新潮文庫    聖少女 [#地から2字上げ]倉橋由美子   目次  聖少女  解説(森川達也)      ㈵  ぼくがはじめて|未《み》|紀《き》を知ったのはある秋の土曜日のゆうぐれどき、虎ノ門の近くの路上でだった。そのときぼくは仲間の三人と車を走らせていた(この仲間たちのこと、ぼく自身のこと、この日ぼくたちが決行して成功をおさめた冒険のこと、などについてはいつか語る機会があるだろう)。いや、正確に言えばそのときぼくらは車を徐行させながら顔を集めて|皺《しわ》くちゃの紙幣を勘定していたのだ。眼をあげたとき、ぼくは白い生きものがふわふわと近づいてくるのに気づいて車をとめさせた。それが未紀だった。ぼくは窓をあけて首をだし、 「乗るつもりかい?」 「乗せてって」 「どこまで?」 「どこまででも」 「なんだあんたは?」といいながらエスキモー[#「エスキモー」に傍線](これは仲間のひとりである)はあわてて札束を握りつぶしてポケットにおしこんだ。この白い猫のような|闖入者《ちんにゅうしゃ》にぼくらはいっせいに警戒の眼を光らせたが、彼女のほうは助手席をひとりで占領して——そこに坐っていた侯爵[#「侯爵」に傍線]はとんぼがえりをうってうしろの席にころがりこんでしまった——くったくなげに脚を組んだ。 「名前は?」 「ミキ。未だという字に糸偏の紀」  ぼくはこのときの未紀の顔がおもいだせない。意志も感情も不在のまっ白な|楕《だ》|円《えん》形の顔、あるいは月ほどもありそうな大きさで輝いていた黒い|瞳《ひとみ》の記憶があるだけだ。未紀の容貌やからだつきや服装を描写することになんの意味があるだろう? 未紀に多くのことばを|貼《は》りつけて読者のまえにつれだそうとする小説家に|呪《のろ》いあれ、だ。ぼくなら、むしろ未紀を透明にして読者のまえからかきけすためにことばを使いたい。とにかく、未紀は、みえなくてもいい、そこに存在していることさえ信じられればいいのだ。しかし最低限の義務として、未紀をスケッチしておこう。この日未紀は白いニット・コートを着ていたとおもう。太い毛糸がからみあって|縄文式《じょうもんしき》土器の紋様に似た編み目をつくっているゆるやかなコートに、おなじ毛糸のストール。このコートの下には白銀の色をした|繻《しゅ》|子《す》の中国服。そしてその下に(ぼくは想像したが)黒い下着でいたいたしく|繃《ほう》|帯《たい》された裸身。この少女にかぎって、なぜ黒い下着が異様ないたましさを暗示するのか? それが隠しているのは、すさまじくえぐりとられたような暗黒ではなかったか? すでにこのときから未紀の肉体に対するぼくの頑強な神秘化がはじまっていた。その日未紀はぼくらといっしょに横浜まで行った。ぼくらはぼくらの流儀で遊び、朝になったとき未紀の姿はなかった。  こんなふうにして未紀と知りあってもう数年たつ。そのあいだ、つい最近まで、未紀とは数えるほどしか会うことができなかった。それもこの大都会がぼくに与えてくれた|僥倖《ぎょうこう》としてだ。ぼくの生活の軌道は未紀のそれとはまったく無縁の方向にのびていた。高校二年が終ったところでぼくはある事件のために退学処分をうけ、しかしうまく大学にはいり、そのあとは、ガクレン[#「ガクレン」に傍線]、アンポ[#「アンポ」に傍線]、国会乱入、逃亡、逮捕だ……こうしたことは未紀の生活とはなんの関係もない。未紀はそのあいだどんなふうに生きていたのだろう? ぼくの想像力の|絨毯《じゅうたん》は未紀をもとめてけばだち、そのなかにくるまってぼくは身動きできなくなっていた。そんなある冬に、たとえば、一月には珍しいほとんど垂直などしゃぶりのなかで、|膝《ひざ》までぬれて未紀を見失ったこともある。黄土色の長持のような都電がいつも数台発着している|角《つの》|筈《はず》の路面はそのとき雨のしぶきにつつまれて港のようにみえた。タクシイは|兇暴《きょうぼう》な|唸《うな》り声と水煙をあげて水雷艇のように走っていた。そのあいだをぬれた脚でかけぬけながら、ぼくは白いブーツの脚、若い女神の腰をさがしまわった。またある日ついにぼくは未紀の書いてくれた番号に電話をかけてみたこともある(緊急重大ノ事件ノトキ以外ハ絶対ニカケナイデと彼女はいっていた)。すると事務的だが若々しい男の声がでて、ハイ、コチラ**警察署デスガといった……  ぼくが未紀に近づき、その手や髪にさわることができるようになったのは、数カ月まえにおこったある事件のためである。あらゆる事件がそうであるように、この事件の外貌も新聞記事のなかにみることができる。A紙によれば、 [#ここから3字下げ] 乗用車の母娘死傷 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 【横浜】七日午後八時ごろ横浜市金沢区富岡町一九二五の横須賀街道で東京都港区赤坂青山南町大学生宮下未紀さん(二二)運転の乗用車が栃木県|下《しも》|都《つ》|賀《が》郡桑絹町**運転手(四六)の大谷石を積んだ大型トラックに衝突、乗用車はめちゃめちゃになり、いっしょに乗っていた未紀さんの母操さん(四三)は頭を打って即死、未紀さんは頭などに全治二カ月の重傷を負った。原因は未紀さんのスピードのだしすぎと前方不注意。 [#ここで字下げ終わり]  もうひとつの新聞の見出しは、女子学生の車暴走となっている。記事の内容は大同小異だ。要するにこれはありふれた交通事故のひとつにすぎない。そして頭を打った未紀が、この事故からさかのぼって過去の記憶を一部失ってしまったことも、交通事故にしばしばともなう器質性のアムネジア(健忘症)の一例にすぎない、ともいえる。ぼくは早速病院に未紀をたずねた。厚い繃帯を頭に巻かれていた未紀は、未知の惑星からこの地上に墜落してきた人間という印象を与えた。なにより驚かされたのは彼女が一時はものもしゃべれず、簡単な動作もできないほどばらばらにこわれていたことだ。まるでこわれた自動人形だった。未紀はたんに過去の記憶を失っていただけではなく、ことばと、したがってそれがつくりあげていた自己[#「自己」に傍線]というものを破壊されていたのだ。ぼくはほとんど毎日病院をおとずれ(もちろん未紀はぼくを識別することができなかったが)、未紀の|恢《かい》|復《ふく》の歩みに立ち会っていた。そして未紀が直立歩行をおぼえた猿のように歩きはじめ、ふたたびことばを使いはじめるにつれて、ぼくと未紀のあいだには、奇妙に抽象的な、しかし充分安定した友情ができあがっていった。未紀は昔のぼくのことも自分のこともおもいださなかったので、ぼくは彼女のまえではあの事故以後にしか存在しない人間であり、ぼくたちは下半身のない二つのトルソーのように、過去のないからだでおたがいをみとめあっていたことになる。  未紀は記憶をとりもどさないまま、退院した。その前後の数日、ぼくは未紀に会いにいくことができなかった。というのは(このことは最初に書いておくべきだったが)、ぼくはこの夏、カリフォルニア大学に留学することになっていた、そして渡航はほんとうなら先月末のはずだったが、ぼくの場合、ヴィザの問題をめぐってトラブルがおこったために、いまだにぼくは|宙吊《ちゅうづ》りのままになっているありさまだった。綱が断ち切られてアメリカ留学の希望がみごとに墜落してしまう可能性もあった。なぜなら、数日まえ、突然アメタイ[#「アメタイ」に傍線](ぼくらはかつてデモをかけてその門をゆすぶったアメリカ大使館のことをそうよんでいた)からよびだしがあって、過去においてコミュニストだったことがあるかときかれたのだ。平然としてぼくはノーと答えたが、アメタイ[#「アメタイ」に傍線]はそれに対して徹底的なインヴェスティゲイションをおこなうといった……そんなわけで、ぼくは未紀と会うことができないでいた。だがある午後、ぼくに電話がかかった。管理人室のまえの受話器をとりあげたとき、きこえてきたのは未紀の声だった。それは退院したばかりの病人にふさわしい、力と表情に乏しい、いくぶんぎごちない声だった。 「あたしです。未紀です」 「やあ。アメタイ[#「アメタイ」に傍線]からの電話かとおもった」 「アメタイって?」 「アメリカ大使館。トラブルがあって、ヴィザがおりないんです。全然ピンチだ。前科がばれそうなんで……」 「ゼンカってなんのこと?」 「ことばがわからないの? 詳しい話は会ったときにしましょう。それより、退院したんでしょう? 頭のほうはまだからっぽのまま?」 「ええ。でもそれは、からっぽという感じとは少しちがってるわ。なにか、サラサラした砂みたいなものが頭につまっているみたいなの。でもそれがあたしに、なんの関係もないんです。こわれた砂時計……」 「……いつ会えますか?」 「あさってか、その次の日。午後、あたしのうちへいらっしって。じつはけさ、あなたにお送りしたものがあるんです。あたしのノートですけれど。読んでいただきたいの。死んでしまったほうの未紀が書いたノートらしいのですけど、あたしにはわけがわからない……まるで砂漠の遺跡から掘りだされたふしぎな碑文みたいにあなたに解読を手伝っていただきたいのです」  この声をきいたとき、ぼくは鋭い刃物に似た不安をつきつけられたおもいだった。正直にいえば、それはある決定的な意味をもつ遺言状でありそれを開封したときぼくと未紀の関係があきらかになるにちがいない、とぼくは考えたものだ。たとえば過去の未紀がぼくに対してある意志を——ぼくは自分の|妄《もう》|想《そう》にしたがってそれを愛とよぼう——表明していたのではないか、とぼくは考えた。そして同時に、そのノートを読むことはこの種の妄想を確実に|撲《ぼく》|殺《さつ》することであるにちがいない、とも考えた。  そのノートは夜八時ごろ速達でとどいた。未紀のノートは次のようにはじまっており、ぼくは読むにつれて無重力圏をただようような困惑におちいった。  いま、血を流しているところなのよ、パパ。なぜ、だれのために? パパのために、そしてパパをあいしたためにです。もちろん。……あたしはパパに電話をかけてこんなふうに話してみようかしらと考えました。息を切らして、熱っぽい声で。でもできればじかにパパの耳に口をつけていうのが効果的です。それにあたしはパパの耳の形がとても気にいっています。あの耳のなかの廻廊は、男らしく簡潔で、手入れもいきとどいています。今度会ったときにそういってあげましょう。耳のこと、それから血のことも。  パパ。ふつうなら、おじさま[#「おじさま」に傍線]ってよぶところでしょうけれど、おじさま[#「おじさま」に傍線]はいやです。それではただのいかがわしい紳士とズベコーの組合せと変らない、という以上の理由でいやですから、やっぱりパパとよばせていただきます。パパもじきにこのよびかたに慣れることでしょう。少くとも、ある種の若い女はパパくらいの、つまり自分の二倍以上の年齢の男をしばしばそうよんでいますから、パパもあたしの甘ったれといやがらせもちょっぴりまじったこのよびかたを、苦いお顔でうけいれてくださればいいのです。  いま、ほんとに血を流しています。痛くて、すてきな気もち。いつからだったか……あのときは、一滴も血をみないですんだのに。でもこれはたしかではありません、パパの武器にほんのわずかに血を塗ったことに、あたしが気がつかなかっただけなのかもしれない……あれがはじまった瞬間、壮絶な出血[#「壮絶な出血」に傍線]というあたし自身の期待が裏切られたので、あたしはひどく|狼《ろう》|狽《ばい》しました。あの儀式のはじまりは、水道管が破裂したときの勢でまっかなものが吹きだしてパパの顔を汚すことでなければなりません。これこそあたしの割礼の儀式、善の包皮を切り裂いて悪を裸にする儀式にふさわしいのに。しかし、ことはすべて|曖《あい》|昧《まい》に進行しました。もっともパパのように数知れない情事を重ねてどっしりしている男のかたには、未熟な女の子との、犠牲や苦痛の血にまみれた契約といったものなんか、うんざりにちがいなかったでしょう。  食堂の電話を応接間のほうに切りかえると、パパに電話してみました。 「おはよう、パパ……はい。でもあたし、きょうはお化けじみた顔してるから会いたくない……まだお化粧もしてないのよ。だって起きたのがついさっきなんですもの……うん、眠れたわ、こわれたお人形みたいに眠っていました。あれから、あたしの部屋にご帰還したのが、けさの四時よ。ママはさいわい夜のあいだは一時的な死人になって熟睡しますから、あたしは朝帰りの猫の要領で忍びこめばいいってわけ。おなか、ぺこぺこだったから、コーン・フレイクにバナナの輪切りとカシュー・ナッツをまぜて温い牛乳をかけたのを食べて、それから、あのけがの痛みをおなかのなかにしまいこんで、巻貝の形をした眠りのなかにもぐりこんでしまいました。夢もみないで。目がさめると真昼の一時。そして血! ……パパ、まだ痛いの。パパったら、|鋸《のこぎり》で切り裂いたみたいな傷を残したんですもの……けががなおったらお電話します。そしたら、またつれてって。……もちろん、Bの字ではじまるところよ。さよなら」  嘘です。電話はかけませんでした。そのかわりにあたしはベッドのなかで書きはじめたのでした。  さて、ゆうべのあたしたちのおしゃべり。 「どうしたの? まだ怖いのかい?」とパパ。 「ううん。もう怖くない。痛かっただけ。パパはどうなの?」 「からっぽさ。胸をたたいてごらん、ポストをたたくような音がするよ」 「あ、ほんとだ。こんな音がするなんて、パパのほうがよっぽどかなしそうだわ。胸のなかは潮がひいたあとの海辺みたいに荒れはてています。いろんなものがころがっています」 「なにが?」 「たとえばたくさんの女のひとの骨やなんかが……」 「女と別れるとき、骨を一本もらうんだ。墓石のかわりにするためだ。|肋《ろっ》|骨《こつ》を一本抜きとってくれる女もいるし、脚の|腓《ひ》|骨《こつ》をくれる女、頭の|蓋《ふた》を|剥《は》ぎとってお皿のかわりに使ってちょうだいといってくれる女、骨盤をもってらっしゃいという気前のいい女、いろいろあるね。みんなよろこんで骨をくれることになっている」 「なんだかさびしくて骨がふるえてきそうなお話。でもあたしは骨はさしあげませんから……眠いの?」 「いや、眠くない」 「じゃ、もっとお話して。パパは女のひととあいしあったあとでいつもどんなお話をするの?」 「さあね。おもいだせないね。たぶん、話なんかしないのだろう。はじめからしまいまで黙っていることもある。男というものは、しゃべらずにすむならしゃべらずにすませたい動物なんだ。女はうんとしゃべるか、全然しゃべらないかだ。きみは相当なおしゃべりだな」 「ただ、ごろごろとのどを鳴らして甘ったれているだけなのに」 「タバコをとってくれ」 「はいパパ。あたしも一本」 「きみはいくつだったっけ?」 「もう忘れたの? この夏が終るとはたちよ」(と嘘をつく) 「ああ。それならぼくのことをパパとよんでもおかしくない年だな。はたちをすぎたらそれはやめてくれ。それからタバコもやめたほうがいいね。はじめてキスしたとき男の子としてるような感じだったよ」 「そんなこといわれるとちょっぴりかなしいわ。でも、もしタバコでもすわなかったらあたしみたいに若すぎる女の子とするキスは、きっと青臭い野菜ジュースの味がしたわよ。パパだってタバコはおやめになったら? あたしの腕のなかで煙突になってるパパは好きじゃないな。それに、歌にもあるじゃない、Don't smoke in bedって。そうだ、パパとお別れするときは涙をいっぱいためてこの歌を歌ってあげます」  あたしはパパの口からタバコをとりあげると、パパのからだのうえにはいあがりました。よくみておきたかったからです、あたしのパパを。パパは目をとじていました。大往生をとげたような顔をしている。でも眠っているときは少しいびきをかいたり口をあけたり歯ぎしりしたりして、もっとあらあらしいことでしょう。あたしは唇で|睫《まつげ》をくすぐり、鼻の|稜線《りょうせん》を唾で光らせ、やすりのような頬の砂漠を横切って、タバコの味のある口をちょっとなめ、それから堅い胸の平原へとすすんでいきました。そこはプレイボーイらしく陽やけしていて気もちがいいので(ただしささやかな胸毛は笑わせます)、しばらくあたしのおなかをつけてねそべってみました。船の甲板にいるような感じでした。 「ねえ、あたしって、おいしかった? 死後硬直みたいに硬くてまずかった? あたし、パパを完全にあいすることができなかったわ。そうでしょ、パパ。それをおもうと、絶望的。とてもかなしい。ばかな女の子。パパをりっぱにあいしてみせると、そればかりを自尊心にいいきかせながらここまでやってきたのに。でも、パパはいざとなると|怖《おそろ》しい神さまみたいに重たかったわ。まるで、粘土でできた神さま。どうやってあいしていいかもわからなくなったの。あいして、あいして、|融《と》かしてしまおうと、死にものぐるいで、からだを裂いてパパを迎える覚悟だったのに……あたしがまだ若すぎるからですか? はやく完全にパパをあいせるようになりたい。ああ、パパの柱を甘い|蜜《みつ》でとかしてあげられる花になりたい……パパを愛してます」  最後のことばをいうとき、パパの耳たぶを鋭く|咬《か》んでやりました。すべてうわごとです。半分酔い、半分さめてあたしはしゃべりつづけていました。  ここで注釈をいれておきます。あいする[#「あいする」に傍線]とあたしが平仮名で書くのは、 make love のことで、つまりあたしのからだでパパをとりこにすることを意味します。漢字の愛する[#「愛する」に傍線]は、心の自由を捧げてしまうことですが、こちらの意味では、あたしのいったことは嘘です(その証拠にあたしはパパの耳たぶを咬んでやりました)。あたしはパパを愛していません[#「愛していません」に傍線]。正確には、愛すべきでない[#「べきでない」に傍線]、です。しかしパパはいずれあたしを愛さなければなりません。それがあたしの目的なのです。  あたしはパパのわき腹に髪や顔をこすりつけながらとめどなくうわごとをつづけました。 「……パパ、目をあけてみて。死んだ真似はいや。ねえ、あたしを愛してる?……ええ、女の子ならだれでもがきく意味でよ。まあ、いやあな笑いかた。スフィンクスがにやりと笑ったみたいだわ。もちろんパパはあたしを愛してないわね。愛してない……パパはだれも愛せないひとなんだから。パパの心は粘土でできてるんだわ。でも、それなのに、その理由で、あたしはますますパパにいかれてしまう……エジプトの博物館の絵ハガキにとてもグロテスクな、まっくろの魔像がでてるのをみたことがあるわ。あんな魔像のまえに立つと、そのくらやみの塊に吸いよせられてしまうにちがいないとおもったけど、パパはその魔像だわ……どうしてそんな眼でみるの?あたしをばかにしてる眼? いいの、もっとばかにして。あたしはもうパパのものだから、どんなにされてもいいの。あたしをだいて」  少しおしゃべりがすぎたようです。でもこれだけしゃべったおかげで、甘いかなしさがこみあげてきてあたしの眼は顔からあふれそうになり、つまりあたしは大きな涙をパパの胸や鼻の頭にぽたぽたとこぼすことができたのでした。パパがびっくりしたようにあたしをみたので、おもわず泣き笑いの顔になり、その顔をパパの胸にふせると、声をうわずらせて、 「して、して。もっと、もっと、痛くして」  そしてそれはやっぱりひどく痛かったので、いっそう涙があふれて、その塩辛い海のなかで、あたしの眼は|溺《おぼ》れ死んでしまいました。  いま、午後の三時。ベッドのうえにはらばいになってここまで書いたら、背骨が痛くなりました。胸をもちあげて、ヴァイキングの船みたいに反っていたせいです。起きてからだをきよめなければ。  浴室で鏡と対面。ものすごい顔。お化け。皮を剥がれ、道路工事のように掘りかえされた顔。びっくりして鏡のなかのあたしを指でこすってみたほどです。優美であらあらしく、顔の半分は獣で半分は聖女。充足と荒廃。左の眼が少し充血して、|薔《ば》|薇《ら》|色《いろ》の欲望のなごりみたいに光っています。唇があれているのは、ゆうベキスしすぎたせい。これがはじめて男をあいした女のもつ型どおりの顔らしい。笑ってみました。罪を犯したあたしと和解するためのおまじないの微笑。  すると母がはいってきていいました。 「ゆうべはMさんのおうちに泊らなかったの?」(そういう話にしてあったのでした) 「お客さま[#「お客さま」に傍線]があったから、ゆうべ十一時すぎに帰ってきたわ」とお客さま[#「お客さま」に傍線]に意味ありげに力をこめていうと、母ははしたない下女の告白を耳にした伯爵夫人のようにうなずき、それっきりでした。お客さま[#「お客さま」に傍線]の二重の意味を暗示してやっただけで、このとおりです。母は少しでも性にかかわることばをきくと、いつもこうなります。ああ、その母が、月々のお客さま[#「お客さま」に傍線]どころか、ゆうベパパをお客さま[#「お客さま」に傍線]に迎えたのが原因で血を流しているあたしを知ったら! どうなるでしょうかって? もちろん発狂しちゃうわ。そして猛烈な色情狂になるでしょうね。あの母のなかの頑強な抑制装置がみるも|無《む》|慚《ざん》にこわれてしまったときのことを想像するだけで、あたしは生きていくことが愉しくなります。それはまったく奇怪な装置で、中世のどんな聖女のもっていた性的抑圧のメカニズムよりも強力なしろものにちがいない。そんな母がいったいどうやってあたしを生んだのかしら? そしてだれ[#「だれ」に傍線]と? あの処女懐胎でも信じているような顔をした母がどうしてあたしの母になったか、興味しんしんたるものがあります。母によれば、女が子どもを生むということは文句なしに聖なるいとなみだそうです。ところで、それに先だつあのあさましい[#「あさましい」に傍線](彼女お得意の形容詞)行為について質問しますと、とたんに母は|山《やま》|姥《うば》のお面をかぶる。さらに、あたしを生むために協力した父(これはN工業社長である法律上の父[#「父」に傍線]のことではなく、抽象名詞化された父[#「父」に傍線]なのですが)のことをたずねると、母は|般《はん》|若《にゃ》のお面をかぶる。ああおそろしい。あたしをにらむときの殺気のこもった眼。あたしのほんとのパパはあたしが生まれるまえ、あるいはまだかわいい四つ足の動物だったころに死んだのでしょうか。ということにして、あたしはそれを信じたいとおもいます。 「あなた、タバコの匂いがしますよ」と母がいいました。  ああ、彼女はあたしの髪に近づいてきたときその警察犬よりも鋭い鼻で|嗅《か》ぎつけたらしい。このいいかたには二つの暗黙の非難がこめられていました。ひとつはあたしがタバコを吸いはじめたことに対して、いまひとつはおそらくはあたしがタバコの匂い(それは男の匂いということです)を髪のなかにこもらせているほどの関係を男と結んでいるらしいということに対して。ゆうベ、あのあとで、シャワーを浴びておけばよかった。まずいまずい。 「あたし、最近ときどき吸ってるのよ。研究室で清水先生とお話してるときなんか、先生のほうから、アナタ、タバコ[#「タバコ」に傍線]ハ? とすすめられるので、ついいただいてしまうんです」 「先生がたのまえではつつしんだほうがよござんすよ」 「はいはい。女の子ですからね」 「あたりまえでしょう」  きょうは気ちがいじみたことをしました。パパに手紙を書く気をおこしたけれどついに一字も書けず、そのかわりに、まっかな唇を紙に押しつけて、それだけを送りました。  パパとはじめて会ったときのことを書いておきましょう。  あたしは十六歳でした。夏でした。学校が休みになると、あたしは週に何日か、ママ(そのころはまだ、母のことをママ[#「ママ」に傍線]とよんでいました)のやっている田村町のざくろ[#「ざくろ」に傍線]へ遊びにいって、ざくろ色の気もちのいいソファのうえで本を読んだりレコードを聴いたりして半日をすごすのが例でした。お客が混んでくると、イタリア製のカリーナ・エプロンをつけ、営業用ににっこり笑って、イラッシャイマセとおひや[#「おひや」に傍線]やコーヒーを運びます。  その日は朝から歯が痛くて、その痛みを|噛《か》み殺しながらパスカルの真似をして解析幾何の問題を解いていましたが、昼まえ、店の女のひとに新グレラン[#「新グレラン」に傍線]でも買ってきてもらおうとすると、ママがハヤク歯医者サンニ行ッテラッシャイといい、ママの知合いのかたが最近かよっている評判のいいお医者さんが虎ノ門にいることをおもいだしてくれたのです。名前をきいてあたしは横隔膜が破れました。それはパパすなわちママの昔の恋人の名前でした。 「Aさんのおくさまがかよってらっしって、義歯もつくってもらったそうだけど、なかなか上手で感じのいいところですって」 「痛くしないかしら。らんぼうにされるといやだな。それにあたし、血をみるとあっさり気を失うんですもの。ママもいっしょに行って。ねえ?」 「そんな子どもみたいなことをいうもんじゃありません。あたしはお店の用事があるから、ひとりで行ってらっしゃい。ここからだとすぐよ」  ママ[#「ママ」に傍線]ハ絶対ツイテ行ッテクレナイダロウナとあたしはおもいました。イッタイママ[#「ママ」に傍線]ハドウイウツモリナンデショウ。アタシガパパ[#「パパ」に傍線]ノコトヲチャント調ベテ知ッテイルコトヲ、ママ[#「ママ」に傍線]ハゴゾンジナイラシイ。デモソレデハナンノタメニアタシヲパパ[#「パパ」に傍線]ノクリニック[#「クリニック」に傍線]ヘ行カセルノカシラ。 「じゃ、行ってまいります」とあたしはざくろ[#「ざくろ」に傍線]をでてひとりで虎ノ門まで歩いていき、パパのクリニックの一患者となったわけでした。偽名を使って——たしか、姓だけ変えました、名前のほうはめんどうくさくて片仮名でミキとしておいたようです。そのときまで、あたしはパパのお顔をみたことがありませんでした。全然、想像もできませんでした。あたしが好きだったジェラール・フィリップやロッサノ・ブラッツィの顔、毎日みてうんざりしている担任の先生の顔、近所のお医者さんの顔、TVでみたK大学のなんとか教授の顔、いろんな顔を重ねあわせて四十歳前後の男の顔をモンタージュしようとこころみましたが、だめでした。眼に涙がたまっているときの、輪郭のとけくずれてみえる顔が、目のまえにゆらゆらとするだけでした。  最初の日にあたしを担当してくれたのはパパではなくて若い頼りないデンティストで、あたしを神経過敏にしておびただしい|唾《だ》|液《えき》を分泌させてばかりいました。とうとう注射のさいちゅうにあたしは貧血をおこしてしまいました。世界中の燈が消えました。あたしは頭を下にして、別の世界へ沈んでいきました。予想どおりのできごと。パパ[#「パパ」に傍線]ハドコニイルノカシラ。治療はひとまず中断されて、あたしはパパたちの休憩室をかねた応接間に運びこまれました。するとパパがあらわれました。まるでずっとまえから、パパはそこであたしを待っていたかのようでした。あたしがソファのうえで|蒼《あお》ざめていると、パパが冷やしたワインをもってあらわれたのです。サア、コレヲ飲ンデゴラン、ジュース[#「ジュース」に傍線]ガヨカッタラジュース[#「ジュース」に傍線]ヲモッテキテアゲルヨ。小さい子どもにおやつを与える調子でした。一人前のマドモアゼルならうやうやしく vous でよばれるのに、あたしはちんぴらなみに気安く tu でよばれているというくやしさで、少々むっとしていました。パパは広大な背中をみせてでていきました。パパの顔をあたしはいつのまにかうけいれていました。生まれたときから知っている顔にであったかのように、あたしは安心して、陽にやけた鋭い顔になじみ、長身ときびきびした歩きかた、そしてあの年で若い男の子のように張りきったヒップに感嘆し、猛烈ににくらしくおもったのでした。それから、あたしがワインを飲みほして洗面室で髪をととのえ、首すじや腕を冷やしていると、パパはまたやってきて、 「熱いシャワーにかかったらどうだい、気もちがよくなるよ」 「けっこうです」とあたしはいい、ただ、サンダルで歩いてきた|埃《ほこり》っぽい足をきれいにしたいとおもったので、洗面台のうえに足をもちあげて指のあいだを洗いはじめました。もうパパはいないとおもったのでした。するとパパは不安定な姿勢でよろめいたあたしのうしろに立っていて、すばやくあたしをささえてくれました。両わきの下から腕をさしいれあたしの胸の二つのふくらみをぴったりと掌におさめるようにして。痴漢! と叫ぶかわりに、なぜかあたしは鏡のなかのパパにむかってにっこりしてしまいました。なんともこっけいなことに、これでもあたしはパパを誘惑しているつもりでした。 「きみは植物みたいな子だね」  あたしははずかしさのあまり|身《み》|悶《もだ》えしました。熱い樹液のようなものが脚から胴へ、それからパパに捕えられている果実の|尖《せん》|端《たん》にまで、はげしい勢でのぼってくるのを感じながら、あたしは首を反らせ、パパの|顎《あご》の下に頭をもたせかけていました。パパ[#「パパ」に傍線]ハアタシノ胸ガマダカタクテ樹ノ幹ミタイダトイウノカシラ? 「ぼくはきみくらいの女の子って好きだね。十歳と二十歳のあいだのね」 「あたしは」とあたしはあたしの髪のうえにみえているパパの顔にむかっていってやりました。 「先生のように三十と五十のあいだのおじさま族って、大きらい。もういいのよ、はなして!」 「きれいな脚をしてるね」しかしパパは悠然としていいました。そのときあたしは、ある微笑[#「ある微笑」に傍線]のなかでロッサノ・ブラッツィがあたしよりはるかにいかさない女の子の手をとって、世にもぬけぬけと such a nice hand とささやいていたのをおもいだして、すくなからず得意でした。「白いサンダルをはくといいな。スパルタの貴族の女がはいていたようなやつをね。しかしほんとははだしがいちばんだ」 「あたしの足がよくみえるからですか?」 「まあね。脚も足も両方充分拝見したいからね」 「ふん、男のひとって、みんなあしを好むのね」  パパはこのあたしのいいかたがおかしいといって笑い、笑いすぎて涙っぽくなった眼でいっそうしたしげにあたしをみながら、モウ一杯ワイン[#「ワイン」に傍線]ヲ飲マナイカとききましたけれど、ケッコウデスとあたしはいいました。 「あすは十二時と一時のあいだにおいで。ぼくが上手に修繕してあげるから」 「痴漢!」そしてあたしはお金も払わずにとびだしました。  たしかにパパは手慣れた痴漢で、あたしは未熟な痴女でした。だからあたしたちは、会ったとたんにいかがわしいしたしさ[#「したしさ」に傍線]のなかへすべりこんでしまったのです。パパはあたしの未熟さをからかい、あたしはそれに腹をたてて一段と痴女になろうと努めはじめる、という工合に。その午後あたしは生クリームのように甘いこのしたしさのなごりをすこしずつなめながらうれしがっていました。パパとはもうなんでもできる仲になったような気もちで。この親密さの感情には、たとえばほんとうの父と娘のあいだにあるそれもまじっているのではないかとおもったほどです。アレガアタシノホントノパパ[#「パパ」に傍線]ダッタラ…… 「どうだった?」とママがたずねました。いつもの無表情な顔のままで。あたしは痛そうに顔の右半分をしかめて、 「案の定、貧血おこして倒れちゃった。あそこの先生はいなくて、若い見習いの先生の手にかかったのよ。ひどい新米。ふるえてるの。つまんなかったわ。バナナとピーチのジュース、つくってくれる?」  翌日のパパ。昼休みで、きのうの若いデンティストの姿はみえず、パパと看護婦さんだけでした。明るすぎる室内ではあったけれど、失礼なことにパパはサングラスをかけたままあたしの口のなかをのぞきこみました。 「ああ、きれいな口をしてるね(今度ハ口ヲホメテル!)。口のなかの形がだ。|石《せっ》|膏《こう》で型をとってみせてあげようか? (あたしは首を振りました)さあ、もうすこしのしんぼうだ、終って口をとじたら」とパパは声をひそめて、「唇にキスしてあげるからね。いやかい? はずかしくて返事ができないんだな」 「|鰐《わに》みたいに口をあけっぱなしにさせられて、ものがいえないんです!」 「こら、まだ終らないぞ。もう一度、口をあけて。そう、|河《か》|馬《ば》みたいに大きく……笑うんじゃない、だめだめ、動いちゃ。そんなに笑うと鼻の頭にもうひとつ穴をあけるぞ」  うがいをして、カルテをのぞきこんでみると、前日、あたしが受付に登録した偽の名前がちゃんと書きこんであります。**ミキ。 「いい名前だね(今度ハ名前ヲホメル!)。だれがつけてくれた? お父さん? お母さん?」あたしは色を失うところでした。パパがサングラスをかけていたのはさいわいでした。 「どこかの知らないおじさんらしいわ。もう死んでしまったそうです」 「ふうん。漢字で書けば美しい樹[#「美しい樹」に傍線]だな。ところでミキは年をいつわったね。サバを読んでるね。ほんとうはいくつだ?」 「十六」 「セクスティーンか(マズイシャレ!)。どうだい歯の修繕がすんだところで昼めしを食いに行こう。なにがいい? 田村町の中国飯店[#「中国飯店」に傍線]へ行ってみるかな(マズイ、マズイ、ザクロ[#「ザクロ」に傍線]ガ近イノデママ[#「ママ」に傍線]ニ会ウオソレガ、ナキニシモアラズ)。それとも芝のクレッセント[#「クレッセント」に傍線]にするか」 「残念ながら」とあたしはいいました。「ひとさまにごちそうになったりすると、ママにすごく叱られるわ。とくにいっしょにお食事するのは、よくよく心を許したかたでなければだめですって」 「それはそれは。お行儀のいいことだね。良家のお嬢さんはそうでなくちゃいけませんねえ。お利巧さん。きみのママさんはきっとみごとな良妻賢母だろう」 「ところがそういうちゃんとした家庭じゃないです。ママはいわゆる水商売をやってるの。バアのママさんなの。そしてあたしにはパパがいません。そのかわりにいわゆるパトロンがママについていて……おお、いやだ!」 「嘘だね。なにがいわゆる[#「いわゆる」に傍線]だ」 「でも全部嘘ってわけじゃないわ。ママはこの近くに喫茶店をもっているんです。パパはいません。これだけはほんとよ。おなかへっちゃったわ、クレッセント[#「クレッセント」に傍線]へつれてって」というとあたしはすばやくサングラスをかけて肩をすくめました。  あたしの|戦《せん》|慄《りつ》とともに、世界はぐらぐら動きはじめていました。いまにも抜けそうな虫歯のように。パパ[#「パパ」に傍線]ハコノアタシヲナンダトオモッテルノカシラ? アタシガママ[#「ママ」に傍線]スナワチカツテノパパ[#「パパ」に傍線]ノ恋人ノ娘デアルコトニ気ガツカナイノカシラ? パパ[#「パパ」に傍線]ハ現在ノママノコトヲ少シハ知ッテイルニチガイナイ、少クトモママ[#「ママ」に傍線]ガチャント結婚シテ良妻賢母ノ典型ニオサマッテイルコトクライハ。ソレモ知ラナイノカナ? モシパパ[#「パパ」に傍線]ガナンニモ知ラナイノナラ、アタシハコノママ、少シ頭ノイカレタカワイイ女ノ子トシテパパ[#「パパ」に傍線]ノ腕ノナカニモグリコンデイコウ。ソシテパパ[#「パパ」に傍線]ヲ誘惑シテ、パパ[#「パパ」に傍線]ガアタシノナカニ割リコンデキタソノトキニ、アノコト[#「アノコト」に傍線]ヲキイテヤロウ。ソノ答ガウイ[#「ウイ」に傍線]ダッタラ、アタシハ歓ビノアマリ蛇ニナッテ巻キツイテ、ホントニパパ[#「パパ」に傍線]ヲ愛シハジメルデショウ、アタシノホントノ父親デアリ男デアルヒトヲ! 父プラス[#「プラス」に傍線]男イクォール[#「イクォール」に傍線]神サマ。ダカラパパ[#「パパ」に傍線]ハアタシノ神サマデアル…… 「ちょっとシャワーを浴びてくるからね。きみも、よかったら……」パパはポロシャツをぬぎ、ランニングシャツもぬいで、バスルームにはいってしまいました。けっしてボタンが押されないことを知っている電気椅子のうえの死刑囚みたいにおちつきはらっています。あたしがママの娘であることに気がついていてそうだとしたら、すごい悪党です。あたしとどちらがすごい悪党か、勝負してみなければなりません。でも、じつはなんにも気がついてないのでしょう。ふいにあたしはかなしくなりました。口のなか、眼のなかが水っぽくなりました。モウ、全部、イッテシマオウカシラ。ソシテ、ソノアトハ、涙ヲウカベテパパ[#「パパ」に傍線]ヲユサブリナガラ、アルヒトツノコトヲキクバカリダ……あたしはおもわず爪を噛んでいました。サングラスをはずして鏡のまえに顔をつきだしてみました。泣きくずれるまえのなさけない顔。ドウスルカ、顔ヲ洗ッテヨク考エヨウ。しかしあたしは視線を宙にさまよわせたままドアを押してバスルームに足をふみいれていました。パパはシャワーのなかから首をねじってあたしをみました。あたしの眼はパパの煉瓦色にやけた大きな裸につきささりました。逃げ場を失った二匹の魚みたいに。 「どうしたの? そんな眼でみるもんじゃないよ。大胆不敵な子だ」 「ごめんなさい。あたし、みてるんじゃありません」あたしは歯をくいしばるような気もちでまぶたをかたくとじあわせ、その場に立っていました。パパはあわててからだを|拭《ふ》くと、あたしの横をすりぬけて(なにもしないで)外へでていきました。あたしは裸になって冷たいシャワーの下で肩をすぼめました。  そのおなじ年の十月のある土曜日のことでした、あたしが笑止千万にもパパを誘惑しようとしたのは。それが|惨《さん》|澹《たん》たるこころみに終るだろうことを知りながら、あたしはでかけていきました。白いニット・コートにくるまり鋭く|尖《とが》った靴をはいたあたしを、街はシニカルに傾いて迎えました。ビルの地下の駐車場の、パパのアルファ・ロメオにしのびこんで(どういうわけかドアがあいたのです)パパを待ちました。 「乗せてって」 「どこまで?」 「どこまででも。最後の場所まで」  パパはあたしをおぼえていました。そしてわざとあたしの年をききました。あたしが十七歳にもなっていないことをあたしにおもいださせるために。あたしは黙っていました。そのときのあたしはパパの足もとでふるえているあわれな|仔《こ》|猫《ねこ》にすぎませんでした。それもあまりにも小さくてひ弱で、毛なみも生えそろわずにしょぼしょぼしていたので、かわいい仔猫というよりいじけた浮浪児みたいにみえたにちがいない。あたしをなだめすかしながらパパはある種の|憐《あわれ》みを隠そうともしませんでした。それが太い|棘《とげ》となってあたしを刺しました。あたしは泣きだしました。愛らしく泣こうとしたはずだけれど、たぶんめそめそと泣いただけだったのでしょう。 「ばか。いじわる」 「さあさあ、おじさんを困らせないでくれよ、いい子だから」 「なにさ、大人ぶらないでよ」 「ぼくはどうみても大人じゃないか。きみは子どもだろう?」  あたしはたわいもない|罵《ののし》りのことばを投げつけるや逃走しました。それはあたしの足のように冷えびえとした秋のゆうがたで、あたしは十六歳、年も目方も軽く、白い羊毛にくるまってビルのあいだのみちを糸くずのように歩いていくほかありませんでした。すると四人の男の子にであいました。年はあたしとおなじくらいの、|狼《おおかみ》臭い少年たちに。そしてかれらの車に乗りました…… [#ここから2字下げ] 注——ツマリソノ首領ガボクデ、コレガボクト未紀ノ最初ノ出会イダッタワケダ。コレニツヅイテオコッタコトニツイテハ、未紀ハナニモ書イテイナイ。ボクニトッテハ未紀ト出会ッタコトダケデモ特筆ニ値スル経験ダッタガ、彼女ニトッテハソウデナカッタノダロウ。横浜ノミクル[#「ミクル」に傍線]ノ家デノクレイジイ・パーティ[#「クレイジイ・パーティ」に傍線]デモ、未紀ハ終始異国カラヤッテキタ王女トイッタ態度デボクラヲ傍観シテイタニスギナイ。イズレニシロ、ボクハ若干失望シテイル。モシ未紀ガアノトキノコトヲ書キトメテアッタラ、コノノート[#「ノート」に傍線]ガドコマデ事実ニヨッテイルカヲ判定スルヒトツノ手ガカリニナッタノダガ。 [#ここで字下げ終わり]  日曜日の朝、家に帰るとあたしは鏡のまえに立ちました。浴室の脱衣場の壁にはあたしの全身がうつせる、縦二メートル、幅約七十センチの鏡がはめこんであります。一日に二度、お風呂にはいるまえとあとに、この鏡のなかに裸の全身をうつしてみるのがあたしのお勤めになっていました。あたしは自分のからだに満足していました。こうありたいとおもう形のとおりに、それは成長していきます。二十歳を迎えるとともにあたしはあたしがとるべき形にぴったりと一致してめでたく完成するだろう、と信じていました。でもそのときあたしはやっと十六歳でした。すベてが、少しずつ不足しているようでした。たとえば胸の二つの果物、それは堅く形をととのえて充実していましたけれど、肉のなかからにじみでてくる光に乏しくて、まだあきらかに、あの熟した果物のもつはなやかなつやをもっていませんでした。おなかも少し|扁《へん》|平《ぺい》でした。脚はすなおにのびてしなやかですが、|腿《もも》から腰につづくあたりに成熟した女神の重々しいエレガンスがありません。パパのことばを借りるなら、あたしは若い植物。パパはたぶん、あのとき、まだみぬあたしの全体の像を頭にえがいてそういったのでしょう。たしかに十六歳のあたしは植物的でした。雌の動物のつよい匂いやある一点に集中した挑発的な魅力といったものに欠けていました。だからパパは、犬たちがよくやっているようにあたしのもっとも女らしいところを嗅ぐこともしないで、礼儀正しい狩猟家らしくあたしを逃がしてくれたのでしょう。  十月の午後の陽ざしがふりそそぎ、あたしは薔薇色の|石《せっ》|鹸《けん》のようになめらかでした。奇怪な裂けめ、血の色をした口、そこからつづいているくらやみ、そんなものなんかあたしのどこにもみあたらないかのようでした。あたしはあの呪いの歯で咬みとられた傷の跡をまだ自分でみたこともありませんでした。さわったことさえも。ノリ・タンゲレ!  そこへ母がはいってきました。 「ゆうべはどこへ行ってたの?」(注——ボクラノ車デ横浜ヘ行ッタ夜ノコトデアル) 「Mさんとモンク[#「モンク」に傍線]に泊ったわ。きょうが日曜でしょう、だから」 「わるいことをしてはいけませんよ。あなたのあのお店、気になるわ」  あたしは腕をあげてわきの下のくぼみを鏡に近づけました。 「ねえ、みて。少し濃くなってきたわ。|剃《そ》ったほうがいい? このままがいい?」 「母さんは知りませんよ。あたしはこれからざくろ[#「ざくろ」に傍線]へ行ってきますからね」  母がコーヒー店(と母はよんでいました、そしてコーヒー店[#「コーヒー店」に傍線]の経営を母は上品な[#「上品な」に傍線]仕事とみなしていました)をはじめたのは退屈しのぎの道楽のようなものでした。ざくろ[#「ざくろ」に傍線]をはじめたのがそのまえの年の三月で、同じ年の秋からは新宿にくるみ[#「くるみ」に傍線]という店をつくりました。こちらのほうはざくろ[#「ざくろ」に傍線]よりもずっと大きくてよそよそしく、二交代で一ダース以上の女の子を使い、白い上衣を着て頭を光らせた若い男も三、四人いて、この連中はきざな手つきでエスプレッソやミキサーをあやつっており、シャンソンを店いっぱいに流していました。現在この店の名はブルー・ノート[#「ブルー・ノート」に傍線]と変ってモダン・ジャズを専門にきかせておりくるみ[#「くるみ」に傍線]時代よりも繁昌しているようです。ここは広いだけがとりえの店で、あたしはきらいでした。女の子はしょっちゅう変っていて、行くたびに知らない子が扉をひいて無意味にふかぶかとお辞儀をします。ここへくるときはたいてい、つまらない友だちといっしょのときでした。店のものにはあたしを特別に扱わないようにといってありましたし、第一ウエイトレスたちはあたしの顔も知らないようでしたから、あたしは東京に集ってきた田舎者の大学生、|埃《ほこり》臭い女子高校生、ぶざまな恋人たちなどの騒然としたおしゃべりのなかに身をひそめ、ちゃんとコーヒー代を払い、むろん友だちにも払わせていました。母のやっている店であることはだれにも教えませんでした。そのおかげもあってか、このくるみ[#「くるみ」に傍線]はざくろ[#「ざくろ」に傍線]の何倍ももうかっていました。母はめったに顔をみせず、たまにやってきても店にはでないで、チーフ[#「チーフ」に傍線]とあたしたちがよんでいた|若《わか》|禿《はげ》気味の男から報告をうけるだけです。この男は父の会社の営業部にいて、ちょっとした不始末をやらかしたのを父が拾ってくるみ[#「くるみ」に傍線]のマネージャーにしてやったのだそうです。父が口をだしたせいもあって、母はあまりくるみ[#「くるみ」に傍線]を愛していませんでした。純喫茶(母はこの純[#「純」に傍線]、純潔[#「純潔」に傍線]の純[#「純」に傍線]という字になにより魅力を感じていたらしい)の経営にもじきに飽きたようすでした。  それでも二軒のお店で意外にもうかったため、翌年、つまりあたしが十六の年の夏には青山にまたひとつ、モンク[#「モンク」に傍線]という店ができました。このモンク[#「モンク」に傍線]はあたしが好きなようにつくったお店です。あたしのお城でした。シートは三十足らずの小さいカフェですが、小型車なら五台は駐車できる駐車場を横にもうけ、店内は中世の修道院風に、暗く陰惨に装飾しました。壁にはブリューゲル、ヒーロニムス・ボス、ポール・デルヴォー、パルテュス、チャペラ、サルヴァドール・ダリなどの複製画をかかげ、死神のもつ|錆《さ》びた大鎌、一時間ごとに死刑執行人があらわれて囚人の首を斬りおとす仕掛のまがまがしい時計、各種の|鞭《むち》、いばらの冠などを吊しました。できることなら鉄の処女[#「鉄の処女」に傍線]をはじめとする中世の拷問器具をとりそろえたかったのですけれど。さて、カウンターのうえには魔女が使うという大きな水晶の球(もっともこれはガラスでつくらせた模造品です)をすえ、そのむこうに髪の長い|妖《あや》しい女が二人、ときには|焚《ふん》|刑《けい》をうける魔女のように、ときには何匹もの悪魔が体内に|棲《す》みついている尼僧のように、ものもいわずに狂気の瞳をこらしてコーヒーをいれている。そして彼女たちはたがいにレスビアンの仲であるようにみえる……この役割はたとえばMとあたしとでうけもつことにしてもいい……じっさい、日曜日にはときどき、Mとあたしとが臨時のホステスになりました。ボーイがひとり。かれは美しい天使でなければなりません。それも森永[#「森永」に傍線]の幼児的エンジェルではなく、たおやかな青年でかつ端正な少女、つまりアフロディテの乳房と清らかな葉巻形のファロスの両方をそなえた両性的天使でなければなりません。この天使は天井にとまって休んでいて、お客がくるとその純白の翼で舞いおりて、少量の毒薬|媚《び》|薬《やく》をまじえたまっ黒なコーヒーや悪血をしたたらせた酒を運ぶ……あたしはこんなお店をおもいえがき、ママの驚きをおしきって、中世のくらやみを、あるいは血の色をした太陽の浮んでいる真夜中を、少しずつ、店にみたしていきました。ときに田舎者[#「田舎者」に傍線]やおめでたいアヴェックさん[#「アヴェックさん」に傍線]が迷いこんできても|忽《そう》|々《そう》に退散せずにはいられない空気を店にみたすこと。  コーヒーは、ブレンドしたものが二〇〇円でおかわり自由。|竜涎香《りゅうぜんこう》や丁字、|肉《にっ》|桂《け》を加えたトルコ風が二〇〇円。カフェ・デミタスが一〇〇円。|林《りん》|檎《ご》、洋梨、コニャックを使ったカフェ・ア・ラ・リュスが二五〇円。カフェ・グロリア、二〇〇円。午後五時までの早朝サーヴィス[#「早朝サーヴィス」に傍線](この店は午後三時が開店ですから)のクロワッサンつきカフェ・オ・レーが一五〇円。市民的な紅茶やアメリカ臭いコーラなどは飲ませない。  こういうメニューで開店したのですが、二カ月たって夏が終ると、駐車場にはMGやフィアットがならび、一カ月の売上げは五十万を越えはじめました。母はふたたび驚いてそれからはあたしに一目おき、この店は完全にあたしの縄張りにはいってしまったのでした。ただし、母はいいました、深夜営業マデシテオ金モウケスルノハ健全ジャアリマセンヨ。モンク[#「モンク」に傍線]は午後の三時から翌日の日の出までひらいていました。つまり夜の世界にむかって。昼すぎにめざめ、日常世界の太陽が沈むころから一日がはじまるようなひとびと(あたしをふくめて)のためにあたしはモンク[#「モンク」に傍線]をつくったのです。デモママ[#「ママ」に傍線]、モンク[#「モンク」に傍線]ニハ田舎者ヤチンピラハコナイワヨ、真夜中ニクルノハミンナ車ヲモッテイルヒトタチダシ、テレビ[#「テレビ」に傍線]関係ノヒトヤ俳優サンモキテルヨウダケド、ミンナイイヒトバカリデ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》ハトテモエレガント[#「エレガント」に傍線]ヨ。そういってやりますと、母はしぶしぶひっこみました。ところで、もし一日モンク[#「モンク」に傍線]にやってきて観察してみれば、母はモンク[#「モンク」に傍線]にくるひとたちの異様な自由さといかがわしいエレガンスとに気がついたことでしょう。