[#表紙(表紙.jpg)] 水の時計 初野 晴 目 次  第一幕 冬の昴《すばる》  第二幕 蒼《あお》いサファイアの瞳《ひとみ》  第三幕 剣の柄《つか》のルビィ  第四幕 鉛の心臓  第五幕 忘却の炉  終 幕 ふたりにとって、最も貴いもの [#改ページ] [#ここからゴシック体]  とある町の中央に、金箔《きんぱく》に覆われ、両目は蒼《あお》いサファイア、剣の柄《つか》にルビィをあしらった王子の像が建っていました。  王子の像は足元で休んでいたツバメに、町の困っている人達のために身体の一部分を次々と持っていくよう懇願します。ツバメは南の国エジプトへ旅立つ日を一日一日と延ばし、王子の像の頼みを聞いてあげるのでした。  やがて町には雪が降り積もるようになりました。  かわいそうなツバメにはどんどん寒くなってきました。王子の像も、自分の身体から人にあげるものが何もかもなくなり、両目も身体の輝きも失い、灰色の姿に成り果ててしまいました。  ツバメは自分が死ぬのだとわかりました。王子の像の肩まで飛び上がるだけの力しか、もう残っていなかったのです。 「さようなら、愛する王子様」 「とうとう旅立つときがきたのですね。私も嬉《うれ》しいよ、小さなツバメさん」 「——いいえ、わたしはエジプトに行くのではありません」  その夜、ツバメは寒さに凍えて、ひっそりと死んでいきました。そして王子の像とツバメがしてきたことは、町の人達に知られることもなく、静かな朝を迎えたのです。  王子の像は、集まってきた市長や市会議員達にみすぼらしいと蔑《さげす》まれ、鋳造所の溶鉱炉で溶かされてしまいます。しかし王子の鉛の心臓だけは溶けずに残りました。  鉛の心臓はごみために捨てられてしまいました。そこには死んだツバメも横たわっていました。 [#地付き]オスカー・ワイルド作 幸福の王子 [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ]  第一幕[#「第一幕」はゴシック体] 冬の昴《すばる》      1[#「1」はゴシック体] 「ここから先に進むと逮捕されますよ」  時間は午前六時前、俗離れした閑静なマンションが建ち並ぶ高級住宅街、針のような寒気がしみる朝方。  おれは背後から呼び止められた。  ふり向くと、見知らぬ初老の男が白い息を吐いて立っている。  タキシード調の背広姿、銀縁眼鏡の奥に光る梟《ふくろう》のような目つき。身体中の線という線がまっすぐで白い手袋までしている。  ——まだガキの頃だった。オヤジとオフクロが遺《のこ》したビデオで、「アダムスのおばけ日記」という今のおれ達の世代には「アダムスファミリー」でないと通じない古いテレビアニメがあった。兄貴と一緒に飽きるほど観て過ごした憶《おぼ》えがあるが、そのアニメに登場する身長がやたら高いフランケン似の執事を思い起こさせた。  対峙《たいじ》するおれの方は、脱色して傷んだ髪、乾いた血がこびりついたジーンズとサファリジャケット、そしておぼつかない足元でいる。傍《はた》から観察されたら、おれ達ふたりの組み合わせは奇妙に映るだろう。しかし目の前にいる〈執事〉の姿は、周囲の風景に不思議と溶け込んでいる。  辺りには、おれ達以外誰もいない。  しばらくぽかんと目をとめ、ぼけっと突っ立った。焦点がうまく合わない。とりあえず、〈執事〉の肩から膝《ひざ》までをなぞってみた。上着の胸ポケットからのぞく糊《のり》の利いたハンカチへと視線を戻し、おれはようやく口の端から声を出すことができた。 「失せろ、くそじじい」 「警察が待ち伏せしています。見たところ、あなたはまだ高校生」  カウンターパンチを食らったようで咄嗟《とつさ》の反応に困った。寝癖のついた髪をかき上げ、ついでに睨《にら》みつけておく。 「……ですから、鑑別所で貴重な青春時代を過ごすのはどうかと。十代の一ヶ月は、私の歳になると一年に相当します。大変もったいないことだと思いますが」  いったいどんな尺度だ。 〈執事〉を軽く突き飛ばすと前へ進むことに専念した。こんな妙な男に構っていられない。頭の中は忘れてきた財布を取りにいくことでいっぱいになった。管理費込みで五万七千円。滞納していた先月分の家賃が入っている。そのためにわざわざ二日酔いで重心を失った脳みそを揺すぶってまで、都心の始発電車を乗り継ぎ、この肌に合わない高級住宅街までやってきたのだ。 「傷害、無免許運転、恐喝、および器物破損、不法侵入、監禁、おまけに窃盗……。無茶苦茶なことをしましたな」 〈執事〉の声が背中を追いかけてくる。  おれの足が止まり、かすかによろけた。冷たそうなアスファルトが、ぐん、と自分の方に持ち上がってくる。気がつくと前のめりになって倒れていた。  吐き気が込み上げる。気分は最悪だ。  白濁しかけていた記憶の中で、昨夜の出来事がぐにゃぐにゃと水で溶いた絵の具のようによみがえってきた。昼も夜もわからない繁華街、タンバリンのように鳴り響く喧騒《けんそう》、そして興奮も退屈もしない苛立《いらだ》ち——  ああ、頭いて。  ——昨夜、酔っ払ってハイになった大学生達に因縁をつけられた。裏道に誘って、逆に散々痛めつけてやった。最初に逃げようとしたひとりをメンバーの車へ押し込み、連れまわした。が、途中で飽きた。金目のものを徴収しようとしたが、あいにくそいつの手持ちは少なかった。おれ達が殺気立って見守る中、自動販売機を壊させようとしたのだが、途中で泣きが入ったので結局そいつの家まで行くことになった。金持ちのぼんぼんらしく、塀囲いの邸宅に目を見張った。家族は留守。居間には四十インチ以上あるプラズマテレビと豪勢な洋酒がびっしり並んでいた。誰かが先に手をつけて、うほっというゴリラの咆哮《ほうこう》のような声をあげた。やがて携帯電話で一斉に連絡を取り合い、大宴会がはじまった。空いた酒瓶が次々と転がる。居間はあっという間に煙草の煙でいっぱいになった。おれ達は涙ぐむそいつの口をガムテープで塞《ふさ》ぎ、手錠をかけ、死んだゴキブリの真似をさせて面白がった。仰向けにさせて手足を上げさせる。疲れて手足が下がってこようものなら、四人がかりで百円ライターであぶる。しばらくして今度はみんながゴキブリのようになった。ガサゴソと家中を這《は》いまわり、帰り際になるとみんなポケットを膨らませて上機嫌だった憶えがある。……そして今朝、忘れてきた財布に気づき、のうのうと取りに戻ってきたこのおれ。  立ち上がって白い外壁の角まで歩いた。電信柱から顔をのぞかせると、赤いパトライトを回転させるパトカーが停まっていた。  バケツの冷水をかぶったように目が覚めた。 「財布に身分を証明するものは入っていましたか?」  耳の裏側から囁《ささや》かれた。ふり向くと、肩越しに〈執事〉の顔がぬっと接近している。 「具体的に言え」焦ったおれは〈執事〉の胸ぐらをつかんで押し戻す。 「免許証、学生証、レンタルビデオの会員カードなど。あと、コンビニのレシートもまずいですな」  身体はまだ二日酔いの苦痛を訴えていたが、おれは目をしばたたきながら懸命に思い出そうとした。こんなに記憶を頼りにしたのは私立高校の受験勉強以来だった。 「ない……はずだ」 「よろしい。で、いくら入っていたのですか?」  悠長なことを言ってやがる。今おれが精一杯考えられることは、この身体でどうやって遠くまで逃げられるかだ。でも待てよ。遠くにだって? ——遠く? ——遠くって、いったいどこにあるんだ? 「一千万円」  おれは答えた。 〈執事〉は臆《おく》することなく胸元に手を入れ、行く手を阻んできた。無造作につかんだ札束を手渡してくると、 「残りは後日お渡しします」  手のひらに一万円札が十枚以上載っかった。二十枚かもしれない。いや、もっともっと? この場になってこの不意をつく状況は、さすがに怯《ひる》んでくる。 「お、おい」 「失礼ですが、お名前は?」  躊躇《ちゆうちよ》した。 「お名前の確認を」 「……すばる」 〈執事〉が向ける眼差《まなざ》しはまだ物足りなさそうだった。 「高村昴《たかむらすばる》だ」  とうとう口籠《くちご》もるように名乗ってしまった。すると〈執事〉の薄い唇の端にかすかな笑みが浮いた。 「私はあくた。芥圭一郎《あくたけいいちろう》と申します。申し訳ありませんでしたが、ずっとあなたを監視させていただきました」  思わず芥の顔を見た。 「——今日で十七日目です」  こっちにきなさい、と手招きされた。ノッポの後ろ姿が遠ざかっていく。その先の路肩にシルバーに輝くベンツが停車していた。  おれはずっと戸惑っていた。芥のあとをついていくことも、ここでまっすぐ立つことさえも。(行きますか? それともこのまま警察のもとに飛び込んでいくのですか?)キーレスエントリーでドアロックを外す彼はそういう空気を匂わせてきた。無理強いすることなく、やんわりと決断を迫っている。  おれは……。よろめく足取りで近づいていた。 「忘れ物も回収しておきましたから、ご安心を」  助手席のガラス越しに見覚えのある財布がかすんで見えた。固唾《かたず》を呑《の》むのと同時に、札束を握りしめる手が汗ばんだ。  芥はおれの表情を一瞥《いちべつ》して、満足する感触を得たのだろう。運転席に乗り込むと悠々とした手つきでイグニッションキーをまわした。エンジンの鼓動を伝えるボンネットが、ぶるん、と躍り上がった。  芥と名乗るこの男は何者か? 味方なのか?  判断は保留されたまま時間だけが過ぎる。車中はほとんど無言だったが、エアコンが利いてくるにつれ、気を緩めるなと、何かがおれに告げる声が大きくなってきた。 「——どこまで行く気なんだ?」  鉛色の雲がどんよりと垂れこめ、朝陽を遮っている。車窓を高速で流れる景色は排ガスで黒ずんだ壁だった。壁はしばらく続く。ときおり壁の隙間から、不揃いな雑居ビルと羽ばたいていくカラスが見える。どうも車は首都高速を走っているらしい。  黙ってハンドルを握り続ける芥に業を煮やした。 「あいつは死んじまったのかよ」  平たい口調で訊《き》いてみた。車内は沈黙のまま、左のカーブへと差しかかる。 「では、あの大学生を殺したと思っているのですか?」  気圧《けお》されそうな声。曲がりきった直後に返された。今さらながらたじろぐ。まともな答えなんてもちろん用意していない。声にならないのを苦笑いで紛らわせようとしてやめた。莫迦《ばか》みたいで恰好《かつこう》悪い。 「どうぞこれを」  目の前にペットボトルが差し出された。半分ほど飲んで一息つくと、ラジオのスイッチに指を伸ばした。デジタルディスプレイにFM放送の表示が浮き上がり、軽快なメロディが流れてくる。交通情報だ。どこかの分岐点で貨物トラックと乗用車の接触事故があったらしい。苛立った。虫を潰《つぶ》すようにスイッチを切ってやった。  昨夜の出来事だ。そう早くニュースになることはない。気持ちを押し込めるものの、額に針の穴ほどの汗がふつふつと浮いてきた。 「あの大学生はただの酩酊《めいてい》状態でしたよ」  芥がぽつりと洩《も》らした。 「……めいてい?」 「今朝のあなたと同じ状態か、もう少しひどい状態と言った方がわかりやすいでしょう。幸い部屋は暖房が利いていましたし、帰宅した家族の者が救急車を呼んだので、大事には至らないと思います」  悟られることなく胸を撫《な》で下ろした。 「大学生の脇に、ウォッカで濡《ぬ》れた漏斗《じようご》が転がっていましたよ」 「ただの遊びだ。余興、冗談だ」 「ご存じないでしょうが、最初から酔い潰すことを目的として飲酒させれば立派な傷害罪になります。脅かして無理に飲酒させると強要罪、周りではやし立てただけでも傷害現場助勢罪」  なんだか頭が痛くなってきた。 「あなたの仲間は窃盗も重ねています。日本は法治国家です。いずれにしろ、今日明日中には逮捕されることになるでしょう」  そして芥は冷ややかに付け加える。 「やりすぎですね」  もはや反応する気も失せた。適当に相づちをうったおれは、助手席の柔らかい背もたれに全体重を預けた。 「……『ルート・ゼロ』。あなたのグループはそう呼ばれているはずです。総勢十五、六名程度の暴走族。好戦的な新興勢力として、今では県警の生活安全課からマークされているはずです」  無視した。 「この世に存在(√0)しない数、道《route》をなくした——さしずめそんな意味でしょうか」  |国道〇号線(route0)から発していることは、説明する必要はない。 「ですが全員私服ですし、スタイルもばらばら。揃いの特攻服などは見たことがありません」  警察に追われてバラけたとき普通のツーリングになりすませる。以上だ。もとより特攻服《ユニフオーム》の必要性は感じていない。暴走族という名に反して、爆音だけの連中とは一緒にしてもらいたくない。露骨な改造車も恰好悪いだけだ。金はかかるし、共通の主張や精神やイズムなんてまっぴらだった。裏を返せば互いに距離を置き、いつでも逃げ出せる態勢にしていただけかもしれない。 「あれだけの人数の大学生を相手に、一歩も引かなかった姿勢はたいしたものです。彼らが某大学のアメフト部員だったことはご存じでしたか?」  いんや、知らない。 「あなたは仲間の後ろ盾を最後まであてにしていなかった。本来あなたは、そうそう群れることがないはずです。ですから昨夜は稀《まれ》なケースでした。……あれは単なる気まぐれだったのですか?」  目を閉じた。チカチカしたものが瞼《まぶた》の裏側をちょこまかと動きまわっている。 「昴は喧嘩《けんか》が強い、急所もよく知っている、何より痛みにも耐えられる——。あなたのご友人は何度もくり返していましたよ。痛みに耐えられる、と」  二つ歳下の中谷の顔が浮かび、シャボン玉のようにぱっと消えた。ご友人という呼び方には違和感がある。中谷は原付ばかりよく盗んでくる、ただのいかれぽんちだ。相手にしないが、最近は行動が大胆にエスカレートしてきている。そういえば中谷は興奮気味に言いふらしていた。最近おれのことを嗅《か》ぎまわっている老人がいることを。そしてちゃっかり、謝礼をもらったことも。  答えるのが面倒くさくて、ロードノイズに耳を澄ませた。運転を続ける芥は、おれのそんな態度に全然こたえていない。 「幹部のひとりに高階《たかがい》という男がいるはずです。あの背が異様に高くて、身体もがっしりした、あなたが一番を譲っている相手です」  反応こそ抑えた。が、口の中で鉄のような苦い味が広がった。高階|稔《みのる》。あいつとは今後のグループのあり方について衝突している。その挙げ句、もうどんなに近くにいても真っ向から顔を合わせなくなった。向こうも意識して避けている。そういう素敵な関係だ。たとえ別の場所、別の環境で再び出会ったとしても、お互い抱いている嫌悪感は消えることがないだろう。  ——あいつの後ろ姿を最後に見たのはいつだ?  ふと脳裏をよぎる。指定暴力団の事務所がある高級マンションの駐車場だった気がする。むしろその場面だけが強く印象づいている。都内の暴走族相手に上納金を吸い上げているあのクサレ連中に、あいつは会いにいっている。おれ達には関係ない場所だったはずだ。 「……彼、昨夜はいませんでしたね」  お前には関係ないだろうが。その唸《うな》り声は喉元《のどもと》で押しとどめておいた。しかしそれが、今後のおれの立場にどういう結果を及ぼすことになるのかは、この時点では想像がつかなかった。  車の加速度がぐんと上がる。長距離トラックの間をかき分けるように走り抜け、再び元の車線に戻った。後ろからクラクションの轟音《ごうおん》が迫ってくる。ボンネットの向きが東に変わり、雲の隙間から朝陽が痛いほど射し込んできた。身体に悪い光線に思えて、蜘蛛《くも》の巣を払う仕草で追い払った。 「まわりくどい言い方をしすぎたようです。最後にもうひとつだけ。あの轢死《れきし》事故が起きた夜のことを憶《おぼ》えていらっしゃいますか?」  あやうく聞き流しそうになる言葉だった。おれの意識にブレーキがかかる。  あの轢死事故? 睫毛《まつげ》がわずかに跳ね上がり、シートから背中が浮いた。一週間ほど前、現場に居合わせたあの事故のことを言っているのか? ……深夜の零時過ぎだった。終電待ちの駅の構内。水商売の女が泥酔状態のサラリーマンに執拗《しつよう》にこづかれていた。女は助けを求める視線を周囲に投げた。ホームには五十人以上の客がいた。ついに耐えかねた女がそのサラリーマンの背中を、どん、と押すまで、誰もが見ぬふり知らぬふりを通していた。おれも含めて。 「あのときあなたは、電車に巻き込まれた轢死体をのぞきにいったはずです。あの現場で、あなたひとりだけが周囲のパニックに動じていなかった。——お嬢様の言う通り、適任です」  我に返るまで数秒かかった。適任? ——お嬢様?  おい待て。助手席側のアシストグリップを握りしめ、芥の横顔を見すえた。無表情だった。次第に瞼が鉛の錘《おもり》を吊り下げたように気怠《けだる》くなり、どうしようもない眠気に襲われた。  芥はようやく最初の質問に答えてくれた。 「行き先は、南丘聖隷《みなみおかせいれい》病院になります」      2[#「2」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  集団暴走族「ルート・ゼロ」に関する中間調査報告。   一、調査主旨   本件調査は、依頼者側情報及び指示に従い、首記グループの素行・行動調査を実行・執り行い、極秘扱いを以《もつ》て調出することが主旨である。   二、調査概要と結果   本件調査は前記調査主旨に基づき、調査実行日数十日間内外を費やし、K県域を中心に活動する暴走族「ルート・ゼロ」に関する素行・行動調査を実行・執り行ったものである。   左記に依頼者の要望により、調査の中間報告を簡潔にまとめる。   このグループ(構成員十六名、年齢十四歳〜十八歳。別途リスト参照)にかけられている容疑は、窃盗、傷害、薬物所持、道路交通法違反があげられる。しかしこれらの犯罪で特異な点は、どの容疑に関しても幹部と思われる三人の少年達が現行犯逮捕されなかったことである。なおルート・ゼロの組織には、リーダーは存在しない。トップに立つのは「幹部」と呼ばれる三人の少年達である。リスクを背負う犯罪に関しては幹部が直接手を下さないのが最近のこの世界の傾向だと推測するが、その点においてこのグループは他の暴走族に比べてはるかに狡猾《こうかつ》だといえる。しかし月に一度行われる「単独興行」と呼ばれる暴走行為には、この幹部達も参加する。県警は幹部達の道路交通法違反の現行犯逮捕をきっかけにこのグループの壊滅を図ろうとしたが、失敗に終わっている。  「単独興行」が奇妙な性質を持つからだ。   どこを走っているのか[#「どこを走っているのか」に傍点]、わからないのである[#「わからないのである」に傍点]。パフォーマンスを嫌う連中だからだとある巡査部長は苦笑していたが、ここでは別の考察を述べることにする。警察の視界から逃げるのを楽しんで、暴走行為をしている可能性である。   もちろん彼らはオービスに撮影されたことはない(情報社会の犠牲となったオービスなどには、何の期待もできないのだが)。また彼らが他の暴走族と違うところは「ケツもち」がいないことである。つまり集団暴走でありながら、先頭を走る幹部の走りについてこられない者は容赦なく「切り捨て」られる。   今からおよそ一年余り前に行われた「単独興行」で、切り捨てられたグループ構成員が逮捕された。県警が尋問したのはひとつだった。   幹部と思われる左記の三人の少年について聞き出すことだ。   ・高村昴   ・室井広志《むろいひろし》   ・高階稔   この三人の、過去の暴走族の考えでは理解できない不可解な関係、現代における薄っぺらな結束力、それにさえしがみつかないと生きていけない人間関係が、その構成員の証言によって明らかにされた。  「高村さんと室井さんと高階さんについては、僕達本当に何も知らないんです」   耳を疑いたくなる証言といえよう。  「単独興行」では必ず二台のバイクが先頭を走る。証言によればひとりは半キャップとゴーグル、残るひとりはフルフェイスのヘルメットをかぶり、その素顔を見せない。またふたり乗りもしない(この点が過去の暴走族と違う)。「単独興行」に参加する三人の幹部が、どのような役割分担を演じているのかは謎のままである。   逮捕された末端構成員は、その二台の走りについていくことによって、普段の生活や社会に対する鬱憤《うつぷん》を晴らそうとしていたという。その特典はある。警察に捕まらないという特典だ。その二台の走りは基本的に停まらない。高速道路はもちろんのこと、市街地においても信号を全て無視する。しかしその二台の走りについていければ、検問、覆面パトカー、白バイの追跡、オービス、ナンバー自動読み取り装置(Nシステム)にさえ引っかからないという。二台のバイクはどういう方法か知れないが、それらを巧みにかわして走っている。ついてこられる者は安全が保障されるうえ、極限のスリルと暴走行為が味わえる。   特筆すべきは、ルート・ゼロというグループがその三人の幹部の存在から発していることである。この三人が逮捕されない限りメンバーは切り捨てと再生を繰り返すので、グループ自体の壊滅は難しい。幹部三人は「単独興行」以外では別行動を取ることが多く、一堂に集まって末端に共通の指示をすることはない。むしろそれぞれが好き勝手に行動する印象を受ける。そんな幹部三人に共通するものは何か? それは警察の目をかいくぐってきた不可解な方法に集約される。   興味深い証言を得たので次に挙げる。  「単独興行のときには、大抵『白いバン』を見た。もしかしたら、あれもメンバーかもしれない」   事実、「単独興行」の取締中、白いハイエースが何度か検問されている。スモークガラスが張られ、車内にパソコンが二、三台積まれていた。そのハイエースとルート・ゼロの関連性については、今のところまだ取り沙汰《ざた》されていない。   信じがたい発想になるが、そのハイエースの役割が次のようなものならば、幹部が用いた「不可解な方法」に解明の糸口を見出《みいだ》すことができる。   ㈰警察が使用するデジタル無線の傍受。   ㈪カーロケーションシステムの信号傍受。   平成の三種の神器と呼ばれるものに、携帯電話、パソコン、カーナビゲーションが挙げられる。カーナビゲーションの技術は本来、米国のペンタゴンによる軍事利用目的で使われてきた。国が打ち上げた多くのGPS衛星のうち三つの衛星が発信する信号を、車に備え付けられたジャイロセンサが受け取り、距離を算出して現在地を知らせる。国はこの衛星を民間に利用させる条件として、悪用を防ぐため意図的に誤差を含ませるようにした。しかしその誤差は年々小さくなり、今では十メートル単位の精度を誇るものもある。県警が採用するカーロケーションシステムとはパトカーや白バイに設置されたジャイロセンサからGPS衛星を介し、その位置情報を集中管理するシステムになる。受信方法は異なるが、警視庁やその他エリアの警察も使用している。白いハイエースがそのデジタル信号の傍受基地となり、ジャイロセンサを設置した先頭二台のバイクに、危機回避の情報を伝えていたと仮定すれば、半キャップやフルフェイスのヘルメットを常に着用していた説明がつく。   しかしこれらを可能にするには「デジタル無線の傍受と解読」という困難な条件が不可欠になる。国家の威信をかけて作り上げた警察独自のデジタル無線信号を、一介の少年達が傍受して解読できるのか、という疑問も残る。真相を探るべく引き続き調査を行わなければならないが、それに関して問題点が浮上している。   ルート・ゼロで内部分裂が起こりつつある。   まず室井広志と思われる幹部が姿を消した。以来派手な「単独興行」がいっさい行われなくなった。そして残された幹部、高村昴と高階稔のふたりが対立している。彼らふたりの暴走行為は、根底にある動機が異なると思われる。ルート・ゼロの構成員に犯罪行為を加速させたのは、高階稔の指示による。彼がルート・ゼロに「組織性」を求めるようになったのに対し、高村昴は単純に「暴走」だけを追求している。このふたりの反目はルート・ゼロをただの少年犯罪者の集団へと変貌《へんぼう》させた。   最後に付け加える。   デジタル無線には秘話がかけられており(ときには数百ビットの鍵[#「鍵」に傍点]でプロテクトされしかも定期的に変更される)、聴くことができない。しかし技術的に解読は可能なはずである。ごく最近になってデジタル無線解読機なるものの販売が開始されたという情報もある。無線の傍受だけなら違法にならず、法律に守られている。あらゆる電波の傍受に血道を上げる無線マニアや無線ハッカーが、この日本に数多く存在している事実は決して無視できない。 [#ここで字下げ終わり]  ——警察の視界に入らない暴走族。  おれは今、礼拝堂の中でその報告書を読んでいる。  ワープロで縦書きの文面が綴《つづ》られている。まるで他人事《ひとごと》のように、ぼけっと斜め読みした。頭がまだ半分寝ていたからかもしれない。  すでに夕方にさしかかっていた。さっきまで長椅子で泥に浸かったように眠りこけ、その部分だけ時間がくり抜かれた感覚だった。口の中は渇き、舌が上顎《うわあご》にへばりついている。報告書は目が覚めたとき、長椅子の上に置いてあった。投げ捨てると、まだ虚《うつ》ろな視線を周囲に彷徨《さまよ》わせた。  後ろをふり向くと古びて重厚な木扉があった。長椅子が二列に並び、その先の正面には埃《ほこり》をかぶった祭壇と琥珀色《こはくいろ》のオルガンがある。隅には告解室が申し訳なさそうに設置されている。床板を踏むと、舞い上がった埃が夕陽の帯を浮き上がらせた。祭壇にある十字架のキリスト像は人形に似て、頼りないほど小さい。腕の部分は外れかかっていた。救いや啓示を与えてくれる余裕なんて、これっぽっちもなさそうだった。  この礼拝堂は、南丘聖隷病院の敷地内にある。  最後の手入れがされてから、どのくらい月日が経っているのか想像つかない。祭壇を見上げると空になったツバメの巣があった。泥と藁《わら》で感心するほど器用に作られている。  身体中のあちこちに湿布やガーゼが貼られていることに気づいた。どうやら誰かに手当てをされたらしい。  見まわしても芥の姿はなかった。今朝、病院の門をくぐり抜けるまでは一緒にいたはずだった。それ以降の記憶は薄れてしまっている。  投げやりな目を祭壇に向けた。  とりあえず帰るか。  木製のドアまで歩み寄り、冷たい把手《とつて》を握りしめた。ガチャガチャやっても開かない。おかしい。まさか閉じこめられたのか?  ——くぬやろ。  力任せに蹴破《けやぶ》った。これでよし。  瞬間、強烈な光と突風をまともに浴びて後ろによろめいた。思わず両腕でかばう姿勢になり、恐る恐る腕を上げて目を見開いてみる。  眼下に広がる眺望に——ひとかたまりの息をごくりと呑《の》んだ。  家々の屋根が果てしもなく続いている。自分が立つ位置を改めて知るのと同時に、視界の端が橙《だいだい》と緑に染まってきた。  ここは山の中腹だ。  東西を横切る高架線、工場、学校、住宅、マンションや雑居ビルで埋めつくされる街の眺望が開けていた。よく見ると、今開けたばかりのドアはそのまま礼拝堂のベランダに通じていた。脇に石階段があり、そこから山の斜面を滑り降りていく灌木《かんぼく》の小道が続いている。  蹴破ったのは礼拝堂の裏口へ続くドアだったのだ。溜息《ためいき》が洩《も》れた。宙に浮いた足のつま先が落ち着く先を失う。  冷たい風が前髪をふわりと舞い上がらせた。  何万という住人がそれぞれ営む生活圏を、たった一度の瞬きの中に収めることができた。まんざらでもない。街は夕陽を浴びる部分と暗がりになる部分とで、複雑な幾何学模様を作り出していた。街全体はなだらかな丘陵地になっていて、分譲住宅は手前にある山の麓《ふもと》に近づくにつれて疎《まば》らになり、次第に濃くなる木々が都市化の波を防ぎとめている。  ベランダに出て辺りを見まわした。縦横にひびの入った礼拝堂のモルタル壁が映る。視線を上げ、ゴシック調の屋根を越えていくと、山の中腹に建設された病院の全景が見えた。煉瓦《れんが》色の外壁、ブロック状の建物が全部で四棟ある。  外観から一目でわかることがあった。  閉鎖された病院だった。窓という窓は全て閉じられ、ひとけもなく、もぬけの殻だ。芥は車の中でホスピスという言葉を使っていた。ところどころ憶《おぼ》えている単語がある。コウセイショウ、マッキカンジャ、カゾク、カンゴ……そんなところか。  いったいここは? 宙を泳ぐ視線はドアの隙間から見えるツバメの巣でとまった。普段は駅のロータリーでしか見たことのない巣が祭壇にあるなんて珍しい。風変わりなツバメは、この場所からいつも街を見下ろしていたのだろうか? 惹《ひ》かれるようにドアを抜けた。埃をかぶった祭壇へと近づき、ポケットに手を突っ込んだまま見上げてみる。……今は十一月の下旬。空の巣が残っているということは、少なくともこの礼拝堂、つまり病院が閉鎖されてから半年以上は経っていることになる。閉鎖した理由はわからないが、とにかくそういうことになる。  礼拝堂の床に、背の高い影が伸びていることに気づいた。  おれは反射的に身構えて眉間《みけん》に力を込めた。  芥圭一郎が立っていた。正面の木扉に背をもたれさせ、じっとおれの挙動をうかがっている。いつからそこにいたのかはわからない。彼の両手から白い湯気が立ちのぼり、それは紙コップから出ていた。 「酔いは完全に抜けたようですね」  片方の紙コップがすっと差し出される。香ばしい匂いが鼻をつき、唾《つば》が湧いた。 「誰だ、お前?」  まだ熱いコーヒーから唇を離して訊《き》いた。床に落ちたルート・ゼロの報告書を足で踏みにじり、芥の方に蹴飛ばす。 「芥圭一郎です」  気に障るじじいだ。 「……さっき名乗っただろ」 「元新聞記者で今は医者をしています。三十路《みそじ》を過ぎる前に脱サラをしましてね。その歳で共通一次試験を受け直して、国立の医学大学に入学したのですよ。無論、あなたにとっては初対面になりますが」  穏和な顔つきをしているが、正面から逸《そ》らすことなく見つめる目には、油断ない光が宿っている気がした。苦手な目だ。芥は両切りのショートホープを勧めてきた。おれが首をふると、そばにあった長椅子にひとり腰を下ろし、ポケット灰皿を懐から取り出した。 「あなたが踏みつけた報告書、それで内容は合っていますか?」 「……アイデア賞を進呈してやる」 「おや。気に障る部分でも?」 「よく調べている。感心するぜ」 「隠そうとはしないのですね」 「別に隠すつもりはねえ」  おれは額に貼られたガーゼに人差し指をあてた。「……手当て、お前がしたのかよ」  煙草の先を火であぶる芥の目はイエスと言っていた。肺に溜《た》まった紫煙がゆっくりと吐き出されていく。 「身体中に打ち身や裂傷の痕《あと》がありましたよ。昨夜の無茶苦茶な出来事のせいもあるでしょうが、ずいぶん荒れている様子ですね」 「周りには無茶する連中が多いからな」 「——いいえ。あなたのことです」  芥の視線はいったんおれに向けられたが、そのまま通り越して背後に焦点が合った。ふり向くとそこに、礼拝堂のステンドグラスがあった。聖者らしき男が盲人に手を差し伸べている。おれは中学を卒業するまで好んで本を読んでいた。確かステンドグラスは、字の読めない人にも神の教えを伝えるために生まれたものだ。  再び芥を見た。陰影を帯びた彫りの深い顔が溶けはじめ、やがて柔らかい線が浮き出た。 「もう死語になりましたがね、私が知っている昔の不良には敵がいましたよ。教師、両親、大人など。怒声を浴びせたり無理やり抑えつけたり理不尽な体罰を与える絶対的な敵です。しかし現在《いま》は違う。腫《は》れ物に触るように様子をうかがい、競い合って理解しようとする大人やテレビで分析を試みようとする文化人は、あなた方からみれば恰好《かつこう》悪くて莫迦《ばか》みたいに映るでしょう。敵がいないはずの現在、あなた方はいったい何にそんなに苛《いら》ついているのです?」 「偉そうに」  空になった紙コップを握り潰《つぶ》し、自分の耳ではっきりと聞き取れる濁った声を出した。「くそじじい。何が言いてえんだ?」 「苛つくのなら、怒るのなら——ちゃんとした理由を持った方がよいということです。納得して整理できるだけの」  芥は悠長な手つきで煙草の先を押し潰している。 「へえ、そう」にじり寄ってあからさまに見下ろした。「整理できなかったら、どうすればいいんだよ?」 「勉強すればいいだけのことです。何のための高校生なんですか?」 「高校なら中退した」 「あなたはまだ若い」 「じゃあ、整理したうえで相手を殺しでもしたらどうするんだよ?」 「殺したあとで罪を受け入れるなり、戦い続ける覚悟もできるでしょう。その方がまだ生きている価値があります」 「よくわからねえな」 「わからなければ、今のことは深く考えなくて結構です。心の隅っこにでも転がしておいてください」 「あー言えば、こー言う」 「いけませんか」 「もう帰るぜ」  だいたい生きる価値なんてたいそうなことを、誰が決めるんだ? お前かよ? 一度はカタパルトに乗りかけた憤りも萎《しぼ》んだ風船のように消沈し、あとはどうでもよくなってしまった。 「待っている人でも?」  見透かしたような声が帰りがけの足を止めた。噛《か》み合う奥歯の音を耳の奥で聞き、喉《のど》を膨らませる茨《いばら》の塊のようなものをこらえた。 「家族ならいねえよ」  声に威勢がこもらなかった。三年前、とうとうひとりになってしまったときの出来事を思い出した。ふり上げた片手の置き場所を探した。広げた五本の指が虚《むな》しく宙をつかみ、木扉がおれの手から離れていく。 「少なくともここには、あなたを待っている人がいるのですよ。ずっと待っている人が」  芥の呼びかけに、おれの目が薄く開いた。 「もしお帰りになるのなら……」立ち上がる気配がした。「タクシーを呼びますが、三十分ほど時間がかかります。それまでの間で構いません。私に付き合っていただけないでしょうか?」  無視しようとした。 「今朝のあなたの言い値、憶えていますか?」  芥の靴音が等間隔に鳴り、おれと対峙《たいじ》した。右手をつかまれた。手のひらに重なった紙幣が載せられる。皺《しわ》だらけの福沢諭吉と目が合った。どうやら今朝もらったものを、車の中に忘れてきたらしい。 「一千万円。……残りのぶんは取引をしませんか?」 「取引だと?」 「ルート・ゼロの幹部である、あなたの価値を買わせていただく。今まで警察に逮捕されなかったあなたが、あんな傷害事件でミスをおかすのは非常にもったいない。管轄の警察署長とは懇意にしていましてね、あなたひとりくらいの嫌疑なら、矛先をほんの少しだけずらすことができます」  しばらく間が空いた。 「——私が言った意味を知りたければ、こちらへどうぞ」 「ふざけるな、おいコラ待てっ」  礼拝堂の連絡通路に出た芥の肩を、むんずとつかみとった。一万円札がひらひらと足元に舞い落ちていく。 「言い忘れていましたが……」  立ち止まった芥がふり向いてきた。たぶんおれの顔に影ができた。思ったより背が高い。このとき改めて気づいた。芥は懐に手を入れると、綺麗《きれい》に折り畳んだ夕刊を取り出した。手渡されたのは今日付けの夕刊だった。 「昨夜の仲間は、すでに全員逮捕されましたよ」  もつれそうになる手で夕刊を開き、一面から視線を這《は》わせた。やがて社会面の活字の群れからひとつの小さな記事が急速に大きくなって、おれの目に飛び込んできた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  【高三など七人逮捕】  ○△区の高級住宅街で起きた窃盗事件で、××署は二十八日、傷害、恐喝、窃盗の疑いで、私立高校三年生を含む、十七歳四人と十六歳二人、十五歳一人の同市に住む少年少女計七名を逮捕した。 [#ここで字下げ終わり] 「切り捨てるのは得意のはずでしょう?」  かろうじて芥の声が耳に届いた。新聞の両端をつかんだ指を離せず、食い入るように記事を凝視した。  紙面から視線を引き剥《は》がし、かぶりをふった。石畳に皺だらけの一万円札が散らばっている。あわてて拾い上げ、ズボンのポケットにねじ込んだ。ひざまずいていたおれは我に返る顔をはっと上げた。  芥は踵《きびす》を返していた。彼の背中は靴音とともに、夕闇の向こう側へと遠ざかっていこうとする。  あやうく待ってくれと叫びそうになった。  芥のあとをついて歩いた。  外来のフロアは仄暗《ほのぐら》く、辺りはしんと静まり返っている。  フットライトは、間隔を空けながらリノリウム張りの床を照らしていた。人がいた名残は見事に消え失せ、廊下に沿って続く診察室は、通り過ぎる度に底知れない闇の口が並ぶ気味悪さを覚えさせた。  ロビーの壁掛け時計が止まっている。この閉鎖された病棟内の時間が止まっている感覚さえ受ける。大病院——偏見で厚化粧されたイメージは、この場所で死を迎えた患者が過去何百人いたのだろう、といういらぬことを想像させた。  目的地がわからないぶん、道のりは途方もなく感じられた。廊下はナースステーションらしい五角形の部屋を中心に放射状に伸びている。病棟をつなぐ連絡通路を渡り歩き、足音だけが薄闇を埋める緊張感が、次第に苦痛にまで高まってきた。ベッドの数だけで数百床という規模だろうか。芥の足取りはずっと一定で、廊下の曲がり角や十字路にきても、ためらう様子がない。  やがて階段があるのを知った。スロープに手を添えて慎重に上がる。途中のフロア——おそらく三階あたりだと思う——で、おれはトイレに行かせてもらった。息苦しさから解放されたかった。暗闇の中で用を足したあと、まだ水が出ることを確認する。そういえばこの病院は電気も通っている。完全に閉鎖されたわけではないのだ。それどころか妙な雰囲気が漂っている。今さら引き返せない後悔をぐっと噛み殺した。  トイレから出ようとしたとき、思わず足が止まった。  ぱたぱた、ぱたぱた。そんな足音が上のフロアから響いてきたからだった。行ったりきたりしている。芥のものではない。彼は廊下でおれを待っているはずだ。それに聞こえてくる足音はもっと軽く、女のものに思えた。  この病棟内には、まだ誰かがいるのだ。  廊下に躍り出ると芥の姿が消えていた。身体中の毛穴から、どっと冷や汗が噴き出す恐怖に襲われた。ふり向くと彼はいつの間にか後ろに立っている。こいつはいつも、こんな不気味な登場の仕方をするのか?  四階に上がった。  風がしきりに窓を叩《たた》いている。閉鎖された病棟内のどのフロアも、相変わらずコンクリート製の鍾乳洞《しようにゆうどう》を思わせる情景だったが、少しずつ廊下の遠近に目が慣れてきた。ここまでくると緊張感はもはや慢性化し、あとどれくらい歩かなければならないのか、とそんなことばかり考えはじめるようになった。  廊下の角を何度も曲がった。はるか先に、ぼうっとした白い灯《あか》りを見つけた。夜間照明とは種類が異なり、病室から洩《も》れている。その中で、幽霊みたいな影が病室に吸い込まれるように消えた。 「おい」前を歩く芥の足を無理やり止めた。手のひらに伝わる人の温《ぬく》もりが、このときほどありがたいことはなかった。 「何でしょうか?」 「何でしょうか、じゃねえよ。——見ただろ? 今の」 「いえ。目が遠いもので」  さっと気色ばむのが自分でもわかった。 「じじい、とぼけるなよ」  怒気を含んだ残響がやみ、廊下が再び元の静寂を取り戻すまで、芥はおれから目を逸《そ》らさなかった。そして一言、 「……怕《こわ》いのですか?」 「なにをっ」  詰めよりかけたが、なけなしの自制心で踏みこたえる。 「あともう少しの辛抱です。この奥ですから」  芥はこともなげに踵を返してしまった。  オーケイ。わかった。もう少しの我慢なんだな。おれは後ろからいきなり襲ったりはしない。前からいく。芥、覚悟しろよ。おい、おい、おい待て、芥……。彼の歩調は、執拗《しつよう》に絡みつくおれの邪険な思惑をかいくぐるかのように速まっていった。  問題の病室が、薄闇の中から徐々に形を成していく。  靴音しか響かなかった廊下に、異質な音が混じるようになった。単調なリズムのくり返し。電子音と自転車の空気入れのような音。ピッピッピッ……、スーコ……、スーコ……、ピッピッピッ……、スーコ……、スーコ……。ずっとくり返されている。  さっきまでの苛立《いらだ》ちを忘れ、無意識のうちに身構える自分に気づいた。動悸《どうき》が耳まで届く頃には、病室の戸口が視界の大半を埋めていた。  芥はようやく立ち止まった。  彼は廊下から病室をのぞく姿勢になり、戸口の縁の部分に片手を添えた。中からひとりの看護婦がすれ違いに出た。さっきの人影の正体だった。三十代後半というところか。いかにもベテランという感じがした。さらに薄闇に包まれた廊下の奥から、もうひとりの影が現れた。白衣を着た医師だった。常に何かに苛立っているかのように、顔に濃い皺《しわ》の影ができている。  無言で立つ三人は、おれに道をあけてくれた。  照明が点《つ》いていない室内だったが、入りなさい、という意思表示にとれた。おれは三人の顔を交互に見すえながら、戸口に立つ芥のそばをすり抜けた。  風がわずかに通っていることを顔の肌で知った。  閑散としていた。奥にある窓から蒼白《あおじろ》い月明かりがほんのりと注ぎこまれている。角にはL字形の仕切りカーテンがあり、ベッドのシルエットが映っていた。カーテンが揺れる度に、床を這う電源コードの束と、ベッドの上下と奥の三方向にある鉄光りするものが見え隠れした。小さなブラウン管には連続した緑の波形が表示されていた。ランプや七セグメントのLEDがびっしりと点灯する機器が、幾重にも並んで設置されている。  スーコ……、スーコ……、スー……  それはカーテンの向こう側から聞こえてくる。  生唾《なまつば》を呑《の》んだ。片手をゆっくりと上げ、怖《お》じ気づく気持ちをふり払うかのようにカーテンをめくりあげた。  目を剥《む》いた。  どくどくと脈打つ鼓動が顔までせり上がり、目玉を裏側から叩きつけられる感覚に襲われた。身体中の産毛が総立ちになる怖気《おぞけ》を覚え、しばらくカーテンをつかむ手が放せなくなった。  ビニール状のテントに包まれたベッドには、人間の形をしたものが仰向けになっていた。  いや、正真正銘の人間だった。頭に針型の電極棒が突き刺さり、身体中の至るところにチューブを差し込まれ、フォークでまわしたスパゲッティの形を彷彿《ほうふつ》させる人間…… 「——生きているのか? それとも死んでいるのか? この女」  力なく吐き洩らした。  それが、おれが葉月《はづき》と出会って最初に口にした言葉だった。      3[#「3」はゴシック体]  タクシーから降りたとき、すでに夜の十時をまわっていた。  南丘聖隷病院からおれの住む町までは幹線道路を抜けて四十分足らずの距離だった。車内でおれの頭は、運転手が荒っぽいハンドルさばきをしていたことと、たった数時間のうちに起きた目まぐるしい出来事のせいで揺れ、疲労感でいっぱいになっていた。 (——お嬢様の脳は死んでいます)  抑揚のない芥の声が耳の奥でこだまする。  タクシーの後部座席で何度も反芻《はんすう》していたことが脳裏をよぎった。あの病院は昭和の初め、ある製薬会社が設立した企業立病院だという。薄闇に包まれた個室のベッドの上で、心電図や人工呼吸器、栄養補給のチューブでがんじがらめにされた女。彼女が永い眠りからほんのひととき目覚める奇跡。あの仄かな月明かりを浴びた、矛盾に満ち、幻想的にさえ思える不思議な光景……  帰り際に芥が言った通り、おれは再びあの山腹の病院を訪れることになるのだろうか? ましてやあの寂れた礼拝堂に、これから何度も足を踏み入れることになるのだろうか?  夜空を見上げた。  裸電球に似た満月が輝いている。落ち着いた気分になった。朦朧《もうろう》とする迷いが途切れ、たった今、夢の国から現実世界に引き戻されたかのように瞬《まばた》きをした。  莫迦《ばか》らしい。  不意に夜の空気が肌寒く感じられた。どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。それが空耳だと気づくまで時間がかかった。  小さな家々が壁を触れ合わせて建ち並ぶ、碁盤の目のように張り巡らされた道をしばらく歩いた。別段、意識しなくても足が勝手に動いてくれる。昼間だったら、薬屋や文房具屋や花屋などの店先から入り切れないほどの商品がはみ出ているが、今は邪魔するものが何もない。  床屋の角を曲がると、猫のか細い鳴き声が耳に入ってきた。薄暗い街灯の下でぐちゃぐちゃに潰《つぶ》れた肉の塊が照らされていた。大きな筆で書きなぐったかのように、道にこびりついている。そのそばで小さな影がウロウロしている。轢《ひ》かれた母猫の死骸《しがい》から、一匹の子猫が離れない姿だった。二本のタイヤ痕《こん》が母猫の血と肉と内臓を引きずりまわしている。バイクだ。母猫を轢いてスリップしながら急ブレーキ、そのままアクセルをいっぱいにまわしたのだろう。  子猫の影を視界から追い出した。  二階建ての鉄筋アパートにたどり着いた。鉄階段を上がる度に軋《きし》む音が響いた。その音につられて一階の管理人室のドアが開いた。手摺《てすり》から顔をのぞかせると、洩れた灯りの中でパジャマ姿のおばさんが見上げていた。管理人だ。いつものように髪を後ろでしばっている。  おれはズボンのポケットを膨らませる財布に手をあてた。そのまま階段を下り、財布から先月分の家賃を出した。 「そんなことで顔なんか出したりしないよ」  おばさんはぶっきらぼうに口を開いた。昔、おれ達兄弟の面倒をよくみてくれた親しさは、もう心のどこかに押し込められている。本当に話したいことをはぐらかし、互いに生まれてしまった距離に触れないよう気を配っている。——そうさせたのはおれだ。おばさんは差し出した紙幣には目もくれない。おれは紙幣をきれいに折り畳むと、機械的に、半ば強引に握らせてその場を離れようとした。 「……外は寒くなるし、彼女を部屋に上げてあるよ」  後ろを向くおれの耳が立った。 「彼女、ずっと待っていたんだよ。だから」  舌打ちと同時に足が動いた。階段を一気に駆け上がる。ドアは案の定、鍵《かぎ》がかかっていない。開け放つと、玄関に真っ赤なブーツが揃えて置いてあった。  居間の奥に、加奈《かな》の華奢《きやしや》な背中を見つけた。染めたショートヘア、ホットパンツにタートルネックのセーター姿。おれと一緒にいるときは、そうでもしないと目立たない。  加奈は室井広志の妹だ。背中を向けて座る加奈は、おどおどする様子でふり返ってきた。 「すばる、ごめんなさい」 「何してるんだ、こんなとこで」  靴を乱暴に脱ぎ捨てて言った。加奈には目もくれず、二間の部屋をくまなく見まわした。 「みんな警察に捕まったんだよ。わたし、心配だったから」  おれはまだ執拗に見まわしていた。散らかり放題だった部屋のものにはいっさい手を触れられていない。テレビも、エアコンも、テーブルも広がった雑誌さえも。もともと加奈は承知している。そこまで考えて顔の険がようやくとれた。 「……ねえ、すばる」  加奈の声が細くなり、今にも途切れそうになった。 「警察は」ようやく加奈を見下ろして口を開くことができた。「教えてくれ。——警察は、おれのことを捜していたのか?」 「わからない。でも」  おれは座った。黙って加奈の続きを待つ。 「高階が捜しまわっている。すばるが仲間を警察に売ったって。声高に裏切り者扱いしているんだよ。さっきまでアパートの周りにいたんだから」 (高階? あいつが?)  母猫の死骸から離れない子猫と、心配した様子で出てきた管理人のおばさんの姿がよみがえった。 「すばる……」  目の裏を泳いでいた緊張感が切れ、我に返った。ふと加奈が膝元《ひざもと》に隠しているものに目がとまった。小さな悲鳴を制して奪い取った。ゴミ箱に破り捨てたはずの大検の参考書だった。所々テープで丹念に補強されている。  加奈はなおもおれを見ていた。言葉がすんなりと出てこないようだった。その目が口では言えないことを代わりに表現しようとしているのか、次第に大きくなった。……加奈はおれに尽くしてくれる。他の女達と違って、化粧はしない。おれが加奈と自然にくっつくようになったのは顔色がわかるからだ。それは重要なことだ。 「うざったい、もう失せろ」  視界の端で、加奈の肩がびくっと震えるのがわかった。  横になってヘッドホンを手繰り寄せると、両耳に強く押し当てた。ミニコンポの電源を入れてボリュームを上げた。メタルが大音量で溢《あふ》れ出す。聴いていてひどく疲れる。唄《うた》っている内容は英語でわからない。だが、おかげで何も考えずに聴ける。耳も塞《ふさ》いでくれる。  睫毛《まつげ》のかげを通して、兄貴の位牌《いはい》が映った。  位牌は、部屋の隅でひっくり返っているラックの中から古新聞と一緒に顔を出していた。あんな所に放り投げていたことさえ忘れていた。あの位牌は兄貴自身から受け取ったものだ。  次第に、いやでも重なろうとする輪郭が頭に浮かんできた。  かつてホームで見た、細切れ肉に成り果てた轢死体《れきしたい》のオヤジなんかより強烈に焼きついていた。閉鎖された薄暗い病院に閉じこめられ、一年以上もおれを待ち続けていたというあの女。  延々と死に続けようとしているあの女。  あのとき——おれは—— 「生きているのか? それとも死んでいるのか? この女」  蒼《あお》い月明かりを包容する室内に再び夜風が通り抜けた。薄地のカーテン生地がひらひらとはためき、緑色に発光するブラウン管は絶えず何かの波形を記録していた。閉鎖された南丘聖隷病院の秘密を垣間《かいま》見た気がした。芥がお嬢様と称する女は、個室のベッドで仰向《あおむ》けになっている。  視界がぐらぐら揺れた。  身体中の至るところがチューブにつながれ、ベッドの下には電源コードの束がヘビのように這《は》いまわっている。独特の呼吸のリズムは普段耳慣れないもので、無理やり肺を動かされている、そんな違和感さえあった。いとすぎのような手足は触れれば簡単に折れてしまいそうだった。歳はまだ十代半ばくらいか。枕元に長い髪が広がり、どことなく端整な顔立ちであることは想像できる。肌は桃色だった。濃く長い睫毛、形の整っていそうな鼻梁《びりよう》——それらはよほど目を凝らさないとわからない。それもまともに観察できればの話だ。女の瞼《まぶた》は閉じたままで、その瞼を開く力がこの細い身体の中にあるとはとうてい思えなかった。包み込む透明のビニールテントは外界を遮断し、境界線の外側から見ている錯覚にとらわれた。動物園の檻《おり》の外とそれは似ていた。  枕元を見ると辞書ほどの大きさの小箱があった。それだけが奇妙な現実感を帯びて視界に映った。寄木細工の装飾と金具が施され、月明かりをほんのりと照り返している。  ゆっくりと女の顔に目を移した。  誰だ? おれはこんな女知らないぞ。どこの女なんだ? おれに関係があるのか? 学校は? 家族は——? 「笑っておられるのですか」  莫迦な。背後に立つ芥と目を合わせた。顔に指先を這わせると、頬の肉がひきつっているのがわかった。 「お嬢様の脳は死んでいます」  おれは喉《のど》の奥に石を詰められたように沈黙した。 「瞳孔《どうこう》は拡大して固定し、苦痛をともなう刺激にも反応しません。ですが心臓はまだ鼓動を打ち、身体には温《ぬく》もりがあり、髪も伸び、排泄《はいせつ》もします」  呼吸が単調にくり返されるだけの女を、息を潜めながら横目に入れた。脳が死ぬ——ぴんとこない。  芥は察したようだ。 「脳というものは何層かに分かれていましてね、ここでは大まかに三つとしておきましょう。——一番上の層に『新しい皮質』といわれるものがありまして、そこは知識や理性などを支配する部分です。その下には『古い皮質』といわれる部分があり、食欲、性欲、睡眠欲などの、本能を支配しています。そしてそこから下がったところに今度は『脳幹』というものがありましてね、眠るときちょうど枕があたる部分になります。生命の座とでもいいましょうか。喉を通った食べ物を消化する働きかけや、呼吸を司《つかさど》っています。植物などが持つ、ぎりぎりの生存本能がそこにあるわけです」  そこまではなんとか理解できた。 「私が〈脳〉とさしたのは、『新しい皮質』、『古い皮質』、『脳幹』の三つの層、全てになります。〈死んでいる〉という言葉を使ったのは、二度と機能を回復しない状態を意味します」  芥が指さしたのは、ベッドの端に並ぶブラウン管のひとつだった。そこだけ波形を示さずに平坦《へいたん》を保ち続けている。モニターの下部から伸びる電線は、頭に刺さる針型の電極棒につながっていた。これが、脳が死んでいるということなのか? 「死には不可逆的な条件が付きます。つまり二度と生き返ってはならないという大前提です。現に日本では大事をとって、死後の二十四時間以内は火葬ができません。それほど念を押すものなのです。——何を申し上げたいのかといいますと、心臓の停止が人間の死のピリオドではないということです。死が起きた瞬間を判定することは極めて難しい。それは過程が存在するからです」  おれは深呼吸をした。知らないうちに息を止めて聞いていた自分に気づいたからだった。 「まだ土葬が主流だった江戸時代の怪談で、臨月で死んだ女性の幽霊が、町で飴《あめ》を買い求める話があったのをご存じでしょうか?」  なんだ? 突然話が変わって戸惑った。 「不審に思った町人が、その母親の墓を掘り起こして棺《ひつぎ》を開いてみると、母親の躯《からだ》が赤ん坊を産み落としていた。そんな結末です。あの話は、あながち作り話とは言い切れません」  芥の顔を見る。 「——心臓が止まれば血液は循環しなくなる。つまり酸素がまわらない。その結果、〈脳〉に損傷を受けて『脳幹』までもがやられてしまえば、呼吸を働きかける機能が失われることになります。呼吸が止まれば肺も動かなくなり酸素が取り込めない。そうなれば心臓を動かす要素はなくなる。それまでかろうじて生きていた心臓より末端の臓器も、次々と死に果ててしまう。そして次第に色々な筋肉が収縮して固くなり、硬直していく。人間の死は、そのように時間をかけてゆっくりと出来上がっていくものなのです。それが死の過程というものです」  言っている意味がよくわからなくなってきた。しかし話を進めるため、その続きを聞くために頷《うなず》くしかなかった。  女を見た。鼻に太い管が挿入され、口にはマスクがあてられている。それらは冷蔵庫を思わせる白い箱形の器械につながっていた。単調な呼吸のリズムはどうやらそこから生み出されている様子だった。充電中のロボットみたいだ。器械にはダイヤルやメーターが並び、何がどういう操作系になっているのかさっぱり見当がつかない。 「死の過程で、タイミング良くこれら蘇生器《レスピレーター》につなげてしまえば、全身の組織が死ぬ前に脳幹に代わって呼吸を継続させてやることができるのです。そうすることで肺から酸素が入ってくるので、心臓が再び動き出す。〈脳〉が死んでしまっても、心臓や肺、他の臓器はぎりぎり機能を保つことができる。ただしそれは自発的なものではなく、これらの器械があってこそです。器械につながれた生命、それ故に器械を外すと同時に終わってしまう生命。俗にいう脳死状態と呼ばれるものです。蘇生器につながない限り決して起きない現象で、近代科学において人間が作り出してしまった新しい死の形といえます」 「……これが、死だと?」おれはようやく声を取り戻すことができた。 「そうです」 「この女はもう二度と回復しないのか?」  後退《あとずさ》りする背中がカーテンを押し広げ、ただそれだけでバランスを失いそうになった。 