アメリカの食卓 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年十月二十五日刊  (C) Chieko Honma 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次    肉は神から、コックは悪魔から      アメリカ料理の伝統は    アングロ・アメリカンの家庭に育てば      ファニー・ファーマーと家庭科の授業    ローストビーフ礼賛      石垣栄太郎さんの思い出    コーンドビーフとアメリカの肉屋さん      アメリカ版おふくろの味    豚によるアメリカの建設      ヴァジニア・ハムが出てくれば    亀のスープはアメリカの味      ミシシッピー河に浮ぶ外輪船では    ラフカディオ・ハーンの料理書      ニューオーリンズの不思議な文化    フランス料理教室と「ビー・アンビシャス」      リタラリーな料理人たち    回想のナポレオン      ジュリア・チャイルドの出てくるまで    幸せだった日のハンバーガー      カンザスシティに行かずとも    オーソドックス・ユダヤの不思議な流儀      モーゼの授けたエキゾティシズム    裸足のグリニッチ・ヴィレッジ      縫いぐるみへの郷愁    エンチラダと夏の宵      M・F・K・フィッシャー夫人との出会い    聖ジェンナロさまの日の屋台      私のルネッサンス    チャイナタウンは胸突八丁坂の上      キング・ルイの物語    蓴菜と愛の妙薬      日本料理の可能性    アメリカの珍味      ワイルド・ライスとソフト・シェル    七面鳥のアナトミイ      「家庭の幸福」はいま    午前二時のオールド・ファッションド      アメリカの酒    幻 の 饗 宴      そしていつの日か    あ と が き      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    アメリカの食卓

 肉は神から、コックは悪魔から    アメリカ料理の伝統は  いつの頃からか、私はアメリカの台所の内と外について書かねばならぬ日が来る、と思うようになった。事実、食物、料理、台所、家庭について書こうとかなり思いつめて暮らした何年かがあった。ところがいざ書き出してみると、食物はすぐさま料理されることを潔しとせず、料理は台所と食卓に止まらず、台所は家庭内に収まらず、家族は現在、過去、未来、勝手気儘に歩きだして、とどまるところを知らない。一人の主婦として原稿にたち向っていた私はあわてた。わが身のステイタスをさまざまに変えてみることで、それらが散りぢりになってしまうのを幾分なりともくいとめようと試みてはみたが、もとより多様なアメリカをひとまとめにするだけの手腕もなければ、相手をふり返らせる自信も持ちあわせなかった。これまでのわが身の不勉強は悔いてすむことではなかったのである。  ある時、私は死者を加勢と頼んでいる自分にふと気がついた。幼かった日々の食卓や、日本全体が貧しかった頃の暮らしを思い出すと、不思議なことにそれがいつの間にかアメリカでの生活にすりかわって行くのだった。逃げていった素材がひょんな物陰に潜んでこちらを向いているような白昼夢を見るようになった。ある年月の間、全く想い出すことすらなかった過去のさまざまな情景が逆光の中に透けて見えだしたかのように、私の視線はそれらを追いはじめた。  過去の情景はさらに、私の手元からいったんは逃げ出した筈の食物や料理や家庭が、一見したところそれらとは何の連なりもないように見えるものごとと、実はすべて繋っていたのを証拠だてるネガででもあるように、ある確かな具体性をもって私をそそのかすのである。私は死者に説得されて再び振り出しにたち戻ってきた。  一九七五年の夏、私の家族はアメリカ東部の、ニューヨークから車で一時間ほど隔った大学町に暮らしていて、目の廻るような忙しさに追われていた。私の夫はアメリカ史の学徒であり、一年前からイェール大学で研究生活を送っていた。学者が研究生活を送るのはあたりまえであり、そのためにあちこちの大学や研究機関を動きまわるのは仕方のないことであるのかも知れない。しかしその期間が外国留学の場合、原則として一年であることに家族のものは振りまわされる。一年という期間は、旅行者としては長過ぎ、生活者としては渡りものの経験しか得られない。乏しい家計をやりくりして家を畳み、新しい家を開き、その家をまた畳んでまた元の家を開く。何年おきかにこうしたあわただしい生活を繰り返してきた私の家族は、大げさかも知れないが、人生をいつも乗りものに乗って暮らしてきたように落ちつかない。  小学校の学年はアメリカでは九月から始まって六月に終る。大学のカレンダーも同様で、社会の動きを眺めてみるとアメリカの一年は九月の労働記念日の休日が終るとともに開幕となる。したがって一年の終りは夏であり、夏は別れの季節でもある。大学町ほど出入りの激しいところはないから、この町では六月と共に多くの家族の移動が始まっていた。大人の世界が多忙を極めれば子供たちの世界もそれに従ってめまぐるしく動きまわった。私には当時高校生と小学生と幼稚園児の子供があり、彼らもまた、遠方へ越して行く子供の送別会、延期していた誕生日のパーティ、ピアノの発表会、クラブのピクニック、というように社交生活のカレンダーを約束の書き込みで色とりどりに染めていた。  そのような生活の中で私たちもまた、一年の滞在を終えて日本へ帰るために荷物を作り、家を明け渡す用意をし、夜は子供たちと入れ替りに、一年間のつき合いのしめくくりのパーティに招かれたり、招いたりのあわただしい時を過していた。アメリカ人の友だちは、いわゆるホスピタリティ(客をもてなす好意)に溢れ、私たちが一年滞在してなお近隣の名所旧跡(アメリカとしては)や評判のよいレストランなどでまだ訪ねていないところがあると、それらの案内を申し出る誘惑的な提案が次つぎになされて、まだ何日かは空いていると高を括っていた出発前のブランクが、あっという間にふさがってしまう。  ばらばらに行動する五人の家族の総監督をつとめるのは容易なことではない。日本のように公共の交通機関の発達したところなら、母親は子供が一人でそれらを利用できる年齢になりさえすれば号令係りですむことかも知れない。しかしアメリカでは、足の不便さが最大の混乱を招きよせる。郊外もしくは地方に住んで車を持たないのでは、独立した個人の資格がないし、車を持っても家族が多い家に一台であれば、車を運転するものは家族の足の役割をまず果さねばならない。  生活がめまぐるしく動き出して時間に追われると、つい食生活は手抜きとなる。朝はドーナツ、昼は買い求めたハンバーガー、夜はTVディナー(十分間オーヴンで温めればデザートまで楽しめるアメリカ版冷凍幕の内弁当)というように即座に食卓の上に並べられるものがあるだけに、これらを使う誘惑にかられる。子供の味覚は繊細だというが、私にはあまり信じられない。平生母親の私が、手間隙かけて作ったものを「おいしい」とか「立派なおかず」、あるいは「お手ぬき」などとコメントできるような彼らでも、やむなく使わざるを得なかったインスタント食品に感嘆の声を上げたりする。食べたこともないブランド名にさえ精通しているのを、親は思わぬ時に目のあたりにして、彼らに耳学問、目学問を授けたテレビの威力を知る。  私たちは忙しく外出の仕度をするあい間に、きょうだい三人で食卓を囲む彼らになにがしかのサーヴィスをほどこしてやる。ソーダにはレモンを入れてやり、ハンバーガーにはわが家特製のデヴィルズ・レリッシュを添え、デザートのアイスクリームにはリキュール入りのフルーツを加えてやる。そして三人の会話に傾けるともなく耳を傾けると、彼らは当時アメリカで|流行《はや》りだった粉末製ポテトチップを、いかさま(フォーニー)といって軽蔑し、隣家の娘が海苔を「興味ある味ね」と言って何枚も食べたと感激するのである。アメリカの子供たちの多くが、食べ物に関しては頑迷なほど保守的であるのを彼らも知っているからなおのこと、隣家の友、五歳のレイラが海苔を食べ、さらにねだった事実に親しみをおぼえるのである。  そうした折も折、そのレイラが家庭菜園でできたピーマンを|齧《かじ》りながら、ピョンピョン私の家の方へ跳んでくるのが窓から見える。レイラの父親は大学の先生、母親はソーシャル・ワーカーをしていた婦人であり、レイラはわが家の末っ子と同様、幼稚園児である。レイラは子供としては太り気味で、しかも家庭の教養のなせるわざとでも言い表したらよいのだろうか、どのような外国の味をも味わってみようという好奇心もあれば、新しい味でもおいしいと言える味覚の才能を持っていた。だから母親は二重の意味で、カロリーの摂りすぎと、食の好奇心の異常な発展をくい止める意図もあり、スナックには生野菜以外のものを与えない。しかし内心では、彼女が幅広い味覚を持って育ちつつあることは、喜ばしいと思える家族の伝統であると私にうち明けたこともあった。私たちがレイラに日本から送ってきた畳いわしや海苔や羊羹をわが家の子供たちと一緒に毒味させるように与えるのをむしろ奨励していたのである。私はこの人と読書の話をしたり、食べ物を論じあったり、共に魚屋に出向いたり、一緒にパンをこね、クッキーを焼いて親しい一年を過した。  アメリカの夏は夏時間を実施しているせいもあって、日が長い。高い木立の向うに暑い夕陽が沈むと、それから暮れなずむまでの長い時間は、子供たちにとって冒険心をそそのかされるような、魅惑に満ちた一ときとなる。そうした時間に子供たちの多い通りを、ゆっくりと、涼しげに響く鐘を鳴らしながらアイスクリーム・マンがやってくる。  エスキモー・パイ、トーステッド・アーモンド、ポプシクル……一年前まで英語を知らなかった子らの発音は、今ではそばで聞いていても友だちのそれと区別がつかない。一斉に群がる子供たちの注文を受けて、せわしげに狭い車の中で手を動かす白衣のアイスクリーム・マンから、好みの品を受けとるのも素早い。そうかと思うと向い側の家の老人に手招きされ、注文を聞いてきてはお望みの品を買って届ける。つまり使い|奴《やつこ》の役を喜んで果すのがわが娘である。  ある日、ぽたぽたとしたたるポプシクルことアイスキャンディを、大切そうに嘗めながらではあるが、重大事件発生とばかりに娘がとび込んできた。斜め向いの家のジョシュアがアイスクリームを買って食べているけれど、あれはユダヤ教の禁を犯しているのではないか。 「お祓いをしたキチンで、お清めをしたお鍋を使って、お母さんがお料理をしたものしか食べてはいけないんでしょう?」  娘は聞きかじりの知識で、ジョシュアの家のユダヤ教の戒律に従う生活ぶり、とくに食生活に並々ならぬ関心をもっていた。ほとんど従うべき戒律も何もない、無宗教の家に育った彼女には、何千年も昔に定められた法則を守ると聞くこの家族のメンバーの一挙手一投足が気になって、すべてが大きな疑問符に象徴されているらしい。私にしたところで、正しい説明ができないからには、娘の問いに答えるためにも、ぜひモーゼの教えから読まねばならない。結局アイスクリームは、肉類のサンドイッチのデザートとなる学校の昼食の時には食べてはいけないが、単独で食べる場合は許可されていることが解った。  ひとくちにアメリカの友といっても、この一年、私たちは厳密に言うならばさまざまな国と宗教を背景にした、文化の異る家族と接する機会が多かった。子供たちにもそれぞれの違いが分かって、彼らは幼いなりにごく単純な質問を向けてくる。  あの家では大人と同じ食卓につかせてはもらえなかったのに、何故この家では自分たちまでがレストランのように二重の皿のサーヴィスにあずかるのか。珍しい黒豆のスープと白身のお魚の夕食は他家では経験したことのない美味だったが、量が少なくてお代りのなかったのはどうしたことか。それぞれの家の雰囲気は、アメリカの家庭のステレオタイプというものが求めにくい異った個性があるので、私たちは各家庭の背景を説明してやるのに苦労する。その際、話が逸れ、子供たちでさえも知っているような歴史上、物語上の人物に関わりのある家庭や食卓の話になる。するとわが家のたいそう年の違うきょうだいは、高校生も幼稚園児も、一様に面白そうな顔つきになるのを私は知った。  いよいよ町を去るのがあと二、三日に迫った時、当時十八歳の長男が、今回のアメリカ滞在中に、一度もレストランでステーキを食べないというのも残念なことだ、と言いだした。彼は若い仲間同士の情報を私たちに伝える。少し遠いけれどM市まで行くと牧場直送のブラック・アンガス種を食べさせるという話だから行ってみよう。そう言って長男は地図をもち出してきた。  ところがその店は実際には大きな資本が経営しているチェーンであり、店の自慢のひとつが広大な地域にわたる均一サーヴィスであった。いうなればテキサスのテンガロン・ハットの顧客にも、ニューヨークの日本からの観光客にも同じ品質と味わいを提供することができる。つまり当節はやりのセントラル・キチン・システムなのである。私はそもそも巨大なレストラン、大資本のレストランにたいして、まず偏見を抱くたちで、この店に関する記事をある雑誌で読んだ時から、そのセントラル・キチンなるものの工場顔負けのステンレス張りの荒涼とした光景が目の前に浮ぶのであった。すべて半分まで調理してあるものが冷凍され、四方八方にトラックで運ばれ、各々の店で見習いのような料理人が温めては食卓に送り込む。超近代的システムの完成図は、チャップリンの『モダン・タイムス』の向うを張るのではないか。しかし私は彼の申し出をすげなく却下した自分を、少しひねくれていはしまいかと胸の中では自省した。  かつて夫が一九五〇年代の半ばに、ボーイをして働いたケープコッドのレストランでは、サラダのドレッシングは女主人公の秘密の調合であった。当時すでに七十歳をとうに越していた一徹の経営者、ミセス・ハリスは、午前中人気をはらって一室に籠り、鍵をかけてから界隈で名高い特製のハウス・ドレッシングを作った。白髪の老女が調合する誇り高き味は、彼女の死後も後継者にその店の味として伝えられた。そして二十年後この人の死後訪れた東洋の男のセンチメンタル・ジャーニーを胸の内でも味覚の上でも裏切ることがなかった。レストランの経営は小規模にとどめ、個人とその世襲にまかせたいと思うのは、あまりにも現代の経済のしくみを知らぬものの言葉だろうか。  頑固ともいえるほどの私のレストラン選びの執念にいつも悩まされている夫は、日本へ帰る途中立ちよるヨーロッパの都市での混乱を思うと怯えたらしい。旅程が決まると友人、知人を相手に料理文化論にうち興じつつ、情報を得ようとするようになっていた。ことにピューリタンの母国であった英国の事情が知りたい。果して、食べることを無上の楽しみとする多少ひねくれ者の妻と西欧の躾をなされていない我が子を連れて行って満足させられる場所があるだろうか。 「ロンドンは食べものはおいしいし、何といっても英語が通じて気楽だから、すべて楽しめるだろうが、イギリス料理は食べないことだ(Stay away from English kitchen.)」  夫と肝胆相照らすイギリス史の先生が、パイプをくゆらせながら即座に答えた。 「とくにシェファード・パイは絶対に食べるな」、彼の高校生の長男が後をついでわが家の長男に語っているのが聞える。 「それだけじゃない、とにかくイギリス料理のレストランは避けた方が無難ね」、夫人がさらにつけ足すように言った。  この一家はそもそも夫妻ともにアングロ・アメリカンであるのに、イギリス料理にたいしてかくも批判がましい意見を述べるとは、と私たちは苦笑を禁じ得なかった。「神、肉類を恵み給う、されど悪魔、料理人をつかわしむ」という言葉は、むかし船乗りが航海中の食事にうんざりしてもらした言葉だというが、この一家のイギリス滞在に寄せる食べ物の話を聞いていると、私の頭の中にはしきりとこの句が浮んでくるのだった。  私たちは隣家の夫妻ともイギリス料理をめぐる話題をもち出してお喋りを楽しんだが、彼らもまたロンドンでは外国の料理がおいしい、と結論を出した。夫君はイタリア系であり、「魚の好きな人は繊細である」というゴンクールの言葉を裏書きするように、性格も味覚もまことにデリケートな人物であった。私は何回か席を共にした時、この人が日本人の魚の食べ方を論じ、刺身は世界で一番進歩した魚の食べ方であったのではないかという結論を出したのを聞き、彼の語る美味に時として啓示を受けるようになった。  私たちはこうしてロンドンに到着する以前に、イングリッシュ・キチンには立ち寄らぬ決心をしてしまった。今考えると、何と浅はかな判断を下したものかと思う。ささやかな美味礼賛の旅を心がけたがために、かえって一国の文化の重要な部分を自ら確かめることなく素通りしてしまったのは、取り返しのつかぬことだ。  日本に帰ってからも私の頭の中を折にふれて去来したのがアメリカ料理の中におけるアングロ・サクソンの伝統であった。それにアメリカ料理が日本においては不評以前の無視の状態にあることが気になるのだった。私は英国の現状がどうであるのか、執拗なまでに知りたい思いがつのるのだった。  ピューリタンの哲学は、食物は身を養うだけをたてまえとし、楽しむことを邪悪としたという。それがピューリタンは少数派だったとしてもアメリカ料理のひとつの伝統をうちたてたとすれば、「アメリカ料理はまずい」という評の責をまず負うべきはアングロ・サクソン・ピューリタンであろう。では本家のイギリスでは、十七世紀以後、料理はどれほどの進歩を遂げたのだろうか。フランス革命の時代には、王侯、貴族のお抱えであった料理人たちがイギリスに難を逃れた。彼らの影響はイギリス社会でどのように受けとめられたのだろうか。  なるほど、辛辣なユーモアで鳴るG・ミケッシュは、「イギリスに滞在中は食べてはならない。イギリス人は第二次大戦以前でさえ料理の仕方を知らなかったが、その頃のイギリスには、世界でも最上等の材料があったものだ。最低の腕まえのコックでも、その味を台無しにしてしまうことはできなかった。今日では、料理の知識は以前と全く同じだが、生の材料が変ってしまった」と痛烈にイギリス料理をこき下ろしている。しかし「プディングの味は食べてみなければ分からない」のだ。イギリスを訪れてイギリス料理を味わわずに終った私は、ミケッシュに和することも反論することもできない。  私は暇を盗んでは生活文化史の書物や味についてのエッセイを、読むようになった。活字が心の味覚を刺戟すると、思いたったままにそれを作り、かつ食べる。そうした楽しみを無上の喜びとしていた私は、何でも実験してみようと少々ファナティックにさえなった。家族のものも、豚の頭、仔牛の頭を料理するといきまく私をいささかもてあまし気味でもある。  豚や仔牛の頭の話は、夫の苦笑と共に、いつしか友人の間に知れわたった。それだけでなく、私の楽しみにも大それた意味づけがなされて、「アメリカ料理の名誉の回復」はもっぱら私の実技とレトリックにかかっているようなことを身近かにいる友人がけしかける。私自身も、内心は『熊のプーさん』に出てくるような「ももんがあのいなかったところ」にならぬと良いが、と思いつつ、アメリカ料理とは何かを問いただし続けることになってしまった。      玉蜀黍と南瓜    計りもなければ、目盛りのある器具はオーヴン温度計と電気釜だけ。そんな私の台所から、いかなる珍味、美味が登場するのか。料理というものがあながち何グラムの粉とすりきり一杯の塩と何ミリリットルのストックと……というものではないと思って居られる方々には、あるいはわがアメリカ料理のレサピー( Recipe 即ち料理の作り方、私の耳にはレシピーでなくどうしてもレ、サ、ピーと聞えます)も何がしかのヒントになるのではないかと思い、ここに勇を鼓してそのいくつかを書き綴ることにしました。    私の計量はアメリカ流と日本式のチャンポンですが、一カップはアメリカ流に、たしか二二〇〜二三〇ccちかくあります。    アメリカの産物とファースト・コースを併せて考える時、私はまず|玉蜀黍《とうもろこし》と|南瓜《かぼちや》を使いたいと思います。アメリカにはとてつもなく大きな、人の頭よりはハンサムな南瓜が季節になると|堆《うずたか》く積まれて、色とりどりの秋を誇りますが、これをくり抜いて鍋の代りに使い、中に刻み玉葱とミルクとストック、バター、それにおろしたスイス・チーズを満たして天火皿の上におき、オーヴンで焼いては、正真正銘のパンプキン・スープを作ったものでした。一時間半ほど火を入れたら、中の実をこそげとるようにしてスープ皿によそいますと、セージやナツメッグ、ベイリーフの香りが|馥郁《ふくいく》と漂って、子供も大人もゆったりと幸せな気分に浸れるような家庭的な一品となりました(オーヴンの温度は摂氏一七五度ぐらいが適当ですが、日本の南瓜は小さいので、一時間半火を入れてはくずれるほどに焼けてしまうかも知れません)。    日本での事情は大きく変り、私は裏漉し南瓜を使って冷たいクリームスープを作ります。めんどうな時にはアメリカ製のパンプキンパイ用の缶詰を使うととても便利です。チキンストックを念入りに作り(水の中に鶏のガラとスープの素、それに玉葱一個にクローヴを突き刺したもの、ベイリーフ、粒胡椒、パセリ、セロリ、人参を入れて火にかけ、あくや脂を掬いとりながら濃厚なスープをとります)、それを使って裏漉した南瓜をのばし、濃度も味も濃く仕上げておき、さましてからクリームとミルクで仕上げをして好みの味わいにのばします。ナツメッグやセージも少し加えてよく冷やし、最後に刻みパセリを散らします。缶詰を使ったなどとは思えないふくよかな味わいのスープができ上ります。 [#改ページ]

 
アングロ・アメリカンの家庭に育てば    ファニー・ファーマーと家庭科の授業  今日のアメリカには、実に無数といっていいほど料理の本がある。アメリカで初めて料理書なるものが出版されたのは、一七四二年のことだった。当時イギリスの植民地であったヴァジニア州ウィリアムスバーグで、イギリスの料理書『完全なる主婦』の海賊版が出版されたのである。爾来、歳月を経るごとに料理書の数は増え続けてきた。一九七〇年代に入ってからは、もともと人種のるつぼといわれてきたこの国では、あらためて各自の父祖の国の伝統を見なおす気運が盛んになり、ありとあらゆる種類の新しいものの間にはさまって、過去に出版された料理書の復刻版が世に出てくることになった。アメリカ人の料理にたいする態度が、自分のルーツを見究めながら、同時に味の国際化をも果そうとする熱っぽいものに変ってきたことを反映しているようだ。  料理の本は食いしん坊にとってはまことに楽しい読みものである。著者の心意気が行間に滲み出ていることがあり、想像上の味覚はしばしば実際の舌よりもおいしいものとまずいものを選りわけることを知っている。子供の頃に読むともなしにパラパラとめくった料理の本が、何かのきっかけで急に現在読んでいるものを押しのけて記憶の表面に浮び上ってくることもある。すると私は整理もできぬまま、ただ雑然とそうした過去を思い浮べながら新しいものを読み、勝手に自分のささやかな食卓の現在ある姿の背景に想像をめぐらせる。私の頭は|朦朧《もうろう》として、料理は料理でも、どこかで読んだだけの味であったのか、実際に自分が味わった経験があるのか、それとも人が語ってくれた味であったのか現実と非現実の区別がつかなくなってしまう。  私はそうした時、自分の想像上の味を実現するのにいちばん適当なレサピーを探りあてて作ってみることにしている。プロフェッショナルと違って、思っていたものとは似ても似つかぬものができ上ることもあれば、昔味わったその味わいと厳しい料理家の指示が一体となって、玄人何するものぞ、という気分に浸るでき栄えとなることもある。とにかく料理書—想像—リサーチ—実技というプロセスは興奮に満ちた時間を私に与えてくれる。  子供の頃、十歳以上齢の離れた姉の本棚に、緑色の表紙の『西洋料理一般』という、辞書のような、教科書のような本があった。著者である大岡蔦枝は、私の聞きかじりの記憶では、アメリカで家政学を修めた女性であった。『西洋料理一般』は、アングロ・サクソン系を基本とした西洋料理集大成のような、一種の責任感に満ちた本だが、何故か私の思いの中では、冷ややかな感じの料理書だった。  小学校の三、四年だった私は、戦争によって日増しに貧しくなっていく日常の食卓に満たされぬ淋しさから、また父が夕方のおみやげに買ってくるコロンバンやオリンピックや風月のお菓子の箱が途絶えてしまった後の、うたかたを追い求めるような子供心からか、よくこの本のページをめくったものだった。冷ややかな料理書にして、しかも子供の私の想像力をかきたて、幻の饗宴を与えてくれたというのは不思議だが、わけの分からぬ英語名のお菓子の作り方などに、私は強く魅せられてしまうのだった。料理が完成した時の姿と味をひっそり心の中で味わってみる喜びもさることながら、それは、材料さえそろえられるなら、「私にだって何とか作れる」と小学生にも思わせる、簡単な書き方のせいではなかったろうか。  必要最小限のような書き方のせいで、それはかえって周囲から食べる物が消えて行く時代にあって、子供心を華麗な空想にいざなう結果になったのかも知れなかった。私はこの十七、八年のあいだにさまざまな書き方の料理書に触れることになったが、何十年のあいだ全く忘れていた、その小学生時代に恩恵を受けた本を過去から呼びおこすことになったのは、つい二、三年まえであった。思い出してみると、それは急に今日の私と実は目に見えない糸のようなもので繋っていたのではないだろうか、という気がしてくるのだった。  二、三年まえ、アメリカで一八九六年以来料理書のバイブルといわれて版を重ねてきた『ボストン・クッキングスクール・クックブック』の著者、ファニー・ファーマーを糾弾する書物が現れた。ページをめくるうちに、私はなぜか、糾弾されている書物そっくりな書き方の日本語の料理書があるように思えて仕方がなかった。ファーマーを批判するジャーナリスト、ジョン・ヘスによると、アメリカ料理はその生いたちから、家庭の味を主体として、母から娘へ、手塩にかけて伝えられてきたものであった。そこに特色もあり、誇ることのできる素朴なおいしさもあった。ところがそこへファーマーが割り込んできて科学万能主義を持ち込んだ。“学校”という料理を教えるにはまことにふさわしくないところで、母親の愛情に満ちた味加減は、ティースプーン(小さじ)一杯の塩、テーブルスプーン(大さじ)一杯の砂糖という、たった一行のそっけない記述に置きかえられてしまった。すぐれて家庭的であるものを学校の実験室に持ち込んで以来、アメリカ料理は衰退の一途をたどることになった、と批判者は多分に感情的である。  ファーマーの料理書は本当にぶっきらぼうだ。余計なことは一言たりとも書いていないし、各章のはじめにはいかにも科学的な“総論”がある。教科書として出たこの本は、日本の女子大学で使われていた例の『西洋料理一般』と何とよく似ていることだろう。私は死せるファーマーがやっつけられているのを眺めているうちに、『西洋料理一般』だけでなく、当時の女学校、戦後の中学校で教えられていたやや退屈な家庭科の授業を思い出すようになった。ファーマーも、『西洋料理一般』の大岡蔦枝も、日本の家庭科の教育も、私たちの興味を心底からそそることのないのは、アングロ・サクソン流のクールな物の扱いかたに源を発しているせいではないか。ジョン・ヘスの著書の語調に圧倒されてしまった私は、そんな気がしてきた。  ファーマーの『ボストン・クッキングスクール・クックブック』は、初版の出た一八九六年頃のアメリカでは、料理書の書き方として最尖端を行くものであった。科学万能主義を持ち込んだのも、この人が時代というものに敏感であり、一種の使命感があって、従来の目分量的な計量を改めるためになされたことなのだと思う。それだけでも世に受ける要素は十分だった。  当時のアメリカはヨーロッパからの移民の数が大量に増えつつあった時期でもあった。移民たちは、一方では自分の属していた生活文化圏にたいして、たち切れぬ郷愁をこめてそれぞれの国の料理を作ったが、それと同時に自らをアメリカ化することに懸命であったに違いない。故郷の料理は次第に祝日のテーブルを賑わす特別なご馳走となり、日常の食事にはアメリカの料理がとって代ったのであった。当時のアメリカ料理の主流をなすものがアングロ・アメリカンであったことは言うまでもない。滔々たるアメリカ化の時代に、あらゆる階層にむけて権威ある新しいアメリカ家政文化の範を示すことが必要となり、具体的な形をとって世に出て来たものが、ファーマーの著書であった。  ファーマーはまず従来使われていた曖昧な表現を一切取り除いた。少々とか、ひとつかみのという言葉が消え、ティースプーン八分の一杯まで分量が明記された。形容詞はできるかぎり削られて、字の読めぬコックであろうが、料理を作ったことのない子供であろうが、書いてある、あるいは読んでもらった言葉通りに作りさえすれば、たやすく料理はできるのだという自信を与える書き方が考え出された。ファーマーは最初、この本を三千部自費で出版したというから、彼女自身も世間も、はじめからこの書き方がアメリカの料理書のスタンダードになるとは思っていなかったのだろう。だが、一八九六年の初版から、今日までもこの本は版を重ね、一九七六年には初版の復刻版さえ世に出ている。ファーマー自身は一九一五年、五十八歳でこの世を去ったが、アメリカの料理書のパターンは、最近の流行の饒舌な本と、わずかの反ファーマーを意識したものを除いては、すべて彼女のうちたてたカップ、スプーン計量とまことにぶっきらぼうなスタイルに従うことになった。  料理の本というものは、技術指導だけに徹しきった場合でも、その著者の感情や性格は読む方の側がそれらを探そうとするならばおのずから伝わってくるものである。ところが、ファーマーの場合は、彼女が責任感の強い女性であることのほかは推察できることがない。教科書特有の冷たい書き方には、この人が料理の道に天賦の才があればこそ、料理学校の先生になり、そしてこの本を啓蒙的な意味で書いた、という経路がなぜか感じられない。私は自分なりの解釈で、料理人は多かれ少なかれみな熱血の人だと思っているから、ファーマー自身がすぐれた料理人であったことを読んだ時は、意外な気がしたものだった。学校の授業のために書かれた本であったとしても、もっと彼女自身がコミットした面があっていいはずだと思うのだった。そのことだけでも前記の評論家の言うことも理不尽なことではないように思った。  ジョン・ヘスによるファニー・ファーマー批判を読んでから一年ほどした頃、私はある日幼いわが子が夕食の一皿に感激して、うるさいほど“これはおいしいぞ”というような言葉を繰り返した時、それまでばらばらに読んだり考えたり体験したりしていたことが、おぼろげにひとつの輪に連なって見え出したのである。 「『目の前に置かれたものは何でも感謝して召しあがれ。神さまのお作りになったものを頂いて、謙遜な気持で食べるのです。罪深い喜びなんぞ味わったりせずに』、そして何百万というかわいそうなアングロ・サクソンの子供たちは、食べ物というものはただ消費されるべきものであり、コメントをしたり賛美の声や感嘆のつぶやきをあげたりする対象ではないことを、食卓のマナーと共にたたきこまれた」  この一節は、現代の食の哲学者といわれるM・F・K・フィッシャー夫人の子供の頃の追想であるが、これを思い出した私は、「罪深い感覚的喜び」に歓喜の声すら上げているわが子を見ながら、アングロ・アメリカンの家庭に思いの糸をたぐることになった。  ファーマーは一八五七年、フィッシャー夫人よりは五十年昔に、ピューリタンの伝統の地ボストンで生れている。当時のアングロ・アメリカンの家庭の躾が、フィッシャー夫人の受けたものよりゆるやかなものであったはずはない。しかもファーマーは、自分の育った伝統がアメリカの家政文化の規範とされた時代に、自らもそれらに忠実な、伝道者の如き意志の人であった。であるとすれば、自身がどれほど料理を愛そうとも、感覚的センテンスを一行たりとも書かないのは当然のことであったろう。味わいの喜びなどに触れないことこそ彼女の目ざす料理書の書き方であったに違いない。  こうした話を中心にして逸話を集めようとすると、アングロ・サクソンの家庭の子供たちとその食卓については、自分が実際に見聞きした例も考えあわせて、最近までは私は原則のようなものは変っていないのではないかと思う。もちろんファーマーの時代、フィッシャー夫人の時代、第一次大戦後、第二次大戦後、とアメリカの家庭における子供の躾は、人種を越えた結婚やその他さまざまな社会の変化によって、何を規範とするかは、輪郭としては大きく変ってきた。文字通り多様化され、個人の信条の違いが現れてきてはいる。しかし子供はあくまでも素朴に、質素に育てようとする考え方は、こと食生活の上で古き時代へのノスタルジアのように人びとの心のうちに残っている。  十八世紀末のイギリスで、ウォルター・スコットの父親は、わが子が、「何とおいしいスープ! そうですねお父様、ほんとうにおいしい!」と言ったことが気に入らず、即座にほんとうはあまりおいしくもなかったスープの中にコップ一杯の水を注ぎ込んだ。そして子供においしいと思わせた当の「悪魔を溺れさせた」といわれる。現代のアメリカでは、実際に悪魔を溺れさせる親はもう見当たらないかも知れない。しかし悪魔の出現は未然に防ぐべし、と無意識のうちに心得ている人たちは、まだいくらもいそうな気がする。  かつてウィスコンシン州の小さな町に住んでいた頃——一九六八年のことだった——わが家の長男は太っている故にかオリエンタルであるためか、人目につく存在であったらしい。親しい友人や隣人たちから、私はこの子のことについて、よく注意を受けた。 「前菜に山のようなサラダを食べさせるのよ。お昼ごはんに温かい料理なんて作ってやる母親の方がまちがっているわよ」 「いいじゃないの、この人は乳を飲ませる赤ん坊がいて、自分だって食べたいのよ。それよりもあの子に別な楽しみ、スポーツの楽しみを教えるのがいい」 「とにかく、あまりおいしいものを作っちゃあだめよ」  友だちの会話は、太った子を細くするために、食生活の改善を勧めるものだった。ある日、私は近所の主婦から、真剣な説得を受けることになった。その人は長身で美しく、東部の生れであると語るその物腰にも、気品が滲み出ているような女性だったが、自らのことはおせっかいであると|遜《へりくだ》った。わが家の太っちょは“きれいなおばさん”と呼んで敬っていたのである。 「おたくは教育のあるご両親なのに、あの坊やをあんなに太らせておくのはいったいどうしたことなの?」  私は、彼がすばらしい食欲をもって生れた上に、食いしん坊の家系からみると、すでに三代目であることを伝えた。 「子供をあんなに太らせておくのはいけないわ。ことに親が知識人の場合はね。子供に知的な喜びとスポーツ愛好の精神を与える教育をすることを怠った、ということになるわ。飽食の子は物を考えないし、あのままの体格で大きくなっても職業の選択がきかない、つまり一流の企業に採用される可能性がなくなる。もしあなた方さえその気になられたら、一カ月ばかり私の家で預って細めにしてあげましょうか。身を養うに正しい食べ物だけを与えて、おいしいと思うものはあまりやらないのよ」  私はこの美しい隣人に感謝はしたが、アメリカの田舎でおいしいものを食べる喜びを子供から奪ってしまうこともかわいそうだと思い、痩身にしたてることは家族で努力してみるから、と親切な申し出を辞退した。その人に読むことを奨められた『 Right People 』という本の中には、かつてアメリカの上流階級では、子供をガリガリに痩せさせておくことが常識であった、と書いてあった。  太った子は年頃になると自分のスタイルにコンプレックスを持つようになる。コンプレックスを持つと良い関係の友情が育ちにくいかも知れない。子供は淋しい。淋しさを紛らわすためについ食べる。そうすれば太る、という悪循環を繰り返し、子供の人格形成の上に良い影響を及ぼさないかも知れないと、アメリカ人は考えている。  十五年前のわが家の太っちょは、幸いにしてその後の成長期に、背丈にとられて並みの体格になった。しかし改めて考えてみると、子供の育て方も料理も、また料理書も、すべて根はひとつ、文化の根底をなすものの上に現れた一端であり、料理というものをさまざまな角度から眺めてみることは、考えてもいなかったようなはるかな広がりを知ることになる。  日本の家庭に入り込んだ西洋料理を、こうした意味で眺めたり、現在私たちが食べている食卓の文化を広く深く考えてみる楽しみを子供たちにもしみじみと知ってもらいたいと思うから、私は子供に手をかけてもおいしいものを与え、大きな声でおいしいと言わせてやりたい。      ホット・ビスケットの作り方    ファニー・ファーマーをはじめとして、アメリカの料理書の中にはあっても他の国の本に含まれていないのが、ホット・ビスケットの作り方です。アメリカ料理の夕べを催す時には、スペースのない台所を嘆きつつも、潔く粉だらけになって私はビスケットを焼かずにはいられません。とんとん叩いて作るビートン・ビスケット、クリームを使うクリーム・ビスケット、昔、家庭でバターを作った時代にどうしても手元に残るバターミルクと重曹を使った名残りのバターミルク・ビスケットなど、レサピーは数知れずあります。私は何年か前にホルトハウス房子さんから教えていただいたショートケークのレサピーで作るクリーム・ビスケットが一番味わい濃く、アメリカらしいおいしさがあるように思いました。    現在のアメリカには、冷凍のビスケットがそろい、これをもどしてオーヴンで焼けば、手をかけずにホームメードの味わいにありつけるのですが、気分のよい日曜日の朝など、粉を|篩《ふる》ってバターを混ぜ、クリームでまとめて麺棒でのしながら家族にサービスするのも楽しいものです。一時間とはかからないのですから。ほかほかのビスケットを白いナプキンに包んで籠に入れ、スモークハムを焼いた一皿と一緒に食卓に出せば、コーヒーのアロマと共に朝の香りは渾然として、ありし日のヴァジニアのプランテーションの典雅な朝食が偲ばれるようです。    ホルトハウス房子さんのショートケーク・ビスケットは、次のように作ります。薄力粉二カップ、強力なベーキング・パウダー、ティースプーン二杯、塩少々、砂糖テーブルスプーン一杯をよく篩っておきます。大きな重いボールにバターを半カップ(これは四分の一ポンド=テーブルスプーン八杯)入れ、ペーストリーのカッター(パイ・ブレンダー)またはフォークで先ほどの粉と混ぜて米粒のようにパラパラにします。それに生クリーム一カップを加えてまとめ、粉をひいた台で手早くのばして一センチの厚さにします。これを粉をまぶした丸い型で抜くのですが、直径は五センチ(他のビスケットはもっと小さいのですが)ぐらいが適当かと思います。摂氏二三五度のオーヴンで一二分ほど焼きます。混ぜすぎず、こねすぎず早く作ることが肝心です。中にパセリのみじん切りなど入れることも楽しい変化かもしれません。 [#改ページ]

 
ローストビーフ礼賛    石垣栄太郎さんの思い出  およそ世の中のメインディッシュとなる料理で、ローストビーフにかなうものはあるまい。味には絶対というものがないのだからそうは思わないという人でも、ローストビーフはいかなる前菜、いかなるデザートとも角突きあわせることがないから、何物にも優る、という説には同意してくれるだろう。そうしたものは未だ他にもあるのかも知れないが、おいしく焼けたローストビーフなら、ヒンズー教徒を除いて、いかなる人をもてなす食卓にもふさわしいのではないだろうか。  良質のステーキは消化が良いはずだが、ステーキは胸にもたれるという人がたまにある。私の友人にもそういう人がいた。だが彼が私のまだ一歳にもならぬ娘に、「ベビーフッドなどをやって育てていたのでは、味の区別のできぬ人間になってしまう」と呟きながら用意したものは、一切れのローストビーフだった。彼はそのレアの一片をミキサーにかけ、ハイチェアに坐ってテーブルをパチパチと叩いていた赤ん坊の前の皿にのせた。娘は手づかみでピシャピシャと食べて、至極ご満悦の様子で、顔をクシャクシャにしては笑うのだった。  日本を良く知っているこの人が、中西部からの長旅の果てに辿りついた私たちを、ニューヨークで迎えるために用意したテーブルには、赤ん坊の娘が堪能したのと同じローストビーフが出てきた。彼はそれに醤油をベースにした東洋風たれを作らせ、レモンや西洋わさび、からし、のびるの刻んだもの等を添え、 「さあ、日本料理めいたものをおあがり」、とすすめるのだった。  ヨーロッパの古い言い伝えによると、悲しみや孤独にうちひしがれた人を慰め、気弱な恋人に勇気を与え、お産の後の女に精気をとりもどさせる力があるとされてきたのは鳩のローストだった。標高千五百メートル以上のところでは、人間は物の解釈の仕方が楽天的になると言われるが、鳩のローストにもそうした人間の心に作用する捉えようのないスピリットが宿っていたのかも知れない。鳩はかつて地上最多数の鳥であったというから、前世紀の終り頃まで、人びとは手あたり次第に料理をしてきたのかも知れない。しかし今はその肉もそうやすやすと手に入るものではなくなった。  身のまわりのごくありふれたものの中から、鳩に代る一品となるものを探そうとすれば、私のささやかな知識からは、どうしてもローストビーフになってしまう。温かい家庭のぬくもりの中で、単純にして緻密な、素朴にして豪奢な味のもてなしを心やさしい人びとから受けるなら、酬われぬ身でさえも、しばし浮世の風を忘れられよう。  フランス料理の逸品が美食術学上の技術と味の感覚美の至高をきわめて、食べる者をして至福の夢を見せるのにひきかえ、ローストビーフの与える幸せはおだやかで控えめだ。味わった後に余白を残してくれる。味覚未発達などと自らを表現するアングロ・サクソンだからこそ、このような単純な料理があり得たことを思うと、世の中のものごとは、そう簡単には定義づけられない面を語っているようで、それから先のとりとめのない連想は、広がって行くばかりだ。  私は料理を思う時の、この余白に満ちた、連想というよりは空想、それにあれからこれへの見えない糸をたぐっては出会う、思いがけない副産物のような話が大好きだ。そして事実、素人が心を籠めて作った料理の傑作には、その人のわざの深さだけ、さまざまな思いが籠められていることが多い。  しかしローストビーフを、料理のうちには入らない、肉を選ぶだけでオーブンに放りこめば良いのであって、冴えた腕も泣けてくると言う人がいれば、身も蓋もなくなる。それでも私は強弁を試みて、そうしたロマンの成り立ちにくい簡単な料理だからこそ、作る方も食べる方も想像上の味覚までシャープに働くのだとして一戦を交えたくなる。  アングロ・サクソン系の料理の味気なさを語る人は昔から多い。昭和のはじめコルドン・ブルーに留学した東佐譽子さんは、「英語国の料理は、夢もなければ詩もない、英語国に一カ月滞在すると魂は沙漠の如く乾からびて、泣き出す」と書いている。人は一番はじめに訪れた外国を愛することになる、というが、フランスに滞在して、フランス文明愛好家にならざるを得なかった人の代表のような感想だと思う。ロンドンに滞在した人が、連日のボイルドビーフやローストに辟易した言葉も、私の子供の頃すでに古めかしかった『倫敦の宿』という本で、たしか読んだことがあった。そして私も、これらの意見や感想は無理からぬことだと思う。アメリカのレストランで、「もう少し何とかして欲しい」と思うアングロ・アメリカン系の料理に出会ったことは何度もあった。しかし、そうかと言って、「アングロ・アメリカンはエキサイティングな料理ではない」という説に賛成するわけにもいかない。それはその系統の代表とも言えるローストビーフが目の前に浮んで来るからだ。  私は食べ手としても、料理人としても、ローストビーフのみならず、ローストした肉類をこよなく愛して来たようだ。そう考えると、薄氷の張る寒い日に、ロングアイランドで食べた鴨や、緑したたるヴァモントの別荘で、初夏の夕ぐれに食べたラム、味のことは全く論ずる資格がないという友人が、表面がすっかり焼けて良い色のついたローストポークを深紅のキャベツをつけ合わせに出してくれた一皿、コロラド山中の典雅にしてしかも素直な鹿肉の夕食……などの過去のおいしい場面が、今から見ればまことに危っかしい、恥かしい、当時の私の存在を心の画面に映し出しながらよみがえってくる。私は、素材そのもののような味わいも、人の技の精緻をきわめた味覚も、同じように幸せに味わいたいものだという気になって、複雑な思いと味を心の中でそっと噛みしめるのである。  私は終戦までローストビーフを知らずに育った。私の父親は、外国などへ行った経験がないのに、読書家独得の好奇心からか、妙に色々なものを好んだ。子供の頃を思い出してみると、父親は食いしん坊よりはディレッタントであることが先だって、あのようにエピキュールを気どったのではないかと思う時もある。自分の味わったことのない外国の味に酔って、講釈して聞かせることの好きな人であった。そんな人だったから、彼のささやかな範囲で、手に入れられる味があったし、押し入れを改造した酒倉が自慢の種だった。戦争がひどくなるまでは、子供の学校などにはあまり関係なく、気が向けば週日の夜でも妻子を連れ歩いて料理屋に行った。妻にはパンやクッキーを焼かせてみたり、硝石を使ってコーンドビーフを作らせてみたり……つまり外国かぶれの食生活の男だった。手伝いの少女たちにもいちいち小うるさかった。「おまえは何かくやしいと思うことはないのか? ある、それはよし。|山葵《わさび》をおろす時はそのくやしいことを思って、かっかとしながらおろしてくれ」  一風変った家に育った私は、やはり少し常軌を逸脱しているのではないか、と思うほど食べ物に興味を集中できる人間に育ってしまった。過去の思い出の、喜びも悲しみも、食べ物をぬきにしては語れないのである。しかし、不思議なことに、エピキュールを自認していた父親からローストビーフを食べさせられた経験はなかった。  昭和二十五年に、画家の石垣栄太郎と綾子夫人がアメリカから帰国してわが家の近くに居をかまえることになった。綾子夫人は論壇にデビューし、それからは、生活は“選手の交替”で料理は夫、栄太郎が受けもつようになった。当時最も進歩していたはずのアメリカの台所から、ガスもなければもちろんお湯などは出ない戦後の日本の台所へ、生活の文明を逆に歩いた石垣夫妻の苦しい時代であった。この家に入り浸っていた私は、生活というものが夫婦共同の作業であることを知るようになった。妻の仕事、夫の仕事と決めてしまわずに、家計さえもどちらかその時によりよい効率を上げられる方が支える。 「綾子は同じことを書いても、ぼくよりは筆がたつし、それに早い。夫婦だから、どちらが書こうが、時代に対して言いたいことは同じなんだ。しばらくは綾子に働いてもらってぼくが家のことをしようと思っておる」  栄太郎の言葉は何の屈託もなかった。夕方学校の帰りなどに、犬を連れ、ソフトをかぶって買物に歩くこの人の、ゆったりとして動ぜぬ姿をよく見かけたものだった。大きな、実に大らかな人柄だった。  ある日その大きな、大らかな人柄の石垣栄太郎が、私たち親子がそれまで見たことのない、堂々たるリブ・ローストを焼いた。それも石炭ストーブの上にのせた原始的な天火で。 「アメリカ人は料理を食うのではなくて栄養を食う、といつか栄太郎さんは言われたが、これはどちらのカテゴリーなのですかな?」  好奇心のかたまりのような私の父は、はじめて出会った「アメリカの家庭の味」にショックを受けたらしい。書物好きの父の頭の中には、明らかに「アメリカの味」はこれくらい、というあて推量の味の基準があったのである。それがこの日、この家に一歩足を踏み入れたとたんに、にんにくと良質の牛の脂身が共に焼ける時にかもし出す、えも言われぬ芳香に圧倒されて、崩れはじめたのだった。 「これも栄養の方でしょうね。料理というほど手のかかるものじゃない。彼らは日頃ほんとうに簡単な、手のかからぬ物ばかり食べておるが、日曜日に教会へ行った後とか土曜の夜、客を招いた時とかには、少しご馳走めいたものを作るんだな。それが大抵ローストと何かなんだ。ローストはビーフ、チキン、それから、ポークはあまり一般的でないが。ビーフはもっと堅い、安いところはポット・ローストにする。それがめんどうな料理よりは意外においしい。堅い肉の大きな塊りを大きな厚手の鍋に入れて、長時間むし焼きにするだけだが……」  おいしい物を外で食べてくると、微に入り細に入り説明したあげく、食べてはいない相手に味の再現をねだる父であったが、そんな夫をもった私の母も負けてはいなかった。綾子夫人のグリーンサラダの、香りはすれども姿の見えぬにんにくが印象的だったらしい。何とかこの、ピリッとした味と香りだけを移して正体を食べぬ方法を鰹のたたきにも使いたいが、どうするのかしら、と言ってみたり、リブ・ローストのにんにくも姿は見えないけれど、おろしてなするのでしょうか、などと質問を繰り返すのだった。肉の味のしみこんだじゃがいもと人参も、こういうのはどこの料理屋でも食べたことのないおいしい味だ、と母も父の先に出る。「こういうのが西洋の家庭の味、というのでしょうね」  数えてみると三十年の昔にもなるこの日のことは、そのときのディナーのメンバーがもう二人だけしか残されてはいない今日になっても私の脳裡から離れない。思えば私はローストビーフとは、幸せな出会いかたをしたものである。それから——私はアメリカのさまざまな家庭でローストビーフを食べることになったけれども、一度としてその単調な味わいとされる味わいに泣けてくるような経験をしたことはなかった。それぞれが招かれた家庭と、その時の持つ意味を象徴した豊かな味わいをもって、人の世の善意を伝えていた。しかし、石垣栄太郎のそれのように、大らかで豊潤なるものには未だ出会っていないし、私の傑作であれほどのものが出来あがったためしも、残念なことに今までのところないようだ。私の人柄のまだまだ至らぬせいなのだと思う。 「栄太郎さんのローストビーフ」は、わが家の研究の対象になった。高校生だった私が、目と鼻と舌の全神経をひとつの肉塊に向け、集中させて焼きあげると、それは私を裏切らなかった。香ばしく焦げた表面に覆われた内部は、どこを切っても、ジュッと肉汁のにじみ出る桃色の断面が出てくるのだった。自信が増すにつれ、レア好きの私のローストは、桃色から薔薇色に変ってしまった。  時代は移り、昨日の高校生から今日の中年主婦になった私は、栄太郎の命日に、この世にひとり残されて久しい綾子夫人のために、ローストを作る時がある。オーヴンの扉を開閉するごとに、栄太郎の「これも栄養の方でしょうね。料理というほど手のかかるものじゃない」というあの時の言葉が、向うの部屋で聞えるように思う。  なるほど私は、年とともに目も鼻も舌も、神経も使わずにローストを焼くようになった。使うものは、そうした個人の感覚とは全く関係のない、オーヴン温度計と時計だけだ。薔薇色のローストのためには、牛肉一ポンドにつき十八分、摂氏一七五度に熱したオーヴンで焼けばよい。時間と温度を守ったものであれば、こと色あいに関するかぎり、玄人はだしだ。あとは各自の好みで、にんにくでも、粒胡椒でも、どんな芳香植物でもまぶせばよい。また、表面においしい焦げ目をつけたい時には、粉をあっさりとふりかける。これは今ではオールドファッションだというが、オールドファッションはしばしば人間の帰巣本能を満たしてくれる。  つまり、塩と好みのスパイスをなすりつけて焼く。それだけで、それが最高に複雑な過程を経た料理と並べて負けないのだから、これほどうれしいことはない。グレイヴィも難しいことはない。したたり落ちる赤い肉汁に、料理人の個性となるものを加えて細工をするだけだ。ジョン・ラスキンの「料理とは……イギリス的徹底性、フランス的巧みさ、そしてアラビア的もてなしのことである」という、そのイギリス的徹底性こそ、ローストビーフの必要とする要素なのである。  私はいつの間にか吉田健一の著書の中の一節を思い出す。「英国の料理がフランスとくらべて簡単なのは、少なくとも英国の方に良質の材料があったからに違いない。例えば牛肉をただ焼いただけが英国の典型的な料理になっているのは、それ以上のことをしては勿体ない牛が最近までいたからであり……」確かにそれほどの素材があったのなら、料理法も簡単であったわけだと思ってみる。簡単な料理、基本と呼ばれるような料理だからこそ、そこにつけ足す僅かのスパイス、グレイヴィの加減で、個人のパーソナリティが現れることになる。言ってみれば、ローストビーフは素人料理の決定版なのだ。  酒仙とも、日本における最高のエピキュールとも言われた吉田健一の、良い材料に手を加えては勿体ないとする心を読みとって、何故かほっとする私は、何度か父に連れて行かれた料理屋で聞いた、高らかに個性的に声を上げてはうちひくこの人の笑い方を耳の内に聞くのである。      西洋わさびを忘れずに    ローストビーフについては、肉を選ぶとすれば骨付きのリブからフィレミニョンまで目的にあわせてさまざまなチョイスがありますが、私は家族の夕食の時には必ず輸入牛を使います。近頃は糸を使って脂肪をまわりに巻きつけたローストは時代遅れなのですが、輸入牛の時には、すっかり脂肪をとり去ってその代り周りには和牛のあぶら身をまきつけます。家のおかずであれば、部位はランプぐらいで十分ですし、大きめのものを焼いて残りをコールドビーフその他で楽しむ方法は数かずあります。    ライブレッドのサンドイッチの中身などに、クレッソンを添えたローストビーフほど簡単でおいしいものはないかも知れないとも思います。ライブレッドの中に散らばっているキャラウェイ(ひめういきょう)の種子の香りとも、それはよくマッチするようです。冷たいレアのところを薄く切って近頃はやりとなったたたきのようにして楽しむのも一つの方法ですが、この場合は辛子や西洋わさび、浅つき、レモンといった薬味がものを言うようです。    少し気どった食卓には骨付きのリブを使います。どちらにせよローストを焼くのにコツはないと思います。オーヴン温度計と、正確な重さに対する時間を守れば、ラスキンの言うイギリス流の Thoroughness がものを言って失敗ということはまずありません。    肉は一時間室温に置いておき、後、表面ににんにくの切れはしをまんべんなくこすりつけます。輸入牛は表面の脂肪を全部そぎとり、代りに三、四ミリの和牛のあぶら身を一面に載せ、あちこちにポケットをあけてにんにくの小片を入れこみます。リブの方は脂肪に切れ目を入れてこの中に埋めます。    オーヴンを摂氏一七五度に熱してから、天火皿(天板)の上にラックを載せ、その上に肉をおいて、レアなら四五〇グラムにつき一八分から二〇分、ミディアムなら二三分ぐらい焼きますが、骨付きは早く熱が伝わりますので四五〇グラムにつき一五分から一六分焼けば美しいレアのローストができます。それから塩をふり、黒胡椒をまぶし、オーヴンから出して一〇分間おきます。にんにくは全部とり去り、和牛のあぶら身もはずします。    アメリカの料理家、ジェームズ・ビアードによれば現在ではローストを焼くのに低温法、中温法、高温法、西部の焼き方、火に直接かざしてぐるぐるまわしながら焼く、スピット・ロースティングの五つの方法があります。スピットを除いて全部試してみましたが、私には摂氏一六五〜一七五度で焼く中温法がいちばん失敗がありませんし、肉も素直でおいしいようでした。しかし、もうひとつ更に徹底性を求めるならば、オーヴン温度計と共にそろえていただきたいのが肉に直接さし込む、ミート・サモミターです。この肉の中心にさし込んだ温度計が華氏一二五度になれば完全なるレアのローストになります。    グレイヴィはそれぞれの家庭の文化的背景の見せどころかも知れません。私は日本人ですので昔から醤油を使っていました。天火皿の焦げ目をたっぷりのレッドワインでこすり、玉葱のおろし汁を少しと醤油とをたして煮たたせ、その中にローストを切った時にしたたった血を慌てて入れてタバスコなどを二、三滴たらしますが……いつもあまり手あたり次第なので、何と何と、というように書くことができません。ケチャップを小さじ一杯とか、ウースタシャー・ソースを少しとか、コニャックで焦げ目をこすってさっと火をつける時もあります。    くやしいことにお客さまのために少し気どってリブ・ローストを焼いた時よりは、家のおかずの輸入牛の時の方が、こうしたグレイヴィなどは絶品に近い味ができるものなのです。    いずれにせよ、辛子とか西洋わさびをお忘れにならぬよう。 [#改ページ]

