TITLE : 身辺怪記 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 身辺怪記 目 次 身辺怪記 身辺怪記 村社会のエキゾチシズム 台風銀座育ち 方言の壁は文化の砦《とりで》 死者の書 妖《よう》精《せい》の悪戯《いたずら》 古都の魔力 傷《きず》 痕《あと》 落書きの心理 地球のどこかで 燃える木の里 因縁話 宇宙船幽霊説 黄昏《たそがれ》時の老女 土佐の異神たち 路地裏のにおい 南方浄土 南の島の陽気なバス 故郷の訛《なまり》懐かし軍艦《マニヤガハ》島 熱い生命の漲《みなぎ》る島 世界の村は皆、似ている マルケサスの男 歴史の見えざる糸 畑の形 地下迷宮に眠るメドゥーサ アンタルヤのピナコラーダ メルハバ・マサコ サイパン点景 プンタンの背中 月《ヴイル》の島 マラエとテレビ サルデーニャの石塔 羊飼いの聴く音 わが心の町 田舎の喧《けん》騒《そう》 国際列車で出会った男 昔日残夢 夢の残り香 隔離病棟の夏 私の怪記録 田舎娘の悪夢 道 草 失われた「隠れ家」 猫の交通事故 25メートルプール 野山の味 神々しい匂い 路傍の休息 日常雑録 虫愛《め》ずる季節 頼みの綱の半覚《かく》醒《せい》没入法 飴《あめ》一個の持つ魔力 土用鰻《うなぎ》を知ってますか? 芦屋の坊ちゃん 四本足で歩いた原宿 あかんべー ニーチェを手玉にとった女 好きな本 藁《わら》半紙の本 強い女 王さまに教わらなかったこと 身辺怪記 身辺怪記 「気をつけたがいいよ」  怖い話を書いていると、霊的に敏感な人から、よくこう耳打ちされる。この世のものではない事柄をテーマにするのは、心してかからないと危険らしい。  確かに、怖い話を書こうと取材に入ると、不気味なことが起こりはじめる。  一作目の『死国』では、舞台となった四国霊場のひとつ、禅師峰寺を訪ねて行った日の晩、悪夢にうなされた。血の池から、子供たちがぞろぞろと這《は》いあがってくる。これは夢だ、と思って、目を覚ました。  ああ、よかった、と蒲団の中でほっとした時、隣に別の蒲団が見えた。いつも私は部屋で一人で寝ている。おかしいな、と思ったとたん、隣の蒲団の中から、がばっ、と血まみれの骸《がい》骨《こつ》が飛びでてきて、私の腕に喰《く》いついた。  昼間、何気なく読んでいた禅師峰寺のお真言を必死で唱えた。 「おん まか きゃろにきゃ そわか」  いい終えると同時に、今度こそ夢から覚めた。  後で考えたら、禅師峰寺では、天保の飢《き》饉《きん》で死んだらしい子供の墓ばかり喜々として写真に撮ったのだった。面白半分でお寺になんか行くから、そんなめに遇うのだ、と霊感ある人に戒められた。以後は殊勝な気持ちで取り組むようにしたら、今度は私の周辺に影響が出てきた。  あれは『死国』が印刷に回ったくらいの頃《ころ》だ。近所に住む友人のYさんが、妙なことをいいだした。『死国』では、私は「かごめかごめ」の童謡を下敷きにしていたのだが、彼女の家の留守番電話に、頻繁に「かごめかごめ」の歌が入るようになったというのだ。誰《だれ》がかけているかわからないまま、機械音の歌が、延々繰り返し録音されている。本の発売と共に、その現象も収まった。 『狗《いぬ》神《がみ》』の時は、ワープロが一回壊れ、『蛇鏡』になると、修理したばかりのそのワープロがまたおかしくなった。  しかも尋常の様子ではない。画面がふわあっと暗くなっていき、文字がそれこそ蛇のようにくねりだす。と、突然、ぱっと元通りになったかと思うと、今度はじりっじりっと画面の隅へと寄っていく。まるで文字が身を捩《よじ》って逃げていきたがってる気がする。ついに修理に出したが、プリンターの故障だといわれただけだった。  今春、小説雑誌のグラビア取材で高知に行った。当地の三大奇祭のひとつに数えられている仁《に》淀《よど》村の秋葉祭りの見物と、近隣に残っている古い寺社や風物を見て回る旅である。  もちろん、怖い話にまつわるものだったから、行く場所も古い墓や四国遍路ゆかりの地や怪しい気配の漂う神社。ただですむはずはない。東京に戻ると、カメラマンの撮った写真のうち二本は、原因不明のまま真っ黒になっているし、同行した編集の女性は原因不明の高熱を発して寝込んでしまった。  で、私のほうは、何ともない。  結局、これは妖《よう》気《き》の漂う場所にあたってしまったのであると結論づけた。知恵熱のようなものだ。私は小さい頃から、その場所の近くにいたので平気だったのだろう。  この話を『死国』と『蛇鏡』を担当してくださった編集者にいった。なにしろ彼は、極めつきの現実主義者だ。今まで、こんな話をすると鼻先で笑っていたものだったが、今回は違った。あたりを憚《はばか》るような小声でこういったものである。 「僕もだよ。坂東さんの本の校了に入ると、いつもぴんぴんしている僕が、決まって原因不明の高熱で体調、崩すんだ」  ということは、私の怖い話もまた、古い神社や墓場のような妖気を発しているのかもしれない。私が平気なのは、きっと免疫ができたせいだろう。免疫ができたとすれば、私の身辺の怪奇が鎮まってきた二年前の夏あたりからだ。そういえば、当時、先述のYさんが妙なことをいっていた。  夜、起きると、誰かがいるような気配がする。寝る前には開いていたはずの戸が朝には閉まっていた、ということが続いた、と。  どうやら、あの頃から、私の怖い話にまつわる物怪《もののけ》が徘《はい》徊《かい》しはじめて、関係のある人々のところに影響を与えるようになった感がある。私自身には、その影響がどこまで広がるものなのか見当もつかない。ひょっとしたら、これを読んでくださっている人のところにまで及ぶかも……。  ゆめゆめ、怖い話を侮るなかれ。 村社会のエキゾチシズム  久しぶりに郷里の高知に帰った時のことだ。母が苦笑いをしていった。 「この前のこと、うちが常《じよう》均《きん》様の当番やったに忘れちょってねぇ。一日遅れやったけど、慌てて近所の人に頼んで集まってもろうて、お祭りしたわ」  常均様は、家の近くの畑の中にある小さな祠《ほこら》だ。年に一度、その前に人々がお供えを持ち寄って集まり、お参りする。私の幼い頃の記憶には、大人たちが常均様の祠の前で、お酒を呑《の》み、持ち寄った菓子や寿司でささやかな宴を開いている横で、近所の子供たちと遊んでいた情景が焼きついている。  だが、常均様に集まる行事が当番制になっていたとは初耳だった。だいたいその儀式の仕組みを考えたことなぞなかったのだ。  興味を覚えて、どんなふうに当番が決まるのだと尋ねると、集落中をいつも回っている木の札があるという。そこには集落の五十ほどの各戸の名前と、年間の行事が記されている。行事は常均様のお祭りだけではない。年に十回ほどあり、阿弥陀様や琴平様、若宮様や姥神宮、秋葉様などで行われる御月日待祭、御見立祭、御迎え祭といった色々な祭りがひしめいている。祭りのたびに、その神様に関わりのある村のあちこちの祠や神社にお参りしなくてはならない。かつては集落全員の者が参加していたのだろうが、あまりに煩雑なので木の札による当番制となったのではないだろうか。現在では、木の札が回ってきた家が、その回の当番となり、後の順番の五軒の家の人と一緒に定められた日に定められた神社なり祠なりに行く習わしらしい。  似たような木の札が、村の六、七ほどの大集落ごとにあって、年中、各戸を回っているという。村全体の祭りもあれば集落だけの祭りもあるから、つまりは月に二、三度は村の誰かが連れ立って、あっちの山の神社やこっちの谷の祠にお参りしているわけだ。  村史を紐《ひも》解《と》くと、元禄時代、非業の最期を遂げた常均という修験者の父と、その娘が祟《たた》るので、二人の霊を祀《まつ》っている、と出ていた。他の祠や神社にも何らかの由来があるのだろう。が、今では、私の両親も含めて、その由来を覚えている者はまずいない。ただ木の札の指示に従って、お参りしているだけなのだ。若い者たちも、自分の家だけ村のしきたりからはずれるわけにもいかないから、当番が来たら参加する。昔は戸主の男性だけの集まりだったのが、会社勤めの人も増えた現在、女性も加わるようになったことが、変化といえば変化らしい。  母の説明を聞いて、私は驚いた。十八歳になるまで、この村に住んでいた。おまけに最近では、地方の風習や民俗を題材にして小説まで書いている。なのに、そんな木の札の存在も、そんなにしょっちゅう、人々があちこちの神社や祠にお参りしていたということも知らなかった。  村出身の私ですらこうなのだから、ふらりと訪ねてきた人は想像もしないだろう。新築の家やビニールハウスが建ち並び、どの家にも車が二台はあるような何の変哲もないこの農村で、今なお、こんな信仰が受け継がれているとは。  私の故郷だけではない。日本中で、そういった神事を綴《つづ》った木の回覧板がひそかに回り続けている村が存在するはずだ。そして人々は、神道仏教、民間信仰を問わず、身近な神々に祈り続けている。どの神もおろそかにできないから、やけに神事で忙しくなる。  こんな面倒なこと、やめてしまったらいいではないか、と現代人なら思うはずだ。村の人たちも心の隅では、そう考えることもあるだろう。だが、やめられない。どれかひとつの神様でも、お祭りを欠かしたら、災いに見舞われるのではないかと畏《おそ》れている。  どの神様も均一に畏れているのは、はっきりした神の概念はないということだ。その根の部分には、人知を超えた存在への畏怖が横たわっている。人の力ではどうしようもない天変地異を巻き起こし、思わぬ不幸をまき散らす何かに対して、自分や家族の息災を祈っているのだ。  すべてが西洋化してしまったように見える日本の底流に、まだこんな精神世界が残されていることに、私はたまらない興味を覚える。それこそ、現代における最もエキゾチックな情景。そして私が小説において表現したい、と願う世界なのである。 台風銀座育ち  日本の多くの街に、「銀座」と名のついた繁華街がある。その響きに、華やかで人の気をそそるものがあるからだろう。  私の生まれた高知県には、残念ながらナントカ銀座と名のついた通りはないが、代わりに「台風銀座」という、あまりありがたくない名前がついていた。実際、そういわれても仕方のないほど、夏から秋にかけて、ひっきりなしに台風が通り過ぎる。本物の銀座なら、通り過ぎるのは通行人。商店街にお金を落として行ってくれるだけだが、台風銀座ではそうはいかない。残していくのは、嵐の爪《つめ》痕《あと》である。  山崩れや、鉄道や道路の不通。人が死んだり、家が潰《つぶ》れたり……。私の小学校の同級生の父親は、台風の時に外を歩いていて、飛んできたトタン板に頭を直撃されて即死してしまったし、隣家のおばさんの親《しん》戚《せき》は山崩れで一家全員生き埋めになった。「台風銀座」の命名は、決してほんものの銀座の持つ、華やかな空気に彩られてはいない。  だが、私は台風が大好きである。  被害にあった方々には申し訳ないが、台風が来るとわくわくする。全身の血が騒ぐのを感じる。特に、被害の悲惨さに気がついてなかった子供時代、台風のたびに震えるほどの興奮を覚えた。  不思議と台風は夕方から夜にかけてやってくる。小学校の帰り、曇り空の下をランドセルを背負って田圃《たんぼ》の畦道を歩いていると、ざわざわと不穏な音をたて、緑の稲を揺らせながら台風襲来を告げる風が吹いてくる。それは特別な風だ。湿った空気の一粒一粒に力がこもっている。この匂《にお》いを嗅《か》いでいると、刷毛で体《からだ》の内部を撫《な》でられているような感じがする。  家に戻ると、共働きの両親も早めに仕事を終えて帰宅していて、台風に備えている。鶏小屋に板の覆いをして、家の周囲の風に吹き飛びそうなものを片付ける。自転車は車庫にしまわれ、洗濯物も片付けられる。私と姉と妹の三人の子供たちもそれを手伝う。  やがて雨が降りはじめる。  風が強くなるのは、夕食を過ぎてからだ。激しい雨が雨戸を叩《たた》き、風がごうごうと山の木を揺すぶる。村の有線放送用のスピーカーから、方言まるだしのアナウンスが流れてくる。どこそこの集落が床下浸水しました。どこそこの道が山崩れで不通になっています。そんな情報が次々ともたらされる。  ざわついた空気の中で、私たち子供は二階の寝室に追いやられる。だが、簡単に眠れるものではない。なにしろ風が吹くたびに家がぐらぐらと揺れ、ひっきりなしに耳をつんざくほどの雷が鳴っている。姉や妹と交代で、雨戸の節穴に目をあてて、稲妻の閃《せん》光《こう》を眺めたり、揺れる家の中で悲鳴をあげたりして騒ぎまわった。夜も更けた頃、やっと疲れ果て、蚊帳《かや》にもぐりこんで、台風のゆりかごの中で眠りについた。  翌日、目覚めると、台風は去っている。前夜の騒ぎが夢の中の出来事のように感じられたものだった。  こんな調子で、台風はいつも蒲《ふ》団《とん》にくるまって眠る間に通り過ぎていった。直接、その脅威にさらされた経験がないから、今もって台風が大好きだ、といえるのだと思う。  それでも、ただ一度だけ、これこそ台風なのだ、と実感したことがある。  あれは十一、二歳の頃だった。真夜中、私はふと目を覚ました。相変わらず風の音が激しい。ひっきりなしに雷の音がしている。  姉も妹もぐっすり眠っていた。階下の両親ももう寝てしまったのだろう。家の中は真っ暗だ。私はまた寝ようとしたが、妙に目が冴《さ》えてしまって、蚊帳の外に這《は》いだした。そして廊下に行くと、雨戸の前に立った。  がらがらっ、がらがらがらっ。  雷が鳴り続けている。雨戸を開けてはいけない、といわれていたので、いつもなら節穴から外を覗《のぞ》くだけだが、その晩、見咎《とが》める者は誰もいなかった。私はそっと窓をずらして、雨戸を開けた。  濡《ぬ》れた戸の隙《すき》間《ま》から、強い雨と風が吹きこんできた。風雨を通して表を見て、目を見張った。  稲妻が宙を駆け巡っていたのだ。  私の育った家の前には一面の田圃が広がっている。その田圃のあちこちに稲妻がきらめいている。幾つもの青白い閃光が空からじぐざぐに落ちてきて、田圃を照らしていた。  稲妻を竜にたとえることがあるが、まさに白銀の竜蛇だった。何匹もの竜が緑の稲を踏み倒し、田圃の上を暴れまわっている。  私は時も忘れて、真夜中の稲妻の饗《きよう》宴《えん》に見入っていた。  台風は美しい、と思った。それは自然の放出するエネルギーの美しさだった。  翌朝、目覚めると、いつもどおり台風は過ぎていた。稲妻が躍っていた田圃は浸水して、稲が穂先だけ覗かせてあっぷあっぷしていた。学校は休みとなり、父も母も仕事はなかった。  有線放送は、かなりの家が浸水しただけでなく、川の氾《はん》濫《らん》で流された家も多いと告げていた。聞いているうちに、父が、「見に行こう」といいだした。無論、子供たちは歓声をあげて賛成した。  私たちはぽんこつ車に乗って見物に出かけた。濁流の流れる川の縁に二階まで沈んだ家が並んでいた。路上には風に飛ばされてきた看板や板きれが落ちていた。国道を高知市のほうに進んでいくと、やがて道路が茶色の水に没して、そこから先は湖となっていた。田圃も道路も、水の底だ。  私たちは車から出ていった。あたりには、やはり見物に来た人々の車が止まっている。突然、現出した湖の表面は、太陽の光をきらきらと反射していた。台風の後の爽《さわ》やかな風を浴びながら、皆、静かに湖を眺めていると、なぜかとても満ち足りた気分を覚えた。  今にして思うと、台風のエネルギーの余波を感じていたのだと思う。前夜、あのような稲妻の饗宴を垣間見た私はなおさらに。  台風の美しさの根源は、そのエネルギーにある。ため息が出るほどの圧倒的な力だ。人は風や雨の中にそれを感じて、心を動かされる。  すべて人の心を揺すぶるものは、このエネルギーを持っているのではないだろうか。絵画にしろ、光景にしろ、書物にしろ、人が感動するのは、そのものの内包するエネルギーが見る者の心に伝わり、内部を揺すぶるからだろう。  だが、そのエネルギーは、時に残酷さや醜さを生み出す。素晴らしい絵や文学作品を描く芸術家のあまりにエゴイスティックな振る舞いが周囲の者の人生をめちゃくちゃにすることが多いことに、私は常々、怒りと割りきれなさを覚えていたものだが、それもまた圧倒的な力のもたらす弊害だろう。台風の爪痕と似たようなものがある。  だが台風の爪痕がどんなに残酷でも、その力は感動的である。  実際の被害にあわずに生きてこれたせいだろうが、私は「台風銀座」で育ったことに感謝している。この土地は、夏ごとに、自然のエネルギーを与えてくれ、その体験は今も私の心を揺すぶっているからである。 方言の壁は文化の砦《とりで》  先日、新潟県の山間の村に行く機会があった。  すでに秋の声を聞きはじめた頃《ころ》で、険しい山並みを背景に、金色の稲穂が揺れていた。そこは豪雪地帯として知られる地方だが、夏から秋にかけては四国の山村とさして違わない風景が広がっている。  私は村はずれの温泉に宿を取り、付近を散策した。車もめったに通らない道路を山手に進んでいくと、民家二十軒ほどの小さな集落があった。ちょうど収穫の最中で、人々がトラクターで稲を刈っていた。木を組んで作った稲架に、刈った稲を干している。  道路脇《わき》の車庫の前には、地面に座りこんで休んでいる人々がいた。一家で稲の収穫をしているのだろう。父親らしい男を中心に、手《て》拭《ぬぐ》いをかぶった女性や若い男の子たちが車座になって昼食を取っている。  会釈して通り過ぎてから、その少し先の石碑の前で立ち止まった。古ぼけた石碑の文字を読んでいると、休んでいた人々の中から、中学生くらいの少女が飛び出してきて、「どうぞ」といいながら私に皿を差し出した。  皿の上には、ふかし芋が載っていた。  道路の向こうの人の輪からは、父親らしい人が笑いながらこちらに頷《うなず》いてくれている。ありがたくひとつ頂いてから、私は少女に尋ねた。 「刈り入れの途中ですか」  おかっぱの娘は、きょとんとした顔をした。私はもう一度、質問を繰り返した。それでも彼女には理解できないようだ。この人、何をいっているのだろう、と訝《いぶか》っている。  私は、もういいんだ、というふうに首を横に振った。少女はやはり思案顔で戻っていくと、こちらをちらちらと見ながら、家族に何か告げた。  ——カリイレだと。  ——なんじゃ、それ。  人々の間から囁《ささや》きが漏れてきた。  私は、とんでもない言葉を吐いてしまったような気分になった。ばつが悪くなって、そそくさとその場を離れると、ふかし芋を食べながら田圃の中の一本道を歩きだした。  なぜ「刈り入れ」が通じなかったのか、わからなかった。私の発音が悪かったのだろうか。それとも、このあたりでは、その言葉は使われてないのだろうか。稲刈りといったほうがよかったのかもしれない。もしくは、収穫を意味する、この地方特有の方言があるのかもしれない。  どこかで読んだ記憶があるが、戊《ぼ》辰《しん》戦争の時、会津まで赴いた土佐藩士は、同盟を結んだ仲間の薩摩や長州の藩士たちとほとんど言葉が通じなかったという。だが、昔ならいざ知らず、全国津々浦々にテレビが普及している時代だ。中学生ならテレビを通して、いわゆる「標準語」には慣れているはずではないか……。  しかし、その集落を後にする頃には苛《いら》立《だ》ちも薄れ、むしろ愉快になってきた。言葉がうまく通じないとは、なんだか異国に来たみたいだ、と思った。  今、日本語は変わりつつある。外来語が流れこみ、造語が次々に生まれている。その変化はテレビやラジオを通じて全国に伝わり、誰もが似た単語を使い、似た言葉を喋《しやべ》るようになっている。  だが、本来、言葉とは、土地に深く密接しているものだ。その土地固有の言葉の中に、その土地固有の文化が詰まっている。  最近、小学校では、国語の教科書の朗読を「標準語」のアクセントで読むように指導している場合が多いと聞く。そうやって、半強制的に方言の匂《にお》いを消していくことによって、地方の持っている底力を自ら減じさせているのではないか。  日本各地には、方言が色濃く残っている土地がまだまだ多いだけに、残念なことだと思う。 死者の書  生まれて初めて、死に脅《おび》えた時のことはよく覚えている。  小学校五年の時だった。夜、庭で星空を見上げていた私は、ふと理科の授業で教わったことを思い出した。空に瞬く遠くの星の光は、何千年も何万年も前に放たれたものだということだ。つまり、今、私が空を見ている瞬間に輝いた星の光がこの地球に達する時には、私はとっくの昔に死んでいるのだ。そのことが頭に浮かんだ途端、体内を黒い波に浸食されていくような恐怖を覚えた。  私は家の中に駆けこんで、テレビを見ていた母の膝《ひざ》にすがりついた。死ぬのが怖い、というと、母はニュース画面を指さした。 「なにゆうがぞね。ほら、見てみや。ベトナムでは、戦争で人が毎日ばたばた死んでいきゆう。そんな甘えたこと、いう暇もない人らがいっぱいおるがで」  ちょうどベトナム戦争の時期だった。路上に転がる多くの死者の映像を眺めて、私は恥ずかしくなった。死んでいくのは自分だけではない。この世に命を享《う》けた者は、皆、いつかは死ぬのだ。私は納得した気分になって、蒲《ふ》団《とん》に入ったものだ。  しかし、他人の死によって、自分の死が慰められるはずはない。  その日から、死の恐怖はしばしば私に襲いかかるようになった。肉体の消滅はしかたないと思えるが、何といっても意識の消滅が恐ろしい。成長と共に蓄積されていく経験も含めた、考えたり感じたりする自己のすべてが無に帰するということが許せない。  私は超心理学や神秘学の本を読みあさり、死後の世界があるという証拠を探そうとした。その世界の実在を信じたいがために、自ら死者の魂が現出する小説を書くまでにもなった。  ある人は、そんな私を揶《や》揄《ゆ》していった。 「きみは生きている時に、死んでからのことばかり考えている。ほんとに死んだら、今度は何を考えるつもりかい」  まったくだ、と思って笑ってしまったが、それでも死後の世界は気にかかる。  死んだ後、人の意識はどうなるのか。残るのか、消滅するのか。  チベットやエジプトに残る「死者の書」や、世界各地に分散する冥《めい》界《かい》を書いた神話に記されている死後の世界の存在を信じることができたなら、どんなにほっとすることだろうか。しかし、死後の世界はひとつの形を持っているはずだと思うのに、そこに出ている世界は、宗教や文化によって違ってくる。『チベットの死者の書』には、死んだら、人の意識が生みだす幻影が現れるのだ、と書かれていて、私はその言葉は最も真実に近いだろうと思うのだが、幻影を脱したところに何があるのかについて、明確に語ってはくれない。  きっとそれは、死という体験があまりに個人的なものであるゆえに、普遍性をもって語れないのだろう。そして語りえる人々は、それを悟った時にはすでに死の彼方の世界に逝ってしまっている。  人間は一人で生まれてきて、一人で死ぬ、という言葉があるが、つまるところ死とは、一人きりで追求しなくてはならない体験なのだ。その追求が一人よがりにならないように、個人的な宗教観や文化、経験を払《ふつ》拭《しよく》して、物事をあるがままに見ることが実現できたなら、死という実体にかなり近づくことができるはずだ。  死を考えることは、自我を脱したところにある普遍性や、さらには存在の永遠性を追求することに通じているのではないか、と私は最近、考えるようになっている。 妖《よう》精《せい》の悪戯《いたずら》  アイルランドは妖精にまつわる民話の豊富な国だ。子供の頃《ころ》から、一度この国に行ってみたいと思っていた私は、五年前、意を決して旅行に出ることにした。他人の尻《しり》馬《うま》に乗りたがる人は多いもので、すぐさま母と母の友人、私の友人の計三人が一緒に連れていってくれといいだした。同行者があるからには、行き当たりばったり旅するわけにもいかない。私は、アイルランド政府観光局に行って資料を集め、観光コースを選ぶことにした。  クロンマイノルズという町があることを知ったのは、その時だった。ぶっきらぼうな日本語で書かれた観光パンフレットの十行ほどの簡単な説明からは、その町はひどく魅力的に思えた。なにしろ「河の浅瀬に位置しており、町全体が川岸に下る傾斜面に」あり、「古い墓石の素晴らしいコレクション」がある。「この風の吹きまくる印象的な町は、アイルランドの最後の王の永眠の地でもあり、陸上、水上どちらの方法でも行くことができる。」という文章を読むにいたって、わくわくしてきた。  茫《ぼう》漠《ばく》と広がる丘陵地帯の川辺に立つ、しっとりとした小さな町。風が吹きすさぶ寂しい石畳みの路地が続き、その一角には、墓石コレクションの充実した博物館もある。  よし、クロンマイノルズに行こう。  私は心に決めた。  クロンマイノルズは、アイルランドの内陸部にある。地図で見ても、近くに町らしいものもない人里離れたところだ。旅行に出た私たち一行は、ダブリンからレンタカーに乗ってクロンマイノルズを目指して走りだした。見渡す限り、なだらかな丘陵が広がっている。ところどころに残る崩れかけた教会。道沿いで人や車と擦れ違うことも珍しい。二、三時間走り続けるうちに、夕方になってきた。 「この道でええかね、眞砂子」  運転している母が心配そうに聞く。助手席の私が地図を片手に、大丈夫だ、もうすぐ着くとうけ合うと、後部席の友人が口を出した。 「急がんと暗うなるで。泊まるところも探さんといかんし」 「いくら小さい町ゆうたち観光地なんやき、ホテルくらいあるやろ」  ツアーコンダクター代わりの私が強気の意見を吐いているうちに、向こうに河が見えてきた。夕陽を受けて、銀色に輝いている。河に向かうなだらかな斜面に古風な墓石がぽつんぽつんと立ち、周辺には修道院らしい建物や崩れた城がある。とても美しい光景だった。  しかし、道はここで終わっている。見渡す限り、町らしいものは見えない。  修道院の入り口は駐車場になっていて、車が三、四台停まって観光客らしい人々があたりを散策していた。観光客の一人に、ここはどこかと聞くと、クロンマイノルズだという返事だ。厭《いや》な予感を覚えながら、町はどこだと問うと、その男は怪《け》訝《げん》な顔をした。 「町なんてないですよ。ここはこのクロンマイノルズの修道院跡しかないところです」  驚《きよう》愕《がく》のあまり、膝《ひざ》から力が抜けた。  すべて間違いだったのだ。風の吹きすさぶ町も、寂しい通りも、墓石コレクションのある博物館も。ここにあるのは、河を見下ろす丘に広がる墓場だけだ。  とんだ「風の吹きすさぶ町」だったのである。たぶん英文パンフレットを翻訳する時に、遺跡を町と間違ったのだろう。パンフレットの不備を恨んだが、後の祭りだ。それから、せっかく来たのだからと急いで墓石を見て回り、一番近くの町を目指して車で引き返しはじめた。あたりはだんだん暗くなる。しかし、行けども行けども目的の町は見えない。 「ここ前、通ったところで」  後ろで友人が叫ぶ。そういえば、この茂み、この道の曲がり具合は、三十分ほど前に見た光景とそっくりだ。  完《かん》璧《ぺき》に迷ってしまったのだ。  あたりには人家もなくて、道を尋ねるすべもない。どこまで行っても、単調な丘が続くだけだ。草原の中のあっちの道、こっちの道をさまよい、やっと地図に載っているもよりの町に着いた時には、もう夜も更けていた。  私は同行者たちの信用を失い、体裁悪いこと、この上なかった。  最近、アイルランドが舞台になっている『ヒア・マイ・ソング』という映画を見た。その中で、車を運転している主人公とその友人が道に迷ってしまうくだりがあった。「これは妖精に騙《だま》されてるんだ」と友人の男がいいだして、二人が古い言い伝えに従って上着を裏返しに着て難を逃れるという筋書きだった。  ひょっとして私たちがクロンマイノルズの帰りに道に迷ったのも妖精の仕業かもしれないと、映画を見ながら、私は思ったものだ。それだけではない。翻訳の間違いもまた、妖精の悪戯ではないか。その妖精のおかげで、私はあの神秘的な川辺の修道院跡に行けたのではないか。  後で考えると、クロンマイノルズは一見に値する場所だった。ゆるやかに流れる大河、それを見下ろすように立つ古い墓石群。あの翻訳ミスがなかったら、近くに宿もないその辺《へん》鄙《ぴ》な場所に行きはしなかっただろう。  私は妖精に感謝すべきだったのだ。なのに観光パンフレットの翻訳を呪《のろ》いながら、車でホテルのある町を目指した。だから仕返しを受けたのかもしれない。  アイルランドは不思議な国である。今度、この国で道に迷ったら、上着を裏返しに着てみなくては、と肝に銘じている。 古都の魔力  大学時代の四年間、奈良で過ごした。  古都奈良という響きに釣られて彼の地の学校に進学したとはいえ、住みはじめて一か月も経たないうちに、失敗したな、と思った。夜はどこも早々と店を閉めるし、若者が集まるディスコのひとつもない。受験戦争にもおさらばしたことだし、大学に入ったら遊びまくろうと心密かに考えていた私の目論見は脆《もろ》くも崩れてしまった。なんとつまらない土地に来てしまったのだろうと腹立たしくなったが、後の祭りだ。  勢い、暇な時間はもっぱら寺や神社巡りをすることになった。奈良の地図を片手に、自転車で名所を訪ね歩いた。しかし、歴史を紐《ひも》解《と》いて丹念に眺めるわけでもないから、いくつか回ると、後はどれも似たりよったりにしか思えなくて、すぐ退屈してしまった。  学生時代、奈良県内や京都の寺社は一通り見ているはずだが、ほとんど記憶に残っていない。  だが、皮肉なものである。  大学を卒業して十年ほど経ってから、私は日本の歴史や民俗をヒントにした小説を書くようになった。特に興味を覚えたのは、大和朝廷が台頭してきた頃。ちょうど奈良時代にあたり、奈良に関する小説を書いてみようと思いついた。当然、実際に現地に行って調べたいことが出てくるが、すでに関東に住んでいる身だ。散歩のついでに立ち寄るということができない。そうなると、いかにも大学時代の怠慢が悔やまれてくる。  こんなことなら、もっと法隆寺に足繁く通っておくのだった。寒いからと、その気にもなれなかった東大寺二月堂のお水取りも見ておくべきだった。ただの緑色の濁った沼だとばかにしていた猿沢池で、秋、采女《うねねめ》祭りというものが行われていたということすら知らなかった。第一、正倉院の宝物展にも行ったこともない。展覧会期間中は、そこの近くのレストランでウェートレスのアルバイトをして、やけに忙しかったことしか覚えていないという有り様だ。  後悔しながら資料を探し、歴史を読み、再度、奈良に出かけていき、私は小説にとりかかった。  仕事に入って、おや、と思うことがあった。なんだか、すらすらと書けるのだ。小説中の土地の雰囲気が水が湧《わ》くように想像できる。私にとって、奇跡的なことだった。  歴史や民俗をヒントにした小説を書く時、私はその土地の空気を大切にする。空気を最も伝えやすいのは方言だ。だから方言を駆使して、場面や情景を一生懸命書きこむのだが、本当に表したいのは、その土地ならではの特徴である。  普通、あまり縁のない土地の雰囲気というものは書きづらくて苦労する。奈良を舞台に小説を書くことにしたのは、大学時代を過ごしたから、少しは土地勘が残っているだろうという計算もあった。しかし、自分の中に、土地の空気がこれほどちゃんと保存されていたことに驚いた。  無益に過ごしたような四年間、私の皮膚は、土地の空気を吸い続け、奈良ならではの匂《にお》いを感じとっていたのだ。それは私の意識には刻まれなかったが、体のどこかに沈《ちん》澱《でん》していて、十年以上経てから、小説という媒体を通して蘇《よみがえ》ってきたのだった。  そんなことを発見すると同時に、大学時代の記憶が蘇ってきて、自分がどこでこういった奈良の空気を嗅《か》ぎとってきたのか思い出したのである。  大学一年の時、学校の近くに間借りしていた。一軒まるごと学生たちが住んでいる家で、奈良にはそんな借家が多かった。  その家は、黒い格子戸が並ぶ通りに面していた。敷居を跨《また》いで中に入ると、二坪ほどの土間になっている。土間の突きあたりが、私の四畳半の部屋である。隣には、やはり土間のままの台所があるだけだ。  玄関と台所と、私の部屋だけの小さな家に接するように、比較的新しい二階建ての家があり、他の下宿生はそこに住んでいた。  つまり私は、表通りに面したその古い家に一人で住んでいたようなものである。  四畳半の部屋に唯一ある窓は隣家に塞《ふさ》がれて、光はほとんど入ってこない。土間との境の障子を開けても、格子戸を通して入ってくる明かりはひどく弱いものだ。