TITLE : ニューヨークの日本人 講談社電子文庫 ニューヨークの日本人 本田靖春  まえがき  旅に出てみたいと無性に思ったのは、一年ほど前のことであった。そこへちょうど、『週刊現代』編集部からの誘いが来た。  どこへ行ってもいい。何を書いてもいい。一切注文はつけない——という、まことに有難い申し出である。  そのころの私は、フリーになってから三年半。いわゆる注文原稿に忙殺されていたところであった。 “登録種目”でいうと、私の属しているのは、社会問題一般である。これは、めったやたらに間口が広い。  人物をこなしたかと思うと、革新自治を論じ、在日朝鮮人を語り終わらないうちに、筆は官僚論に飛ぶといったあんばいで、いささか精神分裂症気味になっていた。  問題意識などというものは、蛇口をひねればたちまちほとばしる水道の水のように、おいそれとは湧いて出ない。  内的必然性の稀薄なテーマと、ときには一月の間、四本も取り組むというのは、苦痛であった。  初めのうちは、これも“プロ・テスト”の一つと割り切っていたが、やがて、注文の量と質が私の能力をはるかに越えるようになって来た。旅に出てみたいと思ったのはそのころである。  注文をつけないというのは、受け手として、何物にもまさる魅力であった。私は二つ返事で、この注文に飛びついた。  こうして、『週刊現代』の昭和五十年新年号から、「世界点点」として連載が始まった。ここに収めたのは、そのシリーズの第一部にあたる「ニューヨークの日本人」である。  単行本になるとき、かなりの加筆をした。構成も若干かえた。それは、週刊誌における連載十五回という分量が、単行本のボリュームには不足していること、連載時には見送らなければならなかった素材をここに活かしたいと考えたこと、などの理由からである。  最初の旅にニューヨークを選んだのは、私が新聞社の特派員として、ごく短い時間をそこで過ごしたというひっかかりからであった。  常駐特派員というのは、たとえてみると、鵜飼いのウのようなものである。見えない糸で、四六時中、本社に操られている。  ニューヨークにおける私の守備範囲は、極端にいうと、全米であった。到底カバー出来ない広さである。おまけに、時差の関係で、昼夜が日本とはひっくり返っており、送稿は夜間になることが多い。ここでの私も、きわめて多忙であった。  ジャーナリズムの世界に入ってからの二十年を振り返るとき、いつも余裕のなかった自分に気づく。持ち上る事件に追いかけられ、間題意識にさいなまれた毎日なのである。 「世界点点」では、つとめて出来事に目をつぶり、論を避けた。それは、たぶん、たどって来た二十年の反動であるのだろう。「世界点点」の「点点」には、そうした意識をこめたつもりである。  どこで始まってもよい。どこで終っても構わない。そんな気ままな旅に、私は憧れたのである。連載は編集部との約束である一年を越えようとしていて、いまも続いている。旅は、つねに、快適であった。  気楽に書いたものだから、気楽にお読みいただきたい。  ただ一つ、「人間」に対する興味だけは失っていないつもりである。「人間」こそ人間にとっての永遠のテーマであろうと考える。  わざわざニューヨークで日本人を題材として採り上げたのは、この人種のるつぼに拠り込まれて適合不能を起こしている同胞が、好むと好まざるとにかかわらず世界へ出て行かなければならないわれわれにとって、格好の被験体だと思われたからである。  ときに物悲しく、ときに滑稽な登場人物は、私自身の投影でもあろう。   昭和五十年十一月 目 次  まえがき 第一章 ニューヨークの贅沢《ぜいたく》な日本料理店 第二章 醤油《しようゆ》中毒にかかったアメリカ人 第三章 アメリカ人と日本人の商売感覚 第四章 “バンコー”ホテルの日本青年たち 第五章 香具師《や   し》になった日本の若者 第六章 宿屋を開業したモダン・アーティスト 第七章 生命保険セールスマンになった元牧師 第八章 果せぬ夢を息子に託した「サトミ」 第九章 演歌が流れるピアノ・バーの女性たち 第十章 日本人村に寄りつかなかった日本人医師 第十一章 日本人居住区「メイン・ストリート」 第十二章 犯罪都市ニューヨーク  文庫版あとがき ニューヨークの日本人 第一章  ニューヨークの贅沢《ぜいたく》な日本料理店  日本人は、いつの間にか、分不相応の贅沢《ぜいたく》に慣れてしまったのではないか。五年ぶりにニューヨークへ出掛けて行って、まず感じたのはそのことであった。  手もとに一枚の領収書が残っている。三十四ドル二十四セント。Nレストランでの、二人分の昼食代がこれである。  その日、私は、大手商社から派遣されている中堅クラスの駐在員に、昼休みを利用して話を聞かせてもらうことになっていた。  ちょうど時分どきである。昼食を一緒にということになって、彼に店を選んでもらった。出掛けて行って驚かされたのは、ニューヨークの日本料理店の中で高級に属するこの店が、満席だったことである。予約をしなかった私たちは、しばらくのあいだ、入口で待たされたほどであった。  三十四ドル二十四セントの中身は、別に取り立てていうほどのものではない。二人でトンカツ定食を注文した。それだけでは間が持てないように思えたので、刺身をつけてもらい、彼は水割りを、私はビールを飲んだ。  私が支払った、日本円に直して一万円程度のものは、企業の接待費のセンスからすれば、どれほどでもない。いわば接待役である私は、それを負担には思わなかった。  しかし、帰りがけに店内を見渡して、席を埋めている客の大半が、日本人の駐在員らしいと気づき、改めて落ち着かない気分にとらわれたのは事実である。二人で一万円という昼食代は、いかにも高過ぎはしないかと——。  一九六九年から七〇年にかけて、私は新聞社のニューヨーク支局にいた。特派員としては落第だったが、その私に過ぎたものが二つあった。一つは、ロックフェラー・プラザというマンハッタンの一等地に建つAPビルディングの中に設けられたオフィスであり、もう一つは、クラジングトンという珍しい姓を持つ未婚のセクレタリーである。  クラジングトン嬢はファーストネームをエリザベスといって、高校時代に日米交換学生として来日し、日本人の家庭に一年間住んだ経験を持つ。彼女を支局に雇ったのは、私の前任者であるM氏であった。話はいささかそれるのだが、その経緯《けいい》が面白いので、それを紹介しておきたい。  M氏が初めて彼女に会ったのは、ケネディ空港であった。ニューヨーク支局に着任のため、タラップを降り立った彼は、ターミナルに足を踏み入れたとたん、エリザベスに声を掛けられたのである。  後にエリザベスが語ったところによると、彼女はその日、東京からやってくる知人を迎えるため、空港に出向いていたのだという。  驚いたのはM氏であった。見ず知らずのアメリカ女性から、いきなり声を掛けられたのである。しかも、日本語で。 「私、仕事捜してるの。あなた、私、いりませんか?」  M氏はそれこそ、新しい任地に第一歩をしるしたばかりである。自分が預かることになるオフィスさえ、まだ見ていない。もちろん即答はできなかった。  エリザベスがM氏に教えられた番号へ電話をかけてきたのは、その翌日であった。日本語をまがりなりにも話すアメリカ女性に、彼の食指は動いたが、彼女を雇い入れるとして、一つの障害があった。それは、支局経費の枠に、現地雇いの人件費が組み込まれていなかったことである。  つまりは、あきらめるほかない。そのことをいうと、電話の向こうで、エリザベスは思わぬ台詞《せりふ》を吐いた。 「ああ、お金のこと。それ、心配ないよ」  その日から、スポーツ・タイプのボルボを運転して、エリザベスの“通勤”が始まる。押しかけ女房というのはきいたことがあるが、押しかけセクレタリーというのは、寡聞《かぶん》にして知らない。  彼女は、たいへんな資産家の令嬢だったのである。  クラジングトン家は、コネチカット州にあって、東部の名家だというのが、エリザベスの自慢であった。なんでも、同じ姓のファミリーは、アメリカに三つとか、四つとかしかないのだときかされた記憶がある。  私は訪ねたことがないのだが、M氏によると、クラジングトン家は、門を入って玄関に着くまで、車で十分だか、二十分だか走らなければならないという話であった。  折り折りに、屋敷のうしろに広がる深い森で、キツネ狩りが催されるのだそうである。生活のありようとしては、イギリス貴族のそれなのであろう。  この家を守るのは、エリザベスの母方の祖母ただ一人である。彼女の父親は、離婚してクラジングトン家を去り、母親は早くに逝った。その遺産は、一人娘であるエリザベスの相続するところとなり、管財あるいは財産運用のため、四人の専門家が彼女についているという。  いずれ祖母が世を去れば、こちらの遺産もエリザベスに転がりこむ。その場合、彼女の資産総額は、いったい何桁《けた》になるのだろうか。彼女が不在の支局で、そんな詮索《せんさく》に私も加わった思い出がある。  ニューヨーク支局に赴任した私は、M氏からエリザベスを引き継いだ。そのときの彼女の月給は三十ドルであった。  この三十ドルというのには、わけがある。無給に甘んじていたエリザベスは、しばらくすると、M氏に「月給が欲しい」といい始めた。  支局経費には彼女のための枠がないことを、あらかじめ伝えてある。 「それならば、やめてもらうほかはない」  M氏の申し渡しに、エリザベスはこういった。 「いや、違うよ。お金はいらないの。月給がいるの」  ニューヨークで大学を終え、マンハッタンのアパートに住んでいるエリザベスには、周囲に友人が多い。その手前、彼女には、日本の新聞社に勤めているという“証拠”が必要だったのである。押しかけのただ働きでは、有閑令嬢のお遊びとしか見られないというのであろう。  エリザベスの要求を入れて、M氏は一日一ドルの報酬を支払うことになった。  引き継ぎのとき、そうした事情をM氏からきかされていた私だったが、月に三十ドルというのは、いかにも心苦しい。  支局には専用の車がないから、何かにつけて彼女の車を使う。運転も彼女なら、燃料代も彼女持ちで。  三十ドルでは、支局のそばにエリザベスが月ぎめで契約しているパーキング場の料金にも満たない。そこで私は、彼女の月給の倍額アップに踏み切った。といっても、たかが六十ドルになるだけの話である。  この昇給を告げると、彼女は私の頬に接吻を浴びせかけた。からかわれている気がしたが、本心からだったようである。金持ちの気持ちは、なって見ないことには理解がつかない。  あるいは、大会社の社長が総合雑誌か何かに随想を頼まれて、もらったわずかの原稿料を、大仰に喜んで見せる心理に、彼女の場合も通じるのであろうか。  エリザベスは、有用なセクレタリーであった。英語に弱い私は、たとえば大統領の演説がテレビ中継されるようなとき、大意を彼女に筆記させる。読めば、いくら私でも理解がつくから、彼女は私にとって、とっさの耳代わりである。それだけでも、大いに助かった。  唯一の難点を挙げるなら、無断欠勤が多いことであった。  一日、二日、姿を見せない。どうしているのかと気になるころ、私のデスクの電話が鳴る。 「あ、ホンダさん? 私、私よ。いまコペンハーゲンにいるの」  結ばれずに終わったのだが、彼女の愛するアメリカ男性が、そのころコペンハーゲンにいた。どうやら、片想いだったらしい。あきらめ切れないエリザベスは、ファースト・クラスを予約しては、コペンハーゲンに飛んで行く。そんなことが、何回か続いた。結局は、無名の日本人カメラマンと結婚して、サンフランシスコの岬に突き出した豪邸に新居を構えることになるのだが。  話を戻して、そのエリザベスである。昼になると、彼女はAPの社員食堂に上がって行って、紙コップ入りのコーヒーと、サンドイッチ二個を買ってくる。それが、“百万長者”である彼女の、いつもの昼食であった。  社員食堂だけあって、外より値段は安く、コーヒーは一杯がたしか十セント、そしてサンドイッチは一個が二十セントか三十セント程度だったような気がする。  私が仕事の手をはなせないとき、エリザベスは私の注文をきいて、同じものを買って来てくれた。  手渡すとき、彼女は、きまって「はい、チップ」と、駄賃を催促する。  初め、冗談かと取り合わなかったのだが、そうとも思えぬ、度ごとの請求だったので、あるときダイム(十セント)を一つ渡したら、「サンキュー」といって、小銭入れにしまった。以来それがならいとなった。  ランチ・タイムというプライベイトな時間帯でのサービス行為には、きめられた報酬以外の労賃を申し受けるのが当然、といったアメリカ人らしい合理性が、彼女をそうさせたのであろうか。それとも、金持ち娘の遊びであったのか。  いいたかったのは、そのことではない。アメリカ人の昼食は、エリザベスでさえもそうであったように、きわめて質素だということである。  マンハッタンには、朝の出勤時から店を開いている、日本風にいえば“パン屋”がいたるところにあって、オフィスに勤める人たちが行列をつくる。昼食用のドーナツのたぐいを、会社への道すがら求めるのである。  昼になると、今度はサンドイッチ屋が開く。私がいた五年前より物価は上がっているが、それでも好みのハム、ソーセージを、好みのパンにはさんでもらって、一ドルといったところである。ドーナツになるか、サンドイッチになるかは、人々の、そのときどきの好みによるが、これらに一杯三十セントの紙コップ入りコーヒーを取り寄せて、大方の昼食は終わる。  ランチ向けの手軽な店もないわけではない。この種の店の多くは、カウンター式になっていて、二ドル五十セントから三ドルどまりの一品料理が用意されている。しかし、オフィスで働く人たちにとって、ここでの昼食は、贅沢の部類である。  それとの比較からいくと、こだわるようだが、二人で三十四ドル二十四セントの昼食は、途方もなく高いものになる。  日本料理店の経営者にいわせれば、それなりの言い分はあるのだろう。  Nレストランの功績(というほど大袈裟《おおげさ》なものではないが)は、ニューヨークにあって“本土並”のスシを供するのに成功したことである。  かつては主演級をつとめた元女優を妻に持つ、慶応出の若い経営者K氏が、スシネタの確保にからむ苦労話をきかせてくれたことがある。  ボストン沖あたりへ出ると、形のいいヒラメやタイがあがるのだが、それは趣味としての釣りの話であって、ふだん魚を食べる習慣のないアメリカ人社会の中で、日本料理店が満足できる材料の供給は、当然、期待できない。それを埋めるには個人的努力しかないので、仕事の合間をぬっては、流通経路づくりに奔走している、というようなことであった。  そのような努力にもかかわらず、現地で調達できる材料は限られていて、エビは中南米、アワビ、シャコ、アナゴ、コハダの類は西海岸か日本本国といったふうに、遠方からのものが多い。その分だけ、どうしても割高につくのだろう。  もう一つ見逃せないのは、板前にかかる費用である。こればかりは、紅毛碧眼《こうもうへきがん》というわけにはいかない。日本から呼び寄せると、航空運賃がかかる。その分だけコストに組み入れられる道理である。  だが、それを割り引いても、ニューヨークの日本料理ははなはだしく高い。評判をとったNのスシを、付け台の前に陣取って三、四人でつまむには、当時でも百ドルの用意が必要であった。  断っておくが、私はしょっちゅう出掛けたわけではない。  駐在員の仕事の一つは、日本からの客の接待であり、私のようなところにも、多い月には、十人以上が訪れた。中には、私が見たこともきいたこともない人の紹介状を持って現れるのがいる。  スタッフの少ない新聞社の現地支局で、ひまなときならばともかく、接待というのは難儀である。昼間の観光案内は、助手にまかせるとして、夜まではほうっておけない。ついつい、食事の相手くらいは、ということになる。時差の関係で、夜、送稿することが多い私たちには、これがときに苦労であった。  日本料理店を使うのは、こうした接待に限られたが、もう一つの難儀は、支局経費に接待費が皆無だということであった。これに要する費用はすべて、月九百五十ドルの自分の滞在費から出さなければならない。  あるときなど、同じ日に、三組五人の客がかち合った。こういう場合には、夕方、時間を決めて支局に落ち合ってもらい、助手をわずらわせて二台のタクシーに分乗、“団体”でチャイナタウンに繰り込む。  ニューヨークで安いものをあげろといわれれば、ためらわずに、チャイナタウンの中国料理を推奨したい。  テーブルにつくと、ウェイターが紙と鉛筆を置いて行く。漢字のメニューを見ながら、注文の品々をうつすわけだが、大きな円卓にのりきれないほどの品数をとって、二十ドルもあれば足りる。信じられない安さであった。  ただ、チャイナタウンでは、酒類を出さない。飲みたい人間は表のストアで、冷えた缶ビールを買い、これを持ち込むのである。ウェイターは、黙っていても、人数分のグラスを運んでくる。  ニューヨークでは、レストランとバーのライセンスが別々になっていて、実質を尊ぶチャイナタウンの店々は、酒類販売にかかる税金を喜ばない。そこで「随意小酌」の看板を表にかけることになる。飲みたい人はご随意に、というわけで、客が勝手に持ち込む分には、当局も店に税金のかけようがない。  ここでのきわめつきは、カニであった。何という種類か知らないが、カニを甲羅《こうら》のまま大まかにたち割って、たぶん、高熱の油で炒めながら、軽く味つけしたものである。これが、山盛りでくる。カニが貴重品に属する日本からの客は、この一皿で、接待を喜んでくれたものであった。  百軒やそこいらではきかないチャイナタウンの中国料理店の経営は、おおむね一家けん族で支えられている。そして、そのうちの何軒かは二十四時間営業である。  週末の夕方になると、店々に、順番を待つ客の列ができる。それは、この町が薄利多売で成り立っていることの証明であって、親子、きょうだい、その配偶者と、大家族の成員が総出で、油にまみれながら築いたのが、チャイナタウンの今日の繁栄なのである。  ここから先はちょっと理屈に合いにくいのだが、彼らの客になるたび私には、うしろめたさというか、申しわけなさというか、複雑な思いがまとわりついた。  一言でいうと、彼ら華僑《かきよう》にくらべて、総体としての日本人は、えらく率のいい商売をしている。カメラだか、テレビだか、自動車だか、要するに付加価値の高い工業製品を生み出して輸出し、世界の外貨をかき集めているのである。  もちろん、その根底には労働があって、そこから生まれた製品を納得ずくで売買して利潤を得ること自体、世界のだれに向かっても恥ずべきことではない。  だが、日本人である私が、現実に客として、店で働く中国人と顔を合わせ、彼我のあいだに、同じ貨幣の、しかし極端な重みの違いを発見するとき、落ち着かない気分にさせられる。私のそうした気持ちを、助手に“犯罪者意識”と説明したが、若い彼には理解がつかなかったらしい。店がその値段でいいというのだから、いいではないか、というのである。理屈は、まさに、その通りなのだが。  その私が、日本料理屋に行くと、今度は被害者意識にとりつかれるのであった。いくらかのはずみをつけていえば、ニューヨークの高級日本料理店の値段は、犯罪的でさえある。  それにもかかわらず、店がつぶれるどころか、逆に増えているのは、なぜなのだろうか。  私がいたころ、マンハッタンの日本料理店は約五十軒であった。それが、今度行って見ると、百五十軒以上にふくれ上がっている。  そこには、日本食の方がどうしても日本人にふさわしいという、抜きがたい食習慣があるのだろう。高いとは思いながら、ついつい、日本料理店に足を向けてしまう。  だが、それも、フトコロが許してのことである。意外に思うだろうが、ニューヨークの駐在員たちは、アメリカ人も羨《うらや》む高給取り揃いなのである。  Nレストランで昼食をともにした彼の働く商社は、現地法人の組織になっているが、四百五十人の社員の中、本社派遣がざっと三分の一を占めている。残りは、アメリカ人ということになる。  現在、駐在員の給料は、社歴、年齢による開きはあまりなく、月に手取りで千五百ドルから千六百ドルである。 「アメリカ人が給料を話すときには、グロス(税・社会保険料込み)が普通ですね。われわれのネットで千五百ドルというのは、グロスに直すと、年俸五万ドルに相当します」  と、彼は誇らしげにいう。  いくら税率の高いアメリカでも、五万ドルの年俸が、実質では月当たり千五百ドル程度にしかならないというのは、何かの間違いではないかと思ったが、彼がいうのだから、そんなものなのかも知れない。  年俸五万ドルときけば、大概のアメリカ人は、彼を尊敬するであろう。  たとえば、チェース・マンハッタン銀行には二万二千人の社員がいて、年俸五万ドル以上をとるのは、わずか八十人しかいない。三十歳そこそこの駐在員が手にする報酬は、ニューヨークのエグゼクティヴ級なのである。 「四百五十人の社員のうち、百何人かが五万ドルの年俸では、アメリカの会社なら完全にパンクですね。うちなんかは、少ない人数の割に、年商をかなりの線あげているから、やっていけるのですが」  彼はそういうのだが、それにしても、日本人がアメリカ人以上の高給取りになっているニューヨークでの現実は、私をひどく不安にさせる。  今度、私がニューヨークへきて、気づいたことは、日本人社会の“高級化”であった。  ついこのあいだまで、日本料理店の両横綱は、東の「ニッポン・レストラン」と、西の「斎藤」であった。  ニューヨークでは、南北に走る五番街を中心線として、その東をイースト、西をウエストと呼び分けている。  ここ数年、日本で、ニューヨークを犯罪都市だとするイメージが定着しつつあるようだが、そうした関心からいえば、東は概して安全であり、西はどことなく危険だという感じがある。そして、そのこととあまり直接的に結びつけられては困るのだが、東は白人の生活圏、西は有色人種の居住区と、大ざっぱに色分けできよう。  ミュージカル映画『ウエストサイド物語』の舞台となったプエルトリコ人街は、ウエストの一つの典型である。そこでは、いまだにスペイン語が話されており、独特の街が形づくられている。  かつての「斎藤」があったのは、五番街と背中合わせの位置で、ウエストとはいっても、あたりは、いわゆる貧民街ではない。  それにしても、戦後、ニューヨークへ進出した日本料理店らしい日本料理店の第一号であるこの店が、ウエストに場所を定めたということは、講和条約発効当時の、ニューヨークにおける日本人社会の地位を、表徴しているかのようである。  ちなみに、その後「斎藤」は、火災をきっかけに東へ移り、さらに四十九年九月、一番街と二番街のあいだの四十六丁目に、新しい店を開いた。イースト・エンドに近く、国連本部は目の前である。このウエストからイーストへの移転は、日本人社会の移り変わりと無縁ではない。  ここ数年間に、マンハッタン地区の日本料理店は百軒以上も増えた勘定だが、一つの特徴はその多くがイースト・サイドに集中していることである。その結果、わずか一ブロックの間に、五軒もの日本料理店がひしめき合う区画も出現した。  もう一つの特徴は、本土資本のデラックス店が進出して来たのを契機に、従来の店までが、西から東へ移り、あるいは支店を東に開いて、“高級化競争”が繰りひろげられていることである。 「斎藤」も、これを追う恰好だった「ニッポン・レストラン」も、王座を下りなければならなかった。  いま、ニューヨークの日本人に高級店をたずねると、例外なく「稲ぎく」と「新橋」をトップに挙げる。「新橋」は、あまりにも店に金をかけ過ぎたため、経営難におちいっているという噂が絶えないのだが。  その昔、ニューヨークの日本人は、自分たちの行動範囲を“日本人村”と呼んだ。そして、そういうときの彼らには、自嘲の響きがあった。 “村”といっても、ロサンジェルスのリトル・トウキョウのように、日本人(正しくは日系市民)だけで成り立っている、判然とした地域があったわけではない。  日本料理店のいくつかを結ぶ線上に、主として夜の、日本人の移動が見られた。  たとえていうと、ニューヨークの“日本人村”は、ベトナム戦争初期の段階における“解放村”のごときものであった。  南ベトナム政府軍は、ほぼ全土を掌握《しようあく》しており、解放戦線は、政府軍の勢力の及ばない辺境で、いくつかの点を確保していたに過ぎない。そして彼らの活動は、夜間、それらを結ぶ線に限られていた。ニューヨークの日本人の行動様式はそれに似ていたのである。  マンハッタンの一等地である、中央部のイースト・サイドに店を構える日本料理店は、それこそ五指にも満たず、他の店々はウエスト・サイドか、それでなければアップ・タウンかダウン・タウンにあった。 “村”という呼称は、一つには辺鄙《へんぴ》であることの代名詞であり、また、そこからくるもの悲しさをも言い表している。  いま、ニューヨークにいる日本人の数を、正確に言い当てられる人はいない。アメリカの移民局も、日本のニューヨーク総領事館も、その実態を把握できないのが現状である。これは、不法滞在者が年々増えているためだが、そのことについては、後に譲ろう。  ある人は二万といい、別の人は三万という。通過者と短期滞在者を入れれば、それをはるかに越えるだろうと、大胆な推測をするものもいる。ともかく、ニューヨークの日本人は“村”どころか、一つの市の人口に匹敵する数にまでふくれ上がっている。  これにつれて、日本人社会も、その範囲を広げ、体裁をととのえてきた。 第二章  醤油《しようゆ》中毒にかかったアメリカ人  南北に通じる、マンハッタン最大の道路、パーク・アベニューを堰《せき》とめるようにしてそそり立つパンアメリカン・ビルディングは、さしずめ、霞が関ビルに相当する代表的なオフィス・ビルである。朝、エレベーターに飛び乗ってみるとよい。まわりが全部日本人という光景に出くわすことも、さして珍しくない。  そのビルのワン・フロアを、大手商社が占有している。行先階数別にエレベーターが分かれているから、そういうことも起こりうるのである。  パーク・アベニューを、ちょっと北へ上がった東側に、ウォルドーフ・アストリア・ホテルがある。  東西はパーク・アベニューとレキシントン・アベニューにまたがり、南北は四十九丁目から五十丁目にかかる大きな区画を占めて、客室千九百を擁する四十二階建てのこのホテルは、カーライル、プラザ、ピエールと並んで、ニューヨークにおける最高級の格式を誇っている。  ここでは、シングル料金が三十六ドルからで、ツードア・タイプと呼ばれる化粧室付きのダブルだと六十ドル、最高のAタイプになると五百五十ドルである。邦貨に換算して一泊十六万五千円というのは、いかにアメリカでも、ざらにある部屋ではない。  国連本部が比較的近い関係から、各国政府の首脳がこのホテルをよく利用する。東西南北に設けられた四つの入り口に、星条旗と組み合わされて、どこかの国の国旗がいつもはためいている。それは、絶えず遠来の要人が泊まっていることの証明である。佐藤栄作、田中角栄ら歴代首相も、そして天皇、皇后両陛下もニューヨークでの宿はここであった。  そのホテルの南側の一角に「稲ぎく」が進出したとき、さすがのニューヨーク子も、目を見張った。  このホテルには、その名に合わせてクジャク模様のジュウタンを敷きつめたダイニング・ルーム「ピーコック・アリイ」、いつも一流のエンタティナーが出演しているナイトクラブ「エンパイア・ルーム」、重厚なイギリス風のパブ「ブル・アンド・ベア」、庭園のように木々と花々で飾られたカクテル・ラウンジ「サー・ハリーズ」、ビクトリア王朝風のコーヒー・ショップ「オスカー」があって、それらはそれぞれに、最高級ホテルにふさわしい雰囲気をかもし出している。  例のモハメッド・アリと、ジョージ・フォアマンの世紀の一戦が、クローズド・サーキット方式で流されたのは、このホテルの「ボウル・ルーム」においてであった。飲み物がついて四十五ドルという破格の料金だったが、ちょっとした劇場並の大きさを持つ場内は、満員の観衆で埋まった。私も、二階席の片隅で手に汗を握った一人だが、四十五ドルというのは、ウォルドーフ・アストリアならではの料金であろう。  ここへの「稲ぎく」の進出は、西から東へとテリトリーを拡げてきた、ニューヨークにおける日本人社会の伸長を象徴する出来事であったといってよい。たとえはわるいのだが、サイゴン市内のアメリカ大使館に、解放戦線の決死隊が突入したときの、あの衝撃に通じるものがアメリカ人にあったのではないか。 “解放村”ならぬ“日本人村”は、それまでにも、東へ、東へと浸透を続けていた。「斎藤」、「神戸」、「亀八」、「吉兆」と、思いつくままに名前をあげると、こうした店々は、私がいたころはまだウエスト・サイドにあって、その後、イースト・サイドへ移った日本料理店である。  解放戦線のサイゴン攻撃は、いずれ予想されたものではあったが、それが現実になって見ると、驚きは大きい。ニューヨークの心臓部ともいえるウォルドーフ・アストリア・ホテルの一角に「稲ぎく」がとりついたことは、ニューヨーク子にとって、やはりショックであったに違いない。  この本店は、東京の日本橋にあって、名の知られた天ぷら屋である。  ウォルドーフを傘下におさめるヒルトン・コーポレーションは、新しいテナントを入れるについて日本料理に目をつけた。店の増加が示すように、この町で日本料理は、拡がり、定着しつつある。  ある大衆的な店で隣り合わせたアメリカ人は、ドンブリの飯の上に、山盛りの刻みネギを所望した。そして、丹念に砂糖を振りかけ始める。  私は目を疑った。自分のテーブルに置いてある、彼が手にしたのと同じ容れ物を傾けて、こぼれ出た白い粒子をなめて見ると、たしかに甘い。ひょっとして、彼がかけたのは、塩ではなかったかと思ったのだが。  別のある日、スシ屋のカウンターで斜め前に坐ったアメリカ人の夫婦は、まず、アワビとトリ貝とタコを、つまみで注文して日本酒を酌みかわし、トロと白身を握らせ、最後はマテ茶でしめた。  私には、刻みネギに砂糖の習慣も、生の魚の切り身に熱い茶の好みもない。  日本食を口にするアメリカ人は、邪道から本格まで、種々雑多である。しかし、それが人口に膾炙《かいしや》しはじめていることは否定できない。  日本食料品店が、これまた増えている。そうした店の一つで、本を片手に棚の商品を端から丹念にたしかめ歩いている若い女性を見かけた。  そばに寄って見ると、本は食生活改善のための指導書のようなものであった。低カロリーで、自然食に近い日本の食品が、意外なところで見直されているのである。  