川上宗薫 赤い夜     一  弥生が、 「わたしには秘密があるの」  といった時、浦川はギョッとなった。 「わたし、これだけはいうまいと思ってたんだけど、やはり隠しておれないわ」 「いったいなんだね。ぼくが驚くようなことかね?」 「驚くと思うわ」 「ぼくが驚くとしたら、殺人をやったとか、そういうことだよ。過って人を殺したというようなこととか、あるいは詐欺とか」  弥生は笑った。それなのに、彼女の眼には涙がたまっている。  弥生の眼は、化粧をしている時と化粧を取った時とでは、かなりちがっている。  化粧を取った弥生の眼を見た時、浦川は、こんな顔ではなかったはずだと、少し驚かされたものだ。そして、同棲することにきまったあとだけに、多少の後悔さえ覚えたものだ。  弥生の顔の中で一番魅力的なのはその眼である。 「わたしの眼はね、眼千両といわれたの」  彼女は夢島の芸者の中では一番の売れっ妓《こ》だったと、彼女自身いっていたし、浦川も、ほかから聞いたことがある。  その弥生の上|瞼《まぶた》が少し垂れ気味である。化粧を落し、眼の張りを強くする化粧液を落すと、上瞼が重く垂れてくるのだ。その重い瞼の眼に涙がたまり、眼尻から、その涙は耳の方に伝わっていく。 「いい出したからにはいえよ。殺人とか、そんなことでなきゃ驚かないさ」 「ほんとに驚かない?」  弥生は、涙の眼を見られまいとするかのように、両手で顔を覆って、そのせいか、含んだ声になってそういった。 「驚かない。きみへの気持も変らないさ」  弥生と浦川とは蒲団の中にいた。  朝の十時を廻ったばかりである。眼を醒《さ》ましたあと、浦川は弥生の体を抱いた。  弥生の体は、日々燃える度合いを強めていた。芸者をして、しょっちゅうその体を客に抱かれて男の肌に慣れ過ぎていたせいか、それとも、彼女の中になにかの理由で、感じまいとする防禦の姿勢があったためか、弥生は、初めの頃は深い反応を示さなかった。  浦川の方は、そんな弥生にいつか悦びを思い知らせてやるという意気ごみがあった。やがて悦びを知る弥生を思い描くことで、浦川は、自分の欲情を昂《たか》められていたといってよい。  弥生の肌は、やや黄色味がかった白さで、きめこまかだった。  その体は、同棲を始める頃は少し太り肉《じし》であったのだが、日が重なるにつれて急速に瘠《や》せていった。特にふとももが眼に見えて細まっていった。  彼は、その匂いの薄い白い体を愛していた。その白い体に、浦川は、自分とは異質の世界に育ってきた女の歴史や雰囲気を、異国のものを見るような感じでもって見、ある劇的な感激に冒されさえした。  弥生はいきなり浦川にしがみついてきた。泣き声になっているために呂律《ろれつ》のはっきりしない言葉が、浦川の耳に入ってきた。 「わたしには子供がいるのよ」  浦川は、そのことを初めて聞かされた。  弥生が中絶手術を受けたということは、彼女の口から聞いたことがある。しかし、子供を生んだことがある女だとは、彼は知らなかった。 「どこかにその子供がいるということかね?」  しがみついている弥生の顔が、浦川の胸に向って頷《うなず》くのを、浦川は、弥生の体を抱きとめたまま感じていた。  弥生の涙が、浴衣を通して、胸に暖かい感触を這《は》わしていく。  弥生は浦川の胸から、さっと今度は体を引き、浦川に背中を向けた。  彼女はその姿勢のまま、今度はおちついた口調になって、浦川に話し始めた。  その話によると、弥生は、その男と別れてまだ一年も経《た》っていない。  弥生は、その男の愛人として生活をしていた。その生活のために夢島から一時身を引いた。そして、子供を生んだのだが、それが旦那の細君にバレてしまった。悶着《もんちやく》が起き、赤ん坊は、これまで子供を生んだことのない細君に引き取られ、彼女は旦那と手を切らねばならなくなった。  その時、弥生に決断をつけさせ、弥生に、これから先、生きる勇気を与えたのが、弥生の母の志津である。  志津は出処進退をはっきりさせることが人生の最大の掟《おきて》だと心得ているような女として、浦川に捉えられていた。  子供を引き取られていく時の弥生の悲しみのことを、浦川は考え、いとおしさでいっぱいになり、背中を見せている弥生の腕を取り、自分の方に引き寄せ、抱き締めてやった。 「そんなことはなんでもないことだよ。ぼくの方はなんでもないけど、きみはたいへんだったねえ」 「わたし、あの時死んだも同然だったわ。わたしは一度死んだ女なのよ。母がいなかったら、わたしは自殺してるわね、きっと」  浦川は、弥生との同棲生活を始めて、まだひと月しか経っていなかった。そして、同棲に踏み切るまでふた月ほど毎日のように会っていた。  その三月《みつき》ほどの間に、浦川は、弥生の眼が輝く処に必ず小さい子供がいるということに気づいていた。弥生と一緒に歩いている時に、弥生の顔が急にはればれとなってくる。弥生の視線を追っていくと、そこには、乳母車に乗った子供がいたり、母親に手を引かれたたどたどしい歩き方の子供がいたりするのだった。  彼女には、その子供たちの顔の美醜は問題ではなかった。ただ小さい子供ということだけで、弥生は無関心ではおれなくなるらしかった。必ず近づき、見つめ、笑いかけ、いかにも羨《うらや》ましげに立ち尽したりするのだった。  そんなあと、数分間は、弥生は浦川の存在を忘れているかのようだった。そのくせ、彼女の手は浦川の腕に把まっていたりするのだ。  弥生は、浦川にはその旦那の名前や職業については、はっきりあかさなかったが、その男が、ある会社の経営者であるらしいことは仄《ほの》めかした。 「ベンツなんか、しょっちゅう買い替えるような、そんな人なのよ」  弥生の母親も、アパートの部屋で一度こういったことがある。 「前におまえがいたマンションはなんでもよく整っていたね、広くてさ」  その言葉は、浦川が弥生と一緒に住んでいる麻布の二DKの部屋に対する批判のようにも聞こえたので、彼は、自然と痛い感じで耳にとめていたのだ。  とにかく、その男は、浦川などが及びもつかぬ金持らしかった。  その頃、浦川の貯金通帳はいちばん多い時で二十万円しかなかった。彼は、入ってくる金全部を使い果すことによって、やっと生活ができていた。  弥生と同棲するために、浦川は、それまで二十年一緒に暮した妻子のもとから出てきた。その妻子に、彼は月々二十万という金を送っていた。すると彼の通帳は殆《ほとん》ど零に近くなる。  彼はその残り少ない金で生活をし、弥生の母親の生活も見てやらねばならなかった。  彼女が生んだ子供の父親に対して、浦川は嫉妬《しつと》を覚えるようになった。 「その男とおれと、どっちを愛してるの?」 「わたしの子供のパパですもの、まだその人に覚えた愛情の方が、いまの先生への愛情よりも強いわね」 「いまは愛してないんだね」 「いまはもちろん先生の方を愛してるわよ。でも、わたしが一番その人を愛してた時の気持は、いまの先生に対するよりも上だわ。でもね、きっとだんだんわたしは先生を愛するようになると思うの。そして、子供のことは忘れられなくても、パパの方は忘れていくと思うわ」  その言葉を、浦川は、それからあとも何度も愛の保証のように、弥生の口から引き出したものだ。  弥生が、もらい子をしてもいいから子供がほしいといい出したのは、秘密を打ち明けてから間もなかった。  浦川は、体に精管の結紮《けつさつ》の手術を施していた。彼は十年ほど前に、その手術を友人の婦人科医の成田にしてもらったのだ。  それは、彼自身が自由に浮気をするためでもあったし、彼の細君の道子が、 「もう子供を生むことは金輪際いや」  などといったためでもあった。  二人の間には一人娘の有以子がいた。有以子が生まれたあと、道子は三度妊娠中絶の手術を受けた。  彼女は、子供を育てることに自信を持っていなかったし、子供をそれほど好きではなかった。  浦川自身も、有以子以外に子供をほしいとは思わなかった。それに、子供がふえれば、家庭経済は甚だしい圧迫を受けるにちがいなかった。  浦川は、子供をほしがらない道子の気持に乗じて、自分のためにそういう手術を受けたのだった。  だから、弥生は、浦川からは子供を得られないと知って、もらい子のことや人工授精のことを、真剣に考え始めていた。  浦川は、成田に電話して、もらい子が可能かどうか、そういう話はときどきあるものかということを訊《き》いたりした。  成田は、そういう話はないでもないが、いまそういうことをすれば、浦川自身があとになって困るだろうというようなことをいい、弥生には、こっちで当ってみるから急がずに待っているようにいった方がよい、ということもいった。  浦川は子供はほしくなかった。しかし、弥生の喜ぶことであれば、もらってもよいという気持だった。彼は、すべて弥生本位で動きたい気持になっていたのだ。  浦川は、弥生に子供がわりに愛玩犬のマルチーズの小犬を買ってやった。  弥生は、そのメスの、掌《て》に乗るほどの小さいマルチーズの小犬を溺愛《できあい》し始めた。その小犬は、二人が愛し合っている時にも弥生にまといついて離れようとしなかった。  彼は、そっと弥生にわからないように、その最中に、足で、ルルというその小犬を蹴とばしたりした。  しかし、ルルは決して二人の愛の交換にとって、妨害者の役だけを果したわけではなかった。小さい白い犬にまといつかれているという情景が、浦川の瞼の裏側にあり、それは、ある官能的な情景として、浦川には思い描かれたからだ。  初めはルルをうるさがっていた弥生も、やがてルルを忘れ熱中し始める。  浦川は、弥生の体のどこを愛しているというわけではなかった。彼女の感受性を上廻る感受性の女はざらにいたし、彼女の構造も、特に良質というものではなかった。  いったいなにが自分をこれほどに彼女に熱中させているのか、浦川自身よくわからなかった。  浦川は埼玉県の家を出たいという欲求を積極的に持っていたわけではない。彼は愛人を持ちたかったまでだ。だが、情念は彼の計算を裏切ってしまった。勢いがつき、浦川は妻子のいる家に帰りたくなくなった。もしも、弥生が芸者でなかったら、あるいは、彼自身がもっと芸者というものを早くから多少とも知っていたら、その勢いは彼に家出を迫るほどの強さを持ちはしなかったであろう。  浦川にとって、なにせ、弥生は珍しい未知の種類の女であった。彼は弥生を一個の女として見る前に、彼女の環境の方に関心を持ったのかもしれない。浦川がプロテスタントの牧師の家庭に育ち、文学を志し、大学を出たあとも高校の教師としてしか世間を知らず、彼が二十年一緒に過ごした道子は多分に文学少女じみているということなども、彼が弥生に打ちこんで行った大きい理由を造ったにちがいない。  そして、弥生への愛情が、彼をして妻子のもとから飛び出させた、その連鎖反応によって、よりかきたてられていることは確かであった。浦川は、異国の女を愛することを劇的に感じている男のように、元芸者の弥生を愛しているということかもしれなかった。  弥生の母は三鷹に住んでいた。  浦川は、志津も一緒に住むようになると困ると思っていたが、弥生の方もそんなつもりはなかった。 「わたしだって、母とずっと一緒にいたりしたら、息が詰まりそうになるにきまっているわ。だから、母はずっと三鷹にいてもらった方がいいわ。そして、わたしは、母のいる処へときどき帰るというふうにするわ」  志津の方から、麻布のアパートにやってくることはときどきあった。  いかにも気丈な女といった感じが志津の顔に現われていた。  彼女は弥生のことをよく褒《ほ》めた。弥生には、やはり芸者をしている姉がいるのだが、姉の方は志津の面倒を見ようとはせず、弥生だけが志津の生活を見ていた。  志津は、姉よりも妹の弥生だけを褒めた。 「自分の口からいうのも変ですけどねえ、先生、弥生はいい子ですよ。わたしらは、みんな自分の身についたものを大切にするんです。先生だって、なんの縁かで、こうしてお近づきになれたんですから、わたしも、なにかにつけ尽さしてもらいます」  彼女の話には、損得抜きで、選んだ運命を大切にしたいというような話が多かった。  そして、根性という言葉が好きだった。  浦川は根性という言葉がきらいである。根性というと、息《いき》んだ顔つきが浮かんでくる。その息んだ顔つきは、彼の中で、軍国主義のあの灰色の時代への記憶に繋《つな》げられる。  弥生にも、母親譲りの処があって、そういう点を、浦川はあまり好きではなかった。そして、この親子からは、固い結束のようなものが感じられるのだった。  弥生は母親思いで、いわゆる親孝行の娘といってよかった。  彼女が小学校の時に死んだ父親についても、弥生はこういった。 「いまでもわたし思うのよ。父が死ぬとわかってたら、あんなこといわねばよかったとか、ああしてやればよかったとか、悔みきれないことがたくさんあるの」  父が死んだあと、志津は、弥生たちを抱えてたいそう苦労したらしい。日雇いのようなことをやって弥生たちを育てたという。  だが、彼には、志津の心についてわからないことが一つあった。  弥生が芸者をしている時、男たちに肌を許して得た金で生活を立てていることについて、志津はどんな考えを持っていたのか、というのが、浦川の疑問であった。  そのことを、浦川は弥生にいったことがある。すると、弥生も、 「そうなのよねえ、わたしもそう思うわ。でも、そんなことは母に訊いたことがないわ」  弥生は、三、四日に一度は三鷹に行って、泊ってきたり、泊らない時は夜遅く帰ってきたりした。  そういうことを、浦川は仕方のないことだと思っていた。親孝行な弥生に、三鷹に行くなということはできない。  彼はそんな時、弥生に電話することで、さびしさを紛らわせねばならなかった。  彼はまた、弥生が三鷹の家に帰る時は、家の近くまで車で送り、その同じ車で麻布のアパートに引っ返したりした。  弥生は、三鷹の家に浦川がくることを好んでいなかった。浦川も、志津のいる家に遊びに行きたいなどとは思わない。 「あまりいい家じゃないから恥かしいのよ」  弥生はそんなことをいった。  志津は、浦川に、 「うちにも遊びにいらしてください」  といったことがある。  夏が終ると、弥生は、それまで休んでいた芸者の籍から完全に身を退《ひ》いた。  そして、二人は、アパートを青山に移した。  そのアパートには広いベランダがあったので、そのベランダの半分に、手伝いの女のための部屋を造った。弥生が、体が弱いということで、手伝いの女をほしがったからだ。  それに、弥生はときどき三鷹に行かねばならない。そんな時に浦川の世話をしてくれる者が必要であった。  弥生は、浦川のことをこういったことがある。 「親のない子供みたいな人なのね、先生って」  浦川は小説を書くのが職業であるので、みなから先生といわれていた。弥生は芸者の時からずっと習慣で、浦川のことを先生といっている。  青山に移って間もなく、弥生は、浦川の子を生みたいといい始めた。  浦川が弥生に子供を生ませるには、一つの方法しかなかった。十年前のパイプカットの手術の部分を復元させるのである。その復元手術に関しては世界的権威といわれる医者が虎ノ門にいる。  浦川は、その手術がそれほど大がかりでないことを知ると、手術を受けてもよいという気持になった。彼は、弥生が喜ぶことであれば、たいていのことは容認しようという気持になっていたのだ。  浦川は、そろそろ寒くなり始めた土曜の朝、虎ノ門のその診療所に出かけて行った。  その手術は、じっさいそれほど苦痛を伴うものではなかった。ただ、パイプカットの時に較べると、時間が倍以上かかる。  手術の間、彼はイヤホーンでラジオの音楽を聞かされていた。その音の中に、電気メスを使う音が、ときどき雑音となって入ってくる。  復元手術の成功の可能性は七〇%だということだった。  手術のあと、彼は衝立《ついたて》の陰にあるベッドに寝かされていた。  その衝立の向うでは精管結紮の手術が行なわれていて、彼が寝ている間だけでも、五人ほどの男が手術を済まして次の男と交替した。  彼が安静にしていると、弥生がやってきて傍の椅子に腰を下ろした。  彼女はいつも和服姿である。いかにも水商売の女といった感じが、その歩きぶりや表情に争えなかった。 「赤ちゃんが生まれたらいいわねえ」  弥生はそういって、彼の胸にかけてある毛布の上に頭をもたせかけてきた。  浦川も、せっかく手術をしたからには、赤ん坊を生ませたい気持だった。七〇%可能性のあることだから、おそらく生まれるにちがいない、と彼は思った。  彼は、そう思いながらも、これから先、浮気が不自由になるということで、多少落胆も覚えていた。  浦川は、弥生と同棲してからも、浮気癖は改まってはいなかった。  弥生はやきもちやきのくせに、浦川が浮気をしようと思えば楽にできる時間をつくってくれていた。  彼女が三鷹に行ったりきたりする、そういった時間を、彼は利用すればよかった。  弥生と同棲して、最初に浦川が浮気をした相手は、ある週刊誌で対談したプレイガールと自称する女の子であった。ゴーゴーのマスコットガールやモデルをやっている小麦色の肌をした女だった。  彼女は、裸になると見事な胸を持っていた。彼女の自慢は、男と一回寝て十二回達したことがあるということである。  彼は、十二回達する敏感な肌に接してみたいという好奇心から、その女と、夏の午後会った。  その時、弥生は三鷹にいて、彼は電話で、弥生に、 「ちょっと取材で横浜まで行かなければならなくなった」  といった。  弥生は、疑わしいといった感じに、 「へえー、横浜ねえ……」  といった。 「そうだ、横浜だ」  浦川はいい張った。  そのプレイガールの十二回の謎《なぞ》は、寝てみてすぐにわかった。  彼女は、彼が花芯に手を触れると救急車のサイレンのような声を出した。それが達した証拠らしかった。  つまり、彼女は、前戯の段階で十二回達するのだ。そして、本格的な行為の時は、殆ど反応を示さなかった。  復元手術を行なったその時まで、浦川は、弥生との同棲以来四人の女と寝ていた。これから先は、彼は、妊娠の不安と戦いながら浮気をしなければならなくなる。そのほかに、弥生の強い嫉妬や警戒心に対しても策を施さねばならない。  数日経って、浦川は、ゴム製品の中に溜った精液を持って、虎ノ門の診療所に出かけて行った。弥生もついてきた。  パイプカット並びに復元手術の権威の金子博士は、眉《まゆ》のあたりをしかめながら、こういった。「浦川さん、ほんのちょっぴりしかいませんね。なにしろ古いからなあ、前のが。これじゃあちょっと子供はできませんなあ。これから週に一回、ホルモンの注射を打ちにいらっしゃい。そうしてまた検査してみましょう」  弥生はがっかりした様子だった。 「注射をすれば大丈夫かもしれないわね」  浦川の方は、逆にホッとした気持でもあった。とにかく、彼は弥生の希望を聞き入れ、実行したのだ。義務を果したという気持である。  しかし、落胆した弥生を見ると、せっかくのこの復元手術を無にしたくない気持にもなるのだった。  彼は注射を打ちに通い始めた。それからまた検査をしてもらった。結果は芳しいものではない。 「仕方がないわね。とにかく先生はやってくれたんだものね」  弥生は諦《あきら》めた様子だった。  弥生は、諦めた子供への愛情をそこに移すかのように、マルチーズのルルヘの愛情を強めていった。  彼女はルルを背中におんぶして、子供にするように揺すって、近所を歩いたりすることもあった。  浦川の方は、小さい愛玩犬に対しては関心がなかったので、彼は彼で大きい犬を飼うことにした。グレートデンという種類で、彼が手に入れたのは生後三カ月のオスだった。  彼は、弥生と一緒にグレートデンの子を方々見て廻り、その中で一番いかつい感じのオスを気に入って飼うことにした。飼う場所はアパートのベランダである。  浦川は、二十年暮した埼玉県の家にもグレートデンを飼っていた。  彼は、その埼玉県の家を出る前から、家を出たいと思っても、この犬が、出ることを妨げるのではないかと思っていた。  自分が出たあと、この大きい犬を扱う者は、家の中にはいない。犬は広い庭の中をひとりでぶらぶらするほかはない。  その犬は、グレートデンとしてはそれほど大きくはなかったが、それでも五十キロはあった。  浦川は、その犬を置きざりにして出てきたのだった。しかし、彼は、道子から、犬をなんとかしてくれといわれ、なんとかしなければならなくなっていた。  しかし、おとなになったそのグレートデンを、ベランダで飼うつもりはなかった。ベランダで飼うのなら子犬から飼いたかったのだ。埼玉県のグレートデンはだれか人に譲り、自分は別の犬を飼うことにした。  浦川は、新しいそのグレートデンにアンクルという名前をつけた。その子犬は、小さい時からおじさんのような顔をしていた。  犬の糞尿の始末は浦川がやった。糞を新聞紙にまるめ、それをビニールの大きい袋の中に入れる。そのあと、水を流して、ベランダをデッキブラシで洗うのだ。食べ物はドッグフードでよかった。  弥生は動物が好きなので、ルルと同じようにアンクルもかわいがった。  年が明けると、やっと浦川は、待望の散歩に出かけるようになった。生後五カ月ぐらいにならないと、大型犬の足は曲りやすいので、運動に連れ出せないからである。  彼は、その頃造成中の代々木公園の柵沿いの庭園のような道を、アンクルを連れて毎朝歩いた。  二月の末、大雪が降った。  夜、浦川と弥生は、頭にタオルをかぶって、雪の外に出かけて行った。  車はすでに走っていない。人も歩いていなかった。大きな雪が視野いっぱいに降りつめている。  アンクルはセパードぐらいの大きさになっていた。アパートの近くの遊歩道で、浦川は犬を放した。アンクルは気狂いのように雪の中を走り廻った。茶色の毛が雪の中では黒く見える。  弥生も走り浦川も走り、アンクルに飛びつかれた弥生は、 「いやだ、いやだ」  と、すっとんきょうな声をあげた。その声は、無邪気な幸福感でいっぱいのような感じに聞こえ、浦川は楽しかった。  雪は口からも入ってくる。浦川は長靴をはいていたが、その長靴が、雪の中ではひどく頼りなく短く思えた。  やがて、二人はアンクルを連れてアパートに帰った。アンクルはベランダにいるので、玄関から、浦川が抱きかかえて運ばねばならなかった。アンクルはかなり重くなっていて、やがて、浦川の力では抱き上げることができなくなるにきまっていた。  弥生は、モンペの上にブーツをはいている。  彼女は、アパートに帰るとすぐに、浦川の机の上の電話に手をかけて、ダイヤルを廻し始めた。こんな時、弥生が電話をする相手は、三鷹の母親の志津しかいなかった。 「わたし」  弥生は、いつも初めにそういう。 「いまね、先生と外に出て、アンクルと遊んでたの。ひどいなんてもんじゃないよ、すごい雪。その中をアンクルったら……」  弥生は、浦川との楽しい深夜の雪の中の散歩を、母親に報告しているのだった。  浦川は、そんな弥生をかわいいと思った。  彼女は自分の幸福を母親ともわかちたかったにちがいないと、浦川は思った。 「先生もわたしも、頭にタオルかぶっているの」  弥生の声は弾んでいる。  その声は、浦川と一生を共にするときめた女の声として、浦川には受けとれた。  二人は、春になると、近くの公園に夜散歩に出かけた。そんな時の弥生も幸福そうであった。弥生は弥生でルルを連れている。  彼女は、その幸福を口に出し、 「すごく楽しい、わたし仕合せよ」  などといい、浦川の前を、子供のようにスキップスキップしながら走ったりした。  ルルを抱いた弥生が走ると、アンクルは弥生に追いつこうとして浦川を引っ張る。  浦川は、弥生の幸福感が自分の方に伝染してくるのを、いくらか照れくさく思うために、わざとぶっきらぼうな声で、 「おい、前を走るなよ。アンクルが引っ張るじゃないか」  とどなったりした。  もうその頃、アンクルは、浦川が抱きかかえられないほど重くなっていて、ビニールの布を敷いた上を歩かせてベランダから出入りさせるようになっていた。  浦川は、弥生と同棲し始めた頃から、弥生と結婚したい気持だった。彼は結婚については楽観していた。道子が彼の離婚の申し出に簡単に同意するだろうと思っていたからである。  道子との生活の中で、浦川は、道子がこういうのをしばしば耳にしていた。 「わたしはいつ別れたっていいのよ。月々ちゃんと生活費を送ってくれさえすれば、わたしは別れた方がいいほどよ。あなただって、小説を書くためには、その方がいいかもしれなくてよ」  道子は、けしかけさえするように、そんなことをいったものだ。  そして、道子は、浦川の友人の小説家の細君の例をとって、こうもいうのだった。 「わたしは、あの人のような気持わからないわ。わたしだったらさっさと判こ捺《お》しちゃうわ。だって、みっともないじゃないの、結婚生活なんか、それほど幸福なものじゃないのにね。なんで籍にそれほどこだわるのかしら」  浦川は、弥生と一緒になった時、すぐに結婚できるにちがいないというようなことを弥生にいい、弥生もそのことを当てにしていたらしかった。けれども、浦川が楽観していたことは、おめでたい楽観としかいいようのないことになった。  道子は、浦川の友人の作家の細君と同じように、頑固になり始めたのである。彼女はこういった。 「いまの人はだめよ。わたしはその人を許すわけにはいかないの」  しかし、浦川は考えるのだった。もしも弥生をやめて、ほかの女と一緒になったとしても、道子は「いまの人はだめよ。その人を許すわけにはいかないわ」というにちがいない。  浦川と道子とは、しばしば電話で激しいやりとりを行なった。  道子は弥生にも電話するようになった。弥生も喧嘩ごしである。  しかし、浦川は、弥生の態度には多少批判的にならざるをえなかった。弥生は初め、 「奥さんから亭主を取るというようなことは芸者としては恥なのよ」  というようなことをいっていたのだ。あくまで自分は二号の立場でよい。  しかし、いま弥生は、自分が細君で道子に憐《あわれ》みをたれるような立場にいると錯覚しているような感じがあった。 「それじゃあかわいそうだから、毎月送っているんじゃないですか」  弥生の言葉の中にそういうのがあった。  浦川は、道子がさぞ口惜しいだろうと思った。しかし、そんな弥生を浦川は非難することができなかった。  弥生は必ず反論してくるにちがいないからである。彼女の反論には合理性がなかったし、ただ、彼が道子をかばうという点で、彼を非難し返してくるにちがいないからである。 そうなれば、何時間か憂鬱な時間を過ごさねばならなくなる。  それは彼の仕事にも差しつかえるし、そして、彼を多少後悔させることになるのだった。なぜこんな女と一緒になるために、自分はわざわざ埼玉県の家を出なければならなかったのか。二十年も生活をした埼玉県の家を出たからには、彼はもっとすばらしい生活を過ごしていなければならなかった。すばらしい生活であれば、彼の家出には理由がつくのだ。  弥生のおなかがふくらみ始めたのは春ごろからだった。彼女は、よく体に水がたまるといっていた。それで、ときどき病院にその水を抜き取りに行くことがあるという。  浦川の友人の編集者は、仕事のことでやってきた時、こういった。 「想像妊娠じゃないですか。あんまり子供がほしいほしいなんて思っていて、そして、浦川さんは手術したでしょう。弥生さんには、もしかしたらという気持がある。それで想像妊娠したんじゃないのかな」  すると、弥生はこういった。 「わたしもそうかもしれないと思うの。だって、わたし、毎月のものが遅れることがあるでしょう。すると、もしかと思って明るい気持になるのよ。でも、ただ遅れていただけだとわかると、がっかりしちゃうわね。それが毎月なのよ。一日、二日でも遅れると、妊娠したかもしれないという気持になるの。母はもうあきらめているわ。わたしがそんなこというと、かわいそうだっていうわね」  二人は、しょっちゅう喧嘩しては仲直りするという繰り返しを行なっていた。弥生の気の強さが、浦川のわがままと抵触するのである。  弥生の体の感受性はすっかり開発されていた。悦びが深まって、弥生はよく、 「血が下がる、血が下がる」  というようなことをいった。そして、拳《こぶし》をつくって自分の額を叩いたりし、こういうのだった。 「ずんずん覚えるみたい」 「ずんずん」というのは彼女の口ぐせだった。 「わたし、やっぱり子供をもらおうかしら、いいでしょう。もう秋田に頼んであるのよ」  弥生は、突然ある日そういった。  浦川がいいしぶっていると、 「ここには連れてこないからいいじゃないの、母のとこに預けるから。先生には迷惑かけないわ。わたしの籍に入れるからいいでしょう」  浦川は、反対しても始まらない気持になっていた。どうせこれから弥生と長い生活を送らねばならない。弥生は、また同じことをある日いって、子供をほしがるにちがいない。彼の仕事の邪魔にならなければ、子供がいたっていいではないか。それで弥生が満足するなら、といった浦川の気持だった。  秋田に弥生の親戚があって、子供をもらえるというのだ。いまでは、道子が彼と離婚してくれるという見こみはない、ということは、もらい子が浦川の籍に入るということもないということだ。  彼は、弥生と正式に結婚できない罪滅ぼしのつもりもあって、そのもらい子を黙認する気持になっていた。  弥生が三鷹に泊るとわかっている夜は、浦川にとって、浮気の絶好のチャンスだった。  彼にしてみれば、弥生がずっと一緒に自分といてくれるよりも、ときどき三鷹の母の処に泊ってくれた方がありがたい。  弥生との同棲生活の初めの時は、浦川は、弥生が三鷹の家に泊るたびに、失恋したような寂寥《せきりよう》感に襲われたものである。そして、そんな時浦川は、六本木の町を歩いている男女を見て羨ましかったし、人気《ひとけ》のない通りで、自転車の乗り方を父親に教えてもらっている女の子を見ると、自分が捨ててきた家庭のことを思い出したりしたものだった。  父親は、娘のおどおどした乗り方を怒っていた。娘は、怒られまいとして、いっそうヘマをやってしまう。父親は娘への愛情を意識していないだろうし、娘も父親への愛情を意識していない。意識していないほどに、この親子の愛情は強いものである。  そういった生活が浦川にも以前はあったのだ。娘の有以子は、その自転車の稽古をしている娘よりも年上で、高校生になっている。  家を捨て、そして、自分の女が実家に帰ってしまっているといった境遇にいる浦川の眼には、他人のちょっとしたことが、幸福の情景として眼を打ってくるのだった。  しかし、そういった寂寥感は、もう浦川にはなかった。  彼は、弥生が三鷹に行くと聞くと、しめしめという気持になっていた。彼はさっそく電話をし始める。  浦川の手帳には、女の子の名前や住所がたくさん書かれていた。嫉妬ぶかい弥生は、なぜか、浦川の手帳に眼を通したことはなかった。  彼女は、浦川との生活の初めの頃、浦川のかける電話には、いつも耳をすませていたものである。そして、その電話が女にかけられたものかどうか、あるいは、かかってきた電話が女からのものであるかどうか、ほぼ確実に見抜くことができた。  だから、やがて浦川は、弥生のいる処では、女に電話しなくなった。だが、女から電話がかかってくることがある。