城山三郎 逃亡者 目 次  男の中の男  カカオ・フィーズの味  お役に立てば  北の空へ  逃亡者  えらい人  逃亡癖  鳩侍《はとざむらい》始末 [#改ページ]   男の中の男     一  スランプ気味の斉木《さいき》源太郎が発奮したのは、夕食の席での義妹の夏子の一言からであった。 「そう、お兄さんは男らしい仕事なのね」  そのとき、斉木は餃子《ぎようざ》をほおばりながら、テレビの漫画をぼんやり見ており、妻の春代と夏子の会話には、ほとんど気をとめていなかったのだが、その一言だけは、ふしぎに、斉木の耳にはっきりきこえた。 「なんだって」  斉木は、よくきこえなかったふりをして、きき直した。 「夏子はね、あなたの仕事が男らしくて、すてきだといったのよ」  春代が、いつものくせで、少しつけ足していったが、その誇張癖も、この場合、斉木には不愉快ではなかった。 「それは、どういう意味だね」  斉木は、にこにこして、春代と夏子の二人に等分に眼《め》をやった。 「あなたの仕事が、働いたら働いただけしかお金が出ないということ。ボーナスも退職金もないということ、そこがいかにも男らしくって、すてきだというのよ。わたしの苦労も知らないで、この子は妙なところに感心してるのよ」 「でも、ほんとにすてきと思うわ。働けば働いただけ金になる。働かなければ、金にならない。シビアで、いかにも、現代の男の中の男っていう感じじゃないかしら」 「それほどでもないがなあ……」  斉木は、にやりとする。  夏子は中学を卒《お》えて、高校に入ろうとするところ。春休みを利用して、久しぶりに北海道から、斉木夫婦のところへ泊りがけであそびにやってきていた。  にわかに娘らしくなり、人生をいちばん多感に感じる時期に在る。その娘心に、セールスマンの仕事が、そんな風に映ってみえるとは、悪いことではない。 「でも、きみたちには、サラリーマンの夫というのが、気楽だし、安定していて、いいのじゃないかな」  斉木は、じゃれるようにいってみる。夏子は、細い首を横に振った。 「わたしは、そうは思わないわ。うちの父なんて見てると、帰って上役や同僚の悪口ばかり。それでいて、役所では、そういう上役と、勤務時間中にも碁をやったりしてるらしいの。あれでよく月給がいただけるものだと……」 「夏子、お父さんのことを……」  春代がたしなめる。夏子は首をすくめながら、 「うちの父だけでなく、サラリーマンって、みんな、そうじゃない? テレビなんかで見てると」 「テレビは、わざと腑抜《ふぬ》けにえがいているのよ。サラリーマンはサラリーマンで……」  いいかける春代を遮《さえぎ》り、夏子はまっすぐ斉木を見ていった。 「お兄さんも、昔は銀行員だったんでしょ。それをやめてセールスマンになったのは、やっぱり、見切りをつけたためでしょ」  斉木は、おうようにうなずいた。傍《かたわ》らから、春代が補足した。 「お兄さんは、上役とけんかしたのよ」 「ますます、すてき。上役とけんかしてやめるなんて、男の中の男だわ」  斉木と春代は、苦笑して顔を見合わせた。 「そういってくれると、うれしいけど、夏子は、やはりテレビの見過ぎだわ。世の中はそんなに簡単じゃないのよ」 「でも、お兄さんは、現にこうしてりっぱに男の腕一本で家を支えて……」  子供部屋で、三つになる息子の実《みのる》が眼をさまして泣き出した。 「いいわ、わたしが相手して上げる」  夏子が話を中断して、見に行ってくれた。  斉木と春代は、また、顔を見合わせた。 「急に男らしい仕事だとか男の中の男だとかいい出して、困った年頃《としごろ》ね」 「それが、成長さ」 「まんざらでもなさそうな顔ね」 「おまえだって」 「とんでもない。銀行をやめてからは、気苦労の絶える間がないわ。男らしくない仕事で結構。毎月きまったお金が流れこんでくれさえすればね」 「夏ちゃんとちがって、夢がないな」 「夢では食べて行けないもの。あの子だって、いざ結婚というときになれば、きっと、サラリーマンを選ぶわよ」 「…………」 「ところで、支社長さんからの話、お受けするの?」  斉木は、腕を組んだ。  斉木は、ミリオン編機湘南《あみきしようなん》支店長である。部下のセールスマンは五名。斉木自身も、管理職というより、やはりセールスマンの一人。給与も過半は歩合給である。  その斉木に、統轄《とうかつ》する関東支社長から、セミナーに出席しないかとの声がかかった。箱根のホテルで、あるセミナー屋が主催するもので、テーマは「販売管理職のための緊急錬成講座」、内容は、セールスマンのスカウト方法の指導だという。  セールスマンの世界も人手不足で、各社のスカウト合戦がさかんである。斉木の湘南支店でも、もともと二人欠員の上、最近、二人たて続けにホーム・ベッドにひき抜かれてしまった。  抜かれた以上、抜き返したい。優秀なセールスマンをスカウトして、早く戦力を立て直したかった。  ただ、そうはいっても、実は、斉木自身に迷いがある。ミリオン編機のセールスに限界を感じ、同時に、関東支社長やその下の部長たちにおもしろくないものを感じていた。  ここで、社から金を出させてセミナーに行けば、ますます、ミリオン編機に縛りつけられることになる。  行くべきか、行かざるべきか。  それは、ミリオン編機のセールスマンとして、覚悟をきめて徹底すべきか、それとも、転身すべきか、という人生の選択の問題でもあった。 「男の中の男ねえ」  春代が、くすっと、思い出し笑いをした。 「上役とけんかしてやめたということが、あの子には、そんなにすてきに見えるのかしらね」  斉木は、しぶい顔をした。  若い行員は誰でも最初感ずることだが、銀行生活は、息がつまりそうであった。帳尻《ちようじり》が百円合わないからといって、何人もの行員が十時十一時まで残って、ソロバンを入れ直し、金を勘定し直す。  斉木は、そのために、せっかくのデートの約束を二度も破り、医者の娘である美女をとり逃がし、上役の紹介で春代と結婚する破目になった。  医者の娘と結婚さえしていれば、たとえ失業していようと、食うのに困りはしなかったはずである——と、いまだに女々しく思い出したりしている。  上役とのけんかのいきさつも、あまり堂々たるものではなかった。  支店長が勘定の細かい男で、普通預金の利息をつける前日になると、他に預けてあった金を持ってきて、自分の口座に入れ、その日が終ると、また引き出す。たいした利息でもないのだが、毎期、根気よく、それをくり返す。 「なんとも、みみっちい根性だ」  と、斉木が同僚たちにぼやいたのだが、それが廻《まわ》り廻って、支店長の耳に入った。  斉木は支店長室に呼ばれた。 「あなた、男らしいとは申せませんね。遺憾な点があったら、どうして直接、わたくしのところへ申し出て下さらんのですか」  支店長は、ねちねちした口調でいった。それだけでなく、その期のボーナスの査定は最低。転勤の希望もにぎりつぶされた。同僚たちは、斉木を危険人物視して、一切つき合おうとしてくれない。  斉木としては居たたまれず、やめる他はなかった。学歴もよくなく、しかも、銀行中途退社の身には、さし当っての仕事はセールスマンしかなく、突き出され押し流されるようにして、ミリオン編機のセールスマンになったのである。決して男らしい颯爽《さつそう》とした転職ではなかった。  セールスについては、自信があるわけではなかった。  ただ、銀行で外交をしていたときの知恵で、販売地域の古い煙草《たばこ》屋や文房具屋と親しくし、そこで情報を集め、また、注文のとりつぎをしてもらうことにして、とにかく、人なみに売上げを上げることができ、五年目にようやく肩書なりと支店長になったところであった。  だが、このところ、部下のセールスマンには逃げられるし、そうした煙草屋や文房具屋からの情報も、一応、出つくした形になり、売上げは低迷していた。  残ったセールスマンを励まそうと、おそく帰ってきた者のために、夜食にラーメンや寿司《すし》をとったりしてやっていたが、その勘定が一月《ひとつき》で一万円を越し、やむを得ず、経費として会社の予算で落としたところ、支社からやってきた管理部長の金藤に見つかり、 「こんな金が会社から出ると思っているのか。家具を質に入れてでも、すぐ金をつくって返せ」  と、部下の前でどなられた。  面子《メンツ》もつぶれたし、毎月一万円もやりくりするには、家計も苦しい。それに何より、金藤の物のいい方が癪《しやく》にさわった。  セールスマンをひき抜かれたことについても、金藤は斉木をののしった。 「金の卵をとられて、おまえのようなワラの屑《くず》だけ残って、どうするんだ」  などとも、いわれた。  斉木がくさるのは、当然であった。  子供部屋から、息子と夏子の笑い声がきこえた。 (男らしい仕事ね) (男の中の男だわ)  夏子の声が、耳によみがえってくる。  斉木は考え直した。セールスの仕事が、若い娘にそんな風に見えるとは、一大発見であった。  男らしいといえば、金藤の怒り方だって、銀行の支店長のねちねちした言動に比べれば、荒っぽく、いかにも男性を感じさせる。  そんな風にいわれたからといって、萎縮《いしゆく》してしまうのでなく、男らしく、がちんと受け返してやったら、どうだ。  抜いたり、抜かれたりも、これまた、いかにも男の職場らしい。どんな講習か知らぬが、自分も戦法を身につけて、その男対男の争いに加わってみよう。 「おれ、セミナーに行ってみる」  斉木は、肩を怒らすようにして、春代に宣言した。  可愛《かわい》い義妹の声に目がさめて、男の中の男に徹する覚悟になっていた。     二  斉木は、セミナーに参加した。  二泊三日で参加費四万五千円と高いが、人手不足に悩む時代にふさわしく、スカウト方法を学ぼうとする参加者は、百人を越した。  会社の規模や業種はさまざまだが、やはり、ミシン・編機・ベッドなどの販売会社関係が多かった。  その中に、斉木は、かつて同じミリオン編機の関東支社管内で働いていた泉と浜本という二人の顔を見出《みいだ》した。 「金藤のやつ、どうしている」  二人がまずきいてきたのが、それであった。  二人とも、金藤には、よくない印象を持っていた。泉は、口答えしたからと、突きとばされたことがあるという。 「きみは、よく、まだつとめているな」  二人は、ふしぎそうに、そして、少し蔑《さげす》むように、斉木を見た。  斉木は胸をはった。 「きみたちは逃げたが、おれはあくまで踏みとどまって、金藤とも張り合って行くよ」 (それこそ、男の中の男の生き方じゃないか)と、続けたいところであった。  ホーム・ベッドにスカウトされた二人は、本社の第八販売課長代理と係長という肩書になっていた。もちろん、セールスマンの世界では、肩書も有名無実に近いことがある。  二日目の夜、二人が斉木の部屋へ訪ねてきた。斉木の同室者は、大風呂《おおぶろ》に出かけて留守であった。 「きみ、うちの会社へ移らんかね」  二人は、熱っぽい目で斉木を見つめていった。 「冗談はよせ。スカウトの勉強にきて、スカウトされてたまるか」  斉木は笑ったが、二人はまじめな顔で、 「そうとはいえまい。ここでも、すでにスカウトがはじまっている。『あらゆる機会をスカウトのチャンスにせよ』という講師の言葉通りに」 「…………」 「参加者同士でもそうだが、講師も働きかけている。きみは個人指導でそう感じなかったのか」 「そういえば……」  思い当るところがあった。  もともと、奇妙なセミナーであった。 「スカウト戦術」とか「スカウトの手口」などというもっともらしい講義もあったが、その実習と称して、一人ずつ、講師の部屋に呼ばれて、スカウトの手ほどきを受けた。  講師がスカウト役になって、現在の仕事の不平不満をきき出したあげく、実在の会社の本当の就職口を例に上げて、口説きにかかるのだ。  それが、真に迫った口説き方であった。  受講者でそのため動揺し、(あれは、例え話なのか、本当の話なのか)と、後から念を押しに行き、本当の話ときいて、転職することにきめてきた者が何人かいるという。  その意味では、たしかに有能で実戦的な講師たちであった。 「ひどい話だなあ」  斉木は、つい嘆息が出た。  講師が斉木に持ち出したのは、保険会社への転職話であったが、斉木には、金融関係はこりごりという気持があり、また、ミリオン編機の社内で開き直って生きてやろうと決意した直後だけに、本気にすることもなかった。 「世は乱世さ。もはや、どこにも聖域は残っていないんだよ」  と、泉。  斉木は、ききとがめた。 「きみたちにとっての聖域とは」 「もと居た会社、つまり、ミリオン編機のことさ。ここで色良い返事をもらえなくとも、近く大々的にスカウトをはじめる。そのときは、かつての同僚のよしみで、ぜひよろしくたのむ」 「…………」 「関西では、きみの会社がうちのホーム・ベッドから、かなりのセールスマンをスカウトしている。ホーム・ベッドとしては、その返礼の意味でも、関東で支店長クラスを中心にミリオン編機から引き抜く作戦なんだ」 「宣戦布告なのかい」 「手を差しのべているんだ。ミリオン編機に対して、きみは何ひとつ負ってはいない。人使いは荒いし、ノルマはきびしいし、幹部は口うるさいし。そうした状況は、われわれには、よくわかっている。それに比べれば、ホーム・ベッドは天国だ。待遇はこの通りだし、支度金も相談にのる」  泉は、プリントを斉木に手渡した。 「同じセールスマンとして働くなら、あんなところで、むしゃくしゃしながら、こき使われることはない。わが社にきて、気ままに、のびやかに働いたらどうだね」  二人はその後も、編機の市場には先が見えたこと、それに比べれば、ベッド市場の前途は洋々たるものであることなどを、交互に斉木に説いた。  二人ともなかなか雄弁であり、説得力もあった。  斉木は、しぶい顔できいた。  これも、セミナーでの一つの学習だと思い、辛抱してきいた。     三  二人が部屋を出てから、斉木は大風呂に出かけた。  石を組んだ湯船には、かすかに硫黄のにおいのする湯気が立ちこめていた。  湯気の壁に隔てられたそこここから、受講者たちのひそひそ話がきこえる。  耳をすますと、 「歩合はどうですか」 「うちの支度金は……」  などという声がきこえてくる。  セミナー半ばで、受講者たちがいっせいに実戦にとりかかった感じであった。  さまざまの会社のいろいろなスカウト話がきこえてくる。  世の中は広い、そして、いかに人材が求められているかを痛感させる光景であった。  同時に、それは、戦国時代の風景でもある。抜いたり、抜かれたり。とくにひとつの会社に対する忠誠心などというものはない。  基準は、金である。努力にふさわしい報われ方をするかどうか。それだけが問題である。  論理は単純にして、明快。夏子の言い草ではないが、いかにも男らしい。その男らしい世界を広く自由に動き廻りたい。  なにも、ミリオン編機にこだわることはない。泉たちがいったように、不快な思いをこらえて、金藤部長たちとやり合うこともないではないか。  問題は金である。気持よく働ける場所で、より多くの金を得る——男の中の男としては、古い行きがかりなど、きれいに切りすて、わが道を行けばよいのではないか。  斉木は、心変わりしそうな自分を感じた。  湯気の壁がくずれて、一人の男が斉木のすぐ横に現われた。 「おや、斉木さん」  斉木の同室者であった。 「あなた、まだ風呂に居られたのですか」  斉木はうろたえながら、いった。 「ええ、いろいろとおもしろい話をきかされてたものですから。すっかり出る気をなくしましてね」  同室者は晴々した顔でいい、つけ加えた。 「風呂を出る代りに、会社を出る気になりましたよ」 「ほう……」 「あなたもいかがです。何なら、御紹介しますよ」 「いや、もう結構」 「もう結構といわれると、すでにお話があったわけですな。いや、それなら結構。……おかげで、わたしはすっかり長湯して、のぼせてしまいました」  湯を分ける音を立てて、同室者の後ろ姿が遠ざかって行った。  斉木は、手で湯気を払うようにしながら、窓際《まどぎわ》に寄った。  窓ガラスの向うには、水銀灯に照らされたホテルの中庭が見えた。  つつじの花ざかりで、暗い紅色や赤色の花の茂みが、巨人の血でもこぼしたように、庭を染めている。  斉木は眼をこらした。  庭にはいくつかベンチが置かれていたが、そのベンチに申し合わせたように、二人三人と受講者が坐《すわ》って話しこんでいる。花など見向きもせず、話に夢中である。  スカウト法の実習ではなく、実践に入っている。  会社から高い金を出してもらいながら、会社を裏切ろうとする人々。裏切らせて、会社に報いようとする人々。百鬼夜行《ひやつきやこう》の姿であった。     四  泉と浜本が、本格的にスカウトにやってきたのは、そのセミナーから十日ほど後であった。  二人は、斉木を、湘南市の海浜に在るホテルのレストランへ呼び出した。  料金の高いことで有名なデラックス・ホテルで、斉木は同じ市内に住みながら、まだ一度も食事をしたことがなかった。  二人は、斉木のために、食前酒からはじめてフルコースをごちそうしてくれ、手土産に特製のクッキーの缶《かん》を持たせてくれた。  スカウトの話も、具体的であった。  より高い歩合給の保証の他に、支度金として三十万円。それに、百万円の特別貸与金を出す。  その特別貸与金は、入社後一年間にあらかじめきめられたノルマを達成することで、返済の必要がなくなるという。  勤務先は、東京か横浜だが、いずれも住宅は会社で用意し、家賃も会社が払うという。  申し分ない好条件であった。  いま斉木が住んでいるのは、二間しかない小さな借家で、家賃一万三千円も自分持ちである。休みが終って北海道へ帰るとき、夏子は、いたずらっぽくいい残したものだ。 「男の中の男も、この家にオートバイでは、いささか冴《さ》えないわねえ」  と。  支度金や特別貸与金があれば、軽四輪か小型車を買うこともできる。仕事の能率も、さらに高まるはずであった。ほんとうの男の中の男になれる。  妻の春代の口癖は、 「わたしは男の中の男なんて、どうでもいいの。男の顔した女で構わないのよ、生活さえ安定すれば」  ということであった。  セールスマンに安定がないとするなら、 「桁《けた》はずれにお金が入ればいいわ」  ともいっていた。  百三十万という金は、一時所得としては、桁はずれのはずであった。  クッキーを土産に持ち帰り、その話をすると、春代は大きくうなずいた。  やがて二人目の子供が生まれるはずである。 「善は急げだわ。出産前に移りましょう」  と、いそいそした。  それから二日ほどして、斉木が帰宅すると、春代が封書を持って、とび出してきた。 「あなたって、認められているのね。わたし、見直してしまったわ」  差出人は、ホーム・ベッドの専務であった。斉木が成績優秀で勤勉なセールスマンであることを知り、ぜひホーム・ベッドに迎えたいというていねいな手紙である。 「印刷したのではないわ。専務さんの直筆よ。よほど、あなたが欲しいのね」  春代はうっとりした眼で斉木を見る。 「夏子の方が、わたしより、あなたを見る目があったのかしら。この専務さんも、あなたを男と見こんで、たのんでいるわね」  斉木は、微笑しながら、うなずいた。  妻にまで見直されたことは、悪くはない。だが、これも、タネを明かせば、セミナーで習ったスカウトの手口のひとつであった。社長または社の幹部が直筆で手紙を出すというレター作戦のはじまりである。  次には、社長からの手紙がくるはずであった。  週末、斉木は泉たちに熱海に招かれた。  伊豆山《いずさん》に近い豪華な旅館の座敷で、海を見、芸者の酌《しやく》でのんでいると、熱海で会合があったついでだというホーム・ベッドの部長が現われた。 「こちらが、例のミリオン編機で成績優秀な斉木さんですよ」  と、泉が紹介する。 「お目にかかれて光栄です。今度はぜひ、同じ会社の中で、お目にかかりたいものですな」  と、部長。  斉木は、あいまいな笑顔で、答をそらした。  それもまた、セミナーで習った手口のひとつであったからだ。  部長が帰った後、しばらくして芸者も引き揚げて行った。  斉木は少しがっかりした。(温泉地への招待などで、女をあてがうことも効果的)と、たしかセミナーでは習ったはずだが、それを実行する気配はなかった。  女の代りに、泉と浜本が残った。寝そべりながら、二人が在籍していたころのミリオン編機の思い出話が出る。いやな思い出ばかりが出てくる。  斉木は、あまりそうした話に気が入らなかった。 (何彼《なにか》につけ、現在居る会社に幻滅を抱かせる)  というのも、習った手口のひとつだからである。  耳できき流しながら、斉木の眼は海を見ていた。  黒い海を半円形に街の灯《ひ》がとり巻き、ネオンをまじえた灯の連なりが、宝石|屑《くず》を海にこぼしたように水面にゆれていた。汐《しお》をふくんだ初夏の夜風が、肌《はだ》に心地よい。  これは手口だと思いながら、大事にされているという実感は、否定できなくなる。これほど大事にされるのに、移って悪いはずはないと思いはじめている。 「斉木さん、あなただけでなく、他に……」  泉がささやきかけてきた。 「支店長一人を世話してくれれば、礼金として……」     五  月曜日の朝八時、いつものように湘南支店に出勤すると、支店長席に支社の金藤管理部長が眉《まゆ》つり上げて、坐りこんでいた。 「出勤がおそい。おれは、はるばる東京から、もう七時半にはやってきたんだぞ」 「しかし、始業は八時半です。わたしは、こうして三十分前に……」 「支店長は三十分前に出てきて当り前だ」 「それなら……」 「今日は月曜日じゃないか。一週間の作戦開始の日だ。ふだんが三十分前なら、今日は一時間前に出て来なけりゃ、周到な作戦は立てられんぞ」 「…………」 「支店長がそんなことで、どうする。だから、この店は成績も上らねば、セールスマンにも逃げられるんだ」  金藤部長は、歯がゆそうに、靴《くつ》で床を踏み鳴らした。  ミリオン編機きってのやり手として知られている。スポーツ刈りで、短いひげ。小柄《こがら》だが、精悍《せいかん》そのものの体躯《たいく》で、空手も有段者だという。  金藤部長の特別査察は、各支店長のいちばんにが手とするところであった。  金藤は、ほめ言葉ということを知らない。来てから帰るまで、どなり続けている。甘い言葉では人間は育たぬ、という信念の持主である。 「おまえたちのために、どなるんだ」  と、声をはり上げる。  ミリオン編機のベスト・セールスマンは、一位も二位も、金藤のかつての直属の部下であり、その実績の裏づけがあるので、遠慮なくどなる。 「会社のために、あれほどむきになってくれる男も居ない」  と、それがまた、会社首脳の気にも入っていた。  金藤はまた、親分肌なところもある男であった。特別査察で使いこみなど見つけても、それをそのまま社に報告することはなく、叱咤《しつた》して弁済させ、ときには、自分で金を工面して、一時的に穴埋めしてくれた。  泉が取手《とりで》支店長をしていたとき、競輪にこって会社の帳簿に穴をあけたが、金藤はそれを本社に内緒で埋めるとともに、泉を競輪場などない水戸へ転勤させた。  その泉が、はるばる汽車にのって競輪に出かけたところを金藤につかまり、口答えして突きとばされたのも、無理はないともいえた。 「おれを鬼とうらんでいい。鬼が居なくて企業が成り立つものか」  というのが、金藤の得意のせりふでもあった。 「ところで、なぜ、おれが今日きたのか、わかるか」  金藤は、ややくぼんだ眼《め》を光らせて、斉木をにらんだ。  斉木は、ぎくりとした。  ホーム・ベッドからのスカウト話、熱海で受けた接待をかぎつけられたかと思った。  熱海の汐の香、湯の香が、まだ体に残っているような気がして、思わず一歩退く形になった。  まだはっきりスカウトに応じることにしたわけではないが、接待を受けたという一事だけでも、金藤にどんなに責めつけられることになるかも知れない。 「どうだ、心当りはないか」  金藤が、たたみかけてくる。斉木を見つめる金藤の瞳《ひとみ》の中には、褐色《かつしよく》の炎が燃えていた。  斉木はその視線をそらし、 「さあ、一向に」  とぼけて答えた。 「よし、それなら、いってやろう」  金藤は身をのり出した。 「集金カードの流用、いや、悪用だ」 「ああ」  斉木は声をあげた。  そのことかと、ほっとした思いなのだが、金藤はうめき声にとった。 「どうだ、やっていただろう」  金藤は、机をたたいた。  斉木は、すなおに、申訳なさそうに、うなずいた。  ミリオン編機では、集金係は支店に属さず、支社直属で、集金カードを持って、顧客の家への集金|廻《まわ》りだけを仕事としている。  分業による能率化、それに、金銭上のトラブルを避けるための制度で、セールスマンは一切そのカードは見られないことになっていた。  だが、斉木は、親しくなった集金係に話をつけ、集金カードを借り出して、セールスに出かけた。 「集金にきた」といえば、会社や寮でも中へ入れてくれるし、集金のついでということで、セールスの話をまわりの人も警戒心を持たずにきいてくれる。集金係のためには集金を代行してやるのだし、一石三鳥の妙案と、心ひそかに思っていた。  あまり押しの強くない斉木としては、文房具店にとりつぎをたのんだり、集金カードを利用したりという風に、根性でなく頭でセールスをのばすくせがあった。  それをまた封じられることになると……。 「しかし、セールスに役立っているのですから、大目に見てもらえないでしょうか」  斉木は、おずおずといった。  とたんに、金藤はハンマーでもふるうように、拳《こぶし》で勢いよく机をたたいた。 「ばかをいうな。物には規律がある。鉄の規律が守られなければ、組織は崩壊するぞ」  斉木は、うなだれてきいていたが、心の中では、冷笑した。  金藤は、まるで軍人の中古品のようなことしかいわないし、できない。こうした男の下に、いつまでもおとなしくしているものか。貴重品のように自分をもてなしてくれたホーム・ベッドの部長たちのことが、あらためて思い出されてきた。  斉木のそうした思いも知らず、金藤はどなり続けていた。 「この地区の集金係は、全員入れ代える。以後、二度と集金カードを悪用してはならんぞ」  八時半、支店の全員が顔をそろえると、金藤は腰に手を当て、仁王立ちになり、得意の根性論を一席ぶった。 「一に熱意、二に熱意、三、四がなくて、五に熱意」という変哲もないセールス熱意論だが、金藤はそれだけがこの世の唯一《ゆいいつ》絶対の真実のようにして、しゃべった。  そういう風にしゃべる自分自身にも陶酔している。  倖《しあわ》せな人間だと、斉木は思った。  こうした男が夏子の眼にとまったら、これこそ、本当の男の中の男というのだろうか。  金藤は、根性論に続いて、ミリオン編機や編機業界の前途が、いかに洋々たるものであるかを説き出した。 「……今後は、どんどん余暇がふえる。その余暇を生産的に利用するかしないかで、人生の幸不幸が分れる。編物の値打ちは、国際的にも高くなる一方であり、たのしんで、しかも、高収入の得られる編機こそ、七〇年代の日本女性の幸福のシンボルである」  金藤は予言者のように重々しくいい、他の商品のこき下ろしにかかった。 「それに比べれば、たとえば、ベッドなど、お荷物になるだけで、何も生まない。子供だって、どうかすると、生まれないぞ」  金藤は、まじめな顔で続ける。 「深く安定した夫婦関係には、ベッドより畳の方がいい。その証拠に、一度日本ぐらしをしたアメリカ人たちは、帰国すると、寝室を和室にするというじゃないか。ベッドの前途など、先が見えている」  そこまでいってから、金藤は腰に手を当てたまま、じろりと一同を見渡した。 「おれがこんな風にいうのも、このところ、ホーム・ベッドが集中的にわが社のセールスマンをひき抜きにかかっているという噂《うわさ》があるからだ。九州であり、北陸であった。おれの眼の黒いうちは、関東支社管内では、絶対にやらせぬ自信はあるが」  金藤は眼の端で斉木を見て、いった。 「ここの斉木支店長は、つい最近、スカウト戦術の講習を受けてきた。さし当って、わが社がスカウトにかかる予定はないが、スカウト作戦の極意は、裏返せば、スカウトされない作戦に通じる。そうだな、斉木君」 「……はい」 「なんだ、確信のない返事だな」 「いや……」  金藤は斉木の眼を深々とのぞきこむようにして、 「敵はまず支店長クラスをねらってくる。しっかりしなくちゃ困るぞ」 「……はい」 「もっと、気合の入った返事ができんのか」 「はい!」  斉木は屈辱を感じながら、新入児童のように大声をはり上げた。  金藤は鼻先で笑った。 「まあいい。おまえのような男は、他《ほか》へ行きたければ、行った方がいいかも知れん。おまえにくっついて行くような男は、一人も居らんだろうからな」  奮起させるつもりかも知れぬが、見くびった言い方であった。  斉木は、はずかしくて、セールスマンたちの顔が見られなかった。怒りで体の中が熱くなってくる。  そこまでいわれて、なお、おとなしくしていられようか。自分一人だけでなく、他の支店長、それにセールスマンを何人もひきつれて、ホーム・ベッドに寝返ってやりたい気がした。  散々いいたいだけのことをいってから、立ち去りぎわ、金藤は斉木に紙包を渡した。 「これを奥さんに。もうすぐ、二人目の子供が生まれるんだろう」 「何ですか」  斉木は、むっとしていた。 「気にするな。きみにでなく、奥さんにだ。白の毛糸だよ。男の子にも女の子にも、白なら無難だからな」  金藤は、斉木の手に押しつけるようにして、包を持たせ、敏捷《びんしよう》に身をひるがえして、店から出て行った。     六 「金藤部長って、よく気のつくひとね」  春代が包をほどきながら、いった。 「二人目が生まれるなんて、どうして御存じなのかしらん」 「知らん。……部長は、そういうことに気がつくことを、じまんにしている」  いやな趣味である。これも、昔の軍人によくありそうな話である。 「白は重宝するわ。それに、編機に関係のある贈物を下さるなんて、部長さんて、心にくいわね」 「心にくいんじゃなくて、にくい男だよ」  斉木は、おもしろくなかった。  突っ返すべきであった。毛糸ぐらいで、家族ぐるみ操縦されてたまるかと思う。 「そういえば、今日、ホーム・ベッドの社長さんから、手紙がきたわ」  春代が、箪笥《たんす》のひき出しから、封書をとり出した。  筆で達者に書かれたもので、内容は専務からの先便と同様、斉木を高く買うので、ぜひホーム・ベッドに入社してほしいという懇切な文面であった。レター作戦の続きである。 「こちらは、部長の毛糸。あちらは、社長の直筆。困ったわねえ」  口ではいいながらも、春代の顔は、それほど困った様子でもない。  春代は、もともと、のんきな性格であった。口先ほどは、生活のことも心配していない。すべて斉木に任せて、ついて行こうというタイプである。  それだけに、斉木は春代が可愛《かわい》い。春代に本当に辛《つら》い思いをさせたくないと思う。  春代は、手紙と毛糸の両方をしまうと、斉木の横にくっつくようにして坐《すわ》った。 「今日、赤ちゃんが動いたのよ」  斉木の手をとり、ふくらんだ腹の上に当てる。 「どう、わかる? いまは動いていないけど」 「うん……」 「わたし、今度も難産のような気がするわ」 「ばかな」 「わたしの予感は、案外、当るのよ」  長男の実が生まれるときは、帝王切開するかしないかの騒ぎであった。出産直前、春代は気を失った。  細い目でそのときのことを思い出すようにしながら、春代は続ける。 「ひょっとしたら、子供だけ産んで、わたしは死んでしまいそうな気がするわ」 「おい、よせ」 「そのときは、おねがいだから、後妻に夏子をもらってやってね。赤の他人よりは、子供を可愛がってくれると思うの」 「しかし、夏ちゃんだって……」 「大丈夫。この前きたとき、わたしは夏子にきいてみたのよ。そうしたら、うんといってくれたわ。夏子は、あなたを本気で男らしい男と思っているのね」 「よけいなことを……」 「でも、まんざらでもないでしょ。腕一本で荒稼《あらかせ》ぎする男の中の男と思われるなんて」  斉木は、黙って、ため息をついた。  毛糸こそ、もらいはしたが、その朝の金藤の暴言には、許せないものがある。あんな風にいわれたままになっていては、男の中の男がすたる。 (おまえのような男は、他へ行けばよい)とは、何事だ。どんなに罵倒《ばとう》されようと、ミリオン編機にしがみついている女々しい人間と思っているのか。  それに(おまえにくっついて行く男は、一人も居らん)とは、よくも見限ったものだ。居るか、居ないか、くっついてくるか、来ないか、やって見せてやる。それでこそ、夏子の期待する男らしい男の生き方ではないか。     七  斉木は、泉に連絡をとった。  これはと思う支店長とセールスマン数人のリスト・アップもした。  泉からは折返し、そうしたスカウト候補者に対し、斉木が一通り接触してくれるように依頼してきた。  候補者の支店長は、厚木、小田原、戸塚《とつか》、八王子という風に散在している。電話で話せることではない。一人一人に会って、密談しなくてはならない。金藤部長らの関東支社に感づかれてはまずいので、支社に対しては、風邪のため三日ほど自宅で静養する旨《むね》、届けておいて、各支店長への交渉にかかった。  セールスマンには、ふつうのサラリーマンほど、企業に対する忠誠心はない。スカウト話も、お互いのビジネスのためと割りきって話せる空気がある。  それに、どの支店長に会っても、部長の金藤の印象は悪かった。ホーム・ベッド側の提示条件には、おおむね満足し、泉たちと会見することを約束してくれた。  会見の場所は、いつか斉木が出かけた熱海の旅館であった。泉と浜本は、目をくらますため、そこを基地にして、関東から中部にかけてのスカウトにのり出していた。  休暇をとって三日目の夜、斉木が八王子の支店長を訪ねて自宅へ帰ってくると、春代が蒼《あお》い顔をしていた。 「金藤さんが、お見舞だからと、訪ねてきたのよ。それなのに、あなたが居なくて……」 「何といったのだ」 「病院へ行ったと……。でも『どこの病院だ』と、しつっこいの。『よくは知りません、転々と医者を変わっているようですので』と答えたんだけど……」 「それで……」 「金藤さん、こわい顔してたわ。『支店で待っているから、帰りしだい、来るように』と」 「…………」 「あなた、大丈夫」 「……うん、覚悟はしていた。どうせ、いつかは、ばれることだ」  斉木は、そのまま、オートバイをとばし、支店へ行った。  煌々《こうこう》と電灯をつけ、支店長席に金藤ががんばっていた。金藤の隣りには、支社の若い男が二人控えている。 「どこへ行ってたんだ」  金藤の罵声がとんできた。  すさまじい見幕であった。斉木は、こわくなった。泉のように突きとばされるか、たたきつけられるか。ほとんど動物的な恐怖に襲われた。  しらを切るつもりでいたが、病人のくせにオートバイで医者のところを転々としていたというのでは、いいわけもできない。それに、金藤は、すでにある程度の情報はつかんでいる様子であった。  斉木は、支店長たちに事務的にスカウトの話をとりついだことは認めた。ただ、斉木自身はスカウトに応ずる気はない。あまり先方からの働きかけがうるさいので、やむを得ず、攻撃をそらすため、他の支店長に話をとりついだのだといった。  斉木の中の男は、ふきとんだ。  斉木は、金藤の前に手をついて謝った。 「いったい、ホーム・ベッドのどんな人間が動いているんだ」  と、金藤。 「泉と浜本です」  斉木は正直に答えた。そうすることで、少しでも、心証をよくしようとした。 「何だって」  金藤は大声をはり上げた。 「こともあろうに、あいつら」  金藤は逆上した。斉木の肩をつかんでゆさぶり、 「いま、あいつらはどこに居るんだ」 「……それは、わかりません」 「わからんはずがあるか。連絡をとっているはずだ」 「連絡は先方から一方的にとってくるのです」 「うそをつけ。なぜ隠す。隠す以上、やはり、おまえも……」  金藤ははげしく斉木をゆさぶった。斉木は眼をつむって耐えた。  斉木がいま裏切っているのは、泉や浜本である。斉木に男らしさが残っているなら、せめて彼等のアジトぐらいは黙っていてやろうと思った。  金藤は、さかんに斉木をしめつけてきた。だが、斉木は、先方からの連絡待ちということで押し通した。せめて、これくらい守らなければ、本当に自分は男でなくなるという気がした。 「意外に強情なやつだな」  金藤は鼻じろみ、斉木を見直した。 「アジトを白状するまで、家に帰さんぞ」 「結構です。どうされようと、知らぬものは知らぬのですから」  斉木も、開き直って答えた。支店に軟禁されて徹夜することぐらい、男としては当然だと思った。  金藤は斉木を見下ろしながら、顎《あご》を何度も撫《な》でていたが、ふいに、にやりと笑った。 「よし、おまえが口を割らなければ、奥さんにしゃべらせよう」 「とんでもない。家内は何も知りません」 「知ってるか知ってないかは、おれが直接、奥さんにきいてみる。少々乱暴なきき方になるかも知れんがね」 「やめて下さい、家内は本当に何も知らないんです」 「少し痛い目にあえば、思い出すかも知れんさ」 「いや、本当に知らないんです」  斉木は、悲鳴を上げた。  斉木が出かけた熱海伊豆山の旅館の名を、春代に教えたかどうか、記憶がない。それに、もし教えたとしても、あまり斉木の仕事に関心のない春代は、忘れてしまっているはずである。ごまかすつもりでないのに、知らないといっても、金藤は本気にすまい。隠していると、なお手荒に責め立てたらどういうことになるか。  春代は、ふつうの体ではない。それに、自分が死んだら夏子を、などと、妙に最近は元気がない。金藤たちに痛めつけられれば、どうかなってしまうかも知れない。  斉木は、眼の前が暗くなる思いがした。女房にまでそういう苦しいめにあわせて、それで男といえるだろうか。  いまは白状することが、男を立てる道だと思った。 「すみません」  斉木は頭を下げ、熱海の旅館の名をいった。     八 「よし。いまから、その旅館を急襲する」  金藤は太い眉《まゆ》をつり上げていった。時刻は十時を過ぎていた。  若い男の一人が運転し、斉木は後部の席に金藤ともう一人の男にはさまれて坐った。人質であり、護送される犯人であった。  夜ふけの西湘国道を、車はフルスピードで走り出した。  七〇、八〇、九〇と、スピード・メーターの針は、ぐんぐん上って行く。それでも構わず、若者はアクセルをふみこむ。命知らずの連中であった。  その先、どういうことになるのか、そらおそろしい。斉木は首をちぢめるばかりであった。この連中が春代のところへ押しかけなかっただけでも、せめてもの幸いとしなければならぬと思った。  車にのってからは、金藤は、もう、ほとんど口をきかなかった。斉木を置物のように無視していた。とがめも、ぼやきもしない。ただ、襲撃すべき相手だけに思いをはせている様子である。  そうしたはりつめた金藤の表情に、スポーツ刈りは、よく似合った。太くつり上った眉も、生きていた。男らしい表情であった。  男らしい男とは、こういう人間のことかも知れない。夏子が見れば、しびれるというかも知れぬと、斉木は横目でさぐるように見つめた。  車は、寝静まった小田原の市街を、けたたましくクラクションを鳴らして突き抜け、真鶴《まなづる》道路に入った。  月が出て、波が金箔《きんぱく》をまぶした絵模様をえがいていた。  車は、うなりを立てて走った。カーブでは後輪が地を離れ、浮き上るような感じになった。  これでスカウト話はだめになった。当分、変わりばえのしない生活が続くであろう。子供だけがふえて、いよいよ狭苦しくなる借家生活。軽四輪にのりかえることもできず、オートバイのままで辛抱しなくてはなるまい。  一年あるいは二年後、また、あそびにやってきた夏子は、一向にぱっとしない暮し向きを見て、義兄を過大評価していたことに気づくであろう。男の中の男どころか、しがない男にしか過ぎなかった、と。  夏子の幻滅。それを思うと、斉木は自分自身にも、あらためて強い幻滅を感じた。  人影のない料金所を車は猛烈なスピードで走り抜けて、熱海の海岸道路にかかった。他に行き交う車もなく、月光に散る波頭がまぢかに見える。  誰も無言で、エンジンのうなりと、風を切る車の音だけがきこえ、そのまま冥土《めいど》のような別世界めがけ突進して行く気がした。  セールスマンの養成には、百万を越す金がかかっている。それを、支店長クラスを中心に、何人も引き抜く。しかも、スカウト役は、かつてのミリオン編機の社員であり、金藤には格別に世話を受けた人間である。  金藤が怒るのは、当然であった。  斉木が金藤の立場に置かれれば、同じようにいきり立つであろう。  