そんな“発見”を、以前から懇意にしていた板前の“やっちゃん”に話すと、彼はいった。 「醤油中毒だよ。醤油中毒! 一度これにかかると、やめられないんだな。アメリカ人も同じよ」  彼がいいたいのは、そんな七面倒な理屈からではない、ということらしい。  チェーン店を東海岸から西海岸まで二十二軒に広げ、いまではすっかり有名になってしまった「紅花《べにはな》」が大いにあてた秘訣は何であったのか。幹部の一人にたずねて見たら、やはり同じような答えが返って来た。  彼にいわせると、アメリカ人の食生活から抜くことのできない牛肉に、醤油の味つけを持ち込んだのが、成功のもとなのだそうである。  それに、ここの値段は、英語でいうと、リーズナブル(適正)である。それも、アメリカ人に受け入れられた要素の一つであろう。  面白い現象は、値段の高い店ほど日本人客が多く、安い店にはアメリカ人が目立つということである。  安い店の代表的な一つは、安直なカウンターを設けた「チキテリ」で、ここでは昼食時に、セルフ・サービス方式をとっている。  ホット・ディッシュは、せいぜい三、四種類だが、たとえば、カツ丼などもある。  ランチ・タイムになると、表の通りにまで行列がはみ出す盛況で、そのほとんどがアメリカ人なのである。アメリカ人の経営する店で、こうした風景はまず見られない。  日本料理は、じわじわとではあるが、この国際都市に浸透しつつある。たまたまニューヨーク・タイムズを拡げていたら、「ニューヨークのスシとテンプラ。日本レストランは大繁盛」という特集が目についた。  その中で、ジル・ジャーストン記者は、日本料理が人口に膾炙しはじめた理由を、いくつか挙げている。 “洗練された味覚”の持ち主であるニューヨーク子は、外来の料理を試食するのに熱心であること。  日本料理店の値段は、比較的控え目であること。  増えて来た減量希望者が、肥満につながる西洋料理から、低カロリー、高たんぱくの日本食に向かい始めたこと。  巨大な“日本人ビジネスマン社会”が、彼ら本来の食事を供する日本料理店の得意客になっていること。  ここに挙げられた理由の第二、つまり“控え目な値段”について、私には強い異議があるが、大衆店に関しては、その評価に同意してもよい。  日本料理の愛好家として知られる有名人に、ダスティン・ホフマン、エリア・カザン、ロバート・レッドフォードなどの名前がある。  こうした人たちの来店に、ウエイトレスがサインをねだりに押しかけるのは、困りものではあるが。  候補を物色するヒルトン・コーポレーションは、ニューヨークの日本料理店に口をかける一方で、調査のため人を日本に送り込んだ。  ウォルドーフの西南の角には、東京銀行のパーク・アベニュー支店がある。そして、一階のロビーの裏には、森英恵のブティックが入っている。  もともと、日本とはゆかりがあるのだが、ホテル内に初めての外国料理店を開くにあたって、日本に白羽の矢を立てたのは、やはり“英断”といわなければなるまい。  だが、ウォルドーフ側には、それなりの確信があったようである。 「東京銀行とはお近づきだし、ニューヨークへの日本人ビジネスマンの大量流入を考えるとき、日本料理店を開くというのは、私たちにとって当然のことだった」  というのは、副社長で支配人のユージン・スキャンラン氏である。  ウォルドーフ側の誘いに、五者が名乗りをあげたが、残ったのは、東京・日本橋で百年以上も続く天ぷらの老舗「稲ぎく」であった。  ウォルドーフの店は現地法人になっていて、「稲ぎく」と東京貿易が二十万ドルずつ、トヨタ自販が十万ドルの共同出資になっている。だが、実際上の運営は、「稲ぎく」がまかされているのだそうである。  入口に立つと、頭上は古い城郭のつくりになっていて、白い壁面に菊の紋章が輝いている。何やら、重々しい感じである。  だが、足を一歩踏み入れると、いきなり、中国風の朱塗りの欄干《らんかん》が視界に飛び込んでくる。その小橋を渡って導かれる先は、金ピカの「金閣ルーム」とくるから、神経の安定をとり戻すには、一呼吸、二呼吸を必要とする。  この設計を手がけたのは、中国系アメリカ人のヘンリー・ルックという中堅のデザイナーである。 「ニューヨークの日本レストランはほとんどが日本人対象ですが、うちは客の七割をアメリカ人にしたいという方針でしてね。デザインも、多少、日本人にはバタくさく見えるかも知れないけど、その線でいこうと……」  経営者は、こちらの落ち着かない気分を見通している。  日本人では、本物の日本になってしまう。かといって、アメリカ人では感覚がいかにも遠い。そのあいだを思案が行きつ戻りつして、中国系のアメリカ人が設計に起用された。  メイン・ルームに相当する「金閣」は、調理場をぐるりと取り巻く、天ぷらのカウンターである。  その名で明らかなように、デザインはあの金閣寺にモチーフを得ている。キンキンキラキラとはいえ、寺院のつくりには違いないから、客たちは、本堂で生ぐさ、といったあんばいになる。もっとも、アメリカ人は、精進も生ぐさも、そんなことは知らない。  板前のいでたちはというと、これがまた六角の“寺院”の中にあって、しかつめらしい烏帽子《えぼし》などいただいている。したがって、身にまとうのも、それにふさわしい装束ということになり、その腰のあたりには、小刀よろしく揚げ箸をたばさんでいる。アメリカ人の持つ“サムライ”のイメージに、たぶん合わせているのであろう。  四十九年五月のオープンのときには、板前の一人が古式にのっとった“包丁セレモニー”を実演して見せた。ニューヨークへの赴任が決まって、出発の直前、にわか仕込みで身につけた“四条流”である。だが、アメリカ人には物珍しさが先に立つ。テレビ・カメラもかけつけてきて、結構なパブリシティになった。  この店は、他に「鎌倉」と名づけた武家屋敷風のダイニング・ルームや、「飛騨」という名の民芸風ステーキ・ハウス、さらに個室、バー、カクテルラウンジなどがあって、百七十人の収容能力を持つ。設備に六十万ドルの予定が八十万ドルかかったといい、趣味のよしあしはともかくとして、豪華さの点では、文句なしにニューヨークの日本レストランのNO《ナムバー》1《ワン》である。 「サケティニー」をすすっている初老の紳士がいる。何かと思えば、日本酒がべースのマティニーである。「サケハッタン」は同じ伝で、マンハッタンの日本酒版。「カンパイ」はドライ・シェリーにサケ、「シブイ」はお茶リキュールにドライ・ベルモットだという。エグゾティシズムはここの売り物の一つで、味は二の次なのであろう。  懐石料理が二十二ドル、稲ぎくディナー(吸い物・漬け物・天ぷら・煮物・ビーフ照り焼き・フルーツ)が十七ドルで、ニューヨークのレストランの一流店と、値段は肩を並べる。焼き鳥だけでも三ドル五十セントというのだから。  ランチタイムはいくらか安めだが、それでも「ニューヨーク・ステーキ・ヤキヤキ」が七ドル七十五セント、「フィレ・ミニヨン・ヤキヤキ」だと八ドル五十セントと、よそでのディナー並である。「ヤキヤキ」には、別に意味はない。 「いままでのニューヨークの日本料理屋は、兵隊さんの女郎屋みたいなものだったわけですよ。こちらへ来た人たちが、ともかく日本のものを食べたいというので、味なんか、まあどうでもいい。それらしきものが食べられれば、いちおうよかったんですね。  だが、いまは、日本料理がアメリカ人の中に食い込んで行っている。かつて日本といえば、ソニーであり、ホンダであった。いまは、スシ、天ぷらが、それになりつつあるといっていいんじゃないでしょうか」  とレストラン・チェーンの支配人は、位置づけて見せた。  アメリカの中の“日本人村”は、ホノルルのキャバレー街にしても、ロサンジェルスのリトル・トウキョウにしても、ある種のうらさびしさがつきまとう。  ニューヨークにおける日本人社会の、“村”から“市”への昇格、“一膳飯屋《いちぜんめしや》”から“高級レストラン”への脱皮は、とりも直さず、日本の経済的地位の向上と表裏なのであろう。 第三章  アメリカ人と日本人の商売感覚  ハリー・ゴチョウ氏は、赤いシャツに紺のブレザーを着て、“ナウ”とでもいうのか、原色がまだらに入り混じった幅広のネクタイをしめている。足元はと見ると、若者好みのブーツをはいていて、ロング・ヘアの前髪を額に垂らしたところなど、とても五十男には見えない。  私は、ビジネスのために、三十八歳で通しているんですよ。  日本では年とっている方がいいけど、こっちでは年とるとだめですからね。  上場会社で、二十代の社長がいくらも出てきている。三十代となると、大変に多いんです。資本と経営の分離が進んでましてね。若さがないとだめだという傾向に、社会全体がなっているんです。  これは私の実感なんですが、ニューヨークに十年いると、三年は余計に寿命が縮む。アメリカ全土、というよりは、世界中から優秀な人材が、ここへは集まってきていますから。  それだけに、競争が激しい。年寄りだと、どうしてもついて行けません。ニューヨークでは、若くないといけないんです。日本のようなシニオリティ(古参権)が通じない社会なんですよ。  クイーンズに「ハリー・ゴチョウ・エンタプライズ」という日本製デジタル時計のアメリカにおける総代理店を開いて、三年目になる。社員が二十人足らずで、使っているセールスマンが百人ほど。いま、年商四百万ドルを目指していて、私がたずねても笑って年齢をいわないゴチョウ氏は、ビジネスの第一線にいる。  そう、ビジネスといえば、夜の女も大変らしいですよ。ウォルドーフの裏のレキシントン・アベニュー。あそこに、女が立っているでしょう。  ひと昔前なら、「あなたさびしくない?」とか、「お供にいかが?」とか、遠回しにいったものですが、いまはいきなり、「アイム・ア・プロスティテュート(私は売春婦よ)」と、こうですからね。  ふつうなら、「ノー・サンキュー」で通り過ぎるんだが、そこまでビジネス・ライクにいわれると、つい反射的に「ハウ・マッチ」と出ちゃう。私もビジネスマンですから。  彼女のいわく——「三十八ドル」だっていうんです。 「随分、半端じゃないか」ってきいたら、返事がふるってましてね。 「本当は四十ドルなんだけど、このごろは不景気で、素人が同じようなことをするから、競争が激しいのよ。だから五パーセントだけディスカウントしたの」  と、こうなんですよ。  ビジネス・イズ・ビジネスというのは、欧米人の思考を貫く合理性の、一つのあらわれであって、夜の商売といえども、それは例外ではない。  よくいわれることだが、世界中の“夜”の相場を釣り上げているのは、日本人である。ついつい、うれしくなって、相手の言い値にこちらから上のせしてしまう。アメリカ人は、ビジネスで“うれしく”なることはない。  日本にバイヤーが来ると、折角《せつかく》来たんだから接待してやろうとか、はるばる来たんだから今回は儲からないけど安くしてやろうとか、とかく“義理”“人情”がからむ。そういうふうに、非合理性を尊ぶのが日本人なんですね。  ことわざでもいうじゃありませんか。「急がば回れ」、「損して得とれ」、「負けるが勝ち」、「腹は減ってもひもじゅうない」……。  ひどいのになると「死んでも生命がありますように」なんていうのがある。  そういうのは、こちらでは通用しません。「急がば急げ」、「損したら損」、「負けたら負け」、「腹が減ったらひもじい」、「死んだら生命がない」。  割り切った方が、アメリカでは尊敬される。日本人は、そこのところがわからないから、取引でもめるんです。  日本的商法の一つのパターンは、まず値段を高くいってみて、相手のハラを読みながら、しだいに下げて行く。俗にいう“かけひき”がこれだが、アメリカ人に不信感を植えつけかねない。  彼らにだって、かけひきがないわけではない。だが、その性質は、根本のところで違う。  もっともポピュラーなのが、支払い条件です。たとえば、2・10・EOMというのがあります。  EOMですか? END・OF・MONTH(月末)の略なんですよ。つまり、2・10・EOMというのは、月末にしめて、三十日以内の支払いだとネットだけども、次の月の十日までに払えば二パーセント引き、というやつでしてね。非常にはっきりしている。  その他に、千台だとこれこれだが、一万台まとまればいくらいくら、といったような、そういうのはあります。それに、引き渡しの期日ですね。  彼らは、支払い方法と、ボリュームと、デリバリーの三つを組み合わせてやってくる。勘定高いというか、インセンシティブというか、資本主義に徹しているんです。  これが日本人だと、そうはいかない。「あなたのお父さんと、私のオヤジは、よく知っていたんですよ」などということにでもなれば、「そうですか。それじゃ今度は、勉強させていただきましょう」と、すぐにこれでしょう。勉強なんて言葉、どうにも翻訳のしようがないじゃありませんか。  ニューヨークから日本を見ていて、ゴチョウ氏の気にかかるのは、企業の“温情主義”だという。  年の暮れを前にして、彼の会社で働いていた日本青年が、アメリカ人経営のディスカウント・デパートメントのセールスマンとして引き抜かれた。  ところが、そのデパートの書き入れどきであるクリスマスが済んで、数日たった金曜日の朝、出勤して来た同僚の一人は、その週の分の小切手を受け取ったその場で、「もうこなくていい」とクビを言い渡された。  それが皮切りで、金曜日のたびごとに、セールスマンがクビになって行く。それも、成績の上がらない順にである。  十人いた仲間の六人目が消えた日、たまりかねた彼は、ゴチョウ氏のところへかけこんだ。順番からいって、次の金曜日に彼のクビの飛ぶことが、ほぼ確実になったからである。  便所掃除でもいいから、といいましたけど、私は断りました。  こちらでは、金曜日の夕方に「ハブ・ア・ナイス・ウイークエンド(いい週末を)」と挨拶するでしょう。そしたらボスは「シー・ユー・マンデー(月曜日にまた)」といいますね。これで、彼は来週も働けるという保証が得られたことになります。  金曜日の朝、地下鉄に乗っているサラリーマンで、「今日出て行ったら、チェックを渡されてそれきりじゃないか」という不安を持っていないのは、一人もいないんじゃないですか。  東京へ帰るたびに、スシ詰めの電車で思うんですが、スポーツ紙かなんか拡げていて、みんな天下泰平の顔をしている。逆に東京あたりでは、自分のクビを心配している人間は一人もいないんじゃないかと、そんな気がしますね。  ゴチョウ氏に会ったころはそれほどでもなかったが、このところ日本も不況で、倒産は少なからざる人々にとって、他人事ではなくなって来ている。  経営難の企業では、希望退職者をつのったり、一時帰休を言い渡したりで、急場をしのごうとしているが、倒産のぎりぎりまで、解雇はしたがらない。  だが、アメリカでは、業績が悪化したら首切りというのが常識であり、そのためにサラリーマンは、ふだんから貯蓄をしている。  業績がよかろうが、わるかろうが、季節がくれば毎年賃上げなどという結構な会社は、それこそただの一社もない。  日本の企業の大家族主義は、これまでの順調な環境では、大いに力を発揮して来た。これは認めてもよいと思います。  しかし、世界的不況の中で、日本の品物が売れなくなってくると、そこからくる温情主義が日本をあやうくしやしないかと、本当に心配なんですよ。  労使の団体交渉というのも、結局は同業他社の“横にらみ”でしょう。一社が相場をつくると、残った各社が十分以内でバタバタ妥結する。これが、そのあらわれですよね。  私の杞憂《きゆう》ならそれでもいいんですが、三十二パーセント(昭和四十九年春)なんていう賃上げを見ていると、世界的不況を正しくにらんでいないんじゃないかと、大変気にかかりましてね。しかも、年に二十三パーセントとか、二十四パーセントとかといったインフレでしょう。  当然、これがコストをプッシュして、日本製品の国際競争力を弱めている。  カメラでいうと、ドイツのライカとかコンタックスとの競争はとっくの昔にカタがついて、日本製品同士の争いになっているんですが、こう値段が高くなってくると、他の商品とのかね合いが出てきて、売れ行きが伸びないんです。  いいものは、そりゃいいに違いないが、安いカメラでも、うつることはうつる。というんで、コダックなんかが、伸びることになる……。  ある意識調査によると、アメリカ人が、高級カメラを買う決心をして、実際にそれを手にするまで、平均八ヵ月かかっている。商品の値がかさむほど、衝動買いは少ない。それぞれが、自分の収入に応じて、購入の計画をたて、貯金をするなどして、目標に達したところでやっと腰を上げる。  これはまだ、一台が三百ドル、四百ドルのころの話ですからね。いまのように、五百ドル、六百ドルとなると、アメリカ人は一年間考えるんじゃないですか。ということは、一年間、日本のカメラは一台も売れなくなる理屈です。  日本のカメラがすぐれていることはたしかですが、高いことも高い。それは、競争が日本のメーカーのあいだだけで行われて来た結果なんです。どうしても、値上げに鈍感になりますから。昔は、一台が百ドルくらいのものでしたよ。  カメラに五百ドルも六百ドルもかけるくらいなら、他の商品にその分を回した方がいい。家具だとか、そういったものにね。そう考えるのは、むしろ自然なんじゃないですか。  それでカメラは売れない。同業の“横にらみ”で賃上げにイージーだと、そうなるんです。これからは、労使ともに、もっと“国際的横にらみ”がありませんとね。  日本の高度経済成長の秘密は、端的にいうと、いい品物を安く輸出できたところにある。いい品物が高いのは、当たり前のことだが、そうなって来ているいま、日本経済を取り巻く環境は、かつてと同じではない。  五番街を歩いていて、ウインドウの中のカラー・テレビが目についた。日本製品とアメリカの国産品を見くらべると、デザインといい、ブラウン管の色調といい、明らかに日本のものがすぐれている。そして、値段も、こちらの方が、上なのである。  アメリカ人のだれにきいても、たとえば、ソニーがいいというに違いない。だが、経済的に余裕のない人は、ソニーに心を残しながら、ジーニスを選ばざるを得ないだろう。なぜなら、それがソニーより安いからである。  ゴチョウ氏は、昭和三十三年に、ヤシカの輸出課長をしていて、単身、ニューヨークに乗り込んだ。そのころのヤシカといえば、長野県の上諏訪にあって、社員が二百五十人ほどの、地方の小企業であった。彼は牛山善政前社長と同郷のよしみで、英語力をかわれてヤシカに入ったのだが、輸出課長とは名ばかりで、課員は一人もいない。そういう時代であった。  新婚半年目の妻を置いて、ボストンバッグにヤシカ・フレックスA型のサンプル六台をつめ、マンハッタンにはいったゴチョウ氏は、五番街三十四丁目のカメラセンターに机一つを借り受け、カメラの業界紙を訪ねて、取引先を紹介してもらうことから始めたのである。そのとき、アメリカで、ヤシカはただの一台も出ていない。  先発のニコン、キヤノン、ミノルタを抜いて、ヤシカが対米輸出第一位に躍り出たのは、三年目からである。この地位は、十五年目まで続いた。最盛期には、年間千二百万ドルを売り上げた。ヤシカは大衆カメラが主力であったから、単純に一台の輸出価格を三十ドルとすれば、年間四十万台を売ったことになる。ともあれ、ゴチョウ氏の名は“ヤシカを売りまくった男”として、アメリカで広く知られている。  あのころは、ニューヨークに来ている日本からの駐在員は、二百五十人くらいのものでしたね。  私たちの生活なんていうものは、話にもならない。恥かしいことですが、そこいらに食事にはいって、立つときに置くチップがなかったものです。何しろ、月の滞在費が三百七十ドルでしたから。  いま、大手では、駐在員に千五百ドルも千六百ドルも出しているでしょう。物価も上がってはいるけど、ユメのような話です。  昔、私たちは、最低のところにいた。あるとき、カメラ会社の駐在員仲間のアパートに行ったら、コーヒーをいれてくれたのはいいんですが、コーヒー・カップがなくて、ピーナッツの空缶が代用なんです。そいつを口に持って来たが、熱くて飲めたものじゃない。  そうした駐在員暮らしをしていて、私を支えていたのは、そういっちゃなんだが、カメラ一台売れば、それでいくらかのコメが買えるという生甲斐《いきがい》だけだった。日本が、それで生きて行けるではないかと。  久しぶりにニューヨークを訪ねて、私はそこに“銀座”の存在を知った。私が住んでいたときにはなかったホステス付きの“高級クラブ”が、三軒も出来ていたのである。  考えてみると、来るべきものが来たということでしかないのかも知れない。  ニューヨークの日本人社会は、いつも感じるのだが、日本そのものの縮図ないしはミニアチュアである。 “高級クラブ”は、高度経済成長の陰の産物である。東京にあってニューヨークの“日本人村”にないことの方が、むしろ不自然だったといえよう。  どこで、だれが始めたものか。いまでは日本の各都市の“高級クラブ”に定着した一つの“作法”が、ここでも当然のことのように行われている。客の注文をきくボーイは、ジュウタンに片膝をつくという、あの卑屈な“作法”が。  もしそれが、アメリカ人社会で行われるとしたら、周囲に奇異な感じを与えずにはおかないであろう。不自然に映らないのは、そこが“日本”だからである。  業としてのホステスが客席に侍ることは、法で許されていない。そこで経営者は、店をメンバー制のクラブという建前《たてまえ》にして、ホステスにもメンバーのカードを渡すなど、法を潜るのに懸命である。彼女らは、客席にあるとき、ハンドバッグを手元からはなさない。それが客であることの証明になるだろうという、経営者の浅知恵がそうさせている。  その昔、日本帝国主義が大陸に伸長したとき、軍部は前線の将兵のために慰安所を設けた。  ニューヨークの“銀座”を、それと同じだというつもりはない。軍服をビジネス・スーツに着替え、鉄砲をコンピューターに持ちかえた日本経済の“尖兵”たちは、熾烈《しれつ》な商戦の合間を縫って、疲れた神経をここでいやす。  もっとも高級だといわれているクラブでは、一人あたま百ドルの勘定を覚悟しなければならない。その金は、彼ら自身が稼ぎ出したものである。文句をいわれる筋合いはないのだろうが、ピーナッツの空缶でコーヒーをすすった先人たちの暮らしぶりとくらべるとき、私には、何かが間違っているように思われる。  ドリフターズの「いい湯だな」が流行《は や》っていたころだというから何年前になるのだろう。連絡のため一時帰国したゴチョウ氏は、そこに、日本のあぶなさを直感したという。 「いい湯だな。ハハハッハ」で、一億みんなが頭に手拭いをのせて、うかれている感じでしたね。世界中どこに行っても、そんな国はありません。  日本は経済大国だといわれて、初めは信じなかったけれども、何度もいわれているうちに、その気になってしまったんじゃないでしょうか。  日本にあるのは、大八洲《おおやしま》。八つの島だけなんです。土地が高いといっても、それは国内だけのことで、そこから金が出るわけじゃなし、土を缶に詰めて、輸出をするわけにもいかないでしょう。  あるのは、日本人の頭脳と、勤勉さと、バイタリティ、これだけなんですね。だからこそ、日本人は、付加価値の高い精密機械などの輸出に、活路を見つけたのじゃありませんか。  たしかにこれまでは、カメラ、エレクトロニクス、テープレコーダー、カラーテレビ、造船、自動車……と、経済成長の過程でパイロットの役目を果たす“目玉商品”が、次々に出て来ました。ところがいまは、一つもないんです。円はどんどん下がる一方ですしね。  日本列島の中に、二千年来一つの人種が住んでいて、同じ言葉を喋っていれば、いい加減、仲良くもなります。それだけに、国際的な免疫性がない。物をつくれば売れるものだ、賃金は毎年上がるものだ、といった考え方では、絶対に世界で太刀打ちできません。  小さな釣り堀の中に、エサが入ってこなくなったらどうなるのか。結論は見えています。そんな“ジャイアント”は、ないんですよ。私は日本人がもう一度、戦後の焼け野原に戻ったつもりになって、ガシンショウタン(臥薪嘗胆)に徹しないと、えらいことになると思うんですが。  ゴチョウ氏は、七年ほど前、本社に呼び戻されて、国内担当常務のポストについたが、二年あまりいてヤシカを去った。そして、古巣のニューヨークで、自力による旗揚げをしたのである。退社のわけを、彼は語りたがらない。ただ、こういう話はきかせてくれた。  友人とよく話すんですが、日本社会は虚構の世界なんですね。歌舞伎の女形は、男だと思ってはいけない。黒子《くろこ》がいても、それを見てはいけない。定められたルールに従って、虚構を楽しんでいるんです。  見ちゃいけないんだ、喋ってはいけないんだ、ということに慣れてしまって、インビジブルな(見えない)手でがんじがらめにされていることに、お互い気がつかないんじゃないでしょうか。  別の言い方をすれば、盆栽社会だともいえそうです。人間がギリギリにしばられて、型にはめられている。主人の意思からはみ出して伸びたら、すぐに切られるんですね。  資本主義の世界は、ユダヤ人の「目には目を。歯には歯を」じゃないけど、割り切って行かないと大変に難しい。日本の企業の大家族主義というのも、語弊《ごへい》はあるけど、独占資本主義の段階に全体が達していないあらわれだと思うんです。  ニューヨークでの挨拶は、「ウワッ、ヌー(何か面白いことないかね)」である。ここの社会は停滞を許さない。ポルノ映画だって、まずやって見て、つまらなければ、忘れ去る。絵画にしても、舞踊にしても、音楽にしても、世界における新しい動きの中心はいまやニューヨークである。  先人がやったことを打破しないかぎり、ここでは生きられない。  私の眼にも日本の大企業というのは、幕藩体制がかたまったのちの雄藩のように映る。装いを近代企業に改めはしたが、この百年、日本社会を成り立たせている精神構造は、少しもかわっていないのではないか——。 第四章  “バンコー”ホテルの日本青年たち  四十九丁目の六番街(アメリカ街)と七番街の中ほどに、バンコートランドという名の古ぼけたホテルがある。  このホテルの建つあたりは、俗にミッドタウンと呼ばれていて、ほぼマンハッタンの中央に位置するのだが、一角だけが時代に取り残されてしまった。  ことに、その筋向かいをロックフェラー財閥が買収して、超近代的なエクソン・ビルに建てかえてからというもの、バンコートランドの“老醜《ろうしゆう》”は、ひときわ人目につくのである。  新しい宿泊客は、その内部に足を踏み入れたとたん、名状しがたい臭気に押し戻されそうになる自分と戦わなければならない。  十四階建てのビル全体に漂うこのにおいは、いったい何によってかもし出されているのだろう。  一世紀に近く、この宿に仮寝の夢を結んでは去って行った、おそらくは数十万にのぼるであろう旅人の、人生の垢といったものが、すり切れたロビーのジュウタンに降り積もり、染《し》みだらけの廊下の壁紙にはりついている。そして、彼の進める一歩ごとに、それが微粒子のように舞い上がる。そんな感じのにおいなのである。  あるいは、これこそ、ニューヨークの体臭なのかも知れない。  得意と落胆、成功と挫折、巨富と極貧といった、あまりにも対照的なことどもをない混ぜにして、機会をうかがう世界の若者たちに妖しい誘いを送る、この猥雑《わいざつ》でしかし魅惑的な大都会の。  バンコートランドは、彼らがチャンスをつかむかどうかはともかく、地球の隅々から摩天楼を目指してやってくる若き冒険者たちを、底辺に近くとりとめている、安宿の一つである。  その正面を出て、西へ二ブロックたどれば、ブロードウェイの華やかなネオンにぶつかることができる。だが、アルコール中毒の街娼であり、麻薬シンジケートの使い走りであり、場末のミュジシャンであり、レストランで客の食い散らかした皿を下げるバスボーイであり、香具師《や   し》の呼び込みである滞在客たちは、この都会で脚光を浴びるには、はるか遠い。彼らは、まだ、ここの客室のかなりの部分を占める、年老いた年金生活者たちの上に、自分の将来を見てはいないが。  このホテルに日本の若者たちが住みつき始めて久しい。その中の一人は、こう話す。 「ロンドンにYTB(YOUTH・TRAVEL・BUREAU)といって、アメリカのYMCAみたいな宿泊設備があるんですが、日本人のヒッピーのあいだで、これと、バンコートランドが有名なんです。ぼくたちは、“バンコー”って呼んでますけど。  その“バンコー”へ行けば何とかなるというんで、ニューヨークへ着いた連中は、ケネディ空港から真っすぐ、ここへやってくるんです」  彼らは心得ていて、決してフロントを通さない。スーツケースをさげて、入口に立つのである。ものの五分としないうちに、必ず日本人滞在客の出入りにぶつかる。あとは、その“先住者”と直接取引で話を決める。 「ここは一部屋が月決めで、百二十ドルから百五十ドルなんですが、みんな四人で住んでいます。  ベッドが各部屋に二つずつ入っているんですよ。こちらのマットレスは厚いでしょ。そいつをベッドからはがして、フロアに並べれば、四人分の寝床が出来るというわけです。  メイドなんか、日本人の部屋には入ってきません。掃除をしないから、ていのいいブタ小屋みたいなもので……。でも、四人で頭割りにすれば、月に三、四十ドルですからね。  ホテルのオヤジだって、知ってはいるんだけど、日本人は払いがきちんきちんとしているから、別に文句もいいませんよ」  バンコートランドの並びに、簡単なイタリア料理を食べさせる店がある。ここのでぶっちょの主《あるじ》が得意客の日本人を呼ぶときは、だれかれの区別なく、「ミスター・トウキョウ」である。常時五十人を下らない日本人宿泊客の名前を、いちいち憶えることはできない。  彼らの働き口は、全部が全部といってよいほど、日本料理店である。 「だれにでも簡単にできるのが皿洗いですね。朝の十時から真夜中の十二時ごろまで、立ったままの仕事だから、かなり重労働ですよ。午後の三時から五時まで、休憩がありますが、従業員用のタタミの部屋で、バタンと寝ている。でも、週に百ドルから百五十ドルには確実になりますから、やはり魅力なんだな」  とくに稼ぎになるのが、ニューヨークの冬場なのだそうである。鍋物で熱燗《あつかん》といった“日本民族の血”が騒いで、売り上げが伸びる。それにつれて、従業員のチップも増えるのである。  世界をうろついている日本の“無目的人間”たちは、冬になるとニューヨークへ流れてくる。彼らの目標は、一ヵ月に四百ドル見当を貯めることだという。