昔、この家は商いをしていて、私の部屋は茶の間兼店番の間になっていたのだろう。  部屋にいると、とても憂《ゆう》鬱《うつ》な気分になった。昼なお暗く、土間からの湿気でひんやりとしている。格子戸を隔てて、人や車の往来が聞こえるが、どこかすごく遠い世界からの物音のようだった。  それは、外と内の区別がきっちりとしていた空間だったと思う。外と密接に繋《つな》がっているくせに、内側から冷やかに線を一本引いて退いている。町家のせいだ。私が生まれ育った高知の家とはかなり違っていた。田舎の家は、表から裏まで風が通り抜け、いつも窓や戸が開け放たれ、外と内との境界は曖《あい》昧《まい》だった。  町中の古い家は私の肌には合わず、三か月ほどで逃げだして、奈良市の西にある法華寺町に移った。今度は、大きな農家の敷地にあるアパートだった。アパートといっても、入り口の門の横に接した牛小屋か馬小屋を改造した家だ。細長い建物を真ん中で仕切って、1DKが二つ造られていた。  建物は、中にいて安心するほどしっかりしていた。分厚い土壁を漆《しつ》喰《くい》で塗りこめて、ちょっとやそっとではびくともしない。窓は路地に面しているのに、外の物音はそれほど入ってこない。同じ奈良でも、町家と農家とではずいぶん異なっていた。  法華寺町は、十一面観音で有名な法華寺と、海竜王寺があるところだ。奈良市街から二キロメートルほど離れていて、田圃《たんぼ》の中にぽつんと浮かんでいるような集落だ。私はアパートにいるのに疲れると、付近を散歩した。法華寺や海竜王寺の境内をぶらぶらして、農家の並ぶ路地を歩くと、すぐに集落は終わる。突然、家並が切れたところにあるのは、平城宮址《し》である。現在のように整備されてなく、田圃の中のだだっ広い土地が、あちこち掘り返されているだけだった。  今なら、かつてそこにあったはずの壮大な都を想像して感動のひとつもするだろうが、当時は感慨もあまりなく、何もない広さが寂しく見えたものだった。  ただひとつ印象に残っているのは、雪の日の平城宮址の光景だ。珍しく降った雪が、その広大な空間を覆い尽くしていた。ビルが立ち並ぶ西大寺の市街が蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように遠くに見晴らせる。なんともいえない、しみじみした気分になって、私は土の掘り返されたでこぼこの敷地を歩きまわった。  やがて西大寺の新築アパートに移り、そこも気にいらなくて一か月で飛びだして、最後に、大森池の湖畔の狭い一軒家に落ち着いた。池の向こうに興福寺の五重塔の遠景が眺められた。一日の終わりには、夕焼けに染まった塔から鐘の音が聞こえてきて、いかにも奈良の情緒を味わえたものだった。  このように転々と住居を移るうちに、私は次第に奈良に慣れていった。夏蒸し暑く、冬は冷えこむ盆地の空気を吸い、湿度を肌で感じて、奈良の雰囲気を身の内に取りこんでいったのだと思う。  古い家の格子戸の向こうから注がれる人々の目。道を歩いていて、ふと顔を横に向ければ、そこにでんと立っている神社や寺。夜、近鉄駅付近の明るい商店街から脇《わき》に入ったとたん、路地に漏れてくる家々の明かりがとても遠いところからのように思えて、不意に寂しさを覚える。  奈良の空気は重く、鄙《ひな》びている。それは京都の持つ重さや鄙び方とは違うものだ。よそから来る人が多いためか、文化の洗練度の差か、京都の空気はいくら重くても、そよ風のような流れがある。しかし奈良の空気はその場に沈滞し、いつまでも地面付近にひたひたと漂っている。鄙び方も、奈良のほうはもっと素朴で、もっと土や苔《こけ》や竹や笹《ささ》の匂いがする。  あれは、いつのことだったろう。昼下がり、町を歩いていた私は、突然、古めかしい通りに紛れこんだ。格子戸の続く家が並び、ひっそりしている。  突きあたりに庚《こう》申《しん》堂があった。お堂の前には、赤い括《くくり》猿《ざる》がいくつもぶら下がっている。見回すと、通りに面したどの家の軒先にも、同じ赤い括猿の布人形がかかっている。  私は通りの中央で立ち止まった。今にも、庚申堂の突きあたりの道からひょいと人が現れそうなのに、誰も来ない。赤い拳《こぶし》を握りしめたような括猿。整然と続く格子戸。正面にある古びた庚申堂がじっと佇《たたず》んでいるだけだ。なのに、その通りには濃密な空気が漂っていた。  それは、人ともいえない、物ともいえない、何かの存在がぎゅっと詰まっている感じ。その空間から、奈良のどの時代にも行ける気がした。庚申堂の前の道を曲がったら、古の奈良時代にも、中世にも、つい六、七十年前の時代にも通じる路地があるようだった。  私はその時の不思議な感覚を、今もはっきりと覚えている。  奈良の持つ濃密な空気とは、長い歴史の重みから滲《にじ》みだすものといえる。しかも、その都としての歴史は京都より古い。現在も人が生活している都としては、日本で最も長い歴史を持つ町ではないだろうか。  日本の古代建築は木でできている。ヨーロッパのように石の建物ではないから、日本の古い都の跡には土くれ以外、何も残らない。そこに昔、都があったといわれても、平城宮跡のように田圃と差のない光景が広がっているだけだ。後世の人間が、当時の人々の生活や都の空気を探りだせる手がかりは少ない。  しかし奈良は、古代から綿々と人が住み続けてきた土地だ。木でできた都が崩れて土となり、その上にさらに新たな木の町が建てられる。古代から続く木の国特有の湿った空気と人々の生活の匂いが、しっかりと土壌に滲《し》みついている。土地とは、家のようなものではないだろうか。長く人が住まなくなった家は荒れ果てて、やがて土に戻ってしまうが、人が補修しながら住み続ける家は何百年も保存されうる。そして、家の中の空間には、綿々と生活してきた人の匂いが温存される。奈良の町もまた、古い家のように、古代からの空気を伝えてきているのだ。  一昨年、私は奈良を再訪して、かつて通っていた大学に行ってみた。私がそこで学んでいた頃は、古い校舎を壊してコンクリートの新しい校舎が次々と建てられていた最中だった。近代的な学生会館の前には、池や芝生が設けられ、校舎を繋ぐ小道にはひょろひょろした若木が植えられて、明るく若やいだ雰囲気を漂わせていた。  ところが大学は変わっていた。コンクリート校舎の壁はすでに黒ずみ、大きくなった並木の枝が、学内の路上に影を落としている。学校の印象は一転して暗くなり、あたりには湿気た空気がたちこめていた。  十五年の間に、新しかった校舎も奈良の匂いを漂わせるようになっていた。ただの、時間による老朽化というばかりではない、そこには、その土地特有の古び方が感じられた。  町全体を包む空気が、どんな新しい建物をも奈良の色に染めていく。私はそこに古都の魔力を見たように思い、少し怖くなった。 傷《きず》 痕《あと》  行きつけの呑《の》み屋で、子供時代のことが話題にのぼった。 「俺《おれ》、五歳の時に車にぶつかって、頭の皮がぺろり剥《む》けちゃってね。今もその跡が禿《はげ》になってんですよ」  漁師の青年がそういって、後頭部を見せてくれた。確かに、短く刈った頭の一部が一円禿になっている。 「僕なんか遠足で友達とふざけて追いかけっこしてたら、崖《がけ》から転げ落ちてさ。腕が石の角に当たって、ざっくり。ほら、ここだよ」  会社員が腕をまくって、茶色に変色した傷跡を披露する。私だって、失敗談には苦労しない。 「私は自転車で何度も転んだなあ。中学校に行くのに、峠をひとつ越えて行くんだけど、毎日のように友達とブレーキをかけないで山をおりる競走をしてたもんだから」  チキンレースだ、と漁師の青年が笑い、会社員はあきれた顔をした。私は調子に乗って続けた。 「それで一度はカーブの向こうから突然、大型トラックが出てきてね、ハンドルを誤って転んだのよ。榴《ざくろ》症《しよう》って知ってる? 傷口があんまりぼろぼろなんで縫えない状態なんだって。私の傷がそんなふうでね、縫わないで治したんで、今もしっかり膝《ひざ》の傷は残ってるの」  漁師の青年が口を挟もうとしたが、勢いづいた私はもう止まらない。 「自転車で転んだことはまだあるんだ。一度、踏切の手前で警報が鳴りだしてね。びっくりした拍子にふらふらと横の川に転がり落ちたの。幸い自転車は途中の草に引っかかったけど、私は川の中。すぐ頭の上は鉄橋でしょ。列車に乗った人たちがじろじろ見て行くんでかっこ悪かった」  小学校六年生の時、走り幅跳びの練習をしていて、親指の爪を剥《は》がしたこと。体育館の前で釘《くぎ》を踏んづけて、流れだした多量の血に驚いたこと。  喋《しやべ》りながら、ほんとに色々な怪《け》我《が》をしてきたものだと思った。  不注意や不運からの怪我は、生きている限り否《いや》応《おう》なく降りかかる。大人になってからも誤って包丁で指の肉を削いでしまったり、階段から転げ落ちて足を挫《くじ》いてしまったり。きれいに治った傷もあるが、跡が残っているものもある。小さな傷まで数えあげると、十や二十の傷《きず》痕《あと》は残っていることだろう。 「身体髪《はつ》膚《ぷ》これを父母に受く。あえて毀《き》傷《しよう》せざるは孝の始なり」という言葉があるが、私はこれが嫌いである。わざと自分の肉体を傷つけることは、ばかげているとは思うが、体のどこかが傷ついたくらいで、親不孝者だとはいわれたくはない。第一、傷があったとして、何だというのだろう。それは皮膚が自分自身を守ってくれた証拠ではあるまいか。  以前、奇妙なバッグを見たことがある。首と四肢を切り落とした子《こ》山羊《やぎ》の体を使って作った袋だった。袋の口は首のあったところ。臍《へそ》と肛《こう》門《もん》を縫い閉じて、四肢の部分に紐《ひも》を付けて肩紐としていた。バッグの持ち主が肩に袋をかけると、まるで山羊を背負っているように見えたものだ。  生きていた時、その山羊の体内には肉と魂が入っていた。死んでから、内部に入っていたものは失われ、代わりに本やノートやブラシなどが放りこまれている。中に入るものが違っているだけで、生前も死後も、山羊の肉体は袋に過ぎない。  人の体も同じだと思う。肉体という袋の中に入っているものは、人生の途上で拾い集めた目に見えないものの数々だ。がらくたとも宝物ともつかぬものを自分の内に蓄えながら、人は何十年も生きていく。  人間は中身が大事だとよくいわれる。しかし、その中身を入れるものは、肉体だ。破れやすく、傷つきやすい皮膚でできた袋である。  この袋を引っかぶって、死ぬまで歩いていかなければいけないと思うと、自分の肉体がいとおしくなる。皮膚のあちこちに残る傷痕に愛着すら抱いてしまうのだ。 落書きの心理  本は最低限度の量しか持たないよう努力してるので、私はもっぱら図書館を利用している。個人ではなかなか手の出ない全集などが揃《そろ》っていると、本当にありがたい。  先日も、近くの図書館に、敬愛している宮本常一の全集があるのに気がついて、早速、一冊借りてきて読みはじめた。  最初のページをめくるや、鉛筆の線が目に飛びこんできた。試験前の参考書よろしく、文章の横に傍線を引きまくっている。御丁寧にも、難しい漢字の読みを書きこんだり、「〇ページを見よ」といった指示までついている。私の前に読んだ人の仕業だ。  始めは無視して読んでいたが、段々、腹が立ってきた。文章の横に線が引かれていると、重要なくだりなのだろうかと先入観を与えられる。だが実際は、それは傍線を引いた人にとってしか意味をなさなかったりする。他人の引いた傍線の存在は、読書にとって、ひどく邪魔である。  同じ苛《いら》立《だ》ちを感じた人もいたらしく、所々線を消しゴムで消した跡もあった。私もよほど消してやろうかと思ったが、すべてを消すには、かなりの労力が必要だったので、あきらめた。  書きこみをされた本は、図書館を利用しているとよく出くわす。そのたびに、私の頭にかっと血が昇る。  本に書きこみをしたいなら自分で買えばいいのである。我が物顔に傍線や覚え書きを残す人間の行為は、「私はこれだけのことを理解しているのだ」と、威張りたがっているようで、不愉快になる。  同様の不快感は、観光地の石碑や文化財の壁などに書かれている署名、公衆便所の落書きにも覚える。  さらにいえば、月世界着陸時や高い山の頂上に到達した時に国旗を掲げる行為も好きではない。自分の専有物でもない土地に旗を掲げる。そこには、自然を専有化したがっている欲望が見え隠れしている。  子供が好物に唾《つば》をなすりつけ、「俺のもの」というのと同じことだ。  先日、秋田でマタギ体験ツアーというのがあって、山の習俗に興味を持っている私は参加した。  阿仁町という、古くからマタギの住むことで知られる山間の地に行って、元小学校の校長先生に山に案内して戴いた。  七十九歳というお年にもかかわらず、非常に元気である。マタギ用の山刀を腰にさして、ひょいひょいと山を歩いていく。子供の時から、毎日のように山歩きをしてきただけあって、野生の植物にも詳しい。  崖《がけ》の前などで怯《おび》える都会からやってきたひょろひょろの人間たちに、「怖がりなさい。私は長いこと生きてきたから、もう怖いこともないし、いつ死んでもいいんですが、あなた方はまだ若い。どんどん怖がるといいんですよ」と笑わせ、最後にこういったものだ。 「この町に、また十年後、いらしてください。私はもうその時は生きてないでしょうが、山の中のお墓の下で迎えてあげますよ」  そのあまりにあっけらかんとした言い方は、清々しくもあった。  自分の存在が消えていくことを冗談のようにしていえる。山の植物を食べて、山の中で老い、その中に吸いこまれるように戻っていこうと覚悟している。  このような人には、落書きや旗を立てることによって、自分の足跡を山の自然に残そうなどという気持ちは芽生えるすべもないだろう。自然というものが、大きな時間の流れの中では、誰の所有物にもなりえないものだと悟っていることだろう。確かに、人は土地を買うことができる。しかし、それは一時的に使用できるだけの話なのだ。  なのに人間は自然を専有できると思いあがって、地球のあちこちで自然破壊を行っている。規模は違うが、これは図書館の本を汚すのと同じ心理なのだ。自分の物でもないのに、私物化したがる。  図書館の本に書きこみを発見するたびに、そんなもろもろの考えが湧《わ》いてきて、私は落書きの犯人を怒鳴りつけたくなってしまうのだ。 地球のどこかで  話は八年ほど前に遡《さかのぼ》る。仕事で赴いたタイのチェンマイの町で、私は勝賀瀬さんという男性と知り合った。タイの民俗に興味を抱き、コーディネーターの仕事をしながら、研究をしている青年だ。行動を共にするうちに、彼の曾《そう》祖《そ》父《ふ》が私と同郷の高知出身であり、明治の頃《ころ》に東京に出てきたという話を聞いた。 「勝賀瀬一族は平家落人で、神谷《こうのたに》というところに村を作って住んでいたらしいですね。外に出たら祟《たた》られるといわれて、明治になるまで誰も村を出る者はいなかったらしいんですよ」  勝賀瀬さんの話にいたく興味をそそられ、一度、この神谷に行ってみたいと願っていた私は、先月、帰高した折にそれを実行した。  神谷は、現在は伊野町の一部だ。仁淀川沿いの国道194号線を中追渓谷のほうに少し入ると、勝賀瀬という地名が残っている。勝賀瀬さんの出身地はこのあたりだろうと見当をつけたのだが、今ではすっかり拓《ひら》けていて、隠れ里の気配はまったくない。人に尋ねても、平家落人部落があったとは知らないという返事だ。ただ、中追渓谷のずっと奥に平家落人の末《まつ》裔《えい》の家が二軒残っているということを聞きつけ、行ってみることにした。  中追渓谷の奥は、まさに秘境である。昼間だというのに、もぐらが横切る狭い道路を車でどんどんと進んでいく。周囲に家らしいものもなくなり、不安になった頃、山の斜面にへばりついた家に出くわした。  畑で野良仕事をしていた婦人に声をかけると、確かにその家が平家落人の末裔の一軒だという。 「先祖は佐川町黒岩のほうの平家筋の家から来たといいます。ここらへんじゃ、うちだけがぽっかり平家落武者の筋なんです」  結局、勝賀瀬一族が拓いた平家落人部落についてはまったくわからずに帰ることとなった。もう一度、勝賀瀬さんに会って、あの話を確かめたいものだと思っていたら、縁とは不思議なもので、つい一週間ほど前、たまたま帰国中の勝賀瀬さんと再会した。早速、聞いてみると、やはり平家落人部落はあったという。 「でも、時代が過ぎるに連れて、隠れ住んでいたところから里のほうに降りてきたといいますから、昔の村があったところは、今の勝賀瀬の地名のある土地とは違うんじゃないでしょうか」  といってから、勝賀瀬さんは寂しそうにつけ加えた。 「神谷のほうでも、昔のことを伝える人は、もういなくなっているんでしょうね」  それで私は、中追渓谷の平家の末裔の婦人との会話を思い出した。その家がいかにも古い造りなので、ついでに家にお祀《まつ》りしている屋敷神はいないかと尋ねてみた折である。床下に「お鎮まり様」を祀ってあるということだった。 「義母なぞは赤土の団子を供えてなんやら難しいことをしてお祈りしよりましたけど、もうあんまり覚えてはないですねえ。私も子供にはそんなこと教えんようにしちょりますし」  どうして子供に教えないのかは聞かなかったが、たぶん前近代的な行事は継承しないほうがいいと決めたのだろう。  しかし、私のように民俗学に惹《ひ》かれる者にとっては、残念な限りである。家々の小さな神様に対する祀り方や、しきたりや言い伝えなどは、文章としてはまず残らない。家族が口で伝えない限り、消えていく運命にある。確かに、現代において、神祀りの行事自体を引き継ぐことは無理かもしれない。しかし、せめて、昔はこんなことをしていたのだよ、と子や孫に伝えてくれたらと願わないではいられない。  今から五十年ほどして、この婦人の子孫が地球のどこかで、私の子孫に偶然出会い、問わず語りに「うちの高知の家の床下には、昔、お鎮まり様という神様がいましてね、赤土団子を食べていたらしいんです」と伝えてくれたら、どんなに楽しいことだろう。そう、タイで、勝賀瀬さんが私に話してくれたように……。 燃える木の里  シンクロニティという言葉がある。うろ覚えだが、ユングの理論に出てくるもので、偶然が重なることをいう。実は、私は、けっこうそういうことに出くわす性分らしい。  昨年の二月頃である。当時、執筆中だった小説『山《やま》妣《はは》』の最後の部分を書くためには、どうしても、もう一度、豪雪地帯を見ておかなくてはと思い、新潟県にある秋山郷というところに行った。秋山郷は、江戸時代から秘境として知られる渓谷で、すでに前年の夏にも訪ねていた。しかし冬と夏は、がらりと様相を変えている。なにしろ一冬の積雪量六メートルとかいう場所だ、山も谷もすっぽりと雪に埋まっていた。泊まったのは、この頃よくある、市町村経営の公共の宿である。場所によっては、安くて設備もなかなかいいので、私は好んで利用する。秋山郷にあったのは「萌木の里」という温泉宿泊施設で、コテージ形式でモダンな建物だった。ただ、スキー場もないこんな山奥に、冬場、好んでくる人は少ないらしく、宿泊客は、私と友人の二人きり。それがまた静かでよかったし、料理もおいしく、従業員も地元の人らしく素朴で親切だった。いいことずくめで、私たちはとても満足して帰ってきた。  それから一か月ほど過ぎた頃である。黒枠で囲まれた葉書が舞いこんだ。「萌木の里」からだ。火事に遭って焼失したとの報せだった。火事が発生したのは、三月三十日。私の誕生日のことだった。  これだけなら、よそ事のように、お気の毒だった、といっているだけですむが、そうはいかなかった。  葉書をもらってから二週間ほどして、私は郷里の高知に戻った。かねがね話を聞いておくといいという、九十五歳になる親《しん》戚《せき》の老人を訪ねるためである。帰省して、母に頼んで、その老人に電話してもらったのだが、何度かけても不在だ。私が会いたいという件は伝えてある。先方も待っているはずだ。こんなにかけても、いないのはおかしいと、母が首を傾げながら、老人の娘さんに電話をしてみたところ、なんと、火傷をして入院中だというのだ。 「寒いき、火を使いよって、ズボンのお尻《しり》に火がついたと」  話はまだ続く。その夏、私は友達のオートバイに乗っていて、左足のふくらはぎに大火傷をした。おかげで一週間歩けなくなり、その火傷の跡は今も残っている。  これらをただの偶然の重なり合いといってしまえば、それまでかもしれない。  それでは、この話はどうだろう。数年前の暑い夏の盛りのこと、私は癌《がん》で死ぬ女性を主人公にした短編を書いていた。舞台は私の郷里だし、その女性の年齢は私と同じくらい。書き進むうちに、不吉な感じがしてきた。こんなものを題材にして、いいだろうか。なんだか癌で若死にする主人公の運命が、私にくっついてきそうな気がした。  しかし、締め切りがあるし、もう話の筋は決まっている。仕方なくワープロに向かっていると、ファックスが入った。宛名は「茅ヶ崎斎場様」である。葬式の花の準備のことについて、変更があったということが書かれている。私は、厭《いや》な気分を覚えながら、お宅の送ったものはこちらに間違って届いてます、とメモをつけたファックスを差し出し人に送り返した。これで用はすんだとまた机に戻った時だ。今度は電話が鳴った。  受話器を取ると、「茅ヶ崎斎場さんですか」と男の声がする。私は、違います、といって、今日はそんな電話ばかりだが、気をつけて下さいといって切った。  気味の悪い偶然だ。やはり、この短編を書くのはやめろということかもしれないと思いはじめて、私は、癌で死ぬという主人公の設定を、ひどく珍しい病気で死ぬことに変えた。それが、どういう効果をもたらしたのかわからないが、以来、茅ヶ崎斎場と間違われたことはない。あの夏の日の一日だけ、ブラックホールに入ったように、家に茅ヶ崎斎場あての間違い電話が入ってきたのである。  不思議で説明のつかないことは、この世の中には色々ある。私は、これらのことを無理に説明づける必要は感じない。ただ、こじつけかもしれないが、深層心理と照らしあわせて見直していくと、それらしい関連性は見いだせたりする。  最初の話でいうならば、私はその頃、火の夢を何度か見た。自分が火事現場を歩いているのだ。その夢自体は、当時、私が小説のスタイルを変えたいと考えていたことの現れではなかったかと思う。火によって、既成の自分を焼き、再生したいという願望だ。そして、あの一連の火にまつわる事件は、まるで私の夢の中の火が、現実世界に移ってきたようでもあるのだ。そして、そのきっかけとなったのは、私の誕生日に起きた火事——そういえば焼失した施設の名前は「萌木の里」。燃える木の里である。 因縁話  先日、親《しん》戚《せき》の老翁から、郷土史の本をごっそりと貸してもらった。今ではなかなか手に入らない貴重な書ばかりである。茶色に褪《あ》せたページをめくっていると、けっこうおもしろい。その中に、小説の題材にぴったりの話を見つけた。  江戸時代、私の郷里である高知県佐川町は、土佐藩家老職の深尾家によって支配されていた。江戸後期、深尾氏九代目の重教公に、公家の血を引くお姫さまが降嫁してきた。ところが、このお姫さまは猿そっくりの醜い容《よう》貌《ぼう》。もともと深尾家には、凶事の前ぶれに、猿が現れるという言い伝えもあったため、重教公に疎まれて離別され、佐川町の片隅の屋敷で不遇な生涯を送ったという。  私は、この醜い公家のお姫さまにとても興味をそそられて、猿に似た娘が地方の名家に嫁ぐ中編小説をひとつ書きあげた。  ところが、小説に一段落つけて、残りの郷土史のページをめくっていたら、付随記事が出てきた。  そのお姫さまのお伽《とぎ》役の女中に、鯛《たい》という女がいた。明治末年まで生きた鯛婆《ばあ》さんは、ことあるごとに「おかわいそうな、お方だった」と気の毒がっていたという。驚いたのは、彼女の出自である。斗《と》賀《が》野《の》村(現佐川町)塚谷の坂東佐吉の娘というのだ。塚谷という集落は、確か私の祖父が生まれたあたり。ということは、この鯛さんは、私と血縁ということになる。  鯛さんから百年後、同じ血筋の私が、やはりこのお姫さまに気持ちを動かされてしまった。いったい、これは偶然だろうか。  不思議な気持ちになりながら、さらに郷土史をめくっていると、またまたおもしろい記事にぶつかった。  坂東家の先祖の某は狩猟の名人で、ある時、隣の越知町の大《おお》樽《だる》の滝の主である大蛇を撃ち殺した。その蛇の骨は周囲一尺五寸、鱗《うろこ》は小皿ほどもあり、明治時代の終わりまで、坂東一族の先祖を祀《まつ》る祠《ほこら》に奉納されていたという。  そういえば以前、坂東家の守護神は蛇であると、父から聞いたことがあったなあと考えているうちに、自分と蛇との関わりが浅からぬことに思い至った。  なにしろ、私は蛇に関する長編小説を書いている。それはたいした出来ではなかったと自分では思っているが、棚ボタのように、はじめて直木賞の候補に挙がり、見事におっこちたとはいえ、少なからず私の知名度を上げてくれた。蛇が開運をもたらしたといってもいいくらいだ。  だが、私が蛇に興味を抱くようになったのは、さほど古いことではない。気になる動物だと意識にひっかかりはじめたのは、十年ほど前だった気がする。  もっとも、一《いつ》旦《たん》おもしろいと思いはじめたら、憑《つ》かれたように蛇を調べた。蛇とマングースの死闘を見物したり、マレーシアの蛇寺を訪ねたり、動物園ではやけに爬《は》虫《ちゆう》類《るい》館で時間を潰《つぶ》すようになった。その頃の私は確かに、「蛇が好き」と明言していた。  しかし最近は、動物園に行っても、爬虫類館に行こうとも思わないのだ。憑き物が落ちたというところである。  ひょっとしたら、鯛さんや、蛇を殺した先祖の血が、私の内で、猿姫や蛇に対する興味を湧《わ》きたたせたのかもしれない。そして小説という形になって残されると、あっさりその血は自己主張をやめたのではないか。  合理主義者なら笑い飛ばすだろうが、私はそんな気がしないでもないのだ。  人間の行動は、すべて自分の意志によって左右されるとは限らない。目に見えない力によって動かされる場合もあると思う。  余談だが、滝の主である大蛇を殺して以来、坂東一族の者が鉄砲を持つと、必ず若死にすると伝えられている。私の祖父は、その言い伝えを知っていたはずなのに、狩猟好きで、鉄砲で獣を撃ち殺してまわり、三十代半ばで腸チフスで死んでしまった。彼は、目に見えないものを信じない男であったようだ。 宇宙船幽霊説  三島由紀夫の小説に、『美しい星』という作品がある。東京近郊に住む、表向きはごく平凡な一家が、本当は宇宙人であるという設定で、彼が書いた唯一のSFといわれているが、実は、その中に、私の故郷が出てくる。  一家の主《あるじ》が、宇宙船の目撃例を求むという広告を出したところ、全国から返事の束がきたというくだりがあり、その手紙による目撃例の冒頭に、高知県高岡郡佐川町尾川村において『二人の中学生が、夜の七時過ぎ、南の空を、まはりが薄い膜で覆はれた楕《だ》圓《えん》の物《ぶつ》體《たい》が、東から西へものすごい速度で飛んで、山へ隠れたのを見た。』とあるのだ。  尾川は私の生家からほんの二、三キロ離れた場所である。佐川町の奥にあり、高知県人でも、その地名を知らないものは多いだろう。ましてや三島由紀夫が知っていて、宇宙船の目撃例をでっち上げたとは信じられない。彼がこの小説を執筆した昭和三十七年頃、実際に宇宙船が飛来した事件があったのではないだろうか。  佐川町に飛んできた宇宙船といえば、私も見損なったことがある。あれは、中学生の頃のことだ。夕暮れ時、庭で一人縄跳びをして遊んでいると、二階にいた妹が天を指さして何か騒ぎだした。空を見上げると、オレンジ色の光が南の山の向こう、須崎市のほうに消えるところだった。  その光のどこに、それほど興奮しているのかわからないまま、私は縄跳びをやめて二階に上がっていった。すると妹は、宇宙船だったというのである。緑や赤に色を変えて飛んでいったという。どうやら、私が空を見る直前まで、その物体は、カメレオンの如く色を変えていたらしい。  翌日、学校に行くと、宇宙船の話でもちきりだった。けっこうな数の同級生たちが、南方に飛んでいく宇宙船を見ていたのだ。後日、新聞にも小さく出た事件である。  私の生まれ故郷は、宇宙船の航路になっているのかもしれない。中学校時代の同級生のKさんは、宇宙船なら棺《かん》桶《おけ》型からアダムスキー型までいっぱい見たといっていた。空を見上げるといつでもそこにあるから、とりたてて騒ぐものではないという口ぶりだった。  宇宙船を見てみたいと常々思っていた私は、彼女が羨《うらや》ましかったが、昨今では、宇宙船を目撃することは、日常茶飯事と化したようである。超常現象を扱ったテレビ番組や本には、宇宙船は写真やフィルムにしっかりと収められているし、さらに、三島由紀夫の小説さながらに、人類の中に宇宙人が混じってすでに生活しているという説や、宇宙人と人類が共同作業している地下基地がアメリカにあるという話、宇宙の生命体とテレパシー交信する人の話、宇宙人が人類を誘拐しているという恐ろしい話までぞろぞろ出てくる。  すでに一部の人々にとっては、宇宙船や宇宙人の存在はあたりまえのように受け入れられているのだ。  しかし、宇宙船をまだ見たことのない私には、少しひっかかることがある。それは、宇宙船が見える人と見えない人がいるということだ。先のKさんの話だが、彼女と仲のいいHさんが、こんなことをいっていた。二人で校庭を歩いていた時、Kさんが、宇宙船だ、と空を指さした。Hさんも慌てて空を見たが、彼女の目には何も見えなかったというのだ。  もしかしたら、宇宙船とは、現代版幽霊ではないだろうか。  昔の人たちは幽霊の存在を真面目に信じていた。だが今や、「あそこの辻で幽霊を見た」といっても、たいていは妄想だとか見間違いだとかいわれて、一笑に付されるだけだ。しかし「昨夜《ゆうべ》、宇宙船を見た」といったなら、かなりの人が信じるだろう。  宇宙船や宇宙人は、現代人の心の中で棲《す》み家《か》を失った幽霊が、形を変えてこの世に出てきたものかもしれない。  夏は幽霊の季節。私の説が当たっているなら、宇宙船の目撃例が増えるはずだが、さて、どうだろう。 黄昏《たそがれ》時の老女  東京で暮らしていた時、同じマンションに、いつも紫色の着物をまとっている老女が住んでいた。夕暮れ時になると、この老女は、外階段の踊り場に現れた。煙草を吸いながら、手すりに体をよりかからせて、マンションの前の道を眺めている。その煙草の吸い方は、妙に優雅で慣れていて、この人は、どんな人生を送ってきたのだろうと、私はぼんやりと想像していた。  ある日の夕方、階段ですれ違った私に、老女が話しかけてきた。 「池袋は混んでいるんでしょうかねぇ」 「いつもの通りじゃないですか」と答えたら、「息子がまだ帰ってこないんですよ」と、さかんに駅へと続く道を気にしている。  彼女の息子というのは独り者で、四十歳は超えている。時間はまだ六時を過ぎた頃《ころ》。心配するほどのこともないのにと思っていると、階段の上から管理人の奥さんが顔を出し、私を呼んで囁《ささや》いた。 「あのお婆さんとは、あまり仲良くしないほうがいいですよ。惚《ぼ》けている人でね、隣のマンションのお婆さんなんか、うっかり親切にしてあげたもんだから、朝の七時から家に訪ねてこられて、夕方になるまで帰らないという日がずっと続いたといいますよ」  私はあわてて退散した。  それから一、二か月過ぎた頃だった。友達が訪ねてきたので、私はリビングに招きいれた。夏のことで、外廊下に面した小窓は開いていた。 「ここに、惚けたお婆さんがいてね」と、友人に話していたその折も折、廊下に面した格子窓の間に、にゅっと、そのお婆さんの顔が出現した。あっけに取られている私に、お婆さんはいった。 「一緒に遊んでおくれよ」  白昼夢ともいえる体験だった。私は、今はお客さんが来ているからといって、帰ってもらった。  その後、そのマンションから引っ越してしまい、あのお婆さんがどうなってしまったか、私は知らない。しかし、きっと今も、あの都会の箱の中で、惚けたまま老い続けていることだろう。  死んだ私の祖母も、晩年は惚けてしまった。  たった今、食べたことを忘れて、また食事を催促したり、裸足のまま家からふらふらと出てしまい、他人の家に上がりこんで居座ったりすることはしばしばだった。  だから、お祖母ちゃんがいない、となると、大騒ぎだ。一家総出で行方を探した。他人の家に上がりこんだり、今は肉親もいなくなった実家に足を向けてない時は、鍬《くわ》を担いで、裏山を越えたところにある小さな畑を目指していた。 