いつからか男と女の恋人同士はほとんどこなくなり、二人づれはたいがい男同士か女同士、ときにはひとりでやってきた男がほかの男とみつめあい[#「みつめあい」に傍線]、店をでるときにはなにげなくいっしょになったりすることもしばしば。女同士もおなじこと。あたしは店の奥にあるあたし専用の席に坐り、夜が終るまで、ランプの光の下でサド侯爵の大悪書をひろげていました。  そのモンク[#「モンク」に傍線]で、きょうパパと待ちあわせました。いまは心をはずませて|膝《ひざ》のうえにひろげるべき悪書もなく、あたしは病気の猫みたいな気分でした。あおみどりに澄んだ右の眼と金色にらんらんと光る左の眼でパパを迎えるべきなのに、あたしは病気でした。恋という病気。熱いけだるさ。あたしの|掟《おきて》はパパと一度だけあいしあうことでした。二度、三度……それにはなんの意味もなかったはずです。  パパが三十分もおくれてやってきました。沈鬱な顔をして。ありふれた愛人のように男を待ちはじめていたあたしの肩を大きな掌がつかみました。  きょう、ひさしぶりでMと会いました。  伊勢丹[#「伊勢丹」に傍線]地下のカリーナ[#「カリーナ」に傍線]でタリヤテレを食べてから、彼女は真珠色の靴を、あたしは暗い緑のダスター・コートを買い、紀伊國屋をのぞいて、ブルー・ノート[#「ブルー・ノート」に傍線]にはいりました。ここが母のもっている店であることは、Mも知りません。いまはモダン・ジャズの店、壁のなかで怪物的なウーファーが口をあけていてものすごい音を吐きだすので、なにを叫んでもきこえないような地獄です。以前、アビー・リンカーンが祈り[#「祈り」に傍線]と平和[#「平和」に傍線]のあいだの抗議[#「抗議」に傍線]で、|強《ごう》|姦《かん》されているとしかおもえない絶叫をあげているLP(たしか We insist というタイトルでした)をきかせてから、Mはこの種の音楽にアレルギー反応をしめすようになりました。それでも、今夜はアヴェック用の席であたしの肩に頭をもたせかけて、しあわせそうでした。あたしの手をとって、はてしなくいじりながら、Mはしゃべりつづけていました。Mのはいった大学の仏文科の老教授が、歓迎パーティの席である女子学生にワインを口うつしに飲ませたこと(あたしはうれしくなってげらげら笑いました)、この不謹慎な事件に憤慨してくやしまぎれにグラスを投げつけた女子学生がいたこと(あたしはいっそう笑いました)、それにもかかわらず会はなごやかに進行してMは隣にいた仏文科の主任教授からモーパッサンのインスタント・エレクト[#「インスタント・エレクト」に傍線]の特技に関する知識をえたというわけでした。未紀、インスタント・エレクト[#「インスタント・エレクト」に傍線]ッテドウイウコト? そこであたしはMの長い髪をかきわけて耳の貝殻をとりだすと、ちょっぴり毒気をふきこんでやりました。 「そういうことなら、あたしのパパだってやるわよ」 「なんですって? パパって、だれのこと?」 「パパって、パパのことよ。じつはあたし、このあいだパパとねたの」  Mは死人の顔をみせました。でもすぐ気をとりなおすと、寛大な看護婦兼修道尼となって、あたしの告白に耳をかたむけるのでした。ちょうど頭をモヒカン刈りにしてからのソニイ・ロリンズがすごい音でテナーを吹いているさいちゅうだったので、やがて話は筆談になって、  ドンナカタナノ?  四十以上四十五以下ノデンティスト[#「デンティスト」に傍線]。  ドウシテ知リアッタノ?  小サイトキカラ知ッテタワ。  ?  ツマリネ、ママ[#「ママ」に傍線]昔ノ恋人トイッタライイカシラ。ロマネスク[#「ロマネスク」に傍線]デショ?  信ジラレナイ。  アタシガ誘惑シテヤッタノヨ。  ドンナフウニシテ?  駐車場デカレノ車ニノッカッテ待チブセシタノ。アルファ・ロメオ[#「アルファ・ロメオ」に傍線]。トテモイカシテルノヨ。  ソノカタガ?  車ガヨ。モチロンパパ[#「パパ」に傍線]ハトビキリイカシテマス。パパ[#「パパ」に傍線]ヲモツナラ、アンナパパ[#「パパ」に傍線]デアッテホシイナ。  ソレカラ?  バア[#「バア」に傍線]デ飲ンデ(**ホテル[#「ホテル」に傍線]ノバア[#「バア」に傍線]ナノ)、ソノママオ部屋ヘ。オ部屋ニハベッド[#「ベッド」に傍線]ガ二ツ。ドウシタノ、怒ッテルノ?  イイエ。ドウゾ。  猛烈ニ好キニナッチャッタノ。猫ノ仔ミタイニ、カラダヲスリツケテ甘エズニハイラレナイノヨ。ベッド[#「ベッド」に傍線]ヘツレテッテト頼ンダノモアタシダッタ。  信ジラレナイオ話ダワ。  アタシノ神サマデ恋人デパパ[#「パパ」に傍線]。  ソノカタト結婚ナサルノ?  アナタモパパ[#「パパ」に傍線]トヨンデ。  パパ[#「パパ」に傍線]ト結婚ナサルノ?  シナイ。  ナゼ?  ダッテパパ[#「パパ」に傍線]デスモノ。  アナタノオッシャルコト、ワカラナイワ。  パパ[#「パパ」に傍線]ト結婚デキマスカ?  ? トニカク、アナタハソレデ後悔ナサラナイノ?  シナイ。絶対ニシマセン。アタシハパパノモノ。I belong to daddy.  ?   ソウイウ歌ガアッタデショ?  未紀、アナタホントニ、ソノカタト、ナサッタノ?(あたしはふきだしました)  ?(とあたしは意地悪くききかえしてやりました)  イエナイワ。  ソノイエナイコトヲアタシトパパ[#「パパ」に傍線]ハシマシタ。アタシ、パパ[#「パパ」に傍線]ニ、パパ[#「パパ」に傍線]ノ子ドモガホシイッテイッチャッタノ。スルトパパ[#「パパ」に傍線]ハ、アタシガ子ドモヲ生ンダラ、ライオン[#「ライオン」に傍線]ノ仔ミタイニ威厳ニミチタペット[#「ペット」に傍線]トシテ育テヨウ、トイッタワ。ソレヲキイテアタシモスゴク愉シクナッテ、アタシヲ裸ニシテ、トイッタラ、風邪ヲヒクヨ、トイイナガラパパ[#「パパ」に傍線]ハ|奇《キ》|蹟《セキ》ヲオコナウヨウニシテアタシヲ生マレタママノ姿ニモドシテクレタノ。ソシテ、アタシ、男ノヒトノカラダガ珍シカッタノデサカンニサワッテ調ベテイルト、パパ[#「パパ」に傍線]ハクスグッタガリ、アタシモパパ[#「パパ」に傍線]ニクスグラレテ……  モウイイノ。アタシ、知リタクナイワ。  ドウシテ?  ドウシテデモ。アナタッテ、モウイヤ。  ゴメンナサイ。アタシガ男ノヒトトアイシアッタノデ、|嫉《シッ》|妬《ト》ナサルノネ。アタシ、アナタガ好キ。モット嫉妬シテ。アタシヲ憎ンデ。  未紀ハ怖イヒトネ。男ノヒトトソンナコトヲスルナンテ。ソレデ平気デ笑ッテルナンテ。  アノトキノ気モチ——哲学的ニイウトネ、引キ裂カレル恐怖、ソレカラ獣ノ心ニカエッテ、夢中デ食ベテ、世界中ヲアタシノナカニツカマエタ満足、平和、死。気ガツイタトキ、パパ[#「パパ」に傍線]ハアタシヲヤサシク埋葬シテクレテタワ、ベッド[#「ベッド」に傍線]ノナカニ。  おやすみなさいをいうかわりにあたしは地下道の柱のかげでMをだきしめて、ほっぺたに唇をおしつけました。Mははげしく顔をそむけました。M、アタシノ眼ヲミテ。そしてMの眼があたしに固定した瞬間に、あたしはMの唇にうんと気もちのこもったキスをしてやりました。やわらかくてそのまま食べてしまいたくなる口。ふいにパパ[#「パパ」に傍線]の硬い唇とざらざらしたお|髭《ひげ》のあと、それに丈夫な歯やらんぼうでやさしい舌が、いっせいによみがえりました。Mの口のやわらかさにぞっとしました。女ッテ大キライ!  十二時。いま四月の夜の雨が降っています。舗道を女神のぬれた舌がなめています。その跡は黒くぬれて愛されたひとの肌のようになります。ネオンのはびこる果樹園から帰ってきたとき、母はまだ起きていました。この時刻まで目をあけて坐っているなんて、かつてないこと。あたしになにかをいおうとしていたのでしょうか? 母は全身に|猜《さい》|疑《ぎ》の毛を生やしてうずくまっていました、みみずく[#「みみずく」に傍線]みたいに。 「こんなに遅くまでおひきとめして、Mさんのお母さまに恨まれますよ」 「いいのよ、彼女のママは自由でものわかりのいいかたですから」  すると母は堅い声で、 「あたしもせいぜいものわかりのいい母親になりましょう」 「それがいいですわ」 「未紀、これはなに?」と母はダスター・コートの包みに眼をとめました。 「Mさんといっしょに伊勢丹[#「伊勢丹」に傍線]へいって買ったの。ダーク・グリーンで、すてきよ。着てみましょうか?」  母にはもうひとつの眼があるのです。白い顔のなかのおちついた二つの眼のほかに、もうひとつあるにちがいない。ふだんはその乳首とおなじようにもぐりこんでいて、あたしが背をむけると、とたんにそれは|蝸牛《かたつむり》の角みたいにのびてきてあたしの|肩《けん》|胛《こう》|骨《こつ》のあたりにぴったりと吸いついてしまいます。いま、母は台所で刃物を使いはじめましたが、そのあいだにも耳は朝顔のお化けみたいにひろがって強力な集音機となり、あたしの存在そのものをききとろうとしています。あんまり夢中になって指を刻みませんように。  女中のSは母のスパイ。昼間、あたしがいないあいだに彼女はあたしの部屋で卑しい鼠のすることをしています。母自身はけっしてそういうことができない(と信じこんでいる)ので、Sがこの|穢《きたな》い役目をうけもつのです。でも母はSにそんなことを命じたわけではありません。Sがあたしの部屋を点検した結果を母に報告すると、母は眉をひそめ、まるではしたない下女の犯した罪の告白でもきくように、冷然としているのです。それにもかかわらず、ああ、母はときどきSといっしょに寝ます。Sのほうから甘えた眼をして母の寝床にはいっていくのです。少し頭のおかしい子。十六歳で、背が低くて脚の短い、田舎娘の手と成熟した胸、それにおなかの下のほうにみだらにめだつふくらみをもった子。  そんなわけで、母はなにかを嗅ぎつけています。たとえばあたしがパパに買ってもらったもののリストを、ママはその灰色の大脳皮質にぎっしりと書きこんでしまったかもしれません。このあいだも夕食のときにあたしの左腕の腕輪をずいぶん長いことみつめていました。あたしはF銀行の普通預金口座から必要なお金をひきだして(その使いみちの金額については母に逐一報告して了解をもとめますけれど、母はその種の卑俗なことをきかされるのは耐えがたいという顔をしてうなずくだけ)使っているのですから、もしあたしがその気になれば、なにを買おうと母にはわかりっこないのです。ところがパパに買ってもらったものとなると、ママの眼が変光星みたいに光るのはどういう霊感がひらめくのでしょうか。とにかく、母には怖ろしいもうひとつの眼があります。そして知っているのです、アノ子ニハ男ガデキタのだと。  そうです、あたしには男がいます。それも、いつの日にか結納ののし[#「のし」に傍線]みたいにきちんとネクタイをしめて母のまえにあらわれることのできる好ましい青年ではなく、あたしの夜の世界だけを支配しているいかがわしい紳士が。あたしは週のほとんどの夜をその紳士とすごし、その唾や聖水を飲み、その肉を食べています。あたしが変っていくのはあたりまえのこと。  娘が男と親しみをかさねると、なによりも匂いが変ってしまうのだそうです。きょう、Mがそう指摘してくれました。恋人ガデキテカラアナタノ匂イハトテモ濃クナッタワ。マエニハアナタッテ風ミタイニナンノ匂イモモッテナカッタノニ、近ゴロノアナタニハ花トミルク[#「ミルク」に傍線]ト動物臭イ匂イガスル。それはあたしが化粧品や香水で自分の匂いをつくることをおぼえたからでもあります。いま、数種類の香水がドレッシング・テーブルにならんでいます。中世の錬金術師さながらに秘術をつくしてあたしの匂いを合成するのです。パパにはもうあたしの匂いが嗅ぎわけられることでしょう。  あたしのただひとりの女友だち、長い髪とやわらかい肉に包まれた美しいMのことを少し書いておきましょう。  Mは日本橋のある有名なテーラーの末娘です。名前はみさを[#「みさを」に傍線]といいます。おもしろい偶然の一致ですが、あたしの母の名もおなじ発音でミサヲです。ただしこちらは操[#「操」に傍線]の字を書きます。Mを知ったのは秋のある土曜日のことでした。あたしは日比谷でルイ・マルの恋人たち[#「恋人たち」に傍線]をみていました。はいったのが映画の終りに近かったので、もう一度最後までみるつもりで坐っていました。やがて二度目の終りが近づくと、スクリーンに絹のような月光が流れ、銀色の樹の葉のざわめく林のなかをジャンヌ・モローが歩いていきます。そのとき、ブラームスのクヮルテットのあいだから、ごく小さい苦痛の声がきこえました。あたしの左は通路で、右隣には髪の長い少女が坐っていて、どうやらそれはその少女ののどからもれてきたようでした。そのままスクリーンをみていると、やがて恋人たちは恋の一夜をすごして朝を迎えましたが、隣の少女はこのときまた苦しげな声をもらし、二、三度からだを動かしました。映画の進行とは関係のない私的な苦悩[#「私的な苦悩」に傍線]が進行しているとみうけられました。じつは、その前日からあたしはお客さま[#「お客さま」に傍線]を迎えていたので、病気の犬のようにみじめな気分を忘れるため、映画をみにきていたのです。こんなとき、あたしの|嗅覚《きゅうかく》は異常に鋭くなり、自分の血の匂い、他人の口の匂い、皮革類の匂い、あらゆる匂いに殺気だつのがつねなのですが、あたしはたちまちこの少女の苦痛の原因を嗅ぎつけました。案の定、少女は遠慮ぶかい音をたてながらバッグのなかをさぐりはじめましたが、落胆のようすでした。彼女が立ちあがってあたしの膝のまえをすりぬけようとしたとき、あたしも立ちあがり、ロビーへでました。もたれるようにして化粧室のドアを押そうとする少女の肩に軽くさわると、あたしはすばやく必要な品物をわたしてあげました。なぜあたしはこんな善行を働く気になったのか、たぶん、あたしの過敏な想像力がそれにがまんできなかったからでしょう。しばらくしてでてきた彼女は、王朝時代の美女をおもわせる少女でした。まっすぐな髪は|腰《よう》|椎《つい》にとどき、すぐ水にあからむたちの手にはみごとなえくぼがあらわれていました。背はあたしより少し低かったけれど、胸もおしりも脚も肉づきがよくて、ルノアールの少女[#「ルノアールの少女」に傍線]をおもわせる純真なゆたかさでした。つまり彼女は充分お金をかけて美徳の乳だけで育った少女にちがいありませんでした。 「あたし、ほんとにはずかしい、こんなところをおみせしちゃって」と彼女はいいました。 「あたしこそごめんなさい、あなたにはずかしいおもいをさせちゃって」とあたしも対句を口にする調子でこたえました。「でもじつをいうとあたしもきのうからあなたとおなじめに会っているんです。おたがいさま。だから、そんなに気になさらないでね。さて、今度はあたしの番」と肩をすくめるとあたしは化粧室にはいりました。でてきたとき、少女はロビーのソファに坐ってあたしを待っていました。 「あの、失礼ですけど、ぜひお名前をうかがわせてください」  ヤレヤレとあたしはおなかのなかで舌打ちしながらにっこり笑って、 「未紀といいます」 「三木さん?」彼女は指を宙に泳がせて三木[#「三木」に傍線]と書きました。 「いいえ、未[#「未」に傍線]という字に糸偏の紀[#「紀」に傍線]。あたしの名前よ」 「あら、すてきなお名前ね。あたし、みさをと申します」  そしてMは淡い薔薇色のふかふかしたセーターに包まれたからだをすりつけるようにしてあたしの顔をみあげ、次の瞬間、しっかりと腕をからませてきたのでした。あたしはぎょっとしました。ひとにからだにさわられることが大きらいだったあたしは、学校で階段をおりるときなどに友だちの手がなにげなく肩におかれたりしただけでも|嫌《けん》|悪《お》の|粟《あわ》|粒《つぶ》が全身にあらわれるおもいで、なんとかしてその手を肩からはずそうと苦心するありさまでした。小さいときから母に髪をさわらせた記憶もないのです。それなのに、Mの腕はあまりにも無邪気にからみついていて、あたしはそれをふりほどく算段に窮してしまいました。ケガレタ身デアタシニサワルナンテ無礼ジャナイコト? あたしの腕にぶらさがっているやわらかい肉が、いまその裂け目から不浄の血を流し、死の悪臭を放ちながら、いとも明るい声ではしゃいでいる極上のお嬢さんの姿をとっていることに、あたしはなぜか無気味なものを感じました。コレハウマク化ケタ魔女デハナイカシラ? そしてふいにレスビアンということばがあたしに襲いかかり……いまにもあたしはお姉さま[#「お姉さま」に傍線]とよばれるのではないかと期待したのです。Mは完全に女らしく装っていたのに対して、この日のあたしは、浅いU字形の首をした太編みのまっ白いセーターから|紅《あか》いシャツの|襟《えり》をのぞかせ、足首のところに金具の飾りのついた黄土色のスラックスをはき、つまりひと口にいえば典型的なボーイッシュ・スタイルをしていましたから、お姉さま[#「お姉さま」に傍線]というより、Mにとってはにせお兄さま[#「にせお兄さま」に傍線]というにふさわしい姿でした。あたしは観念してややあらっぽくMの肩に腕をまわしました。まるで何万円もするぬいぐるみの仔熊のお人形をだいたようでした。 「どこかでアイスクリームでもいただきません?」 「いいわ、でも気分は大丈夫?」 「もう大丈夫。あたし、ふだんは痛くもなんともないし、まだ終らないのに水泳したりしても平気なんです。それがきょうはどうしたことかしら、鳥のくちばしでつっつかれてるみたいに痛くて、めまいや|嘔《は》きけまでして……でもおかげさまで、もうすっかりいいわ」 「それなら少し歩いてもいいでしょ? 田村町にママのお店があるのよ」  ちょうどママのきていない日でした。土曜日でも、三時をすぎるとお客はまばらでした。ざくろ[#「ざくろ」に傍線]のおもな顧客はこのあたりのビルに勤めているひとたちでしたから。プレイヤーでお皿[#「お皿」に傍線]をまわしにかかりながら、ブラームス[#「ブラームス」に傍線]ハオ好キ? とあたしはサガンみたいに気どってたずねました。 「さっきの映画でもやってましたわね。とってもきれいだったわ。あたし、うっとりしちゃった。あんなきれいな恋がしてみたい! 未紀さんもそうおもわない?」  ナントイウ純真サ! アノ映画ヲミテ、キレイナ恋[#「キレイナ恋」に傍線]ダナンテ。あたしはまたもや化け猫の笑いを|噛《か》み殺しました。コンナミゴトナ美徳チャン[#「美徳チャン」に傍線]ヲアタシノ奴隷ニシテ、最後ハメチャメチャニ堕落サセチャッタラドンナニスバラシイコトダロウ! 「でもあたしは男のひととあんなふうに裸でだきあうなんて、いやだわ。目をあけてみてられなかったわ」とあたしはなにくわぬ顔でいいました。 「あら、でも全然いやらしくなかったのに。あたしって、ほんとに子どもなのかしら?」 「あなたはおいくつ? あたしは満十六で高校二年よ、学校には行ってないですけど」 「あたしもよ。H女学院。あなたは学校に行ってないんですって?」 「この秋にやめちゃったの」 「なあぜ?」 「退屈でつまらないから」 「その気もちには同感しちゃうわ、あたしなんかよくできもしないから、ほんとうはうんざり」 「じゃ、Mさんもやめればいいわ」 「高校くらいはでておかないと、いまどきお嫁にもらってくれないですって、ママがしょっちゅういってるわ」 「学校に行って大勢で教育をうけるなんて、|賤《せん》|民《みん》のすることだわ、ママにそういってあげるといいんです」 「センミンって?」  あたしはカウンターのなかで腕まくりしてミックス・ジュースとバナナ・パフェをつくりながら説明しました。あたしがフランス人のマドモアゼルとヤンキー・ガールを個人教授にしてフランス語と英語を勉強していること、数学はR大のS教授の家へ行って集合論からやりはじめていること、その他は自分でやれば充分であること、大学にはいるには検定試験にパスすればいいこと。  この年の、つまり高校二年の夏が終ったところであたしは学校をやめようと決心したのでした。母は一応強硬に反対しましたけれど、じつは学校の問題なんかどうでもいいとおもっていたふしもあって、この反対は意外に長つづきがしませんでした。学校というものに対する母の考えかたは一種独特のもので、学校に行くことを兵役義務に服することとおなじように考えていたようでした。遅刻欠席早退をしないで通学しているかぎり母は安心しており、モット勉強シナサイとか予習復習ハチャントヤッテルノとか、世の母親ならだれでもいいそうなことをただの一度も口にしたことがありません。だいたい女の子が学問上の知識を習得することになんの意味もみいだしていないのです。高校をやめる話をしたときも、学校ヘハキチント行カナクテハイケマセンヨというのが反対の理由で、高校は義務教育ではないことを教えてやると、それ以上つよく反対する理由もなさそうでした。 「でも高校を卒業しておかないと大学へも行けないのでしょう?」 「大学だって、べつに行かなきゃいけないってことはないわ。それにママはあたしが大学に行くのがいやなんでしょ?」 「そんなことはありませんよ。でも大学をでてからお華、お茶、お料理のお稽古じゃ、遅くなるわね」母は端然と正坐したままにこりともせずにいいました。「とにかく、お父さまがなんとおっしゃるか……」  父を上手に扱うこつは、この母のように、端然と正坐して、ばか丁寧な切口上で、冷静にものをいうことです。つまり母の娘らしく。学校は無意味だからやめたいが、勉強はやめるつもりではない、フランス語を勉強して大学にはいりたいからフランス人の個人教師を雇ってほしい、それから自分は将来数学の研究者になるつもりだが、これもいまから大学教授の個人的な指導をうけたい、とあたしは切りだしました。ソノフランス語[#「フランス語」に傍線]ノ先生ニツイテハ心アタリガアルンデス、G大ノシモン[#「シモン」に傍線]トイウ教授ノオ嬢サンデ、去年カラ日本ニキテイルミレーヌ[#「ミレーヌ」に傍線]トイウマドモアゼル[#「マドモアゼル」に傍線]ヲ紹介シテモラウコトニナッテルンデス。父はビジネスマンらしく、一見綿密そうな実行計画をともなった提案ならすぐのみこんでしまう性癖があり、しかも田舎から身をおこして成功した人間によくある極上好み[#「極上好み」に傍線]というやつで、学校に行かずに特別|誂《あつら》えの外人家庭教師から教育をうけるという|贅《ぜい》|沢《たく》なおもいつきには少からず御満悦のようすでした。 「しかしまたなんで学校へ行くのがいやになったんだ? なにかいやな事件でもあったのかね?」 「いいえ、ベつに。ただ、高校というところはあたしにはあわないとおもうんです。服に自分のからだをあわせるより自分のからだに服をあわせるほうがいいとおもいます」 「ふむ、それは一応筋がとおる。わたしも日教組に牛耳られている現在の高校教育というものには根本的に疑問があるとおもっている。文部省も文部省だが……」  これ以上俗臭ふんぷんたる議論をきく耳をもたず、あたしは口をとじてにこにこと耳をそよがせていました。  さて、あたしがなぜ学校をやめる決心をしたか、これをクラス主任や校長先生にわかるように説明することは絶望的に困難でしょう。こちらからまずおたずねしましょうか。いったい、ひとはなぜ教育をうけなければならないのかな? あたしを世のなかの役にたつ人間にしたてようと、みんながよってたかって汚い手でなでまわすことにあたしはほとんどがまんできません。いつかTVで、近代化された養鶏場のルポルタージュをみたことがありますが、冷暖房完備の円筒状のアパートにつめこまれて、ベルトコンベアで流される|餌《えさ》をせっせとつっついては水を飲んで、すごいスピードで大きくなり、ころころと正気の沙汰とはおもえないほど卵をたくさん生んだり食用肉になったりしている鶏の群れをみて、あたしは笑いこけずにはいられませんでした。その鶏どもが、ワレワレハ鶏トシテノ可能性ヲ追求シ、人格イヤ鶏格ノ完成ヲメザシカツ鶏類ノ平和卜文化ノ発展ノタメニ飼育サレテイル、と口走ったとしたら、どんなにこっけいなことでしょう。小学校にはいると、毎日朝礼という行事がありました。貧相な養鶏係の何人かが壇上に立ってお話をしたあと、レコードがかかって体操となり、体操の教師がオイチニイサンシイとどなる声にあわせて、数百羽のチキンたちはばたばたと手足を動かすのでしたが、このなかにまぎれこんでいたあたしは、はずかしさで頭が熱くなり、いつもめまいをおこしていました。空はまっくらにみえました。学校にいるかぎりいつもまっくらでした。あたしは太陽が空にあるあいだの時間を学校によってとりあげられて大きくなりました。学校は、軍隊がそうするように、あたしに制服を着せ、汗臭い規則をおしつけました。なぜあたしは毎朝定刻に起床し|背《はい》|嚢《のう》をしょってでかけて死ぬほど退屈な教練をうけなければならないのでしょうか。なぜあたしはあの囚人服よりみっともない制服を着なければならないのでしょうか。無意味にひだの多いジャンパー・スカートはおびただしい|埃《ほこり》を吸いこんで女囚の匂いを放ちます。どうしてあたしはトリコットの黒いストッキングや白いソックスや鈍重な通学靴をやめて、シームレスのストッキングや素足にサンダルや高いヒールの赤い靴をはくことができないのでしょうか。教科書は精神にやすりをかけるためのサンドペーパーで、それをひらくとしばしば偽善の死臭がもうもうとたちのぼります。その教科書を|鞄《かばん》につめて、この世でもっとも魅力のない労働者の職場である学校にでかけていくとき、あたしはかなしみと|憤《ふん》|懣《まん》とで胸がつぶれそうでした。どうして、教育労働者はそろいもそろって精神的貧民なのでしょうか、これもふしぎなことですね。あたしにはこんなしょぼくれた貧乏人を尊敬することは、なんとしてもできませんでした。まあ、それでも、あたしは長いあいだなにくわぬ顔でお芝居をつづけてきました。小学校にはいったときからずっとあたしは模範的な優等生でした。わるいことをして叱られたことはただの一度もありませんし、なにかをきかれて知らなかったことも数えるほどです。あたしはすべすべした美徳の卵として学校生活をすりぬけてきたわけでした。しかしもし気まぐれな女教師がいてあたしの制服をめくりあげてみることをおもいついたとしたら、彼女はフランス製のスリップやブラジャーを身につけたあたしを発見したでしょうし、鞄のなかをさぐってみれば、美徳の不幸[#「美徳の不幸」に傍線]やビリティスの歌[#「ビリティスの歌」に傍線]、ときにはマドモアゼルOの物語[#「マドモアゼルOの物語」に傍線]などがあらわれて胆をつぶしたことでしょう。あたしは学校が終るとざくろ[#「ざくろ」に傍線]へ行って囚人服[#「囚人服」に傍線]をぬぎ、鏡のなかのあたしにほほえみかけ、髪の形に工夫をこらし、糸のように細い金のネックレスを首に巻いて、優雅な少女になりました。それから歩いて日比谷、西銀座、銀座のほうへとでかけます。汚い学生服を着て街にでている高校生をみるとあたしは顔をそむけました。映画をみるときでも、あたしは身分証明書をみせて学割料金ではいることが、はずかしくてできませんでした。だから自然、友だちと映画をみたこともほとんどありません。未紀ッテ全然映画ミナイノネ。イッタイオウチデ毎日ナニシテルノ? サテハ、勉強バッカリシテルンデショ。家庭教師モ、二、三人キテルンジャナイ? バレー[#「バレー」に傍線]カピアノ[#「ピアノ」に傍線]カ、ソレトモオ華カ、ナニカオ稽古ゴトデモシテルンデショウ? アナタノヨウナ箱入リ娘ッテ、イマゴロ珍奇ナ存在ネ。あたしは黙ってしとやかにほほえんでいました。 「でも」とあたしはバナナ・パフェをMにわたしながらいいました。「あの映画は十八歳未満おことわり[#「十八歳未満おことわり」に傍線]だったでしょ? あなたはどうやっておはいりになったの?」 「あら、そんなこと、ちっとも知らなかったわ。あたしちゃんと身分証明書みせて学割ではいりましたけど」 「あたしは十八歳以下にみられないように工夫したわ。たとえばこれ」とあたしはマニキュアした指をMにみせました。右手の薬指にはオパールの指輪をはめていました。 「きれい。きれいな手! あ、この石、オパールね。あたしにもちょっとはめさせて……少しきついわ。あたしの指って、あなたみたいにすらりとしてないから」  Mの手は粘土をこねてつくられた手、あたしのは骨を削って彫りあげられた手。彫刻なら、あたしのほうは神技を要する真に彫られた手です。 「あなたのほうが似合うみたい。オパールの色とつやがやわらかい肌にとてもよく合うわ。あら、そのネックレス、すてきね。みせて」  それは輪切りにした竹の節をいぶしたものと|小豆《あ ず き》のような小石と|象《ぞう》|牙《げ》|色《いろ》の貝殻とをつづりあわせた首飾りでした。 「あたしがつくったのよ。お気にいったらあなたにあげます」 「ほんと? うれしいわ。じゃ、これをいただいて、その指輪はあなたにさしあげるわ」 「だって、そんなこと……これだけはいただけないわ、すごく高価なんですもの」 「いいのよ、あなたの指にはめていて。ママから巻きあげた指輪ですから」  アナタ、指輪シテナイノネ、日曜日ハイツモハメテルノニ。翌日母がいいました。アルヒトニアゲテシマッタノ、オパール[#「オパール」に傍線]ノトテモヨク似合ウヒトニ。ゴメンナサイ、ワルカッタ? それは母がだれかから[#「だれかから」に傍線]贈られた指輪でした。ずっと昔のこと、母がおそらくあたしとおなじくらいの年のときに。 「昔のママはどんな手をしていました? これがぴったりだったとしたら、あたしとおなじ形の手ね」 「さあどうだか。あたしは一度もそれをはめたことはありませんでしたから」  パパから贈られた指輪でした。あたしは知っていました。母の理解に苦しむ性癖のひとつですが、彼女はひとから贈物をうけても絶対によろこばないのでした。けっしてうれしそうな顔をみせず、その品物を遠ざけて、しかし大切にしまいこんでおくのです。でもあの指輪は、学校に行かない日にはあたしの指に光り、母はそれをみてもなんともいわずにただきびしい眼をするだけでした。まるで|手《て》|桎《かせ》をはめられた囚人の動きをみはるような眼で指輪をはめたあたしをみるだけでした。 「かえしていただきましょうか?」 「一度さしあげたものを。そんな失礼なことをするもんじゃありません」 「あれがなくなることは、ママにとっていいことだとおもったの」 「それはどういう意味?」 「意味ってないわ」  そのおなじ日曜日の午後、Mはオパールを指に光らせてまたざくろ[#「ざくろ」に傍線]にやってきました。母カラモヨロシクオ礼申シアゲルヨウニッテイワレマシタと、みごとな英国製ツウィードのコート地をもって。空の隅に|鰯《いわし》の群れそっくりの雲が浮んでいる秋のよいお天気だったので、あたしたちは指をからませてお|濠《ほり》ばたをしばらく歩き、それからあたしがつよく誘って、青山のあたしの家にMを案内しました。むろん、ある魂胆あってのこと。あたしはこの美徳そのもののように美しい少女を自由にしたいとおもったのです。Mの純真|無《む》|垢《く》の美しさ。無邪気ということばはこのMのためにあるようなことばで、それは純白のグラニュ糖となってMの肉をつくり、神経の樹はナイーヴにその枝をひろげ、血の河は赤いミルクで、無知な髪はひたすら黒く長く肩から背をおおっていました。あたしはこの美しい生きものをあたしのペットにしたいとおもいました。そして飽きるまでながめること、|愛《あい》|撫《ぶ》すること、最後ニハ、ソノヒト知レヌ場所ニ口ヲヒライテイル穴ニ、熱イ硫黄ノヨウナ毒ヲ注ギコンデヤロウ。スルトコノマッ白ナ美徳チャン[#「美徳チャン」に傍線]ガ一瞬ノウチニマッ黒ナ悪ニカワルダロウ…… 「あなたが好きよ、好きだわ」  愉しさのあまり、あたしはうきうきとそうささやかずにはいられなかったほどです。 「これがあたしの部屋。なかをみて卒倒するといけないから、下の応接間に行きましょ」 「どうしてみせてくださらないの? あたし、どんなことがあっても驚かない。すごくちらかしてらっしゃるの? それだったら、あたしのお部屋のほうがもっとすごいわよ」  それは大いに想像できることでした。Mのような少女は|几帳面《きちょうめん》さや潔癖という美徳をしばしば欠いているものですから。あたしはドアに背をつけて|磔《はりつけ》の姿勢になり、イヤイヤとはげしく首を振りました。Mは絶対ニミテヤルカラ、とあたしの胸を自分の胸で押してきました。 「じゃ、約束して。なにをみても逃げださないこと、あたしをきらいにならないこと、この部屋のなかではなんでもあたしのいうことをきくこと。約束できる?」  あたしの部屋にはいったとき、Mはきっとおなかのなかの内臓をみせられた気もちだったでしょう。鯨のなかのヨナみたいに。でもMがまず感嘆の声をあげたのは、さしあたりは、大男が優に二人は寝られるものものしいベッドに対してでした。床から|茸《きのこ》のように生えている電気スタンドや壁をおおっている数十枚の複製画も珍しそうでした。絵というのは、すべて、中世の殉難画、ヒーロニムス・ボスやブリューゲル、その他写真複製のパルテュスとかチャペラとか、そしてあとはサルヴァドール・ダリ。要するにこの部屋のおどろおどろしい雰囲気は、あたしがこれらのコレクションとともにのちにモンク[#「モンク」に傍線]へそっくり移したものでした。 「まあ怖い絵。これはキリストでしょう。磔にされてるのね。かわいそうに、血を流して死にかけてるわ」 「醜悪でしょう?」 「シュウアク? なぜ? だって、これはキリストでしょう? あ、これは怖いわ。地獄の絵なのね」  それは裸の聖女が植木|鋏《ばさみ》のようなもので乳房をはさみ切られようとしている絵でした。ダリやキリコの絵も、お化けをみた幼児のようにMを怖がらせただけでした。 「あなたはクリスチャンでしょう?」といきなりMがいいました。 「ええ?」とあたしはあっけにとられてうなずいてしまいました。なんというみごとな説明を考えてくれたことでしょう。 「毎日お祈りなさる?」 「ええ。朝と夜と、それから特別かなしいときに」といいながらあたしは机のひきだしのがらくたのなかにまじっていた青銅の十字架をうまいぐあいにみつけだすと、くちづけしました。 「どんなことをお祈りするの?」 「アタシノモロモロノ罪ヲオ許シクダサイ。ソシテ早クアナタノ|御《ミ》|許《モト》ニオ召シクダサイマスヨウ」 「死んでしまうの?」 「あたしはいつも死ぬことだけを考えているの。お祈りをしていると、ときどき、神さまのあたしをよんでくださるお声が壁のなかからきこえてきて、あたしはほんとうに死んでいくときのようないい気もちになることがあるの」 「死ぬって、いい気もちかしら?」 「最高のエクスタシイよ。心がからだから抜けだすんだわ。うっとりと天国をみながら死んでいくんですもの。あなた、首を絞められて気を失ったこと、ある?」  コンナフウニ、とあたしはうしろからMの首に両手をかけました。次第に力をいれるとMは腕をあげてあたしの髪のなかに指をさしいれながら、気味わるいほどぐったりしてしまいました。 「どうしたの?」 「もっと絞めて。もっともっとつよく。殺してもいいわ」  誘惑されているのはじつはあたしのほうでした。あたしはからだのふるえをしばらくとめることができませんでした。  土曜日ごとにMはあたしの家にきて泊るようになりました。ときにはあたしのほうがMの家に泊りにいきました。真夜中の部屋のなかで、あたしたちは裸になって、レスボスの女たちのようにふるまいました。このやわらかで純真な美徳ちゃんは、|菩《ぼ》|薩《さつ》|像《ぞう》とおなじ形の足をもち、毛がうすいので、どこもかもほとんど純白でした。髪がおしりにとどくほど長くて、それは首に巻きつけて絞めるのに役に立ちました……ところがいまはどうでしょうか! 髪はひとなみに短く切ってしまい、足にはパンプスだこができ、オレンジ色のルージュと|鴾《とき》色のマニキュアをもちいる仏文科の女子学生です。そしていまだにあたしを愛しているのです。プルーストに夢中で、自分も小説を書きはじめているとのこと。きょう、ざくろ[#「ざくろ」に傍線]で会うとき、その一部をみせてくれるというのです。それを読まされたときあたしははずかしさで脳充血をおこしてしまうことでしょう。  パパ、おはよう。パパのいいつけを守って、早寝早起き。まだ六時まえ。しぼりたての果汁のような朝の光。どこかでさわがしく鳥たちが鳴いています。すぐそばで——たぶんあたしの寝乱れた髪の巣のなかでさえずっているのかもしれない。よく眠れました。ここ一週間、あたしはパパのいない夜に慣れるまではシーツを|噛《か》んで|唸《うな》ったりしたものですけれど。  このあいだのパパは本物の父親みたいでした。娘を叱る父親のように、あたしを叱りました。困ったことに、あたしはパパに叱られるのが大好き。道学者ぶったおじさんにでも叱られたら、牙をむいて|咬《か》みついてやるでしょうけれど、パパみたいな悪党にうんざりした顔で叱られると、あたしはいじらしく頭をたれて(うしろではうれしさのあまりみえないしっぽを振りながら)、ウイ、パパ[#「パパ」に傍線]、ウイ、パパ[#「パパ」に傍線]! なのです。  でもあたしにも口を|尖《とが》らして弁解させて。あたし、学校へはちゃんと行ってます。勉強もしています。パパがせっせとお酒を召しあがるのとおなじくらいせっせと、よくやってますから、御安心くださいね。ポントリャーギンの連続群論[#「連続群論」に傍線]も読んじゃったし、ブールバキだって着々とすすんでいます。金曜の午後にはMと二人でマドモアゼル・ブリオンのところへフランス語の会話を習いにいってますし(もっともこの先生は二十三歳の留学生で、満月を食べてしまった猫みたいにすばらしい眼をしていて、行けばかならず三人でツウィストを踊っちゃいます)、こうやってベッドのうえであぐらをかいて、朝の六時からパパに手紙を書きはじめるほど勤勉でもあるんです。  母がレモンのしぼり汁をもってきてくれました。それにソーダ水を注ぎ、ウイスキイをたらして飲むのがあたしの朝の習慣です。 「あなた、お行儀がわるくなったわね」 「あのね、Mさんが……」 「なぜMさんなんていうの、みさをさんという名前があるのに」 「そういうとお母さまのと同じ発音になるからです。Mさんが、急に旅行に行けなくなったんですって(嘘です、あたしといっしょに旅行に行けなくなったのはパパなのです)。どうかしら、お母さま、あたしといっしょに十和田湖や中尊寺や|磐《ばん》|梯《だい》高原へ行ってみない?」  さて、あたしと母はいま浅虫です。母はベッドのなか。風邪をひいて、熱をだしています。ゆうベ、北上の寝台で、風をいれすぎたのです。そこで青森から十和田へ直行するのをやめて、浅虫で一泊することにしました。けさはやく汽車をおりたとき、険悪な曇天の夜明けでした。鉛色のさびしい海岸。おりたのはあたしたちのほか数人。白い波があらあらしい唇のようにめくれあがり、遠くに下北半島がみえていました。 「バルト海にでもきたみたいね、ママ」  母は弱い微笑をうかべると、海にむかって、夜行列車[#「夜行列車」に傍線]のルチーナ・ウィンニッカのように歩いていきました。あたしはイマ声ヲカケテアノコトヲキケバママ[#「ママ」に傍線]モゴク自然ナ声デ、肩越シニ吹イテクル風ノヨウニ、ホントウノ返事ヲスルノデハナイカとおもいました。しかしおもいつめて声をだすまえに母がふりかえって笑いかけました。  二人きりで旅にでたのは、母の魂胆は不明ですがあたしの場合はあるひとつのこと[#「あるひとつのこと」に傍線]を母から知ることが目的でした。おそらくこの目的ははたせないまま、あたしは旅をつづけることになるでしょう。いいえ、あたしのほうで任務を放棄してしまったのです。ほっとしました。そうして、母がアスピリンをのんで眠っているあいだにパパにあててハガキを書きました。  ゆうがた、母は熱もさがって元気になりました。北の海のものすごい落日の光景をながめながら食事をしました。横顔に血の色をした光を浴びたまま、母は海も落日もみようとしませんでした。人間も愛さず自然も愛さない人間なのです。 「今度の旅行のこと、お父さまにはなぜ黙ってるの?」あたしたちは突然この東北旅行をおもいたって、家のだれにもいわずにやってきたのでした。「まるで家出ね」 「いう必要はありませんよ」 「心配するでしょうに」  母は輪切りにした|海《え》|老《び》の胴をフォークで刺して宙にもちあげたまま、 「あのひとは心配なんかしないひとよ」  それから海老を口にいれ、歯をみせずに食べながら微笑しました。怖い微笑でした! 娘であるあたしにも真似のできない微笑でした。母はすばやく別の種類の微笑に切りかえると、あたしをみつめながら、 「あなた、心配なの? だったら、二人の名前で絵ハガキでもだしておきましょう」 「もうだしたの」とあたしはいいました。モウダシタワ、パパ[#「パパ」に傍線]ニハ。 「ビールの|泡《あわ》が鼻の頭についてるわ。なんて書いたの?」 「I belong to daddy……」  母は顔を堅くして、無関心の殻をかぶりました。自分にはわからない英語を使ったという単純な不機嫌のために。  翌日は朝早く青森にでて、国鉄のバスで十和田湖にむかいました。途中|酸《す》ヶ|湯《ゆ》で五分ほど休憩があって、大きな木造の城のような旅館のまえで母の写真をとっていたとき、若い娘をつれた紳士と知りあいました。母は如才なくその紳士と話をはずませていました。髭の剃りあとが青大将みたいに青い、イタリア型の美男子で、全盛期のビリイ・エクスタイン的美声をもちいてキザにしゃべり、ぞっとしてしまいます。 「いいかたね」と母はバスのなかでいいました、「たいそうハンサムだし」  ああ、母ときたら、他人のことはいつもこんなふうに紋切型でしか語らない。偽善のみごとさも、ここまでくるとおそるべき悪意とみわけがたくなります。 「今夜は十和田湖でお泊りになるんでしょう?」と紳士が母に話しかけたとき、あたしはすかさず割りこんで、 「いいえ、あたしたちは十和田湖をみたら湯瀬へ直行するんです」  湯瀬のホテルでは、渡り廊下が橋になって渓流をまたいでいました。母といっしょに家族風呂にはいりました。裸になると、母は肉づきのよいアテーナーの威厳と優雅をそなえています。あたしより重たくはないからだなのに、とても豊満にみえます。大理石の女神。その感情は|剥《はく》|製《せい》の女神。  湯気のなかで、急に母はいいました。 「きょうバスでいっしょだったかたは、父と娘ではなかったわね」 「どうしてわかったの?」 「男のかたはほんとうのお金持だったけれど、娘のほうは育ちのよくない貧乏人だったわ」  語気の冷たさにあたしははっとしました。それから憎悪をこめて、異様に若々しい背中にむかっていいました。 「パパのこと、話してください」 「お父さまのどんなことを?」  母はあたしがパパ[#「パパ」に傍線]といったのに、不審がりもしませんでした。父のことはパパ[#「パパ」に傍線]とはよばずにお父さま[#「お父さま」に傍線]とよんでいるのに。そこであたしもお父さま[#「お父さま」に傍線]の話にきりかえて、 「お母さまはなぜお父さまと夫婦なの?」 「夫婦であって夫婦ではありませんよ」そして母は背中をむけたままいいはなちました。「あのひとはもうずっとまえから|前《ぜん》|立《りつ》|腺《せん》をやられて男のすることができないひとなのよ」 「お母さまってみかけによらずおそろしいことがいえるかたね」 「事実をいったまでよ。どうしてそんなことにこだわるの?」 「じゃ、あたしもこの際事実をおみせしておくわ」  右の肩を母の眼に近づけてみせました。パパにつよく咬まれた跡があるはずでした。母はしかし肩から眼をすべらせると、あたしの乳房のあいだに視線をさまよわせ、おなかの下までゆっくりとおりていきました。 「わからない?」あたしは恥をかかされたおもいでいらだっていいました。 「どうかしたの?」 「あたしには、肩や首すじに歯の跡を残すようなひとがいるの」  母は黙って蛇口のまえに|片《かた》|膝《ひざ》立ててしゃがむとタオルをしぼりました。 「男ができました」とあたしはほとんど挑発的にいいました。母はあたしの顔をみないで、 「知っていました」 「そうですか。それならいいんです」  浴衣を着ながら母は自分の胸にいいきかす調子でつぶやきました。 「けだもののすることをして」 「え?」 「結婚まえの若い娘が……」  そして母は野合ということばを使ってごく一般的な道徳上の非難で話をとじてしまいました。 [#ここから2字下げ] 注——ココカラアトノ部分ハ数年後ニ、オソラク去年ノ夏以後ニ書カレタモノダトオモワレル。インク[#「インク」に傍線]ノ色モ字ノ形モ多少変ッテイルガ、文中ニデテクルボクニ対スル電話ノ話カラモソウ判断デキル。十八歳カラ二十二歳マデノ未紀ガドンナ生活ヲ送リ、パパ[#「パパ」に傍線]トノアイダニドンナ関係ヲ保ッテイタノカ、ボクニハワカラナイ。シカシ関係ガツヅイテイタコトハタシカデアル。 [#ここで字下げ終わり]  ごめんなさい、パパ。あたしはパパをあのホテルに残したまま黙って東京に帰ってしまいました。  モウキミハボクニ酔ッパラワナクナッタとパパが船のうえでいいました。船は|兜形《かぶとがた》の島々のあいだを走っていました。あたしは眼をほそめ、|睫《まつげ》のブラインドをとおして|嘔《おう》|吐《と》をさそうほど濃厚で強烈な海をみつめていました。じっさいはなにをみていたのでもありませんでした、ただ海いちめんにばらまかれた光の|鱗《うろこ》のきらめきをまぶしがっていただけです。  酔ッテルワとあたしはいいました。海ト太陽ニ、真夏ノ熱気ニ、ソシテパパ[#「パパ」に傍線]ニ。でもくだける波の音、エンジンの音で、あたしの声がきこえなかったのでしょう。パパもカルテを読みあげるときのように単調な声でなにかいっていました。ふいにあたしは眠りたいとおもいました。パパとの長い旅行、瀬戸内海の島をめぐる旅行で少し疲れていたのです。パパの胸に頭をおしつけてそのことを知らせようとしました。するとパパは後退してしまい、|仔《こ》|猫《ねこ》のする甘えたしぐさに似たものだけが潮風のなかに残りました。そのあとあたしたちはビュフェにはいって冷たいレモン・ジュースを飲みました。この|収斂性《しゅうれんせい》の飲みもののおかげであたしはいくぶん元気を|恢《かい》|復《ふく》しました。  汽笛が鳴り、ドラが響き、下船がはじまりました。連絡船からの活気にみちた下船。あたしたちはいちばんあとからおりました。荷物を両手にさげて乗りかえの列車へ走る必要もなく、なんのあてもなく、その日あたしたちは有名な公園のあるその港町に泊ることにしました。|桟《さん》|橋《ばし》に立ったときの圧倒的な太陽がいまも頭に感じられます。古い路面電車の軌道にそって街のほうへと歩きながら、ふりかえると白い船赤黒い船のあいだから海の断片がみえていました。いくつか曲り角を曲るたびに、やはり海はみえていました。そしてホテルの窓からも。  たちまちあたしは裸にされてだきしめられました。やさしく、|兇暴《きょうぼう》に、あいしあい、あたしたちは骨を奪いあう二匹の犬みたいに快楽を奪いあってしゃぶりました。あたしたちは何度、こんなことをしたのでしょう? あとどれだけ、こんなことをするのでしょう?  目がさめるともう夜で、窓から月の光と軟かい風がはいってきました。月光を浴びてあたしたちは白い骨のようにみえたとおもいます。月は空高くのぼっていました。その引力に吸いあげられる潮、欲望の海のたかまり、そしてあたしの胸にみちてくる死! あたしはそのまま死んでしまうことを考えていました。パパの肩のうえで唇を動かしながら、冷えた腕をパパの胴にからませながら。おそろしく疲れていました。そしてなおも疲れはててしまうためにあたしたちはまたあいしあい、クイシンボウ! オイシカッタ? モット食ベル? といったことばを意味もなく投げかわし、そしてほんとにあたしたちは脚のつけねやわきのしたのくぼみをかじりあいました。  アタシ、結婚スルワ。あたしはかすれた声でそういいました。でもパパはたぶんきいていなかったかもしれない。またこんなこともいいました。デモパパ[#「パパ」に傍線]トハイツデモコンナコトヲスルワ。  翌日の昼近く、ボーイがドアを叩いたのです。そしてすこしドアをあけてのぞきこみました。ボーイはおそらく、あたしたちが折れた骨のようにかさなりあっているのをみたことでしょう。パパは眠りこけていました。  あたしは一人でホテルをでていきました。町の電話局にはいり、ガラスの|竪《たて》|棺《かん》のなかからKに長距離電話をかけました。結婚したいとあたしはいいました。理由を説明する必要はありませんでした。急グノ? とK。急グノ、とあたしは答えました。外へでたとき、よく晴れた空と金属性の光沢をもった雲をみあげました。あまりに明るい、すみずみまでみわたせる空間、これはあたしの絶望に似ていました。からっぽの未来。あたしは立ちどまりました。オレンジ色のタクシイが近づいてきました。結婚。数年後の旅行。地中海、パルミラ、アルジェへ行くこと。本物のライオンを|撫《な》でること。それからあたしは三人以上の子どもを生み、その子をライオンの仔のように鎖でひいて街を散歩するでしょう。車に乗りました。