そして、翌春までに二千ドル程度のまとまったものをつかむと、ヨーロッパなり中南米なり、自分の気の向く土地へと去って行く。  金を貯めるという点では、日本料理店は恰好の働き場である。何より、商売が商売だから、食費がかからない。そこいらの物を口に入れていれば、三食分を浮かすことができる。  日本語だけで勤まるというのも、彼らにとっては好都合である。  しっかりした目的を持ち、そこへ到達するために欠かすことのできない手段である言葉を身につけてから国を出るなどという殊勝な若者は、きわめてまれである。  私は日本料理店の裏方として働く若者を数多く知っているが、彼らは概して学歴が低く、英語で事足りるのには、ついぞ会わなかった。かといって、何か特殊な技能を持っているわけでもない。  たとえはわるいのだが、彼らは残飯にたかるゴキブリのような存在である。近年の日本料理店の盛況は、毛の先ほどの意志も、かけらほどの取り柄も持ち合わせない日本青年に、温床を与えた。文字通り豊富な残飯にありついて、彼らは、生物学的にはきわめて健康である。そして、その数は、増える一方なのである。  裏からいうと、ニューヨークの日本レストラン業界は、彼らを失っては商売が成り立たない。経営者たちにとって彼らは、安価で気心の知れた労働力であり、それを土台として、今日の繁盛を築き上げた。  だが、法的にいうと彼らは一人残らず観光客であって、アメリカ国内で労働による報酬を得ることは禁止されている。  たとえば、ヨーロッパにいるフーテンがアメリカに入国しようとする場合、その土地のアメリカ大使館で査証を受けるのだが、これには往復切符の提示を求められる。一番安いのは、アイスランディック航空の割引券だそうで、これを買ってニューヨークへ入ると、すぐ半券を売るのだそうである。  その取引値は、百二十ドル前後で、これだと正規の料金のほぼ半額である。フーテンは絶えず移動しているから、それこそバンコートランドにでも泊まっていれば、買い手には事欠かない。  売買が成立すると、航空券に名前を書き込まれている本人が、買い手と同道して空港まで行き、自分のパスポートでチェック・インを済ます。そこで渡されるボーディング・カード(搭乗券)には、だれの名前も書いてない。  そこから先、出国手続きという関門があるが、パスポートとボーディング・カードさえ持っていればフリーパスのようなものだから、買い手が咎《とが》められる気遣いは無用である。  こうした“不法”は、彼らの生活の知恵が編み出したものだが、そのありようはアメリカ社会にとっての不良外人ではないのか。 「そんなこと、ぼくには、ナンセンスだね。だって、そうでしょう。アメリカのイミグレ(移民局)がぼくたちをつかまえる気になったら、わけのないことなんですよ。それをつかまえない。なぜだと思いますか。  アメリカの社会が、ぼくたちを必要としているからじゃないんですか。気になんかすることはないんだ。  ぼくたちが邪魔になったら、そのときはつかまえにくるでしょうよ。そのときになって、どうすればいいかを考えたらいい。単純な理屈じゃないですか」  大学を出ているという若者は、私の呈した疑問に、侮蔑の色さえ浮かべてそう答えた。  だが、私には気にかかることがある。気ままな彼らは、恣意《しい》的な自分たちの滞在のために、アメリカ人が二百年をかけて築いて来た社会のルールを無視して、恥じるどころか、ひけ目さえも感じていない。日本はいまや、ソニー、ホンダにかわって、“八流”の人間の輸出国になろうとしているのではないか。  日本レストランは移民局の目のつけるところとなって、頻繁に手入れを受けている。ある店は、係官に急襲されて、そこで働く不法滞在者はロッカーに身をひそめたり、手洗いの天井の板をはずして隠れたりしたが、大量の検挙者を出し、人手不足のため昼間の営業を中止したことがあった。  別の店では、三人に手錠がかけられた。彼らの住まいはバンコートランドで、係官が身許確認のため三人を連行してホテルへ回ると、ロビーに日本人の姿が目立つ。これを見た係官は、三人の手錠をはずして釈放し、改めてホテルを包囲した。このとき、居合わせた三十数人の不法滞在者が一網打尽になったという話である。  このようにして強制送還されても、ふたたびニューヨークへ戻ってくる連中が跡を絶たない。  バンコートランドで会った大阪出身のK君(二十六歳)は、国立大学を中退して、もう五年も世界をうろついている。  四十八年二月、アラスカのカニ工場で働いていてつかまり、任意国外退去の機会を与えられた。一旦、日本へ帰ったK君は、ほどなくパリへ飛び、ここのアメリカ大使館で査証を受けて、四十九年の七月にニューヨークへ戻った。許された滞在期限は二ヵ月で、私が会ったのは十月だったから、すでにオーバー・ステイである。  それにしても、一度、国外退去の処分にあったK君の再入国が、どのようにして可能だったのだろうか——。  彼は、こともなげにいう。 「別のパスポートをパリで出したんですよ。五年も、六年も海外にいるぼくらのようなものは、ほとんど、二冊か三冊かのパスポートを持っていますから。ぼくですか? いま三冊です」  彼らは、手近な日本大使館で、紛失を理由に、パスポートの再交付を受けるのだという。 「大使館でも、うすうす事情はわかっているんやろと思いますよ。『おお、来た来た。また新顔が来た』なんて、こっちの顔を見ながらいうてますから」  これら“不良外人”は、どういうものか、日本に帰りたがらない。彼らにとって、ニューヨークというのは、どういう都会なのだろうか。  ピアノ・バーの薄暗がりでたまたま隣り合った、寿司屋の経営者だと名乗る中年男性は、問わず語りに、こんな話をした。 「ニューヨークには、まだ平等にチャンスがあります。日本は、あまりにも、うるさすぎると思いますよ。学閥とか、系列とか」 「八月(四十九年)に帰国したんですが、ニューヨークがこわいというけど、日本の方がよっぽどこわい。三菱重工の爆破だなんて、冗談じゃない。こっちに、あんな事件はないもの。火事があり、あれば大勢が焼け死ぬ。上から物は降る。列車はひっくりかえる。それが日本でしょ」 「こっちのジャーナリストは、本当のことを伝える。日本のジャーナリズムはセンシティブというか、何でもかんでも誇張して書く。すぐに、政府の怠慢だとか、感情的なんだな」 「国の広さっていうこと、つくづく考えますよ。だって、ワシントン・ブリッジを渡ればもう原生林で、『シカに注意』の標識が出ているんだもの。日本の国電のラッシュを見たら、会社に着いてよく気違いにならないなと思うものね」  七年前、失業中の彼は一日一ドルの暮らしをしていた。そうした夏の夜、たった一つ手許に残った愛用のアコーデオンを抱えて、七十九丁目リバーサイドのヨット・ベースの岸壁に立った彼は、ラ・クンパルシータをひいた。それをききつけたスパニッシュ系の人が、彼を自宅に招き入れ、酒を振る舞い、帰りに、一ドル紙幣一枚を握らせてくれた。 「私は、それを潔《いさぎよ》しとはしなかったが、生まれて初めて“流し”をやったんだ、いざとなれば、これでも食っていけるんだ、と思ったら……」  それから一年。間口一間ほどの「桜茶屋」を開いて、まったく経験のないスシを握り始めた。そこへ、日本からの高名の碁打ちがやってきた。注文の品を握る彼の手つきを一目見て、碁打ちはいった。 「ああ、旦那芸ですね。いや、一生懸命やっておられるのはわかる。それが味です」  それから五年。WABC・TVの「AM NEWYORK」というワイドショウに、出演の機会がきた。インタビューアは、スシを握る彼に、その経験年数をたずねた。彼は「二十年」と答えた。  これが呼び水となって、彼はニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・マガジンで紹介されたりもした。町を歩いていて、見ず知らずの人に声をかけられたりする。  自分の過去を、彼は語ろうとしない。予科練帰りであること。三十九年の九月二十一日の金曜日に、二歳十ヵ月の一粒種を小児ガンでなくしたこと。その十二回目の命日に、フルトン市場に魚の買い出しに出かけ、ピストル強盗に有り金を強奪されたこと——以外は。そしていま、彼は、素朴なチャンスの信奉者である。  別のある夜、バーのカウンターで隣り合わせた青年は、こんなふうに話しかけてきた。 「私はリムジンの運転手をしています。他人は軽蔑するかも知れない。いいえ、たぶん軽蔑するに違いないんです。軽蔑したい奴には、させておけばいいじゃありませんか。そういう奴らに、ぼくの心まで支配することはできない。ニューヨークには、チャンスがある。そして、ぼくには若さがある。それが、いまいえることのすべてです」  彼は東京の一流大学を卒業して、大手の広告代理店に入ったが、上司と衝突して、三年ばかりで辞表を出し、ニューヨークへやって来た。  紹介する人があって、日本総領事館の現地雇いになったが、ここもほどなく辞めて、やはり総領事館の現地雇いであった日本人が経営を始めた小さなリムジン・サービス会社に勤めている。  この会社の仕事は、総領事館や大手商社、メーカーの出先から注文を受け、キャディラックで、日本からの賓客の足をつとめることである。  いく度か同じカウンターで顔を合わせるうち、すっかり打ちとけて来たこの青年は、私に盛んに訴えるようになった。そのいちいちを詳述する気はないが、まとめていうと、アメリカには自由があり、日本には自由がないということになる。  深刻な問題をいくつも抱えながら、しかしアメリカ社会はいぜんとして偉大である。その認識に私もかわりはない。  しかし、青年は、日本の延長である“日本人村”のおこぼれでだけ生活を成り立たせていて、アメリカ社会に積極的に寄与するところはなく、その“高み”から物をいっているのではないか。  彼は、日本の不自由をいい立て、アメリカの自由を讃美する。 “日本人村”の底辺を形づくっている若者たちの自由は、移民局の目をのがれながら皿を洗う“自由”に集約される程度のものではないのか。  彼らが日本を捨てるのなら、それも致し方ない。だが、アメリカに生きる以上、そこのイリーガルな存在となって、よりよい社会を築こうとまっとうな努力を続けている市民たちの、重荷になってはいけない。彼らもまた、その土地に“黄金《くがね》の釘”一本でも打つような人間であって欲しい。  私が滞在中、バンコートランドの裏庭で、日本青年が死体となって発見された。同宿者の話では、彼はその一ヵ月前に、マリファナを詰め込んだ三十センチ四方ほどの布袋を抱えて、メキシコからやって来たのだという。  お定まりで、四十五丁目・ブロードウェイのスシ屋でウェイターとして働いていたが、ホテルへ帰ると「疲れた」を連発していた。  彼の楽しみは、三百ドルで買ったステレオにレコードをかけ、マリファナをすいながらきき入ることであった。  やがて彼は、LSDに手を染めたようである。ある朝、もぬけのからとなった彼のベッドに、くっきりと、失禁の跡が残されていた。  彼の不在をあやしむものは一人もなく、日曜日にあたっていた二日後に、偶然、隣室のレストラン従業員が、非常階段の真下に叩きつけられている彼を見つけたのである。  身許を確認しようとする警官に、日本人の同宿者は、すべて「I don't know」を繰り返した。彼らは、災いが自身に及ぶことをおそれたからである。  新聞の片隅にも、彼の死はのらなかった。“機会”にははるかに遠く、彼はそれこそ“無名”のままに逝《い》ったのである。 第五章  香具師《や   し》になった日本の若者  バンコートランド・ホテルの一室で眠っていた日本料理店の従業員は、その夜、といっても未明に近く、枕もとを歩く人の気配で目ざめかけたが、ふたたび眠りに落ちた。彼は、同宿者のだれかが帰ってきたのだろう、としか思わなかったからである。  だが、彼を含めた一室の四人は、どの道、目ざめないわけにはいかなかった。枕もとの人物は、ピストルを手にした闖入者《ちんにゆうしや》であり、彼の目的は、四人がその夜、勤め先で受け取ったばかりの、一週間分の給料を奪うことにあったからである。  届け出を受けた地区の警察は、四人がときに客になるピアノ・バーの、日本人のママを呼んだ。この被害者たちは、一週間の労働が無駄働きに終わることになった当夜の状況を、だれも英語で再現できない。ママは、彼らのための、代弁者であった。 「女が手引きしたらしいのよ。あの人たちは否定してたけど、ときどき、街の女をひっぱり込んでたんじゃないの。それでもなければ、給料が出た日をねらって、タイミングよく強盗に入るなんて、考えられないじゃないですか」  と彼女は明かす。  ニューヨークのホテル滞在客の中で、たぶん最下層に属するだろう、東洋からの低賃金労働者たちが、強盗事件の主役にではなく、その被害者にもなりうる。この都会には、いろいろな意味で“チャンス”が満ち満ちているということであろうか。  バンコートランドの滞在客に加わって日も浅く、T君が一つのチャンスに恵まれたのは、ダウン・タウンのリトル・イタリーの祭りの夜であった。  このイタリア系アメリカ人の居住区は、通りを一つ隔ててチャイナタウンと接し、しかし、町の活況という点では、対比的なさびれようを呈している。  この地区で深夜まで賑わいを見せているのは、本場並のエスプレッソを飲ませるというので名高い「フェラーラ」くらいのものであろう。  だが、ここを訪れる日本人は少ない。一つには、陽気で話好きなイタリア系市民の憩いの場に、明らかに毛色のかわった人種は、いかにも場違いだということがある。  それを押して入って行けば、拒絶的ではないにしても、決して歓迎的とはいえない多くの視線に、わが身をさらさなければならない。  心なしか、注文をとるウェイターの、それが別のどこかであれば気にもならない物腰に、凄味が感じられる。そこで、彼は、マフィアという暗黒組織を想い起こし、その末端にウェイターをこっそり配してみて、神妙に控えることになるだろう。  このリトル・イタリーには、ボスの何某が射殺された街路とか、某親分が襲撃されたリストランテとかといったように、映画でなじみの“名所”がいくつかあって、それらが人々の恐怖心を呼びさまし、外部からの客足を遠ざけている面がないとはいえない。  だが、犯罪都市の異名をとったニューヨークの中で、ここは、もっとも安全な地区の一つなのである。名にし負うシンジケートが根を張っているから、偶発的な犯罪はかえって起こりにくい。  チャイナタウンで飽食した帰り道、濃いエスプレッソが懐しくなって、久しぶりに「フェラーラ」に寄った。  満足して出てくると、同行者の車のバッテリーが上がってしまっていて、エンジンがかからない。  そのわきを通りかかった、一台の車がある。運転していたのは初老の、見るからに紳士で、助手席にその息子らしい若者がいた。  紳士は車をとめ、事情をきくと、先へ行ってUターンし、自分の車のハナをこちらのハナにつけると、息子ともども降りて来て、二つの車のバッテリーをつないでくれた。  そういう親切心にもめぐり会うことができるのが、リトル・イタリーである。くだんの紳士がシンジケートの一員だとしたら……。いや、そこまで妄想を広げることはない。  このところ、夜に入ると街路をまたぐイルミネーションで町を飾り立て、暗黒街のイメージの払拭に地域ぐるみ乗り出しているが、その異常な明るさが、かえって、人通りの絶えた一帯のうそ寒さを引き立てるかのようである。  リトル・イタリーが、文句なしの賑わいを見せるのは、九月の三週から四週にかけて行われる、祭りの時期である。  大通りを、各種の見世物小屋と、食べ物の屋台が埋めつくす。寄席芸人のための仮設ステージも組まれる。  その雰囲気を想像するには、日本の縁日を頭の中で描いてみるのがよい。もちろん、ちょっとした違いはある。  たとえば、水をはったタライを置き、その中に空瓶をタテに沈めて、道行く人々に呼びかけている、少年ともいえない幼い子供がいる。彼はいっぱしの胴元であって、賭けの相方は、ダイム(十セント貨)なり、クォーター(二十五セント貨)なりを、水の上から空瓶の口めがけて落とし、首尾よくそれが瓶の口におさまれば等価の配当を受け、失敗に終われば、タライの底のコインが胴元の実入りになる。  この祭りは、地元教会にちなむ聖人の生誕を祝う行事らしい。カソリックと子供の博打の結びつきは、少々、奇妙である。  T君は、四十八年の祭りの夜、リトル・イタリーに出掛け、一軒のバーに入って飲んでいた。そのときの彼はまだ、ニューヨークという都会をほとんど知らない。  その彼に、バーの親爺が声を掛けて来た。いい仕事があるけど、遊んでいるのだったらやってみないか、というのである。  職を捜していた彼は、一も二もなくうなずき、ひきあわされたRと名乗る男の車でハドソン河を越え、ニュージャージーのラマダ・イン(モテル)に連れて行かれた。そこには、トレーラーが何台も並んでいた。 「その中身が問題でしてね。Rはリトル・イタリーに小屋を出していた、カーニバルの興行師だったんです」  翌朝、ふたたびリトル・イタリーに連れ戻されたT君は、祭りの期間中を倉庫で過ごすことになる。景品として用意された人形や、ソーダや、コーラの箱のあいだが、彼の寝床であった。そこには、カナダ人のダニーと、黒人のウイリーと、彼の恋人で、マリリンという白人のグラマーがいた。  彼らはいずれも、T君と同じく、下働きのために雇い入れられた若者たちである。  T君は、ウォーター・ゲームの台を任されることになった。これは水鉄砲で的を射て、正確に当たれば、その勢いで上に吊るした宇宙船が、徐々に落ちてくるという遊びである。複数がゲームに加わって、一番先に宇宙船を落としたものに、景品が渡される。 「イッツ オンリー クォーター。イッツ イージー」 「サウンド オブ ザ ベル。シュート ユア レッド リトル マーク」 「NO1 カミング ダウン ストロングリー。NO5 イズ フォローイング。NO3 スローダウン」  呼び込みから、“実況放送”まで、彼の仕事であった。そのときの口上を、改めて実演してみせる、二十七歳のT君は、K大卒で、ジャーナリスト志望だという。 「お代は、わずかの二十五セント。やり方は簡単」 「さあさあ、合図のベルだよ。赤い的をしっかりねらって——」 「一番が優勢。五番が追ってます。三番は勢いがよくないよ」  日本語に直せば、こんなふうになるのであろう。ひらたくいえば、彼の仕事は、香具師であった。  リトル・イタリーを、彼が加わってから一週間で切り上げた一行は、途中、町々で興行を打ちながら、マイアミへと南下して行った。  冬場は、ふところ具合のよい避寒客で賑わうマイアミが、最高の稼ぎ場なのだそうである。  T君とその仲間にとって、寝床が倉庫の床からトレーラーの床へと移ったことは、さして苦痛ではなかったが、祭りのない期間は、週に五ドルしか給料をもらえないことを知らされて、それが現実となったとき、彼らは空腹という、もっとも耐えがたい忍耐をしいられることになった。 「朝から晩まで、くる日もくる日も、パンにピーナツ・バター、それだけでしたからね」  祭りのあいだ、R氏は、一日の終わりに台をまわって、テラ銭の箱から紙幣だけをつかみ出して行く。残った硬貨を、彼に使われる連中が、その貫禄に応じて分配するのだが、新入りのT君に渡るのは、どれほどでもない。  ダニーのそそのかしで、T君は、売り上げをくすねることをおぼえた。  ウォーター・ゲームの台には、足もとのところにボタンがついていて、これを踏むと、初めて水鉄砲が作動する仕掛けになっている。そして、ボタンを踏んだ回数は、自動的にメーターに記録される。  日中、売り上げの中から適当に着服したT君は、深夜、人が寝静まるのを待って、ウォーター・ゲームの台がつくりつけになっているトレーラーに忍び込み、一旦、メーターをゼロに捲き戻しておいて、ツジつまが合う回数まで、ボタンを踏み直すのであった。そして、その作業は、当然、シンジケートとかかわりがあるだろうR氏が、週末にメーターをチェックにまわるときのいかめしい風貌を暗闇の中に思い浮かべるとき、肝を冷やさずにはいられない、きわめて危険な賭けだったのである。  それにくらべれば、同じ深夜、彼の台よりはるかに大きな賭け金を扱うトレーラーをまわって、胴元が立つあたりのすき間というすき間を手さぐりであたる方が、はるかに安全な臨時収入を得る途であったといえる。ときに、胴元が着服しようとして隠し、持ち去ることを忘れた紙幣が、彼の指先に触れることがあった。しかし、これには、確実性に乏しいという難点があった。  途中、マリリンが出産の準備のため、実家のあるワシントンへ帰って行ったのは、出来事とはいえない。ダニーも、ウイリーも、T君も、トレーラーに持ち込んだ寝袋に守られて、ともかくも無事であった。  マイアミに一行は入った。カーニバルで働く者はIDカードの携帯を義務づけられていて、T君もその交付を受けるため、警察署に仲間たちと出頭した。彼は、無言で、正面からと真横からの写真をとらせた。何か喋れば、彼が労働に従事することを許されない外国人であることが発覚するからであった。  彼のボスは、T君が身許を証明すべきソーシャル・セキュリティ(社会保険)のカードを紛失したこと、目下、その再交付を申請中であることなど、答えなければならない必要な事柄を、もっぱら彼にかわって弁じ立てた。R氏は、マイアミに豪壮な邸宅としかるべき事務所を構えていて、その乗用車である七四年型のキャディラック・セダン・デビルは、あいまいな根拠に基づいてIDカードを警察に発行させることのできる、地元での彼のステイタスをシンボライズしていた。  警察で、ウイリーがおびえていたのは、もう一つ、別の理由からであった。彼は、ある窃盗事件の容疑者としてフロリダ州警察から指名手配を受けており、彼の運転免許証は架空の人物の名義だったのである。  だが、ウイリーのおびえも、思わぬ結末で解決することになる。  新しい年が明ければやがて父親になるはずだった彼は、その年のクリスマスさえ迎えることができなかった。麻薬(THC)の常習者であり、賭博好きでもあった彼は、いつものように前借をR氏に申し込み、断られて、しつこく食い下がった。温厚というには程遠いこのボスは、彼を殴り倒し、同時に解雇を言い渡した。  これを恨みに思ったウイリーは、R邸に刃物をかざして押し入り、夫人に襲いかかったところを、R氏のピストルで射殺されたのである。当局は、事件を正当防衛として処理した。  その年のクリスマス・イブは、T君が生涯で初めて、犯罪に加担した日である。  パーティの酒で酔っていた彼を、ダニーが物陰に呼んだ。「仕事がある。ちょっとこい」というのである。  T君と、もう一人の白人を伴ったダニーは、ピック・アップ用のトラックを運転してガソリン・スタンドの裏庭に入って行った。そこには、一台のキャンピング・カーが駐車してあった。T君の果たした役割は、その車体をもう一人の白人とジャッキで持ち上げることであった。こうして盗んできたキャンピング・カーは、一行の駐車場に、新しい財物として加えられた。  正月をオセチ料理で祝いたいと思い立ったT君は、ニューヨークに飛んで休暇を過ごし、ふたたび、マイアミの一行に合流した。その彼を待ち受けていたのは、警察がキャンピング・カー盗難事件の捜査に乗り出しているという情報であった。ガソリン・スタンドの裏庭からそれを盗み出すとき、たまたま目撃者がいて、三人組の犯人の一人は中国人らしい男と証言したのだという。  ボスは、問題の盗品の処分を、三人に命じた。彼らは、それを湿地帯に運んで行って、数ある沼の一つに沈めた。戻って来た三人に、ボスが与えた教訓は、こうであった。 「どうせ盗むなら、最新のを盗め」  T君がマイアミで経験したもう一つのことは、例のオイル・ショックである。だが、ギャラクシー一五〇〇の、六六年型ポンコツを二百ドルで手に入れ、マリファナをくゆらせながら乗り回していたT君は、その燃料に不自由することはなかった。「パンクすれば他人の車、バッテリーが上がれば、これも他人の車」から、しかるべき部分を調達していた彼とその仲間にしてみれば、燃料の補給も、その伝で行けばよかったのである。 「トラックのサイド・タンクが一番いいですね。何しろ五十ガロン入りですから。ボルトをゆるめると、滝の様に流れ出る——」と彼はいう。  ダニーのごときは、タンクローリーをそっくり盗んできたことがある。カナダからやって来た、フランス系のこの男は、やがて一行を離れ、盗んだ車で北上中、サウスカロライナ州のモテルで、ホールド・アップ(おいはぎ)を働いた。逃げるところを州境で逮捕されて三十年の刑を受けた、とT君はいう。 「なににしても」と彼は、マイアミが忘れられないふうである。 「ガソリンとセックスは、思いのままでしたからね。あそこにきている女は、ニューヨークのブティクの経営者とか、金持ちばかりなんですよ。頼まれてガソリンを盗《と》ってきてやれば、大歓待で、毎晩のようにパーティでしてね」  北はメーンから、南はフロリダまで、アメリカの東海岸沿いに、五十二週を、毎年決まったスケジュールで、カウンティ・フェアやステート・フェアを追いながら、北上し南下するR氏の一行に、T君が別れを告げたのは、四十九年の四月、ニューハンプシャー州のマンチェスターにおいてであった。二十ドルの“退職金”を手にした彼は、その足でケンブリッジに行った。  この町の私設職安「ハンディ・アンディ」の窓口から、それこそ「手軽に入る」日雇い労働者として、あるときはにわか樵《きこり》になり、あるときは機内食の皿洗いになったT君が、ニューヨークに戻ったのは、同じ年の六月である。  バンコートランド・ホテルに入った彼は、大衆的な日本レストラン「チキテリ」に、時給一ドル八十セントの皿洗いとして雇われた。ニワトリの照り焼きが売り物のこの店をほどなくやめた彼は「ノーモア チキンです」という。毎日、彼の胃袋を満たしたのは、ニワトリだったからである。  ニューヨークは、“チャンス”に満ちているという。でも、T君ら、バンコーの若者たちにとっての“チャンス”とは、いったい何なのであろう。彼が、「ノーモア」と拒否しなければならないのは「チキン」だけなのであろうか。 第六章  宿屋を開業したモダン・アーティスト  リトル・イタリーに近く、ソーホー地区というのがある。南北が六本、東西が六本の通りに囲まれたダウン・タウンの一画で、かつては倉庫街であった。  それが芸術家の巣になりはじめたのは、一九六五年あたりからである。  それまで彼らは、グリニッチ・ビレッジに多く住んでいた。このあたりは、ニューヨークでもっとも早くひらけた地区で、背の低い昔ながらのアパートが軒を連ねている。  騒音に敏感なそこの住人たちは、午後八時を過ぎて芸術家が釘の一本も打とうものなら、たちまち電話をかけて寄越す。  制作が思うにまかせないアーティストたちは、比較的住まいに近いソーホーに、廃屋同然となった倉庫が利用者もないまま打ち棄てられているのに目をつけた。アメリカではロフトと呼ばれているその上層階を、アトリエ代わりに安く借り受けて、制作のときにはここへ通うのである。それが五〇年から六〇年にかけてのソーホー地区の姿であった。  だが、安いとはいっても、別にアトリエを持つのは、二重の出費である。経済的に余裕のない彼らは、そのうちロフトに手を加えて、隠れ住むようになる。  もともとが住まいとして建てられたものではないから、住居に使うのは違法であった。そこで彼らは、当局の立入調査に備えて、大きなキャンバスを用意し、不意に踏み込まれたときには、居住部分をその陰に隠すなど、苦肉の策をとったものである。  こうした規制がゆるめられたのは、進歩派として知られたリンゼイ前ニューヨーク市長が当選してからであった。  彼は、アーティストに理解が深く、ソーホー地区にほど近いバンク・ストリートとウエスト・ストリートが交差するあたりに五百世帯ばかりの市営アパートが建てられたとき、定収入のない彼らにも、入居のための抽選に加わる機会を与えた。  ソーホーが、現代美術のメッカと呼ばれるようになったのは、それ以降である。アーティストたちは続々と、ここへ移って来た。いまでは、八百人もいるという。  現代美術の神様と呼ばれているジャスパー・ジョーンズも、一時期は倉庫の住人であった。ダン・フレビンの姿も、ロフトに見られた。  この倉庫街に、日本からの芸術家が五十人ほど巣食っている。八百人の中の五十人だから、決して少ない数とはいえない。  その中の一人、Sさんを訪ねてみた。東京芸大卒の彼は、六〇年代のはじまりに、日本のモダン・アートの旗手であった。私同様、美術に何の造詣《ぞうけい》のない人でも、名前をいえば思い出す人物である。  頭をモヒカン刈りにして銀座通りを練り歩いたかと思うと、身体中にペンキを塗りたくってキャンバスの上を転がり回るボディ・ペインティングで人目を引いたりした。  いつの間にかジャーナリズムの表面から姿を消したが、ソーホーに身を潜めていたのである。  彼が住むのは、三階建ての倉庫の三階で、玄関代りの潜《くぐ》り戸を抜けると、急勾配の階段がこちらの頭上に崩れ落ちて来そうな“オーバー・ハング”ぶりで、はるか上方へとまっすぐに伸びている。倉庫の天井は非常に高く、一階が並のアパートのゆうに二階分に相当する。しかし、奥行はそれほどでもないから、折り返しのつかない、三階まで一直線の階段は、どうしても、狭い路地裏から高いビルに立てかけた消防用ハシゴのような角度にならざるを得ない。  彼は三階のすべてを占有していて、そのスペースは、ざっと百畳分ほどある。だが、天井も壁も床も、むき出しのコンクリートのままで、そこには何の飾りもなく、また、一切の間仕切りがないときては、殺風景そのものである。  例外は、通りに面した北西の一角で、あり合わせの木材を使って、四畳半ほどに仕切ってあった。一方が窓、もう一方が壁、残った二方がカーテンのこの空間が、S夫妻と、生まれて六ヵ月になったばかりの坊やの寝室なのである。  S夫妻といったが、戸籍上のSさんの妻は子供二人と一緒に本国に残されており、ここで彼が同居しているのは、法的には妻を名乗れない、若い女子画学生である。  差し障りがあるので、彼女の名前を、かりにA子としておこう。  北陸に生まれ育ったA子さんは、東京に出て絵を学び、それに飽き足らず、ニューヨークへやって来た。国許の父親から送金を受けての恵まれた留学だったが、彼女の学校通いは一年と続かない。同じ道の先達であるSさんと知り合ってほどなく同居生活に入り、日浅くして子供を宿した。  生まれたのは男子であった。Sさんは、本国の妻がまだその出生を知らないこの子に、アレキサンダー・クウカイと名付けた。  