ただ、おそろしいのは、金藤のはげしい気性である。自ら鬼を以《もつ》て任じているだけに、本気で怒れば、どんな結果になるか知れない。 (このまま、突っ走れば、とり返しのつかぬことになる)  斉木の腋《わき》の下に、冷汗がにじみ出てきた。といって、おそろしくて、いまさら、抗弁も、ごまかしもできない。  ただ、少しでも、この勢いを削《そ》がすことはできないかと思った。タイミングをはずすだけでもよい。 「あの、ちょっと、車をとめてくれませんか」  斉木は、金藤の横顔をすくい上げるように見ながら、いった。 「どうしてだ」  斉木は下腹をおさえ、 「用をたしたいんで」 「あほ」  金藤は斉木の顔を見ようともしない。 「……でも、もう辛抱できんので」  斉木は、あわれっぽく、いってみた。だが、金藤はとり合わない。 「どうなとしろ」  ドアを開けてとび出ようとしても、両側からはさみこまれている。  斉木としては、手の打ちようがない。故障かパンクの起きるのでも期待する他はなかった。  だが、車はそのまま高速で熱海へ走りこんだ。 「さあ、どう行くんだ」  金藤が斉木を小突いた。  斉木は観念して旅館の地理を教えた。  かなり夜おそいので、旅館は戸を閉じているかも知れない。むしろ、そうあってくれることを祈った。  だが、その祈りも期待はずれであった。  深夜着く客の予定でもあったのか、伊豆山の旅館は玄関を開けていた。出てきた女中が、まだ斉木の顔を見おぼえていた。 「ああ、ホーム・ベッドさんですね」  勝手に早合点《はやがてん》して、スリッパをそろえ、案内に立った。  ふみこんだのは、斉木が接待された同じ部屋であった。泉は浴衣《ゆかた》姿であったが、浜本はまだ洋服を着ていた。  二人とも、金藤を見て顔色を変えた。  女中が去った後の入口を、若い男の一人がふさぎ、一人は泉たちの横に廻《まわ》った。その手に、いつのまにか、ナイフをにぎっていた。 「おれがなぜここへきたか、わかるだろう」  金藤が押し殺した声でいった。 「おまえたちと話をつけたい。ただ、ここではまわりに迷惑もかかるし、おまえたちも工合が悪かろう。うちの支店まで来てもらおうか」  うむをいわさぬいい方であった。     九  二人をのせると、車はフルスピードで同じ道をひき返し、湘南支店へ戻った。  話をつけるもつけぬも、なかった。引き抜くか、抜かれるかの戦いである。もともと、妥協や歩み寄りはないし、当事者だけで休戦するわけにも行かない。  仮に休戦を約束したところで、明日にも破られるかも知れないし、詫《わ》びてかたづく問題でもない。  そうである以上、金藤としては、泉たちに対し、憎しみと怒りをたたきつける他はなかった。  支店に着くと、金藤は若者二人に手伝わせて、泉たちの上半身を裸にし、手足を縛り上げた。 「何をするんです」  と、おびえる二人に、ズボンの革バンドを抜いて、はげしくなぐりかかった。 「助けてくれ」  泉たちは悲鳴を上げた。背に赤いみみずばれが走る。 「くそっ」  金藤は、眼《め》を血走らせて、なぐる。その手から、革バンドがすべり落ちた。  金藤は、すぐそれを拾い上げたが、逆に革の先をつかんだ。そのまま、金具のついた部分でなぐる。泉の皮膚が破れ、血がとんだ。 「このやろう」  金藤は、気が狂ったように、なぐり続ける。  斉木は、見て居れなかった。今度こそ、放《ほう》っておけぬと思った。  男なら、何としても、止めねばならぬ。だが、割って入れば、ますます金藤を逆上させるばかりであろう。 「ちょっと、トイレへ」  斉木は思い出したように下腹をおさえ、若者の一人にことわって、トイレへ立った。悲鳴が背後にきこえる。  斉木はトイレの窓をあけると、道路へとび下りた。隣家をたたいて電話を借り、一一〇番へかけた。  かけた後、斉木は、支店へ戻るべきかどうか、一瞬、迷った。  トイレの窓はあけたままである。そこから入って、さりげなくリンチの現場へ帰れば、斉木が密告したとは気づかれずにすむかも知れない。  パトカーが来たのは、近所の人が悲鳴をきいて一一〇番したせいとすることもできる。  だが、斉木はそのまま、隣家の床に腰が抜けたように坐りこんでいた。  自分が口火をつけたような事件の悲惨な結末を見ては居れなかった。それに、たとえ、金藤にうらまれることになろうと、自分は堂々とした密告者になろう。それが、泉たちへの罪ほろぼしになり、せめてもの斉木の男を立てる道だと思った。  パトカーは、五分|経《た》たぬうちに来た。支店の入口は開けたままになっていたので、警官たちは、まっすぐにリンチの現場へふみこんだ。  金藤と若者二人は、暴行・傷害の現行犯として逮捕された。現場をおさえられたために、いい逃れの仕様もなかった。  現場に戻って行った斉木に、金藤はけわしい眼を向けた。 「おまえだな、警察を呼んだのは」 「呼んだんじゃない。来たんだ……」  堂々たる密告者になるはずであったのに、たちまち、よろけた。  斉木はいいわけがましく、つぶやいた。 「とり返しのつかぬことになったらどうするんです。だから、ぼくは早目に……」  だが、金藤はもうきいてはいなかったし、二度と斉木を見ようともしなかった。     一〇  事件が明るみに出ると、これで公然とやめる理由ができたとばかり、ミリオン編機の支店長やセールスマンが十人あまりも、ごっそりホーム・ベッドに移った。  かねて、斉木が口をかけていた連中である。  つまり、スカウト講座にはなかったが、斉木は曲りなりにも、大量スカウトに一役買った形になった。  だが、斉木自身はホーム・ベッドに移らなかった。 「脅迫されてしたことだ。きみをうらんでなどいない」  と、泉たちはいってくれるのだが、斉木の気がすまなかった。  斉木はまた、金藤にも借りができた気がしたが、といって、ミリオン編機にもとどまって居られない。自分で自分を罰しなければ、男らしくないと思った。  斉木は、ミリオン編機をやめた。男らしく、退職金はなかった。次の日から、働かねばならぬ。  スカウト講座の講師を思い出し、訪ねて行った。  講師は、すでに事件を知っていた。斉木の人物に減点をつけ、以前のスカウトの条件とちがい、平《ひら》の外交員の口なら世話しようといった。  斉木は、その話を受けた。ふり出しからやり直すのが、罰にふさわしく、男らしいと思った。 「男にこだわるのねえ。わたしは、男の顔した女でいいといってるのに」  春代は苦笑しながら、ミリオン編機を使って、金藤にもらった毛糸で手ぎわよくベビー服を編み上げている。 「白って、ほんとに男にでも女にでも合う色なのね」  そういってから手を休め、斉木を見た。 「あなたも、白の色で行けばいいのにねえ」  斉木は小さくうなずいた。  男の中の男とは、やはり金藤のことなのだろうか。男らしい男にこだわるのは、容易なことではない。こだわってならぬものにこだわったのではなかったかと、悪夢のさめたような思いもする斉木源太郎であった。 [#地付き](「小説サンデー毎日」昭和四十六年六月号)   [#改ページ]   カカオ・フィーズの味     一 「課長さん、印をおねがいします」  会計課の女事務員が、尾島《おじま》の顔をうかがうようにして云《い》った。机の上には、支払伝票と小切手が一枚。小切手の金額は、四十六万円である。 (おれは課長ではない。課長代理なんだ)  尾島はその言葉をのみこんだ。  課長の高橋が急死してから、尾島は秘書課長代理として、名実ともに課長の仕事を代行している。秘書の中では最古参であり、有能で謙虚、裏表のない性格は、重役からは信頼され、同僚や後輩からの人望もあつい。そのまま課長に昇進してもおかしくないのだが、三十六歳という年齢が若過ぎた。マンモス会社であるQ製鉄では、課長は少くとも四十歳以上である。  といって、尾島の上に新たに課長を持ってくることにも、重役たちにはためらいがあった。彼等にしてみれば、一を話せば二も三もわかり、しかも、まじめで寡黙《かもく》な尾島は、手許《てもと》から離したくない。(尾島に気持よくつとめさせてやろう。それは結局われわれにとっても……)そうした思惑もあって、課長欠員のまま尾島は課長代理となり、課長への時期待ちという情勢であった。  社員たちは、そうした情勢には敏感であった。そして、ほとんど誰もが尾島を「課長さん」と呼んだ。尾島はそのたびに訂正させていたのだが、「代理さん」という呼び方もおかしいとあって、「課長」呼ばわりされることは一向にあらたまらなかった。そして尾島の心の中にも、「課長」と呼ばれることを歓迎し、ときには当然視するような気持が、徐々に萌《きざ》していることも事実であった。  ただ、その気持に気づくごとに、尾島は「課長」呼ばわりを訂正させた。そこがまた、尾島の|よさ《ヽヽ》でもあった。そして、悪いことには、その|よさ《ヽヽ》をたしかめるために、「課長」呼ばわりに文句をつけているのではないかという反省まで起ってきた——。 「……課長さん、印を」  会計課の女がおずおず催促した。 「あ」  尾島は、支払伝票に印を捺《お》し、小切手を手にとった。  女事務員は一礼して去って行った。  壁の電気時計を見る。五時十分前であった。尾島は何となく、ほっとした。  その夜は赤坂|氷川《ひかわ》神社裏の料亭へ副社長を送り、保守党の実力者を迎えて来る。尾島の仕事はそれまでで、後は西銀座のバー・エイミスへ先月分の代金四十六万円を払いに行けばよい。  尾島は小切手をポケットに納めようとして、もう一度、表を開いて見た。  銀行の名入りの特定線引小切手。「金四拾六万円|也《なり》」金額欄の下に横書きされた数字。——460,000 (ねえ、ほんとのところ仰言《おつしや》って。五|分《ぶ》でいいかしら)  エイミスのマダムの声が耳もとにきこえてくる。 (五分じゃだめ? 一割? そりゃ、そういう人もあってよ。でも……) (要らないんだ。そんなもの……) (あら……) (リベートをくれるほどもうけてるなら、それだけ安くしておけよ) (いえ、もうけてるわけじゃなくってよ。ただ、ほんのお礼のしるしに……。そうでないと、わたしの気がすまないんだもの。尾島さんのところのおかげで、うちの店は成り立ってるようなものですものねえ) (だから、おれのおかげじゃない。お礼は会社にしろと云ってるんだ) (でも、会社の窓口は尾島さんでしょ。会社へのお礼の気持を尾島さんに……) (…………) (ね、もし受けとって下さるようなら、いつでも仰言ってね)  あれからもう三カ月になる。月に一度小切手を持って行くごとに、マダムは同じことを尾島の耳にささやいた。  高橋課長がリベートを受けとっていたかどうか、尾島にはせんさくする気はない。上役の仕事について一切タッチしないのが、尾島の信条である。エイミスのホステスの一人、春香《はるか》が高橋にかわいがられ、ネックレスを買ってもらったり、遠出に連れ出されたりしたことは知っている。高橋のその金がどこから出ていたか……。  せんさくする気はない。せんさくしても何ごともはじまらない。  それにしても、四十六万の一割として四万六千円——尾島の給料よりも多い。五分としても、いまの尾島の小づかいとしては十分過ぎる……。  尾島は、小切手を納めたポケットのボタンをかけた。     二  料亭での設営をすませ、客の気に入りの芸者が来るのと入れ代って、尾島は赤坂を出た。  西銀座の並木通りにあるバー・エイミスへ行く。客を案内してくるときとはちがって、まっすぐスタンドに向った。  ほの暗いボックスには、幾組かの客があるようだが、振り返りもしなかった。いや、振り返る先に、眼《め》の前にマダムの顔が現れた。  小切手を渡す。 「たしかに」  マダムは押し頂いてから、襟《えり》の間にはさんだ。おしぼりをひろげながら、 「カカオ・フィーズね」  尾島は無言でうなずいた。  尾島はアルコールぎらいである。のめぬわけではないのだが、自制心が先に立つ。客と来るときもせいぜいビールの小瓶《こびん》程度。ただひとりで来るときだけは、口あたりのさわやかさもあってカカオ・フィーズをのむ。  エイミスのホステスは、大柄《おおがら》なマダムの好みらしく、顔も体もつくりが大きい。それだけに派手な感じを与え、調度の贅沢《ぜいたく》さも手伝って、エイミスは銀座では一流のバーということになっている。だが、尾島はそうしたタイプのホステスにはあまり気が進まず、彼女たちにもまたそれがわかるらしく、これといったなじみができない。高橋課長の関係もあって、春香が親しく振舞って見せるのだが、尾島は内心迷惑にさえ思っている。  だから、そうした尾島が一人でエイミスに来るといえば、月に一度、代金を払いに来るときだけといってもよい。そのときのむ二杯のカカオ・フィーズはマダムのおごりである。リベートの二万ないし四万円分にあたるものが、その二杯のカカオ・フィーズにこめられている。それは、清廉《せいれん》潔白の味であり、剛直の味である。  隅《すみ》のボックスから、一人の男が声をあげて寄ってきた。 「尾島課長さん、久しぶり!」  大学の後輩でN証券の総務課に居る内海《うつみ》であった。N証券は秘書課がなく、総務課の内海たちが秘書の役をかねている。 「よせよ、おれは課長じゃないんだ」  旧友相手にそういう話をするのはおっくうであった。 「しかし、前の秘書課長が死んでからは、あなたがヘッドなんでしょう」  なるほど、ヘッドという云い方があったのかと、尾島は苦笑し、 「ヘッドはヘッドだが……」 「それなら課長と同じじゃないですか」  整った鼻筋をつきつけるようにして云う。頬《ほお》は桜色に染まっている。かなりのんだらしく、酒気が強く匂《にお》う。  尾島は、内海の顔をあらためるように見ながら、フィーズをのんだ。 「女の子のようなものをのんでますね」 「うん、相変らず、この方はだめでね」 「この前死んだ課長はすごかったそうじゃないですか。浴びるほどのんだそうですね」 「…………」 「死因は、食道が裂けたんですって? あつい酒をあんまりのむものだから……。秘書課長としては、正に壮烈な戦死というところですね」  尾島は黙ったまま、わずかにうなずいた。  高橋課長の病名は、食道|穿孔《せんこう》。酒に荒れた食道に孔《あな》があき、ほとんど入院間もなく死が見舞った。前の夜まで、いつもと変らずのんでいただけに、それは内海の云うような「壮烈な戦死」という感さえあった。  内海はまた高い声をあげた。 「しかし、酒ものまずに秘書づとめとはたいへんですね」 「…………」 「秘書課長になられるためには、もう少し酒を修業なさった方がいいんじゃないですか。酒席が沸かなくて困るでしょう」  尾島は、わかったというしるしに、何度もうなずいて見せた。  そのくせ尾島は、秘書だからといって、酒をのむ必要があるとは思っていない。  秘書には、二つのタイプがある。  一つは、この内海や高橋課長のように座を明るくし、ときには、にぎやかにする存在だ。容貌《ようぼう》・風采《ふうさい》ともに秀麗、社長や重役をいかにもそれらしく見せる飾りものとしての秘書である。  それは、白くのぞかせた胸ハンケチに似ている。品質や丈夫さがどうであろうとかまわない。何より白く美しく、折目正しく見えること——それが必要で十分な条件である。  もう一つの秘書タイプは、たとえばズボンのポケットにつっこまれ、常時使われているハンケチである。手を拭《ふ》き、汗をぬぐい、ときには涙をおさえて、いそがしく働く。丈夫で、十分|洗濯《せんたく》がきき、破れないものがいい。  尾島は子供時代「ゲタ」とあだ名されたように、角ばった顔をしている。もちろん、第一のタイプ、つまり、座敷に坐《すわ》る顔ではなく、座敷を用意する顔なのだ。前者が机上の花ならば、こちらは椅子《いす》の背もたれのようなものである。見えないところに控えていることによって、主人たちに安らぎを与える——それが秘書としての尾島の職責なのだ。  背後のボックスで笑い声がした。内海はぎくりとしたように、 「じゃまた」  あわててフロアーを横切り、手洗いに向って行った。  久しぶりに会っても、秘書という職業柄、一分《いちぶ》の心のすきもない、とまり木にちょいと羽をやすめるというわけにも行かないのだ。  その空いている隣りのとまり木に、マダムが坐った。脂粉のにおいがふりかかる。 「ごめんなさいね。今日は春香さんおやすみなのよ」  少し流し目をつくって云う。切れこみの深い、ややつり上った眼。  尾島はそうしたマダムにも、春香にも何ひとつ魅《ひ》かれるものはない。 「構わないよ。おれは別に春香が……」 「そうオ。……あ、お代りしましょう。同じものね?」  尾島はおうようにうなずいた。 (そっとしておいてくれ。おれは静かに、ゆっくり、二杯のカカオ・フィーズをのむ。そのときおれは、自分がこのエイミスを養っているような力のたかぶりを感ずるんだ。リベートもとらず、ひいきな子もつくらず、それでいて月々四十万から五十万の客を連れてくる。——そういうりっぱな客なのだ)  尾島は、それを口に出したい衝動をこらえた。  スタンドのかげで低く電話が鳴った。バーテンが出る。 「は、はい、いらっしゃいますが」  マダムが首をのばした。  バーテンは受話器を持ちかえ、 「尾島さま、お電話ですが」 「ぼくに……」  ちょっと眉《まゆ》をかげらせる。赤坂の客については、十分手配ずみである。芸妓《げいぎ》や仲居たちへの心づけまですんでいる。  首をかしげながらも、手はすばやく受話器を受けとっていた。 「あなた?」  妻の三枝子であった。声に切迫したものがある。 「どうしたんだ」 「あなたのお友だちに、舟木さんという人が居る?」 「舟木? ……ああ居るよ」  思い出したくない名前であった。 「やっぱり」  受話器の向うでも、三枝子が落胆したように云った。 「舟木がどうしたんだ」 「訪ねてみえたのよ。夕方六時少し過ぎに」 「それで……」 「何だか様子がおかしいの。『あなたとは無二の親友だ、一生離れられない仲だ』などと云って……」 「…………」 「でも、わたし、そういう親友の名前って、一度もうかがったことなかったものね」 「……舟木の用件は何なんだ」 「お金を貸して欲しいって」  尾島は、咽喉《のど》の奥でアッと小さく叫んだ。あいつは、とうとうやって来たのか、という思いがした。 「いくら?」 「それが五千円ですって」 「…………」 「五千円なんて用意してないし、それにお貸ししていいものやら……」 「帰ってもらったのか」 「いえ」 「どうして出直してもらわないんだ」 「それが、泊るところがないんですって。『貸してもらえねば、お宅に御厄介《ごやつかい》になる。とにかく、尾島君の帰りまで待たせてもらう』って。とっても図々《ずうずう》しいのよ」 「……どんな様子なんだ」 「蒼白《あおじろ》い顔をして、ぼんやりしていて。そのくせ、ときどき、とても鋭い眼でわたしを見るの。足が片方おかしいみたいね」 「…………」 「ねえ、どうしたらいいの。わたし八時までは辛抱してたのよ。でも夜はふけるばかりでしょ。お隣りの奥さんには話しておいたんだけど、あのお客と二人だけでアパートの部屋に居ると思うと、こわくてこわくて……」 「……よし、すぐ車をとばして帰る」 「社長さんたちはいいの?」  三枝子は、はじめて声をひそめた。  尾島は、エイミスはじめ、二、三のバーや待合の電話を妻に教えてある。身にやましい思いがないだけに、それらは仕事の場として連絡のとれるようにしてある。  三枝子は受話器越しに、社長や大事なお客の相手をしているであろう夫の姿を思いうかべているのだ。 「うん。何とか抜け出して行く」  強く云《い》ってから、電話を切った。カカオ・フィーズを一気にのみ干し、コップを置く。まだとけてない氷が鳴った。 「あら、お帰りになるの」 「うん。急用ができた」 「でも折角……。もう一杯だけいかが」 「いや帰る」  カカオ・フィーズ二杯——とにかく、行事は終ったのだ。 「Sタクシーを呼びましょうか」 「うん」と云ってから、尾島はあわてて否定した。「いいよ。表でひろうから」  Sタクシーなら会社のチケットがきくし、またエイミスの勘定につけておくこともできる。だが、その夜の帰りは、厳密に社用と云えるだろうか。  カカオ・フィーズ二杯のんで切り上げた夜は、地下鉄で渋谷まで戻り、そこから車をひろって帰る習慣である。その方が、尾島は心が豊かになる。誰にも後ろ指ひとつ指されないりっぱな秘書だと思うことができる。  それに、Sタクシーの回送されてくるのを待つ時間だけでも惜しかった。一分でも早く家に戻って、舟木を引き出さねばならない。  マダムは外まで送ってきた。銀座としてはまだ時間が早いので、空車はすぐにつかまった。  車の外から、マダムは最敬礼し、 「ありがとうございました。課長さんのお宅へは足を向けて寝られないわ」 「…………」 「りっぱなお客さん、そして、いい御主人!」  車は勢いよく走り出した。     三  車はしばらく明るい灯《ひ》の下を走りつづける。  尾島はそっと財布を出して、中をあらためた。  五百円あまりの小銭。その横に、一枚の五千円札がきちんとたたんで入れてある。それも、三枝子と話し合った上での秘書としての身だしなみであった。どこでどんな風に現金が要るとも限らない。その用意にとひそませてある。それは、ほぼ半年近くそのままの状態であった。  今夜のところは、これで追い返すことができるかも知れぬ。しかし、二度三度と訪ねて来るようなことがあれば……。  尾島はふと、その夜のマダムの言葉を思い出した。「りっぱなお客」だの「いい御主人」だのと、ひやかすようなことは云った。事実、感謝もしていた。しかし、リベートの話はみじんも出なかった。三回つづけて尾島に反応のないところから、もう匂《にお》わせる必要がないと判断したためなのか。  尾島という客に対しては、「りっぱなお客」として持ち上げ、精神的な優越感を味わわせる。——それで十分ときめこんだのであろうか。  尾島は、いささか気弱くなった。そうきめこまれてしまっては困る。自分はいままでのところりっぱであったし、これからもりっぱでありたいと思う。だが、それは尾島の内部から自然に起ってくることで、外からきめつけられたのでは苦しくなる。気分に背のびが出てくる。  まだまだ自分は精神的にも、そして、物質的にも未完成である。自分の決意はぐらつくかも知れない。りっぱな秘書をめざしながら、りっぱでなくなる場面が出てくるかも知れない。そうなる自由さを残しておいて欲しい。現に——。  四十六万円の一割四万六千円。五分で二万……。  あれは、とらぬ狸《たぬき》の皮算用ではない。一言云えば、尾島の手に滑りこんでくる。エイミスは十分にもうけており、またリベートを断わったからと云って、その分だけ会社の勘定が安くなるわけではない。  つり上った眼をしたマダムはたっぷりもうけを吸いつくした上に、なお大儀そうにあのリベート分までものみこんでいる。隅々まで脂《あぶら》の行きつくした体で、いまごろは尾島のやせがまんを笑っているかも知れない。  はじめて、怒りが尾島の体の中に噴き上げた。車をそこでUターンさせて、エイミスに戻ってマダムの手から何万円かをむしりとってきたい気がする。  その金さえあれば、たとえ舟木がどんな難癖をつけてこようと、その顔にたたきつけ、口にはりつけて追い返すことができる。二度と現れないように話をつけることだってできるのだ。  舟木次郎——最後に舟木に会ったのは、ほぼ十年あまり前である。東京駅の混雑の中でのあわただしい立話だった。  そのとき舟木は大阪でのつとめがうまく行っていると云った。身なりはぱっとしなかったが、とにかく定職についている恰好《かつこう》であった。  舟木は子供のときから色白の美男子であった。足が悪くなければ、飾りものとしての秘書にしておかしくない風采である。頭も悪くはなかった。  その舟木が足を悪くしたのは、尾島のいたずらが原因であった。それは、尾島にしてみれば、いたずらというより、一瞬、魔がさした感じであった。  小学校六年、授業後、廊下の掃除をしているときであった。二階の階段のはずれに居た舟木の背を、尾島はふいに背後から突いた。うらみも、悪意もなかった。子犬同士がふざけ合うような手の動きであった。  だが、結果は深刻だった。舟木は一気に階段の下までころげ落ち、右の踵《かかと》の骨にひびが入った。  尾島と舟木は、それほど親しい仲ではなかった。それだけに、妙に動機を勘ぐられることもなかったが、尾島の両親は三日とあげずに病院へ見舞いに行った。双方とも、同じ程度の会社員で、察しのついた月給の中からの見舞いぶりに舟木の家もようやく怒りをおさめた。それには、舟木の足が眼に見えて快方に向ったことも手伝っていた。  一カ月半ほどして、舟木は杖《つえ》をついて登校するようになり、さらに半月ほどして、杖なしで歩けるようになった。ひびはつながったようで、翌年春の中学への入学試験も無事合格した。  別の中学に進んだ二人は、あまり顔を合わせることもなくなった。戦争がはげしくなって同窓会も開かれなくなり、しばらく消息がとだえたが、終戦近くなって、おそろしいニュースが尾島の耳に入った。  舟木が学校教練で野外演習に出ていたとき、堤防の上からころげ落ち、右の踵をふたたび傷つけて、ひきずってしか歩けなくなったというのだ。  当時、尾島の中学は八王子にある航空機の部品工場へ、舟木の中学は横浜の自動車工場へ学校ぐるみ勤労作業に出ており、授業としては教練だけが行われているような状態であったので、ニュースを耳にしても、見舞いに出かけることもできなかった。そのうちに空襲を受けて、家のあった一画は焼野原になり、戦後にはちがった顔ぶれが住むようになった。  インフレの中にあって、尾島はかろうじて高校から大学へと進んだ。進学どころか就職もできず、舟木はすっかりぐれてしまった。パチンコの景品買い、競輪の予想屋、そして寸借また寸借。  舟木は再三尾島の家を訪ねてきて、電車賃がないとか、財布を落したとか云って、二千円近く借りて行った。尾島だけでなく、友人たちは軒なみにやられたようで、やがて「寸借サギ」という罪名で舟木を追っている刑事が、尾島の家へ現れたりした。  舟木は大阪へ移った。 『まじめな仕事についた。いろいろ迷惑かけてすまなかった。足はまだ悪いが、今後は二度と迷惑かけることはないと思う』  住所も記さぬそうしたハガキが、二年ほどして舞いこみ、それからまもなく東京駅でばったり出会ったのだ。  舟木は、丼池《どぶいけ》筋のセンイ問屋に住込みで帳づけ仕事をしていると云った。家の中での仕事のせいであろう、顔色がひどく蒼かったが、表情は明るかった。 (よかったら、家へ来て泊らないか)  尾島は、そう云いたいのをこらえた。結婚して間もない三枝子に、まだ舟木のことは話してない。足の悪い舟木を見れば、三枝子は当然その原因を訊《き》くであろう。悪意はなく、子犬のたわむれのような気持でやったということをわかってくれたとしても、夫を見る眼にくもりを与えずにはおくまい。それに、正直に云って、戦後数年間の舟木の行状が、跡かたもなく収まったとは信じられなかった。いったん狂い出せば、舟木は今度はとことんまで尾島にくいついてくるであろう。舟木の不幸の原因の一半は、たしかに尾島にある。くいついてくる舟木を振りもぎるだけの勇気も自信も、尾島にはなかった。それに、センイ問屋での帳づけの仕事などという出来過ぎた話も、どこまで信用できたものか。 「……じゃ、お元気で」  尾島は別れるとき声を強くして云った。それは通り一遍の挨拶《あいさつ》ではなく、心をこめた祈りであった。元気に仕事に励んで、早く生活を安定させてほしい。そして、二度と決して、いまわしい現れ方をしないで欲しい。  右足を振り出すようにして人波の中に消えて行く舟木を、尾島は立ちつくしたまま見送っていた。どうか、二度と現れないで欲しい——。     四  秘書という職業|柄《がら》、遠くには住めない。車で二十分あまりでアパートに着いた。  六畳・三畳二間つづきのアパート。家賃は一万二千円だが、会社で一万円負担してくれる。  その六畳の間の電気コタツで、舟木次郎は煙草《たばこ》をふかしていた。袖《そで》のほころびたジャンパー、首には茶色のマフラーを巻いている。  三枝子は三畳の間で編物をして待っていた。 「やあ!」  舟木は顎《あご》をふり上げて、なれなれしそうに云った。虚勢にも見えた。  尾島はオーバーを着たまま、向い合ってコタツに入った。舟木の形のよい鼻の下と顎に、無精ひげが生えている。 「びっくりするじゃないか」 「いや、すまん。きみが留守だと聞いたけど、折角訪ねてきたものだから」  少しばかり、おどおどした口調であった。尾島は、高飛車に出ることにした。 「どうしたんだ、夜分ふいに来るなんて」 「すまん。仕事をさがしてるんだ」 「仕事? センイ問屋は……」 「とっくにやめた」 「どうしてまた……。あのときは、結構たのしそうじゃなかったか」  舟木の口調が変った。 「たのしい? そんなことがどうして他人にわかる」 「…………」 「入ったきり、給料を一度も上げないんだ。おれの足の悪いのを見越して、他《ほか》に行き場がないと思やがったんだ」 「…………」 「何度おとなしくたのんでもだめなんだ。とうとう飛び出したよ。必要な金を頂戴《ちようだい》した上でね」  尾島がピースの箱をとり出してすすめると、舟木は無造作に一本抜きとり、斜めに口にくわえた。  マッチをすって、その火をまず舟木にすすめてやる。それまで立ったまま二人のやりとりを見ていた三枝子が、あきらめたように台所に立った。茶でも沸かしにかかる気配である。  煙草の煙を吐き出してから、尾島は心を落着けるようにして云った。 「それで、用件というのは」 「奥さんに話しておいた。……五千円ばかり貸して欲しい。もっと多ければ多いほどいいが」 「冗談じゃない。五千円だって、いまのぼくには……」 「ふん」舟木は鼻を鳴らし、「秘書課長だそうじゃないか。機密費だとか、料亭やバーへの支払いとか、いくらでも自由になるだろう」 「とんでもない。ぼくはまだ課長じゃない。それに課長であったところで、うちの会社には……」 「そうかい。それならそれでいいよ。代りに、しばらくここで厄介になるからな」 「ここで……」 「うん。東京じゃ、きみのところへ厄介になろうと、まっすぐやってきたんだ」 「しかし、ぼくの他にだって……」 「古い仲間も居《お》り、きみより親しい友だちも居るさ。だが、いずこへも事情があって、厄介になれない。考えた末に、きみのところに定《き》めた。おそらくきみは断わりはすまい。ぼくの苦境を十分理解してくれるはずだと思ってね」 「…………」 「五千円もらえば、しばらくは外で泊れる。それがなくなったら、また厄介になる」 「何だって。きみは五千円だけでなく……」 「そうだよ。いま五千円貸してくれなければ、今夜から厄介になりたい。貸してもらえれば、しばらくしてからというわけだ。……もっとも、のっけからこんなことをしゃべっちまうなんて、おれもやきが廻ったものだ。……いやなら放り出してくれてもいいんだぜ。きみも知ってのように、足腰弱いおれだ。きみと、そしてあの肉づきのいいきみの奥さんとがかかれば、やすやすと放り出せるだろう」  舟木は横目で台所の方を見て、意味ありげに笑った。不気味であった。毎日毎晩、この男が妻と同じ部屋に居れば、どういうことが起るか。 「きみはぼくを……」  声がふるえた。 「頼む義理がないと云うのかね」 「いや、そんなわけでは……」 「それじゃ、引き受けてくれよ」  三枝子が茶を運んできた。横にミカンを二つ。  舟木は一息に茶をのんで、 「奥さん、すみませんねえ、もう一杯」  いかにも崩れた口調で云った。  尾島は財布から五千円札をとり出した。 「お貸しする。今夜のところは引き取ってくれたまえ」  舟木は、うすい唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑った。 「じゃ、遠慮なく」  間《ま》を与えず、尾島は腰を浮かせた。 「その辺まで送って出よう」 「そうあわてるな。もう一杯、奥さんのお茶をいただいてからだ」  尾島と三枝子が声をのんで見守る中で、舟木は咽喉《のど》を鳴らして二杯目の茶をのんだ。 「ああおいしかった。久しぶりに人心地ついたぜ」  掛声をかけるようにして、ゆっくり立ち上った。 「これ頂いて行くよ」  ミカンを一つずつ、ジャンパーのポケットに分けて入れる。  アパートを少し離れてから、尾島は腰の強い声で云った。 「ぼくとしては五千円は大金なんだ。どうか、今回限りにしてくれないか」  足のことについては口に出せない。傷はいまに残っているとしても、それはあまりにも遠い昔のできごとだ。償うというようなことを、いまさら意識するのはこっけいでさえある。  忘れたころ舟木が答えた。意外に静かな口調であった。 「しかしね、この足じゃ、あまり歩き廻ることもできんのだ。歩きたくもないしね」 「…………」 「悪いけど、しばらくは、きみをたよりにさせてもらうよ」 「それじゃ、きみはこれから先ずっとぼくを……」  舟木はかすれた声で笑った。 「そうじゃない。しばらくの間と云ってるじゃないか」 「どれくらいなんだ」 「…………」 「それとも、いくらぐらいあれば、きみは再起できるんだ。二度とぼくをたよりにしないですむんだ」 「多ければ多いほどいい」 「また、そんなことを……」  不気味な靴音《くつおと》を立てて舟木がまたアパートを訪れる日のことを思うと、尾島は背筋が冷えるような気がしてくる。カタをつけて、二度と現れぬようにしておきたかった。 「仕事を探してるんだね」  舟木は急に右足で地面を蹴《け》った。 「この足がいけねえんだ。この足で、みんな、だめなんだ」  足を切りすてたいような、じりじりした云《い》い方であった。  尾島は言葉を失った。身体障害者は舟木だけではない。しかも彼等の多くは、不自由さに克《か》ち、自分自身に克って、いろいろな仕事についている。自暴自棄になる瞬間も幾度かあったであろうが、それを踏み越えて、落ち着いた人生を歩んでいる。なぜ舟木がその道を……。  だが、それは尾島の口からは吐けない言葉である。  考えてみれば、舟木がいつかこういう形で憤懣《ふんまん》を爆発させ、尾島に立ち向って来る日のあることを、尾島はかなり前からぼんやり予想していた気がする。そういうことがあってもおかしくはないと、自らを納得させてもきた。 「ね、いくらあれば、きみは二度とぼくをあてにしないですむ」 「いくらあっても……」  舟木はそういってから、いたずらっぽく尾島を見た。その眼《め》は、エイミスであった内海とどこか似ていた。足さえまともなら、舟木もいまごろ内海のように一流会社の秘書になっていたかも知れない。色白で端整で、そして、飾りものとしての秘書に。 「十万円」  舟木の要求を尾島は首をふるわせて拒否した。舟木はそれを見越してでも居たように、またいたずらっぽく笑い、 「それじゃ五万円だ。それを二、三日中に用立ててくれたら東京から姿を消す」 「ほんとうだね。それ限りで……」 「うん。おれの約束はかたいよ」  舟木はねじれた口調で云ってから、長く白い息を吐き、 「きみは倖《しあわ》せなやつだな」  皮肉ではなさそうな云い方であった。尾島が黙っていると、 「いい奥さんだ。きみをたよりにしている……」 「…………」 「おれもずいぶん女とはつき合ったが、たよりにされるなんてことはこれまでなかった」  しんみりした口調で云ってから、 「あ、もういい、帰れよ。奥さんがふるえて待ってるぞ」 「…………」 「また二、三日したら寄らせてもらう。五万円たのむよ」  尾島はかすかにうなずいた。ただ帰りのおそい尾島としては、家へ来られるのは何としても気が進まない。会社の近くの喫茶店を教え、そこで三日後の十二時半に会うことにした。  その夜、尾島夫婦は夜半過ぎまで話し合った。  三枝子は五万円貸すことに反対であった。貸す理由がないと云う。  突き落したといっても、傷はいったん治っている。再発については、尾島の責任ではない。それに、だからと云って、ぐれるとは限らない。本人の気持しだいでりっぱな社会人生活・家庭生活に入れたはずではないか。 「くずれた感じがするハンサム・ボーイでしょ。きっと女の人にはかわいがられたと思うわ。それで、若いうち、女から女へと遊び廻っていたのじゃないかしら」  尾島はそれを舟木の側に立って考える。(女にはたよりにされなかった)と舟木は云った。彼には女を食わせて行くだけの自信も根気も出なかったのかも知れない。  だが、いずれにせよ、舟木がここまで来たのは舟木自身の責任だという三枝子の意見に、尾島も同意した。舟木に対しては、ユスリやタカリをあしらうのと同じ態度でいいということになった。  とは云っても、現実にユスリと同じように追い返せるものだろうか。  アパートの部屋を出ようとしない舟木。三枝子は隣人や管理人、あるいは警官を呼んで追おうとする。舟木は開き直る。(おれをこんなにしたのは、尾島なんだ!)とどなる……。  耐えられる光景ではない。また、舟木を部屋に迎えて夜おそくまで尾島の帰りを待たせることには、尾島自身にも不安がある。  いちばん虫のいい結論は、今度喫茶店で会ったとき、金は渡さないで、しかも二度と現れないよう、きっぱり話のかたをつけるということであった。 「あなた、お仕事ではことわることに馴《な》れてらっしゃるんでしょう」 「…………」 「他の秘書では相手できない人も、おれが出てことわってやる。おれは強面《こわもて》するんだ——と、いつか仰言《おつしや》ってたじゃありませんか」 「しかし、それとこれとは……」 「同じよ。こちらに弱みがあるわけじゃなし。むしろ弱みがあるのは先方でしょ」 「弱みというと?」 「これはわたしの観察だけど、あの人、何だか追われてたみたいな感じね」 「どうしてそれが……」 「最初は妙におどおどしていたわ。それに、お友だちや仲間のところへは、どこへも寄らないと云ってたわね。お茶だって、渇いていたように二杯もつづけてのんで……」 「だが、追われてるとすれば、よけい、うるさい相手だよ。何をするかわからない」 「いやよ、おどかさないで。……それなら、わたし、しばらく実家に戻るわ」 「ばかいえ。きみが追われてるなどと云うからいけないんだ」  うらやまれた家庭の平和まで、こわされそうであった。     五  尾島は説得が成功するとは思わなかった。  二度と現れぬようにと云うためには、五万円でなくても三万程度は用意してやらねばならない。それで、気分的にも後くされはなくなる。  しかし、家の貯金の中からそれを引き出すことは、三枝子の反対でできない。彼女は、一文も出さぬという点について、尾島もあきれるほど執拗《しつよう》であった。  妻の手前は、金をやらずに話をつけるということにしておいて、尾島は別に金の工面を考えた。  機密費の操作——ヘッドである尾島には、やってやれぬことはない。だが、万一、課長が新任されたときには、ばれてしまう。信頼できる人物ということでかたまってきた自分の経歴に、少しでも暗い影を残しておきたくはなかった。  給与の前借——後ろ暗さこそないが、「前借」ということには、何となく人格の重さを傷つけるものがある。まして、その返済方法を妻にわからぬ手続きでということになれば、不必要な誤解も招く。友人や出入りの商人から借りることについても、口から口へとつたわって行くうわさを思えば、同様、気が進まない。  とすれば、最も無難でスマートな方法は、バー・エイミスのマダムからリベートを取ることである。それは借りるわけではなく、くれる意志のあるものを受けとるまでである。マダムはまた、二人の間の秘密を決して人に漏らすことはないであろう。漏らすことは、Q製鉄という大事な客を逃すことになるからだ。  そのリベートも毎月もらうわけではない。三万円だけもらうんだ——。  翌日の夕刻、尾島は社外の公衆電話からエイミスへ掛けた。 「マダム、いつか云ってたお金の件なんだが」 「お金? ああ、昨日頂きまして、ほんとにありがとうございました」  気づいているはずなのに、マダムはすまして云った。尾島は体を熱くしながら、 「そのことじゃない。……ほら、いつか、ぼくにくれようとした……」 「…………」 「急に必要なことができてね、三万円だけたのむ。いや、後にも先にもこれ一回限りなんだ。何なら、貸してくれてもいい」  自分自身を踏みつぶしたいような屈辱感を感じて云った。昨日まで問題にもしていなかったバーのマダムに頭を下げ、言葉をつくしてたのむ。一人でバーを支えてやっているような、りっぱな客の気分になっていたのにと、情けなくてならない。それ以上、たのまなければならないとしたら、後先もなく電話を切りたい気分であった。  だが、短い沈黙を置いて、マダムの声がきこえてきた。 「……三万円でございますね。ようございますとも、整えておきましょう」 「ありがとう。