「畑を見に行かにゃいかん」と、祖母は口癖のようにいい、惚けてまでも、その猫の額ほどの畑に執着していた。さぞかし大事な畑だったのだろうと、私はずっと思っていた。  最近のことである。両親と話していて、今も作物を作っているその畑が、実は法律上では我が家のものではないことを知った。  早くに夫を亡くして、寡婦となった祖母は、その土地を月賦で買う約束をした。四人の子供を育てながら、血の滲《にじ》むような努力をして貯めた小金を何年も支払い続けたらしい。そしてようやく代金を払い終わり、自分のものになると思った時、その土地は実は抵当物件で、畑の所有者には売る権利がないことが判明した。所有者は祖母に、生きている限り、耕していいと約束をしたまま、転売してしまった。要するに、祖母は騙《だま》されたのだ。  惚けた祖母は、そんな経過なぞ忘れてしまったのだろう。自分が手に入れたと思った畑を耕しに、鍬を担いで、死ぬまで通い続けた。  祖母と畑の話を知った時、優雅に煙草を吸いながら、息子の帰りを待っていた、あの東京の老女のことを思い出した。  都会でも、田舎でも、人が惚けていくということにまつわる物哀しさに差はありはしない。 土佐の異神たち  とんとんとととん、とん、ととん。とんとんととん、とん、ととん。  ゆったりとした太鼓の音が流れていた。眠気を誘うような不思議な旋律に合わせて、黒装束の男が踊っている。  黒の半《はん》纏《てん》に黒の股《もも》引《ひき》。頭には、黒地に赤い絹帯のついた頭巾。凛々《りり》しい出で立ちの青年が両手を羽のように広げて、片手を地面につくほどに下げながら回転する。優美に翻る頭巾の真紅の帯。足許を引き締める足袋の白。神の力を乗り移らせようとするように、天にかざした両手を額の前でくるりと回し、再び地面に手がこすれるほど身体を傾ける。  なんと奇妙な踊りだろう。見ているうちに、こちらの身体の隅々まで、その単調で呪《じゆ》術《じゆつ》的な旋律に満たされてくる。  男の十数メートル前でも、同じ装束の青年が踊っている。こちらの青年の手には、長さ七メートルもある棒が握られている。棒の先には、髪の毛のようなものがくっついている。この棒は鳥毛といい、鶏の尾羽を集めて作られている。重さ八キロもある代物だ。  突然、鳥毛を持った男が上半身を捩《よじ》って、棒を天に放り投げた。雪化粧をした険しい四国山脈を背景に、くるくると回転しながら鳥毛が宙を滑る。もう一人の男が落ちてくる棒に飛びつく。鳥毛棒が大きくたわみ、次の瞬間、男は見事、肩を支えにして棒を受け取っていた。  固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた観客の間から、どよめきが湧《わ》いた。  とんとんとととん、とん、ととん。とんとんととん、とん、ととん。  太鼓の音が流れだした。黒装束の二人の男は、脚並みを揃《そろ》えて踊りだす。さっき投げ手を務めた青年が、今度は鳥毛棒を受け取るために、先の奇妙な踊りを舞いはじめる。  こうして、この祭りの日、人の首にも似た鳥毛は宙を飛び続けるのだ。  土佐三大奇祭のひとつ、秋葉祭りの噂《うわさ》は、以前から耳にはしていた。私の生まれた高知県高岡郡佐川町から仁淀川を遡《さかのぼ》ること約一時間、愛媛県との境付近に仁淀村という村がある。その村の別枝集落で行われる、一風変わった祭りだということだった。  二年前、見物に出かけた母は、「一見の価値があるで」と私に告げた。長い棒を飛ばして、神輿《みこし》が出て、行列があるという。だが、ただ、長い棒が飛ぶといわれても、どこがおもしろいかわからない。なにしろ、どの祭りでも、たいてい神輿が出てきて、笛や太鼓に合わせて踊ったりする。他の祭りと、どこが違うのか。こればっかりは実際、見に行かないとわからない。  それで、とにかく見に行ったのだが、人の話には乗ってみるものだ。本当に、「一見の価値」があったのである。  秋葉祭りで祀《まつ》られる秋葉神社の神様は、火の神様だ。昔から、霊験あらたかな神様だと近隣の村々に知られていた。  焼畑を行う前には、秋葉様のお札にお祈りしてから火をつけると山火事を防げるし、秋葉神社で頂いた水を薄めて家にかけておくと、火事を免れる。さらに、ごく近年のこと、高知市内で火事があった。三軒並びの両側の家が焼けたのに、秋葉様のお札を貼《は》っていた中央の家だけが無事だった。以来、秋葉様の評判はぐんと上がり、今では過疎化の進む山村が、祭りの日ばかりは四国各地から訪れる参拝人でいっぱいになる盛況ぶりだ。  祭りのはじまりは、旧暦正月十六日。この日、秋葉様の御神体が神輿に乗せられ、山上にある秋葉神社から、麓《ふもと》の岩屋神社に移される。十七日は関所番の市川家に移動して、十八日、奉納行列を作って秋葉神社に還る。この十八日の行列が「秋葉の練り」といわれる、秋葉祭りの見せ場である。  当日、険しい山肌にへばりつく民家の間を縫うように、奉納行列は厳かに進んでいく。女の神様である秋葉様を喜ばせるために、参列するのは皆、村の男性だ。先払いを務めるのは、真っ赤な天《てん》狗《ぐ》面を被った「鼻高」。続くは、色とりどりの幟《のぼり》を持った羽織袴《はかま》の村人や、浅葱《あさぎ》色の上下を身につけた笛や太鼓を奏でる楽人たち。そして獅《し》子《し》に挟まれた黄金色の神輿が登場する。観客の中に出没して、人々を笑わせる道化は「膏《あぶら》売り」。仮面を被り、「ほっほーい」「あっははぁーっ」と奇声を発しながら、祭りの気分を盛りあげる。  膏売りの役は、祭りに参加する三集落から一人ずつ出ることになっているが、運のいいことに、そのうちの一人に会うことができた。誰もがどこかで繋《つな》がっている狭い地方だけに、実は、翌日乗ったタクシーの運転手さんだったのである。  しかも、なんと十三年、膏売りの役を務めている方という。今は村を出て、佐川町に家を建ててはいるが、祭りになれば必ず故郷に戻る。それだけ村人にとって、秋葉祭りは意味がある。正月よりも大事な行事なのだ。 「ただ、今年の祭りは事故が多うてねぇ。鳥毛を投げた者の一人はアキレス腱《けん》を切って救急車で運ばれるし、別の者は棒の先で額を切るし。見よったお客さんにも棒があたって怪《け》我《が》させてしもうたですわ。たいした怪我やなかったんでよかったですけど。神様がお怒りになったちゅうがですわ」  運転手さんの話によると、祭りに参加する村人たちの仕事の都合を考えて、旧暦一月十八日の祭りの日を、今年から、休日である建国記念日の新暦二月十一日に変更した。それが秋葉様の気に触ったという。  今の時代「神の怒り」と聞いて、笑う人は多いだろう。しかし、私には妙に納得できた。というのは、言葉で明確に説明するのは難しいが、私には秋葉祭りが「神の存在」を身近に感じられるものだったからだ。  この場合の「神の存在」は、日常を超えたものの存在、といい直した方が適切かもしれない。日常を超えたものの存在感は、祭りに参加する村の人々の表情を通して伝わってくる。いつもは農夫だったり、会社員だったり、商人だったりする人々が、この日ばかりは違う人間になる。鳥毛投げになり、天狗になり、楽人になり、道化となる。日常を超えたものに近づくために変身する。そうすることによって、普段は忙しい日常にかまけて、心の隅に追いやられている彼らの神の存在が、この日、心の中心に据えられる。 「リオのカーニバル」的な、日常のエネルギーの発散の場としての祭りが多い中で、秋葉祭りには、村人の心の中の神が存在する。だからこそ神の怒りもまた、直接的に村人に振りかかってくる。 「祭りの日取りが変更されたままなら、来年もやっぱり神様はお怒りになるんでしょうか」  そう聞いた私に、運転手さんのため息交じりの返事が戻ってきた。 「けんどねぇ、神様も、ちょっとはこっちの都合に合わせてくれんとねぇ」  隣人の愚痴をこぼすようなその口調に、村人たちの秋葉様への愛情を感じた。  これは地方に住む日本人全般についていえることだろうが、土佐人の心の中にも、様々な土俗神たちが複合的に存在している。日頃は、神様なんかいないよ、という顔をして生活しているが、何か願い事ができると、やはり真っ先に祈るのは身近な神様だ。  佐川町の私の生家の近くの山中に、穴地蔵という神様がおられる。山の崖《がけ》にできた穴の中に、地蔵が何体か並べられている小さな社で、入り口には御願ほどきの穴のあいた石が沢《たく》山《さん》、置かれている。穴地蔵というからには、痔《じ》はもちろん、穴に関することは何でも引き受けてくれる。母は、姉の出産の時に、ここに願かけに来たという。  家の庭にあった南天の木にも神様が宿っていた。こちらは失せ物の神様で、南天が枯れてしまった今でも、母は物を失くすたびに、庭に出て祈っている。  生家から峠ひとつ越えたところには、猫神様という喉《のど》の病気の神様の社がある。御神体は石の猫様らしい。今年の正月、父と見物に行った時、社の扉を開けて写真をばんばん撮ったら、私も父も翌日から喉が痛くなった。ただの風邪とは思うが、不安を覚えたので、今回、再訪して、小魚を捧げてきた。  数えあげればきりがないほど、私の育った環境には大勢の神がいた。村を行き過ぎる四国霊場巡りのお遍路さんもまた、そんな神の中に属していた。  四国各地に、茶堂といわれる小さなお堂がある。巡礼道の路傍に設けられ、そこでは夏場になると、お遍路さんに茶が振るまわれた。お接待と呼ばれるこの風習は、四国の農村部の夏の風物詩となっていた。  お遍路さんとは村に時折、訪れてくる神であり、大切にしなくてはならない存在であった。逆に、粗末にすると、祟《たた》られる。四国には、村人がお遍路さんを邪険に扱ったために不幸に遇うという民話が数多く残されている。私が子供の時には、悪いことをすると「お遍路さんに連れていかれるよ」と脅されたものだ。  村という小宇宙に住んでいる者にとって、境を越えてやってくる外の人間はすべて「神」であり、畏怖の対象だったのである。この場合の境は、この世とあの世の境でもいいし、現実的な村境でもいい。とにかく、境の向こうから村世界にやってくる「未知なるもの」はすべて丁重に神に祀りあげた。そうしておけば、恨まれる心配はない。触らぬ神に祟りなし、ではないが、粗末にせぬ神に祟りなし、である。  江戸幕末期の絵師に、絵金という人物がいる。海辺の町、赤岡にふらりと現れ、数年間滞在して、夏祭りの夜、通りや神社に飾るための芝居絵を描いた。赤岡の人にとっては、彼もまた、異界からやってきた「神」であったはずである。  赤岡は、高知市の東約二十キロメートルに位置する海沿いの町だ。太平洋に面しているせいか、暖かい。うららかな日差しの下に、今も古い土蔵や商家が軒を並べる。平和な町である。  絵金は、地元の素封家の土蔵にこもり、二階で義太夫を語らせ、朝から升酒を浴びるように呑みながら芝居絵を描き続けたという。町の人々にとって、かなり迷惑な「神」だったはずだ。だが、彼の描く絵には妖《あや》しい魅力があった。  泥絵具の強烈な色彩。大胆な構図。生首が転がり、血《ち》飛沫《しぶき》が飛び、怨《おん》霊《りよう》が歯ぎしりする。男より、女の表情がいい。憎しみや嫉《しつ》妬《と》、怒りに満ちた女の情念が画面から迸《ほとばし》り出る。二畳ほどの二枚折りの屏《びよう》風《ぶ》いっぱいに、どろどろした人間模様が展開する。これは、芝居絵という名を借りた、地獄の情景だ。  この絵を見た赤岡の人々は、血が凍るような恐怖と興奮を覚えたことだろう。それは現在、私たちがホラー小説やホラー映画を見る時に感じる興奮と通じるものがある。  だが、私はこの絵金の世界に描かれるような、血みどろな地獄にはさほど興味がない。  私が興味を覚えるのは、恐怖よりむしろ畏《い》怖《ふ》の感情である。恐怖と畏怖はよく似てはいるが、畏怖には、神の存在がかかわってくる。そして同じ神でも、土俗の神々に対して感じる畏怖の感情に、たまらない魅力を感じる。それはきっと、私にとって、土俗の神々は、仏やキリストとは違い、生まれてきた土壌に属する身近な存在であるからだろう。  土俗の神々のおもしろさは、誰でも、何でも「神」になりうることである。その人なり物なりの中に、境の向こうの未知を感じさせる何かがあれば、その存在は「神」となる。人も猫も、南天の木でも、すべてのものが神になりうる世界。それが、日本人が元来、持っている村宇宙であった。その村宇宙を探りあてることが、私が小説で行っている行為だと思っている。  ただ、この宇宙は、明治時代以降、西洋文明の名のもとに行われてきた舗装工事の結果、ぶ厚いアスファルトの層に隠されている。おかげで、今やどこの土地も同じ灰色の平面に見えてしまう。こののっぺらぼう的な平面世界で、おもしろい宇宙が埋まっている場所を捜しあてる作業は難しい。これこそ「神」様の力を借りなければできるものではないのである。 路地裏のにおい  幼い頃、私はおばあちゃん子だった。孫の中では最も祖母に可愛がられ、小学二年になるまでおなじ蒲《ふ》団《とん》で寝ていたほどだ。祖母が亡くなると家の状態も変わってしまったが、当時、彼女の居室は四畳ほどで、細々としたものが置かれていた。指《ゆび》貫《ぬき》や楕《だ》円《えん》形の可愛らしい糸切り鋏《ばさみ》や木綿糸が詰めこまれた木の針箱、柄の擦《す》りきれた座蒲団、黒光りする鉄の金具のついた箪《たん》笥《す》、部屋の隅に置かれた蕎麦《そば》枕や壁に掛かった竹の状差し。長年の歴史の滲《し》みこんだ品々に囲まれた空間は、いかにも祖母らしい匂《にお》いを放っていた。老人臭いともいえるこの部屋の匂いが、私は決して嫌いではなかった。それは、今では遥かな過去となってしまった子供時代への郷愁を呼び起こす匂いでもある。  私が東京の巣鴨界《かい》隈《わい》に惹《ひ》かれたのは、ひとつには、この土地が祖母の居室と似た匂いを放っていたからだ。  巣鴨は、高岩寺のとげぬき地蔵で有名な町だ。地蔵の姿を印刷した御影という小さな紙の札を水と一緒に飲めば、心の病も体の病も消えるといわれ、人々、特に老人の信仰を集めている。おかげでJR巣鴨駅の前から寺まで続く参道にあたる地蔵通り商店街には、老人向けの店が多い。  衣料品店にうずたかく積まれているのは、肌色の厚手の下着や着易そうなズボン、いかにも地味な柄のワンピース類。しゃれた喫茶店なぞはなく、あんみつから蕎麦まで揃《そろ》っている食堂や煎《せん》餅《べい》屋、饅頭《まんじゆう》屋などが並んでいる。そんな鄙《ひな》びた商店街を老女たちがぞろぞろと高岩寺に向かって楽しそうにお喋《しやべ》りしながら歩いている。  実に、巣鴨界隈全体が、祖母の居室のような匂いを漂わせているのである。もっとも、あまり信仰心の厚くない私は、これほど大勢の人々がとげぬき地蔵の霊験を殊勝に信じていることに対しては、冷やかな気分を抱いていたのだが、世田谷区から参詣に来たという女性二人連れと話を交わす機会があって、なるほどと思った。 「私だって、お札を飲んだからといって、病気が治るとは信じてないですよ」  二人のうち、年長の初老の女性のほうはあっけらかんといったものである。 「でも、気は心ですからね。ここにお参りに来た日は気持ちがいいんです。いってみれば心の洗濯になるのね。だから月に一度は来るようにしてるんですよ」  姪《めい》だという隣の女性も、自分も最初はそんな気もなかったが、叔母に誘われて来るうちに習慣になってしまったとつけ加えた。  とげぬき地蔵界隈に集まる老人たちの表情が明るい感じがするのは、ちょっとした行楽気分で来る人が多いせいかもしれない。  しかしこの明るい印象は、地蔵通り商店街から離れると、がらりと変わる。脇《わき》の路地に一歩入っただけで、商店街の喧《けん》騒《そう》は急に消え失せ、古ぼけたアパートや一軒家の並びが立ち現れる。通りに人影は少なく、たまにすれ違う老人たちの顔には、参道を歩く老人たちとは違って、興奮した表情もなく、ただ淡々としている。もちろん、ここに住んでいる人たちだから、巣鴨を歩いて興奮するはずはないのだ。  晴れの日の老人と、褻《け》の日の老人。非日常と日常の二つの場に居る老人たちが、同じ巣鴨で交差している。  しかも、ここで交差しているのは、それだけではない。巣鴨は過去が現代を侵食するように混ざりこんでいる場所でもある。車も入れないような狭い通りを歩いていると、ふと今も使われていそうな井戸や、洗濯場にぶつかったりする。ワンルームマンション隆盛の現代ではあまりお目にかからなくなった下宿屋や古ぼけた寮。それらの間に空家がひっそりと残り、家も塀も圧倒的な緑の蔦《つた》に覆われていたりする。  高層ビルが立ち並び、巨大なデパートが華やかに何本もの垂れ幕をかかげ、新聞社やテレビ局が集まり日本のマスコミュニケーションを牛耳っている東京という大都市のイメージとはほど遠い雰囲気だ。むしろ、そんな先端都市のイメージに入りきらないものが押し寄せられてきて、ここに溜《た》まっている感じがする。  そんなこの土地に魅力を覚えて、私は巣鴨を舞台にした小説を書きたくなった。  私の場合、よくあることだが、小説のための取材をしはじめると、ますますおもしろい事実にぶつかる。今回もそうだった。巣鴨を中心とした付近の歴史を調べていると、池袋モンパルナスという名前に出くわした。  昭和初期、池袋界隈は池袋モンパルナスと呼ばれていて、芸術家たちが集まる場所だったというのだ。知る人ぞ知る有名な話らしいが、東京の歴史に疎かった私には初耳だった。  豊島区長崎付近には、当時の芸術家たちの住んだアトリエ付き貸家がまだ残っているというので訪ねてみた。地図を頼りに、路地をうろうろした挙げ句、やっと数軒の家を見つけた。改造されたり、老朽化したりしているが、確かに天窓のついた小さな家がかろうじて残っていた。  現在の池袋をどういう角度から眺めても、モンパルナスと呼ばれた時代は見えてはこない。しかし、実はコンクリートで固められ、新しいビルが重層的に重なった町の下には、そんな過去が埋められているのだ。  それはちょうど、老人という存在とよく似ている。  老人とは、子供時代から青年時代、壮年時代と長い歴史を生きてきた人たちだ。年齢を経て、動作も緩慢となり、穏やかになったその皺《しわ》の下に、膨大なる過去を埋めている。情熱的だったかも、喧《けん》嘩《か》っ早かったかも、ひどく気弱だったかもしれない、若い時代の男や女を隠している。  重層的な都市の上を、過去を重層的に秘めた老人たちが交差する。そんなことに思いを巡らせた時、私は万華鏡の中を覗《のぞ》いたかのようなわくわくした気分を覚えた。  都市も人も、地層を重ねるように、時を重ねている。地層を丁寧に検査していく学者を真似て、私もあっちの都市の皮、こっちの人の皮を少しずつつまんで、めくっていったらどうだろう。そんな形で書いてみたいと思いながら、『桜雨』に取りかかった。成功したかどうかはわからないが、私にとっては、おもしろい作業だったことは確かだ。  このおもしろさとは何だったか。分析してみると、それは表に見えるものと、裏に隠されているものの違いを発見するおもしろさであったのだと思う。  今は住宅が密集している巣鴨界隈が、つい六、七十年前までは牧場があるほどのどかな一帯だったこと、戦前の大塚には遊《ゆう》廓《かく》があって、池袋よりずっと賑《にぎ》わっていたこと、やはり戦前の池袋はすぐ近くまで湿地帯で、田畑が広がる田舎めいた場所だったこと。  そんなことがわかるにつれて、とても不思議な気分になった。今、私たちが見ている都市の風景は、たかだかここ数十年の間に形成されたものに過ぎない。私たちは、コンクリートやセメントの力強さに騙されているだけなのだ。そのしっかりした構築物を見ていると、ずっと昔から同じようにここに存在してきたような錯覚に陥ってしまう。そしてまた、未来永《えい》劫《ごう》、このままであるような気がしてしまう。  しかし、それは嘘《うそ》なのだ。  いつまたこの景色は変わってしまうかもわからない。人も同じことである。一見、穏やかで優しそうな表情の人も、間違って起爆ボタンを押してしまったように、何かの弾みで感情を激させることはよくある。また人はそういうふうに変《へん》貌《ぼう》するから、興味深いともいえる。  表に現れるものと、裏に潜むもの。落差が大きいほど、私はそこにドラマを感じる。多分、その落差の大きさを描きすぎるのだろう。私の書くものは怖い、怖いから、ホラー小説だとよくいわれる。  しかし、この『桜雨』がホラー小説だとは私はまったく考えていない。第一、さほど怖くもないはずだ。もし怖いという人がいるのなら、それは小説の形態のせいではなく、都市と人間というテーマのせいだろう。  都市とは、表と裏の違うものである。表で生活を享楽しているように見える人が、裏では孤独に苛《さいな》まれていたり、その逆もあったりする。都市というものを考えると、私は大きな池で浮かんだり沈んだりしている大勢の人たちの姿を想像する。その様子は、見る人によって、楽しく水遊びしているようにも、溺《おぼ》れそうになって両手両足をばたつかせているようにも受けとめられるだろう。  私はその状態を溺れそうになっていると見てしまうタイプの人間だ。これを水遊びしていると見る人間が書いたならば、もっと別の小説ができあがったはずだ。  だから、『桜雨』は悲観的観点から見た都市の小説である。しかし、それはあくまでも舞台装置に過ぎない。本当に描きたかったのは、都市という舞台の上で交差する老人たちの過去と現在。それには巣鴨という舞台は、実にぴったりとした場所だったのだ。 南方浄土 南の島の陽気なバス  タヒチでバスに乗った。今年の三月、南太平洋に行った時のことだ。  この島では、トラックの荷台を座席に改造して屋根をつけただけの簡易バスが走っている。個人営業のバスだから、運転手さんの好みで車体は赤や黄色や青のカラフルな色が塗られている。一応、停留所があるとはいえ、路線上どこでも乗り降り自由。料金だって、好きな時に払っていい。窓ごしに運転手に小銭を手渡すだけ。前払いとか後払いとか、整理券を取れとか、停留所以外では止まりません、だとか、日本のバスのような煩わしい規則は一切ない。  車内にはラジオ音楽が、がんがんかかり、行楽に行くような明るい空気に満ちている。窓の向こうにきらめく青い海。その前を流れ去る緑の椰《や》子《し》林。顔をほころばせ、陽気な音楽を聴いているうちに、遠い昔、似たような気分を味わったことを思い出した。  あれは私が四歳か五歳の時のことだった。今では忘れてしまったが、何かの理由で、母の勤め先のある高知県佐川町の中本町から、猿丸峠を越えたところにある私の村にバスで帰ることになった。  ひとりでバスに乗るのは初めてだ。どきどきしながら、荷物を膝《ひざ》に抱えて、窓辺の席に座っていた。  バスはあっという間に市街地を抜けた。山道にさしかかった時には、乗客は私ひとりとなっていた。当時の猿丸峠の道はまだ舗装もされていなくて、粗削りの斜面を切り拓いただけだ。人家もなく、道の両側には緑の木々がおい茂っている。  その寂しい光景を見ているうちに、だんだん心配になってきた。このバスは、ほんとうに私の村に着くのだろうか。もしかしたら、とんでもない山奥に向かっているかもしれない……。  不安感がどうしようもなく膨れあがってきた時、 「こっちゃにきいや」  前にいた若い女性の車掌さんが手招きした。近寄っていくと、彼女は私を運転席の隣に座らせて微笑《ほほえ》んだ。 「歌でも歌おうかねぇ」  何と答えたか、忘れてしまった。覚えているのは、いつか車掌さんと一緒に歌っていたことだ。やがてそれに運転手さんも加わり、三人の合唱がはじまった。  あの時の楽しさを、どう表現していいかわからない。フロントガラスいっぱいに広がる緑のトンネル。声を張りあげて歌う運転手さんに車掌さん、そして幼い私。赤いボンネットバスの窓から流れだす歌は次から次へと続き、止まることがない。もし、時に色があるなら、あの瞬間こそ、黄金色をしていたと思う。  猿丸峠を越えて、村の雑貨屋の前の停留所で降りるまでの二十分足らずのその時間は、今も私の心の中で黄金色の輝きを放っている。  以後、何千回となく、猿丸峠を通った。中学校の登校路として、高知市に車で出る時の道として。  時が過ぎるに従って、峠は変わっていった。道路は拡張されて緑の林は後退し、斜面は灰色のコンクリートで固められた。頂上付近には工場もできた。眩《まぶ》しいばかりの緑のトンネルは失われ、いつかバス路線も廃止された。あの楽しさの詰まった赤い乗り合いバスは、私の世界から消えてしまったのだ。  今、日本のどこに行っても、走っているのは、機械的な声を出すワンマンバスばかりだ。車掌さんはいなくなり、運転手さんが幼い子のために歌いだすことはまずない。  だが、たまにタヒチのような旅先で、音楽に溢《あふ》れた楽しいバスに乗り合わすと、あの時の興奮が体内に蘇《よみがえ》ってくる。そして、もしかしたら、と思うのである。この島にだって、こんなバスは走っているのだ。もしかしたら、今も四国のどこかに残っているかもしれない。運転手さんや、乗客の笑い声を乗せた陽気なバスが、私の知らない美しい峠を今なお走り続けているかもしれない、と。  ……そうであったら、どんなにいいだろうか。 故郷の訛《なまり》懐かし軍艦《マニヤガハ》島  七、八年前になるだろうか。旅行雑誌に記事を書く仕事を引き受けて、サイパン、マニャガハ島を訪れた。  マニャガハ島は、サイパン本土から三キロほど離れた沖合に浮かぶ小さな島だ。現状は知らないが、当時はおもに日本人観光客を対象とするリゾートが誘致されていて、マニャガハ島一日ツアーや、半日ツアーが組まれていた。  私はもともと、観光リゾートは好きではない。あまりにもロマンチックなお膳《ぜん》立てが整いすぎていて、気味が悪いのだ。  行ってみると案の定、白い砂浜とココ椰《や》子《し》の林、青い海という、三拍子揃《そろ》った景色が整っている。だが、それを除いたら、浜辺で繰り広げられているのは、日本のどこの海岸でも見受けられる光景だ。ジェットスキーにウインドサーフィン、ダイビング……。ありとあらゆるマリン・スポーツに興じる若者たち、全身にココナッツ油を塗りつけて、浜辺に横たわる家族連れ。どちらを向いても日本人。まるで外国の観光ポスターの前で寝そべっている人々を見ているような、非現実感に襲われた。  私はその光景に背を向けて、海岸沿いに歩きだした。  少し行くと、看板があった。ここから先は行かないでください、と日本語で記してある。だが、その理由は書かれてないし、柵があるわけでもない。私は構わず進んでいった。  やがて砂浜が磯《いそ》に変わった。磯のあちこちに黒っぽい塊が突きでている。波に洗われているそれらは、船の残《ざん》骸《がい》だった。鉄骨が錆《さ》びて、腐食している。海岸のほうにも、やはり錆びた鉄の塊が残っている。  そういえばガイドブックに出ていた。ここは第二次世界大戦中、日本軍の砲台があったために、軍艦島と呼ばれていたところだ。その戦争で、アメリカ軍の集中砲火を受けて、日本軍が全滅したとあった。これはその激しい対戦の名残らしかった。  表のロマンチックなリゾートの雰囲気に、この悲惨な戦争の傷《きず》痕《あと》は似合わない。先の看板は、この戦争の残骸を見せたくないための配慮が混じっていたのではないか、と疑った。  さらにふらふらと、椰子の実の転がる島をほぼ一周した時だった。  どこからか肉の焼ける香ばしい匂《にお》いが漂ってきた。海の前の野外テラスに男性ばかり集まって、バーベキューをしている。ビールを呑《の》み、わいわい騒いでいる。遠巻きに近づいていくと、話し声が聞こえた。 「それ、焼きすぎちゅうで」 「たまるか、こじゃんと焦げた」  土佐弁だ。私は驚いて立ち止まった。  なぜ、ここに大勢の土佐人たちが集まっているのだ。  ふと海を見ると、そこに白い漁船が停泊していた。高知からの鰹《かつお》船らしかった。ここに停泊して昼食を取っているのだ。  仕事の仲間たちと一緒に、朗らかに食卓を囲み、呑み、食っているだけだ。ただそれだけで、とても楽しそうだ。  時折、豪快な笑いが湧《わ》き起こり、サイパンの青い空に消えていく。  鰹船の人たちは、こんなところまでやってきているのか。ジョン万次郎の時代から百五十年あまり。その末《まつ》裔《えい》たちは、土佐弁まるだしで、南の島でバーベキューをする時代になっている。  妙に感動を覚えた。  小さな島を一巡りするだけで、なんとたくさんのものが見られるものだろうか。五十年前の戦争の傷痕。そして、海を渡る土佐漁師の百五十年の変遷……。  ツアー旅行に参加するのも、グループ旅行をするのもいい。だが、それを与える側のお膳立てにのっかっているだけでは、旅で見えてくるはずのものも、見えなくなってしまう。  観光ポスターのような風景の中からはみ出して、ほんの少し歩くだけで、いろんなものに出会えるはずだ。そのほうが、よほどわくわくする休日になるだろうに、と思うのである。 熱い生命の漲《みなぎ》る島  今から二十五年前のことだ。高知県足摺岬の西側にある小さな漁村に住む少年が、海に出ていった。二月のまだ肌寒い夜、伝馬船の櫓《ろ》を漕いで、一人、暗い沖に消えていった。浜辺で少年を見送ったのは、彼より一歳年下の二人の友人たちだけだったという。  もちろん、少年の家は大騒ぎになった。捜索は三日間続いたが、少年の行方は杳《よう》として知れなかった。  少年はどこにいったのか、誰も知らない。ただ、後には、海に浮かぶ島がだんだん近づいてくる幾コマかの漫画と「ぼくは遠くの夢の国へ行きたい」という走り書き、そして世界地図帳が残されていた。地図帳には、少年の住む漁村から延びる線が一本、描かれていた。その先が向かっていたのは、南太平洋だった。  これは実話である。少年は南太平洋のどこかにある、夢のような島を目指して、船で乗りだしたのだ。  何が彼にそんな決心をさせたのかわからない。ただ、この少年と同じ時代、やはり高知で育った私もまた、子供の頃、南の島に憧《あこが》れていた。「まさこちゃん、大人になったら、何になりたい?」と聞かれるたびに、私の脳裏には、遠い南の島のココ椰子の木の下で、たわわに実る南国の果物を食べては昼寝する自分の姿が浮かんだものだ。もっとも、そのあまりに怠惰な未来像を大人に告げるのは子供心にも憚《はばか》られて、私はただ「決めてない」と答えていただけだったが……。  しかし、南の島に憧れを抱くのは、なにも私やその少年だけではないはずだ。毎年休みになると、南の島々に人々がバカンスにどっと押し寄せるのは、やはり誰もがそこに楽園を夢見るからだろう。  南太平洋の島々は数多くあるが、万人のロマンを最も掻《か》きたてる島といえば、やはりタヒチだと思う。  青く澄んだ海とココ椰子の緑の林。いかにも南の島らしい風景に加えて、タヒチの男女は美しい。現地ポリネシア人に、ヨーロッパ人、さらに中国人の血が混ざり合い魅力のある風《ふう》貌《ぼう》を形づくっている。十六世紀末、ヨーロッパ船がこの海に現れて以来、行われてきた融合の見事な結実である。  そして人種の融合は、文化の融合でもある。  タヒチは、フランスの海外自治領だ。素朴なポリネシア文化に、洗練されたフランス文化が溶け合って、なんともいえない雰囲気をかもしだしている。  島の家々の窓枠やカーテンのしゃれた色遣い。人々が身にまとう民俗衣装パレオの美しい柄。ストライプの日除けをつけて、路上に張り出したパリ風のカフェ……。  フランス風「楽園」。これこそ、タヒチに世界中の人々を惹《ひ》きつける原動力なのである。なにしろ、日本でも上流のイメージはフランス風と重なってくるように、世の人々はフランス文化に弱い。フランスの香りのする南の島は、夢のクラブハウスサンドイッチみたいなものなのだ。  だが、この島から、フランス製ベールを剥《は》ぎ取ってみたら、何が見えるだろう?  圧倒的な自然である。  青く澄んだ海中に忽《こつ》然《ぜん》とそそり立つ険しい山々。緑の木々や蔓《つる》が覆いつくした斜面は、ベルベットのような柔らかさで島全体を包んでいる。山の色を映して、エメラルド色に沈む海の前には、民家が点在する。ふんだんに実りすぎて、地面に落ちるにまかせた庭のマンゴーやパパイアの樹。道の両脇に咲き誇る、真紅のハイビスカスや、ピンクや白のブーゲンビリア。純白のティアレの花や、黄緑色のモトイの花の樹から、甘い芳香が漂ってくる。たっぷりの太陽光線と雨水に恵まれて、タヒチの木々も草も花も力の限り、命の炎を燃やしつくしている。  植物だけでなく、人間だって強い生命力を発散させている。  浅黒い肌に大きな瞳《ひとみ》を光らせて、逞《たくま》しい脚で大地を踏みしめて歩く女たちは、揺れる黒髪の間から、男を誘う挑発的な視線を投げかける。