子どもはあたしを喰いあらして高貴な猛獣に成長し、あたしには平和な下降と衰退がおとずれる。幸福。少しずつ死んでいくこと。あたしはおちついた女の声で、駅マデヤッテチョウダイといいました。  ごめんなさい、パパ。あたしはただ、パパをおこしたくなかったのです。いつまでも眠っていてほしかったの。そのまま死んでしまうほど長く深く。 [#ここから2字下げ] 注——未紀ハ去年ノ夏、ドコカノ地方都市(名前ハキカナカッタ、港ノアル街カラダトイッテイタ)カラ長距離電話ヲカケテキテ、ボクト結婚シタイトイッタ。コレハ未紀ガノート[#「ノート」に傍線]ニ書イテアルトオリデアル。ソノトキノ声ハ明ルカッタ。明ルスギルヨウナ気ガシタホドダ。アンナ声デ結婚ヲ申シコマレルト、真昼、突然太陽ガ空カラコロゲオチテキタカノヨウナ不安ニ襲ワレル。ボクハ受話器ノタクサンノ穴カラモレテクル有毒ナガス[#「ガス」に傍線]ヲ吸ッテコトバヲ失ッタ。モシボクガ有頂天ニナッテコノ申シコミヲ承諾スルコトガデキタラ……シカシソンナコトハ不可能ダッタ。ボクニデキルコトハ、アル致命的ナ病気ニカカッテイル未紀ヲ看病スルトイウ形デ未紀ヲ愛スルコトダケダッタ……トモアレ、未紀ノノート[#「ノート」に傍線]ハココデ終ッテイル。コノアト、例ノ事故ガオコルマデノ数カ月ノアイダニ未紀トパパ[#「パパ」に傍線]ノアイダニナニガオコッタカ、イヤ、ナニカガオコッタカドウカ、コノノート[#「ノート」に傍線]カラハワカラナイ。 [#ここで字下げ終わり]      ㈼  未紀をみたのは何日ぶりだったろう? 最後に病院でみたとき、未紀はベッドのうえで上半身をおこしていたが、|繃《ほう》|帯《たい》がとられたあとの頭は、焼きはらわれた草地に春がおとずれたばかりといったけしきで短い髪は未紀を少年のようにみせていた。GI刈りのアンティノウス。だがきょうみると、髪はかなりのびてジーン・セバーグの頭に似るところまでこぎつけていた。 「だいぶん女の子らしくなったね」とぼくはしたしげにいい、スリッパをそろえてから背をのばした未紀の肩に軽くさわった。未紀はちょっと肩をそびやかし、微笑した。この微笑は、ぼくには、小さいときからいたずらを競いあってきた兄妹の関係、あるいは誠実に|欺《だま》しあってきた夫婦みたいな|完《かん》|璧《ぺき》な共犯者同士の関係を、一瞬暗示しているかのようにおもわれた。だがいうまでもなくこれはぼくの勝手なおもいすごしである。未紀の微笑はアムネジアから咲いた、抽象的でたよりない微笑にすぎなかったのだ。未紀はこの四月からさかのぼって過去数年間の記憶を失っているし、現在の未紀とぼくとのつきあいは、わずか二カ月にしかならない。彼女の記憶のない時のなかでの友だちだったと称して登場してきたこのぼくに、彼女はなぜかくべつの警戒もみせずに心をひらいてみせたのか——といってもその心の扉のすぐむこうには白っぽい壁がひろがっていて、その先をみることはできなかったが——ぼくはふしぎがってもいいはずだ……ぼくは病室で何度となくベッドからたれている未紀の手を握ってみたことをおもいだす。それは眠りにひたされている肉のようにやわらかく、指はなんのはじらいもみせずにぼくの掌に捕えられていた。そしてしたしみのしるしのように少しばかり汗ばむこともあった。ハナサナイデと未紀はある日いった。未紀ハモチロンボクノコトヲオモイダセナイダロウガ、ボクハキミノヨイ友ダチダッタツモリダ、信ジテモラエタラウレシイケド。信ジマス。アタシ、夢ノナカデアナタガ涙ヲ流シテラッシャルノヲミマシタ。ソレガ、ビックリスルホド大キイ、卵クライモアル涙ナノ。男ノヒトガアンナニ大キイ涙ヲコボシテクダサルナンテ、ドンナニ痛イオモイヲスルコトデショウ……たしかにぼくは第一回の手術が成功したとき、米粒大の涙をこぼしたのだった、未紀がそれをみていたはずはないけれども……だが、こうしてぼくが未紀のベッドのかたわらまで近づくことができたのは、あの事故のおかげのようなものだったといえる。それまでのぼくたちの関係は、親しい友だち同士といえるものではなかった。むろん恋人同士でもない。ぼくが勝手に未紀のことをおもっていたという意味で、ひそかに未紀を愛していたとしても。だから、事実は、ぼくのほうで未紀の記憶の空白につけこみ、過去を都合よく修正して、未紀の友だちになりすましたのだということになる。未紀はひどくすなおにこの詐欺師の近づくのをゆるした。イイノヨ、イクラデモアタシノナカニハイッテラッシッテイイノ、ドウセアタシノナカハカラッポナンデスカラ。それは未紀が退院の数日まえにいったことばだったが、ぼくはそのことばの魅力でほんとうに未紀のなかへ吸いこまれそうだった。黒い大きな眼のなかへ。 「この家にはいま未紀だけ?」とぼくはきいた。 「あなたとあたし、ばあやとその|甥《おい》の高校生、若いお手伝いさん、それからあちらの離れには廃人がひとり」 「廃人ってだれのこと?」 「父です。去年の冬、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》で倒れたんですって。ものもいえないでねたきりの|瘋《ふう》|癲《てん》老人。かわいそうなひと」 「なぜかわいそうですか?」 「なぜだかかわいそうですわ」未紀は首をかしげてそういいながら窓のカーテンを左右にひいた。童話のなかにでてくる白い馬の動きをみるようだった。未紀の服も顔も白かった。 「いまごろ間のぬけた質問だけど、未紀にはお父さんがいたんだね。なんとなくいないとおもいこんでいた」 「父のことはノートにも書いてあったでしょう?」  ぼくはうなずいて、もってきたノートをテーブルのうえにのせた。このノートを読んだとき、ぼくはあのパパ[#「パパ」に傍線]が実在の人物で未紀の父であり、いまこの家のなかに実在する父[#「父」に傍線]のほうこそ未紀のつくった架空の人物のようにおもえたのだった。だがそのことは未紀にはいわなかった。 「あたしも、父がいたなんて、考えてもみませんでした。もちろん、お顔をみたって、全然知らないひと。六十五になるんですって。だいぶん衰弱していて、毎日看護婦さんが通ってきてますわ。とにかく」とふいに未紀はよく光る眼をぼくにむけた。「現在この家のなかに住んでいる人間たちをごらんになってみる? あたし、御案内しますけど」未紀はまるで珍奇な動物の|檻《おり》をみてまわろうという調子でそういった。住んでいる[#「住んでいる」に傍線]ということばをぼくは棲んでいる[#「棲んでいる」に傍線]ときいた。 「それにはおよびませんよ」とぼくはなぜか興味を失って首を振った。たぶん、未紀と二人きりでいるほうを望んでいたのだろう。  だがそのとき、この家の住人のひとりがみずから顔をみせにやってきたのだった。 「ばあやよ」  背が低くて腰も顔つきも頑健で、頭には手拭をかぶり、愛想笑いが消えないうちから|真鍮《しんちゅう》の|画鋲《がびょう》のような好奇心が、金壺眼の底に光りはじめる。スカートをはきエプロンをひろげて幅びろく歩くさまには猿族の歩行をおもわせるものがあった。 「この部屋、涼しいねえ。冷房がききすぎるとからだによくねえっていうわよ」と群馬あたりの濁った発音でいい、ぶつぶつとひとりごとをもらしながら立ち去ったかとおもうと、また顔をつきだして、「きょう、どこかへでかける? でかけねえなら、わたし、慎ちゃんと渋谷へ映画みにいぐ[#「いぐ」に傍線]けど」 「大丈夫よ。いってらっしゃい」 「猟人日記[#「猟人日記」に傍線]ってやつだけど、あんた、みた?」とぼくに顔をむけ、ぼくが首を振ると、デハゴユックリと神妙な挨拶を残して消えてしまった。 「|端《たん》|倪《げい》すべからざるばばあだ」 「え?」と未紀は顔をかたむけた。 「まあ、油断のならないばあさんですよ。ぼくの家にもばばあがひとりいるが、もっと肉がだぶだぶついていて、口のききようはさらにすさまじい。猛烈な東北弁だ。ぼくの母親なんですがね」 「おかあさま、いらっしったの」 「ああ。しかしそのおかあさまときたら、このぼくがそこから生まれてきたとはとうていおもえない|猥《わい》|雑《ざつ》な肉の塊で、事実ぼくのほんとの母親じゃないらしい。吉祥寺で下宿屋をやってますよ。三年ほどまえに家をでて以来一度も行ってみないけど、まだ生きているだろう。土地と建築費用の借金で首がまわらなくなって、下宿人から前借りしてはパチンコばかりはじいていたから、いまごろは下宿人もみんな逃亡して、そのからっぽの家のなかで、病気の牛みたいにどたりと横になってふてねしてるんだろう、きっと。ほんとは下宿屋より淫売宿のおかみになりたかったらしいが、オメエタチノ教育ノコトモアルカラナアといって下宿屋をはじめたんですよ。自分では身を売ったことはないといってるけど、まあ淫売宿の女中くらいならやっていたことはたしかだし、ほかにもやきとり屋のおかみ、タバコ屋、インチキ周旋屋の手先、いろんなことをやってきたようだ。それが妙に情ぶかいところのあるばばあで、どういう事情からか、ぼくと姉と、二人も子どもをゆずりうけて養育する気をおこしたんです……くだらないな、こんな話」 「いいえ。おもしろいわ。わからないことばがたくさんでてきますけど……それはみんなあなたのこと?」 「そうですよ。でもこんな話がどうしておもしろいの?」 「あなたのお話の声と調子が、好きなんです」と未紀はいった。正面で、笑いもしないで輝いているまじめな眼から、ぼくはおもわず眼をそらした。以前の未紀はこんな眼をしない少女だった。眼はいつも気まぐれな|彗《すい》|星《せい》のようにとびまわっていた。こんなふうに、じっと、水をたたえた眼でひとをみるのは、病気あがりのせいなのかもしれない。 「ぼくの話はきたない。ぼくのような人間の出生、生いたち、育ち、係累、家庭、といったものをのぞきこんでみると、こいつは、スサノオノミコトが投げこまれたという蛇だらけの穴みたいなもんだ。こんな臭くて汚い蛇にからみつかれて育った人間は、やっと穴からはいだしてみても生涯その臭いがぬけないもんだとおもいますね。貧乏というやつはこの世でいちばんたちのわるい悪で、これは欠乏とか不足とか、あるいは不平等とかいったものとはちがう、つまり、なにか足りないものをつけくわえさえすれば恢復できるような欠点じゃない。存在そのものの卑しさということですね。ぼくはかつてコミュニストだったが、貧乏人の|怨《うら》みからコミュニストになったんじゃない、とおもっていた。そんな卑しい怨みなんか、ぺろりと喰っちまったみごとな怪物がこのぼくで、ぼくはなによりも知的な衝動から革命のイメージをえがき、破壊のあとの|瓦《が》|礫《れき》の山のむかいに、亡霊みたいに美しい夕陽をみることだけをねがいながら手あたり次第に壁のとりこわしをやりはじめたのだ、というふうに信じていたらしい。しかしいま考えてみると、この世界の滅亡を祈る人間の怨みと憎悪には、やっぱり貧乏人の卑しさがしみこんでるんだな。こいつは、存在論的な怨みか、存在的な怨みか? 残念ながら、ぼくの場合はたぶん、存在的だ、ぼくは自分の存在的な卑しさのなかでのたうちまわっていたにすぎなかったのだろう」  ぼくは口のまわりに汗をかいた。掌にも汚い汗がにじみでていた。未紀がおしぼりをひろげてぼくの手にわたしてくれた。 「ぼくはなにを話したいのかな」 「なにをおっしゃりたいの?」 「そうだ、ぼくの姉とのことだけど……」 「お姉さんのこと?」  これが未紀のノートに対するぼくの、おそらくなんの効果も生まないコメントのかわりになるはずだった、つまり数年まえ、卑しさのなかでぼくと姉のあいだにおこった事件を未紀に語るということが。 「……きょうはやめておきます」とぼくは不愉快な、嘔きけをもよおす沈黙ののちにいった。未紀は薄く微笑しながらいった。 「でも、いつかお話してくださる?」 「いつか話します」  こうしているあいだ、未紀は頭の両側に終始形のいい耳をだして、にこにこしていた。ぼくのおしゃべりに対してなんの感想ものべずに。そしてときどきホワイト・ホースをぼくのグラスについでくれるだけだった。ぼくはそんな未紀に感謝しなければならない。 「ノート、お読みになった?」と未紀がいった。  うなずくとぼくはウイスキイを固形の毒薬のようにのどの奥にほうりこみ、顔をしかめた。 「なにかおっしゃって」 「あのノートは焼いてしまいなさい、いや、ぼくにください」 「それは、あれに書いてあったことを忘れておしまいなさいということ?」 「存在しなくなった未紀は存在しないままでいいのだ」 「それが、また存在しはじめたの。忘れたいのに、忘れられない……あのノートに書かれてあることは、ほとんど暗記してしまいました」 「これに書いてあることが自分のことだとおもえるの?」  未紀は首を横に振り、着ごこちのわるい過去をなんとか自分の身にあわせようとするかのように神経質にからだを動かした。 「ノートの内容は事実だとおもいますか?」 「事実って、どういうことですか?」 「これは小説かもしれない、とおもったことはありませんか?」 「小説って、なに?」 「嘘。つくり話」 「嘘って?」 「お手あげだな」  オ手アゲッテ、ナンノコト? とはきかずに、未紀は頭のなかのもつれたことばの配線をいじっているようすだった。ぼくはうしろにまわり、未紀の少年のような頭にさわってみた。こめかみを両手ではさみ、徐々に力を加えてみた。未紀はじっとしていた。 「痛くない?」 「痛くないわ」  あたたかい頭の骨が心臓にあわせて|動《どう》|悸《き》しているようだった。骨にはひびがはいり、脳のある部分には目にみえない傷がついているかもしれない。少くともこのなかでなにかが壊れているにちがいなかった。もしも未紀の頭の気味のわるいほどの|脆《もろ》さとやわらかさをぼくの掌が発見しなかったとしたら、ぼくは無神経にことばの砲弾をいくつか撃ちこんで、いささからんぼうなショック療法をこころみたことだろう。たとえば、近親相姦[#「近親相姦」に傍線]ということばを使ってみること。だがたぶんいまの未紀はこのことばを知らない(忘れている)かもしれないとぼくはおもった。 「疲れたわ」と未紀はゆるやかに流れる水のような声でいった。「二階のあたしの部屋で、横になってお話します」  そして立ちあがると未紀は掌をうえにむけた左手を、バトン・タッチを待つリレーのランナーのようにうしろにさしのべて、廊下を歩きだした。それはぼくの手をひいてみちびく姿勢なのだった。このとき気がついたけれども、ぼくの感情はいつのまにか忠実な犬の姿をとっていた。つまりこの犬は主人の未紀をみあげながら、その意志の変化を読みとり、命じられるままに動こうと身がまえているのだった。  階段の途中で未紀は息をととのえるためか足を止めた。そして立ちどまったぼくをふりかえって、いった。 「パパってだれ? あたしのなんなのですか?」  これは階段の途中では答えられない種類の質問だった。ぼくは無言のまま未紀の|肘《ひじ》をおして階段をのぼらせ、ぼくたちは二階の廊下のつきあたりの部屋にはいった。 「これがきみの部屋なの?」とぼくはおもわず声にだしたが、たしかにこの部屋はぼくを驚かせた。いや、むしろ驚くべきものがなにひとつないことがぼくを驚かせたといえる。部屋は病院の高級病室のように明るくて清潔だった。そしてそれがすべてだった。壁は白く、書架には一冊の本もない。およそ人間の手の愛撫のあとをとどめているような、持主に飼いならされた家具というものが、なにひとつないのだ。(あのノートに書いてあった)ヒーロニムス・ボスやダリなどの絵も一枚もなかった。鉄製の古いベッドだけが以前からのものらしかった。それは大きな四足獣のように、堂々と部屋のほぼ中央をしめていた。 「ここはまえから未紀の部屋なの?」 「そうだとおもいます。ただ、去年の秋に改築したそうですから、そのときにこの部屋もすっかり模様がえしたのでしょう」 「冷蔵庫のなかみたいな感じだ」とぼくはいったが、要するにこれが現在の未紀の内部を象徴しているということができるだろう。この部屋を殺風景だと形容するのはあたらない。精神の自己崩壊や荒廃を反映しているのではなく——ぼくにはうまくいえないが、ある強力な意志、欠如と空白以外を許すまいとする意志が働いてこの空虚で明るい部屋をつくった、とでもいっておこう。  未紀はベッドに横たわった。ねそべったのではなく、からだをまっすぐにのばして|仰臥《ぎょうが》したのである。両腕もからだにそってのばしていた。この姿勢は手術台のうえの患者を連想させたし、あるいは、抜け去った魂の帰ってくるのを待っている死者の姿にも似ていた。精神分析医がやるように、ぼくは未紀の視界の外に坐り、姿のない質問者そして聴き手になった。未紀の意識の流れがその口からことばの流れとなって外にむかうのを助けること。だがこれはうまくいかなかった。未紀の口はわずかにひらき、動いたが、ことばは声にならずに消えた。 「なにもお話することがないわ」 「からだを堅くしないで。いまなにを考えてる? おもいついたことをなんでも口にしてみるんだ」 「なんにもないわ」と未紀はかなしみのこもった声でいった。しばらく黙っていてから、ぼくはいった。 「昔の未紀みたいにまたノートに書いてみたら? 病院にいたときは先生の命令で毎日書かされてましたね。書いてごらんなさい」 「どんなふうに?」 「なんでも、書けることを書いてみるといい。できるだけ腕の力を抜いて」 「でも、どんなスタイルで? たとえばまえのノートとおなじようなスタイルで書くのですか?」 「それでもいいでしょう。あれが未紀のスタイルなのだから」 「じつは」といいながら未紀はからだをおこした。「退院したあくる日から、少しずつ書きはじめているの」 「読ませてください」 「こんなふうでいいかしら」といって未紀は机のひきだしから新しいノートをとりだした。そのときのぞいてみたのだが、ひきだしはノートのほかはからっぽだった。  きのうあたしは退院しました。Mさんが迎えにきてくれました。入院中ほとんど毎日きてくれていたKさん(注——コレハボクノコトダ)はどうしてかきてくれませんでした。Mさんも毎日きてくれていましたが(注——ダガボクハ一度モMト顔ヲアワセナカッタ。タブン未紀ハボクトMガ顔ヲアワセナイヨウニ、午後ヲボクノ、夜ヲMノ訪問ノ時間ニキメテイタノダロウ)、そのほかにもMさんのお母さま、父の兄弟だというかたがお二人、母の長兄だというかた、あたしのうちのばあやとその甥、あたしの科の学生が四、五人、お見舞にきてくれました。あたしはこれらのひとたちをだれひとり知りませんでした。たいへんわるいことでした。  お医者さま(神経科の部長)はあたしが記憶を失っているのだといいました。事故で頭を打ったからで、器質性のアムネジアだそうです。はじめあたしは先生の使っているこのことばをきいて花の名前のようにおもっていました。ところがそれは心の病気の名前でした。記憶喪失。でも記憶とはどういうことなのでしょう? たとえばあたしはただひとりの女友だちであるMさん(とMさん自身がいいましたから、これはほんとうなのでしょう)についての記憶がありません。Mさんをおぼえていません。Mさんについての記憶がないということは、Mさんが存在しないということとおなじです。それなのに、Mさんはいま存在していて、アタシガMヨ、といいます。うす気味がわるく、怖くなってしまいます。Kさんについても、そのほかのひとたちについてもおなじこと。名前も重さもない亡霊のようなひとたちがあらわれて、めいめい自分が存在していたことをあたしになっとくさせようとします。まるで前世のことをきいているみたいですけれど、みんなが口をそろえていうからには、きっとこのひとたちのほうが正しいのでしょう。このひとたちはこれまでも存在していたし、だからこそいまも存在しているのでしょう。まちがっているのはあたしのほうなのでしょう。記憶を失ったということは、あたしを失ったということでした。  どこかでこんな絵をみた記憶があります(もっともこんな記憶はなんの役にも立たないとおもいましたから、先生にも話しませんでした)。それは小さな線描で、下半身をなにかに喰われ、頭とえらだけになって泳いでいる魚の絵です。|鯛《たい》だったでしょうか。深海に|棲《す》む魚だったとおもいます。たいそう大きな眼をしていました。みひらいた眼は|瞳《ひとみ》をうしろによせて、自分のなくなったからだをかなしげにみつめているようでした……そこでこんな夢に似た絵の記憶をたよりに、あたしも鉛筆でこの魚の絵をかいてみました。Mさんがのぞきこみました。あたしはすぐに、それがたいへん幼稚で下手くそな絵であることをさとって顔をあからめました。  さいわい、あたしの記憶喪失は生まれたときまでさかのぼるものではありません。ここ数年のことはおもいだせませんけれど、ずっと昔のことはかえってよくおぼえているのです。  たとえばお母さまと港へ船をみにいったときのことがおもいだされます。あたしは三つでした。船のおなか[#「おなか」に傍線](なんというのでしょうか)はどこまでもつづく壁のようにひろがり、天国よりも高い甲板から無数のテープがたれています。岸壁には大勢のひとが立っていて、泣いているのか笑っているのかわからない叫び声をあげました。お母さまはひとごみから少しはなれたところに立ってあたしの手を握っていました。お母さまも泣いていたようでした。顔をみあげますと、涙がきらきら光っていて、太陽をみるようなまぶしさでした……病院にいるあいだ、その病院は横浜の海をみおろす丘のうえにあったので、窓から海をみたり船の汽笛をきいたりするたびに、何度もこの記憶がうかんできました。  お母さまは死にました。あたしが殺したのです。ばあやがそういいました。昔から家にいるひとだそうですけれど、あたしは知りません。らんぼうにずけずけとものをいうひとです。あとで先生は、アレハ事故ダッタ、運ガワルカッタノダ、アナタノ責任デハアリマセンとおっしゃいました。そしてあたしが軽々しく、殺スとか殺シタとかいうことばを使っていますと、殺シタノデハアリマセン、死ナセタトイイナサイ、と先生にいわれました。殺スというのは殺す気もちがあって殺すことで、あたしの場合はちがうのだそうです。そうでしょうか。あたしにはわかりません。あたしの運転していたポルシェがトラックと衝突したのだそうです。そのときにお母さまは死にました。みんながそういうので、あたしもこれはたしかなことだとおもい、くるひとごとに、未紀ガ事故ヲオコシテオ母サマヲ殺シマシタ、不注意ナ未紀ガポルシェ[#「ポルシェ」に傍線]ヲトラック[#「トラック」に傍線]ニ衝突サセマシタ、と説明しました。でもなんだかひとごとのようでした。先生は困ったようなお顔であたしをみつめていました。Kさんは、キミハ三人称デ他人ノ事故ヲ報告スルヨウナ調子デ話シテイルネといいました。そのとおりでした。  事故の瞬間をおもいだそうとしますと、ものすごい力で締めつけられるように頭のなかが痛みます。  二、三度警察の調べをうけましたけれど、あたしがすべてを忘れているということが確認されただけでした。Mさんやお医者さまや、みんながあたしを警察から守ってくれたといえるかもしれません。いまとなってはあたしの責任を追及することは不可能だし、またそれはこんな病人に対しては許されないことだ、というのがみんなの一致した意見だったようです。退院の数日まえ、あたしは先生につきそわれて警察にでかけ、調書というものに署名|捺《なつ》|印《いん》しましたが、これはまったく形式的な手続だったとおもいます。調書の内容は、よく理解できませんでした。鉄骨のスクラップがちらばっているような筆跡で書いてあり、文章もそれとおなじような印象を与えるものでした。正直なところ、あたしはすぐに頭が疲れて事故のくわしいありさまを知ることにも興味を失ってしまいました。係官のひとりはあたしの病気について同情をあらわしていました。コノ患者サンハ過去ヲオモイダサナイホウガカエッテシアワセジャナイデスカ。  きょうあたしはラドリオ[#「ラドリオ」に傍線]でMと会いました。Mとおなじように髪の長い——ただそれは砂漠色に脱色されていました——娘がいてMに話しかけてきました。少しおかしな日本語で、混血児ではないかとおもいましたが、たしかなことはわかりません。Mの友だちで、あたしとも何度かおしゃべりした仲だといいます(あとでMがそう教えてくれました)。Mとその娘はコーヒーとレモネードを交換して飲みながらゴダールの最新作についてしゃべり、それから来月やってくるエラ・フィッツジェラルド(音楽家らしい?)の切符のことなどを話しあっていました。 「エラ、いらっしゃる?」とM。 「エラ。ベつに行きたくはないけど」とあたしはいいました。 「すごいおばちゃんよ」とMの友だち。 「エラって、どういうひとだかよくおもいだせないけれど、なんだか好きじゃないみたいです」 「エラ。おもいだせない? あなたの好きなジャズのシンガーなのに」 「モダン・ジャズなら、おぼえているひともあるわ」とあたしはいい、数人の名前をあげました。ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマン、エリック・ドルフィ、チャーリー・ミンガス、ローランド・カーク、アーチー・シェップ、セシル・テイラー。 「知らないわ。変なひとばかりおぼえてるのね」 「好きだったのでしょう。好きだったことや愉しかったことはわりにおぼえてるんです」とあたしはいいました。 「未紀さんは数学科の大学院だけど、数学のことはちっとも忘れてないのよ」 「わりと便利なものね、パラノイアって」 「アムネジア」とMが訂正しました。 「あ、失礼しちゃった。そう、そのアムネジア」  あたしは口をとじたまま微笑していました。 「記憶喪失って、記憶のフィルムのある部分から過去が消えてしまうのかしら、写真のフィルムに光がはいったときみたいに」 「そんな簡単なものじゃないわ。一時はことばも使えなくなるのよ。まわりのひとたちと正常な関係のむすべない状態にまでおちこむのよ」とMが説明しました。 「サルトル先生ならオンティコ・オントロジィクな病気だというわね」  二人は笑いました。あたしも笑いました。そのことばがおかしかったからです。意味はわかりませんでした。 「そういえば」とMの友だちは眼を光らせていいました。「ある雑誌で読んだけど、|炭《たん》|塵《じん》爆発の事故で記憶を失った男のひとなんか、性欲もなくなってしまったんですって。未紀さんの場合はどうかしら?」 「およしなさいよ」 「性欲って、ありませんわ」とあたしはまじめに答えました。「食欲はあるんですけれど」  二人は笑い、あたしは笑いませんでした。あたしのことばの使いかたがおかしかったのでしょうか。でも(性欲とはよくわからないのですが)そんなものがないのはほんとうのようです。あたしが沈黙を守っていると、Mの友だちは現代における愛の不毛[#「現代における愛の不毛」に傍線]というようなことを論じはじめました。ミケランジェロ・アントニオーニの夜[#「夜」に傍線]や日蝕[#「日蝕」に傍線]以来、この種の問題について哲学的な会話をかわすことが女子学生のあいだで流行しているということでしたが、あたしにはよくわからない話題でした。つまり興味がもてませんでした。愛って、なんでしょうか?  外へでたとき、雨が降っていることに気がつきました。Mとあたしはタクシイをみつけ、青山のあたしの家へ走らせました。車が青山一丁目の交差点をすぎたところで、まえを走っていた大型トラックがなんの予告もなしに急停車し、あたしたちの車はトラックの下にもぐりこむようにしてあやうく追突をまぬがれました。あたしは座席から跳びだしてつよく胸をうちました。Mが顔色を変えてあたしをだきかかえましたが、そのときあたしはまえのトラックの車輪のあいだからひきだされるものをみました。人間のようなものを。はげしい頭痛に襲われました。頭のなかであのとき[#「あのとき」に傍線]が|閃《ひらめ》くとかならずこうなのです。あたしたちはそこから歩いて帰りました。 「なんでもないの……こういうことはよくあるわ」あたしはしいておちつきをしめそうとしていました。「あたしの事故はもっとひどかったでしょうね。最悪の事故だったでしょうね……」 「そのことを考えてはだめよ」とMがいいました。|蒼《あお》くなって|河童《か っ ぱ》のような顔をしていました。  Mはあたしの部屋でカーネギー・ホールのデイブ・ブルーベック[#「カーネギー・ホールのデイブ・ブルーベック」に傍線]を聴いてから帰っていきました。あたしはそれが大きらいです。おそらくあたし[#「あたし」に傍線]もきらいだったのでしょう。退屈して疲れましたけれど、がまんしなければいけないとおもいました。Mはあたし[#「あたし」に傍線]の友だちだったのですから。そのあと、あたしはひとりでした。レモンをしぼって、ソーダ水を注ぎ、ウイスキイをたらして冷たい飲物をつくりました。このつくりかたはあたし[#「あたし」に傍線]のノートにでていたものです。いまもおいしいとおもいます。ですから、あたし[#「あたし」に傍線]もこれが好きだったのでしょう。  きょうもまだおもいだせません。くらやみのなかにいて、うっかり足をだすと、おぼえのない過去にすぐつまずきそうです。  Kさんはなぜきてくれないのでしょう。いまはKさんだけがたよりなのに。  Kというひとのことについて書いてみます。  Kが最初に病院にみえたのはあの事故の翌日で、あたしは意識不明で生きるか死ぬかもわからないときでした。ものがいえるようになり、ひとりでおきあがれるようになってから、Kはほとんど毎日あたしを病室にたずねてきました。そして次第にあたしのまえではっきりした形をとりはじめたのですが、それはちょうど、壁にあいた等身大の穴、ひとのからだの形にくりぬかれた穴から、なにかが徐々に抜けだしてくるのに似ていました。Kはだんだんとあたしに近づいてきました。窓のそばに立っているか、ベッドの近くに椅子をひきよせて坐っているかしていました。あたしはなんとなくほほえみ、Kの眼をみつめました。それは死んでいく動物の眼のように澄み、乾いた瞳にはなにも(あたしの像さえも)うつっていないようでした。ふしぎなひとでした。  はじめKはあまりしゃべりませんでした。しゃべると、明るい声が午前の陽ざしのようにあたしの髪にふりそそぐのでしたが、それはあたしの頭のなかまではとどかず、どこか|贋《にせ》|物《もの》めいていました。Kの寡黙は、かれがあたしについて多くのことを(少くともMが知っているよりもはるかに重大なことを)知っているためのものではないかとあたしはおもいはじめました。K自身はそれを否定しましたけれど。 「おききしたいのですけど、Kさんはあたしとどういう御関係ですか?」とある日たずねますと、Kは御関係[#「御関係」に傍線]といういいかたをおかしがってくすくす笑い、 「ぼくはあなたの婚約者ですよ」と答えました。 「未紀のですか?」 「そうです。未紀とぼくは婚約してるんです」 「そのことは、ほかのひとも知っていますでしょうか?」あたしはいくぶん用心ぶかくたずねました。べつにKを疑ったわけではありませんが、記憶を失っているので、過去のことは他人のことばでたしかめるよりほかにないのです。 「だれも知らない。ぼくたちだけしか知りませんよ」 「あたしも知りませんわ……それはいつのことでしたかしら?」 「去年の夏。きみは——きみ[#「きみ」に傍線]ではなくて未紀とよんでいいですか——未紀は突然ぼくに長距離電話をかけてきて、結婚したいといったんです。もちろんおぼえてないですね。……いっそそういうことはなかったことにしましょうか。それにあれはたぶん未紀の冗談だったろうし、ぼくも未紀にウイと答えたわけでもないんです。変な関係ですよ、ぼくたちは」 「婚約って、結婚するという約束のことですわね」とあたしは辞書でも読みあげるような調子でいいました。「そして、未紀がKさんと結婚するわけですね」 「結婚ということがわかりますか?」 「ことばは知ってますわ。わかるつもりですけど」 「未紀はぼくと結婚したいですか?」 「……わからない」 「ぼくもわからない。でもぼくたちの関係は、さしあたり婚約者同士だということにしておきましょう。そのほうが明快でいい」  Kは自分のことについてあまり話したがらないようすでした。それはむしろ、あたしの心が衰弱していてほかのひとのことに関心を集める力がなかったために、Kのほうで話をさしひかえていたのかもしれません。あるひとがなにものであるかということは、あたし[#「あたし」に傍線]とどんな関係をもっていたかということですが、そのあたし[#「あたし」に傍線]がいなくなったのですから、そのひととあたし[#「あたし」に傍線]との過去をきいたところで、それはただのお話にすぎないのです。 「六月の末にアメリカへ行くことになるかもしれません」とKはいいました。「カリフォルニア大学の大学院に留学することがきまってるんです。あとはヴィザがおりるのを待つだけだ」 「それでは、もうじき行ってしまうのね」 「わかりませんよ。やめるかもしれない」 「なぜ?」  Kは答えないでにっこり笑いました。 「かなしくなりますわ」とあたしはいいました。  ぼくはノートを閉じると未紀の額に唇をつけ、|脆《もろ》い卵のような頭を撫でた。 「未紀はものおぼえがいいな」とぼくはいった。 「病院にいれられてからのことはひとつ残らずおぼえているの」と未紀はベッドのうえに坐りなおしながらいった。「あなたのおっしゃったことも全部おぼえてます。それから|午《ひる》|睡《ね》しているあたしにときどき接吻なさったことも」そういいながら未紀は少しあかくなり、顔を自分の立てた膝にふせた。 「さっきみたいに額にね」 「ええ額に。でも一度だけ唇で唇におさわりになったわ。なぜそんなことをなさったの?」 「なぜなんてきくひとがあるもんか。まあ、いってみれば治療のためです。おまじないだ」 「もっと、おまじないしてほしいわ。はやくよくなりますように」  けさ目がさめたとき、ぼくは大きな魚の口で口をふさがれ息を切らしていた。それはじつに長い接吻で、海底に|釘《くぎ》づけにされたまま肺をからっぽにして死んでいくような苦しい|恍《こう》|惚《こつ》|感《かん》とともにぼくはエレクトしていた。この冷たい軟体の魚はあきらかに未紀の化身だったし、この長い接吻はきのうの未紀との接吻の変形だ……たしかにあれは長い接吻だった。手術台のうえの患者におそろしく長い時間をかけて静脈注射を打つのに似た接吻のあいだ、未紀はまったく動かなかった。腕はぼくの背や首にからみつくこともなくベッドからたれさがったままだった。ぼくの舌は未紀の二枚の唇のあいだで死あるいはニルヴァーナに似たものを味わっていた。未紀の息の長さがぼくを不安にした。|痙《けい》|攣《れん》|的《てき》な思考がやがてぼくの息を断ち切ってしまった。ぼくは未紀と唇をあわせたまま、姉の記憶に襲われて痙攣したのだ。というのはこの接吻が数年まえに姉とした接吻とそっくりだったのだから。うしろから恐怖の手がぼくの首を絞めた。次におこることは——姉との場合にそうであったように——けたたましい、全世界をひきつらせるような笑いの爆発ではないか? それはおそろしいことだった、もし未紀から姉とおなじ笑いが噴出したとしたら、ぼくの心臓は簡単に止ってしまっただろう……ぼくは未紀の口からはなれた。未紀は口をとじて棺のように長くよこたわっていた……  ぼくはおきあがると冷蔵庫をあけて冷たいトマトを食べた。あきらかに、考えたくないことがあった。姉のことだ。牛乳を飲み、クロワッサンを食ベ、新聞を読み、胃のなかに|融《と》けない核を感じながら、ぼくはアメタイ[#「アメタイ」に傍線]へでかけた。これがぼくの日課だった。ヴィザ[#「ヴィザ」に傍線]ハマダオリナイノデスカ? マダデス、シカシ遠カラズオリルデショウ。目下本国デ事務上ノ手続ガ進行中デス。午後からプールへ泳ぎに行くことにした。なにごとも考えなくてすむように。  この夏、ぼくはすでに何度も泳いでいた。六月のなかばから空はつややかに|禿《は》げあがった額のように晴れあがったままだった。太陽は熱い息を吐きつけ、フライパンのなかよりも耐えがたい都会の真夏がはやばやとやってきたのだ。ホテルがプール開きをした日からぼくは泳ぎにいった。あの口に残る水の味、髪から|眼瞼《ま ぶ た》にしたたるしずくのきらめき、たらまち胸を乾かす金色の陽ざし、全身の筋肉にひろがるだるい|酩《めい》|酊《てい》の感覚、それらがぼくをとりこにした。ぼくはほとんど毎日のようにプールへでかけて平均一キロメートル泳いだ。たいていはひとりで。未紀を誘いだすことも考えたが、あの重傷のあとで、はげしい水中の動きに耐えられるとはおもえなかった。そこできょうは岩田を誘ってみる気になった。ひとつは未紀のまわりにひろがっている濃厚な夢に似た空気から一時遠ざかるためであり、ひとつは目下のアメタイ[#「アメタイ」に傍線]問題の対策についてこのアンポ[#「アンポ」に傍線]時代の仲間のひとりに相談してみることは大いに有益だろうとおもったからだ。昔から岩田は状勢判断の的確さについては定評があった。かつて細胞[#「細胞」に傍線]のキャップとして核酸的役割を長くつとめていたことのある男で、それはアンポのまえ、ぼくが代々木[#「代々木」に傍線]に尻をむけて通称LICという組織をつくってから三カ月たっていたが、この岩田もついに代々木[#「代々木」に傍線]の細胞をほうりだしてぼくらの徒党に加わったのだった。かれはたしかぼくよりも五歳うえだったから、いまは二十九歳である。だがどうみても三十歳以下にはみえなかった。数年まえからそうなのだ。身長はぼくとおなじくらいあり|痩《や》せているくせにぼくよりもずっと大男にみえ、軍隊でたたきあげられたような頑健さがあった。つまりそれはあまりに長いあいだ代々木[#「代々木」に傍線]という軍隊に所属していたからだろう。なにしろ高校二年のときに入党したのだそうだ。その岩田もアンポのあとはぼくらの仲間の多くがそうであったように、一定期間の虚脱状態(むしろ知的な脱水状態というべきだ)をへて、マル経[#「マル経」に傍線]の研究生活にみずからをとじこめるため大学院に入院するという予後をたどり、やがて知的健康の恢復とともに資本論[#「資本論」に傍線]のお経をあげることにもあきあきしたいまは、数理計画やエコノメトリックス、ORに自動制御といった高級な知的遊戯に熱中しているのだった。  電話してみると、行きたいというのでぼくらは伊勢丹の水着売場で待ちあわせることにした。 「おれはずいぶん長いこと泳いでないな。アンポ以来じゃねえかな」とかれはいい、海水パンツを買った。  そうかもしれない。なにしろ、あの年の夏はやけくそみたいに泳いだものだ。ぼくらの仲間は外房の海水浴場をはしご[#「はしご」に傍線]で泳ぎながら夏をすごし、二度も皮がむけた。ぼくたちの皮膚の下には黒い憎悪の色素が|沈《ちん》|澱《でん》した。そしてぼくらは夏の終りとともにおたがいに顔もみあわせずに別れてしまった。だが律儀な岩田だけはそのあとも、撤退作戦と称して組織のたてなおしをはかっていた。それはちょうど破産を宣告された会社の残務整理に似ており、岩田は干魚のように感情のない顔をして、ひどく事務的に活動していた。もうかれをひきつける幻はなにもなかったのに。というのも、くらやみに坐ってLICに日々あらたな神話を提供していた思想的神体、すなわち俗にいう理論的指導者であったぼくが、いちはやくLICから逃亡して女のなかへ|失《しっ》|踪《そう》してしまったからである。  もう大昔のことだ、四年もたってみると、こうしたできごとの断片はぼくの記憶のプールのなかを少女の白い足のうらのようにひらひらと泳ぎまわっており、それはいまでも驚くほど鮮かだが、もはやぼくに属するもののようにはおもえない。だがアメタイ[#「アメタイ」に傍線]の連中にいわせれば、それらはまぎれもなくぼくに属する過去であり、その過去のしっぽが現在から連続的に生えているということは、ほとんど道義的な事実であるというのだ。アナタハカツテコミュニスト・パーティ[#「コミュニスト・パーティ」に傍線]ニ所属シテイタコトハナカッタノデスカ? コレハタイヘン重大ナ質問デス。ヨク考エテ正直ニ答エテクダサイ。アナタノ答ガ事実ニ反シテイルコトガ判明シタ場合ニハ、合衆国留学ハ永久ニ不可能トナルカモシレマセン…… 「そいつはピンチだなあ」と岩田はいった。ぼくらはカリーナ[#「カリーナ」に傍線]でカルボナーラを食べながらアメタイ[#「アメタイ」に傍線]対策を協議した。こんなとき、ことさらに声をひそめてほとんど歯音だけで話し、眼鏡を光らせては考えこむのが岩田の癖である。大時代な階級的警戒心[#「階級的警戒心」に傍線]というやつのなごりなのだ。かれはいった。 「で、あんた、なんでそのときノーといったんだ? そいつは致命的にまずかったなあ」 「たしかにあれはまずかったよ、I was once a member of Japan Communist Party,but……とやるべきところだったよ」 「なにしろあんたもおれも当時堂々とハタ[#「ハタ」に傍線]に名前がでてたからなあ。あんたはペンネームだったが、おれなんか本名で論文をだしたこともあるよ」 「まあ、アメタイ[#「アメタイ」に傍線]がその気になったらおれたちがペー[#「ペー」に傍線]だったことなんか、一時間で洗いだすだろう。公安[#「公安」に傍線]にでも問いあわせたらいちころでばれちまうよ。しかしおれたちは数カ月でペー[#「ペー」に傍線]から追いだされた身だからねえ。たぶん除名処分くらったときハタ[#「ハタ」に傍線]にも名前がでてたんじゃないか? だいたい、そのあとおれたちがいかに猛烈にアンタイ代々木[#「アンタイ代々木」に傍線]であばれまわったかということをみれば、おれたちの正体はアンタイ・コミュニストだったと早合点してくれてもいいくらいだぜ。おれたちLICは反共活動に|挺《てい》|身《しん》していた愛国主義者だったというわけさ。|牽強附会《けんきょうふかい》ですかねえ」 「アメタイ[#「アメタイ」に傍線]でそこまでいえるようならあんたも心臓にタテガミが生えてるよ。しかし、やつらにあの当時われわれがやってたことを理解させようたって無理な話だ」 「そうなんだ。アンポ[#「アンポ」に傍線]ノコロ、ワレワレハヒデエコンフュージョン[#「コンフュージョン」に傍線]ノナカデアンタイ・デモクラティック・フォース[#「アンタイ・デモクラティック・フォース」に傍線]オヨビヨヨギ・コミュニスト[#「ヨヨギ・コミュニスト」に傍線]タチト困難ナタタカイヲタタカッテイマシタ、といってみたところで、やつらにはけっきょくのところファナティックなゼンガクレン[#「ゼンガクレン」に傍線]の大暴れといったイメージしかうかんでこないんだ。おれたちがなにものでもなくなった以上、なにかをやっつければなにものにでもなれるという理窟、こいつがやつらにはなにより怖いし理解できないんだな。このあいだ、T大にやってきたエヴァンズという社会心理学者と会ったとき、Are you a Marxist? ときかれたね。ノーといってやったら、Then, what are you? とききやがるんだ。失礼な野郎だとおもったが、むこうにしてみればロジカルな追求だよ。I'm not what I am, but I'm what I am not とでもいってやろうかとおもったが、こんなしゃれたせりふはサルトルさえ読んだことのない田舎者にはわかりっこない。相手は要するにオマエハナニヲ信ジテイルノカとききたいわけだが、ナニモ信ジチャイネエシナニモノニモ属シチャイネエヨという答は、最初から答とはみとめないかまえなんだ」 「I'm a nihilist とやったらどうだ?」 「Oh,terrible! ときちゃうね。ニヒリスト、無神論者、こんなものは人間じゃない、けだもの以下だというわけだ」 「アナーキスト」 「ああ、そいつはコミュニストより百倍もわるい。変質者、殺人狂のたぐいと同列にみられる。コミュニストはずるがしこい悪党だが、がまんして話しあえないこともない相手だ。ところがアナーキストときたら、暴行殺人破壊を主義とする気ちがいだとおもっている。みずからアナーキストだと名乗ったりしたら、今世紀中アメリカ行きはまずだめだろう。それからホモセクシュアル、サディスト。これは絶対にだめ」 「それで、あんたはエヴァンズになんていったんだ?」 「ワタシハリベラリストデスといってやったらよろこんだね」  ぼくらは肩をすくめて二羽の|禿《はげ》|鷹《たか》のように笑い、とまり木からおりて|高《たか》|輪《なわ》のPホテルのプールへでかけた。二面のプールはわりにすいていた。青い縞の上衣を着たバンドの連中がプール・サイドの棚のうえでハワイアンをやっていた。ぼくらはひと泳ぎし、ヴェランダにあがってコーラを飲み、また泳いでローストチキンを食ベ、ビールを飲んだ。プールサイドのざわめきと|嬌声《きょうせい》は次第にたかまった。太陽が快適だったのでぼくらはヴェランダにねそべって陽ざしを浴びた。サングラスのなかの太陽は顔をしかめた|向日葵《ひまわり》だった。少しのあいだうとうとした。からだは無色の炎に包まれ、|灼《や》けた皮膚が光沢のあるパンの皮みたいにぼくの内臓あるいはぼくのなかの流動性の時[#「時」に傍線]を装甲していた。目をとじると|瞼《まぶた》の裏に明るい|薔《ば》|薇《ら》色のスクリーンがひろがり、それは、いっそうきつく目をとじると暗い血の色から死斑の色へ、また瞼をゆるめると希望に似たオレンジ色から真珠色へと、さまざまに色を変える。世界はぼくにしたしげな微笑を送り、ここに燃えさかっているのは現在[#「現在」に傍線]だけだ。ときおり耳のそばをひたひたとやわらかな音がとおりすぎるのは少女のぬれた足のうらがコンクリートを踏んでとおる音にちがいない。目をあけてみおろすと、プールサイドは|花畠《はなばたけ》のようだった。  きょうは午後、プールへ行くまえに未紀の家に寄った。彼女は彼岸花の色をしたショート・パンツをはき、サングラスをかけてテラスで日光を浴びていた。|籐《とう》|椅《い》|子《す》のうえで直角三角形をつくっている長い脚とけばだったような小さい頭のために、未紀は白人の少女そっくりにみえた。ぼくはポントリャーギンのThe Mathematical Theory of Optimal Process をもっていたが、それは朝のアメタイ[#「アメタイ」に傍線]|詣《もう》でのあとで岩田と会って返してもらったものだった。未紀は黙ってぼくの手から本をとると、しばらくページをめくっていた。 「ポントリャーギンの最大原理[#「最大原理」に傍線]ね」 「知っていたの?」 「まえに自動制御[#「自動制御」に傍線]や適応制御[#「適応制御」に傍線]、最適制御[#「最適制御」に傍線]などを少しばかりやったことがありますから」 「未紀は数学のことなら以前のままだね。頭のその部分はこわれていない」 「それがかえってなっとくのいかない感じなの。いっそ頭のなか全体が、めちゃめちゃにこわれて、完全な気ちがいになってしまったほうがよかったみたいです。いまのあたしはにせもののあたしのままでにせのリハビリテイションをやってのけて、死ぬまで本来のあたしをとりもどせないような気がするの……意識的に発狂することはできないものでしょうか?」 「できるかもしれないが、でもそれじゃにせ気ちがいだ。正真正銘の気ちがいとなると、こいつはもうにせの人間どころじゃありませんよ。人間以下の水準への|頽《たい》|落《らく》だ」 「でも、あたしの場合、失った記憶をとりもどすということは、おそろしい顔のようなものを正面からみて、おそろしさのあまり気が狂うということではないかとおもうの」 「それなら、未紀はむかしのことを忘れたままで生きていくべきだ。どんな空洞だって時がたてば|癒着《ゆちゃく》してしまう」 「でもパパは存在しているわ」と未紀は空をみながらうたいだすような調子でいった。ことばはぼくに意味を伝えにやってくるかわりに、くらげのように半透明なもの[#「もの」に傍線]となって宙にただよった。語尾のふるえはくらげからたれさがる糸となってぼくを刺した。愚劣さを承知でぼくはきかずにはいられなかった。 「パパと会ったの?」  未紀はサングラスをかけたまま笑ったので笑いの意味はぼくには不明だった。 「会うわけがないでしょう。どんなかたかもまるで知らないのに」 「未紀がその気になればパパをさがしだして会うことは簡単だ。会いたいの?」 「わからない」と未紀はものおもわしげに首を振った。 「こんなとき、精神分析医だったら、なんというのかな。たぶん、やはり会うべきだというだろうな」 「あなたはどうおもいます? あたしをパパに会わせたいの、それとも会わせたくないの?」後半はぼくの胸に足を一歩ふみこむ勢でいわれたので、ぼくの答は致命的によろめいた。 「会うべきでしょう」  べき[#「べき」に傍線]だなんていうべきでなかったことにぼくはいいながら気づいていた。未紀はほとんどきこえなかったかのようにぼくの声を避けて立ちあがった。 「これから泳ぎにいらっしゃるんでしょ?」と未紀はいい、サングラスをはずすとしたしげな笑いをたたえた眼をぼくにむけた。「あたしもいっしょに泳ぎたい。つれてってね」 「泳げるの?」ソノカラダデ[#「ソノカラダデ」に傍線]、とはいわなかったので、未紀ははしゃいだ声でいいきった。 