川上宗薫 感度の問題 目 次  火遊びと平和  鼻濁音  籤の関係  裏をかく  不在の恋  初めは処女のごとく [#改ページ]   火遊びと平和 「文子がやってくるわ」  と、妻の輝子がいったとき、田尻の胸は騒いだ。文子は一人でくるという。  文子は、輝子の五つ年下の妹である。結婚して二年になる。子供もいる。しかし、その子供を、夫と母に預けて、彼女は、一人で金沢から上京してくるのだ。 「ただの遊びか?」 「友達の結婚式がこっちであるのよ。それに出るというらしいわ。三、四日、うちに泊るって」  彼はあまり興味のないような顔をしていた。  輝子は、文子と田尻の関係を知りはしない。といって、二人の間に、なにか、ある決定的な関係があったというわけではなかった。  彼は、一度文子を誘惑しかけ、文子も、多少誘惑に乗りそうな気配を見せたというだけのことである。  それは、文子がまだ学生で、夏休みにはいっていたときのことである。  ちょうど、輝子はお産で、長野の実家に帰ったときだった。彼は、そのとき、急性腸炎で一カ月入院した直後だったので、いろいろ生活の不便があると、輝子は考え、折から夏休み中の文子をよこしたのだった。  輝子が実家に帰っていたのは、ほぼ三週間であった。  その間、田尻は、文子と二人きりの生活をやったわけだが、最初の二週間というものは彼は、まったく文子にそういうような気持を持ったことはなかった。  彼は、まだ回復して間もない体だったし、それに、女房の妹という気持もあって、初めから、そういう気持を放棄していたのである。文子は、決して魅力のない女ではなかった。しかし、なにせ子供だという気持が、彼の中にあった。  だが、文子がきて二週間たった夜、文子が、彼が寝ている寝室のドアをノックして、 「おにいさん。おにいさん」  と呼んだことから、文子への、彼の関心が始まったのだった。 「変な音がするのよ。こわくて、わたし」  文子はそういった。  彼は起き上り、部屋を出て、文子が寝ている部屋に行ってみた。すると、確かになにかの物音がしている。  彼は外に出てみた。すると、それは犬で、文子の部屋の窓下にある箱の中に犬が入って、身じろぎするたびに、音が立っていたらしかった。その犬は、田尻が行っても逃げようとはせず、シッポを振ったので、シッポを振るたびに、その音は大きくなった。  文子はネグリジェ姿だった。そのネグリジェはごく薄いもので、彼女のブラジャーをつけていない体が透けて見えている。その体は、その顔とは不釣合なほどの成熟を見せていた。  文子の顔は小さく、小学校のときと、あまり変らないように、彼には思われたのだが、いつの間にか、体だけは一人前に、というよりも、かなりグラマラスなものに発育しているのだ。  文子は犬とわかっても、 「なんだか気味がわるいわ」  といった。 「じゃあ、おれの部屋へきて寝るか?」  というと、 「行っていい?」  と、無邪気な顔と声で、彼女はいった。 「それとも、かわってやろうか、部屋を」 「気味が悪いから、一緒に寝るわ」 �一緒に寝る�という言葉を、彼女は、なんでもなさそうにいった。  しかし、彼の部屋で一緒に寝るといっても、一つの蒲団に一緒に寝たわけではなかった。一つの部屋に、別々に蒲団を敷いて寝たのである。  文子は、すぐに寝息を立て始めた。  彼はなかなか寝つけなかったが、やはり、とても手出しする気持にはならず、やがて眠った。  そして、その次の夜からも、文子と田尻は、一緒の部屋で寝ることになったのである。  彼が、 「おれの部屋にこいよ」  というと、文子は、 「いい、行って?」  と、まったく信じきっている声で、いったものだ。  彼は、同じ部屋に寝始めて三日間の間は、文子に対してなにもしなかった。  四日目の夜、彼は、そっと手を伸ばしてみた。二人とも、薄いタオルケットを体につけたままである。電気は消されている。そのタオルケットの下に手をくぐらしていき、彼は、まず文子の胸に手を触れた。  しかし、文子は気がついていないように、寝息を立てている。  彼は、さらに指に進攻を命じ、胸に触れた。すると、彼女の寝息がとまったように、彼には思われた。ごく静かに、その豊かに稔ったあたりを撫でてみた。  すると、彼女は寝返りを打って、彼に背中を向けたので、彼の手は届かなくなった。気づかれたかなと、彼は思った。  しかし、翌日、彼が少し遅く会社から帰ってみると、寝室には、二つ寝床がのべられているのだった。  彼は、今度は足を伸ばして、からませるようなことをやってみた。文子は、気がつかないのか、気がついているのか、何らの反応も示さなかった。  彼は、足を使って、ネグリジェの裾を、上へと捲りあげた。すると、素肌と素肌が接して、彼はたいそう興奮させられた。若い弾力のある肌の感触が、彼の毛むくじゃらの足に伝わってくるのだ。文子は、少し足を広げて眠っていた。  その次の日、つまり、文子と彼との二人きりの生活が、あと一日で終るという夜、田尻は、足を使ってネグリジェをたくし上げておいて、手を、彼女の太もものあたりに持っていったのだ。  文子の口からは、寝息が聞えてこなかった。この夜は、ずっと彼は寝息を聞いていない。  しかし、文子は眠っているにちがいないと、彼は思っていた。文子の足は、やはり少し開きかげんである。その豊かな太ももから、暖かい温度とすべすべした感触が伝わってくる。  彼は、徐々にその手を滑らしていった。その手は、薄い下穿《したば》きに突き当った。その薄い下穿きが少し肌に食い込んでいるようなあたりに、彼は指をくぐらした。文子の体は、やはり動かない。  やがて、柔らかい茂みの感触が伝わってくる。彼は、さらに大胆に進んだ。すると、いっそう柔らかい肌が触れてきた。彼は分別も忘れそうになった。指を更に辿らしてみた。  すると、彼が期待していた感触が伝わってきた。それでも、文子は足を開いたまま、なんの反応も示さなかった。彼はごく柔らかく、掃《は》くような愛撫を加えた。すると、そのあたりが、徐々に湿潤の度合を強めていくのが彼にはわかった。  文子が目をさましているのか、眠っているのか、わからない。眠っていて、体が自然と潤んでくるということも考えられるからだ。つまり、彼女は処女なので、かえって無防備になっているということも、あり得た。  そのときはそれまでで、彼はやめた。そして、そのあとは自慰に耽《ふけ》って、自分の欲情を鎮めた。  最後の夜になった。しかし、その翌日に文子は帰って行くというわけではなかった。その翌日になれば輝子が帰ってきて、文子と田尻とは、一緒の部屋に寝るわけにはいかなくなるのだった。  二人きりの最後の夜、彼は、犯罪者のような意識でもって、文子の薄穿《うすば》きを剥《は》ぎ取ろうとしたのだ。  すると、彼女は目をさまし、はっきりと、 「いや、おにいさん」  といった。  そして、彼の体を突き飛ばそうとした。 「な、文子、いいだろう。いいじゃないか」  彼はそうしかいえなかった。 「わたし、おねえさんにいいつけるわよ、そんなことすると」  その言葉は、彼にこたえた。  彼はそのとき、指で文子の局部の感触を味わったあとだった。そして、彼女のその部分は、前夜以上の興奮のしるしを見せていたのだ。  それなのに、彼女は彼をこばみ、姉にいいつけるといったのだ。そんな言葉の中にひと言、 「ねえさんに悪いわよ」  という言葉がはいっていたのを、彼は、ある慰めのように記憶していた。  姉に悪くなければ、彼の誘惑に負けてもよいと思っている部分が、文子の中には、あったのかもしれなかった。  文子は、姉の輝子にそのことをいった様子はなかった。  それ以後、彼は、もう三年会ってないのだ。その文子が一人でやってくるという。  彼は、結婚した文子の写真を見たことがある。子供っぽさが顔から消えて、急に色っぽい美しさを加えてきている文子である。その顔は笑っていて、その笑い顔が、なんともいえずあだっぽいのである。 「文子は、まちがうと不良になるところだったわね」  文子が結婚してからあと、輝子がそういったことがある。  とにかく、高校時代から、男の子にすごくもてていたというのだ。結婚するときに、はたして処女だったかどうかも、姉の輝子は、自信を持っていえなかった。  文子は和服姿でやってきた。彼女は、田尻の存在に関心を抱いていないような振りを、わざと、とっていた。  そんな文子を見て、田尻は、かえって文子の自分への関心を知らされる気がした。三年前の記憶が、文子の中にも強く生きているらしいと、田尻は思った。  確かに眼が色っぽくなっている。三年の月日は、彼女の体を、すっかり開発してくれたものらしい。  文子は、田尻の細君の輝子よりは、体が大きい。顔が小さいので、大きさは目立ちはしないが、彼は、三年前にそのことを知っている。あのころは、洋服がよく似合う感じだったが、それが、いつの間にか、和服が似合う女になっている。 「色っぽくなったなあ、文子は」 「エッチね、にいさんたら」 「なにがエッチだ。普通のことをいってるのに、一々エッチだなんて思われたんじゃ、かなわないよ」 「いい方がエッチなのよ」  むしろ、文子の中のエッチな感覚が、文子にそういわせているように、田尻には思われる。  文子は、すぐに友人の結婚式に出かけて行った。そして夜遅く帰ってきた。  文子が寝る部屋は、三年前に文子に当てがわれた部屋と、同じところである。窓の下で、犬が箱の中に入ってカタコトと音を立てたあの部屋である。  田尻は、しかしその夜忍び込もうなどとは思わなかった。彼は、文子をどこかに案内してやるという口実で、文子と二人きりの時間を持ちたかったのだ。  次の日の昼間、輝子と文子とは、買物やらなにやらに出かけて行った。  だから、彼が狙ったのは、三日目の夜だった。 「文子を夜の世界に案内したいんだけど、どうだい、文子は」 「いいわよ。ねえさんも一緒だったら」 「輝子はいいよ。いつだって行けるんだから」  ときどき、田尻は輝子を連れて、ゴーゴークラブなどへ行っている。 「そうね。わたしは遠慮するわ。アベックで行ってらっしゃいよ」  輝子は、まったく疑っていないらしい。 「おにいさんとアベックなんてんじゃ、なんだか映えないわね」  文子は、そう悪たれ口をたたいたが、内心では二人きりになりたがっているような感じだ。 「輝子も、くるならきたっていいんだぜ」 「わたし、やっぱり遠慮するわ。いっていらっしゃいよ、二人で」  そういうわけで、文子と田尻とは、三日目の夜にデートすることになった。  輝子は、もちろんそれをデートだなどとは思っていない。  二人は、ホテルのロビイで待ち合い、それから食事をしに行った。  食事は、新しくできた赤坂のホテルの十四階のダイニング・ルームである。そこからは、東京の夜景がよく見えた。  九月の終りに近い夜である。神宮球場のナイターの照明も見えていたし、高台にある大きいホテルの灯も見えていた。  二人はそこで、そこの自慢の料理であるローストビーフを食べ、ワインを飲んだ。  文子は、すぐに赤くなった。 「わたし、眼に出ちゃうのよ、すぐに」 「男と寝ても眼に出るんだろう」 「また、そんなエッチな……」  彼は、文子のすこぶる色っぽくなったことを、ほめたたえた。そして、男の味を十分に知っているのかどうかを、訊《き》き糺《ただ》した。 「それは、ご想像にまかせるわ」 「三年前、惜しいことをしたなあ」 「三年前ってなあに」  文子はとぼけた。 「おれの家に泊ってたときのことさ。もう少しだった」 「ああ、なにかあったわね。だって、あのときはわたし、処女だったのよ」 「そうかなあ。きみは高校時代からすごかったらしいじゃないか。あのときは大学だったんだろ」 「高校のときにすごいったって、しれてるわよ。せいぜいジャズ喫茶に行くぐらいですもの」 「じゃあ、あのとき処女だったのか」 「もちろん」 「三年前に見そこなった夢を、今夜見たいんだがなあ」 「いいつけるわよ」  そのとき、文子は媚を含んだ眼で、田尻を見た。その眼は、彼を誘いかけているように、彼には見えた。  食事のあと、田尻は、そのホテルから歩いて行けるゴーゴークラブに、文子を連れて行った。  そこは、ジュラルミンを主とした内装のクラブだった。早い時間から客が多い。床もジュラルミン、テーブルもジュラルミンである。そこでは、ゴーゴーのほかにも、組んで踊るメロディが、バンドによって流されていたので、二人はフロアで組んで踊った。  文子は、この夜は洋装だった。  文子の体を抱いてみると、まるで溶けそうなほど、柔らかだった。 「文子のような色っぽい女を、ぼくは知らないよ。なんという柔らかさだ。これじゃあ、きみの亭主は参っているだろう」 「そうよ、幸福よ」 「満ち足りているのか」 「でも、男の人って、女の体に、すぐ馴れちゃうんじゃないのかしら」 「じゃあ、きみは、ときどき欲求不満になるんだな」 「男と違うから、そういうことにも慣れるわ」 「しかし、いまのぼくのように、刺戟を感じている男がそばにおれば、眠った子がさめるんじゃないのか」 「だからいやなのよ、おにいさんは」  そういいながらも、二人は抱き合って踊っていた。顔をくっつけ、彼は、両腋に両手を差し入れて、強く抱き締めた。そして、彼女の耳朶《みみたぶ》に唇を押しつけ、耳のうしろや首筋に唇を這《は》わしていった。  すると、明らかに、文子の呼吸が速く大きくなるのが、わかるのだった。 「今夜はもらったぞ」  文子は黙っている。 「文子の裸を抱き締めたいんだ。文子の裸の全部にキスしたいんだ。そして、一番肝心なところには、一番丹念にキスしたいんだよ」  文子の呼吸は、いっそう速く激しくなった。  彼女が、だんだんと朦朧《もうろう》となっていくようなのが、田尻にはわかった。  彼は、だいたいこの夜のコースをきめていたのだ。そのコースは、すべて歩いて行ける範囲である。ホテルもそうだったし、このゴーゴークラブもそうだし、その次が連れ込みホテルであるが、そこは、歩いて五分もかからないところにある。  文子には、アバンチュールの感覚があるはずだった。これが、ずっと東京にいる女だったら、かなり、そのアバンチュールの感覚は薄められてくる。  彼女は、いま旅に出て、自由な感覚に支配されている。しかも、いま会っているのは、三年前に危険な経験を持った相手である。不義の感覚も、彼女の興奮を強めている。  彼は、背中にまわした腕を、微妙に動かしていた。すると、彼女の体がピクついてくるのもわかるのだった。  文子は、彼の体にぶら下るようになって踊っていた。いや、踊ってはいない。彼の体に辛《かろ》うじてくっついているという感じである。彼が両手で締めるようにして支えていてやらなければ、彼女の体は、その場に崩れてしまいそうだった。  二人は、やがてテーブルに戻った。  紫の照明を基調にした灯りの中で、文子の眼が、すっかり潤んでいるのを、彼は、見てとっていた。 「文子のような女が義妹だっていうことは、ぼくには悲しいよ。しかしまた、義妹だったからこそ、文子とは会えたわけだしなあ」  文子は黙っている。  彼女は、ひと言だけこういった。 「なんだか、遠い外国にいるみたいだわ。すごく無責任な感覚よ」  彼女はそういう言葉で、彼を受け入れようとしているのかもしれなかった。  彼は、彼女の興奮がさめないうちにと思って、外へ出ることにした。  外には涼しい夜風が流れている。その涼し過ぎる夜風が、彼女の興奮をさましはしないかと、彼は心配だったので、文子の肩を抱くようにして歩いた。  文子は行く先を訊ねない。 「文子を抱きたい。抱き締めたいんだよ。文子の敏感なあらゆるところに、キスしたいんだよ」  彼は、そう囁《ささや》いた。  そして、絶えず、彼女の体のどこかに手を触れていた。文子の真っ白な首が頼りなげに今にもガックリとなりそうな感じにゆれている。彼女の腋下から乳房のあたりに、彼の片手は触れていた。  文子は子供を生んでいるので、その乳房が、娘のような形を保っているということは考えられなかった、けれども、彼にはその感触が、まるで娘のようなものとして、伝わってくるのだった。彼は、乳房から腰のくびれや尻あたりまで、さわり続けながら歩いた。 「わたしって大胆なのね。驚いちゃったわ」  二人は、暗いところにくると、立ちどまってキスをした。  文子の柔らかい舌は、積極的に彼にこたえた。唇を先に放したのは文子のほうで、彼女は、顔をそむけるようにすると、大きく吐息をもらした。 「ああ、わたしってすごい女なのね」 「きみは、女の才能に恵まれているだけさ。しかし、どの女も、自分の女の才能については、それほど知らないものだよ」  目ざすホテルのネオンが見えてきた。  文子は黙ってついてきた。  部屋に通されると、彼女は、 「わたし、こういうところ初めてなの」  といった。 「じゃ、これまでは、いったい、どういうところへ行ったんだ?」 「アパートが多かったわね。主人とはアパートだったし」 「一人しか知らないってわけじゃないんだろう」 「ほんとは三人知ってるの、平は知らないけれども」  平というのは文子の夫である。 「あのときは処女だったのか」 「あのときは、もう経験があったのよ。わたし、ずっとわかってたわ。ちょっとしたアバンチュールだったわね。初めわたしの胸にさわったでしょ。その次の日は足」 「なんだ、知ってたのか」 「もちろんよ。すぐに目が醒《さ》めちゃうわ」 「しかし、ぼくの部屋に泊りにきたときは、あんなことになるとは、思ってなかっただろう」 「そうでもなかったわ。半ば無意識のうちに期待してたのね。でも、やはり現実にそういうことが起ると、おねえさんに悪いっていう気がして、それに、おにいさんたら強引さが足りないんだもの」 「輝子にいいつけられたんじゃ、かなわないと思ったからさ」 「いうわけないじゃないの」  彼は、文子の欲情のために細くなった眼を見つめた。その白眼は薄赤くなり、下瞼のふくらみは強まっている。 「さあ、風呂に入ろう」  彼は脱ぎ始めた。自分の昂《たか》まりを、文子の目の前に見せつけてやりたい気持である。 「どうだ、わかったか」  彼はそういった。  文子は眼をそらしている。しかし、彼女はチラと見たにちがいなかった。彼女は、彼に背を向けたまま、 「わたし、お風呂に入ってくるわ」  といって、立ち上った。  そんな文子を、彼は裸のまま、うしろから抱き締めた。スカートをたくしあげ、薄い下穿きの上から、じかに彼は、自分の昂まりを押しつけた。  文子の眉間に皺が寄り、彼女は、小さい口を息苦しげにあけて、うわ言のようにこういった。 「おにいさん、だめよ、いまは。お風呂に入りたいの」  彼はしかし、欲情に誘われて、服を着たままの彼女を、ベッドのある部屋の方に引きずるようにして連れていった。 「だめよ。お風呂に入りたいわ」  彼女は、ベッドの上に寝そべったまま、小さい息もたえだえの声でそういった。  彼は、文子の体に手をかけ、服を脱がそうとした。と、文子は、ベッドの上に辛うじて起きなおり、 「わたし、お風呂に入ってくるわ」  そういった。 「じゃあ、入っておいで」  しかし、文子の眼は、彼の昂まりを見てしまった。彼女は両手で顔を覆い、ベッドの上にひっくりかえった。  それから、また起きなおると、彼の膝の上に顔を伏せてきた。そして、大胆に田尻の昂まりに手をかけ、ついでに唇を近づけてきたのだった。  彼の手は、そんな文子の下穿きにかかっている。文子はもう抵抗しない。半ば自分の方から、脱ぎやすく体を動かしたりしている。  文子のその部分は、強く湿潤を示していた。だが、その感触よりも、彼女の柔らかく縮れた感触の方が、田尻には、もっと官能的に思われた。ごく軽くて柔らかい毛質である。  彼女の唇や手は、たいそういとおしいものに対するような愛《め》で方をしていた。  ふと、彼女は顔を上げて、こういった。 「こんなところを、おねえさんが見たら、どうかしら?」 「卒倒しちゃうよ」 「そんなこと考えると、わたし、すごく興奮しちゃうのよ」  男は、そういうことを考えようとはしないものだ。しかし、女はそういう想像によって自分に刺戟を与える。 「わたし、おにいさんとこうなりたかったのよ、ほんとは。結婚生活の中でも、いつもこうなるだろうっていう予感があったわ。そしてね、空想していて、すごく興奮して、自分で自分を慰めたことがあるわ」  その次の瞬間、二人は抱き合い、結合していた。  文子の口からは、感激の甲高《かんだか》い叫びが続けざまに発せられ、田尻は、柔らかい包み込むような感触と同時に、もう一つの、柔らかく縮れるものの感触も、同時に覚えていた。  おそらく、一生に何度もないような、色っぽい雰囲気に包み込まれていった。  彼にとって、情事の最高のものとは、色っぽさである。そして、その色っぽさを醸《かも》し出す大切なものとして、毛質の感触があるのだ。  その点、輝子は、彼には常にものたりなかった。田尻は、サラリーマンであるが、これまでときどき浮気を行なっている。そして、彼自身の色っぽさの哲学を、彼なりに作り上げていた。  彼は、まず第一に毛の感触をあげ、その次に、肉体の構造である。  文子は、構造についていえば、ややゆるめであった。そのゆるめの感じは、文子の口つきに現われている。  三年前のとき、彼はまだ自分の毛の美学を確立してはいなかったので文子のその部分の感触について、さだかに確かめようとしなかったし、また、さだかな記憶も持っていなかった。  彼は、接しながら、文子の耳元に囁いた。 「……が色っぽいんだよ」  彼はそういうことをいった。  すると、その囁きは、彼女にも刺戟を与え、文子の乱れは強まるばかりだった。  彼はどの女とも、これまで一度果てたあとは、再度接するということが不可能であった。けれども、彼は生れて初めて、同じ女に、一度の情事において、二度の発射が可能な状態であった。彼は、ほとんど期待をせずに、一たん果てたあとの自分の体を、彼女の最も彼が色っぽいと思っているそのものに触れていたのだった。  極上の、細い柔らかな繊毛に触れているうちに、彼は、初めて自分の肉体が回復するのを感じたのだ。 「こんなこと初めてだよ、文子」 「嬉しいわ、おにいさん」  文子の体は、一度目のときとはちがった変化が現われていた。  一度目のときにはゆるめであったものが、収縮力を増してきているのだ。  そして、その収縮力は、田尻の肉体に持続力を与え、二人の間には、ほとんど完璧《かんぺき》といっていいほどの情事が作り上げられたのだった。  文子は「死にそうよ」と、何度もいった。そして、その極みにおいては、「死ぬ」と叫んだ。  次の夜は、文子が田尻の家に泊る最後の夜だった。彼は文子に伝えてあった。「最後の夜は、必ず忍び込んで行くからな」  文子は、そんな田尻の行為をとめようとはしなかった。  とめようとしない文子を知って、田尻は、女はなんという魔物かと思った。忍び込んで行く自分の方だって魔物じみている。その魔物を許す文子の方が、ずっと彼には魔物じみて見えたのである。  輝子は寝つきのいい方である。子供の道明は、自分のベッドの上で眠っている。  寝室を豆ランプが照らし出している。輝子は、顔に薄く脂を浮かして、口をあけて眠っている。  午前二時。  彼は自分の蒲団から抜け出した。抜け出る分には怪しまれることはない。輝子は気づいたとしても、田尻が便所に行くにちがいないと思うからだ。  しかし、彼がいつまでたっても帰ってこないとなると、輝子は疑う。けれども、おそらく輝子は、彼が起き上る気配を感じても、すぐにまた眠りに落ちるにちがいないと彼は自分にいいきかした。  彼は部屋を出て行った。畳が軋んだり、襖のあけ立ての音が生じはしたが、それは、彼が夜中に便所に行くときに起る音と、何ら変りはないはずだった。  輝子は気がついていないらしく、口をあけたまま寝入っている。  彼は、廊下を文子が寝ている部屋まで歩いた。廊下はその間、不気味な軋り音をあげ続けたが、彼はもうやけくそだった。  その部屋は、ドアがついている和室だった。  部屋の中は真っ暗である。文子がどっちを頭にして寝ているのか、彼にはわからなかったから、彼は少しずつ足を進めていった。  小さい声が不意に起った。 「おにいさん?」 「やってきたぞ」  彼は小さい声でそういった。  彼は手探りで進んで行った。蒲団にぶつかり、手を伸ばすと、 「いや、くすぐったい」  という声が起った。  彼の手は、ちょうど文子の柔らかい胸に触れているのだった。 「電気つけるわよ」  部屋の中が明るくなった。  その電気は、決して明るい燭光のものではないのに、自分の寝室の豆電球や廊下の暗やみに慣れた眼には、たいそう眩しく思われた。  文子は浴衣《ゆかた》姿である。田尻はパジャマである。  田尻は、文子の肩から脱がしにかかった。すると、やさしい肩の線が見えた。彼は、自分の体がたちまち奮い立ってくるのを覚えた。  首が捩《ねじ》れ、その捩れた首に、何本もの皺が刻まれて、肩の線につながっている。そして、その首筋には、彼女の下半身の、あの柔らかい感触を伝えてくるものと同質の細い毛がまつわっている。  文子の顔が徐々に染まってくるのを、彼は見ていた。 「おにいさん、だめよ。おねえさんが……」  文子は、喘《あえ》ぎながらそういった。  しかし、彼女自身、もうすっかり体を潤ませて、彼を迎え入れたがっているのだった。  自分の家で、しかも、妻の輝子が寝ている同じ家の中で、義妹と、こうやっているという意識が、田尻の欲情を異常に昂《たか》めていた。  それは文子とて同じである。自分の実の姉の夫と、彼女は、こうやっているのだった。しかも、姉が、ほんの十メートルも離れていない場所で、眠っているのに。  そういう義妹の意識を、田尻は感じとり、その感じとった意識によっても、彼の欲情は昂められていったといえる。  赤坂のホテルにおける夜よりも、激しい場面が始まった。  それに、文子の体の構造が、ホテルのときよりも、もっと緻密な緊縮力を帯びていた。さらに、その柔らかい官能的な毛質の感触は、田尻を、ほとんど夢心地にさせていた。  輝子という女には、こういう感触はなかったし、それに、文子よりは窮屈過ぎる感じがあった。  窮屈な女はいいという説があるが、そうとは限らない。窮屈過ぎ、その収縮する力が強過ぎると、興ざめになることもあるのだ。  輝子には、その収縮力の強さが、かえって難点となっていた。  文子は、声を怺《こら》えきれずに、懸命に枕で自分の口を押えていた。にもかかわらず、その声は、クックッといった感じに洩れて出る。  彼女の顔は真っ赤に染まっている。その染まった顔はヒョットコの面に似て、どういうわけか、それはそれなりに色っぽく、田尻の目に映るのだった。  ヒョットコ面に似ているのは、枕で口を押えているためと、息苦しさから、口を尖らせているためらしかった。  二人は、これ以上きつく絡まり合いようのないほど、手足を絡ませて、強く抱き合っていた。  田尻は、自分がいまにも果てそうだと、文子の耳に囁くと、文子は、全身を横に振って、 「いや、いや」  といった。  実はこのとき、この光景を見ている存在があった。  それは、田尻の細君の輝子である。  輝子は気づいていたのだ。夫がそっと脱け出したときから感づいていた。そして、少したってから、廊下を伝わってやってきたのだ。  彼女は、初めドアの外に立っていた。しかし、妹の部屋の中で、だんだんと熱した気配が昂まってくると、そっとドアのノブを動かして開け、細い隙間から中をのぞいた。  普通だったら、ここで活劇か修羅場になるところである。  しかし、現実とは、あらゆる可能性を含んでいるものである。必ずしもそうなるとは限っていない。  輝子は、ただ眺めていたのだ。  別に自分を抑制するふうでもなく、興味を持って眺めていた。  なぜ、彼女にそういう冷静さがあったのか。それは、輝子自身、浮気をしていたからである。  浮気の楽しみを知ると、自分の亭主の浮気を許せなくなる女も、世の中にはいる。  浮気の悦びが、これほど深いものと知ると、浮気のこれほどの深い悦びを、自分の夫が味わっているのかと思うと、我慢できなくなるからだ。けれども、そういう意見も一種の公式であって、輝子の場合には、当てはまらない。  彼女は自分の浮気を、なにかで相殺したがっていたのだ。  自分の亭主が浮気をすれば、自分の浮気の罪は薄くなると、日ごろから思っていた。彼女の眼前に繰り広げられている情景は相殺の作用どころか、彼女に裏切られたかわいそうな女の役割を与えてくれていた。  彼女の浮気の相手は、実は、田尻の会社での同僚だった。田尻のマージャン友達の一人である。  輝子は、激しい情事を目の前にしながら、憎しみも嫉妬《しつと》も、それほど覚えず、ある恍惚《こうこつ》にひたっていた。  自分の体が濡れてくるのを覚えた。  そして、急に夫の同僚の男に会いたくなったものだ。  妹の体はきれいだったし、夫の田尻の体も見事だった。  田尻は怺えきれず、文子が、 「まだ、だめよ」  と叫んでいるにもかかわらず、果てたことを示す音声を発して、ぐったりとなった。  文子は、枕に口を押し当てたまま唸っている。  文子の大腿部に痙攣《けいれん》が走るのを、輝子は見ていた。  そして、ドアから離れ、寝室へと忍び足で帰って行った。  翌日、金沢の家に帰る文子を、輝子は空港まで送って行った。  田尻は会社に行った。輝子の浮気の相手の同僚と、田尻は談笑しながら昼食をとった。  田尻は家に帰り、妻の輝子と、割と明るい時間を過した。  こういうわけだから、平和な生活が当分続きそうであった。 [#改ページ]   鼻濁音  言葉がだいいちちがう、と北川慎一は思うのだ。北川は九州から出てきてまだ三カ月経っていない。  もう東京は夏の光に包まれている。  北川は地下鉄に乗っていた。荻窪からまっすぐ、赤とクリーム色のツートンカラーの地下鉄電車に乗って銀座で降りればよい。  新宿で降りてもよかったのだが、前に立っている女の子たちが新宿で降りないので、彼女たちが降りる処で降りてやろうと思って腰かけている。日曜日の午前十一時という時刻だ。 「次の日曜日はどうするの?」  駅に電車が停った時、前に立っている女の子の一人が仲間の女の子にそう訊いた。  その時の「次」という言葉の発音が北川には美しく感じられ、言葉がだいいちちがうと思ったのだ。九州では「ツギ」の「ギ」がはるかに強い。東京からすると怒鳴っているように「ガギグゲゴ」というのだが、東京の人は鼻にかけて、ごく弱く「ア」とも「ガ」ともつかず発音する。女は「ツギ」とも「ツイ」ともつかぬような発音をしたので、北川は、さすが東京と感心してしまった。 「次の日曜というと、なん日?」  もう一人の女の子の発音も同じである。自分たちではごく自然に垢《あか》抜けたことをやっている。北川だったら「次」の発音をうまくするためには練習に練習を重ね、しかも、その都度意識的に行わねばならないだろう。  電車はプラットフォームを離れ、話声は聞えなくなった。いや、乗客たちは地下鉄が動き始めると、口をつぐんでしまう。お互いの話がこの轟音《ごうおん》の中ではとても聞きとれなくなるからだ。  二人の女の子は特別に美人というわけではない。初めに発音した女の子は少し痩せていて、一六〇センチ以上ありそうだ。黄色のレースのツーピースを着ている。袖無しの腕が吊輪を把《つか》んではいるが、背が高いのと、腋《わき》を絞っているのとで、腋窩《えきか》は見えない。二の腕の下の柔らかい処が見えている。その二の腕が腋にかかるあたりはくびれたような黒い陰になっている。  色は白い。咽喉《のど》の下から胸にかかるあたりの肌にうっすらとした模様のようなものがある。砂浜にできる風紋のような模様である。その風紋のような模様が彼女の若さを示しているように北川には思われる。まだ二十歳そこそこの年齢と彼は見た。  もう一人の女の子は肩にややかぶさるような、かみしもの上衣の左右の張り出しを短くしたような袖のワンピースを着ている。そして、丸いモッズ眼鏡《めがね》をかけている。しかし、その眼鏡が北川には少しもいいとは思われない。  彼女は吊手は把まない。背が低いから、吊手を把むと、腋窩が丸見えになるおそれがある。背の低い女の顔には面皰《にきび》ができている。特に額にたくさん吹き出ている。眼鏡はもしかしたら面皰かくしの目的があるのかもしれない。顔全体がうっすらと脂光りしている。色は黒い。腕はむしろ肉感的なふくらみを見せ、胸も背の高い方よりは大きそうである。  電車が停ると、二人の女の子はまた話し始める。足はどっちとも細い。ひざ小僧より上は眼鏡の方が太い感じだ。腰廻りも背が低い女の子の方が豊かである。 「あの人も呼ぼうか、あなたはどうなの?」 「あなたこそどうなのよ」  この「あなた」がまた北川には優雅に聞える。  九州では、女の子同士がたがいを「あなた」などとていねいに呼んだりはしない。北川は、うっとりとなったほどである。  また地下鉄は動き、やがて、「ぎんざ」に着いた。女の子たちは降りる準備を始めた。彼は定期である。その定期では「ぎんざ」で降りても平気である。  二人の女の子は右手の方に向って歩く。階段を昇る。改札を通る。すぐに右に曲り、それから、階段をまた昇り、外に出ると、まっすぐに歩いて行く。  その方向は日比谷公園である。そのことくらい、北川にはわかっている。このあたりは退社のあとや日曜日によくやってきているからだ。  そして、どっちがどの方向とわかっている自分が彼は気に入っている。東京にくわしい男になりつつある自分がうれしいのだ。  女の子たちは日比谷公園に出る手前を左に曲った。彼女たちは顔を寄せ合うようにしてなにごとか話しながら歩いて一度もふり向こうとしない。  二人は映画館に行こうとしているのだろうか。だが、二人は映画館を通り過ぎた。そして、喫茶店に入って行ったのである。喫茶店といっても、子供なども入りそうな、ショートケーキなどのある喫茶店で、その店はビルの二階にあった。  北川も続いて入った。店内は一杯である。  二人の女の子は、一つのテーブルに並んで腰かけた。  