そして男たちは野獣の荒々しさを全身に漲《みなぎ》らせ、女たちの挑発に応じる。  タヒチは、生命の漲る島だ。  世界の人々が、この島に限りない憧れを抱くのは、フランス製ベールの下に、この熱帯の力強い自然が存在するからだ。それこそ、古今東西の人を惹きつけてやまない、夢のような南の島の本質なのである。 世界の村は皆、似ている  バリ島を訪れた時、外国に来た、という感じがしなかった。でこぼこ道の両脇に並ぶ平屋の木造の家や、水牛が鋤《すき》を引く水田が広がる風景を見ていると、ああ、懐かしい、という思いにとらわれた。  子供たちが裸足で走りまわり、水路脇では女たちが洗濯している。鶏の親子が横ぎる通りを、大人用自転車に乗った男の子が、サドルからずり落ちそうになりながら走り去る。小さな商店の奥の暗《くら》闇《やみ》にじっと座る店主の女。その前の縁台に座って話しこむ近所の男たち……。  知っている。見覚えがある、こんな生活。  少しして、気がついた。  なんのことはない。私の子供時代の光景そっくりなのである。  小学校の頃、私の村の道は舗装されてなく、川もまだコンクリートで塗り固められてなかった。農耕用の牛馬が道を通り、人々は川で洗いものをしていた。私たち子供は家の鶏に餌《えさ》をやり、道端の駄菓子屋にたむろしては、一個二円や三円の煎《せん》餅《べい》や飴《あめ》を買っていた。  バリ島は亜熱帯に属する島だから、蒸し暑い。人々は男も女も通風性のよい更《さら》紗《さ》模様の腰巻きを身につけている。素材は違うが、私の祖母もよく夏になると、腰巻きひとつで涼んでいた。  そんなことを高知の家で話していると、父がいった。 「腰巻きみたいなもんやったら、昔はこのへんでも男やち穿《は》きよったぞ」  なんでも褌《ふんどし》の上につけた膝《ひざ》までの短い腰巻きを、仕事着にしていたという。私の村のあたりでは、最近までその姿で農作業をしていたお爺《じい》さんがいたそうである。 「そういや、とんと、あの恰好は見んようになったのう。考えてみりゃあ、あのおんちゃんが、腰巻きつけて田圃《たんぼ》に出よった最後の人やったのうし」  父は感慨深げにいった。  ますますバリ島そっくりだ、と思った。  いや、バリ島だけではない。マレーシアやタイ、ビルマ(ミャンマー)といった東南アジア一帯の民俗衣装は、その腰巻き状の服装だ。  遥かな昔、東南アジアのほうから黒潮に乗って渡ってきた人々が、日本に住みついたといわれている。その証拠のひとつが、日本に残る腰巻き形の服装ではないかと思う。  もっとも、そこまで深く考えなくても、高温多湿という似通った気候が、似たような生活様式や衣服形態を生んだともいえる。  そんなことを考えていたら、また、故郷と他の国との類似点を見つけた。  今度は、イタリアである。  去年の夏、取材をかねて、高知県仁淀村に行った。四国の山間部の村々は、険しい斜面にへばりつくようにして石垣を築き、田畑や家を作っている。遠目に見ると、灰色の石でできた城《じよう》塞《さい》のようだ。それがイタリア南部のシチリア島の村を彷《ほう》彿《ふつ》とさせるのだ。  シチリア島の山間の村もまた、険しい山の斜面に石を築いて家を建てている。周囲には、灰色の石垣で囲われたオリーブ畑が広がっている。灰色の石で築かれた集落や畑は、四国の山間部の集落の遠景とよく似ているのである。  しかも、村の小さな店の前に腰を据えて長話する老人たち、畑の石垣に登って遊ぶ子供たち、木陰で草を食《は》む牛や山羊《やぎ》……。シチリアの村で見かける生活風景は、四国の村のそれと根底で通じている。  高温多湿と高温乾燥の差こそあれ、暖かな地方の村同士だ。そこで人が畑を耕し、家畜を飼い、生活をする。自然と密着したその生活が素朴であればあるほど、そこで営まれる生活や風景は、似通ったものになってくる。結局、世界のどこにおいても、自然を相手にする人の営みには大差はない。  国や民族の差はあっても、人間皆、やっていることは同じなのである。 マルケサスの男  その男は、無表情にトラックの荷台に乗ると、仁王立ちになった。茶色の長い髪に、彫りの深い顔立ち。筋骨隆々とした美丈夫だ。 「彼女の旦《だん》那《な》さんがついていってくれるそうです」  車の中で、コーディネーターの小林さんがいった。四輪駆動の運転席では、浅黒い肌のアンナマリがにっこり笑って頷《うなず》いた。  太平洋のどまんなか、マルケサス諸島のヒア・オバ島でのことだ。ゴーギャン終《しゆう》焉《えん》の地を訪ねるという雑誌の企画で訪れた島だった。島の中心アトゥナというのは人口千人そこそこの村。墓参りをして、小さなゴーギャン博物館を見たりすると、もう見物するものはなくなってしまった。私とカメラマン、そして現地在住の日本人コーディネーターの三人で話し合った結果、島の反対側にあるプアマウ村見物に行くことにしたのだった。  プアマウまでの片道四時間。四輪駆動のトラックと運転手を雇ったら、やってきたのがこのアンナマリと夫だった。  アンナマリがエンジンをかけて、車は走りだした。村を離れると、すぐに山道に突入だ。山を切り開いて造られた素朴なでこぼこ道をひたすら上がっていく。熱帯に近いだけあって、島は圧倒的な自然に覆われている。路傍の木の幹に絡みつく蔓《つる》。真っ赤な花を咲かせる名も知らぬ巨大な木。対向車もめったにこない。山頂近くになって、雨が降りだした。熱帯のスコールだからけっこう激しい。 「あの人に、中に入るようにいったらどうかしら。詰めれば座れるでしょうし」  私がいうと、他の二人も気になっていたらしく、早速、小林さんがポリネシア語でアンナマリに伝えた。ところが彼女は、いいんだ、と笑っている。  それでも、現地の人を雨の中に放りだしていて、私たちだけえらそうにしているようで落ち着かない。いかにも金持ち日本人のやりそうなことだと思われるのではないか。こちらが雇っている側だけに、気持ちが悪い。  気になって後ろを見るのだが、当の本人は長い茶色の髪を翻して平然と雨の中に立っている。向こうが平気なんだから、とこっちもしらんぷりしていればいいのに、貧乏性というのか、人を使い慣れてないというのか、妙に罪悪感まで覚えてしまう。  キキキッ。突然、車が停まった。見ると、木が倒れていて道を塞《ふさ》いでいる。アンナマリが窓から顔を出して何か叫んだ。  すると、夫が荷台から降りてきて木の幹を抱えてひょいと道の脇《わき》に置くと、何事もなかったかのように荷台に戻っていった。  その見事なまでの力に、この島に来る前に聞いたマルケサス諸島の話を思い出した。かつてこの島は、それぞれの谷ごとに酋《しゆう》長《ちよう》のいる国が形成されていた。それらの国の戦士たちは勇壮で、全身に入れ墨を施し、人喰いの習俗もあったという。この筋骨隆々とした男もまた、その血を引いているはずだ。雨やでこぼこ道なぞ、何ともないのではないか。  車はまた動きだした。雨は小降りになり、太陽の光が射してきた。正面に島の向こう側の海が見えてきた。背後の男は濡《ぬ》れた全身に風を受けて、堂々と立ち続ける。  憐れまれるべきは、私たちひよわな日本人のほうではなかったか、という気がした。でこぼこ道に文句をいい、雨が降ったといって大騒ぎする。  私たちが彼を雇ったのではなく、ただ彼は守ってくれているだけなのだ。文明の中で生まれ育った私たちは、守られねばならぬほどに弱い存在なのだ。そんな私たちに気の毒がられて、彼は内心、ちゃんちゃらおかしいや、と思っていたのではないだろうか。  何だか私はひどく恥ずかしくなった。  この日、この男は往復八時間の道をトラックの荷台に立ち続け、私たちを無事アトゥナの村に送り届けると、けろりとした顔で妻と一緒に帰っていった。 歴史の見えざる糸  間違いに気がついたのは、ポンペイ駅を出て半時間近く過ぎた時だった。地図で見る駅の名前と、列車が通り過ぎる駅の名前が違う。向かいの席の紳士に聞いてみると、やはり私は別の列車に乗ったらしかった。 「次の駅で降りて、一度、ポンペイに戻ったらいいですよ」  彼はそういってくれた。  列車が次に停車したのは、小さな無人駅だった。駅前にはカフェらしいものもない。次のポンペイ行きの列車が来るまでの二時間近く、どうして時間を潰《つぶ》そうかと考えていると、向かいの席に座っていた紳士が近づいてきた。彼もまたその駅で降りたのだった。 「よろしかったら、列車を待つ間、私の家でコーヒーでも飲んでいきませんか」  見たところ親切心でいってくれているようだったので、私はありがたく申し出を受けることにした。  ちょうど会社から帰宅したところだというその紳士の家は、駅から歩いて十分ほどのところにあった。団地の中の住まいだが、かなり広い家だ。そこの台所に通されて、彼の奥さんの作ってくれたエスプレッソ・カフェをいただいた。  コーヒーを飲みながら、日本から来たのだと話すと、奥さんの顔が輝いた。 「まあ、日本! 私の祖父も昔、日本に何度か行ったのよ。ほら、あれよ」  奥さんは壁に飾ってあるセピア色に変化した写真を指さした。近づいてよく見ると、ずいぶん古い時代の日本が写っている。  髭《ひげ》を生やしたイタリア人男性を、日本髪に結った和服の女や、やはり着物姿の男が数人、囲んでいる。どこか民家の庭のようだった。 「祖父は珊《さん》瑚《ご》商人でね、昔、日本まで珊瑚を買いつけに行っていたのよ」  日本のどこに行ってたのか、と聞くと、奥さんは首をひねりながら「高知だったとかいってたけど……」と呟《つぶや》いた。  高知、と聞いて、びっくりした。私の故郷ではないか。確かに高知は珊瑚で有名な土地だ。  もっと詳しく話してくれと頼んだが、奥さんは、祖父はもう死んでしまったし、自分もそれ以上のことは知らないと答えた。  列車の到着時間が近づいていた。私は、コーヒーの礼をいい、紳士の娘に駅まで見送ってもらってその町を去った。  もう六、七年前のことだ。その駅の名前も、紳士の名前も覚えてはいない。 「お月さま 桃色 だれがいうた 海女がいうた 海女の口 引き裂け」  こんな歌が高知の幡多地方に残っていると知ったのは、一昨年の夏のことだった。歌の中の桃色が、桃色珊瑚を指しているという説があると聞いて、私はあのイタリアの珊瑚商人のことを思い出した。  それで半信半疑ながら、幡多地方の歴史を調べてみた。すると、明治時代にイタリア人商人が幡多地方に珊瑚の買いつけに訪れているということがわかった。  あの話は本当だったのだ。  現在、珊瑚の種類を表す用語で、桃色と白とが斑《まだら》に入っているスカッチ珊瑚がある。それはイタリア語で格子模様を意味するスカッチという言葉から来ているらしいということもわかった。明治時代、高知にやってきたイタリア人の足跡が、その言葉に残っていた。  私は、これらのことを下敷きにして、ひとつの小説を書いた。小説が完成したのは去年のことであるが、その小説を作る種は、六、七年前、私が南イタリアを旅した時に見つけたものだ。いや、さらにいえば、百年近くも前、幡多地方を訪れて、一枚の写真を残したイタリア人珊瑚商人によって、その種は蒔《ま》かれていたのだ。  物事が起こる背景には、目に見えない糸のようなものが存在する。なにげない日常の出来事の中から、その糸を探りあて、糸に連なるものを引きずり出していく時、私は、人によって積み重ねられた歴史のおもしろさ、不思議さを感じる。 畑の形  古代史が好きである。専門的な勉強をしたわけでもないし、さほどの知識も持ち合わせてはいないが、古代のことを書いた本は興味を覚えて読んだりしている。  最近、青森で発見された三内丸山の縄文遺跡のことも新聞で知って、わくわくした。なんでも六つの太い柱の跡が残っていて、巨大な建造物の跡ではないかと論議を呼んでいるらしい。先日、たまたまテレビをつけたら、この三内丸山遺跡について、専門家たちがシンポジウムを行っていたので、ついつい惹《ひ》きこまれて見てしまった。  そこでは、植物栽培について意見が交わされていた。これまで縄文時代は狩猟採集文化とみなされ、農耕は行われていなかったというのが定説だったが、そうではないらしい。まだ調査研究段階でわからないことは多いとはいえ、稗《ひえ》などを栽培していた痕跡があるという。もっとも、野生の穀物を定期的に採集していた程度ともいえるし、現在、私たちが考える植物栽培という観念から離れて考えたほうがいいのではないかということだった。  それで思い出したことがあった。  数年前、南太平洋にあるフランス領ポリネシアに行った時である。ファヒネという小さな島で、半農半漁の生活をしているフランソワという人の畑に案内してもらった。農作物の収穫比べ大会で、見事なタロ芋を出品して優勝した経験を持つ彼の畑というからには、さぞかしよく手入れされていることだろうと思っていた。しかし、畑だというなだらかな斜面に立って、あっけにとられてしまった。  私の目には、他のジャングルと代わり映えしない光景が広がっているだけだ。地面には雑草がはびこり、雑然と灌《かん》木《ぼく》が生えている。  作物はどこにあるのか、とタヒチ語に通訳してもらうと、フランソワは太い指で地面を示した。 「ほら、そこに胡瓜《きゆうり》、こっちにレモン。あそこにはパパイアがあるでしょう」  なるほど、雑草だと思ったのは、唐辛子や胡瓜。タロ芋の大きな丸い葉もわさわさ繁っている。草の間に立っているのは、バナナやパパイアの木だ。  野菜も実のなる木も平地にてんでばらばらに植えられている。なんと無秩序な畑かとあきれてしまった。  ところが話を聞くと、そうではないのだ。バナナやパパイアの葉は上のほうにつくから、木の下の地面は日当たりがいい。そこにタロ芋や胡瓜を植える。同じ物ばかり育てると土地が痩《や》せるので、二年間、タロ芋を植えた後は、イグノア芋に変えてもいる。日当たりや土の状態を考えて作られた、立派な畑だったのである。事実、どの作物もたわわに実っている。  日本の畑においては、雑草取りが大きな仕事になっているというと、怪《け》訝《げん》な顔をされた。太陽光線が強く、雨が多いこの島では、むしろジャングルから伸びてくる蔓《つる》が大敵だ。バナナやパパイアに絡みついて、木を傷めつけないように伐採するのが大変だという。  それまで私は畑というと、整然と耕された畝に一列に野菜が植えられている光景しか思い浮かばなかった。だが、この畑は違っていた。自然の中に溶けこみ、ジャングルの一部としか思えない形だった。  私の抱いていたイメージは、近代になって、人間の手がかなり入った後の畑の光景だったのだ。  四国にも、最近まで焼畑の風習が残っていたと聞く。稗《ひえ》や蕎麦《そば》を植えた後、疲れた土壌を休ませるために、火を放って焼くのだ。この場合の畑は畝を作って耕すこともなく、フランソワの畑に似たものだったのではないかと思う。  今、私たちが目にするのは、山の頂上まで整然と耕された畑や水田だ。しかし焼畑が盛んに行われていた頃の四国の山の風景は、もっと違っていたことだろう。斜面をそのまま利用し、森林に紛れこむように植物が育てられていたのだから。その畑の形は、さらに時代を遡《さかのぼ》るなら、縄文人たちの畑に繋《つな》がっていくのではないだろうか。  現在の故郷に、古代の光景を重ね合わせて考える時、私たちが自然に対してなしてきた変形の大きさを考えないではいられない。 地下迷宮に眠るメドゥーサ  私は大都市が好きではない。摩天楼や地下鉄、繁華街の雑踏など、精神が磨滅しそうな気がしてくる。  ところが不思議なことに、イスタンブールは、精神が磨滅する都市ではない。むしろ、高揚させてくれる力を持っている。  青いボスフォラス海峡や金角湾、マルマラ海沿いの丘陵にびっしりとひしめく赤屋根の家々。その中に浮き島のように突きだす、大寺院の丸屋根や尖《せん》塔《とう》のきらびやかさもいいが、裏通りに漂う、寂しげで妖《あや》しい空気も好きだ。  階段の前で男たちがたむろする安宿。人が住まなくなり、扉の失われた玄関。風化しそうになったバルコニーの唐草模様の手すり。破れた半地下の窓辺に猫が座り、石畳を鳴らして歩く人々を丸い瞳でじっと見つめている。 「イスタンブールは膨張する一方でしてね。毎年四十万人くらいずつ人口が増えているんです。ここで育った私でも、まだ行ったこともない場所は多いんですよ」  街を案内してくれたアイハーンさんの言葉に、私は眩暈《めまい》を覚えた。  ここは近代都市のように天に向かって伸びる街ではない。丘を這《は》い、橋を渡り、海峡を遡《さかのぼ》り、どこまでも広がっていく都市だ。その境界は定かではなく、旅人は街のイメージがつかめずに、ただ眩《げん》惑《わく》されてしまう。  イスタンブールの拡大する触手は、地上ばかりではなく、地下にも伸びている。  アヤソフィア大聖堂付近にある、地下宮殿に行った。ユスティニアヌス帝によって作られた地下貯水池で、水で満たされた床面に三百本以上の石柱が林立する幻想的な空間だ。暗い宮殿の奥に、メドゥーサの頭があった。  この蛇の髪を持つ女の石頭が、地下宮殿の柱の基石に使われている話は以前から聞いていたが、二つもあるとは知らなかった。  ひとつは逆さに、もうひとつは横向きに置かれ、その上に大きな柱が乗っている。地下宮殿を構築している石材は、ローマ帝国時代の遺跡から持ってきたもので、この二つの頭もその一部、というのが定説だ。たぶん、見る者を石に変えるというメドゥーサを恐れて、逆さや横向きにしたのだろう。現在では、石頭のある付近の水は堰《せ》き止められ、観光客たちが見物できるようになっているが、十年くらい前までは水底に没していて、決して人の目に触れることはなかった。  千年以上の間、メドゥーサはイスタンブールの地下の水底で眠っていたのだ。  メドゥーサは、今でこそ恐ろしい怪物のように考えられているが、その起源は古く、キリスト教以前の大地母神に遡れるという。  長い眠りの間、メドゥーサはイスタンブールの夢を見ていたのではないかと、私は思う。そうして、地上の生命を育《はぐく》むように、夢の中でこの迷宮都市を育んでいったのだ。だからこそ街の境界は曖《あい》昧《まい》で、どこか夢の彼方までも広がっている感覚を覚えるのだ。  イスタンブールという都市には、そんな魔力の存在を想像させるだけの不思議さがある。 アンタルヤのピナコラーダ  オレンジ色の実が、太陽の光につやつやと輝いていた。フルマという柑《かん》橘《きつ》類の樹の実が、民家の石塀の向こうや崩れかけたローマ帝国時代の遺跡の中、街路のあちこちで揺れている。石畳の狭い通りの両脇には、雑貨屋や絨《じゆう》毯《たん》屋、土産物屋が軒を並べ、店の入り口の階段に腰をかけた男たちが、道行く観光客に「革のジャケットはどうだい」「何を探してるの」と声をかける。城壁に囲まれた港にはヨットが停泊し、岸壁沿いのカフェテリアでは人々がビールやコーヒーを飲みながら、眩《まぶ》しい日差しに目を細めている。  トルコの港街アンタルヤを歩いていると、南イタリアかギリシャの海辺の小さな街を訪れている錯覚に陥る。  しかし、どこか違う。  それは旧市街に聳《そび》えるイスラム寺院の細い塔や、二階部分がバルコニーのように張りだした可愛らしい木造民家、道行く男たちの頭に載った丸い小さなトルコ帽といったもののせいかもしれない。  男たちといえば、いかつい顔をしている人が多い。どんぐり眼に太い眉《まゆ》、黒い口《くち》髭《ひげ》。いかにも危険な香りがする。  街で入った酒場のカウンターにいた男もまた、そんな風情を漂わせていた。奇妙なリズムのトルコ音楽に合わせて頭上で回るミラーボールといい、客の少ない店といい、怪しげな様子に不安になったが、すでにテーブルについてしまった以上、しかたない。ピナコラーダを注文すると、カウンターの男は、無愛想な顔で支度をはじめた。ところが、なかなか出てこない。他のテーブルには次々と飲み物が運ばれるのに、私のところにはさっぱりだ。  カウンターのほうを何度か振り返ってみたが、男は相変わらずむっつりと何やら作っている。私の注文が気にいらないのだろうか。厭《いや》な感じだ。  店を出たい気分になってきた頃、突然、薄暗い店内に、ぱちぱちぱち、という音がした。はっとして見ると、給仕がカクテルを盆に載せてやってくる。グラスの中で線香花火が火を噴いている。私の膝《ひざ》を焼きそうな勢いで火花を散らせ、カクテルが目の前に置かれた。  こんな盛大なピナコラーダは初めてだ。  カウンターを見ると、いかつい顔の男は微笑《ほほえ》んでいた。大きな瞳《ひとみ》に優しげな色が浮かび、人のよさそうな表情に変わっていた。  そうだったのか。私のために時間をかけて、こんな仕掛けをしてくれたのだ。  感激しながら飲みかけて、おや、と思った。普通、ピナコラーダはパイナップルジュースが入っている。淡い黄色のカクテルのはずなのに、これはオレンジ色をしている。 「これ、ピナコラーダなの」  給仕は慌ててカウンターに行き、すぐに困った表情で戻ってきた。 「すみません。パイナップルジュースがないんで、代わりにフルマを使ったんです」  街のいたるところに生えているあの樹の実だ。いかに手近にあったからといえ、パイナップルジュースの代わりに使うとは、なんと大胆なというか、おおざっぱというか……。 「駄目ですか。取り替えましょうか」  給仕がおろおろして聞く。振り向けば、カウンターの男の笑顔は失せて、しゅんとしている。それだけではない。店で働く青年たち全員が、心配そうに私に注目している。  このグラスを突き返せるわけがない。 「いえ、いいのよ」と答えて、ストローでカクテルを飲んだ。フルマを使ったピナコラーダは、この街と同様、ひと癖ある味がした。 メルハバ・マサコ  港町アンタルヤは、トルコ西部、地中海に突きだした小アジア半島の南にある。滞在三日目。天気のいい日を選んで、半島先端目指して遠出した。海の向こうにロードス島を眺めながら海岸線を車で走り、山を越えて、また海辺を通っていく。二時間ほどかけて、人家もほとんどない寂れた港に着いた。そこから小さな船を仕立てて、海に乗りだす。地中海は穏やかだ。どこまでいっても、真っ青な海と空。覆いもない船上に、眩《まぶ》しい日差しが容赦なく照りつける。ゆったりと揺れる波の上に点在するのは、白っぽい岩がごつごつと突きだした島ばかりだ。日光に強い灌《かん》木《ぼく》しか育たないその乾いた島々に生き物の姿はなく、荒涼としている。  船のエンジンの単調な音を聴いていると、ふと、ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』を思い出した。トロイ戦争に勝利をもたらしたギリシャ神話の英雄オデュッセウスが、船で海をさまよう物語だ。子供の頃にダイジェスト版を読んだ程度で、定かに覚えてはいないが、トロイから故国に帰る途中、訪れたさまざまな島での冒険が書かれていた。妖《あや》しい歌で男を引き寄せて殺してしまうセイレンの島では、歌に惑わされないようにマストに体を縛りつけ、魔女の住む島では、船の乗組員が豚に変えられてしまった。風の入っている袋をくれた風の神の島や、人喰い巨人の住む島、オデュッセウスが蜜《みつ》月《げつ》のような年月を過ごした美しい乙女の住む島など、魔法や神秘に彩られた島々の話に、胸を躍らせたものだった。  オデュッセウスが船出したトロイの地が、この小アジア半島の北にあると知ったのは、今回のトルコの旅の途中だった。ここから、オデュッセウスが目指した故郷、ギリシャは海を隔てた向こう側だ。とすれば、『オデュッセイア』の舞台は、この付近でもあるのだ。  そう思うと、無人の島々がどこか神秘的にも見えてくる。  この小アジア半島の西側は、古代ギリシャ人が数多くの植民地を建設した場所だ。市民の集まる広場アゴラを中心にした都市が作られ、神話の神々を祀《まつ》るパンテオンが聳《そび》えていた。ギリシャからトルコは、海を渡れば目と鼻の先だ。古代ギリシャ人たちにとって、地中海は庭のようなもので、対岸のトルコに来て植民地を作るのは、近くに別荘を作る程度のことだったのかもしれない。  私たちが訪れたのは、ケコワ島にある、そんな古代ギリシャの遺跡のひとつだった。この付近には、紀元前二世紀頃のギリシャ遺跡が沢山残っているが、他のものと違っているのは、水の中に没している点だ。  グラスボートさながらに、船上から海中の建物の残《ざん》骸《がい》を眺める。緑色の澄んだ水の底に、崩れた階段や壁が残っている。かつて、あの階段を昇り降りし、あの壁の中で暮らしていた人々がいた。しかし、今は誰もいなくて、ただ水中の亡霊の街と化している。  この都市は二千年ほど前に起きた地震で、海底に没したのだという。その前は、本土側のシメナの街とひとつづきの都市だった。私たちは、水中遺跡を見物した後、そのシメナに向かった。  かつてはギリシャの植民都市として栄えていただろうシメナは、今では、村としかいいようのない小さな港だ。漁船の停泊する桟橋近くの海面には、遺跡の一部である古い石の住居や、断面がドングリを立てた、奇妙な形の石棺が突きだしている。古代と、現代が重なりあっているような不思議な感覚を覚える。  桟橋に着くと、私たちはシメナ散策のために船を降りた。しかし、店もろくにない寂れた村だ。観光名所というと、背後の丘の上に残っている中世の城跡くらい。家々の間に続く狭くて急な石段を昇って、その丘に向かった。  崩れ落ちた城壁と壁しか残ってない城跡の一番高いところに立って、周囲を見晴らす。  海を背景に、なだらかな山稜が続いている。灌木しか育たないために、斜面は緑のビロードを敷きつめたようだ。山の尾根に沿って、桟橋で見かけたこのリキア地方特有の石棺がぽつんぽつんと点在する。宝石箱にも似たその石棺は、神の手によって意図的にそこに置かれたみたいに意味ありげに残されている。不思議な光景だった。  それを見ていると、ふと、以前に見た夢を思い出した。そこでは私は、こんななだらかな丘陵地帯を走っていた。空を飛んでもいたような気がする。体の下を通りすぎていったのは、こんなに美しい緑の山々の連なる光景だった。  城跡から降りて、再び村に入った時、一人の老人に会った。歯の抜けた、人の良さそうな顔をしたトルコ人の老人だ。その彼が、突然、私に手を差しのべてきて、「メルハバ(こんにちは)、マサコ」といった。  当然、一面識もない人である。なぜ、私の名前を知っているのだろう。びっくりして返す言葉も失った。きっとマサコというトルコ語があるのかもしれない。きっと、そうだ、と思うのに、老人は、マサコ、マサコ、と私の名を連発して、とても懐かしそうに話しかけてくる。私と同行していた人たちも、思いがけないことに目を丸くしている。ようやく私たちの当惑に気がついた老人は、列車が駅で止まる時のようにゆっくりと話をやめた。隣にいた案内役のハーカーン君が、老人に事情を聞いてくれた。そして、なんとなく納得しかねるという表情でこう私たちに告げた。 「人違いだったみたいですよ。なんでも、この隣の村に、マサコさんという日本人女性がいるらしくて」  こんな辺《へん》鄙《ぴ》な地に、私と同じ名で、しかも顔もよく似ている日本人女性が住んでいるとは。ただ、ただ驚くばかりである。  老人は少しばつの悪そうな顔をして、それでもまだ、私が別人であることが信じられないような表情で去っていった。  再び船に乗り、その村を離れながら、私はふと思った。  私は夢の中で本当にこの丘の上を飛び、この水中に古代都市の眠る海辺の村に来ていたのかもしれない。そして、あの老人と出会った……。  もちろん、マサコという女性は実在するのだろう。しかし、ここは『オデュッセイア』では、神秘に満ちた島々が点在する場所だ。そんなことだって、起こりえるかもしれない。 サイパン点景  ガラパン海岸を歩いていたら、真っ黒に日焼けした若者たちに声をかけられる。 「ハロー。ジェットスキー、やりませんか」 「ウインドサーフィン、どうですか」  小さなマリン・スポーツ店が、そこここにあるのだ。このガラパン海岸はホテルの立ち並ぶ、サイパンの観光地。道をへだてて、ホテルの反対側には、免税品店やレストランが軒を並べる。とはいえ、がたがたになったような二階建ての建物が多い。ネオンや看板がけばけばしい日本の観光地とは違うところが、ありがたい。  さっきまで痛いくらいの太陽が照りつけていたと思ったら、突然雨が降りだした。それも、叩《たた》きつけるような激しさだ。車が水しぶきを上げて通りすぎる。風が吹きすさぶ。日本でこんなめにあったら、みじめな気分になりそうだ。  でも、ここなら、雨が冷たくないせいか、さっきまで暑すぎたせいか、むしろ濡《ぬ》れても気持ちがいいくらい。はじける水滴。尻尾《しつぽ》を巻いて、走る犬。木の下や店の軒下で、のんびりおしゃべりしながら、雨のやむのを待っている人々。白く煙った町を見ていると、まあ、いいか、べつに急いでいるわけではないしと、思えてくる。  道路脇《わき》のスナックバーに入った。メニューには、カレーライスにラーメン、サンドイッチ、韓国料理。このクロスオーバーぶりが、楽しい。  店は静かだ。新聞を広げて、コーヒーを飲んでいるアメリカ人。熱い紅茶をすすりながら、仕事の打ち合わせをしているらしいツアー会社のスタッフ。ドアが開いて、フィリピン人らしい女の子が二人、入ってきた。チョコレート・パフェを頼んで、なにか楽しそうに話している。レースのカーテンのかかった窓の外は、まだ雨だれがしたたり落ちている。  空が少し明るくなってきた。  南の島の雨は、どこか心がほのぼのとしてくるように温かい。  ガラパンでレンタサイクルを借りて、ビーチ・ロードをススペまで走った。道の両脇に生い茂る火炎樹。赤い花が燃えるようだ。木の向こうは青い海。横を通りすぎる車の列。荷台に、子供をたくさん乗せて走るトラック。道ばたには、魚を売る車も止まっている。青や黄色の熱帯魚が、ぬめぬめと鱗《うろこ》を光らせて横たわっている。  土曜日でもあって、道路沿いの公園には、ピクニックを楽しむ家族連れ。  カヌーに乗って、魚を捕っている家族に出会った。くちばしの長い魚を持って、少年が笑っている。向こうから、カヌーに乗ったおばさんが近づいてきた。そのでっぷりと太った体に、船が沈まないかと不安になる。  少年が手招きした。見に行くと、海に浸した網の中に魚が沢山捕れていた。  少し行ったところでは男たちが水中に潜って魚を捕っている。海にかこまれた島らしい光景だ。  あたりの建物が、大きくなってきたかと思うと、ススペ到着だ。ここは、サイパンの首府。海沿いに三キロメートルほど続く小さな町だ。町はずれにススペ湖という湖があると知って、行ってみた。町の中心から自転車を五分もこぐと、もうアスファルトの道は消える。ジャングルの中を切り開いた道をさらに行くと、湖に着いた。そばに家がぽつんとあり、鶏がヒナを連れて散歩している。家の隣の小さな畑には、バナナの木が植えられている。家の中から、陽気なアメリカン・ポップスが流れている。  ジャングルを切り拓いて、家を建てて、魚を捕ったり、ピクニックに行ったりして休日を過ごす。この島の人の生活が垣間見える。  ヤシの木の向こうの、茶色に沈んだススペ湖が、静かに輝いていた。  ガラパンを出て、北に車を走らせる。集落はほとんどない。所々にホテルが建っているだけだ。左には海、右にはなだらかな丘陵。やがて、灰色の巨大な崖《がけ》が見えてきた。これがスーサイド・クリフ。第二次世界大戦末期、サイパンで戦っていた日本兵や一般市民たちがここから身を投げて自決していった場所だ。  スーサイド・クリフから左に入ったところにバンザイ・クリフがある。約八十メートルもある断崖絶壁が、海に向かって半円形にそそり立っている。下を見ると、水色の波が砕けて、アイスクリームの泡のように白い飛《ひ》沫《まつ》が飛び散っている。ここもまた、スーサイド・クリフと同じく日本人たちが身を投げて死んでいった場所。海の向こうは、日本の方向だ。兵士たちは、日本を見ながら海に飛びこんだのだろうか。  海の上に、虹が見えた。半分しかないが二本、並んでかかっている。こんなに色鮮やかな虹は見たことがなかった。空気の澄んでいる場所は、虹も美しい。  スーサイド・クリフにしろ、バンザイ・クリフにしろ、その自然の美しさには圧倒される。この地の持つ悲惨な歴史が、美しさを陰らせてしまうのがもったいなく思える。  島北部の先端を回って、スーサイド・クリフの上に登っていく。ここはマッピ山といい、標高二百五十メートルの小高い山になっている。崖のへりに立って、下を眺める。緑のジャングルと、その向こうにバンザイ・クリフが広がっている。かつてここには日本軍の飛行場があったと聞いた。  さらに遠くには、海が横たわっている。海の向こうから、スコールが白い幕のように、幾重にもなって近づいてきた。