彼が学び知った西洋の歴史上の人物で、もっとも偉大だと思われたのはアレキサンダー大王であり、彼が尊敬してやまない日本史の中での賢者は空海上人だったからである。  私がSさんのロフトを訪ねたとき、そのアレキサンダー・クウカイは、もちろん、父親が彼に託した夢を知るはずもなく、この家の中で唯一、家具と呼ぶにふさわしいベビー・ベッドにおさまって、母親ぶりがまったく板につかないA子さんにあやされながら、午後の眠りにつこうとしているところであった。  この坊やにとっては、これから落ちようとしている眠りが、久方ぶりに訪れた安らぎのあるものだったのである。  A子さんの、結婚によらない同居生活と、これに続く出産を知らされた国許の父親は、激怒して、送金を打ち切った。  だが、それを激怒と受け取ったのは、A子さんの浅慮であったかも知れない。立場をかえれば、娘の糧道を断つことによって、一人歩きを始めたばかりの彼女の人生を、波乱の少ない方向へ引き戻したいとする、平凡だがそれだけに普遍的な、父親の愛情がそこに隠されていたのだと見ることも出来よう。  いずれにしても、送金の打ち切りは、ロフトの三人をたちまち窮乏に追い込んだ。彼らの生活は、すべて、A子さんの“学費”に依存していたからである。  ソーホーに、数少ないアーティストたちが隠れ住んでいた当時、ロフトの一ヵ月の借り賃は五十ドルといったところであった。廃屋のまま放っておいても、需要があるわけでもない。どうせのことなら五十ドルでも入った方がいい。持ち主には、その程度の計算しか働いていなかった。  そのレントが月を追って上がり始めたのは六五年以降である。  ソーホーが、モダン・アートの“メッカ”の体をなすようになると、金持ちのアーティスト気取りまでもが、ここに“別宅”を構え出した。  ニューヨークには貧乏人も多いが、金持ちにも事欠かない。  退屈気味の彼らは、アップ・タウンの高級アパートに本拠を持ちながら、ソーホーに巣食って、新しい風俗を楽しみ始めたのである。  金持ちの一人は、ロフトのインテリアだけに一万ドルもかけた。そのうえに、室内をアンティークで飾り、植木で埋めて、寝室には温度調節付きのウォーター・ベッドを持ち込む豪勢さで、周囲の目を見張らせた。  こうした金持ちは、別に、制作に意欲を燃やすわけでもない。知り合った仲間を招いて、マリファナをたき、終日フワフワしている。  レントが上がったのは、単純に需給の関係からだが、この連中が、それをなおのこと押し上げたきらいは否めない。十年前の五十ドルがいまでは五百ドルと、十倍にもなった。  Sさんのロフトの持ち主は、同じソーホーでゴミ屋の元締めをしているイタリア系で、マフィァの顔役である。  月末にSさんが家賃を持って行くと、「OK」と一言いって、それをポケットに突っ込み、受け取りも何もくれない。  それでトラブルが起きないのは、彼のことをマフィアだと知らされたSさんが、何をさておいても、期日までにきちんとレントの支払いをしているからで、もしそれを滞らせたなら、事情はおのずから別のものになるであろう。  それがどんなふうのものであるのか。Sさんは、好むと好まざるとにかかわらず、知ることになるはずであった。  私が訪ねた前夜、SさんとA子さんは、お湯を飲んでいたという。  金が底をついたのはとっくの昔で、その日の昼、わずかに残っていたメリケン粉を水でとき、何も入らない“お好み焼き”にして食べてしまったあと、口に入れるべき固形物はまったくなくなってしまったからである。  お湯を飲んでいるところへ、思わぬ救いの主が現れた。東京で、ニューヨーク在住の日本人アーティストの現代美術を一手に引き受けているM画廊の主人がそれで、Sさんの“オートバイ”を一つ、ぽんとキャッシュで買ってくれたのである。  この“オートバイ”は、最近、Sさんがもっぱら手掛けている作品で、材料はそこいらにいくらも転がっているカードボード(ボール紙)である。倉庫街という土地柄だから、梱包《こんぽう》をといたあと、これがたくさん出る。  作品の材料としてSさんがカードボードを選んだのは、それがタダだというだけのことであって、別の理由はない。  そいつを思い思いの形に切って、プラスティックで糊付けする。その際に用いられるのがブリュー・ガンで、これを電源につなぐと、その内部で熱せられたプラスティックがどろどろに熔け、銃口のような先端から噴き出す。  こうして糊づけされ、組み上げられて行くカードボードは、厚いといったところで紙だから、そのままでは、いかにも頼りない。  そこで、その上に、やはりどろどろに熔かしたポリエステルを塗って、固める。  元手いらずだから現代の錬金術師だ、とSさんは冗談をいうが、それは仕上がった作品が引く手あまたになればの話である。  売れないから、大小とりまぜて、何台もの“オートバイ”が床を埋めており、それらに打ちまたがった異様な姿のライダーたちが、こちらに不吉な予感とでもいったものを伝えてくる。  そのライダーというのは、地球の最後の日に一帯が灼熱の地獄と化して、そこから逃れようとして逃れ切れず、焙《あぶ》り立ててくる熱で時間を経《へ》たアイス・カービングのようにとろけ始めている、とでもいった姿である。  と見たのは、その方面の素養を決定的に欠く私のひが目で、Sさんの制作意図はこうであった。 「底辺のパッションとか、機械文明に対する反抗とか、そういったものを表現してみたかったのです」  初めてこうした“彫刻”に取り組んだとき、彼は、オートバイというものを一度も、しげしげとは眺めたことのない自分に気づいた。 「見たことないし、乗れないし、メカニズムなんかまったくわからないしね。出来て見たら、実物と全然違う」  その“オートバイ”が、一台売れた。久しぶりにまとまったものを手にしたSさんは、アレキサンダー・クウカイを寝かしつけたA子さんを誘って酒場に行き、レミー・マルタンで乾盃した。マフィアの家主の「OK」以外の言葉に接する機会は、一ヵ月先に延びたのである。 「お互いにくっついているから倒れないけどね」  とSさんがいうのは、老朽化した倉庫群の話である。だが、それは、ここのアーティストたちにもあてはまる。 「子供のミルク代だけは心配ないんです。電話をかけさえすれば、だれかしら、一ドルくらいのものは届けてくれますから」  そんなことをSさんが話しているところへ、ドアの外に訪問者があった。  そのドアだが、カギの部分を分厚い鉄板で補強してある。外からこじあけられないように、Sさんが自身ではりつけた。  いわれて見ると、窓という窓には、太い木材が、タテ、ヨコ、十文字に打ちつけてある。窓からの侵入者を防ぐ目的だという。  そういってはわるいのだが、売れるあてのない作品の他に見るべき財物の何一つないSさん方でさえ、このような用心をしなければ生きて行けないのが、ニューヨークという都会なのである。  訪問者は、アゴひげをはやしたアンダーシャツ姿の白人の若者であった。彼は私の姿を認めると、Sさんの耳元に寄って何やら囁《ささや》き、すぐ出て行った。  ドアが閉まると、Sさんは電話を取り上げ、遠慮のない大声でいった。 「トシいるかい? いない? 帰って来たらいっといてくんないかな。下のマイクに三十二ドル借りっぱなしだっていうから、オレ払っといたから」  マイクというのは、くだんの白人の若者で、Sさんの真下、つまり同じ倉庫の二階に住み、麻薬の売人をしているのだそうである。  三十二ドルは、彼のトシに対する売り掛けであるのだろう。 「春にはオンス二十ドルだったのが、いまいいのは六十ドルからしますからね。うん、いいものは、やっぱりいいねえ。ベトナム物だと、一服でフラフラですよ。  こいつをやると平和になる。本ひらいてジーッとしているとか、ヘラヘラ、キャーキャーになるとか、あらわれ方は人によってだけども」  Sさんがいうのはマリファナのことで、ソーホーにはつきものである。 「トシっていうのは、詐欺師志願だっていってるけど、あれは詐欺される詐欺師よ」  と、Sさんは、かつての居候が気がかりのようであった。  ニューヨークで飢え死にすることは容易ではないが、何であれ、成功することも難しい。  Sさんの真向かいに、今にも壊れそうなビルがあって、一階の南西の壁に「KARATE」と大書きしてある。ここの師範は、日本で空手をかじった白人の男だったが、レントの上昇について行けず、いつしか発狂して廃業してしまった。  だが、一時は、たいへんにはやって、救急車がひっきりなしにかけつけていたものである。  彼の弟子は、黒人とプエルトリコ人の男が主体で、まれに夜の女も混じっていたが、空手を通して精神的なものを学ぼうなどという殊勝なのは一人もいなかった。 「喧嘩のためですからね。型なんか教えていたのでは、すぐやめてしまう。それでいきなり乱取りです。  それも、空手などというものじゃない。十手から、イスの脚から、木刀、槍、チェーン、鉄の球、そこいらのものを何でも持ち出して来て、バンバンやる」  それで救急車がしょっちゅう呼ばれていたのだとSさんはいう。  道場には、日本の軍歌や、テープにおさめたサイレンとか機関銃の音とかが、いつも流れていた。そして弟子たちはみな、入門間もなく黒帯になって、稽古着の背中にドラゴンや日の丸や軍艦旗を縫いつけてかっ歩する。道場はそれでも八年もったが、しょせんはまがいもの、長くは続かなかった。  Sさんにだって、先のことを考えなくてもよいのであれば、デビューのチャンスがなかったわけではない。  七二年にマディソン街の有名な画廊イオラスがソーホー地区へ進出して来たとき、そこの経営者が彼の噂をききつけて訪ねて来た。  絵の買いつけかと喜んだSさんだったが、訪問の目的が、酔余に彼が披露する、一升瓶を股間に擬してのヨカチン踊りの実地検分と知って、落胆をまぬかれなかった。  一時期は、奇想天外のハプニングで、日本のモダン・アートの“英雄”といわれたSさんである。 「そっちから行けば、たしかにデビューは早い。でも、オレの感じからいうと、ニューヨークはそんなに甘くない。  センターからそれた人間が、趣味とかプライベイトな段階とかでそんなものを追いかけているんですね。  話は違うんだが、デザイナーとかカメラマンとかはホモの世界なんですよ。ヘアドレッサーの世界は、完全に百パーセント、ホモだといっていい。でも、そんな世界でも、本場のホモと偽物はきびしくわけている」  食べられなかった彼は、七〇年から七二年にかけて、“簡易宿泊所”を経営した。  さいわい、ロフトは広いので、その奥に街頭から拾って来た粗大ゴミのベッドを並べて、日本からの若者を専門に受け入れたのである。  これがあたって、常時十人を下らない宿泊客があった。“定員”を超えた客には、Sさんが命じた。 「お前のベッドないから、自分で拾ってこいよ」  ボロボロの、“内臓”がはみ出したマットレスを調達して来たのもいる。その中から得体の知れない虫が続々とはい出して来た。  宿泊費は一泊が一ドルで、食事は別に一人頭五十セントずつ徴収して、当番が買い出しに出掛け、調理をする。 「今日はフランス風で行きましょう」といった調子で、メニューは当番に応じてかわった。  何といったって、“世界皿洗い旅行”のベテラン流れ者ぞろいである。ある日、インド料理が出たかと思うと、次の日はモロッコ料理だったりする。  飯は電気釜二つで炊いた。中華街を控えているから、コメに不自由はしない。  問題は、分担金が五十セントの線を超えたときに生じる。十セントでも負担が増すと、必ず文句をいうのが出てくるのである。 「デザートつけるからさ」 「オレ、そんなのいらない」  そういうやりとりもきかれた。  Sさんがこれを廃業してかなりになるが、いまでも、「インドできいた」などと世界各地の名前をいって、日本の若者が現れる。  たぶん、先進国で、一日一ドルという宿泊所はあるまい。 「旅館やめたよ」  とSさんがいうと、あてがはずれた“客”は、きまって肩を落とす。  ニューヨークの“山谷”の存在は、それが消滅したいまも、耳寄りな情報として、口から口に伝えられて、地球をかけめぐっているのである。いったい何十周したものか。 「それにしても」  とSさんはいう。 「流れ者は、実にいろいろですね。タイル張り職人もいれば、地下《じか》足袋《た び》に半てん姿なんていうのまで、このニューヨークにやってくるんですからね。  このあいだ来たのは、東京外語を出て一流商社に勤めていたんだが、やめちゃって世界をうろついているんだというんです。何でも、ブラジルからメキシコの国境まで、五十台のヒッチハイクをしたとかいってました」  世界をただ流れ歩くだけだったら、だれでもとはいわないまでも、たいていの人間が可能な時代になった。流れ者は、おそらく行く先々で、人々に有形無形の迷惑をかけながら、そこの社会に益するところ少なく、身勝手な楽しみを味わっているのだろうが。  ソーホー地区のギャラリーを、Sさんに案内されて歩いて見た。その数をききもらしたのだが、画廊は軒を連ねている。中には、五階建てのビルの各階を、それぞれ違った画廊が埋めているというのもある。  ダン・フレビンのライト・アートが、結構、人を集めていた。何のことはない、ネオン・サインを組み合わせただけのもので、そこいらの電気工なら朝飯前の仕事のような気がするが、そうもいかないのだろうか。  金持ちが自分の居間を、彼のライト・アートで飾ったりするのだそうである。かりの話だが、床の間に赤や青のネオン・サインをつけた場面を想像してもらいたい。悪趣味以外の何物でもないと思うが、ダン・フレビンの名前があれば、そのために何千、何万のドルを惜しまない人がニューヨークにはいるのだという。  ポップ・アートで有名なジム・ダインは、相かわらず大工道具ばかり描いている。ノコギリとピーマン、カナヅチとトマトといった取り合わせの小品が、どれも一万ドルを下らない。  私などにはさっぱりわからないものに、ミニマム・アートと呼ばれるものがある。  展示中の表示が出ている、倉庫を利用した貸画廊へ入って行くと、準備が遅れたのであろうか、ガランとしたままで、何もない。床の上を、右手前から左手の奥へと、一本のレールが通っているだけであった。  その先端が、ちょうど次の部屋への入口に届いている。レールは、重量のある作品の搬入にでも使うのだろうと思って、次の部屋をのぞいたら、今度は左手前から右手の奥へと、やはりレールが一本置いてあった。  いくら鈍くても、合わせると「く」の字になる二本のレールが、実は作品なのだと気づく。  七、八年前に始まったこの種のものをミニマム・アートと呼ぶのだそうである。随分、あっけらかんとしているが、これも芸術の部類なのであろうか。  ミニマム・アートから二年ほど遅れて出て来たのが、コンセプショナル・アートだという。その一つは、こんな風であった。  会場の左の壁面に、大きな矩形が描いてある。正面に目を移すと、ここは菱形で、そして右に三角形がある。キャンバスの上に、ただ黒い線を引いただけで、それでおしまい。やれといわれれば、私にだって出来そうな作品なのである。  モダン・アートと総称される、これら新しい芸術は、どこか奇をてらっているような気がしてならない。知らない者の強味で、そうした感想をもらしたら、Sさんは面倒くさがりもせず、素人向きに説明してくれた。 「絵にしても彫刻にしても、昔は欧州一辺倒でしたが、いまは逆にアメリカが輸出している。とくに現代美術はそうですね。  欧州あたりでは、作品を通して、時代とか背景とかを、全部見ようとするところがあるでしょう。その影響で日本人は、文学的素養で判断したがるんですね。まだまだヨーロッパ教養主義が脱け切れないんだな。  アメリカはどうかというと、そのものを見て、そのものに対する反応しかしない。アメリカの絵は言葉にならないんです。身体で感じるんですね。  いいとかわるいとか、あるいは、好きとか嫌いとかに関係なく、パーティのアクセサリー的に作品が売れるということは、たしかにあります。一つのステイタス・シンボルとして、芸術があるわけですね。  しかし、現代美術がアメリカで盛んになった必然性はあるんですよ。何といったって、アメリカは建国二百年で、その前はというと、インディアンしかいなかった。アメリカ人の手でつくったものといえば、幌馬車とかキャディラックとか、そんな程度でしてね。最近、一九五〇年代の車がもてはやされたりしている。古いものはないんです。  歴史の古い日本だと、たとえば、新しい芸能は軽く見られて、古典芸能が文化予算をあらかたとってしまうようなところがあるけど、アメリカで二百年祭をやるといえば、文化予算は現代美術にくるんです」  アーティストたちは、日本よりはるかに恵まれている。ニューヨークには、彼らのための奨学金制度が百前後あって、毎年、かなりの額を支給している。  七三年にSさんが受けたのは、三千ドルであった。その対象は絵画や彫刻に限定されておらず、ビデオテープでも、踊りや芝居などのパフォーマンス(上演)でもいい。電話をすると、審査員が実地に出向いてくる。Sさんのときには、四百余が応募して十八人が選ばれた。なかなかの競争率だが、設けられている制度が多いので、かなりの人々がその恩恵にあずかることができる。  はっきりしたことは忘れたが、ビルの壁面の何パーセントかは、美術品で埋めなければならないという法律だか条例だかの規定もある。その分だけ、アーティストが機会に恵まれることはいうまでもない。  五十人もの日本人画家、彫刻家が、生活の保証もないままにロフトにひそみ、ニューヨークを去ろうとしないのは、チャンスを一旦つかめば、大きく飛躍することが、ここでは可能だからである。  十年前、アラン・ストーン・ギャラリーにドイツのある作家が出品して話題を呼んだのは、パーティが終わったあとの食い散らかしのテーブルそのものであった。卓上の品々は、透明のプラスティックでとめてあったが。  日本の画壇、彫刻界には、数十の排他的な団体があって、それぞれの内部は、長老などと呼ばれる大家を頂点に、階級社会を形づくっている。そして、そこを貫くのは、フランスに真似た黒田清輝以来かわらないどころか、ますます牢固たるものになって来ている権威主義である。  ここでは、新しいものが、なかなか拾い上げられない。そこで、存在を認められない新しい動きは、ともすれば風俗に流れ、あるいはヒステリックな行為に終わってしまう。  コンセプショナル・アートが出てくる少し前、ニューヨークのギャラリーに、ニュージャージー州の海岸の岩を並べた作家がいた。その岩をどこから持って来たのかを示す図面を添えて——。それから半年後、岩を入れたケースが、一個何千ドルで売れたという話である。  かわったところでは、何でもかんでも包んでしまいたがる作家がいる。イスに始まって、ホイットニー・ミュージアムを包む段になったら、いかんせん布が足らない。仕方なく、その図面を包んだ。  ところが、二年ほど前、彼にナイロン会社のスポンサーがついた。そこで彼は、コロラド渓谷をオレンジの布で、すっぽり包んで見せた。  いま彼の評価は高く、オートバイをビニールで包んで荒縄でゆわえた作品が、オークションで「コンセプトが高い」ということになって、十五万ドルで競り落とされた。  東京にクリティシズムの弊害があるとすれば、ニューヨークにコマーシャリズムのそれがあるといえるかも知れない。だが、一つがコマーシャリズムに乗ると、そのアンチが必ず出てくるのもニューヨークである。  グリニッチ・ビレッジが風俗化したら、新しい動きの中心がイースト・ビレッジに移ったように、一つが“チープ”になれば横へずれる。  一方には、コマーシャリズムから完全におのれを絶縁させたアンダーグラウンドが、それこそシコシコと活動を続けていることも見落としてはならないであろう。  大船に乗ったのが既成の文化だとするなら、吃水線の下で考えられているのが、アングラだといえそうである。  二年ほど前まで、モダン・アートは、アンチを打ち出していれば、糊塗《こと》できた。いわば、“非常識”のもてはやされた時代であった。いまは、“常識を越えた常識”が要求されている。  水平線を二十枚ほどの写真につないで「この動かしがたい大自然」として発表した作家は、そこのところをファインダーに見据えたのであろうか。  見ていて、これ以上つまらないものはないと思われる、壁に線を一本引いただけの作品が「クアイアト(静か)でいい」と受け入れられたりしている。  ちょっと見には、アイデアのひらめきだけで行けそうな錯覚を抱かせるニューヨークだが、ここで一応認められている日本の作家は、流政之《ながれまさゆき》、荒川修作《あらかわしゆうさく》、河原温《かわはらすなお》など、五指にも満たない。チャンスは近くに見えて、実は遠いのである。 第七章  生命保険セールスマンになった元牧師  五番街の日航ニューヨーク支店のあたりは、日本風にいえば、一等地である。  その角をマディソン・アベニューの方へ入った並びに、目立たないが「ラ・グルエリ」というフランス料理店がある。ここの常連の一人に、オナシス夫人だったあのジャクリーヌがいる。  オナシスといえば、私のニューヨーク滞在中、五番街の聖パトリック寺院のわきへ持ってきて、いったい何階建てになるのか、ひどく背の高いビルを建てているところであった。  板囲いの中から、次第に全容をあらわして来たこのビルが、ニューヨーク市民の中で無視できない部分を確実に占めるアイルランド系の人々の神経を、微妙に逆撫《さかな》でしていただろうことは想像にかたくない。  だが、オナシスの訃報《ふほう》に接して、彼らは、安堵の胸を撫で下ろしたことであろう。なぜなら、高級アパートにあてられるこのビルの最上階、つまりペント・ハウスは、当然、ニューヨークにおけるオナシス夫妻の住居になると信じられていたからである。  金力をほしいままにする、だが老醜の、ギリシア船舶王の腕に抱かれて、元アメリカ大統領夫人が、かつては人々が仰ぎ見るしかなかった聖パトリック寺院の尖塔を、足下に見下ろすことになる。そうした図を想像するとき、彼らの心中は穏やかなものであり得なかったはずである。  寺院は、カトリック信者である彼らの信仰の場であり、また、敬愛してやまないケネディ大統領が兇弾に倒れたあと、彼らが希望をあらためてそこにつないだロバート・ケネディが、結局は兄と同じ運命をたどったとき、その遺体に別れを告げた場でもある。  マッカーサー元帥に見られたように、いったいにアイリッシュは、誇り高い人々だといわれる。この新天地に、一歩遅れてやってきた彼らの父祖は、制服の道を多く選んだ。WASPを持ち出すまでもなく、東部エスタブリッシュメントを形づくるのは、主として、イングランドからきた人々の子孫であり、その中で際立った地歩を築くのは、出身を異にする人々にとって容易ではない。  アイルランド系市民が、おのれの自尊心をいくらかでも満足させ、同時に、能力による昇進の機会を手にすることのできる残された世界は、軍であり、警察であり、消防であった。  ジョン・F・ケネディを、計画的に大統領へと仕立て上げて行く過程で、一家が示した執念ともいってよい上昇志向は、アイルランド系市民全体に重なり合うものであろう。  大統領がついに誕生したとき、彼らには、大きな感慨があったに違いない。これによって、アイルランド系の人々は、名実ともに“一級市民”のパスポートを獲得することになったからである。  ことのついでにいえば、アグニューが副大統領に就任したとき、程度の差はあれ、ギリシア系市民の胸にも、アイルランド系市民に通じる感懐が溢れたはずである。  ギリシア系というとき、人々がまず想い浮かべるのは、たぶん床屋の職人であり、下級船員である。彼らは、“機会”に富むといわれるアメリカ社会で、長いこと、そういう立場にいた。ギリシア系市民のあいだからの副大統領の誕生は、彼らにとって、確実に、踊り場を一つ上がったことになる。もちろんそこが、最上階ではないにしても。  そのアグニューが、副大統領在任中、日米繊維交渉のしこりから、日本を“ジャップ”呼ばわりして、さすがに物議をかもした。  日系市民は、徐々に力をつけてきているが、まだ、限られた地方で上院議員を出すにとどまっている。  この社会で、形成されている階層は、おおむね人種別であって、上から“先着順”となっている。かりの話だが、日系市民から副大統領でも出るようになったとき、彼らは初めて、アメリカ社会で根を張ったといえるのではないか。  ニューヨークの日本人は、その大半が、本国から派遣されている滞在者であって、人種別のクラスわけからはいちおう埒外《らちがい》のところに置かれている。扱いは“お客さん”なのである。  もし、彼らが、アメリカ市民として、ここに生活の根拠を置き、社会的なコンペティターとなって階段を上ろうとすれば、当然、周囲からの拒絶反応を覚悟しなければならない。  ニューヨークは、ある意味ではイギリス社会の延長であって、メンバー制によって運営されているクラブがいくつもある。その数を私は知らないのだが、日本人の入会を認めているクラブは、たしか、皆無なのではないか。  クラブと名のつくところで、日本人が自由に出入りしているのは、知る限り、「プレイボーイ・クラブ」と「ガスライト」だけである。だが、この二つは、完全に商業化されたもので、入会金さえ払えば、その場ででも受け入れられるといった、遊び場に過ぎない。  オナシスのアパートも、聖パトリック寺院も、そして「ラ・グルエリ」もそこにあるというだけのことであって、日本人には、無縁にひとしい存在なのである。  彼らにとって、心やすく、くつろげる場所というのは、たとえば、「ラ・グルエリ」の真向かいに、「Japan's Kobe」の看板を上げる、ヘニーの店である。ユダヤ系の彼は、不動産業を本職としていて、日本人である妻のミミに、何軒かのレストランを任せている。 「神戸」の扉を押して入ると、ウナギの寝床のような店内の左側をスシのカウンターが占め、右側がバーになっている。その奥に座敷とテーブルがあるのだが、夕方、決まって顔を見せるここの常連たちには、バーしか用がない。  入口に近いスツールに陣取って、彼らにとってはそこが、“クラブ”なのである。  常連の一人に、小田士郎氏がいる。彼は、頬からあごにかけて、形よく整えたひげをたくわえており、ちょっと見には、物堅い教師の風貌である。  初対面の人なら、だれも、小田氏を保険のセールスマンとは見ないであろう。六年前まで、彼は牧師であった。  今年三十五歳の彼は、単純に“機会”を求めて、アメリカへやってきたわけではない。  青山学院大学の神学部を卒業して大学院に在籍していた小田氏に、熱心な誘いをかけたのは、ロサンジェルスの日本人教会であった。  日系一世をメンバーの中心とするこの教会で、ようやく牧師の老齢化が問題となり、跡継ぎとしての若い牧師の招へいがのぞまれていた。  大学からの推薦を受けた小田氏が渡米を決意したのは、彼にとってアメリカが身近であったからである。  彼の父・士《つかさ》氏は、四十年ほど前、やはり青山学院大学を終えてアメリカに渡り、アメリカン・ユニバシティ神学部の前身である、メソジスト系のウエストミンスター神学校に学んだ。現在は、博多の西南学院で宗教主事をしているが、若いころ、太平洋岸で伝道に従事したこともある。 “アメリカ”は、幼いときから、父とともに彼の近くにあった。パイプオルガンの奏者である、五歳下の彼の妹は、アメリカ人の弁護士と結ばれて、オークランドで家庭を持っている。そのことも、彼にアメリカとの距離を考えさせなかった。  武蔵野音楽大学出身の圭子夫人と、生後七ヵ月の長男、聖一郎君を伴って、小田氏がロサンジェルスのセンテナリー・メソジスト教会に赴任したのは、昭和四十一年、二十六歳のときである。  一家の住まいとして、教会の所有物であるアパートの管理人室が与えられた。この建物は、いわゆる貧民街の真ん中にあって、九世帯入っている住人は、すべて黒人とその家族であった。  新任の彼に与えられた仕事の一つは、このアパートの管理である。  まず彼は、教会の仕事より先に、老朽化したこの建物の清掃をいいつけられた。廊下をふき、ワックスをかけ、つまった便所をふたたび流れるようにするのが、彼のまず果たすべき役割だったのである。  この教会には四人の先輩牧師がいて、彼の前に日本からきた“一番新しい”牧師は、五十年前の渡米者であった。彼らとともに年齢を加えてきた一世は、それでも痛痒《つうよう》を感じない。だが、英語しかできない二、三世や本国からの若い留学生たちは、“明治”をそっくりひきずっているような先輩牧師と長老、役員に、埋めることのできない世代の差を感じていたようである。  新しい世代に属するこうした教会のメンバーは、自然に、小田氏を頼ることになる。  命名にあたって、長男・聖一郎君に「聖書」からの一文字をとり、二年後に生まれた次男・献二郎君に「献身」の「献」の字を選んだ小田氏を、若い使命感が支えていただろうことは想像にかたくない。赴任したとき、十人ほどしかいなかった青年部が、やがて五十人にまで増えた。それとともに、彼に求められるものも、神の道を単に教会で説くことだけではあり得なくなった。 「青年部のほとんどは、日本からの芸術家の卵とか学生なんですが、彼らの悩みの第一は生活の問題で、第二がそれとからんで、ビザの問題ということになりますね。  金がなくなったら、どうやってメシを食わせるか、それを考えてやらなければならない。そうかと思えば、イミグレーションへ出かけて行って、必要とあらば、彼らの後見人にもならなければならない。ともかく、そうした相談事を抱えて、しょっちゅうだれかがかけ込んでくるんです。  隠された日本人の悲劇として、メンタル・ディスオーダー(精神障害)があります。これは、知的レベルが高いほど多い。南カリフォルニアに十五ほどの精神病院があるんですが、私が行かなかった病院はありません。  カウンセリングで"What's wrong with you?"(どこがわるいのか)とたずねられて、たずねられた本人は、その、"wrong"がわかっていない。わかれば、病気にならないわけなんですが。ともかくこういう場合の通訳は、全部、私がやらされました」  バーで、教会所属の男たちが女を取り合いして刃物で渡り合っている、という知らせがくれば、取り鎮めにかけつけなければならない。  そうかと思えば、明け方に戸を叩くものがいて、あけて見ると信者の一人が青い顔で立っている。「人をひいて逃げてきた」ときかされて、放っておくわけにはいかない。  合間、合間には、アパートの住人からの苦情も解決しなければならず、小田氏の表現によると、その仕事は、公私、昼夜の区別がつかず“二十四時間営業”になった。  