがあった。それを、聞いてみることにしたの。 「俺について知ってることを、話してくれないかな。なんでもいいから」  眉子叔母さんは、ピザを持ったまま、顔を上げた。  それはルームサービスではなく、冷凍庫にあったのを叔母さんがオーブントースターで加熱したものだ。  これだって、部屋にはいってから得た、俺についての情報のひとつだ。冷凍庫にピザを常備している。  いや、常備とは限らないか。事故の前にたまたま買ったとか、もらったものなのかもしれない。  じゃあ、なんの役にも立たない情報じゃないの。 「あなたの過去について、伝記的な説明が聞きたいっていうこと? あなたは過去ではなくて未来に生きるべきなのに、そんな物語なんて意味があるのかしら」  叔母さんは、まっすぐに俺を見て話す。 「ジャスト・リメンバー。ただ思い出したほうがよくない? もし、私が嘘を話したら、それを信じるの?」  眉子叔母さんは微笑んだ。  なんだよ、俺のこと、からかってんのかよ。  そして、ピザを口にする。 「たとえば、あなたが世界的に有名な日本のマフィア、えーと、なんて言ったかしら、あの、ヤクザ? その一員で、だからこんな豪華なレジデンシアに住んでいられるって言ったらどお?」  ひと呼吸おいてから、俺は答えた。 「その可能性もあるみたいだぜ。マフィアにしたら、相当下っぱだと思うけど」     11 「驚いたわ。そのことはドクターには言ったの?」  俺は首を振った。 「言ったって、信じるはずがない」  それは、理由として、半分、本当だ。  翌朝になって、俺は病室への訪問者のことを話そうか、と考えた。  真夜中にね、窓から、五階なんだけど、鍵《かぎ》を閉めてたはずの窓から、中国人がはいってきたんですよ。バイト先の店長だっていう中国人。それで、俺のこと脅して、また窓から出ていったんです。  信じてもらえそうにない。  言わなかった残りの半分の理由は、いったい何が起こっているのか、俺自身、整理がつかないような出来事だったからだ。  そして、いまとなっては、それは、もしかしたら夢だったのかもしれないとも思えるのだ。あの怪しい手紙とともに。  眉子叔母さんは、考えてから言った。 「そうね、あのドクターは、ひとの話を聞こうとしないタイプね。その場の会話を録音したテープがあるとか、男の侵入する様子が防犯ビデオに写ってるとか、ちゃんとした証拠でもない限りは」  実は、俺には、客観的な証拠のようなものが、その時点では、ないわけでもなかった。  洗面所で顔を洗おうとして、首のところに赤い筋があるのに気づいたのだ。それは、数日間、消えなかった。店長にパジャマを絞り上げられたときにできたものだろう。  でも、それだって、単に布団のへりとかでこすれたものと、区別はつかない。 「マフィアに関しても、あなたの頭は真っ白なの?」  俺はうなずく。 「ちょっと、憧《あこが》れるわね」  冗談じゃない。ひとごとだからだ。 「記憶がまったくない、バージン・ブレイン」  眉子叔母さんは楽しそうだ。 「あ、私、バルセローナの前はキャリフォーニァにいたって言ったでしょ。いまでもアメリカンスクールだから、結構、英語なの。家では日本語で、スペイン語と合わせて、全部、中途半端な三ヵ国語」  叔母さんはティッシュで手を拭《ふ》く。 「このペパロニ変なにおい。日本のピザって、みんなこんな感じ?」  その質問には答えず(以前に食べた日本のピザの記憶なんて、もちろんない)、俺は眉子叔母さんに尋ねた。 「さっき言ってた憧れるっていうのは、記憶喪失に? それとも、マフィアに?」  叔母さんは、少し考えてから、 「初めは前者のつもりだったけど、後者もいいかも」  立派な日本語だ。俺よりうまいよ、絶対。  で、俺が反論をしかけた時だった。  リビングのドアが開いた。 「そのマフィアから来たわ」  女が立っていた。  眉子叔母さんも、俺も黙っていた。ふつう、こんなとき口がきけるやつはいない。 「どうやら、あなたの病院の医者たちから聞き出した情報は、正しかったみたいね」  室内ドアのノブに左手をかけたまま、女は右手で髪をかき上げた。 「初対面のご挨拶《あいさつ》をすべきなのかしら、高橋。私、サリナよ」  俺は、椅子から立ち上がった。  ドアに向かって歩きかけたけれど、ピザを食べていたのを思い出して、テーブルの上のティッシュで手を拭いた。  そして、女の前に立ち、右手を差し出した。  そうか、これが、あのサリナなのか。 「まあ、握手。なんて素敵な挨拶。あの熱いキスは、どこへ行ったのかしら」  サリナは笑った。何と呼んだらいいのだろう、薄い生地のドレスのようなものに包んだからだ全体をくねらせて。 「こんにちは、私は確実に初対面だわ」  眉子叔母さんが、俺の背中越しにサリナに話しかける。 「でも、あなた、どうやってはいってきたの? 私は鍵をかけたはずだけど」 「あら、こんにちは。あのねえ、だって、私たちはマフィアですもの。どこからだってはいれるのよ。通風口の隙間から、壁を通り抜けたり、床からわきあがってきたり。当然、16階の窓からだってね」 「よくわからないけど、異常にセクシーなひとね。世界的美女。バルセローナでも目立っちゃう」 「まあ、あなた、ありがと。うーん、正直なお嬢ちゃんだこと。ということは、あなたがスペインの叔母さんなんだろうけど。バルセローナって、どこにあるのかしら。ラスベガスみたいなとこ?」 「歴史的には全然違うけど、結局は似たようなものかも。美を競って、美を商売にしてるってことでは。欲望に奉仕している街って言ってもいいわ」 「お嬢ちゃん、難しいこと言うのね。とてもキュートな顔して」 「よして、そんなのって。子供っぽいだけ。早く大人の女になりたい」 「あら、日本では、いちばんの人気の時期なのにね。その、あなたの言う商売、商業的価値の点でね。覚えておくといいわよ。日本の男って、マザコンとロリコンの二種類しかいないの」  なんか、緊張感のあふれるやりとりなんだけど、俺のこと無視しないでよね。ふたりだけで、俺を通り越してしゃべってるんだから。 「ともかく、中にはいって。すわって」  俺は、サリナに言った。  このまま、ドアのところで立ったままというのも。 「中って、リビングでいいの? それともベッドの中ってこと?」  サリナという女は、俺に微笑みかける。 「へ?」  サリナは、また、からだをくねらせた。 「叔母さんの見てる前でっていうのもいいわね、刺激的で」  ガタンと、椅子の音がした。 「私は、自分の部屋へ行くわ。どこでも好きなところでやって」  眉子叔母さんが、吐き捨てるように言う。 「まあ、恥ずかしがらないで。あなた、いくつ?」  背伸びするようにして、サリナは叔母さんに聞く。 「十五。齢は関係ないわ」 「あら、ひとがするのを見るのも勉強になるのに」  眉子叔母さんは、俺の脇を通り、サリナの横を擦り抜けるようにして、早足で廊下に出ていった。     12 「素敵なお部屋ね」  突然、侵入してきて、叔母さんを追い出してしまった女は、あたりを見回している。薄いパープルのドレスの腰に手をあてて。  それで、上から下までね、全身をながめてみても、なんの見覚えもないの。  ホントにこいつが、サリナなのか?  ま、自分でそう言ってんだから、そうなんだろうけど。記憶喪失になった俺の脳が、サリナっていう単語にだけは、反応した気がしたんだけどなあ。 「さて、まずはソファに行きましょうか?」  俺が言われるまま腰かけると、隣にサリナも浅く座る。脚を組むから、ドレスの裾がめくれ上がって太腿《ふともも》の上のほうまで見えちゃう。 「お久し振り」  サリナが、俺の耳に息を吹きかけるようにして言った。斜めになって、からだを俺のほうに、もたれかかるようにする。  なんか、いい匂い。眉子叔母さんは、こんなのしてなかった。これって、大人の女の匂いなのかな。  俺、目つむって吸い込んだ。ドクターの好きな深呼吸ね。これするの、俺、うまくなったんだから。  ソファでの、いい匂いの深呼吸。ナースとドクターにも、見せて上げたいね。  と、その瞬間、俺のアゴに、何かがチクッとした。  目を開けると、サリナの手には、ナイフがあった。その先を、まっすぐ俺の喉《のど》もとに突きつけている。 「さあ、言いなさい。正直に」  サリナの目が、あやしく輝いている。  ヤバイね、こいつ、本気だぜえ。 「アレはどこにあるの? 言っちゃいなさいよ」  俺は首を振ろうとしたんだけど、ナイフが迫ってるんで動かせないの。  サリナはナイフをゆっくりと移動させると、刃の側面で俺のほおをたたく。ピタピタッて。  アレっていうのは、あの店長とかいうやつも言ってたよな。  いったい、なんのことなんだ? 「じゃあ、こっちはどうかしら?」  と言うと、いきなりサリナは、あいているほうの手を俺の股間《こかん》にはわせた。 「なによ、縮んじゃったの? さっきから、私のこと見て、ふくらませてたのわかってたんだから。早く大きくしなさい」  また、ナイフでピタピタ。  そ、そんなこと言われたってねえ。  俺は、目をつむった。  ナイフのことは忘れることにして、サリナの手の動きに集中する。  気持ちいいじゃない、それはそれで、とっても。     13 「う、うお……」 「だめよ、まだ出しちゃ。あめとムチ作戦の意味がなくなるわ」  俺は、リビングのソファにすわったままだ。俺の開いた脚の間には、しゃがみこんだサリナがいる。 「嬉《うれ》しいでしょ。憧れのサリナお姉さまに、吸ってもらってるんだから」  サリナは、ばかにするような口調だ。 「で、アレはどこにあるの? 思い出した?」 「アレって、なんだよ?」 「まあ、まだ、そんなこと」  俺のペニスが、再び熱いものに包まれる。  でもね、その根元には、しっかりナイフが添えられてんの。 「じゃ、次のテクニック。唇で亀頭を包み込んで、舌の先端を細かく震わせるの。感じるわよお。これ、あのかわいい叔母さんに教えてあげたかったんだけど」  サリナの言葉は聞き取りにくい。俺のペニスを舐《な》めながらしゃべるからだ。 「ほら、ほら、どーお」  見上げるサリナ。 「やめてくれ」  俺、やっとの思いで、それだけ言った。 「でも、続けて欲しいんでしょう? だったら、早く白状しなさい。アレは、どこに隠してあるの? それとも、まだ、がまんできるっていうの?」  俺としては、とっくに限界は越えていた。  だけど、言う前に発射したらペニスを切り落とすって脅すんだもの。  だから、爆発できないの。 「いつまでも黙ってるなら、サリナお姉さまの究極のテクにいくわよ」  サリナは、いったん背筋を伸ばした。俺の股間が涼しくなる。  そうなってみると、ちょっと、さびしい。 「サリナスペシャル。先の割目に舌の裏の筋を沿わせるの。ポイントは、舌に力をこめて筋をピンとさせること。でも、その前に……」  そう言うと、サリナは、俺のペニスを、まるで呑み込んでしまうかのように、喉の奥に導く。ペニスの先が、いままでとは違った粘膜を感じる。  そのときだ。  俺は、あまりの快感に、からだをのけぞらせた。そしたら、足が伸びて、サリナのこと、思いっきり蹴《け》っちゃった。 「グオッ」  サリナは、変な悲鳴をあげて仰向けに倒れた。しばらくもがいていたけれど、腹を押さえて立ち上がった。  でね、俺に背を向けると、室内ドアのほうに歩いてった。  こっちを振り返ろうともしないし、何も言わない。  あれ?  帰っちゃうの?  あんまり中途半端なんで俺が呆然《ぼうぜん》としていると、再びリビングのドアが開いた。  そっと頭を入れて、様子をうかがっている。 「何か大きな音がしたんで、見に来たんだけど……」  残念。  サリナじゃなくて、眉子叔母さんだった。  俺に、チラッと目を走らせる。 「それ、早くしまいなさいよ」  俺、パンツおろしたままだったのね。     14 「叔母としては、あなたが犯罪組織に関わってるってことをどう考えるべきか、難しい問題だわ」  眉子叔母さんたら、イライラしてんの。  なんなのよ。サリナの件はさ、どう考えたって俺のせいじゃないぜ。 「私は将来、アボガダになるわけだし。マフィアと接点を持っているというのは、日本は知らないけど、ヨーロッパでは指導的階層にとっては致命的スキャンダル。許されないことなのよ、少なくとも表向きには」  叔母はバッグの中をさぐる。取り出してきた箱から、タバコを出す。 「あなたに、ああいう恋人がいるっていうのは、また、それとは別の問題でもある」 「恋人じゃないな、サリナは」  俺は、きっぱりと、断言したね。  ふつう、恋人は、ナイフの先でペニスをつついたりしないと思う。恋人という言葉に関する俺の記憶が間違ってないなら。 「へーえ。あんなことしてて、恋人じゃないってわけ」  眉子叔母さんは、わざとらしくゆっくりと言った。たっぷりの皮肉がこもってる。  俺は、どこかでタバコを見たなって思い出してた。そのときは先端の火が、いまよりもくっきりとしていて、くるくると弧を描いていた。  そうだ、それは部屋が暗かったからだ。深夜の病室、侵入してきた店長って名乗ったやつが吸ってたんだ。  そいつがサリナの話題を出して、それで本人が現われたんだから、ま、店長が来たっていうのは、夢ではなかったって証明にはなるよな。  ふたりを結ぶのは、なんだか知らないけど、アレ。  でもさ、アホらしくなるぜ。だって、その夜は、俺はタバコっていう単語も思い出せなかったんだ。それに比べたら、いまは、だいぶ回復したって言える。  叔母さんは、タバコの煙を天井に向けて吐いた。 「まあ、いいわ。あなたの女性関係をチェックするのは、私の仕事ではないし。あ、これ? あなた気になる? スペインは、マフィアはともかく、タバコには比較的寛容な社会なの。あなたが嫌なら、よすけど」  それには軽く首を振ってから、俺は言った。 「わかったのは、ともかく、俺はアスリートだったらしいってことなんだ。サリナが言ってた」  眉子叔母さんは、一応、俺の話に集中しているみたい。目を細くして聞いている。  サリナはね、ナイフ持ったまま俺の胸とか腹とかさわって、やっぱりスポーツしてると立派なからだねって言ってたのよ。筋肉をひとつひとつ確かめるみたいにして、入院してても衰えないのって聞いた。  そんなこと思い出してたら、また、立ってきちゃいそうだけど。 「俺は、たぶん、陸上競技の選手だった。病院に来たコーチの話と合わせて、ふたつの話が重なれば、確率は高い」  眉子叔母さんは、首を振った。 「私は、それより思い出すべきだと思うわ。ジャスト・リメンバー。それに、その『確率』って、数学的というか、統計的にはなんの根拠もないわけでしょ。百人の人に、あなたの経歴をアンケートした結果ではない。たまたま、いままでに出会ったふたりがそう言ったというだけ」  さすがアボガダ志望だ。うんざりさせられる。 「それはそうだけど、そんな議論はどうでもいい」  立ち上がりながら、俺は言った。 「とにかく、コーチに会う。練習をしてみる。俺は、からだで確かめたいんだ。自分が何をしていたのか」 「わかったわ。じゃあ、私も付き添いましょう。とりあえず、今、私はあなたの保護者、より法律的には後見人なんだから」     15  ロッカールームに案内された。  そこには、グレーの金属の扉のついた大きなロッカーが並んでいて、そのひとつには、「高橋進」って書いてある。もちろん、俺の名前だ。  間違いない。やっぱり、俺はここに所属していた。  もっとも、眉子叔母さんなら、それにしたって誰かの手で名札が今日用意された可能性も否定できない、とか主張するかもしれないけど。  そんなこと、言ってたらねえ。  扉を開ける。中にはいってる荷物は、当然、俺の持ち物なんだろうと思う。しかし、その、どれひとつをとってみても、見覚えがなかった。  まあ、しかたがない。  服を着替えてみると、サイズは合ってた。  廊下に出る。どちらへ行くべきか、わからない。明るい方へ歩いていったら、トラックの入口だった。  正解。  最初から、ラッキー。たぶん、うまくいくね、俺、この陸上競技って世界で。  建物から出ると、太陽が顔にまともに当たって、まぶしい。  俺はコーチをさがした。どうも、心細い。こんなだだっ広いとこで、俺の知ってんのは(たいして知らないけど)、コーチだけなんだから。  そしたら、手を振りながら走ってくるひとがいると思ったら、その、コーチ。ニコニコしてて明るさ満点。やっぱ、いいやつ、って感じにあふれてるね。  でもさ、俺が近づいていったら、変な顔をして立ち止まるのよ。  俺の足もとを見ている。 「もうスパイク履いたの?」  コーチが言った。 「スパイクって……、あの、この裏にとがったもんがついてる靴のことですか?」  俺は、自分の足を指差した。  コーチは、口を開けたまま、俺の顔を見つめている。ロッカーに置いてあったのを履いただけなんだけどな。 「長い間、走ってなかっただろ。今日はスパイクは無理だよ。それに、これまで、ふだんの時だって、練習の初めにいきなり履いたりはしなかっただろう? アップしてね、あったまって筋肉をほぐしてからじゃないと、危険なんだ」  コーチは説明してくれるの、ていねいに。 「だいいち、歩きにくくなかったかい? 廊下でカチャカチャいって?」  そうだったのか。それで、擦れ違うひとが不思議そうな顔をして俺をながめてたのか。  コーチは、ちょっとの間、首をかしげていた。 「そういうことも、君の記憶にはないんだね。だいじょうぶ、思い出すさ。いいよ、気にしないで。ついていくから、トレーニングシューズに履き替えよう」     16  俺はコーチと一緒に、広いグラウンドをジョッグした。日陰になった階段のところには眉子|叔母《おば》さんがすわっている。  スペイン語の本を読みながらタバコを吸っている様子は、なんとなく不機嫌そう。  だけど、叔母さんが病院に電話をかけ、コーチの連絡先を聞き出してくれたのよ。それで、コーチに場所を確認して、アポイントメントを取った。  今日は、ここまで付き添ってくれたんだから。長い時間電車に揺られて。  十五歳のくせしてさ、しかも日本に来たばかりだっていうのに、叔母さんはテキパキと事務的なことがこなせる。  俺ときたら、十八になるのに、駅での切符の買い方もよくわかんないの。叔母さんの後ろでオロオロしているみたいで情けない。  ま、いいの。  前に確認したじゃない。そういうことだって、時間の問題なんだから。すべてが時間の問題。 「どうだい? 調子は? 気分が悪くなったりしたら、すぐに言ってくれよ。無理する必要はないんだから」 「はい」  俺、かわいい返事しちゃう。  実際、気分はよかった。  青い空。風が吹き渡っていく芝生の広がり。俺は、いつもこうやって「トレーニング」というものをしていたのだろうか。 「いいグラウンドだろ? 正規の四百メートルトラックが取れているなんて。ここは、日本でも珍しいクラブチームなんだ」  コーチは、俺の視線を感じたみたいね、施設を自慢する。設備が充実しているのが単純にとても嬉しいみたいで、俺は、そういうコーチは、いい人間だなって思う。 「実業団でも学校スポーツでもない、新しいシステムが日本に根付くかどうか。唯一実績がなくても素質を買われて入会した君は、いちばん有望な選手のひとりなんだ」  コーチは楽しそうなの。 「よし、止まって。ストレッチングをしよう」  俺は、そこでコーチのマネをして、いろんな動きをした。  いちいち教えてもらう。向き合って引っ張ったり、お互いを背中に乗せたり。からだを動かすのは、なかなか愉快。 「こうやって運動してて、何か思い出すことってない?」  コーチが聞く。 「さあ、いまのところ……」  正直に返事したんだけど、こうなると、また、記憶が甦《よみがえ》らないのが、コーチに対して申し訳ない気がしてきちゃう。 「まあ、徐々に気づき出したりするかもしれない。そんなにあせることではないよ」  あくまで、コーチは明るくさわやか。  それまでジョッグをしてて、実は、俺には気になってるものがあった。それは、コーチが言うみたいに、記憶のどこかにひっかかっていて、いま思い出しつつあるものなのか。  そんなんじゃなくて、新しく、いま、気になりだしただけなのか。もちろん、俺にはそれは判断できない。  それが何かっていうとね、トラックの外側を走ってて、大回りしなければならないとこがあったの。  八コースに分かれたレーンの外に走路が張り出してる。で、その先には、白と黒に塗り分けられた棒のようなものが渡してあるじゃない。  俺、一周目に気になったんで、もう一度回ってきたときによく見てみたのよ。そしたら、その棒の先には、水がたまっていた。  水がたまってても、噴水(フエンテだった? 叔母さんが言ってたスペイン語は)にはなってないみたいだし、あの棒と池みたいなもののセットはなんなのかって、聞いてみようと思ったの。背筋を伸ばすストレッチングが終わったら。  そのときのことだった。  突然、バーンって、大きな音がした。爆発音。  そしたら、俺のからだじゅうの筋肉が一瞬に収縮した。次に気がついたときには、俺は思いっきりダッシュをしてた。  全力で走る。  俺は何も考えていなかった。頭の中に理性のようなものはない。俺は本能に導かれるまま、ただ走る。  あちこちで叫ぶ声がしているようだったけど、意味なんてわからない。  誰かが追いかけてきた。でも、俺は軽く引き離す。前で手を広げているひとの脇を、ステップを踏んで擦り抜ける。  俺の目に飛び込んできたものがあった。あの白と黒の棒だ。ぐんぐん近づいてくる。  一メートルぐらいの高さにあるその棒に飛び乗ると、俺は強く蹴《け》って大きくジャンプ、着地とともにトラックに倒れ込んだ。 「おい、どうした。何があったんだ?」 「だいじょうぶか?」 「高橋、返事しろ」  だれのものかわからない、いろんな声がする。  俺は両手で頭を抱え込んだ。トラックの上で横になったまま。頭が割れるように痛かった。 「痙攣《けいれん》してるぞ、水をかけろ。いや、担架だ」 「おい、高橋。高橋」  俺は、両肩を強く揺すぶられた。 「しかし、速い。高橋、すごく速いぜ。前より速くなった気さえする」  コーチだった。  彼は、ぜいぜい息を切らしていた。横になっている俺に、かがみこむようにする。 「でも、高橋、短距離だけじゃなくて三千メートル障害をする気があったのかい? しかも、あの跳躍力。水に触れることさえない。あんなに軽々と水濠《すいごう》を越えるなんて」     17 「ドクター、俺は、自分がわからないんです」 「ほお、そうかね。それは、またご大層な。自分をわかっている人間なんて、いったい、この世のどこにいる? お会いしたいものだ」  ヒゲに手をやる。 「いや、そういうレベルの話じゃないんですよ。俺は事故にあって記憶を失う前は、陸上競技の選手だったらしい。素質を見出だされて、それでクラブチームにはいった」 「ほーお。よくわかっとるじゃないか。たいしたもんだ。記憶喪失のクランケとしては、上々の部類だな。それで?」  相変わらず、感じ悪いの。 「ところが、トレーニングに行ってみて、俺はスパイクという言葉を思い出せなかったんです」 「それは、よくあることだな。私なんて、毎日、いろんな言葉が思い出せん。仕事のときは比較的大丈夫だ。ところが、この前は、なんだったかな。そう、食堂ですわって、ハンバーグというのが思いつかなかった。あの肉をミンチにして、こねたやつだな。ウェイターに説明するのに苦労した。物忘れというのは、誰にでもある」 「いや、たぶん、これもそういうレベルの話じゃないんですよ。俺は、そのスパイクという言葉が何を指すのかとか、そのスパイクはいつ使うものなのかとか、全然、思い出せなかった。毎日履いてたはずなのに」 「はーあ」  ドクターは椅子の背にもたれかかる。 「それはな、我々は君に関して嫌というほど経験してきたことだ。いいかげん、君も理解してたはずじゃなかったのか? いいか。記憶には様々な種類がある。君はどうやら未来への記憶は問題がないようだ」 「未来への記憶?」 「そういう表現はしなかったかな。つまり、先の時間への記憶ということで、君は事故以降に起こったこと、知ったことは覚えていられる。いま私と会って話したことを、明日になって忘れたりはしないってことだ。意識が回復してから行った様々なテストの結果が、それを証明している。日常の生活でも、そうだろう? 覚えてられているだろう?」 「はあ、そうですかね。だいたいは覚えてるような気がしますが。だいたいは」 「だいたいでいいんだ。むろん、だいたい、で。人間は、すべてを記憶する必要はないんだ」  ドクターは、手に持ったボールペンを振り回す。 「となると、過去の記憶、事故以前の記憶が問題になるのだが、君は、いわゆるエピソード記憶は、ほぼ完全に失っているようだった。このエピソード記憶っていうのは、簡単に言うと、過去に自分にどんなことがあったかというような記憶だ」  ドクターは説明する。  でもさ、こいつはさ、なんていうか、症例を語ってるだけなの。学会とかで報告するみたいにね。  俺にとっては、それは、ほかならない、自分のことなわけ。完全に失った、とか言われると、ちょっとねえ。 「言葉に関して、君は、当初、ひどい欠落があった。これは意味記憶という領域だ。スパイクぐらいなんだ。事故直後の君は、ハンバーグはおろかミソシルとも言えなかったはずだ」  ドクターは、俺の顔をのぞきこむようにして確認をせまる。 「ミソシルですか?」 「そうだ。きっと、オニギリも」 「オニギリ」  俺はドクターの言葉を繰り返す。  味噌汁《みそしる》とお握りを知らなかった自分をイメージするのは難しい。  考えてもごらんよ。いったん知ってしまう(思い出してしまう)と、知らなかったときの自分っていうのは、実感を伴わないでしょ。  しかも、その知らなかった自分ていうのは、事故以降の自分だ。となるとさ、俺は事故のあとのことでも、さっきドクターが言ってた未来への記憶でも、一部は失ってしまっている、ということになるんだろうか。  あー、複雑。  もう、いいか、こんなこと。 「おい、ミソシルとオニギリだぞ。もしかしたら、いまでもわからんのか?」 「いいえ、わかってますよ」 「おう、よかった。最近の若者は和食のよさを知らんのかと思った」  ドクターは、話を進めるぞ、と言った。 「で、君は、意味記憶に関しては急速な回復を示した。そのとき、理解可能な言葉のカテゴリーについては、まったくランダムな取りもどし方だった。むしろ、抽象語に強い印象さえ私は持ったな。だから、スパイクなんて日常の言葉を忘れていても、まったく、徹頭徹尾、私は驚かん。そして、そのスパイクの用途に関しても、別に忘れていてもおかしくない。君は、意識が回復した日、スリッパを両手にはめておったじゃないか。手袋みたいにして」  ドクターは、おかしそうに笑う。  鏡があったら、真っ赤になった俺の顔が映ってたんじゃないかな。  たしかに覚えていたんだ、ぼんやりとだけどね。スリッパを手にはめて、リズムをとってたたいてた自分のことを。  一気に元気がなくなっちゃった。  それでもね、ともかく、最後にグラウンドで起こったことを説明したのよ。そう、暴走事件。  ドクターは、それにも動じない。 「単に刺激が強すぎたのだろう。あのコーチとやらが、やはり間抜けだったんじゃないか? 一度に与えられた刺激が大きすぎて、パニックになった。それまで君は、ピストルの音に素早く反応して飛び出す訓練を積んでおった。だから耳もとで起こった音に走り出してしまった、それだけのことだ」  ドクターにとっては、そんなふうに、すべてがはっきりしている、明瞭《めいりよう》なことなんだろうか。 「陸上競技にとらわれることはないんだぞ、そもそも。君は事故で記憶をなくした。それを過去を失ったと考える必要はない。過去から自由になったと思えばいい。現時点でだな、好きな過去を、好きなように選択したらいいんだ。お気にめすまま、お好み次第。ふつうは未来しか選べん。君は、過去を選択できる。なんたる特権だ。記憶喪失、万歳! ビバ、記憶喪失! ビバ、ビバ! それというのも交通事故のおかげだ。なんと素晴らしい。こんな幸福はない」  何、言ってんだろね、こいつは。  ほとんど、狂ってるんじゃないか? 「これからも、いろんなことが起きるぞ。よくわからんことが、いーっぱい。ビバ、ビバ。いちいち驚いていてもしょうがない」 「そんなね、俺としては……」  ドクターは手で制止した。 「いいか、そういったことを楽しみたまえ。私からのアドバイスだ。君は幼児になったと思えばいいんだ。身長百八十八センチの赤ちゃんだ。となると、きっと世の中は、新鮮でおもしろいぞお」  俺は、返事する気にもなれなかった。どう考えても、あまりおもしろいこととは思えない。  それでも、診察のお礼を言って立ち上がった。ま、挨拶ぐらいちゃんとできるところは見せておかないと。  だって、赤ん坊じゃないんだぜ、俺は。 「そうそう、バルセロナの叔母さんとやらは、どうしている? あの古風な名前の叔母さんは。今日は、来とらんのか? 彼女にも、何が起きても心配しないようにと言っといてくれ。まあ、そんなこと言わんでも、根性のすわってそうなやつだったが」     18  俺は、駅に向かって歩きながら、ドクターの言った言葉を振り返ってたの。  選択可能な過去なんていうのは、屁《へ》理屈の気がしたね。  でしょ?  俺が欲しいのは、たったひとつだけの、きっちりと確定した過去だ。本当の俺が生きてきた、事実としての過去。  たぶんさ、あんなこと言い出したのは、あいつの、あのドクターの過去ってやつが、きっと、たいしていいもんじゃないんだろうな。  だからね、自分が過去の選び直しをしたいのよ。間違いないって。  それより、俺にとって大問題なのは、これからのこと。