「泳げますわよ。そんなに驚かないで」  ぼくたちは地下鉄で赤坂のPホテルへ行った。 「水着の色はなに色?」 「白よ」  それはまっ白のビキニで、ぼくの眼を驚かせた。未紀の肌はたいへん白かったので、白いビキニの裸は燃えあがる熱気のなかに立つとろうそくのように融けていくのではないかとみえた。未紀は水をおそれずにいきなりクロールで泳ぎはじめた。ヴァイキングの船のように(と未紀はノートのどこかでベッドにはらばいになった自分を形容していたが)水面をすべっていくのをぼくは感嘆してながめていた。この白い船と白い航跡はあまりに幻想的だった。もしも腕をあげるときにみえる一房の毛の黒さがなかったら、これは完全な幻影だっただろう。未紀は簡単に二十五メートルを泳ぎきって、背のたつところで水上に胸をだして跳びながらぼくをまねいていた。ぼくはスタート台から飛びこみその未紀をめがけて突進した。だがすでに未紀の姿はなく、彼女はぼくがスタートした側にもどっていた。こんなことを二、三度くりかえしたのち、ぼくは一足さきにプールサイドにあがって、シンクロナイズド・スウィミングのまねをして水面から脚をだしたりしている未紀をながめていた。  ぼくは未紀に欲望を感じていたのか? 裸でぼくの眼のなかを泳いでいる未紀は、ぼくをかなしませた。かなしみ[#「かなしみ」に傍線]とは適当なことばではないが、とにかく未紀はぼくの内臓をくすぐったりひっぱったりするようなしかたでぼくの対象[#「対象」に傍線]になっていた。それは性的充足のための手段としてぼくの気をひいたというより、認識の対象としてぼくを挑発していた。ぼくは大きな魚のような眼[#「眼」に傍線]そのものになって未紀を食べてしまいたかった。しかしぼくが意識(むしろあこがれというべきだろう)を分泌して未紀という核を捕獲しようとすると、未紀はすばやく泳いで逃げた。変幻自在な女神のように。ドウシタラ彼女ヲ所有[#「所有」に傍線]スルコトガデキルダロウ?  わずかに衰えをみせはじめた午後の太陽を腹に感じながら、ぼくたちはプールサイドの椅子にもたれてしゃべっていた。三時と四時のあいだだった。しゃべっていたのは主としてぼくのほうだったが、これはやむをえないことだ。未紀の世界はまだその蝕[#「蝕」に傍線]から|恢《かい》|復《ふく》しない欠落した世界だったから、確信をもって語れることはごくわずかしかなかったのだ。ふとぼくは、ぼくたちがはじめて会った数年まえの十月の土曜日に、未紀自身がパパなる人物についてしゃべっていたことをおもいだした。 「お話してみて」未紀は顔のうえに帽子をのせたままいった。そこでぼくはあの日のことを、詳しく再現しようとこころみた。 「これは密告されると困るけど」とぼくは冗談めかしたほがらかな調子でまずいった。「あの日、ぼくはエスキモー[#「エスキモー」に傍線]や侯爵[#「侯爵」に傍線]といった連中と、強盗を働いてきたところだったんだ、未紀と会ったとき札を勘定していたでしょう、といってもおぼえてないんだな……とにかく、これは事実だ。連続六件、やってのけましたよ。六年まえの十月の新聞の縮刷版でも調べてみれば、この事件が実際におこったこと、そしてその年の終りには|蚤《のみ》のように小さくなって迷宮のなかにまぎれこんでしまったことがわかりますよ」 「わるいひと」  ぼくはその意味をはかりかねて未紀の帽子をもちあげ、眼のなかをのぞきこんだ。そこにはなにもうつっていなかった。未紀はまた帽子をひきおろすと、 「いくらとれました?」 「全部で五万八千二百四十五円。その金で、横浜へ行ってマゾ子[#「マゾ子」に傍線]とかニンフォマニア[#「ニンフォマニア」に傍線]とかロリータ[#「ロリータ」に傍線]とか、珍奇な女の子を集めてパーティをひらいたんだが、そこへ行く途中で未紀がまぎれこんできたというわけだ」  そしてぼくは未紀に語りはじめた、女神の足の裏の|皺《しわ》をみつめながら、あの事件の|顛《てん》|末《まつ》を話した。ぼくの口は悪い血のような恥と暗黒を語ろうとしているのに、でてきたことばは夏の陽にふれると|蜜《みつ》のようにすきとおり、それは不幸な冒険の熱い歌となる。ぼくは三時と四時のあいだでトルバドールだった、未紀はほそい首をたわめ、|膝《ひざ》をだいてきいていた。 「このストッキング、洗ってあるのか?」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。ぼくは鼻のまえでそれを横にひきのばしてみた。女の脚の形をした動物のぬけがら。|剥《は》がれた皮膚の匂いを|嗅《か》いだとおもったのは鼻の迷いだった。 「ああ、洗いたてだ」 「だれのだい?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がいった。  それはその日の朝、ぼくの家に下宿していた作家[#「作家」に傍線]からもらったものだった。数カ月まえにこの女子学生の短篇小説がある雑誌の懸賞小説に入選して評判になったときから、ぼくは下宿人たちとともに彼女のことを作家[#「作家」に傍線]といういささか|揶《や》|揄《ゆ》|的《てき》なニックネームでよぶようになったのだが、彼女は白い歯と好奇心とをみせて、 「靴でも磨くの?」 「覆面するんです」 「それじゃ、清潔なのをあげるわ。どうして覆面するの?」 「じつは強盗をやってみようとおもうんだ」 「なぜ強盗するの?」 「仲間がみんな十七歳になったもんだから、そのお祝いにクレイジイ・パーティをひらこうとおもいましてね」 「そのお金?」 「まあね。金もいる。金がないことと病気をすること、こいつは人間最大の罪悪だなあ。もしよろしければ金のほうは作家[#「作家」に傍線]にお借りしてもいいけど、それでも強盗はやらなくちゃ。ずっとまえからプランを練って、みんな遠足みたいにたのしみにしてますからね」 「何足いるの?」 「四人分」  作家[#「作家」に傍線]は口をとじたまま眼で笑っていたが、あの笑いにであうと、ぼくはハイエナかなにかに足の裏をなめられているような気もちになる。おまけに作家[#「作家」に傍線]は、トニカク十七歳ッテ黄金時代ナノネというような感想をつけくわえたのだ。  エスキモー[#「エスキモー」に傍線]とツトムと侯爵[#「侯爵」に傍線]とそれにぼく、四匹のにせ|狼《おおかみ》どもは、めいめい、オレハ狼ダゾと|呪《じゅ》|文《もん》をとなえながら背中にそよぐ砂の色をした毛に太陽を浴びて丘にのぼった。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]がまずストッキングをかぶってみせた。ぼくはエスキモー[#「エスキモー」に傍線]におこった奇怪な変貌をみて声をあげた。もうかれは人間ではなく抽象的な怪物だ。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]をとりかこんであとの三人は笑いこけた。 「なんだ?」 「あんた、ものすごく醜怪だよ」とぼくはいった。するとエスキモー[#「エスキモー」に傍線]は両腕をさしあげてフランケンシュタインのようにぎごちなく歩いてみせた。みるみるかれはぶざまな人造人間に変った。ぼくもストッキングをかぶった。それはたちまちぼくの皮膚に吸いつき、ぼくの皮膚そのものになり、それを通して別の世界がみえた。|猥《わい》|雑《ざつ》な街は遠近感を失い一枚の銅版画に変った。ぼくの黄金時代の太陽は西の空にころがっている。柔かそうな金色の球、あれはぎっしりと精子のつまったぼくの|睾《こう》|丸《がん》のひとつになんとよく似ていたことだろう。怒りにかられたぼくはいまやりっぱな狼だった。血が騒ぎ、口は耳までさけ、眼は緑に輝いた。ぼくたちは顔をみあわせておたがいに狼になっていることをたしかめあった。ツトムだけはサルスベリの木の下に立って素顔のままぼくたちをみつめていた。 「ツトム、おまえもやってみろよ」 「いいよ、おれはいいよ」 「そうだな、あんたは眼鏡をかけてるからなあ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。ツトムはこめかみの血管をふくらませた。 「きみたち、ほんとにやるの?」 「ああ、これから襲撃する」 「わからないなあ」 「そんなことをするヒ、ヒ、ヒ、ヒ、必然性があんたにはわからない、というわけでしょう?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]が挑発的にいった。ツトムはぼくらの仲間のあいだの悩める知性[#「悩める知性」に傍線]であり、好んで必然性[#「必然性」に傍線]ということばを口にするのでほかの連中はツトムのいないところではわざとヒ、ヒ、ヒ、とどもったうえで卑猥な隠語のようにこのことばを発音しあっていたものだが、侯爵[#「侯爵」に傍線]はいまそれを当人のまえでやってみせたのである。ぼくたちはナイロン製の狼の顔でツトムをとりかこみ、ことと次第によってはとも喰いだってやりかねないけはいをみせてやった。ツトムは厚い眼鏡の下でやさしい眼をうるませながら、反抗のしるしに鼻の穴をふくらませていた。  その丘の下にはR女学院の運動場がひろがっていた。赤葡萄酒色のテニスコートやバスケットのコートではねまわっている汗とうぶ毛につつまれた天使たちがみえた。よく晴れた十月の午後、丘のうえからそんな光景をみているとぼくは眼に涙ではないなにか水っぽい|漿液《しょうえき》があふれてくるような感じに襲われる。明るい陽ざしのなかでくっきりと影をおとして木の実のようにとびはねている少女たちの世界はぼくからは無限に遠い。追放された一匹の鬼として下界をながめるならわしをいつかぼくは身につけてしまったのだ。あのみごとな|腿《もも》をだした天使たちがじつはうす汚い鼠の|仔《こ》にすぎないのだとしても、ぼくの境遇がそれだけましになることはあるまい。膝をだいてまぶしい赤土のうえのできごとをながめながらぼくはここにみえるものがすべて贋物なのだとおもいこむ努力をした。しかし贋物はぼくのほうではなかったか? 「さあ、でかけよう」とぼくは大きな声で出撃をうながした。「ユニフォームはそろってるだろうな」  |嫌《けん》|悪《お》と屈辱で黒光りしている高校生の制服をこの日はわざと着ることにしていたのだ。そこでぼくはズボンにアイロンをかけ、入念にブラシもかけておいた。袖口には二本の白線を巻き、セロテープでとめたが、これはどこかほかの高校の生徒に化けて犯行を転嫁するためではない。正真正銘の高校生であることを知らせるためにしたことだ。こうしてぼくたちは正装していた。ひとは犯罪を働くときにはうやうやしく正装すべきだ。これは作家[#「作家」に傍線]の意見である。ヤルナラチャント制服ヲ着テオヤリナサイヨと作家[#「作家」に傍線]はいった。  車はぼくが用意することになっていた。ぼくが目をつけていたのは庭つづきの隣家の若い住人の愛車だったが、この青年のことをぼくと作家[#「作家」に傍線]はバイドク[#「バイドク」に傍線]とよんでいた、かれはこの|絢《けん》|爛《らん》たる名前にふさわしく花の色をした顔とデリケートな手をもった美青年で、大金持の地主の息子で遊び人だった。そして過度の女遊びのあいだに梅毒をうつされて一時病院通いをしていたが、その梅毒のことを女そのものの陰湿な毒性からくる病気であるかのようにののしってひどいペシミズムにおちいっていたこの青年に、作家[#「作家」に傍線]はバイドク[#「バイドク」に傍線]という美しい名前を進呈したのである。実際かれはスピロヘータのように美しい青年だった。  丘をおりると、ぼくだけ家にひきかえし、隣の家のガレージからバイドク[#「バイドク」に傍線]の愛車、最近かれがつきあっている愚連隊関係の、かなりいかがわしいルートをつうじて十万円で手に入れたという一九五三年型クライスラー、黒い|犀《さい》のように頑丈で陰鬱な、そして窓が高くて狭いためにいまでは|霊柩車《れいきゅうしゃ》か囚人護送車に似つかわしいおそるべき老朽車を無断で借りだし、坂の下の喫茶店でジュースを飲んで待っていた仲間を拾った。みんな上機嫌だった。むろん、それは睡眠薬か精神安定剤のもたらした上機嫌だった。草のなかには狼の体臭が充満した。じつはこの年ごろの少年に特有の、ニキビと汗と充血した観念の匂いにすぎなかったのだが。  さて、ここで車を走らせるまえにぼくは仲間たちのことを紹介しておかなければならない。なぜならこの物語を運転するのはぼくであり、やがて途中でかれらは疾走する車から死体のように投げだされることとおもうが、それでもかれらの顔を|一《いち》|瞥《べつ》しておくことは運転手の義務であるからだ。  ツトムはぼくたち仲間の恥部だった。つまりかれはその良心というものによって、下着の横からはみだした陰毛のようにこっけいな存在に、しばしばなるのである。かれがぼくに近づいてきた理由は、ぼくが知的な領域でなにごとかをなしうるという大したうぬぼれをもち、毒気にみちた陽光を熱狂的に愛する人間だったからにちがいない。この最初の要素は|矮小《わいしょう》ながらかれのなかにもあったが、あとの要素はかれにはまったく欠けていた。かれはぼくが暗黒の世界の反太陽みたいなものを自分の太陽にしていることに恨みがましい|羨《せん》|望《ぼう》をいだいているようすだった。そこで自分ではなにもしないオブザーヴァーの資格でかれはぼくたちのあいだにまぎれこみ、内的モラル[#「内的モラル」に傍線]だとか社会性[#「社会性」に傍線]だとか、うんざりするほどくそまじめな進歩派の愛用語をもちだしてはしばしばぼくらの無頼ぶりにくってかかった。ぼくたちが反抗的人間としての悪党であることには原則的に賛成しなければならないが|犬《けん》|儒《じゅ》|派《は》のふるまいにはがまんできないというのである。中学時代にバスケットの選手だったそうだが、動作には柔軟性が乏しい。女の子のまえでは文化人[#「文化人」に傍線]とくに進歩的知識人[#「進歩的知識人」に傍線]といわれる人間に特有の、ものしずかな説得調で話す。ともかくぼく自身は、ツトムが黒いユーモアを解さないという点をのぞいてはかれの悪徳[#「悪徳」に傍線]のすべてに比較的寛容だった。父親は地方裁判所の判事。次の侯爵[#「侯爵」に傍線]とは、いうまでもなくサド侯爵からちょうだいしたニックネームである。かれの父はK大医学部の教授で金持だったし、侯爵[#「侯爵」に傍線]自身も良家の息子にふさわしい|痩《そう》|身《しん》白面の貴公子といったおもむきをそなえていたが、しかしその大きすぎる眼とアフリカ象の耳みたいにひらいた耳、そして尖った顔からうける印象が妙にアブノーマルであるように、事実かれは自称サディストだったのである。その当時T・S氏訳である書店から刊行されていた粗悪な造本のサド選集がかれの聖書であり(ぼく自身も侯爵[#「侯爵」に傍線]から借りて熟読したものだが)、それはその持主に愛撫され読みぬかれて|手《て》|垢《あか》で黒ずみ、全体が獣皮のように毛ばだっていたほどだ。どんな女でもこれほど愛されてはついにその肉も骨もぼろぼろに朽ちてしまうにちがいないが、サド侯爵の書物は、侯爵[#「侯爵」に傍線]にいわせると、ぼろぼろになるまで読めば読むほど|堅《けん》|牢《ろう》な論理の骨が洗いだされてくるというのであり、その理由でかれは聖者サドにほれこんでいたわけだ、だからかれ自身は知的な、つまり純正なサディストを自認しており、女を相手の|鞭《むち》打ち、緊縛、|浣腸《かんちょう》責め、といった通俗的なサディズムの儀式にははげしい|軽《けい》|蔑《べつ》を表明していた。殺人、それも大量虐殺の観念をかれは頭に養い、葡萄状球菌のように繁殖させているのだった。だが結局のところかれは、ぼくからみれば、いささか子どもっぽい、黒ずくめの殺し屋の|扮《ふん》|装《そう》を好む少年にすぎなかった。かれは学生服をなんとなく支那服のように着こなした。それで女の子たちのあいだでは人気はわるくなかったが、女の子たちと話すときは、腐った魚でもみるような眼で相手をながめ、丁重だが|辛《しん》|辣《らつ》な口のききかたをした。  エスキモー[#「エスキモー」に傍線]。身長一七〇センチ、体重七十八キロ。夏の太陽の下のイタリア男みたいに愉快で図々しい男だった。色は白く、女のようにもりあがった胸には黒い毛が密生していた。高校一年の春、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]の体格とすさまじい胸毛をみこんで相撲部から入部の勧誘があったとき、裸になって土俵にあがったものの手もなくころがされて意外に弱い筋力を暴露したが、かれ自身にいわせると、まんまといっぱいくわせてやったという話である。アンナ野卑ナ格闘ナンカオレニハフサワシクネエカラナアというのだった。それにエスキモー[#「エスキモー」に傍線]はスポーツをあまり好まなかった。一見レスラーのような|体《たい》|躯《く》をもっていたのは、おびただしい肉を食っていたからである。じつをいえば肉しか食べないのだ。かれはエスキモーの食生活に共鳴していた。小学校五年のときにはやくも発毛して曲りなりにも両親に男性の尊厳と独立を主張できるようになって以来、肉類、それも生肉を主食とするエスキモー流の生活を実践してきたのだ。かれの叔父はH漁業の系列のF食品の社長で、各種の動物の肉を|罐《かん》|詰《づめ》にするまえに試食する機会にめぐまれていたので、カンガルーや海亀はいうまでもなく、アフリカ象や錦蛇にいたるまで食ったことがあると称していた。この叔父の影響で、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]自身もおよそ動物の肉ならなんでも平然と口にする悪食行者の風格をそなえていたが、しかし悪食に徹するふうではなかった。なによりも生肉が好きだったのだ。生肉を口にいれるとかれはよく発達した歯で繊維を|噛《か》みほぐし、鮮紅色の舌を動かしながらその動物の味を充分賞味した。ともかく、進化の樹を下にむかっていく悪食的探険家と、猿からついには霊長目ホモ・サピエンスへとしのびよっていく潜在的人肉|嗜食《ししょく》|家《か》との中間にあって、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]は生の牛肉、冷凍鯨の尾肉、アンコー以外の魚類と|海《え》|老《び》、|蟹《かに》類、鳥の生の内臓などをもっぱら食べていた。昼休みになると弁当箱をもって学校の正門わきの肉屋で牛の肩肉を買ってきて四分の一ポンドのバターをかじりながら塩|胡椒《こしょう》で生肉を食う。そして「生で食ったら、ヴィタミンCの心配はしなくてもいいんだがねえ。念のために」といってヴィタミンC剤をのむ。もちろんこうした反文明的食生活は最初クラスの女生徒たちの|顰蹙《ひんしゅく》を買っていたが、まもなく女の子たちは北極圏からやってきた珍獣でもみるようにしてエスキモー[#「エスキモー」に傍線]をながめるようになり、やがてこの愛すべき食肉獣は彼女たちのあいだの人気者となって昼休みになると小遣いをだしあって肉屋のまえにかけつける女の子の姿がみられるほどだった。しかしある日、ぼくのまえに坐っている女の子が生きた兎をブルーマーやトレーニングシャツといっしょに袋につめて教室にもちこんだ。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]とぼくは、サディスティクな眼でみまもりながら大げさな悲鳴をあげる女の子たちの円陣のなかで兎を絞首刑に処した。ただちに死体解剖にうつり、登山ナイフで切りわけるとエスキモー[#「エスキモー」に傍線]はまだあたたかい臓物を口にいれた。そのさいちゅうにだれの密告があったのかガニマータ[#「ガニマータ」に傍線]または赤鬼[#「赤鬼」に傍線]とよばれている体操教師があらわれたものだ。「なにをしてるんだ?」「生物の解剖実習です」「なんだと? わしをばかにする気か?」「とんでもない」「おまえ、それを食ってたんじゃないのか?」「食ってはいけないんですか?」といいながらエスキモー[#「エスキモー」に傍線]は暗紫色の小腸をたぐりだし、指でちぎって口にほうりこんだ。「うまいなあ、どうです先生も?」「だまれ。手を洗って職員室までこい」論議はエスキモー[#「エスキモー」に傍線]の残虐行為から生肉常食そのものにまでおよび、かれはあやうく一種の変質者として放校されるところだった。マルクス主義者の若い世界史の教師が生肉常食は自然に反するものでないことを力説し、やぶにらみの英語の教師も、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]がサディスト的傾向のまったくない健康で明朗な少年であることを強調したおかげで処分は父兄への厳重な警告[#「父兄への厳重な警告」に傍線]にとどまったわけだ。この事件以後、女の子たちはエスキモー[#「エスキモー」に傍線]の食事に関心を失い、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]は昼休みになるとひとりで肉屋へいってわびしそうに生の牛肉を食べていた。しかしエスキモー[#「エスキモー」に傍線]の他の一面が教師たちに知られたとすれば、あの唯物史観[#「唯物史観」に傍線]——ぼくたちは世界史の教師のことをそうよんでいた——や担任のやぶにらみ[#「やぶにらみ」に傍線]もエスキモー[#「エスキモー」に傍線]を弁護するどころではなかったにちがいない。ぼくはエスキモー[#「エスキモー」に傍線]の肉食性とともにこの一面をも愛していたが、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]と同様に肉だけを——生肉かどうか、ぼくは知らない——|貪《むさぼ》り食って生きているとみずから称し、高速輪転機のスピードで猥本を大量生産している作家S・S氏と同様に、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]はものすごい性交マシーン[#「性交マシーン」に傍線]だった。つまり一日最高一ダース以上という回数を誇り、平均しても半ダース、それ以下ではエネルギーの鬱積がおこってときに鼻から血を吐くこともあるという種類の性的超能力者なのである。この話を信じる人間がどれだけいたか、ぼくは知らない。それはともかく、十七歳でエスキモー[#「エスキモー」に傍線]は数十人の娼婦を知っていた。そのほか、無料の[#「無料の」に傍線]女は十人ほどいて、このなかの数人とは随時使用可という仲をたもっていたらしい。ぼくも彼女たちをよく知っていたが、「よかったらいつでも使ってくれよ」と熱心にすすめるのがエスキモー[#「エスキモー」に傍線]流の友情の表現だったし、ぼくもしばしばその友情をうけることにしていたのである。ぼくが使った[#「使った」に傍線]女のひとりはぼくを愛してしまった。だがぼく自身は堅牢な精神を保っており、女の愛や情念がかわいい鳥の形をしてそのくちばしでぼくの精神を喰い破ることをゆるさなかった。この点ではエスキモー[#「エスキモー」に傍線]もおなじだった。かれは女を愛するという病的資質からまったく自由な男とみえた。世界中のめしべ[#「めしべ」に傍線]に無差別爆撃を加える一匹の黄金色の|蜂《はち》として生きることがエスキモー[#「エスキモー」に傍線]の希望だった。いや、希望とはいえない。これは絶望から発したエネルギーの、痙攣的な運動の一例というべきではないか?  さて、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]は大きなからだで助手席に乗りこんできた。 「クスリ、買ったかい?」 「ああ、さっき飲んどいたよ、なあ、ツトム」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がひどく朗らかにいった。ツトムは手のなかのハイミナール[#「ハイミナール」に傍線]の箱をぼくにみせた。 「あんたもどう?」と助手席のエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいって膝のあいだでぼくにみせたのはカフェイン入りのリキグリーン[#「リキグリーン」に傍線]だった。「せっかくやるからには頭をはっきりさせとかなくっちゃなあ。ツトムだけはハイミナール[#「ハイミナール」に傍線]をのませたよ。あいつには眠っていてもらったほうがよさそうだ。おい、侯爵、さっき買った『六法全書』こっちへよこせ」  青梅街道を走っていた車のなかでエスキモー[#「エスキモー」に傍線]は『六法全書』をひらいて刑法第三六章を朗読しはじめた。 「窃盗及ヒ強盗ノ罪[#「窃盗及ヒ強盗ノ罪」に傍線]。いいか、及ヒ[#「及ヒ」に傍線]だぜ。第二三六条。暴行又ハ脅迫ヲ以テ他人ノ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ五年以上ノ有期懲役ニ処ス[#「第二三六条。暴行又ハ脅迫ヲ以テ他人ノ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ五年以上ノ有期懲役ニ処ス」に傍線]。へえ、意外と重刑だねえ。第二三七条。強盗ノ目的ヲ以テ其予備ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス[#「第二三七条。強盗ノ目的ヲ以テ其予備ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス」]。ただいまおれたちはその予備をなしつつあるわけだなあ。二年以下だってさ。準強盗というのがあるんだなあ。第二三八条[#「第二三八条」に傍線]。たとえば、事後強盗。昏酔強盗[#「事後強盗。昏酔強盗」に傍線]」 「|昏《こん》|酔《すい》強盗ってなんだ?」 「人ヲ昏酔セシメテ其財物ヲ盗取シタル者[#「人ヲ昏酔セシメテ其財物ヲ盗取シタル者」に傍線]のことさ、強盗ヲ以テ論ス[#「強盗ヲ以テ論ス」に傍線]というわけだ。最高は強盗|強《ごう》|姦《かん》・致死というやつだね。因テ婦女ヲ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス[#「因テ婦女ヲ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」に傍線]。これが最高だねえ」 「強姦は最高だ」ツトムがつぶやいた。  ぼくたちは声をおしころして鳩の鳴き声で笑った。なにしろこんなに愉快な犯罪の教科書はない。じつに多種多様な犯罪がショウウィンドウのなかに陳列されていて、そのそれぞれに罰という正札がついているわけだった。犯行にあたってはそれをちゃんと知っていることが|肝《かん》|腎《じん》だ。ぼくたちは(おそらくツトムをのぞいては)だれも罪の意識[#「罪の意識」に傍線]というものを信じていなかったかわりに、とぎすまされた刃物のような犯罪の意識をもっていた。大人たちのつくったルールの網の目をたくみにくぐりぬけてみることがこのゲームのルールだった。 「強姦って、最高だなあ」もう一度ツトムが歌うようにいった。「おれは強姦以外の形で女とねる気がしないな」 「それじゃ、あんたは七十歳になっても童貞だよ」と侯爵[#「侯爵」に傍線]が冷厳な声で断定した。かれはしばしばこんなふうに正しいことをいうのが好きだった。 「やめときなよ、侯爵[#「侯爵」に傍線]。あんただって正確にいえばまだ童貞じゃないか。ところでこのあたりにうちの校長の家があったぜ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。「兄貴がH大に裏口入学しようというんで、おやじと兄貴と三人で校長の家にいったことがあるよ。校長の昔の友だちにH大の理事をしてるやつがいるから口をきいてやろうという話なんだ。去年の暮だったけどさ、たしか三万円包んでいったなあ」 「それで、もぐりこめたのか?」 「だめだったなあ。あとで校長が一万円返してきたよ」  ぼくはそのとき|断《だん》|乎《こ》としていった。 「校長の家にはいろう」 「おれ、気分がわるくなってきた」ツトムは睡眠薬のしみこんだ舌でそういうと座席にもたせた頭を張子の虎みたいにぐらぐらさせた。 「|嘔《はき》|気《け》がするのか?」 「冷たくて風通しのいいところへいきたい」 「ツトムは車のなかで休んでろよ」とぼくはいったが、そのときになってぼくは、ぼくたちがなにひとつ武器らしい武器をもってないことで頭をいっぱいにしていたのだ。みんなもそれを考えていないはずはないのに、だれひとり|兇器《きょうき》を携行しているそぶりさえみせず、無謀にも手ぶらで他人の|砦《とりで》に押しいることによって勇気をしめそうとしているかのようだった。  実際、ぼくは、拳銃や刃物のうしろに身を隠して脅すことはばかげているとおもった。女の脚からはぎとった半透明の皮をかぶった異形の抽象人間として善良な人間のまえにあらわれかれらの意識を平穏無事な生活のなかからひきずりだすべきだ。つまりこうだ、せっせと夕食の支度をしている主婦は、ふいに家のなかに侵入してきた宇宙人にとりかこまれただけで|動《どう》|顛《てん》のあまり視線もよだれのようにさまよいさだまらず、ぼくたち宇宙人がわっといっていっせいに手をさしあげただけで青い|蛙《かえる》みたいに血を凍らして失神してしまう。ぼくらはそれを望んでいた。なんのために武器がいるのか? もしどうしてもいるというなら、ぼくたちはズボンの窓をあけ薔薇色の砲身をつきだしてかれらをとりかこむべきだろう。だが傾いた太陽を浴びてみんなの顔は皺のよったレモンのようにみえた。  ぼくはある美大に近い寺の横に車をとめた。数百の墓石が小人の国の摩天楼のように立ちならんでいた。 「だれか、|玩具《おもちゃ》のはじきでももってないのか?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がついに沈黙の封印を切った。 「玩具なら」とツトムがいった。「音だけはすごいやつがあるよ、ポリ公のもってるS&Wのリヴォルヴァーそっくりのやつで」 「いいだろう。おれに貸せ」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がいうと、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]は、 「おれは果物ナイフだ」 「あんたは?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がぼくにいった。 「なにももってない」 「どうする気だ? バイドク[#「バイドク」に傍線]が最近ベレッタのオートマティックを手にいれたって話じゃなかったの? 借りられなかったのか?」 「だめだ。バイドク[#「バイドク」に傍線]は貸さない。それにあれはベレッタなんかじゃなかったよ、手製のお粗末な代物だ、音だけばかでかいが弾はでたりでなかったりで発射のたびに分解しそうになる。いいよ、おれはなんにもいらないよ。万が一にもひとを傷つけたくないんだ、ヒューマニストだからなあ[#「ヒューマニストだからなあ」に傍線]」  ぼくはわざと愚劣な調子でみんなを笑わせ、気分を浮きたたせることに成功した。 「せいぜいヒューマニスティックにいきましょう」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。「いいじゃないの、やさしくて礼儀正しい強盗」  ブザーを押すやいなやぼくらはすばやくストッキングで覆面した。ひとがでてきてなかから|鍵《かぎ》がはずされるけはいとともにぼくらは左右にひらくガラス戸を肩で押しあけるようにして侵入した。見知らぬ女の顔と髪が目についた。悲鳴のようなものをきいたがそれはぼくの頭のなかでいくつかの観念が金属片のようにきしみあう音だったのかもしれない。相手はかすれた声でぼくらがなにものであるかをたずねていたらしいがほとんど意味をなさなかった。  五十歳くらいの、主婦であり母親である以外のなにものでもない女、つまりもっとも不愉快な生き物である。口の食物を完全にのみくださないまま玄関にでてきたこの女は無意識のうちに|反《はん》|芻《すう》していた。まるで猿だ。ぼくはそれをみるとすっかりおちついて、心やさしい牧師の口調でいった。 「わかりませんか?」 「つまり強盗ですよ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。  侯爵[#「侯爵」に傍線]が背中に玩具のS&Wをつきつけると、女の舌が口の天井に|膠着《こうちゃく》するのがわかった。 「これ、玩具だとおもいますか? 玩具かもしれないな。ためしに引き金ひいてみましょうか?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がいった。  ぼくは愉しくなり、なにか口上をのべてみろとエスキモー[#「エスキモー」に傍線]をうながした。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]が、 「おれたちはなあ、きのうネリカン[#「ネリカン」に傍線]から逃げてきたんだけどよ、しばらく遊んでからネリカン[#「ネリカン」に傍線]に帰ってやろうとおもうんだ。そいでさ、金だしてほしいんだよ。わかってくれるだろうなあ?」 「ネリカン[#「ネリカン」に傍線]って、ごぞんじでしょうね?」とぼくはくそ丁寧にいった。 「お母さん」奥から男の声がした。 「ヤバイようだな」 「息子さんですか?」 「今年大学にはいった次男で……」 「とにかく奥へ案内してもらいましょう」  ぼくらはよく磨いた靴を鳴らして廊下を行進し、茶の間へはいろうとして学生服を着た青年にぶつかった。ぶつかった相手が七十八キロのエスキモー[#「エスキモー」に傍線]だったので、青年は|痩《や》せた犬みたいに坐りこんでしまった。そしていそいそと(ぼくにはそうみえたが)定期入れから折りたたんだ千円札をぬきだすと、 「さあ、これあげるから……」 「帰ってくれというの?」ぼくは熱い鉛の棒のような屈辱に突き刺され、怒りのあまり眼のなかにまで血があふれるのを感じた。舌は硬い糸でうわあごに縫いつけられて動かなかった。目のまえの他人を絞め殺さないですむように、ぼくは畳のうえに坐りこんで汚い千円札をゆっくりと引き裂いた。あたりをみまわすと、そこは他人の生活の private な部分で、女の private parts さながらにもっとも醜悪な光景を呈していた。まちがっても他人の家の茶の間なんかに侵入すべきではなかったのだ。食べかけの食器、蓋のあいた|鍋《なべ》、他人の生活の垢で黒びかりする家具調度品のすべてが、ひどい猥雑さでぼくに襲いかかった。嘔気がした。そして、ぼくと同じように学生服を着たあの礼儀正しい青年のまえでぼくは悪性|腫《しゅ》|瘍《よう》のように|膿《うみ》をだしてくずれていきそうだった。 「金ならあげるからさ、へんなまねだけはしないでくれよ、ほんとに、金ならありたけもってっていいから」  相手は説得の調子でしゃべりながら声はこっけいなほどうわずっていた。それでぼくはいくぶん威厳をとりもどした。でも相手の顔をみつめることはできなかった。ぼくは学生のうしろにまわり、リストロック[#「リストロック」に傍線]をかけて腕を|肩《けん》|胛《こう》|骨《こつ》につくほどねじまげ固定した。 「痛いか? がまんしてくれよなあ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]はしたしみをこめていった。「ほかにキャッシュはないの? これっぽっちの被害じゃ、かえってあんたたちのほうがはずかしいおもいをするんじゃありませんか?」 「あれ、だしてあげなさい、ほら、|茶《ちゃ》|箪《だん》|笥《す》のいちばんうえのひきだしにはいってるマサコの……」 「お母さん、あれは、……」 「どういう事情の金ですか、それ?」 「やめろ」侯爵[#「侯爵」に傍線]のこめかみを青いドラゴンのような血管がよじのぼっていくのがみえた。 「家庭の事情なんかききたかねえよ。いいからそれを早くだせ」 「おふくろにさわらないでくれ」と息子が勇気をみせていったので侯爵[#「侯爵」に傍線]ははげしい音をたてて息子の顔に唾の塊を命中させた。「こんな孝行息子とおふくろは果物ナイフで|肛《こう》|門《もん》をえぐってやるべきだな」 「いいよ、いいよ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がなだめた。 「でもなあ、おれはもうこんな善良な市民相手に演説するのはうんざりだよ。はやくずらからないか?」 「ちょっと待っててくれ」とぼくは仲間にいい、便所にはいった。ふてぶてしいおちつきをしめすためでもなかったし被害者に説教したあげく|脱《だっ》|糞《ぷん》してから退散したという伝説的な強盗を真似てみたかったわけでもない(たしかにあの校長の家の床の間に重々しいほら貝[#「ほら貝」に傍線]の形に脱糞することはじつにシュールレアリスト風だというべきだが)。ぼくはただ、ちょっとのあいだでもひとりになりたかったのだ。ふかい無力感のために、まるでぼくの内臓がことごとく|腹《ふく》|腔《こう》の下のほうにずりおちてきて、砂時計の砂のように、すこしずつ漏出しているのではないかとおもわれるほどだった。ぼくは慢性下痢患者みたいに便所にとびこんだ。それが、水洗便所ではなかった。ぼくは吐きはじめながらそのことに気づき、暗い穴の下にうごめく他人の存在のなかみと|蛆《うじ》の群れをみながらさらに吐いた。胃袋は苦しまぎれにはねまわったが、実際にはほとんどなにも吐かなかったようだ。ぼくは舌を垂らしてあえいだ。あのすさまじい穴とともに、ぼくはサド侯爵がソドムの百二十日[#「ソドムの百二十日」に傍線]の登場人物の一人、キュルヴァル議長の尻の穴をこの糞便のつまった便所の落し口そっくりに描いてあったことをおもいだす。そのときおそらく、ぼくは便器の穴をとおして他人というもののなかみをのぞきみたのかもしれないが、のちにエスキモー[#「エスキモー」に傍線]はぼくの|嘔《おう》|吐《と》について、その家にがまんできなくなった嫁はまず便所の臭気にがまんできなくなるという通俗的な真理を引用してくれたものだ。鏡のまえでぼくは涙をためてはれぼったいぼくの顔のみじめさにうちのめされ、恥辱にほてっている顔を水で洗った。 「どうしたんだ?」  エスキモー[#「エスキモー」に傍線]と侯爵[#「侯爵」に傍線]は心配そうにぼくをみた。この瞬間のやさしさはかれらを長い僧衣をまとった聖者にみせた。ぼくは泣きだしそうなほどかれらを愛しているとおもった。  ぼくたちは母親と息子を縛ったのち玄関からでた。 「ちょうど十五分かかったな」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がいった。「電話線は切っといた」  ツトムが車からでて墓石のひとつを抱擁するようにして吐きながら待っていたのはぼくらのもちかえった感動を少からず割引く醜態だったが、それでも二枚のまあたらしい一万円札は、さわると指を切り落すほどの魔力をそなえた戦利品だった、蛮族の呪術に不可欠の護符みたいなものだった。ぼくらはやたらとかんだかいことばを投げかわしながら車にとびのり、今度は侯爵[#「侯爵」に傍線]が運転した。 「ちょうど二枚だ、あんたの兄貴の裏口入学のことで校長にまきあげられた二万円じゃないか、とっておけよ」 「ばか、おれのなさけない兄貴の尻ぬぐいなんかまっぴらだ、あんなインポテ[#「インポテ」に傍線]の兄貴をもっておれははずかしいよ、ほんとに」  ぼくは二枚の一万円札に火をつけて枯葉のように燃してみたかった。石畳のあるどこかの路上で、小さな|焚《たき》|火《び》をしてその炎にみんなで手をかざす。するとまぬけな巡査がやってきて、路上でものを燃やしてはいけないというだろう。 「今度はどこだ?」侯爵[#「侯爵」に傍線]がハンフリー・ボガート[#「ハンフリー・ボガート」に傍線]のような横顔をしていった。 「青山あたりのマンションはどうだ?」  とっさにぼくはそういったが、じつのところもうこのゲームをくりかえすことに熱い期待を感じていたわけではなかった。それにもかかわらずぼくたちがひとかどのギャングの口調で次の仕事[#「仕事」に傍線]について話しあい、その後二時間たらずのあいだに六件の強盗を働いたのは|贋《にせ》の|昂《こう》|揚《よう》がぼくたちを上空に押しあげ、贋の上昇気流に乗って滑走しているときに、これを制御する人間がだれひとりいなかったからだ。ツトムは吐いたあとの無力な顔で坐ったまま、単調な仕事[#「仕事」に傍線]をくりかえすぼくたちを送り迎えしていたにすぎない。それらの仕事[#「仕事」に傍線]についてぼくはぶよぶよした円筒状の記憶をもつだけだ。ひとつの犯行は他のひとつに似ており、それらの区別しがたく|癒着《ゆちゃく》してしまった灰色の記憶のなかには、たとえばある高級アパートで仕事[#「仕事」に傍線]をすませて車をスタートさせたときにみかけた赤い和服の少女、ある部屋のバルコンで花に水をやっている病身らしい少女の記憶や、情婦といっしょに入浴していた中年男(かれは悲鳴をあげる情婦をみすてて自分だけ浴室から逃げようとした)のいかめしい頭部と貧弱な裸体とのこっけいな対照の記憶などが、雲母の薄片のようにちらばっているだけだ。 「もうやめないか」とぼくはいった。「いくらやってもおなじことだ。それにこの商売は能率がよくない」 「いくらある?」 「五万八千円。正確にいえば五万八千二百四十五円」ぼくはすでに鼠の死骸よりも|穢《きたな》くなった紙幣と硬貨をポケットからつかみだすとそういった。そのとき、顔を集めてのぞきこんでいた仲間たちのむこうに眼を放っていたぼくは、白い生きものがふわふわ近づいてくるのに気づいた。それが未紀だったのだ。  未紀を車に乗せて走りだしたとき、ぼくは未紀のこめかみのあたりに指の銃口を擬し、仲間に目くばせした。なんの合図だったのか、ぼく自身にも|曖《あい》|昧《まい》だったし仲間たちも無意味に肩をすくめたり片眼をつぶったりしてこたえた。要するにぼくたちは未紀を共犯者としてうけいれることに賛成だったわけである。 「そろそろ行くか?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]が不自然な音程の声でいった。 「あんたも行くでしょうね?」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいうと、未紀は頭も動かさずに、 「行くといったわ」  ぼくたちは横浜にむかった。未紀が前をむいたまま低い声でいった。 「さっき、あたしをどうしようと相談したの?」  ぼくもまえをむいたままで、 「きみを輪姦する相談」 「できないくせに」 「そうだな、できないでしょうね」とぼくはいった。ぼくたちがニンフォマニア[#「ニンフォマニア」に傍線]のアキコにしばしばしたようなことをこの少女にすることができるだろうか、とぼくは考えてみた。いや、考えることもできなかったというのがほんとうだ。未紀は極上の高級品だったから。 「おれたち、ホテルへ行くんだ。ついてこられますかね?」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。「どうおもってるか知らないが、おれたちのことは少しこわがったほうがいいなあ」 「ホテルや男の子や犬や車がこわくて外が出歩けるもんですか」と未紀がいった。そのとき彼女は首をねじってエスキモー[#「エスキモー」に傍線]たちをふりかえり、鼻に蛇腹のような皺をよせた。それをすばやく盗みみてぼくは大いにうれしくなった。 「おい、どうしてへんなまわり道をするんだ?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]が叫んだ。  車は六郷橋をわたってから左に折れて産業道路を走っていた。一本の樹木もない|埃《ほこり》っぽい埋立地のうえにたちならぶ工場と|錆《さ》びた金属の|堆《たい》|積《せき》がみえた。そのむこうに油の海があるはずだ。しかし海はなかなかみえなかった。赤土色や黄褐色の|煤《ばい》|煙《えん》にいろどられたたそがれの時刻だった。石油化学工場の鉛筆のような|尖《せん》|塔《とう》の先で廃ガスが燃えているのは悪魔の舌そっくりにみえた。未紀は首をねじまげてこのけしきをいつまでもながめていた。そして海からはいりこんだ水路をまたぐ短い橋のたもとでぼくに車をとめさせた。未紀は車をおりてナフサを送るパイプの束の下をくぐると水路にそって歩いていった。 「どうしたの、あの子?」 「おしっこだって」とぼくはでまかせをいい、「ちょっと待ってろよ」といいのこすと車をおりて未紀のあとを追った。波形の鉄板でできた|塀《へい》と水路のあいだのせまい道を曲ったとき、ふいに水のひろがりがあらわれた。運河をとおる小型タンカーの波がゆるやかに伝わり、油と金属の溶液に似た水がその鉛色の舌で岸を洗っていた。未紀は両腕をからだの横にたらしてこの風景をながめていた。そしていきなり防波堤のあたりを流れていった水死人についてぼくに話しだしたのだ。 「片腕を水面からつきだしていたわ。なにかを告発しているみたいに、指を熊手の形にして流れていったのよ、こんなふうに」未紀は腕をさしあげその指を|鉤《かぎ》のように曲げてみせた。 「執念ぶかいやつだな」とぼくは調子をあわせていった。「インド洋をこえて紅海の沿岸に流れついてもまだそんな姿勢をとってるかもしれないぜ」  未紀はおなかのところで手を組みあわせ、暗い輝きをました眼でぼくをみつめた。しかしぼくをみていたのではなかった。ぼくはどこにも焦点のあっていないその眼に吸いこまれ、やがて彼女のなかにひろがっている世界の海を航海しはじめた。T・S・エリオット風の水死人、——フェニキア人の水死人、メラネシアの黒人、ゴート族、ポリネシアーデ、ブッシュマンたちが、南回帰線と北回帰線のあいだの、いまは失われた太古の海流にのって、おもいおもいに腕をさしあげたまま漂流していた。ぼくもそんな水死人のひとりだった、香料貿易路を走る古代の船の航跡をみうしない、ぼくはひとりティグリスのそそぐペルシャ湾にはいりこんでいた……そのとき水の音にひたされ|苔《こけ》むしたぼくの耳に未紀の声がきこえてきた。 「あたしのパパは世界の二十の海を航海したわ」 「二十も海があるのかい?」 「黄海、東シナ海、南シナ海、ボルネオ海、アラビア海、紅海、地中海、エーゲ海、イオニア海、アドリア海、チレニア海、北海、バルト海、オホーツク海、ベーリング海、バンダ海、アラフラ海、|珊《さん》|瑚《ご》海、タスマン海。カリブ海。パパは船医だったの」 「なぜ?」 「理由がいるんですか?」 「まともな人間なら船医なんかにならないとおもったからさ」とぼくはいった。だいたい、船医とはロマネスクすぎる。小説にでてくる船医は、陸のうえの人生からふかい傷をうけていて、それを潮風と太陽で灼きかため、やがてざらざらした皮みたいな精神を獲得するというのがおきまりだ、でもぼくは、もしそんな人間がいたとしたら、無数の|掻《かき》|傷《きず》のついた硬い皮膚のような感受性とか、元来は知的な人間に特有の|怯懦《きょうだ》や弱さが一種のやさしさに変貌して残っている精神とか、時の流れが荒いロープみたいにからだに巻きついてみえるような年齢とか、そんなものがものすごく好きになるだろう。しかしそういう人間は、どこか犯罪者めいたところをもっているものだ。街のなかにある生活や家庭の燈、要するに地上の|掟《おきて》が信じられないような感じをもっていて、それだけでもう犯罪者の素質というべきではないか? 人生に|咬《か》みつかれてひどい傷を負ったようにみえても、じつは人生を裏切ったのはかれらのほうなのだし、かれらにしてみればこの傷は誇り高い追放の|烙《らく》|印《いん》として必要なものかもしれない。要するに、 「こいつはすげえ知能犯だ」とぼくは断定した。 「まさしくそんな人間だわ、あたしのほんとのパパは」 「ほんとのパパだって?」 「あたしをママのおなかに残して船医になってしまったパパのこと」 「通俗小説のお話みたいだぜ」 「そうね」未紀は口を閉じたまま笑った。それは内面を自分の歯で咬み破っているときの微笑だった。ぼくは未紀のいうことを信じた。だから微笑につづく次のことばも。 「きょう、あたしはそのパパとねようとしたのよ。さっき、あなたが車にのせてくれたとき」 「なにかクールなことをやらかしたあとだろうとはおもったけどな」とぼくはいったが、頭は未熟な|西瓜《す い か》のように水っぽくなり、太い葉巻のような汽笛の響きが左から右へ、両耳を貫通していた。 「でもだめだったわ。せめてパパの年の半分にならないと、パパはあたしとねてくれない」  ぼくは黙っていた。未紀はもっと多くのことをしゃべった。ぼくの頭の回路にははげしい雑音が発生していて彼女のことばの大部分をぼくは理解しなかった。