 
コーンドビーフとアメリカの肉屋さん    アメリカ版おふくろの味  スーパーマーケットが充実するにつれて、主人不在の肉屋さんが増えているのは淋しいことだと思う。始終人のかわるミート・デパートメントやパケージにつめられた肉ばかり並んでいるマーケットで買った肉からは、人の心をなごませるご馳走は作れないように思うが、時代遅れのひがみだろうか。この間の肉はすばらしかった、と客に声をかけられた時は堂々と胸を張り、昨日のはいったいどうしたのよ、と苦情を言われた時には、「そんな筈はないのだが」と思いながらも、目を伏せて弁明する、影ばかりでない、主人のいる肉屋さんでないと、私は料理をする気になれない。  何年に一度か滞在するアメリカの町で、私がこの一年は食べることに関しては収穫が多かったと思う時は、たいていはそうした肉屋さんと出会った時だった。それはお金のあるなしではなくて、日本よりは更に数の少ない“主人のいる店”を運よく見つけられ、しかも向うとこちらとがお互いに虫が好いたかどうか、ということなのだった。  ひと昔前のニューヨークで、僅かばかりの買物をする私を、店の奥から必ず出てきては入口まで見送る精肉店の主人があった。黒い目の彫りの深い顔だった。英語には重い訛りがあるので、私にはその人がヨーロッパから来た一世であることが分かった。ある時、一緒に暮らしていたアメリカ人の友と連れだって店に立ち寄った私に、その主人はいつものように笑顔を見せながら近づいた。 「どうも有難う、チャーミングなお嬢さんには弱いんですよ。また来て下さい」  私たちを送り出すのに仕事を中断し、店の奥から手を拭いながら出て来てドアを開けるのだった。  アパートのエレベーターの中で友だちが突然に言った。 「どうも気にくわない。おまえさんの時にはいつもあんな風に送り出すの?」 「そう、それだけじゃない、あなたのパーティで少しまとめて買う時は、いつも届けてくれる。自分がもってきてくれると言ってきかないの。私には重いというのよ」 「わたしの時にはそうは言わないんだな、どうもいけない」  私にはこの友が何をいけないと言っているのか分からなかった。 「あのおやじさんの出身地のあたりだと思うけど、昔のヨーロッパでは肉の使いには太った子供を出さなかった、と聞いたわ……」  私はそれを聞いて笑ったものの、何かブラック・ヒューモアの底にある、ある種の真実を説明されたような、複雑な気持になった。気にもとめないでいたが、友だちの方がその日以来私に、あの肉屋さんは止めよう、と言い出した。 「おまえさんは太った子供ではないけれど、それにしてもあのダーク・アイズの光りかたが私には気にくわない」と彼女は繰り返すのだった。  料理といえるようなものはほとんど作らずに過した一年ではあったが、突飛な連想から、私たちが行きつけの店を遠のいてしまったことは、改めて考えてみると残念で仕方がない。魔力をもったような小さな店で、自分のところで加工したソーセージやコーンドビーフなどが並び、半加工のおそうざい等も並んでいて、からに近い財布をもって出かけても、欲しいものが即座に決まる店であった。  それから何年かたって、私は中西部の大学町で、教育者のような肉屋さんに出会った。この町には一軒だけオリエンタルの材料を売る店があり、大学教授の夫人である日本人が経営しているところといわれていた。すきやき肉は、この店に前もってたのんでおけば揃えてくれるという噂もあったが、私たちは酪農地として名高いこの土地の産物を、土地の人のように食べることで、大いに満足するつもりだった。食べ物のことを考えるよりは九月に到着した私たちの関心は、零下三〇度にもなるというこの土地の冬を、車なしで一家がどのように暮らして行くのか、という不安に向けられるのだった。ひとたび住宅地に住めば、アメリカの地方都市では、車を持たぬかぎり人の好意をあてにして、それにおぶさって生きて行かねばならない。  私たちはやがて同年輩の隣人に、全面的に頼るようになった。スーパーマーケットの選択もこの一家にしたがった。そして、それが考えてもいなかった私の幸運に連なった。今では十五年来の友となったこの家の主婦が、毎週買物に行く小さなスーパーマーケットで、肉のことならばどんな質問にも答えてくれる、こちらの注文を何によらず誠意をもって聞いてくれる主人にめぐり逢うことになったからだ。  ウィスコンシン大学の農学部は、日本からも古くから留学生が行って学んだところだった。「青年よ大志を抱け」のクラーク先生の出はマサチューセッツ州立大学であったが、私の身辺でも、明治三十年代の終りに、牧畜酪農の研究でここの大学に留学していたという父の友人があった。そうしたことはみな私の記憶のどこかにあったはずであるのに、私は最初にこのスーパーマーケットに連れて行かれた時、まずチーズのカウンターの広さと品数に仰天してしまった。ニューヨークの生活からは、全く推察し得ないことだった。ひと昔まえの表現で言うなら、行水を使えるような|盥《たらい》ほどもある大きさのものから、オレンジ色の練りきりではないかと見まがうばかり美しい色をしたもの、ソーセージそっくりのもの、少々古い豆腐を思わせるもの、ひとつひとつあげていたのではきりがない。隣人はそんな中から、あちこちはしをつまんでは、私に渡してお毒味をすすめるのだった。  チーズで驚いているうちはまだよかったが、そのつぎには、肉屋のジョンに紹介された。このマーケットの主人でもある彼が、たいそう容姿のよい、クーパーそこのけの男だったので、私は少しどぎまぎしてしまった。そう言えば『誰がために鐘は鳴る』のロバート・ジョーダンもウィスコンシンの出だった、などと、とっぴな連想をしたりした。そのうえ、独り暮らしの時とは違い、家族のために一週間分の肉を注文するのだから、品数も多く、分量もまちまちで、考えるだけでも容易なことではない。肉は部位によってみな呼び名が違う。ランプ、サーロイン、リブ、ラウンド、チャック、ポーターハウスというように、牛肉は特に名称が細部に分かれている。呼び名が違えば、いちいち値段も違う。私は一週間分の献立をさっと考えながら、あわてて番号をひいた。  アメリカの店はセルフサーヴィスでないかぎり、よくはやるところであれば、たいてい番号札をひいて自分の順番を待っている。店に入ると客は先ずさっとその札を一枚とる。何人かの売り子が手のあいたものから番号を大声で「次は〇番の方」と呼びあげて、その客の注文を聞いては品物をそろえる。番号札は中央の目のつきやすいところにかけて、現在何番の客が注文中であるかを分かるように示す。人気のある店になればなるほど、客は長く待たされる。  やがて私の番がきて、ジョンが係りにまわってきた。今週はチキンも良い品ですし、ランプ・ローストはセールです。うちのホームメード・ソーセージも大変人気がありますが……チキンはロースト用? それとも切ったものになさいますか?  私は説明を聞いてから一応一週間分の、欲しい品を全部並べたてた。 「二ポンド以上のフライ用チキン、ポークのロイン一ポンド半、ランプ・ローストを三ポンドと……それからホームメード・ソーセージももらってみるわ。ボイルド・ハムも四分の三ポンド頂戴な……それだけ」  ジョンはまことに誠意ある態度で、私の時によっては言いなおしたりするもどかしい注文を聞き、正確に品物をそろえた。それから自分の店は季節によってこうした品物を扱うようになるのだが、と私に話すのだった。元来、中西部出身のアメリカ人は、大らかで人柄が良いとされるが、ジョンの様子もまた、いかにも中西部人らしくおっとりとしており、商人が客に品物の説明をする時には、こうでありたいと思うような折目の正しさがあった。私はすっかりこの肉屋さんが気に入ってしまった。  ジョンの薦めたホームメード・ソーセージは、いわゆるソーセージの形をしていない、スパイスのきいた豚の挽き肉だった。食べる時に小さくまるめて焼くのである。セージの香りが日曜日の朝の台所を|馥郁《ふくいく》と満たして肉の焼けるおいしそうな匂いにとけあうと、私たちは古き良きアメリカの家庭の味とは、こうしたものだったのか、というような満たされた気分に浸るのだった。ランプ・ローストの方は少し堅かったので、私は次の週に、あれは皮のようだったとは言わないが、と語った。そうした客の言葉のいちいちに、ここの主人は熱心に耳を傾け、責めを負うべきものが自分の店の商品であったかどうか、アメリカ人の男性がよくする、首を心持ち斜め前方にかしげながら、ゆっくり話を聞いて究明しようとするのだった。 「高温法、それとも低温法で焼かれたのでしょうか?」  私はこの人から、ローストビーフにもいろいろの焼き方があるのを教えられた。どういう名称の部位は何の料理に適しているかということも、本で読むよりは肉の切り口を示しながら説明されると明瞭に分かるのだった。感謝祭が近づいた時には、フレッシュの七面鳥をすすめて、自分はトム・ターキー(雄の若鳥)を使うが、とさりげなくつけたすあたり、さすがに客の心をつかまえる術を身につけていた。週末の番号をひく客はたて込み、買物は長いこと待たなければ順番がまわって来なかった。  ウィスコンシンの冬は凜々たる寒さだった。クリスマスの前には「鵞鳥の注文を受けつけます」というカードが出ていたが、彼の口から直接勧められた記憶がない。冬の最中に、私は彼が押しつけるようにしてよこしたご自慢のコーンドビーフを買った。プラスティックの袋にスパイスやアーブの浮き沈みする液体が入って、その中に大きな肉塊が漬け込まれていた。一時間ほど塩ぬきをしてから、たっぷりの水で三、四時間ゆでて下さい、とジョンは言った。  彼の言葉や隣人の説明だけでは心もとなかった私は、その時にファニー・ファーマーを読んだと思う。肉の漬け方についてはこの本に何の記載もないのを発見して、はぐらかされたような気がした。子供の頃——昭和十年代に、父に作ることを命ぜられた母が、大きな瓶を出したり、塩を枡で計ったりしていた姿を思い出して、瞼の裏がじんとした。私はファーマーが書いている通りに、ただ物理的に肉塊をゆで、最後の方でキャベツを放り込んだ。透明度の次第に薄れていくスープの味を見た時には、戦後ついに経済的復興をなし遂げぬまま、年老いて彼岸の人となった父のことを思った。何についても一こと言わずにいられなかった故人の“からし談義”が耳のどこかに響いてきて、ワインで溶くからしなくしては、このコーンドビーフを味わう資格がないような気がするのだった。私はあわてて愛すべき隣人の許に走り、ドライ・マスタードとワインを所望した。  その夜私たちは、またしてもジョンのホームメードの味に感激することになった。おいしいものはただいたずらに有名なブランドや高価な材料の中にあるのではなくて、人びとにおいしい物を食べて欲しいと望んでいる人の熱意と結びついた時、ありふれたものが美味に変るのだと思った。一緒に煮るキャベツなどは、野菜としてはいちばん蔑まれてきたものであるのに、これなくしては成り立たぬ一品であるところが、酪農社会の料理の手本とも言えそうだ。ローストビーフが素材そのものの味わいで勝負するならば、コーンドビーフは、そのままでは食べにくい素材を手塩にかけて、心温まる味わいに育てあげる、いわば気の長い仕込みの、期待に満ちた勝負だった。 “ニューイングランド・ボイルド・ディナー”と名づけられるこのコーンドビーフとキャベツ、じゃがいもの煮つけは、植民地時代から多くの家庭に登場してきた一皿であった。冬を生き抜くために準備されるさまざまなタイプの塩づけ肉の中にあって、最も簡単に煮炊きされたものであろう。ディナーの一皿になった後、あまった肉には重しが置かれ、翌日からはハムのような薄切りにもなる。切りくずはフレーク状になって、味つけに使われる。三脚に鎖をつけてつるした大鍋で料理がなされていた頃から、寒さで震える心身を温めてきた極めつきの冬の味覚であり、アメリカ版おふくろの味であった。  第二十二代目の大統領となったクリーヴランドは、ホワイトハウスの、いわゆるお体裁ばかりの料理にあきあきして、ある日召使いたちのおかずであったコーンドビーフと自分の皿を交換したという。彼は、おふくろの味とは意識しなかったのだろうが、食べ終ってからつくづくと「こんなにうまいものは、ここ何カ月食べたことがなかった」としみじみ語ったそうだ。  ジョンのおかげで私は肉類の塩づけの方法をおぼえ、まるで歴史を逆さに歩くように古めかしい料理に興味をもってしまった。長い冬籠りのあいだに、次から次へと実験を重ねてみた。当時まだ若い世帯であった私たちは、日本へ帰ってしまえば、これだけの大きな肉塊を扱うことはあるまい、と思うのだった。牛肉だけでなく、豚も牛の舌も塩づけにして、愛すべき隣人と分かちあった。この人とはオールド・ファッションドとかホームメードとかのサインが出ている店につとめて立ち寄るようにした。そうした店ですばらしい生ソーセージやチーズに出会ったことが一度ならずあった。本当においしいものを食べると、目をつぶって「アウト・オヴ・ディス・ワールド(この世のものと思えない)」とつぶやく東部の友に、小さな磁器の壺に入ったワイン入りチーズを送ったこともあった。  その年は、ジョン・ル・カレの『寒い国から来たスパイ』がベストセラーになった年だった。十何年を経た今、当時のあらゆる現実と非現実は共に過去の世界の靄の中にかすんでしまっているような気がする。だが、小さな子供たちと連れだって親子で出かけて行った復活祭の日のエッグ・ハントの牧場などを思い出すと、暗い冬の中にいたものが急に春の陽ざしを浴びたように、細かい過去がミステリーの内容を抱きかかえながら甦ってくる。  三年ほどまえ、ウィスコンシン大学の先生がわが家の客となったことがあった。彼は日米文化論をとめどなく喋りつづけて、自分の町にも一軒すばらしく薄いすきやき用の肉を切ってくれるマーケットがある、と打ち明けるのだった。何年か前までは肉の切り代などは請求しなかったのだが、年ごとに日本人の人口も増え、アメリカ人の間にも薄切りの手軽さが認められるようになり、その店では止むなくサーヴィスをやめた。人一人つき切りで切らねばならぬのだから、当然人件費は請求することになる。その人は笑った。 「あの湖のそばの、狭い狭いMというマーケットでしょ?」私の声にははずみがついていた。 「Mのジョンには私が肉の切り方を教えたのよ。私が居た頃はあの町では日本的な料理を作るのはとても大変だったのよ。私は料理の本で霜降りというのは、“ウェル・マーブルド・セクション”だということをつきとめて、それからジョンに、そういう部分を凍る寸前まで冷やしてから、ハムの薄切りよりはもっと薄くスライスするのだと教えてやったの」 「始めは天狗のうちわのようなものを拡げて、よく切れたろう、なんて言っていたけど、私は“とにかく紙のように薄くね”って叫んだみたいね。でも、それがジョンのスキヤキ・ミートの成功のきっかけよ」  私は隣人が喜んで私の語調をまね「ペイパー・シン・ステーキ・サンドイッチ」なるものを作ったことを思い出した。すきやき用と言って薄く肉を切らせて、それをオイルをひいた高温のフライパンでさっと焼き、玉葱の塩もみとトーストしたパンの間にはさんだものだ。私の父の特製からしがないと、味わいは「三分の一減ってしまう」と彼女は言った。  帰国した大学の先生からきた便りには「このあいだのディナーは実に楽しかった。なかでもわが町の“ジョン・ザ・ブッチャー”の話は」、と結ばれていた。      薄味のコーンドビーフ    コーンドという言葉は塩漬けにしたという意味ですが、そもそもは昔の粗塩が玉蜀黍の粒ほどの大きさだったことによるといわれます。コーンドビーフは本来はブリスケットという部分を使って作るのですが、私はこれにもまた輸入牛や牛舌を使います。豚を使ったコーンドポークもなかなかおいしいものです。    しかし、コーンドというからにはこれは保存食なのであり、したがって現在の低塩、薄味の時代にはあまり意味のない料理かも知れません。それで私はあちこちに妥協して、たよりないほどの薄味コーンドビーフを作ります。    牛肉あるいは牛舌一キロにつき五〇グラムほどの塩と小さじ八分の一杯の硝石をすりこみ、さらに赤砂糖大さじ二杯をなすりつけて金串でプツプツとつき差し一晩ねかせます。水一リットルにたいし塩を七〇グラム、硝石小さじ八分の一杯、赤砂糖大さじ三杯を煮たてて溶液を作り、これを冷ましてからワイン二カップ、にんにく、パセリ、セロリ、玉葱の輪切り、ベイリーフ、クローヴ、粒胡椒を入れ、一晩ねかせた肉をよく水洗いしてからペーパータオルなどで水気をとり、漬け込みます。肉が空気に触れないようお皿で蓋をし重しとします。これをきっちりと蓋またはラップをかけて二週間冷蔵庫に保存するのですが二、三回肉をひっくり返し、香味がまんべんなく行きわたるようにします。    ゆでる時には、たっぷりの水の中に肉を入れて煮立ってから火を弱め、約二時間半から三時間ゆでます。塩からい時にはゆでる前に水の中で塩ぬきをしますが、あまり塩気をぬいてしまってもおいしくなくなります。    肉がゆで上る一時間前にキャベツや馬鈴薯、人参を入れ、スープの素などで味の仕上げをしますと、いわゆる古風なる一品、「ニューイングランド・ボイルド・ディナー」ができ上ります。肉は厚めのローストのように切って大きなスープ皿に野菜と一緒によそいます。ワインでといた辛子をお忘れなく。もちろん荒挽きの黒胡椒も。    残りの肉には重しをし、ハムのようにして楽しみます。 [#改ページ]

 
豚によるアメリカの建設    ヴァジニア・ハムが出てくれば  アメリカでは、独立宣言の起草者であり第三代大統領となったジェファソンの時代から、歴史を通じて求められてきた人間像があった。ヨーロッパ文明の模倣者でしかない軽佻浮薄な都会人への批判をこめて、自営農民(インディペンデント・ファーマー)こそがもっとも尊ぶべき、徳高き人格であるとされてきたのである。むかしオフ・オフ・ブロードウェイで見た、十九世紀の芝居に基いたミュージカル、『ファッション』の中で、ベンジャミン・フランクリンの教えの権化のようなインディペンデント・ファーマーが登場した。実に誠意に満ちてニューヨークの乱脈な成金の家庭を教化する場面があり、これがアメリカなのだと思ったことがあった。  私がこれから触れようとするのは、そうした自営農民ではあるが、実は赤貧洗うが如しという一家の、全員が夜明けから夕ぐれまで、身を粉にして働いて、やっとどうにか食べている農民の物語である。  末っ子でたった一人、家に両親とおばさんと暮らす少年は、農繁期になると学校に行くことすらできない。父さんは年老いて体が弱っているのだが、男でなければできぬ仕事が山のようにある。母さんもおばさんも朝から晩まで、こまねずみのように働きづめで、それでも一家の暮らしは|かつかつ《ヽヽヽヽ》だ。だが幸いなことに、小さな土地は一家のものである。この土地を耕して与えられる地の糧と、賄えるだけの家畜を飼って、父さんは立派に生きてきた。  父さんのように何の教育もない、字も読めない人間がこうして誰の世話にもならず、一家を成して生きられるのも、この土地のおかげなんだ。父さんは感謝の気持でいっぱいである。真面目でひたむきな父さんは、いつも小さな息子にそう言ってきかせる。  ある時少年は、隣家の仕事を手伝ったお駄賃に、生れたばかりの子豚を貰ってくる。はじめて自分のものである動物を手にした少年は、子豚を“ピンキー”と名づけて、それはそれはよく世話をした。うれしいことにピンキーは雌だった。ピンキーを育てあげ、たくさん子豚を生んでもらって、父さんに少し楽をさせてあげるんだ。少年の夢はふくらむ。そのためには、ぼくの食べ物なんか半分けずってやってもいい。少年だけでなく、みんなが食事を減らした。ピンキーは、少年にとってかけがえのない存在になった。  手塩にかけて育てあげ、いつくしんで成長させたピンキーは子供の生めない雌豚だった。犬一匹よけいな生きものを飼う余裕のない少年の家では、どれほど少年がピンキーを愛していようとも穀物を食べるだけで繁殖するあてのない動物を抱えて北国の冬を越すことはできない。父さんはそれまで生きてきたすべての智恵をふりしぼり、年ゆかぬわが子にそれを納得させるのだった。年とった父さんの、苦しい労働の姿を見ている少年は、泣きながら素直にうなずいた。 「だけど父さん、ぼくのピンキーを始末する役は、ぼくにさせて。最後までぼくが面倒をみてやらなくちゃ」  父さんはわが子に、男の仕事というものがどういうものであるのか、一家のあるじは何をなさねばならぬのかを、身をもって、手をとって教えた。ピンキーは一声悲しい叫びを上げただけで、自分をいつくしみ、食べ物を分かちながら育ててくれた少年の腕の中で息が絶えた。  少年は立派に悲しみを乗り越えた。このことがあってから、ひときわ成長をとげた少年は、少しずつ父さんの仕事の肩代りができるようになってきた。父さんはそんなわが子を見守りつつ、年ゆかぬわが子があまりにも早く男としての任務を果さねばならなくなることに胸を傷めながら、春のまだ来ぬ寒い日の朝、働きづめだった一生を終る。  農家の少年が自分の愛するものを自らの手にかけ、その悲しみを克服して大人になる話は多い。この話の主人公の場合は、人生の師ともなった父親がアメリカの良心とも言えそうな人であるだけに、象徴的な話である。私から見ると、この話には、二重ならず三重の象徴的アメリカがあるように思えてならない。それは第三の主人公ピンキーが豚であるからだ。  アメリカと豚の関係はそれほどに深い。私たちが西部劇で知るアメリカは、圧倒されんばかりの牛の世界だが、植民地時代から十九世紀を通じて、開拓者や一般の人びとの生活を支えてきたのは、むしろ豚であった。カウボーイならぬ hog boy ホッグボーイと呼ばれる豚追いだってあったのだ。ニューヨーク市では、生ごみの処理役、「スカベンジャー」として豚が活躍した日々もあった。それに、サーカスの象ならぬ、「ミンストレル・ショウ」の人気者として活躍する豚、エンターテイナーもいたのである。それにもかかわらず料理の本の中には、豚のレサピーが意外に少ない。私たちはアメリカではあまり豚の料理をしないのではないかと思ってしまう。  ところが、十九世紀前半は食物史の上からは豚の世紀だった。アメリカの港湾、街、道路、農村の開拓など、国造りの大部分は豚によってなされた、といっても過言ではない。労働にたずさわった人々のたよった蛋白源はほとんど豚だったからである。その場合の豚は、ほとんどが塩を使って加工した保存食のかたちであった。  朝はベーコンで始まる。昼にはハムやポークピクルを食べ、夕食にはソーセージ、あるいは何らかの形のソールトポークを使った料理や、ハムの骨でだしをとった身だくさんのスープ。もとを正せば、どれもこれも、一日中が豚という食事は、前世紀の終りまでめずらしいことではなかった。ことに冬ともなれば野山は凍り、野鳥や獣は影をひそめ、人びとは秋ぐちに用意した保存食にたよるしか食生活の手だてはなかった。保存食はピクルスであり、ジャムであり、鱈の干物であり、かこいの野菜であったが、何といっても財産のように見なされていたのが、重要な蛋白源である豚とその加工肉であった。  豚を屠殺するのは、気温がちょうど冷凍庫の中のようになる晩秋の日だった。頭の先から足、尻尾までほとんど捨てるところがないといわれる、ありとあらゆる部分を、人びとは共同作業で処理した。それぞれの部位が目的に従って、別べつな塩の割合でつけこまれた。ベーコン、ハム、ソールトポーク、ポークピクルが用意され、断ちくずや余分なところはソーセージにされた。脂身からはラードがとられ、骨のまわりの肉、とくにあばら骨は、その当座のご馳走であるスペアリブ料理になった。もちろん脳や内臓も料理されたし、腸はきれいに洗って煮だした後、腸づめ用の袋になった。尻尾は、カリカリに揚げたものがおつまみとして奪いあいの対象だったという。脳を除いた後の頭を煮て、細い肉くずをゼラチン質の煮汁と共に固めたへッドチーズがあることも忘れてはならない。また、あらゆる残りくずの肉は、コーンミールといっしょに煮つめて固められた。旅に出る人びとはそれを更に切り分け、ラードで揚げて携えて行ったという。これがアメリカ版携帯食の原型のようなスクラップルである。  こうした加工品のすべては、屠殺後きわめて短時間のうちに準備された。加工のプロセスが終了したものから順に、家の中でいちばん寒くなる、冷蔵庫のない時代にその役をはたしていた屋根裏部屋に運びこまれた。それらは零下を十何度にも下る長い、厳しいアメリカの冬を通じて、人間の生命の火を燃やす役割を荷いつづけながら、料理としては格式の高くない地位にじっと甘んじて来たのだった。  遠くエジプトや、釈迦が傷んだ豚肉を口にしたのが原因で亡くなったといわれるインドの、遙かなる声を聞くせいか、ヨーロッパでも豚に対してある種の偏見が糸をひいているといわれる。その辺が原因であるのかどうかわからないが、アメリカ料理のレサピーは、その加工肉も合めて数が多いとは言えない。兎を食べればメランコリーに陥り、豚を食べれば品性がいやしくなると囁かれてきたことは、あるいは旧約聖書の記述と無関係ではないのかも知れない。現在でも旧約の戒律を守って生きるオーソドックス・ユダヤの人たちは豚肉を口にしないし、イスラムの掟に従う人びとにとっても豚は禁制である。しかし、それも改めて考えてみれば、旧約以来現代に至るまで、食品衛生が一般に行きわたったのはつい昨日のことであるのだから、兎毒に犯され、豚の寄生虫に犯されるものは後を絶たなかったことが推察される。だからそうした戒律は生活の智恵が作らせたということなのかも知れない。古い料理書から豚のレサピーを探そうとすると、豚が豚として大いばりで食卓に登場せず、身をやつしたものが目につく。 “いのしし風味ポークロースト”とか“仔羊風味豚のロースト”という料理が載っているのは、十九世紀前半にニューヨークで出版された都会派の料理本である。私が気になるのは、そうした豚の身のやつしは、都会のソフィスティケーションを気どったものであるのか、それとも、現実にはあまりにも豚にかたより過ぎていた十八・十九世紀の冬の食卓に、少しでも変化を与えようとする試みなのだろうか、ということである。一八九六年出版のファニー・ファーマーを見ても、「一年を通じてマーケットに出てはいるが、消化の悪い肉であるゆえ、冬季の間だけ、時おり食卓に送るべきものである」と結んである。  私はこうした格式の低い豚に出会うたびに、彼らがアメリカの生活にいかに役立って来たかを思い起こし、たまらなく不憫になるのだった。チャールズ・ラムやシャルル・モンスレだけでなく、アメリカでこそ、「アメリカ史における豚の意義」と題する歴史的論文や、豚のバラードはもちろんのこと、「豚への賛歌」という名詩が生れてもよかったのではないか。  味覚にうったえて豚に|餞《はなむけ》をしてやろうと思うなら、ヴァジニア・ハムを持ち出してくるのが適当だ。ヴァジニア・ハムと言えば、その名は広く知れわたっている。植民地時代からの伝統もあって、アメリカが自慢にしていた味のひとつだ。当時からポトマック河を境として南は豚、北は牛といわれる土壌ではあったが、それにしてもヴァジニアでの豚の繁殖ぶりはすばらしかった。彼らは野山が豊かなことから、木の実、草の実で自由気ままに自らを養うことができた。放し飼いの動物が自由を与えられているだけに幸せであり、幸せな一生を送った動物が狭いところに閉じ込められたみじめなものよりは美味であることは、近頃古き時代へのノスタルジアをこめて語り伝えられる事実である。そうした自由と野性の木の実、草の実、果実に加えて、奴隷を養うために栽培したピーナッツの残滓が、ヴァジニアの豚の肉質を決定的なものにしたのだった。インディアンの肉の加工法であった、ヒコリーの木を燃して|燻《いぶ》すことも、その風味に他に類のない香ばしさをそえた。  一六三九年には、すでにそのおいしさはニューイングランド地方に聞こえ、輸出されるようになったのだという。日本の天皇が一九七五年のご訪米の折に召し上ったといわれているスミスフィールド・ハムの前身である。アメリカ史を通じて第一の食通といわれるジェファソンも、このハムを愛したといわれている。彼は一八〇四年にアメリカ大陸に生息する動・植物の状況を調査させる目的で探検隊を組織したが、四十六人から成る兵士・市民・通訳のメンバーを統率するのに、弱冠二十九歳のメリウェザー・ルイスを任命した。ルイス=クラーク探検隊の隊長ルイスである。この人事がハムによるものという説がある。すなわち、ジェファソンはルイスの母親の作る秘伝のハムの味に魅惑され、それが縁で彼女の息子を要職に据えた。探検から戻ってからも、ルイスを身近なところへおいて、毎年季節の到来ともなれば、その母親からとどけられるハムを楽しんだのだという。  スミスフィールドの町が建設されてからは(一七五二年)、ハムの名声はいよいよ高まり、十九世紀の半ばにはついにヴィクトリア女王の御用達となって毎週六本がスミスフィールドの町から海を渡って、英国の宮殿に向った。女王のシェフ、フランキャテリは、ソワイエと同時代に活躍した名料理人として知られているが、イタリア生れであり、修業をつんだのはフランスであった。味覚、腕前の優秀さもさることながら、ヨーロッパの産物には隅から隅まで精通していたと思われる。パルムやヨークのように名だたるハムの産地がヨーロッパの中にありながら、なおヴァジニアからスミスフィールド・ハムを毎週この男が取り寄せたことは、このハムに独自の優れた味わいがあったことを物語っていると思う。イタリアの生ハムや、滋味については定評のあったイギリスの産物の中にあって、タイプこそちがえ、かすんでしまわぬ、光る個性の持ち主であったからなのだろう。  スミスフィールド・ハムは、ますます名声が高まり、需要は増す一方だった。いつの世にも一流品嗜好があれば、またそれを|騙《かた》る者も出てくる。つぎつぎに現れる類似品や名称詐欺に頭をいためた生産者たちは、ついに一九二六年に声明を出し、“スミスフィールド・ハム”の定義を書きしるすことになった。 「真なるスミスフィールド・ハムはピーナッツ地帯であるヴァジニア州およびノースカロライナ州において、ピーナッツによって飼育された豚の胴体から切りとられたものである。それらはさらに、ヴァジニア州スミスフィールドの町で塩づけにされ、処理された後、燻製加工されたものである」  これが今日のアメリカを歩いて、どこででもそうたやすく出会う品でないことは確かである。私もいつの日かヴァジニアに住んで、納得の行くまでこのハムを自分で調理したいとひそかに思ってはいるが、最近のアメリカの食料事情では、古い昔ながらの美味はまさに消えんとするろうそくの火のようだ。今日の、主婦不在に近いアメリカで、全行程に三十時間もかかるハム料理を、家族のためはおろか、客のもてなしにも作る人があるとは思えない。そうだとすれば、私が楽しんで読んだカントリー・ハムのローストの仕方などという文章は、もはや実際に役だちそうもない反古なのだろうか。  カントリー・ハムについては、昔面白い経験があった。料理が嫌いだと表明するわりにはおいしい物を作ってくれる年長の友があった。私は人参ケーキも豆のサラダも、この人のブッキッシュな知識にたよって習いおぼえた。ある日夕食に招かれて子連れで参上したところ、妙な臭いがまず鼻をついた。いつも開いている台所に通じるドアはぴたりと閉まり、夫婦は明らかに今日の一声でどちらかがこの臭いの弁明をしようとしていた。 「夕食のハムなんだけど、気が付いたかしら。それがとても良い色をしたのがあって、肉屋さんがこれは二年ものだなどと言うので、買ったの。ごしごしアイヴォリー石けんで洗ってから二日間水につけ、いつものようにボイルしたのだけれど、途中からへんな臭いがするじゃないの」  私たちが何も言えずにいると、夫君の方が後をひきついた。 「ハムは保存食だから、本来二年や三年は大丈夫。かつては七年ものが珍重されて、|黴《かび》は生えている、表面は木のようにカチカチになっているで、これで食物かと思うようなものだったんだ。だがこれはいかれているんだろう。臭いがするんだから。だが味はとびきりだよ、メープルシロップにアップルジャックを使ったんだから。それこそ君たちをもてなすにふさわしいアメリカの味だよ……ハハハ」  二人はこう言い終ってからはすましたもので、全然気にしていない。いつものように平然とバーボンを飲み、それにしても臭う、などと言いながら私の子供を相手にふざけている。  私たち二人は恐れおののいた。昭和のはじめの中産階級の衛生観念が頭の中を駆けめぐった。“プトマイン中毒”。蛋白質の中毒は、姿、かたち、正体なく、死に至ることがある。誰よりも食欲のある子供はどうしよう。彼はそのすぐれた食欲で頼もしがられているが、豚で命を落してはそれこそ|とん《ヽヽ》死だ。  しかし私たちは時間がたつうちにバーボンがまわって気が大きくなった。子供には、「あまり食べないように」と日本語で注意はしたものの、一口味わったハムの意外のおいしさと臭いのなさに、何もかも忘れてしまった。  林檎と玉蜀黍で育ったであろうその豚は、アップルジャックとメープルシロップとクローヴの香りととけあって、まことに素直なハーモニーをかもし出していた。塩づけの肉の塩味をやわらげるために、甘い汁で焼きあげ、甘いつけあわせをつける一皿は、はじめ私たち日本人には、何となくなじめぬ味かも知れない。西欧の人びとが、日本料理の砂糖を使って煮る魚に当惑するのと同じなのではないだろうか。私たちはそんなことを考えながらおかわりを楽しんだ。  翌朝、私たちは期せずして、「生きていたわね」と挨拶をかわして、大いに笑った。遠い町のわが家に辿りついた時には、バーボンがすっかり醒めてしまっていることもあり、どうしても昨夜の臭いとプトマイン中毒に話はもどっていくのだった。  長い年月がたってから、私はふとある日、あの日以来ハムを焼く時には、甘い甘いかけ汁をさまざまに工夫して作っている自分に気がついた。      スペアリブ調理法    スペアリブはこれこそ本もののアメリカ料理としてアメリカが誇っているお料理ですが、アメリカの料理家のなかには中国の|腓骨《ひこつ》に敬意を表して「しょせん彼らのやり方にはかなわないが」とつけ加える人もあります。    開拓者たちや昔の農家では、豚を屠殺するのはよくよく秋もおしつまった零下の気温が見舞う頃でした。ハム、塩づけ豚、ベーコンと肉を処理した後、必然的に出てくる肋骨のそのまわりの肉を活かすために工夫された料理なのですから、スペアリブは季節的には本来冬の料理でした。現在は季節が逆になり、外で火をおこして楽しめる五月から十月まで……つまりバーベキューの一品のようになってしまいました。    スペアリブは肉屋さんにたのんで一本一本にして、さらに長いものは二つくらいに切ってもらっておきます。オーヴンの中で三〇分間下焼きをして、それからマリナードの中に浸けこみます。マリナードは次のものを入れて作ります。    チリソース、玉葱のすりおろし、レモンのしぼり汁、林檎のすりおろし、にんにく、生姜、タバスコ、林檎ジュース、蜂蜜、ヴィネガー、黒胡椒、唐辛子、クローヴ、ドライマスタード、黒砂糖、醤油、これにベルモットでも、ノイリーでも、シェリーでも或いは白ぶどう酒でも、好みの酒を入れて少し甘すぎるほどの味に仕たてます。これを一度くらっと煮たてたものがマリナードです。この中に先ほど下焼きをしたスペアリブを漬け込みます。    バーベキューとして炭火でこんがり焼くのが一番おいしい食べ方ですが、オーブンの中でも、またガス火の上でも焼くことはできます。一、二度マリナードをくぐらせて、更に濃厚な味わいをつけては焼き香ばしいところを楽しみます。豚の骨であることをよく気にとめて生焼けのところがないように。 [#改ページ]