「回復するも何も、もうすでに手遅れで死の過程にある人間を、器械で無理やり止めてしまっている状態です。この状態を『眠っている』と表現するのは不適切でしょう。自発呼吸もできなければ、意識がないので夢を見ることさえできない。『脳幹』がまだ生きていて、睡眠と覚醒《かくせい》のリズムを持つ植物状態とは根本的に違います」 「死体なのか」  その問いに、芥は考える間をおいた。 「蘇生器につながった死体だとも受け止められます」  冷たく言い放たれ、酷《ひど》く気が滅入った。茨《いばら》のように絡みつくチューブがよけい痛々しく思え、悲惨さが滲《にじ》み出て、正視に堪えられなくなってきた。  月の影が個室を侵食した。  おれは芥の顔を探した。ようやく見つけた。彼は言葉を慎重に選ぶ素振りで黙り込んだあと、諭すような口ぶりで言った。 「高村さん。終焉《しゆうえん》に向かう生命《いのち》の中には、時計があるのですよ」 「——時計[#「時計」に傍点]?」  その言葉は奇妙な響きを含んで耳に入ってきた。 「今はその時計の針を、私達人間の手で止めている。くい止めているといった表現の方がいい。人工呼吸器をつけ、強心剤の点滴をし、栄養補給をし、治療費に糸目を付けない手厚いケアを続けることで、それはかろうじて成り立っている」 (……時計)  反芻《はんすう》しかけたところで、眉間《みけん》を針で突かれたように我に返った。 「その時計が動きはじめたときはどうなるんだ?」  問いに芥は答えなかった。硬化していく表情が月の影に隠れた。スーコ……、スーコ……、ス……呼吸音だけが虚《むな》しく響き渡る。 「ひと思いに殺してやれ」  言ったあとにその矛盾に気づいた。薄闇の向こう側で、それまで黙って立っていた中年看護婦がぴくりと動く。何か言いたそうだった。もうひとりの医師の方は動じない。おれは激昂《げつこう》し、火を噴くほどの怒声を上げた。 「こんなものを見せるより一千万円はどうなった? ええ? おい、一千万円だっ。ここまでこさせておいて嘘じゃないだろうな。耳を揃えてすぐ出してみろよっ」  手頃な位置にいる芥の胸ぐらをつかんだ。足元から根こそぎ引き剥《は》がすようにぎりぎりまで鼻を寄せる。芥はおれの言動に鼻白むことなく、落ち着き払った素振りで胸元の手を下ろした。 「お気を確かに」 「いられるか」空笑いしたくなった。「こんな死にぞこないの女を目の前にして、おれはいったいどうすればいいんだよ?」 「協力していただきたいことがあるのです。それは、高村さんにしかできない」 「このおれにしかできない?」……中途半端な暴走族幹部のこのおれに? できることはたったひとつしかない。「よし、この蘇生器を外せばいいんだな?」 「そんなことではありませんよ」  芥は正面から見すえたまま一瞬たりとも目を逸《そ》らさない。おれはたじろいだ。正直こんな薄気味悪い場所からは、金だけもらって早く逃げ出したかった。 「——お嬢様の名前は葉月といいます。私達との関係や、個人のプライバシーに関わることは、なるべくここでは伏せさせていただきます」  動揺して目まいさえ覚えた。芥の話がどう進んでいくのか全く読めない。それ以上に、十七日間監視されてきたおれのプライバシーはどうなるんだ? 「脳死を決めるものにはガイドラインがありましてね、たとえば日本では竹内基準と呼ばれるものが存在します。脳死患者から臓器の摘出を行うのに、そういった判断基準を基にするのです」  葉月という名前の女をもう一度視界に入れてみた。眠っているわけでなく、起き上がる可能性も医者である彼らに見放され、ただ呼吸だけを人工的にくり返してきたというのか。……ふと芥の言葉の中に、引っかかるものがあることに気づいた。 「おい待て。今、臓器の摘出だとか言ったな?」 「そうですが」 「どういうことだ」 「まだ心臓が動いている脳死患者から提供される臓器を、必要とする人達は世の中に大勢います。臓器移植は今まで苦しんでただ死を待つだけだった患者達に、光明を与えているのです」 「……わからねえ」  と、口から自然にこぼれ出た。 「何がわからないのですか?」 「気色悪りぃ。おれだったら嫌だ」  芥は意外そうな顔をする。 「なぜです?」 「おれの臓器はおれのもんだ。持ち物じゃない、おれそのものなんだよ。だから他人にやるなんて気が知れねえ」 「極論ですが、火葬場で棺ごと灰になって大勢の人に箸《はし》でつままれるか、死後の身体を生命連鎖の輪の中に提供するか——人によって死生観は異なるのです。脳死患者を抱えた家族の中には、たとえ他人の身体でもいいから、患者の身体の一部分を生かしてあげたいと切望するケースもあるのです」  気圧《けお》され、ごくりと唾《つば》を呑《の》む。 「……どう言われようが、おれならまっぴらだ。そんなのは」  芥みたいな医者達が、寄ってたかってこの葉月という女から臓物を刈り取っていく光景を想像した。 「倫理的な問題、高額な医療費負担、優先順位などの問題点は依然残されたままです。しかし臓器移植を切望する患者がいて、その手術を成功させる腕を持つ医師がいて、脳死患者もしくはその家族が臓器提供に応じている場合——その三者が納得して行うのなら、臓器移植は極めて自然な過程になるはずです。お嬢様は法律に基づく脳死判定ができる施設で、脳死基準をクリアし、死亡宣告を受けたのです。お嬢様の不幸は、生前に臓器提供者、つまりドナーの意思表示をする機会がなかったことです」  芥の眼鏡の奥にある目が広がった。おれはその目の中に、かつて取り返しのつかないところまで追いつめられた、兄貴と同じ痛みを見た気がした。 「ですから人工呼吸器につないで、強心剤の点滴をし、栄養補給をし、手厚いケアを続け、金に糸目を付けない救命治療が試みられました。心電図が指し示す変化を見逃すまいと、お嬢様の顔とモニターの数値との間を、何度も視線を往復させる日々が続いたのです」 「……いったいどのくらい経つんだ?」 「もう一年以上経ちます。その間にお嬢様の家族は不幸な事故に遭われ、亡くなられてしまいました」 「家族がみんな? そんなことがあるのか?」 「当時のお嬢様の家族は、たったひとりしかいなかったのです。父親です。とある製薬会社の会長をしておりました。お嬢様の臓器を移植すれば助かる可能性もありましたが、父親は今際《いまわ》のきわに拒否したのです。本人の生前の意志、もしくは肉親の同意がない限り、法的にドナーになることはできません。お嬢様はドナーの道を断たれたまま、遺産によって莫大《ばくだい》な医療費をつぎ込まれ、このような脳死状態を延々と続けているわけです」  何だ、こいつは何を言いたい? 「いいですか? 脳死状態で心臓を永遠に動かし続けることはできないのです。脳死になれば通常は一週間程度で心臓は止まります。もっとも長いケースでは、子供の脳死患者で数ヶ月心臓が動いた報告があります。しかしお嬢様の心臓はこうして一年以上も動いている。この時点ですでに前例がない」  芥の目が、葉月の頭に刺さった針型の電極棒に注がれた。おれは目を背けた。 「脳の機能が完全に失われたことの証明は、今の医学ではできません。脳波計で測れるのは、あくまで脳の表面の部分までです。脳内に流れる血液の停止でさえ判断する術《すべ》がない。脳死は脳が機能を停止した状態であって、脳細胞が完全に死んだわけではない。脳の細胞レベルは解明できても、それら細胞が集まった脳機能がどういうメカニズムによって行われているのかは、実はさっぱりわからない」  おれはぽかんとした表情になっていた。 「私は脳死患者を死体だと言いました。では、高村さんに訊《き》きたいことがあります。——高村さんは、心といえば身体のどの部分をさしますか?」  いつの間にか、左胸に手をあてる自分に気づいた。 「そうです。脳がある頭をさす人は少ない。個や意志、存在や魂、そして自分自身でさえ全て脳にあるはずなのに、誰もが心臓をさす。ものを考えたり、感じたり、夢を見る心は心臓にあると思っている。だから脳が死んでも心臓がまだ動いていれば——と遺族なら誰でもそんな希望にしがみつき、脳死と宣告されても受け入れられない日々が続くのです。長い時間をかけて次第に落ち着き、患者の身体を触りながら気持ちの整理をはじめていく。やがて脳死を人間の死と認めざるを得なくなり、受け入れる覚悟ができる」  話の行き着く先が全く見えない。それとは別に、心の隅で徐々に生まれてくる感覚があった。その正体がわかった。目の前で仰向《あおむ》けになっている、葉月という存在に対する畏怖《いふ》だった。 「高村さんがこの部屋にきて、お嬢様を最初に見たときに発した言葉を覚えていますか?」  唐突に問われて戸惑った。  生きているのか? それとも死んでいるのか? この女。  はっとした。 「私達もいまだ堂々巡りをしているのです。そう感じるほど、あまりに長い時間が経ちすぎたのです。……高村さん、もう一度言いますよ。この部屋の時計[#「時計」に傍点]は止まっているのです」 「時計が……止まる?」  わけがわからなくなってきた。 「この世の苦痛は、苦しみと痛みに分けられます。今まで高村さんが感じてきたのが痛みなら、お嬢様が解放されなかったのが苦しみになります。死は誕生、成長、成熟、老齢と、全く同じ現実に過ぎません。その時の流れの中で、死の過程だけが理不尽に止められてしまったのです」  その場の不可解な雰囲気に呑まれかけたときだった。  乾いた笑い声が閑散とする空気を割った。笑い声は徐々に小さくなり、そしてぶつりと途切れた。 「——もう、いいよ、あくた」  若い女の声がした。 「おまえの——、はなし、は、ながい」  一瞬、頭の中が混乱した。呆気《あつけ》にとられるのと同時に、周りの空気が凍りつく感覚にとらわれた。 「せっかく、きて、くれたのに、すばるが、こまる——、だろう」  古いテープレコーダーを再生したような声色。 「もう、いい——」  息苦しさを伴う声は、芥をなだめるようにも聞こえてくる。月明かりを浴びた個室の中で、おれは瞬きを何度もくり返して周囲を見まわした。芥を含む三人の視線は、何ひとつ驚く気配をみせずに重なり合っている。その焦点は葉月が仰向けになるベッドだった。 「いったい何が起きたんだ?」  芥に向かって問いかけたはずだった。なのに答えは、全く別の方向から返ってくる。 「——こういう、こと」  おれは葉月を見下ろした。何度も目を凝らしてみた。変化は訪れない。 「いきる、ことも、しぬこと、も——、かなわなかった」  焦って声の出所を探した。どこだ? 見つからない。背中から冷たい汗が滲《にじ》み出た。 「——なぜだろうな。のうが、しんでいるはずなのに。みみ、こえ、いしき、は、まだ、ほんのすこし、よみがえって、わたしを、くるしめる。なぜ、か? あくたたちに、こたえは、だせなかった。たぶん、これからも——、ずっと、だせない——」  葉月は依然として瞼《まぶた》を開くことも、身体が動き出す気配もみせない。おれの視線が人工呼吸器のマスクから離れ、チューブを伝い、ベッドの脇にある黒みを帯びた器械へと移動した。ステレオのような円形アンプが真ん中に備えつけられている。  声はそのアンプから発せられていた。  奇跡なのか、それともトリックなのか?  呆然《ぼうぜん》とするおれの耳元で芥が囁《ささや》き、氷水を浴びせられたように我に返った。 「蘇生器に意思伝達装置をつけた結果です。本来身体の不自由な患者が、自分の意思を伝達するために使うものでしてね。需要は少ないので値は張りますが、人工呼吸器を会話が可能なものに変えています。特別製で、声帯に宿るわずかな変化も拾うことができます」  おれの目が横にスライドした。脳波計を示すモニターは平坦《へいたん》をさし、人工呼吸器も変わらぬ動作を続けている。葉月の声が聞こえる間も、彼女は冷たい彫像を思わせるままでいた。  葉月を人目にさらさず、この閉鎖された病院の奥でかくまい続けてきた理由が、ようやくわかりかけた気がした。 「……おれはいったい、何を協力すればいいんだ?」  緊張して声が震えた。 「お嬢様の願いを、私達と一緒に叶《かな》えていただきたいのです」 「……願い?」 「一千万円の報酬と引き替えに、この部屋から最短距離、最短時間で運んでいただきたいものがあるのです」  芥が静かに答える。 「……何を?」  器械のアンプから、ジジジ、と雑音が走り、再び葉月の声がゆっくりと流れてきた。 「わたしの、かくまく、こまく、ひふ、ほね、じんぞう、かんぞう、そして——、しんぞう。ひとつ、ずつ、とりだして、ひつようとする、ひとたち、に、わけあたえて、ほしい。——とけいが、とまり、つづけている、りゆうを、しりたい。ほんとうに、わたしが、ひつよう、だったのか——、このみみに、きかせて、くれないか」  おれは息を鋭く吸い、そのまま声を失った。 「この、くつうから、かいほう、してほしい。みみと、こえは——、そのために、のこされて、いるのかもしれない。——だったら、わたしは、まだ——、しあわせだ」  葉月は瞼を閉じたままだった。その目尻《めじり》から涙が盛り上がった。伝わり落ちていく一本の線は、窓から射す月明かりに滲んでうっすらと光り輝いた。 (生きているのか? それとも死んでいるのか? この女) 「……喋《しやべ》るじゃないか」と、ようやくかすれた喉《のど》から声を絞り出すことができた。「……本人が殺してもいいと言ったから殺すのは、罪にならないのかよ?」  その問いに芥は間を置いた。あいかわらず表情には何も浮かばない。 「刑法二〇二条の嘱託承諾殺人罪。ただし、生きている人間ならば」  おれは首をふった。気が遠くなるのを感じた。  飛び起きた。  部屋の時計が目に映った。秒針がカチカチと進んでいる。針は午前五時半をまわっていた。こんな莫迦《ばか》げた早起きはこれで二度目だ。窓の外は朝靄《あさもや》が立ち込め、雀がぱたぱたと飛び立っている。ヘッドホンをつけたまま今まで眠りに落ちていたことに気づいた。ミニコンポの電源はいつの間にか切られて、代わりにエアコンの暖気が部屋を埋めている。  テープで補強された大検の参考書が目にとまった。拾い上げ、しばらくそのまま惚《ほう》けていた。立ち上がると部屋の隅に転がる兄貴の位牌《いはい》を踏んで、加奈の姿を探した。いなかった。代わりにテーブルの上にコンビニエンスストアの袋が置いてあり、中に調理パンと牛乳が入っていた。  おれはふすまを開け、四畳半の押し入れを調べた。  あった。室井広志が事故を起こす前、おれ宛てに送付してきた木箱だ。蓋《ふた》は釘《くぎ》で頑丈に閉じられている。かつて室井広志が、おれと高階にこのシステムを持ちかけたのがルート・ゼロのはじまりだった。三台のノートパソコン、受信機とデジタル無線の解読機、イヤホンとハンズフリーマイクが中に入っている。高階に脅されるようになったあいつは身の危険を感じて、妹の加奈と親しくしていたおれにこのシステムを預けた。  芥はこれを使えと言った。  ジャケットのポケットから、芥から手渡された専用の携帯電話と、南丘聖隷病院を示した地図がずり落ちそうになった。夢ではない。不気味な現実感が押し寄せてくる瞬間だった。  狭い台所に飛び込んだ。水道の蛇口をひねると頭から水を被《かぶ》った。水は冷えきっていて震えがきた。それでも昨日の晩からおれを包みこんでいた不可解な気配を消したかった。  角膜、鼓膜、皮膚、骨、腎臓《じんぞう》、肝臓、そして心臓。  臓器の摘出と提供はいっさい表沙汰《おもてざた》にしない。それが条件だった。一千万円の報酬で必要とする患者のもとへ届けろという。そして身体の部分をひとつずつ失っていく葉月に、その無償の愛の物語を聞かせてほしいという。不気味なアンプから声がしなくなるまで、あの呪縛《じゆばく》から解放されるまで——ずっと続けろというのか? 狂っている。莫迦げている。夢とも現実ともしれない出来事に、身体の震えが増していった。  蛇口の栓を止めた。水の流れが顎《あご》の先から滴り落ちていく。  部屋の隅でチカチカと赤く点滅するものが目にとまった。電話の留守電ランプだった。昨日の晩に溜《た》まったまままだ再生していない。件数は八件あった。 〈何であの現場に行ったんスか?〉、〈仲間を警察に売るなっつの〉、〈がっかりしました〉、〈今すぐ出てこい〉、〈先輩つまんないッス〉、〈殺してやる〉、〈信じられねえよな、先輩……〉  代わる代わるルート・ゼロのメンバーの声が再生されていく。十対一の喧嘩《けんか》で勝ったことを自慢する連中だ。室井広志が抜けてから、いつの間にかこんな奴らでメンバーが膨れあがった。こんなことを言われる覚えも筋合いもない。誤解だ。話せばわかる連中だろうか——。少しでもそう思いかけた自分の愚かさに気づいたときだった。 〈……狂ったてめえの兄貴のようにしてやろうか?〉  その声に逆上しかけた。挑発する声は高階のものだった。まるでこの機会を待ちかねていたように。  気持ちの整理がつかないまま幻覚を見た。  目の前の大きな歯車がまわりはじめ、うねり、次第に止められない状況になろうとしている幻覚を。      4[#「4」はゴシック体]  アパートから三軒隣の位置に、車の修理工場跡地がある。  ドラム缶と古タイヤが積まれた廃品置き場、その隅にシートが被さった一面がある。剥がすとカワサキのZZ—R六〇〇が現れた。真紅のボディを朝陽が照らし、ぬめるように光っている。中古で掘り出したとき、メーターはゆうに七万キロを超した代物だった。安く買い叩《たた》き、顔見知りの店でマフラーとクラッチだけを交換した。他はノーマルのままでなんとかいけた。  以前乗っていたバイクはある日突然盗まれた。見つけたときには、無理矢理ハンドルをねじ曲げられ、マフラーは輪切りにされ、ガソリンが涸《か》れ果てるまで乗りまわされていた。兄貴が残したものはそうやって、おれの目の前からなくなっていった。  バイクを廃品置き場から押し出した。イグニッションキーをまわしてギアを踏む。クラッチは交換してから噛《か》みつくように利く。レバーから指を浮かすと、腿《もも》の間が心地よくくすぐられた。  アクセルをまわした瞬間、あわててハンドルを切った。ぎゅるるっ、とタイヤが激しく地を噛む。  野良猫をあやうく轢《ひ》きそうになった。だいぶ弱っている子猫が、電信柱の方向に四肢を懸命に動かしている。昨夜見た、母猫を轢かれてしまったあの子猫だ。まだ乳離れしていない大きさだった。スタンドを立て、子猫の首をつかんで持ち上げた。たやすく捕まえることができた。  迷ったが結局、アパートの部屋に連れて帰ることにした。加奈が買ったミルクを皿にあけ、子猫の顔を押しつける。それから加奈の携帯に電話を入れた。〈ただ今電話に出ることができません、ピーという発信音のあとに……〉また電話する、そう伝言を残した。  子猫がミルクを必死に舐《な》めているのを確認して、部屋の鍵《かぎ》をかけた。半キャップのヘルメットを首にまわし、ゴーグルをはめた。  ——どうせ、すぐに死んでしまう命なのに。  冷たい初冬の風を裂き、狭い界隈《かいわい》が作る迷路から逃げ出すように走り抜けた。  国道沿いにある工業団地の入口を目指した。  乗用車や長距離トラックをかき分けるようにして走り、やがて大型パチンコホールが視界に入った。レールに吊されたボードが周囲に張り巡らされている。ボードは建築途中を示す看板を目印にして、何枚か外せるポイントがあった。その脇でバイクのエンジンを切り、中に入った。  敷地は広い。工事も内装もほとんど完了したのに、近場に営業妨害ともとれる幽霊診療所ができたおかげでオープンが延期されたホールだ。おれの知っているホームレスのおっさんが日給四千円のバイトで入院していた診療所。完成した円筒形の巨大ホールも、一年以上放置されたことですっかり寂れてしまっている。  メンバーの車とバイクは見当たらなかった。しかし入口の自動ドアは半開きになっていた。裏側に停めてあるのかもしれない。  自動ドアを手でこじ開け、瓦礫《がれき》と工具が散らばる螺旋《らせん》階段を駆け上がった。徐々に煙草の吸い殻が目立ちはじめる。二階はパチスロコーナーになる予定だったが、一階と違って器材の搬入は済んでいない。がらんとした室内には、リサイクルセンターから拾ってきたパイプベッドやソファ、テーブルが無造作に置かれている。 「誰かいないのか」  声の残響がやまないうちに、誰かが動き出す気配がした。 「……高村か?」  予想だにしなかった低い声に、反射的に身構えた。ソファの陰から革のブルゾンとスラックス姿の男が立ち上がってきた。私服姿だったので、誰と気づくまで時間がかかった。堀池《ほりいけ》だ。おれ達をしつこく追いまわしている生活安全課の巡査部長だった。 「おい逃げなくてもいい。今日は非番だ」  自分の指一本でも震わせたら逃げられる、堀池はそれを敏感に察知していた。どうやらおれを待っていた様子ではなさそうだった。彼にとっても予期しなかったことがうかがえる。  おれの足は強力接着剤を踏んだように固まった。非番なら何でこんなところにいるんだ? 頭を回転させ、目だけを動かして周囲に気を配る。 「お前らが作った集団は組織とは違うんだよ。誰がこの場所を吐いたのかを考えるのなら、野暮なことだ」  逃がさぬよう、慎重な声色を使っているのがみえみえだった。  おれはだんまりを決め込むことにした。 「ドジを踏んだな。あっけないほどの空中分解だ」  しらを切る。 「一昨日のことだ」  堀池の眼光が鋭くなった。 「あの晩、お前は高級住宅街の現場にいたはずだ。目撃者もいる。どんな手を使ったのかは知らない」言いながら一歩前に進んできた。「署長から穏便に処理するよう指示がきたらしい。被害者側もそれで納得している。もともと揉《も》め事の発端は向こう側にある。全員アメフト部員だったから、下手すれば大学側の不祥事になりかねない」 「……堀池サンの管轄外じゃないッスか?」  諦《あきら》めてようやく声を返した。だが目を合わせることはしない。堀池の執念深さは知っている。目先の点数稼ぎに全く興味がなく、警察の組織員としての自覚は薄い男だ。そういう奴が一番たちが悪い。しかしおれは堀池に一度だけ助けてもらったことがある。ルート・ゼロを結成する以前の話だ。堀池はそれを貸しのつもりでいる。 「そうだ。管轄じゃない。だが名残惜しさというものがある。特にお前だ」 「嘘つけ」  おれは鼻白み、身体を翻そうとした。 「待てよ」  堀池の声がおれの足を止めた。おれの育ちと環境を知っている数少ない人間だ。こいつは、おれがルート・ゼロの幹部であることを昔から知っている。おれに目をつけ、散々追いまわしてきた。だからうざったい。 「俺にはわからないんだよ、お前が。中学までは優等生だったんだろう? ……苦労も知っている。やっぱ両親か親代わりがいないと、そんなに落ちぶれてしまうものなのか」  視界が一瞬ぼやけた。挑発している。わかっていた。だがおれの唇が徐々に震え、自分の意志では制御できなくなってきた。気づいたときには一歩踏み出して堀池を突き飛ばしていた。 「莫迦《ばか》にするなっ」  吐く息が荒れた。「おれにとっては、それが当たり前の環境で育ってきたんだよ。——当たり前の環境にいるみんなと、どこが違うんだよっ」  堀池は体勢を整え直して胸をはたいた。 「……公務執行妨害だ」 「非番って言ったじゃないか、てめえ。くそがっ」  堀池の唇が薄く笑う。 「ひとついいか? なぜあんな墓穴を掘る真似をした」  黙った。きつく目を閉じて天井を仰いだ。話を逸《そ》らしたかった。「……堀池サン、ほかの連中は?」 「散った。どうせ頭がいれば、また集まる」  高階か。 「なあお前。もしかして、もうあんな戯《ざ》れ事《ごと》を終わらせたかったんじゃないのか? その腹づもりだったんだろう?」 「何言っているんスか」 「高階稔は美緒《みお》興産とつながっている。美緒興産は広域指定暴力団の傘下だ。あいつはメンバーを使って中学生相手にトルエンの卸売りをしている。それをお前は知っていた。それでルート・ゼロを解体したくなった。お前もろとも心中させてな」 「おれ、先急ぎますんで」  後ろを見ずに階段を駆け下りた。追ってくる気配はなかった。堀池の執念深さは知っていた。  迷った末、閉鎖された南丘聖隷病院のある市街地のニュータウンに着いた。  夕闇に染まりかけた山肌を眺めていくと、片側は切り通しの崖《がけ》になっていることに気づく。中腹にそびえ建つ病院へ行く手段は二つ。展望台がある山頂終点駅まで運行するケーブルカーか、崖側を迂回《うかい》して上っていく舗装路。山林が鬱蒼《うつそう》と生い茂る舗装路をバイクで上った。芥が運転するベンツもここを通ったはずだ。道は途中で分岐し、病院に続く広い一本路は通行止めのフェンスで塞《ふさ》がれている。  多少の力は要るがフェンスはどかせる。南丘聖隷病院に近づいた。ここから先は下界から完全に遮断された雰囲気が漂っている。  おれは自ら踏み込もうとしていた。  放射状に伸びる道を眺めた。駅は閉鎖されていた。煉瓦《れんが》道に沿ってスロープが続き、広場の先にある正面玄関は灰色のシャッターで閉ざされている。歩き進むうち、重々しい気分になりはじめた。芥から手渡された地図には、正面玄関から例の個室にたどり着くまでの経路が記入されている。  ブナの木が茂る裏庭にまわった。  ゴシック調の礼拝堂を視野に入れながら、外来棟に続く屋根のついた連絡通路を歩いた。古びて表面がざらざらになったスチールドアのノブを左に二回、右に一回まわすと、ロックが外れる音がし、軋《きし》みながらドアが開いた。洞窟《どうくつ》のような廊下が伸びている。目印になる内装はないに等しい。念を入れてもう一度地図を確認した。四つある建物は、内科病棟、外科病棟、小児科病棟、そして少し離れた位置にあるホスピスとに分けられていた。  向かう先は南端にあるホスピスだった。暗闇の中、先を急いだ。やがて縁にレールと椅子がついた階段を見つけた。昇降機だった。ホスピスは造りが違う。他の病棟に比べればホテルに近い。  階段を上がって洞窟のような四階の廊下を進んでいくと、奥からかすかな、あの薄気味悪い呼吸音が聞こえてきた。  個室の前に人影があった。白衣のポケットに両手を入れて窓の外を眺めている。昨日の晩、終始何も喋《しやべ》らなかった医師だった。芥から手渡された地図には走り書きがあり、この男の名前は澤登《さわのぼり》とある。改めて間近で見ると、歳は四十代半ばぐらいで孤高な雰囲気が漂っているが、医者としての腕は良さそうに思えた。 「あとをつけられなかっただろうな?」  かけられた声に神経質そうなとげが含まれていた。 「芥はどこにいる?」  質問がぶつかり、しばらく睨《にら》み合いが続く。 「中だ」 「あ、そう」  個室の入口は引き戸になっていた。一応ノックしてから開いた。 「おい、その汚いサファリジャケットはなんとかしろ」  背後の雑音を引き戸で閉ざした。  芥がいた。案山子《かかし》のような後ろ姿は寂寞《せきばく》とする影を作っている。薄地のカーテンとビニールテントで覆われた一角に、葉月が仰向けになっていた。はじめて見たときと変わらない姿だった。人工呼吸器や栄養チューブ、心臓や血圧のモニターが全身に取り付けられ、電源プラグを抜けば何もかも終わってしまいそうな女。  おれの来訪に気づいた芥は、ふり向き、顔をほころばせた。 「なんだよ。きちゃ悪いのかよ」 「私達はルート・ゼロの幹部なら誰でも良かったというわけではありませんよ。確信があったのです。あなたなら再びこの場所に戻ってきてくれると」  おれは唇を噛《か》み、じっとこらえたあと念を押した。 「……報酬の話、本当なんだろうな?」 「臓器の運搬をしていただければ差し上げます」 「だったら——」おれは顔を上げた。「一千万円は、今のおれには必要な金だ。くれよ」 「半分嘘ですね」  あっさり返された。 「あなたは一度、似たような状況を経験しているからです」  はっとし、目を剥《む》いた。 「あなたは、唯一の肉親だった自分の兄が死んだ。そう思っている」  おれは顔の色が引くのを感じた。 「——兄貴は死んだ。もういない」  あのとき、直《じか》に位牌《いはい》を手渡されたときの光景を思い出した。 「社会的に死んだ、の間違いでしょう」  芥を睨みつけたまま、爪が食い込むまで拳《こぶし》を握りしめた。声が続かなかった。 「生きているのか、死んでいるのか、あなたはわからないでいる。だからお嬢様に同じ影を見ている」 「うるさいっ、黙れっ」  ベッドのカーテンをつかみ、天井のレールから引きちぎった。芥はおれの興奮がやむのを待ったあと、「——これをお返しします」と、椅子にかけたバッグから厚めの封筒を取り出した。興信所の朱印が押された調査報告書が入っていた。おれの家庭が詳細に調べ上げられている。封筒の底にはまだ何か入っていた。逆さにして振ると、ビニール袋に包まれた何かが落ち、それを手で受け止めた。見覚えのあるものだった。 「……これは」 「あの轢死《れきし》事故のことをまだ憶《おぼ》えていますか? 泥酔状態の中年男性にからまれた二十代半ばの女性が、彼をホームから突き落とした不運な事故です。彼女は起訴処分になっていません。結果で判断すれば加害者はその女性であり、被害者は中年男性になります。しかし真の被害者は女性の方で、泥酔状態の中年男性や、その状況を見て見ぬふりをしていたホームの客達こそ加害者ではないかと世論は沸きました。そしてホームの客の中にはあなたもいました。それもあの揉《も》め事に一番近い位置にいた。周囲と同じように、あなたも知らぬふりをしていたはずです。……ただしひとつだけ決定的に違う点を除いて。あなただけがあのホームでの揉め事の際、起こりうる最悪の結末を予測していたことです。ここまで言えばわかりますね? 真実は、全ての悪意があの女性にあったということです」  おれの手のひらに載ったのは、ひとつずつビニール袋で包装された特徴のある錠剤だった。 「——リタニン錠『チバ』。一般名は塩酸メチルフェニデート錠。効能は精神安定を促し、神経の動きを活発にして意欲を高めます。長期にわたって服用すると習慣性がつき、徐々に効き目が弱くなる恐れがあります。俗に言う覚醒《かくせい》作用です。こんな説明、あなたには不要だと思いますが……」 「これを、どこで?」 「あの轢死事故があったホームで拾いました。正確に言えば、あの女性が落としたものです。処方箋《しよほうせん》がないと手に入らないその錠剤を、あの女性は普段持ち歩き、常用していたことになる。一番近くにいたあなたは、目にすることができた」 「……そうか。いくら捜してもなかったはずだな」  鉛のように溜《た》まっていた息を、肺から吐き下ろすことができた。 「あのとき平然と線路を眺めていられたのは、薬を捜し出すのが目的だったのですか?」 「そうだ」 「ただの好奇心とは思えませんね。追い詰められた人間が出そうとする結論に、あなたは最初から絶望を感じている。心の準備ができているのです。違いますか?」 「あの女、兄貴と同じ目をしていたんだよ」おれは静かに続けた。「……追い詰められた人間の目。これから取り返しのつかない選択をしようとする目。兄貴がああなる前に、おれが気づいてやることができなかった目だ」 「誰だって心の闇を照らすライトが持てないのなら、その闇を作り出す夜ごと消してしまおうとするときがあるのです。お兄さんの一件で、あなたはそれを傍観できてしまうようになった。そうやって感じてきた痛みが、今のあなたを支えているのです。——肝心なときに取り乱さないこと、口を閉じていられる抑制力、そしていつ沈黙を破るのか見極められる感受性も、私達が必要とする人材の条件なのですよ」 「それがおれか?」  脳死状態の葉月を見て、そしてついさっきもあれほど取り乱したというのに…… 「一千万円があれば、あなたの心からの渇望を叶《かな》えることができます。たったひとりの肉親であるお兄さんを、あの病院から移したくありませんか? あなた自身、大学に行く夢を諦《あきら》めきれていないはずです。充分におつりが出る」  手のひらに載った錠剤を固く握りしめ、瞼《まぶた》を深く閉じた。中学に上がったおれを養うために、この薬に頼らざるをえなくなるまで身を粉にして働いた兄貴のことを思い出した。芥に悟られまいと顔を背けた。枕元に置かれた小箱が目に映る。  そのとき器械のアンプからジジジ、と雑音が鳴り出した。 「——ないて、いる、のか」  葉月の声だった。胸の内まで見透かしそうな声に、おれの心はざわついた。窓から月明かりが射すベッドで、彫像のように成り果てている彼女を睨みつけた。 「はづきと言ったな。答えろ。おれはお前を知らない」  苦しくなるほど喉《のど》が詰まっていた。 「——わたしは、しっている。わすれることが、できない。すばるは——、しぬことも、いきることも、かなわない、わたしの、くらやみを、てらす、たったひとつのライト——、だ。すばる、には——、わたしの、ねがいを、かなえる、せきにん、が、ある」  憶えはなかった。記憶のどこを探してもない。この女はいったい何者なんだ?  ジジジジ、とアンプから雑音が響いた。しばらく続いたあと、再び葉月の声が取り戻されるように聞こえてきた。 「——とけいが、なぜ——、わたしにだけ、こんなに、りふじんに、とまりつづけるのか? きっと、それを、しるために、このみみと、こえが、のこされている。——そんな、きがする。こんなからだでも、ひつようとするひとたちが、いることを、しった。——わけあたえてほしい。わたしに、いたみは、ない。あるのは、くるしみ、だけ。——もっと、はやく、そうする、べきだった——」 「お前も同じか?」おれは胸の奥から広がる虚《むな》しさを消せなかった。「……兄貴や、あのホームの女と同じなのか? そんな取り返しのつかない選択しか、もう残されていないのか?」  葉月の答えはすぐに返ってこなかった。待っている間が途方もない時間に思えた。低い天井を仰ぎ、おれは呻《うめ》き声を洩《も》らした。 「もう勘弁してくれ」  息を殺して待った。やがて、ジジ、という雑音とともに、 「あたえるじゆうと、あたえないじゆう——、それはわたしがまもる。だから、もらうじゆうと、もらわないじゆう——、それは、あくたたちでは、だめだ。——すばる。わたしと、どうねんだいの、おまえのめで、たしかめて——、わたしに、きかせてほしい。——たのんだぞ」  ベッドが月の影に覆われ、それきりアンプから何も聞こえなくなった。 「お、おい、起きろっ」  反応は訪れなかった。放心した。虚脱感に襲われ、全身の力が抜け落ちた。まるで知らない土地で置き去りにされた子供みたいだった。葉月の身体を揺り動かそうとすると、芥に止められた。 「高村さん、今はもう、何をしても無駄ですよ」 「どういうことだ?」 「お嬢様がアンプを通して声を出すには、ある条件が必要だからです」 「条件だと?」 「そうです」 「昨日と今日の晩、この女が喋《しやべ》っている間、この個室に共通してあるものだな?」 「ええ」 「そんなものはひとつしかない。……月の光か」  芥の目が大きく広がった。どうやら当たりらしい。 「月と死のイメージを関連づける文化は世界中にあります。古代信仰において月は死者の里といわれていました。夜中の蒼白《あおじろ》い、幽《かす》かな月の光は死者を呼び覚ます、と。月は満ち欠けを永遠に繰り返し、それは人間の生と死のサイクルにたとえられたのです」 「ただの言い伝えだ。だいたい月は光なんて発しない。日光が反射しているだけだ。中学生でも知っている」 「……ご自身の中学時代と重ねていませんか? しかしそんな言い伝えを信じなくて、この状況をどうやって受け止めることができるでしょう? 月は生と死の象徴以外に、潮の満ち引きにみられるように地球上の水をも支配しているといわれています。いわば月の引力です。人間の身体は、九十パーセント以上が水でできている水袋のようなものです。月の光が射すと、お嬢様の止まった時計がわずかに狂い出す。……お嬢様は、水の時計をもっている」  おれは嫌悪の籠《こ》もった眼差《まなざ》しを注いだ。 「てめえらのことを、何ていうか知ってるか?」  芥はじっと、おれの顔に目をすえて待っている。 「……医者が匙《さじ》を投げたっていうんだ」 「廊下にいる澤登という医師、彼は優秀な外科医ですよ。世界最大規模の移植センターとして有名な米国のピッツバーグ大学で、外科兼病理学教授を務めた男です。脳外科の経験も豊富です」  おれは両手で芥の胸ぐらをつかみ、力任せに引き寄せた。 「てめえ何が言いたい」 「医学にも限界がありますし、決して万能ではない」 「だからといって、寄ってたかってこの女から臓器を取り出せるっていうのか」  芥の胸ぐらをつかむ手が急に緩んだ。——おれもその仲間に入ろうとしている……。胸の内を剃刀《かみそり》の刃で切り刻まれるような痛みが襲ってきた。 「お嬢様は脳死判定基準をクリアしています。今の医学では脳が死んでいる。ましてやその本人が臓器の提供を切望している[#「ましてやその本人が臓器の提供を切望している」に傍点]。その意志を最大限尊重することが私達の使命であり、生きている人間の果たすべき役目ではありませんか? ……違いますか? 臓器の提供者も、その手術を成功させる腕を持つ医師達もここにはいるのです。問題は、お嬢様が法的にドナーになれないことだけです。だからこの臓器提供は表沙汰《おもてざた》にできない」  おれの額に脂汗が滲《にじ》んだ。 「臓器の運搬手段で最優先すべきは時間です。腎臓《じんぞう》なら八時間、心臓なら四時間以内に移植手術を終えなければならない。ですから通常なら、都市の交通事情を全く無視できる運搬方法が取られます。ジェット機、ヘリコプター、交通規制に守られながら走る車。しかしそれらの手段は使うことができない。結果的にリスクを含んだ選択になりますが、それでも最大限の可能性を秘めているのが、あなた方、ルート・ゼロが過去に使用したシステムです。確立し、その運用を実証さえしている。幹部のひとり、室井広志が管理していたことまではわかっていました。おそらくそれを今、あなたが譲り受けている」  芥は胸ぐらをつかまれたまま、目だけを横に動かした。  その目線の先を追った。個室の隅、床に敷いたシートの上にプラスチック製のジャーと、それがすっぽりと収まるアイスボックスが置かれていた。アイスボックスには革のベルトが巻かれている。  おれは芥を突き放すと、それらに近づいて屈《かが》んだ。 「これは」 「これからあなたが背負っていくものです。……臓器に血液が途絶える時間を、最小限に抑える工夫がされています。体内の細胞間液と類似した作用を持つ電解質の混合液を、超低温にしてそのプラスチック製のジャーに満たします。さらに充分な保冷と梱包《こんぽう》を施した特別製のアイスボックスに入れます。内部の緩衝材のおかげで多少の振動を与えても問題は生じません」 「……時間切れと、警察に捕まったらゲームオーバーか」 「呑《の》み込みがいいようで。交通事情の悪い週末の都心ですと、日中、車の平均時速は三十キロに満たないのです。それでは遅すぎる。無論、私達ができる限りのフォローをさせていただきますが」  おれはジャーを両手で持ち上げた。まるで神聖な器を眺めているような錯覚がした瞬間、総毛立ち、全身の肌が粟立《あわだ》った。 「確認したいことがあります」  芥は束になったリストを差し出してきた。名簿のように、名前や住所が横書きで連なっている。 「あなただったら、お嬢様の臓器を誰にあげるつもりですか? もっとも重症と思える人ですか? 治る見込みが早そうな人ですか? お金のある人ですか? 貧しそうな人ですか? 将来のある人ですか? 女性や子供を優先するのですか?」  ジャーを手にしたまま耐え難い重圧を感じた。全身がけいれんを起こすように震えてきた。ジャーを芥めがけて投げつけた。リストがひらひらと舞う中、おれは個室から飛び出してしまった。  土壇場で腰がひけた。——冗談じゃない。今まで見てきたこと、この病院の存在でさえ、夢か幻であってほしかった。一秒でも早くここから逃げ出して麓《ふもと》の街に戻りたくなった。      5[#「5」はゴシック体]  南丘聖隷病院の敷地を出たおれは、バイクをひたすらとばして山の麓まで下りた。コンビニエンスストアの外灯が視界に入るまで市街地を一気に走り抜けた。狭い駐車場にバイクを滑り込ませると携帯電話を取り出した。動揺を鎮めたい一心だった。加奈の携帯電話はコール音が続くだけで、留守録に切り替わる気配がない。  再びアクセルをまわし、おれはアパートに向かった。今は、落ち着ける場所はそこしか思い浮かばなかった。  アパートの前にたどり着くとバイクを路肩に寄せてスタンドを立てた。管理人のおばさんは留守の様子だった。再び加奈に電話することにした。コール音が一回……二回……と続く。数えるのを諦《あきら》めかけたとき、ようやくつながった。  おれはひとつ深呼吸をした。「加奈か」  階段を駆け上がりながら携帯を耳に押しつけたが、返事はなかった。ふと玄関のドアが開けっ放しになっていることに気づいた。誰かに踏み荒らされた形跡がある。 「——さっきから何度もウザイんだよ、お前」  電話の向こう側から、粘着質のある声が返ってきた。  高階だった。おれのこめかみに青い血管が浮き出た。目がいっぱいに見開き、頭の先まで血がのぼりつめた。 「おい、すばる、切るなよ。かけた番号は合っているんだから」  電話の向こう側で車のエンジン音が響き、複数の男達の笑い声と、加奈の泣き声が混じって聞こえてきた。 「まさか」 「これから遊ぶところ」  目が充血し、目の前が真っ赤になりかけた。 「こいよ、高村。例のホールがある工業団地、わかるだろう? お前が昼間、おまわりと一緒にいた場所だ。お前らが何話していたか知らないけどな、俺の仲間にそういうタレコミがあった。倒産したマツモト印刷機、わかるよな? オーケイ? 倉庫の中にひとりでこい。まあ、お前にはもう味方はいないけどな」 「……加奈は関係ないだろう」  力ない声で訴えた。おれは部屋に土足で踏み入り、破壊の限りを尽くされた惨状を見まわした。それでもなんとか自制心を保つことができた。押し入れの木箱は無事だった。 「お前の家に行ったら、こいつが居たんだよ。お前、合鍵《あいかぎ》を持たせているのか」  唇を噛《か》んだ。端が切れ、血が滲み出た。 「そういえば猫がいたな。嫌いなんだよ、ああいうの」  ベランダの方向から、洗濯機のモーターが低いうなりを立てていた。洗濯物はまだ籠《かご》の中に入っている。携帯を耳に押しあてたまま蓋《ふた》を開けた。  今朝拾った子猫が渦の中心でまわっていた。  言葉にならない怒声を携帯に向かって吐いた。せせら笑う声が聞こえ、一方的に電話を切られた。  おれは気が狂いそうになって部屋を飛び出した。もつれそうな足で階段を駆け下りると、バイクにまたがってアクセルを全開にまわした。  ——蹴《け》れ。  ——やっちまえ。相手が倒れりゃ、こっちのもんだ。  ——ほら、こうするんだ。殺すつもりで頭とわき腹を狙え。  しつこい。  しつこいんだよ、お前ら。  手加減も知らずに、いつも束になりやがって。  鉄骨が剥《む》き出しになった天井がかすかに瞳《ひとみ》に浮かんできた。がらんとした倉庫は、饐《す》えたような機械油の匂いがこもっている。  もう指一本、動かせなかった。血の味が口の中にあふれた。小さくて硬いものが舌の上で転がり、おれは折れた前歯を吐き出した。ようやく鼻血が止まったが、息を吸い込むだけで胸にさしこむ痛みが襲ってきた。身体中の骨が軋《きし》む。いったい何人殴り倒して、何人にめった打ちにされたのか憶《おぼ》えていない。だが、高階が数人の仲間と一緒に倉庫から逃げたことだけは記憶に残っている。  水で濡《ぬ》らしたハンカチが頬に触れた。  首をわずかに傾けると、服をびりびりに破かれた加奈がそばに座っていた。顔や露出した腿《もも》は痣《あざ》だらけだった。見まいとしても目についた。 「……わたし、わたし」  洟《はな》をすする声が何度も途切れた。「ごめんね、すばる。すばるに迷惑ばっかかけて……。わたしがいて、迷惑だったでしょ? ……もう、すばるを追いかけまわすの、やめるね」 「バイトを見つけた」  腹の底から声を絞り出した。こんなおれをどうして心配してくれるのだろう。かわいそうな加奈の口を遮った。 「バイトだ。まとまった金が入る。おれはやる、おれはやるぞ。全部終わったら、一緒にどこか遠いところへ行こう。兄貴も一緒だ。大学にも入るよ、だから……」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  あたえるじゆうと、あたえないじゆう——、それはわたしがまもる。だから、もらうじゆうと、もらわないじゆう——、それは、あくたたちでは、だめだ。——すばる。わたしと、どうねんだいの、おまえのめで、たしかめて——、わたしに、きかせてほしい。 [#ここで字下げ終わり]  遠くなりかけた意識の中で、葉月の声がよみがえってきた。 「水の時計」だと? ふざけやがって。たかだか死に続けている人間の臓器を運ぶだけじゃないか。  だが……。おれがこれからしようとしていることは、社会的に決して許されないことになるだろう。決して消えない罪を抱えて生きていくことになるだろう。もしおれが、その罪を償えなくなったら——  あの病院の敷地内にある礼拝堂が、何故か脳裏に浮かんできた。  莫迦莫迦《ばかばか》しい。握りしめた拳《こぶし》の中で、堅く結実しようとしているものを感じながら、おれは天井を見上げ続けていた。 [#地付き]〈第一幕 終わり〉 [#改ページ] [#ここからゴシック体] 「すばる——、すばる」 「呼んだか?  おれはここにいるぞ」 「すばるが、さいしょに、はなしてくれた——、  ——おんなのこ——、いるだろう?」 「……ああ」 「この、め、を、とりだして——。とどけて、あげて、  くれないか。——わたしには、いくことが、できない」 「賛成だな。  まず、そうしてもらえれば助かる」 「——どうして?」 「その目で涙を流されると、  おれが困るからだ」 [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ]  第二幕[#「第二幕」はゴシック体] 蒼《あお》いサファイアの瞳《ひとみ》      1[#「1」はゴシック体]  須藤貴子《すどうたかこ》は鋭く息を吸い込んだ。  少年達の罵声《ばせい》が耳をついたからだった。その場で立ち止まると、鳥肌がたつほどの嫌悪感を覚えて身をすくませた。  喧嘩《けんか》? ——神社の境内の方向からだ。  貴子が高校バレー部の練習を終えたのは午後八時過ぎだった。見逃したくないドラマが九時からはじまる。今日だけは体育館の後片づけを率先してこなし、あわてて帰り支度をした。そこまでは予定通りだったが、帰りのバスが遅れてきたのは計算外だった。苛々《いらいら》しながら最寄りの停留所で飛び降り、普段通らない八幡《やわた》神社の敷地を横切るショートカットを思いついたのは、九時まであと五分を切ったあたりだった。敷地内には常備灯があるから夜でも怖くない。余裕のない気持ちは安易にそう決心させた。  貴子は早くも肝が冷え、後悔することになった。  考えるより先に、砂利道を全速力で走った。鳥居をくぐって石段を下りかけたところで、その先の道路から三台のバイクが見えた。鉄光りするハンドルが歪《いびつ》な形状で曲がっている。素人目でもわかる改造車だ。近くにまだ仲間がいるかもしれない。思わず半歩退いて、すっと血の気が引いた。(……関わり合いたくない)。暴走族の怖さは、高校一年生になる貴子でも充分知っていた。集団暴力が持つ異常なまでの加減のなさは、新聞や報道番組でも度々見てきた。  貴子は石段の脇から周囲をきょろきょろと見まわし、林の中へと足を踏み入れた。薄闇の中、目を凝らして斜面を滑り降りていける小道を探した。昨日降った雨のせいか少しぬかるんでいて、足を何度も取られかけた。歩ける場所を必死にたどって行くうち、元の方向へ戻っている自分に気づいた。  動転してあわてて引き返そうとしたときだった。林の向こう側で少年達の影が勢いよく走り過ぎていくのが見えた。全部で四人。金属バットで石畳を突く音がする。小さな社務所を見つけた貴子は救いを求めるようにその陰に飛び込んだ。通学|鞄《かばん》を胸に抱きしめ、硬い息を呑《の》む。身がすくむのを懸命にこらえた。普段決して触れることのない別世界の住人達が向こう側にいる。見つかったら何をされるかわからない。  三対一の喧嘩だった。  多勢の方が荒ぶる声で牽制《けんせい》している。トレーナーや厚手のジャージ姿の少年達は、自分と同い年くらいに思えた。バンダナの上にキャップを被《かぶ》るひとりの少年はわき腹を押さえ、身体をくの字に曲げながら相手を睨《にら》みつけている。  貴子の足元に、背の高い影が伸びてきた。  それは三人と対峙《たいじ》する少年のものだった。ブーツカットのジーンズにサファリジャケット、そして真っ黒なゴーグルをかけている。額から流れ落ちている血は、唇の上で止まっていた。彼は三人に囲まれたあとも一向に怯《ひる》む様子を見せず、むしろどこか醒《さ》めた傍観者のように立っていた。  突然、彼の拳が一直線に空を切り、肉を押し潰《つぶ》す嫌な音が貴子の耳まで届いた。とっさに目を向けると、彼の背後から近づいていたジャージ姿の少年が血を噴き出した鼻を押さえて呆然《ぼうぜん》としている。ほとんど同時に、常備灯を背にしたトレーナーの少年が彼に体当たりを食らわした。その姿はわき腹を匕首《あいくち》で刺すやくざに似ていた。手元の黒い塊がばちばちと火花を散らしている。スタンガンだった。不意をつかれた彼はその場で激しくのけぞった。よしっ、という声とともにキャップを被る少年が金属バットを持ち直した。興奮する息づかいと冷笑が洩《も》れた。季節外れのスイカ割りを楽しむように、彼の背中へふり下ろそうとする。  貴子は両手で耳を塞《ふさ》ぎ、目をつぶった。  驚くほどの静寂が続いた気がした。「痛え……」搾り出したような呻《うめ》き声が、貴子の指の間隔を広げさせた。金属バットが石畳に跳ねる音を聞いた。様子がおかしい。恐る恐る開いた目に映ったのは、膝の皿を押さえて転げまわるキャップを被った少年だった。  サファリジャケットの少年がよろめきながら立ち上がった。トレーナーの少年がスタンガンを片手に再び挑みかかり、ふたりは取っ組み合いになった。やがてサファリジャケットの少年の膝がトレーナーの少年のわき腹を鋭く突き上げ、石畳の上に胃液が撒《ま》き散らされた。サファリジャケットの少年は残るひとりに近づくと、手首を親指の方向にねじ上げて強引に立たせた。顔を覆うゴーグルに常備灯が点となって映った。不気味な表情に思えた。彼は終始、何をするにも何をされるにも無言でいる。 「莫迦《ばか》っ、痛いっ、折れるっ、てめえっ」荒れ狂う悲鳴はすぐに弱々しいものに変わった。「いいのかよお……訴えてやるぞお……」  息を潜めていた貴子は呆気《あつけ》に取られた。三人がかりで、しかも金属バットをふりかざしていた男が言う台詞《せりふ》ではない。ようやく金縛りが解けると、その場から逃げ出す決意をした。走り出してから憶《おぼ》えているのは、ぼきっと太い枝が折れるような音を背中で聞いたことだった。  後ろをふり向かずに、がむしゃらに走った。  街灯のある舗装路に飛び出すと、パトライトを点灯させたパトカーが目の前を通り過ぎ、神社の入口に停車した。あわただしくドアを開ける音が響いた。  立ち止まっていた貴子は再び走り出した。  初冬の風が唸《うな》り声をあげている。  十二月も半ばにさしかかり、夜の空気もここのところ急激に冷え込みはじめている。  腕時計に目を落とすと、針は九時を大幅に過ぎていた。  ついていない、と貴子は思った。  綺麗《きれい》に区画整理された住宅地の外れに彼女の家はあった。それまで建ち並んでいたプレハブ住宅とは造りが異なり、家族四人で住むには広すぎる家だった。父親が春から仙台に単身赴任をしているので、実質住んでいるのは三人になる。  背の高い塀に沿って歩き、煉瓦《れんが》を長手積みした門の下をくぐった。玄関前に立つと磨《す》りガラスからうっすらと明かりが確認できた。続いて駐車場を見た。母親の愛車のヴィータがない。  貴子はポケットの鍵《かぎ》を探った。 「ただいま」  玄関を開け、靴を脱ぎ捨てた。家の中がほんのりと温かかったのが救いだった。暖房の電源まで切られていたら、留守にしている母親とはしばらく口をきかないつもりでいた。  キッチンの扉を開き、壁を手探る。照明のスイッチに指先が触れると、ぱっと明るくなった。テーブルに夕食が用意されていた。炊飯ジャーには今朝の残りご飯があり、コンロにはみそ汁の入った鍋《なべ》、そしてテーブルには逆さになった椀《わん》と、八宝菜と煮物の小皿がラップで包まれている。いつものようにゴミ箱の蓋《ふた》を開けてみると、中には冷凍食品の空きパックが押し潰され、今晩のおかずと同じ銘柄が見え隠れしている。  キッチンもリビングも散らかり放題になっていた。リモコンを床から拾い上げてテレビを点《つ》けた。観たかったドラマのチャンネルにはもう合わせない。コンロを点火し、夕食のおかずを電子レンジに入れた。欲張って一度に入れたものだから、加熱中に皿がぶつかり合う音がうるさかった。  テレビのボリュームを上げた。ロケ形式のバラエティ番組は終盤に差しかかり、嫌いな芸人が学校の校庭で小学生相手に暴れまわっている。  ——いつからだろう? この家から誰もいなくなったのは。  箸《はし》を動かしながらぼんやりとテレビを眺めた。目には映るが、頭の中まで入ってこない。  ふと貴子は、この家からいなくなった妹のことを考え、箸を止めた。  十も歳が離れた妹のさなえは、長い間入退院を繰り返していた。このままではまともに小学校には上がれない。そんな危惧《きぐ》が日増しに募っていた。留守にしている母親は連日妹の見舞いで病院に通っている。おそらく今日も病院に泊まり込みになる。週に二、三回帰ってくればいい方だ。  さなえとは半分しか血がつながっていない。それというのも、貴子にはふたりの母親がいるからだった。  生みの母親については聞いたことでしかわからない。初期の妊娠検査で悪性|腫瘍《しゆよう》が見つかったという。治療を優先するため堕胎を勧められたが、一度流産の経験がある彼女は断り、子供とともに生還する賭《か》けに近い道を選んだ。長い闘病生活が続き、賭けには母親が負け、帝王切開で取り出された未熟児だけが助かった。そうやって生まれた命が貴子だという。  父親は生みの母親の七回忌が済むと再婚した。再婚相手はもともと父親の部下だった女性で、貴子の一番古い記憶から、彼女はすでに一緒に住んでいた。——父親は玲子《れいこ》と呼び捨てにしていた。旧姓は水島《みずしま》。家事をそつなくこなし、幼稚園の送迎もかかさずにしてくれた憶えがある。貴子にとっての「お母さん」は、むしろ玲子の方だった。  妹のさなえが生まれたのは、小学校四年生の頃になる。  名前は玲子がつけた。生まれてくるのは最初から女の子だと決めつけ、さなえという名前もずっと昔から考えてあったと譲らなかった。夫婦で言い争いになったときも、彼女は必死になって説き伏せていた。あんな意固地な姿ははじめて見た。事実その通り二千二百グラムの女児が誕生したとき、彼女は狂喜した。  案の定、十も歳の離れた妹ができたことで生活が一変した。実際は妹というよりも、大泣きするか寝てばかりいる赤ちゃんという印象の方がずっと大きかった。育児疲れをするようになった玲子は機嫌を損ねることが多くなり、度々その矛先を小学生の貴子に向けた。