牧師としての自覚がある小田氏は、それでも耐えられる。だが、圭子夫人が二年後に倒れた。 “メンタル・ディスオーダー”が、小田家の中にもきたのである。  二ヵ月を実家で静養した夫人が戻ってきたのをしおに、小田氏は教会に辞表を出した。  彼に教会が支払ってきた給料は、月に二百二十五ドルである。スラム街での管理人の生活は、一般の暮らしぶりとはかけ離れ過ぎていて、それを続ける限り、夫人に日常生活を含めてあらゆる面で犠牲をしいなければならないと判断されたからである。  千ドルの退職金を手にした小田氏は、妻と子供二人を連れてワシントン特別区へ飛んだ。何の保証もない。ただ、東へ行けば、何となく機会がありそうに思えたからである。  空港でレンタカーを借りた一家四人は、ワシントンの郊外にあたるメリーランド州シルバー・スプリングのモテルに、週ぎめ百五十ドルで入った。  新聞の求人欄で職捜しが始まったが、“実社会”に出たことのないこの若い牧師には、クラーク(事務員)もおぼつかない。持ち金は底をつきそうになるし、見知らぬ土地で不安がつのるばかりであった。 「あれは午後三時半ごろでした」  と小田氏はいう。 「いつものようにショッピング・センターに新聞を買いに行ったんですが、売り切れで一部も残っていませんでね。石を蹴っ飛ばしながら歩いてきたら、パーキング・ロットに新聞が落ちていたんです。  拾い上げて見ると、ガバメント(政府)の刊行物で、CIAとか、FBIとか、政府機関のベイカンシー(欠員)がのっている。その中に、ライブラリー・コングレス(議会図書館)のファーイースト・ランゲージ・セクション(極東言語部)でキャタロガー(目録編集者)を募集しているのが目についたんです」  その足で図書館にかけつけた小田氏は、終業五分前に間に合って、責任者に自己紹介をすることが出来た。そして翌朝、改めて出直した彼に採用の内諾が与えられる。だが、正規の採用には、身元調査を経なければならない。それには、二週間かかるということであった。  割高のモテル生活は、残り少ない持ち金をさらに乏しくする。思い切って、月百五十ドルのアパートを借りた。手元に残ったのは五十ドルであった。これでは、いかにも、心細い。  町の金融業者をたずねて、事情を洗いざらい説明する小田氏の口もとが閉じるのを待って、アメリカの金貸しは、一言、こういった。 「ノー・プロブレム(問題はない)」  六十ドルの借金を、彼は、年俸五千七百二十ドルで雇われるようになってから、十ヵ月で返した。  返し終わってほどなく、圭子夫人は、ふたたびブレーク・ダウン(挫折)する。彼女を日本へ送り返し、子供二人は、小田氏のそばに置いた。 「そのときはボルティモアに引っ越していたんですが、教会のナーサリー・スクール(託児所)に子供を預けましてね。六時に仕事を終わって、大急ぎで戻っても、七時にはなるんです。  教会では、そんな時間まで預かってくれないんですが、特例ということでお願いしまして。でも、保母さんたちは先に帰ってしまうから、迎えに行くと、カギのかかったフェンスの中に、四歳半と二歳半のわが子だけが、ポツンといる——」  雪深い季節であった。アパートから半マイル離れたショッピング・センターへ出掛ける小田氏の後を、この二人の息子は、いつも追った。だれかにもらった三輪車をひいて、帰りには、その荷台に、父親の持つ荷物をいくらかでも積むためにである。 「貧は孝の始まりということを、思ったりしたものです」  だが、こうした暮らしも十ヵ月が限度で、彼は子供二人を、日本へ連れ帰ることになる。「とうとう、くたびれ果てた」のであった。  単身アメリカに引き返して二年間というもの、小田氏は妻子と会っていない。図書館を辞めた彼は「こうなったら、本当にやりたいことをやろう」と、ニューヨークへ乗り込んだ。 「PK」という俗語がある。Pは牧師、Kは子供の頭文字で、「牧師の伜」と人がいうときそこには、軽いヤユが含まれている。  小田氏は、世間知らずという意味ではまぎれもなく「PK」であった。その彼が、ニューヨークの競争社会で、アメリカ人に伍《ご》して、生きようというのである。  ニューヨークで彼が見つけたアパートは、四十八丁目の十一番街と十二番街のあいだにあり、一ヵ月の家賃は四十七ドルであった。  その場所といい、家賃の安さといい、これまた貧民街の部類である。  このあたりは欧州からの難民が多く、彼の大家も、ウラジミールといって、ユーゴの生まれであった。十四歳のとき、西側へ脱出し、パリ大学を卒業したが、結局はアメリカに機会を求めて大西洋を渡ってきたという。  日が暮れると、町のニュース・スタンドで、翌日付けのニューヨーク・タイムズが売り出される。ワシントンでの場合と同じく、小田氏のニューヨーク生活も、毎日、新聞を買いに出ることから始まった。その求人欄で仕事を見つけるためにである。  この都会で、ごくありきたりの日本人が、皿洗いなどではなく、職業らしい職業にありつくとなると、容易なことではない。二ヵ月かかって、小田氏が得たのは、マンハッタンにあるテクニカル・カレッジの図書館の仕事であった。  そこに至るまでに、彼は彼なりの努力をしている。もともと、音楽好きの彼は、クラシック音楽界のマネジメントに興味を抱いていた。そこで、アメリカに百社からある興行会社のうち、その代表的な三つ、S・HUROK、コロンビア・アーティスト、ショウ・マネジメント・INCに、売り込みの手紙を書いたのである。  この世界での経験がまったくないことを思えば、乱暴であったと小田氏はいう。だが、S・HUROKからは、「いまはポストがないが先のこととして考慮する」という返事があり、ショウ・マネジメント・INCからは、「給料は払えないがアシスタントなら受け入れる」との回答があった。  彼にとっては思いがけない反応ということになるが、それにしても、これではきょう、あすの生活が成り立たない。そこで、とりあえず、大学の図書館にもぐりこんだのであった。  一ヵ月ほど働いていると、日本人がやっているパシフィック・ワールド・アーティストという興行会社に、恰好の仕事があった。日本から金春《こんぱる》流の能狂言が渡米してくることになり、一行二十三人の世話役を捜しているというのである。この話を持ってきたのは、彼と同じアパートに住んでおり、ミュンヘン音楽祭で一位になったことのある東京カルテットのビオラ奏者、磯村和秀氏であった。  七一年の二月から三月にかけて、彼は金春流一行のツアー・マネジャーとして、アメリカ、カナダの代表的な演奏会場をほとんど回った。彼は得意であった。すべてが順調に流れ始めたかに見えた。だが、アメリカでの公演もあと一週間という三月の下旬にきて、突然、解雇される。パシフィック・ワールド・アーティストを主宰する和子・ヒリヤーさんのげきりんに触れたのであった。  そのわけを、彼は詳しくいわない。一行の世話役として裏方に徹すべき彼が、マスコミの表面に出過ぎた、というようなことであったらしい。  行き場を失った小田氏は、紹介する人があって、ソニーに入った。ここも七四年の一月に辞めることになるのだが、そうなる原因は、次のようなことであった。 「私は上層部に信頼されて、その家の出入りも頻繁でした。そのせいで、上からの指示がミドル・マネジメントを越えて、直接、私のところへくる。その連中が、マイナスに働いて、私に冷飯をくわせたんですね。  彼らは、アメリカのマーケットとか生活とかを知らなさすぎるんです。いま考えて見て、知らず知らずに、彼らに対して批判的な態度をとっていたんではないか。そういう気がします。私には日本での勤めの経験がありませんから、どうしても、アメリカ的にスピーク・アウトしてしまう。そんなことも、いけなかったのでしょう」  ソニーでの生活を飽き足らなく感じ始めていた小田氏に、ニューヨーク・ライフ・インシュアランスが誘いの手を伸ばした。突然の電話に彼は戸惑ったが、それはこういう経緯からであった。  韓国にわが国のダーク・ダックスに匹敵する人気ボーカル・グループがあって、そのメンバーの一人だったサム・ヒャンという人物が、七二年にニューヨーク・ライフ・インシュアランスにセールスマンとして入り、年間契約高三百八十万ドルという新入社員の最高記録を打ち樹てた。  アメリカには千八百社もの生命保険会社があるが、百三十年の歴史を誇るニューヨーク・ライフ・インシュアランスは、社員が五万人からいて、契約高でいうと第三位である。  その歴史の中で、サム・ヒャン氏の記録は、ずば抜けたものであった。  そこで会社は、日本人セールスマンの起用を思い立った。ニューヨークに出向いてきている韓国の企業は、五十社から百社のあいだだといわれている。一方、日本からのそれは、五百社を下らない。単に数の比較だけではなく、企業の規模からいっても、日本勢がはるかに優勢である。  会社のヘッド・クォーターは、サム・ヒャン氏の活躍で、極東のマーケットに目を見開いた。韓国人相手でこれだけいけるのなら、日本人をねらえば、さらに大きな収穫が上がるだろうというわけで、日本人セールスマンの物色に乗り出したのである。  命を受けた求人会社が、しかるべきルートをたどって、五人の候補者を挙げた。東京銀行、野村証券、三井物産、住友商事の駐在員と小田氏がこれに該当する。  彼に誘いがあったのは七三年七月のことで、ソニーに在職するかたわら、彼は三ヵ月のトレーニングに通い、州の試験にパスした。明けて七四年一月十八日の金曜日、ソニーを辞めると、翌週の月曜日にあたる二十一日、“電撃的”にニューヨーク・ライフへ転じた。  会社のねらいは、小田氏の働きによって、正しかったことが証明される。一月二十一日から二月二十日までの正味一ヵ月間に、彼は六十二万ドルの契約をものにしたからである。これは、サム・ヒャン氏の五十六万ドルを上回って、新入社員最初の一ヵ月の新記録であった。  さらに彼は、五月までに累計百二十万ドルの契約高をものにして、スター・クラブに入る。  ニューヨーク・ライフには、各州のライセンスを持つセールスマン九千人が働いており、この中の選ばれた千人が、売り上げに応じて、三つのクラブを構成している。  最高はプレジデント・カウンシルに属する“金の卵”約百五十人で、これに次ぐ約三百人がトップ・クラブに入る。残りがスター・クラブのメンバーである。  サム・ヒャン氏は、七二年十二月にセールスを始めて、いきなりトップ・クラブに入り、翌七三年六月から七四年五月までの年間契約高で、プレジデント・カウンシルに飛び込んだ。  そのサム・ヒャン氏の、最初の一ヵ月の記録を破った小田氏は、スター・クラブに入ると、会社の招待で三日間を、ペンシルバニア州ランカスターで過ごした。この“褒賞《ほうしよう》”にあずかったのは、全国で三百人である。  だが、彼には、サム・ヒャン氏の三百八十万ドルという数字が重苦しくのしかかって来た。  この会社では、六月に始まって翌年の五月に終わる個々の契約高が、年間の一人一人の成績として記録される。中途入社の彼には、五月までの残り少ない日々に、新入社員の記録更新の成否が賭けられていたからである。 「サム・ヒャンは、韓国の人たちにとって、だれでもサインが欲しい人気者ですからね。その彼が(契約書の)サインを取ってくるのは、そう難しいことじゃありません。だが、私の場合は……」  小田氏には、茶の間の人気者ではないというハンデがある。しかし、それは大した問題ではない。彼の職業にとって、たいへんに都合がわるいのは、日本人のニューヨークにおける暮らしぶりなのである。  そのことは、この際、韓国人の口から語られる方が、より説得的であろう。  郊外にあたるクイーンズのフラッシングで、眼鏡の卸・小売業をしている金炳秀氏に会ったら、たまたまこんなことを話してくれた。 「このあたりの小学校では、韓国人にくらべて日本人が非常に多いんですが、中学校、高等学校と進むにつれて、これが逆になるんですね。高校でいうと、一つの学校に、日本人はせいぜい十人未満ですが、韓国人は数十人います。小学校では、ちょうどその反対ですね。  その違いは、どこからきているかというと、韓国人は十人が十人、こちらに根を張って成功しなければならないと考えているのに、日本人はほとんどが“臨時”だという、そこのところじゃないですか。  われわれは、商売でも、徹底したやり方をしています。たとえば、かつらの商売です。自動車に積んで、売れるところなら何百マイル先でも、どんどん出掛けて行きますから。昔、この方面はユダヤ人が支配していたんだが、いま、完全に手を上げてしまった。どこへ行っても、かつらは韓国製品です。原料は日本のものですが。  こういったように、われわれは、競争に勝たなければという意気込みでやっています。それにくらべると、日本人は甘いやり方というか、余裕を持った生活をしているように思いますね。  別の言葉でいうと、日本人は母国の恩恵を大きくうけていて、韓国人は、かえって母国からマイナスしかこうむっていないということになりますか」  このあたりの韓国人は五、六千といったところで、日本人の数はこれを上回るが、界隈に十店からある“東洋食料品店”のうち、韓国人または中国人経営のものがほとんどで、日本人の開いている店の方が少ない。これも、根の張り方の相違の、一つのあらわれであろう。いずれにしても、ニューヨークの日本人の大方は、“お客さん”なのである。  小田氏はいう。 「韓国人は三万人以上いて、その八十パーセントは永住権を持っている。日本人は三万人いると(正確な数字がつかめない)、その八十パーセントが一時滞在者なんです。しかも、残り二十パーセントの中身は、二、三世と米人の日本人妻がほとんどですから、私のビジネスの対象はせいぜい二千人というところじゃないですか。  うちの会社のマーケット・リサーチは、そこのところがよくわかっていない。  保険の仕事は、五年先、十年先の話をしなければなりません。二年先、三年先に、本社に戻ることばかり考えている人たちには、なかなか耳に入りにくい話なんですよ」  かりに月に八百ドルのコミッションをかせぐには、契約者の年齢によっても違ってくるが、ざっと十万ドルの契約をまとめなければならない。一人の契約が二万ドルとして、月に五人ずつ説得して行く勘定である。ニューヨーク・ライフに、初の日本人セールスマンとして迎えられた小田氏だが、前途は決して楽観できないのである。  彼に、もう一つの収入を約束する道として、セールスマンのスカウトがある。彼の紹介で入社したセールスマンが成績をあげれば、そのコミッションの約一割が、紹介者である彼に入る。  ある午後、日本のメーカーの出先を訪ねた小田氏は、エレベーターで黒人と一緒になった。挨拶をかわして、「このビルにいるのか」と話しかけた小田氏に、彼は「職を捜しにきたところだ」という。  エレベーター・ホールでの立ち話できいてみると、小田氏がアメリカの黒人だと思った彼は、三十六歳のリベリア人であった。ロンドン大学を出て、現在はパンアメリカン航空の貨物部門で働いているとのこと。小田氏は彼を、ビルの地下のバーへ誘った。 「保険に勧誘して断られたら、セールスマンにしてしまえ」という、トレーニング中の教えを思い出したのである。小田氏のすすめで踏ん切りをつけた彼、アーサー・フィッツジョン氏は、いま訓練を受けているところである。  もう一人、小田氏がセールスの道へ誘い込んだ男がいる。彼はペペ・スワレツというキューバ大法科卒の四十二歳の男で、小田氏が食事に入ったレストランでウェイターをしていた。  気弱な「PK(牧師の伜)」であった小田氏は、病のいえた妻と、二人の愛息をニューヨークへ呼び戻して、逞しく生き始めている。 「バーで二十五セントのドラフト・ビアを飲みながら、必死で覚えた英語が、いま役立っています。カウンターで知り合った男が、エクスターミネーターというから、家へ帰って辞書をひいてみると、虫殺し(駆虫業者)だったり、オプティカル・エンジニアというから、光学関係の技術屋かと思ったら、眼鏡屋の職人さんだったり……。  そうかと思えば、ガーニッシーなんていう言葉が耳に入ってくる。差し押さえのことなんですね。それで悩んでいるわけなんです。そんなところで、アメリカの消費生活の一断面に触れたりするんですよ」  そんな話をする小田氏だが、彼にしても、真にアメリカ社会で生きているとはいえない。身を置くのはアメリカの企業だが、彼の顧客は日本人に限られるからである。 「神戸」のバーで、何度目かの顔を合わせたとき、端正な小田氏は、よく刈り込んだひげの口もとを軽くゆがめて、こんな風にいった。 「小沢征爾が電気釜を背負って世界を歩く、その気持ちはよくわかりますね。日本を離れて、そろそろ十年。アメリカにいると、そういった感じはつのる一方です。私も、毎日、家ではコメの飯なんですよ」 第八章  果せぬ夢を息子に託した「サトミ」  昼下がりに、ウォルドーフ・アストリア・ホテルのロビーで、まだ足元のおぼつかない幼児を遊ばせている小柄な日本女性を見掛けたら、それがサトミである。  格式を誇るこのホテルのロビーを、子供の遊び場にした母親は、たぶん、彼女の前にはいない。そのわけをたずねると、サトミはこういうはずである。 「この子、ここのシャンデリアが、とっても気に入ってるんですよ」  そして、もし、彼女が打ちとけることのできる相手であったら、こんな風につけ加えるであろう。 「いまのうちから、ガッツを植えつけておこうと思いましてね。私には、物欲がなさすぎますから」  母子が午後のひとときをここで過ごすのが日課になって日も浅く、エレベーター嬢をとりしきる中年の女性は、たまたま客の切れ目にぶつかればの話だが、まだ日本語しか話せないこの幼児、ジョージを、手招きで呼び寄せるようになった。そのとき、エレベーターの一台は彼の専用になって、ロビーと最上階を往復する。  そのほとんどが、それぞれの属する地域社会で尊敬を受ける地位を占めているであろうこのホテルの泊まり客を、不測の危害から守るため、エレベーター・ボックスの一隅に据えつけられているテレビ・カメラが、この場違いな“賓客”をとらえないはずはない。  だが、“接伴役”が、いまだかつて、その上司から咎め立てを受けていないことから察するに、テレビの監視係も心優しい人柄であるのだろう。  ジョージは、東京の下町にあるサトミの実家で生まれた。出産のため、里帰りをしたサトミは、三番目の子になる彼を生み落とすと、その世話を年老いた母親、カネに頼んで、そうそうにニューヨークへ戻って行った。  そこには、ジョージにとって、父親こそ違うが、兄であり姉である、十四歳のローランドと年子のマイラが待っており、その一切が日本レストランでウェイトレスとして働くサトミの細い肩にかかっていたからである。  七四年の七月、誕生日を過ぎてそれほど手がかからなくなったジョージを引き取るために、サトミはふたたび里帰りした。運よく、チャーター便に空席三つを確保できた彼女は、休暇に入っていたローランドとマイラを同行した。  久しぶりに見るジョージは、片言を喋るようになっていて、「エ」を「イ」と発音した。栃木生まれのカネの影響である。  カネが、ニューヨークの孫に会うのは、これが初めてではない。マイラが生まれて間もないころ、サトミはローランドと彼女を、預けに来たことがある。  その直前に、サトミは二人の父親である中国系アメリカ人と別れた。再起を図ろうとした彼女は、子供たちを実家に預けて、ラスベガスのカジノで働こうと考えていたのである。 「稼ぎになるってきいたんですよ。バクチに勝った人が、パッとチップをくれるからって——。私って、そういう甘い考えなんですね」  このくわだては、結局、実現しなかった。昔風のカネは、娘が連れて来た混血の孫がうとましい様子で、ついぞ肉親の情を示さなかった。サトミは、しばらくいて、二人をニューヨークへ連れ帰った。  それから十三年たっている。英語しか話さないローランドとマイラに、カネはいっそう隔たりをおぼえたようであった。  東京で過ごした一ヵ月間、サトミは、夜の勤めに出ている妹の世話で、ホステスとして働いた。四十歳になるサトミだが、小柄なせいもあって、若くつくると、三十そこそこに見えた。ニューヨークの人だという物珍らしさから、客の受けもまずまずであった。  彼女とローランド、マイラにその意思さえあれば、少なくとも休暇いっぱいは、東京にいることが出来た。だが、サトミは、八月に入るとすぐ、合わせて三人になった子供たちを引き連れてニューヨークへ戻った。ジョージはともかく、他の三人にとって、東京は、住み心地のよい場所ではなかったのである。  サトミが初めてアメリカへ渡ったのは、一九五五年(昭和三十年)のことである。東京の高校を出て、米資系の会社に勤めていた彼女に、思いがけなく留学のチャンスがまわってきた。  アメリカの大学を卒業した日米の婦人たちでつくっている「カレッジ・ウイメン・クラブ」というのがスポンサーとなって、八人の女子留学生をアメリカへ送り出すことになり、その中の一人にサトミが選ばれたのである。 「羽田で記者会見がありましてね。一人一人、抱負をきかれたりして、あのときがハナだったわ」  アイオワ州にセントラル・カレッジという単科大学がある。その英文学科に入学したサトミは、しかし、一年しか大学にいなかった。  休暇でシカゴに出た彼女は、日系二世と知り合い、たちまち恋に落ちた。一旦は大学へ戻ったが、「来ちゃったわ」とシカゴの彼のもとへ転がり込んだのが、サトミの大学生活と別れる日になったのである。  彼というのは、ポリネシア料理店のウェイターをしていた。その同じ店に、サトミもウェイトレスとして入った。  その店がニューヨークに進出することになって、二人に新しい職場への誘いがかかったとき、彼と彼女の意見が大きく分かれた。 「ニューヨークへ行ってチャンスをつかみましょう」と、たいへん乗り気になったサトミに、「田舎でのんびりテレビでも見ている方がいい」という引っこみ思案の彼は、同意しなかった。二人は、あっさり離婚して、サトミだけニューヨークへやってくる。五八年のことである。  その新しい店で知り合ったのが、彼女の二度目の夫となる中国系アメリカ人で、彼もウェイターをしていた。二人のあいだに、ローランドとマイラが生まれるのだが、夫に大きな欠陥があるとサトミが気づいたとき、夫婦の生活はもう破綻《はたん》の淵まで来ていた。競馬狂いの彼は、昼はアクエダクト、夜はルーズベルトといったように、レース場に入りびたる日が多く、それでなくても少ない働きが、馬券買いに消えるのであった。  ローランドとマイラを連れたサトミが、実家に泣きついたのが、この時期にあたる。結局、ニューヨークへ戻ったサトミは、離婚に同意したものの「子供を寄越さなければお前を殺す」といきり立つ彼から逃げるために、まったく未知の土地であるマイアミへ飛んだ。  そこでの母子の生活のはじまりを支えていたのは、漠然とこういう事態を予想してサトミが貯めていた、二十枚ほどのシルバー・ダラー(銀貨)であった。だが、それも、一枚、一枚、食事代と宿代に消えた。  働かなければならない。そのとき、夫に引き渡すことを拒否した一歳と誕生間もない二人の子供が、サトミの重荷となった。  手慣れたポリネシア料理店のウェイトレスの仕事をやっと見つけて、住まいにしていた安宿の一室に、ベビー・シッターを頼む。最初にやってきたのは、やはり乳飲み子を抱いて夫と別れたばかりの白人女性であった。  だが、それもあまり続かず、人づてにきいた私設の託児所に、サトミは出掛けて行った。  そこは、小さいが一戸建ての家で、四十半ばになるドイツ系の女性が、子供を預かっていた。彼女は前の年までストリッパーだったといい、娘が十五歳になったのをしおに、“手堅い”商売へ転向したのだという話であった。  そこに頼る女性は、サトミと似た身の上の人ばかりであった。突き落とされたどん底のところにいて、彼女は、女の悲劇に国境がないことを悟るのである。そして、それは、彼女が娘時代に好んで見たハリウッド映画にはない、もう一つのアメリカの素顔であった。  ウェイトレスの一日の報酬は、三ドル五十セントである。目当てのチップも、ひどい日には二ドルというのであった。給料日に、稼いだ金がそっくり、元ストリッパー嬢の手に渡った。  やがてサトミは、子供ともども“託児所”の一室に入ることになる。部屋代プラス託児料で週四十五ドルの契約である。  夜、仕事が終わって帰ってくると、サトミは食事をすることが出来ない。というのも、アメリカの生活は車を前提に成り立っていて、食べに出るにも、ちょっとやそっとの距離ではないからである。  元ストリッパー嬢は、子供には食事をくれる。だが、余っていても、母親に食べろとはいわない。だから、サトミが空腹を我慢できないとなると、彼女に五十セントか一ドルを出して、しかるべきところまで彼女の車で運んでもらわなければならない。“契約の精神”というのも、ここでサトミが学んだ、もう一つのアメリカの側面であった。  マイアミでほとぼりをさましたサトミが、ニューヨークへ帰ったのは、六四年のことである。彼女は、日本レストランにウェイトレスとして勤めた。そこは、すべてが満足とはいかないにしても、やはり心安い働き場所であった。別の表現をすれば、アメリカの中の“日本”に逃げ込む以外、彼女の落ち着くところはなかったといえる。  しかし、十年足らずの歳月は、羽田空港の記者会見で胸を張っていた少女を、二度の結婚に破れた子持ちのウェイトレスに変えていた。かわらないものがあったとすれば、天性の楽天主義であった。  ローランドが小学校五年生になるとき、サトミは彼を、ロングアイランドにある全寮制のセントポール・スクールに入れた。裕福な家庭の子弟のためにつくられたプライベイト・スクールである。  アメリカの東部は、ある意味では“イギリス社会”であって、英国に範をとったプライベイト・スクールは、一つの典型的なあらわれといってよい。  夏には、広大な森を占有する八週間のキャンプがあって、乗馬、水泳と、徹底的に身体を鍛えられる。合間には、子供たちを飽かさないために、池や川での釣りなどがはさまれているが、わざわざ、買ってきた魚を放す豪勢さである。  もちろん、費用もかかる。この夏だけのために千ドル。年間の月謝は、寮費を含めて三千二百ドル。とても、庶民に手の届く世界ではない。  この他に、冬はネイビー・ブルー、夏はシア・サッカーと定められた、ワッペンつきのジャケット、やはり指定のジム・スーツ、公立とは違う教科書など、もろもろのかかりがあるから、年間の学費は、最低五千ドルを覚悟しなければならない。  そのかわり、学業にも力が入れられており、一クラスの編成はせいぜい十二、三人で、ほぼこの数に見合う教職員が用意されている。  教師の大半は、俗にアイビー・リーガーと呼ばれる東部名門校の出身者で占められ、次代の指導者となるべき生徒たちに、それにふさわしい教育を施す。  ローランドを除いて他の生徒はすべて白人というセントポール・スクールに、サトミがわが子を入れたのは、下世話でいうと、自分の果せなかった夢を彼に託したのである。  この学校からは、陸、海、空の士官学校へ進むものが多く、それが一つの伝統となって、今日に及んでいる。  サトミは、コロラド州デンバーにある航空士官学校への進学を、年端のゆかないローランドに義務づけた。軍は、かつて、遅れて来たアイルランド系市民が競って選んだように、比較的人種差別の少ない分野であり、あるところまでは実力が通用する社会だからである。  かりに、軍の階級を順調にのぼれないまでも、操縦技術を身につけて民間航空のパイロットに転身すれば、それはそれで高収入が約束されている。サトミには、その打算もあった。  母親の身体を張った“賭け”は、いま、成功に向かいつつあるかに見える。  一昨年はクラスで一番、去年は三番の成績をあげたローランドは、特別進級の恩恵で一学年飛び越し、日本流にいえば「高一」に進んだのである。  娘のマイラは、ペンシルバニアのやはりプライベイト・スクールに入り、ずっとトップの成績を続けた。ここも全寮制になっていて、週末に親もとへ帰ってくる生徒たちは、日曜日の夕方までに学校へ戻らなければならない。  このとき、学校の最寄りの駅から、車によるピック・アップ・サービスがある。といったが、これは正しい言い方ではない。近くの飛行場まで、父親の自家用機で送られてくる子弟もいるのだから。  マイラの方の学費が三千ドルというから、サトミは、ざっと見積もって年に一万ドル近いものを、二人の子供の教育費にかけてきたことになる。その金額は、アメリカの平均的男性の年収に見合うものであって、ウェイトレスを職業とするサトミの負担能力を、明らかに超えている。 「校長先生に延期願いの手紙書くの、すっかりうまくなっちゃって——。ふつうなら、学年の初め(九月)にまとめて払うんだけど、ローランドなんか、まだ百ドルのレジストレーション・フィー(登録料)だけしか払ってないんです。あまりしょっちゅうのことだから、月払いの便宜をはかりますといって来たんですが、それもどうかと思いましてねえ」  マイラは、去年の九月、サトミの手もとに呼び戻されて、マンハッタンにあるローデス・スクールに転校した。ここも私立の学校だが、通いだから、年間千六百五十ドルの授業料で済む。  だが、サトミは経済のことを考えて、そうしたわけではない。夜、働きに出たあと、ジョージの面倒を見るものがいないからであった。 「別れた主人が、うちの娘を女中がわりに使わないでくれ、なんていってきましたけど」  教育費はおろか、養育費も送ってこない父親が、口出しする資格はない。 「マミー、ぼく、ドクターになろうかと思うんだ。その方が、もっとお金になるっていうよ」  大人びてきたローランドは、最近、そんなことをいうようになった。  要は、アメリカ社会の階段を、一段でも上ることである。  生まれ落ちてからアメリカ人として生きることを宿命づけられていて、しかし、黄色い肌をハンディキャップとして持つわが子に、ニューヨークの日本人社会の底辺にいるサトミが注ぎ込んできた執念は、その一点に凝集されている。「ウェイトレスふぜいが」と陰口をきく人たちが、この子供たちの尻を押し上げてくれることはない。 「寄っていただいて、コーヒーでも差し上げたいんですけど。お恥かしい話ですが、そのコーヒーをのせるテーブルもないような有り様でしてね。別れるたんび、私は、きれいさっぱり置いてきちゃうものですから」  二十四時間ドア・マンつきの、高級に属するイースト・サイドのアパートの前まで送って行ったその別れぎわに、サトミはそんなことをいった。だが、そこに暗い響きは、みじんもなかった。  