ドクターの説明だと、グラウンドであったような、変なことが起こり続ける。  そんなもん、幼児のように楽しめって言われたって、全然、嬉しくないぜ。すげえ無責任な発言だ。だけど、あいつにしたら完全なひとごとなんだから、まあ、当然なのか。  そんなこと考えてたら、 「キャッ」  短い、かすかな悲鳴が聞こえた。  駅のロータリーの、向かい側だろうか。横断歩道のあたり? 「ドロボー!」  今度はもっとはっきりとした声。 「ひったくりだ」 「え、ひったくり? どこ?」  走り去ろうとする男の背中が見えた。  とりあえず、俺のからだが反応してしまった。俺は、二メートルほどの幅がある花壇の植え込みを、その場でジャンプして飛び越えた。  両足踏み切り、立ち幅跳びね。  車道に飛び出す。  クルマの急停止のブレーキ音とクラクションが聞こえたけれど、ロータリーを斜めに横切る。タクシーとバスの間を抜けて、男を追った。  すると、ぐんぐんと距離が縮まって、すぐに追いついてしまった。  となると、どうしていいか、よくわからない。  俺は、男の横に並んで走った。 「あの、もしかしたら泥棒のひと?」  話しかけると、男はびっくりした表情。 「もし、そうなら、返した方がいいんじゃないですか?」  同じスピードで併走しながら言った。  返事してもらえないの。  男が必死になって速度を上げようとしたんで、俺は男の前に回ってみた。  男の顔を見ながら、後ろ向きに走る。 「返さないの?」  男は、あっけにとられたようだ。 「お、おまえ、何者だ?」  ひきつった顔。息を切らす。 「難しいこと言うなあ。俺も、自分がだれなのか、よくわからないんで」  男は、突然、立ち止まった。  後ろ向きに走っていた俺は、倒れそうになって急停止。男は、無言で俺にバッグを押し付け、逆方向へ再び走り出した。  もう一度、追いかけるべきなのかなあ。  よくわからないまま、突っ立ってたのよ、俺。そしたら、しばらくして、女の人が小走りでやってきた。 「ありがとうございます。取り返してくれて」  すげえ派手なピンクのジャケットを着ている。  俺は、バッグを手渡した。  だって、たぶん、このひとが持ち主だろう。  眉子叔母さんだったら、証拠はないって言うかもしれない。こういう場合には、バッグの中身を見て、本人確認をすべきだと。 「あなた、高橋くんね」  確認をされてしまった。  たしかに、俺は高橋という名字のはずだ。  それだってね、理屈を言えば、意識を回復してから教えられたものだ。本当に自分が高橋かどうかの確信は、俺にはない。     19 「ずいぶん遅かったわね。それで、どうだったの? ドクターは、なんて言ってた?」  アパートメントに帰ると、リビングのソファにいた眉子叔母さんが聞く。 「たいしたことじゃないって。これからも、ああいうことはあるって。それから……」 「それから?」 「叔母さんに、よろしく」  叔母さんは、軽くアゴを突き出した。  これって、クセみたいね。十五歳にしたら大人っぽい仕草だけど、かわいいって言えないこともない。 「ふん。私はあのドクターは、全然信用していないから。通院を続ける必要があるかどうか、あなたも検討したら?」  眉子叔母さんは、警戒するように脚を組み替えた。  俺は、その問いかけには答えずに、手と顔を洗いに洗面所に行った。これは、どうやら、事故に会う前から身についていた習慣の気がする。  リビングで俺を待っていた感じの眉子叔母さんに、俺は聞いた。 「俺のこどものころの写真だとか、そういうもんはどっかにないのかな。ほら、卒業のアルバムとか。記録みたいなもの。そういうの、残ってないのかな?」  叔母さんは首をかしげる。 「このアパートメントにはないみたいだから。俺の両親の住んでた家には、あったりしない?」 「あなたのご両親の家は売却処分。日本のアボガドによるとね。あなたのお父さんの遺言に基づいて」 「遺言? 交通事故なのにそんなものが? ガンにでもかかってたのかな」 「よく知らない。手回しのいいひとだったらしいわね。自分の死に備えて、アボガドと常日頃から密接な連絡を保っていた。もっとも、それって、ヨーロッパのある階層の家庭では、ごくふつうのことよ。そして、あなたの不在の約一ヵ月の間に、予定通りすべてが処分された」  俺は、ソファに深くすわる。  俺が手繰り寄せようとする糸の先には、何もついてない。  逆に、叔母さんが身を乗り出した。 「写真なんて必要かしら。あなたには十分な遺産があるんだから。この部屋には、レジデンシアには二十年間の賃借権があって、その料金が支払い済みになっている書類も、私が最初に確認したわ。アボガドのところで。その時には、こんな豪華な建物とは思わなかったけど」  なんか、眉子叔母さんたら、説明に気合いがはいってる。 「銀行の預金残高も見た。相当の額だったわ。実は、他にもまだ相続の手続きの問題とかが残っているの。本来なら、あなたはアボガドに会いに行くべきなのよ。あの、あてにならないドクターのところなんかじゃなくて」  俺は首を振った。  ちょっと、待ってよ。いま、これ以上、知らないひとに会いたくなんかないの。複雑なことは、もう少したってから。  眉子叔母さんは、しばらく黙っていた。  それから、静かに話し始めた。 「あなたは、文句を言う筋合いではないと思う。これだけの遺産を持って、十八歳のスタートができるなんて、恵まれた人生じゃない?」  恵まれた人生?  記憶喪失なのに?  しかも、十五歳の叔母さんに言われてしまいました。 「俺には記憶がない。記憶だけじゃなくて、記録もない」 「あのね、そんなことに何の意味があるの? 写真とか記録とかが見つかったら、あなたは、それに沿って生きようとするの? いままでの自分に合わせて、その延長を生きようとするの? そんな人生がしたい?」  俺を説得しようとする。  アボガダ志望の叔母さんは、もともと討論が得意なんだろう、とっても元気だ。  それに、正直なところ、結構、いいことを言ってはいる。あんまり認めたくないけど。 「記憶や記録がなくたって、いまから生きればいいでしょ。過去と関係なく未来を生きれば」  眉子叔母さんは、俺の返事を待つ姿勢。  俺は、言いたいことを、頭の中で整理しなければならない。  それはね、叔母さんが、生まれた瞬間からの記憶が持続しているっていう叔母さんが、自分の過去に自信があるから、言えることなんだ。  過去がわからないっていう不安。それは、過去を失ったものにしか、わからない。結局、叔母さんにしてもドクターにしても、記憶喪失は、「ひとごと」なのだ。  叔母さんの声のトーンが切り替わった。 「でもね、あなた、写真なんて、なんで、そんなこと急に言い出したの?」  で、俺は説明せざるを得なくなった。 「ひとに出会ったんだよ。偶然、知っているひとに。もちろん、相手が知っているんで、俺は知らない」 「それで?」 「前に恋人だったって言うのよ。俺のほうではさ、もちろん、全然、覚えてない。それで食事に行こうって言われて、メシ食ってみても思い出せない」 「それで?」 「そしたら、その女が、寝てみたらわかるんじゃないかって」 「それで? 言うとおり寝たっていうわけ?」  俺は、うなずく。 「でも、何も思い出せなかった」  眉子叔母さんは、勢いよく立ち上がった。 「あきれるわ。退院してすぐにサリナが来たと思ったら、今度は、昔の彼女が出てきて、ただちに性交渉を持つ。あなたは、動物なみね。みさかいないの?」  叔母さんはとても怒っているみたいだけれど、何が悪いんだ?  俺には、わからないぜ。  だって、元恋人っていう女が現われる。記憶がよみがえるかもしれないから、試しにセックスしてみようって言われる。  そしたら、ふつう、するよね? 「本当に、あなたってひとは。パーソナリティを把握する努力が、私にはまだまだ必要だわ。後見人の職務を果たすにはね」     20  部屋にもどると、俺はひとりになる。  でも、奇妙な感覚はあるの。だれであるのかわからない事故以前の過去の俺と、ともかく事故後の記憶は続いているらしい現在の俺とで、ふたりでいるような。  もちろん、それは、あとのほうの俺が感じているんだよな。  この、なんていうかな、違和感みたいなものを、俺は一生持ち続けるのか。それとも、だんだんと過去の俺の占める割合が小さくなって、気にならなくなってくのか。  まあ、どっちにせよ、時間の問題、例のね。そのうち、わかることだ。  着替えようとして、俺は別の種類の違和感を感じた。服を脱いだときに、変な感触があったの。  上着が分厚いみたいな。調べると、胸の内ポケットに封筒があった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  高橋進様   退院おめでとう。   これであなたはあの病院から自由になれたのだから、実際に、とてもめでたいことなの。   前にもお伝えしたように、あなたの主治医であるドクターは、基本的にあなたに敵対する勢力なのです。   だから、あなたが私の手紙についてドクターに報告したというのを聞いて、驚きました。軽率な行動は慎んでください。   彼らは、抹殺しようとしているのです。人類の未来にとって欠かすことのできないあなたが持つ才能を。そして、あなたが存在していたという過去の事実をも。   近い将来、エル・サルバドール、すなわち救世主に、メシアとなるべくして生まれた立場を自覚して行動してください。私と私たちの研究所は、あなたの動向のひとつひとつをすべて把握しているのですよ。   眉子叔母さんは信頼していいわ。完全に復帰できる状態になるまでは、生活の面倒は彼女に見てもらったらいい。   でも、彼女にも手紙が届いたことは内密にしてください。   いい? あなたにとって大切な、あなたの過去を教えてあげられるのは、この世の中で私だけなのです。   それを忘れないで。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]Kより  俺は、三回、読み返した。  これは、明らかに第二の手紙だ。ひとつ目の手紙、そして、それに対する俺の反応をふまえている。  ということは、第一の手紙が実在したという証明にもなるだろう。  でもさあ、とりあえずの問題は、どうやって封筒を俺の上着に入れたのかってこと。電車の中とか、病院で擦れ違いざまに?  それだったら、今日、出会ったひったくりの逆で、難しそうだよね。  ホテルで服を脱いだときが、いちばん簡単。  だけど、元の恋人だっていう女との出会いは、どう考えても偶然のものだった。手紙を用意するなんてことは、あり得ない。  この手紙の内容って、狂ってるに違いないけど、俺が「私たちの研究所」にある程度監視されてるのは確かみたいね。  しっかし、なんなんだ?  俺が、近い将来、エル・サルバドールになる?     21  朝、起きてリビングに行ったら、眉子叔母さんは新聞を読んでいた。  たいしたもんだ、日本語の新聞を読みこなすの。アパートメントに同居するようになって、早速、二紙を契約。社会に対する関心が強いのねえ。  叔母さんは、顔を上げた。なんなの、という感じで俺を見る。  俺は、何も言ってないぜ。 「あなたの伝記的な過去について、また、聞きたいの? 私は、実際、全然知らないのよ。姉は、ふだんから、離婚した夫のことや日本に残してきた息子については、触れたがらなかった。今回は急なことだったし、あなたが事故で記憶を失ったってことと、そうね、あとはあなたの年齢ぐらいしか聞いてない」  昨日の続きをする気にはなれなかった。 「もう、いいよ、そんなこと。たださ、俺、昨日寝る前に不思議に思ったんだけど、なんでバイトなんかしてたんだろう? こんなところに住んで、金に不自由してなかったんなら」  眉子叔母さんが何かしゃべりそうになったのを、俺は手で止めた。 「言いたいことはわかる。まず、サリナや店長だって男の言う、俺がアルバイトをしていた、というのが事実だと仮定したうえでの疑問」  眉子叔母さんは、深くうなずいた。 「そうよ。そうやって、ひとつひとつ考える。私は前に思い出せって言ったけど、まず考えることがあなたにとって大切なのかも」  前から思ってたんだけど、叔母さんて、こどものくせに賢いの。こんなにえらそうな口きくなんて。 「アルバイトって、パートタイムの労働ってことよね? じゃあね、それをね、いまやってみたいのかどうかってこと。どう?」  朝のディスカッションの時間かよ。 「わからないな。仕事の種類も知らないし。ともかく、走ってるだけじゃ暇だったのかなあ」  一応、俺、言われるように、ちゃんと考えてみたのよ。 「それとも、あなたは労働こそが社会参加である、という正当な感覚を持っていたのかしら」 「え?」 「つまり、あなたは高校を卒業したあと、大学やその他の教育機関に進むことはなかった。職にも就かなかった。クラブチームにはいって陸上競技のトレーニングをしているだけでは、世の中との接点が足りない。そこで、パートタイムの労働者になる道を選んだ」  立派な学説を展開されてしまった。  でも、そんなこと言われたって、俺自身としては実感はない。  叔母さんが力説するみたいに、いまの時点で考えようとしてもさ、退院してからの時間があまりに短いじゃない。「社会参加としての労働」の意欲なんて、まだ起きてないのは確か。  考えたって、結論なんて出るはずない。  それで、眉子叔母さんと俺は、街に出かけることにした。  俺にとっては、社会復帰のための一種のリハビリであり、叔母さんにとっては日本観光。いや、「世の中との接点」を求めている、って言うのかな?  眉子叔母さんは、デパートに行ってみたいんだって。  店に入ると、人がすごく多い。みんな、何しに来てんだ? そんなに買わなきゃいけないものがあるのか?  俺は、ちょっと、びびってしまったけど、叔母さんは元気。 「ひとまず、エスカレーターで、いちばん上の階まで行きましょう」  興味しんしん、っていう感じであたりを見回している。 「割と、高級感を出そうとしてるみたいね。エルコルテイングレスみたいなスペインのデパートに比べて」  インテリアから時計・宝石。家庭用品に婦人服売場。叔母さんはすべてに興味を示す。俺は、ついていくだけで、せいいっぱいだぜえ。  何かあると、すぐに手にとってスペインとの違いとか教えてくれる。そんなふうにしてるとさ、十五歳の女の子。  洋服の試着にまで、つきあってしまった。  日本の気候にあった服がいるらしい。意見求められて(意見なし)、鏡の前でポーズとってる眉子叔母さんを見てた。  そしたら、サリナが言うみたいに(サリナ、どうしてる?)、叔母さんたら、まあ、かわいくないわけではない。  それであまりの刺激の多さに、夕方帰ってきたときにはくたくたになっていた。だって、地下の食料品売場まで制覇したんだ。 「私、ちょっと疲れた。部屋で休むことにする」  さすがの眉子叔母さんも、そう言った。  まったく賛成の俺が、自分の部屋にはいり、照明のスイッチを押す。  と、 「お帰りなさい」  ベッドから起き上がるやつがいた。     22 「しっ」  俺が声を上げそうになったのを、男が押しとどめた。 「私ですよ、わーたーし。まず、退院おめでとうと言うべきですね。中国では挨拶《あいさつ》をニッポンより大事にします」  そうか。あいつか。 「驚かないでください、高橋さん。マフィアはどこからだって現われるって、サリナが言ってたでしょう」  これで、眉子叔母さんの努力は無駄になった。  サリナが来た次の日、叔母さんは業者に連絡してアパートメントのドアの錠を交換させたの。合鍵《あいかぎ》を使ったって考えたから。 「久し振りですね」  店長は、ひとなつっこく笑う。  突然、出現してくれて、驚いたけど少し嬉《うれ》しい気持ちがないわけではなかった。だって、気になってたんだもの、こいつのこと。  店長は、下半身は俺のベッドのふとんの中なの。まぬけな感じ。 「悪いとは思いましたが、外出中にガサイレさせてもらいました。立派なとこに住んでたんですね、高橋さん。なんでバイトしてたんですか?」  それを聞かれても。  この件で、また、ディスカッションするのもねえ。  店長はふとんから脚を出して、膝《ひざ》をかかえて体育座り。変なかっこ。 「残念ながら見つかりませんでした、アレは。それにしても、持っているものがずいぶん少ないんですね。家探しには楽でしたが」  そうなんだ。アパートメントは妙に整理されている気が、俺もしていた。  誰かの手によって処分された感じ。過去を教えてくれる品物があまりにないのだ。 「アレに関しては、私も苦労してます」  店長の声は、とっても、沈んでいる。本当に困ってるみたいね。 「私ひとりでは、片がつきそうにありません。たいへんな事態です」  下、向いてんの。  泣き出すんじゃないかって、俺、思った。 「お願いです、高橋さん。私と一緒に、いまから出かけてくれませんか」  思わずうなずいちゃったね。  店長って、そんな悪いやつには見えないし、こんなに悲しそうだと同情しちゃう。なんにせよ、ここまで頼まれたらねえ。 「ありがとうございます。あるところに出席してもらいたいんです。といっても、仕事で『社会参加』するような立派な話ではありません」  あきれたね。  マフィアっていうのは、どうなってんのよ? 朝の俺たちの会話を把握してる。  これ聞いたら、眉子叔母さんは、今度は盗聴機さがそうとするだろうね。     23  俺たちね、そっと部屋を出たの。  叔母さんに知られたら、ひともんちゃく、あるわね。でも、たぶん、疲れて寝てたんじゃないかな。気づかれなかったと思う。  エレベーターで一階へ。壮大なエントランスを抜ける。正面の階段を下りると、そこには黒塗りのベンツが待っていた。  店長が後ろのドアを開けて、俺に乗るようにうながす。奥にはびしっとしたスーツを着たやつがすわってた。そいつは、こっちを見ようともしないのよ。  そんなわけで、俺は店長とその背広の男にはさまれる形になった。 「俺、どんなバイトをしてたの?」  クルマが動き出してから、左隣にいる店長に聞いた。 「本当に、覚えてないんですね」  あきれたという顔。 「ある日、店に来たんですよ。外の張紙見たって言って」  俺が黙っていると、 「そのときだって、なにの仕事するかわからないまま応募してきたですよね。それなのに、妙に張り切ってて。ニッポン人て変だって思いました」 「陳、なんでも全部、人種のせいにしたら、いかん」  そんなに大きくない声。背広の人よ。  でも、低くて迫力がある。 「はい、すみません、時田さん。中国人、いつもニッポンで差別されてるから、逆したくなるね」 「高原の親父さんに会うんだ。言葉には注意してな」 「はい。私、余計なこと、しゃべらない」  で、しばらくシーン。  緊張感がただようの。この右にいる時田とかいうオッサン、怖いわ。  それでも、俺、気になったままなの嫌だから、 「どんな店なの?」  やっぱり、聞いておかないと。 「説明するほどのものでもありません。客の男のひとがいい気分になって、いっぱいお金払うところ。ひと晩で中国人の年収分使うひともいます」  なんだか要領をえないんだけど、かなり怪しい店みたいね。ま、無理に聞き出そうとしてもしょうがない。 「高橋さん、才能ありました。何も知らない見習いから始まって、メキメキ腕あげました。事故の前は、副店長になる一歩手前でした」  ヘエー。自分のことなんだろうけど、初めて聞くんだもの、驚いちゃうよね。  でも、それって、どんな才能?  店長は、ハー、と小さく息をついた。めちゃくちゃ悲しそう。 「でも、こんなことになってしまいました、結局。高橋さんも私も運がないのです。中国人、運命というもの信じます」  それからは、誰も話さない。なんか、重苦しい雰囲気なのよ、ベンツの中は。  俺は外を見てた。  俺、運命なんて、どうでもいいって思った。だって、記憶喪失になるのが俺の運命だっていうんなら、そんなもん、いらない。  高速道路は、夜景が次々と流れてきれい。時々建物の間にぽっかりと黒いところがあって、あれは海なんだろうか。  三十分ぐらいは走ったのかな、クルマは高速を下りた。  それで坂道をぐんぐん上ってくの。そうするとまわりの様子が変わってきて、お店だとか小さな会社だとかが並んでたのがなくなって、住宅街にはいった。  で、坂を上り切ったところでクルマが止まった。  運転手が降りてインターフォンに何かしゃべると、大きな門の、やけに頑丈そうな扉がゆっくりと開いた。クルマは、しずしずと入っていく。  なんか、ヤバイぜ、絶対。  ここがその、高原の親父さんとかいうやつの家か。     24  ベンツの右隣にすわっていた時田が、正座し畳に両手をつき頭を下げた。店長も同じようにしたので、とりあえず、俺もマネをする。  頭を上げた時田が言った。 「陳は自分が桝本《ますもと》組に狙われてたんで、万一の事態を考えたそうなんですわ。いちばん意外なところ、安全なところへアレをしばらく預けることにした。それが、この高橋っちゅう、店で働いてる男で。ところが、その高橋が交通事故にあって記憶がのうなり、アレの隠し場所もわからんようになってしもて」  その説明は、俺だって、初めて聞くようなもんだ。  店長と俺は、要塞《ようさい》のような家に連れていかれた。そして、スーツ姿の男たちに囲まれて、奥の和室に入れられたのよ。  とっても高い地位の組長に会うことになったってのは、さすがにわかったね。 「すんません親父さん。えらい、どんくさいこって」  時田が頭を畳にこすりつけるようにした。  店長もそうしてるみたいだったけど、なんかばかばかしくなったんで、俺は付き合わなかった。 「どこぞの組に横流ししたんやないやろな。桝本のタヌキのしっぽ、ようやっとつかまえたと思うたのに」  親父さん、と呼ばれた男は和服を着ていた。落ち着いた静かな声だ。座り机に向かって何か書き物をしているまま、こちらを見ない。 「めっそうもない。陳は、そんなことができるタマじゃありません。それは、わしが保証します」  時田が詫《わ》びる。 「あないに苦労して手に入れたもんやからな。アレがないと、勝負にならん。もう一回、サリナを行かすわけにもいかん。そや、サリナの身のまわりは、注意してるんやろな」 「ええ、それは、もう。若いもんをふたり、二十四時間でつけさせてます」  時田は、そこで声を張り上げた。 「オヤッサン、陳の指、詰めさせますんで。今日のところは、なんとかそれで、わしの監督不行き届きも許してもらえませんやろか」  店長の手がぶるぶると震えるのがわかる。  親父さんだか、オヤッサンだかは、黙ってるの。万年筆を走らせている。話、聞いてないのか?  たっぷり時間がたってから、 「陳の汚い指なんて、もらってなんになる。見とうないわ、そんなん」  その言葉に、店長は畳に頭をすりつけた。そればっか。 「いまは時代が違うんや。指詰めるより指があって働いてもろたほうが、どないにましか。陳の商売の才能は実証済みや」  和服の男が、机から顔を上げた。  小さい顔をした、じいさん。 「なんというたか、この男。ええからだしとるな」  初めて目があってしまった。 「堂々としたもんやなあ、何しとるやつや?」 「陳、答えろ」  時田がせかす。 「はいっ、高橋ね。スポーツを、陸上競技をしてます。事故で両親が死んで遺産がたっぷりあるんで、今回、それでチャラにしようと思いましたですが、弁護士管理とかで動かせないね」  そんなことになっていたの?  店長ったら、おとなしそうに見えて、いろいろしてるじゃないの。 「このひと、堂々いうより、記憶喪失なんで、ちょっと変です。あっ、もともと、事故の前から少し変でした」  好き勝手に言われてしまった。 「なんや、けったいな言葉やのう、記憶喪失いうんか。つまりはその、物忘れが激しいいうことか。そしたら、そのお兄さんに思い出してもろたら、済むわけやな」  俺だって、思い出したいのよ。アレの隠し場所だけじゃなくて、もっともっと、いろんなこと。  時田が言った。 「陳と、この高橋、わしに預からせてください。一緒に苦労させますよって。それでアレはなんとしても見つけ出させます」 「ほお。ほなら、好きなよに」  和服の男は、座り机に向かってしまった。  何もなかったかのように、書き物を再開してる。     25  帰りの廊下も長かった。何回も曲がって、庭をめぐるように歩く。 「時田さん、もしかしたら、私たち、アレやるのですか?」  店長は、ささやくように聞く。このうえなく悲しいという顔をしている。こいつ、もう少ししたら、絶対、泣き出すね。  時田は、問いかけを完全に無視した。  この男、高原組のなかである程度の地位にいるみたい。廊下の角を曲がるごとに、組長の家の警護をしてるスーツの男たちが、時田に目礼して進路を譲る。  この男が、俺たちを「預かる」ことになったわけだけど、アレっていうのは、何をさせられるんだろうねえ。  しかも、俺は渡されたらしい大切な「アレ」をなくしてしまったせいで、店長と「アレ」をしなければいけない。  さっぱり、理解できないぜ。  それは、俺が事故にあってね、えーと、ドクターの言ってた意味記憶とかを失った、とかいうせいでは、まったくないよな。 「そっちの……、おい……、記憶喪失」  時田が、突然、口を開いた。  いいかげん、名前、覚えろよな。てめえのほうが記憶喪失だろうが。 「しばらくは、しっかり働くんだな」  返事のしようがない。だって、ノーって言える雰囲気じゃないんだもの。 「働き次第で、親分のお怒りだって、そのうち解けるだろう。とにかく、しんぼうだ」  というわけで、俺は、またベンツに乗せられた。時田と店長にはさまれてすわるのも同じ。  クルマは高原組長の家を出て、夜の住宅街を走り出す。 「時田さん、前の前の支配人が行かされて、アレしました」  店長が切りだす。 「うん? そうだったか?」 「よく知ってるじゃないですか、時田さん。年末に店のお金、全部かき集めて、飛ぶ寸前につかまりました」 「おー」 「あのひと、廃人になったって噂です。つかいものにならなくなって放り出されたときには、道もまっすぐに歩けませんでした」  時田はタバコを取り出した。店長が、俺のからだの前を横切るようにして火をつける。 「そんなことも、あったかな。でも、指詰めるよりかマシだろ」  店長は全身でため息をついた。  黙ってだったけれど、はーっ、という声が車内に満ちるくらいの仕草。     26 「運命、恐ろしいです。こんなことになってしまいました。そういう星の巡り合わせだったのでしょうか」  だから、俺は、運命なんて信じてないって。  俺たちは、店長と俺は、トランクス一枚で並んで立っていた。 「元はといえば、あなたを信用した私が間違っていたのです」 「おい、そこの新入り、しゃべるんじゃねえ」  ほら、怒られちゃったじゃないの。 「はいっ。了解しました」 「バカ。でかい声出すな。気が散るだろ」 (ハイッ)  店長は、声に出さずに口の形で返事した。  みんながね、ひとりの男のことを待っていた。壁に向かってすわって、精神を集中している。  妙に張りつめた感じ。  それから、ようやく、 「いいですよ。準備完了。いきましょう」  そう言って、男がゆっくりと立ち上がった。やけに日焼けした背中だなと思っていたら、お尻《しり》まで、全身が不自然なくらいにまっ黒。 「よーし。スタート」  合図とともに、 「あーっ、あっあっ、あ」  ベッドの上の女が急に声をあげ、身をくねらせた。  カメラが近づく。 「よーしっ、これが欲しかったんだろ。今、入れてやるからな」  全身日焼け男がベッドにのぼると、両手で女の両足首のところをつかんで、大きく開いた。 「ほら、見ろよ。これだ」 「あーっ、イジワル。早く、ちょうだい。あーっ」  なんなんだろね、こいつらって。もう、完全にふたりだけの世界になりきっちゃってんの。  あきれて見てたら、バシッ。  雑誌を丸めたみたいなもんで、尻をたたかれてしまった。 「ほらっ。おまえ用意しろよ。間に合わないと意味ないぞ」  耳もとでささやかれる。  さっきから俺たちに指示を出しているのは、助監督って呼ばれているやつ。 (ハイッ)  店長の返事のマネをしてから、俺はトランクスに手を突っ込んだ。 「うっ、うっうーん。ああー、いいわ。とっても、いい」  女優を見ながら、俺はペニスを摩擦する。 「あー、あっ。そこよ。そこ。もっと、もっと、奥までちょうだい」  横目で店長の様子をうかがうと、薄目を開けて天井を見ていた。瞑想《めいそう》にふけっているみたい。右肩が振動していたけど。 「よしっ、行け」  小さな声で合図されて、俺だってちゃんとやろうとしたのよ。前もって助監督に教わったとおり。  まず、カメラのアングルに注意すること。映らないように、ベッドの足の側から行く。女優の中からペニスを抜き取った男優と入れかわって、ベッドに近寄る。  それでね、俺がトランクス下げたら、横に店長がいた。  バシュ。  なんかすごい音がした。     27 「おっ、おまえ。何者だ?」  監督が言った。  肩に乗せのぞきこんでいたカメラから目をはずし、こちらを見ている。  それは、俺がいちばん苦手とする質問だったけど、監督の視線は明らかに店長に向いていた。 「あ、陳といいます。はじめまして。よろしくお願いします」  監督は、店長の返事なんて聞いてない。 「なんなんだ? いや、その。なんというか。いったい、なぜなんだ? その精液の量は」  実際、そのくらいのリアクションに値したね。店長の音をたてて発射された大量の精液は、女優の顔から胸まで飛び散っていた。  からだの上に、ゼリー状の海ができている。  助監督がベッドの脇まで来ると、店長の尻をバシッとたたいた。 