向い側が空いている。そこしか空いている処がない。これはうまくいったと彼は思った。そのテーブルに近寄り、 「ここ、いいでしょうか?」  というと、白い方の女の子は、 「どうぞ」  といった。二人の女の子はその瞬間、申し合せたように北川を見つめた。  北川はゆっくりと煙草《たばこ》を取り出した。そのゆっくりとした動作には、北川自身気づいていない田舎者めいた気取りがあった。  彼は煙草に火を点けた。と、 「ちょっと、その火貸してください」  という声がし、見ると、背の低い方の眼鏡をかけた女が煙草を口にくわえ、顔を突き出していた。  北川は荻窪の会社の独身寮にいた。独身寮といっても、一人に一部屋ではなく、二人一部屋である。北川と一緒の谷口はやはり北川と一緒に会社に入った男で、わりと無口で、休みになると寮の近所の子供なんかと野球をして遊んだりしている。北川には谷口の気持がわからない。浴衣《ゆかた》を着たまま小さいバットを握って、普通より短い距離にある一塁に向って疾走したりしている。相手は小学生が大部分だ。  小学生よりももっと小さい子供と遊んでいることもある。砂場やジャングルジムで遊んでいる。小さい子供の母親もいたりして、そういう母親連中ともいつのまにか谷口は親しくなっているが、若い母親たちに対して谷口は野心めいたものは少しも持っていないようなのである。 「あんな母親たちに近づけると、いいことがあるだろうな」  と北川がいったことがある。 「いいことって?」 「彼女たちの中にもアバンチュールを望んでいる女がいるだろうからな」 「いるかもしれないな」 「そんなのを探してうまくやりゃあいいんだよ」 「そんな趣味はないね。おれは恋愛しなきゃそういうことはできない。恋愛というのは、結婚を前提にしているからね」  谷口とはそういう健全な学校の教科書のような、あるいは、子供が見てもよいテレビのホームドラマのような面をもった男なのである。  だが、そんな谷口が自分の性欲をどうやって処理しているのか、北川にはさっぱりわからない。寝床の中でゴソゴソやっている気配はいつもない。となると、自慰行為をするとしても、便所とか風呂場でということになる。あるいは、北川がいない時にこの部屋でということなのか。  北川自身は谷口が傍《そば》にいる処ではやらない。一人で寮の風呂場に入っている時とか便所の中とかだが、風呂場では一人きりということが少ないのでやりにくい。どうしても上厠《じようし》で行うことが多くなる。  北川がいちばん好きな自慰のやり方は、浴室でせっけんを用いるというやつだ。円滑な感触が彼の昂まりを増してくれる。 「きみはどうやって処理してるんだ」  と北川は谷口に訊いたことがある。 「なんのことだ」 「性欲さ」  北川はズバリという。 「くだらない」 「そうかな、性欲がないことないだろ」 「そういう話題がくだらない」  谷口がそういった時、北川は、谷口に対して多少用心するようになった。谷口の性欲がきわめて弱いのか、それとも、かくしているのかどっちかだ。谷口は偽善者かもしれないと北川は思う。 「訊いたからいっとくが、ぼくは、便所や風呂場でマスターベーションやってるよ」  谷口はそれに対しては沈黙を守った。  北川は九州の出だが、谷口は四国の出である。九州も四国も、東北ほど標準語を話すのに苦労しない。  二人が部屋で話す言葉は、共に九州の言葉ではない。東京の言葉に似せた言葉である。  だから、却って、二人は、外国語で話す時のような自由さがある。なんでもいえるのだが、鋭い感情となると、やはり地方の言葉の方がよく表わせるような気がする。  北川は女の子の煙草にライターの火を点けてやった。 「ありがとう」  とその大きい丸い眼鏡をかけた女の子はいった。 「たしか、さっき、地下鉄に乗ってましたね」  二人の女の子は顔を見合せ、改めて北川の方を見た。北川は笑った。声は出さない笑いである。その笑い方も少し田舎風に気取っているのだが、本人は気づかない。田舎風の気取りには、偉ぶる感じがある。 「乗ってたわ」 「ぼくの前に立ってた。阿佐ケ谷から乗ったでしょう」 「そうよ」 「じゃあ、やはり、そうだ。ぼくは荻窪から乗ったもの」 「ねえ、あなた、九州でしょう」  白い方が唐突にそういった。北川の顔は赤くなった。自分ではばれないつもりだったのだが、やはり、言葉でわかったかという気持である。 「わかるんだな、やっぱり」  北川は、強がりの笑い声を立て、足を組んだ。この足を組んで上になった足を片手でかかえるというポーズも九州によくあるやつである。そして、肩ごと体を細かくゆすってみる。 「わたしのお友だちに九州の人がいるの。その人とアクセントがそっくりだもの。結局アクセントよね」 「いやあ、まいった」  と北川は頭をかいてみた。 「九州の男の人ってわたし好きだわ」  眼鏡の女がそういった。 「どこだって、同じですよ」  しかし、北川はわるくない気持である。彼は、そんなことはどうだっていいというふうに、こう訊いた。 「ここでだれかを待ってるんですか」  二人の女の子は眼を見合せ、意味ありげな笑いを洩らし、眼鏡の女は、灰皿に灰を落し、少し伏眼になって、また煙草を口にくわえた。 「べつに待ってないわ」  と白い方が、謎をかけるような、なにか真相をかくそうとするような薄い笑みを顔に浮べてそういうと、眼鏡の背の低い方が、 「でも、待ってるともいえるわよ」  と訂正するようにいった。 「じゃあ、ここにいてはまずいですね」 「いいんです」  眼鏡がそういうと、白い方は、どこか一心な眼になって北川を見つめた。また眼鏡がこういう。 「あなたを待ってたということにしましょうか」  白い方が口出しした。 「そうねえ、この人の方がいいわ。でも、この人の思想はどうなのかしら」 「いったいなんのことですか」  北川は謎に包まれたような、それでいて、わるくない気持でそう訊いた。  白いのと眼鏡は顔を見合せたが、眼を早くそらしたのは眼鏡の方で、彼女は、決断力と大胆さに恵まれているらしい。 「わたしたちとおつきあいして頂けます?」  眼鏡は、やや慎重な声と表情で北川にそういった。  北川はこの日財布に一万円持っていた。この女の子たちに自分がおごるとしても、一万円あれば大丈夫と北川は考えた。この日北川を大胆に仕向けていたのは、財布の中の一万円である。一万円しかないと思う者と一万円もあると思う者がある。北川は後者の方である。喫茶店に行っても、映画を見ても、スパゲティやギョウザを食べても、ビアホールに入っても、一万円あれば充分間に合うわけである。  しかし、だれかを待っているようだったのが、なぜ待たなくてもよくなったのか、そこの処が北川にはわからない。 「だれかくるんでしょ? その人に対してわるい」 「わるくないの、ねえ」  と白い方が眼鏡に同意を求めた。眼鏡はそれに対しては肯定も否定もせず、 「おつき合いは割勘《わりかん》でいいんです。でも、大丈夫かしら、あなた。すごく常識的な、体制的な感じがするんだけど」  体制と聞いて、また、白いのが「思想」という言葉を使ったのと思い併せて、北川は、これは三派全学連に関係のある女の子たちではないかと推量し、彼女らは自分を仲間に引き入れようとしているのかもしれないと考えた。北川は、少し興ざめした。 「常識は重んじる方ですけど、それと、割勘とどう関係があるんです? あなたたち、大学生?」 「そう」  と白いのがいう。しかし、眼鏡はすぐこういった。 「そんなこと関係ないわ。今日のこのおつき合いはそんなことと無関係、名前を紹介しない方がいいのよ。そして、すんだら別れる」  白いのが眼を気ぜわしくあちこちに動かし、顔が赧《あか》らんでいる。眼鏡の方が姉貴分である。白いのはきっとときどき頭にカチンときているにちがいない。眼鏡には意地わるな処があるからだ。「すんだら別れる」という言葉が北川の中で別の照明となって女たちに当てられた。  女たちが急にエロチックに北川の眼に映ってきた。わりと上品な東京の娘たちと思っていたのが、すごい女に見えてきた。あのきれいな発音をしたこの娘たちが、週刊誌で見る、あのボーイハントに専念する女たちなのだろうか。 「一日だけのボーイフレンドというのならうれしいな」 「そうよ、ボーイフレンドなの。そうね、こんな処では話し辛くなったわ、出ましょうよ」  と眼鏡がいった。だが、眼鏡を彼女はその時になって外し、手に持って歩き始めた。蔓《つる》の処を持ってブラブラさせている。眼鏡をとると、この背が低くてやや色の黒い女の子は俄然北川の眼に輝き始めた。眼がチャーミングである。そのチャーミングな眼をどうして眼鏡でかくすのか北川には理解できない。 「あなた近視?」 「いいえ、とっても眼はいいの」 「じゃあ、どうして?」 「オシャレ眼鏡なの、オシャレにならないかしら?」 「だから、ペコはかけない方がいいのよ」  と白いのがいった。ペコというニックネームらしい。ペコは舌を出した。その舌は赤くて、先が細く尖っている。 「ロビイで話そうよ」  ペコはそういった。北川は二人の前を歩いている。二人の女の子はなにやらコソコソ話している。いったいなにが起るのか、と北川は思いながら、うしろからの視線を意識して、少し気取って歩いている。彼の気取りは少し顔を傾けて煙草を吸いながら歩くことだ。口から煙草を放す時、煙草を持った手を一旦自分の眼のあたりまで上げてからおろす。しかし、そのやりかたは、見ようによっては、捨鉢になって頭が熱くなっている男と受け取られるおそれもあるのだ。 「こっち、ここ渡るのよ」  うしろでペコがいった。信号があり、向う側へ二人の女の子が渡り始めていた。  北川が二人の女の子に連れていかれたロビイというのは、正式のホテルのロビイであり、北川にはとても豪華に思われた。赤いじゅうたんが敷かれていて、そこのソファに腰かけている人物もそれぞれひとくせありげで、劇的|雰囲気《ふんいき》を背負っているように思われたのである。  そのロビイに二人の女の子はいかにももの慣れた感じで入って行った。北川は虚勢を張り、肩を怒らせて歩いた。そして、そんな自分が急にバカバカしく思え、どうにでもなれという気持になった。  ペコは眼鏡を手に持って廻しながら、北川に向って、こう無造作に訊いた。 「一対二って知ってる?」  北川はピンときた。しかし、さっきは思想とか体制とかいっていたではないか。 「男一人と女二人のことなら知ってるよ」  北川は女の体験は三回ある。彼は九州の大学を出たのだが、いずれも大学にいる時の経験で、一人は霧島にキャンプに行った時知り合い、飲みなれていないアルコールを男のグループと女のグループで飲み合い、林の中で行なった。一瞬にしてその情事は終った。  二度目の女は同じ大学の女子学生だった。北川はいわゆる好男子である。男らしい容貌を持っていた。理科系なこともあって、ある無骨さと素朴さとがその男らしさの殆どの素材となっていた。その素朴さにその女の子は引かれたといった。しかし、この女の子は、見かけではわからなかったが、たいへんな淫乱であった。北川のおどろく顔を見ると笑い、「そこが好きなの、たまらないの」といい、彼にしがみついてきた。発情すると顔が赤くなり、額に青く静脈が浮き立って、歯がみするような感じになる。  こんなに女の快楽が深いものかと北川が知ったのもこの時であった。その激しい反応に圧倒され、北川は、その時、三度女子学生に押し入り、三度とも発射した。 「短いわね、若い人はこれだから」  と不満げに彼女がいった言葉を彼は忘れていない。彼女は二度と北川に誘いをかけてはこなかった。北川は彼女については他言しない。そういう点も彼女は買っていて北川を誘ったらしかった。  三度目の女はトルコ風呂の女である。その時の情事はきわめて事務的に行われ、彼はコンドームを用いさせられた上に、すんだあと、薄めた消毒液を尿道に注ぎこまれた。三度目の時の北川の女に関する発見は、女とはかくもはずかしげなくふるまえるものかといったことだった。「なるべく早くすませて」ふきげんな声でそのトルコ嬢はそういったのだ。乳房がたいそう大きい女だった。  以後、北川は、乳房がやたらと大きそうな女を見ると、そのトルコ嬢を思い出し、魅力を感じないのである。 「それがわかってればいいのよ。いやならいやと今のうちにいってね。わたしたちはあなたのこと気に入ったんだから」 「だれかくることになってたんだろ?」 「その人はもういいの。あなたの方がいいもの」 「無責任だなあ」 「だってどこのだれとも知らない人なのよ。昨日会ったんだもの。でも、時間が経ち過ぎているのがよくないのよ。だれかにしゃべったりして、多勢で見にこられたりしたら目も当てられないもの。よかったわよ、あなたで。さて、なんという名にしようかしら、あなたの名」 「本名?」 「バカねえ、造るのよ」  白いのがいった。白いのはソファに腰を下ろし、足を組んでいる。短いスカートの奥の方が見えているが、そのまた奥の方は暗くなっていて見えない。 「川崎でいいや」 「そんなのだめよ、もっと簡単なのがいいわ」  といって白いのが立ち上った。 「この子はトミ、わたしはペコ、あなた、カワでいいわね」  とペコがいう。だが、すぐにペコは、 「ギルにしようよ、この人」  とトミにいい直した。そして、 「じゃあ、行こうか。ギル、行きましょ」  と北川に声をかけた。「ギル」と呼ばれて、北川は、なぜか、自分がギルになったような気がし、すると、自分の気取りがギルという名にふさわしくないのを覚え、二人の女の子に気圧《けお》されるのを感じ始めていた。  つまり、北川は少し女性的な感じになってきたのである。無骨な九州男児が抜き取られ、別の要素を注入されたというわけであった。ホテルのロビイに入った時から、北川は、自分が一万円しか持っていないことが心細かったが、ペコが、全部割勘といったことで、いくらか気が楽になっていた。  ホテルを出るとペコとトミは歩き始めた。北川は訊いた。 「どこに行くの?」 「青山、地下鉄で行くの」 「なんならタクシイでもいいけど」  と北川がいうと、ペコがこういった。 「そうねえ、タクシイでもいいか、三人で割ればたいしたことないものね」  それで、タクシイを停めて、先ず、ペコ、トミ、北川の順で乗った。タクシイは冷房がしてあった。  北川はまだ青山のあたりには行ったことがないので、青山通りが珍しかった。青山通りには東京の瀟洒《しようしや》な感じが漂っている。  けれども、二人の女の子は通り慣れた道を通っている感じである。 「そこ左」  トミがそういった。  やがて、タクシイは大きいビルの前に停った。 「ここよ」  とペコがいう。 「あなたたちのアパートなの?」 「わたしたちのじゃないわ。今日はキイを借りてるのよ。いい部屋よ」  入って行くと、すぐにエレベーターがあり、ボタンを押すと、エレベーターが降りてきて、ドアが開いた。  エレベーターの中に三人が乗りこむと、途端に、北川にペコが抱きついてき、北川は唇に彼女の唇を押しつけられていた。  彼女は微妙に唇を動かした。そして、すぐに離れると、まるで呼吸の合ったレスリングのタッグマッチのように、トミが今度は北川の首に手を巻きつけてき、彼の唇を捉えていた。  北川は無抵抗に立っていただけである。二人の女の子は北川にめいめい背中を向け、笑い、それから眼を見合せ、トミはこういった。 「かわいい、ギルったら」  北川はこれまで子供の時以外かわいいといわれたことがなかったので、この言葉にもおどろかされていた。  エレベーターはとまった。この間、ほんの十秒ぐらいのできごとではないかと思われる。エレベーターを降りると、すぐのドアにペコはキイを使った。ドアが開き、二人の女の子は北川を背中から押しこんだ。  その部屋は、いわゆるマンションと呼ばれているアパートの一室であった。  畳敷きの部屋があり、その向うの部屋にはベッドが据えつけられ、そのベッドは部屋の半分以上を占めている感じだ。  風呂や便所は入ったすぐの処にある。  早くもトミは風呂に水を入れている。 「水ぐらい入れてくれててもいいのにさ」  トミはそんなことをいっている。 「やっぱりお風呂に入らないとだめだよ」  ペコが男の子のような口をきいた。  さっきエレベーターの中で北川にキスしたことなど忘れている顔だ。  畳敷きの部屋にはソファがある。そこに北川は腰かけ、煙草を吸っている。  ペコがクーラーのスイッチを入れたので、部屋の中が急に涼しくなり、ペコは、開けた窓を閉め始めた。  北川は妙に現実感が稀薄《きはく》な感覚に包まれていた。トミがやってきて、こういった。 「ねえ、お脱ぎなさいよ、ギル」 「いいよ」  と北川はいった。彼は、やや自棄的な感じで脱ぎ始めた。  北川は薄い夏の背広を着ている。シャツの下にはアンダーシャツ。ズボンの下にはパンツだけだ。 「ブリーフじゃないのね。その方がいいわ」  とペコがいった。 「いい体してるじゃないの」  トミがきて、北川の体の胸のあたりをさわった。そして、ふと感情を唆《そそのか》されたように、北川の胸に自分の顔をこすりつけてきた。  彼は萎縮《いしゆく》している。二人の女の子に圧倒されているのだ。彼はこれからどんなことが起るか知らない。二人の体を自分は味わえるというのだろうか。そんな質問をしたら、二人の女の子に笑われそうな気がする。「冗談じゃないわよ」といわれるかもしれない。もしかしたら自分はからかわれているのではないか。九州の田舎者と思われて弄《もてあそ》ばれているのではないのか。 「トミ、パンツとっちゃいなさいよ」  ペコがいった。  トミは北川の眼を見た。トミからは若い体臭が寄せてきていた。そのにおいは髪から多く寄せている感じだ。それで、汗ばんだにおいもある。 「自分でとるよ、でも、きみたちも脱いでくれよ。不公平だぞ」 「わたしたちは、ギルがお風呂に入っている間に脱いじゃうわよ」 「先に入ってくれたっていいんだよ」 「いいのよ、先にお入り」  ペコが命令するようにいった。北川は、ペコの方に魅力を感じていた。地下鉄の中ではトミの方が美しく思えたが、時間が経つにつれて、ペコの魅力が大きくなってくる。  ペコは北川の前でワンピースを脱ぎ始めた。ワンピースが体を滑って下にずり落ちている。北川に見られているという意識をペコは顔に出さない。 「ペコっていつ見てもセクシイね」  とトミがいう。北川の体の中で蠢動《しゆんどう》し始めるものがある。  ミニスリップ姿となったペコの体は浅黒く、その肌の色がうっすらとした光沢を浮べている。 「メキシコの女みたいだな」 「あら、メキシコの女なんて知ってるの?」  とペコがいった。 「いや、感じさ」 「わたしは、自分では東南アジアだと思ってるけど。タイ国なんかに多いわよ」 「行ったことあるの?」 「あるわよ、団体で行ったことあるの。トミと二人連れで。そして、ボーイハントしたの。でも、あちらは日本の湿気なんてものじゃないわ。すごい湿気よ」  ペコはブラジャーとパンティだけになった。北川が風呂場に行こうとすると、トミが、 「まだわかないわよ、腰かけてなさいよ」  と北川の腰を引っぱった。 「じゃあ、ぼくも裸になるか」 「当り前よ、さあ、早くなって」  北川は脱ぎ始めた。ペコがハンガーを貸してくれる。  彼はズボンの下はすぐにパンツである。 「ブリーフって恰好《かつこう》いいけど、ほんとうは風通しのいいパンツの方がいいんですってよ。ふんどしってのもあるわね。パンツも脱いでみてよ」 「今? ここで?」 「そうよ、平気よ、わたしたちも、素っ裸になるから、ね。いいでしょ。一方的に見られる側ってよくないわよ。一、二の三で、みんな三人とも脱ぐのよ」  とペコがいうと、トミは「いやだあ」といいながらも、もうパンティを尻の方からずらし始めていた。  北川は、九州男児の心意気を見せてやりたいという軽薄な気持が働いて、いちばん真っ先に脱いでしまった。  彼は昂まり切ってはいなかった。中途半端な状態である。 「わりと毛深いのね」  とトミがいったが、トミは平気ではないらしい。  ペコもトミも黒い茂みを北川に見せていた。北川には意外だったが、白いトミの方が濃くて、ペコの方が淡いのだ。  トミのは臍にまで這い上がり、もう少しで繋《つな》がろうとしている。  それに引きかえ、ペコのは、ほんのお印《しるし》程度である。そして、どういうわけか、北川は、ペコのその薄い茂みに対して強い欲望を覚えた。 「だんだん変になってくるわね。ふだんは小さいんでしょ」 「そう」 「外人はふだんとあまり変らないのよね。それに、やわらかいわ」  ペコがそういう。北川は、そういうことは知らない。駅の便所で一度白人と並んだことがある。その時、覗いたが、巨大な気がした。それは、いざという時の日本の男よりもずっと大きい感じだった。 「日本人のっていいのよね、固いから」  とトミがいった。トミの顔は上気している。 「はずかしいなあ、興奮してくるなあ」 「当り前よ、はずかしがり屋の男の子って好きよ」  とペコがいう。 「ペコはまるではずかしがってないみたいじゃないか」  北川は、いくらか癪《しやく》にさわってそういった。 「はずかしいわよ、わたしだって。色が黒いから、出ないだけだわ」  二人の女の子は一緒のソファに腰を下ろし、向いのソファに北川は腰を下ろしている。 「いつもだれかとこんなことしてるのかなあ」 「こんなことってなによ」  とペコがいう。 「いや、なにか知らないけど、裸になってやってるの?」 「そうよ」  とトミが挑戦的な口調でいった。 「そう……」  北川は自分の昂まりをもうかくそうとはしなかった。 「あなた、すごいわね」  とペコがいった。すると、トミが、 「みんな一緒にお風呂に入ろうか」  と、息づきの混じった声でいった。  しかし、三人一緒というわけにはいかない。二人の女の子は、ブラジャーを外した。ペコの乳房は尖っていた。そして、上向きになってブルンブルンと顫《ふる》えている。  トミの乳房は小さい。しかし、かわいい乳房だ。  トミは自分の胸を両手でかくすようにした。 「わたしたち、先に入ろうよ」  とトミがいい、真っ先に走って浴室に向った。そのあとにペコが大きい乳房をゆるがせながらあとを追う。  北川はペコの背後に迫った。昂まり切ったものを左右にプリップリッと動くペコの尻に打ちつけてみたい気がし、じっさいにそうしてみると、ペコは、ハッとふり返り、彼のその昂まりを見ると、口を「いやあね」というふうに動かし、そして、笑ったが、その笑いに、北川は、初めてペコの昂ぶりを見る気がした。  浴室の湯は緑色に染められていた。薬品を入れたのだ。ジャスミンの香りが浴室全体に薄く漂っている。  二人の女の子も北川も大胆になっていた。大胆の原因は、かくしもならぬ北川の昂まりの象徴である。  その象徴は二人の女の子たちにも、これまたかくしもならぬ興奮を与えてしまったので、大胆になる以外どうしようもなかったのである。  二人は湯舟の中に窮屈に並び、手を縁にかけ、首を突き出し、よく洗った北川のその部分に接吻してくれた。  二人はかなりその種の接吻技術を身につけていた。  特にペコの技術に合うと、北川は、 「タイム、タイム、やめて」  といって、彼女の手をふり放って、刺戟から遠ざかることにした。九州には「タンマ」という言葉がないので、「タイム」といったのである。  技術の差は、その昂まりに刺戟を与える処にある。トミは、単に舐《な》めればいいといった感じがあるし、ちょっとやって止め、ちょっとやって止める、その感じが、なくて、やたらと舌を絡《から》ませている。  トミが官能的才能において、はるかにペコに劣っているらしいことを、北川は、女について殆ど知っていないのに、男の直観から見抜いてしまった。  彼の前に、二人の女がいるが、彼が関心を持つ女はペコ一人であった。  こんな状態でなく、トミとどこかで知り合ったら、北川は、トミのような比較的美しい女と交際を始め、恋に落ちたかもしれない。比較することがないと、ある意味での限界状況でのトミを見ることがないからだ。  一年の交際でもわからないものが、こういう状況では一時間でわかってしまう。 「ねえ、わたしの体、洗ってくれる?」  とペコがいった。  北川はあまりに刺戟的な接触を行うと自爆しそうであった。若いから、回復する自信はあるが、こんな処で自爆したくはない。  だから、北川は、なるべく、体を離して、先ずトミの体から洗おうとした。 「そんな処は、どうだっていいのよ、ポイントを洗うのよ」  北川は、これまで洗ったことがない。しかし、せっけんをタオルにつけ、そのタオルを持っていこうとすると、 「だめよ、タオルなんかじゃ」  とトミが啜《すす》り上げるような息切れの混じった声でいった。  トミだけが洗い場に出ている。そして、小さい台に腰かけているのだ。  北川は屈んでいる。上から見ると、濃い茂みにいっさいがかくされている感じだ。 「ギル、覗いてみるといいわ。横になったらいいじゃないの」  ペコがそう湯舟の中からいうと、 「いやだあ、そんなの」  とトミがいった。  北川は、見たいと思ったので、照れくささをごまかすために、 「そうするか」  とふざけたいい方をして、身を屈め、頭を低くした。  彼は初めて、見るともなく目を向けた。それは、かなり醜悪なものであった。彼には、その部分が老婆のように見えた。  ペコは体を乗り出して、トミの乳首を吸い始めた。 「いたいわ。もっとやわらかくしてよ」  とトミがいった。自分にいっているのかペコにいっているのかと北川は顔を上げてみた。トミの顔が歪《ゆが》んでいる。 「ぼくのことですか」 「そうよ」  北川には、どこがどうなっているか定かではない。 「ペコのこと洗ってよ、トミは、もう出てベッドに寝てていいわよ」  とペコがいった。  トミは歪んだ顔のまま立ち上り、バスタオルで体を包むと、出て行った。  ペコと北川の間に、一つの情事が始まった。ペコは体をうねらせながら、北川の手先を自分で案内している。ペコは洗い場に横になったのだ。  北川は、ペコの眺めをたいそうエロチックだと思った。  黒々として、縮んだ感じがエロチックだ。トミのと較べると、ずいぶんちがっている。こういうちがいは、ふつう、自然とわかってくるものだ。全ストのかぶりつき見物の常習者とか、婦人科医は、くわしいかもしれない。  ペコは潤《うる》み、北川の口に、自分の乳房を含ませ、声を上げそうになった。 「ねえ先に出てて。そして、トミを抱いてて」  とペコは小さい声でいった。 「ペコを抱きたい」 「トミを満足させてからでいいわ」  北川は、とても自信がない。おそらく十秒持たないかもしれない。 「すぐに終っちゃいそうなんだ。まだ慣れていないから」  じっさい、北川は、今ここでペコの体に自分の欲望の形をとっている部分を接したら、その瞬間に果てるにちがいないことがわかっていた。 「だから、その最初のをトミにあげるのよ。とにかく、先に出てて。ああ、今日は興奮しちゃうわ」  二人はキスをした。北川は腰を引いている。ペコは唇と唇のキスもうまい。  北川は先に出た。トミの足が見えている。  いちばん奥のベッドルームのベッドの下半分が見え、そのベッドの上のトミの腰から下が見えているのだ。  バスタオルを取ったトミの下半身は、こうしてみると、かなり煽情的な眺めである。いや、そういう下半身のある部屋自体の眺めが煽情的といった方がいい。  こんな経験をするとは、北川は夢にも思ってはいなかった。 「ペコは?」  とトミは北川に訊いた。まるで電車の駅で人を待っているような表情である。トミはこの状況に慣れているのだ。そして、北川自身も慣れてきていたために、あんなに昂まっていた彼の男性は中休みするように頭を垂れていた。 「あとからくるよ。先ず、トミと手合せしてくれって」  トミは、北川の顔を見上げ、それからチラと中休みしているものを見た。  ペコを見た北川の眼には、こうして間近に見るトミの体は刺戟的ではない。  北川はトミの横に寝た。そして、煙草を持ってくるのを忘れたことに気づき、起き直り、「煙草を持ってくる」といってベッドから降りた。  北川は、トミの体のにおいを鼻腔《びこう》に覚えていた。ペコのにおいとトミのにおいとはちがう。はっきりとちがう。そのにおいは、体臭ではない。分泌物のにおいである。  ペコの方が強いにおいを放っている。しかし、北川はそのペコのにおいの方が好きである。におい自体が好きなのではなく、ペコのにおいだから好きなのかもしれない。そこの処は北川自身はっきりしていない。  再び北川はトミの隣に戻って俯伏《うつぶ》せになって煙草に火を点けた。体が勇んでこない。これが、会社のアパートにいてこんな場合を想像したらたいそう興奮するにちがいなかった。裸の若い女の傍に彼自身も裸でいるのだ。それなのに、北川の中休みしていた体は眠りに陥り始めている感じだ。  ペコを待っていようと北川は思った。そして、ふと彼は谷口は今頃どこでなにしているのだろうかと考えた。 「だれも入ってこないだろうな」 「大丈夫よ、それは」  そんな処に、ペコが現われた。  ベッドはダブルベッドであるので、三人が並んで横になれる。  ペコの肌がふれると、北川の体は眠りからさめ、立ち上る気配を見せた。  ペコは一つの提案をした。律動を十遍くり返すごとに、相手を変えるというやり方である。 「トミを最初にして」  とペコはいう。  北川はペコを傍らに感じていると昂まりが持続できる。しかし、トミに対してはたいそうだらしなくなってしまう。 「だめだなあ、トミとは相性がわるいのかな、ペコから始めよう」  と北川は、赤くなりながらいった。 「そうするといいわ」  とトミが平気を装っていった。 「仕方ない人ねえ」  とペコはいう。しかし、その声はかすれている。北川は、ペコに最高の状態でもって接したので、ペコの体はピクンとなり、最初から声を発した。トミがそんなペコの乳房をさすっている。  ペコは乱れ、北川は、その前に果てていた。しかし、ペコを乱れさせているものは、北川の緩慢な衰えのせいである。  ペコは、トミに移行するようにすすめることもなく、眼を閉じ、眉を寄せ、口を薄く開いたままでいた。  北川は十分間ほどして回復した。その十分間、北川は、女の経験をしゃべらされ、その乏しい経験を話してきかせていた。その話が彼の中にくつろぎを生み、彼は、こういっていた。 「どうも、トミさんに対しては自信がないなあ。どうしてかわからないんだよ。美人のせいかなあ」 「そんなことないわよ。ペコはセクシイだもの。ねえ、今度は、ぺコとの途中から移ってちょうだい。わたし、いやだあ、人のばかり見てるなんて。いらいらしちゃうわ」  トミは、そういって、甲高い声を上げた。 「バカねえ、そんな声出して」  とペコがたしなめた。トミは両耳を自分の指で栓をして叫んだのだ。  北川は、再びペコに向って挑んで行った。ペコに対してはすぐに彼は昂まってしまう。ペコのにおいがあたりに漂っているのだが、女同士はたがいのにおいに気づいていないようだ。  ペコはすぐに乱れ、一度目の時になかった反応が現われた。歯を喰いしばる口をトミの枕に押し当て、まるで嗚咽《おえつ》を怺《こら》えるような感じとしてであり、また北川を強く押し包んで放すまいとする感じとしてである。 「トミに移るよ」  と北川はいったが、その自分の声も聞きとれない感じに思われた。 「ペコ、いいでしょ、もう」  ペコは黙っている。ペコの体はあきらかに北川を放すまいとしている。若い北川の体は忍耐の術を知らない。彼は果てることを怖れて離れた。ペコが「いやあ、だめえ」といったが、あやうく北川は、果てることを免れ、トミの体に初めて接していた。  トミは、ペコに較べると、ずいぶん劣っているように北川には思われた。  緊縮力が乏しいのだ。その緊縮力に乏しいトミの体は感激していないような感じを男に与えるのだが、その感じとは裏腹に、トミの顔は左右にうちふられ、彼女の口からは、咳きこむような、聞きようによっては笑い声に近いような声が発せられていた。  トミの反応には抑揚がなく、一律一遍の感じで、裾野も頂もない。  ペコは薄赤くなった眼を薄く見開いて、ベッドに這いつくばった姿勢のまま、二人の絡み合いを見ていた。 「もういいわよ、トミ、ギルを譲って。もうトミはいいわよ。ねえ、ギル、いらっしゃいよ」  ペコは北川の腕を引っぱった。  トミの腕が北川の首に巻きつけられ、 「いやよ、ギル、行っちゃあいや」  とペコへのある憎しみを感じさせるような声になっている。  しかし、北川は、ペコに移りたかった。トミの力は強い。褐色の肌のペコにはこんな力はないらしい。  ついに、北川は、トミの力をふり払い、ペコに移動した。ペコは迎え入れる準備が充分にできていたのだが、トミが「なにするのよ」と邪魔を始めたので、北川はうまく迎えに応じることができない。トミはペコの体をゆすったり北川の腕を引っぱったりしている。  北川は、こうなると、却って興奮した。移動する的に向ってこっちも移動しながら弓を引く心境である。その条件が彼に刺戟となっている。北川はこういった。 「トミ、待っててくれ、すぐ行くから」 「ねえ、ギル、きてえ」  これはペコだ。  ついに、北川は男の力でもって、この難局を乗り切り、ペコの迎えに応じた。  すると、トミはあきらめたように、手を引き、仰向けになり、ペコに接している北川に向って、 「ペコなんかきらい」  といったが、北川は、そんなことはかまわっておれず、ペコが憚《はばか》りのない声をたてては歯を喰いしばるその反応に満足しながら、二度目の放射の瞬間にさしかかっていた。 「ギル、次、わたしじゃないの」  トミの鼻濁音を、北川はもうきれいだともなんとも感じていない。 [#改ページ]   籤の関係  三田村は耳をすましてみた。  部屋の中は殆ど闇であった。殆どというのは、板戸の節穴から外の明りがごく僅《わず》かに入ってきていたからである。どうやら、外は月夜のようであった。深々と夜は冷えこんでくる。  三田村の隣の寝床に眠っているのは邦子《くにこ》の父である。邦子の父は、ときどき、途轍もない大きい咳払いをした。