TITLE : 勝 つ 経 営 〈底 本〉文春文庫 平成十三年六月十日刊 (C) Saburou Shiroyama 2002  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 勝つ経営(連続インタビュー) は じ め に 出井伸之(ソニー) 吉野浩行(本田技研工業) 宗雪雅幸(富士写真フイルム) インタビューを終えて 本田宗一郎は泣いている 朝風を運ぶ人々──日本人が失ったもの あ と が き 章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 (編集部注)本文中の肩書、年代等は特別な記載がない限り当時のままとしました 勝 つ 経 営 勝つ経営(連続インタビュー) は じ め に  暗い話ばかりが多い。  敗戦直後には「一億総懺悔」という言葉がはやったが、いまは「一億総悲観」のムードである。それだけに、少しは元気な声を聞いてみたい。  そこで、元気印《じるし》の三社を選び、そのトップたちを訪ねてほしいという企画である。  議論を仕掛けるというより、とりあえず元気な空気に触れ、それがどの程度のものなのか、なぜ元気なのか、読者に代わって訊いて来ることに。  日本では本社の所在地を気にし、企業が大きくなるにつれ、ときには大きく見せようとして、無理をしてでも、本社を東京都千代田区、あるいは中央区に置こうとする。  ところが、今回とり上げた三社は、いずれもその二つの区ではない。  富士写真フイルムは、港区といっても、最寄りの地下鉄六本木駅からは、歩いてたっぷり十五分はかかり、高速道路に面し、歩行者の姿もまばら、といったところに在る。  本田技研は、場所こそ青山一丁目角という目抜きのところに在るが、「文藝春秋」に先般記した(九八年二月特別号「朝風を運ぶ人々──日本人が失ったもの」)ように、安全第一の質実剛健な感じの建物は、いつでも売却できる構えであり、見せかけよりも、実質本位。  さらにソニーに至っては、品川駅から歩いて十数分。  町工場の一つとして出発した昔の工場地帯に、いまはソニーの工場群に取り囲まれ、その艦橋のように建っていた。  いずれにせよ、三社とも実質本位というか、実利本位。それぞれが孤立し、むしろ孤高でよいといった心意気を感じさせる面構えであった。  それに、このトップ・インタビューのため先方から指定された時間が、一社こそ午後一時であったが、二社は午前十時半と午前十時。  湘南の片隅に住む私にとっては、珍しい早立ちをさせられることになった。  もっとも、朝型の生活をしている私にとっては、少しも苦にならない。むしろ、わが道を行くといった新しい時代のトップを見、それこそグローバル・ベースの日本の朝を感じもした。  というのも、十数年前のことだが、アメリカで幾人かのトップたちにインタビューしたとき、朝の八時を指定されたこともあったからである。  多忙な政財界人たちのことだけではない。プロ・ゴルファーのジン・リトラーの場合も、シーズン・オフであったにもかかわらず、朝の八時にサンディエゴ郊外の自宅で会おうという指定。「静かで、自分のいちばん好きな時間だから」という理由であった。  ロックフェラー三世の場合も、午前の早い時間であったが、このときにはロックフェラー自身がコーヒーを入れて、すすめてくれた。  それぞれがそれぞれの流儀で人に会う。それが新しい世界だと感じさせられていたからである。 出井伸之(ソニー) ■出井伸之(いでい・のぶゆき) 一九三七年生まれ。六〇年早大第一政経学部卒業後、ソニー入社。九五年社長就任。九九年CEO就任。二〇〇〇年会長就任。現在CEO兼会長。 〔城山〕三月(九八年)に出版された『出井伸之のホームページ』という本は元気横溢の本ですね。社内向けの出井さんのホームページでの発言とそれに寄せられた社員の声を載せています。マネージメントの考え方はもちろんですが、ゴルフのスコアや気に入ったレストランの紹介まであって、かなり開けっ広げというか、率直にプライベートの部分も明かされている。このホームページのおかげで、社員は出井さんを身近に感じられるのではないですか。 〔出井〕私は、社長業というのはコミュニケーション業と考えています。私の考えはこうですと突然言っても、普段からつきあいがなければ、驚くだけで受け入れにくいものでしょう。そのためにも日頃から社長はどういう人間か、どういう考えを持っているかということをみんなに示しておこうと心掛けている。マネージメント(経営)にもさまざまなスタイルがありますが、私はオープンに自分の考えを打ち出して、みんなに共有してもらいたいと考えています。 〔城山〕日本の経営者はその逆の考え方をする人が多いですね。 〔出井〕社員と距離を置くことが、マネージメントに必要であるという考え方ですね。私が社長になったとき、ある方から「社員食堂でご飯を食べないほうがいいぞ」と言われたことがあります。私はサラリーマンとして下から上を見ていた経験が長いから、所詮トップと距離があることはわかっています。それなら一歩でも社員のほうに近づくほうがいいのではないかと考えているのです。 〔城山〕ホームページには社員からも意見が多く来ているようですね。 〔出井〕本に載せきれていませんが、いい提言をもらっています。Eメールというのは、下手をすると直訴状合戦になってしまうのではないかと心配する声もありますが、それほど社員のインテリジェンスは低くありません。上司の悪口など一切なし。会社の改善点をはじめ、建設的なことを書いてきてくれています。 〔城山〕メールは実名で来るのですか。 〔出井〕そうです。ただ、私は実名のまま他へ回したりしません。というのも私も若いころにレポートを書いて提言をしていたのですが、名前が載ったまま回されて、直属の上司から「おまえ何だ」と怒られたことがあるんです(笑)。そんなことしたら二度と意見を言ってこなくなってしまいますから、誰が何を言ったかというのは絶対に外に明かさないことにしています。 〔城山〕出井さんは何度か左遷されたこともあるそうですが、そのレポートと関連しているのですか。 〔出井〕サラリーマンをやりながら、一生ハッピーに過ごすということはありえないでしょう。サラリーマンというのはすぐ上の上司との関係が難しい。ずっと上の人とは別に問題はないんですね。すぐ上とぶつかるわけで、どうしても批判してしまいがちです。会社には、ルールメーカーとルールブレイカーがいますが、直属の上司というのは、ルール通りにやっていれば安心していますが、部下がルールブレイカーだと心配します。ルールブレイクを喜ぶ上司もたまにいますけれど。 〔城山〕それは非常に少ないでしょう。 〔出井〕ええ。ですから身を挺して言ってきてくれる話を、「お前の部下がこんなことを言っているぞ」と回されたらサラリーマンとしてはたまりません(笑)。 〔城山〕御本のなかで身を張っての提言をしてくれとお書きになっていますね。 〔出井〕それはそうですよ。提言をしてくれないとがっかりですね。例えば会議をやっていまして、絶対自分はこのプロジェクトはまとまらないと思うのに、会社がやってるからしょうがないと黙って社員が聞いているとしたら、それはやっぱり企業としては非常に危険ですね。見えない部分でマズイなというところがあったら、それをこうしたらいいんじゃないかと体を張ることです。毎回、体を張っていては大変ですが、張らなければいけないときには張ってほしいと思います。 〔城山〕やっぱり身を張って言ってきてるなという感じのものはありますか。 〔出井〕はい、ずいぶんあります。それから私に対して率直に、ほんとうに分かって判断しているのか、また、その判断の背後にある情報というのは確かなものかというのを、自分の持っている情報を提供してチェックしてくれるのがずいぶんありますね。また、自分の考えというのも言ってくれます。 〔城山〕なかなかマイナスの情報というのはトップに入ってこないと言いますよね。 〔出井〕ええ、マイナスの情報というのはどの会社でも入りにくいですよね。ですからマイナスの情報というか、第一報がどういうふうに入るかというのは、会社としての健全性を表わしているとも言えるのではないでしょうか。 〔城山〕ルールブレイカーといっても中にはルールを破壊するだけのものもいます。放置しておくとまずいと思われるようなときはどう対処されますか。 〔出井〕ルールブレイカーは、アウトローという意味ではありません。古いルールを壊して新しいルールを作り上げるのが、本当のルールブレイカーです。これはきちんと見分けないといけません。ただし、メールの一つひとつの情報は頭には入れておきますが、すぐに電話を取ってアクションを取ることは一切しません。それをやりだすと何に力を入れて経営しているのかわからなくなるし、中間管理職が疑心暗鬼になってしまいます。 〔城山〕『ホームページ』の冒頭に、入社式に対する感想が出てきます。あまりに整然としていて、出井さんは違和感を持たれたと。 〔出井〕私は常務から社長になったので行事にはあまり出たことがない。驚くことも多いんです。新鮮に映ったときは、新鮮なまま書いておこうと思って(笑)。 〔城山〕社員から、あれはリハーサルをやらされたからだと書いて来ました。 〔出井〕いずれ本性を出すから大丈夫、とかね。 〔城山〕しかし入社式はともかく、生産現場は整然としていたほうがいいものかどうか。ホンダと松下が社員を交換して実習をさせたところ、ホンダから松下に行った人はよくこんなに整然として仕事ができると。逆に松下からホンダへ行った人は、よくこんなに自由で会社がやっていけるという感想だったそうです。松下の生産現場が強いのは、整然としていることと関係があるのでしょうか。 〔出井〕ソニーも生産は強いと思いますよ。私が入社式で述べたのは、過度に整然としすぎないということと、あまり形に捉われないということです。例えばテレビの番組で五、四、三、二で拍手して下さい、というようなものです。要するに自然のエモーションとか、発露じゃなくて、過度に規律にはめられたやり方は、やはりソニー流には合わないと思います。ただ、生産現場の場合、八時半にラインがスタートするなら時間ピッタリに動くように準備することも必要です。命令一下、守らなければいけないことと、そうじゃない場合がありますね。全部が全部、集団作業ではないし、クリエイティビティは繰り返しの仕事からは生まれてきませんから一概には言えません。 〔城山〕ソニーのあるグループ会社のトップは、ポロシャツにナイキのスニーカーを履いて出勤するそうですね。 〔出井〕ソニー・ミュージックの丸山(茂雄)社長ですね。それはライフスタイルですから構いません。彼は本社の役員会にもそのままのかっこうで出席しています。 〔城山〕日本の会社としては非常に珍しいですね。 〔出井〕私は、どうも最近、ソニーの中の服装は乱れているんじゃないかと思うんですが(笑)、私もこうやって上下、色違いのを着ていますが。 〔城山〕私もそうですけど(笑)。 〔出井〕自分の好みの服を着る人が多くなってきましたが、これには、かなり時代的背景があるように思いますね。たとえば、私が高校生の頃は百パーセント全員が黒い制服を着ていたじゃないですか。それが今はかなり自由になってきています。ですから社会の移り変わりもあるように思いますね。 〔城山〕いつかハワイのホテルにいましたら、黒い背広を着てきちっとした若い日本人が十人ぐらい食堂に入ってきて、お客さんたちみんなびっくりしたことがあるんです。そうしたらね、ファミリーレストランの研修で派遣された人たちなんですね。あれはやっぱりちょっと異様でした。そのホテルでは、朝食はバイキング式で、自分の好みのものを入れて、オムレツを作ってもらうのですが、具を選ばず全部入れさせる人がいるんですよね。そしたら何が何だか分からないでしょう。ただ研修に出せばいいというものではなく、仏つくって魂入れず、というところがどうもありますね。話は変わりますが、出井さんは、非常に新しいタイプの経営者だと思いますけれど、井深(大)さんと盛田(昭夫)さんの写真をいつも懐に持っていらっしゃるそうですね。 〔出井〕いつもというわけではないですけれど、いざというときにケースに入れて胸ポケットに忍ばせています。 〔城山〕ソニーには井深さんをはじめ、多くのいい先輩がいらっしゃいますが、盛田さんをはじめとして歴代社長はみなさん個性的です。出井さんは、会長の大賀(典雄)さんとぶつかることがありませんか。 〔出井〕大賀さんと私はタイプが違いますから、それぞれウマが合う人も違います。こういうことは重ならないほうがいい。社長、会長の組み合わせとしては非常にいいと思います。私とタイプの似た盛田さんが会長だったらやりにくいでしょうね。 〔城山〕大賀さんが社長時代に敷いたラインで芽吹いたものに、プレイステーション(家庭用ゲーム機)があります。出井さんが社長になってからソニーは好調ですが、私はこれをやったという自負はありますか。 〔出井〕私は、社長としての功績についてあまり考えないことにしています。社長というのは具体的には何もやらない。判断したり、会社の方向性とか空気を変えるということが仕事なんです。ウォークマンだって、盛田さんひとりでやったわけではない。確かに盛田さんがプロジェクト・リーダーでしたけれど、他にも功績のあった人はたくさんいます。盛田さんもやったけれど黒木(靖夫・元ソニー取締役)さん、大曽根(幸三・ソニー副社長)さんもやった、ということになる(笑)。会社というのはひとつのことをやろうと思ったら組織で大勢の人が動くでしょう。失敗すると誰も出てこないけれど、成功するとオレが、オレがとなる。うまくいったときは、みんなで「よかった、よかった」と言って、心のなかで「おれがやったんだ」と思っていればいいんです。 〔城山〕しかし社長になると、言いたくなるものではないですか。 〔出井〕それはそうですが、これだけいろいろなビジネスをやっていて売上げが約七兆円にもなろうとしている大きな会社で、社長が「おれはこれやったぞ」などと言えないでしょう。私個人としては、やはり事業部長がいちばんやりがいがあって楽しかったですね。社長になると全体の責任をもたないといけないし、会社全体のムードを良くすることを考えなくてはいけませんから。 〔城山〕社長は現場から遠ざからざるを得ませんからね。 〔出井〕影響力が大きいですからあまりひとつの点に集中して何か言うこともできません。反対にクサる人も出てきかねませんから。 〔城山〕社長に就任されて、何をいちばん変えなくてはいけないと考えましたか。 〔出井〕昨日、手塚治虫さん原作のお芝居『陽だまりの樹』を観て、非常に感動しました。幕末が舞台なんですが、主人公たちは自分たちが幕末に生きているとは思っていない。いまの日本も、幕末と同じように急激な変化にさらされていると私は考えています。世の中は明らかに変化している。けれど、あたかも変化しないでそのまま続くのではないかという錯覚を持っている人がまだまだ多い。ソニーは過去の成功体験があまりに強い会社です。こういう時期に成功体験に溺れていたら、この会社は間違いなく危ない。  ソニーは、いま新しい成功体験をつくり出さないといけないときなのです。井深さんが五十二年前、一面焼け野原のなかでソニーをつくろうと思い立ったスピリットをもう一度思い出してみる必要があると思います。しかし成功体験があると、その心理的な規制にとらわれてしまいがちなのも事実です。ソニーは、そこからの解放が必要です。変化を歓迎しない会社全体を変えていくわけですから、社長の意見は社内ではマイノリティーたらざるをえない。社長に就任した三年前から、これだけの大きな会社に変化の必要性を浸透させ、方向性を示し、実際にそれに向かって舵を切り出すことに努力してきました。いきなり抜擢された社長の椅子が務まるかどうかという点で、私は及第点だったかもしれませんが、実際に変化をどこまでもたらしたかという点では、五十点ぎりぎりかなと思っています。 〔城山〕最近、アメリカ型の経営のほうが、日本型の経営より優れているという意見がよく聞かれます。出井さんは、ソニーの経営はそのどちらでもない。ソニー・ウェイだとおっしゃっています。具体的にどういう経営になるのでしょうか。 〔出井〕私は経営をアメリカ型と日本型に簡単に分けられるものではないと思います。ソニーの場合、株主の四五パーセントは外国人。つまり四五パーセントの株主はアメリカ式の投資と同じ感覚でリターンを厳しく追求してきます。それに対して日本の株主の場合、銀行などの安定株主は、必ずしもリターンを厳しく追求してきません。ソニーの場合、これら異なる二種類の株主を同時に満足させる必要があるわけです。債券の投資家がいるので、格付け会社とも話をしなくてはいけない。投資をせず、資産状況を良くすれば、格付けは高くなります。しかしそれはメーカーとしてはあまり意味がない。トリプルAは狙ってとるものではないのです。それを見たら日本の投資家は、なぜそんなにキャッシュを持っているんだ、もっとほかの仕事をして働けと言うに決まっています(笑)。アメリカ的な企業の経営のあり方と日本の企業としてのあり方、この二つを共存させないといけない。そういう意味でどちらとも言えないんです。  会社のあり方に関する考え方も二通りあります。個々の事業単位の利益を厳格に管理してビジネスの展開をはかるという企業(ポートフォリオ型)と、価値観を共有したうえで、関連した事業の横の連携を促し、シナジーを追求するという企業(バリューチェーン型)があります。