角川文庫    蟲 [#地から2字上げ]坂東眞砂子 [#ここから3字下げ] 五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]読人知らず    蟲     序 章  海が細やかな光を反射していた。なだらかな山の斜面一面に、|蜜《み》|柑《かん》の濃い緑色の葉が輝いている。|多田純一《ただじゅんいち》は、|芥《から》|子《し》色のジャンパーのファスナーをおろした。首筋が、|微《かす》かに汗ばんでいた。 「さすがに、こっちは温かいですね」 「東京は、まだ冬ですか」  煙草をくゆらせながら、隣を歩いていた|安《やす》|川《かわ》が笑った。純一も自分の煙草を出して吸おうとして、かろうじて辞めた。もう一本吸えば、気持ちが悪くなるだろう。  太陽の光で目がちかちかする。肩筋が、ぎしぎしと音をたてそうなほど|強《こわ》|張《ば》っている。徹夜で図面を仕上げてから、朝の新幹線に飛び乗ってきたせいだ。脳の奥深いところで、誰かが絶えずお|喋《しゃべ》りをしているような不快感が続いていた。  働きすぎだ。わかりすぎるほど、わかっていた。こなしても、こなしても、仕事は終わらない。深い霧に閉ざされた山を登っているようなものだ。流す汗の量で、どれくらい頑張っているかわかる。しかし、頂上は見えないし、今、自分が山のどこにいるのかもわからない。それは、この静岡の仕事の、主任担当者になったためだった。都内の楽な仕事だけにしておけばよかったのだ。出張もない分、疲れも少なくてすむ。  だが、彼にとっては、おそらく二十代最後の大きな仕事だ。純一の将来を左右する機会だったのだ。  以前の純一なら、出世を意識してがむしゃらに働くことなぞ、考えもしなかっただろう。好きな造園設計の仕事に没入できていれば満足だった。しかし年齢とともに、純粋な情熱に、社会的欲望という|媚《び》|薬《やく》が混ざりこんできた。家庭を持ったせいだろう、と思う。そして彼は、そういう自分の変化を、あながち悪いものとは|捉《とら》えてなかった。  この疲労感さえ別にすれば……。  純一は眼鏡の下から指をさしこんで、目頭をもんだ。温かさの中に小さな|刺《とげ》のような冷気を含んだ潮風が、彼の茶色がかった髪の毛をかき乱していった。  二人は、川の土手の上に続く道を、海に向かって歩いていた。ブルドーザーが三台、ゆっくりと動いている。トラックの荷台から流れ落ちる赤茶けた土が、ブルドーザーに押しやられ、河原の上に広がっていく。海と川の美しい調和をみせていた自然が、機械の力で変形させられていく。色白で|痩《や》せた純一は、この自然と機械の力の|拮《きっ》|抗《こう》の中では、ひよわな子供のように見えた。  安川が、煙草の煙を吐きだした。 「地ならしもほとんど終わったし、この調子なら、四月から本格的な整備にかかれると思いますよ」 「しかし、これ三月着工予定でしたよね」 「あっははは。多田さん。|苛《いじ》めないでくださいよ。工事に遅れはつきもの」  安川は豪快に笑って、純一の肩を|叩《たた》いた。  急流で知られる富士川だが、河口周辺は、穏やかな川辺の風景が広がっている。この広い河原を利用して、運動公園が作られる計画が進んでいた。設計、施工を請け負ったのが、東京に本社のある純一の会社『内田建設』だ。完成すれば、テニスコート、サイクリングコース、野球場などを備えた大規模な運動公園に生まれ変わることになる。しかし、まだ土地は、生まれたばかりの赤ん坊のように、血ならぬ土にまみれていた。 「三年もここで現場監督ですか。単身赴任でしょう。大変ですね」  純一は、安川のごま塩頭を眺めていった。 「そりゃ、|飛《ひ》|騨《だ》の山の中なんかだったら、つらいですがね。東京までは近いし、気候はいいし、魚はうまいし。なんたって天下の富士山のお|膝《ひざ》|元《もと》ときてる。アパートの窓からはみだすくらいの絶景でね、これが。