それにさっきから不吉な事故の発生をつげるかのようにクラクションが鳴りつづけており、暗い風がそれを吹きちぎっていた。髪の毛のような冷気をふくんだ風がぼくの首筋を刺した。そのときに未紀の口からもれたほとんどききとれないほどのつぶやきは、キンシンソウカン……  未紀の顔が何世紀も生きた魔女の顔に変ってしまったのかとみえた。ぼくのなかのことばの神殿が大きな音をたててくずれはじめた。投げつけられたのとおなじそのことばをぼくは触れるべからざる悪神として堅固な祭壇の奥ふかく隠してあったのだ。しかしおなじ悪神がふいに外からふみこんできたためにぼくの骨という骨は震動をはじめた。 「どうかしたの?」 「おれたちを呼んでるよ」 「どうしてもいかなければならないの?」未紀はぼんやりした声でいい、そしても[#「も」に傍線]をおとしてもう一度くりかえした。「どうしていかなければならないの?」 「これから、強盗をやった金でパーティをひらくんだ、横浜まで行って」すると未紀は片手を口に、もう一方を腹にあてて笑いこけた。なかなかとまらなかったのでぼくはとほうにくれながら背中を|撫《な》でてやった。「ほんとにやったんだ。笑わないでくれよ」 「なにしてんだよ?」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がどなった。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]も仔熊のようにころころと走ってきた。「七分四〇秒のおしっこだぜ」 「たったそれだけか」とぼくは冷たい声でいった。さすがにエスキモー[#「エスキモー」に傍線]までが少し腹をたてた声で、「それとも、あんたやった[#「やった」に傍線]の? 五分もあればどんなお嬢さんだってものにできるからなあ」 「おれはあんたみたいな|鑿《さく》|岩《がん》|機《き》じゃない。すこしばかり、インテレクチュアルな会話をかわしてたんだ」  そのとき未紀が手をぶらぶら振りながらひとりで車のほうへ歩いていくのがみえた。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]と侯爵[#「侯爵」に傍線]、それにぼくの三人は、未紀が運転席に坐りすばらしい加速度で車を発車させるのを呆然とながめていた。まるでバッキンガム宮殿まえの儀礼的な衛兵のように不動の姿勢をとったままで。 「おれは泣きたいよ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいい、ほんとうに号泣する声をあげてみせた。侯爵[#「侯爵」に傍線]はガムを吐き捨てて、 「ちくしょう、みごとに盗みやがったな」 「車のなかにツトムがいるよ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]が安心したような声でいった。 「あいつなんか、あの|妖《よう》|女《じょ》にかかったらいちころだ」 「ほんと。おれもあんな強力な魔女はみたことがねえな」 「ツトムなんかいちころで強姦されちゃうぜ」 「サイキックにな」とぼくはいった。  ぼくたちは声をあわせて笑い、空腹を感じた。暗くなりかけた路上を労働者たちがバス・ストップにむかって歩いていた。ぼくたちくらいの年齢の工員もまじっていたが、みんなすでに三分の一世紀も生きたようにみえた。まもなく満員の労働者で腹をふくらませたバスが鈍重な|犀《さい》のようにはいよってきた。未紀のした話をぼくからきくと、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]はバスに乗りこみながら、 「もしあの子がヴァージンだとしたら、パパに捧げさせる手はないよ、あんたが女にしてやればいいじゃないか」  バスは満員の客をうしろに倒しながら発車した。 「ほんとにパパとねるつもりかね?」 「さあね」とぼくは|顎《あご》の下にある工員の頭のポマードに息をつまらせながらいった。「ちくしょう、臭えなあ、こいつはまるで鯨油だよ。あの子のことだから、たぶんそうするんじゃないかな」 「ほんとのパパとか?」 「そんなことは口でいうだけさ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がぼくの耳のうしろでいった。「できっこねえよ。あの子もサディ夫[#「サディ夫」に傍線](これは侯爵[#「侯爵」に傍線]の別名である)みたいにサドを読みすぎて少し頭がおかしくなってるんじゃないか? 近親相姦ってやつは」と声を高めたとき、|淳朴《じゅんぼく》な陪審員のような眼をしてエスキモー[#「エスキモー」に傍線]をみつめている労働者にぼくは気がついたが、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]は平気で話をつづけた。「あれはなあ、いまでも山奥の炭焼きとか貧乏人であのこと以外に娯楽のないやつらのあいだじゃ、珍しかねえんだ。穢くて悲惨だよなあ。こういうのは社会悪というもんで、|膿《うみ》みたいなもんだ。ところがヨーロッパへいくと、上流階級の甘い生活のなかのもっとも甘くてスリルにとんだ要素のひとつなんだ。自分の娘を情婦にするなんて最高じゃないか。じつはおれも一度妹を強姦しようとしたことがあるよ、ところがこれがうまくいかなかったんだなあ」 「静かにしろ」と若い工員がいった。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]はそれを無視して傍若無人の大声でつづけた。 「妹のやつもその気は充分あったんだがなあ、なにしろ猛烈にくすぐったがってげらげら笑いだしやがるんだ。それでおれも腹の皮がひきつるほど笑っちゃったよ。あとで妹がいうには、兄サンタラ下手ネ」 「やめないか」と工員が語気をあらくしていった。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]は頑丈な顔をしかめてせせら笑い、 「うるせえよ、労働者」 「なに?」 「労働者じゃねえかよ。腹がたつのか?」 「とにかくそんな話はやめろ。いやらしいぞ」  ぼくは侯爵[#「侯爵」に傍線]のポケットからぬきとった果物ナイフで工員のおしりをちくりと刺した。 「あんた、声をだすとえぐっちまいますよ」  それにもかかわらず工員は絞め殺される動物のような声をあげたので、ぼくはズボンが裂ける程度に切ってやった。すると工員は黙った。バスが川崎駅に着くまでのあいだ、ぼくは痴漢のような手つきで工員のズボンの縫目を切りひらく作業をつづけた。このときぼくの頭のなかをはいまわっていたのはバナナほどもある一匹の熱い蛆だ。ひどく体温の高い蛆だった。それは次第にそれ自身の熱で融けて脂汗となり、額やこめかみににじみでた。侯爵[#「侯爵」に傍線]の声がきこえていた。 「なんだ?」 「あんたの姉さんのことだよ」 「彼女となら」とぼくはいったが、自分の姉に彼女[#「彼女」に傍線]という代名詞を使ったことでぼくの話全体が異様に真実味をおびてしまった。「何度もねてるよ。最初のとき以来彼女はおれにものをいわなくなったが、おれを愛してるんだ」 「愛してるのか」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がためいきまじりにいった。その大げさな調子から、かれがぼくの話を冗談としてきいていることがわかった。 「ぞっとする話だよ」とぼくはいい、便秘状態の直腸のような大型バスのなかで労働者たちとおしあいへしあいしたあげく金を払わないでおりた。ぼくのあとから侯爵[#「侯爵」に傍線]とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]が、ぼくとおなじように、あとからおりるつれがまとめて払うというしぐさをしておりてきた。ぼくらは尻を切られた工員と無賃乗車された車掌の叫び声をききながら駅にかけこみ桜木町まで電車に乗った。電車のなかでエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がいった。 「さっきの話だけどなあ、あんたの話はいつもいやに実感がこもってるよ」 「事実だからな」  すると侯爵[#「侯爵」に傍線]が|猛《もう》|禽《きん》のような笑い声をだした。 「事実なの?」と未紀がいった。 「事実だ」といい、ぼくは陶器のジョッキにはいったビールを飲みほした。ぼくたちは|溜《ため》|池《いけ》のあるビアホールにいた。 「お話して」  水泳のあとの空腹にビールで、ぼくはかなり酔っぱらっていた。ビールは大した量ではなかったが、ぼくのまえに|肘《ひじ》をついて坐っている未紀の存在そのものが——ぼくはここに書いているとおりのことを未紀にしゃべり、愛の告白でもしている気分になっていた——太陽のそれとおなじ役割をはたし、ぼくをほてらせ、酔いをふかめていたのだった。 「ああ、なんでも話してあげるよ、未紀にならなんでも話せる」といいながらぼくは上機嫌でテーブルのうえに身をのりだした。未紀はどこをみているとも測りがたい視線をぼくにむけたまま、皿のうえでピッツァをこまかく切っていた。「ぼくと姉の——Lとよぶことにするよ、どういうわけかぼくはまえから彼女のことを勝手にLとよんだり書いたりしてきたんだが、そのLとぼくとの関係はといえば……要するにぼくはねたんだ、Lと」  しかしこのLとの問題に移るまえにぼくは近親相姦の一般論についてながながと議論をはじめてしまった。といってもこの|曖《あい》|昧《まい》な主題のまえでいきつもどりつしながらしゃべっていたのはぼくのほうで、未紀は終始よく光る眼でぼくのおしゃべりのランダム・ウォークすなわち文字どおりの酔歩をみまもり、ぼくが迷わないように照らしていたのだった。曖昧さ、たしかにこれがぼくの議論のすべてだったようだ。正直なところ、ぼくはこの問題について考えぬいて|明《めい》|晰《せき》な骨格を洗いだしてみたことが一度もなかった。自分の失禁した汚物をみるよりもなお耐えがたい恥の感覚がぼくを発熱させ、それについて考えることを妨げたのだ。この恥と穢さは、たいていのことについてぼくがやってのける理論化、つまり事後の正当化さえ不可能にしていた。それはぼくの記憶とことばの世界のなかで、不可触のタブーとなった。このことをぼくは未紀に説明した。 「けっきょく、ぼくのなかには強力な防衛機構が働いていて、近親相姦という観念をいつも排除してたんだな、白血球がバクテリアを喰い殺すように。なぜだろう? ぼくはなぜあんなにもこのことばを避けつづけてきたんだろう? 近親相姦は悪だとぼくは信じているにちがいない。しかしなぜ悪なのか、それを考えだすとぼくはますますわからなくなる……」 「それはね」と未紀は小指で自分の唇の形をなぞるようにしながらいった。「それはたぶん、人間にはけっして理由がわからないから悪いことなのでしょう。理解しがたい禁止が掟というもので、その禁じられたものが悪と名づけられるのでしょう?」  未紀はひとつの公理系を提出するようなしかたでそういった。 「そういえば」とぼくは愚にもつかないことをつけくわえた。「旧約聖書のレビ記あたりにでてくる近親相姦を禁じたエホバのことばにしても、理由の説明はないな」 「判決理由をのべるのは人間のする裁きの場合でしょう。神の掟とは、それを疑って神の顔をのぞきこもうとする人間どもは即座に火の柱で撃ち殺さるべしということを意味しているんですわ」 「未紀はおそらく罪のない罰をもとめているのだろう」 「理由もわからずに罪をみとめるということが、つまり罰をうけるということになるのでしょう。神さまがいなければ罪も罰もありませんわ」 「神さまって、いるんですかね?」 「わかりません、あたしには……」 「未紀の神さまは未紀自身じゃないか? 少くともあのノートのころの未紀はそうだったとおもう。未紀は神とその一族にしか許されないことをしようとしていたのだ……」 「娘が父をあいすること?……」 「父と娘、母と息子、兄と妹があいしあうことが大昔にはあったらしいけれど、それは王族の特権だった。|賤《せん》|民《みん》に近親相姦をおこなう資格はない。それはそのとおりだ。|賤《いや》しい人間のあいだの近親相姦からはあらゆる劣等なものや醜悪なものしか生まれてこない。つまり|頽《たい》|廃《はい》がはじまるだけだ。その結果として、遺伝上の不都合もあらわれてくるのだ。近親相姦のタブーがなかったら、人間は精神的荒廃を自己増殖してとっくに滅びてしまっていただろう」 「それは、近親同士であいしあうことが自然そのものだから、ということですか?」 「きわめて自然なこと、つまり非人間的なことですね。犬や猫が簡単にやっていることだからな」  それからぼくはひとつの仮説を未紀に説明したことをおぼえている。それは、セックスとは自分の存在を他の存在に接合しようという欲求である、という定義から出発する。ここで他の存在といっても、亀がライオンと接合するようなことはありえない。少くとも他の存在のなかに自分をみいだすことができなければならない。これはこの接合のネガティヴな条件といえるだろう。存在は、自分のかたわれである(そのかぎりでは自分にほかならない)他の存在にあこがれるのだが、ここで当然、自分に近いものとの結合ほど容易であり、低いエネルギーしか必要としないこと、を仮定してもよいだろう。たとえば多くの動物がおこなっているように、近親同士で性的に結合することはきわめて自然だ。これは単純な引力の法則に似ている。ところで、自分とはかけはなれた存在と接合するためには、そしてこの距離を克服するためには、自然的な引力とは別種のエネルギーが必要となるのだ。この反自然的なエネルギーのにない手は、もっとも人間的なもの、つまりことば[#「ことば」に傍線]だろう。ことばによって飛行するこの精神的エネルギーのことをぼくは愛と名づけよう。愛とはけっきょく想像力のひとつの形であるといってもよい……ぼくはいくぶん疲れた声でいった。 「だから、近親相姦はふつうの人間には禁じられているのだ。これをおこなう資格があるのは、自分の兄や妹を愛することができるほどの精神的エネルギーをもった女、あるいは男にかぎられますよ。こういう精神的王族は、自分たちだけで愛しあい、神に対抗して自分たちもまた神の一族であると主張することがゆるされるのだ。それ以外の近親相姦は、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]がバスのなかでいっていたように、炭焼小屋や貧乏人に属する賤しい事件にすぎない。ぼくとLの場合もそうだった」  未紀はぼくの説明を考えぶかげにきいていたが、急にこんなことをいった。 「禁じられていることをわざと破ろうとすれば、そのとき、あなたのおっしゃる精神のエネルギーが異常に高まるってことはあるでしょう? 愛が生まれることだって……」  このときぼくは酔いと睡気のためか、この未紀のことばに大して注意を払わなかった。 「すすんで罪を犯すことは、聖女になるみちかもしれませんわ」 「たぶん未紀はその聖女だったのだろう」とぼくはいった。「そして聖女から神に……」 「いいえ」と未紀はぼくをさえぎった。「聖女は神にはならないわ。聖女は神につかえるマゾヒストですもの。あなたのLさんは聖女でしたの?」 「妖女でした」とぼくは苦みをこめていった。「大げさにいえば、Lはぼくに魔法をかけて誘惑した」 「どんなふうに?」 「どんなふうって、その脚や腕や眼を使って」 「あなたはLさんとねただけなの、それともLさんを愛したの?」 「両方だ。ぼくはLを愛した。Lをだいた以上、愛したいとおもった……Lとぼくとは小さいときからほとんどいつもいっしょにくらしてきた。同じ部屋で寝起きして、いっしょに食べて、ときにはいっしょに眠った。というのもぼくらが長いあいだひどく貧乏だったからにすぎないけれど。ぼくらは貧乏という子宮のなかでだきあってきたきょうだいなのだ。そう、あの空襲のときも火の粉のなかでだきあってたなあ。未紀はおぼえてないかな、空襲のことを? ……とにかく、ぼくらはいつもいっしょにくらしていた。ばばあがアパートを建ててぼくらにひとつずつ部屋をくれた時期もあったけど、ぼくらは壁をぶちぬいて二つの部屋のあいだに扉をつけてしまった。 そのころ、ぼくは十七で、Lは十九だった。Lは高校をでると、大学にいかないで働いていた。なにしろ、ぼくらは温室栽培してくれる家庭というものをもたなかったから、ほしいものを買って好きな生活をするには自分で金をかせがなきゃならなかった。しかしこれはなかなかおもしろいことですよ。ぼくは欲望の大きさに応じて金をつくって生きてきたが、金持の息子たちは概してきめられた小遣に自分の欲望をあわせることに慣れていた。いっしょに強盗を働いたエスキモー[#「エスキモー」に傍線]や侯爵[#「侯爵」に傍線]にしても金持の息子だったが、かれらはぼくの感化で、自分たちがぼくよりも不自由に生きていることに気がついたとき、ぼくの仲間になったのだ。Lもぼくに負けず劣らずいかがわしく生きる才能にめぐまれていたらしい。最初、彼女はある大きな出版社の秘書課につとめていた。社長のことを赤豚とよんで、禿げ頭を撫でたりする仲だったようだけど……」 「それで、あなたとLさんとがはじめてあいしあったのは?」 「そのころですよ。たしか、強盗を働いて未紀にであったあの日の、二カ月ほどまえのことだ。その晩、いつになくLの帰りが遅かったので、ぼくはひとりで愉しんでいた。わかりますか? つまりぼくは|妄《もう》|想《そう》を分泌するアラジンのランプをこすっていたわけだ、そのぼくのまわりにひろがりはじめた月の|暈《かさ》みたいな妄想のなかにはLがいた。だが気がつくと入口のところで本物のLがじっとぼくをみつめていた——ぼくはみられていたんですよ、あのはずかしい儀式をね。はずかしさで頭から血を噴きそうだった、そこでぼくはLにとびかかると、兵隊が蛮地の女を強姦するような手口でLを襲った。するとLは妙なしかたでふざけ半分の抵抗をしながら裸にされていったけれど、これがぼくの儀式に荷担する意志をあらわすものだということはぼくにもすぐわかった。Lは、自分が姉であったためか、丸木舟を操縦するような工合に、ぼくにまたがってしまった。そして眼をつぶって、涙をこぼしていた。痛々しさでぼくもおもわず泣きだしそうになったほどだ。事実、彼女は痛がっていたんだ。痛イワ、痛イワ、アア、動カナイデといった……。Lもぼくとおなじようにはじめてだったのだ、そしてぼくもLとおなじだけ痛かったとおもう。Lの痛みはLだけのものではなかった……あとになって、ぼくはなによりもLのやさしさにやりきれないような感動をおぼえた。そう、やさしさですね。他人同士のあいだには絶対にない種類のやさしさ。それで、ぼくはぼくのほうにもあふれてきたやさしさ——それは感謝だったかもしれないけれど、それをLに伝えたくて、おもわず口走ったものだ……」  未紀はふしぎな獲物を観察している仔猫のような顔でぼくをみつめており、唇が声にならないことばをつぶやいた。ぼくとおなじことばだったにちがいない。 「愛シテイルといったんです。しかしこれはいってはいけないことばだった」 「Lさんは?」 「Lはその後いっさいぼくに口をきかない。ぼくに対しては完全な|唖《おし》だ。ぼくの眼もみなくなった。眼がであうときは、だきあうときだった。その後、何回か、ぼくたちはくりかえした。そしてそのことになんの意味もなかった。顔をそむけあったまま、二匹の毒蛇か|蠍《さそり》みたいにからみあっただけだった。しばらくしてLはふいにいなくなった。家をでてしまったんです。それから一度も会わない。どこにいるのか、生きているかどうかもぼくは知らない」  ぼくのことばが終ってから未紀は放心したように黙っていた。手首を直角に折り、長い指を組んだうえに顎をのせて|睫《まつげ》をふせていた。そのままのポーズで口だけが動くと、ぼくをとびあがらせるようなことばがでたのである。 「あなたのお姉さまなら、いまモンク[#「モンク」に傍線]にいらっしゃるわ」      ㈽  ゆうべ部屋に帰ったのは十時すぎだった。九時ごろぼくたちは地下鉄の青山一丁目でおりた(未紀はあの事故のせいか、車に乗ることを極度にきらっていたのだ)。未紀はモンク[#「モンク」に傍線]がそこからすぐだといい、行ってみないかとぼくを誘った。しかしぼくは、行くときはひとりのほうがいいといってことわった。そして未紀を家まで送りとどけたあと、ぼくは石勝[#「石勝」に傍線]のまえから都電の青山三丁目停留所まで歩き、そのまま神宮外苑の樹のたちならぶくらやみへと迷いこんだ。みちは墓地と反対の方角にのびており、絵画館を左にみながら|信濃《し な の》|町《まち》の駅にでていた。ぼくはLに会うことをおそれ、Lから遠ざかろうとしていた。けれども、別れるまえの未紀のことばがなかったら、ぼくの行動はあるいはちがっていたかもしれない。未紀はいった、Lサントオ会イニナッテ。アタシモパパ[#「パパ」に傍線]ト会ッテミマスカラ。  このときに発生した不安はぼくの胃のなかにラグビーのボールほどもある|癌《がん》となって残り、それを分析しないですむように、ぼくは部屋に帰るなりウォツカのオンザロックをつくって何杯も機械的に飲まずにはいられなかった。それでも眠れなかったのでぼくは書いた。  いつのまにかぼくは二流小説家風の文体を獲得しはじめているらしい。だがいまぼくの書いているものが、首尾よく小説というものに化けるかどうか、ぼくは知らない。もともとぼくには小説を書く気がまえなんかなかったのだ。しかし七月にはいってもヴィザがおりず、こうして|宙吊《ちゅうづ》りになっている状態では、なにかを書かずにはいられないものだ。ひとは跳べないときに書くのだろう。  これまで、ぼくは小説というものを書いたことがなかった。小説を読むことなら大好きだが、それはまあ、酒を飲むのと同じ種類の愉しみに属する。よい小説に舌をひたしていると、それはぼくを酔わせ、骨をあたためる。ところが自分で小説を書くとなると、それは手のこんだオナニーと同じことではないかとぼくはおもっていた。だからぼくは文学青年たちに対してきびしい偏見をもちつづけてきたのである。じっさい、ぼくらの世代からみれば宝永四年の富士山爆発よりも遠い昔の伝説としかおもえない六全協[#「六全協」に傍線]のあと、寮などには、自分の|排《はい》|泄《せつ》|物《ぶつ》のうかんだ感傷のどぶをかきまわしてその匂いを|嗅《か》ぎながら小説を書いているような連中が多かったというし、アンポ[#「アンポ」に傍線]のあとでは、革命ごっこから芸術ごっこに移っていったアヴァンギャルド猿[#「アヴァンギャルド猿」に傍線]が目についたものだ。六全協[#「六全協」に傍線]時代のじいさまをみると、そのぬれた雑巾みたいな自意識をぎゅっとしぼってやりたくなるが、安中派[#「安中派」に傍線]の連中ときたら、なにもかも宇宙ロケットみたいに射ちあげて行方不明にしてしまったとみえる。とにかくぼくはこうした連中を|軽《けい》|蔑《べつ》していたおかげで、自己救済をめざして小説を書きながら自分で酔うというオナニスムの悪習にそまることがなかったのである。しかしこうして書きはじめた以上はどこまで迷いこむかもしれない地獄への旅にでたようなものだと覚悟をきめる必要があるだろう。  目がさめたのは午前七時。東に窓のあるぼくの部屋ではもうこれ以上寝ていられない。ゆうべはカーテンをひき忘れたので、日の出とともに悪意にみちた軟体動物のような熱気が窓から侵入してきたのだ。三時ごろまで書きつづけて興奮したまま眠ったが、朝まで頭のなかを|蟹《かに》の行列がはいまわっていた。なんとかしてそいつを原稿用紙のうえに追いだし一匹一匹を四角い容器にとじこめようとするが、うまくいかず苦しい。おきあがるとまず机のうえの原稿をみた。ぎごちない字がならんでいて、不毛の地の畑に種をまいたあとをながめるようだった。収穫期はほど遠いという感じが絶望の|棘《とげ》となってぼくを刺す。なぜぼくはこんなものを書きはじめたのか? ゆうベ、ぼくの目のまえには一瞬にしてできあがった小説が全長四十メートルもあるディノザウルスの|図《ずう》|体《たい》をしてころがっていた、とみえたのは幻で、よくみると、肉は腐りおちてがらんどうの|骨《こっ》|骼《かく》ばかり。いやそれさえもあくびの息のひと吹きで吹きはらわれて形をとどめない。手に握りしめているのは一片の|鱗《うろこ》にすぎなかった。これに魔法をかけてふたたびあの全体をつくりだすにはどうしたらいいか、おそらく小説という怪物を成育させる術は、これに時間の|餌《えさ》を喰わせる以外になさそうである。つまりはこれからぼくが生きる時間でこの怪物を養い、最後はこのぼくが小説に化けてしまうこと。そうと心をきめれば全速力で書きつづけるだけである。  さて、ゆうべ未紀はぼくを驚かせた。彼女はぼくの姉を知っていたのだ。 「あなたのお姉さまなら、いまモンク[#「モンク」に傍線]にいらっしゃるわ」  ぼくはこの事実および未紀とLとをつなぐ媒介変数、そして未紀がLをぼくの姉と知った方法(Lが自分からそれをいうはずはなかった)について、まず好奇心をふくらました。 「Lのことを、いったいどうして知ったんです?」 「Y・Kさんですわ」と未紀がいった。 「作家[#「作家」に傍線]が?」ぼくはあっと口をあけたままでいたが、そのとき、ちょうど一カ月ほどまえのことをおもいだしたのだ。ほとんどすべてが、ぼくの頭のなかで氷解した。ただし未紀がいつどうして作家[#「作家」に傍線]と知りあったかというあらたな疑問をのぞいては。 「それはまったくの偶然なの」と未紀はやや曖昧にいった。「たまたまモンク[#「モンク」に傍線]にY・Kさんがおみえになって知りあったのよ。もっともむかしのあたし[#「あたし」に傍線]のほうでは雑誌の写真でみてY・Kさんのお顔だけは知っていたらしいのですけど。それからしばらくして、モンク[#「モンク」に傍線]のお店のことをいっさい管理していただくかたがほしくなったとき、Y・Kさんがあなたのお姉さまを紹介してくださったそうですわ」 「そのとき未紀はLがぼくの姉だということを知っていたの?」 「わからない」と未紀は首をふった。 「知らなかったの?」 「知っていたかどうか、わからないの」これはもっともな答だった。 「それで、作家[#「作家」に傍線]とはつい最近会ったんだね?あの事故のあとで」 「ええ」と未紀はいったが、この答にはほんのわずかなためらいが先行したようにおもわれた。ぼくは多少|腑《ふ》におちないものを感じた。推理は簡単である。もしも未紀があの事故のあとで作家[#「作家」に傍線]に会っていなければ、作家[#「作家」に傍線]やLのことは(失われた記憶に属することだから)なにも知らないはずだ。それにもかかわらず……ふいにぼくは未紀が事故以前のことを少しずつおもいだしているのではないかという気がした。 「Lからぼくのことを直接きいたわけじゃないんだね」とぼくは念をおし、未紀はうなずいた。 「モンク[#「モンク」に傍線]ってお店。よかったらいっしょに行ってみない?」と作家[#「作家」に傍線]はぼくの耳に熱い息を吹きこむようにいったのだ。 「ああ、おともしますよ。ただしきょうはだめだなあ。またいつか」 「残念だわ。それじゃ、またいつか、お電話するわね」  これはちょうどひと月ほどまえの、六月はじめの午後のことだった。  午前中に田村町のフルブライト事務局へ行った帰りに紀伊國屋のビルにはいり、いろとりどりの娼婦のように陳列された本をしばらくひやかしていたそのときに意外な人物をみつけたのは、確率論的にいって|稀《け》|有《う》の奇遇にちがいなかったが、しかしこの裏には、ぼくと相手の行動が確率的に独立でないふしもあり、この非独立性の糸を称して宿命とでもいうなら、それはまさに宿命的な奇遇であろう。こんなくだらない感慨にふける余裕があったのは、相手がぼくのほうに背をむけて数冊の本をカウンターで包装させていたからだ。それが作家[#「作家」に傍線]だった。まえにも書いたように、彼女は数年まえ、ぼくの家に、というよりばばあ[#「ばばあ」に傍線]の経営する下宿屋に住んでいたことがあり、ぼくはほかの下宿人たちとともに彼女のことを作家[#「作家」に傍線]といういささか|揶《や》|揄《ゆ》|的《てき》なニックネームでよんでいたのだが、実際彼女はまったく突然に作家となってしまったのだった。彼女とはおよそ一年以上も会っていなかった。  作家[#「作家」に傍線]は清水焼の青に似た色の、中国服めいた印象を与えるワンピースでぴったりと胴を包んで立ち、白いサンダルをはいた足、そして脚は|象《ぞう》|牙《げ》細工のようにみえた。細い首すじと猫のそれに似た耳をむきだしにしており、髪は頭のうえにたばねあげてほとんどみちがえるところだったけれど、サングラスをはずして女店員にほほえみかけているのをみたのでリコグナイズできたわけだった。 「今日は」と肩にさわると作家[#「作家」に傍線]はしゃっくりでもおこしたようにとびあがり、 「あら、あなただったのね」  そしてすばやくサングラスをはずし、またかけなおして、うすくルージュをひいた唇で笑った。この口にうかぶ微笑と未紀のそれとのあいだにある共通したものがみられることにぼくは以前から気がついていた。なによりも口の形がよく似ていた。それは女には珍しいデリカシーをもった口で、笑うとはにかみともシニスムともつかぬ|皺《しわ》が口のはじに刻まれ、上唇は独特の魅力的なめくれかたをする。 「変った頭をしてますね」 「まあね」と作家は照れて口の隅から|尖《とが》った舌の先をちらちらさせた。「とうとうあたしもソフトクリームみたいに巻きあげてみたけれど、この年になるとまんざら似合わなくもないでしょ」 「失礼だけど、二十八だっけ?」 「ふふ、そういうところね。どう、なにか冷たいものでも飲まない?」 「ひさしぶりにおごってもらおう。生ビールでもやろうかな」 「それ、いい。本を半分もってくださる?」 「OK、全部もつよ。ところで、もうひとつ感想をいわしてもらうと、あなた、若奥様といった風格がでてきましたね」 「はは、一見若奥様というやつ。そのはずだわ、あたし結婚したんですから」  そこでぼくは驚き、同時におもいだしたことがある。あれは今年の春のはじめで埃っぽい風の吹きまくっていた日のことだが、ぼくは銀座で作家[#「作家」に傍線]らしい人物をみかけたのだった。都電の通りをへだてていたのでたしかではないが、なぜともなくぼくはそれが作家[#「作家」に傍線]だったことにまちがいないときめこんでいた。その姿は望遠レンズでひきよせた像のように、不自然なほどはっきりしていた。靴のならんだショウウィンドウに顔をうつして彼女はほほえんだ。作家[#「作家」に傍線]のものとは信じられないような微笑だった。結婚した女が夫にだけみせる微笑。ぼくはモカ[#「モカ」に傍線]の夫に対する微笑をみて知っている。たちまちガラスのむこうにぼくの想像の産物ともみえる粘土のような男の像があらわれ、彼女はその男によりそった。それから腕を組むようにして歩いていく。若い夫婦の日曜日の買物。そうだ、あれは四月の日曜日のことだった。|河《か》|馬《ば》のような図体をつらねてのろのろしている都電のあいだをかけぬけて彼女の姿を追ったが、もうみつからなかった…… 「それはふしぎねえ。その女はきっとあたしなんだわ。でもあれは日曜日ではなくて、たしか金曜日の夕方だったはずよ、かれとNETへ行って、そのあと銀座にでた日だから」 「かれって、 Blue Journey 以来、あなたの小説にくりかえしでてくるかれ[#「かれ」に傍線]のことですか、あの、 Blue Journey で|失《しっ》|踪《そう》させた?」 「あなたはそうおもうの?」 「おもいませんね。きっと別の男でしょう」 「そう。かれ[#「かれ」に傍線]ではなくてSという男よ。あたしとそのSとの結婚のいきさつは、今度だす短篇集のなかに書いてあるわ」 「そうだろうな」とぼくは多くのことをおもいだしながらいった。作家[#「作家」に傍線]とぼくとのあいだにはかなりふかい記憶の井戸があった。その井戸のなかで、ぼくは彼女の弟のような秘書のような、奇妙にしたしい友だちだった。「あのひとはたしかにあなたのかれ[#「かれ」に傍線]とはおもえなかった。それにしてもあのときの笑いかたがとてもはっきり頭に残っているのはふしぎだ」 「どんな笑いかた? こんなふう?」作家[#「作家」に傍線]はジョッキのむこうで幾種類もの笑いかたをしてみせた。「全部、ちがうかしら。鏡があればあと五種類はやれるわよ」 「いやだな、うす気味わるい。しかしあのときのは、なんともやりきれないほど日常的な、にせの幸福に首までつかって少しずつ死んでいきながら笑っているという感じだった」 「ベケットの芝居に、女が砂に埋ってそんな笑いかたをするのがあったわ。でもなぜかしら?」 「S氏と結婚したからですよ。かれ[#「かれ」に傍線]はどうなったんです?」  だが作家[#「作家」に傍線]は堅く口をむすんで首をふっただけだった。  この作家[#「作家」に傍線]をぼくのうちへ拾ってきたのはばばあ[#「ばばあ」に傍線]すなわちぼくの母である。ぼくのうちからあまり遠くないスコットランド風の古い西洋館(それはよくみると難破船の破片みたいな木ぎれをつづりあわせて建てられた廃屋に近い代物だった)に下宿していた作家[#「作家」に傍線]は、この家が売り払われたことも知らずにメルロー・ポンティなどを読んでいた。そしてある日なんの予告もなく新しい持主がこの家をとりこわしはじめたとき、彼女はそれがひどい土埃につつまれてもろくも崩れおちていく光景を子どものようにぽかんとしてながめていた。それをたきぎ拾いにいったばばあ[#「ばばあ」に傍線]がみつけてその場で自分の家の新しい下宿人にきめてしまったのである。作家[#「作家」に傍線]はおびただしい本のなかにまぎれこんで引越してくると、ぼくの家の南端のいちばんよい(したがって部屋代のいちばん高い)一室におさまった。こうしてぼくの家の一室に|棲《す》みつくまえのまえ、作家[#「作家」に傍線]はI公園をみおろす鉄筋アパートの四階で暮していた。ある日、彼女の留守中に三冊のノートが部屋から紛失した。そのノートの内容は未完の(彼女にとって作品はいつも未完なのだが)小説だった。二人称で書かれたかれ[#「かれ」に傍線]とあなた[#「あなた」に傍線]に関する仮説としての小説で、作家[#「作家」に傍線]はそれを Blue Journey という名でよんでいた。それがまだ作家[#「作家」に傍線]のからだに属している皮膚であり、それ自身で存在スル! ということばを発するにはいたらない段階にあるときに、作家[#「作家」に傍線]の部屋からもちさられてしまったのである。だれが盗みだしたのか? カレ[#「カレ」に傍線]ニキマッテルワと作家[#「作家」に傍線]はいった。このときからぼくは作家[#「作家」に傍線]がかれとよびけっしてそれ以外のよびかたをしようとしない人間の存在、むしろその不在を知った。もしぼくがあの恐竜の卵に似た作家[#「作家」に傍線]の心のなかに手をさしいれることができたとしたら、ぼくの手は、系列発生の魚の段階にある幼い恐竜のかげを感じることができただろう、魚の形をした虚無をたしかめることができただろう。そしてしばしばぼくは子宮の開口部をさぐる産婦人科医の手に似た好奇心の手で作家[#「作家」に傍線]の秘密をさぐってみたが、そのたびにぼくの探索は|韜《とう》|晦《かい》の磁気嵐にさまたげられてすすむべき方向をみうしなってしまうのだった。いったいかれ[#「かれ」に傍線]はほんとに存在したのか? 「かれ[#「かれ」に傍線]は失踪したのよ、ある日突然」と作家[#「作家」に傍線]はいう。ぼくは何度もそれをきかされたが、そういうときの作家[#「作家」に傍線]の抑揚はほとんどシェーンベルクのピエロ・リュネール[#「ピエロ・リュネール」に傍線]の一節に近い。そしてこのときの笑いに包まれた|瞳《ひとみ》の色はかげろうのようにうすく、ほとんど正視するに耐えなかった。「あの Blue Journey のなかのかれ[#「かれ」に傍線]が小説そのものまで n斬nt の穴のなかにひきずりこんで完全に消滅してしまったのね。あなたはこんなSFを読んだことがある? ある男が日常生活のなかにひらいているヴァギナの入口ほどの穴を発見して熱心にこれを調べにかかる話よ。そのうちにこの穴のつうじているくらやみ、いわゆる異次元の世界、パラレル・ワールドに対する情熱のとりこになって、穴に手をつっこんだり糸や|鉤《はり》をたらしたりしていると、ふいにすごい力で穴のなかにひきずりこまれそうになるの。そして、この男とともにこの男の関係している世界全体が風を失ってとじてしまうパラシュートみたいに、ずるずると穴のなかにたぐりこまれていくのに気がついて恐怖の絶叫をあげるという話なんだけど、あたし自身も毎日そういう恐怖におびえながら生きているわけなのよ。だから穴にはいつも封印しておきたいし、あたしのからだにある穴についてもそうしているわ、まあわかりやすくいえばわたしはかれ[#「かれ」に傍線]の失踪以来それを使わないことにしているのよ」  こんなふうに作家[#「作家」に傍線]の話はでたらめにジャンプするのでぼくはいつも大道|香具師《や し》の口上でもきくような無責任さで耳からパーセプトロンに通じる回路をあけっぱなしにして話をきいていたものだ。  かれ[#「かれ」に傍線]の失踪の話をするとき、作家[#「作家」に傍線]の唇はひとを惑わす笑いでめくれあがり、眼の色は白昼の夢のように淡くなるのだった。ひょっとすると彼女のかれ[#「かれ」に傍線]は彼女のなかへ失踪したのかもしれない。かれ[#「かれ」に傍線]がそんなにも彼女を愛しており、彼女がそんなにもかれ[#「かれ」に傍線]を愛していたなら、男が女のなかにもぐりこんでしまうことは大いにありうるのではないか。ぼくは本気でそんなことを考えてみたこともある。  これに関連して、ぼくと作家[#「作家」に傍線]のあいだの、もっとも重要なできごとについて書いておこう。そのとき、ぼくはかれ[#「かれ」に傍線](K)の死(とぼくは想像している)の知らせをうけとった作家[#「作家」に傍線]のそばにいたのである。  ある年から次の年へかけての冬、作家[#「作家」に傍線]は奈良や京都の寺院をせっせとめぐり歩いていた。そのときに作家[#「作家」に傍線]からもらった二、三枚の絵はがきをぼくはいまももっている。 [#ここから1字下げ]  いまかれ[#「かれ」に傍線]といっしょに愛の遺跡を巡り歩いています。かれ[#「かれ」に傍線]はもう幻の肉をもったやさしい幽霊です。あいしあうこともできません。一日の巡礼が終るとあたしは疲れきって泥のようにくずれてしまいます。けれど、朝になるとまたかれ[#「かれ」に傍線]があらわれてあたしにみえない腕をさしだし、あたしたちは絶望をみいだすための巡礼を開始します……  きょう、東大寺南大門のまえでぼんやりしていると、あなたのように|精《せい》|悍《かん》で美しい一頭の牡鹿が、角を切られた頭でいやというほどあたしの|尾《び》|[#「」は「抵」の「てへん」を「骨」にしたもの Unicode="#9AB6" DFパブリ外字="#F952"]《てい》|骨《こつ》を突きあげました。痛みとおかしさで涙がこぼれました。これが過去への旅の終り。四、五日京都で休んでから帰ります。 [#ここで字下げ終わり]  こんな感傷的な便りのあとでぼくは彼女から至急電報をうけとった。 [#ここから1字下げ]  ユキノキョウトヘイラッシャイ」ゼ ヒキテ」マッテマス [#ここで字下げ終わり]  ぼくは翌日の第一こだま[#「第一こだま」に傍線]で発った。東京は雪のけはいもない快晴だった。関ヶ原をすぎるあたりから雪景色になった。  京都駅に着いたとき、作家[#「作家」に傍線]は迎えにきていなかった。ぼくは駅でしばらく待ち、降りつづいている雪の光景、無数の白い蝶の死骸が街の底にゆっくりと沈んでいく光景をながめた。それから車に乗った。|彎曲《わんきょく》したフロント・グラスに雪片の群れが降りそそぐ。二本のワイパーがたえず雪片をかきおとし、ぼくの前方に扇形の透明な空間を確保する。そこから雪の京都[#「雪の京都」に傍線]の断片がみえた。童話の絵本のように。河原町で車が渋滞した。ぼくはそこで降りると眉毛を白くして京都ホテルまで歩いていった。フロントできくと、作家[#「作家」に傍線]がぼくの部屋をとってあるということだった。  作家[#「作家」に傍線]の部屋をのぞいてみると、彼女は毛布を眼の下までひきあげて寝ていたが、その眼はいつものようにシニスムで輝いていた。みたところ上機嫌で、 「よくきてくれたわね。あたし死にかけていたのよ」  作家[#「作家」に傍線]の冗談はいつもこんなふうに地球の破れ穴に足をつっこむような気もちのわるさをもっている。毛布を少しひきさげてみると、細い首と裸の胸があらわれたのでぼくはとびあがった。まるで棺をあけてミイラでもみたようだった。昼間から裸でねていたわけだが、作家[#「作家」に傍線]にいわせるとこういうことは大いにシュールレアリスト風なのだ。しかし病気はほんとうらしかった。 「けさ、目がさめたとき、あたしは死んでいることに気がついたの。いつ死んだかわからない。でも死んでからもう一世紀もたっていたわ。肉は腐って土になっていたから骨だけで軽々とした感じだったけれど、それにもかかわらず身動きできなかったのは墓石があたしのうえにのっかっているからなんだとおもって、あたしは骨を使って土を|掻《か》いて、もっと自由に動けるところへ移動しようとしたの。もちろん、こんなことは絶望的だったし、そのうちにばかげてるとおもいかえして死体になりきる覚悟をきめて……ああ、そろそろ|教誨師《きょうかいし》がお祈りにやってくる時間だわ」 「歩きまわって風邪をひいたんでしょう?」  医者がはいってきた。黒っぽい背広を着ていたのでぼくは最初どういう種類の人間かわからなかった。そして次の瞬間、ぼくはほんとにかれが死の床を訪れた教誨師ではないかと考えたのだ。男が黒い診察カバンから聴診器をとりだすのをみてもぼくはそれが作家[#「作家」に傍線]の胸から最後の|懺《ざん》|悔《げ》をききだすための魔術的な道具のひとつにちがいないとぼんやり考えていた。それから医者にたずねた。 「どうしたんですか?」 「心臓の発作です。過労のためです。というより、極度の緊張がつづいたあとで糸がきれたような状態でしょうね」と医者は事務的にいった。「もう大丈夫だとおもいますが。けさ一本注射しました。もう一本しておきましょう。それからしばらく眠る必要があります。あなたはこのかたの?」 「弟です」とぼくはなめらかに嘘をついた。 「ああそう。夕方までお話は遠慮なさったほうがいいでしょう」 「もう元気になりましたわ」と作家[#「作家」に傍線]はいい、肉の薄い背中をみせてはらばいになった。それは横からみるとオリーヴ色の月の船に似ていた。そのとき医者は立ったまま背中の対称軸にそって|脊《せき》|椎《つい》のありかをさぐるかのように、掌全体でゆっくりと背中を撫でた。|肩《けん》|胛《こう》|骨《こつ》のあいだから下へ、ほとんど尾[#「」は「抵」の「てへん」を「骨」にしたもの Unicode="#9AB6" DFパブリ外字="#F952"]骨の近くまで……そして驚くべきことがつぎにおこった。水鳥が首を水中につっこむような自然な動作で医者は裸の背中のもっともふかくくぼんだところにすばやく唇をつけたのだ。かすかな女の声がもれて背中の表面を透明な|痙《けい》|攣《れん》の波が走った。立ちあがった医者の顔にはなんの表情もなかった……ひどくゆっくりとつづいた幻視である。  医者はぼくに目礼するとバスルームにはいって手を洗い、ふたたび眼で挨拶してでていった。毛布をひきあげてやりながらぼくは作家[#「作家」に傍線]にいつからどうして病気になったのかとたずねた。 「かれ[#「かれ」に傍線]がやってきたときから。かれ[#「かれ」に傍線]がやってきたから」 「かれ[#「かれ」に傍線]って?」  突然作家[#「作家」に傍線]は狂ったように笑いはじめ、口のなかの壁までぼくにみせてベッドのうえで腕をばたばたさせた。 「さっきでていったのがかれ[#「かれ」に傍線]よ」  冷たい声にかえってそういいながら作家[#「作家」に傍線]は乱れた髪の塊を枕に押しつけたまま裸の手をのばしてナイトテーブルのうえの紙片を集めようとしたが、それはすべりおちて床に散乱した。ぼくが拾いあつめているあいだ、作家[#「作家」に傍線]はその腕をベッドからたらしていた。そして眠りの繭にもぐりこむときのだるい声で、 「すこし眠るわ」  その紙片をぼくはいまももっている。その理由はぼく自身にもよくわからない。ただ、彼女はそれをとりもどそうとしなかったし、ぼくも返す機会を失い、ついに返す理由も失ったのだ。彼女のほうではもうこの紙片のことを忘れているかもしれない。それは小説のためのメモで、かれ[#「かれ」に傍線]が登場し、彼女[#「彼女」に傍線](彼女[#「彼女」に傍線]は小説を書きつつある)とともにこのホテルにいて、数時間の小説的時間が流れたところで突然中断している。それはシノプシスの文体で書かれていた。これを読んだとき、ぼくはこのかれ[#「かれ」に傍線]がじつはぼくのことではないかと想像したりしたものだ。いったい彼女はなぜぼくを電報でよびよせたのだろう? 「あなたといっしょに、どこか、瀬戸内海の、陽あたりのいいあたたかい島へ旅行しようとおもったの。でもそれもゆうべの電話でだめになったわ」  その前夜おそく、彼女の実家から電話がかかってきたというのだった。 「おそろしい電話。心臓を|鉤《かぎ》でひっぱるような電話……」 「お父さんでもなくなったの?」 「父なら去年の冬|頓《とん》|死《し》しちゃったわ」と作家[#「作家」に傍線]は顎をひいて毛布のなかに鼻まで隠した。 「とにかく、あしたK市へ発たなければいけないの。そこでかれ[#「かれ」に傍線]が……」といいかけて彼女の顔は動かなくなった。  その夜、ぼくは彼女のそばにいた。ベッドのうえにながながとそのからだを横たえて眠っている彼女は一本の植物のようにみえた。これは驚くべき発見だったが、あの強情な獣の毛に包まれた作家[#「作家」に傍線]の頭のなかにはやさしい夢の花がつまっており、だから眠っている彼女はまぎれもない植物だった。これが作家[#「作家」に傍線]の本性なのかもしれない。細長い一本の植物。爪もなく歯もなく眼もない。しかもこの淡色の蘭の花はまだ病気のなかにその根をひたして息をする音もたてずに眠っていた。ある不吉な電話が一瞬にして彼女を墓石に変えたのだろう。そのとき彼女は致死量の毒液を吸いあげて体を傾けたのだ。むしろ|脆《もろ》い茎のように折れてしまったのだ。ぼくは折れた彼女をまっすぐにしてベッドに横たえてやった。そのときからずっと彼女は目をとじていた……やがてぼくは彼女の横にからだをすべりこませた。ぼくは自分の体が不器用で圧迫的な魚雷に似ているのを感じた。なんとかしてぼくも柔かい樹皮をもった植物になるべきだとおもい、金属性の回転音をたてる心臓のエンジンを停止させ、肺と気管のかわりに皮膚で呼吸しようとし、脚と腕を風にふきたわめられるポプラのようにやわらげ、彼女を抱いていた。彼女の唇のすきまに顔を近づけて匂いを嗅ぎ、絶望の毒が全身にまわってしまったかどうかをしらべた。次第にぼくの唇は無味無臭の唇のうえにおちていった。このとき驚くべきことには(ぼくは蛇の唇でもなめたような驚きに襲われた)彼女の唇のあいだから尖った肉の筆の穂先がでてぼくの舌をくすぐったのだ。このおもいがけない合図がぼくに腕のなかにいる植物の性[#「性」に傍線]を教え、エロティクな樹液のたかまりを合図したのだった。ぼくの手は幹をはう|蟻《あり》の動きでこの植物の性[#「性」に傍線]をさぐりあてた。あれはきっと魅惑的な露をたたえた食虫植物の|罠《わな》に似ていたにちがいない。だがぼくはもう用心も探索の情熱も忘れてそのなかにはいった。なんの危険もなかった。ぼくは動物的に暴れさわぐことをやめ、彼女のなかに接木されたもう一本の植物としてしずかにぼくと彼女のあいだにあふれ浸透しあう時を感じていた。年ごとにひとつ年輪のふえる、あの速さでぼくは彼女をおしひろげ、同時にまた同じリズムで、波状的にしめつけられた。それはほとんど動物の感覚を超えたリズム、植物的な、あまりにも長い周期のリズムだった。たぶん彼女自身、気づきもしなかっただろう。この性的植物の花にかすかな赤みがさした。そして口はわずかにひらいて、吐く息の匂いは濃くなってきた。そのまま何年かがすぎた。彼女は眠ったままだったし、ぼくもゆるやかな地殻の変動で彼女をゆすぶっているだけだった。もう夜があけたのではないかとおもった。しかし太陽はまだあらわれなかった。夜の黒い顔がぼくたちの時をみおろしていた。凍った月は東から西へ走るのではなくカーディオイドに似た閉曲線をえがいてぼくたちをとじこめていた。ついに最後の叫びがぼくたちをひき裂く。ぼくはもう花粉をこぼした|雄《お》|蘂《しべ》でしかなかった。彼女は去っていた。その腕と脚のつる[#「つる」に傍線]で、気がつかないうちに力をましていまはおそろしいほどのつよさでぼくにからみついたまま、死んだ植物に変っていた。