世界的に高く評価されているジャック・ウェルチ会長率いるGE(ゼネラル・エレクトリック社)という会社は、GEプラスチック、GEエンジン、NBCテレビと関連のない企業を投資銀行的発想で集め、各業界のナンバーワンの企業集団を形成しています。ソニーはそうではありません。AV機器があり、映画があり、音楽があり、ゲームがある。内容的に連鎖した企業の集団です。ディズニーもソニーと似ています。ミッキーマウスがあり、テーマパークがあり、映画がある。ポートフォリオ型の会社と、バリューチェーン型の企業とは全く異なり、それぞれいいところと悪いところがあります。ポートフォリオ型の企業はマネージメントのコントロールを厳しくやる。株主資本利益率(リターン・オン・エクイティ)といった数字を個別事業ごとにギリギリと追求するわけです。これは非常にアメリカ的な経営といえるかもしれません。一方、バリューチェーン型の企業は、日本的に全体の価値の連鎖を求めるので、個々の事業の収益が多少低くても、大目に見ようという考え方をすることもあります。おそらくジャック・ウェルチだったら、そんなやり方をしていたら「はい、切り捨て」と言うでしょう。  私は、ソニーをポートフォリオ型企業のマネージメント・コントロールの強さと、バリューチェーン型企業の、ものを作る人の喜びや使ってもらう楽しみを兼ね備えた会社にしたい。これが私の基本的なマネージメントのチャレンジです。こういう性格の会社はまだありません。社内では方向性として共感は得られていますが、実際にそういう仕組みができるかどうか、まだあまり自信はないですね。 〔城山〕出井さんは、事業部長当時から、会社の将来のあり方についてレポートに書いて上司に提出されていたそうですね。 〔出井〕私は自分のいいところは、戦略的な思考があることだと思っています。オペレーションのことに関してやらせたら私は人並みか人並み以下かなと思っているんですけど、自分のいいところをあげますと、もちろん事業部長として仕事をこなしながらですが、会社全体としてどうしたらいいだろうかということを常に考えていました。それを一年に一回ぐらい、レポートにまとめるようにしていました。社長としての仕事の中には、ご挨拶に伺ったり、お葬式に参列したりで、忙しく飛び回る部分がどうしてもあります。しかし、重要な判断をする場合は、かなり深く考える事が必要になります。そして、自分の考えというのは、まとめようと思わないと、まとまらないものです。ですからそれを役員の時代から、一年に一回ぐらいレポートにまとめては、盛田さんや大賀さんはじめ、当時の上司にプレゼンテーションしていました。 〔城山〕レポートに対する反応はどうだったのですか。 〔出井〕よくやったとは言われませんね。「これはすばらしいレポートだ」なんて褒められたことは一回もないけれど、懲りずに続けていました(笑)。 〔城山〕日本の社会は、嫉妬が強い社会だと思いますが、そういう目立ったことをして逆に叩かれるようなことはなかったのですか。 〔出井〕当然あったでしょう。でも、何をどうやっても言われるものです。落語の小《こ》咄《ばなし》で、老人と子どもがロバを引いて歩いていると、村の人が来て、何でロバがいるのに老人を乗せないんだと言われる。老人が乗るとね、他の人が来て、何で子どもが乗ってないんだと。二人とも歩いても言われるし、老人が乗っても子どもが乗っても何か言われるんです。だからその小咄では、ロバを焼いて食べてしまった。それがろばた焼きだと(笑)。何をしても、何もしなくても言われる。どうせ言われるなら、自分の信念通りやったほうがいい。私は、事業部長時代によく叩かれたのですが、そのときみんなによくこの小咄をした覚えがあります。 〔城山〕若いころからそういう姿勢は変わらないんですか。 〔出井〕ええ。そういうことやっても寛容なところが、ソニーのいいところです。 〔城山〕しかしメトロポリタンテレビ(在京UHF局)に出向されたときは、正直言って落ち込みませんでしたか。 〔出井〕私はそのとき、メトロポリタンテレビを取り巻く力関係だとか、放送事業の本質を分析したんです。自民党の郵政族にはじまり、NHKから、東京都の構造までいろいろと調べてこの話は乗るべきでないと考えた。それで盛田さんや大賀さんに、私が行くのはいいですけれど、成功するか自信がないと話しておきました。しかし、盛田さんの夢はよく理解出来ましたね。盛田さんは、レコード会社を買い、ハリウッドに進出し、その延長線上に放送事業を展開しようという将来像を思い描いておられたんですね。そういうこともあって今回のJスカイB(通信衛星デジタル放送)への資本参加は迷わず決めました。 〔城山〕そういう意味では勉強にはなったわけですね。 〔出井〕ものすごくなりました。それに日枝(久・フジテレビ社長)さんや氏家(齊一郎・日本テレビ社長)さんといったテレビ会社の方とも交遊関係をたくさん作ることができましたから。 〔城山〕見込みのない会社とか職場にも行かなくてはいけない。出井さんはそのような経験を何回かなさってますね。八〇年代終わりにはコンピュータ事業からの撤退も担当されました。 〔出井〕コンピュータの経験がもしなかったらマイクロソフトのビル・ゲイツさんやソフトバンクの孫(正義)さんとも知り合えませんでした。当時、彼らが二十六、七で、私が四十歳くらいです。その頃からの付き合いですから、いまでも話しやすい。そういう経験は全部役立っています。 〔城山〕しかし行ったときは、嫌なところへ来たなと思わなかったですか。 〔出井〕それは思いました。ソニーのような会社でコンピュータに行ったら出世できない。これはまずいなと思いました(笑)。でもそれは時代の流れもあって、幕末の話ではないけれど、こうしてうまく流れに乗っていく人間もいます。 〔城山〕でもそのときに不機嫌に酒ばかり飲んで、おもしろくないという顔をしていたら、友だちはできなかったでしょう。 〔出井〕そのとおりです。 〔城山〕ビル・ゲイツとは年も違いますし、普通、接点があってもそのままに終わってしまいそうですが。 〔出井〕そのとき知り合いになった人たちとは、私がコンピュータを離れて十何年間、付き合いがなかったのですが、復活して同じことをやっていると、不思議と心の中で共鳴するものがあります。 〔城山〕そのころは先が見えなくて、向こうもまだ大変だったんでしょう。 〔出井〕あのときコンピュータ業界でソニーは後発だと言われていたけれど、いまから考えると、八二、三年のころのコンピュータなんて、いちばんの先発組です。私は、企業にとって後発参入というものはないと思います。後発でも構わず入っておけば、十年もしたら後発だなんて誰も思いません。トップになることも可能です。 〔城山〕ソニーがあのままコンピュータを続けていたらどうなったでしょうか。 〔出井〕想像もつきません。ただ、あのときはコンピュータ産業の仕組みを理解しないまま、ソニーの成功体験を単純に当てはめて始めてしまったという反省をしています。それぞれの業界にはルールがあって、そのルールを理解したうえで弱点を見つけてブレイクするようなことをすれば勝つことができる。ソニーが任天堂のモデルに競り勝ったプレイステーションが、セガの新しいモデルから技術面でもビジネスモデルとしてもチャレンジを受けました。ビジネスはこの繰り返しです。この繰り返しの変動に対処するために、いま自分のやっている仕事が、どういう時期にあるのか意識しておくことが大切です。一日にたとえれば午前のビジネスでまだ準備段階なのか、あるいはもう夕暮れに差しかかって儲けている時期なのかということを見極めておくことです。もし日が沈みそうであれば、すぐに次にやるべきことを用意して、再度、太陽が昇るようにしないといけません。この前、ソニーでやっているそれぞれのビジネスモデルを日時計にして千人くらいの社員に提示してみたんです。そうしたら反対がずいぶんあって、いや自分のところは午後一時じゃない。まだ午前十一時だ。少し針を戻せと言われたりしました(笑)。 〔城山〕それは経営状態を見るには分かりやすい。議論の種にもなりますね。 〔出井〕いまの問題点を分かりやすくビジュアル化して、社員の頭の中に焼きこむことは、経営者の重要な仕事だと思います。「私の経営哲学は和です」なんて言ってもわかりません。「調和」とか「団結」とか、日本の経営者はそういうのが好きでしょう(笑)。この三年間、問題点を劇画ふうに、むずかしいことをいかに簡単に説明するかということを心掛けてきました。 〔城山〕未知の領域に挑戦する場合、どのように決断されていますか。 〔出井〕企業には、競争戦略と成長戦略の二つの戦略があります。競争戦略というのは、松下やフィリップスに対してどういう競争をしていくかを考えることです。これは執行役員がトップを務めるカンパニー(事業会社)に任せています。成長戦略というのは、ソニー・グループ全体を運営しながら、会社全体としてこっちへ行くべきではないかというような将来の基本的な方向性を考えることです。これは本社の取締役の仕事です。 〔城山〕成長戦略を練ることがボードメンバー(取締役)の何よりの課題ですね。そのための人材の育て方はありますか。 〔出井〕従来の日本型のボードメンバーは、競争戦略の代表者の立場でした。しかし取締役は本来、会社全体の経営を考えるのが仕事のはず。取締役になったら、この意識改革をすることが大事だと思います。ソニーのある副社長は、ウォークマンを開発したりして大きな成果を上げてきた人でしたが、取締役として会社全体の生産戦略を見る立場となりました。全体の利益を考えるとなると古巣のカンパニーの利益と相反することも当然あります。でも本社の取締役として判断する場合は古巣の意識は吹っ切らないといけません。取締役を見ていると、本社の立場として発言ができるようになる人と、いつまでも自分のホームグラウンドをバックに発言する人に分かれます。これは本人の性格的な問題なのでしょう。 〔城山〕取締役と執行役員とどちらの発想が大事ですか。 〔出井〕吹っ切り方の問題です。人間はいつまでも部下がいたほうが楽でしょう。「おいおまえ、これしろ」みたいに、本能的にそうしたいから、古巣へ戻りたがる。私はその部下に「早く盛大な送別会をやって、こっちへ送り出してくれ」と言っています(笑)。執行役員が、会社の中でいちばん楽しいのは確かですね。新聞記者も取材しているときは楽しいけれど、デスクへ上がれと言われたら、がっくりする人が多いでしょう。それと同じです。現場で一生懸命取材して事件を追いかけるのが、いわば執行役員です。それに対して取締役はデスクのようなものです。執行役員制度を導入して取締役を三十八名から十名に大幅に減らしたとき、取締役から執行役員になるとみんながっかりしませんかと聞かれましたが、そんなことを言うのはソニーという会社の仕組みをよく理解されていない方ですね。執行役員になって落ち込むなんて、現実は全く逆です。 〔城山〕あのとき、大賀さんは取締役から執行役員になる方の家族にがっかりしないようにと手紙を書かれたそうですね。 〔出井〕それは、あまり知られていない大賀さんの細かい心遣いの表われでしょう。執行役員というのはいわばマイカーの運転手。行き先は自由に決められるし、自分で運転できる。本社の取締役は路線バスの運転手。決められた路線をみんなでいっしょに走る。どちらが楽しいかといったら、それは比較になりません。 〔城山〕成長戦略を考える人を養成するために日本の大会社は、若い社員をハーバードのビジネススクールなどに行かせたりしているが、出井さんは、若いころにヨーロッパ駐在ということでパリで仕事をし、週末はオランダやベルギーを回って商売に忙しかったそうですね。そういった実地の経験のほうが帝王学には役立つのではないですか。 〔出井〕イギリスが英連邦でいちばん栄えた時期に東インド会社は、若い人を世界中に派遣して商売をやらせました。これが最高のマネージメントスクールだと私は思います。うちの三十代の社員も、アルゼンチンで社長をしたり、ロシアで一生懸命やって帰ってくると見違えるほど逞しくなっています。 〔城山〕外から日本やソニーを見直すことになりますものね。 〔出井〕海外に一人で行かされると、禅問答をしないといけません。私も駐在中は本社の方針が伝わらないまま、たぶん本社の方針はこうだろうと自分で立てた仮説をもとに仕事を進めていました。何をすべきか、ソニーがどこを向いているかを自分で考えざるをえなかったのです。 〔城山〕ソニーを見ていると次々と前例のないことに取り組んでいるように見えます。出井さんにいま未踏の領域に入っているという感じはありますか。 〔出井〕そんな大げさなことは考えていません(笑)。ただ、だんだん複雑になってきた会社をやさしくマネージメントできるように仕組みを作ろうと思っています。むずかしくなって、経営者が自分の後継者はいないと傲慢に言いだしたら終わりです。いま私が直面している、大変だなと思うことを分析して、それを次の人がやさしくできるような仕組みを作りたいと思っています。 〔城山〕一人の経営者が会社を引っ張るのは危ないと話しておられましたね。やはりチームワークが大事ですか。 〔出井〕会社は、カリスマ性のあるリーダーが方向性を示し、攻撃力のあるところがその方向で進み、その他の勢力がこれら二つを調和するものです。会社はこの三つから成り立ってる。ソニーでいえば、取締役がリーダーで、執行役員が攻撃力、この二つを調和するのが本社のスタッフというわけです。盛田さんがリーダーのときは大賀さんが攻撃力、大賀さんが上になれば私がこういう立場になりますけど、それをもう少し組織立ててやっていきたいのです。トヨタの奥田(碩)さんも私も、創業者が経営してきた会社のサラリーマン社長です。創業者のカリスマ性や影響力に頼っていた部分を断ち切って、新しい会社にしていくことが、私たちの共通のチャレンジだと勝手ながら思っています。 〔城山〕ファウンダー(創業者)にとくに気をつかうこともあるのですか。 〔出井〕井深さんをはじめとしてファウンダーは会社の精神的支柱です。会社が生まれてきた素、DNAみたいなものですから、その精神に敬意を表さないと、会社がおかしくなってしまうと思います。 〔城山〕ホンダはパッとファウンダーを切ってしまったのでしょうか。 〔出井〕私は完全には切れてないと思います。切れているかもしれないけれど、それは表面的なものではないでしょうか。 〔城山〕ソニーの場合、企業のアイデンティティを日本と切り離して考えることができますか。 〔出井〕もちろん考えられません。ソニーは海外で年に一回ぐらい、世界中の中間管理職の研修を国籍を問わずいっしょにやっているんですけれど、海外でソニーを代表して責任をもって働いてもらうために、日本国籍の企業としての立場と、ソニー企業全体のグローバルな立場と、各々の社員が働く国の立場、この三つを同時に考える資質を訓練してほしいと私は注文しています。この三つを考える力は、ソニーで働くうえで重要なことだと私は思うんです。 〔城山〕三つのバランスはどうなのでしょうか。どれにウエイトを置いているのですか。 〔出井〕個人の資質によってバランスの置き方は異なっていていい。個別最適でいいんですけれど、判断するときに一瞬でもいいから全体最適を考えてほしいと。これは全体最適としてはどうかなと思うことがあれば、必ず本社のしかるべき所に一報をくださいと言っています。もちろん全体最適の解だけ求めたら、現場の責任者とはいえません。個別最適と全体最適の解はいつもちがうわけではない。そこは私が、自分で判断できるように事前に情報が入ってこないといけません。社長としていちばん気遣うのはその情報収集のところです。 〔城山〕出井社長の判断に、基準みたいなものはあるのですか。 〔出井〕ひとつは利益、もうひとつはソニーがやってる仕事に対する整合性です。たとえばどこかの他の企業との提携は、ソニー・グループ全体で見るとたくさんありますから、本社がそうした提携をすべて判断することはできません。なかには矛盾していたり、混乱を引き起こすようなものもあるでしょう。それで私は複雑系の経営学というのを言っているんです。ソニーはこれまで意外な行動が意外な発展を生んできました。それはソニー・グループ内の個々が判断をして、お互いにいい影響を及ぼした結果、突然何かが創発的に変化して企業に進化をもたらしてきたのです。各事業と本社経営陣の間でボトムアップとトップダウン、双方向のアクションがあり、また各事業間で横のアクションが活発だとこういう発展は頻繁に起こります。これはあまり集団的で秩序だった企業には起こらないと思います。新しいことをやれば、ある程度の矛盾は避けられません。ですからあまり秩序的に考え過ぎず、矛盾や混乱はむしろ喜ぶべきなのです。これが複雑系の経営学です。 〔城山〕将来的には外国人の経営者ということもありえますか。 〔出井〕すでにソニー・ミュージック(米国)やソニー・ピクチャーズなどエンタテインメント系はほとんど外国人です。日本企業の製造業としての強さを伸ばしながら、アメリカの文化に根ざした、エンタテインメントやコンピュータ/IT(インフォメーション・テクノロジー)ビジネスを展開するのが、ソニーのいまの方針です。この二つの性質を融合できるようにするために、さきほどのポートフォリオとバリューチェーンを組み合わせた会社にしたいのです。でもこれからは本社が東京にあるということがグループとしてますます重要になると思います。東京にいて、常に異文化を語っているところにソニーとしての意義があるわけで、そうでなければソニー・ピクチャーズもアメリカの映画会社と同じになってしまいます。 〔城山〕日本政府が喜ぶでしょう。