「すごい。こんなの見たことない」 「中国人、子孫の繁栄、まず第一に考えます。だから、精子が多いこと、いちばん大切」  本当かよ?  ベッドの上では、女優が、もがくように動いた。身をくねらせ、うつぶせになる。  女優は、両手で顔をぬぐっている。ぬぐった手を、いったんシーツで拭《ふ》いてから、また顔をぬぐう。  小さく、クションと変な音のくしゃみをした。 「ひどいわー。ユウカのことも考えてもらわないと。鼻にはいったじゃないの。勢いが強くってー、逃げられないんだからー」  カメラがまわっているときと全然違う、低い声だった。  女優は、もう一回くしゃみをし、 「窒息寸前よ、もう」  照明器具のところにいたひとが、タオルを手渡した。 「目にはいったら大変。あーあ、これ、髪バリバリでー、からだじゅうゴワゴワになりそう」 「そうだよねえ、ユウカちゃん。よく、がんばった」  監督が女優に声をかけた。 「テイク終了。ハルさん、連れてったげて」  さっきのタオルを持っていたひとが、ユウカちゃんと呼ばれている女優の手を取って起こした。 「おまえ、最高の汁男優だな。あんなにぶっかけるなんて、見たこともない。素晴らしいよ。早く、いまのシーンを編集したい」  監督が、店長に言った。 「でも、ちょっとは、タイミングを考えてもらいたいね」  俺の後ろで、立ち上がる気配がした。日焼けした男優だ。 「おまえ、登場が早すぎるぜ。俺のチンポがまだユウカん中にはいってるのに、おまえ、俺のこと突き飛ばしただろ。俺の商売道具が捻挫《ねんざ》したらどうしてくれる」 「ああ、それはすみません。助監督さんの合図で出たつもりだったんですけど」  店長は、あわてて振り向いてあやまった。 「ケンさん、ごめん。こいつのダッシュが、めっちゃ速くて。おまえ、やる気まんまんだったな。それに比べて、こっちのは……」  助監督は、俺を見た。  まずいなあ、みんな、忘れてくれたと思ってたんだけど。 「ちんたら出てくし、発射もできなかったんだろ?」 「はあ、陳さんがあんまりすごいんで、つい、ながめちゃって……」  俺、ボソボソ言ったの。もちろん、言い訳よ、言い訳。 「そりゃ、そうだ。無理もない。それに汁男優は、こいつひとりで十分というか十二分というか、十二人分は出したな。ハ、ハ、ハッ……、つまんないか。おい、笑え」  助監督と日焼けした男優とが、力なく笑った。  店長もね、ちょっと遅れたんだけど、付き合って笑っている。  俺、もう帰る、こんなとこ。     28 「なあ、今度の新入りは大当たりだな」  監督は上機嫌でコップをあけた。それを助監督に突き出しながら、 「組の仕事でヘタ打ったっていうから、どうせドンクサイやつらだろうって思ったら」 「そうですよね。ずっといいですよね。この前のは、ひどかった。あーうー言ってて、話ひとつ通じない」  助監督が応じてビールを注ぐ。 「おまえら、もっと食え。遠慮しないでいいんだぞ」  網の上の肉をひっくりかえしながら、監督が言った。 「はいっ、十分いただいております。いえ、十二人分です」  店長が元気よく返事する。  監督がガハハハと笑った。  店長って、こんなに調子いいやつだったのね。 「高橋、おまえ撮影の経験あるのか? やけに現場に慣れてるな。助監の手伝いでもしてたとか」  話を振られてしまった。 「いえ、AV好きで、よく見てただけで」  嘘よ、嘘。だって、俺、記憶喪失なんだから。  監督や助監督やね、もうひとり、照明とかしてるハルさんの言うことよく聞いて、それに合わせて動いてただけなの。 「そうか。立派な働きだ」  監督は、ビールを俺のコップに注ぐ。 「高橋、明日もがんばってもらうからな。体力つけとけよ」 「はい」  いいお返事。  俺は、とても空腹だった。  もう深夜だ。振り返ってみると、眉子叔母さんとデパートに行ったとき昼食をとって以来、何も食べてなかった。  箸《はし》をのばし焼けた肉をつかんで、タレのはいった皿に移す。  すると監督の隣にすわっている女優のユウカってのが、青ネギの刻んだのをたっぷりとのせてくれるの。  なんか、家族の食卓みたいって気がして、で、俺の失った家族っていうのは、どんなふうに食事してたんだろう、って考えちゃった。 「でもねえ、陳さん、角度だけは注意してよー。鼻の穴、禁止よ。陳さんのちんちんの角度」  みんなが笑った。  渡辺組、といってもマフィアの組ではなくて(もちろん、俺たちが送り込まれたんだから、関係は深いんだろうけど)、渡辺監督を中心とするAV撮影チームは、仲が良い感じだった。  けれど、ケンさんだけが黙りがちで食べているのがね、ちょっと気になった。不機嫌そうにしている。  店長に突き飛ばされたこと、まだ根に持っているのかしら。  小さいやつ。 「まあ、これも何かの縁だ。一緒に仕事することになったんだから、楽しくやろう」  渡辺監督が言って、ビールのコップを全員でカチカチさせた。     29 「とにかく、逃げ出そうなんて気になるなよ。わかってるよな」  助監督が言った。  さっきまでの「わきあいあい」が、なんか脅すみたいになってるの。こいつらの本性は、結構、やばいんだろうな。 「わかってます。お金もないし、携帯も取り上げられてます。だいいち、時田さん、そんな甘いひとじゃありません」 「そうそう。わかってりゃいいの。じゃあ、明日六時」 「ハーイ」  店長は戸を閉めた。  ぎしゃっというような変な音がした。ベニヤ一枚しかないような戸だ。 「あーあ。これで高橋さんと私、タコ部屋状態です」  店長は、畳の上にへなへなという感じですわった。  六畳の部屋、ひと間だけのつくりだ。  俺たちが連れてこられたのは、いつ建てられたのか想像もつかないような古いアパートだった。  入口で靴を脱ぎ捨て、暗い廊下を進んで曲がった突き当たりの部屋。途中にトイレと流しがあった。 「俺、逃げるよ、明日」  そう言うと、店長は口を開けたまま、俺の顔をじっと見た。 「そんなことしたら、命、危ないです」  店長は畳に正座した。  向きなおって、俺に対してまっすぐになる。 「いいですか、無理したらいけません。中国の教え、あなたたちニッポン人、学んでいません。漢字と中国料理、あなたたち覚えた。でも、ニッポン人、大切なこと学ばない。あなたたち、勢いにまかせて、すぐ玉砕しようとする。第二次大戦と同じです。負けること、勉強すべきです」  俺は、黙ってた。  だって、よくわからない。本当に、ここから逃げたら、俺、殺されるのか? 「AVの仕事、そんなに嫌ですか? あなたがバイトしてた私の店と、本質的には変わらない。あなた、監督言ってたように、そういうとこで才能ある」  そんなこと言われたって、返事のしようがないな。俺、そのバイトの記憶だってないんだもん。  しょうがないからさ、俺は立ち上がって押入れを開けてみた。  もう、疲れてて、寝たいの。  布団《ふとん》を引っ張り出そうとすると、崩れてしまいそうだった。そのくらい綿がはみ出していた。もちろん、シーツなんてない。  店長の言うタコ部屋っていうのが何を意味しているのか、はっきりとはわからないけど、さすがにぞっとしないぜえ。  店長は、俺が敷こうとしたって言うか、ばらばらにならないようにまとめて広げようとする布団を手伝ってくれた。 「この暮らしが半年か、下手をすると一年続くのです。それが、あなたと私の運命ね」  冗談じゃないぜ。  なんで、発想がこんなに暗いのよ、こいつ。 「よく考えれば、マグロ漁船に乗せられるよりはましです。もちろん、腎臓《じんぞう》取られるよりは、ずっといい」  店長ったら、自分に言い聞かせているみたい。  崩れないように固めた布団の上で、俺たち、横になった。  電車の音が、近づいて遠ざかっていく。線路がわりとそばにあるみたいだ。明りが微妙に揺れて、うす暗い部屋がよけいに暗く感じる。  決めたね。俺、逃げる。絶対、こんなとこ。  店長には内緒で、チャンス見てね。迷惑かけることになるかもしれないけど、そんな義理は(もしかしたらあるのかもしれないけど)、ないわな。  黙ってると落ち込んでくんで、俺、今夜、ずっと気になっていたことを聞いてみたのよ。 「なんでさ、精液をいっぱい女にかけると、いいことなの?」  店長は寝返りをうった。 「それはAVの約束なのです。撮影が嘘でなく、本気でセックスしてるとわかる。それに精液がかけられてるのを見て、女性を汚して征服した気になるのでしょう」  ふーん。変なの。 「いま、ぶっかけの映像が大人気です。大量の精子、女性にぶちまけたり飲ませたりします。ニッポン人おかしい。人間、サーモンと違います。精子、からだかけても妊娠しません。子孫繁栄しない」  そういう問題か? 「前の前の店長、毎日毎日、精子かけされられて廃人になりました。私、嫌です」  だったら、一緒に逃げようぜって言おうと思ったけど、警戒されたらいけないんでやめといた。  横向いたら店長は眠ってたんで、俺、明りを消した。     30  夜中に目が覚めたとき、俺は、自分が病院のベッドにいるんだと思った。俺の鼻の奥のほうで、消毒薬の混じった独特のにおいがしたの。  でも、それって錯覚。  人間の感覚なんて当てにならないよね。次に鼻から息吸い込んだら、得体のしれない、すっぱいような臭いがした。  病院とは違って、ふとんは固く湿っていた。で、聞こえるのは、機器のうなるような低音じゃなくて、店長のいびき。結構、うるさい。  闇の中、目をこらすと、木目のはいった天井の板には、大きな黒ずんだしみが広がっていた。  なんで、こんなところにいるんだ?  俺、振り返ってみたのよ、半分、まだ夢を見ているような頭で。  前の日の夕方、俺のベッドに店長がいた。そして、連れていかれたのはマフィアの親分の家。高原の親父さん、とか呼んでたのは、スーツを着た時田とかいう男だ。  要塞のような親分の家の庭では、池の水の音がしてた。ずいぶん前のことみたいだ。  また、クルマに乗せられて、撮影現場。それで焼肉屋行って、結局、気がついたら、こんな古いアパートで寝てる。  あっという間に物事は進んでいて、で、それというのも、元はといえば、俺が「アレ」ってのをなくしたせいだって。  でもさあ、それって、俺の記憶にはないんだぜ。  そんな、全部ね、自分の記憶にない全部のことに責任をとって生きていかなきゃいけないのか? そんなのが記憶喪失者のその後の人生だって言うなら、ちょっとキツイぜえ。  だけど、全然、だいじょうぶ。  だって、俺、わけのわからないことに責任取る気ないもん。     31 「おい、時間だぞ。起きろ。早くしろ」  考えてるうちに、いつのまにか眠ってしまったんだろう、気がつくと激しくドアをたたく音がしていた。  うす暗い部屋だった。朝になっても、陽は射さない。  店長と俺が出ていくと、マイクロバスには、監督、助監督、照明のハルさんがすでに乗り込んでいた。  いつも、こんなに準備よく、気合いがはいっているの? 案外、まじめな人たちなのかしら。  ハルさんがハンドルを握る。  走り出してすぐに、クルマは駐車場に入れられた。 「適当にさ、買ってきてよ」  助監督に、お札を差し出された。 「あの、適当って……、たとえば、どんな……」 「え? サンドイッチとか、缶コーヒーだとかお茶とか……、適当。コンビニのメシなんだから」 「私、行きます。高橋さん、記憶喪失です。常識ありません」  店長が横から手を出して、お金を取った。素早い。明らかに、俺の逃げるチャンスをつぶそうとしてる。  その背中に、 「おい、オニギリ、エビマヨネーズとカツオな、交《ま》ぜといて」  監督が叫んで、店長は振り向いて丁寧にお辞儀してる。うーん。ドクターも言ってたよな、オニギリとミソシル。  コンビニを出たマイクロバスは駅前のロータリーにつけられた。  袋から出されたものが配られ、そこで食事をする。その「適当」なメシって、案外うまいんだけど、みんな静かで、まるで怒っているみたいなの。昨日の夜とは違う。  よくわかんない、渡辺組。  食べ終えても、クルマはそのまま。  だいぶたってから、 「おっ」 「やった」  助監督が中腰になって外を見ていた。  駅の改札口から大きなバッグを持った女が出てきた。サングラスをかけているけれど、女優のユウカだってわかる。  俺、その、なんて言ったっけ、未来への記憶ね。それは、ちゃんとしてるんだもの。 「ユウカ、めっちゃ、ねむーい。昨日、遅かったのにー」  文句を言いながら、でも、結構、明るい感じなの。  いい子なのかもねえ。  監督が手を取って、バスに乗るのを助けた。 「そうだよね、ユウカちゃん。えらい。えらい。起きられただけでもえらい」 「あー、よかった。今日、ダメになるかって、半分、思ってた」  助監督も振り返って、ユウカに話しかける。 「ユウカはねー、ドタキャンは、まだ二回しかー、違った。えーと、三回しかー、してないもーん」 「おーっ、それは立派。AV女優の鑑《かがみ》だ」  それで、出発。  また静かになっちゃって、眠ってるやつが多いみたいだったけど、俺は、窓から外をながめていた。  この前のベンツでの移動は暗くなっていたから、そんなに景色はわからなかった。退院してからの(意識がもどってからの)初めてのロング・ドライブになる。  工場の煙突だとか、高速道路向けの大きな看板だとか。その、ひとつひとつに、俺は集中してみた。  何か、俺の脳が刺激され、記憶がよみがえることはないかってね。もしかしたら、事故にあう前に見た景色かもしれないんだ。  けれど、そういうのって長く続かないの。  結局、俺はただ車の窓からの風景を楽しんでいたんだと思う。ロケの目的地に着いたらしいってわかったときには、ちょっとがっかりしたくらい。  海沿いの駐車場というか、原っぱのようなところに、マイクロバスははいっていった。  奥に停まっていたスポーツカーから降りてきたのは、男優のケンさんだった。大きく伸びをしている。  器材を下ろすのを手伝わされた。  仕事しながら、俺は景色に見とれてしまってね。だって、岩場と砂浜。白い波のたつ海は光ってて、その向こうには水平線がある。 「よし、ちゃっちゃっと撮っちゃおう」  監督が指示して、スタッフが輪になった。なんか、場所の設定とか動きとかの、打ち合わせをしてるみたい。  俺、することがないんで、海でも見に行こうかと思ったの。  そしたら、 「持ち場離れたらいけません。仕事はいつでも一生懸命、ニッポン人のいいところね」  店長ったら、俺のこと監視してる。  撮影が始まった。  男と女が、きっと久し振りなのかな、出会うシーン。すれ違いざまにケンさんがユウカの腕をつかむ。  見つめあうふたり。カメラがアップでとらえる。  ユウカは、手で顔をこすっている。本当に泣いているように見える。  変な話だけどさ、これって、たぶん、めちゃくちゃクサイ芝居なんだろうけど、俺、ふたりの演技に心を動かされてしまった。  ひとはこんなふうにして、出会ったり別れたりして生きているんだなって思った。それを、俺もしてきたのかなって考えるとねえ。 「ホイ、カット。OK。いいよ、とっても」  監督のひとことでさ、場の緊張がゆるむの。 「OK。じゃあ、準備して」 「はーい」  ユウカは、バスの中にはいっていった。 「そろそろ用意しとけよ。あ、陳だけでいい。たっぷりな、十二人分」 「はい」  店長は、悲しそうな顔。  ユウカがやってきた。コートの前を押さえている。 「暑ーい。ユウカ死にそう」  誰にともなくね、そんなこと言ってから、鏡をのぞきこんで、前髪引っぱってる。  ケンさんは、岩場の陰にいた。こちらに背を向け、ひとりで海を見ているみたい。 「あいつ、立たなくなったなあ」  監督がつぶやいた。 「あんなに売れっ子だったのに。人間、ピークを越えるっていうのは、つらいものがありますねえ」  助監督がささやく。 「何をえらそうな。おまえ、そんなこと言えるほど仕事してるか」 「まあ、そうですが」  ふたりとも熱意がなく、しかたないからしゃべっているみたいだった。  ユウカが、コートの前をバタバタさせた。 「遅ーい」  コートの下は裸だった。でも、今日の陽射しだったら、暑いに違いないわね。  監督が振り返った。 「陳、がんばってくれよな。ケンは立つだけでも大変だし、無駄玉は打てないから」  店長は、うなずいた。パンツに手を入れてるの。 「ねえー、早くしてほしいわ。ダメなら、陳さんでもー、高橋でもー、いいでしょー。発射しなかったけどね、高橋の、とっても大きかった。ユウカ見たんだから」  冗談じゃないぜえ。俺って、恥ずかしがりなんだから。 「おいおい、よしてよ。それじゃ、ストーリーが作れない」  助監督が、なぐさめるように言った。  でも、ユウカは、なんか、めちゃくちゃ不機嫌にしてるのよ。それって、自分を相手にしてて、ケンさんが立たないせいなのかな。 「変えたらいいじゃないの。どうせ、いつも同じ。たいした話じゃないでしょ」  監督がね、ユウカのほうをチラッと横目で見た。  ひどく不快そうな顔。  ハルさんは、アルミホイルのような銀色の金属を張った板を地面に置いて、そっぽを向いている。  なんだか、まずいよなあ。  昨日の夜の焼肉屋では、あんなに仲良くしていたのに、今日は、みんながイライラしている。別に、俺が、渡辺組のチームワークの心配をする必要はないんだけど。  そしたら、突然だった。 「お姉さん、いい乳してます」  店長だ。  コートの中のユウカの胸を、のぞきこむようにしている。 「ちょっと、いいですか。私、昨日から、もう、気になって気になって」  いきなりコートをめくると、乳首を口にふくんだ。  あいている方の胸を手でなでまわす。 「あっ、うまーい」 「なに、こいつ」  助監督が言った。あきれている。  ま、俺も、同じ感想だったけど。 「よしっ」  監督が大きな声を出した。 「撮るぞ。陳でいこう。ストーリー変更するぞ」     32 「じゃあ、海辺の展望台で男ふたりにやられるシーン。最初は陳ひとり、あとからケンさん加わる。いきまーす」  元のストーリーを知らないから、何が変更なのかよくわからないけれど、店長は指示されてテキパキと動く。  俺はね、いま仕事ないの。見物。  助監督の合図で、いきなりユウカに襲いかかる店長。嫌がるその両手を押さえつけ、スカートをまくり上げる。下着の中に手を入れ、なんやかやしているうちに、ユウカの抵抗も弱まる。  初めてだって言うけど、店長はなめらかな演技。役になりきっているみたいで、感心してまった。こういうことって、店長は呼吸をするように自然にできるのかしら。生真面目な顔でしてるのが、なんだか、変。  そのうちにケンさんも元気になったみたいで参加。いまは、ユウカの後ろからファック。口には店長のペニスがはいってる。  あーあーあーって、あえぎっぱなしのユウカ。  三人のやってるの見てると、まさに、動物。滑稽《こつけい》な感じだよね。  セックスは、本能に近いんだろう。俺だって、記憶喪失になってても、この前、元恋人とかいうやつと、なんとなくできたもの。悩まずにね。  だとすると、むしろ、当たり前のものなのに、こんなの撮影して、それをわざわざ金払って見たがるやつがいるなんて、不思議な気もする。  そんなこと言ってたって、ユウカが丸出しの尻、こっちに向けたりすると、俺自身、ちょっと興奮してしまう。なんか怪しい話だなあ。  さて、いつのまにか店長とケンさんの位置が交代。展望台のベンチに仰向けにされたユウカの股間《こかん》から、店長のペニスが抜き取られ、胸めがけて大爆発。  の、はずだったんだろうけど。 「え?」 「へ?」 「ひょっ」 「あれ?」  店長の精液は、ユウカの腹にぽとっと落ちただけだった。 「なーにー? これだけー?」  ユウカが薄目を開けた。 「これ、どしたのー、元気なーい」  上半身を起こし、店長のペニスを不審そうに見る。  もう、しぼんじゃってんの。ちいさくなった男のペニスって、なんか間抜け。  ケンさんが、店長の肩をたたいた。 「おまえ、昨日のは二十年分だったのか?」 「いえ、あの、確か、四日分ぐらいだと思いますけど……」  ケンさんは、両手をやさしく、店長の肩に置いた、慰めるように。     33 「しょうがないなあ。高橋にかけさせて、シーンつなぎましょうか」 「俺、頭痛い。期待してたのよ、陳のからドバーって精液がかかる場面。監督の腕の奮いようがないよな、こんな役者たちじゃ」 「あら、ユウカは悪くなーい」 「そうです。お姉さん、とっても魅力的。悪いの私」  店長は膝《ひざ》の上にユウカをのせ、後ろから耳もとでささやいてる。責任、感じてるみたいね。  ロケバスの中。  監督と助監督は、何やら作戦会議をしている。俺は、後ろの方にすわって、みんなのじゃまにならないようにしていた。  そしたら、ケンさんが、バスに乗ってきた。  俺の席の前にあったコンビニの袋から、缶のお茶を取り出す。朝のあまりだから、ぬるくなってると思うんだけど。 「あのな、立てるのは、ほとんど頭なんだ。わかる? 高橋」 「はあ」 「この商売してて、最初のうちはオンナのハダカ見れば立った。おまえ、いま、立つだろ? な、びんびんに立つ。だけど、いまは……」  俺は、なんとなくケンさんの話を聞くかたちになった。ケンさんにしたら、ま、ただの暇つぶしだと思うけどね。 「だれのハダカだって、横でハメてるの見たって、まったく立たないんだ。自分の想像力で、精神力で立てる。昔は愛だって思ってた。撮影の短い間に相手に惚《ほ》れて、どれだけ惚れさせるかの勝負だって……」  このひと、相当に、疲れてるのかな。こんなこと、俺相手にしゃべるなんてねえ。 「愛」も「惚れる」のも、俺には、もうひとつわからない気がしたけど、いちいち話さえぎって質問するようなことじゃないわな。 「どっかで、気づいたよ。自分が甘かったってね。オンナに愛なんて関係ない。オンナに頭脳はないんだ。オトコにチンポぶちこまれてると、そのオトコのこと好きになるのよ。要するに、オトコは、チンポを立てることが大事なんだ。それをオンナにぶちこめばいい」  ケンさんの口調に熱がはいってきた。  俺、お付き合いでうなずくだけ。 「前にね、雑誌で『ケンさんに抱かれよう』っていうのやってたの、知ってる? あ、高橋、記憶喪失だったよな。とにかくさ、その企画で、毎週毎週、いっぱい応募がくるのよ。AV男優にハメてもらえるっていうんで」  ケンさんは、俺の顔を見た。反応を確認してるみたいなんだけど、俺、どんな表情してるんだろ。 「いいかい? それって、ごくふつうのシロウトさんよ。カラダも顔も、結構マシなやつもいてね。ふだんできないような究極のセックスを、一度は経験したいってわけ。一生に一度のチャンス。で、そいつら、ケツの穴さらけ出して、ハメてハメてって、尻振ってせまってくるのよ」  ケンさんは、首を左右に振る。 「ユウカみたいに金のためにAV出るってのは、わかるよな。ちゃんと、目的がある。そいつら、タダなんだぜ。タダっていうより、交通費とかホテル代とかかけて、全国からわざわざやってくんの。目に入れる線だって、だんだんいいかげんになってきて、親とか恋人とか、夫だとかにバレそうなのに」  ふーん。  で、結局のところ、何がケンさんの言いたいことなのか。 「あの雑誌の企画やってて、俺は、人生観、変わった。そんなオンナたち見てたら、だんだん嫌になってくる。仕事だから先っぽだけ入れて、あとは編集の担当のやつらに突っ込ませて」  窓の外に、なんとなく視線を走らせるケンさん。  まあ、どんな商売にもつらいことがある、っていうのなら、わかる気はする。でも、ケンさんのは、ちょっと違うなあ。 「そしたらさ、相手は俺じゃなくたっていいわけよ。ヒーヒーいっちゃって。やってらんないよな。担当のやつはさ、それまでオンナにもてなかったから、いまが人生の絶頂期だとかほざいて。嬉しくって、あんま派手に載せまくったんで、サツが目つけてさ……」  パンと、手をたたく音がした。 「よーし、ユウカちゃんに、お願いがありまーす」  助監督が振り向き、ちょっと、無理やりの明るい声を張り上げた。 「なーに?」 「やっぱり、アレです」 「えー。また、アレ?」  ユウカは不満そうに頬をふくらませているけど、今度の「アレ」は、いったい、なんなんだよ。  横ではケンさんが、数回、首を振った。  本当に疲れてそうだよ、このひと。 「そうだ、やるぞ。弁当食ったら、屋外スカトロ。『ユウカの海岸物語。私のお尻は糞《くそ》まみれ』ってタイトルでどうだ?」 「そんなの、ユウカ、全然、聞いてなーい」     34  ハルさんと歩いてコンビニに行くことになった。  俺は荷物の運び役。弁当以外にも、いろいろ用意するものがあるんだって。今回はスカトロの予定はしてなかったもんで。  機嫌の悪いユウカをなだめなきゃいけないから、店長はバスに残ったの。女のあつかいがうまいのね。  店長ったら、怖い顔して俺に目で合図送ってたけど、だいじょうぶ。まだ、逃げやしないって。  俺、なんか、面白くなってきてたんだもの、AV。ケンさんの話を聞いたせいは、少しはあるのかな。でも、あまり関係ない。  現場の雰囲気ね。 「しょうがないな、監督、好きだからな。でも、屋外スカトロは、だいぶ楽だよ」  ハルさんが説明してくれた。  それまで、このひと、物静かでね。あんまりしゃべらないで、いつも落ち着いてる感じのひとだった。 「部屋の中だと掃除がたいへん。毎日、汁男優やって精液出させられて、それでスカトロの掃除してると、だいたい頭がおかしくなってくる。一ヵ月ぐらいで変になってきて、半年、持つやつはいないな」 「はあ。そうなんですか」  やっぱ、適当なとこで脱走しよう。  弁当を食べ終わると、俺は監督に呼ばれた。  あ、ちょっとヤバイことかな? 「あのね、先にワン・シーン、おまえが主役のやつ撮っとこ。外国のゲイ向けのやつ。おまえのからだって、向こうできっと受ける」  そんな手が。  それで、店長と俺は波打ち際に並ばされた。  店長は青ざめている。 「私、ダメなんです男は。その気はまったくないのです。女のひと相手だったら、いままでのキャリア生かしてなんとかなると、けなげな努力していたのです。運命でしょうか。ああ」  本当にションボリしているの。 「何するの? 俺たち」 「わかりませんが、やっぱり、するんでしょうねえ。男ふたりでです。日本のAV、アメリカで評判いいと聞いたことありますです。画質きれい、作り丁寧ある。でも、まさか私が出演することになるなんて……」 「はいはい、いいかな。ここでは、ふたりが仲良く裸で走るところね」  助監督が、砂浜をやってきた。歩きにくそう。 「カラミの場面は、スタジオでまたね。高橋の巨根が陳の肛門《こうもん》を犯すところは」  店長は、頭を抱えて、しゃがみこんだ。 「それ、よしましょうよ。私よりケンさんの方が、からだ美しい」 「立場、考えなよ。ケンさんは人気男優。男とはしない。陳と高橋は組からの預かりものなんだから。煮ても焼いてもかまわないの」  俺たちは、しかたなく裸になった。  全裸よ。情けない。 「楽しそうに走るんだぞ。水かけ合って、『こいつう』とかいうの、やろうや」  監督はニコニコしている。 「いいわあ」  ユウカが手をたたいた。いつのまにか服着て、見物してんの。 「それは、はたしていつの時代のギャグでしょうか」  力なく、店長がつぶやいた。 「はい、スタンバイ。いいかな、まず、高橋が右手に向かって走り出す。それを追いかける陳ね」  助監督が説明。 「レディ、ゴー!」  俺は水際を、一歩、踏み出した。  そのとき、鋭いサイレンの音。  振り返ると、パトカーの回転灯が、海岸に沿った道路に見えた。     35 「ヤバイ、パクられるぞ」 「通報か?」 「逃げろ」  で、俺は、すでに走る体勢になっていたので、そのままスタートを切った。  後ろでは、まだ、何かみんなが口々に叫んでいたけれど、よくわからなかった。  裸足で全裸で走るというのは、したことが(たぶん)なく、走りにくい。  けれどね、なんていうのか、俺の運動を行うための機能にスイッチがはいってしまったみたいなのよ。俺のからだが全力で飛ぶように移動する。  爆音が追いかけてきているのが、わかった。  パトカーしか見えなかったと思うのだけれど、警察は白バイまで動員していたんだろうか。  百メートルほど先に水が光るのが見えた。海岸の砂浜に、川が流れ込んでいる。  チャンスだ。  俺は、そこまでにスピードを最高に上げる。助走のタイミングをはかり、最後の一歩は少し幅を広く。力をこめて踏み切る。  ジャンプ。  六メートルほどの川を飛び越え、着地。成功だ。  砂浜にすわっている俺の隣にひらりと飛び降りてきたのは、警察の白バイではなくオフロード用の大型バイクだった。 「さすがに速いわね」  ヘルメットを取って俺に話しかけたのも、警察官ではなくて、眉子|叔母《おば》さんだった。     36 「その説明が正しいのなら、あなたが公然|猥褻《わいせつ》罪で逮捕される可能性は、かなり少ないんじゃない?」  アパートメントのリビングは、明るい。光にあふれてる感じ。昨日の夜の六畳と比べちゃってるのかな。  ひと晩いなかっただけなのに、久し振りの気がする。 「裸で海岸にいたっていうのは、現行犯逮捕が基本でしょ。それに撮影済みの映像にあなたが映ってないとくれば」  眉子叔母さんがアボガダ志望だったのは、まあ、頼りになることではある。 「そもそも、あなたは自分の意思で参加したわけではない。だけど、その辺の立証は難しいかもしれないわね。だって、あなたは暴力的に拘束されてはいなかった。コンビニエンス・ストアでだって、どこでだって十分逃げられたはずでしょ? 店員に頼んで警察に連絡してもらうとかはできた」  叔母さんは、考えている。 「どこの国でも、警察はやる気になれば何でもするから。