 
亀のスープはアメリカの味    ミシシッピー河に浮ぶ外輪船では  何年か前のこと、アメリカの奥地と考えられがちな中西部の田舎で、頭の中の知識に過ぎなかったものが、目の前に具体的な姿を現したことがあった。それは、「河と文明」とでも名付けたらよいような、河と料理文化との関わりあいであった。  それはちょうど、日本の草深い僻地の宿に泊った際に、まったく予期することのなかった洗練された京の味が食膳に現れたような、新鮮な驚きでもあった。別に何が分かったというほどのこともないのに、私はそれ以来、アメリカの料理にたいして理解が深まったような喜びをもった。  日本の川は長くはないし急流が多いから、川が交通の手だてとなって文化がはるか遠隔の地に運ばれて行った例があるにしても、広大なアメリカやカナダの場合とは大分事情が異るのではないだろうか。何年かを経た今日でも、私はその日のことを思い出すと、何か夢でも見ていたのではないかという気がしてくる。  私たちは一日中、行けども行けども玉蜀黍畑とか、見渡すかぎりの大豆畑とかいうところを走っていた。車一台に子供二人、大人五人——私たちの家族五人と石垣綾子さん、女子大生——というすし詰め旅行の最中である。ハイウェイ沿いのレストランでおいしいものを食べようとは思わないという結論にはだいぶ前から達していたのに、全員がきょろきょろしたり、地図や案内書を見たりしながら、食べるところをうるさく物色していた。レストランの味の質を、走る車の窓ごしに、町のたたずまいと名前の響きと広告のしかたなどから嗅ぎわけようという無謀な試みに、全員夢中になっていた。  車の中のメンバーが思い思いの意見を述べたてているうちに、お腹のすいた子供たちは、「ハンバーガーでいいからもう食べさせてよ」とせがむのだった。その日私たちが通っていたところは、セントルイスからイリノイ州を南から斜めにぬけて、インディアナ州テールオートに至る道路であった。当時の私の知識からすれば、おいしい物を期待しようにも、しょせん土地として無理だというあきらめがあったことも否めない。とにかくこの次の出口でハイウェイを下りましょう、ということになった。  そう決めてから程なく、行く手の様子が変り、縁濃い木立が現れて美しい河にかかった高い橋を渡った。土地の名前を憶えていないのは迂闊なことだが、それはもうかなりテールオートに近いところだった。しばらくしてまだ街なみが始まらぬうちにレストランらしい建物を見つけた私たちは、全員ためらわずにそこへ入ることを承諾した。  一歩足を踏み入れて、夫と私は顔を見あわせた。外見はいかにも粗末で何の特色もなかったその店だが、内部は古びた赤い絨毯が敷きつめられ、シャンデリアも時代がかって黄ばみ、往時の格式が偲ばれる。建物は決して古いものではないのに、華やかな昔日の面影を感じさせる何かがあるのだった。  昼もだいぶ過ぎて人影のない店の中を、私たちはホールからダイニング・ルームに行くのに、案内の者に導かれながら、二、三の暗い大きな部屋を通りぬけた。暗い中で棚のグラスが光り、背の低い小さなテーブルの表面があちこちで黒い輝きを見せていたから、それらの部屋はバーであり、ロビーであったのだと思う。夕刻ともなれば一せいに灯がともり、田舎らしく律気に装いをこらした客たちがさんざめく中を、白いジャケットを着てはいるものの、中西部人らしい人のよさそうな給仕たちが銀のお盆にカクテル・グラスをのせて右往左往するさまが、ふと私の目の前に浮んだ。いつものアメリカとは何やら勝手が違うようだ。  たいそう折り目正しい給仕から手渡されたメニューに目を通した私たちは、いっせいに声をあげた。「タートル・スープ、ネイヴィ・ビーン・スープ、トマト・ビスク、それにクラブミート・デューイ、オムレツ・フローレンティン」。当時南部についての知識があまりなかった私は、それまでにあまり見かけぬ料理を並べたメニューを見て、一瞬わが眼を疑った。穀倉地帯の真ん中、いわば田園にあって、ひっそりとつつましく立っている店が古い布表紙のクックブックからぬき出してきたような時代がかった料理を供していることに好奇の心がわいた。蜃気楼でも見ているのではないかという気がして、私は首を左右に振ってみた。  やがて子供の声にうながされて我に返った私は、子供たちにトマト・ビスクとクラブミート・サンドイッチを、自分のためにタートル・スープと何かもう一品を注文しようとして、再びメニューを見つめた。タートル・スープは、もしかしたら料理の本でたびたびお目にかかるモック・タートル・スープ、つまりまがいであったかもしれない。私は大人どもを代表して給仕に質問することになった。 「本当に亀の肉が入っているの?」 「はい、本物のかめの角切り(チャンク)が入っております」 「それではタートル・スープにしましょう」  大人はいっせいにつぶやいた。  子供たちのトマト・ビスクを少々お毒味させてもらった私の十九歳の息子は、「これは大変なところへ来たらしい」と言った。何やら謎めいたからくりがあって、これほどの味わいのものを威張りもせぬ値段で出せるのだろうか、と思ったという。  色としてはいっこうに冴えない暗褐色のタートル・スープが出てきた時、五人の大人は真剣になって自分の前におかれたものを見つめた。ただならぬ芳香が立ち上るその皿の中には、すべてそれとは見究めがたいタートルのチャンク、ハム、セロリ、玉葱、トマトが沈んでいるらしかった。 「クリオール料理(ニューオーリンズの、フランス料理の伝統を主体としてそれにスペイン、アフリカ、カリブ海インディアンの要素が混ざりあった料理)だよ」と夫が言った。  姿かたちはないが、シェリー、にんにく、クローヴ、タイム、タバスコあたりまでは推量できた。それから一体何が入っているのだろうか。私たちは一|匙《さじ》ひとさじ、ゆっくりと、しかも極めて貪欲に味わってみるのだった。  ある日本の本の解説に、クリオール独自のガンボ・ゼルブというスープを「土人のごった煮」と書いてある。複雑さから言えば、これはガンボ・ゼルブを越えた、多様なルーツのエスニック文化を一緒くたに入れこんだメルティング・ポットの中身そのものであった。洗練からは遠いが、しみじみと古き良き日の植民地文明の香りがするような気がした。これがクリオール以外の何ものでもないことはよく分かる。しかし、こんな中西部の片田舎で、どうして何百キロも離れたニューオーリンズが顔を出すのか不思議でたまらなかった。これまで私たちは幾たびか、土地の名前はフランス系であっても、現在の料理文化に何のフランス系痕跡をもとどめぬ中西部の町を見てきただけに、狐につままれたような気持がした。  かしましく料理文化を論じているうちに、午後の旅程がだいぶ苦しくなりそうになった。「日の入りまでにはテールオート市内に入っていなければならない」夫にうながされて私たちはその店を後にした。 「リップ・ヴァン・ウィンクルや浦島太郎ということもあるから、こうした不思議な体験をした後は次の町に来る頃に現実が姿を現すのよ」綾子さんが予言した。おいしいものに出会うと私はとかく精神の高揚を感ずるたちなので、アメリカと亀について一席披露におよぶことになり、書物の中や体験上でのこの爬虫類との出会いを喋り続けた。日本人とすっぽん以上に、かつてはアメリカの食生活の中に入りこんでいた亀を思い出したからだ。  蒼茫とした眺めの向うに、中西部の雄大な太陽が沈みかける頃、私たちは長い橋を渡った。渡りきったところがテールオート市であり、河は堂々たる河幅に満目の水を湛えるウォバッシュ・リヴァーであった。助手席でうつらうつらしていた夫がやおら首を上げ、「やはり河だな」とつぶやいた。すると全身これ耳のような女子学生が、即座に言った。 「ふーん、河と文明ね」  にわかに饒舌になった夫の説明によると、テールオートという町の成りたちは、名の示す通りフランス系のコミュニティを主体としていたという。今、このウォバッシュ河を渡って気がついたことは、この町もまた、幾つかのフランス系のコミュニティを母体として発達したセントルイスとか、ルイヴィル(ケンタッキー州)のように、河がその文明発展に主だった役割を果してきた。河は今も昔もそこにあるだけに、古くは峻烈の陸路をたどって人々が建設した町よりははるかにたやすく、頻繁に新しい文化を河沿いの町に補充していたに違いない。  かつてはフランス領であったルイジアナ州のその河口から人びとはミシシッピー河系に沿って気の遠くなるような長い旅路を続けながらクリオール文化を遠隔の都市にもたらした。そして今、河が重要な交通機関としての生命を終えたずっと後までも、ある種の文化は昔のままのかたちで残されている。私たちは歴史のロマンをかいま見るような思いをした。料理というものが、絵画や美術工芸品のように、何世代も形をとどめて、人の目にふれる確かな存在でないだけに、その思いは私の胸の内に、ある種の切なさを残すことになった。  子供連れの旅はくやしいばかりの制約がつきまとうが、後になって思い出してみるといかにも楽しい。その時の旅は年齢的にも、人数の上からも、大家族の観光旅行といえるものであったから、各々が同時に満足できる食事のとれそうなレストランを探すのもひと仕事だった。新しい街に着くたびに、私たち二人は案内書と首っぴきでその夜家族を連れて行くべきところを詮索した。急がぬ旅であれば、気に入らぬところは引き上げて食べなおしというてもあるが。  私はひとかどの案内書読みになった。名前の響きや宣伝の文章、店の外見と一歩入ってみた雰囲気で、店の味はだいたい分かるのだった。私たちはこの旅でファッショナブルなところは避けた。子供を連れては入り難いだけでなく、商工会議所のメンバーが常連であるようなところは、ありきたりで、しかも値段と満足の度合いは比例しないことが多い。私たちが選んだ店は、そのほとんどが中級で、多くの店が時間外れでなければ、むんむんするような混みぐあいだった。さまざまな人種がいて、言葉も訛りも多様であった。ウェイターやウェイトレスは愛想がよく、料理選びには人のよいアドヴァイスを加えてくれた。子供たちが、「当店の主人からのおまけでございます」というメッセージと共に、デザートをおごられたことが一度ならずあった。私はその都度、太った子のカロリーを心配して「ああ、困ったことをしてくれる」と心の中で歎いた。しかし、よく日本の人たちが言うような、“アメリカ料理のまずさ”を噛みしめたことはほとんどなかった。  返すがえすも残念なのは、当時の私が現在もっているほどの知識を持ちあわせていなかったことだ。ものごとの判断に際しての知識不足からくるささやかなミスは、その土地がもう一生のあいだに恐らくは行くことはあるまいと思われるような遥かな土地である場合、取り返しのつかないものに思えてくる。  私は、河と文明との関連性に気づかずにいたのだった。インディアナ州の田舎で、夕立の夜にもかかわらず、ひしめく客が外にはみ出しているほど人気のあった魚料理の店に入らぬままに終ったことがある。淡水魚を好まぬ私は、こんな海から遠い内陸に、おいしい魚料理があるわけはないとそのとき思ったものだ。セントルイスでは、少女の頃に見た映画の主題歌、“セントルイスで会いましょう”の中で、ルイスのSを発音せず、“ミート・ミイ・イン・セント・ルイ、ルイ”と唱われていたことを忘れて、ドイツ系のレストランに入るべきだと主張したこともある。そもそもセントルイスの成り立ちはフランス系によるんだよ、と夫はこれも後からぽつりとつけ加えた。カンザスシティに“アーサー・ブライアント”という世界で一番おいしいバーベキューを食べさせる店がある。そう称するカルヴィン・トリリンの本を読んだのは、その旅行を終えてしばらくたってからだった。レストランのチェーンは避けた方が良いと知っていて、うっかりペンシルヴァニア・ダッチの気安さにほだされて入り込み全員がいたく失望した。  遅ればせの知識に無念を噛みしめる私の内で、今アメリカの地図は葉脈のように浮び上るミシシッピー河系を照らし出している。流域の長さが世界第三位だと言われるこの河を私たちは幾たび州を違えて横断したことだろう。中西部を流れる河川の多くが最後にはミシシッピーに合流することを思うと、その葉脈はたちまちのうちに延々たるつながりに成長する。  ミシシッピー河とそれを母体とするオハイオ河やウォバッシュ河を往き来した汽船は、時折りアメリカ映画の中に登場する。だからその輝くばかりに白い姿や、両サイドで水しぶきをあげる巨大な外輪は、私たちにも容易に想像できる。だが、かつてプランテーションの主人やその客たち、外国人や商人たち、それに地方廻りの芸人たちを乗せて走ったあの華やかな外輪船が、当時としては一流のコックを乗せていたことを私は知らなかった。  燦然ときらめくシャンデリアの下で、正装の船客たちは黒人の腕ききのコックが作るクリオール・クッキングに舌鼓をうった。メニューには、クリオール・ブイヤベイスがあり、ポンパノのざりがに入りソース添えがあった。また、ミシシッピー河で獲れるなまずのロールがあった。なまずは岸辺で獲らず、河の真ん中でとるべしと、すでに十八世紀の料理の本に書いてあるが、とにかくエレガントな魚料理なのである。もちろん、ひげのある、あのどてっとした正体などはさらさらになく、切身の中にピキャン(北米産胡桃)やケイパー(ほると草の蕾)を詰めものにして巻き、白いワインで蒸し煮したあと、マッシュルームとかきのソースで仕上げた、いわゆるオート・キュイジンヌであった。豚や羊、それに鶏は船で飼われていた。こうしたメニューの中にあって、ひときわ目だってアメリカン・スタイルと認識されていたものが亀のスープだった。亀から味わいの深いスープをとることは、フランス料理に精通するクリオールのコックだけにできる技であるとされていた。だが何よりも亀そのものがアメリカ大陸の珍味なのだった。  十九世紀アメリカの、第一の食通といわれたサム・ウォードの料理法によれば、「小さい胆嚢は海がめの香りをそこないはしないが、砂嚢をとり出すにあたっては練達の外科医のタッチとライオンのような心、鷹の如き眼と貴婦人の手を必要とする」のだという。彼はさらに付け加えて、「人びとはスパイスを用いて味をつけるという。しかし、それは育ちの悪いやからのハンカチから匂う、高価な香水のようなもので、いかがわしいという気を起こしさえする」と結んでいる。  まことに、アメリカ料理は単純ではないのである。      いんちき亀スープ    アメリカの魚屋さんには時どき亀を売っている店があって、すっぽんだけでなく海亀もアメリカンなのだと、そのたびにサム・ウォードの言葉を思い出したものでした。ニューオーリンズのレストランでは、亀のスープがメニューに載っていないところがないほど、土地の名物のひとつになっているのですが、日本でこれを真似ようにもすっぽんだの亀だの言っていたのでは手軽には作れないと思います。それで、私はいつも、「いんちき亀( Mock Turtle )スープ」なるものを亀なしで作って、アメリカの田舎の味を楽しみます。「いんちき亀スープ」というレサピーは、ファニー・ファーマーも堂々と載せている一品ですが、どうも我流の方が気のせいかおいしいようです。    まず昔流に粉をバターでいためてブラウン・ソースのルーを作ります。いわゆる黄金色になったらば、にんにくのみじん切り、玉葱のみじん切り、赤いトマトのコンカッセ、刻んだセロリ、パセリ、それにハムの角切りを加えてさらに気長に|炒《い》りつけます。次に牛のストックを加えてスパイス類を入れるのですが、この時にスープがすんなりとのびるようによくかきまわします。ベイリーフ、クローヴ、ナツメッグ、タイム、黒胡椒、それに唐がらしでもカイエンヌでも、手元にあるものを入れて煮たてます。本当の亀のスープにしたい時には、私はこの辺ですっぽんの身入りスープの缶詰をひと缶入れることもあります。一時間半ほど弱火で煮つめてから、醤油とケチャップを大さじ一杯、それに辛口のシェリーかポルトー、レモンの汁を半個分加えてよくかきまわし、味を正し、更に三〇分ほど煮つめて出来上り。私はよくこれにタバスコを振り入れすぎて、子供にも、その父親にも叱られます。 [#改ページ]

 
ラフカディオ・ハーンの料理書    ニューオーリンズの不思議な文化  それはたった一行の記述から始まった。夫が買い求めたアメリカの料理書をなにげなくめくっていた私は、とあるページでラフカディオ・ハーンの名を見つけてはっとした。部厚いペーパーバックはページをそのまま開いておくことが難しい。私は改めてページをおさえ、坐りなおした。読みはじめて見ると、そのパラグラフはうち捨てておくことのできぬ文章で終っている。 「ありがたいことに、ハーンは一八八五年自らの叡智の語るところを聞き入れ、クリオール料理の基本をまとめた最初の本を出版した」  ハーンと料理の組合わせがあったとて私はべつに驚かない。しかし、ことが料理の本を自ら出版したとなると話は違ってくる。料理の本というものは、ある程度その料理に惚れ込んでいるか、よほど金儲けがしたいかでないかぎり、書くことはもちろん、企画する気にはならぬものだとつねづね私は思っている。ハーンはクリオール料理をそれほど気にいっていたのだろうか。それ以上のことを調べてみようにも手だてのない私は、日本に住んでいることに焦りを感じた。せめてアメリカのどこかに住んでいる年であってくれたらと思うのだった。当時の私は食べることをめぐる人間の喜びや悲しみ、食卓の文化の背景を文学として綴る著書をあてもなく探し求めていた時期でもあった。それで、このハーンが書いたとされる『 La Cuisine Cr クリオールの料理』は、あるいは『文学的料理書』(リタラリー・クックブック)とでも名付けられるような、料理とその料理のもつ背景なり周辺なりを読物風に書いたものではないかという気がして、好奇心は想像の内でつのる一方だった。  何年か前にガートルード・スタインのコンパニオンであったアリス・B・トクラスが、スタインとフランスで暮らした日々の明け暮れを料理にことよせて書いたものを読んで、心から魅せられた記憶があった。トクラスの日記は有名だが、この文学的な料理書も実にさりげない名文で、いわば技術指導にあたる作り方の部分が、読んでいて少しも苦にならない。しかもそうした部分と身辺雑記を綴った部分は渾然として分かち難く、文字通り味のあるエッセイになっている。きらめくような文章でしかも料理書という珍しい組合わせに再び出会う喜びを期待して、私はアメリカの友人に会えば片はしからハーンの料理書を何とか見つけ出して欲しいと頼んだ。異国の民間伝承を好んで、魔力と幻想の世界をあれほど神秘的に伝えるハーンであれば、物語の要素に富む南部ニューオーリンズの風物を、料理の中に織りこまぬわけがないと信じた。それは二重写しの幻想のように心に浮び上り、私の求めている世界そのもののように思えてくるのだった。もどかしさに駆りたてられて、私はこのニュースをもたらしてくれた本を何度も見なおすのだった。  ハーンは日本に来る前の約十年を、当時アメリカの南部国際都市として栄えていたニューオーリンズで過ごした。一八七七年十月、それまで住んでいたオハイオ州シンシナティを離れ、汽車でメンフィスまでやって来た彼は、ここで蒸気船「トンプソン・ディーン」号に乗り換えた。ニューオーリンズに到着したのは十一月十二日のことだった。三十軒も下宿先を見て歩いたこの人が、やっと落ち着いたのは、いわゆるフレンチ・クォーターの中ではなく、賄つきの部屋代も格安で、家主の婦人と美しい二人の娘がやさしい好意をさしのべてくれるところだったという。もともと二十ドルしかなかった彼の|嚢中《のうちゅう》は、下宿代を前払いしてしまうといくらも残らなかった。はじめの何カ月間かはシンシナティを出る時に約束をとりつけた「シンシナティ・コマーシャル」紙から原稿料を払ってもらえず、いよいよ飢えに苦しむほどの身の上にもなったが、やがて紆余曲折を経て「ニューオーリンズ・アイテム」紙に職を得、副編集長として働くようになった。週給はシンシナティの頃とくらべてもなお低く、十ドルだった。住居はだいぶ前にフレンチ・クォーターの中へ移していた。  記者として活躍するようになったハーンは、アイテム紙の経営にも参加し、町の話題に、文芸批評に、翻訳から漫画、さし絵に至るまでこなして、その持てる力を惜しみなく発揮する。  ニューオーリンズというところは、そもそもフランスの植民地として発展した町であった。ここの建設にあたって一七〇〇年代、当時のフランス国王ルイ十五世の命を受けて派遣されたのはウルスラ会の修道女たちであった。彼女らが力を入れたのは、多くのキリスト教のミッションがそうであるように、まず子女の教育であったから、ニューオーリンズの文化の発祥がきわめて家庭的なものであることを指摘する学者もある。  それから約二百年、十九世紀末を迎える頃までには、この町は幾多の歴史的変遷をたどることになった。ミシシッピー河口であり同時に南部の港町であったことから、この町は人種的にも文化的にも、フランス、インディアン、スペイン、アフリカ、イギリスとさまざまな言語、生活、食物の文化が入りくんでいる。しかも一八四〇年代にはドイツから大量の移民が流れ込み、十九世紀後半にイタリア、ユーゴースラヴィアを中心とする東欧からの移民が続いたことは北部アメリカと変りない。したがってハーンのような複雑な背景——ハーンの父はアイルランド系イギリス軍医、母はギリシャの小さな島の娘、ハーン自身が育ったのはフランス、及びイギリスの神学校——をもった孤独で恵まれぬ存在にとっては、南国のせいもあって、まことに暮らしよい気楽な土地であったようだ。食べものも、アングロ・ジャーマンが主流であったシンシナティとは全く趣を異にするものであったはずだが、彼は着いたその日からここの食べ物が気にいっていた。  ささやかながら一応の安定を得た彼は、次にフレンチ・クォーターの中で居心地のよい部屋を求めては何度か居を変え、自炊をして食費を一週間に二ドルに切りつめることを試みた。少しずつ貯えたりかき集めたりした金が百ドルになった時、ハーンはかねてからの念願だった貧しい人たち相手のレストランを開業している。ドライヤードという裏街の、侘しい建物だった。名前すら貧しげな「五セント・レストラン」というその広告は、ハーン自身が書いている。何でも五セントの料理が、「他のニューオーリンズの店と同じように清潔で、整然と、しかも立派に」おいしく食べられるというふれ込みだった。しかし店の名前がどうも気にいらなかったハーンは、一八七九年の三月二日、改めてこの店を「不景気」という名で再開店している。ところが不幸なことに、一カ月もたたぬうち、ハーンはパートナーであった男に金を持ち逃げされ、それと同時にコックも忽然と姿を消してしまった。「アイテム」紙上に載った広告は、まことにハーン独特のスタイルだったのだが。  ピューリタンのアメリカが外食を楽しむことを良しとしなかったということであれば、ニューオーリンズの町では食事に対する考え方そのものからして他のアメリカと違っていた。朝食をレストランで楽しむというスタイルが十九世紀の半ばにはもう庶民の間にまで浸透していたファッションであった。ミシシッピー河沿いのフレンチ・マーケットで働く男たちが、朝の一仕事を終えた十一時頃、マディソン街とデカトゥール街の角にあった伝説的なレストラン、マダム・ベゲの店で食べる朝食は豪勢なものだった。当時は家庭においても、朝食に前菜のつくことが珍しくはなかったが、マダム・ベゲのところの朝食メニューは日替りで、いつも七、八コースのセットになっている。例えば、金曜日のメニューは、カトリックであるこの街の必然として肉がないが、亀のスープ、魚のトマトソースかけ、じゃがいも入りオムレツ、詰めものをした卵、米と海老のジャンバラヤ(戦後日本でも流行したハンク・ウィリアムスの歌の題名でもある)、フルーツとコーヒーとなっている。  さて、外で、しかも朝からこのような多彩なごちそうを楽しんでいた市民ならば、逆説的に言うなら、家庭の食卓があらゆる意味でいかに充実したものであったかは想像に余りある。料理には天賦の才能があるといわれていた黒人、ことにカリブ海出身者はスパイスを混ぜる天才といわれたが、そうしたコックを抱える中産階級以上の家では、アメリカの他の文化的ルーツをもつ都市の家庭もそうであったように、大切な客のもてなしは家庭の中でなされたに違いない。着々と地方文士としての地位を築きつつあったハーンは、バチェラーということもあって、つぎつぎに中流、上流の家庭に招かれるようになっていた。ニューオーリンズの裕福な家庭は、ハーンの頃まではアングロ・アメリカンではなく、クリオール(一八〇三年のルイジアナ購入でニューオーリンズがアメリカ合衆国領となる以前からその地に住んでいた人びとの子孫。富裕な家族も貧しい家庭もあったが、フランス系を主とし、スペイン、カリブ海出身の黒人、またはその混血なども含まれる)であったから、そこで供される料理もまた当然クリオールであった。クリオールの家庭では、主婦自身も階級の上下を問わず料理にかけてはしたたかな腕をもっていた。それは複雑な文化的背景によるということもあるが、この土地があらゆる海の幸、山の幸に恵まれ、淡水魚、塩水魚、農産物にいたるまで豊庫といって差しつかえのないような土地であったせいでもある。主婦たちの自信に満ちたもてなしの腕まえは、自ら料理に手を下さなくとも、おたがいの間の嫉妬と羨望にかきたてられて磨きをかけられ、各家庭はそれぞれに秘伝の味を競い合い、自家製のリキュールにいたるまで独創的なものを誇っていたことが伝えられている。  招かれて客となった家々のエピキュリアンな食卓に魅惑されたハーンは、一八八〇年七月八日の「アイテム」紙に、次の記事を発表した。南北戦争以後、この町の階級が少しずつ変化を示し始め、新しくガーデン・ディストリクトと呼ばれる区域に住むアングロ・アメリカンが、それまで町の上流階級だったクリオールに代って隆盛になりつつあることに危惧を感じたからであるとも言える。  「古き良きクリオールの lore 伝統文化が急速に姿を消しつつあるのではないだろうか。こうした秘伝の多くは、何かしら宗教的な畏敬の念と共に受けつがれてきたものであった。愛情や金や脅迫のいずれをもってしても、伝統の持主からそれらを奪うことはできないものだった。子孫がなければ秘伝は断絶することは目に見えているし、子供があればこういうものはたいてい神秘的な力を発揮して継承されるものだが、彼らの世代がその父母たちの世代の如き成功を手にするとはどうしても思えない。クリオールの料理法と薬草学について可能なかぎり知識を求め、これを収集して出版することをわれわれは重ねて提唱するものである」  ハーンは当時、やはりクリオールの世界を描いて著名になっていた小説家ジョージ・ワシントン・ケーブルと組んで、ニューヨークのアスターホテルの中に古本屋を営む友人のウィリアム・H・コールマンを説得し、クリオールの料理書を出版する約束をとりつけた。おりしもニューオーリンズ市は「綿業百年祭」を迎えようとしている時だった。オリンピック並みに多くの旅行者をあて込んで、ニューオーリンズの味と文化の宣伝につとめるという二兎を追うかの如き企画であった。料理だけではもの足らず、ハーンはここの黒人の間の民間伝承を言葉の説明とともに一冊にまとめた『 Gombo Zh ゴンボ・ゼーブ』と市の歴史とガイドをスケッチ風に描いた観光案内書『 Historical Sketch Book and Guide to New Orleans ヒストリカル・スケッチ・ブック・アンド・ガイド トウー・ニューオーリンズ』もケーブルと共同で書いたのだから、彼のニューオーリンズ・クリオールの世界への肩入れはよくよく深いものであったことが窺われる。結局これらの企画は、一八八四年の「綿業百年祭」までには印刷が間にあわず、一八八五年になって出版されはしたものの、あまり売れ行きは芳しくなかった。三冊の中では、『 La Cuisine Cr クリオールの料理』が一番売れたという。  本の存在をつきとめ、ハーン著『クリオールの料理』なるものが確かにあることを知らせてくれたのは、やはり一冊の料理書であった。一九六〇年代の後半から、アメリカでは、それまでとかく技術の手引き的な——つまり料理の本とは材料のリストと作り方でしかない——実用書の範疇から出ることのなかった料理書が読みものの要素を兼ねそなえる傾向が出てきた。そうした新しいスタイルのものの中に、ニューオーリンズの料理をその文化的背景を含めて広く扱った料理書が出版され、末尾にはビブリオグラフィまで備えられて、古い本のありかを伝えていた。この本と、またアメリカの友人の協力もあって、私は一九七九年の五月に、ニューヨーク公立図書館でハーンの本を実際に見ることになり、ひき続いて、一八八五年に出た二版の古本を手に入れることができた。さらに、一九六七年ニューオーリンズの一出版社がこの本の復刻、改訂版を出していたことも知った。また、私はその時に足を伸ばしてニューオーリンズを訪れ、かつてハーンが住んでいたというバーボンストリートの建物が、今ではあやしげなマッサージが呼びものの「|歓喜の宮殿《プレジャー・パレス》」となり、あるいはハーンをもてなしたであろう上流の家々の何軒かが、薄暗くよどんだ十九世紀末の雰囲気そのままに市の歴史的家屋に指定され、ある季節には観光客を受けいれるのを目のあたりにした。そうした猥雑な通りの様子や家々のたたずまいから百年の昔を顧みることは、この街がスペイン風の中庭やロートアイアンの手摺りなどで当時の面影をほとんどそのまま伝えるといわれているだけに、私にはそう難しいことではないように思えるのだった。  肝心のハーンの本は、私の期待を裏切って、雑然たる書き方のレサピーが並ぶ本であった。例えば「ジャンバラヤ」の作り方をハーンが書いた通りに訳すとすれば、次のようになる。  「鳥(鶏とも何とも示されていない)を切り分けて煮こむ。半分ほど煮えたなら生米を一カップとハム一切れを刻んだもの、それに胡椒、塩を加える。米がふくれて煮込んだ鳥の汁を全部吸いとってしまうまですべてのものを一緒に火にかけるがよい、しかし堅くパサパサにしてはいけない。南部の子供たちはこの料理をたいそう好んでいる。もともとはインディアンの料理といわれるが実に栄養に富みしかも美味である。多くのものから作ることのできる一皿である」  もっとも、アメリカの料理書がカップ、スプーン計量に統一され、整然と読みやすく、教科書のようになったのは、ハーンの本より少し後の一八九六年に出版されたファニー・ファーマーの『ボストン・クッキングスクール・クックブック』以来のことだった。したがって、多少読みにくいことは時代のなせるわざで、ハーンを責めるわけにはいかない。しかし読んでみたところ、地域性よりも、クリオールという個性よりも、何よりも、私はやはり時代というものと料理にはしろうとのハーンを感じないわけにはいかない。それらは使われる言葉のはしはしに現れているような気がする。十九世紀が質素、倹約を美徳とする時代であることが読みとれるし、はじめのイントロダクションのところですでに、この本が普通の料理書の書き方の常識に従わず、むしろ主人の家の経済などには無頓着な使用人であるならば捨ててしまうようなものから、主婦が友人の賞賛に値する一品を作り出す心がまえなどが語られている。  したがって、ハーンのめざしたものが、中産階級の家庭婦人の啓蒙であったことも分かるのである。そして、読みようによっては、これは少し読み過ぎであるのかも知れないが、ハーンの、弱き者(子供とか病後の人とか胃の弱い人など)にたいする細かいいたわりの気くばりも、ところどころに見受けられる。だが、この本の表題のクリオール料理ということになると、ハーンが誇るほどにはその特色がうち出されていないし、この特殊な世界を伝える読みものの部分もないに等しい。オクラ(アフリカ渡来のもの)とササフラスの葉の粉末、フィレ(インディアンのアーブ)を使うクリオール料理の代表であるガンボ(スープ)やざりがにのビスク(スープ)、それにこの土地の誇る数多い飲みもの、プースキャフェなども載ってはいるが、現在のニューオーリンズを代表するオイスター・ロックフェラーやオイスター・ビアンビル、ポンパノの包み焼きは見当らない。それにコーヒーに関しては、「この自由の大地」では入れ方の方法などにこだわることはない等と言っていても、あの妙に田舎ふうでなつかしい味のチコリーの根入りの、ニューオーリンズ版キャフェ・オー・レなどは淋しいことに顔を見せていない。  それは、これらの著名なニューオーリンズの料理やクリオール独自の傑作とされるものが、多くハーン以後の創作であるためだろう。ハーンやケーブルによって触発されたこの町の“ふるさと文化再評価”の気運は、直ちにそれまでも優れていた味の文化の世界で、もっとも盛んになった。レストランはクリオールという地方性、つまり郷土性を顕著にうち出して、レストランのアントアンやギャラトアールでは世紀の終りから二十世紀の初めにかけて、次つぎと店の名物料理が創作された。例えばオイスター・ロックフェラーはアントアンの一八九〇年代の創作で、ブルゴーニュのかたつむりにつめるアーブバターからヒントを得たものだが、内容が極めてリッチなことからロックフェラーと名付けられた。ポンパノという魚は東南部沿岸の美味とされているが、これを紙袋に包み、蟹や|蝦《えび》、|牡蠣《かき》などを入れたソースを入れこんで焼いた料理は、一九〇一年、フランスから|飛行船家《バルーニスト》のアルベルト・サントーデュモンがこの地を訪れた際の記念創作であった。すでに挙げた二軒のレストランに一九四〇年代になってブレナンが加わり、ニューオーリンズ・スタイルの朝食を復活させ、文字通りレストランのご三家といわれるようになった。二十世紀のこの町は、ハーンの危惧が現実となり、クリオールの家庭の食文化は移行して華やかなレストラン料理の時代となってしまった。  現在この町は、住民の八〇パーセント近くがカトリックであるという、アメリカの中では特異なところで、旅行者を集めるフレンチ・クォーターを除いては疲弊の色が濃いように見受けられる。その中で、タイムズ・スクエアとグリニッチ・ヴィレッヂを一緒にしてひっくり返し、さらにスペイン系、黒人系の文化で色づけをほどこしたようなフレンチ・クォーターだけは不夜城のごとく、階級性を超越したレストラン、みやげ物屋、ジャズ・ジョイントなど、それぞれに賑わいを見せている。レストランはその中でも多種多様、クリオールとひと口に言いあらわすこともできない。何系のクリオールであるかまでが詮議だてされる。この町の近くには入り組んだ入江を背景とするバイユー郡があり、真の地方性は今やクリオールでなくして、bayou バイオウのケイジャンと呼ばれる、カナダが英領になった際に逃れてルイジアナに辿りついた人びとを祖先とする人たちのケイジャン料理にのみ求められるとする批評家もある。  私の心残りは、アントアンに代って、現在クリオールの伝統を継ぐ料理店の旗手とされる“ル・ルース”が、昨年アメリカの友人を介して二カ月前から予約をしようにも満員で、ついにこの店で味わう機会をもたなかったことである。  料理書の中のたった一行の記述が、ハーンという名をとどめていたばかりに、この人の知られざる味覚の歴史に魅かれるように、思わず深入りをしたニューオーリンズであった。それが今、私の好奇心はハーンよりはこの街の文化史といかにそれが現代に受け継がれてきたかということに広がるばかりだ。この町のアメリカらしい陽気な気安さと、むしろアメリカらしくない陰影の深い迷路のような文化は、今や町としてニューヨークの人気を押しやって、内外の観光客を魅きつけつつあるという。  思わぬ深入りは私にまた別の喜びを与えてくれることにもなった。アントアンやギャラトアールでこの街の名物料理を楽しんだ友人から、私の作ったニューオーリンズ料理の方が古風でおいしいなどという賛辞を受けると、食べもののエッセイや味覚論からは決して味わうことのできぬ喜びが伝わってくる。古い黄ばんだ料理書や、学者の研究のような作り方のぺージの向うから、ハーンの描くかつてのこの街の風物詩が思い出され、英語ならぬパトア(この地方独特のフランス語の方言)の物売りの声が聞えてくるような気がしてくる。ざりがに売りやドーナツ売りの声はつい、ほんの昨日までニューオーリンズの朝を告げる物音の一部であったという。  読んで得た知識でしかないものが現実に体験したことと渾然一体となり、自らの過去の一部のようになるのは、雑然とした台所に立って独り昔を作り出す時である。      オイスター・ロックフェラー    ラフカディオ・ハーンの時代には未だ存在していなかった「オイスター・ロックフェラー」は、十九世紀末アントアンでこの料理をひと口食べた客が、「as rich as Rockefeller ロックフェラーのようにリッチだこと」と呟いたことから、店の主人アリシャトール氏が命名したといわれますが、自分で作ってみると、アントアンよりは気のせいか繊細な味わいのものができるようです。それは私がかたくなに信じている、機械を使って大量生産される味わいは、ちまちまとした執念深い手作りにかなわない、ということに関係があるのかもしれません。が、あるいは私の持っているレサピーが、ある種の秘伝を嗅ぎ出した方の手になるものなので、ひと昔まえのアントアンの味であるのかも知れない、という気もします。アントアンの出している料理書には、この料理の項はあっても、レサピーは門外不出である故をもって語られずにいます。ただ、世紀末の頃、ニューオリンズでは|蝸 牛《かたつむり》がなかなか手に入らなかったので、代りに牡蠣を使うことを思いついた、とあります。    十二個の殻つき牡蠣を用意してこじ開け、深い方の殻の中に牡蠣を入れ、次のもの(私がしばしば「オイスター・ロックフェラーのあんこ」と色気のない呼び方をするので、息子によくたしなめられます)をのせます。ほうれん草の葉を一二〇〜一三〇グラムぐらい、わけぎ二、三本、レタス四分の一個、セロリ一本、パセリみじん切り四分の一カップ、にんにく小一個、クレソン四分の一カップ、バター四分の一ポンド(半カップ)、アンチョビのフィレ二、三本、またはペースト大さじ二杯、タバスコ、カイエンヌ、アニスの種少々、白胡椒、ベーシル、ペルノまたはアブサン大さじ二杯を用意します。    まず、野菜をよく切れるステンレスの包丁でこれ以上細かく刻めないというほどに切ります。バターをフライパンで溶かし、この中で野菜がペースト状になるまでいため、スパイスとアンチョビをすりつぶしたものを加えて味を整えます。ペルノをふりかけてよくかきまわし、これを牡蠣の上にグリーン一色になるようにならします。オーヴンを摂氏二六〇度に熱して、天火皿の上に並べた牡蠣を一〇分ほど焼きます。ぷくぷくといって上側がほんのりと色づくようで、本当には色がついていない時が食べ頃です。生の野菜を柔かくしたバターと共に摺って作る方法もありますが、軍配はどちらにも。それから、われながらアメリカをよくもこれほどひいきにするものだとも思いますが、私にはこの料理によくマッチするワインは、カリフォルニアのシャルドネのように思えるのです。 [#改ページ]

 
フランス料理教室と「ビー・アンビシャス」    リタラリーな料理人たち  明治のはじめ、札幌農学校で教鞭をとったクラーク先生の話は、その後教科書などに載ったこともあり、現在ある程度の年輩の日本人であれば、たいていは、その別離の際の言葉を記憶にとどめているのではないだろうか。 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」としめくくられた、現代風に言うなら、発展途上国であった明治の青年たちへの“贈る言葉”は、「青年よ大志を抱け」と、時代を反映して雄大に、また日本人好みに、やや深遠に翻訳されて後世に伝えられることになった。私はそのスピーチの全文を読んだことがないし、まして語調を聞いたわけでもないが、その後、アメリカ人とクラーク先生の出身地であるニューイングランド、マサチューセッツ州に関して、私なりの理解ができ上ってみると、「青年よ大志を抱け」というのは少し大げさにすぎるのではないかと思うようになった。  何事も聞いたり読んだりしただけでは、全体の感じはまことに掴みにくいものである。また、それとは反対に、自分が肌で接したり、直接その中で生活したりしても、読んだ知識の裏づけがなく、人の意見を聞いたことがなければ、物事の中核のようなものは解らずじまいで終るのかも知れない。  私の話の枕に引きあいに出されたクラーク先生には少しばかり申しわけのない思いがするけれど、私は彼の言葉とそっくり同じセンテンスを、一九七〇年代にヤンキーのご婦人から何度も聞かされることになって、それで「ビー・アンビシャス」というのは、ごく日常のありふれた会話の中の言葉なのであろう、と察した。ただし、聞かされた場所も状況も、おそらく生活の匂いがぷんぷんとたちこめるところだったので、私はその都度、きわめて複雑な苦笑を独りそっと噛みしめるのだった。  ヤンキーのご婦人は、エリザベス・ベンソンという、まことに英国風な名をもつフランス料理の先生であった。私はミセス・ベンソンの結婚まえの姓を知っているわけではないし、彼女が厳格に言って由緒正しきヤンキーであるかどうか確かでないから、あまりそれにこだわるつもりはない。が、とにかく、ミセス・ベンソンは会えばかならず、「ガールス・ビー・アンビシャス」「ビー・クリエイティヴ」という言葉が口をついて出てくる人だったのである。その場合、私はミセス・ベンソンの料理教室の生徒のひとりであったわけで、先生が生徒を励ます際の状況であることは、札幌農学校の場合と極端に違いはしない。「ガールス・ビー・イマジナティヴ」というのも、この人の得意とする表現であった。そしてミセス・ベンソンはその教授法や|わざ《ヽヽ》よりも、彼女独得の表現とお喋りで、私たち中年の、小うるさい生徒五人を、完全に魅了してしまったのである。  ミセス・ベンソンの料理教室はコネティカット州の中でも特に美しい住宅地といわれるエセックスというところにあった。植民地時代からある古い街並みは、自然と人工がよく調和を示し、丈高い樹木にも緑の濃淡があり、あまり整然と刈りこまれていない家々のたたずまいも、かえって乱調とも言えるような美しさがあった。道は細く曲りくねっていたし、農地もあれば清流も時代を忘れてしまったかのように、あちこちでせせらぎを聞かせてくれるところだった。  私たち五人の生徒たちは、毎週木曜日の午前十時に、イェール大学のあるニューヘイヴンの町から、四十分ほど車で走ってここに集まる。五人の顔ぶれは、主婦という共通の立場と、夫たちがみなここの大学関係者ということを除いたら、出身国も、肌の色も、これまでの生活背景による個性の違いも、これほどまちまちなものはないと言えるほど、ひとつことを以てしては満足させられぬグループであった。  たとえば、生徒の一人はギリシャ古典の博士号をもつ学者だったし、生化学の博士も一人いて、先生そこのけの説明がそれぞれの立場からつけ加えられることがあった。  舌平目の料理の日には、このギリシャ古典学者が、古代ギリシャ人たちもまた、この魚を最高の美味としたのだけれど、どういうわけかローマ人たちは“|鯔《ぼら》”の方を愛でたと言い出した。それでわたしたちは先生も合めて、ヘロドトス、プルターク、プラトンなどの料理哲学の講義を、あるものはパセリをみじんに刻みながら、あるものは生きのよい魚を糸でロールに巻くのに苦労しながら聞くことになった。牡蠣の殻のこじあけ方を習った日には、生化学者が、牡蠣は神秘的な存在で、ひとつものが同時に彼であり彼女であって、しかもある時期に彼であったものが時が過つと彼女に変るのだ……と謎なぞのようなことを言い出した。この軟体動物は、基本的にはひどく下等な生きものなのだが…… 「バスタード(こんちくしょう)」、彼女は殻と格闘しながら、口汚なくののしった。私は彼女のおかげでアメリカ大陸の沿岸部をとり囲む種類のちがう牡蠣の生息状況について知識を得ることになった。東部沿岸にはインディアンが牡蠣の貝塚を残していることも教えられた。  生徒の中には、夫と共に住んでみたことのない大陸はグリーンランドぐらい、というオーストラリア出身の女性もいた。美しいひとで、マール・オベロンのような風貌とデボラ・カーのようなアクセントをもっていた。彼女が「ボンディシェリ(アフリカ東海岸の都市)では……」というような口をさしはさむと、「ハイデラバッドではどうなの?」、「モスクワは?」というような質問が部屋のあちこちから飛び交うのだった。この教室の活気に圧倒され続けていたのは、ニューヨーク生れニューヨーク育ちの元バレリーナだった。自分はユダヤ系で、本来、夫から少しだまっていてはくれまいか、と言われるほどのお喋りだが、ここへ来ると黙って聞いているのが一番たのしい、とこの人はしきりに繰り返すのだった。ただし彼女のニューヨークのレストランに関する知識には、みんなが舌を巻いていたから、毎週一度は夫と食べる目的でニューヨークへ出かけて行くというこの人もまた、授業の後の昼食時には質問攻めになっていた。  私もまた彼女らにいわせれば特異な、魔法の手をもつ存在であった。それは各自が自己紹介をしたおりに、私が「四世代が共に暮らす家の、七人家族の賄い手」であることを告げたからであった。彼女たちは、誰もが食べ物で満足していないかぎり、七人が仲よく平和に暮らすことは考えられないから、九十何歳から五歳までのひとりひとりに文句を言わせない食事とは、具体的にどういうものを作っているのか、というのである。食べ物に尽きせぬ興味を抱いている人たちだけに共通な、何をどのように誰のために料理をしているのかということこまかな質問には、私も幾たびかたじたじとなった。日本人に共通な特質のせいで、私は誰よりも手が早かったし、ミセス・ベンソンの言葉を実行に移す際の手ぎわもよかったのである。  それで私はいつも手の遅い学者たちのどちらかを、自分のステップが片付き次第手伝うように先生から命ぜられた。折しも日本料理は、フランス料理の中のヌーヴェル・キュイジーヌ(エスコフィエなどの伝統的な料理に対する新しい料理)に影響を与えたという説をとなえる人もあって、脚光を浴びはじめた時期でもあった。したがって授業のはじめには、「チエコ、日本ではこれをどう料理するのかしら、本質的にはどこの国の扱い方が一番あっているのでしょうね」と、先生はまず私の意見を求めもした。  驚くべきことに、ミセス・ベンソンは、そうした私たちのひとりひとりに必ず満足のいく質問や解答をあてられる人だった。エネルギーに満ちあふれた小柄な身体は、五人の生徒がひとつずつ使う調理台のあちこちを、駆けめぐるようにしてひとりひとりの仕事を見てまわる。 「料理人は足元が自由でなければ……」、と呟く彼女の足は、いつもきまって白い紐で結ぶ運動靴、つまり一番ありふれたゴム底のテニスシューズをはいている。白黒で統一した、ひどくおしゃれなブラウスと黒のスラックスという洗練された服装に白い運動靴という姿はつりあいがとれないから、初対面の時は少々滑稽で、私などは目を|瞠《みは》ったものだった。が、誰でも料理好きであれば、それは説明されずとも納得できるし、自分もまたそうしようと思うこともあった。  私たちはこの人の実質的な智恵に驚かされ続けた。運動靴の例などはその一端さえも示すものではなかった。私のイメージの中ではそれまで決して一致することのなかった、生活そのもののようなセンスと学問的知識、それにロマネスクな要素を、この人は一人のうちにもちあわせていたのである。  ある時、クレープを何十枚も焼かされたことがあった。料理に使うクレープだからよく混ぜあわせて、彼女はそう言って学者二人には電動ビーターを手渡した。他の二人はロータリービーターを貰い、私には昔ながらの攪拌器がわたされた。 「さあ、とても|継子《ままこ》ができやすいけれど、後で漉してみた時に、何を使っただれのものがいちばんなめらかになっているかな? 美味しいのは何といってもチエコの使っている旧式な攪拌器で、腕を駆使しながら混ぜたものに限ります」  結果は私のものがいちばん滑らかであることを、ミセス・ベンソンは見透していたのだった。それを何時間かねかしてから焼く段になると、今度は手をとって教えようと一人ずつつき切りになった。そのうちに、一段と響きわたる大声がきこえた。 「ガールス! 失敗した焼き損じは全部わたしに頂戴な。今晩六人ばかりのお客があるんだった。くしゃくしゃにしないで頂だいね。破けても良いから、そっとお皿の上に拡げておいてね」 「ガールス・ビー・イマジナティヴ! わたしはみなさんの失敗作で、それは優雅なメインディッシュを作るのよ。ピラミッド・ケーク、つまりクレープを拡げてほうれん草にマッシュルーム、二段目には蝦、三段目にはハムにパセリ、四段目にはチーズ、五段目にはロースト・ターキーの残りをほぐして……そしておいしいソースをかけてオーヴンでこんがりと焦げ目をつける。これを断面が見えるように切り、盛りつける時にきれいに飾れば、メインディッシュはできたわけでしょ。前菜には帆立貝が今シーズンだからレモンと芳香野菜でさっと和えて……チエコの言うように、タバスコを二、三滴と醤油を少したらしましょう。それにサラダと、デザートは何も用意がないから、ダークチェリーの缶詰めを開けてブランディで煮てチェリー・ジュビリー、さあそれでよしっと」  こうしたモノローグを聞いていると、私はいつもこの人にめぐり逢えた幸せを感じないわけにはいかなかった。私は日本で料理を習った経験はないし、ましてフランスで本場の味と技術に接したこともない。日本流に美しく、神経の行き届いた料理の仕方をすることも大切なのかも知れない。しかし不器用な私は、外観を美しく飾っているうちに、料理の中のおいしい妖精がみんな逃げだしてしまうような恐怖感にとらわれてくる。それに人生の盛りを過ぎた歳の女が、今更プロフェッショナルを目ざすのでもないのに本格的な修業をつむのは、生活のプロポーションを崩すことになりはしまいか。私にはミセス・ベンソンのような先生がまさにうってつけであり、求めていたタイプそのものであったようだ。  忙しく教室の中を動きまわる彼女は、いつも必ず何かを喋りつづけていた。そしてそのあい間に、私たち生徒とレッスンの後に楽しむ簡単な料理を作る。昼食はカリフォルニア・ワインを飲み放題で彼女の料理を食べるという、いわばダブルのおまけつきのレッスンであったが、その簡単な料理は家庭で必ず役に立つ各国料理のアレンジ版であった。私がブラジルの黒豆料理“フェィジョワダ(黒豆とハム、ソーセージを一緒に煮こんだお国料理)”を味わって家で作るようになったのも彼女のおかげであったし、鱈と壜詰めのはまぐりの汁からごく簡単にふだんのおかずになる“ブイヤベイス”を作ることを習ったのも、レッスンのあい間に用意された昼食からであった。  彼女の繰り返す「ビー・クリエイティヴ」のおかげで、私はわが家で“北京ダック”もどきを楽しむことにもなった。こしの強いクレープを焼いて、ロースト・チキンを中国風にやや甘味をつけてこんがりと焼いたものにお味噌を工夫すると、子供たちは胡瓜、葱といそがしげに手を動かしては、わが家の国籍不明“北京ダック”を心ゆくまで堪能する。「ビー・アンビシャス」のおかげで、自分の腕にあまる料理にも挑戦し、遠来の客のもてなしも家ですることが喜びとなった。  喋りつづける彼女の話題は、たとえそれが生化学者やギリシャ古典学者、バレリーナ、外国通、日本人のうちの誰かひとりを相手にしたごく特殊なものであっても、全員が耳を澄まして、聞きもらしたと分かれば相手にそれをくわしく説明してもらわずにはいられない内容だった。 「プラトンはでも、たいした味覚の男ではなかったんじゃないの。だって何から何までオリーブとオリーヴ油でなければ満足できなかったんですもの。どう思う? マリー、単純な味覚と精緻をきわめた頭脳のコントラスト、ちょっと不思議な気がするわ」 「そうよ、英文学における食べる話の原点は『キャンタベリー・テールズ』じゃないかしら。食べることに興味があるなら、そういう視点で読んでごらんなさい。ペンギンで現代訳が簡単に手に入りますよ」 「シビル、鶏の寄生虫は近頃の科学者はどう説明しているの? 鶏を料理した後の俎やボール、その他は熱湯処理をしないと、いわれのない下痢や発熱がそこから、ということが多いのよ。日本ではフィレの部分を特別な呼び方をして“さしみ”で食べるそうだけれど。フィレは特別の膜で保護されているから安全といわれているのよ。豚肉に関しては肉の温度が華氏一六五度に達すればもう菌は死滅するということが最近は証明されて、かつてのように神経質にならなくてもよくなったし、コチコチになるまで火を通さないのよ」 「私は一応五カ国語読めて話せるの。それはつまり、小さい時から半年はヨーロッパで、半年はニューヨークで、という落ちつかない生活を送ってきたせいよ。祖父母四人の出身国が全部違うせいでもあるわね。でも不思議ね、形容詞はいちばん英語がぴったりくるのね、言葉自体、数が多いし奥深いせいかしら。私の戦争中の暮らしは、それは大変だった。ヨーロッパに片付いていた叔母たちが、夫はみんな軍の仕事に携わったというわけで、全員わが家に来てしまったの。若いわたしは二年間、毎日八人分、九人分のお料理を作らねばならなくなった、それにお客もあったし、毎日作り続けたという感じ。中には妊娠している叔母や、アレルギー症の叔母、いろいろな人がいたから、あれはいや、これはだめ、食べられないと言うし。何よりも大変だったのは、住んでいた国々が全員まちまちだったから、それぞれが勝手なものを欲しがった。黒い大きな身体のコックがいたけれど、彼女、そんなに色々はもうできません、と言うし、重い人は脚が不自由だから小廻りがきかないのよ。一番若い私が徹底的に使われた。当時私はコロンビア大学に行っていたのだけれど、学生生活の記憶の方が少ないくらい」 「私が今度翻訳した本はものすごい大著なのよ。何故著者名がアリバブかって? この人の本名はバビンスキーというのだけれど、兄が高名な医者だったので料理の本などを同じ名で出しては悪いと思って遠慮したという説があるの。彼は鉱山技師で、まあ、あちこち歩いた……つまり、二十世紀初頭の世界各国料理の本なのよ。『アメリカは世界で一番完備した台所をもっているが、アメリカには料理と言えるものがあろうか』などと書いてあるわ」 「料理というものは確実に作りながら上達するものだと思う。けれど何パーセントかは体質的味覚欠落者がいるものよ。そういう人はまず、どんなに作っても絶対だめね」  ニューイングランドの海沿いの町は、たいていどこか近くに小さな漁港をかかえていた。昔は捕鯨船の出入りで栄えた町も、今はひっそりと、かつて賑わった港に古びた船を繋いでその名残りをわずかにとどめているに過ぎない。しかし名残りは港や街のたたずまい、沖のかもめなどよりは、人びとの味覚に残っているようだ。このあたりに古くから住む人たちは、本当に魚が好きである。ミセス・ベンソンの料理教室に納められる魚は、そうした背景から、いつもとびきりの|生き《ヽヽ》だった。私は料理用のワインをちょっと失礼しては教材の舌平目や帆立貝のはじっこを薄くそいで、タバスコと醤油をつけてつまんだものだった。それははじめからなすってあるレモンとよくあって、口の中でこきこきとした歯ざわりと繊細で高貴な味わいを楽しませてくれた。私を眺めていた全員はやがて、それぞれが真似をはじめて舌平目をひと切れ口の中に入れる……だが、そんな時には一人だけ、ギリシャ古典のマリーが嘆息をこめて、悲しげにつぶやくのだった。 「私はもしかしたらその体質的味覚欠落者かも知れない……どうしてもそんな真似はできないの。魚はまず食べられない、本当は料理だってわたし自身に関してはどうでもよいことなのよ。でも、わたしはあの人に美味しいものを食べさせないといけないのでここに来ているの。夫はたいへんなエピキュールでうるさい方なのよ。今晩帰ったら早速舌平目をレモンと醤油とタバスコで出してみるわ。きっとあの人なら喜んでくれるわ」  黙って聞いていたミセス・ベンソンは、同じように舌平目の一切れを味わいつつ、この時大きなかぼちゃをくり抜いていたが、その手をゆっくりと置き、改めてマリーの方に向きを変えた。 「マリー、それじゃああなた、牡蠣ならば食べられるんでしょう。たくさん召しあがれ、毎日だっていいわ」  ミセス・ベンソンの顔は大まじめだった。だが何ごとにも真摯な態度で臨むマリーの、いつも少しおどおどしたような顔にさっと赤みがさしたのを私は見逃さなかった。 「マリー・ビー・アンビシャス」、彼女の夫君の出身国と、際立って瀟洒な身のこなしを思い浮べると、私は今でもこの言葉にこもごもの思い出をこめて、呟かずにはいられない。      お手軽な北京ダック    ミセス・ベンソンのおかげで私の料理の腕は上ったでしょうか。小さい時から不器用で、裁縫も絵もピアノも全く無惨な結末であった私が、手仕事が大いに関係ある料理だけ手際がよいなどということは絶対にありません。材料を美しく切ったり、美的に盛りつけたりするのは全く苦手です。それでは何がプラスになったのかと改めて考えれば、一見ルールを破るとも思えるあれとこれをつき合わせるアイディアが自由に湧いてくるようになったことだと思います。それに、基本と原則を尊ぶという精神でしょうか。贅沢な料理のデモンストレーションを百回見るよりは、基本を手にとって一、二度教えられることの方が私にはプラスのようでした。    次の一品は、五、六年ほど前、ある婦人雑誌のためにわが家のもてなし料理として紹介したので今更とは思いますが、それでも楽しい食卓に向いていますので掲載してみることにしました。いうなれば“Poorman's Peking Duck”あるいは“いんちき北京ダック”とでも名付けましょうか。    北京ダックの皮、薄餅を作るのは大変です。麺棒でのしたり、うち粉をしたり、はがしたり、長くおく時には油をぬったり……とても主婦ひとりの仕事ではなくなってしまいます。それで私はこしの強いクレープを焼けば、うるさいことを言わないかぎり何とか代用品になるのではないかと思いました。    一カップのミルクと同量の水、それに四個の卵、二カップのよく篩った粉と大さじ四杯のとかしバターをよく攪拌して漉します。これを冷蔵庫で二時間ねかしてからクレープを焼くのですが、二十何枚かのクレープが三〇分ほどでできてしまいます。    この中に皮を少しこんがりとローストした鶏とねぎを北京ダックそっくりに入れ、お味噌もよく本ものの味を思い出して作りあげたものを添えますと、子供たちは制限なしの名菜に喜々として、それを見ているだけでも楽しいものでした。お味噌は塩の薄い黒っぽい、支那味噌に似かよったものを使いお酒、ラード、八角、五香粉、砂糖、卵黄、生姜、ねぎのみじんと何やら手あたり次第入れているうちに、「これでよし」という味になります。    わが家では、鶏と葱だけでなく、ローストポーク、ハムの細切り、胡瓜、乾椎茸、竹の子、あたり胡麻、蝦、白毛うど、クレッソンなど、その時にそろえられるものを用意して賑やかな食卓とします。    クレープはこのほかミセス・ベンソンの名付けるピラミッド・ケーク(お菓子にも料理にも)、カネロニ、その他千変万化に楽しむことができます。 [#改ページ]