助かる」 「それで、いつ?」 「今夜行く。客を案内して行くから、適当なチャンスを見はからって」 「はい、わかりました。どうぞお越しを。お待ちしてますわ」  終りの方が、いつもの営業用のあでやかな声に変って、尾島はようやくほっとした気になった。  マダムは舌のひとつぐらい出したかも知れぬ。しかし何でもないことだ。二つ返事で引き受けてくれた。どうせ屈辱感を味わうなら、五万円と云ってやればよかった。リベートは三カ月分はある。十万円と云っても……。  五万円と云っておけば、さし当り三万円渡すとして、二度目に現れたときにも備えておくことができる。考えてみれば、Q製鉄の秘書課長ともあろうものが、何万円かプライベートな金を持っていないということの方がおかしい——。  夜は、社長と同郷の国会議員から紹介されてきた二人の客のお相手であった。国会議員の顔もあり、社長に代っての接待というので、築地《つきじ》の料亭を用意しておいたのだが、そちらは短く切り上げて、エイミスに案内した。銀座の一流バーということで、地方の客にはよろこばれると、自分に云いきかせるようにして。  初対面の客というせいもあったが、尾島ははじめてスコッチの水割りを注文した。客たちもそれにつられた。ビールよりは、はるかに値がはるはずである。気のせいか、注文をとりつぐホステスの声も明るかった。スタンドの向うから、マダムが顔を斜めにして会釈《えしやく》した。  尾島は、これでまたひとつ転落したと思った。カカオ・フィーズの味が、ふいに遠く、なつかしく、貴重なものに思えてきた。  運ばれてきたスコッチを、尾島は勢いをつけて咽喉の奥へあけた。灼《や》けるように熱い。食道に孔《あな》のあくまでのんだ高橋課長のことを思い出す。やり切れなかった。客より先に、お代りした。  しばらくして、尾島はトイレに立った。出てくると、おしぼりを持ったマダムが控えていた。ホールとの間は、カーテンで隔てられている。 「はい、お約束のもの」  おしぼりの下に、小さな角封筒があった。尾島は黙って押しいただいた。そして、これは、前夜マダムがしたのと同じ仕種《しぐさ》だと思った。  スコッチを三杯。いつもよりはるかに芳醇《ほうじゆん》な酒に酔い痴《し》れたはずなのに、心は貧寒としていた。  翌々日、約束の喫茶店で舟木に会った。  舟木は別人のように無口で、金を受けとると、すぐ立ち去った。三万円ということも予期していたようで、たいして文句も云わなかった。そうなると、尾島は舟木がまた現れるのではないかと不安になり、表まで送って出て念を押した。  会社に近い明るい喫茶店での金の受け渡し——社員に見られることも考えられたが、それはそれで構わなかった。明け暮れ会社にやってくるユスリ・タカリの類《たぐ》いを、尾島はときどきその喫茶店に連れ出し、要求の何分の一かに値切って渡していた。社員たちは、尾島と舟木のやりとりもその類いのものと見、尾島にはりっぱな秘書課長の貫禄《かんろく》を、舟木にはいやしい会社ゴロの影を連想したにちがいない。     六  その週の日曜日、朝寝していた尾島は、三枝子にゆさぶり起された。警視庁の刑事が、舟木のことについて訊《たず》ねに来たという。  三枝子は、耳もとに口を近づけて云った。 「ね、やっぱり、そうでしたでしょ?」  尾島は、顔をしかめながら、いそいで丹前を着た。  刑事は、会う早々、いきなり訊《き》いた。 「あなた、舟木に最近、お金を貸されたことがありますか」  刑事よりもなお鋭い眼で、三枝子が尾島を見た。 「……ええ」 「いくらです」 「三万円」 「いつのことです」 「一昨日、いや、一昨々日でした」 「渡された場所は」  尾島は喫茶店の名を云った。 「いや、わかりました」  刑事ははじめて語調をゆるめた。 「わかったというと……」 「金の出所です。舟木があなたに借りたと云うのですが、これまでのこともあって一応裏づけに廻《まわ》ってみたのです」 「舟木が何かを……」 「撃たれたのです。まず一カ月くらい入院を要するでしょう。なに、ヤクザにつけねらわれてたんですよ」 「すると舟木は被害者で……」 「そうです。麻薬捜査に協力してくれましてね、それで関西に居られなくなって、東京へ逃げてきたのです。当然、うらむやつが出て来るものですから……。われわれも協力者の保護というところから彼の立廻りそうなところを当っていたのですが、ヤクザたちが追うのも同じところと考えたのでしょう、一向そちらに現れず、困っていたところ、昨日渋谷で関西のヤクザに……。犯人はすぐ逮捕しました」 「すると、舟木さんは追われた末、宅に……」  三枝子が口をはさんだ。 「まあ、そうですな。ただし今度は犯人として追われたのではなく、犯人に追われたということです。アシを洗おうとする者があると、情けないことに、ときどきこういうことが起るのです」 「舟木はなぜアシを洗う決心を……」 「さあ、それは当人の腹の中をきいてみないとわからないでしょう。ただきっかけの一つとしては彼に女ができた、いや、子供ができたということもあるでしょう。そのことが……。女は洋裁師です。やはり片足が少し悪いが、生活力はあります。今度は舟木もほんとうに家庭を構える気になったようです。生れてくる赤ん坊のためにも、いかがわしい仕事はやっては居《お》れますまい」 「…………」 「舟木のお借りした三万円は、いま警察で預っております。『逃げ廻る必要はなくなったから、三万円は要らない、お返ししたい』と云っているものだから」 「……すると、それはどちらへ行けば」  云いかける三枝子の先を、尾島は遮《さえぎ》って、 「しかし、治療費とか何とか、これから舟木もたいへんでしょう」 「もちろん、そうです」 「……それじゃ、その金をもう一度舟木に渡してやって頂けませんか。赤ん坊のミルク代にでも」  刑事はうなずいて、 「これは警察の関与することじゃありません。二人の間でお好きなように……。しかし、そうやって頂ければ、舟木は助かるでしょうな」  人の良さそうな刑事は、最後にそう云って立ち去って行った。  三枝子がふくれ面《つら》して部屋のまん中に坐《すわ》っている。 「三万円もどうなさったの」 「会社で借りた」 「どういう名目で」 「課長だよ、名目なんか訊かれはしない」 「返済はどうするの。月々給料から引かれるんじゃない?」 「そうじゃない。別の金なんだ」 「じゃ使いこみ?」 「ばか。……とにかく、きみは心配しなくていい。おれはめったなことはしない。信頼してくれていていいんだ」 「…………」 「きみ、カカオ・フィーズって、のんだことがあるか」  話の飛躍に、三枝子は眼をむくようにして、 「何の話? ごまかしちゃだめよ」  尾島の眼は、エイミスのスタンドに坐って、透きとおったチョコレート色のフィーズをのんでいる自分の姿を思い浮べていた。  二度とリベートを受けとりはしない。来月から、いや、明日からだって、自分はりっぱな客なのだ。  舟木が返そうとしたことで、尾島までリベートを戻してしまったような錯覚が湧《わ》いてくる。だが、リベートを受けとったままであることに変りはない。一回限りとはいえ、その点での自分の転落はたしかなのだ。  それなのに、舟木の出方ひとつで心はみるみる明るくなってきた。舟木に救われたような気さえしてくるのだ。 (舟木がんばれ!)  と、小さく心の中でつぶやく。  舟木の赤ん坊ののむミルクには、カカオ・フィーズの味がするであろう。爽快《そうかい》で清廉《せいれん》潔白で剛直の味——。 「いつか、のみに連れて行ってやる。さっぱりしたとてもいい味なんだ」  あっけにとられている三枝子に向って、尾島は浮々した声で云った。 [#地付き](「日本」昭和三十八年四月号)   [#改ページ]   お役に立てば     一  馘首《かくしゆ》されて一週間目に、吉造《よしぞう》は妹の初枝がつとめているバーへ行った。  客は一組だけ。ふつうなら手空《てす》きの女がどっと寄ってくるはずなのだが、その女の数もマダムと合わせて三人に減っていた。上客ではないと見て、客に貼《は》りつくようにして眼《め》だけを吉造に向ける。  その中から、初枝がやや厚くなった腰を振りながら立ち上ってきた。  バーテンからはいちばん遠い止り木に導いて、 「不景気でしょ。他《ほか》の子はやめちまったのよ」 「…………」 「ちょっとでも実入りが減ると、すぐ動くわ。早晩、ここも潰《つぶ》れるわねえ。……と云《い》って、しけ過ぎていて、潰してやろうという気にもなれない」  七、八年も前であろうか、初枝は吉造と組んで小さなキャバレーをいためつけたことがある。  吉造には悪気はなかった。ホステスである初枝のためになると思って、せいぜいそのキャバレーに出かけた。勤め先の問屋の客の接待にもそこを使い、初枝や初枝の朋友《ほうゆう》を指名した。  金は初枝を通して払ったのだが、初枝はいつも半額近くをリベートだと云って戻してきた。  キャバレーはそれほどもうかるものかと思っているうちに、初枝は別のバーへ引き抜かれた。吉造の金はツケにしたままで、一つも清算していなかった。半額は初枝自身が着服していたのだ。  勤め先にどなりこまれたため、吉造も勤め先を替った。それとともに、前々から吉造の酒に業《ごう》を煮やしていた妻の久代が、二人の子を連れて実家へ戻ってしまった——。  しかし、何といっても酒はうまい。舌の上で黄金の珠《たま》をころころころがしているようだと、ウイスキーに眼を細めていると、 「兄さんのお店、景気がいいの?」 「いや……。それどころか、おれ、これになっちまったんだ」  首筋に手刀《てがたな》を当てた。 「まあ、そんなに不景気なの」 「不景気もひどいが、それより、少ししくじってな」 「酒のせいでしょ」 「うん」 「使いこみ? それとも、お得意さんに粗相でも」  吉造は眼を閉じたまま首を横に振り、 「学校の先生を、つい突き飛ばして……。うちの店に三人ばかり若いのを寄越《よこ》している九州の中学の先生だ。勤務状況の視察とか何とかいって毎年やって来るんだが、御馳走《ごちそう》して車代とお土産を持たせることになっている。その先生とのんでいるうちについ……」  社長は銀行筋の接待とかち合ったため、吉造が代って小料理屋に案内した。教頭株というその教師には、まずそれが気に入らなかったらしい。二言三言話すうちに、うだつの上らぬ番頭ということも見抜かれた。  一方、吉造の方では、日頃《ひごろ》、若い店員がのさばり、しかも社長がそうした若い者を自分たち古参以上に大事にするのがおもしろくなかった。  上座《かみざ》にすえて酒をすすめているうちに、そうした気持がこじれ合って、「帰る」「帰りたけりゃ、帰りゃがれ。ふん、たのまねえや」と、つい突き出すことになった。  翌朝、教師は社長に電話し、「以後、一切求人のお世話はしない」とことわり、三人の店員も引き揚げさせかねない口吻《くちぶり》であった。 「社長は顔色を変えたよ。何しろ、うちらのような問屋にとっちゃ、若い者ほど大事なものはないんだ。今年も求人予定の半分もとれなかったと、がっくり来てたところだからな」 「その気持もわかるけど、社長は昔のお店であなたと兄弟分だったんでしょ」 「そう。……だから、これまでもお情けで傭《やと》って来たというんだな」  グラスが再び満たされるのを見て、吉造は声をはずませ、 「おれだってやる気になりゃ、若い者の二倍や三倍はできると思うんだが」  そう云ってから、肩を落し、 「何しろ実績が実績だからなあ」  初枝はとり合わず、 「退職金はいくらくれたの」 「五万円。涙金《なみだきん》だ」 「少いわねえ」 「仕方がない。若い者には退職金規定があるんだが。……七年つとめて五万円じゃ、やっぱり少いなあ」 「それで、これからどうするの」 「一週間ばかり、あちこちたのんで廻《まわ》ったよ。けど、問屋筋にはこういうまずい話はツウッと走っちまってるんだな。この前のときもそうだったけど、今度はもっといけねえ。全然相手にされないんだ」 「あのときは四十五。いまは五十……」 「五十二だ。けど、体は少しもなまっちゃいねえよ」 「そうは云ってもね」 「薄情なやつだな。ここまで来るには、少しはおまえにも責任があるんだぜ」 「ええ、少しぐらいはね」  初枝は、すまして云い、頬杖《ほおづえ》をついた。その左手に光るものがある。 「大きいのつけてるじゃないか。ダイヤじゃあるまいな」 「ダイヤは、まわりにちりばめてあるのよ。まん中は、キャッツ・アイ」 「キャッツ・アイと云やあ、猫目石《ねこめいし》だ。いい値のものだろうな」 「さあ値段のことは……」 「あの男——千頭《ちとう》がくれたのか」 「そうよ。彼に操《みさお》を立ててるんだもの」 「この前はミンクの首巻きを買ってもらったんだろう。豪勢なものだな」 「まだまだそれくらいでは」  初枝は声をひそめて、 「実はこのバーも居抜きで買いとって、わたしにやらせようかって話だったの。だから、わたしもこんなしけたところに辛抱してたのよ。でも、この様子じゃ見込みがなさそうだから、近いうちにわたし飛び出るわ」 「出てどこへ行く」 「熱海よ。あちらへ二人で住むための家をつくったの」 「へえ、よくまあ金が廻るなあ」 「甲斐性《かいしよう》のある男というのは、ちがうわよ」  吉造はすなおにうなずいて、 「ところで、おれのこと、千頭さんにたのんでくれないかな」  妻の久代と同じ七つ年下。いまいましいとは思いながらも〈さん〉づけで呼んだ。 「就職?」 「うん。就職っていうほどじゃないが、何か共同でやる仕事でもないかって」  初枝は鼻の先で笑った。 「お金も才能もないくせに、共同だなんて……」 「いや、いつか千頭さんがおれに云ったことがある。『繊維問屋でたたき上げた三十年の勘と経験を借りたい』ってね」 「おせじよ。あの人は口がうまいから」 「しかし、おれにおせじ云ったって、どうしようもないだろう。おまえにとっちゃ、おれはばかみたいな兄貴だし、それに当のおまえは金だけで動く女だし」 「はっきり云わないでよ。金のある男というのは、それなりに魅力が伴うものよ」 「……とにかく千頭さんに話してくれ。いますぐでも」 「仕様《しよう》がないわねえ」  初枝は電話のところへ立って行った。  吉造とは、十六も年がはなれている。三十代の半ば。やや受け口の男好きの顔である。終戦直後、短い結婚生活に破れてから、独身を通してきた。いく人か男出入りはあったようだが、千頭を旦那《だんな》にしてからは落着いている。  初枝は、二つ三つダイヤルを廻していたが、やがて連絡がついたと見え、眼をくりくりさせて戻ってきた。 「すぐここへ来てくれるそうよ」  と云ってから、思い出したようにあたりを見廻し、 「でも、ここでは無心めいたことは云わないでよ。わたしの顔ということもあるから」 「大丈夫だ。事業の相談なんだから」 「大きなことを……。共同事業なら、義姉《ねえ》さんとやったらどうなの。あちらの実家、土地の値上りでもうかって、アパートを建てるという話もあるんでしょ」 「うん」  吉造は、一応は顔をしかめ、 「男の面子《メンツ》というものがある。老後食って通せるだけのものでも持って帰りゃ別だが」 「また大きなことを。九州の先生とかも、その調子でやって怒らせてしまったんでしょう。悪い酒だわ」 「そうかなあ」 「そうよ。仕入先きを教えたり、お得意さまを譲ったり、兄さんはずいぶん失敗してきたわ。しかも、その失敗談を若い人の前でやるんでしょ。教訓ならともかく、まるで自慢話みたいに。……困った人。死ななきゃ、直らないのね」 「そうかも知れんなあ」  吉造は殊勝にうなだれた。  グラスは空になっている。無心を装って、その底でカウンターをたたく。  初枝は、云い負かして少し気がやさしくなったらしく、 「それじゃ、もう一杯だけ」  顔をしかめながら、バーテンに伝えた。  吉造は、腹の中で舌を出した。  酒ぐせが悪いとか、酒にだらしがないとか、吉造は飽きるほど聞かされてきた。  だが、吉造自身は少しもそうは思わない。たくさんのむわけではない。毎夜、晩酌《ばんしやく》に三本。肴《さかな》はチクワ一本でも、奈良漬《ならづけ》でもいい。おとなしくのんで、赤く頬をほてらすだけだ。人畜に危害はない。それでいて、御当人は、毎晩、極楽に出かけて遊んでる気分なんだ。  吉造にしてみれば、酒のない人生こそ飽き飽きしそうなほど、くだらぬものだ。それに、酒をのんで少しばかり気が大きくなるのは、当り前のことだ。そんなときこそ、のびのび羽をひろげなけりゃ、人間の体はかびくさくなってしまう。  仕入先きなど漏らしはしたが、逆に人をかついで一丁もうけようなどとしたわけじゃなし、ただ調子づいただけだ。景気のいい話は、誰の話だって気持のいいはずなのに、ときどきへそ曲りがいて、変な風にこじらせてしまう。  あの教頭のように、後になって告口するような奴《やつ》こそ、悪い酒なんだ。自分はのんだときのことなんて、翌日には何ひとつおぼえてやしない。  やはり飲み助だったおやじが、よく云ったものだ。「酒は人間を神さまに近づけてくれる」って。おれの酒は、神様や仏様なら、にこにこしてお相伴してくれる酒なんだが——。     二  千頭|広芳《ひろよし》は、一滴も酒をのまぬ男である。  バーで落合ってから料亭に連れて行かれたが、そこでも酒は吉造にすすめるばかり。自分はコーラをのんでいた。  極楽の味を知らず、ただ金もうけだけにすり切れている。もっとも、体躯《たいく》だけで云うなら、すり切れているのは吉造の方だが。  千頭の肩書は、日亜興産代表取締役。その日亜興産がどういう事業をやっているのか、よくわからない。だいいち、名刺をもらう度に、社の所在が変っていた。  わかっているのは、バーやパチンコ屋を経営し、やくざや暴力団ともつき合いがあるらしいこと。  それはともかく、紳士である。背は低く小肥《こぶと》りだが、服装はいつもぱりっとし、もったいぶった鼻ヒゲまでつけている。小さな眼がよく動き、どこにも隙《すき》のない感じの男なのだ。  千頭は、吉造の話を聞き終ると、しばらく瞑目《めいもく》していてから云った。 「よし、いよいよ出馬してもらいましょう」 「え?」 「以前から繊維の会社をやりたかった。『日亜綿業』と、社名まで考えてある。『日亜』は、わたしの好きな名前だし、『綿業』というのは、歴史のある会社に聞える」 「そこで、おれを……」 「社長になってもらう」  初枝に聞かせてやりたいと思いながら、 「しかし、おれには資本が……」  退職金の五万円も、すでに二万近く消えている。  千頭は短い猪首《いくび》を振り、 「金を出してもらおうとは思ってない。あんたの勘と経験が何よりの資本だ」  酒ものまぬのに調子がよすぎると、吉造は額を拳《こぶし》でたたきながら、 「繊維会社と云ったって、今年は暖冬のあおりもあって、どこもかしこも蒼息吐息《あおいきといき》ですぜ」 「だから、やるんだ。皆の手が出ないときにやってこそ、商いの妙味があるんじゃないかな。……いまなら、いくらでも安く買える。問屋筋は原価を大幅に割ってでも、現金《げんなま》を欲しがっているんだからな。持ちこたえの資金さえあれば、もうかること疑いなしだ」 「…………」 「販売の方は、こっちでやるから心配は要らん。あんたは、問屋筋からの仕入れをやってくれればいい」 「しかし、おれの顔じゃ……」 「現ナマをぶつけるんだ。文句は云うまい。それに、何なら、あんたは第一線に出る必要はない。仕入れ商品のモノと値を踏んでくれりゃ。そこに、三十年の経験と勘が必要なんだ」 「…………」 「百万や二百万は、明日にでも耳をそろえる」 「けど、それくらいじゃ……」  吉造は大きく出た。千頭は、一瞬、怒ったように眼を光らせ、 「いや、それだけじゃない。他にも、名前を出したくない資本家をつかんでいる。金はあるところには、あるもんだ」 「それにしても、なぜ、おれなんかを社長に……。おれは、常務でも、専務でもいい。あんたが社長をやればいいじゃないか」 「もちろん、やってもいい」  千頭は、あっさり云ってから、 「だが、わたしは他にもいくつかの会社の社長をしている。名目だけの社長には、もうなりたくない。……それに、あんたは初枝の兄さんだ。やっぱり、然《しか》るべき肩書を持っていてもらった方がいい」 「…………」 「あんたは、正直過ぎるし、運も悪かった。年輩といい貫禄《かんろく》といい、当然、社長になっていい人だ。このごろは、ちょっとした店でも『社長』と云うんだから。……それに、くどいようだが、あんたには仕入れの仕事の責任をとってもらうんだ。社長にしたって、少しもおかしくない。……それとも、全然その気がなければ別だが」  千頭は、そう云いながら銚子《ちようし》をとり上げたが、並んでいるどれもが空なのに気づき、電話に手をのばす。 「どう、やはり、あんたとは縁がないのかな」  吉造は、あわてて手を振った。もう少しでロレツが怪しくなりそうなほど、酒が廻っている。その酒も肴も、何年ぶりといっていい上物だ。結構過ぎて離れられない。  それに「社長」になれば、これからは度々こういう目を味わえる。縁がないなんて、とんでもない話。  吉造は膝《ひざ》をそろえ、使い馴《な》れない言葉で云った。 「わたしでお役に立つようなら」  千頭が、その顔をあらためるように見る。吉造はうなだれ、 「何しろ思いがけない話なんで、ちょっと信じられなくって」 「冗談と思ってもらっちゃ困るな。え、あんたさえよけりゃ、すぐにでも設立準備にかかろうと考えてるんだ。そう、早速だが、印鑑証明を二通。明日にでも取り寄せてくれないかね」 「そんなものが……」  口をとがらす吉造に、 「そう、設立登記に要るんだ。とくに、あんたは代表取締役・社長というわけだ。あんたの印で、すべてが決裁されることになるんでね」  冗談ではないんだよと云わんばかりに、千頭はくり返して云った。 「印鑑証明を二通。大至急」     三  半月も経《た》たぬうちに、その会社は発足した。  N駅前のビルに二部屋借り、紳士もの・婦人ものを問わず、春物の買いつけをはじめた。  吉造は、札束で頬っぺたを張るような買いたたきをやらされるのだろうと覚悟していたが、値段やモノについて意見を訊《き》かれはするものの、たいていは問屋筋の云い値にわずかにイロをつけさせる程度で引き取っていた。  吉造は、部屋の奥の廻転椅子《かいてんいす》でもっともらしい顔をして、煙草《たばこ》をふかしていればよかった。  販売については、すべて千頭がとりしきった。各地の新興スーパーをつかんでいるというので、入った品は三日と経たぬうちにトラックで運び出されて行く。  うまい商売であった。うま過ぎて、永く続かない予感もした。三十年の体験が、それをささやく。  だが、吉造は満足であった。結構な生活のまま日が経って行くものなら、強《し》いてそこから踏み出す必要もない。  吉造は、番頭時代と同じひとり住いのアパートから、スクーターでビルの事務所に通った。 「体面もあることだから、自動車《くるま》を買ってやろう」と、千頭に云われたが、「社長」はともかく、自動車はやはり柄《がら》に合わず、気が重い。それに、自動車を買う金があるなら、それを全部飲み代《しろ》に廻《まわ》してほしかった。  もっとも、千頭はそうした吉造の気持も見通しのようで、「要るだけの金は、いつでも会計から持って行くように」と、云《い》ってくれていた。  心配なしにのめるようになって、晩酌の量も進んだ。「話がうますぎる」と思い、「ちょっとおかしい」と首をかしげたくなると、それがそのまま酒量の増加に振り替った。  会社では、はじめはもみ手に笑顔でやってきていた問屋筋の人々の表情が、しだいにけわしくなってきた。支払いに、手形を切り出したからだ。  しかし、とにかく商品は捌《さば》かれ、仕入れも続いている。スーパーの中にも経営状態のよくないところがあり、代金回収がおくれているせいだと云われれば、それ以上、質問の出しようもなかった。  とにかく、おいしいお酒を頂こう。それに、錦《にしき》をまとっているうちに、一度、女房の実家に行ってみたい。そのときだけは、千頭の自動車《くるま》でも借りて。酒をのんでいてもウダツの上るときがあることを、一目見せておきたい。  別居以来、吉造はときどき思い出したように電話で妻の久代に呼び出しをかけた。  口重い返事をしながら、三度に一度は久代は町に出てきた。相変らず父親を馬鹿《ばか》にしている子供たちの様子を訊き、飯を食べ、それから、安い連れ込み宿へ行く。  はじめはいやがっていた久代も、しだいに進んで体を開き、ときには、吉造がぎくりとするような声を上げた。  と云って、久代がそれをことさら求めているわけでもない。むしろ、吉造をあやしているようなふしもあった。酒にだらしがない上に女にまでだらしがなくなってくれては困る。不甲斐《ふがい》ないながらも夫であり二児の父である吉造を、せめて現状維持にとどめておきたいという計算もあるようであった。それにしても、ともかく頂けるものは頂くに限る。 「社長」になってから、一月あまり経った。  次の日曜あたりには久代を呼び出し驚かせてやろうと頭の隅《すみ》で思いながら、小料理屋のスタンドで銚子を立て並べた。  スクーターで出たのが十一時近く、勝手知った道ではあるし、走ればすぐ酔いが退《ひ》くはずであったが、大通りに出た瞬間、路面にたたきつけられた。  気がついたときには、ベッドの上に寝かされていた。壁の色もまだ新しいデラックスな病室である。枕許《まくらもと》には、眩《まぶ》しいほどの花があった。  頭のまわりが窮屈なので手をやると、二重三重に繃帯《ほうたい》を巻かれている。  小柄《こがら》な看護婦が来て、容態《ようだい》を知った。スクーターは木端微塵《こつぱみじん》。頭蓋骨《ずがいこつ》何とかで、三週間の重傷という。  吉造の意識が回復したとわかると、奇妙な客ばかりがやって来た。  最初に駈《か》けつけてきたのは、まだ三十代の痩《や》せた長身の「社長」。話しぶりからも名刺からも、陶磁器販売会社の正真正銘の社長で、アルコールを帯び乗用車を運転していて、吉造のスクーターをはねたのだと云う。 「あなたも一旦《いつたん》停車なさらなかったものだから……」  と、うらめしそうに云ってから、あわてて、 「でも、出来るだけのことはやらせて頂きます。決して御不自由はかけません」  と、脅《おび》えるようにして誓った。  二人目は、やはり初対面の岸本という大男。  幕内までつとめた力士上りというだけに、腕も太く、声にも凄《すご》みがある。「役に立つことなら何でもやるように」と、千頭が云い置いたそうだが、病院の費用も見舞金も十分に取ってみせるから心配は要らぬとも云った。  それで吉造は、デラックスな病室を用意してくれたのが、誰であるかを知らされた。わずかの間に、繊維会社は倒産し、千頭は初枝とともに東京の方へ行っているという。  倒産の詳しい事情を岸本は教えなかったが、それを説明してくれたのが、三人目の客である刑事であった。はじめは現金で釣《つ》っておいて手形に切り替え、ほぼ三百万の取り込み詐欺《さぎ》をやった。  手形の振出人は、代表者として登記されている吉造であり、退院と同時に留置場へ直行ということになった。  留置場生活十五日。結局、吉造も利用されていただけとわかって起訴|猶予《ゆうよ》となった。  罪人扱いされたのは不愉快であったが、まるで予想しなかった出来事の連続とも云えない。浴びるほどたのしんだだけに、多少は埋め合せしなくてはならない。  ただ心外でもあり意外でもあるのは、一日も酒なしで辛抱できぬはずなのに、一月余りが一滴の酒なしで過ぎてしまったことである。  玉手箱まで失《な》くしてしまった浦島太郎のような心境で、アパートへ戻った。     四  アパートへ入る寸前、トタンぶきの共同の車庫を見て、ぎくりとした。見おぼえのあるスクーターが人待顔に光っている。車の番号も、吉造のにまちがいない。「木端微塵」とは看護婦も大げさだが、それでも事故のあと一つ残さぬきれいな車体を見て、首をすくめたくなった。  アパートの住人とのつき合いもないので、かびくさい畳にひとり長々と横になっていると、また陶磁器会社の若社長が来た。  見舞金として十万円包み、 「不満でしょうが、これで勘弁を」と云う。  七年つとめた店での退職金の二倍である。文句を云う筋ではなかった。  よいことはまた続くまいという予感から、早速、電話をかけて古女房を呼び出した。  いつもと同じ逢引《あいびき》のコースだが、さすがに頭にひびきそうなので、最後の連れ込み宿だけはカットした。  久代は、吉造が問屋をやめさせられたことまでは耳に入れていたが、取りこみ詐欺の一件も交通事故のことも知らなかった。  これ幸いと、とっておきの「社長」の名刺を見せ、後援者があって事業を興したが、思惑外れになった。これはそのときのもうけの一部だと、五万円渡した。  久代は眼《め》をみはった。  不安そうな、信じたくない顔つきであったが、眼の前には名刺と五万円がある。それに、酒の気のうすれた吉造の顔には、いつもとちがった何かがあった。  久代は、旅館に行かなくてもよいのかと、赤い顔をしながら二度も念を押し、小首をかしげて帰って行った。行状あらたまれば、別居しているだけに却《かえ》って不安のようであった。 (実家も土地ブームで少しばかり金がたまり、アパートづくりにかかろうとしている。こんなとき、しっかりした男手が欲しい)と、気をひくようなことも云った。  久代に会った翌々日、岸本がやって来た。 「十万円出させたのは、おれが口をきいてやったおかげだ。二割か三割出せ」  と云う。  三万円とられた。 「また役に立つことがあれば、いつでも云ってきな」と、連絡先を残して行った。  かんじんの千頭や初枝の行方はわからない。役に立つものは、親類縁者であろうと食いものにして廻っているのが、千頭のやり口のようであった。  たいへんなお役に立ってしまったと思ったが、一カ月余の酒のたのしみを思えば怨《うら》んでばかりも居られない。それに詐欺が発覚して債権者が殺到したとき、重傷で病院に居れたというのも幸運である。体こそ痛い目にあったが、気持は責められないですんだ。仏さまのような気分でいたおかげだとも思う。差引きのところ、少々高い酒代についたというのが実感である。  アパートに落着いて留守中の部屋代など払っているうちに、じきに金はなくなった。  問屋筋には、もう足も向けられない。たった一つの財産であるスクーターに乗って、毎日、町を廻った。酒も二級に落ち、焼酎《しようちゆう》になる。  一瞬の事故で十万円の見舞金——脅えていた若社長の顔とともに、札束の手触りが思い出されてくる。  つい先日まで「社長」であった者が、食いつめたからと云って、女房の実家へころがりこむわけにも行かない。もう一度、らしい恰好《かつこう》をつけ、土産を持った上でと、焦《あせ》りはじめた。「万」という金さえまとまれば。  五十過ぎの身には、これという職もなく、一日三百円や四百円もらっていては、永久にその日は来そうにない。手っとり早く「万」という金が——。  スクーターを売ってとも思ったが、クロウトの眼は高くて、五年余も走り廻った車は六千円にしか踏んでくれない。     五  誘惑は、何度かやってきた。ただ怪我《けが》はしたくなかった。走りながら、何度か、ぶつかり方を考えた。  交叉点《こうさてん》——左折のウインカーを出して曲りかかる車。そこへ直進で突っかけるのが、いちばん無難と見た。  車はスピードを出していないので、大怪我の心配はない。しかも、後方監視不十分ということで、事故の責任は車の運転者にかかる筈《はず》。  当てる車を選ぶ必要がある。なるべく高級な自家用車。しかも、車の持主が運転しているのがいい。  計画を立てて四日目、雨のぱらつく午後に決行した。  右肘《みぎひじ》をすりむいただけであった。スクーターのヘッドライトが割れ、相手の車には引掻《ひつか》き傷《きず》が走った。  気の強いドライバーで、かえって弁償金を取られそうになった。岸本に話してみたが、 「その程度の怪我じゃ……」と、一蹴《いつしゆう》された。  焼酎をのむ金もなくなった。  一週間|経《た》って二度目。  信号の変る直前、眼をつむるような思いでアクセルを深く踏みこんだ。  そして、次の瞬間に、予想以上にはげしく路面にねじ伏せられた。  飛び出し過ぎて、狙《ねら》った左折車の鼻先をかすめ、残りの信号で横断を急いでいたオート三輪の下にくわえこまれたのだ。 「しけたやつに突っかけたもんだよ」  と、救急病院に来て、岸本は鼻白んだ。夫婦だけでやっている小さな八百屋のオート三輪であった。  腕骨にひびが入っていた。岸本は、「それでも、五万円はふんだくってやる」と力んだ。  見舞いに来た八百屋のおかみさんを、吉造は正視できなかった。子供を背負い、白粉気《おしろいけ》ひとつなく、あるのは先行きの不安ばかりという顔である。酒がのみたくなった。  入院して二日目。  突然、久代と息子の明雄がやって来た。中学三年。半年前に見たときより、また上背ものび、にきび面《づら》も赤らんでいる。アパートを訪ねて行って、事故を知らされたのだという。二人で交々《こもごも》に久代の家へ来るようにとすすめた。  やれやれとほっとしそうな気持を隠し、 「おれでも役に立つことがあるのかい」 「役に立とうが立つまいが、おやじが遠慮することないじゃないか」  明雄は、生意気な答え方をした。 「一度は『社長』と名がつきゃりっぱだよ。それに、事業の失敗っていうのは、酒の上での失敗より聞えがいいよ」  吉造には一言もなかった。生れてはじめてのようなにがい笑いを噛《か》みしめた。そして、岸本が役に立つ前に、早く病院から抜け出そうと思った。  明雄は気張った顔で吉造を見下ろしている。威厳を保とうとするのだが、吉造の顔にはどうしても笑いがにじんでくる。あちこちぶつかりはしたが、どうやらいちばんうまい恰好に納まりそうだ。  ただ一抹《いちまつ》の不安は——。  吉造は、その不安を口に出さずには居られなかった。 「お酒はどうなんだろうね」  明雄は背を反らして、久代を見た。 「どう、母さん。一本ぐらいなら、つけてやっても」 [#地付き](「オール読物」昭和三十九年四月号)   [#改ページ]   北の空へ     一  佳代子《かよこ》は動悸《どうき》がたかぶって、電報の文面がすぐには読みとれなかった。片カナの一文字《ひともじ》一文字が勝手におどり出して文脈をつくらない。数日来心配りしながらも、佳代子には一つの予感があった。最後には崩れる、きっとうまく行かないのだという漠然《ばくぜん》とした予感——。  予感には別に根拠がある訳ではなかった。運命の意地悪さに馴《な》らされてきたため、よいことや楽しいことがそれほどたやすく訪れてきはしないというあきらめのようなものが、心の底に巣くっている。予感はそのあきらめから靄《もや》のように立ちのぼっていた。 「どこから来たの? 何と書いてあるのよ」  姉の千代がもどかしそうに声をかけた。佳代子はとっさに答が出ない。ストッキングをはきながら、千代は横眼《よこめ》で佳代子の表情をすくいとるように見た。 「顔を真赤にして、どうしたのよ」  肉親だけによけい遠慮のない眼である。佳代子は視線を電報に戻した。一字一字|噛《か》むように読んでみる。  オシエゴ ジ コノタメユケヌ」スミマセン」シガ  佳代子の咽喉《のど》から、ああ、と小さな叫びが漏れた。〈志賀が来れないのだ〉という事実が、胸のうちにうつろなこだまを伝えて行く。予感通り。予感が現実となって、部屋の空気まで湿っぽく、いやな重みを感じさせる。 「ねえ、どうしたの」  千代の眼が迫った。 「友だちからよ。明後日《あさつて》会う筈《はず》になっていた人が急に来れなくなったの」 「友だちって誰? わたしの知ってる人?」 「いいえ」 「男友だち? それとも……」 「訊《き》くまでもないじゃないの。男友だちよ」  佳代子は珍しく高飛車に出た。千代はおどろいて眼をみはり、 「何という人」 「志賀さん」  千代は首をかしげた。 「知らないねえ。いつごろから……」  佳代子は黙ったまま、電報を小さく折りたたんだ。 「きげんが悪いから、よくない電報なのね」  千代がなだめるような口調で、答を誘い出そうとする。 「明後日というとクリスマス・イヴ。……せっかくのクリスマスの約束を破るなんて、ひどい男ね。あんたにはここ数年たのしいクリスマスがなかったもの、よけいにひどいわ」 「それは何も……」  佳代子の唇《くちびる》は、言葉とはうらはらにふるえた。姉の云《い》う通り、久しぶりにたのしい一夜が持てるかも知れなかったのだ。 「どう、クリスマスの晩は癪《しやく》だから、わたしといっしょに来ない。人手不足だから、バーじゃ歓迎するわ。にぎやかにばか騒ぎして、アルバイトにもなるわよ」  佳代子の気をひき立たせるような声であった。  佳代子は返事をしなかった。銀座裏のバーでのホステス生活の永い姉とちがって、佳代子は編物学校の助教師として地味に生活している。バーのアルバイトなど思ってもみない。それに千代の誘いも、佳代子を励ます冗談の一つなのであろう。 「元気を出すのよ。相手はどんな男か知らないけど」 「…………」 「男って沢山居るわよ。それに、みんなくだらない」  千代はストッキングをつけ終って、両足をとんとんと揃《そろ》える。バーへの出勤時間である。佳代子も腰を浮かせた。  その瞬間、千代の手が電報を奪いとった。 「ちょっと拝見」  千代はおどけて云うと、片手で佳代子を防いだ。 「発信は浜松だわね。……浜松でどんな仕事をしている人なの」 「自衛隊よ。航空自衛隊」 「そうオ。よくそんな人と……」  千代はけわしい眼つきになった。兄は学徒出陣後、フィリピンで戦死。母はその後を追うように、これという病気もせずに死んだ。残ったのは国文学者ですっかりもうろくした父親と、適齢をやり過しそうな二人の姉妹……。  戦争で殺されたのは、肉親だけではない。千代の許婚者《いいなずけ》もまた召集されたまま戻らなかった。こうして姉は三十過ぎてもバーづとめをつづけている。ふつうなら、二、三人の子供ににぎやかに取り巻かれているであろうのに。いや、姉だけでなく、佳代子にだって子供があってもおかしくない——。  千代は声を出して電文を読みはじめた。 「オシエゴジコノタメユケヌ?」  語尾を高く上げ、 「教え子だって? この人ほんとに自衛隊なの」 「そう。ジェット機操縦の教官。パイロットよ」 「あら、ジェット・パイロットなの。すごいじゃない。男らしいし、スマートだし」  一転した姉の口調に、佳代子はにが笑いを浮べ、 「でも自衛隊なのよ」  千代は返事に困って、またたいた。電報をもう一度見て、 「『教え子』だなんて、そぐわないわね。自衛隊なら、なぜもっと男らしく『ブカジコノタメ……』と書かないのかしら」 「…………」 「でも『教え子』がいいのかな。あまり軍隊くさくひびかないように『教え子』としたのかも知れない。とすると、彼氏、なかなかデリカシーを解する男なのね」  姉の饒舌《じようぜつ》に佳代子は困って、ただ小さく笑いを浮べて立っていた。 「『ジコノタメ』って、どんな事故かしら。飛行機だから、結局死んだのだろうね」  佳代子ははっとした。電報を読んでも、志賀が来られぬという失望感だけにとらえられていた。……だが、問題は事故なのだ。殉職者が出たのだろう。志賀も乗っているジェット機。もし万一、志賀の乗機に事故が起るならば……。  列車の中での志賀との会話が耳に戻ってくる。 〈ぼくらの基地に、一つ誇るべきものがあるんですよ〉  志賀の沈んだ声が、そのとき灯《あかり》でもついたように明るくなった。 〈何だか、わかりますか〉 〈さあ、わたしには……〉 〈無事故の記録です。今日まで×万飛行時間無事故が続いているんです。これは世界のどの飛行基地にも無い記録です〉 〈りっぱですわね。そういう記録なら……〉  佳代子はおせじでなく、大きくうなずいた。飛行関係のどんな記録より、無事故の記録ほど望ましいものはない。志賀が何万飛行時間と云ったのか、佳代子はおぼえていない。その記録がとまったのだ。事故の知らせを受けるパイロットの家族の暗い顔——それは、もはや自分とは全然縁のない顔に思えなかった。 「パイロットもいいけど、事故があるのはいやね」  佳代子は腹の中にしまっておけずに云った。遺族の人々、母・妻・子……。喪服の白い襟《えり》すじ。  千代は電報を返すと、ハンドバッグをあらためながら云った。 「元気を出しなさい。デートが潰《つぶ》れたのは辛《つら》いけど、事故が彼でなくてよかったじゃないの。また、いつだって会えるわよ」  やさしい云い方であったが、佳代子にはこたえた。〈志賀に事故があってたまるものか〉と、眼をけわしくして姉を見返し、 「会えやしないわ。事故は明日にだって、いいえ、今夜にだって起るかも知れないもの」  尖《とが》った声で云った。千代は声を立てて笑い、 「ばかなことを云うんじゃないの。