浦川は、わざと迷惑そうな短い受け答えをするのだが、その短い受け答えも、弥生には見抜かれてしまうのだった。  そんな弥生が、浦川の手帳に密《ひそ》かに眼を通したりしないということが、彼には不思議だった。弥生は字が苦手だったのかもしれない。  浦川の字はとても読みにくい。彼の机の上には、書きかけの原稿がたくさんあった。その原稿に、弥生はときどきおもしろがって眼を通した。  弥生は、初めて浦川の原稿の字を眼にした時、 「これ速記?」  といったものだ。 「ぼくの字さ」 「これが字?」  弥生はびっくりした声を出した。  以後、弥生は、浦川の字を解読しようという熱意を失ってしまった。  浦川の字の読みにくさは、彼の手帳についてもいえるわけである。しかし、手帳の字は、原稿の字に較べればはるかに読みやすい。にもかかわらず、弥生は、浦川の字というだけで読むことをあきらめている感じがある。  おそらく、彼の手帳に書きつけられている事柄について、弥生が知らない処をみると、これは弥生の盲点といえるものだった。  しかし、弥生は、浦川が遅く帰っていないかどうかを確かめるために、三鷹の家から、必ず夜、電話をよこした。  しかし、浦川は、それまでにはたいてい帰っている。  浦川は弥生に、いつも人とのつきあいで忙しい仕事だというふうにいってあった。じっさい浦川は、編集者や仲間の作家たちと、よく飲み食いする方である。しかし、その大部分は、彼自身の方からつくった時間である。  彼は、とにかく浮気をしやすいために、自分がしょっちゅう夜出かけねばならない理由があるということを、弥生の頭に叩きこんでおく必要があった。 「きょうはどこ?」  弥生は、三鷹に泊ることになっている日、浦川にそう訊いた。  浦川は口から出まかせに、雑誌の名前と編集者の名前をいう。口から出まかせといっても、弥生がぜんぜん知らない名前ではない。弥生が何度か聞いたことがある雑誌の名と編集者の名を、彼は口にするのだ。 「そう、でも先生は、そんなこといって出て行って浮気してても、わたしにはわからないわね。浮気しようと思えば、ほんのちょっと時間があればできるんだもの」 「やろうと思えばできるだろうね。でも、ぼくはやっていない」 「ほんとうに信じててもいいのね」 「信じてもらわなきゃ困るよ。それはきみの方にだって、おれがいえることさ。きみはしょっちゅう三鷹に泊っているけど、浮気しようと思えば、きみの方こそ自由にできるじゃないか。美容院といって浮気することだってできるし」 「男と女とはちがうわ。女が浮気するってのはたいへんなことなのよ」  浦川は、なるべく弥生が自分に疑いをさしはさまないために、行っている酒場からも三鷹に電話した。すると弥生は喜ぶのだった。  彼は、店が終ったあと浮気するようなことはなかった。彼の浮気の時間はたいてい夕方である。彼は女の子に店を休ませるというやり方で、よく浮気をした。休ませた分だけ、彼がもちろん保証する。その上、寝た分の礼金を出す。  しかし、そんな時でも、彼は、女の子と十時ごろまでつき合うということはなかった。せいぜい九時ごろまでである。そのあと、彼は店に行って飲む。そして、店から三鷹に電話するのだ。  あるいは彼は、女の子と寝たあと食事をし、食事をする場所から三鷹に電話することもあった。女と寝る前に食事をする時はその店から電話をすることもある。  その時、彼は、どこどこの雑誌のだれだれと一緒という。女の子と寝たあと、その女と一緒にその女の子が勤めている店に行くという手もあった。いわゆる同伴出勤というやつになる。これが女の子にとっては一番よいことなのだが、彼との情事のあとにはすっかり疲れて、その気をなくしてしまう女の子もかなりいる。 「いいわ、浮気をしてても。でも、わからないようにやってね。わかったら、わたし承知しないわよ。わたしに対するとおなじようなことを、先生がほかの女にもしてると思うだけでも、わたし気が狂いそうになるんだから」  浦川は、弥生の体を、前戯だけで頂に達しさせるコツを憶《おぼ》えていた。それは舌と唇によるものだった。その前戯を、浦川がほかの女に対しても行なう場面を想像し、弥生は、それを耐えきれないという。 「そんなことするわけがないじゃないか。第一不潔だよ、愛してもいない女にそんなことをするなんて」  浦川はそういったが、じっさいは彼は、彼が浮気をやりたいと思う女に対しては同じことをやっているのだった。  浦川はアンクルを連れて、よく銀行に行った。そのころ、彼の原稿料や印税は、銀行振込みよりも、小切手で送られてくることが多かった。その金を銀行に入れて、生活費を引き出したり道子に銀行振込みで送金したりしなければならないのだが、その役を浦川がやっていた。  彼は、朝起きて食事の前に、散歩がてらにアンクルを連れて、表参道にある銀行に行くのだった。  弥生は銀行という言葉が好きなようだった。 「きょうは銀行行かなくていいの」 「この小切手、銀行に入れなくちゃね」  そういう言葉を口にすることによって、彼女は、生活の輝きとでもいったものを覚えているようだった。  弥生は、自分は金だけしか信用しないといったことがある。金だけは自分を裏切らないというのだ。  浦川は埼玉県の家を捨てて出た。そういった男は、いつまた自分を捨てていくかもしれない。弥生は、浦川と金と、どちらを信用するかといえば、金の方を信用するというのだ。そういった考えが、銀行という言葉を愛する彼女の気持の理由になっている。  浦川は、弥生のそういった面を気に入ってはいなかったが、自分が弥生の生活に輝きを与えているしるしを見ることができるという意味では、彼自身も、弥生が口にする銀行という言葉を愛していたといってもよかった。  弥生と浦川とは、ときどき六本木のゴーゴースナックに行った。そのスナックには紫色の照明があって、ミュージックボックスから流れてくるリズムアンドブルースに乗って、若者たちが踊っているのだった。  若者たちはみな上手で、流行の先端の踊り方を研究したりしていた。  そこでは浦川は気がひけて、踊ったりはしなかったが、そこで見て憶えたステップを、銀座の酒場や、酒場のあとのサパークラブなどで、女の子たちに対してひけらかしていた。  手伝いのミキ子は、弥生をこういって冷やかした。 「前のお肉屋さんのおかみさんがいってましたよ、奥さんはおめでただって」 「ほんとにそんな感じだわ。太ってきたせいもあるのよ。それに、毎年取っている水がたまってきたりして。そろそろ病院に行こうかしら」  ミキ子は、弥生と浦川との間では子供が生まれないことを知っている。だから、妊娠していないのに妊娠していると思われている弥生のことがユーモラスに思えるらしかった。 「ほんとにきみは妊娠してるんじゃないのか、浮気なんかしてさ」  彼は、ときどきそんなことをいった。  すると弥生は、 「冗談じゃない」  というのだった。彼女はそういう時、どこにもむきになった感じはなかった。弥生は、彼が冗談にいっていることを知っていたからである。 「また今月もだめだわ。少し遅れてたのね、生理が。それがまたあったわ。わたしね、ほんとは妊娠してればいいと思ってたわ。だけど、妊娠なんかじゃぜんぜんないわ。わたし、ほんとに病院に行って水を取ってもらうわ、近いうちに。工合だって悪いし」 「なぜ早く行かないんだ?」 「だっていろいろあるでしょう」 「腹膜に水がたまったりしたらことだぜ」 「わかってるわよ。今度ほんとうに病院に行くわ」  弥生の知っている婦人科の病院がある。そこで、彼女は以前子供を生んだことがある。その病院は杉並にあった。  弥生は、それから数日して病院に行って帰ってきた。 「ちょっと入院しなきゃいけないんですって」 「たいしたことないのか?」 「そう、そんな重大なこっちゃないわ。でも、やっぱり入院しないといけないんですって」 「じゃあ、あしたからでも入院したらどうなんだ?」 「先生が困るでしょう」 「困ったって仕方がないよ」 「わたし、なるべく早く入院するわ。したら、見舞いにきてくれるわね」 「あたりまえじゃないか」 「でも、なるべく先生には迷惑かけたくないから、母にきてもらうわ」  彼女が入院したのは七月の上旬だった。  その二日前に、浦川の友人の文芸評論家の日吉が心筋|梗塞《こうそく》で急死した。  日吉も、彼が以前住んでいた埼玉県の町にいたのだ。  浦川はその町に行きたくなかったが、死んだ友人のためには行かざるをえなかった。浦川は通夜に行き、そして、また葬儀に行った。  その葬儀の日、浦川は、友人の作家小森を連れて行くことになっていた。小森が運転する車に浦川が同乗する、という形で道案内するのだ。小森は午前十一時に青山の浦川のアパートにくることになっていた。  弥生と小森とは面識があった。小森は、浦川が弥生と知る以前から弥生を宴席で知っていた。  彼は、弥生が久しぶりに小森と顔を合わすのも悪くないという考えだった。  それで、弥生に、 「小森がくるよ」  と、前の日からいってあった。弥生は気分がすぐれないらしく、 「そう」  といっただけである。  しかし、弥生は、その朝九時ごろ三鷹の母親に電話し、こういうのを浦川は聞いていた。 「やっぱり早いうちに入院した方がいいと思うの。だから、いまから大江病院に入院しようと思ってるの。だから一たんそっちに行って、それから一緒に大江病院にきてくれる?」  浦川は、せっかく小森がくるんだから、そのあとにすればよいのに、と思った。しかし、そのことは口に出さなかった。彼はまだうつらうつらしていたせいもある。  彼がうつらうつらしている間に、弥生は、 「じゃあわたし、行ってきますからね。母から先生に電話させるわ」 「電話してもらわなきゃ困るよ、病院の場所もわかっていないんだから」 「きょうじゅうに母にさせるわ。心配しないで仕事しててね」 「ああ」  弥生は出て行った。  ルルが、弥生が出て行ったあと、しばらくの間ドアの処で鳴いていた。ルルは弥生が出て行ったあとはいつもそうだった。そうして、現金に、弥生がいなくなると、それまでは寄りつこうともしなかった浦川の傍にやってくる。  小さいルルの体が腹の上に乗るのを、浦川は覚えた。体重二キロと少しのルルの体も腹の上に乗られると、気になる重さである。  そんなルルは、外で車が停《と》まったりすると、彼の腹を蹴ってドアに向って突進する。そのたびに弥生が帰ったかと思うかららしい。それからまたすごすごと戻ってきて、浦川の腹に乗る。  弥生が三鷹に泊った夜などは、浦川はそういった感覚を繰り返し覚えて夜を明かすのだった。  葬式から帰ったのは四時過ぎだったが、留守番のミキ子は弥生の母からなんの連絡も受けていなかった。浦川は、ひたすら弥生の母からの電話を待っていた。もしかしたら、なにかの失敗があって弥生の命にかかわるかもしれないという不安が、浦川の胸をかすめたからである。  浦川は、三鷹の家に、自分からも再三電話をしたが、そのたびにだれも出てこなかった。なにかがあれば電話がかかってくるはずである。電話がかかってこないということは、無事にすべてが進行しているという証拠にちがいなかった。  弥生の母から電話がかかってきたのは暗くなってからだった。弥生の母も、浦川のことを先生と呼んでいた。 「先生、おかげさまでね、弥生は体から水が取れまして、気分がとってもよくなりました。あしたでも見舞いに行ってやってください」  弥生の母は、大江病院の電話番号を浦川に教えてくれた。そして、場所も彼に教えてくれたが、浦川は、自分で大江病院に電話して看護婦からじかに行く道について訊こうと思った。  浦川は、翌日果物を買って、タクシーに乗り大江病院に出かけて行った。その前に、彼は大江病院に電話して、看護婦から道筋を教えてもらっていた。  弥生は、病院の中でも一番よい部屋にいた。それは彼の意見によったのだ。  弥生は少し蒼《あお》い顔になっていた。そして、こころもち瘠せて見えた。よく冷房のきいたその病室で浦川を迎えた弥生は、 「嬉しい」  といい、手を差し出してきた。  浦川は弥生の手を握ってやった。 「ルル、元気?」 「ああ、元気だよ。たいしたことなかったんだね」 「そうよ。だいぶ水取っちゃったわ。注射針が痛いの」  浦川は弥生のために果物を剥《む》いてやった。彼が果物を剥くなどということは、めったにないことだった。 「愛してる?」 「ああ」  浦川は、そういう問いに答えることは照れくさいので、そういった。 「ねえ、愛してるの?」 「愛してるさ」 「浮気した?」 「するわけないだろう。心配で浮気どころじゃないよ」 「じゃあ、きょうからは安心して浮気できるわね」 「きみが入院してるっていうのに、浮気なんかする気持になれないよ」  そういいながらも、浦川は浮気をするつもりになっていた。弥生はこれからは快方に向う一方だ。彼は安心して浮気することができる。 「この部屋はちょっと高いから、ほかの部屋に移ろうと思ってるの」 「いいじゃないか、高くったって」 「でも、もったいないわよ。それに、ゴキブリが壁を這ってたの」 「どの部屋だって同じだよ」 「でも、ちょっと広過ぎる感じがいやなのよ」 「いやだったらかわっていいけど、高いからなんていうことではかわらない方がいいよ」  浦川は、その日原稿用紙と万年筆を持ってきていた。この部屋で仕事をしようと思ったのである。  弥生は、彼の意向を知るとたいそう喜んだ。その部屋にはテレビもあった。弥生は呼び鈴のボタンを押して、浦川が仕事をしやすいように、看護婦に小さいテーブルを運んでこさせたりした。  浦川は、結局、一応その日のノルマの分だけ終え、プロ野球のナイターを見て帰った。  浦川は、その翌日、白人の女と浮気をした。その種の白人の女が集まる店が都心にあった。その店は地下にあるイタリア料理店である。その種の女たちはみな外国人である。白人が多いが、東南アジアの女もいる。  一応彼女たちは、客のような格好を装って、テーブルを挾《はさ》んで向い合って話をしているのだが、男が入ってくると、一斉に視線を浴びせてくる。  彼は、その視線を無視して、テーブルに向って腰を下ろし、無遠慮な眼つきで女たちを眺め廻した。彼が好きなのは小柄な女である。にもかかわらず、大きい女が彼の前に腰を下ろした。  彼はボーイに向ってこういった。 「向うに黄色い服を着ているあの子を呼んでくれないか」  ボーイはその女の処に行って、なにやらいった。すると、太った女は、自分が歓迎されないとわかって席を立って行ったが、その席の立ち方には、はにかみや照れくささといったものは少しもなく、心底割りきっている明るさのようなものがあるのだった。  その女は、小柄で眩《まぶ》しそうな眼をしていた。浦川とその女とは英語で話し合った。  女はオーストリア人だった。彼女は、値段の交渉の時にも控え目な微笑を崩さなかったが、控え目な微笑の割には、彼が示した金額に対して、頑固に首を縦に振ろうとしなかった。  浦川とその女とは、オーダーしたブランデー一ぱいずつを殆ど飲まずに外に出た。外には空車がたくさん走っている。  行くホテルはだいたいきまっていた。基本料金で行ける処に連れこみホテルがある。この店の女たちは、たいていそこに客を連れて行く。そして、終るとまたこの店に戻ってくるのだった。  その女は浦川が抱いた白人の三人目であった。  浦川は、これまでにない安らかな気持で浮気をすることができた。アパートには弥生が待っているわけではない。三鷹から弥生の電話があるわけでもない。しかも、弥生の病状は快方に向っている。  その女には微《かす》かに獣のような匂いがあって、それが浦川の欲情を刺激した。  大きい乳房を、彼女はゆらゆらさせながら、その乳を浦川の乳首に接触させ、彼に刺激を与えようとしたが、彼は、そうした愛撫を好きでなかったので、自分から女の体を扱う立場を選んだ。  絶えず微笑を浮かべたオーストリア女は、感じていることを示そうとして声をあげたりしたが、その声が、彼女の職業上の演技であることは明白だった。  浦川が二度目に弥生を見舞いに行った時、彼は、ガラスの向うにたくさん赤ん坊が並んでいるのを見た。  その時、彼は、病室からの帰りがけだったので、弥生は玄関まで送ってきた。その途中に、ガラスの向うに赤ん坊たちが寝ている部屋があった。 「まちがわないかな、こんなにたくさんあって」 「まちがうこともあるわよ。だから新聞に出てたじゃないの」  弥生の眼は輝いている。弥生の眼は、赤ん坊や子供たちを見ると必ずそうなる眼で、ガラスの向うを見ていた。  彼は、弥生が子供を生むために入院したのであれば、どれほど幸福感を覚えただろうかと考え、弥生に子供を生ますことができない自分の体のことを考え、弥生のために済まないという気持になった。  こんなふうにたくさんの赤ん坊を見せつけられたのでは、弥生はたまらない気持になるのではあるまいか。  浦川は、しかし、そういうことを弥生にはいわなかった。  弥生は腹に晒《さらし》を巻いていた。  彼は、弥生の体を抱いた時、その晒を取るようにいった。 「いやなのよ、水|疱瘡《ぼうそう》のあとがあるの。なぜか、水疱瘡ができたのよ。それが斑点になってるの」 「見せてみろよ」  彼はそういって、晒を解いた。すると、臍《へそ》から下のあたりに茶色の斑点が見えていた。 「先生に嫌われると思って隠してたの」 「いいよ、そんなこと隠さなくたって」  彼は、弥生の平べったくなった胴を自分の体の下に感じて燃えた。 「なんだか久しぶりね、忘れたみたいだわ」  弥生はそういっていたが、だんだん思い出したように燃え始め、熱中した。  弥生は、なにも浦川と結婚しなくてもいいというようなことをいい始めていた。  それは、道子が浦川との離婚に応じないせいもあるが、彼女は、 「わたしはね、自分の戸籍を汚したくないからなの。でも、先生と結婚したら、わたしの籍は汚れてしまうわ。わたしは、藤村っていう籍をきれいにしておきたいの」  浦川には、籍を汚したくないという意味がわからない。結婚したら、なぜ籍が汚れることになるのか。しかし、面倒な気持から彼は訊きはしなかった。  しかし、弥生は、そういったかと思うと、こんなことをいう。 「先生と結婚したい。そうでないと、わたしはいつまでも彼女の立場でしょう。先生の奥さんというふうに呼ばれても、わたし、なんだか変な気持なの。そのたびに、奥さんじゃないっていいたくなるのよ。だからときどき、奥さんと呼ばれて平気な顔をしていられるような立場になりたいと思うわ。だから奥さんにして」  彼は、そういわれると、道子との離婚について怠慢をきめこんでいる自分を、責められる気持になって、弁護士に電話したりした。  しかし、道子は弁護士に会おうとはしなかった。どういうわけか、道子は、浦川の世話をしてくれている税理士だと会うのである。  税理士の多田を通して、浦川は慰謝料について話を進めることになったが、道子の要求額は膨大である。 「冗談じゃないわよ。そんなだったら、なにも離婚なんかしなくたっていいわよ」  弥生はそういう。  どうやら道子の方は、だんだんと離婚したい気持になっている様子だった。しかし、金額が折り合わない。  道子は、ただ生活費を送られてくる立場というものに屈辱を感じて、さばさばしたい気持になりたいのかもしれなかった。  しかし、一方では、弥生に対する屈折した憎しみから、籍なんか抜いてやるものかといった気持にもなるらしかった。  浦川は、特に弥生と結婚したいとは思わなくなり始めていた。このまま生活費を送り続けることで平穏無事であれば、その方がよかった。だから、弥生から、道子との離婚を迫られたりすると、彼はひどく面倒な気持になるのだった。  弥生は、ある時は彼にとって、殴りつけてやりたいほどに強情で強い女だったが、ある時は、この上なくかわいい女なのだった。  弥生との生活について浦川の意識に変化が現われ始めた。  彼は弥生と一緒になった時、自分は芸者と一緒になったという意識を持った。芸者は、彼には異国の人のような新鮮さでもって受け入れられていた。  しかし、月日が経ち、浦川はいつの間にか、自分は売春婦と一緒になったというふうに思うようになっていたのだ。  そして、そういった意識がかなり気に入っていた。なぜなら、そういう自分が、世間に背を向けた男のように思われたからである。  弥生と寝た男は、浦川の周囲にも何人かいた。  浦川は、そういうことを弥生と一緒になる時から知っていた。というより、弥生と知ったそもそものきっかけが、弥生と寝た友人を通してであった。  浦川は、自分の連れ合いを抱いた男が何人かいるということについては、まったく平気であったが、ときどき彼は、この女の体を、自分が知らない多くの男が抱いているのだということを思って、その思いを突き詰めれば、頭がカッと熱くなっていきそうなことがあった。  もしも、そういう数多くの場面を自分が見ていたとしたならば、果して弥生と一緒になっていたであろうか。それは甚だ疑問といえた。  そういうことが事実であったにもかかわらず、彼は、見ていないというそのことだけで、弥生に一つの幻影を抱くことができたのだ。その幻影が、芸者という呼称である。  浦川は、売春婦と生活をしているということで、ときどき粋がった気持になり、開き直った自分が気に入ったが、かと思うと、ギョッとなったり呆然となったりするのだった。  しかし、そういった意識に付随するやりきれなさを救ってくれていたものは、彼の仕事の忙しさであった。  仕事が済めば、彼は、すぐに酒場目ざして出て行く。  そういう生活が繰り返されていた。  二人は、六本木のお化け屋敷�ドラキュラ�に行ったことがある。  弥生は、この日余裕を持っていて、どんな処か見てやろうといったような態度だった。そこには、フランケンシュタインやドラキュラやミイラ男が出てくるのだった。  中は、西洋の邸の古い部屋をかたどった内装である。突然に壁が開いて、そこにお化けが立っていたり、急に天井からするすると白い布が降りてきたり、ガタッと音がすると、バネ仕掛けかなにかになった棺桶が降りてきて開き、中に死体の人形がある。突然なにが起こるかわからないのだった。  不気味な音楽が常に流れている。井戸から急に白いお化けが現われることもある。  ドラキュラが女の子を追っかけまわすこともある。女の子は必死になって逃げまわる。中には泣き出すのもいる。恐怖のあまり、いままでは手さえ把まれることもいやだったその男に、思いきりしがみついていく女もいる。  だから男たちは、女を�ドラキュラ�に連れてきて、なにかの余禄にあずかりたがるのだった。自分にしがみついてくれればもうけものである。これまでは先に進まなかった二人の関係が、そこから急速な経過をたどり始めるということもありえた。  処が、そんな目論見できていながら、男の方が怯《おび》えて「キャッ」といって走りまわるといったこともあるので、いっそうおもしろいのである。  もともと浦川は、臆病な男であることを自認していたので、自分がとんでもない失態をしでかしはしないかと、初めて�ドラキュラ�に行った時は心配でならなかった。  彼は、小さい時から兄弟の中でも一番臆病で、長男でありながら、夜一人で便所に行けなかったりすることがしばしばだった。その臆病さは、四十過ぎたいまでも続いていて、こわいテレビ映画を見たあとなど、アパートの中のすぐ近くの便所でさえも起きて行く勇気が出ずに、尿意を怺《こら》えることがある。  しかし、彼は�ドラキュラ�に初めて女の子を連れて行った時、割と平気だった。自分がこわがるのではないかという、そういうことの方がむしろこわくて、女の子に較べれば、よほど彼は、自分がこわがりではないということを発見したのだった。  女の子の大半は、見栄も外聞もなくこわがり始める。だから、ドラキュラやフランケンシュタインたちは、女の子をこわがらせるのが目当てなのだ。  生き馬の眼を抜こうという東京のどまん中の銀座の酒場のママが、こんな場所では、まるで赤子の手を捻《ひね》ると同然に、ちょっとしたことでキャアキャア喚《わめ》き立てたりすることがあって、普段彼女を怖れているホステスたちから「なんだ、そんな女だったのか」といった顔をされるのも、この�ドラキュラ�である。  そんな顔をしたホステスたちも、やはり例外なくこわがって「キャア」と叫んだりするのだが、中にはなかなかこわがらない女がいて、こわがらないのが恥かしくなって、こわくもないのに、人まねで「キャア」といったりするのも、また出てくるのである。  浦川の予想では、弥生はこわがらないにちがいなかった。彼女はおそらく、こわがらない自分が恥かしくなるにちがいなかった。そういった自分を自覚させるのも、こういう強い女には薬になるだろうという狙いも、浦川にはあったのだ。  弥生は、見てやろうという態度をずっと続けていた。余裕のある態度である。  券を買って中に入った。中に入った処から、すぐに不安な感じが始まるのだ。  人気がなく、暗い廊下が続いている。 「こわい。ねえ、こわいわ」  弥生はそういって、浦川の腕にしがみついてきた。  浦川は、弥生がこわがったふりをしていると思った。ほんとは少しもこわくないのに、ときどきそんな演技をして自分をかわいく見せる。弥生には、多分にそういう処があったのだ。  暗い廊下を通ると、そこが部屋になっていた。そこには幾組かの男女が、テーブルに向って腰かけている。テーブルにはビールやコーラやジュースのコップが置かれていた。部屋の中は鎮まりかえっていて、次の瞬間になにが起こるかといった不吉な気配に満ちている。と、突然女の悲鳴が聞こえた。と同時に、まだテーブルについていない弥生は、浦川にしがみついてきた。  部屋の向うの方で、繃帯《ほうたい》を体中に巻きつけたミイラ男が女の子の傍に腰かけている。女の子は男にしがみついている。  ボーイが二人を案内したが、ボーイもなにかしら薄気味悪い顔をしている。  弥生はまた悲鳴を上げた。あたりの眼が一斉にこちらに向けられた。ボーイが、手にブラシのようなものを持っていて、弥生の体をそれでさわったのだ。 「ああ、こわいわ」  弥生の体は、じっさい顫《ふる》えていた。そして、泣きそうな声になっている。  浦川は、そんな弥生が意外であった。  こわがる女がいると思うと、かさにかかってお化けたちは攻め立ててくるのだ。果して、フランケンシュタイン、ドラキュラあたりがやってきた。  弥生は、もう見栄も外聞もなく喚き続けた。攻撃目標からはずされたテーブルの女たちは、いまは見物客にまわって弥生の方を見ている。弥生は浦川にしがみつきっぱなしだった。  浦川は、そんな弥生をかわいいと思って、肩に手をかけて抱き寄せてやっていた。これ以上弥生を驚かすと、弥生は心臓発作でも起こしかねないと、浦川は不安になったほどだった。弥生は浦川の胸に顔をつけたまま顫え続けていた。  弥生の示す恐怖と驚愕《きようがく》があまりに激しいために、お化けたちは、これ以上驚かしてはまずいと感じたらしく、退散して行った。 「行ってしまったよ。もう心配ない」  浦川がそういっても、弥生は、浦川の胸から顔を上げようとはしなかった。  やっと、弥生は涙に濡れた顔を上げた。彼女は恐怖のために涙を流していたのだ。 「わたし、おしっこしたくなったわ」 「この中に便所はあるはずだよ」 「いやよ、そんなとこに行くの。ねえ、一緒に出て。洩《も》っちゃいそう」  弥生はジュースを、浦川はビールをとっていたが、二人とも少しも口をつけずじまいだった。 �ドラキュラ�を出ると、すぐ近くのスナックに二人は飛びこんだ。便所にありつくためである。  弥生はそのスナックでも、まだ恐怖の醒《さ》めない顔で、しばらくの間はぼんやりしていた。浦川が、 「わりとこわがりなんだなあ」  というと、弥生は鼻を鳴らし、恐怖の場面を思い出した顔になり、涙を浮かべた。そして、そんな自分が恥かしいのか、あるいは、そんな自分を少しかわいいと思っているのか、あまえたような笑い声を立てるのだった。  少なくともそんな時、弥生は、そんな自分が浦川に嫌われていないことを承知しているはずだった。  彼女はかわいい女になりきっている。そして、事実浦川は、そんな弥生をかわいいと思った。  浦川が、もらい子の顔を見たのは、その年の晩秋である。  その前から、彼に、弥生は、秋田から子供をもらうことにきまったといっていた。親戚の子供だという。  その子供に、弥生は、浦川の名前の一字を取って名をつけていた。  和重の重をとって、重則という名をつけていた。色が白くて、公平に見て、かわいい顔をしていた。  しかし、それ以上のどんな感情も、浦川はその子供に対して、持つことができなかった。生後何カ月かということも、彼はよくわからない。とにかくその男の子は、手にガラガラを持って、両足を前に投げ出して坐り、ともするとうしろにひっくり返りそうになっていた。そして、瞬きしない眼で、じっと机の前に坐っている浦川を見ている。  弥生は、三鷹から重則をおんぶして連れてきたのだ。 「先生よ。今日《こんにち》はっていいなさい」  そんなこといえるわけもないのに、弥生は、重則という子供にそんなことをいっていた。  それからしばしば電話の送話口に向って、弥生がこういうのを、浦川は聞かねばならなかった。 「重《しげ》ちゃんなの、ママよ」  弥生は、志津の膝の上に抱かれている重則の耳に、電話を通して、しょっちゅうそんなことをいっているのだった。  重則という子供をもらってから、弥生のルルに対する愛情が少し減ってきたように、浦川には思われた。  そんなルルは、年が明けて間もなく二匹の子供を生んだ。もちろん、その前に、同じマルチーズとかけ合わせている。子供を生ませたのは、そうしないとルルがかわいそうだからという弥生の気持からだった。  弥生は、ルルに陣痛が起こった時、夜遅くまでルルの傍につき添っていた。子供が生まれるのが近まった頃、ルルは痛みのために鳴いた。  浦川の方は、家の中で犬に子供を生んだりされてはかなわないといった気持だったが、弥生がそれで満足していれば、彼の方は我慢しようという気持にもなっていた。  彼はそんな時、弥生に、本気でなしにこういった。 「おれ、眠れないから、ホテルで仕事していいかな」  弥生は黙っていた。  弥生は、それが仕事であれなんであれ、浦川がホテルに泊るということは不賛成であった。そういうことから、二人の間が壊されていく不安を、彼女は持っていたからだ。  彼女は、浦川が、弥生と一緒になる前にいろいろの女と寝ていることを知っている。その浮気癖を、弥生は、浦川の一つの病気だと見ている。その病気がいまは現われていないが、いつ現われるかわかったものではないと思っている。現にその病気がときどき現われているということに、彼女は気づいていなかった。  弥生は、子犬が鳴けば浦川の仕事が邪魔されることはわかっている。しかし、だからといって、ホテルで仕事をしてくれとは、彼女はいえない。だから彼女は、聞こえないふりをしている。  浦川の方も、同じことを繰り返してはいわなかった。  その二匹の子犬は、浦川の知人の家に引き取られていった。ルルは初めの間悲しそうだったが、すぐに子供がいない状態に慣れて、また弥生に一辺倒の愛情を注ぎ始めた。  春になると、突然浦川と弥生のもとに、居抜きでスナックを買わないかという話が起こった。場所は六本木である。  弥生は乗り気になっている。彼女は、もともとそういう店をやりたがっていた。