大変どころか、もういうことなし」  安川は、|蕗《ふき》の|薹《とう》のようにずんぐりした親指で、頭上に|聳《そび》える富士山を指さした。  まだ白い雪を頂いている山は、静かな威厳をたたえ、あくせく働く下界の人間たちを冷たく見下ろしている。純一は、富士山から、なだらかに続く蜜柑山へと目を移し、確かに、そうかもしれないと思った。家の窓を開けたら、隣のマンションの壁が見えるのが関の山の彼の東京の住まいと比べたら、ここは何と自然と光に恵まれていることだろう。  安川は煙草を地面に落とすと、太い腕を後に回して、気持ちよさそうに伸びをした。 「多田さんも、こっちに引っ越してきたら、どうですかね。煩わしい女房も、でかくなって口ばかり達者な子供もいない。いや、極楽、極楽ですよ。はははは」 「極楽ですか」  眼前に広がる海は霞んでいた。|仄《ほの》|白《じろ》く沈む水平線のあたりは、海と空がひとつに溶けあっている。そこは、影すらも色を失い、柔らかな空気に満ちている世界。純一は、その海と空の|狭《はざ》|間《ま》に吸いこまれていくような気がして、目を|逸《そ》らせた。  安川は、捨てた煙草の吸殻に丹念に足で土をかけた。 「ここはね、けっこう古くから人が住んでいた土地らしいですな。縄文時代の遺跡が多いんですよ」  運動公園の設計前の下調べの段階で、そんな資料を読んだ記憶があった。河口から少し山の方向に入った地区には、縄文時代の遺跡ばかりでなく、六、七世紀の古墳も多く発見されている。純一は、かつてこの土地に住みついていた古代人たちに思いを馳せた。 「昔の人も、どうせ住むなら温かいところがいいと思ったんでしょうね。蜜柑を食べて、のんびり昼寝をして……」 「それが多田さん、今でいう蜜柑ってのは、もともと日本にはなかった果物なんです。蜜柑の系統で日本原産のものは、|橘《たちばな》だけということですよ」  橘。聞いたことのある名前だった。 「それも蜜柑の一種ですか」 「そうです。日本でも温かい土地にしか自生しない木とかいいますな。昔、このあたりにも橘が生えていたらしいですよ。その花は、なんとも芳しい香りがしたとか、土地の年寄りがいってましたが」  詳しいんですね、と純一がいうと、安川は日に焼けた顔に照れたような笑いを浮かべた。 「私の趣味は、植物観察でしてね」  温かな|日《ひ》|射《ざ》しの下で仕事をして、休みの日にはポケット植物図鑑を片手に、野道を歩くのだろうか。夕方には、新鮮な魚を買い、家に帰って台所に立つ。そして夕暮れに沈む富士山を窓ごしに眺めながら、日本酒を飲む。安川の生活が頭に浮かんできた。  |俺《おれ》に、そんな暇ができるのは、いつのことだろう。  また後頭部の不快感が襲ってきた。こんな潮風の吹きすさぶ土手の上で、他人の生活を|羨《うらや》ましく思う時間があるのなら、毛布をひっかぶって横になっていたい。一日、誰にも邪魔されずに眠っていたい。 「おっと、そこ、危ないですよ」  安川が、純一の胸を押さえた。足元の土手が崩れていた。純一は、薄い体を折り曲げるようにしてつんのめった。しかし、時すでに遅く、足は宙に浮いた。純一は土手をずるずると滑り落ちて、二メートルほど下の柔らかい土の中にはまりこんだ。 「大丈夫ですか」  土手から安川が見下ろしていた。純一は、ずり落ちた眼鏡をかけ直すと、照れ隠しに|大仰《おおぎょう》に手をふった。 「命に別状はありませんがね」  ズボンが土にまみれていた。はたいてみたが、湿った土のために、|裾《すそ》にこすったような黒い跡が残った。 ——いい年して、泥んこ遊びはやめてね。  妻の甘い低音の声が聞こえるような気がした。同い年の妻は、いつも純一を子供のように扱う。母親のような妻と、子供のような夫。二人の生活の端々が、その関係で色づけられていた。しかし純一は、本当のところでは違うとわかっている。彼こそ、妻の「ままごと」につきあってやっているのだ。それが、彼女に対する愛情の証だと思っていた。  