このごろ財界では、法人税があまりに高いので本社を海外へ持っていくと、冗談めかして言っている人もいます。 〔出井〕そういう発言は、慎重でなくてはならないと思います。私はできないと思いますよ。 〔城山〕ソニーの場合、受け身になってできないのではなくて、東京にいるメリットを生かしていこうという考えですね。 〔出井〕日本の企業は、日本がいま持っている力のありがた味があるはずです。私は、松下と日本のマーケットで厳しい競争を繰り広げることこそが、ソニーの強さの源泉だと思うんです。ソニーと松下は競争すればするほど、お互いに強くなります。 〔城山〕ソニーはベータ(方式ビデオ)では松下に痛い目に遭いましたけれどね。 〔出井〕ソニーと松下というのは永遠のライバルです。広告ひとつにしてもお互いに意識している。非常に健全な競争だと思います。松下から学ぶことは、たくさんあります。私は松下幸之助さんの著作はほとんど読んでいます。松下さんの考え方は基本的にモノのない時代の哲学ですよ。井深さんたちが言ってないことを言っているので、事業部長時代に読んでいちばん得るものがありました。日本のいいところは、競争しながらも相手から学ぼうとする姿勢を忘れないところだと思います。競争にはルールが常に存在しています。どこかと戦略的に提携しようというのは強さを補完する意味を持つことも多い。強ければ競争すれば、いいんです。 吉野浩行(本田技研工業) ■吉野浩行(よしの・ひろゆき) 一九三九年生まれ。六三年東大工学部卒。本田技研工業入社。九八年社長就任。 〔城山〕中山素平(元・日本興業銀行頭取)さんに、私の好きな経営者のタイプは本田(宗一郎)さんのような人だと言ったら、城山さんはゲテモノ好きだなあと言われたことがあります。しかし、中山さんのいう「ゲテモノ」は最高の褒め言葉なんです。事業を引っ張っていく人は、ハコからはみ出た人間でないといけないというのが持論だった。その典型が本田さんですね。本田さん抜きにしてホンダを語ることはできないと思います。吉野さんは、ついこのあいだ(九八年六月)、川本(信彦)さんの後を継いで本田技研工業(ホンダ)の社長に就任されたのですが、入社なさったとき、本田さんについてどういう印象を持たれましたか。 〔吉野〕いやあ、強烈でしたね。入社式のときから、新入社員を前にして「トヨタや日産が何だ」と始める。破天荒で面食らいました。本田さんがそういう人だとは入社するまで知らなかったのです。私は入社早々研究所勤務となったんですが、本田さんはほとんど毎日と言っていいくらいに、現場に足を運んでいました。 〔城山〕お出でになるというより飛び込んでくるという感じではなかったですか。 〔吉野〕何でも明日までにやっとけ、でしょう。すごいエネルギーでしたね。 〔城山〕本当に仕事がお好きでしたね。引退されてしばらくたってから、本田さんの自宅で毎年開いていたアユ釣りパーティに招かれた時に、この頃何が楽しいんですかと聞いてみたんです。そうしたら、何にも楽しくないという。絵を描いていらしたから、絵はどうですかと聞いても、つまらないというんです。趣味のなかで何が面白いですかと聞いたら、小さい声で「仕事だよ」って言っていました。本田さんはそれほど好きな仕事をスパッと辞められた。でもその後も仕事のことが頭から離れなかったようですね。狭山のほうへ行くと工場に飛び込んで、ちょっとトイレを貸してくれって頼んだらしい。本当はトイレなんかどうでもよくてパーッと工場の様子を見て回って帰っていったそうです。あくまでも工場を見にきたのではなくてトイレを借りにきたと。本田さんはこういうケジメのつけかたが偉かった。でも実際は最後まで口を挟んでいたみたいですね。 〔吉野〕最後まで言ってましたよ(笑)。八九年に本田さんが自動車の殿堂入りをされたとき、私はたまたまオハイオのホンダ・オブ・アメリカの責任者だったので、朝から晩までずっとお付き合いする機会がありました。そのときも相当いろいろなことを言われました。 〔城山〕具体的にどんなことを言われるんですか。 〔吉野〕当時アメリカでは、座席に着くと自動的に締まるベルトを自動車に装備するということが法律で決められていました。これは一見便利なようで実は邪魔なんです。ドアを開けるとドアの端にベルトが付いていて、乗り込む時にベルトに頭をぶつけてしまうような代物でした。これに本田さんが怒った。何でこんなものを作るんだ、バカタレと言われましたよ。 〔城山〕でもそれは法律で決められているからしようがないですね。 〔吉野〕しようがないんですが、そんなこと言ったって納得しないわけですよ(笑)。確かに本質的な指摘なんですが、何分こちらにもそれに代わる技術がまだなかったんです。それを車に乗るたびに言われるので、まいりました。 〔城山〕本田さんは通産省の言うことと全部反対のことをやってきたからこそ、今日のホンダがあるんだという考えの人ですから。 〔吉野〕ほとんど亡くなる直前まで、いろいろおっしゃっていました。 〔城山〕引退された後ですからあくまで言うだけで、権力をもって命じるということではないんですね。 〔吉野〕ついかっとなって「お前、クビだ」とか言うんですが、その後ですぐに「いや、俺はしかしそれは今は言えないんだけど……」と反省してました(笑)。 〔城山〕そういう可愛いところもある人でしたから、怒鳴られてもあまり深刻にならないで済んだのでしょうね。 〔吉野〕人柄です。 〔城山〕その本田さんが九一年に亡くなりました。巨大なカリスマ的存在だっただけに、影響はどうでしたか。 〔吉野〕たしかに亡くなるまで口はいろいろ出していましたが、本田さんが実務から離れて既に二十年近くたっていたので、外の方たちが思うほどの影響はありませんでした。二代目社長の河島(喜好)さんが集団指導体制のシステムを作って十年やられて、そのあと久米(是志)さんが七年、川本さんが八年。川本さんまでに段階的にかなり改革が進んでいたんです。 〔城山〕川本社長時代に、ホンダはもはや本田宗一郎の時代とは違う、これからは「普通の会社」になるんだと宣言して、世間をびっくりさせました。実際、役員全員が自由に意見を出し合ってワイワイガヤガヤ議論するという「ワイガヤ」もやめたし、本田さんと藤沢(武夫)さん以来、権限を分担していた開発部門と販売部門の上に社長を置いて指揮系統もしっかりと確立させました。その結果、昨年(九七年)の十一月、十二月には日産を抜いて国内四輪販売台数が業界二位になったし、二年連続で最高益を更新しています。川本さんの時代は、会社の転換期を迎えて、つらいことも多かったのではないですか。 〔吉野〕前半は確かにそうでした。世界同時不況に加え円高だし、国内販売も悪くて、業績もどんどん落ちましたから。 〔城山〕川本さんが号令をかけられて転換を進めるなかで、川本さんをヒトラーと呼ぶ人も出てきましたけど、それほど厳しかったのですか。 〔吉野〕いや、それは誰かが冗談で言ったのだと思いますよ。ホンダは宗一郎さんに引っ張られて、技術中心でやってきた会社なんですが、そのためにややもすれば技術者の独善に陥りやすい面があった。世の中がRV(レクリエーショナル・ビークル)の時代になっているのに、技術者がマーケットの声を無視して、いやそんなものは車じゃないと言って開発にとりかからないこともあった。そういうやり方はもう通用しないんだよ、というのが川本さんの考え方だったと思います。 〔城山〕お客さんの方を向こうということですね。 〔吉野〕その通りです。RV車のオデッセイが出て、業績が一気に伸びるのが九四年の秋なんですが、私が米国のオハイオから帰国した九二年には、マーケットを重視して競争力を高めようという会社再生の方向性とそれを実行するための施策ははっきり決まっていました。それはホンダの原点に帰ろうということなんです。四十五年くらい前に、先輩たちが作ったホンダの社是の最後のキーワードは「フォー・ワールドワイド・カスタマーズ・サティスファクション(世界中のお客さまの満足のために)」でした。もともと宗一郎の時代からホンダの理念は一貫していて、個々の人たちが形成するパブリック──一人一人のお客さんの満足が全体の満足に通じる。川本社長になってから伝統をあえて壊したところもありますが、「普通の会社宣言」の最も大事なところは、お客さんの満足を大事にしようという理念にもう一回立ち返って、さらに強化していこうということです。要するに、お客さんの満足は技術屋のひとりよがりでは得られない。 〔城山〕お客さんを満足させるには、とにかくいい技術で作られたいい性能をもった車をというのが本田さんの考え方でしたね。最初のシティが発売されてブームになった時、僕は本田さんに言ったことがある。技術、技術といっても、シティは技術的に新しいものがない、スタイルを変えて背を高くしただけでしょう、と。 〔吉野〕そうです。だからあの車は、一年目は爆発的に売れたのですが、二年目はもちませんでした。 〔城山〕本田さんは最高顧問なのにシティに注文つけないのですか、と聞いたら、「僕はあの車はわからん。わからんことには口を出さないんだ」と言っていました。 〔吉野〕そんな風に言っていましたか。ただし技術そのものは必ずしも新しいものである必要はないんです。たとえば、九二年頃にRV車をどうしようかと検討したときに、川本さんも私もまず他社のRV車に乗ってみることから始めました。とにかく自動車は乗ってみないとわからない。ところが、乗ってみると、全く駄目なんです。トラックを基本にして作っているので、エンジンが床下にあってうるさいし振動が伝わる。車高が高いから乗るのに厄介で、僕らみたいに車をとにかく速く走らせたいと思っている人間にとっては、重心が高いのでカーブを切るときあまりスピードが出せない欠点が目につくし、快適性もなかった。これではいかん、うちは乗って快適なRV車を作ろう、と思いました。他社のRV車の試乗体験から、RVを乗用車ベースにしようというホンダの戦略的発想が生まれたんです。べつに革新的な技術が入っているわけではないんですが、商品の発想とコンセプトが新しい。それで結果的にお客さんに受け入れられた。お客さんの価値観と車がマッチしていることが大切なんですね。お客さんのライフスタイルや遊び方とか車の使い方のリサーチをしっかりすることがこれからは大切です。乗る人の側から発想して車を作る。 〔城山〕今年の五月、ベンツとクライスラーの合併のニュースが世界を驚かせました。自動車産業をはじめとする巨大企業は世界的な大編成時代に入ったと言われていますが、今後どのように対応していくつもりですか。ホンダはこの流れの中で呑み込まれてしまいませんか。 〔吉野〕僕はそういう考えには与《くみ》しません。マスコミの中にはそういうことを言う人もいますが、ワンパターンの考え方だと思います。自動車産業で今後大事なのは、世界性と技術と個性です。たとえば、クライスラーとベンツの合併といっても、クライスラーは北米でしか事業を展開していませんし、ベンツも九〇パーセント以上がヨーロッパです。アメリカには工場が一つしかない。要するにこの二社には世界性がなかったんです。それに対してホンダは、二輪も含めると世界四十カ国に百拠点の生産工場を持っています。世界性は抜群です。そして二輪と四輪に発電機や芝刈機といった汎用エンジンも加えると、ホンダ製品の売上げは一年間に合計一千五十万台にも達する。GMでも九百万台、トヨタが五百万台です。汎用は数万円のものもあり単価が違いますが、ホンダは一年間に一千万人ものお客さんと接触がある。これは大きな強みです。お客さんの声をそれだけ吸収できる。芝刈機一つにしても製品に満足してもらえれば必ず次につながっていくはずです。 〔城山〕芝刈機の調子が良ければ、次はホンダの車を買おうかとなるかもしれませんからね。 〔吉野〕それに巨大合併すると会社の個性、車の個性が失われかねません。クライスラーとベンツおのおのの個性はどうなるのでしょうか。個性がなければ車は売れない。僕らは商品の個性はもちろんのこと、企業自体の個性、そして企業で働いている人たちの個性も大事にしていきたいと考えています。大きければいい、というものではないんです。 〔城山〕なるほど。 〔吉野〕確かにGMは自動車では世界一の巨大企業です。しかし、だからといってGMの支配力がどんどん強まっているかというとそんなことは全然ない。GMのお膝元であるアメリカでもホンダやトヨタの車がどんどん売上げを伸ばしています。GMの車で米国のベストセラーに入っているのがあるでしょうか。いつもフォードのトーラス、ホンダのアコード、トヨタのカムリが一位を争っている。GM車なんてベストセラー・カーには一台も入っていない。アメリカのお客さんはアコードという車の個性を買っている。つまりお客さまにアピールする商品を作ることが何よりも大事で、会社の規模はそれほど重要ではないんです。それともう一つ、大型合併で失われかねないのがスピードです。世の中の変化が非常に速くなっていますから、それに対応できるスピードが企業にとって何より重要になってきています。しかし、企業が巨大化するとそのスピードも落ちる可能性が出てくる。ですから他社の合併を恐れることは全くない。だから僕らは全然心配していません。あとは自分たちに先を拓《ひら》く技術があるかどうかです。 〔城山〕吉野さんはセールスをやられても成功していたでしょうね。言葉に説得力がある(笑)。 〔吉野〕セールスも一時やっていたことがあるんです。 〔城山〕そうですか。いま、日本の経済状態が悪くて自信喪失というか、愚痴っぽい経営者が多いのですが、吉野さんは違いますね。元気がある。 〔吉野〕常にお客さまの視点で考える企業は元気ですよ。現在苦しんでいるのは、官との結びつきで伸びてきたとか、規制に守られて仕事をしてきた企業だと思うんです。僕らは以前から世界中のお客さまの目線にあわせて仕事をしてきたから、国に頼るという気持ちはありません。 〔城山〕ニューヨークに住んでいる人に聞いたのですが、アメリカの車、あるいは日本の車でも売るときにがくっと値が落ちるが、ホンダのアコードだけはあまり値が下がらないという。本当ですか。 〔吉野〕それは長年築き上げてきた信頼性によるものだと思います。製品の信頼性こそがすべての出発点です。 〔城山〕アメリカはグローバリゼーションを唱えている割りには、自分の国の自動車産業はグローバル・ベースに立っていないのですね。 〔吉野〕その通りです。たとえばアコードはアメリカと日本では仕様が少々違うのです。昨年から作りを替えています。 〔城山〕なぜですか。 〔吉野〕国によってお客さんの求めるものが違うからです。アメリカではサイズが大きくてゆったりと快適で、しかも丈夫でないといけない。日本だと一年間で一万キロも乗ったらたいしたものですが、アメリカでは二万キロ以上乗ります。一方、日本のお客さんはよりファッション性があって、小回りがきくものを求めます。そしてヨーロッパのアコードはまた違う。基本の部分はもちろん共通ですが、サイズだとか細かな味付けの部分を国によって作り分けているんです。 〔城山〕要するに地域によるローカル性を持たせたグローバリズムですね。 〔吉野〕同じ東南アジアといっても、たとえばタイの二輪タンクのデザインはインドネシアのものとは全然違う。同じ形でも、色とかデザインが違っただけで、それぞれの国で売れ行きが全然違う。タイで売れたものがインドネシアでは全く売れないのが現実です。 〔城山〕まさに「フォー・ワールドワイド・カスタマーズ・サティスファクション」ですね。そのためにどういう努力をしているのですか。 〔吉野〕世界中のお客さんのためにわれわれはやるんだというのがキーワードなんです。販売店から上がってくる情報ももちろん大切ですが、お客さんの要望を一刻も早く製品に反映させるために、開発部隊を世界中に展開しています。アメリカに九百五十人くらい、ヨーロッパに二百人、それから南米、シンガポール、バンコクにも置いています。僕がホンダに入社したときが研究所全体で六百人という規模ですから、開発部隊には相当の人員を割いています。 〔城山〕グローバルに展開していくと、逆にどうやって企業の求心力をつけるかというのも問題になってきますね。 〔吉野〕ホンダはいま世界で十二万人くらいの従業員を抱え、そのうち外国人が半数を超えています。米国オハイオ工場は一万三千人規模で、これは鈴鹿工場よりはるかに大きい。日本よりも海外のほうがビジネスの規模はどんどん大きくなっています。これだけ大規模になってくると、世界中の各組織が自立していかないとやっていけません。労働問題ひとつとっても、それぞれの国でカルチャーが違うのですから、本社からいちいちああやれこうやれと言っても、うまくいくわけがありません。とても無理です。したがって、各地域の自立性を高める分散型の経営を行っている。しかしホンダの基本的な考え方──フィロソフィーは世界共通で持ちたい。それが、繰り返しになりますが、「お客様の満足」ということです。 〔城山〕昔、あるオートバイ評論家から面白い話を聞いたことがあります。かつて何百とあったオートバイメーカーの中で、いま残っているのは四社くらいですが、ホンダがトップとして残った。どうしてホンダが勝ち残ったのかと聞くと、ホンダは何か批評すると、対応がいちばん速かったと言っていました。すぐに現物を作りなおして持ってきた、と。ところが他の社は反応があまりないし、たまにあったとしてもちょっとした手直しでお茶をにごしていたと言います。ホンダだけが違っていた、常に本物のもの作りを目指していたというんですね。  しかし、そのホンダも「普通の会社」になると、本物を目指さなくてもいい、とはなりませんか。本物を目指すと効率はどうしても悪くなるのではないですか。 