しかし、それで起きるというふうではなかった。  三田村は邦子にこういってあった。 「今夜忍んで行くからね」 「だめよ、気づかれるわ」  と邦子はいったが、そのいい方には、うまく忍んでこられるのなら歓迎したいのだが、といった彼女の気持が現われているように三田村には思われた。  三田村は翌日はまた汽車に十時間近く乗って自分の町に帰らなければならなかった。この最後の夜に、なんとか邦子の体に自分を捺印しておきたいという強い欲望にかられていた。  外は月明りらしかったが、街灯の明りはない。太平洋戦争が終って三年目に入っていた。丸二年経ってはいないので、街灯など満足にあるわけがなかった。三田村は一応大学生であったが、食糧事情が逼迫していたので、とても下宿などできる余裕はなく、故郷の町でぶらぶらしていた。その故郷の町も大空襲で殆ど焼野原と化し、彼は母と妹を失っていて、父やもう一人の妹と三人で暮していた。父と一緒に母の骨を墓におさめに行ったのが、邦子との出会いの初めである。邦子の父と三田村の父とは友人であった。三田村の父が二つ三つ年上である。  だから、三田村家と納形家《のうがたけ》とは昔からつきあいがあった。けれども、三田村と邦子とは幼い時に顔見知りといった程度である。小学校三年の時一年間三田村は邦子の町で生活したことがある。しかし二人は特に遊んだという記憶はない。  三田村の父は牧師をしていた。そして、納形夫婦はその教会の信者であった。納形は役場の助役である。  墓に母や妹の骨を埋めに行った時三田村と父とは納形家に泊った。その時、三田村は邦子を見、邦子と話をしたのだが、邦子は自分の方から三田村と話をしようという素振りは見せず、二階の自分の部屋にひっこんだままだった。彼女が一度結婚に失敗していることを三田村は父に聞かされて知っていた。  一度結婚に失敗したということが邦子の控え目で無口な態度と繋っているように三田村には思われた。それに、女を一度しか抱いたことのない三田村は、結婚したことのある女が魅力的であった。結婚したということは男の腕に抱かれているということであり、既に女が官能の記憶を持っているということに思われるからである。その頃、三田村は、女は男に抱かれれば男が味わうのと同じような快感を覚えるにちがいないと思いこんでいた。邦子はその快感を知っている。そのことが三田村の情熱をたきつけた。  三田村は一度だけ女の体を経験していた。彼は一年間兵隊に行き、胸部疾患のためその大部分を陸軍病院で送って、敗戦までその病院生活を続けるという幸運に浴したのだが、兵隊に取られる前、女を学校の寮に引き入れ泊めたことがある。  一人に一部屋を当てがわれていた。その学校はミッションスクールで、牧師の子とか熱心なクリスチャンの学生のためにその寮はあるのだった。寮の名前も神学寮《しんがくりよう》といった。その神学寮に女を泊らせた学生はおそらく後にも先にも三田村一人にちがいなかった。  その女の名を三田村は忘れてしまっている。忘れてしまっているのは、戦後二十数年経った時点である。  彼は今、尚生きていて、多忙な生活を送っている。そして、彼の生活の中で二十余年前のことが胸を掠めてゆくことがあるのである。  その女とどこで知り合ったかというと、海岸である。一人歩きしていたその女に話しかけ、手を握り、接吻し、体にさわった。すると、女は、夜遅くなって帰ると父親に叱られるから泊めてくれといい出した。寮に女を泊めることはこわかったが、彼は女に意気地なしと思われたくなかったのと、このチャンスを逃すと女体の経験をせずに兵隊に取られそうに思ったので、半ば自棄的な欲望に促されて寮に彼女をひっぱりこんだ。  だれにも見つからなかった。この寮には門限がなかったのだ。だが、その時、三田村は普通の感覚を持たずじまいであった。女が苦痛を示すと彼はそこで中止したし、どこにその肝心な部分があるのか、よくわからなかった。そして、少しでも滑らかな感触を覚えると放射してしまった。朝までそんなことのくり返しであった。  その女を三田村は、寮生たちが出払ったあと、出してやった。そして、食堂のテーブルに一つだけ残っている冷えた雑炊《ぞうすい》を食べ、自分の部屋に戻って、眠った。  女とはそれから会っていない。寮への女の出入りについてはうるさかったし、まもなく三田村は入隊したからである。  三田村は邦子と話す時、いかにも自分が女なれしている不良のようなことをいった。 「しかし、邦子さんみたいな人がいなかったからなあ。邦子さんみたいな人がいたら、ぼくも女を転々と渡り歩くようなことをしなかっただろうに」  その時彼は二十二、三である。邦子はその三田村の言葉を疑うふうはなかった。  三日間父と一緒に泊ったその三日目に彼は邦子と接吻した。  その接吻が三田村を気ちがいのようにさせてしまい、彼は、半月もしないうちにまた納形家に汽車にゆられてやってきたのである。  二度乗りかえなければならなかった。その頃は切符を買うのも容易ではなかった。特に邦子のいる町の線は入手できにくいので、二度目の乗りかえの駅まで買って、そこで降りて改めて切符を買うのだった。そこだと邦子の町から通勤している者も多いので切符を買うのは易しかった。  三田村は女の体を求めていたのだ。もしも邦子に結婚の経験がなければ彼はそんなに狂おしくはならなかったにちがいないと、二十数年後の彼は考えている。  邦子の父は、なんでまたやってきたのかなという顔をしてみせた。「よくきたね」といいながらその顔に〈さては、邦子を〉といった感じがあった。  三田村は、他の処に行った帰りに寄ったのだといいわけをした。  当時は食糧事情が逼迫していたが、助役をしている納形家ではかなり自由で豊かな食生活が送られていた。田舎のせいもあった。それに引きかえ三田村の住む都市ではとうもろこしのパンとか芋とかの食生活が続いていて、常に人々は飢えに悩まされていた。だが、三田村は、この時、邦子の処に行けば腹一杯食べられるというようなことは考えなかった。ひとすじに邦子を恋い求めていたのだ。  しかも、わるいことに、邦子からの手紙には、「わたしの唇にまだあなたの唇はなまなましいというのに、あなたはいませんのね」などと書かれてあった。若くて未経験な三田村が興奮するのも無理がなかった。  この頃の三田村は、少しましな女であれば恋をしたにちがいなかった。邦子はいわゆる頭もよかったし、しとやかだったし、美人であった。しかも、幼ななじみというロマンチックな出会いの要素も三田村の感情を劇的なものに仕上げてくれていた。  邦子の父は眠っているようだ。三田村は起き上った。畳が軋む音を立てた。彼には考えがあった。邦子の父が眼をさましてもよいのだ。彼は普通の足どりでふすまを開け、階段を降りて便所に行った。  だれが眼をさましてもいいつもりである。  三田村は、小便をすましてからまた二階に上った。その時、彼は細工をした。ふすまを閉める音を立てて、じつは、体が通るくらいに開けておいたのである。  邦子の父はまた眠るにちがいない。  現に、彼が便所から戻った時にはやんでいた寝息が再び起っている。  三田村は自分も眠っているのだということを示すために、軽い鼾をかいてみせた。  それから慎重に体を起すと、ふとんの上を這った。  ふすまに行く途中、邦子の父は咳払いをした。三田村はギョッとなって這いつくばったままでいた。  畳は、気をつけても少し軋む。  ふすまに辿りつくと、彼は開いている処から体を入れた。部屋の中は暗い。たとえ、邦子の父が便所に行って戻ってきたとしても、三田村がいないとはわからないにちがいなかった。ふとんも盛り上らせてある。  三田村は、ここが大事なことなのだが、ふすまの陰に置いてあったコップの水を敷居に流して、音が立たないように滑りをよくしてから、ふすまを静かに閉めた。  三田村は階段を降りて行ったが、階段は敏感な女の肌のようにちょっとした動作でも反応を起して、軋む音を上げた。そのたびにギョッとして、三田村は立ちすくんだ。  しかし、三田村は引き返しはしなかった。降りて行き、廊下を左手に曲った。  階下には、邦子と邦子の母と邦子の妹とが寝ている。邦子だけが階段から遠い方の部屋に寝ている。彼女の部屋と母と妹の部屋とは、ふすまで仕切られている。  三田村は廊下の軋みを起さないように気を配って歩いたが、それでも廊下は軋む。  廊下の長さは四メートルほどだ。  邦子の部屋に入るには、横引戸を開けなければならなかった。彼は戸に手をかけ持ち上げるようにして開け始めた。この戸はほんの少し開けるだけでいい。柱との間に体が入るほどの幅に開けると、彼は体を滑らして行った。  邦子が寝ているふとんが見えた。この部屋は二階の部屋のように暗くはなかった。曇りガラスの窓が棚《たな》の上の方にあるからだ。  彼はふとんの上に立っていた。畳からふとんの上に行くには、途中で片足のワンステップあればよかった。  邦子は眠っている。  三田村は欲情で一杯になっていた。  ふとんの裾を初め少しめくってみた。と、邦子の足がふれた。  その時、邦子が半身を起した。  彼はその邦子の顔に自分の顔を近づけて行った。邦子は声を出さない。といって、彼を迎えているふうもなかった。  彼女は隣室の母に気づかれることを怖れ、喘ぎながら抵抗した。  いつのまにか、三田村は邦子と同じふとんの中にいて、激しい欲情に包まれ、邦子の体を抱きしめ、接吻していた。  女の体に触れていた。しかも、恋人の体である。触れたいと一心に求めていた恋人の体を自分は抱いているのだと三田村は自分にいいきかせた。初めて、乳房に触れたし、初めて、足と足とが触れた。邦子の寝巻は乱れ、前面があらわになり、彼女は自分の息遣いを抑えながら、 「だめ、だめ」  とごく小さい声でいった。  当時、女の下ばきは大腿部に喰いこむようなものではなく、隙間ができていた。その隙間からさし入れた指に、滑らかな粘膜の感触が這い上ってくるのを覚えた時、三田村は狂人のようになった。  けれども、そうさせまいとする女の力は強いものだ。彼女がなぜこんなに強力に拒むのか彼にはよくわからなかった。邦子は決して怒っているのではない。邦子自身たいそう興奮してはいた。その証拠に唇や乳房は凡て委ねている。彼の興奮の印が闇雲に大腿部や下ばきに突き当るのも許している。それなのに、最後の一線は守り通している。  そうするうちに、夜が明けそうになってきた。 「ぼくは死ぬ、こんな辛い思いで別れるのなら、死んだ方がましだ」  三田村は、ふとんを頭からかぶった中で、これもふとんをかぶった邦子の耳にそうささやいた。なんとか邦子の体を手におさめてから自分の町に帰りたかったのだ。彼は、邦子と別れたあとの辛い時間のことを考えた。そうたびたびやってくるわけにはいかないのだ。 「いや、死ぬなんて」 「だったら、おくれ」 「だめ、今はだめ」 「なぜ?」 「赤ちゃんができたら困るし、それに、まだあなたは学校に行ってるんだもの。そんなことしたら、わたしも落ちつけなくなるもの」 「こんな辛い目に会うのなら、死ぬ」  じっさいに三田村はふとんから這い出そうとした。横隣は台所である。台所の包丁で死のうというわけだが、三田村はとても死ねるような男ではなかった。彼にはひどく演技的な処があった。邦子がとめることがわかっているので、やってみせているのだった。喧嘩《けんか》したくないのだが、仲間がとめると計算して、「とめてくれるな」といっている男と似ている。  邦子は、それでも、彼に許そうとはしなかった。  部屋の中が薄白くなってくる。滑らかな粘膜の感触の記憶が三田村を尚も取り乱させてはいたが、さすがに疲れてくる。そうなん度も死ぬ演技も続けておれない。  彼は二階に帰ることにした。  ふすまを開けてみると、邦子の父は眠っている様子だった。二階の部屋はあい変らず暗い。  彼は殆ど眠らないままであった。そして、本数の少ない中の朝の汽車で、邦子に見送られて帰って行った。  現在の三田村は四十五である。彼は若い頃自分でそうなりたいと願望していた職業についている。文筆|稼業《かぎよう》である。そして、これだけは彼自身思いがけないことであるが、色欲の分野において多少の読者をかちえ、それが彼をプロフェッショナルにしてくれている。  二十余年の間に彼はさまざまの女と寝たりつき合ったりしてきた。  三田村は、あきることなく、こりることなく女と交際し、女と寝、女に憧れ、また、別の女を求め、多少の悲しみや自嘲やらをそのたびに経験している。  今しも、三田村は一人の女を都心のホテルのロビイで待っていた。  その女は酒場の女である。酒場の女は、夜と昼とではずいぶんちがうのがいる。  そのマサ子という女もちがうだろうと彼は考えるのだが、彼には、職業意識が働いていて、そのちがいを確かめたいのである。彼が考えているマサ子の昼間の顔では、特に眼の周りのしわが多いだろうということだ。  それから、照明の工合でしっとりとした小麦色に見えていた肌も、かなり汚ない感じであろうということだ。それは、世帯《しよたい》じみたうす黒い感じではないかと考えている。  ある人妻が酒場に勤めるようになると、マサ子のようになるのではないかと三田村は考えている。  夫が、店に出て行く時の自分の女房をオヤといった眼で見るくらいに変って出かけて行く。だが、昼間洗濯したりしている時の細君はいつもの細君であって、味も素気もない。その味も素気もない感じの名残をマサ子は運んでくるだろうと三田村は予感している。彼の女とのデートは、好色な彼本来の欲求半分職業意識半分である。  約束の時間は五時である。マサ子は八時半までに店に入ればいい。三時間半の間に食事をして、寝なければならない。  マサ子は五時を少し過ぎた頃現われた。トンボ眼鏡《めがね》をかけている。  髪を垂らして、寝てもいいようにしている。マサ子は和服半分洋服半分という処だが、この日は洋服である。 「ごめんなさい遅れちゃって」 「いや、それほど遅れてはいない。さあ、行こうか」 「ええ」  彼はいつも、ロビイに現われた女をロビイのソファに、腰かけさせるようなことはしない。すぐに女と一緒に出て行くのだ。  どこで食事するかはだいたい決めてある。女の好きなものを訊いているからだ。マサ子は和食が好きである。だから、活魚料理店に行くつもりである。 「刺身《さしみ》を食べよう、それから、一緒に風呂に入ろう」 「いやあ、エッチ」  彼はそういうことで、女がそのつもりできたかどうか確認したまでである。  どうやら、女はそのつもりらしい。  彼はマサ子を連れてタクシイで赤坂の活魚料理店に行った。  マサ子はそこでトンボ眼鏡を外した。  肌が現われた。マサ子の化粧は濃くない。三田村はマサ子が現われた時から、オヤという気持になっていた。店で見るマサ子より若いのである。化粧を落した方が若く見える。その小さい顔の中に小さい鼻があり、小鼻がしょっちゅうピクついている。  マサ子の肌の色は店で見るより黒かったが店でよりも健康的な感じである。こういう女は少ない。昼の方が夜よりも美しく見えるのだ。眼の周囲の小じわにしても店で見るのと大差ない。このことはちゃんと憶えておこうと、三田村は自分にいいきかせた。  二人は刺身を食べ、酒を飲んだ。  五月の鰹《かつお》はうまい。 「食べてからより、食べる前の方がいいんだがね」 「なに?」 「ファイトだよ」 「なんだ、そうなの? でも、おなかペコペコなのよ」 「だから、少し食べて、それからファイトして、そのあと、また腹が減った処で食べるというのがいいと思うね」  マサ子は食べながら聞き、三田村は食べながらしゃべっている。二人はカウンターに並んで腰かけている。  サザエの刺身を食べる。この程度にしてホテルに行きたいものだと三田村は考える。  彼は、その前に、電話しなければならない。自分の家に電話するのだ。 「もしもし」  照代の声がする。 「おれだよ。ちょっと今、大沢さんと会ってるんだ。メシを食べてる。なにか電話なかったか」 「そうそう、邦子さんからまた電話あったわよ」 「どんな電話だ」  三田村の胸の中は暗くなる。 「いつもの通りよ。絶対に籍は抜かないって、だれも抜いてくれなんて頼んじゃいないのにさ」 「まあ、いいさ」 「ほんとに底意地がわるいんだから」  照代はいつもそういう。三田村は、邦子のことをそんなに意地のわるい女とは思っていない。決して戦闘的な女ではないはずだ。けれども、照代は三田村の気づかない邦子の面を見抜いているのかもしれない。  電話を切ったあと、三田村は、爽《さわ》やかな気持になっていた。これでひと安心といった感じである。照代の方に今の三田村に対する疑いがないということが三田村の気持を爽やかにしているのだ。  邦子は照代とはときどき激しいやりとりをしている。しかし、三田村に対して邦子は口論をしかけようとはしない。三田村が出ると、すぐに切れるが、それは邦子からの電話かもしれなかった。三田村が邦子と別居してから、もう三年になる。  マサ子を連れて、三田村は、活魚料理屋の近くにあるホテルに行った。  彼はだいたいコースを決めてある。待合せの喫茶店、食事する店、そして、ホテル、それらの店は歩いて五分とかからない距離に点綴されている。  マサ子は彼女が飼っているマルチーズという犬のことを話している。まるで自分が今ホテルにいることを忘れているかのように犬のことを話したがる。マサ子は照れくささをそうすることでごまかそうとしているのだ。  ということは、三田村のムード造りが粗雑ということでもある。 「そうなのよ、わたしが帰ってくると、オシッコしてよろこぶのよね。犬の話って大好き」  マサ子はエレベーターの中でそういった。  その部屋は広々としていた。和室である。寝室も、控えの間も広い。浴室、便所なども比較的ゆったりと面積を取ってある。 「さあ、お風呂に入ろう」 「きれいねえ、ここ」 「わりといい宿屋だよ」 「宿屋なんて、古いわねえ」 「キザでわざといってるんだよ、正式のホテルというのはよくないね。隣室の声がよく聞えるんだ。その点、連れこみのホテルの方がいいね」  三田村は、ふと、自分はこういう場所に出没するようになって何年経っているだろうかと考えた。  風呂や便所が部屋の外にあるという連れこみ旅館にばかり行っていたのは、もう十数年前のことだ。邦子と結婚して十年経っていない頃だ。その頃の三田村にとって、バス・トイレ付といううたい文句のついたホテルは高すぎた。そして、そういうホテル自体ずっと少なかった。  マサ子は浴衣《ゆかた》を持って浴室に消えた。  三田村は裸になった。浴室に行き、ドアを開けると、マサ子の裸がそこにあった。その裸は、やや彼の興を削いだ。顔の健康な小麦色に較べると胸や背中の肌が蒼黒いのだ。  胸が平べったい。乳房は小さい。 「痩《や》せてるでしょう」 「痩せてる女の方が性能はいい」 「そうかしら。がっかりするわよ」  三田村はがっかりすることよりも、自分の体が不如意にならないことを願っていた。三十歳では、そういう不安を三田村は抱いたことがなかった。  一度射精するのは、挨拶のような感じであった。そして、回復する自分を疑ったことがなかった。  いつから回復への不安を持つようになったのか。それは照代の体に慣れてきた頃ではないのか。照代は酒場の女だった。照代と一緒になったのは、照代が彼の好みの女だったということが第一の理由である。じっさい、三田村は四十を過ぎていながら、毎日照代を求め、しかも、その都度回復し、照代から、異常なほど強いといわれたものだ。  照代は特に小柄というわけではないが、小柄に属し、丸顔で、下町の女といった感じである。だから、洗練された教養とか身だしなみには欠けている。体が三田村の好みなのであって、その反応が気に入っていたわけではない。むしろ、知り初めの頃の照代の反応は鈍いものであった。だが、彼女のやや黄色味を含んだ白いキメのつんだ肌や、適度に肉付のよい稚げな感じの体つき。そして、枢要な部分の構造などが彼に、彼女の資質を感じさせた。三田村には、女の才能、あるいは、官能の資質とでもいったものを見抜く直観力があった。  その直観力は当り、照代は頂の興奮を深めて行った。  だが、やがて、三田村は照代の体に慣れ、倦き始めてきた。照代でなくても、どんな女でも同じにちがいなかった。といって照代の体をきらいになったわけではない。  彼は照代との同棲《どうせい》生活を始めても浮気をしていたが、照代の体に倦き始めたからといって、他の女に対して、照代との当初の頃のような情熱を持つことはできなかった。三田村の精力が衰えたのか、照代に匹敵する女が現われないのか。たしかに彼は徐々に衰えているにちがいなかったが、そのことよりも、三田村が女に対して幻影を失ったことがその最大の原因かもしれなかった。照代との同棲、邦子との別居、そういう画期的行為を通して彼は女に対する幻影を失ったのだ。  マサ子は、抱いてみると、わりあいに三田村にとっていい女であった。体の眺《なが》めがいいのではない。構造の吸引力がエロチックなのだ。その他に、淡い恥毛の感触がやわらかいのも淫心を煽るのに役立っている。  マサ子は熱中し、彼よりも早く達し、やや遅れて、三田村は果てた。 「ああ、ひさしぶりだわ。眼が開けられなくて」  とマサ子がいった。 「ぼくもひさしぶりだよ」  けれども、三田村は、回復する自信はまったく持っていなかった。  マサ子とはおそらくこれきりで終るだろうと、三田村は思った。 「とっても合うわ、先生とは」  マサ子はそういった。三田村はマサ子がおそらく不満としない程度の金を渡してある。その金額がマサ子のその言葉の裏側に影響を与えていないとはいえない。  金を与えないで、果して自分は女にもてるだろうか。それでももてたとする。その時は自分の職業が飾りとなって、その飾りがもてているということは充分考えられる。 「一度名が売れてからは、ぼくは、女にもててるなんて思わなくなりましたね。どこまでが信じられるか女の気持が、わからなくなった」  三田村の知人の流行作家がそういったのを彼は思い出していた。三田村は流行作家などというものではない。けれども、無名ではない。無名でないという点で彼の本体とのズレが始まる。そのズレが三田村には見きわめられない。また、そのズレが彼にむなしいのである。というと、嘘になる部分も出てくる。そのズレを恃《たの》んで女をうまく仕止めようと演じている傾向も三田村の中には多分にある。そして、そのことを楽しみ、しめしめと思っている部分もかなり濃くある。三田村がきらいな言葉に「笑いがとまらぬ」というのがある。  三田村は、そのきらいな言葉に相当する部分を自分の中に感じ、時に、その部分が全体を蔽《おお》うほどに拡がるのを感じて、べつに自己嫌悪もないといった状態があることを知っている。  三田村が起きる頃には、家の中にはだれもいなかった。家といっても、半壊の家屋といった方がよかった。ノミが出ないように、DDTを家中に撒《ま》いている。畳を敷いている処と、上げている処がある。雨漏《あまも》りがするからだ。三田村一人が二階にいて、父と妹は階下にいる。三田村の父は、教会を空襲で失っただけでなく、信仰まで失ってしまっていた。そして、革新系の組合の指導者のようなことをやり、それで生計を立てていた。  彼の妹は中学校の教師をしていた。  三田村は大学に行けないので、遊んでばかりいるわけにもいかず、アメリカ占領軍の仕事を請負っている建設会社の翻訳係をやっていたのだが、専務という男が三田村に鞄を持たせようとしたというそれだけのことで辞め、他のアルバイトの口を探している処であった。けれども、アルバイトの口としては、家庭教師がいちばんいいと思っていた。なぜなら邦子の町に好きな時に行けるからである。  三田村は家へもどっても邦子のことばかり考えていた。つまり、恋の虜という状態であった。  三田村は父の読み残しの朝刊を、ふかし芋を食べながら読んでいた。  と、火事の記事が出ている。大火である。邦子の町の駅前が焼けている。邦子の家は駅前通りにあった。  これは邦子の家を訪れる恰好《かつこう》の口実である。彼はさっそく火事見舞に行くことにした。  焼け出されている可能性は大いにあった。そんな事件があったことが邦子の心に異変を起し、恋などあとかたもなく消えているようにも思われる。その点を確かめにも三田村は行きたかった。  さっそく三田村は、切符を買いに駅に行った。当日売りの切符はとても手に入れることはできないので、翌日の切符を買った。  三田村の父は見舞品として小さいバターの罐詰《かんづめ》を三田村に渡した。三田村の父は、邦子と三田村の手紙の交換のことに気づいていたが、なにもいわない。三田村の父自身にも新しい女性が現われていたせいもある。  その頃バターはきわめて珍重すべき品物であった。牧師という職業についていたために、三田村の父は占領軍の牧師に親しいのがいて、そのアメリカ人の牧師からバターや小麦粉などをもらっていたのだ。  三田村が邦子の町に着いたのは夜だった。三月の初めである。町の外れの人家の灯が見えてき、トンネルがあり、それを過ぎると、街外れの灯が見える。そのあたりは焼けていないのだ。しかし、駅に近づくと、急に暗くなり、人家の灯が遠くに見えていた。邦子の家がある処よりずっと遠くにそれらの灯は見えている。  ともかく、三田村は歩き始めた。汽車の中で聞いた話によっても、邦子の家があるとは思えなかった。 「ああ、助役の納形さんとこねえ、焼けたんじゃないですか。とにかくあのあたりは一面に火の海になりましたからね」 「死んだ人もいるんですか」 「夜中だったから、少しいたんじゃないかな」  だから、三田村は汽車の中から既に観念していたのだ。移って行った場所を探して訪ねなければならない。  駅前の道を三田村は歩いて行った。  黒いシルエットを見せた家並が見えてきた。おそらく、その家並は、黒焦《くろこ》げにちがいないと思って近づくと、その家の中に、ろうそくの灯がゆらめいている。  ということは、そこに人が住んでいるわけである。邦子の家も黒いシルエットとして焼け残っていた。その家の二、三軒手前までが焼野原になっている。  納形家は焼けてはいなかった。電灯がついていないだけである。外からでは見えないが、ろうそくの灯が点されているのかもしれなかった。もしくは、足の踏み場もなくて、どこかの親戚に一家を上げて移っているということも考えられる。だが、おそらくだれかが居残っているはずである。そうでないと、空巣《あきす》泥棒が入ってくる危険があるからだ。  三田村は焦げたにおいを鼻腔に嗅《か》ぎながら、納形家の左右の塀に挟まれた二つの門柱の間を入って行った。踏み石が五、六メートルほど続いていて、その向うに玄関がある。玄関も暗かった。夜の八時を過ぎている。 「今晩は」  というと、中から、邦子の母の声が聞えた。 「どなた?」 「三田村です、火事を新聞で読んできました」  初め三田村という名がすぐにはわからなかったらしいが、やがて、邦子の声が、 「浩一さんだわ」  というのが三田村の耳に聞えてきた。  三田村は邦子の家族と一緒に階下の茶の間の掘炬燵《ほりごたつ》に足を入れて、火事の時の話を聞いていた。しかし、三田村は、早く邦子と二人だけになって接吻をしたり体に触れたいと思っていた。  元来邦子の部屋は二階で三田村が寝るその隣の階段に近い部屋なのであった。  だが、家族はなかなか二人きりにさせてくれない。京都の大学に行っている邦子の兄も帰ってきていた。邦子の兄は三田村より年上で、三田村は、最初から苦手意識を持った。陰湿な感じがあり、三田村の教養などを試し競おうとする感じがある。三田村は、とても敵《かな》わなかった。といって、少しの尊敬を払う気もしない。  結局、二人きりになれる時間も場所も寝るまで与えられなかった。  家の中はかなり混雑していた。荷物を出したり入れたりして、片づいていないからだ。その混雑の中に紛れこんだ三田村は迷惑をかけているわけであるが、持ってきて渡した一罐のバターがその肩身の狭い気持を幾分か救ってくれている。  三田村にとってどこに寝場所を与えられるかが重大な問題である。  邦子は階段に近い二階で寝ることになり、二階の広い部屋に邦子の兄と三田村が寝ることになった。  邦子の父は、邦子の母や邦子の妹と一緒に寝ることになった。  邦子が隣の部屋にいるということは歓迎すべきことだが、自分の傍に邦子の兄がいるのは都合がわるい。邦子の父の方がずっと気が楽である。意地わるを起す気持が邦子の兄の道男にはかなりありそうだ。道男は三田村浩一の胸の中のものを現に見抜いているかもしれなかった。道男は、もちろん、若い者同士の心安さのようなものも三田村に持ってくれていたが、生来的に陰湿な意地のわるさがある感じだ。  道男と三田村が寝床に横になったあと、隣の部屋で邦子がふとんを敷く気配がした。  三田村は邦子の処に忍びこむつもりであった。三田村と道男は邦子と一緒に自分たちのふとんを敷いたのだが、その時、三田村は邦子の耳に、道男の隙を見て、 「今夜、行くよ」  といった。邦子は、道男の手前、なにもいえなかった。だから、三田村は、邦子が果して自分のささやきを耳に入れたかどうかもわからなかった。 「寝つきはいい方ですか?」  と三田村は道男に訊いた。 「そうねえ、すぐには眠れないなあ」  三田村はがっかりした。隣の部屋から邦子が、こういった。 「にいさんは浅いのよね、眠りが」  つまり、彼女は三田村に警告を発しているのだ。自分の処に忍びこんできたりしないようにと戒めている。けれども、三田村は、忍びこんで行きたかった。今夜泊って翌日帰るとしたら、この夜しかチャンスはない。 「にいさん、あした行くんでしょ」  と邦子がいう。道男は翌日はいなくなる。とすれば、三田村は翌日も泊って行けば、なにもこの夜あわてて忍びこんで行かなくてもいいわけだ。 「そう、あした帰らないとな。三田村くんはゆっくりしてゆくといいよ」 「いえ、そうもできないでしょ」 「浩一さんはあした泊っていくといいわ」  三田村は黙っていた。そして、今夜はあきらめることにした。  翌日、チャンスが見つかるにちがいない。暗に邦子はそういっているのではないか。  翌日、道男は、母が引きとめると一度はもう一晩泊ってゆきたそうな態度を示した。三田村は絶望し、「そうすればいいのに」などと口ではいった。しかし、道男はやはり初めの予定どおり大学に帰ることになった。三田村の家よりずっと裕福な納形家の息子を三田村はそこに見ていた。白米の袋を食糧として、下宿への土産として煮干の袋を持たせ、邦子も手伝っている。  三田村はその夜、ひさしぶりに二階で邦子と二人きりになり、接吻をし、乳房にさわった。そして、二人の抱擁にはこの夜の濃密な関係を予感しているような肉欲のにおいが芬々《ふんぷん》としていた。  その夜、邦子は前夜と同じ所に寝、三田村と、邦子の父が、同じ部屋に寝ることになった。  けれども、隣の部屋に邦子が寝ていることは三田村にしてみれば、都合がよいようであり、一方では、不便な感じでもあった。  邦子の父はいつになくしゃべった。火事に会った興奮がおさまっていないらしい。  けれども、午前零時を廻ると、睡気を覚えたらしく、眠ってしまった。しかも、三田村にとっていいことに、邦子の父はアルコールを飲んでいた。そのアルコールというのは、日本酒とかビールとかいったものではなく、どこかの薬局から手に入れたアルコールに赤いシロップを垂らしたものである。  邦子の父は酔いのために饒舌《じようぜつ》になり、酔いのために睡気に襲われたらしかった。  部屋の中は暗い。  三田村は行動を開始した。この前のように狡猾な細工はしない。三田村は起き上り、ふすままで這った。ふすまを持ち上げるようにして開いた。三十センチほど開けると、体を滑らすことができる。  開けたふすまを三田村は閉めた。邦子が眠っているのかどうか三田村にはわからない。  ふとんの裾らしく、邦子の頭はなかった。三田村と邦子の父はふすまに足を延ばして寝、邦子もその境目のふすまに足を向けて寝ているのだった。  邦子はハッとしたように足を縮めた。だがその時から三田村は狂ったようになった。 「父が……」  と邦子はごく小さい声でいった。  しかし、三田村はこの夜を逃せば、また辛い日が続くのだ。いや、この夜がうまく行っても辛い日が続くことに変りはない。  どうせ辛い日が続くのなら、邦子の体を確実に手に入れておきたかった。  邦子の抵抗はこの前のように強くはない。邦子は、彼に許すつもりになっている。 「赤ちゃん、いやよ」 「大丈夫」  といったものの、三田村には自信がない、肝心な時に気をつけようと思った。  邦子の体の前面を覆っているものはなかった。邦子の下ばきは三田村の手によって脱がされ、邦子は、むしろ、脱ぎ易いようにと体を動かした。  三田村は、前戯など知らない。すぐにとりかかった。  邦子の体にさわっていると、この瞬間ごとが三田村には夢の中にいるように思われる。今のこの時間は架空であり、邦子と別れたあとに真実の時間がやってくる。だから、邦子とのことで存在しうるのは思い出だけであるといった感覚に三田村は、現に邦子を抱いていながら、捉えられているのだった。  やわらかいふくよかな白い体を抱きしめながら、三田村はじっとしていた。彼は初めて女体に埋没したのだ。生れて初めての瞬間が今なのだと思っていた。兵隊に行く前学校の寮に引き入れた女の体の構造とはかなりちがって、なめらかにことは運んだ。  そして、彼はたちまち果てたのだが、その果てる時、彼は、邦子の妊娠を恐れて、邦子の腹の上に放っていた。 「よごれちゃうよ」 「いいのよ」  三田村は、多少ぼんやりとしていた。たしかに感激すべき時間を今自分は過しているのだ、と自分にいいきかせた。だが、まるで、彼はなぜか邦子と早く別れたいような気分になっていた。別れて一人になってこの体験を賞味し、反芻《はんすう》したいとでもいった気持であった。  三田村は、すぐに回復した。そして、また接した。初めの時より、もっと円滑にことは進捗《しんちよく》した。だが、想像していたような狂乱は邦子の上に起りはしない。