 
回想のナポレオン    ジュリア・チャイルドの出てくるまで  もう二十年以上も昔のこと、ニューヨークはレキシントン・アヴェニューから東側に入る小さな通りに住んでいたことがあった。ちょうどヨークヴィルと呼ばれるあたりで、通称はジャーマン・タウン。近くの盛り場には、日本人が繁く立ちよるドイツ系酒場だのダンスホールがあり、時としてベルリン華やかなりし頃にたいするノスタルジアをかきたてるようなヨーロッパのナツメロを奏でていた。八十六丁目界隈といえば、住所のもつ響きとしてはほかに何の特徴もない。下層でも中産でもない。人に聞かれて答えれば、「急行停車駅ね」といわれるくらいで、さしたる目じるしもない所だった。ただ一軒、“バウアー”といったろうか、おいしいお菓子を売る店があり、人によっては、「ああ、バウアーのそばじゃないの」という言葉が返ってくることもあった。  さて、ジャーマン・タウンの真ん中にあるバウアーが、そのルーツをどこに持つお菓子屋であったのか、たぶんドイツ系であろうが、今の私には分からない。あるいは今でも盛業中で、時代と共に味も質も何もかも変化して、かえって現在では見る影もなくなっているのかも知れない。しかし当時は、かなり大きな店で、質のよいペーストリーや、ベーカリーの品も豊富な、活気に充ちたところであった。金曜日の夕方と土曜日一日は、何人もの客がひっきりなしにやってきては、順番を待つために番号札をひいた。  客筋はパーク・アヴェニューや七十丁目附近の高級アパートから散歩がてらにやってくる裕福そうな主婦が多く、そういう人たちは、ポリエステル繊維やパンタロンの流行る前の一九五〇年代のことだから、みな、形も仕立も気のきいた、地質も上等な服を着ていた。帽子も色とりどりで、華やかなものを被る、オーソドックスな服装の時代であった。もちろん客のなかには、主人に遣わされた、コートの下に制服をまとったメイド(アメリカの上流階級志向の家のメイドは、バトラーと同じように正餐の客のためには制服を着る。黒か紺の前にボタンのついたワンピースを着て、白く糊のきいた衿と前かけ、それに髪おさえが印象的だった)を見かけることもあった。それから、こうした人びととは全くちがう、庶民そのものの顔つきの、身なりもつつましやかな、自分自身がお菓子に目がなくてやってくる客筋もあった。彼らはあれこれ迷って、何を買うか決めるのにひどく時間がかかるのだった。  何よりも私自身がそういう客のひとりであった。白いエプロンをかけた何人もの店員が、客の命ずるまま、かいがいしくあちこちのお菓子を箱に入れ、不器用に細い紐をぐるぐると箱のまわりにかけて結んだり、パンを無造作に袋に入れたりするのを眺めながら、私は自分の番のくるのを待ったものだった。そしてそういう時の私は、必ずお菓子の選択に迷うとともに、きまってひとつのことを思い浮べるのだった。しばらくすると私は、自分にまつわる哀しい過去を思い出したかのようになり、胸のうちがはかなさで切なくなって、ふっと溜め息がもれる。やがて「何番の方」と自分の番号を呼ぶ売り子の声をきいて、人の混みあう忙しいこの店の現実にたち還るのであった。  私が心の中で佇んでいるのは、この店に来るようになる少し前まで、足繁く訪れていた、ひっそりとした、置いてあるお菓子も数が少なければ、客もあまり見かけぬ店であった。一九五〇年代のニューヨークは、超高層ビルのたち並ぶ活気に満ちた現代都市というイメージは不動のものであり、街の顔は決して変ることがないように思われていたものだが、それは全くの錯覚に過ぎなかった。昨日までにこやかに人を迎えいれた店舗が、ある日忽然ともぬけのからになり、建物自身もいつの間にか取り毀しになってしまう。そして後には、いつの間にか前にあったよりはずっと安っぽい、ピカピカしたものが現れる。あまりその変りようが激しいので、かえって、人びとの内なるイメージでは、ニューヨークはいつも変らない、というイメージを与えることになっていたのだと思う。  私が心の中で佇んでいた店も、最後にはそうした取り毀しの運命に身をまかせた一軒であった。私はその店の主人である老夫婦と、その手になるお菓子のことを思うと、それがほんとうに価値あるものが世の中から消えて行く象徴であったかのように思えてならない。店は九十六丁目、しかも西側のコロンバス・アヴェニューに近いところにあった。ニューヨーク市のアップタウンは真ん中のあたりがセントラル・パークで東側と西側を縦断された街だが、店はたしか東側と西側を結ぶクロス・タウン・バスの停留所のそばにあった。  コロンバス・アヴェニューに近い九十丁目台ということは、当時スラム化が進みかけていた地域に当っていた。新しいスラム、すなわちプエルトリコ系のスペイン語だけを喋る人たちの街、スパニッシュ・ハーレムである。耳には決して美しく響かぬ彼らの声高なスペイン語と、この人たちの愛用するらしい黒髪をしっとりさせる香油の匂いを私は本能的・体質的に嫌っていた。何やら卑猥というにふさわしいような赤や青のバナナの並ぶ食料品店なども、私の好みからは遠いところにあった。だから老夫婦のきりまわす、ヨーロッパ文化の名残りをとどめるようなお菓子の並ぶ店が、まだそこにあること自体私の心を落ちつかなくさせるのだった。この人たちはなぜもっと早く、手を打つなり何なりして、自分の作品の価値をもっと認めてくれる人たちの住む居住区へ移って行かなかったのかという口惜しさを私に抱かせるのだった。  名前も場所もはっきりと憶えてはいないこの店は、現存して二代目が継いでいるようなことがあれば、今はやりのインタヴュー記事などに最適なのではないかという気がしてならない。見るからにヨーロッパの都会の雰囲気を身につけていたあの老夫婦が、いったいどのような経路でニューヨークに辿りつくことになったのか。しかもなぜ、スパニッシュ・ハーレムになる以前はたしかユダヤ系の人たちが多かったはずのあの界隈に、チーズケーキでもエッグ・ブレッドでもないフレンチ・ペーストリーの店を持つことになったのだろうか。  あの頃の二人は、人生も終りの方に近づきつつあるように見うけられた。それにもかかわらず、日一日と迫りくるようなプエルトリコの大軍に決して|怯《ひる》むことなく、むしろその中心に腰を据えたまま、典雅とさえいえるフレンチ・ペーストリーを作り続けていたのだが……  この老夫婦の一生を綴るならば、単なる移民のものがたりでなくして、ニューヨーカーのお菓子の好みや、顧客と職人のエスニック分布図を参考にしたお菓子の社会文化論を展開することができたかも知れなかった。  この店のお菓子は生粋のフレンチ・ペーストリーであった。店頭に立つ老夫人は、前髪を高く結いあげた髪型といい、ハイネックのブラウスといい、その面影から得る印象には、むしろ往年の名画「たそがれの|維納《ウイーン》」を彷彿とさせるものがあった。が、お菓子はウィーンの系統ではなく、シュー・ア・ラ・クレーム、ババ・オ・ラム、クロケット、ナポレオンなどのフランス名のものが並んでいた。私たちが買い求めるのはいつもきまっていて、羽根のように薄い軽やかな幾層ものペーストリーが、巧妙に複雑につめられたクレーム・パティシエールでずっしりと重いナポレオンであった。これだけ脆いものが、鋭角をなす直線で、一分のゆがみもない完全な長方形に見事に裁断されてケースにおさまっていた。もちろんフレークは艶やかで、一番上にふられた白い粉砂糖にも香気があり、その歯ざわりや味わいたるや、現在の東京にあるどのような名店の品も形なしであろう。ここのお菓子のどれもが、精緻をきわめたもの以外は作ることのできぬ、誇り高き老人の妥協のできぬ泣きどころをそのまま現した作品であった。  私はこの、どのような時代が来ようとも自分の製作品の質を変えることのできぬ頑固なパティシエ(お菓子の職人)を二、三回見かけたことがあって、そのつやつやした七十台の、私の想像に反する幸せそうな風貌に、はっと驚いたことを憶えている。それとまったく対象的に、ここで働いていたたったひとりの職人は、顔色も悪く、どこかもの悲しげな、目も黒ければ髪も黒い小柄な若い男であった。この人の体力では、老人の意地の半分もいくまい、私はふと、食べ物を創る店の存続は、どうしても血を分けた子供でなければ成り立たないのではないか、と思ったものだ。やがてある九月、夏の休みを終えて日本から帰った私は、通りかかったバスの窓から、この店があたり一帯の廃墟の中に消えてしまったのを見つけた。私の不安にははやばやと終止符がうたれたのである。周囲の環境とちぐはぐなあの店を思って、思い煩う必要がなくなって私はかえって淋しいものを感じるのだった。しかも、それはニューヨークから精巧なるもの、完全なるものが姿を消して行く前ぶれであり、とげとげしい反文化の時代が来ることを暗示していたかのようでもあった。その後すぐに、私は老夫婦と職人の行方を見つけ出せぬまま、西側から東側に住まいを変えた。  アメリカの食生活の中にフランスの影響を探し出そうとすると、私はなぜかまずこの店の老夫婦のことを想い出す。若かった頃の私が、日々の明け暮れに多少なりともフランス的なるものとして関わりあいをもったのが、この店と、学校友だちと、あと一組の夫妻と、それからニューヨークで週一回発刊されていた『フランス・アメリック』紙であった、ということなのかも知れない。それ以外に私が接したフランス的伝統を食事の面で探すとすれば、それは料理店におけるプロの料理とこの国の草創期に、第三代大統領のジェファソンが持ち込んだエピキュリアニズムを、食卓の話題として聞いたに過ぎなかった。むしろフランス文化は、食べもの以外の、芝居、映画、文学、ファッションの世界で、ニューヨークでは花咲いていた。  九十五丁目の西側の場末には、かつての日活名画座のような、いつでも二本立て、三本だてのフランス映画をかけている“セーリア”という映画館があったし、東側にも、“トランス・ラクス・ノーマンディ”という、フランス映画だけを上映する館があった。ヴィレッジにもミッド・タウンにも……数えあげればかなりのフランス映画を主流にしている常設館があった。芝居の世界もまた、『ひばり』『トレアドルのワルツ』『叔母さんの羽根かざり』などがブロードウェイやオフ・ブロードウェイで客を集めていた。それらが私の学生時代の日本のように、一部のフランス文化愛好家と学生だけを対象とした娯楽でないことは、この国の、ことにニューヨークの成り立ちを思えば当然であったろう。とにかく、パニョルの『パン屋の女房』を場末で見せたり、ヴォルテールの『キャンディッド』をリリアン・ヘルマンが脚色して、レナード・バーンスタインがミュージカルに仕立て、ブロードウェイにかけてしまうのだから(しかしこれは不入りであった)、ニューヨークのフランス文化愛好者たちは、特にそう意識せずに裾野も広かったし、層もかなり厚い、したたかなものがあったと思う。むしろ台所や食卓こそがとり残された領域だったのである。  それから七、八年の後、ニューヨークからも遠ければ、フランス文化とはおよそかけ離れた田舎町で、私はアメリカとしては多少ぎこちなく、いつも「ボン・アペティ」という呼びかけで終了するテレビの料理番組を楽しむことになった。この番組こそ、一世を風靡し、アメリカ全土の主婦たちの料理の腕前を画期的に引きあげるきっかけになったとされるジュリア・チャイルドの『フレンチ・シェフ』であった。これまでこの国は、文字で読まれる料理の作り方が一般的であり、雑誌のグラビア程度のものはともかく、人びとの理解の内では料理なるものはいわばモノクロの静の世界に近かった。それがいま、この番組によって、活き活きとした動の世界に脱皮をとげたのであった。  ジュリア・チャイルドという人は、見たところマーガレット・ラザフォード扮するところのアガサ・クリスティをひとまわり大きくしたような風貌で、どこから見ても、“おばさん”という表現が一番ぴったりくる人であった。東部の名門女子大であるスミス・カレッジの出身で、元外交官夫人などと、だれが想像できたろう。気さくな主婦を絵に画いたような人だから、したがって料理ぶりもいわば“料理上手なおばさんの料理”のしろうと芸のように見えた。神経の行き届いたプロフェッショナルの完全主義をめざしたものではなかった。フランス料理というけれど、あれくらいのことなら私にだってできるという印象が、まずこの番組を見た人の抱く共通の思いだった。鶏一羽を切り分けて骨をはずすレッスンの時、私はひそかに、私が助手で出演すればも少し手際がよかったろうにとさえ思った。  しかし彼女の悠々迫らざるモノローグの説明はごく自然で、役者ぶりはまさに天下一品、まるでカメラを意識していない。動作の方も、失敗するまい、よりよく見せようという、背伸びをしたこせこせしたところがまるでない。何かを落としたり、置き忘れたり、観る方の側があれはミスだな、と気付くことをしでかしても、決してあわてたりしたことがなかった。私はいつしか彼女のスケールの大きなものごしや人柄に魅かれ、ファンになった。 『フレンチ・シェフ』はこの人の個性ある語り口に支えられた、ゆとりある主婦の番組であった。これまでもっともプロフェッショナルな領域とされていたフランス料理が、グールメのための料理などと気ばらずに、一般の家庭のありふれた日常の食卓に登場して、しかもそれがいちばん料理本来の姿とぴったりする風景であった。ある皿はレストランの絶品をも凌ぎ、ある皿はできそこないで味はよいのだろうが見かけは失敗作、というしろうとの家庭料理の持つ避け得ざる運命を、あるがままに受けいれて、それでよいではないかという気にもさせられる。それでいながらなによりも、おいしいものを自分の愛する人びとに味わわせたい、という執念を駆りたてるようなタッチのある番組だった。  アメリカでは、一九六〇年代も後半に入ってから、やっとフランス式料理法が、大衆文化として注目を浴びることになったのだと私は考えた。いってみればニューヨークのパティシエがかたくなに守り通して死に絶えてしまった孤高の味わいがやがて一部の人から伝えられ、年月をかけて拡がったということではなく、全く逆に、思わぬところから、テレビという媒体を通して、味わわぬ経験が世の中の味の文化の動向を変えることになったのである。  私がそれほど面白いと思ったくらいだから、アメリカの中産階級にジュリア・チャイルドの料理法は燎原の火の如く拡がりはじめた。出版された単行本も、百万部売れたということが宣伝にうたわれている。アメリカには作るためでなく、読むだけの目的で料理書を買う人たちが大勢いることを勘定に入れても、やはり彼女の料理書が家庭の味に何らかの影響を与えたことは否めない。そしてこの年代を境として、アメリカは食べることに対する態度を変えてしまったかのようにさえ見える。  もちろんそれは彼女の番組『フレンチ・シェフ』だけがきっかけとなったのではなくて、時代そのものの動きが栄養中心から脱却して、手をかけても美味を求めるか、あるいは全く手をかけないかという両極端に向いだしたのであろう。料理書の数が年々増えつづけ、料理評論家も、料理ライターも、料理研究家も職業として成り立つようになった。そして商業的にも、フランス料理風アメリカ料理の全盛期がやってきた。  現在はスフレも、クレープも、ブールギィニョンも、ウェリントンも、ディジョン風マスタードも、ワインも、ホワイトバター(魚用のバターソース)も、都市の中産階級の手中に収められたかのようである。ジュリア・チャイルドは初期の目的を二重にも三重にも達成し、最近はアメリカ料理を研究して著作をまとめ、これまた大当たりだと伝えられる。  ニューヨークに、私の回想のナポレオンを凌ぐペーストリーを売る店が現在あるのだろうか。私は悲観的である。完全主義は商業ベースにのることはできない。現在のように、あらゆるものがビジネスがらみにされてしまう世の中では、ポーノグラフィック・クッキーはあってもああした作品は存在し得るはずがない。  しかし、歴史は十年をひと区切りで論じられるようになった。したがって、反文化はすでに、商業主義もやがては、衰運を迎えることになり、若い人たちが凡庸なるものに嫌気がさす日も遠からずやってくることにはならないだろうか。そうした暁にこそ、再び完全主義の作品が生れてくることもあろう。あとどのくらいの年月がかかるのだろうか? 私にはニューヨークの復活と過去のナポレオンが二重写しになって見える。      シャロット・マラコフ    ジュリア・チャイルドの料理書は日本では未だ翻訳されていないようなので、私は自分で重宝している彼女の“シャロット・マラコフ”をここに紹介したいと思います。日本の味覚から判断すれば少々くどいのですが、私はグラン・マルニエを使わずコアントローで試してみたところ、かなりすっきりしました。何しろ面白いレサピーなので、私は一年に二、三回、秋から冬にかけて作るようです。    まずレイディフィンガースを作ります。出来あがりが不揃いなところが見た目にはなかなか家庭的で面白いのですが、失敗することもありますので、失敗を不経済と思う方は“ル・コント”でホームメードに匹敵する味で、しかもよりよい形のものを求めることができます。    用意するものは材料のほかにクッキー・シート二枚、やわらかいバター、直径一センチの口のペーストリーバッグ(しぼり出し)、大きめのボール二つ、粉砂糖を篩に入れて一カップ半ほど。    まずオーヴンを摂氏一五〇度に熱しておきます。大きめのボールに卵黄三個とグラニュー糖半カップを入れてよく混ぜあわせ、ヴァニラエッセンスを少したらして更にとろりとするまでかきまわします。別のボールで卵白三個分を泡立て、塩少々と酒石酸を小さじ八分の一杯を入れ、艶が出てしっかりするまで攪拌します。この泡立てた卵白の四分の一を卵黄と砂糖を混ぜたボールに入れ、この上から三分の二カップのケーキ用の粉を篩に入れて直接四分の一量ほどふるいかけます。これをさっくりと混ぜ、同じ順をあと三回ふんで全体をふんわりとまとめます。    クッキーシートにはあらかじめバターをひき、粉をふりかけて余分な粉は落してしまっておきます。先ほどの卵と粉の混ぜあわせたものをペーストリーバッグに入れ、幅二・五センチ、長さ一〇センチに絞り出し間隔を二センチずつあけて並べて行きます。最後に上から篩の中に入った粉砂糖を一面に二ミリぐらいの厚さにふりかけ、手早くオーヴンの上段または中段に入れて焼きます。一七、八分すると下側が色づいて周りがかさっとしてきます。中までかさっと焼けていればそれででき上り。ラックの上で冷まします。    さて、次にクッキーなどの丸い缶で直径一八センチ、高さ一〇センチぐらいのものを用意します。パラフィン紙を円形に切って底に敷き、囲りにも一一センチ幅の長い形に切ってまわします。大きな深めのお皿にコアントローと水を半々の割合で入れ、先程のレイディフィンガースをひとつずつ浸して周りに立てかけます。    この次がいよいよ中に入れるクリームです。無塩バターが半ポンド、グラニュー糖が半カップと少し、コアントロー四分の一カップ、セミスイートチョコレート(チップでもよい)を砕いて三分の二カップを四分の一カップの強いコーヒーで溶かしたもの、アーモンドエッセンス少々、アーモンドの粉(新鮮なもの)一カップと三分の一、生クリーム二カップという材料です。    先ずボールもビーターも冷凍庫の中に入れておきます。バターはクリーム状に柔らかくしてから砂糖と練り、色薄くふわふわに仕上げます。コアントロー、溶かしたチョコレート、アーモンドエッセンスの順でバターの中に加えていき、砂糖のつぶつぶが消えるまでよくかきまわします。次にアーモンドの粉を加えます。ここで生クリームをかきまわし、とろりとするくらいまで打ち、これをチョコレートとアーモンドの中に流し入れてかきまわしてスムーズにならします。先ず三分の一量をレイディフィンガースを並べた缶の中に入れてから、今度は余っているレイディフィンガースを水とリキュールに浸してからチョコレートクリームの上に敷きつめます。次にまたチョコレートクリームを入れ、同じことを繰り返して、最後は花びらのようにレイディフィンガースを真ん中を少し重ねたり、沈ませたりしながら並べて終ります。はみ出したものは切りとったり、中に折り込んだりします。この上にまたパラフィン紙を載せ、上からお皿で蓋をして軽い重しをのせ、その上からラップできっちり密封して冷蔵庫で一夜を明かせます。不思議なことにかなりきっちりとかたまりますので出す時は簡単ですし、好みの薄さに切ることも容易です。十人以上のお客さまのデザートに、量としてはたっぷりすぎるほどです。 [#改ページ]

 
幸せだった日のハンバーガー    カンザスシティに行かずとも  マクドナルドは子供たちに愛されて大きくなった。私はこれもたしかな事実だと思う。でも一方では、私の胸の内の淋しい場所で“家族破れてハンバーガー店栄える”の光景が仄暗いライトを浴びて浮び上がる。子供たちが大勢たわむれてこの店の象徴である一見陽気なピエロと遊び、ハンバーガーのたくさん入った大きな箱やストローのささった紙コップをそれぞれに抱えながら父親や母親や弟妹の待つ車にいそいそと帰って行く姿は、まぶしいばかりの初夏の陽ざしを浴びている。それとは対照的に、小さな子供ひとりが母親か父親のどちらかに連れられて、黙しがちに店先きでハンバーガーを食べている姿は、太陽が姿を見せぬ冬の朝である。 「とにかく僕が出張すると、あいつは朝ごはんまでダイアナを連れていってマクドナルドで食べさせるんだ。もちろん毎日だよ。それから学校へ行くんだ。僕がいれば前の晩どんなに遅くたってそんなことはしない。作ってやるよ。何分とかかるわけじゃないもの」  何日かの出張で東京にやってきたアメリカの友は、わが家の夫の焼いた目玉焼きの二つめを食べながら、淋しげに語りだした。 「朝めしからしてそうなんだから、他のことは推して知るべしだ。出張も何日めかになると子供のことが心配で、夕方なんかどうしてるかと思うと、接待を受けても気もそぞろだよ」  彼の妻は幼なじみであった。妻も職業をもっているからお互いが助け合って実に仲睦まじく暮らしていたのだが、子供ができてからバランスが崩れだした。どうみても夫の方が子供の面倒見がよかった。  マクドナルドが早朝から営業をはじめ、ハンバーガー以外にも朝食の品を売ると聞かされて、私の内のマクドナルドの風景はすっかりうす暗い冬の朝になってしまった。それからしばらくして、彼からは夫婦が別れ別れに暮らしている旨を知らせる手紙がとどいた。わが家の子供たちと一緒にはしゃぎ廻っていたダイアナは、明るい、社交的な子供だったが、今はどうしているだろう。私たちが最後に会った時は歯を矯正中で、笑うと金属のバンドが妙ににぎやかな口をしていたが。そんなことも私は淋しく思い出すのである。  ハンバーガーとホットドッグがアメリカのファースト・フッドの代表としてさまざまな由来を伝えられるようになったのは、いつの頃からだったろう。ホットドッグの歴史や、現在のアメリカがどれほどの量のハンバーガーを食べているかという記事を日本の新聞や雑誌が書くようになったのである。ホットドッグの流行は、アメリカでももう一時代前と考えられているし、日本でもあまり人気を得ることがないようだが、ハンバーガーとフライドチキンの繁栄ぶりを日本で見ていると、一般には評判の悪いアメリカの味が、若い人たちには広く深く受け入れられていることの証明のような気がしてくる。そして“家族破れてハンバーガー店栄える”であろうと何であろうと、アメリカの味は最初と最後の行きつくところ、ハンバーガーなのではないかと思ってしまう。  人はだれでも自分が生れ育った食べ物を忘れることはできない。私たち日本人で何の病いにせよ患っている時に、トーストと熱いブロスが欲しいと思う人がいるだろうか。私たちは結局おかゆと梅干しに落ち着くのではないだろうか。長い外国生活の間にも、私たち日本人が恋しく思うのはお茶づけや鮨であろうが、病いの時にトーストと熱いブロスを欲するアメリカ人は、おそらくハンバーガーが恋しくなるのだろうと思う。もし仮りに、ほんとうにハンバーガーであるならば、それは一体いつの頃からそうなったのだろうか。  マーク・トウェインは食べ物に並々ならぬ執着を持った人で、カリフラワーのことを「たかが大学教育を受けたキャベツ( Califlower is only a cabbage with college education )」などと面白い表現をしたこともある。とはいうものの、彼の時代にハンバーガーはまだアメリカのありふれた食べ物にはなっていなかった。トウェインは一八七八年ヨーロッパに滞在中、つくづくとアメリカの食べ物が恋しくなり、焼き林檎からステーキ、亀のスープ、マッシュドポテトにケチャップというように、実に六十種類ほどの品目を『赤毛布外遊記』の中に書きとめた。しかしそのリストの中にハンバーガーは見当らない。トウェインという人は、代表作である『トム・ソーヤーの冒険』にせよ『ハックルベリー・フィンの冒険』にせよ、またコネティカット州ハートフォード市に現存する、いかにも田舎から成功して東部に出てきた人らしい満艦飾趣味の家にせよ、感覚的な推察を下すなら、ハンバーガーを好まずにはいない人だと私は信じている。残念なことに、ハンバーガーが今の形をとるようになったのは、一九〇四年であるといわれ、当時のトウェインはすでに晩年でその関心も世界、社会の動きにあった。  一九〇四年という年はセントルイスで世界博覧会が催された年であった。アメリカは一八〇〇年代のはじめからフェアと呼ぶ催しものを愛してきた。それは教会や学校が主催するごく小規模なものから、郡や州、はては全国から世界に及ぶ大がかりなものまであった。フェアがあれば参加者のための食べ物が考え出された。簡単に大量を作りだすことができて、しかも見物しながら容易に食べられるというのが条件だった。ホットドッグもハンバーガーも、そうした条件にぴったりの品であった。ハンバーガーはこの世界博の会場で、セントルイス在住のドイツ人たちの手によって売り出された。食べやすいように、バンと呼ばれるパンの間にはさまれて、サンドイッチの形をとったのはここが出発点であったろうといわれる。  ハンバーガーの原形はおそらくターターステーキであろう、とたいていの書物には記されている。ドイツのハンブルグ港は古くからバルト海沿岸諸国と往来の繁しい町であった。したがってターター、つまり|韃靼《だつたん》の料理である生肉を細かく刻んでまとめたものがこの港町に伝わり、ここで熱を加えることによってもう一歩進化した形になった。そして十九世紀後半、ドイツからの大量な移民と共に、ターターステーキはハンブルグのステーキとなってアメリカへ渡来した。やがて今世紀のはじめ、ロンドンにこの肉料理を日に三度食すべしと主張する医者が現れ、しばらくはサリスバリーという彼の名にちなんで、ハンブルグのステーキはサリスバリー・ステーキとアメリカでは呼ばれ、最近まで、その名で通っていたのである。つまり、ポパイが登場し、その中でウィンピーがハンバーガーを食べ続け、それが偉大なるアメリカン・フェイヴァリットとなっても、パンの間にはさまれていない一皿のハンバーグ・ステーキは昔も今もサリスバリー・ステーキである。若い頃私がウェイトレスをしていたニューヨークのレストランでも、サリスバリー・ステーキは日替りメニューに頻繁に登場する品目であった。「サリスバリー・ステーキ、ウィズ、スマザード・オニオン」、こう書いてあればハンバーグ・ステーキもなにがしかの惣菜臭が消えているように思ったものだった。  ポパイの漫画によってウィンピーバーガーが出現してからは、戦争による肉不足に反比例して、ハンバーガーの人気は高まるいっぽうであった。ハンバーガーとホットドッグの地位が逆になったのは戦争中である。チーズバーガーが登場し、ハンバーガーを供する店の名までが何々バーガーとかバーガー何々というところが増え続けた。しかしそうしたバーガー一本やりの店名や商品名のつけ方が、どうして今日これほどまでに蔓延してしまったのかを考えると、私にはどうしても不可解なことの方が多い。たとえば、国防省ペンタゴンの中で売っているペンタバーガー。このような響きからは、およそ人間の食べ物とはかけ離れた、味も香りもないような、パサパサのパンとカサカサな肉の組合わせだけがイメージとして伝わってくる。だがとにかくアメリカ人はそうした命名を選んだのである。  もう少し凝って“Hamburger with college education 大学教育を受けたハンバーガー”というマーク・トウェインの向うを張ったような名のハンバーガー店を見かけたことがあった。一九五〇年の終りであった。ハンバーガーといえば“マクドナルド”と人びとが連想するようになるずっと前のことだ。当時“マクドナルド”はまた全米に二百五十店もなかった。“大学教育”の店をはじめて見かけたのはニューヨークのイーストサイドだったが、私はすっかり店名の持つ響きに興をそそられてしまった。なにがしかの個性がありはしないか、たとえば手の込んだレリッシュがついているとか、ケチャップがその店の特製であるとか……私は勝手に想像をめぐらして店へ入ってみた。けれども私の前に出てきたものは、ウォール街の近くのオフィスで、毎日のように出前をたのむハンバーガーがいかに美味であるかを悟らせてくれる代物でしかなかった。私はそれ以来言葉の響きによって物の味を推定することに全く自信を失った。あまり凝った名前をつけたり、気の利きすぎた言葉の宣伝を書いたりしているところは、実質が乏しいゆえにそういうことをすると言えないこともない。“マクドナルド”、そんな店名で充分だと思う。  ハンバーガーのおいしさは肉の質やバンの味わいももちろん大きな要素をしめるが、何にも増してものをいうのは、料理をしたり食べたりする時の状況ではないだろうか。 「アメリカ人は人を招いておいてハンバーガーを出したりする。功なり名遂げた老人の豪邸に招かれたが、出されたものはケンタッキー・フライドチキンだった。おどろいた」  ある日本の男性の口からこうした言葉が洩れた時、私は、ああこの人は状況の説明をとばしていると思った。  芝生の庭の一隅にしつらえられた煉瓦作りの炉には炭火が|熾《おこ》り、何キログラムもあるような挽き肉の塊りは見るまに幾つものハンバーガーに丸められ、片はしから焼けた鉄網の上にのせられる。肉からしたたる脂が火の上に落ちて、肉の|燔《や》ける時独特の、あのおいしい匂いを漂わせながら煙があがる。大きな木製のテーブルの上には玉葱のスライス、トマト、ピクルス、オリーヴ、ポテトチップが山のように並び、ケチャップにマスタード、レリッシュにタバスコにあらゆるこまごまとした薬味の皿が数知れず置かれている。子供たちは興奮して走りまわり、声をあげ、大人たちに|窘《たしな》められる。食いしん坊のよく太った子供は、肉の燔ける炉のそばに立ったまま、自分のものと決めた肉から目を離さない。  冷たいビールやソーダ、大きなガラスの器に入ったパンチ、そして水割り、白葡萄酒などのあらゆる種類の飲みものが注文でグラスや紙コップに注がれる。胡麻をふったバンが熱くなって肉の焼き上がるのを待っている。子供も大人もレア、ミディアム、ウェルダンと各自の好みを焼き手に告げる。ジージーと音をたてながらまん丸いバンの中におさまったハンバーガーは、あっという間にそれぞれの皿に引きとられ、次にはまた赤い生肉が網の上に並ぶ。テーブルの上のあらゆるものを少しずつはさむとすれば、どんなに口を大きく開けようにも、一口に噛みつくことはできないハンバーガー! 一瞬の静寂の中で、子供たちは真剣に、大人たちは少々照れながら頬ばりはじめる。  幼ない子供を持つアメリカの家族——家族が共に過すことを幸せと信じている人びとは、野に山にわが庭に、よくこうした光景をくり拡げる。親しい友だちも、仲のよい近隣も、また遠来の客も招いて、ごくうちとけて楽しむ時の食べものがハンバーガーなのである。戸外で火を燃やすから季節はどうしても若葉時から秋口までが盛りとなる。美しい自然、鮮やかな緑、香ぐわしい空気、そして寛いだやさしい気持、可愛いい子供たち、寛容で元気な老人たち、これだけ揃っていればあとはどのようなご馳走が必要であろうか。だれにとっても、一番身近でありふれた、食べなれたものを、一気呵成に料理することがいちばんのご馳走になるのではないだろうか。自由につけ足す玉葱やトマトの薄切り、好みのレリッシュが店で買いもとめるハンバーガーに決定的な差をつける。その上牛肉が良質であれば、焼き加減が完全であるならば、手作りのハンバーガーの味はおそらく、このような状況のもとではエレガントな料理の一皿をも凌駕するように思うのだが……  そんなわけで私は、チェーン・ストアなどで売っているハンバーガーはどうでもよい、いわば腹のたしの役目を果たすだけの食べ物と思っている一方、家族が親しい友とより集った時に燔くハンバーガーには愛着もあるし大きな信頼を寄せている。かつて、ニューヨーク・タイムスの料理欄を担当していたクレイグ・クレイボーンは、マクドナルドの“ビッグマック”の味はと問われて、「swallowable 呑みこめる」と答えていた。私はこの答えの中にひそむニュアンスを高く評価しているのである。ハンバーガーの味をファースト・フッドのチェーンの商品から判断して欲しくない。ケンタッキー・フライドチキンにしても、店名と料理名と味わいのすべてを同一視して欲しくないのである。  アメリカの南部には“southern fry サザン・フライ”と呼ばれる伝統的な鶏のフライ料理があり、古き佳き南部を偲ぶことのできる一品として、現在でも人気が高い。南部を代表する料理といえばまず、“サザン・フライ”であり、ホットビスケットと呼ばれる即席の小さなまるいパンである。そしてこの“サザン・フライ”を作るのにいちばんふさわしいのがケンタッキー州の“マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム”のような起伏に富んだ自然の中で、気ままに餌をついばんで育った鶏であるといわれてきた。表面が|かりっ《ヽヽヽ》とこげて中身がしっとりと味わいのある“サザン・フライ”は、簡単なようで作ってみるととても難しい。味覚に敏感な南部の料理人、つまり黒人女性の腕の見せどころといわれてきた料理である。南部の歴史と地域性に多少の理解があれば、立派なダイニングルームで鶏のフライやコーンプディングそれにホットビスケットなどのもてなしを受けたなら、かえってその家のホステスの饗応に対する深い心意気が伝わってくるのである。  挽き肉だから、鶏だから、客をもてなすに相応しからずという考え方は、いかにも経済観念の虜であることを示すようで、かえって浅ましいことだと思う。食べ物は「good and honest」を第一とするのであり、人間のつけた価格の上下によって食べ物そのものの格付けをすることは淋しい。 「good and honest」なハンバーガーを人生の折にふれて味わい、長じてはわが子にも与えてきたアメリカ人は、目を|瞑《つぶ》って幸せの時を描き出すとすれば、私たちの遠足の日のおにぎりのように、ハンバーガーはいつも生活と共にあったのである。遥か幼い頃のピクニックにも、遠い少年の日の遊びのしめくくりにも、また若い親として我が子のために催してやった誕生会にも、幸せだったあの頃にも、ハンバーガーはあの匂いをたてながら、子供や大人に、ハンバーガーだけが与えられる満足感を与えてきた。そして人びとはその時の代用品を無意識のうちに追い求めて、あちらのバーガー、こちらのバーガーを買い続けるのである。 「私たちもいまだにハンバーガーを食べるのよ。初夏からは庭で火を|熾《おこ》して。老夫婦がふたりだけでおかしいわね、なんてお互いに照れながら。そう、一週間に一度は食べるのではないかしら。要するに好きなのでしょうね。それともなつかしいのかしら、子供、子供で暮らしていたあの頃が……」  アメリカ独立革命史の権威であるメリル・ジェンセンの夫人ジュヌヴィエーヴが、十七、八年前につぶやくように言われた言葉を、私は先生の死後よく思い出すようになった。私の家族をもてなすために、とくに子供たちのことを考えて戸外で料理をして下さった宵だった。モーツァルトがお好きだった先生は、室内ではよくレコードをかけながら大きな椅子に深々と腰をかけ、本を読んでおられた。私には二歳になったばかりの、モーツァルトのアレグロやアレグレットでいつもきまって踊りだす子供がいた。 「おいおい、これはフラメンコではないんだよ」、先生は読んでおられる本から目を上げて、英語を碌に知らぬ幼児に語りかけられるのだった。私はそのたびにひどく恐縮した。  その日炭火をおこすのはもちろん先生の係りだった。私の子供たちは楽しくて芝生の上を犬ころのように転げまわった。 「今日は残念ながらモーツァルトのフラメンコは踊れないよ、うちの中には入らないから。お前さんのママを少しはリラックスさせてやらなくちゃ」  先生は子供を相手にとても可愛い笑顔をされた。  その日二歳の幼児と彼の兄がいくつジェンセン夫人の特製ハンバーガーを平らげたかを私は憶えていない。十八年後の今日、ジェンセン夫人はもうハンバーガーを炭火で焼くようなことはないと思う。あの頃の庭のある家はすでに何年か前に人手に渡った。私の子供は三歳になってまもなく急死してしまった。そして先生も今ではこの世を去ってしまわれた。 『ニューヨーカー』誌上で活躍するカルヴィン・トリリンによれば、全米一おいしいハンバーガーは、カンザスシティの“ウィンステッド”にあるという。もっともこの人はどこまでが本気か分からぬような人だが。でも私はカンザス・シティまで食べに行ってみようとは思わない。だれでも、幸せだった日のハンバーガーがいちばんおいしいのだから。      悪魔のレリッシュ    妙なところから始まるレサピーで、我ながら少しおかしいのですが、二十五年前のニューヨークはミッドタウンに、“インディア・イン”というレストランがありました。おいしい、とは決して言えない店でしたが、何しろフルコース・ディナーが一ドル何がしというお安さでした。ですから学生どもはお金がなかろうと何だろうと行くことができましたし、もうひとつ、インド人のウェイトレスがとびきりの高貴な美人でしたから、ニューヨークで暮らした方はご記憶の方もあるかも知れません。    私はこの店で出すカレーではなくて、レリッシュが気に入りました。それでも舌の上でカンシャク玉をもった悪魔が踊るように辛いので、病みつきになっては味覚も鈍くなるでしょうし、胃にもさわるかも知れません。カレーだけではなく、ハンバーガーをも、ホットドッグをもよく引き立てる味なので、時々思い出したように作っては子供が好むのを見てこれは大変とばかりに叱ります。    玉葱のみじん切りを大きいものでしたら一個分、中ぐらいでしたら二個分作ります。その中にタバスコをかなりと黒胡椒、ベーシル、タイム、オレガノなどを少しずつ入れます。オールスパイスもシナモンもナツメッグも振りかけます。レモンの汁半個分を絞り、パセリのみじん切りも入れこみます。さて、その中に、さらにケチャップまたはチリソースと醤油を大さじ一杯ずつ入れて混ぜ合わせ、マギーソースも三、四滴、味の素もさらさらとふりかけ、マーマレードを小さじ一杯かくし味にして入れたりしますが、最後は唐がらしの刻んだもの(クラッシュト・レッドペパー)とカイエンヌペパーで辛みに拍車をかけます。ラップをかけて、一、二時間味をならして、それぞれの料理にそえます。名付ければ「デヴィルズ・レリッシュ」でしょうか。 [#改ページ]