そこにそういう話が飛びこんできたのだから、彼女には渡りに舟という感じだった。  浦川の方も、弥生が商売をやることに不賛成ではなかった。なぜなら、彼は自由を求め始めていたからである。彼は夜、外に出て行っても、アパートで弥生に待たれているという意識のために、束縛されていた。弥生が店を始めれば、彼は外で自由な気持で遊ぶことができる。  しかも弥生はきっとうまく店をやっていくにちがいないから、生活の上でも、なんの不都合も起こらないだろうと浦川は予測した。彼女は、自分の母親を養うくらいの金はそこから捻出することができるだろうし、自分の小づかいも稼ぐことができる。  そして、いつも着飾って生き生きとしていることができるのではないか。そういった弥生を見ることは、浦川の弥生に対する感情を絶えず新鮮にしてくれるにちがいないと、浦川は、あらゆる点で楽観的であった。  その時、初めて浦川は、弥生にかなりの貯金があることを知った。それと、浦川が持っている金を合わせ、その土地つきの店を担保に銀行から借りることができれば、その店を弥生が買うことができるのだった。  弥生は、銀行から金を借りる算段のためにかけ廻った。  彼女は一人で銀行の貸付係と会って、軽くあしらわれて帰ったりした。  結局、弥生に金を貸してくれる銀行を見つけたのは浦川だった。親しい出版社の社長の口ききによったものだ。銀行からの借金の保証のため浦川は自分の預金の殆どをその銀行の中に凍結しなければならなかった。  にわかに弥生は多忙になった。  浦川は、弥生の多忙が自分自身の生活に及ぼしてくることを怖れていたので、弥生一人でやるように、初めからいってあった。  だから、浦川は、店をある人が持つという場合、いったいどんな手続きや書類が必要であるかということなど、知らずじまいだった。彼は、なんでも筆頭株主らしかった。が、それがどんな権限を持っているかについても彼は知らなかったし、また無関心だった。  社長は弥生である。  弥生は、まるで水を得た魚のようだった。彼女は、店を持つことにより浦川に対する警戒の眼がゆるむことを、仕方ないと思うようになった。どうやら彼女は、浦川に少々浮気をされてもいいから、店を持つことの方を選びたかったらしい。  じっさい、浦川の浮気は繁くなった。といって、彼は、浮気の対象となる女に愛着を持ったりはしなかった。  彼は弥生と一緒になったことを一つの運命と感じ、弥生と別れようなどとは、まったく思っていなかった。そして、弥生から愛されているということについても、一度も疑ったことはなかった。  そのスナックの名前は浦川がつけてやった。弥生の姓をとって�藤村�とした。  その店は六月の上旬の雨の日に開かれた。浦川が知っている出版社や雑誌社や水商売の店などから、花輪が多く届けられて、店の内外を飾った。その店は午前二時までやるたてまえになっていた。  弥生は、午後になると毎日美容院に行き、帰ってきて、化粧を始め、着物をつけ出かけて行った。  彼はふと、初めて弥生と知り合ったころの弥生の顔を、そこに見るような気がした。料亭の部屋で見る弥生には、あるいきいきとした感じがあったものだ。そのいきいきとした感じが、�藤村�のママになった弥生に甦《よみがえ》っていた。締めた帯をポンポンと叩く音や紐《ひも》の擦れる音、五つこはぜの足袋をはく時の腰つき、彼は、弥生と料亭の二階の部屋で寝た時のことを思い出した。 �藤村�は最初から繁昌していた。それは多分に浦川の側面援助のせいもあった。彼が知っている週刊誌の食べ物の店を扱う欄に�藤村�を取り上げてもらったのである。  弥生が毎夜出かけるようになると、アパートの中には、ミキ子と浦川だけがいることになる。  浦川がアパートに夜いるのは、弥生がいるという理由以外にはなかった。  彼は、昼間殆ど仕事を済ませてしまう。夜静かに読書をするといった習慣も浦川にはなかった。彼は、殆ど他人の小説などを読んだことがなかった。彼の書棚には、自分の本と、人から贈られてくる本が並んでいるだけで、彼が買う本といえば、動物の本ぐらいしかない。  そんな彼は、弥生がいないアパートで、テレビの野球をぼんやりと見て時間を過ごすということもできなかった。  そんな時間を過ごしていると、浦川は、なぜかひどく疲れるのだった。彼はアンクルの散歩も、夕方にすませてしまうのだった。  彼は殆ど毎日、銀座に飲みに行くようになった。そして、帰りに�藤村�に寄り、それからアパートに帰るのだった。  初め彼が懸念したことは、浦川よりも帰りの遅い弥生が、眠っている浦川を起こしはしないかということだった。すると浦川は、今度はなかなか寝つけなくなり、睡眠不足に陥る。昼間の仕事に差しつかえる。  弥生は、 「そんなことはしないわよ。先生が起きないように注意するわ」  と、店を開く前からいっていた。処が、店を彼女がやるようになると、彼の心配は現実のものになった。  たいてい弥生は、アルコールを入れて帰ってくる。帰ってくると、鍵を使ってそっとドアを開けようとはせずに、店ではしゃいだ気分をそのまま持ち帰ってきてチャイムを押すのだった。  しかし、チャイムを押す前から、すでに彼は眼を醒まされていた。なぜなら、弥生の足音に気づいたルルが、嬉しさのあまり甲《かん》高い声で鳴き立てるからである。  しかし、浦川は、起こされてただ迷惑に感じているだけではなかった。彼の中には、迷惑と同時に、帰ってきた賑やかな弥生を歓迎する気持もあるのだった。  しかし、彼は、いつもそのたびに歓迎する気持の方は隠して、 「なんで起こすんだ、起こすなといっただろう」  と、怒ってみせるのだった。  弥生が帰ってくるのは午前三時過ぎであった。それまでの間に、ルルは何度も彼の腹を蹴ってはドアに向って走り、そして、すごすごと引き返すということを繰り返していた。  ルルがドアに向って走る時は、外にタクシーが停まる音がしたり、タクシーのドアが閉まる音が聞こえてきたりする時だった。  ルルに腹を蹴られて眼を醒まされると、浦川は、自然と外の気配に、ルルと同じように耳をそばだてるのだった。  すると、一つ一つの車の音が気になってくる。車が近づいてくる。しかし、多くの車は、そのまま浦川のいるアパートの前を通り過ぎて行った。しかし、中にはアパートの近くで停まる車もある。  浦川は、ルルと同じように、弥生かなと思う。すると、突然、弥生とは似ても似つかない男の声が聞こえてきたり、靴音が聞こえてきたりするのだった。弥生はいつも着物なので、聞こえてくるのは草履《ぞうり》の音のはずである。  ある時、弥生は静かに帰ってきた。ルルの方は、喜びのために鳴き喚いているのだが、弥生は、浦川のいいつけをこの夜ばかりは忠実に守ろうとするかのように、静かである。  弥生は、アンクルのために、店での食べ残しのものを鍋に入れて持って帰っていた。アンクルも、弥生が帰ると食べ物にありつけることを知っていて、ベランダで鼻を鳴らしている。  彼女は、ベランダに通ずるドアを開けて、アンクルに食べ物をやるのだが、その前に、ルルの口や胃に無理でないものをより出す。そんな時、弥生は必ずルルになにかやさしい言葉をかけてやるものだが、その夜は、ずっと沈黙を続けていた。  ベランダで、アンクルが鼻を鳴らしている。その鼻を鳴らす声が、近所の耳ざわりにならねばいいがと、浦川は気が気でない。  しかし、弥生は、一向に無頓着のように、なかなかアンクルに食べさせようとしない。  浦川は、賑やかに帰ってこられて、せっかく眠っている処を起こされるのも腹が立つが、こんなふうに静かに帰られてみると、その方がずっといやであった。  彼は、そんな弥生に、不気味な感じさえ抱いた。もしかして、自分の浮気がバレたのではないかと、そんなことを思ってもみた。  やがて、彼はこういった。 「早くアンクルに食わせろよ」  しかし、弥生は黙っている。 〈なにかおれのことについて、だれかから聞いたな〉浦川はそう勘ぐった。  やがて、焦《じ》れた浦川は起きて、 「おれがやるからよこせよ」  といった。  食卓に前足をかけて、ルルが、与えられたものを食べている。弥生は蒼白んだような顔になって、宙に眼を放っている。 「いったいどうしたんだ?」 「どうもしないわ」 「だって、変じゃないか」 「いいのよ、放っといて」 「なにかあったのか、店で」 「いろいろむずかしいのよ。人を使うってのはたいへんね」 「おれは、きみのそんな顔を見てると心配になるんだよ。これから先は、きみが店を待ったことで、おれの心配がまたふえるわけだ」 「大丈夫よ、心配かけないから」 「これ、アンクルにやってもいいんだね」  弥生は頷いた。  浦川は、ベランダの戸を開けてベランダに鍋を置いた。アンクルはすさまじい食欲を示す音を立てて食べ始めた。鍋の底がベランダのコンクリートとすれ合う音がひとしきり続いた。  弥生には、同棲の初めの頃から、急に黙りこくるようなことがあった。  浦川はそんな時、弥生が、彼との同棲生活について後悔しているのではないかと心配に駆られ、自分の心配を口に出したものだった。  すると、弥生は首を横に振って、 「わたしの沈んでる時はね、わたしが別れた子供のことを思ってると思ってちょうだい。だから、その時はそっとしておいてほしいの」  それから先も、弥生はときどき不機嫌な無口に陥ることがあった。  彼は、そんな時の弥生は、別れた子供のことを考えているのだな、と思った。  しかし、弥生が不機嫌なのは浦川のことでのこともあるにちがいなかった。むしろ、そのことの方が多かった。  彼女は、しっぽは把んでいないながらも、なにかしら浦川の行動に疑念を持っているような時、そうなるのかもしれなかった。  たとえば、彼女は、浦川と一緒に六本木のゴーゴークラブに行くことがあったが、その時浦川は、銀座の酒場の顔見知りの子と、偶然顔が合うことがよくある。  フロアに踊りに出る時、そんな女の子の肩をちょっと叩いたりしていた。そういうことが、弥生には気にいらない。 「わたしはなんて思われてるのよ、あの人たちに。あの人たちと同じような女の子だと思われてるじゃないの。なぜわたしをちゃんといってくれないの。一緒にいる女だっていうことを」  そんな弥生の言葉を聞くと、浦川はやりきれなくなるのだった。  浦川は、それからは、弥生と一緒に行った場所で顔見知りの女の子に会うと、一々弥生を紹介することにした。 「うちのやつだよ」とか「六本木の�藤村�のママだよ」といった。  二つのいい方は、いずれも弥生には気にいったらしく、そんなあと上機嫌だった。  店はうまくいっていて、たびたび大入袋を出していた。弥生が浦川の前で急に天気が変ったように暗い感じになる時、前に生んだ子供のことや浦川についての不安だけからではない別のことが弥生の胸に萌《きざ》しているような気配を浦川は感じることがあった。店で人を使うむつかしさを彼女が悩んでいるのでもない別の悩みや悲しみが弥生を見舞っている。けれども、浦川はそんな弥生の心について抱く疑念に確信があるわけではない。つまり、彼の疑念はなんとなくといった程度のものであった。弥生は日曜に三鷹に行くことがある。行けない時は、志津が重則を背負ってやってくることがある。重則は色白でかわいい顔をしていた。  弥生は浦川に「かわいいでしょう」という。浦川は「うん」といいはしたが、他人の子供をかわいいと思うのと同じである。自分の膝の上で抱いてやろうなどとは思いもしなかった。じっさい、浦川は重則に指一本触れたことがなかった。そして、長い時間近くにいたりされると、わずらわしい存在に思われるのだった。  浦川が急性肝炎になったのは、�藤村�が開店してひと月経たない頃だった。  彼は急に食欲を失い、酒を飲みたくなくなり、それまでしょっちゅう出ていた銀座にも行きたくなくなった。  そうするうちに、自分の肌が黄色味がかっているのに気づいた。浦川は、自分が黄疸《おうだん》にかかったにちがいないと思った。  彼は、その頃かなり忙しい執筆生活を送っていた。彼の気持の中には、病気にでもなってなにも書かなくてもよい日を送りたいという願望があったので、彼はこの自分の不元気を、それほど苦にはしていなかった。  浦川は、弥生を抱く気もしなかった。  弥生は、アパートにずっといる浦川に、店から電話をかけてくる。 「どうなの、気分は」 「同じだねえ、食欲がさっぱりないよ。なにも食べたくない」 「なにかいってよ、持って帰るから」 「いらないんだよ。夜は特に食べたくない」  弥生は、帰ってくると、浦川の体の上に覆い被《かぶ》さってきて、 「ねえ、お医者さんに診てもらってちょうだい。先生になにかあったら、わたし、ほんとうに気が狂《ちが》っちゃうわよ。わたしって普通の人の神経じゃないんだから、先生に万一のことがあったりしたら、わたしはもう生きておれなくなっちゃうの。お願いだからお医者に診てもらってちょうだい。わたし看病してあげるわよ」  浦川は、その言葉を聞いていて、じっさい弥生に看病されたいと思った。  彼には、きわめてあまい弱い感情があるのだった。その弱いあまい感情は子供じみていて、あまえる形をとっている。特に病気になったりすると、その傾向が強くなる。  彼は、 「弥生に看病されたいよう」  などと、子供のようにいってみたりした。 「ほんとうに看病してあげるからね、心配しなくていいの」  弥生は、子供にいって聞かすようないい方で、そんなことをいった。  浦川が都心にある病院に診察を受けに行ったのは、それから二、三日経ってである。  彼は友人を通じて紹介状を持って、その病院に行ったのだ。  雨風が強い朝だった。傘も役に立たないので、ビニールのレインコートを着て出かけて行った。  弥生はまだ眠っていたが、彼が出かける時に眼を開けて、 「いってらっしゃい」  といった。  診察は午後までかかった。彼が紹介された医者が、午後の肝臓専門の医者に引き継いだからである。  そして、彼は、急性肝炎と診断された。そして、アパートに帰ることも許されず、すぐに入院ということになった。  浦川が、入院して仕事ができるかどうか訊くと、医者は、あきれたように彼の顔を見つめ、 「そんなことしたら死ぬかもしれませんよ」  といった。  彼は、これで完全に、自分はしばらくの間仕事から解放されるという喜びと、命の不安と、相半ばする気持に包まれて、差しあたり原稿を渡さねばならない雑誌社に、院内の赤電話で電話した。  それから家に電話した。  彼が入院させられる処は、都心からずっと離れた神奈川県にある分院だった。  弥生は、怒って、 「なぜそんな遠い処に勝手に行くのよ」  といった。  そんな弥生が、浦川には意外だった。弥生は、浦川の思った以上に重い病気のことを心配するだろうと思っていたのだ。 「死ぬか生きるかの時に、そんなこといえやしないよ」 「だってあんまり勝手だわよ」  浦川は、とにかく分院の名前をいって、電話を切った。  バスで連れて行かれたその分院は、入院患者だけのための病院で、空気が澄んだ広々とした敷地に建てられていた。  彼は、空いている個室に入った。  弥生が、浦川の親しい編集者の佐田や作家の奥村と一緒に、手伝いのミキ子を連れてやってきたのは、浦川が分院について二時間ほど経った頃だった。まだ外は明るかった。  彼女は、着替えや洗面道具やらを持ってきた。電話の時は怒っていた弥生は、いまはにこやかな顔になっていた。  佐田や奥村が、蜆《しじみ》の味噌汁がいいということをいった。すると弥生は、 「蜆のおみおつけを、あしたつくってきてあげるわ」  といった。  食欲のない浦川は、蜆の味噌汁であれば咽喉《のど》を通るような気がした。  彼は、微かな目まいのような感覚をずっと覚えていた。肌の黄色味は日一日と強まっていった。白眼の部分は殆ど緑色がかっていた。  そういった自分の変化を、佐田や奥村が自分を見る眼の中に、浦川は読みとっていた。  浦川の急性肝炎は、彼が思っていた以上に重症であった。もう少しひどいと激性肝炎といって、文字どおり命にかかわる。  彼は、テレビを見ていると頭が痛くなってくるのだった。とても本などは読める状態ではなかった。  弥生は、翌日蜆の味噌汁をつくってこなかった。近くの魚屋になかったというのだ。  浦川は、普段あまり食べたくないものをほしがった。彼は、普段牛乳をそんなにおいしいと思ったことはないのだが、牛乳がたいそううまかった。そのほかはうまいものは、いなりずしや冷やし中華そばである。それから、果物は毎日おいしく食べた。  しかし、病院から支給される食べ物は、とても口に入らなかった。  そんな浦川は、毎日点滴を受けなければならなかった。 「きみはどうして、ぼくが蜆の味噌汁を飲みたいといっているのに、持ってきてくれないんだ?」  彼は、とうとう弥生が三日間続けて持ってこないのに痺《しび》れを切らして、そういった。 「だって、近所にないんですもの」 「ないったって、どこかに捜せばあるだろう」 「わたし、毎日くたくたよ、お店と病院で」  浦川は肚《はら》の中で〈そんなことは理由にはならない〉と思った。  ちょうどその時、浦川の親しい編集者の佐田がやってきたので、佐田の前で、浦川は弥生のことをなじって、こういった。 「こいつは、ぼくが病気したら寝ずに看病するようなことをいっていながら、ぼくがいま一番ほしがっている蜆の味噌汁を飲ましてくれないんだよ」  佐田は、あいまいな笑みを顔に浮かべて、こういった。 「だって奥さんも�藤村�なんかでたいへんだろうからね」  弥生は少し蒼ざめた顔になっていた。  彼女は、やっと蜆と味噌と電気コンロなどを持ってきて、病室でつくり始めた。  弥生は、それから数日、毎日彼が食べたいいなりずしや冷やし中華そぼや、生《な》まのエビの種の握り鮨などを持ってきたが、そんなあと不意にこういった。 「わたし疲れたから、一週間ほど秋田の方に行ってくるわ」  弥生は、いかにも疲れたように、そういったのだ。じっさい、弥生は疲れているのかもしれなかった。  その病院は完全看護であったから、弥生がいなければどうにもならないというわけではなかった。それに、彼の処にはしょっちゅう見舞客があって、浦川がほしいものを頼めば持ってきてくれる。果物はふんだんにあった。  それに彼は、弥生がいる限りやってきそうもない女の子たちを呼ぶこともできるのだった。その子たちに頼めば、なにかを持ってきてくれるにちがいなかった。  彼は、やっと点滴をしなくて済むようになったばかりだった。  それにしても、そんな自分を放って秋田に休養に行くという弥生の心理は、浦川には解せなかった。といって、そういう弥生を咎《とが》める資格も、自分にはないように思われるのだ。 「いいよ、行ってきても」 「とにかく疲れたから、わたし五日ほど行ってくるわ」  弥生は、じっさい母の志津や、もらい子の重則を連れて、秋田に行ったらしかった。  弥生は日曜日に帰ってくるはずだったのだが、その日曜日になっても、弥生はやってこなかった。彼は、ときどき青山の自分のアパートに電話していた。  手伝いのミキ子は、 「お帰りになりましたけど、いま美容院に行ってます」  といった。電話の中にアンクルの太い吠《ほ》え声が入っていた。ミキ子は浦川がいない間はアンクルの糞尿の始末もやってくれていた。  室内での電話は夕方の五時までである。それを過ぎると、彼は、看護婦のいるステーションの近くの市外とも通話できる背の高い赤電話を使わねばならなかった。  ミキ子が出てきて、 「美容院からお帰りになりました時、お伝えしましたけど、そのまま三鷹にいらっしゃったようです」  といった。  彼は、さっそく三鷹に電話してみた。  すると志津が出てきた。 「弥生行きませんでしたか」  というと、 「こっちにはいませんけれど、どこに行ったんでしょうね。友達のところかもしれないわねえ。帰ってきたらいっておきます」  といった。  浦川には弥生の心がさっぱりわからなかった。秋田から帰ってきたら、なにはさておいてもまっすぐに自分の処に飛んでくるのがあたりまえではないだろうか。それなのに、彼女は先ず三鷹に行ったりしている。しかも、三鷹の母親とは、ずっと秋田で一緒だったはずだ。  彼は、意地から、その夜再び三鷹に電話しようとはしなかった。  次の日、朝の十時ごろ、病院の枕許の電話が鳴った。いきなり弥生の声が浦川の耳に飛びこんできた。 「もうわたし、そっちに行ったりはしないから」 「いったいどうしたんだ?」 「どうしたもこうしたもないわよ。道子さんに入院してるって知らしたでしょう?」  彼は、じっさい道子に知らせている。  しかし、それは、道子から弥生の留守中のミキ子に、しばしば電話があったからだった。道子は、 〈いつも浦川も弥生もいないけれども、どうしたことですか〉  ということでなじってきたのだ。  そして、〈じっさいに自分に対して慰謝料を払う意思があるのかどうか、誠意を示してくれ〉というような電話を、そういうことをいっても始まらないミキ子に対して、いうらしかった。  ミキ子は電話で、そのことを浦川にいった。浦川は仕方なく、病院から葉書で道子に、いま入院中だから、すべては病気が癒《なお》ったあとにしてくれ、と出したのだ。  その葉書には、彼は名前だけ書いて、病院の名前、部屋の番号などは書いてはいない。 ちょうど秋田から帰ったばかりの弥生に、道子から電話がかかってきて、浦川から手紙がきて、それで入院していることを知ったが、どこの病院か教えてくれといった。  その電話で弥生は、浦川が病気になって急に道子を恋しくなって知らせたのだと、解釈したらしかった。  浦川は事情を説明してやった。しかし、弥生はなかなか機嫌を直そうとしなかった。道子のこととは関係のないことまで持ち出して、浦川をなじり始めた。  銀座の酒場のママやホステスたちが五、六人見舞いにきた時のことで、彼を非難し始めたのである。その時に、弥生のことを、彼がホステスたちに自分の連れ合いとして紹介しなかった、というのが彼女の怒りの大きい理由である。 「みんなわたしのことを、どんな女かと思うじゃないの。わたし、どんな立場にいる女としてふるまえばいいのよ。そんなことちっとも先生は考えたことないんでしょう。それに、なにもあんなにたくさん病室に入れることはないじゃないの。看護婦さんからもとめられているんですもの、ママと、あと一人ぐらいでいいのよ。あとの人は外に待たしておけば……」  浦川は肚にすえかねて、どなった。 「おれは病人なんだぞ。病人を捉まえて、おまえは無理難題を吹っかけている。しかも、病人をほったらかして保養に行ったりしている。もうおれは、病気が癒ってもおまえのもとには帰らないから。おまえの世話にはならん。ほかの人にいって、おれの食べたいものは持ってきてもらうよ」  そして、彼は電話を切ったのだった。  すると、すぐにまた電話がかかってきた。弥生からである。今度は幾分かなごんだ声になっていた。  弥生は、手紙のことをもう一度よく知りたいと思ったらしく、彼に説明を求めた。  なごんだ弥生を知ると、彼の腹立ちは、いつものように急速に収まってくる。そういう収まり方の中に、彼は、自分の弥生への気持の傾倒を見届ける気がし、ある安心とも悲しみともつかない気持を覚えながら、弥生に、再び、なぜ自分が道子に簡単な葉書を出したかということを、わざとぶっきらぼうな口調で説明して聞かせた。  しかし、彼は、弥生との生活に、入院する前からある不自由と倦怠を覚え始めていた。そのために、弥生が店を出すことに賛成したといってもよかった。  しかし、彼は、弥生の自分への愛情を疑っていなかったから、これまで、弥生と別れたいということも思ったことがなかった。  自分が弥生と別れたりすれば、自分が辛《つら》いというよりも、弥生がかわいそうだと思う気持の方が強かったからである。  しかし、弥生は、彼が切望している蜆の味噌汁を、すぐにつくって持ってこなかったし、彼を一週間も病院にほったらかしておいたり、秋田から帰ってきてもすぐに現われなかったり、そういうようなことから、彼は、自分が思っていたほど、弥生は自分への愛情を持っていないらしいことを思い知らされ、多少|愕然《がくぜん》としていた。  しかし、それでも彼は、弥生はもともとそういう女なのだと思うことで、自分の受けた衝撃を弱めていた。  しかし、彼は、初めて弥生と別れたいといった気持を持ったのだ。それは、たとえ発作のようなものであるとしても、彼がそれを持ったことには変りがなかった。  彼は、弥生への腹いせのように、編集者たちに、彼が食べたいものを注文した。編集者たちは、いなりずしや握り鮨などを持ってきてくれた。  弥生が、秋田から帰って初めてやってきたのは、彼女が帰ってきてから三日目であった。  弥生は、額に血管を浮かしてやってきた。彼女は、いまにも爆発しようという自分の感情を押えるような顔つきであった。黒い絽《ろ》の着物を着ているために、ますますその蒼白い顔が目立っていた。 「きみにはがっかりさせられたよ。病気すれば寝ずに看病するような口をきいてて、じっさいなんにもしてくれないのと同じじゃないか」  そういったことから、またいい合いが始まった。  弥生は泣き出した。彼女は、泣き出すと、だれが聞いててもかまわないような気持になるらしかった。嗚咽《おえつ》を怺えようとしない。彼は、廊下を通る看護婦たちに聞かれたかもしれないと思った。  弥生は、自分がどれだけいまくたくたに疲れているかというようなことをいった。自分は病院と�藤村�と三鷹と、そして、青山のアパートと四つ抱えているのだという。その四つの場所を、いつも行ききしていなければならない。しかも、いまは夏で、彼女の体は夏にはきわめて弱い。  そういう話を聞いているうちに、浦川は、自分が病院のベッドの上で安穏な日を送っているのに、彼女の方は暑いさなかをかけずり廻っているというふうに思い、自分のわがままに気が咎め始めた。  彼はだいたい他人には我慢を強いて、自分はあまえている性癖を、小さい時から持っていた。  どういう理由でか、他人は自分に対して負い目を持っているといった感覚が、浦川にはある。そして、自分ができないことでも、他人は自分より偉くてできる、といった理由のない信頼のような気持も他人にはあるのだった。  その信頼を、彼女は裏切ったのである。だが、それは自分のわがままというものだ。  浦川は、泣いている弥生を見ると、下手に出てあやまり始めた。  弥生は三日に一度ぐらいの割合で顔を出すようになった。  彼女は、そのまま�藤村�に行ける服装をしてやってくるのだった。  彼女が病院を出る時は、たいてい五時を過ぎるので、看護婦のステーションの傍にある赤電話を使わねばならない。その電話でハイヤーを呼んでもらって、弥生は�藤村�に行く。  病院生活は、浦川にとって少しもいやなものではなかった。さびしくもなかった。よく人がきてくれるからである。  それに、仕事についても、始めてもよい許可を、彼は医師から得た。だから、彼が休載した週刊誌の小説もほんの一、二週間でしかなかった。  浦川は、初めて口述筆記というやり方で原稿を書き始めた。毎日、速記の人がやってくるようになった。  彼はじっさい、矢も楯もたまらず自分の家に帰りたいという気持には一度もならなかった。  初めて外泊許可が出た時も、彼は、それほど自分が嬉しがらないのに気づいて、そんなことがさびしかった。  もっと自分は浮き浮きとなるべきはずなのに、それほど彼の胸は弾んではいなかった。  迎えにきた弥生と一緒に、彼は縮《ちぢみ》の浴衣を着てハイヤーで青山のアパートにひと月半ぶりに帰った。  彼は、その日、弥生の体にも久しぶりに接したが、長い間体が休んでいたためか、彼の体は不如意な状態であった。やっと不如意から脱出しても、彼が考えていたほど、感激しなかった。  弥生の方も、 「なんだかわたし忘れたみたい、久しぶりだからよ」  といった。  浦川は土曜に帰ってきて、月曜日に病院に戻って行ったのだが、日曜日の夜は割とうまくいった。二人とも勘を取り戻したといった感じである。  それでも、彼は、もっと家にいたいなどとは思わなかった。病院のあの個室の方が自分の部屋という感じがあるからだった。  浦川は、それから退院するまでに、二度ほど外泊許可をもらい、その都度銀座の酒場にも行った。その間、もちろんアルコールは口にしなかった。銀座の酒場の帰りは�藤村�に寄った。そして、ひと足先にアパートに帰った。  すると、そんな夜は弥生も特別の夜なので、あとを人に任せて、早くアパートに帰ってくるのだった。  浦川はアンクルを連れて散歩にも行った。久しぶりの散歩にもかかわらず、それほど疲れなかった。  浦川は八月の末に退院した。その時にも、彼はそれほど嬉しいとは思わなかった。むしろ、もっと病院にいてもいいほどの気持だった。  前と同じような生活が始まった。ちがったのは、口述による仕事が多くなったことである。夜になると、どちらがあととも先ともつかず、弥生も浦川も出て行く。  弥生は�藤村�に、浦川の方は、人と食事をしたり女の子と会うためである。それから銀座の酒場に行き�藤村�に寄り、先に一人で帰る。  弥生は、彼が寝入った頃に帰ってくる。ルルに腹を蹴られ彼は眼を醒ます、彼は小言をいう。  ある夜、いつになくひっそりと弥生が帰ってきた。弥生は、彼の眼を醒まさせまいとするかのように音を立てない。やがて弥生の泣く声が聞こえた。彼は黙っていた。やがて弥生が寝床にもぐりこんでくるにちがいないと思ったからである。その時、わけを訊いてやろうと思っていた。  着物を脱ぐ音がする。もうすぐ彼女がやってくる。しかし、やがて玄関のドアが開く音がし、それから下駄の音が遠ざかって行ったのだった。ルルが蒲団に戻ってきて、浦川の腹の上に乗った。  彼は起きて襖《ふすま》を開けてみた。隣の部屋に弥生はいなかった。便所にも浴室にもいなかった。  弥生は出て行ったのだ。彼女が脱ぎ捨てた着物があった。下駄をはいて行ったのだから普段着にちがいない。いったい、この時間どこに行ったというのだ、三鷹の家なのか。  弥生にはどこか唐突な感じがあって、急に悲しい感情に襲われて三鷹に行きたくなるということがありそうだった。彼女には、ある時は浦川にどう思われても平気なような処があった。  そんな弥生は、浦川にはどうしようもない遠い存在だった。  彼が弥生に愛情を感じていなければ、彼はなにも苦しむことはないのだった。しかし、そのどうしようもない存在の弥生に、彼は、愛情を感じているということが自分ながら一番腹立たしかった。  もしかしたら弥生は�藤村�に雇っている女の子とどこかで待ち合わせて、食事にでも行ったのかもしれないと、初めのうち思っていたが、とうとう弥生は朝になっても帰ってこなかった。  弥生が帰ってきたのは午後になってであった。その時、浦川は風呂に入っていた。下駄の音が近づいてくるなと思って、換気窓から覗《のぞ》いて見ると、上っ張りを着けた弥生が戻ってきた。  彼は、換気窓の処からこういった。 「どこに行ってたんだ?」  彼は怒ってはいなかった。怒っていないのは弥生を疑っていなかったからである。いや、怒っていたのは、上っ張りを着た弥生を見る直前までであって、上っ張りを着た弥生を見た途端に、怒りの方はすっかり失《う》せてしまった。そんな装いの弥生が不義をするはずがないと思ったからだ。 「どこだっていいじゃない」  弥生はそういった。その言葉を聞くと、ますます浦川は安心した。  