〔吉野〕お客さまの声を聞いて、それに応えるということが大事だということに尽きると思います。またいかに速くそうした要望に応えるかが問題になってくる。結局、お客さんを騙すことはできないんです。ニーズに合わなければ、車は売れないのですから。お客さんの要望を聞いて対応する速さを磨きつづけるためには、やはり「普通の会社」というわけにはいきません。「普通の会社」では競争には勝てない。我々はそのためにレースなどというとてつもなくお金のかかるものにも参加しているのです。F1はいっとき撤退しましたが、インディは続けているし、二輪のレースも同様です。レースというのは、負けたらそれに対する分析と解答と対策を、次のレースまでに用意しなければなりません。それをわずか一、二週間でやらなくてはならない。過酷なレースで培われたスピード──車のスピードだけでなく対応のスピードは、ビジネスの世界でも活きてくるのです。 〔城山〕今年の三月、来年にもF1レースに復帰する方針を発表されましたね。F1は出費も多く年間百億円ものお金がかかるそうですが。 〔吉野〕確かにお金はかかりますけれども、会社にとってやるだけの価値は十分にあります。F1はレースの頂点にあります。これはコンペティション(競争)のシンボルです。設計、メカニック(技術者)、ライダー、マシーン、すべてがうまく機能しないと勝つことはできません。総合力が問われるのです。レースに参加すれば、緊張を強いられ、挑戦を続けなければならないし、世界中を転戦すれば、国際性も自然に身につくでしょう。ビジネスにも役立つ人材が間違いなく育ちます。 〔城山〕レースと違って、地味なテーマですが、環境問題があります。ハイブリッド・カー(電気とガソリンを併用する自動車)などは当然、ホンダがやるべきだったという声も聞きます。 〔吉野〕そのご指摘は認めざるを得ないところもありますね。資源やリサイクルを含めた環境問題でもいちばんを走りたいというのがホンダのスタンスですから。我々は人の健康を最優先に考えて、有害排ガスをいかに少なくするかという研究にいちばん力を入れてきました。いま都市の大気は非常に汚れていて、環境庁が定めている大気基準すらほとんどの都市が満たしていません。最近も東京で光化学スモッグが出ました。アメリカでも日本でも呼吸器の疾患を患っている人たちが大勢います。ホンダは排気ガスを都市の大気よりきれいにするのを目標にしています。有害ガスをいま走っている車の百分の一とか千分の一にする。技術的には目処《めど》がついていて、首都高速でもロサンゼルスでも実証済みで、量産するための準備を進めているところです。 〔城山〕吉野さんは技術者としてエンジンの開発に携わっていたということですが、そもそもホンダに入社されたのはどうしてなのですか。 〔吉野〕最初はホンダが飛行機をやるという話だったんです。昭和三十七年頃のことですが、私は大学で航空工学を専攻していて、就職の前にホンダの研究所にいた先輩を訪ねると、その人が言うには、飛行機まで作るかどうかはわからないが、自動車用のジェットエンジンを開発するとのことです。ジェットエンジンをやるのならいいかと思って入社を決めました。その時こうも言われたんです。石川島播磨とか三菱重工とか行ってみろ、十年以上何もやらせてもらえないぞ、ホンダに来れば、明日からでも好きにできる、と。この言葉がききましたね(笑)。 〔城山〕それは若い人にとって魅力的ですね。それですぐやらせてくれたのですね。 〔吉野〕ええそうです。でも大学の先生からは、ホンダなんかに入って、将来どうなるかわかったものじゃないぞと言われました(笑)。 〔城山〕でも仕事ではその後期待を裏切られなかったのですね。 〔吉野〕ええ。その当時ジェットエンジンを自動車に応用するというのが時代のテーマで、世界中で研究が進んでいました。入社して二、三年のころ、クライスラーの試作車が出て、赤坂でモニターテストしたこともあります。なぜジェットエンジンかというと、自動車用のピストンエンジンは排気ガスをきれいにするのが難しいのですが、ジェットエンジンは連続燃焼なので比較的排気ガスをきれいにしやすいし、振動も少ないんです。  いま思い返してみると、研究所員がわずか六百人くらいのときに、ホンダは四輪をやろうとしていたし、レースにも力を入れていた。加えてジェットエンジンの開発です。怖いもの知らずというか、よくやったもんだと思います。 〔城山〕確かにホンダが今日あるのは、オートバイメーカーでありながら四輪に乗り出したり、四輪を始めて間もないころにサーキットを作ったり、身分不相応なことをしてきたからですね。ジェットエンジンはその後どうなりました。 〔吉野〕私は五年くらいで開発から離れて、その後四、五年で結局中止になりました。ジェットエンジンは、高い馬力を連続して使うには効率がいいんですが、自動車のように発進とか加速以外はほとんど低馬力ですむ乗物には相応《ふさわ》しくないんです。それに連続燃焼だから高級な耐熱材料が必要なので金がかかったのが理由です。  ところが、十年ほど前からジェットエンジンとビジネスジェット機の機体の研究を再開して、わりといいものができつつあります。小型のビジネスジェット機の需要がアメリカで次第に高まっているんです。  七三年にホンダがアメリカのマーケットに本格的に入っていったとき、最も売れた車がシビックでした。当時、アメリカでいちばん下のクラスの自動車は、二リッターで、それに対してシビックはわずか一・三リッター。ホンダはシビックでアメリカのマーケットの底辺を獲得したんです。いまアメリカのビジネスジェットでもっとも需要があるのが、車に譬《たと》えるとアコードクラスなんです。うちがいま研究しているのはその下の数人乗り用のシビッククラスになります。小さいほど難しいんですよ。 〔城山〕そういうことまでやっていれば、研究所の人数が増えるのはあたり前かもしれない。ホンダは好きなことをやれる会社だからいいですね。会社を辞めたいなんて思ったことはないのですか。 〔吉野〕ないです。 〔城山〕前任の川本さんは、F1を撤退するのに反対で、ひと月くらい会社に出なかった。三代目の社長の久米さんも本田さんと意見が対立して四国へ行ってひと月帰らなかったことがあったそうですね。面白い会社です。それでまた復帰できるのだから不思議だ。普通なら、社長に楯突いてひと月も会社を休んだらクビになるでしょう。クビどころか後に社長になってしまうのだから(笑)。 〔吉野〕結局、普通の会社にはなれないのかもしれませんね。 〔城山〕なれないですね(笑)。吉野さんは入社されたときに、将来社長になることを想像されましたか。 〔吉野〕いや、とんでもない。川本さんもそうでしょうけれど、技術屋はそもそも入社するときからそういう発想がないんです。社長業などしているより、車を作っている方がよほど楽しい。 〔城山〕よく社長になった人が副社長時代は良かったと言います。社長はつきあいも多いし、副社長のフクは幸福の福だと。 〔吉野〕自動車は企画から量産までに三年くらいかかります。したがって三、四年後の世の中の動きを読まなくてはなりません。ホンダは昨年から「スモール・イズ・スマート」というキャッチフレーズを展開しています。小さい方が賢い、と。一つには省エネルギーという動きに対応するためですが、ビジネスのやり方もスモールカンパニーのまま俊敏さを生かしていこうということです。果たして「スモール・イズ・スマート」が三、四年後の世の中とマッチするかどうかが問題です。たぶんするだろうと思っているのですが(笑)。 宗雪雅幸(富士写真フイルム) ■宗雪雅幸(むねゆき・まさゆき) 一九三五年生まれ。五九年京大経済学部卒、富士写真フイルム入社。九六年社長就任。二〇〇〇年副会長就任。 〔城山〕いま海外に進出している日本の企業は、多かれ少なかれ、世界との付き合い方が問われています。今年(九八年)の一月に、米国、コダック社との「日米フィルム戦争」が一応の決着をみましたね。 〔宗雪〕はい。世界貿易機関(WTO)が、日本のフィルム市場は閉鎖的だとする米国側の主張を却下して、日本側の主張をほぼ全面的に支持しました。 〔城山〕富士写真フイルムは、真正面から外国企業に戦いを挑みました。富士のように堂々と渡り合った日本の企業の例は珍しいのではないでしょうか。 〔宗雪〕私どもの会社で最も重視していることはクリーン・アンド・フェアです。コダック社が九五年五月にUSTR(米国通商代表部)に提出した報告書(題名「保護政策の民間移行」)を読むと、彼らは富士がフェアでないと言っています。このまま引き下がってはうちの社がフェアでないことを認めたことになる。コダック側は、昭和四十年代、五十年代の貿易自由化のときに富士が日本政府と共謀して外国企業にバリヤーを張ったと主張していましたが、これは事実と全く異なります。この報告書は非常に攻撃的な内容で、われわれの信用を著しく傷つけるものでした。 〔城山〕アメリカの企業に比べて、日本の企業はそういう宣伝戦に弱いと言われています。 〔宗雪〕そうはいっても、このまま黙って負けるわけにはいきません。彼らの報告書を詳細に分析して、引用されている文章とその原典とを一つ一つ丹念に照合してみると、いい加減さはすぐにわかりました。彼らは原典のいいとこ取りをしているのでした。要するに、全然違うことを言っている資料の一部を取り上げて、自分たちの都合のいいようにうまくつなぎ合わせ、一見論理の筋が通っているように見せているだけなんです。いわゆる切り貼りです。二カ月半後には『歴史の改ざん』と題した五百ページに及ぶ反論書を作り上げました。 〔城山〕それだけ膨大なデータを揃えて、堂々と立ち向かってこようとは、向こうは予期してなかったかもしれませんね。 〔宗雪〕米国企業との紛争処理には米国の法律知識が不可欠ですから、アメリカの弁護士と時には二十四時間ラインを繋げたまま、相談をしながら文章をまとめました。ただし弁護士からアドバイスをうけましたものの、任せっきりには決してしませんでした。反論の基本的な論理は、富士写真フイルムとして考え検討したものでした。 〔城山〕やる以上は中途半端でやっちゃいかん。徹底的に堂々と最後まで闘い通すぞという気概があったのですね。 〔宗雪〕膨大なデータを収集して、それをもとに事実で反論していこうというのが基本方針のひとつでした。もう一つはPRをきちっとやろうということでした。反論も文書を配るだけでは、私たちの意見が広く理解されるという期待がもてませんから、社内から出た提案を受けて、インターネットを利用して全世界に私たちの反論を流しました。二週間くらい徹夜でインターネットにのせる作業にあたり、記者会見の三十分後には、英語と日本語で全世界に我々の反論が流れた。やはりインターネットの影響は大きくて、米国のシンクタンクとか大学の先生方が、どっちの言い分が正しいのかと随分読んでくれました。双方の応酬を大学院のテキストにしたという学校もあったといいます。 〔城山〕苦労しただけのことはありましたね。 〔宗雪〕はい。ジャーナリストの取材はすべてといっていいくらい受けるようにしました。最初、米国の新聞記者たちは「日本市場閉鎖論」で凝り固まっていたのですが、段々と、私どもの主張に耳を傾けてくれるようになった。さらに草の根のPRとして、富士の米国工場の状況や、アメリカで八千人の雇用面での貢献をし、一千億円以上投資していることを、新聞広告や手紙で積極的にPRしました。富士は余所者《よそもの》ではない、アメリカの市民なんだよ、というわけです。 〔城山〕いまおっしゃったPRのノウハウというのは、いつの間に蓄積されていたんですか。 〔宗雪〕割合早くから若い社員をアメリカのロー・スクールに留学させていたのです。アメリカで弁護士資格を取って帰ってきた彼らが、今回の問題ではいちばん活躍してくれました。アメリカの法律を理解していなければ、世界に冠たるガリバー企業のコダック社にはとても太刀打ちできなかったと思います。 〔城山〕しかし、いくらロー・スクールを出ているとは言っても、上の人間がその意見を取り入れなければ、人材は活かせません。インターネットの件もそうですが、社員からの提案が非常に多いようですね。 〔宗雪〕そうです。社員からだけではありません。実はコダックとの件でも、お客さんの一人からある新聞記事の存在を教えられてずいぶん助けられました。私どもも反論の中で引用させてもらったんですが、数年前、コダックの会長が来日した際、ある新聞社のインタビューでこう答えていたのです。「日本での事業を進めるうえでの障害は、コダックにとってもうないと思っている。しかし、もしあるとすれば、それはコダック自身の日本市場での努力が十分でない場合だけ」(「化学工業日報」九〇年十月四日号)。この記事は会長の顔写真入りでした。コダック側はそれまで百八十度違うことを主張してきたのですが、この記事は大きな説得力があったと思います。 〔城山〕それは助けられましたね。しかし、素人考えでは、フィルム会社がどうして米国のロー・スクールに社員を留学させるのかという気もします。 〔宗雪〕実は、国際化時代を見越して、昭和三十年代の初めごろから、スイスの大学や米国の大学に写真化学の勉強に社員を派遣していました。四十年代からは米国のMBA(経営学修士)留学を始め、しばらくして、海外とのビジネスでは法律問題が重要になるというのでロー・スクールへの留学を始めたのです。おかげで今回のような外国との通商摩擦だけでなく、最近では知的財産権の紛争処理にも活躍してくれています。 〔城山〕昭和三十年代から社員を留学させるのは、会社としても相当なお金をかけたということです。当時は、それがどう実を結ぶか全くわからない。勇気がいりますね。 〔宗雪〕やはり企業は成長と安定が大切です。そのためには次に必要なものが何かを常に考えて、投資する必要がある。我々のようにグローバルに投資する場合には一件で百億、二百億すぐかかる。その意味では人間を含めた投資設備型の産業です。 〔城山〕株主の中からもう少し株主に利益を還元しろという声は出ませんか。富士写真フイルムは研究開発に売上げの九パーセントも当てています。化学産業の平均が五パーセントくらいですから、もっと減らしてもいいという意見もあるのではないでしょうか。 〔宗雪〕株主へのリターンが最優先という考え方からすると、そうかもしれません。しかし、内部蓄積は株主資本ですから、本来株主のものなのです。会社というのは持続して成長していかなければならない。それによって株主の期待に応えるというのが筋だと思いますが、いかがでしょうか。 〔城山〕長期で見るか、短期で見るかということですね。いま日本の経済状況が良くないこともあって、八〇年代とうって変わって日本型経営がよくないのではないかとさかんに言われ、一方経済好調のアメリカ型の経営がもてはやされています。経営方法について、宗雪さんはどうお考えですか。 〔宗雪〕例えば、PL(製造物責任)とか、いま日本が取り入れようとしている連結決算のやり方とかは、正にグローバル・スタンダードで、日本も外国も基本的には同じです。企業が安定し成長していくためにどういう数字を出さなくてはいけないかというのは世界中どこでも変わらない。ただしアメリカ的な経営方法とわれわれの方法とを比較すると、重点の置き方が少々違う。アメリカの場合は、圧倒的に株主重視です。株主にどれだけ多くの利益を還元できるかを最重要の経営課題だと考えている。しかし、会社運営の関係者というのは、株主だけでなく、従業員も取引先もさらには国家も含むと、私は考えます。そういった様々な集団の利益を考えながら、企業は長期的に成長し発展を続けなければならない。そのために必要な蓄積は、最低限しなければならないのです。そうでなくては企業は自助自立できない。もちろん、これには批判もあってそういうことが株主総会で議論となり大騒ぎになることもありますが、これは日本型経営という特殊なものでもなんでもない。経営の本質は、そういうものではないかと私は考えているのです。 〔城山〕社長になって、初仕事みたいに役員をポンと減らされましたね。これはわりあいアメリカ型の役員会の発想に近いのではないですか。 〔宗雪〕私の一存で減らしたわけではありませんが、時代の変化に対応して改革が必要だということです。終身雇用とか年功序列型の賃金とか、これは日本型というよりも戦後日本型と言ったほうがより正確かと思いますが、これまで通りで許される時代ではないのは確かです。役員会については、確かにスピードとか効率とかいったアメリカ的な考えを取り入れていくことが必要です。戦略的な役員会にするためには、とにかく人数を少なくする必要がありました。そうしないとまともな議論さえできないのです。 〔城山〕銀行の役員会などは、五十人くらいの役員が丸テーブルを二重に囲んでマイクを使いながらやってますが、あれをおかしいと思わないほうがおかしい。日本的、アメリカ的とは関係なく、本当に議論を煮詰めようと思ったら、人数は少なければ少ないほどいいのではないでしょうか。 〔宗雪〕そうですね。私どもの社も執行役員制度を新しく取り入れました。将来的には社外取締役の制度も視野に入って来ると思います。 〔城山〕宗雪さんはいまの日本経済の低迷ぶりをどうご覧になっていますか。 〔宗雪〕私にはとてもそんなことを論じる資格はないんですが、敢《あ》えて申し上げれば、戦後育ててきた経済の仕組みを建て直す時期に来ているのではないかと思います。戦後五十年の成長と発展というのは、悪く言えば、同時に老化であり硬直化が進んだということでもあります。現在のようにグローバルな競争が厳しくなってくれば、行き詰りが目立って来るのも当然です。