 
オーソドックス・ユダヤの不思議な流儀    モーゼの授けたエキゾティシズム  あれはたしか未だ東京のスモークト・サーモンが、戦前からあったような堅い、昔ながらの乾いた種類だけ(ローマイヤーにはソフトがその頃でもあったし、一流ホテルには、そろそろ前菜として出まわり始めていたような気がする)の頃であった。私はニューヨークから友だちの両親が私たちに会うために東京を訪問するという報せを受けとって、これは大変なことになったと思った。なぜなら、友だちの両親というのはユダヤ系の化学者の夫妻で、一番厳しいユダヤ教を信奉するオーソドックス・ユダヤではないにしても、ある種の戒律は守って生きてきた、世にいわゆるリフォームド・ジュウといわれる人たちだったからだ(この中間に位するのがコンサーヴァティヴ・ジュウであり、オーソドックスに継いで食事の戒律をこまかく守っている)。心配はそれだけでなかった。夫妻はともに心やさしい人であったが、夫人の方はまれに見るユーモアの持ち主でありながら、世にもまた、好みの難しい女性であったからである。  ユダヤ系のアメリカ人の中には、およそ何でも口にするといわれる日本人をさえ顔色なからしむる人びともあり、彼らに世界の美味と風習の話を聞くことは私の無上の歓びであるが、まず多くは食べ方と好みがひどくむずかしいと覚悟をした方がよい。  当時の私には、現在の私がもっているほどのユダヤ系の人びとが禁じられている食品についての知識はなかった。したがって夫も私も、この客を家に迎えるにあたって、私たちが一年まえにニューヨークを去るまでに経験した、あらゆるユダヤ系の友人との生活上の接触を思い浮べ、まるで昔受けた試験の勉強をテキストなしに総ざらいするようなかたちになった。しかし私たちの友だちは若い世代であるため、ほとんどがリベラル・ジュウで、おそらく何の恐れも偏見もなしに私の作るさしみに舌鼓を打つ、味覚上の先駆者のような人たちばかりだったから、思い浮んだ情景も彼らの話しぶりも、たいした助けにはならなかった。改めて旧約聖書の中の“レヴィ記”を熟読すれば全貌が解るとは知らされても、若かった私には、それだけの執拗な知識欲が備わっていなかった。そうこうするうちに彼らは到着し、私は予想通りこの老夫妻をわが家の客として迎えることになった。  私はローマイヤーからスモークト・サーモンを求め、特製の|焼 売《シユウマイ》を蟹と鶏肉で作り、日本の味を少しでももてなしに加えたいと思いつつ、ほうれん草を胡麻入りドレッシングで和え、大きな蝦の鬼殻焼きを作り、トマトのサラダを冷やし、日本の苺の美しいルビーのような色を白いババロアに飾って、文字通り奮闘努力したのだが、結果は大失敗に終った。彼らが喜々として食べたものは、スモークト・サーモンとトマトのサラダとババロアだけだったのである。  だいたいが老人の早耳に早合点。まず焼売についての説明のうち、これはたいていは豚肉で作りますが、今日は蟹と鶏肉で作りました、というひとことで焼売は手つかずに終った。次に蝦はオーソドックスのユダヤ教の信者でない限り口にしてよい食品だと聞いていたが、たれに含まれた微量の砂糖分がお気に召さず、各自一匹の試食にとどまった。もうその頃から慌てふためいた私は、その後どのようにテーブルをとりつくろったものか憶えてはいないものの、ほうれん草の胡麻入りドレッシングもそのエキゾティックな味わいの故に失敗と分かった時にはパニックに近い状態となった。トマトのサラダと苺のババロアを楽しんだ老人をついに送り出した時には、気持の上の疲れが昂じて、私はもう二度と外国人客を招いてエキゾティックな味を喜んでもらいたいという意欲は出すまい、と固く心に誓ったのであった。  外国の客を自宅に招く難しさは、相手の出身国や食生活の範囲を知っていればともかく、初対面であったり、名前や言葉の響きからあて推量をせねばならぬ場合は、イソップの「鶴と狐」の食事を思い浮べ、自己流の山海の珍味でもてなす意欲を出さぬことが成功の鍵であろう。用意した食べ物が消え去ることと会話が活発にやりとりされることが、どのような賛辞にもましてその食卓の成功を物語るのである。私たちはこの化学者の夫妻とは昨日、今日の間柄ではなく、彼らに四十年近く仕える黒人コックのエライザが作った素朴にして非のうちどころのないような、ローストやパイで何度も心厚いもてなしを受けていた。それにもかかわらず私は、若さによる物ごとの理解力の足りなさや気負いで、この日の失敗を招いたのだと今にして思う。昭和三十年代半ば、私もまだ二十代の日であった。  元来ユダヤの人びとはその迫害の歴史を見れば推察できるように、富あるものたちはヨーロッパにおける|彷徨《さまよ》える国際人であった。したがってユダヤの食卓からは、ユダヤ料理というよりは、さまざまな国々にルーツを持つ国際色華やかなる構成が窺われて、私の興味はつきることがない。彼らはその長き放浪の歴史の間に、南欧の国々からはオリーヴやトマトを、ドイツからはサワーブラーテンのような甘酸っぱい牛肉料理やバターを使ったお菓子類を、ルーマニアからは言葉もそのまま、パストラミやブリンツと呼ばれるクレープのようなお焼きを、オランダからは鰊の酢漬けやパンを、ポーランドからは鵞鳥や鶏のレバーや脂身を使う鳥料理を、それに東欧やロシアからはそば粉を使ったパンやおだんごやキャベツ料理をとり入れたのであった。そしてボルシチは、それらの国々のそれぞれの作り方で、サワークリームを浮せたり、浮せなかったりしながら、季節を問わず君臨していた。  しかし富あるユダヤ人たちは、これらの多国籍からなる伝統的ユダヤの食卓には、むしろこだわらなかった。彷徨える国際人としての広い知識と生活の知恵が、宗教を過去の世界へ押しやり、現在ある状況を最重要視して未来に備えるという、柔軟で現実的な生き方を身につけたのであった。ひとたび宗教を離れてしまえば、ユダヤ人は世界で最も進んだ、おいしいものをおいしいものとして素直に認め、楽しむことのできる能力をもつ人種になったのだと私は思う。  あれはいけない、これも食べてはいけないという食生活の風習を宗教と共にかたくなに守り続けてきたのは、むしろ富なきユダヤの民であった。そして彼らのうち、少なからぬ数が生活の歴史が習性となり、食べ物に対しての好き嫌いとなって、食べられるものの幅のまことに限られた人間に成長してしまった。しかしそれも、かつて東欧からの移民のゲットーのように形成されていたニューヨークの東側下町やブルックリンの一部が、社会階層を昇りつづけてアメリカの中流になり、人びとが他のコミュニティに融け込んでしまった現在では、単純に富裕のユダヤと富なきユダヤというような画一的な分け方は、食べ方の上からはことさらにできなくなった。すべて食べ方の柔軟性を形づくる根本は家庭であろう。  確かに言えることは、ニューヨークは依然として“コーシャー”(ユダヤ教の法に従って処理した)食品、コーシャー・レストランが栄える都である事実だ。したがってユダヤの惣菜を売る“ジュウイッシュ・デリカテッセン”も、ハウストン・ストリート(ニューヨークのこの通りはヒューストンでなくハウストンと発音する)をはじめとして数の上でも質の上でも充実を示し、人気を呼ぶようになった。コーシャー・ピクルズやポテト・パンケーキ、ポテト・サラド、スモークト・フィッシュ、オリーヴ、詰めものをした魚の冷製(ゲフュルテ・フィッシュ)、パストラミ、スモークト・タング、クリームチーズ、ファーマーチーズ、さまざまなエッグ・ブレッドからベーゲルと呼ばれるドーナツ型をしたパンを並べたてた店内は、その店の主人のイスラエルへの熱い心をあらわにした政治色さえ見られることもある。  世の中がグールメ志向になり、こうしたデリカテッセンも、ユダヤ系でない人びとの間にまで人気が高まり、各国の食べ物が国という枠組をはずしはじめるようになったのはここ十年ほどのことであろう。私は二十代の終りに失敗をして以来多くを学んだはずであった。ところが、世の中がこうして当時とは変ってからも、私はユダヤ系のアメリカ人を自宅に招いては、何回かの失敗をくり返した。  一度は明らかに夫妻そろってニューヨークの下町出身と分かる客を招いて、少々ヘマをやらかした。どうしても日本の味を一品食卓に載せたいと思い、比較的抵抗のない茶碗蒸しを作った。ところが、これのだしを鰹節でとったことが失敗の原因となった。鰹と昆布のだしをべースにしたエッグ・カスタードは、彼らにとっては魚臭かったのであろう、客は二人とも二口ほど味わってから、大げさな賞め言葉と共に容器の蓋を閉じ、これを二度と開けることがなかった。  元来文学的ニューヨーカーは形容詞が豊富で、使い方も斬新、かつ大胆であるから、どれほどの意味をもっているのかを判断するには経験が必要なのである。ところが若い日に受けた影響は根強く残るもので、私もまた実直きわまりないアメリカの中西部などに行くと、ふと自分がいかに大げさな、ひとりよがりの単語を使うかを反省することになる。とにかくこの時は、私はまたしても日本の味のエキゾティシズムをもてなしの一要素と考えた自分の愚かさを恥じた。そして対照的に文芸評論家アルフレッド・ケイズンの『三十年代に世に出でて』の中のあるやり切れない情景を思い出した。  ケイズンはブルックリンのブランズビル、ユダヤのコミュニティに育った人である。二十代の、まだ駆け出しの編集者の頃、彼は上役のファーガソンをブルックリンの貧しき我が家に招き、ユダヤの食卓のエキゾティシズムとユダヤの家庭の持つある種の神秘感をご馳走にして、婚期の遅れた叔母ソフィに引き合わせることを思いつき、さる八月の宵にそれを実行した。しかしこの一家にとって、ファーガソンが息子の上司であり、非ユダヤであることだけでも、食卓の緊張はただならぬものに発展する。  父親はぎりぎりまで背伸びをして物慣れぬ動作で客に酒をすすめ、とってつけたように知的な話題をもち出す。母親は次から次へユダヤ料理の皿を食卓へ送りこんで、客にそれを味わってくれるように強要することで、ケイズンにとって余計にいたたまれぬような情況をつくり出す。しかもその場のちぐはぐな雰囲気を助長するように、肝心のソフィはおし黙ったまま、相手が非ユダヤ人である点にこだわり、口を開こうとしない。  客のファーガソンがまことにさりげなく魅力に満ちて別れを告げた時、ケイズンは地下鉄の駅まで客を送る。ファーガソンは沈黙のままケイズンを観察し、「いったい何がそんなにエキゾティックだというんだ」と言うのだった。ケイズンがファーガソンにとってエキゾティックであり、何がしかの神秘感があろうと思ったものは、ファーガソンにとっては、つまらぬ、退屈きわまりないものでしかなかったのだった。  食卓の雰囲気というものは微妙なもので、私たちのテーブルに関しては話題もよく噛みあい、料理のうちで気に入らぬ要素があれば、それを補うに足るうちとけた共通理解もあったのだが、その茶碗蒸しで私が自らを反省してからは、妙に座がしらけてしまった。私は『三十年代に世に出でて』の中でケイズンが描いたやり切れない気持を、話は違っても自分の状況にあてはめて考えた。もしかしたら私はあの中でケイズンの母親がしたようなことをしたのではないかと自問した。ところがデザートの西洋梨に添えるザバリョーネ(玉子とクリームで作るデザートソース)をかきまわしているうちに、まったく別の風景が心の中に浮んできた。昔住んでいたニューヨークのアパートの近くにあったユダヤ教のシナゴグ(ユダヤ教の教会)を思い出したのである。  金曜日の夜になるとここには黒い山高帽に黒いスーツを身につけた男性が続々と集ってくる。黒い鬚の男性も多い。そうした黒々とした像がシナゴグの前を動きまわり、立ち止まり、談笑し、ついに建物の中に消えて行く様子は、何かしら普通ではなかった。夕暮れと共に集いくる人びとの夜の儀式と思うだけでそれは密儀めいた印象を与え、神秘的でエキゾティックである以上に、降霊術の会でも催されるのではないかと思わせるような、多少不気味な雰囲気でもあった。  しかし私は、この時にもそのように感じるすぐ後から、自分の無知からくる物事への偏見に連なる態度を責めた。が、その一方では、人びとが礼拝をせぬ時刻にそれを要求し、およそ些細な出来ごとにすぐ激怒するエホバの神を思った。この神を崇める人びとが人生の枝葉末節にたいして執拗なまでに細かい態度をとる事実を思い浮べ、その必然性は理解できるように感じた。  ユダヤ流食卓の制約についての知識を私に授けてくれたのは、かつての隣人にして医者の妻、ルースである。彼女の家族はオーソドックス・ユダヤの戒律に従う、熱心なユダヤ教徒であった。ルースの家は金曜日の夜になると主人がシナゴグに礼拝に出かけ、土曜日の前半は家族全員が家に閉じこもり、この時間には訪問者があっても決して応えない。カーテンをひいて外部からの視線を完全に遮り、家族全体がひっそりと家に在宅するこの家の土曜日の佇まいは、沈黙が支配するせいか少しミステリアスであった。たとえば秋、いつの間にか道路に赤や黄のタイルを敷きつめ、うち重ねるように散る落ち葉を、他の家では家族が協力しながら掃き寄せたり袋に入れたりする土曜日、この家の前だけには必ず紅葉の絨毯が敷かれたままであった。私はこの家の風習を知らぬ頃、ある土曜日の午前中に訪ねたことがあったが、何の返答もなかった。私はすぐ気がついて踵を返したが、ふと、中からは覗かれているような背後の視線を感じた(これは私の偏見であろう)。  ある時、私はルースとだいぶ親しくなってからいたずら心を起こした。気の合った隣家の主婦のベティと共同で、是が非でもルースと彼女の夫君を交えて夕食会を催そうという計画をたてたのである。アメリカは何軒かが共同で料理を持ち寄って食事をする会がある。ルースは他家の夕食会には出席しない事実を知っていたので、私たちは彼女の指示に従うつもりであることを伝え、喜んでコーシャー食品でも何でも揃える旨を申し出た。コーシャー食品さえ手に入れば、あるいは簡単にその機会はあるように思っていた私たちは、ルースの当惑顔を見て、まず、これは尋常一様のわずらわしさではないらしいと察した。 「あなたたちに迷惑をかけるから、私たちは食事の後のコーヒーの時に参加するわよ」  彼女はまずそう言うのだった。しかし隣家のベティも私も引き下らなかった。 「迷惑じゃないわ、私たち好奇心に充ち充ちていて『知りたがりやのジョージ』もいいところなの。ユダヤ流の食べ方を教えてほしい。完全なるテーブルをしつらえてお二方をお招きするわ」 「前菜は缶詰めのゲフュルテ・フィッシュを買ってくるわ。それにお野菜とディプではどうかしら。メインディッシュは、お肉をバターで調理してはいけないと聞いていたけれど……どのようにしましょうか。コーシャーのラム・チョプを燔くのはどうかしら」  私たちが熱心になればなるほどルースの顔からは元気がなくなり、やがて頬笑みが全く消えてしまった。 「それがね、驚かないで欲しいわ。でも、ざっと説明すれば、貝も甲殻類もだめなの。肉のお料理があればお野菜はバターやクリームを使って調理してはいけないし、『過ぎ越しの祭』の時などは家の中にパン屑があってもいけないの。つまりイースト菌を使ったパンは禁制なばかりでなく、パン屑が触れることによって汚染されたかも知れぬ食器を使うこと自体、第一に禁止されているの。お魚は鱗さえあれば血液が冷たい動物ということで制約のない食べものだけれど、生きているものでなくてはいけない。アイスクリームも肉を食べた時にはいけないの。これではいくら貴方たちが張り切って下さってもだめでしょう」 「何故そうなのかということはとても説明しにくいけれど、つまり私たちは何千年の昔モーゼが教えたように食べて、絶食をしながら災難を逃れ、生き延びてきた民族なのよ。一番危険視されるパン種だって、まあバクテリアということで当時の知識では繁殖する菌なんだわね。つまり何千年昔の熱い砂漠の国を生き抜く生活の智恵と宗教が結びついているのよ。まあ私たちの世界の外から見れば、もう食べ方を変える時が来ているのでしょうね。事実、モンゴールあたりでも、現政府は国民に豚肉を食べることを奨励しているそうだけれど」 「そういうわけで、私たちも皆さんと夕食をご一緒したいのは山々だけれど、うまくは行かないの。いつかコーシャー・レストランで夕食をご一緒しましょう」  私たちは初めの勢いはどこへやら、少々ばつの悪い思いをしながらすごすごと引き下った。私たちは料理に関しては彼らのルールに従って調理をし、戒律に触れないものを作り出せる自信はあったが、お皿や調理道具の話を聞いた時に、これはもう不可能であることを知った。パン種のバクテリアおよびその他の菌に汚染されている恐れのある銀器、食器、および調理器具の正式な殺菌方法は、石を赤くなるまで熱して、これを煮えたぎった湯の中に入れ、その中ですべてを滅菌するのだという。煮豆が十五分でできたり、大きなローストが十分足らずで火が通ったりするこの世の中で、ルースの家族がモーゼの時代さながらの方法にたよっているとは思えないが、私はとにかくこの話を聞いた時に夕食会の件を断念したのである。  ユダヤ教には多くの祭日と節食の日と断食に近い日があるが、中でも一年のうちで一番大切な祭日、「過ぎ越しの祭」の食事はどのようにして用意されるのだろう。  まずこの日を迎えるにあたっては、家中を磨き上げねばならない。ルースの言葉通り、どこかにパン屑でも落ちていようものなら、これが禍いのもとになりかねないからである。それから古きしきたりにのっとり、食器類の滅菌をする。それも「過ぎ越しの祭」用として、パン種による汚染から隔離してあった上等のディナーセットである。温血の哺乳動物の肉料理をよそう皿やこれを食べるときに使う銀器と野菜を食べる時に使うものは同じであってはならない。したがって、「過ぎ越しの祭」だけでも食器は二セット必要となる。  それ以外にもさまざまな準備がなされて、いよいよこの祭りのハイライトである「セイダー・ディナー」の日がやってくる。日本のお正月にも似たこの祭りは、やはり長老のもとに家族親戚が集まり、ダイニング・ルームだけでは坐りきれぬほどの人数の食卓となる。家中のあらゆる椅子やベンチが持ち込まれ、テーブルは居間にまで進出して、伸びるだけ、つけ足せるだけ長くしつらえられる。  一時代前まで、この日の食卓の準備は何日がかりかであった。コーシャーのきまりを守れば、鶏は調理の寸前まで生きていなければならず、魚もバスタッブの中などで泳いでいなければならなかった。女たちは祝宴を張る家に何日か前から出かけて行っては鶏の羽根をむしり、魚の下ごしらえをして、両方の肉を切り刻んだ。  また、パン種なしのパンをおいしく食べるのは工夫と技術の見せどころであった。この日の主食にあたるマツォーと呼ばれるパンをすでにパック入りの「マツォーの荒挽き」を用いずに作るのは、多くの困難が伴うという。まずアメリカでは、この時期にマツォーに使用するべきタイプの小麦粉がないといわれる。好奇心から作ってみる場合のために作り方を載せるとすれば、すべてこまかいきまりは無視した上で、無漂白粉二カップを半カップほどの水で溶き、七、八回生地をこね、三ミリほどの薄さにのばして十七、八センチの円形に切る。これを華氏五〇〇度のオーヴンで七、八分焼けばでき上りである。表面が色づいている点をのぞけば、アラブの国々のパンと変るところがない。  食事の最初は塩水につけたゆで卵で始まる。卵は再生と希望の、塩水は涙の象徴であるからだ。それから一日二日前にでき上って以来ずっと冷やされ続けていたゲフュルテ・フィッシュとなる。ゲフュルテ・フィッシュは言ってみれば淡水魚で作る魚だんごのようなものだが、冷たいゼリーの中にスパイスのきいた魚のボールがおさまって、西洋わさびと共に食べる味わいは、私たち日本人にも好もしい。その他アーモンドを使ったトルテがあり、マツォーのボールの入ったスープがあり、ボルシチがある。 「過ぎ越しの祭」の饗宴の間には、家の主人は何度かソファの上に自らを横たえねばならない。これもまたモーゼの教える生活の智恵であることは言うまでもない。  モーゼから三千年余、人間は自己を除いたあらゆる束縛から、その意志さえあるならば解放されてよいように思うのは間違いだろうか。それとも食べ方の歴史が、食べものによって培われた精神と人間性が、その意志の存在すら認めさせないのだろうか。      本間流ゲフュルテ・フィッシュ    ユダヤ料理の代表ともいえるゲフュルテ・フィッシュは淡水魚で作るおだんごなのですが、私は生の淡水魚をこねくりまわすことにどうしても気が進みません。したがってここで試みたものは似て非なるもの、|鰈《かれい》などを使っては鱗があるのかないのか、モーゼにもタルムードにも許してもらえそうもありませんが、とにかく私はここで私なりのゲフュルテ・フィッシュを創りだしてみました。    鰈と|鯔《ぼら》と伊佐幾を使って作ったゲフュルテ・フィッシュは、磯の匂いをスパイスを使って消したせいもあり、見事な味わいになりました。    鰈は五枚に、鯔と伊佐幾は三枚にして、身からは中の骨を抜いておきます。頭や中骨、皮、尾鰭はよく冷水で洗います。魚の身だけで七〇〇グラムもあったでしょうか、私はそれを冷水でよく洗いこまかく刻んでからすり身を作る時にするように、包丁でとんとん叩きました。これをボールにとり、それから中ぐらいの玉葱をすりおろして混ぜてから卵一個と大さじ一杯のアイスウォーターを入れてかきまわします。白胡椒と塩で薄味をつけ、最後にマツォーミールならぬ砕いたクラッカーを入れて全体がねっとりと炊いたかためのおかゆのように仕上げます。    玉葱の輪切り、パセリと人参を花型に切ったもの、セロリと粒胡椒を入れた鍋の中に水と白葡萄酒をたして三カップぐらい注ぎ、煮たててからベイリーフとタイムを加えます。この中にあら類を入れ一〇分ほど煮つめ、その中に先ほどの魚のすり身をおだんごにしてそっと入れこみます。大さじ山もり一杯位がおだんご一個分です。塩を加え、スープの味を見てほんの少しかくし砂糖を加えるのもよいかも知れません。三〇分以上煮つめたらば味をチェックし、あと一〇分ほどで火を止め、レモン汁をたらし、蓋を開けてそのまま冷まします。冷めたらおだんごをバットに並べ、上からスープを漉してかけ、玉葱と人参も上に少し散らしてラップをかけて冷蔵庫で冷やします。一日おいてから西洋わさびをすりおろしたものをレモン汁でよくかきまぜ、薬味にしてゼリーごと頂きます。    シャローム アレイヘム! 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裸足のグリニッチ・ヴィレッジ    縫いぐるみへの郷愁  一九六〇年、まだ春も浅い頃、私は足かけ四年にわたるニューヨーク生活に終止符をうって横浜へ帰ってきた。終止符とはいっても、何か目的が終了したわけでも、新しい目あてがあるわけでもなかった。私に若き日の長き放浪の旅を許していた私の父が、病に倒れたことによって、それまでの生活を続けようにも、留守宅の方が支障をきたしてしまったのであった。私たちは子供を私の両親に託していたのである。  波止場には二年前に別れたわが子が、写真で見るよりははるかに大きく、丸まると太って、真赤な頬っぺたをしながら立っている姿が見えた。船が岸壁に近付きはじめた時、対岸のその子は何かを訴えたらしく、まわりの者があわてて抱きかかえ、あちこちに走りまわった。ところが明らかに抱いていた者は途中でせっぱつまって意志を変え、わが子は衆目の見守る中を近づきつつある船に向って私たちを出迎えるとっておきの挨拶でもするように、重そうなお尻をもち上げられて堂々とおしっこをさせられた。ころころに見えた子は、長い白いレギングスの下に何枚とも知れぬパンツを|穿《は》かされていた。私はその時、船の上から、忘れかけていた日本の冬の悲しさをその幾重にも重なるパンツに見たのであった。  私は自分の生活の日本における幕あけが、このようなドタバタで始まったことを、これからの人生の象徴のように眺めていた。そして、この日私が行く末を思って抱いた漠然とした予感は、現実のものとなって私の身につきまとい、二十余年の年月を経ても離れて行かない。私はそれからついにこの年になるまで、落ちついた暮らしをしたことがなかった。  弥生とは名ばかりの、家の中まで凍えるような東京へ戻り、新しい生活を始めた私は、その後何年たっても決して日本の暮らしに心を開いて和むことを知らなかった。止むなく中断してきたニューヨークの生活を想い、あらゆるものごとに上の空で、心ここにあらずといったような、いわば幽霊が生きているような日々を送っていた。けれども私はニューヨークの生活の何がそれほどに私の心を捉えていたのかをつきとめようとしなかった。私の追い求めていたのは夜中の十二時にニューヨーク・タイムスの日曜版を買いに街に出かけるような気ままな暮らしであったのだろうか。それとも、自分が外国人であることを露ほどにも感じさせない、アメリカという国、とくにニューヨークの温かさあるいは渾沌であったのだろうか。それとも、ごく少数の、人生の喜びと悲しみを分かちあうようになった親しいアメリカの友であったのだろうか。  私はニューヨークを去る時、アメリカの友だちからさまざまな人形を手渡された。当時出はじめた柔かいプラスティックの、ミルクも飲めばおしっこもしますという宣伝の人形、布でできたとぼけた大きな顔にセーラー服とブラブラした足が手作り風なラゲディ・アンディ、大きな縫いぐるみ、そしてその中には、二十余年の後の現在でも、あまり手垢で汚れていないシュタイフの小羊と小兎の、小さいが見事な縫いぐるみがあった。私の母は初めて見るこのシュタイフの精巧で本物の動物が彷彿とするようなつくりに感激して、この二つはもう二度と手に入らぬ品であろうから、この子がもう少し大きくなって、少なくともこれが並はずれて立派なぬいぐるみであると分かるようになるまでしまって置きましょうと言うのだった。そしてさっさとデパートの包み紙にくるんで紐をかけ、戸棚にしまいこんだ。  シュタイフの兎と羊の首にはそれぞれ赤いリボン、青いリボンが結んであった。やがて母は亡くなり、私は母の言葉を耳の内に聞くように、それから生れてきた三人の子供にも、少しは美しいものが分かりかけてからこれを出して渡し、ある期間の後にさっさと取り上げてしまう歴史を繰り返した。長男への贈り物であったこの二匹の小さな動物が、どのように可愛いわが子たちであろうと、彼らのよだれや手垢で汚れてしまうのを見るのが忍びないかのように、まるで二匹の小さな動物がいつまでも美しくきれいでいなければそれを贈ってくれたマーシャの幸せが保証されないかのように、出してはしまい、しまっては出してきた。  私がマーシャ・スプリングハイムに会ったのは、ニューヨークに着いたその夜だった。瞳の大きな、造作の大きな美しい顔だちの、気持も大らかな人で、私はたちまちのうちにこの人が好きになった。私とは同い齢の二十二歳、彼女もつい二、三カ月前にニューヨークに出てきたばかりだった。彼女は私の日本の友人と中西部の大学で同級だったことから、私はその夜以来二カ月半ばかりを一緒に暮らすようになったのである。マーシャのアパートはヴィレッジのはずれ、十三丁目にあった。  ニューヨークは、春は一瞬の間に通り過ぎてしまうところだが、秋は何かしら期待に満ちた華やいだ夜々が一年の幕あけを告げるせいか、冬に入るまでかなり長い、変化に富んだ季節を楽しむことができる。九月末から十月始めにかけては、冷たい、はげしく叩きつけるような雨の日があり、私の心細い思いはつのる一方だった。だが、マーシャが夕方出版社の勤めが退けて帰るころになると、私は何か心を弾ませながら、近くの肉屋に買い物に行った。なんであれ質素な夕食をトイレの中にある電熱器でこしらえ、用意しておくと、彼女はとても喜ぶのだった。私たちの住んでいたこのおんぼろアパートは、昔一軒の家のアトリエででもあったのか台所がなかった。  私たちは雨の夜もいとわず、夕食がすむと時どきヴィレッジを歩きまわった。十月になるとインディアン・サマーと呼ばれる暑い日が戻ってきたが、土曜日や日曜日の午後など、私たちはよく連れだってヴィレッジのあちこちを夏のような陽ざしを浴びながら散歩した。ワシントン・スクエアのあたりに店を出す青空画廊の絵をひとつひとつ丹念に見て歩いたり、今はグリニッチ・アヴェニューに移ってしまったという「ピーコック」の西四丁目の古い店で、ムラビトやヴァン・ダイクのオリジナルを見ながら、カプチーノを楽しんだりした。  マーシャは美人だったし、だいいち気風がよかったから多数のデートを申し込む男性がいて、一週間のうちあいている夕は多くなかったが、中には夕食の後にマーシャと一緒にアパートにやってきては、一人ぽつねんと勉強している私までを誘って、あらためてバーに連れ出してくれる男性もあった。  ヴィレッジは、他からは想像し得ぬ、あらゆるハプニングの起こる場所だった。ニューヨーク到着後一週間ほどたった頃、私は路上で、精肉店で言葉をかわした中国の青年からいきなりプロポーズを受けた。次の日改めて正式に訪問したその青年を、マーシャが|慇懃《いんぎん》に断って追い返した。青年は自分が台湾政府から送られた官費留学生であることを証明する一通の書類と家族の写真をもって、誇らしく訪ねてきたのだった。私は自分のことを友人に説明してもらわなければならぬ私の語学力にいたく恥じ入った。  マーシャのボーイフレンドに連れられて行った異様な熱気のこもるバーで、私は美しい黒人の年増女から、一緒に住もうとしつこく求愛された。私はこの人からスクリュー・ドライヴァーかオレンジ・ブロッサムを二杯奢られたような記憶がある。二回続いた私の失敗に、マーシャは|睫《まつげ》の長い大きな眼の片方をウィンクするように細めては、「あんたって人は、私がついていないとどんな目に会うか分からない」といって笑うのだった。その夜私たちが連れて行かれたのはその道では名の知れたレスビアン・バーだったのである。私ははじめて彼女たちの積極性を知った。  マーシャは四分の一の血がユダヤであとがスラヴとドイツとアングロ・サクソンであった。そういわれてみると、彼女の美しさは実に複雑な要素を持っていたようだ。ヴィレッジは国籍のない街だったから、父方と母方と四つの異った血の結合をもって生れてきたマーシャにも、東洋から昨日やってきたばかりの心細い私にも限りなく居心地のよいところだった。小さな食料品店が多く、ユダヤ系のデリカテッセン、イタリア系の青果店、フィラデルフィア出身の精肉店、東欧系のベーカリー……など、数えあげるとたちどころにいくつもの国が並んだ。私が綴りや響きからどういう名がヨーロッパのいかなる国を背景にしているのかを漠然と知るようになった最初である。  ニューヨークが人種的に多彩な都市であることは、だれしも常識の如く心得ているが、それにしてもヴィレッジにおける多彩の組合わせには目を瞠ることがあった。タイ僧の身に纏うあの山吹色の僧衣を、男女の二人連れがペアで着て歩いていたが、男性は本ものの東南アジア出身の僧にも黒人のようにも見えた。しかし女性は金髪碧眼であった。素肌に素足で秋のヴィレッジを歩く二人の姿は、これ以上目立とうとしても他にこれに優るアイディアはないと思われるほど際立っていたが、女性の側からしてみれば、単なるファッション・コーディネイトであったのかも知れない。  紫檀のような肌のひどく傲慢な若者に出会ったが、彼はフランス語しか話せぬハイチ出身であった。この青年にいつも影のようにつきまとっていたのはマーシャの友人で、おとなしくておどおどしているのに女優志願だというオランダ女性だった。マーシャは自分の通う演劇教室の帰りに、よくクラスメートの彼女を連れてきては、テーブルといわず、ベッドといわず跳びのっては、高らかに二人で一幕の立ち廻りを演ずるのだった。ある時はオニールの『奇妙な幕間狂言』であり、ある時はマイヤー=フェルスターの『アルト・ハイデルベルヒ』であって、この二人は、どちらも女性をも男性をも演じることができた。夜も更けてお腹がすいてくると、二人は何もない冷蔵庫からスカリオン(わけぎとねぎの中間のような青ねぎ)を見つけ、塩をつけて齧り、ミルクを飲んだ。  私がこのアパートを引越してから知り合いになった少壮の法律家も、サリーを纏う優雅な雰囲気のインド人の妻をもち、ヴィレッジの住人であると語っていたが、彼自身は大学を卒業した年に世界一周の旅をし、その時ひょんなことでインドから妻を娶る始末になった話を面白おかしくしてくれた。しかしこの夫人の方はまことに気位の高い女性で、話題はいつも国連の話であった。私はふと、彼女にはヴィレッジよりはパーク・アヴェニューあたりの住まいの方が向いているのではないかと思った。一度この人がインド・カレーを作って楽しむ夕べを催してくれたが、ごはんの中に干し葡萄とシナモンのスティックが入ったのを味わったことは大きな驚きだった。  ヴィレッジは、このように住民の国際性を反映して、食生活は、望めばその日のうちにあらゆる国のものを味わうことのできる所であった。しかもヴィレッジの大きさが全体を歩きまわっても二、三時間ぐらいの手頃な広さであったから、私は結婚してからも、ここを午後の散歩の街と心得てよく足が向いた。“リエンジェ”に長時間坐りこんだり、“ピーコック”で「ヴェニーシアン・チョコレート・ラム・デライト」なるお菓子を食べたり、プロボローネやポール・サリュをつまみながらエスプレッソやガラスのカップにレモンの皮が入って出されるロマノを飲んだり、ささやかなパティオに心の和む“アンジェリーナ”などに入って夕食を食べたりする、そんな愉しみは、あまり社交的な性格でない私には、心が弾むような思いがするのだった。  私がはじめてシシカバブの味わいを知ったのも、葡萄の葉にお米をくるんだギリシャ料理を味わったのも、パエリヤの美味に挑戦してみようと思ったのも、チキン・ア・ラ・キエフの中のバターがしゅっと飛んでドレスの胸に大きなしみをつけたのも、タコスをパリパリ齧ってはテキーラを嘗めたのもヴィレッジの中のレストランであった。それらのほとんどが家族営業の小さな心温まる店であった。私はそれらの店のむしろ特徴のありすぎる、スパイスの香り高い料理を心からおいしいと思ったものだった。一九五九年にすでに廃業してしまった“リトル・プレイス”の羊の腿肉のローストも、にんにくとバジリコがききすぎるくらいの味わいの濃い料理だったが、私は気に入っていた。私の料理がしばしばスパイスの入れ過ぎであるのは、ヴィレッジの思い出がそうさせているのかも知れない。 “ピーコック”には二十余年後のついこの間訪ねた時も、昔と同じ経営者である婦人が店を守っていた。二十年という歳月のうちに、かつては印象派の絵のようだったこの人も、ひとまわりも二まわりも小さくなっていた。“アンジェリーナ”を当時切りまわしていたのはもうかなりの年の二人のウェイターだったが、二人のそれぞれ大学教授とゼノアの船乗りのような風貌と親しい人柄、それに行き届いた給仕ぶりを私は忘れかねるのである。  ニューヨークは歴史的にはマンハッタンの南端から次第に北へ伸びて発展した町であった。したがってヴィレッジも、古くは高級な住宅地であり、ヘンリー・ジェームスの『ワシントン・スクエア』の舞台となった頃は、「優雅で理想的な老後の環境」がそこにはあった。当時文学は限られた階級にのみ許された修業であった。このあたりが多少なりともボヘミアン的な大衆的要素をもつようになったのは年代もずっと下り、今世紀に入ってから、とくに第一次世界大戦前後であった。上流階級のヨーロッパからの帰還者をも魅きつけてきた伝統が、文学や芸術が階級性を駆け下りて、一般の志のみあるものの対象となった時に、胸の内に夢を宿すものたちをここに集める結果となった。したがってヴィレッジは高級住宅地から安く暮らせるボヘミアンの街となったのであった。オニール、ドス・パソス、トーマス・ウルフ、E・E・カミングス……とここに住んだ文人を挙げると、たちどころにそれはアメリカ文学史のヴィレッジをめぐる系譜となる。  文芸評論家マルコム・カウリーの描く第一次世界大戦後からメアリー・マッカーシーの小説に登場する一九三〇年代半ばまで、ヴィレッジは貧しかったが多くの芸術家や学者を擁して夢やアイディアや思想に燃えるような街だった。多くのキャッフェやティールームが媒体となって、小説や詩や絵画が生れた。家主の婦人は家賃を払えぬ芸術家を追い廻さず、自らは電気代などを滞納して役人から逃げまわった。店子の芸術家たちのパーティには家主も招かれて分け隔てなく話に打ち興じ、共に暁を迎えた。キャッフェのウェイターが有名な思想サークルの中核メンバーであり、客たちを蔭では「ブルジョア・ピッグ」とののしった。アナーキストも、コミュニストも、ロマンティストもダダイストも、リベラルもラディカルも、あらゆるアイディア、世界中のあらゆる思想を包含していたのがヴィレッジであった。  そのような体質のヴィレッジであったから、ここには世界中のあらゆる国を故国と懐しむレストランがあった。キャッフェがあった。ゲイ・バーがあり、レスビアン・バーがあり、ティールームがあった。私が初めてヴィレッジの土を踏んだ一九五〇年代の半ばにも、ヴィレッジにだけは時間に縛られずに生きる自由で気ままなニューヨークが、そうしたキャッフェやティールームに息づいているような気がした。  しかし当時のヴィレッジは経済的な面ではすでに一九三〇年代、四〇年代とは違っていたのである。第二次大戦後、ニューヨークが経済・文化の面での首都となると、ヴィレッジはそのヨーロッパの色濃いニューヨークにしては迷路の如き小さな横丁や、かつて個人の住宅であった古い建物の凝ったファサードや、もの憂げな街の雰囲気が呼びもののようになって不動産の価値が上り、家賃が高くつり上って、貧しき芸術家たちが住人となることは事実上不可能になってしまった。彼らはもっと東に、あるいはハウストン・ストリートの南に、つまり“サウス・オブ・ハウストン”即ちソーホーに新しいヴィレッジをつくり始めた。マーシャは家賃の滞納で家主の婦人の奇襲に悩まされ、私は一、二度彼女の居留守を、実力以下の英語で芝居さながらしどろもどろに演じてみせて中国人留学生の時の借りを返した。  その後私たちは別れ別れとなったが、時おり会って近況を語り合うたびに、私は彼女が地方の垢を洗いおとしたように細めに美しくなって行くことに驚き続けた。より美しくなってマーシャは、大学時代からの夢であった女優志願を捨てた。もう一度ヴィレッジの中に住みたいと思い、ニューヨーク大学の先生の下調べ役を土曜日には引き受けて少し所得を増やしている、と語った時もあった。近ぢかに貴女も会ったことのあるPと結婚するかも知れない、とややだしぬけに、淋しそうに別れしなに語った時もあった。私はこの時のマーシャの、二、三年前を思えば想像もできないようなある翳りを見てはっとした。  その後しばらく私たちは会う機会がなかった。ニューヨークのむし暑い苦しい夏は、アスファルトの街が焦げて人影のまばらになる昼下りよりも、夜の方が喘ぐような暑さだった。コンクリートのビルは、いったん熱を吸収すると容易なことではその熱気を外に逃さなかった。家賃の安いアパートにはクーラーなどついていよう筈もなく、私たちはなけなしの金をはたいては映画館に通いつめた。オフ・ブロードウェイといえども芸術にはシーズンがあり、夏のニューヨークにはセントラル・パークの野外シェークスピア劇場や“星の下のジャズ”フェスティバルのほか、あまり見るものがなかった。ヴィレッジの小さな店も夏のあいだは閉店というところがあった。私たちはいつもと違って活気のないヴィレッジを、それでも“ブリーカー・ストリート・シネマ”に、ミュージック・ジョイントの“ヴィレッジ・ヴァンガード”に、“ライム・ライト”に、あちこちを歩きまわった。  その後マーシャと会ったのは私が日本へ帰る直前だった。友人が私たちの送別会を催してくれるので招待したところ、彼女はその日は先約があってどうしても行かれないので、ぜひいちど会いに来てほしいという。  久しぶりに会った彼女は、今や“バーグドーフ・グッドマン”から出てきてもおかしくないような洗練されたニューヨーカーになっていた。私はいったい何が起こったのかと思った。しばらく会わぬ間に何か重大な変化が起こったように見えたし、美しくなったとはいえ、幸せいっぱいの時の饒舌を伴った弾むが如き調子がどこにもなかったのである。 「Pには結婚を催促されて私も一度はその気になり、会社でも一部の人に話までしたのだけれど……どうしても私の気持が確かにならなかったの。彼が私に愛情を持てば持つほど、私は自分をつき離して見るようになった。そのうち私はPにたいしておたがいの愛情のアンバランスにひけめを感じるようになってしまったの」  マーシャは母親を早く失くしていたし、こうした問題はだれも必ずしも母親に相談することはないと思うが、それでも、つい二カ月ばかり前、あらゆる不可能と戦って妊娠中絶の手術を受けた時には、帰るべき家が欲しかった。病院から帰って独りでここに寝ていた時には、なぜか自分が育った中西部や若さにまかせてあらゆる冒険をしでかした大学の町ではなくて、ニューヨークに出てきたばかりの時に住んでいたあのアパートと、ヴィレッジばかりを想いつづけた。四階の階段を歩いて上るような小さな、ひっそりとした細い通りのアパートに、自分の本当の家があるような気がしてならなかった。下の通りは夜明けまで人通りがあって、窓からの眺めのほんの一隅に、ワシントン・スクエアの緑がほんのちょっぴり目に入るような、そんなアパートに…… 「真実の愛情をもっているかいないか自分でも解らない相手の子供をもつなんて、その子供にたいして本当に申しわけないことだと思ったの。私にはそんな非良心的なことはできなかった」  シュタイフの二匹の縫いぐるみは、その時彼女から私の子どもに贈られたものだった。  私は今、膝の上で二十余年のうちにはさすがに色褪せた小羊と小兎をさすりながら、彼女と共に暮らした、あの無我夢中のような若き日々を目の前に思い浮べる。Pとの最初のデートの日から、そういえば私は、マーシャが醒めているのを知っていたようだ。今日の相手は少々大切にしなくては、といつもよりは念入りに着飾って出掛けたその後、折悪しく大雨となった。十二時頃ブザーが鳴って私はドアを開けた。いつも誰かを伴って帰ってくる時は、彼女はブザーを鳴らすのだった。だが私は、入口のところに、ひとり靴を抱えて白い足の先の赤いマニキュアの上に水滴を光らせながら、艶然と笑って立っているマーシャを見た。 「ごめんなさい。両手がふさがっていたのよ。昨日買ったばかりの靴、私の足よりは大切だから、さっさと脱いじゃったの。ヴィレッジはいいところ、大雨の中を素足で歩く女が私の他にもいたんだから。シェリダン・スクエアのところよ。どちらからともなく“ハーイ”って言ったわ。Pは機嫌が悪くなったけれど、あたしは靴が救えてうれしいのよ。ところでお腹がすいちゃった」  彼女はその足で冷蔵庫のところまで行ったが、中にはミルクのカートンがひとつ入っているだけだった。  裸足のグリニッチ・ヴィレッジを私がどのように懐しがろうと、若い日は還ってこない。      マーシャのカナッペ    次に紹介するマーシャ・スプリングハイムのカナッペは、作り方の手の内を明かすとだれもが狐につままれたように思います。それほど簡単にできて、しかも手の込んだ味のように思わせるところがヴィレッジの不思議なのです。    まずキャラウェイの入った小型のライブレッドまたはパンパニッケルを探します。アメリカでは簡単にスーパーマーケットで手に入るのですが……見付からぬ場合は小型のバゲットでも仕方がありません。それを三ミリぐらいに切ります。大きさは四センチ四方ぐらいです。玉葱の薄切りを作ります。それからマヨネーズと粉のパルメザンチーズを二対一の分量でまぜあわせたものをたっぷりと作り、ベルモットを少々たらします。よくかきまわしておきます。    パンを天火皿に並べ、各々の上に玉葱を敷きつめます。その上から大さじ一杯のチーズ入りマヨネーズをぬりつけ、上火のきいたオーヴンの中で三〜五分、マヨネーズがほんのり焦目がついて色づくまで焼きます。レースペーパーを敷いたお皿にとって熱いうちにお客さまに召し上って頂くのですが、お皿とナプキンと、すべりやすいという注意を忘れぬように。ドライ・マルティニにも、白いワインにも、またはハーフ&ハーフにもよくあうホット・オニオン・カナッぺです。    私はマヨネーズを焼くというアイディアを大変面白いと思い、どこかに似かよったレサピーがないかと探しているうちに、ある日、思ってもいないところで出会うことになりました。ジョン・F・ケネディが自分の好みのレサピーをホワイト・ハウスに持ち込んだ、その記録の中にあったのです。およそ私たちの常識から離れたものを使う一品ですので、参考までにここにあげておきます。    四五〇グラムの蟹(缶詰または冷凍)、四五〇グラムのゆで蝦、刻んだピーマン半カップ、刻み玉葱四分の一カップ、セロリ、これも刻んで一カップ半、マヨネーズ一カップ、ウースタシャーソース大さじ一杯、これらを全部よく混ぜてバターをひいたキャセロールに入れ、それから何と、二カップのポテトチップスを砕いて上に散らし、パプリカをふりかけ、蓋をして摂氏二〇五度のオーヴンで二五分焼くのだそうです。八人分と書いてありますので、私は今夜半量のものを作ってみようと思います。チーズも少し加えてみるつもりです。そしてジャックリーンの四角い顔を思い浮べながら、子供たちの批判に耳を傾けましょう。 [#改ページ]

 
エンチラダと夏の宵    M・F・K・フィッシャー夫人との出会い  あるパーティの席上で、スペイン文化がアメリカの生活に与えた影響というような話がしきりになされたことがあった。アメリカ人の操る外国語はまずスペイン語が他を抜きんでているのに、何故か料理をとってみると、豆料理を除いてはイタリアほどにもフランスほどにもアメリカの生活の中にとり入れられていない。それはむしろ影響というよりはスペインそのままの形で、ある限られた地方にひっそりと存在しているのではないだろうか。ただしインディアン文化とはコルテス以後、古い年代に混血が行きわたり、|玉蜀黍《とうもろこし》とトマトとチリをふんだんに使ったメキシコ料理が独自の形ででき上っている。したがってニューメキシコ、フロリダ、ルイジアナ、それにテキサスの国境沿いの町やカリフォルニアに行くならば、スペインもメキシコも、双方の料理を味わうことができる。それだけでなくスペイン文化の色濃い環境も享受できよう。何といってもアメリカの西南部は、建築の上でスペイン風といわれる建物が多いのだから。  昔行ったことのあるニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジの中にあるスパニッシュ・レストラン“グラナドス”の話やアステカ王朝の伝説を伝えるチョコレート・ソースの“ターキー・モーレ”ぐらいで太刀打ちしていた私は、パーティでの話を聞きながら、その時なぜかはじめてサンフランシスコからロスアンゼルスにかけての海岸沿いに心を惹かれた。  スペイン系の名をもつカトリックの修道院、美しい海を背景にした、それこそ息をのむような白いスペインの館、庶民の生活からは想像もできぬ豪奢な、中産階級をも隔絶するような暮らし、世界でも有数といわれる贅を尽した大邸宅、そこに仕える複雑な人種的背景をもつ使用人たち……ヤンキーのアメリカとはかくも異るものかとわが身の無知を改めて悟るようなアメリカがそこにはある。  近々にカーメルの町に引退する予定だと語った老人は、このように語った後で、ぜひ一度訪ねていらっしゃい、と最後に私を誘い、少なくともひと夏ぐらい、とつけ加えた。だがほとんどの場合、子供三人を連れて抱えきれぬ荷物にうなされながらあくせく旅をしている私たちは、夢のような誘いを快諾する余裕もなく、またたく間に一、二年が過ぎ去り、好奇の心を掻きたてた情景もそのうちに消えてしまった。  カリフォルニアに心底から惹かれ出したのは、つい、三、四年前からのことである。それまでの私はカリフォルニアといっても、例のパーティでの話や、小説や映画の中の風景も、長く心にとどまることはなかった。もし心の中で何か情景が浮び上るとすれば、それは個人的な想い出に繋るあちこちの町を、わが過去と幾重にも交差させて懐しむくらいだった。それはたとえば、太平洋上から、蒼い空と碧い海の向うに、眩しく光る白い城のような遥かなるサンフランシスコを見た時の感動とか、ある冬の最中、煙るような雨と霧に沈むアラメダ港から、たった独りの船客として、不本意な帰国の途についた日の悲しみとかに連なる多少センチメンタルなカリフォルニアであった。  それがどうしても彼の地に住んでみたいという渇望に似た想いを抱くようになったのは、二、三年前にジャック・ロンドンゆかりの月の谷間に『 Art of Eating アート・オヴ・イーティング』の著者M・F・K・フィッシャー夫人を訪ねてからのことである。フィッシャー夫人はカリフォルニアを語る作家ではないが、この人がカリフォルニア・ワインの産地として名高いソノマに住むと知った時、私は、それまで東部アメリカに向いていた自分の心の向きが大きく変ったことに気づいた。食べるという人間の宿命を書き続けるフィッシャー夫人の世界は、彼女のとり上げるテーマひとつひとつが西欧社会の生活の精巧な分析図の一部をなしており、しかも図そのものが思索をともなった美しい芸術であることに私は圧倒されたのだと思う。  この人の筆にかかれば、フランスの漁村の好色な肉屋の親爺セザールまでが鮮明な像を浮き彫りにしたように読むものに迫ってくる。セザールが強く勇敢で逞ましく、残酷でいやらしく、かつやさしく男性的である様子は、一種の不思議な香気をともない、透明度を帯びた身近かで現実的なヨーロッパ人として奇妙に感覚的である。また、彼女の作品を読んでいると、思わぬ発見の連続で、私の好奇心は最高の満足度を味わうことになる。例えば、英国やアメリカでは十九世紀末まで、ごくありふれたデザートであったらしいローリィポーリィ・プディングが、その名にいかなる由来を秘めているのかを探し求めて見つからず、あきらめていた私は、ある日偶然にも彼女のエッセイを読んでいて、どのような文献にも見出せなかった解答を見出すことになった。マザーグースやチャールズ二世までも巻き添えにしたその答えは、ロマネスクな心もペダントをも同時に満足させるものであった。  しかし私にとってフィッシャー夫人のエッセイの最大の魅力は、詩人のW・H・オーデンが賞めたたえる「アメリカにおける当代随一の散文家」としての資質ではなくて、むしろ彼女の、人生を知りつくした叡知と、その叡知をはぐくむ力となった鋭い感性と限りない知識なのだと思う。  中西部に生れ、幼年時代に家族と共にカリフォルニアに移住したフィッシャー夫人は、当時まだ開けゆく西部であったロスアンゼルス郊外、ホイティアの町で成長した女性である。繊細な中に時おり顔を見せるこの人の茫洋たる大きさは、あるいはカリフォルニアを背景にした生いたちと無関係ではないのかも知れない。結婚後フランスへ渡り、ディジョンの大学で学んだことがこの人の食の哲学者と称せられるようになるまでのキャリアのきっかけになったことは確かであるが、そもそも食べることを文章に書くようになったのはひょんなことからであった。ある日ロスアンゼルスの公共図書館で、隣りに坐っていた老人が置き去りにしていった本を何げなくめくっているうちに、思わずそれを読了することになってしまった。それはエリザベス朝における食べ物の話であった。  彼女はギリシャ古典の学究であった夫君とその友人たちを、それを資料にして楽しませることを思いつき、早速一文をものしたところ、大評判となった。そればかりでなく、誰もが彼女にその続きを書くことを切に望むところとなった。元来、アングロ・サクソン系の国では、食べ物よりは愛と天国が論じられる傾向があるといわれるが、私はフィッシャー夫人の著作には、食べ物を通じて愛も天国も、それ以上の、人間が生きて行くことのすべてがあると思う。だからこそギリシャ古典の学徒たちを満足させるような食べ物の話ができ上ったのだと思われる。  彼女は若い頃、ブリア・サヴァランの『味の生理学』を英訳し、それは完璧に近い名訳であると評判が高いが、それよりもアメリカ東部の知識人の中には、彼女こそブリア・サヴァランに、その広さ、深さ、感受性および態度で、最も近い存在であるという賛辞を惜しまぬ人も多く、彼らも、また私も、フィッシャー夫人の世界に麻薬に引きよせられるように、憑かれたように禁断の果実を求めてはエクスタシイを味わうのである。  私はフィッシャー夫人の著書に出会うまで一般に料理書といわれる書物を、無責任な読み方ではあるが、古いものも新しいものも読むのが好きな方ではあった。小説やエッセイの中に食べる場面や食べ物の話が登場すると、それが奇妙に心や記憶に残るたちであった。レックス・スタウトの『スィートコーン殺人事件』のように、犯罪小説に食べものが絡んでいれば、犯人捜しは他の場合より的中率が高くもあった。『スィートコーン』についてだけ語るなら、あれはジェファソンの言葉とも伝えられる野菜の性格を知り、アメリカで古くから伝えられる“玉蜀黍の正しい食べ方”を理解していれば、犯人は容易に推定することができた。が、私は料理書読みに満足してもいなければ、つぎつぎに評判になるベストセラーを読んで束の間の虚構に自らをあてはめて楽しむことにも、わが心の内なる焔を燃え上らせる要素を見出せなかった。  ある年に私は自分で自分をもてあましていると気づき、その打開策として、これまでとは違った、文学的か語学的か、どちらかで難解な作品に挑戦してみようという気になった。『キャンタベリー・テールズ』を読んでみようかしらと夫にもらしたところ、いまから中世英語の勉強など無理だと即座に否定され、現代訳なら何かのひまに読めばよいという。私はこの時なぜかフィッシャー夫人の著書のことを思いだした。買ったまま乱雑きわまりない本棚におかれて久しかった本であった。時おりぱらぱらと拾い読みをしたおりに、これを読み通すにはかなりの時間と解らぬ単語をいちいち辞書で調べる謙虚な態度が必要であることを悟り、その双方が可能になる時まで本能的に避けていたものだった。  著者については、時おり雑誌『ニューヨーカー』に載った短篇を読んだり、タイム=ライフ社刊の『世界の料理』のシリーズのひとつの中で見知っていたが、それまでの私には、メアリー・マッカーシーやリリアン・ヘルマンのような、何を書いても物議をかもす女性の名の方が魅力的に響いていたのであった。  多少苦しげに読み始めた私は、ページが進むうちに忘我の境をさすらい、この人の文章の魅力の完全なとりこになってしまった。友人からの誘いも、子供の学校の保護者会の集まりも、夫と共に招かれた夕べの会も、悉くすっぽかしてしまった。その年の感謝祭やクリスマスやお正月に、私はいったい家族のために何をしてやったのだろう。何も思い出すことのできぬ年である。とにかく気がついた時には、秋が春になっていた。私は長い冬籠りのあいだに、著者の美貌と絢爛たる言葉の才能と、眩しいような知識と深き心と、とにかくすべてをひとりのうちに持ちあわせると伝えられる肖像に魅惑され、一九三〇年代のディジョンの下宿に、復活祭の日のスイスの野辺に、マルセイユのレストランに、ニューヨークの波止場に、風光るカリフォルニアの牧場に、エッセイの行間を縫ってとびまわった。  しかし私は著者の影のようにあちこちの場面に息をころしてひそんでいるだけでは物足りなくなった。本の中に紹介されているレサピーから心の中の味覚が味わうことを欲するものを実際に何点か作ってみようと思いついた。前世紀の終り頃から今世紀にかけて、教会や婦人団体が盛んに編纂し、パンフレットのような形で世に出した料理のレサピー集の中には、「抜けめない眼」をもって読むならば、かなり面白い個性をもった料理がある。  そうした中から著者が選んだもののひとつにプルーンを使ったローストがあった。豚肉とプルーンの組合わせはおそらく出所は似かよったところであろうが、クレイグ・クレイボーンなどによって紹介もされ、一般的になりかかっていた。が、牛肉とブラウン・シュガーとプルーンと、シナモン、クローヴ、それにヴィネガーというとりあわせに私の想像上の味覚が執着をもった。第二次大戦中に書かれた『 How to Cook a Wolf 狼を料理する方法』の中に収められているためか、フィッシャー夫人はワインを使わないが、私は赤いワインを水の代りに用い、珍味にして美味なる一皿ができ上った。スパイスの効いたいかにもこってりとした甘い牛肉料理であるが、中世ないしエリザベス朝あたりの名残りが感じられるので、家族の者たちは味わいの上でも物語性の上でも同時に満足の意を表し、爾来わが家のレサピーとなった。  また、フィッシャー夫人のディプロマート・オー・キルシュや七色のリキュール入りフルーツはまた、このプルーン・ローストとはまったく別種の喜びを私の胸の内にもたらした。リキュールをふんだんに使ったデザートは、手を抜かずに精巧に作りあげると、われながら驚くような典雅な味わいとなる。もちろんしろうとの悲しさで出来、不出来はある。著者はそれにも寛容で、料理には当然そうした違いがあるものだと説く。この世に潮の満干がある以上、作る時の体調や環境の違いがある以上。  しかし、それが昔ディレッタントな親から聞かされていて、しかもこの年になるまでついぞ味わったことのない“mmel キュンメル”などを必要としていることを読むと、お菓子を作る喜びにもまして、私はこの時とばかり、いそいそとキュンメルを求めて歩く楽しみを味わうのだった。それにしても外国住いを経験したことのない明治の男が、なぜキュンメルだの“Parfait Amour パルフェ・タムール”だの、七色のリキュールの名を終戦後の貧困の時代に口走っていたのだろうと考えると、私は世を去って久しい親を思い、人生の不思議なめぐり逢わせに驚かずにはいられなかった。  さて、私はここでアメリカにおけるスペイン風な料理について語るはずであった。そしてそのためには、フィッシャー夫人を語らずしてはできなかったのである。何故なら、彼女の『食通のためのアルファベット』という著書の最後を飾る章に「完全なる晩餐」という名文があり、その「完全なる晩餐」のメニューは本物のトルティラと鶏の胸肉を裂き身にして使った「ぴりっと辛いエンチラダ」で始まるからである。  それは暑い八月の日がようやく涼しく、仄白く暮れなずむ頃、パリはヴォルテール河岸のアパートの最上階にあるひろびろとしたバルコニーつきのアトリエで催されるべき夕食会であった。楽しい晩餐には思いがけない、ちょっとした、客の意表をつくようなものがあった方が、食事そのものが生きることになる——そうした配慮があっての夏の宵にふさわしいエンチラダであった。  彼女の想像の内で招く客のなかには、ウィンザー公やコレットが候補に上り、テーブルに坐る人数はフィッシャー夫人と彼女の言う「my true love」を招き手として六人、それ以上でもそれ以下でもうちとけた晩餐を完璧に運ぶとすれば障りがある。「ウィンザー公は社交的には練達の士であろうから、ウィットに富んでいないにしても食卓では楽しい客であろうし、ずば抜けて聡明でないにしても、尽きせぬ魅力のある人だ」と彼女は思った。当時、「公にはシンプソン夫人の華奢な姿が影のようにより添っていたが、それにも拘らずこの人のあらがい難い、人を惹きつけずにはおかぬ人柄の面影は、幾百万の女性の胸の内で薄れてしまうことがなかった」  コレットはそもそも、この食卓を考えついた当時は適役であったが、「年代を経てみると、もうだれにも負けぬ高齢に達しており、それがものをいって、自然と会話を独占することにもなろう。そうなれば、私が計画し、それに現在でも依然として夢想したりする件の宴の席にはふさわしいことではないのである」  コレットは退場し、ウィンザー公もそのうちに消え去った。やがて、だれよりも、かつて若き日の著者と熱心にこの非現実的な計画を語りあった true love も不帰の人となり(不治の病を得て若くして世を去る)、フィッシャー夫人はこの章の最後を、もし気に入った相手があるならば、妙なるペアとなり得るならば、自分は二人の食卓の方を好むけれど、独りだとしても優雅に、むしろあたりまえのこととして、さまざまな夢を無限に描きつつ、ひとり食卓に向う、と結ぶ。  夏の宵とぴりっと辛いエンチラダというとり合わせの妙は、まことに感覚的で、民俗的トルティラもこのように使われることによって文明のエレガンスを纏うようだ。うちとけた客たちにとっては、トルティラがメキシコという特別な国の大地の匂いに満ちた食べ物であるだけに予期せぬ幕あけになるのはたしかであり、そこにある種のソフィスティケーションを感じるものさえもあるかも知れない。  思えばアメリカにはチョップスイやチャウメンがある如く、スパニッシュ・ライス、スパニッシュ・オムレツがあるが、本もののスペイン料理やメキシコ料理が一般的になるのはまださきのことであろう。一説にはバーベキューこそ、バルバコアなるスペイン語の英語版であり、この料理はハイチのインディアンが戸外で肉を焼く方法から進化したものだという。  私たちが訪れた日、フィッシャー夫人はガスパチョとトルティラ風のサワードウのパンをランチに揃えて下さったが、今にして思えばそれらはまことにカリフォルニアにふさわしい食事であった。  彼女の住むソノマの町の旧庁舎前に立って深い蒼い空を仰げば、かつてスペインの国旗も、ロシアの国旗も翻った過去があるというこの地が、カリフォルニアというアメリカの未来を象徴する州の中にあることの面白さが私を捉えて離さない。      家庭で味わうコーンミール    スペイン料理とメキシコ・インディアン料理の混血は、アステカの王モンテスマが、一五一九年、スペイン人にトマトとチリを贈った事実から始まったといわれます。アステカ人たちはしかし、スペインの侵入者たちが、はじめ信じていたようなクァツアールコアートル(アステカの蛇神で、文化英雄の神)からの使者でないことが分かると、やがて彼らに食料を与えるのを止めました。飢えに苦しむ兵たちを率いるコルテスはしかし、マリンカなる愛人を籠絡し、ある夜示し合わせて町の門を襲い、マリンカの友なるアステカの兵からはタマーリ(コーンミールと肉を玉蜀黍の皮に包んだ保存食)の砲撃を受けました。    玉蜀黍の荒碾き粉であるコーンミールは、このように古代アステカから連綿とアメリカ大陸に住む人びとの命の糧となってきたのですが、敗戦後の日本の食糧危機をアメリカが見かねて放出した時、日本ではひどく不評でした。三十年を経た現在でも“嫌米家”(私は個人的にこう呼んで差しつかえないと判断している人を何人か知っています)たちは、玉蜀黍パンを回想して「彼らは家畜の餌を日本中に贈った。あんなものは人間の食糧ではない」という言葉を洩らします。    コーンミールは食べ方さえ知っていれば、もっとも家庭的なおいしい食品です。焼きたてのコーンブレッドは近頃はやりの何とかペーストリーと称するパンなどよりは、よほど醇朴でおいしいと思いますが、家庭で作って焼き上るのを待って食べるのでなければ本当の美味が味わえないところが落し穴のようです。キャプテン・ジョン・スミスの昔から、「できたての玉蜀黍パンほどおいしいものはないが、焼きざましほどひどい味で不消化なものもない」といわれてきました。    話は大分わき道にそれましたが、フィッシャーさんのエンチラダを作るには、まずコーンミールのお焼き、トルティラが必要です。二カップの細かく碾いた玉蜀黍粉に一カップ三分の一ほどのお湯を混ぜてこね、大きなおだんごをひとつ作ります。これを十二、三個に分けて丸め、アルミフォイルの間にはさんで麺棒でクレープのようにのばします。鉄板あるいはフライパンを熱くしてこれを両面ともほんのり色づくほどに焼きます。できたものは濡れ布巾の間にはさんで保温しておきます。    これをさらに揚げたり、トーストしたりしてから幾つかに切り、玉葱とトマトとチリとカイエンヌのソースとなにがしかの肉を巻いて食べるのがタコスです。エンチラダとなると、みじん切りの玉葱とにんにくをオリーヴ油で色づくまでいため、チリパウダーとトマトピューレを加え、これをストックでのばし、カイエンヌや塩、胡椒で味をつけた辛いソースを作ります。先ほどの温かいトルティラの中にこのソースをぬり、さらに玉葱のみじん切りやピーマンのスライス、それにローストチキンの身を裂いたものなど、肉類あるいは蝦などをはさみます。モツァレラなどのチーズも入れます。これをカネロニのようにくるくると巻いて天火皿に並べ、トマトのソースを上からもかけます。チーズと胡椒をふり、摂氏一七五度のオーヴンの中で一四、五分ほど焼きます。悪い癖とは知りながら、私はこれにもタバスコをふりますが、アステカの土着性の名残りが匂うようです。 [#改ページ]