弥生のいい方には、疑う方が不正であるというような感じがあった。弥生が少しも弁解しないということが、むしろ浦川には気に入っていた。  彼はそれ以上追求しなかった。  どういう経緯《いきさつ》か、二人の間は、急にそれから親しくなった。  浦川は、日曜日の仕事をよすようになった。  彼は、入院する前までは、一日として仕事を休んだことはなかった。日曜日や祭日も、同じように彼は仕事をした。  しかし、入院で口述筆記という手を憶えてから、彼はかなり体が楽になって日曜日は休むことにした。それに、休みの日が一日もないというのは味気ないことだ。  彼は、その日曜日を弥生と二人きりの時間に当てることにしたのだ。  二人は、少女小説専門の出版社の車を頼んで、アンクルを連れてドライブに行ったりした。その出版社の青年は、アルバイトで運転してくれる。大きいアンクルを連れているので、車はライトバンでなければならなかった。うしろの方にアンクルを積み、その前に浦川と弥生が乗る。一番前に運転する青年である。  あるいは、二人は神宮外苑に弁当や魔法瓶を持って、ピクニックに行ったりもした。  浦川は、ピクニックなどを楽しいことと考えたことはこれまでなかったのだが、弥生とのピクニックは、彼にはかなり楽しかった。  しかし、その楽しさの中には、いつもアンクルが一緒だということがある。もしもアンクルがいなくて、ただ二人きりで郊外にピクニックに出かけたりしたら、果して楽しいかどうか疑問である。  二人は多摩川の土手にドライブにも行った。  浦川は、弥生と結婚しようと思った。  彼は、道子が離婚をしぶっていることを、以前はむしろ幸いと考えていたのだが、親密な二人きりの日曜日を重ねているうちに、弥生との結婚を、再び彼は真剣に考え始めていた。  そして、彼は、頼んである人を通じて工作を始めた。道子は、以前の強硬な態度を、かなりやわらげているらしかった。  浦川は幸福な秋を送っているという感覚を持った。だが、弥生はその間、勝手に彼の通帳から大金を無断で下ろし、二カラットのダイヤを買った。  彼女がそれを浦川にいったのは、買ってしまったあとだった。  浦川は別に驚きはしなかった。弥生に、これまで指輪など買ってやったことがないので、それほどダイヤの指輪がほしかったのかと、むしろ不憫《ふびん》な気持であった。 「そのかわり、わたしね、これからもう先生がどんなに遅く帰っても文句をいったりしないわ。そして、信じることにするわ」  弥生は、じっさい彼が�藤村�に寄らずに午前二時ごろにアパートに帰っても、文句をいわなくなった。  しかし、彼女は、浦川がもう帰っているかと思って、しょっちゅう電話を入れていることは前と同じだった。  彼が遅く帰った夜、 「一時半に電話したけど、いなかったわね」  などといった。  道子は、娘の有以子が承知すれば離婚してもいいというようないい方に変ってきていた。だから、有以子に会って説得してくれという。  それで、浦川は有以子と会うことになった。有以子は一見平気なような顔をしていた。しかし、彼女が平気であるはずはなかった。  浦川は、高校三年生の有以子と久しぶりに会い、ステーキ専門の店に連れて行って食事をとった。 「すぐにそんな返事なんかできないわよ。それはお父さんの気持はわかるけどさ」  有以子は笑いながらそういった。 「いいじゃないか、おまえとおれは親子であることは変らないんだから。愛情は冷めているのに、なんで夫婦でいなくちゃいけないんだ? な、それに、おまえにはこれから小づかいやるからさ」  浦川がそういうと、有以子はまた笑った。  有以子は、以前と変らない父親をそこに見ているにちがいなかった。 「わたしを買収しようっていうのね」 「ただ、小づかいをやるっていってるだけさ」 「わたしは、もらうことはもらいますよ。でも、返事は待っててよ」  そんな会話が続く雰囲気であった。  道子は、たまに浦川のことを有以子にぐちろうとするらしかったが、有以子は、 「わたしはそういう時は、自分の部屋に入っちゃうの。泣きごとはきらいだもんね」  そういった。  有以子は、両親の離婚に対しては、やむをえず消極的に賛成という態度をとりそうな感じだった。  有以子と会ったあとの浦川に明るい感じがあるのを、弥生は見てとって、彼をなじった。  弥生は、彼が有以子と会うのもきらっていたのだ。そして、やがて有以子が結婚する時に、その結婚式に出たりすることも、とんでもないというふうに、弥生は考えていた。  そんな弥生の考えに、浦川はついていけない。娘と会ったあとの顔の明るさまでなじられてはたまらないと、浦川は思い、自分がせっかく弥生との結婚に努力している出鼻をなぜくじくのかと、弥生を逆に非難した。  しかし、そういういさかいはあっても、ともかく幸福な秋は続いていた。     二  その日曜日も、二人は一緒に過ごした。昼映画を見、映画の帰りに行きつけの朝鮮焼肉店に行って、あとは寝るばかりという時間だった。  そんな時、電話がかかってきたので浦川が出た。すると男の声が、 「�藤村�のママいますか」  といった。浦川は、 「どなた?」  といった。すると、相手は、 「鈴木です」  といったので、彼は弥生に、 「鈴木さんという人からだよ」  といった。  弥生は不思議そうな顔で、「だれかしら?」といいながら受話器を耳に当てたが、 「もしもし」  というと、すぐに、 「ああ、なあんだ」  といった。  それから弥生は、かなりはしゃいだ口調で「そう」とか「へえ」とかいっていた。それから彼女は、 「いまから?」  といい、 「そうね、三十分ぐらいしてなら行けるわ」  といった。彼女は受話器を置き、 「わたし、これからお土産をもらいに行ってくるわ」  といった。 「その鈴木という人に会いに行くのかね」 「鈴木っていうのは嘘よ。先生が出たでしょう、だからとっさに嘘の名をいったんですって。ほんとは手崎さんというの。出張してたんですって。ほら、いつかいってたでしょう。ホモの人がくるって。その人よ」  そういえば浦川は、�藤村�にホモっ気のある男がやってくるということを聞いたことがある。  そのホモっ気のある男と、弥生は親しくして、ときどきゲイバーなどに一緒に行くという。 「その人おもしろいんだから」  彼女はそういって、 「すぐ帰ってくるからね」  といい、出て行く前に、なにか忘れものはないかといった顔で、蒲団の傍に突っ立って部屋の中を見廻し、それから、 「そうか」  というと、出て行った。 「そうか」というのは弥生の口癖であった。  彼女は、浦川と電話していても、話がなくなると「そうか」と独り言のようにいう。  それは、「ええ」とか「まてよ」といったような意味にも使われた。  浦川は、弥生がその手崎という男と、六本木の交差点にある遅くまでやっている喫茶店で会って、土産物を受け取り、すぐ帰ってくると思っていたので、待っていた。  しかし、弥生は帰ってこなかった。  弥生が帰ってきたのは翌日の昼近くであった。 「いったいどこに行ってたんだ?」  彼はなじった。 「あれから踊りに行ったのよ。そして�藤村�に泊っちゃったの、みんなで」 「手崎とか?」 「手崎さんの友達もいたのよ。そして、細野くんなんかともごろ寝したの」  細野というのは�藤村�に寝泊りしているバーテンだった。 「だったら、なぜ電話くれないんだ?」 「だって、いつも先生は、眠っている処を起こされると怒るでしょう、だからよ」  浦川は、弥生の言葉を信ずることにした。  しかし、幸福な秋はその日で終ってしまった。弥生の帰りは以前よりも遅くなって、午前五時ごろに帰ることがざらにあったし、それから二人だけの日曜日もなくなってしまった。  彼女はこういった。 「わたしだって、日曜日はわたしのために使いたいの。だって、お友達なんかと会う日がないんですもの」  浦川は、そんな言葉を聞いてこういった。 「きみは、しかし、日曜日だけでもぼくと二人きりの時間を過ごしたいといってたじゃないか。そのために、ぼくは仕事もやらなくなったんだし、じっさいぼくは、きみと一緒に過ごす日曜日は楽しいんだよ」 「でも、先生は自分本位の楽しみ方をしてたのよ。わたし、いつも我慢してたの」 「そうか、我慢してたのか」  彼はそういう言葉を聞くと、じっさい我慢ならない気がしてきた。 「そういえばきみは、あの手崎という男から電話がかかってきた、あの時から変ったんだよ。あの夜、きみは帰らなかった。そして、それからきみの生活も変ってきた。いったいこれはどういうことなんだ?」 「どういうことなんてないわ。わたしは先生から一生離れないわ。ただね、しこりが残っていると思うのよ、病院の時の。先生は佐田さんの前で、わたしが蜆をつくってくれないとか、看病してないとか、いったでしょう。あの時のしこりはね、やっぱり残っているわね」  弥生の眼に涙がたまっていた。  浦川の方では、そのしこりは消えたものだと思っていたのだ。 「そうだったのか。だったら別居しようか。でも、きみには�藤村�があるんだし、銀行返済の足らない分は、毎月出してやるよ」  浦川の中には、こういう生活を続けるならば、じっさい弥生から干渉されない自分だけの生活を、積極的に送ってもよいという気持が動き始めていた。  弥生と別居ということは、つまり、浦川がホテル住まいをすることである。  すると、弥生は黙っていた。  彼は、さらにたたみかけて、 「これからきみが外泊したら、ぼくも外泊するよ」  そんないさかいのあとでも、二人は抱き合った。  弥生は、いつものように二、三度達し、彼は満足したのだった。弥生は、達する時に血が引くような感覚を覚えるらしく、あとで、自分の頭を拳《こぶし》で叩いたりした。  それから弥生は、急に浦川にすがりつき、 「わたしが外に泊った時に、先生泊るといったでしょう、そんなこといやよ。絶対いや」  と、あまえ泣きするような声でいった。 「それはそうだろうよ。きみだけが勝手放題なことをしていいわけはない。ぼくはやりますよ」 「そんなことしたら、わたしガス管くわえてやるわ」  今度は浦川の方が黙った。なにかそんなことをしかねない弥生に思われたからである。  しかし、彼女だけが得手勝手なことをやってよいという法はなかった。  彼は眠りかかっている弥生に向って、こういった。 「きみがやればぼくはやるよ」  弥生の耳にその言葉が入ったかどうか、浦川は確かめることができなかった。  弥生の帰りは、殆ど午前四時前ということはなくなった。  そんな時、彼女はよく浦川に電話をよこした。  浦川は眠っていることもあれば、眠っていないこともあった。ルルがやたらと彼の腹を蹴ってドアに走って行くからである。 「いま�ヤグラ�にいるの。もうすぐ帰るわ」 �ヤグラ�というのは、東京で最も人気のあるゴーゴークラブである。午前四時までやっている。  初め�ヤグラ�に弥生を連れて行ったのは浦川だった。 「だれと一緒なんだ?」 「お客さんと一緒よ」  弥生は、時には客と一緒にそういうとこに行かねばならないということをいっていた。 「いったいおまえはどういう量見なんだ? いつもこんなに遅くまで飲んでいて、おれが平気だと思っているのか。おまえがずっとそんなつもりだったら、おれは別れるからな」  彼はそういうと電話を切った。  弥生は、それから三十分ほどして帰ってきた。  浦川は眠ったふりをしていた。ルルの嬉し鳴きの声が聞こえてくる。  襖が開き、いきなり弥生は、蒲団の上から浦川の体の上に突っ伏してきた。そして、泣き始めた。  浦川は黙っていた。 「ごめんなさい」  弥生は何度もそういった。弥生がさんざん泣いたあと、浦川はこういった。 「おれがいっていることは無理かね?」  弥生は頭を横に振った。 「無理じゃない、わたしが悪いのよ」  弥生は浦川の傍に、やがて体を滑らせてきたが、浦川は、そんな弥生を抱かなかった。多少彼は抱きたい気持があったが、ここで抱いては元も子もなくなるといった気持の方が強かったからである。  弥生は、それから二、三日は割と早目に帰ってきていた。  しかし、そんな時でも、もうアンクルに残りの食事を持って帰るというようなことはしなくなっていた。アンクルの方もあきらめて、弥生が帰ったからといって、あまえ鳴きをするようなこともない。  次の日曜日、浦川は、弥生がいてくれるものかどうか、緊張しながら待った。  弥生は、しかし、土曜日の夜アパートにいる浦川に電話をよこし、 「わたし三鷹に泊ってくるわ、今夜。秋田から親戚の人がくるんですって」  といった。  浦川は〈またか〉と思った。  弥生は日曜の夕方になると帰ってきた。  弥生は、髪をほつれさせて普段着姿であった。店には外出着を着て出かけて行く。その外出着を、彼女は店で普段着に着替えて三鷹に行ったのだろうか。それとも、三鷹について脱ぎ捨てて、三鷹で普段着に着替えてからやってきたのだろうか。  浦川はそんなことを考えたが、彼女に訊く気はしなかった。  その夜、浦川は弥生を抱いた。浦川は、弥生の首筋にキスしようとした。  すると、弥生は、 「くすぐったいからよして」  といった。  浦川はハッとなった。こういう言葉を、浦川は、弥生からこれまで聞いたことがなかったからである。  弥生の首は、彼女の乳房よりも敏感なほどである。その白い首にさわったりキスするだけで、弥生の全身から力が抜けていく。そして、ひどい時には、弥生はへたへたと坐りこむほどになるのだった。  彼女は、浦川の首筋への接吻を、いつも歓迎していたのだ。  彼女は、浦川に抱かれる時、平常ではくすぐったいと感じるものが、忽ち快感と掏《す》り替えられていくはずであった。だから、弥生はこれまで浦川に、くすぐったいなどといったことはないのだ。  浦川は、弥生の中で、ある変化が起きたのを、この時知った。  弥生との同棲生活の中で、初めて浦川が、弥生に相談せずに外泊したのは十一月の中旬である。  彼は赤坂のホテルに予約して泊ることにした。  その朝、こういうことがあった。  弥生は午前三時、蒲団の中にいる浦川に電話した。 「いまわたし�ドン�にいるの」 �ドン�というのはゲイバーである。そのゲイバーから、彼女は電話しているのだった。弥生は、お客さんと、ほかによく店にくる若い女優と一緒だといった。 「もうすぐ帰るわ、わたし。そうね、あと三十分ぐらいに」  一度泣いて彼に詫びたあと、弥生は、特に遅く帰るようなことはなかった。しかし、この夜は少し遅くなりそうなので、彼女は、彼の機嫌をそこねはしないかと心配して、電話をかけてきた様子だった。  浦川は待っていた。しかし、三十分経ち一時間経っても弥生は帰ってこず、車が外に停まる音を立てるたびに、ルルは彼の腹を蹴ってはドアに向って走った。  浦川が眼を醒ました時は、もう八時過ぎだった。弥生はいなかった。  この時、浦川はこの夜、おどかしの目的も兼ね自由をかち得たいといった欲求もあって、ホテルを予約することにきめたのだ。  その夜、弥生はアパートには帰らず、直接�藤村�に行った。  浦川は、もう弥生のいいわけを聞く気はしなかった。�藤村�に、彼は編集者の一人と一緒に行った。 「今夜はNホテルに泊るからな」  弥生はハッとしたような顔になったが、黙っていた。  浦川は二日続けてNホテルに泊り、それからまた青山のアパートに戻った。  それは、自分の力を誇示するための形式的な爆撃のようなものだった。しかし、その誇示は、弥生に対してそれほどの威力を発揮できなかった。  次に彼がホテルに泊ったのは、弥生が店のあと、三鷹に用事があるといって出て行った翌日の日曜日の夜だった。  弥生は、日曜日の朝帰ってくるといって出て行ったのだ。しかし、弥生は戻ってこなかった。三鷹に電話してもだれも出てこない。  彼は、その夜弥生が帰る前にホテルを予約して、大きい紙袋にさしあたりの必要品を詰めこんでアパートを出た。  ミキ子にはホテルの名を教えてある。しかし、ホテルにいる浦川に、弥生からの電話はなかった。  その時から、浦川の本格的なホテル生活が始まったといってよい。  弥生は、浦川がいるホテルに一度泊りにやってきた。  彼女はいろいろの食べ物を持ってやってきたのだ。 「今夜ここに泊ろうかな」  初めはそのつもりだったらしい。  浦川は、その時、何日かぶりで弥生の体を抱くという新鮮な気持から、そんな弥生を歓迎したのだが、彼の体は、彼が思ったほど奮い立ちはしなかった。  そして、弥生も、終ったあと急に翻意して、 「わたしやっぱり帰るわ。こんなベッドじゃ狭くて眠れやしない」  というと、身づくろいして帰って行った。  しかし、浦川は、弥生がちゃんとアパートに帰ったかどうかということを疑問に思った。そして、それを確かめる電話をする気持はなかった。  浦川は、弥生に男がいるということを確信していたわけではなかった。  彼は、そういう男がいるかもしれないと思ったが、彼の中では、そんなはずの弥生ではないと思いたい気持の方が強かった。そんな男がおれば、せっかく手に入れた�藤村�という店を、弥生は手ばなさなくてはならなくなる。なぜなら、そんな弥生だったら、浦川は初めから、銀行から借りた金に対して、保証などしなかったにちがいないからである。  しかし、浦川は、弥生が男と新宿を夜歩いていたというようなことを、以前、銀座のクラブで耳にしたことがある。  それはたしかお酉《とり》さまの夜のことらしかった。  銀座のクラブの女の子は、浦川にこういったのだ。 「なかなかいい男だったわよ。先生、気にならない?」 「別に気にならないね」  彼女は、ときどきお客と店のあと遊びに行ったりしているらしいからである。  じっさい、その時、浦川は平気であった。しかし、そういうことも、いまとなっては、暗い意味を帯びて思い起こされてくる。  あるいはこういうこともあった。  それは�藤村�を始める前のことだった。三日ほど、弥生が、青山のアパートから三鷹に行ったきり帰ってこないことがあった。  彼は三鷹に電話をしたが、だれも出てこない。三鷹の家で一家惨殺が行なわれているかもしれないなどと思った。  彼女からの電話は一向になかった。  こういうことは、それまでにないことだった。  浦川はその時、初めて三鷹の弥生の家に行ってみたいという気持になったのだが、彼はそうなると、一度も行ったことのない家にどうして行けばよいか、わからなかった。  手伝いのミキ子は、弥生と一緒に行ったことがあるのだが、彼を案内することはとてもできそうもなかった。  まる三日経とうとした時、やっと弥生から電話があった。  彼はどなりつけた。 「心配してるじゃないか。なぜちっとも電話してこないんだ?」 「わたし、ずっといたわよ」 「だって、だれも出てこなかったじゃないか」 「だって、おかあさんは立川に行ってたんだもの」  立川にも弥生の親戚があるという。 「じゃあ、おまえはいたのか?」 「わたしはずっといたわ。奥の部屋で気分が悪いから寝てたわ」 「電話が聞こえただろう?」 「聞こえてたけど、わたし出なかったの。薬飲んでて、ずっと睡《ねむ》かったんだもの」  小説を書いている浦川は、電話を三鷹の家にかけてもだれも出ない、その理由について、さっぱり見当がつかなかったものだ。不安と同時に、いったいどういう理由があるのか知りたいという好奇心もあった。  彼は、まさか弥生が家にいながら電話に出なかったとは考えもつかなかった。そして、その突飛さのゆえもあって、その時、弥生の言葉を信じたのである。  現実とは想像の埓外《らちがい》にあるといった結論が、その時の浦川にはかなり気に入っていた。  しかし、その時のことも、いまになって浦川には、なにかしら、ある隠されたものがあるように思われてくるのだった。  なんの連絡もしないで、まる三日間三鷹の部屋に閉じこもっておられる、そういった弥生の神経について暗い疑問が生ずる。浦川が心配しているにちがいないということはわかっていながら電話に出ない。その神経に、彼はいまさらのように不審を感じるのである。  浦川は、弥生に、いるかもしれない男について、糾明しようという気持はあまりなかった。  それよりも彼は、自分がやっと自由を手に入れたという気持の方が強かった。といって、その気持も決して明るいものではなかった。  浦川は起きたばかりであった。ミキ子が朝食兼昼食の用意をしている。  弥生は、ルルと一緒にまだ寝床にいた。  浦川は自分の書斎に、弥生は隣の小さい部屋に寝ている。  弥生は、低血圧のせいか、夜の仕事のせいか、たいてい浦川よりも遅くまで寝ている。  浦川が便所から出た時、電話が鳴り、それに弥生が出た。  弥生は受け答えをしていたが、受話器を置くと、 「多田さんから」  といった。  彼女はまた寝床に戻り、浦川は受話器を耳に当てた。  多田の話は慰謝料の金額のことだった。  道子が提示した慰謝料の金額については、弥生は、以前、 「むちゃくちゃよ」  といっていた。  しかし、浦川の方は、むちゃくちゃとまでは思わない。ただ、彼にはそれだけの金を払うことができなかったのだ。できれば、道子が出している線に近い額を払いたいのだが、それはできかねるので、折り合う線で道子を説得してもらうよう多田に頼んでいた。その金額の一部を先ず払ってくれるように、道子は多田にいったという。浦川が誠意を示していないというのだ。  浦川はその金額を復唱し、 「いますぐというわけにはねえ」  といいながら、隣の部屋で眼をつぶった顔をこちらに見せている弥生の方をちらと見た。弥生は関心のなさそうな顔をしている。  その弥生の顔を見た時、浦川は、弥生がもう自分との結婚について熱意を失っているのを知る気がした。  弥生の中に大きい変化が起こり始めているのだ。彼女の態度には、人ごとの話を聞くともなく耳にしているといった感じがあった。  以前であれば、浦川は、こんな話の時、一心になって聞き耳を立てている弥生に怯えていたものだ。その怯えの習慣が、この時の浦川にはなお残っていたのだが、彼は、熱意を失った弥生に当てつけるように、こういった。 「とにかく、なるべく希望に沿うようにやりたい気持であることは変りないんです。とにかくお願いしますよ、なるべく早く進めたいと思ってますから」  多田は、まだ弥生と浦川とのことは知らない。  つまり、浦川がしばしばホテルに泊り、弥生との間がむずかしくなっているというようなことである  彼は毎日仕事をしていた。自分で書く原稿もあれば、口述筆記の原稿もある。口述筆記をしてくれる女性は一時に現われて三時に帰って行く。  彼はその前後に、自分自身で原稿を書く。だいたい彼の仕事は午後四時ごろまでには終った。するとあとの時間を、浦川はどう使ってよいか、扱いかねてしまうのだった。  もちろん、浦川は女と寝ることもたびたびであった。しかし、女と寝ることに、彼はそれほどの感激を持たなくなっていた。  彼は考えるのだった。これが自分のほしがっていた自由というものなのか。しかし、それにしては、なんという味気ない自由だ。いまや彼に干渉する存在はなかった。彼はなにをしてもよかった。使う金にも不自由はしていなかった。  ときどき、彼は青山のアパートに電話をしたが、殆どそのたびに弥生はいなかった。出てくるのは手伝いのミキ子である。ミキ子と犬が、そのアパートにいるだけだ。  彼は、ずっとホテルにいたわけではない。ときどきアパートに帰って泊った。そして、希《まれ》に弥生と抱き合った。だが、その希な抱擁の中でも、彼と弥生とが感激するのは、これまたごく希であった。  浦川は、発作的に晴れた日曜日など、アンクルを連れて表参道や代々木公園を散歩した。そうしたあと、アパートの風呂に入り、着替え、薄寒くなりかけた時刻、ホテルに帰って行くのだった。  そんな時、彼はいつも着替えの服やシャツをアパートに持って行き、ミキ子が出したシャツや服に着替え、予備の下着などを大きい紙の手提げに入れて、ホテルに帰って行った。  そんなたびに、彼はキツネにつままれたような気持で、これが自由というものかと考えた。  アパートに帰ると、以前彼が仕事に使っていた部屋の壁には、どてらがかけられている。そのどてらに浴衣が重ねられている。浴衣の襟《えり》は汚れたままである。  以前、浦川が弥生と麻布で過ごしたり、青山のアパートヘきて�藤村�を出す前までの頃、いつも弥生は新しい浴衣と取り替えることを忘れたことはなかった。  弥生は外泊することはあったとしても、このアパートにはしょっちゅう帰ってきているはずである。ここには弥生の着物もたくさんあるし、弥生の化粧品も揃っている。しかし、ここは弥生の生活の場所ではなくなっているようだった。  また彼がさびしいと思ったのは、弥生に髪を刈ってもらえなくなったということだった。  二人は裸になって風呂に入り、弥生が、裸の浦川の髪を刈ってくれた。散髪道具一式を彼女は買い入れ、だいたい二十日に一度ぐらいの割で刈ってくれたものだ。  そういうことも、いつごろからなくなったのかと、浦川は考えたが、それも思い出せない。  彼は、ホテルの理容室で髪を刈るようになっていた。  ホテルで食べる朝の食事はたいそうまずかった。夕方はたいてい友人か女の子と食事をする。  浦川は、だんだんと自分の中に人恋しさのようなものが募ってくるのを覚えていた。  仕事のあと、ホテルのベッドに一人で横たわっていたりすると、遠くから、デモ行進のかけ声などが聞こえてきたりする。あるいは、窓にカラスが飛んで行くのが見える。  すると、浦川は、全世界の人々が自分に背中を向けているような、ある侘《わび》しさに捉えられるのだった。  特に、女たちはすべて彼に背中を向けている。  いま自分が死んだら、いったいどの女が身も世もなく泣くであろうかと、彼は考えるのだった。  すると、そういう女は見当らず、浦川は、ぞっとするような寒い底に突き落されるような思いを味わわされるのだった。  その日は七五三であった。空は晴れている。  浦川は、定期的な診察を虎ノ門の病院に受けに行き、そのあと青山のアパートに行き、アンクルを散歩に連れて行った。  明治神宮のあたりは、七五三の着飾った女の子や男の子で賑わっていた。屋台店も出ている。  東京の晴れた空はすっかり青いというわけにはいかない。霞んだような青さである。そういった空のことを HAZY《ヘイジー》 というのだと、アメリカの言葉に詳しい友人から、浦川は聞いたことがある。都会にしかない空の色である。  そういう空のもとの散歩には、なにかしら空虚な感じがある。その空虚な感じは、アパートに帰っても手伝いのミキ子しかいないというガランとした感じに繋がっている。  そのガランとしたアパートの風呂で汗を流し、彼は着替えて、ホテルに帰るために外に出た。  ホテルに帰るために、浦川は車を拾おうとした。車が寄ってきた。と、振り袖の着物を着た女の子を抱き抱えた父親が、浦川の前に割りこんできた。着物を着た母親が走ってくる。  子供を抱いて乗りこんだ父親の横顔には、有無をいわせない感じがあった。額に静脈が浮いている。  浦川は、のまれるようにそこに突っ立っていた。見ると、車がやってくるその方向に、お宮参りの子供を連れた母親の姿が見える。  浦川は、なにか動物の世界に引き戻されるようなのを感じていた。子供連れの獣には、強い猛獣でも手を出したがらない。彼は決して強い猛獣ではなかったので、いっそうたじろぐ気持であった。  向うに見えるお宮参りの母と子と、彼との間には、三十メートルぐらいの距離がある。空車が彼の方にやってきて停まれば、もちろん、彼はその空車に乗ってもよいわけであるが、三十メートル向うの母と子の存在が、彼を脅かしている。  しかも、夕方に近いので車が混んでいて、空車がなかなかやってこないというような状況も、そんな彼の心理に作用している。  次々と空車がくるような状況であれば、先ほどの父親のような顔はなかったにちがいない。また、その父親が子供を連れていなかったならば、あんな顔もなかったにちがいない。その父親と似たような感情が、子供を連れた母親の中にもあるにちがいないと、彼は考えるのだった。  すると、たとえ自分の方に空車がやってきたとしても、彼は乗るわけにはいかなかった。  浦川は、子供を連れた獣たちの恐怖から退散する獣のような心境で、地下鉄の階段を降りて行くことにした。  年が明けて間もない日曜日、浦川は久しぶりにホテルからアパートに帰っていた。  彼は少しかぜをひいていた。彼は暖かくした自分の仕事部屋にいた。  手伝いのミキ子は、隣の部屋でなにかの本を読んでいるらしく、ページをめくる音がときどき聞こえてくる。  午後三時ともなると、夕暮の気配が漂って、カラスの鳴く声が聞こえたりする。ガスストーブの燃える音が聞こえてくるほどの静けさだった。  夜になって、浦川の眼は始終熱っぽさを覚えていたが、それはかぜのためではなく、涙ぐみそうな感じのせいだった。  弥生はこの日も帰ってきそうではなかった。浦川の膝には、毛を刈って青い胴着をつけたマルチーズのルルが寝そべっている。  彼女は、ルルの毛を梳《す》いてやることを怠っていたので、毛が絡まり合いどうしようもなくなって、トリマーに頼んで刈ってもらった。  毛のなくなったルルが寒いだろうというので、弥生は青い胴着をつけさせたのだが、その青い胴着も汚れている。  浦川は、弥生と生活を始めた二年半ほど前の初夏の麻布のアパートを思い出していた。  都心なのに緑が多くて、湯船に張った水の上にはいつも羽虫が浮いていた。  弥生は、その頃まだ芸者をやめきれずに、座敷に出たり出なかったりという日を送り、弥生がいない時間を、浦川は失恋したような気持で、アパートにじっとしていたものだ。  じっとしていたのは、外に出ても楽しくなかったからであり、いつ弥生から電話があるかもしれなかったからだ。彼は、弥生の声を聞くだけで幸福であったのである。そのわずかな会話のために何時間でも待つことができた。  そのくせ、浦川は、弥生にやさしい言葉をかけることができない。ひどく意地悪に、 「また客と寝ているんじゃないだろうな」  などといったりする。  弥生はそのたびに「冗談じゃない」「とんでもない」などといい、言葉がなくなると、「そうか」と、なにか考えるふうにいうのだった。けれども、浦川は、それから二年半経ったいま、弥生がその頃客と寝ていなかったと信じてはいない。  彼と一緒になってからはヒラ座敷専門に出ているといっていたが、その頃、弥生はまだ浦川との生活に不安を持っていたであろうし、いままでのいろいろの経緯があっただろうから、浦川に内緒で客と寝ていたということは十分にあり得るけれども、弥生がほんとにその頃客と寝なかったということも、もちろん、十分にありうる。  寝ていないのに疑われたりしたら、浦川であれば、ひどく口惜しいと思う処を、弥生はけろりとしているのかもしれない。  けろりとしているのは、現に客と寝ているからということもあるが、彼女には、もともと憶えのないことをいわれてもけろりとしているような処があるのも確かだった。  浦川は、膝の上のルルに対しても、これまでにない愛情を抱いている自分に驚いていた。  前夜、浦川と弥生との間に、決定的と思える断層ができてしまった。  浦川は、久しぶりに弥生を抱きたいと思って、アパートに帰ってきた。  そして、�藤村�に電話して、店が終ったらすぐに帰ってくるように、弥生にいった。  