純一の妻、めぐみは、ほっそりとした肢体に、高い|頬《ほお》|骨《ぼね》、肉感的な唇を持つ、美しい女だった。もっと身長があれば、モデルにもなれたかもしれない。そして決して、馬鹿ではなかった。彼は、めぐみの、美しさと知性を宝物のように愛していた。  純一はこれ以上ズボンが汚れないように裾をたくしあげて、赤茶けた土の中からごぼっと足を抜いた。そのはずみに、土にまみれた丸いものが飛びだした。純一は、興味をそそられて、それを取りあげた。  鶏の卵くらいの青味がかった灰色の石だった。地中にあったせいか、ひんやりしている。汚れを拭うと、表面にびっしりと模様が彫られていた。ただの石ころではなさそうだ。石の周囲に、粘土を固めたような線が巡っている。|爪《つめ》で掘り返すと、浅い溝が現れた。石を横半分に割って走る亀裂だった。 「どうしたんですか」  安川が上から声をかけた。純一は、「へんなものを見つけたんですよ」と答えると、ポケットからボールペンを出して、粘土に埋まった溝を掘っていった。接着剤代わりだった粘土をすべて除くと、両手で石を開いた。カッという小さな音がして、|胡桃《くるみ》が割れるように石がまっぷたつになった。  割れた石の器の中に、丸く白い玉が見えた。水中に沈む蛙の卵にも似て、半透明にゆらめいている。指で触ろうとすると、その白い玉はふっと消えた。  相当、疲れてるな。純一は頭を振った。首筋がゴキゴキと音をたてた。  安川が、純一の名を呼んだ。顔をあげると、気掛かりそうにこっちを見ている。 「あ、ああ。すみません。僕をひっぱりあげてくれますか」  安川は、今になって気がついたというように、慌てて手をさしのべた。  土手に上がった純一は、石の器を安川に見せた。安川は無骨な手で石の器をひっくり返して、驚きの声を洩らした。 「珍しいものですな。ずいぶん昔のものみたいだ。何をいれてたんでしょうね」  一瞬、さっき見た白い玉のことをいいそうになった。しかし、笑われるのがおちだと思い直して、純一は黙った。 「これ、木の模様みたいですよ」  安川は、石全体をおおっている模様を指さした。そういわれれば、曲がりくねった線と、木の葉型の模様が複雑に組みあわされている。しかし角度を変えると、何かの文字のようにも見えた。純一がそういうと、安川は、うーんと|唸《うな》って、また石の器を眺めた。二人はしばらく、その模様を見ていたが、やがて安川がため息をついて、「わかりませんな」と純一に石の器を返した。 「古墳からの出土品だったりしたら、もうけものですからね」  彼は石の器をハンカチにくるんでポケットにしまいながら、安川にいった。 「そりゃそうだ。わしもひとつ、この土手を掘り返してみますか」  安川は、おどけてみせてから、 「おっと、多田さん。そろそろ新幹線の時間じゃないですか」  純一は時計を見た。もう五時近くになっていた。新富士駅発の新幹線は、確か五時三十分だったはずだ。駅まで送ってくれるという安川と共に、二人は土手から、車の置いてある道路におりていった。  夕日が向かいの山に落ちようとしていた。その山の斜面一帯は墓地になっている。夕焼けに染まった墓標の連なりが、朱色の波のように見えた。  車の前で、純一は立ちどまり、不思議な感覚を覚えた。  はるか空の彼方からやってくる朱色の波だった。次から次へと覆いかぶさってくる、無数の墓標の波。波は音もなく山肌を流れ落ち、彼の足元にまで押し寄せてくる……。  頭の奥が、ずきん、と痛んだ。純一は、奥歯を|噛《か》みしめた。  安川も山を見上げていった。 「なかなかすごいでしょう。富士川のあたりの人の御先祖様は、あそこから子孫が何をしているか、見下ろしているってわけですよ」 「そうですね」  それだけいうのがやっとだった。妙に気分が悪かった。純一の様子には気がつかず、安川は太い声で続けた。 「この土手の土は、あの山の裏側から取ったものなんですよ」  純一は、安川の顔を見た。 「じゃあ、さっきの石の器の埋まっていたのも……」 「ええ。あの山ですよ」  純一は眉をひそめた。