……それに佳代子がそんなに昂奮《こうふん》するようだと、相当そのパイロットに魅《ひ》かれてるのね」 「…………」 「向うが来なけりゃ、行って会って来たらどうなの。編物学校はもう冬休みだし……」 「からかわないで」 「本当のことよ。あなたの云い分だと、事故は今夜にだって起るかも知れないものね」  怒りが噴き上って、佳代子は云い返す言葉が出なかった。〈冗談にせよ、事故のことを、……〉瞼《まぶた》が熱く重くなってくる。  泣顔を見せまいと、佳代子は身をひるがえした。     二  翌朝、佳代子は中野の自宅から、麻布《あざぶ》のK会館に出かけた。  K会館は国際的な文化人団体の経営する会員制のホテル兼集会場で、佳代子の父もそのメンバーになっていた。志賀から年末休暇で上京する旨《むね》の手紙を受けとったとき、たまたまクリスマスにも当るので、そのデートの場所として迷った末、K会館を選んだ。クリスマス・イヴの東京では、街の中のどこで会うにしても、世間の騒がしさにのみこまれてしまう。酔いどれの声やジングルベルの騒音に、話もきこえず、落着いた食事もできまい。遠来の客、日々緊張で神経をすり減らしている志賀を迎えるにはふさわしくない。静かな会食の場が欲しかった。父親の名を借り、K会館に二人分の夕食の席を予約しておいた。佳代子としては思いきってしたことなのだが、その予約をとり消さねばならない。  三河台町で都電を降り、石だたみの道を歩いて行く。古い大きな屋敷の続く町。名も知らぬ国の公使館がひっそり白い標札をかかげていたりする。赤煉瓦《あかれんが》を積んだ塀《へい》に、|つるくさ《ヽヽヽヽ》や|つた《ヽヽ》がからんだまま冬枯れ、どの屋敷も人が住み絶えたように静かであった。佳代子のハイヒールのかたい音だけが、石だたみにはね返る。靴音は灰青色の冬空まで届きそうであった。東京のどこでも行方不明の空が、そこでは道に続いていた。  K会館は、大きな石垣《いしがき》の奥に、身をひそめるように立っていた。内部は、周囲に劣らず静かであった。ロビーのライティング・デスクで品のよい金髪の老女が手紙を認《したた》めて居《お》り、他に窓ぎわに一組の客が話しこんでいるだけである。クリスマスの前奏に浮き立つ東京の風は、少しも浸《し》みこんでいない。志賀と会うのに、打ってつけの場所なのだ。  フロントに予約の取消しを申出る。 「はい、承知しました」  クラークは低く頭を下げると、訂正のペンを走らせた。取消しの責任が会館側にあるかのようなていねいな応接に、佳代子はほっとしてフロントを離れた。  そのまま帰る気にはなれない。時間も十時を過ぎたばかりである。ハンドバッグの中には慰労金という名目で出された編物学校の賞与一万円が手つかずのまま入っている。志賀との一日のためにとっておいたのだ。  佳代子は眼の前の階段をふらふらと降り、喫茶室を兼ねている明るい食堂へ入って行った。客は無く、ウェイトレスが三人、隅《すみ》の方で控え目に立っている。  運ばれてきたレモン・ティがかぐわしい香りを散らした。佳代子は一口飲むと、姿勢を立て直した。眼の前の椅子《いす》に、志賀の姿がふっと浮んで消える。 〈いらっしゃればいいのに……〉  と、つい、うらみがましい気分にもなる。会えなかったことで一層相手への愛をそそられるような気持——ありきたりの恋情とばかにしていたものの中へ、佳代子は知らず知らず引きこまれていた。  佳代子は、気をまぎらすように、大きなガラス戸越しに庭園を見た。奥深い築山《つきやま》のある広々とした庭。黄色くなった芝生が、冬のうすれ陽《び》に浮んでいる。池の水は浅く澄んで、動きの鈍くなった魚の影が落ちていた。芝生から池のまわりをめぐって築山のかげに消える飛石づたいの道。その道を志賀と連れ立って歩く心算《つもり》ではなかったか。  ウェイトレスの影が、ふっとテーブルにかかった。グラスに水を注《つ》ぎ足してくれる。佳代子はいつの間にか大きなグラスの水をのみ干していた。  いまごろ志賀はどうしているのだろう。どこかへ飛んでいるだろうか。ジェット機で無事に……。電報を受けとったときの衝撃が胸に戻ってきた。息苦しい。佳代子はまた水を飲んだ。築山の先に大きな|けやき《ヽヽヽ》の梢《こずえ》が開き、その上に冬空が静まり返っている。  志賀と結ばれるようなことがあれば、自分は生涯《しようがい》、〈電報〉の声におびやかされつづけるだろう。息苦しい思いが、一日一日と無限につづく。それでも自分は志賀を……。  佳代子は自分だけが不当に苦しい目に遭わされているような気がしてきた。心の落着きが失われてくる。その目に、 〈向うが来なけりゃ、行って会ってきたらどう。編物学校はもう休みだし……〉  千代の冷やかすような声がきこえた。浜松まで行ってみようか。  佳代子は時計を見た。十時半。浜松までは四、五時間で行くであろう。いま発《た》てば、今日中に戻れる。行って、志賀の顔だけ見て引返してこよう。  佳代子は憑《つ》かれたように立ち上った。  タクシーに乗るまで夢中だった。舞い倒れるように車のシートに坐《すわ》ってから、ためらいが起った。下唇を噛んで、その思いを抑える。  ためらって行かずに居れば、じめじめした気分に当分まといつかれるであろう。行った方がよい。行って志賀の顔さえ見れば、気も晴れよう。バーづとめの姉は午前一時ごろしか帰らないし、外泊してくることもある。もうろくした老父は、娘のふるまいに関心がない。浜松に行って帰りがおそくなっても、誰もとがめる人はない訳である。  五分で、十一時発の九州行き急行に間に合った。時間の無いことが、ためらいをふみにじらせた。 〈何か本でも持ってくればよかった。いつかのあの本……〉  動き出した列車の中で、佳代子がまず考えたのが、そのことであった。  半年ほど前、上り列車の中で、佳代子は向い合った乗客が読むものも持たず、景色にも無関心な様子なので、読み終ったばかりの文庫本を貸してやった。その乗客が志賀であった。編物学校の関係で、関西にある編機の製作工場へ見学に出かけた帰りの車中のことである。  横須賀《よこすか》まで行くという志賀は、うすい水色の背広を着ていた。ネクタイの好みもよく、ワイシャツも清潔であった。ただ、屋外労働者のように黒く陽灼《ひや》けした顔に、切れこみの深い眼《め》が異様に鋭かった。肩幅はひろく、掌《てのひら》も骨太で、いかにもかたそうである。志賀は腕組みして眼をうすく閉じていた。ゆられながら、どこまでもその姿勢を続けて行く。眠ってはいない。静岡でお茶を買うのを手伝ってくれたのがきっかけで、口をきいた。話を交しながらも、志賀は佳代子が訊《たず》ねるまでその職業を明かさなかった。  志賀がパイロットと聞いても、佳代子はしばらくは信じられなかった。パイロットと云えば、もっと明るく軽快な感じの男、それとも崩れた船員風の男を想像していた。眼の前の志賀のどこにパイロットらしさがあるであろうか。厳密なほどきちょうめんで、暗い重い感じが漂っている。軽快さも、きざっぽさもない。  志賀は兵学校から飛行士官になって終戦、その後のことは、 〈泥棒《どろぼう》以外のことは全部やりましたよ〉  と云って笑うばかり。 〈飛行機に乗りたかったんです。どうしても……。金が要るものなら、借金してでも乗りたい。その飛行機に、逆に給料をもらって乗せてもらえるというのだから……〉  そうした気持で自衛隊に戻ったのだという。 〈でも、やっぱり戦争のことを……〉  兄のことを思って口まで出かかった言葉を、佳代子はのみこんだ。志賀は志賀なりに戦争の記憶と闘っているにちがいない。体の中にこもるものの重みにじっと耐えているような姿から、佳代子にはそれが感じられた。 〈どんなことをしても飛行機に乗りたかったんですよ〉  志賀は子供のようにくり返した。それは清算し切れぬものの重みになぎ倒されながら、なお羽ばたこうとする鳥の悲鳴のようにもきこえた。  熱海を通過するころから、また、ためらいの気持がよみがえってきた。無鉄砲に飛び乗ってきてしまったものの、志賀に会っていったい何を話せばよいのか。迷惑がられるだけではないか。尻《しり》の軽い無鉄砲さを笑われるかも知れない。それに事故直後のことであり、自分に会うだけの時間が無いかも知れない。 〈次の停車駅で引き返そうか〉  佳代子の心はしだいにいじけ、自信を失って行こうとした。  沼津駅で発車のベルの鳴る中に、佳代子は電報を書き、ためらいにけりをつけた。 「ハママツシ キタキチ ダ イイチコウクウダ ン ダ イ……」  突然訪れて行くのは、まるで裸身をさらすように恥ずかしい。この電報さえ先行させておけば……。  佳代子の心は少し落着きをとり戻した。     三  浜松駅前で訊《き》いてバスに乗り、飛行基地に着いたのは午後四時過ぎであった。  市街地を遠く出はずれ、一面の霜枯れた田畑の奥に飛行場は広々と横たわっていた。西風が砂ぼこりを巻いて吹き過ぎる中に、ジェット機の機体がまぶしく光る。  基地入口の衛兵におずおずと名を告げると、 「承知しております。ただ志賀二|尉《い》はただいま飛行中ですので、しばらくお待ちいただきたいと……」  佳代子の声の先をすくいとるようにとった。電報を見て、志賀が手配してくれていたのだ。  佳代子はほっとして空を見上げた。鉛色の冬空に機影は無い。どの辺を飛んでいるのか、眼に見えない高空なのか。その遠い志賀から一筋あたたかに通《かよ》ってくるものが感じられて、それまでの緊張が一時にほぐれた。  ジープで、滑走路に面した建物に連れて行かれた。その一隅《いちぐう》が面会室のようになっている。窓の外には幾つかのジェット機が斜めにうすい西日を受けて、銀色に光って並んでいた。  二十分ほど経《た》って爆音がきこえた。ジェット機特有の鋭い金属的な轟音《ごうおん》が急速度で近づくと、飛行場上空を吹き過ぎて行く。音といっしょに建物の屋根もはぎとられるかと思われるほどのすさまじさである。佳代子は思わず首をすくめた。  一度通り過ぎた爆音が、今度はより近く、そうして心もちやさしくなって近づいてきた。その音が急にきこえなくなったかと思うと、眼の前の滑走路にジェット機が舞い下りていた。一機、二機、三機。機の後尾から陽炎《かげろう》のようなガスを吐きながら、ゆっくり誘導路へ入ってくる。  佳代子は立ち上って窓に寄った。天蓋《キヤノピイ》に遮《さえぎ》られて、パイロットの顔はわからない。  やがて手旗におびき寄せられるようにして、ジェット機の編隊はエプロンに静止した。 次々と降り立ったパイロットたちは、整備員と打ち合わせた後、建物の別の入口に吸いこまれて行った。  佳代子は窓際《まどぎわ》に立ったまま、整備されて行くジェット機を眺《なが》めていた。蟻《あり》が獲物にまといつくように、一機について二十人近い整備員がとりついて作業をはじめている。それだけの人数が心をこめて整備した機体でも、なお事故が……。 「やあ」  突然、背後で志賀の声がした。ふり返ってその顔を見、佳代子は叫び声を立てそうになった。  志賀の顔は青黒く、口のまわりに赤いあざが深く刻みこまれている。酸素マスクの跡であろうか。  志賀は笑っていた。疲れ切った顔に、白い歯を見せた笑いが痛々しかった。 「大変ですわねえ」  佳代子はにじり寄るようにして云った。 「いや。それよりあなたには気の毒なことをして」 「いいえ、いいえ、わたしなど……」  ヘルメットを抱く志賀の手をとり、パラシュートをさげている肩をさすって、慰めたい気持であった。高い空で不当にいじめられて帰ってきた子供、その子供をいたわってやりたい——佳代子を動かしているのは、そうした思いがけない母性的な感情であった。  佳代子に椅子をすすめながら、志賀は暗い顔になって、 「何しろ意外な事故で……」 「殉職なさいましたの」 「重傷です。墜落寸前にパラシュートで脱出したため命だけは助かりました。……しかし、教え子が苦しんでいるというのに、休暇をとる訳にも行きませんからね。あなたには……」  ラッパの音がきこえた。話の途中で志賀ははじかれたように立ち上り、不動の姿勢をとった。スピーカーから低く「君が代」が流れてくる。国旗の降納なのであろうか。窓の外の整備兵たちも、みな直立して、飛行場の一隅の窓を仰いでいる。  佳代子は腰を下ろしたままでいた。近くまで来ていた志賀が、ふいに遠くへ運び去られて行く感じである。体の中がうつろになって風が吹き抜けて行くような物さびしい気分になった。死んだ兄もきっとこうした日々を送ったにちがいない。「日の丸」と「君が代」の間にかた苦しくはさまれ、しめつけられて、そして殺されて行ったのだ。きびきびとはしているものの、軍隊というものの非情さやあわれさが身にしみてくる。  佳代子の眼のすぐ前には、志賀の腕に抱えられたヘルメットがあった。ゆれもふるえもしないで、ヘルメットもまた「君が代」に身を正している。  志賀に憎まれるかも知れない。だが、佳代子は立てなかった。むざむざと立ったのでは、死んで行った兄たちにすまない。「君が代」の終るまでのわずかな時間が、ひどく永いものに思えた。その時間の中に、志賀との間に一すじ、ひびが走って行くのが感じられた。  志賀は不動の姿勢を解くと、 「ふつうなら、これで帰れるんですが、まだ一編隊、小牧《こまき》の基地に下りているのがあるんです」 「小牧?」 「ええ。名古屋の北の……。浜松はごらんのような砂風のため、この風の止《や》むのを向うで待っているのです。風の動きをいましばらく見た上で、帰ってくるか泊るかをきめる筈《はず》ですが……」  窓外では、夕陽の中にまた黄色っぽい風が舞いはじめていた。 「ですから、後しばらく、ここを出られないんです」 「構いません。お待ちしますわ」  最終の上り東京行は六時四十分発である。浜松の駅まで三十分と見て、あと一時間はある。 「すみません」  小さく頭を下げると、志賀はその部屋を出て行った。  時間は流れ、すみれ色の夕もやが地平のあたりからしだいにひろがってくる。素人《しろうと》の佳代子の眼に、風はおさまってきたように見えた。  志賀をふくめ基地の全機能は、刻々の風の動きに感覚を澄ませ、安全な飛行状態を待っている。佳代子自身は何となく間の悪い、落着かぬ気分であった。  背広に着替えた志賀が駈《か》けこんできたのは、六時五分前であった。小牧の一隊は帰投しないことにきまったという。  いそいで基地の入口まで来ると、六時発のバスが動き出したところであった。志賀は翌日は北海道の千歳《ちとせ》まで飛ぶ予定の由《よし》。だが、浜松駅まで見送ってくれるというので、佳代子と並んでバス・ストップに立った。  寒風にさらされて十五分待った。早ければ二十五分で駅に着けるという志賀の言葉をたよりにしていたが、バスは時刻通りに動いて、浜松駅に着いたのは、最終の東京行列車が出た二分後であった。  浜松で泊る他はなかった。事態が良い方に向っているのか悪い方に傾いているのか、佳代子には判断がつかなかった。わかるのは、永い間とどこおっていた時間が急に生々と動き出したということである。 「すみません、ほんとうに」  志賀は同じ文句をくり返した。いっしょに駅前の旅館を探し、結局そこで二人で夕食をとることにした。  コタツに火が入って、あたたかな気分になった。佳代子は声をはずませ、 「おもいがけないクリスマスになりましたわ」 「クリスマス? 明日でしょう?」 「一日くり上げて……。実を云《い》うと、わたし明日をとても期待していましたの。久しぶりに、ほんとうに久しぶりにたのしいクリスマス・イヴが過せるものと……」  K会館の静かなたたずまいが眼に浮かんでくる。 「折角リザーブしておいた席を今朝とり消してきましたの」 「すみません」 〈すみません〉という言葉しか知らないような応《こた》え方が、佳代子にはおかしく、快かった。  土曜日以外は飛行に差支《さしつか》えるから禁酒していると云っていた志賀は、 「少しだけ。クリスマスに免じて」  と、酒を頼んだ。  佳代子は盃《さかずき》に一杯だけ受けた。 「おいしいですね。あなたと飲む酒は……」  眼を輝かす志賀に、佳代子は二、三度お酌《しやく》をしたが、飲む速度に追いつかない。 「いいですよ。ぼく自分でやりますから」  志賀はそう云いながら、酒を追加した。  銚子《ちようし》が二本、三本と並ぶうち、志賀の眼はすわってきた。 「日本人が日本を守らなくて、どうするんです」  ねじれた声で云う。重く暗く体の芯《しん》にこもっていたものが、溢《あふ》れ出てくる感じである。佳代子はまた悲しくなった。  しばらく沈黙が続いた。志賀は空《から》になった銚子を指先で倒したりしていたが、低い静かな口調に戻って、 「ぼくらは理解してもらえないんです」  佳代子は話題を変えようとして、 「志賀さん御家族は?」 「ひとりぼっち。兄が一人居るだけですよ」 「御結婚は?」  倒れた銚子が、佳代子にその質問をする勇気を与えた。志賀は物うく首を振り、 「ぼくらのところに嫁の来手《きて》はありませんよ」 「どうして」 「危険だからですよ」志賀は吐き出すように云ってから、「しかし、たとえ危険はあるにせよ、夫の好きな道に進ませてやるのが、ほんとうの女の愛情じゃありませんか。夫に死なれては困る——それが愛情と云えますか」  感情のこもった声であった。佳代子はそれにつりこまれ、 「でも愛する人に死なれるということは、女にとっては大問題ですね。……わたし、あなたからの電報を受けとったとき、心臓がとまりそうな気がして」  云った後で、佳代子はそれが志賀への愛情の告白になっているのに気づいた。  だが、酔いの廻《まわ》った志賀にはわからなかったらしく、 「そういう不安を与える以上、ぼくは結婚する資格がないんじゃないかと思います」  志賀はそれきり黙った。鋭い視線だけがじっと佳代子の顔に注がれてくる。佳代子は息苦しくなった。自分にその答を求めているのだろうか。いま体を求められれば、自分は拒めないかも知れない。志賀の持つ雰囲気《ふんいき》のようなものが、その部屋全体を色濃く包んでいた。佳代子はそこでは志賀にとらえられていた。  遠く帳場の方で時計の打つ音がした。十時である。佳代子は迷いからさめたように、 「あら、もうお帰りにならなくては」 「…………」 「明日は北海道へ飛行なさるんでしょ。もう帰ってお休みにならないと……」  操縦にそなえ、平日は禁酒はもちろん、毎夜九時に寝て体の調子を整えていると云っていた。それがこの酒である。佳代子は不安になってきた。ジェット機では、虫歯があっても鼻風邪でも操縦に支障が起るという。酔いと疲れはまちがいなく明日に持ち越される。事故が現実感を帯びて眼の前に迫ってきた。 「シガ ジ ユンシヨクス……」そんな電報の文字がちらつき出すようであった。前日、電報を受けとったときの衝撃が胸にこたえてくる。 「早く帰ってお休みになって下さい」  佳代子はうなされるように云った。志賀は笑った。 「残念です」  もっと酒を飲みたいというのか、佳代子とさらに夜を共にしたいというのか。だが、帰ってもらわなくては……。底深い事故の危険の中に、志賀を追いこんではならない。  佳代子は眼をつむるようにして催促した。志賀はすなおに立ち上った。 「十分お気をつけになって」  志賀の無事な飛行を祈って、磨《みが》かれた玄関に額《ぬか》ずきたいほどの気持であった。  送り出した後、少しぬるくなった湯にゆっくり浸る。一日の心の疲れ、体の疲れが一時にふき出て、そのまま、湯ぶねの中で眠ってしまいたいような気分である。考えなくてはならぬことがいっぱいあるのに、どれも一応かたがついてしまったような安らぎもある。  いまごろ東京では、老父が娘の不在も知らずに眠りこみ、姉はバーでけだるく客とふざけているであろう。自分ひとりが久しぶりに人生の生きた時間と向い合っているような、ほのぼのとしたたのしさも湧《わ》いてくる。  湯上りのゆかたに着替え、部屋に戻って鏡台に向っていると、女中が襖《ふすま》の外から声をかけた。 「先ほどのお連れさまが玄関に」  佳代子は飛び上るようにして廊下へ出た。志賀がしょんぼり玄関に立っていた。暗い顔にはずかしそうな笑いを浮かべ、 「ちょっと街に出られませんか」 「街に?」 「この辺のバーにでも」  佳代子は思わず大きな声を出した。 「だめですわ。いけませんわ」  志賀はまぶしそうに眼をまたたかせた。 「もうお帰りにならなくては……。明日は北海道なんでしょう」  たたみかけるように云うと、志賀は黙ってうなずいた。旅館を出てから、またどこか近くで飲んでいたようであった。きっと、自分のことを考えてくれながら。  佳代子は抱き寄りたい気持を抑えて、 「そんなにお飲みになって……。心配ですわ」  志賀は不動の姿勢に戻った。 「それじゃ……。お休みなさい」 「お休みなさいませ。お気をつけになってね」  佳代子は下駄《げた》をつっかけて、旅館の外へ見送りに出た。  だが、道路にはすでに志賀の姿は消えていた。     四  翌朝早い列車で佳代子は浜松を発《た》った。列車の窓から何度も空を見て、ジェット機の影を探す。無事に飛べるであろうか。  志賀が宿舎に戻ったのは、十二時過ぎであろう。睡眠不足、それに酒の酔いも残っているであろうし……。列車と並行する風景の中に、突然、ジェット機の墜落現場が展開しそうで、佳代子の脅《おび》えは深まるばかりであった。  昼過ぎ、中野の自宅に戻る。 「いったい、どこへ泊ってきたのよ」  顔を見るなり、千代が詰め寄るようにして云う。自分の外泊とちがって、妹の最初の外泊は気にかかるのであろう。 「浜松よ。姉さんの云った通り浜松へ行ってきたの」 「泊ったの」 「うん」 「彼といっしょに?」  佳代子は首を横に振った。 「信じられないな」 「信じてよ」  佳代子はきっぱりした口調で云った。  近所のラジオからジングルベルの音楽がきこえてくる。いま佳代子の信じたいのは千歳までの志賀の無事な飛行だけであった。 〈飛行機事故の七割は、操縦する人間の側に原因があるんです〉  志賀はバスの中でそんなことも云った。無事に千歳へ着いたであろうか。事故があればニュースに出るであろう。そうは思っても、もちろんラジオのスイッチを入れる気にはならない。  自転車や靴音《くつおと》が家の前に近づく度に、佳代子は緊張した。近所からは、クリスマス・ミュージックが流れ続けている。〈電報。電報です!〉音の中から、そうした声が浮き立ってきそうであった。机に向っても編機を動かしても、心は静まらない。千代はそうした佳代子の落着きのなさに、別の想像を働かせているようであった。  幻聴は現実のものとなった。午後三時過ぎ、千代がクリスマス・イヴだからと、いつもより早くバーづとめの身支度をはじめたとき、電報配達員が入ってきた。佳代子あての電報である。受けとりながら、佳代子は声が出なかった。 「どうしたの。まっさおよ」  千代が寄り添ってくる。ふるえる指先でようやく電報を開いた。字が読めない。 「なんだ、ばかにしてる」  千代が先に読みとって、大きな声を出した。電文は短かった。  メリイ・クリスマス」シガ  発信地はチトセとあった。佳代子は思わず電報を胸に抱きしめた。〈メリイ・クリスマス!〉と、北の空に呼びかけるように小さく声に出す。  その電報は、無事、千歳に着いたという控え目の報告でもあるのだ。佳代子の不安を思って、打ってよこしたにちがいない。酸素マスクの跡のにじんだ青黒い顔をふっとほころばせて……。 「メリイ・クリスマスだって、ふざけてるわね。きっと、昨夜《ゆうべ》いいことがあったせいでしょ」  佳代子の顔をうかがうようにして、千代が鼻白んだ声で云った。 [#地付き](「オール読物」昭和三十六年三月号)   [#改ページ]   逃亡者     一  工場の門は、大きく開かれていた。  大型トラックでも三台、人間なら二十人は横に並んだまま出入りできそうな、広い門である。  向かって右手に守衛所があり、左手には大きな柳が一本、そして、防火用水をかねている池があり、小雨がいくつかの輪を落としていた。  その降るともない雨の中を、傘《かさ》も持たず、よれよれのレインコートの背をややまるめるようにした男が、門の中へ入ってきた。眉《まゆ》が濃く、頬骨《ほおぼね》がはり、浅黒い顔つきで、眼《め》が鋭い。  門から十メートルほど奥に「構内立入禁止」の標札が、二つ立っていた。  男は立ち止まり、構内を一瞥《いちべつ》してから、門の開いている空間を斜めに横切り、守衛所に斜めに顔を出した。ポケットから黒い手帳を斜めに出し、斜めに守衛に見せて、すぐひっこめた。 「刑事さんですね」  守衛の声に小さくうなずき、 「人事課長か労務課長に会いたいんだが」 「御用件は」 「会って話す。捜査の必要があって……」  刑事は、池の向うに在るクリーム色二階建の事務所の建物に眼をやった。  守衛は太い指で構内電話のダイヤルを廻《まわ》した。刑事の言った通りのことを伝えたが、電話の相手からはいなされ、刑事にふたたび訊《き》いた。 「どんな用件でしょうか」 「すぐ、そこだろう。ちょっと会ってくる」 「いや」  守衛は、左腕を突き出した。刑事はそのときはじめて、守衛の右腕がないのに気づいた。  守衛は、角ばった顔に分厚い胸をしていた。片腕がないせいか、刑事の倍以上ありそうな大きな胸に見えた。刑事とほぼ同年輩の四十前後。 〈軍人上りか。だが、この歳《とし》なら、軍人になっていたかどうか。交通事故で失った腕ではないのか〉  刑事は、一瞬だが、守衛の身の上を想像した。 「まず、この電話で話してみて下さい」  守衛が受話器をさし出した。 「いや、会って話す」 「だめなんです。アメリカの会社と技術提携している関係で、たとえ警察でも、むやみに構内へ通すわけには行かんのです」  守衛は、刑事を見つめたまま、重い声で言った。  刑事は仕方なく受話器をとった。  戦争中、この場所で、品川広秀という朝鮮出身の徴用工が働いていた。窃盗および国家総動員法違反で逮捕され、刑務所に拘置中、B29の夜間空襲にまぎれ、脱走した。その男のことを調べたい旨《むね》、伝えた。  電話の相手は、労務課長であった。  課長は「その用件なら会うまでもない」と、ことわった。  この場所といっても、戦争中に在ったのは、軍の燃料|廠《しよう》であった。それが戦後、半ば廃墟《はいきよ》の姿のまま民間に払い下げられて、肥料会社の工場になり、さらに最近、財閥系の化学会社の工場になった。場所こそ同じでも、従業員ぐるみ会社は二転三転している。戦争中の工員のことなどわかるはずがないと、刑事の見当はずれの捜査に、あきれた恰好《かつこう》であった。  だが、刑事はねばった。 「とにかく会って話を聞きたい」  と、くり返す。  とうとう課長は根負けし、「何ひとつ話すことはありませんよ」と念を押した上で、事務所へ寄ることを認めた。  電話のやりとりを、守衛は大きな眼を遠くに向けたまま聞いていた。品川広秀という名前が出たとき、その瞳《ひとみ》の中に一瞬、動揺の色が走ったが、すぐまた、もとの重く無感動な表情に戻った。  刑事が事務所の建物に吸いこまれて十分も経《た》たぬうち、守衛所の電話が鳴った。  守衛の左腕が受話器をとり上げた。 「はい、……そうです……そうです……少しは……わかりました」  守衛の答は、ぶっきらぼうといってよいほど短かった。     二  電話が切れて五分と経たぬうちに、刑事が往《ゆ》きよりは少し急ぎ足で戻ってきた。  にが笑いを浮かべ、守衛を見直して、 「それならそうと、あんたも一言言ってくれりゃいいのに」 「何がそうだと言うんです」 「あんたが、ここでは、燃料廠時代から残ってるたった一人の従業員だということさ」 「あなたは、わたしにそれを訊かなかった」 「訊かないからといって、電話のやりとりを耳にしていたはずじゃないか」 「…………」 「あんた、品川広秀という男を知らなかったかね。倉庫課に居た、あんたとほぼ同年輩の工員だ。中背《ちゆうぜい》で痩《や》せぎす。朝鮮出身でいろいろ問題のあった男だが」 「……その男のことをなぜ調べるんです」 「行方を追ってるんだ、手配中の男だからね」 「罪は?」 「先刻も電話で言っていたように、窃盗と国家総動員法違反、それに、逃亡の罪がある」 「しかし、それは、戦争中のこと、二十五年も前のことじゃありませんか」 「そうだ」 「なぜ、いまごろまで、たいした罪でもない男を追うんですか。とっくに時効になってるはずでしょう」 「なっていない。地検が公示送達による公判期日の召喚状で時効をはずし続けてきたからね」 「なぜ、そんなことをするんです」 「一度起訴され拘置された人間に対しては、法律は生き続ける。法律は法律として完結しなければ、おさまりがつかないからだ」 「しかし、法律が生きてるとしても、当人が死んでるかも知れない。刑務所かいわいが焼かれた夜、この町でも何百人か犠牲者が出たでしょう」 「焼死者については、一通りの身元確認を終っているが、品川に該当する者はなかった。品川はいまも生きのびて、法の裁きを受ける身と解釈する他ないんだ」 「二十五年間も調べていてわからんのですか」 「大事件というわけじゃなし、調べ続けてきたとはいえんだろう。ただ、捜査する意志だけは生き続けてきたというわけだ」 「それを、なぜ、いまごろ……」 「意志は強まったり、弱まったり、ときには忘れられたりもする。やる気のある検事が出てくれば、意志も生々してくるというわけだ」 「やる気とは……。戦争を、いや、戦争中の犯罪をとりわけ憎むということですか」 「さあ……。それより、大小を問わず、法の運用に関して情熱を燃やすということかな。つまり、検事としてりっぱということさ」  守衛は黙った。  化学工場はオートメ化された装置産業なので、にぶいうなりのようなものがかすかに聞えるだけで、騒音はほとんどない。池に落ちる雨音が聞えるほどであった。  刑事は、鉛色の空を仰いだ。 「ともかく中へ入れてくれないか。雨がひどくなってきた」  守衛は答えなかった。  大きい眼が、開いた門の間から、遠くを見ていた。  道路をはさんで貯木場があり、その先に鉄道線路が雨に煙っている。守衛の眼は、その方向を見ていた。  刑事は、狭いドアを開けて、勝手に守衛所の中へ入りこんだ。 「どうだね、品川という男のことを思い出せんかね」  守衛はそれには答えず、外を見たまま厚い唇《くちびる》でつぶやいた。 「戸籍とか何か、もっと手がかりをつかんだ捜査をしたらどうです」 「そうした捜査は、これまでの刑事がやりつくした。外人登録も洗ったが、名前を変えて逃げているらしい。逃亡以後のこれという手がかりはないというわけだ」 「それにしても、本気でつかまえる気がなかったのとちがうかな」 「……そうかも知れん」 「それを、今度、あなたが割り当てられて動き出す」 「仕方がない。法律が生きている以上は」 「みんなが忘れている中で、法律だけが戦争をおぼえているというわけですね」  刑事は守衛を眺《なが》めながら、ハイライトに火をつけた。 「……あんたの腕も、戦争のせいかね」 「ううっ」  守衛は、肯定とも否定ともつかぬ声を出した。  刑事は、煙草《たばこ》の煙とともに言った。 「あんたの歳なら、まだ戦争には行かなかったと思うが」 「勤労動員だ。この工場で働かされていた」 「それで、そのままずっとここに残っているというわけか」 「燃料廠がなくなってからも、守衛だけは必要だった。肥料会社も、いまの会社も……。守衛は、どんな会社になっても、いや、会社がなくても必要だからね。この土地に所有者というものがある以上は」  言葉づかいは乱暴になったが、何かが破れたようにしゃべり出した。 「動員中は何をしていたのかね」 「庶務課に居た」 「仕事の内容は」 「雑役だ。廠長の中将の靴磨《くつみが》きから、小使い。守衛もやったし、運転をおぼえさせられてトラックも動かした」 「それなら、倉庫課の品川を知っていたろう」 「……あのころは、学徒を入れて五百人は働いていた。倉庫課だって、五十人は居ただろうからな」 「話をそらさないでくれ。おれは品川のことを訊いてるんだ。当時、不良工員としてマークされていた品川だ。知らぬはずはあるまい」  守衛は、はじめて小さくうなずいた。 「何も隠すことないじゃないか」 「隠す気はない。しかし、思い出したって、無駄《むだ》なことだ。いや、思い出したくないな」 「それは、あんたの勝手だ。だが、あんたの言ったように、法律が思い出している」  守衛は、刑事に向き直った。大きな眼に強い炎が燃え立った。 「あの男のしたのは、たしか、米や靴を盗んだり、無断欠勤したというだけのことだ。そんな男を追うなら、いくらでも他につかまえるべき男が居るじゃないか」 「たとえば」 「たとえば……このおれだ。おれのこの手のおかげで、何十人かが……」  守衛は、しゃべりかけてから、ぷいと外を向いた。  刑事は、ハイライトの煙を吐き出した。  陰気な柳、陰気な守衛。これで門が狭かったら、息がつまるところだと思った。 「品川と話したことがあるかね」 「ないわけではないが、いまは何もおぼえていない」 「品川と親しかった男を知らないかね」 「学徒には誰も居なかったはずだ。工員仲間でも、朝鮮出身ということがあって、品川ひとり浮いていたようだ」 「孤独な少年工か」 「少年工?」 「そうだ。当時、十九歳だった」 「もっと年長と思っていたのに」 「どうして」 「大人びていたから。それに、体も大きかった」 「それだけか」 「……本もよく読んでいた」 「どんな本だ」 「たとえば、文学全集。おれたちは、あいつの蔵書のおかげで、小説を読めたようなものだ」 「それはどういうことだ」 「あいつが金に困って文学全集を二束三文でたたき売ろうとしていたのを、おれたちの付添いの教師が聞きつけて、値よく買いとってやった。教師はそれを工場に置いて、おれたちに読ませてくれたわけだ」  刑事の眼が光った。 「その教師は健在か」 「そうだと思う」 「同窓会なんかで会ってはいないのか」 「同窓会なんて、めったにない。あの時代については暗い思い出ばかりで、再会したところで、ひとつもたのしくないからね」 「同じだな」 「え?」 「おれも同じだと言ってるんだよ」 「やはり勤労動員?」 「いや予科練へ行った。もっとも、予科練時代には、辛《つら》いが、たのしい思い出もある。それだけに、いつまでも予科練のことは忘れられなくってね」 「あんたは志願して戦争に行ったんだね。だから、いまだに戦争中の不心得者は許せないと……」  刑事は、うすく笑った。 「冗談じゃない。おれは、そんなに執念深くない。……もっとも、上役の方で、あいつは戦争中のことばかり言っている。ひとつ、この仕事をやらせてやれ、ということになったかも知れんが」 「ワリに合わぬ仕事のようだね」 「まあね……」  刑事は守衛を見た。眼と眼が合った。どうやら、お互いにワリに合わぬ仕事をしているらしい。ワリに合わぬ人生が見合った形であった。  刑事は守衛に、教師の住所を訊《たず》ねた。守衛は、古びた手帳を開いて教えかけたが、 「刑事さん、直《ちよく》が明けたら、おれが案内しよう。おれも久しぶりで先生と話したい。話しているうちに、品川のことを思い出すかも知れん」     三  刑事と守衛に訪ねられた老教師は、守衛と同じ反応を示した。  法律の執念深さにおどろいた後、 「つかまえるなら、他にいくらでも罪人《つみびと》が居るだろうに」 「たとえば」 「……たとえば、このわたし。品川君は、米や靴を盗んだ。罪は罪だが、僅《わず》かのそれも個人の財産です。ところが、わたしが何を盗んだと思います。ガソリンです。当時ガソリン一滴は血の一滴といわれるほど貴重な国家の資源を盗んだのですよ」 「その点は、おれも共犯だな。おれがトラックで運び出したのだから」  言い添える守衛を、白髪の教師は眼でおさえて、 「きみたちは、わたしの言いつけ通りにしたまでです」  そう言ってから、刑事に向い、 「刑事さんは、航空隊に居られたそうだが、ガソリン不足で飛行機も飛べず、口惜《くや》しい思いをされたことでしょう。ガソリンを盗んだと聞けば、いまも腹が立つのじゃありませんか」 「何のためにガソリンを盗んだのです」 「物々交換です。闇《やみ》のラードやバターととり代えて、学生たちに食わせました。イモと豆粕《まめかす》ばかりの食事で、学生たちは栄養失調寸前の状態でした。わたしは、学生たちがかわいそうだったし、また、栄養をつけてやることも、お国のためになると思ったのです。でも罪といえば、大きな罪でしょうね」 「しかし、先生、あの中将や将校の連中は……」と、守衛。 「そう、贅沢《ぜいたく》してましたね。ここが昼間、爆撃でやられてから半月後、夜間空襲がありました。そう、品川君が刑務所から脱走した夜のことです。学生たちもあの夜、駆り立てられて、市内の消火へ出されました。その行先が、どこだと思います。一隊は、将校たちがよく遊びに行く市内の料亭街です。そして、もう一隊が中将の宿舎でした。もちろん、どちらも、もうバケツ・リレーなどでは手のつけようもなく、ただ燃えるのを見守るばかりでした。帰ってきた学生たちの報告では、中将の官舎が、とくによく燃えたということです。暖房用の石炭までたっぷり貯《た》めこんであったりして、とにかく燃える物がいっぱいあった。中将ともなると、たいしたものだと、近所でもあっけにとられていたそうです」 「それは、わたしの訊きたいことに関係のない話だな」  刑事は話の腰を折ろうとしたが、老教師は続けた。 「まあ、聞いて下さい、中将は、毎食、七品食べなけりゃ承知しないという人でした。工場の烹炊《ほうすい》も、そのため、ずいぶん苦労していたようでした。おかげで中将は、なるほど恰幅《かつぷく》もよく、光沢のある堂々たる偉丈夫でした。しかし、学業をすててまで働いている学生たちが食うや食わずというのに、中将がそれでいいものでしょうか」  刑事は仕方なさそうに、煙草を口にくわえた。教師は少し顔を赤くしながら続けた。 「わたしがあえてガソリンを盗む気になったのも、ひとつには、そこに原因があったのです。わたしにもまだ血気があったせいで、つかまってもいい覚悟でした。裁判でも、軍事裁判にでも掛ければいい。その場で、中将や将校たちのことを洗いざらいぶちまけてやるつもりだったのです」 「戦争中には、よくあった話だな」  教師の気負いに、刑事はふたたび肩すかしをくわせてから、 「その話は話として、あなたは先ほど、品川君と君づけで言われましたね」 「そう言ったかね」  刑事は大きくうなずいて見せた。 「品川ととくに親しくされたことでもあるのですか」 「別に個人的には……。ただ少年工の教育をたのまれ、あの年代の人たち三十人ほどに、『万葉集』や『国体の本義』の話をしたことがある」 「品川の蔵書を買われたそうだが、個人的な接触があったといえませんか。なぜ、彼をかばおうとされるんです」 「別にかばおうというわけじゃない。品川君のしたことは、微罪も微罪。それを、いまになってまで追いかけるなんて、ばかげてると言いたいんだ」  老教師は、気をしずめるように冷えた茶をすすった。顔の赤みは増し、言葉づかいからは丁重さが消えていた。 「何といわれようと、司法官としては、法律が生きている以上、致し方ないのです」 「法律とは、厄介《やつかい》なもの、不自由なものだ。それに、ずいぶん一方的で横柄《おうへい》なものだな」  刑事はとり合わず、応接間の窓から庭先を見た。  狭い庭では、五葉松、黄楊《つげ》、珊瑚樹《さんごじゆ》などが緑の上に緑のかげをかぶせていた。  守衛が刑事に訊《き》いた。 「刑事さんは、品川が逃亡したといわれるが、あの空襲の夜、刑務所は門を開いて、わざと囚人を逃がしたはずじゃなかったかな」 「それは、構外に退避していいということで、逃げ出していいということじゃなかった」 「しかし、刑務所が門を開くなどというのはあり得ないことだ。それを、なぜ、やらせたんだろう」 「人命が大切だから。たとえ囚人といえ、むざむざ死なせてならぬという判断があったからだ」 「誰の判断?」 「さあ……。そんなことは、どうだっていい。あんた、えらく刑務所の門にこだわるねえ」  二人のやりとりに、老教師が口をはさんだ。 「こだわるわけだよ、刑事さん、この人は……」 「先生、その話はやめて下さい」  老教師は、とまどった顔になった。 「やめた方がいいかな。きみには辛い話かも知れんし」  老教師は刑事に向き直った。 「いまになっても、空襲のことで辛い思いをしている人がある。いや、思いだけではない。肉体的にも……」 「先生!」  老教師はうなずいた。 「……きみは言われた通りのことを、忠実にやった。そのあげく、こんなに苦しんでいる。わしに言わせれば、まるでぼろぼろの人生を送っている。それなのに、命令した本人は、何の悩みもない。多額の軍人恩給をもらって、のうのうと暮している。それが罪じゃないといえるのかね」 「何のことだか、さっぱりわからん話ですな」 「わからんかね、刑事ともあろうのに、これが」  老教師は怒ったように言うと、守衛の右腕を指した。