弥生も、 「ちょっと先生と、わたしも話したいことがあるのよ」  といった。  彼女はじっさい早く帰ってきた。弥生の相談というのは、いま使っているバーテンの藤原をやめさせるつもりだ、というのだ。  浦川は、藤原というバーテンを好きだった。 「なぜやめさせるんだ? 藤原くんがいるから�藤村�はもっているようなものだと思うがね」 �藤村�がもっているのは弥生のためかもしれなかったが、彼は、わざと意地悪ないい方をしたのだ。  弥生は、明らかに、そのいい方が気に食わぬという顔になっている。 「わたしはいろいろ面倒を見てやっているつもりなのよ。それなのに、わたしに楯突くことが多いのね。経営者のわたしを嘗《な》めているのよ。そして、だんだんこのごろは図々しくなって、友達なんかがやってくると、ただ飲みさしている様子なの」 「しかし、そういうことは必要経費みたいなものじゃないのか。第一、きみは簡単に人をやめさせ過ぎるよ。なんでも首にすればいいと思っているような処がある」  じっさい弥生はそうであった。以前いた細野というバーテンにしても、簡単に首にしてしまっている。二、三人いた女の子も、やめさせられたというよりも、やめざるをえないような格好でやめてしまったと、浦川は睨《にら》んでいる。  弥生の強い気性が、女たちを居づらい気持にさせてしまうのだ。 「経営者はそれぐらいの心がまえがなきゃだめだと思うわ。嘗められたらおしまいよ」 「しかし、そんな理由で藤原くんをやめさせる必要ないと思うな。藤原くんをそんな簡単な理由でやめさせるんだったら、ぼくはもう�藤村�に対しては、月々の援助はやらないよ」  すると、弥生は浦川にとって思いがけない言葉を吐いたのだった。 「いいわ。もう先生からの援助を受けないわ。でもあと二、三カ月は、足りない分は少しは見てちょうだい」  浦川はこの時、弥生が男がいることを婉曲《えんきよく》に自分に告白したと受け取った。 「そうだな。あとはきみの男に出してもらえばいい」 「男なんかいないわよ。わたしは先生みたいに浮気じゃないもの。やっていける自信があるの。なんとかするわ」  浦川は、弥生との間に、あるあいまいな状態が続いていたのが、急に方向が定められるのを感じた。  どういう別れ方になるのか、それだけが残っている問題のような気がした。  浦川は、この夜が最後の弥生との情事になるかもしれないと思った。  浦川はビールを飲んでいた。  弥生は、空のガラスコップの口を両手で押えるような手つきである。その手つきは、浦川がビールを注《つ》ぐことを防いでいるようで、そんな弥生の姿勢には、浦川との馴れ合いを防ごうとしているような感じもあるのだった。  二人は決して喧嘩をしているわけではなかった。二人とも努めて冷静に口をきこうとしていた。 「もう次にくる人がきまっているのよ。藤原くんも、もうやめる気でいるわ」 「きみは、ぼくと別れたがっているんだね」 「とんでもないわ。先生の方こそ、そうじゃないの。先生にとってはなんでもないことかもしれないけど、わたしにとっては�藤村�っていうのは生活の本拠地ですもの。遊びじゃないのよ」  浦川は尿意を覚えて便所に立った。小便をしながら、浦川は、弥生が電話する声を聞いていた。 「そうね、あと一時間ぐらい経って行くわ」  弥生は彼と話すために�藤村�からちょっと戻ってきただけらしかった。彼女は、浦川と一緒に泊る気持は、初めからなかったのだ。  浦川は、しかし、いまからホテルに戻ろうとは思わなかった。なぜなら、彼は泊るつもりで和服に着替えていたからである。  彼は、ある自尊心から、弥生の言葉に左右されない自分を弥生に見せつけるためにも、ホテルに帰るわけにはいかなかった。  弥生は、鏡の前で髪に手を触れていた。それから新しく化粧し直し、 「わたし、ちょっと行ってきますからね」  といった。 「ああ、行っておいで」  浦川は、吐き捨てるようにそういった。  ルルは、もう弥生のあとを追うこともしない。ルルはしょっちゅうおいてきぼりを食わされることに慣れてしまっている。  弥生が出て行く気配を見せると、ルルは、弥生の方に行こうとするよりも、浦川の膝の上にきたがるようになっていた。  そういった前夜のことを思い起こし、浦川は、こんな寒い夜、いったい弥生はどこにどうしているのかと思う。  彼は、大雪の日に、アンクルと、タオルを頭から被った弥生と一緒に外に飛び出して行った時のことを思い出していた。すると、自然と涙が溢《あふ》れてくる。  彼は、できることなら弥生と和解したいという気持になっていた。  和解したいために、彼は弥生を待っているのだった。  浦川は三鷹に電話してみた。すると、志津がすぐに出てきた。 「いませんよ。どこに行ったのかなあ」  彼女はそういい、浦川の言葉を待つ感じになった。浦川は、 「そうですか」  といって、電話を切った。  浦川の悲しみはふくれ上がる一方である。弥生は帰ってこない。電話もしてこない。弥生は弥生で、ある悲しみに包まれているのかもしれないと、彼は想像する。そういった彼の感情の底には弥生から愛されていることを疑っていない自信があるのだが、その自信についての意識の方は彼にはない。  なんという悲しい憂鬱な自由であろう。  彼は、ふと友人の小森に電話をしたくなった。この悲しい自由について、だれかに浦川は伝えたかったのだ。  ダイヤルを廻すと、すぐに小森の声が出た。その時、突然浦川の眼に涙の勢いが強まった。  彼は、自分の涙声を極力押え、 「ちょっと憂鬱だからね、電話したんだよ」  といった。 「どうした、元気ないなあ。ええ?」  小森は、敏感に浦川の心情を見抜いたように、故意にふざけた声を出した。  浦川は、やっと涙声を鎮めると、自分のいまの憂鬱な自由のことを話した。  弥生は、とうとうその夜帰ってこなかった。  浦川の中で、弥生と和解したい気持は、それからも数日続いた。しかし、彼は、それを弥生に対して口にすることができない。その気持と、それを現に口にすることとの間には大きい差があった。  彼は、ただ今度の日曜日に、弥生と一緒に買い物に行く約束をしただけである。  浦川は、アンクルを連れて、NHKの近所を歩いていながら、しばしば二十年一緒にいた道子を恋しく思ったことがある。それは、道子に対して相済まないという気持と同時に、道子の人柄のよさのようなものを示すいろいろの場面が思い浮かんでくるからである。  しかし、彼は、そういう時にも、決してその気持を道子に伝えることはなかった。  土曜日に、浦川は久しぶりに会った友人と一緒に銀座の酒場にいたが、ひょいと、その友人がこういった。 「弥生さんを大晦日の日に並木通りで見かけたなあ。カッコいい男と一緒だったよ」  浦川はギョッとなっていた。年末から正月にかけて、浦川は取材旅行で九州に行った。その間、弥生はスキーに行っていたはずである。大晦日は新潟県のスキー場にいたはずだ。  浦川はその時、 「あいつはしょっちゅう出歩いているよ」  といってごまかした。  浦川は、その夜ホテルから�藤村�に電話した。 「きみは、おれに嘘をついたな。年末から正月にかけて一緒に過ごす男がいるんだな」 「わたし、スキーに行ってたわよ」 「嘘つけ。男と一緒に並木通りを歩いているのを見た人がいるんだよ」 「それは中傷よ」 「中傷じゃない」 「そう、世間が狭くなったわね」  そういうことがあったにもかかわらず、浦川は、翌日青山のアパートに行って弥生と一緒に買い物に出かけるつもりであったのだが、浦川がアパートに行ってみると、弥生はいなかった。 「なんでも、映画を見に行かれるとおっしゃってましたけど」  ミキ子がそういった。  恵美子は、ときどき�藤村�で手伝っていた女だった。皿洗いをしたり運んだりしていた。  昼間は大学生の彼女はアルバイトのようなものだったが、弥生に気に入られていた。  しかし、どういう理由でか、年の暮れにやめてしまった。  その恵美子が、突然、ホテルにいる浦川に、「ちょっとお話ししたいことがあるので」という理由で電話をかけてきた。  浦川は、その時直感から、弥生のことにちがいないと思った。  それで、 「弥生のことについて、いろいろぼくに話してくれるのかね?」  というと、恵美子は、 「わたし、先生は小説家だからなんでもご存知かと思ってましたわ。案外、小説書く人って知らないんだなあと驚いちゃいました」  そういった。  そういうことから、二人はホテルのロビーで落ち合った。 「どうして、ぼくの耳にそんなことを聞かしたくなったの?」  彼女がまだ話をせぬ前に、浦川はそういった。 「わたし、ママのやり方気にくわないんです。わたしが思っていたママとちがうから、わたしやめたんです。だって、ママはそこにいない人のことを悪くいうでしょう。そして、やめた人のことを必ず悪くいうの。やめた藤原くんのことだってケチョンケチョンですもの。いまいる平田くんだって、聞いていたらいい気持しないと思いますわ。自分がやめたら、またケチョンケチョンにいわれるだろうなんて、いってましたわ」  藤原というのは、前にいたバーテンのことである。じっさい、弥生にはそういう処があった。  弥生は、浦川と別れれば、浦川のことをクソミソにいうかもしれなかった。 「ママが結婚するって話、知ってます?」  恵美子の話は、まったく浦川には唐突に響いた。 「結婚? だれと」 「先生はご存知ないかもしれないけど、�藤村�によくやってくるお客さんです。手崎っていうの」  彼は、十一月の日曜日の夜にかかってきた電話の男の名前が手崎だったことを思い出していた。  浦川はホテル住まいを始めてから、殆ど�藤村�に顔を出してはいない。だから、手崎なる者の顔を見たこともなかった。  恵美子の話だと、手崎は、前から�藤村�の看板間ぎわによくやってきていたという。浦川の方は、看板間ぎわはたいていアパートに帰っている。看板までいて、弥生と一緒に帰るというようなことをしなかったからである。 「しかし、弥生は、結婚なんかしない主義だなんていってたけどね」 「ちゃんと日取りまできまっているんですのよ」  恵美子は、五月の大安吉日の日を口にした。 「嘘だと思うなら、その日まで待っていらっしゃるといいわ」  浦川は、あるショックから聞く一方に廻っていた。  しかし、浦川は、決して悲しみを覚えていたわけではない。彼は、ただ意外であったために呆然となっていたのだ。  それに、彼は、自分の洞察力というものに対して、甚だ疑いを持たされる結果になっていた。少なくとも彼は作家である。それなのに、そういうことに気づいていなかった。  漠然と、弥生に男がいるということはわかっていた。しかし、結婚するつもりの男がいるなどとは、思っていなかった。  彼の中にいる弥生の像と、手崎と結婚しようと思っている弥生とは矛盾してしまう。  浦川は、別に怒りも覚えなかった。もともと浦川は怒るということの不得手な男である。それは、ある不精な精神と臆病さからきている。怒れば、なにかことを起こさねばならない。ことを起こすということは、必ず対人関係を波立たせることになる。  そういうことが面倒なのである。と同時に、自分が怒れば相手も怒る。その相手の怒りがこわいのである。  彼は、どんな理由でも、怒っている人間というものがこわかった。だから、どこから見ても正当性のない人物が追いこまれて怒る、その怒りなどは、最も彼がこわいと思うものだった。 「いったい先生はわたしになにをしてくれたというのよ。先生はちっとも浮気をしなかったというの?」  そういわれたらどうなるのか。浦川は沈黙してしまうかもしれなかった。それほど、彼の怒りは弱いのである。 「ママが一度中絶手術したことも知らないでしょう、先生は」 「知らない。まったく知らないね。聞いていると、まるでおれはバカみたいだ」  恵美子は控え目に笑った。  彼女は、こういうことを浦川に話しているということでうわずっていた。それは彼女自身のうしろめたさのせいもある。あるいは、話の内容の重大さのせいもある。  彼女は、おそらく正義感よりは、弥生に対する、ある復讐心から浦川に話しているのかもしれなかった。  その証拠に、話をする時の恵美子の顔には、あるずるい感じがあった。  弥生はクリスマスの前、一度中絶手術をしたという。手術をしたあと手崎のアパートで寝ていたという。 「ミキ子はそのことを知っているのかな?」 「あの人は知らないと思うわ。でも、先生がいない時には電話でやりとりしているから、うすうすは勘づいていると思うけど、ママからかわいがられているから、先生にはいえないのよ。それに、いう必要もないし。だって他人ですもの」  ミキ子の眼に、自分が憐むべき男として映っているにちがいないと、浦川は思った。  小説家などという人種はものを知らないものだと、ミキ子も思ったかもしれない。  しかし、一番そういうことを思ったのは弥生にちがいない。 「弥生はそういうことをして、ぼくに少しでも悪いと思っているのかなあ」 「思ってないと思うわ。ママは手崎さんのことを話す時、浮き浮きしているんですもの。大晦日の夜から正月にかけて、手崎さんと一緒に熱海に行ったことも知らないでしょう。その時、わたしに電話してくれたわ。わたしその時、嘗められていると思ったわ。だって、手崎さんとのベッドのことも話すんですもの。わたしに、『最高の悦びだったわ』なんていう言葉をつかうのよ。その時わたし、ママに嘗められているんだなと思ったわ。そういうことをわたしが平気で聞ける女だと思っているのよね。つまり、わたしがママにへつらっていると思ってるのよ。へつらってばかりいることを心がけている人っていうのは、道理とか正しさなんてのはいつも二の次でしょう。そういう女だと思われていたのよ。わたしが先生に話そうかなと思ったのはその時だったの。でも、いままでできなかったの」  恵美子の顔から、だんだんずるい感じが消えて、自分で自分の言葉に感激している顔になっていた。  それでも、恵美子の顔には明るさはなくて、ある暗い影が尾を引いている。  その話し方には、大学生特有のある生硬な言葉づかいや感情が点綴《てんてい》されていた。  恵美子は、その間フレッシュジュースを一度おかわりし、浦川の方はブランデーを嘗めていた。  彼はじっさい夢を見ているような気持であった。まさか弥生がそんな女だったとは、といったような気持からというよりも、彼自身がまったくそういう事態に気づいていなかったという、自分で自分の頭をどやしつけてやりたいような愚かさ加減を思い知らされていることからそれはきていた。  浦川は、ふと眼が醒めたように、そうだ、と思った。彼は、恵美子に向ってこう訊いた。 「彼女のおかあさんは、そういうこと知ってるの?」  恵美子の口に皮肉っぽい笑みが浮かんだ。それは、そういうことを訊く浦川に向けられたものか、それとも、浦川が口にした彼女のおかあさんに向けられたものか、そこのところはよくわからない。 「もちろん、知ってますわ」 「というと、弥生は、母親にその手崎という男を紹介しているということになるんだね」 「ええ、もちろん。ママのおかあさんは、ものすごく手崎さんのことを気に入ってるわね。わたし、ママのおかあさんがこういうのを聞いたことがあるわ。『先生はチョロイから両方うまくやるんだね』つまり、先生の方にバレないようにして手崎さんともうまくやれってことなの」 「へえー、あの人がそんなこというのか」  浦川は、ある情ないような気持から、半ば悲鳴に似た声をあげていた。  じっさい浦川には、志津がそんなことをいう女とは信じられなかったのだ。そのことは、弥生と手崎との関係と同様に、彼には信じられないことである。 「だってあの人は、いつも、いかに生くべきかなどということを考えているようなことをいってたじゃないか。それに真面目な話が好きだし」  恵美子は、憐むような眼を浦川に注いできた。 「先生、自分でお確かめになったら。わたしのいうことが信じられないなら、興信所なんかに頼んでみてもいいじゃないの」  浦川は恵美子から眼をそらした。  彼は、やはり恵美子のいうことを信じる理由を見つけることができなかった。理由があるとしたら、恵美子がいっているということしかなかった。 「親と子、似てると思うわ」  恵美子は最後にそういった。  浦川には、相槌を打つ気力もなかった。  彼は、弥生ともあろう女がとか、志津ともあろう人がとは思わず、自分ともあろうものが、と思っていたといえる。  だが、果して浦川の中に、自分ともあろうものが、というほどの自信の根拠がどこにあったであろうか。  彼は、ただ自分が作家であるという、それだけのことで、そう思っていたにすぎなかった。彼の作品がある程度売れているということの理由には、彼の単純さが大いに作用しているのかもしれなかった。もっと彼が屈折した意識や感受性の持ち主であれば、彼の作品は一般性を失って、よく売れる商品になり得ないのかもしれなかった。  彼が恵美子と別れて、ホテルの自分の部屋に帰ると、殆ど同時に弥生から電話があった。  彼は恵美子から、自分がこんなことをいいにきたということを弥生にいわないでほしいと頼まれていた。  浦川も、恵美子に迷惑をかけたくなかったので、そのことは大丈夫と、保証していた。  弥生の声は明るさを装っている。また自分に無心をするつもりだろうと、浦川は思った。果して弥生は、 「今月少し足りないんだけど、助けてくれるわね」  といった。すかさず浦川は、心がせいているために、どもりながらこういった。 「なにもぼくの助けをかりなくたっていいだろう、きみの男から出してもらえよ。なんできみの男は助けることができないんだ、そして、なんできみは、その男に助けを求めることができないんだ、変じゃないか」 「なんのこと? 男って」 「とぼけるのはもうよせよ。ずっとぼくは騙《だま》されたふりをしてたんだ。きみに特定の男がいることはちゃんとわかっている。いつきみが正直にいうかと思って待ってたんだけど、きみはぼくを嘗めていて、いつまででもあまい男だと思っている」 「そんなこと思ってないわ。わたしにはそんな男なんていないもの」 「手崎という男だよ」  弥生は少しの間黙った。 「日曜日の夜に電話かけてきた男と、ずっときみができているということはわかっているんだ。いったいどこまでぼくを騙そうというんだ、そういつまでも嘗められちゃいないよ」 「わたし、先生になんにも隠してないわ。隠したってわかることですもの。それは、わたしね、浮気しなかったとはいわないわ。でも、彼氏とか特定の男とか、そんなのがいるわけないじゃないの。そんな人がいたら、どうして先生にこんなことをいえるの?」 「嘗めてるからいえるのさ。たかをくくってるから」 「そう。わたしそんなふうに思われてたのね。先生、今晩わたしと話をする時間ある?」 「話だったらいいよ、いつでも」 「じゃあ、夜の十二時に青山のアパートでお話ししましょうか。わたしなんでもいうわ。でも、わたしにはそんな男はいないわよ」 「まあいい、とにかく十二時にアパートに行くよ」  浦川は、恵美子の言葉は、もしかしたら恵美子の独断なのかもしれないと思い始めていた。そうまで人間が人間に嘘をつけるものだろうか。しかも、ほぼ三年も一緒に過ごした男女の間である。  恵美子のいうことがほんとうであって、弥生があくまでもしらを切り通しているとしたら、人間とは、彼が思っている以上に容易でないものになる。  そして、そんな考え方をする浦川の中には、弥生を信じたい気持も動いていた。そうでないと、彼自身が惨めになるからである。  浦川は、もしも恵美子の言葉が確かであるとしたら、自分の道子に対する罪は、重いものになると思った。道子と別れてまで一緒になったその女が、そのような女であったということは、なによりも先ず道子に対して済まないことのように思われたからである。  彼は、十二時前から青山のアパートに行っていた。  弥生は少し遅れてやってきたが、彼女も十二時前に現われた。  手伝いのミキ子は自分の部屋に入っている。 「いったいだれからそんなことを聞いたの?」 「だれからじゃないよ。ぼくにはいろいろの人がいろいろのことをいってくれてるし、そして、ぼくは作家だからね、わからない方がどうかしてるよ。とにかく、これからは手崎くんに助けてもらうんだね」  浦川は、自分が作家だという時、なにか悲しい気持がした。その作家という肩書に頼らねばものがいえない自分が情なかったし、そんな自分を貧しく思った。 「先生ね、わたしにはほんとにそんな男なんていないわよ。もしもいたら、わたしは先生にいうわよ。そして、紹介するわよ。わたし、それはちょっとズッコケたことはあるわ」 「ズッコケたっていうのは浮気のことだな」 「そうもいえるわね。でも、それは先生も同じと思うの」 「同じじゃないよ。ぼくは外泊したりはしなかった。しかし、きみはしょっちゅう外泊した。外泊したっていうことは、ぼくにどう思われても平気だっていうことになる。平気なほどに男に打ちこんでいるか、ぼくを嘗めてたかどっちかだ。それに、きみには同じだなんていうことはいわせない。なぜなら、きみはぼくの援助を必要としているからだよ。きみは�藤村�のママだっていうことで、いい気になっているんじゃないのか。�藤村�を出せたのは、ぼくがいたからこそじゃないか。ぼくは銀行からの借金を保証しているし、毎月の銀行返済の手助けもやっている。そんなきみと、ぼくとが対等か。それに、男は純然と浮気ができるものだよ。一度だけあの女と寝たいなどと思うことができるが、しかし、女はそんなことは、そうできるものじゃない。まして、きみはそうだよ。そういうことができるとしたら、昔芸者をやっていたからこそできるんであって、昔芸者をやっていたからこそ、きみの場合は、特にズッコケを戒めなければいけないんじゃないか。ぼくは、男女の間のことは仕方がないという意見なんだよ。できた以上はどうしようもない。だから、責めるとか、そんなことはしたくない。これできみとのことをおしまいにするかどうかについても、まだきめちゃいない」 「わたしは先生とね、別れたいなどと思わないわ。たとえ先生から援助してもらわなくても、ずっとわたしは先生とつき合っていきたいわ。先生が別れるっていったら、それはしようがないと思うわ。でも、その時でも、わたしは、自分の気持としては別れるなんて思ってないわね。わたしにはほんと、そんな人はいないのよ。わたしだっておとなよ。先生の顔を潰《つぶ》すようなことはしないわよ」  浦川は、弥生の言葉によって、かなり心を動かされていた。こんな弥生に特定の男がいるであろうか。  彼は、だんだんと恵美子の言葉が独断ではあるまいかと考え始めていた。 「ぼくは、きみと結婚したいと思っていたけれども、とうとうそういうこともだめになったね」 「わたしも結婚したいと思ったことがあるわ。でも、わたしは結婚しなくてもいいわ。わたしがなぜ結婚しなくてもいいと思っているか知ってる? 前にいった子供がいるでしょう、正彦という子供が。その正彦は、大きくなったらわたしを捜すと思うの。その時、わたしの籍が汚れてないことを知ったら、正彦はどんなに喜ぶかと思って。だから、わたしは結婚しないの。もうこれから結婚しないつもりなの。先生が、わたしに結婚したいと申しこんでも、わたしは断わるつもりだったわ。結婚したいなどと、ちょっとでも思ったわたしがいけなかったの。もうわたしはしないわ。わたしはそんな処は頑固な女なのよ」 「三鷹のおかあさんは、きみの浮気のことを知ってるのか?」  弥生は首を横に振った。そして、宙を見つめながらこういった。 「もしも知ったらぶちのめされちゃうわね。やがていわなくちゃいけないわ。わたし、先生にお願いがあるの。この前もいったように、あと二、三カ月だけは面倒見てちょうだいね。それから先はなんとかやるわ。あの時わたし、二、三カ月だけ先生に見てもらって、あとはなんとかやるといったのは、わたしが、一度や二度だけにしろ、ズッコケたことを先生に悪いと思ってたからなの」  弥生の眼には涙が浮かんでいる。  恵美子から聞いた志津の言葉「先生はチョロイから両方うまくやるんだね」という言葉を、弥生に向って浦川は確かめる気持がなくなっていた。  弥生の言葉の方に、彼が志津に対して抱いているイメージと合うものがある。  いまの彼の気持は、恵美子の言葉よりも弥生の言葉の方から真実を感じ取っていた。  なぜなら、恵美子の言葉は、あまりにも意外であり過ぎたからである。  もし、弥生がいっていることが事実であれば、浦川は弥生を許したい気持だった。そして、すぐに、許すなどといった傲慢《ごうまん》な自分の気持を恥じさえしていた。  といって、彼は、恵美子という女も嘘をつく女に思えなかったので、やはりぼんやりと狐につままれた気持だけは彼の中に尾を引いていた。 「わたしまたお店に出なくちゃ。まだお客さんがいるし、それに、次のバーテンもくることになっているから」  浦川は、なりゆきによっては弥生と最後の情事があるかもしれないという期待が自分の中にあったことを、その弥生の言葉によって教えられた。  彼は弥生と一緒にアパートを出、車を拾い、弥生を�藤村�で降ろしてからホテルに帰って行った。  浦川は、翌日、前から多少面識のある、興信所をやっている長田と会った。  二人はホテルのロビーで話した。  浦川は、自分の連れ合いの素行を興信所に調査してもらおうというようなことは、これまで考えたこともなかった。そういうことは彼が嫌いなことの一つであった。  たとえば、彼は、道子との離婚の件を裁判所に持ちこむというようなことも嫌いだったが、それと同じように、興信所に、ある人間の行ないを調査してもらうといったことも嫌いであった。  だが、この際、浦川ははっきりさせる必要があると思ったのだ。  恵美子の言葉と弥生の言葉と、どちらに嘘が少ないか、それを知る必要があった。  彼は、弥生と会っている時には、恵美子よりも弥生の方が正直な女だというふうに思うのだったが、弥生からも恵美子からも離れて一人でいると、恵美子の言葉の方に嘘はないというふうに思われてくるのだった。  長田は、元アマチュアレスリングをやっていた男である。しかし、そういうことを知らなければ、人にはわからないような穏やかさがある。長田は浦川よりは八つ年下である。  長田は頼まれる立場でありながら、立つ瀬がないような顔をしていた。  彼は、浦川に小さい盗聴器を見せてくれた。 「これはかなりいい証拠になりますよ」  その盗聴器はマッチ箱ほどの大きさで、ドイツ製だということだった。百メートルぐらいの距離だったらよく聞こえるという。  彼は、その盗聴器を備えつけてFMの受信機で聞くというやり方をよく採用しているらしい。盗聴器を据えつけるにはいろいろの方法がある。盗聴器の中の電池は二百時間持つ。どこに盗聴器を据えつけるかということも、二人は話し合った。  しかし、浦川は、そのことよりも、弥生が手崎と特殊な関係にあるかどうかということを知ればよいのだった。  単に彼女は〈ズッコケた〉だけなのかどうか。それとも、手崎との間は愛人関係なのか、愛人関係であれば、彼は、むしろ気持が楽になるはずであった。  長田は、ある金額で請負う方を浦川にすすめた。どちらにしろはっきりするまでやってくれるからである。彼はその方がよいと思ったので、長田に、二十万円を渡した。  長田は、さっそく�藤村�の前に、今夜から張ってみるといった。  最初の夜の張りこみの結果は、その翌日、長田からホテルにいる浦川に電話で報告された。弥生はまっすぐ青山のアパートに帰ったらしい。  その翌日は、長田の都合で張りこみを行なえないということだった。  浦川の方もできるだけ弥生について知ったことは、長田の方に連絡して、彼が動きやすいように助けていた。  長田が張りこみを行なわないというその夜、浦川は、弥生と青山のアパートで寝ることにした。  浦川の中には、弥生の体に対する執着が残っていた。その執着をここで断ち切りたいという気持もあったし、その執着を満足させたいという気持もあった。  彼は、二度ほど期待をはずされていたので、この夜は、予《あらかじ》め�藤村�にいる弥生に連絡した。彼はこういった。 「今夜どうだね、久しぶりに青山でやりたいんだけど」  弥生は剽軽《ひようきん》な声を出した。 「まあほんと? うれしいこといってくれるわね。じゃあわたし、なるべく早く帰るわ」  じっさい、弥生は早く帰ってきた。  しかし、弥生とのその情事に抱いていた彼のイメージは、最初から崩されてしまった。弥生はいやに明るかったのだ。  浦川の方は、ある悲劇的な感情に包まれていて、それと同じ感情が弥生の中にもあり、二つの悲しい心がぶつかり合うというふうに浦川は期待していた。そして、その感情が、彼の欲望の半分を支えていた。それなのに弥生は、 「ねえ、いろいろキスをして」  とただ肉体の悦びだけを頭に置いた声でいった。  彼は、ふとその時、弥生がまだ芸者をしていた頃、外であいびきをした時のことを思い出していた。そこは都内の連れこみ旅館である。  彼女と浦川の間には、その頃は恋愛感情はまだなかった。弥生にしてみれば、外で男と会うということがもの珍しかっただろうし、浦川にしても、芸者を外へ引っぱり出して抱くということが珍しかったのだ。  その部屋には鏡台があった。その鏡台に、抱き合っている二人が映るようにと、細工をしようということになった。  鏡を支えているその部分にハンカチを挾めばよいと弥生がいう。彼がやってもうまくいかないのだが、弥生がやると、鏡はうまく固定した。  鏡の方に下半身を向け、そんな自分たちを、弥生は、少し頭を擡《もた》げて見ていた。けれども、浦川はその時、それまで一度もそういうことはなかったのに、弥生に対して昂まってこない自分を覚えた。  この時昴まってこない中途半端な状態の理由が、浦川は、三年ぶりにいまやっとわかる気がした。  それは、女が情事をスポーツのように心得ている感覚を味気ないと感じるからである。  浦川は、女たちをスポーツのような感覚でもって抱くことができるのだが、その感覚を女が持つことについては認めなかった。  女は、やはり男に体を抱かれる時には、多少深刻な気持でなくてはならなかった。  特に、いまの場合、弥生は深刻であるべきだった。  それなのに彼女は、あの連れこみ旅館で鏡台に細工したような工合に、ひどく遊戯的な感情に支配されている様子であった。 「きょうはあまり元気ないのね」  終ったあと、弥生はそういった。  浦川は、これでよかったと思った。彼の中で、弥生に対する執着がここで完全に断ち切られた感じだった。  翌朝、弥生は眼を醒ますと、 「愛してる?」  と訊いて、彼に抱きついてきた。そのいい方にも、切実で深刻な感じはなかった。 「愛しててもどうしようもないじゃないか。きみとは別れることになるかもしれないんだよ。それなのに、きみは割と平気な顔をしてるねえ」 「だって、死ぬわけじゃないし、いつだって会えるんでしょう」  弥生の方は、浦川の言葉を意外と受けとっているような感じであった。  弥生は大きいあくびをした。そのあくびにはふてくされた感じは少しもなく、切実さがないだけのことだった。  浦川の中で更に一層ふっ切れるものがあった。じっさい浦川は、それから弥生を抱きたいと思ったことはない。  長田から、 「やっぱりいますね、男が」  という電話があった時、浦川は〈やっぱりか〉と思った。  その気持は、弥生との最後の情事の時に見せた弥生の感じに繋がっている。  