柏原兵三 徳山道助の帰郷 目 次  徳山道助の帰郷  殉愛  クラクフまで  朗読会  ピクニック   あとがき [#改ページ]   徳山道助の帰郷                     ——母にささぐ     第一章  徳山|道助《どうすけ》の故郷の家は、大山と呼ばれる標高千米近い山の麓にあった。大分市からローカル線で三駅目にあたるM駅で降りて、川沿いの県道を小一時間も歩くと、その麓に出る。県道からは、徳山道助の生家の庭の東の隅に植わっている三本の大きな銀杏の木と、白壁の土蔵だけが見えた。銀杏の木は道助が中学校に入学した時に母が記念に植えてくれたものであったが、いつしか見上げるような大樹となっていた。土蔵はこのあたりのどの農家にもあるので、別に彼の生家が富んでいることを意味しない。冠婚葬祭にあたって集まる親類縁者を泊めるための寝具、什器などをしまうための土蔵にすぎない。  彼の家は、先祖代々が切り拓き殖やして行った山あいの狭隘な田畑を耕作し、そのかたわら養蚕を営んで来た貧しい自作農であった。ただこの土蔵の白壁は、昔からこのあたりの景観に独特の風趣を添えていた。土蔵を白壁に塗っている家はこの辺では彼の家だけだったし、そしてまた手入れがよく行き届いていてその壁がいつも白く塗りかえられていたからである。ぬき出るように白い壁は、誰の目にもしみ入るようで清潔な印象を与える。  彼が予備役に編入されたのは支那事変の勃発直後であったが、その時まで村人たちはこのあたりにさしかかると、この銀杏の木と白壁の土蔵を仰ぎ見ては、この家から徳山道助さんが出たのだ、と思ったものだった。そしてこの小さな山村にいずれ陸軍大将が生れることを固く信じて疑わなかった。村の小学校の生徒たちは、この銀杏の木と白壁の土蔵を見ると、学校で先生たちから聞かされた彼の逸話の数々を思い出した。それは二宮金次郎を髣髴とさせる、勤勉無比の優等生だった彼の小学校の尋常科、高等科時代にまつわる逸話だった。徳山道助は神童の誉れ高く、高等科の時は一年から三年に飛び越えてしまった程よくできた。中学校に入ってからも月謝免除の特待生だった。家の手伝いを人一倍してそうだったのだ。そうしたことを色々と小学校の生徒たちは、学校だけでなく家でも聞かされていたのである。中学生は、といっても村からは毎年僅か一人か二人の中学生が誕生するに過ぎなかったが、この銀杏の木と白壁を見上げ、自分たちもこの郷土の輝かしい先輩のあとに続けぬものでもないと思ったりした。しかし徳山道助は村人たちが期待したように陸軍大将にはならなかった。彼は陸軍中将で終ってしまったのだ。しかしそれでも、この村で陸軍の将官になったのは、彼が最初で最後だったのである。  長男の彼の代りに家を嗣いだ、すぐ下の弟の啓吉から、来たる五月十日は亡き母の三十三回忌にあたるからぜひ御帰郷ありたい、その法要には、兄上が帰郷されれば、武助《ぶすけ》も帰郷するといって来ていることゆえ、兄弟姉妹全員が久しぶりに揃うことになる、姉の鶴も高齢ゆえ、恐らくこれが兄弟姉妹が相集える最後の機会になると思われる、一夕をみんなで語らい合ったら、母の霊もきっと慰められるであろう、という趣旨の手紙が、早くも正月の末に道助のもとに届いていた。  その手紙を追い駆けるように、姉の鶴からも、妹の咲からも、弟の利八からも、彼の久かたぶりの帰郷を切に勧める手紙が来た。  末弟の武助からも、巻紙に筆でしたためられた改まった手紙が来た。自分も会社の方が目下大変忙しいが、法要のある十日の朝着くように帰郷するつもりでいる、この際兄上もぜひ帰郷の御決意あらんことを、という趣旨を候文でしたためた手紙であった。  敗戦の年の三月、熊本幼年学校に入学する孫養子の治を伴って先祖のお墓参りに帰郷して以来、昭和三十年になる今まで、およそ十年間、徳山道助は帰郷していなかった。  徳山道助は日露戦争に、乃木将軍麾下の砲兵少尉として参加した。彼は乃木将軍を敬愛していたから、このことを誇りとしており、年をとってからも、酒が入ると、孫たちにせがまれて、彼の初陣であったこの日露戦争のことを話したが、彼が最後に師団長として戦った支那事変のことは、決して語ろうとしなかった。彼にとってその戦争が余程苦しくて厭な戦いであったためであろう。  彼は連隊長の使いで乃木将軍の許へ赴き、報告を手渡したことがある。その時見た乃木将軍は何十日も髭を剃っていない、憔悴し切った顔をしていたが、支那事変で徳山道助の率いる徳山兵団が苦戦に陥り、部下の死傷がほとんど涯しなく続いた時、彼はよくこの乃木将軍の不精髭だらけの、苦悩に満ちた、沈鬱な顔を想い泛べたものだった。彼自身何十日も髭を剃らずに不眠の夜を続けていたのであった。ただそんな時彼に無念に思われたことは、自分が耐えがたい苦悩を味わわされている戦争が、日露戦争ではなくて、時とともに彼自身その意義を懐疑するようになっていた支那事変であるということであった。そして日露戦争とその背景をなした明治時代に限りない郷愁を覚えることがあったのである。  軍人としての最初の戦いが日露戦争であり、最後の戦いが支那事変だったということが、この明治生れの「老兵」の軍歴の特徴であるが、今その軍歴を日露戦争から支那事変まで順を追って辿ってみることにする。     ***  徳山道助が陸軍士官学校を卒業したのは明治三十六年である。同年六月二十六日付で砲兵少尉に任じられ、野戦砲兵第十七連隊に配属された。しかし翌三十七年二月十日にはロシアへの宣戦布告があり、日露戦争が起った。同年五月十四日には、彼の連隊にも出動命令が下り、同年七月十八日には、広島の宇品港を出帆している。  遼東半島の青泥窪に上陸したのは七月の二十四日であったが、その間僅か一週間足らずのうちに、船に積んだ挽馬の半分は疫病のために斃れてしまっている。幸いだったのは、兵が全員無事でいてくれたことだった。  まだ若い徳山少尉は、船の中で、よく眠れなかった。そして何度も起き出しては兵隊が寝冷えをしないように、毛布をかけ直してまわったりした。  また大砲がちゃんと固定されているかどうかを、何度も起きて確かめに行ったものだった。大砲がひとりでに動き出してどこかにぶつかり射つ前に故障でもおこしたら、またそれこそ兵に怪我でもさせたら、この両方をお預かりしている者として、天子様に申訳ないと思ったのである。将校たる者は、慈父の如く兵にまみえなければならぬ、と彼は絶えず心に思った。とはいっても、兵たちはみな彼よりも年上であった。しかし眠りこけている部下たちを見ていると、彼らが我が子の如く思われて来るから不思議であった。一方彼の心は初陣の手柄を立てることに対する期待の念に満ち、五尺二寸に満たない短躯には勇気が凜々とみなぎっていた……。  彼は大砲に近寄るたびに冷たい砲身をそっと手で撫でた。可愛いいとしい大砲よ、お前が俺の小隊に赫々たる武勲の誉れをもたらすのだ。何百何千万の露助を打ち殺し、帝国に勝利をもたらしてくれなければならぬ。たのんだぞ、大砲!  青泥窪に船が着くと、徳山少尉は大砲の陸揚作業の総監督を命ぜられた。すべすべしていて捉えどころのない大砲を綱で縛って、起重機にかけるのは中々どうして容易なものではない。うまく縛ったつもりでも、途中でするりと滑り脱けないとも限らない。しかも時間は限られているのだ。  最後の大砲の陸揚げの時である。兵が愚図々々しているのを見かねて道助がいった。 「もうよろしい。荷揚げ始め!」  連日の睡眠不足で道助は気が高ぶっていたのかも知れない。それに時間が予定を超えそうなのでいらいらしていたのかも知れない。ちょっと危ないかな、と思ったにも拘わらず、そう断を下してしまったのである。部下の一人が彼のところへ駆け寄って来て、まだ危ないから、もう少し待って頂きたい、万全を期したいから、といった時も、道助は大見得を切った。まことに若気の至りであった。 「心配するな、俺に任せておけ」  起重機が動き出した。道助は船から降りた。大砲は甲板から空中に吊し上げになった。起重機の頭が向きを変えて行くにつれて、少しずつ空中を動く。そして海の上に来た時だった。綱が少しずれ、水平に宙吊りになっていた大砲が傾き始めたのである。 「ああ」と徳山道助は心の中で叫んだ。大砲が落ちる。大砲が海の中に落ちる。その瞬間寝不足でぼやけていた頭が嘘のように澄みわたった。俺の運命、徳山道助の運命もこれで終りだ。金鵄勲章も終りだ。切腹して陛下にお詫《わ》びしなくてはならぬ。母は俺の不運を知ってどんなに嘆き悲しむであろうか…… 「小隊長殿、大丈夫であります」とかたわらの兵が大きな声で叫んだ。目を凝らすと大砲は今にもずり落ちんばかりの恰好でいながら、しかしそれでも無事岸壁に近づいて来るではないか。大砲が地面に着いた時、道助は大砲のもとに駆け寄り、砲身をかき抱き、海中に落ちないでくれたことを感謝した。  旅順攻撃戦において彼は小池中隊に属し、砲四門、兵十六名を指揮する小隊長として、二〇三高地攻撃の歩兵を掩護した。この時、宇品港出帆以来行動を共にして来た、中央幼年学校以来の同期生、高津弥吉少尉は頭を撃たれて戦死した。徳山道助自身も、壕に生き埋めとなり九死に一生を得た。  高津弥吉は松山の大地主の次男であったが、出征する少し前に長兄をチフスで失い、戦争が終ったら軍隊を辞め、郷里の家を嗣ぐことになっていた。人のいい男で、ついでに兄貴の細君ももらうことになっているが、器量よしで気立てのいい女だから、兄貴のお古ではあるが、我慢するのじゃ、といっていた。自分が死ぬと家を嗣ぐ者は誰もいなくなる、だから自分はどうしても帰らなければならない、と口癖のようにいっていた。戦闘中でも、砲弾の音がするたびに、「こいつをやられると子孫絶滅じゃ」といって皮の軍嚢を睾丸に半ば本気であてがったりする憎めない男だった。腕の一本位なくなってもいいが、子孫を絶やすことになったら一大事だというのである。この高津弥吉は旅順攻撃戦に参加して三日のちには戦死してしまった。  徳山道助が生き埋めになったのは、高津少尉戦死の三日後であった。  その日、ロシア軍は日本軍が担送中の負傷兵を明らかにそれと知りながら攻撃し、これを殺傷するという事件を惹き起した。そして日本軍はこれに報復することを決定し、旅順港内のロシア軍赤十字病院の砲撃を、徳山少尉の属する小池中隊に命じたのである。道助はこれを拙劣な報復、武士道に反する報復と信じ、強硬な反対意見を具申した。しかし一少尉の意見は容れられるところとならなかった。仕方なしに徳山少尉は砲撃命令を小隊に下し、自身は砲撃の様子を双眼鏡で窺った。砲弾は続けて命中し、蜂の巣をつっついたようにロシアの看護婦が逃げ出すのが見えた。徳山少尉は砲撃中止を命じた。ともかく報復の意図は達せられた、と考えたからである。ところがほかの小隊は一向に砲撃を止めない。そのうちに怒ったロシア軍が猛烈な反撃に出た。二〇三高地の重砲をもって集中砲火を浴びせたのである。徳山道助は兵たちと共に壕の中に隠れた。兵たちは念仏を唱えていた。天罰が下った、という者もいた。一発至近弾が落ち、二発目は反対側に落ちた。「今度はあたるぞ!」と徳山道助が叫んだ時、三発目が命中し、壕は崩壊した。彼は生き埋めになったが、苦心して土を掻き分けてやっと這い出し、自分と共に這い出した兵に命じて助けに来ようとしない隣の壕の兵を呼びにやり、二〇三高地の方を幾度も振り返りつつ、埋まった兵を救い出した。この時二名の死者、数名の重傷者を出し、徳山道助自身両手に軽傷を負った。この痕は死ぬまで左右両手首に茶色いしみとなって残った。  旅順包囲戦も終りに近づいた時、第三軍の司令部からよく見える丘の攻撃に歩兵が向った。ところがその丘に構築されたトーチカの機銃が妨害して近寄れない。ごく間近に味方の歩兵がいるこの目標物の砲撃には、連隊一の名射手徳山少尉が適任であろう、ということになった。徳山道助は全軍固唾を嚥むうちに、数発目にこれを爆砕した。「これは乃木将軍も双眼鏡で見ていたということだ」と後年徳山道助はこの手柄話を誇らしげに語ったものである。  この頃彼は中尉に昇進した。  旅順が開城すると、徳山中尉は入城式に参加することなく、直ちに奉天戦に向った。ミシチェンコの騎兵集団に遭遇したのはこの時である。猛将ミシチェンコの率いるこの騎兵集団はロシア軍中の精鋭であったが、その時は北方へ退却中であった。このミシチェンコの騎兵集団に邂逅する前夜、徳山道助の属する連隊は凍てついた高梁畑に露営したが、天幕一つなく、塹壕を掘るにも土が凍っていて掘ることができない有様であった。兵隊たちは将校の制止も聞かないで、高梁きびを焚いて煖をとった。こうして敵との接触の様子も不明のまま、日の出るのを待っていたのである。  やがて空が白んで日が昇る頃兵隊の一人が前方に林が見える、と叫んだ。  徳山道助は双眼鏡を構えてこれを見ていたが、やがて、「小池中隊長殿、林が動き出しましたぞ」と報告した。それがミシチェンコの騎兵集団であった。  小池中隊は直ちに放列を敷いた。この時、徳山中尉は中隊の中でもっともよく働いた。両隣の小隊長は戦死し、徳山中尉は、中隊の砲の大部分を指揮して、二百米から五百米の至近距離を移動するミシチェンコ軍を射って射って射ちまくったのだ。  この時日本軍にも多数の死傷者が出たが、ミシチェンコ軍の被害は莫大で死屍累々たるさまであった。徳山道助の指揮する砲で、少なくとも千や二千のロシア兵を殺したことは確実であった。「しかしなぜミシチェンコの軍がわれわれに対して正面攻撃に出ないで、退路を側面から攻撃されるままに甘んじていたのか、未だに分らない」と後年徳山道助は注釈をつけたものである。  その頃ウラジオストックの露国軍隊が日本海軍を全滅させてしまったので、満州の日本軍はそのまま孤立してしまうというデマが飛んで、徳山道助中尉は大いに憂えた。  内地には旅順の攻防の夥しい被害が伝えられていた。道助の父母は、音信が跡絶えていることから、道助がもう死んだものと思い込み、嘆き悲しんだ。道助に軍人志望を勧めた道助の母方の操三郎伯父はずい分恨み言をいわれた。その時旅順から「道助生きちょる」と走り書きして出した葉書が届いて、郷里の人々を大喜びさせたのである。  ルーズベルトの斡旋によってポーツマス条約が成立した時、徳山道助は奉天の近くにいたが、その報が入ると全軍は湧き立った。みんな無茶苦茶に騒いだ。徳山道助も軍刀を吊ったままダンスをした。  内地に凱旋した軍を迎える国民の熱狂は大きかった。この時徳山道助は任官して初めての帰郷をしたが、村中の人々が村の入口まで彼を迎えてくれたのであった。小学校では徳山道助中尉凱旋記念祝賀大会が開かれた。道助の末弟の武助はこの時小学校の二年であったが、兄の徳山道助中尉に見せる剣舞の練習を二週間にわたってつけられたことを憶えている。道助が滞在した一週間、さまざまな祝賀会が連日彼のために催された。徳山道助の感激は大きかった。  徳山道助はこの日露戦争の功により功五級の金鵄勲章と年金三百円、並びに勲六等単光旭日章を授けられた。父が中風を病んでから東京に引取って中学に上げた末弟の武助を、道助が更にK大学の予科に入学させたのも、この金鵄勲章の年金があったからこそであった。  凱旋後も徳山道助は引き続き同じ連隊に勤務したが、やがて野戦砲兵射撃学校教官に任ぜられた。  その頃彼は鷲津家の長女と結婚した。わが人生の最大の失敗と彼が生涯悔いて止まなかった結婚である。媒妁人は郷里の殿様である蒲生子爵であった。鷲津家はもう東京に出ていたが、大分県鶴崎の出身で同郷であった。当主の鷲津太郎は男爵陸軍少将で、日清戦争に従軍していた。鷲津家は細川藩の家老を勤めた家柄で、鶴崎では小大名と呼ばれた旧家であった。  明治四十二年徳山道助は選ばれて陸大に入学した。ここでは学課が厳しくて、暁の頃に床に就いたことも屡々であった。徳山道助は戦術に秀でていたが、戦術の教官と意見が合わず屡々烈しく衝突した。そのためか卒業席次は彼の意に反して悪く、六番であった。中央幼年学校、士官学校を一番で卒業した道助にとってこれは著しく不満なことであったが、致し方なかった。この間徳山道助は大尉に任官していた。  柳腰の美人である妻の綾子は、長女富子を出産してから流産を重ね、ヒステリーの発作を屡々起すようになっていた。結婚後日を重ねるに従い、彼は妻のうちに、ことごとく自分の期待を裏切るものばかりを見出していた。優しく母性的な女を期待していたのに、妻は驕慢で我儘な女であった。彼を満足させたのは妻の美貌だけであった。  大尉に任官してまもなく彼は末弟の武助を引きとって、東京の中学に通わせることにした。この頃妻の父が病死した。  大正二年徳山道助は陸軍省兵器局課員に任ぜられ、翌三年第一次大戦が勃発すると、ロシアに対する軍需物資供給の実施に携わった。彼は屡々ウラジオストックに出張して、供給計画の実施に万全の注意を払い、十年前に戦った旧敵国露国の勲章まで授けられている。しかしそれが徳山道助が当然予期していた勲章より一段低いものだったので、彼は怒って、それを決してつけようとしなかった。  第一次大戦が終結をみると、大戦中少佐に昇進していた徳山道助は、一年間の欧米視察を命ぜられた。これには大戦中兵器局課員としてロシアに対する軍需物資供給にあたって示した彼の功績に酬いる論功行賞の意味があった。  印度洋に於て徳山道助は熱病に苦しみ、水葬されることを大いに苦に病んだ。  マルセイユに上陸した道助は、一路パリに向った。徳山道助は士官学校に於てフランス語を専攻し、フランス砲術に於ては陸軍切っての権威と目されていた。彼が主な滞在地にパリを選んだのはそのためであった。  パリではフランス陸軍退役少佐の家に寄宿、日常生活を共にして、フランス人の質素な生活に大きな感銘を受けた。大戦直後のフランスの民情を視察し(この中には娼家を訪れたことも入っていたが)、且つ軍関係の機関をつぶさに見学したほか、大戦の戦跡調査にあたった。  八カ月にわたるパリ滞在ののち、ベルリンに移り、敗戦国ドイツの荒廃を目のあたりにし、マルクの暴落を体験した。ベルリンではフリードリヒ・シュトラーセのパンジオンに止宿し、約六週間滞在した。その間三週間ばかりバルカン諸国を歴訪した。そののちロンドンを経て、アメリカ合衆国を短期間にわたって見学し、帰朝した。帰朝後出張旅費の三分の一が余ったことが分ったので、彼はこれを陸軍省に返却している。  帰朝してまもなく徳山道助は京都師団の参謀に任ぜられた。長らく本省にいて官僚的な生活に飽き飽きしていた徳山道助は喜んで京都へ行き、演習に打ち込んだ。  この頃徳山道助は離婚を真剣に考えたが、娘のことを考えて離婚に踏み切れずにいた。それに経歴に傷がつくことを恐れたという点がなかったとはいえない。  母が姉の鶴を連れて、孫娘を見に初めて彼の家を訪れたのもこの頃だった。  シベリア出兵に際して、徳山道助は特命を帯びてウラジオストックへ赴き、パルチザン掃蕩戦の研究にあたった。彼が遂に決意した離婚を取止めたのは、不意に下ったこの出張命令のためであった。  任務終了後帰国した徳山道助は陸軍高射砲隊長に任ぜられた。徳山式高射砲術が編み出されたのはこの時である。  民間に於て反軍思想の高まった時代で、電車の中で、サーベルの先が触ったといって罵られた軍人が数多くいた。徳山道助にとって内外共に不愉快な時代であった。  大正十二年は関東大震災の起った年であるが、この年の五月十日に徳山道助は母を失った。母に大佐になった姿を見せられなかったのが彼の痛恨事であった。なぜなら翌十三年に道助は大佐に昇級し、近衛砲兵連隊長に任ぜられていたからである。この年の末長らく中風を病んでいた父も母のあとを追って他界した。そのため徳山道助は珍しく二年続けて帰郷した。  昭和二年徳山道助は再び本省に戻り、軍務局砲兵課長、兵務課長を歴任した。この頃妻の実家のただ一人の跡取りの兄が、三井物産の社員としてパリに滞在中自動車事故に遭って死亡し、そのあとを追うようにして、妻の母が死んだ。徳山道助が離婚という考えを振り捨てたのはこの時である。妻の誇った実家が崩れ去った時に妻をほうり出すような形で離婚することはできないと思ったのである。しかしその後も妻のヒステリーは昂ずるばかりであった。それを人目にさらさないようにすることで彼は心を砕いた。彼は家庭の幸福を諦め、職務に精進することによって結婚生活の不幸を忘れようとした。  昭和五年徳山道助は少将に昇進し、野戦重砲兵第一旅団長に補せられた。この頃徳山道助は独り娘の富子を銀行員に嫁がせた。当時、独り娘は養子を迎えなくては嫁がせることができなかったから、道助は娘を嫁がせる前に、形式上、末弟の武助を養子にした。そして娘に二番目の男の子が生れると、かねての約束通りその次男を養子に迎えて、形式上の養子に過ぎなかった武助を離縁した。その頃すでに武助は結婚して子供も一人いたから、親子三人で長兄の家に養子に入り、三年後には離縁されたのである。武助にしてみれば迷惑な話だったが、世話になった兄のたのみとあらば、引受けるより致し方なかった。  昭和七年、徳山少将は野戦重砲兵学校教育部長に任ぜられ、その後同校長、陸軍士官学校長を歴任した。  徳山道助は日本に於ける砲学の権威として認められていた。平面砲術から立体砲術への切替を行なったのは彼であった。  昭和十年徳山道助は中将に昇進し、砲兵科の教育の総元締たる砲兵監に任ぜられた。翌十一年に、二・二六事件が起きた。  日本は支那事変の泥沼に足を踏み入れようとしていた。徳山道助は皇道派や統制派の青年将校より大分閥の南次郎大将の一派と見做されていたが、彼自身はすべての派閥に対してきわめて批判的であった。派閥の跋扈と下剋上の風潮こそ、陸軍の、ひいては大日本帝国の将来を危うくするものであるという考えは彼の信念となりつつあった。特に彼は、未熟きわまる青年将校の思い上った思想と行動を憂え、これら青年将校たちを利用しようとしている上層部の一部のあり方を苦々しく思っていた。  二・二六事件後まもなく徳山道助は第三師団長に親補され、彼の最良の年を迎えた。師団の主力が満州にあったので、徳山師団長は直ちに渡満して、これをハルピンに於て統率し、「討匪の任務」を果すと、約二カ月ののち、凱旋した。  その頃徳山道助の前途は洋々としていた。自分はどこまで偉くなるか分らないと思われることが多々あった。彼の名は一部で早くも次期教育総監に擬せられていた。彼のこれまでの経歴からすれば、それは充分にあり得ることであった。もはや大将になるのは時間の問題である、と彼にも信じられることがあった。  凱旋の第三師団長として名古屋城に入城してからしばらくして彼は帰郷した。現役で帰郷した最後であったが、その時は無論これが現役で最後の帰郷になるとは夢にも思わなかった。絶頂はまだ遠い彼方にあり、自分はその絶頂に達する何合目かにさしかかったまでだと、徳山道助は思ったのである。日露戦争で凱旋した時以来の華やかな帰郷であった。大分駅頭には県知事、市長、商工会議所会頭から彼の村の村長に至るまで各方面の人々が凱旋将軍である彼を迎えた。駅貴賓室に少憩後、県庁差廻しの自動車に乗って一路生家に向った彼を、村の入口では、村会議員、在郷軍人会会員、国防婦人会会員はもとより、村の小学校生徒の全員が、手に手に日の丸を持って迎えた。このひとときは彼にとって、新任の第三師団長として初めて名古屋駅頭に降り立ち、彼を迎えて轟いた十三発の礼砲を耳にした瞬間よりも、名古屋駅前広場に整列した儀仗兵を閲兵した時よりも、晴れがましかった。その時彼が覚えた感激は、宮中に参内して拝謁を仰せつけられ、凱旋将軍として軍状を奏上した時の感激に劣らず大きかった。これまで覚えたすべての感激も、これまで経験した幾多の晴れがましい瞬間も、この故郷あってのことだったのだ、ということをその時程明確に彼が意識したことはない。彼の栄進を絶えず見まもり、彼の発展を絶えず心にかけてくれる故郷がなかったならば、すべての晴れがましい瞬間はどんなに色褪せたものとなり、感激はどんなにか薄まったことであろうか。喜んでいるのは故郷の人間だけではないように彼には思われた。故郷の山河までもがすばらしい出世を遂げた彼を驚嘆しているように思われた。母が生きている間にこの自分を見せられなかったのは無念であった。しかし先祖の墓に詣でた時、母の墓石が微笑したように思えたのは彼の幻覚であったろうか……。生家に落着けば訪問の客はひきもきらず、川沿いの県道には乗用車の少ない当時のこととはいえ大分県下の乗用車がすべて並んだといわれる程だった。  しかしそれが徳山道助の現役時代の帰郷の最後だったのである。というのはそれから半年後に徳山道助は突如として待命を仰せつけられ、予備役に編入されてしまったからである。これは徳山道助にとってまさに晴天の霹靂ともいうべき事件であった。平和でもない時に、何の越度もないのに、僅か一年足らずで師団長の職を解かれ、予備役に編入されたのである。彼は怒り心頭に発して陸軍省の次官室に呶鳴り込んだが、説明はさっぱり要領を得なかった。  陰謀だと徳山道助は信じた。派閥に奔命していた陸軍にあって、いずれの派閥にも属していなかった彼が、煙たがられている存在となっていることを彼自身知らないではなかった。だからこそ彼は万事に慎重な行動をとっていたのだ。もっとも思いあたる節はないことはなかった。久しく懸案となっていた第三師団の三島野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐の進退問題に断を下したのは、彼であったからだ。橋本欣五郎大佐は二・二六事件の際無断でその部署を離れた責任を問われていたが、第三師団長になった徳山道助がした最初の仕事は前任者のできなかったこの橋本欣五郎大佐の処分であった。彼は己れの信念に従って、橋本大佐を待命処分に付すよう強硬な意見具申を行い、それを通したのであった。その仇を打たれたのだ、という噂が取沙汰されていた。しかし陛下の命が下ったとあらば、どっちみちいたし方のないことだった。  彼は東京の杉並に住んでいた娘夫婦の近くに借家を捜してもらってそこに住んだ。週に一度娘が孫たちを連れて遊びに来てくれることだけが、彼の慰めとなった。彼はまだ若かった。五十代の働き盛りであった。一番油の乗り切っている時だった。しかし東京に引揚げてから僅か二カ月目に、彼に動員令が下された。予備役のまま第一〇一師団の師団長に親補されたのである。支那に派遣されることとなり、彼は勇躍出征した。平和だが味気ない日常生活を捨てて戦争の危険の中へ赴くのを彼は武門の名誉だと思った。  昭和十二年九月十八日、彼は実戦には余り役立ちそうもない予後備兵で構成されている第一〇一師団を率いて神戸港を出帆した。この師団は予備師団であり、しかも東京出身の中年の兵隊が半分を占めていたから、軍司令部としては専ら側面牽制兵力としての利用を考えていたが、現実にこの師団を待っていたのは、凄惨極まる死闘であった。  最初の戦いは上海|呉淞《ウースン》戦線であった。クリークの泥濘中の戦闘で、戦線は膠着し、兵士はクリーク左岸の塹壕で水浸しとなり、赤痢患者が続出した。そして戦死者と負傷者は殖える一方で、補充兵として送り込まれた兵隊は戦場から便りを出す前に、戦死してしまい、戦死の公報が第一報として留守宅に届くという有様であった。クリークは敵味方の死屍で埋まり、糧食の補給には工兵が夜更けてから素裸でそのクリークを泳いであたった。歩兵一〇一連隊の連隊長友納部隊長が戦死したのはこの時であった。第二の激戦であった廬山戦も上海呉淞戦線に劣らぬ死闘の連続であった。これらの戦闘を通じての徳山兵団の死傷率は四十パーセントにのぼり、補充は十二回も繰返され、支那事変の緒戦に於てはもっとも死傷率の高い師団であり、徳山道助の苦悩は烈しかった。その苦悩ぶりははた目にも痛ましい程だった。  廬山の戦いは文字通りの悪戦苦闘であった。出血作戦を極度に嫌い、そのために陸大での戦術講義と実習に於て教官と激突を繰返した徳山道助であったが、軍司令部の督促によって出血作戦を余儀なくされ、彼は日夜懊悩した。彼の陣中日誌には、彼自身重傷を負うまで、毎日戦死者と重傷者の数が記されている。   剣を提げて決然遠征に従う   公に奉ずるの任重く一身は軽やかなり   胸中必ず孫呉の略有らんとす   長江を飲み来たり亦西に進む  上海戦では、徳山道助はこんな下手な漢詩をひねるだけの心の余裕をまだ持っていたが、廬山戦に於てはもうその余裕もなかった。友納部隊長の後任として歩兵一〇一連隊長となった弓塚部隊長が戦死したのも、岩田大隊を陽動作戦のために全滅させてしまったのもこの戦いであった。風光絶佳にして天然の要塞たる廬山山系の山々は徳山兵団の将兵の血で染まったのである。道助は死闘を続ける兵たちと苦しみを共にするため、軍服を着たままごろ寝を続け、負傷するまでの四十日間不眠に苦しんだ。彼が用を足しに行くと参謀長があとをつけて来た。彼が自決することを恐れたのである。そして遂に彼自身重傷を負った。  右者昭和十三年九月二十八日午前十時中華民国江西省星子県都東南側高地(隘口街東方約五粁)戦闘司令所ニ於テ戦闘指導中敵砲弾ニ因リ右頸部砲弾破片盲管創ヲ受ケタリ  これは彼が帰国後傷病年金を申請するため受けた現認証明書の全文である。  負傷後徳山道助は直ちに現地の野戦病院に収容された。そして長い間死線を彷徨ったのち、遂に彼は奇蹟的に命を取りとめた。その頃内地では、銃後ではといい直すべきかも知れない、彼は英雄に祭り上げられていた。彼の病状の一進一退は、新聞、ラジオで大々的に報道された。ニュースのカメラは、彼が前線の病院から後方の病院へと移されるたびに、いたいたしく痩せ衰えた彼の白衣の姿を追った。新聞雑誌の記者たちは、取材のために、彼の留守宅だけでなく、彼の娘の家、故郷の生家までも訪れた。彼の生家、彼の出た小学校がニュース映画に撮られた。彼の故郷の村の小学校の生徒たちが、先生に引率されて、町のニュース館に、ニュース映画を見に行ったのはその時である。  東京第一陸軍病院の特別室におさまった彼のもとには、異例の勅使御差遣さえあった。彼は感涙にむせんだ。内地の将星はすべて彼を見舞った。各界の代表もすべて彼を見舞った。各宮様も、自身で、あるいはおつきの者を遣わして彼を見舞った。そして毎日のように全国津々浦々の学童たちから、夥しい見舞の手紙が彼のもとに殺到した。  この彼の部屋の賑わいと残酷な程際立った対照を示していたのは隣の東中将の部屋であった。東中将は、自宅への帰り、誤って落馬し大腿骨を折ったのであったが、誰一人見舞客がなく、その部屋は無人のように閑散としていた。徳山道助は東中将に同情する一方、自分が東中将の立場に置かれなかった運命に感謝した。  退院後しばらく伊豆伊東の陸軍療養所で療養したのち、彼は家庭の人となった。彼は菊作りに専念するために、貯金をはたいて宏壮な邸宅を世田谷の郊外に買い求めた。年額五千円近い恩給と、傷病年金と、金鵄勲章年金(支那事変の功により彼は新たに功三級の金鵄勲章を授けられていた)が、経済生活を充分過ぎる程保証してくれる筈であった。     ***  今徳山道助は七十四歳になっていた。しかしさすがに若い時からの訓練の賜か、どこといってさしたる故障はなかった。ただほんの少し、これは気のせいかも知れなかったが、足が弱くなったのが感じられるだけである。彼はまったく気持の通わない妻と共に、未亡人となっている独り娘の家の離れに世話になっていた。銀行の副頭取まで出世していた女婿は三年前に脳隘血で急逝してしまっていた。娘には四人男の子がいた。その次男の治を道助は養子にして小学校の四年生の時から育てて来た。この治は軍人志望に反対である彼の意志に逆らって、終戦の年陸軍幼年学校に入ったのだったが、復員後元の中学に復帰し、二年前無事K大学を卒業して、製紙会社に入って、今は北海道の工場にいた。残りの三人の孫が道助と同じ屋根の下に住んでいた。M銀行に入って三年目になる和夫とT大生の満と浪人中の士郎である。養子にした孫と同じ屋根の下に住めないのは道助にとっては不本意であったが致し方なかった。  妻は生ける屍のような存在になっていた。表面的な話は通じたが、心の触れ合いはまったく得られなかった。妻は一日に何時間も鏡に向い化粧に余念がなく、従って常に身綺麗にしていたが、その精神は久しく現実との接触を断たれているように思われた。徳山道助には、妻が時々口走る妄想、実家がまだ栄えていて、そこに行けばいつでもたっぷり小遣いをもらえるといった妄想がそれを証拠立てているように思われた。ただヒステリーを起さなくなった点が有難かった。嘗てあれほど彼を苦しめたヒステリーの発作は、彼女が更年期を迎えた頃から徐々に治まり、今ではもう嘘のように、影も形も留めていなかったのだ。ちょっと見には彼女が異常だということは分らなかった。それが徳山道助には有難いような、また寂しいような気がした。彼が荒涼とした夫婦生活に苦しんでいるということは、娘は知っているだろうが、そして孫も気づいているかも知れないが、しかし結局それは彼だけの孤独な苦しみなのであった。  道助は彼に久かたぶりの帰郷を勧める手紙が来るたびに、娘や孫たちに披露して、これが最後かも知れないから帰郷しようか、といっていた。娘と孫たちは大賛成であった。妻はほとんど関心を示さなかった。「まあいっていらっしゃいまし」という程度だった。娘と孫たちは、葬式の費用なんか貯めていらっしゃらないで、新しい背広とスプリング・コートをこの際に新調して帰郷なさるといい、という意味のことを申し合せでもしたようにみんないった。道助がいつまでも、古い、摺り切れたような背広と、将校マントを戦後改造して作らせたスプリング・コートを愛用しているのが、ふだんから余程気になっていたに違いない。しかし道助はその勧めに従いそうにもなかった。  徳山道助は、戦後三度家を手離していた。  最初に手離した家は、彼が生涯で初めて自分で買った家だった。それまでいつも借家住まいだったのである。そんなわけでその家は彼にとっても特に愛着の深い家であった。彼はその家を昭和十四年の春に、廬山で受けた傷もほぼ完全に癒えて家庭の人となった時、旧部下の斡旋で買い求めた。土地の安い世田谷の郊外であったが、敷地が七百坪、建坪が九十坪もある宏壮な邸宅だった。  値段は格安だった。元来その家は、金持の華族のものであった。その華族がある事情から売りに出したのを株屋が買い、あとでその事情を知った株屋が縁起をかついで一年そこそこしか住まないうちに売りに出したのである。その事情というのは、その華族の夫人がその家の納戸で首をくくったことであった。徳山道助は生来臆病で小心な人物だったが、その曰くを聞かされても余り気に留めなかった。自分はたくさんの死を経験して来ている。だから幽霊に祟られているとすればもうとうに祟られている筈であると思えたからである。しかし彼はその曰くを妻には黙っていた。  その家を貯金をはたいて買うことに決めたのは、値段が安いせいもあったが、何よりもまず、その家の構造が気に入ったせいであった。死んで陛下から勅使の御差遣があった時のことが気になっていたが、その家ならば勅使をお迎えしても失礼にあたる心配はないと思えたからであった。  その家は東西にかけて、応接間から豪華な湯殿までが一列に並んだ軍艦のように細長い家だった。この細長い家は、洋館と和風の母屋の二部分に分れ、その二部分は一間廊下でつながれているのだった。その一間廊下は母屋に達してからは、母屋の部屋部屋の前を一間の幅のまま走って湯殿にまで通じていた。母屋の各部屋は廊下よりも二寸ばかり高かった。玄関は母屋に本玄関と内玄関があるほか、洋館専用の洋玄関があった。自動車は本玄関はもとより洋玄関にも横づけにできた。二つの玄関の前は、植込みに囲まれた砂利の広場になっていたのである。洋館には二十畳の大応接間と、十畳の小応接間と十二畳の書斎とがあった。  その頃徳山道助の身体は、傷は完全に癒えてはいたが、まだかなり衰弱していた。菊作りにこれから死ぬまで専念するつもりでいたが、その死がいつ自分を訪れるか分らないという気がしていた。死がそう遠くない未来に自分を待っているという予感に彼はつきまとわれていたのだ。そして彼自身永く生きたいと思う一方、自分の命令で死なせた部下たちのあとを一日も早く追いたいという気持に誘われ、その時のことを好んで想像した。  ——ある日自分は冷たい亡骸《むくろ》となって横たわっているだろう。娘夫婦が駆けつける。自分の遺骸は寝室から座敷に移される。枕許には六曲の金屏風が立てられる。畏きあたりにおかせられては、早速弔問に勅使をお遣わしになるであろう。  陛下の名代であるその勅使をお迎えするにあたってかりそめにも粗忽の点があってはならなかった。もしも失礼の段があったら彼の霊は浮ばれないであろう。その勅使をお迎えするのに、その家の構造がぴったりであったのだ。その家ならば、洋館を勅使のお休みの場所にあてることができるからである。弔問客でごった返す本玄関を避け、勅使にはひとまず洋玄関から洋館の方へお上り頂く。大応接間で遺族は陛下の御弔詞を拝聴する。しかるのち、勅使は洋館からの渡り廊下を静々と渡って来たり、従三位勲一等功三級徳山道助の遺骸に近づくであろう。かかる栄光の死も、長い間生命を賭してお上に御奉公申し上げた自分には許されることであろう、と彼は信じた。……  そうした手だてを可能にする家の構造が何よりもまず徳山道助には気に入ったのである。  しかしその家で彼は死ななかったのである。そればかりかその家を買ってから十五年余りも生き永らえてしまったのだった。  終戦後軍人恩給が停止になると、徳山道助の収入は一遍に跡絶えてしまった。貯金は新円切替のために凍結されて、ないも同然であった。彼は売食いを始めた。妻の買った贅沢品がこんな時に役に立ったのは皮肉だった。支那事変で彼が苦戦を続けている最中に、留守宅俸給を貯めて、妻がすでにある竪型ピアノのほかに更に買い求め、彼を激怒させたグランド・ピアノなどは非常に高く売れた品物の一つであった。とはいっても現金の収入が零で売食いだけにたよる生活は不安そのものであった。戦争が深まって食糧不足に悩むようになってから、庭の花壇の大部分を畠にしてしまっていたので、幸い食糧には余り苦しまないで済んだが、売りに出せる品物は減る一方であった。徳山道助は養子にもらい受けた孫の学費にもこと欠く始末であった。孫は旧制高等学校の受験期にさしかかっていたから、地方の高等学校へでも行こうものなら、また相当の出費を覚悟しなくてはならなかったであろう。  昭和二十三年の秋、徳山道助はその宏壮な邸宅を、ある会社から寮として買いたいという話を持ちかけられたのをいい機会に、遂に手離してしまった。生活の見込みが立たなかったのが主な原因であったが、彼にその決心をさせたもう一つの理由は、人々が住宅難に喘いでいる時に余裕住宅税をかけられるような家に安穏と住まっていては申訳ない、ということであった。実際、彼はその大きな家に住まっていることに、日一日と良心の呵責を覚えるようになって来ていたのである。  彼は小さな家を買って、余った金で余生を食いつないで行こうと思った。そしてそういう彼の注文にぴったりの家が小田急の沿線に見つかったのだ。隠退した三井の重役が海浜の別荘を移し変えて住んでいたという家で、家そのものは余り上等とはいえなかったが、間数も五間あって、彼と妻と養子の治と女中の四人が住むには頃合だったし、何よりもよかったのは三百坪の敷地のほかに、三千坪の栗林がついていることだった。彼はこの家に移ってから本格的な百姓仕事に精を出した。三百坪の敷地の半分以上を畠にしたし、栗林の一部も開墾してさつまいも畠にした。鶏も飼った。米だけは無理としても、その他の食糧は全部自給自足できるようにしたいという願望をもって、彼は畠仕事に精を出した。九州の山の中の五反百姓の小伜に生れた自分が、また百姓に戻るとは、何と人生は皮肉なものかと思うことも屡々あったが、彼はその運命に満足していた。恩給を取上げられ陛下からも忘れられた自分は、こうして土にまみれひっそりと畠仕事に精を出すのが何よりもふさわしいのだと思っていた。たくさんの部下を死なせながらおめおめと生き残っている自分には、こうした世捨て人の生活が何よりも似合っているのだ、と彼は思っていた。彼はその家の門の柱に、「三猿荘」という標札を掲げた。見ザル聞カザル言ワザル生活をしているのだという心である。  長い間心を煩わせまいと努めて来た妻の存在が、再び色濃くなり、彼を脅かしたのは、この第二の家に於てであった。妻はもともと土いじりが嫌いであった。土をいじると湿疹ができるという異常体質なのである。みみずを見ると気を失いそうになる。それに彼女は百姓仕事を軽蔑していた。いや結婚した当座から、彼女の心の深い底には、貧しい百姓の小伜に過ぎない徳山道助に対する軽侮の念がひそんでいたのである。そしてそれが直接的な形で現われることはついぞなかったが、何かにつけて表面に浮び上って来て、彼女の夫の心を傷つけずにはおかなかったのであった。  彼女は徳山道助が畠仕事で汗にまみれて働いている時でも、琴を弾いて気を晴らしたりしていたが、女中が結婚のために暇を取ってしまい、代りの女中が見つからないままに家事を任せられると、こんな不便な暮しには耐えられない、といい出した。ガスも出ないし、水道もない家だったから、妻のいうことには一理あった。道助はガス会社の出張所にわざわざ出向いて交渉したが、その家までガス管が引かれるのはまだ大分先のことで、少なくとも四五年は待たねばならないだろう、ということだった。井戸はポンプを備えつければ水道の代りをつとめられる筈だったが、水道工事店に見積らせると余りにも費用が嵩み、彼の乏しい財力には不相応に思われた。そんな矢先に妻が自殺未遂を惹き起した。自分の意志が通らないために、夫を嚇すことが目的のヒステリー性の自殺未遂で、最初から命にかかわる程の催眠薬は嚥んでいなかった。しかし今後気をつけないとまた同じことをなさるかも知れませんよ、と医師に注意されて、徳山道助はその家で百姓をしながら老後を過そうという自分の計画が狂い始めたことを感じた。  そんな時、戦後杉並から都心の住宅地に移った娘の家の近所に、頃合の家が売りに出された。徳山道助は散々迷った挙句、最後に娘のたのみを聞き入れて、その家を買って移転することにした。それまでの家は、丁度郊外に家を捜し求めていた、フィリッピンで処刑された同期生本目中将の未亡人に、買った時の値段のままで譲った。買った時から二年以上も経っていて、五割は時価が上っていたにも拘わらず、自分から頑張ってそうしたので、道助は娘や孫たちに呆れられた。友人の未亡人を相手に儲けるわけには行かない、というのであった。  第三の家は敷地が九十坪しかなかった。もう食糧難も遠ざかりつつあった時期なので、徳山道助は再び菊作りに転向した。彼が負傷して初めて自分の家というものを持った時専念しようとした菊作りにである。残念ながら今度の場合は土地が限られていた。  第三の家に移ってから二年目に娘婿が急逝した。それから一年目に養子の治がK大学を卒業して就職し、北海道に赴任した。その機会に徳山道助は娘の勧めもあり、孫たちの勧めもあったので、妻と共に娘の家の離れに移り住むことにしたが、彼にその決心をさせた一番の理由は妻が娘の家に住むことを強く望み、第三の家に移ってからも催眠薬による自殺未遂を二度も演じていたためであった。  妻の自殺未遂について徳山道助には終生忘れることのできない、そして妻を赦すことのできない思い出があった。それは妻のヒステリーが嵩じ、彼が離婚を真剣に考慮し出した、京都師団参謀の時代である。ある晩彼はつまらないことがきっかけで、妻と口論をした。余り些細なことなので思い出すこともできないが、妻に烈しく非難されたことだけを憶えている。妻が頑固な不眠症に苦しめられていた時で、徳山道助の言葉をかりれば妻の頭が「毀《こわ》れ出した」のはその頃からだったかも知れないのである。口論の挙句彼は妻に家を出て行けと呶鳴った。すると妻は出て行く位なら死にますわ、といって、つと席を立って姿を消した。まもなく台所から井戸に大きな物の落ちた音がした。徳山道助は台所に飛んで行った。台所の流しの隣に掘りぬかれた井戸の前に草履が揃えてある。妻が身投げをしたことに疑いはない。その瞬間徳山道助の脳裡をかすめたのは、妻に申訳ないことをしたという切実な感情であった。自分はやっぱり妻を愛しているのだ、と彼は思った。それから彼は妻の実家の母に済まないことをしたと思った。この義母《はは》はよく出来た人で、彼が妻を離婚できずにいたのも、一つにはこの義母に、綾子をよろしくお願いします、と会うたびにたのまれていたからであった。それから彼は娘に済まないことをしたと思った。栄進も小さなことに思われた。何とかして救わねばならぬ、と次の瞬間道助は思った。井戸の底を見ると水面が光って見えるが、妻の姿は見えない。もう沈んでしまって、人工呼吸をしても助からない程水を飲んでしまっているかも知れない。しかしともかく救い出さなければならぬ。彼はおろおろしている下女に、自分はこれから井戸に降りて行って様子を見て来るが、自分にもしものことがあったら、家主の助けを借りるように、といって、井戸の底へ決死の思いで降りて行った。しかし妻が井戸の底に沈んでいる様子はなかった。ようやくの思いでまた上って来ると、座敷から琴の音が聞えて来た。妻は澄ました顔をして、井戸に漬物石を間違って落しました、と答えるだけで、琴を弾き続けていた……  娘の家の離れに移ってから、徳山道助は時々愚痴をこぼすようになった。その回数が段々と殖えて来たのは、徳山道助に老衰の兆したあらわれであったかも知れない。昭和二十八年の八月一日に軍人恩給が復活するまでは、それは軍人恩給停止に関しての愚痴にしぼられていたが、復活してからは手離した家に対する愚痴となり、最近ではそれに混って自分の不幸であった結婚にまで及んでいた。  彼は軍人恩給の停止をまったく許しがたい処置であると考えていた。自分は、徳山道助は、一介の軍人としてひたすら職務に忠実であったではないか。自分は生命を賭して陛下の命に従い、軍人としての忠節を全うして来たではないか。軍人以外の官吏の恩給も停止するというのなら分る。恩給を返上して敗戦の苦しみをみんなが共に苦しもうというのならば理が通っている。しかしそういうことではないから、自分は憤慨するのだ。彼にとって、恩給の停止は、彼の生涯の生命を賭した労苦の意義が否定されたことを意味した。彼の国家に捧げた御奉公に対して与えられる恩給は、彼にとって象徴的な意味を帯びていた。だから軍人恩給が復活した時の彼の喜びは大きかった。その時を期して戦後《ヽヽ》は彼にとって終ったのであった。軍人恩給が停止されるまで彼がもらっていたものと比べれば、インフレで額こそ大きくなっていたが、実質的な価値からいえば比較にならない位少額のものだったにも拘わらず、嬉しかった。軍人恩給の復活と共に、同期生会などの集まりも種々定期的に行われるようになった。今まで手弁当で集まっていた碁仲間との碁会も、会費制に変った。  彼は恩給のうち半分を娘に食費として渡し、残りの三分の一を妻に、三分の二を自分の小遣いにあてていた。彼は軍人恩給が入るとデパートに買物に出かけた。彼は訪れるべきデパートを日本橋の三越に決めていた。いつからか彼は三越をもっとも信頼のおけるデパートだと見做すようになっていたのである。彼は地下の食料品部をゆっくりと歩き、最後に酒の肴を幾種類かと、好物の葉唐辛子の佃煮を買った。本当はそれに彼がかつて遊んだフランス渡来の葡萄酒を買いたいと思うのであったが、余りに高過ぎるので、その望みを果しかねていた。敗戦後三度にわたって手離した家々のどれかを持ちこたえていたら、特に第一と第二の家のいずれかを持ちこたえていたら、土地を少しずつ切り売りしても、小遣いには不自由はしなかったであろう、世界中の名酒で床の間を一杯に飾ることも易々たることであったろう、とそんな時徳山道助は思い、つい愚痴をこぼしたくなって来るのだった。  