いまごろ、あなたを追跡してたりして。私は日本の事情に詳しくないんで、これ以上はね。かなり野蛮な体制だとは聞いているけれど」  相変わらず手厳しい。  それより、俺が、まず知りたかったのは、眉子叔母さんがAVの撮影現場にどうして現われたのかってこと。  しかも、あんなバイクにまたがって。 「サリナよ、もちろん。店長とあなたがマフィアに連れていかれたことを連絡してくれたの。彼女の情報網だったら、渡辺組っていったかしら? 撮影チームまでは、すぐに、たどりつく。あとは現場を確認して警察に電話するだけ」 「バイクは?」 「私が、バルセローナではモトクロスのジュニアのチャンピオンだって話は、していなかった? 私は岩陰で待機していたのよ、警察が来るのを待って。サリナはマフィアの関係があるから顔を出せないでしょ?」  そういう構造になってるんだろうか。  彼らマフィアの論理ってのか、考え方は、俺にはよくわからない。あの、高原組長とかの家に連れてかれたときも、あれよあれよという間だったし。 「あんなにうまくいくとはねえ。すぐにあなたを乗せて逃げるつもりだったんだけど、あなたが走るのが速いから」  眉子叔母さんは、楽しそうに笑う。 「それにしてもサリナは、いいひとだわ。私、日本に来て初めて友達ができた」 「店長はどうなるんだろう?」  助けられてから、ずっと、気になっていたことなのだ。店長が俺の「友達」かどうかは、わからないけど。 「さあ。あの現場で逮捕されたのかしら。その場合、彼は、チノでしょ? チャイニーズ。非合法に入国した中国人なら、たぶん強制送還。逮捕されずに逃げられたとしても、彼の場合はマフィアのメンバーであるわけだから、あなたとは別の展開になるんじゃない?」  眉子叔母さんは、それまで組んでいた脚をほどいた。 「それより、問題はあなたよ。今回は、拉致《らち》されたみたいだから、しかたない面もある。でも、なんだかフラフラしてて。もう少し、慎重に行動してもらいたいわ。私には後見人としての責任がある。そうじゃなくて、ただのふつうの叔母としてだって、心配でしょうがないわ」  俺は、うなずいた。十五歳の叔母さんに説教されて。  まあねえ、実際のところ、助けられちゃったんだもん。眉子叔母さんに迷惑をかけたのは、確かだったし。  怒られながら考えてたんだけど、俺って、なんか、確固たる判断基準みたいなものが、どうしてもないのよねえ。それがないから、「慎重な行動」にならない。  仮にね、基準っていうのが過去からの連続性がないと成立しないっていうのなら、記憶喪失っていうのは、やっぱ、やっかい。  でも、俺の場合、もともと慎重じゃなかったような気もするんだけど。     37  数日間、寝たり起きたりを繰り返してた。  朝に目が覚めて食事をすると、すごく眠くてたまらなくなる。再び寝てしまい、夕方に起きて風呂《ふろ》にはいると、また眠った。  真夜中に目覚め、簡単な食事をとって、ベッドに戻った。  寝ている間には、たくさんの夢を見た。  後ろ姿のひとを追う。そこは病院の廊下のようだ。そのひとは、俺が会わねばならない誰かなのだ。  歩いても歩いても近づかない。そればかりか、両側にドアのある白っぽい廊下が、どこまでもまっすぐ続いているのに気づいて、俺は恐怖におそわれる。  かと思うと、店長が生真面目な顔で正座していた。全裸で笑うユウカ。着物で机に向かっているのはマフィアの親分だ。  高原組という名前を、ようやく思い出す。それは、半分目覚めてからの思考だ。そのとたんに、再び眠りに落ちる。  監督が焼肉をほおばっている。スポーツカーからおりてくるケンさん。黒っぽいしみは、アパートの天井だろう。  脈絡のないワン・ショットの連続。  ひとつひとつは、おそらく、実際に俺が、それまでに目にしたものなのだと思う。スライドの映写会が、際限なく続く。  これって、記憶の整理なのかな。記憶喪失者が新たに獲得した記憶の。  ある時、突然、気配で、そこにいるのがサリナだと、俺はすぐにわかった。それなのに、振り返るとだれもいない。  走っている俺が見え、追いかけているのは眉子叔母さんのバイクだと思ったら、陸上のコーチだった。  救急車の回転灯。交通事故の現場らしい。俺は、道路に放り出されているいくつかの人間の体を見つける。それが俺の家族だと、瞬間的に気づく。  彼らの顔の部分は、暗くなっていて判別できない。でも、そのうちのひとつは、確実に俺のものなのだ。  だんだんと、夢の中で、俺は夢を見ている俺を意識しだした。夢を見ながら考えごとをするようになり、睡眠中と起きているときの区別が、溶けるように消えていく。  俺が、そんな不規則な生活をしている間、眉子叔母さんはあちこちに電話したり、コンピューターに向かって調べごとをしているみたいだった。  スペイン語や英語で電話するくぐもった声が、ベッドで横になる俺の耳にいつまでも響いていた。     38  ある朝、目が覚めると、急に頭が軽くなっていた。朝の光が、強くはっきりとなっている。  俺の脳が回復したんだろうか。 「通院は定期的にと言ってあっただろうが。経過観察の立場なんだぞ、君は。退院しても病人であり、私の患者なんだ、私の。期日を守りなさい。ともかく、それで、調子はどうだ? 今度は何があった? え?」  ドクターは、椅子から立ち上がって、俺を迎える。 「また、言葉を忘れたなんてことじゃないだろうな。知識の記憶、意味記憶じゃなければ、手続き記憶が壊れたのか?」  ドクターが、勢いにまかせて言う。 「うん? 前に説明をしてなかったかな。手続き記憶に関しては」  机に向かうドクターの横の回転椅子にすわる。入院していたときから変わらない、いつもの診察のスタイルだ。  ヒゲに手をやるドクター。 「記憶のシステムというのは、まだよくわかっていない。一応の仮説だと、三ないし四段階の層がピラミッド状に積み重なっていることになっている。いいか、あくまで仮説だぞ。本当のところは、わかってないんだ。そのピラミッドのいちばん上がエピソード記憶。これは顕在的記憶の領域になる。そうだ、君が完全に失ったやつだ。そして、次に、潜在的記憶としてだな、エピソード記憶の下に意味記憶がある。ここで、分類上の問題はあるのだが、三段階説だと、いちばん下に手続き記憶がある」  ドクターは、咳払《せきばら》いをした。  威張ってこういう演説をしているときは、目が生き生きとしている。すごく得意そうで、どっちかっていうと、ガキみたいなやつだ。 「手続き記憶というのは、簡単に言うと、無意識の身体の記憶だ。たとえば、自転車の乗り方を考えてみろ。ふつう自転車に一度乗れるようになったら、頭で意識して乗ったりはせん。無意識の行為になるだろう? それが、それまで乗れていたはずなのに乗れなくなったとしたら、手続き記憶が壊れたということになる。これは、やっかいだぞ。記憶の基層をなすものだからな」  俺は、記憶の問題を相談したいわけじゃない、とドクターに言った。今日は、ちょっと、からだに関して聞いてみたいことがある、と。  ドクターは、机をたたいた。 「バカなことを言うんじゃない。記憶だって、からだにあるんだ。心もそうだ。すべてはからだが支配する」  すぐ怒るドクターの反応は、無視することにしたの。  それで、俺さあ、店長のこと、聞いてみたの。ケンさんの、立つ立たないって話も含めてね。  だって、なんか気になってたんだもの。ドバッて精液を撒《ま》くやつもいれば、立たなくなるやつもいる。  AVの現場見てて、男って、生き物として、いったい何をしてるんだろうって、考えちゃったから。  そしたら、 「ハッ、精液の量? ハッ、ハッ、ハ。そうか、いや、ハッ、ハッ、ハ。そうか。君の友人は、そんなに多いのか。まことに結構なことだ」  急に、ハイになってんの。  ドクターは、笑みを浮かべて、俺の顔をのぞきこむようにする。 「彼の言う子孫の繁栄には好都合なことだ。もっとも、それには、精液の量だけでなく、その液体中の精子の濃度の問題があるがね。で、君は、それをいま検査してもらいたいのか?」  俺は、首を振った。  ドクターは、声をひそめた。 「チャンスをのがすな。ナースが採取を手伝ってくれるかもしれないぞ」  そう言って、真っ赤になってんの。  ホントに変なやつ。  さっきまで横にいたナースは、そっちにひっこんでいるんだろう。奥のほうをチラチラとみながら、 「あくまで冗談だぞ、いまのは。医療界はセクハラ天国だが、いまのを聞かれると、私の立場上困る。いいか、ちゃんと聞け。君が言った正常な量などという想定は無意味だ。生き物というものは、本来、あらゆる偏差を許容するものなのだ。平均値? それは幻想だ。逸脱こそが生物の本質だ。そんなこともわからんのか。個体が並のレベルから離脱することによって、結果的に地球上のすべての生物が、あのちっぽけな単細胞から進化してきたのではないか?」  ドクターは立ち上がった。 「君の友人は精液の量が多い、君はそれほどでもないようだ。そして、ペニスをエレクトさせられない友人もいるという。そのように、個体は千差万別なのが自然なのだ。精子数が多いというのなら、それは生き物としては非常に有利な性質だ。それだけ子孫を、自分の遺伝子を残せる可能性が高まるのだからな。まさに慶賀すべきことだ」  両手を振り上げる。指揮者のように、指を広げ。 「しかしだな、君の友人のような精液の多い個体が増えていけば、人類が種《しゆ》としてますます安泰かというと、そんな単純なものでもない。私をあの鉤《かぎ》十字をつけた優生思想の持ち主たちとは一緒にしないでくれ。優生学の誤りは、遺伝子の多様性の利点を理解できないところにあった。その大量の精液の持ち主の遺伝子には、それに伴って、なにか致命的な欠陥があるやもしれぬ。逆にだな、いいか、現在において劣った特質とされるもの、たとえば極端な話としては致死的な遺伝病をもたらすようなものだな、そういった遺伝子も、環境が激変したときには、可能性として有利な方向に働くかもしれん。それこそが人類の生き残りに貢献する場合だってありうる。これが生き物の面白いところだ。そう思わんか」  演説を止めたドクターは、ニヤリと笑った。  椅子にすわると、ところで精液の量が多かったり、エレクトしない友人と出会ったのはなぜなのかね、と聞いた。  それで、俺は長い説明をすることになってしまった。  言わないって手もあるかなとは思ったんだけど、まあ、一応、俺の主治医だし。  風俗店でバイトしていたらしい、というところから始めて、撮影現場に行き着くまでのエピソード。その翌日の逃走劇まで。  もちろん、途中、面倒なとこは、はしょったけど。  ひととおり話が終わると、ドクターは両腕を伸ばして背をそらし、うーむ、と声に出して言った。 「君の冒険談は、十分に魅力的だな。君は、現在、スポーツマン以外の過去を選択しつつあるわけだ。私に言わせれば、ずっと良い趣味だな。あの薄っぺらなコーチとやらのいるスポーツの世界など、平凡に過ぎる」  過去の選択。  それは、この前ドクターに言われたことだった。記憶喪失を、失ったのではなく過去から自由になったと考えて、好きな過去を選択しろと。  でもさあ、実際のところ、過去を選んでる余裕なんて、俺にはまったくなかったぜ。だって、それより、いろんな過去が次々と俺に襲いかかってくる感じだったもん。 「そうだ。君の過去は、Aだったのかもしれないし、Bだったのかもしれない。もちろん、A+Bでも、あるいはまったく違うCだったのかもしれない。どれでもいいんだ、好きなものを選択したまえ。過去を取捨選択できる特権を享受《きようじゆ》しろ。いや、そんな変な顔をするな。私の言っていることは、これといって奇抜な話じゃないんだぞ。言ってみれば、ある程度までは、それはすべての人間がやっていることなんだ。過去というのは、フィクションだ。現時点から自分に都合よく作り上げたところの。ひとがそうやって、記憶を操作して生きていることは、自明のことなんだ。君の場合、その規模が少しばかり大きいだけだろう。そして、そのことこそが、記憶を喪失した者だけに許される、最大の特権なんだ」  演説が、はてしなく続くのかって思ったね。どこかで立ち上がるチャンスを見つけないと。  ところが、ドクターは、突然、声のトーンを落としたの。 「今回、特筆すべきは、その……、なんといったかな……、あの、女優の、そう、そう。ユウカちゃんだ。もしかして、君は逃げるときにDVDを持ってたりはしなかったのか? 特に、無修整のやつだとか……。そうか、なんだ。ないのか……。残念な。非常に、惜しい。君が反省すべき点があるとしたら、そこかもしれんな。ハッハッハッ」     39  アパートメントのドアを開けたときのことだった。  頭が、一瞬ズキッとした。  でも、俺は、たいしたことではないと思った。気のせいかもしれない。ドクターと会って相当に疲れていたのだ。そのくらいのことはあっても。  リビングにはいったとたん、もう一度、そして、もっと強く痛みが走る。  動きを止め、うずくまりそうになった俺に、 「この北島三郎って、あなたの好きな歌手なの?」  いきなり、眉子叔母さんが言った。  リビングルームには、音楽が流れていた。朗々と張り上げる声、そして一転しての柔らかい低音部。耳を澄ますと、また頭痛がした。  そうか。これが例のキタジマサブロウだったのか。  俺は、首を振った。好きなのか嫌いなのか、よくわからない。  それより、頭が痛い。 「でも、これ、あなたのコレクションなのよ。CDが入れっぱなしになってたの。ケースはコンポの隙間にあった」  退院してから、オーディオのチェックは忘れていた。  しかし、となると、事故の直前に俺はこれを聴いていたのか? 「日本の歌って、こんな感じのが多いのかしら。私が知っていたのは、森進一だけだったから」  眉子叔母さんは、ボリュームを下げた。  頭痛が、やっとひいていった。 「バルセローナにいたときに、姉の部屋で、あなたのお母さんのところで聴いて。森進一はヒターノみたいでいいって思った」 「ヒターノ?」 「そう。正しくは、ロマって言うべきなんだけど。日本ではジプシーって呼んでる? フラメンコを歌ったり踊ったりするひとたち」  俺は、うなずいた。  たぶん、そうだろう。よくは知らない。 「そのひとたちの歌、カンテにね、森進一は通じるところがある。そうね、なかでも『カンテ・ホンド』の仲間みたいだった。『深い歌』って意味よ。北島三郎っていうのは、似てないわけではないんでしょうけど、ちょっとタイプが違うわねえ」  俺には、意見がなかった。モリシンイチというのもわからない。  ただ、リビングで北島三郎を聴いていると、まだ頭の芯《しん》のあたりがズキズキする気がしたので、自分の部屋に行くことにした。  バッグを置くと、外側のポケットに、見慣れない白い色の三角が。  封筒がはさみ込まれていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  高橋進 様   危ないところでしたね。   眉子叔母さんの機敏な行動があったから良かったものの、あなたがおかしな事件に巻き込まれるのは心配だわ。   自重してください。あなたは大切な存在なのですから、くれぐれもそのことを忘れないように。   私たちの研究所、MSUは、まもなく行動を開始します。現在、その準備が整いつつあるのです。   いよいよ、世界の各地にMSUの旗がひるがえる。それは、宇宙の理《ことわり》なのですから、避けようにも避けられないことです。   そのときには、あなたはシンボルとして、地球全土からの尊敬を集める立場にいるのです。神によって選ばれたエル・サルバドール、すなわちメシアなのだと前に書いたのは、そういうことなのですよ。   あなたも相当に回復したようです。   MSUが、世界があなたを待っています。   あせる必要はありません。あなたの過去は、私があなたに教えてあげるって言ったでしょう?   我慢して、私からの次の連絡を待ってください。   お会いできるのを、とても楽しみにしています。   それは、もうすぐ、もうすぐ、なのよ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]Kより  俺は、四回、手紙を読んだ。  病院に行く時もね、マフィアの手が伸びるのを気にしてたのよ。あの、時田とかいうやつが現われないかとか。  そうじゃなきゃ、公然|猥褻《わいせつ》罪とかで逮捕しようとして、警察が俺の様子をうかがってないか。  そしたら、こっちが来ちゃったの。エル・サルバドール。  私たちの研究所?  MSU?  何を言っているのか、まったく理解できなかった。  わかったのは、この前の手紙のときと同じ。俺の行動が、このKとかいうおかしなやつのグループによって、かなり綿密に監視されているってことだけだ。     40  トラックには、午前中の光があふれていた。 「ハイ」  コーチが手をたたき、それで軽く飛び出す。  五十メートルほど走っては、もどる。 「いい感じだよ、高橋。自分では、どうだい?」 「気持ちいいですよ、走るのは」  実際、快調だった。  俺のからだは軽い。  昨夜、コーチから電話があったんだ。また、トレーニングをやってみないかってね。  この前のことがあったからさ、俺、ちょっと返事をためらったんだけど、コーチが強く勧めるのよ。  そしたらさ、別に、他にしたいことがあるわけでもないじゃないの。  でも、いまはグラウンドに来てよかったと心から言える。  たっぷりジョッグをした。丹念なストレッチングのあと、俺はスタンディングのポジションからスタートする練習を始めた。  トラックを蹴《け》って走り出す、その感触がいいの。  大きなフォームでゆっくり走るようにというのが、コーチの与えてくれた唯一の指示。 「驚きだよ、本当のところ。運動というのは、ブランクがあると、それを取り戻すのはたいへんなのに。君のからだは特殊なのかな?」  俺はコーチの言葉に笑顔で応《こた》えた。  でもねえ、特殊なのは、記憶喪失だけで十分。十二人分ね。 「じゃあ、もう一本」  コーチが手をたたく。  俺は、右足でトラックを軽く蹴り、リズムをつけて走り出す。  すると、俺は風に包まれる。  俺は、感じていた。郊外の陸上競技専用のスタジアム。まぶしいほどの緑。そこに、自分のからだがしっくりとなじんでいるのを。  確かに、俺は記憶を失ってしまった。  しかし、俺のからだが覚えている気がした。そして、主張している。どこで何をするより、このトラックで走ることこそが、俺のすべきことなんだってね。  マフィアの動きだとか、店長や渡辺組のひとたちがその後どうしているのか、気にならないわけではなかった。それから、あれのほう、Kって名前の誇大妄想の手紙も。  それでも、俺はトレーニングに魅力を感じだしてるの。  陸上競技の選手として記録を目指すっていうのは、なかなかいいんじゃない? 毎日の目標ができるもの。  それがドクターの言うように「平凡な過去の選択」とは思わない。 「こんなに調子がいいんなら、クラウチング・スタートもやってみようか? 君は得意だったんだ。ただし、セーブして。そうだな、五十パーセントぐらいの力で」  コーチが、そう提案した。  そう言ったあと、変わったものを差し出してきたの。金属の棒の両側に部品がついている。 「一種のロケット・スタートだな、君のは。左右の足の間隔が短い。ぼくの理想とするスタートに近いんだ」  その説明を聞いてわかった。  よかった。俺の記憶はだいじょうぶ。  これは、スターティング・ブロックというものだったはずだ。短距離のスタートをするときに、両足を固定し、すべらないようにする器具だ。  俺は、ブロックを地面にセットした。  そして、しゃがみこんで、足を器具に合わせる。短い左右の間隔というのは、これくらいでよかったのだろうか?  見上げると、コーチが変な顔をしていた。何も言わない。  目が合った。  彼は、しばらくためらってから、 「高橋……。大丈夫か? 向きが逆だよ。もし、そのままそっちへスタートしたら、レーンはすぐになくなって、壁に激突だ」     41  ロッカールームに向かった。  俺のからだは、覚えていてくれなかったのだ。スターティング・ブロックを設置する向きを。つまり、それは、スタジアムの走路の方向さえ判断できない、ということだ。  コーチに言われたら、すぐに、わかったんだけど。  それは、ドクターの言っていた、手続き記憶とかいうやつの崩壊なんだろうか? あいつが例に挙げてた自転車の乗り方と、ブロックのセッティングはよく似てる。  記憶のピラミッドのいちばん下だとか言ってたよな。しかも、その手続き記憶が壊れていたらやっかいだって。  ドクターには、まだまだおかしなことが起こる、それを楽しめって前にも言われた。それが、こんなとこで出てくるなんて。  俺の名前の書かれたロッカーの扉を開けた。  着てきた服に着替えようとして、俺は手をすべらせてジャケットを取り落としてしまった。拾おうとした右手が、硬いものに触れた。  スーパーマーケットの袋に包まれた箱のようなものが、ロッカーのいちばん奥にあった。 「まあ、こんなところに。盲点だったわね」  俺の後ろで、ゆっくりと、息を吹きかけるようにささやくのは、振り返らないでも誰だかわかる。  間違えようがない、その独特な鼻にかかったような声は、サリナだ。     42 「これって……」 「そうよ。これがアレだったのよ」 「そんな、まさか、こんなもんが……」  サリナは、テーブルの上の箱から、ピンクのへにゃへにゃしたものを取り出した。 「何だと思ってたの? 覚醒《かくせい》剤? ピストル? それって、ありきたりな発想ね。それともサリンみたいな大量破壊兵器でも隠してるって考えた?」  道を来るスーツ姿の男が、サリナに注目していた。アタッシェケースを持ったサラリーマンふう。  ま、四歳以上で百歳以下の男だったら、たいてい、そうなるわな。  オープンのカフェにすわったサリナは、生地の薄い、からだにぴったりとフィットしたワンピースを着てるの。裾《すそ》が短いんで、脚を組んでいると、その大部分が露出してる。 「いやだわ。似ているわよね、サリンとサリナって。いま言ってみて初めて気づいた」  サリナの脚と胸の間を、男の視線はさまよってた。そうだよね、脚だけじゃなくて、胸だって谷間がほとんど見えているんだから。  だけど、サラリーマンの顔が急にハッとなった。サリナが手にしているものから目が離せなくなっている。  それは、ペニスなの。  オモチャのような、弾力のある、ピンク色のペニス。 「これは桝本組長のよ。彼のペニスの原寸大シリコン模型」  サリナは、くるくると回してみせる。 「ちっちゃいでしょ。あなたのと比べたらおお違い」  そんなもの、わざわざ比較しようなんて思いません。 「コンプレックスの裏返しなのかしらね、マフィアのあいだで巨根だっていつも自慢してたらしいの。それで、うちの組長ね、高原組長、あなたも会ったでしょ。彼が私を接近させて……」  サリナは思い出すようにして笑った。 「会ってられない間もしゃぶってたいからって言って、のせて型とって作っちゃったのよ」  顔の前に持ち上げ、ぷるんぷるんと振ってみせる。  俺は、いまにも、カフェの席で、サリナがそれを口に入れるんじゃないかと思った。 「ふたりは、歴史的にいろいろと対立があって。公共工事の利権をめぐっての争い。債権取立てで、かちあう。政治家のトラブル処理で、高原が桝本においしいところをさらわれたこともある。そのほかね、産廃処理にノミ行為。売春あっせん。町金融に総会屋稼業。ありとあらゆる敵対関係ね。駅前スナックのみかじめ料から、ゲーセンの裏での小学生へのカツアゲにいたるまで」  サリナは、口先で、ふんふん説明する。  その間も、ペニスの先端をいろんな角度から見てる。まるで、作品の出来をチェックしてる職人みたい。 「で、高原はね、忘年会の席かなにかで、おもむろに取り出すって予定だったの。これをね。大勢の組長クラスの前で笑い者にすれば、桝本は立ち直れない」  サリナはあくびをした。手でかくそうともしないの。もっとも、片手にはピンクのペニスがあるわけだけど。 「これで、一件落着ね。桝本のペニスが見つかれば、あなたも店長もはれて自由の身」 「店長は、あのあと、どうなったの?」  俺は、急いで聞いた。  それは、サリナに会ったときから尋ねたかったことだった。 「ああ。海で逮捕されて、まだ勾留《こうりゆう》中。あなたはよかったわよね、勇気があってピチピチの眉子叔母さんのおかげで」  叔母さんは、確かに勇気があるとは言えるんだろう。大型のバイクで砂浜を爆走して、俺を救出してくれたんだから。  でも、ピチピチっていうのは、眉子叔母さんにあってる表現か?  サリナのほうが、ピチピチというか、今日のワンピースはパツパツみたいなんだけどねえ。 「そんなおおごとにはならなくて、略式起訴で罰金刑で手打ちじゃないかしら」 「それでも、たいへんだなあ。留置所にいるなんて」 「うーうん、全然。マフィアに追われること思ったら、警察なんて天使みたいよ」  サリナは、シリコン製のペニスを箱に放り込んだ。  もう一度、大きなあくび。 「男って、やっぱりバカね。こんなものの大きさぐらいのことで威張ったり。逆に小さいのを暴露すれば、相手に恥をかかせられるって考えたり。すべての男根主義者に死を。メイル・ショービニズムに怒りの鉄槌《てつつい》を。もう、こうなったら、MSUよね」  俺は耳を疑った。 「いま、なんて言った?」 「え?」  サリナが聞き返す。 「なにって、えーと、すべての男根主義者に死を、だったかしら。それから……」 「そうじゃなくて、最後。いま言った最後のことば」 「えーっと……、MSU? 知らないの?」  俺は、言葉につまった。 「ちょっと知ってるみたいな。でも、結局、知らないような……」  それはあの、Kって署名で送られてくる手紙に出てきたやつじゃないの。たしか、「私たちの研究所」って呼んでたはずだ。  だけどさあ、俺は、あの手紙の内容は、信じていなかったのよ。だって、誇大妄想もいいとこで、エル・サルバドールがどうのこうのでしょ。  そのMSUが、実在するとは。  サリナは続けた。 「私、勧誘されてるの。キャンペーン期間中のいまなら、会費が半年無料だって。それに、入会すると洗剤とラップがもらえるの。ちょっと魅力的よね」  サリナは、俺の方に身を乗り出した。 「プラス、今月限りの特典」  耳打ちするように言った。 「友達ふたり紹介すると、支部長になれるんですって」     43  豆腐とコンニャクは切るだけでいい。ダイコンとニンジンは、皮をむく。  ネギは、なぜか斜めに刻む。水菜は洗って砂を落とすのに手間がかかるけれど、どんどんきれいになっていくのが面白い。 「私はアボガダになるつもりで、もちろん、いまもそのつもりだけど、このごろ日本研究にも興味を持ってきたの」  と宣言した眉子叔母さんは、本を買ってきて和食に挑戦しだした。 「私の両親は、あなたの祖父母にもあたるんだけど、もともと、コスモポリタンだった。外国暮らしが長くて、その土地での食事になじむから、日本食はほとんどなかったの、家では。だから、私にはとっても奇妙で刺激的」  俺も手伝ってはいる。でもね、知識の量は、全然変わらないし、手際は明らかに俺のほうが悪い。事故にあう前、俺は料理ってやつをしたことがなかったんだろうか。  涼しさを感じだした今日は、初めての鍋料理にチャレンジ。  テーブルにガスコンロをセットして振り返ると、眉子叔母さんは鍋から昆布を引き上げていた。大きなフォークを使って、結構、苦戦してる。  そう言っていいと思うんだけど、おだやかな日々が続いてた。  朝夕の散歩に社会見学を兼ねた買い物の外出。この前は、スポーツ観戦までした。(Jリーグの試合を見た叔母さんの感想は「まあまあね」だった)  食後のテレビや読書。  眉子叔母さんは日本での生活に慣れてきたし、俺は、結局のところ、「生活」そのものというか、生きていくことに、ともかくは慣れてきたの。  その後、ドクターが言ってたような、そんな変なことは起こってない。  俺は鍋つかみを使って、注意して土鍋を運ぶ。  これで準備はできた。  眉子叔母さんと俺は、食卓に向かう。いただきます、と日本風の挨拶。  まずは、野菜とスープをとる。ちょっと塩味がきついような気がする。  何が起きているのか、俺は、最初は気づかなかった。座ってる方向が、逆だったからね。どこかで音がしてるのは、感じたんだけれど。  叔母さんは、箸《はし》を(フォークではない。現在、食事中は箸を使う練習をしている)宙に浮かせたまま、呆然《ぼうぜん》となっていた。  眉子叔母さんの視線の方向を振り返ってみてわかった。バルコニーで窓をたたいている男がいたのだ。  ガラスをたたきながら、しきりに俺に合図を送ろうとしている。  やっぱり、変なことが起こっちゃった。 「だれ?」  叔母さんは、ぼそっと言った。 「店長」 「やっぱり。エル・チノね」  まあ、そんなところから登場するのは、マフィアの関係者ぐらいだろう。  でもねえ、この前の病院のときは、五階だった。ここは十六階なんだけど。 「入れてあげて。ノー・プロブレム」  眉子叔母さんは、俺をうながす。 「まったく、問題はない」  叔母さんは断言した。 「今夜の鍋は、たっぷり、三人分はあるから」     44 「これはこれは、おふたり、おそろいのところお邪魔して」  店長は、丁寧に挨拶する。 「はじめまして。高橋進の叔母の眉子です」  叔母さんは、立ち上がってそれに答える。 「こちらこそ、はじめまして」  店長は、うやうやしくお辞儀をする。 「初めてだけれど、話はいろいろと甥《おい》から聞いています」 「あっ、いや、私も、サリナから聞きました。