長田がホテルにやってきて浦川に報告した処によると、弥生は、男と�藤村�の近くの喫茶店で落ち合い、それからゴーゴークラブに行っている。  長田は、ゴーゴークラブの町名番地まで正確に調べていた。それから乗ったタクシー会社名まで調べてある。  ゴーゴークラブの前で待っていると、ゴーゴークラブの入口のあたりにいる男がやってきて「警察の者か」と訊いたので、長田は彼らを安心させ、弥生と男が出てくるのを待った。  男はオレンジ色のコートを着ているという。そして、いかにも女たらしのようなやくざっぽい感じの男だったという。  二人は、出てくると車を拾い乗った。そのあとを長田は尾《つ》けた。  二人を乗せたタクシーは三鷹の方に行ったのだが、長田はリアウインド越しに、彼女の頭が男の肩に寄りかかっているのを見、それから、タクシーと並行して走りながら中を覗きこんだ時に、弥生が男の膝の上に頭を伏せていたのを見たという。  さらに長田は、三鷹の家の前まで行って、盗聴器を取りつけようと試みたが、庭にいる犬が吠え立てて果せなかったといった。その犬はペキニーズという種類で浦川が志津に買ってやったものにちがいなかった。  二人はとうとう出てこず、家の灯が消えたので、長田は帰ってきた。 「まちがいないですよ。できてますよ、二人は」  長田は、これからどうしましょう、といった眼で浦川を見た。  浦川の中で、弥生と志津が変貌を始めていた。その変貌にとって最後の弥生との情事は、フェリーボートのような役割を果してくれている。  それでもなお浦川は、そういう事実を認めながら、自分の中に住む弥生や志津と、そういう事実とがどこかで繋がらないのを覚えていた。  浦川が、裏切者の弥生に対して怒りを燃やせなかった理由の最大のものは〈繋がらない〉そのことにあったにちがいない。だから、彼は、まるで憐み深い聖人のように、弥生が変な男に引っかかって、元も子もなくなるようなことにならねばよいがという気持だった。  恵美子から聞いた処では、手崎は相場師らしかった。若い男で相場などをやっているのにはろくなやつはいないというようなことを、浦川はどこかで聞いたことがある。  なにかの時に備えて、男は、弥生が持っている�藤村�という店を当てにしているのかもしれない。 「手崎という男を洗ってもらいたい気もするなあ。どんな男か知りたいんですよ」 「わかりました。さっそく住民票を取ってみましょう」  長田はそれから、手崎のいるアパートに盗聴器を取りつけることなども考えていると話した。  浦川は、弥生と別れようと思った。しかし、すぐには弥生にそのことを伝えずに、彼はぼんやりと食事をし、ぼんやりと銀座の酒場に行き、女の子たちを連れてゴーゴークラブに行き、遅くホテルに帰るという生活を続けていた。  翌朝、彼は電話のベルで眼を醒まされた。  弥生からだった。 「道子さんへの今月の分、もうそろそろ送らなくちゃいけないわね」  彼女はそういった。  道子に送る銀行振込みの手続きは、いつも弥生がやっている。 「それはともかくとして、きみと別れることにしたからね」  弥生はすぐには答えなかった。 「そう、やっぱり別れるのね」 「そのアパートも引っ越すよ。おまえとの生活の匂いがいろいろな処に染みついている処で、生活できないからね」 「越しちゃうのね。でもね、わたしは先生のこと好きよ」 「好きかどうか知らんけれど、きみは、あまりにぼくをバカにし過ぎてるよ。いったい、ほんとに人を騙せるなんて思っているのかね。ちゃんとわかっているんだ、特定の男がいるっていうことが」 「わたし、いないわよ、そんな人」  浦川には、そういい張る弥生の気持がさっぱりわからなかった。  彼は、長田に調べさせたということをいってやろう、そうすれば、彼女はしらを切り通すことができないにちがいないと思った。 「とにかく、はっきり話し合おうじゃないか」 「そうね、わたし、母にも先生に会ってもらうわ」 「おかあさんにはいったのか」 「いったわ 弥生は、どやされたともなんともいわなかった。  浦川は、いつも正義の味方のようなことを口にしていた彼女の母親の顔をもう一度この眼で見たいものだと思った。  浦川が弥生や志津と会ったのは、それから三日経った夜である。その日の午後ホテルにいる浦川に弥生から電話があった。  弥生は客を送りに出た処で長田とぱったり顔を合わしてしまったのだ。更に、店の近くに駐車している車の中の長田を弥生は見つけた。そして、怪しいと感じた。  長田は、そういうことは浦川には話していない。 「先生は卑怯よ、興信所なんかに頼んだりして。わたしのことはいいけど、手崎さんなんか一生にかかわることじゃないの。興信所が調べているなんて知られたら、あの人の信用にかかわるでしょうよ。しかも普通の会社じゃなくて、証券会社の人なのよ。証券会社の人っていうのは信用第一じゃないの。そんな変なことはしないでちょうだい、お願いだから」  電話の弥生は涙声になっていた。 「きみのためにやっているんじゃないか。きみがこれからスッテンテンにならないようにと思って。ついでにいっておこう。きみと手崎の関係はすっかりわかっているんだ」 「どんなことがわかったというのよ? あの人とはほんの友達なのよ。そうだわ、兄弟みたいな関係だわ」 「兄弟の気持になっている女が、タクシーの中で、その兄弟の膝の上に頭を乗せたりするものかね?」 「兄弟だからそんなことするでしょうよ」 「へ理屈もいいかげんにしなさいよ。三鷹の家に彼が泊っていることだってわかっているんだ」 「なぜ泊っちゃいけないの?」  浦川は、そういう言葉を迷わずに口にできる弥生に唖然《あぜん》となる気持だった。  と同時に、弥生に鉄のような手ごわさを感じた。どんな言葉も弥生には通じそうもない。 「今晩先生に会ってもらうわ、母にもきてもらって。あんまりよ、先生は。いろいろわたしは尽したつもりよ。その報いがこれなのね」  弥生の涙声はますます強まっている。  彼女は、どうやら本心自分が正当だと思っているらしかった。  浦川は、その日、アメリカからやってきたモダンジャズのピアニストの演奏会に行くことになっていたが、それをとりやめることにした。そして、夜七時に青山のアパートに行くことになった。  彼が行ってみると、弥生はもうきていた。彼女は髪をまだ整えていない、総髪のような髪をしていた。そんな弥生は男まさりの女に見えた。彼女は額に蒼い血管を浮かせ、眼が険しくなっていた。  弥生が急に彼に対して下手に出なくなったのは、彼が長田に調査を頼んだということが原因らしい。 「きみは怒る権利なんかありゃしないんだよ。よくもそう堂々と怒れるもんだなあ、嘘ばっかりついていて」  浦川は先手を打つつもりでそういった。 「先生っていう人はね、汚ないわよ。いざ別れるとなると、急に汚なくなるのね」  浦川には、弥生がいっている汚ないという言葉の意味がわからない。  ただ、彼は、汚ないという言葉を使われると、思い当る処はないかとハッとなるのである。  それは、浦川の身についている弱者の自信のなさからきている。彼には、人を責める前に、自分自身を責めた方が気が楽だという処がある。それは物事をはっきりさせることを厭《いと》う気持に通じている。物事をはっきりさせるとなると、どうしても対決しなければならない。  彼は対決がこわいのである。それよりも、あいまいな平和を好むような処がある。  そんな処に志津がやってきた。  志津がやってくると、弥生はいっそう居丈高になった。 「わたしと一緒になりたての頃の先生には、まだいい処があったわよ。だけど、いまは、少し売れているからと思っていい気になっているわ。あの頃は貯金もなかったのよ。それなのにわたしは一緒になったのよ。それは、わたしだって悪い処があるかもしれないけれど、先生のためにならなかったとはいえないと思うの」  それは弥生のいうとおりであった。  弥生と一緒になったことで、彼は作家として芽を吹いたのかもしれない。直接弥生は力にはならなかったかもしれないけれども、弥生との生活は、彼には作家としてはよい環境であったのかもしれない。  埼玉県の家の微温《ぬるま》湯のような生活からすれば、弥生との生活は日々、新しい傷が癒ってはできたりするという連続であったので、彼に作家として必要な緊張を与えてくれていたのかもしれない。  とにかく、彼が作家として売れ始めたのは弥生と一緒になってからであることはまちがいなかった。  だが、弥生の口からそういうことをいわれるのは、彼はいやであった。そして、そういうことをいやだと思ったようなことも、弥生との生活の一部であり、彼にものを書かせる上に助けとなっていたのかもしれない。  弥生がわかっていないのはその部分である。つまり、弥生の正当でない部分が彼を助けていたということを、弥生はわかっていないのだ。  弥生は、自分が正当であったから、彼を助けていると思っている。  志津も、その弥生の言葉に同調した。  ミキ子は居場所がない感じに台所と居間を往復していた。  この時になって、浦川の中に、まるでスロースターターのボクサーのような感じに、熱いものが漲《みなぎ》ってきた。  彼は志津にこういった。 「あなたにはがっかりさせられましたよ。あなたのことをぼくは、話してもののわかる人だと思っていた。いつも正しい生き方を心がけているようなことをいってたので、そんな人かと思っていたけど、あなたは手崎さんのことを知ってたんじゃありませんか。そして、ぼくが電話をするたびにとぼけていた。弥生とあなたはぼくに対して、悪いいい方をすると、グルになっていた。あなたは、弥生のやり方について、少しでも弥生を責めたことがありますか」  すると志津はこういった。彼女は、いつものような向う意気の強さを見せてはいない。 「わたしはあまり知りませんよ。わたしは、悪いことは悪いと認める主義ですからね。わたしは手崎さんていう人は悪い人とは思えませんね、わたしは先生からもなんにも話を聞いてないし。もっと早くに先生から話してもらっていたら、こんなふうにはならなかったと思いますよ。どっちがどっちといえないんじゃないですか」 「ぼくという男がいるのに、その手崎という人を三鷹の家に泊めるなんてことは、どういうことですかね」 「わたしは、子供の友達なら泊めますよ」  志津はへ理屈をこね始めている。  浦川は、こんな話をしていることが惨めったらしく思われ、 「とにかく、ある時から弥生は変ったんですよ。ある時から、ぼくはきれいな糊《のり》のきいた浴衣なんかも着れなくなってしまった」  この自分の言葉によって浦川は刺激され、突然強い感傷に襲われて嗚咽した。と、弥生が声を出した。初め彼には、その声が笑っているのかと思えた。浦川は日頃自分の中にみっともないほどの感傷癖があることを知っていたので、弥生が笑ったとしても不思議ではない気持であった。けれども、弥生の笑い声と思えたものは嗚咽だった。  志津も眼を拭き始めた。志津は眼を押えながら、こんなことをいった。 「麻布の時は楽しかったねえ。どうしてこんなふうになっちゃったんだろう」  その言葉に浦川も同感だった。どうしてこんなふうになったのか。  この時浦川は、弥生や志津の涙だけを見て、彼に隠れて三鷹の家で演出されていたカラクリについては、すっかり忘れていた。  弥生は、泣きながら電話をかけ、店の用事なのか出て行った。志津と彼だけが残っていた。 「失敗したかもしれません。先生のいうとおりかもしれない、重則をもらったのは失敗だったわ。ありゃあ失敗だった」  彼女の声には、ひどく後悔しているような感じがあった。  浦川は、もう弥生とは縒《より》を戻す気持はまったくないと、二人に伝えてあった。  弥生が出て行ったのは、店の用事の他にこの場のせつなさに耐えきれないからだと浦川は受け取った。  浦川は、いつまでも志津と一緒にいても仕方がないので、 「ぼくは出かけますよ」  といった。  すると、志津も立ち上がった。  浦川は、志津をタクシーの拾える処まで送って、タクシーに乗せてやった。そして、そんな志津に、車代として千円を渡した。  志津は、 「先生、ほんとにお世話になります」  と頭を下げた。  いったいこの言葉がどういう意味か、浦川にはよくわからなかった。  志津の態度には、これから先の生活、特に経済生活についての不安があり、手崎と弥生との間がうまくいかなかった時には浦川を当てにしているような感じがなくもなかった。  そして、その時点では、少々なら当てにされてもよいという気持が、彼の方にもなくもなかった。     三  あらゆる女が自分に背中を向けているような、そういった味気ない日々が終りを告げようとしていた。  彼は自由に懲りたのだ。なにをしてもよい自由な生活の味気なさを、浦川は思い知らされたわけである。  彼は、ある女を愛したかったし、また、ある女から愛されたいと思った。  そういった女を浦川は見つけたのである。  銀座の酒場で働いている暢子《のぶこ》がそれだった。  浦川はたくさん酒場の女を知っていた。  彼は、素人の娘よりも酒場の女たちの方が好きだった。そして、素人の女から惚《ほ》れられるよりは酒場の女から好かれた方が嬉しかった。  なぜなら、酒場の女から惚れられることには、選ばれているという感じがあるからである。もちろん、ほんとうに惚れられているかどうかは見きわめがつきにくい。  特に浦川のような男には盲点があり、その盲点を女から突かれる怖れもあった。  それに、彼は一方では弥生に懲り女たちに懲りているような面もあった。  彼は、これまでは女の体の性能の面だけで、女を選りわけているような処があった。  弥生と一緒になった場合でも、彼は、別に弥生の性質や心に感じ入ったわけではない。むしろ、彼女が芸者であるという、その身分に感じ入ったといった方がよかった。  それと、もう一つは、弥生の体の持っている機能が浦川に訴えかけてきたのだ。  浦川は、初めて心立てといったものを問題にし始めていた。そして、やはり体の機能は機能で重要視していた。  さびしい生活を送っているだけに、ちょっとした温かさが身にしみる。  浦川の心臓は、ときどき期外収縮を起こす。心電図を撮ったりして医者に診せたことがあるが、医者は、たいしたことはないといった。  その時も、ちょうど浦川の心臓は期外収縮を起こしている。鼓動は続き、一つだけピョコンと飛び出るような感じの鼓動がまじっている。意識すると気になり、心臓がとまるのではないかと思われたりすることがある。 「あっ、心臓が踊り始めたぞ。もしかすると、今晩あたりご臨終ということになりかねないなあ」  浦川は冗談でそんなことをいったものだ。  するとその時、傍についていた暢子が、わけのわからない呪文《じゆもん》のようなものをつぶやいた。 「それはなんだね」  浦川は唖然として訊いた。 「おまじないなんです。そんなこというもんじゃありませんわ、縁起でもない。魔よけなの。魔よけをいまして差し上げたんです」  彼はそんな魔よけの言葉を初めて聞いた。そして、暢子にもう一度いってくれるよう頼んだ。  すると、暢子はまた生真面目な顔になって、もう一度同じ言葉を、節をつけて繰り返した。それはこういう文句である。「バククエ、バククエ、プップップ」暢子はそれを三度唱え、最後だけ「プップップウー」と強く吹いた。  そんな暢子には照れるふうもなく、妙に一心な感じであった。  浦川の眼に、暢子という女が一人だけ色がちがって見え始めたのは、その時といってよかった。  獏《ばく》という獣がいる。夢を食べるといわれている。悪い夢を獏に食べてもらって不吉から免れようという呪《まじな》いだと暢子はあとで浦川に説明した。  彼は暢子を食事に誘った。そして、その食事をする部屋で、彼はキスをしようとした。  暢子は恥かしがったが、結局、彼に唇を委《ゆだ》ねた。  彼女の口からタバコの匂いがした。その匂いが浦川には気になった。 「きみはタバコをやめた方が、もっと素敵な女になると思うな」  彼はなにげなくそういうことをいったのだが、暢子は翌日からタバコを口にしなくなった。  彼は、初め、自分の前だけ暢子がやめているのかもしれないと勘ぐった。弥生とのことがあって、浦川はかなり疑い深くなっていた。  しかし、彼女がタバコをやめているのを、店のママや同僚までもが知っていることがわかった。 「わたし、先生にいわれた日からやめることにしたの」  浦川は、なぜかたいそう感激した。自分の言葉にこれほど影響される女がいるということに感激したのだった。  暢子への関心に、さらに火がついたような感じになった。  そして、彼は、暢子を口説きその体を抱いた。そして、彼は、暢子の体についても大きい感動を味わわされた。つまり、暢子は、体と心の両面において、浦川を満足させる女といってよかった。  暢子は、その初めての情事のあと、こういった。 「わたし、ほんとはハラハラしてたのよ。先生のこと好きなんだけど、だけど肌は別でしょう。わたし、これまで男に抱かれたことが何度かあるけれども、たいてい体がぞくぞくっとしてだめなの。わたしはどっちかというと好色な質《たち》だと思うんだけど、どういうわけか、潔癖なのね。先生の手が最初にわたしの肌に触れた瞬間、わたしすごく安心したわ。ぞくぞくっとする代わりに電気が走ったの。そして、もしかしたら鈍いんじゃないかなあと思った不安も消し飛んじゃったわ」  じっさい、暢子の感受性は、弥生やそのほかの、浦川が知った性能のよい女たちに較べて、少しも遜色《そんしよく》のないものだった。  暢子の禁煙は、以後ずっと守られることになった。  浦川は、暢子がいつでも出入りできるホテルを捜すことにした。赤坂のホテルだと、暢子が入ってきたりすると、ボーイが文句をつけにきたりするからである。  ある出版社の社長が経営している連れこみホテルが新宿にあった。そこだと部屋代も安く、暢子は自由に出入りできた。  暢子は赤坂にアパートを借りていたので、ときどき浦川は暢子のアパートにも泊った。  そんな時、彼は久しぶりに家庭の朝食にありつくことができた。味噌汁や漬け物や、ひじきや納豆といったものが、浦川には新鮮なものに思われた。  彼女は、夜浦川の処に泊って、そして、昼ごろ自分のアパートに帰るという生活を続けていた。  浦川は、暢子が働いているクラブに、毎日のように行った。  そんな時、長田から電話があった。 「先生、弥生さんの男は手崎だけじゃありませんよ」 「ほかにも浮気をしてたっていうわけだね」  浦川は、そんなことにはもう驚かなかった。彼にはどうでもよかったのだ。  だが、浦川は、自分が別れた女が不幸になることは好まなかった。�藤村�が弥生のものになればよいと思って、彼女の借金を保証することだけは続けるつもりでいた。  その保証のことで、彼と弥生とはまだ繋がっている。それに、二、三カ月は、まだ足りない分の面倒を見てやるという約束をしている。 「それはただの浮気といった感じではないんですよ。この処、ちょっと彼女を尾けてたんです」  長田の話によると、弥生が夕方、芝のホテルのロビーで、ある中年の男と会っていたという。  長田は顔を見られているので、自分は離れていて、女の社員を近くに行かせた。  彼女は、弥生とその中年の男との話を全部耳にしたわけではないが、ところどころが耳に入っている。弥生は、その中年の男に向って、しばしば正彦という人物について話し合っていたという。 「正彦っていうのは、弥生と前の男との間にできた子供だよ」 「じゃあその男は前の男なんですね」 「ぼくからの援助は断わるつもりに彼女はなっている。これから先はその男から援助を仰ごうっていうのかもしれないね。手崎はサラリーマンだから、とても援助なんかできやしない」 「彼女はこのごろ手崎と一緒にアパートに泊っているようです。それは手崎のアパートじゃないんです。二人で新しく借りたアパートなんですけどね、かなりいい部屋ですよ。そこに彼女の母親もときどききてるようです」  その情報は、浦川にとっては明るい材料といってよかった。その男が新しく弥生のパトロンとなれば、彼も気が楽だからである。ついでに銀行への保証も代わってくれると、なおありがたい。  そんな時浦川は、店を休んだ暢子と一緒に、田村町にある行きつけの中華料理屋に行った。ここの燕巣《えんそう》や鱶鰭《ふかひれ》を浦川は気に入っていた。  二階のテーブルに二人でついて、暢子が化粧室に行っている間、店の女が近づいて、こういった。 「坊ちゃん大きくなりましたね。一度奥さんがおかあさまと一緒に坊ちゃんをお連れしたことがありますけども、かわいいお子さんですね」  弥生が重則を連れてきた時のことを、この女はいっているのだった。弥生は、志津や、もう一人秋田から出てきた親戚の者を連れて、この店にきたことがあるはずだ。  浦川は、弥生とはもう一緒にいないということを、この女にいったものかどうかと思いながら、あいまいに笑っていた。しかし、彼の心は不愉快だった。  彼は、これに似た不愉快を二、三度経験している。それは、道子と別れて弥生と一緒にいる時にも経験したことがある。テレビに出てくれというのだ。それは夫婦で出る番組だった。しかし、彼は、道子とは一緒にいず弥生と一緒にいる。籍に入っているのは道子である。  そういう出演を頼む者の口調には、一旦結ばれた夫婦が途中で別れることなど考えてもいないような感じがあるのだ。男女の間の不安定さを考えてみようともせず、結婚という形式を絶対的な力のように信じている。そういう観念が、彼にはやりきれなかった。  週刊誌の記者からも、そんな不愉快を感じたことがある。  そして、いま、この中華料理屋でも同じような不愉快を、彼は味わっていた。  だいたい、浦川は、弥生のことでそれほど怒りを感じないのは、彼が男女の間をきわめて不安定なものと見ているからである。男女の間は、どんな形式でもっても縛ることができないというのが彼の意見である。そして、自分の女とか自分の男といった気持の持ち方を、浦川は、なにか恥かしいもののように思っていた。にもかかわらず、現実には独占欲があり嫉妬があり、自分のそういった意見と相反するさまざまな心の動きが彼の中に生じて、そのために浦川は、ホテル生活を始めてから、約二キロほど瘠せてしまった。しかし、浦川がその意見のために情念の浪費をある程度にとどめていることも確かであった。  暢子との出会いによって、彼はまた徐々に瘠せた分を取り返しつつあった。  浦川は、店の女がまた近づいてきた時、暢子の前でこういった。 「ぼくはいま、前のとは別れて、この人と一緒なんですよ」  女は、まるで自分の恥部を指摘されでもしたように、赤面し、狼狽した顔になった。そして、暢子の方に会釈し、あわてて引き下がり、その夜二度と姿を見せなかった。  彼はいい気味だと思った。  浦川は、コキュというフランス語を思い浮かべるようになっていた。女を寝取られた男という意味らしい。  彼は、男女間のことについては詳しい作家だといわれていた。そして、そのジャーナリズムが貼ったレッテルに便乗していかにして女を口説くか、いかにして女を誘惑するか、といった本を数冊書いている。いかにも女に関してはベテランだといった印象を、彼は、ある人々に与えていた。  そして、酒場では、いっぱしプレイボーイぶって飲み歩き、その酒場の女の子たちとちょいちょい寝たりする生活を送っていた。  女を泣かせることがあっても、自分が泣くことはない男、そんなふうに、彼は世間から受けとられていると、自分では思っていた。  処が、彼は若い男に女を寝取られた男になってしまった。  浦川は、そのことを多少恥かしいと考えた。彼の看板に傷がつくような気持である。  彼は、弥生のことを、自分の知人友人に、暢子を知るまで久しくいうことができなかった。それは、自分が寝取られた男だということが恥かしいという気持と、もう一つは、そういうことを口にすれば自分が泣くのではないかという不安があったからだった。  彼は、暢子を知る前、たいそう気持が弱くなっていた。ちょっとしたことで涙が出そうになるのだった。彼の神経は、どうやら疲れていたらしい。涙ぐみそうになるといった気持には、ある甘えがある。  そういうことは承知していながらも、やはり涙ぐんでしまいそうなので、彼は、友人や知人に弥生とのことをいえなかった。一方、暢子と彼とのことを知り始めた彼の友人や知人たちは、もういっても大丈夫と思ったらしく、浦川が口を切る前に弥生の不貞の気配に気づいていたことを浦川に話した。  弥生が若い男と映画館にいるのを見た者もいたし、どこそこを歩いていたこともある。どこそこのゴーゴークラブでチークダンスを踊っていたというようなことも、彼は知らない。  いったい、そういうことを浦川の耳に入れたものかどうか、友人たちは友人たちで話し合ったりしていたのだった。  弥生の評判は彼らの間できわめてわるかった。〈今だからいう〉ということに伴う無責任さを割引しても、弥生はたいていの人にいい印象を与えていず、暢子はそんな弥生のせいもあって、対照的にいい印象を浦川の周囲の人々に与えていた。  浦川は、自分から弥生を取った男手崎とはどんな男なのか、関心を持っていた。  おそらく、その男は、彼よりも女の扱いがうまいにちがいなかった。浦川は、弥生をうまく扱ったという憶えが一度もない。  弥生は気性の強い女だ。むしろ彼は、弥生の機嫌を損なうまいとしていたのであって、その意味では、弥生から扱われていたといった方がよい。  彼は、そんなある昼、定期的に診察を受けに行っている都心の病院から、赤坂にある暢子のアパートヘ歩いて戻る途中、背の高い色の黒い男と会った。  その男はタバコを口にし、横柄な太い態度で歩いていた。彼はちらと浦川を見、二人はすれちがって行った。  浦川は振り向いて見た。男は、やはり太い歩き方のうしろ姿を見せていた。  もしかしたらあの男かもしれないと、浦川は直感的に思った。しかし、その直感が当るなどとは夢にも考えていない。彼には自分の直感を弄《もてあそ》びながら〈あいつだ〉などと一人芝居をやるような処があった。  その男は、どこかやくざふうな苦みばしった色男といってよかった。色は黒くて喧嘩が強そうである。  弥生のような女は、あんな男に会うとコロリと参るかもしれない、と彼は考えた。  弥生は、青山のアパートに浦川がいる可能性がまったくない夜、時折姿を見せる程度になっているらしかった。彼はアパートに毎日電話だけは入れているのでミキ子から弥生について聞くことができた。彼女の着物などがまだ青山のアパートに残っている。それに、ルルもアパートにいる。  彼は、弥生がもうくることがないからといって、そのアパートで仕事をする気には、なかなかなれなかった。なぜなら、そのアパートには、いろいろの弥生との思い出が残っているからである。それは、辛いというよりいやな色に塗られている。 「家《うち》に帰るのがこわい」というシャンソンがある。それは、その部屋にいろいろの愛人との思い出の品物やなにやらが残っていて、その思い出が自分を包み悩ますためである。  彼がアパートに帰りたくないという気持は、そのシャンソンの感情とはちがっている。そのシャンソンには執着があるが彼にはいやな夢を見たという感じが日々強くなっている。  そんな時、浦川はまた恵美子と会った。  恵美子が夜のアルバイトでほかの店に勤めているということを知って、出かけて行ったのだ。  その時、浦川は、自分が赤坂のあたりで会った色の黒い男のことをいってみた。  すると、恵美子がこういった。 「その人はちがうわ。そんなに背は高くないのよ。でも、だいたい顔はそんな感じじゃないかしら。そういった種類の男だと思ってればいいわ。どこかインチキくさいなあと思っていても、話してるうちに引きこまれてしまいそうな魔力のある人ね」  その時、浦川は暢子と一緒だった。  暢子は店を休むことが多くなっている。  浦川は、青山のアパート、赤坂の暢子のアパート、新宿のホテルといった三つの生活をむだなものに思い始めていた。  浦川と暢子との間は日に日に親密の度合いを加えている。  彼は、さびしさを暢子によってまぎらわしているということではなかった。暢子も、それであればいやだという。  二人は、ずっとつき合っていて、うまくいきそうであれば一緒になろうという気持になっていた。そして、その一緒になる日がやってきたのを二人は感じた。  二人は、ホテルや赤坂と青山のアパートを引き払うために、一軒の家を捜し始めた。庭がついていて、アンクルを放し飼いできるような家をである。そこで、ミキ子にも引き続き手伝いとして働いてもらう。暢子は、すでに何度かミキ子に会っている。  暢子と浦川とは、早春の風のない天気のよい日、青山のアパートに行き、アンクルを連れ出して代々木公園などを散歩するようになった。  NHKと代々木公園に挾まれたあたりに、屋敷のあとのような処がある。そこにはだれも入ってこず、囲いもあり、アンクルを自由に走らせることができる。  アンクルを連れての散歩の時は必ずそこに行き、暢子は灌木の陰に姿を隠して、アンクルに自分を捜させたりした。  アンクルは初めから暢子になついて、その大きい体をぶつけてじゃれた。アンクルは、浦川に対しては絶対にかなわないと思いこんでいて、ふざけることも遠慮しているのだが、ちょうど小さい子供が、自分の父親に対しては乱暴にふざけることができなくても、やさしいときどきやってくる若いおばさんに対しては思いきりふざけることができるように、アンクルは暢子に対して思いきりふざけるのだった。  そのため、暢子の腕には、いつも甘咬みのための傷が絶えなかった。  浦川は、青山のアパートの管理人に、やがて引っ越すつもりだということをいいに行った。管理人の細君はこういった。 「子供さん大きくなられましたでしょう。奥さんはときどきしかいらっしゃらないけど、お店の方がお忙しいんでしょうね」  どうやら、管理人の細君は、浦川と弥生とのことについては知らないらしい。子供というのは重則のことだ。  浦川はこういった。 「子供はあまり連れてこなかったと思いますけど、やはり、わかるもんですねえ」 「それはわかりますよ。おなかが大きくなってらしたでしょう、奥さん。奥さんは恥かしがって、水がたまったなんておっしゃっておられましたけど、わたしなんか子供を何人も生んでますからね。男か女かということだってわかりますよ、だいたい。男のお子さんでしたわね、たしか」 「もらったのは男ですよ」 「あら、おもらいになったんですか」 「ええ。ぼくには子供が生まれないんです。以前パイプカットというのをしましてね。それから子供がほしいっていわれたので、また復元手術をしたんですけども、やっぱりだめだったんです。それでもらい子したんです。もうあれとは別れたんですよ」  管理人の細君は、変なことをいってしまったといった顔になっている。  浦川はミキ子に、�藤村�に電話をかけて、家を引っ越すから残した荷物を持って行くように弥生に伝えるよう頼んだ。  それから二、三日して、弥生は青山のアパートにやってきて、残っている着物を持ち、ルルを連れていったという。外には手崎が車を停めて待っている。  ミキ子は手崎のことも知っていた。彼がいない間、弥生が手崎と電話をしたりするのを聞いていたからである。 「知ってるんだろうなあ、きみはいろいろ」  そういうと、ミキ子は顔を赤らめて、 「ええ」  といった。  