やはりここは一回バラバラにして、いろんな点で仕組みの建て直しをしないといけない時期に来ていると思います。そうしないと日本は競争力を失うと思います。いまの停滞は、再生するためにどうしても通らなくてはならない関門のようなものです。 〔城山〕富士写真がその点で、比較的うまくいっているのはなぜなのでしょうか。 〔宗雪〕実は、富士はもっと以前に世界の競争の大きな波に何度も晒《さら》されてきたのです。昭和四十年代には、貿易自由化による外国製品の流入がありましたし、五十年代にはオイル・ショックで原材料費の高騰に悩まされました。さらに六十年代にはプラザ合意以後の円高で輸出に大きな影響が出ましたし、平成に入ると海外企業との通商摩擦が始まりました。しかし、いま振り返って考えてみると、富士が大きく変貌することに成功したのは、むしろ貿易自由化の危機の時期を経てなのです。自由化が進むなかで、世界企業として生き残っていくにはどうしたらいいかと本気で考えた。あの時、企業として生き残れるかどうかの瀬戸際で、本当に真剣に考えた結果が、いまいい影響を及ぼしています。厳しいコスト削減とユニークな商品開発を大切にするという発想は、自由化に伴う競争の恩恵と言っていい。海外進出をさらに進めたのも、その自由化のころだったんです。 〔城山〕辛い時期に逆に外にうって出ていったわけですか。 〔宗雪〕ええ。この時の海外進出の積極策が最近の米国や欧州その他での工場建設および製品生産に繋がっています。試練というのは、問題解決の鍵をいつも提示していると思います。逃げ回っていては絶対に解決しないと思うんです。 〔城山〕やはりいつの時代にも企業には危機というのがあるんですね。それを一つ一つクリアしてきて大きくなっていくか、あるいはそれを契機に衰えてしまうかは企業がその時に取る態度に依るところが大きいのでしょう。 〔宗雪〕もともと昭和九年の創業のころから、我が社は逆風のなかでスタートしました。当時の社員は本当に苦労したようです。それまで日本にある写真フィルムはすべて輸入品でした。フィルムを自分で作るというのは、当時の日本の技術レベルでは全くの暴挙とも言えた。実はそれ以前にアメリカの会社でさえ、日本での製造をあきらめているんです。こんな湿気の多い国では無理だと判断したんですね。その上、日本には材料となる化学薬品や機械技術などのインフラの整備が十分には整っていませんでした。それで当時の新聞は富士のフィルム製造を「暴虎馮河《ぼうこひようが》」と書いたと言います。出展は『論語』のようで、暴れ虎を素手で捕まえ、黄河を歩いて渡るという意味だそうです。要するにそれぐらい馬鹿げたことに挑戦するむこうみずと言われたわけです(笑)。高浜虚子の句に「去年今年《こぞことし》貫く棒の如きもの」というのがございます。去年、今年、貫いている棒のような太いものを感じるという。それは何かというと、チャレンジ・スピリットと信用だと思っております。暴虎馮河のチャレンジ・スピリットと信用ですね。 〔城山〕創業期の人たちは、それに敢えて挑んだわけですね。まあ、技術的に難しいし、もちろん営業的に見たって見通しは立たないでしょうし、それは確かに暴虎馮河かもしれません(笑)。 〔宗雪〕はじめの二年くらいは赤字で、会社が存続できるかどうか分からないという状態だったようです。社史を読むと、初代社長は、いまなら退職金が出せるから、と退職者を募集したそうです。でも誰も応募しなかった。よし、やろうと一致団結して頑張って、三年目から軌道に乗るんです。しかもこの年に当時のソウル・大連などに営業所を出しました。 〔城山〕しかし、あの時代にそんな大冒険をしても海外で日本のフィルムなど売れなかったのではないですか。 〔宗雪〕戦後も昭和三十年に、ブラジルに出店したのをはじめ、その後ニューヨーク、デュッセルドルフと非常に早くから海外での営業活動を始めていました。 〔城山〕戦後しばらくは、旅行で海外に行って、緑の富士フイルムの看板を見ると、いや、こんなところにも富士フイルムがあるのかという感慨がありました。いまはどこへ行ってもありますね。やっぱり暴虎馮河を続けないといけない。ちょっと調子が良かった会社がすたれてしまうのも、みんな右へならえで暴虎馮河をやらないからです。 〔宗雪〕海外で富士の看板を出し始めたのは昭和四十年代後半からですが、富士の挑戦も理詰めできちんと計算すれば、必ずしも暴虎馮河ではなかったのでしょう。とにかくチャレンジ精神を忘れては絶対にいけないと自戒しています。 〔城山〕戦後右肩上がりでずーっと来て、みんな右へならえばかりするようになったのもいまの日本経済がうまくいっていない理由の一つなんです。だから時代環境が少し難しくなるというのも、長い目で見ればいいことなのかもしれない。 〔宗雪〕ええ、そう思います。自由化のときには、外国の巨大企業が上陸するというので社内が本当に怯えたようになりましたからね(笑)。 〔城山〕現在の金融業界に似ていますね。 〔宗雪〕それでもあの頃は関税がありましたが、その後どんどん下がっていって、九〇年には写真関連の輸入品に対する日本の関税はゼロになりました。OECD(経済協力開発機構)の加盟国で関税ゼロの国なんて日本だけなんです。 〔城山〕そうですか。しかし、そういうことはあまり知られていませんね。 〔宗雪〕アメリカが三・七パーセント、ヨーロッパは五パーセント前後の関税をいまだ課しています。コダックに対する反論の中でも指摘していますが、アメリカ側の関係者は全く触れません。黙殺です。 〔城山〕都合の悪いことは言わないんですね。コダックとの熾烈な闘いを通じて学ばれたことも多いのではないですか。 〔宗雪〕グローバル・スタンダードということについて考えさせられました。人間の守るべきスタンダードには、モノを盗んではいけないとか、偽証してはいけないとか全世界共通の基本的なルールというのはあるのです。それでも世の中の紛争は絶えない。違う価値観があるからでしょう。とすれば、その前提の上で、人間同士うまく付き合っていくにはどうしたら良いのか。私は、相手を尊重しながら付き合っていくことが、グローバルな世界で生きていく上で最も大事なポイントだと思っています。協調するところは協調しつつ、争うべきところは争うという姿勢が大切なのではないでしょうか。実はコダック社とは、フィルム戦争の真っ只中でさえ、デジタルカメラの統一規格を作るための話し合いを続けていました。言いたいことを言いながら論争していくなかで、初めてお互いに相手を認識することが出来ると思います。きちんと意見を相手に伝えるコミュニケーション能力というのは、企業でも個人でも非常に大事だと思います。社長になってから外国のお客さんに接することが多くなりました。私の英語は本当にひどいのですが、とにかくブロークンでもいいから自分で英語を話して一対一でコミュニケーションを取るように心がけています。フェイス・トゥ・フェイスのほうがやはり気持ちが通じる。 〔城山〕宗雪さんの略歴を拝見しますと、本社の取締役になって、一年で常務、また一年あまりで専務に就任しています。こういう急ピッチの昇進というのはあまりないのではないですか。 〔宗雪〕どうでしょうか。短期間ではありましたが、輸出部門以外のあらゆる部門を担当しましたから、会社全体を見ることが出来ました。 〔城山〕宗雪さんは、お若いときに事務機を売るのに苦労をされたそうですね。 〔宗雪〕三十歳のころに写真式の複写機の販売を担当して売り歩いていたんですが、ある時から全然売れなくなりました。その頃関連会社の富士ゼロックスが出したゼロックスにあっという間に席巻されてしまったのです。流れに逆らって船を漕いでいるような気がしたものです。 〔城山〕関連会社の商品に負けるわけですから、よけい辛かったでしょうね。 〔宗雪〕ええ、流れに乗った商品の強さを思い知らされました。逆境の商品というのもやはりあるんです。もうどうしようもありませんでした。その頃、あるコンサルタントから独立して一緒に会社をやらないかという「悪魔の囁き」があったのですが(笑)、結局乗らなかった。私はこの会社が好きだったのです。 〔城山〕おそらく富士写真フイルムの歴史のなかでいちばん残念な事件と言っていいと思いますが、九四年に鈴木専務の刺殺事件がありました。そのとき宗雪さんは総務担当の専務で記者会見など引き受けていましたね。 〔宗雪〕あのときはわれわれ自身、一体なぜこんなことが起こったのかということが全くわかりませんでした。同僚が最悪の事態で亡くなってしまって、訳がわからなくなってしまった。すぐに現場にかけつけないのは冷たいとかマスコミからもいろいろとバッシングを受けましたが、実は警察から事態の内容がまったくわからないので絶対に動いてはいけないと禁足令が出ていて動けなかったんです。産業廃棄物処理場を巡るトラブルがあったのではないかとか憶測だけでいろいろな記事を書かれましたが、裁判を見るかぎりでは、脅しをかけようとして手元が狂ってしまった事故というのが真相のようです。鈴木さん自身、人の恨みを買うような人ではありませんし、仕事も総会担当ではありませんでした。当時は私が総務担当でしたから。 〔城山〕現在も身辺に気をつけているのですか。 〔宗雪〕経営者としては事故を起こさないように用心をするというのは当然のことだと思っています。うちの社としてはやましいところはないのですから、とくにどうしようということはありません。私どもが気をつけるべきは、クリーンと遵法の精神です。これしかありません。要塞のなかに閉じこもっていたのでは仕事になりませんから。 〔城山〕本社の役員になる前はビデオ・オーディオテープ販売の子会社に出向されていましたね。富士では子会社に出ると、普通は「片道切符」などという記事も読みましたが、出世コースから外されたという気持ちはありませんでしたか。 〔宗雪〕いや、全然ありませんでした。いまの時代は親会社が偉くて子会社がだめなどという時代ではないですよ。機能が違うだけで、むしろマーケットに近いほうがますます重要になっているのではないでしょうか。その意味で私にとって子会社への移籍は本当にやり甲斐のある「黄金の階段」でした(笑)。独自の商品を作り、マーケティング(市場調査)をして自分自身の販路を築くことが大事だと思っていましたから、喜んで移籍しました。実際行ってみると、当時の販社の人間の中には元気のない人もいましたが、しかし、人間というのは本来働きたいものなのですよ。くさりたくてくさっている者などいないのです。だから、やるべきことが納得できるとみんな大いに燃えてくれました。 〔城山〕実際にはどういうことをしたのですか。 〔宗雪〕ビデオテープは売れはじめていたのですが、当時オーディオテープは電器屋さんとかレコード屋さんの業界のものでした。そこに写真メーカーが進出していっても、なかなか小売店には受け入れられず、ブランド・イメージが定着しなかったのです。小売店の人を工場見学に連れて行ったり、勉強会を開いたりして、徐々にシンパを増やしていきました。 〔城山〕タレントをコマーシャルに起用して、オーディオテープの販売にも乗り出していったのですね。 〔宗雪〕AXIAというブランドを作り、若い層を狙いにいったのです。大人に聞くとテープはTDKでないと嫌だとかいうのですが、若い子たちはブランドに対するロイヤルティーというかこだわりがない。我々はこの層を半熟卵と呼んでいました。茹で上がった卵は無理だから(笑)。 〔城山〕富士というブランドではどうして駄目だったのですか。 〔宗雪〕経営評論家などは、富士は写真のイメージが強すぎる故、かえって拒絶反応があるとか解説してくれましたが、本当のところはわからない。しかし、事実、若い人には富士という名前はなじみがありませんでした。ちょうど第二次ベビーブーム世代の中学生が大きな顧客の層として存在したのが、幸いしました。私の末娘がその世代で、娘の話もずいぶん参考になりました。実際にいろんな市場調査をやって販促活動にみんなが火の玉のように取り組んだのですが、オーディオテープとビデオテープの売上高はそれまでの六倍にも伸びました。ちょうど市場が伸び盛りだったのが幸運でした。 〔城山〕努力の甲斐がありましたね。 〔宗雪〕やはりお客さまの意見がいちばん重要だということです。おじさんたちが頭をいくらひねっても自分の経験だけでやろうとすると大きく間違う。所長会議をやってAXIAというブランドでこの商品デザインでどうだ、と言ったらほとんどの人間が反対しました(笑)。 〔城山〕AXIAとは何からのネーミングですか。 〔宗雪〕ギリシア語で「価値あるもの」という意味ですが、会議に出てくる所長、課長クラスの四十歳をすぎた連中は全く受けつけない。ならば、どういうのが売れるのだと聞くと、黒くて重量感があるのがいいという。それはライバル会社の商品ではないかと言ったんです。君らはとにかく売ってくれ、とお願いした。買うのは君らではなくて、君らの子供の世代なんだよ、と。 〔城山〕しかし、ギリシア語で価値あるものという意味だということは誰も知らないわけでしょう。 〔宗雪〕ええ、買う人は誰も知らない。ただ、その響きを覚えてもらえばいい。名前を覚えてもらえるようにと、テレビコマーシャルで、最後に必ず「AXIA!」と入れたんです。そしてCMには人気タレントの斉藤由貴さんを起用して、結果的には売り上げを伸ばすことができました。「写ルンです」のときは、デーモン小暮さんです。 〔城山〕これも冒険でしたね。 〔宗雪〕ええ、これも若い人の意見です。若い人が絶対これをやりましょう、ということでした。しかし他の人の声も聞いてみる必要があると思いました。やはり不安でしたから。 〔城山〕他の人というのは会社の外ということですか。 〔宗雪〕ええ、内外のですね。デーモン小暮さんに決めたあと、たまたま経営者の集まりがあって、皆さんにデーモン小暮さんの名前を出したらほとんど誰も知らなかった。しかし、その会食の席で料理を運んでくる仲居さんたちがみな目を輝かせているのです。デーモン小暮は相撲好きだとか、実に詳しい。私たち経営者は、そういうことは知らないものなのです(笑)。 〔城山〕普通は経営者の意見のほうを聞くものですが、宗雪さんは違うのですね。 〔宗雪〕商品を買ってくださるのが誰かを考えれば答えはすぐわかります。自分の思想や経験だけでやると失敗する。我々が売ろうとしている商品で、我々が絶対に買わないような商品の場合には注意が必要でしょうね。こういうサクセスストーリーがいつでも通用するかどうかわかりませんが、新しいものに飛びついてくれるお客さまがいたという点で私はラッキーでした。 〔城山〕これも一つの「暴虎馮河」ですね。会社も人間も、絶えずチャレンジしていなくてはいけないということですか。 〔宗雪〕はい、そう思います。危機はピンチであると同時に、飛躍へのチャンスでもあるのだと思います。 インタビューを終えて  インタビューを読まれて、どんな感想を抱かれたであろうか。  その場の空気を踏まえての私の感想を述べさせて頂くなら、三者三様ではあるが、共通して楽しく勉強になる話を聞かされた、ということである。  とくに不快な話題をつきつけたわけでなく、それが当然といわれるかも知れぬが、これまで数多くのトップたちに触れてきた目から見ると、社長によっては楽しい話はしていても、身についている一種の権威を感じさせるものがあった。奥深い密室からやむなく姿を見せた感じとでも言おうか。  ピラミッドの頂点を極めた男だけが身にまとう目に見えぬ何かがあった。  ところが、この三人には、そうした密室性というか、構えたものがなく、といって、こちらに合わせようとするのでもなく、自然体であり、率直、そして明快であった。  初対面であり、それこそ一期一会かも知れぬが、人間対人間、あるいは友人同士として話し合おうという感じに近かった。  その感じは、どこから出てきたのか。  一つは、かなり自由な、あるいはクリーンな社風の反映である。  三社いずれも財閥系企業でなく、業界での老大国的企業でもない。官業密着型でなく、むしろ官僚の天下りなど御免といった社風である。それに、同族会社の澱《よど》んだ空気とも無縁。  その社風がよく知られている本田技研やソニーの場合とちがい、富士写真フイルムはどうかといえば、昭和三十四年当時、就職先を選ぶに当たって、フロンティア・スピリットとか侍の気概が好きであった宗雪雅幸氏には、「何となく気になり、閃くものがあった」ためで、同じ学生寮出身のまじめな先輩からの「とにかく、クソまじめな会社、いい会社だと思うよ」の一言が決め手になった、という。  そして、いまも「クリーン・アンド・フェア」が社是になっている。  次に、それらの社風にも関係あってのことだが、三人の社長昇進は在来型の人事からすれば、揃って意外性のあるものであった。  宗雪氏の場合、とくに帝王学を受けたわけでもなく、労働組合に出、販売現場を歩いた。プリンスとして格別の路線に乗ったわけではなかった。  それが、下地あってのことであろうが、あるとき取締役になると、一年で常務へ。さらに一年で専務、そして社長へと、あれよあれよという間に、上昇気流に吸い上げられた感じであった。  一方、本田技研では、四十代から五十そこそこで新社長就任という人事が、同社の路線と見られていた。  ところが、前任の川本社長は、同期入社で五十八歳の吉野浩行氏を社長に据えた。これはこれでまた予想外の人事として、評判になった。  またソニーの出井伸之氏の場合、気の強さがたたったのか、幾度か左遷に近い経験をし、ついには新設のテレビ局へ出され、これで一巻の終わりと見られたのが、本社に復帰。個性の強い大賀前社長によって、一気に十四人抜きで常務から社長へと抜擢された。  