ウォルドーフ・アストリア・ホテルのロビーで、輝くシャンデリアを見上げさせているジョージに、早く挫折してしまった、若いとはいえないこの母親がかける夢は、どういうものであるのだろう。 第九章  演歌が流れるピアノ・バーの女性たち  四十九丁目のレキシントン街と三番街のあいだに、ピアノ・バー「女の城」がオープンしたのは、七四年の一月二十日であった。  マダムが、それまで「神戸」のウェイトレスをしていた咲江で、ピアニストが、過去に六、七度「神戸」に出たり入ったりしたクララという“日米コンビ”によるものである。  ニューヨークでのピアノ・バーの草分けは、初めイースト・サイドに「ニア・アンド・ファー」として店開きし、六七年にウエスト・サイドへ移って「神戸」と看板をかえたミミの店である。  ここの日本人社会には“神戸大学”という言葉があって、ミミのもとから、多くのウェイトレス、板前が経営者として巣立って行った。咲江とクララも、その“同窓生”の間柄なのである。  ウエスト・サイドへ「神戸」が移ったとき、そこで日本人客のために伴奏のピアノをひいていたのが、やがて「心と心」の共同経営者として自立することになるダイアナであった。  ロシア系のダイアナは、たぶん、六十歳に近い。あるいは、それを出ているかも知れない。  彼女は、夜の“日本人村”に欠かせない名物的な存在で、日本のあらゆる曲を、最新流行のものまで含めて、確実にひきこなす。  そればかりではない。歌詞がうろおぼえの客のために、日本で発行される歌謡全集のたぐいを全部取り揃えていて、リクエストの声がかかると、間髪を入れぬすばやさで、その所在を言い当てるのである。たとえば「ブックNO2、ペイジ135」といったふうに。  五年前、ニューヨークのピアノ・バーといえば、「神戸」と「心と心」があるだけであった。一時期、この二軒の盛況に刺激されて中国人が「名声」というのを開いたが、これは間もなく潰れた。  その後、「神戸」の入っていたビルが取り壊しになり、そのピアノ・バーも終わりを迎える。ミミは、ふたたびイースト・サイドに戻って日本料理店を開くのだが、ここにピアノ・バーはついていない。残ったのは、ダイアナの「心と心」だけということになる。  ところが、それから五年——いまニューヨークのピアノ・バーは、三十軒にも達しようとしている。  それらのすべてが、狭いマンハッタンの中央部にひしめき合って、夜な夜な午前四時に至るまで(土曜日は午前三時まで)、“民族の歌”を流し続ける。そうした図は、ここの土地に以前から住む人々にとって、異様としか映らないであろう。  ピアノ・バーの客は、百パーセント近く、日本人である。この種の店のつくりは、もちろん様々だが、昔、「神戸」に見られた原型だけは、どこにも忠実に受け継がれている。  ピアノを囲んで馬蹄《ばてい》形のカウンターがこしらえてあり、そこに陣取った客が、好みの歌をピアノ伴奏でうたうのである。マイクが用意されていることは、いうまでもない。  短期の旅行者、あるいは赴任から日が浅い駐在員は、そうした店々でかもし出される雰囲気に、戸惑いをおぼえるに違いない。  どこからくるのか、ピアノ・バーは一、二を除いて、場末の空気を伝えている。薄暗く、うらぶれていて、陽気さとか華やかさとかには、程遠い。  だが、初め違和感をおぼえた人々も、やがては、それを心の中の抵抗体として残しながら、ピアノ・バーの扉を押すようになるはずである。日本人が心からくつろげるのは、日本人が寄り集まる場でしかない。それが、島国根性からきていようと、いまいと、夜の“日本人村”は、建前ではなく、本音が人々を動かす世界なのである。  まれに、アメリカのポピュラーをうたうものがいる。と、かならず、不快を表明するものが出てくる。 「英語はよしてくれ。英語は」  過去にピアノ・バーの常連であった私は、そうした叫びにも近い感情の吐露《とろ》に、いく度となく接した。薄暗い片隅にいて、高度経済成長と呼ばれるものの根の弱さ、そこからくる全体のあやうさ、もろさ、不安定ぶりを思ったりしたものである。  客の多くは、商社あるいはメーカーの駐在員であり、選ばれた日本経済の“尖兵《せんぺい》”である。私は、ドルをかせぐ立場にない、使うだけの特派員であった。その私の内側に、彼らに対するある種のうしろめたさがあったことはいっておく必要があろう。テキの領地で、テキの言葉、テキの習慣と戦いながら、どうあっても、収穫を持ち帰らなければならない。そうした彼らがあって、私もいるのである。  それにしても、彼らは痛々しく見えた。英語はやめてくれ、というのは、その人のアメリカ社会に対する適応不能をあらわしている。英語は昼間だけでたくさん、なのであろう。  ピアノ・バーの盛況は、とりも直さず日本人村の拡大につながるものであり、その意味から日本経済の伸びを示す指標であるともいえる。だが、そこでうたわれるのは、あくまでも演歌が主流である。このことは、若い世代についても例外ではない。そして、ナツメロが圧倒的に多いのである。  涙、雨、波止場……はともかく、「明日は東京へ出て行くからは」といった式の、文句ヅラからいえば勇気を鼓舞《こぶ》するはずのものまでが、ここでは哀切に響く。それは、なぜなのであろう。 「女の城」は、比較的、若い客層を集めている。それは、ママにおさまった咲江が、ニューヨークに居ついたウェイトレスの中で“最若手”に属しているところからきている。といって、彼女もそろそろ四十歳なのだが——。  咲江のパートナーになったクララは、革命前にロシア宮廷付きのオーケストラの指揮者であった父親に、三歳のときからきびしく音楽を仕込まれた。  ピアノに関しては、天才児とうたわれたらしい。クララの自慢は、七歳のとき、マリア・カラスの伴奏をつとめたということである。それでいて、今年何歳になるのか、だれにもいわない。  年老いた父親は、七番街とブロードウェイの中間にある安宿「マークウェル・ホテル」の一階で、たぶんニューヨークでは一番古い楽譜を扱う「ミュージック・マート」という店を開いている。  狭い店内を窓越しにうかがうと、年代ものの楽器や時代を経た楽譜に埋もれて、老亡命者の縮こまった細い背中が見えるはずである。そこにあるのは、彼の存在を含めて、すべてが、失われた“過去”であり、彼にとって楽器も楽譜も、残されたわずかな余生を糊《のり》する手段でしかない。彼は、それらに現代の息吹きを与えるべき人を待つばかりである。  クララとダイアナは、父親同士がロシア人という縁で友人関係にあり、古くから知っていた。そして、日本人向けのピアノ・バーに入ったのは、クララの方が早い。  六五年六月、「ニア・アンド・ファー」に現れたクララは、生まれて初めて耳にする日本の音楽を、すぐにキャッチして、無難にこなした。  しかし、天才少女の自負を捨て切れないクララは、素人客のいい加減な歌にピアノを合わせようとはしなかった。つい、先生口調になるのである。彼女に、日本の“水商売”の感覚を持てという方が無理なのだろうが。  一方、経営者に向かっては、いろいろと要求が多い。そうしたことがわざわいして、ほどなくクビにされた。 「この女は、いつも泣きっ面してさ。不景気をしょいこんでくるのさ。水商売には向かないよ」  勝ち気で、さっぱりした気性のミミはそういったが、後釜のダイアナが「心と心」の開店で去って行くと、つなぎが必要になって、クララを呼び戻した。  だが、それも、西海岸からKという日本の女性ピアニストがやってくるまでのことである。Kが着いた夜、クララは演奏の最中におろされ、解雇を言い渡された。  Kはニューヨークで伝説の人となっている。 「あの子は、めちゃくちゃもめちゃくちゃだったけど、あれだけのピアニストは、後にも先にもいないねえ」  とミミはいう。  麻薬中毒のKは、ハイの状態になると、即興で神がかりのような演奏をきかせた。彼女の人気は、爆発的であった。それには、Kの女としての魅力も手伝っていた。複数の黒人とビレッジで同棲生活を送るかたわら、ニューヨークの日本男性の上に女王のように君臨し、咲江の表現をかりると「その半分くらいは操った」という奔放な女性であった。結局、もろもろの事件を惹き起こして、一年余りで都落ちしてしまうのだが。  その後にまた雇われたのが、クララである。それも、日本からピアニストが呼び寄せられるまでのあいだであった。彼女は、いつも、穴埋めに使われ、失業保険に頼る期間の方が、はるかに長かった。 「江戸」がピアノ・バーを開くとき、クララに声がかかったのは、開店五時間前である。経営者は、彼女を雇うについて、ぎりぎりまで思案せざるを得なかったのだろう。  ジュリーという「神戸」にいた韓国系のウェイトレスが、独立して「オーリ・ハウス」を開いたとき、クララが迎えられたが、一年しかもたなかった。それでも、ここが、彼女にとって、もっとも長く続いた勤め先であった。そのおかげで、クララは韓国の民謡、流行歌をレパートリーに加えた。  流転を続けていたクララが、「神戸」のウェイトレスをしていた咲江に、新しいピアノ・バーの“共同経営”を持ちかけてきたのは、七三年も押し迫ったころである。  クララがいうには、資本は彼女が出す。だが、表面はあくまでも咲江がオーナーであるように振る舞ってほしいというのであった。  日本人相手の商売だから、やはり、日本人のママさんでなければ何かと都合がわるい。そして、日本人の客を店に引けるのは、クララではなく、咲江である。  条件は、店の登記も半分半分、利益の分配もフィフティ・フィフティだという。子供三人を抱えて、女手一つで育てている咲江には、独立がかねてからの希望でもあったし、願ってもない機会だと思われた。  貸し店の持ち主との交渉から始まって、下準備は、すべて咲江が奔走して片づけて行った。看板をかいてくれたのは、「神戸」の客の日本人画家である。開店の前日、徹夜でカーペットを敷いてくれたのは「神戸」の若い衆たちであった。  そして、いよいよグランド・オープニング(開店披露)の日、「神戸」の板前が素晴らしいタイの活作りを、祝いだといって持ち込んでくれた。バーテンダー、ウェイターも「神戸」の連中が、無料奉仕を買って出た。それもこれも、咲江が新しい店のオーナーになったと思えばこそである。  開店から三ヵ月、咲江の収入はゼロが続いた。利益が計上されないとクララはいう。約束は「利益を折半」だから、そういわれれば文句もいえない。  ただし、クララには毎夜、ピアノの上に立てたグラスに客が差し入れて帰る、チップが入る。その額は、一人が一ドルのこともあれば、五ドル、十ドルのこともあった。一概にはいえないが、ピアノ・バーの売れっ子ピアニストの実入りは,月に二千ドルになるというから、クララの“副収入”も決して少ないものではない。  それにしても「女の城」が開いてからのクララは、まるで別人であった。  オカッパ風の黒毛のカツラでブルネットを隠し、そのわきにはサクラの造花を一輪さして、両頬を丸く紅ではいたところなど、いわずとも、日本人を意識していると知れた。  わらべ唄の世界にイメージを得たのであろうか。年齢不詳のクララの少女趣味は、彼女のそれまでを知るものにとって、気色のわるいものであったが、しかし、その熱心さを、新しい店の経営者である咲江のために喜んだ。  ステージのクララは、説教調をがらりと変え、どんな歌にも「ワンダフル」、「ビューティフル」を惜しまなかったし、ここぞというときには力をこめて「プロフェッショナル」を連発した。クララは、「女の城」で変貌したのである。  咲江が「はかられた」と気づくには、もう少しの時間が必要であった。  ニューヨークでは、ドリンクに十五パーセントから二十パーセントのチップがつきものである。だが、それは使用人に対してのことであって、店のオーナーには必要としない。むしろ、チップを出せば、失礼にあたる。  経営者である咲江は、チップを置こうとする客に、いちいち、返していた。その彼女に「あなたも、たくさんチップをもらうように努力した方がいい」とクララが言い出したのは、開店から三ヵ月が過ぎて、いぜん無収入の状態が続き、窮乏した咲江が、相談を持ちかけたときである。それは、咲江が使用人であることを宣告したにひとしかった。  そればかりではない。「うちは女の子がいないんだから、あなたがホステスのように客席にはべってちょうだい」と、クララはオーナーとしての物言いを始めたのである。  それから一年がたとうとしていて、咲江は「ビジネスがない」という理由で、週に百ドルから百五十ドルをクララから渡されるに過ぎない。それはウェイトレス時代より、はるかに少ない収入なのである。  約束の履行を迫っても、言を左右にして応じないクララの態度に業を煮やして、咲江は、離婚のとき世話になった女性弁護士に泣きついた。結果は「あなたはバカだ」と、相談料五十ドルをとられて叱られただけであった。  開店の前「ウィ アー フレンズ。 ユー トラスト ミー」(私たち友達でしょう。信用してよ)とクララに言われて、ペイパー(契約書)をかわさなかった咲江の落ち度だというのである。  それは内輪のことで、咲江はどこまでも、客には経営者の態度をとり続けなければならない。彼女を盛り立てるつもりで来てくれる客ばかりだからである。  開店のとき世話になった人たちに、彼女がウイスキーの一杯もご馳走しようとすれば、目ざとく見つけたクララが演奏を途中でやめて、咲江を物陰に呼ぶ。仕方がないので、咲江は自分のボトルを一本置いて、義理を果たしているような状態なのである。  一箱八十五セントの煙草は、クララが管理していて、仕入れとの差額をがっちりフトコロに入れる。ピアニストのところで煙草を買う不自然さは、“経営者”である咲江の立場を奇妙なものにしている。 「私、ていよく、タダで使われたのね」  アメリカにきて二十年になろうとする咲江は、日本人の甘さをしみじみ知らされた。 第十章  日本人村に寄りつかなかった日本人医師  ほぼ満五年ぶりに芦刈宏之《あしかりひろゆき》と“再会”したのは、七四年十月十八日付けのニューヨーク・タイムズの紙上であった。  その日、ウォルドーフ・アストリア・ホテルのコーヒー・ショップで遅い朝食をとっていた私は、テーブルの上でくっていたこの分厚い新聞の四十八ページに、大写しにされている彼を見つけたのである。  その写真は、記者会見の模様を写したもので、そこにおさまっていたのは彼一人ではなかった。  中央に、アメリカの乳ガンにかけての最高権威といわれているジェローム・アーバン博士がいた。向かってその右手に、アメリカにおける私立としては最大のガン病院であるメモリアル病院の院長、エドワード・ビーティー博士の姿があった。そして、左手が、芦刈である。  だが、カメラは三人を、向かって左手前からねらっていた。そこで、芦刈のいささか緊張気味の表情が、大きくクローズ・アップされる結果になっていた。 “ハッピー”の愛称で親しまれているネルソン・A・ロックフェラー副大統領のマーガレッタ夫人が、メモリアル病院で乳ガンの手術を受けたのは、その前日にあたる十月十七日である。  これより二週間早く、フォード大統領のベティ夫人が、ワシントンの海軍病院で、やはり乳ガンの手術を受けた。  アメリカの婦人のあいだで一九三〇年代以降、徐々にではあるが確実に、乳ガンの患者が増えてきている。その原因は明らかにされていないが、動物性脂肪分の多い食事に起因するものではないかとの見方が強い。  乳ガンの発生率が世界でもっとも高いのはスカンディナビア諸国であって、肉食がもっとも盛んに行われているのもこれらの国々だというのが、その根拠である。  日本女性の場合、乳ガンの発生率はかなり低いが、サンフランシスコの日系医師の調査によると、アメリカ在住の日本女性のそれは、日本本国の数字をはるかに上回っており、彼女の娘たちになると、アメリカ並に近づいているという。  現在、婦人十五人の中の一人は、乳ガンを避けられないとされているのがアメリカである。そして、年間に九万人ほど発見される乳ガン患者の約九割が四十歳以上の婦人だというので、中年に達した女性たちは、その恐怖におびえている。  マーガレッタ夫人もその一人であった。大統領夫人の乳ガンが発見されたと知ったその日、彼女は自分で“検診”していて、左の乳房に気になるしこりをさぐり当てた。  その四ヵ月前、彼女はマンハッタンの婦人科医で乳ガンの検査を受けているのだが、そのとき、異常はないとされている。それでも気になった彼女は、同じ医者を訪ねた。そこで、乳ガンの疑いがあるとの診断が下され、メモリアル病院にやって来たのが、一週間後であった。  メモリアル病院は、スローン・ケタリング記念ガン・センターの付属機関である。一八九六年に建てられており、ガン専門の病院としては世界でもっとも古い。  センターはこれより新しく、一九五〇年にできた。GMの会長だったスローン氏と、GMの大株主であるケタリング氏が寄付したもので、両氏の名前がつけられているのは、そのためである。  このとき、マンハッタンのヨーク・アベニューと一番街、六十七丁目と六十八丁目にまたがる一万二千エーカーもの土地をセンターに寄付したのが、ロックフェラー副大統領の父親にあたるジョン・D・ロックフェラー氏であった。それが縁で、副大統領の弟であるローレンス・S・ロックフェラー氏が、センターの評議会の議長をつとめている。  メモリアル病院は、このように、ロックフェラー家にとってなじみの深いものなのである。だが、かりにそうした関係がなかったとしても、マーガレッタ夫人は、この病院に最終的診断をゆだねたであろう。なぜなら、そこは、年間八千六百万ドルの経費を計上し、四千人のスタッフを擁する、もっとも信頼のできるガン・センターだからである。  副大統領夫人の乳ガンが確定的とされたのは、週を越えて水曜日であった。その日の午後、入院した彼女は、翌朝八時半にはもう手術を受けている。  この手術の執刀者がアーバン博士で、ビーティー院長と芦刈ら六人の医師がこれを補佐した。  病室、手術室をシークレット・サービスが固める物々しい警護ぶりで、副大統領の要請を受けた病院側では、夫人のプライバシーを守るため、厳重な箝口令《かんこうれい》を院内に敷いた。だが、従業員の口から外部に洩れて、マスコミの知るところとなった。  大統領夫人に続く副大統領夫人の入院は、それでなくても乳ガンの恐怖にとりつかれているアメリカ女性を、大きく動揺させた。同じ日付のニューヨーク・タイムズが、乳ガン早期発見のため、検査機関の所在と電話番号を読者に伝えているのが、その一つのあらわれである。  私事で恐縮だが、芦刈とは東京・世田谷の中学校(旧制)で同級生であった。在学中に、さして深いつき合いはない。痩せてひょろ長い彼が、放課後になると草野球のチームを率いて、いつもマウンドに立っていたのが印象に残るくらいのものである。  中学校は、私たちが三年生になった春に新制高校へと衣替えをし、学習年限からいってそこへ入ることのできない私たちと、一年下のクラスは、二年後に自然消滅する「併設《へいせつ》中学校」にとどめおかれた。  この「併設中学校」は、どうせなくなるものだから、新規の募集はしない。かわって、新しく発足した区立の新制中学校の一年生二クラスが、私たちの校舎に間借りして開校した。一つの校門に三つの学校の看板が下がる、私たちは混乱期の生徒だったのである。  高校二年から慶応高校に転校した芦刈は、慶大の医科系に進んだ。私は一年後に別の大学に入ったが、芦刈とつき合いができたのは私たちの高校卒業の直後であった。  そのころ、東京の区長は、公選によって決められていて、卒業の年にあたる昭和三十年の四月一日に行われることになった地方選で、彼の父、芦刈末喜《すえき》氏が、社会党候補として世田谷区長選に出馬したのである。  大学入試の発表があってからだと思うが、私は自宅に芦刈の訪問を受けた。「親父の選挙を手伝ってくれないか」というのである。  占領軍は民主化政策の一環として、高校にも自治活動を持ち込んで来た。どういう加減か、二年生の後期から生徒会長などにかつぎ出された私は、そのうち、学業よりこちらの方が面白くなり、受験の準備もそっちのけで三年生の後期まで、校内外を走り回っていた。そんな私を、選挙運動向きと判断したのであろう。  彼の父親は、私たちの高校のPTA会長を務めていた関係で、私たちになじみの深い存在であった。しかし、これといった役職も他にはなく、「地盤、看板、鞄」などという言葉はまだきかれなかったと思うが、それらに無縁の無名候補である。  大学の入学式まで、どうせ遊んでいる身体だからと、仲間から仲間へと呼びかけて、大挙、選挙事務所に押し掛けた。  時効だからいうが、芦刈陣営の運動員は、選挙活動を認められていない未成年者ばかりであった。成年に達していたのは、候補者と、鹿児島大学医学部に在学中だったその次男だけで、あとは全員、三男である芦刈のかつての同級生、つまり私たちであった。  現職の区長と、土地の実力者と、保守系二人を向こうにまわしての選挙戦は惨敗に終わった。その二人の得票を合わせると、こちら側の十倍に近かったように記憶している。終始、トラックに乗って、候補者の“前座”をつとめていた私は、負けたとわかったとき、泣いた。  それから日が浅く、私は母親から、芦刈末喜氏の来訪を受けたときかされた。そのとき私は出掛けていて、お会いすることができなかったのである。  郷里大分の文旦漬《ぶんたんづけ》を差し出された芦刈氏は、畳に手をついて深々と頭を下げ、涙を流されたという話であった。  この選挙戦のとき、私は初めて、芦刈も同じ外地からの引揚者であることを知った。彼は大連《たいれん》、私は京城《けいじよう》の生まれである。  その後、彼との往き来は、自然に途絶えた。アメリカの彼から結婚の通知をもらったのは、いつのことであったろう。英文で書かれたアナウンスメントの中に、英語名の花嫁の名前を見て、彼の存在がはるか遠いものになったという感じだけがあった。  後に芦刈が語ったところによると、五八年に慶大医学部を卒業した彼は、一年間のインターンのあと、アメリカ留学を志した。だが英語など、まるでできない。そこで、英語に堪能な友人に願書の原稿を書かせ、これを、ガールフレンドにタイプしてもらって、都合六通、アメリカの病院へ送った。全部受け入れられたが、最初に返事があったニューヨーク市立フォーダム病院を留学先に選んだ。  一九五九年六月、父親から現金五十ドルとキヤノンを餞別にもらった芦刈は、トランク一つをさげて、DC6の人となる。途中、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンジェルスに寄って、ニューヨークのラガーディア空港にTWAのプロペラ機で着いたのは、七月一日の午前六時であった。  空港には、前もって通知をしてあった日本交通公社の派遣員が出迎えに来ていてくれた。その人の案内で、マンハッタンのフォーダム病院に直行した。彼を迎えた医局長は、その日の当直をいいつけた。  東京で漠然と抱いていた甘い考えは、これでいっぺんに吹き飛んだ。彼は、初めのうちは、お客さん扱いだろうというくらいにしか考えていなかったのである。  アメリカ社会の持つきびしさは、その最初の夜から、間断なく、彼を襲った。おっかなびっくりで宿直室にいる新米医師のところへ、看護婦が遠慮会釈なく呼び立てにやってくる。  呼びに来てくれるのは、まだいい。電話での催促には音を上げた。彼女が、何をどのようにしてくれといっているのか、皆目、見当すらつかないからである。  呼び立てられて病室へ行くと、患者がいろいろ訴えるのだが、これがまた、さっぱりわからない。  内側の混乱を極力隠して、うなずいて見せたりしたが、冷や汗のかき続けであった。  その彼に、比較的容易なのは、お産の取り上げである。分娩《ぶんべん》は、それが正常であるかぎり、病気ではない。もっぱらこちらの方を引き受けて、最初の二ヵ月に九十九のお産に立ち会った。  出産は、夜中になることが多い。週に百二十時間の勤務となった。それで、月の報酬は百二十五ドルである。別棟の宿舎で、勤務外の時間にすることは、誇張ではなく、ただ寝るだけであった。  三ヵ月が過ぎた。食堂で夕食をとっていた芦刈は、彼のかたわらで、スケートの話をしていた中年と若い女性の二人連れと知り合った。そのころになると、英語がいくらかわかるようになっていた彼が、その話に加わったのがきっかけである。大学時代にスケート部に籍を置いていた彼にとって、それは恰好の話題であった。  中年の女性はその食堂の主任栄養士で、若い方は、ジュディといって、病院でセクレタリーをしている彼女の姪であった。そのジュディと芦刈の交際が始まる。  フォーダム病院で一年間のインターン生活を送った彼は、翌六〇年、やはりマンハッタンにあるマウント・サイナイ医科大学の付属病院に外科のレジデントとして移った。  百丁目と五番街の角に立つこの医大は三十六階建ての偉容を誇っている。このビルは、駐英大使をつとめたことのある、ユダヤ系のアネンバーグが寄付したもので、アネンバーグ・ビルディングとも呼ばれている。  ところでレジデントだが、いわば研修医で、アメリカではインターンのあと、四年から五年、これをつとめなければならない。さらにそのあと、専門分野を選んで一年間の研究を積み、これが認められると初めて、日本でいう医局員に相当するアテンディングに取り立てられるのである。  マウント・サイナイに移った芦刈は、「勤勉に励んで自分の能力を見せることができれば、どこの世界でも必ず成功する」という父の言葉を思い出しては、いっそう骨身を惜しまずに働いた。  その甲斐《かい》があって、四年目に入った芦刈は、一年とんで、チーフ・レジデントに抜擢《ばつてき》される。四年でレジデントを終わり、一年間、膵臓《すいぞう》の研究に取り組んだ。その成果をまとめた論文が、六五年度にアメリカ消化器学会によって一等賞に選ばれ、五百ドルの賞金を贈られた。  そのころになると、彼にも自信がついて来た。  日本でのインターンのころ、彼は立川基地でアメリカの軍医大尉に会ったことがある。そのときは、相手に気圧《けお》される感じであった。だが、考えてみると、その相手はたかだかインターンかそこいらの新米医師であった。何のことはないという、そんな意識が自分の中に芽生えていることに気づく。  彼が自己に目ざめかけたとき、その自分は敗戦国の少年であった。そして、巷《ちまた》に見たのは、日本女性をわがもの顔に連れ歩くGIであった。しかし、時がたち、帰国して平服に戻った彼らは、成長してアメリカの医師となった彼に「ドクター」の敬称で呼び掛けてくる、そこいらの庶民なのである。  仕返しのような気持ちにかられて、近づいてくるアメリカ女性を次々に、一時の対象にした時期もあった。だが、つき合ってみると、人間はみな同じだという感じが出てくる。  そういうものが出てくれば、引っこみ思案が消える。自分の意見がいえるようになる。相手が尊敬するようになる。  彼を取り巻くすべては、順調であった。ただ一つ、妻の健康を除いては。  六〇年に、二十九歳の芦刈は二十歳のジュディと結婚した。アイルランド系を父親に、イングランド系を母親に持つこのニューヨーク娘は、日本人の夫によく仕えた。結婚後一年で長男リチャードをもうけ、その三年後に次男アンドルーを生んだ。家庭はしごく円満であった。  ところが、六五年、ジュディは大腸ガンにとりつかれた。芦刈は、自分の勤務先であるマウント・サイナイで、彼女に手術を受けさせた。経過はよいかに見えた。しかし、一年後に再発、このときはメモリアル病院で治療を受けさせたが、患った末、六七年のクリスマスの日に、二十七歳の若さで逝《い》った。  この妻の死さえなかったら、芦刈は一般外科医として、それなりに満たされた生涯を送ったであろう。  愛妻をガンに奪われた彼は、ガンへの挑戦を決意して、メモリアル病院の門を叩く。  すでにマウント・サイナイ医大で、アテンディングに加えられ、講師として講座を持たされていた芦刈だったが、メモリアル病院に入れば、ふたたびレジデントとして出直しである。  それは彼に限ったことではない。一般外科の訓練を終わった医師が、ここで二年間の訓練を受けて、ガンの専門医になる。それだけ、メモリアル病院は権威を認められているということであろう。  一般外科医として開業すれば、医師の社会的地位が高いアメリカのことだから、ゆとりのある生活が約束されている。それに背を向けた芦刈だったが、さいわい、全米で百人にしか与えられないNIH(National Institute of Health)の年間一万二千ドルの奨学金を受けることができた。  一緒に入ったレジデントは、十七人である。そのうち外国人は三人であった。二年半ばかり、臓器別に三ヵ月くらいずつ、研修に回された。いい加減いやになるところである。  だが、芦刈は、腐らなかった。他のレジデントが当直をいやがるとき、進んで代わってやった。苦しみを訴える他人の担当の患者に、夜っぴて付き添ってやったりもした。  別に、周囲の目を意識してやったことではない。だいたい、夜間は、人の目につきにくい時間帯である。  だが、偶然が、たまたま重なった。夜、病院に急用があって、外からかけて来たビーティー院長の電話に、出るはずのない芦刈が、続けて何度か出たのである。  スコットランド系で、ハーバード大学を卒業し、イリノイ大学教授を経て、現在はコーネル大学の教授を兼ねているビーティー博士は、訪日五回の経験があり、大の親日家である。そのこともさいわいした。  夜間の電話が機縁でその存在を印象づけた芦刈は、やがてアテンディングに加えられる。  それが、いったい、どのくらいの意味を持つものなのか——。  彼の前、五年間というもの、メモリアル病院のレジデントで、メモリアル病院のアテンディングに残されたものはいない。すべて、地方の病院に散って行った。そして、外国人のアテンディングは、一八九六年の創立いらい、彼をもって嚆矢《こうし》とする。彼のあとに、イラン人が一人、これに加わりはしたが。 「人生には三回チャンスがある。それを一度でもつかまえたものは成功者になる。チャンスであるかどうかは、そのときにはわからないけど」  といったのも、父親であった。その一つを彼はたしかにつかまえたのである。  芦刈がそんな話をきかせてくれたのは、妻の二回目の命日にあたる、六九年のクリスマスの夜であった。  その年にニューヨークに赴任した私は、何の予感もなく取り上げた受話器の奥に、思いがけない声をきいた。 「オレだよ、オレ。だれだかわかる?」  十八年ぶりに他国できいた芦刈の声を、とっさに彼のものだとわかったのは、なぜであったのだろう。いまもって、不思議でならない。  彼がアメリカのどこかにいることは知っていた。