叔母さんのたいへんな活躍」 「サリナには、遊びに来るように言ってください、もっと気軽にと。友人なのだから」  どこかのホテルのパーティ会場での会話みたいだった。  バルコニーからの突然の侵入者を迎えての席で、三人の真ん中には、湯気をたてている鍋がある。  店長も、それに気づいたみたいだった。テーブルに目を走らせた。  今夜は、魚すき。 「よろしかったら、ご一緒にどうぞ。」 「それは、ありがたいです。ふぜいがあります。お鍋。高層マンションの壁、よじのぼるのは、意外に冷えましたです」 「お口にあいますかどうか。未熟な腕です。ソパ・デ・アホかパエージャの用意でもあれば」  それで、俺たちは、眉子叔母さんと店長と俺は、鍋を囲むことになった。 「実は、私、今日はリクルートに来ました。店の仕事に復帰したのです。高橋さん、もう一回、働く気はありますか?」  店長は、最初の半分は眉子叔母さんに、あとの半分は俺に向かって言った。  俺は、とっさに返事ができなかった。だって、それは、俺の選択肢として、まったく考えにないことだったもの。  もっともね、だったら、俺は何をしたいのか。陸上競技のトレーニングは、遠ざかってる。スターティング・ブロックの件以来、なんか気持ちが向かないのよ。  何をするかってのは、記憶喪失者としての俺の究極のテーマだよねえ。 「よかったら、叔母さんも、一緒に働きますか? すごく人気出ると思います」  俺が黙っていると、店長は眉子叔母さんに勧めた。 「ええ。ちょっと興味はあるわ。日本研究の一環として。でも、マフィアとの関わりは弁護士のキャリアとしてはマイナスになるし……」 「冗談です。冗談。最近の法運用は、年齢制限に関してだけは厳しいのです。十五歳を雇ったりしたら、また警察のお世話です」 「私の年齢も知ってるのね」 「あ、その話題は、レディに関しては失礼でしたか」 「それより、あなた、警察のお世話って、あなたはチノ、シノワ、ええと、中国人でしょ。不法入国じゃなかったの? 永住権でも持ってるのかしら」  そうだ。その問題もあった。こいつ、強制送還になってない。 「しーっ」  店長は口の前に人差し指を立てた。 「私、純粋のニッポン人あるね。生まれも育ちもニッポン。中国人のふりすると、裏社会で有利あるね。ニッポン人、みんなバカ。差別意識強い。それ、逆手にとるね。ドコ、カネ、アルカ。カネ、カネ、キンコ」  店長ったら、急にカタコトがきつくなってる。  眉子叔母さんは、あきれた、というように口をあけた。 「次に会うときは、あなたはイスラムに改宗してるのかしら。それともユダヤ?」 「ユダヤ人のメリット、私、よくわかりません。研究します」  そんなふうにして、食事の時間は流れていった。とても、友好的に。  食べ終わると、眉子叔母さんは、 「ふたりだけで話したいことが、いっぱいあるでしょ」  と微笑んだ。 「アカデミー男優賞にノミネートされたふたりなんだから」  店長と俺は、顔を見合わせる。  たっぷりの皮肉だ。  眉子叔母さんが片付けをしてくれる、と言うので、俺たちはお茶を持ってソファに移った。 「アレが出てきてよかったです。よかったですけど、あなた、なんで、スポーツクラブのロッカーに隠しましたか」  店長がささやく。  俺は、首を振る。  交通事故にあう前のことは覚えていない、すべてのエピソード記憶が失われてるってことに、俺はすでに慣れていた。  でも、他のひとは、そうでもないのね。ロッカーに入れておいた理由を聞こうとするなんて。 「私、考えてもみませんでした。盲点。ということは、それだけ、うまい隠し場所だったのかもしれません」 「だけど、そのせいでAVやって、また、そのせいで警察につかまって、たいへんだったよな」  俺、本当に店長に同情してたのよ。  だって、逮捕されたのは、ある意味で、俺のせいでもあるわけじゃない。眉子叔母さんが、俺を助けるために警察に通報したんだから。 「ニッポンの留置場、どうってことありません。お金とコネさえあれば、なんとでもなります。酒もタバコも好きなだけ。私にしたら、警察のおかげであなたにバージン捧《ささ》げないですんでよかったです。あのままいってたら、あなたにやられて私の肛門《こうもん》バカバカ」  店長は天井を見上げ、とても恐ろしいって顔してる。  いや、俺だって、そんなこと、別にしたいわけじゃないよ。店長の肛門に興味はないって。 「高橋さん、すばらしい巨根の持ち主ですから」  まだ、そんなこと言ってるの、尻《しり》を押さえて。 「すべての男根主義者に死を」  俺、つぶやいたの。意味はなかったけど。 「MSUですか」  店長が、表情も変えずに言った。つまらなそうに。 「知ってるの?」 「最近、話題です。店の女の子たち、よく話してます」 「なんなの、MSUって」 「え? あなた、知っているのでしょう。その、男根主義者がどうのこうのって、MSUのスローガンです」 「らしいんだけどな。でも、知らないんだ、MSUがなんなのか」  変な会話。 「私もよく知りません。たぶん新興宗教かなにかでしょう。水面下で勢力を伸ばしてるとは聞きます。中国でも結社は大切あるね。みんなで団結すれば、助け合いができます。中国人、いつも、仲間、大事にする」  おまえ、さっき、生粋の日本人だって言ったばかりじゃないの。  店長が、俺のほうに向かって、姿勢を低くした。洗い物をしている眉子叔母さんの背中を気にしてる。 「そんなことよりですね、私、おかしなもの見ました。あの叔母さんと、あなたが入院してた病院のナースが、ふたりで会ってました。そのこと、高橋さん、聞いてます?」 「いや。全然」 「でしょうね。やはり、怪しい」 「けど、店長、眉子叔母さんのこと、知ってたの? 今夜、初めて会ったのに」  しーっ、と店長は、人差し指を口の前に立てた。  叔母さんに聞かれないように、小さな声で、 「あなた、マフィアみくびったらいけません。当然、叔母さんのことは日本に到着したときからチェックしてました。それよりですね」  店長は、なおも声を潜めた。 「ふたりが変な雰囲気だったのです。ホテルのロビーだったんですが、明らかに人目を忍んでました」  首をかしげたまま、店長はしばらく黙っていた。 「まるでヤクの取引です、あれでは。すれ違いざまに、ナースが叔母さんにフォルダーのようなものを渡しました」  店長は、叔母さんをうかがった。 「病院と叔母さんとで何かあります。かなり重要な件。ふつうに考えれば、それは、あなたに関することです」     45  店長は最後まで礼儀正しく、眉子叔母さんにも丁寧な挨拶をしてから帰っていった。今度は窓じゃなくて、ちゃんとドアから。  結局、店長のリクルート活動には、俺は保留の返事をしておいたの。 「いつでもその気になったら、よろしくお願いします。副店長のポスト、あけておくあるね。女の子たちも待っています」  とか言っていたけど、本当のところ、そんなに熱意はない感じだった。  店長が来た目的は、あくまでね、留置所から出られたことの報告。  それから、例のアレが俺のロッカーから発見された件もあったよね。店長が属しているマフィアの高原組、そこの内部での問題が片付いたのをふたりで確認できた。  つまり、もう、あの威張った時田に追われたりはしない。よかったよ、ホント。もちろん、AVの撮影の仕事だってしなくていいし。  でもさあ、俺にとっては、ここで新たな問題が生じちゃったわけじゃない。店長が小声で持ち出した、眉子叔母さんの動きが怪しいという話題。  そんなの、いったい、どう考えたらいいんだ?  叔母さんは、バルセロナからわざわざ日本にやって来てくれた。俺の実の母親の代わりに。そして、記憶を失った俺の日常生活の面倒を見てくれている。  そのことにはさ、俺は、実際、とても感謝してるのよ。あまり、口にはしてないけど。  でもね、いま、俺が眉子叔母さんと店長のどちらを信頼するのかとか言われたって、それは選択のしようがない。  実はね、叔母さんと病院が俺には内緒に接触している可能性っていうのは、あり得ないことではないと思うんだ。  以前から、気になっていたのよ。俺が過去を話題にしたときの、叔母さんのそっけなさ。  何も知らない、ってはねのけるように言うでしょ。それで、ジャスト・リメンバー、思い出したら? あとは、あなたは未来に生きるべきだ、そう言って、口癖みたいな切り口上で、常に話を終えようとする。  単に、アボガダを目指している叔母さんの個性だとも言える。けれど、そういう態度って、何か隠しているんじゃないかって思う時が、ないわけでもなかったのよ。  でも、眉子叔母さんが、もし知っていることがあるのなら、なんで俺に秘密にする必要があるんだ? その理由が、まったく見当もつかない。  あのね、もうひとつ、気づいてたことがある。  これは、店長の話を聞く前からなんだけど。  叔母さんが、日によってね、深刻そうだったり、楽しそうに明るくしてたり。なんだか、不安定。  しかも、それを隠そうとしてる。自分がいま変な状態になってたりするのを、見せないように、とりつくろうと努力をしてるように、感じてたの。  考えごとをしてる時間も増えてるよね。  食事中に、返事がもどってこない。ソファで放心してたのか、俺がリビングにはいっていくと、ビクッとしたりね。  よく部屋にこもってるのは、パソコンに向かっているのか。  妙なことになってきちゃったなあ。  テレビ見ながら、叔母さんは、あくびをしている。予告もなく現われた店長に対して立派な大人の応対をしていたけど、やっぱり疲れたのかな。  でも、そうやってるとね、ただの無邪気な十五歳の女の子に見える。     46  曲がり角では、ひと呼吸おくの。それで、間合いをはかって、そっとのぞいてみる。さっきは、振り返られた気がしたんで、思わず顔ひっこめちゃった。  何してるのかって? 尾行に決まってます。もちろん、眉子叔母さんの。だって、他に手を思いつかないんだもの。  いざ、やってみると、適当な距離をとるのがとても難しいの。近かったら絶対バレるし、あまり間があると見失いそうだし。  今日は、朝からいい天気だった。叔母さんも、ご機嫌。 「夕食までには帰るわ。あなたも、お昼、適当に食べるでしょ。百ユーロするような、ここのルームサービスはおすすめじゃないけど」  この世の中で生活していくのに、俺もずいぶん慣れてきた。ひとりでほうっておけるって、叔母さんも思うようになったんだろうね。このごろは、結構、別々に行動してる。  だけど、朝から一日出かけるって言われたら、気になるじゃない。わけのわからない店長の目撃情報があったんだから。  玄関で叔母さんのこと見送ったあと、俺も急いで仕度して外に出た。  で、いざ尾行を始めたところ、眉子叔母さんたら、用事があるのか、ないのか。  花屋の店先で立ち止まったり。小さな町の本屋にはいったと思ったら、三十分ぐらい出てこない。  ただ、ぶらぶらしてるようにしか見えないの。こういう尾行はマフィアのみなさんでもしんどいんじゃない?  公園のベンチにすわって買った本読み出したときには、俺、なんでこんなことしてるんだろうって思ったね。だって、公衆便所の陰から叔母さんのことじっと見張ってなきゃならない。  クサイだけじゃなくて、脇の道歩いてきたオッサンに、思いっきり不審そうな顔されちゃったぜえ。  ひとがあまりいない午前中の公園。  俺の視線の先には、ミニスカートの脚を組む眉子叔母さん。光を浴びながらページをめくってる姿は、雑誌のグラビアみたいで、なかなかいいのよ。  これって、尾行っていうより、ほとんどストーカー?     47 「何か専門に運動をされてるんですか?」 「あ、ええ。陸上競技をちょっと」 「そうなんですか。どうりで。立派な体格をされてますものねえ」  受付のお姉さん、感じいいの。  ちょっと高い透き通った声が、上品なのよね。サリナとは、また、全然、違ったタイプで、なんていうか、さわやか。  世の中には、こういう女のひともいるんだから、俺、交通事故で死なないでよかった。記憶はなくなっちゃったけど。  公園のベンチから立ち上がった眉子叔母さんは、向かいのビルにはいっていった。  ちょっとタメをつくって、よくわかんないんで、ええーいとばかり、俺も自動ドアを通った。すると、まずいことに、叔母さんの姿はどこにもない。  俺がキョロキョロしてたら、 「見学の方《かた》ですか?」  フロントのカウンターから、女のひとが話しかけてくれたの。困ってる俺を元気づけようとしてくれているみたいな、やさしい声。  この建物は、スポーツジムだった。  で、パンフレットを広げて、設備や会費のシステムだとかを説明してくれた。俺は、お姉さんの髪の分け目だとか、襟もとで結ばれたリボンだとか見てるだけで、ほとんど、うわのそらだったんだけど。  それで、スポーツ経験を質問されたの。実際のところ、自信もって陸上してるとは、とても言えない。勢いで、ついそう答えちゃった。 「でしたら、マシンで補強のための筋力トレーニングをされたいとか? それとも、スイムが目的で?」 「あ、うーん。気分転換に、いろいろしてみたくて」  本当の目的はね、叔母さんの尾行です。  銀行員みたいな制服を着たお姉さんは、にっこり微笑んでくれた。 「そうですよね、エクササイズにはバリエーションがあったほうが、障害を起こすことも少ないですし。今から、施設を見学なさいますか? ご案内しますわ」  と、いうことで、館内を歩き回ることになってしまった。  これって、いいのか悪いのか。叔母さんをさがすことはできるんだけど、逆に見つけられてしまうとねえ。  まずはパウダールーム。  お姉さんは、ドアに手をかけて、俺にどうぞって勧める。シャワーにロッカーがあって、着替えたりするところだった。ここは、もちろん、男だけ。眉子叔母さんがいるはずないから、見るふり。  次に連れていかれた部屋では、器械の動く帯の上を走ってるひとたちがいた。横では動かない自転車こいでる。  なんか、変だね。  これなら、外のトラックを走ったほうがいいなって考えたら、コーチのこと思い出しちゃった。  次に、ずらっとマシンが並んだところ。叔母さんに見られないかって、歩いててもヒヤヒヤよ。  でも、この部屋には、あんまりひとはいなかった。 「アメリカ製の最新のマシンです、これは。当ジムが日本で初めて導入したもので、設置されたばかりなんですが、試しにやってみます?」 「はあ」  お姉さんが熱心に説明してくれるんで、ベンチのようなところにすわることになった。両手でバーをつかんで引っ張るようにする。 「あっ、すごい」  お姉さんが、言った。 「え?」  さっきまでの、俺のことお客様あつかいしてた口調が、変わっちゃった。  俺、バーを、また、引っ張った。  えい、えいって、数回ね。 「そんな、軽くやって……、初めてなのに……」  お姉さんたら、絶句。  入会させたくて、大袈裟《おおげさ》なこと言ってるんだろうって思ったら、そうでもないみたいね。目をまーるく開いてる。  いきなり寄ってきて、バーを放した俺の右腕、二の腕に触れた。 「立派な筋肉ね。私、筋肉フェチなの。特に、ひらめ筋」  それって、どこの筋肉? お姉さんの視線は、こころなしか、俺の股間《こかん》に向かってる気がする。  なんか、興奮してるみたいで、目が潤んできちゃってる。清純派じゃなかったのかしら。  俺、今日は、大切な任務があるんだけど。     48  眉子叔母さんは、プールにいました。  高いところから見学してても、すぐにわかった。泳いでるひとたちのなかで、いちばん目立ってるんだもの。  水しぶきをあげないクロールが、なんていうか、しなやかな感じ。結構、速い。運動神経、いいみたいね。  ターンも、とてもきれい。壁を蹴ると、からだがすっと伸びて距離が出る。  ひと回りした俺は、お姉さんとロビーの横のジュースバー。健康にいいっていう難しい名前のドリンクをご馳走《ちそう》になった。 「今日は、見学していただきありがとうございました。ぜひ、入会をお勧めします」  透き通った声。元のさわやかな笑顔にもどってる。  俺は、案内してくれたお礼を言って、立ち上がった。  入口の自動ドアまで送ってくれる。  お姉さんたら、顔を寄せて、俺の耳にささやいた。 「入ってくれるっていうんなら、私も入れてあげるわよ」 「はあ?」  ほとんど、サリナと同じタイプじゃないの。 「ふふ。いまのは、秘密。ジムに入れば、あなた、ひらめ筋だって強化できる」     49  俺、公園で待ってたの、叔母さんが出て来るのを。  何もしないでいるのも退屈なんで、ベンチ使って腕立て伏せ。シットアップで腹筋を鍛える。コーチに教わったストレッチングもまぜる。  なんか、さっきのマシンに刺激されちゃったみたい。俺、からだ動かすのは気持ちいい。ベンチに腹ばいになって、首の後ろで手を組んで上体を起こす。  グッグッと、力をこめてそらす、背筋のトレーニング。  こういうののやり方を覚えてるっていうのは、手続き記憶がだいじょうぶってこと? でも、思い出せないこともある。どこにあるんだろうね、ひらめ筋。  背筋に力を入れて上体を持ち上げたら、叔母さんが出てくるのが見えたから、あわてて起きた。  尾行の再開。  俺、実際のところ、めんどくさくなってきてたのよ。  でもね、後ろからついて歩いていて、またもや意外な発見をしてしまった。  眉子叔母さんたら、スタイルがいいの。後ろ姿のヒップが、キュッと高い位置にあって。  いままで、一緒に暮らしてて、そんなこと考えたこともなかったね。水着を見たせいかな。なんか、バランスがよくって、てきぱき早足で歩く姿がきまってる。  そりゃ、まあ、サリナや、よくわからないけど、さっきのジムのお姉さんみたいな成熟した魅力はない。  こどもじゃないの、こども。  結局、FBIだとか警察だとかスパイ、それにマフィアみたいなやつらも、同じかもしれない。追いかけてる相手に、愛着を感じちゃったりするんじゃないかな。  最初のうちは憎んだりしててもね、尾行してて意識を集中するっていうのは、ずっと、その対象のことを考えてることになる。そうすると、自然と恋愛感情に近いものを持つようになってしまう。  うーん、俺、すげーこと思いついたな、もしかしたら天才かなって考えてたら、叔母さんを見失ってしまった。  駅の近くでひとが多くなってる。  あわてて交差点を曲がった。そしたら、驚いたね、派手なピンクののぼりが何本も目に飛び込んできた。  その、のぼりっていうか、旗みたいなものには、大きなロゴ・マーク。 (挿絵省略)  あの、MSUだよな、たぶん。  駅の改札口の近くのロータリーには、トラックがとめられてて人だかりがしてる。  こんなに大勢いたら、たいへん。眉子叔母さんはどこにいるんだ?  いきなり音楽が流れ出した。トラックの荷台の部分は開いてステージになっていて、おそろいのピンクの服の女たちが踊る。  全員が同じ振り付けで、跳ねながら叫ぶ。  よく聴いてみると、 「We Are The MSU」  とか、歌ってるみたい。  すげー、ぶさいくなダンス。  なんだ、これ?  俺、あきれてながめてた。  そしたら、眉子叔母さんが視界を横切った。トラックの脇のあたり、ピンクののぼりを持ってる女のところに、近づいてく。  俺、急いで、そっちのほうへ行こうとしたのよ。  その瞬間、目の前が真っ暗。  倒れそうになったのを、後ろから抱きとめられた。  いってえなあ。  殴られちゃったのね。     50  気がつくと、ガンガン音楽が流れていた。  すごいボリューム。頭が割れそう。こんなの聞かされるんなら、もう一回気絶したいくらいだぜ。  上がったり下がったりする歌声。どこかで聞いたことがあるような……。 「おい、高橋、目が覚めたか」  男の低い声。  名前、わかってんの。  て、ことは、誰かに尾行されてて、襲われたのかしら。(俺の尾行してた叔母さんは、どうなった?) 「いいか、おまえは、完全に我々の組織の手に落ちた」  目の前は真っ暗なままなんで、俺、失明したのかと思った。  そしたら、目隠しされてるの。しかも、両手と両足を縛られて、口には、これはガムテープか?  この男は、なんなんだ?  我々の組織って、また、マフィアが現われたのかね。アレは見つかったんだから、借りはないはずなんだけど。 「いいか、二度とMSUに近づくな」  ドスのきいたセリフ。  なんだって? 「高橋、MSUは悪の組織だ。やつらは世界征服をたくらんでいる。おまえにだって、それはわかるはずだ」  何、言ってんだ? わかるはずないだろ。  悪の組織?  世界征服?  だいたい、俺はさあ、MSUなんて、全然、知らないんだぜ。近づこうとも、してない。むしろ、変な手紙もらって、迷惑なくらいなのに。  おかしなやつが、出てきちゃった。  せめて、口がきけるようにしてくれたら、教えてあげられるのにね。 「わかったな。おまえがMSUの活動を行うことは認めない。我々、KSIは、断固として認めないぞ」  え?  なんなのよ、その、KSIって。  まいったなあ、MSUだけで十分ややっこしいのに。  曲が替わった。  前奏に続いて、朗々と張り上げる、突き抜けるような歌声。  俺は気づいた。これは、あの、キタジマサブロウだ、きっと。     51  両手を動かすと、なんとかほどけそうだった。  草と土のにおいがしてる。  なんか、ホッとしたね。  だって、俺、さんざん音楽を聞かされて、いろんなこと言われた。あのKSIとか名乗ってたやつに。もう、気い狂うくらいね。  そのあと、目隠しのままクルマで運ばれた。で、どっかに放り出されちゃった。雰囲気からすると、原っぱみたいなところなのかな。  しばらくもがいてたら、手を縛っていたロープがほどけた。  目隠しをはずすと、驚いたな、原っぱどころか、えらい山の中なんじゃない? 草が茂ってる空地みたいなところに、俺、ひとり。  見上げると、あたりは、木と空だけ。  どうしようかと思ったけど、アスファルトの舗装道路が木と木の間に見えたんで、そこに出てみた。  さて。  俺、まず、からだをほぐした。なんてったって、長い間縛られてたから、固まっちゃってるの。口のまわりは、ひりひり。  方向は、ふたつにひとつの確率。もちろん、ちょっとでも下ってるほうを選んだ。  もう、夕方になってた。山道をとぼとぼ歩いてるのって、結構、心細い。クルマも通らない。  で、十分も歩いたら、家がたくさん見えた。分譲地のようなところ。それで、客をおろしてるタクシーがいたんで、近くの駅まで行ってもらった。  そしたら、びっくり。なんか見覚えがあるなあって思ったら、病院のある駅なの。だから、そこからは簡単。  アパートメントのドアを開けると、 「お帰りなさい」  叔母さんが出迎えてくれた。 「遅かったわね。今日は何をしてきたのかしら。新しい発見はあった?」  笑って、そう言った。  眉子叔母さんは、尾行のときの上着にミニスカートとは、違った服を着ていた。スウェット素材のね、ふつうの家にいるときのスタイルだ。 「ちょっと待って。すぐに、ご飯の用意ができるから」  振り向いてリビングに歩いていく後ろ姿を見て、心臓がバクバクした。  変だぜ。  どうってことはないはずだ。前を行くのは、いつもの眉子叔母さんだ。  いったい、どうなってるんだ?  初めは、俺のからだに何が起こっているのか、理解できなかった。  信じられない。  俺ったら、勃起《ぼつき》してる。     52 「黙りがちなのね。疲れてるのかしら」  眉子叔母さんの声は、遠くから響いている気がする。  俺の脚が動いて、俺のからだをキッチンに運んでいく。俺の手が動いて、前に伸びる。俺の両手が、セロリを手に持っている眉子叔母さんの両肩をつかんだ。 「なんなの? ふざけてるの?」  叔母さんは、前を向いたままだ。  俺の頭の中でささやく声がする。 �眉子を犯せ�  俺のからだが、自動的に動く。  叔母さんの背に、からだを押しつける。立ちっぱなしのペニスが、布地越しに眉子叔母さんの存在を感じる。  頭がズキッとした。 �眉子を犯せ� �眉子を犯せ� �眉子を犯せ� �眉子を犯せ�  だんだん、大きくなる声。  叔母さんはセロリを落とした。 「どうしたの? そんな、真面目な顔して……」  上体をひねって振り向いた眉子叔母さんの目は、驚きで見開かれている。  しゃべりかけた叔母さんの唇を、俺の唇がふさいでいた。  俺の両腕が、眉子叔母さんのからだを回転させる。唇はそのままに、真正面に向きあう。 �眉子を犯せ� �眉子を犯せ� �眉子を犯せ� �眉子を犯せ�  どんどん、声が大きくなっていく。  何、言ってんだよ。  俺は、頭の中の声に抵抗しようとする。眉子叔母さんを抱きしめようとする自分の力に、両腕にはいる力にあらがう。  俺は、かろうじてこらえることに成功する。  俺の唇に、叔母さんの唇に力がはいるのが伝わってくる。押しもどすような動き。  叔母さんの両手が、俺の胸をつきかえした。  ふたりの間にスペースが広がる。 「ここまでにしてよ」  叔母さんの声は、いつもよりは低く聞こえた。 「私も、あなたに好意を持っていないわけではないわ。一般論として。でも、あなたの際限のない欲望の対象になるつもりはない」  眉子叔母さんは下を向いているから、俺には頭しか見えない。初めて気づいたね、ふたりの身長は、こんなに差があったんだ。 「そうね、その一般論では、あなたと私は、いまのところ、甥《おい》と叔母の関係なのだし」  下を向いたまま、言う。  それをかき消すように、俺の頭の中の声が、ひと際、大きく響く。 �眉子のマンコ� �眉子のマンコ� �眉子のマンコ�  俺の頭の中で、誰かが叫んでいる。  そんな、きたねえこと、言うんじゃねえよ。  眉子叔母さんの肩に置かれたままの俺の両腕が、震える。勝手に動きだそうとするんだ。叔母さんをひきつけようとする。誰か、他のやつの力が、俺を動かす。  全力でね、俺は、頭の中の声と、からだにはいる力に抵抗し、すべてを振り払おうとする。  俺は、頭を抱え、うずくまってしまう。  叔母さんの足もと、俺は、頭を強く振る。  なんとかして、この声から脱却しなくてはならない。俺の目に、涙がにじんでくるのがわかる。 �眉子を犯せ� �眉子のマンコ�  叔母さんの手が、軽く俺の頭の上に置かれた。 �眉子を犯せ。いいか、オンナに頭はない。突っ込め。突っ込め。眉子のマンコ�  頭の中の声は、だんだん小さくなっていく。眉子叔母さんの手が、外からの声を静めてくれる。  でもね、耳に残るその言葉に、俺の脳の奥のほうが反応した。  同時に、縛られていたときに嗅《か》いだコロンが、鼻によみがえってくる。そのときにも、どこかで知ってる香りだとは感じていたのだ。  俺は、叔母さんの足もとにすわったままだ。頭の上に置かれているのは、俺の心にビンビンと響いてくるその感触は、眉子叔母さんの手のひらだ。  わかった。俺を拘束した、KSIと名乗っていたやつは、あのケンさんだ。  間違いない。  で、これは、俺の行動を支配しようとするこれは、ケンさんが俺にかけた催眠術か何かなのか?     53  郊外へと向かう電車に乗った。  今朝、眉子|叔母《おば》さんは、いつもと同じ。何もなかったかのように、振る舞ってくれていたのだろうか、努力して。  それとも、スペインでなら、あのくらいは挨拶《あいさつ》がわりとかで、どうってことないのか。  そんなことは、ないわねえ。  あのあと、俺、夕飯食えなくなって、部屋にひきこもっちゃったもん。態度がおかしいって、わかる。  それでね、叔母さんがふつうにしてるんで、俺は、かえって説明ができなくなってしまったの。ベッドの中で、いろいろ考えてから起きたんだけど。  何についての説明かっていうと、その、前の日にKSI(いったい、ケンさん、何をしてるんだ?)とかいう団体につかまったってこと。たぶん、そこで催眠術らしきものをかけられたんで、あんなこと(どんなこと?)をしそうになった。  いつもの朝のように、叔母さんは笑顔でコーヒーをいれてくれた。当たり障りのない会話。  いちばん心配していた頭の中の声は、その後、再び聞こえてくることはなかった。  でもね、変。  叔母さんのことが、まぶしくって、見ていられない。パン食ってても、なんか、胸がドキドキしちゃう。なんなんだろね、声はしないんだから、たぶん催眠術は解けてるはずなのに。  それだけじゃなくてね、そばにいなくてもさ、同じアパートメントの中に眉子叔母さんがいるってわかってるだけで、意識しちゃう。  落ち着かないの。まったく、中学生の女の子じゃないんだぜ、俺は。  結局、KSIにつかまって、俺の脳は、また、いかれちゃったのかね。  それで診察を受けに行くことにしたの。  ドクターは、一応、脳の専門家なんだろうから、催眠術のことだって、少しは知ってるはずだ。まあ、叔母さんが言うように、あまり、あてにならないやつではあるんだけど。  昨日とは全然違って、やな天気。  朝から小雨が降り続いてた。ふつうなら、そうは外出したい気分の日じゃない。  でも、俺が出かけることを、眉子叔母さんはおかしいとは思わないみたいだった。 「あなたがどんどんひとりで行動できるようになるのって、成長よね。またマフィアに拘束されて、危険な目にあってほしくはないけれど」  それは、絶対、だいじょうぶです。今度の相手は、マフィアじゃなくって、KSIですから。  エレベーターに乗ってから、「成長」ってのは間違ってるって気づいた。こどもじゃないんだ。俺の場合は、「回復」って言ってほしい。  もうひとつ、気づいたのは、眉子叔母さんのほうでも、俺が外出するんでほっとしたんだろうってこと。やっぱ、昨日の夜があるもんなあ。  電車の二十分はあっというまに過ぎて、目的の駅に着いた。