これまた番狂わせの人事として、評判になった。  日本の大企業では、ピラミッドの頂点を目指す男はひたすら人間関係に気をつかって、社内外に人脈をつくり、一段一段と確実に頂上に登りつめるが、そのあとには権威のかたまりとなって、奥の院に納まり君臨する。そして、その地位に綿々として、いつまでも院政を布《し》いたりする。  ところが、三人の場合、「研究所長時代が懐しい」とか、「事業部長時代がいちばん楽しかった」などといったつぶやきに、本音がにじんでおり、全力投球はするものの、いつ辞めてもよいといった身軽さを感じさせた。  出井氏がインターネットのホームページで、自らの日常を公私にわたって見せ、同時に社員たちの声を聞くといったことも、これまででは考えられない例であった。  こうした社長たちの語りが、新鮮であり、楽しく感じられるのは、当然であった。  元気のよい三社の前途に、暗雲や嵐が無いとはいえない。  小さな政府を実現し、身軽になって攻めこんでくるアメリカに対し、日本ではかんじんの行革は官僚や族議員に遠慮して、ほとんど手つかず、それでいて福祉は後退し、ビッグバンでは、にわかに国民の「自己責任」を要求するなど、野党側からの批判ではないが、まさに「改革抜きの負担増」。  これでは、消費の本格的回復など、望めそうにない。  日本の輸入増を要求しながらも、日本人の目線に合わせた車をつくる努力もせず、「自主規制」の名で日本車の輸入制限をつづけるアメリカ。  フィルムの輸入について、日本だけが関税ゼロというのも初耳で、それでいてなにがグローバル・ベースというのか。  金融ビッグバンにも見るように、アメリカなどは政官財一体になって攻めこもうとしており、日本政府は言われるまま。日本への風圧は今後もふえこそすれ、減るとは思えない。  本田技研は「スモール・イズ・スマート」を唱え、巨大企業になったいまも発足当時の初心を失うまいとする。  そういえば、ソニー創業者の井深大氏は最晩年まで、「下請け」と呼ばれる中小企業の頑張りぶりを褒め、私もすすめられて、その幾つかを見学したほどであった。  だがすでに体力の弱っている金融が、「グローバル・ベース」なるものでさらに力を失えば、貸し渋りに走ったりして、これら中小企業の足をすくうことになりかねない。  国内での競争によって互いに強くなったという日本企業も、共に足払いをかけられてしまえば、どういうことになるのか。  それにしても、吉野氏の言うように、数百万という個々の客の目線に合わせ、客を満足させるためのあらゆる努力をするということは、無限に近い課題を自らに課し続けることであり、状況がきびしくなればなるほど課題はふえ、さらに変化を迫られることになる。  ソニーがまだ小さな会社であったころ、井深氏が自らに言い聞かすようにつぶやいた言葉を、私は思い出す。 「常に変化して生きることに努力しています」  それは三社の三人、そして、その全従業員に当てはまる言葉のはずである。 本田宗一郎は泣いている ■本田宗一郎(ほんだ・そういちろう) 一九〇六年生まれ。四八年本田技研工業を設立。九一年逝去。  本田宗一郎さんは敬愛してやまぬ人でした。  わたしは『燃えるだけ燃えよ』(講談社文庫)の取材のため、百時間、本田さんに密着して話を聞いたのをはじめ幾度もお会いしましたが、枝豆を口いっぱいに頬ばり、ビールの泡だらけの口での何気ない語りの中から、こちらがはっとさせられたり胸打たれたりすることが、しばしばでした。  最後にお会いしたのは昨年(九〇年)七月のことで、このときには、もはやその感動は詩でしか伝えられぬ思いがし、ついに一篇の詩にしたほどで、悲しいことに、それがいまは献花になってしまいました。 元社長  あなたの家の庭での恒例のパーティ。 「このごろ、どうされてますか」  わたしの問いに、あなたは叱られた子のように頭を掻き、 「毎日家に居て、やることがなくって困ってますよ」 「絵はいかがです」 「前ほどおもしろくなくなっちゃった」 「ゴルフは」 「これも、おもしろくない」 「じゃ、何がおもしろいんですか」  一瞬の間を置き、あなたはわたしの耳に口を寄せ、ささやいた。 「仕事。本当におもしろいのは、仕事だけ」  稲妻となって、わたしを打つ言葉であった。  あなたは黙り、あなたの悪戯っぽい瞳にも、きらりと稲妻は光った。  仕事──。  あなたが一代でつくった会社の名は、いま地球を蔽っている。ニッポンを知らぬ人も、あなたの会社を知っている。  それほどの会社を、あなたは二十年も前に若い後輩たちに託し、一気に身を退《ひ》いた。まるで、急に仕事に飽きたかのように。  そのあなたの中で、いまも仕事がそれほど好きであろうとは。  緑濃い芝生。  あなたと同じテーブルには、あなたを見習い、その後、一気に会社を退いた社長、会長、副社長たち。  まだ若いのに、みんな仏さまのようにいい顔をし、会社以外の話ばかりしている。  東京の真中のあなたの庭で、その一卓が弥陀の浄土になった。  光の輪の中のあなたの名は──本田宗一郎。 (「現代」平成三年一月号)  近頃、証券・銀行の不祥事とバブル経済の終焉で経営者の姿勢が問われるようになったが、その点、本田さんはいわゆる“バブル経営”の対極にあった人でした。  今回のような事態を招いたのは、一言でいえば、企業のトップに「儲けさえすればいい」「収支決算、バランスシートさえよければいい」というイージーな考え方がはびこっていたからです。もちろんそれではダメなわけで、企業のトップたるものは、そこから一段上がって「社会に迷惑をかけるような形で儲けてはいけない」、さらにもう一段上がって「少しでも社会に役立つような形で儲けなくてはいけない」という考え方でなくてはならない。つまり、企業のトップには、社会に迷惑をかけてはいけないというけじめと、さらに社会のためにならなくてはいけないという前向きの姿勢、つまり経済性を越えるものが本来求められているわけです。  ところが本田さんの場合は、さらにもう一段それを越えている感じがあった。たとえば、本田さんは四輪に進出する時に、世界最優秀の自動車生産設備を買い入れたが、その設備投資が莫大すぎて、本田技研は潰れると言われた。その時に、本田さんは「潰れてもいい」とまで言ったんです。つまり、自分の会社は潰れたって、この優秀な設備が日本のために残ればいい、ということです。  ここまでくると、単なる経営者の姿勢を越えた、むしろ一種の「気概」というか、「志」というか、「ロマン」に近いものがあったといえる。そういう意味で最高のトップだったという気がします。そこまで吹っ切れたトップがいたからこそ、日本の戦後復興はなされたし、そういう厚みのあるトップ層によってこれまでの日本の経済が支えられてきたと言えるが、いま見回すと、そういうしっかりした姿勢をもったトップ層はほとんど霞んでしまいましたね。  これは自動車部品関係の人たちに会って聞いた話ですが、外国から調査団とか、視察団とかが来ると、とにかくホンダの工場を見たがるというんです。しかし、トヨタの工場などは全然見たがらない。ホンダは非常にクリエイティヴで、自分でいろんなものを作り出して大きくなってきた。それが外国の人々にとっては魅力なわけで、それこそ財テクや下請け叩き、あるいは他の業者を締め出すことによって大きくなってきた企業、あるいはそういった手法などは、世界の同業者にとっては何の興味もないということなのでしょう。  同業者としては、アメリカのアイアコッカなども、伝記がかなり読まれ、もてはやされているが、彼がクライスラー社を建て直したのは、要するに国からお金を引き出したことと、政治力で日本車の輸入を抑えたからであって、なにも経営者としてずば抜けていたからではない。それに彼は栄耀栄華をほしいままにして、ものすごい贅沢をし、少し会社が苦しくなっている時に、自分の豪邸を会社に買わせるようなこともしたとか。正直いってもてはやされるほどの理由はないんです。  そのアイアコッカが来日した時、本田さんが彼と話しあったというから、どんな人物ですか、と私が尋ねたら、「つまらん男だよ」。ただ、その一言でした。話しあっているうちに本田さんにはアイアコッカという男の本質が見えたのでしょう。  そうしてみると、本田さんは、日本の経営者としてずば抜けていただけでなく、同時代の世界の経営者のなかでも卓抜した存在だったと思います。本田さんはしばしばヘンリー・フォードにたとえられるが、フォードをも十分超えるものを持っていた気がします。  ある時期までは、確かにフォードの方が発明家として本田さんより優れている。しかし、フォードの後半生はめちゃくちゃです。彼は政治に手を出し、上院議員選挙に出馬して大統領候補にかつがれようとした。T型フォードに固執して新車種の開発を遅らせた。最初は非常に高い賃金を払って労働者の味方という感じだったが、後になると労務屋を側近にして、労使関係をこじらせ恐怖政治をやった。経営数字を無視する乱暴な経営をやった。パートナーたちと衝突し、追い出し、あるいは去られた。そうして彼自身がいるあいだに、フォード社はだめになったわけです。  これはフォードだけでなく、多くの創業者社長の陥るコースだが、本田さんは、そういうものを実にきれいにくぐり抜けた。本田さんが自戒していたのは、まさにヘンリー・フォードの晩年の二の舞いを演じないことだったのです。そのために最後まで権限を一手に握ることはしなかった。  日本の場合、戦後うまく伸びた企業は、権限がひとりに集中していない。たとえばソニーは井深大と盛田昭夫、トヨタの場合は石田退三と神谷正太郎というように、生産と販売に分かれた組み方をしたところがうまく成長してきたんです。  本田技研の場合はその分権が最初からできていた。それも藤沢武夫さんという非常に立派なパートナーに恵まれた。  本田さんは昭和二十四年、知人に「金のことは任せておける男」として藤沢さんを紹介された。藤沢さんは技術には弱いが、販売や経理には明るい。一度あっただけで、本田さんは彼を常務として迎えることに決めた。「藤沢は自分にないものを持っている。考え方はちがうけれど、ちがうからこそ組む価値がある」というわけです。本田さんは藤沢さんと組むと同時に、自分の実印を彼に預けて、その使われ方どころか、実印のある場所も知らずにすごしたという。そして本田さんは、経営、販売、労務などについてはすべて藤沢さんにしたがった。 「よく藤沢さんにしたがいましたね」と尋ねたところ、本田さんは、「世界には四十五億も人間がいるが、みんなとつきあうわけにはいかない。藤沢と僕の出会いはその代表みたいなもので、藤沢はいわば四十五億の代表ですから」といって笑っていたけれど、人間そうはなかなかなれないもんです。それどころか会社が大きくなるにつれて、そういうパートナーを追い出してしまうケースが多い。  本田さんとフォードは類似点がたくさんある。二人とも凝り性で、不可能という言葉を知らない人間だったし、レースに勝つことで発展のきっかけをつかんだ。フォードはレースで大破した車の破片を拾って、それがパラジウム鋼という新しい特殊鋼だと知り、それを導入してT型フォードの生産に乗り出したし、本田さんはヨーロッパの工場見学で拾ったクロス・ネジを採用することで大幅に生産性を上げた、というように逸話も共通している。  それから奥さんもよく似ている。フォード自身、「妻は自分の信者だった。それが自分を支えてきたんだ」といっているように、フォードの奥さんはフォード信者といわれるほどだった。本田さんの奥さんのさちさんも、本田さんが若い時にずいぶん遊んで、周囲にはもう別れなさいと言われた時、「あの人はきっと何かやる人だと信じています」と答えていたそうです。  しかし、フォードとの決定的な違いは、本田さんが分権できたことです。 「社長と帽子は軽いほどいい」といいますが、社長というものはなってしまえば、どんどん重い存在になり、他人を無視したり、追い出したりするようになる。それを最後まで重くならずに通したのは、本田さんの凄さだと思いますね。  本田さんのもうひとつの偉さは、「会社を私物化しない」ことと「引き際のよさ」でしょう。 「会社を私物化しない」ことから言えば、本田さんも藤沢さんも自分の息子を本田技研に入れるのはやめようということで一致していた。会社は自分ひとりで作ったのではなく、みんなで作ったものだ。自分ひとりで作ったのなら息子を入れてもいいけれど、会社がこれだけ大きくなったのは大勢の人々の手で作られたわけだから、自分ひとりのものにしてはいけない、まして会社にはみんなの命がかかっているから、息子を入れるなどとんでもない、というのです。  本田さんはこうも言っていた。 「息子や親戚でないと社長にしないとか、東大出でないといかんとか、企業に関係のない条件で社長を選んでいるところがある。みんなが見ているというのに、それでいいと思っているんですかね。会社は大勢がメシを食うところ、大勢の生命の源泉です。そこを忘れたら、会社はつぶれますよ」  本田さんは徳川家康が大嫌いだった。家康は江戸城を作る時に全国からいろんな労働者、技術者を集めてきて、城が出来たとなると城の秘密が漏れると全部殺してしまったが、本田さんは、「そんな馬鹿なことはないだろう、苦労して城を作ってくれたのだから大事にするなり、せめて情報の隔離ということからすれば島流しくらいがあたりまえで、殺すとは何事だ」と本気で怒った。そして小説『徳川家康』の著者、山岡荘八氏に四回も質問状を出したそうです。それは、経営者が『徳川家康』を読んでバイブル扱いにしており、家康が経営の神様みたいにされるのは許し難い、「経営で一番大事なのは心と心の触れ合いだ。ああいうやり方は全く心ない仕打ちだ。あんなのは神様じゃない」という理由からです。  渋沢栄一なども「家康や秀吉は天下国家を我が家にした、だから許せない」と非難しているが、同じ思想が本田さんにもあったのでしょう。家康のように子供を跡継ぎにして絶対君主にするのは、天下国家、つまり自分の会社を我が家にしてしまうことだ。小さいといえども会社は天下国家なんだから、それを我が家にしてはいけない、という思想です。だから、会社は私物とは違うと言って、本田さんは、自分の会社に「ホンダ」の名前をつけたのは失敗だったと悔やんでいたほどでした。  ところが、近頃はサラリーマン重役でも、社長になると自分の息子を堂々と跡継ぎにする者が出てきている。しかも、公共事業のトップまでがそういう人事をやるんだから、けじめのないひどい経営者が出てくる世の中になったものです。  財界には、戦前は小林一三とか池田成彬、戦後は土光敏夫といったうるさい隠居じいさんがいたが、いまはそういう気にする人がいないものだから、社長になると好き勝手やり放題です。本当に自らを律することができる人しか社長にしてはいけないのですが、いまは社長が次期の社長を選ぶのに、自分にとって都合のいい、自分を大事にしてくれるやつかどうかという基準で決めるケースが非常に多い。会社というか、天下を我が家とする発想の最たるものです。  一連の銀行不祥事でも、上は「あんなことが起きるとは思わなかった」「チェックのしようがなかった」などというが、トップがやりたい放題やっていれば、下も似たようなことをする。やはりトップの姿勢に問題があったと言わざるをえない。政策などはみんなで考えればいいことで、社長は政策を決めたら、それが動き出したのをチェックして、会社の姿勢はいまどうなっているかさえ気にしていればいいんです。ところが、このごろは自分が政策の旗振りをして、姿勢を問題にしない社長が多い。これだけ成績が上がった、シェアが上がった、株価がいまいくらだ、そんなことばかり言っている金太郎飴的な社長ばかり多くなってしまった。  本田さんは「引き際」も見事でした。  昭和四十年代の半ばごろ、本田技研の社内に本田さんの開発路線に対抗する考え方が出てきた。四輪空冷エンジンで性能を重視する本田さんに対して、若手技術者は居住性を重視して水冷エンジンを主張したんです。それをきっかけにして、四十六年に本田さんは兼務していた研究所社長の職を退いた。そして二年後の四十八年正月、副社長の藤沢さんが、「今年の創立記念日にはやめたい」といってきたのに本田さんは「二人いっしょだよ、おれもだよ」と答え、社長、副社長同時に後進に道を譲った。  この時の心境を、本田さんは「退陣のごあいさつ」の中で次のように語っています。 「アメリカでも、成長企業の社長の平均年齢は四十代で、六十代の社長が率いる会社は活気がなく、停滞する傾向があるといわれている。若いということは、何とすばらしいことかとつくづく感じた。……私に目をみはらせるような新しい価値観、企業と社会のかかわり合いについての新鮮な感覚、こういうものの上に築かれる、フレッシュな経営が必要な時代になってきているのだ」  社長退陣時、本田さんは六十六歳。本田さんも藤沢さんも実にきれいな辞め方でした。それに比べて社長の地位に恋々としている経営者のいかに多いことか。だいたい会長、社長が何年かでスパッとやめて世代交代がうまくいく会社は活力があるものです。興銀なども中山素平さんたちがきれいに辞めていった時代はよかったが、その後長くトップに居座った人がいたことが今回の事件の遠因になっているのではないでしょうか。  八〇年代、とくに民活以降、企業の目的は儲けることのみで、儲けないことは悪いことだという風潮がはびこった。しかも、財テクのように苦労しないで、本業とは違うところで儲けることが流行《はや》った。いわば「実」のない「虚」の時代だったわけですが、本田さんはおよそ「虚」というものから遠い存在だった。  