彼女の時は伏流水のように大地の下へもぐりこんでしまった。数秒ののち、彼女のうえにふきこぼれていたぼくは下等な分別をとりもどし、彼女の失神に|狼《ろう》|狽《ばい》した。去ってしまった彼女の音をきこうと棺の蓋に耳をつけた。不規則な、一歩ごとにつまずきそうな足音がきこえた。かえってくる足音か、去っていく足音か? 彼女はかえってきた。心臓のエンジンは高く規則正しくなった。  目をあけたのは太陽がのぼってからだった。彼女も目をあけてぼくを待っていた。彼女が最初にいったことばは、アリガトウだった。なぜアリガトウなのだろう? あんなにも遠くへいってしまったことが? そのことに対してなら、もっと恨みにみちた声で、傷口から生えた|豊饒《ほうじょう》な舌で、別のことばで、いったはずだ。彼女は単純に感謝していた。要するにぼくは彼女にある種の治療を加えたのだった。植物同士の弱アルカリ性のアガペーがぼくたちの接触した部分をとおして交流した。  彼女はかれ[#「かれ」に傍線]がいなくなってからはじめてではなかったのかとぼくはおもった。それをきいてみようとしたが、ことばにしてはきけないことだった。マルデハジメテミタイダ。すると彼女は睫をひきあげ、女ならだれでもがみせるあのつやのある眼でぼくをにらむと、ひどく優雅にぼくの耳たぶを|咬《か》んだ。もしそうだったとすればぼくは彼女を手術し、治療をほどこしたという栄誉をもつだろう。それも彼女のなかのかれ[#「かれ」に傍線]が死霊に変った夜に。 「どうしたの? かれ[#「かれ」に傍線]になにかおこったの?」そしてとうとうぼくは彼女の沈黙をひき裂く勢でいった。「死んだの?」  彼女は鏡のなかに能面のような顔をうかべて髪をとかしていた。けっして答えるけはいはみせずに。 「あたしはこれからかれ[#「かれ」に傍線]のところへいきます。大阪まで送ってくださる?」  大阪からK市までは全日空の飛行便があったはずだ。ぼくは大阪にむかう電車のなかでそれを指摘したが、作家[#「作家」に傍線]は白いシーツに皺をよせるような微笑を口もとにうかベ、もう急ぐ必要はないのだといった。この答がぼくのわるい予感をかきたてた。おこりかけた炭火のように、青い一酸化炭素の|焔《ほのお》のように、ぼくの不安はふたたび燃えあがり、よく晴れた空の下の枯野に燃えひろがった。ぼくは異様に明るい真冬の風景をおもいだす。卵をのみこんだ蛇のようにところどころ|膨《ふく》れて、乏しい水をたたえていたのは淀川の中流だった、ぼくたちは京阪電車の特急の座席に肩をならベ、その川ぞいに走っていた。「いい天気ね」と作家[#「作家」に傍線]がいった。無意味に明るい透明な声で。それがどんな|哀《かな》しみをふくんでいたのか、ぼくは知らない。むしろそれは彼女[#「彼女」に傍線]の裂け目からにじみでてきた虚無そのものだったかもしれない。白いアストラカンのコートのなかにそのほっそりしたからだをいれ、首にはコートと同じ生地のマフラーを大げさな|繃《ほう》|帯《たい》のように巻いて(車中は暖房がききすぎていたほどだったのに)、彼女は坐っていた。ぼくはふわふわした羊毛の下に彼女の手をさぐりあてて握った。それは|灼《や》けたフォークのように冷たく、氷のように燃えていた。  空は急に曇ってきた。電車が|猥《わい》|雑《ざつ》な街を切り裂き大阪という悪性|腫《しゅ》|瘍《よう》の中心部へ突進していくころ、空はしぼられたレンズのように収縮し、急速にその青い輝きを失っていった。ゆで卵の白味のなかの黄味に似た太陽も次第にその輪郭を失い、雲のなかの汚いしみに変った。大阪駅に着いたとき、まだ一時間ほど時間があったので、ぼくたちは駅前の地下街を歩きまわった。壁のくぼみごとに各地方の名産を陳列した店があった。|蜂《はち》の子、マタタビ、|山《やま》|牛《ご》|蒡《ぼう》の味噌漬け、胎児の頭ほどある文旦、|雲《う》|丹《に》、鯨の軟骨の粕漬け、くるみ、|鰹節《かつおぶし》、|羊《よう》|羹《かん》。ぞっき本とエロ雑誌を積みあげた本屋、男も女ものれんに首をつっこんで立ち喰いしている焼鳥屋。「おいしそうね。食べてみない?」作家[#「作家」に傍線]は貴婦人然とした白いコートのままスタンドにとりつき、臓物の焼ける匂いのなかで串を何本もたいらげビールを一杯半飲んだ。作家[#「作家」に傍線]には珍しい異常な食欲がぼくを不安にした。ひとは死ぬ決心をしたあとではこんなふうに|活《かっ》|溌《ぱつ》に食べるものではないか……  凶事を告げるかのようなけたたましさで発車のベルが鳴りはじめたとき、ぼくたちはオレンジ色と緑に塗りわけられた列車の自動扉のまえで曖昧な抱擁をかわした。ぼくの腕に残ったのは白いアストラカンの毛の感触と逃げ去ったものの胸をしめつけるような空虚だった。彼女の唇も冷えきった手もじきにこの抱擁のなかからぬけだしてしまった。「ひとがみてるわ」と彼女はひどくコケティッシュにみえる抗議の微笑をうかべていい、それにぼくがさらに抗議しようとすると、彼女は両手をのばしてぼくのコートのはずれていたボタンをかけてくれながら、一日中太陽の航跡がみえる島への旅行のことを口にした。ぼくたちのあいだで(といってもほとんど彼女がひとりで夢中になって計画をたてていたのだったが)話しあわれていたあの旅行が事実上無期延期になったことを彼女はそのみせかけの明るさでうきうきしている声によって知らせた。ぼくはうなずいた。これがぼくたちの最後の会話だった。ベルが鳴りやみ、閉ざされたドアのむこうで白い女の姿が輪郭を失っていった。もう二度と彼女をみることはあるまいとおもった。  そのとき以来だった、ぼくが作家[#「作家」に傍線]とむかいあって口をきいたのは。ぼくたちはふたたび出会い、彼女は結婚しているといった。それもかれ[#「かれ」に傍線]とではなくSとである。したしくしていた女の結婚に対してどんな男でも感じる|嫉《しっ》|妬《と》をまじえた憤りをぼくも感じていた。 「御主人のS氏って、どんな男です?」とぼくはかなり露骨な非難と軽蔑をこめていった。 「つまらない男よ」と作家[#「作家」に傍線]はべつに鼻白みもせずにいい、指を立てて、自分のうしろをみるようにと合図した。「ほら、さっきでていった男……わかった? Sよ。一日中あたしをつけているの。つけているというより、犬が主人につきまとうみたいにあたしにつきまとっているのよ。あたしはいっこうに気がつかないふりをして好き勝手にしているけど。Sはあたしがそのうちにかならずかれ[#「かれ」に傍線]と連絡をとって会うにちがいないとおもいこんで、いっときも目をはなさずにあたしをみはってるんだわ」  ぼくは作家[#「作家」に傍線]の肩ごしにビアホールの出入口を観察してみたが、それとおもわれる男の姿はなかった。いつもの冗談なのだろう。 「Sはあなたをかれ[#「かれ」に傍線]とまちがえたかもしれないわ、そして」と作家[#「作家」に傍線]はうれしそうにいった。「逆上してあたしたちを刺すために刃物を買いにとびだしたのかもしれないわよ」 「そんな男に刺されちゃかなわないな」とぼくは肩をすくめた。「もしダンナが血相変えて乗りこんできたら、ぼくはあなたの弟になりすますことにしよう、いいでしょう、姉さん」  このことばでぼくのにせ[#「にせ」に傍線]の姉すなわち作家[#「作家」に傍線]はあることをおもいだしたにちがいない。そこで彼女はいったのだ。 「ところでいいお店があるのよ、教えてあげましょうか。あたしが顧問みたいになってるお店で、モダンジャズでもブルーベックなんかのスクェアなやつは一枚もおいてなくて、とびきりヒップなのといわゆる new thing 、それに現代音楽を聴かせるの。モンク[#「モンク」に傍線]ってお店。よかったらいっしょに行ってみない?」 「ああ、おともしますよ。ただしきょうはだめだなあ。またいつか」 「残念だわ。それじゃ、またいつか、お電話するわね」  このとき作家[#「作家」に傍線]がぼくを誘った魂胆は、いまおもえばモンク[#「モンク」に傍線]にいるLにぼくを会わせようということであったことはあきらかだ。だが、ぼくをLに会わせようとした意図はなんだろう? あれは作家[#「作家」に傍線]が少からずもっている親切心、それも好奇心から生えてきたサボテンのような親切心にすぎなかったのか? それとも(と考えながらぼくはにやりとしたのだが)彼女はLとぼくのあいだにおこったことを嗅ぎつけていて、この異臭を放つ姦淫でむすばれた姉と弟を対決させることに胸をわくわくさせていたのかもしれない。しかし作家[#「作家」に傍線]があの事実を知っている可能性はほとんどないはずだ、とぼくはおもう。万一知っていたとしても、とぼくは仮定法で考えてみたが、大して動じはしなかった。すでに未紀に話した以上、ぼくの骨にたくわえられていた恥の毒性は、この公開によって分解されていたのである。それはいまとなっては三人称で語ることのできるひとつの事実にすぎない。こうした効果はひとまずぼくを安定させた。あるいは、ぼくにたかをくくらせてしまった。要するにぼくが必死のおもいで不法所持してきた|兇器《きょうき》は、いざひとまえでとりだしてみると、ぼくの期待に反して、全世界を凍りつかせる威力をふるうどころか、たちどころに理解され、無力になり、ものわかりのいい微笑とともに押収されてしまったのである。ぼくは聴き手であった未紀に失望しているのではない。彼女は抽象的な二枚の耳と化して、ぼくの話を吸いこんでいた。なんの大げさな反応もしめさずに。つまり彼女は理想的な聴き手だったとぼくはおもう。ぼくは姿のみえない精神分析医をまえにして語っていたような気がする。しかしこれが卑俗な意味で精神分析に似た効果をもたらしたとしても、ひとつだけ気にかかるのは患者であるぼくの無抵抗さだった。絶対に他人の手にふれさせてはならない暗黒を、ぼくはやすやすと語ってしまったのである。ということは、じつはそれがぼくにとって本質的には暗黒でなかったということではないか? いまぼくはそのことに気づいた。ぼくが自分の姉と|媾《まじ》わったという事そのものに対しては、ぼくはそれほど重要な意味を与えていなかったというべきだろう。それは眼をそむけたい事実にはちがいなかったし、すすんで他人に語るべきことではなかったが、しかしそれはぼくの存在の構造を一変するような危機ではなく、したがってまた、それを光のなかへひきだすことでもう一度ぼく自身の存在の構造を一変させるというようなドラマなしに、公開することもできたのである。立会人が未紀(あるいは作家[#「作家」に傍線]でもいい)のような空白の精神でさえあればそれは可能だった。  こうしてみると、ぼくはぼく自身の現存在構造[#「現存在構造」に傍線]の頑強な安定性に驚かざるをえない。それはまるで、みごとな適応制御系[#「適応制御系」に傍線]のようだ。近親相姦という異常な事件によってもこの系は破壊されず、また、狂気とよばれる異常に歪んだ系に移行してしまうこともなかった。この強力な安定性の条件はなにかといえば、それはあきらかに道徳的感覚の欠如である。あるいはむしろ、負の道徳的感覚といったほうがいいかもしれない。近親相姦の事実に対して、ぼくの内部には、ぼくを破滅的に振動させるような罪の感覚がまったく生まれなかった。近親相姦はなぜ悪なのかと問われたときぼくは未紀のまえで熱心に理論を組みたててみせたが、この問題に対するぼくの正直な答は、要するに困惑[#「困惑」に傍線]だった。というのは、この問い自体がぼくの内部ではなりたたなかったからだ。それはぼくにとって意味をもたなかった。  それならLと会うことを忌避する理由もないはずである。そのとおりだった。ぼくはいつでもLと会えるだろうし、ぴったりと眼があえばぼくたちはふたたびあいしあうかもしれない。二匹の|蠍《さそり》のようにだきあって。そんなふうに考えてぼくはすごみのある微笑を顔にうかべようとしたがうまくいかなかった。絶対にLとは会いたくない、とぼくに告げる声があった。ぼくはひどい疲れをおぼえた。  ぼくのほうから作家[#「作家」に傍線]に電話したのはそれから三日後の早朝のことだった。最初電話にでたのは少ししわがれた男の声で、作家[#「作家」に傍線]の夫にちがいなかった。というよりそれは一般的な夫というものの声だった。たとえばこのいらだたしいほど安定した声は、作家[#「作家」に傍線]のことを家内[#「家内」に傍線]とよんだのである。名前をきかれたのでぼくはこみあげてくる悪意のままに、かれの名をいってやった。すると相手は沈黙し、電話を切ってしまった。一時間ほどのちに作家[#「作家」に傍線]がひどく不機嫌な声で電話をかけてきて、どういうつもりであんなわるふざけをしたのかと詰問した。彼女のことばによると、夫は嫉妬と不安のあまり自分のしっぽを|咬《か》もうとする犬みたいにとめどなくまわることをやめず、狂った|独《こ》|楽《ま》になりそうだというのだった。 「あの男をあまりからかわないでちょうだいね。ところで御用はなんだったの?」 「未紀のことだけど」とっさにぼくはおもってもいなかったことをいった。ほんとうはLの問題を作家[#「作家」に傍線]と話しあってみたいと考えていたのだった。「ぜひ相談に乗ってほしいんです」 「つまり未紀さんがほしい[#「ほしい」に傍線]ということ?」作家[#「作家」に傍線]は声を低めてぼくの|腋《わき》の下でもくすぐるような調子でいった。「いいわ、お話うかがうわ」  夜、新宿のブルー・ノート[#「ブルー・ノート」に傍線]でぼくは作家[#「作家」に傍線]と会った。作家[#「作家」に傍線]は、ぼくが未紀の家に寄ってもう一度借りてきたノートをテーブルのうえにひろげ、教師が答案をみるような慎重さで読んだ。 「どうおもいます?」 「おもしろいわ、この小説」と作家[#「作家」に傍線]は熱をおびた眼をあげていった。ぼくはききとがめて、 「小説? これを小説だというの?」 「そうでしょ? だって小説の文体ですもの」 「ということは、ノートはつくりごとだということですか?」 「嘘よ、嘘っぱちよ」と作家[#「作家」に傍線]は肩をそびやかしていった。「事実なんてどこにあるの?」  この断言はぼくをつきとばした。だが作家[#「作家」に傍線]のこの痙攣的なことばは未紀のノートに関する意見ではなかったことがわかった。彼女はノートのことなんか忘れてしまったかのように認識論の問題を論じはじめ、ぼくにはよくわからない話題だったが、現象学のなかをさんざんかけめぐったのち、そのおしゃべりはロブ=グリエのつくった不滅の女[#「不滅の女」に傍線]にまで飛び火した。この映画のなかで彼女の大好きなフランソワーズ・ブリオンが、「嘘よ、嘘っぱちよ」とくりかえすのがたいそう気にいったというのだった。 「ところで、このノートのことだけど」とぼくはやっと作家[#「作家」に傍線]を未紀のノートに着陸させた。「これはみんなつくりごとだというんですか?」 「わからないわ、そんなこと」と作家[#「作家」に傍線]はあっさりいい、ジャッキィ・マクリーンの One Step Beyond にあわせて首をふっていたが、「とにかくこれは小説だわ。小説って、あなたが事実ということばで考えているものに対して、あるパラドクシカルな関係をもつものなのよ。あなたは未紀さんがこの小説を、なにかを伝えるために書いたとおもうでしょうけれど、むしろなにかを隠すために書いたのかもしれないわ」 「そういえば」とぼくはぼくなりの安直な理解にもとづいていった。「このノートにはわざと書きおとしてあることが多すぎる。決定的な事実に関することは、なにひとつ書いてない」 「たとえばどういうこと?」 「たとえば、パパなる人物と未紀の関係ですよ。パパは未紀の母の昔の恋人らしいけれど、ひょっとすると、未紀のほんとの父親かもしれない。もしそうなら、これはみごとな近親相姦ですよ。ところがそういう|肝《かん》|腎《じん》の点になると、いつも|曖《あい》|昧《まい》にしてある。だいたい、これを書いていたときの未紀自身が、事実を知っていたかどうかもわからない。そうでしょう? もしも彼女がパパは自分の父だと知ったうえで、ここにあるようなことをやっていたとすると、こいつはすげえ近親相姦だ。ぼくらの場合の比じゃない」 「ぼくらって、あなたとLさんとのこと?」 「ああ。知ってるんでしょう?」 「知ってるわ」 「ほんとに? でもどうしてですか?」 「みればわかることよ。あなたとLさんはものをいわない恋人同士だったじゃない。けっしてものをいわなかったのはなぜなの?」 「おそろしい罪を犯したからですよ」とぼくは答に窮してふざけた調子でいった。「ぼくらはきょうだいでありながらあいしあっていたのです」 「そう。で、それは未紀さんの用語法でいえば……」と作家[#「作家」に傍線]はノートをめくりかえしながらいった。「漢字で愛していたの? 平仮名であいしあっていたの?」 「未紀にもおなじことをきかれましたね。両方ですよ」 「Lさんはあなたを漢字で愛していたのよ。そしていまもね。だからあなたに対してはことばを使わないのだわ、からだはあなたにまかせても」 「よくわからないな、その|理《り》|窟《くつ》」 「あなたに対してことばを自分のなかにとじこめてしまったのは、愛の電圧を高めるためなのよ。一種の充電作用だわ」 「そこで放電がおこれば、その稲妻がつまり、愛シテイルという叫びになる……」 「そうなの。でも、二つの存在のあいだに充分な距離があるときだけその稲妻は走るのよ。愛シテイルということばはきょうだいのあいだでは絶対にいえないことばだわ」 「ところがぼくはそれを口走ったんですよ、自分の姉にむかってね」 「それでわかったわ。その愛の雷に撃たれたときからLさんはあなたを漢字で愛しはじめたのよ。そしてあなたにはものをいわなくなったのよ。ことばにならないことばを蓄電して存在のエネルギーをたかめるとともに、あなたから距離をとろうとしたんだわ。いつか、愛の雷であなたを撃ち殺すために」 「その説明はわかるけど」とぼくはどこかなっとくできないものを感じながらいった。「逆にこんなふうにも考えられませんか。たしかにLはあれ以来ぼくに対してことばを使わなくなった。それは要するにことばが使えないからです。つまりことばが使えるだけの距離がぼくらのあいだにはなかったからですよ。ぼくらの関係は、ゾウリムシの接合みたいなものだ。遠くはなれた二つの性的存在が、精子を送ったり卵子をむかえにだしたりするような、儀式めいたことばのやりとりは不要だったんです。こんな種類の結合は、ぼくらにとってあまりにも自然なことだった、つまりからだで媾わるということは自然すぎて、なんでもないのだ。これは動物のレヴェル、いやむしろ植物的な、無性生殖的水準のできごとですよ。もしここでぼくらがことばを分泌していたら、それはまさにねばねばした分泌物としかいえないようなことばで、ぼくらはそのなかにとじこめられてとけてしまったことだろう」 「なぜあなたとLさんはそんなふうに接合した存在になったの? なぜことばも使えないほど近いところにいたの?」 「きょうだいだからですよ。いや、それがきょうだいということなんだ」 「そうかしら? たしかに、生まれるまえにおなじ胎内にいたとか、一方が他方の存在の根拠だったとか、つまりきょうだいとか親子といった関係は、出生以前に二つの存在を連結しちゃっている、ということはいえるわ。存在論的にね。でもあなたとLさんの場合は、主として、小さいときからいつもながめあいさわりあってくらしてきたことで距離を失ったんじゃないかしら? 存在的な意味でのきょうだい……いったいLさんはあなたのほんとのお姉さんなの?」  作家[#「作家」に傍線]はその独特のしかたでぼくをみつめ、ぼくの眼の窓から頭のなかまで視線のゾンデをさしいれてきた。ぼくは貧血をおこしそうだった。ぼくとLとがばばあ[#「ばばあ」に傍線]の生んだ子どもではなくてもらい子だということを以前教えてくれたのも作家[#「作家」に傍線]である。ばばあ[#「ばばあ」に傍線]もおじさん[#「おじさん」に傍線]も(かれらはぼくの法律上の親なのだが)ぼくがこの事実を知っていることを知っていない。ところで作家[#「作家」に傍線]は今度はぼくとLとがほんとうはきょうだいでないという事実をぼくに教えようというのか? 「なにか知ってるんですか?」  すると作家[#「作家」に傍線]は口をとじたまま首を振った。 「ぼくらは正真正銘のきょうだいなんだ。少くともぼくはこれまでそれを疑ったことはありませんね」 「ほとんど似てないみたいだけど」 「それは男と女のきょうだいだからですよ。足の形、手の形、耳の形、それに鼻の形なんか、双児のきょうだいよりもよく似ている……でもあなたはぼくにそんなことをほのめかして、どういうつもりなんです? もしぼくとLがほんとのきょうだいでなかったら、それが少しでもぼくの救いになるとでもいうんですかね」 「いいえ。あなたには救いなんかいらないでしょう。要するに、おふたりはきょうだいで、ある日突然からだがぶつかりあって、悲鳴をあげて、それ以後きょうだいでありながら漢字で愛しあおうとして、成功しない。ところが未紀さんの場合は」と作家[#「作家」に傍線]はふたたび未紀のノートにもどって|膝《ひざ》のうえにノートをひらいた。「あなたたちとはちがったこころみをやっているようね……ひょっとすると、Lさんも未紀さんみたいに秘密のノートを書いておなじこころみをやっているかもしれないけど、それはつまり、ことばを使って、架空の愛をつくること、ありえない、想像上の愛を……父と娘の近親相姦を聖化するにたる恋人同士の愛をね。未紀さんは小説家のすることを、その暗い関係のなかでやろうとしていたのよ。たとえば、このノートにはパパとベッドのなかで恋人同士のようにことばで|愛《あい》|撫《ぶ》しあったことが書いてあったでしょ、そんなふうに、パパとぐる[#「ぐる」に傍線]になって恋人同士を演じていたんじゃないかしら。少くとも彼女は自分だけでもそうしようとしたのよ、あのノートのなかで」 「すると未紀は、それからパパも、自分たちが父と娘であることを知っていてそうしていたということになりますか?」 「あたしはそうおもいますけどね」と作家[#「作家」に傍線]はいい、自分の髪に指をさしいれてちょっとかきみだした。「あ、すごい、フリー・ジャズ[#「フリー・ジャズ」に傍線]がはじまったわ」  オーネット・コールマンとエリック・ドルフィのダブル・クヮルテットの集団的即興演奏[#「集団的即興演奏」に傍線]で、作家[#「作家」に傍線]にいわせるとモダン・ジャズのレコードはこれ一枚あればいいそうだ。そんなわけで、作家[#「作家」に傍線]は目を閉じ耳だけをひらいて聴きいり、およそ二十分のあいだはぼくの話相手にならなかった。そしてフリー・ジャズ[#「フリー・ジャズ」に傍線]が終るとぐったりしたようすで未紀のノートに対する関心も失い、帰らなければいけないといった。黙ッテデテキタカラ、マイ・ハズバンド[#「マイ・ハズバンド」に傍線]ハ怒リト嫉妬トアタシガ二度ト帰ッテコナイノデハナイカトイウ不安デ気ガ狂イソウニナッテルワ。彼女は白い手をひらひらさせるとタクシイに乗りこんだ。  ぼくの関心は未紀とパパ[#「パパ」に傍線]とのことをはなれていた。関心は依然として残っていたが、正直なところ、それは一種の義務感のようなものにもとづいていた、といえるだろう。作家[#「作家」に傍線]と別れたあと、ぼくは夜の空を赤、白、金色の糸でジグザグに縫っているミシンの広告ネオンをみあげながら、未紀がほんとの父と近親相姦の血の汁をすすりあったところで、それがなんだというのだ、とおもったことは事実である。ぼくは口をひらきそうになる頭のなかの傷をすばやく無関心の糸でジグザグに縫いあわせ、道徳的感覚に麻酔注射をうち、ソンナコトニ大シタ意味ハナイネとつぶやいたわけだ。  きょうはいろんなことがあった。  まず午前中にアメタイ[#「アメタイ」に傍線]から電話があり、行ってみると、アナタノコミュニスト[#「コミュニスト」に傍線]トシテノ経験ニツイテ率直ニ語ッテモライタイというのだった。オソラクスベテハ調査ズミダトオモウガ、とぼくはいい、いかにも率直に、かれらの知りたがっていることをしゃべってやった。そしてアンポ[#「アンポ」に傍線]以後ぼくがいかにアンタイ・コミュニストで、いかにフリーダムを——このことばを、ぼくは最高の熱意と|敬《けい》|虔《けん》さをこめて発音した——愛する人間であったかを強調した。こういうことにはぼくはなんのこだわりももたない。自分でもぼくは申分ない程度に感傷的でない人間だとおもっている。アメタイ[#「アメタイ」に傍線]はぼくの話ぶりに好感をもったらしく、アナタノアメリカ[#「アメリカ」に傍線]入国ハホトンド確実ニ許可サレルデショウ、タダ手続ノ関係上若干遅レルカモシレマセンガ、といった。  そのあと、ぼくは未紀に電話をかけた。未紀はいなかった。電話にでてきたのは、太い声で口汚くしゃべる例のばあやである。 「未紀なら、いねえわよ」という調子だった。「パパが危篤だって、ゆうべから病院へ行ってるよ」  そして、午後六時ゴロザクロ[#「ザクロ」に傍線]ニイテクダサイ、連絡シマスという伝言があった。  このばあや(むしろばばあ[#「ばばあ」に傍線]とよびたいところだ)の話には二つばかりぼくの好奇心を|刺《し》|戟《げき》する点があった。そのひとつは、雇人がその家のお嬢さん[#「お嬢さん」に傍線]のことを未紀と呼び捨てにしたことである。これはばあやの非常識で粗野なことばづかいの一例にすぎないのかもしれないが、あるいは、彼女が未紀の家で古くからしめている特別の地位をしめすものともみられる。しかしいずれにしろこれは大した問題ではない。それよりも、ぼくはばあやが未紀の父のことをパパ[#「パパ」に傍線]とよんだことに驚いたのだった。最初このことばは、括弧つきのパパ、つまり未紀のノートのなかのパパ[#「パパ」に傍線]を意味しているように錯覚したほどだ。コノババアモアノノート[#「ノート」に傍線]ヲ盗ミ読ミシテ未紀ノ秘密ヲスッカリ知ッテイルノデハナイカ? だがこれはぼくの飛躍だった。彼女は未紀の父のこと、あの半身不随の病人だという父のことをいっていたのである。それにしても、このばあやが未紀の父をパパとよぶのは異様なことだった。未紀が日ごろ父をパパとよんでいたとすると、未紀の乳母(?)のような立場にいるばあやまでも、未紀と一体化してパパというよびかたを慣用することはありうる。だがぼくが未紀のノートからえがいた彼女の父は、田舎者の実業家で、子どもからパパとよばれるのに似つかわしい男ではない。なぜかぼくは、アンポ[#「アンポ」に傍線]のころぼくらのLICに資金を援助してくれたある中小企業のおやじの風貌を、未紀の父のそれに重ねてしまうのだ。その男は戦前のコミュニストで、型どおり転向し、いまは猛烈なアンタイ代々木[#「アンタイ代々木」に傍線]のヒューマニストであり、おそろしく純真な誇大妄想をいだいてぼくら若者[#「若者」に傍線](このことばをかれは好んだ)に期待をかけていた。うんざりするほどのヴァイタリティをもち、あくまで野卑で、要するに直立猿人をおもわせる人物だった。ぼくがこの人物に似せて未紀の父を想像していたのは、暗黙のうちにかれが未紀のほんとの父ではないことを仮定していたからかもしれない……ぼくははじめて未紀の家をたずねた日に、彼女の父に会っておくべきだった。そうすれば、きょうこのあとで知ったことをずっとまえに知ることができたのだ。  田村町にでるのに、ぼくは新橋まで行かないで虎ノ門で地下鉄をおりた。未紀のパパ[#「パパ」に傍線]のデンタル・クリニックが虎ノ門にあるということをおもいだしたからだった。ぼくはたちならぶビルをみあげながら新橋のほうへ歩いていった。ビルに切りとられた多角形の空は光を失い、鼠の皮を|剥《は》ぎひろげたような雲が群がっているのは珍しい夕立ちのまえぶれかもしれない。六時まえだった。この時刻、昼と夜の交替の時刻はいつもぼくを不安にする。笑うべき感傷だが、もっと適切にいえばぼくは裸の子どもになって叫びながらひとごみのなかにかけこみたくなるようなさびしさを感じるのだ。ぼくのように現在のなかでだけ生きている人間には、時の流れが干満交替時の潮流のように速くなるこの時刻は耐えがたいものである。ぼくは新橋駅前のビアホールにはいった。  なかは満員だった。ほとんど七十五ホンはある騒音のなかをかきわけていくと、二階の隅のほうに岩田と、ほかにもLIC以来の仲間たちが三人、長靴ほどありそうな大ジョッキをならべているのがみえた。この偶然はたちまちぼくを鬱状態から|躁《そう》状態に転換した。ぼくは手をあげて近づき、かれらも奇声をあげた。そしてヴィザの件をきかれたのでけさのアメタイ[#「アメタイ」に傍線]での審問[#「審問」に傍線]のようすをシニカルに再現してみんなを笑わせ、けっきょくヴィザはまもなくおりるだろうという点で意見が一致して、ぼくらは大いに飲んだ。みんな大学院に残っている連中だが、あいかわらず金もうけのほうは順調にいっているらしく、まあ御同慶の至りである。ぼくの歓送会は公式非公式をふくめて何度も、盛大にやろうとかれらはいい、ぼくも賛成だった。  ビアホールをでて仲間と別れたとき、すでに七時をすぎていた。|酩《めい》|酊《てい》したぼくはビアホールに鳴りひびいていたブルース・マーチ[#「ブルース・マーチ」に傍線]にあわせて行進をつづけ、ざくろ[#「ざくろ」に傍線]の階段をおりた。店内には数人の客がいた。レジスターには四十すぎの優雅な和服の女がおり、一瞬ぼくはそれが未紀の母のようにみえた。もちろん別人である。ぼくは名前をいって未紀からの伝言がないかどうかをたずねたが、ないとのことだった。壁ぎわの席に坐ろうとしたとき、横の席で熱帯魚の|水《すい》|槽《そう》に頭をもたせかけていた若い女がハイル・ヒトラーの挙手みたいに勢よく腕をあげてぼくに合図し、 「**さんじゃありません?」とぼくの名をいった。 「そうです」  この女のことをおもいだすために、ぼくはずいぶん時間をかけて、女のまっかな爪や火の色に塗られた唇などをみつめ、やっと彼女をどこかでみたことがあるような気がしてきたとき、相手はきざな手つきで名刺をさしだしたので、ぼくは懸賞相撲に勝った力士がやるように、手刀を切ってからうけとってやった。これで笑わなかったところをみると、この女はかなりの鈍物である。名刺には、**社出版部、増田みさを。Mである! 未紀のノートに登場していたMである。 「おひさしぶり」とMはいった。「おぼえていらっしゃらないかしら?」 「どこかでお会いしたようなお顔だけど」とぼくは無遠慮にいった。「おもいだせませんねえ。女子大でた女のひとによくあるお顔だから、どこかでみたというのもおもいちがいかもしれないな。でも、お会いするのははじめてだとしても、あなたのことは未紀をつうじていろいろ知っていますよ」  この仏文科を卒業した若い編集者は、いまや喫茶店の女の子が好んでするように、逆毛をたてて驚異的に髪をふくらませ、長い爪には血の色にマニキュアをほどこし、トルコ石のイヤリングと木彫のペンダント、それに黄金色のブレスレットといった装飾品で暑苦しいほど煩雑かつ不調和に武装していた。ノー・スリーヴのインカ調のブラウスからむきだされた腕は妙に|猥《わい》|褻《せつ》な感じだったし、ぴったりと|太《ふと》|腿《もも》をしめつけている白いスラックスに浮きでたパンティの線が目につくと、ぼくはほとんど怒りをおぼえたほどだ。そこで眼を彼女の手にうつしたが、すると肉づきのいい若い女の手はにわかにうごめきはじめ、指と指をからませたり、指を反らせたりするのだった。  彼女の説明によると、ぼくは三年ほどまえに一度、作家[#「作家」に傍線]をたずねてきた彼女と会ったことがあるそうだ。彼女はそのころ大学の同人雑誌に関係していたので、大学祭の講演を作家[#「作家」に傍線]にたのみにきたが、ことわられたというのだった。そういわれるとぼくもおもいだしたが、そんなことはどうでもいいことだ。 「しかしすごい記憶力ですね」 「記憶だけであなたに声をかけたんじゃないわ。じつはあたし、未紀さんにたのまれて一時間ほどまえからあなたをお待ちしてたの」 「それじゃずいぶんお待たせしたことになるな。すみません。で、未紀はなんといってました?」 「あなたって、すごくセイキ[#「セイキ」に傍線]にあふれてるって感じね」とMは生意気な調子ではぐらかした。生気? 精気? ぼくは自分が皮を剥がれた蛇みたいに生臭い精気を放っているのか、とおもわずハンカチをだして汗の粒をふきとった。 「それをいうなら、サイキといってもらいたいな」 「未紀は」とMは今度は勝手に用件にかえり、「当分お会いできないんですって」 「そう」ぼくはいくぶんむっとしていった。「いまどこの病院にいるんですか?」 「あたしにもいわなかったの。とにかく、しばらくのあいだだれとも会いたくないんですって」 「きょう、ここへわざわざきてくださったのはぼくにそれだけのことを伝えるためですか?」 「あなたに対する興味もあったわ」 「なぜ?」 「理由って、ないわ」 「どんなことが知りたいの? なんでも質問していいですよ」 「計数工学ですってね」 「ああ。電子計算機をいじって遊んでるんです」 「未紀とはいつごろからお知合いなの?」 「大昔ですよ」 「大昔って?」 「大昔ですよ。未紀とはまあ、きょうだいみたいな仲ですね。いまは婚約してるけど」  Mははっきりとはうなずきもしないで、赤い爪に歯でやすりをかけるしぐさをしていた。突然ぼくは未紀のノートの一節をおもいだした。Mの入学した大学の仏文科の老教授が新入生歓迎会である女子学生にワインを口うつしに飲ませたとき、この不謹慎な事件に憤慨して、というよりくやしまぎれに、グラスを投げつけた女子学生がいた話を、Mは未紀にしたそうだが、この逆上した女子学生とはM自身にちがいないとおもったのである。 「なにを笑ってらっしゃるの?」 「いや、未紀からきいていたあなたと、実際のあなたとではいろいろ食いちがいがあって、それがおかしかったんです」 「たとえばどんなこと?」 「今度はぼくが質問する番ですがね」 「じゃ、どうぞ」とMは椅子にもたれかかってタバコをはさんだ指を顔のまえにかざした。 「あなたと未紀とはレスビアンの関係でしたか?」 「そういう御質問にはお答えできないわ」とMは顔を堅くしたが、レスビアンの関係[#「レスビアンの関係」に傍線]ということがよくわからなかったようすだった。 「あなたは高校のころ、土曜日にはいつも未紀のうちへ泊りに行ってたでしょう?」 「いつもというわけでもないわ。ときどきね」 「そのころ、あなたはヒップにとどくくらい髪を長くしてましたね」 「どうしてごぞんじなの?」 「いまはあまり長くないようだけど、なぜ切ったの?」 「なぜって、大学にはいって活動的な生活をするようになると邪魔くさいからよ」 「未紀はそのことでなんといってましたか?」 「そのことって?」 「髪を切ったことについてですよ」 「ベつに。多少は残念がっていたけど」 「未紀とはいっしょにねたことがありますか?」 「そんなことをきいてどうなさるつもりなの?……ええ、それは、ありましたけど」 「いっしょにねて、どんなことをしたんですか?」 「想像力の鈍いかたね」 「ぼくは婚約者として未紀の過去を残らず洗いだしてみる権利がある。というよりこれは未紀自身の記憶|恢《かい》|復《ふく》とリハビリテーションのためなのです。それであなたにも協力していただきたいんです」とぼくは調子よくつづけた。本心はといえば、ぼくは、この女子大出身の無知かつ無恥の典型であるM、未紀のノートのMのイメージをこんなにも裏切っているMを、充分なぶってやる気になっていたのである。「……未紀はその過去に、なにか絶対におもいだしたくないものをもっているんです。未紀の記憶喪失は器質性だというが、それにしても未紀が過去の一部を忘れているということは、それをおもいだしたくないからだ。そういう存在のしかたを選んでいることに意味がある。この意味を未紀自身が了解しなければ過去は未紀のなかにかえってこない。そこでぼくはこの治療を手伝うためにも、あの事故以前の未紀について知りたいんです。ぼくは、ひょっとするとあなたもある非常に重要な役割をはたしていたかもしれないと一応考えてみたわけです」  Mはややぎごちなくタバコをすいながらきいていた。 「でも、未紀とあたしとの関係は、いわゆる同性愛とはちがうわ。未紀はたしかに変ってるけど、変質的なところはないし、あたしだって女としては完全にノーマルだとおもうわ……あたし、恋人だっているのよ」  ぼくはにわかに熱心な顔をしてききただし、とうとうその相手というのがかなり有名な左翼系の文芸批評家であることをつきとめた。Mはあくまで名前だけは白状しなかったが、ぼくには簡単に見当がついた。二、三年まえに代々木[#「代々木」に傍線]から追いだされ、いまでは代々木[#「代々木」に傍線]にむかってキャンキャン吠えることと古典的コミュニズムのくだらない修正とに存在理由をみいだしている戦中派の男である。**デショウ、といきなりぼくはいってやった。Mはあきらかにうろたえたが首をふった。チガウカナア、オカシイナア……デモ**トイウノハ最低ノバカデスヨ、アイツハイマデコソデカイツラシテ代々木[#「代々木」に傍線]ノ悪口ヲ吐キチラシテルケド、除名サレタ当座ハ女房トイッショニ本部ヘ行ッテ、泣イテ許シヲ乞ウタソウデスヨ。Mは黙っていた。まるでいっぱいになった|膀《ぼう》|胱《こう》をかかえて必死でがまんしているようだった。 「まあ、あなたのプライヴァシイはもっと仲良しになってからみせていただくとして」とぼくはにこやかにいった。「未紀のことに話をもどしましょう。じつは彼女はぼくに対して冷感症なんです」  もちろんこれはでまかせで、第一ぼくはまだ未紀とはあいしあったこともないのだが、もし近い将来あいしあうことがあっても、それはおそらく、冷感症的というよりもっとふしぎな、植物的な媾わりになるだろうという予感がぼくにはあった。ぼくはそらぞらしくつづけた。 「この原因を知りたいのです。そのなかに記憶喪失の秘密もひそんでいるような気がしてならない。同性愛的な経験がそれと無関係だとすると……あなたにはほかになにかおもいあたることはありませんか?」 「かくべつないわ、あたし、未紀とはそれほどふかいおつきあいしてたわけじゃありませんから」 「そうですか。でも未紀はあなたには女同士でしか話せないようなことまで、なんでもうちあけていたんじゃないかな。第一、あなたがはじめて未紀に会った日、あなたは血を流していたんでしょう?」  このことばでMの顔の皮は見苦しくめくれあがったようである。ぼくはあのノートのなかで未紀がMについて書いている部分は、ほぼ事実のとおりにちがいないと感じていた。そこでますますこの確信をつよめながらいってやった。 「未紀によると、あなたは|菩《ぼ》|薩《さつ》|像《ぞう》の足に似た形の足をもっている。もっともいまは紫色のパンプス|胝《だこ》ができているかもしれないけど。一度みせてもらいたいものだ。そしてからだにはほとんど毛がなくて全身純白だそうだ。未紀はあなたのことをそこまで知っているんです。あなただって未紀のことをすみずみまで知ってるでしょう? 盲腸の手術のあとがあるとか」 「あのひとに盲腸の傷跡なんかないわ」とMはひどくきまじめにいったので、ぼくはおもわず顔をゆるめそうになった。「いったいあなたはなにを知りたいというの? いやらしいかたね」 「どうもわれわれのあいだでは話が猥雑になりますね。それでは話題を少し変えましょう。未紀ははじめて男とねたとき、あなたにそれをうちあけましたか? たぶんそれは、あなたと未紀が大学にはいった年の四月ごろだとおもいますが」 「ええ、きいたわ」 「どんなふうにいってたの?」 「あまり詳しくはおぼえてないわ。たしか、その相手のひと、歯医者さんだって、いってたわ。四十すぎの……車をもっていて……アルファ・ロメオだったかしら、とにかく未紀はその車でドライヴして、ホテルのバアでお酒を飲んで、そのままベッドへ……そんなふうにいってたわ」 「その紳士をみたことはないんですか?」 「未紀の話をきいただけよ。どこまでほんとなのか信用できないわ」 「パパの名前は?」 「パパって?」 「その相手のことですよ。未紀はパパとよんでいたでしょう?」 「そうかしら。でも名前は知らないわ。大して興味のないことでしたから」 「あなたはくやしいのでききたくなかったんだ。だからよくきいてなかったしよくおぼえていないんだ。困ったひとだ。ほかにパパについて知っていることはありませんか?」 「パパって、その歯医者さんのことでしょ?あたしの感じでは、そうね……」  そのときぼくは、アンタノ感ジナンテチットモアテニナラナイジャナイカ、と毒づこうとしたが、おもいとどまった。そのおかげで貴重な情報を手にいれることができたのだ。Mの感じでは、パパなる人物は長身の魅力的なプレイボーイ・タイプの男にちがいないというのだが、ここまではなんの価値もない感想である。それにしても、Mの表現能力の貧しさは驚くべきもので、ぼくをいらだたせた。彼女はおよそぼくの想像力を酔わせるようなことばを使わず、抽象的な、というよりどこか少しずつ意味のたりないことばやプレイボーイ・タイプ[#「プレイボーイ・タイプ」に傍線]といった紋切型、キャッチフレーズのたぐいを、めんどうくさそうにならべるだけだった。そこで彼女の要約にしたがえば未紀とパパのあいだにおこった事件は、小悪魔的な少女と中年のプレイボーイとの情事[#「小悪魔的な少女と中年のプレイボーイとの情事」に傍線]といったうんざりするようなレッテルを|貼《は》られて分類されてしまうのだが、そのあと彼女は無造作にこうつけくわえたのである。 「未紀って、中年のそういうタイプの男のひとが好きなのね、未紀のパパみたいな」 「パパって、未紀のお父さんのこと?」 「そうよ。未紀のパパってすてきなひとだったわ。|癌《がん》でもう明日にでも息をひきとるかもしれないけど」 「ちょっと待ってくれ」ぼくは両手をつきだすようにしていった。「だいぶ話が食いちがっている。いま死にかけている未紀のお父さんは——ぼくはまだ一度も会ったことがないけど、癌なんだね。|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》じゃなくて」 「癌よ。脳溢血って年じゃないわ。たしか、まだ四十四、五なんですもの。それに、ぶくぶくふとって高血圧ってタイプでもないわよ。とても若くみえるひとよ。あたし、はじめてお会いしたとき、三十五、六かとおもったほどよ」 「ロッサノ・ブラッツィみたいな感じじゃないですか?」 「ロッサノ・ブラッツィ……そうね、もっとハードボイルドな感じのスポーツマンね。ゴルフもお上手だったらしいけど、それよりヨットが好きで、どこかの選手もやってらしたようよ」 「そいつはまるきりパパ[#「パパ」に傍線]じゃないか!」とぼくは声をたかめたが、Mは理解しなかったので愚鈍に眉をひきあげた。 「それ、どういうこと?」 「未紀のお父さんと、未紀がねたという相手とがよく似ているということさ」 「そういえばそうかもしれないわね。未紀の相手のひとって、みたことがないけど」 「未紀はその男のことをなぜパパとよんでいたんだろう?」 「自分のパパくらいのひとで、パパと共通点も多かったからでしょう? それにある種の女の子は年上の男をそんなふうによびたがるんじゃない?」 「あんたはどうなの?」 「パパなんてよばないわ、子どもや商売女じゃあるまいし。ちょっと失礼するわ」  Mはバッグからコンパクトをとりだした。そしてぼくの無礼な話しかたのおかげで生じた顔のひびわれを塗りつぶそうと、鏡のなかの自分を点検しながら、笑うときのように口を横にひきのばしたり唇をめくりあげたりしては大胆な手つきで唇をあざやかな色に塗りなおし、二、三度大げさにまばたきした。ぼくは猿の自慰行為でもみるような眼でそれをみつめていた。そのぼくの眼に気づいたとき(じつはぼくにみられていることは充分承知していたのだろうが)、Mは誘惑に成功した雌犬の顔で笑った。そこでぼくも純粋に雌の動物をみる目つきをたもったまま、ねないかときりだしたのだった。Mは承諾のしるしに黙っていた。テーブルの下でぼくは脚をのばして彼女の膝の内側にさわってみてそれをたしかめた。  その夜、もちろんぼくはMとねたが、書いておくべきことはほとんどない。けっして美しくなくはないのに奇妙に特徴のない彼女の顔(それは女が濃い化粧をおとしたときにみせる白々しい顔とおなじ性質のものだ)がもうおもいだせないように、彼女とあいしあった記憶ももう拡散してしまった。Mはぼくの陽に|灼《や》けた胸やつよい筋肉の束に包まれた脚その他をほめるために紋切型をいくつかならべたが、それはまるで採点のあとで講評する女の教師のような調子であり、また彼女はその中年の愛人の衰えたからだとぼくのからだとを比較したが、それは比較解剖学の講義といったおもむきがあった。そしてこの鈍感な女は、型どおり、愉シクシテ、と熱心にのぞむくせに、いざとなるとそのことにすこぶる不熱心だった。ただひとつだけ、彼女がぼくとねることに新しい本を読むのとおなじ種類の好奇心をもっていたことは確実である。たぶん彼女はその理由で男とねるのだろう。ぼくはなげやりな歯科医が患者の口をあけさせるようにして彼女のからだをひらかせ、注射をうち、眠った。      ㈿  この数日、未紀からの連絡はとだえていた。そのあいだにぼくのほうからは一度しか電話しなかった。そのときはばあやの|甥《おい》らしい少年の声で、未紀がまだ病院にいることを知らされたが、それは未紀のパパ[#「パパ」に傍線]がまだ死んでいなかったことを意味する。未紀は死んでいくパパ[#「パパ」に傍線]をみまもっているのだろう。このことについてはこれ以上想像力を働かせる気がおこらなかったので、ぼくは未紀を頭から払いのけて数日をすごしたのである。そんなぼくの状態は、いわば|蜘《く》|蛛《も》のいない蜘蛛の巣だった。未紀のパパに関するぼくの仮説もテストされないまま残っていた。  けっきょくぼくは未紀のことを考えずにすごせるほど忙しかったのだ、ともいえる。この|間《かん》にぼくは岩田たちとほとんど毎晩飲んでいたし、本を作家[#「作家」に傍線]のところに運んであずけたり、冷蔵庫その他を売り払ったり、渡米用のトランクを買いこんだりして、ヴィザがおり次第いつでも出発できるように準備をすすめていた。またこの間に、執行猶予つきでくらっていた懲役八カ月の、その執行猶予の期限も切れた。あとはヴィザを待つばかりだった。  そんなわけでぼくの書きはじめたノートも中断されたままだったが、じつをいえば忙しさのほかに、ぼくはこれを書くことに抵抗をおぼえはじめていたのだ。その理由は簡明だとおもう。ぼくがこれを書くことは未紀に対するぼくの態度を決定することなのだが、ぼくはその決定をできるだけひきのばしたかったのである。ぼくのかわりにアメタイ[#「アメタイ」に傍線]が決定してくれるだろう、とぼくは考えた。ヴィザがおりなかった場合には、ぼくは未紀の引力に身をまかせるだろう。ヴィザがおりた場合には、ぼくは自分の意志を発動する余地もなく未紀の引力圏外に脱出するだろう……この決定方式を作家[#「作家」に傍線]は|卑怯《ひきょう》だと評したが、ぼくはそうはおもわない。決定をおこなうには、状況と条件を理解することが必要だ。そのうえで問題を解いて最適解[#「最適解」に傍線]をもとめるのがぼくのやりかただった。というよりこれが通常の男の行動原理、あるいはむしろ行動しないという原理なのである。女はこれを卑怯の原理だと非難するが、それは、男は女のために蛮勇を発揮すべきだという虫のいい価値基準にもとづいている。モシアナタガホントニアタシヲ愛シテイタラ、と女はいう、スベテヲ棄テテアタシヲ選ブハズダワ。そしてこの原理を疑う男を女は卑怯だと定義する。だが、ホントニ愛シテイタラと云う条件そのものがじつはこれから決定されるべきことに属するのだ。体内に心臓があるようなありかたで愛というものがあるわけではない。女をえらぶという行動があるだけで、しかもそれは愛を証明するものでもなんでもないが、女は少くともそれを愛の証拠と信じるわけである。 「けっきょく、あなたは未紀さんを愛してるの?」と作家[#「作家」に傍線]は何度でもぼくにたずねた。そしてぼくはそのたびに愛していると答えておいたが、それは挨拶の一種としてにすぎない。愛しているかどうかという状態[#「状態」に傍線]に関する問いは意味をなさないというのがぼくの考えだったから。むしろこう答えるのが正確だとおもう。 「ええ、ぼくは未紀のことをおもっていますよ」  つまりぼくは意識を未紀にむけている。あるいは、ぼくは未紀にかかわって存在している。  ぼくがようやく未紀に電話をかけてみたのは、未紀の父の葬儀の日だった。もちろんぼくは未紀の父の死を知らなかったし、電話をかけたのはホテルのプールからで、ぼくのそばには黄色い水着の胸をふくらませてコーラを飲んでいるMがいた。Mからの誘いで、ぼくらはこのあとMのアパート(彼女は日本橋の家をでて自分のアパートを借りていた)へ行く予定だったが、Mは式に参列するためにすぐ日本橋の家に帰った。