姉妹で歳が離れすぎていることは厄介で、両親が妹にどんなにかまっても、すねてしまうわけにはいかない。仕方がないのだ——自分にそう言い聞かせ、愛くるしいさなえの寝顔を眺めて過ごすことで、その不満をうやむやにしてきた。  焦ったように勉強をしはじめたのは、ちょうどその時期からだった。しかしどんなに頑張っても成績は中より上がらない。たまに良い成績をとっても、両親は喜んでくれたものの、クラスメイトから好かれることはなかった。クラスの雰囲気を壊さずに、自分が自分らしく生きていくためには、試行錯誤と精一杯の努力でも足りなかった。  息苦しさをずいぶん我慢して、月日を費やしてきた。  貴子は公立高校の進学を選んだ。ようやくクラスメイトに恵まれ、中学からはじめたバレーボールの部活動も軌道に乗りだした。それまで自分のことで精一杯だった生活の中で、ふと立ち止まって周りを見渡す余裕ができると、そこには父親の不在と、母親が妹の入院する病院に入り浸っている現実があった。家庭にぽっかりと空いた薄暗い隙間——そこに身を寄せている自分にはじめて気づいた。  貴子は夕食を半分以上残して箸をおき、テレビのスイッチを切った。その瞬間、肌寒くなるほどの静寂が戻ってきた気がした。  皿や椀を洗い終え、濡《ぬ》れた手で電話の子機を持って自分の部屋に向かった。二階に続く階段を足で軋《きし》ませながら、友達の携帯番号を押していく。コール音とともに受話器を耳にあてた。つながって、ようやくほっとする。 「もしもし。私、カコ」  カコはクラスでとおっている貴子の渾名《あだな》だ。自分でも気に入っている。 「……カコ? 非通知だから誰かと思った」  電話の向こうの警戒した声がすぐに解けた。クラスメイトの美和子《みわこ》だ。室内に籠《こ》もったようなざわめき声、流行《はや》りの歌謡曲が遠巻きに聞こえてくる。 「明日の宿題、した?」  言いながらおかしく思えた。しているわけがない。美和子がいつもの場所にいることは容易に想像がつく。流れている歌謡曲も有線のものだ。お昼のメロンパンを賭けてもいい。国道沿いにある二十四時間営業のファミリーレストランだ。 「今のわたしはアゲハ蝶《ちよう》になって、何もかも捨てて、ユートピア目指して飛んでいきたい気分れす」  わけのわからないことをおどけた口調で言ってきた。男の笑い声が電話の向こう側でしたので、貴子はどきっとした。 「いま、電話して大丈夫だったの?」 「もちろん。退屈していたところ」あくびを噛《か》み殺す声が返ってきた。 「ね、今日すごいの見ちゃったんだ。事件、大事件よ。パトカーがきていたから、きっと明日の新聞に載るよ」 「本当?」 「……載るかも」 「かも、ね。でも面白そうなネタなら大歓迎」  貴子は息を吸い、神社の境内で目撃した一部始終を話して聞かせた。多少の脚色はあとから気づいた。 「暴走族の喧嘩《けんか》なの?」  気のない反応だった。 「たぶん」 「ふうん……。あ、あ、ちょっと待って」  電話の向こう側で誰かに説明している気配があった。ちょっと貸せよ。せかす乱暴な声がする。 「あ、カコ、ごめん、電話代わるね」  貴子は焦った。あわてて止めようとしたが、すでに携帯電話はまわされたあとだった。 「——もしもし、俺、ミワコの彼氏だけど」  完全に不意をつかれた。美和子に付き合っている男がいるなんて聞いていない。途端に軽薄そうな声に思えた。もしもし、もしもし。男はオウムのようにくり返してくる。 「はあ」  貴子はようやく答えることができた。 「カコちゃんが見てきたこと、もう少し詳しく聞かせてくれない? 場所は八幡神社だって? 知っている連中かもしれないんだよ。ねえ、相手はどんな恰好《かつこう》だった?」  カコちゃん呼ばわりしてくる顔も知らない男に問い詰められて戸惑った。美和子に説明したことをもう一度くり返そうと思ったが、うまく声が出そうにない。それより電話を早く切りたかった。こいつ何も喋《しやべ》らないぞ、と白けた声が耳にちくりと触る。  もう返してよっ、美和子の怒気を含んだ声がして、貴子はほっと胸を撫《な》で下ろした。 「……ねえ、カコ。家にいるの?」  うん、貴子は喉《のど》で答えた。 「……ひとり?」  再び喉で答えた。美和子にだけは、自分の身のまわりのことを全て話している。 「これから帰るんだけど、泊まりにこない? 一緒に勉強しよ?」  えっマジかよお、という痛烈な叫び声が邪魔をした。 「大丈夫、また明日学校でね」  そう言って貴子は電話を切った。子機を机の上に置き、ベッドに背中を投げ出した。制服を脱ぐのは面倒だった。白く光る蛍光灯のパネルを見上げながら深々と息をつく。部屋の暖房は利きはじめているが、音楽でもかけなければ凍えてしまいそうだった。  ——ひどいんじゃない? それは、貴子の母親が毎晩不在にしていることに対する、美和子の感想だった。家庭がつまらないッス、といつも嘆く美和子には似合わない台詞《せりふ》だが、貴子はその言葉を複雑な心境でとらえていた。別に頭数が揃えば家庭が成り立つなんて、少しも思っていない。父親が単身赴任の地で、別の女性と交際していることは薄々勘づいていた。生みの母親の親族から聞いたことだが、玲子がかつてそうだったように前科がある。身の危険を知りながら出産を決意した生みの母親の心境は、今となっては知る由もないし、想像したくもなかった。  生みの母親の親族とはもう会っていない。中学校に上がった頃から避けるようになっていたからだった。実はそれまで夏休みには必ずこっそりひとりで出かけていた。貴子は歓迎された。しかし「お前は物心つくまで、玲子という女に嫌われ続けていたんだよ」と何度も囁《ささや》かれてきたので嫌気がさした。それが本当だとしても自分には憶《おぼ》えがない。何より物心ついてから、玲子は良い母親でいてくれた気がする。今さら蒸し返すつもりなんてない。  その玲子はさなえを産んでから変わった。今ではあれほど完璧《かんぺき》にこなしていた家事を放り出し、病院通いをくり返している。父親に対する無言の抵抗か、それとも母親として本当にさなえを心配しているのか、その真意もわからなくなってきていた。ただ彼女の視界から、自分が外れていることだけは確かだった。  ひとり取り残された貴子が思い浮かべるのは、結局さなえのことだった。 (……明日、見舞いに行ってこようか)  妹のさなえはよく、お姉さん子だと言われた。貴子が学校から帰ってきたとき、真っ先に飛び出してくるのはさなえだった。学校で嫌なことや理不尽な目に遭い、それはみんな自分のせいだと考えてへこんで帰ってきたときも、さなえは貴子の足に絡みつき、手を放そうとしなかった。機嫌が悪くてつい乱暴に扱ったこともある。それでもめげずにあとをついてきた。トイレにまでついてきたこともある。おねえちゃん——おねえちゃん——。ときには耳障りになるあの幼い声を貴子は好きになっていた。いつまで続くかわからないが、こんな自分でも頼りにしてくれる歳の離れた妹の存在は心の拠《よ》り所になっていた。  しかしもうこの家から、さなえの匂いも消えつつある。  ベッドでうつ伏せになった貴子は枕に顔を押しつけた。両耳を塞《ふさ》いで息も止めた。しばらくそのままじっとした。暗くて耳鳴りがする世界がすぐに訪れた。  まだ六歳の妹が経験する羽目になった世界[#「まだ六歳の妹が経験する羽目になった世界」に傍点]を、ときどきそうやって味わっていた。      2[#「2」はゴシック体]  一年二組の教室の西側にある窓から、茜色《あかねいろ》の陽が射した。  ホームルームが終わると安堵《あんど》の息がどっと溢《あふ》れた。この時間、教室内を埋める表情は大まかに二分化される。放課後を待ちかねていた帰宅部の生徒が浮かべる、とろんとした顔か、部活動を控えた生徒が浮かべる気難しい顔だ。  教室の床を足音が入り乱れる。 「帰ろうよ」  鞄《かばん》を指に引っかけて早々と席を立った貴子は、窓際で片肘《かたひじ》をついてグラウンドを眺める美和子に声をかけた。栗色のショートカットが似合う彼女は、とろんとした表情を浮かべるひとりだった。 「あれれ、部活は?」 「今日は休む。病院に行くから」 「どっちの?」  美和子が顔をのぞき込んでくる。  貴子が病院に行くと言えば二通りある。妹が入院している私立病院か、自分自身が通院している治療院だった。夏の終わり頃からはりやマッサージを受けに通っていた。 「どっちも」 「ふうん、よくあの軍曹が許してくれたわね」  美和子が言う「軍曹」とは、バレー部顧問で、一年の保健体育を受け持つ学年主任だった。ちゃんと苅谷《かりや》という名前がある。秋の遠足のとき、ベレー帽と迷彩色のジャケット姿で引率してしまったことが彼の運のつきだった。それでも死神と囁かれている、化学を担当する老教師よりはましだ。 「昼休みを潰《つぶ》して拝み倒したのよ。試合も近いし」 「——そうか。いよいよレギュラー出場するんだもんね」美和子の声が嬉《うれ》しげに弾んだ。自分のことのように喜んでくれている。彼女は貴子より頭ひとつ身長が低いので、並んで立つと見上げる恰好になってしまう。 「……だといいんだけど」  貴子は浮かない表情で、美和子と一緒に教室から出た。  北陽《ほくよう》高校女子バレー部は、県下では四本の指に入る実力校だった。露骨なスポーツ推薦で新入生を引っ張るわけではないが、自然と経験者が集まる風潮が根付いている。無論、学校の偏差値がそこそこだという大前提があるのだが、彼女達の学年は見事にレベルの高い経験者が揃った。貴子の人知れぬ努力は、顧問の軍曹以外では、美和子だけが知っている。 「あっしは、カコの勇姿を、ファインダーの中に収められれば、それで満足れす」  美和子はすっかりおどけている。彼女はカメラが趣味だ。校舎にはドロップの缶に穴を開けただけのピンホールカメラがいくつも仕掛けられている。それが彼女の仕業であることは、貴子だけが知っている。  三年生との共用下駄箱で靴を履き替え、広い中庭に出た。夏休みに改装したばかりの歩道は二手に分かれ、右手方向は正門になる。反対方向にあるグラウンドでは、サッカー部や陸上部の一年生が練習前の整備をはじめていた。グラウンドに面して二階建てのドーム状の体育館があり、そこからボールが跳ねまわる音やかけ声がふたりの耳元に届いた。それは貴子の後ろ髪を何度も引いた。 「ね、昨日は何時に帰ったの?」  正門に向かう途中、貴子は言った。 「あの電話のあと、すぐだけど」 「ふうん。……ところで昨日の彼氏のこと、聞いてないよ」 「ナカタニのこと? だって彼氏じゃないもん」  美和子は不本意そうに口を尖《とが》らせた。「ただの幼なじみで、あいつがそう思っているだけ。学校行かないで毎日ぶらぶらしてる。いつだって要領が悪くて、自己嫌悪の塊のようなやつ。でもそれなりに悩んでいるんだよ。昨日は暴走族から足を洗ったってわざわざ報告してきてくれたから、会ってあげてたの」 「え?」 「ひどいんだよ。あいつ抜けるとき、髪を燃やされたんだ。整髪料とライターで。マッチみたいにされたんだって」  鞄を提げて歩く貴子の呼吸が一瞬止まった。昨日電話で耳にした、あの軽薄そうな声をもう一度思い出そうとした。 「……無茶ばかりする愚連隊だったみたいよ。ついこの間、逮捕者が出たらしくてね、メンバーが一気に減っちゃったんだって。でも無駄肉を落としてスリムになってからは、もっとやばいことに手を染めるようになった。それであいつ、嫌気がさした。頭も坊主にして吹っ切れたみたい。だからカコの電話のことも気にしていたんだよ」  貴子の脳裏に、昨夜の神社での出来事が鮮明によみがえってきた。殴り合って肉を潰す嫌な音、赤くきらめく閃光灯《せんこうとう》、肌をざらざらとこすりつけるような嫌悪感を再び思い出した。 「——私、嫌いよ。暴走族なんて」  思わず口に出た。「悪いことしているのに、捕まりもせずに、大手をふって道路を走りまわっているヤツらなんて大嫌い」  美和子はきょとんとしていた。 「……ごめん。昨日の電話のこともあったし。それに」 「それに?」 「わたしたちのクラスの室井加奈って、カコと中学の頃、同じクラスだったんでしょう? だからちょっとは関心あると思った。……気に障ったらごめん」  ムロイカナ……。貴子はその名を胸の奥で反芻《はんすう》した。学校では比較的珍しい不登校生徒で、軍曹を筆頭とする生活指導部から疎んじられている。確かに彼女とは中学三年の頃に同じクラスだったが、席は離れ、まともな会話はほとんど交わしたことがない。どちらかというとおとなしそうな印象だった。その彼女が高校になって暴走族の集会に出入りしていることをはじめて知ったとき、貴子は驚いた。 「……やっぱり気に障った?」  美和子の気まずそうな顔が近づいている。 「室井さんのこと? もう憶えてないよ。……あの頃は、自分のことだけで精一杯だったから」と、貴子は吐息を洩《も》らした。 「——カコ。もしかしていま、妹のこと心配してる?」 「……うん」 「具合は?」 「悪いみたい。下痢も吐き気も止まらない。——それにもう、ひとりじゃ外も歩けない」 「また目が悪くなったの?」 「両目の視力が〇・〇一以下なんだって。お母さんがずっと付き添っているけど」  終わりの部分は声が小さくなっていた。  美和子はちらちらと顔をのぞかせてきたが、やがてその小さな唇を開いた。 「——わたしも行っちゃ駄目? お見舞い。どうせヒマだし」 「え?」貴子は動揺した。「お母さんが迷惑するかもしれない」そう言いかけて、はっと口を噤《つぐ》んだ。 「わたし、カコの都合を訊《き》いているんだけどな」 「……ごめん。うん、じゃ一緒に行こ。さなえもきっと喜ぶ」  美和子がじっと見つめてくるので、貴子は目を逸《そ》らした。美和子は歩道に散らばる小石を蹴《け》ると、先に歩を進めて行った。  バス停に着くと長蛇の列が続いていた。  一巡待てば座れそうだったが、バスが排煙を巻き上げてやってくると、美和子に強引に腕を引かれた。身体をくの字に曲げて吊り革につかまる羽目になった。  首筋がずきんと痛み出す。  夏から続いているこの痛みは一向に治まる気配がなかった。むしろじわじわと脂汗をかく回数が増えている。貴子は我慢して、車窓を流れる街の風景に視線を投じた。  車内に|桜ヶ丘《さくらがおか》総合病院前のアナウンスが流れ、貴子が先に降車ボタンを押すと、美和子は競い負けたように舌を出した。  降りたのはふたりだけだった。  広い駐車場は満車状態だった。小児科病棟の正面玄関の前に立って自動ドアを抜けると、外来の待合所は検査待ちの親子でいっぱいだった。子供がすすり泣く声が聞こえ、気難しそうな顔をした親が椅子に横並びしている。ふたりの制服姿は浮いていた。入院病棟に向かって歩くと、エレベーターのドアが開いては閉まる音が遠くから頻繁に聞こえてくるようになった。  途中、貴子は美和子の袖《そで》を引っ張った。売店に寄り、さなえの大好きな焼きプリンをそこで買った。看護婦に隠れてみんなで食べよう、そう思うと、自然と貴子の心は弾んできた。連絡通路を渡る足取りは次第に軽くなり、やがて小走りに変わった。ふたりして通路脇にあったワゴンにぶつかりかけ、あっ、と声を上げる。久しくさなえの顔を見ていない——貴子は一刻も早く、入院病棟の三階にあるさなえの個室に飛び込みたかった。 「さなえちゃんって、いつから具合を悪くしたんだっけ?」  エレベーターを待つ間、美和子が息を切らせながら尋ねてくる。 「……二年くらい前かな」  答える貴子の目が細くなり、少しずつ視界が狭まっていった。  はっきりと憶《おぼ》えている。さなえの身体に異変が起きたのは、四歳の誕生日を過ぎて三日目だった。当時、さなえによくなつかれていた自分が発見した。家の中でよく転ぶようになり、目をこする癖が現れ、やがて発熱と嘔吐《おうと》をくり返して寝込んでしまった。診察の結果、さなえは細菌性の結膜炎を引き起こしていることがわかった。しかし肝心の発熱については病院で精密検査をしても原因がはっきりせず、不明熱だと診断された。不明熱とは病名ではなく、熱が続いているのだが、その原因がわからない状況をさす名称だった。検査をするうちにその原因となる病気が判明すれば問題ないのだが、病気が進行してしまえば手遅れになるケースも稀《まれ》にある。通院先では必ず玲子と担当医師の間でトラブルが起きた。その多くは不明熱をめぐる口論だった。その結果、玲子はさなえを連れて病院を転々とするようになった。下痢と嘔吐が治らないままさなえの目は悪化の一途をたどり、一緒に病院を渡り歩く玲子もだんだんと塞《ふさ》ぎがちになっていく。ふたりは原因不明の発熱と失明の不安の日々を過ごしているはずだった。玲子はまるで自分以外の人間を寄せつけたくないように、さなえを家族から遠ざけるようになった。その疎外感を、当時の学校生活で悪戦苦闘していた貴子も、仕事で多忙な父親も、正面から受け止めずにいた。そうやってずるずると今まで過ごしてきた。 「わあ」  エレベーターのドアが開くなり、美和子の感嘆する声が響いた。  貴子の目に三階の廊下の壁が映った。乳白色の一面に動物や電車の絵が描かれ、それがずっと先まで続いている。廊下にはストレッチャーが行き交い、ナースキャップをかぶらない看護婦が押していた。子供達に外されてしまうからだと思った。廊下に出ていたパジャマ姿の子供達は、まるで外の刺激に飢えていたかのように、制服姿の貴子達に好奇の目を注いでくる。  ナースステーションから一本離れた廊下に病室が続いている。さなえが入っているのは三〇五号の個室だった。もうすぐさなえに会える——貴子はプリンの入った袋をふりながら足取りを速くした。  廊下を曲がった貴子は、つまずくように立ち止まった。  さなえの個室の前に、見覚えのある少年が立っていたからだった。  廊下の窓ガラスにもたれかかって胸の前で腕を組んでいる。傷んだ黒髪が目立ち、窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》から注がれる鋭い眼差《まなざ》しは、磨《す》りガラスのある引き戸に向けられていた。引き戸には隙間が空いていた。 「——カコ、どうしたの?」  美和子が上げた声で、少年はふり向いてきた。  人を寄せつけようとしない険しさが眉間《みけん》に刻まれていた。少年はそのままふらりと身体を倒すと、ポケットに手を突っ込んで廊下の奥へと立ち去ってしまった。  サファリジャケットの後ろ姿が、戸口に手を添える貴子の目に焼きついた。  さなえはベッドで点滴を受けていた。  広い個室に付き添い用の簡易ベッドがあり、脇に置かれた旅行用|鞄《かばん》から化粧品の瓶がのぞいている。さなえの枕元には、椅子に埋もれるようにして座る玲子の背中があった。セーターを編んでいた。 「やっほう」ベッドに駆け寄った貴子は、布団の中に両手を滑り込ませてもぞもぞさせた。 「おねえちゃん?」  さなえが声を上げ、頭を動かして声の方向を探そうとしていた。水玉模様のパジャマの襟元がはだけてしっとりと汗ばんでいる。顔色もよくない。この間会ったときよりも容態が悪くなっている気がした。 「……と、お姉ちゃんのお友達」美和子が貴子の背中から顔を出し、「こんにちは」と歯切れよく玲子に挨拶《あいさつ》した。 「まあ、わざわざきていただいて、ありがとうございます」  化粧を濃くしている玲子が首を傾け、瞳《ひとみ》を細めて言った。「もうすぐ点滴が終わりますから……」椅子を引き、さなえの枕元へさらに自分の腰を寄せた。  ベッドで点滴を続けるさなえは、どことなくうとうとしていた。瞼《まぶた》はほとんど開いていない。まだ短い腕を点滴でつながれた姿だったが、貴子達がベッドから離れないよう、口元の笑みを絶やそうとしなかった。元気を出さなければ周りの人が心配する、まだ幼いのにそんなことまで気遣っているようで不憫《ふびん》に思えた。  貴子はさなえの首筋をタオルで拭《ふ》き、髪を指で優しく梳《す》いた。 「ねえ、なにかお話しして」 「お話?」 「へへへ。おねえちゃん、一日がながいんだよ」明るい声色だったが、貴子の耳には苦しいものを吐き出すかのような声に聞き取れた。 「……ごめんね」  あとが続かなかった。 「お姉ちゃん達の、学校の話をしてあげようか?」と、横から割ってきたのは美和子だった。 「がっこう?」さなえは頭をめぐらせて声の方向を探した。空いた手を、美和子が握る。 「だって、さなえちゃんだって、学校へ行く日がくるんだよ」 「うん。——うんっ」さなえの口から八重歯がのぞいた。  貴子はちらっと玲子を見た。主治医の悲観的な言葉を思い出していた。彼女は黙々とセーターを編む手を休めない。忙《せわ》しなく動く指先に、赤い毛糸の屑《くず》のようなものが付いている。 「お姉ちゃん達、今は高校生だけど、話をするんだったら小学校まで遡《さかのぼ》った方がいいかしらね……」美和子はベッドの上で思案顔を浮かべ、「給食のことしか憶えてないけど」と、くすっと付け加えた。 「きゅうしょく?」 「学年が上がっていくにつれて、お昼に食べられるパンの数が増えていく儀式なんだぞう」 「ぎしき? じゃあ、六年生になったら六個もらえるの?」 「うふふ、あははは。カコはそう思っていたらしいよ。食いしん坊で、背が伸びちゃったんだからね」  貴子は目を丸くした。「——ちょっと、莫迦《ばか》っ、妹に変なこと吹き込まないでよ」言い終えてからようやく、この個室を訪れてからの胸のつかえが取れた気がした。美和子は素知らぬ顔でにやにや笑っている。憎たらしい姿だったが、頬を膨らませる貴子は心の中で彼女に礼を言った。  点滴瓶の中身がなくなりそうになっていることに気づいた。 「さなえ、点滴が終わったみたい。看護婦さん呼んでくるね」と、貴子が腰を浮かしかけたときだった。 「貴子、いいのよ」  拒絶する声に遮られた。  それまで黙って編み棒を交差させていた玲子が立ち上がった。床頭台《しようとうだい》の引き出しから自前のガーゼを取り出すと、さなえの腕からテープを外し、点滴の針をすっと抜いた。手際の良さは連日の看病疲れなど微塵《みじん》も感じさせない。その間さなえはおとなしく従い、身動きひとつしなかった。  美和子のくりくりとした目が引き戸の方向に固まっている。貴子は嫌な予感がした。ふり向くと、そこに若い気の強そうな看護婦が立っていた。 「失礼します」  彼女は足早に入ってくると片づけられた点滴台を確認した。「須藤さん……」その声は明らかに困惑していた。 「あなた新人さんでしょう? だから代わりにやってあげたのよ」  椅子に深々と腰を沈めた玲子が顔も上げずに言った。再び編み棒が忙しなく動きはじめ、もはや若い看護婦の存在など眼中にない様子になった。  ふたりの間に険悪な空気が漂った。やがて看護婦は踵《きびす》を返してしまった。 「——さなえ。プリン買ってきたから、みんなで一緒に食べようよ」  貴子は焼きプリンの入った袋を取り出した。手がぎこちなくなった。予感していたことだったが、美和子がいる手前、場を取り繕うのに必死になった。彼女も場の空気を察してか、「食べよ、食べよ」と一緒に袋を広げてくれる。  玲子は依然として編み物の手を休めない。没頭しているが、貴子にとっては、見ていないようで見ている目がどこかに潜んでいる気がしてならなかった。 「お母さん、プリンいいよね? ここだっておやつの時間はあるんでしょう? クッキーやジュースを載せたワゴンがやってくるのを、見たことあるんだから」  玲子の編み棒がぴたりと止まった。 「さなえちゃん、具合はどうなんだい?」  三人の目が一斉に向いた。白衣を着た医師が開いた戸口をノックしている。固太りした身体に、眉毛《まゆげ》の濃い顔が印象的だった。担当の仁村《にむら》医師だった。付き添いの看護婦はいない。彼ひとりで問診にやってきたことがうかがえた。  仁村医師はさなえのベッドに近づいてきた。彼の入室は、まるでさっきの若い看護婦とタイミングを計ったように思えた。  貴子と美和子は揃って会釈した。 「へえ。お姉ちゃん達が見舞いにきてくれたんだ。さなえちゃん、よかったね」仁村医師はそう言って聴診器をポケットから取り出すと、指でもてあそびはじめた。  さなえが何か言いかけたところを、玲子が遮った。 「ご存じでしょう? 食事がここ二週間くらい摂《と》れていないんです。昨日は嘔吐《おうと》したので詰所に持っていきました。今朝は尿に血が混じっていましたし、芯熱《しんねつ》があるせいかのぼせてぼうっとしているんです」 「さなえちゃん、まだ熱っぽいのかい? 大きい口、カバのようなお口して」 「……うん」さなえが小声でつぶやく。ふと目をとめた貴子には、心なしか顔色がさっきより悪くなっているように感じ取れた。額は汗で濡《ぬ》れている。  仁村医師は腰をかがめ、さなえの口の中をのぞき込んだ。 「ようし、もういいよ。ありがとう。明日また検査があるけど我慢できるかな? お薬はあとで持ってこさせるから」 「どうして私を無視するんですか?」  玲子のなじる声が響いた。  ゆっくりとふり向いた仁村医師は、息を潜めて立つ貴子と美和子にいったん視線をとめ、それから穏やかな口調で言った。 「そんなことはありません。お母さん——少し席を外して、お話ししたいことがあるのですが」  一瞬、玲子の顔が硬直した。 「さっきの件ですか? あんな程度のことまで咎《とが》めるんですか? でも、今までの病院だって、たらいまわしにされて、辛《つら》い目にあって、誰も頼れなくて、私とこの子だけでどれだけ心細い思いをしてきたことか……。それをわかっていただけないんですか? この子の面倒はできる限り私が看たいんです」  言葉の終わりは、目に涙を溜《た》めそうな勢いで訴えていた。  美和子がちらりと目を向ける。貴子は居心地悪そうに顔を背け、内唇を噛《か》んだ。  仁村医師は迷っていたが、やがて意を決したように息を吐いた。 「さなえちゃんの治療に関しては、担当の看護婦をもっと信頼していただきたいのです。確かにお母さんには個室で寝泊まりしてもらっています。付き添いは本来お断りしているのですが、お母さんの強い申し出があってこそ認めているのです」 「付き添いが駄目なんですか?」 「いえ。しかしお母さんがずっとそばにいては、さなえちゃんに心理的な作用が働くことがあります」 「それで?」  今度は挑発する口調になった。 「的確な判断ができなくなる恐れがあります。子供はまだ、自分の具合をうまく話せないものですから」  そして仁村医師は声の調子を落とした。「……病因をつかみたいのは私達も同様なのです。何とかしてあげたい。来年の小学校には間に合わせてあげたい——その気持ちは変わりません。そこをご理解いただきたいのですが」 「では、さなえに何かあったら責任がとれるんですか? そのときはこの病院を訴えますよ」 「やめてよ」  貴子はとうとう我慢できずに言った。さなえが涙ぐんでいる。美和子もいる手前、これ以上もめてほしくなかった。玲子は嘆息し、不服げな表情を眉間《みけん》に宿らせている。 「夕飯の後、点眼も忘れずにしておきましょう。さっきの西島《にしじま》看護婦を呼んでおきますから」  玲子は下を向いたまま、ぼそりとつぶやいた。「……私がやります」 「お母さんは、少し休まれた方がいいですよ」  広い背中を見せて退室する仁村医師もまた、辛そうな影を潜ませていた。  貴子にとって、これまで幾度となく目の当たりにしてきた光景だった。やりきれない思いを抱えたまま、さなえのぶんの焼きプリンを取り出そうとしたときだった。 「ちょっと、カコ?」  美和子が声高に注意を促してきた。  見ると、さなえの容態が明らかにおかしくなっていた。鼻息が荒くなり、首は芯をなくしてしまったかのようにぐらぐらと揺れている。 「せんせいっ」  叫んだ直後、さなえはベッドから上半身を乗り出し、水のようなものを床に吐いた。  仁村医師は廊下にいる看護婦を呼んで、駆けつけた。  美和子はどうしていいのかわからず、取り乱している。  貴子は呆然《ぼうぜん》としながらも、嘔吐の跡を拭《ぬぐ》う奇妙な冷静さがあった。目線を上げ、息を潜めたように沈黙する玲子の顔をのぞき見た。さなえを囲む医師達の背後で棒立ちになり、まるで他人事《ひとごと》のように傍観している。  彼女が下げている手を間近で見て、ふと気づいた。指先にあった赤い毛糸の糸屑《いとくず》だと思っていたものは、切り傷の痕《あと》だった。 「……おねえちゃん、帰っちゃ、やだ」  さなえの泣き出しそうな声が途切れ途切れに聞こえてきた。貴子は再び、汚れた床を拭《ふ》くのに集中した。  廊下には空の食器を重ねた配膳車《はいぜんしや》が行き来している。壁掛け時計の針は午後七時をまわり、窓の外はすっかり暗くなっていた。  閑散とした遊戯室の前に貴子はいた。廊下の窓際に寄っていた。美和子にさよならを言い終えてから、彼女の小さな背中が消えるのをそこでずっと見届けていた。  それから仁村医師を探した。  ナースステーション、食堂、診察室の前を歩きまわったが、姿を見かけなかった。階下かもしれない。エレベーターに足を向けると、奥の階段から仁村医師が上がってくるのが見えた。 「あの、お忙しいところすみません、話があるんですけど」  半ば強引に引き留め、ふり向かせた。 「……君はさなえちゃんのお姉さんだったよね?」  彼の太い眉が寄る。煙《けむ》たがる様子ではなかった。 「須藤貴子です」  毅然《きぜん》と立つ貴子を、しばらく見定める間が空いた。 「二十分ほどで用件が済む。すまないが、一階の奥に第二会議室がある。札がかかっているから、その中で待っていてくれないか」  貴子は言われた通り、エレベーターで一階まで下りた。外来のロビーを横切ると、待合所はまだ検査待ちの親子で混み合っていた。廊下を歩いて第二会議室の扉を開いた瞬間、彼がこの部屋を指定した理由がわかった。テーブルとパイプ椅子とホワイトボードだけの簡素な室内は、うっとするほど煙草の匂いが染みついていた。灰皿は吸い殻で山盛りになっている。まるでこの小児科病棟に隠された秘密の集会場を垣間《かいま》見た気がした。  仁村医師は約束より五分早く扉をノックしてきた。おそらく時間を約束するときは、多めに計る人なのだと思った。 「すまないね。ここだけが喫煙場所なんだ。この病院に勤務するようになってから、半年目でようやく見つけたんだよ」 「医者の世界にも転勤はあるんですか?」  思わず訊《き》いた。  仁村医師はポケットを探りながら、気さくな調子で答えてくれた。 「転勤じゃない。雇い主である会社を変えたようなものだよ。医者だって開業しない限りサラリーマンと変わらない。私の場合は、前の病院が揉《も》め事を起こして閉鎖になったから、仕方がないんだ。……南丘聖隷病院って聞いたことないかい?」 「いえ」 「そうか。この病院では肩身が狭くてね」  語尾を濁し、申し訳なさそうにライターをカチカチと鳴らした。それまで指でもてあそんでいた煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。 「ところで、君のお父さんは単身赴任中だと聞いているけど、長くなるのかい?」 「たぶん」  貴子は目を逸《そ》らし、煙草の煙の行方を追った。 「他にきょうだいは?」 「いません。妹だけです」 「同居している人、祖父母は?」  どうしてそんなこと訊くんですか? という言葉を呑《の》み込み、貴子は首をふった。  仁村医師は煙をゆっくりと吐き出し、そして言った。 「——そうか、君はひとりなんだね」心を見透かしてきそうな声に、貴子はちくんと針を刺される感覚を受けた。 「では、話をうかがいましょうか」 「さなえの病状のことです」  気後れした心をふり払い、語調をきつくした。それ以外に彼はいったい何の用があると思っていたのだろう? 「お母さんからは詳しく聞いてないのかい」 「……あまり」  仁村医師は一瞬沈黙し、頭の裏で思考を巡らせる表情をした。「それでは不明熱というのをご存じですか?」 「ずっと前の病院で聞かされました」 「熱というのは診断が難しい。なぜ発熱が起こるのかわからないことが多いんだ。私の正直な意見だよ。風邪や膀胱炎《ぼうこうえん》のように、身体に悪い菌が入ったときに発熱することはよくあるが、悪性|腫瘍《しゆよう》や肺|栓塞《せんそく》症のような病気でも熱が出る。入院して一ヶ月以上かけて検査をしても、原因がわからず、熱が下がらない場合もときにはある」 「待ってください。それじゃあ」  貴子が洩《も》らす声に、不安の色が混じる。 「君にはきちんと説明しておかなければならないな。体温は一日のうちで、一度くらいは上下する。三十七度までの変化になると、その解釈は余計難しくなってしまう。内科では、原因の判明しない発熱が三週間続けば不明熱になるが、小児科では七日間だ。もともと子供は自分の体調を伝えにくいということもあり、診断は難しい。ここ数年の親の権利意識の強さも弊害になる場合もある」 「それって、どういうことですか?」 「昔と比べて、患者と我々医者の間ははるかに対等になっている。それはいいことだと思う。しかし親が自分の義務を医者に押しつけるケースが増えてしまっている。勝手な思いこみで裁判を起こされたり、診ている医者の態度次第では、普及しているインターネットで名指しで告発されてしまう」 「でも、親なら子供を心配するのは当然じゃないですか」 「単なる夜泣きの赤ちゃんが、救急車で運ばれてきたりすることがあるんだ。急病と言えない子供を押しつけられて、本当に診なくてはいけない子供が診られなくなる。子供は大人に比べて投薬の量が少ないし、充分な意思表示もできないから、診察には時間がかかる。そうした効率の悪さが改善されないまま、小児科は年々減っていく傾向にある。人手不足もあり、神経をすり減らしている病院は実際に多い」  反論したかった。が、それをぐっと呑み込んだ。 「……申し訳ない。君に押しつけているわけではないんだ。難しい問題でね。医者の方も、きちんと親に説明してトラブルが起きないよう心掛けなければならない。そこを棚に上げているわけじゃない」 「……わかっています」 「不明熱の話に戻そうか。発熱の原因がわからなければ検査の数も増え、不安も増してしまう。いずれにしろ体力を消耗させる悪循環ができてしまう。さなえちゃんの場合は、発熱の他に、吐き気、下痢、頭痛が止まらず、時々夜中に咳《せ》き込んだりする。その原因がわからない。内科医の担当とも症例検討をくり返したんだが、根本的な治療方法の目処《めど》がまだ立っていないのが実情なんだよ。今は慎重に対処しているがね」 「いいんですか? そんなこと言って」  貴子の目に、挑むような光が宿った。 「隠さずに、正直に話している。でないと、ここで君と話す意味がない。君はあの子のたったひとりのお姉さんであり、もう高校生なんだろう?」 「でも、あんなに苦しんでいるじゃないですか。さっきだって見たでしょう? 医者だったら何とかしてくれないんですか? 今までの病院だって、良くはしてくれませんでした」  仁村医師の目が曇りを帯びた。吸っていた煙草を灰にしてしまい、二本目の煙草に火がつく。 「残念ながら医者によっては、不明熱の患者を疎んじる人もいる」  意外な言葉に唖然《あぜん》とした。一瞬、頭に血がのぼりかけ、その感情を押しとどめた。 「——どうしてなんですか?」 「熱は詐病《さびよう》に使われる。俗に言う仮病で、体温計を布か何かでこすれば、摩擦熱で熱があるように見せかけられる。体調を故意に崩すのも色々な方法があってね。病気でいることで人から優しく扱われたい患者によくみられる」 「そんな、まさか。先生はさなえが……」 「いや。そうは思わない。詐病は、人間の防衛本能が働くのが特徴なんだ。さなえちゃんの場合、不明熱が長く続いたことで取り返しのつかないことが起きている。——あの子の目、残念ながらもう手遅れに近い。自分から好んで目を潰《つぶ》す患者はいない。ましてやあんな小さい子供が」  手遅れという言葉を正面から吐かれ、貴子の胸が塞《ふさ》がった。 「……本当にもう見えることはないんですか? 結膜炎なんですよね? 私だって……かかったことはあります」 「真菌による結膜炎というのがある。以前は稀《まれ》な病気だったが、ここ最近逆に増えている病気なんだ。真菌は広く自然界に生息していてね、病原性を持つことは少ないが、副腎《ふくじん》皮質ホルモンや抗生物質などの点眼を長く続けてしまうと角膜に感染してしまう。そうなると角膜|潰瘍《かいよう》を起こし、悪化すれば失明に至ることさえある。さなえちゃんの場合はそのケースにあてはまる。不明熱で病院を転々としすぎたことが誤診を生んで、災いしたのかもしれない」  貴子の四肢の力が抜けそうになり、次第に喉《のど》の力も失われてきた。 「そんなこと言われたって……。じゃあ、さなえはどうすれば?」 「角膜《アイ》銀行《バンク》の登録は済ませてあるはずだから、ドナーからの献眼を待つことになる」 「待つって、どのくらい?」 「日本では献眼が不足している。最悪、二、三年続くケースもある。さなえちゃんはまだ幼いから、若くて新鮮な角膜が必要になるんだ。そうなるとドナーは限られてくる。だからなんとも言えない。機会がくるまで、待つしかない」 「じゃあ——」貴子は吐き捨てるように言った。「さなえはそれまで、目が見えない身体で、原因もわからない不明熱と闘わなければならないのですか?」 「当然できる限りのことは尽くします。……それは約束します。ですが、あなた方家族のケアもこれから必要になってきます」  息を呑んだ。まっとうなアドバイスであったが、家族という言葉に、荷が重すぎる使命を感じた。  煙草を灰皿で潰した仁村医師は腕時計に視線を落とした。「申し訳ないけど、そろそろ行かなければならないんだ」そして帰りがけに彼はふり向き、言った。 「それだけですか?」  貴子ははっとする顔を上げた。 「あなたが話をしたかったことは、それだけだったんですか? 他にもあったんじゃないですか?」  会議室に不自然な沈黙が埋まった。  貴子はふと思った。仁村医師が色々と遠まわりをしながら説明してくれたのは、重要な何かを引き出そうとしていたからではないだろうか? 「……いえ」目を伏せ、感情を押し潰す声で答えた。 「そうですか。何かありましたら、また声をかけてください。相談にも乗りますし、充分な説明はするつもりです」  目元を微笑ませた仁村医師はそれ以上何も言わず、外来のロビーを足早に歩き去っていった。  彼の最後の言葉は、貴子の胸にしこりを残した。  再びエレベーターを使って三階に戻った。足取りが重くなった。照明が落とされた廊下は、靴音がはばかられるほど静まり返っている。個室を探して戸口からのぞくと、さなえは玲子に付き添われて眠っているところだった。個室の照明は点《つ》いていない。何をするわけでもなく、椅子にただじっと座ることが自分の使命と思っているかのような彼女の後ろ姿は、近寄りがたい雰囲気と遠慮を感じさせた。 「お母さん、もう帰るね」  玲子の肩がにわかに反応した。「……気をつけて帰りなさい」芯《しん》のない声が返ってきた。彼女は椅子から立ち上がろうとしない。今日もまた病院に泊まるのだろう。  正面玄関を出た貴子はひとり、街灯の下まで歩いた。  灯《あか》りを頼りに腕時計を見た。かかりつけの治療院の受付はもう終わっている時間だった。首筋に手のひらを当て、続いて左腕をさする。夏の終わりからちくちくと刺す痛みは、徐々に身体を蝕《むしば》んでいくような悪寒に変わり、気分を憂鬱《ゆううつ》にさせた。  病院前の四車線の幹線道路に出た。眩《まばゆ》い光を放つヘッドライトが気忙《きぜわ》しく行き交っている。トラックの排煙を避けながらバスがくるのを待っているときだった。  ドッドッ。  突然、重圧感のあるエンジン音が耳を埋めた。すぐ近くの路肩に幅寄せして停まる一台の大型バイクがあった。ゴーグルをかけた、サファリジャケット姿のあの少年が、次々と通り過ぎるヘッドライトを浴びてバイクにまたがっていた。  無視して背を向けたとき、不躾《ぶしつけ》な声を浴びせられた。 「あそこにいたの、お前の母親か?」  思わずふり向いた。エンジン音が次第に大きくなっていく中、 「——目を離すなよ」  その一言が喧騒《けんそう》に混じって聞こえた。急発進したバイクは貴子の視界から外れ、あっという間に夜の幹線道路に吸い込まれていった。バイクにはナンバーがなかった。      3[#「3」はゴシック体] 「失礼しますが」  顧問に頼んで部活を早退し、治療院に向かうときだった。ドラッグストアのある角を曲がりかけたところで貴子は声をかけられた。  ふり返ると見知らぬ男が立っている。地味な色合いの背広姿だが、界隈《かいわい》を歩くサラリーマンとはどこか違う雰囲気があった。  彼は懐から黒い手帳をのぞかせた。 「北陽高校の須藤貴子さんですね」  警察だ。貴子はぎょっと目を剥《む》いたまま小さく頷《うなず》いた。彼は今度は灰色の小さな手帳を出した。表紙に見覚えのある校章が刻印されている。 「……落とし物ですよ。きっとお困りだったと思います」  しばらく間が空いた。自分の生徒手帳だった。確かになくしたものだった。どこで落としたのだろう——記憶を巡らせていると、彼は付け加えるように言った。 「おとといの火曜日、八幡神社の雑木林の中で見つけました。見つけた日の前日、午後九時くらいでしょうか。暴走族同士のいざこざがあの現場でありましてね、負傷者が出ているのです。もしかしたら当日、巻き込まれたのではないかと心配していました」  貴子は受け取った生徒手帳をめくってみた。表紙の裏にある自分の顔写真と名前、住所を確認する。彼の言う通り、あのとき落としたのだ。 「須藤さんはあの時刻、現場に?」  貴子は思わず首をふった。顔が青くなっていたのかもしれない。後ろめたいことは何ひとつないのに、身体が勝手に反応した。 「少なくともあの神社の雑木林は下校路ではありませんよ。生徒手帳に載っている君の住所と最寄りのバス停を、一直線に結ぶ近道にはなっていますがね。それと、前日に降った雨のことを思い出してください。その生徒手帳はぐしょ濡《ぬ》れになっていない」 「あの、私……」口籠《くちご》もった。 「バスの運転手が、須藤さんの顔を憶《おぼ》えていましたよ」  彼は穏やかに付け加える。 「あのとき……偶然遠くで見ていただけなんです」  申し訳なさそうに、ゆっくりと目を落とした。  すると、彼は大袈裟《おおげさ》に手をふった。 「いや、おどかすつもりは全くないんだよ。加害者の少年は今も逃亡中でしてね。君が目撃していたことに、もしかしたら気づいていたのかもしれない。もし今後何かあれば私に連絡していただきたいんだ」  と、靴底を鳴らして距離を詰め、 「できたら当時の状況を、詳しく聞かせていただきたいのです。——被害者のひとりは意識不明の重体になっていましてね。形式的な質問をするだけなので、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」  見上げる貴子の脳裏にふと、小さな疑問が湧いた。どうしてこの人は、自分をわざわざ捜してまで生徒手帳を届けにきてくれたのだろう? 生徒手帳には住所が記載されているのだ。届けてくれるのなら、電話なり、自宅にきてくれてもいいはずだった。この人はそれをあえてせず、学校の正門からずっとつけてきた。そうとしか思えない。確かにここまで歩いて声をかければ、周りに下校途中の生徒はいない。お互い人目を気にせずに済む。 「須藤さん。場所を変えたほうが?」  彼は首をまわし、また元に戻した。そこに強い視線を感じた。まるで獲物をひとりで追いつめようとする[#「獲物をひとりで追いつめようとする」に傍点]かのような眼差《まなざ》しに、気圧《けお》されかけた。 「……いえ。ここで」  貴子はおずおずと道の端に寄った。  彼は生活安全課の堀池と名乗った。  質問は、堀池という刑事が言った通りの形式的なものだった。  何時頃あの境内を訪れたのか、どこで目撃したのか、喧嘩《けんか》をしていた少年達の人数と特徴、言い争った様子はなかったのか、先に手を出したのは誰か、何時にその場所から離れたのか——貴子は記憶に残っていることをできるだけ正確に話すことにした。  その間、堀池は熱心にメモを取り、怪我を負わせた少年の話に移ると胸を痛めるようなしぐさで眉《まゆ》を寄せた。それは貴子の目に意外な反応に映った。 「ありがとう。状況はよくわかりました」  堀池はぱたりと手帳を閉じ、大きな息を吐き出した。 「あの」  貴子は呼び止めた。訊《き》くかどうか迷い、何度も空を噛《か》んだ。 「……加害者と言っていましたよね。私が話した状況で、どっちが加害者になるんですか?」  堀池はその答えに一拍おいた。 「どちらもですよ」  名刺とは別に、逃亡中の少年を見かけたら連絡がほしいと、個人の携帯電話の番号も教えてくれた。  彼の靴はずいぶんくたびれているように思えた。貴子は足早に立ち去っていくその後ろ姿を見ながら、昨夜の病院前での出来事を思い出した。大型バイクにまたがっていた少年と、境内で見た少年の姿とを、記憶の中で重ね合わせた。 「——ねえ、カコ」  いきなり背後から声をかけられて驚いた。今度は美和子だった。ストローをくわえ、パック入りのジュースを吸っている。妙にタイミングがいい。 「いつからいたのよ」 「正門からずっと」美和子はそっぽを向いて貴子の視線をかわした。「だって、わたしのキャラクターは犬だもん」 「犬?」 「そう。いつもカコのあとをついてきて、ワンワン鳴くの。めげずに、しつこく。もしかして迷惑?」 「で、それが今までついてきた理由になるの?」 「いいじゃない」と口をすぼめる美和子は、遠くなっていく堀池の背中を憎々しげに見つめた。「……あいつ。わたし、知っているよ」  えっ、と貴子は声を洩《も》らした。 「ずっと前だけどね……。この間、カコの電話に出たわたしの友達憶えてる? あいつにつきまとわれていたの。あいつ今日、正門で張っていてカコのあとをつけて行ったから、わたしも追っかけてきた。ね、なんか変なこと訊かれなかった?」  美和子は心配していたのだ。堀池との一部始終を話して聞かせてあげると、彼女はほっとした様子で胸を撫《な》で下ろし、 「ヒマなやつ」  と、それだけ言い捨てた。すぐに関心が別に移った様子で、美和子はいつになく真剣な表情になった。貴子は目をしばたたかせた。 「——どうしたのよ?」 「カコ、今朝からずっと顔色が悪いよ。ここ数日、治療院に行けてなかったんでしょう? 大丈夫なの、身体は?」  貴子は首筋に手を触れ、上下にさすった。 「たいしたことはないと思う。怪我した憶えもないし、筋肉痛か、寝違えたのがひどくなっているだけの気がする」 「この時期に汗をかくほど?」  自分をよく見てくれている。そんな友達の気遣いが嬉《うれ》しくて、瞼《まぶた》を閉じた。 「……ありがとう」 「バレーをしているときのカコはかっこいいよ。今度の試合のときは、カメラ持って行くからね」 「まさか、空き缶で作ったカメラじゃないよね?」 「もちろん」  美和子は陽気に手をふって、その場から駆け出していった。  しかしそれ以後、貴子の身体が元に戻ることはなかった。  一抹の不安を抱えたまま、試合前の週末が訪れた。  放課後、北陽高校女子バレー部は、明日の強豪校との試合に備えてレギュラーを中心とする調整に入っていた。  練習がはじまる前に一年生によってコートが組み上げられ、張りのあるかけ声とともに基礎トレーニングが行われる。学校生活の中では練習に割ける時間は限られるので、顧問の指示に従って、パスの練習も合わせた形式になっていた。ふたり一組になり、腹筋の姿勢でのオーバーハンドパス、うつ伏せからのアンダーパス、スクワット運動を組み入れたオーバーパスがひと通り行われる。  保健室に寄っていた貴子は、それらのトレーニングが終了する頃に参加した。ひとり体育館の隅に寄って、ストレッチをはじめる。さなえの見舞いに行って以来、遅刻や早退を立て続けにしていた後ろめたさがそうさせていた。  首筋や左腕の痛みは前にも増してひどくなっていた。しかし明日のスタメンに決まったことや、コートの準備や後片づけに参加しなくなったという表面上の事実だけを疎ましく見ている先輩や同級生がいるので、気を緩めることはできなかった。自分の知らないところで何を言われているのかわからない。  コートが緑色のテープで、縦半分に区切られた。  ストレート攻撃に限定した四対四のレシーブ練習がはじまろうとしていた。残りの部員は再び基礎練習を続けるグループと、空いたバスケットゴールを使ってトス練習に入るグループとに分かれる。 「須藤、何ぼうっとしている」  ボールを片脇に抱えていた貴子は、反応が遅れた。 「お前はこっちに参加するんだ」  館内に顧問の声が轟《とどろ》き、貴子はあわててレシーブ練習に参加した。しばらく頭の中のヒューズが切れたように朦朧《もうろう》としていたことを、悟られないようふる舞った。  レシーブ練習はラリーが続かなかった。貴子ひとりがボールをこぼし続けたからだった。苛立《いらだ》った叱責《しつせき》が上級生から飛び交い、うまくボールを拾えない焦りはますます初歩的なミスを招いた。すみません、すみません——声高に謝る度に萎縮《いしゆく》し、深い泥沼に嵌《は》まったような状態から抜け出せなくなった。  練習の中盤、コートから悲鳴が湧いた。  貴子は自分が上げたものだと最後まで気づかなかった。ようやく薄目を開けることができた。顧問とメンバー達に囲まれて、ひとり膝《ひざ》を崩している。首筋と左腕の激痛に目まいを覚えた。 「大丈夫、大丈夫です、心配しないでください」  舌がうまくまわらなかった。  貴子を乗せたライトバンは、学校近くの整形外科病院に向かった。  顧問が運転し、助手席で貴子は幾度となく意識を失いかけていた。身体を揺らしながら、底のない淵《ふち》へ落ちていく感覚に襲われ、なにより精神的なショックが追い打ちをかけた。今まで我慢してきたツケだと思った。やがて耳の奥で誰かが呼ぶ声が聞こえ、それが明瞭《めいりよう》になり、目をうっすらと開いた。  いつの間にか、頭が半分ほど禿《は》げ上がった初老の医師が目の前にいた。  看護婦から突き出されたレントゲン写真を机上のシャーカステンに透かし、しばらく睨《にら》んだあと、 「この娘《こ》のご両親は?」  なんでそんなことを訊くのか、貴子には理解できなかった。 「電話連絡を取ったのですが、つかまりませんでした。とりあえず私が同席しますが」  付き添いの顧問が答えると、医師は一呼吸置いてから続けた。 「今まで見逃していたようですね。ここ、頸椎《けいつい》の最初の部分に小さな傷痕《きずあと》がいくつかあります。こういう怪我をした経験は?」  思いがけない質問に貴子は動揺した。それからうつむき、しおりをなくした本をめくっていくように、半年前、中学校、小学校……と、必死に記憶をたどった。 「ないですけど」  その一言を喉《のど》から押し出すまで、ずいぶん時間がかかった。 「記憶に全然ないのですか?」  貴子は頷《うなず》いた。 「こういう傷はね、なかなかできるものではないんですよ。頭から無防備に落っことされない限り、できる傷ではない。スキューバダイビングの練習をしていて、勢い余ってプールの底に頭をぶつけたというのなら別ですが」 「どういうことなんですか?」  椅子から立ち上がって訊いた。 「以前、同じ症状を訴えて運ばれてきた成人男性を診たことがあります。怪我の記憶はないとのことでしたが、物心つく前の幼い頃、畳の上に投げ落とされた経験がありましてね。彼の場合、両足をつかまれて宙づりになった状態で手を放された。当時、親の都合で病院に連れて行かれることがなかったのです」  貴子の顔が能面のように固まった。 「君?」  医師の呼びかけに、反応が遅れた。 「あの」  言い出そうとしても声の震えがおさまらなかった。「私……、いま、バレーボールをやっているんですけど」 「残念ですが、今日みたいなことが起こる可能性がある限り、しばらく激しい運動は控えた方がいいですね」  唇から色が失せ、表情が死んでいくのが自分でもわかった。胸に穴が開いた感覚がして、背中一面に寒気が広がった。椅子に座ってしまえば、もう二度と立ち上がれない気がした。      4[#「4」はゴシック体]  夕方四時を知らせるチャイムが校舎に鳴り響いた。  カーテンを閉めた薄暗い放送室の中で、美和子はコンパクトカメラの手入れに余念がなかった。エアポンプを親指で押して、レンズについた埃《ほこり》を熱心に吹き飛ばしている。机上には校内から回収してきたピンホールカメラの空き缶と印画紙が並んでいた。 「ねえ、もうここを出るけど」  彼女は椅子の背もたれに片手を置き、そうつぶやいた。六畳ほどの室内の奥、積み重ねられた器材に人影がうずくまっていた。 「……うん」  貴子は両膝を抱えていた手をほどいた。のろのろと立ち上がると制服のスカートをはたき、窓のカーテンをつまんで少し広げた。グラウンドに散らばる運動部の部員達が、古い写真のように彼女の目に映った。  あれから五日経った。  生返事しか返せなくなっていたときよりも大分落ち着いている。部員達の励ましを苦痛に感じたときは、ありったけの余裕を総動員してやりすごしてきた。泣き腫《は》らしたあとに自分の中に残ったものを、ようやく見すえることができていた。 「部活にも顔を出さないで、どうするの?」  美和子ははじめてその話題を口にした。 「もちろん復帰するよ。私、やめたりなんかしない」 「それがいいよ」美和子は幾分|安堵《あんど》する表情をのぞかせ、手際よく道具を片づけはじめる。  貴子はグラウンドに視線を投じたままだった。「……でも、今日はこのまま病院に行く」 「どっちの?」 「妹の」  そう言って貴子は床に寝かせていた焦茶色《こげちやいろ》のショルダーバッグを担ぎ上げた。ずしりと肩にのしかかったバッグの中で、がしゃがしゃとガラス瓶がぶつかり合う音が響く。今朝早くからそれを担いで登校してきた。  美和子が扉を開いて待っていた。  バッグを担ぐ貴子は床の一点に目を落とした。自分のつま先まで伸びた美和子の影から目を逸《そ》らした。内に秘めた決意が彼女に薄々勘づかれている、そんな気がした。  階段の踊り場まで一緒に歩いた。 「……ごめんね。試合に出られなくなって」  貴子が口を開くと、美和子は信じられないという表情を露《あら》わにした。 「なんでカコが謝るの? 仕方ないじゃない。うん、仕方ない。また頑張ろうよ。ね、わたし、応援するから。カコならすぐレギュラーに戻れるよ。わたし、ずっとみてきたから、わかる。きっとできるから」  美和子は、自分が持てる限りの励ましの言葉を必死に並べていた。まるで貴子に、余計なことを考える時間を与えたくないように。  やがて喋《しやべ》り通しだった美和子の唇が閉じた。貴子が力なく微笑んでいたからだった。 「応援なんていらない」  しゃくりあげる息遣いがおさまらなくなってきた。「そんなことより、あれからずっと考えたの。さなえのことをずっと……。それで気づいたの。人間って特別な感情があるのよ。悲しい出来事なんか吹き飛ばしちゃうくらいの感情が。もうバレーボールのことなんか、どうでもよくなっちゃうくらいの」 「カコ。もういいよ。無理して話さなくていいよ」 「私が落ち込んできたのは、バレーボールのことばかりじゃないのよ。もっと大切なこと。見逃してきたことに、ようやく気づいたからなの」 「……カコ」 「聞いて。もう時間がない」  美和子の口が再び開きかけたのを、貴子は遮った。今ここで頭に思い浮かぶことだけでも彼女に伝えておきたかった。 「昨日の夜、電話でお父さんと喧嘩《けんか》したの。帰ってこなきゃ、お父さんなんていらない、そんなひどいことをいっぱい言った。それなのにお父さん、何も言い返してこなかった。