上膊《じようはく》だけしか残って居らず、だらんと洋服の袖《そで》だけが垂れ下っている。 「先生!」  守衛が顔をしかめたが、老教師は手をあげて遮《さえぎ》った。 「言わせてくれ、わたしは言わずには納まらんのだ」  老教師は、空になった茶碗《ちやわん》をすすった。 「燃料|廠《しよう》が昼間爆撃を受けたとき、この人は守衛の補助員に出されていた。その日は、ここの燃料廠が目標らしいといううわさがあったが、果して、警戒警報が入ってから、B29編隊はまっすぐこの市に針路を向けてきた。構内に居ては、危い。貯木場を越した向うの住宅地まで退避させるようにと、われわれは強硬に主張したのだが、廠長の中将は頑《がん》として聞き入れず、『構内退避で十分。構外退避を禁ずる』の一点ばりなんだ。そして、門を閉じさせてしまった。だが、その中将自身は空襲警報になると同時に自動車で逃げ出していた」  老教師は両|拳《こぶし》をにぎりしめた。 「悲劇が起ったのは、それからだった。女学生が約百人来ていたが、引率の教師は強硬で、何といわれようと構外退避させるのだと、生徒を連れて、正門へ殺到した。その前へ、この男たちが、両手をひろげて立ちふさがった。外へ出てはならぬ、中将の厳命があるからと言ってね。女たちも死の危険を感じたのか必死だった。門によじのぼろうとする者もあり、それを、この男たちが足やもんぺをつかんでひきずり下ろした。そうこうしている頭上へ、B29の編隊が襲いかかってきた」  老教師は、和服の痩《や》せた肩をすくめ、一瞬|瞑目《めいもく》した。 「正門のところに居た連中は、壕《ごう》へ入る余裕もなく、爆弾に吹きとばされた。もっとも、壕に入っていたからといって、助かったわけではない。B29は、幾波にも分れて、爆弾と焼夷弾《しよういだん》を混ぜて落してきた。原油タンクが爆発し、炎が流れ出す。壕ぐるみ潰《つぶ》されたり、焼かれたり。逃げ出すところへ、また爆弾がきて、吹きとばされた。地獄だったな。女学生を中心に二百人近い死者が出た。この男が右腕を失ったのは、そのときのことなんだ」  教師が黙ると、しばらく無言の時間が流れた。  少し離れたところを、列車の走る音がした。どこかで犬が甘えるように啼《な》いている。  刑事は、一度だけ守衛の右腕に眼《め》をやった。 〈そのための傷だったか〉  と確認する目つきであった。  ただ、刑事にしてみれば、その「地獄」も戦争中にはよくある話であった。あちらにもこちらにもあった話ではないか。  刑事は、さすがに、それを口にはしなかった。  いまだにその思い出の炎に焼かれて心を重くしているらしい二人。それに片腕がなく、そのため、ぼろぼろの人生を送っているらしい男に、どこにでもあった話として片づけるわけには行かなかった。  刑事は、質問に戻った。 「その昼間爆撃のとき、品川はどうしてました」 「つかまって、拘置中の身だった。おかげで、あの男は、二重に命拾いをした。工場では、倉庫課がいちばんひどくやられ、三つの壕は全部潰れ、全滅同然だった。品川が居たら、まず、まちがいなく死んでいた」 「二重にとは?」 「この工場の被害から、軍では退避方法について再検討し、あれ以後の空襲では、どの工場でも施設でも、保安要員以外は構外退避を認めることになった。刑務所の門も、そのために開かれた。もし、燃料廠での犠牲がなかったら、品川たちはあの高いコンクリートの塀《へい》の中で蒸し焼きにされていたはずだ」 「その意味では、運のいい男だな」  刑事の声に、二人は一度はひきこまれるようにうなずいたが、教師はすぐに顔を起した。 「その程度のことで、運がいいといえるかどうか」 「あの時代に命が拾えたというだけで、運がいいと言っていいな」  刑事は割りきっていた。 「それじゃ、われわれ三人、お互いに運がいい、幸運な三人というわけか」  教師は自嘲《じちよう》気味に言った。 「ぼろぼろの人生を送っていても、生きていることが幸運といわれる以上はね」  その通りだと、刑事はうなずいて見せる。特攻作戦などで散って行った仲間たちに比べれば、生きのびたことから、すべてがはじまっている。  そして、生きる以上は、生きる者の約束に従わなければならない。違約は問いつめねばならない。  刑事にとって、問題は常に簡単であった。 「ばあさん、お茶をたのむよ」  老教師はかすれた声をはり上げてから、また刑事に向き直った。 「しかしね、刑事さん。いまになっても追われる身というのが、果して運がいいといえるかどうか」  刑事より先に守衛がひきとった。 「そうですよ、先生。品川は、きっと、いまだに戦争中の話ができないでいます。われわれがいましてきたような話には、貝のように口をつぐんで。われわれは、こうして話すことで、発散したり、自らを慰めたりしているが、彼にはそれができない。人生のいちばん大事な時期の思い出が語れない。あわれだと思うな。決して倖《しあわ》せな人生じゃない」 「いまの品川が幸福かどうかは、この際、問題じゃない。あの当時、どうだったか。たとえば、明るくて人生をたのしんでいたとか」 「とんでもない」  老教師と守衛は、口をそろえて打ち消した。 「あの男は、身寄りもなかった。寮住まいでしかも、朝鮮出身というので、誰もが同室をきらった。食物を融通してくれる仲間もなかった。だから、ひもじさに耐えかねて、つい米を盗んだ」 「靴《くつ》はどうして……」 「靴? 若い男だ。少しはいい恰好《かつこう》をしたかったのだろう」 「いい恰好をする必要があったというわけかね」 「必要?」 「たとえば、恋人ができたとか」 「それは……」 「居たのかね」 「恋人といえるかどうか、親しくしていた女は居た。倉庫の現場事務をとっていた草間という文学少女だ。品川とのことでにらまれたか、庶務課へ途中で移された。品川の名入りの文庫本を何冊も持ってたな」  教師も思い出した。 「そのことも、朝鮮人少年工のくせになまいきだと、品川に対する心証を悪くしたようだ。いまにして思えば、若い男が娘と親しくするのは、当り前のことなのにな」 「草間何という名だね」 「たしか、草間令子」  刑事は、手帳にその名を書きとめた。守衛は、はっとしたように、刑事を見とがめた。 「そんな名前をどうして」 「参考までに。ついでに、その女はどの辺に住んでいたか、わかるかね」  守衛は首を横に振り、吐き出すように言った。 「つまらんな」 「何が」 「あんたのやろうとしていることが」 「お互いに生きている以上は、仕様がない。品川も生きてる。法律も生きてる。生きてるということは、そういうつまらぬことの合計に過ぎんのさ」  刑事はつぶやきながら、三人の膝《ひざ》の中間に置かれていた一葉の写真を、守衛に向けて置き直した。 「どうだね。写真を見て、もっと思い出すことはないかね」  そこには、戦闘帽姿の凛々《りり》しい少年が撮《うつ》っていた。少し痩せて、目鼻立ちの整った顔であった。品川ひとり、戦争中の姿のまま残っていた。 「こんな古い写真しかないのかね」  刑事はうなずいた。 「それでは、つかまるはずがない」 「女といえば」  教師が思い出したように、口を開いた。 「何か……」 「いや、品川君の女のことじゃない」  刑事は、またか、という顔をした。教師は続けた。 「中将の女だ。中将は、官舎の他に、燃料廠近くの丘に、もう一軒、家を構えて、芸妓《げいぎ》上りの女を公然と置いていた。そこへ馬に乗って通うので、その辺では評判になった」 「そんなことがあったのですか」  守衛は溜息《ためいき》をついた。 「中将は、ふだん、出勤のときなど、将官旗を立てた乗用車でしたが、ときどき馬で外出された。それが、馬上豊かにという表現にぴったりの堂々たる姿でした。ぼくらは、うっとりして見送ったものです。どこへ出かけられるかと思っていたが、女の家だったとは」 「中将のことなんて、どうでもいいじゃないか」  と刑事。 「よくはない。それに、あんたが品川君をつかまえるかどうかに関係がある。つかまえるなら、まず中将からつかまえるべきだ」 「法律は中将に対しては死んでいるんですよ」 「あんたは、二言目には法律を言う。そんな男に対して、戦争の話はしたくない。不愉快だ。帰ってくれ」 「二言目には戦争の話をする男が居る。そういう男も、不愉快ではないですかね」 「なんだって」 「いや、先生のことじゃない。わたし自身のことだ。署の中で、わたしはそういう人間にされている。だから、こうした仕事を割りふられもした」 「あんたは、航空隊に居たというが、ほんとうの戦争を知っているのかね。ただ、うまいものを食い、いばった思いをしていただけとはちがうのかね」 「さあ……」 「戦争というのは、男も女も血まみれになって、空へ吹きとぶことなんだよ。人間が生きながら燃えることだよ。残った人間も、ぼろぼろになってしまうことなんだ。そして、中将だけが、馬に乗って颯爽《さつそう》と女の家へ通い、軍人恩給でぬくぬくと余生を送ることなんだ」 「どうやら、品川の話は終ったようですね」  刑事は、手帳を斜めにポケットにしまい、斜めに腰を上げた。  教師は何か言いたそうであったが、結局は拳をにぎりしめたままで見送った。  守衛も黙って腰を浮かせた。 「きみは残って話して行ったらどうだね」  ひきとめる教師に、守衛は腕時計を見た。 「……いえ、わたしは、これから仕事ですので」     四  守衛の当直は、夜の八時からであった。教師の家で十分落着いている時間はあった。  その証拠に、守衛はその足で工場へ行かず途中の駅近くに在るパチンコ店へ入った。 「同期の桜」のレコードがかかり、球の廻《まわ》る音、はじけ出る音が、まじり合う。金属のすれ合うにおい、人肌《ひとはだ》のにおい、馴染《なじ》みのあるにおいの中で、守衛はほっと一息ついた。  会社の退《ひ》けどきなので、二台に一台は客がついていた。  どの客も、呼吸をとめるようにして、ガラス一枚向うの球のおどりを見つめている。誰もが、一日のうちでいちばん真剣な表情をしていた。ぼろぼろになりそうな人生を、そうした球のおどりで辛うじてくいとめているような顔である。  レコードと球の音以外に、人の声らしい声もない。声があっても、球にのみこまれている。球のこだまのような、うつろな声しかない。  守衛は、パチンコ屋のそういう雰囲気《ふんいき》が好きであった。  そこでは、彼が隻腕《せきわん》であることに眼を向ける人も居なかった。顔見知りになっても、口をきき合うこともない。みんな自由に出入りし、ひとりで自由に格闘していた。  つまらぬ格闘と言う人があるかも知れぬ。だが、そこに居る人々に言わせれば、人生そのものが、まず、つまらない——。  左手で器用に鋼球をはじき出しながら、守衛は、ふっと刑事の言葉を思い出した。 〈人生とは、つまらぬことの集計に過ぎん〉というようなことを、あの刑事は言っていた。  変わった刑事であった。つまらぬことばかり見過ぎてきたのか、そう言ってワリの合わぬ仕事をする自分を納得させようとするのか。とにかく冴《さ》えない刑事であった。  だからこそ、こうした捜査をやらされるのに、適任といえるのだろうか。  教師の家の訪問で、刑事に何の収穫があったろう。  刑事は、品川の恋人というので、草間令子なる名をメモした。  守衛が不用意に口を滑らせた恰好だが、その実、草間が品川の恋人といえるかどうかは疑わしかった。  かなり口をきき合った仲ではあった。そして、草間が品川の名入りの文庫本を持っていたのは、事実である。だが、草間は、その文庫本を意外に高い値で品川に売りつけられたとこぼしていた。本を売買し合うような恋人があるだろうか。  守衛が、勝手に草間を品川の恋人に仕立てた。それは、折角、教師の家に案内したのに、戦争の話ばかりで、つまらなさそうにしている刑事に、少しはサービスするつもりと、刑事をからかってみたい気持の半々からしたことであった。  守衛が、刑事のメモを見とがめたのは、もし刑事が本気になって、草間令子を探し出し品川の恋人だったかと訊問《じんもん》するようなことがあっては、草間が当惑するにちがいないと、思ったからである。  だが、そうした守衛の一方的な話に、あの教師は、それを裏づけるように口を添えた。  それを思うと、守衛はにがい気持になり、つい、球をはじく指を休めた。 〈相変らず、いい加減な教師め!〉  教師の家にとって返し、どなってみたい気がした。  あの教師は、その場の雰囲気というものをのみこむ名人であった。  教師のクラスからは、予科練や少年飛行兵志願者が、いちばん多く出た。 「教師がこんなことを言うのも何だが、どうせ兵隊にとられるんだ。早く階級が上っておいた方がいいぞ」  教師は一人一人の生徒に、秘密めかして話しかけた。  先刻の刑事だって、ひょっとしたら、あの教師のような指導を受けて、予科練へ行ったのかも知れない。  教師の授業は、熱が入らず、おもしろくなかった。  だが、戦争が終ると、あの教師は、早速、晴々した顔になった。 「この戦争が軍閥の野心による途方もない戦争だということが、いつも咽喉《のど》もとまで出かかっていた。きみたちに、それを伝えたくてたまらず、ほんとうに苦しく、つまらぬ毎日だった」  と。  聞く方では、体の中ががらんどうになったような気がした。  それが事実だったら、ちょっぴりでいい、眼差《まなざし》ひとつでいい。なぜ、そうと漏らしてくれなかったのか。裏切られた気がした。  戦闘帽を眼深《まぶか》にかぶり、国民服にゲートルを巻き、『臣民の道』や、聖戦の意義などを、ぼそぼそと説いていた教師。後から思えば、たしかに、おもしろくなさそうな顔であった。  だが、教師は聖戦を説いた。ただの一言半句も、聖戦を疑わせる言葉を漏らさなかった。  もちろん、それは、あの教師ひとりだけの責任ではなかったが、しかし、あの教師が、ただの一言でいい、疑いを漏らしていたら、生徒たちの心の風景は、かなり大きく変わっていたはずである。  中将を威風堂々の軍人としてだけ眺《なが》めはしなかったであろう。あれほどむきになって、門を閉じ、大手をひろげて女学生たちの退避を遮ることもなかったはずである。  その意味では、守衛にぼろぼろの人生を送らせる原因になったのは、あの教師だとさえ言える。  さらにつけ加えるなら、なるほど、教師は危険を冒してガソリンとバターを交換し、生徒たちに分配してくれた。だが、同時に、ぬけ目なく、かなりの量のラードやバターを自分の家に運ばせた。どちらがほんとうの目的かわからぬほどの量であった。  教師に良心があるなら、戦争中のことを語るときには、心の痛みを感ずるはずである。心やましい思いがするはずである。  刑事を教師の家へ連れて行ったのは、そのためであった。品川のことなどは、二の次、刑事に教師をゆさぶってもらいたいためであった。  だが、教師は雰囲気を読む名人であった。向うから、戦争を語ってきた。熱っぽく、かさにかかって、中将の非を鳴らした。中将が軍人恩給をもらっていることまで非難した。教師もまた、同じように、のうのうと恩給をもらっている身なのに。  ついに真実を教えず、真実を語らぬ教師。  それに比べれば、品川はえらかった。品川がマークされたのは、一工員のくせに、「日本が負ける」と話したためで、そのため、倉庫課から本部へひっぱって来られた。  日本が負ける——ショックであった。それは、あの当時、いちばん鮮やかな言葉であった。  あのころの語彙《ごい》には、「勝つ」か「玉砕する」かしかなかった。戦争には、その二つの終り方しかないと思っていたのに、品川は「負ける」という終り方を口にした。  考えられぬこと、あり得ないことであった。同じ世界の人に思えなかった。異国の人、そう、だからこそ、品川は朝鮮人なのだ、朝鮮人だからこそ、そうしたとんでもない考え方ができるのだと思った。  品川は、取調べのないときは、本部の廊下へ立たされていた。蒼《あお》い生気のない顔で、何時間も、そして何日も立たされていた。  廊下に誰も居ないとき、通りかかると、品川はその蒼い顔をにこにこさせ、話しかけて来ようとした。異国人のくせに、気味の悪いほど人なつっこい眼をしていた。  いまわしかった。〈ばかにするな、おまえと同じ人間じゃないんだぞ〉そう言わんばかりに、軽蔑《けいべつ》と反発に満ちた横顔を向けて、通り過ぎたものであった。  品川の姿は、じきに廊下から消え、工場からも消えた。  品川のような人間は、生産現場に置いておいては危険とみられた。いや、世間に存在することも危険である。だからこそ、罪名をつけて、刑務所へ放りこまれた。  空襲の夜、刑務所からは、品川だけでなく、何人も逃げたと聞いている。その中で品川だけがなお執拗《しつよう》に追われたのも、同じような理由のためではないか。  とすれば、いまとなっては、品川はもはや追われなくともいい。いや、追ってはならない。  品川は、ほんとうのことをしゃべったまでだ。品川がああしたことを口走るについては、朝鮮人としての鬱屈《うつくつ》したものが、一方に在ったためかも知れぬ。  だが、とにかく肚《はら》の中に在ることをそのまま言ってのけられた品川は、いま考えても、やはり、さわやかな人間であった。 〈品川を追ってはならない、刑事さん!〉  守衛はパチンコをやめた。受皿には、まだ鋼球が山盛りに残っていた。それをそのままにして店を出た。  数歩小走りに歩いてから、守衛は足をとめた。刑事の名をおぼえていなかった。守衛にとって、刑事は刑事でよかった。  いや、刑事だけでなく、どんな人間についても、そうであった。守衛所に現われる人間を、職業や肩書だけで区分し、おぼえた。それ以上、人間にかかわりたくなかった。  人間とのかかわりは最小限ですませたい。ほほえみにせよ、うらみにせよ、人間的な眼で見つめられるようなことになりたくはない。  守衛という仕事は、それですんだ。誰とでも深く話し合うということがない。人間関係に組みこまれずに、生きて行くことができる。守衛は守衛以上になろうとは思わなかった。守衛以上にはみ出す人間的なものは、切りすてた。  無感動、無表情で、生きている銅像のようだといわれた。片腕がないことが、よけい、守衛を銅像に見せるようであった。  守衛として堂々とし、安定していた。  だが、守衛の内心には、堂々たるものは何もなかった。  大手をひろげて女学生の前に立ちふさがったあの空襲の日以来、守衛は生きることに自信を失った。  担架で病院に運ばれ、右腕を上膊《じようはく》だけ残して切り落された。丘の上に在る軍病院に、見舞いに来る者はいなかった。  やがて、夜間空襲があり、病院の窓が茜色《あかねいろ》に染まった。火の手に追われた市民たちが、丘に逃げてくる。  炎はしだいに丘に迫った。火の粉が舞い落ちてくる。バルコニーに出ていると、燃えながら走っている人間の姿が見えた。刑務所が囚人を逃がしたという報《しら》せも、当然のことのように聞いた。  自分や、自分のまわりで失ってみて、守衛ははじめて失ったもののこわさがわかる気がした。  炎の町を見下ろしながら、守衛はまた自暴自棄気味になり、自分もふくめ、燃料|廠《しよう》関係者全員が死んでしまえばいいとも思った。  ほぼ一月後、隻腕になって燃料廠に戻ると、たちまち、生き残った女学生たちの罵《ののし》りを浴びた。 「人殺し!」「人でなし!」  罵っているうちに、泣き出す女学生も居た。  そうした守衛をさらに苦しめるように、仕事は守衛所詰めに固定した。片手では他の作業ができないというのだ。  女学生たちの罵りに加え、毎日、思い出したように遺族が訪ねてきて、コスモスや菊の花を門の傍《かたわら》に供えた。遺族たちは、刺すような眼で、守衛の少年をにらんだ。  守衛は、「いっそ絞め殺してくれ」と、叫び出しそうになった。  だが、何度かそうした思いをくり返しているうち、守衛は自虐《じぎやく》的になった。顔をこわばらせているうち、顔が石になり、心も石のように動かなくなった。  もはや、その門を離れて人生はない。一生そこに立ち続けてやれと思った。  何年何十年か経《た》つうち、やがて級友も遺族も訪ねて来なくなるであろう。そのときもなお、自分ひとりはここに立ち続けていてやる——。  終戦で燃料廠は解散となった。賠償施設に指定され、構内から人影は消えた。だが、守衛だけは必要であり、肥料会社になり、化学会社になっても事情は同じであった。石のような守衛は、石のように残った。  守衛は、結婚しなかった。工場裏手の社宅に、ひとり住まいである。石とちがって、守衛の人生は静かに朽ちて行く。  女学生たちが折り重なって死んだ防火用水の傍に、終戦の翌春、柳が芽ぶいた。  柳は年々青く大きく育って行く。  守衛に年齢を感じさせるのは、その柳の成長であった。柳の青い葉蔭《はかげ》が大きくなるにつれて、守衛の人生は目に見えず朽ちて行く。  広い門をはさんで、守衛と柳は明け暮れ相対して立っている。  風の吹く日、雨の降る日、柳は守衛に話しかける。人間たちの話しかけとちがい、いつも、さわやかに、裏のない声で。     五  秋が来て、柳の葉が枯れはじめた。  枯れ落ちる前のひととき、柳の葉のささやきは、雄弁であった。冬の間にできぬおしゃべりを、このひとときにすませておこうとするかのようであった。  柳は、ときに守衛をからかってもくる。 〈中将が憎くはないのか。そのまま石のように黙って、中将を極楽へ行かせる気なのか〉  と。  中将は、憎かった。だが、それも、いまでは観念としての憎さに近くなっていた。  憎さとして、まだ生きているのは、教師に対しての感情であった。もし品川が教師と入れ代っていたら、もし品川のような教師であったら、自分の人生はこんなにはなっていなかったはずだと、また思った。  そうしたある朝、工場正門でちょっとした事故があった。  出構しようとするタンク・ローリー車と、入構しようとするトラックが接触し、トラックの尾部が少しこわれた。  守衛は、尾灯の赤ガラスの破片を掃き集めていて、ふっと、戦争中のことを思い出した。  守衛もまた、トラック運転中、事故を起し尾灯のランプを割った。教師の指示で、盗んだガソリンを運んでいる途中であった。道をまちがえバックしていて、郵便ポストに衝突した。  事故を届けると、自動車班の班長である軍曹《ぐんそう》は、守衛を撲《なぐ》った。その後、罰として、別のトラックのタイヤに、自転車用の空気ポンプを使って空気を充填《じゆうてん》する作業をやらせた。  大きなトラックのタイヤは、いくらポンプを漕《こ》いでも、空気は充満しなかった。疲労|困憊《こんぱい》していると、軍曹がやってきて、革の半長靴《はんちようか》で蹴《け》りつけた。  同じ半長靴で品川が蹴られているのを見たことがある。その時は、痛さより、品川と同じに扱われたことが、やりきれなかった——。  破片の掃除をすませ、守衛は詰所に戻った。  品川のことが思い出されてきた。  刑事は、その後、姿を見せない。果して、逃亡者品川を追っているかどうか。守衛にはその確率が半々に思えた。  いまとなっては功名心などどこにもなさそうな刑事。ワリの合わぬ仕事であることを、自分で認めていた。  ワリの合わぬ男を、ワリに合わぬ刑事が追う。それは、漫画のような光景にも思えた。  それに、予科練に居たという刑事は、あの時代には、軍隊の中でも盗みが日常化していたことを知っていたはずだ。一方、中将はじめ高級将校たちの腐敗ぶりも十分にわかっていたはず。悪い奴等《やつら》が氾濫《はんらん》していた。そうした中から品川ひとり追うことに何の意味もないことを、承知のはずである。  刑事にやる気はない。役目上、一応は聞きこみにきたが、そのまま後は放り出してしまったのではないだろうか。  それとは逆に、刑事がなお追っているという推測も成り立つ。  ぼろぼろの人間の一人であるはずの刑事だが、ただひとつ刑事には、法律というたしかなものがある。法律に該当するかしないかだけで刑事は動く。行動の原理は、単純なほど強い。  刑事には、真実かどうか吟味する必要がない。人間的感情を顧慮する要もない。ただ法律だけに従えばよい。  送検するかしないかというところでは、政治的判断や人間的感情がつきまとうこともあろうが、品川の場合のように、すでに送検された者に対しては、ただ後を追えばよい。  つまらぬ事件だが、法律的には明瞭《めいりよう》単純なケースだけに、あの冴《さ》えない刑事は、逃亡者品川を、どこまでも追いつめて行きそうであった。  守衛は、品川が捕えられぬようにと祈った。  逃亡した品川には、自分とは全くちがう人生があるはずである。自分が石なら、品川には、羽のように軽く美しく逃げて行く人生があっていい。  品川が朝鮮に帰って、もはや日本に居ないということも、可能性として考えられる。  だが、守衛には、品川はやはり日本に居そうな気がした。  品川は、戦争中、まわりと同化しようと、けんめいに努めていた。日本文学全集など買いこんで読みふけったのも、日本人に負けずに日本の文化の中へ浸ろうという焦《あせ》りからのようであった。  守衛は、本部の廊下で見た品川の人なつっこい眼つきが忘れられない。戦争さえなければ、結婚して平穏に暮して行けた眼であった——。  三月ぶりに刑事がやってきたのは、その日の昼過ぎであった。  広い門の間を、刑事はいつかと同じように斜めに横切り、体を斜めにして話しかけてきた。無精ひげの残った冴えない顔つきであった。 「元気かね」  刑事は、友人のような口のきき方をした。  また情報が欲しいのか。いつまでまごまごしているのだと、守衛は思った。  だが、それは、守衛の思いちがいであった。  刑事は言った。 「品川をつかまえたよ」 「どこで」  刑事は、三百キロほども先にある都会の名をあげた。 「よくつかまえたな」  守衛は、がっかりして言った。 「あんたのくれた情報のおかげだ」 「しかし、草間という女は……」 「草間を探し出すのが、一苦労だった。しかも、あの女は恋人でも何でもなかったが、品川とほんとうに仲の良かった女の名を教えてくれた。その女を調べて行くうち、別の名前だが、品川らしい男と結婚していることがわかった。品川は、二度も名前を変えた。だが、女房を変えることを忘れていた。それが運の尽きだった」  守衛の心はかげった。 「……それで、刑務所へ逆戻りかね」 「いや、すでに書類は出そろってるだけに、裁判は早かった。終戦直前の混乱していた時期に起きた犯罪で、被害も全部回復しているというので、窃盗については懲役六ケ月、執行|猶予《ゆうよ》六ケ月、国家総動員法違反については免訴、つまり、入獄には及ばずという判決が出た」 「脱走の罪は」 「あれは起訴されていない件なので、時効になった」 「……検事は控訴《こうそ》をしなかったのかね」 「うん、これは、判決理由にもあったが、被告はその後、妻子と平穏な生活を送っている、これ以上追いうちをかけるのはやめようというわけだ」  守衛は、法律の中に思いがけぬ人間の声を聞く気がした。  ただし、刑事は続けた。 「もっとも、検事も報われた。二十五年にわたって逃亡者を追跡し判決に持ちこんだ、その執念を高く評価するというので、高検から検事総長、法務大臣へとくに報告が出された。最高幹部への異例の報告となったからね」 「じゃ、あんたも」 「まんざらワリの悪い仕事でなかったわけだ」  守衛は無表情に戻り、柳に目を向けた。刑事は、新しいハイライトの封を切り、火をつける。 「ところで、品川はあの町で美人の奥さんと子供三人を抱え……」  言いかける先を、守衛は遮《さえぎ》った。 「そういう話は聞きたくない」 「どうして」 「興味がない」  刑事は怪しむように守衛を見ながら、煙草《たばこ》の煙を秋空に吐き出した。  守衛は、むっつりした声で言った。 「逃亡者が逃亡者でなくなった。それだけわかれば、おれには十分だ」  怒っているわけではなかった。心の中にはふしぎに明るさがさしている。  つかまってよかった。品川はこれで、ほんとうに羽のように軽くなれる。石のような自分に代って、その美しい妻子とともに、屈託なく、どこへでも飛び廻《まわ》ってくれ。  守衛は、その祝福を声には出さず柳に語りかけていた。 [#地付き](「小説サンデー毎日」昭和四十五年十月号)   [#改ページ]   えらい人     一  石飛俊之《いしとびとしゆき》は、九鬼中尉《くきちゆうい》がきらいであった。  最初見たときから、いやな予感がした。いつか、この中尉との間に途方もないことが起きそうだという気がした。  それまで県立三中の配属将校は予備役近い老少尉であったが、九鬼は打って変って、いかにも青年士官でございといった感じ。ズボンにも軍帽にも針金を入れてふくらませ、磨《みが》きあげられた革の長靴《ちようか》をはいていた。靴《くつ》はよく鳴った。  朝礼のとき、九鬼中尉は、校長以下が出そろうのを待って、いちばん最後に教員室から出てくる。静まり返った校庭。  中尉は、教員の整列線を越えて歩き出す。すると、朝礼の行事は一切ストップする。  砂利を踏み鳴らし、長靴を鳴らして、中尉は大股《おおまた》に進む。どこかに罰すべき獲物をみつけたのだ。  気をもませながら、中尉は大きく角をとって廻《まわ》り、目星をつけた生徒の前に来ると、いきなり物も云《い》わずになぐりつける。下顎《したあご》をねらってのかたい一撃。中学生は、たいていその一撃でよろめいた。  ひき戻しておいて、さらに一発。  そして、そのままくるりと廻れ右をし、また大股に歩いて行く。なぐる理由もほとんど告げない。口をきくのももったいないという感じであった。  俊之が最初にそれをやられたのは、中尉が赴任してきて、ほぼ一カ月ほど後のことであった。  中尉は、石飛の居る三年三組の前に来た。 「石飛俊之は居るか」 「はい」  俊之は、大きな声で答えた。理由はわからぬが、やられると、とっさに覚悟した。  九鬼中尉は、ガラスのように冷たく無機的な眼《め》を俊之に当てたまま、近づいてきた。 「歯をくいしばれ」 「はい」  次の瞬間、顎に来た。体が横に飛ぶかと思われたが、踏みこたえた。かつて柔道部にも居て、初段をとっている。  ついで、二撃目が逆方向から来たが、突っ立ったまま受けた。 「わかったか」 「はあ?」 「なぐられたわけが、わかったかと云ってるんだ」 「……いえ」  中尉の腕がのび、胸ぐらをつかまれた。 「バッジだ」  そのまま締め上げられ、ついで、後ろへ突き放された。  バッジ? 俊之は、熱くなった頭で考えた。そして、店に来た県立高女の女生徒のことを思い出した。  俊之の母が経営している美容院に、その女生徒はときどき通って来た。少し足が不自由らしいその母親をかばってやってくるのだが、生徒自身はもちろんパーマをかけるわけではない。たまに顔をそるぐらいのことで、ぼんやり古雑誌を見ながら母親の終るのを待っている。そうしたところから俊之と口をきくようになり、半月ほど前に、県立高女のバッジと、三中のバッジを交換し合った。お互いに相手に好感こそ持っていたが、ただそれだけのことで深い意味はない。意味はないから、俊之は気にもとめず、三中の遊び仲間にその話をした。中尉は、おそらく、仲間の誰かから、それを聞き知って来たのだ。  下顎には、その日一日、にぶい痛みが残った。  俊之はおもしろくなかった。俊之が耳にしたのは、「バッジだ」という一言だけである。バッジ一つもらうことが、どうして悪いのか、なぐられるほどの悪事なのか。  昂然《こうぜん》と背をそらせ、靴を鳴らして去って行く九鬼中尉の後ろ姿を、俊之は裂けそうな眼の中に思い浮べた。     二  中尉に二度目の制裁をくったのは、学園にも軍国色が深まり、朝礼だけでなく、昼休みに昼礼というものまでやり出したころである。  夏に近く、直射日光の下、立っているだけで汗がにじみ出ていたが、中尉はまた大股に俊之に迫ってきた。前の経験があるだけに、俊之は体をかたくしたが、それでもなぐられる理由がすぐにはわからなかった。 「いいな」  中尉は、眼も動かさずに云った。 「はあ?」 「なぐられる理由がわかってるな」  なぐる後先のちがいはあっても、訊《き》き方はバッジのときと同じであった。  俊之が首をかしげていると、中尉の声はひややかになった。 「大西工業所のことだ」 「あ?」 「きさま、大西工業所がいったい何だと思ってるんだ」 (町工場です。戦車のキャタピラの部品をつくっている……)と、そう答えようとして、声をのんだ。工業所のおやじが学校に注進したに相違ない。小なりといえども陸軍の下請工場。現役の配属将校九鬼の耳には、愉快なニュースではなかったのだ。  前日の夕方近く、俊之は美容院の待合室で雑誌を読んでいた。  姉と男一人女一人の姉弟。父は早く死に、母が美容院を経営し、姉の美奈子が助けている。  そのとき、舗道に下駄《げた》の音をひびかせながら、歌声が近づいてきた。 「パーマネントをかけ過ぎて、みるみるうちに禿《は》げ頭《あたま》。禿げた頭に毛が三本。ああはずかしや、はずかしや……」  電力節約ということもあろうが、パーマネントを贅沢《ぜいたく》視し、やめさせようという当局の意向におもねった歌である。  俊之は顔色を変えた。母親がとめる間もなく、下駄をつっかけて飛び出ていた。歌いながら通り過ぎて行く工業所帰りの少年工六人。 「おい、待て」  少年工たちはぎくりとしたようであったが、声の主が自分と余り年齢のちがわぬ中学生と知ると、 「何だ、文句があるのか」 「ある」 「非国民的な商売をしていやがって」 「客があるから、やってるんだ」 「非国民的な客だ。そんな客は、いまに居なくならあ」 「黙れ」  少年の一人がいきなり横から突っかけてきたが、俊之は身をかわした。  たちまち乱闘になった。多少柔道の心得はあるといっても六対一である。地面の上にねじ伏せられた。  だが、負けては居なかった。わずかの隙《すき》を見て、足もとに居る少年を蹴上《けあ》げた。局部を蹴ったらしく、少年は蒼《あお》い顔になって、その場に坐《すわ》りこんだ。  残り五人はまた襲いかかって、俊之をねじ伏せたが、蹴られた少年がうずくまったままなのに気づいて、攻撃をやめた。そこへ、母親と姉が出て来たので、俊之は後も見ずに、店の中へ入ってしまった——。  その光景を思い浮べていると、中尉になぐりつけられた。暑さで体がたるんでいたせいもあってか、膝《ひざ》をつきそうになった。  中尉の二撃目が同じ方向から来た。俊之は思わず身を低め、地に這《は》うようになった。 「よし、眠っていたいか」  中尉がどなった。 「寝ろ、そのまま長くなって寝ろ」  半身を支えている肘《ひじ》を、革の長靴が蹴飛ばした。俊之は灼《や》けるような土の上に、仰向けにさせられた。白金色の太陽が真上にあり、眼も燃え尽きそうである。 「こら、眼を開くんだ」  靴先が、耳のすぐ下を蹴った。多少は控え目な蹴り方であったが、場所が場所だけに頭の芯《しん》にひびいた。それに、革の強いにおいがやり切れなかった。息がつまりそうである。太陽より、まず革のにおいを避けたかった。 「そのまま寝てろ。おれがよしと云うまで寝てるんだ」  声が切れると、革のにおいが遠くなった。  指揮台から当直の教師の声が聞え、生徒たちが動き出す。それぞれ教室に向って行進して行く。足並そろえた靴音が、寝ている俊之の前後左右をいくつか通り抜けて行った。  校庭には、ラグビーらしい体操の一組と、教練の一クラスが残っているだけのようである。だが、ふつうならグラウンドいっぱい駆け廻るラグビーも、配属将校に遠慮してか、ゴール前のパス・ボールだけを練習しているらしく、寝ている俊之に近づいてくる気配もない。  汗は、額から、背から、腋《わき》の下から、ほとんど体中のあらゆる毛孔《けあな》から噴き出し、俊之は濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》のようになって横になっていた。  まぶしかった。眼は閉じこそしなかったが、糸のように細めていた。さもなければ、失明しかねまいと思った。  物事が考えられなくなった。日射病を起し、このまま発狂してしまうかも知れない。だが、そのときは中尉が腰に提げている昭和新刀を抜き取って、白刃《はくじん》ふりかざしてあばれてやろう。  頭が割れそうに痛くなってきた。汗の感覚も寝ている感覚もなくなる。ひどく眠くなった。  どれほど経《た》ったか、頭の上から声が降ってきた。 「ちょっとひど過ぎるなあ」 「しようがない、相手は刃物を持っているのだからな」  俊之は自分のことを云っているのかと思ったが、会話は自分に向けられている様子はない。  俊之は、汗の塩で痛む眼を開き、空を見た。反射的に二つの顔がのぞきこんでくる。  一つは、担任の吉松先生。いま一つは、看護などの心得もある生物学の教師。 「石飛、どうだ、気がついたか」 「かわいそうにな」  吉松先生の手がのび、背中を生物の教師がすくい上げるようにして抱き起された。視野一面が赤黒くて、踏み出す足もとが心もとない。  二人の教師に抱えられ、グラウンドを斜めに横切って、校舎の端にある医務室へ向う。  開け放された教員室の窓からは、いくつも教師たちのおびえた顔、あわれむような顔がのぞいていた。  教頭の机と向い合ったところにある配属将校の席。九鬼中尉はそこに居た。背をまっすぐに立て、何か書類に眼を通している。教員室の気配から、窓の外を俊之たちが通り過ぎるのがわかっているはずであろうのに、顔も向けない。 「いいな、がんばれや」  小柄《こがら》な吉松先生は、掌《てのひら》で汗を拭《ぬぐ》いながら、俊之に声をかけた。     三  それから数日後、俊之がやはり古雑誌を手に店先に居ると、すぐ前の道路に、大きな草色の影が立った。  眼を上げるなり、俊之は反射的に飛び上った。 「九鬼先生!」  九鬼中尉は、店の中をじろりと見渡した。客足は最近目に見えて減って、そのときもただ一人。母がかかっていて、姉の美奈子は手持無沙汰《てもちぶさた》にその横に突っ立っていた。  一瞬のことであったが、中尉の眼と美奈子の眼が正面からぶつかり合った。 「ここが、きさまの家か」  中尉は、つぶれたような声で云った。 「はい、そうです。何か……」  俊之は母を呼ぼうとした。顔を店の奥に向ける。美奈子が体をこわばらせて突っ立っている。母は見向きもしない。 「あの、母を……」 「いや、要らん」  次の瞬間、靴を鳴らし、草色の影は消えていた。  俊之は、表へ飛び出て見た。長身の中尉が、夕方の斜めに流れる光の中を、颯爽《さつそう》と歩いて行く。例によって、まわりのものには目もくれない。みるみるうちに、中尉の姿は遠くなった。 「ね、ちょっとすてきじゃない」  美奈子が、いつの間にか、すぐ横に来て云った。 「うん」  俊之もすてきだと思った。虫は好かないけれど、とにかくすてきな中尉であることに変りはない。俊之の中にも、中尉への羨望《せんぼう》がある。だが、女ばかりの家では、陸士も海兵も予科練も受けさせてくれない。母親に一晩中泣かれて、海兵受験をあきらめたいきさつもある。自分には閉ざされた道だと思うと、その羨望がいくらかは性悪なものとなる。  それでも、他の人から中尉をほめられることはいやではない。 「あの人、三中の先生なの?」 「うん、配属将校だ。師団から派遣されて来ている」 「えらいの」  俊之はちょっと困った。俊之たち生徒にしてみれば、この上なくえらい存在なのだが、先生の間では……。そのとき、ふっと医務室で吉松先生のつぶやいた言葉を思い出した。 (何しろ、校長さんでも一目置いてる人だからなあ) 「校長先生よりえらいそうだ」 「まあ、あんなに若いのに」  美奈子は高い声で、うっとりしたように云った。眼は、とっくに見えなくなった中尉の後ろ姿を追っている。  姉にそういう態度をとられてみると、俊之は落着かなくなった。 「若いから、えらいんじゃないぞ」  姉はとまどったように苦笑し、 「そりゃそうでしょ。でも、えらいことはえらいんでしょ」 「うん」  俊之はもどかしかった。  えらいといっても、九鬼中尉その人がえらいのではない。陸軍全部を代表してきているような配属将校というものがえらいのだ。  だが、そう云い切れないものがある。九鬼中尉の前に居た老少尉は、やはり配属将校だったが、えらいという感じはなかった。白髪《しらが》がまじり、頭の中央はまるく大きくはげていた。生徒をなぐるにしても、冗談めかして小突く程度。かなり細かく小言を云う人で生徒から尊敬されていなかった。誰も、えらい人とは思わなかった。教員室では、他の先生たちといつも碁や将棋をやって、笑い声を立てていた。陸軍全体を代表してきていたはずなのに、少しも権威は感じられなかった。  それに比べれば、たしかに九鬼中尉はえらい。全生徒に畏怖《いふ》されているばかりか、校長も一目置いている。  俊之は、心の中を整理しかねて、ぼんやり突っ立っていた。姉も夕空を眺《なが》めるようにして立っている。父のない、たった二人の姉弟は、いつもお互いを極めて身近なものに感じていた。  