十六世紀、この雄大な海の向こうからやってきたマゼラン一行が、この島を発見したときから、世界に知られるようになったミクロネシア。その後、スペインの宣教師たちが訪れ、やがてスペインの支配下に置かれ、さらにはドイツ、そして日本がやってきた。そして今は、アメリカ。  この島を発見し、この島を奪い合い、戦った人間たちが、今は、この島で優雅な休日を送るために訪れる。  マッピ山から島の東部に出た。路面の整備されていない、がたがた道を進んでいくと「グロット」と「バード・アイランド」という二つの標識があった。「バード・アイランド」の矢印に従って行くと、やがて崖の上に出た。眼下に入江が見える。その入江の中央にぽっかりと島があった。ここは野鳥の楽園だという。確かに、人が近づけないような断崖に囲まれた島だ。  その向こうに突きだしているのは、マドック岬。岬の崖縁にある鍾《しよう》乳《にゆう》洞《どう》が、グロットだ。その幻想的な海の洞《どう》窟《くつ》は、ダイバーたちにとっては最高の場所だとか。  もう日は傾きかけている。あたりが、ほんのり赤く染まっている。バード・アイランドの方から聞こえてくる、鳥の声。海岸には、波が次から次へと打ち寄せている。その海岸のぎりぎりまで、押し出している緑のジャングル。椰《や》子《し》の葉と、からまる蔦《つた》が、こんもりと茂っている。  不意に、近くの茂みから、黒い鳥が飛びだした。コウモリだった。夕日の中で、何匹もはたはたと飛んでいる。  十六世紀、マゼランによって発見される以前の、平和で静かなサイパンを、一瞬、見たような気がした。 プンタンの背中  昔、この世がまだ水におおわれていた頃、巨人の兄妹がいた。兄のプンタンは妹のフンマにいった。「私が死んだら、この体を使って世界を作ってくれ。私の二つの目は太陽と月に。私のまつげは虹に、胸は空に。私の背中は大地にして欲しい」と。やがてプンタンが死んだとき、フンマは希望通りに世界を作った。そしてグアムとなった島の赤土から、大きな岩を作り、それを砕いて、最初の人間チャモロを作った。 グアム昔話より   グアムには二つの顔がある。北部のなだらかな平地の顔と、南部の険しい山とジャングルの顔。一般に、旅行客の集まるタモン湾は北部の方。ホテルに宿泊した観光客たちは、たいていこのタモン湾の美しい海に満足して帰っていく。しかし、グアムの神髄はさらに奥深くにある。  レンタカーで、タモンから南に向かう。首都アガニャ、海水浴場のあるピティと、いかにもアメリカ領らしい雰囲気の海沿いの町を通り抜け、島を横断するクロスアイランド・ロードに入る。ゴルフ場の広がる丘陵地帯を抜けると、突然に海が開けた。サーフィンに最適のビーチだ。ビーチの前にはホットドッグ屋。 「カリフォルニアから来たんだけど、こっちはやっぱりのんびりしていていいね」  金髪のお兄さんがホットドッグを作りながらいう。  ここからジャングルの奥に入っていく。サバンナのような荒れ地を突っ切るでこぼこ道を走ること約二十分。ヤシの林に囲まれた小屋に着く。日陰でトランプに興じていたおじさんが二人、こっちを見て挨《あい》拶《さつ》する。グアムの原住民チャモロの人らしく浅黒い肌をしている。ここがタロフォフォの滝と横井ケープへの入り口。  横井ケープはいわずとしれた、横井庄一さんがジャングル生活を送った洞《どう》窟《くつ》。今では立派な観光名所だ(因みに横井さんは、すでに伝説上の人物。グアム博物館には、彼の生活用品を展示したコーナーがあり、アメリカ人夫婦が彼の手作りの服を驚嘆して見ていた)。  タロフォフォの滝に行ってみる。うっそうとしたジャングルの中に、幅約二十メートルもある大きな滝が白い水しぶきを上げている。滝壺《つぼ》に向かって、岩の上を歩いていると、 「そこは危ない。転ばないで」  サファリ・ツアーのガイドという男性が声をかけた。彼のツアーのメンバーは、すでに、お尻《しり》を泥だらけにしている。日本に数回、行ったことがあるというチャモロの彼は、 「新宿、六本木、いいね。楽しいよ」 「グアムにも賑《にぎ》やかな場所があるでしょ」 「いいやグアムは田舎だ。なんにもない」  彼はタロフォフォの滝を囲む緑の木々を眺めた。 「だけど……そうだね。ここにはジャングルがある」  彼の目つきが、ふっと和やかになった。  グアムの人にとって、ジャングルは特別な意味を持つようだ。  案内をしてくれたフリッツもジャングルの話になると目を輝かせる。 「ジャングルは好きだな。疲れたら、ふと行きたいと思う。道ばたに広がるジャングルに、すっと入っていくだけでいい。そこは静かで、果物がいっぱい実っていて……。心が落ち着くんだ」  危険ではないのかと聞くと、 「全然。ただ、タロタロモナスのご機嫌を損じないようにしないといけないけどね」  タロタロモナスとはチャモロの伝説上の精霊だ。ジャングルに住んでいて、やってきた人を気にいったら、遊び半分につねる。その跡が青あざになって、タロタロモナスに会ったなというのがわかるという。逆に機嫌を損じられたら大変だ。 「会社の同僚でね、ジャングルに入った後、青アザができた女性がいるんだ。それが、あちこちにできて、病気になって死んでしまった。みんなタロタロモナスのしわざだといったものさ。だからジャングルに入って、タロタロモナスの住むというバニヤンツリーの前を通るときは、『タロタロモナスさま、通らせてください』といわないといけないんだ」 「本当に信じているの?」  ロックミュージックと車の大好きな、このフィリピン青年は肩をすくめた。 「タロタロモナスに関しちゃ、実際いろんなことを目にしてきたからね」  タロフォフォ湾から、さらに南に下っていく。道の両側には、パパイアやバナナ、スターアップルなどの熱帯の果物がたわわに実っている。ちょうど熟れ具合のいい木を見つけては、車を停めて、果実を取る。誰も文句をいわない。  南の島の人のおおらかさは、こんな食べ物の豊富さからきているのではないだろうか。  天然プールのあるイナラハン、スペイン鐘楼のあるメリーソ。海沿いの村々には、白い教会が点在する。道を歩く人々の顔つきが違ってくる。スペイン系の彫りの深い顔だちだ。特にスペイン統治時代を感じさせられる地域だ。  眼下に、小さな入江が見えてきた。ここは一五二一年マゼランが世界一周の途中、立ち寄った場所といわれているウマタック湾。スペイン領となってからは、メキシコのアカプルコからマニラを経由して、本国へと向かう船の寄港地として利用されていた。この静かな湾に、かつてマヤ、アステカの金銀財宝を積んだ船が停泊していたのだ。海の輝きが、財宝の輝きにも見えてくる。  ウマタックを見下ろすように聳《そび》えるのは、グアムの最高峰ラムラム山。チャモロ語で稲妻という意味を持つ、聖なる山だ。標高が高くなるに従って、ジャングルは姿をひそめ、低木や草に覆われたピクニックによさそうな風景が広がってくる。  ラムラム山についての不思議な話を聞かせてくれたのもフリッツだった。 「真夜中、ラムラム山を通る道路に車を止めておくとね、エンジンを切っているはずなのに、車が山の方に引きよせられていくんだよ。道路の改修工事も、夜間はエンジンがおかしくなったりするので、昼間しか工事をしない。こういったことは、山の力と、水と月の力が合わさって起こるといわれているんだよ」  スペインやアメリカの統治を受けていても、チャモロの伝説は生きている。南の海にぽっかりと浮かんだ島は、やはり伝説の巨人、プンタンの背中からできているのだ。 月《ヴイル》の島  パラオに着いたのは、満月に近い夜だった。空港のあるバベルダオブ島から、コロール島へと橋を渡っていく。橋といっても欄干も何もない。一本の道が、月の光を照り返す海に延びているようだ。 「月は、パラオ語でヴィルというんです。ヴィルはこの国では大事な意味を持つんです。島の古老は月の形を見て漁に出るし、満月の日にココ椰子を植えると、よく育つとか、家を移ると幸運だとかいうんですよ。パラオの国旗も、月が描かれているでしょう」  ガイドのレイがいう。澄んだ夜空にこうこうと光る月が、神秘的に見えてきた。  パラオは、大小二百以上の島々から成る共和国だ。国の中心はコロール島。ここに大統領官邸や裁判所、博物館などが集まり、全人口一万五千人の約半分が住んでいる。とはいえ規模は日本の田舎町程度。緑の芝生と白いプルメリアの花咲く木、ココ椰子の間に、二階建ての建物が点在している。  肌が痛いほどの日差しを浴びながら、コロールを歩いた。時折、タクシーが声をかけて通りすぎるだけで、レンタルビデオの店もスーパーマーケットも、オフィスも、静まりかえっている。がらんとした野球スタジアムの客席でふざけ合っている少年たち。マーケットで、歯を赤く染めながら、ビンロウジュの実を噛《か》む男たち。人は、皆、日陰に入り、土曜の午後を過ごしている。パラオ博物館に行く途中、大きな木の下で笑い声をあげている子供たちに会った。 「ハロー、ハロー」  屈託のない声をかけてくる。口の回りが黒く汚れている。木にたわわに実った黒い実を食べていた。子供たちの中には、国籍がわからないような顔も多い。原住民のパラオ人、白人、日本人の血が混ざり合い、まるで新しい人種を見ているようだ。十八世紀からのドイツ統治、二十年余りに及ぶ日本の委任統治、戦後のアメリカの信託統治の歴史が、ふと顔をのぞかせる。  博物館で古い写真を見た。褌《ふんどし》に腰《こし》蓑《みの》をつけた島の男たち。頭に果物の籠を載せて乳房をむきだしにして歩く女たち。魚を捕り、果物を集めて暮らしていた、かつてのパラオの人々の生活が写っていた。今、そんな恰好をしたりはしないのかと聞くと、レイに笑われた。 「そんなのはもうないです。私が生まれた三十年前にだって、もうなかったですよ」  それでも、島にただ一つ残っているという昔ながらのアバイ(集会場)に連れていってくれた。古代から残るというヤシの葉葺《ぶ》きの建物は、中も外もびっしりと漁業や生活風景の絵が描かれている。  三百年ほど前までは、敵の首を取るとアバイの前の石の上に置く習慣があったという。四人の長老がそれを囲んで座り、首が腐るまで女たちが踊り回った。今、そのような風習はなくなったが、長老的な存在は残っている。パラオには二つの地域に有力な長老がいて、大統領に匹敵する発言力を持っている。近代国家の形を整えながらも、底流では、しっかりと昔ながらの慣習が残っているのだ。 「パラオでは、家を建てる時、資金は必要ありません。まず信用貸しで家を建て、それからパーティを開いて親《しん》戚《せき》や友人たちからお金を集める。そこから、家にかかった費用を払うのです」  仕事に就くと、回りの人たちから、どっと資金集めパーティへのお誘いがかかってくる。そこに出席して、お祝い金を払っていくのが、一人前になった人間の務め。やがて、十分に社会的な信用が得られると自分の家を建てる。お金の有無ではなく、社会の一員として認められるかどうかが、家を持つ資格となる。  週末になると、学校の生徒たちは、人のいない島に出かけていく。そこで小屋をつくったり、訪れた漁師たちが魚を料理する時のためのレモンの木を植えたりという、奉仕活動を行う。道を歩いて、困っている人を見かけたら、気軽に声をかけて助けてあげる。 「島の人たちは、みんな血のつながりのある親戚みたいなもの。だから助け合って生きていかなくてはならない。私は、これは、とてもすばらしいことだと思うんです。ただ、守っていこうとすると、アメリカのモダンライフとケンカする。今、パラオの人は、月曜日から金曜日までは、オフィスや店で働くモダンライフを、土日は伝統的な生活を送っている。この二つの生活を両立させていくのは難しいですね」  レイが考えるようにいった。  夕日が緑の入り組んだ小島を赤く染めて、沈もうとしている。さっきから、フィリピン人らしいバンドがムードミュージックを流している。花に飾られた籐椅子に、タキシードと白いウェディングドレスの男女が座り、恥ずかしそうな笑いを浮かべている。  結婚式があるからと聞いて、見せてもらった。晴れ着を着た出席者たちが、ざわめきながら新郎新婦を見守っていた。新郎は教師、新婦は店員だという。結婚の誓いをし、エンゲージリングを交わす。キリスト教式の結婚式だった。結婚式を行うようになったのは、ごく最近の風習。若者たちは、自由に恋愛し、同棲し、結婚式に憧《あこが》れるようになった。  出ている料理は、西洋料理から中華、刺身までついた日本料理まで。新郎か新婦のどちらかが日本人の血が混じっているということで、出席者にも日系人らしい顔がちらほら見える。アメリカ人、パラオ人たちと溶けこみ、和やかに、楽しそうに話に花を咲かせている。彼らの喋る英語や表情、身振りからは、すでに日本人という感じは薄れている。  そういえば、レストランのウエイターの若者の面差しが、どこか東洋人的なので聞くと、祖父が日本人だといっていた。しかし、教えてもらわない限り、パラオ人と思いこんでいただろう。  ここでは、結婚しても、外国人は、パラオ国籍は取れない。しかし、子供はパラオ国籍になる。こうして結婚を繰り返し、パラオ人の中に、他の人種の血が混ざり合っていく。純粋なパラオ人は少なくなっていく。 「だけどね、結婚してできた子には、パラオ人の血が流れている。その子供たちが、パラオの伝統を守っていってくれるなら、立派なパラオ人ですよ。今、フィリピン人や中国人たちも、たくさん島に働きにやってきて、住みついているけれど、それでも、パラオの伝統は残っていくと思う」  レイの言葉を思い出した。  人と人は助け合うもの。そんな簡単で、素敵な心情が失われつつある現代。昔ながらの生活様式こそ崩れたとはいえ、パラオには一番大切な精神は残っている。もし、これが残り続けるなら、この南の島は、人類の楽園としての輝きを失わないことだろう。 マラエとテレビ  椰子の葉の間に、青い海が光っていた。フランス領ポリネシア、ファヒネ島。朝露に濡《ぬ》れた草の上で、私は、芋掘りを眺めていた。  大きな浅黒い手が土をまさぐっている。拳《こぶし》ほどのタロ芋をつかむと、地面に無造作に投げ出す。 「手で取らないと、根に傷つけるから」  いかにもポリネシア人らしく筋骨隆々とした男、フランソワ・ティメリコが、タロの根を土に埋め戻しながらいった。根は再び芋を実らす。大地は大切にさえすれば、永遠に食べ物を供給してくれる魔法の貯蔵庫だ。  頭上にそびえる山の頂上から、眼下の海までの斜面一体が、フランソワの畑。しかし、何という畑だろう。ヤシやバナナ、パパイアの木が雑然と並び、その下には、種々の芋類、唐辛子、レモンの木がおい茂る。熱帯の植生を知らないものには、ただの野原としか映らない。だが、よく見ると、どの作物もたわわに実をつけている。熱帯には、熱帯ならではの農業がある。フランソワは、父親から、この畑を譲られた時、先祖から伝わる作物の作り方も一緒に受け継いだ。  彼は、毎朝この畑にやってきて、作物の手入れをしたり、熟れた野菜や果物を収穫して家に持ち帰る。そして夕方には、魚を捕りに海に出る。それだけで家族の食料は充分賄える。  彼の生活を知りたくて、家に案内してもらった。  ファヒネ島は、大小、二つの島からなっている。人口約四千人。海岸沿いに小さな集落が点在する、のんびりした南の島だ。  フランソワの家は、小さいほうの島、ファヒネ・イティの南部にあった。海沿いの広い一族の敷地に、平屋の家がぽつんぽつんと並んでいる。兄弟たちの家に混じって、彼の家が建っていた。台所と食堂のある広い空間、そこに続く居間。居間に隣接して、子供たちと、夫婦の寝室が並ぶ。この家は、彼が、自分の土地にある木を使い、自分で建てたものだという。床はきれいに掃き清められ、部屋の間仕切りにはポリネシアらしい花模様のカーテンが揺れている。  居間にはカラーテレビが置かれていた。彼の妻、ティアレが、私を安楽椅《い》子《す》に座らせて、にこにこしてテレビのスイッチをつけた。客にテレビを見せるのが、最高のもてなしだと信じているようだ。  テレビ画面には、ヨーロッパ風の家の一室が映っていた。フランス語なので、意味はわからないが、不倫沙《ざ》汰《た》をおこしているらしい男女が深刻そうに何かいい合っていた。  私の背後では、フランソワがココナッツの実を割っている。台所の土間で、鼠《ねずみ》の尻尾《しつぽ》をかんで遊ぶ子猫たち。庭の木陰で、熱さにうだったように昼寝をする犬。家の前の白い砂浜に、やはり彼が自分で作ったという小舟が置かれている。その向こうに広がる青い海。水平線近くで、島の周囲をとり囲む環礁の縁にぶつかった波が、白い飛沫《しぶき》を飛ばしている。  もう昼近い。戸外に目を向けると、太陽の光を浴びて、海や木々が鮮やかな色を放っている。  しかし、ティアレはテレビに見入っている。夫が魚の網の手入れをしたり、ヤシの木陰でぼんやりしたりして過ごす日中、妻は近所の女たちとテレビを見て過ごす。  フランソワの自給自足の満ち足りた世界と、テレビの画面に映し出されるヨーロッパ世界。この二つの世界がまざり合う居間の空間は、フランス領ポリネシアの縮図でもある。  ポリネシア人の先祖は、アジアからやってきた人々である、とされている。紀元前三〇〇〇〜一〇〇〇年前の間、カヌーに乗って南太平洋に乗りだした彼らはトンガやサモア諸島から、フランス領ポリネシアのマルケサス諸島へ。さらにハワイ諸島や、ニュージーランド、イースター諸島などに広がっていった。  フランス領ポリネシアの島々に定住した人々は、畑を耕し、魚を捕り、農耕漁労の生活をはじめた。木の皮を叩《たた》いて作ったタパの服を着て、木の家に住んだ。賃金は現物支給。たまに珍しい貝で支払われることもあった。  生活の節目となる神事は、マラエで行われた。珊《さん》瑚《ご》からできる平たい砂岩石で作った長方形の祭壇マラエは、ポリネシアの神々への祈りの場だ。家族用から、国家用まで、その規模と目的は多岐にわたっている。ここで新生児の誕生を祝い、結婚式を行い、死者の弔いをし、戦いの勝利を、病気の平復を祈った。重大な祈り事には、人間の生《い》け贄《にえ》を捧げることもあったという。  一年の終わりの収穫祭には、農民から上流階級の者まで、御《ご》馳《ち》走《そう》を食べ、歌い踊り、情熱のままに交わり、時には数か月も楽しんだ。その様子は、まさに「楽園」であったことだろう。  しかし、彼らの「楽園」は、やがて大きな危機を迎えた。ヨーロッパ人の到来である。ポリネシアの島々の存在がヨーロッパ人に知られたのは、十六世紀。だが、本格的に彼らがこの海域の島々に上陸しはじめたのは十八世紀になってからだった。  生活を享楽しているポリネシアの人々と美しい自然に、ヨーロッパ人たちは「楽園」を見た。しかし、皮肉なことに、その名が世界に広まるにつれて、「楽園」の崩壊がはじまった。  まずキリスト教宣教師たちがやってきて、人々を次々に改宗させた。教会は彼らの官能的な踊りを禁止し、マラエを破壊した。最後に訪れたのは、資本主義という怪物だった。  それまでポリネシアの人々は、食物は山から海から得て、服や家は木々や草から作って生活していた。美しい自然から無償で提供される産物で、満ち足りた生活を送ってきた。しかし資本主義の到来と共に、この自給自足の生活をもってしては、どうしても生産することができないものが出てきた。それは、お金だ。  フランソワの家庭でも、この問題は切実だ。電話をひいたのだが、電話料金が払えないので、しばらく前から使えない。ティアレの好きなテレビを見るためには、月々の電気代もかかる。  かといって、フランソワは働きに出ていく気はない。一年前まで、島の建築現場で働いていたが、結局、辞めてしまった。人に使われるのは、もうごめんだ。自分の土地で、王様のように生きるのがいいという。  だけどティアレはテレビを見続ける。テレビ画面に映し出されるヨーロッパ世界は、お金に姿を代えて、フランソワの家に忍びこんできている。  お金は、ファヒネ島民全員の問題でもある。タヒチ島のパペーテに出ていって、金を稼いで島に戻り、車を買って家を建てる。すると、まわりから尊敬される。 「この島には、働き口がないから、みんなタヒチに行くの。だけど、私は、この島が好き。ここで仕事が見つかって、幸せだわ」  最近、ファヒネ島にオープンした高級リゾート「ハナ・イティ」で働く娘バイヤがこういった。  彼女の家は、ファヒネ島の大きいほうの島、ファヒネ・ヌイにある。毎日、赤いスクーターを飛ばして、ホテルにやってくる。耳に赤いハイビスカスの花をさして、派手なパレオを身にまとい、男たちの熱い視線を浴びて働くバイヤは、ほんとうに楽しそうだ。  十八世紀のヨーロッパ人が、「楽園」で見つけた娘を彷《ほう》彿《ふつ》とさせる。 「私は、踊るのが大好きなのよ。村の祭りは、夜の十時くらいから始まるの。夜中の二時や三時まで踊ってることもあるわ」  ポリネシアの踊りは、二十世紀初頭から、再び行われるようになった。最初は修道女の服のような衣装しか許されなかったが、少しずつ伝統的なタヒチの服装に戻ってきた。今では、ほとんど半裸で踊る。  ヨーロッパ世界が押し寄せて来ても、人々の心の根底に残るポリネシア民族の熱い血は、簡単には消えはしない。そしてまた、消すことのできない魅力が、ここにはある。 「ハナ・イティ」のコテージのいくつかは、フランスから移住してきた彫刻家ジャン・クロード・ミッシェルが作ったものだ。そのコテージは、南の島の天然素材を使った、ひとつの造形作品となっている。彼は、この天然素材のよさを生かした家を、タヒチに住みはじめてから作りだした。 「僕がはじめた頃は、まわりは、セメントとガラスでできたヨーロッパ風の家が憧れの的だった。昔ながらの家は廃れていた。だけど最近、椰子やタコノキの葉で葺《ふ》いた、昔ながらの家を建てる人も出てきている。それを見ると、嬉《うれ》しくなるね」  と、ジャン・クロードはいう。  ポリネシアの人々は、今、少しずつではあるが、自分たちの持っているものの価値を見直しはじめている。  昼下がり、ファヒネ島に多く残るマラエのひとつに出かけて行った。  ヤシの木陰で、黒々とした平たい石が、じっと海を睨《にら》んでいた。基壇のあちこちが崩れている。  ここは、ポリネシアの本来の神々の宿る土地だ。今も人々は、幽霊が出るといい、マラエを恐れて近づこうとはしない。現在では、国民のほとんどがキリスト教を信仰しているにもかかわらず、その畏《おそ》れを消すことはできない。これもまた、ポリネシアの人々の血の中に脈々と流れ続けているもののひとつだ。  ふと見上げると、木の枝に、ひょろりとした黒い鳥の姿があった。古代から死者の魂を運ぶといわれてきた鳥、オツゥだった。灼《しやく》熱《ねつ》の太陽を浴びて、マラエをじっと見下ろしている。その姿は、ポリネシア人の魂を再び運ぶ日を待っているかのようだった。 サルデーニャの石塔  石に興味を持ったのは、ごく最近のことだ。アリゾナの砂漠で、巨大な古代の木が、木目もそのまま石化して横たわっているところを見て以来だ。地上の生きとし生けるもの、すべてはやがて灰となり、土と化してしまう。しかし、石は時の流れをものともせずに、何千年もその場所に存在し続ける。ふと気がつくと、足元に転がっていた「石ころ」が、とてつもなく立派な存在に見えてきた。  サルデーニャ島は、そんな石の建造物が、やけに多い土地だ。古くは、紀元前六〇〇〇年頃から造られたと考えられるストーンサークルやドルメン。少し時代をさかのぼると、紀元前一七〇〇年頃から建てられはじめたという、ヌラーゲと呼ばれる丸い石積みの塔がある。  紀元前一五〇〇年から紀元前九〇〇年にわたって造られた巨大なヌラーゲの残っているサンツ・アンティーヌ遺跡に行った。大きなヌラーゲの周りを、三角形に囲むように三つの小さなヌラーゲが増設されている。まるで城塞のようだ。各ヌラーゲをつなぐ廊下を通って中央のヌラーゲに着くと、三層になっていた。釘《くぎ》もセメントも使わずに、よくこれだけの大きな建物を造ったものだと感心する。  かつてヌラーゲをドイツに移築しようと、石を運んで復元しようとしたことがある。しかし、原型通りに石を積んでいったにもかかわらず、ガラガラと崩れていってしまったという。  謎《なぞ》に包まれた建造物にふさわしく、それを建てた人々もまた、謎の多い民族だ。エジプトのメソポタミアから来たとか、エトルリア人の流れをくむ人種だとか、いろいろといわれているが、はっきりしたところはわからない。  ヌラーゲは、二百戸ほどの小さな村の中央にひとつずつ造られていた。この村の長の宮殿と、村を守る要塞を兼ねていたというのが、ヌラーゲに関する有力な仮説だ。しかし塔の内部ときたら暗く、明かり取りの窓もわずかしかない。この中で、約四千年前、人々はどのような生活をしていたのだろうか。  塔の周囲を巡る石段を昇って、今は天井も崩れてしまった最上階に行った。周りは、ぶどう畑や放牧地の続く丘陵が連なっている。ヌラーゲが盛んに建てられていた頃のサルデーニャは、今のような荒れ地ではなく、深い森に覆われていた。その森のあちこちに、高さ二十〜三十メートルのヌラーゲが、半径二キロ範囲内にひとつの割合で点在していた。今、私の立っているこの場所から見渡す限り、ヌラーゲの丸い塔が、ポツリポツリと森の上に突きでていたのだ。  そういえば、ユカタン半島に点在するマヤのピラミッドもまた密に建てられていて、ピラミッドの頂上から通信もしていたという。ヌラーゲの塔上で古代人も、遠くのヌラーゲと交信していたのかもしれない。その時、彼らはどんな言葉や合図を使っていたのだろう。  しかし残念ながら、ヌラーゲを作った人々の文字は未だ発見されてはいないのだ。  州都カリアリの考古学博物館で、高さ十センチほどの小さなブロンズ像を見た。手に笏《しやく》を持ち、剣を肩に担いだマントの男性。子供を膝《ひざ》に抱いた女性。右手をあげて挨《あい》拶《さつ》をしている戦士。どれもヌラーゲからの出土品だという。  その像についての話を再び聞いたのは、カリアリから百キロも離れたサンタ・クリスティーナ遺跡だった。木々に囲まれた空き地に、鍵《かぎ》穴《あな》の形に低く石が積まれた遺跡がある。その中央に地中に続く階段があった。階段は地底の泉に達している。泉の水は、石の中から滲《にじ》みでてくる水が溜まったものだ。  ここはヌラーゲを作った人たちの崇拝した、聖なる井戸だ。聖なる井戸は、島全体で何百個となくあり、年に一回の祭りの日に、周辺の人々が礼拝に来たと考えられている。その時に捧げ物として携えてきたのが、あのブロンズ像だった。それは、遺跡が発見された時、この聖なる井戸に続く階段の両脇《わき》にびっしりと並べられていたものだった。  祭りの日には、市も開かれた。果物、魚、肉。手に入るものを集めて、森の中の聖なる場所にやってきた人々は、交易をし、そこに数日間滞在するのだ。聖なる井戸の周囲には、小さな石の家の遺跡も見つかっている。これは祭りの時だけ使われた家だといわれている。  死者は「巨人の墓」と呼ばれる墳墓に埋葬された。長い廊下のような低い石の建造物で、入り口の両脇は長い石垣に囲まれているT字形の墳墓だ。上から見ると、角を持った牛の形をしている。  ヌラーゲを囲む小さな丸い石の家に住み、農耕や牧畜をして暮らしていた古代の人々。水を崇拝し、祭りにでかけ、死ぬと「巨人の墓」に埋葬された。島全体を統一しようという野望を持つ者もなく、誰もが、それぞれ二百戸ばかりの小さな村の中で、生と死を繰り返していたヌラーゲの時代。  しかし地中海沿岸には、強大な力を持ち、領土を広げようとする民族が生まれつつあった。紀元前七五〇年頃からフェニキア人、そしてカルタゴ人が海を渡ってやってきはじめ、ヌラーゲを中心とする文化は崩壊しはじめた。そして紀元前二三〇年頃、ローマ人が上陸した。狼の乳を飲んで育った双子が建国したといわれる、荒々しい勢いのローマ帝国のもとに、ヌラーゲの時代は終わりを告げたのだった。  サンタ・クリスティーナ遺跡の隣に、古い教会が立っている。この教会の、ローマ時代に積まれた壁の一部は、ヌラーゲに使われていた石がそのまま流用されている。ヌラーゲ特有の台形の石がぽつんぽつんと、長方形の石の間にはさまっている。異文化を取りこんでいったローマ時代そのものを表しているようだ。  教会の周囲に小さな村があった。長屋のようになった家は小さく仕切られている。人が住んでいるようではない。案内の女性に聞くと、ここは祭りの時だけに使われる村だという。  オリスターノの近郊カブラスにも同じような村があった。八月の終わりから九月の第一日曜日にかけて、祭りのために村人は帰ってくる。そして「CORSA DEGHI SCALZI(裸足の競走)」が行われるのだ。ローマ時代から続くというこの競走は、若者たちが白い衣装に身を包み、裸足で野道を走る。そして祭りの期間が過ぎると、もとの家に戻っていくのだ。  私はふと思って、案内の女性に、祭りの時だけの村を作るという風習は、ヌラーゲの時代の名残ではないかと聞いてみた。歴史を学んでいるという彼女は、「よくできました」というように微笑《ほほえ》んだ。サルデーニャ山間部にオターナという村がある。この村の祭りは、男たちが牛の仮面をつけて練り歩くものだ。その牛の仮面は「巨人の墓」と同じ形をしているとも教えてくれた。  数千年を経た今、語る言葉も違い、人種も混ざり合い、ヌラーゲ時代の形跡はすっかり消え去っている。しかし、サルデーニャの人々の生活風習の中に、ヌラーゲの文化は今も息づいているのだ。現在と過去をつなぐひとつの流れを見つけたような気がした。 羊飼いの聴く音  サルデーニャは風の島だ。地中海の風が四方八方から、この島に吹きつける。この風を帆にはらみ、ギリシャから、アフリカから、イタリア半島から、スペインからやってきた人々がこの島の歴史をあざなってきた。島の北西部にある港町アルゲーロでは、今もスペインのカタラン語を話しているほどだ。  州都カリアリの旧市街もスペイン統治時代の影響は強く、海を見下ろす丘陵の上に当時の建物がひしめいている。潮風に風化してしまった古い町のあちこちには、シャクナゲやグリシーヌと呼ばれる木の紫の花が咲き誇っている。町全体が、どこかガラガラとした風情だ。壁には乱暴な落書きがある。海を見下ろすウンベルト㈵世のテラスで、二人の若者がギターを弾いてビートルズを歌っていた。 「昔は、どの家も七、八人は子供がいたものですけどね、今じゃ一人か二人でしょ。それで若者は外に出ていく。世界中に広がっているサルド(サルデーニャ人)の数ときたらびっくりするくらいですよ」  政府観光局から派遣された案内人のロベルトがいう。  海を渡ってきた人間の子孫は、再び海を渡り、外に出ていく。これも自然の摂理かもしれない。  カリアリを後にして、車で道路を西に走る。乾いた空気に青い空。道路脇に咲く色とりどりのハイビスカス。河口付近の洲に、フラミンゴの群がいる。海の向こうはもうアフリカなのだ。  平日だというのに、橋の上で釣りをする人たちが多い。サルデーニャでは、官公庁の仕事は、午前八時から午後二時まで。一般の企業でもあまり変わりはないという。仕事が終わると、釣りをしたり散歩をしたり。日本では考えられないほどの優雅さだ。 「日本は、まだ忙しくしているの?」  ロベルトが笑いながら聞いた。  車は海岸べりを走り続け、夕方近く、島の南西部の端にあるサント・アンティオコに着いた。ここは、昔は一つの島だったのだが、カルタゴ人かローマ人によってサルデーニャとをつなぐ道が造られた。その歴史の示す通り、もともと古代からこの地に住んでいた人々の土地だった島が、カルタゴやローマ、さらにアラブ人によって支配されてきた。今は、その遺跡の上に小さな町が建っている。  町はずれに、フェニキアからカルタゴ時代の遺跡があった。奇妙さでは天下一品の遺跡だ。黄褐色の苔《こけ》のついた岩場に、直径二十センチほどの壺《つぼ》が至るところに置かれている。夕暮れ時の静けさの中で、その風景はとても不気味に見える。  後で聞くと、ここで、死産した子や生後まもなく病死した子供を焼き、壺に灰を入れて置いていたのだという。今置かれている壺はレプリカだが、発見当時そのままの場所に置かれているのだ。  その足で、サント・アンティオコ教会に行った。二〜三世紀の建物だという古代ローマの教会だ。地下には墓地がある。火山岩を掘って、造られた地下通路の両側には、石の棺や埋葬に使われた横穴が並ぶ。案内してくれた神父さんが、 「もとはカルタゴの地下墓地と礼拝堂だったんですよ。それをローマ人が自分たちの埋葬場に転用したんですね」  世界各地で見られることだが、後から来た民族は必ずといっていいほど、先住民族の聖地とされていた場所を、彼らの聖地にする。サルデーニャでもそうだ。