第三の家を手離した頃から、郊外の土地が急速に騰貴し始めた。第三の家さえ手離して二年と経たないうちに、三倍ほどの値が出ていたが、第一と第二の家は、敷地が広かったし、元来地価の安かった郊外にあったので、騰貴の率は大変なものであった。特に二番目の家についていた三千坪の栗林はすべて宅地になるような土地だったから計算してみると、徳山道助には気の遠くなりそうな価格になった。この三つの家の売却が彼の愚痴の種となった。孫たちはその愚痴を聞き飽きていた。妻は愚痴というものを決して心を開いて聞いてくれようとしなかった。妻が彼の愚痴の防波堤をつとめてくれなかったから、彼の愚痴は益々ひどくなったのかも知れない。辛抱強く道助の愚痴に耳を傾けてくれるのは心やさしい娘だけであった。  徳山道助は、第一の家を売り払ったのは、時の運命だと思って諦めてはいたが、二番目の家と三番目の家を売り払う原因を作ったのは妻であると思っていた。そしてそのような原因となった妻を持った自分の運命を限りなく呪った。悪い妻を持つと一生の不作というが、それはこういうことなのだ、と四十数年思い続けていることを、改めてしみじみと思った。  彼が初めて蒲生子爵家の応接間で華族女学校を出たばかりの妻と顔を合わせた時のことを、彼は運命の刻《とき》として長く記憶に刻んでいた。彼は気が遠くならんばかりに彼女の美に打たれたのであった。しかし彼女は美貌を誇る女の例に洩れず、高慢で心の底の浅い女だったのだ。なぜあの刻、自分は彼女の美しさに盲目になってしまったのであろう、と徳山道助はよく思った。その後蒲生子爵に娶る気はないかと内意を確かめられた時、なぜ自分は一歩踏み留まってもっと考えをめぐらさなかったのであろうか。その時内心天にも昇るような幸福を感じた自分がうらめしかった。  徳山道助は心の通わないこの妻についてよく愚痴をこぼしたが、この愚痴を孫たちは家に関する愚痴よりももっと聞いてくれようとしなかった。娘も自分の母にあたる彼の妻についての愚痴を快く聞いてはくれなかった。  孫の満などはある時、「なぜお祖父様は一大勇猛心をふるって離婚なさらなかったのですか」と反対に問う始末であった。  帰郷を、彼はまだしぶっているような様子を娘や孫たちに見せていたが、心の底では決めていた。恩給も復活したことだし、最後のお墓参りに帰郷して来ようという心境になって来たのである。  その後啓吉の長男の仙太からも、咲の末娘の豊子からも、彼の帰郷を切に勧める心のこもった手紙が届いた。彼が昔家にあずかったりして面倒を見たことのある甥と姪である。  彼は帰郷の準備の第一歩として、故郷の啓吉に、帰郷するとしたら、多分これが最後の帰郷になることと思われるから、この機会に自分の墓を作ってもらいたいという手紙を、人知れずひそかに書き送った。——自分はもう何年も生きられないと思うから、自分の墓を見て安心して死んで行きたい、墓石は父母のそれよりも小さく作って欲しい、石の選定はお任せする、墓標は位階勲等を一切つけず、ただ「徳山道助之墓」、建立者名は「徳山治」とすること、費用は確定次第報せて欲しい、帰郷することになれば持参するし、帰郷しないことになればただちに小切手で送るから、という趣旨の手紙を、道助独特の角ばった細かい字で書き送ったのである。  啓吉からは折返し返事が来た。お申越の件、たしかに承知した、御帰郷までに出来上るべく手配すること故、ぜひともこの機会に御帰郷あられんことを、一同首を長くしてお待ちしているという意味の手紙であった。  徳山道助は慎重な男だった。彼は故郷からの手紙の一つ一つに返事を出したが、帰郷するとは断言しなかった。母の三十三回忌ゆえ、老生もぜひ帰郷したいと思っているが、年も年ゆえ、身体も段々自由が利かなくなって来たから、今の段階では何ともいいかねるといった文面の手紙しか出していなかった。  道助は生来楽天家ではなかった。その性格は妻との不幸な夫婦生活によってますます輪をかけられていたが、敗戦後軍人が罪人視され、その上軍人恩給の停止によって一挙に経済生活の基盤を奪い去られてからはさらに一層ひどくなり、孫たちから悲観症だといわれる始末だった。彼は常に楽しみの量をあらかじめ計量し、その一方、その楽しみを贖うための犠牲を計量し、その犠牲の方を必ず大きく見積って、楽しみの方を黒く塗り潰してしまおうとするのだった。帰郷に関しても彼は同じような計量を行なった。帰郷には当然のことながら金がかかる。しかし帰郷によって、帰郷のために費消する金に見合う程の楽しみが果して得られるであろうか、と思うのだった。  帰郷には六万円はかかると彼は計算していた。年四回にわたって支給される恩給の一回分である。それに墓代が五六万円加わるであろうから、ざっと十一二万は貯金から引き出さなくてはなるまい。六万円の内訳は、終身の一等パスが停止されなかったら無料であった筈の旅費が約一万円、向うに滞在する間の諸雑費が少なく見積って一万円、帰りに別府で二三日湯治するとすれば、その費用が一万円、合服一着と合オーバーと靴で三万円であった。金のことを心配しながら、窮屈な思いをして帰郷するのは気の染まらないことだ、と彼はつくづく思うのであった。  こんな時に、第一の家か、第二の家を持ちこたえていれば、広かった土地のほんの少しを売っても、忽ちまとまった金を都合することができたであろう、と彼は思って、愚痴をこぼした。そうしたら、最後の帰郷にふさわしく、姉や妹に小遣いを置いてこられたであろうし、昔よくそうしたように別府の温泉に招待してやることもできたであろうに、といったのである。  落ちぶれて帰りたくない、落魄して故郷に帰っても何も面白いことはない、というのが彼の偽らざる心境であった。  ある日の夕食の席で、徳山道助はまたもや愚痴をこぼした。ぜひ帰郷なさるようにと娘が勧めてくれたのに対して、 「落ちぶれて帰りたくないのう」といったのである。そしてひとくさり愚痴を並べたのである。彼がまだ世に時めいていた時、どんなに故郷はあげて彼の帰郷を歓迎してくれたものであったか。たとえば彼が陸軍省の砲兵課長で帰郷した時はどんなであったか。近衛の連隊長で帰郷した時はどんなであったか。士官学校の校長で帰郷した時母校の大分中学で彼がした講演はどんなに大きな感銘を聞く者に与えたことだったか。砲兵監で帰郷した時はどんなであったか。そして第三師団長として、しかも凱旋の師団長として帰郷した時、故郷はどんなに湧いたことだったろうか。当時は有難迷惑に思ったものだったが、しかし内心正直なところやはり悪い気持はしなかったものだ。ところが人間老いぼれ、もはや官位なく、力なく、金もないとなったならば、これ程哀れなものはない、人は現金なもので見向きもしないものなのだ……  道助はこれらのことを、愚痴としてだけではなくて、世間とはそんなものなのだという戒めの一つとして、孫たちにいったつもりであった。ところが孫たちはまた例の祖父の愚痴が始まったとばかり、耳を傾けて聞こうとしないだけでなく、満などは祖父に聞えないように、独り言のように、しかし憤然と、 「僕はそんな風に錦を飾って帰る人だけを歓迎するような郷里なら、錦を飾れる時でも帰らないな」と呟いた。  道助は砲兵であったため、若い時から耳をやられ、耳がひどく遠かった。しかし悪口とか批評などは奇妙によく聞えることがあったのである。しかしそんな時でも彼は聞えなかったようなふりをした。今も道助には孫の満の口にした言葉が意外によく聞えた。そして彼はその言葉を己れの心の深い部分が嚥み込んだのを意識した。  その夜床に入ってから、道助の耳元に、その満の言葉が再び甦った。もしかするとずっと自分は故郷に対してひどく傲慢で、ひどく不遜であったのかも知れないと彼は思った。自分は栄進を重ねるたびに、何か事があるたびに、故郷の人々は何と思っているだろうか、何といっているだろうか、と絶えず思った。考えてみるとそれが自分の人生の張合であった。帰郷する時、自分は自分の晴れがましい姿を故郷の人々に見せて、人々が讃嘆し、あの道助どんがと囁きあうさまを心ひそかに楽しむという誘惑に囚われないではいられなかった。自分がかつて色々な理由をもうけてあんなにも屡々帰郷したのは、きっとそのためであったのだ。自分は自分の晴れがましい姿を故郷の山河にさえ見せようと思っていたのだ。何という傲岸不遜な自分であったろう。もしかすると満のいう通りなのかも知れない。故郷が迎えてくれるのは錦を飾って帰る徳山道助だけではないのかも知れない。いや故郷はむしろ一介の徳山道助として自分が心を謙虚にして再び故郷の懐ろに抱かれることをもうずっと昔から待ってくれているのかも知れないのだ。自分もこの機会に、心を謙虚に持って故郷の山河に相見え、遠からず自分を迎えてくれる故郷の土に挨拶して来るべきかも知れないのだ。先祖の墓に参り、母の霊を慰め、間もなく彼らの仲間入りをする徳山道助の生前最後の挨拶をして来るべきかも知れないのだ……  孫たちは、翌日から、祖父が帰郷に関しての愚痴をこぼすのをぷっつりと止めたのに気づき、驚き且つ訝しんだ。  やがて啓吉から、注文の墓が早くも出来上り、先祖代々の墓地に建てられたこと、かくなる上はぜひとも御帰郷あらんことを、と書いた手紙が届くと、その日の夕食の席で、道助は、妻、娘、孫たちに、帰郷を遂に決心した、と披露した。みんなは喜んだ。ただ妻だけが、わたしは御一緒しませんよ、と彼の元々期待していないことを、彼に確認させて、彼を鼻白ませただけだった。  それから三日目の朝であった。徳山道助は、枕許の銀の皿に、床に就く前に確かに入れて置いた筈の入れ歯がなくなっていることに気づき驚いた。上下共ないのである。妻に聞いても知らないというし、娘も知らないというし、孫たちは寝ぼけてどこかに置き忘れたのでしょう、と憎まれ口をたたく始末であった。  被害は大きかった。まず朝食からして、満足に食べられなかった。彼は牛乳とリンゴをすってもらったのとで、朝食にした。  入れ歯をしていない徳山道助は、百歳の翁のように見えた。いつもは厳しい顔が、人が変ったように柔和に見えた。珍しく現世の煩悩から超越した顔に見えた。  もしかすると犯人はポチかも知れない、といい出したのは四番目の孫の士郎であった。道助の部屋の前の廊下にポチの足跡があったからである。  小さい時に可愛がってよく家の中に入れたことがあったために、その頃の癖がいつまでも残って、ポチは夜中に家の中に忍び込んで眠ることがあったのである。だからポチが道助の部屋に忍び込んで、義歯を骨と間違えてくわえ出すことも、あり得ないことではなかったのだ。  士郎の勘はあたっていた。午前中庭を捜索して士郎はみごとに、庭の燈籠のうしろの枯葉の中から、義歯を上下共見出して来たからである。義歯は上下共ポチによって二つに噛み切られていた。  ポチはたしかに道助の義歯を骨と間違えたのである。考えてみると愚かなポチの間違いにも無理からぬところがあった。道助はその前の晩、離れで妻と二人きりで、すき焼を食べていたからである。恩給が入ったので、三越の地下で、奮発して松阪牛の最上肉を二人前買って来て、すき焼をして孫たちに羨ましがられたのだ。そのすき焼の肉の匂いが入れ歯に残っていたと見える。  ポチの管理の不行届を、ポチの飼育責任者である士郎に対して非難することは、前の晩のすき焼のことが心を咎めて、道助にはできなかった。週に何度か道助は静かに食事をとりたくなって、奥の離れで、心の通った会話をあてにできない妻ではあったが、その妻と二人きりでひっそりと夕食をとるのを常としていたから、孫と一緒にしなかったすき焼のことをそんなに気に留めないでもよさそうなものだったが、やはり心が咎めるのをどうすることもできないでいたのである。  彼は不自由に耐え兼ねて、昼食の時にはポチによって二つに噛み切られた入れ歯を水でよく洗って、また口にはめてみた。案外一時の用には耐えられそうだが、これからずっとそうしているというわけにも行かない。彼は早速その歯を作ってもらった中学時代の友人の家に電話をかけさせた。友人はもう死んでいたが、長男が同じ場所で歯科医を開業していたのである。  彼はその義歯を洋行前に、もう故人となった友人に作ってもらったのだった。当時歯槽膿漏に苦しめられていた彼は、外国で歯に苦しめられることを恐れて、思いきりよく歯を全部抜いてもらって総入歯にし、予備を含め二組作ってもらったのである。今度ポチに噛み切られたのは予備の方で、そうでない方は支那事変で瀕死の重傷を負った時に駄目にしてしまった。今度で二組とも駄目になってしまったのだ。代用品とはいえ、もう自分の肉体の一部と化してしまったように思える程永年愛用して来たものが、使いものにならなくなってしまったのだ。彼には不吉な予感がした。もしかするとこれは死の前兆かも知れない、という気がしたのである。  友人の息子には早速連絡がついた。その日の午後二時にお待ちしています、というのである。  昼食を済ますと、彼は早速家を出た。余り費用がかかるようだったら、帰郷は断念しなくてはならないかも知れない、と考えながら、ステッキをついて彼は高台にある娘の家から階段を下って、街へ降りて行った。  その息子に最後に会ったのは、徳山道助が砲兵監をしていた時である。陸軍省と参謀本部の嘱託医になりたいので保証人になって欲しいとたのまれて引受けたことがあったのである。戦後子供が三人もあるのに離婚して、美しい技工師と再婚したということを人伝てに聞いたことがあったのを、その家の玄関まで来た時、徳山道助は思い出した。  案内を乞うと、三十は越えているが、清楚な美しさを湛えた白衣の婦人が出て来て、 「徳山閣下でいらっしゃいますか。お待ち申上げておりました」といった。  やさしい声で、もの腰もしとやかである。これは前の細君よりも大分上等だな、と徳山道助は多少の羨望をもって考えた。離婚した細君との結婚披露宴には徳山道助は主賓として招かれていたのである。その歯科医が長年連れ添った妻と子供が三人もあるというのに別れて、若い女と一緒になったと聞いて義憤を覚えたこと、もし自分の甥か何かだったら呼びつけて説諭してやるのにと思ったこと、堅物であった友人が地下で泣いているだろう、と思ったことを、彼は忽然と思い出した。しかし今彼の心を満たしているのは義憤ではなくて羨望と嫉妬の感情であったから、彼は心穏やかならざるものを感じた。  息子はずい分立派になっていた。いかにも腕に自信ありげで、恰幅も堂々としていた。それでいて徳山道助をまったく昔と同様に鄭重に遇した。これは殊勝なことといわなければならなかった。しかし彼は徳山道助に再婚した妻に違いない白衣の婦人を紹介しようとしなかった。良心に疚しいところがあるのじゃろう、と徳山道助は解釈した。余程素知らぬ顔をして前の奥さんと子供のことを聞こうと思ったが止めにした。助手の役目をつとめる白衣の婦人の態度が余りにも好ましかったからである。  ポチに噛みちぎられた義歯は結局新しく作ることに決った。二週間位ででき上りますから、それまでは古い歯をお使いになれるようにしておきましょう、といって、歯科医は二つにちぎれた歯を接着剤を使ってくっつけてくれた。 「これで間に合わすことはできぬか?」と聞こうとして徳山道助は止めにした。それではまるで死を急いでいるようなものだ、という気がしたのである。二十年も、三十年ももつような歯でなくてはならぬ、と思ったのである。彼はやっぱり長生きがしたかった。  歯が完全に出来上った日はうららかな日曜日であった。歯科医はわざわざ日曜日の午前中を割いてくれたのである。そしてビールと豪華な寿司をとって、道助をもてなしてくれたのであった。費用は八千円しか取らなかった。実費だけで結構です、というのであった。  芝にある歯科医の家を辞したのは二時頃であった。歯のはめ心地は上々であった。食べている間も、食べたあとも、それは変りなかった。  徳山道助はそのまま家に帰るのが勿体ないような気がし、かねてから一度訪れたいと思っていた浜離宮を訪ねてみる気になった。  アヴェックがたくさんいることを除けば、浜離宮は概ね彼の意に適った。戦後の道徳の頽廃をこれ程如実に示すものはあるまいと彼に思われた、しどけない姿で女が男と共に芝生のあちらこちらに寝そべっている淫らな情景から、努めて目をそむけるようにしながら、徳山道助はステッキをついて、ゆっくりと午後の散策を楽しんだ。  こんな晴れやかな気分を味わったのは久しぶりのことだった。彼はパリのセーヌ河のほとりを歩いているような気がした。パリでは入れ歯のためにフランス・パンの硬い部分が食べられなくて残したものだった。すると下宿のお内儀《かみ》のフランス陸軍退役少佐夫人は、コマンダー、そこがおいしいところなのに、といって全部食べてしまったものだった。あれは倹約精神のあらわれだったのだろうか、と徳山道助は何十年このかた解けない謎のようにそのことを思い起して考えた。  先代に作ってもらった義歯に慣れるまでには相当苦労したものだったが、今度は最初からこんなに調子がいいのは、その後技術が長足の進歩を遂げたからであろうか、それとも歯茎が義歯に慣れ親しんでいるせいだろうか、と彼は思った。往きの日本郵船の船では珍しい御馳走が出たにも拘わらずやわらかい物しか食べられなくてうらめしい思いをしたものだった。同じ船に乗っていた畠山スイス大使館駐在武官などは健啖家で、船に出る御馳走を全部平らげられるように、毎日甲板でマラソンをしてお腹を減らしていたものだったが。そう心の中で呟いたあとで、道助は突如として思い出すまいとしていたことを思い出してしまったことに気がついた。その畠山が戦後まもなく、南京大虐殺の責任者の一人として中国に引渡され、南京城内を馬の背にくくりつけられて三日間ひき廻されたのち、殺されたのだ、ということを思い出していたからである。なぜ畠山は身柄を引渡してしまったのだろうか、と徳山道助は思った。彼自身は、万一の場合は自決しようと、戦後しばらくの間は、愛蔵のコルトを常に身辺から離さなかったからである。師団長として道助は部下の兵隊に軍規を厳重に守らせるよう心を砕き、努力したつもりであったが、恐らく彼の知らないところで無辜の中国の民衆に加えられたであろう暴行と凌辱の責任を問われて戦犯として逮捕されるならば、潔く自決して陛下に対して部下統率の至らざる点をお詫びしようと思ったのである。その緊張から解放されたのは、やがて中国側が南京大虐殺の責任者だけを追求しているのだということが判明してからだった。道助の師団は南京に入城せずに、直ちに杭州に向ったのであるから、もしも南京大虐殺が現実に起った忌わしい事件だとしても、彼がその責任に問われることがないことは明らかだったからである。……  ふと彼の目に見憶えのある男の顔が入った。前方の芝生に抱き合うようにして寝そべっているアヴェックのうち、彼の方にふと上げた男の顔に見憶えがあった。妻の兄の次男の亀雄である。間違いはなかった。永年の訓練の賜か、彼の目はすばらしくいいのである。一度見たものは眼底に焼きつき、いつでも呼び戻すことができるのである。たとえば徳山道助は一度訪れた場所を人に教える時、そこへ行く道を正確そのものに地図に再現できるのであった。これは彼が屡々孫たちを驚嘆させた軍人としての訓練が彼にもたらした技能の一つであった。  もうたしか小学校に上る子供がいる筈なのに、よくも昼中から二十前後の若い女とこんな公衆の面前でいちゃついていられたものだ、と徳山道助は考えた。美男子なので女にはよくもてるとは聞いていたが、日曜日にこんなところまで繰出しているとは想像もしなかった。不届き千万な男だ、と道助は怒りと共に考えた。  亀雄は明らかに道助だということに気づいたようだった。一度首をすくめてみせたからである。しかし老人の目がそんなに利く筈はないと見くびっているせいか、別段顔を隠そうともせずに、片肘をついて素知らぬ顔で女と話をしている。女は道助の観察するところ相当な器量よしに属する部類である。道助は一番近い道を選んで通り、もう一度怖い顔をしてじろりと見た。絶対に間違いない。彼は帰宅したら、娘に亀雄の兄の正雄に電話をかけさせ、事の次第を告げ、一言弟に注意させようと考えた。  家に帰ってから徳山道助は、改めて鏡を見て、歯科医で鏡を見せられた時に感じたことを、もう一度時間をかけてゆっくりと確認した。たしかに五年は若返ったように思われた。昔の入れ歯と違って、今の入れ歯は色が皓くて美しい。徳山道助は自分が一段と男前がよくなったのを感じた。これで髪の毛がふさふさしていたら、人は六十代にも見まがうかも知れないと思った。徳山道助の頭はみごとに禿げ上っていたのである。  夕食の席上、道助の歯はみんなに注目され、道助の若返りは衆目の一致するところとなった。  末の士郎などは、ポチに古い歯がかじられてかえってよかったですね、という始末だったが、内心道助も満更ではなかった。  道助は旅行の支度のため出発の一週間前に三越に出かけて、既製服の背広上下を買った。スプリング・コートを買うのは止めにした。義歯にかかった八千円をそれで埋め合せしようと思ったのである。五万円位まで覚悟していたのが八千円で済んだのだから、倹約しないでもよさそうなものであったが、やっぱり道助は倹約をした。その代り靴のほかにYシャツを新しく二枚買った。その頃出廻り出したナイロン製品である。旅行用に最適、と新聞か雑誌の広告に書かれてあるのを見たことがあったのである。それからネクタイも買って来た。更に歯科医にお礼のしるしに、ウイスキーを一本送らせた。  こんなに買物をしたのは、二十年来ないことだった。それどころか敗戦後これまでの十年間、売る一方の生活だったのである。  恩給が復活して最低の小遣いには不自由しないで済むようになってからも、彼は無駄遣いをしないで努めてその小遣いも残して貯金に廻すようにしていた。  恩給が出た日に買う酒の肴のほかには、友人を訪う時のささやかな手土産代と交通費、時々見に行く文楽とフランス映画と、具象派の展覧会の切符代に支出する位なものであった。本は古今の名著しか読まなかったから、昔からの蔵書でこと足りた。たまに新しいところを読みたい時は、孫に貸してもらった。酒は就職した二人の孫が不自由させないでくれた。そんなわけで、徳山道助は家を売って残した金に手を触れないどころか、恩給からもいくばくかの金を残してさえいたのである。  孫たちはもっと贅沢をするように勧めたが、道助は一向にその勧めに乗ろうとしなかった。彼と妻とが病気にでもなった時の不時の費用と、これだけは確実に二人を待ち構えている死につきまとう費用、つまり葬式の費用と、養子にした孫の結婚の費用だけは残して行きたいと考えていたからである。そうして徳山道助は、持っている貯金の中から、十二万円を先祖の墓地に作った自分の墓代を含めた帰郷費用にふり向けることで、最終的に納得したのであった。歯の費用も徳山道助はこの十二万円の中に勘定していた。     第二章  出発の日、孫の満が道助を東京駅まで見送った。列車は座席指定の特二であった。座席に着くと、道助は将校マントを改造したスプリング・コートを脱いで、満に網棚に載せさせた。すると道助が着用に及んでいるおろし立てのナイロンのYシャツが、満には気になった。ぴかぴかした光沢があるので気になるのだ。まるで落下傘の布地で作ったYシャツのようだ、と満は思った。どうみても七十四歳の老人が着る代物ではない。満が余りに屡々Yシャツに視線を走らせるので、道助は、 「ナイロンのYシャツというのは暑いのう」と大きな声でいった。  まだ時間が早かったために、車内は三分の一位しかふさがっていなかったが、道助の声が余りにも大きかったので、乗り合せている客が全部、道助の方に顔を向けた。それで満はすっかり羞ずかしくなり、早く発車の時間にならないかと、そればかりを願い始めた。  彼が列車から降りてプラットホームに立つとまもなく、道助の隣の座席に女子大生が坐ったのが見えた。一人旅らしい。中々可愛らしい顔をしている。叶うことならデイトでも申込みたいような相手である。それにしても面白い組合せだ、と満は思った。祖父は話好きだから、二人は長い道中ひょっとすると話を交すようになるかも知れない。  発車のベルが鳴って列車が動き出すと、道助は皓い歯を見せて微笑み、子供のように満に手を振った。  大阪駅には末弟の武助が迎えに来ていた。自動車の中で、道助は汽車の中で知り合った女子大生のことを話した。  道助は隣の女子大生と静岡を過ぎる頃から話すようになり、うまが合ったのか、すっかり話に花が咲いてしまったのである。 「面白い子じゃった。アプレ娘じゃったが、茶目公で、実に気持のよい子じゃった。わしが軍人で、耳が遠いものだから、兵科は砲兵だろうということまであておった」  そう語る道助の声は若やいでいた。  武助は大阪に本社のある大会社の副社長であった。家族は東京の自宅において、自分は大阪に、会社が借りてくれている大きな邸宅に、ばあやを一人おいて暮していた。といっても月に二回位は東京に出た。  その夜風呂を浴びたのち、兄弟は酒を汲み交した。  兄弟といっても、この二人は親子程年が離れていた。武助という名前も、四十代の半ばを迎える頃に生んだ子だったので、行く行くは長男の道助の世話になることを思った母が、すでに郷土の誇りであった道助にあやかって、武人の武と道助の助をとって武助とつけたものであった。武助が中学一年の時、父が中風になった。それで道助は武助を引取って東京で教育することにしたのである。  道助は忙しい軍務の暇を割いて武助に英語と数学を教え、一旦入れた私立の中学から府立の一流中学への転校試験を受けさせた。その試験には無事合格したが、武助は兄の期待に反して官立の高等学校に入ることができなかった。しかし道助は無理をして彼を当時金持の子弟しか行けなかったK大の予科に上げてやったのだった。その代り武助はあらゆる質素倹約を忍ばなければならなかった。その間幾度かあった有利な養子縁組の話を、道助が断乎として拒否するのを、当時武助はどんなにうらめしい気持で聞いたか分らなかった。服は質流れを着せられ、靴は履けなくなるまで履かされ、愈々駄目になると夜店の古物屋に連れて行かれ、古靴をあてがわれた。足に合ったのが見つからなくても、無理やりに合ったことにさせられてしまった。彼は厳格極まる兄を恐れると同時に、当時すでにヒステリーの発作に屡々襲われるようになっていた美しい嫂の顔色を窺わなくてはならなかった。  武助はまだよく憶えていた。中学生の頃自分にあてがわれた薄暗い四畳半の部屋で机にかじりついていると、姪の富子がおやつのさつまいもをふかしたのを皿に載せて持って来てくれる。この小学生の姪が彼のオアシスであった。この姪は心がやさしくて、いつも彼の味方をしてくれた。彼は姪と一緒におやつを食べながら、ノートの紙を破って絵を描いた。  富子が見ていると、紙一杯に角帽をかぶった大学生が描かれる。そして隅の方に、小さく小さく、軍人の姿が描かれるのだった。彼は大学生を指して、これが僕さ、というと、豆粒のように小さな軍人を指して、これが富子のお父さんだよ、といって憂さをはらすのだった。  ——叔父ちゃまは何になるの?  ——大学を卒業して、実業家になるのさ。実業家になったら、実業家は軍人と違って金持だから、お前には何でも買ってやるぜ。何がいい、今から約束しておこう。  ——ピアノがいいわ。  ——よし引受けた、約束しよう。ピアノを十台買ってやる。  ——一台でいいのよ。その代り舶来のをね。  富子は賢かったからこんなことを父母に喋ったりはしなかった。そしてピアノはというと武助はそのことを果さなかった。その代り富子が結婚した時、当時上海にいた武助は、結婚祝いにみごとな絨氈を送ってやった。  武助はこの兄の前ではどうしてもゆったりとすることができなかった。今を時めく大会社の副社長ともあろうものが、と思うのだが、どうしてもそうなってしまうのだから仕方がなかった。たしかに武助が今日あるのはこの兄のお蔭だった。武助自身望んでいなかったし、道助も弟を軍人以外のものにしたがっていたせいもあろうが、あの時道助にとっては弟を官費の軍関係の学校に入れるのが一番楽であったのに、選《よ》りも選って金のかかるK大学に上げてくれ、何といっても武助の今日をあらしめた礎を築いてくれたのであるから。しかし武助にしてみると、自分は何も末子に生れて来たくなかったのに末子に生れたから兄の世話になったのだ、と思うことがあった。これが親の世話になったのだったら、いつまでもこんなに恩に着せられることはなかったであろうに、とうらめしく思われて来ることさえあった。殊に姉の鶴などに、道助兄の恩についていわれると、彼はそう思った。  道助にとっては、武助はいつまでも昔の弟のままに思われた。  ついこの間も道助は東京事務所に武助を訪ねて失敗を演じた。  大阪を最終の夜行で発って東京に着きその足で銀座の事務所に出て来るという武助に会いに、朝の十時頃事務所に顔を出した時のことである。もう来ていると思っていた武助はまだ出て来ていないという。では東京の家かというと、いや築地の旅館でおやすみになってから十一時頃出社の予定であるという。やがて漸く現われた武助に、道助は待ち構えていたようにいったのだった。 「お前偉くなったからといって、まさか築地あたりに女を囲っているのじゃあるまいな」  道助は声をひそめていったつもりであったが、隣室の秘書にも聞えはしないかと思われる位の声であった。道助としては弟の品行に対して責任を感じているのでそういったのである。それに武助の妻が、軍医総監をしていた、道助の中学時代の親友の娘だったから余計責任を感じているのだった。武助は苦り切って、家に帰る程の時間もないので、会社が特約している旅館で一風呂浴びて朝食をとって来たに過ぎないことを、耳の遠い道助に大きな声で説明しなくてはならなかった。すると道助はさすがにばつが悪そうに、「そうか、それならいいが」といったのである。……  武助は酒を汲み交しながら、やっぱり自分は法事の日の朝ぎりぎりに帰郷することになりそうだ、と語った。しかもひょっとすると翌日の夜行で戻らなくてはならないかも知れない、何しろここのところ重大な会議があるので、といった。そして思いついたように、兄さんは帰りに別府の温泉でゆっくり休養して行かれるといい、といったが、その費用は自分に持たせてくれとはいわなかった。そういったとしても道助は断わったろうが、道助としては、武助がそういう心遣いを示してくれることを心ひそかに期待してはいたのだった。  道助は、今回は真直ぐ郷里に入らないで、別府で一泊して温泉に浸って旅の疲れを充分いやしたのち、次の日に生家に帰るつもりでいた。これまでも帰郷すると必ずといっていい位別府で温泉に入って旅の疲れを癒したものであったが、しかし到着した日は例外なしに大分の駅から自動車で生家に直行し、何はともあれ先祖代々の墓に詣でたものであった。それをしないことには別府で身体を休める気分になれなかったものだった。しかし今回は、もう老齢ではあるし、一日別府で身体を休める位の我儘を許してもらってもいいような気がしたのだった。一日ゆっくり温泉で休養して元気を回復し、先祖の墓に参る方が、帰郷の順序として好ましいという気がしたのであった。法要が終ったあとも、湯治して行く心ぐみではいたが、それも第一日目に泊った時にどの位の費用がかかるか、それ次第だと思っていた。彼は昔から定宿にしている、老舗《しにせ》の鍵屋に泊ることにしていたが、一泊どの位とられるものか先に泊って見当をつけておくのが、あとで金が不足して払えなくなったりして恥をかかないためにも、必要なことのように思えたのである。  土産には上等のゆかた地を一反ずつ用意させたがそれでいいだろうか、と武助は道助に相談するようにいった。 「いいだろう」と道助はいった。  郷里の連中はやはり武助が何か土産を用意して来ることを当然期待していることだろう、と道助は思った。それは郷里を出て成功した者の郷里入りの切符のようなものだ。あるいは郷里はもっと大きな土産を待ち望んでいるかも知れないのだ。それが故郷というものの権利ででもあるかのように。 「いいだろう」と道助は再びいった。「今度の法事の費用もお前が全部持つそうだからな」 「そうです」と武助はいったが、その時の武助の答え方には、いささか不満の気が漂っていた。  内心武助は、法事の費用を全額自分が負担しなくてはならないのが、何か筋の通らないことのような気がしていたのだ。出世した者から何とかしてしぼり取ろうとするのが、故郷のやり方だという気がしていたのだ。  故郷に於ける武助の評判は、道助のそれに比して、それ程芳しいものではなかった。あれは追放で幹部が根こそぎ追出されなければとうてい重役クラスに出世できた器量の人物ではなかったのだ、という蔭口さえたたかれていたが、それはやっかみというものだった。そうした蔭口をよそに、武助は出世を重ね、故郷があれよあれよと思う間に、いつの間にか平取締役から副社長にまでのし上り、今では次期社長の有力候補とさえ取沙汰されていたからである。  武助は故郷の面倒を見ていなかったわけではもちろんない。親類ならば、甥と姪あたりまでは、たのまれた限り確実に全部、多少の無理があっても、就職その他で、面倒を見てやっていたのである。それでいてなぜ評判が悪いかというと、彼がたのまれても二つ返事で引受けるということを決してしないで、渋々と、あるいは感情を押えたままで引受けるからだった。そして甥と姪あたりまでは、少々無理をしてもたのまれたことを実現したが、それ以上になると無責任な推薦を金輪際しない質《たち》だった。つまり一肌脱ぐということを決してしなかったのである。出世したからといって、家郷の人々、いわゆる郷党の士の面倒を無定見にみるのは御免だというのが、彼の揺ぎないモットーであった。これは彼の見識といっていいものかも知れなかった。ただそれが故郷の人々に、冷酷だという印象を与えるだけのことだったのであろう。その代り、武助は世話をしたということに対して、決して恩着せがましい態度を取らなかった。それは彼が近代的な合理主義者であることを証明するものにほかならない態度であった。  姉たちにも武助は評判が余りよくなかった。重役として高額のボーナスをもらう身でありながら、余りにもけち過ぎるというのがその理由であった。たとえば、長姉の鶴にいわせると、武|やん《ヽヽ》は道|やん《ヽヽ》にあんなに世話になったのだから、道|やん《ヽヽ》に小遣いなどに苦労をさせたりしたら罰があたる、それなのに武|やん《ヽヽ》はよう気を遣うとらん、というのであった。一度武助が一週間の休暇をとって帰郷した時、姉である鶴と咲は、彼に別府の温泉へ連れて行って欲しいとたのんだのだったが、最初は言を左右にして中々承知せず、人がたのみ疲れた頃になって漸く承諾して、一流旅館の一番いい部屋に招待してくれたまではよかったが、小遣い銭を一銭もくれなかったというのである。姉の鶴にいわせれば、こういう人情の機微を解さないところが、武助の人間がまだまだ練れていない証拠なのであった。  もっとも鶴はそう辛辣な批評を下しておきながら、姉らしくこう注釈を下すことを忘れなかった。  ——武やんは末っ子で、子供の頃は甘やかされて育ったし、東京で道やんの世話で勉強している時は、あのきつい道やんの下で生活したのやから、中々そう鷹揚に振舞うわけには行かんのやろう。 「俺は今度は一介の浪人としての帰郷だからな」と道助は武助が土産について相談したあとしばらくしていった。 「何も持って行かんぞ」 「もちろんですよ。余計な心配は御無用です」  といって武助が笑った。  道助は武助を心のどこかで嫉んでいる自分を感じていた。  兄弟はその夜十時頃まで酒を飲み、二人ともいい酔い加減で就寝した。  翌日道助は武助を会社に送り出してからも、夕刻まで武助の家で休んでいた。午後四時半に武助差廻しの自動車が道助を迎えに来た。会議があって来られない武助の代りに、秘書が乗っていて、道助を列車が出るまで見送った。  大阪を出て一時間位で暗くなった。道助は奮発して食堂車で食事をとることにした。  翌朝道助はボーイに起されるまで目を覚まさずにいた。寝る前に飲んだウイスキーと催眠薬が効き過ぎたのかも知れない。 「今何時か」と彼は真先に問い糺した。 「八時五分過ぎでございます。もうそろそろお支度をお始めにならぬと遅れてしまいます」  ボーイは道助の耳が遠いことをすでに経験済みなので、彼の耳に口を近づけ大きな声でそう呶鳴った。 「そうか、別府着は八時四十分だったな」 「さようでございます」  道助は慌ててパジャマを脱ぎ、全財産の入っている腹巻と猿又一つの裸になった。毎朝する乾布摩擦は省略し、道助はクレープの下シャツ、駱駝の上下シャツ、ナイロンのYシャツを戦争のさなかのように急いで着たのち、ズボンをはいて、ズボン吊をかけた。それからネクタイを襟にかけたままで、洗面道具を持って化粧室へ急行した。  彼の鼻の下に生やしている、かつては「徳山髭」と呼ばれたこともある髭に入念にブラシをかけたのち、頬から顎にかけて石鹸を塗って、蒸しタオルで蒸した。  剃り終らないうちに便意を催して来た。彼は順序が逆だったことに気づいた。家では便所に行ってから洗面所へ入るのが常だったのである。  道助は剃りかけのまま便所へ行き、用を済ますとまた洗面所に入ったが、用心のために先にネクタイを締めておこうと思い立ったが、中々思うように締らない。そのうちに汽車はもう別府の駅に入っていた。  ホームには三弟の利八と甥の仙太と姪の豊子とが迎えに出ていた。利八はかつて、ホームに軍服姿で颯爽と降り立った兄の姿、カメラマンに囲まれてフラッシュをあびた兄の姿を思い出していた。  中々道助の姿が現われないので、仙太は豊子に、どうされたんだろう、一汽車遅らせられたのではないだろうか、と話していた。  汽車の中では、別府の駅に列車が入っていることにも気づかずにネクタイと格闘している道助のところへ、ボーイが上着とステッキとスプリング・コートと荷物をまとめて運んで来た。さすがに道助は驚き、まだ結び終っていないネクタイをそのままにして上着を着込み、ステッキをつき、ボーイに古い牛皮のトランクを持たせて、一等寝台車のタラップに降り立った。顔には石鹸がまだついていた。  道助と出迎えの三人は、駅前でタクシーを拾って、すぐに鍵屋に向った。  鍵屋では見知らぬ顔の番頭が道助を迎えた。 「東京の徳山さんですね」と番頭は、将校マントを改造した道助のスプリング・コートをじろじろ見ながらいった。 「お部屋はどんなところにいたしましょうか」  道助から鍵屋に一泊予約しておくように依頼を受けた仙太は、どの位の部屋を予約しておいたらいいものか判断がつかず、幸いその日は混んでいなかったので、道助の到着を待って道助自身に決めてもらうことにしてあったのである。仙太がそのことを道助に説明しようとすると、道助はにこりともせずにいった。 「わしの顔を見て決めよ」 「畏りました」と番頭はびっくりしたようにいって髭を生やした眼の鋭い道助の顔をあらためて見直していた。  通された部屋は、道助がこれまで帰郷のたびに泊った部屋と同じ部屋だった。十二畳の部屋に八畳の副室がつき、六畳ほどのヴェランダには上等の応接セットがついている。仙太と豊子は、道助のさっきの答えように度胆を抜かれていたが、今またその見事な効果に驚いていた。  仙太と豊子は勤めがあるので、先に引揚げ、利八だけが残った。二人はヴェランダで海を眺めながら、ひとしきり話をしてから、風呂に入ることにした。  風呂に入る前に、さっきの番頭が挨拶に来た。宿帳に住所氏名を書き終ると、道助は、 「お内儀《かみ》はどうした」と訊ねた。 「五年前に亡くなりまして」と番頭がいった。 「そうか」と道助は感慨深げにいって考え込んだ。気さくでよく頭のまわるお内儀だったのに、と道助は思った。もし生きていたら昔話をしたかった相手であった。 「お客様は昔はわたし共によく来られましたので?」と番頭はいったが、道助には聞えなかったようであった。番頭はそれ以上聞き出すのを諦めて立ち去った。  風呂に入って裸になった利八を見て、道助は利八の体格が堂々としているのに驚いた。道助の兄弟姉妹は、道助を含めて、みんな背が低かった。しかし六人きょうだいのうち、鶴と道助と啓吉とは父親似で痩せており、残りの三人、利八と咲と武助とは母親似で肥っていたが、中でも利八は晩年角力のように肥っていた母親にそっくりの体格をしていた。利八はもともと体格がいいだけでなく、容貌も魁偉で、ちょっと西郷隆盛を髣髴とさせるようなところがあった。その利八は、いつも日本一の金持になって、親兄弟にふんだんに金をばらまくんだと大言壮語していた。 「その後商売はどうだ」と道助はいった。その声は反響のいい浴室に響き渡った。 「まあまあですわい」と利八はいった。利八は表向きは油屋をやっていたが、実際にはその商売の方は妻に任せて、二三年前から親しい友人と組んで堅実な金融業を営み、かなりの成績を挙げ、自分では多年の宿願を晩年になって愈々実現できるかと思っている程だった。しかし残念なのはそれを兄に吹聴できないことだった。金融業などというと、何、お前は金貸しをやっているのか、とどやしつけられそうな気がするからである。 「来春、末の息子が大学を卒業しますんでね、今度武助に就職のことをよくたのんでおこうと思いましてな」と利八は話題を変えた。 「そうか」と道助は関心がなさそうにいった。今度の帰郷の主役が武助に移っていそうな気がして、いささか憮然としたものがあったのである。 「あとで長男の俊一が御挨拶に上りたい、といっていました」 「そうか」と道助はいった。利八には五人も男の子がいたが、みんな出来がよく、この長男も製材所を経営して成功しているという話だった。道助は、昔利八のところに男の子が生れるたびに羨んだことを思い出した。 「俊一とは初めて会うな」と道助はいった。 「そうですか」と利八がいった。  その時道助は子供の俊一に一度会ったことがあるのを思い出した。子供を種に利八にかつがれたことがあったのである。  利八は、小学校の高等科を出ると、大分市の竹町にある大きな油問屋に養子にやられた。学校の成績がよかったのと、兄の道助が優秀な軍人だ、ということで血筋を見込まれたのである。その養子縁組があった時、道助は両親から相談されて真向から反対した。しかし父はとうとう反対を押し切って利八を養子にしてしまった。ところがその後利八は養家と折合が悪く、妻子を連れて飛び出してしまったのである。そのことを知って道助は、一旦入った養家を見捨てるとは何事かといって大変怒り、しばらくは利八の四季の挨拶にも返事を書かなかったが、利八が無一物で妻子と共に小倉へ落ち、友人の計らいで細々と油屋を営みながら生活と戦っていることを知り、血を分った兄としてやはり同情を禁じ得なかった。  道助が大佐で陸軍省の砲兵課長をしている時、陸軍造兵廠に出張して小倉を訪れたことがあった。その時道助は前もって利八に久しぶりに会って話をしたいから、宿に訪ねて来るようにと、日時を指定して手紙を書き送った。料理屋へでも連れて行って御馳走してやりその後の様子なども聞こうと思ったのである。ところが指定した日時より大分早く宿屋に現われた利八は、道助が帰って来るなり、今日は家へ来てくれないかといって聞かない。準備をして待っているということなのでその気になった道助が軍服を脱ごうとすると、どうか軍服のままで来て欲しいという。子供たちが伯父さんの軍服姿を見られるといって楽しみにしているから、どうか子供たちの希望を叶えてやって欲しいというのである。子供たちのためならば、と道助は思って、軍服のまま利八の家を訪うことを不承不承肯んじた。公私を峻別する道助としては珍しいことといわねばならなかった。  行き着いた先は、長屋建ての煤けた商家だったが、自動車を降りると、隣近所の人たちがずらりと店先に並び立って、道助を出迎えた。  奥の座敷に通されると、彼の軍服姿を見られることを楽しみにしていたという甥たちはちょっと挨拶に顔を出しただけで、あとは町内の有力者、利八の取引先の主人などとの宴会であった。道助は腹が立ったが、今さら席を蹴って帰るわけにも行かない。道助は諸方から、お近づきのしるしという、盃を受け、したたか酔ってその晩遅く宿に帰ったのだった。  その時挨拶に出た甥たちの中に俊一もいた筈だった。  ところで東京に戻ってしばらく経って道助は、利八から手離しの喜びを伝える手紙を受け取ったものである。  ——大成功にこれあり候、隣近所の面々、すっかり余を見直し候、未だに種々取沙汰申し、余は鼻高々にて御座候……  そして商売はきっと一段と繁昌する筈だという文句で結ばれていたが、その後その思惑がどの程度に利八の商売の上に反映したかは、道助の知るところとはならなかった。  部屋に戻ると、道助は昼食にざる蕎麦を二人前注文した。  やがてざる蕎麦が運ばれて来ると、二人は言葉少なに食べた。もう兄弟は余り話すことがなくなっていた。  利八はざる蕎麦を食べ終ると間もなく辞した。彼は言訳のように、夜伺いたいが、商売上の会合があるので、失礼する、といった。そして明朝は自動車で行かれると思うが、自分も同乗させて欲しい、といった。  翌朝十時に利八が末の息子を伴って道助を迎えに来た。その前に道助は目の玉の飛び出るような宿泊料を請求されたばかりであった。一泊の宿泊料そのものが高かった上に、食事の追加と、酒代に、部屋代と同じ位のものを取られていたのである。前日利八の長男のほかに、仙太も豊子も勤め先の帰りにまた寄って顔を出し、夕食を食べて行ったので、道助の故郷入りの第一夜は意外に高くつく結果となったのである。この分では法要が終って別府で湯治をして行くわけには絶対行かないだろう、と道助は思った。  啓吉は孫娘を抱いて玄関に現われ、道助を迎えた。十年会わない間に啓吉は大分老け込んでいた。亡父の激しい気性を誰よりも受け継いでいるのは道助だというのがみんなの一致した見解だったが、父の容貌を誰よりも受け継いだのは啓吉かも知れなかった。最初啓吉を見た時、道助は父がまだ生きていたのか、と一瞬錯覚に陥った程であった。  奥座敷に落着くと、仙太の妻がお茶を持って挨拶に出て来た。鄙には稀な美人だ、と道助は思った。彼女はその後仙太や舅の啓吉と法事の準備の打合せをするために何度か現われたが、夫を立て夫の父を大切にしている日常がよく窺われる、という気が道助にはした。顔も心も美しいというのは得難いものだが、と道助は思い、仙太と二人きりになった時、 「お前はいい嫁をもらったようだな」といった。小声でいったつもりだったが、いつもの調子で大きな声だったので、奥の台所で昼食の用意をしている仙太の妻にも聞えたに違いない。  仙太は年甲斐もなく顔を赤くし、「いやあ」といって頭を掻いたが、そういわれてまんざらでもなさそうだった。  ふと道助は、仙太を預かっていた時分、仙太が女のことでした失敗を思い出した。  仙太は工業学校の一年の時母をなくした。それから一年も経って父が再婚してからぐれ出した。その時道助が仙太を引取らなかったら、仙太は本物の不良になっていたかも知れない。仙太は伯父に監督されて無事工業学校を卒業し、ある私立の工専に進み、引続き伯父の家に厄介になった。道助が第一の家に住んでいた時分である。太平洋戦争が始まって二年目の春である。  ある日の午前十時頃、道助が畠仕事を一段落させて、茶の間の前の縁側で一服つけていると、お茶を入れて来た女中の留女が目を真赤にしているのに気がついた。 「留女どうした」と道助がいった。  留女は急にしゃくり上げて泣き出したが、道助の質問には答えない。 「留女どうした、お腹でも痛いのか?」と道助はいった。 「痛いのなら医者を呼ぼうか」  すると留女は、 「どこも痛いところはございません、ただ仙太さまが」といって一層泣きじゃくった。 「仙太がどうかしたか」と道助はびっくり仰天した。  