昨日、タクシーで乗り付けた、あの駅ね。     54 「なに、催眠術だと? これはまあ、なんてことを言い出す。君は、催眠術をかけられるようになりたいのか? だったら、その指導は、私にはできない。なに、違う? 早く言いたまえ。 「一般論として、催眠について知りたいのか? 催眠の歴史は古いぞ。催眠たって、眠っているわけではない。一種のトランス状態にあるのだ。 「宗教的儀式、秘儀だとか奥義だとかの多くは、このトランス状態に持ち込むことがポイントだ。薬物を用いる場合もあるし、護摩《ごま》をたくなんてのも、それに至る手段だ。 「自己催眠によるのが、禅やメディテーション。無我の境地とかいうのは、その仲間だな。そう、すべての宗教は、そんなもんだ。 「いや、私は宗教を否定してないぞ。科学が万能などと思ったこともない。ふん、そんな思い上がりは、私にはない。 「いまの日本の政治だって、人民が話し合って衆愚に陥るよりは、トランス状態になった巫女《みこ》のご託宣のほうが、結果として、よほどうまくいくやもしれぬ。ハッハ。これは、いい。ハッハ。 「なに、君が聞きたいのは、そんなことじゃない? じゃあ、なんなんだ。はっきりしたまえ。え? なんだって? 「知らないやつに催眠術をかけられたみたいだって? ハッハ、ハッハ。なんと馬鹿げたことを。マジックショーでも見たのか? それとも、テレビの深夜のバラエティか? 「知っとるぞ。あなたは術にかかりました、手をたたくと目が覚めお風呂にはいります、とか言って女優を脱がす。トリックは馬鹿げてるが、あの手の番組は楽しいな。 「違うって? え? おや、なんてこった。ハッハ。いいか、断言するぞ。そんなことはあり得ん。施術者と被施術者のあいだで信頼関係がない限り、催眠は成立せん。催眠による心理療法は、慎重な手続きのもとに行われるんだ。 「初めて会った知らない通りすがりの男に(女にか?)催眠術をかけられる。ふん。おまえは、アニメファンか。愚か者が。大昔の推理小説でも読んだのか? 「音楽を聞かされて、言葉を繰り返されたって? そんなもんは、催眠じゃない。ご立派な名前をつけようとしたとしても、マインドコントロールがせいぜいのところだ。 「しかしな、マインドコントロールというのなら、この世のすべては、マインドコントロールでできている。これは真実だ。 「たとえば、テレビのコマーシャルを考えてみろ。海辺でビールをうまそうに飲んでる若者が映るとするな。そうすると、私は、その時点でしていることのすべてを放り出して、ビールが飲みたくなる。つまり、マインドコントロールだ。 「外国タバコのコマーシャルを思い出せ。タバコを吸っている男は、セクシー美女軍団にモテモテだろう。うん? なんだ、その顔は。最近は、モテモテとか、あまり言わんのか? 「ともかくだな、タバコに火をつけた男のところには、プールから上がったばかりの、水をしたたらせたビキニのセクシー女がやってくる。そして、白いシャツを着た男の首に、濡《ぬ》れた腕をからみつかせる。そのように、決まってるんだ。 「するとテレビを見ている男たちは、自分もそのタバコを吸いさえすれば、あの美女が手にはいるって感じる。たちまち売上げ倍増。お見事なマインドコントロールだろうが。これを催眠術だって言い張るなら、おまえの勝手だ。 「単純すぎるって? ばかか、おまえは。いま言った事は、心理学の世界では常識だ。コマーシャルの作り手は、意識的にやっていることなんだぞ。 「テレビに限らん。すべてのメディア、映画も本も雑誌も、日々流される音楽も、電柱に張られた風俗産業の広告も、マインドコントロール。我々はマインドコントロールの世界に生きている。 「医療だって、ひとつのメディアと言えないこともない。私は、毎日、臨床の現場で、マインドコントロールを実践しているんだ。おまえに対して、いま、やってるみたいにな、ハッハ。 「いいか、結論を言うぞ。おまえが催眠術をかけられたなどという自覚があるようなら、それは、その言葉の厳密な意味での催眠ではない。 「おまえの話だけでは判断はできかねるが、そう呼ぼうと思えば呼べるような、一種のマインドコントロールに出会ったのかもしれぬ。 「ところがだな、これまで説明したように、我々は常に、二十四時間、三百六十五日、マインドコントロールの海に浸って生きている。その結果として、他者からコントロールされて生じた事柄と、自分が心の底から願っている事との区別は、もはや本質的にはつかんのだ。 「これは、誰にあっても、そうなのだ。大人もこどもも、男も女も、天皇だって、ホームレスだって。なんてくだらない、恐るべき真実。 「メディアという神が創出したマインドコントロールの海を漂流する、我々、現代人の宿命だ。もはや、本能に従って生きるすべを失ってしまった我々の。 「ところで、なぜ君は、催眠術をかけられたなどと感じたんだ? そこには、どんな出来事があったんだ? さあ、話してみたまえ。さあ。 「そして、マインドコントロールをされたらしい君は、どんな行動をとろうとしたんだ? もちろん、その行動こそが、かねてから君が強く願っていた、本当にしたいことだったのかもしれないのだがね。言いなさい、それを。 「君は、何をしたんだ? ほら、言わんか」     55  雨は上がっていた。  それだけでも、よしとしなくちゃ。  病院の出入口から門までは、結構、距離がある。  今日、診察を受けに来たとき、いまたどっているのと逆に歩いていて、病院の建物が意外に古びている気がした。天気が悪かったせいもあるのかもしれないけど。  俺は、前のように病院に親しみを感じることはなくなっていた。事故のあと、ここで、ひと月以上の時間を過ごしていたなんてね。  ドクターは、「マインドコントロール」について、しつこく聞いたけれど、俺は、答えなかった。絶対、眉子叔母さんに襲いかかりそうになったなんて、口にしたくない。  病院の門を出て、コンクリートの塀に沿って歩き出したときだった。  肩をたたかれた。 「ずいぶんと久し振りね」  誰なんだ?  かなり派手な服の女。  こうやって、記憶をなくす前の知り合いが現われてしまう。そして、「説明」をしなければならない。交通事故にあったらしい、それまでのことは覚えていない、と。  うっとうしいぜ。記憶喪失には、うんざりだ。  女は、首をかしげた。 「事故からそんなに時間がたっていなかったから、あなたの新しい記憶の生成がうまくいってなかったのかしら? あのときは、バッグを取り返してくれて、助かったわ」  それで、わかった。  ひったくり事件のときの女だ。前に俺と付き合ってたって言ってた。それで飯食っても思い出せなくて、寝てみたらわかるんじゃないかって言われて……、結局、記憶がよみがえることはなかった相手。  あらためて見ると、結構な年齢のようだった。それと、なんというのか、派手なピンク系の色の服がすごい。  俺、ホントにこのひとと寝たのか?  未来への記憶が、やばくなってるよな。  女は名刺を差し出した。  受け取ると、大きな文字のロゴ・マークのようなものが、目に飛び込んできた。 (挿絵省略)     56  俺は、たぶん長い時間、名刺を見つめていたのだと思う。  女は、言った。 「MSUに関しては、もう、じゅうぶん御存知じゃないのかしら」  俺は首を振った。  名刺には、太い字で印刷されていた。 (挿絵省略) 「慧」は、いいけどさ、その次の「(K)」って?  と、いうことは、もしかしたら…… 「いままでの手紙は……?」 「そう、私が書いたの」  女は、うなずく。 「でも、どうやって、俺のところに?」 「方法は、いくらでもあるわ。私たちMSUに共鳴する人々のネットワークは、世界中に張りめぐらされているの」  ホントかよ。  だって、あの、誇大妄想の、俺のことを哲学と科学の天才だとか呼んでた手紙。その筆者だって名乗るやつが言うんだから、めちゃくちゃ怪しい話だぜ。  俺は、手紙を受け取ったときの状況を思い出そうと努力した。  一通目は、入院中の出来事だった。洗面所からもどると、ベッドの枕もとに置かれていたはずだ。  二通目は、この女と出会った日。自分の部屋で着替えるときに、上着の胸の内ポケットに入っているのを見つけたのだと思う。  よし、俺の記憶力は、だいじょうぶ。  第三の手紙は、ドクターにこの病院で診察を受けたあと。アパートメントに帰ると、カバンに封筒が差し込まれていた。  どんな手口だ? 「そんなに考え込む必要はないわ。あなたに会ったときは、私が、直接渡してるんだし」  なぐさめるような言い方。 「でも、あのときは偶然だったはずでしょお。俺はバッグを盗ったやつを追いかけた。それで、そのひったくりからバッグを返されたら、被害者が現われて……」 「あの窃盗行為も、当然、MSUの支持者がやったのよ。あなたの目の前で犯罪を仕組んだの。記憶を喪失してしまったあなたの、倫理性と行動力を試すために」  そう言うと、女はにっこりと微笑んだ。  信じられないぜ、そんなこと。急に言われたって、ねえ。 「そのテストに見事、あなたは合格したわ。まず、ためらわずに容疑者を追跡したわよね。そのうえ、暴力に訴えることなく説得する理性も示した。そのあと、私があなたと性的関係を持ったのは、予定外ではあったけれど」  女は、すらすらと「説明」をする。 「MSUでは、不特定多数とのセックスを奨励しているの。あくまで、参加者の自由意思に基づく場合に限るけれど。そして、男であれ女であれ、自分の性を他者から搾取されずに、任意の価格で売る権利も持っている。たいへんな高額でも、あるいは無償でもいい。だから、そのあたりは、教義上の齟齬《そご》はないのよ。あなたのパーフェクトな肉体もチェックできたし」  よく、わかんねえや。  わからないけど、聞いてて、ちょっと、わかってきた。  だんだん、そんな気がしてきたのよ。これまでのおかしな手紙は、この派手な服の女が書いたんだって。  女は、俺の顔をじっと見てから、こう言った。 「残念なことね。結局、あなたの記憶は、いまだにもどっていない。事故の前のあなたは、どこか宇宙の虚空《こくう》に、永久に消滅してしまったのかしら」  女は、淋《さび》しそうに目を細めた。  そう。  そのことを淋しく思っていたのは、まさに、ここにいるこの俺だった。  ドクターや眉子叔母さん(もちろん、サリナや店長)なんかには、言う気にもなれなかったぜ。そんな、みっともないこと。メソメソした感じになっちゃうもん。  俺は、初めて俺に共感してくれて、理解してくれるひとに出会ったのだろうか。  でも、それが、なんで、会ったとたんに寝ちゃって、しかも、わけのわからないMSUの理事長だとかいう、この女じゃなきゃなんないんだよ。     57  道で立ったまま黙っている俺に、K(「慧」でもいいんだけど、俺のなかでは、手紙の印象が強い)は、言った。 「あなたは、今日は、どうして病院にいるの? もはや彼の診察は、必要のないことでしょ。ドクターとの関係は、あなたにとって、実際、役に立っていない。彼との話し合いが実を結んだことなんてあって?」  かなり、手厳しかった。眉子叔母さんと同じくらい。  俺は、反論できなかった。ドクターが、腹の立つ、とても変なやつなのは確かだ。今日だって、相当うんざりさせられた。  ただね、ドクターは、俺が意識を回復してから初めて接触した人間だった。いまでも主治医として、一応は記憶喪失について語り合える相手ではある。 「あなたは理解できるはずよ。すでに治療の段階は終了したの。あなたのドクターは、結論として無能だった。ナースは優秀でも」  女が微笑むのを見て、俺は思い出した。  入院中のひとつ目の手紙に、すでにドクターに注意しろとか書いてあった。それから、ナースは味方だと。  すると、ひとつ目の手紙を俺の病室に運びこんで、また持ち帰ったのはナースだったのだろう。もし、そうなら、三通目の手紙は、診察を受けた日にアパートメントにもどってから見つけたのだから、これもナースなら可能なことになる。  手紙を書いてるKってやつがね、妙に俺の動きをとらえてたのも、それでわかる。俺がドクターに相談してるのを、ナースが横で聞いてたからだ。  再び目の前に現われた、K(「慧」)という女。(最初に会ったときは、女の名前を確かめもしないで、誘われるままホテルへ行っちゃった。それを変だと感じなかったんだから、女が言うように、事故の影響がまだ強かった?)  何回か耳にしたり、駅前での宣伝は見ていたけれど、ついには直接、その理事長に出会うことになってしまったらしい、MSU。  この展開は、どうなってるんだ? 「いま、私はとても忙しいの。その忙しさが何のためか、あなたが気づく日は近いでしょうけど」  女は、本を一冊、差し出した。 「もうすぐ、また、会えるわ。そのときまでに、MSUへの理解を深めておいてくれると嬉《うれ》しい。私たちの、そして、すべての人類ためのエル・サルバドールである、あなた」  そう言うと、歩み去っていった。  病院の塀に沿ってまっすぐ続く道、Kのピンクの背中が揺れて小さくなっていくのを、俺は立ったまま見ていた。  ついに、出ちゃったのよね、エル・サルバドール。     58  帰りの電車に揺られていた。  窓の外を流れる景色を、見ているような、見ていないような。だって、頭が疲れてるんだもの。  そう。俺の頭の中では、痛みをともなって点滅している疑問があった。  例の、店長の目撃情報だ。  もし、ナースがMSUのメンバーなら、そのナースとひそかに接触していたらしい眉子叔母さんは、何をしていたのか。そこで、ナースから叔母さんに手渡されたものとは。  そんなこと考えたところで、俺には、まったくわからない。  でね、俺、ようやく決意したの。  本、見てみようっと。  昼間の空いた電車の中で、俺は、そっと取り出した。なんだか、人に見られてはいけないものの気がするのよね。  表紙に大きくMSUのロゴ。Kの名刺にあったものと同じだ。  それは、そんなに厚くなくて、本ていうよりはパンフレットに近い? パラパラッとめくってみると、全部カラー。グラビアが多くて、科学雑誌に似てる。  まずは天体の写真。太陽系と銀河系の図。  そして、電子顕微鏡による原子の配列。  めくると、今度は人体の模式図が続く。細胞の仕組みとミトコンドリアの拡大図。DNAの二重らせん。  プレート・テクトニクス。地球と地震のメカニズムの説明が次にあった。  これって、どんな順番だ? 全部、別々のことじゃないのか?  以下、深海を行く潜水艦。月面の宇宙飛行士。(すげえ、下手くそな絵。小学生の学習雑誌かよ)  ピラミッドとスフィンクス。ナスカの地上絵にモアイ像。  曼陀羅《まんだら》。  見つめると視力がパワーアップされるコンピューター・グラフィック。  月の満ち欠け。  男性と女性の生殖器。  なんだか判然としないモザイク模様。  とても、ついてけないよな。  ひとつひとつが見開きの二ページになってて、写真や図版と関係があるようなないような、いろんなテーマが論じられてるみたいよ、読む気になれないけど。  目についた言葉を拾うと、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  宇宙の生成  UFOと私たち 「気」と呼吸法  宇宙を我々の体内に取り入れる  血液サラサラ  ウパニシャッドと現代  カスタネダとクリステヴァ  活性酸素と癌細胞  タイムマシンとフェルマーの定理  巨石文明  史上最強のアミノ酸  宇宙人・地球人・超人類 [#ここで字下げ終わり]  あまりに、とりとめがありません。  俺は、本をバッグにしまった。やっぱり、こんなものを読んでいるところを、ひとには見られたくなかった。  KにもらったMSUのパンフレットのせいで、ますます脳が疲れちゃったみたい。俺は、電車の振動に身をまかせて、ほとんど眠りかかっていたんだと思う。  かすんだ視野の中に、大きな人影が入ってきたのに気づいた。  そのシルエットは、俺の前で止まった。 「どうした高橋、何をぼーっとしてる。運動をしよう」 「はあ」  おい、なんで、こんなに都合よく登場できるんだ?     59  コーチは、俺の隣にすわった。 「高橋、どうだ、からだの調子は?」 「はあ、結構、いい感じです」  そうなんだ。  いろいろと変なことが起こってて、頭が疲れることが多いんだけど、体調は悪くない。  それとも、「からだ」には、「脳」もふくめて返事すべきなのだろうか。ドクターが言うように。 「だったら、どうだ。定期的なトレーニングを、そろそろ復活しないか? 陸上の練習は楽しいぞ」  コーチは、そのトレーニングが本当に楽しくてたまらない、という感じで提案するの。  俺の目が、ようやく覚めてきた。 「あの、コーチは、ずっと陸上競技をしてるんですか? 小さいころから」  返事がもどってくるのに時間がかかる。  驚かせちゃったのかな。俺の質問は、電車の中でするには、なんていうか、ぶしつけって感じ?  コーチは、俺の顔を見つめ、一気に吐き出すように言った。 「うん。そうか。君は、いま、悩んでいるんだな、自分の進路について」 「え? あ、悩んでるかって言われたら、まあ、悩んでますが」  俺のほうが驚くじゃない、そんなこと聞かれたら。  まあ、それは、そうよ。どう生きていこうかって、意識が回復してから、ずうーっと悩んでる。あんまり深く考えてるって気はしないけど。  俺としては、もちろん、具体的に進路の相談をするつもりなんてなかった。  コーチは、入院していたときに、最初にお見舞いに来てくれたひとで、俺に温かく接してくれてる。そのひとがこれだけ強く勧めてくれるね、陸上競技ってスポーツについて聞きたい気がしただけだったの。  コーチは、大きく咳払《せきばら》いをしてから腕を組んだ。  そして、重々しく言った。 「そうだ。それでいい、悩むのが青春だ」  前のシートにすわっているひとが、こっちを見た。口を開けている。  昼間のすいている車内に、コーチの大きな声が響き渡る。 「ぼくは、確かに陸上競技をしていた。中学生のときから。しかし、アスリートとしては、二流だった。いや、一流半ぐらいにしておこうかな」  コーチは笑う。 「日本選手権のタイトルは、最後まで取れなかった。もちろん、日本記録なんていうのにも無縁だった。でもね、ぼくは、アスリートとしての自分の人生を、失敗とは考えない」  コーチは、そこで間をあけた。 「そうなんだ。ぼくの能力には、残念ながら限界があった。いまなら、もう少し、うまくやることはできるかもしれない。当時は、練習方法に対する視野が狭かった。だけれど、ぼくは、なんであれ、精一杯戦ったつもりだ。高橋、わかるかい? 才能のあるやつは、世の中にいっぱいいる。問題は、それを生かせるかなんだ。努力できることも才能と言える。いや、努力できることこそが才能なんだ」  向かいの席のサラリーマンらしいひとは、キョロキョロしている。コーチを見て、俺に目を走らせ、再びコーチにもどる。 「いいか、高橋。ぼくは選手としては一流半か二流だったけれど、実は、それ以上に、競技すること以上に、教えることが自分の使命だと感じたんだ。名選手必ずしも名監督ならず。ぼくは、指導者として一流を目指す」  コーチは、俺の肩に腕を回した。 「ふたりで世界にチャレンジしよう、高橋」  サラリーマンは、半分腰を浮かせかけていた。百八十センチを超えた男ふたりが電車の中で抱き合うようにしているのは、ふつうのことではないのだろう。  でも、本当のところ、俺はコーチの熱弁に心を動かされていた。もちろん、ちょっとだけだけど。     60  そういうわけで、そのまま、グラウンドに来てしまった。  コーチは、今日はスタンドで練習を見学しよう、と言った。そして、高橋の将来について、もっと語り合おうと。  ところが、スタンドの硬いコンクリートに腰かけてすぐのことだった。 「いかんな」  コーチがつぶやいた。 「え?」 「あの選手を見ろ。ほら、坂本だよ。坂本美由紀。去年の国体で優勝した。おっと、高橋は記憶がないんだったな。あっちで、円盤のターンのシミュレーションをしてるやつを見ろ」  コーチは真剣な表情。  トラックの内側の芝生の上で、くるくると回転しているひとがいた。円盤を右手に持って大きく振っている。 「目つきがおかしいだろう」  その坂本という女のひとは、熱心に練習しているように見えた。  目つきまでは、わからない。距離があったし、その選手のことは、前は知っていたのかもしれないけれど、俺の記憶にはないのだし。 「MSUだ」  俺は、自分の耳を疑った。  しかし、コーチは、もう一度、はっきりと言った。 「あいつ、MSUにはいったな。目を見たらわかる」     61  クラブチーム内では、MSUの信者が急に増えてきているんだって。それも、女性が多いらしい。  MSUにはいった選手は、精神面が安定して練習に熱心になる。だから、初めは単純に良いことかもしれないと考えていた、とコーチは説明してくれた。  彼らは、ポジティブになる。前向きで、明るくて、試合やトレーニングでの結果が悪くても、落ち込んだり悩んだりしなくなる。(本来、悩むのが青春だろう、とコーチは俺に同意を求めた)  ところが、MSUに関わる選手たちが、みんな同じことを言うのが気になり出したという。  たとえば、常に「真剣に願うことは、すべてかなう」と口にする。  それで、 「日本記録もか?」 「ええ」 「じゃあ、オリンピック出場とかもか?」 「はい」  と平然と、しかもうつろな目つきで、だれもが返事する。  で、あきれてしまって、 「世界記録も達成できるのか?」  と聞くと、 「できます。願うことが大切なんです」  と返事する。  コーチは、一種のマインドコントロールだと感じたという。(出ました、「マインドコントロール」。この世界のすべては、マインドコントロール) 「いいか、高橋」  とコーチは言った。 「どんな種目であれ、スポーツは、ファンタジスタの世界なんだ。決められたことをただこなすんじゃない。ひとりひとりの創意工夫が美しいんだ。背面跳びを考えてみろ。バーに向かって背中を向けようなんて最初に考えたやつは天才だ」  再びの熱弁を、コーチはスタンドで奮う。 「それなのにMSUは、個性を押しつぶして、アスリートを人形にしてしまうんだ。俺たちは、競技者の心を支配するMSUと闘わねばならない。素晴らしい、このスポーツの世界を守るために。これはジハードだ。聖戦だ。高橋、君も、その戦列に加わってくれるよな」  そんなこと、いきなり誘われたって。 「他にも、マインドコントロールの証拠はある。あいつらは、本当に気持ちが悪いぞ、みんなで、毎日のように、同じことを言う。『過去は捨てろ、未来に生きろ』とかな」  俺の心に、嫌あな感じがわきあがってきた。  コーチが口にしたスローガンのようなものは、ジャスト・リメンバーと言ったあとの眉子叔母さんのセリフと、似ていないわけでもなかった。  コーチは、俺の肩に手をかけると、言った。 「ぼくは、KSIってところにはいろうかと思ってる。MSUに対抗する、いちばん強い組織らしいんだ。KSIって、君は知ってるかな?」  飛び降りるとこだったぜ、スタンドからグラウンドに。  当然、知ってますよ、少しだけだけど。  俺は、そのKSIに拉致《らち》された立場なんだから。 「KSI、つまり、キタジマ・サブロウ・インターナショナルだ」  え?     62 「私ね、水泳を始めたの。スイミング。本当は、バルセローナにいるときみたいにモトクロスがしたいって思ったんだけど。日本ではライセンスの問題があって、練習場でしか走れないらしい。その、練習場っていうのがね、見たことある? すごく狭いのよ。あれも、日本的な、あの盆栽の、箱庭の文化の表われなのかしら」  日本の文化に関しては意見がないけど、眉子叔母さんがジムに通って泳いでることは、なんでだか、俺は知ってる。  あらためて考えると、海岸で大型のオフロード・バイクで俺を救出してくれたのは、無免許でだったのか。パトカーを自分で呼んでおいたくせに。 「あなたも泳いでみない? ジムを紹介するわ」  俺は、水泳にはあまり興味が持てない、と返事した。 「泳ぐのって、とっても気持ちいいのに」  叔母さんは言う。  クロールできれいなターンをする、眉子叔母さんの水着姿が目に浮かんでしまう。そう、とっても気持ちいい泳ぎだった。 「水泳で、ひらめ筋って、鍛えられるのかな」 「何、それ」  俺が、またトラックに行ったって話したから、この会話が始まったのだ。  でも、眉子叔母さんは、いまひとつ元気がない。そんなに強く、俺に水泳を勧めているわけでもない。  俺に隠している何かが、やはりあるのだろうか。俺にも、叔母さんに話さないでいることが、増えてきてしまった。  MSUとKSIのことは、ひとまず忘れておきたかった。  こういうふつうの話が、眉子叔母さんとできるほうが、俺には嬉しい。まだ、目が合うだけでドキドキしてるから、あまり、ふつうじゃない。 「一度、プールに行ってみたら? スポーツは、陸上競技しかしちゃいけないって、あなたの過去が指定しているわけではないでしょ。過去は捨てて未来に生きるべきよ」  全然、ふつうじゃないな、やっぱり。     63 「いらっしゃーい。社長」  だれに声をかけているのかと思ったね。  あたりを、キョロキョロしちゃった。  いま俺は、会社は経営していない。社長ではないのはたしかだ。  記憶のなくなってしまった過去において社長をしてたっていうんなら、可能性はごく少ない気がするけれど、否定はできない。 「お兄さん、おひとり?」  俺は、この、胸の谷間も両脇もほとんど露出しちゃってる女ね、乳首だけ隠れる仕組みのミニワンピースの子のお兄さんでもないと思う、たぶん。  記憶のなくなってしまった過去において、この子のお兄さんだった可能性は…… 「キャー、高橋じゃないの。生きてたのね」  大きな胸を、ホントにね、文字どおり弾ませながら、女は叫んだ。  目の前で、ぷるんぷるん、よ。  すぐに暗い店の奥のほうから、いろんな色の服を着た、というかあまり着ていない女の一団が出て来た。 「えー、高橋?」 「ちょっと、ちょっと、高橋よ。高橋が来たの」 「信じらんない、高橋よ。本物」  たちまち、俺、店の中に引っ張り込まれちゃった。 「事故は大丈夫だったのね。よかった」 「あ、サリナ? 今日はお休みなのよ。え? 店長? いま出かけてる。たぶん、もうすぐ帰るわよ、もうちょっとしたらね」 「いいから、いいから。今日は、お客になりなさいよ」 「そうよ、いま暇なのよ。久し振りなんだから。ビールでいい?」  俺ね、サリナに聞こうと思ったの。まず、MSUにはいったのかってこと。誘われてるって言ってたじゃない。  それから、KSIのこと、何か知らないかどうか。  それで、店長に教わっていた店に、初めて(初めてではないのだろうけど)来たの。  手を引っ張られて、ソファのようなベンチのような席にすわらせられた。  それで、テーブルにビールとグラスが置かれたとたん、横から手が伸びてきてベルトがはずされちゃった。  で、あっという間に、ファスナーを引きおろされる。 「すぐに来てくれたらよかったのに」 「そうよ、高橋ったら冷たいんだから」  パンツから出された俺のペニスは、そう冷たくもないもので拭《ぬぐ》われて、すぐに熱いものの中に吸い込まれた。 「うっ」  それとは別の唇が、玉をはさむようにしてしゃぶる。 「おっ」  両手と両脚を押さえられて、テーブルの下にはいった、ふたりの女の子に交互にペニスを吸われてたの。  そしたら、暗闇から、男が音もなく現われた。 「困ったことになりました。やはり、あなたの叔母さんは大問題のようです。中国人、血縁、大事にする。あなた、どうしますか」  俺の横に座った店長は、タバコに火をつけた。  浮かない表情。 「こみいった話になりますです。叔母さんは、なんともあろうことか、桝本組とも接触してるのです。高原組が見過ごせないような事態にならねばよいのですが。あの小さいチンポの桝本ですよ。あなたのは、やっぱり、大きい。私の肛門《こうもん》、バカバカにならないでよかった」  店長は、暗い顔で俺のペニスを見おろしていた。     64  アパートメントのドアを開ける。  廊下の明りはついてなかった。リビングから、かすかな光がもれてくるのが感じられる。  俺は、ゆっくりと、眉子叔母さんを驚かさないように、ゆっくりと歩いて、室内ドアのノブに手をかける。窓際のスタンドライトだけがついているのがうかがえる。  リビングルームにはいると、すぐに、タバコの強い香りに気づいた。  ふだんは、そんなにいっぱいは吸わないはずなのに。  眉子叔母さんは動かない。  窓の外には、十六階からの夜景が広がっていた。 「ただいま」  と、俺は言った。 「心配しないで」  挨拶を無視した叔母さんの返事。小さい声だった。 「MSUでしょ、あなたが気にしているのは」  そうだった。  何に対してであれ、単刀直入というのが眉子叔母さんの流儀だった。 「ノー・プロブレム。私はMSUとの関係は断つわ。というか、あなたはそう思ってるのかもしれないけど、もともと私はMSUの活動家ではないのよ、お兄さん」  眉子叔母さんのいるソファに向かって歩いていた俺は、立ち止まってしまった。とっさには反応ができない。  お兄さん、だって?  眉子叔母さんは、俺の叔母だ。彼女から見たら、俺は甥になる。  これまでの会話から判断すれば、眉子叔母さんの日本語の能力は、たいしたものだった。兄と甥を間違えたりはしないだろう。  叔母さんの言う「お兄さん」が、さっきの店での「社長」みたいなのと同じ用法だったりするはずは……、まあ、ないわな。  叔母さんは、左右に軽く首を振った。あきれた、というように。 「私も驚いたわ。