ここもカルタゴの前は、古代ここに住んでいた人々の聖地だったのではないだろうか。聖地と呼ばれている場所には、それ特有の力がこもっているはずだ。  この地下墓地は、紀元前四〜七世紀に造られたもので、迷路のように島全体に広がっている。一度、女の子が迷いこんで何か月後かに、ようやく出てきたとか(彼女はオレンジで生き延びたらしい)、この地下通路は遥かアフリカまで続いているとかいう噂《うわさ》もあるほどだ。  じっとりとした空気のこもった地下墓地の階段を昇っていくと、もう夕べのミサが始まっていた。石造りの素朴な教会で、町の人々が祈りを捧げている。古代ローマの人々も、同じこの教会で祈っていたのだ。いいや、その前のカルタゴ人も、ひょっとしたらヌラーゲの人々も。同じこの地で、それぞれの言葉で祈りを捧げていたのだ。  教会の外に出ると、どきりとするほどに赤い、夕焼けが町の空を覆っていた。それは不思議な空気を持つ町にふさわしい血の色だった。  オリスターノは、島の中央部西端に位置する。この町の名前は、サルデーニャに来る前から知っていた。「サ・サルティーリア」という変わった祭りで有名な町だ。黒い帽子と女性用の白いベールをかぶり、仮面をつけた若者が、馬で町の通りを駆け抜けて、的に星のついた槍《やり》を投げる。その白い仮面の端正な顔だちに、妙に心惹《ひ》かれるものがある。十六世紀にはすでに行われていた祭りだ。 「ベールは女性の、帽子は男性の象徴。祭りとは、日常の自分とは別の存在になることでしょ。この祭りでは、選ばれた若者が性を超えたユニセックスの存在になるのです」と説明してくれたのは、地元の民族舞踊グループの女性。  これといった工業もなく、チーズ作りや牧畜、農業などで生活の糧を得ているこの地方だけに、中心地とはいえ、オリスターノも田舎町の風情が漂っている。町を歩くと、あちこちで顔見知り同士、挨拶しあっている光景が見られる。  町はずれで、フェニキア時代の名残の葦《あし》船《ぶね》を使って、今も魚を捕っているという漁師がいると聞いて訪ねて行った。  彼は、アナスターシォといい、がっちりした体格のいかにも漁師らしい男だった。穏やかな内海に、自分で造ったという長さ約五メートルの葦船を浮かべてくれた。揺れる船の上で器用にバランスをとりながら、竿《さお》を使って水面を滑る。 「漁は夜にでかけるんだよ。昨日は一匹三〜四キロの魚が五十キロくらい捕れた。水に潜って手づかみさ」  アナスターシォの両手は、魚との格闘でできた傷だらけだ。  十三歳の時、祖父と一緒に当時はすたれてしまっていた葦船を造りはじめた。今も近隣の漁師の中で葦船を使うのは彼一人。息子さんには伝えないのかと聞くと、首を傾げた。 「どうかな。造るのは難しいし、魚を捕るにも技術がいるからな」  家の前でラジカセをがんがん鳴らして、女友達と楽しそうにお喋《しやべ》りをしていた息子の姿を思い出して、葦船も彼の時代で終わりかもしれないと思った。  オリスターノから内陸部に入り、島を横断する。海は消え、見渡す限り岩の多い丘陵地帯が続く。あちこちにサボテンが群生している。ちょうどサボテンの実の熟する季節で、農家の夫婦が実を取っていた。もらって食べると、甘くて杏《あんず》のような味がする。ぶどうの収穫期でもあり、家族総出でぶどうを取っている光景にも出くわす。遠くの丘陵の上では、羊たちが、ゆっくりと移動している。  道は山を上っていく。平地の多いサルデーニャだが、このあたりは高い山々が集まっている。やがてコラージ山の麓《ふもと》の町オリエーナに着いた。  町角では、ベレー帽をかぶった老人たちが、トランプに興じている。家の前に座り、ぼんやりと道ゆく人を眺めている黒ずくめの服の老女たち。  ファリーナ・デ・グラーノという薄くて丸いパンを作っている老姉妹に会った。竈《かまど》に入れたパンを、手早く器用に焼いている。これは湿気がなければ六か月ももつ保存食だ。羊飼いたちの食料だという。通りに面した窓辺で、鮮やかな色の糸で黒いショールに刺《し》繍《しゆう》している老女がいた。ひとつのショールを作るのに二か月かかる。一針一針、丁寧に縫っていく。ここには、昔ながらのサルデーニャの村の生活光景が残っていた。  村はずれの羊飼いの家を訪ねた。静かな山の麓に、ぽつんと丸い石造りの家が建っている。羊番をする家だ。中は、粗末なベッドが二つあるだけ。入ったとたん、むっとくるような臭いが押し寄せてきた。ラム肉の臭いだ。あまりの強烈な臭いに、慌てて外に出た。小屋の持ち主の若い羊飼いがいう。 「羊は百六十五頭いるんだ。午前中は川に連れていき、水を飲ませ、午後は山を歩く。いい暮らしだと思うよ」  もう夕《ゆう》闇《やみ》が迫っていた。遠くで鳥の声が聞こえている他は何の音もしない。 「毎年十一月から六月くらいまでは羊と一緒に暮らすんだ。寂しくないかって? いいや。静かでいいよ。羊飼い仲間がしょっちゅう訪ねてくるんだけど、それがうるさいくらいさ」と笑った。  羊と一緒にゆっくりと時が過ぎてゆく。耳を傾けるのは、風の音、草木のざわめき、水のせせらぎ、そして石の言葉……。彼の聴くものを想像することはできる。しかし、羊の臭いの中にいることもできない私には、本当にその音を聴くことはできるだろうか。都会の雑音に慣れてしまった人間には、自然の静寂の音を聴くのは難しい。  星のまたたきはじめた空に、岩に覆われたコラージ山の巨大な山塊が黒々と聳《そび》えていた。 わが心の町  二十代前半の二年間、イタリアのミラノで過ごした。かっこよくいえば留学していたのだが、さほど机に向かった覚えはなく、漫然と時間を潰《つぶ》していたというほうが当たっている。生について煩《はん》悶《もん》することも、異国で哲学的思考に耽《ふけ》るということもない。ただ毎日、町をふらついて過ごした。  イタリアの町は、金のない学生でも充分に楽しめるようにできている。ローマやフィレンツェはいうに及ばず、ミラノもそんな町だった。グロテスクな怪物像で飾られた大聖堂前の広場、スフォルツェスコ城の入場無料の美術館、古い館を利用した古色蒼《そう》然《ぜん》とした図書館、市内のあちこちの公園。暇にまかせて、私は歩き回った。芸術家の多いブレラ界《かい》隈《わい》の小粋なショーウインドウを冷やかし、ポルタ・ロマーナ通りの古着屋で、形はヴィスコンティの映画にでも出てきそうだが、生地は安手なドレスを広げ、ガラス天井に蓋われた高級商店街ガッレリアに入っている大きな書店で、わかりもしないイタリア語の難しい本の背を眺めて過ごした。  中でも私が気にいっていた時間の過ごし方は、ミラノの外周を巡るトロリーバスに乗ることだった。  菱形のパンタグラフをつけたオレンジ色のバスの窓際に座って、外を眺める。通り沿いの店で買い物をする主婦の列、抱き合う若い男女、手や頭を盛んに振って口喧《げん》嘩《か》する男たち。窓の外に繰り広げられるドラマの高みの見物をしゃれこむうちに、やがて町は赤い夕日に染まってくる。灰色のいかめしい家々も石畳の道も暖かな茜《あかね》色に包まれはじめ、外の光景はますます別世界のように見えてくる。遊園地のメリーゴーランドに乗っている気分だ。乗っている馬は、赤いトロリーバス。周囲を流れゆく遊園地の景色は、明かりが瞬きはじめたミラノの町並み。そして私は、ミラノという遊園地に遊びにきた観光客だ。この土地で働き、生活しているのではない。どこにも属さない、空気のように流れているだけの自由な存在。だからこそ特別なことをするわけでもないのに、毎日がおもしろかった。  あの頃、町を歩けば、「愉《たの》しみ」という宝石がごろごろと転がっていた。町のいたるところに、目には見えないが、輝く何かを発見できた。  しかし、帰国すると、この能力は失われた。日本で仕事をはじめ、社会的関係を築くようになると、自由な存在であり続けることが難しくなった。透明で頑丈な網が、私の気持ちを縛っている。循環バスに乗っても、何時間も路地を歩いても、路上に転がる宝石は見つからない。  これが、社会に出て、大人になるということの代償なのかもしれない。しかし、この程度の変化で揺らぐとは、私の精神が弱い証拠でもある。  ミラノのトロリーバスの窓辺の席に、目を輝かせて座っていた自分自身を思い出すたび、失われたものへの痛みに心が疼《うず》く。もう一度あの頃に戻って、夕焼けに沈む町を巡ってみたいものである。 田舎の喧《けん》騒《そう》  一年半ぶりに故郷の高知に帰ってきている。もう梅雨も明け、すっかり夏だ。夜、窓を開けて横になっていると、涼しい風が入ってきて気持ちがいい。満月に浮かびあがる遠くの山は青い影を夜空に際立たせ、田圃《たんぼ》の広がる盆地には点々と家の明かりが灯っている。やはり田舎の風景は美しいと思いながら眠りについた。  ガーアガアアアッ。けたたましい声で目が覚めたのは、真夜中のことだった。どうやら鶏らしいが、聞くに堪えない悪声だ。喉《のど》に痰《たん》が絡まったようながらがら声で、まだ真っ暗だというのに啼《な》き続ける。眠気は一気に消えてしまった。それからは、うつらうつらしかけると、鶏の声に邪魔される。朝方になると、他の虫の声や小鳥の囀《さえず》りも加わってますます騒がしい。すっかり睡眠不足になってしまった。  後で聞くと、その雄鶏は近所でも有名なお騒がせ者だった。いつの頃からか、時をつくる時間を間違ってしまい、ひどい日には夜の十二時過ぎから啼きだすのだという。私ばかりでなく、実家を訪ねた叔母夫婦もこの鶏に悩まされて文句をいっていたらしい。  田舎に戻って、騒音に悩まされるとは思わなかったと嘆息してから、つい一か月ほど前、鎌倉に住む私の友人のしてくれた話を思い出した。東京生まれの彼女は、松山に行って田舎の自然を満喫したと感動していたのだが、その中でこんなことをいっていた。 「田舎って静かだと思ってたら、うるさいのねえ。蛙《かえる》の声やら鳥の声やらで、朝もおちおち眠れやしないんだから」  その時には笑っていた私だったが、今回、帰省して我と我が身にふりかかってきたのである。  考えてみると、田舎が静けさに満ちているというのは都会人のロマンチックな思いこみにすぎない。本当は田舎はうるさい場所なのだ。確かに都会のような、車や人のざわめき、商店街から流れてくる売り込みの声はない。その代わり、田舎には生き物の気配が満ち満ちている。人間が作りだす音だけではなく、その他の生命の啼き声や動き回る気配がそこら中から聞こえてくる。  翌日、私は家の付近をサイクリングした。私の生まれた佐川町は、自転車で巡るとかなり広い。清流に沿って眩《まぶ》しく照りつける太陽の下、山間の道の果てるところまで走り続けた。  山々は青く霞《かす》み、空には力強い白い雲が立ちあがっている。緑色につやつやと輝く伸び盛りの稲。清らかな河辺では昔ながらに箱瓶(木製の箱の底にガラスをはめこんだもの)で水中を覗《のぞ》きながら、銛《もり》で魚を突いている老人の姿。草むらからは小鳥の群が舞いあがり、大きな蜻蛉《とんぼ》が目の前を過ぎ、地面では昆虫たちが忙しそうに這《は》いまわっている。  ここでは、昆虫も鳥も動物も人間も同じ舞台の上で生きている。この光景を前にすると、自分も自然のサイクルの一環に組み込まれていることを強く感じる。虫が他の虫の死体を食べ、その虫を餌《えさ》とする小鳥がいる一方で、その小鳥を食べる人間がいる。そして人が死ねば、肉体は土に戻り、虫を育む土壌となる。私のように死を恐れている人間ですら、死を自然のサイクルの中の現象として、すんなり受け止めることができる気がした。  都会に居ると、そうはいかない。無機質のコンクリート都市の中では、死は情け容赦ない無慈悲なものとしか映らない。なにしろ、土地不足で墓地すらなかなか確保できないご時世だ。人々は死後の自分の行き場所が見つからなくて不安になる。  最近の殺伐とした世情や、死に対する心構えを書いた本がよく売れるという現実は、死の恐怖を前にあがく人間がいかに多いかを示している。それは、自然のサイクルを感じられない場所で生活する人間が増大したことによる、悲しい結果ではないだろうか。 国際列車で出会った男  一九八一年の秋、私はユーゴスラビア北西部を旅した。リュブリャナという、河畔の町を訪れた。  観光地としては、ほんとうに美しい町だが、居心地は良いとはいえなかった。第一、ホテルのサービスがひどい。外国人観光客は、政府の斡《あつ》旋《せん》するホテルにしか泊まれない。自由競争がないものだから、接客業としての自覚がないのだ。部屋の湯が出ない、と苦情をいったら、従業員は夕方になって皆、帰ったので、明日までどうしようもない、といわれたりした。  町のレストランやカフェで働いている人々も、いたって無愛想だ。ひょっとして、この国の人たちは観光客を憎んでいるのではないか、と勘《かん》繰《ぐ》ったものだ。  数日、滞在したが、ちっともユーゴスラビアの人たちと触れ合った気もしないまま、私は帰途についた。当時、暮らしていたイタリアに向けて、国際列車に乗ったのである。  ヨーロッパの列車は、コンパートメントという個室で仕切られている。国際列車ともなると、国籍も違うなら旅の目的も違う者同士、同じコンパートメントに乗り合わせることになる。  その時、相席したのは、やはり旅行中の大学生二人。それに太った中年紳士と、三十歳前後の小柄な男性だった。  ドイツから来たという学生二人とは同じ学生同士、すぐに気が合って、どこの国がよかったか、どの都市にはもう行ったか、などと旅行談議に花が咲いた。時に中年紳士も会話に口を挟み、私たちは和気あいあいと話し続けた。  ただ、窓際に座った小柄な男は、ジャンパーの襟を立てて流れ去る景色をじっと見つめているだけで、会話には加わらない。英語ができないのだろう、と私は気にもしなかった。  列車がユーゴスラビアを出る前に、ドイツ人学生も中年紳士も降りていった。手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》になった私は窓際に席をずらせ、小柄な男と向かい合う形となった。  列車はイタリアとの国境に向かって走りだした。窓の外は、秋色の丘陵地帯が広がっている。 「あんたたちは幸せだね」  突然、正面の男が訛《なまり》の強い英語でいった。  私は驚いて、その男を見た。髭《ひげ》剃《そ》り跡が削げた頬《ほお》に黒々と残っている。黒みがかった瞳《ひとみ》は東欧系の人間を思わせた。  男は、誰かに聞かれるのを怖がるように、素早く廊下に目を遣った。 「この世界には、観光旅行もできないで、明日、死ぬかもしれないと脅えながら、必死で生きている人間もいるんだ」  彼は暗い口ぶりでいうと、腰を浮かせた。荷物ひとつ持ってなかった。  列車はイタリアとの国境近くの寂しい駅に止まろうとしている。立ち去りかけた男に、あなたはどこの国の人ですか、と聞いた。  アルバニア、と答えると、彼は何かに追いたてられるように廊下に消えた。  男の正体はわからない。反政府活動をしていたアルバニア人かもしれない。それともユーゴスラビアのアルバニア人で、何かの政治活動に携わっていたのかもしれない。国境の前で消えたのは、パスポートを持ってなかったか、密出国しようとしたせいではないか。そこまでドラマチックではないにしても、何かしらの国の重圧の下で生きている人間だった可能性が高い。呑《のん》気《き》に観光談議に興じていた私たちの話を、どんな想いで聞いていたことだろうか。  あれから十三年が過ぎた今、ユーゴスラビアは民族闘争の戦火に喘《あえ》いでいる。彼がそこにかかわっているかどうか知る術もない。  だが、現在の平和な日本にいて、世界各地の戦争の話を耳にする時、あの男の顔が頭に浮かぶ。  そして私は、決して忘れてはいけない、と思うのだ。世界には、平和を享受している幸運な人もいれば、苦しんでいる人たちもいる。だが、私たちは皆、同じ国際列車に乗り合わせているのだ、ということを。 昔日残夢 夢の残り香  子供の頃《ころ》、気が遠くなるほど好きな匂《にお》いがあった。革製のランドセルの中の匂い。新しいノートの匂い。村の公民館の木の床の匂い。猫の腹毛の匂い。私はその匂いに鼻を埋めては、陶然としたものだった。  そんな「好きな匂い」の中には、本の匂いも入っていた。  新しい本の匂い、図書室で借りた手《て》垢《あか》にまみれたような古い本の匂い。新しい本なら、頁《ページ》の折り目に鼻をつけて嗅《か》ぎたい欲求にかられたし、頁の端が茶色に変色した古い本の湿気た匂いの中には、体がうずうずするような刺激があった。  今、そうやって匂いを嗅ぎながら手に取り、頁をめくった本を思い出すと、その本の厚み、手触り、表紙や挿絵が浮かんでくる。小学校時代の愛読書は、C・S・ルイスの『ナルニア国ものがたり』や、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』だった。中学校になると、ファンタジー好みに加速がつき、ル・グウィンの『ゲド戦記』や天沢退二郎の『闇の中のオレンジ』などを読み耽り、その一方でロマン・ロランやドストエフスキー、芥川龍之介や夏目漱石の本も読破した……はずだった。  ところが、その内容となると、思い出せない。読んだ本を思い出そうとすればするほど、物語の断片しか浮かばない。題名を挙げられるほど気にいった本ですら、おぼろげに登場人物のイメージを頭に浮かべることができるだけで、筋なぞは遥か忘却の彼方である。  記憶に残るのは、ただ、あんな雰囲気の話だった、あんな感じの本だった、というような曖《あい》昧《まい》な印象でしかない。内容よりも、挿絵や表紙や手触りのほうを覚えている。  つまり私の脳《のう》味《み》噌《そ》は抽象的、といえば恰好はいいが、実は腐りかかった林《りん》檎《ご》のような情けない状態なのである。実に恥ずかしいことだと内心思っていたのだが、ある大手書店の副社長氏にこんなことを伺った。 「売れる本というのはね、段ボールの箱を開いた時に、匂いでわかるんですよ。それは本全体の持つ匂いのようなものだと思うんです。手触り、肌触り、表紙、題名。そういったものがすべて合わさって、ひとつの匂いを放つんですね」  ここにもまた「本の匂い」を語る人がいた。  甘い匂い、刺激的な匂い、鈍重な匂い。「売れる匂い」だけでなく、本の匂いは、さらに多くを語り、内容も内に取りこんで、本の体臭とでもいうべきものを形づくる。  実際、物語の筋よりも、曖昧な「匂い」のほうが長く記憶に残るし、匂いに導かれて本を回想することには、ある種の快感が伴う。「匂い」によって本を記憶するのも悪くはないのではないか。  そんな居直りがむくむくと湧《わ》いてきた頃、今度はウンベルト・エーコ作『薔薇《ばら》の名前』のこんな一節にぶつかった。 『一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない』(河島英昭訳)  本とは所《しよ》詮《せん》、夢なのである。いい夢か、悪い夢かの差はあっても、人間の無意識から湧きだした世界であることには違いない。夢を思い出そうとした時、記憶がおぼろげになるのは当然なのだ。覚醒した頭に蘇《よみがえ》るのは、夢の残り香のみ……。  もっとも、これは単に、本に対する私の記憶力の悪さについての弁解と思われても仕方ない。 隔離病棟の夏  子供の頃、学校が大嫌いだった。小学校時代は、夏休みに入ると狂喜し、終わりに近づくと落ちこんでしまう、の繰り返しだった。  そんな夏休みの記憶の中で、今も強烈に脳裏に焼きついているのは、小学校二年の時、赤痢(疫痢)のため、隔離病棟で過ごした夏のことである。  一九六〇年代、私の郷里高知県佐川町では、夏になると赤痢患者が出るのは普通のことだった。だからこそ町立病院に、法定伝染病患者用の隔離病棟があったのだと思う。  その隔離病棟は、病院本館裏の山際にひっそりと建つ、古ぼけた木造平屋の建物だった。木の廊下がL字形に通り、硝子《ガラス》窓の入った壁を隔てて広い病室が並んでいた。患者は十人弱くらいだったから、どの部屋もがらがらしていた。  私にとって、ここでの生活は快適そのものだった。家事の手伝いはしなくていいし、夏休みにつきものの宿題も免除される。食事にいたっては、大好きなお粥《かゆ》とふりかけが毎日、食べられる。母が時々泊まりに来てくれたらしいが、その記憶がまったくないほど、ホームシックも覚えなかった。  隔離病棟内は、私の遊び場となった。長い廊下の隅々まで歩き、病室や配膳室を覗《のぞ》いて回った。大人たちは、唯一の小児患者である私を可愛がってくれた。特に仲良しになったのは、ある高校生のお兄さんだ。  私は、お兄さんの病室に入り浸り、部屋の片隅に集められた畳敷きのベッドの上で飛び跳ねて遊んだ。お兄さんが気が向くと、一緒に庭に出た。  雑草のおい茂る庭で、お兄さんの指導のもとに、トカゲの尻尾《しつぽ》をつかんだ時の感激は忘れられない。以後、私の自慢は、トカゲを手で捕まえられる、ということになったほどだ。  捕らえたトカゲを箱に隠して、看護婦さんにプレゼントして怒られたり、本を読んでもらったり、病棟内を探検したり。まったく夢のような夏休みだった。私は、お兄さんにすっかりなついていた。  そんなある日のことだった。私が畳敷きベッドの上で遊んでいると、不意に来客が現れた。お兄さんくらいの年齢の娘だった。  子供心にも、病室の空気が変わったことに気がついた。お兄さんはベッドに半身を起こして、戸惑った顔をしている。娘さんはその前でもじもじしている。  お兄さんは、このお姉さんが好きなんだ。  畳ベッドの上でそっと二人を観察しながら、私は漠然とそう理解した。恋する二人の間には、特殊な空間が現出する。八歳の子供なりに、私は恋愛の空気を嗅ぎつけていたのだと思う。  子供はわがままだ。好きな大人の注意が他に逸れると、とたんにつむじを曲げる。それとも私はお兄さんに恋心を抱いていたのだろうか。今となっては、その時の細かな心情は捉《とら》えようがない。  ただ、その時以来、私のお兄さんに対する慕い方が変化したのは確かだった。  まもなく、お兄さんに退院許可が出た。病院を去る時、お兄さんは日本人形を贈ってくれた。それをもらっても、私はなんとなく不貞腐れていた。  お兄さんの退院後まもなく、私も退院を許可された。退院の日、隔離病棟内の風《ふ》呂《ろ》を浴びた。クレゾールの臭いのする風呂場で体を洗っていると、隔離病棟を出るのだ、という喜びが湧《わ》いてきた。あれほど楽しかった隔離病棟の生活だったのに、不思議だった。  きっと私の夢のような夏休みは、お兄さんの恋人登場によってすでに終わっていたのだろう。  私はガラスのボタンのついた紺の一張羅のワンピースに着替えて、母のバイクの後ろに跨《また》がって、隔離病棟を後にした。  門の鉄柵の間を抜けて、病院の坂を下りていきながら、妙に清々しい気持ちだったことを覚えている。あの感覚こそ、生まれてはじめて感じた、ひとつの体験の終《しゆう》焉《えん》に対する感慨。大人になって何度も感じることになる、ほろ苦い「夏の終わり」の気分だったのかもしれない。 私の怪記録  子供時代の私にとって、チョコレートは宝物であった。舌の上でとろける甘さ、頭がつんと来るような、食べた後の興奮。その悦びは何物にも替えがたい。チョコレートが手に入ると、それはもう大切にひとかけひとかけ、食べたものである。  そんな私の夢は、好きなチョコレートをケチケチしないで、思いっきり食べることだった。  だが、一か月のお小遣いが三百円とか五百円とかだった小学生の私には、チョコレートは高《たか》嶺《ね》の花だ。両親がたまに買ってくれる機会を待つしかない。一度に何枚ものチョコレートを食べる夢は、とうてい叶《かな》いそうもない。  しかし、ものは考えようである。ある時、いい考えが閃《ひらめ》いた。一度に沢山のチョコレートを食べたいなら、貯めればいいのだ。  確か、小学校四年生の春だった。その年いっぱいチョコレートを貯める、と家族の者に宣言して、冷蔵庫の一角に、私専用のコーナーを作ってもらい、悲願のチョコレート収集計画を実行に移した。  最大の障害は、姉と妹だった。両親からチョコレートをもらう時は、姉と妹にも一枚ずつ配られる。二人は私のような誓いを立ててないから、隣で盛大に銀紙を開いて、食べはじめる。甘い匂いが鼻をくすぐり、口の中に唾《つば》が溜《た》まる。だが私は我慢した。今に見ておれ。大《おお》晦日《みそか》の夜、姉や妹の眼前で、何枚ものチョコレートを食べてやる。その気概でなんとか持ち堪《こた》えた。  一枚、二枚、三枚、四枚……。私はせっせとチョコレートを冷蔵庫にしまい続けた。七枚、八枚、九枚……。苺《いちご》クリーム入りチョコ、ラムレーズン入りチョコ、カカオクリーム入りチョコ。チョコレートは貯まっていく。私の愉しみは、冷蔵庫を開いて、集まったチョコレートを札束のように数えることになった。金勘定をしている高利貸しの心境である。  そして、ついに念願の大晦日がやって来た。一年近くかけて、十三枚のチョコレートを貯めていた。  私は、これからチョコレートを食べる、と家族に公表した。残念ながら、家族の誰も私の発言に関心は払わなかった。紅白歌合戦を見るのに忙しかったのだ。それでも私はめげなかった。いざチョコレートを食べはじめたら、姉も妹もテレビから目を放して、私に羨《せん》望《ぼう》の眼差しを投げかけるに違いないと思った。  どきどきしながら冷蔵庫に近寄っていって、まずは普通の板チョコを取り出した。そして炬《こ》燵《たつ》に座って、これみよがしに包装紙から抜いて、銀紙をそっと剥《は》がした。姉や妹の顔色を窺《うかが》いながら、いざ食べようとした時だった。 「そのチョコレート、カビちゅうで」  何事につけ目敏い妹がいった。私は、ぎょっとして手元を見た。確かに表面が白い粉状のものに覆われている。慌てて冷蔵庫に走り、別のチョコレートを出した。銀紙を剥がすと、やはりこれも白いものがついている。すべてそうだった。  それはもう私が夢みていたチョコレートとは似て非なるものと化していた。だが、私は食べた。カビだろうが塵《ちり》だろうが、かまいやしない。十三枚全部、食べてやった。我ながら食い意地の張った子だったと思う。 田舎娘の悪夢  故郷、斗賀野は、高知県西部の盆地にある。私の生まれる少し前に合併して町になったところで、実家の付近は今でも村といってもさしつかえない雰囲気を残している。  小学校、中学校と地元の学校に通い、卒業後は、県下で一、二を争う名門といわれる土佐高校に進学した。地元の中学校から高知市内にあるこの高校に進んだのは、同じ学年では私一人だった。  こういうと、かなりの優等生だったように聞こえるが、実は私の中学校は県下で一、二を競う荒れた学校で、一年生の時なぞは、まともな授業はほとんどできないほど、生徒は校内を暴れ回っていた(私が卒業してからも、心労のあまり次々と教頭が三人死んだ、という噂《うわさ》を聞いた)。当然、生徒の成績は皆、低かったのだ。  とにかく私は、これで静かな授業が受けられると、片道一時間半をかけて、土佐高校に通いはじめた。確かに、授業は田舎の中学校の時とは比べ物にならないほど、厳粛、かつおもしろかった。同時に、同級生たちもまたハイレベルであった。  土佐高は中学校も併設している私立学校だ。公務員の普通の家庭に生まれた私は、中学から私立の学校に通うなどという贅《ぜい》沢《たく》はできようもなかったが、同級生のほとんどは中学校からの持ち上がり組。県下はもとより、隣の愛媛や徳島の県境の町村から、地方の名士の子供たちが集まり、家柄よく、かつ頭のいい良家の子女がひしめいていた。  県下名うての不良中学から、県下に轟《とどろ》く名門校に入った私にとって、カルチャーショックは大きかった。田舎育ちの私には、同級生たちの会話や立ち居振る舞いからして、垢《あか》抜《ぬ》けて見えた。それに彼らは中学時代からの付き合いだけに、親密な空気が漂っている。同じ転入組でも、ひょうきんな子たちはすぐに仲間に入ったが、当時の私は人に臆《おく》病《びよう》だったから、周囲にちっとも溶けこめない。  私はしっかりと内にこもってしまった。友人もほとんど作らず、高校時代は大学に入るためだけの過渡期なのだと割りきることにした。遠足はズル休みをして、クラブ活動もせず、学校における団体行動は、できるだけ敬遠するようになった。もともと私は団体行動の苦手な人間だ。いいことにしろ悪いことにしろ、人が集まってひとつのことをしているのを見るだけで、水をさしたくなる、という悪い癖まである。  おまえたちの仲間には入らないよ。心の中でそう呟《つぶや》きながら、授業が終わるとさっさと学校を出て、長い帰途についたものだ。  だが、高校三年の時、どうしても逃げられない団体行動の足《あし》枷《かせ》が待っていた。  学圏祭である。  高校生活最後の年を記念して、土佐高校の三年生は、クラス対抗で派手なパフォーマンスを披露するのが恒例となっていて、二学期に入ると、賑《にぎ》やかに準備をはじめる。  こればっかりは、一人だけ参加しない、というわけにはいかない。さすがにクラスでの村八分も怖かった。  経過は覚えてもいないが、いつの間にか、出し物は踊りになっていた。踊りといっても、私は、小学生の時に習った盆踊りと、体育の授業で教わったフォークダンスくらいしか知らない。なのに、音楽はディープ・パープルのハイウェイスター。姉がよく聴いていた和製フォークソングかビートルズくらいが私の限界で、ロックなんかちんぷんかんぷんだ。その名前も知らないグループの音楽に合わせて、自分たちの作った振り付けでクラス全員が一斉に踊るのだという。  想像しただけで、吐き気がした。できれば、この世から逃げてしまいたい、と思った。  練習がはじまった。同級生は皆、浮き浮きしている。腰を振って、手を上げて足を上げて。リーダー格の男女の指導のもとに、耳にキンキン響く音楽に合わせて体を動かす。楽しい、という感じはなかった。放課後になってまで、他人と同じように動くことを強要されること自体、我慢ならなかった。  学園祭間近になると、今度は衣装の問題が出てきた。なんと、白いミニスカートのドレスに決定した。てらてら光る布地で、各自準備することになった。  今も決して痩《や》せてはいないが、その頃の私はころころと太っていた。母の手作りの白いミニスカートのドレスを着た時、自分がひどく不恰好に思えたものだ。  こんなもん着て、あのわけのわからん踊りをやれ、ゆうがかえ。  心の中で呪《のろ》ったものである。意図に反して、団体行動をとらざるをえないことが、悔しくてならなかった。  学園祭当日のことは、あまり覚えてない。私の脳裏には、白いドレスを着て踊る自分の姿が悪夢のひとコマのように焼きついているだけだ。  こうして私は、最後まで「名門校」の雰囲気に馴《な》染《じ》むことなく、高校を卒業した。 道 草  私はよく道草をする子供だった。保育園に通っていた頃から「家に戻りつくまで、えらいこと時間がかかる」といわれていた。小学校に入っても、その癖は直らず、登校時は遅刻すれすれ、半分走りながら十五分ですます道のりを、下校時は一時間かけて戻っていた。  なにも道草をしようと思っているわけではない。だが歩いていると、つい気をそそられるものに出くわすのだ。それは道端のきれいな花であったり、川のせせらぎを泳いでいる魚であったり……。通学路にあるごく自然のものが、私の心を突っついて、立ち止まらせたものだった。  小学校は盆地の真ん中に建っていて、田圃《たんぼ》を隔てて私の家が見えた。やがて私は、網の目のように張り巡らされた畦《あぜ》道《みち》を辿《たど》りながら、家に帰ることを思いついた。途中、田圃の中にぽつんと残る四坪ばかりの茂みがある。どういうわけか、そこだけ開墾されてはいなくて、ひょろりとした木が、二本の低木を両脇に従えてすっくと立っていた。  私はその木に、女王様という名をつけた。  畦道を辿っての帰路は、女王様に謁《えつ》見《けん》する冒険の道へと変《へん》貌《ぼう》した。冬になると田圃に現れる円形の二つのにおが、王国への扉だった。その間をくぐると、私は中世の騎士に変身する。小川や田圃の溝に落ちないように、草の生えた畦道を伝い、畦の段差をよじ登り、飛びおり、果敢に田圃を進んでいく。そして女王様に拝《はい》謁《えつ》し、満足して家に戻っていくのだ。  道草の醍《だい》醐《ご》味《み》は、空想の世界に遊べることにあった。そうして私は毎日、どこか別の世界を旅して、家に帰っていたのだった。  去年、ひさしぶりに帰省すると、家の前に広がっていた田圃の土が掘り返されていた。土地改良をはじめたのだという。緑色の田圃は、茶色の土と変わり、畦道も自然の土手もすべて壊されていた。  新たな田圃は碁盤の目のように整然と区画され、畦や土手はコンクリートで固められるのだと聞いた。  