留女はそれから道助に問い糺されて、仙太が夜中に枕許に立ったのだ、ということを泣き泣き告げた。道助は最悪の事態を予想した。彼はすぐに最悪の事態を予想しないではいられない性格である。留女は嫁入り前の大事な体である。もしものことがあったら、両親に何といって申訳するか。場合によっては仙太に責任を取らせねばならぬかも知れない。 「立ってどうかしたか」と道助はいった。 「いいえ」と留女は初めて泣くのを止めていった。 「ただお立ちになっただけでございます」 「怪我はなかったんだな」と道助はいった。この怪我という言葉に彼は千鈞の重みを託したつもりであった。 「怪我は何もなかったのじゃな」と道助は重ねていった。  留女はうなずいた。  道助はそれでも不安で、娘の富子に電話をかけて来てもらった。大事な相談があると聞いて、娘は驚いてやって来た。道助に説明を聞いて、娘は留女と二人きりで応接間に籠った。  留女はもうすっかり落着き、余裕ができていた。仙太は本当に、彼女の枕許に立っただけだったからである。自分が誘惑に乗る女かと見られたと思うと口惜しくなって涙が出て来ただけで、体には指一本触れさせていないどころか、仙太に説教さえしてやったのだ。何と説教したの、と富子が問うと、真面目に結婚する気があったらちゃんと順序を踏んで欲しい、といったのです。そうしたら仙太さまはこそこそと逃げておしまいになりました。旦那様はしきりに怪我はなかったろうなとおっしゃっていらっしゃいましたが、そんな心配はまるっきりございません、と笑いながら説明した。  道助は、仙太を即刻家から出そうかとさえ思った程憤ったが、娘に諫められて、厳重に訓戒を垂れてそのまま置くことにした。その代り彼は早速仙太の部屋から女中部屋に通じている廊下の戸を釘づけにしてしまった。そうすれば大きく迂回しなくては女中部屋に行けない。その夜仙太が道助の書斎に呼ばれて、厳しい叱りを受けたことはいうまでもなかった。  その時のことを道助は思い出したのである。  そして仙太はもう忘れてしまっているに違いない、と考えた。  仙太の妻の手作りの五目寿司で昼食を済ましてから、道助は、仙太をお供に連れて、墓参りと、自分の墓を検分するために、墓地へ出かけた。 「わたくしもすっかりここに落着いてしまいました」と仙太は道々しんみりした調子で、道助にいった。  兵隊にとられて満州で終戦を迎えた仙太はシベリアに四年間抑留されたのち帰国した時、兵隊に行くまで勤めていた武助の会社に引き続き勤めるか、田舎に帰って老い先短い父の世話を見るべきかの重大な人生の岐路に立たされた。道助に帰国の挨拶をしに上京した時も、彼はそのことで伯父の助言を真剣に求めた。道助は後者を勧めた。彼としては故郷の家が絶えるのが寂しかったからである。幸い大分の市役所に勤め口が見つかったので、仙太は故郷に落着くことにした。工専の機械科を出た仙太にとっておよそおかど違いの職場ではあったが、シベリアで死んだ戦友のことを考えれば文句はいっていられないと思ったし、長い間心配をかけ通しだった父に孝養をつくすために、それ位のことは我慢しなくてはならないと思ったのである。父は二度目の妻が、仙太のことが原因であったろう、実家に帰ってしまうと、もう二度と家に入れようとせず、その後ずっと不自由な男やもめの生活を送って老境を迎える身となっていたからである。幸い啓吉が彼を田舎に引留めておこうと思って見つけて来た妻は、顔も可愛いが、心も可愛い女で、仙太の心をよく汲んで舅に孝養をつくしてくれた。父は僅かな田畑を耕し、暇な時間には昔からの道楽であった山林の売買を手がけていた。そのためならば、どんな山奥へでも出かける健脚の持主であった。彼の山や木の鑑定眼はその世界では高く買われていた。よく歩くせいか身体は丈夫だったし、結構小遣銭に不自由しないだけの実入りもあるようだった—— 「そうだな」と道助はその仙太の言葉に答えていった。それからしばらくして、 「だがやっぱりそうしてよかっただろう」と仙太が決心に迷っていた六年前を思い出しながらつけ加えた。 「故郷に腰を据えて暮すのはいいもんじゃ。わしなども、そうしていた方がよかったかも知れん位だ」と彼はいった。 「伯父様は偉くなられましたから」と仙太は、庭の東の隅の銀杏の三本の木を思い出していった。それは道助が中学に入学した記念に植えられたものであったが、その後いつしか一本は道助の木、一本は武助を象徴する木となっていたのだ。そしてあとの一本は、仙太の木ということになるかも知れないと思われていた時もあったのであった。 「いや」と道助はいった。「わしのして来たことは、すべて敗戦で御破算になってしまったのだ」  先祖代々の墓は、道助の足で十五分程かかるところにあった。峠の墓で見晴らしがよかった。彼の家から見晴らすことのできる景色とほとんど同じ景色を眺めることができるのである。  墓は綺麗に掃除されていた。道助の家は道助の祖父の代に分家した。祖父は儀八郎といってただの百姓であったが、西南戦争に軍夫として従軍したことがある。その儀八郎の墓が一番大きかった。その長男の義人、つまり道助の父の墓はそれよりもひとまわり小さかった。道助の墓は、道助の注文通り、父の墓よりまたひとまわり小さかった。徳山道助之墓という文字に朱が入れられてある。ふと道助は妻のことを考えていた。あんなに実家を誇りにしていた妻だから、妻も死んだら、自分が故郷の土に眠りたいように、実家の墓地に眠りたいのではないかと思えたのである。あそこの墓は鷲津家代々之墓だから、妻の骨を分骨するということもできなくはあるまい、と道助は考えた。それは妻の勝手だ、と道助は思った。彼は孤独を感じた。祖父の墓も祖母の墓と並んで立っている、父の墓も母の墓と並んで立っている、自分の墓だけが、あたかも妻を娶らなかった男の墓のように、独り寂しく立っているのだ……  道助はまっ先に父母の墓を拝んだのち、祖父などの墓も拝んでから、仙太を顧みていった。 「わしが死んだら、半分の骨をここに埋めてもらおうと思っている。あとの半分は、東京で妻や娘や孫たちに参ってもらえるように、負傷した時に買った多磨墓地に埋めてもらおうと思っている。こっちの方は徳山道助之墓ではなくて、徳山家代々之墓としようと思っている。東京に出たのはわしが初めてだからな」 「ところで」と道助は語を継いだ。「わしの墓のお守りをたのんだぞ」 「はい」といって仙太が深く頷いたのを見て、道助はもうこれで帰郷の目的は半ば達せられたかのような気がした。  道助はしばらく墓からの展望を眺めていた。大野川がゆったりと流れていた。その川で昔よく泳いだものだった。魚も漁ったことがあった。その手前を走っている竹田町の岡城址へ通じている県道は、彼の少年時代には、畦道に毛の生えたような道だったのだ。大野川のはるか向うに九六位《くろくい》連峰の山々が見えた。そこまではずっと一面の青田で、ところどころに林に囲まれた農家が点在するだけである。川に堤防が築かれたこと、道が広くなったことを除けば、その風景は彼が昔から親しんで来た風景そのままであった。その風景をじっと眺めていると、道助は母たちと共に、墓の中からその風景を眺めているような気がして来た。死者の世界がひどく親しく、ひどく近しいものに感じられて来たのである。  家に帰ると、姉の鶴と、妹の咲が連れ立って来ていた。鶴は八十歳になっていたが、まだ矍鑠としていた。ただ少し耳が遠くなって裏山の小鳥たちの声が楽しめなくなったのが不自由な位であった。むしろ二年前に大病をした咲の方が影が薄い位だった。  鶴の願いは八十八歳まで生き永らえて、孫たちに米寿の祝いをしてもらうことだった。小さい時から美人の誉れが高く、その上頭がすばらしくよかった。小学校の高等科までしか出なかったが、ずっと一番で通した。彼女がもし男だったら大した人物になっていただろうというのが、甥や姪や孫たちの一致した見解だった。道助さえも、この姉には一目も二目もおいていた。  彼女は一度結婚に失敗していた。半年余りで最初の婚家を飛び出して来てしまったのである。しかし二度目の結婚は成功だった。二十年前に夫と死別していたが、本当に仲がよい夫婦で道助は義兄をねたましく思ったことさえあった。今は孫の代になっていたが、乳牛二頭が彼女の牛ということになっていて、それから上る収益はすべて彼女の小遣いになっていた。ラジオをよく聞き、話がうまいので、孫の子供たちはみんな彼女のところへ寄って来て、彼女の話を聞きたがった。  彼女はまだ全然といっていいほど頭がぼけていなかった。よく人の批評をしたが、それは女の蔭口とはいささか種類を異にしていた。無視できない鋭さを持っており、正鵠を得ていて、一種の風格があった。  彼女はここのところしばらく前から自分の牛にとびきり上等の餌をやっていた。そして今日はその牛のしぼり立ての乳を土産に持参していた。彼女の自慢の牛の乳を、久しぶりに帰郷した道助に飲んでもらおうと思ったのである。 「道やん、まだお互いに達者で何よりですなあ」と鶴はいった。  情にもろい道助は目をしばたたかせた。これは徳山家の男によく見られる遺伝で、感極まった時にする仕種《しぐさ》であった。  咲は前の晩豊子が道助の宿に押しかけて御馳走になったお礼と、戦争中御茶の水の女高師の学生だった豊子が土曜日になると道助の家へ行って夕飯の御馳走になったお礼とを一緒に述べた。彼女は道助に似て愚痴っぽくなっていた。今彼女の最大の心痛は、その豊子が婚期を逸して結婚できないで終りそうなことだった。生じっか高等教育を受けさせたばかりに婚期を逸してしまったのだ、と彼女は信じていた。そして弟の武助に、会社の人で誰か適当な人はいないものか、よくたのんでみるつもりでいた。  道助は、啓吉と利八と咲と共に三時のおやつに、鶴が持参した牛乳を温めたのを飲まされた。東京の牛乳と違って濃いことが分った。そう道助がいうと、 「あした、武やんが着いたら、もう一度飲んで頂きましょ」と鶴は満足げにいった。  その夜は武助を除いた兄弟姉妹の全員が九時まで話に花を咲かせた。座敷の古い時計が、九時を打つと、道助は離れに退いて、床に就いた。  翌朝道助が目覚めたのは五時半であった。彼はそっと起きて井戸端へ行き、洗面を済ませると、朝の散歩をして来ようと、ステッキを持って外へ出た。  県道を川の流れに従って歩いて行くと、右手に見覚えのある鳥居が見えた。その鳥居が入口で、徳山道助の家と同じように山の麓にある村の社への道がついているのだった。その道を辿り、石の階段の前まで来ると道助は一休みした。それから彼はゆっくりと石の階段を一段ずつ上って行った。手摺の鉄の棒は新しくてぴかぴかだった。戦争中の金属回収で外されて以来そのままになっていたのが最近になって直されたのであろう。階段を上り切ると徳山道助はまた一休みした。狛犬の台に腰をおろしたのである。それから手水所で手を浄め口をすすごうと思って立つと、手水鉢に彫り込まれた彼の名前が目に入った。昔彼が寄進させられたものであろう。彼自身もそれを忘れていた。もう十年も経てば、そこに刻まれている徳山道助がどういう者か知る者はほとんどいなくなるであろう。それでいいのだと彼は思った。神殿の前に立つと彼は再び自分の名前を見出した。「武運長久・陸軍中将勲一等徳山道助」と書いた額が、外されもせずに、懸っていたからである。その書には記憶があった。大東亜戦争が始まってまもなく、村長が上京して彼にたのみに来て書いた額だったのである……  神社の裏手から彼は寺へ行った。小さな道だがその方が近道なのである。途中で彼は、道のほとりに今まで見たことのなかった大きな墓を見出した。「陸軍軍曹中村吉之進之墓」という墓碑銘が読めた。昭和二十年の六月に戦死している。徳山道助の墓の五倍はゆうにあった。この男も武運長久を祈って村の社に額ずいただろうに、と徳山道助は思った。その甲斐がなかったのだ……  寺のたたずまいは彼の子供時代のそれとほとんど変りなかった。本堂が新しくなっていたが、それも昔と同じものが建てられただけであった。この寺の前の広場で子供の頃彼はよく遊んだものだった。彼はふと、小学校で自分より二級下の娘がこの寺にいたことを想い出した。彼はその娘が好きで、士官学校を卒業した時、本気で求婚しようと思ったことさえあったのである。あの娘と結婚していたら、自分はあんなに索寞とした結婚生活を送ることはなかっただろう、と道助は思って、失われた歳月をもう一度取返したいという気持に、一瞬のあいだ心が狂おしくなるのを感じた。  それから彼はまた県道へ下って、小学校を訪ねるために、更に三十分程歩いた。小学校はすっかり変っていた。立派な鉄筋コンクリートの建物に変っていたのである。まだ木造建築だった頃、その講堂で彼は帰郷した折に乞われて何度か村人たちを前にして講演をしたことがあったのである。玄関の横の二宮金次郎の銅像には見覚えがあった。近寄って見ると、案の定彼の寄付したものであった。ただ徳山道助の名前の上の位階勲等がコンクリートで塗り潰されていた。恐らく敗戦直後にしたことであろう。  帰ると朝食の用意ができていた。道助は久しぶりに郷里の味噌で作った、山菜のたっぷり入った味噌汁を飲んだ。道助はふと母の生きていた頃のことを思い出した。母は道助が手打ちうどんを入れた味噌汁が好きなことを知っていて、道助が帰郷した日の翌朝は、必ず朝からうどんを打って、うどんの入った田舎汁を拵えてくれたものであった。あああの田舎汁がもう一度食べたい、と道助は思った。母の打ったうどんの入った田舎汁が食べたい……  朝食を済ました頃、啓吉の長女である由子が隣村からやって来た。終戦後朝鮮から引揚げて来てまもなく夫を結核で失った彼女は、夫の生家に落着いて、農協に勤めるかたわら、夫の父母から分けてもらった僅かばかりの田畑を耕しながら、女手一つで男の子を三人育てて来た。そしてようやく長男が来春高校を卒業するまでに漕ぎつけたところであった。彼女はその長男を東京の一流といわれる大学に上げたいと思っていた。そして今度の法要で、武助叔父にその費用の援助をたのんでみよう、そしてもしできれば、嘗て弟の仙太が道助の家に置いてもらったように、武助の東京の家に長男を置いてもらえるようにたのんでみようと思って来たのであった。  由子は、なつかしそうに、道助に挨拶をした。彼女は昔、道助の家に夫と共に置いてもらったことがあったのである。道助が第一〇一師団長として出征すると、彼女はそのまま道助の留守宅を預かった。道助が負傷して、留守宅にどっと押し寄せた新聞記者や、雑誌記者や、放送局の記者たちを巧みに取りさばいたのは、賢くて気丈な彼女だった。道助の娘一家は大阪にいたし、道助の妻にはそういうことはできなかったから、道助の方がそのことで彼女にむしろ感謝していた。その頃の新聞を見ると、道助の妻は折悪しく風邪を引いて引きこもっていることになっている。  由子が来てからまもなく、武助が到着した。武助はお茶を飲んでしばらく休むと、仙太に伴われてお墓参りに出かけた。  武助が戻らないうちに、武助に会いに新聞記者が来た。武助からいいつけられてあったらしく、仙太の妻が新聞記者を離れに案内した。  武助が帰って来て新聞記者が来ていることを告げられると、彼はすぐに離れへ行こうとした。 「何の話だ」と道助がいった。 「いや、今度うちの会社が九州に大工場を立てる予定にしているもんやから」と武助はいって言葉を濁した。  道助はそれ以上訊こうとしなかった。  最初に来た新聞記者が帰ったかと思うと、また別の新聞記者が来た。更にもう一人別の社の新聞記者も続いた。  十二時になって、昼食の用意ができたところに、武助が、「やあ、えらい待たせて」といって戻って来た。  みんなは武助がここ何年かの間に、また一段と貫禄がつき、いかにも大会社の重役然として来たことに更めて気がつき、驚いた。知らない人が見ても、これは大会社の重役級の人物だということが一見して分ったであろう。恰幅は堂々とし、大きな耳をした顔はますます立派になり、自信に満ち溢れていた。目は鋭く光り、頭髪はみごとなロマンス・グレイで、顔は艶やかに光っていた。  床の間の前に道助と武助が並んで坐った。食事は、土蔵から出された朱塗りの高脚膳で、一人一人に出された。  食事が始まって間もなく武助の斜め前に坐っていた利八が大きな声でいった。 「武助」  武助はちょっと驚いて顔を利八の方に向けた。その一瞬だけ武助は、自分が利八によくそういって呼ばれ、用をいいつけられた子供に再びかえったような気がした。 「工場を殖やすんやったら、来春はお前のところの会社はたくさん人をとるやろう。家の暢夫をたのんだぞ」  武助はちょっと頷いてみせ、 「履歴書をあずかって行きましょう」と低い声で重々しくいった。 「そうか、たのんだぞ」と利八は兄としての威厳を籠めたつもりで、また大きな声を出していった。  道助は、隣の間の仏壇の中に飾られた母の写真に時々目をやりながら、黙って食事をした。  母が四十を過ぎてから拵えた武助の面倒を自分が見て、妻のヒステリーに悩まされながら、大尉の苦しい月給の中から武助を大学まで出したのは、この母に仕える代りだったのだ、と考えた。もしも自分が武助の世話をみなかったら、今頃武助はどうなっていたことであろう。どこかに養子にやられ、子供をたくさん作り、村会議員か何かにおさまっていたことであろう。  食事が終ると武助のところにまた客があった。 「武助もえらい立派になりましたなあ」と隣の鶴が、武助が悠然とした足どりで離れに去ったあとを見送りながら、しみじみといった。そして道助の心をひき立てるようにこうつけ加えた。 「これも道やん、あんたのお蔭じゃ」  道助は聞えないふりをして黙っていた。今恐らく武助は人生の絶頂にあるのだ、と彼は思った。今武助にとっての故郷は、道助が全盛時代に帰った時の故郷と同じものであろう。あの頃の道助にとって、故郷は、人間臭い、人々の驚嘆と羨望とに満ち満ちた小世界だった。しかもその小世界は、一|刻《とき》も無視できない重みをもった小世界だった。彼の意識の上では、時によっては一番重かった小世界だった。しかし今の道助にとって、死が行く手に待伏せして彼を手招きしている道助にとって、故郷は、もはやそのような小世界であることを止めていた。故郷はなつかしい自然であり、父や母がその中に憩っている土であり、墓地であったのだ。もう二十年もしたら、武助に対しても故郷は同じように姿を変えるだろう。それを自分は知っているのだ、と道助は思った。  食後お茶を飲みながら、ひとしきり母の思い出が語られた。  徳山道助は高等小学校で廃学するつもりでいた。自分でそう納得していたのである。それを惜しんで中学に進学させるように説いてくれたのは、高等小学校の担任の先生と母の兄の操三郎伯父とであった。しかし「百姓に学問は要らぬ」といって、この二人の勧めを頑として容れようとしない頑迷な父を辛抱強く説得してくれたのは、何といっても母であった。まだ汽車が通じていなかったから、道助は大分市に下宿して中学に通ったが、いかにして金を父からせびり取るか、それが毎月帰郷するたびに彼の心に重くのしかかって来る課題であった。「何だ、また金をくれだと。この間持って行ったばかりと違うか」といって父は渋々五十銭出してくれる。それをいかにして二円まで釣上げるかに、道助は奔命したのだ。特待生だったので授業料はただだったが、生活費と本代にどうしてもそれだけは毎月入用だったのである。臨時の出費で金が更に多く必要だった時はもっと辛かった。彼は癇癪を起した父に青竹でなぐられたこともあった。弟たちに「金くれの兄さん」と仇名をつけられた。そんな時にいつも彼をかばい、励ましてくれたのは母だった。  中央幼年学校を受けたらどうかと勧めてくれたのも、伯父の操三郎であった。高等学校に進学することは到底無理だろうから、官費で教育を受けられる軍人になったらいいと勧めてくれたのである。父の説得は引受けるというのであった。当時大分中学校で徳山道助の担任をしていた先生は山田小太郎という人であった。のちにこの先生の遺徳を慕って教え子たちが編纂した「山田小太郎先生」という本に、この先生の日記がのっているが、その中に徳山道助の中央幼年学校志望について次のように書いたくだりがある。  明治三十年三月十四日午後第六時後級長ノ徳山道助来訪スヨツテ其志望ニ就テ父兄ノ意向及家況ノ概要ヲ質シ実父及親族ハ其志望ニ賛成セル旨ヲ答ヘタレバ大ニコレヲ嘉尚シ将来百折不撓ノ堅志ヲ抱キ陸軍社会ニ立身センコトヲ期スベキ旨ヲ告ゲ相識ノ軍人成業立志ノ実蹟二三ヲ談シ聞カシメタリ尚同人ノ答フル所ヲ左ニ記ス。 一、中央幼年校ノ私費一ケ年六拾余円ニシテ半官費也但シ衣服費ハ入校ノ際別ニ三拾円ヲ納ム 二、幼年校ノ這回入学志望者本県下二八人也 三、鳥潟右一及豊ハ目下開明尋常中学ニ於テ第三学年二組ノ首席ニ在リ同碩氏ハ四年生ノ七番席ニ在リト  中央幼年学校の合格発表を見に行った日のことを、徳山道助は七十四歳の今日まではっきりと憶えている。彼は一緒に受けた友だちと、成績順位で発表されている名前をうしろから見て行ったのだ。友だちが「あった」、「おおあったぞ」と叫ぶのに、彼はいつまでたっても自分の名前が出て来ないのにやきもきしていた。そしてそのうちに諦めて帰ろうと思いだしたが、それでも最後まで一応見て行こうと思い直したのであった。ところが彼の名前は一番最後に出ていたのだ。つまり彼は首席で合格していたのである。その時彼が真先に思ったことは、母がどんなに喜んでくれるだろうか、ということと、首席ならば完全官費となるからこれで父の説得も楽になるということだった。山田小太郎先生には父の賛同を得てあるといってあったが、それは嘘だったのだ。  愈々幼年学校に入学するために上京する時、母はささやかな送別の宴を張ってくれた。その席上で徳山道助は「せめて大佐になりたい」といったのであった。そして彼に軍人志望を勧めた操三郎伯父に「お前大きなことをいうな」とたしなめられたのであった。  こうしたことをすべて、徳山道助は今、姉や弟たちが母のことを語っているのを聞きながらありありと思い出していた。  鶴は、昔道助の家に厄介になっている武助を見に母と上京した時のことを話していた。 「結構だね、武やんは」と母がK大学の予科の制服を着て立派になった武助を見ていった時、武助が、「わしは偉くならんでもええから、母さん、田舎に帰りたいよ」といったという話だった。  それを鶴は巧みな話術で、その時の様子を髣髴とさせるように語った。  この話は道助にとって初耳だった。自分はそんなに武助に対して厳しかったのだろうか、と道助は今さらながら思った。 「武やんもああなるまでにはずい分苦労したのじゃ」と鶴は話を結んだ。  法要は四時に始まった。  読経を聞きながら、道助は母の臨終の時のことを思い出していた。  京都師団の参謀をしていた時に、「ハハキトク」の電報を受けとって、徳山道助は急遽帰郷したのだった。しかしその間に母は小康を取り戻し、意外に元気な姿で彼を迎えた。横になったままだったが、敬礼をして彼を迎えてくれたのである。しかし一週間滞在して彼が京都に戻ってから二三日して母は息を引取ってしまったのだった。徳山道助は女学生だった娘を連れて再び帰郷した。葬儀は盛大に行われた。徳山道助の関係者がずい分たくさん参列した。それから武助の会社からはまだその頃一介の平社員に過ぎなかった武助のために社長の名前で大きな花輪が一対贈られたのだ。その時道助は、陸軍にはそういう内規がないことを心外に思ったものだった。そのことを今徳山道助はふと思い出した。  母はいつも明るく朗らかだった、と道助は思った。そして限りなくやさしかった。道助はそんな母をひどくなつかしく思った。もしできることなら母にまつわりついていた子供の頃に戻りたかった。そして自分の人生をもう一度やり直したかった。自分は好んで軍人になったのではなかった、と思った。本当は大学まで進んで学問をしたかったのだ、しかし中学を出ても上の学校に進めるというあてがなかったから、軍人になったのだ。もしかすると自分には恐ろしく向かない道を選んだのかも知れない、と道助は考えた。もし何もかも新しくやり直せたら——、自分がまだ紅顔の少年で、無限の可能性を持っていて、自分の人生をもう一度やり直せたら——、と道助は思った。進学も、職業選択も、結婚も……。  ふと彼は二三年前に啓吉が上京した時のことを思い出した。その時娘や孫を交えて歓迎会を催したのであったが、酒に酔って、道助が自慢話をしたところ、啓吉に一本取られてしまうような羽目に陥ったことがあったのである。 「わしは九州の山中に生れ、大将にこそならなかったが、まあずいぶん偉くなった。武助も副社長になったが、それとてもわしの出世なしには考えられんことだ。母も草葉の蔭で、自分の生んだ子供たちが偉くなって喜んどることじゃろう」  酒が三合も入っていたろうか、水入らずの仲なので、気易く道助は、孫にも聞かせたい気持もあってそう自慢話をしたのである。すると啓吉が何かぼそぼそといい出したのである。初め何をいっているのか道助には分らなかったが、間もなく啓吉が、道助のついぞ今まで知らなかった重大な人生告白をしているのだ、ということが分って来たのであった。啓吉は、彼にとっては姪の子供にあたる和夫や治や満や士郎に向ってこんなことを喋り始めたのである。 「お祖父さんはああいって威張っとるが、わしだって偉くなろうと思えば偉うなれたんや。ただそうしなかっただけの話じゃ」  そう前置きして啓吉が語ったのは次のような話だった。——  わしが父と母に膝詰談判に及んだのは、道助兄が日露戦争から凱旋して帰郷し村中を湧かせてから、一カ月位経ったある日のことじゃった。 「わしも東京にやってくれ。わしはきっと偉うなってみせる。その代りわしは何も要らん。家も、屋敷も、田畑も、何も要らん。こんな田舎にくすぶっているのは、わしはもう厭なのじゃ」  父は黙っていた。めっきり身体が弱り果てていて、昔のように、目にものをいわせることができなかったのじゃ。  母はその日の夜わしを一人仏壇の前に呼んでこういうたのじゃ。 「啓吉、お先祖様と共に、お前にお願いするんじゃが、家を出て東京へ行くことだけは止めてくれんか。道助はわしが中学だけというのを聞かずにな、長男なのに、家を捨てて軍人になってしもうた。利八は他家にくれてしもうた。武助はようやく小学校に入り始めた頃や。咲もまだ嫁入り前じゃ。父さんは中気で寝たきりや。お前は道助に劣らず勉強ができた。いや道助よりもできた程じゃった。それにお前は道助よりも人間に余裕がある。お前が世の中へ行けば、きっと偉うなる。それはこのわしが誰よりもよう知っとる。しかしどうかもう一遍考え直してみてくれぬか」  わしは考えに考え抜いた。三日三晩というもの、ものもよう食わず、夜もよう寝ないで考えた。そうしてとうとう上京を断念したのじゃ。 「もしもわしがあの時母の意に逆らって家を出ていたら」その話を語り終ると啓吉は相変らずぼそぼそした調子でいったものである。 「わしは武助などとは比べものにならん財界の大立物になったかも知れぬ」 「そうですね」娘の富子がいうのを聞きながら、道助は禿頭を掌でぴしゃりと叩いて、 「分った、分った」といったのだった。「わしが自慢話をしたのが悪かった。一本取られたのう」  その時の啓吉の言葉を道助は、あらためて今初めから終りまで思い出したのだった。耳が遠い筈なのに、あの時不思議と彼には啓吉のぼそぼそと語った話の内容がよく聞えたのであった。啓吉の人生にそんな一齣があったことを、啓吉から話に聞くまで想像もしないでいたことを、その自分の迂闊さを、道助は今さらのように慙愧に耐えない思いをして顧みた。しかし同時に何もかも同じなのだという気がした。まもなく死がすべてを嚥み込んでしまうのだから——。それにどちらの人生が結局よかったのか分らないのだと道助は思った。  道助はまた自分が父や母よりも十年の余も長生きしてしまったことを考えた。しかし、いつまでも自分は父や母よりも若いような気がしているのだ。それにしても父や母よりも年をとるまで生きていることが何か自然に悖ることのように、何か不遜で傲慢なことのように、道助には思えた。何となくそう思えたのである。その時読経が終った。  焼香が終ると、武助が啓吉に勧められて、立って簡単な挨拶をすることになった。  ——みなさまのお蔭で母の三十三回忌を無事済ませることができた。私たち兄弟姉妹も、七十四歳になる長兄道助の十年ぶりの帰郷によって、実に久しぶりに顔を合わせることができ、地下の母の霊も何ほど喜んでくれたか分らないと思う。粗末なもので申訳ないが、夕食も用意してあること故、今日はゆっくりして頂き、故人の思い出話などを中心に一夕を語って頂きたいと思う。末弟であるが、今回は私が施主の立場にあるので、簡単であるが一言挨拶の言葉をさせて頂いた、という趣旨のものであった。  簡単ではあったが、重々しく荘重な調子の語り口で、武助の挨拶はみんなの心にしみるように響き渡った。みんなはさすが大会社の副社長だけあると思った。  道助が酒の酔いにいささか陶然となっているところに、由子が長男の好一を連れて挨拶に来た。そして道助と武助の両方に、もしも大学に入ったらよろしくお願いします、ということをたのんだ。  武助は感情の混らない声でいった。 「まず目的の大学に入ることが先決だな。入ったら相談に乗ろう。田舎の名もない高校でいくらいい成績をとっても、東京の一流といわれる大学にはそう簡単に入れるものではない。そういう大学の試験には天下の秀才が集まって来るんだからな」  由子が助けを求めるように道助の方を向くと、道助がいった。 「由子、息子を出世させて自分の面倒を見てもらおうなどと考えて、田畑を売ってはいかんぞ。出世させてみたところで、息子は親のお前から羽を拡げて飛び去って行くだけじゃからな。あとに残されるのは自分一人なのだ、ということもよく考えておけよ。それからな、三人も男の子がいて、長男だけをよくしようという料簡じゃったら、それも考えもんじゃ。兄弟には公平に機会を与えてやらなければならん。好一はな、お母さんを大事にしてな、自分だけのことを考えずに、お母さんと弟たちのことを考えてやらねばならん。この老人のわしにいえることはそれだけじゃ」  その夜宴会は十二時頃まで続いたが、道助は十時になると離れに引揚げて床に就いた。  翌日の夜行で武助は大阪へ帰った。道助は武助より一日遅れて別府から船で発った。別府で一週間位保養して行かれたら、というみんなの勧めに応じなかったのである。予算を第一日目に大幅にくい込んでしまったせいもあるが、もう帰郷の目的を果した以上、一日も早く東京へ帰りたいと思ったからである。見送りに来てくれた啓吉や、利八や、咲、仙太や豊子の姿が見えなくなってからも、道助は一等船室のサロンの窓から別府の町を見つづけていた。由布岳と鶴見岳が遠くにかすみ、湯煙りが見えなくなるまで彼はそうしていた。それから彼は部屋へ入った。  大阪では汽車への乗継ぎの面倒を武助の秘書がまたみてくれた。武助の家に一泊して身体を休めようかとも考えたが、やはりそのまま汽車に乗継いで東京へ帰ることにした。     第三章  東京に帰ってから、徳山道助はしばらく、何か大きな事業を無事成し遂げたあとのような自足感を味わっていた。彼はもういつ死んでもいいような気がした。彼は仙太にたのんで送ってもらった自分の墓の写真を娘や孫たちに見せて、これで故郷の家ができた、といった。そしてついでに、自分が死んだら半分の骨を分骨してこの墓に埋めて欲しい、あとの半分は東京の墓に埋めて欲しい、と遺言のようにいった。  東京の墓を多磨霊園に買い求めてから、道助はすでに十数年も生き延びていた。今度も祖父は早まったことをしたのだ、と孫たちは思い、祖父の性急さを嗤ったが、道助は今度こそ死がすぐ行手に自分を待っていることを予感していた。  孫たちは、祖父の帰郷後しばらくの間、夕食の席で聞く祖父の帰郷譚を楽しんだ。徳山道助は座談が元来上手だった。往きの汽車の中の話からして面白かったが、帰りの汽車の中で道助の前に坐った新婚夫婦の話も孫たちを喜ばせた。  その新婚の妻が夫をススム君と君呼ばわりしていた、といって道助は女性が威張り出した世の風潮を慨嘆しているのであった。一度なぞはススムと呼びつけにした、と道助はいった。ボクちゃんと呼んだこともあった、と道助はいった。  じゃあ、何と呼んだらいいのですか、と士郎が反論すると、道助はしばらく考え込んだのち、名前を呼んじゃいかんのだ、といった。あなたと呼べばいいんですね、と士郎がいった。お祖母さんが、道助さんといったらどうなさいますか、と満がいうと、道助は困ったように皓い義歯を見せて苦しい微笑を泛べた。  やがて道助は再び退屈に苦しめられるようになった。それは帰郷する前に味わった退屈と何ら変るところのない日常であった。あんなに確実に近い将来に自分を待伏せしていると信じられた死も、もしかするとそんなに近い将来のことではなかったかも知れないという気がして来た。しかしそう感じると徳山道助はやはり正直なところほっとした安堵の気持を覚えずにはいられなかった。  道助は過去に於て自分を苦しめた退屈をよく思い浮べた。もうずい分久しく自分は退屈に苦しめられて来たのだ、と道助は思った。  第三師団長から待命を仰せつけられ浪人になった時に彼を苦しめた退屈を思い出すと、彼はそんな過去の自分に切ない同情の念さえ覚えた。その時彼は僅か五十六歳であった。彼は娘一家のいた東京へ引揚げ、借家の小さな芝生の上で、暇になると撃剣の稽古をした。朝は六時に起き、剣を三十分振った。それから庭を掃き、門前の道路までも掃き浄めたのち、朝の食事をとった。午前中は書斎に閉じ籠って、戦史の読書に耽った。妻はピアノを弾いたり、琴を弾じたりしたが、それは彼を慰めることから遠かった。彼は腹立たしくそれを聞き、遂にはそれを禁じさえした。彼は返り咲きを信じていた。一旦予備役に編入された者が現役に復帰することは不可能の筈であったが、彼は何か奇蹟が起るのを待っていたのだ。そしてその奇蹟は訪れた。彼は予備役のまま召集され、第一〇一師団の師団長に任ぜられたからである。  しかし支那事変で徳山道助が経験したのはこの世の地獄にも比すべき戦いであった。そして無意味な殺戮としての戦争だった。後方からの軍命令のために、みすみす全滅することが分っていながら、部下の隊に前進攻撃を命じたことはいくたびであったろうか。そして支那の軍隊は敵ながら実によく戦った。自分の正義を信じられない軍隊にそのように戦う力がある筈はない。道助はこの戦争の意味を懐疑するようになっていた。武将に懐疑は禁物である。しかし彼の心はその懐疑に取り憑かれてしまったのだ。こんな殺し合いを何とかこの辺で止めさせることはできぬのかと彼が口走り、現役の国代参謀長を驚かせたのはそのためであった。支那事変に於ける軍人徳山道助については、ある部下の述べている次のような批評が妥当であろう。  ——徳山師団長は、将官演習に於ては首席だったといわれ、戦術用兵については陸軍でも有数の方であったと聞いているが、実戦に於ては非常に人情豊かな方であったために、部下の死傷に対し極端に気を遣われ、思い切った作戦を行い得なかった憾みがある。  この支那事変から帰還して隠退生活に入った彼を苦しめたのも、退屈であった。傷痍軍人会会長として、週二回本部に出たが、文字通りの閑職で、彼が手出しできることは何もなかった。園芸を本格的にしようと、東京農大の聴講生となったのも、退屈の苦しさから何とかして逃れようとするためであった。その頃の新聞のいくつかには、「農大の聴講生となった将軍」という徳山道助の記事が大きく載っている筈である。彼は漬物の漬け方まで農大で習って来た。○日経ったら重石を三分の二に減らし、×日経ったら更に三分の一に減らす、そういったことを書き留めてあるノート通りに作った漬物は、しかしひどく不評であった。  太平洋戦争が始まると、彼は同期生の親友で、侍従武官長をした宇佐中将とよく碁を打ちながら、この戦争が終ったら、わしらは郷里に引揚げて薪割りでもするんじゃのう、と話し合ったものであった。二人ともその戦争に勝目がないことを知っていたのだ。その話を孫たちにすると、満などは「なぜ抵抗運動をしなかったのですか」といった。しかしそんなことは道助にはできなかったであろう。彼は軍人は政治には一切容喙すべきではないということを固い信条とする一個の武辺に過ぎなかったからである。  食糧が苦しくなると、道助が退屈しのぎに始めた園芸は農業生産に代ったわけだが、この頃マニラの司政長官になる意向はないかと、陸軍省から道助の内意が確かめられた。しかし戦争の結末を予想していた道助はそれを断わった。彼は農業生産に一層本格的に取組み、娘の一家の食糧危機を救い、友人たちの台所をも潤した。もしかすると自分の生涯で、あの畑作りに専念し食糧難と戦った時期が一番充実し、生き甲斐に満ち溢れていたかも知れない、とこの頃道助はよく思うことがあった。そしてそれを人生の皮肉と感じるのであった。  すでにその兆候は前からあったのだが、道助はしきりに山菜を食べたがった。それからとろろ汁や、栗御飯などの混ぜ御飯を食べたがった。それは山の麓に育った道助の幼少年時代の食べ物だった。好みが回帰し始めたのである。晩酌の量も減った。もしかすると本当に死期が迫っているのかも知れない、と娘は心ひそかに懸念した。  道助は三時頃になると、高台の屋敷町にある娘の家から階段を降りて、商店などがごみごみと建て混んでいる下町へくだって行き、銭湯に入りに出かけた。銭湯で彼は人気者であった。町の年寄たちが気さくに彼の背中を流してくれた。彼は広々とした湯槽《ゆぶね》になみなみと湛えられているお湯の中にゆったりと手足を伸ばし、年寄たちが大声でとり交す会話に耳を傾けて楽しむのだった。  ある日のこと、湯槽につかっていると、体格のいい四十歳位の男が入って来た。見たところは何でもないが、片方の手足がよく利かないらしい。その男は不自由をしながらそろそろと湯槽に近づいて来た。陽にあたることが少ないと見え、色白な体をしている。一人の年寄に助けられて彼はようやく湯槽に身を横たえた。 「どうかしたのか」と道助はいった。 「この男はね、御隠居さん」と年寄が答をひきとっていった。「戦争で耳をやられているんですよ」 「この戦争でか?」 「いや支那事変でさ。廬山とかいうところでやられたんでさ。昔のことですよ」と年寄がいった。 「そうか」と道助はいって黙ってしまった。昔なら自分は、陛下に代って「御苦労だったな」といったであろう、そういうことに何の抵抗も覚えなかったであろう、と道助は思った。彼は支那事変で多くの部下に、「御苦労だったな」、「あとは心配するな」と言葉をかけたことを思い出した。そしてそれを聞いて安心したように息を引きとった部下たちのことを思い出した。彼が満州から第三師団を統率して凱旋し軍状を奏上すべく参内し、拝謁申し上げた時、陛下は、「師団長以下、部下将兵一同克ク奮闘シ、御苦労デアッタ」と仰せられた。そしてその次に、支那事変で負傷して帰還し、戦傷癒えたのち、拝謁を仰せつけられた時、陛下は「師団長以下、部下将兵一同克ク奮闘シ、|誠ニ《ヽヽ》御苦労デアッタ」と仰せられたのであった。その「|誠ニ《ヽヽ》御苦労デアッタ」のお言葉に自分は一切の労苦が氷解するのを覚えたのだ、と道助は思った。  その日から道助は銭湯に行くのをぷっつりと止め、家の者たちを不思議がらせた。彼は死を再び願い始めた。長い間気にならないでいた右頸部の傷痕が再び疼き出したのに、二三日後彼は気づいた。  徳山道助は長い間忘れられていた願望をまた口にするようになった。虚無僧に身をやつして諸国を遍歴し、戦死した部下の霊を慰めたい、というのである。支那事変から帰還して世田谷に隠退した時も、ある期間しきりに彼はそういう望みを口にしたものであった。——余り夢みたいなことをおっしゃいますな、と今道助は娘にたしなめられ、孫たちには、虚無僧なんて一日だってお祖父さんにはできませんよ、といなされたが、道助の願望は相当に強いようであった。  ある日彼が外出して、尺八と尺八の教本を買って来て、尺八の練習を始めたからである。しかし道助の尺八は一向に上達しなかった。そして道助の話相手になるために時々道助の部屋にやって来る孫の士郎の上達の方がずっと早く、一カ月も経つと士郎は基礎教本を上げてしまって、簡単な曲なら吹ける程になっていた。  道助が帰郷してから五カ月余り経っていた。秋もすっかり深まり、道助の居間にあてられている離れの十畳の間の前の富有柿の実もすっかり色づいて来た。この柿の木は、彼が勅使をお迎えするのにふさわしいと思って買い求めた世田谷の邸宅、彼の第一の家の庭に、孫たちが楽しみに来られるようにと、ある時植木屋にたのんで数種類の果樹を植えさせたうちの一本であった。柿の好きな彼は、この柿の木だけを、その後二度も居を移したのに、そのたびごとに無理をして移植し、最後に娘の家に厄介になるために移って来た時も、一緒に持って来たのであった。だからこの木は自分の権限下にあるものだ、と彼は思っていた。  生り年だけあって、この年この柿の木はどの枝にもたわわに実をつけていた。しかし、 「お祖父さんがいいというまで、柿に手を出すことは相成らぬ」という厳重な布告を出しておいたにも拘わらず、その布告は無視されて、柿の実は、まだ充分に熟し切らないうちから、一日一日と減る一方であった。食物のことで小言をいうのは厭だから黙っているが、何とも嘆かわしいことであった。徳山道助は、舌の上にのせるとそのまま溶けるかと思われるように熟し切った柿を賞味して止まない。それから熟し切った柿の色を何よりも愛でた。ところがそんな老人の心を、孫は、恐らく士郎であろう、まったくのお構いなしなのである。  ある日彼はとうとう非常手段に訴えることを決意した。残り少なくなった柿を枝の上で熟させるのはもう不可能と分ったから、この上は全部一気にもいで軟らかくなるのを待つ外なし、と判断したためである。彼は梯子を運んで来て柿の木にかけ、それに登った。彼は枝に手をかけ、柿の実に手をかけた時の手ごたえから、ずっと昔、まだ子供の時分故郷の柿の木の上に登ってこうして柿の実をむしり取ったことがあったのだ、ということを突然思い出した。下では母が籠を持って彼が柿を落すのを待っている。できることならあの昔に戻りたい、と彼は思った。そうしたら自分はすべてを差出してもいいのだ、と考えながら、自分がもう差出そうにもほとんど何も所有していない七十四歳の老人に過ぎないことに気がついた……  両方のたもとが柿で一杯にふくれ上った時、彼はふと目を街に移した。いつの間にか陽が落ちていて、空を茜色に染め、その茜色が街の上に深く影を落していた。美しい眺めだ、と道助は思った。美しい眺めだ、しかしこの美しい眺めを、この地上の眺めを享受することは、あとどの位の間自分に許されることであろう、恐らくそう長いことではあるまい、と彼は思った。  鴉が頭上を旋回して鳴いていた。彼の手の届かない上の方に残っている柿の実を狙っているのだろう。葉が落ちた柿の木に熟柿が二三個まだ残されていて、その柿が落日の光を浴びている、そこへ鴉が一羽飛んで来る、そんな光景を彼は不意に思い浮べた。どこかで見たことのある光景である。すると彼は何か不吉な予感に襲われた。鴉が自分の死の時が間近なことを告げに来たのではないかという気がして来たのである。彼は降りることにした。つまらない考えを振り切ろうとしたのである。  ところが彼は足を下げようと思って意外なことに気がついた。どうしたものか足がいうことを聞かないのだ。努力しても埒があかない。そのうちに梯子が安定を失ってぐらつき出した。  そこへ折よく士郎がポチを連れてやって来た。 「士郎、梯子を押えてくれ」と彼は思わず叫んだ。  士郎はにやにや笑いながらやって来て、梯子を押えた。道助は少し足に自由が戻って来たのを感じた。彼は一段ずつそっと足を下へずらしながら、もしここで自分が足を滑らして落ち、頭を打って死にでもしたら、みんなはどんな風に自分の死を迎えるだろうか、と思った。第一、士郎は祖父の死を悲しんでくれるだろうか、と思った。その時彼は士郎と満に抱かれていた。いつの間にか満も来ていたのである。 「駄目じゃありませんか、危ない、子供じゃあるまいし」と二人が怒ったようにいった。  道助は、みんなはやはり自分の死を悲しんでくれるだろう、と思って嬉しかった。そしてたもとから柿を取出して、二人に一つずつ与えた。その時ポチの新品の首輪が彼の目に入った。丁度夕陽に照らされて、金色の金具がぴかぴか光っていたのである。  もちろん鍍金《メツキ》にきまっているが、夕陽にあたってそれは純金のように見えた。電車に乗った時など、道助の目によくとまり癇に触ってならないのが、あの若い女たちのするイヤリングという代物であった。しかもものものしい、まがいもののイヤリングをしている女程、顔がまずい、という感想を彼は抱いていた。この発見をある日の夕食の席上で慨嘆に耐えぬ口調で披露した時、士郎に「お祖父さんはいい年をしていらして、よくそんな風に若い女に注意していらっしゃいますね」といわれて一本とられた思い出がある。  入れ歯をポチに台なしにされて以来、彼はポチに時々邪慳にあたるようになっていたが、ポチが一向に彼を嫌わなかったので、この頃はまたポチを連れてよく散歩に出るようになっていた。雑種ではあるが、ポチは小柄な美しい犬であった。毛は光沢があって艶々しており、コリー種に似た面立ちには気品さえあった。そんな安物のまがい物の首輪など、およそポチには似つかわしくない、と今も道助は思った。  それは恐らく五円(徳山道助には百円を一円と呼ぶ癖があった)を下るまい、と道助は思った。およそ無用な出費ではないか。彼はこの際孫たちを戒めておく必要があると思って、士郎になぜそんな贅沢な買物をしたのかと詰問した。すると士郎は、彼にそんなことで指図を受ける覚えはないというような投げやりな調子でいった。 「なに、ポチが自分で買ったのですよ」 「なに、ポチが自分で買った。一体それはどういう意味じゃ」 「ポチの子供を二匹始末して来たらしいんです」と満が答を引取った。 「どこで?」 「T大病院に持って行くと、実験用に一匹三百円で買ってくれるんですよ」と士郎が面倒臭そうにいった。 「それで売って来たんですよ。お菓子でも買って来ようと思ったんですけど、寝覚めが悪いし、ポチがまあ稼いだようなものなんだから、それでポチに首輪を買ってやったというわけなんです」  道助には二の句が継げなかった。辛うじて「そうか」といえただけだった。  士郎とポチと満とが、彼の視界から姿を消してまもなく、ある恐ろしい連想が、彼の頭の中に、魔物のように舞い込んで来た。自分の勲章もポチの首輪のようなものではないか、という気がしたのである。たくさんの部下を死なせておいて自分は勲章をもらったのだ。——支那事変で負傷した彼に勲一等旭日大綬章が授けられると決った時、徳山道助はもしできることなら拝辞したいと思ったのであった。しかしそんなことが許されよう筈はなかった。そこで彼は彼と共に戦った部下に代って拝受しようと考えを改めた。しかし徳山道助は、やはりその勲章が嬉しくてならなかったのである。自分も重傷を負ったのだし、そのために命を縮めて天命をまっとうせずに遠からず死んで行くであろう、勲章ぐらいはもらってもいいだろう、という考えに変って行ったのである。勲章を拝辞して、戦死した部下の菩提を弔うべく、虚無僧となって諸国を行脚しようというのは、たびたび繰返された空想だったが、それは空想に過ぎなかった。その代りに彼ができたことは、戦死した部下の遺族の集まりに出席を乞われた時は必ず赴いたこと、そしてまた墓標を書くことを乞われた時も必ず引受け、早朝に起きて身を浄めて墓標書きに没頭したことであった。彼の師団を構成した兵の出身地である東京と山梨県と千葉県には、たとえば「陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 宮本弥七郎之墓 陸軍中将徳山道助書」といった墓標が数多く見られる筈である。  