あなたが私の兄だったなんて。完全に私はだまされていた」 「だまされるって、だれに?」  ようやく、俺が発言するチャンスができたじゃない。  眉子叔母さんは、いま聞いたばかりの説が本当なら、俺の妹の眉子は、新しいタバコに火をつけた。 「母よ。もちろん、両親だと思ってて、実は祖父母だったふたりも加担してたわけだけど。私は、ずっとね、母のことを姉だって言われて育てられたの」  視線を窓のほうにそらす。悔しそうだ。 「あなたも、それがだれなのか、もうわかってるでしょ。私たちは兄妹なんだから、ふたりの共通の母にあたるひとのこと」  俺は、首を振った。  知らない。まったく、わからない。  叔母さんは、アゴをつきだすようにして、煙を口から吐いた。 「慧って女よ」  叔母さん、こんなときぐらいは、単刀直入をやめるべきだよ。心の準備ってやつができないじゃないの。  だって、俺は、その母親だって女と寝てるんだぜ。     65  MSUの主張というのか、教義というのかは、わかりづらかった。K(慧)からもらったパンフレットみたいなやつを、あらためて出してきても。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  MYSTERY AND SCIENCE OF THE UNIVERSE。 「宇宙の神秘と科学」教団。 [#ここで字下げ終わり]  ひとことで言っちゃうと、宇宙の神秘を科学によって解明する。そして、幸福になることを目指す、で、いいのかなあ。  ともかく、そういったことのために集まっているのがMSUらしい。  眉子叔母さん(慣れの問題があるので、しばらくは叔母さんと呼ぶと思う。「すべては時間の問題」?)によると、科学読み物の丸写しみたいな多くの部分には、たいした意味はないらしい。 「結局ね、いちばん強調されてるのは、『究極の女性解放』なの。布教の場で強く主張されているテーマ。そのせいで、多くの女性の信者を獲得している」  それは、単なる女性の権利の拡張ではなく、同時に男性の解放も目指すのだそうだ。  ウーマンリブやフェミニズムといった運動が滅びたあとの新しい概念。一気に性差を超越する。性にしばられることのない世界を実現するのがMSU。  なんか、よくわかんないんだけど、すごいんだぜ。  だって、なぜ性差が超えられるかっていうと、人類が単性生殖の時代を迎えたからなんだって。  科学が発達した現在では、�こども�が欲しければクローンを作ればよい。異性を必要とせずに、自分だけで繁殖(中国人、子孫の繁栄がいちばん。精子が多いの大切あるね)できる、すなわち、単性生殖の時代になった。  となると、男女の性の差は、完全に無意味になってしまったっていう。そうなれば、男であれ女であれ、そして、異性間であれ、同性間であれ、生殖とは無関係にセックスを楽しめばよい。  つまり、歴史上初めての超人類の時代。(このあたりで、俺はクラクラしてついてけなくなっちゃった。人類はともかく、俺の判断力を超越しているのはたしかだ)  そもそも、キリストは神のクローンとして、処女であるマリアから産み落とされた。単性生殖の結果として生まれた、初のホモサピエンスだという。だから、人類が単性生殖へと進化するのは、神の摂理なのだそうだ。  だったらね、その「神」は、何者なのか。キリストがホモサピエンスで「神」のDNAそのままのコピーなら、「神」はホモサピエンスなんじゃないのか?  だいたい、「神」にDNAなんて、あるのか? 何も説明はない。 「私は、マリアはローマの兵士にレイプされたって聞いてたけど。かわいそうな大工の知らないところで」  そういう説があるんなら、それでもいい。  でも、ダメだよね。眉子叔母さんが「レイプ」なんて口にしたら。俺、ふつうに話せなくなっちゃうじゃない。 「論理はないのよ。それは明らかなはずなのに、宗教って、その、非論理性にこそ、むしろひとをひきつける力があるのかしら。私も知らなかったの。慧が、そういうMSUを主宰しているなんて。これまでは非公然の活動だったから」  眉子叔母さんは言う。 「だいたい、私は慧のことは母でなく姉だと聞いてたわけでしょ。祖父母にあたるひとたちから。実際、戸籍ではそうなってる。ひどい話よね。結婚中に生まれたあなたのことは隠しようがない。でも、離婚後に生まれた私は、親の籍に入れた。父が認知を拒否したこともあるし、また、慧の再婚が少しでも楽になるようにって、祖父母が主張したらしい。キャリフォーニァにいたから、日本の戸籍の操作は簡単だったんでしょうね」  バルセロナで、眉子叔母さんは祖父母(俺にとっても、母方の祖父母だ)の家で育ち、Kはアトリエのあるアパートメントでひとり暮らしをしていたんだって。 「同情的に見ることもできるのよね。慧がフェミニズム的な考え方、MSUがフェミニズムであるとしてだけど、そういう思想を得たのは、たぶん、無意識の領域で、両親に無理に私を奪われたって感じてるせいもあるんじゃないかしら」  眉子叔母さんは、考え考え話す。 「慧は数年前から日本に何回も来てて、MSUの基盤を作ってたみたい。彼女の構想では、私をYMSU、つまり、ヤングMSUのリーダーにしたかったらしい。笑っちゃうわ」  眉子叔母さんはタバコを灰皿に置き、本当に少しだけ笑った。顔をゆがめたくらいの、苦いひきつった笑いだ。 「叔母さんが、そういったこと、Kのことっていうのか、MSUのことっていうのか、そういったことに気づいたのは、なんでなんだ? つまり、どういう、きっかけで?」  どうも、あまりうまく言えない。 「私は慧の依頼で日本に来たのだから、慧とは、バルセローナにいると私は思ってて、実際にはかなりは日本にいたらしいけれども、その慧とは最初からメールで連絡を取っていたの。あなたについての報告とか、いろいろ。そのメールの様子が、どう見てもね、どんどんおかしくなってったから。ひとりよがりで、わけのわからない言葉が増えて、このMSUのパンフレットと一緒よ」  眉子叔母さんは、いったん話を切った。 「前からエキセントリックなところはあって、慧はアーティスト、画家でしょ。くだらない常識にとらわれないところが、魅力のひとつだったんだけど。こんなになってしまうなんて……」  叔母さんは右手を伸ばすと、そっと俺の手に重ねた。なんなのよ、心臓に悪いぜ。バクバクしちゃう。 「これはフェアでなくて、いままで話さなかったことで、ちょっと申し訳ない。緊急事態の処理と考えて欲しいわ。あなたがいなくなったときに、あのAVの撮影をしてたときね、部屋を捜索させてもらって……」  そうか。俺にも、わかった。 「あの手紙か」  眉子叔母さんは、俺の手を放した。 「そう。ご丁寧にKって、アルファベットの署名入りの手紙があったんでね。慧は、バルセローナで、自分の絵にはKって署名してたから。でもね、最初は信じられなかった。それに、これだけ調べるのには時間がかかって。すべての真実が知りたいと思ったし。あなたの病院のナースに会っても、なかなかしゃべってくれない。MSU関連の資料はくれたけど。慧の居所は、そのころから極秘になってたみたいで、なかなかつかめないし。MSUの集会にも行ってみたの」  叔母さんは、言葉を切った。 「あなたが私のこと尾行してて、それで私がMSUの支持者だって考えたのも、無理はないわ」  なんだ、俺が後ろについて歩いてたのは、気づいてたのか。でも、そんなことしたのは一度だけで、しかも失敗しちゃったんだぜ。 「結局、決定的な情報はサリナのおかげ」 「サリナ?」  また、こんなところでもサリナが登場するのか。 「そうよ。マフィアの情報網は、すごいわね。日本でいちばん優秀な組織なんじゃないかしら」  そりゃあ、偉いんでしょう。いつだって、あいつらときたら。  けれどねえ、彼らをほめる仲間に加わるんじゃなくて、俺には聞いておかなければならないことが、まだあった。 「マフィアって言えば、店長たちのところと対立してる、あの桝本とかいう……」 「ああ、桝本組ね。MSUの集会で組長とも会った。桝本組はMSUと連携しようとしてるみたい。でも、これはトップ・シークレット。どうして、あなた、そんなこと知ってるの?」  眉子叔母さんは、ちょっと驚いたみたいだ。 「まあ、いいわ。重要なのは、私たちのこと。慧が日本で医学生だったときに、大学病院で研究をしていた父と知り合った。慧はあなたを産んだあと離婚、そのときには私を妊娠していた。父が認知をしぶったこともあって、私は祖父母の子として籍にはいる。さっきも言ったけど、くだらないわよね、日本的処理なのかしら。しかも、この確認を祖父母から取るのは、たいへんだったんだから。なかなか認めようとしない。彼らにしたら当然なのかなあ、娘として育てた、実際は孫から、真相をせまられて」  確かに、その通りなら、眉子叔母さんは、俺の妹ということになる。ソファの向かいに腰かけている叔母さんと俺の視線が合った。  でもね、俺はすぐにずらしちゃった。ダメなのよ、まともに目が合ったりしたら。 「私は、自分が生まれた瞬間からの記憶を持っていると思ってた。でも、おかしいわね、それは、客観的な事実の記録ではないみたい。むしろ、あとから編集しなおしたテープみたいなものなのかしら。母である慧の姿が、どこかで本当は祖母であるひとに置き換わってしまう」  こんなに沈んでいる眉子叔母さんを見るのは、初めてだった。過去への自信を失いつつある叔母さん。  でもね、俺の過去なんて、いつまでたってもブラックボックスなんだよ。  叔母さんだと思ってた相手が、突然、妹だと名乗る。その情報を、自分の記憶に基づいて検証することは、なにひとつできない。ただ受け入れるしかないのだ。 「そうすると、俺は、息子だからKに期待されてるってことになるのかな。MSUのシンボルだとか、あのエル・サルバドールだとか、変なことばかり言われて」 「ああ、それは……」  眉子叔母さんは、明らかにしゃべるのをためらった。言いよどんでいた。叔母さんにも単刀直入でないときがあったのだ。 「それは、違う。慧は、あなたのことを、戸籍上はともかくとして、息子だと思ってないわ。あなたは、父親のクローンだから。だからこそ、あなたを高く評価してるの。彼女たちの教義からしたら、キリストに次ぐ、人類ふたりめのクローン」     66  父と母(つまり、現在、MSUの理事長であるK)は、年齢が相当に離れていた。中年に達していた父は、性的な能力が十分ではなかったらしい。  早くこどもが欲しいと思った両親は、体外受精を試みる。  しかし、最先端の研究者である父は、ふたりの受精卵をつくらなかった。母親から採取した卵子の核を取り、自分の体細胞の核を移植。  つまりは、父の遺伝情報のみを載せた卵を母の子宮にもどす。母には、まったく告げずに。そうやって産まれた、父のクローンが、俺なのだという。 「悪魔の仕業ね、慧にしてみたら。研究上の興味から、実験として父は行ったらしいんだから。MSUが女性の権利を訴えるのも、このへんもひとつの原点になってるのかしら」  眉子叔母さんは言った。  そして、付け加えた。 「だけど、その悪魔のおかげで、あなたは後悔しなくてすむわ、慧とセックスしたってことに。少なくとも遺伝子的には親子じゃないんだから」     67 「親なんて、どうでもいいんじゃないのですか? 私たち任侠道《にんきようどう》に生きるものは、みんな、一度、血縁関係は、ご破算にしてます」  焼鳥の串《くし》をテーブルの上の竹の筒にほうりこみながら、店長は言う。 「父もなし母もなし、兄弟もなし。そうやって血縁をすべて捨ててから盃《さかずき》をもらいます。あなたの好きな北島三郎の歌が、それです。親の血をひく兄弟よりも、堅い契りの義兄弟」  店長は、口ずさんだ。  そうだ、これを最初に聴いたのは、深夜の病室だ。侵入してきた中国人だって言う男の日本語がうまいんで、印象に残っていた。 「だれだって、家族なんてうんざりです。ポイ捨てしたらいいのです」 「そうよ。大賛成。生まれつき与えられた家族にしばられず、新たに選び直すのって、日本のヤクザの何より素晴らしいところよね。でも、店長、その血縁を否定する説って、店長の中国人のキャラクターと矛盾しない?」  横からサリナが口をはさんだ。  店長は、一瞬、ギクッとしたみたい。  ちょっと、ためらってから、 「私、ユダヤ人あるね。中国のこと、あまり知りません」  と、言った。  いいかげんなやつ。  サリナは、俺に向かって、 「店長がユダヤ人でもパレスチナ人でもかまわないけど、言ってることは正しい。家族なんて、関係ないわ。せっかく記憶喪失になって嫌なこと忘れられたんだから、そのままでいなさいよ」  店長とサリナにはさまれて、俺は焼鳥屋のカウンターにいる。  この組合せって初めてなんだけど、なんか、妙に落ち着く。 「ズリいませんか、ズリの方。お客さん、ズリ上がりました」  店員が大きな声を張り上げた。目が店内をさまよっているけれど、応じる客がいない。 「いいです。それ、私がもらいますです」  店長が手を挙げて合図した。 「すみませんね、いつも」  店長とサリナと俺の前に、ズリの串が置かれる。 「生《なま》、みっつ、ちょうだい」  サリナが注文。 「喜んで。へい、生中《なまちゆう》、三万杯。カウンターさん、でーす」  すごいデカイ声で、耳が死にそうになる。 「それより、叔母さん、連れてきたらよかったでしょう。叔母さんではなくて、妹の眉子さんですか。どちらでもいいですね」  店長は酔っている気がする。案外、酒は弱い。 「そうよ。日本研究するって言ってて、焼鳥屋に来ないなんて」  サリナがズリの串を手にとる。  眉子叔母さんは、ちょっと、そんな気になれない、と言っていた。元気がない。俺にしたって、それはそうなんだけど。 「でもねえ、俺の場合、ふつうの親じゃなくて、クローンだったわけだぜ」  俺、話、もどした。  叔母さんの話題は避けたい。 「関係ありませんよ。クローンでもウーロンでも。あ、くだりませんですか、ユダヤ式ジョーク」  店長は、ひとりで笑った。 「ペーロンというのは、船です、たしか」  まだ、そんなことを。だれも聞いてないぜえ。 「そうねえ。クローン胚《はい》。ウーロン・ハイ。似てないこともないわね。あの、ウーロン・ハイって、だれが考えたのかしら。お茶で割るなんて。ねえ、店長」  サリナまでが、だじゃれに参加する。  店長は返事しなかった。  俺が見ると、店長は固まっていた。一点を見ている。  俺の視線に気づいた店長は、右手に持ったキャベツで指した。  その先にはテレビがあった。さっきから、俺が見ると、コマーシャルばかりやってるみたいだったんだけど。  画面にはKが映っていた。  頭を下げる。ピンクのスーツが妙に目立つ。 「MSUの慧さんに、今日は、わざわざお出でいただきました。慧さんは、いま、ドキュメンタリーの撮影中だそうです」  テレビの割れた音声。 「そうですね。これまでのMSUの歴史をたどるドキュメントなんです」  案外に低い声。これが、俺の母親なのだろうか。DNAは受け継がないものの。 「言われてみると……、眉子叔母さんに似てますですか?」  店長はキャベツを、ニンニクのタレにつけた。 「そうねえ。高橋が父親のクローンってことなら、高橋とは似てないのよね。でも、どっちとも言える。目はふたつだし、鼻と口はひとつ。そんなのわかんないわよねえ」  サリナの論評。 「細胞のミトコンドリアにも少量のDNAがあって、それは母親の卵に由来するから、高橋はやっぱり、その分だけ近親|相姦《そうかん》だって知ってた? どうでもいいんだけど」  Kと寝たって話、ふたりにしなきゃよかった。 「サリナさん、すごいですね。どこでそんな知識を得ましたですか」 「あら、現代人の常識よ」  サリナは手を伸ばし、店長の前にある銀色のボウルからキャベツを取った。 「ふふ。本当はね、MSUの本で読んで知ったの」  画面が録画されたものに切り替わった。ドキュメンタリーの撮影風景。  たぶん病院の廊下を歩いているK。 「医師を目指されていたあー学生のころにいー、宇宙に興味を持ったんだってえー、お聞きしましたがあー」  舌ったらずの、独特な発声。  聞いたことがある。  紺色のジャケット姿でKにマイクを差し出したのは、間違いない、ユウカだ。  カメラが引いて、撮影の様子が映される。  懐かしい、と言っても、そんな前のことではないのだけれど、大きなレフ板をかかえたハルさん。サングラスでキャメラをのぞく監督。  映ってないけれど、当然、助監督もいるのだろう。 「ふー」  店長がため息。 「たいへん、よかったです」  ぼそり、と、つぶやく。 「よかったわねえ」  サリナが応じた。 「はい、渡辺組に仕事があって、万歳です」 「本当に、よかったわ」  それで、三人で乾杯した。監督たちの新しい仕事の成功を願って。  ユウカのリクルート風の紺のスーツは、貸衣装のように合っていなかった。  すぐにも、ブラウスのボタンをはずし、大きな胸を出しそうな気がした。     68  それから、一気にMSUが登場してきたの。  テレビだけじゃない。新聞の広告や記事。(PRのページなのか、ふつうの特集記事なのか、一見してわからないようなものも多かった)  なかでも、週刊誌などの雑誌には、数多く取り上げられているようだった。MSU関連の出版社も設立されているみたいで、何冊か本も出ていた。  ある朝、新聞を開くと、『わいが、桝本や。チンポが小そうて悪かったな』というタイトルの新刊の広告があった。  桝本組長のカミングアウト。  店長の話だとね、マフィアの会合で高原組長に出されちゃったんだって。例のピンクのペニス。俺のロッカーにあったやつ。  それ聞いて、かわいそうになっちゃった。幹部たちに、桝本の原寸大シリコンのペニスがまわされて、笑いものだったっていうんだから。  で、開き直って、もちろん、他にも理由はあるのかもしれないけど、反男根主義を掲げるMSUに接近、彼は理事という肩書を得た。  眉子叔母さんの観測だと、どうやらMSUは政党を結成しようとしているらしかった。来るべき総選挙で、独自候補の擁立を目指す。  日本発の特報で、CNNまでがMSUを取り上げた。新しいカルト集団が、日本で成功を収めている。彼らのシンボルマークはUFOだ、とキャスターが含み笑いで紹介していた。  眉子叔母さんと俺は、MSUからのアプローチを拒否した。  実際、すげえ、しつこいんだから。Kは、やたらに連絡を取りたがるの。夜中に電話を取ると、ナースからだったりもした。  Kの秘書を名乗るものがアパートメントのロビーで、声をかけてくる。眉子叔母さんは、買い物に行くのにも何者かに尾行されているのを感じるっていう。それって、俺じゃないぜ。  いよいよMSUの総決起集会が開かれる、という宣伝が大々的に流された。 「UFO祭り」と名づけられている。宮崎県の高天原《たかまがはら》と目される野外で、UFOを呼ぶ集いだそうだ。 「テレビ中継をするというのは、すごいです。それも二時間スペシャル」  店長が、そう言って、生ハムに手を伸ばした。 「スペインでは、新聞でもテレビでも、カトリックに関しての報道は多いの。イングラテーラだとか、ええと、イングランド、日本語ではイギリスよね、それからフランシアだとかと比べても多い。古い国だから。でも、こんないかがわしい宗教はねえ」  眉子叔母さんは、日本ではチーズもハムも異様に高いって文句を言ってたけれど、スペイン風の食卓で、店長を迎えた。  今晩は、店長は、ちゃんとドアからはいってきてワインを飲んでいる。 「で、UFOは現われるのですか? それとも、レーザーか何かで夜空に映す、特撮みたいな手をつかうのでしょうか」  その店長の疑問と同じものが日本中の関心を集めて、テレビ中継が企画されたことになっている。  眉子叔母さんの説では、豊富な資金力でテレビ局を抱き込んだ。あるいは、局の中枢に信者がいる。あるいは、その両方。  裏に何かがあるそうで、叔母さんは、いまや、かなりのMSUウォッチャーだ。 「現われても現われなくても、いいようになってるみたい。昨日、慧がインタビューに答えてたわ。現われなければ、また、別の機会に呼ぶんだって」  画面では、花火が続けざまに上がっていた。  アナウンサーが、この花火を見たくてUFOがやってくるのでしょうか、と絶叫した。 「いやあ、みっともないです」  屋外に臨時に設置されたステージでは、音楽の演奏とともにダンスが始まった。 「このひとたち、体育祭でもするつもりなのでしょう」  たしかに、店長が言うように、かっこ悪い。テニスウエアのような服で、跳ねるような踊り。 「We Are The MSU」  変な曲。俺が駅前で聴いたやつの、新バージョンだろう。  それも終わると、いよいよKの出番。我々の、眉子叔母さんと俺の母が登場するシーンのようだ。  音楽がいったんとぎれ、静まりかえった会場。ステージの照明が落とされる。  俺たち三人は、黙ってテレビを見つめていた。  突然の大音響。スポットライトが交錯し、焦点が合ったとき、そこにKの姿があった。ひらひらしたピンクのドレスを着て、手を振っている。  そのとき、画面の右隅からだった。  数名の男が、勢いよく壇上に駆け上がると、両側からKを取り押さえた。  スポットライトを浴びて光っているのは手錠だ。それはKの手首にしっかりと嵌《は》められる。  そのとたん、画面はブラックアウトしてしまった。  しばらくお待ちください、のテロップ。 「ああ、見ました……か? あれは……」  店長が、切れ切れに言った。  こんなにびっくりしている店長を見るのは初めてだ。海岸で撮影中にパトカーのサイレンが聞こえたときだって、そんなにはあわててなかったみたいだったのに。 「見たわ、私も。絶対、そうだと思うんだけど……」  眉子叔母さんも呆然《ぼうぜん》としている。  ふたりが何を言っているのか、俺にはわからなかった。 「これ、録画してるの。いま再生する」     69 「警察の方だったのですか。あっ、それは、どうも、どうもです。最初から、そう言ってくださればよかったのに」  と、店長。いつにもまして丁寧な言葉づかい。 「秘密警察は、秘密にしているから秘密警察なのよ。自分で私は秘密警察ですって名乗るわけにはいかない」  と、サリナ。  と、いうことで、この世の中では、どんなことだって起こる。彼女は日本の秘密警察《JCIA》の一員だったのだ。 「マフィアの潜入捜査が私の任務だったんだけど、最近はMSUにかかりっきりで。でも、テレビに映っちゃうなんてマヌケねえ、私」  そんなことはないと思う。画面のごく片隅で、捜査員の脇にいるサリナに気づくなんていうのは、店長と眉子叔母さんぐらいだろう。  たとえ目に映ったとしても、MSUは圧倒的に女性信者が多いから、そのひとりだと考えて記憶に残らないのがふつうだ。 「で、MSUの罪状は、どうなりそうなの?」  コーヒーを運んできた眉子叔母さんが聞く。若いアボガダとしての興味なのか、母を気づかっているのか。 「うーん、それがねえ、そんなに悪いことしてないのよ。MSUはネズミ講だとも言えるし、そうでないとも言える。権力の都合次第ね」 「それって、どういうこと?」  俺にとっては、予想外のサリナの答だ。あんなに、はなばなしい逮捕劇だったのに。 「MSUがサプリメントや健康食品の販売の形をとって、多額の上納金を吸い上げて分配していたのは事実。でも、犯罪かどうかは、グレーゾーンなんじゃないかしら」 「それは、そうなのです。たいがいのことは、グレーゾーンなのです、この国では」  店長は納得している。 「私たちの商売なんて、グレーもいいところです。本当はまっ黒でも、遠くから見ればまっ白なグレーです」  難しいことを。 「えーと、霊感商法って呼ぶんだっけ? 買わないと不幸になる、みたいなのは?」  うちのMSUウォッチャーは、その点を前から気にしていた。 「それも、ねえ。別に、MSUって、特にひどくは脅してないみたい。昔からの占いだとか民間の拝み屋さんたち、厄年だとか水子供養だとか、ほら、あの高額の戒名だとかのほうが、MSUよりよっぽど悪質でしょ。MSUは、百万円の壺《つぼ》を買えとか、浄財を寄付しないと災いがある、娘がいつまでも嫁にいけないって持ちかけたりはしない」  俺、よく知らないけど、そんなもんにだまされたりするやつなんているのか、って考えると、いるんだろうな。人間、たぶん、弱い。何かを信じたいんだと思う。  だって、MSUが、短期間にこんなに信者を獲得したんだって、同じはずだ。 「ね、世間にいっぱいある詐欺みたいなのに比べたら、MSUは、結局は、ちょっと高めの健康食品を売るだけだし。飲めば病気が治る、っていうのが問題になったとしても、せいぜい薬事法レベルよね」  サリナは、まじめに説明してくれる。 「あとは、最初に言った、その販売組織がネズミ講かってこと。支部の作り方や勧誘のやり方、上納金のシステム。似たようなことしてる会社は、腐るほどある」 「だったら、なんで逮捕されたの?」  俺の単純な疑問。 「それは、もう、決まってる。いまの権力を握る側にとって、プラスにならないからよ。MSUが選挙でどのくらい支持が得られるかは、未知数だけど。いまのうちに派手に弾圧して、つぶしたかったの」  サリナの話に、叔母さんがうなずいて、 「そうね。MSU本来の教義からしたら、野党勢力になるのは明らかね。世界的に見ても、宗教政党が政権の不安定要因になってる国は多いわ」  と言った。 「やっぱり、ポイントとなるのは桝本との提携でしょうか?」  店長が、サリナの方に身を乗り出した。 「マフィアは、あなたが専門。私は、秘密警察」  サリナがあけたカップに、叔母さんがポットからコーヒーを注ぐ。 「MSUが高原組についてたら、うまくいってたのでしょうか」  店長が天井を見上げながら言った。 「可能性はね。それで与党に資金提供するとか、選挙協力するとか。でも、そういう計算は、慧にはできなかったでしょうね。純粋なひとだから」  意外だった。  サリナは、Kを、MSUの理事長であり、一応は俺の母親である女を「純粋」と呼んだ。 「そうですか。私が、MSUの事務長とか宗務局長とか、そんなのになっていればよかったのですね。それで、お金の問題を、中国四千年の知恵でコントロールする。惜しいです。大出世のチャンスをのがしましたです」 「ダメよ。今回の逮捕がなくても、MSUは、そのうち自分で崩壊してたわ。あの理論のままじゃ」  叔母さんは、一貫してMSUに厳しい。 「結構、いい主張もしてたんだけどねえ」  サリナの言葉で、みんな黙った。  話題としては、出尽くした感じ。  これで、一件落着?  MSUに関しては、それでいいだろう。  俺は、そういうわけには、いかなかった。あとひとつだけ、しなければならないことが残っている。     70  電話でアポイントメントをとった。 「じゃあ、行ってくるよ。そんなに時間はかからないと思う」  玄関で見送ってくれる眉子叔母さんに言った。  いや、十五歳の、俺の妹の眉子に。 「私が最初に話したときから、わかってたの?」 「うん、だいたいは」  俺は駅に向かう。  退院したときには切符の買い方もわからなかったのが嘘のようだ。つい、この前のことではあるのだけれど。  ドアをノックする。  返事はなかった。  でも、俺は力をこめてノブを回し、ゆっくりと押し開ける。  白衣を着て机に向かってすわっていたやつが、顔を上げた。 「こんにちは、お父さん」  俺は、そう呼びかけた。  ドクターは、眼鏡を一度はずし、顔をくしゃくしゃにこすってから、かけ直した。 「そうか。ついに、わかったか。いや、ようやくわかったのか、と言ってもいいが」  叔母さんは、たぶん、話す気にはなれなかったのだろう。俺は、独自に感づいたのだ。俺が記憶を失った交通事故で、両親は死んだ。その俺の父は、貿易商とのことだった。入院中に、そういう説明があったのだ。  それが、本当の父は、クローンである俺のDNAの本来の所有者は、叔母さんの話だと最先端の医療研究者だったって言う。  そこで、俺は気づいた。初めのひらめきは、すぐに確信に変わった。  ドクターが、あんなにも攻撃的に俺に接触するのが、説明がつく。DNAを共有する第二の自己っていうか、自分の分身への特別な思いがあるというのなら、わかる。  Kがドクターを警戒しろと言ったのは、彼女の元夫であり、クローンを産まされて、肉体的にも精神的にも打撃を与えられた相手であるからだろう。 「まあ、いい。すわれ。ふたりだけで話そう」  ドクターは、椅子を指差した。  最初からそのつもりだったのだろうか、診察室にはドクターだけだった。  もっとも、MSUに属していたナースは、いるはずがない。初めのころからのメンバーで、幹部になっていた彼女は、Kと一緒に逮捕されたんだから。 「いろいろ、たいへんだっただろうな。おまえの母親もあんなことになってしまって。逮捕シーンがテレビに映るなんて、前代未聞だ」  それは話の核心ではない。  俺は、ドクターが父と息子の出会いの場で、問題をはぐらかそうとしているように感じる。 「事故死した両親というのは、だれなんですか?」 「おや、聞いてないのか?」  ドクターは、本当に意外そうだった。 「眉子には話したんだが。あれは慧の親友の夫婦だ。高校時代の友人で、こどもができなかった。慧にはアメリカへ行く予定があったし、私ひとりで幼児を育てるのは不可能に近かった。それで養子として引き取ってくれたんだ」 「なんで、そう言ってくれなかったんです? 俺が意識を回復した時点で。それで自分が本当の父親なんだって名乗ってくれれば」  ドクターは、再び眼鏡をはずし、顔をこする。 「そこだな。うん……、そうすべきだったのかもしれん」 「かもしれん、って。