プールサイドに残ったぼくは、もう泳ぐ気もなくなり、午後のだるい熱気がからだの表面を|融《と》かすにまかせていた。融けはじめていたのはぼくの現在[#「現在」に傍線]である。永遠の夏[#「永遠の夏」に傍線]はひびわれて、白骨のような未来[#「未来」に傍線]がのぞきはじめた。それはひとりの人間の死がもたらしたありふれた感慨にすぎなかったかもしれないが……椅子にもたれたままぼくはしばらく眠ってしまったらしい。太陽はそのあいだに快速船のように大きく移動していた。からだはすっかり乾いて、焼きあげられたクラッカーのようだった。  ぼくがそのあと未紀の家に行ってみたのは葬儀に出席するためではない。いわば見物に立ち寄ったようなものだった。玄関や、テラスのある庭に大勢の人間がみえた。それは黒い園遊会[#「黒い園遊会」に傍線]といったところだった。ぼくは家のまえをとおりすぎようとしたが、そのとき玄関にでてきた未紀をみたのである。黒い着物を着ていた。その優雅な姿はぼくを驚かせた。|哀《かな》しみの衣をまとって立っているこのほっそりしたカリアティードの、とくにほそい首とそれにささえられた重たい髪(かつらだったかもしれない)がぼくの眼を吸いとった。それはいままでみたこともない女[#「女」に傍線]だった。彼女のためにぼくはことばをさがした。たとえば、|冥《めい》|府《ふ》からあらわれた東洋風の女神……未紀は顔をあげたとき門の外に立っていたぼくをみとめたかもしれない。だがぼくはとっさに背をむけて歩みさった。  きょう、ぼくは未紀に電話した。未紀はいた。いつもとちがって、声にふしぎなひびきがあった。哀しみのふかい井戸からきこえてくる声のようだった。ぼくはなぜか、もう未紀がぼくに会うことをのぞんでいないような気がしたので、わざと忙しそうな調子をだしてこちらから電話を切ったのち、すぐ未紀の家へ行った。未紀は当然ぼくがやってくるものとおもっていたかのように、やさしく平静にぼくを迎えた。あの葬儀の日からすでに五日たっていたので、家のなかには死者や儀式のなごりはなかった。ただ空虚が、|洞《どう》|窟《くつ》に|棲《す》む|蝙《こう》|蝠《もり》のように天井にはりついていた。そしておなじものが未紀のなかを飛びかっているのではないかとぼくはおもった。  未紀はぼくのまえに顔をふせて坐っていた。ぼくにはことばがみつからず、ことばのない空間をルームクーラーの音が震わせていた。ふいに未紀は顔をあげたが、それはぼくを凍らせるような白い仮面でも絶望の暗い傷口をもった顔でもなく、恋心をいだいている少女が相手の青年のまえでやっと心をきめて顔をあげたとでもいうような、おもいつめた告白のけはいとはにかみにみちていた。ぼくには理解しかねることだった。たぶんぼくの頭は困惑にみたされていたのだろう、そのためにぼくは未紀の口からでた最初のことばをあやうくききのがすところだった。 「あたし、パパに会いました」  いつ、どこで、そしてどうしたのか、という愚かしい質問の系列を舌で抑えてぼくはただうなずいた。それから自分でもおもいがけない発見をそのまま口にだしてしまったのだ。 「それで、すべてをおもいだしたんでしょう?」  今度は未紀がうなずいた。突然その眼に涙があふれた。一度あふれると、もうとめどがなかった。ぼくは困惑でこわばって、考える人[#「考える人」に傍線]のような姿勢をとったままテーブルをみつめていた。これは男が女の不可解な涙のまえでは手も足もでなくなるという、典型的な場合だったとおもうが、こんなとき男は、女がある|形而上《けいじじょう》学的な暗黒におちこんで泣いているかのような錯覚に固執したがるものだ。しかし多くの場合、女はじつにつまらない理由から泣いているにすぎないし、涙を流すことは甘い愉楽でさえあるのだ。ぼくは未紀の場合についてもそう考えるべきだったかもしれない。だがぼくには未紀の涙は青天から星が|墜《お》ちてきたような驚きだった。いつからかぼくは未紀は涙をみせたりしない女だと仮定していたのである。  こうして時がたち、部屋のなかは暗くなったので、ぼくは立って灯をつけた。光を浴びて未紀はぼくに笑いかけた。 「おなかがへったわ」  そこでぼくも安心して笑い、未紀の希望で六本木にでてアントニオ[#「アントニオ」に傍線]のイタリア料理を食べた。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]をでたのは九時すぎだった。ぼくたちは青山の電車通りまで歩いた。未紀は上機嫌だった。もちろんそれはぼくには不可解なものだったが、ぼくも調子をあわせて上機嫌になり、握りあった手をぶらんこのように振ったりしながら人通りのたえた道を歩いていった。ぼくたちは十代の恋人同士のようだった。 「走りましょうか」と未紀はいい、ぼくの手をふりほどいて走りはじめた。すぐ息を切らしたらしい未紀をぼくはうしろからつかまえた。 「ぼくたちがはじめて会ってエスキモー[#「エスキモー」に傍線]たちといっしょに横浜へ行ったとき」とぼくは急におもいだしたことを口にした。「例のクレイジイ・パーティのあと、みんなが眠ってしまってから、二人で海べりを走ったことがあった。おぼえてるかい?」  未紀は口をとじたまま微笑した。  あのとき、海ぞいのアスファルトの路上をぼくたちは全速力で走っていた。足に吸いつく地球を|蹴《け》りつけて逃げるために、口からは恐怖を吐きだしながら。とにかくぼくたちは人気のない夜の競技場で練習する短距離走者なみのスピードで走った。こわかった。ぼくは未紀がこわかったし、未紀は未紀で、ぼくの横を|箒《ほうき》にまたがって滑走する魔女のような信じがたいスピードで走りながらなにかをおそれていたのだ。おそらくそれはぼくたちの首筋に息をふきかけながら大時代に髪をふりみだして追っかけてくる死神のようなものだったにちがいない。眉のない、のっぺらぼうの卵みたいな顔をした性別不明年齢不詳の死神がたしかにあのときぼくのすぐうしろにいたし、いまも書いているぼくの肩越しにかれはすべてをみているのだ。ふりかえってはいけない。ぼくは息を切らして書きつづけよう。あの夜も息を切らしてぼくは走った。どちらか半歩でもおくれをとったほうが死神の|籤《くじ》にあたって夜にひらいた口のなかへ、銀のフォークのような手でひきずりこまれるにちがいないとおもった。だからぼくは恐怖のあまり膝をタラバガニの脚みたいに堅くして走ったが、未紀は風のなかでその髪のたてがみを|曳《ひ》いてライオンのようなしなやかさで走り、ぼくを追いぬきそうな速さだった(彼女が一〇〇メートルを十二秒台で走るランナーであることはのちに知った)。夜明けの近い海がその毛ばだった顔で目をさますまえにぼくたちは階段をのぼって部屋にかえった……  そのときのように、ぼくたちは階段をのぼった。未紀がバスルームにはいっているあいだ、ぼくは未紀がとりもどした記憶について、とりわけあのパパ[#「パパ」に傍線]とのことについて、どんなふうにたずねるべきかを考えていた。ちょうど長いあいだ傷口をおおっていた|繃《ほう》|帯《たい》をといてやるようなもので、下手をすると未紀を痛がらせ、ふたたび傷口をひらいて出血させることにもなりかねないとぼくはおもった。  突然(といってもぼくはノックの音に気づかなかっただけなのかもしれない)頭に手拭をかぶったばあやがはいってきた。 「あんた、今夜泊っていぐ[#「いぐ」に傍線]?」  悪意に近い好奇心からか、したしみのつもりなのか、彼女はいきなりこんなことをいうと、ぼくの顔をみつめ冷たいレモン・スカッシュを二つテーブルにおいた。まるで連れこみ宿の女中といった感じだった。そしてぼくの返事を待たずに、 「泊るなら隣の部屋にベッドを用意しておくから」といった。「パパの部屋だったけどな」  ここでぼくは、このオランウータンじみたばあやに未紀のことをきいてみるべきだったかもしれない。未紀と、そのパパとのことを。げんにぼくはばあやに二こと三ことことばをかけた。しかしこの種の|狷《けん》|介《かい》な老人のつねで、この女は他人の話をほとんど耳にいれようとせず、そのかわりにどなりつけるような大声でぐちをならベ、要するにすべてをひとりごとの形でしゃべりたてるのだった。ぼくはばあやがカーテンをひきながらしゃべりつづけているひとりごとをきいた。未紀の父は膀胱癌で死んだのだった! 罰ガアタッタンダヨ、アイツハ、サンザンワルイコトヲシテキタカラナ、マッタク、アレハ自業自得トイウモンダヨ、自分ノ娘ト、畜生ミタイナコトヲシテ……それにつづいてこのばあやが口走ったことはほとんどひとつのことのくりかえしで、ひどくききとりにくいお経に似ていた。じっさいにばあやはその塩辛い口のなかでお経を唱えていたのかもしれない。彼女はある宗教団体の熱心な信者だったから。だがいずれにしても、そのことばはけっして目的もなしに口走られたひとりごとではなかった。ことばはひとつひとつ|杭《くい》のようにぼくのまわりにうちこまれ、ぼくを|檻《おり》のなかにとじこめた。その効果の的確さにぼくは圧倒された。このばあやはただの無知な田舎の老婆ではなかった。表現はあまりにも整然としており、いくつかの観念的なことばにまじって、近親相姦[#「近親相姦」に傍線]ということばまで使われた。彼女の論告は未紀を母親殺しときめつけていた。こうしたことをばあやは正義の守護者たる検事のようにではなく、泥水を|泡《あわ》|立《だ》てるようなひとりごとの調子でしゃべると、ぼくの反応にはなんの注意も払わず、猿のように長い腕をぶらぶらさせてでていった。ぼくは|麻《ま》|痺《ひ》していた。 「あなたもお風呂にはいってらっしったら?」  未紀の、妻が夫にいうような声におされてぼくは浴室へ行った。シャワーの調節を誤って熱湯を頭にかぶったとき、はじめてふかい麻痺からさめた。停電していたぼくの眼に灯がついた。しかし世界中から意味が消えていた。明るい光のなかでは湯が無意味にほとばしっており、近親相姦も|石《せっ》|鹸《けん》も、タオルも抜けた|腋《わき》|毛《げ》も、すべてそこに存在していた。  それからどれだけか時間がたって、ぼくは暗い牛の舌に似た夜の熱気のなかを歩いていた。異様ななまあたたかさがこめかみをしめつけた。ぼくは夜の鯨のなかにのみこまれたヨナだった。ぼくの時[#「時」に傍線]は血のように流れる時[#「時」に傍線]ではなく、夜の怪物の臓器をつくる筋肉の輪になって、ぼくを強力に捕獲していた。その証拠に、ぼくはどこまで歩いてもこの生ゴム状の時間の腸からぬけだすことができなかった。なにを考えていたか? 考えることが多すぎたので、ほとんどなにも考えないのに似ていたとおもう。ぼくは未紀のことを考えていたのではなかった。Lがぼくの頭にとびこんできた。ぼくはくらやみのなかで突然太陽にであったかのように、Lをみたのである。その瞬間に近親相姦ということばが音楽となって鳴りひびき、同時にそれは純金のように物質化した。このLの想像的な出現はあまりにも生き生きとしており、それがもたらした苦痛はたえがたいものだった。ぼくは痛みをとるために、愛シテイルという|呪《じゅ》|文《もん》を叫んだほどだ。しかしLは消えなかった。彼女はぼくの頭の壁の黒に、血の色で塗りつけられ、金色の輪郭でふちどられていた。その奇怪な性の口から太陽のようなものをみせて。  スペイン語で火[#「火」に傍線]のことをなんというか? フューゴとかなんとかいうだろう。とにかくぼくがいきあたりばったりにはいったバアがそういう名前だった、イニシアルのFの字が厚い木の扉のうえで|髭《ひげ》のように燃えあがっていた。某左翼作家の息子だというやけにすごみのある遊び人がカウンターの奥におり、この狭いバアのなかではむりやり檻のなかにおしこめられたとびきり大きい虎のようにみえるプロ野球の選手たちもきていた。ぼくがブランデーを飲んでいると、隣にきて坐った女の子がそのことを教えてくれた。トコロデ、オタクモ運動選手ジャナイ? イイカラダヲシテラッシャルカラ。ジャイアンツ[#「ジャイアンツ」に傍線]ノ二軍ニアナタニ似タ選手ガイタヨウヨ。そこでいってやった、ボクハオリンピック[#「オリンピック」に傍線]ノ候補選手ニナッテルンダ。短距離デ。コノアイダノ全日本陸上デ一〇秒二ノ日本新記録ヲダシタヨ。シカシ今度ノ全日本学生デ一〇〇メートル[#「メートル」に傍線]ヲ九秒台デ走ッテカラ引退スルヨ、オリンピック[#「オリンピック」に傍線]デ金メダルヲトルコトヲ期待シテル日本人ヲ裏切ッテ……女の子は無意味に腕をからませてしなだれかかり、ぼくは卵形のバアテンダーにむかってジャン=ポール・ベルモンド風のしかめっつらをしてみせ、それから際限もないばか話をつづけながら飲みつづけ、そのあいだに地球は何度も自転したかのようだった。そして外にでると依然として夜だ。時計をみたが、針は読めなかった、なにしろぼくの時計は腐った|杏《あんず》みたいに融けていたのだ。それでもぼくは一見しっかりした足どりで夜の街をかきわけてすすみ、あのLがいるというモンク[#「モンク」に傍線]を避けながら|執《しつ》|拗《よう》にモンク[#「モンク」に傍線]をめざしていた。ぼくの頭のなかで明滅する充血した街の灯。そして奇怪な一軒のコーヒー店。  そのコーヒー店は、みたところ|猥《わい》|雑《ざつ》をきわめた街の生活の集積のあいだからこちらをにらんでいる邪悪な眼の球に似ていた。黒ずんだ木ぎれをよせあつめてできあがった鳥籠のように小さい店で、その名は知らない。狭い扉を肩で押してわりこもうとすると、女の手が扉をひいて「いらっしゃいませ」。ぼくは|梯《はし》|子《ご》|段《だん》の下の椅子に腰をおろした。このほかに、椅子は数個。うすくらがりのなかで、一組の男女がその唇の動きだけで語りあっていた。やさしい女の字体でこまごまと書きこまれたメニュー。縦横にからみあった繊維のあいだに数千年の年月が|埃《ほこり》となってとどまり、あるいは色変りした血の跡をおもわせるほど|手《て》|垢《あか》がついた、パピルスのような紙質で、そのうえの文字をようやくぼくは判読することができた。カフェ・オ・レー、カフェ・ノアール、ラシアン・コーヒー、ウインナ・コーヒー、メキシカン・コーヒー、ブラジル、モカ、ブルー・マウンテン、コロンビア。ぼくがウインナ・コーヒーを指さすと、たちどころに純白の泡におおわれたコーヒーが運ばれた。冷たくやわらかい生クリームの下から苦味をもった熱いコーヒーが襲いかかり、ぼくの唇をやく。その甘美な苦さは悪魔の飲物に特有のものだった。ちょうど足の下数メートルのところを地下鉄が走っていたし、店の斜上のあたりでは国電の高架線と高速道路とが十字の形をなしているはずだった。それにもかかわらず、店のなかの静かさ、低いききとりがたい話声と遠い|驟雨《しゅうう》のようなピアノのほかにおよそ地上のものの音のきこえないこの静かさは、棺のなかの静寂に似ていた。ふいにぼくの耳を|搏《う》った声、なめらかに湿った舌を感じさせるだるい女の声、アラ、モウソンナ時間? マア、コレナアニ? イヤアネ、|蝙《コウ》|蝠《モリ》ミタイニボロボロニナッタ時間ガ|堕《オ》チテキタンダワ……その声の主は、Lではないか? あのけだるいやさしさをもった抑揚の大きい話しかたからぼくはたちまちLの口の形、舌の動きをおもいえがき、吐く息のあたたかさを感じてみぶるいした。直立したエゴ[#「エゴ」に傍線]をのぞいてぼくの全身は鋭くそげた耳になった。しかし声はやんでいた。それともぼくの耳の内側にはたんぽぽの冠毛に似た吸音性の|白《しろ》|黴《かび》がぎっしりと生えていたのか? ウエイトレスの少女がカウンターにもたれてしゃべっていたが、これは十八歳前後とみられるその年齢にふさわしい生煮えの人生そのままの話しぶりだった、してみるとこの少女のおしゃべりの相手、洋酒や輸入シロップの|壜《びん》のたちならぶカウンターの奥にいる人物が、あの声の主にちがいないとぼくはさとった。|顎《あご》をテーブルにつけて猟犬の姿勢でうかがうと、ようやく|吊《つり》|棚《だな》のあいだから笑っている女の唇と歯がみえた。姉さん、と叫びそうになったのは不覚である。気をおちつけるために水を飲み、もう一杯コーヒーを、今度は悪魔の胆汁よりも濃いやつを注文する、と女の口は笑いを中断した。 「いやあね。酔っぱらいかしら?」と|妖《よう》|女《じょ》の声。 「さっきからこっちをにらんでるわよ」そういってから、ウエイトレスはぼくにむかって「かしこまりました」と叫んだ。なるほど、ぼくは酔っぱらっていたのかもしれない。酒にではなかった。ぼくはしばしば酒以外の多くのものにも酔っぱらった。ほんとうに|朦《もう》|々《もう》としてきた半月のような眼でぼくはあたりをみまわした。壁に奇怪なものが飾りつけてあるのに気づいた。大小十数種の手裏剣、鎖鎌、|兜《かぶと》、|鎧《よろい》、そして火繩銃が数|挺《ちょう》。鉄は古い血の色に|錆《さ》びていた。長い年期のあいだに邪悪な|妄執《もうしゅう》が錆となってにじみでたかとみえた。ふいにぼくの手がのびて火繩銃のひとつをつかむと、その信じがたい重さに抗してようやく銃口をもちあげ、笑っている口だけしかみえないLの妖怪に狙いをさだめて、意味もなく引金をひく。なんというばかげたことか。兇器は|轟《ごう》|然《ぜん》と鳴って現実世界は一挙にくずれおちた。なおもすさまじい音とともに、ばらばらとおちてくるのは壁の手裏剣、火繩銃、さらにはおびただしい壜やグラス、悲鳴と叫喚のうちに灯は消えて、土埃と木の破片まで降ってきた。「地震だ」と叫んだとき、ぼくはふみつぶされた鳥籠のようなコーヒー店のドアを破って身を投げだしていた。目のまえに男がいて立小便中だった。あたりは街の灯で明るかったので、この男は恐縮のあまりからだまで収縮させ、少しずつ、足もとに水たまりをつくっていたが、そんなことをしてもどうにもならないのだ。男は片手で挙手の礼をして、「お晩でございます」とぼくに声をかけた。たぶんこの男は夢中遊行の最中ではないかとぼくはおもった。小さいころ、夢のなかで放尿するときにはいつも、こんなふうに、なすべからざる場所で用をたしているうしろめたさが微量だがあって、それにもかかわらず、ある無力な解放感に身をゆだねてぼくはこの男のように、少しずつ現実の世界をぬらしたものだ。そしてもうとりかえしがつかないところまでやってから、刺すようなアンモニア臭をもった悔恨とぬれた下腹の冷たさとではっと目をさます。ばばあの怒り……  目をさましたとき、ぼくはぼくの部屋のベッドの下だった。ベッドのうえにはぼくではないだれかがねている。いや、ひょっとするとぼくの死体かもしれないとぼくはおもい、こわごわ毛布をめくってみると、黄色い女の|肋《あばら》があらわれた。こんなものをどこで拾ってきたのだろう? ぼくは世界の|潰《かい》|滅《めつ》を告げるかのように半鐘を鳴らしている二日酔の頭で考えてみた、いまぼくはどこにいて、これはいつなのかと。ぼくの時[#「時」に傍線]はとぐろを巻いている蛇だ、そして数年まえのことも現在のことも隣合せでみさかいがつかない。つまりぼくはあのときも酔っぱらって女の子を拾ってきたのだった、それは数年まえ、ぼくが仲間と強盗を働いたあとのこと、事件はお宮入り[#「お宮入り」に傍線]したがぼくも収穫を使いはたしてふたたび無一文になってしまったころ、ジーパンにサンダルをつっかけたオデュッセウスとして、街を漂流していたころのことである。そこにはあの葡萄色の海[#「葡萄色の海」に傍線]もなく朝ごとに薔薇色の指で空を染めるエーオース[#「朝ごとに薔薇色の指で空を染めるエーオース」に傍線]もいなかったかわりに、街全体がパチンコの|潮《しお》|騒《さい》と二本脚で泳ぎまわる|穢《きたな》い魚の群れにみちた猥雑の海だった、そしてエーゲ海の島の数ほども多い島々がぼくの漂着を待っていた。つまりこのぼく、みじめなオデュッセウスの遭遇すべき女たちのことである。十七歳にして知謀にたけた|獅《し》|子《し》の頭をそなえていたぼくのような汚い美少年[#「汚い美少年」に傍線](とくに作家[#「作家」に傍線]は熱烈にこのことばを使ってくれた)は高級輸入品めいた|倦《けん》|怠《たい》を口もとにうかべてショウウィンドウのまえに立っているだけで、しばしば年上の女から声をかけられたものだ。この種の女たちについて語りはじめるときりがない、要するに彼女たちは結婚まえのつまみ喰いの常習者であり、平均二十五歳の正規分布にしたがう年齢の女たちで、まったくクール[#「クール」に傍線]でなかった。女というだけでぼくにはみんなおなじにみえた。おそらく女とはそういうものかもしれない。そんなわけでぼくは自分から女に誘いをかける回数に対して約三〇パーセントの割合で女から腹を重ねてする遊びに誘われる経験をもち、街のセイレーン[#「セイレーン」に傍線]やカリュプソー[#「カリュプソー」に傍線]、ナウシカー[#「ナウシカー」に傍線]たちのあいだを漂流していたのだった。がその日は風向きがわるかった。雑踏の波をおしわけながらぼくは女の脚をみて歩いた。男の子ならみんなそうするのだが、ぼくもまず脚から女をみるのだ。「なぜ?」といつか作家[#「作家」に傍線]はたずねた。「脚をみれば女のすべてが想像できるんです」「それからどこをみるの?」「電車のなかで接近しているときは手。うしろからならうなじ[#「うなじ」に傍線]。おしり。まえにまわってバスト。素足なら足の指とくるぶし[#「くるぶし」に傍線]」「優雅なことばを知ってるのね。顔はみないの?」「いつのまにかすこしずつみちゃうね。でもやる気があるときでなきゃ、まともにみない。眼というやつがあってこいつにであうとやっかいだからなあ」ぼくは女の脚をみながら歩きつづけた。考えてみると、ぼくの眼にうつる世界は女だけが動物で男は配置された道具であり、しかも女という動物はセックスと脚からなるふしぎな体形の宇宙生物のようなものとしてぼくの世界を|浮《ふ》|游《ゆう》しているのだ。それはぼくが最初の夢精を経験した年の夏由比ヶ浜の海岸でながめていた世界とかわらない。なまぬるい波に脚をなめられながらぼくはぬれた砂にはらばいになり、硬い機関銃を腹の下に折り敷いて無数の脚たちをながめていた。まったくおびただしい脚とおしりだった、あれをことごとくぼくのものにしなければならないと考えただけでぼくの全身は絶望でかゆくなり、腹の下では|兇暴《きょうぼう》な|蟹《かに》の爪となったぼくのエゴがむなしく地球をひっかき穴を掘っていた。そのころのぼくはまだ女を知らず、ひどく不幸だった。顔があからむほどの不幸、作家[#「作家」に傍線]の愛用語でいえばオント[#「オント」に傍線]に染めあげられた不幸である。こんな|呪《のろ》われた時代から一刻も早く逃げだすためならぼくはなんでもしただろう、たとえばぼくは一度、養豚場へいきゴムの前掛に長靴姿の老練な去勢人の手にかかって非男性化することを本気で考えてみたほどだ、しかしこういう問題には充分慎重でなければならないとおもったのでぼくはその実行をみあわせた。そのためにぼくの地獄はいまだにつづいているが、しかし精神の|飛翔《ひしょう》にとって無用の|錘《おもり》としかみえないあのやくざでこっけいな|睾《こう》|丸《がん》というものなしには、およそ飛行のエネルギー自体もないのではないか?ぼくは本屋から本屋へと歩いていった。平均的日本人には困難だがぼくには楽に手のとどく棚のうえのほうからぼくは大きな画集や高価な美術書をとりだしてながめ(とくにその当時ぼくはモスクやインドの寺院が気にいっていた)、それから眼を下にうつして薔薇の奇蹟[#「薔薇の奇蹟」に傍線]からノーバート・ウィナーのサイバネティックス[#「サイバネティックス」に傍線]にいたるまで、新しくでた本はことごとくすばやいゴキブリのように喰いあさっておいた。しかもぼくはみかけによらず博覧強記の型に属していた。というのも、ぼくはどんなことでも理解する大脳皮質をもっていたからである。学校の授業なんかものの数ではなかったし(ぼくはいわゆる秀才[#「秀才」に傍線]だった、それも校長のことばを借りるなら、本校開闢以来[#「本校開闢以来」に傍線]の、だ)、教師たちに対してはその貧弱なからだと同様に貧弱な知性を|軽《けい》|蔑《べつ》すること以外になにもしない生徒だった。かれらは四十歳をすぎて、ぼくの半分も本を読んでいなかった。ぼくにとって本は食物とおなじ程度に必要であり、一日に平均二〇〇ページは活字を食べないとたちまち精神の栄養失調をおこすのだ。さて、ぼくの手はまだ一〇円貨をにぎっていたのだった。そのときぼくは一軒の古本屋の店先に立ってガルガンチュア[#「ガルガンチュア」に傍線]とパンタグリュエル[#「パンタグリュエル」に傍線]でも万引きすることを思案していた。あれはぜひとも|手《て》|垢《あか》でよごしてみたい本である。ただしぼくのみつけたラブレーの全四冊は厳重に縛られて店先のショウケースにはいっており、これを万引きするのは白昼刑務所から囚人を脱走させるよりもむずかしい。この古本屋をはじめ世界中のいたるところにダイナマイトをしかけて爆破することを夢みる革命家のひとりになりながらたち去ろうとして、ふと眼にはいったのは、万引ヲツカマエテクダサッタカタニ三千円サシアゲマスという貼紙。 「たった三枚か」  翌日この話をきいた侯爵[#「侯爵」に傍線]は顔の左半分をしかめていった。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]が、 「三人でわければ一枚だ」 「やるかね?」 「よせよせ」とぼくはできるだけほがらかにいった。「万引の役でつかまったやつをあとで逃がすのは大仕事だぜ。それよりばりばり万引そのものをやったほうがましじゃないか」 「おれは|誘《ゆう》|拐《かい》がいいとおもうがね」と侯爵[#「侯爵」に傍線]がいった。「すこし本気になって考えてみないか?」 「今度は車が使えないから不便だぜ」とぼくはいった。あのあと、バイドク[#「バイドク」に傍線]自身が女の子を乗せて深夜の青梅街道で安全地帯にのりあげてしまい、バイドクにはけがはなかったが、女の子は腕を折り、クライスラーはみっともない|甲虫《かぶとむし》みたいに転覆したうえ片眼をつぶしてしまったのである。 「おやじのヒルマン[#「ヒルマン」に傍線]がだめなら、姉貴のダンナのフィアット[#「フィアット」に傍線]が借りられるかもしれない」と侯爵[#「侯爵」に傍線]は熱心にいった。「市ヶ谷で開業してる小児科だ、ダンナのほうはイエスだろうが、姉貴のほうはケチだからなあ」 「六法全書[#「六法全書」に傍線]をみてみると」そういいながらエスキモー[#「エスキモー」に傍線]が|鞄《かばん》をあけた。「……刑法第二二四条。未成年者ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス」 「やけに軽いじゃないか」 「つぎの営利拐取[#「営利拐取」に傍線]というのが重いんだ。第二二五条。営利、猥褻又ハ結婚ノ目的ヲ以テ人ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ処ス」 「つかまったら十年ではすまないね」とぼくはいった。「どうせ殺しちゃうんだからなあ」 「ケース・バイ・ケースさ」とエスキモー[#「エスキモー」に傍線]が大学生のような口調でいった。  ぼくたちはそれからエスキモー[#「エスキモー」に傍線]の最後の〇・三枚(当時ぼくたちは聖徳太子を単位に話をしていた)をあてにしてファンキイ[#「ファンキイ」に傍線]ヘいき、午後の数時間をついやして筆談で計画をたて、検討したが、けっきょく一週間以内に三人が手わけしてリンドバーグ事件をはじめとする古今東西の著名な誘拐事件、および誘拐を扱った推理小説のめぼしいものを読み、とくに誘拐の方法、家族への連絡の方法、金をうけとる方法、死体が発生した場合はその処分の方法などの項目についてめいめいのプランをだしあうことにきめた。 「おれは子どもと年寄りは大きらいだ。めんどうみきれねえしな」 「だから二十歳までの女の子にしよう」  空腹をつげる|狼《おおかみ》が腹のなかで泣いていたが、ぼくたちはこの計画に頭をふくらませて充分幸福になり、ファンキイ[#「ファンキイ」に傍線]をでた。そしてエスキモー[#「エスキモー」に傍線]たちと別れた直後だった、|真鍮《しんちゅう》製のマジック・ハンドのような手がのびてきてぼくの肩をたたき、 「どうしたの? |溌《はつ》|剌《らつ》としてるのね。またわるいことをたくらんでるんでしょう」  みると作家[#「作家」に傍線]だった。 「金もうけの計画をたてていたところですよ」 「今度はなにをやるの? ひとくち乗ってもいいわよ」 「誘拐」 「ばかね。誘拐ほど卑劣な犯罪はないんだって。もっと男らしいことをやったらどうなの、男らしいことを。たとえば銀行ギャングとか。それに第一うまくお金がとれる?」 「計画次第ですね。ところで、いま一枚くらい、ないですか?」 「あるわよ。けさ家から送ってきたの。ちょうどばばあ[#「ばばあ」に傍線]がパチンコにでかけたあとでよかった。知れるとまた部屋代の前借りをされるところだったわ。いいこと、ばばあ[#「ばばあ」に傍線]には絶対内緒。口止料として一枚あげるから」 「まるでほんとの姉さんみたいだ」とぼくがややしんみりしていうと、作家[#「作家」に傍線]は首筋をつかんでぶらさげられた|仔《こ》|猫《ねこ》のような表情をして、 「姉さんていえば、Lさんが帰ってきてるわ。さっきでてくるときみたら、あなたのお部屋で眠っていたようよ」  ぼくはなんの感想ももらさずに口のチャックをしっかりとざすと作家[#「作家」に傍線]と別れた。そのままぼくはLという求心力とそれに|拮《きっ》|抗《こう》する遠心力とのあいだで身を引き裂かれそうになりながら|楕《だ》|円《えん》をえがいて街をうろついた。そしてあるモダン・ジャズの店にはいりかけたとき、ぼくは長い黄色い角燈のともった柱のかげからひどい|酩《めい》|酊《てい》のようすであらわれた女の子にぶつかったのだ。一見してハイミナールでも大量にのんでふらふらしているのだとわかったが、ぼくが手をだすと猛犬の|唸《うな》り声をあげて払いのけたあとで、今度はじつにたわいなくぼくの首にぶらさがり、その重みをからだの下に集めてぐにゃぐにゃとからみついてしまったのである。まるで形のさだまらない|土《ど》|嚢《のう》をふいにあずけられたようなものだった。それでも一瞬のあいだにぼくはこのふってわいた災難の逆手をとってしめあげみごとに金の卵を吐かせてやろうと思案した。そしてポストのかげにまわりこむと左右の頬をかなりつよく一発ずつ張って、湿った角砂糖のようにくずれていく意識をよびおこし、住所姓名をきこうとしたがこれはうまくいかず、そのまま近くのいかがわしい旅館につれこむことをたくらむまえに、ともかく車だ、と判断しておりよく走ってきたタクシイをとめると、この女の子と自分のからだをおしこみ、とっさにぼくの家のあるところを運転手につげた。 「ホテルへつれていかないの?」と女の子が投げやりにいった。ぼくはだまってバッグをとりあげ、なかをかきまわして身分証明書をみつけると、ある美大のデザイン科の一年生でトオヤマ・ミヤコ。家はそこから遠くなかった。ぼくは電話番号をひかえてから、いった。 「安心しろよ、ちゃんと家まで送りとどけてやるよ」 「いやいやいやいや」とはげしく首を振って女の子はぼくの頬に顔をすりつけた。はなれるとき|唾《だ》|液《えき》が糸を引いたので気もちがわるかった。  ぼくの部屋につれてきたとき女の子はまだ意識があった。あとになってすくいあげようとするとそのときの記憶は水のうえの油滴のように拡散してしまうだろうが、ぼくの経験では、ほんとに意識を失うということは|奇《き》|蹟《せき》にひとしい。あの少女にしてももつれた糸のような意識でその手足を操り人形みたいに動かしていたのである。部屋のなかにはぼくのベッドとLのベッドがあり、それらがおたがいを隔離しようというかのようにできるだけはなされておかれたあいだの空白地帯にLを坐らせた。髪を短くしていたので捕虜収容所か刑務所にいれられた女にそっくりだった。無残な自己処罰のようにみえた。 「手伝ってくれよ」といい、もちろんLからなんの返事もえられないことを胃の痛むような感じで確認しながらぼくは女の子をぼくの不潔なベッドではなくLのために封印してあった不吉なベッドにねかせようとしたが、すでにベッド・カヴァーは|剥《は》ぎとられ、シーツには象形文字のからみあいに似た|皺《しわ》とやわらかくてあたたかい重みの横たわったあとが歴然としており、ふとためらいをおぼえたあいだにLは胴の長いグレートデンをおもわせる身のこなしでそのベッドにとびあがっていた。うまい|腓《ひ》|骨《こつ》をかかえこんだ犬の姿勢ではらばいになってしまったのはぼくに自分のベッドを使わせまいというつもりだったのだろう。そこでぼくも横着な犬を追うつもりで舌打ちをまじえてはげしい∫の音[#「∫の音」に傍線]をだしてみたが、むだだった、それなら、とぼくはいったん女の子を床のうえにころがし、Lのわきの下や横腹をくすぐってベッドから追いだそうとこころみた。すると驚くべきことにLはいも虫のようにのびちぢみするだけで全然笑いださないのだ。これは意外というより無気味なことだった。二人が宇宙人的性関係でむすばれるまえ、ぼくたちはことばの糸で相手をたぐりよせるかわりに四枚の掌をいそぎんちゃくのようにゆらゆらさせてくすぐりあい熱い息と|痙《けい》|攣《れん》|的《てき》な笑い声を吐きあうことでひどくアンティームな仲になれたものだったのに。Lをくすぐっているぼくの奇怪な手つきをみたのか、女の子は|健《けな》|気《げ》にもおきあがってぼくを制止しながら、Lにむかっては片手をあげて挨拶らしいしぐさをしてみせ、 「どうなってんの、このひとと?」 「あんたこそどうなってんだ? ハイミ[#「ハイミ」に傍線]をいくつのんだ?」 「昇天させて。ふわふわした雲のうえで眠らせて。あたしこのひとといっしょにねるわ。ねえ……このひと、あなたの情婦さん?」 「ああ」 「それともお姉さん?」 「ああ。どっちにしても|唖《おし》なんだ、こいつは」  女の子は焦点のあわない二つの眼を金魚鉢みたいに大きくみはっていた。それは視線をもたない不透明な眼で、ぼくがスカートをチューリップの形にめくりあげるまでずっとみひらかれたままだった。それから急に二枚貝のつよさで閉じあわされた。どういう無意識の意志が働いていたか、ぼくは知らない。それは死以外のどんな力によっても二度とこじあけることはできまいとおもわれたほどだ。閉じあわされた貝殻のあいだから|蒸溜水《じょうりゅうすい》のような涙がうすくにじみでていた。眠ったときにはぼくの眼もこんなすきとおった涙をだすかもしれないとぼくは多少感傷的になった頭でおもいながら、同時に下のほうでは養鶏場荒しの狐同然に品性下劣なぼくのエゴ[#「エゴ」に傍線]が、もはや眠っているこの女の子の自律制御系とは無関係にめざめている魔女の眼めがけて襲いかかっていた。いや、正確にいえばぼくのエゴ[#「エゴ」に傍線]を吸いこむものがあり、それよりさらにつよい力でぼくをうしろから押しこもうとする力が働いていたのではなかったか? まるでぼくのエゴ[#「エゴ」に傍線]は前門の虎と後門の狼に狙われ進退きわまり、眠った女の腹のなかに逃げこんだようなものである。ぼくはうしろから襲いかかってくるLの眼を感じていた。その鋭利な視線で背中の皮を数条剥ぎとられ、骨盤のあたりまで|穿《せん》|孔《こう》されたかとおもったとき、ぼくは終った。Lの凝視のもとでの|屍《し》|姦《かん》。一部始終がみられていた。Lは指を|噛《か》みながらベッドのうえに坐っていた。その眼が最初のまばたきをするまでの何分の一秒かのあいだにぼくはLの眼が|皆既蝕《かいきしょく》から|恢《かい》|復《ふく》するのをみた。あの影、影というよりわかした牛乳の表面にできる粘膜状の皮に似たものにおおわれていたLの眼はなにをみていたのだろう? あれがエロティスムの海で|溺《おぼ》れ死ぬときの眼だとしたら、そのみるべきものはなにもなかったはずだ。ともかくぼくは闘牛の折れた角みたいなものをもって放心していた。ぼくはぼくをみているLの眼をながめていたのだ。ひどくまぶしい太陽、だが、ひとすじの光も放たない死のように黒い太陽、眼をとじるまぶたの裏の宇宙空間にあらわれる真夜中の太陽。 「あとしまつをたのむよ」とぼくはいったが、ぼくのミルク状星雲を食べた口をぬぐってやってくれというより、殺人の共犯者に死体の処分をまかせるような調子になったことを気にしながらぼくは下のばばあ[#「ばばあ」に傍線]の部屋におりて電話をぼくの部屋に切りかえ(ばばあ[#「ばばあ」に傍線]はぎょろりと眼をむいて「市外にかけるんじゃないよ」とどなった)、ふたたび二階のぼくの部屋にかけあがると、女子学生はLの手で傷口を縫いあわされ、手術のあとの患者のように|仰臥《ぎょうが》しており、ぼくは安心して侯爵[#「侯爵」に傍線]に電話をかけた。状況を話すと、かれは声をひそめ、ぼくの耳の内側でナイフを|研《と》ぐような調子で、 「やったのか?」 「なんだ? ああ、あのことか。それならやったよ」 「眠ってるんだろ? いい感じか?」 「よくもわるくもねえな。それよりこれからひと仕事したいんだ。車を都合してくれないか?」 「なんだ?」 「誘拐には成功したわけだ、次は取引だよ」 「そうか。でも車はだめだ」 「どうしたんだ?」 「絶望的にだめだなあ。おやじのヒルマンはけさからおふくろがころがして修善寺へいってるよ。車はどうしてもいるのか?」 「なんとか考えてみよう。とにかく今夜中に取引を完了するよ」  しばらくのあいだぼくは鼠取りにかかった家鼠の処分でも考えるように、この誘拐された少女[#「誘拐された少女」に傍線]の処分について考えた。卑劣きわまる犯罪のへりに立っている誘拐犯人の恐怖に堅くひきしめられた一刻があった、というのはあたらない。ぼくはごく冷静なゲームのプレイヤーとしてこの状況のなかで可能な戦略のひとつひとつを吟味検討していたのである。女の子はときどきことばにならないことばをガムのように噛みながらふかい眠りの底に沈もうとしていた。あきらめきって水中に沈んでいく|溺《でき》|死《し》|者《しゃ》のように。そのときぼくは、ぼくの立場が誘拐者かつ脅迫者というより、|狡《こう》|滑《かつ》な保護者のそれに近いことに気づいた。オ宅ノオ嬢サンヲ保護シテイマス、至急ゴ連絡クダサイ、大量ノ睡眠薬ヲノンデイマスガ一命ハトリトメル模様……そして感謝され、お礼の品をもらう……だがこれではキャッシュをにぎることはむずかしい……  ぼくはいま、夢のなかで悪戦苦闘して策を考えているのだった、数年まえのように。そして数年まえのぼくも、死体のように|図《ずう》|々《ずう》しくぼくのベッドを占領している女子学生をどう処分していいかわからなかった。けっきょくエスキモー[#「エスキモー」に傍線]がころがしてきた車でぼくたち、侯爵[#「侯爵」に傍線]、エスキモー[#「エスキモー」に傍線]、それにぼくの三人は(ツトムはこの犯行にくわわることを拒否した)、眠っている女子学生を車でI公園裏に運び、水をぶっかけて目をさまさせてから、簡潔なことばでいうなら、輪姦したわけである。そして親切にもこの事件を女子学生の家に電話で知らせ、被害者をはやく収容しにきたほうがいいと忠告したものだ。ところがこんなことをしたおかげで、まもなく足がついた。ぼくとエスキモー[#「エスキモー」に傍線]と侯爵[#「侯爵」に傍線]の三人が退学処分をうけたのは、高校二年の終りの三月末のことだった。退学のいいわたしは、数度の職員会議や、校長をまじえたカウンセラーの教師とぼくらの話合い、ぼくらの父兄と校長との会談、といった長々しい民主主義的腸管のなかで便秘したあげく、やっと|排《はい》|泄《せつ》されてぼくらのまえにさしだされたが、ぼくはすでにほとんど無関心になっており、校長はメルカトール図法でかかれた世界地図を背にしてときどきアメリカ合衆国を|撫《な》でながら青少年の非行化という疫病があらゆる先進文明国に|蔓《まん》|延《えん》していることについてもったいぶったコメントをしたあとで、お気の毒だがきみたちはこの学校にいてもらうわけにはいかなくなったと告げたのである。侯爵[#「侯爵」に傍線]の母が(彼女はなんと狐に似ていたことだろう、まるで白壁色の顔をした狐だった!)デスクに片手をついてふたことみことその顔と冷たい眼鏡にふさわしい声でどなり、それからぼくをにらみつけた。自分の子どもの本質的潔白を信じて疑わない愚かしい母親の眼とすベての他人を裁きうるというおそるべき裁判官の眼をぼくはみた。怒りが熱風のように肋のあいだからふきだした。そのとき侯爵[#「侯爵」に傍線]はその母親の髪をつかんでひき倒し、はげしく足で蹴った。しかしこんな事件のためにぼくは侯爵[#「侯爵」に傍線]に対する友情が多少とも|蘇《そ》|生《せい》したというわけではない。かれがしなければぼくがおなじことをしただろう。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]の母はふとったからだをまるくして病気の象みたいに元気を失い、よく観察するとめだたないように泣いていた。エスキモー[#「エスキモー」に傍線]の手をとって|膝《ひざ》のうえでにぎりしめながら。すべては名優たちの舞台をみるようだった。そしてぼくが父兄代理としてきてもらった作家[#「作家」に傍線]だけはにこにこしてこの舞台をみていたのである。外にでたとき侯爵[#「侯爵」に傍線]がぼくの耳に口をよせて、密告した女の子に|復讐《ふくしゅう》しないかといったがぼくはもうたくさんだと答えた。三組の男女は校門のまえでものもいわずに別れた。競歩選手のように全速力で歩いていく侯爵[#「侯爵」に傍線]と威厳を失わない程度に小走りに走って間隔をひろげまいとするその母親、母親の肩に手をまわしてふとった恋人同士のように歩いていくエスキモー[#「エスキモー」に傍線]、そして最後に無責任にゆれうごく両手をぶらさげて作家[#「作家」に傍線]とぼくが駅のほうへとおりていった。  ところで、いまもベッドに杏色の女がいるのだ。どこでどうやって拾ってきたのかぼくにはおもいだせない、そしてこれはだれだ?ミヤコとかいったあのときの女子学生、上野駅で知りあってS高原まで家出のおつきあいをしたマイコ、それとも聖者[#「聖者」に傍線]の女房のモカ[#「モカ」に傍線]、いや、いっそLでもいい、とぼくはおもった。こいつをどうやって処分するか? 毛布から足がつきでている。頑丈で堅そうな|踵《かかと》と汚れた足の裏、それにいやに毛深い脚だ。ぼくはふいに超現実的な|驚愕《きょうがく》に襲われたが、要するにぼくのベッドにねているのは男だったのだ。ぼくは床のうえで|笑茸《わらいだけ》をのみこんだ蛇みたいにのたうちまわって笑い、笑いながら記憶のフィルムを巻きもどしてゆうべのできごとをおもいだしたのだが、この男はあの奇妙なコーヒー店のまえで立小便していた男だった、ぼくとかれとは双頭の大蛇のようにバアという|酒《さか》|甕《がめ》につぎつぎと首をつっこみ、ついにぼくはこの見知らぬ男をぼくの部屋までつれてきたらしい、それとも泥酔したぼくをこの男が送りとどけてくれたのか? そんなことはまあどうでもよく、ぼくはまったく荒廃した気分だった、できることなら、ただれた記憶のラオコーンをずるずると頭からたぐりだして渓流にさらすか冷蔵庫で冷やすかしたいところだった。  男は赤い眼をしてベッドからおりてくるとひどいなまりのあることばで丁重にお礼をのべはじめた。K市から講習をうけに上京してきた市立図書館の司書で、詩人でもあるという。そして自分の本分[#「本分」に傍線]は痴漢なのだといい、ビニールのスーツケースから一冊の詩集をとりだしてぼくに謹呈するというのだった。闇のなかの恋人たち[#「闇のなかの恋人たち」に傍線]という題だった。これはもちろん痴漢行為の|讃《さん》|歌《か》なのだが、次には近親相姦を主題にした詩集を自費出版すると宣告し(どうやら前夜ぼくはその問題についてこの男に議論しかけたらしい)、トーストを二枚とトマトを食って帰っていった。  その晩、ぼくはまた街にでて岩田たちと飲んだ。  未紀からノートのはいった開封の大型の封筒が速達で送られてきたときも、ぼくはひどい二日酔だった、心臓みたいに鼓動する胃とダリのえがいたピカソの肖像みたいに穴のあいた頭とをかかえてベッドのうえでころげまわっているところだった。未紀のやりかたに芝居がかったものを感じていらだったのも半分以上は二日酔のせいだろう。だがぼくのいらだちに未紀に対する敵意が何パーセントかふくまれていたことも事実である。いつになくぼくは未紀に距離をとり、かつ批判的な眼をむけることができたようにおもう。いずれにしろ、午前中は未紀のノートを読める状態にはなかったのでぼくは新聞を隅から隅まで読みながらベッドにころがっていた。そして午後になるとプールで泳いだ。太陽の熱と冷たい水のきらめきとが頭をさわやかにした。ぼくはプールサイドにねそべって飛込み選手たちの練習をながめながら、机のうえにおいてきたいまいましいノートがいつのまにか紛失していればいいとおもったりした。しかしそうおもったときはぼくが確実にノートの呪力に負けたときだった。ぼくは、|蜘《く》|蛛《も》の巣にとらえられた|昆虫《こんちゅう》のように、死の顎をふるわせて待ちかまえている金色の蜘蛛のほうへひきよせられていった。今度は、だれかがぼくの部屋にしのびこんでノートをもちさったのではないかとおそれながら。  アメリカへの逃亡準備のひとつとしてぼくは数学関係の本をのぞいて蔵書をすっかり売り払ってしまったので、部屋はガイコツの模型じみた空虚な貧弱さをむきだしていた。いまは机と扇風機、それにベッドがぼくの全財産目録を構成するが、これらもおなじアパートの学生たちと売約済だった。未紀のノートはなにもない机のうえに存在していた。それはひらかれて(ぼくにはそれをひらいたおぼえはないのだが)、白紙のページが|白《はく》|蝋《ろう》の面のように光っていた。  あたしのパパ[#「パパ」に傍線]は死にました。かれのからだのなかで|癌《がん》がカリフラワーのように破裂したのでした。あたしの二倍だけ生きて、でもまだ四十四歳の若さで、パパ[#「パパ」に傍線]は腐りやすい死者と変じてしまいました。あたしと二人で悪業のかぎりをつくしてきたむくいでしょう。パパ[#「パパ」に傍線]はでもむくいをうけてしあわせでした。あたしは自分で自分に罰を課さなければなりません。罪をみつけるために(そんなもの、みつかるでしょうか?)、せめて、まず罰のなかに自分を監禁すること。骨壺にとじこめられてしまったパパ[#「パパ」に傍線]のように。  パパ[#「パパ」に傍線]とはあたしの父のことなんです。すでに肉も骨も焼かれて灰になったひとのことなんです。デンティストのパパ[#「パパ」に傍線]だなんて、どうしてあなたを|欺《だま》してきたのでしょう。いいえ、ほんとはあたしを欺すためにあれを書いたのでした。みんな嘘です。小説です。虎ノ門にクリニックをもち、アルファ・ロメオを乗りまわしている歯科医のパパ[#「パパ」に傍線]なんて、実在しないのです。もしもそんなパパ[#「パパ」に傍線]がいたとしたら、あの事故、母の死とあたしの重傷という出来事がおこったときにあたしのまえにあらわれないはずがないでしょう。そしてあなたもよくごぞんじのように、そんな人物はけっしてあらわれはしませんでした。  あらわれたのは、たとえばあなた[#「あなた」に傍線]でした。記憶を失っていたあたしの、くらい過去から出現した亡霊であるあなたは、最初、こわれた鏡にうつった像のようにみえました。鏡のひびわれがなおるにつれて、あなたの像もなめらかになり、あたしにはあなたが、あたしの最良のお医者さまであることがわかったのです。というのは、だれよりもあなたは、あたしにつよい関心をおもちでしたから。つまりあたしは、あなたの関心、あなたからくりだされる意識という繃帯によって、ばらばらになったあたしを縛ってもらいたかったのでした。あなたがあたしを愛してらっしゃるとはおもえません。でもあなたの関心は、あたしにとっては愛とおなじものでした。あたしは愛のもつ治療作用に身をゆだねていました。ほんとに、あなたはすばらしいお医者さま。感謝のあまり、白いコリーになってあなたのお手をなめさせていただきたいほどです。  それなのに、あたしはあなたを欺していました。あのノートのことではありません。あれは要するにできそこないの小説にすぎませんでしたもの。あれはあたしだけのために書かれた呪文。誓って、あなたを欺すつもりはありませんでした。でもあなたは勝手にあれを事実と信じておしまいになったのです……あたしがあなたを欺していたというのは、べつのこと、つまりあたしは、長いあいだあなたのまえで記憶を失ったふりをしていたのです。どうか、激怒しておしまいにならないで。でもあたしをお許しになってはいけません。あたしはあなたの掌をなめるかわりにしたたか|咬《か》みつくような真似をしてしまいました。そしてあたしの犬歯には毒があるの。あなたはあたしの毒に想像力を犯されて、アムネジアという幻の花のなかにあたしをとじこめてしまいました。あたしはでるにでられなくなりました。