三日ほど後、九鬼中尉の学校教練の時間があった。朝からはげしい雨であった。教室で自習、戦陣訓の浄書でもやらされるかと思っていると、柔道場へ集合させられた。  けば立った醤油《しようゆ》色の畳の上に正坐《せいざ》して待つ。畳にしみこんだ汗のにおいが蒸れ立ち、息苦しかった。  点呼が終ると、九鬼中尉がいきなり云った。 「参考までに、知っておきたい。この中で、婦人雑誌を読んだことのある者は手をあげろ」  生徒たちは顔を見合わせた。 「婦人|倶楽部《クラブ》とか主婦之友とかがあるだろう。そういう雑誌に目を通したことのある者は、正直に手をあげろ」  しだいに声がすごんできた。 「読んだからといって、どうこう云《い》うわけじゃない。ただ参考にするだけだ。いいな、隠さずに手をあげろ!」  俊之はあきらめた。女ばかりの家、それに美容院という仕事がらもあって、店先には婦人雑誌がころがっている。俊之も、よく読んだ。ときどきは、少年の身で読んでよいのかと思われるような記事もあった。その記事の記憶がひっかかったが、中尉の声のすごみには勝てなかった。それに、あの夕方、中尉は俊之の手にある雑誌に気づいたかもしれない。  俊之は手をあげた。まわりを見渡すと、クラスのほぼ三分の一ほどの人数が、不安そうな顔で手をあげていた。 「よし、それだけか。他に、もう居ないか」  なお二人ほどが手をあげた。 「立て! 手をあげた者は全員立て」  中尉の声に気合がこもった。  直立した生徒たちの前を、中尉は腕を後ろに組んだまま横に歩いた。 「きさまたち、そんな女の雑誌を読んでおもしろいと思ったのか」  手がのび、すぐ前に居た生徒の顎《あご》をつかんでゆすぶった。 「どうだ」 「はい、おもしろいとは思いませんでした」 「うそをつけ」  中尉は、また顎をゆすぶったが、ふしぎになぐらなかった。それだけに、いっそう気味悪くもあった。  中尉は、俊之のすぐ前に来た。 「女の雑誌を読むなんて根性がくさっている。そうだな、石飛」  名前を呼ばれた。俊之は、ぎょっとした。中尉はほとんど名を呼んだことはない。 「どうだ、石飛」 「はい、そうだと思います」 「よし」  中尉はうすく笑った。 「そういうくさった根性のやつは徹底的にたたき直す必要がある。鉄砲玉の下に放りこんで、鍛え直さにゃいかん」  中尉は、きっと首を横に向けると、 「級長、こいつらの名前を全部記録せい。みんな予科練へ志願してもらえる連中だ」  生徒たちは息をのんだ。なぐられなかったはずだと思った。なぐられた方がはるかにましであった。  最初のうちは志望者もあった予科練だが、数回くり返されるうちに、行くべき者は行ってしまい、一方では徴募の人数がふえるばかりで、このため、連隊区司令部から各中学へ割当てが来ているといううわさがあった。朝礼でも、修身や教練の時間でも、教師たちは入れ代り立ち代り志願をすすめていた——。  それがこういう形で襲いかかってきたのだ。 「立った連中は、後から願書をとりに来い。今日はこれで終る。解散!」  九鬼中尉は、土足厳禁の廊下で長靴をはくと、革の音を鳴らして立ち去って行った。     四  悪いことはさらに重なった。  当時、月に一週間ほどずつ、陸軍造兵|廠《しよう》へ勤労作業に出ていたのだが、俊之はその作業中、造兵廠の技術|中尉《ちゆうい》を投げ飛ばしてしまったのだ。  トロッコから貨車への搬送作業中のことであった。中尉の記章をつけた若い将校が眼《め》の前に立ったことはわかっていながら、トロッコが次々と流れてくるため、俊之は作業の手をやすめずに働いていた。  将校がすぐ鼻の先に来た。 「こら、わかっていて、なぜ敬礼せんか」  造兵廠内では工員たちと同じ秩序に服することになっている。 「はい……。危険な作業中は欠礼しても構わないと……」 「なに、これが危険な作業か」 「はい、トロッコが次々と流れてきますので」 「ばか。何が危険作業かは、きさまよりおれの方がよく知っている」  俊之は黙った。若僧の中尉め、と、ふっと九鬼中尉の顔も思い浮べた。笑ったつもりはなかったが、 「なにを笑うか、きさま」  将校は肩を突いてきた。俊之が身をかわすと、はずみをくってよろけた。 「こいつ」  将校は後ろから首をしめてきた。大きな体が背から腰へと密着してくる。背負投げには絶好の姿勢だと思った次の瞬間には、将校の体を地ひびきを立てて投げとばしていた。  その後、俊之は将校に顔中膨れ上るほどなぐられた。担任の吉松先生につき添われ、謝罪に行ったが、それだけではすまず、処分のための職員会議が開かれた。  勤労作業の期間が終り、ふたたび学園に戻っていたが、三時から職員会議がはじまる日、俊之は朝礼台の上にひとり立たされ、捧《ささ》げ銃《つつ》をさせられていた。  会議は、夕靄《ゆうもや》が下りてから終った。吉松先生が迎えに来た。  職員会議では校長はじめ全職員が、一週間の謹慎または停学という処分で一致したのに、九鬼中尉だけが退学処分を主張して譲らなかった。最後には、軍刀で会議室の床をたたいてどなった。「本官は帝国陸軍を代表してきている。本官の命令は、かしこくも大元帥《だいげんすい》陛下の命令と同じである。陛下の命令に逆らう気か!」と。  俊之の前には、予科練志願か、退学かの道しかなかった。退学処分になっては、県下の学校で転入学を認めてくれるところはない。どこにも配属将校が配置されているからだ。美容院ごと他県へ引越すことは不可能な相談であり、また、俊之ひとりをたよりにしてきた家庭で、いまさら予科練へ進むこともできない。  吉松先生が、きこえぬぐらい小さな声でつぶやいた。 「一度、家の人に中尉の下宿へ謝りに行ってもらうんだな」 「でも……」  校長まで折れてしまった後で、謝ったり頼んだりしてもどうにもなるものでないと思った。 「いや、とにかくいってもらいなさい。それも、姉さんの方がいいな」 「姉に?」  吉松は、俊之の顔を見ないで云った。 「うん。お母さんはいそがしいだろうしな。ぜひ、姉さんに……」  吉松は、中尉の下宿先を教えてくれた。 「早い方がいい。なるべく今夜のうちにでも……」     五  その後、何が起ったかについては、俊之にはよくわからない。  姉の美奈子は、その晩だけでなく、幾晩も中尉の下宿に出かけて行った。中尉と何を話したかについては、ほとんど教えてくれなかった。はしゃいで帰ってきたこともあるし、母親に口もきかずに寝てしまうこともあった。夜ふけて、母と姉が暗い店の中で涙声で話し合っていることもあった。  俊之の処分問題は、いつの間にか立ち消えになった。予科練の願書はにぎりつぶしたままなのに、催促されることもなかった。そして、どういう形で勧誘されたのか、その秋も十人近い生徒が予科練へ旅立って行った。  暮近く、配属将校が交代になった。以前よりもっと老人の少尉であった。いかにも特務|曹長《そうちよう》上りという感じで、将校らしさはなかった。生徒たちは、すぐ、馬鹿《ばか》にしてかかった。九鬼中尉の颯爽《さつそう》とした姿を、何かと云うと、思い出していた。  だが、俊之の家庭は暗くなった。九鬼中尉には、故郷に親のきめた婚約者があると云う。  それでいて、美奈子に対する中尉の振舞は……。姉の傷ついていることが、俊之にはよくわかった。だが、慰めようもなかった。  父がなくても、母子三人、羽を寄せ合うようにして生きて来た家庭なのに、その事件があってからは、ばらばらになった。母という人間、姉という人間、俊之という人間が、一人ずつ住んでいた。  店は立ち行かなくなり、姉は、大西工業所へ働きに出かけるようになった。他に働くところもあろうに、近所で通いやすいからという理由で工業所を選んだことに、俊之は釈然としなかった。少年工との乱闘、その後での中尉による制裁——真夏の炎天下に寝かせられた日のことを、姉は忘れているはずはない——。  姉と俊之との間には、中尉の草色の影がいつも呪《のろ》いを散らしながら、突っ立っているようであった。  俊之は中尉をにくんだ。そうした中尉をえらいなどと思っていた自分が情けなかった。  俊之は、突飛な復讐《ふくしゆう》を考えた。士官学校に入り、猛勉強をして恩賜《おんし》の銀時計組に入る。そして、とんとん拍子に昇進し、陸軍大学も優等で出る。参謀肩章を光らせながら、九鬼中尉の前に立つ。九鬼がまだ大尉程度でまごまごしているとき、俊之は大尉か少佐になり、しかも未来を約束された形でその前におどり出るのだ。九鬼のえらさは一瞬に消しとび、いじけた下級将校の姿にちぢこまる。  現実にそれがどこまで可能になるかはわからない。俊之が九鬼の階級を追い越すまでには、戦争も終っているかも知れない。だが、そうした夢を夢見るときだけ、俊之は救われる気がした。     六  だが、九鬼中尉は、やはり、えらい人であった。  何カ月かぶりで九鬼中尉の名前が、学園で話題になった。落下傘《らつかさん》部隊の指揮官の一人として、パレンバンに降下、壮烈な戦死を遂げたと伝えられたのだ。九鬼中尉は空の神兵となった。中尉になぐられた者も、なぐられなかった者も昂奮《こうふん》した。なぐられた者ほど幸福そうで、そのときのことを自慢話した。  颯爽としていた中尉、畏怖《いふ》されていた中尉——その中尉が、死後はじめて親しみを帯びて、生徒たちの眼によみがえってきた。  その夜、夕食の席で、俊之は学校での昂奮をそのまま持ち帰ってしゃべった。  母も姉もほとんど口をきかなかったが、最後に母が云った。 「それじゃ、お線香でも立てましょうか」  姉は答えなかった。怒ったような、ひきつった眼をしていた。  母は、俊之の顔を見た。苦しそうに笑い、 「えらい人にしてあげようね」  姉は無言のまま、小刻みに体をふるわせていた。 [#地付き](「小説現代」昭和三十八年四月号)   [#改ページ]   逃亡癖     一  霧のような雨の中を、蝙蝠傘《こうもりがさ》をかざし、だぶだぶの雨靴《あまぐつ》にモーニング姿の老人が歩いていた。  痩《や》せた体を心もち丸め、髪は疲れた灰色。Q大理学部の神代《かみしろ》教授である。  道には申訳程度に石畳が敷かれているが、永雨のため、到《いた》る処《ところ》、水溜《みずたま》りが出来ている。  教授は殆《ほとん》ど顔も上げずに行く。老眼鏡の奥の眼《め》は、霧雨以上に煙っている。それでいて、大きな土蔵風の建物の前まで来ると、教授は嗅覚《きゆうかく》でも働いたように立ち止り、蝙蝠傘を畳んだ。  擦り切れた靴拭《くつぬぐ》いの上で、力を入れて二度三度、雨靴を擦《こす》る。  その音に、黴臭《かびくさ》い建物の中から、別の老人が顔を出した。 「やあ、神代先生」  これも風采《ふうさい》は上らない。ただ髪だけは房々として白い。  白と灰、二色の頭は黒ずんだ建物の中に消えた。  途端に、建物の内部に蛍光色《けいこうしよく》の光が籠《こも》った。それまで節約のために減光していた燈火を、客のため、点《つ》け戻したのだ。客の有無に応じてのスウィッチの点滅も、白髪の男の仕事の一つである。  建物の入口には、≪地方博物館≫の標柱。白髪は、館長兼|唯《ただ》一人の館員の氏家である。 「モーニングを召して、先生どちらへ」 「教え子の結婚式です。二時から公民館で」 「雨じゃ難儀ですな。……じとじとじとじとと全くやり切れません。お陰で見学者がすっかり杜絶《とだ》えました」  教授は、老眼鏡の端から、ちらっと氏家を見た。 「君も大変だな。気苦労も多い事だろう」  氏家は淋《さび》しそうに笑った。 「定《きま》った扶持《ふち》を頂いてるからいいようなものの、矢張り入場券の売上げという奴《やつ》が気に懸りますからな」 「そう云《い》えば、僕も偶《たま》には」  教授はズボンのポケットに手をやった。氏家は慌《あわ》てて、 「いえ、とんでもない先生。……先生は名誉顧問のような方ですから」 「そんな事云っても、僕は現に何もしていないよ」 「大山椒魚《おおさんしよううお》を寄付して下さいましたし。……いえ、先生、こうして時々来て頂くと云う事が、何より私共への応援と云う事になるんです」  教授は、しみの出た頬《ほお》を震わせた。 「僕はただ、ただこうやって山椒魚に逢《あ》いに来るだけだよ」  老人達の前には、高さ一|米《メートル》程の円筒型の硝子《ガラス》容器に納められた山椒魚の標本が立っている。周りには、やや小さな硝子|壜《びん》に魚の標本が数種。野鳥の剥製《はくせい》が三、四点。何《いず》れもうすく埃《ほこり》をかむっている。  四十坪ほどある館内の展示物には、これと云って見栄《みば》えのする物はない。ただ旧藩時代の城郭の模型や、兜《かぶと》・鎧《よろい》・母衣《ほろ》・刀剣など。その中でも流行《はやり》すたりがあって、最近では、伊賀流忍者の装束が足を引いている。  何時《いつ》になっても冴《さ》えないのが、動植物の標本類である。同じQ市内の城址《じようし》に動物園があるのだから、標本など黙殺されても仕方がないが、だからと云って、氏家館長はその標本類を引き下げる意志は毛頭ない。開館以来、ずっと同じ場所に同じ点数だけ揃《そろ》えている。ただその気持の中には、山椒魚を訪ねて来る嘗《かつ》ての同僚神代教授への思いやりも幾らか潜んでいた。  神代教授は、じっと山椒魚の標本に老眼を当てていたが、 「どう、この大山椒魚には」  変り栄えのしない質問であった。 「相変らず余り関心が無いようですな」 「醜怪だし、それにフォルマリン漬《づ》けと来ては、当節の人には見向きもされん訳だね」  教授の口からは、いつもと同じ注が出る。弁解とも云える。  受ける氏家の言葉も大抵定っている。 「凄《すご》いロウマンスの主ですのにな。惜しい事です」 「…………」 「私に多少、筆が立ったら、ここにその悲恋の物語を物して、紅涙をしぼらせるところですのにな」 「細川助教授にでも頼めばよかったかな」 「細川君? いや彼奴《あいつ》は駄目《だめ》ですよ。彼奴はいけません」  氏家の声に急に熱が入った。 「あれはエロです、エロ専門ですよ。まともなものなど書けやしません」  教授は応《こた》えなかった。ちょっと会話がとぎれる。  近所で鶏が啼《な》いた。  教授は、血の気のない口許《くちもと》に微笑を浮かべて云った。 「その悲恋物語を、僕も教場で脱線用に時々やってみたよ。だが、受けやしないね」 「それは先生の……」 「話術のせいと云いたいのかね。いや、自慢じゃないが、この話に関しては、随分、洗練されて来ている。何度も繰り返したし、それに、僕の真情を吐露しての語り口なんだからね」  氏家は、相槌《あいづち》の打ち場に困って黙っている。 「ところが学生諸君と来ては、山椒魚の味はどうだとか、薬効はどうだとか、そんな事ばかりに関心がある」 「…………」 「そうだね、終戦後、まだこの山椒魚達が生きてた頃《ころ》から、そんな風潮だった。今日結婚する佐々山君の年代なども、食物としての関心ばかりだった」 「あの頃は、また特に食糧事情が悪かったですからな。遅配欠配、われわれも岩石の採集より、食用野草の方につい眼が走った……。一千万人餓死説などという事が平気で云い触らされてた時代でした」 「そのせいだろうな。あの頃は僕もついつい山椒魚料理の事など喋《しやべ》ってしまったな。一種の代償作用だ。……矢張り、僕もひもじかったんだな」 「…………」 「それでも僕は自分の空《す》き腹《ばら》を忘れて、山椒魚達の餌《えさ》を探して歩いた。蛙《かえる》や蝗《いなご》。彼奴等の方が元気が良くて、捕えるのに腹を立て通しだったな。配給の鰯《いわし》や鯨肉《げいにく》だって、僕と妻とが譲り合うようにして山椒魚にやったものだ」 「それなのに逃げ出すなんて、全く飼主の心知らずという奴ですな。……却《かえ》って元気がつき過ぎたんじゃありませんか」 「さあ、どうかな」  教授は口重く答えてから、 「一匹が逃げて、一匹が翌日に死ぬ。元気とは余り関係ないんじゃないか」 「そうですな。逃げた雄はわかるとして、死んだ雌の説明がつきませんな。矢張り、後追い心中という事でしょうか」 「それ以外に説明の仕様がない」  教授はまた眼鏡の眼をフォルマリン漬けの標本に向けた。十数年、その悲しそうな眼の色は変らない。     二  山椒魚は、見かけ通りに頑健《がんけん》な動物である。「ハンザキ」という呼び名の通り、半分に引き裂いても死なぬと云われている程だ。  現に標本になっているその雌の山椒魚自体が、S県の山深い水力発電所の技師が水苔《みずごけ》と一緒に木箱に詰め、郵便小包で送り届けてくれたものだ。  教授と研究仲間であった男が、東京からベルリンの学者に同様、小包にして送ったところ、住所が間違って受取人が見当らず、二カ月後また東京に送り返されて来た。小包を開けると、山椒魚は送ったときと同じのほほんとした顔つきで這《は》い出して来た。  それは、ただ頑健という事ばかりでなく、山椒魚の非行動性を示す話でもある。行動半径は狭く、動作は極めて緩慢。  だが、神代教授の飼った雄の山椒魚には逃亡癖があった。  そいつは、もともと中国山脈の支脈から流れ出るT川水系に住んでいたらしいが、T川の氾濫《はんらん》で下流の村へ泳ぎ着き、村人に捕えられ、Q市の魚屋に売られて来た。  魚屋では水槽《すいそう》に入れて飼っていたが、三年目に脱走した。  暗夜、Q市の目抜通りに出たところ、勤め帰りのカフェの女給が踏みつけた。  山椒魚も驚いたが、女給は踏みつけた物を見直すと、悲鳴とともに気を失って倒れ、静かな城下町の夜に、ちょっとした騒ぎとなった。  翌日の新聞には、「市内に怪物現わる」と写真入りで出た。  当時、Q高等農林で動物学を担当していた神代には、一目でそれが大山椒魚とわかった。両棲《りようせい》類を専攻して来ただけに、かねがね飼育してみたいと思っていた対象である。  神代は、早速警察署に出かけ、荒縄《あらなわ》でぐるぐる巻きに縛られ、サーベルの巡査に監視されている大山椒魚と対面した。  持ち主だった魚屋に交渉し、飼育代というので魚屋が村人から買った値段の四倍払って引き取った。若い教師の懐《ふところ》には、さすがにこたえる額であったが、滑らかに光る黒い背を思い諦《あきら》める事は出来なかった。  元気のいい奴であった。最初、刺身をやった時、はね上って指ごと食いついた。「ハンザキに食いつかれると、雷が鳴るまで離さない」と云われている。  神代は夢中になって手を振り廻《まわ》した。山椒魚は遂《つい》にはじき飛ばされたが、神代の指に一カ月も医者に通わねばならぬ咬傷《かみきず》を残した。  悪戯《いたずら》っ子《こ》ほど可愛《かわい》いとは云うが、神代は大山椒魚を心をこめて大事にした。そうしたところへ、「お嫁さんに」と、見知らぬ発電所技師から雌が送られて来たのだ。  大山椒魚夫婦は、戦争を通り越して生き続けた。  雄の再度の脱走は、終戦後三年目に起った。ある夜、金網を大きく破り、姿を消していた。十四年間、おとなしく飼われて来たのにと、信じかねるような狂暴な脱出振りであったが、逃亡の前歴があるだけに諦めねばならなかった。  諦め切れないのは、残った雌までが翌日になって急死してしまった事である。雌は別に夫の逃亡に加担した形跡はなく、体に擦傷《すりきず》もなかった。解剖したが、臓器にはっきりした病変は認められなかった。  科学者らしくはないが、悲しみの余り、夫を追って昇天したとしか考えられなかった。  無愛想な連中であったが、十四年飼った二匹に一度に思わぬ消え方をされて、神代の受けた衝撃は大きかった。菩提寺《ぼだいじ》の墓地に埋めようとまで思ったが、それよりたとえ亡骸《なきがら》でも毎日眼につくところがよいと、フォルマリン漬けにし、学校の標本室に置いた。  神代は毎日のようにそれを眺《なが》めていたが、戦後Q市に地方博物館が出来、同僚の地質学の氏家講師が赴任すると聞き、餞《はなむけ》代りに持って行ってもらった。神代一人ではなく、多くの人にいたわりの眼で見られれば、一層|成仏《じようぶつ》するだろうと思った。脱走した雄の行方は、杳《よう》として知れない。  子供がなく、夫婦二人だけの教授の生活にとっては、それは記憶に残る唯一《ゆいいつ》の悲劇と呼べるものであった。だが、教授夫妻は、その悲しみを人前で口にする事は慎んだ。  当時、復員輸送が一段落するとともに、戦場に送り出した教え子達について、新たに戦死公報が届いたり、戦犯としての処刑通知が来たりして、教授はその度に身の縮まる思いをしていた。山椒魚の事など、口にするのも不謹慎と考えた。  それでも、妻の光江は、 「『尋ね人』の放送に頼めないかしら」  と、まともな顔で一度ならず云った。 「馬鹿《ばか》云うんじゃない」  いなす教授の言葉にも力が籠《こも》らない。  教授夫妻にとって、山椒魚夫婦は決して不恰好《ぶかつこう》な生物《いきもの》ではなかった。水に這う黒い背にも日々の表情があり、粟粒《あわつぶ》のような小さな眼は、いまも話しかけてくるようである。  それに、雌の後追い的な死は、老夫婦の心にその晩年を思わせる事になった。 「私も貴方《あなた》が居なくなれば、がっくり来るわ。きっと一日で死んでしまうわ」 「そう巧《うま》く行くものか。魚達は水槽で二匹だけ鼻突き合わせて生きて来た。お互いの姿がまわりの自然の総《すべ》てだった。だから一方が脱走したという事は、環境上の一大変化だ。残った奴がやり切れなくなるのは当然だな」 「私だって同じ事よ」 「冗談じゃない。君は水槽の中に飼われてる訳じゃない。第一の話が、家財だって、家だってある。外には世間というものがある。近所づき合いだって、親戚《しんせき》だってある」 「そんなもの慰めにならないわよ」 「取越苦労は止《や》めなさい。……僕が逃亡する事はない」 「当り前よ。貴方が逃亡したって……」 「行き場がない? 成程、山椒魚より無能という訳だ」 「皮肉を云ってるんじゃありませんよ。私……」  教授には勿論《もちろん》、妻の云おうとする事が分っている。教授の死ぬ一日前に死にたい、後に残されたくないと真剣である。 「もう分ったよ」  教授がうめくように云って、そういう議論は終った。     三  十五分後、白・灰二つの頭が、土蔵の口に戻って来た。  教授は機械的に蝙蝠傘を拡《ひろ》げかけて、 「や、雨が上ったね」 「小晴れ間というところですな」 「え」 「『さみだれの切れし小晴れ間』ですよ」 「それは……」 「ええ、細川君の俳句です。彼奴《あいつ》の退職|挨拶《あいさつ》に刷りこんでありました。『辞表出す さみだれ切れし 小晴れ間』だったかな。あれが、俳句と云えるものですかな」 「君は細川君をよく知ってるの」 「いやいや、彼は私がこちらへ来るのと入れ違いに、助手に採用された男ですからな」 「すると、一面識もない?」 「いや、顔ぐらいは……」 「顔は誰でも知ってるだろうよ。兎《と》に角《かく》、うちの大学では彼一人がテレビやラジオに出ていたからな」 「放送局へ毎日のように遊びに行ってたそうですな。『何か番組はないか』と云って。『御用聞きみたいだ』と云われてたそうですよ」 「それでも出世したんだから、いいじゃないか」 「先生は、お親しかったんでしょ」 「そうだな。彼も生態学だったからな」 「彼の場合、生態学の生という字が違ってるんじゃないかな」 「そういうんじゃないと、世間には受けないよ。兎に角、全国的に名前を知られたんだから、ちょっとしたものだ」 「学者の風上に置けん男です」 「あれも一つの才能だろうよ。僕等には無い才能だ」  教授は首を折って空を見た。 「『辞表出す さみだれ切れし』か。いい気持だろうね。中央に迎えられて、自分から学校を飛び出す……」 「…………」 「僕等には望みも出来なかった事だ。老機関車は息も絶え絶えに走っている。あと二年の定年まで、ただ恋々と勤めるのみだ」  教授はそう云うと、チョッキのポケットから懐中時計を取り出した。 「や、大分、御邪魔してしまったな」 「私は一向に構いませんが」 「さ、急ごう。皆を待たせては申訳ない」 「結婚式っていいものですな。私は芯《しん》まで黴臭《かびくさ》くなってしまったせいか、なかなか列席のチャンスに恵まれません」 「君のような仕事じゃ、うっかり体も空けられんだろう。まあ、僕の代りに、よく山椒魚でも眺めていてやってくれ」 「花嫁と山椒魚じゃ……」 「違い過ぎるかな」  老人二人は、かすれた声を立てて笑った。 「それでも、彼奴は花嫁として家《うち》へ来たんだよ。亭主に逃げられようなんて、思いもよらなかったろうにな」  教授はまた無意識に蝙蝠傘《こうもりがさ》を拡げかけた。 「さ、行きましょ。どうも御邪魔さんでした」     四  それから二時間ほど後、氏家館長がそろそろ閉館の支度にかかろうとした頃、神代教授がまたやって来た。  最前より強く雨が降り、モーニングの肩が濡《ぬ》れている。平常は酒をたしなまないのに、かすかに酒の匂《にお》いがした。  教授は靴拭《くつぬぐ》いをそのまま踏み越え、滴《しずく》の垂れる蝙蝠傘を抱えたまま、館内に入って来た。  眼鏡には雨滴が当って曇っていたが、その奥の眼《め》は煙っていない。  腰を浮かす氏家の前を、教授は「やあ」と右手を振り上げ、素通りしようとした。 「これはまた、先生……」 「もう一度、あれに逢《あ》いたくなってな」  教授は床板を踏み鳴らし、大股《おおまた》に動物標本の前に立った。  尋常ではない。氏家は、そっとその背後に近づいた。  暫《しばら》く気配をうかがってから、 「何か良くない事でもありましたか」 「いやいや」  教授は首を振って、 「結婚式だもの、良くない事があろう筈《はず》はないよ」 「それにしても」 「皆、立派になったな。……嬉《うれ》しかった」  気のない云《い》い方であった。  氏家は更に一歩近寄って、教授の表情をうかがった。  石ころ相手の地質学者も、堂守りのように閉じこめられてしまってからは、山野を採集に出歩く事もない。赴任当初は女の子やアルバイトが居て、偶《たま》には外出する事も出来たのだが、陰気な職場に永続きする者は少なく、市の方でも、来観者が見込み違いに少ないため、近頃は氏家以外に人を置こうとしない。  氏家もまた、別に人を寄越《よこ》せとは云わない。うっかり頼めば、氏家自身が整理されかねない。こうして氏家は、声も立てずに、暗い館内にうずくまり、稀《まれ》な来観者を待つ生活を送っている。  それは、どこか山椒魚《さんしよううお》に似た生活であった。だが、山椒魚のような粟粒《あわつぶ》ほどの小さな眼ではない。白い眉《まゆ》の下の三白眼は、時々、遠慮|会釈《えしやく》もなく来観者の表情・素振・会話を探る。自分が動けないだけに、好奇心は一入《ひとしお》だった。 (どんな生活、どんな感情、どんな履歴の男なのか、女なのか。幸福か、悩みは無いか……)  観察し臆測《おくそく》する事には隠微な愉《たの》しみがあった。  ただ、神代教授だけは、これまで好奇心の対象外に在った。嘗《かつ》ての同僚への敬意と云うよりも、教授は余りに分り過ぎて、味の無い男であった。探るべき何物もない男と思っていた。  だが、眼の前の教授は、明らかにいつもと違っていた。一日に二度来るのもおかしいし、それもただならぬ入館の仕方である。  氏家は、さりげなく質問を続ける事にした。 「盛会でしたか」 「うん」  教授は振り返りもしない。 「あの頃の卒業というと、もう全然私の知らぬ人達ですな」 「…………」 「大学関係は先生お一人だけ?」 「いや。……細川君が来ていた」 「ほう、細川が」  氏家は呆《あき》れて見せながら、教授の不機嫌《ふきげん》さへの一つの手懸りが掴《つか》めたと思った。 「皮肉なものですな。噂《うわさ》したすぐ後でお会いになるとは」  氏家はうっかり云ってしまったが、それが教授には却《かえ》って皮肉に聞えたらしく、 「細川君が来るなぞと聞いていなかったんだ」  憤然として云った。  教授は、細川が列席するなら出なければよかったと思った。それならば、あのショッキングな告白を耳にしないで済んだ。何事も知らぬままで、こんなに動揺する事も無かった筈だ——。 「それじゃ、細川君は飛び入りで?」 「そうでもないんだ」  教授は忌々《いまいま》しそうに云った。 「あの学年は、細川君が赴任早々教えている。それだけに関心があったらしい」 「…………」 「もっとも、学生達、いや、あの諸君達は、特に細川君を呼ぶ心算《つもり》はなかった。僕にも相談を掛けなかったしね。……ところが、細川君の方から云って来たんだそうだ。『忙しいけど、君達の結婚式には何とか時間を工面する』とね」 「厭《いや》らしい男ですな。名士風を吹かせて」 「そう、名士なんだよ、彼は。佐々山君達にしても名士が出てくれれば嬉しいさ」 「…………」 「それに、花嫁が放送会社と関係のある広告代理店の娘だとかいう事もあったらしい」 「さすがに抜け目がありませんな」  教授は答えず、半歩踏み出し、標本|壜《びん》を覗《のぞ》き込んだ。白くふやけた山椒魚は、ビニールの製品のように浮いている。 「細川はスピーチをしたでしょうな」 「勿論。やらせん訳に行かんだろう」 「何か変った事でも……」  そのスピーチで不愉快な発言でもと思った。 「いや」  教授ははっきり云って首を横に振った。  氏家は戸惑った。 (原因が細川のスピーチに無いとすると……。結婚式には確かに余り不愉快な事が起る筈は無い。一体、何が教授を……。どんな訊《き》き出し方をすればよいか)  突然、教授が振り返った。怕《こわ》い顔をしていた。 「君、用は無いのかい」 「いや、無い訳では……」 「それじゃ、そちらをやり給《たま》え」  高専の講師をしていた時、一度だけ、当時助教授だった神代に叱《しか》られた事がある。それ以来はじめての口調であった。  氏家はとまどった。 「はあ……」 「いいから、そちらを。……ちょっと、僕を一人にして置いて欲しいんだ」 「…………」 「あっちへ行ってくれ」 「はい。じゃ、ごゆっくりと」     五  教授を打ちのめしたのは、佐々山と同窓という男のスピーチであった。男の顔には見覚えがあったが、名前は記憶していない。  その男は、教授や細川はじめ幾つかスピーチが済み、また酒が廻って宴席が賑《にぎ》やかになった頃《ころ》、教授のすぐ前の席から立った。 「新郎の学生時代のエピソードを御紹介します。恰度《ちようど》、ここに神代先生もいらっしゃる事ですし、懺悔《ざんげ》の意味も兼ねまして」  神代は、何の気なしに佐々山の顔を見た。  眼が合うと、佐々山は小さく頭を下げた。元気の良い学生で、寮の羽目板を焚《た》いたりして寮監から苦情が来た事もある。その程度の事だと思った。 「あの頃はひどく食う物がない時代でして、僕等、畠《はたけ》から芋を掻《か》っ払《ぱら》ったりして飢えを凌《しの》いで来たのですが、どうも動物|蛋白《たんぱく》が不足だ。ひとつ、あれをやろうじゃないか。先生の話じゃ、とても美味《うま》そうだったから——佐々山がそう云い出したんです」  神代はぎくりとした。それでもまだ事態がよく呑《の》みこめなかった。 「食べたのは何だと思います?……大山椒魚です」  悲鳴と哄笑《こうしよう》が一度に起った。  神代は思わず眼を閉じた。そんな馬鹿な。何か間違った事を聞いているという感じだった。  次いで、頭の中が燃え上った。 「新郎を大将に、僕等三人、夜こっそり先生の家の庭へ忍び込んだのです。そして、金網を破って……」  眼を閉じて耐えている横から、細川が高い声で訊《たず》ねた。 「それで味はどうだったんだい」 「美味かったです。照り焼きにして食べたんですけど」  また、悲鳴と哄笑が起った。  神代はその先の言葉に耳を塞《ふさ》いだ。いや、耳鳴りがして聞えなかった。 「……先生、許して下さい。新郎共々、ここに懺悔致します。先生!」  男の生真面目《きまじめ》さを装った顔が、すぐ前に来ていた。神代ははっとして、 「許すも許さないも……」  うめくように云った。  誰の時よりも大きな拍手のうちに、男は腰を下ろした。 「僕にも一口味わわせて欲しかったな」  細川がその男に囁《ささや》いている。  神代は、眼の前に残っていた葡萄酒《ぶどうしゆ》のグラスを空けた。それだけでは納まらず、注《つ》いだままになっていたビールのコップを口に運んだ。夢中で一息に飲んだ。  軽口をたたきながら、細川が横からビールを注いで寄越す。神代は、その腕を、ビール壜ごと突き飛ばしたい衝動を感じた。  逃亡癖でも何でもなかった。  雌の死因も、後追いなどという事ではなく、襲われた時に、何処《どこ》かを強打されでもしたのだろう。だが、それをたしかめる元気もない。  披露宴《ひろうえん》の席から、教授は誰よりも早く退場した。     六  灰・白二つの頭が、また土蔵の前に立った。雨脚は横撲《よこなぐ》りにしぶいている。 「これだけ降ると、川が溢《あふ》れるかも知れませんな」  氏家が、教授の顔をすくい上げるように見て云った。 「久し振りに川が溢れ、山椒魚が舞い込むなんて事が起りませんかな」 「もう起りゃせんよ」  教授は蝙蝠傘を手荒く拡げた。雨音が二人の老人の耳に近くなる。  古い石畳の道には、無数の飛沫《しぶき》が踊っていた。 [#地付き](「小説新潮」昭和三十八年八月号)   [#改ページ]   鳩侍《はとざむらい》始末     一  久世藤吾《くぜとうご》は悔いをまぎらそうとでもするように、足をはやめた。  同役の首藤鏡右衛門から、門三郎が騎射馬場脇《きしやばばわき》で待っていると知らされたときの締めつけられるような悔いが、波打ってよみがえってくる。木曾《きそ》へ行った門三郎とは四カ月ぶりの対面である。その四カ月の間、自分は遂《つい》にあのことを口に上《のぼ》すことができなかった——。  藤吾がいそぐ大名|小路《こうじ》へは、一筋東の太鼓櫓《たいこやぐら》筋からの砂ぼこりが舞い下りて、築地塀《ついじべい》を白く煙らせている。蹄《ひづめ》の音、馬のいななき、具足の触れ合う音。ときどき、鉦《かね》や押太鼓《おしだいこ》、鯨波《とき》の声も聞える。 「山猿《やまざる》のように木曾から出て来た日にこの騒ぎじゃ。門三郎め、こぼれんばかりの眼《め》をして居《お》った」  吐き棄《す》てるようにして云《い》った鏡右衛門の言葉が思い出される。  その日——天保《てんぽう》六年四月七日は、美濃《みの》境の高須輪中《たかすわじゆう》へはじめて尾張《おわり》藩兵が出動する日であった。その月の二日、輪中に一揆《いつき》が起り、百姓数百人が信楽《しがらき》代官多尾四郎次郎の屋敷を襲い、他に村方の家など十数戸を打ちこわした。このため尾張藩では、大番|組頭《くみがしら》横井|豊後《ぶんご》を将に、大番組|先手《さきて》組など三百二十二騎、卒千七百三十人を一揆鎮圧に向わせることとなった。初代|義直《よしなお》が領知してから二百三十年、尾張藩では初めての出兵であった。  藤吾が門三郎をみつけるのと、門三郎が手をあげるのがほとんど同時であった。騎射馬場のくすんだ高塀を背に立つ門三郎の姿は、風呂桶《ふろおけ》から顔を浮かせたように下半身が白い渦《うず》に巻かれていた。本町御門を入った兵列が、その先の桝形《ますがた》で砂利を蹴散《けち》らして迂回《うかい》して進んでいる。  門三郎の日焼けした笑顔をめがけ、藤吾は駈《か》けた。悔いは消え、懐《なつか》しさにたぐり寄せられて行く。 「思いのほかに早かったな」  藤吾がまだ声も出せないでいると、 「鳩《はと》はよいのか」  無造作に「鳩」と云い切って、門三郎は空を見上げた。  青空も、そこでは薄い紗《しや》をひいたように霞《かす》んでいる。 「同役の鏡右衛門に頼んできた」 「大丈夫か」  門三郎は首をかしげる。 「このところ、おれが働くばかり、たまには……」 「茶屋酒や女はどうだ」  門三郎の問いに藤吾ははっとした。自分のことを訊《き》かれたのかと思って。藤吾は鏡右衛門に腕ずくのようにして誘われ、二度、茶屋に上った。知られたのかと、頬《ほお》が熱くなったが、門三郎は相変らずの笑顔である。それで、鏡右衛門のことと気づいた。 「変りはないようだ」 「入《い》り浸《びた》りか、それにしても、よく金がつづく」  藤吾には身にこたえた。茶屋に遊んだ代金は鏡右衛門が払ってくれていた。 「怪体《けたい》な奴《やつ》め。どこに金蔓《かねづる》があるのか……。おぬしに見当はつかぬか」 「いや」  藤吾は大きく首を振った。門三郎を見て目方を失《な》くしたように軽くなった心が、話すうち、ふたたび澱《よど》んで行く。  羽ばたきが近づいてきた。藤吾が居ると知ってか、二人の眼の先の空を藤色《ふじいろ》に乱して鳩の群が飛び抜ける。 「それにしても、たくさんの鳩だ。いったい何羽居るのか」 「百二羽」 「ほう」  門三郎はさすがに驚いたようである。澄んだ大きな瞳《ひとみ》をさらにみはって、藤吾をみつめた。 「目立つはずだ。百羽も居ては」  小麦色の彫りの深い横顔でつぶやくように云い、 「この頃《ごろ》では椋鳥《むくどり》や鶫《つぐみ》でも、あれほど群れてはいない」  と遠くを見る眼付になってから、ふいに藤吾に向い、 「鳩には何を喰《く》わせて居る」  門三郎の言葉は、肋《あばら》を洗うような感じであった。知らず知らずにあたためていた手垢《てあか》や湯垢を剥《は》ぎ落しにかかる。藤吾にとっては、鳩は「お鳩」であるばかりでなく、菊次《ヽヽ》、常蔵《ヽヽ》、惣助《ヽヽ》、|さち《ヽヽ》、富佐《ヽヽ》などと一羽ずつ名前を持った殿の分身であり、その「お鳩」に喰わせているというより、喰ってもらって、そのおかげで藤吾らが喰っているという気分になっていた。門三郎の言葉はそうした気分を引き裂いた。 「鳩には何を喰わせているのだ」  藤吾が答えなかったのを聞えぬせいと思ったのか、門三郎は声を大きくして繰り返した。 「お鳩には」と云おうとしたのをのみこんで藤吾は、 「玄米、豌豆《えんどう》、粟《あわ》、小麦、麻実《あさのみ》、菜種……」 「玄米」「豌豆」「粟」と門三郎はその後から一つずつ吟味するように云って、 「一揆も起ろうというこの御時世に結構な餌《えさ》だ。それで、餌代はどれくらいになるのか」 「よくは分らぬ。鏡右衛門が仕入れて居るので」  そう云うと、藤吾は口を結んだ。何か問いただされてでもいるようで不愉快であった。率直な門三郎の気性がさせる問いと分ってはいても、久しぶりに会った上での一語一語が胸に斬《き》りつけてくる。  黙ったまま幅下《はばした》御門にかかると、先の方に低く町並が開けてきた。春には珍しく強い風が吹いている。  右手の外濠《そとぼり》はいちめんに波立ち、傾いた夕陽《ゆうひ》に白く波頭をそろえている。濠の奥深く本丸のあたりからは、一列の砂塵《さじん》が兵馬の動きを伝えて舞っていた。砂塵の先は、隅櫓《すみやぐら》から小天守のあたりまで立ちのぼり、灰色の靄《もや》を城の松林にかけている。  その靄の先に、まだ鳩の群が飛んでいた。胡麻《ごま》ほどに縮んだかと思うと、西日の中で小豆粒ほどになって反転する。藤吾の眼は思わずその遠い動きに吸われた。 「まだ飛んでいる。飛ぶから目立つのだ」  門三郎がいたわるように云った。 「しかし、飛ぶからこそ鳩ではないか」  藤吾は強く云い返した。その語勢に、門三郎は藤吾の顔をのぞきこんだ。以前のやさしい眼差《まなざし》である。藤吾は、それに眼をつむるようにして続けた。 「お鳩を放すことは、蘭書《らんしよ》から知って、おれが殿に進言したのだ」 「藤吾」  突然、門三郎が強い声で云った。表情がきびしい。 「おぬしは殿とお話できたというのだな」  その門三郎の表情から、藤吾は次に来る言葉を観念して、視線を落した。 「あのことを殿にお願いいたしたのか」  伏せたままの顔を小さく振る。 「分水|溝《こう》工事の話を申し上げてないのか」  問い返す門三郎に、藤吾は弱く、 「いや」  門三郎の澄んだ瞳の中で、自分の体が一廻《ひとまわ》りも二廻りも小さくなって行く気がした。 「おぬしが鳩侍になってからもう半|年《とし》になろう。その間毎日、殿に近く侍しながら、まだ話さぬというのか」 「役儀がちがう、申し上げられる身分ではない」  藤吾は辛うじて答えた。その藤吾にかぶさるようにして、 「分っていたことだ。おぬし、それを承知で鳩侍になったのではないか。おぬしの父、源之丞《げんのじよう》どのの無念を殿のお耳に伝えることができる——ただ、それを期しておぬしは鳩侍になったのであろう」 「…………」 「それが叶《かな》わずば、おぬしのような藩校の秀才がむざむざ鳩侍になることはなかったのだ」  藤吾は滝にでも打たれる思いであった。 「役儀や身分のちがいなど、おぬしの一念で越えられること、それができぬようなら、鳩侍などよすがよい。お鳩のお守りなどという痴《たわ》けたことは」 「門三郎、声が……」  番所から小者が三人のぞいているのに、藤吾は気がとがめた。  門三郎は脚絆《きやはん》をまとった足を大股《おおまた》に踏み出しながら、 「おれはおぬしが惜しいし、源之丞どのを無駄死《むだじに》に終らせたくはない。