彼は、女は凡てこういう行為の時快感を覚え、それが態度に出ると思いこんでいた。となると、邦子は前の三カ月の結婚生活ではその快感を覚えても、三田村浩一との時には覚えないということも考えられる。前の男は上手だったのか、それとも、前の男の体は偉大であったのか、そんなことを彼は考え、嫉妬にかられ、こうささやいていた。 「前の人とどっちがいい? え?」  けれども、邦子は答えなかった。不愉快な質問であるにも拘らず怒りを示すこともなかった。第一、三田村には怒る邦子の顔が想像できなかった。前の結婚生活から逃げ出した時も、きっと邦子は怒った顔をしたりせず、ごく普通の顔で飛び出してきたのではないか、と三田村は考えた。彼女は余計なことはなに一つしゃべらず、飛び出してきた。その時の邦子の顔や態度はふだんのどの時よりも美しい、三田村はそんなことを考えていた。  三田村は、邦子にこういってもらいたかった。「浩一さんの方がずっと素敵よ。そして体だって、立派」しかし、邦子はそうもいわなかった。彼女が興奮しているのはわかった。その接吻や、首や背中に廻されている腕や、喘ぎやらでわかるのだ。もしかしたらその興奮が悦楽なのかもしれない。三田村はそう解釈するほかなかった。 「いいの?」  邦子は「え?」と訊いた。だから、三田村はもう一度同じことを訊いた。すると、邦子は、一秒ほど間を置いてから「いい」といって、しがみついてきた。  三田村は、この時、邦子の父が起きてきてこのことを見つけられたとしてもかまわなかった。彼は邦子と結婚したいと思ったからだ。邦子と離れて生活することは死ぬほど辛いことに思われる。結婚よりも、とにかく一緒に生活したいという欲求に三田村は激しく突き動かされていた。 「だって、まだ学校に行ってるんでしょ。父や母が許さないと思うわ。卒業してからでないと」  しかし、三田村は矢も盾もたまらぬ気持である。初めて女の体に接したそのことで彼はとりのぼせてしまい、まったく平衡感覚を失ってしまった。  そして、その当日も邦子の家に、泊りこんでしまった。邦子の父の顔に、僅かにそんな三田村の非常識を咎めだてするものが見えている。  三田村は、邦子の母に、邦子と結婚したいと申し出た。 「それは、あなたたちが好きなのならいいでしょうよ、でも卒業してからのことだわね」  邦子の母はそういった。彼は大学に入ってまだ丸一年でしかない。しかも、彼は一日も学校には行っていない。旧制大学の最後の方である。三年で卒業するとしても、まだ丸二年ある。邦子と離れての丸二年という年月が三田村には殆ど永遠のように思われた。彼は兵隊でほぼ一年陸軍病院で過し、当時一年後に終戦による終結がやってくるとは考えていなかったので、永遠に対してあきらめた感情でもって過していた。しかも、軍隊という強大な力に対してはとても刃向うことなどできず、保身の本能でもって豚のようになることがいちばん楽だと心得て日を送っていた。  だが、戦争が終ったあと、彼はもはや豚ではなかった。  権威はどこにもない。食糧と金はないが、好きなことができるはずであった。しかし、自分勝手に二年を縮めるわけにはいかなかった。  三田村は、邦子の説得によって大学に戻ることにした。下宿の米は邦子の家が助けてくれるという。三田村には、そういう援助を恥と思う気持はなかった。助けてくれるのなら得になる、といった程度であり、恥とか感謝といった感覚が、いちじるしく欠落していた。いわば、世界は自分を中心にして存在してい、他人は自分に対してなんらかの負目《おいめ》を持っているのだとでもいった理由のない甘さと傲慢さとが三田村の中にはかなり根強く育てられていた。じっさいそれは牧師が家の主人という家庭環境や三田村の病身などの影響もあっただろうが、先天的に三田村の中にはエゴイズムが他人以上にあったとしか思われない。そして、彼は、当時、そのことに気づいていなかった。単に三田村はさかりのついたオスでしかないといった醜態に気づいていなかったと同じように、他のときどきの醜悪に盲であった。 「三田村先生ですか」 「はい、三田村ですが」 「あのう、わたしの体買って頂けませんでしょうか」 「買うって。つまり、あなたの体をぼくがどう扱ってもいいってわけだな。裸にしてもいいわけだね」 「ええ」  女は少し笑った。まだ稚い感じである。もしかしたら三田村と邦子との間に生れた一人娘のアキよりも若いかもしれない。  アキは二十一である。そのアキと三田村はもう二年以上会っていない。 「旅行するのにお金がほしいんです」 「いくらほしい」 「一万円とちょっと」  安く売るものだと三田村は思った。そして会ってみようという気になった。 「今夜いいのかね」 「はい」 「では、銀座にあるNホテル知ってるかね」 「行けばわかると思います」 「そこのロビイで七時。いいかね」 「はい」 「そうだ、その前に、きみの体つきを訊いておこう。ぼくには好みがあるんでね。身長、体重、バスト、まあ、そういった処をうかがおう」 「身長は百六十センチ、ええと、百六十三センチかな、体重は五十五、バストは八十五です」 「五十五とは重いね」 「骨太なんです」 「骨太はぼくの好みじゃないなあ」  じっさい三田村はがっかりした。彼が抱きたい女は骨細でなければならない。 「もしも先生の気に入らなかったら言葉をかけてくださらなくてもいいんです。エナメルの赤いミニスカートをはいて、上は空色のジョーゼットです」 「わかりました。とにかく七時にNホテルのロビイということにしよう」  三田村は、そういう電話を受けたのは初めてである。手紙ではそういうことがあるが、返事を出さなかった。  彼は出かけて行った。春の気候になったり夏の気候になったり、不安定な日が続いている。三田村は少し鼻風邪にかかっていた。  ロビイに彼が行ったのは七時五分前であったが、すぐに彼の眼に赤いエナメルのスカートが飛びこんできた。  彼女は週刊誌をひざの上に拡げて読んでいて、三田村に気づいていない。背は一六〇センチ以上ありそうだ。足首は細い。色は黒い方で、肌のキメもやや粗そうである。肩は怒り肩で、首が短い。しかし、顔にはかわいさがある。瞼が少し脹れっぽいのがこの女の子のいろいろの欠点を救っている。  女の背後にいかがわしい男がいるかもしれないというのが三田村の心配であった。しかし、彼の中には、そんな男がいて、めんどうなことが起るのも、それも彼の職業にとっては有益な取材になりうるという考えもある。そういう職業意識は不純なものである。ある行為とメモとがいつも密接に関係し合っている生活には重大な欠落がある。  三田村は近づき、声をかけた。 「待った?」 「あ」  彼女はそういうと、赤くなった。二人は並んで腰を下ろした。皮張りのベンチである。 「たしかに骨太だが、足首は細いようだね」  女は舌を出し、その舌を横に流した。そういう仕種を三田村はあまり好きでない。やたらと舌を出し、肩をすくめる。それがチャーミングなやり方だと思っているらしい。  話しているうちに、この女の子が女子大生で、高校を出てまもないこともわかった。三田村の娘のアキより年下である。  ものは試し、という気持も三田村にはある。 「経験はあるの?」 「ええ」  と俯《うつむ》いて彼女はいう。 「なん回くらい?」 「いわなきゃいけません?」 「興味があるからね、どっちにしろ、小遣銭はあげるよ、五回くらい」 「ええ、それくらいかもしれないわ」  また、女の子は舌を出す。 「五回じゃあ、まだなにも知らないだろ。それとも、少しはいいものだと思ったかね」  そんなことを訊かれるとはこの女の子は思ってもみなかったにちがいない。けれども、三田村にしてみれば、こういう会話は自然である。だから、この女子大生のはにかみ方を見て、自分にとって自然なことが相手には不自然な露骨さと受け取られていることがわかり、世間一般の感覚からズレている自分を感じるのだ。この女子大生にしても世間の一般的感覚からするとズレているかもしれない。  三田村は、銀座の酒場ではよくこんなことをいっている。べつに露悪趣味でもなんでもなく、ごく普通の会話としてしゃべっていて、それをまたごく普通のこととして受けとめている女の子たちがわりに多いのである。 「そうねえ、ちっともよくないわねえ」  などと平気な口調でいい、周囲の女たちも平気な顔をして聞いている。 〈そうか、こういう羞恥心や気取り方をひさしく忘れていた〉  三田村はそう思った。そして、この北川優子という女の子と三、四時間一緒に過してみたいという気持に誘われたのである。しょっちゅう舌を出し肩をすくめるというそんな女の子から彼はずいぶん長い間離れていた。  三田村は十年間ほど短期女子大学の教師をやっていた。十年間の中で、彼は、自分が教えた学生と肉体関係を持ったこともある。  そういう学生の中に、北川優子のようなのがいたものだ。 「わるくないと思いました」  いかにも女子学生風なはにかみを浮べて優子はそう答えた。ひざの上に長く両手を延ばしている。肘《ひじ》の処が白くささくれている。骨太なので、そのささくれが目立つのだ。 「どうしてぼくに電話する気になったの?」 「ただ先生だったらいうこときいてくれるかもしれないと思って」 「スケベ人間だと思ったわけだね」 「親しみを感じてたんです。決して先生を甘く見たんじゃないんです。こうして会ってくださっただけでもうれしいんです」  こういう偶像視に出会うと、三田村は弱ってしまう。わるい気がする。感激などはなく当惑だけがあり、なんとかそういう誤った観念を正してやりたくなるのだが、それも億劫である。 「そんな気持はすぐに無くなるよ。よし、行こうか。その前にメシでも食べようか」 「わたし、食べてきました」 「そう、では、直接、行こう」  北川優子の方が先に腰を上げている。 「どこに行くの、旅行は」 「大島です。友だちと一緒に」 「なるほど、その旅費稼ぎか。今まで関係した男で、いちばんの年長者はいくつ?」 「三十六です」 「その男よりぼくは約十歳上だ」  優子は黙っている。彼はこの女の子に対して欲望は感じていない。彼は仕事のため取材のためにこの女の子と一緒に三、四時間過そうと思っている。 「きみはぼくの子より年下なんだよ」  彼はタクシイの中で、小さい声でそういった。 「ほんと?」  たしかにびっくりしたらしい。 「だってきみのご両親はいくつ?」 「母が四十三、父が五十です」  北川優子の故郷は新潟で、料理屋をやっているらしい。親が仕送りをしてくれるが、その仕送りは直接優子に対してではなく、優子が世話になっている叔母に対してなされ、優子は叔母から小遣をもらっている。 「親と同じくらいの年齢の男に対して抵抗感はないのかな」 「べつに……だって、父よりは年下でしょ」 「おかあさんよりは年上だ」 「平気」 「もう一つ訊こう。ぼくと寝たいか。それとも、できたら寝なくて小遣だけもらいたいか。観念してついてくるのかね?」  また優子は肩をすくめた。彼は優子に顔を近づけ、腕を把んで引き寄せるようにして、彼女の耳にささやいている。 「お小遣だけなんて思ってません」 「好奇心もあるというんだね」  優子はうなずき、舌を出す。顔が赧《あか》らんでいるのは、彼と会ってからずっとである。  三田村は、赤坂のホテルのことを考えていた。マサ子を連れて行ったのと同じホテルである。女によってホテルを変えるという方法もあるが、彼は同じホテルを使っている。どの女をどのホテルへ連れて行ったか正確に記憶していない。 「どういう処で経験したの?」 「車の中とかアパート。一度だけこんな処にきました」  タクシイはとまった。運転手はふり返って女の顔を見た。その顔には共通したものがある。見ることで犯してやるといった感じがその眼にはある。 「きれいね……」 「そう、わりときれいだ」  三田村は習慣的になった感覚で先に立って歩き、入って行った。  いつのまに自分はこんなふうに図々しくなったのか。殆ど彼は興奮していない。  受付の女は、「和室にしますか、それとも洋室にしますか」と三田村に訊いた。受付の女とも顔見知りの感じだ。 「どっちでもいいよ。そうだな、和室にしよう」  三田村は、途中で考え直してそういった。北川優子は力が強そうである。すると、かなり暴れることもありうる。ベッドから落ちる不安がある。だから、彼は和室の方を望んだのである。  スモックをつけた女の子が、二人を案内した。マサ子は照れくささからしきりに犬のことを話していたものだ。優子は緊張して黙りこくっている。マサ子の方がまだ余裕があったわけだ。案内の女も黙っている。  二人は部屋に案内されたが、そこは洋間になっていて、受付の女の子が案内の女の子にいった部屋の番号とちがっている。このホテルでは鍵を案内の女の子に渡したりはしないので、部屋の番号を鍵によって確かめることができない。 「和室だよ、三〇八号のはずだぜ」  と三田村はいった。彼のいい方には小言をいっている感じがある。そして、そんな自分に呆れている。多少ともドキドキしてもよさそうなものである。これは危険な徴候ではないのか。十年若かったら、こんな自分を得意に思ったかもしれない。女ずれしている感じがさまで醜くないはずであった。だが、四十五という年齢には、この図々しさと慣れている感じは、頽廃《たいはい》でさえない。頽廃にはまだ鮮やかな毒の美しさとでもいったものがあるが、現在には濁った腐臭があるだけだ。  三田村はふと悲しみに襲われて、二人きりになると、北川優子に対し、 「いやなら帰ったっていいんだよ。いや、なにもしなくたっていいんだよ」  といってみた。いってみると、この言葉にも堕落がある。なにをやってもいっても堕落があるようだ。逃げ道がないといった狼狽が三田村の中に生れた。 「わたし、そんなこといわれると、とてもいや」 「ごめん、ここにいてくれ」  三田村は、なぜか涙ぐみそうになった。それで、立ち上り、浴衣を捜すために洋服ダンスを開いてみた。浴衣はたいてい洋服ダンスにあるか、寝室にあるかだ。 「風呂に入りなさいよ」 「先生、お先に入ってください」  こんな女の言葉も三田村はこれまで幾十回聞いたかわからない。  三田村は優子に近づいて行き、 「キスをしよう」  といった。しかし、三田村は、優子にあるなまぐささを感じていたので、そんなにキスしたくなかった。高校を出たばかりの女は、まだ安定しない噴火中の火山のようなものだ。分泌もさかんだし、自分の体を清潔にすることも知っていない。そのくせ、純潔などということを考えている。  優子は眼を閉じた。キスを受ける姿勢である。  彼はその少し受け口の唇にチョンとキスをした。  髪の匂いが強目だ。 「お風呂にお入り」  優子はうなずき、立ち上り、彼が渡した浴衣を持って、浴室に向った。  湯を流す音が聞えてくる。三田村は昂まってこない。  彼はゆっくりと服を脱いだ。と、妙に自棄的なものが彼の中に徐々にせり上ってきた。服の脱ぎ方が速くなる。  三田村は裸のまま浴室に向った。  ドアを開けた。優子の黒っぽい体がうずくまっている。  優子のその体が赤味を帯びてくる。 「ちゃんと体を洗ってるかね」 「え? 毎日お風呂に入ってます。今日も入ってきたんです」 「いや、そういうことじゃない。洗い方を教えてやろう」  彼は意識的に腹をへこませている。そうしないと、出っぱった腹が目立つからだ。しかし、ひっこめても、やはり、恥毛に近いあたりとか胃のあたりは出ている。  彼は屈んだ。すると、腹に加えていた細工はきかなくなった。  優子は両手で胸を抱くようにして、背を丸め、屈んでいる。 「いいかね、ここをだねえ」  彼は優子の肩を片手で抱きながら、片手を大腿部の間に入れようとした。双の大腿部は固く閉ざされている。しかし、それならそれで手は他にある。尻の方から手を触れればいいのだ。  優子の体はガクンとゆれた。 「動かないで」  優子の顔に怯《おび》えが走り、彼女の顔は真赤になっている。もう舌を出したり肩をすくめたりする余裕は彼女にまったくない。 「ここを丹念に洗ってるかね」  優子は返事をしない。これからこわい手術を受ける者のように硬《こわ》ばっている。 「いや」 「こうやるんだよ」  その時、やっと、三田村は自分の体が昂まってくるのを感じた。女の内臓の感触が彼の指頭にふれ、溢れ始めているのがわかった。 「いつも、こんなふうに洗ってるかね」  彼は洗面器の湯を掌に掬《すく》ってかけてやりながらこういった。彼は、自分の指の使い方のことをいっているのだ。優子の指の爪が延びている。そんな爪のある指ではうまく洗えるわけがない。ビデでもあれば別だが。  優子はおそらくこんなことをされたのは初めてにちがいなかった。  彼は、それから、湯舟に入った。  優子は自分の体を洗っている。 「きみは男性にキスしたことあるかね」 「キスって」 「唇のキスじゃなく、男性自身にさ」 「ないわ」  とんでもないといういい方だ。 「じゃあ、キスしてくれ」  三田村は、この自分の娘より年下の娘に対して不徳義なことをしてみたくてたまらない。優子は既に三田村のそれを見て、すぐに眼をそらした。  彼は湯舟の中に立ち上っていて、優子の頭を持ち、近づけた。優子は顔を左右にゆすっているが、積極的に逃げようとはしていない。  優子の唇に接しているのを三田村は眼に見、そこに触覚として感じ確かめていた。優子はのけぞり、咽喉《のど》が苦しそうに波うっている。  優子の眼は閉じられ、眉間《みけん》にしわが寄っている。顔全体が赧らんで、若い肌が光沢を湛えている。  二人がふとんの上に横になったのはそれから十分も経っていない。三田村の昂まりは衰えていた。それも、すっかり衰えている。優子の少女っぽい体は重そうに横たわっている、彼女は身動き一つしない。  三田村はその体に向って怠惰に手を動かしてみる。しかし反応はきわめて乏しい。溢れるものはあっても、それは、どんなに鈍い女でもそうなのにちがいないといった程度のものである。この娘は三田村の娘より年下なのだ。  優子は少し辛そうな顔になっている。  三田村は昂まってこない。 「よそうか」 「え?」  ギクッとしたように優子はそういった。 「どうも調子がよくない。こんなきれいな体を見ていながら、どうにもならないんだ」 「わたしの体、魅力ないんでしょう。男の子の体みたいじゃないの?」 「いや、きれいな体だよ、とにかく若い」 「無理しなくていいわ」  その時、三田村はどういう理由でか、まるで視点が変った感じに、見ている優子の体に刺戟を受けた。体のどこも変っているわけではないが、自分の年を考えた時、それが刺戟となった。  優子の顔は左右にゆれ、彼女は、三田村の胸を突き飛ばそうとしたが、そのあとでは、彼女は「先生」と呼び続けていた。  体自体の反応はたいしたことはないが、三田村に抱かれているという意識が彼女に快感を与えているらしい、それは三田村の自惚《うぬぼ》れではない。彼は、そういう反応を与えている自分が侘《わび》しい気がした。  邦子は三田村の情熱に負けたというより非常識な無鉄砲に負けたといった方がいい。三田村は大学に戻ったが、とても邦子と別れた日々を送ることができないので、邦子の町に会いに行く。大学のある都市から邦子の町までは汽車で七時間かかった。そのたびに長いトンネルを汽車はくぐる。板を打ちつけた窓からは煙が入ってくる。上り勾配なのだ。いかにもやっと上っているといった感じで、うまく上りきれるかどうかそのたびに三田村は心配で、煤煙による息苦しさを逃れるために角帽に鼻をつっこんで眼を閉じていた。車内は濛々としていた。やがて、汽車は下り始める。すると、煙は徐々に薄れ、呼吸が楽になり、三田村は邦子と会うための一大難関が突破されたような軽い気持になった。  三田村は邦子を誘って芝居を打ったのだった。結婚を許してくれなければ心中するというおどしの手紙を、逃げた先から出したのだ。  どこかに泊るにしても、そんなに金を持っているわけではない。三田村は、小学校の時一年だけ習った教師が教頭として働いている小学校を知っていたので、そこに行き、泊めてくれないかと頼んだ。邦子はいくらか米を持ってきていた。その教師は邦子とも面識がある。教頭となっているその教師は自分の母が木の芽時となると頭がおかしくなってとても世話はできないというようなことをいった。  その教師はほぼ十年前に三田村に与えたイメージとはちがって見えた。感激癖の強い青年で、生徒のできがわるいと彼は教壇でくやし泣きに泣いた。三田村らもその教師の涙を見ると衝撃を受けて泣いた。感激癖の強い教師は「よし、引き受けた」といってくれるにちがいないと三田村は思っていたのだ。  結局、二人は邦子の友人の家に泊ることになった。その友人は学校を出るとすぐ肺結核で死んだ。友人の母と邦子とは親しくて、友人が死んだあとでは邦子が自分の娘のように思える、などといっていた。  三田村も邦子もだんだんと楽しくなくなっていた。「家ではどうしてるかしら」「おどろいて、しまったと思ってるよ」「浩一さんのおとうさんもいらしてるわ、うちに」「念には念を入れるためにも妊娠した方がいいんだよ」「はずかしいわ、そんなこと」  しかし、邦子はその月の生理がじっさいに遅れていた。二人はひまさえあれば互いの体を抱き合っていた。邦子は宙の一点を見つめていることが多くなる。  邦子の友人の母も、帰ることをすすめた。三田村も、いつまでもここに厄介になっているわけにはいかなかった。  その間に邦子の友人の母はひそかに邦子の家に連絡を取っていた。  迎えの者がきた。その男は邦子の家に出入りして、薪を割ったり、風呂を焚きつけたりしている男であった。  三田村の父も納形家にきていた。警察にも連絡して近くの旅館を当ったり、三田村の友人にも問い合せの電報が打たれたりしたらしい。  そういう芝居が結局功を奏し、三田村と邦子とは結婚した。妊娠三カ月の邦子と三田村とは、三田村の町の教会で式を挙げた。三田村の友人が三人、邦子の親戚が数人、参列者は十人ほどでしかなかった。  新居は三田村が寝ていた二階である。二階は大工が入って雨が洩らなくなっていたが、あばら屋にちがいはなかった。  三田村は、女学校の英語教師の口を見つけた。正式の免状を持たない教師である。しかし、勤務の八時間という時間邦子と会えないことが三田村には苦痛だった。やがて、彼はその女学校では、彼の就職を斡旋《あつせん》してくれた教師に盾《たて》つき始めていた。三田村は、その初老の教師のおかげで就職できたに拘らず、まったく恩に着ず、〈それはそれ、これはこれ〉という考えでもって自分を正当化していた。三田村は恩知らずだったわけで、その欠落は以後十数年に亙って彼を覆っていて、彼は殆どその欠落について無自覚であった。  邦子はとうもろこしのパンやさつま芋ばかりの食事に参り始め、二人の生活から甘い色どりは消えた。  邦子が初めてヒステリイを起した時、三田村は、ひどくおどろいた。夜になると停電が続き、蝋のつまった罐に火をつけて、それを明りに使っていたが、その明りの中で邦子は柄にGペンのついたのを机の上に投げつけた。ペンは机に突き刺さって、柄がバネのようにふるえていた。どんなことが原因で邦子がヒステリイを起したか三田村は二十年経った今憶えていない。三田村はこの時も演技した。「そんな女とは一緒に生活できない、殺される」といって暗い外に飛び出した。そして、近くの川べりに立っていた。外は真暗だった。その暗い中に川面が仄白《ほのじろ》く光って、流れる音が立っていた。  虫の音《ね》があたり一面にすだいていた。 「ねえ、ちょっと、帰ってちょうだい、ね。わたしがわるかったわ」  五メートルほど離れたところに邦子が立っていて、彼女の顔が白く浮いている。  三田村は、虐《しいた》げられた者を気取って、黙って邦子をそこに置いて勝手に家に帰った。邦子はまた三田村の傍にいた。そして、「ごめんなさい」といった。  そんなことがあったからといって、夜になれば三田村は邦子を欲しくなった。虐げられた者の顔つきと欲望とはうまく結びつかないので、三田村は怒りをそこにぶちつけるようにふるまった。恥骨が激しく衝突し、邦子は「いたい」といった。三田村はそれを待っていたという気持で、発射したあとでこういった。 「前の男はもっとやさしくやったというわけだな、わかったよ」  邦子はそれには答えない。きっと邦子は眠れないにちがいないと思って、そのことを彼が小気味よく思っていると、邦子の寝息が聞えてきた。  三田村は許しがたい気分になり、邦子をゆり起した。 「おい、前の男についてちゃんと話をしようじゃないか。ぼくは、ごまかしはいやなんだ」 「え」  と邦子はいい、ずっと黙っている。邦子は前の男について三田村がなにを訊ねても黙っていた。どこまでいえば邦子の怒りが爆発するか三田村には試すような気持と、もう一歩を進むことで起るかもしれない邦子の爆発を恐れる気持もある。 「今夜はどこ行ってきたの?」  と照代が訊いた。 「銀座さ」 「どこの店?」  三田村は、用心して、行きつけの店の名を口にしなかった。照代の知らない店の名を口にした。 「どうして電話くれないのよ。杉崎さんから電話あったわよ。家がわからないんですって。まだ印刷所にいるから電話くれって」  杉崎というのは編集者である。  三田村が電話しなかったのは、銀座にいなかったからである。照代は三田村が酒場に行くことに関しては文句をいわない。酒場に行くふりをして女と会っているのではないかという危惧《きぐ》を彼女は抱き、三田村は、じっさいそういうことをやっている。  照代が三田村に一度電話をくれというのには、三田村の夜の行動を信じているわけではないということを教える意図と、うるさくいえば三田村が浮気をめんどうに思ってやめるだろうという目算とがある。  だから、女と会っている時、彼が照代に電話するのは、女との食事が終りかける時である。食事の初めの頃電話するとする。照代は「今どこ?」と訊く。三田村は正直にいう。なぜなら、照代は三田村が嘘をついているかどうかを検べるためにすぐにその店に電話して三田村を呼んでもらうことが考えられるからである。正直にいっても、食事の終りかけであれば、照代がすぐにタクシイでやってきてもそこには自分はもういないという計算が三田村の中では働いている。  ところが、この夜は、三田村は電話しそこなった。電話しようと一度思ったが、その時客がかけていた。それで忘れてしまい、そのままホテルにきてしまった。ホテルからの電話は禁物である。ホテルは電話を申しこんでも決してホテルの名前を名乗ったりはせず、じかにつないでくれるのだが、部屋の中の静けさが照代の耳に伝わることがこわいのである。人気がないということで疑われてしまう。それで、この夜は電話をしそびれてしまった。ホテルを出ると、女を送って帰ってきたのである。 「一つの電話が故障で、一つの電話をグループの客が次々と使ってたんだ。そのうち電話するのを忘れてしまった」  照代は信用しないといった顔で、それには返事をせずベッドの上で雑誌を読んでいる。じっさいに読んでいるのか読むふりをしているのかわからないが、行を追う感じに眼は動いている。  三田村は印刷所の校正室にまだいた杉崎に電話すると、すぐ風呂に入った。と、電話が鳴り、照代が出る声が風呂場まで聞えてきた。どうやら照代への電話らしい。  その電話が邦子からのものであったことを知ったのは、三田村が風呂を出て机に向って三十分ほどした頃だ。照代は彼の傍にくると、啜《すす》り上げる声を先ず出してから、こういった。 「また、邦子さんから電話があったのよ。わたしのこと罵《ののし》って。わたしがあなたのことを取ったというのよ。わたし、くやしくて……」  照代は、これまで邦子との電話での喧嘩のあとそんなことはなかったのに、泣き始めた。 「邦子さん、なんでわたしのこと苦しめるのよ。籍なんかどうでもいいといってるのに」  照代の口にかかると一方的に邦子は悪者である。邦子は、照代が水商売の女であったということが気にくわないのだ。照代のような女だから籍を抜いてやらないのだというのだが、三田村が考えるには、どんな女でも三田村と一緒になれば、自分から三田村を奪ったというふうに邦子は受けとり、その女だから籍を抜いてやらないというにきまっている。  邦子は、長い苦しい時代に自分は三田村にいろいろ尽してきたという意識がある。それは、三田村家より納形家の方が富裕であったという誇りにもつながっている。三田村が一旦勤めた女学校の教師を辞めて大学に戻り、卒業できたのも邦子や納形家の援助があったためである。  やがて、三田村は女子短期大学の教師になった。乏しい月給での生活が始まる。不足ぶんの生活費の援助を邦子はたびたび実家にあおいだ。三田村は、持っているものからもらってなにがわるいという気持だった。その態度を邦子は今でも憶えていてその記憶も彼に対する恩恵的な気持を構成する一つの要素になっている。あるいは、邦子の誇りの中には学校の成績がいつも一番であったというようなこともある、と三田村は考えている。それなのに、どこの馬の骨ともわからない照代のような女に夫を取られ、また、夫はそんな女に走って行ったという憤懣《ふんまん》、経済的にだんだんよくなってきたちょうどその時を狙って現われたけしからぬ女、というふうに照代を見たがっている気持もある。  だから、照代もこういうことがある。 「わたし、邦子さんの気持、わかることあるわ。きっと、邦子さんも我慢してたと思うわ」  三田村は、そんな照代の言葉を思い起しながら、嗚咽《おえつ》を続けている照代の傍で机に向っている。照代の涙への気がかりが半分、仕事への気がかりが半分である。照代のこの今の嗚咽はおそらくなにかの作品の中に使えそうだとも思う。  もちろん、照代の嗚咽への気がかりとは職業的な関心だけではない。照代の悲しみへの気がかりもある。だが、彼はそれほど悲しみを苦にはしていない。むしろ、照代の弱さをそこに見る気がし、そんな照代は三田村にとっては好ましいのである。邦子と電話で罵り合っている照代を彼は好きでない。勝気まるだしの照代は憎々しいほどだ。  しかし、今照代は泣いている。彼女は、籤《くじ》に当った感じに、やり手の女になったり、子供っぽくなったり、憎々しくなったり、かわいくなったりする。  照代の嗚咽は弱まり、クーラーの音が三田村の耳を覆い、彼は、ほぼ二センチの厚さに積まれたいちばん上の原稿用紙の書きかけに向ってペンを滑らし始めた。 [#改ページ]   裏をかく  そういう日、和田は古いパンツをはくことにしていた。下につけるシャツも古いのを着る。  そして、上着なども、特に気に入っているのは着ずに、ネクタイも地味なのを締めて出かけるのだった。そして、 「改まったところに行くわけじゃなし、これでいいか」  などと妻の育子の耳に聞えるようにいってみるのだった。  下着にこることもなく、不精《ぶしよう》な感じで出かける夫が、これから浮気をしに出かけるとは育子は考えないにちがいない。というのが和田の計算である。  しかし、育子がその彼の計算にごまかされているかどうかは、はっきりしない。  育子が黙っていると、和田には、さっぱり育子が考えていることがわからないことが多いのだ。  もしも育子に浮気の現場がばれたら、彼は殺されるかもしれないと考えている。  育子にはカッとなったらなにをするかわからないような処が多分にある。そこにナイフがあったらナイフを投げつける。  じっさいに育子はナイフを彼に投げつけたことがあるのだ。彼女は桃の皮をむいていた。彼が夜帰ってくると、 「どこに行ってたのよ」  といった。 「つきあいで」  と彼はいう。 「どこに行ってたのと訊いてるのよ」 「店の名をいちいちいわなきゃいけないのか」 「いってごらんなさいよ」 「いう必要はない」 「バアの名前をいってごらんなさいよ」 「ノコ、銀、道家……」 「うそ、道家には行かなかったじゃないの」 「行ったよ」 「電話したら、今日はいらっしゃらなかったといってたわ」 「行った。沢藤に訊いてみろよ」 「沢藤さんなんかに訊いたってわかるもんですか。同じ穴のムジナですもの。とにかく道家には行ってなかったわよ」  和田は、じつの処、この日道家には行かなかった。ノコに三十分ほどいただけである。ノコに行ったのは、初子と同伴である。八時半にノコに入った。和田は初子と五時に会い、ホテルに行き、情事をすませ、食事をしてからノコに行ったのだ。そのノコで偶然に沢藤と会った。沢藤は和田と同じ画家である。そのあと、また別の店に行き、沢藤と別れて帰ってきたのだ。  育子の手からナイフが飛んだのはその時である。ナイフは彼の背広の腕を、しかも、心臓に近い方の腕を掠めて押入のふすまに当って落ちた。  その時、彼は育子を殴った。 「おれを殺す気か」 「あなたなんか死んじゃえばいいのよ」 「当てるつもりで投げたな、体に刺さってもいいつもりで投げたな」 「そうよ、死ねばいいのよ」 「よし、わかった。そんな女との生活はご免だ、おれは別れる」 「そういえばいいかと思って」  彼は、育子を殴ったあと、家を飛び出し、ホテルに泊った。どこのホテルかは育子にも連絡しなかった。ホテルから、知っている女の子を呼び寄せて、一晩を過した。  翌日彼は、家に電話した。育子はいず、女中が出てきたので、ホテルの名と部屋の番号をいって、なにかあったらこっちに電話するように言伝《ことづて》をした。 「育子はどこに行った?」  というと、女中は、 「美容院にいらっしゃったようです」  といった。  それから一時間もしないうちに、育子はホテルに現われた。彼女は果物を買ってき、まるで前夜のことは忘れたように「おいしいぶどうがあったから」といった。  そして、 「ねえ、抱かれたい」  といった。こういう時の育子はまるで別人のようである。  そして、和田は、そんな育子への怒りが薄れてくるのを覚えるのだった。それが彼には残念であった。この事件は別居のいいきっかけになるはずであったのに、こうして、そのチャンスはこわされていく。  育子の体は和田にとって申しぶんのないものといえた。だが、どんな申しぶんのない体でも男はあきてくるものだ。  育子の感度はとてもいい。