両陛下御陪食の光栄、銀瓶、銀盃の御下賜、相次ぐ各宮殿下との御陪食の栄。戦傷の癒えた徳山道助を待っていたのはこれらの打ち続く晴れがましい栄誉であった。宮中席次は、彼の郷里の殿様である蒲生子爵のそれよりも、従三位の徳山道助の方が上であった。一将功成って万骨枯る。その頃時々徳山道助の脳裡に泛んだのはこの言葉であったが、それは泛んでもすぐに消えてしまうのであった。  その日から彼はポチの首輪を見るたびに、自分の勲章もポチの首輪のようなものではないかという忌わしい想念に苦しめられるようになった。ポチが、ぴかぴか光る首輪をして誇らしげに歩いているのを見ると腹が立った。彼は、ポチと散歩するのをぷっつりと止め、孫たちを不審がらせた。  ある日徳山道助は、娘にいって、居間の紫檀の飾り棚に飾っておいた勲一等の勲章を取片づけさせた。  それから一週間程してポチが行方不明になった。近所の八百屋が、ポチが都の野犬捕獲班に連れて行かれたことをわざわざ教えに来てくれた。次の日の朝士郎が問い合せると、両三日は殺さないで引取人が現われるのを待つことになっていることが分った。その日の午後士郎が向島の野犬捕獲所に引取りに行った。  夕方道助の部屋の前の柿の木に士郎に連れられて姿を現わしたポチは、たった一日のことなのに、見違えるように元気を失っていた。  徳山道助は士郎の報告を聞いて、ポチに対して不憫の情を覚えた。  士郎の話によるとこうだった。  ——ポチは美犬だが、一目で雑種だということが分る。純血種は引取人が現われることを予期して、一匹ごと隔離して入れられているが、雑種はいっしょくたにされる。士郎がポチの首実検に現われると、ぎゅう詰めにされた雑種犬たちは色めき立った。引取人たちは前日のうちか、その日の午前中に現われて、午後になってやって来たのは士郎が一人であった。しかしそれでも犬たちは救出される希望を捨てていないのだ。前日から救出された犬は、大抵一匹ずつ隔離されている特別扱いの犬たちだったが、それでも雑居の犬たちの中からも、数匹は引取られて行った犬がいたのである。士郎はポチをすぐ見つけ出せると思ったが、見あたらない。いくら捜しても見あたらない。諦めて帰りかけようとした時、ポチが見つかった。ポチは頑丈な雄犬に奥の方で犯され、順番を待つ他の雄犬たちに取囲まれているので、中々見つからなかったのである。ポチは見るも無惨な程憔悴していた。番人の男が士郎に向っていった。この犬は最初の日から犯され続けた。犬にも分るんだね、きれいな犬とそうでない犬とが。隔離してやりゃあよかったんだが、雑種だ、と分ったもんだからね、と済まなそうにいった。  道助は士郎の話を聞き終ると、ポチの尻を見た。膿が垂れ、糜爛していた。赤い舌のようなものが覗いている。その時道助は不意にこの間柿の木の上で鴉が旋回しているのを見て心に思い泛べた光景が、支那の杭州で見た現実の光景だったことを思い出していた。杭州に入城してからしばらくして、徳山道助は副官を伴って予告なしの視察に出たことがあったのである。その時、とある寺の庭の柿の木に、一つだけ柿の実が残り、その柿の実を鴉がつっついている情景に心惹かれて、彼はその寺の中に入って行ったのだ。すると柿の木の下に一人の美しい姑娘が、下半身を剥き出しにして息も絶え絶えになって横たわっていたのであった……  日本軍の暴行掠奪についてはつとに彼も耳にし、心を痛め、再三再四厳重な布告を出し、監督を厳重にするように口喧ましくいっていたが、被害者を目のあたりにしたのはそれが初めてだった。彼は副官に命じて姑娘を軍医に見せた。姑娘は命をとりとめたが、彼の恐れた通り病毒に犯されていた。彼は軍の責任において、その姑娘を健康な身体に戻すように命令したが、一度犯された女を元の生娘にすることは、師団長といえどもできないことだった。久しく記憶の中に埋めていたそのことを、道助はポチのために突如として思い出したのである。  道助は士郎に金を与えて、ポチを獣医に連れて行くように命じた。その夜士郎が報告に来た。「膣破裂」というのが獣医の下した病名で、一週間も洗滌すれば直るだろう、というのであった。  このポチの身の上に起った出来事がきっかけで、徳山道助は、今まで心の奥底に埋没することに成功していた、支那事変でのさまざまな忌わしい思い出に再び見舞われ、苦しめられるようになった。  道助が風邪気味で床に就いたのは、それから四五日後のことだったが、回復までに意外に手間どり、十日近く臥せていなくてはならなかった。  愈々床上げの日に、道助は娘の富子を呼びつけ、壁の絵をどけてくれ、といった。どうしてですか、と娘が問うと、道助は花びらが血に見えて仕方がないのだ、と答えた。  それは百号の大作で、道助夫婦の居間にあてられている十畳の一面の壁のほぼ三分の一を蔽って懸けられてあった。道助が負傷して隠退した時、旧部下の集まりから贈られた絵で、終戦後の苦しい時期にも手離さなかったものである。花鳥画家としては相当名のある須藤圭之助の作品である。  三日前にも道助は居間の壁から写真の額一つと、日本画の額一つとを取り外させていた。写真は「昭和十三年八月三十日観音北方高地戦闘司令所ヨリ廬山及東孤嶺敵陣地ヲ望ム」と説明書きのついた細長い写真で、左端には参謀長と副官を従えて敵陣を望遠鏡で望み見る徳山道助の勇姿があった。この戦闘司令所の付近で彼は重傷を負ったのである。日本画の方は、戦死した連隊長の弟にあたる日展の画家が、陸軍省の後援のもとにM新聞社から派遣されて中国にわたり、亡き兄の戦った戦場を訪ねて、その古戦場を絵に描いたものの一つで、帰国後展覧会を開いた時に、徳山道助が乞われて推薦の言葉を書いたお礼に、展覧会終了後に贈られたものだった。戦いの終ったあとの長閑な支那の村の風景を描いた日本画だったが、その優しい風景が徳山道助には、血まみれの戦場に見えてならなかったのである。  須藤圭之助の絵は岩の前にいる一羽の雉子を描いていた。岩の上には松の枝が懸っており、岩の右手には大輪の白い牡丹が八輪咲いている。その牡丹の花びらが、何片も地面に落ちていて、雉子がその落ちた花びらをじっと見詰めている。——うっすらと紅のさしたその白い花びらが、臥せている間、道助には、部下の血に見えたり、骨に見えたりしたのだった。そして雉子が彼自身に、部下のおびただしい死に耐えかねて自分の死をひそかに願っている彼自身に思えたのだった。  彼を苦しめた思い出は無数にあった。その一つに廬山の戦いで岩田大隊が全滅した時に、兵十数名と共に翻陽湖を泳いで逃げ帰った二人の若い士官学校出の中尉の思い出があった。敵前逃亡だから、将校だけは軍法会議に付託すべきだと強硬に主張する参謀長と参謀を押えて、彼はその二人の中尉を不問に付したのだった。そして二週間後に行われた、東孤嶺山麓攻撃部隊の最尖端に二人の中尉を出したのであった。軍法会議にかけるよりは、栄誉ある軍人の死を選ばせるのが、武士の情けだと思ったからである。この彼の気持を汲んだように二人の中尉はその戦いで戦死したのだ。あの時自分のとった処置は正しかったろうか、という思いに彼は苦しめられたのである。自分は出過ぎたことをして二人を無理に戦死させたのではなかったろうか。軍法会議にかけられても、あの二人は生き残っていた方がよかったのではないだろうか……  十一月に入ってからしばらくして、啓吉から長い手紙が来た。それは便箋で六枚にもなる長い手紙で、啓吉の人生に対する感慨のようなものが滲み出ていた。  まずその手紙は、人生のたそがれ時に、兄弟姉妹が一堂に会し、亡き母の霊を慰めることのできた喜びをしみじみと語ることで始まっていた。あの無口な弟のどこにそんな感情の襞が隠されていたのかと道助も意外に思った程、心の濃やかな手紙であった。兄上もどうか晩年を安らかに和やかに送って欲しい、とその手紙は切に願っていた。自分は兄上よりも少し若いのでまだもう少し世の中のためにお役に立ちたいと思っているが、最近いささか人に誇れることをしたように思う。それは村に簡易水道を引いたことである。自分は二年前村会議員に選ばれてから何か一つ村のために村の人々がいつまでも喜んでくれることを残して行きたい、と考えて来た。そして水道を引いたらどうかということを思いつき、これが実現につとめて来た。種々紆余曲折はあったが、自分は万難を排して目的の実現に邁進し、このたび遂に完成をみた。これはまったく自分の努力によるものであって、いささか誇らしく思う。仙太の妻が喜んでいるのはもちろんであるが、村中の人々がこのためにどれだけ助かるか計り知れないと思う。自分としても冥土への土産話ができたと思って喜んでいる。母上は、自分が子供の頃、風呂の水汲みにずい分苦労しておられた。自分たちも大きくなってからはずい分手伝おうと心懸けたものだが、まだ自分たちが手伝えなかった頃は、母は一人で、祖父、祖母、父に毎日風呂を使わせようとして、あの頃庭の西の隅にあった風呂場まで、母屋の台所から井戸水をつるべで上げては桶に入れて、苦労して運んでおられたものだった……  そのあたりへ来ると、道助は涙が目から滲み出て頬を伝わって流れて行くのをどうすることもできずにいた。子供の頃が、母が、なつかしかった。そしてこの啓吉の冥土の土産を羨ましく思った。それに匹敵する冥土の土産は、自分にはないとさえ思われた。  勲一等旭日大綬章を取片づけられた紫檀の飾り棚には、日露戦争でもらった功五級の金鵄勲章と勲六等の単光旭日章がまだのっていた。それを受領して帰郷した時、母はどんなに喜んで彼を迎えてくれたことだったろうか。金鵄勲章には年金が三百円ついていたのだ。それがあったので自分は大尉の身で中学生の末弟を引取りK大学にまで上げることができたのだ。そのお蔭で武助は今をときめく大会社の副社長ではないか。冥土の土産にはそれがある、そんなことを彼はぼんやりと考えた。  身辺から支那事変を思い出させるものが消えたせいか、彼はもう余り、支那事変の苦しい思い出に耽らないで済むようになった。  ある夜彼は珍しく日露戦争に出征した時の夢を見た。何十年間ついぞ見なかった夢である。  夢の最初に父母が出た。二人ではるばる広島の宇品港まで見送りに来たのである。父は明治維新前苗字帯刀を許されていた村長の家から道助の門出を祝って贈られたという刀を軍刀に仕立てたものを彼に差出した。母は赤いネルのシャツを差出した。怪我をしても血に驚かないようにという母の願いを籠めて作られたシャツである。  しかし最後に母が彼に囁くようにいった言葉を彼は夢の中でそのまま聞いた。なつかしい母の声を。 「手柄を立てんでもいいから、道助、生きて帰って来ておくれ、金鵄勲章などもらえんでいいぞ。母さんはな、お前が軍人になるのを許したことを後悔してならん」  いつの間にか彼は遼東半島の青泥窪の土を踏んで立っている。朝まだきである。彼は大砲の陸揚げの総監督という責任ある仕事を任されて張切っている。  それから最後の大砲が陸揚げされようとしているところを彼は見ている。男根のように雄々しく猛々しいが、男根のようにすべすべしている大砲に綱をかける難作業も遂にその一門をあますのみというところまで漕ぎつけたのだ。 「早く揚げろ」と彼は大きな声で叫んでいる。そして大砲は吊り上げられるが、海の上まで来てぐらりと傾いたのだ。ああ大砲が落ちてしまう。すると彼の体がふんわりと浮び上り次の瞬間彼の体は空中を大砲のところまで飛んで行った。突如として飛翔する力が与えられたのだ。彼は両の手で大砲をしっかりと押える。冷たく硬い大砲を、すべり落ちないように抱き締めながら、空中に浮んでいるのだ。  そこで彼は目が醒めた。彼の手は珍しく勃起した己れの男根を握っていた。彼の隣に、ヒステリーで彼を生涯苦しめた妻が鼾をかいて眠っていた。  次の日の朝、道助は手足に軽い麻痺を覚えた。  一週間経っても、二週間経っても、それは直らなかった。  やがて、道助が大分ぼけて来たことに、家の者はようやく気づき始めた。もの忘れがひどくなった。同じことを何度もいった。涙脆くなった。  しかし、正月を東京で過すために、後嗣の治が暮の三十日に北海道から帰って来て、道助の許に挨拶に現われた時には、道助はその前に羽織袴に身を正していて、彼を迎えた。  その晩、道助は、治とその兄の和夫と、治と同じ年に大学を卒業して造船会社に入社した、武助の長男の武夫とを離れに招待して、すき焼を御馳走した。道助はかねがね、松阪牛のすき焼が一番うまい、と思っていた。すき焼の時には、調理は一切彼がした。それは昔から一貫して変らない彼の原則の一つだった。 「酒がまわらぬうちに」と前置きして、道助は、孫二人と孫のような甥に訓戒を垂れた。  性欲とは大変扱いにくいものだ、と道助はいった。結婚するまで女のことで身を誤らないようにするがよい。どうしても禁欲できなかったら女を買え。ただで遊ぼうと思うのじゃないぞ。金がないときにはわしにいえ。素人の女に手を出すのではないぞ。特に身分の低い素人の女にはな。昔から車夫馬丁の女房には手を出すなということがよくいわれておる。相手が上官の奥さんならば、絶対に秘密を守ってくれるだろうが、車夫馬丁のおかみさんだったら必ず言い触らすからだ。それを種に亭主も呶鳴り込んで来ようしな。女を買う時は防備を忘れるな。夢おろそかに防備を怠って病気を拾うんじゃないぞ。万が一病気を拾ったら、すぐ医者にかかれ。恥ずかしがって愚図々々していると大事《おおごと》になるぞ——  和夫と治と武夫とは神妙な顔をしてこの訓戒に聞き入っていたが、実のところ、三人共この訓戒を聞くのは二度目であった。三人共入社祝いに、和夫は一人で、治と武夫は組んで道助にすき焼に招ばれた時聞かされていた話だったのである。  その後道助は益々ぼけて来た。妻が彼の話相手になれないことを昔はよく怒ったものだったが、もうそれをしなくなった。「あなたはこの頃優しくなりましたね」とある日妻が彼にいった。 「そうか、やさしくなったか」と彼はいっただけだった。  彼はよく火鉢の灰に火箸で作戦図を書き、作戦を練ったりするようになった。相変らず独り碁を打っていたが、時々彼は錯覚に陥った。石を一つ打ち間違えると、何千という部下の生命に関係して来そうな気がしたのである。そして独り碁も打てなくなってしまった。  どうしたものか、その頃から道助は髭が重たく感じられるようになって来た。着る物や蒲団などが重く感じられるようになったのは久しく以前のことだったが、髭が重たく感じられるなどというのは聞いたことがなかった。しかしともかく重たく感じられるようになったのである。手入れが面倒になって来たせいもあるかも知れない。これを剃ってしまえばどんなに軽くなってさっぱりするだろう、と思ったが、娘の忠告を容れて、春暖かくなったら、剃り落すことにしていた。  以前道助は、髭を剃り落して風邪を引き、肺炎になり、死にかけたことがあったからである。それは昭和十九年の暮のことで、石鹸が手に入らなくなってひと思いに道助は髭を剃り落してしまったのだが、その晩から発熱し、まる一カ月床に就き、一時は生死の境を彷徨《さまよ》ったのである。  四月を待ち切れずに道助は三月三十一日の晩、入浴したのち、髭を剃り落した。髭を剃り落した道助の顔は、ちょっとやんちゃ坊主のようになった。道助の子供の頃を知っている者が見たら、その顔の中に道助少年の面影をまさしく見出したことであろう。  ところがその夜、道助は立て続けに八回もくしゃみをした。娘があわてて床をのべた。  翌日も道助はひっきりなしにくしゃみをした。そして夜になって熱を出した。かかりつけの近所の医師が、夜遅いにも拘わらず、すぐ来てくれた。大きな身体の医師は、彼が髭を剃り落したことを玄関で聞いて、それが原因ですよ、といって豪快に笑ったが、道助の居間に入って、彼の脈をとると真剣な顔をした。脈がひどく乱れていたのである。熱も四十度近くあった。  翌朝になると、熱は三十八度まで下ったが、夜になるとまたぶり返して来た。  三日目に徳山道助は早くも危篤を宣告された。  その頃になると彼の意識はもう混濁していた。彼は夢を見ているようだった。それは支那事変の時の夢のようだった。時々作戦命令らしいことを、大声で口にしたからである。  北海道から飛行機で駆けつけた治が、枕許に坐り、「お祖父さん」と口を耳元につけて大きな声で叫ぶと、徳山道助はうっすらと目を明け、うなずいて見せた。  徳山道助の心臓は意外に強く、危篤を宣告されてからも、彼はさらに四日も生き延びた。息を引取る前の数時間、彼の混濁した意識は故郷に遊んでいるようであった。息を引きとる前に、彼は「苦しい、お母さん」といった。  新聞は死亡欄で十行ばかり、この老軍人の死を報じた。親友の元侍従武官長宇佐中将に教えられて、嗣子である治が、復員局に出頭して、養父の徳山道助の死を届けた。するとその場で、慣例によって、陛下からの御下賜金が手渡された。御下賜金の入った和紙の袋を更に包んだ三つ折の和紙の表には、右上に天皇陛下と書かれ、左下に故勲一等徳山道助と書かれてあった。そして中には祭粢料金弐千円と書かれてあった。徳山道助が生前の一時期希っていた勅使の訪れはなかった。  葬儀は近所の日蓮宗のお寺で行われた。徳山道助は無神論者だったが、彼の故郷の家は日蓮宗だったのである。故郷からは、彼の生家を嗣いだ、すぐ下の弟の啓吉が故郷を代表して上京して来た。  彼の葬儀は比較的盛大だった。特に元将官と一見して分る老人の多いことで、それは特徴的だった。その古ぼけた寺の前を通りかかった街の人々は、立派な髭を生やした老人たちを見て、映画かテレビのロケーションかと思った程である。  初七日の席では、徳山道助の生前の逸話の数々がなつかしく語られた。浜離宮でアヴェック姿でいるところを見られた亀雄は、そのことを和夫にいわれて、「やっぱりそうだったのか」といった。それから「あんなところは老人の来るところじゃないんだがなあ」と憎まれ口をたたいたが、台所を手伝っていた彼の妻が出て来るのを認めると、慌てて口をつぐんだ。  徳山道助の骨は、遺言通り、半分啓吉の手によって、「故郷の家」へ持って行かれることになった。啓吉の帰りの切符は、武助が買った。武助は、世話になった道助兄の骨のために、一等の切符と寝台券を買った。  東京駅まで送りに来た道助の娘と孫たちに向って、啓吉は、ぼそぼそとした声で、「兄貴のお蔭で生れて初めて一等に乗った」といった。  汽車が出て行くのを見送りながら、孫の満は、これがお祖父さんの本当の帰郷だったのかも知れない、と思った。 [#改ページ]   殉愛     1  祖母の死後男やもめとなった祖父が長男である私の父のもとに身を寄せてから、祖父の家はしばらく空家となっていたが、私が大学院に入ったのを機会に、そこへ留守番として住み込むようになった。大学院には週二回行けばよかったから、私は留守番としてうってつけだった。  父母の家までは歩いて五百米となかったから、夕飯は家に帰って食べた。朝はパン食にして自分で用意した。昼は外出しない時は、蕎麦を取寄せた。母が時々掃除に来て、弁当を持って来たり、何か作ってくれることもあった。私は大抵、玄関の脇の応接間のソファーか、庭に面した縁側に置かれてある籐椅子に腰かけて本を読んで過した。  私は失恋していた。絵の好きだった私は高等学校で習った絵の先生の家に出入りをしていたが、いつしかその先生の独り娘にひそかに恋をしてしまったのだ。しかし私が大学の卒業論文に時間を取られ、その先生をしばらく訪ねなかった間に、従って彼女と逢えないでいた間に、彼女は見合をし、あっさり婚約していたのである。しかも私はそれを知らずに、大学院の試験に合格してからしばらくして、意を決して彼女を電話で誘い出し、彼女に結婚を申込んだのである。私は喜劇の主人公の役割を演じていたのだ。彼女は、私には好意を抱いていたが、今となっては婚約者を愛してしまっているから、といって私の結婚申込みを拒絶した。私は三日間迷った挙句、潔く身を引くことにした。そしてそれは失恋とは呼べないようなものだったかも知れないが、私は失恋の傷手に自分はしばらく耐えなくてはならない、と思っていた。そして私はその失恋から事実予想以上の打撃を受けていたのだ。そんな私にとって、祖父の家の留守番生活は、その打撃から静かに立直るために恰好の生活であるように思われた。  しかし最初の頃、私は屡々淋しさに耐え切れなくなった。そして時々高校生の頃陥った烈しい神経衰弱にまた陥るのではないかという不安に襲われさえした。——私は高校生の後半を蟻地獄のような神経衰弱に苦しめられた。その時私の心の慰めとなったのは絵を描くことだった。私が高校の絵の先生の家に出入りするようになったのも、この頃その先生が私の絵の才能を認めてくれたのがきっかけだった。一時期私は真剣に画家になろうと思ったこともあった。しかし結局私は自分の絵の才能に自信が持てずに、画家になるのを諦めた。小説を書きたいという希望が一方にあって、その可能性の方が信じられたせいもあったが。  私はまた神経衰弱に陥ったら絵を描くことにしようと思い、長い間使わなかったために埃にまみれた絵の道具を運んで来たが、どうやらそれは無駄だったようだ。独居生活を始めて一カ月も経つと、また神経衰弱に陥るのではないかという不安に私はもはや襲われなくなってしまったからである。私はすっかり祖父の家の留守番生活に慣れてしまった。私はこの孤独な生活を愛していた。  私が神経衰弱の不安から解放された五月の初めに、祖父の家の二階だけを貸して欲しいという人が現われた。フランス人を妻に持つ画家で子供はいない。今住んでいる家を、家主の長男が結婚して住むために、五月一杯で明け渡さなければならないので、早急に家を捜しているのだという。その話を持って来たのは、その夫人の許で白百合の高等学校時代から今に至るまでフランス語を習っている文子という私の従姉であった。彼女は商社員と結婚し、一年後にはすでにパリに駐在している夫のあとを追って渡仏することになっていた。  祖父の家の二階は、関西に赴任した兄の一家が住んでいたので、一応独立した家の機能を備え、人に貸すにはいいようにできていた。台所もあったし、洗面所にはシャワーの設備もつけられていた。祖父は二階だけなら貸してもいいといった。死の間近なことを知っている祖父は、葬式は自分の家から出したいと願っていて、その家を全部貸すことには反対だったのである。兄に問い合せると、ここしばらくは帰任しないが、いずれ帰任する時に必ず出てもらえるのだったら貸してもいいといって来た。母は父の意向を確かめたのち、一応貸すことに決めた。母は前から二階を空けたままにしておくのは勿体ないと思っていたのである。  私は一人きりの生活を楽しんでいたから、たとえ生活はまったく別でも、誰かが二階に住むのは余り嬉しくなかった。しかし嘗て画家になりたいと思ったこともある私はその人の職業が画家だということに興味を覚えないでもなかった。そしてまた彼がフランス人を妻としていることに一種の好奇心を感じた。それは文学的好奇心といっていいものかも知れなかった。——私が蟻地獄のような神経衰弱に苦しんでいた時に、たびたび私を襲った自殺への衝動に負けないでいられたのは、いつか負をすべて正に換え、今私を神経衰弱に陥れている私の性格を活かして、何かすばらしい傑作をものしてやるぞという、至極文学青年的な自負心からだった。しかしいくら努力しても一向に私の目論む傑作は生れなかった。そして教養学部を終って専攻を決める時も、私は語学教師になれば食いはぐれることのないドイツ文学科を選んでいたのだ。この頃になると私を苦しめた神経衰弱は薄紙をはがすように直って行き、もはや私を苦しめなくなってはいたが、その代り私はすべてに対して気力を失い、精神的不毛に陥り、自分でも如何ともなしがたい状態に落込んでいた。私が高校の絵の先生の娘に求婚した時、私は生の高揚と生の充実を心の中に感じていたが、結果は先に書いた通りだった。私は相変らず小説を書きたいと欲していたが、何一つ書けないままでいた。そしてしばらくこの不毛な状態にじっと耐え、その状態に沈潜していようと思った。そんな風に生活している私に、この外人を妻にした画家の生活は、珍しく文学的好奇心を掻き立てた。もし同じ屋根の下に暮すことになったら、私は二人の生活を、ともかく、じっと観察してみようと思い立ったのである。  その日、約束の時間かっきりに、里見八郎という画家だけが現われた。彼は画家らしい、渋いが粋な服装をして玄関に立った。チョコレート色のベレー帽をかぶり、焦茶色のジャージの背広を着ていたが、その上着は普通の裁ち方と違っていて、胸の明きが狭く、ボタンが四つついていた。そのボタンはいぶし銀のような艶を見せていた。ネクタイはベージュ色の臈纈《ろうけつ》染であった。靴は犢の皮のラフな感じの短靴だった。年齢は五十代と見受けられたが、頭髪は黒く、顔の色艶はよかった。鼈甲《べつこう》の眼鏡をかけていたが、その眼鏡の底には、落着いた、温和な光を湛えた瞳があった。痩せていたが、背は高かった。五尺七寸位はあったろう。  一時間程前に来て待機していた母と私とが彼を迎えたが、二階を見せる前に、ひとまず応接間に通して、今まで文子の口を通じて間接的に聞いていた話を、彼の口から一応じかに聞いて確かめることになっていた。  話の聞き出し役にはもっぱら母があたった。社交に長けた母の聞き出し方はうまかった。私たちは、一時間ばかりの間に、彼の半生を聞き出していた。  彼は米沢の素封家の五男であった。中学を卒業すると画家を志して、私費でパリに留学した。パリには足かけ九年いた。最後の年に彼は現在の夫人であるパリ娘と知り合いになった。彼女はパリ近郊の大きな果樹園経営者の次女で、叔父の経営する画廊で働いていたのである。彼の親兄弟は猛烈に反対したが、彼女の両親や姉妹の理解もあって、彼は彼女との結婚に漕ぎつけた。支那事変が始まる少し前、彼は、妻を両親に紹介するために、一時のつもりで帰国したが、再度渡仏しようと思った時には、もうできないような状態になっていた。彼は千駄ヶ谷にアトリエのついた家を建ててもらって、そこに住んで、絵を描いて暮した。しかし太平洋戦争が始まると、外国人を妻に持っての東京の生活は不快なものになった。二人は、誰にも脅かされない生活を守るために、仏印に渡った。そこでならば、フランス人の妻を持った日本人の生活も、摩擦なしに営めたからである。彼は親類の伝手《つて》で、ある貿易会社に勤め、妻もまた、その会社の嘱託となって働いた。二人は二人の愛の生活を守り抜いたのである。現地で二人は終戦を迎え、リュックサック一つ背負って帰国した。千駄ヶ谷の家は焼け、二人は苦労を重ねた。里見八郎は止むを得ずブローカーをして生活の糧を稼いだ。しかしそのうちに、妻はフランス語を教えることができるようになり、それを機に彼は元々向かないブローカー商売を止めて、再び画家としての生活に戻り、現在に至った。妻は、外語学院、フランス学園、W大学の講師をしている。彼は家に籠って画筆三昧の生活を送っている、というのであった。  彼の話し方は気持がよかった。彼の第一印象とまったく同じように、その話し方も落ちついていた。そして淡々としていて、静かで、品がよかった。  彼がフランス人である妻との愛の生活を守るために、敢然と決意して仏印へ渡ったという話は、私の母をいたく感動させたようであった。私は私で、あの荒々しい戦争のさなかに、そのような愛の生活を守り抜いた一組の夫婦がいたという事実に、やはり心を動かされていた。それはそれできっと随分勇気の要ることだったろう、と私は思った。  彼はそれから、今住んでいる家を出なくてはならない理由を述べたのち、もしこの二階を貸して頂けたならば、出なければならない時には、二カ月の予備期間さえ頂ければ、必ず代りの家を捜して出ることにするから、その点で御迷惑をおかけすることは絶対にない、尚もし私共についてお聞きになりたいことがあったら、もう五年も住んでいる今の家の持主にお聞きになって頂きたい、といって、家主の名前と電話番号を紙に書いて母に差出した。 「しかしお気に入って頂けますかどうか」と母がいった。 「洋間は十二畳の部屋が一間あるきりで、あとは完全に純日本風の造りなのでございますが——」 「私にはかえってその方が有難いのです」と里見八郎はいった。 「イヴォンヌは(そういって彼は妻の名前です、といい添えたのち)やはり洋風の家が好きなのですが、私は年と共に日本の畳の部屋がなつかしくなって参りましてね、イヴォンヌは教えに行っていて外に出ていることが多いものですから、不断はほとんど家にいる私の好みに合った家を今度は借りようといってくれているのです」  母はまた感動したようにいった。 「そうでございますか。——それでは御覧頂きましょうか」  母にたのまれて私も一緒に案内することにした。  玄関の間から通じている階段を昇って廊下を折れると、祖父の家の二階は一挙に展望が開けるようにできていた。高台にあり、しかも崖に面しているので、ずっとかなたまで見はるかせるのである。K植物園の森やE大学の煉瓦造りの古風な建物などがずっと向うにぼんやりとかすんで見えた。 「いい眺めですね」と里見八郎は感心したようにいった。 「ええ、天気のよい時は、あちらに富士山が見えるんでございますよ」と母がちょっと自慢げにいった。  その日はあいにく曇っていて富士山は見えなかった。  廊下は、八畳と十二畳の日本間の前を通り抜けて、奥の十二畳の洋間に通じていた。その洋間は崖の上に突き出るように建っていたから、見晴らしはいっそういい。その洋間の下が、私が居間にあてている八畳の日本間だった。  廊下をゆっくり歩きながら、里見八郎は、 「この廊下は全然軋みませんね」といった。 「はっ?」と母がいうと、里見八郎はちょっとばつの悪そうな顔をしていった。 「いや、今借りている家は、戦後の安普請なものですから、廊下が軋みましてね。やはり戦前の本格的な建築の家は違いますね。震災前に建ったと承りましたが、一分の狂いも見せていない。いやこういう昔の建築の家に伺ったのは、実に二十年ぶりのことです」  そういって里見八郎は感慨深そうに、 「私の育った米沢の家も古い建築の家で、やはり総檜でしてね、その家のことをつい思い出してしまいました」といった。  廊下を渡り切って、私たちは洋間に入った。 「この家具や絨氈などもお借りできるのでしょうか」 「ええ、どうぞ」と母がいった。 「イヴォンヌはやはり洋間を好みまして」と里見八郎はいった。「こうした部屋が一つあると喜びます」  洋間には四畳程のヴェランダがついていた。 「このヴェランダは暖かくて、冬も煖房が要らない程でございます」と母が説明した。  私は兄夫婦が新婚当時、このヴェランダでよく朝食を仲睦まじく取っていたことを思い出した。私は、里見八郎もイヴォンヌとこのヴェランダで朝食を仲睦まじくとるような気がした。兄夫婦は子供ができてしまうと、もうこのヴェランダで朝食をとるのを止めてしまった。しかし里見夫妻には子供がないし、彼らの愛に満ち満ちた生活には、あたかも時間が堰止められているような、奇妙な無時間性が想像されたからである。  その洋間の手前は八畳の和室だった。 「子供たちはここを寝室に使っておりました」と母がいった。  その部屋の向うに洗面所と便所があった。 「あいにく湯槽がございませんで」と母はシャワーを示しながらいった。 「もし日本風のお風呂がお使いになりたかったら、下のお風呂をお使い下さい。但し石炭風呂ですので、手間がかかりますが」  里見八郎はしばらく考え込んでいたが、やがて、 「いいえ、わたしもシャワーで結構です」といって、 「イヴォンヌはとうとう日本の風呂に馴染むことができませんでした」とつけ加えた。  便所は腰掛式の水洗便所であった。フランス人だからビデが欲しいところかも知れない、と私は考えた。フランスのビデにまつわる様々な笑話を思い出しながら、何となくそう思ったのである。  そこから廊下は右に折れ、台所と裏の階段と三畳の間があった。三畳間は、十二畳の座敷の副室で、中廊下を隔てて十二畳と向い合っていた。台所は、兄夫婦が結婚する時に、四畳半の洋間を改造して作ったものだった。張出窓を直した流しは幅が狭くていかにも不便だったが、ガス・レンジも、電気冷蔵庫も、瞬間湯沸器も、一応みんな揃っていた。  洋間を改造した台所だということは、里見八郎にもすぐ見て取れたようだった。 「この部屋は、ずい分いい木を使っていますね」と彼はいった。  母はその部屋の由来を説明し、食器棚は昔は書棚であったことなどを話した。 「煖房がよく効きそうですね」里見八郎はずっと先の冬のことをもう考えているかのようにそういった。  里見八郎は二階を見終ると、下の洋間でもう一度休んで行くことになった。  母がお茶を用意しに行った間、私が彼の相手を勤めた。  彼はみごとな艶を帯びた、黒色のパイプを取出し、鹿の皮の小袋からパイプ煙草をつまみ出して詰め、悠然とくゆらせ始めた。  彼は静かな口調で私のことを質問し、私がドイツ文学を専攻していることを告げると、いずれ留学するつもりか、と訊ねた。  私は修士課程を済まし、博士課程に進学するか、どこかの大学に就職するかして身の振り方が決ったら、留学生試験を受けてドイツかスイスへ行きたいと思っている旨を告げた。私はゴットフリート・ケラーの「緑のハインリヒ」について修士論文を書く予定でいたが、その後も引続きケラーについて研究する心ぐみでいた。  それから私は彼に絵について質問した。里見八郎は、どの会にも所属していない、といった。現在はもっぱら静物を描いているが、昔は人物画や風景画も好んで描いた、ということであった。  三十分程休んで里見八郎は立去った。立去る前に、イヴォンヌと相談した上、一両日中に確答させて頂きたい、といった。  里見八郎は母にも私にも好印象を残した。  その日の夜、母は里見八郎からもらった電話番号をたよりに家主に電話をかけ、里見八郎の評判を聞いた。評判は上々であった。静かな夫婦で、家賃の支払いも確実で、家も大切にして住んでくれた、ということだった。  翌日の晩、里見八郎から、電話でぜひお借りしたいといって来た。そしてその週の土曜日に、正式に契約を取り交すことに話が決った。契約書はこちらで作っておくことになった。  土曜日の午後二時に里見夫妻が現われた。イヴォンヌは美しい人だった。色の白い、彫りの深い顔をしていた。髪の毛は金髪で、眼は本当に碧かった。背丈も里見八郎と同じ位あった。しかし痩せている里見八郎に比べて、胴廻りはその三倍もあろうと思われる程、肥っていた。私はそんなイヴォンヌを見た途端、これでは廊下が軋むのも無理はない、と思った。もっとも両脚はすんなりと伸びていて美しかった。よくそんな脚で、その肥りに肥った胴体を支えていられたものだ、と感心する程だった。昔里見八郎が恋に陥った時、彼女はこのすんなりした脚にふさわしい肉体の持主だったのであろう。歳月の経過と共に、胴体が謀叛を起し、裏切ったのだ。この脚は彼女の青春の記念碑なのだ……  イヴォンヌは日本語が意外に下手だった。里見八郎との結婚生活は、もう三十年近く続いている筈なのに、下手だった。彼女は私たちの前で、礼儀から日本語だけで喋ろうと努めていたが、それでも時々うまくいえなくて、フランス語を喋ってしまった。  里見八郎のフランス語も私が予期したよりずっと下手であった。彼が契約書の大筋をフランス語で説明しているのを聞いていると、それが分った。私の判断では、里見八郎のフランス語は、イヴォンヌの日本語と五十歩百歩であった。  二人は思いのたけをどうやって表現し合うのだろうか、と私は考えた。夫婦というものは、言葉によらないでも、考えていることを通じ合えるのであろうか。ただ単に日常生活を共にすることによって、そして寝台《ベツド》を共にするだけで、それでもうすべてを通じ合え、不満を感じないですむのだろうか。たとえば肉の交わりを夫婦は心の交わりにまで高めて行くことができるのであろうか。しかしもともと人間は言葉によって完全に理解し合うことは不可能なのかも知れない。だから最初から言葉による理解の可能性を拒まれている二人は、お互いに相手の不可知を承認し合うことによって、その不可知の部分を含めて、相手を愛する智慧を学びとっているのかも知れない。所詮言葉によって理解し合えないのだという諦念が、二人の愛に、かえって安らぎと信頼を与えているのかも知れない、——そんなことを私は考えていた。  契約者は、私たちの予想を裏切って、里見八郎ではなかった。契約者の欄に、イヴォンヌが、ローマ字で自分の名前を記したからである。これはどうしたことだろう。その理由を問い質すのは憚られたが、家賃の支払者が里見八郎ではなくて、イヴォンヌだということを、それが意味しているのは明らかだった。きっと里見八郎の絵は売れないに違いなかった。そしてもしかすると里見八郎は、経済面では、一切をイヴォンヌに負っているのかも知れなかった。 「パパ、メイドさんのこと」とイヴォンヌが思い出したように里見八郎にいった。  イヴォンヌは最初から里見八郎のことを、パパ、パパと呼んでいた。そしてそう呼ばれることを、里見八郎は私たちの前で照れくさがっているようなところがあった。なぜなら里見八郎はそんな時に決してすぐ返事をしようとしなかったからである。  今も里見八郎は返事をしないまま、イヴォンヌに催促された件で母に向って語り出した。 「週に二回、通いのメイドさんが欲しいのですが、何か心あたりはおありではないでしょうか」 「私共にも、やはり週二回手伝いに来てくれる人がいるのですが」と母がいった。「その人にたのんでみましょうか」 「どんな人でしょう」と里見八郎はいった。 「近所に住んでいる人なのですが、お姑さんが子供の面倒を見てくれるので、家計を助けるために、そんなアルバイトをしているのです。仕事をてきぱきしますし、よく気のつくいい人です」 「ではその人は奥さんなんですね」となぜか里見八郎は安心したようにいった。  それから里見八郎はフランス語でイヴォンヌにそのことを説明したのち、 「お願いいたします」といった。 「じゃあ、今日にでも確かめて、早速お電話で御連絡しましょう」と母がいった。  イヴォンヌは、パパが気に入ったのだからもう見ないでもいい、といっていたが、里見八郎と母に勧められて、二階を一通り見て行った。  彼女は十二畳の座敷に入ると、パパの生れた家そっくりと大きな声でいって、日本に来たばかりの時、米沢にある里見八郎の生家を訪れて過した日々を思い出したらしく、その時の模様を母に、語って聞かせた。彼女は金箔の襖や、欄間の手の込んだ彫刻や、床の間を指して、みんな同じでした、といった。わたくし、その時きちんと坐ったら、足が痺れてしまって、立てなくなってしまいました。庭に大きな池があって、こんなに大きな鯉が泳いでいました。その家その時一回行ったきり、もう見ていません、と彼女は少し悲しげにその話を終えた。  イヴォンヌは、約束でもあるらしく、しきりに時間を気にしていた。そして二階を一わたり見てしまうと、冷たいものでもという母の勧めを断わって、里見八郎と共に帰って行った。  村松圭子は、すでに子供が一人いたが、いつも身綺麗にしていて、どこかにまだ少女のような初々しさを残していた。彼女が私の家に来るようになったのは私が高校生の頃だったが、現在の彼女はその頃と較べて余り年をとっていないように見えた。新潟の生れで、北国の出身らしく、色が脱けるように白くて、ひどく可憐な目をしていた。もし彼女が人妻でなかったら、自分は彼女が好きになっていたかも知れないと思われた程、私の好きなタイプに属していた。  彼女は文学少女で本が好きだった。そして私からよく本を借りて行った。本を返してもらう時、私はよく彼女の感想を求めたが、彼女の感想はいつも私を感心させた。感覚の冴えが窺われたからである。  彼女は本を借りるお礼のつもりかよく私に夫の仕事の関係で手に入るらしい映画の招待券をくれた。二三度私は彼女と一緒にロード・ショウの映画を見に行ったことがある。私が大学に入った時など、彼女はお祝いだといって映画を見せてくれたあと、私に中華料理を奢ってくれさえした。  彼女は週二回私の家に手伝いに来るほか、近所に住む人形作りの先生の助手を勤めていたが、いつの間にか人形作りを覚えてしまって、人形作りのアルバイトもやっていた。彼女は生来手が器用らしく、人の何倍もの速さで、人形を作ることができた。結婚まで進駐軍の将校の家庭のメイドをしていたので、彼女は元の主人に同僚の家庭を紹介してもらって日本人形の注文を取り、それからは芋蔓式に注文を殖やして行ってかなりの収入を挙げているようだった。  彼女の夫は元海軍大佐の一人子だった。大学を中退して、小さなバンドのマネージャーをしていた頃、圭子の勤めていた進駐軍の将校の家で行われたパーティに来て、彼女を見染めたのである。今はキャバレーのマネージャーをしているが、しょっ中職場を変えるので、収入が不確実な上に、妙に締り屋で、圭子には米代、それも文字通りの米代しか渡してくれない、それで仕方なしに圭子は、家の一部を間貸しし、元海軍大佐の未亡人であるお姑さんの恩給と自分のアルバイトとで、一家の生活を支えているのだった。  私は何か用ができて、子供を連れて彼女を迎えに現われた彼女の夫に出会ったことがある。彼は下駄をはき、よれよれの着物を着流していた。もう昼過ぎなのに、たった今起きたらしく腫れぼったい目と、妙に黄色い顔をしていた。  彼は玄関に出た私を見ると、 「いつも圭子がお世話になっておりまして」とべとつくような調子の丁寧さでいった。それより数日前に、私は圭子とロード・ショウに行って、大学の入学祝いだといって中華料理を御馳走になったところであった。私はそのことに疚しさを覚えながら、圭子を呼びに、奥へ引込んだ。  圭子は拭掃除をしている間、いつもセンスのいいスカーフで髪の毛を蔽っていた。そうしてスカーフで顔を蔽っている彼女を見ると、私はどういうものかカチューシャを思い出してならなかった。私が少年時代に一番感激した本は、このカチューシャの出て来る、トルストイの「復活」だった。その頃私はネフリュードフのように、カチューシャのような可憐な乙女を誘惑し、一生その罪の贖いに身を捧げる自分を夢想したものだった。そのカチューシャを彼女はどういうものか連想させたのである。  母が確かめたところ、圭子は引受けたということだった。曜日は火曜日と金曜日の午前中ということになった。それらの日は、両方とも、私は在宅している日であった。     2  里見夫妻が移って来た日は、五月の最後の土曜日だった。その日は朝から圭子は里見夫妻のこれまでの家に赴き、引越と後片づけを手伝った。  里見夫妻の引越荷物は大型トラックにほぼ一杯あった。助手席に里見八郎と圭子が乗って来た。  その日圭子は午後四時まで二階で働いたのち、下に降りて来たが、私が縁側で本を読んでいるのを見ると、気を利かせて私のために台所で緑茶を入れて来た。これまでにも彼女は何度か祖父の家に手伝いに来たことがあるので、家の勝手をよく知っていた。  圭子は緑茶の入れ方がうまかった。私はいつもそれに感心していた。茶の葉は変りないのに、彼女が入れると、香りがよく出ておいしかった。  私は圭子にもお茶を勧め、台所の戸棚に羊羹があることを教え、それを切って二人で食べることにした。  圭子の話によると、里見夫妻のこれまで住んでいた家は、芝生のある独立家屋で、ベニヤなどを使った戦後のバラック建築であるが、完全に洋風の家だった。しかし里見八郎は久しぶりに和風の家に住めたことが余程嬉しいらしく、今も柱に触って感心したり、節一つない柾目の天井に感嘆していたということだった。  私は圭子に、里見八郎がアトリエにどの部屋をあてたかを質し、彼が十二畳の座敷をアトリエにあてたことを知った。あの部屋なら採光もいいし、アトリエには向くであろう、と私は思った。部屋も広いし、大作の制作には絶好に違いなかった。  帰りがけに、圭子は、来月からバーにホステスとして勤めるようになったから、一度飲みに来て欲しいといった。主人がこのところ失職して全然お金を入れなくなってしまったのと、駐留軍の数が少なくなって人形の注文が段々減って来たので、意を決して勤めることにしたが、幸い主人は銀座のバーには顔が利くので、非常に条件のいいバーに世話してもらえそうだ、というのだった。  彼女が帰ったあと、私は彼女がバーに入ってしまうのを何とか阻止できないか、と考えている自分に気がついて驚いた。彼女の夫は一体自分の妻を何と心得ているのだろう、と私は憤慨した。自分は一文も家に入れないで、女房をそういう危険な誘惑の多い夜の商売に出して稼がせるとは、一種のヒモのようなものではないか、と私は思った。しかし圭子は別に夫を嫌っているわけでもなさそうだった。むしろ夫を愛しているような気配さえあった。  圭子が帰ってからしばらくして、里見八郎が降りて来て、一言挨拶を述べたのち、近所にある鰻屋の電話番号を訊ねた。  私は里見八郎に会ったその足で、夕食を自分の家で取るために出て行った。  門を出ると、タクシーから降りるイヴォンヌに会った。 「今晩は」と私がいうと、 「ボン・ソワール・ムシュー」とイヴォンヌはいった。そして「疲れました」と日本語でいって、彼女は大きな身体を大儀そうに動かしながら門の小さな潜《くぐ》り戸を潜り抜けて行ったが、大きなお尻が潜り戸につっかえてしまいそうだった。  彼女が潜り戸を抜けた時微風が吹いて彼女のつけている強い香水の香りを運んで来た。  イヴォンヌは、毎朝八時頃家を出て、土曜日を除き、五時四十五分に戻って来た。この五時四十五分という時刻を、彼女は不思議な程正確に守った。タクシーを使うせいかも知れなかった。まだ自動車の数も少なくて、タクシーを使えば、予想通りの時間で目的地に着くことの出来る頃だったのである。  イヴォンヌが朝出る時は、里見八郎は必ず玄関まで送って出た。そして玄関の間で二人は軽い接吻を交した。時によると里見八郎は外へ出て、タクシーの拾える場所まで、イヴォンヌを見送ることもあった。そんな時二人が外でも別れの接吻をしたかどうかは私は知らない。  土曜日だけ、イヴォンヌは十二時半に帰って来た。しかし二時には個人教授の弟子が来た。イヴォンヌは三人しか弟子を取らなかった。それが彼女の主義だった。彼女の目まぐるしい生活では、それ以上弟子を取っても良心的な教育を施すことはできないというのである。  一人の教授時間は、正確に五十分だった。十分ずつ休憩時間をおいて、土曜日の午後二時から五時まで、三人の弟子に教えていたわけである。彼女のフランス語の教え方の旨さには定評があった。だから彼女の弟子になりたくて、時間の空くのを待っている人たちが幾人もいるということであった。  イヴォンヌの平常の帰宅時間は、既に述べたように、正確に五時四十五分であったが、この時は、どういうものか里見八郎は迎えに出なかった。五時四十五分になると玄関のドアの鍵を明ける音がする。そしてイヴォンヌが靴を脱ぎ、靴箱に蔵う音がする。そしてさももどかしげに皮のスリッパを出して、それを履く音がする。それからイヴォンヌはその皮のスリッパで重い身体を支えながら、階段を大きな音を立てて上って行くのだ。階段を上り切らないうちに、もうイヴォンヌは耐え切れないように、大きな声で子供のように叫ぶ。「パパ、パパ、ただいま」——里見八郎は羞ずかしいのか返事をしない。迎えにも出て来ない。「パパ、パパ、ただいま」とイヴォンヌは泣き喚くように叫びながら、皮のスリッパをどたどたと鳴らし、廊下を走って彼らが居間にあてている奥の洋間さして駆けて行く。この時刻だけ、私が留守番をしている祖父の家の静寂は掻き乱された。それ以外の時はまったく静まり返っていて、二階に人がいるかいないか、分らない程であった。  日曜日だけは、イヴォンヌは一日家にいた。