なあ藤吾、思いきって申し上げるんだ。お鳩飼いなどという痴けたことは永く続くはずはないし、続かせてはならぬ」  砂ぼこりの入った眼をおさえ、藤吾は黙って歩いて行った。返す言葉もなかった。父の遺志でもあった庄内《しようない》川分水溝工事の悲願を殿のお耳に届ける機会もあろう——ただ、それを念じて藤吾は鳩侍になった。そして半年、若い藩主|斉温《なりはる》を日々数尺の近さに仰ぎ、時々は鳩をめぐっての屈託ないお話を申し上げたりしているのだが……。  藤吾の父、久世源之丞は尾西西春郡の代官であったが、前年八月十七日割腹して世を去った。その七日前、名古屋城下と西春郡の間を流れる庄内川が豪雨で氾濫《はんらん》、西春郡側である小田井村の堤が小田井人足組の手で切り崩された。これによって、御城下側は安泰であったが、小田井一円はまたたく間に濁水に呑《の》まれ、十七人の死者が出た。源之丞は代官として最後まで堤切り崩しに反対、たけりたつ人足組を抑え、御城下側の騒ぎにも構わず川面《かわも》が堤いっぱいに漲《みなぎ》るまで切り崩しを許さなかった。村々を救いたい一念であったが、このため御城下に不安を及ぼしたというので、水の退《ひ》くのを見届け屠腹《とふく》した。  国奉行|宛《あて》の源之丞の遺書には、庄内川分水溝工事の請願がくり返されていた。庄内川と平行して数町西に流れる新川へ分水溝をつくり、堤切り崩しによる出水を防ごうというのである。幾度となく繰り返したその願いは、いつも国奉行|手許《てもと》にとどめられ、遺書もまた、そのまま読み棄てられてしまっていた——。  なぜ、殿に申し上げられなかったのだろうか。  門三郎のように「一念の弱さ」と云われれば、それまでである。役儀や身分を弁《わきま》えず申し上げた結果、殿の不興を蒙《こうむ》ることも恐しかった。鳩侍は藤吾のような下士としては破格に恵まれた給知を受けている。いま、鳩侍の職を離れて生計の立つ自信はなかった。門三郎の言葉に訳もなくひるんだのは、自らのそうした安易さにまず気がとがめたからである。  羽ばたきがまた聞えてきた。濠の水をかすめて飛び去って行く。疲れが羽音の乱れから分った。城中の騒がしさが鳩たちを落着かせないのであろう。 「夕刻も近いというのに……」と、ついに口に出た。 「悪い鳥でも出なければよいが」 「悪い鳥?」 「鷹《たか》や、のすり、隼《はやぶさ》などだ」  遠ざかった群は何かに驚かされたのか、反るように急に上昇し、大天守の甓《かわら》にかすんだ。夕陽に金鯱《きんしやち》がまぶしく輝き、藤吾の眼を失わせる。 「おぬし、鳩が好きになったのではないか」  横あいから門三郎が声をかけた。 「うむ、いくらかは好きになった。好きになろうと努めているうちにな」 「努めて?」 「そうだ、鳩は可愛《かわい》い。それに何より正直だ。……始めは皆目、見当もつかなかったのが、この頃ではどうやら一羽ずつの違いも分ってくるようになった。分れば分ったでまた可愛さが増してくる」  藤吾は雄弁にしゃべり出した。 「一羽ごとに殿が名づけられる気持も分ってきた。お鳩の菊次《ヽヽ》はやはり菊次《ヽヽ》で、常蔵《ヽヽ》とはちがう、人の子以上にちがうことさえある。体型や色はもとより気性もとりどりなのだ。だから、お鳩にも一羽一羽名前をつけてやらねば……」 「それで、百羽に御命名か」 「殿ばかりではない。おれたちが殿の命で名づけたのもある」  藤吾はそう云ってから笑いを浮べた。頭から翼にかけて雪をまいたように白い雌鳩に、妻の名を取って登代《ヽヽ》と名づけたことを思い出したのである。その名を口にしようとしたとき、門三郎が立ちはだかるようにして云った。 「お鳩が一羽生れれば、お名前がつく。だがな、藤吾。木曾では木一本首一つなのだ。分るか」 「木一本首一つ?」 「そうだ。木を一本倒すごとに、一つの首が飛ぶ。倒すと云っても、もとより盗伐だが、そうしないでは生きて行けないのだ。輪中の衆のように一揆を起す気力さえない」 「…………」 「下枝一本払えば腕一つ。木一本で首一つ。妻子をかかえた首がとぶのだ。夫がはねられ、妻がはねられ、そうして子供の首が萎《な》う。みんな、名前のついていた首だ」  藤吾は眼を伏せたまま歩く。いつか郭《くるわ》を出外れ、家並みもまばらになっている。 「小田井へ行こう。源之丞どのの墓詣《はかまい》りがしたい」  唐突だが、きめつけるような声で門三郎が云った。藤吾は不機嫌《ふきげん》さを面《おもて》に見せながらも、その言葉に小さくうなずいた。     二  翌朝、木曾へ発《た》つ門三郎と名塚ノ辻《つじ》で別れて登城した。  郭《くるわ》内は静かであった。石垣《いしがき》も櫓《やぐら》も、水をふくんだように朝陽《あさひ》に濡《ぬ》れている。登城する家士たちの影を運びながら、箒目《ほうきめ》のついた道は砂ぼこり一つ立てない。  兵馬の砂塵《さじん》で前日は一日かすんでいた大天守、小天守も鮮かに空を截《き》り、頂きでは金鯱《きんしやち》が光の粒をまぶしたように輝いていた。出動した部隊の先鋒《せんぽう》は、すでに高須輪中に着き、一揆《いつき》鎮圧にかかっている刻限であろう。程遠くないところで、火蓋《ひぶた》が切られ、幾つかの人命が消えようとしているとは到底思えない静かな城のたたずまいである。つい先刻別れたばかりなのに、門三郎との出会いそのものまでが偽りのことのように思えてくる。うす紫の御嶽《おんたけ》をめざして去って行った編笠《あみがさ》姿の人影は門三郎でも誰でもなく、墨絵の中の一旅人の影に過ぎなかったようにさえ思えた。  御路地口の木戸をあける。かすかに戸のきしむ音があたりの空気ににじむ。とたんに先の方で、いっせいに細かな羽音や啼《な》き声が起った。  一夜門三郎と語り、寝不足で蒼《あお》い藤吾の顔に、笑いがさした。鳩《はと》たちが待ちわびていたのだ。藤吾が木戸をあける気配だけで、鳩小屋の中では毎朝、歓迎の大混乱が起きる。そこでは藤吾は確実に、待たれている人であった。御装束場の裏手にしつらえた餌《えさ》部屋に入って、玄米、白|豌豆《えんどう》、小麦、塩土を混ぜる。その間にも、鳩小屋の方からは羽目板を掻《か》く爪《つめ》の音、嘴《くちばし》の音、床を競《せ》り合う趾《あし》の音が高まる一方である。 「ようし。よし」  七、八間も先の、聞えるはずもない混乱に向って、つい声が出る。  御台所衆が届けておいてくれた水をふくんだ青菜、小松菜をきざむ。待ちわびる鳩たちの騒ぎが、密度の濃い空気の塊となって、藤吾の身の廻《まわ》りを埋めつくす。身を動かすたびに、鳩の声がかえってくる。たとえ転んでも、そこに充《み》ちている鳩の待ちわびる声に支えられ受けとめられるような、目に見えぬ手応《てごた》えに藤吾はつつまれていた。門三郎との友情もたしかだったが、それよりも、もっとすなおなものが充ちている。  麻袋に詰めた餌を二回に分けて運ぶ。青竹を編んだ柵《さく》が大きく撓《たわ》んで、重なり合った鳩の頭がこぼれんばかりである。戸を開けざま、餌袋をさっと振った。振るというより、泳がせる、といった仕種《しぐさ》で、できる限り広く餌をまく。投網《とあみ》をかけたように、鳩たちの背に餌は散った。一匹の動物の背のように盛り上っていた鳩の群が、弾《はじ》かれたように散る。 「くうっ。くうっ」とのど奥をふくらませていた啼き声がつまり、ふくさで包んだ小鈴の音のような、やわらかな、急《せ》いた歓声にかわる。その上から、藤吾はなお、二度、三度袋を振った。袋を振り終るまで、餌につこうとしない一群の顔触れを横目でたしかめながら。新しい顔はなかった。振る腕が軽くなる。まず、今朝も病鳩はいないのだ。餌つきをためらっているのは、気の小さいいくらかは猜疑《さいぎ》的な、いつもの連中ばかりなのだ。草吉《ヽヽ》、右膳《ヽヽ》、|とも《ヽヽ》、田鶴《ヽヽ》、石丸《ヽヽ》と……、首を一列に揃《そろ》えた鳩たちの名を読む。その一列の後ろには、もっと気難しいのがいた。宗八《ヽヽ》と猪助《ヽヽ》だ。番《つが》いができず、もはや盛りを過ぎたのに独りものなのだ。巣箱にも入れず、いつも巣箱|棚《だな》の上に居る。餌づきも悪く、他の鳩たちが飽食して選《え》り食いをはじめる頃《ころ》になって、やっと床の上に下りてくる。工合が悪いわけではないのに、仕方なしに食うといった感じである。人間で云えば「狷介《けんかい》」とでも呼ばるべき性《たち》なのであろう。藤吾は、ふっと門三郎のことを思った。藤吾に対しては肌《はだ》ざわりはよいのだが、いつも、どこかに片意地をふくんでいるようで、昨日のごとき久しぶりの出会いなのに、まるで、いやがらせのように源之丞の墓参へ藤吾をひきずって行ってしまう。あの男も所詮《しよせん》、餌づきの悪い男なのであろうか。藤吾は脂《あぶら》に汚れ、擦り切れていた門三郎の袖口《そでぐち》を思い出した。そして無意識のうちに、大きく手をのばし、宗八《ヽヽ》と猪助《ヽヽ》を巣箱棚から払い落そうとした。(早く食うのだ!)と、門三郎へ呼びかけるような気持が働いて。宗八《ヽヽ》と猪助《ヽヽ》は驚いて飛び上り、天井板に頭を打当てながら、なお奥の方へ飛び退《すさ》った。うす暗い巣箱棚の上で宗八《ヽヽ》の頸《くび》のまわりの金緑色の逆毛が光った。猪助《ヽヽ》もその名の由来である太く短い頸と大きな鼻瘤《びりゆう》をふくらませた。  気難しい二羽に気をとられているうち、腕に重く突き当るものを感じた。小吉《ヽヽ》である。藤吾がまだ腕に下げている餌袋の中へもぐり込もうと、眼環をいっぱいに開いて、腕の上で爪を立てる。気ぜわしく、敏捷《びんしよう》な若鳩である。つづいて灰栗色の惣助《ヽヽ》が腕に飛び上ってきた。餌袋の口にもぐりこもうと、二羽は艶《つや》のいい嘴をぶつけ合う。藤吾が腕を振ると、二羽は、八の字に飛び分れた。  戸口に一歩退き、袋の底に残った餌を払い落そうとすると、そこには別の一群が居た。千丸《ヽヽ》、綾部《ヽヽ》、立華《ヽヽ》、|みつ《ヽヽ》、早輝《ヽヽ》、富佐《ヽヽ》など、比較的老鳩の一群である。彼等は、藤吾がいつもそこで残り餌を払い落すのを知って、混乱の中から離れて待ち受けている。よく掻きまぜてはあるのだが、比重の違いから底の方には玄米が多い。それまで見抜いているような老獪《ろうかい》さを感じさせる。老鳩のうちでも、その一群に限って角質にもうるおいがあり、羽色に光沢が残っているのが、その老獪さを映し出しているようである。人に例えれば鏡右衛門の類《たぐい》であろうか。同じ鳩侍なのに、鏡右衛門が姿を見せるのは、餌を与え終り、巣箱の掃除も済んで、鳩を庭へ出そうとする頃である。朝早く斉温《なりはる》が越すこともないので、そうした出仕ぶりも咎《とが》められることがない。万一、殿のお越しのあった時の言い繕いも打ち合わせ済みであったが、それを使う事もなかった。  鏡右衛門の老獪さは、下の者には、お上の権威で身を包み、上の者の目はたくみにかすめて、どこまでも生き抜いて行きそうであった。だが、たった一つ、その老獪さの通じぬものがあった。他ならぬ鳩である。鏡右衛門が狡《ずる》く振舞えば振舞うほど、鳩たちは鏡右衛門から遠ざかった。馴染《なじ》んでいた鳩も次第に近づかなくなり、中には明らかな脅《おび》えを見せるものも出てきた。若い鳩ほど敏感な反応を示した。鏡右衛門が鳩小屋の中から出そうとしても、天井近くを逃げまどって出ようとはしない。巣箱に導こうとしてもどうしても入らない。癇癪《かんしやく》を起した鏡右衛門が、二度ほど力いっぱい、そうした鳩を撲《なぐ》りつけたことがあってからは、一層鳩たちは鏡右衛門に馴染まなくなった。掌《てのひら》に餌をのせても、寄りついてくるのは、鏡右衛門ひとりで育てられた老鳩の群ばかり、それも、千丸《ヽヽ》や早輝《ヽヽ》など老獪な一群は抜けているので、もはや光沢もうるおいもない老鳩群が怖《お》ず怖《お》ずと寄って行くだけである。脚に鱗《うろこ》状の苔《こけ》ができたものや、尾羽の垂れ下ったもの、趾指まで脚毛の密生したもの——それら老鳩たちだけが、昔の恩義にとまどいながら近づいて行くという感じであった。  藤吾が何気なく眼を落している先では、それらの、いわば能無しの老鳩たちが餌競り合いの中でもまれていた。餌をめぐる輪の中に入ろうとして、突き飛ばされ、蹴《け》られ、突っつかれる。よろめきながら一粒ひろって、また、はじき飛ばされる。その中に、千丸《ヽヽ》などとともに、藤吾がはじめて名を覚えさせられた、菊次《ヽヽ》や常蔵《ヽヽ》、|さち《ヽヽ》などが居た。いずれも、どこと云《い》って特徴のない鳩である。鳩侍になった朝、鏡右衛門から、 「これは菊次《ヽヽ》。あれが千丸《ヽヽ》、常蔵《ヽヽ》、|さち《ヽヽ》……」  と次々に五十羽を越す名を云われたときには、藤吾は眼の先を塞《ふさ》がれる思いがした。  数十粒の米粒か小豆粒に一つ一つ名をつけてばらまき、ばらまいた上で、「この粒の名は——」と訊《き》かれるのと同じであった。米や小豆とちがって、名を聞くはしから、動き廻り、入りまじるだけに一層区別がつかず、追おうとする眼がやがて煙霧をかけられたように霞《かす》んでしまった。その底でうごめく鳩の群は、藤吾への敵意と憎しみで灰色の腹を波打たせる一匹の怪獣のようでもあった。「菊次《ヽヽ》」「千丸《ヽヽ》」「常蔵《ヽヽ》」などという名前が、藤吾を脅《おびや》かすように、耳の奥で空鳴りした——。  そのときの藤吾には、名を覚えることが到底、人間わざと思えなかった。鏡右衛門に人間ばなれした特殊の感覚があるのか、それとも鏡右衛門が口から出まかせの名を連ねているのかの何《いず》れかだと思った。  しかし、鳩の名はたしかに存在していたし、それが殆《ほとん》ど殿の御命名である以上、覚える他はなかった。藤吾は拳固《げんこ》で自分の頭を小突きながら、覚えこもうとつとめた。 (菊次《ヽヽ》——灰がかった栗色。体は中型、眼は……)  と思っているうち、当の菊次《ヽヽ》の姿は群の中に呑《の》まれてしまった。呑まれてしまうと、同色の鳩が幾羽も居ることとて、もう二度と名ざすことはできない。  滅入《めい》った気分の日が、幾日、幾十日つづいたことであろう。鳩の名を覚えるよりも、覚え方がまず判《わか》った。判ってみれば簡単であった。巣箱から覚えて行くのだ。鳩はねぐらに対する執着が強く、巣箱の主はほとんど固定していた。とくに雄鳩がそうである。菊次《ヽヽ》、千丸《ヽヽ》、常蔵《ヽヽ》、立華《ヽヽ》などを、こうして、先《ま》ず覚えた。  雌鳩は雄ほどはねぐらに対する定常心がない。それでも番《つが》いが安定しているので、雄との関係から、|さち《ヽヽ》、千晶《ヽヽ》、季美《ヽヽ》などと、とらえて行くことができた。藤吾はほっとした。鳩との対立感がそのとき無くなった——。  頬《ほお》を翼で打って、惣助《ヽヽ》が肩に戻ってきた。つづいて、眼の前で黒い翼を羽搏《はばた》いて、一羽が頭の上にとまった。上眼で見上げると中羽大羽にかけて灰色の斑点《はんてん》が光る。人なつっこい熊次《ヽヽ》である。その様子になお二、三羽が藤吾の身にまといつこうと羽搏き始めた。  床を埋めた鳩の群も、藤吾を中に輪をちぢめてくる。栗色、灰色、褐色《かつしよく》、濃褐色、乳色、藤色《ふじいろ》、鉛色、銀灰色、薄墨色、黒色と、とりどりの色。かすりのあるもの、ぶちのあるもの、縞《しま》のあるもの。どの色も、どの模様も藤吾には親しいものであった。下の方では藤吾の足の上に登ろうと、数羽がもみ合っている。  草吉《ヽヽ》、右膳《ヽヽ》など気難しい連中も、いつの間に餌を拾い終ったのか、ゆるんだ瞳《ひとみ》をそろえて、藤吾の方を見るともなく見ている。親しみをあらわしたいのだが、それも物倦《ものう》いといった鈍い表情である。  そこでは、程度の違いはあるにしても、すべての瞳の中に藤吾が大きな像を占めていた。藤吾の顔がほころべば、それが忽《たちま》ち、すべての小さな瞳に伝わって、空気の質を一段と柔和なものに変えてしまうような、緻密《ちみつ》な親しさが溢《あふ》れていた。二間に四間の鳩小屋いっぱいに、手応《てごた》えのある親しさが、息苦しいほど填《つ》まっている。  腕白ものの熊次《ヽヽ》の翼で顔を撫《な》でられながら、藤吾は倖《しあわ》せであった。そこは、紛れもなく確かな手応えに満ちた世界であった。藤吾にもし情熱とか才能とか呼ばれるものがあったとすると、それに弾力を以《もつ》て応えてくれる世界であった。だが、そう思いつめる心の底には、実らぬ訴願に一生を潰《つぶ》した父源之丞や、それに似た門三郎の生き方への本能的な警戒心が横たわっているのも事実であった。 「昨日はどこへ門三郎を案内したのじゃ」  背後に鏡右衛門の声がした。鳩たちが啼声をひそめる。  藤吾はとまどった。案内したのではなく、連れて行かれたのだ。 「父の墓所へ。小田井の菩提寺《ぼだいじ》に参った」 「久世家の菩提寺へ? それはまた何と風流な……」  鏡右衛門の声が笑いながら近づく。熊次《ヽヽ》と惣助《ヽヽ》が烈《はげ》しく羽搏いて、巣箱棚の奥へ飛び退《の》いた。 「おぬしの発意か」 「いや。門三郎が強《た》ってと申すので」 「妙な男じゃな」そう云ってから鏡右衛門は思い当ったように「そうか。門三郎はおぬしの父御《ててご》に厄介《やつかい》になったことがあるのじゃな。義理がたい男だ」 「…………」 「夜はどこへ?」 「寺、寺へ泊めてもろうた」 「それはまた何として」 「久しぶりに田舎の空気に染まりたかったし、それに、人足どもが夜道で狼藉《ろうぜき》を働くかも知れぬ、と和上《おしよう》に引きとめられてな」 「小田井人足がおぬしらに狼藉を?」 「さよう」とだけ云って、藤吾は声をのんだ。鏡右衛門を相手では理を話すのも億劫《おつくう》であったし、あたたかな鳩小屋の空気の中ではいかにも不似合な話題に思えた。  和上の話では藤吾と門三郎が揃って小田井へやって来たのを、人足どもは何か分水|溝《こう》工事への企《たくら》みあっての事と見とったようである。出水にあたって堤切り崩しを請負い、それだけで徒食している彼等にとっては、分水溝工事は眼の敵であった。前年、堤切り崩しに最後まで反対した源之丞の子と、国奉行吟味役当時、分水溝工事に絡《から》んで木曾へ遷《うつ》された門三郎とが暮陰《ぼいん》に揃ってやって来たのを、墓参のためとだけは見ていないようであった。門三郎はともかく藤吾には迷惑なことであった。広い書院に枕《まくら》を並べ、燭台《しよくだい》の火はつけたままで寝についたのだが、門三郎がすぐ鼾《いびき》をかき始めたのに、藤吾は蝋燭《ろうそく》を二本とりかえるまで寝つけなかった。深更にも眼覚めて、また蝋燭をつけた。父のこと、分水溝工事のことだけを思い出させようとするような夜、考えまいとすればするほど、藤吾の心はそのことで縛られて行った。嵐《あらし》の中で、猛《たけ》り立つ小田井人足を抑えていた父の顔。松林の明るく開けた中での割腹死体——。そうした場面がくりかえし網膜に浮かんだ。惣助《ヽヽ》、石丸《ヽヽ》、菊次《ヽヽ》、早輝《ヽヽ》、|みつ《ヽヽ》などと鳩の名を口の中で呼び、親しい自分だけの世界を思い浮かべようとしても無駄《むだ》であった。 「寝苦しい夜であった。寺などへ泊るものではない」  と嘆息をつくように云った。そのとき、 「あっ、千丸《ヽヽ》の奴《やつ》が」  鏡右衛門が叫んだ。  あわてて振り返ると、中羽をひろげた登代《ヽヽ》の上に、栗色の鳩が乗っていた。二羽の尾がひとしきり痙攣《けいれん》し、登代《ヽヽ》の眼の葡萄色《ぶどういろ》が鮮かに光を強めて行く。 「こいつめが」  鏡右衛門の腕が、千丸《ヽヽ》を払い落した。波立つ鳩の群の中に、藤吾は銀作《ヽヽ》を探した。白い斑《まだら》を浴びた銀作《ヽヽ》の姿はすぐみつけることができたが、気のせいか、まるで藤吾の視線を避けようとでもするように、群の混《こ》んだ中へ首を突っこんで行く。鏡右衛門に追われながらも、登代《ヽヽ》は白い翼を大きく拡《ひろ》げ、頭を立てて歩いている。  登代《ヽヽ》と銀作《ヽヽ》をかけ合わそうとしていた企ては失敗したのだ。百羽を越すのに全身白色という鳩はいないため、体の三分の二白い登代《ヽヽ》と、白斑《しろまだら》の多い銀作《ヽヽ》を娶《めあわ》せようと、それまで二月近く二羽だけの竹籠《たけかご》に閉じこめておいたのだが、銀作《ヽヽ》の方は尾羽を拡げて登代《ヽヽ》の廻りを歩き発情の様子を示しても、一向に登代《ヽヽ》の応える気配はなく、かえって嘴《くちばし》で立ち向ったりするので、前日、鳩小屋へ戻したところであった。その登代《ヽヽ》が、老獪派である千丸《ヽヽ》を訳なく受けいれたのである。  白鳩の生れる望みは絶たれた。登代《ヽヽ》の満ち足りた様子から受精はまちがいない。やがてまた、二羽の雛《ひな》を見ることになろう。栗色か、灰色か、白斑の……何の変りばえもない雛が。それにも名前がつくであろう。変哲もない雛に、変哲もない名が——。  前夜の寝不足のせいもあってか、藤吾の背には鈍い疲労が這《は》い上ってきた。変哲もない雛に変哲もない名が——その思いが、藤吾の心を重くした。「木一本首一つ」で消される者たちの名を門三郎から聞いて、生れてくる雛につけ代えたらと、物倦く思ったりした。     三  二月後、六月も終りに近いある日、藤吾は汗を拭《ぬぐ》いながら木曾|駒《こま》ガ嶽《たけ》中腹の道を攀《よ》じていた。もともと汗をかかぬ体質なのだが、額にも背中にも、拭う後から細かな水滴がにじみ出てくる。露出した肌《はだ》を山の冷気が洗いつづけているのだが、体内の温気《うんき》は増すばかりである。  その朝|辰刻《たつのこく》(午前八時ごろ)に上松《あげまつ》の町を発《た》った藤吾は、すでに四里近い山道を上下していた。奉行所で、山番に出ている門三郎の所在を聞くと、思いがけず町から二里上った牛巻の番所に居るとのこと、藤吾は急に門三郎を訪ねようと思い立った。  しかし、牛巻番所についてみると、門三郎は二日前そこを発って、さらに三里上った万年滝近くの仮小屋に出向いたという。小者の話では、門三郎は、一カ所にほとんど三日ととどまることなく、木曾駒から御嶽にかけての山林を巡回しているとのことであった。  藤吾はさらに万年滝まで上ってみることにした。  牛巻までは踏み固められた道であったが、そこを出外れると、砕石まじりで上下の勾配《こうばい》もはげしい山道に変った。道をはさんだ林はしだいに深くなり、陽《ひ》の光を遠ざける。谷川が蛇《へび》のようにあらわれては道を横切り、あるいは道を浸して流れる。道は益々《ますます》細まり、熊笹《くまざさ》や羊歯《しだ》で見え隠れはじめた。勾配を上りつめると、また同じように森のひろがりが暗い口をあけている。  藤吾は幾度となく引き返そうとした。だが汗を拭い終ると、足は前に踏み出していた。深い森の奥から白い歯並を見せた逞《たくま》しい門三郎の笑顔が藤吾の両肩をしっかり惹《ひ》きつけているのだ。むしょうに門三郎に会いたかった。  木曾に来たのは、鳩《はと》の薬餌《やくじ》にあてる当帰《とうき》、桂皮《けいひ》、芍薬《しやくやく》、甘草《かんぞう》などを採取するためであった。だが採取とは云っても、上松奉行を通して百姓や樵夫《きこり》に集めさせてあるので、藤吾はただそれを選別して、査収すればよい。手間どる仕事ではなかったが、奉行所の触れが遅れていたため、予定の量がまだ集っていない。その暇に、門三郎を訪ねてみようと思い立ったのだが、山道を分け入るうちに、いつか門三郎に会うためにだけ木曾へ来たような思いがしてきた。  四月に門三郎と別れてからは、飛脚に托《たく》して便り一通。それには、分水溝を請願し、お鳩飼いなど一日も早く罷《や》めるようにとの、相変らず武張った文句がつづられていた。  あれから二カ月、藤吾はまだ藩主斉温にそのことを申し上げてはいない。鳩はますます殖《ふ》えて、百十九羽になっていた。鏡右衛門や藤吾が苦心して仕立てた花婿《はなむこ》の銀作《ヽヽ》にすり代って、千丸《ヽヽ》の血を受けた登代《ヽヽ》も雛《ひな》をかえした。登代《ヽヽ》の気質にもよるのだが、癇性《かんしよう》に寝藁《ねわら》を蹴《け》り分けているはずみに、一つの卵を落して割り、雛になったのは一羽だけ。むやみに嘴《くちばし》が大きく、桃色の体をふるわせていた——。  上り下りをくり返していた道が、二里ほども歩いた頃《ころ》から、下り一方となった。それまでに二度樵夫に出会った。門三郎の行方をきくと、二人ともひどく丁寧に万年滝への道を教えてくれた。一人などは引返して万年滝へ案内しようとまで云った。一本道とのことなので藤吾が断っても、なお未練そうに案内に立とうとした。侍に対する畏敬《いけい》の念というより、もっと根強い好意がその瞳《ひとみ》ににじんでいた。  左手に、鉛色の西空を領し、御嶽がその全容を見せてきた。中腹から麓《ふもと》にかけて銀鼠色《ぎんねずいろ》のほさきを揃《そろ》えた樹海が、なだらかにくびれ落ちて木曾谷をつくっている。その雄大な眺望《ちようぼう》の中では何も動かず、何もきこえてこない。涯《はて》は煙霧につつまれ、寂しさよりも脅えを抱かせるような、ひそまり返った世界であった。毎日、眼前を威圧していた五層の大天守のまばゆい白壁も、鳩小屋の中の手応《てごた》えに満ちた親しさも、すべてを無に変えてしまうような、底冷えのする静けさの中に藤吾は立たされていた。自分というものが厚みも幅もない一つの点に化してしまう感じである。空《むな》しかった、その空しさは残骸《ざんがい》の存在さえも許さぬきびしいもので、小気味よくもあった。  名古屋城下の鳩小屋では、隅《すみ》から隅までが藤吾の世界であった。藤吾の呼吸を伝え、藤吾の顔を映さぬものは何一つなかった。そこでは彼は確乎《かつこ》として地の上に立たされ、支えられていた。情熱を注げば注ぐほど、支えてくれるものの密度が確実に増す世界であった。鳩侍として生きる自信が、そうして固まり始めた。約束も果さぬうちに、門三郎を訪ねる気になった蔭《かげ》には、そのように飽和した自信を試してみようという気負いがあった——。  藤吾は、はじめて一つの点に帰り、木曾谷を吹き上げてくる静かな風にゆられた。満ち足りたと思っていた鳩小屋の世界が、空々しく、猥雑《わいざつ》にさえ思われてきた。木曾詰めとなって、日ごと、そうした山の気に洗われている門三郎が羨《うらやま》しく、一刻も早く会いたい気がした。  眼《め》を落すと、右手前方に、水も動かない滝が小さく懸っているのが見えた。万年滝なのであろう。藤吾は一皮洗い落したような身の軽さを覚えながら、道を下りはじめた。  谷川の音が響く桟道《さんどう》にかかったとき、藤吾は行手に人の気配を感じた。そうした山道には珍しい侍姿を加えた四人連れである。侍は山番の扮装《ふんそう》である。藤吾の鼓動は、瞬間早くなったが、侍姿は門三郎ではなかった。  残りの桟道を急いで渡り終わると、藤吾は熊笹に一歩踏みこんで一行を通した。先導の侍がいぶかしそうに藤吾を見ながら、軽く顎《あご》で会釈《えしやく》して過ぎた。  門三郎のことを問おうとした藤吾は、次の男を見て、あっ、と声を立てた。  襤褸《ぼろ》をまとっただけの土色によどんだ体が血を浴びている。ふりみだした髪、片眼はつぶれ、歯は打ち折られて頬《ほお》から顎、肩にかけて血だらけである。黒く血のにじんだ捕縄《ほじよう》。二人の手代がつづいた。  熊笹に足踏みしながら、藤吾は一行の後ろ姿を見送った。雄大な眺望に吸われた後、ふいに魔性のものに突き当った感じであった。  藤吾は歩《あゆみ》を速めた。姿を見せぬままに瀬の音が近づいてくる。やがて、年を経た杉の柱廊越しに、一丈ほどの瀑布《ばくふ》が白く見えはじめた。  仮小屋というのも、すぐ目についた。古材を寄せ集めてつくったものらしく、ところどころ暗い緑青色に朽ちている。板戸を押して入ると、中は六畳ほどの広さで土間と板ノ間に半々に分れている。板ノ間には筵《むしろ》が敷かれ、その上に黒ずんだ藁布団《わらぶとん》があった。暗い光の中でそこまで見て、藤吾は笑い出した。布団が中に人でも寝ているように、丸い筒型に盛り上っている。門三郎の癖である。布団の中から真直《まつす》ぐに抜け出して起き、夜はそのまま、もぐりこむ。藤吾の家に引き取られている間にも、門三郎はときどき、この無精な癖を出して、源之丞に叱責《しつせき》されていた——。  門三郎がそこに寝ていたことは間違いなかった。だが、小屋の中は戸外と変りなく冷たい山気に濡《ぬ》れている。人の居たあたたかみは消えていた。  山道に戻ってみると、瀬の音の走って行く先に茂みがうすれ、人家らしい影が見えた。  そこまで四、五町の道のりはあったろうか。歩くうち、林が廻《まわ》り、落日があらわれた。夏というのに、遠く、うすい光輪である。  瀬川に沿った十戸ほどの部落。どの家も、朽ちかけた小屋と呼ぶのが相応《ふさわ》しい。人の住所というよりも、枯木のように自然の一部となって、小さく静まり返っている。藤吾も一度は足をとめたほど、生きものの気配のない部落であった。  だが、点在する家々の間には帯状の畑があり、からす麦であろうか、乳をかけたような緑をひろげている。  一番手前の家で声をかけると、くすんだ家の色とほとんど同色の老爺《ろうや》があらわれた。はるばると門三郎を訪ねてきたことを話すと、脅《おび》えを見せていた顔に、ふっと明るい生気がともって、口ごもりながら、話し出した。門三郎はそこへ一泊しただけで、前日、さらに山を福島の側へ下って行ったという。  藤吾の気落ちは大きかった。その藤吾を、老爺は下からすくい上げるように見て、門三郎と親しい娘がいる、その娘ならもっと詳しい行先を知っているかも知れぬ、と云った。  ふたたび落葉松《からまつ》林にかかる山道沿いの僅《わず》かな窪《くぼ》みで、その娘は働いていた。藤吾の影を、ちらっと見ただけ、上松奉行所の者とでも思ったのか、そのまま鍬《くわ》で黒い土を掘り起している。 「奈津か」  と、老爺から聞いた名を呼ぶと、はじめて顔を上げた。ひきしまった硬い顔、黒い瞳をみはって、身構えるような表情である。  藤吾が名乗って、来意を話しはじめると、その表情はゆるみ、見るうちに血の色が首から頬にさし始めた。上松を出て以来、あの悪夢のような囚人行列は別として、沈んだ色の世界ばかり歩いて来た眼に、生命の美しさを、まぶしいほど美しく伝えてくれる。  藤吾が山道に腰を下ろそうとすると、娘は撥《は》ねるように駈《か》け出してきて、手拭をはたき、道に敷いた。  門三郎は、老爺の話していたように、堀田沢を経て木曾福島へ下りた由《よし》。 「名古屋へ御出向とも申されておりました」  鍬を残してきたところへ戻って、奈津は小さな声でつけ加えた。 「御役目替えになるかも知れぬと……」 「それはまた……如何《いか》なる役目かな」 「以前おつとめの国奉行所の方へとか……」 「門三郎が望んだのだな」  奈津は聞き取れぬほどの声で、あい、と答えた。藤吾は腰をずらせた。黒い土も、眼の前の奈津も、霧の流れる落葉松林も、急に遠いものになる。分水溝工事への門三郎の執念が、それら、まわりの総《すべ》てのものに化体《かたい》して、藤吾を咎《とが》める眼付になる。 「木曾の山にも飽き飽きしたのか」  と、藤吾は反撥《はんぱつ》するように言った。  一日打たれてきた冷たい山気。——それこそ門三郎にふさわしい澄んだ世界に思えたのに——。 「いえ。そうではございませぬ」  奈津ははっきり答えてから、泣きそうな眼つきになり、 「お加減もすぐれぬようですし、……それに門三郎さまのお情けがいけなかったのでございます」  思いもよらぬ言葉であった。訊《き》き返すうちに、奈津の声はうるんでいた。 「この谷で、門三郎さまのお咎めを受けた者は、ほとんど居《お》りませぬ」 「盗伐を見逃すというのか」 「いえ、……ただ門三郎さまのお見廻りのときには、誰も盗伐に出てはいないので」 「それはまた……」 「お見廻りの日や道筋がきまって居るのでございます、それに大きなお咳払《せきばら》いなど」 「…………」 「他のお見廻りのように抜きうちにお越しになったり、一度通り過ぎておいて、ふいにお戻りになったりすることはございませぬ。今も……」  奈津は濡れた眼を起し、 「お会いになったでございましょう。この先の沢の衆で今日のうちにも梟首《さらしくび》でございます」  藤吾は桟道で擦れちがった血まみれの男の顔を思い浮かべずには居られなかった。あの顔が消えるのだ。子供もあろう、妻女もあろう。何という名の男なのか。ともかく、あの男はまちがいなく今日この世から消されるのだ。  門三郎から聞かされていた「木一本首一つ」という言葉が、言葉ではなく、目に見えぬ壁となって倒れかかってくる。はねられた首の名を鳩の名に移しかえようなどと、軽い気持で思ってみたことが、一層藤吾の肩に重くのしかかってきた。自分とはかかわりはない。自分には鳩の世界がある。また、自分に鳩の世界があるということと、このこととは何のつながりもないのだと思ってはみても、血まみれの男の顔や奈津の声は、身にこたえてくる——。  奈津の父親も二年前、半ば立ち枯れていた松を倒し、梟首になったという。母親はそれから半年後に病死し、今はただ一人で畳もない家を守っているのであった。働き手を奪われると、その一家には餓死か逃散《ちようさん》しか道はない。母親も盗伐に出て、そのあげく子の死に絶えた家もあるという。そうして廃屋になった家を、奈津は「あの家では……」と指さして教えた。十戸あまりのその部落の中に、四軒もの廃屋があった。最初、部落を見た時の、自然の一部に化したような静かな感じは、いわれのないことではなかった。 「門三郎さまはお好きだそうですのに、ここには子供も居りません」  奈津は淋《さび》しそうに笑った。  藤吾の耳には反射的に鳩小屋のにぎやかな音が聞えてきた。羽目板や床を掻《か》く趾《あし》の音、板をつつく嘴の音、そしてやわらかく波をつくる鳩の啼声《なきごえ》。そのにぎやかさの中で、雛は殖える一方であった。藤吾は、最後に見てきた登代《ヽヽ》の仔《こ》の、むくむくした桃色の体を思い出した。  西空にぼんやり光輪をつくっていた落日は、御嶽の稜線《りようせん》に一とき金朱の矢を降らせて沈んで行った。あたりは急速に暗くなって行く。 「お泊りいただくとよろしいのですが、ひとり住いですし、それに御夜具も……」 「いや、あの仮小屋に泊ろう。門三郎めが、幸い夜具ものべておいてくれた」  奈津はちょっと、けげんな顔になったが、藤吾の言葉の意味が分ると、笑い出した。近くに見るその底黒い肌《はだ》は、まだ骨張っていて初々《ういうい》しい。 「わたくしがたたみに上りますと、ひどくお叱《しか》りになって……時々|陽《ひ》に干しては、門三郎さまがお越しになる前に、また、のべておくのでございます」 「他の役人衆は泊らぬのか」 「はい。まるで狩りでもなさるように、人さえ捕えると、すぐお帰りでございます」  奈津の顔がまた曇った。  椀《わん》一杯の菜粥《ながゆ》——それが奈津のつくってくれた馳走《ちそう》であった。いつも玄米でなく、粟《あわ》だけという。  翌朝早く、上松に帰る藤吾を、奈津は桟道のところまで送りに出た。  門三郎と行き違い、もてなしもできなかった詫《わ》び代りに話ででも慰めようというのか、朝陽を浴びた道すがら、奈津はよくしゃべった。そして、鏡右衛門についての思いがけぬ風評も耳に入った。  数年前、その部落を逃散した、奈津とは寄辺《よるべ》になる男が一月前、姿を変えて福島まで戻ってきた。人目をしのんで先祖の回向《えこう》をして行ったのだが、福島在の名主も及ばぬ身なりであった。その男は逃散してから、名古屋城城北の田幡《たばた》村に落着き、村人たちと御深井丸へ出働きに通ううち生計が立つようになったとのことであった。御深井丸は名古屋築城の後|元和《げんな》二年|外濠《そとぼり》の北に開発された広大な庭園で、本丸・二の丸・西の丸・三の丸を合わせた城の総郭に等しい面積があった。初代藩主義直はそこに明《みん》人|陳元贇《ちんげんぴん》を招き竈《かまど》を築いて御深井焼と呼ぶ陶器をつくらせたりした。しかし利用したのは義直だけで、御下屋敷ができ、熱田に浜御殿がつくられると、二代以後の藩主からは全く忘れ去られてしまった。そこには大筒蔵御手筒蔵の他に鷹匠《たかじよう》部屋もあったが、荒廃は御深井丸も鷹匠部屋も同じであった。九代|宗睦《むねちか》に至って、ようやく御深井丸開墾ときまり、鷹匠たちがそのまま御庭番となって、人を入れて耕しはじめた。人足は西志賀・田幡・光音寺の三カ村に割り当てられたが、竹藪《たけやぶ》と芝生が境もなく入り組んだ骨の折れる開墾を、地百姓たちはきらって、水呑《みずのみ》小作や逃散百姓などが常傭《じようやとい》で出入りするようになった。こうして開発された御深井新田がどの位の広さがあり、どの奉行の支配に属しているのか藤吾は知らない。だが、鏡右衛門のかつての同役であった鷹匠上りの御庭番たちが、鏡右衛門に劣らぬ派手な茶屋遊びや廓《くるわ》通いをしていることは事実であった。  しかし、藤吾を一番驚かせたのは、その田幡の男が、「おれのつくったお米は、お殿様のお鳩がお召し上りになる。一日に一俵もお召し上りじゃ」と話していたということであった。餌米《えさまい》は、札差|内海《うつみ》屋儀助から買入れているはずである。藤吾は鏡右衛門からそう聞かされていたし、西魚町の料亭内海屋に招かれて「日頃《ひごろ》御愛顧を……」と馳走になりさえした。餌米が二重に入っている訳である。  奈津が門三郎にそのことを話すと、 「鏡右衛門の仕業であろう」  と、きびしい顔になり、その田幡村の男の住所や人相|風体《ふうてい》など紙に控えて行ったという——。  桟道ぎわの崖《がけ》には、藤吾の名も知らぬ小さな水色の花がうすい朝陽にふるえていた。肩に露がかかる。 「わたくしも御城下に出とうござります」  奈津が眼を落し、ぽつんと云った。  二十日ほど見ぬ間に、登代《ヽヽ》の仔はみちがえるほど立派な雛に育っていた。行くときには、頭をぐるぐる廻すだけの小さな鶯餅《うぐいすもち》のようなものであったのが、嘴も尖《とが》って硬くなり、球状の頭には母鳩ゆずりの葡萄色《ぶどういろ》の眼が輝いていた。だが藤吾に意外であったのは、その羽色である。腹部のあたり僅かに淡黄色を残しているが、全身にわたって純白なのである。眼を近づけ、親指の腹で触ってみたのだが、とげのような刺毛ではなく、羽毛そのものが白かった。  そうした藤吾に、鏡右衛門は笑いながら、 「登代《ヽヽ》の奴《やつ》、澄ました顔をして、いつの間にか銀作《ヽヽ》と通じていたのじゃな」 「…………」 「おぬしの妻も登代であったな」  答えも、うなずきもせぬ藤吾に、 「その登代どののことは知らぬが、女とはえてして、そうしたものじゃ」  乱杭歯《らんぐいば》を見せながら無遠慮に笑う鏡右衛門を、藤吾はきびしい眼でにらみ返した。窘《たしな》めようとすれば、益々《ますます》からかってくる相手である。藤吾は腹立ちを抑えて視線をそらせた。奈津から聞いた話が脳裏によみがえってきた。  藤吾は顔をあげると、からかう眼付の鏡右衛門を正面から見据《みす》えて、 「お鳩飼いの噂《うわさ》は木曾谷まで伝わっていた」  鏡右衛門は、当然のことを、といった表情で、 「饑饉《ききん》つづきの時世にこのお鳩じゃ。人の目に立つはあたりまえ。人は話にも渇《かつ》えている。おかしい話であれば、木曾谷へも伊奈谷へもたやすく流れて行こう」 「たしかに、おかしい噂であった」  と、藤吾は一|呼吸《いき》ついてから、 「御深井新田から、お鳩の餌米が出ているとのこと」  鏡右衛門は顔色を変えたが、すぐに旧《もと》の口調に返り、 「餌米は内海屋からじゃ。おぬしも承知しているように」  肉のたるんだ首を廻してしばらく考えこんでから、急に藤吾を見返り、 「おぬし、いったい誰から聞いた」  はげしい眼の色を見せる。 「誰から聞いたのじゃ」  と、鏡右衛門はさらに一度叫んでから、藤吾の表情を嘗《な》めるように見た。苛立《いらだ》ちを待ち受けられていると知って、 「朝岡門三郎であろう。騒ぎ立ての好きな男、あの男の他にない」  藤吾はゆっくり間を置いてから、 「門三郎ではない。門三郎は木曾に居なかった」 「嘘《うそ》を申すな」 「御城下に来ていたという。おれとは行き違った」  鏡右衛門は応《こた》える代りに、肩を突き当てるようにして鳩小屋の戸を開いた。鳩を庭に放そうとしたのだが、若鳩が数羽小走りに出て行っただけで、残りの群は戸口にはだかる鏡右衛門の姿に恐れてか出ようともしない。鏡右衛門はその後ろに廻ると、いきなり蹴《け》りはじめた。  鳩の群は大混乱を起した。  百数十羽の鳩がせまい小屋の中に一時に飛び立って、ぶつかり合い、搏《う》ち合い、天井や板壁に突き当る。羽ばたきと叫喚に近い啼声で耳はふさがれ、眼の前はつむじ風が舞い狂う感じであった。とまどった鳩の体が、三度も四度も藤吾にぶつかった。