肌のキメもこまかくて、見た眼にもいい。頂に達しようとする時の顔や声もいい。というより、その時の顔や声の方が、ふだんの時の顔や声よりもきれいなのである。  そういう女は和田の経験では珍しい。ふだんは美人なのが、その時になると、まるでオランウータンのような顔になる女がいる。ふだんの声はきれいなのが、その時になると、踏みつぶされた蛙のような声を出すのがいる。  育子は決して美人ではない。和田は、画家の意識でもってしても、美人には関心がない。美は性能を予感させねばならないのである。だから、たとえば犬のコンクールに対しても和田は疑問を抱いている。形とか脚の関節の角度とか、歯とか、そんなことはその犬の性能とは無関係ではないか。  二人の間には子供がない。このことも育子の嫉妬心を強くする一因である。夫婦の間では子供が紐帯《ちゆうたい》となって結ばれていることが多い。 「わたし、スナックを持ちたいわ」  と育子はいう。 「そうすれば、あなたに対してずっと寛容になれる気がするのよ」  和田も育子がスナックを持つことには賛成である。しかし、金がなければどうしようもない。銀行から借りるにしても、金と信用がなければならない。それに、和田は商売とか経営についてはまったく白痴を自認しているので、育子が自分で場所を見つけ自分で金を借りたりするぶんには賛成だが、彼自身が動きたくはないのである。  和田は四十歳である。これまでも、それが商売のように女と浮気したものだ。  育子は三度目の女である。一度目のは、和田の浮気に愛想をつかして出て行った。彼はとめなかった。二度目のは、彼が浮気しているからという理由で自分も浮気し、浮気は恋愛に移行し、これも彼の所から離れて行ったのだが、そのいずれの場合も、子供がいなかったということが別れを容易なものにしていたことは確かである。  彼は浮気をわるいとは考えていない。だが、見つかるとこわいとは思う。特に育子のような女に見つかるとただではすまない感じがある。  にも拘らず、和田はこの日も出かけて行くのだ。古いパンツ、古いシャツ、地味な背広をつけ、髪に櫛を入れもせずにである。  和田はタクシイに乗って出かける。地下鉄を利用してもいいのだが、地下鉄だと尾行されるおそれがある。育子が興信所に調査を依頼していることも考えられるからである。  タクシイに乗る時にも、その辺にタクシイを待っている者がいると、その人物は先に乗せて、自分はあとで乗る。あるいは、車に乗って様子をうかがっている者もいるだろうから、その点も考慮して、和田は、タクシイを拾う場所を日によっていろいろ変えることにしている。しかし、そのことを育子は知らないはずである。育子と、一緒に出かけてタクシイを拾う場所は一定しているからだ。それは歩道橋の袂《たもと》である。  育子が興信所に頼んでいるとしたら、その歩道橋の袂で待ち伏せするよう注文するにちがいない。だが、興信所は、和田が家を出るその時から見張っているかもしれない。となると、彼はどこでタクシイを拾っても用心しなければならないわけである。  和田のそんな気配りを神経質すぎると沢藤などは非難しているが、和田は、それは人ごとに事情があることだと思っている。自分は育子に脅威を感じているのだから仕方がないという意見である。  和田は自分のあとをつけている者がいないかどうかあたりの様子をうかがいながら、タクシイを拾える道路に出るまで歩く。  そういう人物は見当らない。タクシイがきた。彼は乗る。乗ってから、うしろの窓からふり返ってみる。タクシイがすぐうしろを走ってきている。そのタクシイには男が一人乗っている。  和田は、運転手にこういう。 「色をつけるから、うしろのタクシイを先にやらせてくれないかな。あるいは、他の道を通ってくれないかな」  運転手によっては、素直にいうことを聞いてくれるのもいるが、中には、 「じゃあ、近くで降りてくださいよ」  というのもいる。そういう時には、和田はむしろ歓迎的に降りる。そうすればうしろのタクシイを完全にやり過すことができるからである。  こういうめんどうな細工には余計な時間がかかるものだ。乗ったタクシイを降りてまた別のタクシイを拾ったりしていると、二十分もかかることがある。タクシイを拾うことがむつかしいからだ。  そんなことのために、和田は、女と会う時には、かなり早めに家を出る。  そして、こういう手も使うことがある。ある旅館と懇意にしておくのだ。この旅館は料亭も兼営している。彼は仕事のことでだれかと食事しなければならない時は、この旅館を使う。この旅館には無線タクシイやハイヤーを呼ぶことができる。  周囲にある胡散《うさん》くさい気配を感じるような日には、まっすぐこの旅館に行くのもいい方法である。そして、ハイヤーを呼んでもらうのだ。この旅館は閑静な場所にあるので、近くで見張っている車があったりすればすぐわかる。  この日タクシイの運転手はうしろの車をやり過してくれた。それだけのことに彼は百円色をつけてやる。  待ち合せの場所は、喫茶店だったり書店だったりホテルのロビイやデパートの屋上やらいろいろである。  この日は喫茶店である。それも小さい喫茶店で、彼はその女にその店のありかや電話番号も教えてある。  待ち合せは五時である。  この五時という時刻に育子は神経を尖らせるので、和田はむしろ、四時に人と会うといってある。そして、四時より少し遅れて先方につく感じの時刻に家を出る。この日もそうである。  初めて外で会う女だ。この女は前はモデルをしていて、今は銀座で働いている。モデルをしていた女の子は銀座にかなりいる。  その道子という若い女の子はヘアのモデルをしていた。ヘアのモデルをしていた女の子の顔は例外なく小さい。そして、髪の腰が強くないといけない。  道子が彼と寝てくれるかどうかそこの処はまだはっきりしていない。和田の方が一人合点で女が寝てくれるものと思っていることがこれまでも多々あった。  彼が強引に金額を口にし「どうだ、それで手を打って、あいびきしないか」といい、女が「いいわよ」といって会ったことがある。  だが、その女に彼が「じゃあ、行こう、ホテルへ」というと、「なんですって、どういうこと……」と開き直ったものだ。よく聞いてみると、その女はただ食事したりお茶を飲んだりしてやるだけのつもりだったという。ただそのことのためにしては彼が示した金額はかなり多い。彼は、会うなり女に金の入った封筒を渡していたので、取り戻すわけにいかない。怒りよりも、彼ははずかしさで一杯になったものだ。  あるいは、こういうこともある。「あした、覚悟しておけよ」と耳うちし、女が「わかってるわよ」といって、いざ会ってみると、女はホテルに行くのをいやがり、「お食事しましょうよ。チャンスはまだあるでしょ」といい、ついに、和田は果せなかった。こういうことはかなり多いのだ。  道子に対しても和田はこういってある。 「あした、身柄をあずかるからね。そして、ホテルに行くんだ。きみの体を洗ってみたいしね」  沢藤はそんな和田の言葉に対して批判的で、彼はズバリものをいった方がいいという意見である。沢藤だったら、「アレやろうな」とか「いいだろう、あした、二人でホテルに行こう」といえば、誤解は防げるというのだ。しかし、和田は、そこまでいわなければ女がわからないということはないと思っているのだ。わかっていながら、急に心変りするか、わからないふりをしているのだと彼は考える。  じっさい、女の気持は昨日と今日とではまるっきり変ることがある。昨日は確かにその気になっていて、明日になってもその気持が変ることはないと確信していたにも拘らず、当日になると変ってしまっている。  道子も和田の意図を承知の上でやってくるはずである。  しかし、道子の気持が変っていることもある。いや、前日道子はべつに和田のいうなりになろうと決めていたわけではないのかもしれないのだ。漠然とした冒険心が彼女にデートする気持を呼び起したのかもしれない。明日になれば明日の風が吹くというやつである。  いつものように和田は少し早目にそのボアという喫茶店に着いた。コーヒーがうまいというのだが、和田には、コーヒーの味はよくわからない。  この喫茶店には音楽が流れていないのがいい。和田はポピュラーなメロディや歌がきらいだからである。音楽がなくて、明るくて小さい喫茶店が好きだ。横浜の外人墓地の近くにそういう喫茶店があった。  道子はもうすぐやってくるだろう。  しかし、女の子はひょいと気が変ってやってこないことがある。そんな時は電話を寄こすのが普通だが、中には、電話も寄こさないのがいる。  電話も寄こさないような女を和田は二度誘うことはない。そんな時でも和田は怒ったりはしない。どんな態度に出られても仕方がないという覚悟の上で誘っているからだ。  中には、女の友だちと、しかも、同じ店の友だちと二人連れでやってくるのがいる。一人だと危険だと思うのか、食事だけのつきあいと和田にしかと知らせるつもりか、食事をご馳走してくれるのなら自分の懐ろが痛むわけではないのだから友だちにも相伴にあずからせたいという気持なのか。  道子は五時を少し廻った頃に現われた。  道子の年齢は三十に近いと和田は見当をつけている。しかし、道子は自分では二十三、四だというようなことをいっている。  眼の下の皮膚に彼は彼女の年齢が二十三、四でないことを読み取っている。酒場の女たちの多くは自分の年をじっさい以下にいいたがる。だが、中には、自分の年を満でいわずに数えでいうお人よしの女もいる。  その女が数え年で自分の年をいったということだけで、和田はその女と寝たくなり、じっさいに寝たことがあるが、その味は月並であった。自分の年を数えでいうのんきさが官能的分野ではある程度|暢気《のんき》さとなって現われるのだ。  道子は痩せている。しかし、その体はやわらかで、和田は、道子とそのクラブのフロアで踊っていて、抱き心地がよい体であることを発見した。  首に息を吹きかけると、肩をすくめ、 「だめよ、わたし立っておれなくなるの」  といった。  彼は踊りながら耳にも接吻してみた。髪で耳をかくしているのは、耳に直接空気がふれたり、人の息がかからないためだという。耳も首筋と同じくらい敏感なのだという。 「自分の髪の動きでも、ボーとなってくることあるわ。でも、髪の方が人の息よりはずっと軽くていいわ。それに、髪は自分のものだもの」  道子はつやのない肌をしていた。青白い貧血性の肌だ。  そのボニイというクラブに和田は三度しか行っていない。三度目にくどいたのだ。  だいたい、和田の経験によると、二、三回目に行った時にくどくのがいちばん成功率が高いようである。いろいろの処を見せ合ったり知らせ合ったりしてからは、くどきにくくなる。女は男に未知の領域があった方が気持を引かれるらしい。 「なぜより深く知るようになると女は寝たがらないのかなあ」  と和田は一度他の店の古い子に訊いてみたことがある。 「それはムードがなくなるからじゃないかしら」  女の子はそう答えた。 「女って、あまりどこのたれなんてわかってしまうとロマンチックなものを感じなくなるのよね。どこからともなく現われ、どこへともなく消えて行く、そういった男のことを素敵だと思うわね」 「しかし、現実には、そんな男はいない」 「いなくても、そういう感じがいいのよ」  そういう女の言葉から見ても、女は決して真実を求めているのではないということがわかる。女が求めているのは、上辺なのである。そして、自分にとってどうであるかが女の関心事なのだ。その男の一般的評価など女は考えない。自分にだけやさしければいいのである。  昼間見る道子の肌の色はやや青白い。そして、彼女には全体的にけだるさのようなものがある。そのくせ、踊りは上手なのだ。組んで踊るのも上手なら、ゴーゴーもうまい。  道子はその大きい眼で凝《じ》っと和田を見つめた。 「和田さんの画って見たことあるわ」  道子はそういった。そういうことをいわれるのは和田にはわるくない気持である。 「どこで?」 「ある人に連れてってもらったのよ、和田さんの個展に。そのことを、ここにくる車の中で思い出したのよ。ちょうどお店に出る前にお客さんと今日のように会ってたのよね。そしたら、その人、画を見に行かないといって……」  和田が気になるようなことを道子はいった。「今日のように会ってたのよね」と彼女はいった。和田の画を見たその日彼女はその客とはおそらく寝ていない。だから、「今日のように」と道子がいっているのは、この日も食事だけで終ったようにということなのかもしれない。 「ぼくは、食事はあとにしたいのだが……」  と和田はいった。  道子はコーヒーを注文し、煙草を口にくわえた。彼はライターをさし出してやる。 「わたしもあとでいいわ」  ちゃんとわかっていっているのだろうかと和田は心配である。幾度あいびきしても、その都度不安で、読みがまちがっていたりし、安堵《あんど》したりがっかりしたりということのくり返しである。 「八時半くらいまでに店に入ればいいんだろ」 「そう、九時半にだっていいわ」 「時間はたっぷりあるな」 「そうね」  道子にはどこか思慮深げな感じがある。といって分別くさいというのではなく、むしろ、行動は大胆で、人がどういおうと平気のような感じがある。 「きみは度胸がよさそうだな」 「いい方と思うわ」 「ときどき浮気するかね」 「浮気はしないわ、特別の男がいるわけじゃないから。つまり、本気でも浮気でもない情事を楽しむ方だわ」 「情事は楽しいかい?」 「楽しいわね。だんだん楽しくなるみたい」 「だいたい男を見るとわかるかね」 「無口な人にテクニシャンが多いわ。先生は血色がいいわね。血色のいい人って意外にすごくないのよね」 「それはきみにもいえるよ。貧血性の女にタフなのが多い」 「ほんとにそうね、蒼《あお》い顔してる人ってすごいのが多いわ。男もそうだけど。無口で蒼い顔の人が入ってくると、ハッとしちゃうわ。男でも女でも」  道子のコーヒーがまだ半分残っている。道子は、煙草をもみ消した。 「では、出ようか」 「ちょっとお便所に行ってきます」  和田は女の子の口から「お便所」という言葉をめったに聞いたことがないので、却《かえ》って道子に好感を抱いた。彼は「トイレ」という言葉がきらいだった。 「いいねえ、ついでに〈便所〉といってもらいたいね」 「厠《かわや》って言葉もわたし好きだわ。わたし、オシッコの時に、便所とか厠とかいって、お化粧を直す時は、〈化粧室〉というの」  道子はこの場合は、小用を足しに行ったことになる。  道子は薄く白粉を刷《は》いて出てきた。  二人は外に出た。 「きみはベッドが好き? それともふとんが好き?」 「おふとんがいいわ。それもあんまりフワフワしない固い感じのがいいわね」 「それはぼくも賛成だね。スプリングがよくきくベッドはどうも苦手だ」  タクシイが走ってきた。習慣的に、和田の眼はその辺に停車している乗用車の中からこっちを見張っている眼がないかと調べている。そして、タクシイのあとからまた空車がやってきて、それに乗りこむ人物がいないかと調べる感じになる。  道子を先に乗せた。  相手が大人であるということが和田に大きい安堵を与えている。  なぜふとんの方がベッドよりいいかという話を和田は道子にして聞かせた。  道子は笑った。和田が固いふとんだと五ミリくらい得をするといったからである。女の背中のふとんが抵抗物となって男は女の中に五ミリだけ深く侵入できるというわけである。 「それはスプリングのよくきくベッドでも同じではないかしら。ちょうどボクシングのカウンターみたいになってもっと得をするかもしれないわ」 「カウンターなんてよく知ってるね」 「ボクシング見に行くもの。お店にくるボクサーから券をときどきもらうから」  そういえば道子が働いているボニイというクラブで和田はフェザー級の世界ランカー前島を見たことがある。 「ボクサーってのはどうなのかな、セックスは」 「スポーツマンて総体的によくないわね。若いからかしらね」 「精力はあるだろう」 「それも個人差があるわ。スポーツのエネルギイとあれのエネルギイは別みたいな気がするわ。わたし、若い人ってきらいだわ」 「ぼくも、今好きな年にしてやるといわれたら、二十代にはなりたくないな。三十代がいい」 「先生いくつ?」 「四十さ」 「それでも少し若いわね」  和田は窓のうしろから見る。尾行されている感じはない。  タクシイで二百円かからない処にそのホテルはある。人通りの少ない道に面している。しかも、タクシイは、中まで入れるのである。 「ここ、前きたことあるわ」  と道子がいう。  二人は案内された。道子は、案内の女中に、こういった。 「ここ変ったわね、改築したのかしら」 「わたしはまだ一年ですからわかりませんが、そうらしゅうございますね」  道子はひどく落ちついている。  和田は女中にチップを渡した。女中がかえったあと、和田は、ある連れこみホテルで女中に三百円のチップを渡したらことわられた話を道子にした。 「つまり少ないんだね。そんな額を帳場に届けるわけにはいかないからけっこうだというんだよ。みなさん、五百円千円とくれます。わたしども、チップサラリイになってるものですから、なんていうんだな」 「失礼ねえ」 「そういうこともあるってことさ」 「なんだか、今のわたしたち、感激してないみたいだわねえ」 「ぼくは照れかくしさ。きみは落ちついている」 「落ちついてなんかいないわ。すぐにわかるわよ」 「風呂に入りなさい」 「先に入っていい?」 「いいよ」 「女が入ってる処にくるのが好きなのね」 「それよりも、男が先に入ると、女は取り残された気持になるんじゃないかと思ってね」 「そんなことないわよ」 「もう一つは、男は、まだ女が服を着ていると思うと、女がひょいと気持が変って、自分が風呂に入っている間に出て行きやしないかなどと思う」  道子は笑った。そして、 「ないとはいえないかもね」  とはやりのいい方をした。  道子は浴衣は持たずにバッグを持って浴室の方へ消えた。  和田は脱ぎ始めた。部屋の中はやや涼しすぎる感じだ。暖房も冷房も必要のない季節である。なにかのモーターの音が聞えてくる。  和田は真裸になると、浴室に行った。  道子が湯舟の中につかっている。その肌は蒼白い。しかし、胸は思ったより豊かである。その乳房が乳首の少し上のあたりから湯の中にかくされている。肩を出して、彼女は、タオルで首のあたりを拭いている。  道子は自分の長い髪が濡れないようにタオルで上に束ねている。 「いい体してるね」 「先生もわりとしまってるわね」 「ぼくなんか四十歳の体さ。自分の体をほめられたってうれしくない」  道子は落ちついている。今にわかるといった気配はまだ出ていない。 「代りましょうか」  屈《かが》んで下半身を洗っていた和田は立ち上った。道子も湯舟の中で腰を上げた。  そんな道子に和田は手をかけた。と、道子の体が傾いてきた。二人は、立ったままキスをした。道子は眼を閉じ、和田の背中に両手を廻している。和田は道子の顔を両手で挟んでいる。和田の指は、キスをしている間、よく動いて、道子の首筋を撫でている。  和田は唇を離した。すると、道子は頭を彼の肩に伏せてきた。 「さわられるともうだめなの。もうわからなくなるのよ」  道子は酔ったような声でいった。  裸のまま二人は抱擁し続けている。和田の手は、道子の体のさまざまな部分に延び、そこを愛撫する。 「わたしをちゃんと抱いてて。そうでないと、わたし、倒れそうなの」  道子は眼を閉じ、かすかに口をあけてそういう。  道子の頭がゆらゆらしている。  和田は、道子のまだ濡れている体を浴室の外に連れ出し、バスタオルでさっと拭き、肩を抱くようにして、ふとんを敷いてある部屋に道子の体を運んだ。  じっさい道子はもうこうなると体だけの女であった。あの頭のよさや落ちつきはいっさい取り払われて、それまで眠っていた別の女が道子を支配している。  和田は定石《じようせき》どおりの愛撫から始めた。しかし、無臭を好む和田は、体臭の強い女に対しては主として指に頼り、体臭の薄い女に対しては唇や舌に頼る。  道子の体臭は薄かった。道子はあまり声を立てず、声を怺《こら》えている状態を続けている。やたらと声を出す女より、声を怺えて顫《ふる》え続ける女の方がずっと和田には煽情的である。  脱いだ時には意外な大きさである乳房も仰向けになるとその形を崩している。薄い腋毛が見える。彼女はまるでゴーゴーを踊っているような手のふり方をして、自分の口から出そうな声を殺すために、口をなにかで塞ごうとして、敷布や枕にこすりつけようとしているのだが、既に枕はふとんから落ちてしまって、なくなっている。  枕というものは、情事の時の女にとっては不便なものである。女はのけぞりたがる。枕はそののけぞりを妨害しようとする。  唇と舌に頼る愛撫をひと通りおえると、和田は、始めた。それほどの感激はない。しかし、道子はどうやら没我の状態にあるようだ。  道子の肝心な部分はかなり良好である。やや柔軟の気味はあるが、小さ目である。  しかも、その細く尖ったあごのあたりを顫わせての反応は和田をかなり満足させた。  道子は「やめて、やめて」というのが癖らしい。もちろん、本心はやめてもらいたいとは思っていない。しかし、和田は、わざと、 「やめるのか」  と訊いてみる。すると、道子の頭は左右に打ちふられる。  蒼白い肌の女はタフである。息絶えそうでいて、その状態をあくことなく続けることができる。  長引くにつれて、初めは柔軟であった緊縮力が強まってくるのだが、和田の感じでは、この緊縮力というものは色の黒い女がいちばんである。 「いい体だね、とてもいい体だ」  和田は道子の耳にそうささやいた。しかし、道子はそれに対しては答えない。ふだんの顔より寝顔がいい。眠った顔ではなく、クライマックスの顔がということだ。その点育子と似ている。  とうとう、怺えきれずに声が出てくる。その声も、また、わるくない。そこには別の女がいる。喫茶店での分別ありげな、男に倦怠を感じているような女の乾いた声が消えて、子供っぽい声が出ている。 「いい声だね。女学生みたいな感じだよ」  しかし、女には自分の声が聞えていないはずだ。  彼は持続力には自信を持っている。けれども、持続しながらも、中だるみがある。中だるみの時に自然と離れてしまう女の体もあれば、そのまま離さない体もある。  その点、道子の体は離れそうで離れない。  こういう時、和田は自分自身の中で心理的細工をすることにしている。この中だるみを盛り返すための細工である。女の体の眺めのよさなどは、その細工に大いに役立ってくれる。エロチックな眺めから盛り返すこともあるし、想像力に頼ることもある。  この女がこれまで彼に対して洟《はな》もひっかけない女であった。しかし、和田はこの女と寝たかった。この女は名だたるプレイボーイとしか寝ないという噂であり、逸品の持主だということでもある。その女がひょいとその気になり、今こうして自分とこんなふうになっている。といった想像をしてみると、遽《にわ》かに盛り返すということがある。しかし、なにも手のこんだ細工でなくてもいいのだ。道子の場合であれば、相手の幼い声から、女子高校生と寝ていると、考えたっていい。成績がよくて、教師たちからも信頼されているが、じつは既に快楽を知っている早熟の女子高校生とこうしているのだという想像も刺戟的ではないか。  盛り返した和田を道子は敏感に感じ取り、その声はますます幼げになり、「やめて」という言葉が声の間に混じっている。  和田は終りを彼女に予告する。彼女はうなずく。期待のために声がいっそう昂まる。そして、彼は果てるのだが、果てる瞬間は、どうということなく終る。  道子は死んだようになっている。和田は、まだ十分間は我慢して、道子の感覚につき合ってやる。  この女とまた会ってもいいと思う。しかし、道子がまた会ってくれるかどうかはわからない。彼の眼には道子はずいぶん感激したように思えるのだが、道子自身は、もっと深い感激を期待していたのかもしれない。そこの処は今はわからない。 「すごくよかったわ」  道子はいかにも本心からのようにそうはいったものの、これも今の処はわからない。  和田の帰りはいつもより早目になった。 「早いわね」  と育子がいった。その声にはつやがあり、悦んでいることが和田にはわかる。 「まるでわるいみたいだね、早くちゃあ」 「今日はもてなかったのね」 「いや、眠くなったんだ」 「どうして電話くれなかったの? 沢藤さんから電話があったわよ。沢藤さん〈じゃあ、例の処かな〉なんていってたけど、例の処ってどこよ」 「どこのことかな? 〈銀〉かな。しかし、今日はあそこにはいっていない。電話するのを忘れてたなあ。電話しようと思って立って行ったらふさがってて、それきり忘れてたんだ」 「ねえ、銀座に行ったら、わたしのこと忘れてるんでしょ」 「忘れてないね」 「今夜、いやよ、先に眠ったりしちゃ」 「ああ、いいよ」  といいながら、彼は、道子との情事のために疲れていて、とても育子とはできそうもない。 「わたし、今日のあなたは怪しいと睨んでるんだから。少し手を変えてきたわね、この頃」 「どういうことなんだ」  と彼はアクビをしながら、ネクタイを解き始める。 「帰りが早いということと、オシャレをしないこととが結びついてるのはどういうわけ?」  育子はやはり見ていたのだ。つまり、わざとこんな下着こんな背広と育子に知らせようとしたそのことに育子は不自然を感じたらしい。そして、その日どんなことになるのかと見守っていると、帰りが早い。  じっさい、浮気した夜、彼の帰りは早くなる。疲れのせいと、女に金を渡したために女の店には行っても節約のため他の店に行くのはやめるからである。だが、疲れていなければ、そういう計算どおりの行為はできないにちがいないと和田は考えている。ふだんの彼なら一軒の酒場だけで終ることはむつかしい。しかし、浮気したあとの疲れが彼の節約心と妥協して、一軒きりでよして家に帰って寝ようという気持にさせてくれるのだ。その結果、いつもより帰りが早くなる。 「それから、帰りが早い日は、疲れてるわ」 「そんなバカな」 「バカなって、ほんとにそうよ。わたしの眼を晦《くら》まそうとしたってそうはいかないわよ」 「どうにでも思ってくれよ。そんな猜疑《さいぎ》心にいちいちつき合っちゃあおれないよ。風呂に入って寝るぞ」 「お風呂なんか入る必要ないんじゃないの? ちゃんと入ってきたんでしょ」 「怒るぞ、ほんとに」 「怒ればいいでしょうよ。とにかく、寝かさないわよ」 「そんなきみには魅力ないから、とてもだめだよ」  これはわれながらうまいことをいったと和田は思った。育子を怒らせ、喧嘩すれば、育子と寝なくてすむわけである。  和田はぬるい風呂に入った。じっさい、彼は風呂に入る必要はなかったのだが、ここで入らないと育子の疑惑を招くことになる。  風呂から出ると、和田は寝室に行き、横になり、読みさしの本を拡げたが、二、三分もすると、眠くなる。  そこに育子がやってきた。 「ねえ」  ベッドの傍に育子が立っている。 「なんだ」 「わたしのこと愛してるの?」 「愛してる時もあれば、憎たらしいこともある」 「あなたがわるいんじゃないの」 「なんでおれがわるい?」 「浮気ばかりするからよ」 「してないね」 「してるわよ」 「してないのに、してると思われてるんだから、やらなきゃ損という気持にもならあね」 「わたしがどんな気持で、あなたの帰りを待ってるかわからないの?」 「他の女の子に心を移すというのかい?」 「そうよ。それに、わたしと同じことする場面が思い浮んでくるのよ」  育子がいう同じことというのは唇と舌とを使って女の下半身に愛撫を加えることをいっているのだ。じっさい、和田は薄い体臭の女に対してはいつもそれをやっている。 「やるわけないだろうよ」 「ほんと?」 「うるさいなあ、ほんとだよ」 「だってさ、心配だからよ」  と育子は和田の傍らに体を横たえてきた。育子の方から折れてきたのになにもこれ以上喧嘩をし続ける必要もない。和田は元来平和愛好者である。  喧嘩をすれば、育子を抱かずにすむだろうが、不快な空気が翌日まで延長されることになる。そして、そのことは彼の仕事にも影響を与える。  それに、この夜、和田は、育子に対しては不能だときまっているわけではないのだ。  とてもできそうもないと思っているだけであって、その時になってみれば案外可能であるだけでなく、日頃よりも逞《たくま》しい感じを育子に与えるかもしれないのである。そういうことはこれまでにもないことではなかった。体というものは、彼が自分の体に対してかなり確かに感じ取っていると思いこんでいるそれとは別の処で生きているものらしい。三、四時間前に一人の女を抱いたからもうだめだというのは、だめにちがいないと思い決めているからであって、三、四時間前に女を抱いたことが彼の体を昂まり易くさせているともいえるのである。  果して、育子は、和田の体を弄《もてあそ》び始めた。まだ彼の体は眠っている。和田自身も睡い。とても再起の見込はなさそうに思える。和田は鈍重な魚のようにベッドに仰向けにひっくり返っている。この体に精気がたちまち甦《よみがえ》ったりするものだろうか。  育子は熱心に取り組んでいる。トルコ娘がやるようなことをやっている。しかも、なじみの客にしかやらないようなことを口を使ってやってくれている。  鈍重な体の芯に僅かに青い火が点された。和田は再起できるかもしれない自分を感じていた。  育子は自分の努力の成果を見守るように、ときどき小休止しては深呼吸している。そんな育子は無邪気なかわいさに溢れた女以外のなにものでもない。そういう育子の感じも、和田の昂まりを手助けしている。  一旦は匙《さじ》を投げた重病患者が奇跡的とはいわぬまでも、驚異的な回復を示そうとしている。和田はそんな感覚でもって自分の体を感じ捉えていた。  鈍重な魚は撥ね始める。彼は起き、育子の体に対して試みてみることにした。彼は育子の下半身を眼先に見、育子は和田の下半身を眼先に見ているという方法で二人は挨拶を始めた。こういうことは、じっさい、譬喩《ひゆ》としてでなく、実感として、挨拶だと和田は思っている。  挨拶をしているうちに、挨拶でなくなってくるのだ。  育子の興奮を彼は感じている。彼自身も既に数分前の彼自身ではない。そうするうちに、育子は頂に達するはずである。前奏だけで頂に達することが多くなっている。育子の感受性はだんだんと鋭敏になってきて、以前では前奏だけで達することはなかったのが、その度合が増える一方となっている。  果して、育子は、達しそうな自分を和田に告げた。それはこういう場合に日本の男女がよく使う一般的な動詞である。英語だったら、さしあたり「COME」という処か。  和田は、急速に昂まった。そして、体の向きを反対にすると、育子に接した。  和田は充分可能な状態になっている。  育子は、またすぐに達する。和田は果てる恐れはないが、この状態が萎縮する可能性はある。  それなのに、育子は、和田の状態を賞めている。彼女は、硬度や大小をかなり問題にする。そして、あまり感心しない時は黙っているが、満足すべき時は、その旨、感動的な声で彼に伝えるのだ。  和田は己れを励まし、幾度目かの育子の到達に合わせて自らも果てた。  和田は、壮烈な一日が終ったような気持であった。  育子が生理日に入ると、和田は、一種の義務感からのように、浮気に励んだ。  生理日の育子は和田を求めようとはしない。欲望はあるのだが、和田が応じないことを知っているからだ。  育子の生理日は丸五日は続く。  その五日間の中で一回は浮気をやりたいのである。やれないと損をしたような気持に和田はなる。  浮気した時に早く帰るのは考えものであった。またわざとらしく洒落気のない服装をして行くのも考えものである。  育子という女は統計をとっているのだ。 「今夜は恒例の会だからね」  和田はネクタイを結びながらそういった。画家にはネクタイを結ぶことをきらうのが多いが、彼はちがっている。  そのネクタイは女がくれたものだ。織りがおもしろいといってくれたものだが、和田には、その色しかわからない。グレイとシルバーの中間色の中に細い三色の縞が一処に固まっている。朱もあるし、渋いグリーンもあるし、茶も入っている。全体に地味な感じだが、このネクタイを締めてバアに行くと、ある女の子は眼を近づけ、手に取って見て、 「おもしろい織りだわね」  といった。  育子はそのネクタイにチラと眼を配っている。育子はこの夜は姉の嫁ぎ先に遊びに行くのだという。 「いつも留守番なんてしておれないわ」  夜出かける時、育子はいつもそういう。  和田は毎晩出ているわけではない。週に多くて二日という処だ。  家にいる時は育子と散歩したり、映画を見に行ったり、食事をしに行ったり、あるいは、二人でトランプをしたりして過すのだ。  だが、育子にしてみれば、週のその一、二日がいやなのだ。と和田は考えている。なぜそんなにうるさくいうのか、彼は、時には、理解に苦しむことがあり、それは育子が女だからという結論を出す以外には解答が見当らないのだった。  彼女は、和田のそのネクタイを気に入っていない。育子は眼を近づけてからおもしろい織りに気づくようなネクタイは感心しないのだ。一眼見ていい色だとかいい柄だとか思うのを彼女は好きである。 「また、そのネクタイなのね、地味だわよ。それに、その背広の色とも合ってないわ」 「おれは画かきだよ」 「画かきったって、服装のことは盲の人だっているでしょ。画かきがそんなことまでわかるなら、服飾の専門家なんていないはずじゃないの」 「それもそうだ」 「だいたい、あなたの画なんかアンバランスの処が売れてるんでしょ。服装のセンスまでそれを通そうたって、そうはいかないわよ」  育子は鏡に向って化粧しながらそういう。だんだん憎々しい感じになり、その憎々しさのぶんだけ、和田はこの夜の自分の浮気の正当性が深められる気がする。浮気など少しもわるくないと思っていながら正当性のことを考えるのは矛盾しているようだが、育子にばれてもいいといった正々堂々とした正当性を彼は浮気に対して与えているわけではないのだ。