それまで存在しなかった物を創り出す、あるいは動かなかった物を修理して動かす、といった技術者の喜びを一番肌で感じとっていた人でした。だから新車開発などでも、普通だったらサンプルを作ってから本物にとりかかるのに、本田さんはまず本物を作ってから開発した。サンプルというような「虚」の部分は信じず、「実」とか「本物」というものだけを信じた人だった。  昭和三十九年、F1レースに参戦した時にも、いきなりF1マシンの試作品を作って、それをたたき台にして試作に次ぐ試作を重ねた。全部本物を作っては失敗を重ねる。考えようによっては大変なロスです。実際、周囲からは、「ホンダは試作といっても最初から本物を作り、非常に無駄が多い」と批判されたが、本田さんはそう考えなかった。あくまで現物主義です。本物と取り組んでいなければ不安だというようなところがあって、「とにかく本物を作り出せば、そこから採算はついてくる」と言っていた。ここには「実」に始まり、「実」に終わる精神があった。実際に、F1マシンの開発からはS500、スポーツカーの名車といわれたS600、トラックT500、S800といった四輪車が続々と開発されているんです。  この「実の精神」の原点は、本田さんの若い時の体験にあると思う。まだ東京・湯島の自動車修理屋「アート商会」の小僧だったころ、本田さんは岩手県盛岡市に消防自動車の修理に出張させられた。当時まだ十八歳。盛岡駅には迎えが来ていたが、高価な消防自動車の修理に来たのが若造だというので軽蔑の目で見られた。ところが本田さんがエンジンを分解修理し、三日目に元通りに組み立てて試運転に成功すると途端に地元の人々の態度ががらりと変わった。それまで旅館の従業員がいる部屋の隣の小部屋に泊められていたのが、一番立派な部屋に通されて芸者が来て酌をしてくれる。そういった経験をへて、「実」をしっかりやれば、そういった花もついてくるんだということを若いうちから身にしみて感じていたんですね。  生まれからいっても、本田さんの父・儀平は村の鍛冶《かじ》屋だった。後には自転車を扱うようになったが、中古車を仕入れて改造したり、部品も自分で作ったりもして、修理ひとつにしても仕事ぶりは徹底していた。儀平の家の裏手に川があり、その崖は石組みになっているが、これはかなり立派なものです。儀平が金を出して「念には念をいれて」と寸分の狂いもなく、二重に組ませた石垣で、儀平という人はそういうきちんとした仕事でないと満足しなかった。本田さんにはそういう父親の気質が染み込んでいるのです。  また、出身地の風土に負うところも多いと思いますね。浜松は浜風というか強い風が吹いて、強い気性を生み、また機業地として新しいものへの好奇心や冒険心を育てたところだった。現に、後にトヨタを興した豊田佐吉もあそこから出てきたし、ヤマハの日本楽器も浜松から興った。  昭和三年に本田さんは、浜松で「浜松アート商会」を興し独立したが、修理仕事だけでは満足しなかった。「東海精機重工業株式会社」という新しい会社をつくりピストン・リング製造を始めたが思ったようにうまく製品ができない。トヨタ自動車に三万本納入しようとしたが、五十本の納品検査で三本しか合格しなかった。  それから本田さんは一念発起して浜松高工へ聴講に通った。それだけではなく、東北大学の金属学の研究室にもぐりこんだり、そこの紹介で室蘭製鋼所に入ったり。さらに北大に行き、その帰りには盛岡で南部鉄瓶作りの名人の仕事を手伝ったり。あの人は友達を作るのがうまいから、そうやっていろんなところへもぐり込んで実地研究という形で技術を盗み、肌で徹底的に勉強したわけです。  普通なら浜松高工で勉強したら、「理論がわかったから、あとは応用だ」となるところを、本田さんは実際に応用をやっている現場に行って自らの手で応用の「実」をつかみとってくる。そういうところはいかにも本田さんらしい。そして「千三つ会社だ」とトヨタにからかわれた東海精機の技術の方も日進月歩していった。  当時、石田退三はこういったそうです。 「わしはこの年までに“恐ろしい男”をふたり見た。無茶苦茶といおうか、われわれ凡人の頭では測りようのない発明研究家だ」  その恐ろしい男の一人が豊田佐吉、もう一人が本田宗一郎。石田退三は、当時、豊田自動織機の取締役支配人で、後にトヨタ中興の祖といわれた実利、実学の人。それほどの人が恐ろしい男という表現をするのだから、本田さんの「実の精神」はやはり大変なものだった。  本田さんは「実」の人であると同時に「自立」の人でもあった。  ホンダが四輪業界に進出しようとした時、通産省は「国内メーカーは、トヨタ・日産だけで結構だ。いままで(四輪を)やっていないものは、やってはならん。フォードやGMに勝てるわけがない」と言ったという。それを聞いた本田さんは、当時の通産次官の佐橋滋氏と大喧嘩した。しかし、この佐橋という男もアクが強いというか硬骨漢ですから、二人はにらみ合ったまま主張を曲げない。さらに通産省は、「トヨタ・日産以外はひとつに合同せよ」と言ってきたが、本田さんは「大きいものが永遠に大きいと、だれが保証できる」と怒って一歩も引かなかった。「われわれ自由主義の企業は役所に頼らないし、役所にくちばしをはさませない」というのが本田さんの信念で、よく「今日ウチがあるのは、通産省の言うことを聞かず、逆をやっていたからだ」と言ってはばからなかった。これは、まさにいまの日本の経営者と逆の姿勢です。  いまの日本の経営者の多くは、発想としてまず役所とうまくやろうとする。そして、役所の先に政治家がいればそれを抱き込もうとする。同時に経営者はそういうつながりを持つことで自分の地位を安泰にする。この三者の関係は高度経済成長期には政官財三位一体などといわれてもてはやされたが、いまアメリカに癒着だとかアンフェアだとか指摘されているのがまさにこの構造です。政治家は企業の族議員、通産省はメーカーの代弁人という一種の癒着の構造なわけですが、本田さんは経営の姿勢として、最初からそういうものを一切排除していた。そこにあるのは徹底的な自立の精神です。  オートバイ・メーカー時代にも、日本のオートバイ業界が、外国からのオートバイ輸入を規制しようとすると、本田さんは「規制などはとんでもない。オートバイを輸入しろ。輸入して外国製品と競争していくと日本のオートバイ・メーカーがちゃんとしたものを作れるようになる」と主張した。結局、三百社近くあった日本のオートバイ・メーカーは四社に減ってしまったが、ホンダはその最強メーカーとして微動だにしなかった。  四輪車でも、ホンダはひたすら、技術的に故障の少ない、速い、小さなエンジンで馬力が大きいよい車をめざし、ひたすら技術というか「実」の部分で勝負してきたが、ある時期から自動車がファッショナブルなものとして捉えられるようになった。その時、ホンダはシティという奇をてらったというか、ちょっとスタイリングの変わった車を出して売れたことがあった。そこで私は本田さんに、「ホンダは技術的にいい車さえ作ればいい、といって来たのに今度のシティはホンダの精神と違うのではないか」と尋ねたんです。そうしたら本田さんは、「いや、今はそういう時代になったんだろう」と言うんで、「本田さんはなにも言わないんですか」と聞いたら、「自分はもうそういうことはわからない。わからないことには何も言わないんだ」という答えが返ってきました。  わからないことには発言しない──これも本田さんの一貫した姿勢でした。創業者社長としては、「おれの意見を聞かないのか」とか「なんでおれが決めてきた伝統を破ったのか」などと言いたいところでしょうが、本田さんはわからないことには発言しない、その姿勢を崩さなかった。そういう点もやはり偉いですね。普通は社長になるともう何でもわかったような顔をして、わからないことにも発言したがる。しかし、そういうことから会社は狂い出すんです。  最高顧問になってから、本田さんが発言したのは、東京・青山の本田技研の本社ビルを作る際に、スタイリング重視でガラスの多い建物を建てると、大地震が起きた時ガラスが落ちて大変なことになる、だからできるだけガラスの落ちないビルを作れ、とそれだけです。  本田さんの精神の特筆すべき部分は何だったかというと、それは考え方の「健康さ」、「まっとうさ」あるいは「フェアネス」といっていいかもしれない。  前に述べた政府や政治家の力を借りない自立精神も「健康さ」の証明といえるし、およそ同業他社の足を引っ張るなどということはしなかったのもそうです。  また、経営の苦しい時に鈴鹿にサーキットを作って世界中の二輪、四輪を集めて競走させたのも、自分のところだけではなく、同業者にも外国車のすごさを見てもらってそれを業界全体の刺激にしようとした、つまり、競争相手にも利益になることをやったんです。  しかも本田さんは、レースの場で世界と対等に技術力の勝負をしようとした。オートバイ作りをやりだした頃から、世界的なレースに出たいという人でしたから、目は絶えず世界に向けられていた。だからこそ、保護主義や関税障壁などは世界を見えなくするものだという意識があったのだと思います。そこにあるのは、アメリカによく批判されるところの日本の閉鎖性とは対極にある極めてオープンな考え方です。  レースだけでなく、工場進出でも、目は外国に向いていて、実際に外国へ打って出て、ホンダの実力を試してみようとする。それもヨーロッパでもベルギーといった言語的にも民族的にも単一でないあえて難しい場所を選ぶ。アメリカでは西海岸ではなく、東海岸に近いオハイオ州に入り込む。  普通の企業だったら、なるべく成功しそうな、よしんば失敗してもいつでも撤退できるような場所を選ぶが、ホンダはいつも一番の激戦地というか、相手の懐へ飛び込んでいく。本田さんの気性として、いいかげんな戦い方をして勝ったか負けたかわからないようなのはいやなのでしょうね。  本田さんは戦国武将では信長が一番好きだと語ったが、それは信長の時代を変える新しい思想を買いたいということだった。だから彼は信長による比叡山焼き打ちを評価している。「苛酷なところはあったが、しかし、あのまま宗教が政治に入ってきたら、もっとこわいことになった。人間の考えまで支配するから。そこを信長はこわしてくれた」と語っているんですが、「過激」という意味ではなく、「基本的な」という意味でラジカルな人でした。  ただし、ラジカルでも人の心がよくわかる人でした。工場進出する場合でも、工場が地方に出ていって、周りの人の心にどう映るかということを考えれば、工場の周りには塀を巡らせるんじゃなく、林にして、どこからが工場かわからないような形にする。その木も生態系を研究して、一番その土地に合ったものにする。進出する場所にしても、トヨタは全く採算だけで、一番儲かる工場立地を考えるから愛知県に集中させたけれど、ホンダは求職難で困っているような県を探して、採算上は不利だけれど工場を遠くに持っていった。  熊本工場なども、阿蘇の火山灰が舞い込む心配があるというので立地としてはよくなかったのを換気装置を工夫したりして作った。そして工場の正面、玄関ホールのいちばん目につくところに熊本県の特産品を並べた。普通なら、自社のオートバイを展示する場所です。それで、「なんでそんなことをするのか」と尋ねたら、「ここは熊本の工場だから、よそからうちの社員が来てもお客様が来ても、熊本にはこういうお土産があるんだとまず見てもらう」という説明です。それに工場の周りの林には小中学生のためのキャンプ施設を作ったり、プールや体育館なども地元に開放する。社内には生活協同組合的なものは作らず、地元の店を利用させるようにする。  近頃、各企業がメセナなどと言っていますが、本田宗一郎という人はメセナなどという言葉がないうちに、雇用問題、環境問題、地元住民との関係など、企業は外の社会とどういう関係であるべきかというところまで考えていた。米国オハイオ州の工場なども、本当によく地元に溶け込んでいた。本田さんが最高顧問に退いた後にオハイオ工場へ行った時も、全従業員から握手を求められ、本田さんは一人ひとりの手を握りしめて回ったので、手が腫れ上がって大変だった。でも、握手した従業員は、「家に帰っても今日は手を洗わない」だとか「ミスター本田のぬくみを胸に当てて寝る」とかいって喜んでいた。こんなに歓迎される日本人がいるのか、という思いがします。  私は本田さんを、最も優れた日本人のひとりだと思います。社会事業を応援しても自分の名前を出したがらぬ淡白な人で、そういう意味での身ぎれいさ、あるいはトップの座を退く時の引き際の潔さは、日本人が一番高く買う美徳です。そして思いやり。これも、日本人の心を一番打つ要素のひとつです。それに純粋さ。だから本田さんという人物は、日本人にとっていちばんよくわかるタイプの人だったと思います。  あの人には百歳までも百五十歳までも生きていて欲しかった。  日本の心ある経営者にとっては、本田さんはいつまでも気になる存在でした。本田さんの存在自体が無言の慰めや励ましとなり、また目に見えぬブレーキともなっていたのです。  利益第一主義、儲け主義がまかり通る時代に本田さんは憤死してしまわれたのでしょうか。  いやいや、本田さんはすぐにまた天国から人なつっこい笑顔で語りかけてくるでしょう。おれは仲間を信じ、人々を信じて生きてきた。日本人の生命の源泉は決して尽きることはないはずだよ、と。 朝風を運ぶ人々──日本人が失ったもの  すでに五十年経っているというのに、私にはいまも忘れられぬ一つの光景がある。  しかも、それは秋の午後の出来事なのに、いまも私を朝風の中に立つ思いにさせる光景である。  当時、私は大学予科(旧制高校)の二年生。武蔵野の一隅に在る学生寮で暮らしていたが、大学の学園祭へ皇太子がお越しになることになった。  ところが、左翼系の学生たちが、 「何のいわれもないのに」  と、そのことに反撥、御来校拒否運動をはじめ、一方、これに対抗する学生の動きもあって、一騒ぎ起こりそうになった。  それが、学長の次の一言で収まった。 「何のいわれもなければ、学園が開放される一日、とくに皇太子に限って来校を拒むのはおかしい」  学長である上原専禄教授は、ドイツ中世史専攻のおだやかな人柄の学者で、前屈みの長身に白髪が美しかった。  戦争中の教育者としての責任を感じてか、平和運動にも理解があり、左右両派を納得させるものがあった。  それにしても、どういう経緯で御来校の話が出てきたのか、よくわからない。  終戦まもない時期であり、学園祭といってもパン食い競走程度の運動会。それも、パンをくわえると、ゴールへ走らず、戻ってきてしまう。  展示物といっても、いくつかの学生サークルの報告代わりの物がある程度なので、学生の私にも全く興味も関心も無い学園祭であった。  それに、少年兵として海軍に居て、短期間ながら軍隊の苛酷さ醜さを骨身にしみて味わわされた私は、その延長上で天皇制について複雑な思いを抱いてもいた。  このため、御来校当日も寮に居残っていた私に、学園祭をのぞいてきた学友が皇太子の様子を伝えてくれた。  供一人を連れた皇太子は、上原学長に案内され、他の客にまじって歩きながら、 「この学校に野球部は?」  と、御質問。これに対し、学長が、 「他校の野球部のために置いてあります」  と答え、皇太子がお笑いになった──などといった話などを。  私はにわかに皇太子が見たくなり、大学構内へとひた走った。  そして、ちょうど帰ろうとされる皇太子の姿を見る。  実は私はこの時代の証言をたとえ自費出版ででも残しておきたいと、『大義の末』という長篇に挑み、そこにこのときの皇太子の姿を書きとめていた。  校長の白髪と対照的に、「黒く陽灼けした少年」「蛇腹のついた学生服がよく似合う稚い顔」「頬から顎にかけて多少女性的に見えるやわらかな線を眼が締めている。てらいも濁りも知らぬ褐色に澄み切った瞳」  そして、主人公、つまり私は、 「無心な子供が生地そのままで与えてくれるような結晶した親愛感」  に打たれる。この少年皇太子のために──と思わせる何かが、そこに在った。  大学の玄関を離れた少年皇太子は、まばらな人垣に向かって手をあげようとされた。  だが、人垣にもとまどいがあって、ただ立杭のようで反応が無い。  それを見た皇太子は、「その手を痙攣でもするように小刻みにふるわせて」ひっこめ、「気の毒なほど間の悪そうな表情」で車へ。  そして、学長ひとりが会釈する中を、その車はいっさんに薄暮の武蔵野の中へと、走り去って行った──。  飾らぬ少年皇太子。  初々しさ、親しみ、そして、とまどい。  それは、立杭のような人垣の中にも感じられた。  くすんでいた私の心は、このとき一瞬、高い空に向けて解き放たれたようなさわやかさを感じた。  まだまだ夜明け前かも知れない。  しかし、たしかに朝が日本にやってきている──と。  それから二十年ほど後、私は講演のためロンドンへ降り立った。  案内してくれる日航社員は、本社から赴任している若手であったが、奪うようにして私の手荷物を運ぶなど、実によく動き、骨惜しみしない。  そのことを、私が幹部社員に話すと、幹部は一瞬ためらったあと、つけ加えた。 「壬生《みぶ》と言いまして、実は天皇のお孫さん、つまり皇太子殿下の甥に当たる人です」  そこに数日滞在したため、幸いこの壬生さんとも話し合う機会があった。  母上は、昭和天皇の長女照宮で、東久邇宮《ひがしくにのみや》に嫁がれたが、終戦で一家は臣籍へ。 「世の中が変わったから、これまでのような育て方ではだめ」  との母上の方針で、進学したのも学習院ではなく、慶応へ。一事が万事、そのような育て方であった。  