だが、それがニューヨークだとは、思いもしなかった。 「これから山の家に帰るんだけど、一緒に行って泊まらないか?」  私がニューヨークに来ていることを、いまのいま、知人からきかされて知ったという彼は、性急に私をうながした。その日は、クリスマス・イブであった。 「もうちょっと仕事が残っているけど、すぐ片付くから、よかったら病院へ来て待っていてくれないか。ここからまっすぐ、オレの車で行こう」  そういう芦刈を、メモリアル病院に訪ねた。受付で「ミスター・アシカリに会いたい」といった私を、そこの上品な中年女性はチラと見上げて「ドクター・アシカリですね」と言い直した。ドクターは、いうまでもなく、敬称でもある。  指定された階に上がると、エレベーターの前に金髪の若い女性が待ち受けていて、私の先に立った。彼女は芦刈の秘書であった。  彼の部屋は、クリスマスの挨拶に入れかわり立ちかわりやってくる男女で賑わっていた。そのたびに、彼のデスクの上のプレゼントの山が高さを増した。  いずれも病院のスタッフであるのだろう。人々は、十分な敬意と親愛の情をあらわして、去って行くのであった。その一人一人に、彼は、尊大にはならない程度の威厳とねぎらいの心を見せてこたえていた。  マンハッタンから北へ三十マイルのチャパクワに、彼の山の家はあった。このあたりは、かつて、インディアンの住んでいた地域だそうで、森と湖の美しいところである。チャパクワなどという地名も、いずれは、インディアンの言葉から来ているのであろう。  その山の家は、湖畔に続く斜面に立っている。近くには、設備のととのったスキー場があるのだというが、英語をしか話さない彼の息子たちは、声高にわめきながら、敷地の中のスロープでスキーを楽しんでいるところであった。  冬場は無理だが、彼は湖畔にプライベイト・ビーチと艇庫《ていこ》を持っていて、季節がくるとヨット遊びを楽しむ。  二人の息子はここに住んでおり、なくなったジュディの母親が面倒を見ている。芦刈はマンハッタンのアパートで週日を過ごし、土曜日に山の家へ来て、月曜日の朝、ここから病院へ直行するのだという話であった。  妻を失った寂しさは覆い隠せないにしても、その暮らしぶりは、成功者のそれであった。  ここで二晩を過ごした私は、年が明けると間もなく、ニューヨークを去ることになった。芦刈に別れをいおうと気にかけてはいたが、取りまぎれて果たさなかった。  それからほぼ五年、彼と会っていない。新聞にテレビに、彼は多忙のようであった。落ち着いたころを見はからって、今度はこちらから電話をかけた。 「オレだよ、オレ。だれだかわかるか?」  その夜、二人は「斎藤」の東店で会った。副大統領夫人の手術後六日目であった。  その朝の回診のとき、相変らずシークレット・サービスが固めている十四階二十六号室に“ハッピー”を見舞った芦刈は、「明日、退院させて上げよう」といって、彼女を喜ばせた。  退院がきまった“ハッピー”は、昼過ぎにカメラマンに取り囲まれた。いったんは断った芦刈だったが、「ネルソンと私のためだから是非来て欲しい」と懇請されて、その場に立ち会った。  フラッシュを浴びる彼には深い感慨があった。 「十五年前のオレは、それこそ“馬の骨”だよ。英語も喋れないのが、たった五十ドル持って、東洋からヒョロヒョロ出て来た。鞄一つさげてね。それが、副大統領と握手し、その奥さんの肩を撫でながら、ジャーナリストに囲まれているんだもの。そんな国は、やはりアメリカしかないと思うな」  芦刈はいわなかったが、“ハッピー”の手術を実際に手掛けたのは彼ではなかったかという気がする。なぜなら、手術のあと、マスコミの表面にあらわれた医師は、もっぱら彼だったからである。  その点をたしかめる私に、彼は一言だけいった。 「手術だったら、だれにも負けない自信がある」  主治医の彼は、毎日、副大統領に夫人の経過を伝えた。そのたびに、返ってくる言葉はこうであった。  "I'm very grateful,"(感謝にたえません)  副大統領夫妻とカメラにおさまった日の夜、ベッドに入った芦刈は、キッシンジャー氏が国務長官に就任したときの挨拶を思い出していた。 「私はヨーロッパからの移民である。それがアメリカ大統領のそばで国務長官として、こうして記者会見できるのは、ただ私にとっての光栄であるだけでなく、アメリカの民主主義をあらわすものである」  たしか、そんな趣旨のことを、ひどいドイツなまりの英語でいっていたような気がする——。芦刈には、彼の心の内がわかるようであった。  芦刈家のそもそもは、佐賀県である。彼の曾祖父《そうそふ》には、九人の子供がいた。だが、一人を残して、他は全部、成人前に死んだ。曾祖父は発狂して世を去った。  一人残ったのが、彼の祖父である。この祖父は大分に移ってやはり九人の子供をもうけた。家業は農業であった。こちらの九人は、一人も欠けずに成人した。その三男坊が彼の父・末喜で、小さいとき、寺にやられた。  だが、向学心に燃える末喜は、寺を逃げだして大分中学校に入り、早稲田大学へ進んだ。卒業後、母の実家から援助を受けて、アメリカへ渡り、イリノイ州のバルパライソ大学に学ぶ。 「親父が来た三〇年代の日本人はジャップと呼ばれて、病院の仕事といえば皿洗いしかなかった。そのころの日本人移民は、教育程度も低く、アメリカ人のしない仕事をして、自分の社会をつくり、金を貯めては本国へ送って、余生を日本で送ろうとした人が多かった。  移民の研究をして、南米もずっと回った親父が、アメリカに向かうオレにいったのは、日本人だけでかたまってはいけないということだったんだ。  最近でこそ、こうして『斎藤』なんかに、たまにはくるけど、オレは十年以上、ニューヨークの日本人社会に寄りつかなかったね」  芦刈にいわせると、ニューヨークに来ながら、“日本人村”から一歩も外に出ず、英語を一言も喋らず、それでいて「アメリカにいた」という日本人が、あまりにも多過ぎる。さしずめ、私もその一人であるのだが。  それは、医師についても、あてはまることのようである。  コネチカット、ニュージャージー両州を含めて、ニューヨークとその周辺に日本人の開業医は七、八人いるが、いずれも日本人専門で、アメリカ社会に根を張っているとはいえない。芦刈の知る限り、アメリカ人に伍してやっている外科医は、彼一人だそうである。  スローン・ケタリング記念ガン・センターには、日本人の医師が約二十人いる。その人たちが何をしているかといえば、研究室にこもって、テクニシャンみたいな仕事にたずさわっているのがせいぜいだという。これでは、何年いたところで、アメリカ医学の先端に触れることはできない。  副大統領夫人の手術以降、芦刈のところに患者が殺到した。日本の医療制度と異なって、アメリカでは、彼のような存在も開業医なのである。  病院の中にオフィスを構えていて、やってくる外来は、自分の患者として受け付け、病院の設備、スタッフを使って、治療にあたる。そのかわり、診療報酬は病院と彼で、あらかじめ定められた規定に基づいて、分けるのである。  芦刈の場合、週に七十人前後の患者を診て、七つから八つの手術をこなす。診察は二分間で六十ドル、手術は一時間半で千ドルが相場である。年間の“水揚げ”は十七万ドルで、彼の収入は九万ドルといったところだという。  彼の高校時代に、「医師か弁護士になれ」と強くすすめたのは父親であった。そして彼は医学部に進んだ。しかし——。 「運命なんてわからないね。あのまま日本にいたら、どこかいい病院の養子になって、バンバン薬を使って点数を上げて、毎週ゴルフやって、クラブに行って女の子の尻でも撫でて、それで終わりだったかも知れない」  そういう芦刈は、七〇年に現マリリン夫人と再婚した。彼女はイングランド系とアイルランド系に、ちょっとフランス系が入った、メモリアル病院の主任看護婦であった。  結婚と同時に、彼はアパートを買い取って移った。五つの寝室と、三つのバスルームを持つ新居の手直しだけに二万ドルもかけた。どこからどう見ても、彼は数少ない成功者の一人である。  山の家で過ごす週末のために、彼はテニス・クラブに入った。三百人ほどのメンバーのうち、東洋人は彼一人である。プレイしていて、最近では、自分が東洋人だということを忘れているときの方が多い。彼は、東部の名門校コーネル大学医学部の助教授も兼ねていて、それは地域での尊敬を集めるに足る地位である。  七一年に、芦刈はアメリカに帰化して、ロイ・ヒロユキ・アシカリとなった。その理由は単純である。 「子供のためには、せせこましい日本より、ゆったりとしたアメリカの方が絶対にいいから」  そういいながら“ロイ”は「絶対」に力を入れた。  アメリカ人となった彼は、しかし、人種と生い立ちの絆《きずな》を断ち切ることはできない。もし彼の方が、それをのぞんだとしても。 「コーネルでフル・プロフェッサー(主任教授)になれるかどうかはわからないなあ。日本でこそ慶応出といえば通るけど、こちらからしてみれば、フィリピンとか台湾とかのフォーリン・メディカル・グラデュエートと同じ、東洋人医師だからね」  と彼はいう。  コーネル大学医学部の主任教授になるには、アメリカ生まれの白人で、コーネル大学か、ハーバード大学か、コロンビア大学かの医学部の卒業生でなければ、非常に難しいのだそうである。  ニューヨークの“客人”であるあいだは、何となく日が過ぎる。だが、アメリカ社会にコンペティター(競争者)の一員として加わるとき、東洋人に差別の壁は高く、厚い。差別が少ないといわれる東部でも、やはりそうなのである。  下を見れば切りがない。また、上を見れば限りがない。そのニューヨークで、彼はどこかの“踊り場”にいる。  息子の成長を見届けた芦刈末喜氏は、俗界を離れ、京都市右京区妙信寺内の大通院の住職として僧籍に戻った。  老齢の父親が最後にニューヨークの息子を訪ねたのは、六四年のことであった。帰国のとき、「何か土産でも」という芦刈に、この父親は国連旗を所望した。  大通院の境内で、早朝、ポールに特別誂《あつら》えの大きな国連旗を揚げる老人を見掛けたら、それが彼の父親である。その日課は、たぶんいまも続いているだろう。 第十一章  日本人居住区「メイン・ストリート」 『フレンチ・コネクション』というアメリカ映画があった。その中での一つの見せ場は、すさまじい追跡シーンである。  高架の電車で逃げる国際密輸団の犯人を追って、その下の道路を、刑事の運転する車が物凄い勢いで突っ走る。  この電車は「IRTセブン・ライン」といって、マンハッタンでは地下鉄だが、郊外のクイーンズにくると高架になる。したがって、映画にうつっていたのは、クイーンズである。  いささか古い映画を持ち出したのは他でもない。この電車のクイーンズでの終点は「メイン・ストリート」といって、そこに代表的な日本人の居住区が形づくられているからである。  いったいこのあたりに、どのくらいの日本人が住んでいるのか、正確な数字はだれにもわからない。だが、日曜日の午後など、町を三十分も歩けば、ちょっと勘定できないほどの日本人とすれ違う。  ここには二十四時間営業、年中無休の「コンティネンタル」という屋号の八百屋がある。主人なのだろう、日本語の上手なアメリカの小父さんがいて、「私の名前はトシロウです」などとお愛想をいう。もちろん、本名などではあるまい。 「他に何か」 「それだけですか」 「ありがとうございました」  自由に日本語を操るところから察して、彼の顧客の多くが日本人の主婦であることは疑いもない。  この店で売られるチャイブは、日本語で「ニラ」と表示してある。そして、キャロットは「ニンジン」、オレンジは「ミカン」である。  メイン・ストリートの一帯には、東洋食料品店が六軒ほどあって、その中でもっとも繁昌しているのは、中国人経営の「大道」だろう。  店内に足を踏み入れると、十ポンド入りの米の袋が、左手に山と積まれている。ニューヨークでさしずめ日本の「コシヒカリ」、「ササニシキ」に相当するのは、「国宝」と「ローズ」である。  古い世代に属する人は、アメリカ米ときくと、戦後配給になった、細長いカリフォルニア米を思い出して、「あのボソボソしたまずい米か」と、渋面《じゆうめん》をつくる。  だが、「国宝」、「ローズ」は、れっきとした日本風の米で、東京にいて近くの米屋から取り寄せる特上米と称するしろものより、はるかにうまい。  悪名高い食管制度は、農民を多収穫の品種へと走らせ、大方の食卓からうまい米を奪い去った。「豊葦原《とよあしはら》」の日本でまともな米がかげをひそめてしまい、アメリカに渡るとそれがある。さすがは「米国」、などと程度の低い駄《だ》洒落《じやれ》をいったあとに、いささか腹立たしさが残るというあんばいになっている。  見掛けた「国宝」は、十ポンド(約四・五キロ)で四ドル九十九セントだったから、米の本場の日本にくらべると信じられない安さである。 「大道」が、ちょっと離れたところからいまの場所に移ってきたのは、ざっと六年前であった。それからたちまち店舗を拡張して、あっという間に三軒分を合わせた間口になった。  向かって右側では、電気製品を扱っていて、そればかりではなく、簡単な各種工事や修理も手掛けている。古い店は家具屋として、いぜん同一人物の経営下にあり、この中国人は、かなりの財を成したように見受けられる。  この一帯には中国人、韓国人も多数住んでおり、日本人を合わせると、同じ皮膚の人種が、少なく見積もっても万を下らない。別名を「東洋人街」ともいう。  かりに、東京の地下鉄のどの線かに乗って行って、終点で降りて見ると、そこが毛色の違う人種の街であったとしよう。かなり異様な風景ではあるまいか。  ここでの最高級アパートとしてプールつきの「スカイ・タワー」というのが、二棟向かい合って立っている。許可もなしに玄関を入ると、白い肌のドアマンが「もしもし」と日本語で呼び止めるはずである。  そのうちの奥まった方の棟に足を踏み入れ、ホールの壁にかかっている住人の名札を眺めて目を見張った。やたらに日本名が多い。こころみに端から数え上げて見たところ、なんと八十もあった。  アパートは二十七階建てだが、一階は事務所その他に使われていて人は住んでおらず、また十三階は縁起をかついで“欠番”となっている。したがって、居住にあてられているのは二十五階である。各階が十二世帯に分れているから、入居家族は全部で三百になるのだろう。  いくら東洋人街といっても、一つのアパートの四分の一以上を日本人が占めるのは、尋常《じんじよう》な姿ではない。ついでにたしかめてみたら、他の入居者は、ほとんどが白い肌のアメリカ人だということであった。  一階には事務所の他に保育所が設けられてあり、ここで三歳児までを預かっている。その総数が十七人で、うち十五人までは日本人の子供である。これだけを取り上げれば、まるで“日本租界《そかい》”の趣を呈している。  朝八時、小学校のスクールバスが迎えにくるころ、エレベーター・ホールから玄関にかけて、これがまた日本語の氾濫である。 「ちょっとケンチャン、忘れ物よ」 「ほら、きちんとシャツのすそをズボンに入れて——」  こんな調子だから、日本にいるのと、あまりかわりがない。日系二世と結婚、その勤めの関係でニューヨークへ来て六年以上になるというI夫人は、こう話す。 「日本のお友だちから、さぞペラペラでしょうって(手紙で)いわれるんですけど、一向に英語は上達しませんね。  駐在員の奥さん方は、子供たちが学校から帰ってくる(午後)三時半ごろまで、比較的ひまなんですよ。YMCAが週二回、ただで英会話を教えて下さるので、通ってる方もいらっしゃいますけど、ここにこうして住んでいると、英語を使うチャンスが全然ありませんものねえ。  こちらへくるときに無理して持って来た、宝石とかミンクのコートとかも、これまた使うチャンスがまったくないんです」  主婦としての日常生活は、日本語だけで十分事足りるということなのである。  もし、英語が必要になるとすれば、健康をそこねたときくらいであろう。よくいわれることだが、一口に痛みといっても、その痛さは様々で表現するのは難しい。  I夫人が最初に妊娠したとき、この難題にぶつかった。腹がしくしくと痛むので医者に行った。ところが、どのように痛いのか、それがいえない。  ご主人は、英語がお手のものである。不得要領のまま帰ってきた彼女は、次のとき、通訳として夫を同伴した。  ところが、問題は解決しない。彼にとって英語は自分の言葉だが、妊娠は自分の経験ではない。妻の痛みをいいあらわすことは、不可能だったのである。  I夫人の医者通いは続いたが、向こうも彼女が英語をわからないので、いいかとか、わるいかとか、単純なことしかたずねない。こちらも、ついつい、「はい、いいです」と答えてしまう。それで、とうとう流産してしまった。  アメリカでは、日本の開業医に相当する医師をファミリー・ドクターといい、風邪ひきや腹痛程度なら、これにかかる。もっと重い症状になると、初めて病院に連れて行かれるようになっている。  そこで、ファミリー・ドクターのところには、入院のための病室はもちろん、レントゲン写真や心電図のための設備も、まったく用意されていない。  I夫人と同じアパートの駐在員の奥さんは、加減がおかしくなった子供をファミリー・ドクターに連れて行ったところ、オフィスで簡単な注射をされた。素人みたてだが、彼女には、わが子の容態が、そんな生易しいものとは思えない。入院の手続きをとってもらいたいのだが、かなしいことにそれがいえず、戻って来てしまった。そして、子供を死なせてしまったという話である。  だが、この種の悲劇が、メイン・ストリートで起こる気づかいは、もうない。日本人の夫を持つ韓国人の女医が産婦人科を開業、相前後して、日本語に不自由のない台湾人医師が小児科を開いたからである。  残る問題は、子供の学校のPTAだけだといってよい。駐在員は、程度の差こそあっても、いちおう英語をこなす。だが、本社勤務を上回る忙しさに追いかけられている彼らに、勤めを休んでまでPTAに出席するゆとりはない。  それでなくても日本人には、PTAは女の仕事というあたまがあるから、概して英語の力の劣る妻たちが、泣く泣く会合に出席することとなる。  出席者はひとわたり指名を受けて、何かしら喋らせられることになっており、彼女たちにはこれが辛い。本国では他人を押しのけてまで喋りたいくちの能弁家でも、ここだと、ろれつはもつれ、のどはひからびてくる。  こういうとき、業を煮やした先生は、彼女の子供に命じる。 「あなたのお母さんが何をいいたいのか、通訳しなさい」というのである。  これでは、PTAにならない。もっとも、PTAのPを、ペアレンツではなくピューピルズ(小学生)の頭文字だとすれば、これはこれでPTAではあるのだが。  わが子の前で母親の尊厳を傷つけられたくなければ、PTAの前夜、英和・和英の辞書を手もとに置いて、翌日話したいことを作文する道しかない。  PTA当日、メモをひろげて読み始めると、先生はもどかしくなって、その先、何が書いてあるのかを、のぞきこみにくる。やっぱり、さまにはなりにくいのである。  家庭で母親が子供に注意すると、子供はわざと英語でまくし立てる。何のことかわからない母親は、叱りつけるより、きょとんとしてしまう、という話もI夫人からきいた。  PTAの本場であるアメリカでは、その会合が夜開かれることが多い。それは、両親揃っての出席を期待しているからである。また親たちも、地域社会の成員としての自覚から、よほどのことがないかぎり、会合に顔を揃える。  こうしたアメリカ人たちの中にあって、日本人子弟の親たちの欠席続きが、地域社会に対する非協力的態度として映ったとしても不思議はない。日本人の比較的多い一部地域で、排日とまではいかないまでも、日本人に対する強い違和感が表面化した。  事態を憂慮したニューヨーク総領事館は、七四年の三月、各企業にふれを回して、PTAへの積極的参加をうながした。以来、残業がつきものの日本の企業で、PTA出席は、だれによっても妨げられない早帰りの理由になったという。ここでは、PTA出席もいまや男の役割りである。  これと部分的にからみ合って、駐在員たちの強い要請から、ニューヨークに全日制の日本人学校をつくろうという動きが活発化している。日本人クラブが音頭をとり、その資金づくりのため、各企業に寄付が呼びかけられた。(その後、ジャメイカに日本人学校が開校したという新聞報道を見た)  それまでの日本語学校は週一回、開かれていたが、これでは漢字の習得が容易ではない。それともう一つ、アメリカの教育内容は、日本のそれと比較して、おおむね程度が低いという不満が親たちにはあった。  ここでは、本人の学力次第で、特別進級させられることも珍しくない。私が会ったある母親は、自分の息子が中二で日本からやって来て、日本でいう中三を飛び越し、いきなり高一に入れられたことを、不安げに語った。  企業のエリートを自認する父親と、その伴侶である母親は、任期が満たされて帰国したとき、わが子が一流校進学の競争から脱落することを、ひどくおそれるのである。  海外へ伸びる日本経済の尖兵は、言語、習慣の相違など、さまざまな障害と戦いながら、残業につぐ残業を重ねて苦闘する駐在員たちである。  だが、彼らにも悩みがある。というのも、任期は、長くなりつつあり、その間、彼らは本社人事の主流からはずれていく傾向があらわれてきたからである。これは、現地法人組織で独立採算制をとっているところだとさほどでもないが、本社の出先機関である、たとえば支社、支店、出張所の人たち、なかでもその責任者クラスに強くかかわってくる問題だときかされた。  ともあれ、ニューヨーク駐在員の目は、いつも日本に向いている。彼らの慰めは、男なら日本料理店で“メシ”を食べ、ピアノ・バーで日本の歌をうたい、妻は日本語で買い物をし、日本の料理をつくり、日本語のお喋りを楽しむといったようなことである。  マンハッタンには北から南の順に、ハーレムの黒人街、イースト・ハーレムのラテン・アメリカ人街、セントラル・パーク東側のドイツ人街、ハンガリー人街、チェコスロバキア人街、ダウンタウンのインド人街、イタリア人街、ユダヤ人街、中国人街など、人種別の居住区が数多くあり、さらにブルックリンへ下ると、ここにはアラブ人街、ロシア人街、リトル・スカンジナビアなどが見られる。  ニューヨークはまさに人種のるつぼであり、だれの目にも外来者にしか見えないはずのこの私が、日曜日の朝、ラテン系の男性にセント・パトリック寺院への道順を、あろうことか、スペイン語で尋ねられたりする。  もし私が彼の立場であったら、人相、風体その他から、土地っ子とおぼしき人物を見定めてものをきくところだが、彼のように委細かまわぬ質問者に頻繁に出会うのが、この大都市の特徴である。ニューヨークはアメリカではない、という言い方をよく耳にするが、なるほど、そうなのかも知れない。  そうであるとすれば、いくつかの点を結ぶ線の存在でしかなかった“日本人村”の面的拡大も、異とするにはあたらないのであろう。  時計、カメラ、テレビ、自動車などの工業製品に続き、日本食は二百軒を超える日本料理店を通じて、市民の生活の中に急速に浸透しつつある。単なる物珍しさだけではこうはいかない。したがって、この現象を、日本文化の定着化の方向を示す一つの表れであるとする意見に、根拠がないわけではない。  それにしても、日本製品の氾濫、日本料理店の繁昌ぶりと比較して、肝腎の日本人そのものがみすぼらしく見えるのはなぜであろうか。  ニューヨークに住んで、格別、異郷に身を置いているという意識もなくなったころ、私は次のような体験を何度かした。  街角で信号待ちをしているようなとき、かたわらのショウ・ウィンドウに映る醜悪な人物像を、何気なく走らせた視線がちらりと捉え、これは異なもの、とばかりに改めてそこへ焦点を定めて見ると、何のことはない。他ならぬ自分自身の姿なのである。  私の目はいつしかアメリカ人を見るのに慣れてしまい、網膜に重ねられた彼らのモンタージュ像とあまりにかけ離れたおのが姿を、筑波山麓の四六のガマよろしく、醜いものとして捉えてしまうという寸法である。  しかし、私がいう日本人のみすぼらしさは、そうした外形上のことだけではない。  たとえば、五番街のカメラ店のショウ・ウィンドウの中心部分を占めた日本製品は、地元アメリカの廉価品はもとより、伝統あるドイツのライカのたぐいまで隅に追いやって、堂々と一流の風格を漂わせているが、そのつくり手であり売り手であるところの日本人は、種々雑多な人種の中に立ち交って、どこか頼りなげである。いくら身贔屓してみたところで、世界第一級の民族という感じはしない。  初めはその原因を、私たちにはつきものの語学力の不足からくる自信のなさに主として求めていたが、間もなくそうではないことに気づいた。どうやらそれはもっと奥深く、私たちの精神的基盤の脆弱さに根ざしているようなのである。  この論議を深めるのに、私が充分な資格を備えているとは思えない。そこで一言だけにとどめるが、地球の全域でその優秀性が認められて受け入れられた日本製品の万分の一でも、私たちが独自の精神的所産を通じて、世界の文化に資することがあったか。  物質面と精神面のあいだに見られる、このはなはだしい懸隔が埋まる日がくるのか、と考えると、途方もない気分に襲われるのである。  ピアノ・バーの片隅に身を置いて、入れ代わり立ち代わりマイクをにぎる駐在員の演歌に耳を傾けていると、どこかうらがなしい私たちの文化的辺境性を思わないわけにはいかない。  日本語だけで通用する“日本村”、新規開店はあっても潰れることはめったにない日本料理店の賑わい……。それらは一見、頼もしげに映るが、実は“ひよわな花”のオブジェではないのか。そんな弱気にとらわれるのは、きまってそういうときである。 第十二章  犯罪都市ニューヨーク  物価高の日本からやってきた人は、ニューヨークの物の値段が安いのに驚かされる。とりわけ食料品が安い。いったいどのくらいの違いがあるか。たまたま見掛けたマンハッタンのストアで、目につくままいくつかのプライスを書きとめてきた。  サンキスト・オレンジ十個八十九セント、卵十二個四十三セント、ニンジン六本三十七セント、ミルク一クォート(約一・四リットル)四十三セント、フレッシュ・オレンジ・ジュース同四十七セント、缶ビール六本一ドル二十五セント、ステーキ用フィレ・ミニヨン二枚(約四百五十グラム)四ドル、食パン(約二斤)四十三セント。  かりにこれだけの買い物をして、十ドル紙幣を出すと、一ドル七十三セントの釣りがくる。一ドルが二百円だとして、千六百円でこれほど中身の濃い買い物が、日本で出来るだろうか。もしかすると、ステーキ用の牛肉代にも、足りないのではあるまいか。  ニューヨークには、たとえば、「タッズ」といったような大衆向けのステーキ・ハウスのチェーン店があって、一ポンド(約四百五十グラム)のTボーン・ステーキに、赤ん坊の頭ほどのベイクド・ポテトとガーリック・トースト、それにサラダをつけて、わずか二ドル十九セントで食べさせる。別にコーヒーをとれば、これが二十セント。アイスクリームも同じである。  このステーキが、うまいかまずいかとたずねられれば、非常にうまいとはいいかねる。だがステーキはステーキである。だから、どんな人でも、贅沢さえいわなければ、ステーキを気楽に食べることができる。  日本からの主婦たちは、ニューヨークに来て何よりもホッとするのが食料品の値段が安いことだ、と例外なしにいう。そして「日本は大変なんですってねえ」と、暗い表情をする。  ニューヨーク特派員をしていた一九六九年から七〇年にかけて、私はクイーンズのフラッシングメドウ・パークの縁に住んでいた。前で述べたメイン・ストリートより駅数にして三つほどマンハッタン寄りで、東京にあてはめていうと中野区あたりに相当する場所である。  私が借りていたアパートの間取りは、日本流にいうと3LDKだが、一つ一つの部屋の大きさが、まるで比較にならない。夫婦用の寝室には、大型のセミダブルを二つ入れても全体の半分程度しか埋まらない、たっぷりとしたスペースがあてられており、家族共用とは別にもう一つのバスルームが設備されていた。  ダイニング・ルームとリビング・ルームは続きになっていて、合わせると畳数にして三十枚分の広さはゆうにあった。それに見合うだけの家具をととのえるのに、頭を痛めたほどである。  台所には、私たちの感覚からすると営業用としか思えない、大きな冷蔵庫とオーブンが備えつけになっていた。そのころ新しくできたアパートでは、この二つに加えてディッシュ・ウォッシャーをつけるのがはやりになっていたから、私のところは少々時代遅れであった。土地柄その他を総合していうと、「中の中」のちょっと下あたりの住まいであろう。  それで一ヵ月の家賃は二百五十ドルであった。ニューヨークでは、その中に電気代とガス代が含まれるのが普通である。したがって、冷暖房費も込みの家賃ということになる。  さて、東京都内でこれと同じレベルのアパート(日本ではなぜかマンションと呼ぶ)を借りるとしたら、いくらとられるであろうか。なににしても、大方の人たちにとって、途方もない金額であることは間違いない。  前で述べたように、私のニューヨークにおける一ヵ月の手当は九百五十ドルであった。これは、ニューヨークの平均的サラリーマンの俸給をやや上回っていた。「中の上」の部類といったところであろう。その手当によって保証された生活の中身は、おそらく東京におけるきわめて恵まれた階層のそれに近い。ニューヨークはざっと見ただけでも、東京よりはるかに暮らしやすい都会なのである。  そうはいっても、こと治安に関する限り、ニューヨークの現状は、最悪に近い。  七三年(昭和四十八年)一年間に、東京で起こった強盗件数は、三百六十一件であった。この程度のものなら、ニューヨークだと、二日足らずのうちに発生する。ちなみに、この大都会での同じ期間の強盗件数は、七万二千七百五十件であった。  それでも、この年の強盗事件は、前年にくらべて七パーセントも減っている。凶悪犯罪が目に見えて増え始めた六六年以降で、これが二番目の減少率だという。  ついでに、もっとも凶悪な殺人事件を挙げると、前年比〇・七パーセントの減で、これは六五年以降初めての現象である。  しかし、一方では、強姦が十四・二パーセントも増えているから、犯罪増加に歯止めがかかったという保証はない。  私自身、ニューヨークに住んでいるあいだに危ない目にあった経験はないから、この犯罪都市の実情を伝えるには、ニューヨーク市警の事件簿から、目ぼしい犯罪を拾い上げる他ないだろう。  私は、滞在中のある一日を選んだ。その一日に、特別の意味はない。