……ずるいよ」  美和子は目を伏せたまま黙って聞いている。 「でもね、まだ赤ちゃんだった頃のさなえの面影を今まで追い続けていた私だってずるいの。莫迦《ばか》だったんだ、私もお父さんも。お母さんに任せっきりで、ふたりきりにさせて——。現実のさなえの身に起こっていたことを知らなかったんじゃ済まされないのに」  美和子がはっとふり向いてきた。  貴子は続けた。 「憶《おぼ》えてる? 一緒にさなえの見舞いに行ったとき、知らない人が個室の前に立っていたよね。あの人でも気づいていたことを、私は見過ごしていたのよ。一番先に私が気づかなければならないのに……。あんなことを妹にまで[#「妹にまで」に傍点]くり返させて……。何のためのお姉さんなんだろうね?」  最後の部分は自分自身に問いかけていた。あの少年は戸口の隙間から何かを目撃していたのだ。だから最後に忠告してくれた。そうとしか考えられなかった。あのとき彼が目にしていたものは、いったい何だったのだろう? 推測は今となってはひとつしか思い浮かばなかった。同時にそれは、今の貴子にとって耐え難いものだった。  確かめるべく玲子の部屋に入る決心をしたのは、父親との電話を切ったあとだった。夫婦で別にしている寝室の扉を開き、キングサイズのベッド、三面鏡、パソコンラックを順に調べてまわった。ジッパーを南京錠で固定したボストンバッグはドレッサーの奥で見つかった。カッターを使って布地を裂いた。喉が嗚咽《おえつ》で膨らみ、何度やめようかと思った。中身が露わになったとき、冷たいみぞれのような感情が頭の中を埋めた。剥《む》いた目が乾きそうになるまで手に取ったものを凝視した。それまでの推測が確信に迫った瞬間だった。(玲子なら、やりかねない、玲子なら、やりかねない……)呪いの言葉が抑えても抑えきれずに心の淵《ふち》から溢《あふ》れ出てきそうになった。視力をなくしたさなえの慟哭《どうこく》を、そのとき耳の奥でようやく聞いた気がした。そして確信した。さなえを救えるのは、同じ痛みを経験した自分しかいないのだ、と。 「——私、お母さんが許せない。殺してやりたい」  青ざめた唇が震え、口のまわりがしびれてきた。顔も蒼白《そうはく》になっているかもしれない。もう自分ではコントロールできそうもなかった。ショルダーバッグを挟む脇に力がこもった。  美和子は声を失ったまま佇《たたず》み、しばらくして、 「ねえカコっ、本当に病院へ行くの?」  勢い余る声を浴びせてきた。「わからないの? カコ、ずっと怖い顔をしているんだよ。あれから、ずっと……」  貴子は自分の指先をそっと上げ、確かめるように眉間《みけん》や頬に触れていった。わからなかった。 「もし最後にまだ、許せる心がほんの少しでも残っていたら——。私の家族はやり直しよ。もう一度はじめから、みんなで」  かすれた声で、ようやくそれだけ吐き出すことができた。  美和子の手が貴子の袖《そで》をつかもうとした。貴子はそれをふり払うと、階段をひとり先に駆け下りていった。  小児科病棟に着く頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。  貴子は三階のナースステーションで自分の名を告げ、仁村医師を呼んでもらうよう頼んだ。西島看護婦が取り次いでくれた。すぐ内線がかかってきて一階の第二会議室で待つことになった。  待つ間、「まだか」と怒鳴り込む親の声が響いてきた。外来受付の方向だった。本来なら受付時間はとうに過ぎているはずだが、応対に追われる外来看護婦の神経をすり減らす声が聞こえてくる。それらの声に怯《おび》えて幼児の泣き声もあがった。  不意にノックの音がしてドアが開いた。仁村医師だった。急いできたのか額が汗ばんでいる。 「どうしたんだい? 急な……」  彼が言い終わらないうちに貴子は立ち上がり、持ってきたショルダーバッグのジッパーを開いた。そして見せるように突き出した。 「これを調べてください」 「これは?」 「お母さんの部屋から出てきたんです」  仁村医師はバッグの中を探り、化粧品の瓶を一本一本取り出した。どれも開封済みで半分ほど中身が減っている。彼は貴子にいったん目線を向け、促されるまま瓶の蓋《ふた》を開けた。鼻を近づけて匂いを嗅《か》ぐと表情を曇らせた。どの瓶も同じだった。続いてバッグの底から付箋《ふせん》がついた医薬品関係の本を取り出した。頁をめくっていくと、まるで呪詛《じゆそ》でも書き連ねたように赤線がびっしりと引かれている。 「化粧品、中身が違うと思いませんか? 私でもわかります」  貴子は言った。仁村医師は食い入るように本をめくり、視線を走らせている。 「部屋の中にノートパソコンがありました。特殊な医薬品——先生がこの間言っていたホルモンや抗生物質も、今だったらインターネットを通して買えるんじゃないですか? お母さん、病院を転々としていたから、実際に手に入れる機会だってあったはずです」  仁村医師は気圧《けお》されるように目を見開いた。 「入手は難しい。……だが、できないことはない」 「先生は薄々勘づいていたんじゃないですか?」  仁村医師の返事はなかった。貴子は続けた。 「お母さん、さなえの点滴や食事の中に、何か異物を混ぜていたかもしれないんですよ。ずっとそばにいたから、さなえのおしっこにだって自分の血を混ぜることができた。体温計の細工もできた。万が一にも、目が見えないさなえに気づかれることはありません。目を見えなくさせたのもお母さんかもしれないんですよ」  化粧品の瓶を見つめる仁村医師の顔に、苦渋の色が広がった。貴子は彼の白衣をつかんだ。 「お願いします。早く調べてください。……お願い。さなえ、目が見えないから、自分が何をされているのかわからないんです。さなえを助けてあげてください」  悲痛な声で訴えた。 「調べればはっきりするだろう。君の言っていることは」  仁村医師はそう言って貴子の手を優しく下ろし、間隔を離した。煙草を取り出したが、間を置いて吸わずに指で折ってしまった。考え、ためらい、なかなか次の口が開くことはなかった。 「——世の中には自分の子供を病気だと言い張って、病院を渡り歩く親がいるんだよ。子供に危害を加えて、本当の病気にしたてあげてしまう親も中にはいる。付きっきりで看病することで安心感を得たり、その立場が心地よかったり、別の人の注意を引きつけたいのかもしれない。身代わりミュンヒハウゼン症候群という、精神病名までつく」  貴子はがっくりとうなだれた。目まいに近いものを感じた。精神病……。病気のせいになるのか。病人だから仕方がないというのか。納得できない。そんなのはひどすぎる。 「たいてい子供が発するSOSで気づくものだが、さなえちゃんはそれができない環境にあった。いつもお母さんが自分のためにそばにいて、目の見えない自分の世話をしてくれていたんだ。……デリケートな問題でね、母子に退院されたらそれでおしまいだ。他の病院や自宅で再びくり返される。実際、彼女はさなえちゃんを何度も他の病院に移そうとした。その度に私が引き留めてきた。彼女の場合、夫の転勤先の仙台に逃げられてしまうことも懸念された」 「だったら、どうして今までっ」  抗議の声が喉《のど》に絡んだ。 「全て私ひとりの推測だったんだ。調べてはいたんだが、証拠がない。まさか個室に四六時中、監視カメラをつけるわけにはいかないだろう。それにさなえちゃんの場合は目のこともあった。失明にまでなっている。少なくとも私の考える詐病《さびよう》の枠内ではなかった。言い訳がましいが、実の親がそこまでするとは……という思いも邪魔していた」  仁村医師は再び化粧品の瓶に目をとめ、付箋の付いた医薬品書をめくった。その顔がみるみる痛ましいものへ変わった。全部バッグの中に戻すと自分のもとに引き寄せた。 「すぐに調べる。でもいいのかい?」  貴子は顔を上げた。 「おそらく複雑な事情があると思う。君の母親が、娘を失明させてまで病気に追い込もうとした事実を知ることになるかもしれない。最初は本当の結膜炎や嘔吐《おうと》症状だった。最初に診た医者の手違いか、対応の悪さがあったのか、もしくは転院を続けすぎたのが原因で結膜炎が悪化してしまった。もしかしたらその時点で家族の誰かに相談していたらよかったのかもしれない。やがて医者を非難するタイミングを失い、何もかも自分で背負い込み、自責の思いに悩みながらもそれを利用することを思いついてしまった。自分だけを頼りにしてくれるわが子を、誰にも邪魔されずにずっとそばに置きたかった。——その気持ちを止められなくなったのかもしれない。看病を続けるうちにエスカレートし、行き着くところまで行き着いてしまい、今でも心のどこかで罪悪感を抱きながら続けているのかもしれない」  だとしても、と彼は語調を強めた。 「君は許せるのかい。彼女を再び母親として」  思いがけない言葉を浴びせられ、貴子は呆然《ぼうぜん》とした。 「私が言える筋ではないんだがね。君が今、どんな目をしているのか……鏡で見てきた方がいい」  貴子は答えることができなかった。  許せるのかい。  なんであんな莫迦《ばか》げたことを訊《き》いてきたのだろう?  貴子は答えを先走りして求めようと、心の中でもがいていた。  木霊《こだま》のように鳴りやまないその声とともに、首筋から鈍い痛みがじわじわと這《は》い上がってくる。それがいつ激痛に変わるかわからない恐れは全身に悪寒を走らせた。寒くて凍えそうだった。この痛みと一生付き合わなければならないのか——いいようもない不安が頭の中を吹き荒れた。  息をするのも胸が潰《つぶ》れるようで苦しい。  いつものようにバレーボールができなくなって、散々泣き腫《は》らしたあとだった。自分の中に残っているものを見すえることができた。それが今の姿だった。腹の底でくすぶっていた行き場のない怒りが、蛇のように鎌首を上げてその標的を探しまわっている。  貴子はずっと籠《こ》もっていた病棟の女子トイレから、ようやく出ることができた。洗面台の鏡の前で自分の顔を何度も確認した。うつろな瞳《ひとみ》に跳ね返ってくるものは、美和子が怖いと言っていた顔だった。  ……別に怖くなんかない。  足を前に動かすことに専念した。誰ともすれ違わない。視線は焦点を失っていた。角を曲がると病室が並んでいた。ナースステーションからは死角になる。ちょうど冷たい陰の中に入り込んだように、ぞくっとする瞬間だった。  薄暗い廊下の中で、目指す個室の引き戸がわずかに開いていた。  隙間をのぞくと玲子の背中が見えた。今日もずっと付き添っている。執拗《しつよう》に離れずに、狂気じみた感さえ今はある。  その彼女の後ろ姿が、ひどく痩《や》せて貴子の目に映った。  怯《ひる》んだ。  しかし最大の犠牲者は誰なのだ。自分に何が起きているのか、何をされているのかも知ることができないさなえを守るためだ。見えない恐怖から解放してあげるためだ。——私達、姉妹の心を踏みにじった罰だ。  一歩踏み出し、制服のスカートのポケットに右手を滑り込ませた。汗で滑らないようゆっくりと目的のものを取り出した。ぱちんと刃先が飛び出す音がし、五本の指に一本ずつ力を込めていく。これから先のことは、頭の中で何度もイメージを重ねてきた。失敗するはずがない。  覚悟を決めたときだった。  突然、背後から腕をつかまれ、はっとふり向いた。背広の上にコートを羽織った父親が立っていた。背後には美和子の姿もある。  声が出なかった。足が芯棒《しんぼう》を抜かれたようにがくがくと震え、隠し持っていた折り畳みナイフが右手からこぼれ落ちた。ほとんど同時に座りこんでしまった。 「新幹線で帰ってきた。——貴子、ずいぶん捜したぞ」  貴子は放心した目をふたりに注いだ。 「お前の友達とは、さっきこの病院の前で会ったんだ」  ゆっくり歩を運んできた美和子は、床に落ちたナイフを拾い上げた。しばらく見つめて刃先をぱちんとしまうと、自分のポケットにねじこんだ。 「カコ、言ったよね。もう一度、やり直すって」  貴子の首が力なく下がった。 「……できない」  自分の耳でもわかる憎悪のこもった声だった。喉から止めどなく溢《あふ》れ出てくる。「だったら全部もとに戻してよっ。私も、さなえも、もう取り返しがつかないのに、できるわけがないよっ」 「貴子……」  父親はそれきり口を閉じた。接《つ》ぐ言葉が見つからない、そんな辛《つら》そうな表情をしている。きっとお節介な美和子が、色々と喋《しやべ》ったに違いない。 「さなえに」  貴子に迷いはなかった。「私の片目をさなえにあげる。バレーができないんなら、もういらない。お願い。一刻も早く、さなえを目の見える身体にしてよ。……だったら、やり直せる。ふたりでもう一度、はじめからやり直せる」 「おい貴子っ」 「お父さんなんかに、何がわかるのよっ」 「莫迦《ばか》なことを言うな。……そんな必要はない」  父親の咎《とが》める声に、貴子は髪をふり乱してかぶりをふった。 「いいか貴子、聞くんだ。——今日帰ってきたのはな、角膜《アイ》銀行《バンク》からドナーの申し出の連絡があったからなんだ。仙台で連絡を受けた。その人はさなえを指名している。さなえだぞ。亡くなる前の見ず知らずの人が、まだ幼いさなえを選んでくれたんだ。角膜移植ができるんだぞ」 「そんなの、うそだ」 「うそじゃない。電話連絡は父さんが受けた。この耳で聞いている。適合するかどうかの検査が済んでからになるが、うまくいけばこの病院で、今夜中に手術が行われるかもしれないんだぞ」  貴子の目が大きく広がり、次第に視界がぼやけてきた。涙が噴きこぼれ、唇の端までたまってきた。 「——お姉さんなんだろう? お前がしっかりしなくてどうする」  父親が貴子の両肩を激しく揺さぶった。  引き戸の向こう側にいる玲子を見た。身動きひとつせず、廊下での出来事に全く気づかない様子で座っている。心をどこかに置き忘れてしまったようなその後ろ姿——ようやく見つけた自分の居場所をかたくなに守ろうとする背中に、はじめてもの悲しさを覚えた。      5[#「5」はゴシック体]  さなえの角膜の移植手術が終わって、一ヶ月が過ぎようとしていた。  貴子は自分の部屋で引っ越しの準備に追われていた。大切な荷物を選別して段ボールに詰め、ガムテープでしっかりと塞《ふさ》いでいく。ときどき手が止まったが、そのときは自分を励まして作業を再開した。引っ越しの業者が到着する前に、できるところまではやっておきたい。  父親の単身赴任先へ一家で引っ越すことが決まったのは、年が明けてすぐだった。春を待たずに転校することは辛かったが、今の須藤家にはそれが一番の選択といえた。  昨夜、美和子とはふたりで会った。  いつでも会えるよ。不用意に口から出てしまったその言葉に、彼女は「——いつでもって、いつなのよ」と剣幕をつけて返してきた。目元を赤くさせた美和子を正視できず、胸が締めつけられたままうつむき合った。いつが、いつ訪れるのかは、時の流れに任せる卑怯《ひきよう》な方法ではなく、自分達の力で見つけ出さなければならない。  荷物を詰め込む作業を続けながら、首筋にそっと手をあてた。たまに痛みは襲ってくるが、前より戸惑わなくなった。心の準備ができたのだろうか……。完治は難しいかもしれないが、痛みをコントロールする方法は覚えつつある。場所は変わるが、またバレーボールをはじめられるかもしれない。  貴子は腰を上げると、一階に下りた。  眼鏡をかけたさなえは居間で絵本を読み漁《あさ》っていた。せっかくまとめた荷物の中から絵本が引っ張り出され、床の上に散らばっている。その中心にさなえは座っていた。  丸くて可愛い、貴子が選んだ縁の眼鏡をかけている。術後に軽度の乱視が発生したが、視力は〇・二まで戻った。もうひとりでも歩けるし、読み書きの練習もできる。春から入学する小学校で後れをとらないよう、さなえはさなえなりに焦っている様子だった。仙台での転院先には、桜ヶ丘総合病院の眼科医に紹介状を書いてもらった。しかしもう頻繁に足を運ぶことはなくなる。 「さなえ、目を休めないとだめだよ。まだ糸が抜けていないんだからね」  さなえは小さな肩をぶるぶると震わせた。角膜を縫合したナイロン糸は、まだ目の中に残っている。視力が戻って以来、目を酷使しようとするさなえにはこの言葉が一番効く。 「はーい」  さなえは絵本を閉じ、あわてて元の段ボール箱に戻した。角膜の移植手術後、玲子から引き離されたさなえは、体調をみるみる回復させた。母子の間で二度と同じことが起きないよう、仁村医師は念を入れて、ソーシャルワーカーを通じて仙台の児童相談所に報告してくれた。  直接そのきっかけを与えてくれたドナーが誰であるのかは、貴子は知ることができない。結局お礼は、父親が角膜銀行を通してすることになった。ドナーは、どこでさなえのことを知ったのだろう? 幼いさなえをどうして選んでくれたのだろう? ……考えるうちに、貴子の閉じた瞼《まぶた》の裏側で、ひとりの少年の孤影が映し出された。あの寂しげなサファリジャケットの後ろ姿だけが、たったひとつの手がかりとして残されている。  そして——  玲子はキッチンのテーブルで片肘《かたひじ》をついていた。  引っ越し準備であわただしい家の中で、朝からひとり所在なく歩きまわり、ようやくその場所に落ち着いた様子だった。どこを向いているのかわからない虚《うつ》ろな視線からは、どんな表情も読み取れない。ずっと塞ぎこんだままでいる。  仁村医師から呼び出しを受けたのは、さなえの手術が終わってから二日後だった。父親と一緒に病院を訪れ、応接室に通された。そこで彼が渡してくれた用紙には、玲子が隠し持っていた薬品の詳細が記入されていた。抗生物質の名前がずらりと並び、その中に下剤、利尿剤、副腎皮質ホルモン物質といった名前も記されていた。彼の説明を途中で遮ったのは父親だった。耐えられない、そんな顔を下に向け、大の大人がむせび泣いた。自分を責め、娘が見ている前で大粒の涙を落とした。その用紙は貴子が処分することになった。自分から焼き捨てたい、とすすんで申し出たのだ。  しかしそれはまだ、貴子が隠し持っていた。  決して処分なんかはしない。  玲子は肘をついたまま、視線をずっと宙に彷徨《さまよ》わせている。 〈私が見守ってあげるから、さなえのために母親を続けなさい〉  貴子は心の中で命じた。  面と向かって罵《ののし》ることも、言い争う気力も、あの晩の出来事で全て消え失せてしまった。玲子の左頬には青痣《あおあざ》が薄く残り、あのとき切れた唇の端もまだ塞がっていない。彼女の心の中で巣くっていた闇が、それらの傷痕《きずあと》から抜かれていることを祈った。  玲子はあの晩を境に、ずっと放心した姿でいる。それが母親として再生を待つ姿であってほしかった。玲子は、手術が行われる直前に自分が起こした騒動をよく憶《おぼ》えていないようだ。  別に思い出さなくてもいい。  ——さなえを病室から連れて、逃げ出そうとしたことを。 「さなえちゃんがいませんっ」  看護婦が声高に叫んだ。  ほんの二十秒、いや十秒、目を離した隙だと弁明していた。検査が終わり、角膜の到着を待つだけだったさなえが、安静にしていたベッドから忽然《こつぜん》と姿を消したのだ。  別室で担当医からの事前説明を受けていた父親と貴子は、あわててさなえの病室に駆け戻った。それまで一緒にいた玲子が、トイレに行くと言ったきり帰ってこなかった不安もあった。  さなえの手を引き、ときには抱きかかえて廊下を走っていく女性を見たと目撃証言があがった。さなえがトイレに行きたいと訴え、玲子が一緒に付き添ったのかもしれない。母子の事情を知らない者達はみんなそう考えた。ほんの十数秒の間で、看護婦の目に触れずに、という偶然には目をつぶって。  いくら待っても、ふたりは戻ってこなかった。  関係者は次第に事の重大さに気づきはじめた。内線電話で夜勤の看護婦達に目撃情報の協力を依頼し、手分けして院内を捜すことになった。  絞られた照明と、冷たいリノリウムの床を照らすフットライトを頼りに捜しまわった。誰もが不安と焦燥に駆られていた。やがて屋上の階段方向で足音を聞いたという連絡が入り、父親と担当医達は屋上に向かっていった。  貴子はひとり、真っ先に階段を駆け下りていた。内部構造を知らない院内を捜しまわるよりもひとつの賭《か》けを選んでいた。暗い階段を下り、非常玄関のドアを開け、駐車場方面に向かって走った。  周囲は真っ暗だったが、とにかく駐車場の出口方向を目指した。冷たい風が頬にあたって涙が滲《にじ》んできた。やがて、ヘッドライトを消灯させたヴィータがアイドリング状態で停車しているのを発見した。眩《まばゆ》い光を放つ大型バイクに、行く手を阻まれる恰好《かつこう》になっていた。  運転席側のドアが開けっ放しになっている。  玲子はアスファルトの上でうずくまっていた。左頬が腫《は》れ上がり、切れた唇の端から血が流れている。パジャマ姿のさなえは彼女の腕にしがみついて泣きじゃくっていた。  そばには、黒いゴーグルをかけたあの少年が立っていた。バイクのヘッドライトはまるで後光のように彼を照らし、風が彼の黒髪を激しくかき乱している。  思わず足がすくんだ。 「誰」  貴子は玲子を視界の端でとらえながら身構えた。玲子は両手をつき、せきを切ったように嗚咽《おえつ》を洩《も》らしている。 「いきなりこの車が、ヘッドライトもつけずに突っ込んできやがったんだよ。殴ってやった。手加減はしてねえ」  彼は握りしめた拳《こぶし》を胸のところまで上げた。そしてアスファルトに置かれたアイスボックスを担ぎ上げると、貴子に突き出した。 「この病院宛ての届け物だ。中に封筒が入っている」  貴子は目を剥《む》いたまま声を出せずにいた。まるで蛇に睨《にら》まれた蛙のようだった。 「この病院の担当医に仁村というやつがいるはずだ。必ずそいつに渡せ。そうでないと全てが無駄になる。いいな、お前がやるんだ。絶対に落とすなよ」  貴子の両手に有無を言わさずアイスボックスが載せられた。頭の中が混乱した。 「あなたいったい誰なの? お母さんは、さなえは……?」  その問いは、彼の口から出た予想外の言葉で封じられた。 「——お前らは姉妹なんだろう? 最後にその妹の味方になって守ってあげられるのは、お前の役目じゃないのか」  さなえに視線を移した。うなだれる玲子の胸に顔を埋《うず》め、泣き続けている。おかあさん、だいじょうぶ、おかあさん、だいじょうぶ……。そんな母子の姿を見つめるうち、胸をえぐり取られるような苦しさを覚えた。喉元《のどもと》から何かがせり上がってきたが、やがて驚くほど冷静に、それを呑《の》み込むことができた。  ようやく両手にあるアイスボックスに目を落とすことができた。思わずはっとした。 「まさか、この中」  貴子は顔を上げ、詰め寄った。 「教えて。誰なの? 献眼してくれた人、あなた知っているの? 家族の人に、お礼は言えないの?」 「……おくよ」  小さな声だった。 「え?」 「伝えておくよ[#「伝えておくよ」に傍点]。お前が礼を言ってたってな」  貴子は少年を見た。ライトの逆光のせいで、どんな表情を浮かべているのかわからない。 「待って」  踵《きびす》を返した少年は二度とふり向くことはなかった。エンジンを轟《とどろ》かせたバイクは、あっという間に闇の中へと吸い込まれていった。  貴子はしばらく立ち尽くしていた。  角膜が入ったアイスボックスを落とさないよう固く抱きしめた。誰かを呼ばないのも、追わなかったのも、彼の背中があまりにも寂しげに映っていたからだった。 [#地付き]〈第二幕 終わり〉 [#改ページ] [#ここからゴシック体] 「——きりん、は、すきか?」 「なんだよ。いきなり」 「——ちいさいころ、ひとりで、いること、が、おおかった。  だから——、いえの、ちかくの、どうぶつえんに、よく、いった。  いりぐちの、うらがわに、——こどもひとりくらい、  はいれる、あなが——、あったな」 「どうせ、その穴を広げたのはお前なんだろう?」 「ふふふ。あなを、くぐると、めのまえに、きりんの、おりが、あった。  ——かわいそう、な、いきものだな。あれは」 「かわいそう? なぜだ?」 「——しまうま、と、いっしょに、いられない、から」 「知らないのか。シマウマは外敵から身を守るために、  首の長いキリンを利用している。……それだけだ。  キリンが逃げれば、シマウマもそれに従って逃げればいい。  足が速いシマウマのあとを追うキリンにとって、  シマウマの存在は何のメリットもない」 「——そうだ。わたしも、そのことを、しって、いた。  だから、しまうま、と、べつにかわれている、きりん、は、  どんな——、かおを、しているのか、きになっていた」 「それでキリンは、せいせいしているような顔をしていたかい?」 「——ああ。せいせい、する、かおを、していたよ。  しまうまと——、からだの、もようで、おりなしていた、  しきさいの、うつくしさ。  ——いままで、それに、きづいて、いなかったように」 [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ]  第三幕[#「第三幕」はゴシック体] 剣の柄《つか》のルビィ      1[#「1」はゴシック体]  笠原克也《かさはらかつや》は、濾《こ》されるような思いを味わいながら、混み合う自動改札口から抜け出ることができた。  カレンダー付きの腕時計に視線を落とす。  一月二十日、午後一時二十分をさしていた。待ち合わせの時間まであと十分。このまま何の支障もなく歩いていければ、予定通り「アトラス」という喫茶店にたどり着く。日曜の歩行者天国は道の両端まで人の顔がうねり、靴音が乱れ合っている。煙草の煙、整髪料の匂い、若い女性達の残り香がちょうど鼻の高さで入り混じり、久しぶりに外出する彼の気を滅入らせた。  笠原が小さな出版社を辞めて、もうすぐ一年が経つ。  今思えば、お世辞にも二流とすら言えない大学出の笠原を、営業見習いから叩《たた》き込んでくれた貴重な出版社だった。掃除やお茶汲《ちやく》み、お遣いはもちろん、経理の手伝いまでさせられ、五年勤めて退社した。フリーになってから何とか食いつないでいけるのは、それらの経験と名刺に刷り込んだ「編集&ライター」の「編集」の文字によるものが大きかった。出版社の担当と名刺交換をする機会があると、決まってアルバイトで手伝って欲しそうな顔をされる。  歩行者天国から外れた細い道に入った。  これからする仕事は、原稿を書くための取材だった。  しばらく歩いて、一階がレンタルビデオ屋になっている雑居ビルを確認した。階段口に喫茶店の看板が吊り下げられているが、汚れて判読は困難だった。通りから見上げてみても営業しているかどうかわからない。  階段を上がりきったところに狭い踊り場があり、笠原はそこでスーツの裏に忍ばせたICレコーダーのスイッチを押した。携帯電話ほどの大きさで、十七時間の電子録音ができる。  喫茶店のドアを押すと、コロンという鈴の音が迎えてくれた。  カウンターに銀色のスツールが並び、奥に初老の男の背中がある。見るからにマスターらしいが「いらっしゃい」の一言もなく、文庫本を読み耽《ふけ》っている。商売気がないと毒づきたくなったが、それでも客はまばらにいる。モノトーン調のインテリア、空気を壊すことのないスモール・コンボのジャズは嫌みのない程度に店の個性を出していた。街中で公害のように垂れ流される有線の歌謡曲に干渉されたくない客なら、ちょうどいい避難場所になるかもしれない。 「ブレンドひとつ」  当たり障りのない注文をし、立ったまま店内を見まわした。中央に並ぶ観葉植物の向こう側、窓際の一番奥にある四人席から、まっすぐ向けてくる視線に気づいた。女性がひとりで座っている。隣の空いた椅子に海老茶色《えびちやいろ》のコートがたたんでかけられている。  その席に近づいた。 「一昨日、電話した笠原です」  名刺の角を少しだけ折り曲げてテーブルの上に差し出した。正面の椅子は避け、斜め前の席に腰を下ろした。 「仲西《なかにし》です」  うつむいた彼女は「今日はあまり時間が取れません」と、息を吹き返せば消えてしまいそうな声で付け加えた。 「かまわないですよ。無理にお願いしたのはこちらですから」  笠原はメモを広げた。  彼女の顔や首筋には湿疹の痕《あと》があった。そのため化粧が濃く、顔に陰影ができている印象があった。黒のタートルネックのセーターは痩《や》せた上半身を包み込み、後ろで束ねた髪は所々ほつれている。  彼女の名前は仲西|聡美《さとみ》。三十三歳。都内でアパートを借りてひとり暮らしをしている。勤め先は文房具を主に扱う商社の事務職。静岡県富士市の田舎に年金暮らしの両親を残している。彼女は今回の取材のアポを取るとき、十万円を要求してきた。結局五万で落ち着いたが、領収書を切れない経費は笠原の自腹になる。  その肝心な仲西聡美は自分から切り出そうとしない。ずいぶん長い間、テーブルの一点を見て黙っていた。  視線の先を持て余した笠原は、立てていたペンをコトリと倒した。彼女が目線を上げてくるのを見計らって、 「では、最初からお話しいただけますか?」  と、努めて淡々と続けた。 「——腎臓《じんぞう》を買おうと思い立った経緯《いきさつ》を」 「病気を治すのに経緯だなんて」  仲西聡美の唇が開くまで、ブレンドを運んできたマスターが席を離れるのを待たなければならなかった。 「……おかしいですね。当たり前のことじゃないですか」 「そうですね」と、笠原は微笑んだ。場を和ませるための、嫌味のない笑みのつもりでいた。 「腎不全はいつからなんですか?」 「今の会社に転職する前でした。地元の短大を卒業して上京した私は、藤沢にある自動車工場に就職しました。二年ほど勤めた年の、午後の休憩時間に」  言葉がいったんそこで途切れた。彼女は中身が減ることのないティーカップを持ち上げ、唇を湿らせた。 「……真っ赤なおしっこが出て、会社の診療所で診察を受けたんです。当時、職場で抱えていた悩みも多かったですから、その疲れからきたのだとショックを覚えました。でも違いました。上司が私を呼んだのは、その翌日の始業前です。面倒な検査を次々と受けさせられました。左右の腎臓には、糸球体というボール状の組織が百万個以上あるそうです。それが異常をきたしていたことがわかったんです」  糸球体は尿を濾過《ろか》するフィルターの役目をする。笠原は事前に調べていたので理解できた。左右の腎臓の機能が三十パーセントを切れば腎不全となる。その原因にかかわらず進行性で、不要な老廃物、水分、ナトリウムが排泄《はいせつ》されず徐々に体内に蓄積されてしまう。進行して尿毒症になってしまうと、体がむくむ、血圧が上昇する、吐き気や頭痛が起こる、疲労感に襲われるなど様々な症状を引き起こし、やがて意識がぼやけてうわごとを言うようになる。彼女が注文した紅茶を飲まないのも、余計な水分を少しでも摂取しないようコントロールしているからだ。 「週三回、毎回五時間近い透析をもう十年以上続けています。同じところに通っていると、透析仲間というのができるんです。今の職場も、その人達の好意で紹介してもらいました」  笠原はペンを走らせながら、ミシンをひとまわり大きくしたような器械を思い浮かべた。透析器は一度、総合病院まで見学しに行っている。現在最も広く行われている療法で、血液を前腕から体外に取り出し、フィルターを通して浄化させ、再び体内に戻す。前腕も単純に針を刺せばいいというわけではない。簡単な手術をし、動脈と静脈を皮下でつなぎ合わせてシャントと呼ばれる血液の取り出し口を作らなければならない。腎不全患者の多くは透析センターに通うことになるが、恵まれた人々なら腹膜透析という簡便な自宅療法を選ぶことができる。しかしそれは毎日行わなければならない制約がつく。  結局、透析は腎臓の機能を完全に代行するわけでなく、器械と時間に拘束され、わずらわしい労力を強いられることになる。彼女のような患者は全国で十八万人を超している。 「透析を長く続けてきたせいか、足がイライラして、一日中動かしていないと落ち着かなくなるときがあるんです」 「取材で何度か耳にしたことがあります」  レストレスレッグ症候群と呼ばれるものだ。原因不明だからたちが悪い。 「最近は特に体調も悪くなって、夜も寝られずに過ごす日が多くなりました。短い睡眠と覚醒《かくせい》がずっと続くんです。あれって、頭がどうにかなりそうなんですよ。もう嫌だったんです。私の場合、恋愛も結婚の機会もありませんでしたから」  語尾は自嘲《じちよう》気味に揺れていた。しかし次の言葉に、彼女は芯《しん》を込めた。 「今の生活となんとか決別したい、ただそれだけなんです」 「それで腎移植ですか」  彼女はこくりと頷《うなず》いた。  回復不能となった腎不全の望ましい治療方法は、透析を続ける他にあとひとつしかない。腎臓の移植さえできれば何もいうことはないのだ。健康な成人であれば、腎臓はひとつになっても生活に支障はきたさないことは一般に広く知られている。 「血縁者にご相談は?」 「腎臓をください、という相談ですか?」  彼女の返す目が一瞬鋭くなった。 「私には肉親がいません。年老いた育ての親の反対を押し切り、恩知らずとまで罵《ののし》られて上京してきたんです。……それでも腎臓が欲しくて、一縷《いちる》の望みをもって帰省したことがあります」  そして黙りこくった。  笠原は途切れてしまった言葉を継いだ。 「帰省した先で何かあったわけですね?」 「すっかり呆《ぼ》けてしまった義父と、介護する義母がいました。逃げ出すように帰ってきました」  彼女は再び紅茶のカップを持ち上げて唇を濡《ぬ》らした。笠原の目に痛ましく映ったが、それを表情に出すことはしなかった。  彼女の場合、血縁者からの道は最初から閉ざされている。だから一般からの腎臓提供者を得なければならない。それがどれほど気が遠くなる時間を要するか、本人が一番よく知っている。辛抱強く待ち、腎バンクへの登録料を毎年払い続け、その間に命を落とす危険性さえある。年間一万人を超す腎移植希望者のうち、移植件数はたったの五パーセントに満たない現実がある。それも、ドナーを得やすい血縁者提供を含めての数字だ。一九九七年の臓器移植法で心臓死のほかに脳死まで規定されたため、移植そのものに対して神経質な世論が高まり、皮肉なことに腎移植件数が減少してしまっている。 「私の透析仲間の間では不文律があります」 「不文律というと、暗黙の了解事項ですか」 「最後の頼みの綱です。騙《だま》されるという噂も跡を絶ちませんので、一笑に付される場合も多いんです。ですからみんな口には出しませんが、噂の聞き耳は立てています」 「その情報源は、流行《はや》りのインターネットからですか?」 「いいえ。意外かもしれませんが、斡旋《あつせん》業者は地道にチラシを撒《ま》いています。透析施設や大病院の近くでは、電話ボックスや電柱によく貼られます。すぐに病院関係者がやってきて破って捨ててしまうので、そうそう目にすることはできませんが……」  そう言って彼女は、ハンドバッグから四つ折りの紙片を取り出した。皺《しわ》だらけで、四隅を剥《は》がした跡があった。誰にも見られないようあわてて破り取ってきたことがうかがえる。ワープロ文字で連絡先の電話番号があり、その上には簡潔にこう書かれている。 【早期腎移植の希望者に道あり。下記に連絡|乞《こ》う】  笠原はなるほど、と息をついた。このみすぼらしい紙面から、インターネットでは得られない確かな現実感を手にできた気がする。奇妙なものだった。 「ここに電話を?」 「電話交換の女性が出てきました。それから携帯電話に転送されたんだと思います。相手の話によってはすぐ切ろうと決めていました。悪い噂が頭から消えませんでしたから。——ですがそんな不安を払拭《ふつしよく》するほどの、滑舌のいい、若い男性の声が返ってきたんです。住所や電話番号はいっさい聞いてこなかったので、それも安心できました」  彼女は丘本《おかもと》という名前を口にした。  笠原は、彼女達が待ち合わせたという場所をメモした。赤坂にある高層ホテルの一階コーヒーラウンジだった。ビジネス街の中心地だ。 「どんな方だったんですか?」 「一流商社に勤める営業マン風の男性でした。歳はまだ三十代半ばぐらいだと思います。実際、医薬品の総合商社に勤めた経歴があって、今の会社に転職したのは医者のコネクションが多かったからみたいです」  今の会社という表現に違和感があった。そんな笠原の心を見抜くかのように、彼女は語調を強めて付け加えた。 「正義感だと彼は言っていました。心臓や肝臓、特に子供の臓器移植は国内では絶望的だといいます。ドナーがいませんから。しかし最後の選択肢である臓器の売買を、国の臓器移植法は禁止しています」 「八方塞《はつぽうふさ》がりだと言うわけですね」  彼女の瞳《ひとみ》が、ここではじめて共感を得たというように広がった。 「そうです。そうなんです。死ねと見放されているようなものなんです。確かに日本で唯一、臓器移植を仲介する法人は存在していますが」言いかけて鼻先で笑った。「優先順位と順番待ちで、結局同じことなんです。私のような患者は海外に出るしかないんです」  おそらく丘本という男の受け売りなのだろう。  しかし的を射ている部分も若干ある。その社団法人は、某連合会から多額の助成金を受け取ったり、税の優遇措置が受けられるとして医薬品メーカーから多額の寄付金を募ったりした疑惑を、新聞やマスコミに取り上げられたことがある。臓器を入手できるのなら金は惜しまない、そんな患者がひしめき合う売り手市場の中で、無償の立場を貫くのは危ない綱渡りをするようなものだ。一歩踏み外せば必ず利権が絡む。どんな組織でも所詮《しよせん》は人間の集団だ。目の前に美味《おい》しそうな餌がぶらさがれば、食いついてしまう輩《やから》も出てくる。百パーセント、公平な斡旋をしてくれる保証なんてどこにもない。  丘本という男はそこを巧みについて商談している。 「——腎臓《じんぞう》はどこから入手を?」 「フィリピンのマニラです。血縁者以外の腎臓提供が法的に認められている国ですから、安心してできるんです」  腎臓移植を目的としたパックツアーなら、笠原も耳にしたことがあった。厚生省によれば、移植を禁止している臓器は特にないという。斡旋や売買の事実さえ表面に出なければ、国外のことなので違法にならず、道義的に好ましくない、とせいぜい遠まわしに見解が出されるのが実情だ。 「彼はこう言ってくれました。——腎臓ならすぐ手に入る、と。そのたった一言を私は今まで聞くことができなかったんですよ」  言い終えたあとの彼女は、まるで長年の憑《つ》き物から解放されたかのような顔をしていた。 「……国外、特に東南アジアで、大きな手術を受けることに抵抗はありませんでしたか?」  偏見だとわかっていたが、あえて訊《き》くことにした。日本人なら誰だって、心の隅で抵抗を感じる部分ではないか?  彼女はテーブルの上に便箋《びんせん》を差し出した。 「目を通すだけにしてください」  それが答えのようだった。謝礼を払った見返りがようやく出てきたことに、笠原は内心満足した。便箋の中には、丘本と名乗る男の会社のシステム概要を記した書類が入っていた。  笠原は目を通した。  丘本と名乗る彼の会社は、フィリピンのマニラ有数の医療スタッフと業務提携をする形を取っていた。斡旋ではなく、あくまで仲介というスタンスを保っている。マニラにおける腎移植に関して、そのレベルの高さを充分にうかがえる記述が続いた。もともと日本に比べて、その実績数なら比較にならないほどなので説得力はある。——手順は次の通りだ。まず国内で血液検査を行い、それに適合するドナーの確保と検査は、現地スタッフに全て一任される。ドナーが確保され次第、滞在先と手術予定日を決定し、腎移植希望者はマニラに渡る手続きを取る。慣れない海外での滞在期間が最低限で済み、出国後の余分な費用がかさまないので、合理的なシステムだといえた。現地に到着後、日本語を話せるスタッフが同行し、そこで再度、適合検査が行われる。問題がなければ移植手術がすぐ実施される。手術後は拒絶反応などの経過をみながら帰国日を調整し、もし問題が発生すれば、充分な説明と同意のもとで再手術が行われる。その費用は丘本の会社がとりあえず負担し、帰国後に協議のうえで支払い方法を決める、とある。その際は、OLでも気軽に融資してくれる金融機関を紹介するという。  つまり最初の契約料金さえ払ってしまえば、トラブルもなく、透析から解放された身体で確実に帰ってこられる保証がされている。  続いて費用項目に笠原の目が移った。現地での手術代、滞在費、腎臓の運搬や保存に関わる経費、そして手数料に分けられていた。少なくとも売買を匂わせる、しこりを残すような項目は契約書のどこを探しても見当たらない。  笠原は再読し、それら概要を頭の中に叩《たた》き込んだ。  斡旋でなく、フィリピンの医療機関を紹介しただけだと読み取れる文章だ。腎臓提供者もドナーとあるだけで、脳死患者とも解釈できる。仮にこの書面がひとり歩きすることになっても、斡旋の事実はないといくらでも言い張ることができる。 「笠原さんは、それを読んでも不安を感じますか?」  と、訊かれた。 「いえ」  笠原は首をふった。文章を見る限りではそれが正直な気持ちだった。ただし移植後も免疫抑制剤を飲み続けなくてはならないことや、さまざまな副作用や感染症に備えなければならないことについては触れられていない。あくまで透析から解放される喜びにだけ焦点が絞られ、逆に言えば、そこまでが丘本と名乗る男の仕事だといえた。 「帰国後のケアについては、何か説明を受けているのですか?」 「彼の会社が、提携先の病院を紹介してくれるというだけで、それ以上は……。おそらく国内で適合検査をする病院と同じだと思いますし、これから説明されると思います」 「その丘本という男の会社名が、どこにも記されていませんが」 「臓器移植法の施行以後はいろいろ締めつけが厳しいらしくて、自衛のためには仕方がないとこぼしていました」  なるほど、念を入れているわけだ。最初から期待しない部分だったので、続けて核心に触れることにした。 「費用はどのくらいかかるんですか?」 「だいたい千二百万円です。出発前に半額、現地の手術前に残りの半額を支払うことになっています。海外の手術ですから保険はききません。でも、オプションを付ければもっと高くなります」 「——オプション?」 「飛行機のファーストクラスの手配、日程の短縮、ホテルのランク、腎臓の細かい要望です。たとえば若い女性のものが欲しいとか、煙草や薬物を吸わない人のものがいいとか、年寄りのものは嫌だとか」 「千二百万円払ってもオプションは付かないんですか?」  彼女は頷《うなず》いた。 「それでも支払い方法を一括にしたり、ホテルのランクを下げたりして、ぎりぎりまで削ってもらったんです。貯めていた貯金は全部下ろして、売れる物を全部売って八百万。残りは知り合いや個人金融をまわって、なんとか工面したんです」  うなだれる彼女の姿を再び見た。どことなく生活疲れが滲《にじ》み出ている。恋愛も結婚の機会も自ら潰《つぶ》し、爪に火をともすような倹約を続けてきたことがうかがえる。上京してひとり暮らしをしているならなおさらだ。人並みのささやかな贅沢《ぜいたく》でさえ我慢してきたに違いない。 「丘本という男と、次回はいつ会う予定ですか?」 「お答えできません。秘密厳守になっています。ですから、いまの書類のコピーも用意しておりません」 「ご迷惑はかけませんが」  彼女は口を噤《つぐ》んだ。瞬きをくり返したが結局、その顔が下に向いてしまった。 「秘密厳守の高額取引なら、第三者の証人はできるだけ多く確保した方がいい。決して表に出るつもりはありません。それは約束しますから、どうかよくお考え下さい」 「……でも、記事になさるおつもりなんでしょう?」  今さら何言っているんだ、という言葉を呑《の》み込んだ。 「書きますよ。ですが無論匿名で、情報提供を匂わせる記述はしません。それにあなた以外の方にも取材は行っています」 「その記事は、先にみせていただけるんですか?」 「構いません。ゲラができたらご自宅に送ります」  仲西聡美は悩み、熟考した末、笠原のメモを指さした。破り取った一枚にペンで書き込むと、それを突き返してきた。 「血液検査がその日にあります」  それだけ言った。メモには明後日《あさつて》の日付が記されている。笠原は彼女の言葉の意味を理解し、胸ポケットにしまい込んだ。 「——契約はお済みで?」 「はい。契約書は家に保管しています。血液検査が終われば、あとは出発日の連絡を待つだけになります」 「支払いはまだですよね」 「ええ。ドナーが決まった時点で振り込みます」  その後、笠原は質問をくり返した。丘本という男に話がまわると、彼女は執拗《しつよう》にガードを固めた。むしろ弊害が少しずつ生まれ、彼女は慎重に言葉を選ぶようになってしまった。 「あの、そろそろいいでしょうか」  仲西聡美は腰を浮かせるジェスチュアを露《あら》わにした。  時間切れか。笠原は嘆息した。 「帰国後にもう一度アポを取らせてください」と、メモをぱたりと閉じた。別に焦る必要はない。「だいたい一ヶ月後とみてよろしいですか?」  彼女は無言で頷くと、笠原が差し出した皺《しわ》のない封筒を素早くバッグの中にしまいこんだ。立ち上がり、隣の椅子の背にかけてあったコートを抱えて身体を翻したが、それ以上動かなくなった。肩が小刻みに震えていた。何かが彼女の足を止め、その場で躊躇《ちゆうちよ》させている。沈痛な表情が横顔に浮き、やがて笠原に視線を移してきた。口が開いたかと思うと、ぱくぱくと空気を噛《か》んだ。 「……じゃないんですか?」  前半がよく聞き取れなかった。思わず、え、と返した。 「心の中で私を笑っているんじゃありませんか? 海外で腎臓を買い漁《あさ》る、卑しい人間なんだと」  笠原の胸が衝《つ》かれ、呼吸が一瞬止まった。 「身内から腎臓をもらえる人だけが助かって、そうでない人は死の恐怖に怯《おび》えて、肩身の狭い思いをしなければならないんですか?」  黙って見つめ返す他なかった。  彼女の言うことも一理ある。歪《いびつ》な差別が生まれているのも事実だ。しかし斡旋《あつせん》がおおやけに認められてしまえば、弱者が犠牲になる危険性がある。現にアジアを中心に、金による弱肉強食の構図が出来上がっている。長生きしたいという欲望の前には、弱者の命なんて簡単に吹き飛んでしまうのだ。  移植技術も、施設も、腕のある医者も日本には充分にあるのに、彼女達のような患者は海外に出るしか生きる道はない。悪循環だが、ぎりぎりの極限状態に立たされた者にしかその気持ちはわからない。臓器移植において、この国では何かが狂っている。  彼女は千円札をテーブルに載せ、足早に去ってしまった。  ひとり残された笠原は片肘《かたひじ》をつき、飲みかけのコーヒーをスプーンでまわした。ぐるぐると生じはじめる渦に、瞳《ひとみ》に映る景色が吸い込まれそうになった。  笠原の心は別のところにあった。  丘本と名乗る男のことだった。もちろん偽名だ。事前調査で、かつて同じ手口を使ってきた男のことは調べてある。  ——今から三年前。腎臓移植の斡旋詐欺の疑いで、都内の医薬品総合商社の役員三人が刑事告訴された事件があった。登記上の法人格を持たないダミー会社を設立し、とある企業立病院の事務長と共謀して腎移植希望者を募り、被害総額は四億二千万円にも上った。「移植は突発的な現地事情により不可能になった。契約当時との事情にもずれがあった」というのが役員側の弁護士の主張で、被害者との和解裁判は今なお続いている。  その医薬品総合商社の名前は「トーワ・コーポレーション」。  事件が発覚する直前、その商社をひっそりと退社した男がいる。関与の証拠が不充分で、告訴を免れた人物だ。会社を離れた彼は以降、同じ詐欺を働くにしても腎臓斡旋詐欺を好む傾向があった。得意分野というやつだ。裏の世界で巧みに生き抜いている。  本名は由比忠彦《ゆいただひこ》。  笠原は彼の痕跡《こんせき》を追い続け、ようやくここまでたどり着いていた。  今会ったばかりの仲西聡美に関しては、すでに頭の中で最悪のシナリオが描かれていた。      2[#「2」はゴシック体]  その日、笠原は電車を一時間ほど乗り継いで郊外に向かった。最寄り駅からタクシーを使って、およそ十五分の場所に目的地がある。  着く頃には、白塗りの木柵《もくさく》は夕陽に染まっていた。  木柵沿いに植木が巡らされ、その敷地内に古ぼけた四階建ての洋館が建っている。外壁を覆う蔦《つた》や、庭に生える鬱陶《うつとう》しい楡《にれ》の木々などをしばらく眺めていると、社会から遮断された空間を見ているようで、病院というイメージからほど遠く感じる。  笠原は石畳のアプローチを正面玄関からくぐった。  受付窓口で名前を告げると、栗色の髪をした若い女性があくびを噛み殺しながら取り次いでくれた。  スリッパに履き替えてから外来を通り抜け、入院棟の三階に上がった。誰もいない廊下でひとり所在なく、窓から外の景色をぼんやりと眺めた。この建物は市街地から離れた高台の上にある。辺りは静かだ。夕陽が消えはじめ、見渡せる町並みが徐々に藍色《あいいろ》に侵食され、灯が少しずつ滲むように入ってくる。  物寂しい場所だ、と笠原は思った。  この病院の正式名称は「志村病院 精神科分室療養所」。神経症、うつ病からアルコール依存症患者まで受け入れる。床数は五十あるが、実際の入院患者数は両手で数えるほどしかいない。 「よう、待たせたな」  廊下の奥から明るい声が響き渡った。ふり向くと、手を上げながら近づいてくる高村|誠《まこと》の姿があった。水色のパジャマの上に温かそうなカーディガンを羽織っている。 「半年ぶりか」笠原は言った。 「そうだったっけ?」  高村が穏やかな笑みを口元に浮かべる。  笠原は安堵《あんど》した。半年前と比べて、高村の顔色がだいぶ良くなっている気がした。彼とは大学時代の同期だった。 「あっちに娯楽室がある。行こう」  高村は先頭に立って案内してくれた。歩きながら背中で近況を語ってくれる。半年前とその内容は変わらなかった。リノリウム張りの廊下を毎朝かかさず磨いていること。ここにきてからは食べ物の好き嫌いがなくなったこと。八時の消灯時間にもう慣れたこと。床屋のボランティアの腕が悪いこと。時々缶ビールが欲しくなること……  娯楽室は二十畳ほどの広さだった。自動販売機とテレビと雑誌棚、大型のラックには将棋盤やオセロが置かれている。高村は自動販売機の前でポケットを探りはじめた。なかなか小銭が出てこない様子だった。笠原が背後からそっと硬貨を入れてあげると、「サンキュ」と高村は応《こた》えた。  ふたりは小さなテーブルを挟み、膝《ひざ》を突き合わせた。 「カサハラ、こうしていると昔を思い出すよ」  高村の頬は心なしか上気している。 「昔って、いつまで遡《さかのぼ》るんだよ。俺の知っている昔か?」 「就職氷河期という文字の前に、『超』を並べた頃」 「もう他人事《ひとごと》みたいに懐かしい響きになったよ。六年も経つ」 「六年か。そうだよな……」  大学四年の冬だった。仲間内で年が明けても就職先が決まらなかったのは、笠原と高村のふたりだけだった。ふたりが在籍する大学では、企業セミナーに参加しても電車代を浪費するだけの徒労に終わっていた。ふたりはよくこうして学食のテーブルで膝を突き合わせ、会社案内のパンフレットを飽きずに眺めて過ごしていた。どこかでうまく潜り込める会社があるかもしれない、そんな期待感で焦りを必死に誤魔化《ごまか》していた。〈自分は社会に必要とされていないんじゃないか〉という弱音はお互い隠し合った。ふたりは知っていた。就職難が声高に叫ばれても、就職先がゼロだということはあり得ないことを。収入、休みの多さ、職種、勤務場所……その他もろもろの選択肢を決めかねて、就職先の視野を自ら狭め、惨めな気分を味わっていた。欲という名の贅肉《ぜいにく》を削《そ》ぎ落とせれば、その時期までタイミングを失わずに済んだのだ。ふたりはもともと器用な性格ではなかった。しかし麻雀《マージヤン》やパチンコにうつつを抜かしていた笠原とは違い、生真面目だけが取り柄の高村にはそれなりの事情があった。  高村は交通事故で両親を亡くしていた。大学に入学したばかりの頃だという。両親が遺した貯《たくわ》え、そして奨学金を倹約しながら、つましい学生生活を送っていた。高村は歳の離れた弟とふたり暮らしをしていた。その年に中学校の入学を控えたその弟は、「自分と違って勉強ができる。だから借金してでも私立に行かせたい」と自慢するほどの高村の誇りだった。だから就職先は収入と勤務地を重視していたのだ。それを邪魔したのは大学のブランドだった。 「出版社の方はどうなんだ?」  高村はコーヒーを飲む手を休め、そう訊《き》いてきた。 「この間は黙っていたが、とっくに辞めたよ」  えっ、と高村は眉《まゆ》を上げた。 「……いい勉強をさせてもらった。いまはフリーをしている」 「急にどうして?」 「給料が安いんだよ、人使いも馬車馬以下だ」 「どこもそうだよ。……でもお前らしいな」  高村は微笑んだ。そして申し訳なさそうに肩をすぼめ、「あのとき結局、お前に貧乏くじを引かせてしまったな」と、つぶやいた。  笠原は自分の頬が強張《こわば》るのを感じ、その顔をとっさに隠した。貧乏くじどころか、地獄を味わうことになったのはどっちなんだ? あまりに自虐的な台詞《せりふ》を耳にして、胸の奥から湧く義憤を抑えることができなかった。  ——あのとき。  内定をひとつも取れずに二月を迎えたときだった。大学の就職課から呼び出しを受け、二社の紹介を受けた。いずれも都内勤務で内定者のキャンセルが発生したための急募で、二度とないチャンスだった。名前も聞いたことのない弱小出版社と、就職活動を普通にすれば割合耳に入る医薬品総合商社。蜘蛛《くも》の糸さえ見えなかった状況から、いきなり脱出できるパスポートが提示されたのだ。ボーナスも満足な給与も出るかわからない弱小出版社よりも、名が通って福利厚生もしっかりした医薬品総合商社の方が堅実なのは明らかだった。医療機器、衛生用品、健康食品販売に事業を拡大し、しかも出来高制を導入しているので、本人の努力次第で高給取りになれる。  ふたりの志望先は当然ぶつかった。  しかし結局、笠原が身を引くことになった。  お互い示し合わせたわけでも了解事項があったわけでもない。ただ、そのことで笠原自身が落ち込んだのは事実だった。心の隅でくすぶっていたものは、頭を何度も下げて礼を言う高村を前に最後まで隠し通すことができた。それで高村との間に亀裂《きれつ》が生じたとは思わなかった。むしろ自分のぶんまで頑張って欲しかった。  一度は絶望さえ味わった就職活動の中で芽生えた奇妙な連帯感は、その後も度々ふたりを引き合わせ、互いの近況を確かめ合う仲になった。あのときの選択が、ふたりの運命を大きく左右してしまったことは当時知る由もなかった。  二年後、高村は自殺未遂事件を起こしてこの病院に収容された。 「……なあ、カサハラ」  長い間、頬杖《ほおづえ》をついていた高村が口を開いた。窓の外はすっかり夜の闇に覆われ、冬の夜風が窓を叩《たた》きはじめている。 「出版社を辞めた理由を訊いていいか?」 「生まれるとき染色体の数が足りなかったんじゃないの? って上司から罵《ののし》られた日があったな」 「その上司、ブラックユーモアのセンスがあるじゃないか」 「ああ。感激したよ。逃げ場もない」 「本当のこと言えよ」 「俺の書いた記事で読者からクレームがきた。どうってもんじゃない。だが会社に迷惑をかけた。責任は俺ひとりで背負える立場の方がいい。そんなところだ」 「お前のことだから色々あったんだろうな……。