当然じゃないですか、息子に対して父親が名乗り出るのは」  俺は、あきれる思いだった。 「すまん。だけどな、あの時、私は、おまえに永久に記憶喪失でいてほしかったんだ」  永久に記憶喪失?  父親が息子に対してであれ、医者が患者に対してであれ、治療が進まないことを望む? 「そんな身勝手な、自分のクローンをつくっておいて」  突然ドクターが立ち上がる。大きな音をたて椅子が倒れた。 「なんだって? クローン? そんな馬鹿なことを」  机をたたくドクター。 「ハッ、馬鹿馬鹿しい。クローンだと。おまえが、私のクローン! そんなもんができるはずがないだろう。いいか、哺乳《ほにゆう》類のクローンなんて、成功の確率の低さを考えろ。羊でさえ馬でさえ、まともなクローンはできとらん。おまえは、自分が言ってることがわかってるのか?」  ドクターが、例の攻撃的な姿勢にはいったのかと、俺は思った。  しかし、彼は、ゆっくりと、とてもゆっくりと椅子を拾い上げた。元にもどし、再び席につく。 「そうか、その話は、眉子とはしなかったな。慧に吹き込まれたんだろうが、そんなものを信じてたとは。しっかりしているように見えても、こどもだな」  何を言いたいのだろう。  俺は、ヒゲを引っ張っているドクターに言った。 「じゃあ、俺は、お父さんのクローンじゃないんですか?」 「当たり前だろう。我々の科学がそんなに進歩しとるわけがない。仮におまえがクローンだとしたら、十八年前に技術が確立しとらねばならん。もっとも、おまえは事故前に、すでに、自分がクローンだと信じてたのかもしれんが」  ドクターの言うことは、予測がつかない。 「おまえはMSUの信者になっていたからな。それも、かなり熱心な。それが、私がおまえに記憶喪失でいてもらいたかった理由だ」     71  眉子叔母さんは、俺にジャスト・リメンバーと言った。しかし、俺は過去のエピソード記憶を取り戻すことはなかった。  ドクターは、俺を診察しながら、過去を選択しろと言った。AでもBでもCでも、自分の好きな過去を選べばいいと。  いま、彼によって説明された俺の過去は、MSUの信者だったという過去は、「事実」なのだろうか。それとも、あとから選択可能な、XやYやZの過去なのか。判断する根拠は、俺にはない。  しかし、単純にまいったよな、最悪。俺が、あのMSUを信じてたっていうのか。Kたちの、ピンクのひらひらの、UFOの、MSU。  ステージで跳ね回っている、We Are The MSU のひとりだったっていうんだぜ。  ドクターは言う。  日本にたびたびやってくる実の母親のKに、俺は洗脳(ドクターは、「マインドコントロール」とは言わなかった。その違いは、あるのか?)されかかっていたのだという。ドクターはMSUに走る俺を引き止めようと必死だった。(北島三郎を無理に聞かせてまで、と言った) 「慧は、おまえが天才だとかなんだとか吹き込んだ。それを、おまえは信じかかってたんだ。ただのスポーツ好きの少年だったのに。 「おまえが変な店でバイトを始めたのも、慧のさしがねだったんだろう? あのころ慧は、女性解放を唱え出していた。日本の性風俗の労働者の実態を調べようとしていたみたいだったからな。ゆくゆくは、おまえに店で働く女の子たちを、MSUに誘わせるつもりもあったんだろう。 「そうだ、MSUだ。MYSTERY AND SCIENCE OF THE UNIVERSE、だと? だいたい、この、MYSTERY AND SCIENCEってとこの、ANDだけで、十分、いかがわしくないか? 「MYSTERYとSCIENCEをANDでつないじゃうセンスだ。まあ、そんなことはいい。 「私にとって、おまえの記憶喪失は、言ってみれば僥倖《ぎようこう》だった。おまえの義理の両親の死という悲劇の中での、神の(神がいるなら)大いなる配慮だ。 「だから、おまえが昔の記憶を取り戻し、再びMSUに帰依《きえ》するのだけは阻止したかった。ああ、おまえのマンションを整理したのは私だ。事故のどさくさまぎれに、MSUの痕跡《こんせき》のありそうなものは、全部、捨てた。 「クローン? それは、慧がつくろうとした、まあ、『神話』のようなもんだろう。MSUの戦略なのか、本気で信じていたのか、わからん。そんなことは、慧の考えることは、だれにもわからんようになってしまった。 「実際、慧がそう思いたがった、私のクローンと考えたがった理由は、推測できんわけでもない。 「いいや、体外受精も嘘だ。なんだって? 私の性的能力に問題があったから、体外受精をしたって? それは慧が言っているのだな? 性懲りもなく。昔のままじゃないか。クソッ! 「おまえは、ふつうに生まれた。何百万年も前から、人類が繰り返しやっている、ごくふつうの性行為の結果だ。ただし、本当のところ、おまえの父親はわからん。 「あのころの慧は(いまでもそうかもしれんが)、だれとでも寝た。開き直った慧は、それを私の性的能力の乏しさのせいにしたんだ。クソッ! 「実際、私の子の確率は、かなり低いな。第二内科の教授の子かもしれんし、大学の門のとこにいたガードマンの可能性もある。家に帰ってみたら、クロネコヤマトの宅急便と寝てたこともあった。 「離婚の調停の場では、ずっと私の子だって主張してたから、それで私のクローンだなどと思い込む発想になったんだろうか。 「ああ、もちろん、眉子の父親だってわからん。この話も、わざわざ眉子にはしてないが……、いや、ABOの血液型はクリアーしている。古典的な知識にとどまっているな、おまえは。そんなもんは、あてにならんのだ。それこそDNA鑑定をせんとな。 「うん? そんなことを聞くのか。いや、それは……、最初のうちは、照れくさいが……その……、愛しあっていたんだろうな。深く、とまでは言わんが。 「しかし、ともあれ、人間だ。仲違いすることもある。 「理由? 理由なんて、いろいろあるんだろうが……」  そこで、ドクターは、口をもごもごさせた。  俺の「伝記的事実」が、いま、この場で明かされているのだ。ドクターとKとの結婚生活。そして、離婚。俺は養子に出され、その後、実母と接触し、MSUに感化される。  ドクターの言っていることは、本当なのだろうか?  どうしたら、確認がとれる?  この話をしたら、眉子叔母さんは、なんと言うのだろう。ソファにすわった叔母さんの目が、大きく開かれる。  俺たちは、叔母さんと俺は、母親を共有している兄と妹になる。父親が同じなら、ふつうの兄妹だ。違っている可能性も十分にあるようだ。  どちらであれ、そういった場合、俺が父のクローンで、叔母さんも父の子だと思ってたときと比べて、遺伝子的には近いのか? それとも遠くなるのか?  生物学なんて無意味だ。 「理由は様々だが……」  俺は、現実にひきもどされた。ドクターと向かい合っている現在の場所に。 「理由だよ、慧と私がうまくいかなくなった理由。根本的原因はともかくとして、きっかけは、森進一だ。離婚に踏み切ったきっかけは」  ドクターは、まだ、ふたりの離婚の理由を考えていたのだ。  でも、モリシンイチ?     72 「そうだ。森進一だ。あいつは昔から、森進一の大ファンだった。俺が北島三郎の方が、はるかにいいって言ったら、怒ってな。愛し合うふたりの結婚は、完全な破局を迎えることとなったのだ」  なんていう離婚の理由だ。  背骨から力が抜けた。 「そんな、くだらないことで? そんな、つまらないことで、別れた?」  俺は、あきれてしまった。 「ばか。くだらなくなんか、ない。音楽は、ひとの心の中で世界観を形成するんだ。慧は、よく言っとったな。かつては、ビートルズがローリングストーンズが、文字通りこの地球の表面のすべてを変えてしまったとか。 「すべてではない。日本には、日本人の心を歌う音楽がある。北島三郎は、日本の音楽の世界の至宝だ。戦後の日本の歌謡界のカリスマなのだ。おまえは、そんなことも理解できんのか。 「北島三郎は、サブちゃんはだな、男は男らしく生きねばならぬことを、歌を通じて訴えかけた。あの、すばらしく艶《つや》のある、天地をも揺り動かす歌声を通じて。戦後の日本のオピニオンリーダーなのだ。時代を駆け抜けた男なのだ。 「だからこそ私は、MSUに走ろうとするおまえに、サブちゃんを聴かせた。北島三郎の歌声だけが、おまえを、カルト宗教にいかれてしまいそうなおまえを現実に引き戻すことができる。そして、それは、実際に、そうだったんじゃないのか? 「北島三郎を聴いていたころに事故にあったおまえは、記憶を喪失し、二度とMSUに魅力を覚えなくなった。 「催眠と呼びたければ呼べ。マインドコントロールでもいい。洗脳だって、かまわん。定義は、どうでもいいんだ。北島三郎サブリミナル効果が、おまえを立ち直らせる。 「話をもどすぞ。慧にとっては、森進一が、私にとってのサブちゃんのような存在だったのだろう。いまとなって言えることだが。 「その日、私は北島三郎を高く評価したんだ。酔っていたのもあった。仕事のストレスもきつかったころだ。いや、それが言い訳に過ぎないのは、わかっておる。 「私は、口汚くののしったんだ。サブちゃんに比べたら、かすれた、悪声の森進一なんか足もとにも及ばないって。そしたら、慧は、一週間、ひとことも口をきかなかった。そして、書置きも残さず出ていってしまったんだ」  ドクターは、言葉を切った。考えこんでいるように見えた。  あるいは、過去の思い出、俺には持つことが不可能な過去の思い出のなかに沈み込んでいるような。  と、突然、ドクターは、机をたたいた。  目は、怒りでギラギラと燃え上がっていた。 「おまえは知らんと思うが、だいたい、MSUは、もともと森進一のファンクラブだったんだぞ。森進一が森昌子と結婚したことに抗議し、ファンクラブのなかの過激派の慧たちが地下活動にはいった。そのときの名が、MSU。すなわち、MORI SHINICHI UNDERGROUND」  ドクターは立ち上がった。  両手のこぶしを握り締め、突き出すようにして歩く。 「いいか、リーダーとなった慧は、その後、MSU研究所をスペインで設立した。そして、布教活動にはいった。それを聞いて、私はめちゃくちゃ腹が立った。で、KSIを作ったんだ。KITAJIMA SABURO INTERNATIONAL。 「どうだ? いい名前だろう。北島三郎という、美しい、均整のとれた日本の固有名詞と、インターナショナルという外国語が共鳴する。 「なぜ、インターナショナルというかはだな、当時、医局に留学してたコリアンであるキムくんと、ふたりで創設したからだ。演歌好きのよい青年だった。しかし、KSIの設立後まもなくしてアメリカへ渡ったキムくんは、なんと、黒人のラップのファンになったという。あの騒々しい、ラップミュージックのファン。 「転向だ。許せぬ志操のなさ。志操のないのは思想犯だ。ハッハ、ハッハ。おもしろい。それを聞いた私は、ただちにキムくんを除名した。KSIからの永久追放という最も重い処分だ」  狂ってるね。  ドクターは、完全に、狂ってる。  俺は、立ち上がった。  これ以上、聞いている必要はない。 「それでKSIはだな、反MSUの活動を展開し、支持者をふやしていく。MSUに家族を奪われた被害者の会は、実質、KSIが組織してるんだ。私は、その我がKSIの最高顧問としてだな……。 「おい、なんだ。帰るのか。待て。記憶喪失になる前の、おまえの過去のことなんだぞ。おまえが、あんなに知りたがっていた。それを、いま、教えてやってるんだぞ……」  俺はドアを開ける。  過去なんて、いらない。  さよなら、ドクター。二度と会うことはないだろう。  あるいは、俺は言うべきなのか? さよなら、お父さん、と。お父さんかどうか、結局わからない、俺の父親。 「おい、ひとの話は最後まで聞くもんだ。慧は逮捕された。MSUは解散だろう。だったら、残念ながらKSIもだ。存立の基盤を失う。 「それで、おまえは、どうする? これから、どんなふうに生きていくつもりだ? おい、あてはあるのか? これからの、おまえの……」     73 「なんか、かーわいそー。あの、おばちゃん、つかまっちゃうなんてー」 「そうだよね、ユウカちゃん」  監督が応じた。 「ユウカだって、留置所、たいへんだったもーん」 「ユウカちゃんは、MSUのこと信じてたの?」  眉子叔母さんが聞いた。 「まーさか。でも、あの、慧っておばちゃん、いいひとみたいだった」 「ササミの方いませんかー。ササミあがりました。はーい、ササミです」 「また、なのですか」  店長は小さい声でぼやいたけど、皿を持ってウロウロしている店員さんに、手を振って合図した。 「すみませんねえ、いつも」  お店の人は、皿をテーブルに置いた。 「注文の通し方、工夫しなければいけませんです。ニッポン人、商売に粘りがたりません」 「いやあ、気をつけてるんですけどねえ」  店長に焼鳥屋に誘われた。  今度は、眉子叔母さんも、ちゃんと来た。サリナの他に、ユウカと監督もいるとは思わなかったけど。 「ユウカね、おばちゃんに聞いてみたの、インタビューで。カットされちゃった分。MSUをしてて、いちばん言いたいことは何ですかって。わかる?」  サリナが手を挙げた。 「男根主義者に死を?」 「うーうん」 「単性生殖の時代が来る、とかいうのかな。例のクローン。それで、超人類とか」  俺の説も違うらしい。どうも、俺は、まだクローンをというか、ドクターの話をひきずってるのかな。  と、考えたら、そこで聞いたMSUの旧称を思い出した。  俺もサリナのマネをして手を挙げて、 「森進一を、聴こう?」  と、言ってみた。 「なんなんですか、それは。高橋さん」  店長に、変な顔をされてしまった。 「やっぱり、本来の教義である宇宙の神秘に関しての、何かかしら。最近は、UFOにのめり込んでいたみたいだし」  MSUウォッチャーの眉子叔母さんが言ったけど、ユウカは首を振った。 「自由なセックス、楽しいセックス、だれとでもセックス、お金もらってセックス、お金あげてセックス、で決まりではないでしょうか。慧の主張とユウカさんの波長が、ぴったりと合います」  と、自信ありげに主張するのは店長。 「はずれー。ぜえーんぶー、はずれー」  ユウカは、みんなの顔を見回し、とても大事なことを発表するように言った。 「おばちゃんはねー、ユウカに言ったの。MSUを信じればー、みんなー幸せになりますってー」  全員が黙っていた。  しばらくしてから、 「なんだ、そりゃ」  と、監督が言った。いままで、飲んでばかりで、話に参加してなかったのに。 「シンプル」  眉子叔母さんが、ひとこと。 「そうね。とってもシンプル。すべての宗教は、それよね」  サリナは、うなずいている。 「ねえ、いいひとでしょ、慧っておばちゃん」  ユウカは、顔を見回すようにして、賛同を求める。 「そうなんでしょうか。そういう結論になるのでしょうか」  店長は、疑問の声をあげる。  それで、みんなが黙ってたら、 「うん、そうだ。MSUの慧はいいひとだ。そのとおり。すべてのひとびとの幸福を願っている。そうだよねえ、ユウカちゃん」  と、監督が大きな声で言った。  すげえ調子のいいやつ。もしかしたら、店長に勝てるかも。     74  それからは、宴会。  みんながバラバラに適当なことをしゃべっていた。 「だってえー、おばちゃんの言ってるのはー、正しいのよ。ユウカ、大きいアレって大好き。でも、小さくったってー、好きだもん」  監督とユウカは、まだ、MSUの話をしている。 「あ、そうでした。報告を忘れていましたです。桝本が教団、新しくつくっているようなのです。あの、桝本組の桝本です。名前は決まってて、『小さいチンポ教』」  店長が言った。 「シンボルマークは、なんとアレなんだそうですよ。高橋さんのロッカーにあったアレ。シリコンの小さなペニスが、教団のマークなのです」  いつか、道路に面したカフェだった。サリナがピンクのやつをぷるぷる震わせてる光景が、よみがえってきた。 「桝本、意外に頭がよいようです。『小さいチンポ教』は、巧妙な手口なのですよ。ペニスのピンク色が、MSUの郷愁を誘う。残党を結集してますです」  店長は、身を乗り出す。 「もうかりそうな予感、キラキラしてます。私、いまのうちから組織にくいこめば、事務長になれるかもしれません。高橋さん、あなた、手伝う気ありますですか?」  俺は、MSU(KSIだって)も桝本も、宗教はうんざりだ。  監督は、眉子叔母さんとサリナを口説いていた。女優になって脱がないかって。  叔母さんは、笑って聞き流す。  サリナは、 「それもいいかもねえ。私、転職考えているとこなの」  と言うので、監督は本気になってしまった。 「長女サリナと次女ユウカはレズで、長い間、秘密の世界を持っていた。ふたりの肉体の宴《うたげ》に三女眉子を引き込もうとする策略がすすむ。バレエに励む眉子のためのマッサージと称し、巧みにからだに触れるサリナ。化粧を教え、自分の大胆なランジェリーを眉子に無理に着けさせるユウカ。いつしか、眉子も……。おお、なんと豪華なレズビアン三姉妹」  監督は、ひとりで感動しているんだけど、だめだよ。俺、叔母さんの名前が出るたびに気になっちゃうじゃない。 「おい、高橋、おまえも出るよな」  声をかけられてしまった。 「やっぱ、男とのカラミもあったほうがいい。自慢の肉体をスクリーンで輝かせるんだ。見るすべてのひとびとが幸福になれる」  それは、ちょっと、お引取り願いたい。 「次女ユウカは、実はバイセクシュアルであった。そのボーイフレンドの高橋は、ユウカにそそのかされて、男嫌いのはずだったサリナと関係を持つ。急速に男に目覚めるサリナ。果てしない3Pの現場を目撃し驚愕《きようがく》した眉子の処女膜に、高橋の毒牙《どくが》が襲いかかる」 「渡辺監督、あなた、ストーリーの才能あります。私にも役をください。出演したいです、その映画。ただし、高橋さんに私の肛門《こうもん》のバージンは捧《ささ》げません」  店長が言うと、みんなが笑った。  よかったよ、それで。  ちょっと、これ以上監督のストーリーが続いたら、俺、聞いてられなかったね。 「すまない、だいぶ遅れてしまって」  低い、よく通る声が響いた。 「おっ、いよいよ自慢の肉体の、真打ち登場」  と、監督が言った。  テーブルから顔を上げると、ケンさんが立っていた。  俺と、目が合う。 「あっ、高橋、ごめん。このまえは」  一気に生ビールを飲み干したケンさんは、説明をしてくれた。そのつもりで準備してきたのかな。  ケンさんは、EDになったんだっていう。勃起《ぼつき》不全。本格的に立たなくなった。ついに、いくら集中しても、頭で立てようとしても、うまくいかない。 「俺の商売、チンポ立ててなんぼだから、しかたなく病院に行ったんだ。そしたら、ヒゲはやした、いかにもうさんくさい医者が出てきて」  そんなとこで、ドクターと。 「俺のEDは、最初は良くなりそうだったんだ。けど、しばらくすると元にもどっちまう。一進一退。で、新しい薬、日本で認可されてないやつを使ってみようかって、その医者が言いだした。まだ違法だけどひそかに輸入されてるって薬。その条件としてはね、KSIの仕事を手伝ってくれって」  そういうことだったのか。  藁《わら》にもすがる思いのケンさんは、ドクターに言われるまま、ひとりの男を拉致する。監禁して、マインドコントロールを試みる。 「驚いたぜ。現場に行くまで、つかまえる相手が高橋だって知らなかったんだ。申し訳なかった、あの時は」  俺は、気にしてない、あやまってもらう必要はないって言った。だって、もう、済んだことだ。  そう、すべてが終わったんだ。MSUも、KSIも、俺の過去も。 「おかしいよな。その医者の住んでるマンションだと思うんだけど、高橋閉じ込めて、ガンガン北島三郎かけた。俺がそいつの書いた台本、読んで。そのうち、これでも俺、役者だからさ、やってるうちに、だんだんのってきちゃった。あれは、ずっと医者と俺のふたりでやってたんだ。高橋、俺のこと気づいてた?」  俺は首を振った。  あとになってから、ケンさんの声だとわかった。でも、あの現場にドクターもいたとは。  顔を近づけ、小さい声で、ケンさんは言う。 「高橋、あの、マインドコントロールっていうやつは、効果あったのか?」  眉子叔母さんに聞こえてないか、目を走らせている。 「だいじょうぶ。なかった」  俺は、そう答えた。  あったのか、なかったのか、判断は不可能。この世界は、すべてがマインドコントロール。  それでも、ぼくには疑問が残っている。ドクターがケンさんを利用して、ぼくをMSUから遠ざけようとしたのは理解できる。そのときに、なぜ眉子叔母さんを襲わせようとしたのか。  そうさせることが、いちばんのKへの復讐になると考えたのだろうか。自分の息子が自分の娘を犯す、近親相姦。  だとしたら、それは、あまりにKSI的だ。自由なセックスを唱えるMSUのKにしてみたら、なんの痛手にもならないだろうに。 「そうか。よかった。やっぱり、そうだよな。おかしいよな。あの医者の言うことはインチキだったか。北島三郎、聴くだけで変わるはずがない」  ケンさんは、納得している。 「それで、その薬は、EDの特効薬は、効いたのですか?」  横から、店長。  ケンさんは、情けなさそうに、それもインチキ、と言った。 「俺は、医者にだまされたんじゃないかって、あとで考えるようになった。KSIに利用されただけで。そんな、日本で認可されてない薬なんて、最初から嘘だったんじゃないかな。病院行くの、いまはやめてる」  まあ、そんなところかもしれない。あのドクターのやることだ。 「ケンさん、立たないんなら、桝本の宗教やりませんか。『小さいチンポ教』です。ケンさんなら知名度もある。一枚看板ですよ。広告塔。ふたりで教団に行きましょう。桝本も大歓迎のはずです」  店長は、どこまで本気なんだろう。 「俺のは小さくはないけど、立たなければ一緒か。そうか。かつての名AV男優が、小さいチンポ教の広告塔か」  ケンさん、元気ない。 「ユウカはー、ケンさんならー、立たなくてもいいわよ。いいの、大きくても、小さくても、立たなくても」  そう言われて、ケンさんは、ユウカの隣に移動した。なんか、いい雰囲気で話してるの。なんなんだろうねえ、この集まりは。  俺、眉子叔母さんのこと誘って、そろそろ帰ろうかって思った。  そしたら、 「おっ、高橋じゃないか。高橋」  大きなひとが、テーブルの端に立っていた。     75 「どうしてる、高橋。トレーニングはしてるか? 陸上をしよう」 「私、呼んでません。このひとのことは」  店長が叫んだ。 「誰です、このひと」  すわったまま、店長はコーチのことを大袈裟に指さしてる。  やっぱり、酒に弱い。 「偶然だよ。店の前をとおりかかったら、偶然、高橋がチラッと見えたんだ。ぼくは、この前も、偶然に高橋と電車で会った。これは、高橋にスポーツを勧める神の仕業だ。なあ、高橋」  店長が立ち上がった。 「それならば、良い話です。おすわりください。中国人、運命信じます」  店長がスペースをつくってくれたんで、サリナと俺の間にコーチがすわった。 「最近は、どうなんだ? 高橋」  コーチに聞かれて、俺は答えた。 「絶好調ですよ。絶好調。からだも脳も」  そういうわけで、グラウンド。  トラックを吹き抜ける風が気持ちいいのは、海が近いせいなんだって。  今日は、まず、ロング・ジョッグ。  別にさあ、俺は、絶好調ってこともないんだけど、まあ、そうなりたいじゃない。自分で絶好調って言ってれば、そのうち、そうなる。  これ、俺の人生の、基本姿勢。  俺の人生?  そう、始まったばかりの、俺の人生。  眉子叔母さんは、とりあえずスペインに帰ることになった。祖父母に会う必要がある。出生の秘密が明らかになってから、初めて顔を合わすわけだ。  いままで両親だって思ってたひとたちと、どういう再会になるんだろう。気になったからね、俺も、一緒に行こうかって提案したの。  俺にとっても、祖父母にあたるわけだし。幼いころには会ってるらしいけど、もちろん、俺の記憶にはない、母方の祖父母。  そしたら、眉子叔母さんは、 「だいじょうぶ。そんなにウエットな感じにはならない。慧の逮捕の報告っていう、具体的な重要課題もあるし。そうね、ともかく、その相談をしてくる」  と言った。 「もう年齢が年齢だから、一度にショックを与えないようにしないと。あなたに会うのは、落ち着いてからがいいと思う」  言われたときには気づかなかったんだけど、俺と会うっていうのは、祖父母にとって、そんなにショックなことなのか? 未知の動物と出会うわけじゃないと思うんだけど。  一般論としてはね、たしかに、ショックは少ないほうがいい。  叔母さんの一時帰国のお別れパーティ、ってほどでもなくて、一応の挨拶ということで店長とサリナに来てもらった。  そしたら、ふたりだけのときにサリナが、 「事故の前ね、高橋と私は、いわゆる恋愛関係っぽくもあったのよ。実は」  と言った。  これは、ちょっと、ショック。いまさら、なんだよ。ちゃんと、最初に言えよな。 「もちろん、肉体の関係もふくめてね。だから、カギだって持ってたの」  そう言って、サリナはからだをくねらせるのよ。相変わらず、めちゃくちゃ色っぽい。でも、そんなこと、言われたってねえ。 「お店でマフィアの潜入捜査をしてて、あなたと知りあった。でも、その後、MSUの信者だってわかって、警戒し始めたところだったのよ、事故が起きたときには。高橋は、見事に記憶がなくなってたわね。MSUのこと、私がほのめかしても、ぜんぜん覚えてなかった。事故前のことはゼロ」  そんなことはない。俺のエピソード記憶は消滅してたけど、ともかくサリナという単語にだけは、脳が反応してた。  そのわけがね、納得できた。  けれど、サリナの言葉で、もうひとつショックだったことがある。こっちのほうが、じわじわと効いてきて、心がうずく。  それは、俺がMSUの信者だったってのが、サリナによって裏づけられたからだ。記憶喪失前の自分について、いちばん受け入れられない情報。  過去の自分は捨てたつもりだ。でも、なんか、自信がなくなっちゃうよね。そんなおかしなやつだったのかって思うと。 「で、どうする? これからふたりの関係は」  俺には、返事のしようがない。まあ、成り行きにまかすしかないだろう。  サリナは、JCIAは、やめた。今後のことは未定だそうだ。 「マフィアがお似合いですよ。ニッポンの警察とヤクザは、まったく体質が同じです。サリナさんなら、出世、間違いなし」  店長が勧めるけど、乗り気ではないみたい。  それよりも、と店長は言った。 「まさか、桝本が殺されるとは思いませんでした。『小さなチンポ教』も、おしまいです。ニッポンのマスコミ、間違い多いです。高原組との抗争だって言ってます。いまさら桝本のタマとって、高原の側にはなんのメリットもない」  店長は、おそらく秘密警察の、JCIAの仕業でしょう、って言うんだけど、サリナは笑うだけ。JCIAでは、実行するごく少数の人間に情報を限っている。お互いの活動は知らされていないそうだ。  翌日、俺は、眉子叔母さんを空港に送っていった。  叔母さんは、朝から元気がなかった。バルセロナの祖父母に会うのは、やっぱり、気が重いんだろう。  それなのに、 「だいじょうぶ? ひとりでちゃんと暮らせる? 食事をきちんととるのよ」  十五歳の妹に心配されてしまった。  出国審査へ向かう時間になった。  俺は、眉子叔母さんを抱き寄せる。  でね、俺、勇気奮ってキスしたの。  あのマインドコントロールの夜以来の、初めてのキス。  叔母さんはね、ちょっと驚いたのかな。からだを硬くしていた。  俺、唇を離して、言ったのよ。 「これからは、俺が、叔母さんの後見人になるよ。今度は、俺が守ってみせる」  カッコつけすぎたかな。  眉子叔母さんは、アゴを軽くつきだした。例の表情。そうだな、誰かに守ってもらいたがるような性格じゃなかった。  俺、笑われるかと思った。  そしたらね、叔母さんは、背伸びしたの。  俺の頭の後ろに手を回して、そっとキスを返してくれた。  何も言わずに、出国ゲートへ向かう。  俺は、その場で立ったまま見送る。  叔母さんの背中が揺れて動いている。いつか俺が尾行していた、あの後ろ姿。 「高橋、種目も、距離も限定しないで、オールラウンドの練習をしてみよう」  ジョッグしながら、コーチが言った。 「この前のだな、あの最初のときのだ。あの疾走とジャンプ力とを見れば、三千障害もいいかもしれない」  そんな、古い話をしないでほしい。 「目標としてはだな、まず、百メートルからマラソンまでの、すべての日本記録を塗り替えよう。強く願えば、すべてはかなう」  コーチはニヤッとした。  それって、MSUじゃないの。こんなこと、コーチが言えるなんて。だって、この前までKSIに入るって言ってたんだぜ。 「いいですよ。やりましょう、オールラウンド」  俺は、そう返事した。  でもね、俺は、基本的には、百メートルをしたいって考えてる。だって、百メートルは、十秒でいいんだ。  ドクターは過去を選択しろと言い、叔母さんは未来を生きろと言った。  俺は、単純に、現在を生きようと思う。いつ、また記憶を失ってもいいように、この瞬間をせいいっぱいに生きる。  だったら、いちばん短い距離にするのが、俺には合ってる。だって、十秒だけ記憶が続けば、百メートルは走れるんだ。まあ、半分冗談だけど。  海からの風が、俺の背中を押す。 「そんなにスピードを上げなくていいよ。ロング・ジョッグなんだから」 「だいじょうぶですよ。絶好調なんで」  そう、絶好調。  俺の人生は、いま新たに始まったんだから。 下記の歌詞を引用いたしました。 星野哲郎作詞『兄弟仁義』『函館の女』 永六輔作詞 『帰ろかな』 角川単行本『NR(ノーリターン)』平成16年11月30日初版発行