巣箱についていた幾羽かの親鳩もこの混乱にまかれて、寝藁や卵を落して飛び立った。  一間幅の戸口を、そのつむじ風が通り終えるまで、藤吾はただ肘《ひじ》で顔を守るばかりで、声を立てる余裕さえなかった。鏡右衛門はいつの間にか外へすり抜けていた。鳩小屋の中に残されたのは、藤吾と、床の上の夥《おびただ》しい羽毛、それに巣皿からこぼれ落ちた数羽の雛鳩だけであった。その中に登代《ヽヽ》の産んだ白鳩も居た。白羅《ヽヽ》——それが殿によってつけられた名だという。きびしく、いい名である。だが、そうしたきびしい名が出てきたからには、お鳩飼いもそう永くはないような予感がした。名はつけたものの、斉温は白鳩にことさら関心を寄せる風でもなかった。  庭に放した鳩群に戻ってみると、留守中の鏡右衛門の世話ぶりがすぐ分った。背を丸くしてすくみがちの幾羽かもあれば、頭毛や小羽をさか立て口をひらいて呼吸している鳩もある。元気者の惣助《ヽヽ》が全身総毛立てて片脚でたたずんでいる。貧乏ぶるいする鳩があるのは、羽虫がわいているせいである。  鳩の群は、やがて十羽ほどの病鳩を残して空に舞い立った。御殿の上を右に左にゆれながら、次第に高く上って行く。  天守をよぎり、剣塀をかすめ、ゆるい渦《うず》を巻いて飛翔《ひしよう》する鳩の群を、藤吾はうすく唇《くちびる》を開いたまま見上げていた。自分の体がそこに拡散して、気ままに空を領しているような懐《なつか》しい気分であった。やがて始まる一日の暑さをそのまま撥《は》ね返してきそうな濃い空の色も、木曾谷の高くうすい空とちがった安心感を与えてくれる。  見上げているうち首が疲れてきた。  鳩小屋の掃除にかかろうかと眼を落したとき、異様な羽音が頭に迫ってきた。羽ばたきというより、羽が鳴っているという感じである。藤吾には聞き覚えがあった。鷹《たか》に襲われているのだ。  急|勾配《こうばい》で旋回しながら舞い下りてくる鳩の群。藤吾はその後ろの空に眼をこらした。御深井丸の上、熱《ほて》りでも伝わってきそうな夏空に一点、黒い鳥影が見えた。大天守の頂きほどの高さを保って、そのまま近づいてくる。  つぶてのように落ちてくる鳩の群の先頭は、すでに御殿の桟瓦《さんがわら》をかすめた。高さはかなり開いており、鳥影はそのまま、中空を過ぎて行くように見えた。季節から云《い》っても鷹の出る時期ではない。何かの渡鳥でもと、まぶしい空にもう一度眼をこらしたとき、石のように真直《まつす》ぐ落下してくる鳥影が見えた。翼をたたんでいるのか音さえ聞えず、一すじの光線となって、それは襲いかかってきた。藤吾までが思わず飛び退《すさ》って、顔を蔽《おお》った。  爪《つめ》が光った。棟より低い鳩群のただ中で羽毛が飛び散った。  鷹は一尺とは離れていない頭上を飛び過ぎた。飛び過ぎた後にも、まだ鋭く風を切る翼の音が残った。  ぶつかり合う鳩の中を、むしりとられた羽毛が舞っている。白い羽ばかりである。藤吾は騒ぎ立っている鳩の頭を次々としらべて行った。白い羽色——銀作《ヽヽ》は居た。だが、登代《ヽヽ》の姿が見えない。動きのはげしい鳩の群を、なお二度三度見廻してみた。体毛の七分通りが白く、葡萄色のあでやかな眼をしていた登代《ヽヽ》の姿がない。  残っていなかったかと、念のため鳩小屋に戻ってみる。雛《ひな》たちにも騒ぎの恐しさが分ったのか、どの雛も巣皿の中にもぐり、羽毛を逆立てていた。白羅《ヽヽ》もふるえていた。母鳩そっくりの葡萄色の眼をいっぱいに見開いて、雛たちが皆二羽ずつ巣皿におさまっているのに、母を亡《な》くした白羅《ヽヽ》だけが、兄弟鳩もなく、ふるえているのが痛ましかった。  藤吾の後について、鳩たちが小屋に戻って来はじめた。足へ幾羽となく体をすりつけてくる。いつもは人なつっこい惣助《ヽヽ》や小吉《ヽヽ》などが却《かえ》って近よろうともせず、低く啼きつづけている。  親鳩たちは戸を入るとそのまま巣箱へ飛び立って行く。勢い余って、巣箱に翼をぶちあてるものもある。平常なら巣を離れはしないのに、鏡右衛門の腹立ちまぎれの追い立てで一羽残らず外に出ていたのである。登代《ヽヽ》も不運であったが、白羅《ヽヽ》の方がさらに哀れである。拳《こぶし》ほどの白い体をふるわせて、ぐ、ぐーと母鳩を呼んでいる。  果して育つであろうかと見ているうちに、育ててみよう、育て上げねばならぬと心が波立ってきた。珍しい白鳩であるという理由だけではなかった。白羅《ヽヽ》のふるえる眼が訴えてくるのだ。それは藤吾の体の幅いっぱいの庇護《ひご》を乞《こ》う眼でもあった。足でも搦《から》められたように、藤吾はその眼から身を遠ざけることができなかった。遠ざければ白羅《ヽヽ》は確実に死ぬ——。  鏡右衛門は鷹の現れる前から姿を消していた。  鳩小屋での鏡右衛門の乱暴さえなければ——。餌米の話さえしなければ——。門三郎を訪ねようと思い立たなければ——。数珠《じゆず》つなぎに悔いめいたものが起った。だが、それらが泡《あわ》を拭《ぬぐ》いとるように消えると、残ったのは鏡右衛門と、そして門三郎に対する違和感であった。鳩の世界と自分との間に僅《わず》かでも隙《すき》ができると、たちまち眼前に見たような形で応えてくる。そして、鳩の世界への密着に水をさしてくるのが、鏡右衛門と門三郎なのだ。鏡右衛門はその世界を手玉にとって涜《けが》し、門三郎はそれを打ち壊しにかかる——。  藤吾は、白羅《ヽヽ》を育てようという決意の蔭《かげ》に、自分の世界を守って鏡右衛門や門三郎に身構え開き直ろうとする意識のあるのに気づいた。     四  白羅《ヽヽ》は、餌づきが悪い。  わざわざ巣皿の前へ置いてあるのに、半分も食わぬうちに、他の鳩にさらわれてしまう。成鳩にやられるだけではない。白羅《ヽヽ》より遅く生れた雛鳩《ひなばと》までが咥《くわ》えて行ってしまう。同時に生れた鳩たちは、床に下りて成鳩にまじって餌米を拾い、巣箱に居ることは少いのに、白羅《ヽヽ》は下りてきても、じきに戻ってしまう。仔鳩《こばと》や若鳩にいじめられるだけでなく、菊次《ヽヽ》や常蔵《ヽヽ》など能もない老鳩までが退屈しのぎのようにつつきにかかるのだ。白い頸《くび》の廻りを、真赤に染めていることもあった。  掌《てのひら》に乗せても、立とうとせず、すぐ、しゃがみこんでしまう。その脚はいつも汚れて冷たかった。  藤吾は、餌も麻実《あさのみ》や玄米など滋養の高いものを多くし、嘴《くちばし》をむりに割って塩土をのませ、また斉温が手ずから持ってきた長崎到来の氷糖を小さく砕いて与えたりした。しかし、そうした藤吾の気配りも、白羅《ヽヽ》には一向通じず、鼻瘤《びりゆう》や眼環は艶《つや》もうるおいも失い、老鳩のように乾いていた。  藤吾は、夢にまで白羅《ヽヽ》を見るようになった。  ある朝、鏡右衛門がいつになく明るい口調で話しかけてきた。 「門三郎も隅《すみ》におけぬ策士じゃ」  疑わしそうな眼《め》で見返す藤吾に、 「先ごろ、そう、おぬしと行き違いになった時じゃ、御城下へ出てくるに、如何《いか》な土産をさげて来たと思う?」 「土産?」 「そうじゃ、しかも、おぬしあての土産じゃ」  藤吾は硬い声で、 「土産なぞない。おれの留守宅へも寄らなかった程だ」  それは事実であった。  鏡右衛門は藤吾をゆっくり眺《なが》めてから、 「さもあろう。おぬし宛《あて》の土産で、しかも、おぬしに手渡せぬ代物《しろもの》じゃ」 「おれ宛の土産が、おれに手渡せぬと?」  藤吾は用心深く、鏡右衛門の言葉をくり返した。  鏡右衛門は大きくうなずいた。 「さようなことが……」 「あったのじゃ。如何な土産と思う?」 「戯《ざ》れ言《ごと》はもうよい」  顔をそむける藤吾に、鏡右衛門はたたきつけるように云《い》った。 「隼《はやぶさ》じゃ」  体をぶつけられたような感じであった。受ける言葉も返す言葉もなく、藤吾はただ鏡右衛門を見守った。初めて聞くような烈《はげ》しい語調。射すくめてくる眼。 「またしても戯れ言」  と、藤吾は気弱くつぶやいたが、鏡右衛門はそれには応《こた》えず、小さく鋭い眼で藤吾を離さない。 「隼の土産とは……」  藤吾は口の中でくり返した。鏡右衛門の語勢に圧《お》されたものの、まだ、よくその意味が呑《の》みこめない。ただ、ひどく不吉な話に引き入れられそうな胸さわぎがした。 「鳩侍のおぬしに隼の土産じゃ。手渡すこともできまい」 「…………」 「木曾より幾羽か持ち帰って、お城めがけて放したのじゃ。登代《ヽヽ》をさらったのもその一つ」 「何故《なにゆえ》また……」 「お鳩飼いを止《や》めさせようとしてであろう。おぬし如《ごと》きを鳩侍にしておくが惜しいとの、友達心であろうが」  鏡右衛門は低く笑って、 「門三郎はおぬしにそれを口説いていたそうじゃが、おぬしは一向そんな改心のさまもなかった様子。……その挙句、隼を使うとは門三郎も馬鹿《ばか》ではないわ」  藤吾は眩暈《めまい》がしそうなのをこらえ、 「云いがかりであろう。門三郎は何もそのようなことを……」 「鷹や隼は夏には現れぬものじゃ」 「だが、それを門三郎が……」 「見かけた者がある。編籠《あみかご》を母衣《ほろ》のように背負って田幡村を徘徊《はいかい》していた由《よし》」 「え、田幡村を?」  門三郎が餌米の疑惑をつきとめるため、田幡村の男を訪ねるという話を、木曾で奈津から聞かされていた。  やはり事実なのであろうか。事もあろうに門三郎が隼を放って、そしてあの白羅《ヽヽ》の母を殺したのだ——驚きが少しずつ怒りに変り、顔が熱《ほて》ってきた。  鏡右衛門は藤吾のそうした変化を見透かしたように、声を一段と落し、 「目付に訴人しようという者もあったが、おれが押えておいた。金子《きんす》の力でな」 「…………」 「殿のお耳にでも入れば、おそらく門三郎の命はあるまい。……うるさい男じゃが、おぬしの友人。見殺しにはできぬによってな」  底太い声で鏡右衛門はつづける。 「餌米の噂《うわさ》でもそうじゃ。出過ぎた妄《みだ》りな振舞のないよう、よく云いきかせておくのじゃな」  藤吾は眼を閉じたまま、うなずいた。  白羅《ヽヽ》の餌づきは、悪いままである。元気なくすくみがちで眼の光もにぶい。巣箱にひきこもって、頭毛や小羽をさか立てたり、口をひらいたりしている。若鳩の中には、その巣箱まで占拠しようとして、白羅《ヽヽ》に襲いかかるのもあった。そのときだけは、嘴をけんめいに立てて逆らい、ようやく、追い立てを免《まぬか》れている。  餌を運び、水も運び、若鳩の悪戯《いたずら》を見ると小屋まで入って追ってやったりしているうちに、藤吾は廻りの鳩たちの醸《かも》す空気が変ってきているのに気づいた。惣助《ヽヽ》や小吉《ヽヽ》など人なつこい連中は相変らず肩や背にまといついてはくるが、以前は衝突するように飛びついてきたものが、どこか臆《おく》しがちで、肩のわずか手前で二、三度羽ばたき、ふっと浮き上るようにしてとまるのである。他の鳩たちもそうである。藤吾の歩いて行く先を、包むように寄ってきていたのが、いつの間にか、道を開けるようになった。もっと敏感なのは、巣箱|棚《だな》の気難しい老鳩たちで、藤吾の近よるのを見ると、撲《ぶ》たれまいとでも云うように顔をそむけ出した。  白羅《ヽヽ》を庇《かば》おうとしたからと云って、他の鳩たちの世話に手を抜いた覚えはない。だが意識しないうちに、やはり、それだけ鳩たちへの愛情が薄められていたのだろうか。それとも、白羅《ヽヽ》を構いつけることが、鳩たちを刺戟《しげき》するのであろうか。  藤吾は、鳩たちとの世界をこわしてまで白羅《ヽヽ》を庇おうという気はなかったが、しかし、もし藤吾が眼を離せば、葡萄色《ぶどういろ》の澄んだ眼をした生命が確実に死へ導かれて行くと思うと、手をかけずには居られなくなる。眼の前に、生きてふるえている生命を、むざむざ死に渡してはならない——藤吾は白羅《ヽヽ》を見るたびにそう思い、鳩小屋から離れているときでも、白羅《ヽヽ》の眼や、艶を失って行く白い羽を思い浮べていた。  考えた末、藤吾は白羅《ヽヽ》を家へ持ち帰って育てることにした。鏡右衛門に話すと、 「放っておいても育つものは育つのに」  とだけ云って、別に反対もしなかった。折角の白鳩ではあったが、斉温がとくに心を魅《ひ》かれる容子《ようす》もなかったので、白羅《ヽヽ》については少々張合い抜けしている鏡右衛門であった。  鳩侍の給知のおかげで、藤吾は棟割長屋住いをまぬかれ、三間ではあるが一軒の家を借りて住んでいた。家主が餌米納入の内海屋の寄辺《よるべ》にあたるところから、家賃も申し訳程度に済む。それでいて、藤吾と妻の登代、生れたばかりの女児の三人暮しに給知の全部が費えていた。不作続きで諸色騰貴《しよしきとうき》のためとは云うものの、もし鳩侍でなかったら——と、悚然《しようぜん》とすることもあった。とかく派手好みの登代の金遣《かねづか》いが不安でもあった。そのことを藤吾が口にすると、きまって、いさかいになった。気象《きしよう》がまるで現れていない瓜《うり》ざねがたの顔のかげには、思いがけぬ勝気さが隠されていた。藤吾は結婚後間もなく、そのことに気づいた。  たまたま、殿から鳩の命名を許され、気の強そうな雌鳩に登代と名づけたのであった。悪意はなかった。むしろ、登代への茶目気な愛情のせいとも云えた。名づけた夜、藤吾がそれを楽しい話題のように持ち出すと、 「どうせわたくしは、お鳩ごときものでございましょうよ」  と、登代は気色《けしき》ばんだ。町家の娘上りというこだわりのせいでもあった。  白羅《ヽヽ》を連れ帰ることにきめたとき、藤吾はその仔細《しさい》を登代に話したが、白羅《ヽヽ》が登代《ヽヽ》の仔であることまで話してしまった。登代は登代《ヽヽ》を知らず、また、親鳩の名など云わでものことなのに口に出した。口に出すことが、藤吾には自然であったのだ。連れてくるのは、一羽の親無し鳩ではなく、登代《ヽヽ》という母を失った白羅《ヽヽ》という鳩なのだ。登代は鼻白んだが、世話は藤吾が見るということなので、文句を云う術《すべ》もないようであった。  竹の編籠に入れ、朝は軒端《のきば》に置き、夕に薪炭《しんたん》小屋に移す。非番の日はせまい庭に一日放して運動させる。他の鳩への思惑がないだけに、餌《えさ》も十分時間をかけて与えることができる。そうしてやってみると、餌づきが悪いのではなく、遅いのだと分った。やはり、臆していたのであろう。  二十日ほどのうちに、体型も目立って大きくなってきた。大きくなったばかりでなく、腹は尾部に向ってしまり加減になり、胸は広く張って体型もととのってきた。眼には光がさし、羽にも脂《あぶら》を浮べたような艶《つや》がみえてくる。  藤吾は毎日の帰宅がたのしみになったし、朝も薪炭小屋の中で咽喉《のど》をふるわせて呼んでいるのを聞くと、蹴上《けあ》げられたように起き出て、光の中へ導いてやるのだった。  ひとつ気がかりなのは、飛ぼうとしないことである。編籠の中に閉じこめられているせいと考え、藤吾は登代と一悶着《ひともんちやく》の末、思い切って白羅《ヽヽ》を三畳の間に放すことにした。時々書見に使うほかは、納戸《なんど》に当ててある部屋である。  その部屋から羽ばたきが聞える度に、藤吾の心は明るくなる。だが表情には出さない。こわばっている登代の顔が、それをきっかけに烈しく絡《から》んでくるのだ。それでなくても、赤ん坊が寝つかないの、長持に掻《か》き痕《あと》ができたのと、毎日のように苦情を云われた。  そうした苦情がやがて潮の退《ひ》くように聞えなくなった。不平を云い疲れたのか、と、藤吾は内心おかしかったが、ある日、いつもより半|刻《とき》ほど早く帰宅し、庭から納戸に入ってみると、白羅《ヽヽ》はその部屋の壁よりで編籠に納められていた。  白羅《ヽヽ》を飼うことは、登代の心を掘り起すことであった。毎日毎刻、藤吾と登代の間に白羅《ヽヽ》が居た。藤吾は、白羅《ヽヽ》という掘り道具で妻の醜さを日々掘り起しているような気がした。  妻に代って、家では白羅《ヽヽ》が藤吾の帰りを待つ生命《いのち》であった。沓脱石《くつぬぎいし》に足をとめると、その音で藤吾と聞き分けて、奥の納戸で羽音を立てる。板戸を趾《あし》で掻き、嘴でつつき、羽ばたき出ようとして体をぶつける。玄関から納戸までの僅《わず》かな距離を待ち切れないと云った、せわしい啼《な》き声を立てる。藤吾も、足をすすぐと、そのまま、まず納戸に走りこむ。  朝餉《あさげ》のときなどには、次の間に居る藤吾を、板戸をつついて呼ぶ。可愛《かわい》さについ腰を浮かせる。登代の尖《とが》った声——。  白羅《ヽヽ》はそれでも飛ぶことを覚えなかった。掌にのせて持ち上げると、翼をひろげたり、閉じたりして体の釣合《つりあい》をとろうとする。それが精一杯の動作なのだ。自分から掌を離れようとはしない。趾をもぎとるようにして払い落すと、体をふるわせ、翼を開いたまま、ばたばた落ちて行く。飛ぶ意志が少しもないのだ。大羽十枚、中羽十二枚と羽に異状はない。藤吾はその羽を手で泳がせて見たり、思いきり放り上げたり、落ちるところを竿《さお》で払ったり、さまざまに工夫をこらしてみた。いつか羽の色のことは忘れていた。全身白色という珍しい鳩であることなど意識から外れ落ちていた。一人前の鳩、自力で生きて行ける鳩に仕立てたいという一念ばかりであった。羽色の薄いものほど弱いと聞けば全身純白ということを却《かえ》って呪《のろ》いたいほどであった。藤吾が囚《とら》われているのは白羅《ヽヽ》ではなく、白羅《ヽヽ》の中にある一つの生命であった。完全さを求めようとする小さな——生命それだけが藤吾の眼を蔽《おお》っていた。  夏も過ぎ、白羅《ヽヽ》のぶざまな羽ばたきを笑うように、空は日ましに高まって行った。雲の動きも速い。前年、藤吾の父源之丞を奪ったのと同じ出水の季節が迫ってきた。その季節となって浮かれ出す者がいた。堤切り崩しを請負う小田井人足組である。名塚橋では白昼、女が川に突き落され、稲生出《いのうで》町では商家が二軒大戸をたたき割られた。御城下堤を護《まも》るとうそぶく人足たちに、奉行所も目付も手をつけようとはしなかった。  そうした九月末のある日、朝岡門三郎が木曾から御役替えとなって戻ってきた。  新しい勤めは、希望を叶《かな》えられ、国奉行川澄理兵衛配下の吟味役同心であった。  久しぶりに見る門三郎は陽灼《ひや》けして一廻《ひとまわ》り小さくなった感じである。肩も一段と薄い。木彫のように固い顔に眼だけが大きい。頬《ほお》は削《そ》げ、顴骨《かんこつ》が気になるほど目立つ。変っていないのは陶器の肌《はだ》のように冴《さ》えた額ばかりである。  口数も思いなしか少くなり、少し話しこむと、咳《せき》を続けてした。労咳《ろうがい》を患《わずら》っているようであった。  藤吾は、木曾谷万年滝近くの湿った仮小屋を思い起した。罪人を出すまいとして、他の山番の分まで引き受け、仮小屋に泊りながら、谷から谷を巡り歩く姿、それは門三郎自身をついばむ魔鳥の姿ではなかったか。  奈津も門三郎について城下に出て来た。別に門三郎が誘ったようでもなかった。ただ鳩が藤吾の後を慕うように、門三郎の後について来たものらしかった。廃屋の多い、人声さえ聞えぬあの木曾谷の部落から奈津が出てきたことを、藤吾はよろこびたかった。寄辺《よるべ》もない奈津を木曾谷に残しておくことは、鳩を終日、暗い籠に閉じこめておくのと同じほど陰惨に思えた。  城下に来てからも門三郎は相変らず足まめに村を廻っている様子であった。役宅を与えられないので、以前藤吾も住んでいた城南七曲町の棟割長屋に住み、朝は卯《う》ノ刻(午前六時ごろ)にはそこを出て城下を抜け、庄内川を越え、小田井・枇杷島《びわしま》・西春・六ツ師・古知野・羽黒の尾西六カ村を廻っていた。庄内川分水溝工事の請願をまた始めているようで、非番の日には石川|魯庵《ろあん》、鈴木|離屋《はなれや》、小塩三居巣など藩主の侍読をかねている藩校|明倫《めいりん》堂教授を訪ねたりしている由であった。  藤吾はそのことを、薬草をもらいに来た奈津の口から聞いた。藤吾が木曾谷へ鳩の薬餌《やくじ》をとりに行ったことを思い出して訪ねてきたのである。薬も買えぬほどの困窮ぶりにも驚かされたが、門三郎の病状がかなり悪く、町医が匙《さじ》を投げているようにも見えた。  鳩小屋と、家に帰っては白羅《ヽヽ》の世話に時を奪われて、藤吾は木曾から帰った門三郎をその家まで訪ねることはなかった。奈津の話を機に、門三郎を訪ねる気になったのは、十月も半ば過ぎ、珍しく霧の深い夜であった。  門三郎は、御先手小吏など下士たちの侍長屋の多い七曲町に住んでいる。そこを見下ろす坂の上まで来たとき、藤吾は左手、白山社の杜《もり》の中に暗い人影のようなものが跳ねているのを見た。奥の方に拝殿の献燈《けんとう》がぼんやり暈《かさ》をつくっているだけの、人気《ひとけ》もない境内の石段をたしかに小さな影が上ったり下りたりしている。それも歌にでも合わせるような、弾みをつけた動きである。藤吾は呼吸をとめた。  冷たい霧が水のように流れている。夜もかなり更《ふ》け、物盗《ものと》りなどもしきりと出没するようになった何となく物騒なときに、——と、さらに眼をこらす。  すると、ふいにその影が見えなくなった。藤吾は狐狸《こり》にひき入れられるような気持を抱きながら、足音をしのばせて石段の下に寄った。  消えたと思った影は、石段の最上段にうずくまっていた。顔をかかえこむように背をまるめ、藤吾をうかがっている風もない。藤吾は急に足を速めて、石段に駈《か》けよった。  顔を起した影が叫ぶのと、藤吾が声を立てるのとほとんど同時であった。藤吾は、狐狸を見た以上に、驚いた。奈津であった。  奈津は叫ぶと同時に、茂みに飛びこむ野兎《のうさぎ》を思わせる勢いで身を翻《ひるがえ》した。木曾谷であったら、二度と姿を見られぬかも知れぬようなすばやさであった。だが、藤吾が追おうとする先に、うなだれて立ち止った。  何をしていたのか、との藤吾の問いにも、奈津はしばらく面《おもて》を伏せたままであった。それから、ふっと顔を上げた。泣いたのかと思われるほど、眼が濡《ぬ》れて光っていた。 「おはずかしいところをお目にかけてしまって……」  藤吾には少しも仔細《しさい》が分らなかった。訊《き》き返そうとすると、奈津の方から、 「お願いでございます。門三郎さまには内緒にしておいて下さいませ」 「何を……」 「子をおろそうとしていたのでございます」 「では門三郎の子というのか」 「はい」と、奈津は小さく、ひるまず答えて、 「孕《みごも》ったことは門三郎さまもまだ御存知ありませぬ」 「子供好きの門三郎のことじゃ、どれほど喜ぶことか……それを、なぜ」  藤吾はきびしい眼つきで云った。 「くらしが立ちませぬ。門三郎さまのお体を益々《ますます》損ねるばかりでございます。これ以上、負担をおかけしたのでは、門三郎さまの御寿命が……」  と、奈津はせきこんで言った。  藤吾は霧の中をすかすように見て、 「……もし門三郎が去るようなことがあるなら、忘れ形見でもあった方がそなたには……」 「亡《な》くなられはいたしません。亡くなられた後のことなど……」と咽喉《のど》をつまらせ、 「生きることを考えとうございます。二人で生きることを。そのためには子なぞ産んではなりませぬ。門三郎さまのお体を治さぬうちは」  思いつめている様が、声にも眼にもあらわれていた。 「さあ参ろう。この霧では、そなたの体にも障ろう」  先に立って石段を下りながら、 「門三郎が知ったら口惜《くや》しがるであろうになあ。みなし児《ご》に育って、あれほど親子の情を欲しがっていた者はいない。どんな子なのか……」  藤吾は後について下りてくる奈津の足音に気を配った。素足の、子供のように小さな足音。だが、気のせいか、その中に新しく宿った魂の柔かな重みがまじっているようにも聞えた。稚《おさな》い母と宿ったばかりの子の二つの生命の重なり合った足音は、霧に乗って藤吾の耳をくすぐるように流れた。  一間だけの板の間に畳を二畳敷いて、門三郎は寝ていた。家の中で、その畳の色だけが新しいのが、却って痛々しかった。藤吾は木曾万年滝の仮小屋での門三郎のすっぽ抜けた布団《ふとん》を思い出した。彼処《あそこ》ではあらゆるものがくすんでいた。それだけに安らぎもあったが、その部屋の畳だけの新しさは、何か死の訪《おとな》いを待ち受けんとでもするような惨酷《ざんこく》な趣きをつくり出していた。  熱があるのか、門三郎は頬から瞼《まぶた》にかけて桜色に染めて仰臥《ぎようが》していたが、藤吾の姿が目に入ると、その顔が光を当てたように輝いた。声より先に、床の上に身を起した。藤吾が寝るようにすすめると、 「大丈夫だ。ただ、奈津がうるさく云うものだから」 「夕餉《ゆうげ》が終り次第、寝《やす》んでいただいて居《お》りますの」 「今日でも小田井村から平田橋あたりまで廻って来た……昔ほどは歩けないが」  声は病人と思えぬほど明るい。 「おぬし、分水|溝《こう》のことをまた始めたとか」 「今度こそうまく行く。国奉行の川澄さまも漸《ようや》く御同意下さったし、それに石川魯庵先生が殿に御進言下さるのだ」  藤吾は殿にそのことを願うのを永い間ためらっていた。そのうちに鳩侍の世界が藤吾の身内いっぱいにひろがって、いつか心の疚《やま》しさも感ずることもなく、忘れるままに任せてきた。門三郎が以前ほど藤吾を咎《とが》めなくなったせいもあるが、考えてみれば、藤吾にもはやその気のないのを見越して、門三郎は別の手段を進めてきていたのである。 「おれは分水溝を見たかった。小田井人足どもにみすみす堤を切らせて溺《おぼ》れ死《じに》を出すなどという莫迦《ばか》げたことが二度と起ってほしくなかった……」と、なお語り続ける門三郎に、 「悲願が成就《じようじゆ》して何よりだ」  藤吾は冷たい声で言った。こうした話のために来たのではないと、門三郎を責めたい気持である。門三郎と話し合うと、言葉をそらせることができぬ自分自身が腹立たしい。  門三郎は、そうした藤吾の心も知らず、やや下った右肩を引き起すようにして、 「まだまだ成就してはいない」 「だが、国奉行や殿までが、そのお気持になられたのなら……」 「先は見えている。ただ工事を妨げようとする動きがある」 「何ものだ」  藤吾は、門三郎を励ますような口調で訊いた。 「小田井人足組」  門三郎は腕組みしたまま、紅《あか》い瞼を閉じ合わせて云《い》った。出水に当って小田井側の堤を切るというだけの仕事で屈強な男たちが一年間徒食できる——そうした小田井人足組も、分水溝ができれば無用となる。彼等が妨害しようとするのは当然だった。だが、人足どもに何が出来ようか、と問い返すと、門三郎は白く乾いた唇《くちびる》に初めて笑いを浮べ、 「人足の中にも知恵者は居る。百姓たちを駆り立てている」 「何として」 「陰陽師《おんようじ》を使っているのだ。分水溝の水門がちょうど小田井星ノ宮の鬼門にあたる。それを掘れば、きっと村に災異が起るとうらなわせたのだ。百姓たちはそれにたぶらかされて、今になって願いを取り下げようと云い出した。百姓たちにしてみれば何年に一度かの出水より、陰陽師の云う災異の方がこわいのだ」 「それでおぬしは」 「百姓たちを説いたが駄目《だめ》だ。信じこんでしまったら動かないのだ。だが、一つ道はある。陰陽師が人柱さえ立てればよいと云って居ることだ」 「人柱? たしかにそう云ったのか」 「云った。いや、云わせたのだ。陰陽師とて小粒には弱い」 「それでは、おぬしが金を遣って……」  門三郎は頬骨の目立つ顔で大きくうなずいた。悪戯《いたずら》っぽい眼が、いかにも楽しそうである。だが藤吾には門三郎が容易ならぬことを云っているようで心が騒ぎ立った。 「人柱のあてがあるのか」 「ある」  門三郎ははっきり云い切ってから、 「木一本首一つは木曾だけに限らぬ。御城下にでも命を召さるべき者は居る」  いかにも自信ありげな物言いが、益々藤吾を不安にした。門三郎自身、人柱になろうとしているのではないか——藤吾は背筋に霧が流れ入るような思いで、いそいで言葉を継いだ。 「なにも人柱の話など陰陽師に吹聴《ふいちよう》させずとも……」 「たしかに愚かな話かも知れぬ。しかし百姓たちの脅《おび》えを払うには、そうした術《て》だけが何より効くのだ」  断定的な語調だけは昔と変らなかったが、云い終ると同時に、また咳きこんだ。顔を真赤にして咳き入る。首に幾筋もの血管が浮き立った。奈津があわてて後ろへ廻り、背をさすりにかかる。  藤吾の眼は、門三郎を見て居られず、奈津の方に移った。城下に来てから、底黒い肌の色も少しは薄れてきたようである。まだ肉づいていないような首もとが眼に痛かった。その奈津がやがて世を去ろうとする門三郎の子を孕り、おろそうとしていたのかと思うと、一層、哀れみが増した。暗い木曾の山峡《やまかい》から出て来て幾月となるのか——。  咳の発作が静まると、門三郎は軽い声で、 「おぬしの鳩の方はその後どうだ」 「増える一方で、いま百……七十二羽か」 「名前の方も大変であろうな」 「殿もさすがに名付ける気を失われたようだ。今はわれわれでつけているが、鏡右衛門など、雌雄の区別なしに、生れる片っぱしから子吉《ヽヽ》、丑吉《ヽヽ》、寅吉《ヽヽ》、卯吉《ヽヽ》とつけている始末だ」  門三郎も奈津も声を合わせて笑った。 「おぬし、家で仔鳩《こばと》を育てていると?」 「全身白い珍しい鳩だ。だが、母鳩を亡くして……」  藤吾は、そこまで云って、あの隼《はやぶさ》の事件以来のしこりを思い起した。そのしこりがあって、訪ねる気にもならなかったのに、門三郎の顔を見た瞬間から、そのことを忘れてしまっていた。一つには、門三郎から次々と心を騒がす話を聞かされたためでもある。  門三郎と奈津は寄り添った姿勢のまま、藤吾を見守っていた。二人ともよく似た大きい無心な瞳《ひとみ》を並べて。藤吾はその瞳を乱してでも、問い訊《ただ》さねばならぬと思った。登代《ヽヽ》を奪い、白羅《ヽヽ》の生をかげらせた隼について——。  だが藤吾の話を聞いても、門三郎の瞳に乱れはなかった。疲れのためか、少し熱っぽくなっているだけである。  門三郎は、覚えのないこと、鏡右衛門の云いがかりであろうと答えた。その口調に嘘《うそ》は感じられなかった。田幡村へ門三郎が訪ねて行ったのは事実であったが、御深井新田出入りの田幡の村人から御庭番へ、さらに鏡右衛門へと、そのことが伝わったのであろう。それから後は、餌米《えさまい》のことを騒がれまいとして、鏡右衛門の仕組んだ芝居のようであった。鏡右衛門自身が使わずとも、かつて鷹匠《たかじよう》であった御庭番たちの手で猛禽《もうきん》が放たれることも考えられた。あのとき鏡右衛門の話をそのまま信じこんでしまったのは、藤吾の頭が白羅《ヽヽ》のみじめさで塞《ふさ》がれていたためでもあろう。  鏡右衛門は餌米を御深井新田から運び入れ、内海屋からの分は買ったことにして、そのまま横に流しているとのことであった。 「それをおぬしはなぜ黙っていたのだ」  その気象から云っても、門三郎が事を荒立てなかったことは合点《がてん》が行かなかった。 「お鳩飼いをやめるようにと、以前あれほどやかましく云っていたおぬしではないか」  咎めにかかる藤吾に門三郎は、 「いかにも、……ただ、おれはいそがしかったのだ。この体だ。少しも早く分水溝をと思うようになってな」  門三郎はおだやかな口調で続けた。 「それに鳩飼いも、もう永くはないようだ。殿もそろそろお飽きのようだし、このように米饑饉《こめききん》では下民の眼もとかくうるさい。魯庵先生は玩物喪志《がんぶつそうし》と嘆いておいでであった」 「玩物喪志」と藤吾はくり返してから、 「お鳩を物と云われるのか。あれほど生々と生命のよろこびを教えてくれるのに……お鳩ほど素直に人の心に応《こた》えてくれるものがあろうか」 「…………」 「いつわりはなく、小さな体で愛に応えることだけを知っている。人の世より、よほど美しい」  藤吾は話すうち、ひとりでに語勢が激してきた。 「あれほど確かに、真心に応えてくれるものがあろうか」  奈津は眼を瞠《つむ》っていた。藤吾は勢いを失い、門三郎に呼びかけた。 「おぬしは子供が好きであったなあ。おれは鳩の仔が好きだ。おぬしは人の子、おれは鳩の仔、それのどこが悪かろう」重く沈もうとする心から、口だけが浮き上って空廻りして行く感じである。門三郎は大きく一|呼吸《いき》つくと、 「悪くはない。だが藤吾、おぬしは人の子を可愛《かわい》く思うことはないのか。おぬしの子供は可愛くないのか」 「よくは分らぬ。まだ赤子だ」 「おれはな、人の子が不幸せになるのを見て居られない。自分の淋《さび》しかった境涯《きようがい》を思うと、親子ともども幸せな生活を送らせてやりたくてたまらぬ。親のない子が、どれほどみじめなことか」  門三郎の頬《ほお》がまた染まってきた。 「そうした子は木曾では飢え死んだ。出水でみなし児になった小田井の子らは、いつでも腹を空《す》かせている。毎日のように泣きじゃくって、眼の縁も黒い。たとえ泣かぬにしても、どれほど淋しい思いをしているか眼に現れている」  門三郎は手を口にあてて咳《せき》を押え、 「そうした子が増えないように——それだけがおれの望みだった。簡単なことだ、たったそれだけの思いが一生おれを締めつけてきた」 「…………」 「子供が好きなのかどうかは本当のところよく分らぬ。おれに子供でもできれば別だったが」  藤吾は奈津の瞳が眼の先に光っているのを感じて、顔を上げられなかった。 「尾西の六カ村を歩き廻り、木曾の谷から谷を他人の見廻番まで引受けて歩いたのも、そのためだった。不幸な事件が起きはしまいかと思うと、じっとして居られなくなるのだ。少しでもそうした事件を防ごうと、疲れに筋肉《にく》がとけ骨がかたかた触れ合うくらいになるまで動き廻る。そのときだけ、おれは生きているような気がした。因果な執念かも知れぬ、その執念で動き廻って、搾《しぼ》り滓《かす》のようになってしまった」  門三郎は凹《へこ》んだ両頬に笑いを浮べ、 「だが、滓になるまで、おれの人生を費《つか》ったのかと思うと、心が晴れ上るような気もする」  藤吾はもはや口をはさもうともせず、門三郎をみつめた。鳩の世界も、白羅《ヽヽ》の成長も、そのいずれの手応えも、ふいに白々しく感じられてきた。  門三郎は、骨に皮をはりつけたような両掌《りようて》のうちに奈津の小さな手をはさんで、 「木曾はたのしかった。尾根で咳払いすると、それが谷から谷へこだまして行く。それで犠牲者が減るかと思うと、他人《ひと》の分まで歩かずに居られなかった」  奈津の眼には涙がにじんでいた。     五  天保六年十月末日。  小春|日和《びより》だが西風の強い日であった。いつものように飛び立たせた鳩の群も、小半刻《こはんとき》で戻り、藤吾の足もと近くの玉砂利を蔽《おお》って遊んでいる。  黒御門越しに見える南の空には、二条《ふたすじ》の砂煙が渦《うず》を巻いている。追廻《おいまわ》し馬場と騎射馬場とで馬廻組の騎馬訓練が行われているのだ。風の工合か、土色の幕が拡《ひろ》がって、御殿の御路地口あたりにまで、砂塵《さじん》が舞い落ちることもあった。四月初めの高須輪中《たかすわじゆう》への出陣を思わせるような日であった。  藤吾は鏡右衛門の手を借り、青竹を使って鳩《はと》小屋の修繕をしていた。足もとには白羅《ヽヽ》がまといついている。旬日前、門三郎を訪ね、「玩物喪志《がんぶつそうし》」の話を聞いて思い当るところがあり、白羅《ヽヽ》を連れ戻したが、一向に飛ぶ気配がない。藤吾は空いた手で白羅《ヽヽ》を鳩の群へ突き返そうとした。そのとき、広縁に藩主斉温の姿が見えた。紅潮した頬《ほお》をふるわせ、「放て、鳩を放つのじゃ、一羽も残してはならぬ」  鏡右衛門が胴長の体を折って、縁近くに駈《か》け寄った。思いがけぬ言葉に、意味が分らず、また分らぬ振りをして再慮を頂こう、との咄嗟《とつさ》の知恵によるものだった。だが、それが却《かえ》って、斉温の癇《かん》をつのらせた。 「放てと申すのじゃ。放て、即刻、放て」  鏡右衛門の禿《は》げ上った額を蹴倒《けたお》さんばかりである。  斉温はそのまま身を返した。近習《きんじゆ》が続く。その後ろに、気付かなかったが侍読石川魯庵が立っていた。 「お鳩飼いは今日限りお罷《や》めになる。まず、すべての鳩を放つように」  蒼白《そうはく》にしまった顔ではあるが、口調は静かであった。斉温がまだ江戸で部屋|住《ずみ》の頃《ころ》から輔導《ほどう》に当ってきた者としての自信が満ちている。藤吾は門三郎に聞いて予想しないことではなかったが、これほど呆気《あつけ》なく来ようとは思ってもみなかった。  喚《わめ》き声《ごえ》にふり返ると、鏡右衛門が長さ一間余の青竹をふるい、鳩の群めがけて打ちかかるところであった。藤吾はその凄《すさま》じい勢いに近寄ろうとした足がすくんだ。追い立てるのでも、払うのでもない。真向から構えて、打ち下ろしているのだ。藤吾はそれでも、鏡右衛門が鳩にいつもと違った追い立てを知らせようとしての振舞と思った。  しかし、首筋をえぐるような悲鳴をあげ、硬い音を立ててのたうち始めたのを見て、顔色が変った。狼狽《ろうばい》か、腹立ちか、鏡右衛門は仇敵《きゆうてき》のように鳩を打ち殺そうとしているのだ。青竹の唸《うな》り、小さな頭蓋《ずがい》を割る硬い音、胴を潰《つぶ》す鈍い音——。鳩の群は一散に飛び立った。真直《まつす》ぐ剣塀を越え、大天守の横をかすめ、そこに開いた空ではじめて散って弧を描いた。  鏡右衛門はなお青竹を打ち下ろしていた。飛びおくれ、怯《ひる》んでいる鳩たちをめがけて。打たれて、潰れたもの、転げているもの、血を噴くもの。菊次《ヽヽ》、|さち《ヽヽ》、猪助《ヽヽ》……。  青竹の立ち向う先を見て、藤吾は呼吸がとまりそうになった。白羅《ヽヽ》が二尺三尺と羽ばたいては糸にでもたぐり寄せられるように落ちる。まっ白な翼が、立ち直る間もない。その翼をひきずり、白羅《ヽヽ》はまた、けんめいに飛び立とうとする。葡萄色《ぶどういろ》の眼《め》——。  鏡右衛門はその白羅《ヽヽ》めがけて、青竹を打ち下ろした。藤吾が声をかける間もなかった。硬い、はじくような音がした。外れて砂利を打ったのだ。鏡右衛門がまた振りかぶった。  藤吾はその下に躍り込んだ。その瞬間、金朱の矢が散り眼の前が暗転した。鏡右衛門のふり下ろした青竹を左の額に受けたのだ。瞼《まぶた》に当てた手が血に濡《ぬ》れる。御殿の庭が朱を流したような色に染まって行く。  路地口の方から、そのとき、藤吾を呼ぶ叫びが聞えた。幻聴ではなく、お庭番が走り寄ってきた。その場の異様な光景に思わず立ちすくみながらも、藤吾に門三郎の入水《じゆすい》を告げた。庄内橋|上手《かみて》の淵《ふち》に、人柱となって身を沈めたという。  藤吾は駈け出した。駈けるというより、前のめりに転げて行くような感じであった。石垣《いしがき》も塀も、すれちがう家士たちの姿も、何一つ眼に入らぬままに、幅下御門を抜け、堀端《ほりばた》を駈けた。いつか門三郎と通った道である。  江川《えがわ》筋を名塚ノ辻《つじ》まで出たとき、行手が急に明るくなった。とり入れを終った稲田がうすい人家の列を越して展《ひら》けてくる。その外れに庄内川の川原が見えた。橋よりやや上手に繭玉《まゆだま》ほどの人影が群れている。川原だけではなく、堤にも、橋にも、中洲《なかす》にも人影は動き、小田井側に偏《かたよ》って次第に地の色を消して行く。分水|溝《こう》の水門ができるあたり、そこへ入水したのであろう。城下から橋を伝って行く姿もあったが、それよりも、小田井側からは堤越しに溢《あふ》れ出すように、次々に黒い影が現れては川原へこぼれて行く。転げ落ち、ひき込まれて行くような、あわただしい動きである。橋の下手《しもて》に小田井人足組らしい法被《はつぴ》姿の男の一群が見えるが、村人たちの切迫した動きに気圧《けお》されたように佇《たたず》んだままである。瞼から血の流れこむ眼の中で、やがて川原全体が人の群に変って、門三郎の入水したあたりをめぐり、ゆれ出すような感じがした。  立ち止った藤吾に後ろから羽音が迫ってきた。眼の前を暗くして鳩の群が舞い下りようとする。  藤吾はまた駈け出した。二百羽の鳩の羽搏《はばた》きは、壁のような風となって、藤吾の顔を打った。  あたりの空気を持ち去り、硬い風となって打ち返し、鳩の群は入り乱れ羽毛を散らしながら、藤吾の行手を蔽う。  いつか藤吾は、呻《うめ》くような声で門三郎を呼んでいた。  遠い西空、初雪をのせた伊吹山のあたりに、頬の削《そ》げた門三郎の笑顔が浮んでいる。その門三郎めがけ、(この鳩を見ろ、鳩はどうなるんだ)と、聞きわけのない子供となって、すがり寄りたい気持であった。  汗と血がさらに眼に流れこみ、風景は血の色から次第に暗さを加え、藤吾の足を失わせる。  腕をひろげ、鳩の群をかかえこむようにして、藤吾は前のめりに倒れて行った。 [#地付き](「赤門文学」昭和三十三年第十号)   この作品は平成三年十二月新潮文庫版が刊行された。