 
聖ジェンナロさまの日の屋台    私のルネッサンス  ニューヨークはさまざまな匂いのたちこめる街である。近頃は東京も次第に似かよって、オフィス街という生活の匂いの稀薄なところと、ささやかな庶民の日常がそのまま匂いになって漂っているような街に分かれてしまったが、ニューヨークの場合はその街が複雑な人種の分布図を描きながら存在していた。今では、その分布図は私のよく知っていた当時と多少の変化を示してはいるものの、一層の複雑さを増してきた。かつて単純に色分けのできた街並みはごちゃごちゃと異文化が交差しあい、おたがいに疲れた容貌をとり繕おうともせず、だがしたたかにそれぞれの匂いを発散させながら存在しているのであろう。  私が住んでいた頃のニューヨークは、半年も生活した後、好奇心に満ちた猫のように気の向くままに歩き廻れば、ある日ふと、通りの名や番地を耳にするだけで街の匂いが伝わってくるようになる都会だった。東京から行った私は、まずこの匂いが場所によってはっきりと違うことに深い興味をおぼえた。当時私の住んでいたのは、いわゆるアップタウン、山の手にあたる街だった。が、そこにいて、ヴィレッジ(ニューヨークでヴィレッジといえば、それはグリニッチ・ヴィレッジを指す)と聞けば、疲れた心を癒すばかりに香気高いエスプレッソや、オレガノやベーシル(バジリコ)のきいたトマトソースなど、つまり少しばかり地中海文化のアロマと頭の中で意識している芳香がどこからともなく漂ってくるのだった。それは文芸批評家のマルコム・カウリーが三十年も昔『逃亡者の帰還』の中で述べているさらに昔のベーカリー、「クッシュマン」の焼きたてのパンの匂いによくマッチするように思えた。  スモークト・ミート、いわゆる燻した肉類の香りを嗅覚が求め、冷えたビールの感触をイマジナリーに味わうのは、ヨークヴィルのどこかが話題となる時だった。私の住んでいた当時、あそこではチャップリンの古い映画、『ゴールド・ラッシュ』やグリフィスの『国家の誕生』を執拗に懸けていた映画館があったのである。通称ジャーマンタウンといわれるこの街には、ウィンドウのガラス全面がハムやソーセージの幾重にも垂直にぶらさがるタブローとなって見える店があった。私は通りの向う側から眺めを楽しんだり、一歩店に入ってスモークの香りや、肉とはまた別のペパーコーンやセージ、タイムなどのスパイスの香りを心の中の舌の上でそっと味わってみたものだった。  私の住んでいたあたりは、ユダヤ系の中産階級が主流をなす街だった。私は学校の往き帰りなどにピクルスの酸っぱい匂いや、やはり少しは魚らしさの匂う、見事に脂ののったノヴァ・スコシア(カナダ産のスモークト・サーモン)、鰊の酢漬け、玉葱のスライスにサワークリームなどの匂いの中を実際に通りぬけてくるのであった。むし暑い夕など、私にとって誘うが如くドライ・マルティニへの連想をかりたてる匂いだった。  イーストサイドの、私たちが出入りしている社会の中では上流に近い家へ招かれると、私はその招待の電話を受けた時、すでに上質のローストの匂いをかぎつけるのだった。もっともそれは上流、中流の区別はあまりなく、家庭のクッキングの匂いそのものが肉を|燔《や》く香ばしい匂いに象徴されていたのである。西洋のクッキングのうらやましい点は、にんにくでさえもその残り香が魅力あるものに変るところである。欧米の人びとは家庭を離れた時、この、家全体に漂うローストとアーヴの匂いに郷愁を感じるのだろうと思った。  地下鉄のカナル・ストリートといえば、パクチョイや大根、|《いしもち》や鱈や名も知れぬ大魚、それにピータンや細いサラミのように見える中国の腸づめ、五香粉や八角、その他あらゆる東洋の食品が雑然と並べられたチャイニーズ・グロサリーの匂い……いうなれば、どこかオイスターソースを暗示するような、少々すえた匂いであった。東洋のクッキングは、残り香も含めて、どのような美味も高貴な匂いにはなり得ぬ運命だと感じた。  ニューヨークにはまだこの他にも、いわゆる地下鉄のむっとする匂いやビルの清掃に使う洗剤の匂い、映画館の中のバターをかけたポップコーンの匂い、スターテン・アイランドへ行くフェリーの中のホットドッグの匂い、図書館の本のアメリカ独自の匂い、半地下で営むチャイニーズ・ローンドリーから立ちのぼる湯気の匂いなど、数えきれないほどの匂いの陳列がある。だが、そのような慣れてしまえばあたりまえの匂いの中で、私がある日衝撃を受けることになったのが、リトル・イタリーのお祭りの匂いだった。その時まで、匂いとはほとんど関係のない部分で体得していた、いわば私がイタリア的事物を理解するのに役だっていたある種のイメージを、その匂いは百八十度転換させてしまったのである。  九月のある宵、カナル・ストリートの地下鉄の駅の階段をのぼりつめた私は、通りの賑わいがいつもとは全く違うのに目を瞠った。私たちはチャイナタウンへ食事に赴くところであった。チャイナタウンとリトル・イタリーは背中合わせであるが、私はその日まで迂闊なことにそれを知らなかった。イタリア街はヴィレッジとそれをはみ出した南の一部のように思っていた。地下鉄のカナル・ストリートの駅を出たところはたしかブロード・ウェイ。この文字通り広い通りを背にして南側と北側にチャイナタウンとリトル・イタリーは袂を接している。  それまで南側にばかり視覚、嗅覚、味覚を向けていた私は、交通巡査が街の四ツ角に出張るほどの混雑ぶりにまず驚かされた。いつも直ちに匂ってくるように思う例のすえた匂いが、その日に限って玉葱とにんにくとピーマンが焦げるような、いつもとは全く違う、東洋とも西洋とも判じ難い匂いのアンサンブルを放っている。私は地下鉄の出口をまちがったかと思い、一瞬風上はどちらかと身体を一回転させた。それは明らかに北からであり、人の群れもまた北側に集中していた。匂いにたぐり寄せられてマルベリー・ストリートに至った私たちは、そこに遠い日への郷愁をかきたてるような風景を見たのであった。それは戦前の山の手の子供なら、禁制の異文化に吸い寄せられるがごとく惹きつけられた下町の情緒溢れる縁日の夜店。古くなつかしい庶民生活の匂いを発散させながら、リトル・イタリーは私を手招きしているのだった。  喧ましい呼び声とざわめき、むんむんする人の波とその間から立ちのぼる幾分いかがわしいような、それでいておいしそうな匂い。その匂いの中に夜店があり、屋台がたち並び、見せ物があった。そしてさらにその向うから、静々と、しかし決して崇高にも敬虔にも見えぬ、お人好しのなまぐさ坊主のようなハリボテ人形を載せた山車がこちらへ向ってくるではないか。遠くニューオーリンズや南米のリオのようなカトリックの町で、町の祭りにハリボテ人形がお出ましになるのは知っていたが、あれはいったい誰なのだろう。私はあたりの会話に耳を澄ました。  人びとはほんどが英語ではあるが声高に喋りまくる、といった感じであった。よく太ったおじさん、おばさん、おにいちゃん、おねえちゃん、それに群がる子供たちもみんな底ぬけに陽気である。黒い髪、金髪、白い肌、浅黒い顔、黒い瞳、多様な容貌。語尾に母音の残る言葉。いかにも善男善女といった風貌の人びとに混って、一九五〇年代のことだから、プレスリースタイルの若者たちが肩で風を切るように、しかしここに限っては心もちしおらしげに喧噪の中を歩きまわっていた。  山車の上の、何人をも拒まぬ、少し滑稽にさえ見えるハリボテ人形は、ジェンナロ聖人さまだということが分かった。だが私は、ジェンナロさまが誰かということよりは、彼に向って十字を切ったりするここの人たちの波をかきわけて、あの幾分いかがわしくも、蠱惑的な匂いをたてているものの根源をつきとめたくて仕方がない。やっとの思いで、どれも同じように人だかりしている屋台へ近寄った。屋台は日本の焼きそばを作るのと同じ出来で、鉄板が真ん中にはめ込まれた手押し車のように見えた。そして推察どおりに、玉葱とピーマンがその上で山のように焼けていた。が、私の目が吸いつけられるように止ったのは、太い綱をぐるぐる巻きにしたような、一見グロテスクなソーセージであった。あっちでもこっちでも濃厚な匂いをたてながら焼けていたのは、このソーセージだったのである。  焼けたところは見栄えがしないどころか、おいしいとはどうしても見えぬこのソーセージも、生のものは牛、豚、パセリ、黒胡椒、脂身などがケーシングの上から赤、緑、黒、白と透けて結構|いけ《ヽヽ》そうである。 「イタリアン・ソーセージだよ。にんにくに唐がらし入り!」 「おいしそうね、ところで何のお祭りなの?」 「おーや、あんたたち、ジェンナロさまをご存じないのかい」 「この町の、わたしたちの守護者、ジェンナロ御聖人さまなんだよ」  私たちはソーセージのぶつ切りとピーマンと玉葱のいためもの、それにイタリアン・ブレッドをおじさんから手渡された。 「ジェンナロさまねえ、それで屋台の食べものはみんなソーセージばかりなの?」 「いいや、隣りのおっさんの売ってるのはスイートブレッド(小牛の胸腺)だよ。あれもおいしいから食べてやってよ。それから向うの方へ行ってみな、ギリシャの連中がシャワルマを食べさせてるよ。あの連中はわれわれのお祭りに便乗してるんだがね」  わきの方から顔だけは女優のシルヴァーナ・マンガーノのように美しいが、胸とお尻にはゴム風船を四カ所入れこんだようなスタイルの年増のおばちゃんが叫ぶ。 「ひとわたり見物し終ったら向いのスタンドでスプモーニかトルトーニをおあがりよ。ジェンナロさまの日の大サーヴィスだよ、あんたたちに一セントだって無駄なお金は使わせないよ」  先刻から立ち止ってソーセージやイタリアン・ブレッドを齧っていた私の鼻の先きを食べ物とは別の、あまり愉快でない匂いがよぎった。 「アセチレンガスの匂いまで同じだな」  私の日本人の連れがつぶやいた。 「こういうのを下司の食い物というんだろうな。見かけの美醜を問うなら、ためらわずに醜いと言えるよ。だが旨いものを食べてる時には美だの醜だの言うなかれ、おいしいじゃないか」  私たちがソーセージを食べ、お祭りの横丁をひとめぐりした時には、万国旗のように連ねた灯にも全部明りがともり、リトル・イタリーの宵祭りは最高頂に達した。善男善女に囲まれて、彼らの生涯の道連れのように見えるお聖人さまを見ていると、私もこの人たちと共に語りかけて十字を切りたいような親しみをおぼえた。あのハリボテ様の後ろに控えている全智全能の神さまは、慈悲深い、庶民の神であって、些細なことを糾弾する厳父であってはならなかった。私はふと、十五年間も学んだカトリックの学校における、かつての息がつまるようなセーラー姿の日々を思った。イタリアン・ソーセージやスイートブレッドや玉葱やピーマンの匂いのたちこめるニューヨークの下町で、私は自分の過去がいかに束縛されたものだったかを思いはじめた。  その日私は自分のどことも捉えようのない一部で、何かを学んだ。食べ物とはあまり関わりのない世界のことであったから、あるいはそれとこれとを関連させて思う私の方が、現在の私から見れば荒唐無稽の世迷いごとに引きずりまわされていたのかも知れない。だが若かった私は、自分の荒唐無稽な考え方をこの上なくいとおしいと思った。自分の中にある西欧文化にたいする理屈っぽい、七面倒くさい考え方を、ここですべて背負い投げをくわせ、御破算にできるような身の軽さを感じるのだった。  幼児からカトリックの学校で育った私は、知らず知らずのうちにカトリックの神について自分なりの観念を身につけるようになった。それは常により高きもの、より美しきもの、より厳正なる存在であり、神の方からは私にたいして、あたかもストイックに生きることを課しているような勝手な錯覚を抱かせられていたのである。今改めて考えれば、それはまるでプロテスタント流の内面性にのみ目を向ける神であって、何故そういうふうに私が意識していたのか不思議でもある。だが私は何にでも反撥せずにはいられない性格だったから、意識の最後のところで必ず顔を出してくるそうした存在をもてあました。それはいわば、身の内に囚われの心を養い育てているも同然であり、真実の意味では自由の身になれないのではないかと思うのだった。私にはそうした意識が間違ってもクェーカー流の「内なる光」などとは思えなかった。何よりも、あらゆる束縛から離れた自由な心が欲しかった。  日本におけるカトリックの子女の教育をくぐりぬけて西欧を眺めれば、西欧はキリスト教の芸術と文化に代表されてしまい、イタリアさえその範疇から出ることがなかった。イタリアといえばローマ文化とルネッサンスであり、ボッティチェリやダ・ヴィンチの絵画や、スカルラッティやヴィヴァルディの曲、ダンテやダヌンチオの世界、ヴェルディのオペラや職人の世界さえもがクレモナのヴァイオリンに代表されていたのだった。  それがニューヨークで生活を始めてから、生来の庶民愛好の精神もあって、この日の体験のように、考えても思ってもいないところから、じわじわと私のそうした既成観念はとり払われることになった。私の内に住む、気になる存在もいつか影が薄れ、あるものはただ、ものごとをありのままに受けとめる単純きわまりない性格だけとなった。それから現在まで、私の住んできた世界は、あるいはアカデミアの周辺という、はたから見れば決して単純でも自由でもない一種の閉鎖的な社会であるのかも知れない。しかし私たちが若い日にニューヨークで身につけた、いわばジョージ・コーフマンの戯曲の映画化、『 You Can't Take It with You 楽しき 我が家』流の考え方は、私の現在のあり方と家庭運営の基盤をなしていると思う。来る者は拒まず、去る者は追わず、誰もが好き勝手な興味を追求して決して既成の観念にとらわれず、現在を楽しみ、分、相応に……。  ジェンナロさまのお祭りから二十余年、今私はここに遥かなる日の神さままでも持ち出してしまった。だが、リトル・イタリーの名もなき庶民が私に与えた影響は少なくなかった。私は自分の食卓にささやかなイタリアをとり入れるようになった。にんにくとトマトを刻んでソースを作り、庭のベーシルを摘んで手製のソーセージを作る。粉だらけの台所の後始末をする図に怯えながら、パスタをこねて製麺機のハンドルをまわす。マージョラムもオレガノもベーシルもタイムも、手あたり次第に振り入れては、子供たちから「薬屋さんのスパゲッティ」という批判を受けたものだった。が、いつしか彼らもわが家のアーブならぬ薬草入りのようなソースに慣れて、スパゲッティは外では楽しめぬ料理となった。ピッツァもわが家のコンティネンタルがいちばん、と彼らは言う。チキン・カチァトーレや仔牛のスカロッピニ、オッソ・ブッコ、蝦のマリナラソース、それに冷たいアンティパスト。わが家の食卓を顧みるとあまりにも身近かなイタリアだが、私はこれらにニューヨークでめぐり逢った。あくまでもアメリカ経由のイタリアである。  一五三三年、メディチ家のカテリーナがフランス王アンリ二世に嫁して、イタリアは料理文化の上からもルネッサンスの曙光をフランスに伝えることになった。フランス食卓史発達の引き金になったのは、この時カテリーナについてイタリアからやってきた料理人たちと銀のフォークであるという。  それから三百五十年以上を経て、イタリアからは名もなき移民たちがアメリカへ渡った。彼らはヨーロッパの他の国の人たちよりはずっと遅れてやってきたのだった。だが年代を経るごとに彼らは各地に散り、その地に根をおろしてそれまでアングロ・アメリカ一辺倒に近かったアメリカの食卓に変革をもたらした。  素材も料理も家庭の食卓も、今日のアメリカ料理はイタリアを語らずして語れない。      自家製イタリアン・ソーセージ    イタリアン・ソーセージがたやすく手に入るのなら、そしてそれが、塩からすぎず、スパイシーで美味ならば、食べた後のにんにくの匂いを気にしながらも、私は毎週一度は買うことでしょう。ある時、都心の店で見つけて買ってみたもののあまり気に入らなかった私は、これは自分で作るしかない、と決心しました。肉屋さんにケーシングをたのんで取り寄せ作ってみたのですが、やはりスタッファー(肉を詰める道具)がないと肉と肉の間に空間ができて、それが味わいに響き、うまく行かない。そのうちにシアーズ・ローバックの通信販売で家庭用のスタッファーを買いましょう、と思いつつ五、六年過ぎてしまいました。    近頃では自分の怠慢を反省しつつ、カントリー・ソーセージのように、肉をただ丸めて焼いているので、子供たちはただのミートボールだと思っているようです。とにかく、前菜にしても、トマトソースの中で煮てスパゲッティとつけ合わせても、豆と料理をしても、野菜と炊めても、オリーヴ油で焼いてサラダに入れても、ミネストロニの中に刻んで入れても、便利で風味が濃いところが、庶民の食べものだと思います。    私のいいかげんなイタリアン・ソーセージは次のようにして作ります。肉は豚の赤身二、あぶら身一の割合(仔牛の肉のある時には全部一の割合)でそろえ、よく切れる包丁で細かく刻みます。これを手で回す昔ながらの挽き肉機に一度かけ、刻みパセリ、黒胡椒、みじん切りのにんにく、タバスコ、唐がらしの細かくしたもの、タイム、ベイリーフをもんで粉にしたもの、オレガノそしてできれば青いベーシルをパセリよりは大量に刻んで入れ、マルサラが手元にあればほんの大さじ一杯をふりかけ、木のへらでよくよく全体を混ぜあわせます。容器にぴっちり蓋をして一、二時間以上冷蔵庫においてから丸めて焼きます。    イタリア系の人たちはコーンミールをご飯のように炊き、その上に、このソーセージとマッシュルームをオリーヴ油で炒め、トマトソースで煮たものをかけ、上から粉チーズを振って食べるのですが、このコーンミール、イタリアン・スタイルをポレンタと呼びます。 [#改ページ]

 
チャイナタウンは胸突八丁坂の上    キング・ルイの物語  サンフランシスコのチャイナタウンは胸突八丁の坂の上にある。ここにある店を他の都市のチャイナタウンにある店と間違えるようなことは、地形の上から、まずなさそうに思う。映画『チャイナタウン』の中でも、この街筋はいかにも独得な、印象に残る使われ方をしていた。しかし、ひとたびチャイナタウンについて反芻しはじめると、私は自分の胸の内に描き出してみた情景がはたしてどの都市であるのか判別ができなくなってしまう。考えこんでしまうのは、回想の中の街の四つ辻が、ニューヨークであるのか、サンフランシスコであるのか、それとも横浜なのか判断がつけられず迷う時である。回想にはある種の曖昧さはつきものであり、実際に見くらべてみれば、それは明らかに違うはずである。だが私にとっては、チャイナタウンはそれほどに、どこも同じ顔をもっている。  四つ辻には、まずみやげ物屋がある。極彩色の瀬戸物や、本物の美しさとはおよそかけ離れた模造の翡翠の装身具、光沢がありすぎてかえって安っぽく、どことなく品性いやしくさえ見える緞子の支那服、象牙細工をあしらった実際にはあまり役に立ちそうもないレースのようなベコベコした扇子、虎や龍や牡丹の、鮮やかすぎてどぎつい、みやげ物屋特有の色彩をほどこされた絵、そんなジャンクとしか呼びようのない品を並べたてた店である。ウィンドウのディスプレイに、これほど配慮の跡の見えないところも、まず他には思いあたらない。  四つ辻にはまた、旅行者や訪問者には決してその商いの種をあてることのできぬ“何とか&チャン商会”というような名の、一見しもた屋風の家がある。まわりの賑々しさとはまったく無縁といわんばかりに、ひっそり閑と静まりかえったその佇まいは、不気味でさえある。その向いにあるのはいつも扉が半分開いたままのチャイニーズ・グロサリー・ストアである。魚もあれば野菜もあり、ぷーんと匂うのは東洋の素材の、あの独得な匂い。完全に描写することがひどく難しい、俗にチャイニーズ・パセリと呼んでいる香菜やオイスターソースに代表される匂いである。  残りの角を占めるのは時間によっては人の出入りが繁しくて、しかもはち巻きのヒッピーのほか西洋の顔だちをした客をほとんど見かけることのない簡易喫茶、食堂である。テーブルも椅子も機能を果すというだけの、現代風のプラスティックやデコラ張りの造りで、他のアメリカの簡易喫茶や食堂と全く変らぬ雰囲気である。横浜のそうした店と僅かに違うものがあるとすれば、それはテーブルの上に置かれたガラスの円筒形をした砂糖入れであろう。  こんなふうに、この街特有の顔をもったさまざまな店舗が、四つ辻を中心として次から次へがらくたのように四方へ連なっているのがチャイナタウンである。  学生の頃、時どき訪れては夕食をとる店があった。ニューヨークのチャイナタウンの、ほとんどはずれに近いところにある、私の知っている限りでは一番安価で、おいしい店であった。それは細い階段を降りて行かねばならぬ地下の店だった。あまり清潔とは言えないうえに、九分通り英語の通じない店でもあった。今日のお奨め品が五、六品、雄麗なる毛筆で紙に書かれ、壁に張り出されているが、たとえば口頭で、あの壁に書いてある左から二番目の料理と伝えてみたところで、仲々解ってはくれなかった。したがってウェイターには、妙なことに、客の私たちがひどく照れながら拙い漢字を書いて注文するのだった。  店の主人は人の好さそうな五十がらみの男で、私にはサザエさんのお父さんが蝶ネクタイを締めているように見えた。店の格式に全くそぐわぬ黒っぽいメートル・ドテルの服装は、この人の徹底した職業意識の現れなのかとジロジロ見つめたこともあった。あるいはごくファンシーな中国料理店で長年ウェイターをして勤めあげ、それでここに店を開いたのかも知れない、と思ったこともあった。だがそれにしては不可解なことが数かずあった。何を尋ねてもこの人は笑顔を崩さず、肯定で聞こうが否定で聞こうがあらゆる問いに対して「オー・イエス、イエス」と答えるのだった。  たった一度だけこの人の笑顔が引きつったように消えて、思わず「オー・ノー」と叫ぶ場面をこの私がつくり出したことがあった。私の方には露ほども責めたてる気持はなかったのだが、英語が通じないことから、一皿の料理に起こった不注意を伝えるのに、私のとった方法の他にどのような手だてがあったろうか。そもそもどうしてそんな事件が起きたのかも推量をたてにくいのだが。私はこの話を、オリエンタル・キチンは汚ないという例ではなく、むしろおいしい料理は無秩序な、汚れることをいとわぬ台所から出てくる例として語りたい気持がする。  それはある日注文した|鮑《あわび》の料理に、石鹸が入っていたことから始まった騒ぎであった。鮑の料理はそれまでにもこの店で食べたことがあったから、私たちとしては特別な料理を注文したわけではなかった。はじめ一口食べた私の連れが、「今日のはおかしい」と言った。さてそれから、いかなる順序で私がついにこの店の主人の口の中にお箸でつまみあげた鮑の一切れを押し込むことになったのか、今の私には記憶がない。とにかく何を説明しても一向に埒が明かないので、私たちは主人に一切れ食べてみて欲しいと身振りも混ぜて頼んだ。だが、笑顔を崩さぬこの人は、「オー・イエス・イエス」と繰り返すだけで何も解ってくれない。そこでたまりかねた私が隣のテーブルにセットしてあった箸をとった。 「エックスキューズ・ミイ」、私はそう言うが早いかこの人の口の中に鮑を一切れ押し込んだ。気がついた時にはこの人は「オー・ノー!」と叫び、顔が引きつり、私たちのテーブルの上の皿がひったくられ、蝶ネクタイと黒のジャケットがキチンに跳びこんでいった。  だがおかしなことに、この人がキチンから出てきた時、私たちにたいして一言の釈明もなされなかった。その代り、食欲を失った私たちに、注文もしなかった|海鼠《なまこ》の料理などが出されて、  主人はしきりと「マイ・ディッシュ、スペッシャル」と繰り返した。食後にアイスクリームとフォーチュン・クッキー(おみくじ入りの巻煎餅)が出てきたことは言うまでもない。そして別れる時依然として釈然としないでいる私たちに、主人はいつに変らぬ丸顔の笑みをほころばせるのだった。 「サンキュー・ベリーマッチ、カム・アゲイン」この人なりの中国語か英語か分からぬような挨拶も同じであった。  その後この事件をきっかけとして、私の足は当然のようにこの店から遠ざかった。しかし私は、自分に起こった石鹸事件を言いがかりにして、短兵急な結論を安直な中国料理店について引き出そうとは思わなかった。おいしいものが格安に食べられるということは、どこかで何かが抜けていても仕方がない要素を含んでいはしまいか、当時の私はそんな風に思ったものだった。  食べ物の味とサーヴィスと環境、の三者の質の高さを同時に求めるなら、私はもう少し値の張るところへ行ってそれを求めなければならない。もっとも今の東京には、値ばかりが張って、三者とも実体のない店が多くなっているようなので、私はこうした意見を現在述べることはできない。この店の抱えていた最大の問題はしかし、洗い場やコックの、あるいは給仕たちの本質ではなく、まずはだれもしっかりとした英語を話すものも聞くものもいないという現実だったのではないか。  中国人たちが西海岸の都市に移民としてやってきたのは、移民の歴史から見ればそれほど新しい方でない、一八五〇年頃であった。彼らは大陸横断鉄道の開設のための労務者として重労働に携るか、飯場の賄いになるか、少し料理を知っているものたちは個人の家庭のコックとして、中産階級の家庭に住み込むかしてアメリカ社会に一応の足がかりをつけた。いずれも社会の最底辺の仕事であった。  彼らをコックとして雇ったのは、主に西海岸の家庭であり、西海岸の家庭の多くは、中西部や東部からの移住者であった。当時の社会的構造から見ると、コックを雇える中産階級というのは、イギリス系の家庭が主流であった。  中国人たちは労働者としては大変な働きものであった。しかも上意下達の徹底する素直な、おとなしい労働者であった。その上雇う側にとって更に都合のよかったことは、彼らが、お米とあるかなきかの菜さえあれば、一日中黙々と働き続けることであった。彼らはまた、他国出身の労働者と違い、孤独に強い体質をもっていた。鉄道開設の最先端である未開の荒野の只中に何週間と置き去りにされても、淋しさから精神に異常をきたした例は極めて少なかった。  建設現場や牧場の賄い手となった彼らはまた、他に例のないコックとなった。この人たち自身のダイエットと同じく、あるかなきかの材料から(塩づけ豚、塩鱈、玉蜀黍など)味わい深い一皿を創り出すのが得意であった。ハムの屑と先住者であったスペイン人の残したピーマンやとうがらしを切り刻んで、蟹玉ならぬハム玉を創り、これをパンにはさんで牧場の荒くれ男たちを満足させた話も伝えられている。彼らは肉類を切り刻んで料理する天才たちであった。アメリカには肉類を薄切りにしたり刻んだり、千切りにしたりして使う料理は、ベーコンや塩豚の料理以外にはなかった。彼らは乏しい残りものの肉を切り刻んでは野菜と混ぜ、アメリカ好みの中国式料理、チョップスイやチャウメンを創りあげ、僅かな肉を平等に分かちあうのだった。  しかしながら、中産階級の家庭に入り込んだ中国人たちは、こうした中洋折衷の料理を作ることをほとんど許されなかった。中国人コックといえどもローストであり、シチューであり、パイであり、ボイルであり、チャウダーであり、フライであった。彼らのかくし味として役立つはずの醤油や味噌も、中産階級の台所にはもちろんなかった。東洋の調味料は、つまり東洋の味わいのもとは、台所にあるだけでみすぼらしい匂いを発散させる、と言い放つ女主人がいた。そういわれても、英語をあまり解さぬ中国人コックたちには、はっきりしたことは分からなかった。字の読めぬ彼ら、英語をろくに解さぬ彼らが、コックとして、あるいはハウス・マンとして、アメリカの西海岸の中産階級の台所に溶けこんで行くには、ただ黙々と従順に働くよりほかはなかった。 「ねえ、あの面白い名の中国人コックの話もっと聞かせて頂だいよ。貴方の生家のガヴァネス(家政をとりしきる婦人)とメイドとコックのはなし、興味が尽きないわ」  私はサンフランシスコ出身の友人によくこうして話をねだったものだった。すると彼女は、必ずそれまでに忘れていたような新しい事実を思い出してくれた。 「とにかくあの人は私の生れる前から家にいたのよ。紹介状をもってやってきたのは、何でも大恐慌のずっとずっと前のはずよ。英語は分かりますという触れ込みだったけれど、何を尋ねても『イエス、イエス』としか言わないから、大勢の客の際には役に立たないだろうけれど、まあその時は別に誰か連れてきてもよかろう、というので雇ったんですって。おとなしそうな様子がママを安心させたらしいのね。それまで家にいたコックはほとんどがアイルランド女で、みんなメイドのメイジィと派手な喧嘩をして、出入りが激しかったそうよ。同じアイルランド女で、メイジィは字が読めて、コックたちは読めなかったからいろいろ複雑だったんでしょう」 「ところがその中国人コックは、雇われたその夜に『チキン・ア・ラ・キング』を作り、それがあまり美味しかったので、パパが早くも食卓で今度のコックは大切にしてやるように、とお給仕をしていたメイジィに言いわたしたそうよ。すると彼女がたちまちパパをやり返して『はい旦那さま、名前さえキング・ルイなどというごたいそうなものでなければ、喜んで!』と言ったんですって。これは我が家の語り伝えられるべき歴史的瞬間だって、何度聞かされたことかしら」  キング・ルイは私の友人の両親に四十年以上仕えた料理人であり、とびきりの腕をもった中国系アメリカ人である。生れは中国の福建省と伝え聞いた。貨物船の司厨として働いていたという以外のことはあまり判っていない。キング・ルイというおかしな名の命名の由来も、たしかなことは分からないが、中国名がその音に近いというごく簡単なことから、船のクルーのあいだでそう呼ばれていたのだという。一九六〇年代に私がこの家の客となり、彼の手になるスペイン風のローストや蟹のニューバーグでもてなされた時、この人は七十歳を昔に迎えた老齢であると聞いた。  一九六〇年代の半ば、アメリカの家庭は、かつて裕福な家庭が抱えていた家事使用人の最後のメンバーを通勤勤務者として解放した。しかも家事労働のあらゆる種類の職種が、パートタイムの専門職として細分化されるようになっていた。掃除婦、子守り、コック、給仕と後片付け係、便利や、というように、決められた時間だけやってきては仕事を片付けて帰って行く。住み込みの家事使用人をおいている家庭はまれであった。キング・ルイも例外ではなく、当時はサンフランシスコのチャイナタウンから老躯に笞打って通勤する身の上となっていた。が、少々通常のパートタイマーと異るところがあった。それは、四十年来の雇主である私の友人の両親が、彼を大切にするあまり、主人みずからが彼同様の老躯に笞打って、チャイナタウンまで金門橋を往復しつつ送り迎えしていたのである。もちろん毎日だった。この家の主婦は従順なキング・ルイのお蔭で、四十年以上の年月を全く台所に立ったこともなく過したという、時代ばなれした人であった。  キング・ルイに英語の読み書きを教えたのは、この家の子供たち三人が育つ時代にいたガヴァネス兼テューターのような役をしていた婦人、ミス・メイブルだったという。ある日彼に読んで説明して欲しいと乞われ、料理書からポップオーヴァー(即席のブリオーシュのようなもの)やスコーン(朝食やおやつに食べる即席のパン)などの作り方を二回ほど読んで説明したところ、それは見事な作品を創りあげた。感激したミス・メイブルはもともと天賦の才のある彼の料理のレパートリーを次つぎに拡げることを思いつき、最後にこの男を字の読めぬままおくことはできない、と堅く決心するに至った。何カ月かを費してそれに成功すると、ミス・メイブルは更に、キング・ルイをアメリカの市民にせずにはいられなくなった。  幸いこの家の主人がスコットランド系の法律家であったことから、主人自身が彼のために力を貸し、当時西海岸ではなかなか難しかったアジア人の市民権獲得に成功し、キング・ルイはついにアメリカの市民となった。一九三〇年代までの西海岸では、白人の中でも出身国による階級性がはっきりしており、身元保証人として据えるのにスコットランド系の家族以上のものはなかった。その上、職業の階級性もおのずと定まっていたから、スコットランド系の法律家を主人にもてば、闘いははじめから成功を約束されていたようなものであった。 「アメリカ人になったとたんにキング・ルイは自信がついたのか時どき家で家族だけの夕食の時、中国料理を作るようになった。もちろんそれまでだってわが家の野菜の料理の仕方は、まったく独自だったわ。ほんとうに感覚的に処理してあったものよ。ゆで過ぎて正体がないような、一般にアメリカの野菜料理と思われているくたくたのものを食べたことが私たちはなかった。大学の寮に入った時、私は毎日野菜の死骸料理を食べさせられているようだと思ったものよ。彼の手になる野菜はパリッとして、味わいがあって、火の加え方はそれ以上でもそれ以下でもいけない、いわば完全な調理ぐあいだった。私たちきょうだいは両親が留守になると、キング・ルイに『何から何まで中国料理にして』、とたのんだものよ。すると彼は卵のスープからはじめて……」  やがて第二次大戦となり、ミス・メイブルは海軍に奉職する身となってこの家を去り、子供たちもつぎつぎに大学生となって東部へ行ってしまった。それ以後はこの家の使用人もキング・ルイとメイジィの二人だけになった。その頃には彼はチャイナタウンに妻子を養う身となっており、月曜日の朝この家に出勤して土曜日にチャイナタウンに婦って行くという生活であった。ガミガミやのメイジィもすっかりやさしくなり、長い夏休みで主家が空っぽになる時には、彼女から主人に乞うてキング・ルイの妻子をこの家に住まわせたという。キング・ルイのひとり息子を可愛がるメイジィには、かつての激しい気性のあとかたも見えず、祖母が孫の面倒を見る姿そのものであった。  一九六〇年代の半ばに私がこの家の客となった時、私はそれまで話にだけ聞いていたキング・ルイに、待望の対面をすることになった。メイジィは少し足元がおぼつかなくなっていたが、当然のように、まるでこの家の主人の縁続きであるように姿を現して、何くれとなく私たちの世話をやいた。洗濯物はございませんか? アイロンは? 今夜の夕食はいつもより三十分早い七時ですから五時半までにはお帰りにならないと、というように。  さて、何年かまえから話に聞かされていたこの家の賞賛すべき料理人に引きあわされた時、私たちは二人して「おや」とか「あら」とかいう感嘆詞をもらしたはずである。キング・ルイはそれほど私たちの旧い知り合いに似ていたのである。そう、あの“石鹸入り鮑”の事件を起こした料理店の、サザエさんのお父さんそっくりの主人に。老齢のせいで背中は少し曲っているものの、口をきかないでいるかぎりでは、同じ人と語られればそれを信じないわけにはゆかぬほど。 「ミス・スージーからあなたとあなたのお料理のことを、それはそれは幾度も聞かされているのよ」、私が言うと、彼は自分もまたミス・スージーが帰宅された時に、東洋のお友だちのことを伺っていました、お目にかかれて大変嬉しうございます、と答えた。中国風のアクセントはあっても、実に正しいひとことひとことを区切って喋る英語だった。  客となって二日目の夜、私は、この人を送ってチャイナタウンまで行くというこの家の末息子のスティヴと、自動車に同乗することになった。サンフランシスコの夜は、入江の反対側から眺めると、街の夜景というよりは、とてつもなく大きなカスバの城が数え切れぬ灯を点じて、夜空にその存在を誇っているようだった。末息子のスティヴは当時学生で、それはひどいボロ車に乗っていた。メイジィは「およしなさいませ、スティヴさまの車はテイルライトの赤いガラスが片方破損しておりますから、私もよう乗りません」と言った。それでも私はチャイナタウンへ帰って行くこの人を見届けたいと思い、多少の不安はあったが一緒の車に乗り込んだ。スティヴはテイルライトに応急処置をほどこし、白い紙にめちゃめちゃに赤インクをぬってテープで張りつけた。  サウサリトからチャイナタウンへ、寡黙のキング・ルイを乗せたおんぼろ車は、それでもスムーズに走り続けた。ブッシュ・ストリート側から坂を上って、ここで降ろして欲しいというキング・ルイと十時過ぎてなお人出で賑うグランド・アヴェニューとサクラメントの四つ辻で別れると、スティヴは、さあてぼくたちは今天国に近いところにいるのだが、と言って言葉を切った。 「この車はブレーキが効かないんだ、それに今度降りる坂の方が今のぼってきた坂よりさらに急だよ。怖かったら目をつぶって欲しいな。そしてぼくがもういいと言ったらうしろの窓から坂を見てごらんよ。坂の上に賑やかな街があるなんて信じられないような、上までは見通せぬ峻しさだよ」  私はこの時のスティヴの言葉をサンフランシスコに滞在する度びに思い出しては、同じ道筋を車に乗って走ってみる。つい二年ほど前も今では学者になっているスティヴその人と走りながら、この家のなつかしい消息以上の話を聞いた。 「メイジィがその生涯を通して貯蓄した金額のほとんどを、遺言でキング・ルイのひとり息子に残したのを知っていたかしら。それから、ぼくにも少し」  スティヴはとても満足そうに言って頭を左右に振った。      うれしい紅焼魚    大きな|《いしもち》や鯉など、白身の魚を揚げて甘酢あんで頂く紅焼魚(糖醋魚)は、そのヴァリエーションが日本では夕食のお惣菜にもなっているほど人気のある中国料理ですが、アメリカの友人から教えられた次の一品も、いかにも家庭的で、油で台所が汚れないところがうれしいご馳走です。    大きな生きの良い白身の塩水魚の鱗をとり、内臓をとり除き、よく冷水で洗います。両側に二カ所ずつ大きく切れ目を入れ、ペーパータオルで水気を拭ってからお腹の中に生姜とねぎと三ツ葉(香菜でも可)をつめ込み、アルミフォイルで包みます。それをさらにガーゼで巻き、ガーゼの両はしを長く余します。    オーブンを摂氏二〇五度にセットし、魚が丸ごと入るような深めの天火皿に沸騰した湯を半分ほど満たします。ガーゼの両はしをもって魚を湯の中に浸し、一五分から二〇分ほどオーヴンの中で火を入れます。魚は一キログラムを越える大きさで、そのくらいの時間ですから、小さい時には短時間ですみます。    魚がオーヴンの中に入っている間にソースを作ります。フライパンの中に油を大さじ二杯入れ中火にして刻んだ生姜を大さじ山もり二杯、葱一本のせん切り、パセリ四分の一カップ、香菜または三ツ葉四分の一カップを入れていため、次に醤油大さじ三杯、支那味噌大さじ一杯、酢と胡麻油と酒を大さじ一杯ずつ、砂糖小さじ一杯、四川|豆瓣 醤《トウバンジヤン》小さじ一杯を入れて火力を増します。全体がよく混ざりあったらば、先程と同量の生姜、葱、パセリ、香菜それにもどした椎茸のせん切りを投げ入れて火を止めます。魚をひき上げ、大皿にソースの半量をまず入れて、その上に魚をガーゼ、アルミフォイルから出して載せ、その上から残りのソースを全体にかけます。    冷たいビールにも、日本酒のお冷やにも、水割りにも、もちろんワインにもあう、香りの高い料理なので大人には評判がよく、子供たちも香菜さえ使わないでくれたら、と思っているようです。 [#改ページ]