わるくないということと正当性とは彼の中では異なる概念なのである。そのわるくない浮気にその夜は正当性が加味されつつある。  育子が画家仲間の細君と交際しないということは和田にとってたいそう好都合なことである。育子の交際範囲は自分の姉とか、自分の学校時代の友だちとかに限られている。 「わたし、姉と出てるからね。そうそうあなたのいる処の電話番号教えといてよ」 「ああ、いいよ」  和田は、手帖をめくり、画家仲間がよく集まる「春仲」という小さい料理屋の電話番号を口にしたが、彼は、わざと、最後の七五を五七とひっくり返して教えた。育子はメモ用紙に書きつけている。  外に出て、和田は、赤電話で、自分が育子に教えた番号を廻してみた。すると、普通の住宅らしく、「シノミヤ」とか「ヒメミヤ」という姓を名乗る中年女の声が聞え、彼は「すみません」といって受話器を置いた。  和田がこの日会うのも、酒場の女である。しかし、彼女は勤め始めてまだ一週間にもなっていない。昼間は大学に行っているという。色の黒い子である。  育子は前夜生理に入っている。夕食のあとで育子がそういった。そして、育子がテレビを見ている間、彼は、アトリエに行き、そこからその酒場に電話して、黒い女の子蘭子を呼んでもらい、この日の約束を取りつけたのである。  蘭子はいつもはしゃいでいる女の子だった。くすぐったがりで、育子を一廻り小さくした体で、全体に敏感そうな感じが漂っていた。  肉体経験は少ないが、既に絶頂の感覚を知っていると、彼女はいっている。しかし、当人のいう「知っている」という言葉は当てにならない。当人は嘘をついているつもりはない。女は、もっと深められる感覚についての予感を持っていないからである。  蘭子は客と一緒なら九時までに店に入ればいい。  落ち合う場所はホテルのティールームである。  もちろん和田は尾行されていないかどうか気を配り、うしろのタクシイが心配だったので、地下鉄の駅のある処で降りた。運転手は初め彼がいったのとちがうので「だったら初めからいってくださいよ」と罵《ののし》るような声を和田に投げつけた。和田は五十円余分に渡してやるつもりだったが、罵られるようにいわれると、その気もなく、「急に気が変ったんだ、そういうことはよくあることだろ」というと、正規の金だけ渡して降りた。気にしていたタクシイは走り去っていた。彼は、そこから地下鉄に乗ることにした。  蘭子は既に先にきていた。そして、こういった。 「ねえ、わたし、八時までに帰らなきゃいけないのよ。母がくるっていうの。わたし大学に行ってて、夜は働いていないことになってるでしょ。だから、八時には帰っていないと……」  五時から八時まで三時間あると和田は思った。三時間あれば充分である。七時半に旅館を出て、彼女を送って行くなり、タクシイ代を別に渡すなりすればいい。 「おかあさんはどこにいるんだい」 「館山よ、千葉の」 「じゃあ、善は急げということにしよう」 「なによ、それ」  と蘭子はいったが、そのいい方には既に承知している感じがある。断乎とした拒否ではないことを示す阿諛《あゆ》が見えている。 「いや、とにかくぼくの奉仕の時間をなるべく多く取らなきゃ」 「いやな感じ」  蘭子をタクシイに押しこみ、彼はごく近くにあるホテルに行くために方向を運転手にいったが、こんな時、そのホテルの名を多分運転手が知っていると思っても、直接そのホテル名を蘭子の前で口にすることは憚られるのである。  運転手は短い距離を走るだろうということだけは漠然と知らされている。「そこを右」とか、「次の交番の処を左」としか和田はいえない。そうするうちに、タクシイはホテルの前に着く。蘭子はあきらかにここがホテルの前だということ、これから行く処がそのホテルであることを知らされている。  蘭子は黙ってついてきた。  ガラスの自動ドアが左右に開き、先ず和田が入り、それから蘭子が入る。  二人はすぐに部屋に案内される。 「わりときれいな処だろ」 「そうねえ、きれいねえ」  和田はやっと安心した。故意にそうしているようにお茶を持ってくるのが遅い。その間二人はとりとめのないことを話した。  今の時間、もう育子は育子の姉と会っているにちがいないと和田は思う。 「すごくきみのことを抱きたいと思ってたんだ」 「なぜ? わたしなんかよくないのに、まだ子供よ」 「それはどうかな、現に子供とか大人とかいうより、きみという女としての素材がいい感じだな」 「マテリアルがいいってわけね」  昼間は大学生という蘭子はこういうやりとりだけでかなり自分が尊重されている気分になってくる。  やがて、女中がお茶を持ってきて、去って行き、二人はキスをした。そのキスで、和田は、蘭子がかなり彼に期待していたようなのを感じることができた。 「仕方なくってんじゃいやだよ」 「そうだったらこないわ」  和田は、浴室に行って、湯を湯舟に落し、部屋に戻った時には蘭子に手渡す紙幣を手にしていて、蘭子の背後から片手で抱き寄せ、紙幣を持った片手を蘭子の胸に押しつけるようにして、こういった。 「少ないけど取ってくれよ、結局今夜は休むことになるんだろ」 「わるいわね」  そういうと、蘭子は受け取り、バッグにしまい、彼の唇を受けたあと、 「お風呂見てきましょうか」  といって、肩にかかっている和田の手を外して、立ち上った。  蘭子はやはり若かった。素材のよさは認めるが、素材の磨かれ工合は五十パーセントといった感じである。  しかし、蘭子は好色で、彼のいいなりになった。むしろ、いいなりになることに悦びを感じているふうでさえある。  蘭子は俯伏せになって愛されることをいちばん歓迎し、声を高めた。和田は嗜虐《しぎやく》的に「そんなにいいのか」などと訊くと、蘭子は高い声の合間で熱心にうなずいた。  背中がきれいである。若いのにニキビも出ていず、なめらかな皮膚が眼の下に茶筒を包むような感じである。  悦びの深みについては五十パーセントしか知っていなくても、黒い女特有の緊縮力は時間をかけるにつれて強まってきて、その感じが、和田の張力を強めている。  和田は、いつになく疲れた。それほど疲れないことがあるし、ひどく疲れることがある。それはこういう緊縮力の強い女の場合特にそうである。  蘭子は一回の情事の時間の中でかなり上達した。これは珍しいことだ。 「ほんとよ、ずんずん覚えてくるみたい。先生と会った初めの時はあの程度だったのよね。それが、時間が経つにつれて、そうね、タクシイのメーターが上るでしょ、あんな工合よ」  じっさい、蘭子の声がちがってきていた。彼女自身感動している。こんなに悦びが深いものとは思わなかったらしい。 「困るわ、わたし、どうしよう」  蘭子は思いつめたような恨めしそうな眼で和田を見つめた。その蘭子の眼は靄《もや》がかかったような潤み方で、小鼻がまだ開いたままになっている。  和田は蘭子をタクシイで家まで送り届け、そのタクシイで家に帰ることにした。  なにせこの夜の和田の疲れは深い。  おそらく育子はまだ家には帰っていないはずである。育子は、一旦外に出ると、充分に遊んでから帰ってくる。飲んだりしゃべったり笑ったりして、溜まったものを一気に発散して帰ってくるから、午前一時頃になることがある。そんな時、育子は家にいる和田に電話してきたり、和田にくるようにいったりする。しかし、和田は行きたくはない。育子や育子の姉と飲んでもおもしろくないと思うからである。  早い帰宅に対して育子は疑惑の眼を向けたがるので、こんな深い疲れの時にも、和田は無理をしてどこかで飲んで帰るようにしているのだが、無理をして彼はアルコールを入れることができない質である。だから、他に廻っても帰宅が早くなるというわけだ。けれども、この夜は安心だと和田は考える。育子が家にいないのだ。帰って、ゆっくりと横になることができる。  タクシイの中で、彼は睡気を覚え、彼は運転手からこういわれた。 「大丈夫ですか」 「いや、大丈夫だ」  家についたのは八時半である。  育子が家にいるとわかっておれば、和田は決してこんなに早く帰ったりはしない。いや、その時は、「急に気分がわるくなった」という口実がある。その口実はやたらとは使えないので、とっておく必要がある。  これまでも、和田は、育子の疑惑を避けるため、帰ってくると、便所に飛びこみ、吐くまねをやったことがある。  和田は鍵を出した。鍵を使い、玄関のドアを開けた。  室内は静まり返っている。  靴を脱ぎ、入ってゆく。  と、その時、スリッパの音がした。  だれもいないはずの家の中にだれかいる。泥棒かもしれない、となると、和田に飛びかかってくるおそれもある。和田は、一旦玄関に引き返し、外に面したドアを開け、スリッパのまま、外に出、そこで、改めて、ブザーを押してみた。 「どなた」  という育子の声がした。  育子がいたのだ。これはまずいことになったと和田は思ったが、もう遅い。靴を玄関の三和土《たたき》に脱ぎ放しにしている。そして、スリッパのまま外のコンクリートの上に彼は立っている。 「なんだ、いたのか」 「おや」  育子が浴衣をつけたままの姿でそこに現われた。帯はつけずに寝る時の紐を結んでいる。髪はピンを抜いて肩までかかっている。 「なんだ、いたのか」 「あなたこそ、なによ」  育子の顔は和田を咎《とが》めてはいない。育子はたしかに彼が出かける時化粧をしていた。その化粧した顔のままで玄関に育子は立っている。育子はなぜか笑っている。 「春仲にいたんだが、急に気分がわるくなったんだ」 「なによ、人に嘘の電話番号教えて」 「うそ?」 「そうよ、かけてみたら、ぜんぜんちがう処にかかったわよ」 「そんなはずない」 「それよりも、どうしたの、スリッパなんかはいて」 「きみのスリッパの音が聞えたから、泥棒がいるのかと思っちゃったよ。それで、こわくなったから、外にあわてて出てブザーを押してみたんだ」 「臆病なのね」 「それよりも、どうして、家にいるんだ」 「急に出かけるのがいやになっちゃったのよ」  和田は、しかし、育子のきげんのよさの理由がわからない。和田はスリッパを三和土に脱いだ。 「私のスリッパを出してくれよ」 「いや」  育子は和田の前に通せんぼのように両手を拡げて、立ちはだかった。 「早く帰ったのに怒らないんだな」 「あら、怪しいことしたの?」 「するわけがない。気分がわるくなって、それから、睡くて睡くて、とてもじゃないから帰ってきた」 「うその電話番号を教えたりして」  やっと和田はスリッパをはき、部屋に入ることができた。 「番号を見せてごらん」  と彼は居間のソファに腰かけて、そういった。育子はメモ用紙を持ってきた。そして、電話番号を読んだ。彼は手帖を見るふりをしている。 「最後の五と七とが逆だね。きみの写しまちがいだよ」 「教える時わざとまちがっていったんじゃないの?」 「そんなことするわけがない」 「ねえ、抱いて」  育子は足ぶみするような恰好をしたあと、和田に抱きついてきた。 「長くいると吐き気が出そうだったんだ」  そういい、彼は、育子の体を払うようにして自分の部屋に戻って行き、上着を脱ぎかけた。と、その時、玄関の電話が鳴った。  育子が出るかと思っていたが出ないので、和田が行くと、ちょうど、育子も便所から出てくる処で、「わたしが出る」といったが、和田の方が早かった。電話は仲間の沢藤からである。 「さっきはどうも」  と和田はいった。今日は電話をしないようにと沢藤にはいってあった。それを沢藤は忘れていたらしい。それで、和田は、育子の手前、さっきまで当然一緒にいたことになっている沢藤に向ってそういったのだ。沢藤はすぐにわかるはずである。 「いやいや、そうか、すっかり忘れてたよ」  と沢藤はいった。 「まあいいや。とにかく、気分がわるくてね。みんなにはわるいと思ったけど仕方ないよ。育子のやつ、春仲の電話番号をまちがえてかけたらしいんだ」 「ちょっと」  と和田のうしろで育子がいい、和田は受話器を育子に手渡した。育子の声を和田は聞いている。 「そうなの? ほんと? 沢藤さんは和田とグルだから信用しないことにしてるのよ」  育子は、それから「そうよ」とか「まあね」とか「ほんと」とかいって、「なにか和田にいうことある?」といい、また和田に受話器を渡した。  和田はべつに話すことはないが、沢藤が、 「どうだ、うまくいったか」  といったので、 「当り前だよ」  といい、「切るぞ」といった。沢藤は「忘れててわるかった」といった。  受話器を置いた途端に、また電話が鳴った。和田は受話器を取り上げ、 「はい」  というと、育子の姉の幸子の声が、 「こんばんは、元気ですか」  といった。 「元気ですよ、今日は会わなかったんだって」 「だれと?」 「育子と」 「そんなこといっていなかったわ」  その時、どこかに行こうとしていた育子が、足を止め、 「だれ」  と背後でいい、和田から受話器を奪い取るようにすると、大きい声でこういった。 「なによ、今日会うことになってたじゃないの。忘れんぼ」  育子の姉の声は聞えない。  和田は、少し変だと思った。  電話は、寝室とアトリエに切りかえになっている。彼はアトリエに行くつもりだったが、寝室に行ってみることにした。  ベッドの上は育子が今起きたばかりであることを示して、乱れていた。  その時、和田はハッとなった。  枕許の小さいテーブルの上に腕時計が置かれている。それはスイス製の薄い時計で、黒いスウェードのバンドがついている。高級時計で日本で買うと六十万円はする。  その時計は男物である。和田が知っている限りでは、その時計を持っているのは沢藤以外にはいない。  沢藤がここにきたとすれば、いろいろのことの符牒が合ってくるではないか。  和田がいないことを沢藤は知っている。  育子は出かけるための化粧をしていたのは、和田にそう思わせることで家に電話させない作戦である。化粧は沢藤を迎えるためのものでもある。  だが、まずいことがある。沢藤は和田が帰った時、寝室か居間かどこかの窓から飛び出し、それから、あとの首尾はどうだったかと電話を寄こしてきたのだ。あるいは、時計を忘れたことを育子にいうつもりだったのかもしれない。沢藤はこの夜は決して和田家に電話してはならないのだ。それを敢えてしたという処に、しかも、和田が帰っていることを承知の上で電話したということに尻尾が見えている。その尻尾は置き忘れた時計ということになる。  もう一つまずいことは、育子の姉からの電話だ。育子は姉とちゃんと打ち合せしていなかった。というより、打ち合せできない人物をアリバイに用いたわけだ。自分が浮気してもなにしても寛容な友人を選んでアリバイ工作すればよかったのだ。それを姉にしたものだから、偶然、その姉から電話がかかってきたりすることになる。  育子は、和田が早く帰ってくると和田の外での行為に疑惑を投げかけてきたりしたのも、今になって思うと、彼女の綿密な計算といえるように和田には思われた。和田はなるべく早く帰らないように心がける。と、彼女は安心して自分の家で沢藤との情事を楽しめるわけだ。  嫉妬深い女房、浮気が見つかったらなにをしでかすかもしれない女房と思わせ、浮気がばれないようにという画策で精一杯にさせることで、彼女自身への疑惑など起す猶予を与えなかった、というのも育子の頭脳的な作戦と今の和田には思われるのだった。  和田はその薄い高級時計を手にしていた。女が用いても似合いそうな男ものの時計である。 「あなた、なにしてるの?」  と育子が背後からいった。時計をかくすためにやってきたのが、姉からの電話のために遅れを取った。ざまあみろ、と和田は思った。  和田は決して怒ってはいなかった。むしろ、これは育子と別れるのにいいきっかけができたようなものではないか。沢藤には寛大な態度を見せてやってもいい。 「沢藤とさっきまでここにいたんだろう」  と和田は手にした時計を見つめたままいった。時計の針は八時五十分になろうとしている。 「沢藤さんがどうしてここにいるの?」 「この時計はだれんだ」 「ああ、それ、沢藤さんのよ」 「なぜ、ここにある?」 「この前一週間ほど貸してくれるってんで借りたんじゃないの」  和田は知らない。育子が嘘をついているように思われる。 「いつ?」 「この前よ。あなたと二人で外で飲んで寄ってらしたことがあるでしょ。あなたはかなり飲んでらしたから覚えてないのかもしれないわね」 「ねえさんと会うことになってるなんてでたらめじゃないか」 「そうよ、でたらめよ」 「なぜ、でたらめをいった?」 「あなたが早く帰ってくると思ってたのよ。あなたが浮気なんかしてないことわかってたわ。意地わるしてたのよ。でも、早く帰るとわたしがうるさいものだから、無理して遅く帰ったりしてたでしょう。今日はわたしがいないと思って安心して早く帰ってくるにちがいないと思ってたのよ。ねえ、抱いて、やさしくして」  和田は、甘えかかる育子を時計を持った手で抱きとめ、育子を見つめた。育子の眼は笑っている。まるで悦びが一杯といった感じに笑っている。 「この時計、こわしたらたいへん」  育子は和田の手から時計を取ると、サイドテーブルの上に置き、改めて、 「抱いて」  と和田に倒れかかってきた。育子の小さい体が今の和田にはとても重く感じられる。 [#改ページ]   不在の恋 「なぜわたしが諸岡さんとこうして会うかわかる?」 「気に入ってるのかな、ぼくのことが」 「もちろんそれはそうよ。でも、気に入ったからって会うとは限らないでしょ。わたしには彼がいるんだから」 「にも拘らず、ぼくの味が忘れられずに会うということかな」 「でも、その味はいつも思い出せないの。ただよかったとしか憶えてないの。そのよかった内容の方は忘れてるわ」 「それはそうかもしれないな。女はその最中は没我の状態だからね。溺れ死のうとするものがどこをどう泳いで浜辺に辿りついたかわからないのと同じかもしれないね」 「とにかく憶えてないわ。あなたに抱かれて〈そうだわ、こんなだった、これだった〉と思い起すの」 「じゃあ、なにがよくて会いにくるんだ」 「それはこんな処で会うってのがスリルがあるからというのも一つの理由だわ。知った人に見つかるかもしれないし。そういうことがいいのね。それと、情事の場所がいいわ。彼と私とはいつも私の部屋か彼の部屋なの。殺風景なのよね。諸岡さんとはいつも旅館でしょ。新鮮な気持がするのよ」  ここはホテルの玄関口に近い処にある、カウンターもあるレストランだった。諸岡と美奈子とはいつもここのカウンターで落ち合う。諸岡もここで知人の顔を見つけることがある。だから、諸岡自身にとってもこの場所は安全とはいえなかった。  諸岡は経理事務所を経営していた。妻子がある。子供は二人いる。一人は中学生、もう一人は小学生である。諸岡は家庭ではいわゆるよきパパであった。庭やパーゴラつきのテラスやらがあって、明るい陽当りのよい家であった。細君のトキ子はいつも幸福そうであった。なに不自由なく暮しているからである。経済的にも精神的にも肉体的にも不満はなかった。  諸岡は四十三歳、トキ子は三十八歳である。トキ子は諸岡が浮気しているとは夢にも考えていないにちがいなかった。  諸岡は常に、家庭内では冗談をいって子供たちや細君を笑わせていた。  諸岡が美奈子を知ったのは酒場でだ。その酒場は新宿にある。胡桃《くるみ》という酒場で、ホステスの数は十人ほどだ。その中で美奈子は特に色が黒い。東南アジアの女だと諸岡は思っていたほどである。少なくとも東南アジアの血が入っていると思っていた処、彼女は、 「わたし純粋の日本人よ」  といった。  諸岡は、これまで浮気などしたことがなかった。それがなぜ美奈子と浮気するようになったか。美奈子がかなり大胆なことをしたのがきっかけであった。彼女は諸岡のズボンの上から把《つか》もうとしたのだ。 「見たいわ」  諸岡は慌《あわ》ててしまった。こんなことを女からいわれたことがない。美奈子は、しかも、わりとまじめな感じの女の子だったので、いっそう諸岡はおどろき慌ててしまった。しかし、彼は決して不愉快ではなかった。 「いやだよ」 「赤くなったわね、諸岡さんてかわいい」 「四十三の男に向ってひどいことをいうね」 「だって、かわいいんだもの」  美奈子はおそらく二十一、二である。 「諸岡さんのを見たいのよ。ほんとにそう思うのよ。なぜそんなことを思ったのかしら。諸岡さん、変に思うでしょうね」 「思うねえ」 「でも、本心よ、見せて。わたしも見せてあげる」 「お医者さんごっこか」  そんなことをいいながら、諸岡の顔はまだ赤い。  いつも、諸岡は胡桃ではカウンターに腰かける。一人だからだ。すると、美奈子が傍にくる。胡桃にくるようになったのは、美奈子がいるからといってよかった。といって、彼女にあからさまな野心を持っていたわけではなかった。浮気というものをやったことのない諸岡には、とてもそんなことは考えられないのだ。それは慣れの問題であった。女を誘惑するのにどんなことをいってよいのか諸岡にはわからない。  これまで一度だけ女を誘ったことがある。その女はキャバレーの女だった。二、三べん通い、その桃子というホステスを指名し、次の時、傍《かたわ》らにいる桃子にこういったのである。 「ええと、ちょっと頼みがあるんだけどね」 「どんなことです?」  桃子はやはり色が黒かった。そして、かなり大柄で、太っていた。彼の細君のトキ子も色が黒く、太っている。 「ひまがあるかな、今夜」 「お食事に誘ってくださるんですか」 「そう」 「わたし、いつも一緒に帰る子がいるんですけど、その子も一緒でいいかしら」 「それは困る。きみ一人でないと」 「そうですか」  桃子はそういってから、少しの間考えていたが、こう念を押した。 「いいわ、でも、こわいことなしにしてくださいね」 「こわいことなんかないさ。気持はよくてもね」  諸岡としては精一杯露骨な冗談であった。  二人は店が終ったあと食事をした。諸岡はとても咽喉に食物を通すことができなかった。夜遅くまでやっているこの店を桃子が知っていたのだ。 「さあ、送って行こう」  そういって諸岡は立った。 「先生ていい人ね」  税理士の諸岡を桃子は先生といった。  彼は桃子をタクシイに乗せた。そして、彼が胸の中で決めている旅館のある場所を運転手に告げた。 「わたし、初台なんですよ、先生」 「わかってるよ。なにもすぐ帰ることないだろ」 「いや、そんなつもりだったのね。約束がちがうわ。運転手さん、降ろして」  桃子は喚《わめ》き始めた。運転手は、前を向いたまま、 「どうします?」  といった。 「冗談だよ、初台、初台、それから……ええ」  彼は自分の家のある町の名をいった。運転手にしてみれば、その方がいい仕事になるはずだった。初台で桃子は礼もいわずに降りて行き、そのあと、諸岡は運転手のうしろで黙りこくり、自分の家の手前で降ろしてもらった。運転手に自分の家を知られたくなかったからである。その家ではなにも知らずに妻や子供が眠っている。家を知られることは彼らまで汚辱《おじよく》にまみれさせる気がしたのである。  そういうことがあって、浮気というものはうまく行くものではないということを知らされ、自分に似合わないことはやめることにしたのだ。  しかし、向うの方からの誘いとなると、これは別の話ではあるまいか。美奈子が諸岡に見せろという。そして、自分のも見せてやるという。初めの間、諸岡は自分はからかわれていると思ったが、 「じゃあ、土曜日の二時にQホテルのブリックでお会いしましょうか」  と美奈子がいうと、諸岡は真に受けてQホテルのブリックというレストランバアに行ってみることにした。こういう場所で女の子と待ちあわせるのも初めてである。  諸岡は美奈子はおそらくやってこないだろうと思っていた。「見せてくれたらわたしも見せる」などという言葉を第三者は本気に受け取ることがないであろう。  処が、美奈子は二時を五分ほど過ぎた頃、やってきたのである。 「きたんだね」 「そうよ、きたわよ」  諸岡は、その時もまだ、美奈子の言葉を信じてはいなかった。あれはあれで冗談であって、美奈子は諸岡と食事したかっただけかもしれない。あんな突拍子もない言葉を諸岡が信用するはずがないと知った上で美奈子はいったにちがいないと諸岡は考えた。 「どこに行こうか」 「どこって、決ってるわ」 「どこだ?」 「旅館かホテルよ。わたし、行きたいホテルがあるんだ」  美奈子は少年のような口調でそういった。 「ホテル?」 「そうよ、見たいの。わたし、なにか頂いていいかしら」  美奈子はそういい、諸岡が「いいとも」というと、美奈子はボーイに、 「コーヒーちょうだい」  といい、諸岡が、 「食事でもしたらどうだ」  というと、 「食事はあとの方がいいわ。食後のアレってよくないもの」  そういった。  その時も、まだ諸岡は美奈子の体を賞味できるとは確信していなかった。彼は男の間ではからかわれたりすることのない男であったが、女にはからかわれるような処があった。それは彼が女に慣れていないためだ。 「今夜、お食事に連れてってね」  とバアの女にいわれ、うきうきして待っていると、食事だけして、「さあ、送ってくださる」といわれ、諸岡は「他にどこか寄ろうか」といったが、「帰らなきゃ。母が心配するもの」と女は頑としていい、タクシイで府中まで送って行ったことがあるのである。あるいは、経理事務所に電話がかかってきて、 「ちょっとお話があるんですけど、お会いできるかしら」  とあるバアのホステスにいわれ、彼女が店に出る前に会った処、話などはいっこうになく、「ねえ、お店に一緒に入ってくださいね。一緒だったら少し遅れてもいいんです」ということになり、「お肉のおいしい処、わたし知ってます」というので、彼女が肉をおごってくれるのかと思ってついて行くと、勘定は諸岡持ちである。 「話ってなんだね」  やっと意を決していうと、彼女は、 「もういいの。やっぱり思い過ぎだったのね。自分で解決するからいいんです」  といった。そして、店に一緒に入り、まだ客はほんの二組ばかりで、烏のように女たちが集まってきて、ものすごい勘定になってしまったのである。  そういう経験のために美奈子との場合も彼の中の不信は拭いきれないのだ。  しかし、美奈子は彼に体を委《ゆだ》ねたのである。諸岡の体を美奈子は見、そこにキスをし、美奈子も諸岡に展示し、「キスして」と要求し、彼は夢の中のような気持でキスして確実に美奈子の体に彼の男性を捺印《なついん》したのである。  美奈子も彼の好みの女の特徴として、色が黒くて小太りしていた。色の黒い女の肌は概してきめこまかである。  諸岡は感激のあまり、最初の時すぐに終ってしまったが、その短い間に、美奈子は充分に敏感な反応を示した。  女がこのような敏感な反応を現実に示すのを諸岡は初めて知った。小説の世界だけにあるものだと彼は思っていたのである。 「諸岡さんて、素敵だわ。ぴったり合うんだもの」  と美奈子はいった。じつは、諸岡はトキ子以外の女を知らないし、トキ子も諸岡以外の男を知らないので、自分自身の体の構造が全体の中で占める位置についてこの夫婦はまったく無知であったのだ。美奈子のそれはトキ子のそれよりも窮屈で微妙であった。トキ子が示す反応に較べると、美奈子のそれははっきりしていて、頂上にいるということがよくわかるのだった。トキ子は美奈子に較べるとずっとあいまいである。頂上にいるのか中腹にいるのかわからない。  諸岡は自分の体について美奈子がお世辞をいっているのかと思っていたが、美奈子が、 「きっとそうだろうと思ってたの。素敵な体だろうと直観してたのよ、当ったわ」  というのを聞いて、信じる気になった。 「ピクピクと裂かれるみたいなのよ。それがこわいようでなんともいえないの」  とも美奈子はいった。 「どこでそんなことわかるのかなあ」 「なんとなくだわね。鼻が小さい人はあそこも小さいなんて嘘よ。むしろ、手指ね、手指の股に近い部分が太い人ってのがいいみたい」 「ぼくの手は細いよ」 「細くても、指の先に較べると太いでしょ。普通の男の人ってこんなじゃないわ」  諸岡はその時から自信を持つようになった。  美奈子は、それからも誘えば必ず会ってくれた。美奈子は自分の恋人のことについては語りたがらなかった。 「いえばきっと知ってるわよ」 「有名な人なんだな」 「わりとね」 「ぼくとのことバレないかな」 「バレるかもしれないっていうのがいいのよ」 「ぼくと会ったその夜に彼と会わなきゃならなくなることがあるだろ」 「あるわ。そんな時どうなると思う? いってみて」 「疲れてバレるってことないかね」  美奈子は笑った。 「バレたことないわ。むしろ、浮気なんかしてないと思ってるみたい、なぜかわかる?」 「わからない」  美奈子は少し淫《みだ》らな感じの笑い声を上げた。 「諸岡さんに抱かれた夜に彼と会うでしょ。すると、いつもよりずっと快感が強いのよ。それは、諸岡さんとのことがすでに前戯の役割を果してるからなの。体の中に熱いようなものが残ってるのよね、それが彼によってかきたてられるの。いつもよりすごく燃えるものだから、彼ったら、〈欲求不満だったんだな〉なんていうわ」 「彼をかわいそうだとは思わないんだね」 「思わないのよ、それが。裏切ってることが快感だし、変なこと考えるのよ」  また美奈子は笑う。 「諸岡さんと旅館に入る現場を彼に見つかりたいなんて思うことあるわ。どんなこといってもいい逃れできない現場を見つかるの。いちばんいいのは諸岡さんに抱かれている処を見つかればいちばんいいと思うのよ。でも、それはできないでしょ。彼からぶたれたりして、挙句《あげく》の果て、犯されるみたいな乱暴な情事をやるのよ。考えてるだけでわたしすごく濡れることがあるわ」  そういう神経は諸岡にはなく、彼は健全な税理士なのだ。美奈子の話を聞いていると、少しこわくなってくるほどだ。 「しかし、彼に見つからないようにしなきゃ。きみは病的なんだな。多少|頽廃《たいはい》的なムードがある。それは直した方がいいな」  美奈子は肩をすくめ、先が尖《とが》った舌を出した。  諸岡が美奈子に引かれているのも頽廃的な部分だということに彼は気づいていない。美奈子の下半身の眺めが持っている淫らな感じが諸岡を精力的な男に仕上げてくれるのだ。  その日、美奈子と諸岡とは旅館を出たあと、赤坂の朝鮮焼肉屋に行った。この店のカルビはうまいのだ。美奈子はどこそこの店のなにはおいしいということをよく知っていて、美奈子のために諸岡はかなり食べものの店にくわしくなり、税理士仲間にその新知識をひけらかしていたが、あとになって、教えるのではなかったと後悔した。美奈子と一緒の処を見咎《みとが》められるおそれがあるからだ。 「彼がとてもくわしいの。だから、いつかバッタリ彼と出くわすかもしれないわね」  と美奈子はいった。 「食事している処を見られたってどうってことないだろうよ」 「わたし、よく嘘つくのよ。特に諸岡さんと会う日の行動については、胡桃のママと一緒だといってあるの。それなのに諸岡さんと一緒の処を見つかると、怪しいと思われるでしょ」 「店の客と偶然会ったといえばいいだろうよ」 「なんとかいうわよ。あるいは黙ってるかもしれないわ」 「彼は短気なの?」 「かなり短気よ。それに、わたしにすごく惚れてるの。だから、諸岡さんだって殴られないという保証はないわ」 「家に怒鳴りこんでくるなんてないだろうな」 「そんなことはしないと思うけど。いい男よ、とっても」 「ハンサムというんだね」 「すごいハンサム」  そのハンサムな彼は胡桃にやってくることはないらしい。どの分野で名が知れているのか、そこの処も美奈子はいおうとしないので、諸岡にはよくわからない。  赤坂の朝鮮焼肉屋で、二人は向い合い、ビールを注ぎ合い、カルビがくるのを待っていた。と、その時、 「まずいわ」  と美奈子がいい、俯《うつむ》いた。俯いたまま美奈子はこういった。 「見ちゃあだめよ。彼の友だちなの。黄色のワンピースの女の人と一緒に入ってきた人がそうなの」 「どうする」 「見られたと思うのよ、このまま居続けましょうよ。あの人おしゃべりなのよ。彼にツーツーなの」  諸岡は便所に行き、その帰りに黄色いワンピースを探した。  そのペアは諸岡の席の背後にいた。男は諸岡の背中を見る処、即ち美奈子と顔を合わせる処に腰を下ろしている。三十半ばといった感じで、鼻下とあごにひげを生やしている。面長で、蒼白い顔が端正である。  その男は諸岡をチラと見た。その眼からは感情が読み取れない。  諸岡は決して美男子ではなかったが、顔に愛嬌のようなものがあった。女たちは諸岡を見て、近寄りがたい男だとは思わないのである。 「あの人、わたしのこと気づいてるみたい。なんといおうかしら、彼に」 「今日は彼になんといったの?」 「集金といったの」  その日は二人は五時に会った。それから旅館に行き、七時前に出てきた。客と一緒に入れば美奈子はいちばん遅くて八時半までは許されている。 「集金だったら、食事することだってあると思うな」 「でも、店にはいつもの時間に出るといったのよ」 「店に電話はかかってくるの?」 「かかってくるとしてもカンバンの頃ね」 「しかし、きみが望んでいた事態じゃないのかね。今のこの場面は」 「でも、なってみると、やっぱりこわいわ」  諸岡は、美奈子の声がうきうきしているようなのを感じていた。旅館に入る処を見られたわけではあるまいし、美奈子は大げさに事態を重大に取りすぎている。彼女は、もしかしたら、重大に取りたがっているのかもしれない。 「あいさつはしなくていいのかね、彼の友だちに」 「女の人が一緒だからいいわよ。ねえ、なるべく早く食べて出ましょ」 「そうしよう」  美奈子はカルビをおいしいといった。食欲は食欲として別にある感じである。あるいは、この急場の感覚が彼女をいきいきとさせて、それが食欲を旺《さか》んにしていることも考えられる。 「お電話です、東さんという方です」  女事務員がそういって、諸岡に受話器を差し出した。東という名に彼は知り合いはない。 「諸岡ですが」 「わたし、胡桃の美奈子です」 「なんだ、東なんていうものだから」 「わたしの姓は東なんです、諸岡さん、ご免なさい。