それ以上は、訊かない方がいいか」 「そうしてもらえれば助かる」 「わかったよ」  高村は椅子に背をもたれさせ、肺から全ての空気を押し出すように深々と息をついた。その目が次第に遠くなった。 「——ここにいて、寂しくならないのか?」  笠原は沈黙に耐えきれず、思い切って尋ねてみた。 「おれの隣の部屋に、新しい人が引っ越してきたんだ」 「いつのことだ?」 「もう半月は経つ。ムロイっていうやつで、おれよりずっと歳下だ。交通事故を起こしたんだ。無免許運転していた車がセンターラインを越えて、塾帰りの女子高生を轢《ひ》いた。車は暴走族のバイクとカーチェイスをやっていたみたいだ。そのバイクは逃げた。車はそのまま反対車線のガードレールに突っ込んで、彼はフロントパネルで顔面が歪《ゆが》んでしまうほどの大怪我をした」 「……轢かれた女子高生はどうなったんだ?」 「車に撥《は》ね飛ばされて、ガードレールを越えて、朝まで見つからなかったらしい。見つかったときはカラスの群れに囲まれていて、ついばまれる寸前だった」  ひどい話だ。 「やけに詳しいじゃないか」 「そいつの父親がよく見舞いにくる。事故の後処理は全部、父親がやったみたいだ。元警察関係のお偉いさんだったらしい。顔を合わせるうちに仲良くなったんだよ」 「おい待て。じゃあなぜ、息子はこの病院[#「この病院」に傍点]にいる?」 「車の鍵《かぎ》をずっと大切に持っている。ときどきハンドルを握る真似事もする。また運転したいそうだ」  笠原は声を失った。平然と言う高村に、底知れない闇を垣間《かいま》見た気がした。そういうことなのか。その息子は入院させられたんだな。どうして先にそう言わない。自分と同じ影を重ねているからか。 「——カサハラ。今でもあの頃を思い出すんだよ」  またくり返す。 「カサハラ、おれ、懐かしいんだ。夢にまで出てくる。お前と一緒に駆けずりまわって、冷や汗ばかりかいて、おれは、それでも充実していたんだよ……」  笠原はテーブルの上で両指を絡め、黙って聞き入ることにした。  これからとりとめのない昔話が続くのだ。高村はここにきてから昔話ばかりする。それまで歩いてきた道が間違いでなかったことを確認するかのように、ゆっくりと慎重に高村は言葉を選んでいく。  そして耳を澄まさずにいられない自分がいる。かつて彼のSOSを拾い上げることができなかったことの悔いが、今でも強く残っているからだった。  努力を尽くしても達成できない営業ノルマ。百二十時間を超える残業。学歴による待遇差。記号化した価値観を物差しにして計る上司。そして異性の存在。——彼が社内で自殺未遂騒ぎを起こしたひと月前、「おれみたいな半人前、一生結婚できないかも」と、引きつった笑みを見せたのを今でも鮮明に覚えている。そんないつになく弱気だった高村の顔が忘れられない。思えばあれが最後の信号だったのだ。彼は決して弟のことを口に出さなくなった。あれほど自慢げに語ってきた弟のことを、もう口には出さない。一生懸命やっても一人前には認められない人間関係、その修復に疲れた彼の逃げ場を失くしていたのは、もしかしたら弟の存在だったのかもしれない。少なくとも彼は、弟の前では強い人間でいなければならなかった。親代わりとして、世間の不運に対するたったひとりの味方として、強い人間でいなければならなかった。しかし彼は、社会的には弱い人間だったのだ。そしてそれらをはねのけられるほど、器用に生きることができない人間だった。弟の存在が足かせになっていたことに、彼自身が気づいてしまった。一瞬でもそう考えてしまった自分が我慢できなかった。追い詰められた彼の現実逃避の選択肢に、「決して取り返しのつかない結果を生む、非合理な選択肢」が残されてしまった。会社のトイレの個室で手首を切って病院に運ばれたのは、確か梅雨が訪れた時期だった。 「昔話ばかりして苦痛か? ……カサハラ」  ふと、すまなそうな声が空気を裂いた。  笠原ははっと顔を上げた。袖《そで》がめくれあがった高村の左腕が視界に入った。肘《ひじ》の内側から手首にかけて、縦に切り裂かれたすさまじい傷痕《きずあと》を目にした瞬間、テーブルに載せた拳《こぶし》が硬くなった。  高村はどこかうわの空になっていた。「なあ、カサハラ。教えてくれよ。あれから、おれの会社はどうなっている? 業績はまだかんばしくないのか?」 「たった二年で、お前を壊してしまった会社のことを心配しているのか」  返す笠原の口調が鋭くなった。声にならない叫びが胸の底からせり上がり、喉《のど》を通り抜ける寸前でかろうじて止めた。——このお人好しめ。——お前の会社、トーワ・コーポレーションが突き出した診断は「統合失調症」なんだぞ。——自主退社という選択を余儀なくされ、お前はこの病院に収容されたんだぞ。——全てそれで、丸く収められているんだぞ。 「そんなこというなよ」困り果てた顔を高村は浮かべ、言いよどんだ。「結果的に迷惑をかけたんだ、会社のみんなに。先輩にも、上司にも……」 「気になるのか?」 「……ああ」 「そうか」  笠原は高村を見すえた。現実から逃れ、余所《よそ》に意識が飛んでいる目をしていた。社会から隔離され、自らそれを受け入れた高村は、トーワ・コーポレーションが腎臓斡旋《じんぞうあつせん》詐欺に関与した疑いで内情がぼろぼろになっていることを知らない。たとえ話しても、どうせ耳を塞《ふさ》ぐだけだ。 「高村、ひとついいか? 今、上司と言ったな」 「おれのせいで、課内の営業ノルマの足を引っ張った月があったな。迷惑ばかりかけた。今、どうしているんだろうな」  若手の出世頭ということを笠《かさ》にきて、お前をいびり抜き、営業成績の不振に対する制裁をエスカレートさせた男のことか? お前が自殺未遂をする前日、机の上に位牌《いはい》を置いて陰で笑っていた上司のことか? ちゃんと調べはついている。あれこそ狡猾《こうかつ》で卑劣なブラックユーモアだ。……いないんだよ。もう、とっくに辞めた。 「由比忠彦」  笠原は噛《か》んで含めるように続けた。「……だったよな。お前の直属の上司は」 「おいおい。どうして知っているんだ」  案の定、高村の呼吸が乱れた。それでも無理して笑っている。笠原は目を落とした。テーブルにあるコーヒーカップが空になっていることに気づいた。ポケットの小銭入れに手をあて、椅子から立ち上がろうとしたときだった。 「——カサハラ、帰るのか? そうか、そうか。もう時間なんだよな」  短い沈黙ができた。  高村の見舞いには、自分の他にいったい誰がくるのだろう?  ずっと昔はひとりいた。彼の弟だ。統合失調症のレッテルをたったひとりの兄に貼られてしまった弟は、世間の冷たい風にさらされたはずだった。しかしはじめは連日のように、見舞いの花を持って病院を訪れた。高村の会社の同僚や友人達から預かってきた花を、弟は持ってきたのだという。待っている人がいるから早く退院して欲しい、と必死に訴えたのだという。……この病院関係者から聞いてわかっている。ときには兄を激しく罵り、泣きながら、死んだ虫のように動かない兄の腕を引っ張って、この病院から何度も連れ出そうとした。しかしそれが一年でぴたりとこなくなった。最後の晩、顔を真っ青にさせた高村の弟は、足元をふらふらとさせながらこの病院をあとにしたという。何らかの決別が、兄から弟になされたのかもしれない。  ふたりは娯楽室から出ると高村の病室に向かった。病室は相部屋になっていたが、片方のベッドは空いていた。ベッドと本棚以外、余分な物はいっさい置いていない。  ふと笠原は目をとめた。窓際に花が飾られていた。縁が欠けたコップに水が満たされ、小さく、黄色い花が生けられている。水をまめに変えながら、大事にしている様子がうかがえた。 「ノボロギクか」  笠原は言った。 「すごく小さい花だけどな、一年中咲いてくれる」 「なんでこんな雑草を」 「庭にたくさんある。集めて持ってくるんだ」  笠原はくるときに眺めた病院の庭を思い出した。ノボロギクなんて咲いていなかった。そういえば高村は、「咲いている」ではなく「ある」と言った。だとしたら誰かが庭に置いていったものを、この部屋に持ち帰っているのだろうか? 「なあ。何か俺にできることはあるかな」  その問いに、高村はすぐに答えた。 「何を?」 「……ジュースを買ってくるよ」  笠原は小銭を握り締め、踵《きびす》を返した。せめて俺が——口には出せない言葉をゆっくりと呑《の》み込んだ。  俺が——  お前の会社が残した膿《うみ》を、きれいに拭《ふ》き取ってやるよ。      3[#「3」はゴシック体]  翌々日、早朝。午前五時半。  笠原は、仲西聡美がひとり暮らしするアパート付近を散策していた。最寄り駅から徒歩二十分。狭い道路を挟んだ殺風景な商店街を抜けたところに住宅地があり、彼女が住む木造アパートはその外れに建っていた。築年数がよほど経っているのか、塗装の剥《は》げた玄関ドアが目立つ。彼女の部屋は二階の階段寄りに位置する二〇一号だった。女性のひとり暮らしなので表札はかかっていない。  早朝の寒さが身にしみてくると、ここまで乗ってきた軽自動車に戻ることにした。軽自動車はアパートから離れた路肩に、後ろ向きに駐車してある。エアコンの暖気が欲しくなったが我慢した。ただでさえ狭い住宅地での車の張り込みは目立つ。無造作な路上駐車だけでも付近の住人から怪しまれ、通報される危険性がある。素人が刑事ドラマのような真似をしても、警察手帳がなければうまくいかないことは承知していた。  笠原は助手席に腰をずらした。彼女の玄関ドアがルームミラーに映るよう角度をつけるとシートを倒した。ドライバーを待っている素振りで、両手を頭の後ろにまわす。  仮にこの張り込みが仲西聡美に気づかれることがあっても、知らぬふりをしてくれるだろう。日付だけを教えてくれた意味はそこにあると思っていた。それに彼女自身、日付しか知らされていない可能性が高い。由比忠彦が詐欺を行うことを前提にすれば、情報は下調べされないよう常にぎりぎりになって提示してくるはずなのだから。  彼女は昨夜、帰宅が遅かったはずだ。透析は月曜と水曜と金曜の夜を費やし、毎回五時間近く行われる。勤め先の丸福商会には今日のために休みを届け出ているのだろう。社長を含めて社員が四人しかいない会社だ。五十を過ぎて独身を通している社長は人脈があり、会社や商店に事務機や文房具やイベント絡みの記念品などを直売する仕事を地道にやっている。社長ひとりでもっている小さな商社だ。身寄りもなく都内でひとり暮らしをする彼女に、気軽に大金を融資してくれる個人金融なんてなかなか存在しない。保証人を考えたとき、笠原の頭に浮かんでくるのは、彼女の身の上を親身に聞いて雇い入れたというあの人の好さそうな社長の顔だった。  陽が昇り、辛抱強く待ち続け、やがて十時になった。  ルームミラーの中で玄関ドアが開く気配がして、笠原はシートから起き上がった。身支度をした仲西聡美が現れ、外出をはじめた。彼女の後ろ姿が駅方向へ遠ざかるのを確認してから助手席のドアを開けた。  改札口を抜けた彼女は地下鉄を乗り継ぎ、銀座方面に向かっていた。隣の車両に乗り込んだ笠原は、連結部のガラス窓から素知らぬ顔で様子をうかがう。  降りた駅は赤坂見附《あかさかみつけ》駅だった。  長く続いたエスカレーターを経て、出た路地を左に折れた。十分ほど歓楽街を歩き、ビジネス街に入った。彼女は迷うことなくひとつの高層ホテルを選んでガラス扉をくぐった。笠原は拍子抜けした。彼女たちが最初の待ち合わせ場所に選んだ、一階のコーヒーラウンジだった。円形の造りでシャンデリアが吊り下げられている。客は他に十一人いた。サラリーマン風の男が五人、大学生と思える青年が三人、水商売っぽい女とその連れが三人。彼女は空いている席を見まわし、予約席の札がある、比較的中央に位置するテーブル席を選んだ。事前の連絡で指定されたのだろう。笠原は遅れてラウンジ内に入ると、彼女の背後から五席ほど離れたテーブル席に腰を下ろした。すぐに紅茶が運ばれてきた。蓋《ふた》をぎゅっと下げて、葉を押しつけてからカップに注ぐ仕組みのものだった。一見|洒落《しやれ》ているが、紅茶好きの笠原には甚だ迷惑な代物になる。  彼女はおとなしく座っていたが、十一時半に近づくにつれて腕時計に目を落とす回数が増えた。十一時半を過ぎると、そわそわと落ち着かなくなった。ラウンジ内は徐々にランチ客が増えはじめ、笠原も紅茶一杯では居づらい雰囲気になってきた。  由比忠彦らしき男は、いっこうに現れる気配がない。  十一時五十分になった。約束の時間が十一時半ならば、二十分近く待たされていることになる。彼女の焦燥ぶりがその背中から手に取るようにわかり、笠原は気を揉《も》んだ。  ホテルのボーイがラウンジ内に現れた。「仲西様。お電話が入っています。フロントまでお越し下さい」と書かれたボードを持って各席をまわっている。彼女は手を挙げて立ち上がった。そのままボーイに案内され、ふたりはフロント方向へ姿を消した。  ひとり残された笠原は焦った。  ラウンジでは精算を先に済ませるので、彼女はそのまま戻ってこない可能性がある。フロントまでの距離も遠く、目が届かない。彼女を待つ一分、二分が途方もなく長い時間に感じられ、迷った末とうとう我慢できずに席を立った。  フロント方向へ身体をよじらせたときだった。  それまで端の席で新聞を読み耽《ふけ》っていた背広姿の男も席を立っていることに気づいた。目が合った。深々とかぶっていた帽子を脱ぐ男の左手には携帯電話が握られ、唇の端に笑みをこぼしている。  誰に向けた笑みなんだ?  笠原はとっさに目を逸《そ》らした。男は悠々とした足取りですれ違ってくる。長身で濃紺のスリーピース、軽いパーマをかけた頭は真ん中で分けられ、さりげなく着こなしているブランド名は、笠原でも二つ三つ言い当てることができた。左脇にセカンドバッグを抱えた後ろ姿は、仲西聡美のいるフロント方向へと遠ざかっていく。  笠原は男の背中を追った。やがてふたりの姿が重なり、談話をはじめた。男は身振り手振りで話し、そのまま仲西を連れてホテルの駐車場へと向かっていく。  呆気《あつけ》に取られた。心理戦に長《た》けた由比の術中にいたことに、ようやく気づいた。彼は念を入れていたのだ。仲西聡美がひとりできているのか、誰かにあとをつけられていないか——その識別をラウンジ内で念入りに行っていたのだ。彼は笠原の存在に気づき、顔を確認していった。フロントで待つよう指示した彼女には、何食わぬ顔ですれ違いの言い訳や遅れた弁解をしたのだろう。  笠原はあわててロビーから出た。  由比がこの一件から手を引いてしまうことを何よりも恐れた。今までの苦労を思い出すと目まいを起こしそうになった。尾行を中止すべきか、すべきでないか? 駐車場の出口に気を配りながら、タクシーをつかまえるかどうか迷った。 「——おっさん。手を貸そうか」  おっさん? 突然、背後から呼び止められた。意表を衝《つ》かれてふり返ると、長髪の少年がベースボールキャップを逆さにかぶって立っていた。小柄で、女みたいにこざっぱりした顔をしている。  後ろには、黒のレザーパンツとぼろぼろのニット姿、そして真新しいエアジョーダンとダウンジャケットを羽織った少年がいた。三人は笠原を囲んできた。 「俺らの車を貸すよ。ユイって奴を追うんだろ?」  長髪の少年は下顎《したあご》をホテルの駐車場出口に向け、続けて右手の親指を後ろにそらせた。銀製の指輪がたっぷりとはめられた指の先に、大型のワゴン車が路駐されている。外車だった。 「由比だと?」 「そうだけど」 「……君らは、あの男を知っているのか」  その瞬間、長髪の少年の口元が粘土を押し潰《つぶ》したような笑みに変わった。かすれた、低い声でつぶやいた。 「こいつだ」  笠原は背中を、どん、と強く押された。髪の毛が逆立つような激痛が走り、そのままワゴン車の中に押し込まれた。  ワゴン車は環状八号線を抜け、甲州街道の下り車線に入った。  ガムテープでぐるぐる巻きにされた笠原は三列目のシートに転がされていた。ひどい暴行を受けた。ズボンもパンツも脱がされる屈辱的な姿にされてから、散々殴られ続けた。意識が朦朧《もうろう》としているのは、腕やわき腹、太腿《ふともも》の至るところにスタンガンを押しつけられたからだった。スタンガンは押しつけられて即失神するものではないことを、身をもって知らされた。もともと高電圧なだけで電流はほとんど生じない代物なのだ。感電こそしないが、高電圧のショックは相当なもので、念入りに責められれば歯向かう気力は完全に失せてしまう。  笠原は精神的なショックと苦痛で、目を閉じられずにいた。  長髪の少年が煙草をふかしながら運転している。あとのふたりは二列目のシートで退屈そうに窓の景色を眺め、たまに思い出したようにスタンガンを押しつけてくる。ぼろぼろのニット姿の少年は時折、刃渡り二十センチ以上ある登山ナイフを指でさすっていた。  かれこれ一時間近く走っている。  少年達は無駄口をいっさい叩《たた》かなかった。その点に関しては、徹底した連帯感があった。  ガムテープで口を塞《ふさ》がれた笠原は今になって、ラウンジで由比が見せたあの笑みが、この状況を示唆していたように思えた。彼の営業を脅かそうとする不審者は、誰かれかまわず排除される仕組みになっているのだろうか? ……否だ。あまりにも短絡的で、そこからあしがつくリスクを由比が考えないはずはない。仲西聡美の密告も考えた。しかし謝礼を支払っているのだ。彼女にはその負い目がある。裏表のある女とはとうてい思えない。——だとすれば、こういうことなら納得がいく。由比はフリーライターに嗅《か》ぎ付けられていることに薄々勘づいていた。情報は確かでないが、一応網を張っておくか、くらいのレベルでこの少年達の利用を考えた。そうなるとわからない点が二つ出てくる。チンピラのようにいきがるわけでなく、不良にも見えないこの少年達と由比との結びつき。そしてもうひとつは、自分が連れ去られることになった根拠は何か。いずれにしろこのような強硬手段に出るということは、由比が今回の仕事から手を引けない状況下にあるということになる。  笠原はぐったりとした横顔をシートに押しつけた。  ロードノイズを耳でしばらく感じていた。ワゴン車は甲州街道から首都高四号線の下り車線に入り、都心からどんどん外れる方向に向かっている。  運転席から、携帯電話の着信メロディが鳴った。 「あい」長髪の少年が気怠《けだる》そうな声で応《こた》え、ええ、はあ、と頷《うなず》く。「どうするんスか? 間違いないと思うッスけど」  不穏な沈黙が訪れ、 「……わかりました」  虫を潰すように、携帯電話が親指で切られた。  ワゴン車のスピードが落ちた。笠原が顔を巡らせようとすると、目の前にスタンガンが近づいた。激痛を覚えた身体が自分の意志とは無関係に震えた。目を窓の方向に動かすと、中央自動車道の下り線入口で停まっていることに気がついた。  再びワゴン車が走り出す。同時に、口を塞ぐガムテープが唇ごと持っていかれるように剥《は》がされた。ステレオのボリュームが急激に上げられ、目の前でスタンガンの火花が散った。悲鳴は音楽にかき消され、笠原はシートの上でのた打ちまわった。涙で滲《にじ》んだ視界の中でにやにやと笑う顔つきがだぶって見えた。……こいつらは「痛み」を知らずに育ってきたのだ。だから加減を知らずに楽しめるのだ。これからどこに連れて行かれるのか、何をされるのか、全く見当がつかない。これ以上高速道路に乗って都心から離れてしまうことに、底知れない恐怖を覚えはじめた。 「あれ? どうしたんスか?」  車内の空気が変わったのは、八王子の料金所を過ぎたあたりからだった。 「やけに飛ばしますね」  ダウンジャケットの少年が運転席に身を乗り出した。剛性の高そうなワゴン車ががたがたと揺れている。走行車線と追い越し車線を縫うように走り、速度は百六十キロをゆうに超していた。  長髪の少年はハンドルを握るのに夢中になり、前方の何かに気を奪われている様子だった。 「何か見つけたんスか?」  ニットの少年も身を乗り出し、これで三人とも視線が前に集中することになった。 「あれ見ろよ。さっき、あいつに抜かれた」  長髪の少年が下顎を向けた先、百メートルほど先のアスファルトの路面に、赤い大型バイクが猛スピードで走行していた。笠原の虚《うつ》ろな目にはバイク便に映った。ただし荷物は荷台になく、便名もなければナンバープレートも外されている。ライダーは青いアイスボックスを背負っていた。  ワゴン車はさらに加速し、大型バイクに接近すると、そのまま右隣に並んだ。運転するライダーは、白い半キャップとゴーグル、サファリジャケットを着ていた。キャップからはみ出た後ろ髪が激しくなびいている。  不自然なほどの沈黙が車内を埋めた。 「——おいマジかよっ」  溜《た》まっていた殺気が一気に放たれる。まるでそんな怒声が次々と上がった。 「すばるじゃねえか。すばるじゃねえか。おいおいマジかよっ、すばるだっ。狩るぞっ」  ニットの少年は、もつれるような手で携帯電話を取り出した。 「……もしもし、高階さんっ」  興奮気味の呼吸が、しばらく続く。 「すばるを見つけました。中央高速の八王子料金所を過ぎたあたりです。——いま走っています。俺ら追って、捕まえますっ」  笠原は唖然《あぜん》としながら見た。それまで沈殿していた泥水が棒で激しく掻《か》きまわされたような喧騒《けんそう》に映った。  予期せぬアクシデントなのだろうか。どうやら彼らは、あのライダーを血眼になって捜していた様子だ。そして偶然見つけて仲間を呼ぼうとしている。この剣幕では、ただでは済まなそうな勢いだ。笠原にとって矛先が別に向いたことはチャンスだった。身をねじり、きつく巻かれたガムテープを何とか緩めようともがいた。手首の部分にあるわずかな隙間に賭《か》けた。二列目のシートには、登山ナイフが放り投げられている。  大型バイクは高回転のエンジン音を轟《とどろ》かせてスピードを上げていた。ワゴン車も追いすがるようにぴったりとつく。ライダーが一瞬顔を向け、バイクを傾けて左車線に移ろうとした。  運転席の長髪の少年は、ワゴン車をふわりと右側に膨らませると、ハンドルを反対方向いっぱいに切って幅寄せした。  瞬く間にバイクは高速道路のガードレールに追い込まれ、二台のスピードは削《そ》げ落ちた。アイスボックスを背負うライダーは両腕と両腿に力を込め、かろうじてバランスを保ちながら疾走している。間髪いれずにニットの少年が車窓を開け、腕をいっぱいに伸ばした。つかもうとしている。その目は完全に血走っていた。 (殺人行為だ)  目の当たりにする笠原は、全身の毛穴が開くほどの恐怖を味わった。彼らが見せる興奮は尋常ではない。  伸ばした指先が、ライダーが被《かぶ》る半キャップの縁に触れた。半キャップが弾《はじ》け飛ぶようにライダーの頭から外れ、首にまわった。黒いゴーグルをはめるライダーは睨《にら》みつけるように顔を向けた。 「なんだ、こいつ? 髪が……白く……」  ニットの少年が目を大きく見開き、息を呑《の》んだ。  ライダーの白髪の混じった髪が激しくなびいていた。  長髪の少年も気を奪われた。ワゴン車の幅寄せが一瞬だけやんだ。ライダーはその瞬間を逃さなかった。バイクのギアが立て続けに落とされ、後退《あとずさ》りするように減速し、ワゴン車の左フェンダーミラーに映るようになった。 「——くそっ」  長髪の少年が舌打ちした瞬間、バイクは右のフェンダーミラー内に移動した。やがてフェンダーミラー内のバイクは、蝋燭《ろうそく》の火を吹き消すように消えた。 「やべっ。死角に入られた」  ダウンジャケットの少年が焦って首をまわす。  笠原は視界の右端で、バイクの影が矢のように通り抜けていくのをとらえた。怖気《おぞけ》が走った。右の死角から車体ぎりぎりに寄せ、一気に抜きにかかろうとしているのだ。  バイクがワゴン車の右前方からすっと現れ、テールランプが一瞬|点《とも》った。ブレーキだ。車内で悲鳴が上がった。長髪の少年がフットブレーキを踏んでハンドルを切ったのは、ほぼ同時だった。ロックされたタイヤがアスファルトに焼きつき、わああっという叫び声とともにバランスを大きく失った。ガードレールにこすりつけながら火花を散らして減速していく。笠原はシート下で縮こまってショックに耐えた。すでに両手は自由になっていた。ワゴン車は数百メートル滑ってようやく停車し、焼けただれたタイヤの匂いが辺りにたちこめた。 「……野郎」  少年達は顔から血を滴らせながらドアを開け放ち、ふらふらと路肩に這《は》い出ていった。笠原はシート下に落ちていた登山ナイフを拾い上げ、足を束縛するガムテープを切った。まだ身体にガムテープを残したままズボンを持って、開いたドアから飛び出した。  後続車に助けを求めようとしたが、視界の中に映らなかった。今日に限って高速道路が空いているのだ。目線を走らせ、ワゴン車のナンバープレートを確認しようとした。ご丁寧に泥で覆われている。  はるか前方で大型バイクが停車していた。ライダーがじっと眺めている。ようやく理解できた。あのときバイクはいっさい減速していなかった。テールランプが改造されているのだ。  笠原は少年たちから逃げるため、よろめきながらガードレールを乗り越えようとした。  頬に一筋の生温かいものを感じた。白いガードレールに赤い染みが点々と増え、このとき自分も怪我を負っていることを知った。  身体の重心を失った。目玉が裏返る感覚に陥り、足を踏み外した。そのまま傾斜が急な茂みの中を滑り落ちていった。  笠原が薄目を開いたときには、すでに夜になっていた。  身体中が刺すように痛み、もう何時間も茂みの中でうずくまっていたことに気づいた。目線を上げた先にある、高速道路のガードレールを恨めしく眺めた。  携帯電話はどこかでなくしたようだった。夜の空気は徐々に冷え込みはじめ、震える唇を噛《か》んだ。  うとうととしかけたときだった。遠くで雷鳴が轟いた気がした。すぐにバイクのエンジン音だと気がついた。しばらくして茂みを割って入ってくる足音を耳にした。  笠原の閉じた瞼《まぶた》に、眩《まぶ》しいほどのライトが照射された。  目を開けると、大型バイクに乗っていたあの少年の影があった。黒いゴーグルをかけ、下げた手に懐中電灯がある。  少年は屈《かが》んできた。肩に手が伸び、そのまま無言で笠原の身体をさぐってくる。懐に手を入れられ、財布を抜き取られた。財布から免許証が取り出されると、今度はそれにライトがあてられた。  少年が息を呑むのがわかった。 「志村病院の分室であんたを見かけたことがある。……高村誠、知っているだろう?」  低い声だった。寒さに凍える笠原は、歯を鳴らしながら少年を見上げた。 「……君は誰だ?」 「答えろっ」 「大学が一緒だった。たまに会う。……君は?」  少年は、貝が口を閉ざしたように黙っている。笠原は続けて訊《き》いた。「君を追いまわしていた、あのワゴン車の少年達はいったい何者なんだ?」 「ルート・ゼロ」 「……なんだ、それは?」 「何でもありの暴走族。今は美緒興産とつながっている。××署の生活安全課に、堀池っていう巡査部長がいる。詳しく知りたきゃ、そいつに訊け」  笠原の目が大きく開いた。美緒興産はやくざだ。暴走族とやくざ。やくざと腎臓斡旋《じんぞうあつせん》詐欺の由比忠彦。一本の線でつながりかけた。 「これじゃ、|二人乗り《タンデム》は無理だな」  少年は最後にそう吐き捨てると、携帯電話で誰かに連絡を取りはじめた。  ——もう運び終わった。  ——おれの場所はわかるだろ?  ——バイクの位置から離れていない。今すぐこい。  意識が再び薄れていく中、少年のそんな声を聞いた。      4[#「4」はゴシック体]  額に包帯、左手にギプスを巻いた笠原は、ひとり公園のベンチに座っていた。高層マンションが隣接する住宅地の中にある猫の額ほどの広さの公園だった。よく晴れた昼下がりだったが、時折、陽気をまるごとさらっていくような冷たい風が吹き、背をまるめた。その度に胸が軋《きし》むように痛んだ。入院はせずに済んだものの、出血がひどかった額は二針縫い、左手首の骨と肋骨《ろつこつ》にひびが入っていた。殴られた顔の腫《は》れはまだひかない。  小さなブランコや滑り台など、ありふれた公園施設に視線を投じた。厚着をした子供達や付き添いの母親達で狭い公園は定員オーバーになりかけている。  思い出していた。フリーライターになってから、これまで何度か警察関係者に取材の申し込みをした経験がある。向こう見ずな体当たり的な取材ばかりした。当たり前の話だが、紹介を受けるか顔見知りか、よほどの利害関係がない限り、大抵うんざりした表情を注がれる。警察相手のそれはけっこう応《こた》える。軽くあしらわれればまだスキンシップがあってマシな方だ。だから堀池という巡査部長が、自分のような駆け出しに気軽に会ってくれるとは思えなかった。少なくとも彼が休職中だと知るまでは。  右手にはめた腕時計に目を落とすと、午後一時半を過ぎていた。そろそろ現れる頃だと思っていると、公園の入口から身体を半分ずつ押し出すようにして歩く男が現れた。歳は三十代前半、セーターにスラックス姿、片手でアルミの松葉杖《まつばづえ》をついている。  笠原は立ち上がると、ぺこりと頭を下げて名刺を出した。 「同僚から連絡を受けた。署に伝言を残したのはあんたか?」  堀池は値踏みするように眺めてきた。受け取った名刺をろくに見ず、スラックスのポケットにねじこんだ。そして口の端で笑った。 「……お互い怪我人同士みたいだな」 「あまりありがたくはないです」 「ここはリハビリのコースでね。わざわざ遠くからきてもらって悪かったな。隣に座らせてもらうよ」  笠原は腰の位置をずらして、ベンチに座った。 「煙草、ある?」  並んで座る堀池が指を立ててきた。笠原は懐からマイルドセブンとライターを取り出すと、それを手渡した。 「吸わないのか」  煙草を返す間際に訊かれて、首をふった。 「じゃあ、煙草と火を持ち歩いているだけなのか?」 「ええ」  ふうん、と堀池は喉《のど》で応え、紫煙を吐き出した。 「一昨日の傷害事件のことは調べさせてもらったよ。応急処置をされて、病院までベンツで送迎されたらしいな」  笠原はすでに調書を取られている。調書を取った担当の警察官は、話を聞くだけ聞くという態度で、たぶんそれきりになる雰囲気に思えていた。 「送ってくれた方は、知らない人です」 「見知らぬ人がたまたま医者だったわけか」 「自分でもわけがわからない」  口にしながら、あの晩のことを脳裏に思い浮かべてみる。少年に続き、四十分ほど経ってから、今度は初老の男が斜面を滑り降りてきた。ふたりはガードレールの向こう側に戻り、言い争いをしていた。恐怖と寒さで麻痺《まひ》していた痛みは、ベンツ車内のエアコンでよみがえった。差し出された痛み止めを疑いなく飲み込んだのが失敗だった。おかげで眠りに落ちた。目が覚めたのは、病院の緊急外来の入口で粗大ゴミを放り出すように降ろされたときだった。 「まあいい。——で、今日は雑誌屋として俺に用があるんだろう?」  堀池の声が落ち、眼光が鋭くなった。ひと睨《にら》みで腰が退《ひ》けてしまいそうな目になっている。 「ルート・ゼロは暴走族の名前と聞きました」 「それで?」 「自分に傷害を加えたメンバーは三人。特徴、服装——今だったらもっと詳しく思い出せそうな気がします」 「調書で足りなかった部分だな。長い時間、車に監禁された割にはおかしいと思っていた。なぜ調書を取られたときにそれを言わない」 「ショックが抜けていませんでしたから」 「うそをつくな」 「調書を取った人が気に入らなかっただけです」 「犯人がつかまらなくていいのか? それともとぼけているのか?」 「損得勘定で動いているだけです」 「ふん。……面白い、今言ってみろ。犯人を当ててやるから」  堀池の拳《こぶし》が膝《ひざ》の上で固まるのを見逃さなかった。この男は、面白い、と口に出した。警察官として自覚が薄い人間なのだと思った。表情にこそ出さないが、目の奥に私怨《しえん》にも似た執着心を宿らせている。休職にまで追い込まれた怪我の要因は、今さらもう訊けなくなってしまった。  笠原は四つ折りのメモ用紙を懐から取り出すと、堀池の前に差し出した。それはすぐに奪い取られた。 「美緒興産とルート・ゼロに、接点があるんですか?」  笠原の問いに、堀池は耳も貸さずにメモを開いた。やがて顔を上げて睨みつけてきた。当たり前だった。メモには三人のうち、ひとりぶんしか書いていない。 「なんでそんなことを知りたがる。記事にする気か?」苛立《いらだ》つ声で、堀池は手を差し伸ばす。 「暴走族に興味はありません。美緒興産が暴走族をチンピラ代わりに使うやくざなのかを知りたいのです」 「ルート・ゼロのヘッドは頻繁に出入りしている。言っておくが、名前はださない」  笠原はもう一枚のメモ用紙を堀池に渡した。 「そのヘッドの影響力は?」 「今のメンバーはみんな、そいつについていっている」 「美緒興産の収入源」 「いろいろ」  三枚目を渡した。堀池は開いて目を剥《む》いた。白紙だった。 「個人商店のみかじめ料って、現実的にありえるんですか?」 「アホか。今どき、みかじめなんか取っていることが知れたら、暴対法で組は潰《つぶ》れる。名刺を出しただけでも恐喝罪のご時世だ。それに個人商店って何だ? フロント企業のことか?」  フロント企業とは、暴力団と親交のある者がその背景を隠して経営する企業のことをさしている。利益を暴力団に提供し、見返りとして問題解決に利用する。暴力団対策法逃れで増加し、それまでは企業舎弟と呼ばれることが多かった。 「ニュアンスは微妙に異なるかもしれません。街金融、不動産、飲み屋、風俗店などとは違います」 「そいつはひとり[#「ひとり」に傍点]で幾ら稼ぐ?」 「一回の仕事で一千万円以上」 「まともな仕事か」  笠原は首をふった。 「組がらみで関与を否定できるのなら、ないとは言い切れない。末端構成員が構成員でない連中を使う手はよくある。一般企業でもそうだろう? 契約社員[#「契約社員」に傍点]なら何をしようと勝手だ。あとはとかげの尻尾《しつぽ》切りがはじまる。そういうタマならいくらでもあそこは持っている」  笠原は目を閉じ、最後の一枚を渡した。  堀池はほとんど灰になった煙草を指ではじき飛ばし、踏み潰した。アルミの松葉杖を支えにしてベンチから腰を浮かせた。 「表現力はなかなかだ。お前に傷害を負わせた三人が誰だかわかったよ。今日明日中にも調書を取り直しにこい。いいな」  踵《きびす》を返しかけたところを、笠原は引き留めた。 「ルート・ゼロから恨みを買っている少年を知っていますか? 赤い大型バイクに乗っています。たぶんあれは七五〇ccだと思う」  堀池の目の色が変わった。 「見たのか」 「中央高速で見ました。髪に白髪が混じった少年です」 「……白髪だと?」  堀池の表情が硬くなり、しばらく声を失っていた。「……今の状態になる前、メンバーのひとりが行方をくらませている」 「バイク便のように、何か荷物を背負って走っていましたが」 「俺の聞いている目撃談と同じだな」  アルミの松葉杖に力が込められ、彼は背を向けてしまった。  翌日の午後十時過ぎ。  港区西新橋に彩京《さいきよう》クリニックという透析センターがある。笠原はそこの正面玄関前に立っていた。受付時間は時間帯で三つに分けられ、三部は午後五時から十時までになっている。  自動ドアが開き、院内の灯《あか》りが外に広がり出た。ハンドバッグを抱えた仲西聡美が中から現れた。笠原の存在に気づいた彼女は、はっと顔を上げた。 「……怪我をしたんですか?」  驚いた様子だった。大きく見開かれた彼女の目は不自然に揺れていない。彼女自身、笠原が巻き込まれた傷害事件に関わっていないことをうかがわせるものだった。笠原は悟られないよう視線の先をずらした。彼女の顔や首筋の湿疹は以前よりひどくなり、軟膏《なんこう》を厚く塗った跡がある。 「ご迷惑とは思いましたが、勝手に待たせていただきました」  彼女の顔が元に戻り、ハンドバッグを抱えた脇に力がこもる。「迷惑です。今お話しすることは何もありません」言い終わらないうちに、ヒールを鳴らして先を急ごうとした。 「なんならご自宅まで、タクシーで送らせていただけないでしょうか?」  彼女は怪訝《けげん》そうにふり向いてくる。  笠原はうなだれてみせた。「これで最後にします」  その一言で、彼女はしぶしぶついてきた。  四車線の幹線道路に出て、空席のタクシーをつかまえる間、彼女は思い出したような口調で尋ねてきた。 「そういえば、どうしてあの場所がわかったのですか?」そして息を呑《の》み、「……まさか、あとをつけてきたのですか?」  行き交うヘッドライトを半身に浴びる笠原は、首をふり、 「——その理由はタクシーの中でお話ししますよ」  と、意味ありげに微笑んだ。やがて空席のタクシーが接近すると、ハザードを点《つ》けてふたりの前で停車した。後部座席に腰をおろした彼女は口を開かず、タクシーが発進してしばらくするとぼうっと視線を彷徨《さまよ》わせるようになった。透析のあとは半日ほど気怠《けだる》くなると、笠原は以前聞いたことがあった。用件はなるべく早めに済ませた方がいい。 「ひとつ確認したいことがあって、足を運んできたのです」 「……何でしょうか?」 「率直に言いますが、丘本と名乗る男の会社名を」  彼女は溜息《ためいき》を洩《も》らし、口の端を拒絶で歪《ゆが》ませた。 「それはお答えできません。この間も言ったじゃないですか」 「それでは私が今から当ててみせます。チャンスは一回。仲西さんはイエスかノーでお答えくださればいい。それでタクシー代が浮くと思えば、安いものです」  彼女は目だけを横に動かし、そして瞼《まぶた》を閉じた。 「どうぞ」 「ライテック。もちろん横文字、片仮名で表記します」  車内に息を止めたような沈黙が訪れた。うつむいていた彼女の顔が上がり、唇がわずかに動く。 「……イエス」 「どうしてわかったのか、という顔をしていますね? 私があのクリニックの場所を知った方法につながるんですよ」 「どういうことなんですか?」 「私のような素人には盲点でした。透析施設がどこにあるのか、案内する広告や電話はもちろん、医師会名簿などの公的な所には掲載されていない」  彼女の表情に驚きが浮き出た。 「え」 「透析施設は標榜《ひようぼう》科目として認められていないんですよ。全国で十数万人もの患者が、生きるために必要としているにもかかわらずです。実際、一部の医療法人がパソコンのインターネット上のホームページで、情報提供を基にしてリスト作りをはじめているのが現状です。透析を続けなければ命に関わる患者にとっては、全国の医療マップに代わるものは必要になるでしょう。それがなければ気軽に国内旅行さえできない。きっと需要は出てくる。それをインターネット上でサービスするホームページが存在しました。——管理人はライテックという法人です。地域名を指定すれば、診察日、受付時間、規模、送迎などのサービス内容、周辺地図まで詳細な情報を提供してくれる。患者同士が情報交換を行う掲示板もあります。希望すれば個人情報と引き替えに、透析施設のマップを印刷した小冊子も届けてくれる。彩京クリニックに関しては、仲西さんの職場から一番近い場所を選びました。会社の定時が五時半だとしても、およそ五時間の透析が可能な条件を満たす透析施設は、彩京クリニックの他ありません」  彼女は口を噤《つぐ》んでいた。 「おそらく丘本という男は、仲西さんとの商談の中で、ライテックのそういった活動内容を案内したのでしょう。それで信用を深めている」  笠原は心の中で自制しながらも、冷めた口調になっている自分に気づいた。 「——いけないんですか?」  と、なじるような声が洩れる。 「いいえ」 「でも、おかしいですよ。それだけで丘本さんの会社とライテックが結びつくんですか?」 「それは」  言いよどんだ。まだ他に確信となった点はある。だが、彼女に全ての真相を語る必要はない。 「私をつけまわすのは、もうやめていただけませんか? 今週の日曜には日本を発つんです」  その言葉に、笠原はシートから背を浮かせた。 「日曜日? ドナーがもう決まったんですか?」 「昨日の夜、丘本さんから連絡がありました。チケットもホテルの手配もしてくれています」 「それじゃ代金は」 「今日、全額振り込んできました」 「そうですか」  笠原は腕を組み、静かに両目を閉じた。もう喋《しやべ》る気は失せていた。 「……ひどい顔だと思いません?」  突然だった。小声で、彼女の方から尋ねてきた。 「その顔の湿疹のことを言っているのですか?」 「私の場合、透析で合併症を引き起こすんです。透析を続ける限りつきまとうんです。こんな風に肌が荒れてしまいます。でも……こんなことからも、もうすぐ解放されるんです」 「プライバシーに立ち入る質問をひとつ、いいですか」  彼女は黙って顔を向けてきた。 「仲西さんが答えたくなければ、黙っていてくれても結構です」 「どうぞ」 「もしかして、今の職場の社長から交際を申し込まれているのではありませんか?」  投げた球は的外れではなかった。彼女はしばらく黙ったあと、 「……返事はまだです」  と、つぶやいた。思いつめた表情が車窓を流れていく街灯に照らされた。  やがてタクシーは彼女の自宅付近で停まった。彼女は礼を言い、アパートの階段を駆け上がっていった。後ろ姿を見送った笠原は、胸の奥で罪悪感が込み上げてくるのを感じ、もうどうすることもできないことを知った。      5[#「5」はゴシック体]  月曜日を迎えた。  トーワ・コーポレーションの本社ビルは、交差点に面してL字型の敷地内に建っていた。外観は白く、間口となる二つの面はガラス張りになっていて、よく晴れた空を映し出している。  三年ぶりに訪れることになった笠原はしばらく眺めていた。  知名度がそれほど高くない中規模クラスの会社にとっては、新卒社員や優秀な中途社員を獲得するのに、こうした立派な社屋が必要になるときがある。しかし見栄えはいいが、その中身は虫に食われたようにぽっかりと穴が開いているはずだった。かつての腎臓斡旋《じんぞうあつせん》詐欺疑惑で、役員三名が刑事告訴された事件の余波は、この会社の事業部をいくつか閉鎖させている。  笠原は正面玄関の自動ドアを抜け、受付に向かって歩いた。 「ライテックの社長に会いにきたのですが」  立ち上がった受付嬢は首を傾げ、内線表が入っているクリアファイルを裏返した。おそらく見つけ出すのが大変なのだと思った。しばらく待つことにした。 「……由比のことでしょうか?」 「ええ」 「失礼ですが、お約束でございましょうか?」  笠原は首をふり、黙って名刺を差し出した。訝《いぶか》しげな目を返された。 「大変申し訳ありませんが、お約束のないご訪問は……」  受付嬢が言いかけたのを途中で遮った。「たぶん今日あたりなら、彼は例外として私と会ってくれるはずです。取り次ぐだけでもお願いできないでしょうか? 赤坂のホテルでお会いした、フリーライターの笠原と言っていただければ通じます」  受付嬢は内線電話をかけ、しばらくしてその受話器を置いた。 「お会いするそうです」  笠原が案内されたのは本社の役員室が集まる最上階ではなく、閉鎖された事業部オフィスがある三階のフロアだった。ひとけのない廊下を歩き、突き当たりの左側にあるガラス扉を開いた。照明は落とされ、パーテーションで区切られただけの誰もいないオフィスだった。閑散とした室内を笠原は見まわした。奥にデスクがひとつだけ残り、窓から外の風景を眺めている男がいた。高価な背広を着ている。窓際のスペースには水を張っただけの水槽が置いてあった。 「どうやって、ここまでたどり着いた?」  男は背を向けたまま、低い、抑揚のない声で訊《き》いてきた。  笠原は答えた。 「トーワ・コーポレーションはいくつか関連会社を抱えている。中には複雑な書類上の手続きを介して存在する小さな関連会社もある。通信販売用の輸入医薬品を扱っているが、実はその業務自体はトーワ・コーポレーション内で巧みに行われている。所在地はこの本社ビル内だが、事務所さえ持たない幽霊会社だ。……名前はライテック」 「で、どうやって知った?」 「二つある。かつての腎臓斡旋詐欺で告訴された役員三名は、登記上の法人格を持たないダミー会社を設立していた疑いがかかっていた。当時の新聞や週刊誌に載っている。そこをもう一度洗い直してみることにした。偶然にも人工透析施設を案内するホームページの管理人が同じ名前で、そこはつい最近までホームページを更新していた。ちゃんと機能しているということだ。一度会社を辞めた人間が、そういう形で会社の軒下を借りているのは意外だったがね」 「……あとひとつは?」 「ここの元社員と親友なんだ。唯一の生き証人だよ。彼の話をつなぎ合わせて、彼がオーバーワークに追い込まれた原因を探ってみた」 「高村のことか? あいつは本当に使えない奴だったな」 「手がこんでいるよ。統合失調症扱いにして、僻地《へきち》へと追いやった」 「だが、それを受け入れたのはあいつだ」  由比忠彦がふり向いてきた。逆光のせいでどんな表情をしているのか読み取れない。 「ここのところ、フリーライターがちょこちょこと嗅《か》ぎまわっていたことは知っていた。それとは別に、君の顔は一度だけ遠くから拝見させてもらったことがある」  笠原は虚を衝《つ》かれた。 「高村が派手な自殺未遂騒ぎを起こしたあと、君は本社に何度も足を運んできたはずだ。……誰も相手にしなかったがね、君は受付嬢に当時の出版社の名刺を渡しているはずだ。それを私が持っている。念のため問い合わせてみたら、辞めてフリーになったとか。それであの、赤坂のコーヒーラウンジの場面で一致したわけだ」  由比はおもむろに手のひらを広げてきた。 「君が隠し持っているものを渡してくれないか? 頼むよ。苦手なんだよ。ああいうのがあると、うまく舌がまわりそうもない」  笠原は一瞬ためらったが、上着の内側からICレコーダーを取り出した。  由比は笠原が見ている前で、それを水槽の中に落としこんだ。そして懐から小さな携帯電話を取り出した。内線につながるPHSだった。 「これも、もう用はなくなる」彼の手から離れたPHSは、水槽の底に沈んでいった。 「これから言うことは推測だ」  笠原が言うと、由比は顎《あご》を揺すって続きを促してきた。 「当時、刑事告訴されるはずだった役員は他にもいたんだと思う。そのひとりをお前は庇《かば》い、証拠となる物を持って退社する形を取った。そのひとりは今は会社の重要なポストにいて、社内での権限が広い。——そう考えれば、お前が事務所も席もない幽霊会社の軒下を、のうのうと借りていられる理由がはっきりする」 「幽霊会社とは心外だな。ちゃんと仕事があるから消えないんだ。トーワ・コーポレーションも会社を立て直すのに必死でね、海外の商品を闇で安く仕入れて国内に流している。骨、軟骨、皮膚、筋膜、心臓弁、腱《けん》、靭帯《じんたい》、血管なんかだ。人間の身体で売れないものはない。アメリカではそんな人体部品を堂々と販売している。しかし、これは臓器売買とは呼ばれない。ドナーに提供料を払っていないからだよ。売買ではないという理屈だ。原価ゼロの無私の提供品で売り上げを得ても、加工費、保存費、品質向上に充てられる建て前がある限り、誰も文句を言うことができない」 「そんなまわりくどいビジネスが日本で長続きするのか?」 「残念ながら細々とやっているのが実情だ。考えてみるといい。日本に入ってきた途端、関税と、消費税の五パーセントがかかるんだ。莫迦《ばか》らしいと思わないか? ライテック自体はいずれ消滅する。だから実益を兼ねた趣味に走ることにした。このことを本社連中は知らない」 「人工透析施設のホームページのことか」 「あれも良くできているだろう。マメに更新している。意外と役に立つんだ。施設の場所と規模が把握できれば宣伝しやすいし、一部の人間には信頼もされる。……ところで我々は腎臓のことをそのまま呼んだりはしない。敬意をもって、ある隠語を使わせてもらっている。それが何だか君にわかるかい?」  笠原は黙った。 「宝石のルビィだ。ダイヤモンドに次ぐ硬さを持ち、ラテン語の赤色を意味する『ルベウス』。危険がルビィの持ち主に迫ると、ルビィの色が褪《あ》せるという逸話も数多くある。……腎臓と似ているだろう? 人間は生まれながらにして、ときにはダイヤモンド以上に尊ばれる宝石を、身体の中に二つも持っているのだよ。誰もその価値に気づこうとしない。——私はルビィの斡旋に目をつけた。危ない橋になろうが、かまわず渡った。その理由を知りたくないか?」 「簡単な理屈だ。危なくない[#「危なくない」に傍点]からその橋を渡った」 「言いたいことがわからないな」 「腎バンクの待機患者リストをどこで入手した?」 「……なるほど。普通に考えればそこまで思いつく。日本では角膜、心臓、肺、肝臓、すい臓、腎臓、小腸の移植を希望する待機患者は完全にデータベース化されているんだよ。臓器移植ネットワーク、各地方にあるアイバンクや腎バンクがその管理元だ。適合性や血液型が登録され、ドナーが現れたときの優先順位づけが行われる。つまり私達が商売するうえでの顧客データが、すでに用意されているわけだ」 「だからといって、簡単に入手できないはずだ」 「そうだ。簡単にはいかない。しかしデータを管理しているのは、移植コーディネータという職に就く人間だ。所詮《しよせん》は人間だよ。データの漏洩《ろうえい》は起きる。キッチンをいくら清潔に磨いてもゴキブリは出てくるだろう? 同じことだよ。そういえば半年くらい前だったかな。臓器移植ネットワーク、アイバンク、腎バンクから、手当たり次第に待機患者データを入手しているジイさんがいたな」 「……ジイさん?」 「何に使うか知らないがね。私はそこまで欲張らない。データのうち、緊急度が低そうな待機患者だけを選び出したつもりだ。緊急度と言っても皮肉なことに、決して重病度には比例しない」  冷静な由比の口調は変わらなかった。  笠原は言った。 「しかし失敗があった。さっき言っていた人体部品販売の仕事で、美緒興産とのつながりができてしまった」 「ああ。確かに後ろ盾が必要なときもあった。融資を受けるようにもなった。待機患者のデータ入手には金が要る。莫迦にならない金額だ。企業舎弟の街金融を介されて、気づいたときには利子で四千万近くに膨れあがっていたよ」 「お前にはその返済能力がある。そこを美緒興産に買われていた。違うか?」 「仕組まれたんだよ。あいつらに一度弱みを握られると、要求する物を与え続けなければ一生抜け出せなくなる。あいつらは自分の手を汚さずに、私を骨の髄まで利用してきた。私がボロを出しても、あいつらはリスクをいっさい負わない。そんな悪循環に嵌《は》められていた。私は関係を断ち切る方法を考えた。腎臓《じんぞう》の斡旋《あつせん》を続けながら、逃げ道を必死に探し続けた。でなければ、あいつらにあてがわれた暴走族のガキ共なんか使ってあんなマネ[#「あんなマネ」に傍点]はしない」 「……あんなマネ? 暴走族を使って俺を拉致《らち》しようとしたことか?」  返事はなかった。 「仕事が無事完結するまで、俺に出てきてもらいたくなかったんだろう。おそらく仲西聡美の一件で、お前は腎臓斡旋から手を引くつもりだった」 「君の存在がそのきっかけを作ってくれたかもしれないな。その点に関してだけは、礼を言わせてもらう」 「よしてくれ。今のお前は何でも喋《しやべ》るし、逃げも隠れもしない。原稿にして書く気も失せるほどだ」 「一応あの仕事を完結すれば、美緒興産には最低限の義理が立つ。残念ながら、仲西という女には金は戻ってこない。私はもう疲れてしまったんだよ。どこかでゆっくりと休みたい」  由比は椅子に腰を落として肘《ひじ》をつき、「——ところで」と、両指を絡めてみせた。 「今の私達の組み合わせ、こうして面と向かって話している状況が、妙に不自然だと思わないかい?」 「思わない」  笠原は続けた。「今のお前には、逃げ道はひとつしかない。暴力団から逃れる最後の切り札を使おうとしている」 「切り札ねえ。……何だと思う?」  沈黙が訪れた。 「——警察だ」  由比は笑った。高笑いになった。やがてひいひいと喘《あえ》ぎ、のけぞるようにして背中を椅子にもたれさせた。 「悪いがフリーライターの仕事を残すつもりはないよ。全部、私の口から警察にぶちまける」  笠原は奥歯を強く噛《か》み締めた。由比はその様子を味わい尽くすように眺め、にやりと笑みを浮かべて言葉を継いだ。 「徒労に終わったか?」 「……いや」  笠原は気が触れたように笑い続ける由比を残して、オフィスから出ていった。  仲西聡美の消息を知ったのは一週間後だった。フィリピンのマニラから帰国して以来、行方がつかめず、それまで笠原はずっと彼女を捜し続けていた。  現場のアパート付近は、消防車と野次馬に囲まれていた。  アパートは全焼こそまぬがれていた。出火元は彼女の部屋だった。消火作業が終わり、焼け焦げた窓枠が露出するまで、笠原は舞い上がる蛍のような火の粉を呆然《ぼうぜん》と見上げ続けていた。部屋にガソリンを撒《ま》いた、自殺未遂だ、などという声が野次馬の間で洩《も》れた。  白いシーツで覆われた担架が運ばれ、収容した救急車が野次馬を尻目《しりめ》に発進していった。笠原はほとんど瞬《まばた》きもできずに目で追った。膝《ひざ》がその場に崩れ落ちた。見殺しだ。こんな状態になってから後悔する自分を呪った。  ——まだ一縷《いちる》の希望があるかもしれない。  すがる思いで、笠原はのろのろと立ち上がった。  この日、都内の幹線道路でトラックとバス、乗用車十一台を巻き込んだ多重衝突事故が発生し、周囲の病院の緊急外来は被害者の家族からの問い合わせと急患の搬入で混乱していた。笠原が仲西聡美の受け入れ先を知ったのは四時間も経ったあとで、時間は午後六時半をまわっていた。  笠原はメモを取り出し、仲西聡美が勤めていた会社に電話を入れた。社長がいたのでつないでもらった。歳相応の落ち着いた声を耳にしたとき、身を裂かれる思いがした。自分の素性と仲西聡美が置かれている状況を話すと、電話の向こうでしばらく放心するような沈黙が続いた。同じ話を何度もくり返さなければならなくなった。電話が切れるまで、ついに彼女が収容された病院を訊《き》かれることはなかった。  救急車の白い車体が、赤くきらめく閃光灯《せんこうとう》をまわして薄暗い構内を行き来していた。緊急外来の受付では電話が頻繁に鳴り、入口のドアが閉まっても外からサイレンの音が洩れた。  耳から血を流している子供が担架で運び込まれてきた。ぐったりとし、生きている顔色ではない。早く、早く、とせかす親の声が無情に響き、歩き進んでいく笠原の脇に冷たい汗が滲《にじ》んだ。  廊下の奥で当直医らしい男が看護婦と立ち話をしていた。看護婦は彼をサワノボリと呼んでいた。  笠原はその当直医に近づき、袖《そで》をつかんだ。 「仲西聡美という女性が、ここに収容されていると伺いましたが」 「君は?」と、頭の先からつま先まで眺め渡された。「……関係者以外に入ってもらっては困るが」 「フリーライターをしている笠原といいます。彼女とはここ最近、仕事の関係で何度か会っていました」 「そうですか」と、彼は白衣のポケットに手を入れ、関心なさそうに背を向けた。 「待ってください。彼女には身寄りがいないんです」 「君が身内に近い存在だと?」  彼はわずかにふり向き、細い目を向けてきた。 「……はい」  後ろめたさがあった。 「ライターと言ったね? 彼女は自殺未遂だ。しかも焼身自殺を選んでいる。それがどういう意味なのかわかるかね?」  笠原は内唇を噛んだ。血の味が口の中に広がった。「慢性腎不全を患っていることは知っています。……詐欺にあって、腎臓移植が叶《かな》わなかったんです。