安川が車の|鍵《かぎ》をポケットから出して笑った。 「なーに、山の裏には墓はありませんよ。仏さんのものを取ったわけじゃないから、安心してくださいよ」  別にそんなことを考えたわけではなかったが、その言葉にほっとしたのは事実だった。安川が助手席のドアを開けてくれた。純一は、車に乗りこんだ。  フロントガラスの向こうで、朱色の墓標の波がぎらりと輝いて見えた。     一 章 『中国チベット自治区の独立運動は、自治区全体に広がりをみせています。この反政府運動に対して、中国政府は、軍隊によって鎮圧すると発表。またインド政府が、独立派に加勢しているとして非難しました。そしてこの状況が続くならば、今後両国の関係は悪化の一途を|辿《たど》るだろうと警告しています』  テレビの女性キャスターが冷静な口調でニュースを読みあげている。  画面には、インド経由で送られてきた映像として、傷ついた反政府運動派の市民の全身が大写しになっていた。ソファの上に置いた新聞の一面には、南米で起こった大地震の写真と、『フランスの原子力発電所、放射能漏れ』という見出しがでかでかと載っている。  まるでコメディ映画のパイ皿戦争だ。世界中の国が、パイ皿がわりに厄難を投げあっている。投げられた厄難パイは、地上に落ちて|潰《つぶ》れてしまう。この騒ぎが終わった時には、白いクリームにまみれた地球だけが残るのだろうか。ただ、そのクリームが、甘くておいしいものでないのは請けあいだ。  外では夜が|密《ひそ》やかに息づいていた。世界の|派《は》|手《で》なニュースも、この静けさのうわっつらを|撫《な》ぜて通るだけで、その下に潜む重苦しい夜の静寂を破ってはくれない。私は、厚いコンクリートの壁に囲まれたマンションの一室で、一人きりだ。  流し台のところに行って、ブランデーの瓶に手を伸ばした。棚の縁にピンで留めてあるカレンダーが目にはいる。  三月七日。日付の横に『|啓《けい》|蟄《ちつ》の日』と書かれている。虫が土からでてくる日。暦の上では、もう春。三月、妊娠三か月目……。  ブランデーを持った手が一瞬、止まった。玄関の方に耳を澄ませた。  純一は、まだ帰ってきそうにもなかった。  本当に今日、帰ってくるのだろうか。昨日は、夕食の茶碗を洗っている時に、電話がかかってきた。「今夜は、帰れそうもないよ」。疲れた彼の声が、待ち疲れた私の耳に響いた。電話の向こうは、何の音もしなかった。それが私の気分を|苛《いら》|立《だ》たせた。私も彼も、同じ静かな夜の|闇《やみ》の中にいる。なのにどうして、一緒にいることはできないのだろう。  仕事、だ。いつも、この二文字が、飼い主の仲の良さに|嫉《しっ》|妬《と》する猫のように二人の間に割りこんでくる。朝から晩まで一緒にいないと嫌だと甘える、新婚ほやほやの妻というわけでもない。だけど、自分の仕事を辞めて、はじめて気がついた。  夜がこんなにも長いことを。  家の中では、テレビの音が空虚に響いている。私はブランデーの瓶を傾けた。こぽこぽと音をたてて、黄金色の液体がグラスに注がれていった。右手でグラスを持ち、左手でお腹を撫ぜた。そしてブランデーを口に含んだ。熱くふくよかな液体が|喉《のど》をおりていった。  酒の匂いを|嗅《か》いだだけでも気分が悪くなる妊婦の話もよく聞くが、私に関しては、幸か不幸か、そんなことはなかった。妊娠中の飲酒がよくないのはわかっている。でも、どうしようもない。長い夜を一人で過ごすには、酒はいい友だ。  ソファに戻って、またテレビに目を|遣《や》った。今度は、アフリカのどこかの国の食糧難のニュースに変わっていた。骨と皮ばかりになった子供を抱いた老婆が、|虚《うつ》ろな顔をしてこっちを見ていた。  私はどきりとした。  おばあちゃん。  高い|頬《ほお》|骨《ぼね》。後にぴたりと撫ぜつけた白髪。老婆の顔は、子供の頃に死んだ祖母そっくりだった。老婆の口が動いた。 ——ムシガオキタ——  背中に冷たい水をたらされたようだった。