夕方になると二人は盛装して散歩に出た。私は二人の散歩姿に何度か出くわしたことがある。今歩いている道がパリの甃であるかのように、腕を組み、二人は時々話を交しながら、ゆっくりと歩いていた。里見八郎は長身をぴんと伸ばして歩いていた。イヴォンヌは痩せている里見八郎の細腕に甘えるように縋りついて歩いていた。そして二人の周りを時間と空間を超越した愛の世界が濃密に取巻いているように思われた。  里見八郎は、夕方になると、古い皮のボストンバッグを持ってよく買物に出た。そんな時も、彼は身なりだけは実にきちんと整えて出た。そうやって彼は遠くに捜しあてた、彼の注文に応え得る肉屋に肉を買いに行くのであった。  御用聞きは酒屋と洗濯屋だけが入っていた。洗濯屋は元の家の出入りの洗濯屋にわざわざ週二回来てもらっているのだった。魚はほとんど食べなかったから用がなかった。八百屋は近所の八百屋に里見八郎自身が出かけて品選びをし、配達だけさせた。  里見八郎は週日は夕食の調理も引受けていた。朝食は私の予期した通り、ヴェランダで| cafe complet《カフエ・コンプレ》、すなわちコーヒー、熱い牛乳、ロールパン、バターの一揃いを食べた。昼間は彼一人簡単にパンとハム、チーズなどで済ました。時々米の飯が食べたくなると、飯盒で一人分の御飯を炊いた。イヴォンヌは米の飯を食べなかったからである。夕食は彼が腕を振う時であった。彼の料理の腕前は相当なものらしかった。彼が酒屋の御用聞きに、フランス料理について長々と講釈しているのを、私は幾度か耳にしたことがあったからである。 「イヴォンヌは、わたしの料理したものしか安心して食べないのでね」  と彼が自慢しているのを私は小耳にはさんだことがある。イヴォンヌの帰宅の際に、彼が出て来ないのは、絵の制作中で手を離せないためではなくて、台所にいて、料理の真最中で、容易にその場を離れられないからだった。それを知っていながら、イヴォンヌは、甘えて、あんなに大きな声を出して、「パパ、パパ、ただいま」といっているのであった。  里見八郎もイヴォンヌも精のつく鰻が好きと見えて、土曜日のお昼には大抵、鰻を胆吸をつけて取った。しかしそれ以外のイヴォンヌとの食事はすべて里見八郎が料理の腕を振うのであった。  但し日曜日だけは例外だった。日曜日だけはイヴォンヌが主婦に還ったからである。この日のイヴォンヌは、粗末な服を着て実によく働いた。この日は食事はすべて彼女が用意し、掃除と洗濯に情熱を傾けた。階段を雑巾がけしているイヴォンヌの姿を私は何度か目撃した。その時彼女は彼女の本来の領域に立ち戻ったように生き生きとし、幸福そうに見えた。そしてこの日里見八郎は、家にいる時は和服を着て、彼の年代の日本の家庭の主人のように、悠然と振舞っていた。  日曜日に人が訪ねて来てもイヴォンヌは絶対に会おうとしなかった。この日は彼女の息抜きと夫への奉仕にあてられるべき日だったからである。生徒の父兄が豪華な贈物を持って挨拶に現われても、彼女は不意の訪問であるという理由で、決して会おうとしなかった。それは非情なまでに徹底していた。そんな時、彼女の代りに応対する里見八郎は、済まなそうに、その旨を不意の来客に告げ、豪華な贈物——大抵それは外人が喜ぶと考えられている日本的な品物だった——を抱えて、二階に上って行った。  里見八郎は別としても、イヴォンヌも教会に行かなかった。彼女はカトリック信者だったが、教会に行くのはクリスマスの時だけだといった。  里見八郎もイヴォンヌも相当の上戸であった。彼らは二日に一本位の割合で角瓶のウイスキーを空けていた。月の終りになるとウイスキーの空瓶だけで十五本と出たからである。イヴォンヌはフランスの習慣を固守して、生水を飲まずに、炭酸水を飲んでいた。これも月末になると、何ダースと空瓶が出た。このほかに、彼らは特別に銘柄を指定して、国産の葡萄酒を愛飲していた。その葡萄酒は、戦後フランスの技術者が来日して指導した結果製造に成功したという、国産品で二人が飲むに耐えうる唯一の葡萄酒であった。  二人はある意味で、世間と隔絶して生活していた。イヴォンヌが外に出るのも、生活の資を得るためで純粋に生活の必要上からだったし、里見八郎も交際というものを完全といっていい程|断《た》っていた。彼らが引越して来た五月の末から、私が夏休みに入って避暑のために戸隠に出かけた七月の下旬までの二カ月近くの間に、里見八郎を訪ねて来た客は一人もいなかった。それは彼がイヴォンヌとのたった二人だけの愛の生活に充足している何よりの証明かも知れなかったが、一方それは外国婦人との愛に満ち足りた生活をすべてとしてしまった男が世間から受けざるを得なかった報復とも思われた。里見八郎にも過去にはきっと多数の友人があったのであろう。しかし彼がイヴォンヌとの愛の生活に忠実になればなる程、彼は友人たちと疎遠にならざるを得なかったのであろう。そして気がついた時には、彼の周囲には友人は一人もいなくなってしまったのではないか。そんな気が私にはした。しかしそれはまたそれで純粋で、悲愴で、讃えられるべきだと、私には思われた。それに里見八郎には芸術があるではないか。そのように世間から孤絶した純粋な愛の生活から生れた絵はどんな純粋さと透明さを獲得するものであろうか。私は機会を見て里見八郎の絵を見せてもらいたいと心に願っていた……  里見八郎には郵便も来なかった。一度だけ、兄弟らしい人の死亡通知が来たことがあった。その葬儀の日、彼がイヴォンヌを伴って外出するところを私は見た。モーニングを着た里見八郎もハンサムで立派だったが、黒の喪服を着たイヴォンヌは、昔の美しさを私に髣髴とさせた。私はこの二人が恋に陥り、恋の甘美さに酔い、セーヌ河のほとり、ブーローニュの森、モンマルトルの街を散歩していたありし日のことを想い泛べた。そして自分はその恋の結末の生証人になっているのだと思った。  イヴォンヌにも手紙はほとんど来なかった。一月に一度位パリの姉妹らしい人から航空郵便が舞い込んで来る位なものだった。そのほかの手紙といえば、イヴォンヌの勤めているW大学からの給料の払込通知とデパートの催物の案内位なものだった。  二人が老後に備えて貯金をしている様子はなかった。二人の食生活はかなり贅沢であったから、食費と、三万円に上る住居費と、月に二万円はかかるというタクシー代を除くと、貯金をすることなどは不可能なのかも知れなかった。イヴォンヌの給料はW大学を除いてすべて時間給だったから、一定の収入を確保するために、彼女は夏休みも、夏期講座に出て働かなくてはならなかった。二人が不動産や株券や定期預金の類いを持っている様子は郵便物から見てもなさそうで、彼らがまったくその日暮しの生活を送っているのは確実だと思われた。イヴォンヌの日課は相当きつかったから、そんな日課をそういつまでも続けていられる筈はない。それに生身の身体なのだから、いつ何時健康を害さないとも限らない。そうしたら二人の生活はその日から危急に瀕してしまうのではないだろうか。ひとごとながら私はそんなことを考え、時々彼らのために不安に思っていた。  里見八郎は几帳面な性格で、電話をかけるとその日付を添えて記録し、かけた回数分だけ、電話代を持って来た。こうした性格は万事に滲透していて、家賃の支払いも正確そのものだった。  里見八郎はよく玄関で御用聞きと立話をした。彼にとって御用聞きと交す会話は、世間に開かれた窓のようなものだった。それで彼は玄関でずい分長い間立話をした。時には三十分か四十分も続くことがあった。里見八郎は角力と野球のファンで、そうしたことが話題に上ると、とめどもなく続くのだった。御用聞きが時間が経ち過ぎたのに気づき、慌てて立ち去るまで続くのである。  御用聞きが来るのは午前中だったから、二階から降りて来る里見八郎は、いつも制作着である、絵具の汚染などのついた白い上張りを着ていた。 「その後絵の方はいかがですか」と御用聞きは、時々お世辞のつもりかそう里見八郎に訊ねていた。 「相変らず、遅々として進まなくてね」と里見八郎は、きまって、芸術的苦悩に満ち満ちたような声で答えていた。 「今は何を描いておられるので」 「一週間程前から花を描いている。本当は人間を描きたいんだが、いいモデルがいなくてね」  そう里見八郎は答えていた。  こうしたところが、里見家が引越して来てから二カ月近くの間に私が知り得た、彼らの生活の概観だった。  私が戸隠に籠るために、本をたくさん詰めたトランクを提げて家を出ようとする時、私は里見八郎に会った。 「お出掛けですか」と彼はいった。 「戸隠は涼しくていいですね。私たちも戦前は必ず軽井沢か箱根に行っていましたが、今はイヴォンヌの授業があるので、どこへも出られません。もっともこの家は、周りに木が多いせいか、涼しくて凌ぎよさそうですね」  そんなことを彼は淡々と喋って、私を送り出してくれた。  私が戸隠から戻って来たのは八月の末だった。戸隠で私は本だけはたくさん読んで来た。修士論文の構想も練って来た。しかし原稿用紙をたくさん持って行ったにも拘わらず、小説は一行も書けなかった。  次の日、圭子が、私の帰京したのに気づいたらしく、二階の拭掃除を終えると、私がいた縁側にやって来た。 「しばらくですね。戸隠はいかがでした」と彼女はいった。  一カ月余り見ないうちに、彼女は何だか変ってしまった。嘗て私を惹きつけたあの可憐さがなくなっていた。代りに少し危険な色気のようなものが身について来たようだった。夜の蝶の商売が身についてしまったのかも知れない、と私はひそかに考えた。 「お茶でも入れて来ましょうか」と彼女はいった。 「それじゃあ、日本茶を入れて下さい」と私はいった。  久しぶりに飲む彼女のお茶はうまかった。 「大学が始まらないうちに、一度いらっしゃらない」と彼女はいった。 「奢るわ」 「どこにいるんですか」と私は訊ねた。 「バーを止めてしまって、今キャバレーにいるの」  と彼女はいって、小さな名刺を出して私にくれた。 「一流の下位のキャバレーだけど、一度位見ておく価値があるわ」と圭子はいった。 「一度うんと遊んで、結婚した人のことなんか忘れておしまいなさい」と圭子は姉のようなやさしさを籠めていった。私は圭子に、失恋を打明けたことがあったのである。  そういわれて私は俄かに行ってみる気持になった。私は圭子と日時の約束をした。八月三十一日の午後八時に、私はそのキャバレーに圭子を訪ねる約束をした。  圭子は本当に私に奢ってくれた。圭子はそのキャバレーでなかなかの売れっ子だった。私の席にいても、すぐ呼出しがかかって、彼女は呼出しのかかった席へ呼び出されて行った。そんな時のために、彼女はその日に入ったばかりだという新米の女の子を二人私に侍らせてくれた。  彼女はふんだんに私にビールを運ばせた上、豪華なオードブルを幾皿も持って来させた。私が恐縮がると、彼女は小さな声で、それらはみんな彼女を呼出した席の連中に分配してつけてあるから、彼女のお腹はまったく痛まないのだ、ということを私に囁いて教えてくれた。私は、女に働かせ、働いた上りを貢がせて、贅沢に耽る男の快楽というものがおぼろげながら想像できる気がした。  途中で私は圭子に勧められて、私に侍っている新入りの二人と順番に踊った。最後に私は圭子と踊った。圭子は踊りながらしっかりと身体を私に押しつけて来た。彼女は意外に豊満な身体をしていた。それが分った。私は自分の身体の中に、何か熱いものが盛り上るのを感じた。私はまだそんな風にして女を抱いたことがなかったのだ。圭子は女の身体を抱き締めて踊ることがもたらす甘美な快楽を私に教えてくれようとするかのように私にしっかりと抱かれるがままになった。私は陶然として彼女と三十分近く踊った。そしてその間に自分はずっと昔から圭子を愛していたのではないかとさえ思い出した。  それから閉店まで私は彼女と話をした。そして閉店になると、夫と待ち合せをしているという彼女と別れて私は一人だけ先に帰った。夜の空気に触れて酔いが覚めると、私は彼女とあんな風に抱き合って踊ったことが途方もなく羞ずかしくなって来た。  次の日私は、圭子が八百屋で買物をしているのに出会った。彼女は美しい素足にサンダルを履き、長いうなじを見せながら、形のよい白い手で青林檎を選っていた。あの身体を昨日抱いて踊ったのだと私は思うと、ただそれだけで済ましたことが残念に思われた。  彼女は私に気づくと、 「あら」といった。そして、 「昨夜はよくお寝みになれて?」といった。  私は心の中を見透かされたような気がして思わず顔を赤らめていた。同時に童貞を奪われた人妻に次の朝出会った少年のような気分を味わっていた。  颱風が東京を翌朝襲うかも知れないという情報がテレビやラジオで報じられている日だった。私は里見八郎に呼ばれて、二階のヴェランダの窓の補強を見に行った。ヴェランダの前面にはまっている窓は細長いために、颱風がまともに吹きつけると、しなってしまう危険があり、中間に棒を渡し、補強する必要があったのである。颱風シーズンが始まる前に、私はそのことを里見八郎に注意し、補強する際に必要な材料の在処《ありか》を教えておいたのである。  私が上って行って洋間に入ると、里見八郎は洋服を着ているのにイヴォンヌは浴衣《ゆかた》を着て、すでに九州地方を襲っている颱風のテレビ・ニュースに見入っていた。彼女は椅子に坐らないで絨緞の上に、パナマの座蒲団を敷いて、その上に横坐りに坐っていた。葡萄酒を飲んでいるところらしく、テーブルの上に葡萄酒の瓶と、飲みかけのグラスがあった。シャワーを使った後らしく、浴衣からはみ出して見える手足が桃色に息づき、なまめかしかった。浴衣の胸からは大きな乳房がはみ出していた。 「ボン・ソワール・ムシュー」と彼女は私が入って来たことに気づくと、胸を押えていった。  里見八郎の補強の仕方は、大体申し分なかった。私は彼にそれを告げ、部屋を彼に送られて出て行った。彼がアトリエにあてている十二畳の座敷の前まで来た時、私は立止って彼にいった。 「ちょっと絵を見せて頂けないでしょうか」 「まだ描き始めでしてね」と彼はいって、私を十二畳の真中に据えられた大きな画架に装置してあるカンヴァスの前に連れて行った。  それはバレーを舞っている若いバレリーナの絵だった。まだ色は半分位しか塗られていなかった。 「モデルが使えないものですから」  そういって里見八郎は、かたわらにあるグラビア雑誌の開けられてあるページを示した。練習中のバレリーナをカラーで大写しに撮ったもので、彼の絵はそのバレリーナの全身を描こうとしているのだった。  しかし私はその絵に余り感心できなかった。まだ未完成なのではっきりしたことは分らなかったが、一時期絵に没頭したことのある私の目には構図が平凡なものに映ったし、手足に力動感がまったく感じられなかった。色もありきたりだった。 「完成したらまた見せて頂けませんか」と私は幻滅を覚えながらいった。 「そうですね」と里見八郎はいった。「私は遅い方ですので、時間がかかりますが、完成したらぜひ見て頂きましょう」  それから私は時々圭子に、絵の進行状況を聞くようになった。しかし里見八郎の絵は遅々として進んでいないようだった。里見八郎は、圭子が働きに来る日は、必ずアトリエにあてている十二畳の日本間に籠って絵を描いているが、もしかすると、それ以外の時は描いていないのではないかしら、とも圭子は鋭い推測を下していた。彼は一日中家にいて、ひたすら絵を描いているように装っているが、それは妻を働かせて、妻に食べさせてもらっている男の世間の目を眩ます擬装なのかも知れない。彼が御用聞きに対する時必ず着て来る、絵具のついた白い上張りの制作着がそれを暗示しているように私には思われた。  秋が深まって冬が来た。  イヴォンヌは寒さに弱かった。彼女は私に会うと、いつも、「寒いです、寒いです」といってこぼした。初めて住む日本家屋の寒さが彼女にはこたえたらしい。二階でも、煖房のよく効く洋間一室しか使っていなかった。この頃になると、もう圭子が来る日でも、里見八郎はアトリエにはいないで、洋間に引籠って新聞を読んでいた。  食事は、台所に小さなテーブルと椅子を二脚持ち込んで取った。狭いので、煖房がよく効くし、料理は出来たてのものがすぐその場で食べられて便利だからであろう。  近所に木村屋のパンを販売する店ができてから、そこへ毎日の午後パンを買いに行くことが、里見八郎の日課となった。  ある日私は細長いパンを買って来た彼から、イヴォンヌは余りフランスのものをなつかしがらないが、パンだけはなつかしがってしょうがない、という話を聞かされた。フランスで食べられるようなパンだけは、日本では手に入らない、と彼はいった。あなたも今にヨーロッパに留学して、フランスへもいらっしゃるだろうから、御経験になると思うが、世界中のパンでこのフランスのパンに如くものはない、と彼はいった。  クリスマスに、私の家では、里見家から豪華なクリスマス・ケーキの贈物を受けた。余り名の知れた店のものではなかったが、その店の主人は大学を出たのち一念発起して菓子造りを志し、五年間もパリで菓子店に住み込んで腕を磨いて来ただけあって、そのクリスマス・ケーキも、パリの菓子とまったく同じ味がする、と里見八郎は説明してくれた。  そのクリスマス・ケーキは、食べてしまうのは惜しい程見た目に綺麗で巧緻な出来を示していた。それは籠に盛られた七面鳥の卵を形取ったものだった。籠の編み目の一つ一つ、卵のふくらみ、殻の色までもが、真物とまがう位に巧緻にできていたのである。切り崩すのが惜しかった。できることなら食べないでそのままその菓子を眺めていたかった程である。しかし余りにも人工的でそれが私には不満であった。私はなぜか、その菓子が、いかにもイヴォンヌと里見八郎の贈物としてふさわしいものだという気がした。     3  あれからも時々圭子は私のところに寄ってお茶を入れてくれ、二三十分話して行った。彼女は、私としっかりと身体を寄せ合って踊ったことなどなかったように振舞ってくれたので、私もそんなことがあったのが夢の中だったような気がして来た。  里見八郎のバレリーナを描いた絵は、圭子の話によると、まだ完成していなかった。モデルが使えないので、制作の過程において一頓挫をきたした、というのだった。モデルをお使いになればいいではありませんか、と圭子がいうと、里見八郎は、眉をひそめて、イヴォンヌが厭がるものだから、と答えたということだった。  里見八郎は人に飢えているらしく、圭子が来ると色々と話しかけて、この頃は仕事がさっぱり捗らなくって困った、と圭子はいった。  ある時、圭子がガラスを磨いていると、里見八郎はそばに寄って来て、圭子の姿にじっと目を注ぎながら、その姿を絵に描きたい、と彼女に洩らしたという。  私はこの話を興味深く聞いた。圭子が白い顔をガラスに映して、白くて長いうなじを見せながら、一心不乱にガラス磨きに没頭しているさまは、美しかったに違いない。そしてその圭子の姿は、里見八郎の中に久しく眠っていた画家としての創作欲を呼び覚ましたのかも知れない。それはまた久しく彼が身近に触れることのできないでいる日本の女の美しさに対する懐郷の念を彼の心に目覚めさせ、それがいっそう彼の画家としての創作欲を掻き立てたのかも知れない。 「それで何といったの」と私が聞くと、圭子は、 「奥さんが許可になったら、御相談に乗りますわ、といっておいたわ」といって笑った。  三月に入ってからのある日、F商会という月賦販売会社の社員が、里見八郎の留守中に、里見八郎の信用調査にやって来た。そして私は、彼が月賦でカメラを買おうとしていること、しかし彼には収入も貯金も皆無であること、里見家の生活はイヴォンヌの毎月の稼ぎによってのみ成立っていることを、更めてはっきり知らされた。私はその社員に、家賃の支払いは確実過ぎる程確実であること、イヴォンヌ夫人が毎日外に出ている代りに、里見八郎は家にいて、絵を描くかたわら、家庭の雑事を、たとえば台所などを引受けているようだ、ということを話した。  F商会の社員が現われてから一週間程して、私は里見八郎がカメラを肩にかけて、道を歩いているところに出くわした。  彼は懸命に被写体を捜し求めていたが、中々シャッターを切ろうとしなかった。  彼は、圭子に今度は被写体としての興味を覚えたようだった。圭子のさまざまな瞬間を写真に撮ろうとカメラを持って、圭子にくっついて移動し、絶えずカメラを構えたが、やはり中々シャッターを切ろうとしなかった。圭子の推測によればそれは中に入っているカラー・フィルムが原因だった。へそくりを作って、しばらくの間、カメラの月賦を払わなくてはならない里見八郎にとって、高価なカラー・フィルムをそう無闇矢鱈と使うわけには行かないのだというのである。  ある日、和服姿の圭子が私の前に現われ、私を驚かせた。彼女の和服姿を見たのはそれが初めてだったので、私には珍しかった。和服は圭子に驚く程よく似合った。着付も素人離れがしている程美しかった。それは彼女が人の何倍もの速さで作るという日本人形の着付のように粋だった。うなじが長いので、襟足の美しさは格別だった。しかし私にはカチューシャを連想させた、可憐な彼女の姿の方が好ましかった。私には彼女が次第に別の世界の存在になって行くような気がした。  彼女の説明によると、あるパーティの接待役のアルバイトで和服を着て行くことになった、それを里見八郎にうっかり話したところ、ぜひその和服姿を写真に撮らして欲しい、といわれたので、こうして少し早目に家を出て立寄ったというのである。  里見八郎は、圭子を庭の芝生に立たせて、カメラを構えた。そして圭子をさまざまな場所に立たせたのち、漸く二枚写真を撮った。圭子にいわれて、私も庭に出て圭子と並んだところを一枚撮ってもらった。  里見八郎が私に、圭子と並んで撮った写真を一枚くれたのはそれから二カ月後だった。 「この人は典型的な越後美人ですね」と里見八郎は圭子だけを撮った写真を見せながら私にいった。 「昔、私はこういうタイプの美人が好きでしてね」と彼は遠い過去を思い泛べるような目をしていった。 「そんなわけでなつかしいのですが、不思議なことに、どこか遠い異国の美人を見ているような気もするのです」  彼にとってイヴォンヌ以外に女はいなくなってしまったのだ、と私には思われた。彼の圭子に対する態度には圭子が時たま見せるようになったコケットリーにも拘わらず、不思議と去勢された男のような性的好奇心の欠如が感じられたが、それは彼がイヴォンヌによってすべてを満たされ充足してしまっていることから来ているのかも知れなかった。  四月の末に、従姉の文子のパリ行の送別会があり、私も招待された。  文子は五月の初めにパリへ向けて飛行機で発つ予定になっていた。彼女は、イヴォンヌから、イヴォンヌの姉妹あての紹介状をもらった、といった。一度自分の姉妹に会って、自分が日本で元気に、里見八郎と幸福に暮していることを伝えて欲しい、とイヴォンヌに頼まれたのである。 「それで文子さんは、イヴォンヌの姉妹に、日本でのイヴォンヌの生活をどう伝えるつもりなの」と私は意地悪な質問をした。 「ありのままに伝えるわ」と彼女はいった。 「里見さんが絵を描いていないことも」と私はいった。  彼女は、自分がイヴォンヌの許にフランス語を習いに行っている時、里見八郎が画室に籠っていなかったことはない、といった。  私は彼女に、もしイヴォンヌの姉妹を訪ねたら、その時の模様を報せてくれまいか、とたのんでみた。 「どうして?」と彼女はいった。 「興味があるんだ」とだけ私はいった。 「そう」と彼女はいって深くそれ以上問おうともせずに、報告することを約束してくれた。  文子は長い間イヴォンヌの許でフランス語を習っていただけあって、イヴォンヌのことをよく知っていた。イヴォンヌは三人姉妹で、姉は高校の教師のもとに、妹は医師のもとに嫁いだが、二人とも夫をなくして、今は気楽な未亡人の暮しを送っている。姉の方は親の不動産を譲り受けて、果樹園の方は人に任せているが、先祖代々の住まいには自分が住んで、嘗てイヴォンヌにあてられた部屋は今もそのままにして、イヴォンヌがいつでも故国に帰って来られるようになっている。イヴォンヌは里見八郎と一緒にパリに帰りたがっているが、夫がそれを望まないので、帰れずにいる。里見八郎が先に逝ったら、パリに帰って余生を送るつもりでいるらしいが、彼女は自分の方が早く死ぬだろうと思っている。彼女の方が年が六つも上だし、肥り気味で心臓が弱っているから……。二人は熱烈な恋愛をして結ばれたそうだったが、文子が見合をして結婚したことを祝してこういったそうだった。 「恋は烈しく燃え上りますが、それは一時のことです。その火が燃え落ち、灰になっても守り抜くのは容易なことではありません」  このイヴォンヌの言葉をかりれば、今の二人の生活は、ぬく灰を大事に守っている生活なのかも知れない、と私には思われた。  ある時玄関で里見八郎は私を呼び止め、 「今年は椎の木が花をつけましたね」とさも重大そうにいった。 「そうですね」と私はいった。崖に植わっている二本の大きな椎の木が花をつけたことは私も知っていたが、里見八郎程それを重大に考えていなかった。 「去年つけなかったので、今年はつけるかと思っていましたが、やっぱりつけました」  と里見八郎はいった。  私は彼がよく廊下に立って、長い間じっと庭の樹木を眺めていることを思い出し、彼の世間と隔絶した日常に樹木の世界が占めている大きさと重さを知った。  五月に入って、私が四月から週に一回だけ非常勤講師としてドイツ語を教えるようになったある大学のドイツ語教官の懇親会が銀座のレストランの二階で開かれ、私も招待されて出席した。  主任教授は落着きがなかった。四月から、長い間空席のままだった外人講師として出講するようになった、来日したての若いドイツ婦人が出席するので、その歓迎の挨拶をドイツ語で喋らなければならなかったからである。  しかしその肝腎のドイツ婦人は時間になってもなかなか現われなかった。  三十分遅れて、背の高い金髪の美しいドイツ婦人の姿が入口に現われた。彼女に劣らない位背の高い若い日本の男が介添人のようについて来た。 「あの人は誰ですか」と私は隣の助教授に訊ねた。 「御亭主ですよ」とシンガポールの抑留生活で、国籍を問わず徹底した白人嫌いになった助教授は、妻に白人を迎えた男を憐れむような調子でいった。 「帰りに独りでは心細いので、夫も一緒に招待して欲しい、と注文をつけられたんですよ」と彼は苦々しげにいった。「それならば帰りの時刻に迎えに来させればいいじゃありませんかね」 「しかし」と彼はいった。「なかなかの別嬪でしょう」  そのドイツ婦人のことは、助手から既に聞かされていたが、学生が押しかけて教室が満員になるという評判だけあって、かなりの美人だった。席に向って歩みながら、彼女は羞ずかしいのか顔をほんのりと染めた。  彼女はつい二カ月前に夫の国に来たばかりだった。夫はセールスエンジニアで、二人はハンブルクで知り合い、恋に陥り、結婚したのだ。彼女は三十に近かったが、夫は大学を卒業していくらも経っていないから、五つ位年下だろう。  主任教授が立上って開会を宣した。彼は日本語で、幾人かの非常勤講師の新任者と退任者を紹介したのち、姿勢を正し直して、ドイツ語の挨拶に移った。フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」をテキストに使うことの好きなこの主任教授は、まるでフィヒテの使うような古風なドイツ語で、新任の外人講師たるドイツ婦人の歓迎の言葉を述べた。彼は彼女の略歴から説き起し、永い間空席のままだった外人講師にかくも若々しく有能な女性を得られた喜びを高らかに謳い、彼女のゲルマン的女性美を讃美して終るそのテーブルスピーチをまるで千人の聴衆を相手にするかのように顔を真赤にして獅子吼したが、全身を力み返らせているので、手負いの猪のように見えた。  彼が恐らく準備に一日を費やしたであろう大演説を終ると、ドイツ婦人が立上って挨拶をした。彼女は耳まで真赤に染め、少し声を慄わせて喋り始めたが、しばらくすると大分落着いて来た。彼女は、自分を外人講師に迎えてくれた好意を感謝し、慣れないことだが力一杯その職務を全うしたいと思っている旨を、小さな声で、少しおどおどと語った。主任教授の大演説にすっかり度胆を抜かれていたのであろう。  次いで彼女の夫が、挨拶をするために、立上った。その瞬間彼と他の出席者の間にある微妙な違和感が流れた。それは明らかに、彼がドイツ語教師でもないのに、外国人の妻にくっついてこの席にのこのことやって来たことに対してみんなが一様に感じていた不満から来ていた。彼とみんなの間には、目に見えない、ある透明な膜が張りめぐらされたように見えた。  彼は、その場の空気を敏感に感じとったのか、部外者の自分をこの席に連ならせてくれた寛容を謝し、自分の仕事の関係で遅刻の止むなきに至ったことを詫びたのち、今後妻が何かとお世話になると思うが、どうぞよろしくお願いします、といった。彼の話し方は落着いていて、悪びれたところがなく、聞いていて好ましかった。しかし彼と他の出席者の間に張りめぐらされた透明な膜は消えないままであった。  彼自身本当はこんな会に出たくなかったのだろう、と私は思った。しかし妻に乞われて、仕方なしに出て来なければならなかったのだろう。そして会が終るまでの二時間、彼は違和感に悩まされながら、妻のそばにじっと坐っていなければならないのだろう。  食事が始まると、人々はもうそのドイツ婦人のことは念頭におかないで、勝手な雑談に耽り始めた。時々ドイツ婦人は、話題となっていることを理解したがって、かたわらの夫に通訳を求め、夫は辛抱強く彼女に解説して聞かした。  この日から三十年後に、彼がどんな男になるか、私は知りたいと思った。里見八郎も彼と同じような経験を、過去に何度も積み重ねて来たのだろう、と私は思った。愛に殉ずるために里見八郎は多くのものを犠牲にしたのだ。  私の友人で、日本人を夫に持った外国女性を見ると、その日本人の男根を頭に想い泛べてしまう、といった男がいた。彼は性的飢餓に悩まされているので、そんな連想に走ってしまうのかも知れないと言訳をいっていたが、今このカップルを見る同席の男たちの眼差に、私は私の友人の言葉を裏書するような何か淫猥な光を感じた。彼らは二人の肉の交わりを想像しているのだ、と私は思った。若いうちの鮮烈な肉の交わりが、言葉による意志の疎通の不完全さと、二人の育った歴史と風土の違いを忘れさせてくれる間はいいだろう。しかし自然が、二人から若さを奪い、時が二人から新鮮な肉の歓びを奪った時、二人は肉の不毛に代るだけのものを育て上げていられるだろうか。肉がもはや二人にとって饗宴を意味しなくなった時、二人は二人の生活を結ぶ、充実した心の交わりを作り上げておくことができるだろうか。私はそんなことを考えながらこの夫婦を見ていた。  ある日私は玄関で里見八郎に会った時、圭子のことを訊ねられた。 「村松さんはキャバレーに勤めているんだそうですね」と里見八郎はいった。 「ええ、そうらしいんです」と私はいった。 「もう昼間は働かなくてもいいんでしょうか」 「そうでもないようです」と私はいった。キャバレーは貸しが多くて、定期的な収入があてにできないので、もうしばらく、昼間のパート・タイマーの仕事を続けていたい、ということを、圭子が私に話していたのを思い出したからである。 「どうして御存じなのですか」と私はいった。 「この間キャバレーの従業員の慰安旅行であの人が初めて撮ったという写真を見せてもらったものだから」と里見八郎はいった。  その写真は私も知っていた。里見八郎の写真に刺戟されたのか、圭子も最近カメラを月賦で買ったのである。宿の浴衣《ゆかた》を着たボーイとダンサーたちが繰り拡げるずい分しどけない情景が撮られ、圭子自身も男に抱きつかれているところが写されていたりした。 「あの人は大分生活が荒れて来ましたね」  と里見八郎は眉を顰めていった。それから、 「イヴォンヌが気にしだしましてね」  といった。     4  夏休みに入ると、私は例年のように戸隠に籠った。私は朝早く起き、規則正しく机に向い、十二月末に修士論文として提出することになっている、ケラーの「緑のハインリヒ」論を書いた。  修士論文の第一稿を完成して、私は八月二十日に東京に戻った。東京はまだ暑かった。イヴォンヌは、玄関で私に会うと、必ず「暑いです、暑いです」といった。彼女はこの夏いくつか新調したらしい派手なプリントのワンピースをいつも着ていた。  留守中に里見家で犬を飼い出したことを、私は知った。母に確かめると、里見八郎が了解を得に来たので、仕方なしに承認したのだということだったが、私は家の中で犬を飼われることに若干の不愉快を感じた。  それは、イヴォンヌが、帰国する友人から譲り受けたというダクスフントであった。手入れが行届いていると見えて、その毛肌は艶々と輝いていた。 「犬というものは可愛いものです」と里見八郎は犬を礼讃して止まなかった。 「犬は決して飼主の愛情を裏切りません。子供ですとこうは行かない」と彼はいった。「私の姉などは子供に裏切られて苦労しています」  その口ぶりはまるで彼ら二人が故意に子供を作らなかった正しさが今になって証明されたかのようであった。里見八郎がイヴォンヌとの間に故意に子供を作らなかったということを私は圭子から聞いたことがある。二人は二人の愛を純粋に堅固なものにするために、故意に子供を作らなかったというのである。しかしその一方には生れて来る子供に、混血児という特殊な条件が課せられることを未然に防ごうとした配慮があったようにも思われた。  里見八郎は、ダクスフントに毎日温水シャワーを浴びさせていた。それから日に三回ブラシをかけてやるのだといった。  イヴォンヌもダクスフントを可愛がっていた。  イヴォンヌが帰宅して二十分ばかり経つと、必ず廊下をダクスフントが駆ける足音が聞えて来た。そして「ピエール、ピエール」とダクスフントの名前を呼ぶ声が聞えて来た。里見八郎の声が混ることもあった。二人は食事をとる前に、ピエールを廊下の端から端まで走らせて、ピエールに簡単な運動をさせると共に、そのさまを見て興じているのだった。その足音は丁度その廊下の下で、縁側に置かれた籐椅子に腰かけて本を読んでいる私の神経に響いた。私は余程抗議を申し込もうかと考えたが、十分位我慢すれば済むのだからと思い、我慢することにした。しかしその十分間がひどく長く感じられ、犬に廊下を走らせて慰めを得ている二人の生活に思わず不快感を覚えさえした。  私はまた、私の留守中に、圭子が子宮外妊娠をして入院したことを知った。手術がうまく行かなくて、もう一カ月も入院しているというのである。私はそのことを知ってショックを受けた。私にできることなら何かしたいと思った。私は病院に見舞いに行こうと考えたが、母に諫められて考えあぐんだ末、断念した。その代り私は彼女に果物の罐詰の詰合せを酒屋から私の名前で届けさせた。  また私は、里見家がこれを機会に圭子を馘にしたことも知らされた。そして今では、里見八郎が一切を、掃除も、洗濯もしているのであった。  里見八郎は、洗濯物は、下着を除いて、全部洗濯屋に出していた。下着だけは自分で洗ったが、取込むのを忘れるらしくて、裏庭に廻ると、物干台に女物のパンツと男物のパンツが二三枚、何日も懸ったままになっていることがよくあった。  里見八郎が掃除をしている時はすぐ分った。彼のあとを追ってピエールがついてまわり、首についたままの鎖を引摺る音が聞えたからである。しかしまもなくその音が聞えるのも間遠になった。それはそれだけ里見八郎の掃除に割く時間が少なくなったことを意味するものであったろう。  時々二階の廊下にあたる天井から水が降って来ることがあり、私はそのことを里見八郎に指摘したことがあった。初め里見八郎は言葉を濁していたが、やがてそれがダクスフントのピエールの粗相の結果なのだということが分ると、私の心の中に、すでに時たま感じていた不快感が深く根を張りはじめた。それはもしかすると里見八郎とイヴォンヌの愛の生活の背後にひそむ荒廃に、私の目が向けられ始めたことと関係しているかも知れなかった。  九月も末になって、私は里見八郎からイヴォンヌが、ほとんど三十年ぶりにフランスに里帰りすることができるようになった、というニュースを聞かされた。  十月十日に日本を発ち、十一月三日に帰って来るというもので、エール・フランスが北廻り便就航記念に日仏友好に力のあった人々を招待したのだが、その一人にイヴォンヌも入ったのである。無論航空賃は往復共に無料で、パリ滞在費も二週間分はエール・フランスもちである。 「里見さんは」と私が聞くと、 「いやわたしは留守番です」と彼は無表情に答えた。  この話は前からある程度予想されていたことで、イヴォンヌがダクスフントを友人から譲り受けたのも、留守中夫が淋しさをまぎらすことができるようにというイヴォンヌの心遣いから来ているのだ、と里見八郎は私に語った。もしかするとカメラを彼に月賦で買うことをイヴォンヌが承認したのも同じ理由からかも知れない、と私は想像した。それから圭子が馘にされたのも留守中里見八郎を日本の女の誘惑から遠ざけようというイヴォンヌの深慮遠謀から来ているのかも知れなかった。  ダクスフントといえばたしかに、里見八郎の外界から遮断されたような生活は、ダクスフントの出現によって、ずい分張りを増したように見受けられた。彼は毎日必ず午前と午後の二回、ダクスフントを連れて散歩に出るようになったからである。そしてまた彼がダクスフントに、よく話しかけているのが、聞かれるようになった。カメラはカメラで、ダクスフントの登場によって、恰好の被写体を見出したというべきであった。私は里見八郎に何度かダクスフントを撮った彼のカラー写真を見せてもらった。父親が初めての我が子の写真を写すように、彼はダクスフントが洋間の長椅子の上にだらりと寝そべっている姿や、シャワーを浴びたあと湯上りタオルにくるまっている姿や、ミルクを飲んでいるところを写していた。私はまた彼の写真によって、ダクスフントにも人間の子供に劣らぬ位さまざまな表情があることを知った。  パリに到着した文子はまもなくイヴォンヌの生家にイヴォンヌの姉を訪ねたらしく、大分遅れてではあったが、その時の模様を私に報せてくれた。——イヴォンヌの生家は想像以上に立派だった。そしてイヴォンヌがいつ帰って来てもいいように保存してあるという部屋も見せてもらったが、二間続きの、ヴェランダのある、景色のいい部屋で、イヴォンヌがよく故郷のことを語るのは無理もないと思われた。彼女の姉は、イヴォンヌの帰国を待ち侘びているらしく、里見にフランス永住の意志はどうしてもないだろうか、としきりに文子に質した、そしてイヴォンヌの東京での暮しを訊ね、里見八郎の画家としての活動を知りたがっていた。この家には、里見八郎の滞仏作品がいくつか額に入って懸けられていたが、それらはいずれもすぐれた出来映えで感心した、などとその手紙には書かれていた。文子の美術の鑑賞眼はかなりすぐれたものだったから、里見八郎は相当素質のある画家だったのかも知れない、という気が私にはした。  日一日とイヴォンヌの出発の日が近づいて来た。心なしか里見八郎の顔は憂いに満ちて来た。あたかも永遠の別れの日が迫って来るかのように、彼の顔は深い憂愁に包まれ始めた。  出発の日、イヴォンヌは私に挨拶に来た。私は彼女を玄関まで見送った。彼女は新調のスプリング・コートを着て新品のスーツ・ケースを提げていた。久しぶりの御帰国で嬉しいでしょう、と私が下手なフランス語でいうと、でも私一人で淋しい、と日本語でいって本当に悲しそうな顔をして見せた。里見八郎はピエールを連れて、羽田まで見送った。  イヴォンヌが発ってから五日目に、私にあてて絵葉書が来た。凱旋門の絵葉書に、数行無事安着の報せが書かれてあった。里見八郎にも同じ絵葉書が同じ便で来た。私はそれを階段のところに置いた。  それから毎日、イヴォンヌから里見八郎にあてて絵葉書が来た。  郵便の配達時刻になると、門の脇についている郵便箱まで足を運ぶのが、里見八郎の日課となった。彼はピエールを抱いて郵便箱までゆっくりと歩いて行き、イヴォンヌの手紙があるとそれだけを取って、すぐにまた二階へ上って行った。  イヴォンヌが発って一週間程経った晩、私が自分の家へ夕飯を食べに行って戻って来ると、門の前で、私は品のいい五十がらみの婦人に会った。丁度里見八郎が彼女を門まで見送って来たところだった。  私は里見八郎と一緒に玄関に入った。 「妹でしてね」と里見八郎はいった。 「今度米沢の生家で父の二十七回忌をするので一緒に帰らないか、と勧めに来たのです。イヴォンヌがいないので、丁度いいから戻ろうとも考えたのですが」  そこで里見八郎はちょっと言葉を切ったのち、 「しかしピエールがいるものですからね」といった。 「犬を汽車に乗せて行くことはできないのでしょうか」 「汽車に連れ込むことは許されていない筈です。これがフランスだと、そんな非人間的なきまりはないのですがね」 「米沢にはどなたがいらっしゃるのですか」 「兄がいます。もうじきその家を売払って東京にいる甥のところへ出て来るというので、この機会に行ってみたいとは思うのですが」 「ピエールをどこかに預けられないのですか」 「それも考えたのですが、ピエールが可哀想でね。それにイヴォンヌの里帰りに、飛行機代はただでも何かと費用が嵩みましてね、ここでまたわたしが旅行に出て費用をかけるのもどうかと思いまして」  そういって、里見八郎は、 「杉さん、お暇でしたら、二階にちょっといらっしゃいませんか。いいブランデーがあるのです」  私はちょっと考えて、里見八郎の誘いに従うことにした。  イヴォンヌが手に入れておいたのか、里見八郎はフランスのブランデーを持って来た。彼は私をちょっと待たせると、チーズとオリーヴとハムで、肴の皿を拵えて来た。 「奥さんが発たれてから、もう一週間になりますね」と私はいった。 「ええ、今日で丁度一週間です。あと帰国まで十七日です」と彼はイヴォンヌの帰りを指折り数えながら待っているようにいった。 「わたしは」と彼はブランデーのグラスをじっと見詰めながらいった。 「これまで、終戦の時、わたしだけ収容所に入れられて、イヴォンヌと離れ離れに暮した時期を除いて、イヴォンヌと離れ離れに夜を過したことは一度もないのです。これが初めてなのです」 「それではお淋しいでしょう」と私がいった。 「淋しいですねえ」と彼は嘆息するようにいった。  しばらくして私は、 「この間のバレリーナの絵は完成されましたか」と聞いた。 「ええ、漸く」と彼はいった。 「見せて頂けませんでしょうか」 「どうぞ」と彼はいった。「それじゃあアトリエの方へ来ませんか」  画架には、新しいカンヴァスが懸っていた。まだクロッキーの段階であったが、裸体画だった。 「モデルが使えないものですからね」と彼はその絵を見ている私のかたわらに立っていった。 「モデルを使うことをイヴォンヌが許してくれないものですからねえ。これも記憶をたよりに描いているのです」 「記憶をたよりに」という言葉が私の心にひっかかった。注意して見ると、その裸体画の顔はイヴォンヌのものであった。若々しく美しい身体の線は、恐らく若い頃のイヴォンヌの身体の線を、記憶をたよりに、再現したものに違いない。 「この間の絵はこれです」といって、里見八郎は、床の間に立てかけてあるカンヴァスの一番端のを取り出して来て見せた。私の想像した通りの出来であった。平凡で陳腐な作品だった。それは絵というよりは絵の形骸に過ぎなかった。 「ほかの絵も見せて頂けませんか」と私はたのんでみた。 「そうですね」といって、里見八郎は、床の間に立ててある外のカンヴァスを見せてくれたが、彼の作品は驚く程少なかった。完成品はたった三点しかなかった。圭子が下した推測は間違いではなかったのだ。彼はたまに、それも一日のうち一二時間画架に向うことがあったに過ぎなかったのだ。彼は描かざる画家だったのだ。彼の制作着はまやかしに過ぎなかった。御用聞きの前で、絵に精進していることを装って見せるための道具に過ぎなかった。それが私には分った。 「イヴォンヌがモデルを使わせてくれないものだから、長いこと静物画に終始していましたが、この頃無性に人物画が描きたくなりましてね」と里見八郎はいった。 「人間ではありませんが、ピエールなどは面白いのじゃありませんか」と私がいった。 「そう、わたしもちょっとそれを考えているところなのです」と里見八郎はいった。 「しかしピエールはじっとしてくれませんからね」  私たちはまた洋間に戻った。 「帰国してからまもなく、滞欧作品展をN画廊で開いたのが、わたしの最後の展覧会でした。この展覧会は比較的好評でしてね」  そういって彼は、大分手垢で汚れた、その展覧会に出品した絵の写真集と、当時の新聞などの批評の切抜きを貼ったスクラップ・ブックを持って来た。  私はその写真集を一頁ずつ見て行った。黒白が大部分なのでよく分らなかったが、しかしそれはどれも、私の予期に反して、ユニークな絵だった。幻想と写実のないまざった静物画は奇妙な物たちの世界を現出させていた。風景画は、実際の風景とそれを描いた作者の心象風景の重なった独特の魅力を備えているように見えた。いくつかある裸体画はどれも大胆でいて物がなしくしかも迫力があった。これらの世界を押し進めて行けば、里見八郎は一個の画家としての存在を、充分世に問うことができたに違いない、と思われた。 「いい絵ですね」と私は感心していった。 「その頃がわたしの絶頂でした」と彼はいった。  新聞の切抜きは、このフランス帰りの新進画家の滞欧作をいずれも褒め讃え、その可能性を高く買っていた。 「間もなく戦争が始まってしまいましてね」と彼はいった。 「それから仏印へ渡られたとか」 「そうです。わたしは向うでも、絵を描こうと思って、絵の道具を用意して行ったのですが、結局一枚も描けずじまいでした」 「向うでは何をしていらしたのですか」 「貿易会社に籍を置いていたのですが、まあ何もしなかったようなものです」 「帰国されてからは大変だったでしょう」 「御多分に洩れず苦労しましたよ」と彼はいった。 「喰うために、止むを得ず闇ブローカーなどをして一時は相当金を掴んだこともありましたが、イヴォンヌは厭がりましてね、絵に戻ってくれというものですから、止めました。いい時に闇ブローカーを止めたと思っています。ブローカーをするにも、私如き素人が手出しをできないような世の中に変りつつありましたからね」  そして里見八郎が絵に戻った時、彼の絵の世界は衰弱していたのだ。彼の創造力はもう枯渇してしまっていたのだ。そうでなければたった今彼が私に見せてくれた絵の陳腐さは説明がつかない、と私は思った。里見八郎はイヴォンヌへの愛に誠実に、純粋に生きたかも知れない。しかしそのために彼は芸術に復讐されたのだ。芸術の女神は嫉み深いのかも知れない。彼女は芸術以外のものを芸術以上に純粋に愛することを許さないのだろうか。私の前にいる男は、嫉み深い芸術の女神によって復讐された男なのかも知れない……。しかも彼が陥ったのは創造力の枯渇だけではない。彼は精神的不毛、いや精神的去勢に陥ってしまっているのだ……。 「いいものがありました」といって彼は台所に引込み、木の皿に盛ったものを出して来た。よく見ると、二三日前に、彼が庭で拾っていいかと私に許可を求めた椎の実であった。 「妹と話していると昔がなつかしくなりまして、煎ってみたのです」と彼はいった。「わたしの生家に椎の木が何本もありましてね、子供の頃よく煎って食べたものなのですよ」  私は彼に勧められて椎の実を食べてみた。白い実は固くて香ばしかった。それは里見八郎が父の二十七回忌があるにも拘わらず訪れることのできなかった彼の故郷の家の庭の味がするようだった。  その晩、私はかなり遅くまで、里見八郎とブランデーを飲んだ。里見八郎は強かった。