仕方がない」 「仕方がない? じゃあ、君は知りながら放っておいたのか」 「……助かるんですか?」  自分の声が、ひどく弱々しく聞こえた。 「ガソリンをかぶらなかっただけでも不幸中の幸いだ。応急処置をして栄養剤の点滴と輸血を続けている。今、輸血が足りない状態でね。おまけに交通渋滞がひどくて他から届かない」 「だったら俺の血を」 「血液型は?」 「B型です」 「彼女はAB型だ」  冷たく突き放された。彼はいったん踵《きびす》を返したが、その場で立ち止まった。 「——何とかしてあげたい気持ちは本当にあるのか?」 「え、ええ」  笠原は顔を上げて答えた。 「では自分の身体にメスを入れて、腎臓をひとつ彼女にあげる勇気はあるのかね? 彼女が切望したことだ。少なくとも、それで自殺の要因が取り除ける」  笠原は声を失ったままその場に立ち尽くした。一瞬、わき腹を守るように手をあてていた自分に気づいたからだった。重圧、罪悪感、その場の閉塞感《へいそくかん》に耐えかね、肩を震わせながら緊急外来の入口方向へと戻っていった。  当直医はふんと鼻を鳴らし、通路の奥へと姿を消した。  澤登は研修医のひとりをつかまえ、「ぐずぐずするな」と指示をはじめた。 「輸血はできる限り続けておけ」 「ですが」 「もう少しの辛抱だ」 「……この渋滞ではもう間に合いませんよ。どの病院も混乱しているはずですから」  研修医は困惑を顔に浮かべ、訴えた。 「いいか。ドナーからの提供物は必ず届く。責任は全て私が取る。到着次第、患者の左腕部分の植皮からはじめる。その後、すぐに病院を移す。指示通り、腎臓の適合検査の準備は済んだだろうな[#「腎臓の適合検査の準備は済んだだろうな」に傍点]? 念を入れてチェックするぞ。これから長丁場になる」  緊急外来の入口で大型バイクのエンジン音が轟《とどろ》いた。それは急速に小さくなり、やがて完全に途絶えた。澤登はそれを合図とするように手袋とマスクをはめ、白衣で包んだ身体を翻した。  受付で頭を抱えてうずくまる笠原のそばを、ブーツの足音が通り過ぎようとした。  短い沈黙ができた。  再びかつかつと鳴り響き、それは奥へと消えていった。 [#地付き]〈第三幕 終わり〉 [#改ページ] [#ここからゴシック体] 「——ぶじ、もどって、きて、  くれた、よう、だ、な——」 「……ああ。ひとつ問題があるとすれば、  まだお前の声が聞けることくらいか」 「——ふふふ。それは、たしか、に、もんだい、だ。  すば、る——、この、しごと、が、おわったら——、  ——どこか、いくあて、が——、ある、の、か」 「芥にナビゲートでもしてもらうよ」 「すばる——。おまえが、おもって、いる、ほど、  わたし、は、つらく、ない。——ただ」 「……ただ?」 「——ときどき——、  わたしが——、おんな、で、あった、ことを、おもい、だす。  それ、だけ、は、すごく——、つら、い」 「悪いな。お前の言っていることがわからないよ」 「——そう、か——」 「だが、ずっと昔に、どこかで会ったことがあるのかもしれない」 「————」 「でも、もうそんな姿になってしまった。  もうおれが、思い出せないくらいの姿になってしまった」 [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ]  第四幕[#「第四幕」はゴシック体] 鉛の心臓      1[#「1」はゴシック体] 「あなたと話した四人の孤児のうち、ひとりだけ嘘をついていた子がいますよ」  森尾哲朗《もりおてつろう》はガイドの言葉に耳を疑った。最後に話したレンという十一歳の女の子には、実は家族がいるというのだ。この子は施設で孤児のふりをして生活している。  それはなぜだろうか?  半年前の話になる。  哲朗は、ジョギング、水泳、自転車などの、心臓の拍動を速める行為をやめるよう医者に告げられていた。心臓が多くの酸素を要求しても酸素を心筋に与える動脈が硬くなっているため、酸素が充分に得られない。——冠状動脈硬化症と診断された。心臓部の圧迫感や痛み、むくみ、動悸《どうき》、息切れがその主な症状になる。  哲朗にとって東南アジアへの旅行は、教員時代からの念願だった。定年を待たずしてリタイアすることになった自分に、その夢を叶《かな》えてくれた最愛の妻と主治医に感謝した。ツアーは彼ひとりで参加することにした。カンボジアの滞在は最終日程にあてられ、タイのバンコク経由でカンボジアのプノンペンに入り、そこからさらに飛行機でシェムリアップ空港へと向かう。日本人用のマイクロバスがチャーターされ、二十名余りのツアー客は一路アンコールワット遺跡を目指す。  白人や日本人で溢《あふ》れかえるアジア最大の寺院都市をひと通り観光巡りしたあと、近くにあるアンコールクラウ村に立ち寄ることになった。日程の最終目的地は、そこにある小さな養護施設だった。内戦による孤児や、地雷で手足を失った大人達が百人余り生活している。 「本コースではこの施設の子供達の世話や雑用を行っていただきます。ボランティア初体験の方でも気軽にできますし、言葉に不安を感じる方でも片言の英語なら通じます」  日本語が堪能《たんのう》な現地ガイドが先導していく。  孤児達はにこにこと笑顔を浮かべて整列し、日本人ツアー客を温かく迎え入れてくれた。ツアーに参加した学生や婦人達は、それぞれ持参してきた古着やお菓子を手慣れた様子で配り、その場限りの交流を賑《にぎ》やかにはかりはじめた。子供達と一緒に遊ぶ者、洗濯を手伝う者、井戸水で食器を洗う者と、ツアー客は分かれていく。  ここでは観光をするにも、ボランティアをするにも、安全に感動を得られる。  哲朗はその場の雰囲気になじめず、施設の外れに寄って暑さに耐えていた。そんな姿を気にかけられたのか、現地ガイドが小走りに寄ってきた。連れて行かれた先は狭い教室の中だった。  テーブルを囲んで四人の孤児が座っていた。  男の子が三人と女の子がひとり。算数の勉強を教えてやってくれないか、とガイドが頼んできた。自分が教師をしていたことをツアー客の誰かが喋《しやべ》ったのだ。お菓子をもらっている子供もいる中、彼らが本当に勉強をしたがっているのかわからないので、哲朗はとりとめのない会話で場をつなぐことにした。旅行前にこの国の言葉を必死に覚えてきたことが、多少は役立った。  男の子達は見知らぬ外国人を目の当たりにしても、臆《おく》する様子を見せない。むしろ器用に英語を混ぜながら近況を語ってくれる。身なりは貧しいが、彼らの気さくな笑顔には、日本の子供達にはないものがある。  哲朗はふと、レンという女の子に目をとめた。  歳は十一歳だという。この中では一番の年長者だった。口数が少なく、心をどこかに置き忘れてしまったかのように格子窓の外を眺めている。目をとめたのは、彼女の耳たぶに丸い火傷《やけど》の痕《あと》を見つけたからだった。  ガイドと一緒に教室を出たときだった。 「ここに引き取られる以前の孤児達は、薬物中毒になっている場合があるんです」  先を歩く哲朗は驚いて首をまわした。薬物なんて簡単に手に入るのか? そんなものを買う金があれば、なぜ食べ物を買おうとしない? とガイドに訊《き》いた。 「ガソリンなら盗めばただで手に入る」  その言葉を理解するまで、瞬《まばた》きを何度もすることになった。  街を徘徊《はいかい》する孤児達はガソリンを吸うらしいのだ。車から盗めばただで手に入る。ドライバーは見て見ぬふりをする。注意をすれば目をつけられ、集団で車窓を叩《たた》き割られ、物を盗まれることに発展しかねないからだ。いくら追い払ってもカラスのように群がってくる、そんな孤児達の相手はとてもできないという。だから空き缶一杯程度のガソリンには目をつぶる。質の悪いガソリンはうっとするほど濃い匂いがし、歯を蝕《むしば》み、たちまち身体を悪くさせる。そうまでして吸うのは、空腹を忘れるための現実逃避に他ならないのだ、とガイドは説明した。  続けざまにガイドは言った。 「あなたと話した四人の孤児のうち、ひとりだけ嘘をついていた子がいますよ」  哲朗は足を止め、えっ、と声を洩《も》らした。 「——レンには家族がいますね。間違いない。あの子は隠していますが」  レンという女の子はベトナムの国境を越え、物価の安いカンボジアを目指しホームレスの生活をしながら街を渡り歩き、この施設に向かうバンに潜りこんだらしいのだ。 「どうしてそんなことがわかるのです?」 「直接訊いてみましょう」  哲朗の制止をふり切り、ガイドは口に両手をあててレンを呼んだ。レンは教室の入口から顔をのぞかせ、ひょこひょことした足取りで近づいてきた。警戒する様子がうかがえる。  哲朗はこの国の単語をつなぎ合わせて、両親のことを質問してみた。  レンは口を閉ざした。やがて、ふたりの大人の顔を交互に見上げた。 「大丈夫、君をここから追い出すことにはならない」  ガイドが優しくかけた言葉に安心を得たのか、レンはぽつりぽつりと口を開きはじめた。黒くぼろぼろにかけた歯が見えた。 「両親はいる。でも兄弟がたくさんいて食べるものがない。わたしは一番上だから家を出てきた」  彼女もまた、たどたどしい現地語を使っていた。 「レンがホームレスの生活をしてきたことを、両親は知っているのかい?」  と、哲朗は聞いた。 「たぶん。この歳で仕事なんてあるわけないよ」 「今ここにいることを、レンの両親は……」 「きっと喜んでる」  哲朗は声を失い、奥歯を強く噛《か》み合わせた。そしてガイドにひとつだけ気になっていたことを尋ねた。この子が孤児ではなく、家族が健在であることに気づいた理由だ。  ガイドは日本語[#「日本語」に傍点]で答えてくれた。 「ほら、この子の左の耳たぶを見てごらんなさい。丸い火傷の痕があるでしょう? ベトナムのとある村で『競売』にかけられて高い値がつくと、こんな傷をつけさせられるんだ。ストリートチルドレンや、外国のビジネスマンが現地の女に生ませた子は、『売り物』としての質が落ちる。育てる親がいないので健康面に問題が生じるし、さっき話した薬物中毒も理由になる。栄養失調の子供なんて誰も買わないよ。あなた方外国人は誤解しているかもしれないが、身元がわからない子は逆に高く売れない。日本人ならこうたとえればわかりやすいかな、猫や犬に血統書というものがあるかないかの違い。買う人間はあくまで金のある人間です。この子は間違いなく、親の手によって競売にかけられたんですよ。おおかたその村から逃げてきたんだ。この子は自分がもう二度と競売にかけられないよう、自ら身体を壊しながらここにたどり着いたんだと思う」 『生まれる環境を選ぶことができない不平等な私達でも、時間だけは平等に与えられる』  哲朗は、いつかこのようなことを聞いた憶《おぼ》えがあった。  しかしこのような言葉は嘘だ。  時間は平等ではない。断じて違う。背負わざるを得ない不遇な環境にある人間と、何ひとつ不自由のない環境で生まれた人間とは、時間の「流れ」が違うのだ。それは時に、残酷なほどにゆっくりと流れることがある。この子の顔の皺《しわ》は何を物語っている? たった十一年しか生きていない人間が刻める面影ではない。この子の瞳《ひとみ》はなぜこんなに乾いている? 何も見ていない目で見つめ続ける空にいったい何が映るんだ?  自分は慈善事業をするような人間ではない。少なくとも今まではそう思ってきた。カンボジアでは年々観光客が増え、特に日本人観光客が増えているという。日本語を話せるカンボジア人は、ホテルやレストランに好待遇で就職できる。この施設で日本語教師として働くことはできないだろうか——哲朗はふと思った。そうすればこの子達に少しでも多く、未来への選択肢を増やしてあげることができる。それがたとえ偽善と思われようが、この子達が進む一歩に役立つのであれば、それでいいのではなかろうか?  養護施設を去る時刻が近づいた。  マイクロバスに乗り込むとき、多くの子供達が見送りにきてくれた。哲朗はその中でレンを見つけた。乗車口に上げた足を下ろし、彼女に尋ねてみた。 「レンの将来の夢は何だい?」  少し考えてから彼女は口を開いた。 「大統領になりたい。そうすればお腹いっぱいご飯が食べられるし、お父さんとお母さんに、楽な生活をさせてあげられる」  このとき、自分の余生で何をすべきなのかがはっきりとわかった。  帰りのマイクロバスの中で、前席から冷房が利いていないという愚痴が洩れていた。哲朗は左胸に手のひらをあて、瞼《まぶた》を深く閉じた。この心臓がまだもってほしい——強くそう願った。      2[#「2」はゴシック体]  カレンダーの日付が二月十日をさした。  半年前に経験したカンボジアの出来事が、まだ鮮烈によみがえってくるときがある。  哲朗は余生の夢を果たせずに、日本にいた。  病室にある壁掛け時計は午後一時半をさしている。風向きが変わり、窓の隙間から洩れ、オレンジ色のカーテンをはためかせた。パジャマ姿の哲朗はベッドで上半身を起こしていた。身体を起こして呼吸すると、少しは楽になる気がする。 「森尾さん。窓、閉めましょうよ」  香織《かおり》がリンゴの皮を剥《む》く手を休めた。今年で二十五歳になる彼女は、妻の律子《りつこ》とは遠縁の関係にあたる。歳を隔てたふたりは仲が良く、彼女は編み物を教えてもらいに度々自宅を訪ねていた。彼女は今日も、哲朗の見舞いにきてくれている。 「もう少し、冬の風にあたらせてほしい」 「寒くてもいいの?」 「……ああ」  哲朗は軽く頷《うなず》き、言った。  一週間前のことだった。自宅の庭先で心臓が締めつけられる痛みに襲われ、目まいとともに倒れた。妻の律子は不在で、外に向かって助けを呼ぼうとしたが声が出なかった。幸い自宅を訪れた香織が見つけてくれ、救急車でこの病院に運ばれることになった。今まで何度も通院してきた病院だった。入院の準備と身のまわりの世話は、全て彼女がやってくれた。花瓶に生けた白いカーネーションがしおれないのも、窓の桟に埃《ほこり》が溜《た》まらないのも、彼女のお蔭《かげ》だった。  香織は水筒に入れてきた紅茶をカップに注いでくれた。 「はい。紅茶は効くらしいよ」  哲朗はカップを両手で受け取った。温かそうな湯気が立ちのぼってくる。その白い湯気は、哲朗が抱いてきた空白の時間を思わせた。カップに口をつけないままその存在さえ忘れてしまいそうになったとき、 「退院できそうなの?」  と、香織が尋ねてきた。 「面倒な検査をたくさん受けたが、来週のはじめにはこの病院を出られそうだ」  哲朗はカップを撫《な》でて答えた。頭痛も目まいも不眠も、精神的にまだ我慢ができていた。パジャマの胸元から薄い胸板が見えた。やがて意を決したように顔を上げた。 「この間言った、私の頼みだが」  香織がふり向いた。その意味を察したらしく、表情に影が落ち、リンゴを載せた皿がぎこちなく置かれた。 「律子さんのこと?」 「一緒に捜して欲しい。……礼を言い尽くせないほど世話になっている君に、私が頼める義理でないことはわかっている」  哲朗はうつむき、香織から逃げるように視線を外した。それ以上の言葉を接《つ》ぐことはできなかった。彼女がOLとして勤務する会社を辞めていたことは知っていた。社内恋愛のもつれが原因らしい。これから先、何年も笑って顔を合わせられるほどわたしの心は広くない、と苦笑していたことを哲朗は憶えていた。甘えすぎかもしれないが、今頼れるのは香織しかいなかった。 「律子さん……」  香織はそう洩らした。彼女は森尾夫婦の間に起きた事情を知っている、唯一の人物だった。  妻の律子が姿を消して二ヶ月余りが経つ。置き手紙の入った封筒を残し、わずかな着替えと手荷物を持って自宅からいなくなった。あとでわかったことだが、哲朗の退職金を預けた銀行口座から百万円が下ろされていた。「私は私の余生を見つけた。どうか捜さないで欲しい」——それが最後に残した言葉だった。封筒には捺印《なついん》された離婚届も同封されていた。律子の身内には事実を伏せて確認を取ったが、足取りはつかめなかった。  律子は一緒にビザを取り、カンボジアで生活することに賛同してくれた。毎晩のように余生の夢を語り合い、カンボジアの現地語であるクメール語も一緒に勉強してきた。その律子が「私の余生を見つけた」と一方的に書き残し、忽然《こつぜん》と姿を消してしまったのだ。その理由がわからずに、今までの間、深い喪失感とともに空白の時間が流れていた。 「警察に届け出たんですか?」  香織が静かに言った。  哲朗は目を閉じて首をふった。 「毎年八万件以上の届け出があるそうだ。律子はちゃんと自分の意志を残して出ていっている。それに子供じゃない」  香織は黙っていた。 「なにより届けを出してしまうと、たった七年間で『死に別れ』になってしまう。それが私には忍びない」  哲朗はようやく、ぬるくなった紅茶を唇に運んだ。 「私はね、動悸《どうき》を伴う激しい運動はできない。だが気をつけてさえいれば、普段の生活に支障はないんだ。コレステロールの高い食事も煙草もやめ、なるべく重い荷物は持ち歩かないようにしてきた」  そして哲朗は目を伏せた。「しかし今はもう、すっかり気弱になってしまったよ」 「——タロスケのことを思い出してるの? タロスケが死んだのは、森尾さんのせいじゃない」  香織は身を乗り出し、語調を強めて言った。  タロスケとは、森尾夫婦が大切に飼っていた力の強い大型の老犬だった。特に律子が可愛がった。律子は若い頃に一度流産して以来、子供ができない身体になっていた。律子が姿を消す十日ほど前だった。早朝、哲朗が散歩に連れて出かけているとき、タロスケはトラックに轢《ひ》かれて死んでしまった。 「私のせいだ。あのとき急に走り出して、手綱を放すしか方法がなかったんだ」  哲朗は弱々しく洩《も》らし、当時タロスケの亡骸《なきがら》を見て発作を起こしてしまった自分の姿を呪った。心臓に疾患さえなければ、タロスケの手綱を放さずに引きとどめることができたのだ。あのとき、口に手をあてたまま呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした律子の目に何が映ったのだろう? 自分勝手な推測になるが、失踪《しつそう》するきっかけを自分が作ったとすれば、その出来事くらいしか思い浮かばない。  さくっとリンゴを噛《か》む音がした。  香織は窓の外に視線を投げ、頬を動かしている。風が彼女のつややかなストレート・ヘアをふわりと浮かせた。 「わたしはいいわよ」  哲朗ははっと顔を上げ、自分の願いに応《こた》えてくれた香織を見た。 「——律子さんを捜すの手伝うわ。森尾さん、退院したらひとりでも捜すつもりなんでしょう? 危なっかしいから付き添うわ」 「ありがとう、礼はさせてもらうよ」  哲朗はベッドの上で深々と頭を下げた。 「礼なんていらないわ」 「それでは気がすまない」 「じゃあ、その代わりひとつ聞かせて」 「……なんだい?」 「今もまだ、カンボジアに行きたいって思うの?」  哲朗は少し考えた。 「そうだな。もうひとつの心残りになる」  自分の残り少ない余生はいったいどのくらいだろうか。心臓の疾患は、どのくらいまで自分を縛り続けるのだろうか。一刻も早く急がねばならない。 「やめた方がいいよ」  香織がぽつりと洩らした。 「……私の身体を気遣っているのか」 「ううん。外国に出るだけなら問題ないでしょう? 飛行機に乗るのも心臓病の人は自己申告って聞いた。黙っていれば誰も咎《とが》めないし、行こうと思えば這《は》ってでも行ける。わたしが言いたいのは身体のことじゃない。わたしが辞めた会社で、先輩がキューバを旅行したことがあるの。資格、英会話、社交ダンス……自分探しに夢中な先輩だった。人を愛すること、信じることができなくなった人は一度キューバに行ってみれば、って意気揚々と触れまわっていた。人生のオアシスだかスパイスだか知らないけど、ふざけるなっ、て言ってやりたかった」  香織の目がいつになく、気圧《けお》されるほど真剣な眼差《まなざ》しを帯びていることに気づいた。 「もし、森尾さんがカンボジアの孤児達を」  と、香織は続けた。「余生というキャンバスに塗るための絵の具代わりにするんだったら、やめた方がいい。その子達はきっと……もっと真剣に生きている」  胸をえぐられる言葉だった。 「追い打ちをかけることを言うんだな」 「……ごめんなさい」 「いや、いい。よく考えたんだ。色々な人の手を借りてなんとか生きている自分が、これから海を越え、見知らぬ孤児達のために役立とうとは笑止かもしれない。わずかな時間しかないかもしれないが、骨を埋める覚悟はできている。今はこの気持ちを信じたい」 「日本にだって、森尾さんを必要とする人達がいると思う」 「私を?」 「また自宅にきてたよ、あの子。この病院の住所は教えておいた。退院するまでに、ここにくるかもしれない」  香織は庭の水撒《みずま》きのために留守中の自宅に通ってくれている。彼女が言うあの子とは、哲朗が入院してから何度も自宅を訪ねてきた少年のことだった。頭は白髪で染まり、目つきが悪い十七、八歳くらいの少年だという。名乗らず、無愛想で声をかけづらい印象だが、哲朗に会いたがっている様子らしい。哲朗自身、長い教員生活の中で、その年頃で自宅を訪ねてきてくれそうな生徒に接した記憶はない。いや、ひとりだけいる。しかし彼は白髪で目つきの悪い生徒ではなかった。 「律子さんを一緒に捜すの、森尾さんが退院してからよね」  と、香織が訊いてきた。 「ああ。来週の火曜日、三日後になると思う」 「わかった。じゃあまた明日くるから」  香織は椅子から立ち上がり、手をふって病室から出ていった。  哲朗は彼女の残り香が消えるまで、病室の戸口を眺めていた。彼女には感謝しきれない。色々と苦労を背負っているというのに、こんな初老にさしかかった男の面倒を看てくれている。いつかは報いてあげたい気持ちでいっぱいになっていた。  風が吹き、再びオレンジ色のカーテンがはためいた。その波にカンボジアの蒸した熱気を思い出した。  哲朗はひとり、まだ五十七なのに、自分の周りから大切なものが次々となくなっている寂寞《せきばく》に耐えた。  退院の前日。  陽光の暖かな午後だった。哲朗は看護婦に付き添われて中庭へと散歩に出た。敷地内にある煉瓦《れんが》造りの遊歩道を一周まわるコースをとることにした。  花壇の草木が冬の季節で衰えているのとは対照的に、花キャベツが淡紅色や白緑色の葉を広げ、互いに美しさを競い合っている。そしてもうひとつ、深みのある鮮紅色に輝くガーデンシクラメンが遊歩道を色鮮やかに飾っていた。かつての教員生活の中で、鉢植えのシクラメンを大切に育てていた生徒がいたことを思い出した。  風が吹くとその鮮紅色の花弁が一斉に揺れた。哲朗は、まだ色褪《いろあ》せない、懐かしい光景の中を歩いている錯覚にとらわれた。  誰かに呼ばれた気がした。  付き添いの看護婦の足が止まり、哲朗もふり向いた。  汚れたサファリジャケット姿の、黒いゴーグルをかけた少年がぽつんと立っている。シクラメンの赤とは対照的に、彼の髪は目を見張るほど白く染まっていた。彼は一歩進んでゴーグルを外した。痩《や》せこけ、険のある顔がのぞいた。  哲朗はその場で立ち尽くした。ようやく記憶が符合し、声を上げそうになった。最後のクラス担任、中学三年生の進学クラスを受け持ったときだった。哲朗にとって様々な意味で忘れられない生徒だった。しかし、あの聡明《そうめい》な顔つきはどこへいってしまったのだろう? 「……君は高村か」  少年は小さく頷いた。  哲朗はまだ戸惑いの中から抜け出せなかった。彼があの高村昴とは信じられなかった。目の下にくまが浮き、げっそりと頬が痩《こ》けている。  ふと看護婦に好奇な目で見比べられていることに気づいた。「あの、お知り合いですか?」と、とってつけたように訊かれた。 「昔の教え子だ」  言いながら哲朗は少しずつ前に出た。  看護婦は当惑していたが、場の空気を察してくれた。「あそこの花壇の前で待っていますから」と言って、外してくれた。  哲朗は辺りを見渡した。木陰に幅の広い木製のベンチがあった。そこを指さし、無言でベンチに向かって歩いた。  ふたりは並んで腰掛けた。  先に高村が口を開いてきた。 「——学校を辞めたんだって?」 「心臓が破裂すると、豆腐みたいに砕けてしまうそうだ。……医者からずっと、そうおどかされてきた。生徒達の前でとてもそんな末路は見せられない」 「らしくねえや。そんなに痩せちまって」 「君ほどじゃない」  哲朗は言葉を探した。訊きたいことは山ほどあった。しかし喉元《のどもと》までせり上がってくる思いを堪《こら》えるので精一杯だった。変わり果てたその目、痩けた頬、その白髪はいったい何を物語っている? いったい今まで何を経験してきたら、そうなってしまうんだ?  哲朗はひとかたまりの息をゆっくりと吐き下ろした。やがてぽつりと洩らした。 「君が隣町の定時制高校に入学してからだ。一時期、未成年の暴力|沙汰《ざた》などの事件が起きると、私は真っ先に調べるようになった。噂の紐《ひも》をたどっていくと、最後に必ず君の名前が出た」  高村の表情がさっと翳《かげ》った。背を丸め、両指を組んで沈黙した。答える気がないことは明白だった。  哲朗はその様子をじっと見つめた。息を潜めていると、脳裏にあのときの情景が少しずつよみがえってくる。  教員生活最後のクラス担任を受け持つことになったときだった。私立中学三年生のクラスで、現役から退くことを覚悟していた時期だった。始業式が終わったあとのホームルームで、哲朗はまず最初に「先生は心臓が悪いから激しい運動はできない。だから協力して欲しい」と、生徒達に言った。教壇に立ち、頭を下げて頼む哲朗の姿を、生徒達はもの珍しそうに眺めていた。それから二、三日も経たないうちに保護者達のクレームが殺到した。ほとんど全てが、高校受験を控えた子供の担任にどうして障害者の教師をつけるのか、という抗議だった。生徒達がそれぞれの保護者にどのように伝えたのかはわからない。もし、「私のクラス担任は心臓が悪いから、激しい運動はできないんだって。驚かせても駄目なんだよ」と子供に言われたら、親はどう思うのだろう? ——高村昴は、珍しいことを当たり前でみてくれるたったひとりの生徒だった。彼は両親を早くに亡くし、歳の離れた社会人の兄と暮らしていた。それでも世間の不運にくじけずにいるのは、身内である兄の存在を心の支えにしていたからかもしれない。  しかしその年、高村の兄が入院生活を余儀なくされた。彼は親しかったアパートの管理人に保護者になってもらい、兄の世話と勉強の両立を続ける多忙な生活を送るようになった。律子にそのことを話すと、翌日から自分のぶんに加え、彼のぶんの弁当も作るようになった。子供ができなかった律子は、ふたりぶんの弁当を作るのが夢だったと言っていた。他の生徒の手前、弁当を渡すのは差し出がましい気がしたが、頭のいい彼は哲朗の顔を立ててくれた。毎回こっそりと受け取り、きれいに平らげてくれた。  高村が中学卒業後の進学でひとり悩んでいたときも、今と同じような姿でいた。哲朗は、大学進学の道はひとつではないことを教えた。定時制高校でも高校卒業の資格を得られること、それができなくても大検の道があり、大学受験資格を得られること……哲朗は高村の将来の選択肢のひとつとして、大検の参考書を買ってあげたことがある。 「先生の自宅で」  ベンチで石のように固まりかけた高村が沈黙を破った。「——若い女を見かけたけど」 「遠縁の者だ。私の世話をしてくれている」 「綺麗《きれい》なひとだな」  哲朗は苦笑した。 「変な勘ぐりはしないでくれ」 「わかってる。先生の奥さん……見たことないけど、きっと浮気なんてできない人なんだろうな」 「高村」  哲朗の呼びかけに高村は反応した。顔に所々、痣《あざ》がついているのがわかった。殴られた痕《あと》に思えた。 「何か大切な用事があって、私に会いにきたんだろう?」  高村は口籠《くちご》もった。次の言葉が出るまで時間がかかった。 「先生は、自分の心臓を治したいと思わないか?」 「え」 「今仕事をしているんだ。それで先生の身体を治してくれそうな医者と病院を見つけた。紹介したい」 「仕事?」 「あ……、ああ」高村は言葉を濁した。「先生が紹介してくれたところは、とっくに辞めた。先生の知らない新しいところだ」 「お前、高校は?」  高村が視線を外した。鼻から口にかけての線が強張《こわば》っている。 「そうか」  それ以上問いただせなかった。中学三年の冬、彼は自分の力で志望校の奨学金を得られるチャンスをつかんだ。しかし自分ではどうすることもできない絶望を味わうことになった。将来の道が理不尽にふさがれたことに対して、彼を充分に納得させて説明できる者は誰ひとりいなかった。哲朗自身も含めて……  再び高村を見た。そんな自分の身体を気遣って、留守宅に何度も足を運んできてくれたという。卒業してから何の音沙汰もない自分のために。——彼の背中を押すことさえ叶《かな》わなかった自分のために…… 「君だから言おうか」  哲朗は意を決した。 「私はもう、普通の心臓病でなくなってしまったんだよ」 「どういうことだ?」 「今回の入院中に告知されたばかりなんだ。突発性心筋症という病気らしい」 「とっぱつせい……」 「心臓を構成する細胞自体が変化を起こしている。次第に心機能が悪化する原因不明の難病だ。手がつけられない。もうすぐ本格的に入院しなければならない。もってあと一年といわれたよ。交通事故にあったと思って、諦《あきら》めるしかないらしい」 「——心臓を取り替えても駄目なのか?」  移植? 哲朗の目が広がった。  突発性心筋症に残された、たったひとつの治療法だった。  自分の心臓の代わりに臓器提供者《ドナー》から提供された病気のない心臓を植え込むことで、その働きによって延命だけでなく、社会復帰も目指すことができる。心臓の保存時間に限界があるため、それらの処理を四時間以内に終えなければならない。  しかし国内の心臓移植はまだ数えるほどしか例がなく、今すでに多くの患者が順番待ちの状態になっている。一年以内に国内で心臓移植を受けることは不可能に等しい。ましてや移植の場を海外に求めても、移植を受けるまでに七、八千万円近くの費用が発生してしまう。米国で心臓移植を求めた少女の家族が、一億円近くの前払いを請求されたケースもある。  哲朗にとって、心臓移植を受けることは夢物語に近かった。  自然と笑みが洩《も》れた。 「……そうだな。いっそのことこの心臓を取り替えることができるのなら、どんなに楽だろう。あと五年、十年は生きられるだろうな。その間に、やり残したことができる」 「先生、おれは本気で言っている」 「だが」と、哲朗は続けた。「まだ生きている人間から心臓をもらわなければならないんだろう? 私のために誰かの命が必要になる」 「生きている?」  高村の眼光が鋭くなった。 「聞いた話だが、脳死患者から臓器を摘出するとき、麻酔をかけるらしいな。あれはなぜだい?」  長い沈黙が訪れた。やがて、なぜだろうな、と声を震わせる返事が届いてきた。驚いて見ると、高村はうつむいて表情を隠していた。 「……私を心配してくれているんだな。ありがとう」 「気休めで言っているんじゃない。心臓移植が必要な患者を探しているんだ。脳死患者のドナーもいる。口外しないという条件で手術が受けられる。……おれは、どこの誰だかわからない奴なんかよりも、先生にもらってほしい。先生に長生きしてもらいたい」  哲朗は呆気《あつけ》にとられて空を噛《か》んだ。気持ちの整理がつかないまま、「君の仕事はいったい……」と、こぼした。 「先生には迷惑かけない。約束する」  高村は肝心な部分をはぐらかせて立ち上がった。「——費用はかかるかもしれないが、払えない金額じゃない」  それはまるで懇願する声に聞こえた。哲朗は何度も瞬《まばた》きして、高村を見すえた。 「先生、心臓にペースメーカーは使っていなかったよな?」 「あ、ああ……」 「これを」と、高村はジャケットのポケットから小さな携帯電話を取り出した。「プッシュボタンの一番に電話番号を登録してある。押し続ければつながる。電話にあくたという男が出る。先生のことはおれからよく言っておく。とりあえず病院で適合検査が受けられる」 「そんな都合のいい話があるのかね?」 「都合が良くても、悪くても、先生が生きる一歩につながるかもしれないんだ。あと一年の命だなんて言わないでくれよ。死ぬ覚悟があるんだったら、もっと生きたいと思う覚悟だって生まれてもいいはずだ。恥ずかしいことじゃない」  一瞬、高村の目の中に、悲壮感に似たものを見た気がした。 「……それともおれじゃ、信用できないか」 「いいや」  哲朗は気圧《けお》されるまま首をふった。 「頼むよ、先生。たったひとつの可能性があるなら、それに賭《か》けてほしい」  顔を隠すようにゴーグルをはめた高村は、身体を翻した。病院の入口近くに一台の大型バイクが駐車されていた。ハンドルに半キャップと四角い箱のようなものがぶらさがっている。彼はそれを重そうに背負うと、バイクのエンジンを辺りに轟《とどろ》かせ、走り去ってしまった。  すれ違いに香織の姿があった。哲朗を見つけ、手をふりながら近づいてくる。とっさに高村からもらった携帯電話をパジャマのポケットにねじこんでしまった。      3[#「3」はゴシック体]  朝十時きっかりに香織が自宅を訪ねてきてくれた。  哲朗が退院してからまず最初に、ふたりで家捜しをすることにした。律子の居場所の手がかりとなるものをしらみつぶしに探すためだった。 「すまない、本当にすまない」  口癖になりつつあったが、香織は根気強く付き合ってくれた。哲朗の自宅は五LDKの一軒家で、夫婦だけで暮らすには広すぎる間取りだった。ふたりは協力して畳まで剥《は》がし、埃《ほこり》まみれになりながら探しまわった。  昼食をとったあと、哲朗の身体のこともあり、必然的にお茶をとる時間が増えた。  そうして居間にある置き時計の針が午後四時をまわった。  家捜しも徒労に終わりかけると、香織もいささか疲れを見せはじめて足を投げ出していた。 「律子さんって、日記とか書く人だったの?」  膝《ひざ》に載せたアルバムを閉じて、香織が訊《き》いてきた。 「いいや。私の見る限りでは、そういう習慣はないように思う」  哲朗はお茶をひと口すすって答えた。 「結局、今のところ手がかりはないわけよね。まだ探してみる? わたしはいいけど」  心なしか語尾に力がない。 「いや。おかげでいくつかわかったことがあるよ」 「——本当?」 「私の中で整理がついた。やはり律子はわずかな着替えを持ち出しただけで、それ以外は何も持ち去っていない」  香織は気の抜けた息を洩らした。 「まあ、聞いてほしい。預金の口座から百万円が下ろされたことに、意味があると考えてみようか」 「それって、どういうこと?」 「口座は夫婦で共用にしている。結婚してからずっとそうしてきた。教員を辞めたときの退職金も全部そこにいれてあるし、結構な金額が貯まっている。律子は離婚届に判を押してまで私のもとから去っているのに、たった百万円しか下ろしていない。五十を超えた女がひとりで生きていくには、足りない金額だと思わないか」 「そういえばそうね。律子さん、身内の家にも行っていない様子なんでしょう?」  哲朗は頷《うなず》いた。 「そうなると問題は百万円の使い道になる。足りない金額と思うから混乱するんだ。律子は必要があって、その金額だけを下ろした。逆に言えば、百万円で失踪《しつそう》後の全てが事足りてしまうんだ」  でも、と香織は続けた。 「へそくりもあったんじゃないですか?」 「仮にへそくりがあったとしても、たかが知れている金額じゃないのかな。律子が姿を消す前に、カンボジアでの生活費を一緒に検討したことがある。夜通し話し合った。あのときの姿を思い浮かべてみても、大金を隠しているように思えない。……そう信じたい」 「あら、女は心のどこかに秘密を隠しているものよ」 「秘密か。少なくとも、律子の秘密がへそくりにあったとは思いたくないな」  言い終えて、哲朗は目を深く閉じた。 「ごめんなさい。わたし、嫌なこと言ったみたい」 「いや。香織さんの意見は参考になる。遠慮はしないでほしい」 「……あの」  香織が言いにくそうに口を開いた。「律子さんを見つけたら、どうするつもりなんですか?」  哲朗は少し考えてから答えた。 「無理に連れ戻そうとは考えていない。だが長年連れ添ってくれた妻だ。一緒に長くいたぶんだけ、身体に慣れみたいなものが染みついていてね。それが急に剥がされた感じだよ。……理由くらいは知りたい。無論、直接聞き出せなくてもいいと思っている」  自分がもう手遅れの心臓疾患になっていることは、律子はまだ知らない。それを無理に知らせるつもりはなかった。  一瞬、香織の表情が暗く沈んだ気がした。 「どうしたんだね?」  なんでもない、と香織は首をふった。 「あの、森尾さん」  哲朗は顔を上げた。 「いくつかわかったことがあると言いましたよね。いくつかってことは、まだ他にあるんですか?」 「この家から持ち出されたものはなくても、変わったものならあったんだよ。ここでお茶を飲んでいるうちに改めて気づいた」 「あの、何ですか? わたしは気づかなかったんですけど」 「電化製品だよ。そこにある」  香織は、哲朗が指さす方向に目をとめた。居間の隅に電話機があった。ファックス兼用の電話機だった。 「あれがどうかしたんですか?」 「律子は電話機を買い換えている。ずっと以前、古くなっていたから換えようとは話し合ったことがある。いなくなる前に律子が買い換えたんだ」 「ファックスは使うんですか?」 「私は使わない。一応、受信と送信の両方の記録を調べてみたが、律子もほとんど使っていないようだ。考えてみれば不思議だな」  哲朗は立ち上がった。  電話機のそばまで歩くと、それを両手で持ち上げてみた。見た目の大きさの割に軽い。裏側や側面を眺めまわしたあと、受話器の部分を片手で押さえながら傾けてみた。  ゴトリと音を立てて何かが滑り落ちた。 「大丈夫ですか?」  香織が手をついて、中腰になった。  哲朗はあわてて電話機を元に戻し、落ちた物を確認してみた。電話機の一部分で、長方形の棒のようなものが転がっている。壊れて落ちたのではなく、取り外しのきくものだった。  香織と顔を見合わせながら、手に取ってみた。 「森尾さん。これ、コピーの読み取り部分みたいですね」 「どういうことだい?」 「この電話機はファックスだけではなくコピーもできるタイプみたいですよ。一台で三役できるタイプが、いま多いですから」  哲朗は混乱した。 「この電話機の場合、ファックスの読み取り部分を外して、持ち運べるようになっているんです。コピーしたい用紙にあてて、手で上下に動かして記録するんです。そして本体に戻して、その記録を印刷させることができるんですよ」  香織は新聞紙を手元に引き寄せ、「やってみましょうか?」と実演しようとした。 「待ってくれ」  哲朗はそれを遮った。 「ということは、まだその中に何かが残っているかもしれないんだろう?」  香織はふり向いて目を丸くしたが、コピーの読み取り部分を元に戻した。本体をコピーができる機能に設定し、印刷のボタンを押した。ロール紙が巻き込まれ、かたかたと音を立てはじめた。見慣れない文字が徐々に印字されていく。  ふたりははっとした。 「これは」  出てきたのは哲朗のカルテだった。  しばらく眺めていた香織の顔が、すっと青ざめた。  カルテは通常、病院側で厳重に管理され、持ち出しは禁止されているものと思っていた。だがそれは違った。この日、病院の事務局に問い合わせてみると、カルテの開示は条件付きで行われているとの回答を得ることができた。  ふたりはさっそくタクシーを呼ぶと、病院へ向かった。  空は藍色《あいいろ》に染まりはじめていた。病院のバスターミナルでタクシーを降りると正面玄関から入った。カーペット敷きのロビーを通り過ぎ、一階奥に位置する事務室に向かった。まだ照明が点《つ》いている図書室に事務室が隣接している。窓口はすでに閉まっていたが、ガラス戸を叩《たた》いて職員を呼んだ。  しばらくして戸が少し開いた。 「何かご用でしょうか? もうご利用時間は終わっていますが」  事務員と思われる、グレーのスーツ姿の若い女性が顔を出してきた。 「カルテをここで見せていただけると聞きましたので」  哲朗は自分の診察券と保険証を提示した。 「案内板にもある通り、受付時間は午前十時から午後四時までとなっています。申し訳ありませんが、また明日お越し願えませんでしょうか?」  明日まで待てなかった。戸が閉まりかけたところを、哲朗はつま先をねじ入れた。まるでたちの悪い新聞勧誘のようで気が引けた。 「確認したいのはカルテではありません。どうしても今日中に調べたいことがあってきたんです。……お願いします」  切羽詰まる表情をしていたのだろうか、事務員の女性は困惑する表情を浮かべたが「お待ちください」と言い残し、いったん事務室の中に引っ込んだ。  相談する声が中から洩《も》れてきた。やがて綺麗《きれい》に髪を分け揃えた中年男が戸を開いた。髭《ひげ》のそり跡が目立ち、前橋《まえはし》というネームプレートが胸にある。  彼は会釈し、 「森尾哲朗さんですね」と、言った。  管理職らしい落ち着いた態度に、哲朗はほっとした。 「昨日まで、心筋|梗塞《こうそく》でこの病院に入院していました」 「そちらにおられる方は?」  と、前橋は哲朗の背後に立つ香織に目を向けた。 「遠縁の者で、私の付き添いできてくれています」 「……わざわざお越しになったのですから、立ち話もなんです。どうぞ中にお入りください」  広いスペースが取られた事務室は、しんと静まり返っていた。  残って仕事をしているのは前橋と先ほどの女性だけだった。パソコンを載せたデスクが八つあり、どこも綺麗に整頓《せいとん》されている。部屋の半分は、ハンドルをまわして移動させる書架に占められていた。  小さなガラステーブルを挟んで座ると、お茶が運ばれてきた。 「本来なら事務員以外の出入りは禁止なんですよ。規則通り、カルテや明細書《レセプト》はもうお見せできませんが、お話だけであれば伺いましょう」  香織がきょろきょろと物珍しそうに辺りを見まわし、前橋はそれに気づいた。 「私どもの病院では、患者様からの要望に応じて、診療情報を全面的に開示しているんですよ」  やや誇らしげに説明する彼は、患者に様をつけて呼ぶ習慣があった。「保険制度が立て替えているとはいえ、保険契約者である患者様ご自身が治療費を支払っている形ですからね。明細書を出さないホテルなんておかしいでしょう? 一般常識で考えれば、病院もそうするべきなのです。しかし利用する患者様は少ないのが現実でしてね」 「どうしてですか?」  と、香織は純粋に訊《き》いた。 「開示される情報の中には、患者様が知りたくない情報が含まれているかもしれません。血液型や遺伝情報、癌などの悪性疾患名やその進行度合いなどです。知りたくもない情報を知ってしまう危険性を含んでいる。それに、隣の図書室に参考文献などを用意させていただいていますが、カルテやレセプトの意味を自力で調べるのはやはり難しい作業になります。担当医や顔見知りの看護婦に直接訊いた方が、手っ取り早いときもあります」 「……あの」  ふたりのやりとりに気後れした様子で、哲朗は自分の保険証と診察券をテーブルの上に置いた。 「私のカルテもここに保管されているわけですね」 「ええ、もちろん」 「持ち出してもいいものでしょうか?」 「それは禁止しています。先ほど申し上げた通り、プライバシーに触れる可能性がありますので、あくまで見るだけです」 「私以外では、誰が見ることができるんですか?」 「患者様ご自身以外なら、近親者、法的代理人に限らせていただいています。その際は身分証明の確認をさせていただいていますが」  哲朗は身を乗り出した。 「私の妻が、カルテを見にきたことがあるはずです。それがいつのことだったのかを教えていただきたい」  前橋は貸し出しリストのファイルをめくっていった。やがてその指が止まった。 「奥様のお名前は?」 「森尾律子」 「……一度利用していますね。三十分ほどで返却されましたが」  貸し出しの日付は、律子が姿を消す二週間前だった。その時期のカルテには、まだ自分が悪性疾患であることは記述されていないはずだった。  いずれにしろ律子にはカルテのコピーが必要だった。だから自宅のコピー機の読み取り部分を隠し持ち、カルテの開示を利用して、コピーを密《ひそ》かにとりにきたということになる。あの電話機はそのために買い換えたのだ。いったい何の目的で哲朗のカルテの内容を持ち出そうとしたのか? 律子の失踪《しつそう》と何か関係があるのだろうか? 「妙なことを伺いますが」  と、哲朗は前置きして訊いた。「仮にカルテを外部に持ち出して利用するとしたら、どういった利用方法が考えられますか?」  藁《わら》をもつかむ思いだった。 「難しいですね。たとえばカルテが外部に洩れたとしても、それを見て判断できるのは医療業務にかかわる人間に限定されます。保険証や免許証のように、証明書代わりにはなりませんよ」 「つまり、何の得にもならないわけですか」 「そういうことになります」  ……行き詰まったのか。哲朗は肩を落とし、ガラステーブルに映った落胆する自分の顔を見つめた。  翌日、午前九時過ぎに自宅のインターホンが鳴った。  訪ねてきたのはふたり組の男だった。濃紺のスーツを着た長身の若者と、アルミ製の松葉杖《まつばづえ》をつく、茶色のスーツ姿の男だった。若者は上着の内ポケットから黒い手帳をちらりとのぞかせた。  哲朗は神妙な顔つきになり、ドアノブを握ったまま思わず頷《うなず》いてしまった。 「突然おじゃまする形で申し訳ありません。森尾哲朗さんのご自宅がここだと伺いましたので」 「あの……警察の方がいったい私に何の用で?」  声に抑揚がなくなっていた。もしかして律子のことで何かあったのかもしれない。不安がかき立てられた。 「聞き込み調査をしています。差し支えなければ少しお時間をいただいて、ご協力願いたいのですが」  ちらりと松葉杖の男を見た。膝《ひざ》が痛むのだろうか、時々顔をしかめている。 「近所の目もあります。……どうぞ中へ」  恐縮です、とふたりは入ってきた。しかしふたりとも立ったままで、靴を脱ぐ気配がない。  男達はそれぞれ、若い方が牧村《まきむら》、松葉杖の方が堀池と名乗った。  牧村が一歩前に出て、手帳を開きながら、 「森尾哲朗さんご本人でいらっしゃいますね?」  と、問いかけてきた。哲朗は頷いた。 「先週の日曜日、森尾さんは市内にある恩田《おんだ》総合病院に入院されていたと伺っています」 「そうですが」 「森尾さんの付き添いの看護婦から聞いたことですが、午後の二時十分前後に十七、八歳の少年が訪ねてきたとか」 「高村? ——高村が何かしたんですか?」  哲朗は牧村に詰め寄り、もう少しでつかみかかりそうになっていた。 「ええ、そうです。高村昴です。森尾さんの昔の教え子だと伺っていますが」 「そうだ。三年前、私が中学三年のクラスを受け持ったときの生徒だ。言ってください。高村がいったい何を……」  牧村はやや困惑する表情を浮かべたが、隣に立つ堀池に促されて静かに言った。 「——傷害事件の容疑者になっています」 「なんですって?」 「去年の暮れから今年にかけて、少年同士の傷害事件が多発していましてね。ある暴走族のグループが、リーダーを残して壊滅状態になっています。相手が暴走族といえども傷害事件には変わりません。中にはいまだ入院中の重傷者がいる。目撃情報をたどってここまできているのですが、今、容疑は彼にかけられています」  哲朗の目が見開いた。 「あくまで容疑です。そのとき彼は森尾さんに何を話しにきたのか、お伺いしたいのです。どんなことでも構いません。真相は別にあるのかもしれませんし、森尾さんの貴重な証言で、彼の容疑が晴れる可能性もあるのです。昔の恩師でしたら、是非ご協力いただきたいのですが」  哲朗は瞬《まばた》きをくり返し、頭の中を巡らせた。高村との話の内容を思い出した。傷害事件に関することは何も言っていなかった。あの心臓移植の話はここで言うべきことなのだろうか? 迷った。 「……あの、高村は自宅にいないのですか」  と、訊いてみた。 「森尾さんは、住所をご存じなのですね?」 「ええ」 「もぬけのからです。去年から姿をくらまして、住所不定の状態です」 「あのときは……高村が見舞いにきて、とりとめのない会話をしただけです。刑事さんがおっしゃる傷害事件を匂わせることも、どこで何をしているのかというのも、高村はいっさい触れませんでした」  本当のことなのでよどみなく言えた。  そのときだった。松葉杖の男、堀池が割って入ってきた。 「高村が中学を卒業してから、何度か会ったことはありますか?」  食い入るような目を向けてくる。 「……あのときがはじめてですが」 「彼は」  と、堀池は低い声で続けた。「一般市民からの目撃情報なら手に入るが、我々の目にはいっさい入らない。姿を隠しているようにみえるが、時々ふらりと街を大型バイクで走っている。森尾さん、どんな些細《ささい》な情報でも構わないのですよ」 「しかし、私は何も」  思わず喉《のど》が詰まった。 「中学を卒業して三年近くブランクを空けた生徒が、恩師が入院している病院を探し出してまで会いにきている」 「……それで、私を疑っているのですか?」 「客観的に判断しているだけです。真実だけを知りたいのです」そう言いながら、堀池は牧村にメモを取るよう指示した。 「待って欲しい。脅かすのはやめていただきたい。私は心臓に持病を持っているのですよ」  胸に手をあて、精一杯の抵抗を試みた。 「失礼ですが障害者手帳はお持ちですか? 心筋|梗塞《こうそく》の持病なら四級ぐらいに該当するはずですが」  哲朗ははっとした。障害者手帳を持っていないことに気づいたからだった。今ここで証明するものがない。同時にそこまで強引に追及しようとする堀池に、並々ならぬ執念を感じた。  堀池は薄く笑った。 「ご心配なさらずに。あくまで確認を取らせていただくだけです。我々も上には曖昧《あいまい》に報告できないのですよ。憶《おぼ》えている範囲で結構ですから、彼と話した内容を最初からお願いします」  哲朗は構え、すっと息を吸い込んだ。またきっと高村に会える。それまで、このふたりの刑事から隠し通してあげたい気持ちが胸の底から込み上がってきた。  律子の行方を追う作業は、この日の午後にずれた。  哲朗は近場の図書館に向かうことにした。自宅を出る前に、香織にその旨を電話で伝えたところ、図書館の正面玄関で合流してくれるという。警察の来訪については、彼女に余計な心配をかける恐れがあるので話さないことに決めた。  教員時代にも利用していた図書館は、電車で一駅、改札から徒歩十分圏内にあった。三階建てのガラス張りの建物は、冬の空を綺麗《きれい》に映し出し、陽射しを照り返しているので遠くからでも目立つ。  正面入口の回転ドアの前で、香織は待っていた。  館内に足を踏み入れると張り替えたばかりのカーペットの匂いが鼻をついた。貸し出しカウンターの脇に階段があり、哲朗は手摺《てすり》をつかみながらゆっくりと時間をかけて上った。二階の書棚には、医療関係の書籍や文献が保管されている。 「森尾さん。何か手がかりをつかめたんですか?」  歩調を合わせてくれる香織が尋ねてきた。 「……わかりかけたことがあるんだよ。それを確かめにきた」  二階にたどり着いたとき、さすがに息切れを起こしかけたが、香織に気づかれずになんとかこらえることができた。  図書館を訪れた目的はホスピスに関連する書籍だった。正確にはホスピスという名称ではなく、緩和ケア病棟という呼び名に統一されている。  哲朗が書棚から選んで抜いていくと、横から香織が手を差し出してきた。持ってくれるという。哲朗は彼女の厚意に甘えることにした。空いたテーブルに本を七、八冊積み、老眼鏡をかけた哲朗は一冊ずつ手にとりはじめた。 「……わたしは何も手伝わなくていいの?」  隣に座る香織が囁《ささや》いてきた。 「ありがとう。私は閉館時間までここにいて、調べものをすませるつもりだ。あとはひとりでもできるし、ひとりで帰れる。香織さん、今日はもういいですよ」  香織は一息ついたあと、 「何かあったら困るから、付き合うわ」  と、バッグから取り出した文庫本をめくった。  哲朗はしばらくその様子に目をとめた。今までずっと、献身的なほどに付き添ってくれている彼女に改めて感謝した。  ホスピスに関する書籍を読み耽《ふけ》っていくうちに、一時間、二時間と瞬く間に時が過ぎていった。窓から夕陽が射し、目まいを感じて腕時計に目を落とすと、すでに閉館三十分前になっていた。  哲朗は目頭を強く押さえた。香織は隣でうとうととしている。  ——律子がなぜ自分のもとから姿を消したのか? そして今、どこに身を隠しているのか?  香織は献身的に付き添ってくれているが、自分の力で突き止めなければならない。  それはひとつの疑問に行き着いてしまったからだった。  真相を知らないのは自分だけではないだろうか[#「真相を知らないのは自分だけではないだろうか」に傍点]? という疑問だった。自分以外の関係者はみんな律子の行方を知っているが、理由があって自分だけ隠されている。  だとしたら、隣にいる香織も何か隠しているかもしれない。      4[#「4」はゴシック体]  哲朗は病院で再検査を受けることになった。  朝早くからベルトコンベアに乗って心電図をとり、音をあげたくなるほどのきつい検査が続いた。昼前になってようやく薬を渡されて解放された。  担当医から入院を強く勧められた。しかし一度入院したら、もう二度と生きて退院することは叶《かな》わない気がした。だから返事を延ばした。  哲朗はこの日から杖《つえ》を使うようになった。  歩幅を狭め、少しずつ前に進むように歩き方も変えた。バス停まで向かう道程で、数え切れないほどの人に追い抜かれていく。  あれから香織とは顔を合わせにくくなってしまった。その原因は自分にある。妻の律子の行方がわからない今——その焦りと不安は、猜疑心《さいぎしん》となって香織に向けられている。何か隠しているかもしれない。次第に膨らんでいくその気持ちが、あれほど哲朗の身を案じてくれている彼女を遠ざけようとしている。  哲朗は目を落とした。枯れ葉や紙屑《かみくず》が冷たい風に吹き遊ばれて、歩道の端に追いやられている。  ひとりは寂しい。足元もままならなくなってしまった自分が、かつてカンボジアに行くことを夢見た。笑ってしまう。律子がそばにいないまま、莫迦《ばか》げた夢で終わってしまうのだろうか?  哲朗は自分の胸に手をあてた。自分に残された時間が、弱々しい鼓動とともに削り取られていく気がした。そんなことを考える自分に嫌悪した。まだ、死の覚悟ができないまま不慮の事故で命を落とす人達に比べれば、幸せなのかもしれない。  後ろから若者の笑い声が迫ってきた。背中に彼らの肘《ひじ》が触れ、杖を派手に落とした。「おい、ぶつけんなよ」ふたり組の若者は互いの顔を見合わせるだけで、哲朗には目もくれずに走り去ってしまった。  哲朗は膝《ひざ》を折り、両手をついた。  しばらくそのままでいた。  ふと、目の前を覆う人影に気づいた。 「……世も末だな」と、聞き覚えのある声とともに長い腕が伸び、杖を拾ってくれた。  見上げると、堀池という刑事が白い息を吐いて立っていた。私服姿で、彼もまたアルミの松葉杖をついている。 「先日の失礼のお詫《わ》びに、車でお送りしますよ」  哲朗はその厚意を断ろうとしたが、五十メートルほど先のバス停から、バスが排煙をあげて発進していくのが見えた。 「刑事さん。