私はびくっとして、テレビを凝視した。  老婆は、祖母と似ても似つかない顔だった。テレビからは、聞いたこともないアフリカの言葉が流れてきていた。画面の下にテロップが写っている。 『この子に食べ物をください。もう一週間も、ろくにものを食べてないのです』  空耳だったのか。私は、うんざりした気分で、目の前の旧式のテレビを眺めた。  純一が学生時代から持っているテレビだ。画面が小さくて、野暮ったいデザイン。リモコンは、とうの昔になくしている。すぐに買い換えるという言葉を信じて、私の持っていたテレビは、結婚する時、友人にあげてしまった。ところが買い換えの話が出るたびに、彼は、まだ充分に映るといいはった。そして、三年が過ぎた。  彼は、物を捨てられないのだ。おかげで、この家は、どれほど彼のがらくたでいっぱいになっていることか。  八畳しかない、名ばかりのLDKの壁は、やはり純一の物だったリビングボードに占められている。その上にはテレビと、うず高く積みあげられた新聞や雑誌。リビングボードの前には、これまた彼が学生時代から使っていたソファ。|肘《ひじ》|掛《か》けの部分がすりきれたので、白い大きな布をかけて隠している。この空間で、私のものといえば、カントリー調のダイニングテーブルと二脚の木の|椅子《いす》だけだ。LDKに面して、六畳の和室と洋室がある。和室は、まるで物置だ。結婚した時、母が買ってくれた|桐《きり》|箪《たん》|笥《す》と、純一の白木のクローゼットがのさばり、隣の寝室は、部屋の真ん中に鎮座したダブルベッドに占められている。  私は、家にあまり物を置いておくのは好きではない。少なくともソファと、|図《ずう》|体《たい》ばかり大きくて、使い勝手の悪いクローゼットは捨ててもいいと思っている。この二つがなくなっただけで、どんなに家はすっきりとするだろう。しかし純一は、自分の長年使ってきた物にとても執着を抱いていて、私がそういいだそうものなら、あからさまに不機嫌な顔をする。つい二週間前も、彼が仕事に出ている間に、引き出しが動かなくなった小型の整理箪笥を捨てた。いかにも安物の合板製だった。帰ってきた彼にそういうと、あれは死んだ父の使っていたものだ、と怒りだした。その場は、私が謝っておさまったが、不満が残った。形見を大事にするのはいいが、壊れた整理箪笥なんか、後生大事に取っておくことはないだろうに。  夫は時々、他の者が見たら、くだらないとしか思えないような部分で、自分の我を通そうとする。結婚して、そんなところが見えてきた。私は、それは、純一の執着心の強さから来ていると思っている。彼は、何に対しても、執着する。一度、自分のものとなったら、余程のことがないと手放しはしない。彼の持ち物もそうだし、彼の習慣、彼の生き方、彼の愛するもの、すべてについていえる。  彼の性格で、私の神経を逆撫でするのは、そこだった。子供のように我執にしがみつく点。だが、他の部分では、私は彼に満足していた。一緒にいて楽しい男だ。仕事で忙しいというのは、有能だということでもある。  結局、人間、人生にあまりに多くのものを期待してもだめなのだ。  またブランデーをちびりと飲んだ。  玄関のドアの開く音がした。純一だ。私は、グラスに目を落とした。後ろめたい気分が走った。そして、すぐそう思った自分に腹がたった。自分の体は自分で管理する。酒のおかげで、胎児がみんなアルコール症群に|罹《かか》るわけではないだろう。  私はグラスを床に置くと、廊下のほうに顔を向けた。すぐに青白い純一の顔が現れた。彼は「ただいま」と疲れたようにいうと、|芥《から》|子《し》色のジャンパーを脱いで椅子の背にかけた。 「遅かったのね」  言葉にだしてから、非難の口調が混じっていたのに気がついた。しかし彼は何も感じなかったらしく、私の横に腰をおろして、やっぱり夜は冷えるなぁと、関係のないことをいった。私が|怪《け》|訝《げん》な顔をしていると、 「知らなかった? 