彼一人だけで半本位の量を明けてしまったが、ほとんど酔いを見せなかった。  それからも里見八郎とは屡々会って、私は立話を交した。会うたびに里見八郎は、 「イヴォンヌは、あと××日したら帰ります」と私に告げた。  もしかすると里見八郎は、イヴォンヌが本当に帰って来るかどうか、心の中で絶えず不安に思っていたのかも知れない。そしてその不安を打消そうとして、私に、イヴォンヌが帰国するまでに残っている日が段々と減っているのを告げることによって、自分を元気づけ安心させていたのかも知れない。  イヴォンヌの帰国の日が、二三日後に迫って来ると、里見八郎の顔が期待と不安で緊張して来た。彼は私に会うと、「予定通り帰って来ると思うのですが」といって心の中の動揺を隠せずにいた。  しかしイヴォンヌは、一日も違えずに、里見八郎に約束して行った十一月三日に帰って来た。前の日に電報が届いた。私がそれを受取り、二階に届けた。  里見八郎は私の前で電報を開き、 「イヴォンヌが明日帰ります」と面《おもて》を輝かせて私に告げた。  翌日、机に向って、修士論文の最終稿に取りかかっていると、私の名を呼ぶイヴォンヌの声がした。出てみると、新品の黒い帽子を被り、パリで買い求めたらしい藤色のレースの洋服を着たイヴォンヌが立っていた。ほとんど三十年ぶりに生れ故郷を見、姉妹たちと再会して、命の洗濯をして来たせいか、イヴォンヌはひどく若々しく見えた。身体も心もち痩せて引き緊まったように見えた。  彼女は留守中世話になったお礼をいい、私にお土産だといって、小さな包みを差出した。その場で明けてみるとシックな毛のマフラーだった。私は彼女に感謝の言葉を述べた。  次の日から、里見八郎の日常は再び、イヴォンヌと共に過す日常に戻った。イヴォンヌは着いた日に休んだだけで、翌日からもう学校に出かけて行ったからである。  イヴォンヌが帰ってから二三日して、私はダクスフントを連れて散歩している里見八郎に道で会ったが、ピエールが黒い毛布のようなもので胴体を巻かれているのに気づいて驚いた。 「イヴォンヌのお土産です」と里見八郎はいった。 「まだ少し早いんですが、着せてみたのです。これから寒くなってピエールが風邪を引くといけないというので、犬の外套を買って来たのです。ボタンを腹のところで留めるように出来ていて、ポケットもあるし、中々手の込んだものですよ」  足が短くて胴体の長いピエールは、その外套を着て胴体がふくれ上り、余計足が短くなって不恰好に見えた。 「雨が降った時にも連れ出せるように、レインコートも買って来ましてね。こっちの方は頭巾までついています。両方で四万円したそうです」と里見八郎はいった。 「私にはパイプを買って来てくれました。今度お見せしましょう」と彼はいった。  ある日私が夕食に家に戻っていると、圭子が全快の挨拶に現われた。私は彼女が以前のように元気になったのを見て安心した。しかし療養費が嵩んだので彼女はまたキャバレーに勤めるつもりらしかった。私は彼女がこれから先ずっと夜の蝶の世界から脱け出せないままで終るだろうことを予感し、それを悲しんでいる自分を意識していた。私の家には母にたのまれて元通り週二回来てくれることになった。  母がお茶を入れに引込み、私と二人だけになった時、彼女は、私が見舞に届けさせた罐詰のお礼をいった。病院の冷蔵庫に入れて冷やして、子供が見舞に来ると一緒にいつも本当においしく頂いたわ、と彼女は心から感謝するようにいった。そして母が戻って来る前に、もう少し落着いたら、ぜひまたキャバレーに来て下さらない、招待させて頂くわ、といった。  十一月も末になると、里見八郎は、ダクスフントのピエールに必ず外套を着せて散歩に出かけるようになった。彼自身は赤いマフラーを首に巻くだけの軽装だったが、ピエールには、外套を着せていない日はなかった。一度小降りの時に、私はレインコートを着せたピエールを連れて傘をさして散歩している里見八郎に出くわしたことがあった。里見八郎がいったように、そのレインコートには本当に頭巾がついていた。頭巾をかぶったピエールはグロテスクな道化役を演じなければならないサーカスの犬のようであった。しかし人通りがもともと少ない屋敷町である上に、雨が降っているので、物珍しげに彼らを立止って眺める人もいなかった。  ベッドがデパートから届くから、もし留守の時はよろしくお願いします、と十二月十五日に、里見八郎がいいに来た。  銀婚式の記念にベッドを買ったというのである。これまで使っていたダブル・ベッドは進駐軍の放出物資を戦後買ったものだが、品質が悪くてすっかり痛んでしまった。それでイヴォンヌの提案で、記念に上等なベッドを買い入れることにしたというのだった。  二日後に、里見八郎の留守中に、デパートからベッドが届いた。スプリングのよく利いた見事なベッドだった。  それまで使っていたベッドは下におろされ、屑屋が引取って行くまで、玄関の脇の廊下に分解して立てかけられた。そのそばを通ると私は里見八郎とイヴォンヌの夜の生活を想い泛べないではいられなかった。私は里見八郎が、終戦後収容所に入れられた一時期を除いて、イヴォンヌと離れて夜を過したことがなかった、という話を思い出した。今その廊下に立てかけられているベッドは、彼らが終戦後日本に引揚げて来て以来、抱き合い、睦み合い、愛を交換し、肉を交わらせた夜々の記念碑であった。それらの夜々を通して、元来非肉食人種たる里見八郎は、肉食人種たるイヴォンヌに精気を吸い取られ、活力を奪われ、イヴォンヌは益々肥り、里見八郎は益々痩せ、益々萎え、益々不毛の状態に陥って行ったとも考えられないだろうか、そして彼は遂にその夜々から逃れることができないままに、空しく囚われの日々を送っていたのではあるまいか——。それは彼らの夜の生活の墓なのだ、という気が私にはしたのである。  四日後に屑屋が無料でその寝台を引取って行った時、私はその墓をもう一度よく見る機会を得た。マットレスは発条《ばね》が到るところではみ出していてもう屑屋に払うより外に仕方のないものであった。  十二月末に私は修士論文を提出した。提出を無事済ませたその日、里見家からだといって、菓子屋からまたみごとなクリスマス・ケーキが私の家に届けられて来た。今度は水車小屋を形どったケーキであった。  年が明けてまもなく、関西の兄から、四月から東京に転任することに内定したから、家を空けて欲しいという通知があった。  母がそのことを里見八郎に通告した。里見八郎は間違いなく三月末までに引払う、といった。彼は遠慮っぽく、私は実に嬉しく住まわせて頂いたが、やはりイヴォンヌは日本家屋の冬の寒さに耐えがたい思いをしたので、今度はまた完全に洋式の家を捜すつもりでいる、と母にいった。  二月に入って、里見八郎は、どうやら仮の住まいが見つかった、と私に告げた。イヴォンヌの知合いのフランス人の一家が、一年間だけ帰国するので、その帰国中だけ、留守番を兼ねて、その家を借りることになったというのである。  三月の最後の日曜日に引越しが行われた。結局里見家は二年近くいたことになる。  圭子が手伝いに来てくれた。 「ドイツに留学なさるんですってね」と彼女は私を見ていった。私は政府交換留学生の試験に合格したので、大学院の博士課程に籍を置いたまま、ベルリンに向けて八月に日本を発つ予定でいた。 「お祝いに奢りますから、是非一度いらっしゃらない」と彼女はいった。私は近く訪れることを彼女に約束した。  里見八郎とイヴォンヌが出て行ったあと、母と私は圭子と二階に上って行った。二階は想像以上に荒れていた。畳はぼろぼろだったし、障子や襖はピエールによって引きむしられ、ピエールの粗相した痕がそこら中にあった。そして十二畳の座敷の副室である三畳間は、一間の押入の中に至るまで、あらゆるごみの堆積場となっていた。日本の新聞と、英字新聞と、フランスのグラビア雑誌、モード雑誌が山と積まれているほかに、さまざまな不要品が並べられていた。たとえばウイスキーと葡萄酒の空瓶が何十本と並べられていた。揚げ物に贅沢に一回か二回しか使わなかったらしい食用油は、瓶に詰められて二十本近く並んでいた。  それから個人教授の弟子たちに贈られたものらしい、一般に外人に贈ると喜ばれると信じられているさまざまな贈り物が、一度も手に触れたことがないような状態で積まれてあった。人形羽子板、日本人形、日傘、舞扇、着せ替え人形、こけしと、その種類は豊富だった。その中のあるものは私の記憶にあった。たとえばこけしの中の一組は、従姉の文子が長崎から買って来たものだった。ガラス・ケースに入った日本人形は、ある日曜日の朝、生徒の両親が自動車で乗りつけ、運び込んだものだった。里見八郎が両手で抱えて階段を上って行ったのを今でも私は思い出すことができた。 「これ、みんな、潔さんが留学する時に、お土産に持っていらっしゃったらいいわ」と圭子が、それらを一つ一つ手に取って見ながらいった。  それは名案かも知れなかった。私はそれだけいって澄まし込んでしまった圭子の顔を見てそう思った。  それから、食料品も、箱に詰ったり、樽詰めのまま、黴が生えた状態で積まれてあった。それらは純日本風の嗜好品ばかりだった。かまぼことか、味噌漬とか、佃煮とか、そういった類のものである。米沢産のものもいくつかあった。里見八郎はイヴォンヌとの愛の生活を通じて嗜好まで変ってしまったように見えた。 「やっぱり男の主婦は駄目ですねえ」と圭子は母に慨嘆するようにいった。 「あなたをずっと使っていれば、こんなに荒れなかったでしょうに」と母がいった。  圭子は黙っていた。 [#改ページ]   クラクフまで  西ベルリンから東欧圏は意外に近い、というよりも西ベルリンは東欧圏の中にある、この分り切った事実が本当に納得出来るようになるまでにずい分時間がかかったのは、壁に目をつむってしまえば西欧圏の大都市に違いない西ベルリンに住んでいて、私もまた壁に目をつむり、意識を絶えず西欧に向け、旅の計画といえば、フランスを、スイスを、イタリアをと考えていたからだろうか——。  西ベルリンに住みついてから十カ月近く経ったある日のことだった。テンペルホーフ空港に知人を送りに行った帰り、メーリングダム通りをぶらぶら歩いて、グナイゼナウ・シュトラーセにさしかかった時、交叉点の中央に立っている里程標が私の注意を惹きつけた。ケーニヒスベルクまで五百九十キロメートル、ダンツィヒまで四百七十キロメートル、ブレスラウまで三百三十キロメートル……。  この里程標はドイツ人の失われた故郷に対する郷愁を強く物語っている。そればかりか失地回復の願望さえ籠められているようである。——しかし私がその時まっさきに感じたのはベルリンからこれらの町が意外に近い距離にあるのだという驚きだった。迂闊な話だが私はそれまでベルリンからボンまでが六百二十二キロメートルあるのだったら、ベルリンからソヴィエトのケーニヒスベルクやポーランドのダンツィヒまでは少なくともその二倍位はあるに違いないと決めてかかっていたのである。  その日家に帰ってから、地図を開いてみてとくと私は得心したのだ、ベルリンは東欧圏の中にあるのだということを。ポーランドはもとより、チェッコスロヴァキアも、ハンガリーもすぐ近くにあるということを。私は錯覚に陥っていたのだ。ポーランドも、チェッコも、ハンガリーも、何かひどく遠いところにある国だという——。  この錯覚《ヽヽ》はしかしかならずしも誤りとはいえなかった。東欧圏への旅行は、旅行社や学生旅行団体ARTUの計画する団体旅行に加わらない限り、手続その他全般にわたって、まだひどく厄介で、これらの国々は心理的にも物理的にもやはり西ベルリンからはひどく遠いところにある国だったのである。  数日後、私は西ベルリンにある日本総領事館を通じて、渡航先国追加の申請をした。追加国はさしあたりベルリンから一番近い東欧三国、ポーランド、チェッコスロヴァキア、ハンガリーとした。そして領事館からこの申請を許可する旨の通知が来たのは、申込んでから三カ月余り経ってベルリンの秋もすっかり深まり、冬の近いことを感じさせ始めた十月も末の頃であった。  まず最初に私はポーランドへ行くことに決め、ヴィザをとりにポーランド通商代表部を訪ねてみた。グルーネヴァルトの、緑に包まれた大邸宅街の一角にある、古ぼけてはいるが相当に大きくて立派な邸宅である。  窓口で私は無愛想なポーランド人の応待を受けた。  ワルシャワのほかにもダンツィヒにも行ってみたいのだが、と私がいった時、男は木で鼻をくくるような調子で、今はダンツィヒとはいわないのだ、といった。では何というのでしょうかと私が聞くと、彼は黙って手もとのメモ用紙を取ると鉛筆で何か書いて私の方によこした。——Gdanskと書いてあった。  所定の用紙をもらい、控室に行って、必要事項を書き込むと、私はそれを持って窓口へ行き差出した。するとさっきの男がポーランドに何泊するつもりかと聞く。ワルシャワに三泊、ダンツィヒに二泊と答えると、男は険しい目をして私を睨みつけ、ダンツィヒという町は存在しない、といった。私は慌ててポケットにつっこんださっきの紙片を取出し、グダンスクといい直した。  彼は機嫌を直したのかニヤリと笑って、玄関の脇の小部屋に旅行社の者が詰めているから、その者からホテル券を五泊分買い込むように、そのホテル券の領収書を副えて書類を出せば、ヴィザが下りるであろう、といった。  玄関の脇の小部屋に行くと、眼鏡をかけた五十歳前後の婦人が椅子に腰かけて新聞を読んでいた。旅行社の人かと聞くと、彼女はそうだと答え、新聞を置くと、机の上にある鞄の中から、早速ホテル券の冊子を取り出した。  ホテル券にはデラックスと一級、二級、三級の四種類あったが、私は二級を選んで五泊分の金額を払った。  そのホテル券の領収書にさっき書き込んだヴィザの申込用紙をつけて窓口に出すと、男は一つ一つの項目を検分したのち、よろしい、明日午前中に取りに来るようにといった。すぐにもらえるつもりでいた私はあてが外れた。私の住んでいるところからこのグルーネヴァルトまではバスに乗りづめで一時間以上もかかるのだ。そんなことをいわないで今すぐに発行してもらえないか、といって頑張ったが、効果はなかった。明日の午前中取りに来るように、の一点張りである。西ベルリンにあるヘリオスという共産圏専門の旅行社にたのめば、ヴィザの入手からホテルの予約まで全部やってくれるのを知っていたのに、お膳立てされた旅行をするのが厭で私はこの厄介な手続きを単独で始めたのだった。そのことがかすかに後悔された——。  結局翌日改めて私は出直した。控室には先客がひとりソファーに腰かけていた。二十二三の、濃い口紅をつけた、目の強《きつ》い美人である。  彼女は退屈しているのか、私に話しかけて来た。あなたを大学で見かけたことがある。どこから来たのか、何を勉強しているのか。私が簡単な自己紹介をすると、彼女も自己紹介をした。やはり自由大学の学生で専攻は生物学だが、学費を稼ぐために、旅行社に勤めて、ポーランド旅行者の世話をしている、今日もお客さんのヴィザの手続きを代行しに来たのだというのだった。  それではあなたはポーランドのことに詳しいでしょうと私は渡りに舟とばかりにたずねたが、彼女の答はポーランドには団体旅行の付添をして二回程行ったことがある程度なの、と至極覚束なかった。ポーランドで美しい町はどことどこでしょうと重ねて私がたずねると、彼女は首をかしげ、ワルシャワしか行っていないのです、といって考え込んでしまった。しばらくしてブレスラウの町は美しかったけれども、すっかり戦争で破壊されてしまったから、今は味気ないつまらない町になってしまったということだし、といってから、実は私の両親はブレスラウにいて、私はブレスラウに生れたのです、とつけ加えた。ではあなたはシュレージェンからの避難民というわけですね、と私がいうと、そうです、と彼女は答えた。今でもブレスラウには親類の者が何人かいるので近いうちに一度たずねてみるつもりなの。そういってから彼女は秘密を打ち明けるように、私の母はポーランド人でドイツ人の父と結婚したのです、両親はもう亡くなってしまったけれども、といった。  その時彼女の名前が次の間の窓口から呼ばれ、彼女は立上った。  私は彼女の後姿を見送りながら、ふとこの夏休みに入って間もない頃大学の図書館で読んだあるドクター論文のことを思い出した。それは一九四八年の八月に受理されたもので、当時の物資の窮乏ぶりを物語る粗悪な仙花紙にタイプ印刷されてあったが、その筆者の女子学生もブレスラウ出身の避難民だったのである。その論文の前書にはこんなことが記されてあった。この論文はブレスラウ炎上と共に焼けてしまった論文を記憶をたよりに再現したものである。ベルリン大学の特別の好意ある許可によってここに提出する。この論文を私はブレスラウで破壊された家の下敷となって死んでしまった両親、避難の途上不慮の死を遂げられた指導教官M教授、さらにベルリンに辿り着いてからの私を励ましてこの論文を再現する勇気を与えて下さったK教授に捧げたい……。  持ち切れないように重ねられたパス・ポートの山を両手で抱えるようにして、さっきの女子学生が次の間から出て来た。彼女はそのパス・ポートを一旦テーブルに置き、小さなボストン・バッグに詰め直しながら、私に向っていった。今思いだしたのだけど、クラカウに行ってみるといいわ、焼けなかったから昔通りの町です。どんな町でしょうかときくと、彼女は微笑んで答えた。 「キョートのように古くて伝統的なポーランドの町です」  パス・ポートをボストン・バッグに全部詰め終ると、彼女は私に握手を求めこういって立去った。 「さようなら、よい旅をね、私も一度日本へ行って京都を訪ねたいと思っています」  それから三十分位して、漸く私の名前が呼び出された。  私の顔を見ると、窓口の男は証明書とヴィザの印を押してある私のパス・ポートの頁を示し、これでポーランドにはどこの町でも五日間滞在出来る、といった。  クラカウという町の名前がポーランド読みかどうか自信のなかった私は、その町の名前をいうのを控えてこう念を押した。 「グダンスクにもか?」 「そうだ」と彼はいった。 「グダンスクにも、クラクフにも、ヴロツアフ(ブレスラウのポーランド名)にもだ」 「ホテルはどうでしょう、すぐに見つかるでしょうか」と私はきいた。  彼は首をすくめていった。「そんなことは旅行社に聞いてくれ」  玄関を出る時に、私は右手の小部屋に旅行社の婦人が詰めていることを思い出しホテルの事情を確かめるために寄ってみた。  彼女は私の質問に答えて、自信ありげにいった。今はシーズン・オフだから問題ない、ホテルは恐らくガラガラに違いないと。  まだ東独の通過ヴィザをもらう仕事が残っていた。翌日私は関門を通って東ベルリンに入り、通過ヴィザを手に入れた。  西ベルリンの中央駅ツオー駅から乗ってワルシャワへ行ける汽車は一本しかなかった。七時三十九分にツオー駅を出てワルシャワ=グダンスク駅に十七時四十五分に着く、パリ発モスクワ行急行列車である。  ポーランド通商代表部にヴィザをもらいに行った日から算えて四日目の朝、私はこの列車の客となった。  ポーランド国境までは三時間足らずであった。この旅行の手続きのために費やした時間のことを考えると、この時間は短か過ぎた。この四倍位の時間がかかってもいいような気がするのだった。  国境では両方の国境で、つまりフランクフルト・アン・デア・オーダーで、東ドイツ側の、クノヴィスでポーランド側の検問があった。東ドイツ側の検問も、東ドイツから西ドイツに入る時のように厳重なものではなかった。ポーランド側の検問があったあと、オービスというポーランドの国営旅行社の職員が両替をしにまわって来た。私は両替してもらったのち、この職員にワルシャワで二級に該当するホテルの名前を二つ教えてもらった。この男も、今はどのホテルに行っても、部屋は空いている筈だと保証してくれた。  ワルシャワに着いた時は、もう日がとっぷりと暮れ、要心のため冬外套を着て来たのにうすら寒かった。駅前には戦前の東京を走っていたような旧式のタクシーが二台止っていたが、愚図愚図しているうちに、先を越されてしまい、乗り損なってしまった。私はトランクを地面に置いてタクシーが現われるのをぼんやり待っていた。  すると酒気を含んだ男がつと寄って来て、どこまで行くのかと聞く。汽車の中でオービスの職員に教えてもらったホテルの名前のうち、駅に近いといわれたブリストル・ホテルの名前を告げると、少し離れたところに置いてある自動車を指して、あれで行こうと英語でいった。いくらかと聞くと六十ズウォテイだという。私はしばらく考えて断わった。高かったし、男が酔っているようなのが厭だったから。  ようやくタクシーが来た。ホテルは想像したよりもずっと近く、料金も十ズウォテイであった。さっきの白タクの運転手は六倍もふっかけていたことになる。  ホテルに入って、帳場の前に立ち、トランクをおろした時、にわかに私は疲労を覚えた。 「部屋はありますか」と私はドイツ語で、帳場に坐っている中年の上品な婦人にたずねた。数分後には、古ぼけてはいるが中々味わいのありそうなこのホテルの一室に落着き、顔を洗ってさっぱりしたのち、ベッドに横たわって、身体を休め、疲れを癒すことが出来るのだと考えながら。  しかし私に反響《かえ》って来たのは意外にも、 「いいえ、満員です」という返事だった。 「どこか空いているホテルを教えて頂けないでしょうか」と私は気を取り直していった。  隅の方でもう帰宅するのか身支度をしていた男が、私と話をしている婦人のところへ寄って来て、ポーランド語で二言三言話したが、やがて握手をしたかと思うと、ちょっと身をかがめて、昔の騎士ででもあるかのように、婦人の手の甲に口づけをした。ポーランドの男が女性に対してするこうした挨拶の仕方を私はそれまですでに新聞か何かで読んで知っていたが、今はじめて私はそれを目のあたりに見て少なからぬ感動を覚えた。男の所作に何ともいえないGalanterieがあったのである。 「失礼いたしました」と婦人は私の方に向き直って、かたわらのメモ用紙を取ると、ホテルの名前を書いて、私の方へ差出し、 「このホテルへ行ってごらんなさい。このホテルにはワルシャワのホテルの中央斡旋所があります。そこでならどのホテルに空室があるか分りますから」といった。そして目を腕時計に落し、 「急いでいらっしゃって下さい。七時には締りますから。タクシーでいらっしゃればすぐ行けます」と注意してくれた。 「有難う」といって私は四十代と思われるその典雅な婦人に別れを告げた。さっきの男と同じような別れの挨拶をしてみたい欲求をひそかに覚えながら——。  ホテルを出ると、私はまたタクシーを拾った。  タクシーの運転手は英語を喋ることが出来た。人なつっこい男で、色々なことを話してくれた。生活が苦しいこと、ラジオを一台買えばすっとんでしまうような給料では食べるのがようやくで、早く生活が西欧並みに向上することを待望していること……。  目指すホテルに着くと、私はホテルの中にあるというホテルの中央斡旋所のありかを、早速ボーイの一人にたずねた。ロビーの右手にある部屋がその事務所だということであった。  事務所には受付に女の子が一人いるだけだった。 「三日間ワルシャワに滞在したいのですが」と私はいった。「二級ホテルに空室はないでしょうか」 「全部満員です」と女の子は表情を動かさないでいった。 「二級ホテルでなくてもいいのですが」と私は場合によっては滞在を一日切上げてもいい、その分で等級の上のホテルに泊るのもこの際仕方がないと考えながら、少し慌ててそういった。 「ホテルはすべて満員です」と女の子は表情を変えないでいった。  一瞬私は自分の耳を疑った。何としたことだ、ポーランド代表部に詰めていた旅行社の女の人はいったではないか、今はシーズン・オフでホテルはガラガラに違いないと。汽車の中でもオービスの職員が保証したではないか、今はどのホテルに行っても部屋はある筈だと——。 「どこにもありませんか」と私は重ねていった。 「どこにも」と女の子はいった。 「シーズン・オフだというのに、どうしたわけでしょうね」と私は努めて落着きを装って聞いた。 「明日から」と女の子はいった。「共産党《パルタイ》の全国代表者会議が開かれるのです」  そうか、と私は合点がいった。それにしても何という運の悪い日に私は着いてしまったのだろうか……。 「キャンセルはないでしょうか」と私は諦め切れずにいった。 「このホテルに聞いてごらんなさい。私のところで判っている限りは満員です」と女の子は素気《そつけ》なく答えた。  私はトランクを持ってホテルの帳場へ行きそこにいる女の子にたずねてみた。するとやはりキャンセルはなく、部屋は目下のところ全部ふさがっているという返事であった。しかし、と女の子は途方に暮れた私に同情を覚えたのか、明日になれば空く部屋が出て来るかも知れない、会議は明後日で終るから、明後日の午後からなら必ず空くだろうと教えてくれた。  しかし明日まで、もしくは明後日までどうやって過したらいいだろう。折角来たのに今更引返すのは厭だった。さりとて解決策は浮んで来ない。思わず私は愚痴めいたことを女の子にいった。 「私はベルリンからはるばるやって来た。私はどうしたらいいだろう」 「分らないわ」と女の子は肩をすくめて困ったようにいった。  ロビーのソファーが私の目に映った。 「たとえばあのソファーに眠ってここで夜明しをさせてもらってもいいだろうか?」 「それは禁止《フエアボーテン》されています」と女の子はいった。それから急に名案を思いついたようにいった。 「ワルシャワには終夜営業のキャバレーが一軒あります。そこで過したらどうでしょうか」  今度は私が肩をすくめる番だったろう。——キャバレーで一夜を過すには疲れ過ぎていたし、第一私には踊りが出来なかった。ともかくロビーのソファーに坐って身体を休めゆっくりと対策を考えてみようと私は思った。  遠くから見るといかにも坐り心地のよさそうに見えた、斬新なデザインのそのソファーは、坐ってみると意外に坐り心地が悪かった。共産主義国のソファーには人間工学が考慮されていないと見えると腹立ちまぎれに私は心の中でつぶやき、ロビーの隅の方にある古ぼけた革製の黒光りしているソファーに移動した。私の宿を奪ってしまった共産党の全国代表者会議出席者たちを呪いながら——。  その革製のソファーは坐り心地がよかった。坐っていると自分が疲れているのがよく分った。この疲れ具合ではもし踊りを知っていたとしても、キャバレーで徹夜することは不可能であった。それにしてもどこで一夜を過したらいいだろう。駅の待合室で寝る以外にないだろうか。ふとその時私はグダンスクかクラクフに行けば宿があるかも知れないということを思いついた。これから汽車に乗ってどちらかの町へ行き、一泊して、必ず部屋が空くという明後日にまたワルシャワに戻って来たらどうだろうか。そうすれば今夜は汽車の中で眠れるだろうし、明日はゆっくり、どうせ訪ねる心づもりでいたそれらの町のいずれかを一日ゆっくり見物することが出来るというものである。——どう考えてもこれは名案であった。  私は帳場のさっきの女の子のところへ行き、グダンスクかクラクフ行きの汽車がまだあるかどうかを調べてもらった。するとクラクフへ行く汽車がまだあった。二十一時四十九分にワルシャワを出てクラクフに四時五十七分に着く汽車である。まだ十分間に合う。私は明後日からの部屋を一応三泊分予約してホテルをあとにした。  駅に着くと発車までまだ一時間近く余裕があった。そこではじめて私は夕食をまだ終えていないことに気づき、駅の食堂で夕食を済ませることにした。ビールとビフテキを注文したが、ビフテキはドイツのそれと比べると三分の一位の値段であった。ビールはチェッコのピルゼン・ビールだった。  食事を済ますと、私は絶えず、こういう時に限って遅く進むように思える時計の針の動きを、ジリジリした気持で見直した。食堂には軍服姿がひどく目立った。私の隣のテーブルにはアフリカの留学生らしい若者が二人坐って食事をしていた。  時計の針が九時十五分をさした時私は立上った。切符はすでに買ってあった。寝台車がないので奮発して一等の切符を買ったのである。  プラットホームに行くと、汽車はすでに入っていた。一等車は一輛しかなかった。乗込んで真中あたりのコンパートメントに落着いた。ずい分冷え込むのにスチームが入っていなかった。私はトランクからセーターを出して上着の下に着込んだ。寒くて眠れそうもない。私は発車後にスチームが入るかも知れないという希望をつないだ。  発車間際になって、一人の精悍な感じの中年の男が乗込んで来た。汽車が動き出すと、彼は思い出したように網棚に一旦上げた革鞄を下ろして、中から紙袋をゴソゴソ取出した。その紙袋の中から彼はリンゴを二つ取り出し、一つを私に勧めた。小さな、しなびた色の悪い虫喰いリンゴだったが、私は彼の好意を有難く受けることにした。  彼と同じように私も丸のまま皮ごとそのリンゴをかじった。食べ終ると彼も食べ終っていて、また紙袋の中からリンゴを二つ取り出し、その一つを私に勧めた。私が遠慮をすると、「まあ食べなさい」と英語でいう。私はまた彼の好意を受けることにした。そうやってとうとう私は彼と一緒にその紙袋のリンゴを全部平らげてしまった。 「私は外科医だ」と彼はリンゴを食べ終ると自己紹介を始めた。「これからクラクフへ帰る。今日はワルシャワの病院で講演をして来た」そういって彼はその講演に使ったという映画フィルムの入った薄い円型のケースまで鞄から取り出して私に見せた。  それからしばらくして彼は私に国はどこかとたずねて来た。日本だと答えると、彼は嬉しそうに、そうだと思っていた、といって、日本はフランスと共に私の大好きな国だ、と断言した。そして、日本は遠くて行けそうもないが、フランスには来年の十月一年の予定で行くことになっていると自慢げにいった。それから自分はフランス語なら流暢に喋ることが出来るのだがといって私にフランス語が喋れるかどうかをたずね、私がフランス語を喋れないことを知ると、残念そうにいった。 「それは悲しい、私の英語はひどく貧弱なのだ」 「ドイツ語を喋ることは出来ませんか」と私がドイツ語でいった。  突然彼は目を光らせ、低い声だが断乎たる調子でいった。 「否《ナイン》!」  それからしばらく沈黙が続いた。  やがて彼は私にこうきいた。 「あなたはこれからクラクフへ行くのか」 「そうです」と私は答えた。 「それは嬉しい」と彼はいった。 「クラクフは私の第二の故郷だ。私の妻はクラクフに生れ、クラクフに育った。私もクラクフに住みついてからもう二十年になる」  それから彼は私に、 「あなたはクラクフに何日滞在するつもりか」と質問した。 「一泊だ」と私が答えると彼は心外だといわんばかりに怒ったようにいった。 「それは残念だ。クラクフは一カ月滞在する値打ちがある。なぜもっといないのか」  私はワルシャワでホテルに部屋が見つからないため、予定を早めてクラクフをこれから訪ねること、ワルシャワに明後日からホテルを予約して来たためクラクフには一泊しか出来ないのだという事情を説明しなくてはならなかった。 「それは大変だ」と彼はいった。「クラクフでのホテル捜しは私が手伝って上げよう。もう心配しないでもよろしい」  相変らずぶっきら棒な調子だったが、その言葉には誠意が溢れていた。私が感謝の意を表明すると、彼はあたり前のことだというように首を振った。  しばらくして彼は失礼するといって靴のままシートの上にごろりと横になった。そして明日は平常通り病院に行かなくてはならないので身体を休めなくてはならない、と弁解するようにいった。  まだスチームが入ったようすはなかったが、私も彼の真似をして横になり身体を休めることにした。そしていつの間にかそのまま私は眠ってしまった。時々寒さのために目が覚めたが、すぐにまた眠ってしまった。  クラクフに着いたのも知らずに、私はまだ眠っていた。外科医に起されて漸く私は目を覚したが、寒さで身体がぞくぞくした。寝足りないのか頭の芯が痛かった。  事情をよく確かめもせず単独で旅行を企てたことを私は心の底で後悔していた。  外はまだ暗かった。駅を出ると外科医はさあ行こうというように私を促してぐんぐんと歩き出した。城壁の跡が残っている。塔が見える。やがてホテルという看板が暗い裸電球にぼんやりと照らされて見えた。  外科医は中へ入って行った。私もついて行く。外科医はポーランド語で二言三言話した。帳場の男がそれに答えて喋る。空室はないらしい。外科医はまた何か喋ったが、やがて諦めたように私を促して外へ出た。  また五分位歩いただろうか。さっきよりも大きなホテルが私たちの前に現われた。外科医と私はそのホテルの中へ入って行った。しかし答は同じだった。また満員なのだ。外科医は外へ出ると立止ってこういった。 「もうホテルは一軒しかない。しかしこの調子では部屋はないに違いない。団体客があるらしい。大体ホテルの数が足りないのだ。しかし心配は御無用だ。ワルシャワに帰る時まで、クラクフでは、あなたはわたしのお客さんだ。さあ、わたしの家へ行こう」  外科医は私の返事を待たずに、私の小さなトランクを持つと歩き出した。私は外科医の好意に甘えることにした。厚かましいとは思ったもののこの際そのほかに仕方がないと思われた。  間もなく現われた停留所で私たちは丁度来合せた市電に乗った。市電の中で私は改めて外科医の好意に心からの感謝の意を表明した。外科医は照れ臭そうであった。  しばらくして私たちは市電を降りた。歩きながら外科医は私に家族の紹介をした。妻は歯科医だ、と外科医はいった。小さな女の子が一人いる。それに手伝いのばあやがいる。家族はみな寝ているだろうから、夕方引合せることにしよう。家に着いたら簡単な朝食を用意するから、それを食べてあなたはすぐ寝たらいいだろう。疲れているに相違ないから。  私の住居はあの三階にある、と外科医は前方に現われた、もうかなり古い灰色のくすんだ建物を指し示した。その建物に近づくにつれさっきから私の心に兆していた不安が大きくなって行った。夫が見知らぬ日本人を連れてきて、歯科医だという奥さんは怒るのではないだろうか。奥さんは不機嫌な態度をあらわに示し、夜になって私はいたたまれなくなり、外科医の好意には感謝しつつも、私は外へ出なくてはならない羽目に陥るのではないだろうか。そうすればまた私は煖房の入っていない夜汽車に寝て、ワルシャワに帰ることになるだろう。  その建物は中も外観に劣らずくすんでいたが、天井に施された浮彫や、階段の手摺の彫刻を見ると、昔は相当豪華なアパートであったことが感じられた。三階まで来ると、三つあるドアの真中のドアの前に立ち、外科医はポケットから鍵束を取り出し、鍵を明けた。  中に入ると外科医は電燈をつけて黙って私を招じ入れた。入ったところは広い廊下で、左右に三つずつドアがあった。彼は外套を脱ぐように手真似で示し私が外套を脱ぐのを手伝うと、自分の外套と共に、壁の外套掛けにかけ、先へ立って歩き出し左側の三番目のドアの前まで来ると立止った。  そこが彼の書斎なのだった。奥に書斎机と椅子と本棚、ドアの右側にも本棚、中央に大分痛んだソファーが二つ丸テーブルを間にして置いてある。そのソファーの一つを彼は示して私に坐るように勧めた。 「煙草を吸うか?」と彼はきいた。私が吸わない、と答えると、それは健康によい、私も吸わない、と答え、丸テーブルの下からフランスの写真雑誌を何種類か取出して、これでも読んでいてくれというようにテーブルの上に置くと姿を消した。  私は二三年前の発行らしいそれらの雑誌を手にとって、頁をめくっては綺麗なカラー写真を眺めていたが、そのうちに外科医が中々戻って来ないのが気になった。自分が結局招かれざる客で外科医は今頃軽率に私を連れて来てしまったことを後悔しているのではあるまいか、という気がして来たのである。  外科医が漸く姿を現わした。髭を剃ってシャワーを浴びて来たらしく、さっぱりした顔をして、身体にはナイト・ガウンをまとっていた。 「今、朝食を用意させている」と彼は私をバス・ルームに案内しながらいった。廊下のつきあたりの左側の部屋がバス・ルームだった。右側は台所で、開いているドアからばあやらしい人が働いているのが見えた。  タイル張りのバス・ルームはタイルがずい分傷んでいたが、タブもあり、瞬間湯沸器もついていて、設備もよく整っていた。私は風邪を引くのを懼れて、シャワーを浴びるのは止めにし、洗面だけに留めて、外科医の書斎に戻って来た。  すると丸テーブルの上にはすでに白いテーブル・クロースがかけられ、朝食の支度が出来ていた。外科医は私をみかけると、読みかけの〈マッチ〉という雑誌をテーブルの下にしまっていった。 「さあ、食事にしよう」それから思い出したように「妻があなたによろしくといっていた」といった。その言葉に私は初めて安堵の念を覚えた。  六十位のおばあさんが、紅茶のポットを持って来た。  テーブルの上には、すでに、紅茶茶碗とお皿のほかに黒や白や褐色のパンの盛り合せ、チーズ、バター、ジャム、砂糖などが用意されてあるのだった。 「ラム酒を入れよう」と外科医はいって立上ると書斎机のわきの本棚の上から瓶を取って来た。 「これを入れると元気がつく」  外科医はそういってまず私の紅茶に注《つ》いでくれた。自分のにも注ぎ終ると、私に瓶のラベルを見せていった。 「これはキューバの製品、カストロのラム酒だ」  ラム酒の入った紅茶を二回お替りし、パンを三種類、チーズやバターやジャムをつけて食べると、ようやく私は元気を回復した。  食事が終ると、外科医は、壁にいくつか掛っている飾り皿を示して、あれは今年の夏妻と一緒にブルガリアへ行って土産物に買って来た皿だ、といった。飾りの少ない部屋で、装飾品といったら、それらの皿の外に、恐らく外科医の両親を撮ったものに違いない写真が、丸い額に入れられて、壁の一つに掛けられてあるだけだった。 「ブルガリアはよかった」と外科医はいった。それからこうつけたした。 「今度の夏にはユーゴの海へ行こうと思っている。その次はフランスだ」  その時老婆が入って来てポーランド語で何かを外科医に告げた。 「ベッドの用意が出来たそうだ。さあ、ゆっくり休んでくれたまえ。私はこれから病院に行かなくてはならない」  そういって外科医は私に手を差出した。大きなガッシリした手に握られて、私は部屋を送り出された。  廊下に老婆が待っていて、私を隣の部屋に案内した。それはこの住まいの食堂と応接間を兼ねている大きな部屋であった。外科医の書斎寄りの壁に、ふだんは長椅子に使っているらしい兼用ベッドに、床の用意がしてあった。その横に丸テーブルとソファーが三つ、中央には食事用のテーブルと椅子があり、その奥の壁には、豪華な新しい食器棚があった。ドアの横の壁には、花模様の入った煖炉がある。私がここで寝れば、家族はここで朝食を取れないことになるだろうと、私は申訳なく思った。少なくとも十一時までには目を覚し、昼食前に、ここを出て町に見物に行こう。そうすれば昼食は妨げないで済むだろう。そんなことを考えながら、私はトランクの中から取出した寝巻に着替えると、ベッドにもぐり込んだ。  ようやく二日目にありついたポーランドのベッドであった。新しい製品らしかったが、スプリングが悪いらしく、硬く、身体を動かすとギシギシ軋んだ。しかし今もちろん私はこのベッドにまったく満足であった。  そのベッドの真中辺の上の壁にもさっき外科医の書斎で見たとほとんど同じ意匠のブルガリアの飾り皿がかかっていた。ずい分たくさん飾り皿を買い込んで来たものだな、と私は考えた。ほかにお土産はなかったのだろうか。もしかするとそうかも知れなかった。東独を旅行した時に、お土産を買おうとして、実に限られた種類の品物しか見出せなかったことを私はふと思い出したのである。もしかするとブルガリアもそうなのかも知れなかった。  私の頭の上方の壁に、女優らしい水着姿の女性の写真が鋲で留められてあるのに、やがて私は気がついた。  岩に寄りかかったところをとったもので、黒い情熱的な目がまるで私に向って微笑んでいるようであった。にっこり微笑んだ口もとから美しい歯並がほころび出ている。ビキニ・スタイルの水着で、胸のあたりが官能的だった。外科医の好きな西欧の女優のブロマイドであろうか……。  そのうちに私は深い眠りに陥ってしまった。  私はぐっすりと眠った、夢一つ見ずに。目を覚して時計を見ると十一時半であった。私は慌てて起きた。着替えを済ませ、バス・ルームへ行って洗面を終えて出て来ると、老婆が立っていて無言で私に一枚の紙片を差出した。走り書きでこう書いてある。 〈私は七時半に帰って来る。あなたも私たちと一緒に食事をして下さい。〉  家には老婆のほかに一人もいないらしくひっそりと鎮まり返っている。私もまた書きおきを残して出かけることにした。 〈お蔭様でぐっすり眠ることが出来ました。町を見物して、七時半までに帰って来ます。〉  クラクフの町にはさすがに見るべきものがたくさんあった。それらの一つ一つを丹念に見ていたら、外科医のいうように、一カ月とはかからなくても、一週間やそこらでは足りないだろうと思われた。しかし私に与えられた時間はその日の午後しかないのであった。私はまずヴァーヴェルの丘に上り、クラクフが首都であった十六世紀までの王の住んでいたという城の中を見学したのち、あてどもなく街の中をほっつき歩いた。  天気の悪いせいもあったが、街は全体がすすけているような感じであった。それはこの街が閲して来た歳月の古さから来ていると同時に、住んでいる人々の生活の貧しさからも来ているように思われた。そんな街の中を歩きながら、時々私は自分が、没落した旧家の屋根裏部屋にどこか破損しているために押籠められた、何か曰くありげな飾り物や置物や家具の類の間を、ねずみのふんの匂いを嗅ぎながら、探険しているような気分に陥ることがあった。  街を歩く人々の服装にも何となく冴えないものがあった。古いものを着ている人が多かったし、新しいものを着ていたとしても生地が悪かったしデザインが野暮ったかった。そしてまた、軍人姿がひどく目立った。裾の長い金釦のカーキ色のオーバーを着ている軍人に出遭うと、私は子供の頃の軍国時代の日本を思い起した。  面白い商売があった。旧い体重計を路傍に置いてそのそばの椅子に坐って、誰かが体重を計るのを待っているのである。料金は一ズウォテイ(約十五円)である。その商売に三回も出くわして、その三度目に、私は体重を計ってみる気になった。そして私は日本を出てから自分が八キロも痩せたことを知った。  自動車がほとんど通らないのが有難かった。たまに通る自動車はトラックが多かったが、それも恐ろしく旧式のトラックだった。その代り時々荷馬車が通った。すると一瞬私は時計の針が逆戻りしてしまった世界に来たような気分になるのだった。  私は疲れていたのだろうか、そのためだったろうか、時々私は童話の世界に来ているような錯覚に囚われた。人々の動きは何かひどく緩慢で、よく肥った老婆たちは童話の挿絵で親しんだスカートの裾が地面まで届くような黒衣をまとっており、店に並んだ商品はどれもこれも古ぼけていて文明を感じさせず、遠くから望むヴァーヴェルの丘の城は妖怪じみていた。  街中を歩き廻ったのち、市の中央にあたる聖マリア教会にのぞむ市広場に辿り着いた頃は、まだ四時を少しまわったばかりの時刻だというのに、もう日がとっぷりと暮れてしまっていた。聖マリア教会に向い合って、柱廊に囲まれた大きなルネッサンス風の建物がある。十四世紀に建てられた織物の取引所である。今その建物の一階は雑貨品の市場《バザール》になっていた。民芸品を売る店が多い。廻廊に沿って建物をまわり、中を一巡してから、私はまた外へ出た。外科医にお礼のしるしにどこかでお酒でも買って行こう、それからレストランに入って少し腹拵えをしようと思い立ったのである。  メイン・ストリートの食料品店でポーランド産のウオトカを一本求めたのち、私は一番豪華に見えるレストランに入った。しかしそのレストランは正面の造りは綺麗に化粧してあったが、中に入ってみて驚いたことには、敷きつめてある絨毯はすっかりすり切れ、壁は落ち、天井にはしみが入り、テーブルも椅子もがたがたであった。豪華なシャンデリアがいくつも天井に吊下っていたが、どれも三分の二位の電球しかついていないのだった。そのためか中は薄暗くて陰気な感じがした。しかし入りは満員で、漸く私は隅の方に空いたテーブルを見つけて落着いた。坐ってみると自分がひどく疲れ、しかもひどくお腹が空いていることがよく分った。考えてみると昼食をとっていなかったのである。やがて給仕の一人が注文を取りに来た。私はビールを注文したのち、ポーランド特有の料理を食べたいのだが、と聞いてみた。すり切れたフロック・コートを着た、初老に手の届きそうな年頃のその給仕人は、一寸首をかしげて考え込んでいたが、やがて私に威厳のこもった恭しさで、メニューの一つの料理名を指し示した。Bigosとあった。  しばらく待たされてから運ばれて来たその料理は、酢キャベツと肉とを香料を入れて長い間煮込んだものに過ぎなかったが、予想以上においしかった。周囲の客は男女の二人連れが圧倒的に多かった。軍人の姿もチラリホラリと見えたが、ここでは特に大学生の男女学生が目立った。彼らはたいてい一組ずつ一つのテーブルを占領し、顔を近づけ合い、囁き合って、飲物を飲むか、食事をしていた、そこが愛の天国であるかのように。  私はワルシャワの駅で調べて来た、クラクフ発ワルシャワ行の汽車の発着時刻をビールを飲みながら検討して時間を潰すことにした。  要するに汽車は四本しかなかった。22時27分発7時45分着、5時16分発9時56分着、16時42分発22時4分着、17時10分発0時50分着の四本である。ワルシャワのホテルには三時までに顔を出さないと予約をキャンセルしたと見なされることになっていた。従って問題となる汽車は最終の列車と始発の列車の二つしかなかった。あのスチームの入っていない夜行で、しかも鈍行らしい汽車で行くのは御免蒙りたかった。しかし始発は早過ぎた。もう一晩泊めてもらうとすると、そんなに早く発つ汽車に乗るためにはずい分早く家を出なくてはならず、外科医の家にとってもそれは迷惑なことに違いなかった。第一もう一晩泊めてもらうことが厚かまし過ぎた。考えは堂々めぐりをするだけでどちらとも決めることが出来かねた。私は成行任せにすることにした。歯科医だという奥さんが迷惑そうな顔をしたら、私が歓迎されざる客だということが分ったら、早々に暇を告げて、夜行に切替えればいい……。  六時頃私はそのレストランを去った。そして夜の街をまたしばらくの間ぶらついて、外科医の住まいに七時半に着くような時刻を見計らって市電に乗った。しかし外科医の住まいのドアの前に立った時、時計を見ると、七時をちょっと過ぎたばかりだった。私はちょっと躊躇したが、やがて意を決して、呼鈴を押した。  ややあって人の気配がし、ドアが開けられた。夫人だった。顔を見て驚いた。その日の早朝ベッドに横たわったまま見上げて女優だとばかり思い込んでいた写真の婦人だったからである。彼女はあの写真よりももっと魅力のある笑みを浮べて私に手を差出し、美しい声で何かポーランド語を喋った。主人から聞いておりました、お待ちしておりました、といっているようであった……。  通されたのは私がさっき寝た部屋であった。ベッドはあとかたもなく片づけられているばかりか、テーブルの上には花模様のテーブル・クロースがかけられてあった。 「主人はもうじき帰って参ります」と彼女は今度は綺麗な英語でいった。 「今料理をしていますので、ちょっと失礼しますが、どうぞここでお休みになっていらして下さい」  そういって彼女は、私に、長椅子に化けてしまった、私の寝たベッドを差し示してから、引込んでしまった。  七時半を少し過ぎてから、外科医が帰って来たらしい物音がした。