彼にわかっちゃったみたいなの」 「なにが」 「諸岡さんのこと」 「また、どうして」  諸岡はうろたえた。なぜそんなドジを踏むのかと腹立たしい気持でもある。 「ごめんなさい。彼が行くかもしれませんから、その時は否定してくださいね」 「どうしてそんなことになったんだね、ちょっとそのことで話したいね」 「今いいんですか」 「仕方ないさ」 「だったら、六本木のアマンドの二階で会いましょうか」  六本木に諸岡の事務所はある。  彼はすぐに出かけた。急用があったらアマンドにかけてくれるように女事務員に言伝《ことづて》したが、もしも美奈子の彼から電話がかかってきた場合を考えると、彼はこういい直さざるをえなかった。 「きみが知ってる人で急用という場合だけにしてくれ」  諸岡はアマンドに出かけて行った。六本木の交叉点にあるアマンドは一階が喫茶室、二階がレストランである。  二階に上って行くと、美奈子はもうきていた。美奈子の前にはコーヒーが置かれている。彼女は皮のコートを着ている。 「いったいどうしたんだ」 「ごめんなさい」  美奈子の眼の白い部分が薄赤くなっているのに諸岡は気づいた。彼女は、情事のあとよくそんな眼になるのだ。美奈子は恋人と寝てきたのだろうか。 「ぼくと一緒の処を見られたのかね」 「そうじゃないの。手帖を見られちゃったのよ」 「手帖にはどんなことが書いてあるの?」 「電話番号と名前だけよ。他にもいろいろの人の名前と電話番号が書いてあるのよ。でも、彼、直観でわかったのよ」 「わかるはずがない」 「いちいちわたしに訊くのよ。すると、わたしの答え方がちがってくるのかしら。ひとわたり訊いたあと、これだな、と彼はいってジロッとわたしを見たわ」  諸岡は少しわかる気がした。美奈子は彼に呑みこまれているなと諸岡は考える。美奈子は彼にじっと見られると蛇に睨《にら》まれた蛙のようになるのではないか。それは、彼に惚れているということになりはしないか。 「しかし、証拠を把んだわけじゃないよね」 「それはそうだけど、もしも彼に白状するように強いられたら、わたし、いっちゃいそうだわ」 「そうすると、ぼくは殴られるのか」 「知らないわ、そんなこと」 「もう会えないのか」  美奈子は頭を左右にふる。 「会いたいわ」 「そうまでして会いたいのかなあ」 「会いたいわ。でも、わたし、しばらく会えないわ」 「なぜ?」  会えないのが本心かと諸岡は思うと、急に美奈子への執着が彼の中で強まった。 「いえないわ」 「知りたいよ。もしできるなら、今日だって会いたいんだ、急に、今猛烈に会いたくなった」 「だめよ、当分」 「なぜ? 監視されてるのかね」  美奈子は首を左右にふった。諸岡は理由について見当がつかない。 「はずかしいもの、いえないわ」 「なにだろうな、妊娠して、中絶したとか……」 「妊娠なんかしないわ。いいわよ、とにかく当分だめ」 「当分というと、どのくらいかね。一月?」 「そうねえ、どのくらいかしら。一月以上じゃないかしら?」 「さっぱりわからない」 「剃《そ》られたの」  諸岡は美奈子の顔を見つめた。美奈子の顔が赤くなっている。その小麦色よりも黒い肌が赤くなると、その顔は彼女のふとんの上の顔に近くなってくる。いつも、二人は和室を使う。部厚いマットレスの上にふとんが敷かれていて、美奈子の頭はいつのまにかふとんから畳に向って垂れ落ちている。  枕許に近い電気スタンドの明りに照らされる美奈子の顔には血が集まった感じに、赤くなって、少し脹《は》れたような感じになる。諸岡は、その美奈子の顔を色っぽいと思い、欲情がいっそうかきたてられる。 「ぼくは平気だよ。ぜんぜん無いってのもいいと思う」 「いやよ、はずかしい。それに……」  美奈子は赤くなった顔のままチラと諸岡を上眼に見、それから俯き、 「チクチクするんだものう」  といって、体をゆすり、両手で顔をおさえた。そんな美奈子に諸岡は激烈な欲望を覚えた。今すぐに旅館に連れて行きたい衝動を覚えた。 「今すぐ、抱きたい」  諸岡は自分の咽喉が乾いているようなのを感じていた。彼の前にもコーヒーが置かれている。ちょうど店内は一日の中でいちばん閑散とした時刻に当っているらしい。二人の他に客は一組しかいなかった。 「だってえ」 「とても欲しいよ」  美奈子は俯いたまま腕の時計を見た。 「いいんですか、お仕事」 「仕方ない。それに緊急な仕事ってのはないんだ」 「お店に入ってくださる? 一緒に」 「もちろん」  美奈子の眼も欲情に潤んでいる。美奈子の眼は潤むと、瞳の水晶体の色が薄れてくるように諸岡には思われる。  彼は店を出る前に、事務所に電話し、なにも急用が起きていないことを確かめ、行く先々で電話すると女事務員にいった。  諸岡と美奈子はタクシイに乗った。行く先はいつもの旅館である。 「すごいスリルだわ、こんなに興奮したことってないわ」  タクシイの中で美奈子はそういった。諸岡も同じ心境である。彼は美奈子の耳に、 「すごく欲しい」  といい、美奈子の手を自分のズボンの股間に持ってきた。美奈子は一瞬触れてから、その手を引き、窓の方に顔を向けた。美奈子の体が、手を引いて二、三秒経ってピクンとなった。  旅館に着いたからといってすぐに抱き合うわけにはいかない。女中がお茶を持って出入りするからである。その間、諸岡と美奈子とは黙りこくっていた。ふだんなら、他の話をしている。照れくささから他の話をするのだが、今はそういう気持は双方ともまったくない。黙りこくることで自分たちの欲望を強く煮つめようとでもいったふうでさえある。 「お風呂に入る」  と美奈子はいったが、諸岡は許さなかった。いつも先ず風呂に二人で入る。諸岡は、風呂の中ではまだ充分の態勢がとれていない。だから、風呂から出るまでわりあい淡泊にしておれたのだが、この日はそうはいかなかった。既にアマンドの二階にいる時から態勢は整っていた。  美奈子の丘はすっかり刈り取られ、蒼々として、僅かに血を滲《にじ》ませている箇処さえあった。諸岡は、美奈子を押し倒し、手順を省いて接していた。美奈子の方も、充分に迎える体になっている。  美奈子の敏感な体は、この日、最高のものとなった。初めからしゃくり上げるような声を上げたと思うと、それが、小止みなく続くのである。美奈子の体は緻密《ちみつ》な感覚を諸岡に伝え、その緻密で閉塞《へいそく》しようとする感覚は諸岡に持続力を賦与《ふよ》し、美奈子の口から、うわごとのようなものが洩れるのを諸岡は聞いた。こういうことはこれまでないことであった。 「ちゃんと返さないと……」  なんの意味か美奈子はそんなことをつぶやき、啜り上げたのである。  諸岡は、美奈子の頬を軽く叩いてみた。美奈子は眼を開けようとしたが、眩しそうで、開くことができない。 「なにを返すんだって?」 「え?」  シャックリのような呼吸音の中から美奈子は小さい声でそういった。諸岡は、美奈子のうわごとめいた言葉をもう一度いってきかせた。 「うそ」 「うそじゃない」  美奈子は眼を開けることができない。眼を閉じたまま、美奈子は「いやいや」といって諸岡にすがってきた。  美奈子の恋人がどんな男か諸岡の気がかりは強くなってくる。興信所に頼むという手もあるが、それはしたくない。  諸岡はその男から電話がかかってくるかと待っていたが、なかなか電話はなかった。  月日が経ち、諸岡は赤坂の朝鮮焼肉屋で見かけた鼻ひげやあごひげを生やしたあの男を六本木の通りで見た。  男はちょうど自分の車から降りた処である。暑い季節なのに、白い上下の揃いの背広を着ている。その車は外国のものだ。  諸岡の存在に彼は気づいていない。朝鮮焼肉屋で諸岡の顔を見てその時は頭におさめたとしても、今はもう忘れているにちがいない。諸岡の顔は特徴がないので尚更である。  諸岡は男のあとを尾行してみた。諸岡は客と近くの喫茶店で談合して別れたばかりである。男はすぐにビルに入って行った。ビルの入口には、そのビルが収容している事務所名が書き記されている。郵便受が左手にある。その郵便受の棚にも事務所の名がそれぞれ記されている。美容院、法律事務所、なんともしれない会社、プロダクション、といった名が並んでいる。  そのビルは四階であった。エレベーターがあるのだが、ひげの男はエレベーターには乗らず、階段を駆け上って行った。ということは、エレベーターに乗るよりもその方が早いということであり、従って彼が赴こうとするオフィスは二階にあると思ってよさそうであった。  諸岡は勘づかれずに二階に上ることができたが、彼が上ると、もう男の姿はなかったが、男が消えたドアが奥のドアであるにしては、彼の消え方は早すぎた。そして、あと二つこの二階にはあるのだが、使われているのはその中の一つだけで、もう一つはなにかの倉庫になっている、だから、男が消えたドアはエンタプライズという片仮名文字の見えるそこ以外には考えられなかった。これはなにかの芸能プロと見てよい。  いったいどんなプロダクションなのか、諸岡は見当がつかない。諸岡も芸能プロダクションの経理を見ている。しかし、「今井エンタプライズ」というのは心当りがない。  ドアには電話番号も出ていない。  諸岡は自分の事務所に帰ると、すぐに、知っている芸能プロに電話してみた。 「ちょっと訊きたいことがありましてね」  と彼はそこにたまたまいた若い男にそういった。その若い男は山口といって歌手の卵である。既にレコードに吹きこんでデビューしているが、そういう歌手は数百人いるので、やはり歌手の卵といえる。その山口と諸岡とは面識がある。 「なんでしょう」 「今井エンタプライズってのを知ってる?」 「今井エンタプライズって近くにあるやつかな」 「そう、藤崎ビルの二階」 「ああ、あれは小糠《こぬか》一夫のプロですよ」  小糠一夫というのは今わりと売り出し中の演歌調歌手である。あの男は、とすると、小糠一夫のマネジャーということなのか。 「あのマネジャーは、ひげをはやしてる」 「その人が今井さんですよ。前、マリー棟田《むねた》と同棲してたので週刊誌でさわがれた人ですよ」  マリー棟田という歌手は諸岡も知っている。今はもう売れっこではないが、それでもときどきテレビに出ているウエスタンの歌手である。それからフォークソングも歌っていた時期がある。  諸岡は四十過ぎの年齢のわりには、そういうことはよく知っている方である。  今井という名であることがわかったわけだ。  その夜、諸岡は胡桃に行った。と、珍しく、美奈子は休んでいた。 「美奈子は休んでるね」  と彼はママにいった。 「そうなのよ。昨日からなの。風邪ひいたんじゃないかしら」  諸岡は胡桃からまっすぐ自分の家に帰ろうかと思ったが、ふと、初めて、美奈子のアパートに立ち寄ってみようかという気持になった。彼はかなり美奈子に深入りしてしまっている自分を感じていた。約束すれば必ず美奈子はやってきたし、店を休むこともなかったので、諸岡は、これまで美奈子のアパートを訪ねてみようなどと思い立ったことがなかったのだ。  彼女のアパートは四谷にあった。新宿の店に近い。四谷には銀座の店で働いている女のアパートも多い。  諸岡は美奈子の住所を知っていた。交番で訊ねるのがいちばん早い。  交番で訊ねると、巡査は地図を拡げ、三橋アパートの場所を見つけ出してくれた。諸岡はいんぎんに礼をいって、歩き始めた。まだ九時を少し廻った時刻である。  諸岡は行き過ぎ、引き返し、小路に入り、煙草屋で訊き、やっと、三橋アパートを探し出すことができた。  二階建てのモルタル造りである。鉄の階段が外側についている。  訊ねる前に、なぜ自分は美奈子に電話をしなかったのだろうかと、鉄の階段に足をかけた瞬間、彼はそう自分に問いかけた。つまり、彼は美奈子を急襲しようというわけである。すると、そこにタネ明かしがある。そういう気持もある。  美奈子の部屋は二階にある。二階の七号室である。階段を上りきってとっつきの部屋の明りは消えている。  その隣の部屋は明るい。そこは七号室である。七号であることがなぜわかったかというと、ドアに〈7〉と出ていたからである。ドアには郵便受がついている。  ドアの左側の柱に白いブザーのボタンが見える。格子の窓は台所にちがいない。その格子の窓の曇りガラスが薄明るい。それは、奥の部屋の明りがついているのであって、台所の電灯は消されているからにちがいない。  美奈子はいるにちがいない。と、彼がブザーを押す前に、犬の唸り声が諸岡の耳に聞えてきた。その唸り声はどうやら七号室のドアの内側からのようである。諸岡は犬は苦手である。犬が猛獣に見える。それはどんな小さい犬でもそうである。 「カロ、カロ」  という声が聞えた。美奈子の声である。  諸岡はドアの前から離れようとした。その時、台所らしい場所に電灯が点った。 「どなた」 「ぼく」  と諸岡はいった。 「え」  という声と共に、金具が外される音がし、ドアが開いた。 「あら」 「胡桃に行ったら休んでたから……」  美奈子はムームーを着ていた。冷気が諸岡の顔を包んだ。おそらくクーラーが部屋の中の空気を冷やしていたらしい。美奈子の髪は左右に垂れている。毛を刈りこんだ犬を美奈子は抱いている。その犬はミニチュアプードルなのだが、諸岡はその犬種を知らない。 「今、お客さんなの」  狭い三和土《たたき》には男の靴が置かれてあった。  諸岡は親指を立ててみせた。  美奈子の顔に恨めしそうな当惑顔が浮び、小さい声で、彼女は、 「紹介しましょうか」  といった。 「いや、いい」 「お上りになったら」  美奈子の言葉に甘えて大丈夫なのか。しかし、美奈子がそういうからには大丈夫だろうと諸岡は思った。 「じゃあ、ちょっとだけ」  と彼はいった。  美奈子は奥の部屋に行った。なにやら諸岡について説明しているらしい声が聞えてくる。 「ママのお客さんなの」  たしかに美奈子はそういった。じっさい、それにちがいなかった。諸岡が初め胡桃に行ったのはだれを目当てに行ったわけではないのだ。友人に連れて行かれ、ママを紹介されたのだ。それから、美奈子が傍にくるようになったが、あくまで最初が重んじられ、諸岡はママの客なのである。だから、美奈子は諸岡の席についても特にサービス料として懐ろに入るわけではないのだ。  しかし、諸岡は外で美奈子と会う時は、彼女が店で自分の客の時につけるサービス料よりはるかに大きい金額を与えている。 「どうぞ」  という美奈子の声がする。  彼は上った。ふすまが開いている。クーラーがよく効いている。  そこは洋室風になっていて、ソファや小さいテーブルがあった。その隣が小さい寝室になっているのかもしれない。さっきの犬はおとなしくなって、クーラーのある窓ぎわの壁の隅に寝そべっている。  ソファには、苦笑とも愛想笑いともつかぬものを浮べた二十五、六と思われるすこぶる端正な顔の男がいた。かなりのオシャレである。背広の胸にワッペンをつけていて、シャツとネクタイとが同じ空色で、胸ポケットのハンケチも同色である。背も高い。 「わたしの彼」  とだけ美奈子はいった。その彼が顔に浮べている笑いにはどこか不精《ぶしよう》な感じがあった。ふだんやり慣れていないことを無理にやっている感じである。おそらくこの男はいつもはふきげんに黙っていることが多いにちがいない。  諸岡は自己紹介した。美奈子は諸岡をほめそやすようなことをいう。税理士であること、店でも払いがよくて、ママの信用が厚くて、紳士として店の女の子たちに通っていることなどを話した。その話の内容は稚くて単純だが自分の男に諸岡をわるく思われたくないという気持はよく現われている。  しかし、不思議なのは、この男が諸岡の存在を知っていて、美奈子との間に疑惑を拡げているはずなのに、諸岡を敢えてこの男に紹介したという美奈子の了見である。  諸岡は緊張していた。けれども、男はそのことに触れそうではない。それに、ちゃんと自分の名を名乗らないのはちょっと非常識ではないか。諸岡は自分が軽く見られているように感じ、その点では不愉快だったので、 「なにか芸能界にでもいらっしゃるんですか」  と訊いてみた。 「ええ、ちょっと。でも、まだだめですよ」  しかし、はっきりいってもよさそうではないか。なにをもったいつけているのだと諸岡は男に対して、若いが故のこっけいな不遜《ふそん》を見る気がした。 「ぼくの近くにもいろいろ芸能プロがありましてね、経理を見ているのもありますよ」  しかし、男はその話に乗ってこない。美奈子もよそごとのような顔で、ウイスキイのグラスや氷を出している。諸岡がくるまでこの部屋にはアルコールの気はなかったのである。 「アルコールはだめなんですか」 「ええ。体に合わないんです」  無口な男である。べつに諸岡に対してなにかの感情を腹蔵しているといった気配も見えない。美奈子は、風邪気味なので休んだといっている。 「ママはなんで休んだか知らないようだったよ」  と諸岡がいうと、美奈子は、 「うそよ、ママに電話したわ」  といった。ムームーに包まれた美奈子の体の線が透いて見えるわけではないのに、諸岡は、くびれの深い美奈子の体の線がムームーの下に透けて見えるような気がし、美奈子の男の前なのに、美奈子を抱きたい欲望に駆られてきた。美奈子を訪ねてきたそもそもの気持の中にその欲望はあったように今の諸岡には思われる。美奈子の熱っぽい体の感触などを無意識のうちに想像していたような気がする。 「忘れちゃったよ、電話」  と男がいった。ひざを叩きながら薄笑いを浮べている。男に美奈子はママへの電話を頼んだらしい。ママは美奈子と男との関係を知らされていることになる。 「いやあねえ」  美奈子は男を睨みつけ、プイと台所の方に行ってしまった。男は薄笑いを口端に浮べたまま煙草を口にくわえ、ライターの火を近づける。部屋の中には煙が立ちこめている。しかし、男も美奈子も換気のことは考えつかない様子である。諸岡も煙草を吸いたかったが、これ以上部屋の空気を濁らせたくないので、我慢している。クーラーはいいが、換気がうまくいかないのが難点だ。 「じゃあ、おれ、帰るよ」  と男がいった。諸岡との間に話題がないので気がかりになったらしい。あるいは、自分が帰れば諸岡も帰るだろうと思ってそういったのかもしれない。諸岡は、なんの品物も持ってこなかったことに気がついた。病気見舞いに対する果物とか菓子とかを買うのを忘れたのである。 「ぼくも、そろそろ」  と諸岡はいった。 「諸岡さんはまだいいじゃありませんか」  と美奈子が思いがけなくいった。 「諸岡さんはまだどうぞごゆっくり」  と男もいう。  諸岡は奇怪なものを感じた。こういうことはふつうありえないことである。男は諸岡が居残ることを快く思うわけがないし、美奈子は諸岡と二人きりになることを自分の男の手前なるべく避けようとするのが男への礼節というものではないか。 「でも……」 「いいのよ、諸岡さん、まだいらして。わたし、淋しいのよ」  男はもう出て行こうとしている。そのうしろ姿には自分一人だけがこの部屋を出ると思いこんでいる感じがある。美奈子への執着がないのだろうか。そして、そのことを美奈子は平気に思っているのだろうか。諸岡のことを勘づいてから、二人の関係に変化が起ったというのだろうか。  美奈子はドアの辺まで見送りに行っている。犬は美奈子のあとを追っている。冷房された空気がドアに向って流れている。煙草の煙が外に流れて行く。  なにやら美奈子と男とがいっているが、その言葉は諸岡の耳には届かない。  ドアが閉る音がし、美奈子が戻ってきた。部屋の中の空気は暑くなっている。 「出入りすると、すぐムッとしちゃうわね」  美奈子は諸岡の傍らに腰を下ろすと、諸岡の肩に手をかけてきた。そんな美奈子の体を彼は抱き寄せ、接吻した。 「会いたかったわ」 「ぼくもさ。しかし、さっぱりわからない。あの人は恋人なんだろ」 「そうよ」 「つまり、すごくハンサムな恋人とはあの人なんだろう」 「そうよ」 「あの人はぼくとのことを疑ってるんだろう」 「そうよ」 「平気なのかね、ぼくを残して、あの人もきみも。なんだか狐につままれてるみたいだ」 「ねえ、抱いて」 「いいのかね」 「いいの、強く抱いて」  美奈子の声が潤んでいる。 「ここでかい」 「隣の部屋にベッドがあるわ」  美奈子の声が期待にふるえている。  あの男と美奈子は諸岡がくる前に抱き合っていたにちがいない、と諸岡は考える。その抱き合ったあとの美奈子の体の中にあの男の体液が残ってはいないだろうか。諸岡にとってこのことはさし迫った問題である。あの男に抱かれて、そして、まだ美奈子が風呂に入っていないとしたら、その体を諸岡はいつものように愛撫するわけにはいかない。  諸岡は美奈子の体を抱き起し、隣の部屋に連れて行こうとすると、美奈子は、 「待って、もっと涼しくしてからがいいわ」  といった。冷房された空気を寝室に流しこんでからがいいというのだ。  隣の部屋のふすまを美奈子は開けた。そこにはベッドが据えられている。  その部屋には温気が漂っている。 「彼と寝てたんだろ」 「今日?」 「そう」 「今日はしないわ」 「彼と寝なくて、ぼくと寝るというのはどういうことかな。そして、彼は、そのことを怖れもせず帰って行ったというのはどういうことかな」 「わからないでしょう」 「彼は芸能プロに関係がありそうだね」 「どうして?」 「この前朝鮮焼肉屋で会った男は芸能プロをやっている。今井というんだ」 「どうしてわかったの?」 「偶然六本木で見かけたんだよ」 「そう。ねえ、抱いて、うしろのファスナーを外してよ」  話を打ち切ろうとするように美奈子はそういい、諸岡に背中を向けた。彼女はベッドの脇に立ち、諸岡はベッドに腰かけている。 「彼は戻ってくるかもしれないよ」 「戻ってこないわ」 「なぜ、そんなことがいえる」 「なぜでも、ねえ、ファスナーを降ろしてよ」  美奈子の声は甲高くなっている。  諸岡はムームーの背中のファスナーを引き降ろしてやった。すると、裸が現われた。ムームーの下にはなにもない。  美奈子の褐色の肌はうっすらとした光沢を帯びている。髪のにおいが強目である。  諸岡は、じつは、自分の細君のトキ子に対する場合は決して精力的ではない。しかしトキ子は男の精力とはこんなものと思っているにちがいない。  処が、彼は、自分が意外と精力家であることを、美奈子とつきあうようになってから発見したのだ。美奈子と会うと、彼は昂まるのである。しかも、ただちに、そして、充分にその限度まで昂まるのである。  それは、いったいどうしてそうなるのか。諸岡自身にもよくわからない。おそらく相性というものにちがいない。 「風呂に入ってから抱きたいんだが」  と諸岡がいうと、 「だめ、お風呂はあとからにして」  と美奈子はいう。 「汚れてるよ」 「いいの。男の汚れた体って好きだもの」  と美奈子はいった。諸岡がはずかしがっていると、その部分にその小さい縦じわの多い唇を近づけてきたのだった。 「よしてくれ」 「よさない」  美奈子は情熱的な眼になって諸岡を見上げた。美奈子はそれから、自分のゆさゆさした双の乳房の谷間に諸岡の分身を挟み、そして、 「ごめんなさい」  美奈子は唐突にそういった。 「なにが」  諸岡は興奮のために少しぼんやりした意識の中でそういった。 「いいの? わたし、諸岡さんのこと好きなのよ。わかってえ」 「ほんとだったらうれしいよ」 「うそだと思ってるの」  野生的に情熱を湛えた眼で美奈子はまた諸岡を見上げた。  美奈子の両ひざは閉じられている。その大腿部の上側の張りつめた皮膚にも健康な光沢が走っていた。  冷房がこのベッドルームにも効き始めていた。彼は仰向けになった。すると、美奈子がすがりついてきた。  美奈子の黒味を帯びてきている地帯を諸岡は見ていた。諸岡の分身はその薄黒い眺めの中に埋まっていった。窮屈な包みこむような感覚が諸岡の昂まりを持続させ続け、美奈子の体は諸岡の上で踊った。美奈子の顔を諸岡は下からつぶさに見ることができた。下唇を噛む上の前歯、泣き顔によく似た表情を造っている顔のしわ、開く口、その口から出る声、続いて彼の上に覆いかぶさってくる重さと髪の感触やにおい。  諸岡は自分がひとかどの色事師のような気持になっていた。その証拠に、美奈子は色事師に操《あやつ》られでもしたように、幾度も彼の体の上に声と共にその体重を投げ出していた。  諸岡は、やがて、自分の体重を美奈子の上にかけていた。そして美奈子と共に達し果てた。そのまま、二人はしばらくの間動かなかった。美奈子の把握力の強い体が諸岡の萎《な》えた肉体をなお彼女自身の中に保存させていた。  彼がひょいとあることを考えついたのは、そんな時であった。あの男は恋人ではないのではないか。そう思った瞬間、諸岡の中にあの男は恋人ではないという確信が生れた。 「謎が解けたよ」 「なーに」  と小さい子供のような声が返ってきた。諸岡の片腕は美奈子の乳房の上方の裾野と鎖骨の間を通って、彼女の肩の外れに投げ出され、手指は敷布に触れている。腕の肘に近い二の腕に美奈子の鼻がくっついていて、彼女の呼吸音がそのあたりの肌にくすぐったい感じを与えていた。 「さっきの人はきみの兄弟だよ」  顔が似ている。特に眼頭から鼻梁にかかるあたりの引っ張ったような皮膚の感じが似ている。そのことにあの時気づかずに今気づくというのはどういうことなのか。それは、おそらく美奈子の恋人と思いこんでいたからにちがいない。  それにしても、なぜ兄弟を彼などと美奈子はいったのか、その謎は解けていない。  美奈子は黙っている。 「なぜ兄弟を彼なんていったのかなあ」 「だから、ごめんなさいといったでしょ」 「理由がわからない」 「スリルよ。そう思いたかったの。弟が恋人だということにすれば、スリルがあるでしょ」 「しかし、あの筋立ては不自然だ」  諸岡は煙草をくわえていた。 「でも、いいのよ。もうおしまいみたい」 「なにが?」  ギョッとして諸岡は訊ねた。 「諸岡さんとのことよ。お店も替るわ」 「どういうことなんだ」  しかし、咽《むせ》び泣きを始めた美奈子からは答えは返ってこなかった。欲望が発散されたあと、諸岡は長居したくなかった。美奈子は犬を抱いて諸岡を玄関のドアに送った。 「じゃあ」  と美奈子がいった。  それから数日して、諸岡は胡桃に行ってみた。 「やめたわよ、美奈子は」  とママがいった。 「どこに行った?」 「それ、わからないのよ。四国に帰ったのかもしれないし」  ママは諸岡と美奈子との関係は知らないらしい。 「あの子には恋人いたの?」 「いないわよ。あの子、少し変なのね、なんていうのかな、恋人がいると思いたいのよ。そして、ほんとはいない恋人の眼を盗んでいろいろやるのね。そうしなきゃ、あいびきができないのよ。だから、ほんとの恋人なんかちっともおもしろくないわけよ。いつも、スリルを感じていないと」  諸岡は、ためらった末、美奈子とのことを話した。 「その人、美奈子の弟なのよ。ときどき電話かけてくるわよ。あたしも会ったことがあるけど、すごくハンサムでしょう。弟を自分の恋人に見たてたのね」 「朝鮮焼肉屋の男、つまり今井エンタプライズの男ってのはどうなの?」 「その人はまったく関係ないわね。一度ここにきたことがあるわ。でも、美奈子は席につかなかったわ。彼も、彼女の空想に利用されたのね。でも、毛を剃ったってのはかなしいわね。そこまで徹底しなきゃならないのかと思うと、ちょっとゾッとするわね。あの子、気ちがいになるか、自殺するかのような気がするわ」  毛を剃ったのも恋人の存在をありありと感じるための細工だ。そんなこととは諸岡は夢にも思わず、美奈子の言葉を信じていた。  諸岡は美奈子のアパートに電話したが、だれも出てこなかった。  諸岡の足は胡桃から遠のき、また別の酒場を見つけて、そこに通い始めていた。しかし、おそらく、もう美奈子とのようなことはないと彼には思われる。その女と会えば彼自身の男性の機能が最大限にまで発揮されるそのようなことは二度とないにちがいない。  そうするうちに、四十五になり、五十になる。諸岡はそういうことを考えながら六本木の経理事務所に通っている。  諸岡は秋のある夜四谷の三橋アパートに行ってみた。すると、犬が唸った。美奈子がいるのかと思い、ブザーを押した。ドアが少し開いた。彼の足に白い小さい犬がまつわりついてきた。色の白いスラックスの女の顔が覗いていた。そのドアは中に鎖が仕掛けられていて、一定の間隔しか開かないようになっている。 「東さんのお宅かと思ったものですから」 「いいえ、ちがいますけど」  彼女はそういうと、犬の名を呼んだ。犬はまだ小犬らしく、諸岡の足もとを未練ありげに嗅ぎ廻っていたが、ドアの中に入った。 「失礼しました」  ドアは閉じられ、諸岡は鉄の階段に足を向けた。ほぼ円に近い月が中天に、月とはこんなに小さかったかと思われる感じに浮んでいる。 [#改ページ]   初めは処女のごとく  初め、野島は、どっちの女にしたものか迷った。  一人は美人の顔であり、一人はシャクレた顔である。ワンピースから出ている腕の感じは、美人の方がやわらかそうで、手首も美人の方が細い。  しかし、野島は、あるカンから、シャクレた方に向って、 「あなたの方がぼくの好みだな」  といった。 「まあ、わたしが!」  シャクレた方はピンクの、美人の方はグリーンの葉の模様のあるワンピースをそれぞれ着ていた。  だいたいこの話は突然降って湧いた感じに野島の処に持ってこられたのだ。  前の晩、野島が知っている銀座のクラブのマネジャーから野島に電話があった。  野島は、その銀座のクラブによく行く。そのクラブに行かない時は、家にいて、仕事をしていることになる。じつは、野島は大学の教師であった。そして、文筆業者でもある。  野島の大学もそろそろ学生の活動が活溌化し始める気配を見せていたから、文筆業としても食べることのできる野島は、教師生活をやめることを考え始めていた。学生たちに取り巻かれて紋切型の攻撃を受け、自己批判を求められたりするのは彼は真平《まつぴら》なのである。  他の大学の共闘派の指導者の学生と教授との討論を彼はテレビで見たことがあるが、二十を過ぎたか過ぎない学生が芝居気たっぷりに教授を指さし、「その責任の根源、その画策者は、ハッキリ、きみじゃないか」などというのを聞いていると、その声やポーズがバカバカしく思われ、とてもまともに話などできないと野島は考えるのである。そういうことから教師を辞める者たちに対して他の分野で生活ができるから安閑としておれるのだという非難や、まともに大学の再建に関して取り組もうとしない卑怯《ひきよう》な連中という批判がある。けれども、野島は、どう思われてもいいから、そうなったら辞めたいのだ。文筆で食べられるということもあるが、文筆で食べられないとしても、彼は辞めることを考えるにちがいなかった。あの罵声《ばせい》やポーズに対してまじめにかかわりあう気持はとても起きてきそうには思えないからである。  昔、野島が学生の頃、軍事教練という学課があった。あの軍事教練をサボることは、兵隊に行っても幹部候補生になれる道を自分で閉ざすのと同じことであった。ずっと兵隊でいなければならない。そういうことがわかっていても、野島は、あの「キオツケー」といった叫びや、いきんだ顔つきや、銃の油の臭いやらが生理的にいやで、サボリ続けた。暗い気持でサボリ続けた。  野島は、学生たちから取り巻かれて自己批判を迫られたら、同じように生理的に受けつけない気持を覚えて、学校をサボるようになり、辞めるにちがいなかった。  彼の書斎は二階にあり、階下には、彼の細君や二人の子供がいる。二人の子供は一人は高校、一人は中学に行っていて、高校が男の子、中学が女の子である。  高校の男の子は三派全学連に興味を持っていて、野島と議論を闘わすことがあるが、思想に対する感覚がちがうので、噛み合わないことが多い。  処で、野島に前夜かかってきた電話というのはこうである。 「先生は、処女は趣味じゃありませんか」 「ありませんねえ」 「そうですかねえ、処女を卒業したいという女子大生がいるんですよ」 「女子大生、まずいなあ」 「わたしの処に不意に電話がかかってきましてね。処女を卒業させてくれる男を世話してほしいというんです」 「知り合いの女ですか?」 「それが、まったくそれまで面識がないし、関係もないんです。このクラブが有名ですから、そのマネジャーに話せば、そういう人を世話してくれると思ったんじゃないのでしょうか」 「小遣がほしいんですね」 「それは無代なんです。じつは会ってみたんですよ、二人に。面相は二人ともうちのクラブではちょっと無理なんですがね。体はよさそうですね。二人とも若いんですよ」 「大学生なら若いはずですね」  野島は少し億劫《おつくう》な気持である。  野島は、しかし、面相はよくないが体がいいという言葉に多少動かされていた。 「先生好みの大きくない子なんですよ。そうそう、二人は姉妹なんです。なんなら二人一緒に処理なさってもいいんですが、わたしとしましてはですね、先ず先生に選択権を差し上げ、そのあとの子を他の方にと思ってるんですよ。日頃のご愛顧に対するささやかなお礼というつもりもあるんですが……」 「では、行きましょう」 「そうですか、では、さっそく電話させます。お宅にまだいらっしゃいますね」 「います」  それから二、三分経った頃、電話が鳴った。受話器を取り上げると、若い女の声が、 「野島さまですか」  といった。そして、野島は、さっそく翌日、彼が指定したホテルのロビイで二人の女の子と会うことになったのだ。姉という女の子が代表してのようにこういった。 「あのう、わたしたち初めてなものですから、ちょっと不安なんです。避妊の用意なんか、先生、できてます?」 「ぼくは大丈夫です。子供は要らないからパイプカットしている」 「ああ、パイプカット」  と妹の美人の方がいった。姉は妹の方をちらと見て、 「それ、なに?」  という。  二人の女の子は、大学の名はいわないが、妹の方は、どうやら医大にいるらしかった。しかし、今は数学や物理や化学ばかりやらされて医学とは関係ないという。姉の方は経済の四年。  この夜は九月の初めで、雨が降っていた。  