私を追いまわしても、何も出てきませんよ」 「それでも構いません。話をしたい、それだけです」  哲朗は口を噤《つぐ》み、下を向いた。頬が震えているのがわかった。こんな刑事にすがってまで、この胸の寂寞《せきばく》を埋めたい自分がいる。 「……できれば高村は、私の手で捕まえたいんですよ」  肩を貸す堀池の言葉は、目を腫《は》らした哲朗の耳まで届かなかった。  堀池の車は公園付近の路上パーキングに駐車されていた。自家用車で、国産二〇〇〇ccのオートマチックのセダンだった。  哲朗が助手席に乗車するのを確認してから、彼は運転席に滑り込んだ。怪我をしているのは左足なので、さほど支障はない。むしろ模範的すぎるほどの運転をしていた。  刑事達の来訪以来、哲朗は中学の卒業名簿を頼りに高村の住所を訪ねたことがある。兄とふたりで住んでいたアパートの部屋はすでに引き払われていた。管理人に、自分がかつての中学校時代の担任だということを説明して、彼が家族と一緒に住んでいた頃の住所を聞き出した。ようやくたどり着いた場所は、区画整理の工事で取り壊された跡だった。廃材の山々を眺めるうち、今の高村の居場所を想像して、胸が締めつけられる思いがした。  車内でしばらく沈黙が続いた。 「その足は仕事中に?」  哲朗は声を落として訊《き》いた。 「ええ。私が追っていた暴走族に先月やられましてね。……闇討ち同然で、いきなり膝の皿を割られたのです」  堀池は哲朗にちらりと視線を投げ、 「高村がひとりで潰《つぶ》した暴走族にですよ」  と、付け加えた。 「信じられない」 「残念ですが事実です」 「……暴走族なんて、ひとりで潰せるものなのかね?」 「一気に潰しにかかったわけではありません。少しずつ、間を空けながら高村は実行した。この二ヶ月で暴走族のリーダーを除くほぼ全員が、全治一ヶ月以上の怪我を負っている。そのリーダーはやくざにも追われる羽目になって、高村を血眼になって捜している」  哲朗はショックを覚え、思わず上着の上から胸を押さえた。瞼《まぶた》を深く閉じ、シートに背をもたれさせた。 「刑事さん、ひとついいですか?」  堀池は黙ったまま頷《うなず》く。 「高村ひとりに固執しているように思えます。それはなぜですか?」 「……ここから先は、私の推測が混じりますが」 「構いません。そのつもりで聞かせてもらいます」 「今、高村はひとりじゃない[#「ひとりじゃない」に傍点]。先月の話ですが、中央高速の八王子料金所を過ぎた地点で、彼は不審な男と一緒にいるところを目撃されています。目撃したのは私が知っているフリーライターですが、彼が顔をよく憶《おぼ》えてくれていた。……その高村が会っていた男が問題でしてね」  堀池はハンドルを切り、幹線道路から外れて裏道に入った。裏道はその地域の生活道になる。それを理解している堀池はスピードをさらに落とした。 「その男は南丘聖隷病院の元病院長ですよ。国内大手の聖隷薬品工業が昭和初期に設立した、日本で数少ない企業立病院です。今から約三年前、信用問題に関わる事件が発覚し、企業立病院の姿勢をマスコミに問われて当時の病院長が責任をとる形で辞任した。高村が会っていた男は、そのとき貧乏くじを引かされた後任ですよ。どんなに尽力しても地に墜《お》ちた病院の信用は元に戻らなかった。入院患者数が激減し、二年も経たないうちに閉鎖に追い込まれてしまった」  哲朗は混乱した。 「——高村がなぜ?」 「そこになります。ふつうなら、元病院長と高村の接点が見つからない。ここでひとつ伺いたいのですが、森尾さんが以前高村と会ったとき、彼はバイクに何か積んでいませんでしたか?」  哲朗は必死になって記憶を探った。 「いいや。何も積んでいなかった。その代わり、四角い箱のようなものを背負っていました」  堀池の横顔に笑みが浮かんだ。 「ふつうはバイクの後部に荷台を作って、荷物を固定させる。だが高村はそれをせずに背負っている。それはなぜか? そこを考える必要がある。つまり、そうする理由があるからです。後輪のサスペンションの振動に耐えられない物を運んでいるんですよ。——ふつうじゃない何かを」  堀池はそれ以上言わなかった。黙ってハンドルを握り続け、やがて車は哲朗の自宅前に到着した。  堀池はハンドブレーキを引いて促した。しかし哲朗はすぐに降りる気がしなかった。何か言おうとしたとき、 「森尾さんは、昔の教え子が心配ではありませんか?」  と、その口を遮られた。  哲朗はゆっくりと目を落とした。白髪になり、あんなに痩《や》せこけてしまった高村の姿が脳裏に浮かんだ。 「……私は彼に見放された。ずっとそう思っていました。うぬぼれていたのです。彼の親代わりになれずとも、彼が前に進む一歩を支えてあげれば、と思っていました。それなのに、肝心なときに何ひとつ力になってあげることができなかった」  心の底から後悔していることだった。この後悔が、自分をカンボジアへ駆り立てた衝動であることを哲朗ははじめて知った。  堀池が言った。 「無口だが、口を開くときは妙に早熟なところがあった。きっと成績は良い生徒だったはずです」  哲朗は無言で堀池の顔を見返した。 「森尾さん、さっき言った固執に関わることですよ」 「どういうことですか?」 「三年前の秋口でしょうか……。私の友人に花屋を経営している人物がいましてね。万引きの被害が続いて、私に直接相談がきたのです。犯人は店の外に出してある一番安い花を、ひと握り万引きしていくのです。どうせ売れなければ処分されてしまう花でした。問題はですね、花屋の主人が犯人を知っていたことです。不問にするつもりだったそうですが、その行為が続くので私に相談してきたのです」 「……万引き?」 「事の発端は、現場に必ず何かしら代わりのものが置かれていることでした。……時計や万年筆などがそうです。それで不審に思って調べてみると、目の届かない店先でまとめ売りしていた処分前の花が足りない」 「まさか、その犯人が高村というわけではないでしょうね?」 「高村でしたよ」堀池は短く答えた。 「なんということを」 「はじめのうちは花代を払っていたようですが、やがてそうした万引きに手を染めるようになった。……解せませんね。聞くと、名門私立高校の入試を控える立場だったそうじゃないですか。それをフイにするリスクをおかしてまで、なぜそんなことをしたのか? なぜそうまでして、ひと握りの花にこだわったのか?」  もしかして兄の見舞いに持っていったのだろうか——哲朗は一瞬そう思った。(しかし、どうしてそこまでして……)今まで耳にしなかったことに驚きを隠せなかった。 「彼は、私の前で言い訳をいっさいしなかった。だから結局、理由もわからずじまいになりました。彼が置かれた環境や前途を店の主人から聞いたとき、もう二度としないという約束のうえで便宜を図ってやりたくなりました。……実際にそうしたのです。だが後悔しています。その一年後に、高村は傷害事件の加害者となって私の前に現れた。あのときは目つきもずいぶん変わってしまっていた」  哲朗は込み上げてくるものを悟られまいと深くうなだれた。傷害事件という言葉が、鉛のように重くのしかかった。高村に愚連隊の仲間ができたのは、中学を卒業してからだ。  哲朗は、高村が万引きをしたという花屋の名前と住所を尋ねた。堀池が渡してくれたメモを受け取ると、礼を言って助手席のドアを静かに開けた。 「——刑事さん」  煙草をくわえようとした堀池は、目だけを向けてきた。 「高村が奨学金補助を受けられるチャンスをつかんだとき、私は彼に目標を高く与えてやりたかった。だから私立の名門校を受けさせようとしました。願書を出し、入学試験を無事切り抜けたところまでは良かった。高村は入試問題をよく憶えていましてね、ふたりで答え合わせもしたのです。自信はありました。しかし、その後にひかえた面接で落とされてしまった。それが二校も続けておきてしまった。そうして志望校への入学と、奨学金を得る機会を失ってしまった。……高村は口に出さずとも、薄々感じとっていたのかもしれません。両親がいない生徒は、いくら成績が良くても、あのとき志望した高校には受け入れてもらえなかったことを」 「莫迦《ばか》な」  堀池の指から、煙草がこぼれ落ちた。 「今となっては全てが推測になりますが、私にはそうとしか考えられない。高校は義務教育でないことを忘れていた。先に知っていれば、あんな莫迦げた高校なんて最初から勧めなかった。高村はそれまでどんな苦境にも耐えてきた。……普通の中学生なら、経験することもない我慢を重ねてきた。……それなのに、自分の力ではどうすることもできない挫折《ざせつ》を味わう羽目になった。私が余計な期待を持たせたからだ」  背を向けて歩き出したときだった。 「——森尾さん。待ってください」  と、車の中から呼び止められた。 「高村と接触できましたら、連絡をお願いしますよ。生活安全課の堀池といえば通じます」  短い沈黙のあと哲朗は答えた。 「また、彼と会うことができたらな」  家まで送ってもらった哲朗は、それからいてもたってもいられずに電話の受話器を上げてタクシーを呼んだ。駅前商店街から外れた場所にある「境フラワーショップ」を訪ねるためだった。  雑居ビル一階のテナントにある比較的大きな花屋だった。淡いピンクのビニールでできた庇《ひさし》が目立っているのですぐにわかった。店の前に停めてあるワンボックス車から、エプロンをつけた若いアルバイトが鉢をせっせと運んでいる。  哲朗はアルバイトのそばをすり抜けて店内を見まわした。レジの奥にあるガラスケースの前で、店の主人らしき男が広い背中を向けて屈《かが》んでいる。 「……つかぬことを、お伺いしますが」  哲朗が話しかけると、やや反応が遅れて、 「あ、いらっしゃい」  男は立ち上がり、ふり向いてきた。アルバイトと同じエプロンの胸元に、境大助《さかいだいすけ》という名前がローマ字で刺繍《ししゆう》されている。 「この店で一番安価な花はなんですか?」 「今だったら店の外に出している……」と、彼は店の外に置いてある、切り花を入れた細長いバケツを指さした。「フリージアですよ。素朴な花ですけど、香りもいいですし、もらうと嬉《うれ》しいですね。ご覧になりますか?」  明るくさっぱりして、勢いのある声に好感が持てた。案内しようと歩き出したところを、哲朗は呼び止めた。 「……あの。刑事をしている堀池さんとは、旧知の仲と伺いましたが」 「ああ、堀池ね。あいつとは小学校のときの同級生ですが、何か?」 「さきほど……本人と会っていたのです」 「へえ。あいつと知り合いなんですか」  境大助は首をまわしてきた。 「堀池さんから伺いましたが、今から三年前の秋口に、この店で万引きをしていた少年がいたそうですが」  彼の目に訪れた変化を見逃さなかった。一瞬、曇りが生じた気がした。高村のことをまだ憶《おぼ》えているのだ。 「……憶えていらっしゃるのですね? その少年は私の教え子だったのです。当時のことを、詳しく聞かせていただきたくてやってきました」 「じゃあ、あのときの……担任の先生だったんですか?」  拍子抜けする声が彼の唇から洩《も》れ出た。 「ええ」 「念のため、訊《き》いてもいいですか? その教え子の名を」 「名字は高村のはずです」  境大助は哲朗の杖《つえ》に目をとめると、レジ脇に置いてあるパイプ椅子を引きずってきた。哲朗は礼を言って腰を下ろした。 「高村の万引きを知っていて、どうして知らないふりをしていたのですか?」 「そうだなあ……」境大助はまるで口の中で飴《あめ》を転がすように言葉を選び、息を深くついて答えた。 「町の商店街では、あの子の兄さんの噂で持ちきりでしたからね。だいたいの事情は知っていました。毎日学校から帰って、すぐ兄さんの病院に行っていたようですし……。最初は無理して見舞いの花を買っていたように見えたんですが、やがて黙って持ち出すようになったんです。でもねえ、やっぱり盗みはよくない。だから小学校の頃の同級生だった堀池に相談したんです」  哲朗は膝《ひざ》の上で拳《こぶし》を握りしめ、目を落とした。 「いや。補導してくれ、という相談じゃないですよ。どうせ処分前の花だったし、あの子、持ち出すにしても、売れ残りそうなものを選んでいたようだったからね。うちのかあちゃんは、花泥棒とかいって面白がっていたし」 「面白がる?」 「なんていうか……憎めないところがあったからね」 「高村は、代わりの何かを置いていったと聞きましたが」 「万引きをする前後の日かな。……確か、はじめは万年筆だった。無言の担保というか、質屋でいう質草のつもりだったのかもしれない。時計やアクセサリーや、外国の珍しい硬貨だったときもある。とにかく家中の金目のものをかき集めて持ってくるようだった。きっとあの子の罪悪感が、ああいう形になって現れたんだと思うよ。最初のうちは事情も知っていたし、見て見ぬふりをしてきたんだ。あの子もそれに気づいていた様子だった。だが、それが続こうとした。あの子は自分が犯人だということをあえて示している。それに逃げるつもりもなかった。だからといって、放っておくのもあの子のためにならない。それで困って、堀池に相談したんです。どうしたらいい? と」  境大助は身体を翻すと、店の外から細長いバケツを小脇に抱えて戻ってきた。フリージアの花束が押し詰められ、バケツの縁には三百円の値札がつけられている。彼はその中のひとつを抜き取った。 「たぶん、言いたくないんだが……お金に困っていたんだろうな。代わりに置いていった物の中にはずいぶん高そうな物もあった。まだ中学生なんだから、誰かに相談すれば良かったんだ」  黙って聞き入る哲朗の喉《のど》が熱くなった。あのときの高村は、いったい誰に相談したらいい? お金がないと、処分前の花がほしいと——どうして口にできよう? 中学生といえど、世間の不運にくじけず、二本の足で立ってきた高村にもプライドはあるのだ。どんなにつまらないプライドでも、それがあるからこそくじけずにいられたのだ。哲朗はふいに、妻の律子が作ってくれた弁当を、嫌々ながらも残さず平らげてくれた高村の姿を思い出した。彼は何もかもひとりで背負い込み、自分にさえ打ち明けてくれなかった。花屋の万引きだってそうだ。……最初は出来心だったのかもしれない。事情を知っている店長の厚意をよすがにして、代わりのものを置いていくことを苦渋の末に考えた。それで店長には暗黙のうちに許してもらえると思っていた。罪悪感を引きずりながら続けたのだろう。哲朗は責めることができなかった。この店長は、残酷な情けを高村に与えてしまったのだ。 「かわいそうなことをしたよ」  と、境大助がぽつりと洩らした。「堀池が捕まえたとき、あの子、顔を赤くして、悔しそうに涙を滲《にじ》ませていた。あれからもう二度とこの店にこなくなってしまったな」 「……今ならわかる気がする。高村の気持ちは」  高村は本当に、見舞いのためだけに花が必要だったのか? ……違う。哲朗は思った。少なくともあのとき、高村の家は生活費をきりつめなければならない状況だった。毎日、兄の病院まで出かけていく交通費も莫迦にならない。たったひとりの兄に、金銭的な面で心配をかけたくないがために、少しでもつまらない「余裕」を見せたかったのではないか?  だから見舞いの花にこだわった。それが彼の考えた精一杯の思いやりであり、優しさであったのかもしれない。兄のためにも、そして塞《ふさ》ぎがちになりそうな自分自身のためにも。  哲朗は静かに口を開いた。「高村が、当時ここに残していった物はまだ残っているのですか?」 「別のお客さんに預けてあるんだ」 「——誰かに話したのですか?」  思わず見すえると、彼は首を横にふった。 「同い年くらいの女の子だったかな。その頃の常連で、彼が現場に残していった物をよく見つけてくれたんだ。手にとっては、預かっていいかと尋ねてきた。悪い子じゃなかったし、ひとつずつ大切そうに持ち帰ってくれたから助かったけどね」 「……そうですか」  哲朗はしばらく目を閉じた。やがて店内にヒールの足音がし、いらっしゃい、と対応する声が耳をついて、ようやく顔を上げることができた。哲朗は立ち上がり、視線を周囲に泳がせた。手間を取らせたお詫《わ》びに何か買って帰ろうと思った。ガラスケースに展示された蘭、山のように積まれた薔薇《ばら》、一重のチューリップ、園芸用の鉢植えなど順に目を通していった。やがて店の外にある切り花に哲朗の目がとまった。それは白いカーネーションだった。  哲朗は歩み寄った。 (これは)  香織が自分の見舞いに持ってきてくれた花だ。自分の病室に飾られていた花。  そっと手をあてながら、哲朗は屈み込んだ。  見舞いの花にこめられた、もうひとつの意味があるのだとしたら……哲朗は胸を衝《つ》かれる思いがした。高村がひきあわせてくれたとしか思えなかった。半ば諦《あきら》めかけていた妻の律子の行方を、失踪《しつそう》の理由を——  震える唇をゆっくりと開いた。 「これを、いただけますか?」  哲朗は白いカーネーションの花束を胸に抱え、待たせていたタクシーへと戻っていった。  退院してから五日が過ぎようとしていた。  哲朗はひとり公園のベンチに座って、香織が到着するのを待っていた。彼女の自宅からなるべく近く、そして落ち着ける場所を選んだ結果、この公園になった。  曇天だった。冬の重々しい灰色の空が垂れこめている。  枯れ葉が舞う公園は人影もない。ベンチは黄金色になった芝生に囲まれ、点在する木々が裸の枝を揺らしている。  空いたブランコを眺めながら、ふとズボンのポケットに携帯電話が入っていることに気づいた。手に取った。電源は切ってあった。高村のことを思い出した。彼は今、いったいどこで何をしているのだろう? 住所不定で警察に追われているというのに、自分の身体の心配をしてくれるたったひとりの卒業生。心臓をくれるという突拍子もない彼の言葉も、なぜか嘘には聞こえなかった。哲朗は携帯電話の電源ボタンを親指で押すと、再びポケットの中にしまった。  今は、失踪した律子の行方を突き止めなければならない。その最後のつめになろうとしている。  腕時計に目を落とすと、まもなく午前十時になろうとしていた。そろそろくる頃だと思った。 「——森尾さん」  と、背後から声をかけられた。  ふり向くとライトブルーのトレーナーにジーンズ姿の香織が立っていた。彼女は、隣いいですか、と断ってからベンチに腰を下ろした。 「急に呼び出してすまない」  哲朗は続けた。 「妻の律子がなぜ私のもとを離れたのかわかったよ。そして居場所の見当もついた。香織さんに聞いてほしくて、ここまできてもらった」  香織は顔を向けてきた。 「まず、律子が持ち出したカルテのコピーの使い道をずっと考えた」 「何かわかったんですか?」  彼女の口調に演技の素振りはない。これについては彼女は本当に何も知らないように思えた。 「実はね、私は障害者手帳を持っていない」 「え」  香織は驚いた声を洩《も》らした。 「あれの申請は自由なんだ。いろいろと税制の優遇措置は受けられるが、再就職するときなど、いつどこで、足を引っ張るかわからない。私はそんな偏見と危惧《きぐ》をずっと抱いていた。海外で働くことを夢見る人間にとっては……姑息《こそく》かもしれないが、申請は今までためらってきたんだ。つまり現時点では、私が心臓病患者であることを第三者に証明する方法がない。私が同伴して実際に苦しんでみせるか、通院している病院に直接電話をするなら話は別だがね。……律子はそのどちらの方法も取れない状況にあった。だからカルテのコピーを使ったんだ。香織さん、そこまではいいかい?」  香織は哲朗の横顔を正視したまま、 「……続けてください」  と、言った。 「もちろんカルテのコピーを見せる相手は医療関係者になる。医療関係者に私が重い心臓疾患であることを訴えなければならなかった。そういう状況に追い込まれていたんだ。どうしてこういう考えが浮かぶかというとね、おそらく律子がした経験を、私も同様にしているからなんだよ」 「それって、どういうことなんですか?」 「私の心臓は思ったより悪い。恥ずかしい話だが、私は律子の判が捺《お》された離婚届を担当医に見せて、余命があと一年だと告知してもらった」 「森尾さん……」  香織は鋭く息を吸い、悲鳴に近い声を上げそうになった。その目の中に後悔の色が滲み出ていた。 「いいから続けさせてくれ。余命がいくばくもない病気にかかったときの告知というのは、まず家族の意向を聞くのが普通なんだ。たとえ本人が、直接言ってください、と要望をしても、家族の反対を押し切ってまで本人に告知する医者なんて稀《まれ》なんだよ。それが身に染みてわかった。医師の守秘義務が絡むだろうが、個人より家族という、日本の風土がそうさせているように思う。私の場合、律子が姿を消したあとだったから、告知を受けるのに離婚届を見せざるをえなかった。自分はもうひとり身になるのだから教えてくれと、訴えたんだ。医者の告知を得るのは、それほど難しいことなんだよ」  哲朗の瞼《まぶた》がかすかに震え、足元に目を落とした。ここから先の言葉を出すのが辛《つら》かった。 「重い病気にかかった律子も同じ立場だったんだろう。律子の場合、何を見せたらいい? 私のカルテだ。いつ心筋|梗塞《こうそく》を起こすかわからない夫に、先に告知されるわけにはいかない。律子はまず先に、自分が知る必要があった。だからカルテを見せる方法を思いついた。カルテの開示を行っている病院なら増えているし、コピーを持ち出したことならいくらでも言い訳がつく」  膝《ひざ》に載っていた香織の拳《こぶし》が硬くなり、 「そう言い切れる理由はあるんですか?」と、食い入るように見つめ返してきた。 「律子が預金から下ろした百万円について考えてみたい。離婚届をいきなり突きつけたくらいだ。律子はもう私の前には姿を現さないつもりで、その金額を下ろしたんだろう。百万円で全てが足りてしまうんだ。定額が決まっている医療機関はそうない。厚生省が認可しているホスピスが一日で三万八千円。保険に従って二、三割支払えば済んでしまう。ホスピスは病気を完治させるための病院ではない。終末期の苦痛を和らげるための病院で、皮肉なことに入院前からその費用が概算できてしまうんだよ。百万円で計算するとおよそ三ヶ月。つまり、それが律子に残された時間だ」  冷たい風が吹いた。香織の顔は蒼白《そうはく》になり、唇がまっすぐにひき結ばれていた。見開いた瞳《ひとみ》に涙が、次第に盛り上がってきた。 「結論を言おうか」  哲朗は続けた。 「律子は末期のがんだ。おそらく発見が遅れて手遅れになっている。がんだとすれば、今回の失踪のつじつまが合う。——香織さん。私はもうここまで突き止めることができた。厚生省が認可したホスピスは、今のところ全国で五十もない。これから先、私ひとりでも何とか捜し当てることができる。香織さん。……もう、律子に義理を立てる必要はないんだよ。あとは君の口から話してくれないかね」  香織の細い肩が小刻みに震えていた。やがて唇を噛《か》み、こらえきれない様子で両手を顔に押しあてた。指の隙間から嗚咽《おえつ》が洩れた。 「いつから……気づいていたんですか?」  せきを切ったように香織は尋ねてきた。 「今考えてみれば、香織さんがお見舞いに白いカーネーションを持ってきたときから気づくべきだった」 「えっ……」 「母の日のイメージが強いが、あれは冬の花だ。律子が好きでね、花言葉は『わたしの愛情は生き続ける』。……それがどういう意味なのか考えてみた。君に私の介添えをしてくれるよう頼んだのは、律子じゃないのかね?」  香織は何度も喉《のど》を詰まらせ、こくりと頷《うなず》いた。  哲朗は目をつぶった。ようやく四肢の力が抜けた。一瞬、耳の中に静けさが訪れた気がした。わかっていた。怒りと、傷つけられた自尊心がまだ残っていることを。それまで努めて淡々と話してこられたが、瞼の裏が次第に熱くなってきた。胸につかえた苦しさを吐き出すかのように呻《うめ》き声を上げた。 「——どうしても納得できない。なぜなんだ? なぜ律子は私のカルテまで持ち出して、ひとりで勝手に告知を受けて、何もかも自分で抱え込もうとしたんだ? なぜ私に一言でも相談してくれなかった? 私の心臓を心配してくれたからか? ……莫迦《ばか》にしてもらっては困る。今のままでも充分に過酷なんだよ。なぜそうまでして、私に隠そうとしたんだっ」  ごめんなさい、ごめんなさい、と香織のか細い声が続いた。やがて意を決したように、泣き腫《は》らした顔が上がった。 「律子さんはすい臓がんです。……わかったときにはもう手の施しようがなくて、手術では切除しきれない状態だったんです。がんが治癒することは望めなかったんです」  哲朗の唇に苦笑が浮かんだ。自分でも醜い表情だとわかっていた。しかし抑えることはできなかった。 「すい臓がんか。私も通院と入院をくり返していたから、聞いたことぐらいある。すい臓は身体のちょうど真ん中にあって、胃や大腸のがんのように内視鏡で見ることができないみたいだな。人間ドッグでも、腹部超音波検査以外にすい臓がんを発見する方法はない。診断がついた時点で、進行していることが多いと聞く。だが……」 「すい臓がんは、他のがんと違って末期の痛みが激しいんです。呼吸困難も起こします」 「しかし、だからといって」  喉が絡んだ。哲朗は香織の肩をつかみ、ふり向かせた。彼女の唇は青ざめていた。何が彼女をここまでさせるのか、哲朗にはわからなかった。  やがて弱々しい声で、香織は答えた。 「律子さんは、体質的にモルヒネが合わないことが事前にわかったんです。いくら増やしても痛みが止まらない」  哲朗は絶句した。 「森尾さんは、長年連れ添ってきた律子さんのそんな姿を見て、平常心でいられるのですか? 末期の延命処置の選択を迫られたら、適切な判断ができるんですか? 律子さんは……夫婦で共倒れになってしまうことを一番恐れていました。森尾さんには余生の夢があるって」  哲朗の手が香織の肩から落ち、力なく下がった。  止めどなく息を吐き下ろした。  ……タロスケだ。飼い犬のタロスケのことが脳裏に浮かんだ。タロスケの亡骸《なきがら》を前に、心臓発作を起こしてしまった自分の姿を、律子は見ている。おそらくあの出来事が律子に覚悟を決めさせてしまったのだ。彼女を追い込んでしまったのだ。  末期のすい臓がんの激痛に苦しむ律子を前にして、その苦痛を和らげることができない立場でいることに、どれだけ自分の心臓が持ちこたえられるのだろう? 哲朗は左胸に手をあてて目を閉じた。——やはり自分なら平常心でいられない。長年、愛し続けた妻だ。きっと我を失う。わかりきったことだった。 (……律子)  哲朗は呆然《ぼうぜん》とした眼差《まなざ》しを宙に投げ、ベンチから立ち上がった。 「香織さん、律子のところに案内してくれないか?」 「結局、律子さんの目論見《もくろみ》は外れたわけなんですね」  哲朗はふり返って香織を見た。彼女はベンチに座ったまま、目元を手首でしきりにこすっている。 「わたし……上司に騙《だま》されて、一度死んでやろうかと思ったことがあるんです。でも、律子さんや森尾さんに会えてよかった。羨《うらや》ましかった」  香織も静かに立ち上がった。 「森尾さん、支度はしますか?」  哲朗はすぐに答えた。 「このまま行く」  律子が入院するホスピスは清瀬市内にあった。  ふたりは最寄り駅からタクシーを使って到着した。  ゴシック調の屋根とステンドグラスがはめられた窓が特徴的で、治療と完治を目的とする通常の病院とはだいぶ印象が違っていた。広い庭もあり、ホテルか保養所に似ている。  ホスピスの隣には小さな農園があった。横並びに建つビニールハウスの中が透けて見え、色とりどりのカーネーションが花をつけていた。  ホスピスの玄関扉を開き、受付に寄った。  案内された長い廊下の両側は、ホテルのようにずらりと扉が並び、それぞれネームプレートが貼られている。  哲朗は、廊下の奥からひとつ手前の個室で立ち止まった。ネームプレートには「森尾律子」とあった。  担当医から説明は受けていた。  律子はモルヒネも放射線治療も効かないことがわかり、ついに神経ブロックという、神経に局所麻酔薬や神経破壊薬を直接注入し、痛みの伝達を脳に届かせない最終的な手段が用いられていた。酸素吸入器をつけた律子は、この部屋から一歩も出ることができない状態だという。  とうとうここまでたどり着いた。自然と笑顔がこぼれそうになった。覚悟はしていたものの、それがようやく再会できる嬉《うれ》しさからくるものなのか、悲しさから表情が歪《ゆが》んでいるのか、わからなかった。  哲朗はノックし、扉を開いた。      5[#「5」はゴシック体]  再会して二日後の朝、律子は息を引き取った。  哲朗は土壇場でぎりぎり間に合ったのだった。律子の死に目にあうことができ、瞳に焼きつけておくことができた。  そして今、哲朗はホスピスの庭の片隅にいた。  実際には庭園と呼ぶべき広さだった。人影もない。朝露の混じった芝生の上で、哲朗は横になっていた。それまでベンチに座っていたが、力尽き、ずり落ちていた。  律子の読みは正しかった。目まいと息切れに耐えながら、この庭園までようやくたどり着くことができた。心臓を踵《かかと》で踏みつけられるような苦しさをこらえた。精根尽き果て、もう自分の心臓は限界にまで達している気がした。やはり、この心臓では耐えられなかったのだ。  律子の亡骸の前で、こと切れるのだけは避けたかった。夫婦での共倒れは、律子が最期まで望まなかったことだ。——約束した。臨終間際に酸素マスクを外し、手を握り、笑顔を浮かべて「行ってくれば」と律子は言ってくれた。カンボジアのことだ。  哲朗は身体の向きを変えて仰向《あおむ》けになった。  時折吹く風が冷たかったが、冷気が胸の中を洗い流してくれるようで、呼吸が少し楽になった。  律子には、自分も余命がいくばくもないことを言えなかった。これくらいの秘密を抱えていることは、きっと許してくれる。お互いさまだ。  空は青く澄んでいた。ちぎったように浮かぶ雲も目に染みるような純白だった。見上げ続けた。カンボジアの空の色もこんな感じだったのだろうか? ……もう、憶《おぼ》えていない。  次第に、その視界も薄らいできた。  さくっと芝生を踏む音がした。耳を立てると、その足音は徐々に近づいてくる。やがて人影が、哲朗の身体をすっぽりと覆った。  ——せんせい。  聞き覚えのある声だった。  首と腰に手をまわされ、優しく抱き抱えられるように起こされた。その人影は上着を脱いだ。温かそうなジャケットがふわりと舞い、両肩にかけられる。  哲朗は目を開いた。 「……なぜ、君がここに」  ゴーグルを外した高村は、無言で哲朗の身体をまさぐると、やがてポケットの中に手を入れてきた。携帯電話を取り出して目の前に掲げてくれた。哲朗は瞬《まばた》きをくり返した。——これで居場所がわかるというのか? ふいに、うっすらと笑みがこぼれてしまった。 「……いつからきていたんだ?」 「昨日の夜から」  高村は感情を押し潰《つぶ》す声でつぶやいた。 「……そうか。全部知っているんだな」  高村の輪郭が次第にぼやけてきた。その輪郭はこくりと頷《うなず》いた。 「外までうめき声や悲鳴が聞こえたよ。飛び出していきたかったけど、できなかった。奥さんは今朝?」 「……ああ。死ぬことは辛《つら》いと思っていたが、残された方がずっと辛いんだな」  哲朗の目に涙が浮かんできた。止まらなかった。ずっと我慢してきたものを抑えられなかった。 「……君は、警察に追われているんだろう?」 「おれの心配はいいよ」  高村はハンカチを取り出すと、朝露に濡《ぬ》れた顔や首筋を丹念に拭《ふ》いてくれた。そして静かに言った。 「まだ間に合うかもしれない。先生、この間の話は憶えているか?」 「……ああ。この心臓を取り替えてくれるんだろう。夢のような話だったな」 「もう少しの我慢だ。これから、あくたを呼ぶ。あいつはこういうときは頼りになる。楽になれたら、心臓の適合検査を急いで行うんだ。先生なら、きっと適合するよ」 「……君の言葉を聞くと、なぜか嘘とは思えないな。きっと本当に、この心臓を取り替えてくれるような気がする」 「もう喋《しやべ》っちゃ駄目だ」 「……でも、心臓はもらえない」  一瞬、高村の全身が強張《こわば》った気がした。 「どうして?」  哲朗は上着の上から、心臓を鷲《わし》づかみにするようにして言った。もう自分では聞き取れない声になっていた。 「……これは私の心臓だ。律子と一緒に感じてきたものや、夢を見続けてきたことが、鼓動と一緒に閉じこめられている気がする。莫迦《ばか》げたことを言っているかもしれないが、なくしたくないんだよ。だから取り出すのは勘弁してくれないか」  高村は激しく首をふっていた。いやだ、いやだ。 「……先天性の心臓病で苦しんでいる、もっと小さな子供達や若い人達がいるはずだ。もし取り替えられる心臓があるのだったら、その人達にあげてくれないか?」 「心臓をあげたい人がいる。手術ができる設備も医者もいる。それなのにっ、どうして?」  哲朗は答えようとして首の力を失い、高村の胸にもたれかかった。 「——どうしてなんだよ。先生で最後なんだ[#「先生で最後なんだ」に傍点]。どうしてもらってくれない」  喘《あえ》ぐようなその声は、哲朗の耳まで届かなかった。 「……申し訳ないが、心臓はもらえない」 「先生からもらった大検の参考書、一度破り捨てたけど、大切に使っている。おれ、先生と過ごせたことを励みにして、頑張ってこられた。先生を必要とする人達はこれからきっと出てくる。おれは、おれは、先生にもっと生きてもらいたいんだよっ」  気のせいか——それとも錯覚だろうか? 哲朗の薄らいだ視界の中で、高村の髪がさらに深い白に染まっていくように見えた。 「……すまない。高村」  哲朗を抱き抱える高村の身体が震えた。それが伝わってきた。やがて押し殺した嗚咽《おえつ》とともに、哲朗の顔に熱いものがぽたぽたと落ちてきた。 「救急車を呼ぶよ」  高村の手と身体が離れ、すっと立ち上がる気配がした。何度もためらう間があいた。やがて、ホスピスへと力強く芝生を蹴《け》る音が遠ざかっていった。 [#地付き]〈第四幕 終わり〉 [#改ページ] [#ここからゴシック体] 「ねぇ、これ見てよ。お母さん」 「……あら、珍しい時計。  懐中時計よ。たぶんこれ、日本のものじゃないわ」 「うん。裏に珍しい模様があるの」 「確かこれ、ケルティックデザインよ。アイルランドじゃないかしら。  ……昔、連れていってもらったことがあるから、わかるの。  でもこの懐中時計、止まっているわね。  ——こんな高そうなもの、どうしたの?」 「預かってきたの。  ……いつかきっと返す。  ちゃんと動くようにしてから、わたしの手で返すの」 [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ]  第五幕[#「第五幕」はゴシック体] 忘却の炉  自分が決めてしまう孤独ほど、滑稽《こつけい》なものはない。  そして人の幸せは、その本人しかわからない。  奇跡を祈るということは自分の力を放棄したときにすることだ。たとえどんな困難な状況に陥っても、そんな無責任なことはするまいと思っていた。  あれ以来、眠りの浅い日が何年も続いている。薄く目を閉じ、時が過ぎるのをひたすら待ち、ときどきひょろりと現れる眠りの紐《ひも》をつかみ損ねながら。 「軟膏《なんこう》とマッサージを。そんな手つきでは駄目だ。早く、早く」  渦を巻くような喧騒《けんそう》。ふと両手をあげた。白衣の袖《そで》が見える。古い写真のような懐かしい風景……いつの間にか、その中にいた。  南丘聖隷病院に勤めて二十年の歳月が流れた頃だった。  おかしなことだった。いつまでたっても中途入社という感が拭《ぬぐ》えない。将来を嘱望されながら周囲の反対を押し切り、苦学生をもう一度やり直してこの道に入った。どこで噂を聞きつけたのか、最初の頃はみんな距離を置くか、気を遣うかのどちらかだった。必要とされるわけでなく、好奇の目を注がれて些細《ささい》なことで試される日々。  慣れるまで、どれだけ長い歳月と人知れぬ苦労を費やしたことか。  気づいてみれば結婚もせず、独身を通していた。たまの休日でも惰眠をむさぼれず、ポケットベルで頻繁に呼び出された。不思議と出世欲は湧かなかった。ヒラの医局員のままでも満ち足りていた。必要としてくれる人達がいる——かつて得ることのできなかったその安心感を、逃したくはなかった。患者を力づけ、闘病の意志をかきたてさせる。それまで決して自分の信念を曲げずにベストを尽くしてきた。  そのベストとは——たとえ余命三ヶ月の患者でも、あと一ヶ月延ばすことに執着していたことかもしれない。  人望を得られるようになればなるほど、自分自身に関係のない細かな疵《きず》をつつき、失脚させることに陰気な喜びを見出《みいだ》す者達が現れはじめた。陰口も囁《ささや》かれた。皮肉なことに味方になってくれた同僚は、あの澤登医師だけだった。  そんな折だった。自分の考えを根底から覆す事件が起きたのは。  六月初めのある日、急患が運ばれてきた。下妻加世子《しもつまかよこ》、三十六歳。急性リンパ性白血病の患者。首のまわりに数珠《じゆず》のような腫《は》れができて熱が下がらなくなっていた。  彼女は入院が遅れたため、早急な処置が必要とされた。  ずいぶんと病院をたらいまわしにされたようだった。緊急外来に運ばれてきたとき、付き添いの少女がいた。ずっと口を噤《つぐ》み、担架からなかなか離れようとしない。セーラー服を着た、まだあどけない顔の少女。  十四歳になるひとり娘だった。あとから母子家庭だと聞いた。下妻加世子は女手ひとつで養うために、だいぶ無理を重ねてきた様子に思えた。身体は痩《や》せ、生活も楽ではないことをうかがわせた。  家と病院が離れすぎてしまったからか、娘は空いているベッドで寝泊まりするようになった。中学校が終わるとまっすぐ病院にくる。  健気《けなげ》な姿だった。介添えの手際もいい。看護婦ともうまくやっている。娘を咎《とが》める者は誰もいなかった。  娘は見舞いの花をかかさなかった。  下妻加世子の貯《たくわ》え、退職金、そして失業保険を含めて入院費のメドはなんとかついたそうだが、日々の生活をきりつめなければならない現実があったはずだ。しかしそれでも無理して、娘は花を買ってくる。母親が咎めても、娘は大丈夫だからと言ってやめようとしない。  娘は成績が良いという。下妻加世子がそう洩《も》らしていた。しかし進学に関しては諦《あきら》めざるをえなかった。娘も、母親とのこれからの生活を考えることで精一杯で、なんとかそのスイッチを切り替えようとしていたに違いない。  周りの看護婦達は、娘のことを「強い子ね」と言う。  本当に心の強い人なんて、この世にいるのだろうか? 母親の無理した作り笑い。娘にしてもそうだ。そして次第に塞《ふさ》ぎがちになろうとするあの唇……。そこから決して目を背けてはならない。  なんとかしてあげたかった。  しかし日が経つにつれ、下妻加世子の容態は予断を許さなくなってきた。  うわごとを言うようになり、娘の名を呼び続けた。お母さん、お母さん——そう呼びかける娘の小さな背中に、誰もが胸をつまらせた。  下妻加世子が助かる可能性に、骨髄移植療法があった。白血病は血液中の血球のがんになる。致死量の抗がん剤投与と放射線照射を行い、白血病細胞を死滅させてから他人の骨髄を移植する。  彼女の場合は急性であったため、生存率は極めて低い状況にあった。骨髄移植をしても助かる可能性はわずかと思えた。しかし最悪の場合に遺される娘のことを考えると、そのわずかな可能性にかけるしかなかった。  骨髄移植のドナーを選ぶとき、他人より血縁者の方が助かる確率は高い。血液型と|HLA(白血球の型)が一致しなければならないからだ。血縁関係でないと、数百人から数万人にひとりの確率でしか一致しない。  肉親同士なら、一致する可能性が非常に高くなる。  さっそく下妻加世子の血液型とHLAを検査し、彼女の血縁関係者を洗い出すことになった。思わぬ障害にぶつかった。そのことを彼女はぽつりぽつりと語ってくれた。——自分には親兄弟がいない、ということを。  そうなると骨髄バンクの登録者から探し出さなければならない。  骨髄バンクの登録者が十万人を超せば、九十パーセントの患者に適合候補者が見つかる計算になる。当時の登録者は十四万人を超えていた。しかし実際、そううまく事は運ばない。骨髄バンクは移植に必要な骨髄液を常時保存しているわけではない。登録上、適合候補者が見つかったとしても、骨髄液を入手できなければ意味がないのだ。だから十四万人を超える登録者数も決して満足な数字とはいえない。  ひとりの適合候補者が見つかった。広島に住む四十歳の会社員だった。連絡は取れなかった。不況下で勤め先のリストラにあい、個人金融の取り立てから逃れるため、住所の変更後、行方をくらましているという。この先、途方もない時間をかけて捜しあてたとしても、骨髄液を入手するまでの検査項目で引っかかってしまえば苦労も水の泡になってしまう。  なにより下妻加世子には、待てる時間がなくなっていた。  最後の希望が焦る脳裏をかすめた。彼女には、献身的に看護してくれるひとり娘がいる。ふたりの血液型が一致していることはわかっていた。  医局では猛反発を受けた。  娘はまだ十四歳。十五歳以下の未成年からの採取には、問題が生じるのではないかと反対意見が出た。体重の格差、ドナーとして耐えられるか、本人がどこまで理解して承諾するのか、万が一の事故はないと保証できるのか? 骨髄液採取の際に行った全身麻酔がもとで死亡した例があることも取り上げられた。ましてや唯一の肉親であり、レシピエントでもある母親は、意識が朦朧《もうろう》として正常な判断ができなくなっている。  ジレンマに苦しんでいたある日。  娘が医局のドアをノックしてきた。椅子にちょこんと座る彼女は、状況を薄々感じとっていた様子に思えた。  驚いた。  十四歳の少女が床に目を落としながら、自分は妾《めかけ》の子だということを告白した。母親が父親である男のもとから離れ、どれだけ苦労を重ねて、自分を育ててくれたのかを淡々と語ってくれた。そして、長い歳月の間で心を交わして築き上げてきた母子の絆《きずな》を。  最後に目を赤くさせながらこう言った。 「お母さんが助かるのなら、わたしの身体を使ってください」  娘には、身体にメスを入れるわけではなく、全身麻酔のうえ腰から注射器で骨髄液を吸引することを充分に説明した。もちろん自分が責任をもって行う、そう約束した。  翌日、HLAの検査を強行した。  ふたりは一致していた。助かるかもしれない——ほんのひと握りの希望が芽生えた。  反して周囲の目は冷ややかだった。自分の過去の経歴を知る者から、ますます異端児扱いされるようになった。万が一のことがあって遺族に訴訟でも起こされたらどうするんだ、と詰め寄られたこともある。笑わせるな。この娘の他に遺族はいない。たったひとりの肉親が命の瀬戸際に立たされているのだ。  彼らの反論が筋が通っていれば通っているほど、胸にむなしく響く日が続いた。ある者は企業立病院における信用問題だと口にした。うんざりだった。責任問題があれば全て自分ひとりで背負うつもりでいた。必死だった。そのために何もかも失ってもいいとさえ思うようになっていた。  しかしそれまで支持してくれた人達にも次第に庇《かば》いきれなくなってきた。その状況を肌で感じ取り、院内での立場が孤立するようになったとき、己の限界と無力さを呪い、苦痛と悲嘆の涙が溢《あふ》れてくるのを抑えることができなかった。 「どうしてだめなんですか?」  娘の問いに答えることができなかった。次第に娘は無口になり、交わす言葉もなくなってしまった。  担当を外される旨の通達を一方的に受けた。その頃には娘の願いもむなしく、時間の猶予がなくなっていた。たったひとりの肉親を救えるものを娘はもっている。しかしどんなに切望しても、与えることが叶《かな》わない。  闘病と延命治療の果てに下妻加世子は息を引き取った。安らかに息を引き取ったなどとは言えないものだった。  病室にはたったひとり呆然《ぼうぜん》とした表情で、母親の冷たい手をいつまでも握る娘の姿があった。もう胸を借りて泣ける人がいなくなってしまったことを、悟っていた姿にも思えた。  誰よりも絶望を味わった行き場のない思い、そして「与える自由ともらう自由」を誰よりも渇望した姿が、そこにあった気がした。  ひとりの老人が病室に駆けつけてきた。見覚えのある人物に、思わず目を剥《む》いた。聖隷薬品工業の会長だった。  あまりにも遅い、父と娘の再会だった。  娘は睨《にら》みつけ、青ざめた唇を噛《か》んだ。  芥圭一郎は、簡易ベッドの中で身じろいだ。  形容しがたい恐怖感に襲われ、少しずつ目を開き、汗ばんだ額に手をあてた。  ……皮肉な運命だ。あれから病院で不正問題が発覚し、主だった役員や医師が辞任した。まさに沈みかかった船だった。そして勤続二十年以上の医者の中から自分が病院長に抜擢《ばつてき》された。裏で推薦したのが、あの聖隷薬品工業の会長だということは知っている。  あれ以来、会長の依頼で彼女を陰から見守る日が続いた。下妻加世子の娘は、決して籍を移そうとしなかった。そして会長の臨終間際、自分は遺言書作成の証人のひとりとして選ばれた。  芥はベッドから足をおろした。  スリッパを引きずって歩き、窓を少し開けた。  冷たい冬の風が身を切り裂くように吹き込んでくる。遠くの高台から日没の鐘が聞こえてきた。閉鎖された南丘聖隷病院。五階から見下ろす風景は灰色の雲に覆われ、まるで陸の孤島にいる錯覚を抱かせた。  天気予報によれば、今日あたり初雪が降るらしい。  電話が鳴った。澤登医師からだった。しばらく話して受話器を置いた。  高村昴が彼の自宅に押し掛けてきたという。どこで住所を調べたのかはわからないが、ずいぶんと手荒な真似をされたらしい。澤登医師は自分の身を案じてくれていた。  目を横に動かした。  部屋の一面にモニターや受信機、暗号解読機が並んでいる。どれもルート・ゼロの幹部、室井広志が血道を上げて揃えた一級品だ。無類の無線傍受マニア。彼はこういう歪《ゆが》んだ形でしか、元警察幹部の父親の存在に歯向かうことができなかったのだろうか。  受信の調整をはじめた。やがてデジタル無線の受信機が反応した。  ——あくた、あくた。  ——おれだ。すばるだ。これからそっちに向かう。  ——いいか。逃げるんじゃねえぞっ。  怒気のこもった声がスピーカーから一方的に響いた。  応答しようとしたが、激しいノイズに遮られるようにぶつっと切れた。どうやらヘルメットにつけたマイクと受信機を引きちぎったらしい。もうどんなに呼びかけても反応はない。  モニターのひとつをのぞいてみる。  高村昴のバイクの現在地がわかった。病院からおよそ二十キロメートル離れた街道にいる。  ふと、赤いマーカーが点滅しながら近づいていることに気づいた。  芥は身を乗り出した。パトカーを示すマーカーだった。一台、彼の現在地付近に潜み、徐々に距離を詰めている。  送信機で呼びかけたが無駄だった。  踵《きびす》を返した。これから最悪の事態に備えなければならない。自分に従ってきてくれた者達を、彼ひとりのせいで不本意な結末に巻き込むわけにはいかない。  部屋を出ようとしたときだった。  何かに引っかかったように芥は立ち止まった。もう一度モニターに顔を向けてみる。しばらく沈黙が続き、やがて細めていた目を見開かせた。  急いでモニターに駆け寄った。高村昴のバイクを示すマーカーが、この病院から反対方向に進んでいた。パトカーを示す赤いマーカーもそのあとに続いていく。  はっと息を呑《の》んだ。  彼はパトカーの存在に気づいたのだろうか? わざと注意を向けさせ、別の方向へおびき出そうとしている動きだった。だとしたらいったいどこへ……  芥は冷えきった窓に手を寄せた。  高村昴が無事切り抜け、ここまで戻ってくることを祈った。そうすれば——今まで知ることのできなかった、下妻加世子の娘と彼の深い結びつきが、わかるのかもしれない。 [#地付き]〈第五幕 終わり〉 [#改ページ] [#ここからゴシック体] ——ずいぶんあとで知ったことだが、 あのとき、彼女が満月だと思って眺めていたのは、街灯の灯《あか》りだったらしい。 あんなことになる前に—— おれの時計を止めてしまうんじゃなかった。 そうしていれば—— 僕は…… [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ]  終 幕[#「終 幕」はゴシック体] ふたりにとって、最も貴いもの  鼻の頭に冷たい感触があった。  おれはバイクのギアをニュートラルに落とすと路肩に寄せた。半キャップのヘルメットを脱いで空を見上げてみる。綿埃《わたぼこり》のようなものが視界を覆っている。  ……雪か。今年はじめての雪だ。  アイドリングの音以外、何も聞こえない静かな場所にいた。幅の狭い旧街道をずっと走ってきた。電信柱さえない。おおよそ人が住める場所から、遠く離れた郊外。左右に広がる荒地。コンクリート製の小さな美術館やゴルフ場は建設途中のまま放置され、車もこれまで対向車二台しかすれ違わなかった。  そろそろ追いつく頃か。そう思っていると覆面パトカーがすぐに姿を現した。後ろをつけられていたことは知っていた。カーロケーションシステムを使った芥の指示を自ら拒否したおれは、自力でまくしかなかった。相手はR三三型スカイラインGT‐R。分が悪い。なによりバイクのミラーに一瞬映った、あの見覚えのある顔……。病院をのぞけば帰る場所がないことに気づいたおれは、いつの間にかこの場所を目指して走っていた。帰巣本能ってものがあるとすれば、それがわずかに残されていたのかもしれない。  パトカーは追ってくる最中、サイレンを鳴らさなかった。  いったいどういうつもりだ。  急ブレーキをかけたパトカーは前方で道を塞《ふさ》ぐように停車した。ドアを勢いよく開けて現れたのは、やはり堀池だった。まだ左足を少し引きずっている。よくここまで器用に運転してこられたものだと感心した。  おれは革の手袋を脱いだ。両手が針を刺すような寒気に包まれ、ゆっくりとバイクのキーを抜く。 「高村、顔を見せろ」  堀池が叫んできた。顔を覆うゴーグルのことを言っているのか。だったら外すつもりはない。今の顔を見られたくない。 「なんだ。その白髪頭は」  堀池が一歩ずつ近づいてくる。危なっかしい足取り。濡《ぬ》れたアスファルトの上で今にも滑って転びそうだった。 「そんなになるまで——」堀池の声が高鳴った。「今まで隠れて、お前はいったい何をしてきたんだ」 「……堀池サン。足は完治したのか?」  おれは、堀池のそれまでの問いをいっさい無視して訊《き》いた。  しばらく間があいた。堀池はふん、と鼻息を洩《も》らし、 「高村よ。心配してくれているのか」  と、言った。 「いいや。自業自得だ。……ルート・ゼロに、あんな連中にかまうからだ。おれに任せればよかったのに」 「なぜ元のメンバーを潰《つぶ》していった。不愉快だ。あんなやり方を任せた憶《おぼ》えはない」 「けじめだ。動物に言葉なんか通じないんだよ」  感情を抑えて答えた。 「だが幹部の高階が残っている。行方をくらましているが、ナイフを持っているところを最後に目撃されている。お前を血眼になって捜しまわっていると聞いた。それが、お前が言うけじめの結果か」  最後に見た高階の顔を思い出した。復讐心《ふくしゆうしん》と狂気で濡れ光った目。仲間を見捨て、ひとりで逃げ出したという噂。おれはおれのやり方で、かつておれが経験したようにあいつを追いつめた。 「……見つかったら殺されるかもな」 「高村っ」  堀池の声色が変わった。あわてて興奮を静めるように一息つき、そして続けた。 「今までどうやって警察をまいてきたんだ?」  おれはうつむき、そして無視した。 「ナンバーを外したバイクを、あれだけ猛スピードで走らせていながら検問に引っかからない。白バイやパトカーで包囲して追っても、先まわりして逃げてしまう。どう考えても思いつくところはひとつしかない」 「……だが、思っていても莫迦莫迦《ばかばか》しくて口には出せない」 「なんだと」 「そうだろう? 警察の威信がかかっているんじゃないのか。それに一介の少年達にできるはずがない、そう思い込んでいる」  堀池は黙っていた。一瞬、苦悩の滲《にじ》む顔をしていた。見るのが辛《つら》くなってきた。  だがな、と、おれは続けた。「現におれは、堀池サンをまくことができなかった。今までのは運が良かっただけだ。それにもうあんな偶然は二度と起きない」 「二度とだと?」 「そうだ。もうこれで終わりだ」 「……それを祈りたいね。いずれにせよ、お前の口から詳しく喋《しやべ》ってもらうことになるがな」 「やっぱり逮捕するのか?」 「それ以外に何の用がある」  射るような視線を感じた。やがてそれは逸《そ》れ、周囲にちらちらと送られるようになった。運転して追ってくる間、こんな寂れた郊外に何の用があるのかと不審に思っていたのだろう。  枯れ草が所々からはみ出た石階段にゴーグルを向けた。堀池もそれにつられる。その石階段を登った先にある丘陵。柵《さく》の向こうで見え隠れしている場所。——小さな公園墓地だ。もうすっかり寂れている。  堀池は察したようだ。 「両親の墓か? こんなところに」  こんなところ。確かにその通りだった。ここまで送迎してくれるバスなんて、もうとっくの昔に運休している。かつて兄貴が中古のバイクを買ったのも、それが理由だ。そしておれがそのバイクを受け継いだ。 「少し寄っていいか?」  おれは踵《きびす》を返して石階段に向かった。視線が背中に貼りついている気がした。長い沈黙があった。登っていくと、堀池が後ろからついてくるのがわかった。 「墓参りの前に、ひとつ訊きたい」  堀池の声に耳を立てる。 「南丘聖隷病院の元病院長とは、どういう関係なんだ?」  おれは黙って自分のブーツの足音を聞いていた。 「答えたくないのか。じゃあ今から言うことは、意味がわからなければ聞き流してもいい。臓器移植ネットワークや各地方のアイバンク、腎《じん》バンクから、待機患者のデータ漏洩《ろうえい》をはかっていた男が先週末検挙された。売却先のひとりも詐欺の容疑で自首している。関連して、その元病院長の名もあがっている」  また、沈黙。 「南丘聖隷病院の元病院長と組んだこと。その男が臓器移植の待機患者データ漏洩に絡んでいること。そしてお前の目撃地点を結んでいけば、運び屋をしてきたことは見当がつく。その元病院長とつるんで何を運んできた? バイクの荷台ではなく、背負って運んできたものだ。言え」  黙り続けた。 「言えないのか」 「……誰も不幸にしてねえよ」  ようやくそれだけ口にすることができた。  階段を上がりきると、公園墓地が目に飛び込んできた。計画通りに施行されずにいる公園部分は、散策できる小道も、噴水も、休息所も、どれも中途半端な状態のまま残されている。  ただし、どんなに足が遠のいても花だけは不自由しない場所だ。  一面にノボロギクが咲いている。ただの雑草だが、雪が深く積もらない限り、一年中花を咲かせてくれる。黄色い、小さな花。昔はもっと花や木の名前を知っていた。今はどんどん忘れてしまっている。しかしこの花だけは忘れずにいる。  墓地の隅まで、足を引っかけないよう注意して歩いた。戒名が刻まれた小さな比翼塚を見つけた。息が詰まる瞬間だった。くすんだ色で、まるで身を縮ませるように建っている。十トン車に潰されてしまった軽自動車——死体ごとレッカーで運ばれていくあの凄惨《せいさん》な情景は、しばらく夢から消えなかった。  目を移した。