 
|蓴菜《じゆんさい》と愛の妙薬    日本料理の可能性  ニューヨーク生活の第一年目に、私は年長のアメリカ人の友と一緒にある高名な学者の留守宅で暮らしていた。そのアパートは、マンハッタンの西側を流れるハドソン河に面した建物の最上階にあり、居間からは河の南北を遠く見はるかすことができた。夜になると八十丁ほど北にかかるジョージ・ワシントン橋の眺めが忘れがたい映画のひとこまのように美しかった。マンハッタンの夜空はいつもダークブルーだが、ハドソンの河明りは対岸のニュージャージー側の空を心なしか|鴇色《ときいろ》を混ぜたような色に染めあげ、その下で黒々とした岸辺が夜の沈黙に沈んでいた。橋はその河の眺めの行きつくところ、遥か右手前方の中空に、無数に|燦《きら》めく星のロザリオのような灯を見せながら浮いていた。 「物語りのような眺め」、年長の友は時おり窓辺に佇んでは、深いため息をついてつぶやくのだった。  年長の友とはいっても、まだ二十台後半の若さであった。数かずの、結婚という実り方をしなかった恋物語のある人で、だれそれとは「オールモスト・マリッド」だったけれど、というのがこの人の口ぐせであった。ある日献身の情がふとかき消えて……、あまりにも義母になる人が差し出がましい口をきく人だったので……、イニシアティヴをとるのがいつもこちら側だった、それで疲れ果ててしまったのね……、こんな風にいつも自分にも相手にも誠実でありたいと願うと、その恋はうまく行かなくなるのだった。そして私と一緒のアパートに暮らしはじめた頃は、長いあいだ燃えていたCとの愛が、この人の父君の反対をきっかけにして、Cの側から急速に冷めて行きつつある時であった。  秋も深まったある夜、私は九十何丁目かの映画館に十時ごろから二本立ての映画を見に行った。ポール・ムニが熱演するドレフュス事件を扱ったフランス映画と、もう一本が何であったか今の私は憶えていない。私が出かける時、「今夜はあの人との最後の晩餐になるかもしれない」と前から言っていた彼女は、Cを招いての食事の最中だった。このところ急に冷たくなっているCの気持を、何としてもとり戻そうという試みであった。おいしい料理とごく親しい間柄の男女が二人だけで囲む食卓の雰囲気、このアパートにある学者であれば眩惑されるが如き蔵書、「物語りのような眺め」、明晰な頭脳と鋭い感性の持主(彼女はCのことをそう信じていた)に甘美にうったえる音楽。このアパートなら、すべてが揃えられる、と彼女は思ったのである。 「少し作為的なものを出したって、あの人は中西部の出だから気付かないのよ」  何日か前に彼女はそう言いながら、ブルーポイント(東部沿岸の生食用牡蠣)を前菜に、パプリカをきかせたTボーンステーキ、黒いマッシュルーム、人参のグラッセなどを献立に組みこんだ。サラダはビブレタスに赤かぶを添えて、デザートは……「これが訣別であればレーズンパイ(フューネラルパイとの別名をもっている)だけど、まだどちらとも決まったわけじゃないし。無花果をキルシュにつけて冷やし、クリームを添えるのはどうかしら」、彼女は何も分からぬ私を相手に喋りつづけた。それに一杯飲む時のためにナッツも忘れてはいけない。  リキュールには何をそろえようという段になると、彼女は大きな目をくるくるさせて何かしらいたずらを企んでいる様子になった。 「あの人はオレンジ系の香りが好きで、食後は大抵トリプル・セック(オレンジの香りの透明なリキュール)だったけれど、今度はどうしようかな」、彼女はそんな言葉をもらしていたのだった。  夏の終りまでは毎日のように会い続け、週末を共に過していたCが、電話さえもかけてこないようになってから久しかった。話にはその親しさを聞いているものの、私が彼女と住むようになってから、二人が一緒に外出したことはなかった。約一カ月も躊躇してから、彼女はそれこそ、西欧社会の常識の範を犯すような屈辱に耐えながら、女性の側からの誘いの電話をする行動に出たのだった。Cはそれを予想のほか簡単に承諾した。そして午後七時にトリプル・セックを携えて行く、と返事をしたという。  そう決めると、彼女はものごとを計画し実行に移すのに徹底的な人であったから、あらゆることに気を配った。新しい話題を創り出そうと買い求めて何日かかけて読了してしまったのが、たしかR・ドゥ・グールモンという人の『 Love in the Western World 西欧社会における愛』という著書であった。未だあまり英語の上達していなかった私に、彼女は夜になると感銘をうけたセンテンスを心もち声を上ずらせながら読んでくれるのだった。日中私は、居間のランプの下に無作意をきどったようにさりげなく置かれていたこの本をパラパラとめくっては、いつかは私もあのように興奮しながら読んでみたいと思ったものだった。  その夜、映画がはねて私が帰ってきたのは二時をまわっていた。鍵を開けてホールに入った時、居間に灯がついていたので、私は二人の影をすばやくソファの上に求めた。が、広い居間には人影はなく、食卓の蝋燭は消えていた。空のデザート皿とコーヒーカップが二組、食卓の上に残され、コーヒーテーブルの上には、トリプル・セックならぬ翠をたたえたシャルトルーズの壜とリキュールグラスがふたつ、カクテルナプキンが何枚か、乱雑におかれていた。ふと見ると、レコードプレーヤーのスイッチの明りがつけはなしになっていた。ふたりがこの部屋で最後に聴いた曲はパーセルのデュエットらしく、レコードがターンテーブルの上に忘れられている。だが、それよりも私の視線を射るようにとり残されていたのが、ソファの脇にぬぎ捨てられた彼女お気に入りのI・ミラーの靴だった。私は見てはならぬものを見たような気がして、あわててスイッチを切り、灯を消し、闇の中を猫のようなしのび足で自分の部屋に引き下った。大きな窓枠におさまったダークブルーの絵画の向うで、ジョージ・ワシントン橋の光が星の国の景色のように遠く、ゆらめいて見えた。  その時から信じられぬほどの年月を経たある五月の宵、ニューイングランドの小さな町で、私はそれ以来記憶の表面に浮び上ってくることのなかったこの夜の出来ごとを、客をもてなしている最中に思い出し、なつかしさで胸がいっぱいになった。指折り数えてみると、すでに二十年に近い歳月が流れていた。私は頭髪の一部に白いものが目だちはじめている齢になっていたが、あの時の友は依然として美しい二十八歳のままであった。彼女はあの夜から一年ほどして、高層のビルから身を投げてしまったのである。件のディナーデイトは一見新たな可能性を展開するかのように見えたが、Cの気持をとり戻すことはいかなる周囲のお膳だてをもってしても彼女にはできなかったのであった。死後この人は大切にしていたレコードと衣服とわずかな銀行預金のすべてを私に残していたことが発見された。  ニューイングランドの晩春の宵は美しい。林檎、|花水木《はなみずき》、|金雀児《えにしだ》などがいっせいに花をつけ、あるかなきかの微風にのって甘美な香りが運ばれてくる。私はその宵に二組の自他ともにエピキュールをもって認める客を食事に招いていた。私たちが借りていた家は古く、手入れはあまりゆきとどいていなかったが、この家の女主人公(英国に外遊中の女主人の良人は、ニューヨークの裕福なビジネスマンであったが、ある日突然に自殺をしたことが伝えられていた)のかつて経済的に充実していた妻としての生活を物語るように、上質のグラス類や食器類、リネン、それに、それぞれに出所の違うアンティクのような燭台が無限に存在する家だった。私たちのステンレスのシルヴァーではまことに釣りあいが悪く、私はテーブルをしつらえるたびに、銀製のふたつとないようなデザインのシルヴァーを買いたいという衝動にかられるのだった。とにかく、どんなにちぐはぐであろうが私はそれらの上質の品々を使って欲しいという申し出を受けていたので、客をもてなすたびに、幸せではあるが自分が仮の世界にいることを感じないわけにはいかなかった。  その宵の客たちは、いかなる日本料理をも、いかなる文化圏の料理をもおいしく食べられると豪語する友人たちであったから、夫は何日か前から、「ひとつこれぞ日本料理の極致というようなものを食べさせようではないか」と言い出した。あれこれ考えあぐねていた矢先、偶然にもオランダから帰国したという友人から鰻の燻製が届いた。これが優れた前菜の一品になることはまちがいなかった。美しい一品をという意識から、私はかつて東佐譽子さんに教えて頂いた菊花のカナッペを作ることにした。しかしこのカナッペに関しては、アイディアは日本的であっても、フランス文明愛好家の東先生の考案ゆえ、味覚の上では西欧である。花芯に使う練り雲丹はたいていの英米人が拒絶されるような味と感じることが分かった時から、私は自分なりの判断でイクラを使ってきた。それを今回は東先生のオリジナルレサピーに従って、持ちあわせの練り雲丹を使うことにした。雲丹を探しているうちに思い出したのが、日本から持参した|蓴菜《じゆんさい》の壜詰めだった。これをトランクの底の方で見つけた時は思わず得意になった。いよいよ彼らの知らない食べ物を食卓に載せることができる。私は花々の咲き誇る街なかを、取得したてのライセンスで車を運転しながらとり憑かれたようにあちこち買い物に歩いた。  欲しいものが一応揃うと、私は外国住まいの常識を越えたものが何としても欲しくなった。蓴菜に使う|生《なま》|山葵《わさび》である。私は早速、何事についても相談をもちかける久原松乃さんに電話をした。驚いたことに、彼女は、これは内緒の話だけれど、チエシャイア(コネティカット州の小さな町)にある貯水池の“立ち入り禁止”の標識をものともせず、ある地点から山の方へ向って五分ほど歩いて行くと清流があり、野性の山葵が密生している、と教えてくれた。初めてでは無理だから一緒に行きましょう、ということになった。  久原松乃さんはその長いアメリカ生活にも拘らず、古き佳き日の日本の良家の令嬢が、優雅な夫人に成長を遂げたサンプルのような人柄である。それと同時に、アメリカの良識を見事なまでに我がものとしたユニークな存在である。日本式のお正月を祝い、春の野に土筆を摘み、イースターの卵をあでやかに染めつけ、紫蘇を植え、七夕を祭り、フットボールの観戦で手に汗を握り、野性の|牛蒡《ごぼう》を発見し、自宅に備えた檜のお風呂に入る。感謝祭には特大の七面鳥を焼き、内外の客をもてなし、日本からの留学者の家族の面倒を見、地方の小さな会で日本を紹介し、コンサートに通い、ガラス工芸にいそしむ。謙譲の美徳が身についた人だけに、自らも婦人の団体の役員として活躍するこの人を見ていると、私は彼女がアメリカにおける日本の無形文化財のように思えてしまう。  残念なことに、山葵ハンティングを予定した当日に大雨が降り、私にとっては無念の計画中止となった。松乃さんは私を慰めようと、日本からだれかがポケットの中に入れてこっそり持ち込んだ青い小さな柚子をとどけてくれた。私たちは、山葵、柚子、山椒、紫蘇のような日本特有の薬味は、客がどのように日本通であろうと、エピキュールであろうと、欧米人の場合、鑑賞的に味わうにしても、私たちとはその密度が違うだろうという雑談を長々と楽しんだ。  そしてこの結論にこだわるように、白醤油を使ってつゆを作り、冷たいおそうめんを昼食とした。かくも貴重な柚子の表皮を半分以上おろして使ってしまったのである。蓴菜に添える分は、相手の好奇心をそそる程度残っていれば充分だとばかり、私たちは青い柚子の香りを、感覚的にというよりは、ほとんど精神の高揚を感じるように昂ぶって味わった。  当日の朝、私は六時頃から後ほどクリームと苺をつめるのに使うタルトのケースを焼いたり、ブルーベリーパイをこしらえたりした。日本のお菓子はまず好んでくれる欧米人に出会ったことがなかったから、はじめから挑戦する気がない。小豆を使ったものは受け入れられず、淡雪羹は香りに乏しく、錦玉は甘味が過ぎる。ゼリーを作るとすれば外国のリキュールであるキルシュ、グラン・マルニエ、コアントローなどの力を借りなければならないが、デザートはやはり、何といってもフランス式のお菓子や冷菓に優るものはないようだ。和洋折衷をデザートで試みても、それは微妙な点で洗練されたお菓子となり得ない。  その日の献立は、十一時頃訪ねた魚屋に堂々たる|鱸《すずき》があったことから、次のようなものになった。   《献立》  前菜   鰻の燻製、オランダみやげ   菊花のカナッペ 東佐譽子流   蓴菜、冷飯クラム清汁入り、おろし柚子   鱸の洗い、タバスコ、レモン入り醤油、   無念のとき山葵、バジリコのみじん添え  主菜   ローストビーフ、ベルモット、醤油、ウースタシャーソース、肉の血、おろし玉葱入りソース、刻みのびる、マスタード、西洋わさび添え   クレッソン   クスコス、鶏のブィヨンだき、刻みパセリ  サラダ   ビブレタス、マッシュルーム、|木耳《きくらげ》、ローストピメント、フレンチ・ドレッシング  デザート   苺のタルト・クレーム・パティシエール入り、ブルーベリーパイ、コーヒー、リキュール  さて、この宵の食卓の話題がどのように発展していったのか、なぜあの友のことを思い出すようになったのか、私は料理のことで気もそぞろだったので、今ではごく断片的な記憶があるに過ぎない。男性が全員大学で教鞭をとる身の上であったから、土地柄としてもニューヨーク・タイムスの書評欄に載った書物の話、映画の話、ファカルティのあの人この人の噂は活発にやりとりされた話題であった。やがて、鰻の燻製から話題は斑入り鰻(speckled eel)とランダル卿(Lord Randall)に移り、マザーグースからベラフォンテの歌まで、各々が勝手に思いついたままの知識を並べたてたので、私は日本の食べ物に関する自分の知識の貧困にあわてる必要がなくてほっとしたのを憶えている。  菊花のカナッペについては、私は過去にここの大学の婦人たちの会合に持参したことがあり、今日の客にも、女性たちには馴じみのある料理であった。美しさについての最上級の賛辞の声があり、味わいも、日本的な意味でのきめ細かさが客たちには理解された様子だった。練り雲丹については夫が説明していた。  アメリカの人びとは人を賞める才には長けているので、私たちは彼らが初めてという料理を供した際、見る間にお皿の上からそれが消えてしまうことを、真実その料理が愛されたしるしと受けとっている。いかに大げさな、こちらの耳に心地よい美辞麗句のたぐいが並べられても、出した料理が消えなければ、そのもてなしは失敗と見た方がよい。そうした私たちの判断によれば、その宵の客に関するかぎり、鱸の洗いは大成功であった。この家にあったアメリカの皿としてはめずらしい四角いガラスの銘々皿に盛りつけた洗いは、まことに清冽として、味の上からも、日本料理のエレガンスの片鱗をうかがわせるものがあった。  ここまで無事に終った私は少しくつろいだ気持になって、次のローストや得意の蓴菜のために食卓の皿を下げ、台所に何分か引き下った。蓴菜を運びおわり、ローストを持って再び席についた私は、その場の雰囲気が微妙に前と変っていることに気がついた。  ジャーナリズムの先生が夫に教えられた通りに蓴菜の入った湯呑みに手をそえて、何やら小声でたずねている(私は小さな湯呑みに小さなスプーンを添え、Clam Juice クラムジュースをベースにした冷たい汁の中に蓴菜を入れた。もちろん青い柚子の皮をおろして散らし、山葵も添えた)。アメリカの東部知識人たちの中には、その育ちと全く関係なく、親しくなるとおよそ食卓の常識を無視した話題を喋りつづける人がいるものだが、その時は、必然的にランダル卿から女に毒を盛られて命を落とす男の話になっていたのである。こうした物語りの要素の濃い話題の方が産児制限の具体的テクニックなどを語るよりは、はるかに食卓に向いているし、また、刺戟的なのである。  夫が相手よりは大きな声で、「残念ながらそうではないと思う、それはとろろ芋だから、日本を訪ねてくれなければご馳走できないよ。ニューヨークではどうかな」と答えた。  すると歴史学者の方が、 「そういえばアメリカ大陸古来の食物で、伝説的にはともかく、潜在力が立証? された食物はないのではないか」と言った。  私の斜め横の座についている料理教室の友、オーストラリア出身の美女が私に笑いかけながらウィンクをして見せた。私はどうやら自分が周囲の喋っていることについて行っていないのではないかと気になった。が、食物の中に潜む毒の話をしていると信じていたので、 「そういえば、この間見てきたのだけれど、牡蠣のシチューで女房に殺された男の碑があったわね。たぶん、『ウォーレン・ギブス、毒薬により死す。婚前の名をメアリー・フェルドンと名のりし女房、オイスター・シチューに毒薬をふりかけしものなり。弟ウィリアムこの碑を建立す……』というのだったかしら」と口走った。 「そうそう、あれは毒薬を使ったという確証があったんだろうがね……牡蠣そのものに毒が発生する時期があるというのは嘘なんだよ。Rのつく月は食べてはいけないというのはその時期は気温が高くていたみやすいからだ。生活の智恵にすぎない。それよりも、牡蠣こそ、彼の最も個人的な部分を充実させる力があるってことが十九世紀には盛んに言われたんだから、作為としては僕はそちらの方にあったんじゃないかという気がするがな……」  ジャーナリズムの先生の言葉つきが女性たちにとっては、いささか面映ゆい調子を帯びてきたので、彼の美しい妻が笑いながら遮った。 「いうなれば冷めた夫をいかにして迷わすかね」  突然私の記憶のどこかで、ニューヨークの友の顔が小さな鏡の中に写ったように浮び上った。それは段々に大きく、スクリーンいっぱいに写し出されて、私に近づいてくる。私は何とも唐突に、「Cはどうしているのかしら」と呟いた。  ローストを切るのは、本来は男性の役目だが、我が家はいつも台所との往復のはげしい、そうでなくとも落ちつかない私が背負わねばならぬ運命である。私はせわしくローストを切る間も、それが西洋と日本との歩みよりの味わいとしてかなりの成功であると我ながら満足感に浸っている間も、デザートの間も、何かしら上の空だった。いったん記憶が甦ると、私はあの友とC、彼らのあいだの最後の晩餐、美しく燦めくジョージ・ワシントン橋の夜景など、なつかしいニューヨーク生活のひとこまひとこまを目の前から払いのけることができなくなった。  ジャーナリズムの先生の先刻の言葉が、私にはあの日の献立の解説のように響いて、この期に至って自分の無知の一部に突然光があてられたような気がするのだった。牡蠣やステーキ、それに黒いマッシュルームは、彼女がアヌイの『ジェザベル』を読んだからではなかったのか。レーズンパイから思いつきで無花果に変更されたあの日のデザートは、愛とは別のもうひとつの世界へ比重が傾くことへの、ためらいを示すものではなかったのだろうか。それにしても、存在もしなかったもともとのプランのレーズン(フューネラル)パイは、私の作った緋い苺のタルトと紫色のブルーベリーパイの上に三重写しになって見えるのだった。そして、追憶は音楽までも奏ではじめ、私の耳はあの友があの夜以来憑かれたように聴き続けたモーツァルトの『レクイエム』や『愛の妙薬』を追うのだった。 「この人は今夜はわたしたちをどうしても誘惑者に仕立てるつもりらしいわ」、私は歴史学者の夫人の言葉で我に返った。リキュールグラスをコーヒーテーブルの上に並べたてた私は、ルールを全く無視して、全員に翠のシャルトルーズを注いでしまったのだった。 「シャルトルーズね、私たち女性にとっては、見ることも聞くことも好ましからず、っていうんですものね」、オーストラリア出身の美女がまたウィンクして見せた。 「では結果を楽しみに!」ジャーナリズムの先生が妻に答えるようにグラスを持ち上げた。 「おいおい、蓴菜を Aphrodisiac 愛の妙薬じゃないかと言い出したのは君なんだよ。古今東西、媚薬にくわしい君にかかっちゃあ何でもみんなそうなるんだな」  夫が笑った。  その夜私たちはシャルトルーズのせいか、身体中が火照って眠れなくなった。      菊花と雲丹のカナッペ    東佐譽子さんはパーフェクショニストでした。私の手元にあるいくつかの著書、たとえば『フランス式魚貝料理法』とか『世界の馬鈴薯料理集』などを見ても、彼女の人生と料理にたいする厳しい態度が窺えるような、気魄に満ちたレサピーが並んでいます。妥協を許さぬ東佐譽子さんの芸術的創作である“菊花と雲丹のカナッペ”を私が現代流に書きますと、そのレサピーからはオリジナルのデフォルメしかできないと思いますが、このカナッペがいかにアメリカでも喝采を博してきたかを考えると、その輪郭だけでもここに掲げて広く若い方にも知って頂きたいと思います。ただし故人となられた東佐譽子さんの言葉を借りるなら「ただ、ひたすらに美の実現に全霊を傾注しなければ」、でき上ったものは「生命のない形だけのもの」となってしまいます。いいかげんな作り方をするくらいなら、緻密な仕事をしてもらえないのであれば、むしろあまり人目に触れて欲しくない、そんな気もしてくるのです。    花屋さんで観賞用の黄菊を選びます。花びらの長さが五センチぐらいのものが適当です。花弁を傷つけぬように多量の水の中で茎をもって洗い、後よく水気を切ります。    卵は水が沸騰しはじめてから一〇分間、踊らぬように静かにゆで、その後に水に沈めて水の中で殻をむきます。白身と黄身に分け、白身はステンレスのよく切れる包丁で二ミリ四角に刻みます。黄身は裏漉しにかけます。    マヨネーズは作る間のない時には市販のものを私は使いますが、これも東さんにとっては許せぬ行為なのです。私は手元に上質の白葡萄酒のある時にはマヨネーズの中に少し入れて混ぜておきます。    玉葱を正しく一ミリ角ほどに刻みます。私は色と匂いが変るのを防ぐ意味で、これにレモン汁を少々かけて布巾にとり、冷水の中でさっと洗って、布巾を絞ります。    パセリは前もって水の中でよく洗い、乾かして、茎を切る時まで水に漬けておきます。これもステンレスのよく切れる光った包丁で一ひらが「吹けば舞い上るくらいに」こまかく、丁寧に切ります。    サンドイッチ用のパンを三・五センチ×七センチの長方形にきっちりと切り整えます。    これだけの準備ができたならば、マヨネーズの中に玉葱と卵白、パセリを入れて混ぜ、胡椒を加えて味をみます。それをパンの上に三ミリの厚さに塗り、この上に裏漉しした卵黄を黄金色の絨毯のように散らして敷きつめます。パセリを散らしてから、今度は菊の花びらを、実物の花と同じように、短いものから中心に植え、やがて五センチのものが周りをかこむようにさし込んで行きます。真ん中には、私は雲丹の代りにイクラを五、六粒のせます。長方形の両端には小さなサラダ菜を菊の葉のようにさして、これで出来上りです。    美しいことこの上もないおもてなしなのですが、プロトコルのうるさい席にはお奨めできないのが残念です。何といっても、西欧では菊は葬礼の花のようですから。 [#改ページ]

 
アメリカの珍味    ワイルド・ライスとソフト・シェル  野生の米ならぬワイルド・ライスというものがあることを聞かされたのは、二十年ちかく前のことだった。その話題の出た食卓には、手入れの行きとどいた銀のナイフ、フォークが並び、春を告げる色とりどりの生花をあしらったセンターピースが飾られていた。銀の燭台には対の白い蝋燭がともり、赤い炎がワイングラスをおくたびにまたたいた。 「ワイルド・ライス? ほんとうに人が栽培したものでないお米があるのでしょうか?」 「そう、今でもインディアンがカヌーに乗って人里離れたクリークから集めてくる。たくさんあるものでないだけに、彼らはその場所をなかなか明かさなかったそうだ」 「どんな色をしているのでしょうか? お味はどんなものなのかしら、どこに行けば買えるのかしら?」私は夢中になってたずねた。 「ナッツのような香ばしさがあって、ひと口には言い表せない味がする。違うちがう……玄米ではないんだ」 「今じゃアメリカの珍味などと言うけれど、買って食べようなどと思わぬほうがよい。ひどく高いものになったのだそうだから。かつての値段を知っていては、もう買えないものになってしまった」 「あなたも大げさね。日本人がご飯を食べるような食べ方をするのではないんですもの。七面鳥の詰め物の中に入れたり、サラダに散らしたりするのに、どれほどのことがあるものですか? お味はね、フランスの味にいかれていたガートルード・スタインを感激させたほどのものよ。今は栽培もしているし。正確に言うとお米ではなくて、黒っぽい香ばしい草の実なのよ」  同席の客たちは、私をそっちのけで互いにワイルド・ライスの話をしだした。  その夜のホストは功成り名遂げた長老であった。ディナーのセッティングはたいそう打ちとけた中に物心両面の豊かさを映し出しているように私には見えるのだった。食後のリキュールもこの家の国際的なものへの興味を反映してか、国の背景を異にした数知れぬ香りのものが揃っていた。私の好奇心はくすぐられ続けた。  ホストは最後に、お前たちにワイルド・ライスを買わせるわけにはいかない。そのうち自分のところで、コックのベッカに料理させてご馳走してあげよう、と長老らしい配慮のほどを示した。  当時、文字どおり教会のねずみのようにお金のなかった私は、高いと聞いてそれを探すこともせず、自分たちには手の届かぬもの、と頭から決めてしまった。マーケットでつい目につくこともないままに何年かが過ぎ去った。  長老は年月を経てもなおその時の話を忘れては居らぬというように、招かれて食卓につくと必ずワイルド・ライスの話をもち出した。だがついぞ、「今日はワイルド・ライスだよ」と言ったことはなかった。私もそうまで思いつめていたわけではなかったが、ある時意識して相手の空約束をひやかした。 「ここの家のワイルド・ライスは、私の銀婚式か孫ができた時でもないとご馳走してもらえないのではないかしら」  十年を越す歳月のうちに、長老と私の間には遠慮がなくなり、私たちは父娘のように打ちとけている。私に空手形の件をもち出されると彼も負けてはいなかった。  自分はもう引退の身だし、それにベッカも死んでわが家の墓地の隣りに眠ることになってしまった。固定資産税もこの何年かの間に払いきれぬ額になってしまったから、自分たちは近々に長いこと住みなれたこの家を越して行く身となった。「とてもとても、あの頃からすると四倍にもふくれ上ったお前さんの家族にワイルド・ライスなんか食べさせてはやれない」  それから私の家族はまた一人人数が増えた。長老はやがて本当に家を売り、郊外に小さな住いを買って夫婦だけで小ぢんまりと暮らすようになった。私のところへはどういう風の吹きまわしか、ワイルド・ライスが好きだと聞いたからと、アメリカの友人たちがさまざまなパケージを持ってきてくれるようになった。夫も、出張のたびにグールメ・ショップで見つけたと言ってはおみやげに買ってくる。そしてどういうことか、アメリカ料理界はこのところワイルド・ライスばやりとなった。  香りは変っているものの、それだけで食べておいしい、というものでないだけに、私はストックを抱えこんだまま子供に催促されるまで忘れている。いざ料理をしてみれば、珍しいもの好きの好奇心をくすぐるだけでないチャーミングな野趣に魅かれ、緑濃い山菜を楽しむのと同様にその黒さの歯ごたえを噛みしめる。噛みしめながらつくづくと、もしこれが創意に満ちた腕のよい料理人の手にかかったら、あるいは世界の珍味の最前列に並ぶのかも知れない、と思ってもみる。  私がはじめてその存在を知った日から、かれこれ二十年の月日が過ぎ去った。世の中はその間にめざましくグールメ志向に変った。ひとむかし前までは、辺境とも呼ばれる地方でひっそりと季節の訪れを告げながら素朴に楽しまれてきた自然の産物が、いま大都会では珍味になりすまし、大さわぎされるようになったことは、今や世界的な現象ではないかと思う。食べ物に運命という物があるなら、それはまさに運命の皮肉。古代さながらのインディアンの貧しい食べ物であったワイルド・ライスは、アメリカの料理界きってのエレガンスとなってしまった。高価なものと聞かされた当時から値段はさらにロケットのように上りつづけて、止まるところを知らない。  およそ世の中のものごとでお金がからみだして醜い争いにならぬものはない。主な産地であるミネソタ州では、インディアンが浅瀬の支配権をおびやかされ、百五十年ものあいだあくなき闘いをくり返してきた過去があった。物言わぬ北の湖の、冷たい水の中に、熱い闘争がくり拡げられていたことが今、贅沢な料理と呼ばれるようになったワイルド・ライスの一皿を前に据えてみると、気のせいか私の身にまで伝ってくるようだ。お金の中にひそむすさまじい魔力に屈服して、人びとの生活を脅し、ついにはわが身をもおとしめる人間の浅ましさに思いが行くこともある。  長老はますます老い、かつて端正だったその風貌もいささかたるみ、バッハを好むその耳もかなりの難聴をきたしてきた。三年ほどまえのこと、何万マイルもの空路をものともせず、気がまえだけは往時そのままに東京に現れはしたものの、花冷えがこたえてしきりと懐炉を有難がるのだった。  かつてのこの人が華やかだった頃のダンディぶりからいえば満身創痍とでも形容したほうがよさそうな、足を引きずり、両サイドから腕を支えられてわが家の客となった彼を、私はアメリカン・ビーフのローストとワイルド・ライスのつけあわせ、それにホット・ビスケットでもてなした。視力の衰えてしまった彼には、肉とクレッソンのわきにあるものが蝋燭の灯では判別がつかなかった。一口頬ばってから、若い、たいそうはしゃいだ声をあげた。 「おやおや! リヴェンジ(仕返し)だよ」そして脇に坐っている白髪の妻に、そのあてにならぬ視線を向けた。 「この長い年月……」  私はなぜかこれが彼と共に過す最後の晩餐のような気がしてきて、言葉の終らぬうちにそっと台所に立った。目の前がぼうっとして台所は湯気が立っているように見えた。  珍味といわれるものの多くがその背景にある特定の地域を背負っていることを、かつて私たちはよく知っていた。それは世界中のどこの珍味でも同じことだった。ところが交通が発達し、あらゆる科学、栽培、保存、冷房、冷凍輸送などの技術が進歩してしまった今日になると、古い昔にはかくも貴重な品であったものがありふれた品になった。  その良い例がオレンジだと思う。  オレンジは一九三〇年代までは、ボストンやニューヨークなどの東部アメリカでは、珍しいもの、贅沢なものの象徴のような品だった。暗い寒い東部の冬の最中に、南国の香そのものの、甘いかぐわしいオレンジを食べることがどんな意味をもっていたのか、そうしたことを偲ぶよすがとなるものは、今はもうお年寄りの回想しかないのだろうか。  子供たちのために詰めるクリスマス・ストッキングには、まずオレンジを入れた。それは昔の親たちの、言葉をもって語れぬ喜びであった。クリスマスに、まだこれから何カ月と冬将軍の暴れまくる東海岸の冬の最中に、わが子へサンタ・クロースからの贈りものと称してこっそりとオレンジを入れた。春の息吹きさながら、ジュースいっぱいの色鮮やかなオレンジを与えてやれる親は幸せであった。それは高価な品でもあった。だから昔の親たちは、せめてクリスマスには、かわいいわが子に、オレンジをストッキングの中に詰めてやれる身でいたいと思った。  時代は移り、オレンジは珍しいものでも、庶民の手のとどかぬものでもなくなった。あらゆる理屈や難しいことはぬきにして、そうした進歩は本当によかったと思う。親たちが豊かさへの祈りをこめて、わが子へ贈ったオレンジは、アメリカのクリスマスの象徴的なしきたりとなって現代に残った。ストッキングの中のものをとり出す子供の小さな手が、最後に行きあたる丸い確かな存在だ。  ワイルド・ライスのように、まだ日本であまり知られていない味もたしかにアメリカであろう。だが私にとっては、ごくありきたりの玉蜀黍や、もとを正せばアメリカ生れでさえない、このクリスマスのオレンジも、東部とカリフォルニアという距離を頭の中に描いてみる時にもっともアメリカ的な味わいである。  東部から西部を、中西部から南部を思ってみると、茫漠としたアメリカはその産物に関しても、日常になじみの深いものから知られざるものへと限りがない。  およそ何でも食べると自負している日本人を顔色なからしむるものがアメリカの食べもののうちにあるとすれば、私はそれは甲羅の柔かい蟹ではないかと思う。  ブルー・クラブと呼ばれるその蟹は、大きなものでも手の平ぐらいの身体をしている。メキシコ湾からチェサピーク湾にかけての東部沿岸一帯に棲息しており、雌だけが捕えられて珍味としてもてはやされる。それは彼女らが愛を迎え入れる二十四時間のあいだだけ、脱皮の直後で甲羅が柔かいという数奇な運命をもっているからなのだという。私はこの蟹のことを思いだすたびに、昔見たアラン・レネの映画の題名が心に浮んでくる。  柔かい美しい蟹の愛のパートナーは堅い甲羅の持主だというが、海の中の『二十四時間の情事』は、どんな至福の夢をもたらすのだろう。透きとおるように薄いその皮を見ながら、私は、捕えられて皿の上にのせられた彼女が脱皮と愛の行為という一年にいちどの大事を果した直後であることを知っていかにも哀れに思ったことがあった。  自然界の不思議は、野や山にあっても人を魅了してやまぬものなのに、ましてそれが蒼い海の中の、かいまみることのできぬ生物たちの生態であれば、不思議は神秘の様相をいやましにして私に迫ってくるのだった。  私は過去に何度か、この甲羅の柔かい蟹、ソフト・シェル・クラブと出会ったことがあった。もっとも初めての出会いは直接ではなかった。当時まだ私とは友人だった夫が、人に招かれてニューヨークの最高級といわれるレストラン、“21”で、不思議なものを食べたと私に知らせてくれた日だった。それは六月のむし暑い日で一緒に暮らしていたアメリカ人の友だちが冷たいボルシチを作った日でもあった。  夕食にやってきた夫は、かなり贅沢に育った友だちがとてもうらやましがるようなことを言った。日本から訪れた人の通訳として、共にアメリカの会社の重役に招待されて立派なレストランに行ったと語った夫に、友だちはすかさず何を食べたのかをたずねた。 「それが生れて初めて、今まで聞いたことも読んだこともなかったもの。そしてこの初夏の六月と七月のはじめだけ東部にあるもの」 「あ、分かった。ソフト・シェルを食べたのね、“21”でソフト・シェルを食べるなんていいなあ!」  彼女のビーツの色そのもののようなボルシチがサワークリームの白とのコントラストを見せたままスープ皿の中でおどった。 「幸運ね。ソフト・シェルのシーズンは短いのよ。それに生きたものを料理しなくてはならないから……めったな店では出さないわ。フライで食べたの? それともバター焼き?」  それから話は果てしなくこの柔かい蟹について続いたのだが、なぜか私が憶えているのはこの時のボルシチの鮮やかな緋色と、会話のはじめの部分だけである。  短い六月も終り、やがて秋が来て冬になった。わずかの年月のあいだに私の身の上には幾たびかの不幸が重なった。しかし、生活の明暗をぬって、ソフト・シェルとの出会いは宿願のように私につきまとった。  ヴァジニア州ウィリアムスバーグの近くの、南部のありし日を偲ばせる典雅なレストランで、私が実際にこの蟹を食べたのは、あの六月の日から十年近くの年月がたってからだった。白い上衣を着た黒人のメートル・ドテルの、のびやかで優しい南部訛りに、何度めかにアメリカを去る身の淋しさを思いつめた。チェサピーク湾のスペッシャルティとしてメニューに載っていた蟹の、中身が透けてみえるような皮にナイフを入れた時も、何年かのあいだ望み続けていたものと出会ったという、ことさらの感激はなかった。おいしい、とは思った。それでも、幸せな時においしいものを味わう時の、目も鼻も口も、そして耳さえもが舌にむかって神経を集中させてくるような、あの感覚をもって楽しむことはできなかった。虚ろな心は味を記憶にとどめることがなかった。  一九七五年の六月、ふたたび帰国を間近かに控えた私は、ニューイングランドの名家の末裔を夕食に招くことになった。むし暑い日が続いていた。私は当日が一週間ばかり前に迫った頃から神経性のアレルギーにかかった。美食家の彼を満足させようという大それた野心をいだいて煩悶すると、身が細るような気がするのだった。  当日の献立はだいぶ前から何回もたてなおした。その家のオールドゥーヴルの種類の多いことやその味の洗練されていることを思うと落ち着かなかった。しかし、私のどこかに救いがあったことも確かだ。それは彼らが夫妻ともに日本の味を知っており、どこの国の味をも楽しむことのできる人たちであることを知っていたからだ。  和洋折衷でいこう。私は最後に決心した。オールドゥーヴルには平目を日本風にアレンジしてセヴィチェを作ろう、アーティチョークのビスケット包み、アボカドとマッシュルームのわさびドレッシング和え、菜の花のようなブロッコリ・ラーヴをギリシャふうにマリネートしたもの、誰にも好評を博してきた鳥だんご……を予定した。メインディッシュで悩む私ではあったが、その日は初夏らしく芳香をきかせたラムのローストにしよう。私はためらわずに決めた。サラダの中にはお隣りからベーシルの葉をもらってきてふんだんに入れよう。私は次第に夢中になった。チェリーのタルトレットも我ながらうっとりとするようなでき栄えだった。  当日私はセヴィチェにする平目を買いに車を走らせた。魚屋のおじさんはいつものように片目をつむって私を歓迎した。「平目を三枚におろして頂戴」、そう言った私は、自分のすぐわきで何か小さな音がしたことに気がついた。「ガサガサ、シュー、プツプツプツ」  大きな缶の中で透き通るような皮をした蟹がもがいていた。 「メリーランドからきたばかりのソフト・シェルだよ。知っていなさるだろう。みんな元気な奴だよ」  私はその日まで苦心して作りあげたメニューのことも、腕に自信のあるラムのローストも、何もかも一瞬のうちに忘れて、熱にうかされたように、子供まで含めたその日の人数の二倍の数のソフト・シェルを買った。念願がかなってついにこの蟹を自分で料理できると思うと、うれしくてたまらない。魚屋のおじさんはそんな私を大袈裟に喜んでくれた。  名門の末裔が東部生え抜きであり、ソフト・シェルなどは珍しくも何ともなかろうと気がついたのは、オールドゥーヴルの平目のセヴィチェやアーティチョークが文学的な賛辞をかち得た直後だった。レモンをなすってバター焼きにしておいた何匹ものソフト・シェルを、それまでは得意になっていたベアルネーズ・ソースを添えてテーブルに送りながら、私は自分の顔から血が引いて行くような気がした。      本物のコーン・オイスター    玉蜀黍について書こうとすれば、私はきまってあちこちで読んだアメリカ流「玉蜀黍の正しい料理法」なるものを思い出します。    まずお湯を大鍋にたっぷり沸かすために火にかけるのだそうです。それから出かけて行って畑の玉蜀黍を食べる人数分だけもぎとり、帰りは全速力で走るなり、信号無視で車をとばすなりして、全員で皮をむくのももどかしく、たぎった湯の中に放り込むのだそうです。湯が再びぐらぐらと沸きかえった時には、もう玉蜀黍はゆだっているので、各自がお皿をもって鍋のわきに立ち、料理人に湯の中から|掬《すく》ってもらうのを待たず、自分でとり上げ、テーブルにつきます。柔かくしておいたバターを皿の上におき、その上で玉蜀黍をころがしながら……。    こうして食べる玉蜀黍粒の中は、ミルクのような、そこはかとなく荒野の土の香が漂う白い液体がいっぱいに詰っていて、ハニーバンタムなどという種類でなくとも、まずその甘さに驚かされるのです。ただ、アメリカ料理の本当のおいしさは次の一品を本格的に作って味わってから論じてみたいという気がします。    それはかねてから味わう機会を待ちあぐねているフィッシャー夫人の名付ける「たったひとつしかない紛うかたなき本物のコーン・オイスター」です。彼女のエッセイを読んだ後に、私は、「私の場合はこんな風に作ってみよう」と思いました。    ヨーロッパ文明の遠く及ばぬ、それでいてトランジスター・セールスマンも分け入らぬようなアメリカの片田舎で、わが庭でなくともせめて隣人の畑に植えられた玉蜀黍を六、七本もいできて、よく切れる包丁でさっと粒を|削《そ》ぎとり、これをグラインダーにかけます。その時にほとばしるミルクのような液体も大切に容れものに入れて、そっくり、二、三時間置き、全体がカスタードのようになるのを待ちます。カスタード状になったら胡椒をふり、塩味をつけます。これに卵を一個ほぐしてかき入れ、よく混ぜて固さをととのえ、良質のラードを熱くしたフライパンの中で、一さじずつこんがりと狐色になるまで揚げます。でき上ったら即座に賞味します。が、この時どうしても一緒に欲しいのが、そのためにアメリカの片田舎でなくてはならないのですが、界隈でとびきりのと囁かれている密造のバーボンの水割り。家の男どもを使いに出して手ぶらで帰されてくるならば、御新造みずから|紅《べに》|・《・》|鉄漿《かね》つけて出掛けて行って、ウィンクなどして……。    私は過去に何回か、古き良き地方の暮らしにノスタルジアを感じるアメリカの老人に、象徴的な意味でのアメリカの珍味とは何であるのかをたずねたことがありました。そうするとほとんどがきまって“アンブロージア”の名を懐かしそうにあげては、作り方を説明したり、幼時の想い出を語ったりするのでした。アンブロージアはほんらいギリシャの神々の愛で給うた不老不死の食物という言葉ですから、幼年時代にはその神秘性に、老年となってはその意味するところに、アメリカの人びとは魅せられるのかも知れません。    古く懐かしいデザート、アンブロージアは次のようにして作ります。オレンジの白い皮をすっかり削ぎとり、薄い輪切りにします。大きな美しいガラスの器にオレンジを入れ、上からグラニュー糖とココナッツの細切りをふりかけます。これを何段か重ねてから、四、五時間冷蔵庫で冷やすのですが、私の友人はグラニュー糖の上にキルシュを振りかけていました。爽やかで可憐な味わいを、長年忘れていたことを悔いる声が聞えるような気がするのですが。