それは、私にとってはショッキングな変化だった。  ブルドーザーも動いてない休みの日、私は子供の頃を想いながら小学校の前から、家に向けて、かつて道草をして歩いたところを辿ってみた。もちろん、田圃も畦道も消え、荒涼たる土地に戻されている。あの「女王様」は、幸いまだ残っていたが、掘り返された土地に立つ木はあまりに侘《わび》しく見え、もう女王の威厳は感じられなかった。  靴を土にめりこませ、道なき道を家に向かって歩きながら、道草の時間、あの草に覆われ、曲がりくねった迷路のような畦道を通ったからこそ、私は毎日、豊かな空想の世界に飛んでいけたのだと思った。  空想世界に遊ぶことは、かくれんぼや、鬼ごっこをして遊ぶのとは違っている。その遊びには、目的もルールも友達も必要ない。ただ、自分の存在をこの世の外に飛ばすための時間と空間が必要なだけだ。  子供時代、学校と家の狭間《はざま》にあるどこにも属さない時間、自然の中をのびやかに歩き、空想の世界に遊べたのは、幸せだったと思う。  今、私の育った盆地では、子供たちは、トラックや車がひっきりなしに行き交う、歩道もない通学路を辿って小学校に通っている。道草をしていると、車に撥《は》ね飛ばされてしまいかねない状況だ。そして目に入る光景といえば、田圃の団地。コンクリートの水路、直進する道路、四角い田畑。  自然の景観とは、柔らかな曲線の中にある。川の流れも、木の幹も、草の形もすべては優しい曲線だ。四角に区切られた田圃や直進する水路の線は味気なく、こんな中を道草しても、想像の翼は、弱々しくしか羽ばたかない。  学校から早々に帰宅した子供たちが、テレビゲームや漫画の画面の中に空想世界を広げるしかないという現実も、悲しいことだが、頷《うなず》かないではいられない。 失われた「隠れ家」  子供の頃の遊び場は、家から歩いて三分ほどのところにある丸山公園だった。江戸時代から村の名勝地とされていた小さな丘だ。幼稚園の庭ほどの広さしかない頂上には、ブランコも滑り台もない。それでも、丘の斜面を覆う茂みや灌《かん》木《ぼく》は恰好の遊び道具となった。今、はやりのフィールドアスレチックなどという施設はなくても、木登りをしたり丘を駆け巡るだけで充分、楽しめた。  かくれんぼや鬼ごっこといった遊びの中でも、特に気にいっていたのは、茂みの奥の隠れ家に潜むことだった。  公園の南の斜面に、こんもりとした茂みがあって、枝葉が日当たりのいい草の上を屋根のように覆っている。そこに座ると私の姿は外からは見えないし、葉の間から射してくる太陽の光がとても美しい。  私は友達と一緒に隠れ家の中に座って、他愛ない内緒話をひそひそと交わしては楽しんだものだった。  晴れの日には、素敵な場所だった。そこに居ることに誰の許可も必要なかったし、もちろん家賃もいらなかった。  今でも時々、あの隠れ家の居心地の良さを思い出す。自然の中の隠れ家から隠れ家に、自由に移り住むことを夢想する。さらには、蝸牛《かたつむり》のように小さくて気持ちのいい家を背中に背負って気《き》儘《まま》に動いていけたら、どんなに楽しいことだろうか、と空想を膨らませたりもする。  かつて日本には、多くの漂泊者たちがいた。一定の住所を持たずに、こっちの村、あっちの村とさまよう人々だ。流浪の僧や遊女たち、旅芝居の者もいた。四国八十八か所を巡る遍路の中にも、さまざまな理由で故郷に帰ることができずに、死ぬまで巡礼を続ける人たちもあった。  そんな人たちは、きっと私が子供の時に作ったような簡便な「家」を住まいとして、流れさすらっていたのだろう。冬の夜や雨の日は辛かったろうが、時にはその「家」にほくほくとした幸福感を覚えたのではないか。さすらうことの過酷さを嘆きながらも、自然の「家」から「家」へと移り住む生活に、限りない自由を味わっていたのではないかと思う。  種田山頭火も山下清も、そんな漂泊の生活の中で表現をしていった。自由な精神こそ、表現活動の源となりうるのだから。  電気やガスの現代生活の恩恵に慣れてしまっている私にとっては、もはや自然の中での漂泊は不可能に近いのだが、その代償行為のようによく引っ越しをする。しかし腹立たしいことに、年々、引っ越ししづらくなってきている。  物件を探すたびに、壁にぶつかる。なにしろ最近では、最初から、一流企業の勤め人か公務員か、身元のきちんとしている人に限るという規定がついていたりする。私のような不定期的収入しかない自由業者、おまけに女の一人暮らしとなると、不動産屋さんにも大家さんにも敬遠される。現に、最近も引っ越しをしたが、入居を断られたり、渋られたり、新居を探すのに苦労した。  やっと見つけた新居でも、入居にあたっては、一流企業に勤めている連帯保証人や収入証明、戸籍の写しなどが要求される。礼金、敷金をしっかり取られ、さらに二重三重の保証を求められる。  企業や国家といった大きな団体に属してない人間は、信頼されないからだ。個人で仕事をして、収入を得ているという事実は、相手方にとっては不安材料でしかない。この頃は引っ越しをするたびに、会社員か公務員だったら何と楽なことだろうと思わざるをえない。  疑似漂泊の引っ越しさえままならない社会とは、真の漂泊者にとっては砂漠のようなものだろう。現代の日本においては、彼らはすでに死滅してしまっているのかもしれない。  そんなことを考えると、まったくつまらない世の中になってきたものだとため息が出てくる。 猫の交通事故  高知の郷里の町に帰省するたびに、緩慢だが、着実なその変化に驚かされる。  町の中心地には郷土会館や博物館が建ち、川は整備されてコンクリートで固められ、山は切り崩されて運動公園になっている。文化振興や郷土の発展とかいう変化なのだろうが、私は気にいらない。運動公園に至っては、腹立たしいほどだ。  子供の遊び場は本来、自然の中が一番だ。自然がなくなった都会において運動公園を造るのはわかる。しかし山や川に恵まれた地方で、なぜ自然を潰《つぶ》してまで平地を造り、フィールドアスレチックや、けばけばしい色に塗りたてた遊び道具を設置する必要があるのか。  さらに頭にくるのは、道路だ。私の実家のある一帯の盆地は、今の町に合併されるまで村だったところで、現在も田圃《たんぼ》の広がるのどかな土地だ。そこに次々と道路ができている。しかも、敷設したばかりの道路と平行するように新しい道路を造ってみたり、田圃の真ん中に広い道を造りかけて、用地買収がうまくいかなくなると工事を中止したり。はっきりいって、めちゃくちゃだ。このままでいくと、田圃は灰色の道路の帯で覆い尽くされるのではないかと思うほどだ。  実家の前の道も、この変化の波をしっかりとかぶってしまった。私の子供の頃は、舗装もされてない狭い道だったが、やがて幅六メートルほどある道路に拡張された。信号もない、だだっ広い道はさぞかし気持ちがいいのだろう。昼間は大型トラック、夜には暴走族がぶんぶん走るようになった。犠牲になったのは、我が家の飼い猫である。次々と交通事故で死んでいった。 「家の前の道路、広げた人の気が知れんわ」  そうぶちまけたのは、三年ほど前の小学校の同窓会の席上だった。猫の死やトラックのことを説明していると、同窓生の一人のM君がおずおずといいだした。 「あれ、俺が造ったがぞ」  彼は地元の建設会社に勤めていて、工事の担当だったらしい。 「あそこに広い道路が通ったら、こじゃんと便利になるいうて、できた時は皆、喜んだがやに」  しゅんとしている彼を前にして、私は黙ってしまった。結局、私は今や郷里を離れ、たまに帰ってくるだけの人間だ。ここに住む者の気持ちはわからなくなっている。実際、運動公園の問題にしろ、郷里の友人にいわせると、「公園ができて、母親は子供らを遊ばせる場ができた。うちらは助かっちゅう」という。  だけど、それでも、いいたい。今のところ、私の周囲の道路拡張の犠牲者は、猫ですんでいる。しかし次には子供や老人が事故に遭うだろう。それが怖いから、親は子供を安全な場所で遊ばせたくなり、山を崩して運動公園ができる。  その関連性を思うと、私は進む方向が間違っている気がしてならない。 25メートルプール  夏になると思い出す一枚の絵がある。  小学校三年か四年の時、夏休みの宿題のために描いた絵だ。画面の真ん中に四角いプールを置き、周囲に水着姿の先生や子供たちをぽつぽつと描いた。しかし、プールの青い水の中は人っ子ひとりいない。 「なんで泳ぎゆう子が誰もおらんがで」  母に聞かれた時、私はこう答えたものだ。 「皆、水に潜っちゅうがよ」  私の返答は、しばらく家族の笑いものになった。  本当は、泳いでいる人間を描くのは面倒だったからやめたのだが、それだけではない。後になって気がついたが、宿題の題材に困って描いてはみたものの、私はプールという場所が好きではなかったのだ。  子供の頃、私は泳ぎが下手で、水泳の時間は地獄だった。今もよく覚えているのは、潜水の練習だ。浅いプールサイドに並ばされて、一斉に顔を水に漬ける。時計を持った先生が、「よーし」というまで息を止めているのだが、これが苦しい。毎回、今にも死んでしまうと思ったものだ。  当時、学校では、生徒の泳力によって色分けをしたリボンを水泳帽に縫いつけるように指導していた。百メートル以上泳げる子は黒、五十メートル以上は赤、二十五メートル以上は水色のリボンだったと思う。二十五メートルも泳げない生徒はリボンなし、無色の白い帽子のままだ。私はもちろん白帽組だった。  白帽が色リボンをもらえる機会は、夏に一度の試験の時だ。小学校を卒業するまでにその泳力試験に受かって、色リボンをもらったかどうか覚えてないが、試験に失敗した時のことは、鮮やかに記憶している。  ピーッと笛が鳴って、コースに並んだ生徒たちが一斉に平泳ぎをはじめた。私は一番端のコースだ。  その夏、練習したので、少しは泳げるようになっている。最初の十五メートルは楽々と進めた。息が苦しくなったのは、それからだ。水が顔にかかり、鼻や口から中に入ってくる。喉《のど》がひりひりして、必死にもがいてないと沈みそうだ。水飛沫《しぶき》の向こうに白いゴールが見えてきた。あと五メートルと思った時、私はふと冷静になった。  五メートルくらい、ひとふんばりすれば泳ぎきれるだろう。だったら、もういいではないか。どうして今苦しい思いをして、泳ぎきる必要があるのか。二十メートルと二十五メートルも大差はない。  ここで必死で頑張るのが、あほらしくなって、私は泳ぐのを止めた。他の生徒が次々とゴールに到着するのを横目に、水から上がったのである。  後で後悔した。  いくら自分は二十メートルは泳げるのだと思っても、他人はそうは見てくれない。リボンをつけているといないとではまったく意味が違う。無印とは、全然泳げないという範《はん》疇《ちゆう》に入れられるということを悟った時には、もう遅かった。  私はとても根性なしの子供だったのだ。中学校で入った卓球部は、早朝練習のランニングが苦痛で半年と続かず、その後も面倒なことは嫌で、クラブ活動は敬遠して過ごした。大学時代、楽といわれて入ったテニス部も一年の夏休みの合宿までしかもたなかった。  そんな私が、今は小説を書いている。資料集めや取材、文章の推《すい》敲《こう》など、根気を必要とする仕事に就いているのは、私としては奇跡に近い。  しかも小説は、自分がここまで、といったところが、最後の到達点である。音を上げたら、作品はそこで成長を止めてしまう。  根性なしの私は、苦しくなると、いい加減のところで手を打ちたくなる。そろそろ止めて、完成としようかと弱気が頭をもたげる時、思い出すのが、あの二十五メートルプールでの挫折である。あと五メートルで泳ぐことを止めてしまい、白い帽子のままで過ごした夏が頭を過《よぎ》る。  そして、もうちょっと頑張ってみようか、と思い直す。  後で振り返れば、幼い頃の挫折も悪くはないものである。 野山の味  小学校時代、友達と秋の山で遊んでいて、紫色の実を見つけた。ぱっくりと皮が裂けて、中から白い実が覗《のぞ》いている。気味の悪い形だなと思っていると、友達が「あけびで」といって食べはじめた。  あけびなんて初めてだ。一個もらって、恐る恐る、齧《かじ》ってみた。  美味《おい》しい。  ふわりと甘くて、それまで口にしたことのない味だ。私は夢中になって平らげてしまった。  山中で、あけびを見つけて食べたのは、この時きりである。しかし、その味は私の記憶にしっかりと刻みつけられた。以来、あけびをもう一度食べたい、と思いながらも、そのためだけに秋に山歩きする機会もなく、ただ願望だけを抱き続けてきたのだった。  一か月ほど前のことである。夕暮れ時、大船に行ったついでに、駅前商店街を歩いていると、八百屋の前を通りかかった。明日は休みなので、大安売りだと騒いでいる。その声につられて立ち止まった私は、見切り品のパックの中に、紫色の実を見つけた。  ひょっとしたら……。  半信半疑で初老の店員に問い質すと、やはり、あけびという返事である。 「珍しいでしょう。最近では、あけびも栽培されるようになったらしいんですよ。だからほら、その実は、山に自生しているものと違って、割れてないのに食べられるんですよ」  実が割れていようが、なかろうが、これこそ三十年近く、再び食べたいと思い続けていたあけびである。私は喜び勇んで、残っていたただひとつのパックを買い求めた。  鎌倉の家に帰って、早速、食べてみた。紫の実を半分に割り、中の白い実をスプーンですくって口に運んだ途端、唖《あ》然《ぜん》とした。  不味《まず》いのである。  しかも、ただの不味さではない。無味乾燥に等しい味気なさ。  これが、あのあけびなのだろうか。私は、こんなに不味いものを、長年、再び口にしたいと願い続けてきたのだろうか。  信じられなくて、何度も食べてみた。やはり、不味いとしかいいようのない代物だった。  翌日、私の家の窓辺に時々訪れるリスに、残ったあけびを与えてみた。黴《かび》つきパンまで食べる貪《どん》欲《よく》なリスすら、そのあけびには見向きもしなかった。  あけびが不味かったのは、品種改良のせいというのが、最も妥当な理由だろう。  では、天然のあけびだったら失望しなかっただろうか。  いや、やはり失望しただろうと思う。  第一、私自身の味覚が変化している。子供の頃は、今のようにチョコレートやキャンデーなどに慣れてはいなかった。甘いものを口にする機会は少なかったからこそ、あけびの淡い甘みすら、このうえなく美味に感じられたのだろう。  実際、あの時の感動は強烈だった。その証拠に、先日食べた不味いあけびの記憶なぞ、はや私の中では薄れかけ、失望にもめげず、あの子供時代のあけびの記憶がしっかりと再生してきつつある。  なぜ、これほどまでに、あけびの記憶が強烈なのか。  つらつら考えるに、それが私にとっての初めての味覚だったからだと思う。しかも、現代社会において、そうしばしばお目にかかることもできなくなった、自然の味だったからだ。  私の記憶する自然の味はあけびだけではない。舌を紫色にして貪《むさぼ》った桑の実。腹を壊すといわれながらも、誘惑に勝てずに盗み食いした、しゃしゃぶ(ぐみ)の実。雑木林で拾ってきて、煎《い》ってぱくついた椎《しい》の実……。きっと、今、どの実を食べても、当時ほどの満足は得られないことだろう。  これらの味は、私の遠い子供時代の記憶の中でだけ輝いている。そう思うにつけ、野山に遊び、現代では出会いにくくなった自然の産物を、甘美な初体験として味わうことのできた自分の子供時代がひどく恵まれていたなあと感じるのだ。 神々しい匂い  私の知人に、アメリカ人の英文学の教授がいる。彼は、私の抱く「教授」のイメージにあまりにぴったりした人物なので、おかしいくらいだ。  年齢は六十歳前後。日常会話においても、難解な言葉を使うので、何をいっているのか理解に苦しむことが多い。そうかと思えば、背が高いために、戸棚の縁にしょっちゅう頭をぶつけては呻《うめ》いているようなうっかり屋の面もある。  ある時、その教授の家に招待された。夕食後、彼の大好きな番組、NHKのクラシックコンサートが始まった。教授は音楽にうっとりと耳を傾けながら、おいしそうにパイプを燻《くゆ》らしはじめた。これ以上の快楽は、この世には存在しないといわんばかりの満足しきった顔だ。  私がそのことをいうと、パイプの煙を吐いて、教授は嬉《うれ》しそうに何度も頷《うなず》いた。 「そうですよ、音楽も香りも極上の快楽ですよ」  ややあってから、彼は考えるように続けた。 「だけど、坂東さん。人間の感覚というものは、子供の時のほうが鋭敏だったと思いませんか。私が子供の時、革のコートを買ってもらったことがあるんです。そのコートの匂《にお》いが私は好きでね、顔をくっつけて、一生懸命に嗅《か》いだものです。その匂いは、なんといっていいかわからないが、神々しいほどに美しかった。大人になったら、あんな形で匂いを感じることは、二度とありませんよ」  私にも、教授の語る体験と似た記憶がある。  私が通っていた頃の小学校は、当時の他の学校と同じく、木造校舎だった。長い渡り廊下が、やはり木造の体育館に繋《つな》がっていた。その体育館の掃除当番になると、うきうきしたものである。  体育館の奥の小部屋に入れるからだ。  その小部屋は、学芸会などの時は楽屋になる場所だが、普段は物置として使われていた。何の変哲もない、舞台裏の部屋である。しかし、私はその暗い小部屋の木と埃《ほこり》の入り交じった匂いが大好きだったのだ。  いや、大好き、などという言葉は生《なま》温《ぬる》い。陶酔していたといっていい。  その部屋で息を吸いこむたびに、足の裏から震えが這《は》い上がってきた。全身うずうずして、そのままトイレに走っていきたくなるほど尿意とも便意ともつかない衝動をもよおした。性的興奮にも似た、気が遠くなりそうな恍《こう》惚《こつ》感に浸ったものだった。  しかし、大人になった今、何かの匂いを嗅いで、そこまでの興奮を覚えたことはない。  前回、私はこの欄で、子供時代の味覚は二度と体験できないと書いたが、それは他の感覚についてもあてはまると思う。  子供時代においては、すべての経験が初体験となる。その新しい経験を伝える手段が、触覚、聴覚、視覚、味覚、臭覚だ。五感に繋がる記憶だからこそ、強烈に体内に刻みつけられ、一生輝きを保ち続ける。その記憶は宝物と等しくなり、幻想化されるゆえに再体験できなくなるのだ。  同時に、教授のいう通り、子供の時の感覚のほうが鋭敏だったという説明にも、私は納得する。  人間は、母親の胎内にいる時、すべての進化の過程を追体験するという。細胞分裂して増殖していくアメーバの時期、水に浮かぶ魚類の時期を経て、哺《ほ》乳《にゆう》類《るい》の胎児へと成長していく。  この論でいけば、子供から大人になる過程もまた、進化の追体験の最後の部分だといえるのではないだろうか。 同じ人間でも、 子供時代は、 まだ獣に近い状態だ。だからこそ五感も鋭敏なのである。 しかし、 成長するに従って、 その獣性ともいうべきものを失っていくのだ。  知識を得て大人になり、人間として完成されるのは喜ばしいこととは思うが、それと引き換えに、あの恍惚感すらもたらしてくれる鋭敏な感覚を失ってしまったのだとしたら、残念な気もする。 路傍の休息  鎌倉に住んで二年になるが、今年初めて、鶴岡八幡宮に初《はつ》詣《もうで》に行った。神社に通じる参道の大通りは、元旦、歩行者天国になっていて、大勢の人々が行き来していた。いつもは車が行き交っている道路が、こんなに広かったのかと感動しながら、神社のほうに向かっていると、路傍に座りこんでいる一人の外国人の姿が目に止まった。  うすら陽《び》の中で、いかにも気持ちよさそうに地面に腰を下ろして、歩行者をぼんやりと眺めている。私もそんなふうに、道端に座って日向ぼっこをしたいものだと考えながらも、やはり少し寒いので、まずは参《さん》詣《けい》に行くことにした。  八幡宮の入り口に来て驚いた。ものすごい人の列である。大鳥居の前にはロープが張られて、警察官がスピーカーで、現在、入場規制中だと怒鳴っている。寒い中を皆、おとなしく順番を待って並んでいる。  私は並んで何かを待つなんて大嫌いだ。おかげで、有名ラーメン屋や、ディズニーランドの人気館などには縁がない。神社の本殿の前に行くまでは、ロープ規制を三回もくぐり抜けないといけないと聞いたとたん、踵《きびす》を返した。  参道を引き返していると、再び先の外国人に出会った。彼は大道芸人だったらしく、どこに隠していたのか、太鼓を背負い、口にはハーモニカをつけて、手でギターをかき鳴らし、ビートルズを歌っていた。その優しい音楽を聴いていたら、初詣もすませたみたいな清々しい気分になって、私は参道の先にある海のほうに歩きだした。  外国人が路傍に座って休息するだけで人目を惹《ひ》いてしまう現代だが、昔の日本の村では、農夫や漁夫、早乙女たちが、仕事の合間に路傍で休んだり、昼寝をしたりする光景は珍しくはなかった。私の子供の頃は、路傍の石垣に座って話をしている人々の姿をよく見かけたものだった。私たち日本人にとって、道端は、気軽に座りこみ、休んだり、世間話に花を咲かせる場所であったのだ。  しかし、いつの間にか、道路は車が横行する場所となり、うっかり立ち話でもしていると撥《は》ね飛ばされかねない有り様だ。道とは通り過ぎるものになり、立ち止まったり、ましてやそこに座りこんで休む場所ではなくなった。  先日、新宿駅西口地下道の路上生活者たちが、動く歩道建設のために強制立ち退きを執行された事件があったが、これなぞその変化を表した好例といえる。この一件は、いいかえれば、人を強制的に歩かせる機械を敷設するために、路上で生活したり、座りこんだりしている人間が追い払われたということだ。現代社会が求めているのは、機械を使ってでも、人を移動させるべき道路なのである。  それにしても、いったい、私たちはいつから路上で休めなくなったのだろうか。本来、道路とは、誰にも属さない公共の空間だ。人々が自由に使っていい場所だったはずだ。だからこそ、そこに市場が発達し、品物や情報の交換が行われ、町は発展してきたのである。  今、私たちは人と話すためには、喫茶店に入り、高いコーヒー代を払わないといけない。昔のように、そのあたりの草の上や石垣に座って、長話をするということはできなくなっている。  最近、都会では、若者たちが路上や電車の床に座りこんで話しているのを見かける。みっともないと文句をいう人々もいるが、私にはそれは、路傍での自由を奪われた者の無言の反抗にも思える。彼らは、路上を移動空間としてではなく、休息の空間として利用してみせることで、現代社会に抵抗しているのである。  ただ、彼らの状況がなんとも気の毒なのは、今、どこの路傍に座っても、排気ガスや埃《ほこり》が充満して、ひどく居心地の悪いことである。歩道や植木が整備されて、座って話せる路傍が増えたなら、私もどんどんその道端の座りこみに参加してやりたいのだが。 日常雑録 虫愛《め》ずる季節  環境保護の時代の御多分に洩《も》れず、私もここ数年「自然に優しい人」になろうと努めてきた。洗濯には粉石《せつ》鹸《けん》を使い、低農薬の野菜を好み、缶スプレーは買わない。蚊が皮膚に止まっても手で払う程度にして、油虫を見ても、家の外に追いだすようにしていた。  昨年の暮れ、十年近い東京のマンション生活を離れて、鎌倉の木造家屋に引っ越すことに決めた時は、自然の中に戻れると喜んだほどだった。蛇やムカデが多いとは聞いたが、なにしろ私は高知の盆地生まれだ。蛇やムカデごときは慣れている。自然が残っている場所は虫がいて当然、と気軽に思っていた。  実際、春先までは快適だった。家の裏手は鬱《うつ》蒼《そう》とした山になっている。新緑の季節となり、家の周囲は自然の活気に溢《あふ》れてきた。毛虫が塀を這《は》い、地面を蟻《あり》が動きまわり、地中からはミミズが顔を覗《のぞ》かせる。自然にはなんと多くの虫がいることかと、にこにこしていたものである。  ところが、ある晩のこと。風呂場に入ると、床に長さ十センチほど、茶色の長い肢《あし》がびっしりと生えた虫がいる。ムカデに似てはいるが、少し違う。だが、気味の悪い生物であることには違いない。悲鳴を上げたいのを我慢して、炭挟で押さえつけ、外に放りだした。  翌日、早速聞いてみると、この付近でいう、ゲジだった。無害であると知って、今後見つけても殺さないでおこうと決めた。  それから数日後。夜、外に出てふと家の壁を見ると、三匹も四匹もゲジが這っている。長い触手をびくびくと震わせて、白い壁の上にべたっと貼《は》りついている。それでも私は嫌悪感をぐっと押さえて、顔をしかめただけで家に入った。  数日して、庭の雑草引きを始めた。枯葉をどけると、ゲジはもとより、小さな虫やらミミズやら、団子虫、地中のいわゆる「不快虫」という奴《やつ》がぞろぞろ出てきた。  その中に、小さなムカデを見つけた時、私の中で何かが弾けた。  ムカデを靴の裏で踏み潰《つぶ》し、ゲジを石で叩《たた》き潰した。友人に貰《もら》いはしたが、使うまいと思っていた殺虫スプレーをかけまくり、ついには強力殺虫剤を買ってきて、家の周囲にばらまいた。  完《かん》璧《ぺき》、パニックだ。  翌日、殺虫剤を振りかけた地中から、無害なはずのミミズまで沢山死んでいるのを発見した。「自然に優しい人」の理念は、あっけなく崩れ去ったのである。数日間、自己嫌悪に陥ってしまった。    なぜ、私はパニックに走ったか?  その原因は、恐怖である。長足生物に対する生理的嫌悪感から来る恐怖だ。恐怖を覚えると、人は何をしでかすかわからない。  先日、「シンドラーのリスト」という映画を見た。第二次世界大戦のユダヤ人虐殺の経過が描かれているのだが、その中にこんな台詞《せりふ》があった。「戦争は人間の最悪な部分を引きだす」。私は、この台詞の「戦争」を「恐怖」に置き替えてもいいと思う。戦争は、むしろその結果なのである。  自分の小指の先ほどしかない虫に対してすら、恐怖感が先走りすれば、日頃の理念なぞかなぐり捨てて、殺しまくってしまう。恐怖の対象が、特定の人間や国民にすり替った時、同じ人間同士、平気で殺し合う状況になる。まさに相手を「虫けらの如く殺す」ようになるのである。  第二次世界大戦のユダヤ人大量殺《さつ》戮《りく》の根底には、ナチス側のユダヤ民族に対する恐怖心がある。最近のアメリカでの服部君銃殺事件も、加害者に引き金を引かせたのは不意の闖《ちん》入《にゆう》者に対する恐怖だったと思う。  人間の心とは、非常に弱いものなのだ。だが、もし人が、理由なき恐怖に左右されないほど強い精神を持てるようになれば、世の中の犯罪や戦争殺《さつ》戮《りく》はずいぶんと減少するだろう。  とはいえ、いくら理想を語っても、虫如きでパニックに陥るようでは何にもならない。いよいよ本格的なムカデの季節。この時期、「虫愛ずる人」になりたい、と切に願う私である。 頼みの綱の半覚《かく》醒《せい》没入法  できるなら一生遊んで暮らしたいと思っている怠け者の私は、勉強にしろ、仕事にしろ、何かを「しなくてはいけない」と思うこと自体が苦痛でならない。一度、机の前に座って、勉強や仕事をはじめると、けっこう真面目に取り組むことができるのだが、そこに至るまでの葛《かつ》藤《とう》が大きいのである。  いかにして自分を机に向かわせるか。  中学時代から、私はこの問題に頭を悩ましてきた。当時は高校受験を控えていたから、勉強は嫌だ、ではすまされなかった。どうしたらいいだろう、と考えるうちに、ある時、いいアイデアが閃《ひらめ》いた。  勉強している、という意識が働く前に、すでに机の前で問題を解いていればいいのだ。  それには、まだ意識が活発に働いていない起き抜けがいい。朝、起きたばかりの朦《もう》朧《ろう》とした頭のまま机の前に座って参考書を開けば、気がついた時には、自分は勉強しているという寸法だ。これなら、「勉強、嫌だな」とか「やりたくない」とかいう考えが忍びこむ余裕はない。  名づけて、半覚醒没入法。けっこう効果的だった。受験勉強において挫《ざ》折《せつ》をせずにすんだのは、このおかげだと思っている。  長じて小説を書くようになっても、この手法を実践している。  朝起きると、台所に行って、エスプレッソを準備する。銘柄は、イタリアのラバッツァに決めている。水とコーヒーの粉を入れたエスプレッソ器具を火にかけると、机の前に直行する。ワープロの電源を入れて、昨日の続きの文章を引きだし、まだぼんやりとした頭でキーを打ちはじめる。やがてエスプレッソがぼこぼこと音をたてはじめる。熱く強いコーヒーを啜《すす》りながら、ワープロを打ち続ける。  これだと、はたと気がついたら書いている、という感じなので、とてもはかどる。ただ、「私は書いているんだ」ということに意識が集中するようになるまで、の話だ。  一時間半から二時間も過ぎて、自分の状態に覚醒してくると、だんだんと嫌気がさしはじめる。おまけに空腹が襲ってくる。私には、腹が減ると何もできない、という悲しい性《さが》がある。寝食忘れて書くことに熱中する、などという美徳は残念ながら持ちあわせていない。  そこでさっさと仕事を中断して、食事に走るのである。  あまりに早起きしすぎた朝は、食後に再び眠くなる。そんな日は、また寝れるから嬉《うれ》しくなる。満腹して、ひどく幸福な気分で私は蒲《ふ》団《とん》にもぐりこみ、一、二時間、うとうとして目覚めると、もう一度、半覚醒没入法で、机に向かい直す。まるで一日が二回あったみたいな得をした気分になれる。  たまに午後になっても、これを行うことがある。昼食後や、仕事に疲れたら、寝るのである。一日中、食っちゃ寝を繰り返すことにより、非常に仕事が進みそうなものだが、落とし穴がひとつある。これを連続して行うと、夜、眠れなくなるのだ。寝ないと仕事ができないのだから、どうも具合が悪い。  そんなわけで、この半覚醒没入法、効率の面においてははなはだ疑問なのだが、私にとっては、自らを仕事に向ける頼みの綱となっているのだ。 飴《あめ》一個の持つ魔力  週二回ほど、鎌倉から電車に乗って、横浜にフランス語を習いに通っている。家でまったく勉強しないので、列車に乗っている約三十分間が、私の予習復習時間となっている。  その日も私はボックス席の窓際に陣取って、教科書を開き、ややこしい動詞変化を覚えていた。 「おひとつ、いかがですか」  突然、向かいの席から声が聞こえた。顔を上げると、初老の婦人が私に飴を差しだしている。キオスクで十個入り百円で売っている、あの飴である。  一瞬、ためらった後、私は礼をいって、飴を一個、つまんだ。  婦人はにっこりすると窓の外を眺めはじめ、私は飴を口に放りこんで、教科書に戻っていった。  しかし、心の中では、列車の中で見ず知らずの人に、飴をもらったことに感動していた。  子供の頃、列車で乗り合わせた人に、お菓子や果物を振るまわれることは珍しくはなかった。  当時、隣や向かいに座っている人たちを無視して、何かを食べるのは不《ぶ》躾《しつけ》だという感じがあったためだと思う。だから、その座の人々に「おひとつ、いかがですか」と勧めてから食べるのが礼儀となっていた。  そうやって、お裾《すそ》分《わ》けされた食べ物は、ありがたかった。  私の子供時代は、お菓子がふんだんにあったわけではない。チョコレートやカステラといった高級菓子を口に入れる機会は少なく、野に生えている「すべ」という草の白い穂や、火で炙《あぶ》った椎の実、そば粉を茶《ちや》碗《わん》で練ったものなどをおやつ代わりに食べていた記憶がある。  だから、もっと甘いお菓子、ポップコーンやパットライス(とうもろこしではなく、米をポップコーンのように作ったもの)が充分おいしく感じられた。  これは、祖母がブリキの缶に入れて、押入れに大切にしまっていたもので、肩叩きをすると、駄賃代わりに一握りずつくれたのだ。砂糖飴のかかった甘いポップコーンやパットライスの一粒一粒を大切に食べたことを覚えている。  あの頃、「食べ物」は今よりずっと貴重だった。だからこそ人々は列車の中で、知らない人とお菓子や果物を分け合ったのだ。  だけど、いつの頃からだろう。そんな風景は、だんだんと見られなくなっていった。  現在、駅のキオスクには、チョコレートや飴、スナック菓子まで豊富に置かれている。欲しければ、誰でも気軽に買うことができる。皆がポケットに飴やガムを忍ばせているので、ことさら列車の中でお裾《すそ》分《わ》けをする必要もなくなった。  私自身、列車のボックス席で、一人でむしゃむしゃと食べることが平気になったし、近くの人に食べ物を勧めるなどという配慮は、とっくの昔に忘れてしまっていた。  