花立てに生け花、そして灰になった線香の束があった。まだ新しい。誰かが訪れた痕跡《こんせき》だった。それが誰なのか想像つくとつかみ取って遠くに投げ捨てた。  それから無心になって雑草を抜きはじめた。 「当時、かき集めた予算が三十万」  憎しみをこめてつぶやいた。抑えても抑えきれずに喉《のど》から溢《あふ》れ出してくる。「そんな金で買える墓地なんて、たかが知れている。これでもずいぶん兄貴と悩んで決めたんだ」  背後では堀池が黙って見守っている。おれは続けた。しゃくりあげるように言葉が止まらなくなっていた。 「おれの家族が揃う場所は、もうここしか残っていねえ」  引きちぎった雑草を、力を込めて握り潰した。 「……ちくしょう」  誰にぶつけるわけでもなく吐き捨てた。長い沈黙のあと、背後で動き出す気配があった。 「あの白い洋館か。……お前の兄が入院している病院は」  堀池は丘陵から見下ろせる位置まで歩き進んでいた。おれははっと顔を上げた。霧がかかっているが、志村病院の精神科分室療養所がおぼろげに見える。 「晴れればもっと見晴らしが良くなる。昔は兄貴とここでずっと過ごしてきた。あの病院も一緒に眺めた。まさか、兄貴が入院する羽目になるなんて当時は思わなかったよ」 「悪いが」  と、堀池は続けた。 「お前と一緒に、感傷にひたる気にはなれない」  おれは勢いよく立ち上がった。 「感傷じゃない。いいかよく聞け。ここが今のおれのスタートラインだ。迷ったとき、悩んだとき、自己嫌悪で気が狂いそうになったときの——再確認の場所だ。おれの中にあるのは、こんな場所から少しでも這《は》い上がることだけだ。……兄貴と一緒に、いつか」  なぜ堀池なんかを案内する気になったのか、それがようやくわかりかけた気がした。おれはまだ諦《あきら》めていない。これから南丘聖隷病院に行って、確かめなければならないことがある。同時におれは、堀池にこの場所を知ってほしかったのだ。おれと兄貴の他に、この場所の存在に気づいている人間がひとりいる。おれが度々この場所を訪れてきたことは、バイクに搭載したジャイロセンサで監視されてきたはずだ。だが、警察に知られた以上、もう安易にここに近づくことはなくなる。これ以上、他人に近づいてほしくない。 「なあ。教えてくれよ」  気がつくと、おれは静かに尋ねていた。 「なんだ」 「どうしてあんただけが、おれをしつこく追いまわすんだ?」  堀池は少しの間、考えてから言った。 「お前がガキだからだよ」  思わず鼻白む。 「くだらねえ。子供扱いするのか」 「ひとりで何でもかんでも背負おうとするガキだ。そんなガキには大人が必要だ」 「じゃあその大人が、いったい何をしてくれるんだよ」 「道を大きく外れたときの軌道修正ならできる。お前が何をやってきたのかは想像ついている。真相にたどり着いてしまう前に、お前を危険な仕事から遠ざけたい。……まだ間に合う」 「まだ、間に合うだと?」 「見込みがあればな」  おれは奥歯を強く噛《か》み合わせた。何か言おうとして、すぐ唇を閉じる。ずっとくり返した。 「……ときどき、お前らの言うことが重荷になるんだよ」  声が震えた。悟られまいと灰色の空を仰ぎ、息を深く吸い込んだ。  そしてゆっくりと堀池と対峙《たいじ》した。  おれの中で何かが吹っ切れていた。自分でも驚くほど落ち着いている。余計な抵抗や迷いは失せ、身体も軽い。 「——隠すつもりはない。おれが運んできたのは臓器だ。人間の臓器だよ」  堀池は何も答えなかった。 「……どうだい? こんなガキでも、まだ軌道修正できるのかよ?」  おれはゴーグル越しに睨《にら》みつけた。  堀池は痛ましそうな表情を浮かべている。やがて、その乾いた唇が薄く開いた。 「臓器移植のことはよくわからない。——ただ」  そして一拍おいた。 「違法行為に発展すれば、ただの人間同士の共食いになりかねない。お前はその共食いに手を貸した。俺にはそう見えるがね」 「共食いだと? 他人を喰《く》らってでも生き続けることが、悪いことなのか? 世の中そんな奴らばかりじゃないかっ。お前に何がわかる」 「高村……」  堀池は続けて何か言おうとしたが、おれはその口を遮った。 「いいかっ。臓器を分け与えたい人がいる、臓器をもらわなければ生きられない人がいる——それが共食いかどうかを決められるのは、本人達の意志だけじゃないのか?」 「……もっともだ。だがな、一面的な善悪観念が通用しないのが人間社会なんだよ。いずれは弱者が犠牲になっていく。お前にそれがわからないとは言わせない」 「くそがっ」  おれは拳《こぶし》を握りしめ、毒気を吐くようにつぶやいた。……両親が死に、兄貴が病院送りにされ、志望校の入試に失敗してはっきりとわかったことだった。どんなきれいごともなぐさめの言葉も、胸にむなしく響き、届かない世界。おれの意志によって引き起こされたものではない環境。そんなものに翻弄《ほんろう》され、他人から弱者のように扱われる苦悩の日々。他人が決めるものではないとわかっていても、それらに圧迫され、逃げ道をルート・ゼロに求めた。世間への恨みごとや、捨て鉢な退廃に、安易に寄りすがった。 「……おれがやってきたことは、間違っていない」  それだけ言うのが精一杯だった。  急に吐き気が襲ってきた。手を口にあてて咳《せ》き込んだ。腹の底から突き上げてくるものがあった。もうずっと何も食べていない。——食べられなかった。腹からは糸を引く唾液《だえき》しか出てこない。  堀池がにじり寄り、少しずつ距離を縮めてくる。おれの身体が反応し、後退《あとずさ》りをはじめた。泣きそうになった。できれば堀池のプライドを傷つけず、どうやってこの場から逃げ出すか——そのことだけに集中した。  退路は塞《ふさ》がれていた。堀池の足はまだ完治していない。つけこむのならそこだが、それはしたくなかった。  身をよじらせるタイミングをはかった。ゴーグルに手をかけ、視線の先を変えてみる。  冷たい風に髪をかき乱され、丘陵から目線を下ろしたときだった。  停車したパトカーのそばに、見慣れない大型バイクを見つけた。ライダーはいない。とっさに堀池を見た。堀池は気づいていない様子でおれを見返す。運転に夢中になって気づかなかったのか? 目で訴える。堀池は状況がわからずに、前へ踏み込もうとしてくる。おれは首を横にふった。誰だ? おれ達のあとをつけてきた人間がいる……。あれは……改造バイクだ。  全身に鳥肌が立った。 「堀池サンっ」  叫び声を上げたのと、足音が一気に迫ってきたのはほとんど同時だった。割れんばかりの怒声とともに、堀池の腰に長身の男が勢いよくぶつかってきた。両腕をまわし、しがみついている。堀池は前につんのめり、状況を把握できないまま硬直していた。大型のカッターナイフが太腿《ふともも》から引き抜かれ、それはすぐにわき腹へと食い込んだ。ようやく堀池の口から呻《うめ》き声が上がった。  ……やっぱりてめえらはグルだったんだな。  高階の赤い唇がわななき、はっきりとそうつぶやいた。沈殿した泥水のように濁った目。その底に宿る狂気の光。上着は汚れ、髪が乱れ、荒い呼吸で上下する肩。  カッターナイフを持つ右手が、おれの頭上にふり上げられた。  おれは立ち尽くしていた。膝《ひざ》が震えた。その場にへたりこみそうになった。反応が遅れた。とっさに両腕でかばった。めった切り。身体が焼けつくような衝撃を感じた。切られながら動脈を外れていることを祈った。 「——高階っ」  堀池の叫び声が耳に飛び込む。はっとした。一瞬、攻撃がやんだ。おれはまだ動ける。意識もあった。ゴーグルを濡《ぬ》らした血を素早く拭《ぬぐ》うと、棒立ちになった高階の足を払った。長身の身体がよろめいた。その隙を逃さなかった。おれは飛びかかり、高階ともつれ合うようにして冷たい石畳の上を転がった。  高階の利き腕からカッターナイフをもぎとった。ひゅっ、と何かが空を切った。おれの頬に拳がめり込み、唇が裂けた。思わず膝が崩れた。ナイフを取り戻そうとする手が伸びる。遮るようにその指をつかむと、躊躇《ちゆうちよ》なくそり返した。生木が折れるような音がし、腹わたがよじれるような悲鳴が響いた。おれは馬乗りになった。息の続く限り殴り続けた。ゴーグルが曇った。突き飛ばされ、腹に重い衝撃を受けた。身体をひねった高階が膝を鋭角に上げている。腹に受けた鈍痛は背中、そして瞬く間に全身に広がった。おれはなんとか気を失わずに済んだ。身体を折りながら、高階より先に立ち上がることができた。  高階のわき腹に蹴《け》りを入れた。そして石畳に頬を寄せる高階の顎《あご》めがけて、ブーツの踵《かかと》を勢いよく踏み下ろした。鈍い音がした。高階はそれきり動かなくなった。  荒ぶる呼吸が、次第に楽になってくる。  少しずつ元の静寂が戻ってきた。  ほっとした。何も聞こえない。おれの額から流れるものがあった。顎の先を伝い、地面に滴り落ちている。ぬるぬるとする手を広げて、顔まで近づけてみた。まだ意識もしっかりしている。  降り注ぐ雪がゴーグルを通して映った。身を切るような寒さが襲ってきた。おれは膝を崩し、呆然《ぼうぜん》と周囲を見まわした。墓地が、ノボロギクの花が、飛び散った血の色で染まっている。 「堀池サン?……」  うずくまる堀池に近づき、抱き起こした。彼は薄目を開いていた。思ったより出血は少ない。チアノーゼもひどくない。おれは刺された箇所を順に確認し、シャツを引きちぎって止血した。 「……ちんけなカッターナイフで良かったよ。動脈や内臓まで届かなかったみたいだ。救急車を呼べば助かる」  堀池は腕の中で作り笑いを浮かべていた。それが精一杯なのだと思った。 「悪いが借りるぜ」  堀池のベルトをまさぐって手錠とパトカーのキーを取り出した。立ち上がって歩くと、気を失っている高階の襟首をつかんだ。そのまま休息所の屋根の下まで引きずると、ベンチのパイプ部分に手錠をはめ、もう片方を高階の左手につなげた。これで少なくとも雪に埋もれて凍え死ぬことはない。  手錠の鍵《かぎ》は堀池の胸ポケットの中に入れた。おれは負傷した堀池を背負うと、パトカーを停めてある場所に顔を向けた。 「……莫迦《ばか》だな、お前。自分の心配をしろ」  石階段を下りる途中、うわごとのような声を耳元で聞いた。  パトカーのドアを開けた。運転席のリクライニングをいっぱいに倒し、そこに堀池を寝かした。それからアイドリング状態にして車内の暖房をつけた。堀池の携帯電話を使って一一九番を押す。この場所を伝えたあと、携帯電話を二つに折った。  堀池がずっと見ていた。腕を伸ばして引き留めようとしてくる。おれは何か答えようとしたが、喉《のど》に息が絡んでできなかった。何度かくり返して、ようやく声にすることができた。 「頼むよ。|あいつ(高階)も、救急車に乗せてやってくれよな」  顔を合わせず、ドアを静かに閉めた。  深呼吸をした。わた飴《あめ》のような白い息が顔を包み、冷たい空気に肺がしみた。バイクを停めた場所まで呼吸を整えながら歩いていく。半キャップのヘルメットを被《かぶ》り、革の手袋をはめた。  ここから先、旧街道から幹線道路を抜け、ケーブルカーの始発駅を目指し、崖《がけ》側を迂回《うかい》する最短ルートを頭の中で計算した。閉鎖された南丘聖隷病院までたいした距離はない。いつものようにとばせばいい。とばすことができれば……たぶん一時間もかからない。  おれは南丘聖隷病院に戻らなければならない。  アクセルをまわし、感覚のなくなった左足でギアを落とした。  いつまで続くんだ?  これで終わりにしてほしい。  やめてしまいたい。  やめたい。  ……もう、やめられない。  その自問は呪詛《じゆそ》のようにおれを苦しめてきた。  両手ですくいあげた砂が指の隙間からこぼれ落ちていく。……まるでそんな風に身体中から力が抜けていた。  目を開いた。腰に硬い感触があった。二列に並ぶ長椅子の中で横たわっていることに気がついた。椅子の冷たさが身体の芯《しん》まで伝わってくる。  そうか。  南丘聖隷病院の礼拝堂にたどり着いたんだ。ここまでが限界か。あとは芥に、礼拝堂の外に停めてあるバイクの存在に気づいてもらうしかない。  祭壇の壊れかけたキリスト像に顔を向けた。月の光がステンドグラスをうっすら透過し、淡い色のついた、まだら模様を浮かび上がらせている。底冷えする堂内はしんと静まり返り、吐く息は白い塊となって凍り落ちてしまいそうだった。  身体を小刻みに震わせながら思い出していた。  葉月の臓器を運び終える度に、おれはまっすぐホスピス病棟に向かわず、この礼拝堂に立ち寄っていた。今までしてきた行為を、一度も頼ったことのない神になすりつけたわけでも赦《ゆる》しを乞《こ》うたわけでもない。  この寂れた礼拝堂——この閉じられた狭い世界の中でひとりきりになりたかった。心の整理をつける必要があったのかもしれない。  おれは一千万円の報酬と引き換えに葉月の臓器を運んできた。角膜、中耳(鼓膜はその周囲の中耳という部分ごと移植するらしい)、皮膚、血液、血管、骨、腎臓《じんぞう》、骨髄液、そして肝臓の半分——ひとつずつ提供を申し出た葉月には、芥達の手によってぎりぎりの延命処置がとられている。せめてもの慈悲なのだろうか。もし葉月が生きているかと思うと、ぞっとする行為だ。  ——だが。  生きているのか[#「生きているのか」に傍点]、は考えてはいけない。  今まで自分にそう言い聞かせてきた。  死の過程——死に至る時間を止められてしまっただけなのだ。その過程の中で「水の時計」という奇跡が葉月に起きてしまった。月明かりの下《もと》で、あのアンプを通して葉月は自分の声を取り戻してしまった。  そしてくり返し切望する。  自分の身体を、見ず知らずの患者達に分け与えることを。  はたして自分が本当に必要とされたのか? それを残された片方の耳で聞きたがっている。  葉月の脳死を判定したのは現代の医学だ。所詮《しよせん》はただの基準であり定義に過ぎない。そして脳死が葉月の死であるのかを、その物差しの中で決断すべき家族が彼女にはいない。葉月には、延命に費やすための莫大《ばくだい》な遺産だけが残されている。だから不幸にも、芥達の手によって蘇生器《レスピレーター》につながれてしまった。治ることを期待されないまま、死に至る肉体だけが維持されてしまった。そうして考えられないほどの長い歳月を費やしてしまった。  生きることも死ぬことも叶《かな》わない、淵《ふち》の中。  そこから誰かが引き上げてあげなければならなかった。いったい誰が? 誰もいない。葉月の死を誰も決めることができない。  あの切実な声が脳裏によみがえってくる。  わたしに、いたみは、ない。あるのは、くるしみ、だけ——  おれは信じないが、もしこの世に神様がいるとしたら——人間が作り出したあんな理不尽な死の形をきっと嘆くだろう。延々と死に続けようとしている葉月の姿に、目を背けてしまうだろう。  死に続ける[#「死に続ける」に傍点]という矛盾。ピリオドが訪れない死。自然の摂理から外れてしまった死。——その過程に立たされたとき、本人に心が残っていれば耐え難い苦しみに襲われるのだろうか? 芥が言っていた、生命連鎖の輪の中に入っていくことを本当に望むのだろうか?  神様はあのアンプを通して葉月に奇跡を与えてくれた。月明かりの下で覚醒《かくせい》する、あの不可解で残酷な奇跡を。  残された人間にはいい迷惑だ。……本当に、いい迷惑だ。  葉月も芥達も、見えない出口を探し続けてきたのかもしれない。充分苦しみ抜いたのかもしれない。闇を照らすライトが持てなくなり、その闇を作る夜ごと消してしまおうとする行動を取ってしまったのかもしれない。  それが本当に、葉月に残された最後の選択肢だったのだろうか。  葉月を、芥達を、そしておれを縛り続けてきた「水の時計」とはいったい何だったのだろうか? ただの奇跡で片づけてしまっていいのだろうか?  おれは葉月の本心を知りたい。葉月に会いたい。まだおれに話しかけてくれる心が残っているのだったら、教えてほしい。  薄らいだ目で、埃《ほこり》の溜《た》まった祭壇を見上げた。  おれは臓器運搬に関わってきた物語を葉月に聞かせてきた。  事前に芥から手渡されたリストは、臓器移植の待機患者のうち、葉月の臓器と適合する患者を載せた名簿だった。その中から誰を選ぶのかはおれに任された。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  あたえるじゆうと、あたえないじゆう——、それはわたしがまもる。だから、もらうじゆうと、もらわないじゆう——、それは、あくたたちでは、だめだ。——すばる。わたしと、どうねんだいの、おまえのめで、たしかめて——、わたしに、きかせてほしい。 [#ここで字下げ終わり]  なぜ葉月はおれを選んだのだろう? なぜおれに自分の臓器を託したのだろう?  できるだけ慎重に選んだつもりだったが、他人が抱える痛みなんておれにはわかりっこない。無償の行為が、どれほど人々の役に立ったのかは知る由もない。いずれにしろ健康な身体を取り戻せた患者は、いっときの幸せを感じるかもしれない。だからみんな喜んでいるよ、と皮肉りたくなったときもある。それでも最後に心臓を残したとき、アンプを通して葉月はまだ与えることを望んだ。  そして、おれの名を呼び続けた。  まだ喋《しやべ》り続ける葉月の身体から角膜を運んだときは、これでもずいぶん手間取った。がむしゃらに運び続けていくことで、苦悩に揺れる胸の内を誤魔化《ごまか》そうとしてきた。鼓膜、皮膚、血液、血管、骨、腎臓、骨髄液、肝臓の半分を刈り取られ、どんどん変わり果てていく葉月の姿をできるだけ傍観するようつとめてきた。  意外な発見がある。それは、たったひとつの救いだった。  思ったよりおれはデリケートにできている。日を追うごとに頭が白髪に染まっていき、食欲も失せ、睡眠不足に悩んだ。これが目に見えるおれの良心なのだろうか? 葉月が知ることのないおれの良心……  しばらく目を閉じていようと思った。  どのくらい時が経ったのだろうか——。礼拝堂の正面ドアが軋《きし》む音を立てた。 「高村さん?」  聞き覚えのある声がした。 「……高村さん? ここにいるのですか?」  ドアが完全に開く音がした。礼拝堂の閉じられた世界が、ひび割れたような気がした。 「ここだ」  おれは椅子の上で仰向けになりながら答えた。芥がいる位置からは椅子の背もたれが邪魔をして、おれの姿は見えない。 「戻ってきたのですね」  芥は正面ドアで立ち止まり、ほっと胸を撫《な》で下ろした様子で声をかけてくる。 「悪いな。心臓、断られちまったよ。いらないんだってさ」 「わかっています。それより大丈夫ですか?」 「……ああ。少しだるいから横になっているだけだ」  芥は息を潜めるように沈黙した。 「ところではづきは?」 「先週末と変わりはありません。もうアンプからは、声を聞くことができない」 「……そうか」おれは瞼《まぶた》を深く閉じた。「今さら言うのも何だが、ひとついいかい?」 「どうぞ」  芥が静かに答える。 「おれ達がしてきたことは、正しかったのか」 「……過程は別として、少なくとも十二人の患者達に功徳を施したのです。その貴い事実は永遠に残るのです」 「だが、誰もおれ達の存在に気づいていない。裏でどんな犠牲が払われていたのかも、知ることはない」 「無償の愛とは、そういうものです」 「おれはいい。だがそれで、はづきは本望だったのだろうか?」 「お嬢様が望んだことですから」 「きっと違うな」  おれは肘《ひじ》をついて起き上がった。  芥が無言で近づいてくる。静寂に包まれた礼拝堂に足音が響き渡った。やがて立ち止まり、目を見張る顔つきでおれの身体を眺めてきた。 「これか?」と、おれはよろめく足で立ち上がり、上着とズボンを染める血を両手でさすった。 「……まさか怪我を」 「返り血を浴びたんだよ」 「返り血?」 「寄り道をしていて、高階に襲われた。最後の最後でドジを踏んじまった」 「それで、どうしたのです?」 「ぶちのめした。ルート・ゼロは全員片づけた。もう、何もかも終わった」  微笑みが歪《ゆが》んだ。足の裏が滑り、おれの身体は前のめりになって倒れかけた。「お前らがはづきの復讐をしたかったのなら[#「お前らがはづきの復讐をしたかったのなら」に傍点]、もうこれで終わりだ[#「もうこれで終わりだ」に傍点]」 「——高村さんっ」  芥ははっとした表情をよぎらせ、両手で支えてくれた。 「余計な血が抜けたおかげで、だいぶ身体が軽くなったよ。もう、もう……」  しばらくおれは、ぱくぱくと空気を噛《か》んだ。「安心しろよ。もう頭に血がのぼることもない。……案内してくれ。はづきのところに」 「しかし」  芥の声が絡んだ。おれは睨《にら》み返した。 「いいから連れてけよ」  芥に応急処置をされたおれは、肩を借りながらホスピス病棟の四階にたどり着いた。少しずつ目指していった個室内は、わずかに暖房が利いている。  スーコ……、スーコ……、スー……  いつものように単調な人工呼吸器の音が耳の中を埋めてくる。  テントに包まれたベッドに影が映る。  痛いほどの緊迫感があった。右手を伸ばし、少しずつテントをめくっていく。人工呼吸器や栄養チューブ、心電図や血圧のモニターが全身に取り付けられ、包帯でぐるぐる巻きにされてミイラのように成り果ててしまったもの[#「もの」に傍点]が仰向《あおむ》けになっている。  おれは呆然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。 「……はづきか?……」  身体を一部ずつ、刈り取られてしまった姿。  両目は眼球ごと摘出され、片耳は鼓膜のまわりから根こそぎ取り除かれ、血と骨髄液を抜かれ、皮を剥《は》がされ、腎臓をひとつ取り出され、肝臓を半分切り取られ、それでも心電図のモニターは弱々しく波形を打ち続けている。  心臓だけが残ってしまった。  見るに堪えない凄惨《せいさん》な姿だったが、おれは一瞬たりとも目を逸《そ》らすことができなかった。 (——これで本当に苦しみから解放されたのか? こんな方法しか残されていなかったのか?)  胸が押し潰《つぶ》されるように苦しくなった。歩み寄った。いつものようにおれの話を聞いてくれるのだろうか? あの声で、返事を聞かせてくれるのだろうか?  目線を上げた。個室の窓からほんのりと月明かりの帯が射している。おれはまだ残っている葉月の耳元に唇を寄せ、そっと囁《ささや》いた。    おい、はづき。    はづき……、はづき。    ……起きてくれないか。  全く反応を示さない。人工呼吸器の機械的な音だけが虚《むな》しくくり返されている。おれは構わず続けた。    はづき……    ごめんよ。おれが心臓をあげたかった人は、    もらってくれなかったんだ……  落胆と安堵《あんど》が混じるおれの囁き声は、葉月に届かなかったようだった。  包帯からのぞく葉月の頬に触れようとした。手のひらは乾いた血で汚れていた。おれはズボンで何度もこすった。しかし汚れは落ちなかった。ごめんな——口の中でつぶやいて指を伸ばした。今さらながら驚く。冷たい。もう金属の彫像を触っているみたいに冷たい。くそったれが。 「もう駄目か」  おれは顔を少し上げ、かすれた声で言った。 「もう少し、待ってみましょう」  芥は沈痛な眼差《まなざ》しを機器のモニターに注いだ。  突然、目まいに襲われた。おれは焦点を失いかけた目を薄暗い廊下に向けた。耳を澄ますと、スリッパの足音が気忙《きぜわ》しく行き交っている。この閉鎖された病棟に出入りして、葉月をかくまい続けてきた医者や看護婦達は、今まで見てきた限りでは十人近くいる。  最後の踏ん張りどころだった。 「この病院は」  声を出そうとすると胸とわき腹が痛み出した。「……製薬会社がずっと昔に設立した、企業立病院だと聞いたよ。会社の名前は聖隷薬品工業。……名の通った大企業じゃないか」  芥がふり向く瞬間を逃さなかった。 「はづきの父親はそこの会長だろう?」  芥はおれと視線を合わそうとしない。 「答えろ。お前らは、その父親に雇われたわけか」 「ここにいる者はみんな、会長の恩恵を受け、最期を看取ることができたメンバーなんですよ」  芥は静かにそう言った。それ以上、答える気はない様子だった。  だが時間がない。だらだらと時が過ぎるのを待つわけにはいかなかった。 「そろそろいいだろう? はづきの名字くらいは教えてくれよ」  沈黙が訪れた。全く反応を見せなかった芥は、いったん口を開きかけたが、ためらうように再び口を噤《つぐ》んだ。おれはじっと見すえた。やがて芥は眉《まゆ》を寄せ、少し考える素振りをすると、唇をわずかに動かした。 「……しもつま。上下の下に、夫妻の妻と書きます」  しもつま——。下妻葉月か。そうか、そうなんだな。おれの推測は正しかった。今まで正体がわからない小さな棘《とげ》が頭の隅に刺さっていたが、それがようやく取れた気がした。 「ルート・ゼロの幹部、室井広志が車で轢《ひ》いた女の子も同じ名字だったな。下妻葉月は塾の帰り道で、自転車を漕《こ》いでいたところを事故に巻き込まれたらしい。事故現場は人通りの少ない県道だった。大企業会長令嬢が夜遅く、そんな道をひとりで通っていたなんて、違和感があると思わないか? 父親と娘の間には、何か複雑な事情があったみたいだな」  しかし芥の横顔に、動揺する色は浮かばなかった。 「……その話、興味がありますね。で、その女の子というのは、それからどうなったのです?」 「奇跡的に身体の損傷は少なくて済んだが、頭の打ち所が悪かった。ずっと昏睡《こんすい》状態だと聞いたよ。しかし室井広志の家族との賠償問題調停が済んでしまうと、どこかへ姿を消してしまった」  芥は貝のように口を閉ざしている。 「おおかた父親は、遺産が続く限り娘を死なせるな[#「娘を死なせるな」に傍点]という遺言を残したんだろう? ここにいる連中が生前の父親からどんな恩恵を受けてきたのかは知らないが、だったらいい迷惑だな。本当にいい迷惑だ。……お前らはこうして追いつめられなくて済んだ。こんな思いをしなくて済んだんだ」  おれは自嘲《じちよう》気味に笑った。口の中に血の味が広がる。喉《のど》が詰まり、身体をくの字に折り曲げた。 「事故当時、室井広志の運転を誤らせたのは高階の仕業だ。高階が仲間と一緒に、室井広志が運転する車を執拗《しつよう》に追いまわしていた。カーロケーションシステムと警察デジタル無線の傍受装置が狙いだった。その頃はすでにおれの手に渡っていたんだ。……あれは、おれ達ルート・ゼロの内部分裂が引き起こした事故だったんだ」  咳《せ》き込んだ。芥が手を伸ばしてきたが、腕をまわして払いのけた。 「結果的におれを使ってルート・ゼロを壊滅させることができた。高階達をたきつけ、おれを孤立させたのはお前らの仕業だろう?」 「——復讐《ふくしゆう》が全てだと思うのですか?」  逆に問い返された。おれは芥の目をまっすぐに捉《とら》えた。続かなかった。暗く沈んだ芥の目。そこから何も拾い上げることができなかった。  おれは怯《ひる》み、顔を背けて言った。 「言っておくが、澤登という医者はここにはこない」 「どういうことです?」 「……今日はくることができない。あいつには訊《き》きたいことが山ほどあった。おれは不器用だから、少し乱暴な手段を取らせてもらったよ」 「彼に、何をしました?」  それでも芥の声は落ち着いている。 「おれの知りたいことを教えてもらっただけだ。なぜ脳死状態になったはづきが、月夜の晩になると喋《しやべ》りだすのか——。その奇跡を、おれなりに整理しておきたかった」 「なぜそんなことをするのです?」 「あいにく神も奇跡も信じることができなくてね。そういう環境で育ってきたんだ」  葉月に目を落とした。その身体からあげられるものが、もう何もなくなるまで丸裸にされた無惨な姿を、黙って見つめ続けた。  芥は止めどなく息を吐き下ろしたあと、 「それで、あなたなりの整理はついたのですね?」  と、静かに尋ねてきた。 「……ああ」 「できたら聞かせていただきたいものです」 「おれの仮説を先に言おうか。はづきの脳には、まだ生きている部分がほんのわずかに残されている」  芥は顎《あご》を引いて、続きを促す。 「深い昏睡状態が続いた人間が奇跡的に目覚めるとき、いくつかの条件があるらしいな。……その中に澤登がスイッチと呼ぶものがあった。交通事故で植物状態になった患者の例を出してくれたよ。患者をベッドに乗せたまま散歩に連れ出したとき、運転を誤ったトラックが歩道に突っ込みそうになった。トラックの急ブレーキ音を間近で聞いて、その患者は反射的に起き上がったという。植物状態になる寸前の最後の記憶が急ブレーキの凄《すさ》まじい音でよみがえった。脳の奥に隠された記憶と覚醒《かくせい》のスイッチが、それで偶然に入ったんだ。それまで再生が止められていたテープレコーダーのスイッチが入ったのと同じ原理だ」 「……だとしたら、お嬢様が覚醒するスイッチとは?」 「月夜の晩だけ覚醒する。月明かりの下で、当時の記憶がくり返し再生されてしまう。それが『水の時計』だ。だが、まだ何か秘密が隠されている。事故当時、下妻葉月が経験した何かが……」 「しかしそれは、脳の一番底にある脳幹という部分がまだ生きている場合に限りますよ。以前に説明した通り、植物状態の患者と脳死患者は根本的に違うのです。脳幹の死を、私達は様々なテストで確認しているのです」 「脳幹の脳波を測る手段がない。血が通っているかの判断もつかない。……そう言ったじゃないか。脳はわからないことだらけなんだろう? 医学では解明できないプロセスだってあるはずだ。ほんのわずかな——針の隙間のような誤診が入り込む余地くらいあってもおかしくないはずだ」 「お嬢様は間違いなく脳死状態でしたよ」 「残された人間が、自分の脳みその範囲で決めたことだ」 「判定基準はクリアしていましたし、絶対に助からない状態だったのです」  芥は語調を強めてくる。 「お前らの立場はわかるよ。だが、肝心なことは」  と、おれは葉月を指さして続けた。 「誰がはづきの死を認めるかだ[#「誰がはづきの死を認めるかだ」に傍点]。はづきには[#「はづきには」に傍点]、それを認める家族も身内もいなかった[#「それを認める家族も身内もいなかった」に傍点]。ただ残されたのが莫大《ばくだい》な財産で、それが全て延命処置に注がれてしまった。それが父親の遺言で不幸のはじまりだった。こればかりは、お前らだけではどうすることもできなかった。はづきの臓器を取り出していきながら、最後まで延命処置をやめようとしなかったのもそれで説明がつく」 「死を……認める者ですか……」  芥は沈痛な面持ちで目を落とした。 「そうだ。少なくともお前らではない。問題は、本人であるはづきが自分の声で死を認めてしまったことだ。お前らは前例のない奇跡を前にして、それだけでは決心がつかなかった。そこではづきは指定した。きっと誰かの名前をあのアンプで告げたんだろう。自分の死を認めてくれる、第三者の存在を」  おれは芥ににじり寄った。 「はづきはそいつ[#「そいつ」に傍点]を身内といったのか?」  返事はない。声を荒らげて続けた。 「おれ[#「おれ」に傍点]が断れば、こんな事態にならなかったのかよ?」  芥が注いでくる視線を真っ向から受け止めた。  医学の物差しではかった脳死状態が前例もないほど続いてしまい、その歳月の重さがどんな重圧だったのかは知らない。アンプから聞こえる葉月の声が、どれほど芥達を苦しめてきたのかも知らない。ベストは尽くしてきたはずなのだ。そんな芥達の足元を根底から覆すつもりはない。あくまでおれが、自分の頭で理解できるだけの解釈を並べているだけなのだから。 「おれが知っている下妻葉月という女の子は、不幸にも発見されたのが朝になってからだった。深夜に事故に遭い、ガードレールを越えて投げ出された彼女が、最後にその瞳《ひとみ》に焼きつけたものは何だったのか。身体で感じていたものは何だったのか。——どうして自分の身体を、見ず知らずの人達に分け与えようとしたのか?」  長話をしすぎたせいか息切れがひどくなってきた。凍えているわけでもないのに、身体の芯《しん》から震えが襲ってきた。おれはベッドに覆い被《かぶ》さるように両手をついた。葉月の残された耳元に顔を近づけ、もう一度、懇願するように囁《ささや》いた。 「答えてくれ——はづき。水の時計の正体を」  全身を襲う激痛に息を喘《あえ》がせ、顔を歪《ゆが》めた。辛抱強く待ち続けた。そんなおれの姿を芥は黙って見守っている。  気を失いかけ、ベッドからずり落ちかけたときだった。  一枚の用紙が目の前に差し出された。見上げると芥の手が見えた。その用紙には、細かいワープロ文字がびっしりと印字されている。 「……これは?」 「最後まで見せるつもりはありませんでしたがね。……お読みください。お嬢様の最後の声を録音したものをワープロにおとしたものです。あなたに整理がつくようにと、お嬢様は言っていましたが」  おれは用紙を両手でつかんだ。ベッド脇の床に膝《ひざ》を落とし、蟻のように群がる活字に目を走らせた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   はじめて目覚めたときだった。生きているのか、それとも死んでいるのか、わからない世界に放り出され、ひとりぼっちで暗闇の中でうずくまっている気がした。   やがてゆっくりと、思い出をたぐりよせることができた。   お母さんが死んでからだった。わたしはひとりぼっちになったと、勝手に解釈して生きてきた。しかしそれは間違っていたことに気づいた。あれほど憎んでいたのに、わたしを見守ってくれたお父さんや芥の姿、そしてあのとき出会った彼の後ろ姿があったことに気づいた。   手を伸ばせば簡単に届くものがあるのにもかかわらず、それらから目を背けてきた。孤独を演じたかったからかもしれない。まだ余裕があるうちは、簡単に孤独という言葉を使い、自分を悲劇の主人公にしたてあげてしまう。   ばかなことをしていた。後悔している。こんな絶望の世界があることを知っていたら、孤独なんて演じるのではなかった。   もう二度と手の届かない場所にいる芥達。こんなとき気でも狂えば、どんなに楽になったのだろう。   しかし皮肉なものだった。芥達による懸命な延命治療のおかげで、ある条件のもと、それもいっときだけ、手の届かなかった場所にいた人達と会話ができるようになった。   芥は、わたしに与えられたその奇跡を「水の時計」と呼んだ。   まずはじめにわたしの口から出た言葉は、芥への詫《わ》びの言葉だった。   芥は泣いてくれた。   わたしが会話できる時間は、芥がいつもそばにいてくれた。   いろいろな話をした。しかしとりとめない会話ばかり選んだ。   わたしの姿のこと。これがいつまで続くのか? そんな核心的な部分は、怖くていっさい触れずにいた。   いつの日だろう。   わたしが会話できる時間に、はじめて芥がそばにいなかった。   あとから聞いた。その晩、わたしはもう開かない瞼《まぶた》から涙をこぼし、看護婦がつきっきりで涙をふいてくれたらしい。   こんな姿でも生理がきたのだ。   そして身体が勝手に涙を流し続けた。   芥もそれを知ったのだろう。きっと、涙を流し続けるわたしに声をかけられなかったのだろう。女であるわたしの記憶が、絶望という世界の中を、さらに過酷なものにした。   中途半端に訪れる水の時計が、いっそうわたしを苦しめた。   あるとき、芥に彼のことを話した。   芥はすぐに彼のことを調べて教えてくれた。しかしその声は震えていた。わたしの事故に、少なからず関係していたことがわかったからだ。   しかし、わたしは不思議に受け入れることができた。   怒りや悲しみがなかったといえば嘘になるかもしれない。   それでもわたしは彼に会いたかった。   彼を感じたかったのだ。   理屈などない。   女であったわたしは、彼の後ろ姿が好きだったからだ。   だっていいだろう?   もし彼に、わたしに対する罪の意識が少しでもあるのなら、それを償ってもらいたい。   当然だろう?   こうでもしなければ、彼に会えないじゃないか。   ようやくわたしに与えられた水の時計の使い方が、理解できた。   わたしが今の姿でいる理由など、別にわからなくなってもいい。   ただ、彼に出会えればそれでいいのだ。 [#ここで字下げ終わり]  おれは書き連ねられた葉月の言葉を、ひとつもこぼさぬよう目で追い続けた。  ……ちくしょう。  所々、まだわからない部分があった。  やりきれない思いが胸を塞《ふさ》ぎ、放心した眼差《まなざ》しをベッドの端に注いだ。  ふと何か光るものが目の端にとまった。枕元に置かれた小箱の金具が、淡い月明かりを照り返している。美しい寄木細工の装飾がされ、いつも葉月の枕元に置かれていたものだ。  オルゴール付きの小箱だった。手を伸ばした。蓋《ふた》に留め金はかけられていなかった。そっと蓋を開くと、ピンが櫛歯《くしば》を弾《はじ》いて織りなしていく優しい音色がベッドを包み込んだ。  小箱の中にはがらくたが敷きつめられていた。思わず目を見張り、息を止めた。古い懐中時計や万年筆、外国の硬貨やアクセサリー——どれも見覚えのあるものばかりだった。  おれはそれらをすくい上げた。震える指から逃げ出すように、小箱の底へとこぼれ落ちていく。  なんで葉月が持っているんだ? こんな大切そうに?  ふり向いて芥と目を合わせた。芥は何も答えてくれそうにない。  瞼が鉛のように重くなり、落ちかけたそのときだった。  ——す、ば、る——  消えゆくオルゴールの音色の中で、葉月がおれを呼んだ気がした。耳を研ぎ澄ましたが、人工呼吸器の音とおれの息遣い以外はもう何も聞こえなくなっていた。 「あくた……頼みがある」  ぼんやりと薄目を開けたまま、おれは声をふり絞った。「もしおれが気を失っている間に、はづきが目覚めるときがあったら伝えてくれよ。おれはここに戻ってきたのだと、そう伝えてくれ」  返事はなく、しばらく間が空いた。  やがて芥は感嘆する息を洩《も》らした。 「……あなたの口から伝えたらどうですか?」  その語尾が震えていた。瞬時には理解できなかった。おれは揺り起こされたように顔を上げ、耳を疑った。  ジ、ジ、ジ、ジジ……  器械のアンプから少しずつ雑音が溢《あふ》れ出していた。雑音はゆっくりと時間をかけて大きくなろうとしている。  芥を見た。茫然《ぼうぜん》自失とする表情で視線を一点に集中させている。  おれはチューブが痛々しく差し込まれている葉月に目を移した。臓器をそぎ取られ、包帯だらけの顔からも四肢からも、あらゆる生命の色彩が失われてしまった葉月の冷たい頬に、指先をそっとあててみる。 「——すば、る。——こんな、わたしの——、そばに——、まだ——、いてくれるのか?」  葉月の頬をさするおれの手が震えた。幻聴でも聞き間違いでもなかった。確かに耳にすることができた。いつもよりか細く、頼りなく聞こえるが葉月の声だった。おれは息を呑《の》み、目を細めた。膨らんだ胸を静め、呼吸を整えた。自分でも驚くほど冷静になっていた。  おれは硬い声で葉月に語りかけた。 「……ああ、いるよ」 「うれ、しい。——わたしの、こと、を——」  アンプが途切れた。見ると、葉月の胸はほとんど上下していなかった。おれの頭がかっと熱くなりかけた。総毛立つ恐怖と後悔が押し寄せたが、今さらそれを口になんかできなかった。 「——おぼ、えて、いる、か? すばる、は——、きっと、なにも——、しらない」 「おれが知らない? ……知らないことだらけだよ」 「——わたし、が、すごした——、みじかい、ときの、なかで——、ほんとうに、くじけそうな——、いってん、が、あった。そこに——、すばる、が、たっていた——」 「……知るかよ。そんなこと」  おれは苦笑した。葉月の声はもうほとんど聞き取れなくなっている。注意深く耳を傾けなければならない。ここにきてからいつも、ふたりでそうしてきたように。 「——わたし、と、おなじ、ひと——。きもち、を——、わかち、あえ、そう、な——、ひと、に——、はじめて——」  おれと同じ。葉月はそう言ったのだ。記憶の中を必死に探った。だが、葉月の顔はついに出てくることはなかった。 「ごめんよ。思い出すことができない」 「——それでも、いい——」 「よくない」  おれは首をふった。 「——わたしは、ひとり、ぼっち、じゃ、なかった。——それに、きづく、こと、が、でき、た。——おかあさん、が、しんで、から——、すばる、の、おもかげ、だけ、を——、ささえに——」  おれは唇を噛《か》み、天井を仰ぐように見た。憶《おぼ》えがない。おれはここ数年の間、あまりに多くのいらないものを背負い込んでしまった。大切な思い出があるとしても、それを腐らせてしまうほどの。 「——こ、う、こ——、にゅう、し」  息を殺した。高校入試? そう聞こえた。 「——すばる、と、おな、じ、こう、こ、う——、を——、うけた、けど——、にゅうがく、でき、なかった、ん、だ、よ——」  おれは喉《のど》を塞《ふさ》がれたように沈黙した。 「——きっと——、す、ばる、と——、お、なじ——、りゆう——、で」 「……莫迦《ばか》な……」  呆然《ぼうぜん》とつぶやき、そのまま声を失った。いつの間にか身体の痛みを忘れている自分がいた。 「——すばる、を、さがし、た。——ずっと、さがした——。わたし、と——、おなじ、すばる——、の、せなか、を——、もう、いちど——。だけど、みつけた、とき——、わたし、は、こえ、を、かける、ことが——、でき、なかった」 「まさかおれに、暴走族の仲間ができちまったからか?」 「——ごめ、んね——。あのと、き——、たくさん——、はなし、たい——、こと、が——、あった、のに——」 「今じゃ、駄目なのか?」 「——わたし、は——」  葉月の声が次第に小さくなっていく。おれは消えかけた蝋燭《ろうそく》の火を守るように、葉月の手と自分の手を重ね合わせた。 「——がっこうの、せんせい、に、なる、けっしん、を、した。——わたし、たち、の、ような——、せいと、が——、ひつよう、と、して、くれる——、せんせい、に。——そのことを、すばる、に、つたえ、たかった」  ジジ、ジ……という雑音が邪魔をした。葉月の声がそのまま消えてしまいそうな恐怖に襲われ、空いた手をふってそれを遮ろうとした。無我夢中になっていた。 「夜遅くまで塾通いをしていたのは、それが理由だったのか?」 「——そ、う」 「……おれが落ちぶれている間に」  手のひらにこびりついた血の跡を見た。「莫迦だな、お前は。お前が大切にした夢が、室井広志が起こした事故で途絶えてしまったんだぞ。事故を引き起こしたのは高階だ。……みんな、おれの仲間だったんだ。……おれをもっと恨んだらどうなんだ?」 「うら、んで——、なんか——、いない」 「嘘だ」  おれは弱々しく吐き洩らした。 「——わたし、の、かわり、に——、すばる、が、いる——。あくたから、もらった、おかね、で——」 「お前の代わりにおれが? ……だめだ。おれにはもうできない」  力なくうなだれたときだった。 「——あ、の、ば——」  アンプから、絞り出すような声が響く。 (……あの晩?)確かに今、そう聞こえた気がした。葉月は交通事故に巻き込まれた最後の晩のことを伝えようとしている。ガードレールを越えるまで撥《は》ね飛ばされ、朝になって発見されるまで、ひとりぼっちで命を削り取られながら見続けてきたもの。そして、感じてきたもの…… 「教えてくれないか? 事故が起きた晩に、いったい何が?」 「——つき、あかり——、とても、きれい、な、よる——」 「本当にそれだけか?」  しばらく沈黙が続く。 「——つき、あかり、が、なくなって——」  おれは身を乗り出した。 「——なにか、が——、わたし、を、うめた——」 「埋めた? いったい何がお前を」 「——くろ、い——」  息を呑んで続きを待った。 「——た、く、さん——、の、はね——」  黒い、たくさんの羽……  その意味がすぐにはわからなかった。理解するまで長い沈黙を要した。やがて喉から出かかった言葉をゆっくりと呑み込み、胸の奥にしまい込んだ。  月明かりがなくなって、集まってくる黒い羽……  そんなものはひとつしかない。  ……カラスの群れか。死を待って、ついばもうと集まってきたカラスの群れだ。  葉月は死の淵《ふち》でその光景を脳裏に焼きつけてしまった。恐怖を感じたのか、深い絶望を感じたのか、それとも諦《あきら》めに近い感情を抱いたのか……。覆い尽くして今にもついばもうとするカラスの群れを前に、悟らなければならない状況まで追いこまれた。誰だって死ぬのは怖い。おれだって怖い。恐怖を忘れるために何ができる? その極限の状態の中で——カラスの血肉になることを、自然の摂理に従うことを、受け入れなければならなかった。恐怖の抜け道をそこに見てしまった。もともとその覚悟を受け入れる何かが、葉月の中にはあった。  それが生も死も止められた葉月の最後の記憶だった。だとしたら、月明かりの下で覚醒《かくせい》してしまったときに取る行動は——。それが、葉月を縛り続けてきた「水の時計」の正体だというのか。盲目的に、延々と再生されていく葉月の願い。……むごい。あまりにも救われない。  耳に蚊の鳴くような声が戻ってきた。それは、葉月の声だった。 「——さいご、に、いろいろ——、おもい、だ、す、こと、できた。——おかあさん、すくえ、なかった、ことも。——あのとき——、かなわなかった、ねがい、も——」  おれはそっと囁《ささや》いた。 「その代わり、いまお前が、どんな姿になってしまったかわかるのか?」  ジジ、という雑音が続いた。 「——たぶ、ん——」 「それで本当に良かったのか?」 「——あのとき、とまった、とけい——。だれか、に、すすめて、ほしかった——。さいごに——、よりすがった、しあ、わ、せ——。かくごは、できて——。わたしの、とけい——、を、すばるに——」  おれはひざまずき、しばらくベッドに顔を埋めていた。 「ごめん。おれには、わからねえや」  硬い声を吐き出して立ち上がった。「……たぶん、一生わからない」おれは人工呼吸器のチューブの根本を握りしめていた。 「ようやく整理がついたよ。納得して、整理できるだけの理由がはじめて持てた。——この部屋に奇跡なんて存在しないし、もうお前の心臓を背負うこともできない。その代わり、罪は全部おれが引き受けてやる。誰もお前の死を決めることができないのなら、おれが死なせてやる。お前がいなくなったあと、おれひとりで気が遠くなる年月になっても償い続けてやる。……だから」 「——だか、ら?——」  葉月が訊《き》き返してくる。 「もう、外していいか? おれには耐えられない」  顔を伏せて言った。白く染まった髪が目の前に垂れ下がってきた。チューブを握る手に力を込め、引き抜こうとした。だが、その力はすぐに削《そ》がれてしまった。五本の指がおれの意志を完全に無視している。何度やっても無駄だった。 「——あり、が、と——。もう、その、ひつよう——、ない」  はっとした。そのとき、奇妙な沈黙が訪れたからだった。 「——さよ、な、ら——。す、ば、る——」  弦が切れるように、アンプの音がぶつりと途絶えた。  突然、空気を裂くように背後から腕が伸び、肩をつかまれた。ふり向くと、首を伸ばした芥が食い入る形相をベッドに向けている。  心電図のモニターがゼロに向かって少しずつ下がりはじめていた。医者や看護婦達が廊下から一斉に集まってきた。おれは肘《ひじ》や腕で次々と押しのけられた。心拍数を示す波形がゼロになる瞬間を見逃すまいとベッドを囲み、葉月とモニターの間を何度も視線を往復させている人垣を、おれは放心しながら見つめていた。やがて、くるべき瞬間がきた、という風にどよめいた。ある者は呆然と立ち尽くし、あるいは静かに泣いていた。  ようやく葉月は、「水の時計」から解放された。  おれは個室の隅でうずくまり、その光景に虚《うつ》ろな目をすえていた。一千万円の入ったボストンバッグを胸に抱きしめ、誰にも奪われないよう身体を硬くさせていた。  引きずる足で南丘聖隷病院をあとにした。  雪はまだちらちらと舞い落ちていた。薄い月明かりに照らされ、まるで冬の光が降り注いでいるように思える。  広げた手のひらの上には、あの小箱から持ち出してきた懐中時計と外国の硬貨があった。どっちもオヤジとオフクロが新婚旅行から大切にしてきたものを、ねだってもらったものだ。ガキの頃はこんなものでも宝物にしてきた。  動かない懐中時計をしばらく見つめていた。指の腹にあたる感触に気づいた。裏返すとそこには独特な模様が彫られ、水馬が描かれていた。昔、本で読んだことがある。ケルト神話でいう水の精だ。……今になって思い出した。オフクロはこれを水の時計と呼んでいた。  ゆっくりと瞼《まぶた》を閉じた。  家族を失った葉月は、自分の死と臓器をおれに託した。  たとえレシピエントが勝手に決められてしまっても、それが葉月の意志となるようにしなければならなかった。  自分の目となり耳となり、手足となり、レシピエントを選んでくれる人間に、最期の意志を託さなければならなかった。……心の底から信頼できる、誰かに。  葉月にとっていったい誰が?  ——わたし、と、おなじ——  あの言葉が耳に残る。たとえ一瞬の儚《はかな》い出逢《であ》いがきっかけであっても、葉月はおれをよすがに生きてきたというのか。 (こんなもの、いつまでも大切に……)  力強く握りしめ、上着のポケットにしまい込んだ。  おれはバイクを停めた場所を探し歩いた。——間に合うだろうか。まだ意識があるうちに、雪が積もってしまう前に、麓《ふもと》の病院までたどり着かなければならない。  礼拝堂の周囲に屋根がせり出した一部分がある。スタンドを立てたZZ—R六〇〇を見つけた。シートの雪を払いのけた。担いできたボストンバッグを後部にくくりつけ、バイクのエンジンをかける。かじかんだ両手に革手袋をはめ、手を揉《も》みながら何度か深呼吸すると、瞬く間に白い息で視界が遮られた。ヘッドライトの眩《まばゆ》い光が雪の影を照らし出す。半キャップとゴーグルをかけ、踵《かかと》でギアを落とし、アクセルを少しずつまわした。おれは身体の芯《しん》から凍えていた。  雪が降り注ぐ山道を、スリップしないよう慎重に下っていった。  ……芥達の世話になるのはもうごめんだった。  あんな場所からは少しでも早く立ち去りたかった。おれを追う者は誰もいない。放っておいても、どこかでこときれてしまうと高をくくられているのかもしれない。ルート・ゼロのメンバーから執拗《しつよう》な悪意を向けられたのも、どこまで芥達の作為があったのかわからない。もう、考えたくもなかった。  ——近いうちに、南丘聖隷病院は元の廃墟《はいきよ》に戻る。  麓の幹線道路に入り、標識が見えてきた。外灯が視界に入ってくる。ほっと一息ついた瞬間、気の緩みが生じた。マンホールの蓋《ふた》で後輪が大きくスリップし、ハンドルを失い、目の前が真っ白になった。派手に転んでいた。バイクは滑ったままガードレールに激突し、おれはしばらく道路の端でうずくまっていた。ぽつりぽつりと通り過ぎていくドライバー達は、みんな無視して行ってしまう。  はっとして顔をまわした。  上着のポケットの膨らみがなくなっていた。見ると、外国の硬貨や懐中時計が道路に散らばっている。おれは這《は》い寄り、拾い集めようと必死になって腕を伸ばした。  雪に埋もれかけた懐中時計に指先が触れようとしたとき、眩いライトとクラクションが間近に迫ってきた。  思わず手を引っ込めた。  ぱりんと何かがはじけ飛ぶ音がした。後続のヘッドライトに照らされながら、ガラス片が粉々に散っていくのが見えた。  言いようもない脱力感に襲われた。おれは呆然《ぼうぜん》と一点を見つめ続けた。もう修復ができないほど潰《つぶ》れ、びしょ濡《ぬ》れになった懐中時計をそっとつまみ上げた。  おれは目を見開いた。そのまま息を深く吸い、吐けずにいた。  止まっていたはずの時計の針が、少しずつ動きはじめていた。  頼りないがカチカチと進んでいる。しばらく吸い込まれるように目を凝らした。(あのとき止まった……おれの時計……)指から懐中時計がぽろりと落ちた。目がかすんだ。道に散らばった外国の硬貨も、もう雪と見分けがつかなくなってしまった。  おれは唇を強く噛《か》み、再びバイクまで這いずり戻った。  水を吸った上着とズボンが急速に体温を奪いはじめていた。血が止めどなく滲《にじ》み出てくる。バイクの前輪は曲がり、ブレーキレバーは無惨に折れていた。ボストンバッグをシートから無理やり外し、がたがたと震える膝《ひざ》を拳《こぶし》で叩《たた》いて立ち上がった。  凍《い》てつくアスファルトの歩道を踏みしめ、よろめく足を騙《だま》し騙し、歩き進んだ。  こんな夜更け、雪が降りしきる中を歩く者は誰もいない。わき腹の中でまるで別の生き物が暴れまわっている感覚がした。鼓動をひとつ打つ度に、気が遠くなりかけた。滴り落ちていく血が降りしきる雪に消されていく。  何度も意識が途切れかけ、その間隔は次第に長くなってきた。  気がつくと、おれは歩道から外れた場所で身体を休めていた。積み上げられた電柱の廃材に背をもたれさせ、少しずつずり落ちながら腰を落とした。  雑居ビルの解体現場だった。歩道から死角になる。誰かがおれを見つけて助けにきてくれる可能性は、これでほとんどなくなってしまった。  再び起き上がろうと試みたが、できなかった。思えば、今までずいぶん酷使してきた。そのツケがたまっている。苦笑いしたくても、そんな気力も余裕も湧かない。  静かだった。  街灯の灯《あか》りがふっと消えた。視界が狭まりはじめている。もう、痛みも感じなくなっている。血の色もわからない。凍えきった腕でボストンバッグをきつく抱きしめた。  頭に雪が降り積もった。首の力が抜けると、顔の前にぽろぽろとこぼれ落ちていく。  ふと睫毛《まつげ》のかげから、何かが動く気配を感じた。  遠くで何かが横切ろうとしている。人影か。人影は立ち止まり、進みかけ、再び立ち止まり、叫び声を上げている。  ……まさか。  おれは顔を上げ、目を薄く開いた。  加奈の姿だった。  どうしてここに? 加奈はハンディタイプのカーナビゲーションを両手に持っていた。いったい誰に手渡されたんだ? 加奈は白い息を吐きながら懸命に顔を巡らせている。おれは乗り捨てたバイクからまだ百メートルも離れていない。  ——すばるっ。  ——すばる、すばるっ。  ——返事して。  叫び声に落胆の色が混ざりはじめた。いやだ、いやだよう……そんな泣き声を上げながら、加奈の姿は遠ざかっていこうとする。 (まだ加奈がいる、兄貴もいる……)  おれは身体に残された最後の力をふり絞って、胸を膨らませた。 [#地付き]〈水の時計 了〉 [#改ページ] 【主要参考文献】 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  「殺人少年」 ドロシー・ルイス著、中原祐子訳 徳間書店  「脳死と臓器移植」 水野肇 紀伊國屋書店  「いま脳死をどう考えるか」 渡辺淳一 講談社  「ドキュメント臓器移植」 マーク・ダウィ著 平澤正夫訳 平凡社  「新潮45 H13年1月号〈誘拐少女を生体解剖する驚愕の「臓器ビジネス」〉」 一橋文哉 他著 [#ここで字下げ終わり]  参考文献の主旨と本書の内容は別のものです。また本書作成にあたり、この他多くの書籍やインターネットのHPを参考にさせていただきました。 本書は二〇〇二年五月、小社より刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『水の時計』平成17年8月25日初版発行