それからしばらくして、外科医が、五つか六つ位の女の子を連れて来て、部屋に現われた。外科医は一寸疲れているようであった。  私は外科医にウオトカを差出した。外科医はポーランド語で何かを喋ったが、それは、結構な物を有難う、といっているようでもあり、そんなことは心配しないでもいいのに、と怒っているようでもあった。  女の子が恥ずかしそうに私と握手をした。 「今日はベアタの誕生日なのです」と私に今度は英語で外科医はいった。 「小さなパーティーがあるからつき合って下さい。日本からのお客さんを迎えて彼女は喜んでいます」そういって、外科医はそうだろうというように女の子に何かを囁いた。女の子はまだ恥ずかしそうに私をそっと見ている。何か日本の珍しいものをトランクの中に入れて持って来ればよかったのに、と私は考えた。迂闊なことに私はそうしたものを、今度の旅行に何一つとして携えて来なかったのである。  外科医はレコードをかけようかと私に聞き私がかけて欲しいと答えると、隅の方から小さなプレイヤーとレコードを二枚運んで来た。  これは戦争の末期ワルシャワでポーランド人がドイツ軍に対して一斉に蜂起した時のことをテーマにした交響曲だと説明して、外科医はその一枚をまずかけてくれた。  その交響曲が始まるとやがて少し疲れているようであった彼の顔は生き生きとして来て、精悍そのものとなり、目はらんらんと光った——。  その曲が終ると、彼は、今度はベアタの大好きな曲をかけますといってジャズのレコードをかけた。それから彼は立上り、ソファーの一つに腰かけているベアタのところへ行き、改まった風をしてダンスの相手をしてくれないかと所望した。ベアタは一人前の女性のように手を差出した。その手の甲に父は軽いキスをすると、ベアタは椅子から父親の両腕で抱え上げられた。それから父子《おやこ》のダンスが始まった。外科医の身のこなしはすばらしかった。ベアタはうっとりとしたように目を伏せて父のリードするダンスに身を任せていた……。  そのジャズが終った頃、七十を越えたと思われる小柄なおばあさんが入って来た。品のいい美しいおばあさんだった。外科医の夫人のお母さんであった。  それからまた五分と経たないうちに、今度は外科医の弟だという陸軍大佐が、いかめしい軍服姿で現われた。  テーブルの準備が完了し、私たちはテーブルに就くことになった。  テーブルの真中には小さなパイが大きな皿に綺麗に並べられてある。葡萄酒の瓶が二本と、ウオトカの瓶が一本、シロップの瓶が一本立っている。  私はベアタの左隣に坐った。右隣には夫人のお母さん、ベアタのお祖母ちゃんが坐った。  葡萄酒はハンガリー産の葡萄酒であった。大人はその葡萄酒で、ベアタはシロップで、乾盃をした、ベアタの六歳の誕生日を祝して。  私の右隣に坐ったベアタのお祖母ちゃんは私にドイツ語で話しかけて来た。  彼女はすぐ近くのアパートに一人暮しているのであった。息子があったが、戦死し、今は娘の家に来るのが何よりの楽しみなのだった。ベアタは幼稚園が終るとすぐ私の家へ遊びに来てくれる。娘時代にウィーンへ勉強にやられてドイツ語を習った。だから私のドイツ語はオーストリアのドイツ語だ。今日は久しぶりにドイツ語が喋れて嬉しい。そんなことを彼女はウィーンのドイツ語で私に喋った。  パイは出来たてらしくまだあたたかかった。しかし中身が何だか私には見当がつかなかった。リンゴでもなければ、肉の類でもなかった。私は夫人に英語でたずねてみた。すると夫人はポーランド語で喋って説明してくれた。夫人のお母さんがドイツ語で通訳をしてくれる。それによると、パイの中身は、薔薇《バラ》の花を細かく切って砂糖を加えたものなのであった。 「何というロマンティックなお菓子でしょう」と説明を聞いて私は思わずいった。  私の言葉は通訳されて夫人に伝えられたが、ロマンティックなという形容詞が夫人をいたく喜ばせたようだった。——そのパイは本当に美味しかった。中身が薔薇の花かと思うと、美と詩を詰めた魔法のお菓子を食べているような気がする程だった。  そのうちにふと私はコカ・コーラを一本トランクの中に入れて来たことを思い出した。汽車の中でのどが渇いたら飲もうと思ってツオー駅の売店で買ったまま飲まないでいたのだ。さっきからベアタは赤いシロップを飲んでいるが、もう飲み飽きたみたいであった。もしかすると彼女にとってコカ・コーラは珍しい飲物かも知れない……。  私は席を外して、長椅子の脇においてあるトランクを明けて、コカ・コーラを取り出すと、ベアタの前にそっと置いた。 「コカ・コーラ」とみんながいっせいに叫んだ。  彼らはしばらくポーランド語でコカ・コーラを見ながら、お互いに何かを一生懸命に喋っていた。コカ・コーラという言葉が幾度も出て来る。  やがて夫人は立上って食器棚から、小さなコップを一つとひょろ長い試験管のようなグラスを五人前取り出して、お盆にのせて来るとみんなの前に配った。  これは特別に強いウオトカを飲むためのグラスです、と夫人のお母さんが私に説明してくれた。特別に強いウオトカでは酔いが急速に廻って潰れてしまいはしないかと私はひそかに心配した。さっきから私は大分葡萄酒の酔でいい気持になっていたのだ。  夫人が何かベアタにポーランド語でやさしくいい聞かせていた。それは、「このコカ・コーラを飲んだら眠るのですよ」といい聞かせているみたいであった。さっきから私にはみんなの喋っているポーランド語が何となくみんな分ってしまうような気がしているのだった。  夫人はベアタの前に置いた小さなコップにコカ・コーラを半分程満たした。それから残ったコカ・コーラを、ウオトカがこれから注《つ》がれるのかとばかり私が思い込んでいたそのひょろ長いグラスに注いで廻った。そして私のグラスのところへ来ると、夫人はポーランド語で外科医と何か話していたが、やがて外科医が立上ると、その特別に強いらしいウオトカを食器棚から出して来た。そして私のグラスにだけは、コカ・コーラでなしに、その特別に強いウオトカの透明な液体が、外科医の手によって注がれた。 「乾盃」とみんなはグラスを持ち上げて目を合わせた。  みんなは一斉に、コカ・コーラを、この濃褐色の液体を、飲み乾した。飲み終ると顔を見合せ何かをポーランド語で喋っている。これがコカ・コーラかといっているようだった。  やがて夫人のお母さんが私の方を向いて、ドイツ語で、大変珍しい飲料を飲ませて頂いて本当に有難う、といった。続いてみんなが私の方を向いて口々にポーランド語で何かをいったが、それは同じ意味のことを述べているようであった。  私は、ベアタに飲んでもらうつもりで出して来たコカ・コーラの一本が大人たちの間にまき起した意外な波紋に驚き、当惑するばかりだった……。  肝腎のベアタにはこの濃褐色の液体は余り気に入らなかったようだった。彼女は二三口飲んだだけで、もうそれ以上飲もうとしなかったからである。  やがてベアタだけ先に寝ることになった。私はその前に記念に写真を撮らせてもらいたいと思い立ち、許可を求めて、承諾を得た。テーブルの一つの側に寄ってもらい、フラッシュの取付を終えいざカメラを構えようとすると、いつのまにか陸軍大佐の姿が見えないことに私は気づいた。するとけげんな私の面持に気づいたように外科医がいった。 「彼は軍人なので別室で写真が終るまで待っているのです。軍人は写真に撮られることを禁止されているのです」  私は鉄のカーテンの中の国の軍規の厳しさを改めて思い知らされた気がした。  写真を撮り終ると陸軍大佐はまた姿を現わした。  ベアタは先にやすむことになり、みんなにお休みなさいの挨拶をすると、母親に伴われて姿を消した。  やがて夫人が幾種類ものカナッペをのせたお皿をもって現われた。私たちはそれからそのカナッペを食べながら、男たちはポーランドのウオトカを、夫人と夫人のお母さんはカカオ酒を飲んで話をした。——外科医が来年フランスへ行く時は夫人も同行するのであった。ベアタはと私が聞くと、母があずかってくれます、と夫人が説明した。夫人のお母さんが嬉しそうにうなずいた。 「ポーランドとフランスの関係は伝統的なものである」と外科医がいった。 「私はフランスを愛する」  外科医が弟の陸軍大佐と何か熱心に話している間に夫人のお母さんが私に小さな声でこんなことを話してくれた。彼はドイツ語が出来るのですが、ドイツが嫌いなので、使いたがりません。戦争中彼はパルチザンだったのです。私の娘ともパルチザンの時に知り合いました。二人ともとても私を大事にしてくれます。ここでは月給が安いので、娘も共稼ぎをしていますが、本当は娘は家にいたいのです。将来はきっとそうなるでしょう——。そういわれてみると、夫人は家庭だけを守るのがいかにもふさわしいような婦人であった。  パルチザンだった時外科医は夫人と知り合ったということだったが、このもの静かな夫人もパルチザンだったのであろうか、そんなことをぼんやりと考えていると、外科医が私の方を見ていった。 「あなたはパルチザンが何であるかを知っているか」 「もちろん、知っている」と私は答えた。 「あなた方が勇敢に戦ったことを私たち日本人はよく知っている」 「そうだ」と彼はいって、私に握手を求めて来た。彼は少し酔っているようだった。 「私たちは勇敢だった。しかし死者は蘇らない。ワルシャワの蜂起では三十万人も死んだのだ。ドイツはワルシャワを徹底的に破壊した。男も女も子供もみんな戦い、殺された。昔の美しいワルシャワは今はない」  それからしばらくして、陸軍大佐が辞去するために立上った。十時であった。私たちは一人一人彼と握手を交した。私は結局彼とはほとんど喋らなかったが、固い握手を交した。彼はポーランド語で何かを喋った。よい旅を……といっているようだった。  次の日の朝私が暁方の汽車に乗らなくてはならないことを外科医はよく承知していた。  陸軍大佐を送り出したあと、外科医は私に向ってこういったからである。 「さあわれわれも寝ることにしよう。あなたは明日朝が早い。五時十六分発の汽車に乗らないと、昼中にワルシャワに着けないから。私も昨夜は汽車の中で眠っただけだから、いささか眠い。朝は私が起して上げよう」  私はもうこれで永久に会えないかも知れない夫人と夫人のお母さんと心をこめて握手をした。  翌朝外科医は私を四時に起してくれ、熱いコーヒーまで飲ましてくれた。そしてこれは妻からだといって、昨晩私が褒めた薔薇のパイの入った小箱を、お土産にくれた。 「ベルリンにいる奥さんと子供さんに上げて欲しいと妻がいっていました」と彼はいった。  昨晩の話の中で、私はベルリンに留学して妻子と共に住んでいることを、夫人のお母さんに話したのであったが、それがもう知れていると見えた。それまで私は外科医に、彼の嫌いなドイツにいることを伏せていて、ヨーロッパの旅の途上にあるとしか、話していなかったのである。  彼はアパートの出入口までわざわざ私を送ってくれた。  私たちは握手を交し再会を期して別れを告げ合った。  しばらく歩いていると電車の動く音が聞えて来た。しかしまだ外は夜のように暗かった。 [#改ページ]   朗読会  ある日の朝、シューベルト君が私たちの部屋をノックした。シューベルト君は私たちの住まいの隣人である。つまり私たちの部屋の隣が彼の寝室兼書斎なのである。 「お早う、ヘア・ドクトル・スギ」と彼はいった。家にいる時のいつもの服装、デニムのズボンに徳利のセーターという恰好をしている。 「お早う、ヘア・シューベルト」と私がいった。 「話があるんだ、ヘア・ドクトル・スギ」と彼は彼の癖であるせきこんだ調子で悪戯っぽい目を輝かせていった。この悪戯っぽい目に女性を魅惑するものがあるらしかった。私たちが知っているだけでも、彼が部屋に連れこむ女友だちは七人もいた。 「あなたはアンネッテ・アイグレという女流詩人を知っているだろうか?」 「アンネッテ・アイグレ、アンネッテ・アイグレ」と私は繰返していってみた。しかしまったく何の手がかりもつかめない。 「知らないなあ」と私がいった。「残念ながら」 「そうでしょう」と彼はいった。「もう過去に属する詩人だからね。僕らの世代で彼女を知っている者はまずいない」 「そのアンネッテ・アイグレがどうしたの」と私がいった。 「おばあちゃんが、アンネッテ・アイグレの朗読会を企画しているんでね」  おばあちゃんというのは、彼の祖母にあたるミーゲル夫人のことだった。私たちの家主である。そのミーゲル夫人が、アンネッテ・アイグレの追悼朗読会を開くというのであった。アンネッテ・アイグレはミーゲル夫人の従姉にあたる詩人で、ミーゲル夫人にとっても故郷である東プロイセンの風物を歌った詩は、昔はずいぶん愛唱されたものだったらしいが、今ではもうほとんど忘れられてしまっている。この忘れられた女流詩人が去年の暮死んだのでおばあちゃんは追悼朗読会をすることを思い立った。そして最近いよいよ具体的に企画を始めてからというもの逢う人ごとにかならずあなたはアンネッテ・アイグレを知っているかと訊ねているが、誰も知らないのでしょげている。今にきっとあなたのところへもお鉢がまわって来るから、おばあちゃんをしょげさせないようにしてくれまいか、というのであった。  私は彼の悪戯の片棒をかつぐことを承知した。  ミーゲル夫人は魅惑的なおばあちゃんだった。彼女は七十八歳であった。鶴のように痩せているが健康そのものだった。朝は比較的遅く、八時頃起きて来る。洗面を済ませると、自分の書斎で独り食事を済ませ、机に向うのである。机に向って十二時過ぎまで手紙を書いたり、読書に耽ったりする。高額な年金を支給されて生活に困らない彼女はよく旅行に出かけたが、その間は、書斎を持たない私を気の毒がって彼女の書斎を私に開放してくれた。すると私は図書館通いを中断して、彼女の書斎を使わせてもらうことにしていたが、この書斎が中々雰囲気に富んでいた。  部屋の奥には旧い旧い、竪型ピアノが置いてあったが、そのピアノには燭台がついているのであった。ピアノの右の壁には、彼女が敬愛して止まないゲーテの肖像がかかっている。ヴェランダに面した窓に向って大きな書斎机が置いてあり、その書斎机には、戦後亡くなった国鉄の技師長をしていたというヘア・ミーゲルと、戦死した独り息子のほかに、彼女の五人の娘とその孫たちの写真がそれぞれ小さな額に入れられて、立てられていた。書斎机の隣の壁から庭に向って左側の壁には本棚が作りつけられてあり、本がぎっしりと詰っていたが、その本を見ていると楽しかった。宗教書や彼女の敬愛するゲーテやケラーやシュティフターの全集のほかに、彼女が若かった頃、つまり前世紀末から二十世紀の初頭にかけて活躍した作家の作品がずらりと並んでいたからである。それはドイツ文学史の一時期を目のあたりに見るような楽しさであった。  入口から入って正面の壁、庭に向って右側の壁に寄せて古い応接セットが置いてある。テーブルが高くて書きものをするのにも向いているので、彼女の旅行中この部屋を使わせてもらっている間、私はこの応接セットに陣取って、本を読んだり書き物をしたりした。このテーブルで彼女は朝食をとるのだったが、週に一回彼女を中心に開かれる読書会もこのテーブルを囲んで行われるのであった。毎週火曜日に彼女は同年輩の四人の老婦人たちとこの部屋で宗教書の読書会を催していたのである。壁につけて置かれた長椅子の上には大きな油絵が懸っていた。それは彼女の五人の娘がクリスマスに家庭で上演する演劇を稽古しているところを描いたもので、真中に天使の翼をつけて立っている美しい乙女は、今彼女の世話をしている戦争未亡人の長女のゲルハルト夫人だった。この絵はミーゲル夫人の夫の親友の画家が彼女の誕生日に贈るために制作したという絵であった。  それから食事を運ぶロココ調のワゴンがあった。……  昼食は一階の大広間でゲルハルト夫人と食べた。午後は週に一回ある読書会と、そのほか特別の用事がある時を除いて庭仕事のできる季節には庭仕事をした。三百坪はゆうにある庭の花壇と野菜畠と果樹の手入れをゲルハルト夫人と一緒にするのだ。だから庭仕事のできない冬は彼女は旅行するほかよく人を招んだり、招ばれたりした。この追悼朗読会が計画されたのも、二月で、庭仕事のできない冬であった。  夕食もゲルハルト夫人ととる。夕食には、昼間はいないシューベルト君と、ゲルハルト夫人の次女の、小学校の先生をしているエリーザベトが加わる。  このほかに彼女には重大な行事が一つあった。隔週の木曜日に、東ベルリンに住んでいる三番目の娘、つまりシューベルト君のお母さんを訪ねるのである。壁ができる大分前に、彼女は虫が知らせたのか万が一の場合を用心して、籍を西ベルリンから抜いて、フランクフルトの音楽学校のフルートの教授をしている末娘のもとに移しておいたのであった。そのために彼女は外国人と西ドイツの人間にだけ許されていて、西ベルリン市民には許されていない特権、二十四時間以内に限って東ベルリンを訪れる特権を行使できるのだった。東ベルリンがまだ食料品に困っている時分には、彼女はこの特権を最大限に利用して色々な物資を東ベルリンの娘の家に運んだものだそうであった。東ベルリンへ入る関門でも老人だと思って彼女については一切検査をしなかったそうであった。今では彼女の東ベルリン行は、大分性質を変えて、娘を訪ねる遊びに近くなってしまっていたが、それでも大義名分が一つ厳然としてあった。それはシューベルト君の生活を報告することであった。  壁が構築された時たまたまおばあちゃんのところへ遊びに来ていたシューベルト君はそのまま西ベルリンに留まることに意を決して、以後おばあちゃんの家で起居して苦心して西の高等学校《アビトウア》卒業試験を受け直して合格し(東ベルリンではロシヤ語しか習っていなかったので、新たに英語とラテン語を勉強するのは大変なことだった、とシューベルト君が話してくれたことがある)ベルリン自由大学の医学部に入って、国家試験受験にまで漕ぎつけたのだが、その間の教育責任は彼女が全部負っていたのだ。しかしシューベルト君が部屋に連れ込んでいる女たちが七人もいることを家では彼女だけが、まったく知らないのであった。  夜の就寝時刻は早かった。大抵九時には床に就き、十時には私たちの部屋の隣である彼女の寝室の明りは消えていた。こうしたところがミーゲル夫人の毎日の生活であった。  その日私はアンネッテ・アイグレのことを図書館で調べてみた。文学辞典はこの東プロイセンの郷土詩人のためにかなりの紙幅を割いていた。彼女は幽暗な森、灰色の海、霧に沈んだ街を唱った詩人だった。そしてまた神の力の偉大さを讃えた宗教心の篤い詩人だった。彼女が譚詩《バラード》にかけては当代一流と目されていることも私はその時はじめて知った。彼女は小説もいくつか書いていた。代表作は、「神々の国」という、東プロイセンに移住して来て営々とした努力ののちに、この地に永遠の故郷を見出したドイツ人のある家族の歴史を描いた長大な教養小説であった。東プロイセンの暗い風土を逃れて外国へ行った娘がまた故郷に惹かれて戻って来るという「琥珀の思い出」と題された物語もあった。彼女はまた意外なことに日本を舞台にした短篇小説も書いていた。それからいくつかの旅行記、特にアイルランド、スコットランド旅行に材をとった紀行文を書いていた。戦後彼女は東プロイセンのケーニヒスベルクを脱れ、捕虜収容所の生活を経て東ドイツの小さな村に落着いた。だから彼女が死んだのも恐らくその村であったろう。  ベルリンではよく方々で朗読会が行われた。毎週どこかで一つは催されているといっていい程だった。大学や各文化団体が催す朗読会もあったし、各区の成人教養講座が主催する朗読会もあった。作家が執筆中の未発表作品の一部を朗読する時は、その朗読会の集まり具合で、その作家の次作がどの位期待されているかが分るのであった。すでに発表した作品を朗読する場合もあったし、現在ベストセラーを続けている作品を朗読する場合もあった。後者の場合は大変な盛況を呈するのが常であった。しかしいずれの場合も、作者が演壇に登場すると、ちょっとお辞儀をする位で、これから読み上げる作品の表題を読み上げるとすぐに朗読に入ってしまうのであった。そして終る時も、稀に質疑応答の時間が設けられることがあったが、ほとんど大抵の場合、朗読者は一礼して退場してしまった。それはあっけないような退場ぶりだった。朗読の専門家、たとえば俳優などが朗読会を催す場合もあった。それから学者や評論家がそれぞれ敬愛する作家のものを(その場合大抵古典であった)解説つきで朗読することもあった。私は興味のある作家の朗読会に限って出席することにしていた。彼らがどんな顔の持主か見ることに興味があったからだった。詩の朗読会には余り出なかった。聞いてもよく分らないからである。私がこれまでに出席した朗読会の異色はエルヴェルト・ウント・モイラーという私が行きつけている本屋で毎月定期的に一回催される朗読会であった。この朗読会は戦後ドイツ文学の担い手となった作家たちをよく引張り出して来たから、私は大抵出た。謂わば私は常連であった。この朗読会のことを知って初めて出かけて行った時、私は、会場としてこの本屋の番地が挙げられてあるだけだったので、同じ建物のどこかにそういう催しのための集会場があるのだろうと思い込んで出かけて行ったのだが、行ってみて驚いた。会場はこの本屋の売り場だったからである。狭い通路に折畳式の椅子が並べられるだけ並べられていて、参会者は本に埋まって朗読を聴くしかけになっているのだった。そして定刻十分前に着いたというのに、本棚や柱の蔭の朗読者の姿を見ることができない席しか空いていないという盛況ぶりだった。しかもいい席はみんな読書家のおばあちゃんたちによって占められているのだった。西ベルリンは特に老人の多い町である。女性の方が生命力があるのか、老人といってもおばあちゃんが圧倒的に多かった。午前十時頃のバスに乗ると、乗客の八割はおばあちゃんたちであった。買物に出かけるおばあちゃんたちで座席がほとんど一杯なのであった。  しかし今度のような形で催される朗読会はまだ私の知らないものであった。  私が図書館でアンネッテ・アイグレのことを調べてから三日目の土曜日の朝、私たちの部屋がノックされた。出てみるとミーゲル夫人が立っていた。 「お早う、ヘア・スギ」と彼女はいった。 「お早うございます。フラウ・ミーゲル」 「実はあなたに訊ねたいことがあるのじゃ」と彼女はいって私の顔を見つめていった。 「あなたはアンネッテ・アイグレを知っているだろうか?」 「アンネッテ・アイグレ、アンネッテ・アイグレ」と私は繰返してからふと思い出したようにいった。 「東プロイセンの風物を唱った閨秀詩人ですね」 「やっぱりあなたは知っていたね」と彼女は感動したようにいった。 「一時僕は彼女の譚詩《バラード》の愛唱者でした。それから小説も大抵読みました。〈琥珀の思い出〉などはすばらしいものですね」 「そうだろう」と彼女はいった。「彼女の作品はすべて本当にいいものだよ」 「この間、去年の暮ですか、亡くなりましたね」 「そうなんだよ」と彼女はいった。「八十歳の誕生を迎えてすぐにね。アンネッテ・アイグレはわたしの大好きな詩人でね、わたしの従姉にあたるんだけど、それはいい詩人だった。わたしは彼女の八十歳の誕生記念朗読会を元々催すつもりでいたんだが、それが駄目になってしまった。それで今度の土曜日に、彼女の追悼朗読会を開こうと思っているんだ。よかったらあなたも出席して下さらないか。心から歓迎するよ」 「土曜日の何時からですか」 「六時から八時までだ」 「喜んで」と私はいった。  三日後、私は廊下でシューベルト君に逢った。 「ヘア・ドクトル・スギ」と彼はいった。「われわれのオーマは喜んでいる。彼女はさすがは日本のゲルマニストは違う、といっていたよ」 「弱ったな」と私はいった。それから、 「あなたは出ないの」と訊いた。 「先約があるんでね」と彼はいって、ウインクをした。土曜日の夜は女友だちの一人と過すことに彼が決めていることは、私も先刻承知の筈だった。 「フロイライン・エリーザベトは」 「彼女は文学に興味がないので遠慮するらしい」 「フラウ・ゲルハルトは?」 「彼女はもち論当日は大活躍をしなくてはならない。おばあちゃんが何か計画すると、彼女は、大変なのだ。おばあちゃんは、地下室に使用人の夫婦がいた時と同じように、事を企てるからね」  その地下室は今東独からの避難民の夫婦に貸されてあった。  シューベルト君は私より二、三年下であったが、医師の資格をとったのち、また哲学を勉強し直そうと考えている変り種だった。彼は一種の女たらしだったが、勉強もよくした。無類の本好きで、古本捜しの名人であった。奨学金では充分本代が出ないのでよくおばあちゃんから小遣いをせびり取っていた。おばあちゃんは彼が哲学を更に勉強することには反対ではなかったが、彼がこれ以上ベルリンに留まることは反対であった。ある時彼女は、庭に出て日なたぼっこをしながら本を読んでいた私をつかまえていったものだった。 「エルンスト(シューベルト君の名前である)はベルリンに生れ、ベルリンに育って、旅行以外にベルリンを出たことはない。これはエルンストのために不幸なことだと思わないかね。彼はもっと広い世間へ出て、世の中のことを知らなくてはならない。本当に来年の春から哲学を勉強するつもりでいたとしても、今度はほかの大学で学ぶべきだとわたしは思う。エルンストはあなたにも本当に哲学を学ぶつもりだといっていたかね。(私は彼とよく酒を飲みながら話し込むことがあったのである)そうかい、そういう気が本当にあるならば、彼は色々な大学を遍歴《ウアンデルン》しなくてはならない。昔の学生はそうだったよ。もしそうしたらあなたはエルンストの部屋を書斎にしたらいい。あの部屋だったらよく勉強できるだろう」  私はもしそうなったらぜひ使わせて欲しいと答えた。この家のコミュニケーションは早かった。その次の日にシューベルト君は早速私をつかまえて、「僕の部屋の後継者たるヘア・ドクトル・スギ」といったからである。彼は我が家の専制君主である貴婦人《グランダーメ》が私を彼の部屋の光栄ある後継者に指名した、といった。僕はあなたを追い出すつもりは毛頭ないからね、と私はいった。とんでもない、とシューベルト君はいった。彼が医学を了えたからこの家を出て|広い世間《ヽヽヽヽ》で独り立ちになるというのは、かねてからミーゲル夫人の主張していたことで今に始まったことではないのだ、と彼はいった。そして彼もその意見にはまったく異議がないので、来年の春からは|広い世間《ヽヽヽヽ》へ出るつもりでいるのだ、といった。どこへ行くのかと訊ねると、多分マールブルクへ、と彼は答えた。マールブルクにはマールブルク大学でスラヴ学を講じている彼の親しい従兄が住んでいた。そんなことで彼はこれまでもそこへ休みになるとよく出かけて行った。そこはまた彼の一番気に入っている女友だちが住んでいる町なのであった。  彼の留守中に彼の七人の女友だちの一人から電話があったことがあった。その時の電話に出たのが私だった。電話の主は女性で、ただ電話があったとだけエルンストに伝えて欲しい、という思わせぶりな電話だった。名前を聞いてもいわないのである。それから私の子供を知っているらしく、あなたのベビーはその後どうしているだろうか、ずい分大きくなったでしょうね、といった。私がその電話のことを彼に伝えると、意外にもその電話の主が誰だかすぐには見当がつかなかった。彼はしきりに何か手がかりをつかもうとした。声だとか、話しっぷりだとか、何か特徴はなかったろうか、と彼はいった。さあ、と私は考えこみながら、彼女が私の子供について触れたことを思い出した。そういえばその婦人はあなたのベビーはどうしているかといっていたよ、と私はいった。私のドイツ語がまずかったのかも知れない、それとも彼が早合点したのかも知れない。「あなたのベビー」と彼は飛び上るようにして叫んだのである。「それは僕のベビーという意味だろうか」「そうじゃないよ」と私は苦笑しながらいった。「僕の息子のことだよ」「ああ」と彼はいった。「あなたは僕を殺す程びっくりさせた……」  その電話の主がマールブルクの女性だった。彼はこの女性だけは本気で愛しているようだった。  私はよく映画に行った。耳の勉強になると思ったせいもあるが、元来映画が好きなのである。  朗読会前日の金曜日にも私はバスに乗ってシュロス・シュトラーセへ出て、「オーデル・ナイセ以東の昨日と今日」という記録映画を見た。演劇が盛んであるのに比べると、映画の斜陽ぶりはひどかった。どの映画館も一回の上映に百人と観客を動員できないのがふつうであった。もとのウーファの撮影所などは、一部をテレビで使っているだけで、あとは閑散としていて、ペンペン草が生えていた。  その日私が訪れた映画館もがらがらで、わずかな観客はまた年寄ばかりで、それも大部分はおばあちゃんであった。若い者もちらほらいることはいたが、大抵足の不自由な老人の付添で来たような者ばかりであった。彼らにはオーデル・ナイセ以東のことは興味ないのだ。私はシューベルト君が、ズデーテンなどといわれても僕たちの世代にはぴんと来ないよ、といっていたのを思い出した。シューベルト君は壁ができた時に東に帰らなかったのだから、東ドイツ政府にいわせれば、東からの逃亡者であり犯罪者であったが、彼は東のことを何から何まで悪いとは決していったりしなかった。彼は東も非難し、同時に西も非難した。東で僕は富に対する憎しみを学んだ、と彼はいった。彼がわざと貧しい服装をしているのもその現われといえるかも知れなかった。彼にいわせると彼は故郷喪失者なのであった。強いて故郷を挙げろといわれれば、とその時彼は酒を飲みながらいいかけて、蝋燭の炎を見つめてなぜか黙ってしまった。僕の女友だちの躰にしかそれはない、と彼がいってもおかしくはなかった。 「オーデル・ナイセ以東の昨日と今日」という映画は余りいい出来のものではなかった。私が訪ねたことのある町を写したところが私の興味を惹いた位であった。しかしそのおばあちゃんたちには面白いらしかった。彼女らは時々嘆声を洩らした。映画が終って場内が明るくなった時、私は彼女らのいく人かがハンカチを目にあてているのを認めた。  次の日の夕方、私は早目に夕食を済まし、黒い服に身を固めて、下へ降りて行った。私は若干のやましさを感じた。私はアンネッテ・アイグレの作品を何一つ読んでいなかった。一つ位ひもといておこうと思いながら、他に仕事を控えていたために、とうとう果さずじまいだったのである。  下に降りてみると、もう会場の用意は整っていた。食堂とその隣の応接間のしきりのドアが外され、二間ぶっ通しで、ありったけの椅子が並べられていた。庭を背に朗読席もしつらえられてある。黒い服を着たミーゲル夫人が握手して私を迎え入れ、すでに坐っている老婦人たちに紹介をした。私は三番目の列の真中の空いているソファーに腰をおろした。 「あなたが日本のゲルマニストか」と私の右側に坐っている老婦人がいった。 「そうです」と私はいった。 「アンネッテ・アイグレは日本でも読まれているのだろうか」 「ええ」と私はいった。「一部の人々の間では非常に愛読されています。私もその一人です」 「そうか、そうか」と彼女は感に耐えぬようにいった。「彼女は日本のことを小説にも書いているものね」 「そうですね」と私はいって、図書館で調べた時に覚えたその作品の名前をいって、「しかし彼女が愛読されているのはそればかりではありません」といいたした。  六時かっきりに三人、五分過ぎて二人、また五分過ぎて三人集まった。全部で十二人だった。朗読席の脇に並べられた四つの椅子席がまだ空いているだけで、会場の椅子は全部ふさがっていた。私を除いて会場の人々はすべて老人であった。しかも十一人が婦人であった。一人だけ男であった。彼は最後に入って来た三人の一人で、夫人と腕を組んで入って来たが、よく見ると盲目で片腕がなかった。  やがて若い男女が楽器と楽譜立てを持って四人入って来て、演壇の横の空席四つに坐った。ゲルハルト夫人の手によって部屋の隅に立てられている蝋燭に火が灯された。そして天井のシャンデリアが消された。  四重奏団がしばらく音の調整をした。そして演奏が始まった。  四重奏団は私の知らない曲を三曲演奏した。もしかするとそれはアンネッテ・アイグレの詩を作曲したものなのかも知れなかった。  やがてミーゲル夫人が朗読席に登場して立ったまま挨拶を述べた。彼女の挨拶は感動的であった。私たちの愛する詩人、アンネッテ・アイグレは今やない。彼女は東ドイツの小さな村で独り寂しく死んで行った。間もなく私たちも彼女のあとを追って天に召されるであろう。しかし彼女が遺した詩と小説は不滅である。私たちが生れ育った風土、なつかしい東プロイセンの自然、なつかしいケーニヒスベルクの町は彼女の詩と共に不滅である。今日は彼女の詩の幾篇かと、小説の一節を朗読して、彼女を追悼したい。今晩は日本から来ているヘア・スギも出席している。彼は今このベルリンの地でドイツ文学を研究している若いゲルマニストだが、アンネッテ・アイグレの愛読者である。(ほっという嘆声が洩れた)  私は部屋が蝋燭のみによって照明されていることを感謝した。私はこのドイツ人の習慣に感謝した。もしこれが明るかったら、私はどぎまぎし顔を赤くしただろう。私はいたたまれなかったかも知れない。私はシューベルト君の悪戯を一瞬呪い、その悪戯の片棒をかついだ自分を呪った……。  いつの間にかミーゲル夫人の朗読が始まっていた。低い感情を押えた声で朗読席に坐った彼女はアンネッテ・アイグレの詩を朗読していた。沼地、森、湖、妖精、家霊、琥珀、といったきれぎれの単語しか分らない。しかしその詩には何か無気味なものが流れていた。いや部屋全体が無気味であった。詩だけではなく、蝋燭のみによって照らされている暗さのせいであろうか。それとももう冥界に半分足を入れている老人ばかりの集まりのせいであろうか。それとも失われた故郷に対する怨念のようなものが部屋を包んでいるのだろうか。  詩の朗読が終ると、ミーゲル夫人は小説の一節を朗読した。それは「琥珀の思い出」という小説の冒頭の部分であった。それは小説の初まりとして中々魅力に富んでいた。私はアンネッテ・アイグレの小説をいつか二三篇読んでみようとひそかに心に決めた。そうしなくてはこの朗読会に呼ばれたことに対していいわけが立たないと思い始めたのである。  一時間にわたるミーゲル夫人の朗読が済むと、また四重奏団の演奏があった。そして紅茶とお菓子が出た。私はさっき話した右隣の婦人と専ら話をした。彼女はミーゲル夫人の主催する読書会のメンバーで、私たちのことをよく知っていた。特に私の子供のことをよく知っていた。ミーゲル夫人は私の子供を|小さな雀ちゃん《クライナー・シユバツツ》と呼び、自慢にしてよくみんなに見せるために私たちのところから連れて行ったのである。小さな雀ちゃんは本当に大きくなったね、と彼女はいった。もう一年近くになりますから、と私はいった。いつ帰るの。今年の夏に帰ります、と私は答えた。じゃあもう半年だね、と彼女はいった。小さな雀ちゃんがいなくなるとこの大きな家は淋しくなるね。  左隣のおばあちゃんが私を見ていった。あなたはきのうシュロス・シュトラーセの映画館に行かなかったかい? ええ、行きました、と私が答えた。そうだろう、どこかであなたを見かけたことがあると思った、と彼女はいって、どう思った、あの映画を、と訊ねた。ええ、と私はいってしばらく考えてから答えた。いい参考になりました。最近ポーランドの方へ旅行して来たので、訪ねたことのある町を撮ったところは特に面白かったですね。ポーランドはどこへ行ったの。ワルシャワとクラカウとダンツィヒです。ダンツィヒ、と彼女はいった。ダンツィヒ、と彼女はいった。ダンツィヒにわたしは生れたんだよ。ダンツィヒはわたしの生れた故郷だよ。しかしダンツィヒは変ってしまったね。そうですね、と私はいった、ダンツィヒは変ってしまったようですね。私は荒涼としたダンツィヒの市街を思い出した。私がダンツィヒを訪ねたのは日曜日だった。日曜日のこととて、教会の弥撒を終えた市民たちが彼らとしては最上級の盛装に身を固めて、そこだけがありし日のダンツィヒを再現しているという、復元したフラウエン・ガッセを散歩しては店先のショーウインドウを覗きこんだりしているのだったが、その通りの店には、商品といえるものはほとんど何もなかった。そして街自体が疫病の流行したあとのようにひっそりと静まり返っていたのだった。  八時に散会した。私は出席した老人たちの一人一人と握手を交し、最後に出入口に立っているミーゲル夫人とゲルハルト夫人と握手をした。ゲルハルト夫人は、御苦労さま、というように私と握手をした。彼女は寛大な微笑を浮べていた。明らかに彼女はシューベルト君の悪戯を知っていた。  翌日私はシューベルト君と廊下で逢った。 「おばあちゃんはあなたにアンネッテ・アイグレの署名本を一冊贈るそうだよ」  と彼はいっていつものように片目をつぶってみせた。 [#改ページ]   ピクニック  帰国前に、ベルリン生活の思い出に、どこかへ家族でピクニックに行こう、と私は妻と帰国の日が近づく大分前から話し合っていた。  しかしベルリンは閉じ込められた市《まち》、陸の孤島である。ちょっと足を伸ばしてどこか近郊へ気軽に出かけるというわけには行かない。ベルリン市内は日曜日に出かけたり、ベルリンを訪れた友人や知人の案内を兼ねて行ったりして、主だったところはすべて訪ねてしまっていた。とすると、親子三人で日帰りで行けるようなところといえば、ポツダムしかなかった。ベルリン南西の郊外にある、フリードリヒ大王がフランスのヴェルサイユ宮殿を真似して作ったという無憂宮《サンスーシ》があるので知られるこの町は、東独領ではあったが、手続きをとれば、西ベルリン市民以外の者なら訪れることができたのである。  私たちがその二階の一角を借りて住んでいるミーゲル夫人の家は、彼女が十二も年上のミーゲル鉄道技師と結婚した時、ミーゲル氏の両親が息子の結婚を祝福して建ててくれたという、第一次大戦前の典型的なヴィラ(別荘風の一軒家)であったが、そこからポツダムまでは、彼女の言葉をかりれば、「猫のひと跳び」であった。ベルリンの国電にあたるSバーンが、ベルリンが壁のない市《まち》であった昔のように自由自在に利用できるものならば、一回乗り換えるだけで二十分、歩いても二時間、自動車だったら十五分というところにあるのだ。ポツダムがベルリンの南西の近郊ならば、ミーゲル夫人の家も西ベルリンの南の端にあったからである。若かった頃の彼女は、十二も年上のミーゲル氏と共に、日曜日などをこのポツダムで過したのかも知れない。私は彼女の七十七歳の誕生日に招かれた時見せてもらったアルバムの中に、大きな車の輪のような帽子をかぶって、引き摺るようなスカートをはいたミーゲル夫人と、髭を生やした背広姿のミーゲル氏とが、無憂宮《サンスーシ》の庭園を背景にして、腕を組んで撮られている写真が、いく枚も(恐らく時期は違うであろうが、ポーズはいつも同じなのである)貼ってあったことを憶えている。  帰国前にポツダムへ親子三人で旅行するつもりでいる、とある日私が彼女に話すと、彼女は、「ポツダム」となつかしそうにいって、こんなことを私にしゃべった。  ——それはいい、ポツダムは行けるんだったらぜひ行って来るといい。あなたの奥さんにも、あなたの|小さな雀ちゃん《クライナー・シユバツツ》(彼女は私の三歳になった息子のことをそう呼んでいた)にもきっといい思い出になるよ。あなたはいつも一人でばかり旅行しているから(といって彼女は悪戯っぽく片目をつぶって見せた)この際ポツダムへ奥さんと小さな雀ちゃんを連れて行くのは本当にいいことだ。わたしも若かった頃はよく主人と一緒に行ったものだった。でもポツダムはその頃は旅行するところじゃなかったね。ピクニックに行くか遠足をするところだったよ。しかし今はあなたのいう通り旅行するところかも知れないね。  私たちはその二三日後に東ベルリンへ入って、ポツダムへの個人旅行の手続きをとった。外国人と西ドイツの観光客のためのポツダム行観光バスが東ベルリンから出ていたので、それに乗るという方法もあったが、午前九時半に東ベルリン発というのはいいにしても、二十時帰着というのは、私たちのような小さな子供連れには遅過ぎた。東ベルリンに二十時に着くということは、関門を通って西ベルリンのミーゲル家に辿り着くのが夜の十時近くになってしまうということを意味したのである。そんなわけで私たちは費用の点では相当割高になったが、個人旅行の方を選んだのである。  東独内の個人旅行は、私たちの帰国する年からできるようになったのだった。東ベルリンに新しく開かれた外国人のための旅行公社へ赴き、宿泊する場合はホテルのクーポン券を、宿泊しない場合は滞在クーポン券を買い、そのクーポン券を持って警察署へ出頭すれば、その場でヴィザを交付してもらえるようになったのである。それまでは観光バスを使うか、春秋二回開かれる見本市を利用してライプツィヒを訪れる以外には、東独内の観光旅行は不可能だったのだから、これは大きな変化だった。  滞在クーポン券は一人あたり三十マルク(一マルクは約九十円)した。子供は免除されたから、私と妻の二人分だけで済んだものの、たった一日のピクニックのために、六十マルクも支払うのは、帰国を間際に控えて出費の嵩みがちの私たちには痛かった。しかしこれを支払わなくては目的の地へ足を踏み入れることが許されないのだから、仕方がなかった。  警察署で長時間待たされて漸くヴィザを手に入れたのち、私と妻は六十マルクをポツダムでどうやって使おうかという問題についていつの間にか協議していた。  ——できるだけ豪華な食事をしよう、と私がいった。  ——それでも余るわ、と妻がいった。  ——東ベルリンで見ても想像がつくわ、どんなに豪華な食事をしても、東ドイツではそんなにお金を費えないということが。  ——お土産を買って来よう。  ——そんなに高いお土産あるかしら。  妻のいう通りだった。第一お土産を売っているかどうかも危ないものだった。ふと私は名案を思いついた。クーポン券はヴィザの交付を受ける際に提示するために必要なのだから、ヴィザを手に入れてしまった今は、もうクーポン券の形で持っている必要はないのだ。旅行の当日現金化しようと今日現金化しようと、問題はない筈だ。そうだったら今日の中に現金化して、東ベルリンにある国立マイセン陶器陳列所で、記念に前から欲しかったマイセンの陶器を買い求めたらどうだろうか、ということを思いついたのである。  ——名案だわ、と妻はいった。彼女は前から私以上にマイセン陶器を欲しがっていたのである。  私たちは早速その考えを実行に移した。  マイセン陶器は高かった。六十マルクの範囲内で買えるものは限られていた。私たちは結局六マルクたして、美しい花模様の果物皿を三枚買った。  当日妻はお握りを作り、卵焼きを焼いた。六十マルクはマイセン陶器に化けてポツダムで豪華な昼食をとるわけには行かなくなったから、弁当持参で行くことになったのである。彼女は久しぶりにする遠出を喜んで子供のようにはしゃいでいた。前日には、わざわざシュロス・シュトラーセまでバスに乗って出かけて、果物やお菓子や飲物を、子供のためと称して、大人の分まで買い込んで来た。私たちは無憂宮《サンスーシ》の庭園の緑の芝生に腰をおろして、八月のベルリンの爽やかな空気を一杯に吸いながら、一家団欒に興じ、二年にわたったベルリン生活の有終の美を飾って来るつもりだった。  私たちは出発前に、ミーゲル夫人とミーゲル夫人の世話をしている長女のゲルハルト夫人に挨拶をした。  ミーゲル夫人は、あさってあなたたちはここからいなくなってしまうのだね、といって私の手を握った。それからポツダムへ行ったらよろしくポツダムに伝えて欲しい、といった。  もの静かなゲルハルト夫人は、楽しい旅行を! といった。  それからミーゲル夫人が、あしたの晩食会を楽しみにしている、その時にはポツダムの話を聞かして欲しい、といった。  翌日の夕食に私たちは招待されていたのである。  その朝私たちは九時頃ミーゲル家を出たが、バスの停留所までカスターニエンの並木道を歩いて行きながら、私はポツダム旅行をベルリンを離れる二日前に計画したことを、かすかに後悔した。今日私たちはミーゲル家に留まって、ミーゲル家の家の中を、ヴェランダを、ミーゲル夫人の書斎を、花の咲き乱れた庭園を見てまわり、近所の散歩道をゆっくりと逍遥し、最後の名残りを心ゆくまで味わうべきではなかったろうか、という気がしたからであった。もうベルリンで過せる日は今日を過ぎれば、二日しかないのだ。しかもあさっては昼に立つのだから今日を除けば一日しかないのも同然である。しかもあしたは最後の部屋の整理や、警察や郵便局への届け、大学への挨拶などで慌しく過ぎることだろう。しかし名残りはどんなに惜しんでも尽きるというものではないかも知れない、と私は思い直した。むしろ慌しく過すことによって、名残り惜しさが深まり過ぎるのをくい止めることができるのであろう。  ミーゲル家から、東ベルリンに入るための検問所のあるフリードリヒ・シュトラーセの駅までは、一時間かかった。時間が遅かったために検問所は満員に近く、長いあいだ待たされそうだった。  妻は子供が飽きてしまわないように、色々と苦労をしていた。  私は持金十三マルクを全部東マルクに両替しに行った。戻って来ると、私は好色そうな口髭を生やした、イランの少佐と名のる男に英語で話しかけられた。  自己紹介によれば、このイラン陸軍少佐は西ドイツに出張して来たついでに、ベルリンに立ち寄ったのだそうであった。これから東ベルリンに入るのだが、怖いことはないだろうか、というのが質問の主旨だった。何も怖いことはない、と私は答えた。規則を犯しさえしなければ怖いことは何もない。そういいながら、私は二年前西ベルリンに落着いてから一カ月程経ったある日、初めて単独で東ベルリン入りをした時のことをありありと思い出していた。私よりベルリン生活が半年先輩の日本の知人に、何も怖いことはないといい聞かされていたのに、その時私もやっぱりなにか不安な想いにつきまとわれたものであった。書類は絶対に失くさないように、なくすと面倒なことになりかねないから、と厳重に注意されていたせいか、その日私は検問の際に渡され、東ベルリンを出る時にまた提出しなくてはならない各種の書類を、ひょっとして失くしはしまいかという強迫観念に、東ベルリンを無事「脱出」するまで、つきまとわれたのであった。そしてそれからも相当長期間にわたって私は、検問所を通過するたびに、検問所のあたりを、緑色の制服を着て、長靴を履き、銃を持ってものものしく見張っている、表情の硬い、にこりともしない東独の兵隊たち(彼らには西ベルリンに肉親のつながりを持たない、東ドイツの東の辺境の出身者、それも戦後に育った若い世代があてられているということだった)が気味が悪くて耐まらなかった。そしてうっかり走ったりしようものなら、うしろからどかんと射たれるのではないかという、謂われのない、馬鹿馬鹿しい、子供じみた恐怖に脅かされたものであった。しかしそんな私もその後時間の経過と共にすっかり検問所の出入りに慣れてしまい、今ではまったく何の恐怖も、何の不安も覚えないまでに変って来ていた。正直いってまったく平気だった——。  ——実は、とペルシアの少佐は小さな声でいった、自分はナイロンのストッキングと香水の土産物をポケットの下に忍ばせている。知合いにたのまれて、彼の女友達《フロインデイン》のところへ届けるためにね。  ——大丈夫だろう、と私は答えた。ポケットの中までさぐられることはまずないから。  しかし私の知人で、靴下の中まで調べられたことのある男がいたことをふと思い出したのでこうつけ加えた。  ——保証はできないけれどもね。  するとペルシアの少佐が世にも不安な顔をしてみせたので、私はいった。  ——見つかっても没収されるだけだ。  ——但し、と私はいった。  ——東ドイツの闇のマルクを持っていることが分ると、没収されるだけではすまないかも知れない。  西ベルリンの両替所では、東ドイツのマルクを、西ドイツマルク一に対して三の比率で交換してくれるのであったが、東ドイツ側はこれを東ドイツの経済を攪乱するのが目的の西側の悪質な政策の現われと見做し、こうした東マルクの持ち込みを厳重に禁止しているのだった。  ペルシアの少佐は、闇の東マルクを持っていないと見えて、安心したような顔をした。  ——ほかに注意すべきことはないだろうか、と彼はいった。  ——午前零時にならないうちに戻らなくてはならない。遅れるとよく面倒なことになるらしいからね。どこでどう過したかを証明しなければならない、などということになりかねないからね。そう私はいった。  ——それは大変だ。とイラン陸軍少佐は真顔でいった。午前零時に遅れないように戻って来よう。  その時私たちのパス・ポートの引換番号が読み上げられ、私と妻と子供は窓口へ急いで行った。  検問所から外へ出ると、天気が崩れかけていた。私たちは二マルクでポツダムまでの往復切符を買ったのち、Sバーンにまた乗り継いで、カールスホルストに出た。そこで汽車に乗り換えるのである。カールスホルストの汽車の駅はSバーンの駅を一旦出ないと入れない。途中で雨が降り出した。出がけに肌寒さを覚えたので着て来たレインコートが役に立った。鉄道駅のプラットホームに立った時には、ベルリンには珍しく大雨になった。プラットホームには、小さな待合室が一つあった。幾組かの家族連れの先客で、その小さな待合室はすでに満員で、私たちは軒に立って雨を凌ぐのがようようであった。私はこれに似た経験をどこかでしたことを思い出しながら、それがいつどこのことであったか中々思い出せずにいた。そのうちに思い出した、——中学生の頃、京王線で買い出しに出かけ、郊外の小駅のプラットホームにあった、ガラスの破れた待合室で雨宿りをしたことを。  汽車が入る少し前に、雨が小降りになった。この分だったら、ポツダムに着く頃は上るだろう、と私が妻にいった。そうね、と覚束ない声で、妻がいった。入って来た汽車は、東独特有の二階の汽車であった。子供は喜んだ。私が東ベルリンで買ってきた絵本を見て二階建ての汽車に親しんでいた子供は、その汽車に実際に乗ってみたいという希望を久しく抱いていたのである。汽車は大分混んでいたが、親子三人で向い合った座席を占領できるだけの余裕はあった。汽車がベルリン市内を離れる時警官が乗り込んで来て、乗客の身分証明書を調べた。東西両ドイツを問わず、ドイツでは身分証明書の常時携帯が義務づけられているのだ。私たちはヴィザとパス・ポートを見せた。ヴィザがなかったらここで私たちはベルリンへ逆戻りさせられたことであろう。ヴィザのために滞在クーポンに六十マルクも出したことは無駄ではなかったのだ。実は二三日前、私たちより半年遅れて帰国する友人に、このポツダム旅行のことを話した時、その友人に、六十マルクも払ったのか、もったいないな、ポツダムなら日帰りで行けるところじゃないか、ベルリンにいたことにしてちょっと足を伸ばして行って来ればいいんだ、君たちがどこでもチェックされなかったら、僕はヴィザなしでポツダムへ行くことにするよ、といわれて、口惜しい思いをしていたのである。六十マルク出してクーポン券を買ったことが無駄な出費でなかったことを確認できて、私たちは満足であった。しかもその六十マルクのクーポン券はすでに現金化して、かねてから買いたいと思って買えずにいたマイセンの陶器が手に入ったのだから、妻のいうように、「細工は流々仕上をごろうじろ」であった。いつの間にか妻はクーポン券を現金化してマイセンの陶器に換える名案を思いついたのは自分であるかの如くに錯覚し、得意がっていた。  カールスホルストから南下して、東ベルリンから東ドイツへ出た汽車は、今西ベルリンの南の外縁を走っている筈であった。今汽車は、私たちの住んでいるリヒターフェルデ=ヴェストのミーゲル家から直線距離にしていくらもないところを走っている筈であった。西ベルリンが封鎖された市、陸の孤島でなければ、ミーゲル家から「猫のひと跳び」のところにあるポツダムに、私たちは大まわりも大まわり、大変な大まわりをして今向っているのであった。それは考えてみると、不条理とも呼びたくなるような大迂回であった。  ポツダムの中央駅に着いたのが十二時、そこで郊外電車に乗り換えて、「ヴィルトパルク」(狩猟場の意)駅に着いたのが十二時半であった。この駅は人がいるのかいないのか分らないようにひっそりと静まり返っていた。降りた客も私たち親子三人だけであった。改札口にも誰もいなかった。まるで廃駅のようであったが、廃駅でない証拠には、電車はちゃんと停ったのである。  私たちは駅を出ると、東ベルリンの旅行社でもらって来た地図をたよりに、無憂宮の庭園に沿った道を歩いて、門の一つに達した。それは豪壮な鉄製の門であったが、みごとに錆びつき、崩れかかっていた。鉄がこんな風に崩れるまで錆びついたさまを、私は久しく見たことがなかった。案内のパンフレットには、年に二百万マルクを越える巨額の金がこの庭園と建物の修復に支出されていると書いてあったが、それだけでは門や塀の修復にまでは廻りかねると見えた。  私たちは鉄製の門の隙間から、無憂宮庭園の中へ入った。しかし入ってみると庭園そのものはすばらしいことが分った。樹々は鬱蒼と繁り、芝生が自然の緑の絨毯のように涯しなく拡がっていた。人影はまったくなかった。ただ樹々の間で、小鳥が凱歌を挙げるように囀っているだけである。私たちは新宮殿《ノイエス・パレー》の前の芝生に、日本から持参したビニールの風呂敷を敷いて坐り、昼食をとることにした。もう一時半であった。雨はすっかりはれ、雲の晴れ間から青空さえ見えた。しかし寂しいような静けさであった。もっとも週日なのだから、静かなのはあたり前なのかも知れなかった。週日なのにこんなところに、親子三人でピクニックをしに出かけて来るのは、外国人である私たち位のものなのかも知れなかった。  子供はお腹が空いていたのかお握りを二つとバナナを一本平らげた。そしてお腹が一杯になると、急に元気が出て来て、跳ねまわり出した。彼は至極御機嫌であった。芝生の上を駆けまわったり、葉を摘んで、   むし むし むし   むしの乗合自動車《アウトプス》の切符は   葉っぱかも知れないね   むし むし むし  という自作の歌を節をつけて歌ったりしていた。  新宮殿は修復中らしく、一部に足組みが立てられていた。そして見学一時中止の貼紙がしてあった。妻は少々がっかりしていたが、私はそれ程がっかりもしなかった。私はもうヨーロッパの宮殿見物に飽きていたのである。私たちは、無憂宮庭園の特異な建物として知られる支那茶館《ヒネージツシエス・テーハウス》へ行ってみることにして、ぶらぶら歩き出した。すると間もなく道の両側に男女の裸体の像が立ち並ぶところへ出た。どれもひどく大胆な姿態をした像であった。  支那茶館のすげ笠のような形の奇妙な屋根が見えるあたりまで来ると、急に外人客の姿が目立つようになった。観光バスの客らしい。察するに、観光バスは表門に着いて、彼らはそこから歩いて、無憂宮などを見て、今漸く支那茶館へ廻って来たところなのであろう。それに対して電車で来た私たちは、この庭園の最奥をなす新宮殿にすぐ通じる裏門から入って来てしまっていたのである。  彫像に囲まれた支那茶館には中国の陶器類が陳列されていた。私と妻とは、子供が陶器に触れたり、ぶつかって毀したりしないように絶えず気をつかいながら、その陶器類を見物して廻った。日本の有田焼の壼があるのを妻が見つけ出した。私たちはここでポツダムの絵葉書を何枚か買った。  支那茶館から私たちは真直ぐに無憂宮へ向った。そして私たちは丘の上にある無憂宮を仰ぎ見る噴水の所まで来た。無憂宮から噴水までの斜面は段状になっていて、一段一段温室がしつらえてあり、花が咲き乱れていた。私たちはその花を鑑賞しながら、ゆっくりと階段を登って、無憂宮に達した。しかしここも修復中なのか足組みが建てられていて、正面には見学一時中止の貼紙がしてあった。パンフレットに謳われていた二百万マルクの修復費は宣伝ではなさそうであった。  私たちは無憂宮の前の広場の隅のベンチに腰かけて、しばらく休憩することにした。するといつの間に出て来たのか、一匹の栗鼠《りす》が私たちのすぐ前にいるのに、私たちは気づいた。妻がビスケットを一つ投げてやると、前の脚二つでそのビスケットをつまみ、うしろ脚で立って、そのビスケットを食べた。悪びれた風がないのが可愛らしかった。子供は家に、くるみを食べている栗鼠の縫いぐるみを持っていて、ことのほかその縫いぐるみを愛していたが、この真物の栗鼠の出現に最初驚き次の瞬間ひどく喜んだ。私と妻は彼に直接ビスケットをほうらせた。栗鼠は飢えているらしかった。子供のほうるビスケットを次から次へと平らげたからである。そのうちに、更に二匹、飢えた栗鼠が現われた。あとから現われた二匹のうち一匹は小さいから、三匹はもしかすると親子連れかも知れなかった。最初に現われた栗鼠がパパ栗鼠で、あとの二匹の栗鼠は、ママ栗鼠と子栗鼠かも知れないわね、と妻は子供に説明していた。私たちはチョコレートを一枚だけ残して、食べ残しのお菓子を全部彼らに食べさせてしまった。  時計を見ると、三時を過ぎたところであった。私たちは四時四十六分の汽車に乗って帰る予定にしていた。それに乗って帰れば、子供の就寝時間である八時には、十分に間に合う筈だった。帰りはSバーンの駅を降りたらバスを使わないでタクシーを奮発しよう。そうすれば子供が眠くならないうちに、家で夕食をとることもできるだろう。ポツダム宣言が起草されたツェツィーリエン荘を訪ねたかったが、地図で検討すると、町の北端にあって往復一時間はゆうにかかりそうだった。行って行けないことはなかったが、今さら慌しい思いをしてそこまで足を伸ばさなくてもいいという気もした。それに行っても修復中で中を見ることができないのではないかという気もした。実のところ、私はポツダム宣言ゆかりの地であるポツダムの土を踏んだだけで、もう充分に満足しているのだった。終戦の頃小学校にも入っていなかった妻は、ポツダム宣言などに興味はなく、従ってツェツィーリエン荘にも関心がなかった。そんなわけで、私たちはポツダム宣言が起草された建物を訪れるのは断念することにし、その代りポツダムの町を見物して、どこかでお茶でも飲み、四時四十六分の汽車に間に合うように、四時半までには市電でポツダム中央駅に出ることに決めた。  ポツダムの街には気品があってほとんど典雅な趣きさえ伝える家並みがあった。しかしそれらは余りにも荒廃していた。どの建物も申し合せたように煤け、くすみ、傷んでいた。人通りは驚く程少なかった。私たちは、昔はさぞ豪奢だったろうと思われるレストランに入ったが、中はがらんとしていて、人影もなかった。私たちは奥の方の席をとった。やがてもう六十を過ぎたと思われる老人の給仕が出て来た。彼は黒いフロック・コートを着ていた。このレストランのありし日の格を、そのことで立証しようとするかのように。しかしそのフロック・コートはもうくたびれ、ボタンはとれ、袖口は摺り切れていた。彼は子供好きだった。私と妻がメニューを覗き込んでいる間中、しかめ面をしたり、目を大きくしたりして子供をからかっているのだ。  私はビールとソーセージを、妻は|林檎ジュース《アツプフエル・ザフト》とソーセージを注文することにした。子供は「僕《イツヒ》はコカ・コーラ」といった。最近彼はコカ・コーラの味を覚えて、ついせんだってまであんなに好きだったアップフェル・ザフトよりも、コカ・コーラを好むようになっていたのである。 「ここはコカ・コーラがないのよ」と妻がいった。 「どうして?」と子供は不思議そうに訊ねた。彼が今まで入ったレストランで、コカ・コーラをおいてない店などはなかったのだ。 「コカ・コーラならありますよ」と私たちの日本語が分ったらしく、老給仕がいった。 「わたしたちの国にもコカ・コーラができたのです」  そういって彼は得意そうにメニューの下の方を指差した。なる程そこには最近書き加えたらしく、ペン書きでヴィタ・コーラと書きたされてあった。  私と妻は、そのヴィタ・コーラを、老給仕の勧める東独のコカ・コーラを、子供のために、多少の不安を覚えながらも、注文してみることにした。それからソーセージをもう一人前と。 「コカ・コーラがあったわ」と妻が子供にいった。  やがて老給仕が現われ、お盆から三皿のソーセージとビール、アップフェル・ザフト、ヴィタ・コーラ各一本をコップと共に、テーブルの上に並べた。ヴィタ・コーラはビール瓶と同じ瓶に入っていた。背の低い、胴の太い、首の短かな、不恰好な瓶である。  老給仕は胸を張って、子供のコップに、その瓶からヴィタ・コーラを注いだ。コカ・コーラと同色の液体がコップを満した。 「グーテン・アペティート」といって、彼は立ち去った。  子供は咽喉《のど》が渇いているらしく、そのヴィタ・コーラを待ち切れないようにすぐに飲んだ。一口飲んで変な顔をした。そして妻のアップフェル・ザフトがいいといい出した。  妻がヴィタ・コーラを子供に代って飲むことになった。彼女は一口飲んで、私に試飲を勧めた。  ヴィタ・コーラはコーラではなかった。それはもう明らかだった。色は驚く程よく似せてあったが、明らかに別物であった。本当のコーラとの違いは、コーヒーと代用コーヒーとの違い、たばこと代用たばこの違い位あった。原料は何だろう、と私は妻と考え合った。  ——炭酸水が台になっていることは確かだった。甘味は芋飴のそれに近かった。もしかするとこの濃褐色は飴の色から来ているのかも知れなかった。しかし黒ビールに似た味もした。そうだとすれば、飴の色では濃さが足りなくて黒ビールの色の応援を仰いでいるのかも知れない……  妻は全部飲み切れずにいた。私は老給仕の得意そうな様子を思い出して、残しておくのが心ない仕業のような気がして来た。私はのどがまだ渇いているようなふりをして、妻が飲み残した分を全部飲みほした。 「お勘定をしたいのですが」と妻が立って、奥へ老給仕を呼びに行った。  やがて老給仕が出て来て、まっさきに子供に向って、 「|おいしかった《シユメツクツ・グート》?」と訊ねた。  子供は、 「|おいしかったよ《シユメツクツ・グート》」と答えた。 「そうだろう!」老給仕はいった。それから私たちに向って、 「これは最新の製品で、とても評判がいいんですよ」といった。  値段は驚く程安かった。チップがつかない上に、単価が西ベルリンのそれの半分にも達しなかった。市電の電車賃を残して、朝両替した十三マルクの残りを全部使うつもりでいた私たちは見込違いを感じた。六マルク以上余ってしまったのである。  最寄りの市電の停留所を指して、私たちは歩道をゆっくり歩いて行った。一台の観光バスが私たちの方へ走って来た。見ると日本人観光客の貸切バスであった。外貨持出の自由化になってからそうした日本人の団体旅行者に会うことは西ベルリンの繁華街などでは珍しくなくなっていたが、ポツダムで見かけるとは思いがけないことだった。彼らもまた、ポツダム宣言ゆかりの地に足を踏んでみたいという欲求に駆られたのであろうか、そして短いベルリン滞在の時間を割いて、ああやって特別の観光バスを仕立てさせたのであろうか?……  市電に乗って、ポツダム中央駅に着いたのは、丁度四時半だった。私たちはすぐに掲示で確かめたプラットホームへ行った。間違いはない筈だったが、念のために私は駅員に訊ねてみた。東ベルリンへ帰るのですが、このプラットホームでいいでしょうか、と確かめたのである。訊ねられた駅員は、十六時四十六分発の汽車だね、といって私がそのつもりでいる側を指し示した。それから彼は、フリードリヒ・シュトラーセへ出るのなら、カールスホルストでSバーンと乗換えだよ、と注意までしてくれた。  もう間違いはなかった。汽車に乗り込めば間違いなくカールスホルストへ行けるのだ。それからSバーンに乗り継いで、フリードリヒ・シュトラーセまで行き、検問所を無事通過すれば、もう西ベルリンに帰ったようなものだ。妻子を連れているせいか、私はひどく気疲れしているのだった。  四時四十三分に汽車が、さっき私が確かめた線に、入って来た。往きの列車と違って二階ではない。どういうわけか急行列車にしか使わないような、ひどく立派な車輛が使われている。車輛のどこにも行先の表示のないのが不安だったが、もう一度確かめるのも大人気のない気がした。それで私たちは、この行先の表示のない、謂わば顔なしの列車に、さっきの駅員の指示に信頼を置いて、乗り込むことにした。  私たちの乗り込んだ車輛には、二三組の乗客しかいなかった。そのうちの一組は、私たちの子供と同じ位の年齢の女の子を連れた父親であった。汽車が走り出すと、子供とその女の子はたちまち仲よしになった。父親は女の子に相手ができたのをよいことに、外へ出て行った。禁煙車なので、デッキに煙草を喫いに行ったのだろう。  しばらくして私は眠り込んでしまった。朝から緊張していたから、そのゆるみが出たのと、連日帰国準備で忙しいことが続いていたので、その疲れが出たのとの両方であった。三十分位してちょっと目を覚した時、妻が不安そうに、この汽車は本当にベルリンに行くのかしら、といった。どうして、と私は夢見心地で訊いた。どうも窓の外の景色が往きと違うような気がするんだけれども。気のせいだよ、と私はいった。それとも往きと違って西廻りでベルリンに入るのかな。ともかく大丈夫だよ、駅員にも確かめたんだから。そういって私はまた眠ってしまった。  二十分位経ってまた私は目を覚した。もうそろそろベルリンの町だろう、と私がいった。それがまだなのよ、と妻が不安げにいった。さっきからこの汽車一度も停らないのよ。おかしいな、と私は少し眠気から覚めていった。急行だったかな。  そこへ車掌が入って来た。通路で騒いでいる子供たちのところまで来ると、仁王様のように大きなその車掌は立止って、じっと二人の様子を見ていたが、やがて大きな人形を抱いている女の子の方に身をかがめていった。 「お人形さんの切符を見せて下さい」  女の子は車掌のウイットを解せずに、困ったような顔をしている。  私たちのところまで来ると、大男の車掌はいった。 「あなた方は日本から来たのだろう」  私がそうだというと、彼は暇をもてあましているのか、ちょっと失礼といって、私たちの前の席にどっかりと腰をおろした。そして日本のことを褒め始めた。日本のオリンピックはすばらしい、日本のトランジスター・ラジオはすばらしい、日本の近代化はすばらしい、と彼はすばらしいを連発した。それから、あなた方はいつ日本へ帰るのかと訊いた。あさってと答えると、彼は驚いたように繰返した。あさって?  汽車が停った。 「今初めて停ったのよ」と妻がいった。「やっぱり急行かな」と私はいって、そのことを車掌に確かめるつもりでいたことを思い出した。  汽車が発車した。僅かの停車時間である。 「時にこの汽車は急行だろうか」と私は車掌に訊ねた。 「そうだ」と車掌がいった。 「それじゃ、丁度いい、急行券を買う位の東のマルクが余っていたね」と私は妻にいった。 「あさってどこから日本へ帰るのか」と車掌が訊ねた。 「ベルリンからだ」と私はいった。 「まっすぐにかい」と車掌がいった。 「飛行機でハンブルクへ出て、イギリスを周って、コペンハーゲン経由で帰る予定だ」 「羨ましい」と彼はいった。「わたしたちは籠の鳥だよ。よそへはどこへも行けないからね。特に西の国へはね」 「時に」と彼がいった。「ライプツィヒには何しに行くのだい?」 「えっ?」と私は驚いていった。「この汽車はどこへ行く汽車だろうか?」 「ライプツィヒ行の急行だ」と車掌はこともなげにいった。 「僕たちはベルリンへ帰るつもりで乗ったんだけど」 「それは大変だ」と大男の車掌は跳び上るように立上っていった。 「さっき停った駅で降りれば間に合ったかもしれないが、今度の駅まで行くと、もうベルリンへ行く汽車はないかも知れないな」 「えっ」と私はいった。「もうベルリンへ行く汽車がおしまいだって?」 「多分ね」大男の車掌はいった。 「まだこんな時間なのに」と私はいった。六時五分前であった。 「この次の停車駅というのはどこだろう」 「『ルターの町ヴィッテンベルク』だ」と大男の車掌はいった。 「接続があるかどうか、すぐに調べて来よう。もうあと二十分程でヴィッテンベルクだからね」  そういい残して彼はあたふたと出て行った。 「弱ったな」と私はいった。 「どうしましょう」と妻がいった。 「ヴィザの有効期限内には帰れるだろうか?」 「いつまで?」 「午前零時さ」 「大丈夫でしょう」 「しかし分らないな」  ワルシャワからダンツィヒへ行った時に私は失敗したことがあった。急行列車のつもりで乗ったのに特急だったのだ。請求された特急料金は恐ろしく高かった。私にはそれだけの持ち合せがなかった。往復の切符と少額のポーランドのお金だけ持って、トラベラー・チェックはホテルに置いて来てしまったのである。私は車掌に次の駅で降ろしてくれといった。手真似で漸く話が通じ、車掌は納得したかのように見えた。私はダンツィヒへ行くのを断念して、次の停車駅で降りて、ワルシャワへ引き返そうと思ったのである。ところがその特急列車の次の停車駅は、終点のダンツィヒだったのであった。——今度の失敗は、しかしずっと深刻になりそうであった。 「お金はどれだけある」と私は妻に訊いた。 「西の百マルク紙幣が一枚あるわ」と妻がいった。 「こまかいお金は?」 「西マルクは全然ないの。東マルクが六マルクと少しあるだけ」  そこへ大男の車掌が電話帳のように厚い時刻表を抱えて、息をはあはあいわせながら、戻って来た。彼はまた私たちの前の座席にどっかりと腰をおろすと、一生懸命にその時刻表をめくり始めた。額に汗を浮べてる。  しばらくして彼は顔をあげていった。 「ユッターボックまで、さっき停った駅だが、そこまで戻る汽車はある。但しヴィッテンベルクですぐに乗り換えないといけない。間に合うと思うけれどもそれが最後の便だから、これを乗り逃すともう駄目だ」 「ユッターボックから先はどうだろう」 「それはまだ調べてない。調べてみよう」  そういって彼はまたせわしく時刻表の頁をめくり始めた。  ふと私は、私たちの持っている切符で、ベルリンまで戻れるだろうかということが不安になって来た。西のマルクは百マルクあるが、東のマルクは六マルクと少ししかない。私は大男の車掌に、私たちがこの汽車になぜ乗ったかその事情を話し、間違ってライプツィヒ行の急行に乗ってしまったのだから、今持っている切符のままでベルリンへ帰れるように証明書のようなものを発行してもらえないかとたのんでみた。  大男の車掌は、私の話を聞きながら、ありありと困惑の表情を浮べ出した。それは明らかに彼の権限に余ることだったのである。しばらくの間、それは困った、何と証明したらいいだろうと、と彼は繰返すだけだった。そのうちに決心したのか、ポケットから万年筆と手帳を取り出したが、急に時計を見て、 「大変だ、もうヴィッテンベルクまで一分もない」といって立上った。 「さあ、降りる仕度をしなさい」と彼はせかせかしていった。そして、 「ヴィッテンベルクで、駅員に口頭で伝達することにしよう。書く時間はもうないし、書くのは、やっぱり適当と思われないから」とつけ加えた。  私たちは慌てて立上り、降り仕度を始めた。女の子が手を振って私たちを見送ってくれた。大男の車掌がいった通り、汽車は私たちがデッキに出た時、ヴィッテンベルクの駅に入った。大男の車掌は私たちのあとからプラットホームに降り立ち、プラットホームの端にいる肥った大女の駅員を大きな声で呼ぶと、早口で、この人たちをユッターボック行の汽車に乗せて欲しい、この人たちはベルリンに帰るつもりで間違ってこの汽車に乗ってしまったのだ、といった。すると女の駅員は、ユッターボック行の汽車なら発車寸前だと大声で叫び、私たちに、向う側のプラットホームにこれから急いで渡るようにと指示した。私たちは大男の車掌への挨拶もそこそこに、地下道を抜け、一番端のプラットホームへ駆けつけた。  そこには恐ろしく旧式な汽車が私たちが辿り着くのを待っていてくれた。車掌がプラットホームに立って私たちの乗るのを見届けてから、発車の合図をした。  車窓から「ルターの町・ヴィッテンベルク」という駅名表示板が目に入った。私は町の姿を目におさめようと、走り出した汽車の窓から、町の方に目を走らせたが、黝ずんだ赤い屋根の連なりとくすんだ黄色の壁が見えるだけで、ルターが九五箇条の反対文をその扉に掲げたというヴィッテンベルク教会の塔の先すらも見えなかった。そしてそのうちに汽車は田園風景の中に入ってしまった。  私の親しい友人に、ルター研究家がいて、私は彼に一度ヴィッテンベルクを訪ねてみてくれないかとたのまれていた。しかしそのたのみをとうとう果せないままに帰国の時を迎えてしまったのだったが、何の因縁かたった今私はその町の駅のプラットホームをほんのしばらくの間だったが踏んだのである。  ふと私は、ユッターボックから先の汽車があるかどうかを大男の車掌に確かめないままで来たことに気がついた。ユッターボックから先の汽車がなくて、ユッターボックで一泊する位だったら、「ルターの町・ヴィッテンベルク」で一泊する方がどれだけ気が利いているか分らなかったのである。そうすればあしたの朝早く起きてルターゆかりの教会を訪ね、友人のたのみを果すことができたかも知れないのに。そこまで考えて、私は、私たちが午前零時までに東ベルリンを出る条件を課せられていることに気がついた。是が非でも午前零時までに東ベルリンの検問所を抜けていなくてはならないのだ。第一、ヴィザのない者を、ヴィッテンベルクのホテルは泊めてくれる筈はないのだ。事情を話しても?——恐らく駄目であろう。この国ではそんな柔軟な処置を期待しても無理というものだ。ともかく今日中に東ベルリンをあとにしなくてはならないのだ。  汽車は帰宅する通勤客で比較的混んでいたが、それでも座席が全部ふさがってしまう程ではなかった。汽車は一駅ずつ悠暢に停って行った。私たちが急行で一路驀進して来た線路を、今私たちは各駅停車ののろのろ列車で戻っているのだった。汽車が一駅停るごとに乗客は少しずつ確実に減って行った。私と妻は、駅に降りた通勤客たちが、野の道を歩きながら家路につく光景を、汽車が駅を出るたびに羨ましく打ち眺めた。そして汽車がヴィッテンベルクを出てから三十分を過ぎた頃には、車室の中はもう私たち親子三人だけになってしまった。  子供がお腹が空いたといい出した。妻がチョコレートを手提袋から取り出した。それが最後の食べ物だった。もっとたくさんあった食べ物は無憂宮庭園の飢えたる三匹の栗鼠たちに、思い切りよく全部振舞って来てしまったのだから——。私はようやく心細さを感じ始めた。汽車が一駅一駅停って行くのがもどかしかった。それにしてもユッターボックから先の連絡はどうなっているのだろうか。それを確かめないことには方針の樹てようがなかった。  車掌が姿を現わしたのは、汽車がヴィッテンベルクを出てから小一時間も経った頃であった。この次がユッターボックだ、と彼はいった。ユッターボックで約一時間の待ち合せで、ルートヴィヒスフェルデまで行く汽車が出る。ルートヴィヒスフェルデからベルリンまでの汽車連絡はもうないが、恐らくシェーネフェルト空港との連絡バスがあるだろう。そのバスで空港まで行けば、空港にはSバーンの駅があるから、終夜運転しているSバーンでフリードリヒ・シュトラーセまで出られる筈だ、という説明であった。バスは必ず出るだろうか、と私が訊くと、それは保証の限りではないが、まず出ると思う、と彼はいった。何時頃出るのだろうか、と重ねて糺すと、それはルートヴィヒスフェルデまで行ってみないと分らない、鉄道でないからわたしの本には載っていないのだ、といった。ルートヴィヒスフェルデで西のマルクを東のマルクと交換することはできるだろうか、と私が訊くと、それは不可能だ、と彼はあっさりと否定した。更に私は、バス料金がどの位か訊こうとして止めにした。きっと知らないだろう。それにもうこうなったらじたばたしてもしようがないのだ。なるようにしかならないのだ。それにしてもマイセンの陶器に化けてしまった滞在クーポンの六十マルクがうらめしかった。こんな時に東の金で六十マルクあったらどんなに心強いことだろう。西のマルクは百マルクあるが、それはあってもなきが如しの金であった。私たちの有金は、事実上は、東マルクの六マルクなにがしかに尽きるのである。とんだ旅行になってしまった、と私は思い、ミーゲル夫人が、ポツダムはピクニックに行くか遠足をするところだった、といっていたことを思い出した。もし今日中に無事に帰れ、いやあしたの夕食の招待に間に合うように帰れたら、ミーゲル夫人に、ポツダムへのピクニックが、どんなに長い旅になってしまったかを話さなければならない、と私は思った。しかし本当に帰れるのだろうか。どういうわけか私にはその自信がなかった。もしかするとこの国を永久に脱け出ることができなくなったのかもしれない、という奇妙な不安に、いつしか私の心は捉えられていたのである。  汽車がユッターボックに着いた。私は車掌にお礼をいおうとしたが、もうどこにも見あたらなかった。駅は驚くべく閑散としていた。地下道をくぐって私たちは、ひとまずルートヴィヒスフェルデ行の汽車が出る筈のプラットホームに出てみた。汽車は二十時十分に出ることが分った。二十時十分……順調に行っていれば、もう西ベルリンの我が家に辿り着き、夕餉を済ませ、子供はベッドに寝ている頃である。  子供がお腹が空いたといい出した。困ったわね、と妻が私にいった。栗鼠ちゃんにみんな上げちゃったのよ。せめて子供にだけでも何かを食べさせよう、と私が妻にいった。そして私たちは、駅のレストランに行ってみることにした。  レストランには勤め帰りらしい男たちが幾人かテーブルについてビールを飲んでいた。兵隊も一人いた。彼らは黙りこくったまま、互いには一言も言葉を交えずに、静かに殆ど陰気にビールを飲んでいた。窓際のテーブルに席をとり、メニューを見ると、私は急に空腹を覚えた。あの滞在クーポンの六十マルクを費わないで残しておいたら、という思いがまた痛烈に私を襲った。その私の思いがうつったように、「マイセン陶器を買っていなかったらねえ」と妻がいった。それは恨みがましく響いた。私は黙っていることにした。  四十代の白い前かけを掛けた女の給仕が私たちのところに注文を取りに来た。私は念のため、西マルクを東マルクに両替してもらえないだろうか、と訊ねてみた。女給仕は黙って首を振った。  腹が減ってはいくさができない、と私は思った。この際腹拵えをしておかなくては耐久力もつかないに違いない。バスは事情を話せばタダで乗せてくれるだろう。そう私は一途に思って、私たちの所持金のすべてである六マルクなにがしかで三人が食べられるものをメニューの中から捜し出そうとした。ジャガイモのサラダつきのソーセージがあれば安上りだったが、それがなかった。  子供には飲み物なしに食事ができない習慣がついていた。私たちは子供のために、アップフェル・ザフトと一番安い一マルク八〇の定食を一人前注文した。するともう四マルクも残らない勘定だった。ソーセージはないだろうか、と私は女給仕に訊ねた。ソーセージはおいてない、と彼女はいった。定食を一つとって二人で分けようか、と私が妻にいった。「あなた方は一体いくら東マルクを持っているのか」と突然女給仕がいった。妻がありったけの東独の金をテーブルに並べた。六マルク三十二プフェニッヒあった。 「あなた方はこれからベルリンに帰るのだろう」と彼女はいった。 「お腹が空いていては困るだろう。ここのところは私に任せておいてくれ」  そういって彼女は私に飲み物は何にするかと訊いた。 「ビールをお願いします」とのどの渇いていた私は思わずいってしまった。  女給仕は同じ問いを妻にした。妻はちょっとためらったのち、 「じゃあ、アップフェル・ザフトをお願いします」といった。  しばらくして彼女は、たしか一人前二マルク五十したカツレツの定食を三人前と、飲み物を持って来た。何か安い料理を見つくろって、六マルク三十二プフェニッヒの範囲内で持って来てくれるのだろうと思い込んでいた私は慌てた。 「あなたの注文した方の定食は」と彼女は小さな声でいった。「まずくて食べられたものじゃない」 「しかし」と私はいった。「私たちにはそんなにお金がない」 「心配するな」と彼女はいった。「あなた方は遠くから来たお客さんだ。足りない分は私が招待する」  私たちにできることといえば、心からの感謝の言葉を彼女に述べることだけしかなかった。  ふと私は、女給仕の住所と名前を教えてもらおうと思い立った。せめて何かあとからお礼のしるしを送りたいと思ったのである。  しかし私の問いに、彼女は「否《ナイン》」と怒ったように手を振っていった。「心配は要らない」  三人が三人とも飢えていた。私たちは彼女の好意に甘んじることにして、食事を始めた。すると間もなく子供がアップフェル・ザフトのコップをひっくり返してしまった。私と妻の二人は思わず顔を見合せた。そして次の瞬間二人が二人とも考えていたことは、女給仕に見つからないようにしよう、ということだった。しかし女給仕は逸早くそれを認めていた。そして妻がひっくり返した跡をハンカチで拭こうとするところへ駆け寄って、それを押し留め、隠し持った布巾でさっさと拭き始めた。そしてそれから私たちが代りのアップフェル・ザフトはいいからと断わる間もなく、新しいアップフェル・ザフトを持って来た。  汽車に乗る時間が迫って来た。私たちは食事を済ませると立上った。彼女は料金を六マルクしかとらなかった。私たちはもう一度心からの感謝の言葉を述べた。彼女は私たちの一人一人と握手をして、元気でお帰りなさいといった。  私たちはプラットホームへ急いだ。プラットホームはすでに夕闇に包まれ始めていた。肌寒かった。寂しい駅であった。もしかすると彼女は難民だったのかも知れない、とふと私は考えた。そして難民だった彼女の目に、私たちも難民のように映ったのかも知れない。そして彼女が難民で逃れて来た時に施された親切を私たちに贈ってくれたのかも知れない。——彼女が私たちのために自腹を切ってくれた金額は、彼女にとっては決して小さな額ではない筈だった。  二十時十分発の汽車は、さっき乗った汽車よりも、もっと古めかしい汽車であった。一つ一つの車房が独立しているので、辻馬車にでも乗っているような感じだった。向い合った座席は、板張りで、幅が狭く窮屈だった。その座席の間の両側に、ドアがついていて、各車房から直接乗降するようになっているのである。汽車の走り方も、辻馬車のような車房にふさわしくのろかった。天井に灯って鈍く車房内を照らしている五燭光位の電球が、ランプのようにさえ思われる。外は真暗であった。カーテンがないので、黒いガラスがはめ込まれているみたいであった。子供はいつの間にか妻の膝で寝てしまった。私はレインコートを脱いで子供にかぶせた。レインコートを着て来てよかった、と私は思った。そうでなかったら、子供に風邪を引かしてしまうところだったろう。  それにしてもなぜ私たちはライプツィヒ行の急行に乗り違えてしまったのだろう。急行が遅れて到着して、そのために十六時四十六分発の汽車とまぎらわしいような着き方をしたのであろうか。ライプツィヒ行急行が出たあとに到着する汽車が私たちの乗るべき汽車だったのであろうか。もしそうなら拡声器か何かでその旨の注意があってよさそうなものだった。それとも私が見た掲示は改正前の掲示で、その後到着ホームが変更になったのであろうか。しかし私がプラットホームで訊ねた駅員も私の確認した通りのことをいったではないか。考えても埒があかなかった。結局のところそれを一個の謎として解明しないままに放置しておくことが一番いいような気がした。  それにしても空港行のバスは本当に出るのであろうか。そしてもし出たとしても、その空港行のバスは、本当に私たちをタダで、ロハで、乗せてくれるであろうか。その疑問が私の不安を駆り立てて止まなかった。たしかに私たちは西マルクで百マルクは持っていた。それは邦貨にして九千円近い額である。一日の旅行の予備費としては不足のない額である。しかしそれが今この時点では無に等しいのだった。それは私の予想していなかったことだった。私たちの所持金は、現時点に於ては、東の金の三十二プフェニッヒだけなのである。  今となっては、東ベルリンを立去る最終時刻の午前零時という期限は問題ではなくなってしまった。東ベルリンのフリードリヒ・シュトラーセに無事辿り着くことができるかどうかが問題であった。もしバスが出なかったら、タクシーでフリードリヒ・シュトラーセまで乗りつけるという手もあるな、と私は考えた。そしてタクシーに待ってもらって、フリードリヒ・シュトラーセの両替所で、東マルクと交換して払えばいいのだ。たしかフリードリヒ・シュトラーセの両替所は終夜開いている筈だった。タクシーの料金も百マルクを越すことはよもやあるまい。しかしルートヴィヒスフェルデにタクシーがあるかどうか、それが問題だった……  私はもう考えるのを止めにして、眠ってしまおうと思った。しかし目をつむっても不安は募るばかりだったし、目を開けると、薄暗い車房の中が無気味に思われてならなかった。  ルートヴィヒスフェルデに着いたのは夜の九時を過ぎていた。私たちと入れ違いにバスで無憂宮庭園に向った日本人観光客の一団はきっともうホテルに帰着して、夕食を済ませ、自室に寛ろいでいるか、クァフュルステンダムの夜の散歩でも楽しんでいることであろう。  子供はどうしたものか目をぱっちりと開け、まったくむずがらなかった。ルートヴィヒスフェルデの改札口は無人だった。私たちは何の言訳をする必要もなく、その改札口を抜け、すぐ前の待合室のベンチに休んだ。しかしすぐ私ははじかれたように立上って、出札口に、空港行きのバスが本当に出るのかどうかを、確かめに行った。五十を過ぎた位の出札係りの女の駅員は、不愛想に、バスは出ることに|なっている《ヽヽヽヽヽ》、といった。何時だろうか、と訊くと、二十三時八分だ、という答えが戻って来た。約二時間の待ち合せである。そのバスの料金はいくらでしょうか、と訊ねかけて、私は止めにした。どっちみち私たちは東の金を三十二プフェニッヒしか持っていないのであった。ここまでは、ポツダム—フリードリヒ・シュトラーセの切符でどうやら辿りつけた。検札もなかったし、もしあったとしても理由を説明すれば納得してもらえただろう。しかし鉄道ではないバスまでが私たちをタダで乗せてくれるだろうか。考えてみると自信がなかった。  外は真暗闇だった。私は妻と子供を待合室に残して、バスの発着所を確かめに行った。それは確かに存在した。道の側に窓がないので黒い箱のような駅のレストランの真向いにあったのである。そして発着時間の掲示板にはたしかに二十三時八分発の空港行バスという表示があった。日に三本しかないバスの最終である。タクシーは見渡したけれども影も形もなかった。ホテルらしい建物もなかった。もし空港バスが出なかったら、待合室で夜明かしをすることを余儀なくされるのだ。  子供が間もなく飲み物を欲しがった。私は駅のレストランに出かけて行った。満員であった。煙草の煙が濛々と立ちこめていた。三十プフェニッヒで手に入るものは一つあった。ゼルター水というミネラルウォーターである。私はそれを買って来て、子供に飲ませてみたが、子供はまずがって、一口飲んだだけでもうそれ以上飲もうとしなかった。  十一時に近くなると、私たちは外に出てバスを待ったが、十一時になってもバスは姿を現わそうとしなかった。私は不安になり始めた。本当にバスは来るのだろうか。本当に私たちは帰れるのだろうか。帰国寸前に、私たちは運命の手によって帰ることを拒まれてしまったのではないだろうか。そんな不安が私の心をさいなんだ。もしバスが本当に来たとしても、タダで私たちを乗せることを拒否したとしたら、と私は考えた。私たちはこの駅の待合室で夜を明かすことを余儀なくされるだろう。そしてあしたの朝の一番の汽車でベルリンに帰るということになるだろう。汽車は切符を見せて事情を話せば恐らく了解して乗せてくれるだろう。まずそれは大丈夫だろう。しかしベルリンに辿りついてからが問題だ。フリードリヒ・シュトラーセの検問所は、私たちが期限の午前零時までに帰らなかったことを、この尨大な遅刻を、果して黙過してくれるであろうか。  十一時五分にバスが姿を現わした。大きな立派なバスであった。私たちは車内燈がつけられていない、暗い車内へ乗り込んだ。子供は観光バスだといって喜んだ。彼は一度「観光バス」に乗りたいといっていたのである。  と、レストランの扉が開いて、さっと一条の光が暗闇の中に流れた。そしてその流れの中に、トランクを提げた人々の姿が浮び上った。レストランの黒い箱は、そうした待機客を次から次へと吐き出した。彼らは列をなして、依然として車内燈をつけていない、暗いバスに歩いて来た。そしてバスの座席を間もなく埋めつくした。私が子供のために飲物を買いにレストランに入って行った時、レストランに詰めていた人々の大多数は、空港行のバスを待っている客だったのである。汽車を降りてからこのバスの到着するまでの長い時間を(恐らく彼らの多くは私たちより前の汽車で着いている筈だった)、彼らはレストランの硬い木の椅子に坐って、煙草を吸い、ビールを飲み、ソーセージを食べながら、辛抱強く待っていたのだ。  二十三時八分を二分遅れてバスは発車した。車内燈は遂に灯されないままだった。走り出すとすぐ、客席と透明なプラスチック製の壁で完全に遮断されている運転手席から運転手が、拡声器を通じて、行先がシェーネフェルト空港であることを告げた。彼はさっきから一度もその運転手席を出ずじまいであった。口を利いたのもそれが初めてであった。孤独な独裁者のように彼はその運転手席に坐り、客が乗り込むのをただ見守っていたのである。私たちが乗り込んだ時も、これはシェーネフェルトへ行くバスですね、という私の問いに、彼は黙って頷いただけだったのだ。  バスは夜道をひたすら走った。あたりは恐ろしい程暗かった。私は常闇の国を通っているような気持がした。乗客は一言も口を利いていなかった。子供はいつの間にか眠ってしまった。私は死の国へ連れて行かれるような不安に駆られた。死の国へ行くバスに乗り込んでしまったような気がしたのだ。切符がないのを咎められるのではないかという不安はとうに消えて、今私の心を捉えている不安は、このバスに乗ったことによって私たちは永久に帰ることのできない旅に連れ込まれたのではないかという無気味な恐れであった。  そうして五十分も過ぎたであろうか、突然前の方が明るくなった。シェーネフェルト空港入口という看板が見える。Sバーンの駅のプラットホームが見えた。拡声器がSバーンのシェーネフェルト駅であることを告げた。私たちは慌てて立上って降りた。検札は遂に一度もなかった。私たちはしばしたたずんでこの寛大な共産主義国の無料空港連絡バスの後姿を、感謝と共に見送った。  シェーネフェルト駅は、目も眩むばかりに皓々と輝いていた。こんなに明るい駅が東ドイツに存在することを、私はこれまで知らないでいた。東ベルリンの空の玄関に接続する駅であるから特別に明るくしているのであろうか。暗いところから突然出たために明るさの印象が余計甚しかったのであろうか。  この駅の改札口を、私たちは切符を見せて初めて大手を振って入った。私たちの切符には、このシェーネフェルトからフリードリヒ・シュトラーセまでの区間は含まれていたからである。  駅の時計が零時十分前を示していた。果して零時までに、フリードリヒ・シュトラーセに辿り着けるか危ないものだった。  電車は中々出なかった。出たのは零時五分前であった。五分で、この電車がベルリンの中心部まで私たちを運んでくれるということは、まずあり得なかった。  フリードリヒ・シュトラーセに着いたのは、零時二十二分であった。Sバーンの駅から一旦外に出て、東ベルリンを去る者のための検問所に入ったのが零時二十六分であった。二十六分の遅刻。村の小学校の雨天体操場のような検問所はがらんとしていた。一人検問を受けている男がいた。よく見ると、朝私に話しかけてきた、好色そうな口髭を生やしたペルシアの少佐であった。彼も遅刻したのだ。どこで何をぼやぼやして来たのだろう、と思った途端、私は検問所の入口のところに、中を窺っていた若い女が佇んでいたことを思い出した。その若い女は、この国には珍しいような派手なスカーフをして、どぎつい口紅をつけ、香水の匂いを発散させていたのだ。彼女がペルシアの少佐が友だちにたのまれたナイロンのストッキングと香水を持って行った女性であることは間違いなかった。もしかすると彼はもっとほかにも色々と土産物を用意して行ったのかも知れない。そして期待した以上に歓待されて、思わぬ長い時を過してしまう羽目に陥ってしまったのだろう——。  私たちも検問を受けるために、受つけ台に近づいていた。ペルシアの少佐を検問している、禁欲的な表情の兵隊は私たちに、流し目を送るとまた少佐の検問を続けた。 「どこで、何をしていたか、それが説明できなければ、通過させるわけには行かない」  少佐は泣きそうな顔をしていた。 「雰時を過ぎてはならないことは分っているだろう。今夜はここに残ってもらう」  というと、兵隊はペルシアの少佐に中へ入るようにいった。ペルシアの少佐はすごすごと彼の指示に従った。彼は遂に私たちの存在に気づかずじまいであった。  誰か別の兵隊に少佐を引き渡したのか、同じ兵隊がすぐに戻って来た。私はヴィザとパス・ポートを台の上に並べて待っていた。彼はパス・ポートの写真と私たちの顔を見比べて確認したのち、ヴィザを確かめた。それから彼は壁に掛っている時計をじろりと見て、また私の顔をじろりと見た。それから彼は妻の顔を見、妻に抱かれたまま眠っている子供の顔を見た。 「汽車を乗り違えてしまって」と私が喋ろうとするのを彼は聞こうともせずに、無言のまま、あごをしゃくって、行けという合図をした。彼は二十数分の遅れを黙認してくれたのである。  その日私たちがミーゲル家に着いたのは夜中の二時であった。 [#改ページ]   あとがき  この作品集には昭和四十一年から四十二年にかけて発表した作品五篇が収められている。  表題となった『徳山道助の帰郷』は今年の一月から書き始め、五月に完成した。しかしこの作品を書こうと思い立ったのは、ずい分前のことだった。昭和三十年春に祖父の故郷を初めて訪れた時に構想が浮び、それからまもなく書き出したが、中途で筆が停滞し、何度書き直してもどうしても完成に至らせることができず、完成を一旦諦めて放置してあったのである。その後何度か書こうと思いながら果せず、漸く今回新たに書き始めて十二年ぶりに完成することができた。 『殉愛』は『徳山道助の帰郷』に引き続いて書いた。 『クラクフまで』は昭和四十一年の三月に書いた。ポーランドに旅行した時に実際に経験したことをもとにして書いた短篇である。 『朗読会』と『ピクニック』は昭和四十一年の十二月から四十二年の一月にかけて、相前後して書いた。昭和三十八年の八月から四十年の八月までの約二年間私は政府交換留学生として西ベルリンに滞在していたが、『クラクフまで』同様、その時の経験をもとにして書いたものである。  ここに私の処女創作集を上梓するにあたって、これまで私の作品を読んで親身な批評をして下さり、熱心な激励を惜しまれなかった多くの方々に対して、心からの感謝を捧げたいと思う。   昭和四十二年十二月二十日 [#地付き]柏原兵三  この作品は昭和四十三年一月新潮社より刊行された。