しかし、冒頭の婦人の行為が、私に昔の記憶を呼び覚ましたのだった。  そうだった。以前は、自分の持っている食べ物を、たまたま列車に乗り合わせた他人と分かち合うことが普通だった。そこから会話がはじまったり、思わぬ心の交流が生まれたりしたのだった。  食べ物を分ける、という行為には、そんな力があったのだ。  プシューッ。自動ドアの開く音に私は我に返った。  列車は、がらんとしたホームに着いていた。すでに前に座っていた婦人は消え、車内はやけに人気が少なくなっている。  見覚えのない駅だ、と窓から外を見て、驚いた。  横浜を乗り過ごしてしまっていた。私は慌てて列車から飛び降りた。  その日、私は授業に遅刻した。列車の中でもらった一個の小さな飴が、そうさせたのである。  人と食べ物を分かち合う行為は、今でも何か不思議な力を持っている。 土用鰻《うなぎ》を知ってますか?  私がまだ二十代半ばだった頃《ころ》、雑誌のインタビューの仕事で、五十代のある女性に会った。彼女自身のことについて語って頂いている中で、樋口一葉の『たけくらべ』の話が出た。  彼女の学生時代の愛読書だったらしく、自分の気持ちを話の中の場面にたとえて表現したのだが、私にはぴんと来ない。本を読んでなかったのだ。そのことをいうと、「あなた、あの本も読んでないの」と、ひどく驚かれた。「今の若い人は……」としきりに嘆かれて、ばつの悪い思いをしたものである。  その後、『たけくらべ』に挑戦したが、旧仮名遣いの難解さに負けて、やはり読み通すことはできなかった。  結局、彼女の学生の頃とは時代が違うのだから仕方ない、と居直って、もう十年近く過ぎてしまった。  最近のことだ。友人宅の食事に呼ばれた。そこには外国人二人と、二十代前半の日本人青年が一人いて、私たちは日本の伝統や習慣について話していた。 「英字新聞で見たけど、日本では、土用の丑《うし》の日とかに鰻を食べる習慣があるんだってね」  外国人の一人がいう。 「そうです。土用鰻といって、食べると、夏負けしない、といわれているんです」  こう答えると、「あれっ」という声が上がった。その日本人青年だ。 「そんな習慣、あったんですか」といわれて、びっくりした。  彼は特に無教養という人間でもない。むしろ礼儀正しい、ごく普通の青年だ。それなのに、土用鰻の日のことを知らない。  彼は、二人の外国人から「あなた、日本人?」とからかわれて、照れていた。  その後、知り合いの若い女性の編集者と中年の編集者と一緒に会うことがあった。私が土用鰻の話を披露すると、あの青年くらいの年齢の女性編集者は、「それくらい知ってますよ」と胸を張った。  よかった、まだこれは若い人にも通じる話なのだ。  私がほっとしていると、横から中年の編集者が口を挟んだ。 「だけどね、坂東さん。家に来たお客さんに長居されて困ってる時、壁に箒《ほうき》を逆さに立てるでしょ。あれ、彼女あたりになると知らないんですよ」  まさか、と私は笑いながら、彼女の顔を見た。  ところが、彼女はきょとんとしている。 「ひょっとして……知らないの?」  彼女は頷《うなず》いた。中年の編集者が真面目な顔でいった。 「壁に箒を立てかけている場面が出てくるテレビのコマーシャルがあるでしょ。彼女なんか、その意味がわかんないで見ているんですよ」  私はぎくりとした。  同じテレビ画面を見ていても、箒の意味を知っている人間と、知っていない若い世代とでは、違った視点で理解しているのだ。  私の小説には、日本の古い風習や習慣をほじくり返して書いているものが多い。読者の中には、その部分にはさっぱり気がつかずに、読み飛ばしてしまう人がいるということでもある。  日本の古い文化を下敷きとした、世代間を繋《つな》ぐ共通の認識が失われつつあるのだ。  十年前、私の世代では、すでに五十代の人との間に『たけくらべ』の小説世界を共通の認識とすることはできなくなっていた。そして今は、私と私の下の世代とは、土用鰻の話も、箒を逆さに立てる風習も、共通の話題にすることはできなくなっている。  これは日本文化が希薄化している証拠だ。悲しいことだが、この流れはもう変えられない。私自身、『たけくらべ』を読み直すことをしなかったように、若い人々が過去の文化を勉強しなおすことはまずないのだ。  誰もがこの流れの中にいて、その一端を担っている。こうして文化は希薄になり続け、この先にあるものは、きっと世界共通の近代文化というもので括《くく》られるのだろう。それが無味乾燥なものであれ、やはり私たち日本人、皆で選んでしまった道なのである。 芦屋の坊ちゃん  それは私が大学の卒業を控えた年の冬のことだった。正月休みに高知に帰省すると、やはり大学生となって香川で下宿生活をしていた妹も帰っていた。その妹が、可愛らしいバッグを持っていたので褒《ほ》めたところ、ボーイフレンドの一人に貰《もら》ったという。 「いらんゆうたけど、買うてくれるゆうき」といいながら、妹はまんざらでもないらしく、「それだけじゃないがやき。ほら、私が履いちょった白いブーツも貰うたもんやしねえ。同じ人じゃないで、別の人から。他にも、ようドライブに連れていってくれては、しゃれた感じのレストランで御馳走してくれるクラブの先輩もおるしねえ……」と、パンドラの箱を開いたみたいに自慢話がはじまってしまった。  私がそれまでにつきあった男から貰ったものといえば、せいぜい彼の中古の服やら、値が張ってレコード程度。奢《おご》ってもらったのも居酒屋止まりの有り様だったから、この妹の話に対抗できるものがない。口では、「ああ、そうかえ」と冷淡に返事しながらも、内心、非常に悔しい思いをした。  それから半年あまり過ぎた頃のことだ。大学卒業後、大阪の設計事務所でアルバイトをしていた私は、ある夜、仕事で遅くなり、難波の地下街のレストランに一人で夕食を食べに入った。  人生、いつ何時、どんなことが降って湧《わ》いてくるかわからない。なんと、そこで私は、ウエイターにひとめ惚《ぼ》れされたのである。彼は、注文したドリアと一緒にデートを申し込むメモ用紙を運んできたのだが、そんな経験は初めてだったから、私は興奮してしまった。話してみると、アルバイト中の大学生で、家は芦屋だという。芦屋といえば、世に知られた高級住宅地だ。それに彼が通っている大学は、当時、金持ち息子が寄附金を積むと行けるという噂《うわさ》のある学校でもあった。  これは、芦屋の坊ちゃんだと私は断定した。アルバイトをしているのは、自立心旺盛なのだと好意的に解釈した。背はすらりと高く、髪の毛はさらさらとした優男タイプで、悪くはなさそうにも思えたし、なによりも男たちからプレゼントを貰って威張っている妹を見返してやりたくて、私はデートを承知した。  デートは翌日。やはり難波にある喫茶店だ。紅茶を飲みながらの滑りだしは、まずまずだった。なにしろ彼の家は開業医だというのである。やはり芦屋の坊ちゃんだ。内心、ほくそ笑んでいると、彼はにこやかに続けた。 「せやけど、僕、阿《あ》呆《ほ》やから、とうてい医者は継げへんねん。家業は医大に行った弟にまかせるつもりやねん」  まだ二十歳そこそこで、ここまであっけらかんと、自分のことを阿呆だという男は珍しい。まじまじと芦屋の坊ちゃんを眺めると、昨夜のレストランの暗がりで優男に見えた顔は、明るい喫茶店では馬面、おまけに歯がやけに黄色っぽくて気持ちが悪い。厭《いや》な予感を覚えていると、芦屋の坊ちゃんがあらたまった口調で聞いてきた。 「ところで、きみ、趣味かお稽《けい》古《こ》事は。ほら、ピアノとか、お茶とかお花とか。女の人なら、何かやってんやろ」  全然、やってない、と答えると、彼は真面目な顔でいった。 「そりゃあ、ぜひ習うべきや。大学、卒業してどこかの会社のサラリーマンになったとしても、僕は将来、金はあんまし稼げへんと思うんや。せやから結婚したら、きみにも働いてもらわなあかん。その時に、手に技術を持ってると便利やよってな。ほら、ミシンを使うてやるやつ、あれでもええで。家で内職ができるやろ」  裁縫なぞ大嫌いな私は、背筋に震えが走った。しかし、芦屋の坊ちゃんの頭では、私との将来が一晩のうちにできあがってしまったようで、熱心に語り続ける。 「きみのことは両親にも、もう話しといたさかい、これから芦屋の家にきいへんか。親も待ってるよって」  いくらひとめ惚れでも、ここまで来ると、常軌を逸している。それとも、このおめでたさ加減が「芦屋の坊ちゃん」なのだろうか。とにかく、この男からプレゼントを貰える日なんて、一生、こないに違いない。今日は用があって忙しいのだといって、あたふたと帰ろうとすると、彼はすごく残念そうにレジのところまで私を送ってきていった。 「ところで、勘定は割り勘にしとこな。こういうことは、今からきちっとしとかなあかんよってな」  もちろん芦屋の坊ちゃんとは、「今から」はなく、その時限りの仲となった。  以後、私は相変わらず、高価なプレゼントをくれる男には縁がなく、一方、妹は色々な物を貰い続け、何年かして金とは縁のない研究者と結婚した。 四本足で歩いた原宿  子供の頃から、ずぼらな子だといわれてきた。小学校の時はほとんど髪の毛を梳《と》かしたことはなく、頭は「雀の巣」だったし、学校の制服のプリーツスカートの折りは滅多につけなかったから「フレアーマン」とあだ名されていた。  新学期、きれいに髪をカットして高校に通学していたら、市内を走る路面電車の窓に、中学時代の同級生の男の子たちの顔が鈴なりになった。やけにじろじろと見ていたのは、サラサラ髪の私がよほど珍しかったのだろう。  本人としては、単におしゃれに興味がなかったに過ぎないのだが、傍目には異常にも思えたらしく、大学の進路相談の時、母が担任教師のところに行き、進路のことそっちのけで「あの娘は、どうやったら、きれいになりますやろう」と聞いたという(知人より洩《も》れ聞いたその話を、後日、母に確かめたら、しきりに否定していたが)。 「それでも女か」という言葉は、さんざん聞かされてきたし、おしゃれに関するたいがいの失態には動じないほど居直ってもいるが、その私でも、さすがにあれはひどかったな、という思い出がある。  それは、私がフリーライターとして働いていた頃のことだ。店の紹介記事を某雑誌に書くために、原宿に行くことになった。いくら、ずぼらの私でも、出向く場所が流行のブティックとなると、少しは服装に気をつける。当時、気にいっていた青いパンツスーツに身を固めて取材に行った。  二日目のことである。二軒目の店に行く途中、若者で賑《にぎ》わう竹下通りの雑踏の中で、カメラマンが困惑したように言った。 「坂東さん、足からもう一本、何か出てるよ」  はたと見ると、ズボンの裾《すそ》から、どろんとした舌のようなものが出ている。半透明のものが、両足の踵《かかと》のところで、ぶらぶらしているのだ。  何だろうと不思議に思いながら、ちょっと引っ張ってみた。ずずず、と出てきたのはストッキング。  とたんに、昨日のことが頭を過った。昨夜は、ストッキングごと、すっぽりとズボンを脱いで、蒲《ふ》団《とん》に入ったのだ。そして今朝、新しいストッキングを履いて、同じズボンを穿《は》いた……。  つまり、それは昨日のストッキングだったのだ。  慌てて物陰に走って、中のストッキングを引き抜いた。カメラマンにげらげらと笑われたのはいうまでもない。  ファッションの街、原宿で、そんな醜態を晒《さら》してしまったことが我ながら恥ずかしく、以来、ズボンを穿く前には、中を覗《のぞ》くようになった。 あかんべー  先日、駅で、中学生らしき少年たちが別れの挨《あい》拶《さつ》をしていた。遊びの帰りだろう、改札口の内と外で、浮かれ調子で何ごとか怒鳴りあっていたと思うと、外の少年が右手を上げて、拳《こぶし》を作り、中指だけ立ててみせた。アメリカ人が相手を侮辱する時、「ファック・ユー」と叫びながら行う、あの身振りである。  私は一種のカルチャーショックを覚えてしまった。きっと、その少年は、映画か何かで見て、かっこいいと思ったのであろう。彼や仲間たちは、この身振りを親愛の情をこめたコミュニケーション手段として、日常的によく使っているのかもしれない。  今や日本の青少年たちは、アメリカ文化にどっぷり浸っている。ハンバーガーにホットドッグ、スケートボードやラップミュージック。ラジオのDJはバイリンガルといって、半分英語で喋《しやべ》りまくっている。私たちの使う言葉も、外来語なしでは成立しないほどになっている。彼らとしては、このうえアメリカ人の身振りを自分たちの生活に取り入れても、何の不都合も感じないのだろう。  しかし、取り入れる身振りが、ある特定の文化に根ざす身体言語《ボデイーランゲージ》であるならば、事は重大だと私は思う。身体言語は、言葉以前の表現手段だ。人々の内面的なところから発してきたものである。音楽や服装といった文化の外枠だけではなく、身振りまで取り入れてしまうと、日本人の精神構造まで変化することになる。  だいたい、欧米人の身体言語は、実に多様で大仰だ。怒りを示す身振りひとつとっても、少年の真似したもの以外にも、二の腕の内側に空いた手を置いて拳を突きあげる動作、顎《あご》を指で弾くように前に払って「もう沢山」という意味をこめる動作、じゃんけんのチョキの形を作り、相手に手の甲を見せる動作など、同じ欧米でも、どこの国出身であるかや、時と場合によって多種にわたる。  一方、日本人が相手を侮辱する身体言語ときたら、せいぜい「あかんべー」くらいのもの。大人がそんなことをやっていたら、笑われるだけなので、拳を振りあげるのが関の山だ。  日本人の精神的土壌は、大仰な身体言語向きではない。それを取り入れるのは、桜にバラの花を継ぎ木しようというものである。  いい例が、テレビでこの前までやっていた、某有名サッカー選手がイタリア風の投げキッスをするコマーシャルだ。私は、あれを見ていると、背筋をなめくじに這《は》われている気分になる。イタリア人相手に同じことをやるならいいが、投げキッスをされる相手は、そんな身体言語を持ってない日本人である。こちらとしては、ぞっとする以外、反応のしようがない。  猿真似もここまでくると世も末だと思いながら、机の周辺を整理していたら、二年前の小説の資料が出てきた。明治時代、日本を訪れたブスケという外国人の書いた『日本見聞記』の抜粋であるが、あまりにおもしろかったので、そのページだけコピーしていたのだ。  以下のような一節である。 『今日の役人、ことに高官はヨーロッパ式の服装をしている。すなわち古着屋の店から出てきたように見える。(中略)この借物の衣装では、身のこなしは窮屈で、物腰は不自由で重苦しい。各人はつくろいようのない不恰好な様子をしているように思える。』  百年ほど前、洋服を着た日本人はこんな具合だったのだ。しかし今や、パリコレで日本人デザイナーが活躍する時代である。  とすれば、あと何十年か経てば、日本人が欧米人の身振りを器用に身につける可能性はある。駅で見た少年たちが老人になる頃には、日本の街角で、日本人が投げキッスをして、「バカ野郎」とでも叫びながら、中指を立てた拳を突きだす光景が繰り広げられるかもしれない。  それが、伝統的精神性を放棄しつつある日本人の行く末かもしれない。これについていけない人間は、せいぜい「あかんべー」をするしかないのだろう。 ニーチェを手玉にとった女  その写真を見たのは、中学生の時だった。図書館で借りた伝記本の中扉にある白黒写真に、三人の男女が写っていた。荷車の前で、馬のように縄をつけた男二人。荷台で中腰になり、鞭《むち》を持っている女。口《くち》髭《ひげ》をたくわえた紳士風の男二人を、女が鞭で脅している構図は、彼らの古めかしい姿恰好とあいまって、いかにも奇妙なものだった。  男の一人は哲学者ニーチェ。荷台に立つのはルー・ザロメ。ニーチェが彼女にぞっこんだったと知ったのは、伝記を読んでからだった。  ルー・ザロメは、十九世紀中期にロシアで生まれた女性だ。娘時代から哲学書を読みまくり、その知性でもって周囲を圧倒した。ローマでニーチェと知り合い、『ツァラトゥストラ』に多大な影響を与えたとも伝えられる。  ルーは、恋愛の自由を唱えて、ニーチェと、彼の友人でやはり彼女の崇拝者の男と理想的な三角関係を築こうとする(冒頭の写真は、その時の恋愛模様を示しているものだ)。これはすぐに失敗して、紆《う》余《よ》曲折の末に大学教授と結婚。しかし夫婦生活はうまくいかずに、夫が自家の女中と通じることを容認し(子供までもうけた)、自分は作家として成功して、年下の愛人を連れてヨーロッパ各地を巡り歩いて過ごし、リルケの愛人ともなり、晩年には、フロイト学徒として心理学の研究に没頭したという。  まだ少女期の私にとって、彼女の人生は絢《けん》爛《らん》豪華な絵巻物に映った。中学校時代を通して、ルー・ザロメは私の英雄となったのである。  しかし人間とは薄情なものだ。大人になるに従って、私はけろりと彼女のことは忘れてしまった。頭の隅にその名は残っていたが、自分の人生を生きることで一生懸命だったのだ。ところが最近、ルーとニーチェとの関係をかなりの想像でもって描いた『善悪の彼岸』という映画を見たことがきっかけで、伝記を読み直してみた。そして改めて、中学校時代よりずっと深く彼女の人生に感銘を受けてしまったのである。  たぶん、私自身、ある程度の人生経験を経てきた今だからこそだろう。ルーが、口では自由恋愛、自由な肉体関係を唱えていたにもかかわらず、三十歳を過ぎて結婚するまで処女だったらしいことや、子供を堕して精神的にまいったらしいことなどを知った時、私は、彼女の大胆で華やかな人生の裹に隠された悩みや犠牲をおぼろげに感じとった気がした。  ルーは、第二次世界大戦の頃まで生きた。晩年、見舞いに訪れた青年は、彼女は相変わらず美しく魅力的だったという感想を残している。  老境に入ってなお青年を魅了したルー・ザロメ。女は年をとると魅力を失い、ただの婆さんになるということが世の通説だが、彼女は違った。死の直前まで生命力と美しさに溢《あふ》れていたルーに会って、その秘《ひ》訣《けつ》を伝授してもらいたいものである。 好きな本  不思議で楽しくて、軽みがあって、読んだ後、心がシャワーを浴びたようになる話が好きだ。私自身の書くものが不気味で怖くて、やけに重たい、といわれてしまうからかもしれない。私だって、こんな小説を書きたいのになぁ、とぼやかずにはいられなかった小説を、最近読んだ。  ジャネット・ウィンターソン作『さくらんぼの性は』(白水社)。登場するのは、怪力の大女と、拾い子の青年。十七世紀、清教徒革命の嵐の吹き荒れるロンドンが舞台ではあるが、この時代設定がくせもの。話は、十七世紀から現代へ、はたまた青年の心の中にあるおとぎ話の世界へと、自在に駆け巡る。タイムトラベルでも、海外旅行でもない。自分の内側を旅することのイメージを伝えてくれる小説だ。  さらに、この大女の存在が強烈で小気味いい。仰ぎ見るほどの図体を持ち、象よりも重く、鉄砲で撃たれても、胸の間からひょいと弾丸をつまみだす。彼女と寝た男の感想は「鍋《なべ》の中のオタマジャクシ」。挙げ句の果てに、男は彼女の中に全身すっぽりと埋まってしまい、逃げるに逃げられないありさまだ。こんな非現実的な大女を映像で表すとマンガになってしまうのに、この小説ではユーモラスでファンタジックに描くことに成功している。これこそ文字表現の強みだと思う。 『カウガール・ブルース』(集英社)は、映画にもなっているのだが、原作のほうが遥かに知的でおもしろい。  巨大な親指を持つ娘と、カウボーイを夢みてカウガールになった娘たちがいる牧場で起きる事件を描いた小説とはいえ、話は時間軸を無視して展開し、語り手の正体もよくわからない。しかし、色も素材も違うモザイクを繋《つな》ぎ合わせたみたいなその天衣無縫な書き方が魅力だ。巨大な親指が人間の自我やセックスの象徴であること、女の自由とは何か、男と女の間の戦いについて。軽妙な口調で語られる物語は、作者トム・ロビンズの思索の断片を、万華鏡を覗《のぞ》いているような見事さで見せてくれる。  先の二作ほど強烈な個性はないが、一見、かわいらしい童話風物語の中に、ガラスの破片のような鋭さが隠れている小説が、マイクル・ゴールディングの『春を忘れた島』(早川書房)だ。  話は、イタリア中世の頃。ベニスの近くの海に浮かぶ自給自足の小さな島に、突然、春が訪れなくなった。春がこなければ、作物は実らない。魔法に頼る者や、金持ちにどうにかしてくれと縋《すが》る者、鐘楼を建てて春がこの島を見つけやすいような目印を作ろうといいだす者。途方に暮れる村民たちの右往左往ぶりから、閉鎖的な村社会が浮かびあがってくる。やがてベニス付近の海一帯に黒死病が広がりはじめ、話は悲劇的な様相を呈してくるのだが、どこか底が抜けていて明るいのだ。  私は今年の末からイタリアにしばらく滞在する予定にしている。暇を見つけてベニスから船に乗り、この小説のモデルとなった島を訪れてみたいものだ。 藁《わら》半紙の本  十歳になる姪のお守りをしていた時のことだ。私の妹である母親が教えたのだろう、「まぁこちゃん、本を作るんでしょう」と聞かれた。本を書くのだと答えたが、姪には、本を書くのも作るのも同じことに思えたのか、自分にも一冊、作ってくれといいだした。  姪をがっかりさせるのも気が引けて、私は一計を案じた。藁半紙を二つ折りにしてホッチキスで止め、ノートのようなものを作ったのである。それに、その場ででっちあげた話を絵入りで書いてあげたら、「本だ、本だ」と姪は無邪気にも喜んでくれた。話自体はどうということはないのだが、姪の求めに応じて、姪自身や、ペンギンやらネズミを登場させたことが気にいった理由らしい。  以来、私に会うごとに「本、作って」とねだられるのにはまいっている。同時に、その藁半紙の粗雑な「本」に大喜びしている姪を見ていて、本というものが、とてつもない輝きを持っていた時代が私にもあったことを思い出してしまった。  子供の時、本屋に行って、母親から「今日は、好きな本を一冊、買ってあげる」といわれると、最高に幸せになった。そうなると、胸をどきどきさせながら、本棚の前を行ったりきたり。一冊の本を選ぶために、一時間でも費やしたものである。  だけど、こんな幸運が巡ってくるのは、誕生日に父親のボーナス日、夏休みと正月くらいのものだ。そのたびに私は、本屋の子供の本のコーナーにへばりつき、一生に一度の買物だといわんばかりの真剣さで選んだ。  今も実家の本棚には、そうやって集められた本が並んでいる。立派な箱に入ったそれらの本を眺めるたびに、一ページ一ページ、大切に読んでいった記憶が蘇《よみがえ》る。  まさに、子供の時の本は宝物であり、選ぶにつけ、読むにつけ、そこには崇高といっていいほどの感情がこめられていた。  だが、大人になるに従って、その感情は薄れていった。最近の私は、本を選ぶにも、読むにも、あの頃ほどの興奮もありがたさも感じない。本屋に入ると、つい一時間や二時間過ぎてしまうのは確かだし、読むことは好きではあるが、なんとなくちがう。  思うに、子供の時の気分の高揚は、本自体にあったというより、親に買ってもらうという行為自体に根ざしていたのだ。両親が私に本を買ってやろうという気持ちになるのは、まるで神様の気まぐれのように予測不能のことだった。そして、そういう幸運に恵まれると、私には奇跡が起きたように思えたのだろう。だからこそ、その機会は貴重であり、その貴重な機会に与えられたものは宝物となったのだ。  自分の稼いだ金で好きな本を何冊でも買えるようになった今は、もう決して味わえない感覚である。人は成長するに従って、何かを得て何かを失う。私は確実に、本に対するあの崇高なる感情を失ったのである。 強い女  土佐料理といえば、皿鉢《さわち》である。一抱えほどある大皿に、寿司から揚げ物、酢の物、煮物、刺身と、盛大にてんこ盛りした宴会用のご馳《ち》走《そう》だ。高知では、親《しん》戚《せき》縁者が集まったり、お客さんを呼んだりすると、すぐにこの皿鉢が並ぶ。子供の頃の私は、この皿鉢料理の宴会が大好きだった。料理用と刺身用、二枚の小皿を手にして人の間にもぐりこみ、あっちの皿鉢、こっちの皿鉢と、めぼしいものをつっつく。好きなものだけいっぱい食べられるし、一つ所にじっと座っていなくていい。大人たちは酒杯のやりとりで忙しいから、行儀よくしろと叱《しか》られることもない。子供にとっても、大人にとっても、気楽に楽しめる和風バイキングだ。  親元にいた高校時代までは、そんな皿鉢料理の宴会に出席する機会は数々あった。しかし、大学に入り、奈良で一人暮らしをはじめると、土佐風宴会に出ていくこともほとんどなくなってしまった。  大学四年くらいの時だったと思う。久々に帰郷したら、親戚の家での祭事に招かれた。そこの娘さんと仲よしだったこともあり、私も両親と一緒に出かけていった。  久々に出席する土佐風宴会は、やけに男たちが酒に酔っている光景が目についた。子供の時は、酒には関心がなかったから、ただひたすら食べて、満腹になったら、外で遊んだだけだった。しかし、大人になると、別のものが見えてくる。  宴を繰り広げるのは、男たち。酒の返杯を繰り返し、酔っぱらって真っ赤になり、怒鳴るような声で話している。そして女たちはというと、エプロンをかけて、せっせと酒やビールを運んでいる。  がっかりしてしまった。やはり女は虐げられている。私はその主婦たちの手伝いをする気もなくて、料理をぱくつきながら、遠縁の友達とお喋《しやべ》りしていた。  やがて男たちは、ふらつく足取りで一人、また一人と帰っていった。エプロン姿の女たちは片付けのために残っている。  本当に嫌になる。だからいつまでたっても女の地位は低いのだ、と思った時だった。 「ほら、男《おとこ》衆《し》らは帰ったで」  台所から元気な声が聞こえ、ビール瓶を持った女たちが現れた。そして、今度は自分たちの番だといわんばかりに、残った皿鉢料理をつっつき、酒をつぎあって飲みはじめた。女たちだけの宴がはじまったのである。  私は感心してしまった。宴会といっても、やはり後片付けは残っているからそう長くもできない。しかし彼女たちは彼女たちで、こうして楽しむすべを心得ているのだ。屈託のない表情で和気あいあいと話している土佐の女たちを見ていると、その逞《たくま》しさが嬉《うれ》しくなった。  私は強い女が好きだ。  先日、十一年もかけて世界を徒歩で回ったイギリスの女性の記事を読んだ。十六歳の時に思い立って、家を出て歩き通したという。女一人で、世界を徒歩旅行。まったく、すごいものだと感心する。  女性の権利を巡って闘ってきた歴史の長さに由来するのか、欧米諸国の女性は強いと思う。以前、イタリアで、足が不自由なのにもかかわらず一人旅をしているアメリカ人女性に会った。  世界を旅行していると、逞しい女性たちに出会う。日本人女性も最近は一人旅が多いが、それでも、まだまだ欧米人の女たちの持つパワーに比べると、どこかひ弱な感じがする。ましてや、新婚旅行やツアーなどでヨーロッパの免税品店にたむろしている女性たちは、ここで一人、ぽんと外に放りだされたなら、即、泣きだすのではないかと思うような頼りなさだ。だいたい、ツアー旅行をする若い女性グループというものを、アジア人以外、見たことがない。欧米人も団体旅行をするが、たいてい老人か熟年カップルである。  日本の女は、土地に根づいたところでは強いのに、自分の土地を離れるとひ弱になる。  長い時間をかけて、嫁という地位から、家の中での権力を広げていくのが、伝統的な日本の女の強さだ。しかし、もっといえば、その家から離れてもまだ強い、ということが、本当の意味で女が強くなった時だと思う。 王さまに教わらなかったこと  あれは、毎日童話新人賞の受賞式のことだった。はじめて書いた幼年童話が、優秀賞に選ばれて、私は出かけていった。賞状の贈呈やら祝辞やら、ひととおりの儀式がすむと、食事になった。立食パーティとなっていて、目の前には、ローストビーフや伊勢海老、スモークサーモンなどが盛大に並んでいる。  私はパーティの席上で、やけに張り切ってしまう癖がある。ただで飲み食いできるという、意地汚い根性がむき出しになり、他の人との挨《あい》拶《さつ》なんてうっちゃって、ひたすら料理に突進するのだ。その時は生まれてはじめてのパーティだったから、なおさらだ。鉄砲玉のようにテーブルに飛んでいった。  時間は制限されている。まずは、めったに食べられないキャビアから攻撃だ。ところが、キャビアの皿の前では、すでにひげを生やした船長さんのような男性がちゃっかり先に来ていた。順番を待っている私に気がついた彼は、キャビアを取り終わるといった。 「フォアグラも食べておいたほうがいいですよ」  なんと彼の皿には、すでにフォアグラのパテが数枚、載っているではないか。その手際のよさに、私は唸《うな》ってしまった。  この食いしん坊が、賞の選考委員でもあった寺村輝夫だったのである。  パーティの席で誘われたのがきっかけで、私は寺村先生の主宰する童話講座に通うことになった。仲間たちと一緒に、二週に一回、講義を受けて、色々なことを教わった。  ナンセンス童話とは何か、ファンタジーとは何か。その導入と終わり方についての方法論。ファンタジー世界における論理性。とらえどころのない空想世界のことを、先生は鮮やかな切り口で分析してくれた。  その論理でいけば、まるで誰もがおもしろくて、楽しい童話が作れるような錯覚さえ覚えた。私たちはせっせと童話を書いた。しかし、できるのは、ほとんど駄作ばかり。ほめることが多い先生も、時には堪忍袋の緒を切らして、けちょんけちょんに酷評したものだった。それでも、そんな中から童話作家になる生徒が幾人か出てきた。すると、先生はもう役目は終わったといわんばかりに、童話講座も、個人として発行していた同人雑誌『のん』もやめてしまった。  あれから何年も過ぎた今、当時を振り返ってみると、まるで泥沼にいるようだったと思う。理論は理解できても、童話の作り方の肝心のところがわからなくて、あがいていた。  ところが今回、『ぼくは王さま』シリーズ(理論社)を読み返してみて、ふっとわかったことがあった。あの頃、見えなかった、童話の肝心要の部分がつかめた気がした。  まずそれは、語りの文章の心地よさだ。全体を包む、柔らかな語りのリズムこそ、『ぼくは王さま』の童話の魅力である。それは、読む者の心の底から聞こえてくるような優しさと親しみを持っている。  読者と語り手との距離が絶妙なのだ。子供の読者にとって、その語り手は大人でもなく、友達でもない。いってみれば、心の中に住む、もう一人の自分というような存在だろうか。その「自分」は、読者よりも、ほんのちょっぴり賢くて、先のことがわかる存在だ。だからこそ読者は、安心してその語り手の示す物語の世界に入っていける。 『ぼくは王さま』シリーズだけでなく、世界に残る名作童話は、すべて語りのリズムの取り方に成功しているものだと思う。  二つ目の発見は、イメージの表し方についてだ。寺村輝夫の童話は、自由で奔放な空想絵の展覧会場のようである。随所に放出される美しいイメージがあるからこそ、彼の奇想天外な童話世界が豊かに輝きだすのである。  たとえば、この本『王さまパトロール』(理論社)に収録された『ゆめの中でゆめ』。縞《しま》馬《うま》の縞が黒いリボンとなって、はらはらと剥《は》がれていくイメージや、それが一本のロープとなり、虹となっていくという場面は、題名の通り、夢を見ているような美しさを持っている。一読すると、ただつらつらと思いつくままに話を運んでいるように見えるが、読者の心をつかみながら、自分のイメージを広げていくのは、至難の技である。それは、夢を語る時を考えれば、よくわかる。理不尽で意味不明の夢を他の人に話しても、たいがい相手はぽかんとしているだけだ。寺村童話は、物語世界へのイメージの取りこみ方が非常にうまいのだ。  語りのリズムと、イメージ世界の表し方の見事さ。童話の肝心要のこのことを、講義の中で先生は決して教えてはくれなかった。少々恨みがましくいわずにはいられないが、仕方ないことだったとは思う。それこそ寺村輝夫という作家の天性、彼の作品の真髄。教えることのできないものであり、他者が真似することのできないことなのだから。 身《しん》辺《ぺん》怪《かい》記《き》  坂《ばん》東《どう》眞《ま》砂《さ》子《こ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年1月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Masako BANDO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『身辺怪記』平成11年4月25日初版刊行