皇太子のイギリス留学期間中、壬生さんもやはりイギリスに居たが、王室関係のパーティなどに招かれると、 「ヨーロッパ各国の王家の人たちが親戚づき合い、というより、親戚そのものだということが、よくわかりました。私たち二人だけが別世界から……」  その場の光景が目に見えるようであり、そこでも皇太子はとまどわれたわけである。  こうして、「戦争」そして「戦後」が、いつまでも、どこまでも皇太子につきまとって行く。  私たちとはちがい、皇太子はそれを避けることも忘れることもできないままに。  一方、その後、会社人間としてロンドンに赴任した壬生さんは、意外な苦労をすることになる。  当時、日本のゼネコンがアフリカなどへ大々的に進出したが、日本では思ってもみないミスなどが起こって、犠牲者や怪我人が出た。  現地の医療機関は当てにできぬので、応急処置だけでロンドン乗り継ぎで、日本へ急ぎ担送しなくてはならず、担架一つのために四人分の客席が急に必要となる。  ところが、まだ便数が少なく、満席続き。その中から、四人のお客さまに降りてもらわなくてはならない。  どの客に、どんな風に頼むか。  客商売としては最高につらいことだが、人命にかかわる以上、お願いするしかない。  そして、壬生さんはひたすら懇願し続けた。もちろん天皇の孫と知られることもなく。  そこにもまた、日本の朝の姿があった。  壬生さんの母上である照宮の“年祭”(仏教における法要)が、近年、都内のホテルでひっそり営まれた。  姉君の年祭ということなので、現天皇御夫妻も参列されたが、 「私的なことだから」  というので、皇居からの往復に際しては、一般車並みに信号に従い、ホテル内の廊下に特別のカーペットを敷かせることもなく、年祭そのものも立食スタイルという簡素なものであった、という。  公私のけじめを自らきちんと守られているわけで、あの少年皇太子時代のさわやかな朝風が、いまも伝わってくる感じであった。  朝風といえば、一九六〇年のニューヨークでのこと。  日本はまだ貧しく、持って行けるドルにもきびしい制限があった。  このため、はじめて外国に出た私は、ウェスト・サイドの安ホテルに泊った。  昔は高級なホテルであったが、老朽化して長期滞在者向けのアパート代わりにもなっており、私の部屋の右隣は、一日中、咳をしている老人。左隣は、毎夜、大声で罵り合う黒人夫婦。  そうしたホテルだが、私には朝飯以外その食堂で食事をする余裕が無かった。  そして、その安ホテルに、そしてほぼ同じ時期に、ソニーの創業者の盛田昭夫さんも泊っていたことが後になってわかり、おどろいたのだが、さらにびっくりしたのは、盛田さんの次の言葉であった。 「ぼくは朝飯もホテルでは食えず、外に出てコーヒーを買ったりして済ませてた」  盛田さんも文字通り朝風の中の人であったわけだが、その旅でははるばる商談に来たのに、まるで英語が通じず、すっかり自信を喪失し、暗澹《あんたん》としていたという。  ただ、その足で渡ったオランダで、ようやく英語での話し合いがまとまり、ほっとした──と。 「英語をしゃべりながら生まれてきた」とまで言われる国際的経営者の盛田さんにも、そうした朝というか、「夜明け前」があった、というわけである。  朝風の中でといえば、浜松では「中小企業のオヤジさん」である本田宗一郎夫妻に、こんなことがあった。  軍払い下げの通信機用モーターにガソリン・タンク代わりの湯タンポを取りつけた原動機付き自転車、いわゆるバイクとかバタバタとか呼ばれる物を、本田さんはつくり出した。  そして、朝の片付けが終わった夫人に、モンペ姿でバイクを運転させ、買物や買い出しの用を兼ね、市内を走らせた。  バイクそのものが珍しい上に、それを女性が乗りこなすということで大評判になり、宣伝効果は上々であった。  こうして夫人に朝風を切って走らせた本田さんは、夜風とともに、代わって登板する。 「ちょっと友達の家へ相談に行ってくる」  バイクにまたがり、出かけて行く。  艦砲射撃などを受け、全市が廃墟同然になった浜松の町では、特徴のあるバイクの音は、かなり先へ行っても聞えてくる。  それが、「友達の家」とは逆方向へ走っていたりすることも、夫人には筒抜けであった。  バイクからオートバイ。さらに四輪車へと、「世界一」を夢見て、ホンダ技研は挑み続けた。 「通産省に言われたことと全部反対のことを、やってきた。だから、ホンダの今日が在る」  とは、本田さんの気概のセリフ。  だが、朝があれば、夜が来る。夜にも備えなくてはならない。  ホンダの本社は、青山一丁目の角という最高の場所。そこへビルを建てるに当たって、すでに退いていた本田さんは、一つだけ注文をつけた。 「どんな大地震があっても、絶対、通行人に怪我をさせぬように」  このため堅牢な造りの上に、ガラス壁面が大流行の世に背を向け、各階の窓の外にバルコニーをめぐらせ、まかりまちがっても一片のガラスも地に降らぬようにしてある。  それに、絶好の場所柄であるにもかかわらず、地下食堂街などのテナントを一軒も入れていない。  万々一、会社の資金繰りが苦しくなったとき、テナントが入居していたのでは、すぐにはビルを換金できなくなるという二代目社長河島喜好さんの深謀からであった。  それに加えて、本社のその姿勢は、社員に常に危機意識を持たせることにもなる。  その河島さんが社長を退いたのは、まだ五十五歳のとき。  以後は、自らホンダの車をあれこれ運転して、ときにはゴルフや狩猟、釣りに。  その釣りも、トローリング用大型ボートに一人で乗りこみ、大島沖へ。  操舵はもとより、機関士、航海士、通信士など、全部ひとりでやってしまう。 「なぜ、ひとりなのか」  の問いに、河島さんは笑って答えた。 「だって、自分とはいちばん気が合うんだもん」  そこには、夜に備えながらも、朝の人ならではの笑顔が在った。  私も孤独は好きだが、それは河島流に「自分とはいちばん気が合うから」ではなく、生来、引っこみ思案。子供のときも、正月の三日間、家から一歩も出ず本ばかり読んでいて、親を嘆かせたりもした。とにかく、すぐ人疲れする。  学者や作家には珍しくないタイプだし、ひょっとすると、少年皇太子を一人で御案内した白髪の上原学長も、そうではなかったろうか。  私たち学生に対しては、 「時事的なものには関心を持たず、古典を読み、歴史に学ぶように」  と静かに説く人であった。  だが、その人が平和の大切さを訴えているうち、やがて平和運動のシンボル的なリーダーに押し上げられてしまった。  そして、一九六〇年前後のことか、私は思いがけず、この上原教授と席を共にすることになった。  場所は京都府の亀岡だったか、綾部だったか。平和運動に熱心な大本教系の組織の講演会に、共に講師として招かれたためで、他に剣豪作家の五味康さんも講師。  私はかつて大本教弾圧事件を執筆した縁だが、五味さんがどういう縁であったか聞きそびれた。それに、講師三人揃っての夕食会でどんな会話があったかも、おぼえていない。  もともと教授は寡黙な人であり、このときもまるで一言も話されなかったような印象さえある。  だが、それで私には十分であった。皇太子を迎えた日のことを久しぶりに思い出し、朝風に吹かれる思いをよみがえらせることができたからである。  おそい夕食が終わると、五味さんは袴姿のままで、愛車を運転して京都まで出ると言い、私も誘って下さったのだが、辞退した。あの秋の日の思いをそのまま大切に朝を迎えたい、と思ったからである。  教授はその後も痩躯も忘れたように、平和運動に打ちこむ。  そして、あるとき、突然、姿を消してしまった。  大学関係者にも教え子たちにも、消息はわからぬままに歳月が流れたあと、マスコミは教授の「秘められていた死」を報道した。  世との交わりを絶って、教授は京都府の某所に隠棲、その先ですでに亡くなり、遺言によりそのことが一切、外へ漏れることはなかった──と。  教授の心の中で何が起こったかは、知る由もない。ただ、私の推測はこうである。  短い軍隊経験で、私は組織というものを痛いほど知り、戦後は組織らしい組織からは、勝手ながら一切、距離を置くようにしてきた。  一方、良心的な教授は組織の中で行きつくし、疲れ果て、しかも、それを口にはできず、ついに身を隠し、そのまま、生きた痕跡さえ残さず世を去ることを望まれたのではなかったか、と。  その時代、教授とは思想の上でも暮らしぶりでも対照的であった白足袋宰相の吉田茂。このワンマン宰相にも次のようなエピソードがあった、と聞く。  大磯に悠々自適の吉田は、近くの名勝高麗山《こまやま》の眺めがこわされるのに腹を立て、神奈川県知事に、「貴下の悪政により……」から始まる抗議の手紙を書き送った。  その手紙を、知事は自室の壁に飾った──と。  吉田なら、大磯詣でする政治家たちに一言言えば済むことなのに、一市民同然に知事宛に抗議文を書く。  その点では、人の上に人をつくらぬ風通しのよさもあった、といえるのではないか。  いま日本は、政治も経済も夜というより闇の中に在る。そして、こうした停滞のとき、組織はトップ・ダウンがよいか、ボトム・アップがよいかが、熱い議論のタネになる。  だが、それとはちがう視点もある。江坂彰『「経営者格差」の時代』は、ミドル・ダウンやミドル・アップこそ生き残りの道であり、ミドルのリストラなどとんでもない──と、強く訴える。  それに、アメリカの経営書『シンボリック・マネジャー』でも、組織には「状況の英雄」「無法者英雄」「異端者英雄」「ねばり腰英雄」などさまざまなタイプの英雄が多ければ多いほどよい──という。  どの説も、行きつくのは同じところ。要するに、ミドル以下に朝を迎えさせろ、もろもろの思惑をすて、朝風めがけて飛び出させろ──ということである。  終戦後の一時期がそうであった。  大企業では多くのトップが追放され、また大企業そのものが解体され分割されて、いずれも自信を失っていた。  その中で、当時のミドルたちが裸になって、それぞれ真剣に生き甲斐や生きる道を求めて打って出た。あるいはまた、無名同然の若い企業が、逞しく芽をのばした。  こうした際のトップの役割は何か。  むやみに権威や権力をふるわず、むしろ、「人間のよき観察者」となり「組織のよき観察者」となって、ミドルが打って出るための機会と環境を用意してやることである。  それにしても「人間のよき観察者」はわかるが、「組織のよき観察者」とは何か。  一例をあげる。  バブルの崩壊とは無縁に順調な発展を続けている企業に、栗田工業がある。  汚水処理にかけては世界のトップ企業だが、もともとは復員した海軍士官たちの始めた会社で、ユニークな「海軍式経営」で急成長したものの、強気な拡大策などがたたって、経営に行きづまり、伊藤忠の傘下へ。  栗田社長は私財を提供して退陣したが、それでも会社への愛着は強く、出張所長同然の身に降格してブラジルへ、さらにタイへと赴任。そこで戦死といってよい不慮の死を遂げた。  家も提供したため、栗田夫人は間借りをし、会社の女子社員に花や刺繍を教えて生きる。  一方、会社では伊藤忠出身の社長が三代続いたが、三代目社長が学者的な人物で、よく人を観察し、栗田工業の生え抜き高岡清を後任に指名。  この高岡社長の下、同社は「水を究める」ことに徹して、抜群の優良企業としてよみがえった。  しかし、「財テクやらぬ経営者は経営者じゃない」とテレビ評論家が広言したりするバブルの時代、同社でも財務部門がその活動を始め、みるみる利益を上げた。  ところが高岡は、その利益の上げ方に疑問を持ち、中止を命じる。 「うちの社業は地味で、長年にわたって努力を積み重ねても、なかなか利益が上がるものではない。そこへ、わずかの間に荒稼ぎする部門が出てきては、会社全体の空気がおかしくなると思ったのです。だが、いったん動き出したものが完全に止まるまでには、二年かかりました」  と高岡。「組織のよき観察者」とは、このことである。  創業者の栗田は、生前その全盛期にこんなことも言った。 「夕飯は超一流ホテルのレストランか、ガード下の屋台か、どちらか」  その意味では、身軽さのよさが肌でわかる男であったし、それはまた、敗戦を経験した男たちに、大なり小なり共通する感覚であったはずである。  当時、マスコミは「一千万人餓死説」を流したりし、人々には、生きてさえ行ければよい、という感じがあった。  そして、生き抜いたあげく、ついには『ジャパン・アズ・ナンバーワン』とまで書かれるようになったが、いまや一転して、日本について、また日本人についての悲観論が溢れている。  日本人そのものが変わってしまった、というのか。  同書の著者のヴォーゲル教授に、十年ほど前ハーバード大学を訪ねた折、そのことを訊いてみると、次の答えが返ってきた。 「ここの学生についていえば、かつては日本人留学生は眼を輝かして、よく勉強していました。たとえば、カトウ・コウイチさんなど。ところが、いま眼を輝かして努力しているのは、韓国とか台湾とか……」  マンモス企業からの派遣学生に訊くと、あっけらかんとして、 「留学中、勉強はともかく、人脈をつくって来い、と会社から言われているので」  おかげでゴルフはうまくなるし、スキーだ、パーティだと忙しい、ということであった。 「仕事は重く、生活は軽く」というのが理想的な生き方だと、私など誰からともなく教えられてきたが、その比重が逆転した若者が育っていると、そのとき私は感じた。  だからといって、日本人が日本人でなくなったわけではない。  フェンネマさんというオランダ人女性記者が居る。経済小説についての本を書くほどの日本通だが、阪神・淡路大震災の直後、被災地へ特派された。  鉄道でたどりつけるところまで行き、その先はどうしたか、と訊くと、「ヒッチハイクです」という意外な返事。  だが、その理由を聞いて、感心した。 「タクシーなど使えば、一台でも余計な車がふえて、被災地は迷惑します。だから私は用があって入って行く車に頼んで、同乗させてもらったのです」  そう言ったあと、驚きをよみがえらせた表情で、 「ところが、乗せてくれた人が皆、会社に行ったり、会社から戻ったり、という人ばかりでした。ああいうときにも、日本人はよく……」  批判的というより、日本には無名の英雄がいくらでも居るではないか、と言わんばかりに聞えた。  そういえば、ヴォーゲル教授を訪れてのハーバード行きの際、小型の台風が同地を襲い、泊っていた大きなホテルでは、朝食がなかなか出て来なかった。 「ハリケーンの予報で多くの従業員が出て来てないから」  というのが、その説明。日本では考えられぬことであった。  その意味では、日本人には、まだまだ「仕事は重く、生活は軽く」の面が残っている。身軽さをよしとする心も、消え失せてはいない。  ただ終戦直後とちがうのは、大きすぎる政府が人々の頭上に蔽いかぶさって、朝風を遮り、空の高さをかき消してしまっているということ。  いまは、子孫のためにもそれを確実に小さくして行くとともに、あらためて、「身軽さ、生活の軽さもまたよし」として生きて行く他ない──という気がするのだが。 あ と が き  タイトルに違和感を持たれた方があるかも知れない。率直に申せば、私自身にもそれがあった。  ただ、私は多年、「組織と人間」というテーマを追い続けており、たとえば『鼠──鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫)では、一人の男の力でどれほど巨大な企業がつくられ、同時にまたその男のせいで劇的な倒産に至ったかを描いたりしてきた。  このため、「企業の盛衰と経営者の人間像」などと題して、苦手な講演をこなした時期もあった。  勝つべき男によって、勝つ経営が始まり、変わる時代の中で、次に勝つべき男にバトン・タッチされ、組織は生き続けることができる。  どれほど巨大であっても、企業もまた生物《いきもの》であり、トップというボタンひとつを掛け違えると、次々に掛け違えが起こり、企業の命を奪う羽目になりかねない。それだけに、トップの自覚と自制が求められる。  強い指導力を発揮することは、強大な権力者になることと同一ではなく、むしろ背反し、有害である。  大英帝国の基礎を固めたウェリントン公爵は、「自分がただの人間であることを思い出させてくれる人を、常に身辺に持つべきだ」と自戒し続けていたが、私たちの身近で、そうした姿を最もいきいきと見せてくれたのが、本田宗一郎であった。  初出誌は左記の通り。いずれも「文藝春秋」誌に掲載された。 (一)「勝つ経営」(平成十年九月特別号) (二)「本田宗一郎は泣いている」(平成三年十月号) (三)「朝風を運ぶ人々」(平成十年二月特別号)  雑誌掲載発表順に読んで頂くのも、一法である。 (一)では、たいへん興味深いお話を聞くことができた。ただ「文藝春秋」誌への掲載に当たっては、ページ数の制約があり、かなり割愛せねばならず、残念であったが、本書では全面的に甦らせることができた。味読して頂ければ、幸いである。 (二)では、『硫黄島に死す』に続いて、私としては二度目の文藝春秋読者賞に選ばれており、あらためて読者の方々、そして編集・出版などの関係者に、心から御礼を申し上げたい。 城山三郎  単行本 一九九九年一月 文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 勝つ経営 二〇〇二年九月二十日 第一版 著 者 城山三郎 発行人 笹本弘一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Saburou Shiroyama 2002 bb020904