浦川は、弥生が持ってきたものはなんでも持っていっていいというふうにいってあったが、弥生は、鏡台や箪笥の大部分は残したままだった。  しかし、部屋の中は急にガランとした感じだった。それはどうやら部屋を飾っていたものを、すべて弥生が持っていったためらしかった。  弥生は大きいキューピー人形を三つ持っていて、それらのキューピー人形に名前をつけて、季節ごとに着せ替えをしていた。その人形や、ガラスの箱に入った和服の女の人形、テレビの上にあった犬の縫いぐるみ、そういったものが全部持ち去られた。  浦川は、長田には調査を終らせるようにいった。長田の調べでは、弥生が芝のホテルで会っていた男は、弥生が前に生んだ正彦という子供の父親らしかった。つまり、弥生の以前のパトロンであったわけだ。 「二人はときどき会っていたようですよ」  長田はそういい、更に、 「もしかしたら、少しぐらい月々もらっていたかもしれませんね」  と想像をつけ加えた。  浦川は、そんなことは夢にも思っていなかった。昔のその男とは完全に切れている、弥生はそういっていたし、彼もそう思っていた。子供と別れ、その男と別れたことで、「わたしは一度死んだ女なのよ」といっていた弥生である。  その弥生が、昔の男とまた会っている。  その日曜日の午後、もうすぐ引き払う青山のアパートで、浦川と暢子とはビールを飲んでいた。アンクルを連れて一時間ほど散歩したあとである。  浦川は風呂に入ったあとで裸の上半身にバスタオルを被っている。暢子は、青山のアパートの風呂に入ることには抵抗があるらしかった。彼女は、赤坂のアパートに帰って入るといった。ミキ子のコップにもビールが少し注がれている。 「�藤村�の人、三鷹の家から帰る時泣いてたんですってよ、重則っていう子供と別れるのが悲しくって」  不意に、暢子は浦川にそういった。  彼が風呂に入っている間に、ミキ子から聞いた話らしい。  弥生は、ミキ子をたまに三鷹に連れて行くことがあった。荷物を運んだりする時手伝ってもらうためである。  ある日、夜三鷹の家を二人で出る時、重則が「ママ、ママ」といって弥生のあとを追った。弥生は、そんな重則を志津に預けて出てきたのだが、タクシーを拾う道に出るまでの間、弥生はずっと泣いていたという。 「いまも話してたんだけど、もしかしたら、その重則っていう子、弥生さんが生んだんじゃなくって?」  ミキ子は、真剣な怯えたような眼で暢子を見つめている。 「もらった子に対して、それほどの愛情があるものかしら。それから、あなたから聞いてた一連の話からしても、ちょっとおかしいのよね。おなかから水を取ったっていうでしょう、それはいつなの?」  暢子には別人のような二つの面がある。  一つは、たいそう間抜けな面である。銀行に通帳を置き忘れたり、品物を買ってお金を払い、その品物をその店に置き忘れてきたり、鍵を自分の部屋に置いたまま外出し、帰ってきた時あわてたりというようなことが日常ざらにある。  しかし、その一面には、若いに似合わず女ばなれしている冷徹な直感力のようなものがある。  彼女の顔は、いま、ヘマばかりやっている時の顔とはちがった思慮深げな顔になっている。  浦川は、弥生が入院した日を憶えている。それは、彼の友人の日吉が心筋梗塞で死んだ、その葬儀の日に弥生が入院したからである。 「その時に弥生さんは、その重則ちゃんを生んだんじゃないの?」 「まさか、そんなことあるわけないよ。もしも妊娠してたのなら、毎月のものがないはずじゃないか」 「でも、先生は毎月のそのものを見たわけじゃないんでしょう。ただ、弥生さんが、今月あったなんていえば、それでわからないじゃないの。とにかくおなかが大きかったんでしょう」 「それは、大きかったよ。管理人の細君も妊娠したと思ったらしいね」  浦川は、管理人の細君が、男か女かということもわかるといったあの言葉を、暢子に聞かせた。 「わたしの直感では、まちがいないと思うわ。弥生さんが生んだのよ。としたら、先生もどうかしてるわねえ」  浦川には、そういうことは信じられなかった。 「もし生んだとしたら、すぐ退院して、やったりできるかね?」 「普通はできないけれど、それを我慢して、したんだと思うわ」  ミキ子は赤い顔になっている。 「そのあと、おなかになにか巻いていた?」 「ああ、巻いてたね。晒《さらし》を巻いてた」 「いよいよまちがいないわ」 「でも、お乳なんか張ってくるだろう。そうしたらわかるじゃないか」 「お乳なんかは、おそらくわたしね、お風呂場でしぼってたと思うのよ。先生に抱かれる時は、いつもしぼったあとの体を抱かしたんだと思うわ。子供を生んだあと、三鷹にずっとその赤ちゃんを置いてたのよ。先生は三鷹に行くことがないでしょう。だから、そこは安全な場所だったのね。そうすればね、先生、パイプカットの復元手術をしたっていうことも辻褄《つじつま》が合ってくるのよ」  浦川は聞き手一方になっていた。 「先生の方からパイプカットのその手術をしようといったの?」 「いや、ぼくじゃない。子供がほしいから、ぜひその手術を受けてくれっていわれたんだ」 「それはいつ?」  矢つぎばやの鋭い質問である。暢子が口にしている内容は名探偵のそれに似ているが、声と抑揚には子供っぽい息づきが混じっている。 「たしか十一月だったよ」 「とすると、その頃弥生さんは、自分が妊娠したことを知ったのよ。それで、先生に手術をさして、先生が子供を生ませることができる体になったら、その子供を先生との間にできた子供にすることができるわけでしょう。とすると、妊娠は九月ごろ、ちょうど日が合うわね、七月の出産だと」  九月、自分はなにをしていたかと、浦川は考えてみた。  その頃、弥生は完全に芸者をやめていた。  二人は北海道に行った。  浦川は、その頃よく少女小説を書いていて、その少女小説の雑誌の編集者と一緒に、愛読者の座談会に出席するために札幌に行ったのだ。  その時、弥生も行きたがったので、彼は連れて行った。  弥生は、札幌に一人知人がいた。その知人は、昔、弥生と一度関係のあった若い医者である。  弥生は、夜その医者に会いに行って遅く帰った。そして、浦川との間にいさかいを起こした。  しかし、あの時、弥生はたしか生理日であった。なぜ浦川が憶えているかというと、ホテルに着いて、すぐ二人は風呂に入り、ベッドの上で抱き合ったのだ。弥生の生理の時でも、二人はよく抱き合ったものだ。  弥生は、風呂でよく洗った体を浦川に委ねた。その時もそうだった。  しかし、その時に、浦川は行為の途中で弥生を怒らせてしまった。敷布に血がついてしまったからである。  なぜ血がついたか。浦川は仔細《しさい》には憶えていないが、とにかく敷布に血がついて、弥生が怒ったことだけはよく憶えている。  そして、二人は興醒めしてやめてしまったのだ。その血が、弥生がその時生理日に当っていたという証拠である。  だから、妊娠の相手はその男ではないかもしれない。  しかし、その男が、その後すぐに東京にやってきて、弥生と抱き合ったということもありうる。  なにせ弥生はしょっちゅう三鷹に帰っているのだ。  その年の九月といえば、弥生と浦川との生活が本格的に始まったばかりの時ではないか。その時に、ある男に肌を許したというのだろうか。そして、妊娠し、にもかかわらず、中絶手術を受けなかったということは、その後もその男を愛していたということではなかろうか。  十月から、二人は青山のアパートに移ったのだった。  浦川は、楽しい生活の始まりに気持が浮き浮きしていた頃である。  その時に、弥生がほかの男に肌を許していたなどとは、浦川には考えられない。  もしも弥生がほかの男に肌を許していたとするならば、弥生が彼と生活を始めたそもそもの理由は、愛情ではなく、彼が甘い男であるということになる。〈この男とであればどうにでもなる〉弥生と志津とは、そう判断したのかもしれない。とすると、彼と一緒になって、なお芸者をやめきらずにお座敷に出ていたというその内情も、彼が思っていたものとはちがってくる。  弥生は、浦川と一緒になったからには、体を売るようなことはせずに、お座敷専門でいくといっていた。  彼はそれを信じて疑わなかったものだ。  しかし、彼女が九月に妊娠していたとするならば、彼女のお座敷にだけ出ていたということは、口先だけでしかなかったということになりそうである。  もしも、暢子の推理どおりであるとしたらこれほど恐ろしいことはなく、自分はよほど間抜けな男ということになると浦川は思った。 「ミキ子さん、あなた、わからなかった?」 「わたしは、やはりちょっと変だと思ってましたけど、先生がぜんぜんお疑いになっていないんですもの」 「女の眼から見ればわかるものなのよ」 「先生が承知なすっているかもしれないと思ってましたわ。それに、そのパイプカットなんてこともあまりよく知りませんでしたもの」  ミキ子がそういった。  弥生が子供がほしいためにほかの男に肌を許したことを、浦川が承知の上と、ミキ子は思ったこともあるという。  しかし、浦川は納得しなかった。もしも弥生がほんとに妊娠していたとしたら、もっとおなかが大きくなったはずである。  また、パイプカットの復元手術が成功していたとして、それに弥生が自分の妊娠を覆いかくせる腹であったとしても、彼女は八カ月で子供を生んだことになる。その点はどうなのか。  それに、最も彼が疑問に思ったのは、浦川と一緒に生活をしていながらほかの男の胤《たね》を宿し、そして、それを浦川との生活の中で生み、ずっとその秘密を隠し通すという異常な神経が彼女の中にありうるかということだった。  暢子は、その三つの疑問に対して、すぐに答えを出した。女には底腹というのがあるという。底腹の女は、妊娠していてもおなかがそれほど大きくならない。  第二の疑問について、早産ということがあるから、なんとでも浦川をいいくるめることができる。第一、その時浦川は、自分の子以外の子を弥生が孕《はら》んでいるなどとは夢にも思わないだろうから、八カ月で生まれたとしても、だれ一人疑う者はいないだろうと暢子はいった。  第三の、弥生の神経に関する疑問については、彼女はこういった。 「それは、先生が弥生さんについて都合のいいイメージを抱いているからなのよ。わたしなんかが見れば、いろいろの先生の話の端々から、ほんとに愛しているならばそんなことはありえないなあと思うことがよくあるわ。たとえば、しょっちゅう三鷹の家に帰ったり、それから、外泊したとか。普通の男だったらすぐ疑う処を、先生は疑わずに、ご自分を騙し騙ししてたんだわ。だから、先生のイメージもご自分を騙してつくられたものなのよ。先生の中にある弥生さんは、そんなことができる人じゃないような気がする。いえ、先生だけじゃなくて、普通ならなかなかできにくいことなのよ。でも、この弥生さんだったら、そんなことしかねないっていう感じがするわ。わたしが思うには、これはおかあさんとぐるだわね。おかあさんがよくないと思うわ。一度も先生を三鷹の家に呼ばなかったでしょう。そういうことだって変だわ」  浦川は、自分が知らない三鷹の家の窓に、弥生の影と志津の影とが映っている場面を想像してみた。二つの頭が寄り合っている。二人はなにか謀議を凝らしているのだ。生まれた子供は三鷹の家で育てられていたというのだろうか。  その時、ミキ子がこういった。 「この前、ママと三鷹のおかあさんと先生と、三人でお話しなすっていたでしょう。あの時、先生が泣かれ、ママも泣いて、みんな泣いてましたわね。先生がお便所に立ったでしょう。あの時ママったら、三鷹のおかあさんに向って舌を出したんです。あれを見て、わたしこわい感じがしました」  暢子は、そのことについては黙っていたが、ふと浦川に顔を向けるとこういった。 「弥生さんが入院した病院、先生知ってるんでしょう」 「ああ、行ったことがある」 「そこに電話で訊いてみたらどうかしら。教えてくれるかもしれないわ」 「しかし、なんといって訊けばいいんだ?」 「それをうまくやらないとね」 「そうだ、こうしよう。お宅で生まれた子供の誕生祝を贈りたいと思っているが、その子の誕生日がわからない。その家に訊くのは失礼だから、教えてもらいたい。これはどうだい?」 「そうね、それだったらいい、教えてくれそうだわ」  浦川は、さっそく一〇四番に電話してその大江産婦人科の電話番号を訊くことにした。  彼は、二年前の大江産婦人科の電話番号をメモした紙などとっくになくしてしまった。彼がわかっているのは、大江病院が杉並区のK町にあるということだけである。  しかし、それだけで一〇四番は電話番号を教えてくれた。  浦川は息をのむ気持でダイヤルを廻した。日曜日の病院である。うまく答えが得られるかどうか。  女の声が出た。看護婦らしい。 「おととしの七月、お宅で生まれた子供に誕生日祝を贈りたいんです。見舞いにいったのは七月だと憶えているんですけれども、正確な日にちを憶えてないんです。その家に訊けばわかるんですけど、それだと誕生日祝の意味がなくなりますから、教えていただけないものかと思いまして」  すると相手は、 「なんとおっしゃる方ですか」  といった。 「三鷹市の牟礼《むれ》の藤村弥生といいます」 「そのお子さんは男ですか、女ですか」 「男です」  浦川は、男か女かという問いで、こちらの真意を先方がはかろうとしているにちがいないと思って、意気ごんで答えた。  しかし、向うは事務的に質問しただけなのかもしれない。 「ちょっとお待ちください」  といって、相手は引っこんだ。  浦川は、暢子たちの方を見て、 「調べてくれるかな? 医者に訊きに行っているのかもしれないよ、こういうことは教えていいのかどうか」 「そうね」  暢子は緊張した顔つきになって、上段に眼を据えている。そして、生真面目な声で断言するようにこういった。 「教えてくれると思うわ。わたしの直感はよく当るのよ。場面を感じるのよ。いま看護婦さんがいろいろ書類をめくっていたりする場面なの」  それからやや経って、先ほどの女の声が浦川の耳に入ってきた。 「男のお子さんが七月の十八日に生まれています」  浦川は思わずこういった。 「やっぱり生まれていましたか。ありがとうございました」  彼が電話を切ったあと、暢子がこういった。 「やっぱり生まれてましたかは余計だわ。そんな先生だから、弥生さんに騙されるのよ。わたしがいったとおりでしょう」  浦川は受話器を押えたまま、少しの間呆然となっていた。  顔に笑みを取り戻すと、暢子のいる処に戻ってきた。 「まだ信じられないっていうの?」 「いや、信じざるを得ないよ」 「よっぽど弥生さんのことを好きだったのね。わたしは、きのうまでは、先生が別れた女の人が不幸になるっていうことはいやだと思ってたわ。でも、いまはちがうわ。これほどまでに先生をないがしろにした女は不幸になった方がいい。そう思うわ」  暢子の顔は上気した感じに薄赤くなっている。  浦川の頭に、志津の言葉が甦ってくる。 「重則をもらったことは失敗でしたわ」  彼女は、たしかそのようなことをいった。あの言葉はどういう意味だったのか。あの言葉は、もしかしたら浦川が重則の秘密について知っているかどうかを探るための言葉ではないのか。  彼の瞼の裏に、また三鷹の家が浮かんでくる。ガラス戸に映る二つの頭。その二つの頭がなにが密議を凝らしている。 「いったいだれの子供を生んだんだろうなあ」  そういった端から、浦川は、一人の男の顔を思い浮かべていた。といって、彼はその男の顔をいままで見たわけではなかった。勝手に彼が思い浮かべた顔である。  それは、弥生が初めて生んだ正彦という子の父親の顔だ。たしか弥生は、その男は色が黒くて、顔はむしろ不細工といってもよいような男だといっていた。しかし覇気《はき》に満ちている。そして、全体に清潔な感じがある。  弥生は体臭の強い男をそれほど好きではないはずである。  浦川は、自分よりも少し背が高い男を想像している。そのイメージは、長田が浦川に話した芝のホテルのロビーで見た男のイメージとは矛盾しない。 「弥生さんは、結局、一人の男しか愛せなかったんじゃないかしら。先生は手玉に取られたし、いまの手崎さんだって騙されているのよ。それでも手崎さんは先生よりも弥生さんから愛されていると思うわ。なにせ貢《みつ》いでるんでしょ。わたしの、これは想像だけど、弥生さんは、先生にとっては悪い女だけども、その一人の男性に対してだけは純情なんだと思うわ。それに、先生にとってもっと悪いケースを考えると、三鷹の家の家賃とか生活なんかも、ずっとその人がみてたかもしれないと思うわ。とにかく、弥生さんは妊娠してある男の子供を生んだんですもの。浮気なんかだったら堕《おろ》すわよ」 「そういえば」  と、ミキ子がその時いった。 「もう一人よく電話で連絡をとっていた人がいたようですわ。まさかそんな人がいるとは思いませんでしたから、疑いもしなかったけど、こうなってみると、その人なのかしら? 一度三鷹のおかあさんから電話があった時にママがいなくて、わたしが電話に出たんです」  ミキ子は、以前は弥生のことを奥様といっていたのだが、暢子と浦川が愛人関係になってからは、弥生のことをママと呼ぶようになっていた。 「その時、三鷹のおかあさんが、弥生から電話があったら、鎌倉のことで話があると伝えてくださいなんていっていました。もうその頃は、先生はここにはお帰りになることはないので、三鷹のおかあさんの電話の口調なんかは、かなり大胆になってましたから、平気でママと、手崎さんのことを話してましたわ」  その男は鎌倉に住んでいるのかもしれなかった。 「ずっと弥生さんはその人と会ってたのよ。しょっちゅう三鷹に帰っていたというその時に会ってたんだと思うわ。あるいはホテルで会ったかもしれないし、三鷹の家で会ったかもしれないし。そして、その人には、先生のことを隠してたと思うの。わたしが勝手に考えるとこうだと思うわ。最初の子供を生んで、それから、いろいろ経済的にその人から援助を受けられなくなったから、弥生さんはまた芸者に出たと思うの。そんな時に、心の痛手から立ち直る為と経済的な必要から先生という人を選んだのよ」  浦川は、そんな暢子のいい方が気に入らなかった。 「そうかなあ。弥生はぼくを愛した時もあったと思うが……」  浦川は、雪の日にアンクルと一緒に、タオルを頭から被って外に飛び出して行ったようなこととか、彼女の嫉妬ぶかさについて話した。 「でもね、先生の方はそういうことを憶えているけれど、弥生さんの方はもう忘れてるわよ。弥生さんは、おそらくけろっとしてるわ。ただ先生の中にそういう思い出が残っているから、弥生さんの方もそうだろうなんて思っているだけなのよ。三年間も一緒におれば、いろいろ発作のようにそんなことがあるわよ」  浦川が、また小便をしに立って戻ってくると、暢子がいった。 「手崎さんは、弥生さんのことをこういってたそうよ、この子はなんにも知らないんだからって。つまり、体のことらしいの。手崎さんにも、芸者やってたことも隠しているんですって。先生に対してもおなじように、弥生さんは、初めて体のことを教えられたっていうふうにいったんでしょう」  ミキ子の顔は、また赤くなっている。 「でも、わたしはそう思わないわ。弥生さんは、鎌倉かどこか知らないけれど、その人によって十分知っているはずだと思うわ。そういうことでも、弥生さんていう人は演技ができる人なのよ。なにか自分に落度があった時でも、自分が割の合わない目に会っているというふうに気持を変えることができて、手取早く変えたその気持になって泣ける人だと思うわ」  浦川は、一つ一つなるほどと思って、暢子の言葉に耳を傾けていた。  彼は、自分が呆然としている気持の中に、道子の顔が遠くの方に浮かんでいることに気づいていた。騙した方が悪いというような問題ではなかった。この騙され方には罪があると、浦川は思った。そして、その罪は道子に対する罪である。  彼はこれまで弥生との生活の中で、この生活は道子と別れてまでかち得られなければならなかったものかどうかと思い、胸が痛んだものだ。  ただ、道子と別れて三年の月日が経っているために、その痛みは薄くなっているが、もしもこの騙され方が、もっと早い時期にわかっていたとしたら、彼の痛みはもっと痛烈なものであったにちがいない。  結局、こういう騙され方をするために、彼は道子や有以子との生活を投げ捨てたということになる。  しかし、ただ彼には救いがあった。暢子という女がいたからである。彼女のやさしさや肌が、彼は好きだった。 「もしもきみがいなかったらということを考えると、ぞっとするよ」  浦川は、よく暢子にそういった。 「でも、先生は弥生さんを愛してたんでしょうね。それを考えると、無理だと思いながらも、わたし腹が立ってくるわ。なぜそんな女を愛したのかといいたくなる。そして、どうしてそんなことに気がつかなかったかと、しゃくにさわるわねえ。普通の人でもわかると思うのに、先生は小説を書いているんでしょう、どうしてそんな人に気がつかなかったのかしら。人が聞いたら信用できないようなことよ」  そういった感情をあまり表面に出さない暢子の眼に、ある燃えるようなものが動いていた。  女がよくなるのも悪くなるのも男次第だという意見が、浦川の中にある。少なくとも、浦川は弥生にとってはよくない男ということになる。  あるいは、いい女にすることができなかったのは浦川の責任ということになる。その責任の中にはセックスも含まれているかもしれない、とすると、それは浦川にとってはかなり屈辱的なことであった。彼は弥生に、セックスの面では十分に満足を与えているつもりであったからである。  弥生はよくこういっていた。 「セックスなんて愛情とは関係ないわね。上手な人に会えば、女はイっちゃうものなんだから」  弥生がそういう時、浦川は、こう受け取っていた。  弥生は浦川との性生活に満足している。しかし、性生活の満足だけであればほかの男からでも得られる。だが、浦川とこうして一緒の生活をしているのは、性生活以外の心の繋がりのせいだ。  けれども、もしかすると、弥生はセックスと心の両面とも、浅い処で浦川と結びついていたのかもしれない。  そういっても、弥生との性生活で、浦川は弥生に不満を与えた記憶はない、けれども、満足というものは相対的なものだ。  弥生は手崎に抱かれた時、浦川との時には感じなかった新しい感動を覚えたのかもしれない。  手崎が「この子はなにも知らない」とミキ子にいったというが、彼女は感動を抑制していたのかもしれない。そして、ひそかに弥生は、手崎と自分の肌が合うことを感じたのかもしれない。  だが、女がよくなるのも悪くなるのも男次第だという時、そこには、女に肌が合うと思わせる男の力量のことも問われているという気が、浦川にはするのだ。  弥生が浦川にとってよくない女であったということは、こうもいえるかもしれない。  弥生に対して、浦川は力量に欠けていたというふうに。  弥生が手崎と結婚することになっていると、恵美子は浦川にいったが、その夜直接彼が弥生の口から自分は結婚する気持はないということを聞いた、その時の言葉がひどく手がこんだものであることを、浦川はあとになって気づいていた。  彼女は、最初に生んだ子供のためにも結婚できないというようなことを、まことしやかな顔と声でいっている。あの顔と声とには詐欺の才能があるのかもしれないと、浦川は考えた。  そして、弥生の母親の志津が「重則をもらったことは失敗だったわ」といった、あの言葉にも、やはり手慣れた詐欺師のような手口を感じるのだ。  そういう女と三年間も一緒に暮したということが、浦川は恥かしかった。彼が見ていたのは、彼の恣意《しい》が創り出した別の弥生であったということになるのだろうか。  しかし、そういうことがありうるであろうか。むしろ、彼は針小棒大に見ていたといった方が正確なのかもしれない。  弥生が手崎の子を孕んで、もう妊娠四カ月になっていると、ミキ子が暢子にいったのは、青山や赤坂のアパートを引きはらって、世田谷の一軒家に移ってからだった。  ミキ子は、直接浦川にこういうことを告げずに、暢子にいった。  浦川は�藤村�のために弥生が借りた銀行に対して保証している立場をやめたいという強い気持になっていた。  そのためには�藤村�を売りに出すか、弥生がどこからか金を借りて銀行に払い、彼の保証を抜くか、どちらかでなければならない。  そのために、浦川は、親しい税理士の多田に事の処理を頼んでいた。  そんな時に、弥生から電話がかかってきた。初め彼は、その声がだれかわからなかった。弥生と一緒の生活の時、彼のホテル住まいの時、浦川は、弥生の電話の声をわからなかったということはない。  しかし、彼は、初めだれかなと思ったのだ。「弥生です」と名のられても、どこの弥生かなと、一瞬思ったほどである。  もちろん、それは瞬間のことでしかなかった。 「あまり虫がいいと思ってね。電話したの」 「なにが虫がいいんだ?」 「先生よ。多田先生から聞いたけど、結局、それじゃあ、ほかの人が店を出してくれたのと同じことだったのね」  弥生は、�藤村�を売った時に、浦川が手にする金額のことをいっているのだ。  その金額は、税理士の多田とも相談して決めた最低限のものであった。 「わたしはいろいろ尽して上げたじゃないの。それなのに先生ったら、踏んだり蹴ったりのことをするのね、汚ないじゃないの」  弥生の声は高ぶっている。  そういった弥生の独善的な態度が、手に負えぬ圧迫感として浦川にのしかかってくる。 「きみはぜんぜんぼくなんかに尽してないよ。いろいろわかったことがある。重則くんはおまえの生んだ子供じゃないか」 「重則はもらった子だわ。なんなら調べたっていいわ」 「もう調べてあるさ。とにかく、おれは金がほしいんだ。結婚するんだからね、今度」 「知ってるわよ。女の人と一緒にいるんでしょう」 「とにかく、早く保証を抜きたいんだ。おまえとの間は、一日も早く片をつけたい」  彼は、冷静な口調でそんなことをいったわけではなかった。浦川はなぜかうわずっていた。それはなお彼の中にいくらか尾を引いている彼自身が創り上げた従来のイメージと現実に暴露された弥生の像とがぶつかって軋《きし》り合うもののせいかもしれなかった。浦川は、とにかく弥生と話すのは不愉快であった。なにも悪い夢を再び見せられることはないという気持に近かった。だから、彼は、長く弥生と話していたくなかった。 「先生は道子さんに感謝した方がいいわ。道子さんが離婚の届けにあっさり判を捺してたとしたら、先生は弥生さんと結婚してると思うの。一たん結婚すれば、弥生さんはなかなか別れ話に応じやしないわ。そうなると、道子さんは先生にとっては救世主のような存在だと思うわ。弥生さんと結婚してたらと考えると、ぞっとしない?」  暢子はそういった。  じっさいそうである。道子がいろいろごねていたから、弥生との結婚話が円滑に運ばなかった。そのことは、いまでは幸いであったといえる。  それはそうと、弥生と手崎は五月に結婚すると、恵美子がいっていたことを、浦川は思い出していた。その後、恵美子から聞いた処では、重則の名は、英則に変えられたという。手崎英夫の英と取りかえたのだ。  果して弥生と手崎が結婚したかどうか、彼は確かめる気持もなかった。  弥生が妊娠しているということだけは、ミキ子の口から知っている。  ただ彼は、弥生の結婚のことよりも、早く�藤村�との関係を脱したいのだ。  弥生は、�藤村�を売りに出すか、弥生の借金を保証する代わりの者を見つけるかしなければならず、そのことを税理士の多田からせっつかれているはずである。  多田は、なにかの時に浦川がバカをみないようにと、弥生の印鑑を預かっている。�藤村�を売った金を持って逃げられたりしてはかなわないからである。  多田でうまくいかなければ、浦川は、弁護士に頼むことも考え始めていた。  多田の口から、浦川は、古崎という名前を聞くようになった。  それは、かなり大きい不動産業者らしい。  弥生は、古崎に肩替わりを頼んでいるのだが、それがはかばかしくないらしい。  古崎は大きい仕事をやっている不動産業者であるので�藤村�の小さい土地や建物のことを、会社として引き受けるわけにはいかないらしかった。  だから、古崎が弥生の頼みをきくとすれば、彼のポケットマネーでということになる。弥生に対して、そういうポケットマネーを出せるという処に、浦川も多田も、古崎と弥生との間に因縁浅からぬものを感じるのだった。 〈もしかしたらその男かもしれない〉と、浦川は思った。  重則や正彦の父親として、浦川は、その古崎という男を考えてみた。長田が芝のホテルで見たのも古崎かもしれない。  そうするうちに、弥生は、多田の処に金をつくって持ってきた。その金を一応手付けのつもりで預けておくというのだ。古崎は二カ月先でないと金をつくれないらしい。  多田と弁護士は、世田谷の浦川の家にやってきて、三人で次のことをきめた。  つまり、二本立で�藤村�を処分するというのだ。  浦川は、弥生を困らせようという気持はまったくなかったので、なるべく高い値段で売れれば、それにこしたことはなかった。彼の取り分は、いくら高く売れるとしても、初めからきめているので、高く売れれば売れるほど、弥生が得をするわけである。  弁護士の親しい業者に頼んで、古崎が否定している以上の高値で売れる場合は古崎にあきらめてもらう。しかし、最悪の場合でも、二カ月後には古崎に買ってもらう。  多田は、古崎と直接電話で話して承諾を取った。  浦川は、古崎の名前を多田に訊《たず》ねた。  多田も、古崎という姓だけを知っているのであって、名前までは知っていない。名刺を交換したわけではないし古崎の意向をくんで多田と会っているのは、いつも弥生だからである。  浦川は多田に、なぜ自分が名前を知りたいかという理由を話した。古崎が正彦と重則の父親であるとしたら、その古崎の名前には則か彦がついているにちがいないと、彼は考えた。則彦という名前が古崎の名前であれば、それにまちがいない。  多田は、 「ほかから手を廻して調べてみましょう」  と、いった。  そんな時、青山のアパートから運んだ箪笥の中から、暢子が一つのアルバムを見つけた。  そのアルバムの表紙には「重則とともに」という表題が書かれてあった。  どうやらその写真は、浦川が入院中に弥生が秋田に行った、その時のものらしかった。重則と、志津もずっと一緒にいる。  そして、そのアルバムの写真の始まる処に、重則の生年月日と一緒に、母弥生と書かれていて、父という文字の下の名前は墨で消されていた。  そのアルバムが浦川の眼に触れる場合のことを考えて、弥生が墨で消したのかもしれない。その墨を透かして、名前を判読することはむずかしかった。  とにかく、重則が、弥生の単なる浮気から生まれた子でないことは確かである。 「きっと弥生さんは、アルバムを見つけられやしないかと思って、気が気じゃなかったと思うわ。でも、墨で名前を消したっていうことだけが、弥生さんの救いになっていると思うの」  暢子がそういった。 「もしかしたら、いま弥生の腹の中にいる子だって、手崎の子かどうかわかったもんじゃないよ」 「そうね。それはわからないわね。ほんとにこわい話」  アルバムの中の弥生は、どれもこれも笑顔である。