あとの一人の男は三十分遅れてやってくることになっている。野島は、ピンクのワンピースのシャクレた女の子を連れて、外に出た。 「あのホテルじゃないんですね」 「あのホテルはビジネスホテルだからね。それに、部屋があいてるかどうかわからない。この近くにいいホテルがある」  彼はそういって、タクシイに女を乗せて、近くの連れこみホテルに行った。  すぐに部屋に通された。  野島は姉の方を選んだことを後悔していない。決めてから気づいたことだが、妹の方には、既に女としての衰えを示すような印があった。首にくびれがあり、そのくびれによって二つに別れた皮膚がたるんでいて、いきんだ時のふくらみのような状態を常に示している。そういう首を見ているだけで野島は萎縮するにちがいなかった。 「先生は妹の方を選ぶと思ってたわ。だって、妹はやわらかくて女らしいんですもの」 「いや、あなたの方がいいね。あなたの方が若い」 「そんなことないわ」  この姉妹はオナニイの経験もあるし、男とのペッティングの経験もある。だから、ヒーメンは破られているかもしれないが、性行為の経験がないという意味では処女であるという。しかし、彼女の言葉を真に受けると、彼女はその処女がもう重荷になってきたらしい。 「自然のなりゆきの中で処女を卒業するというのがほんとうはいいんだが」  と野島がいうと、 「先生は落ちついてるのね。ぜんぜんオクターブがちがうわ、つまり、そういう人によって卒業したかったんです。安心でしょ」 「こわいんだな、それで古川くんに電話した」  古川というのがクラブのマネジャーの名である。  野島は彼女の服を脱がせ始めた。裸になった体は、彼が思っていた以上によくて、健康な輝きを持っていた。乳房も繁みもきれいである。 「いい体だね」 「うれしいわ」  女をふとんの上に横たえてから、浴衣を着たまま彼は動き廻って照明の工合を適当な薄明るさにした。  寝室の明りは消して、次の間の明りを呼び入れるのが野島のやり方である。  野島は大学の教師ではあるが、女の体には慣れていた。たいてい水商売の女が相手である。  野島は唇のキスをする気持にはなれないのだが、女の方は唇のキスをしたがっている。 「どこが敏感なの」 「首筋」  彼は、それを聞くと、髪を押し分けて首筋に唇を捺《お》しつけた。しかし、敏感な女の反応ではない。彼の頭を抱き寄せようとするだけである。  乳房にも接吻する。いろいろの処にやってみる。そして、片手は絶えず、彼女が卒業したいというあたりに対して刺戟を与え続けている。  けれども、反応は殆どないといってよかった。だが、溢れ続けてはいる。 「オナニイの時はちゃんとオルガスムスに達するのかね」 「そうよ」  言葉遣いが親しげなものに変っている。 「オルガスムスってどんなものか知ってるのかなあ」 「知ってるつもりだけど。なんだか先生のはやり方がちがってるみたいだわ」 「どんなふうに?」 「だって、感じないんだもの。首筋のキスを強くやってみて」  首筋のキスはやわらかくと決っているのではないか、と思いながらも、野島はキスマークがつくほどにやってみた。と、女は、 「感じる、感じる」  とうれしそうな声を出したが、その声の感じからは、女が感じているようには思えなかった。  じつの処、野島は、こういう女は初めてである。つまり、経験の浅い女、特に処女というのは初めてだから、たいそう勝手がちがう。  彼女は我流のオナニイではかなり悦びを感じていたらしい。 「経験をしたいというのは、男に抱かれたいというのかなあ、それとも、挿入したいというのかなあ」 「抱かれたいのね」 「いや、それは少しごまかしだな。指の他になにを使った?」 「万年筆なんか使ったわ」 「本物は知ってるのかね」 「見たりさわったりしては知ってるわ。妊娠がこわかったんだわ。それに、処女はもっと高く売りつけなきゃなんていう考えもあったわね」 「処女なんて無代でもいやだという男は多いんだよ。ぼくだって無代だから引き受けたんだよ」  その時、唇と唇とが少しふれ、彼女は、待ち受けていたように彼の唇を吸った。野島の頭を抱えこむようにして、彼の唇を貪《むさぼ》っている。野島は、恋心があってのキスなら好きだが、好奇心でのみ会った初めての女とのキスは興が乗らないので、受身でいると、女は舌を差し入れ、情熱的にふるまい始めてきた。こういう女の気持が彼にはわからない。キス自体に快感を覚えているのだろうか。  興奮しているらしく、興奮を示す臭気が口に立っているが、いかにも若い娘らしく、変なにおいではない。体もよく締っている。だが、全体に感受性が鈍いのは訓練不足のせいらしい。 「どこの大学かね」 「谷花《たにはな》です」  野島はギョッとなった。それは、彼自身が助教授をしている大学である。しかし、谷花大の学生が、野島のことを知らないのは変でもある。谷花大生と偽っている女の子はかなりいるはずである。 「なに科?」 「経済です」 「文学部とは関係ないのかね」 「ありません。語学の単位はありますけど」  それに、野島は夜間部で教えることが主である。彼は文筆の方面ではいくらか名を知られている。だから、谷花大の学生であれば、自分の学校に野島というのがいるということを知っている、というふうにべつに自惚《うぬぼ》れとかではなしに、野島は考えている。 「だれだっけ、谷花の経済の先生は?」 「沢柳先生、持田先生」  その答えは正しい、外国の経済学者の名も出てくる。  谷花大の教師が谷花大の女子学生の体に接しようとしているということがこの時野島に欲望を与えた。その興奮の底には、そら怖ろしい気持と同時に、いい気味だといった気持が同居している。いつか、この女が共闘会議に参加して野島を吊し上げる処を想像してみる。彼女は、もしかしたら、この夜のことを素破《すつぱ》抜くかもしれない。 「野島、きみは、わたしと寝ただろ。え、わたしの処女卒業のための手段に供されたとも知らずに、エヘラエヘラしていただろう。無代で女を抱けると思うとすぐに飛びついてくる。しかも、自分が一応名の通った文筆家だという虚名に倚《よ》りかかってでなければそういう行動にスムーズに出られなかったにちがいない、そういう体制依存の理念について自己批判したまえ」  野島は、そんなことを想像しながら、女の体に接していた。  処女にしては、ひどく円滑にことは進行したのである。野島は学生三派のしゃべり方や言葉遣いに詳しくはないので、この想像の言葉をじっさいの彼らが知ったら笑うかもしれないとも思った。 「いたいわ、少し」 「じゃあ、静かにしていよう。まだいたいかね」 「少しね」  彼女の声は冷静である。 「どうかね、本物についての感想は?」 「やわらかいみたい」  野島はふと屈辱を覚えた。彼としては、充分な自信ある状態になっているつもりであったのに、やわらかいとはどういうことか。しかし、指や万年筆に較べればそうかもしれない。皮をつけたときのバナナにしても本物よりは固いにちがいない。  女は痛みを感じなくなってきた。しかし、快感はないらしい。  野島は休けいしたくなった。この行為には頂点がなく、同じ状態が続いているので、どこで中止してもいい。だが、野島が休けいしようとする前に、女が、 「先生、ちょっと、わたし、お手洗いにいきたくなったわ」  といった。 「オシッコかね」 「そう」  興奮すると、小水が近くなることはよくあることだ。あるいは、慣れない行為のために膀胱《ぼうこう》が刺戟されたということも考えられる。  女が便所に行っている間、野島は、自分の指を鼻に近づけて嗅いでみた。  すると、どういうわけか、薄い味噌汁のようなにおいがした。いわゆる女の体のにおいといった感じではない。そして、そのにおいに、なにかこの女が初めて男を迎え入れたことの証拠のような感じを野島は初めて見つける気がするのだった。  女の名前はわからないまま野島は別れた。姉妹でアパートに住み、仕送りを受けているという。  野島は、谷花大学の経済の教師に知人がいたが、訊くわけにはいかない。  女の方からまた電話がかかってくるかもしれない。女は、これからは野島という名を特別の眼でもって見るにちがいない。そして、その野島が谷花の教師だと知る可能性は大いにある。彼女が贋《にせ》学生にしろないにしろ、知ればおどろくにちがいない。  それから一週間ほど経った頃、夜、野島の書斎に電話がかかってきた。 「先日はどうも」  といったので、あの女だと思うと、 「わたし、妹です」  といった。 「あなたもこの前はうまく行ったかね」 「あれ、行ったのかしら。すぐ終っちゃったんです。姉から聞きましたけど、先生は上手なんですってね。最高によかったなんていうんです。わたしと会ってくださいますか」  野島は、二つにくびれてふくらんだ咽喉《のど》を思い起していた。あの咽喉を見れば、彼は昂まることができないかもしれない。  しかし、姉妹を経験するというのは初めてである。野島の中で好奇心が動いた。  それにしても、彼のことを上手だというふうにいうとは彼は思わなかった。妹が勝手にそういっていることも考えられる。  暗い中で抱けば咽喉は見えないからうまく行くかもしれない。 「おねえさんは、谷花だって?」 「そうなんです。先生も谷花なんでしょ?」 「知ってたのか」 「知ってました。ホテルのロビイで会った時、わたし、お写真で拝見してましたからわかってました」 「おねえさんは知ってたの?」 「それが、姉は知らなかったんです。わたしは当然姉が知ってるものと思って、先生に選ばれることをいやがると思ってたのにサッと行っちゃったから〈あれ〉と思ってたんです。あとで、おどろいてましたわ。でも、却《かえ》って、記憶がフレッシュになったんじゃないかしら。姉は先生を恋し始めてるみたいなの。その恋に水を差したくなったんです。姉には内緒で電話してるんです」 「きみたちはほんとうの姉妹なのかなあ。あとで考えたら友だち同士にも思えるし……」 「ほんとうの姉妹です。でも、姉はなぜ、先生のこと知らなかったのかしら。不思議だわ。そんなトンマなとこがかわいいんだけど」  妹の方が、じっさい生意気な感じである。彼女はこう続けた。 「先生、あしたでもいいけど、ご都合よろしければ、今夜の方がいいんです」 「あした会おうか。この前の処で同じ時間」 「七時ですね」  翌日も雨|催《もよ》いである。野島は傘を持って出かける。  妹がきていた。彼はこの時もまだ姉妹だというふれこみをそのまま信じていたわけではない。姉妹ということで男たちの関心を引こうという魂胆かもしれないからだ。しかし、最初の日には感じなかったが、この二度目の時、野島は、妹という女を見ていて、姉という女に似ているものを感じた。しかし、一緒に生活している友人同士の女が似てくることもある。話し方や笑い方や表情や仕種といったものは伝染し易い。 「きみたちはほんとうに姉妹かな」 「ほんとです。疑い深いのね、先生は」 「まあ、いい。行きましょうか」 「姉が行った処ですか」 「そう」  妹の咽喉はやはりふくらんだ感じだ。そのふくらみはとても二十そこそこの女とは思えない。顔は美人だが、三十、四十の顔を想像できる顔である。  二人はこの前野島と姉とが行ったホテルに着いた。  部屋に通される。入口に棚があり、その棚に傘の柄をかけて、服を脱ぐ。  妹は、姉と同じようなブラジャーをしていた。そして、姉より肉体美であるが、やはり、咽喉に見えているようなたるみがある。そして、そのたるみは下腹にもある。  彼は部屋を暗くした。 「この前の人は、すぐ終っちゃったんです。だから、よく思い出せないくらいです」 「本物についての感想はあるだろう」 「やわらかいわね」 「ねえさんと同じようなことをいう。話し合ったかね」 「多少ね」  暗闇の中で野島は行い始めたが、この妹の方が体がクニャクニャしていて、体臭が強い。 「どっちが好色かな」  妹の方は、既に喘《あえ》ぎながら、 「わたしの方だわ、もっと。ねえ、話しかけないで」  といった。たしかにこっちの方が貪る感じである。  反応もたしかにある。第一、声が出ている。感じるたびに声を出すのだ。 「敏感だね」 「だって、ツボを心得てるんだもの、先生は」  べつに野島は心得て行なっているわけではなかった。ごく自然な前戯を彼は行なっているにすぎない。 「いいわあ」  と彼女はいった。まるっきり姉とはちがっている。野島はその言葉と声に刺戟され、女に重なった。すると、彼女の体はピクンと動き、それから、のけぞり、彼の背中に手を廻してきた。 「最高よ、先生」  彼は唇の接吻を避けていたが、とうとうやらざるをえなくなった。興奮の口臭はこの妹という女の口からもにおってくる。 「ずいぶんちがうものだね、姉妹でも。あなたは敏感だねえ」  彼女は黙っている。いちいち答える時間や労力が惜しいといった感じだ。  けれども、彼女に絶頂感がやってきた気配はなかった。興奮と、ある程度の快感が持続している。 「この前はどうだったの?」  野島は休けいの時そういった。 「なにも感じなかったわ」 「もっと具体的に訊くと、オナニイと本物とはどっちがいいかね?」 「オナニイ」  彼女は即座に答えた。 「ねえさんは出血しなかったけど、きみはどう」 「わたしも出血しなかったわ。中学の時からやってたオナニイのせいだわ」  明りをつけると、彼女の咽喉が野島の眼に入ってきた。その咽喉の肌は粗く、その粗さとたるみとは病的な感じすらある。少なくとも若い女の首ではない。  野島は銀座のクラブのマネジャーの古川に姉妹とのことを電話で報告した。 「そうですか、いい体じゃないかなと思って、だから、先生に紹介させて頂いたんですけど、まあ、ようございました」 「しかし、ほんとうの姉妹ですかねえ」 「と思いますね」 「そういっているだけということも考えられるよね」 「曾根という名なんですよ」 「他の男というのはどんな人なの」 「それはかんべんしてください」  しかし、姉妹とも野島の名は知っている。それと同じように、もう一人の男の名も姉妹は知っているにちがいない、と野島は考える。だが、その男の名を知ったところでどうというわけではない。  そんな処に、また女から電話がかかってきた。今度は姉の方である。 「妹がお世話になったそうで、妹って敏感でしょう」  野島は妹が姉にしゃべるだろうと予想していたのでおどろかなかった。  それにしても妹がいっていた恋し始めた女の口調とはほど遠い。 「そうだね、とても処女とは思えない」 「妹も感激してたわ。わたしも、また教えていただきたいんです。教師と教え子の関係でしょ」 「べつに教えてはいない。しかし、最初の時、きみはぼくが谷花の教師だと知っていなかったというじゃないか」 「知りませんでした。でも知った今はなつかしいみたい」 「だが、ちょっと億劫だなあ」 「あれから、また、他の男性と寝ました。少しずつわかってきたみたい」 「その男とは妊娠の心配ないのかね」 「だって、受胎日を完全に外してしまえば大丈夫でしょ。わたし、基礎体温計ってるんです。テストしてほしいわ」 「では、やりましょう」野島は四十を過ぎている。しかし、スタミナには自信があった。大学の教師という職業についている男は、紛争中の大学は別としていろいろの職業の中でもスタミナのある方である。  野島は、姉の方とまたホテルのロビイで会い、この前と同じホテルに連れて行った。  野島は、いっさい後悔などしていなかった。女の変化への好奇心があったからである。それに、姉という女の体の美しさをもう一度見てもいいという気持がある。  だが、不思議なことが、野島の中に起っていた。彼は、この姉という女に親愛の情を抱いている自分をホテルに向うタクシイの中で発見したのである。  この女は頭はわるくなかった。 「きみは三派なんかどう思うかね」 「そうね、かなり共鳴する方じゃないかしら」 「ぼくがきみから自己批判を迫られたり、罵倒《ばとう》される可能性は零《ゼロ》ではないわけだね」 「零に近いんじゃないかしら」 「それはわからない。やがて、ぼくとのことを素破抜いたりすることだってあるかもしれない」 「まさか。でもそうなってみなくちゃ」  彼女は二つの質問の時に慎重にその場に自分を置いてみるように少しの間考えてから答えるのだった。 「わたし、もうオナニイはしないわ」  彼女は浴室で彼に体をさわられながらそういった。 「なぜ?」 「快感を妨げるからだわ。化粧品のふたなんかも使ってたの。でも、そんなもの使っていると、そんなものしか感じなくなっちゃうみたい。男性の指とかそんなものを感じなくなると困るもの」  彼女は喘いでいる。しかし、それは快感のためというより、もの珍しさのためかもしれない。もっぱら道具に頼っていたのが今は、生身の男を感じているのだ。 「ねえ、キスして」 「キスが好きなんだな」 「そうよ、キスすると、男性とこうしてるんだという実感が湧くわ」  彼女の体は、この前からすると、たしかに進歩しているように野島には思われる。けれども、彼女の体自身のコンディションがいいということも考えられる。 「情事というものは硬いものだと思っていたのに、やわらかいのね」 「なぜ?」 「どんなに固くても生身はやわらかいのね。この前経験し、二度の経験ではっきりわかったわ。その人ね、自分のは固いだろ、としきりにいうのね。でも、わたしはそうは思わなかったわ」  そういう言葉を聞くと、野島には、自分の昂まりがなにか軟弱なタコかイカのように思われてきた。そして、その昂まりが衰えてくるのを覚えた。昂まった自分はたいへんなものだという自信が男の昂まりと情熱を支えているといってよい。それがたいしたものではないと指摘されると、一挙に支えを失って野島は衰頽し始めたのだ。彼はその衰えたものを女の前にかくし、先に浴室から出た。 「ねえ、妹どうでした」 「きみの方がいいね」 「そんなことないわ。妹は好色の塊《かたまり》だと思うわ。それに、きれいでしょう」  あの咽喉の醜さなどについてこの姉という女は知っているのだろうか。 「しかし、体はきみの方がずっといい。きれいだよ」 「そんなはずないわ」  二人はこの日は洋室にいたので、ベッドの上である。  彼女は、この前やらなかったことをやり始めた。女が男の体に向って恭《うやうや》しくぬかずき接吻を与えるというあの儀式である。 「かわいいわね」  彼女はそういった。この言葉も野島の情熱に対して水を差す感じになる。じっさい、彼のその部分は急速に衰微し始めたのである。 「ほんとに姉妹かなあ」  野島は儀式をことわって、浴衣の前をつくろうと、そういった。 「ほんとです。これからずっと会ってくださるのなら、名前を教えてもいいわ」 「名前はどうだっていい」  古川から聞いた曾根という姓がほんとうかどうか野島は疑問に思っている。 「この前寝たのはね、学生なの。それも、パリパリの三派なの」  彼女は、その学生が属している派の名を口にした。 「味わうひまもなかったわ」 「ちゃんとおさまるべき処におさまらなかったということかね」 「そうじゃないの。それはそうなったんだけど、単発なの。その単発が四、五回あったかしら」 「四、五回とはすごいね」  野島も、そういう時期があった。相手が女ということだけで興奮し、すぐに終ってしまうのだが、回数はきくのだ。 「でも、上達はしたわ、感受性が。生身に適応し始めたのね」  その言葉によって、野島の体は回復しかかった。適応力をつけた感受性について彼の好奇心が動いたのである。野島は彼女の体に愛撫を与えていた。愛撫の仕方について、彼女はいろいろの注文を出す。ピアニシモがいいと思って行なっていると、フォルテにしてくれという。場所についても彼女は注文を出す。 「学生はこんなことをしたかね」 「今、話しかけないで」  彼女は顔を横に向け、手指の背の曲げた部分を口に当て、熱中し始めている。たしかに、この前よりは軌道に乗った感じである。決して美しくはない顔が上気して、今にもカンシャク玉を爆発させようとする寸前のような表情になっている。不意に、女の口から高い声が発せられた。こんな高い声を野島はこれまでどの女からも聞いたことがなかった。まるでサイレンである。サイレンとちがう点は、昇降の線がなく、いきなり高声が発せられ、それが数秒間続いて、下降することなくとまることである。野島は興奮した。愛撫だけでこの女の身体は頂点に達してしまった。すぐに本格的に始めれば、またこの女は頂点をきわめそうに思われる。彼はいきいきとなり、うわずりさえして、彼女に接した。  野島は期待しながら律動した。ある堅い窮屈な感触を彼は覚えていた。彼女の口から声は出てこない。それだけではない。先刻まではあった今にもカンシャク玉を破裂させそうな上気した顔がなかった。つまり、彼女は軌道に乗っていなかった。 「どうなの? えっ?」 「いいわ。でも……」 「え?」 「もっと大きくなるんでしょ?」  野島にはその言葉はショックだった。野島は、彼としては充分な状態にいるつもりだったからだ。大学生はそんなにすごかったのかと彼は内心思った。しかし、初めの時も、野島は今と変りなかったはずだ。 「初めの時とちがうかね」 「ちがうみたい」  その言葉で野島は衰えてしまった。そして離れ、煙草を喫うことにした。 「きみは、オルガスムスは知ってるんだね」 「知ってます。でも、それはプラスチックの化粧品のふたを使った時だわ」  彼女は外国の化粧品会社の名前を挙げた。 「学生はすごかったのかね」 「すごくないわ。形相《ぎようそう》はすごいのよ。抱きしめる力とか動きとかは荒々しかったけど、現物がソフトだったわ。そして、先生はもっとソフトだわ。ソフト過ぎるのね」  これは女の体がプラスチックに荒されたせいである。野島はすっかり自信を失った。  結局野島はそれ以上試みることなく終った。ホテルを出て、朝鮮焼肉屋で食事をした。 「妹からまた電話があるかもしれないわ。その時は相手してやってくださいね」 「自信を喪失したよ」 「妹は大丈夫よ、わたしとは感じる場所がちがうみたい」  そうかもしれなかった。妹の最も肝心な部分の感受性は鈍くない。それに、妹の方には、堅さがない。姉よりやわらかで滑らかである。そういうことを野島は、ある負け惜しみもあって、食事しながらしゃべった。彼は、車代の千円だけ渡して別れた。  野島には名誉挽回の気持があったので、妹からの電話を待っていた。  けれども、その電話はなかなかやってこなかった。  そうするうちに、学内の紛争が激化してきた。教師たちは自己批判を求められることになったが、野島は、その集会に出席しなかった。彼としては辞めてもいいつもりである。  国立の大学の教師でないことが野島にはよかった。公務員だと勝手に辞めるわけにはいかないからだ。  彼は家の書斎にいたり、夜は酒場にいたりした。そんな彼の処に学生から罵倒の電話がかかってきた。共闘派にくみする教師からの弾劾《だんがい》の電話や文書も届けられた。野島は、たちまち自分の殻の中に閉じこもることにした。彼は頽廃《たいはい》的教授の筆頭とされていた。  頽廃的美意識を踏まえ、エピキュリアンという名目の下に自己の怠惰なる態度をかくまおうとしている俗物であり、当然滅亡さるべき古い大学の典型的なダンディズムの遵奉《じゆんぽう》者とされていた。  こうなると、野島は、からっきし意気地がなかった。そして、意気地ない自分が気に入っていた。なぜなら、野島は、殺される時にも断乎とした態度を執ったり必死になったりすることを恥と心得ているような処があったからである。少々体がわるくても、禁酒や禁煙する輩《やから》を彼は軽蔑していたし、自分の健康のために毎朝一時間散歩したりする連中に対しても彼は軽侮の念を抱いていた。 「先生、わたしです、おわかりですか。妹の方です」  姉という女と二度目の情事を行なってから半月ほど経っていた。もうすっかり秋である。彼は朝に昼兼用の食事をしおえて書斎でテレビを見ていた。正午を過ぎたばかりだ。 「急にどうしたんだね」 「お会いしたくなったの。できれば今夜。わたしってその日になって急にそんな気持になるんです」 「じゃあ、会うとするか。その後経験を積んだかね」 「まあまあね。でも、先生がいちばん素敵よ」 「きみの姉さんはそうは思っていないよ」 「姉は姉、わたしはわたしです。姉には、溶ける感覚が欠如してるんです」 「溶解の溶けるかね」 「そうです」 「きみはセンシブルなのか、それとも、ペダンチックなのか、わからない処がある」 「どっちともです」  しかし、野島は、こういう会話によって、ひさしぶりに自分のペースを確保したような気がした。数年前まで彼がしばしば味わい、得意になることができた感覚的冴えのようなものが彼をいきいきさせていた。 「この前の処で会おうか」 「他の処がいいわ。わたしのいるアパートはどうかしら。お風呂もついてます」 「姉さんはいないのかね」 「いないわ。今日は帰ってこないの。彼女は郷里に帰ってるんです」  野島は、好奇心も手伝ってアパートに行くことにした。アパートの近くの喫茶店で彼女は彼を待っていた。咽喉のくびれにどうしても野島の眼は行ってしまう。  彼女は野島を見ると、立ち上り、 「出ましょうよ」と伝票を把《つか》んで、席を離れた。野島が代金を払おうとすると、彼女は、「いいわよ」といって自分で払った。  二人は歩いた。アパートはすぐ近くである。名札に春川マンションと出ていた。 「すごいね、マンション住まいなんて」 「親の脛《すね》かじりですもの。持てるものからはふんだくってできるだけ贅沢に暮すの」  彼女は野島の腕を把んでいた。彼女の部屋は三階にあった。エレベーターはないのでコンクリートの階段を上って行ったのだが、野島は、彼女が彼の腕を把む力が強過ぎるのを、そして、自分を引っぱるようにして彼女が急ぎ過ぎているのを感じていた。彼女は鍵をかけてこなかったらしく、ノブを廻すとドアは開いた。  彼が勝手にソファに腰かけると、彼女は、 「野島先生、ここに腰かけてください」  といって他のソファを眼で知らせた。野島は「ここでいいよ」といったが、彼女は、「だめよ、そこは」となぜか強く主張するので、野島は席を変えた。昼間なのに室内には煌々《こうこう》と明りがついている。 「谷花は今たいへんなんですってね。学生規則のことで部長室が占領されたって聞きましたけど……」 「学生は流行を追っているだけだよ。オミコシワッショイと同じようなものさ。ああいう学校にはもう居れないね」 「先生はオールドリベラリストなのね」 「ただのリベラリストだよ。処で、早くしようじゃないか」 「わたし、もうお風呂に入って待ってたの。この前は暗い中で抱かれたわね。でも、今日は明るい中で先生に抱かれたいわ」 「暗い方がいい」  野島は、彼女の咽喉のくびれのことを考えてそういった。彼女は裸になり始めていたが、野島の方につかみかかるようなことをして「だめよ、先生、明るい処で抱いてほしいのよ、そして、わたしの体の隅々をよく眺めてほしいの。眺められるとわたし変になっちゃうの。先生はわたしを抱きながら、いい気味だと学生たちを嗤《わら》えばいいのよ」 「なるほど、�ザマアミヤガレ�っていうわけか。それでいこう。なにかテーマがある情事というのもおもしろい」 「じゃあ、�ザマアミヤガレ、谷花�を官能的な昂まりのたびに口にするってのもいいわね。先生も裸になって」  野島はすばやく裸になり衣服をソファに置いた。その衣服を女は一つにまとめて把み、自分のと一緒に裸の姿のままどこかに運んで行った。  ベッドは同じ部屋にあった。明るさが気になるが、野島は、やわらかで好色なこの女の官能のことを思い出していた。それに、この日は初めからいきいきとした感覚が起爆剤となってくれそうな気がする。  女は横たわり、野島は開始した。 「クタバレ、谷花、ってのもいいね」 「なんだっていいわ、野島先生、わたしをいい気持にさせて」 「うつ伏せになってくれ」  彼は咽喉のくびれを見たくなかった。彼女はうつ伏せになった。背中は比較的きれいである。しかし、姉のように張りがなく、特に腋《わき》に喰いこむあたりの肌がたるんでいて、まるで三十女のようだった。  野島は背中にキスの雨を降らせた。女は呻《うめ》きを上げた。 「この姿勢で、野島先生」  と女は訴えた。  彼は、いやに彼女が「野島」という名を出すなと思った。 「わたしの要請に応じて、野島先生、機動隊のように出動して」  変ないい方をすると彼は思った。興奮のさなかでも彼女はユーモアを忘れないとでもいうのだろうか。しかし、ユーモア自体などというものはどこにもない。ユーモアには状況が不可欠だ。 「谷花を機動隊でぶっつぶすんだな。きみは谷花か」 「そうよ、谷花よ、野島先生」 「クタバレ、谷花、ザマアミヤガレ」  野島はそういって、出動要請に応えたのである。  彼女の背中がのけぞるのを彼は見た。姉に対しては衰えっ放しであった彼の肉体は、妹に対しては初めから好調である。 「ねえ、先生の武器を見せて」  彼女の体が捩《ねじ》れ、咽喉のくびれを野島は見ていた。彼は衰えそうな気配を覚えた。  しかし、その衰えようとする力は再び盛り返した。彼女が仔細《しさい》に手に取って眺め、刺戟を加え始めたからである。そのものは明るさの中で堂々と照り輝き、彼が誇りを持てるほどの威容であった。  なにかのジーという音が先ほどから聞えているのに野島は気づき「なんだ、あの音は?」「冷蔵庫の音よ」それにしては鳴りっぱなしのようである。  彼女の体はやわらかで、感受性に富んでいた。咽喉のくびれを彼は見ないよう努めていた。彼女は体の位置を回転させる。三百六十度徐々に回転させて行く。初め、その回転を野島は止めようと思って、前の位置に戻そうとすると、彼女は、 「いや、野島先生、いや」  といってあばれた。彼女は乱れるにつれ、 「谷花の野島先生」  と呼びかけてきた。悦楽が彼女の口に「あ」といわせ、そのあとに「谷花の野島先生」が続くのだ。 「よしてくれよ、そんないい方」 「いいからよ、それに語呂もいいから」  ベッドの横幅を使う段になると、彼女の頭はベッドから垂れる。その頭を持ちあげようとすると、彼女はまた「いや、いや」といい、彼に続行を求めるのだった。  彼女は乱れているようでもあるし、冷静なようでもある。とにかく、前回の彼女とはちがっている。 「あれから、経験したかね」  彼がそういったのは、終ったあとである。野島は疲れて終ったのだ。その時、思いがけないことが起きた。姉が現われたのだ。 「あら、いつ帰ったの?」と妹がいった。 「今よ。おどろいたわね。アパートでなんて」  姉の方はべつに怒っているふうではないが、ある嘲笑が、その口調や表情にはあった。野島は裸であったので、やり場のない羞恥に捉《とら》われている。 「どう、よかった?」  赤いワンピースを着た姉は白いレースの手袋を外しながらそういった。 「もちろんよ」 「わたしもやろうかな。いい、先生。妹の前で、わたし先生に抱かれてみたいわ」 「それは困る」 「あら、なぜ困るの? ねえ、野島先生、もっと困ったことになってるのよ」  野島にはその言葉の意味がわからない。姉妹揃って野島の顔を覗《のぞ》きこんでいる。  なぜ、同じような顔になって自分を覗きこんでいるのかと野島は、なにかキツネにつままれているような気持で二人の顔を見較べた。妹は体をバスタオルで包んで、ソファに腰を下ろし、姉の方はその向いに腰を下ろして煙草を喫っている。自分だけがベッドにいるというのもバツのわるい図である。  体にかけるものがないわけではない。毛布が一枚あったのだが、それはいつのまにかベッドの下に落ちている。野島は、 「ぼくの下着なんかはどこ?」  と妹に訊いた。すると、姉がこういった。 「そんなものないわ」 「ないって!」 「ないのよ」  妹もふり向いてそういい、まじまじとした眼で野島を見据えた。 「どういうことなんだ?」  野島は自分の顔から血が退くのがわかった。なにかが仕組まれていることにやっと野島はこの時になって気づいたからだ。  二人の女の子は、顔を見合せ、それから、ドッと笑った。 「いってくれ、なにがあったんだ」 「まさしくあったのよ、そして、もう今更ジタバタしてもどうしようもないのよ」  姉の方がそういった。 「きみたちは姉妹なのか?」  すると、また二人の女の子は顔を見合せ、ドッと笑った。野島はシーツで下半身を覆って、部屋の中や台所や浴室を歩き廻って、自分が着ていたものを捜し始めた。 「ちゃんと用意してるわ、これ着て帰ったら」その声に部屋に戻ってみると、妹が指さした処にワンピースがあった。 「わたしが白粉《おしろい》つけてあげるわよ」  姉がそういった。 「タクシイに乗っちゃえば平気よ。ただ、奥さんがね……」  二人の女の子は三たびドッと笑う。 「頼む、いったいどういうことなのか、教えてくれ」  野島は、今は見栄も外聞もなく床にひざを屈し、哀れな声を出していた。 「わたしたちも全共闘なのよ。野島、おまえの情事の場面は、もうちゃんと八ミリと録音テープにおさめてしまった。おまえは知らなかったが、三人の仲間がかくれて撮影してたんだよ。どこかで公開するはずだ。谷花の恥部がここにあるという一つの例証にしか過ぎないがね。それに、彼らはブルーフィルムを見たがってるのでね。しかも、主役は顔なじみの男が演じている。笑いと興奮だけはかなり盛りこまれてるわ」  そういったのは姉の方だった。床にシーツに包んだ体を蹲《うずくま》らせている野島の頭に古川の顔が浮んだ。古川もこの共謀に加担していたのだろうか。しかし、その点に関しては姉妹と称する女たちは「関係ないよ」といった。夕方になって、野島は女ものの古いスラックスとこれも女ものの薄いシャツを着て帰った。財布は返してもらえなかったので、タクシイ代として五百円もらった。彼はアパートのドアを閉めずに出たのだが、その時またしてもドッと笑い声が起るのを聞いた。 本作品中、今日の観点からみると不適切な用語が散見されますが、執筆当時の風俗、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。 [#地付き](編集部)  この作品は昭和四十五年二月新潮社より刊行された。