以下は、ごく平均的な犯罪日報と受け取っていただければそれでよい。 ▽午前零時三十分。マンハッタン一一八丁目ウエスト一〇三番地のアパート三号室で、アール・ミッチェル(68)が妻ウエスト(60)の頭部右側を撃ち、本人も自分のこめかみを撃って自殺。警察は三十二口径のピストルを発見。 ▽同一時二十六分。ブロンクスのイースト・トレモント・アベニュー一二三五番地で、ピストル強盗が発生。ハンバーガー・ショップ「バーガー・キング」に身分不詳の男性二人がピストルを構えて押し入り、警備会社カントリー・インベスティゲーター社のローレンス・ディーバーが三十八口径のピストルで六発を撃ち、賊の一人を射殺。一人は逃走。 ▽同二時二十分。マンハッタン七九丁目ウエスト三〇七番地のビル一階のエレベーター内で、二十五歳前後の女性の死体を発見。着衣が乱れているところから性犯罪と見て、ルーズベルト病院の医師フィガロンが検屍中。 ▽同三時三十分。ブルックリンのニューウィック・アベニュー二二一五番地に住むジュリオ・フラド(男性・32)がギアルディア刑事に逮捕される。フラドは六キロの麻薬を所持。 ▽同四時。二十歳から二十五歳の男が二十二歳の女性の住居に侵入、両手をしばり上げナイフを突きつけて暴行、室内を物色し、百八ドルを奪って逃走。被害者はコニー・アイランド病院の医師アレキサンダーが診察中。(強姦事件のため、被害者の住所・氏名は公表されない) ▽同八時五十分。マンハッタン一三三丁目ウエスト五二九番地の五階建てのビルから出火、住人六人、消防士一人がけが。現場で放火の容疑者を逮捕。(容疑者は十六歳未満のため、氏名は公表されない) ▽同九時十分。マンハッタン一二九丁目ウエスト一六八番地の現在は使われていないビル内で白骨死体を発見。身元不明。 ▽同九時四十五分。ブルックリンのニュー・ロッツ・アベニュー三五〇番地先でシェフ・ワッツ(男性・36)が二人組のピストル強盗に襲われ、KCE病院に収容されたが首を撃たれており重態。被害金額は不明。 ▽同十時二分。マンハッタン八六丁目イースト一四七番地のアービン・トラスト銀行に強盗が押し入り、「オレは爆弾を持っている。五千ドルよこせ」と脅し、窓口から五百ドルを奪って逃走。 ▽正午。クイーンズのバンウィック・エキスプレスウェイとロッカウェイ・ブールバードの交差点で、リックン・ドラミングス(男性・34)運転のエア・フレイト社のトラックが、武装した四人組にハイジャックされる。ドラミングスは二時間後、ブルックリンのアトキン・アベニューとリンドン・ブールバードの交差点で放り出され、賊は二万五千ドル相当の衣類をトラックごと奪って逃走。 ▽午後零時十五分。ブロンクスの賭博場で、犯罪シンジケート、ジェノベーゼ一家の十五人を逮捕、五千九百八十ドルを押収。 ▽同二時。ブルックリンのモントローズ・アベニュー一四一番地のアパートで、住人ヘクター・カント(男性・22)が強盗を発見、ライフルで撃つ。犯人はブルックリン・メルローズ・ストリート三二六番地ルイス・ロッドリージェ(男性・32)で、グリーン・ポイント病院に収容された。 ▽同二時五分。マンハッタンのマディソン・アベニュー四〇一番地マニュファクチュアラーズ・ハノーバ銀行に強盗が侵入、「オレは劇薬を持っている」と脅し、行員ブレンダ・ワシントンから二千ドルを強盗、逃走した。 ▽同四時五十五分。ブロンクスのクレイ・アベニュー一三二八番地に住む、マーレン・スミス(女性・31)が、シャーマン・バンチ(男性・50)に頭部右側を撃たれた。バンチは逃走。原因は口論。 ▽同六時十五分。マンハッタンのイースト五丁目の路上で、レイモンド・ベル(男性・年齢不詳)は、通りがかりの車からピストルで撃たれ重傷。現在のところ逮捕者なし。 ▽同六時三十分。クイーンズ一七七丁目一三〇—七〇番地に住むシンシア・バート(女性・23)は、頭部を撃たれて即死。十分後に同番地のジョン・エリス(男性・20)を逮捕。 ▽同六時四十五分。ブルックリンのキングス・ハイウェイ一九二五番地グリーン・バウンズ宝石店に強盗が侵入して、九千ドルを強奪、逃走。店主の通報で警官が追跡、イースト二三丁目一三三三番地で犯人らしい男を発見して立ち止まるよう命じたが、振り向いて襲いかかる気配を見せたので、ピストル二発を発射した。一発が男の右足に命中、ナイフと七百四十ドルを押収。男はコニー・アイランド病院に収容された。 ▽同七時三十八分。ブルックリン九八丁目の地下鉄トークン売り場で、エリー・スティーブンス(男性・25)とカルビン・ダンソン(男性・31)は玩具のピストルで強盗をはかり、居合わせた交通警官に逮捕される。この際、ダンソンは腹を撃たれて重態。 ▽同八時。マンハッタン一番街とブレザント・アベニューの間の一一五丁目で、ジミー・サンテレラ(男性・19)が強盗にあい、犯人と格闘中、右足をピストルで撃たれ、メトロポリタン病院に収容されたが重態。犯人は逃走、ピストルは発見されず。 ▽同八時十五分。クイーンズ一六三丁目八九〇五番地でハワード・マーレイ(男性・54)は、理由もなく何者かに両足を撃たれる。現在、逮捕者なし。被害者はジェネラル病院に収容。 ▽同九時五十分。マンハッタンのドルック九〇番地でホセ・バエズ(男性・27)と、エルモア・スローナー(男性・26)は身分不詳の男三人に理由もなくピストルで撃たれ、ベルビュー病院に収容される。バエズは首、頭部、右手、スローナーは頭部を撃たれており、いずれも重態。 ▽同十一時二十分。マンハッタン六丁目イースト五五四番地のカルロ・オトリオは、立ち寄った八百屋で、ラモス・ラモン(男性・53)に理由もなくピストルで右足を撃たれ、ベス・イスラエル病院に収容された。ラモンを逮捕、目下訊問中。  NHKのテレビでやっている「警部マクロード」ではないが、この分では、ニューメキシコはおろか、各州から腕っこきの刑事を“移入”しなければ、とても犯罪に捜査力が追いつかない。物価も安いが生命も安いのがニューヨークだということになろうか。  こんな有様だから、窃盗などというのは、物の数に入らない。  七四年の夏、東京から赴任した船舶会社のI氏は、発つ前に予備知識を与えられていたので、ホテルをセントラル・パークの東側にあたる、八一丁目・五番街の「スタンホープ」にとった。メトロポリタン美術館の筋向かいで、このあたりは、一般に、かなり安全だと信じられている区域である。  着いて四日目、外から帰ってくると、フロントに二人の警官がきていて「九階で泥棒に入られた。あなたも気をつけた方がいい」と忠告する。「サンキュー」といって、七階の自室のドアをあけたI氏は、わが目を疑った。  部屋の真ん中に彼のトランク二つが放り出され、そのうちの一つ、サムソナイトの電子ロックつきの方が、刃物で腹を切り裂かれている。カギの厳重な方を、賊はねらったらしい。  フロントに知らせると、先ほどの警官二人がやってきた。被害はいくらだときくから、「百ドルくらい」というと、「上では九百ドルやられた。あなたは大したことない」と軽くいなされた。  床の上に、賊のものらしいナイフが落ちている。それを一人が素手で拾い上げ、指紋がわからなくなるのではないかと、素人ながら気にしているI氏に向かって、こんなことをいう。 「あなたは、ラッキーであった。もう少し早く帰っていたら、これで刺されていただろう」  被害調書をとるわけでもない。いつの間にか、ソヤ・ビーン・スープ(味噌汁)の話なんかにそれてしまって、「バイ、バイ」と帰って行った。  仕方がないから、人々は自衛する。その一つが、高くつくのを覚悟で、二十四時間ドアマンつきのアパートに入ることである。この種のところでは、四六時中ドアマンが入り口にがんばっている。外来者は、ドアマンが彼の訪問先のOKを確認した上でなければ、通してもらえない。  では、まったく安心かといえば、それでも強・窃盗の被害があったりして、高枕とはいかないようである。 「ドアマンが問題なんですよ。シンジケートにつながっていて、彼らが手引きするっていうじゃありませんか」  そんな話をきかせてくれた独身の女性デザイナーは、出掛けるとき、アパートからかなり離れてハンドバッグをあけ、装身具を取り出して身につける。帰るときはその逆で、かなり手前で装身具をはずし、ハンドバッグにおさめるのである。だから、ドアマンの前を通るときの彼女は、何も身につけていない。 「だって、だれが何をどのくらい持っていて、何曜日の何時から何時は留守だっていうこと、ドアマンが一番よく知っているんですからね。用心するに越したことありませんもの」  このデザイナーは、かなり広いアパートの前の通りで、二度続けて強盗にあってから、ノイローゼ気味になった。暗くなると、それが比較的早い時間でも、タクシーで帰る。女性客を下ろした運転手は、彼女がドアを無事に入るまで、発進せずに見守っていてくれるからである。  そうした習慣を知らなかった私は、ある夜、女性をアパートの前まで送り届けて、次の目的地である私のアパートへ運転手をうながして、たしなめられた経験がある。  そこはドアマンがいないアパートであった。彼がいうには女性が部屋にたどりついて、窓から合図するまで待っているのが、私の役目だという。  運転手のいった通り、やがてアパートの一室にあかりがともり、彼女が窓をあけて手を振った。「OK」といった運転手は、そこで初めてギヤを入れた。乗車拒否が日常茶飯事のわが雲助運転手にくらべれば、こちらの方がはるかに上等ではないか。  行き先を告げても返事をせず、料金を払っても礼をいわないような運転手は、ニューヨークではきわめてまれである。もっとも、チップの多寡《たか》にもよるだろうが。  いったいニューヨークは、きわめて危険に満ちた都会なのであろうか。  そのようにたずねられたら「場所による」と答えるのが実情に近いかと思う。  一九七二年のニューヨーク市警の犯罪統計を基礎として、地区ごとに、犯罪発生率と住民の所得・人種別との相関関係を明らかにした調査結果がある。そこにあらわれた数字が、一概にはいうことの出来ない、この都会の特殊事情を、いくらかでも代弁してくれるだろう。  前で「場所による」といったが、それはかならずしも、危ないところと、比較的そうではないところがへだたっていることを意味しない。  たとえば、マンハッタンにアパー・イーストサイドと呼ばれる地域がある。五番街の東側に位置して、イースト・リバーとハーレム・リバーに囲まれた一帯がこれにあたる。  その地域のうち、第十九分署は五九丁目から八六丁目を、第二十三分署は八六丁目から一一〇丁目を、第二十五分署は一一〇丁目以北を受け持っている。  ところで、第十九分署の管轄では、四十・八パーセントの家庭が二万五千ドル以上の年収をあげ、有色人種が全体の中で占める比率は六・七パーセントと低い。ここの七二年の犯罪発生率は住民千人当たり(以下同じ)で、殺人が〇・〇四、強盗が七・八六、窃盗が二十・九五であった。  第二十三分署の管轄へ移ると、年収二万五千ドル以上の家庭は、十八・一パーセントに落ちる。そして住民の四十七・三パーセントが有色人種である。犯罪発生率は、殺人が〇・二九、強盗が十三・四七、窃盗が十九・三二を記録した。  さらに北へ上って第二十五分署の管轄では、年収二万五千ドル以上の家庭が、わずか一・一パーセントでしかない。有色人種が全体の八十四・三パーセントを占め、これに比例して、犯罪発生率も、殺人が〇・五七、強盗が二十七・五六、窃盗が二十四・四二と、凶悪犯がいちじるしい増加傾向を示している。  セントラル・パークを左手に見て、五番街を北へ進むと、一区画ごとに、丁目をあらわす数字が一つずつ増えて行く。それが晴れた日の昼下がりであれば、六〇丁目から七〇丁目台で、日本では見かけたこともない豪華な乳母車に、いくつも出会うだろう。その中には、レースに縁どられた絹にくるまって、未来の大富豪か、社交界の花形が眠っている。そして、その後を押すのは、いまとなっては稀有といってもよい、白い肌の、しかも若いメイドである。  だが、メトロポリタン美術館を過ぎて、一〇〇丁目にかかるあたりになると、すれ違う人々の肌が、いつの間にかすっかり黒くなってしまっていることに気づく。ハーレムは近い。もし、歩く人が、彼らと同じ肌の持ち主でなければ、それから先、なお歩き続けることに、かなりの思い切りが必要であろう。  黒人が犯罪者とは決していえないが、犯罪者の多くは黒人である。黒人の心理学者ケネス・クラーク博士は、この調査結果について、白人と黒人のあいだに見られるいちじるしい所得格差が、黒人の多くにフラストレーションを生んで、それが彼らを殺人、強盗に走らせるのだと指摘した。  たしかに、奴隷制度の昔から黒人の上に加えられ続けてきた社会的不平等、そこからくる彼らの貧困が、犯罪多発の大きな原因になっているだろうことは、だれの目にも否定しにくい。  ここの白人たちは、黒人たちの前で、ときに不必要なほど卑屈《ひくつ》に見える。それは、彼らが歴史上のツケに対する“支払い”を迫られていることを、自覚しているからなのであろう。  地下鉄のトークン売り場で、行列の先頭に割り込んでくるのは、そう頻繁《ひんぱん》ではないにしても、きまって黒人の若者である。  彼らのあいだではやっている、縮れ毛を思い切り伸ばして盛り上げたアフロ・ヘアは、彼らにとって権利主張の一つのあらわれなのだろうが、はた目には、それ自体が威嚇《いかく》的に映る。その綿帽子みたいな頭を振り立て振り立て、これ見よがしに割り込んでくるのを見ていると、わざと挑発しているとしか思えない。  そうした場面にいく度か出くわしたが、それをたしなめる白人には、ついぞ行き当たらなかった。彼らは、視線が合うことすら避けている風なのである。  ときには若い黒人女性たちが数人、これまた傍若無人《ぼうじやくぶじん》に嬌声を立てて、行列の中ほどを突っ切り、トークンも買わず、サクをまたいでホームに入る風景にもぶつかる。しかし、咎《とが》める白人は一人もいない。  もちろん、その種の黒人は全体のごく一部分なのだが、見ていてあまり感じのよいものではない。  ニューヨークの日本人の大半は、マンハッタンを避けて、郊外に住んでいる。それは、犯罪を避けることであると同時に、黒人を避けることでもある。その意味で彼らはかつての私をも含めて「人種差別主義者」なのである。  その彼らに、人種差別の是非をたずねればきっと、いけないことだというだろう。でも、彼らは黒人を避ける。言葉ではなく行動が差別そのものなのである。  あたりに黒人が増えると、犯罪も増える。差別の是非はともかく、わが身と家族の安全を考えたら、そんなことはいっていられないというのが、彼らの本音であろう。  クイーンズにラフラック・シティという、中・高層アパートの団地があって、つい五、六年前、このあたりから奥は安全だといわれていた。その場合の尺度は、あくまでも“黒”の度合いなのである。  彼らは、たとえば、こんな風にいう。 「あそこもそろそろいけないな。だいぶ黒くなってきたから」  そのラフラック・シティだが、そこに住む日本人は、いまや逃げ腰になっている。  三年ほど前、駐在員の若妻が、白昼、暴漢に襲われたのが、彼らを浮き足立たせたそもそもであった。  ニューヨークの高層アパートでは、地階が共用の洗濯場になっていて、コイン式の大型洗濯機とドライヤーが置いてある。エレベーターでこの地階へ降りて行った彼女は、暴漢に非常階段へひきずり込まれたのであった。  事件に驚いた夫君は、クイーンズのさらに奥まったフラッシングのアパートへ引っ越した。私が住んでいたころより家賃は値上がりしていて、ラフラック・シティでは三百ドルから三百五十ドル程度のアパートが、ここだと四百三十ドルから四百五十ドルくらいする。そうした負担増も安全には代えられないというわけである。  だが、このアパートも、まったく安全だというのではない。 「ほんの十分ほど下に行って、帰って来て、ドアをあけたら、いきなりハチ合わせになりましてね。ちゃんとスーツを着たハンサムさんなんですよ。あわてもせず、走るのでもなく、ノッシ、ノッシ、階段を降りて行きました。  調べて見たら、ダイヤの指輪と、記念コインと、台所に置いてあった二十ドルがとられているんです。  ええ、カギはかけてあったんです。でも、カギかけてもダメ、何してもダメ。ここの泥棒は——」 「髪を洗っていたんです。(チャイムが)ピンポン、ピンポン鳴っているのは知っていたんですけど、面倒くさいんで、出なかったんですね。  洗い終わって戻って見たら、玄関のドアがあいている。ちょっとの間にやられちゃいましてね」 「地下のガレージが物騒なんですよ。(車の)タイヤとられたり、バッテリーとられたり……。  このあいだ、タイヤをはずしている男がいたんで、何やってるんだっていったら、ユーも欲しかったら向こうのとれって、こうですからね」 「ハワイからきた(日系)二世で、二年間に二回入られたのがいます。今度来たら殺《や》ってやる、なんていってますがね。近所のつき合いがないでしょう。品物運び出していても、引っ越しと見られちゃうんですね。隣の家の人が、あなたも手伝ってくれっていわれて、泥棒の手伝いした話まであるんですよ」 「ここ(ニューヨーク)では、自動車盗まれたなんていわれたって、ピンとこないな。ボクの会社だけで、もう四人もやられているんだから。盗まれたが最後、絶対に出てきません」  一つのアパートを訪ねて世間話をしていたら、夫と妻たちのあいだからざっとこれだけの話が出てきた。しまいの自動車盗難以外は、全部そのアパートで実際に起こった被害なのである。  前の調査の数字で気づくのは、三地区とも窃盗の発生率に関してだけは、ほぼ似たようなもので、大差ないということである。  ニューヨークでは、ごく当たり前のこととして受け取られているが、日本から初めて来た人が例外なく戸惑うものに、オフィス・ビルの便所がある。  私が勤めていた新聞社の支局は、ロックフェラー・プラザのAPビルディングの中にあるが、あらかじめ支局員の頭数だけ、便所のカギが渡されている。便所の扉は、内側からだと開くが、廊下からはカギを使わなければ開かない仕掛けになっているからである。  この風習になじまないうちは、しょっちゅうカギを忘れて用足しに立った。“火急”の場合、カギを忘れて自分のオフィスへ取りに戻るのは、せわしないものである。  慣れた人間でも、ついカギを忘れることはあるようで、出かけて行くと、扉の前に人待ち顔で立っていたりする。  初め、便所くらいだれにでも自由に使わせたらよさそうなものだと考えた。しかし、別に惜しんでそうしているわけではないらしい。  このビルでは、各室とも、扉が便所のそれと同じ構造になっていて、内側からは開くが、ロックをわざわざしなくても、廊下からは開かない。  例外が、階段に通じる各階の扉である。これは、廊下の側からは開くが、一旦中に入ると、テコでも動かない。  もし賊がビルに侵入して、それが発覚したとき、エレベーターを押さえれば、彼の逃げ場は階段だけである。それでなければ、一つの階の廊下を、うろうろする他はない。いずれにしても、袋のネズミということになる。  夜間の出入りのチェックは、ことのほかきびしくて、顔なじみであっても、用意された帳簿に、自分の名前と行き先の部屋番号、それに出退の時刻を記入させられる。エレベーターの運転は一台に限られるので、うさんくさい人物が入りこむ余地はまったくない。  おかげで、盗難の被害には、ただの一度もあわずに済んだが、こうでもしなければ、泥棒を防ぐことはできないのだろう。  繰り返しみたいになるが、ここでの盗難は物の数ではない。むしろ、だれでも一度は経験しなければならない、ハシカのようなものだと受け取られている。  物ならば取り返すこともできるが、絶対に返ってこない被害を生むのが、凶悪犯罪といわれるものである。  日本人社会に語り伝えられて、いまではすっかり伝説化してしまった、銀行員の若妻の悲劇もその一つである。  新婚間もなく、ニューヨークへやってきた彼女は、日本食料品店の配達人に、日本流の親切を示した。暑い盛りに届けにやってきた彼を、冷たい飲み物でねぎらおうとして招き入れた彼女は、たちまち襲われた。  そのことを夫に隠していた彼女は、やがて懐妊し、初めての子供をもうけた。だが、手にしたわが子の肌の色は、黒人のそれであった。彼女は離別されて、日本へ帰って行った——というのである。  真偽のほどは知らない。だが、この種の伝説は、いい伝えられ、語り伝えられて、新しく日本からやってくる人々に、黒人への警戒心を植えつけて行く。前任者からまず与えられる忠告は、住まいの設定にあたって、黒人を避けろという、そのことなのである。  いきおい日本人は、白人の居住区に割り込んで、その中に彼らの“村”をつくることになる。  支払いに間違いがなく、きれい好きの日本人は、だいたいどこでも、拒否されないときいた。  それとは逆に、日本人の進出は、黒人がくる前兆として忌避《きひ》されるという話もある。  だが、全般的に、ニューヨークの日本人は、白人社会に大した摩擦もなく受け入れられていると見てよいだろう。  問題は、それとまったく別のところにあって、PTAの例が示すように、彼らは地域の人々と融合することなく、自分たちだけの生活に閉じこもる傾向が強い。  三万人といえば、一つの市の人口にも匹敵する。その数を凌駕《りようが》するニューヨークの日本人社会は、英語をまったく使わなくても生活しようと思えばできるだけの“テリトリー”を確保した。  朝昼晩、日本食だけを食べ、日本語だけで語り、それでも不便のないのがニューヨークである。 文庫版あとがき  このたびほぼ六年ぶりに読み返してみて、ニューヨークの日本人、なかでも、定職を持たず確たる目的もないままこの大都会に流れついて寄生する若者たちに対し、私のペンは少々酷ではなかったか、という気がしている。なぜなら、私自身、このままで二十歳も若かったとしたら、彼らと同じ立場にいたかも知れない、と思うからである。  私がニューヨークに赴任したのは一九六九年の五月であった。  私は根っからの社会部育ちで、海外の特派員を送り出す外報部には、ニューヨーク勤務の辞令をもらったその三ヵ月前まで、籍を置いたことがない。したがって、アメリカを専門に研究した期間は皆無だし、特派員に不可欠の英語の力も、旅をするにはどうやら不便がないといった程度であった。  社会部の上司からニューヨーク勤務の内示を受けたとき、私はひそかに退社を決心しており、一年後にそれを実行に移す予定でいた。だから私は、特派員になる資格も意思も持ち合わせていなかったのである。  私は退社の予定をはっきりさせて断ればよかったのだが、親しい職場の同僚二人が私とは別個に会社を辞めようとしており、私のそれが表沙汰になると、隠密に事を運ぼうとしている彼らに迷惑がかかりかねないという、込み入った事情を抱えていた。  いまとなってはそれも些事に過ぎない。そこで詳細は省くが、ともかく私はのっぴきならない羽目に陥って、ようやく固めていた退社の意思を放棄し、心ならずもニューヨークに行くことにしたのである。  私の断りを謙遜と受け取ったらしく、強引に発令へと持って行った社会部の上司は、原稿は書かずに遊んでいればいい、とありがたい言葉で送り出してくれたが、外報部の手前そうは行かない。かといって、何からどう始めればよいのやら見当もつかず、自信のなさと人生の転機を逃してしまったという悔いがないまぜになって、支局が予約してくれた、七番街のアビー・ビクトリア・ホテルに着いたとき、私の心象風景はマンハッタンの初夏の陽炎とうらはらに灰色であった。  そういう私を明るい気分に変えてくれたのが、初老に近いふとっちょのフロント・クラークの一言である。  その数年前、私は移動特派員としてヨーロッパを四ヵ月ほど渡り歩いた。そのときの経験では、ホテルにチェック・インする際、旅券の提示を求められる場合が多かった。その要領でいわれない先から「パスポート?」と尋ねる私に、彼はこう答えたのである。 「ノウ、パスポート。イン ニューヨーク、マニー アンド スマイル、ザッツOK」  なんて気のきいた台詞だろう。ウィンクして見せる彼に釣り込まれて、私はニューヨークで初めての「スマイル」を浮かべていた。  訪れた土地の印象は、そこでたまたま出会った人に左右される。私が何度出掛けて行ってもパリを好きになれないのは、最初にフランス人から受けた感じがひどく悪かったせいであろう。  アビー・ビクトリアは、たいへん古びた、中級がやっとのホテルである。当時、一泊料金が十六ドルであったように記憶するが、あるいは間違っているかも知れない。いずれにせよ値段が安いわりに足場がよいというので、日本人の利用客が多かった。  いわば、ありふれたホテルの従業員が、アメリカ映画を見ていて唸らせられるときのような台詞を、たぶんその場の思いつきで口にしたのである。敗戦の少年時代、ごたぶんにもれずアメリカに憧れた私は、突如、自分がスクリーンの上の登場人物にでもなったような気がして、ニューヨーク赴任もわるくない、と考え始めていた。  結局、いろいろとあって、私は止むなくいったん放棄した退社の意思を取り戻し、任期半ばでニューヨークを去るのだが、その資格もない私を無理矢理特派員に出してくれた社には感謝している。  赴任から二日目であったか三日目であったか、ミッド・タウンを歩いていて、私はふと外国にいることを忘れている自分に気づいた。それはヨーロッパのどの都市でも、ついぞ持ち得なかった感覚である。そして、その感覚は二、三ヵ月を過ごすうち、ニューヨークがあたかも自分の街であるかのような錯覚に変わっていた。  そのころアメリカは、人類初の月着陸を目指すアポロ計画の大詰めを迎えていて、リハーサルのアポロ9号、10号、本番の11号の打ち上げを記事にするため、同僚の足手まといにしかならない私も、発射場のあるケープ・ケネディ(フロリダ州)、コントロール・センターのあるヒューストン(テキサス州)とニューヨークとのあいだを、足繁く往復しなければならなかった。  南への小旅行が終わってニューヨークに帰り着き、車をマンハッタンの雑踏へと乗り入れるたび、決まって顔の筋肉がだらしなくゆるむ。それが自分でもわかるのである。  英語が不自由なところへ持って来て、日本語で聞いたとしてもさっぱりわからない専門知識を要求されるアポロ関係の取材は、正直にいって私には重荷であった。さいわいにして、ニューヨーク支局の私の同僚は、早くからその要員に指名されて勉強を積んでおり、本社から専門の科学記者が、ワシントン支局から語学に練達の応援要員が現地に繰り込んでいたので、私は大したボロも出さずに済んだのではあるが。  一区切りがついて、ニューヨークへ戻る私に、やれやれ今度もこれでなんとか終わった、という解放感があったのは事実である。しかし、マンハッタンへ入って思わず「スマイル」が浮かぶのは、それとは別のところからくるものであった。  私は京城で生まれて中学校一年の一学期までをそこで過ごし、戦後は東京に居ついた。したがって、私には故郷といえる土地がない。裏返せば、土地に執着のない人間である。  そうした根なし草のような生まれ育ちが、世界の吹き溜まりともいうべきニューヨークにぴったりなのかも知れない。  マンハッタンのゴミ清掃車とか、地下鉄へ通じる階段の入口のニュース・スタンドとか、引き売りのホットドッグの屋台とかが車窓から視界に飛び込んでくると、東京といういずれは帰るべき先があることも頭の中から消えて、わけもなくうれしくなるのであった。他所者の自覚がまるでないのだから、これはもう地元意識である。  その後、あちこちと旅を重ねたが、ニューヨークほど心安く居心地のよい都会を私は知らない。ずば抜けて懐の深い街である。だからこそ、日本人にも日本語だけで通用する「村」づくりを平然と許しているのであろう。  東京もいろいろと欠陥を抱えているが、とりあえず最も劣悪な住宅事情がGNP並になれば、けっこう住みやすい都会だと思う。  しかし、私の感じ方でいえば、同じ支出をするとして、ニューヨークの方がはるかに生活は快適である。犯罪が横行し、地下鉄の階段は小便臭く、道路にゴミ屑が溢れ、公衆電話はめったやたらにアウト・オブ・オーダー(故障中)であるにもかかわらず——。  原文にあたろうと思いながらまだ果たせないでいるが、この六月の初めごろ、ニューヨーク・タイムズに「日本よ、どうかアメリカを占領して下さい」と題する、著名な学者の一文が掲載されたという。  何やらうまく行っている風なかつての「教え子」日本にこと寄せて、経済的・社会的矛盾に苦しむその昔の「教師」アメリカの現状を、指摘したものらしい。  わが国のテレビがこれを採り上げて、古き良きアメリカが残っているといわれている中西部の小さな町で、三十人を対象に意識調査を行った。その番組を見ていて驚いたのは、たしか二十二人までもが学者の指摘に「一理ある」と答え、「悪い冗談だ」と一笑に付したのがわずか三人だったことである。  回答者は三つの設問の一つに、これと思う番号札を上げたのだが、残りが「逆説だ」と受け止めたのである。  メモをとらなかったから、あるいは細部が間違っているかも知れないが、学者の言い分に賛意を表したのが二十二人であったことは、あまりにも予想外であったので、はっきり憶えている。  原文も読まずにいうのはいささか気がひけるが、私からすると、これは悪い冗談に近い完全なパラドックスである。  論より証拠、定職も持たず確たる目的もなしに流れて来て東京に住みつくアメリカ青年が万といるか。いままでのところ、本文の中に出てくるゴチョウ氏の懸念が杞憂に終わりそうな経済優等生ぶりだが、だからといって自画自讃などしない方がよい、という私の基本的な考えに変わりはない。  隣の芝生は青いという。それはいま日本を遠望するアメリカ人にもいえることだが、私も今年の十月から十一月にかけて、アメリカの芝生のはげ具合とやらを確かめに、ニューヨークへ出掛ける予定でいる。それにつけても、年齢がもう少し若ければ、と悔やまれてならない。この活力に満ち、魅力に富んだ大都会を咀嚼吸収するには、歯が衰え胃袋が弱わったように思えるからである。  いずれ、「続ニューヨークの日本人」としてご報告する機会もあろう。その折には、もうちょっとどうにかしたものを、と、気持ばかりは若いつもりでいる。 一九八一年九月六日 イランへの旅立ちの朝 成田のホテルで 本田 靖春   ニューヨークの日本人《にほんじん》 講談社電子文庫版PC  本田靖春《ほんだやすはる》 著 Yasuharu Honda 1981 二〇〇二年九月一三日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000249-0