重則がかわいくてたまらぬといった感じに、重則と一緒に屈《かが》みこんでカメラの方を向いていたり、重則を抱き上げて頬ずりしていたり、重則を負《お》んぶして、肩の処から、重則の顔をレンズによく見せようとしていたりしている。  親と子の幸福な情景が、そこにはあった。  ふと思いついて、浦川は、友人の成田に電話をした。  成田は、川崎で開業している婦人科専門の医者である。浦川がパイプカットの手術を施してもらったのも、その成田によってである。 「また、ちょっと教えてもらいたいんだけど、おなかに水がたまるという病気はどんなものがあるか、知りたいと思ってね」 「おなかに水がたまるねえ、やはり腹膜炎じゃないのかなあ。肝臓がわるくてもたまるけど、どっちにしろよくないね」 「腹膜炎ていうのは、どのくらい入院しなきゃいけないの?」 「半年ぐらいは入院しなきゃまずいんじゃないのかなあ」 「実はね、この前別れた�藤村�をやっているあいつは、ぼくと一緒にいる間にほかの男とやって、妊娠して子供を生んだっていうことがわかったんだよ」 「なになに、もう一度よくいってくれ」  成田は、とっさにはのみこめぬふうだった。  浦川はいつもこういう話し方をするので、しばしば相手に訊き返されることがある。そういう処が、浦川の小児性に繋がっている。  浦川はたどたどしいいい方で説明した。 「なるほどね。それで、退院したあとどうだった? はっきりとわかるはずなんだけどなあ、抱いた時に」 「それがわからなかったんだよ。あの子は前にも子供生んでるしね」 「わからないっていうのが変だなあ。おなかはどうだった? 筋が入っていたりしてなかったかね」 「筋は入ってないけど、茶色い斑点ができていたね。あの子は、水疱瘡の痕で、ぼくに見られたくないから晒を巻いてるなんていっていたけど」 「ははあ、水疱瘡だったら全身にできるはずだよ」 「なるほどねえ」  成田は、なぜか笑ったような声を出している。  成田は、暢子と浦川とのことをすでに知っている。そして、暢子については、初め会った時から好印象を持っている。  そういう暢子と一緒になっている、前より幸福になった浦川の言葉として聞いているために、成田はそんな声になっているようだ。 「わかりましたよ、古崎さんの名前が」  多田から電話があったのは、多田が、古崎の名前をそれとなく調べてみるといってから十日ほど経った午後だった。 「古崎行三だそうですよ。杉並に住んでます」  杉並という住所は、大江病院のある杉並と繋がっているように、浦川には思えたが、行三ではぜんぜん当てはずれである。 「別人かもしれませんね、この人は」  と、多田がいった。 「なにかのことで弱味をママに握られているということも考えられますね。そうでないと、ポケットマネーだからといって、ポンと大金を出したりはしませんよ」 「古崎氏は、ぼくと弥生のことは知っているんですかね?」 「それは知らないでしょう。ママもぼくに、先生のことは黙っていてくれといってましたからね。それだけでなく、いま一緒にいる男のことや、そういうプライベートのことは一切いわないでほしいといわれているんです」  浦川は、正彦と重則の父親が同一人物かどうかということも怪しい気持だった。  そして、弥生の生活の隠れた部分は、依然闇に閉ざされているままである。  浦川は、暢子と一緒に、週に一度ぐらいの割合で、遊びに出かけた。  彼が知っている顔ぶれがあまりくることのない酒場に行き、そのあと、フィリピンバンドの入っているサパークラブに行ったり、それか、食事と映画だけであったり、という遊び方である。  浦川は、フィリピンバンドの入っているサパークラブに行くと、ゴーゴーを踊りたくなる。  その夜、赤坂にあるそのクラブでは、まだ時間が早過ぎて、客は僅《わず》かしか入っていなかった。そんな客席のせいか、バンドの連中は熱意を欠いて、なにがおかしいのか、怺えきれないといったふうに笑いながら歌ったりしている。そのためときどき歌が途切れていた。 「ゴーゴー踊ろうよ」 「ゴーゴーはいやよ。普通のだったらいいわ」  しかし、なかなか普通のテンポの演奏はない。  浦川は、ゴーゴーを踊れないということで、少し不満な気持で、歌っているフィリピン人やフロアで踊っているカップルの動きを見ていた。と、暢子がこういった。 「先生はね、ゴーゴー踊らない方がいいわよ」 「なぜ?」  暢子の眼には、なにか思いきったことをいうといった気配が現われている。そして、その決意を微笑にくるんでいる。 「たしかに自分だけで踊って楽しいというのがゴーゴーだと思うわ。でも、先生は自分が上手だと思っているでしょう、だから、見るに見かねちゃうのよ。だれも先生のこと下手だなんていわないわよ、それは。でも、下手だと思っているにきまってるわ。そして、先生が自分は上手だと思って踊っているっていうこともわかってるのよ」  暢子は彼から眼をそむけると、首を少しかしげ〈わかる〉というような眼をしている。  浦川は、じっさいこれまで、自分のゴーゴーを下手だと思ったことはなかった。むしろ、踊り慣れているような格好をしさえして、得意になって踊っていたといってよい。 「先生が踊るならね、あまりステップを踏んだりお尻を左右に振ったりせずに、ただ軽く膝の関節だけをかわるがわる落すような踊り方がいいわ。スネークなんていうのも踊っていたことがあるでしょう、あの時は、おそらくみんなが笑ったと思うわ。それでも、先生は上手だなんて人はいうのよ。わたしが思うのには、先生がゴーゴーが好きっていうのも、自分のゴーゴーがうまいと思っているからだと思うわ」  暢子はもう一度〈わかる〉という意味を含んだ眼を、彼に向ってして見せた。  これまで、浦川にそういうことをいった女性はいない。それは彼にとってはちょっとしたショックであった。そして、そのショックには憶えがある感じがある。  重則が弥生の生んだ子供だとわかった時のショックの小型のようなものである。  自分の中に、ぽっかりと陥没しているような部分があることは以前から感じている。大きく間の抜けた処があるのだ。ごく普通の人がわかる処がわかっていないような処がある。それが、ゴーゴーにおいても現われている。  突然のように、浦川は、自分はたいへんな自惚《うぬぼ》れやなのではあるまいかと思った。  彼は、これまで、自分が自惚れているなどと思ったことはない。  しかし、彼は、初めていま、このサパークラブのテーブルについていて、多少の痛撃を加えられた者のように、自分は自惚れやであるという意識を持たされていた。  ゴーゴーがうまいと思っていたのもそうである。弥生の愛情を疑っていなかったというのもそうである。  第三者が見れば、弥生に特定の男がいたということは明らかであったにちがいないのに、彼は、その明らかなものを見まいとしていた。  自分に限って、女を男から横取りされるなどということはありえないというふうに、なんらの根拠もなく、思いこんでいたのだ。  彼は、日常二枚目の意識を持ったことはなかったが、彼が二枚目の意識を持たないというその裏側の意識の中に、自惚れからくる裕《ゆと》りが作用しているのではあるまいか。そして、その自惚れには、なんの根拠もないのである。  世間には、あらゆる他人が自分に対して負い目を持っているといった感覚を持って生きている人種がいるものだが、そういった感覚が、浦川の中にも根強くあるのかもしれなかった。  彼は、自分が暢子の前でどんな顔をしてよいか、わからなかった。  それは、恥かしさといったものでもなかった。どんな顔をしても追いつかない、自分で自分を投げ出したいような、そんな気持に、彼は突き落されていた。  やがて、待っていたスローの曲が始まった。 「ねえ、踊りましょうか」  暢子がそういった。  浦川は頷き、フロアに出た。  浦川と暢子だけがフロアにいる。あとの連中は、ゴーゴーでなくなったので、つまらなくなったらしくテーブルに戻った。  踊りながら暢子はこういった。 「ショックだったの?」  そして、彼女は、浦川の肩にかけた手に力をこめてきながら、こういい加えた。 「そんなとこが先生のいい処と悲しい処なのよ」  弥生が大江病院に入院したのは、浦川の友人の日吉の葬式の時である。  その葬式の時に、彼の友人の小森はやってきた。小森がやってくる前に、弥生は、入院するといって一たん三鷹に帰った。  浦川には、その時のことも一つの意味として捉えられてくるのだった。  それは、弥生が、小森のことを浦川ほど間抜けな男ではないと思っているからである。浦川の前ではたかをくくっておられるが、小森の前ではそうはいかないと思ったから、小森がくる前に、弥生は姿を消したのではないだろうか。小森が弥生と会えば、すぐに妊娠とわかったかもしれなかった。  浦川は、そのことは暢子に話さなかった。自分がいっそう間抜けな男と思われるのがいやだったからである。  その初夏の日暮れ時、浦川はある雑誌の座談会に出るためにその雑誌社差し廻しの車に乗って麻布のあたりを通っていて小さい衝撃を受けた。車は�藤村�の前も通った。�藤村�にはのれんも出ていず、灯も消えていた。もう黄昏《たそが》れ始めていて、他の店には灯が入っている。彼が聞いていた通り弥生は�藤村�を閉めてしまったのだ。  だが、浦川が小さい衝撃を受けたのは、そのことではない。前が詰まった車のあとを徐行しながら坂の途中を横切る時、浦川の眼に坂の端の歩道を昇って行く三人の光景が入ってきた。真中に両側から手を繋がれた小さい子供がいる。  その子供を挾んで右に志津、左に弥生がいた。志津も弥生も子供に眼を落しているので、浦川に斜めの横顔を見せている。その二つの横顔は笑っていた。弥生が、やっこらさというような歩き方に見えるのは妊娠のせいかもしれないし、浦川が弥生の妊娠を知っていることからくる先入観のせいかもしれない。志津も以前からやっこらさといった歩き方をする癖があった。その一見のどかな眺めの中に浦川は咄嗟《とつさ》に固い結束を見つけた気がした。三人の眺めが浦川の眼に入っていたのは、ほんの二、三秒のことだ。その結束の中には、浦川はもちろんのこと、手崎も、そして、弥生が最も愛している男でさえも、一歩の立入りも許されない。  浦川は、あとで、三人の姿を眺めたあの坂道について一つの思い出を胸の中から取り出していた。その坂を昇っていてあやうくルルが車に轢《ひ》かれそうになり、浦川は弥生がルルをしっかり抱いていなかったということで彼女を叱ったことがある。ルルヘの不実のことで叱られるぶんには弥生はむしろ甘んじていて、浦川自身もそんな弥生を知っているので、彼の強い叱責にはいくらか弥生への迎合の意味合いもあるのだった。  その頃、浦川と弥生は麻布のアパートにいて、日が沈むとよくルルを連れて散歩に出かけた。  約三年経ったこの時、その同じ坂の眺めということによって小さい衝撃の他に、ちょっとした感慨を更につけ加えさせられた。  浦川は長い小説を頼まれ、それには弥生とのことを書くのがいちばんいいと思って、さっそく口述でもって仕上げることにした。浦川は、自分の仕事には口述が合っているという考えを持っている。先ずいいのは、寝てしゃべっているうちに作品ができるという点である。ペンを握った時の指の骨と万年筆の擦れる感触や、ペン先と原稿用紙とが擦れ合う音や、そういったことが浦川の神経にさわり易いというのも彼の仕事の大半が口述による主な理由である。  そのわずらわしい感覚を意識し始めると、想像力や集中力が、かなり妨げられる。更に、書く速さはどんなに速くても、頭が思い浮かべる速さには及ばない。その点、口述は彼の頭の中の速さと釣り合っている。  小森がその速記者によって浄書された原稿に眼を通したのは、その小説が殆ど終りに近づいている頃である。  小森は、ぶらりと自分の車で、世田谷に移ってわりと近くなった浦川の家にやってきたのだ。浦川の机の上に積まれているその原稿に小森は眼をつけ、こういった。 「何んの小説だ」 「前一緒だった弥生とのことさ、おれは、自分の間ぬけさ加減を思い知らされたよ。この小説は是非読んでもらいたいんだ」  浦川は弥生が生んだ子供のことについては小森だけでなく他のだれにも話してはいなかった。 「じゃあ、これ持って帰って読もうじゃないか」  小森は煙草を口の端にくわえたまま、そういった。小森は、翌日の午《ひる》過ぎ、電話を浦川に寄こし、 「おもしろい。いっきに読んだ」  といった。浦川は小森の批評眼に権威を感じていたので、その言葉によってひどく安心させられた。 「だが、きみの傍にいるシャーロック・ホームズに訊いてみてほしいんだが、ぼくは別の推理を立ててみたんだ。いいかい、この小説の中での話だよ、つまりだな、手崎は、浦川が弥生を知る前から弥生の男だったというふうには考えられないかね。そうすれば、この小説は辻棲が合うような気がするね」 「そんなことは考えてもみなかったなあ」  浦川は、小森がそういう推理をしたのは小説の中で浦川が書きおとした部分があるからであって、手崎が現実に弥生と前から繋がっていたなどとはまったくありえないことだと思った。 「きみがそう思うのは書き足りなかったせいだと思うよ。現実では、そんなことはとてもありえないことだもの。お手伝いのミキ子の前で手崎が『こんな女だとは思わなかった』なんていってたというし、弥生が生んだ子についてももらい子だと信じていたふうだというんだ」 「お手伝いはいつきみに寝返りを打つかもしれない女だからね、そういう女の前でのコンビの演技というふうに考えられなくもないね。あの子供は手崎の子だとぼくは思うね」 「手崎の?」 「そう、きみの名前から一字、他の男から一字とってつける。その他の男というのは不動産屋以外の男さ。不動産屋は不動産屋でコンビのカモになっているが、子供の親と思わせている男が別にいて、それからも金をせしめているはずだね。とすると、この小説が出ても、このままだと手崎と弥生は少しもさわがず、ニタリニタリしておれることになる」  浦川は、胸の中で〈そんなことはありえない〉と呟《つぶや》いていた。しかし、彼は、弥生については、あまりにもしばしば〈そんなことはあり得ない〉とつぶやき過ぎている自分に気がさし、そうつぶやく自分への確信がなかった。浦川は、この小説が発表され、手崎の眼にふれたら、弥生は手崎に殴られるだけではすまないだろうと考えていた。けれども、おそらく小説など読むことのなさそうな手崎の眼にふれさすことなく弥生はうまく工作する可能性が強いと浦川はふんでいた。  だが、小森の推理では、手崎と弥生もこの小説を読みながら笑っておられるらしい。 「それに、もらい子の場合は、既に名がついているのをもらうんだろ。スムーズに重則なんて名前がつけられるということも怪しいね。三鷹に手崎は前から行ってたんだよ。前に彼女が生んだその子もぼくは手崎の子だと思うね」 「しかし、疑問がある。弥生と手崎とは店を出してから、一緒に出歩いたりして、それを見た人がいたんだ。もしも、前からくっついていたとしたら、店を出す前にも見かけた人がいたはずだよ。それに、なぜ店なんかに現われ、踊りに行ったりし、また、泊ったりするんだ、ぼくとの間がまずくなるとわかってるじゃないか」 「まずくなってもいいと思ったんだよ。ダイヤを勝手に買ったりする処があるだろ。あの頃からきみとわかれたっていいと考え始めてたんじゃないかな。店を出したことでもうきみからは取るものがない」 「しかし、自分の方から手を切るように持っていかなくったっていいだろうよ」 「手を切るつもりはない。手を切ってもよい覚悟ができ始めているんだ。だから、冒険もできる。前からの男が、客のふりをしてきみのいる処に電話してきたり、自分の女の店に顔を出すなんていうのは、ある種の男にとってはゾクゾクするような悦びらしいぞ」 「じゃあ、おれはまったく嘗められてたんだな」  小森は軽い乾いた笑い声を立てた。 「とにかくプロフェッショナルだよ。ぼくの推理通りだとすると、手がこんでいるね。頭のよしあしというより、身についた本能的知恵みたいなものじゃないかな、おれは八分どおりまちがいないと思うね」 「そうか」  浦川は幾度目かのキツネに抓《つま》まれたような感覚に包まれ、暢子に小森の推理をいった。暢子は、浦川が大江病院に電話した当時の熱心さを失っていた。だから、この事に関しての彼女の当時の明敏な頭の働きも薄れているようで、 「小森さんがいうことだから、もしかしたらそうかもしれないとも思うし」  などとつぶやいていた。  彼女は、どうやらシャーロック・ホームズの役柄を放棄してたらしかった。 「やっぱり手崎さんはお店を出したあとに現われたような気がするわ」  暢子はただそういっただけだった。浦川は、どっちともいえない気持だった。そして、追求してはっきりさせたいとも思わなかった。  浦川は世田谷の家が気に入っていた。ここ三年間、彼は狭い処で暮してきた。狭いトンネルを抜けて広い処に出たという感覚である。近くの公園にアンクルを連れて散歩に行けるし、家の庭では一日中雀の鳴き声もしている。いや、世田谷の家を気に入っているのは浦川だけではなく、暢子やミキ子もそうである。  浦川は、暢子と自分とのことを、これが肌が合う間柄というのだろうと思っていた。文字通り肌が合うのである。  奇妙なことに、浦川はたまに浮気をすると不如意になってしまう。  不如意になった時、浦川は、自分は不能になったのではないかという大きい不安に捉えられるのだが、その夜、家に帰って暢子に接すると、彼は安心するのだった。  彼は、暢子と結婚したいために、道子との離婚の話を人を介して熱心に推し進めていた。  やっと話がまとまり、金で解決がつきそうである。  しかし、浦川は、かなりの収入がありながら金がなかった。それは�藤村�のためでもあったし、税金のためでもあったし、彼の見境のない夜ごとの酒場への浪費のためでもあったし、新しい家に移ったために必要ないろいろの経費のためでもあった。  じっさい、大きい家には、それなりの家具や敷物が必要であったし、暑くなれば冷房装置も必要であった。  そんなある日、暢子は浦川にこういった。 「先生がびっくりすることがあるのよ。その前にわたしを信じる?」 「信じてるさ、いったいなんだい、昔の男が出てきたのか」 「そんなことじゃないわ。知ったら先生がギョッとすることよ」  浦川には見当がつかなかった。すると、暢子がこういった。 「わたし、生理がとまったようよ」  浦川は、なんだそんなことかと思った。 「それは、ただ遅れてるんだよ」 「でも、そんなことわからないわ。復元手術をやっているんでしょう、もしかしたらっていうこともあるじゃないの。わたし、先生の子供を生みたいわ」 「まったくそういうことがないとはいえないかもしれないけど、まずないだろうね。そんな望みは捨てることだよ」  暢子が生理を見ない日が続いた。そして、そろそろ梅雨の気配を示し始めた午後、ミキ子と一緒に近くの産婦人科に行って帰ってきた暢子は、書斎にいる浦川にこういった。 「やっぱり妊娠なんですって」  浦川は今度こそギョッとなっていた。  彼は、もしかしたら暢子も、弥生と同じようなことをやったのではないかと思った。 〈今度は騙されないぞ〉  彼は、そう自分にいい聞かせた。 「もしもほかの男の子供だったらわかるんだからな」 「いいわよ、調べたって。いまの医学では、この男の子供じゃないってことはわかるんだから。だから、わたしの生んだ子供の血を調べればはっきりするわよ」  暢子は、ひどく上機嫌になっている。 「嬉しいわ、先生の子が生めるんですもの。男だって女だって、どっちだっていいわ。子供がほしい」  暢子はそういうと、浦川に飛びついてきた。しかし、浦川の方はそんな気持にはなれなかった。 「ぼくの体が、じっさい女を妊娠させることができるかどうか、調べてもらいに行ってくるからね」  浦川の口調は、自然挑戦的になっている。  彼は、翌日、以前復元手術をしてくれた虎ノ門の金子博士に会いに出かけて行った。  暢子は、彼のために、出かけて行く服を選び出してくれた。浦川は釈然としない気持なので、いつもなら暢子のやさしさとして受け取られるものが、今は素直でない彼の感受性にやさしそうな眉唾《まゆつば》な感じとして受け取られている。  暢子は、浦川が出かける時、いつも服を選んでくれるのだ。彼女は、お抱えの理容師の役割もしていて、彼が出かける時には、整髪料をつけドライヤーをかけて髪に櫛《くし》を入れてくれる。  浦川の方は、そんな暢子に甘えていて、シャツから服から一切任せている。  そんなことは、浦川にはこれまでないことだった。  埼玉県の道子との生活の時には、道子は、一切彼のそうしたことの世話をしなかった。ときどき、彼が派手な服をつくってくると、 「わたし、そんな服を着たあなたと歩くのごめんですよ」  などと道子はいった。  弥生は、道子ほどではなかったが、それでも彼の服装については干渉しようとしなかった。  浦川も、そういうことをこれまで不満に思ったことは一度もない。自分で洋服やネクタイを買っていたし、きょうはこれにしようと自分できめることに、むしろ、ある楽しみを感じてさえいた。  だが、暢子と一緒の生活をして、暢子に積極的に、世話をやかれてみると、それが彼にはひどく目新しい温かさとして感じられてくるのだった。  そして、彼は、自分の一切のことを暢子の趣味に従わせ、任せようという気持になっていた。  浦川は、暢子が選んでくれたグレーに青い線の入っている夏の背広を着て、虎ノ門の診療所に出かけて行った。  彼はポケットの中にビニール袋を入れていた。そのビニールの袋の中にはゴム製品が入っている。ゴム製品の先端には白い液体がたまっていた。その白い液体を、浦川は、前夜暢子に対して初めて用いたゴム製品の中に放出したのだ。  浦川は、やがて金子博士に呼ばれた。 「前と較べたら、それは少しは多くなっているけども、かなりむずかしい状態ですね。不可能ではないが、不可能に近いといっていいでしょう。とにかく、これには数と勢いが必要なんですよ」 「不可能じゃないんですね、万が一という言葉があるでしょう」 「万が一というほどむつかしいわけじゃないが、ごく希《まれ》にはそういうことがありうるということでしょうね。だが、まずない」  その不可能に近いことが暢子を襲ったのだろうかと、浦川は思った。  彼は帰りの車の中で、新しい認識に胸を襲われていた。  それは、もしかしたら、弥生の生んだ重則は自分の子供であったかもしれないということだ。  しかし、弥生は、ほかの男と寝たという事実があるので、その子供が浦川の子供だとは考えていない。  じっさい、あの時点では、金子博士は、浦川が弥生に子供を生ませることは不可能だといったのだ。  しかし、あの時点でも奇跡のような可能性が、万に一つぐらいの割合で、あったかもしれない。  重則が自分の子供かもしれないというこの想像は、浦川に多少の衝撃を与えた。しかし、彼は、重則が自分の子であるかどうかということを、いつか確かめたいというような気持は少しもなかった。  彼は、もはや弥生という女をまったく愛してはいない。顔も見たくない。といって、彼女に憎しみを抱いているというわけでもない。弥生という女は、彼の中の陥没した部分のシンボルのようなものだ。だから弥生は浦川にとっては、女というよりも不愉快そのものといった方がよかった。  そんな弥生との間にできた子供であるから、重則に対して関心がないというわけでもなかった。  そもそも重則には、初めからなにかよそよそしい感じを、彼は抱いていた。  その子供が自分の子供であるからといって、急に現金に愛情を覚えたりするということは、彼の場合考えられなかった。自分の子供であろうとなかろうと、どちらでもいいではないか、といった浦川の気持であった。  浦川を襲った衝撃には附録がついていた。彼はこれまで道子が生んだ有以子についてまったく疑っていなかった自分に改めて突き当り、有以子についても慌てて検討を加え始めたのだ。しかし、有以子についての疑惑はすぐに解消した。有以子の二本の前歯は浦川のそれとそっくりであったからだ。その二本の前歯は出歯になっていて左の一本が特に出張っている。その出張り工合までがそっくりであった。  彼は、家に帰ると暢子にこういった。 「不可能じゃないけど、ごく希にそういうことがあるそうだよ」 「不可能じゃないわけでしょう?」 「そう。不可能とはいわなかった。しかし、ぼくはもう間抜けな男はごめんだから、子供が生まれたら血液検査をする」 「わたしが浮気でもしたというの?」 「したとかしないじゃなくて、とにかく、間抜けでありたくないわけだよ」  暢子は笑った。 「そうね、気が済むように検査した方がいいと思うわ。もしもわたしが浮気してたら先生の子でないということはわかるはずなんだから」 「やるさ、もちろん」  暢子は、新しい家の広い洋間をバレエのような手つきで踊るまねをし、それから浦川に飛びついてきた。 「嬉しいわ、わたし。先生の子供を持てるのね」  そんな暢子を、浦川は抱きとめようともせずに、 〈とにかく、すべては生まれてからそのあとだ〉  と、自分にいい聞かせた。  検査の結果、浦川の子供ではないとはいえないという線が出ればよいのである。  しかし、彼は、暢子に抱きつかれ足がよろけ、ソファの上に尻もちをついたその姿勢の中で、こうも思うのだった。  そんなことをやって、暢子の生んだ子が浦川の子以外にないとわかった処で、自分の中の陥没した部分がせり上がってくることは、先ずないだろう。おそらく、間抜けは一生間抜けとして続いていくにちがいない。  しかし、自分は助かっているとも、浦川は思うのだった。  彼は、自分の間抜けさに懲りてはいない。地団太踏んで、どうしようもないというほどまで懲りてはいない。  なぜなら、彼は、作家として一応認められているからである。  認められているということで、彼は、自分の間抜けさにも価値を与えている。だからこそ、彼の間抜けは死ぬまでなおらないにちがいない。  彼の原稿はやがて売れなくなるかもしれない。が、その時でも、間抜けな彼は、自分の間抜けを許し続けるにちがいない。なぜなら、彼には、かつては売れたという記憶があるからである。 〈了〉 文庫版のためのあとがき  ある作家は、材料を、ある年月温めてからやっととりかかるという。私には、その温めるということがよくわからない。  どうやら私は、ある現実が起きたそのショックが続いているその新鮮な時でないと書けないといった質《たち》のものかきらしい。時間が経つと、肝心なショックの感覚が薄れて、網で水を掬《すく》うような作品になってしまいそうである。 「赤い夜」は、だから、事実がまだ温かいうちに書いてしまった作品だ。 「赤い夜」という作品を読み返してないので、いい、わるいといったような感想はないのだが、もしも私がもっと賢い男であるならば、あの作品はかなり変わったものになったであろうことはまちがいない。とにかくバカというか、普通であれば考えられない、疑いの念|乃至《ないし》は想像力が貧弱な男であったために、ああいう小説が書けたのであって、そういう点では私は、作家である前に、作中人物の方が似つかわしいと思うことがある。しかし、それは、私にとってはまったく不名誉な話なのだ。ものかきのくせに、書く側よりも書かれる側が役柄として合っているとなると、〈いったいオレの立場はどうなるんだ〉という、持って行き場のない怒りと屈辱を味わわされるからだ。  だが、私は、「赤い夜」は、作中人物とものかきとの間の溝を飛び越えるために必要な作品であったと自分にいいきかせている。つまり、私は「赤い夜」を書くことにおいて、世の中に恥をお見せしたわけだ。  どうやら私には、普通の人であればとっくの昔にわかっていることがわからないという、盲点というか、死角というか、そういうものが数多くあって、そのために、その数だけ小説が書けるといった得な面がある。だから、もっと賢ければ、なにも書くことがない、というようなことになるかもしれないので、私の例でいうと、多作の作家だからといって必ずしも才能があるとは限らない。  多作の素は、普通だったらおどろいたりおもしろがったりしないのに、ものを知らないためにおもしろく思い、おどろいたりし、それがエネルギーになっているというコロンブスの卵のようなカラクリが、少なくとも私の場合にはある。だから、流行作家などといっても、私に限っていえばたかが知れている。  大人から見ると、なんであんなに子供はバカなことを一日中やっているのかと思うことがある。私が、もう六十に近い今の年でも、飽くことなくせっせといろいろな女と手合わせしたがっているというようなことも、ある人から見れば羨ましいどころの話ではなくて、〈まあ勝手にやってくれ〉とか〈ご苦労なことだ〉とか〈まだあんなことやってる〉などといったようなことかもしれない。  しかし、私は、それでよいと思っている。できることなら、こうなれば、〈バカは死ななきゃ癒《なお》らないのだから、一生バカな子供を続けているのもええじゃないの〉と、開き直りたい。  だから、突如、「ある朝眼が醒めると、庭の松の枝がゆれて、雪が散ったと思ったら、カラスでもないのに黒く見える小さい鳥がパッと飛び立って行った」などという文章は、まちがっても書くことはない。そういう文章を書くためには、まず着物を着ていなくてはならないだろうし、骨董《こつとう》の趣味も欠いてはならぬだろうし、顔つきも老成した感じでなくてはふさわしくない。とにかく花鳥風月を書くことが多くなったりすれば、オレもおしまいだという気持がある。  もう一つ、自分で戒めていることは、社会正義の立場から発言するということだ。正義の的になることはあっても、的に向かって矢を射るといった立場には絶対立たないことと自分にいいきかせているのは、そういう柄ではないからである。これまでやってきたことを考えれば〈とても、とても〉といった気持がある。今さらなにをいっても追いつきはしない。  だから、普通であれば、おてんとさまの下《もと》を大手をふって歩けないといった行状の数だけまた書けるというわけで、こうなった以上は、にわかに悔い改めたりなどといったこともできるわけがないので、無理して恥をかきたいとは思わないが、自然に行なっていれば、当然それは世間でいう恥につながる行為になっていくのは自明の理である。そういうことは、ひた隠しにせずに、書いていきたいと思うのだが、書くためにそういう行ないを積むというわけではない。  私にとって書くということは、行なうための資金稼ぎなのである。生活の行ないがまず第一義であって、書くことは、その行ないのために必要な経費を捻出する作業である。そして、行なった以上は、おてんとさまに相すまないので、包み隠さずに、しかし、なるべく他人には迷惑をかけない、という約束のもとに書き明かしていきたいと考えている。  そういう意味では、「赤い夜」の前に、二十年一緒に生活した女性との別れの小説や「蜜月」という小説があり、「赤い夜」のあとには「流行作家」「夜の残り」といった私小説が続いている。  この際、「赤い夜」を読んでおもしろいと思ってくれる読者のために、そういった作品があることも宣伝をしておきたい。 単行本 昭和四十五年十一月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 昭和五十九年三月二十五日刊 差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。