このあたしは、ひそかにこう考えていたのかもしれません、あなたが愛に似た関心をあたしにむけてくださるのは、なによりもあの奇怪なノートのためなのだと。そしてあたしがそれを書き、いまは記憶を失って病人であるためにちがいないと。あなたに治療をつづけていただくには、嘘の繃帯をほどいてはいけないことを、あたしは知っていたのです。どんなことをしても、あなたを失いたくありませんでした。どんな卑屈なことをしても。あたしがあなたに対してこんな態度をとったのはなぜでしょうか。あなたを愛していたからではありません。むしろ逆です。あなたを愛していなかったから、かえってあたしはあなたをお医者さまとして自分の手もとにひきとめておくという目的のためには、平気で卑劣にも卑屈にもなれたのでしょう。もしもあなたを愛していたら、あたしはあなたに魔法をかけて|仔《こ》|鰐《わに》に変えてでも、それともいっそあなたを殺してでも、あたしの|蜜《みつ》のなかにとじこめてしまったことでしょう。自分が愛していない以上、あなたに愛されることは考えてもみませんでした。だから、あたしはあなたのまえではかわいそうな病人[#「かわいそうな病人」に傍線]でいるほかなかったのです。  さて、それならばあたしが記憶をとりもどしたのはいつだったか、それはあなたがノートを返しにいらっしってあたしの口に長い接吻をなさった日と、プールで泳いだあとあなたがお姉さまのことをお話しになった日とのあいだの、ある日でした。長い接吻の日、あたしの頭のなかはまだ遺跡の発掘現場みたいに掘りかえされたままでした。記憶には大小の穴があいていて、あたしはそれに蓋をしてつじつまをあわせるためにその場かぎりの嘘をついたりすることがしばしばでした。たとえば父のこと。あたしにとって父はふかい井戸の形をしたくらやみのひとつでした。あたしは父についてなにも語ることができませんでした。もちろん過去のほかの部分とともに記憶のなかからえぐりとられていたからですけれど、それ以上にあたしには、とりわけくらい血のようなもののたまっているらしいこの穴を避けてとおろうとする力が働いていたのでしょう。そこであたしはあなたのまえで父についてでまかせをいい、脳溢血で倒れて半身不随の、なかば廃人の老人[#「脳溢血で倒れて半身不随の、なかば廃人の老人」に傍線]という父の像をつくりあげてしまいました。さいわい、あなたはこのにせの父[#「にせの父」に傍線]のイメージをそのまま信用してくださったようでした。そしてそのために(というのはこのにせの父[#「にせの父」に傍線]のイメージがノートのなかの父[#「父」に傍線]のイメージを補強したために)、あなたはいっそう確信をもって、あたしとパパ[#「パパ」に傍線]に関するにせ[#「にせ」に傍線]のイメージの迷路へはいりこんでいったのでした。けれども、じつはあの日父はひどく元気でした。半身不随でベッドにころがっているどころか、ひさしぶりに自分で車を運転して会社にでかけていたのです。第一、父の病気は|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》ではありませんでした。父の病気は……そのまえに、あたしはやっぱりかれのことをパパ[#「パパ」に傍線]とよぶことにします、かれが生きているあいだはそれ以外のよびかたでかれをよんだことがなかったのですから。  あたしのパパは|膀《ぼう》|胱《こう》|癌《がん》なのでした。手術の成功する可能性ゼロ。手を拭きながら診察室をでてきた医者は母とあたしの顔を避けて死の宣告をいいわたしました。このときあたしの首は折れて、顔はまっ黒になりました。あたしの獣の頭は一瞬のうちに焼けて灰になりました。そのときからあたしはすべてを忘れてしまいました、パパ[#「パパ」に傍線]にくだされた死の宣告を忘れるために。あたしの絶望は、あたしに対して破壊的でした。頭のなかの記憶の城はみるまにうちこわされ、別の世界へずりおちてしまいました。アムネジア。それはあなたをふくめて多くのひとがおもいこんでいたような、衝突事故による器質性のアムネジアではありません。あの事故はあたしの記憶喪失の原因ではなく、ひとつの結果にすぎなかったのです。つまりあたしはあの事故をおこすまえにすでに記憶もことばも失い、人間から白痴同然の怪物に、いや女の形をした一匹の動物に、変っていたのでした。このおそろしいメタモルフォーゼの時[#「時」に傍線]は(いまあたしはその時[#「時」に傍線]をはっきりとおもいだすことができますけれど)、とてもことばで説明することはできません。それはちょうど生から死への移行の時[#「時」に傍線]をことばで説明することができないのとおなじです。しかしその時[#「時」に傍線]は、薄い刃物の|一《いっ》|閃《せん》には似ず、ゆるやかな絞首による死に似ていたような気がします。つまりあたしがパパの死の宣告をきいてから喪心を完成するまでには、時計の時[#「時」に傍線]でいっておそらく何十分かの時[#「時」に傍線]がたっていたのではないかとおもいます……あたしはポルシェのなかに坐っていました。母があたしの横に乗りこんできました。パパは会社の車でこれからどこかへまわるとのことでした。アノヒトニハ死ヌマデイワナイデオキマショウ。そういうしわがれた女の声をきいたのが最後で、あたしの耳はもうどんなことばもきかず(たぶん母はそれっきりものをいわなかったのでしょう)、もうなにもみずに(赤いボンネットのむこうには街も舗道も空もみえませんでした)、あたしは自動操縦装置となってポルシェを走らせました。海をめざしていたようです。あたしの体内の、|融《と》けた記憶が海のほうへと流れていくかのようでした。車は、たしかに一度海ぞいの道を走りました。横浜のある|埠《ふ》|頭《とう》近くだったのでしょう。暗い港、|碇《てい》|泊《はく》している船、曇った空につづく海の色……あたしはかすかに|憶《おぼ》えています。それにしても、ものをみる心を失い、もうなにもうつしていない眼を、ただ大きくみひらいて、ハンドルを握っていたあたしに、母はなんの異常も感じなかったのでしょうか? なぜあたしを制止しなかったのかしら? 恐怖のあまり、声もでなかったのでしょうか? あるいは、母は自分たちのゆくてをふさいでいる死を知りながら、ふかい|昏《こん》|迷《めい》のなかに沈みこんで指一本動かせなかったのかもしれません、たとえば路上にたまった血のような油をみとめながら、もはやとどまるすべもなくそのうえへ疾走していく運転者のように。実際、あたしたちの死はそれから数分後に暗褐色の古代の牛のような顔であたしたちのまえに立ちふさがりました。それは大谷石を満載した大型トラックでした。あたしはハンドルをはなし、両手で顔をおおってしまいました……  それにつづく惨事については警察や目撃者や、そしてあなたのほうがあたしよりもはるかに多くを知っています。母は無数の悲惨の刃で全身を血まみれにしてその場で死に、あたしは頭を打ってあやうく死ぬところでした。たれもが、あたしの記憶喪失をこの頭部の打撲とむすびつけたのは自然なことでした。でも神経科の先生がおっしゃっていたようにあたしの前頭葉がほんとうにやられていたら、たぶん恢復のみこみはほとんどなく、あたしはこわれた人形のような生きものとして生きながらえるほかなかったことでしょう。  さて、退院してからのあたしは、じつは、すっかりもとどおりの未紀にかえっていたのでした。ただひとつの暗い穴、おそろしいもののたまっているにちがいない記憶の井戸をのぞいては。むろん、それはパパのこと。あたしはほとんどすべてをとりもどしていたのに、パパだけはあたしの眼にはどんな意味も|汲《く》みだすことのできない暗黒でした。そして同時にあたしの眼を|灼《や》くはげしい太陽でした。退院した日、あたしはパパの部屋へいって首をたれました。かれはパジャマを着てベッドに坐っていました。「顔をあげてごらん」という低い声。あたしは顔をあげると、やみのなかに坐っている如来像でもみるようにしてパパをみました。眼を内側にむけ、なにもうつさぬ二つの穴を顔のまんなかにひらいて。パパもあたしも黙ったままでした。それからおこったことは、まったく予想外のことでした。パパはあたしの膝のうえにあのノートをのせると、からだを横たえて目をとじてしまったのです。それが、いうまでもありませんけれどあのあなたにお送りして読んでいただいたノートでした。あの、いま、血を流しているところなのよ、パパ[#「いま、血を流しているところなのよ、パパ」に傍線]、ではじまるはずかしいノートでした。  パパはどうやってこれを手にいれたのでしょう? たぶん、あたしが入院しているあいだにあたしの部屋を捜索してみつけだしたのでしょうけれど、パパはそれを、血のついた獣の生皮でも|剥《は》ぎとるようにしてあたしから盗みとり、ふたたびあたしの|膝《ひざ》に返してくれたのでした。このノートを読むことは、あたしにとって、記憶のふかい穴に|充填《じゅうてん》されたガーゼをずるずるとたぐりだすのに似ていました。しかしこのノートによってあたしの記憶の傷が全快したというわけではありませんでした。むしろ傷口はいっそうひろがり、原因不明のとまらない出血がはじまったかのようでした。血友病よりもおそろしい不安。  その手当を、あたしはあなたにしていただこうとおもったのです。あなたは、あたしへの愛または(おなじことですが)認識欲であたしをきつく縛り、その知的な舌でやさしく傷口をなめてくださるにちがいないと考えたのです。そこで|図《ずう》|々《ずう》しくもあたしは、あなたのまえでは、あのノートの意味も解きかねて困惑しているアムネジア患者のふりをしつづけました。でも、あたし自身にあのノートの解読ができないはずがあるでしょうか。じつはあたしには次のことがすぐわかりました、少くともノートのなかのパパなる人物は架空の存在であって、それはあたしの父をモデルにしているらしいということが。この推論に理由はありません。ノートを読んだとき、ことばの匂いでそれを知ったというほかありません。読むにつれてあるはずかしさ、自分のためだけに書いた小説をそのモデルに読まれてしまったというはずかしさがあたしの顔を熱くしました。でもさきを急ぎましょう。そもそもこうしたことのすべては、じかにパパの胸をたたけば即座にあきらかになることなのですから。  あたしに理解できなかったのは、なぜあんなものを書いたのかということでした。ひとはなんのために小説を書くのでしょうか? 小説家は、小説を分泌せずにはいられないという業病を金銭とむすびつけることによって生きている人間で、あたしには理解できない種類の人間に属しますが、|素人《しろうと》の場合は、自分の生に意味づけしたいという衝動から手記のようなものを書き、それがごく自然に変質して小説となるのでしょう。つまりかれらにとって、小説はあきらかに認識の一手段です。ところで、あたしの場合はそれとはいささかちがっていました。あの小説(またはたんに、あのノート)は、あたしにとって|呪術《じゅじゅつ》の性質をもっていたようにおもいます。あたしの分泌したことばは、現実をとかして、現実と非現実の境にゆらめくかげろうのなかにあたしをとじこめるための呪文という性質をおびていました。いまになっておもえば、あたしはあの小説によって、不可能な恋人[#「不可能な恋人」に傍線]であったパパに対するあたしの不可能な愛[#「不可能な愛」に傍線]を聖化しようとしたのでした。あたしの肩から、毒蛇のような愛にみちたいまひとつの頭を生やそうとしたのでした、にせの恋人パパを愛するために。  パパを父としてではなく恋人として愛すること。この観念は、いつからか、まだごく小さかったあたしの頭に|棲《す》みつきました。それはたぶん、パパにその大きな手であたしの胴をつかんで軽軽と宙にもちあげてもらい、くすくす笑いながら小鳥がついばむようなキスをパパの唇にするならわしとともに、棲みついたのでしょう。あたしは|尖《とが》らした口でパパのタバコのにおう唇やざらざらした頬や皮の薄い額をついばみながら大きくなりました。急速に成長する植物のように。そしてあたしの頭がパパの鎖骨にとどいたある日、あたしはパパの古い日記を発見したのでした。それはまえの|碑《ひ》|文《もん》|谷《や》の家からいまの青山の家へ引越しをした日のこと、母が用足しにでたあとあたしは女中さんと二人で|屑《くず》|屋《や》に払うものを整理していたときに、古い当用日記を一冊みつけました。ほとんど空白で、紙はミイラの皮膚のように黄色くなっていましたが、気がつくとそれはあたしの生まれた年のものでした。そこであたしは、|脊《せき》|椎《つい》の階段をかけおりていく|戦《せん》|慄《りつ》に身をふるわせながら、あたしの誕生日のページをひらいてみたのです。パパはあたしについて書いてありました。世の父親が書くべからざることを。パパによれば、あたしは猿のように醜悪な生きもの[#「猿のように醜悪な生きもの」に傍線]としてこの世に生まれてきたのでした。人間の誕生に対するこの観察はパパのシニスムをしめすものとして、むしろパパへの敬意をかきたてるものでしたが、次にでてきた母に対する絶望的な|憎《ぞう》|悪《お》はあたしを凍らせました。パパはこう書いておりました。彼女ハソノ|股《マタ》ノアイダカラボクニ対スル|怨《ウラ》ミヲ排泄シタ。コレガボクノ子デアル。モシモコレガカレ[#「カレ」に傍線]ノ子ダッタトシタラ、ボクハイクブンカ彼女ヲユルスコトガデキタダロウ。ここでかれ[#「かれ」に傍線]というのは母の愛をもち逃げしたひとのことでしょう。このひとは若い医師で、母があたしのパパと結婚してからまもなくドイツへ留学し、戦争中に死んだとのことです。あなたもおぼえてらっしゃることでしょう、はじめてあなたとお会いした日にあたしが、アタシノパパ[#「パパ」に傍線]ハ船医ナノ、というつくり話をしたこと、それからこのまえにおみせしたノートのなかに、母と二人で埠頭に立って船を送った記憶について書いてあったこと……母が涙をこぼしたのはこのときが最後でした。パパの癌の宣告をきいたときにも彼女の眼は乾いていました……母の怨みは当然このひとにむかうはずでした。しかしむしりとられた愛の傷口が閉じてしまうとこの怨みは出口を失って母のなかをめぐる毒となり、母は愛に関して頑強な慢性自家中毒患者となってしまいました。そしてこの、だれも愛さない女、犬や猫も愛さない女は結婚してパパの妻になり、あたしの母になったのでした。パパは母に対してなんの幻想もいだかずに結婚したといっていましたが(母の美しさと家柄のよさだけをパパは結婚の条件としたつもりだったようです)、しかし、どんな感傷的でない男でも、自分が愛しているかぎり女からも愛されることを望まないわけはないでしょう。でも母から分泌されるものは皆無でした。やがてパパは母を妻の形をした彫像として扱うようになり、あたしをふくめて、家庭は至極平安でした。パパは軽蔑からくるやさしさで、母は不毛な自己抑圧で、みごとにバランスをとりあっているのが子どものあたしにもよくわかりました。すでにあたしが生まれた日に、パパはこう書いています。彼女ノ穴ハコレデ用ヲハタシタワケダ。ソレハモウボクノタメニヒラクコトハアルマイ。あたしはものごころついてから、らんらんと光る眼でこの興味ぶかい夫婦の夜をみはってきたつもりですけれど、かれらがあいしあっているのをみた記憶はついにありません。  ところでパパの日記についてはもうひとつ重大なことがあります。それはパパが生まれたばかりのあたしについて冷酷な調子で書いてあることなのですけれど、ここでそれをあなたに書くのははばかられます。パパはあたしの裂けめや女としての形状や色について失望にみちた批評をくわえたのち、呪いのように書いているのでした。シカシコノ子ハ(予定ドオリ未紀[#「未紀」に傍線]ト名ヅケヨウ)母親ヨリモ美シクナルダロウ、ソシテボクヲ愛スルヨウニナルダロウ。恋人トシテ。ナニシロ未紀ハボクガツクッタボク自身ノ敵ナノダカラ。  これを読んだときからあたしのパパへの愛は突然変異して、はっきりと近親相姦的愛の相貌をおびたのでした。パパのことばの爪でしっかりと骨までつかまれたあたしは、誘惑のおそろしさと歓びにわれを忘れてしまいました。十二歳。はじめての血をみたとき、あたしはそれを(母にはいわずに)愛の告白のようにパパにうちあけました。そして|蒼《あお》い顔でパパをにらみながらいいました、アタシハイツカパパ[#「パパ」に傍線]ノタメニ血ヲ流シタイワ。パパはきびしい眼科医のような眼であたしの眼をみつめていましたが、あたしが泣きだしそうな顔になったとき、にやりと笑いました。モウ未紀トハイッショニオ風呂ニハイレナイナ。  こうして最初の黙契がなりたち、パパとあたしは、父と娘のあいだではいえないことばを使う共犯者同士になったのでした。かれはあたしのまえでは**工業社長という社会的存在はむろんのこと、父親という威厳の|楯《たて》も棄てて裸の精神そのものでした。たとえば子どものなかにまぎれこんで子どもとおなじ顔で遊んでいる大人のように。あたしはそんなパパがそのうちふいに大人のお面をかぶりなおして、未紀、ソンナコトヲシテハイケナイヨ、イイ子ダカラネ、などというときがくるのではないかと、そればかりが不安でたまりませんでした。そこで先手を打って、あたしはよくいってやったものでした、たとえば、パパの顎の下をくすぐりながら、ダメダメ、ベッド[#「ベッド」に傍線]デタバコ[#「タバコ」に傍線]ヲスッタリシテ。サア、イイ子チャンダカラ未紀ニワタシナサイネ。また、パパはよくお酒を飲んで遅く帰ってきましたが、母のまえで社用で忙しい夫[#「社用で忙しい夫」に傍線]を|完《かん》|璧《ぺき》に演じたあとのパパの部屋にしのびこんでみると、パパは急に酔いを発したような眼をしてベッドでタバコをすっているのでした。あたしはパパのパジャマのボタンをはずして胸を軽く|掻《か》いてあげながら、今日ハドンナ女ノヒトトネタノとお話をねだりました。小さい子どもがお|伽噺《とぎばなし》でもせがむように。  さて、そんなある日、あたしはパパと田村町でお食事をする約束でとびきりおしゃれをしてでかけたのに、急用ができたといわれ、ひどくかなしくてパパの車のなかで待っていると、梨色の女をつれたパパがあらわれたことがありました。ある十月の夕方のこと。つまり仲間たちと車を走らせていたあなたと、はじめて会った日のことです。|嫉《しっ》|妬《と》があたしの愛を逆立たせました。あたしにとって、嫉妬というのは自尊心の問題です。パパ[#「パパ」に傍線]ハドウシテアンナツマラナイ女トネルノカシラ、コノアタシトイウモノガイルノニ。そこであたしはますます完全な女[#「完全な女」に傍線]になるためにはげみました。指の先から耳たぶまで、申し分なく愛らしいペルシャ猫になること。  でも、あのノートにも書いたように、はじめてパパにあいされたときのあたしは|惨《さん》|憺《たん》たるありさまでした。ひとりの女としてパパをあいすることがどんなに大変なことであるか、あたしにはわかっていなかったのでした。もしもあたしたちが父と娘でなかったとしたら[#「もしもあたしたちが父と娘でなかったとしたら」に傍線]、あたしたちの愛は死産に終ったことでしょう。父と娘という存在のふかいつながりのおかげで、あたしたちの愛にはふしぎなやさしさが宿りました。パパは自分の創ったものを愛し、創られたあたしは、創ったものを愛しました。これは(あなたとLさんの場合がそうであるように)選ばれた愛です。ただしこの愛はいのちの短い愛でした。眼のくらむような白色|矮《わい》|星《せい》の愛がたちまち膨れあがり光も衰えて、赤色巨星の愛に変ってしまうようでした。次第に|曖《あい》|昧《まい》なやさしさがあたしたちの愛の姿となり、あたしたちはまるで夫婦のように相手をみるようになりました。くらやみで抱いた相手が神であったとしても、その|怖《おそ》ろしさと歓びはまもなく消えて、ふつうの男と女の愛におちついてしまうものでしょうか。あたしはもうあれがあたしのほんとの父であったということが実感できなくなりました。それがだれであろうと、ひとりの男を愛したということだけが残ります。いま、あたしはあんなにもかれを愛したことに、舌を噛みたくなるほどのはずかしさをおぼえています。愛することは恥にひとしい、それも他人をとおして自分を愛していたのだと知ると、ほとんど死に値する恥です。  しかしあたしたちの愛にも衰退と腐敗がしのびこんできました。完全な閉じた系[#「閉じた系」に傍線]のなかで、あまりにも熱く愛しあっているとこの系全体に老廃物の毒がまわるのもはやいものです。あたしはあたしたちの関係を開いた系[#「開いた系」に傍線]につくりかえる必要があると考えました。たとえばあたしがだれかと結婚して、パパのほかの男のひととも関係をもつこと。去年の夏、パパと瀬戸内海の旅をしていたときにあなたに長距離電話をかけて結婚を申しこんだ理由はそれなのです。ごめんなさい。あたしはあなたを利用するつもりでした。もしもあなたが承諾していたら、あなたは廃人になっていたことでしょう。  さて、もうほとんど書くべきことはありません。あとひとつだけ、パパの死のことを書いておきます。あなたがノートを返しにいらっしった日の数日後、そしてあなたと泳ぎにいった日のまえでしたが、夜、あたしがヴェランダにでていると、パパの手がうしろからあたしの|頸《くび》を握りました。あたしはじっとしていました。次第に血の流れがあらくなって、脈は、頸のところでせきとめようとしているパパの掌をはげしく打つようでした。ふいに、耳に死神の息がかかるのを感じました。はっと骨まで堅くしてふりむくと、パパは黒い口をあけて笑っていました。その口から重みのない笑いとともにことばがもれました。ボクハモウジキ死ヌソウダネ。  あたしの身勝手なアムネジアの花が引き裂かれたのはこのときでした。あたしはすべてをおもいだして、本来のあたしにかえっていました。パパの|痩《や》せた指を二本口にいれてがりがり音のするほどはげしく咬みながら、あたしは、パパ[#「パパ」に傍線]ナンカ死ニナサイ、死ンデシマイナサイ、と叫びました。血のにじんだ指を、とまらない涙がぬらしていました。芝生のむこうのくらがりにだれかが立ってこちらをみているけはいがありました。バアサンダヨ、とパパがいいました。アイツハボクラノコトヲナニカラナニマデ観察シテイル……  それからパパが死ぬまでの時[#「時」に傍線]をここに書きつくす力はありません。あたしはその時[#「時」に傍線]をそっくりもったまま、それを養うにふさわしい場所へ行こうとおもいます。たとえば、あなたは、完全に|明《めい》|晰《せき》な状態で自分の意志によって発狂してしまうことを考えたことはありませんか? 考えてごらんになってください、もしもあたしにまだいくらかの興味をおもちでしたら。  きょうヴィザがおりた。いまとなってはどうでもいいことだが、とにかくヴィザはきょうおりた。それにつづいておこったことを書きとめておく義務があるとすれば、それはこの小説(これはいったい小説なのか?)をここまで書いてきた以上終りをつけておくべきだというだけの理由でだ。  ぼくがまっさきにしたことは、未紀に電話をかけることだった。ぼくは白い陽ざしにさらされた電話ボックスにはいった。それは広い一級国道がにわかにせりあがってねじれながら中央線をまたぐ手まえに立っている電話ボックスで、白い陽ざしを浴びてほんとうに墓石のようだった。アメタイ[#「アメタイ」に傍線]からの電報を握ってぼくはそこまで歩いていったのだが、途中のことは全然おぼえていない。ぼくはどうしていいかわからず、自分がどうしたいのかもわからなかった。アメリカ行きと未紀と、一方を選び一方を棄てること。ぼくはいまこの|賭《かけ》に直面しているのだという|妄《もう》|想《そう》が頭のなかでとぐろを巻き、どこからときほぐしていいかもわからなかったのだ。もしも未紀がぼくを愛しているといったなら、とぼくは考えた。その条件のもとではぼくはためらわずにアメリカ行きを棒にふることができるだろう。そうでない場合は冷たく収縮した心をトランクにおさめてぼくはロサンジェルス行きの飛行機に乗るだろう……いま、これを書きながらはじめて気づいたのだが、まえにぼくは、未紀への愛を、アメリカ行きが実現するかどうかできめようとしていたが、今度はアメリカに行くか行かないかを未紀のぼくへの愛によってきめようとしていたわけだった。ぼくは笑わずにはいられない。しかしあの電話ボックスまで歩きながらぼくはさらにこんなふうにも思案していたのだった。未紀ハボクガ未紀ノタメニアメリカ[#「アメリカ」に傍線]行キヲ放棄スルコトニハ強硬ニ反対スルダロウ、アナタハアメリカ[#「アメリカ」に傍線]ヘ行ッテキテ、トイウニチガイナイ。待ッテイマス[#「待ッテイマス」に傍線]トイウメロドラマ[#「メロドラマ」に傍線]風ノコトバサエキケルカモシレナイ。ツマリ、ボクタチハメデタク婚約スルダロウ。ボクガ未紀ヲ愛シテイルノデハナイヨウニ(アア、ボクガホントニ愛シタトイエルノハLダケダ)、未紀モボクヲ愛シテイルノデハナイガ、ボクタチハ充分安定シタ理解ト同情ト|倦《けん》|怠《タイ》ヲモッテ婚約スル。スデニ人生ノ本質的ナ部分ヲ長イキセル[#「キセル」に傍線]デ阿片ノヨウニ吸イハタシテシマッタモノ同士トシテ。ソシテコノ悪イ夏ノサナカニ日本カラ逃亡スルボクヲ未紀ハヤサシイ婚約者ノ顔デ見送ルダロウ……トニカクボクハ、ココマデキタ以上、ヴィザ[#「ヴィザ」に傍線]ヲヒッツカンデアメリカヘ行クベキデハナイカ?  熱気のこもったボックスにはいって受話器をとったとき、ぼくはいく筋もの汗がムカデのように顔をはうのを感じた。未紀の声がでてきたのに、ぼくは未紀の名をよんでたしかめた。 「はい、未紀よ。どうかしたの? 少しお声がへんみたい」 「じつはいまヴィザがおりたんだ……」  未紀の声がきこえなくなった。ぼくは|狼《ろう》|狽《ばい》した。 「どうしたんだ未紀? なにかいったの? 電話が遠いらしいな」 「そんなことないわ」 「どうしたんだ?」 「ヴィザがおりてよかったですね」 「ところがそうはおもえないのだ」 「出発はいつになさるの? ヴィザがおりたらその次の日にでもお発ちになるようにおっしゃってましたけど」 「アメリカへ行くかどうか、まだわからない。これからきめたい。どうしていいかわからないんだ」 「なぜ?」これは尻あがりのナアゼ?[#「ナアゼ?」に傍線] ではなく、冷たい海に|錨《いかり》を投げこむ音に似た冷酷なナゼ?[#「ナゼ?」に傍線] だった。ぼくの胸は凍った。 「ナゼとはどういうことなの?」とぼくはいった。「どうしてそんな声でナゼなんていうんだ?」 「おききしているのはあたしのほうよ。なぜ、どうしていいかわからないなんておっしゃるの? カリフォルニアに行くのをやめるおつもり?」 「きみは笑うかもしれないが」とぼくはひびきのわるい声でいった。「笑わないでくれよ。つまり、ぼくは、未紀を残してアメリカへ行く気になれないんだ」  未紀は黙ってきいていたが、電話のむこうで、その顔はひどくまじめなのか、笑いをこらえているのか、想像もつかなかった。 「ぼくといっしょに行かない? いや、半年ばかりおくれてきてくれてもいい。ぼくのほうは今月中にカリフォルニアに着いてないとまずいけど」 「どうしてあたしにそんなことをおっしゃるの?」 「その鉱物的な声はやめてくれ。いつもの未紀とちがうじゃないか。分裂病患者の話しかたみたいだ」 「ふふ、おわかりになるのね」 「なんだって? さあ、わかりませんね。どうもきょうのきみはへんだ。ああ、あのノートは読みましたよ」 「それで、あたしがどんな人間だったか、よくおわかりになりましたでしょう?」 「わかりませんね」とぼくはいった。「きみのことばはひとつ残らず頭の記憶装置にしまっておいた。でもそれはきみを理解したことにはならない。いますぐ、きみに会いたい。こんなことをしゃべったきみをみたいのだ。アメリカに行くのはそれからのことにする」 「……お会いできないわ。できません。それはだめなんです」  うたうような調子があって、かえってぼくのすがりつくのを許すようだった。 「だめなんていったって、だめだ。きみに会いたい。きみの顔をみて、いや、鼻と鼻を|研《と》ぎあわすようにしてきみの眼をみながら、きみにいいたいことがある」 「わかってます」 「きみにだけはいうまいとおもっていた、この世で一等こっけいなことだけど」 「わかってるわ。でもおっしゃらないで。そのことばが耳にはいったら、未紀は舌を|噛《か》んで死にます」  受話器のなかのやみは沈黙した。ぼくは恐怖のあまり、未紀の名を呼んで、愛シテイルということばをどなろうとしたが、そのときボックスの窓ガラスに真昼の亡霊があらわれて大きな口でなにやら叫び、一瞬ぼくはうろたえた。だが受話器を握ったままドアを押しあけると、ぼくは汗まみれの顔をつきだしてどなりかえした。長クナルンダ、重大ナ話ナンダ、ワルイガホカヘ行ッテミテクレマセンカ。 「未紀、まだそこにいる?」 「います」 「もう少し切らないでください。いまぼくと会いたくないというんだったら、このままきいていてほしい、舌を噛んだりしないで。ぼくはもうアメリカへは行かない。やめた。やめて未紀と結婚する」 「あたしと結婚してどうなさるの?」 「どうするって、いつもきみをみていたいのだ。ぼくはいつもきみをおもっていた。でもおもったり想像したりするだけでは不安で死にそうになる。きみのそばにいてみたりさわったりしたい。毎日髪ののびるのをみまもったり、冷たいおしりにさわったりしたい……どうしたんだ、きいてるのかい?」 「はい」 「どんな顔で?」 「とてもにこにこしてますわ」 「なぜにこにこするんだ?」 「どうお答えしていいかわからないときはいつもにこにこするの」 「きみのほうはどうするつもりだ?」 「あたしは精神病院にはいりますわ」  まるで、尼寺ニハイリマスをもじったような調子で未紀はそういった。からだのなかで、|肋《ろっ》|骨《こつ》が一本ずつはずれ、脊椎も折れ曲って、ぼくはたちまち人間の形を失っていくようだった。未紀ハスデニ気ガ狂ッテイルノダ、静カナ発狂ダ……未紀、気デモ狂ッタノカと叫ぼうとして、あまりの紋切型にぼくは舌を硬くしたまま、顔をひきつらせて笑った。 「ぼくもいま笑ってるところだよ」 「どんなふうに?」 「女を斬り殺してその肉に砂糖をまぶして喰った男みたいにさ。コーリン・ウィルソンがその種の男の話をうんざりするほど書いていたがね」 「あなたにはあたしの死体を残してさしあげてもいいわ。ばりばり食べていただいてもいいの。ただ、あたしのからだは、精神という骨組でかろうじて形をなしていたのですから、これをとりはらったあとに残るのは、すっぱい肉の塊だけかもしれませんわ。|禿《はげ》|鷹《たか》やハイエナも食べることをためらうような、腐りやすい肉。あたしはそんなものをこの世にぬぎすてて、すきとおった骨だけの鳥みたいに、どこかへ飛んでいってしまいたい」 「精神病院へか? ナンセンスだ。きみは本物の分裂病患者をみたことがあるの? やつらときたら、もう人間ではないし猿でも神でもない。ただのいやらしい化物だ、人間以下のレヴェルの。きみがそんなものになるつもりだとしたら、まったくナンセンスだ」 「そんなに怒らないで。あたしがこの世に死体を棄てる場所というのが精神病院なんです。だから、三年もたったら一度みにいらっしって。水死人みたいにふとった女患者にお会いになれるわ。そしてそのころ、ほんとのあたしは別の世界をひらひら飛びまわってます」 「冗談はよそう」とぼくはいらだっていった。窓にまた幽霊の顔がうつってなかをのぞきこんでいるのに気づいた。 「冗談とおもってらっしゃるの?」 「ちくしょう、そんな|巫《み》|女《こ》みたいな声でものをいうのはよしてくれ、きみはばかだよ、気ちがいとしても最低のにせ気ちがいだ、ぼくは孫悟空みたいに|蠅《はえ》になっていますぐこの受話器の穴からもぐりこんできみの耳の奥まではいこんで、大脳が腐りかけてないかどうかみてやりたいよ。いったいどんな顔をしてるかもみてやりたいね。そのきれいな顔がアカエイみたいに気味のわるい形相にかわってにたにた笑ってるんじゃないか。ねえ、未紀、おねがいだからそんな話しかたはしないでくれ、まっぴるまに汗をたらたら流して公衆電話でそんな話をきいているとぼくのほうが発狂しそうになる。精神病院にはいるとか尼寺に行くとか、そんなことを電話で議論しているだけでも頭のなかを一匹の|蜂《はち》がぶんぶん飛びまわってるような気分になるよ」 「ごめんなさいね、こんなにおしゃべりして。次のひとが待ってるんじゃない?」と未紀はあまりにもまともで平凡なことをいった。 「気ちがいなら気ちがいらしくそんな心配なんかするな!」とぼくはどなり、外でうろうろしていた醜い主婦を憎悪の手つきで追いはらった。それからぼくは脅迫するようにいった。「いいか、これだけはきいておいてもらおう。ばかげたことに、ぼくはきみを愛しているとおもう。だからぼくはきみがどこへ逃げてもどこまでもついていってきみを理解する。きみをノエマの核にしてしまう。きみのことを考えるからぼくは存在する。きみは逃げられない。そういうわけだ」 「それであたしと結婚したいとおっしゃるのね」と未紀はためいきとともにいった。  このときぼくはやや冷静をとりもどしていたので、未紀をぼくの意識で捕獲してたえまなく|愛《あい》|撫《ぶ》するという存在論的な欲求のほかに、ぼくがあるきわめて卑俗な希望によっても動かされていることに気づいていた。つまり、結婚という所有の形式は、未紀のような高級種の女(ぼくの意味するところは、雑犬ではなくてコリーやプードル、テリア、というのとおなじことである)を所有する場合、ことのほか重要だということをぼくは知っていたし、はじめて未紀をみたとき以来、この種の女と結婚の契約をむすぶことに心からあこがれつづけてきたのである。こう分析してみると、笑止千万な高級品への欲望や虚栄心が露呈してくるのだが、しかしぼくのようにいかがわしい家庭や貧乏の恥に憎悪をもやして生きてきた人間にとって愛というものがしばしばそうした形をとるのはやむをえない。いまやぼくはこの目的を達するために行動を開始していた。アメリカ行きを一時的に放棄してでも未紀をえらぶべきことはあきらかだった。 「あなたはお変りになったわ」と弱い声がきこえてきた。ぼくは狼狽してききかえした。 「それはどういう意味だ?」 「むかしのあなたは、|狼《おおかみ》みたいに飢えていて|兇暴《きょうぼう》でした。でもいまはちがいます。タンポポの毛のようにやさしい意識だけの存在なのね」 「そうかもしれない。ぼくはもう二十四で、りっぱな中年男だからなあ」 「むかしのあなたは、太陽を食べてどんどんふとる原生動物のようでした。太陽を吸えばそのエネルギーがそのまま肉となるし、その肉がまたいつでもエネルギーにかわるような、みごとな転換機構をそなえた生きものでしたわ。あなたにとって、太陽とは現実のことで、それからはなれないかぎり、あなたはそのエネルギーを食べていくらでもふとることができたのです。ロバート・シェクリイのひる[#「ひる」に傍線]みたいに。あなたは、強盗強姦も、革命ごっこや何ダースもの情事も、インセストまでもおやりになった、そしてこの世の秩序や道徳をずいぶん喰いあらしたけれど、でも世界を喰いつくして自分が世界にとってかわることは、あなたにもできませんでした、あなたのように強力なひるにも。けっきょく、現実を喰いつくすことはだれにもできないことですわ。もし喰いつくしてなくなったらもう生きてはいけませんから……」 「そのとおりだ」とぼくは|自嘲的《じちょうてき》にいった。「いつかはそんなはてしない|膨脹《ぼうちょう》をやめて、不定形のエネルギーを硬い|蛹《さなぎ》のなかにとじこめて冬眠生活にはいるほかなかった。それがアンポ[#「アンポ」に傍線]のころだった」 「そしてとうとうあたしのなかにとじこもろうとなさるのね。そうして、あたしのなかで、たぶん、あなたのゆっくりした死がはじまるのでしょうね……」  ぼくの耳のなかには次第に厚く絶望のかびが生え未紀の声からその意味を吸いとってしまった。そうでなければ未紀のことばは吹針のようにぼくの胸に刺さってぼくを倒していただろう。  もうぼくのいうべきことはなかった。トニカク会イタイノダという懇願と強要をぼくがくりかえすと、未紀はオ会イデキマセン、イラッシッテモアタシハモウココニハイマセンという拒絶をくりかえした。サヨウナラという声がきこえた。それから沈黙があって、電話は切れた。  外にでると、道路はベビイ・パウダーをまぶされたように白かった。広い、みなれない道路だ。いつのまにか都電の線路が撤去されていたことにはじめて気づいた。それはぼくの目のまえからゆるくねじられてせりあがり、そこで突然なくなっているようにみえた。その先は地球がぱっくりと欠けているかもしれない。サングラスをかけると、国道は病んだ女の腹の色になり、太陽は死んだ男の眼球になった。信号がかわった。止っていた車の群れがおびただしい精虫のように流れだして道路をのぼりつめ、そこでふいに姿を消してしまう。路上に白い空白ができた。そのうえをぼくは一匹の|蟻《あり》のようにのろのろと横断した。  あらゆる可能性を考えて希望を生かすことについやされた数時間のことを、ぼくはおもいだしたくない。  未紀の家に行ってみたのは夜になってからだった。どんな最悪の事態であれ、それをたしかめてみようとするのがぼくの流儀である。ぼくの首が切りおとされてさらし首にされたとしたら、まっさきにそれをみにいくのはぼくだろう。だが、このふかい絶望にもかかわらず、事態はほとんどいつも予想したよりははるかにいいものだ、という経験が、ぼくを、はげましたというより図太くさせていたことも事実である。この図太さは、未紀の家に着いて、あの手拭をかぶったばあやがでてきたときにもまだ残っていた。未紀はいた! ベッドのうえで身をおこすと、ぼくに笑いかけた。その微笑のすごさ! ぼくはほとんど血を失いそうだった、としかいえない。なぜだったのだろう? 未紀はべつに吸血鬼の顔をしていたのではなく、ただあたりまえの顔でにっこりとぼくを迎えたにすぎなかったのに。未紀はひらいていた。ぼくはうけいれられた。ただ、それはだれもいない部屋にふみこむようだった。どこかで未紀の声がした。アタシヲ看病シテ……アタシヲミツメテイテ……アタシノコトヲオモッテイテ……アタシニハアナタガ必要ナノ。こうして未紀はぼくとの結婚をうけいれたのだが、ぼくはこの契約にあたって、ぼくがなにをのぞまれているかを理解していたといえるだろうか。よろこびはなく、不安だけがぼくを硬くふくらましていた。そして夜がふけて、ぼくはじっと横たわったままの病人のなかへ、意味もなくすべりこんだ。これは治療法の一種であったつもりだ。彼女にはこうやって話しかける必要があった……このあとのことについては、すでにぼく自身が書いた部分をほとんどそのまま引用すればよい。つまりぼくと未紀との結合の状態は、京都のホテルで作家[#「作家」に傍線]とすごした時間の、ほとんどそっくりそのままの再現だったのだから。ただ結末だけがちがっている。ぼくは未紀のなかで動かなかった。耳をすまして未紀からの答を待った。しかし答はなかった。ぼくはゆっくりと死んでいった。まるで|壊《え》|疽《そ》にでもかかったかのように、ぼくは未紀のなかでとけてなくなった。これがぼくたちの結婚を意味していた。たちのわるい冗談としていうなら、精神病院に逃げこむかわりに未紀は結婚のなかに自分の死体を遺棄することもできたのだ。これがぼくにおこったことなのだとぼくは知った。要するに、なにごともおこらない。なにごとも。夜が終り、陽がのぼるだろう。ぼくは冷たい女神のようなおしりを|撫《な》でてみた。     解説 [#地から2字上げ]森川達也 『聖少女』は昭和四十年、新潮社版「純文学書下ろし特別作品」シリーズの一冊として刊行された。作者三十歳のときである。氏は後年、ある文学全集の一巻に付した自筆の略年譜のなかで、この作品のことを作者「最後の少女[#「少女」に丸傍点]小説」というふうに、書きしるしているのだが、今、あらためて読み返してみても、氏の青春の最終を飾るにふさわしい、感性ゆたかな、|瑞《みず》|々《みず》しい作品である。  ところで、この作品が初めて公刊されたとき、作者は次のような言葉を述べている。 「わたしはこの小説のなかで、不可能な愛である近親相姦を、選ばれた愛に聖化することをこころみました。ここに登場する二つの青春は、現実のなかに発生して現実を|喰《く》いつくす|癌《がん》に似ており、聖性と悪とはシャム兄弟のようにわかちがたく抱きあっています。わたしはこれをいわば鏡の裏側から眺め、悪い夏に融けていく軟体動物のような小説として提供したかったのです」。  作品の意図は、この作者自身の言葉によって、充分に尽くされている、と言ってよいだろう。のみならず、ここに示された作品の意図は、同時に、デビュー作『パルタイ』以降、さまざまな批判にさらされながらも、この作者がひたすら堅持してきた、独自な文学観をも、よく示しているだろう。  たとえば倉橋氏は「この小説のなかで、不可能な愛である近親相姦を、選ばれた愛に聖化することをこころみ」たと言う。一般に「近代リアリズム」と呼ばれる方法を、ほとんど唯一のものとして展開されてきたわれわれの文学のなかで、こういう発想を示した作家は、戦前はもとより、戦後といえども、ほとんど居ない。小説はただ、事実を事実として、在りのままに表現するものだ、とする従来の文学観に対して、たとえばこの『聖少女』がそうであるように、氏の小説観は真向から対立する。そういう従来の考えかたからすれば、この作品が扱っている世界は、徹頭徹尾、嘘の世界、虚構の世界である。  しかし、それにもかかわらず、もしわれわれ読者が、この作品を読んで、いささかでも感動を覚えるとすれば、その感動は何に由来し、またどういう性格のものであるのか。すでに述べたように、この感動は事実あるいは現実に根拠を持ち、そこに由来するものではあり得ない。たとえばここでは、父と娘、姉と弟、という二組の近親相姦が扱われている。むろん、そういう近親相姦が、事実あるいは現実として、存在しないというわけではない。むしろ事態は、われわれの想像をはるかに越えているのが、実状であるのかも知れない。  だが、たとえ事実がそうであるにせよ、「近親相姦」は、作者のいわゆる「不可能な愛」として、われわれ人間にとって、あくまで禁忌さるべき一個の、絶対的な観念である。作者はこの絶対的な観念から出発し、そしてこのタブーに挑戦しようとする。そういう意味では、この『聖少女』はきわめて観念的な作品であり、従ってそれが読者にもたらす感動もまた、きわめて観念的なものである、と言わなければならない。  しかし、ではその感動が観念的である、とはどういうことなのか。『聖少女』が書かれてから、丁度十年の後に、作者はこの作品を回顧して、こう述べている。 「……作者が立てた仮説は、例えば父と娘が『間違い』ではなくて恋人同士になるという、考えられる限りのいやらしい帰結が、精神の自由な働きの落し穴として生じる可能性があるのではないかということである。これは例の『クレタ島の人はみな嘘つきである』以来の論理的なパラドックスからそれほど遠いものではない。自由に運動する精神がその自由に適当な制約を設けておかなかったためにある地点で足がもつれて倒れることは大いに考えられる。その意味でこれは精神が遭遇する事故のようなものかもしれない。従ってその地点への歩行は危険なのである。あるいはその観念を|弄《もてあそ》ぶのは危険なのである。それを敢えてやってみるのは、別にこれぞ果敢なる冒険というほどの意味などなくて、子供に特有の恐いもの知らずとか好奇心とかのせいであるにすぎない」(新潮社版『倉橋由美子全作品5』作品ノート)。  たいへん冷静で、自己に厳しい文章である。最初に引用した、発表当時の作者の言葉と重ね合わせてみると、十年の歳月がこの作者に何をもたらせたかを知る上でも興味深いのだが、そのことは別として、作者がここで力をこめて強調しようとしているのは、何よりもまず「精神の自由な働き」あるいは「自由に運動する精神」ということでなければなるまい。  この『聖少女』のみならず、氏のあらゆる作品は、すべて氏がここで強調する、いわゆる「精神の自由な働き」あるいは「自由に運動する精神」というものに支えられて成立している。そう断言してよい。だとすれば、この作品が読者にもたらす感動もまた、そういう性格のもの、換言すれば、「精神の自由な働き」あるいは「自由に運動する精神」に由来するカタルシス、その意味では、きわめて「知的」なものである、と言わなければならない。  ところで、作者がここで言う「精神の自由な働き」「自由に運動する精神」とは、具体的には、どういう形態をとって、読者の前に提示されることになるのか。たとえば作者は、この作品の女主人公を通じて、こんなふうに語らせている。 「……あたしに理解できなかったのは、なぜあんなものを書いたのかということでした。ひとはなんのために小説を書くのでしょうか? 小説家は、小説を分泌せずにはいられないという業病を金銭とむすびつけることによって生きている人間で、あたしには理解できない種類の人間に属しますが、|素人《しろうと》の場合は、自分の生に意味づけしたいという衝動から手記のようなものを書き、それがごく自然に変質して小説となるのでしょう。つまりかれらにとって、小説はあきらかに認識の一手段です。ところで、あたしの場合はそれとはいささかちがっていました。あの小説(またはたんに、あのノート)は、あたしにとって|呪術《じゅじゅつ》の性質をもっていたようにおもいます。あたしの分泌したことばは、現実をとかして、現実と非現実の境にゆらめくかげろうのなかにあたしをとじこめるための呪文という性質をおびていました。いまになっておもえば、あたしはあの小説によって、不可能な恋人[#「不可能な恋人」に傍線]であったパパに対するあたしの不可能な愛[#「不可能な愛」に傍線]を聖化しようとしたのでした。……」  長い引用になったが、いくらか深読みすれば、ここには従来の文学に対するいささかの、だがかなり辛らつな|揶《や》|揄《ゆ》とともに、この作者が希求する独自な文学の在りようが、ひそかに提示されているだろう。氏の言う「精神の自由な働き」あるいは「自由に運動する精神」とは、単に現実から遊離し、それとは無関係な空想の世界に|飛翔《ひしょう》すること、などを意味するものではない。そういう観点からすれば、氏の文学精神はむしろ逆に、徹底的に現実にかかわろうとしている。だからこそ、氏は敢えて「近親相姦」という、もっとも醜悪な現実から出発する。しかも氏は、この醜悪なる現実を言葉という媒体を通して、必死に聖化しようとこころみる。  それが成功し得たか、どうかは、むろん読者の感受に任せる外ないわけだが、氏がここで言う「精神の自由な働き」「自由に運動する精神」とは、そういう事態のなかで初めて獲得されてくる、きわめて能動的な精神の自己純化、自己浄化の情況を指すものでなければならない。  これはたしかに、一個の新しい美の所在を、われわれに告知するものである。おそらく作者は、こうした新しい美の所在を、氏が大学の卒業論文に選んだサルトルの『存在と無』、あるいは『聖ジュネ』などから感得したものであるに違いない。  ともあれ、しかし、この作品が氏の青春の最後を飾るにふさわしい、まことに瑞々しい「少女小説」であることには、いささかの変わりもない。若い日の氏の知性は、猟犬のように|敏捷《びんしょう》であり、そしてその感性は、驚くほどに柔軟であり、|豊饒《ほうじょう》である。こうした才能の駆使——それはほとんど乱用に近い、と言うべきかも知れない——は、多分、青春だけに許された特権なのであり、そして、だれにとっても青春は一度限りである以上、氏がここで惜しみなく見せた|絢《けん》らんたる才華振りも、氏みずからが言うように、おそらく最後のものであるだろう。その意味でも、これはやはり記念すべき作品と言わなければなるまい。  その絢らん多彩な才華振りは、何よりもまず、まことに巧妙に仕組まれたプロットのなかに見出せるだろう。それはわれわれ読者に、一種の「謎解き」をせまる、推理小説ふうの面白ささえ、味わわせてくれる。しかしそれよりも、ここで私が注目したいのは、作者がこの作品で使い分けている文体の多様さである。  作者はそれについてはただ作中の人物である「『ぼく』はヘンリー・ミラー風の口調でしゃべりまくっているが、この小説の取柄はそのおしゃべりの快調な速力だけなのかもしれない」(同上作品ノート)とだけ述べているのだが、むろんこれは謙辞であり、この作品の魅力が、そこだけに尽きるわけはない。主要な登場人物たちが背負っているそれぞれの性格と状況に応じて、作者がいかに細心の配慮のもとで、多様多彩な文体を造りあげているかは、たとえば女主人公「未紀」一人の場合を見るだけでも、充分であるだろう。 [#地から2字上げ](昭和五十六年八月) 底本 新潮文庫の100冊 CD-ROM版(1996) 聖少女 倉橋由美子 校正の参考にした底本 倉橋由美子全作品5 聖少女/結婚/亜依子たち 1976年2月20日発行 1976年6月15日二刷 新潮社