 
七面鳥のアナトミイ    「家庭の幸福」はいま  最近のアメリカは大きな七面鳥があまり売れなくなった。胸先をよぎるのは、なつかしいあの家族、この家族の行末を思う時の、ある哀しみである。  七面鳥は日本ではまだ一般的にはなじみの薄い鳥である。そのせいか、どうもパサパサしてあまり美味しくないと評する人が多い。私はそうしたコメントを聞くたびに、この鳥のために論じてやり、肩入れをしてやりたいと思い、実際に料理をしては、友人たちに、「ほんとうは鶏よりおいしいでしょう」と、いささか強弁めいた説得を繰り返してきた。つまり、私自身は七面鳥の肉をおいしいもののひとつに数えているのである。  私のようなささやかな経済を守って生きてきた人間には、物の味はその値段とおおいに関係のあるところで、おいしいかまずいかが決まる。この生き馬の目を抜くような商業主義の東京で、七面鳥はどのような計算によるのだろうか。法外な価格をつけられずにいるのでうれしい。しかしながら、それは七面鳥自身が我が身のために法外な価格になることを防いでいる徳があるからだと思う。  もともと七面鳥は大きな鳥、安い鳥である。どうしてもオーブンで調理されないと味わいの本領が発揮できない。大きな体は切り売りを拒んでいる。もちろん切り分けて料理されても、愛情ぶかい調理人の手にかかれば、素直でやさしい味わいは人を魅きつけずにはおかないが、まず日本では伝統がないからそうした一品に出会うことは望みが薄い。一羽売りだからどうしても需要にはつながらない。したがって、食べられるチャンスがあまりないとすれば、正当な評価を受けようにも受けられぬ運命であろう。レストランやホテルの七面鳥は、とりすました雰囲気の中で供されるから、この鳥本来の性格にはどうしてもそぐわないように思う。  私が七面鳥を好きなのは、おそらく自分の過去とぬきさしならぬ深い関係があるからなのだろうが、それを除いても七面鳥の肉には平凡な人間の淋しい心を癒すやさしさがあると思う。私は必ずしも自分の過去を愛していないが、この鳥にまつわる部分は、なつかしい、瞼の裏が熱くなるようなところがある。七面鳥は心温かい人びとの集まる家庭で、おたがいがそれぞれの喜びや悲しみに深い関心をよせつつ食べてこそ、そのおいしさが実力を示してくれる。  七面鳥は紛うかたなきアメリカの産である。ブリア・サヴァランの『味の生理学』は現在食べることを扱った文章の中でもっとも頻繁に引用される著書であるが、七面鳥のために数ページをさいている箇所は、あまり引用されていない。私は七面鳥のために弁じてやらねばならぬ時、いつでもこの人の権威に頼ることにしている。ブリア・サヴァランは一七五五年、フランスの Ain アン県、Belley ベレの町の生れである。革命の時にはこの町の町長として革命派と戦い、やがて追放の身となってアメリカに渡った。その後の二年間を彼はニューヨークで過し、語学の教師をしたり劇場でヴァイオリンを弾いたりして亡命の身を養った。そのニューヨーク滞在中に起こったアメリカの鳥、七面鳥(フランス語ではインドの鳥と呼ばれる)との出会いは、まことにこの鳥にふさわしい牧歌的な背景をもっている。  七面鳥は純アメリカ産ということで、十七世紀にはフロリダで、鳴き声がうるさくて眠れなかったという記録が残されていたり、十八世紀の終りにはシャトーブリアンも南部のミシシッピー河のほとりで大群を見かけたという。だから北部でも南部でもその帰属は深く論ずる必要はないようなものの、歴史的、かつ感覚的に分類すると、どうしてもヤンキーである。それはピルグリムズの感謝祭の話が広く知れわたっているせいで、ヤンキーをより正確に現すならば、ニューイングランドであろう。  ブリア・サヴァランが饗応を受けたのも、ヤンキー中のヤンキーといわれるコネティカットの農民であった。自らを七面鳥愛好者だと語る彼が、七面鳥に寄せる熱意には並々ならぬものが感じられるので、ここに『味の生理学』より抜粋を試みてみよう。   七面鳥が、新世界から旧世界への贈物の中で最も喜ばしいもののひとつであることは間違いない。   私は、コネティカット州ハートフォードに滞在中に運よく野性の七面鳥を仕止めることができた。この手柄は歴史の記録にとどめられるに値するし、私自身が英雄なのであるから、その分も含めて、前にも増して熱心にこの出来事を語りたい。   コネティカット州の奥地の森で狩猟を行った私たちは、幸運の星に導かれて野性の七面鳥の群の真ん中に入り込んだ。七面鳥はあわただしく音を立てて飛び上り、大きな声で叫んだ。   キング氏がまず撃ち、先立って走っていった。他の鳥はもはや射程の外に去ってしまった。ところが、一番のろまな七面鳥が私から十歩と離れていない地面から飛び上った。私は森のすき間から狙いをつけて撃ち、鳥は落ちて石の如く死んで動かなかった。   このような幸運な一発がもたらす喜びはハンターだけが理解できるものである。私はこのすばらしい鳥を手に取り上げ、あらゆる角度からうち眺め、たっぷり十五分も立ったままでいた。   ハートフォードに戻る旅の間中、私はどうすれば最もよくこの七面鳥を料理できるかを考え続けた。私には多少の心配があった。というのは、ハートフォードでは、私が必要とする詰め物の材料が全部揃わないかも知れなかったからである。しかし私はわが腕前を発揮して仕止めた獲物が後世の語り草となるように立派に料理する決意であった。   七面鳥のローストは、見た目に魅惑的であり、香りは食欲をそそり、味は最上だった。最後の一片もついになくなってしまうと、テーブルについた人々の間から、  「大変おいしかった。非常に結構でした。いやまったく、なんという絶品だったことか」   という声があがったのである。  この話はブリア・サヴァランが体験を淡々と語ったものであろう。しかしここで忘れてならないのは、この人が亡命中の身であり、彼にこうした有頂天になる機会を与え、家族ぐるみで彼をもてなしたのが満ち足りた暮らしを送るニューイングランド・ファーマーであった事実である。七面鳥はいつも象徴的に、感謝祭の心に問わず語りに寄りそうような、「より幸せな人びとが我が身よりは恵まれぬ存在に分かちあう思いやり」となる運命を背負ってきたのである。  かつてベンジャミン・フランクリンが娘にあてた手紙の中で七面鳥を賛えたつぎの話は有名である。  「わが国を象徴するものとして、禿鷹が選ばれたのはゆゆしきことである。それは悪徳の鳥であり、抜け目なく盗むことによって生きている男のようなもので、大体において貧しく、しばしば悪質な奴である。それにひきかえ、七面鳥はもっとずっと立派な鳥であり、何にもまして正真正銘のアメリカ生れなのである」  フランクリンが賛える七面鳥は、思いやりの籠からとび出し、ただの七面鳥にとどまらず、アメリカ人の理念までもその身に背負っている。そして私たちはこの鳥が広く世界に、「与うるは受くるより幸いなり」と唱えながら飛びまわっているかのような印象を受けるのである。  かくの如く立派で健気な七面鳥は、言うまでもなく、アメリカのお正月ともいえるような祭日、感謝祭のメインディッシュである。感謝祭は一六二一年、ピルグリムズがプリマスに上陸してから一年目の秋に端を発している。もっとも、感謝祭というのは、農耕社会に古くからあった秋の収穫祭の変形であって、ピルグリムズの本国、英国でも中世から祝っていたのだという。それがあまりプリマスにおけるピルグリムズ独自の伝統のように宣伝されてきたので、時おりヴァジニアから訂正を求める声が上ったりもする。即ち、ヴァジニア植民地第二の村落バークレイで催された感謝祭の方が歴史的には二年早いアメリカ大陸における行事であって、このことはヴァジニア建設に力を尽したジョン・スミスが故郷のグロースター州ニブリイに記録を残している事実であるという(アメリカ史の学徒であるわが夫のいうには、ジョン・スミスはかの有名なポカホンタスの話も|法螺《ほら》話かも知れぬ可能性がある人物である。だからこの話もケネディ大統領時代の特別補佐官である歴史学者、A・シュレジンガーが認めるにいたるまで、かくも長い年月を要したのであろう)。  しかし、ヴァジニアの植民地が経済的利益の追求を目的とし、ニューイングランドのそれが自己が正しいと信ずる信仰を貫くことを目的としたものであるとすれば、精神的な意味での感謝祭は、やはりピルグリムズのそれに出発点があるのかも知れない。  ピルグリムズは一六二〇年の十一月末日になって、目的地ははるか南のヴァジニアを目ざしていたものの、メイフラワー号が飲料水とたよっていたビールが底をついたことからマサチューセッツ州のプリマスに投錨した。総勢百人、そのうち乗組員が二十五人という人員構成であった。晩秋のニューイングランドは気温が容易に零下に落ちこむ。何よりも、一応の都市生活をしていたものが猛々しい冬の未開地に上陸して無からの生活を始めたことや食料の不足、それに六十六日の航海による極限状況の疲労から、上陸後一年の間にその人員の半数が死亡してしまった。  女性二十数名のうち、残ったものはわずか四人であったという。  しかし、生存者たちの新天地に賭ける情熱は強かった。信念を同じうし、労苦を分かちあった仲間の死をそれだけ見続けてもなお、その後の生存と発展の可能性を信じたということは、単に彼らが宗教心と未来志向に支えられていたからだということはできない。さまざまな記録に残るこれらの人びとの言葉は、アメリカ大陸がいかに豊饒の天地をもって彼らを迎え入れたかを語っている。  一六二一年、プリマスに上陸してから一年目の十一月に、ともかくも生き抜いた者たちは、過去の苦難を偲び開けつつある前途を祝して感謝の祝宴を張った。彼らに生きる手だてを教え伝えてくれた友好的なインディアンが招待され、酋長は九十人もうち連れてこの宴に参じた。野外にしつらえられた俄か仕立ての宴の祝卓には、載りきらぬほどの食料が並んだが、それらはインディアンからの贈りものと、三日間の狩の獲物と、そして一年の開拓の成果であった。百人を越す大集団が三日三晩の饗宴を続けてもなお食べ切れぬ食料であったという。鳥類、鹿、蛤、鰻、小麦粉のパン、コーンブレッド、ポロねぎ、サコタッシュ(玉蜀黍の粒と豆をあわせ、熊の脂で料理したもの)、プラム、クレッソン、自家製のワインがあり、人びとは飽食の夢をむさぼるのであった。  この飽食の祝宴が、はじめのうちは途切れながらも、毎年催されるようになり、感謝祭の伝統となってアメリカ全土に拡がることになった。リンカーン大統領の時代に、感謝祭は十一月最後の木曜日と定められ、メニューもお定まりのものが発表された。今日のアメリカでは、人びとは祖先や自らの出身国を問わず、七面鳥とクランベリー・ソース(これはいわゆる料理のソースではなく、果実を甘く煮てよせた、いわばお口取りである。クランベリーという呼び名は沢地で鶴がついばんだ実=クレイン・ベリーに由来するといわれる。壊血病の予防食として船に積みこまれたマサチューセッツの特産品であった)、玉葱のクリーム煮、さつまいも、コーンブレッド、パンプキンパイなどを並べたてたアメリカ独自の食卓を、家族がより集ってとり囲んでいる。  かつて小説家のメアリー・マッカーシーは、『アメリカの鳥』という小説の中で、アメリカ生活の中から古き良きものが消えて行く様子を惜しんだ。この小説の主人公は、クラヴィコードの演奏者である。離婚の後、ひとり息子の青年とふたりでケープコッドの小さな町に暮らしている。私はこの小説の中で述べられている感謝祭にアメリカ人の考え方を垣間見るように思う。  十七歳の青年の母は中西部出身の芸術家である。妻であり、母であることの充実も求めてきた女性であった。現在では、彼女が信ずる真実のアメリカを生活するためには、最後の砦であるようなケープコッドの小さな町に、二番目の夫とも別れてひっそりと暮らしている。彼女の守り育てたい生活は一時代前の伝統に忠実ならんとすることだが、すでにこの母子をとりまく世界は、価値観の上からも、社会的にも生活の質に変化をきたしはじめている。何にも増して嘆かわしいのは、自然界さえもがその中から純粋なるものを追い出して、卑俗な人工的なものを闊歩させはじめたことである。少年の心に残る感謝祭は、かつて母親が「惜しみなく与うる」ことを愛する日であった。結婚生活をアカデミアの世界で送っていた頃の母は、いつでもこの日には大学から孤独なる魂を宿す人びとのすべてを招いてきては、その中にそれと分からぬように潤滑油のような役目を演ずる賑やかな人物を配して午餐を催していたものだった。  その年の感謝祭に母と子は計画をたてた。何ごとも人工を排するというその目的は、冷凍でない七面鳥を農家まで出向いて買い求め、何もかも手作りでこしらえるという昔ながらのルールを守ることで一応達せられたかのようであった。そうした望みの実現を求める母と子のために、自然界までが呼応するように、暗い雪空のケープコッドに時ならぬ季節外れの林檎の花を咲かせてくれた。すべては心豊かに運ばれていたのが、微妙なところでくい違ってきたのは、ニューヨークから招いた母の姉の考え方のせいであった。姉の一家には、この母子二人の古き伝統に従うが如き生活ぶりが、世の基準を逸脱するものと映った。母の姉は|不躾《ぶしつけ》な質問や発言を繰り返し、少年の繊細な心は傷ついてゆくのである。世の中の変化が、かつて人びとの心の中に息づいていたひそやかな、個性ある充足感までも踏みにじろうとしてはいないだろうか。マッカーシーはいぶかるのである。  私がこの話の中の感謝祭に招かれるような、孤独な魂を宿すものとして、あるいは幼な児を抱える若き家族の一員として、さまざまな身の上で感謝祭の午餐に招かれて行った家々もまた、世の変動の波に翻弄されて崩れていった。「私たちは今日ここに、神の祝福を受けるためにより集いました……」というのは、ウィレム一世の頃のオランダのレジスタンスの言葉であるというが、客と家族のとり囲む食卓で、かつてアメリカの父親はまずそんな風に祈りを捧げた。それからひとりひとりに肉の好みを聞いては、黄金色に焼けたおいしそうな香りをたてる七面鳥を、威厳に満ちて家長らしく、ゆっくりと、しかし、手馴れた捌きで切り分けていった。その姿の何と大きく、父親らしい責任感に溢れて、周囲を幸せにする手綱を一手に引き受けているように見えたことだったろう。  暖炉には赤々と火が燃えていた。そして食卓を囲むだれもが一度は話題の中心になるように心優しい主婦の気が配られた。若いものや子供たちは父親からお替りの声をかけられるのをもどかしく待ち、クランベリー・ソースやコーンブレッド、その他の料理の皿はあちこちと忙しく取りまわされる。父親は雰囲気を盛りたたせようとジョークを言い、客たちは心楽しげに笑う。子供たちの中には三度めのお替りを欲しそうに、大人同士の話に興じている父親を、それとなくうながしてくれる母親に合図を送るものがいる。女性の客たちは詰めものの味の個性を賛え、謙遜する主婦から作り方を聞きだし、ひとしきり古き佳き時代の味わいに話の花が咲く。  その頃にはもう、十五キロ近くもあった巨大な七面鳥は見るみる細って、父親は何度か立ち上り、せわしく脚を外しては、若者たちに「これごと一本はどうかな?」と勧める。お腹のふくれた子供たちは、「テーブルを離れてもよいでしょうか」と主婦に許可を求め、許されて席を立てば食卓の話題は大人だけのあいだで急速に面白味を加えて行く。お互いが幸せを願いあう、そんな思いやりが居合わせる人びとの心の内に、それと意識することなく横たわっているだけに、あまり独りよがりの意見を述べたてるものがあれば、初対面でも家族の一員のように咎められる。  食前の祈りの際にともした蝋燭が半分ほどの背丈に|燐《も》え、大きな炎がゆらめく頃、再び子供たちがテーブルに戻ってデザートのパイとなる。素朴な味わいはこの食卓のそもそもの起こりが実りの秋の収穫祭であったことを、そっと思い出させてくれる。パンプキン、ミンスミート、アップルと、どれをとっても農耕社会の秋である。この中のミンスミートは、私たち日本人にもっともなじめぬ味。獣肉のみじんと木の実、林檎を甘く煮込んで、スピリットを使って仕上げたものである。旧大陸から持ちこんだ伝統でもあり、キリスト生誕の際、三人の賢者が持参した贈りものの豊かさを象徴するといわれる。これらのパイとコーヒーが終れば、子供も大人ももう満ち足りて、交わす言葉の調子まで緩慢になってくる。  このような飽食の感謝祭に大きな身体をより大きな皿の上に横たえて、「食べて頂戴、食べて頂戴」と語りかけていた黄金の七面鳥は、二十年前、十年前、そしてつい昨日まで、アメリカのどこの家庭でもめぐり逢える幸せな父権健在の家族の象徴であった。ひとつの家庭が夫と妻を中心としてしっかりと寄り添い、その「幸せの時も病める時」も共に喜び、共に耐え忍ぶ姿は、私の脳裡にしっかりと刻みつけられたアメリカの家族の映像であった。  崩壊し四散した家族はもはや大きな七面鳥を焼くことをしない。最近のアメリカは巨大な七面鳥が時代遅れとなった。お父さんがウイッチに翻弄されてかけがえのない自分の家庭から出奔し、お母さんが自分だけの意欲に燃え過ぎて疲れ果て、何もかも理解していてくれたなつかしい老人が消え去って行くアメリカを見るのは、淋しい。      ドレッシングが決め手    七面鳥の章でこの鳥の焼き方を載せないというのは、何とも羊頭狗肉であるということになるかも知れません。でも、いわゆるロースト・チキンのヴァリエーションですからこれといった秘策はないのです。私の場合はセージを振りすぎて家禽がお化粧して野鳥に化けたような趣きに、時々は苦笑を禁じ得ません。七面鳥は焼け過ぎないように細かい気配りをして、懇ろにローストしたいものです。    さて、料理法によって多少の違いはあるものの、七面鳥は七面鳥なのですが、おいしいか、まずいかを決定的に分けるものといえばドレッシング(詰めもの)ではないでしょうか。私は凝りやではないのですが、何故か次のドレッシングばかりこのところ作るようになりました。七面鳥以外の、豚肉のローストなどの時にまで登場させて、これぞアメリカの味、と手前味噌よろしく宣伝していますが、もともとは、あらゆる料理家をこき下ろすジャーナリスト、ジョン・ヘスの著書、『アメリカの味』の中で読んだレサピーです。    ベーコン二切れを小さく刻み、豚の挽き肉と部厚いフライパンで焦げめをつけながら炒め、玉葱のスライスを加え、セロリの刻んだものとタイムを振りかけてまた火を入れます。よくかき混ぜながら玉葱がしんなりしたら、今度は小さなサイコロのように切ってオーヴンの中でカリッとさせておいたパン(コーンブレッドを私はこれのために焼くのですが)を加えます。この中にさらにレバーの刻んだもの、マッシュルーム、胡桃を砕いたもの、パセリのみじん切りを入れてからストックでしっとりさせ、尚、火を入れて炒めつつ最後にバター、黒胡椒、セージで味を整えます。オリーヴの実なども加えるといっそう味わいが増します。こうして作った詰めものを、何の肉と一緒にせよ、ローストしますと、肉と詰め物の風味がおたがいに作用しあって、肉そのものよりも詰め物の方がおいしいくらいです。レストランでは味わえぬ家庭料理の美味として認めて頂ける日もあるかと思います。とにかく執念ぶかく作ってみることです。

 
午前二時のオールド・ファッションド    アメリカの酒  私には、たったひとつだけ——あるいは数多くあるのかも知れないが——夫から嫌われていることがあって、自分でもそれを知りながらどうしても改める気持になれない。それは年ゆかぬわが子たちに、私がさまざまな酒を舐めさせたい癖があることだ。だが、本質的に冒険を好まぬ私の子供たちは、少し酒が入って機嫌のよい母親の楽しい申し出を、いともすげなく断わる。すると私は、小さなことにでも興味を示さぬようでは、面白い人間になれるわけがない、というような説教とも負け惜しみともつかぬ言葉を彼らに投げつけてすごすごと引き下るのである。私には子供たちが味覚の上ではとかく保守的になりやすいことや、彼らが溢れんばかりの物質の間に育ったのとうらはらに、物事に好奇な心をもたないことがもの足りなくて仕方がない。なにもスコッチやバーボン、ジンやウォトカのようなハード・リカーのたぐいを舐めさせるのではないのだから……子供にも充分楽しめるものを、ほんのちょっぴり差しだしたのに……あれはもしかすると彼らの父親の考え方がスクェアだからではないか……私は心の中だけでなく、そう呟いてみる。 「何も小さいうちから好んでアルコール好きにすることはない」というのが夫の考え方だが、私が味わわせてみたいと思うのは、アルコールではなくて、花や草や木の実、草の実が人間の手にかかりアルコールの中で生き続けている、自然界のひめやかな生命の香りなのである。私はくやしまぎれに料理やお菓子の中にふんだんに酒を入れこんで仇をとった気分に浸る。しかし覚めた目で自分を眺めてみると、私の作る料理もお菓子も、そのようないきさつからかスパイスが効き過ぎたり、リキュールの香りが強すぎたりするようだ。  私が物心ついて最初に味わった酒はおそらく日本酒かお屠蘇なのだろうが、胸の内に鮮やかに甦えるのは、ビールの泡を味わった時の衝撃である。父親の|胡坐《あぐら》の中にちょこんとすわっていた私は四歳か五歳だった。幼な心にも、大人はどうしてこのようににがいものを、あんなにごくごくと飲めるのかしら、と思った。顔をしかめた私は家族の中で並はずれた年少で、愛玩物のような存在だった。それでも妙なところが負けん気だったので、大人たちを何とかアッと言わせてやらなくてはと思い、全く反対のことを言った。 「おいしい! もっと頂戴」  大人たちはそれが半分負け惜しみから出た言葉であることを見抜いていたのだろうが、小さなおかっぱ頭がビールの泡をおいしいと言ったことを囃したてた。私はますます得意になった。  私が育った家には押入れを改造して作った酒倉があり、その中には実に種類の多い、いわゆる洋酒の壜が並べられていた。父親はビール、日本酒で始まる食事が終ると、その中から好きなものをとり出しては、長い長い夕食後の時間を葉巻と共に楽しむのだった。ウィスキーのこともあればブランディのこともあったし、リキュールの時もあった。古めかしいソーダ壜なるものが二本立っていたが、私はついにそれを使ってソーダを作ることを習わなかった。小さな頃の私はいつも父親の胡座の中にいて、彼の喫う葉巻きの、美しい絵のついたバンドを指輪にして遊んでいた。私の口の中には、時として黒づくりやがんづけ、とんぶり、ぼらのへそのようないとも不思議な味わいが父親の箸の先から何の前ぶれもなしにとび込んでくるのだった。葉巻は銀座の菊水に注文していたが、時おり父親は私を連れてこの店にたち寄った。店の奥から出てくる番頭さんの、鼻のわきの黒々とした大きなほくろが、私にはひどく印象深かったのを思い出す。  多くの明治生れの男がそうであるように、私の父親もまた矛盾だらけの男であった。西欧文明を愛するいっぽうで、古武士のように閉された精神をもち、知識人として充分に通ずる広い学識がありながら、知識が決して知識以上のものになり得ぬ、成熟性に欠けた人間であった。  彼の営む家庭は、したがって渾沌文化を基調としていて、その一例が自分自身ある時期にキリスト教に絶望したと称しながら、私を教育するのはカトリックの学校しかないと信じていたことである。  しかし、小さな頃の私が置かれていたそうした渾沌とした状況も、やがては長い苦しい戦争と敗戦による貧困に巻きこまれ、私は成長期を、失意と不安と焦りを一身に担った父に教育されて育つことになった。押し入れを改造した酒倉は、戦争の最中に越してきた家にも造られていたが、持越しの酒に新たなものも加ってリヴァイヴァルを遂げたのは、昭和二十七、八年のころであった。しかし、往時の賑わいをとり戻すことはついになかった。  私が学生時代にアルバイトをしたお金で最初に買った酒は、ジャマイカのラムであった。理由は実に簡単なことだ。わが家の酒倉にない酒であり、R・L・スティヴンソンの筆に載せられていたことを示しているに過ぎない。父親は「Yo-ho-ho! And a bottle of rum」と口走って喜んでくれたが、これはつまり昔の船員風情の飲む、多少いかがわしい、強い酒なんだ、とひとりごとを言った。当時の私はあらゆることで父親に盾をついていたから、そんなことを言ったって、戦争中にはさんざんどぶろくを作って、おいしい、おいしいと言っていたじゃないの、とやり返した。何日かすると父親は、これも労働者の酒なんだと言いながら、どこから探してきたのかカルヴァドスの壜を見せた。私のスティヴンソンに対抗してレマルクを思いついたわけである。俺の現在のステイタスはむしろラムやカルヴァドスが向いているんだろうな、父親はそう呟いて、それをだいぶ以前に仲間を失ってたったひとつになった燦然たる切り子のシェリー・グラスに注いだ。  読書から得た知識を家族や年下のものたちにむかって語るのが趣味だったこの人が、碌な話の受け手を侍らせていなかったことが、今の私には哀れで仕方がない。好奇心を持たぬものにとっては、日常を離れたあらゆる話題は執拗な啓蒙臭を帯びたモノローグでしかなかった。敗戦からやっと立ち直りつつある時代に、十代の娘に向って、カトリックの僧院とシャルトルーズやベネディクティンの話を聞かせてみたところで、それは天国以上に遠い話であった。  しかし父親は幼い頃から私にシナモンとブランディで加味したエッグノッグを飲ませ、東京会館でブイヤベイスを食べさせ、七色のリキュールを嘗めさせてきたのである。また、西欧社会におけるビールを語り、今思えば、戦争中には発酵パンと称して『ソールト・ライジング・ブレッド』を作らせ、終戦後、畠にオクラを植え、もちろんそのあい間に漢籍のペダンティシズムを見せるのも忘れず、シャーロック・ホームズを愛し、河上肇を敬い、トルストイを論じ、『菅原伝授手習鑑』の松王丸に泣く姿を私に見せてきたのだが……。私は当時の自分の若さと父の話を受けとめられなかった愚かしさをつくづくと悲しいと思う。  私の学生時代には、日本全体がまだ貧しかった。級友たちの中の酒豪は、何であれ、アルコールでさえあれば飲んでいた。焼酎でもどぶろくでも、泡盛でも、彼らは酒を酒として飲んだのであり、安ければそれでよかったのである。まず大抵は梅割りとかぶどう割りとか称する、焼酎を何かで割ったもの、それにウィスキーはトリスなら上等な方であった。当時新宿の武蔵野館の裏にあった“どん底”で、私はいちど級友から“どんカク”なるものを飲まされたことがあったが、何が入っているのか、はっきりと分析することはできなかった。その友人は私に奢っておいてから、これは二杯以上飲まぬ方が身のためだと言った。 「どんカク」はともかくとして、私は父親の教育のせいで、カクテルの名を当時五つ六つは知っていたし、それをどのような時に、どのような場所で飲んだらよいのかも心得ていたが、一緒に出歩く仲間たちは、たとえ割勘でもトリスのハイボールがせいぜいであった。私は級友たちをこよなく愛していたから、トリス以上のものを外で飲もうと思ったこともなかった。金欠というのが私たちのつけているバッジであるような時代だった。しかも、奨学金でさえ、個人の金ではなく、仲間の金であった。  私がアメリカへ行く貨物船の中で、キャプテンから最初に聞いた酒の話が、オールド・ファッションドだった。音にも匂いにも弱い私は、船が動かぬうちからペイントの匂いで酔ってしまい、とうとう横浜を出てから十日目のことだったか、日付変更線を越えるまで起き上ることができなかった。昨日までの酔いが嘘のように消えた日、私の頭にアメリカのカクテル、オールド・ファッションドの名は、本ものの美酒の如く沁みわたった。キャプテンはその時ぽつりと、たしかあれはウィンストン・チャーチルの母なる人の創作によるものと聞いたが、といわれた。私はニューヨークに着いたら早速飲まなくては、とひそかに決意した。  ニューヨークで、私はアメリカの酒が日本の酒と全く違うことをさまざまな面で知るようになった。当時の日本はまだ日本酒全盛の時代であったから、ビールも含めて醸造の酒が主流であった。アメリカはひと口に言えばハード・リカー、つまりアルコール度の高い、蒸留の酒の国であり、時間的に言えば、勝負の早い酒が主流であった。しかしアメリカ大陸は不思議に咽喉の乾く国、やたらと飲み物の欲しくなる国でもあった。したがって醸造酒であるビールも家庭では飲まれていたが、日本のように大きな顔をしていなかった。戦前の日本でも大いに親しまれていた歌の“シュタイン・ソング”がメイン州立大学の応援歌であることを思うと、日本のようなビヤホールがニューヨークになかったことが私には不思議だった。後になって私は、こうした現象がアメリカの酒の歴史の推移を微妙に反映しており、禁酒法の成立まではビールも広く、堂々と飲まれていたことを知った。  それは、ヨーロッパを背景にした移民たちが水を信頼せず、ミルクも充分になく、飲料とたよるものがビールであったといういきさつがあったからである。昔のビールのアルコール含有量は、現在私たちが慣れ親しんでいるものよりもずっと高かったが、それでもビールは子供までを含めた、家族の飲みものであった。  ニューヨークだけについて言うなら、一六二二年、オランダ領のニューアムステルダムだった時代に、ビールの醸造所ができた。オランダ人たちは職業としてこれに打ち込み、醸造所は次つぎに数を増し、通りの名にまでなった。オランダには古くから「すべて脱ぎ捨てまっ裸で」と異名を轟かす強烈なジンがあり、一六七〇年代になるとマンハッタンには、このジンと輸入ワインを提供する居酒屋が六軒、地元の醸造業者の創るビールを扱うビヤホール四軒が共存することになった。オランダ系の醸造業者たちは、後年ドイツ系に押されることになり、私がニューヨークの住民となった頃には、わずかニッカボッカーという銘柄とその醸造所がオランダ系の名残りをとどめていた。しかし、アメリカとビールについて語るのなら、それはまた、まことに複雑な興味深い社会史になり得るのであり、水質を異にする広大な土地とヨーロッパの出身国を異にする人種的背景、それに伴う製法や原料の違い、ビールを好む階級や年代層、それに社会の興亡が複雑に織りなすタペストリーを見る思いがするのである。  その点、「これほど物語性に富んだ酒はない」といわれるラムは、常にアングロ・アメリカの社会を中心として物語が展開してきた。ラムはそのスタートから、アメリカでは、少々いかがわしい、うしろめたさを内蔵する酒であった。だが、ニューイングランドの初期の経済がラムと船舶業で成り立っていたことを思えば、それはむしろアメリカの建国に力を貸した酒といえるかも知れないのである。とにかく、アメリカ革命の発火点がボストン茶会をめぐるお茶でなかったなら、それは間違いなくラムであったろうといわれる。  歴史的には、ラムはすでに一六〇〇年代の半ばから、悪名高き「ニューイングランド三角貿易」の頂点にあった。ラムは砂糖黍の廃液である糖蜜から作られる。糖蜜は西インド諸島からニューイングランドに船で運ばれ、その地でラムが作られた。今度はそのラムがアフリカに送られて奴隷を買い、奴隷は船で西インド諸島に送られる。奴隷はラムだけでなく、ニューイングランドで加工された干鱈でも買うことができたから、ニューイングランドの船舶業はこのふたつを柱として繁栄したのであった。  ラムは世界の酒のうちでもっともアルコールの Proof 度数の高い酒だといわれる。したがって私の知っているかぎりでは、現代のアメリカでは、これをストレートとか、オン・ザ・ロックで飲む人を見たことがなかった。ラムはいつも多少の甘味を添加されて、神妙な顔をしたじゃじゃ馬の如く、カクテルに身をやつしていた。スクリュー・ドライヴァーやダイキリ、キューバ・リーブルなどを味わってみても、決してラムで買われた奴隷だの、地獄のグラマーの唄だの、悪魔の酒と呼ばれた罪ある過去は浮び上ってこない。  ジョージ・ワシントンのお好みはマディラだったと言われる。ポルトガルから輸入されたマディラとビールと林檎酒とラムで選挙民をもてなし、彼はヴァジニアの議会に打って出たが、当時のアメリカがもっとも好んでいた酒というのが、甘いマディラだったのである。しかし時代と人の好みは、ほとんど偶然をきっかけとして変ってしまう。紅茶に反撥したアメリカ人が後には本当にコーヒーが好きになってしまったように、マディラもまた、イギリスが一七六四年に不当に高い課税をかけたことからボイコットが始まり、上流階級の酒といわれた王座を次第にウィスキーに譲ることになってしまった。しかし今日でも、料理のレサピーの中には頻繁に顔を見せるので、私はこの酒を使うたびに、ワシントンの謹厳実直な人柄そのもののようなポートレートを思い出すのである。もっとも、私たちの親しんでいるワシントンの顔つきは、鯨骨で作った入れ歯がよくあわぬゆえにあのような、きっと口を結んだ顔なのだという。  アメリカ人たちが実によく飲み、よく食べてきたことは、これまでに出版された料理書を含めた食物関係の書物の膨大な量からみても推定できることであるが、統計に表れた数字を知ると、それは私にとって驚きに変る。例えばJ・コブラーによれば、一七九二年、アメリカの人口が四百万そこそこであった頃、アメリカには二千六百軒に近い、もぐりでないディスティラー、つまり登録されたハード・リカー製造所があった。この年には、五百二十万ガロンの蒸留酒がそれらの業者によって製造され、輸入量と併せれば、実に一千百万ガロンの蒸留酒が国内で消費されたことになる。ところが二十年もたたぬうちに業者の数は五倍以上に増えた。人口は二倍にもならぬ上に、もぐりの業者を推定し、アルコールを飲まぬ人の数を考慮に入れて計算すると、当時のアメリカ人は、一人少なくとも一年に十二ガロンにのぼるウィスキー(バーボン、ライ、コーンを含む)、ラム、ジン、ブランディの類を飲んだことになる。ちなみに一ガロンは一升びんにつめると二本強、現在の日本で一番出廻っているサントリー・オールドの壜につめれば、約五本である。この量にビール、ワインのような醸造酒を加え、朝ごはんの時から子供たちまでが飲んでいたという植民地時代からの歴史的背景を考えるならば、社会の動きとしてアルコールの及ぼす悪影響に目が向うのも当然であったかも知れない。  しかし十九世紀初期のアメリカは、まだ酒を百薬の長とみなす動きが幅をきかせてもいた。禁酒家に対しては、男性としての尊厳に欠ける欠陥人間ということで保険料を余計に取ろうとする保険会社が存在したり、神からの賜わりものである酒を拒絶する人間は信頼のおけぬ偏屈者とされたりしたのであった。  その頃から百年を経た一九一九年に、結局は禁酒法が議会を通り、二〇年代のアメリカは禁酒法の時代となった。節酒および禁酒への動きが独立革命の頃からすでに存在していたことを思うと、第一次世界大戦後であるこの時期になるまで、国としての動きにならなかったことがまことによく酒というものの二面性を伝えていると思う。禁酒法に至る百五十年近い年月の間にも、また禁酒法の時代にも、アメリカは幾多の酒にまつわるヒーローやヒロインを生んだ。「わたしはただ、人びとの欲しがるものを提供して金を儲けた。もしわたしが有罪であるなら、シカゴの何百という上流階級の人びとも有罪となろう。わたしたちのあいだで違うところは、わたしは売って、あの人たちは買った、というだけに過ぎない。人はみな、わたしをギャングという。わたしは自分をビジネスマンと呼んでいる。わたしが酒を売れば、それは密売で、わたしのパトロンがレークショア街で酒を銀盆に載せてふるまえば、それは『おもてなし』なんだ」  これはアル・カポネの有名な科白であるが、まことに酒は、常に善玉と悪玉、最良の友と憎むべき敵、神と魔性、愛してやまぬ者と忌み嫌う者、弁護する者と責める者、被害者と加害者というように、かかわりあう者の立場をわけてきたのであった。禁酒法は皮肉なことに、宗教家、道徳家が一番目の敵にしていた強い酒をはびこらせる結果となった。密売者たちがその高い収益率を愛したからである。そしてむしろ節酒の対象でしかなかったはずのワインを、カリフォルニアにおいてほとんどキャタストロフに近い状態に追いやった。ワインは他のアルコールとは根本的に異る。樹木の果実からできる酒なのだ。その恢復は変り行く歴史に身をゆだねながらも、時を待つほかはなかった。禁酒法の皮肉はまた、日常の生活のパターンをも、酒により密接になるよう切り変えたのであった。ティー・パーティがカクテル・パーティとなったのは、このおかしな法律が廃止になる頃と前後していた。  そして、そのカクテル。夕暮れと真夜中と夜明けと、ニューヨークは数知れぬカクテルの杯を振舞ってきた。だが、ニューヨーカーになりたての私は、その選択に迷いはなかった。長い船酔いから醒めた夜の食卓で、キャプテンのつぶやきにも似た会話にのぼったオールド・ファッションドが幾多の蠱惑的な名を消し去って私の意識のうちに住んでいた。そしてある夜、このエレガントなカクテルは、思ってもいなかったステイタスに私を引き上げることになった。  九月の半ば、私は三年ほど前からアメリカの大学で学んでいた幼な友だちと、彼女の言葉を借りるなら「由緒正しき銀座の遊び人」に夕食に招かれた。その服はいけない、靴は踵が高くなくてはいけない、といわれて私が装ったのは、友人の大切にしていたロード&テーラーの服だった。到着以来私はこの友人にあちこちに連れまわされ、セントラル・パークの南に住む芸能人たちを顧客とする法律家の老人のきらびやかなアパートにまで、貧しい学生の身がディナーに招かれたりしていた。もともと反応のすこぶる鈍い私は、どんな処へ連れて行かれても驚きはしなかったが、この友人の話術の面白さ(それも英語の)には、わが身の決して及ばぬのを知りながらも焦燥を感じることがあった。  夕ぐれのギブソンから真夜中の水割りまで、マンハッタンのあちこちを三人でめぐり歩いた私たちは、だれからともなく、これでお開きにしようということになった。それは、ヴィレッジのとあるバーだった。 「テンポラリー・バチェラーは実に魅力ある存在ね。若い男性と一緒では今夜はこれほどに楽しくなり得なかった」、友だちは言った。「それに貴方はほんとうに遊びなれていらっしゃるから、爽やかだわ」  さて、最後の一杯は何にする? と問われて、私の口から無意識に出てきたのは、 「オールド・ファッションド」だった。  由緒正しき銀座の遊び人はそれを聞いて、「おや?」というような顔つきになった。ややしばらくしてから、彼は、 「午前二時にオールド・ファッションドねえ、日本から来たばかりなのに、この人は相当な遊び人だな?」といってほほえむのだった。およそ翳のない、むしろ幼いような笑顔だった。  私はふとニューヨークにいることも忘れて、私の帰りが遅い時の父の爆発寸前の恐しい顔を思い浮べた。      わが親友ドライ・マルティニ    アメリカには無数のカクテルがあり、それぞれの名とそれを好む友だちの思い出を書いていたのでは、作り方に到達するまえに夜明けがきてしまいそうです。それで今はいちばん私の好むものを二つ、ここに挙げたいと思います。ごく身近かなお喋りをするように……。    食前には若い頃からドライ・マルティニが好きでした。そのことについては、自分もウォトカ・マルティニしか飲まない、母ほども私と年の違う友だちに、一度たしなめられたことがありました。「午後四時では早すぎる、五時以前はだめですよ」と。    ドライ・マルティニを作るのにはまずパリパリの乾いた固い氷を用意しなければなりません。それからジンも、グラスも、氷を入れてマルティニを作るピッチャーも、一時間ほど前に冷凍庫に入れてしまうとよいかも知れません。何しろ切れるように冷たく作ることがコツなのだそうです。    正式な作り方は、その北極のように冷えた氷入りのピッチャーの中に最初に二オンス(四分の一カップ)のジンを注いで煙をあげるのだそうです。氷煙とでも呼ぶのでしょうか。それからジンの六分の一量のエキストラ・ドライ・ベルモットを入れてかきまわし、これも霜がついて向う側が見えないカクテル・グラスかロックの場合はオールド・ファッションドのグラスに入れ、ピメントを詰めたオリーヴをひとつぽとんと落とします。しかし、次のようにした方がしろうととして失敗がない、年代と共にマルティニはますますドライになってくるから、という友人がいます。    それは同じように冷やしたピッチャーの中の氷の上にまずエキストラ・ドライ・ベルモットをいいかげんに注ぎ、マドラーでくるくるかきまわしてそれを開けてしまいます。それから冷凍庫の中からジンを出しておもむろに加え、混ぜあわせて凍っているグラスに注ぎます。私も近頃ではこの方法で作りますが、まず大抵の店よりはおいしいものができるようです。    ドライ・マルティニは日本の魚貝の前菜などとも相性がよくて、私はぽん酢のきいた海鼠で一杯を楽しむ真冬のマルティニもまた格別と思うのですが、まだそれを共に賞味してくれる相手が見つからないのが残念です。    夕食後、それも時間がだいぶたってから、もう午前に近い頃には、オールド・ファッションドの名がどうしても口から出てきてしまうのです。もう知り合ってから二十六年にもなるので親友のような気持です。外で頼む時は、「お砂糖を控え目にしてね、それからバーボンで作って」と言います。    これもよく冷えた大きなグラスの中に、ドゥミタス用の角砂糖をまず落します。アンゴスチュラ・ビタースと水を小さじ一杯ずつ加えてこの砂糖を溶かし、バーボン(ウイスキーでも、ブランディでもよいのです)を四分の一カップ加えてマドラーでカラカラカラとかきまわし(好みで少量のベルモットやキルシュを加えることもあり)、アイスキューブとオレンジのスライスとレモンの皮と赤いチェリーを入れておいたオールド・ファッションド・グラスにそっと注ぎます。小さなマドラーを添えて、ゆっくりと、孤独な時も誰かがわきにいる時も難しい話などはせず、しみじみとグラスを重ねます。 [#改ページ]

 
幻 の 饗 宴    そしていつの日か  私には二組の両親があった。父親は二人とも、こよなく酒と酒の肴を愛する男たちであった。双方の家は私の小さい時分、駆け出せば三分とかからぬ距離にあり、私はこの二軒の家の間を大いばりのペットのように往き来していた。私は三歳の時に生母の兄、つまり伯父の家の養女となっていたのである。養父となった伯父にとっては、私は孫ほどにも年のかけ離れた娘で、掌中の珠とも、老年の生きがいとも、言いようを知らぬ存在であった。物心ついた時、すでに私はこの養父が酒を楽しむ際、分身の如く彼の胡座の中に抱かれていた。  一週に一度ほど、夕食の終った頃を見はからって、実の父が訪ねてくることがあった。彼もまた|微醺《びくん》を帯びていて、私を見にくるのだとはおくびにも出さなかった。ほとんどの場合、彼は虎を装い、入口でひと声吠えては四ツ這いになり、私を義兄にあたる義父の胡座の中から追い出してはふざけるのであった。私の貰われてきた家の中には溢れるほどのぎこちない愛情はあっても、笑いとユーモアがなかった。ただひたすらに可愛がられる一方の私を、実の父はかえって哀れに、いとおしく思っていたのだろうと、私は今にして思う。  義父の家は昭和十年代としては不思議な食生活をしていた。明治十八年生まれの男の、彼なりの文明開化を具現したような食卓で、ステーキをよく楽しんでいたが、そのソースはウースタシャーソースと醤油とベルモット、それににんにくひとかけらでできていたような気がする。ミルク、バター、チーズのような酪農製品に寄せる信頼は、私が弱かったせいか、非常なものがあった。いわゆる日本の惣菜めいたものをほとんど拵えぬ家だったが、それは私の養母となった人の生いたちと無関係ではないのかも知れない。自分の生まぬ、血の繋がりもない子供を、並の母親が遠く及ばぬほど慈しみ、育てあげたこの母のことを思うと、私の口の中は涙で塩からくなる。  |雉《きじ》や山鳥、|鶫《つぐみ》、鳩、鴨、それにシャンピニョン(戦前はマッシュルームのことをフランス語で呼んだ)、オクラなどをも昭和十年代に食べていたこの家の、お米のまずさほど小さな私にとって不可解で苦しいものはなかった。どのように珍しいお菜が並ぼうとも、私はそのまずい米に小さいながら反抗してご飯をあまり食べようとしなかった。戦争だの震災だのに備えて、あまりにもお米を大量に買っては蓄えるために、穀象虫の対策にクロール・ピクリン酸を使っていたからだと後年人から聞かされた。  とにかく古い米から順に使っていて、決して新しい米が食膳に上らぬ家であった。私が病気になると、新しいおいしいお米のお粥が特別に作られたが、その他の時は、幼児の頑強な反抗に音を上げると、生家に使いがとんで私の小さなお茶碗に二杯分ほどのおいしいご飯が運ばれるのだった。  幼児にご飯一杯でキリキリ舞いさせられるような備蓄に対しては、私の生母や姉や兄たちの、そして軽妙洒脱な口しかきかぬ実の父の、言葉の端々に響く嘲笑があった。私は我儘を押し通すいっぽうで、この二軒の家の私の身をめぐって起こるお互いへの暗黙の批判を、いかにそれぞれに気付かせないようにするか、小さな胸を傷めた。  私の生れた家には、父親の人を惹きつけずにはおかぬ人柄のせいか、四季を問わず地方からの到来物があり、また毎日のように賑やかに食事をして行く客があった。珍しい、おいしいものがあると必ず「千枝子に」といって届けられる生家からの心遣いを、私は手ばなしでおいしがってはならぬことを、知らず知らずのうちに憶えたと思う。  やがて戦争は二軒の家を遠く離し、離れている間に私は仲のよい、一番年齢の近い兄を結核で失った。淋しくとも、満たされなくとも、私は愛され過ぎる独りっ子の重みを噛みしめながら大きくなった。  私が大学に行き始めた頃から、二人の老父は私を中にして妙に仲良くなった。私が酒のお相伴をすると、強ければ、ああ、やはりいける口だと賞めそやし、飲まなければ、心がけが健気だと喜んで見せてから、二人して「あれに酒呑みになられたら、それはわれわれの責任だから」と負け惜しみのような口をきくのだった。  老人たちの薫陶のおかげで酒席の楽しさわずらわしさを恐らくは自分の年齢以上に味わって成長した私は、その後アメリカでもうひとり、三人目の父を得ることになった。この人こそ、酒とは切っても切れぬ職業を持つ、ビールのホップの商会を営むドイツ系アメリカ人であった。  現在は引退してヴァモント州ウィンザーに住むフレデリック・ランドマンは、二十数年前、私の年長の友、今は亡きエリー・デュービンの言葉を借りるなら、「身震いするようないい男」であった。私の夫にいわせればフレデリック・マーチのような風貌というけれど、エリーと私はクルト・ユルゲンスを想像した方がよい、と三人で言い争ったことがあった。人生にたいする深い叡智をそなえたこの人の、言葉にも行動にも滲み出るヨーロッパ的教養は、他の多くの魅力あるアメリカの男性を私にとって影の薄いものとした。私はこの人に腕をとられて教会の祭壇の前に導かれ、式の後にローエングリンを聞いたから、彼はいつも自分が「この娘を嫁にやった(I gave her away)」という。  もし私が若き日に、アメリカで家庭についての規範となるようなサンプルを見たとすれば、それはランドマン夫妻の家の内での、語られぬ言葉を通してだと思う。  ランドマン家の食卓には、世界のあらゆる味が次々に現れた。ターターステーキを小さなボールにして前菜としたことがあったし、ベルガのキャビアを掬っては、薄いスエーデンのクラッカーにのせて楽しんだ冬の夜があった。この家で鯛や鮪のさしみを作るために、刺身包丁を持ってグランド・セントラルから汽車に乗り込んだのも、二十数年前、数回を数えた。クリスマスにはニュールンベルグのストーレンやクッキーがあり……私はつねに料理と酒が話題となってはそれが政治、社会、文化、芸術に発展していくことに驚き続けた。養父の如く書物に頼らぬ、生活に基づいた知識があった。  いちどエリーが夫と私のために開いてくれたパーティのために、ヴァンドーム(ニューヨークのリカーストアの名店)からフランスのシャンペンが一ダース届けられたことがあった。エリーは「いったいこの『足ながおじさん』はどんな人なのかしら」と、シャンペンがそのまま何本も冷やせるようになったこの店の美しいパリの絵のついた青いバケットの蓋を開けながら、大声を上げた。 「身震いするようないい男」がその聡明な夫人コンスタンスを伴って現れたのは、それから何日かたったパーティの当夜だった。ニューヨークの短い束の間の春の終りだった。靄のかかったような五月の夕空が暮れ行く遠くに、ジョージ・ワシントン橋の光がにじんで見えた。  何年か前から、私はしきりと幻の饗宴を夢見るようになった。私は我ながら自分の描くいわば死後の世界のような図に驚かされたのだが、その宴には、世を去ってすでに久しい老父たちも、二十八歳で自らの生命を絶ったエリーも加わっていた。それだけでなく、若き日の私がニューヨークで、その人柄の抗し難き魅力の虜となって以来、夫までもファンの一人に仕立てた『戦艦大和ノ最期』の著者、吉田満さんからも、私は想像の上で出席の快諾を得たような気がするのであった。吉田さんは二年前に亡くなられていたし、もうひとり、私がこの宴の席に据えた私の兄も、二年前に、その長年の執念であるヨーロッパの音質の究明に燃えつきるようにして亡くなっていた。私はそれから、ふと、はじめからこの席には、フレデリック・ランドマンを期待していたことに気付いた。これだけ個性の強すぎる出席者を集めては、夫と私では会話の機微を楽しく運ぶのに荷がかち過ぎているとも考え、誰か優雅で心やさしい女性を、としきりに物色するのであった。  私の幻の饗宴はいかなる国の言葉をもって食卓の会話が交わされるのだろうか。私の料理がかなりの味わいであれば、それに興奮してとめどもなく饒舌に衒学的になる養父や、洒落ばかり連発して私に|窘《たしな》められる実の父がエリーと語らうのはあの世の言葉であるとしても、まだ健在であるフレデリック・ランドマンは亡兄とはドイツ語で、吉田さんとは英語で、というとりとめのない夢想の果てには、寂寥とした現実が顔を覗かせる。  ディナーの成功は料理よりもまず、その顔ぶれと会話であろうから、私の描く図はフィッシャー夫人のいう“完全なる晩餐”には決してなり得ぬ宴席であろう。それでも私はその計画を夫と共に語らうのである。  かつて私はランドマン家の人びとを招いて魚づくしの夕を催したことがあった。ロングアイランド海峡の平目は私が手にとった時は生きていたし、その縁側の歯ごたえは何年を経ても記憶に鮮やかだ。|秀衡椀《ひでひらわん》に盛ったブイヤベイスの、にんにくの入らぬ垢ぬけた味わいには気品もあった。あの時のメニューを思い出すと、それは幻の饗宴の予行演習だったのではないかという気がしてくる。魚づくしでは老人はともかく、エリーや吉田満さん、それに兄にはもの足りない、ということであれば、私は築地の鳥八から宮内庁御用達の合鴨と|鶫《つぐみ》の身あらいを買ってきて長男に炭火で焼かせよう。私の回りでは彼だけが焼き加減の完全さを心得ている。合鴨は粒山椒を砕いてまぶし、鶫には手のこんだソースを作ろう。魚づくしの夕べの主菜には舌平目を巻いてクリームソースを添えたが、私は近頃クリームをあまり愛さなくなった。  夫は老父たちを牽制しつつ会話に気をくばり、エリーはフレデリックの隣りに喜々として坐り、吉田満さんとの魅力に満ちた会話が弾む。兄が煙草をとり出して私が小声で怒る。 「ひとりだけメロードコズル(鹿児島焼酎)を所望するだけでもやっかいなのに、煙草とは失礼な!」  夫はこの日は五月の宵がいいと言い、私もそれがよいと同意していた。ニューヨークなのか、東京なのかそれともコネティカットの大学町なのか知りようもない場所で、私はフレデリックから届けられたブルゴーニュらしいワインの口を次から次へと息子に開けさせる。 「銘柄なんて見なくていいの、どうせ憶え切れぬほどあるのだから、いつもダディに選んでもらえばそれでいいじゃないの」  私は誰にともなく呟く。 「|蒲公英《たんぽぽ》のサラダです」  声変りしたばかりの子供の声がして私の三男がボウルを捧げているのを受けとると、エリーが彼の耳といわず目といわず、めちゃめちゃにキスをする。  私は私より背の高くなった娘を相手にザバリョーネをかちゃかちゃと音をさせて作り出す。洋梨をタルトケースに入れてキルシュの香る自己流ザバリョーネを上からかけると、それは全員の喝采を博すことになる。その頃には私の幻の饗宴は吉田満さんご自慢のハーレムのジャズなる音楽を奏ではじめる。ただし哀愁を帯びたジャズというよりは、ダマスカスの愛の歌のような、震えるようなメロディである。ピアノの音がしないのに、兄が「ベーゼンドルファーを使ってるな」とぽつりという。  コーヒーの香りが部屋全体に漲って、私がやれやれとばかり腰を下ろすと、老父たちがいっせいに、「やはりわれわれの教育の成果があったということだ」というような口をきく。  するとフレデリックが夫の方を顧て、 「いや、むしろわれわれの教育ではないかな」と穏かに、しかし年老いてドイツ訛りがもどってきた英語で言う。  女はだれも心優しき男性のために料理ができたら幸せだと思う。 [#改ページ]

 
あ と が き  現在でこそ、アメリカへ行ってみたい、ニューヨークで暮らしてみたいという望みはたやすく叶えられるものとなったが、私の学生時代には、それはほとんど荒唐無稽ともいえる夢であった。私は奨学金を獲得できるほど成績も良くなければ、親に財力があるわけでもなかった。  しかし執拗なまでの望みに振りまわされた私は、あらゆる不可能に戦いを挑み、大学四年の夏、ついに横浜を後にしたのである。  一九五〇年代はニューヨークの黄金時代だったということが今いわれるようになった。当時、ハーレムの真ん中の駅から汽車に乗ったことが度々あった。オフ・オフ・ブロードウェイの劇を見た帰り、十二時近くバワリー(酔いどれ通り)に迷い込んだこともあった。カーネギー・ホールへ入るのに零下の中を何時間も立ったことがあった。日本には輸入されない外国映画を追いまわして、深い深い地下鉄の底からエレベーターで地上に出た夜々があった。第二次大戦の悲劇をアルコールで紛らし、ボタンホールに野菊を飾る、老教授に教えを受けた日々もあった。生涯の友にも恵まれた。その後中西部の暮らしも知るところとなり、二十数年の歳月の内のアメリカは年代を経るごとに私の内なる目には一層鮮やかに映し出される。  書き始めは気負ったライオンの如く、そして書き終えた今は虚心なる仔羊のように。これが現在の私の偽らざる心境だと思う。一九七九年の早春から、主婦業のあい間に『アメリカ料理開拓史』と名付けたらよいようなものを漠然と心に描きつつ筆を進める中に、いつの間にかわが過ぎ来し方を語ることになった。しかしそれは、仕方のないことであり、アメリカに対する已むに已まれぬ情念が今頃になって形をなしたものであろう。  とはいうものの、この本は、題名の示す通り、アメリカの食卓をめぐる文章である。アメリカの食文化についてこれまで関心を持たなかった方々の興味を呼び起こし、アメリカの味わいに懐疑的な方々にも、食卓に並べられた料理以上の、あるものを味わって頂けることができれば、これほどの幸せはないと思う。  最後に、私の文章を終始温かい眼差しで読み続け、出版の判断をして下さった出版部竹内修司氏、周到綿密なチエックで私を励まして下さった平尾隆弘氏に厚く御礼申し上げます。この本の原稿は、故吉田満氏の夫人嘉子様がその存在にお目をとめて下さったものですが、それまでには、旧友である福士季夫氏の徹底的な読みと鋭い指摘、文化出版局の土肥淑江さんの「もっと自分をお入れなさい」という貴重な助言がありました。そもそも、このような文章を書き続ける勇気を吹き込んで下さったのは、増田れい子さんです。そして、とりとめもなく書きためていた小篇を一冊の書物として纏めるための凝集力を与えて下さり、無学な私に知識とその源をお教え下さったのが辻静雄氏でした。私の身辺から着想をひき出して美しい装幀を創り出して下さった原万千子さんも含めて私の心は皆様への感謝でいっぱいです。 [#改ページ]   単行本   昭和五十七年三月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     アメリカの食卓     二〇〇一年八月二十日 第一版     著 者 本間千枝子     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Chieko Honma 2001     bb010811