雪が降ってるよ」  窓の外を見ようと、腰を浮かしかけた時、純一のにやにやした顔が目にはいった。いつもの子供っぽい冗談だ。私は、彼を|睨《にら》みつけてまた腰をおろした。純一は、私の横に座って、まだ薄笑いを浮かべていった。 「いくら夜が冷えても三月だよ。雪が降るわけないだろう」  そして一人で悦にいっている。彼は、私の肩に手を回して機嫌よさそうに続けた。 「それにしても、富士川のあたりは温かかったな。静岡って、けっこういいところだよ。俺、寒いのは苦手だから、老後はあんなところで暮らすのもいいな。富士山の見える|蜜《み》|柑《かん》畑に、しゃれた家を建てるんだ。サンルームを広くとって、リビングと続きにする。書斎と寝室は二階で、子供部屋は離れにしてさ、廊下でつなぐってのも|斬《ざん》|新《しん》だよ」  彼の言葉が途切れた。視線は床に置かれたブランデーの入ったグラスに注がれている。彼の|咎《とが》めるような視線を、私は|撥《は》ねのけた。  彼は、私のグラスを取りあげるとブランデーを|啜《すす》った。苛立ちの兆候が、その右上がりになった口許に現れていた。テレビの音が急に大きくなった気がした。番組はニュースから、ホームドラマに変わっていた。若い男女が、街角でいいあいをしていた。  しかし、彼は非難めいたことは、何も口に出さなかった。ほっと息をつくと、眼鏡を取って、|瞼《まぶた》を|揉《も》みながらソファに身を沈めた。急に疲れに襲われたようだった。私は純一の|膝《ひざ》の上に手を置いた。 「働きすぎよ」  彼はゆっくりと頷くと、|自嘲《じちょう》気味にいった。 「仕事が趣味だなんて、ださい生き方だと思ってたけどな」 「仕事がなくて、時間をどうやって|潰《つぶ》していいかわからないよりは、ずっといいわよ」  私は、考えながら答えた。 「時間の潰し方ならわかってるさ。まず寝るんだ。何日も、ぶっ続けで寝る。腹が減ったら起きて、食べて、そしてまた寝る」  純一は、はだけたシャツの首許に手をつっこんで、ぽりぽりと|掻《か》いた。私は彼のシャツのボタンをはずした。ひっかいた跡が|蚯蚓《みみず》|脹《ば》れになっていた。 「どうしたの、これ」 「新幹線の中で、虫にでも刺されたかな」  顔をしかめた私をおかしそうに見て、純一は、冗談だよ、といった。 「虫がいたのは俺の夢の中。新幹線の中がすごく暖房がきいていて、気持ちよくってさ、居眠りしていたんだ。そしたら妙に胸のあたりが、もぞもぞする。見ると、黒い毛虫みたいなものが動いているんだ。半透明で、幻みたいだった。そいつはゆっくりと|這《は》って、俺の胸の中に頭を突っこもうとしていた。はっとして飛び起きると、煙のように消えてしまった。夢に決まってるけど、気持ち悪くてね。それから胸のあたりがむず|痒《がゆ》いんだ」 ——虫が起きた——  耳の奥で、さっきの幻聴が|蘇《よみがえ》った。  腕の産毛が逆立っていた。私は、純一の手からグラスを取ると、一口|啜《すす》った。 「おい、いい加減にしろよ」  純一がきつい口調でいった。 「少しくらいならいいって、お医者さんもいってたわ」 「医者のいうことより、俺のいうことだ。子供は半分、父親のものでもあるんだぜ。俺だって、家の中で煙草を吸うのは止めてるんだ。こっちの意見だって聞いてもいいだろ」  私は彼に向き直った。 「生むのは私よ。それに純一のいい分なら、たっぷり聞いているわ。子供が大きくなるまでは、母親の手で育てて欲しいっていうから、仕事だって辞めたんじゃない」 「へーえ。仕事はもう、うんざりだ。辞めてもいいっていったの、誰だったっけ」  私は言葉に詰まった。確かに、私はそういった。あの仕事に、うんざりしていたのは本当だ。しかし、だからといって、仕事をまるっきり辞めてしまうことは、歩くのは飽きたから、一生歩かないと宣言するのと同じようなものだ。ちょっとの間、車に乗って、また歩きだしてもいいではないか。少なくとも私はそのつもりだった。  しかし彼は、私が一生、外に出ないで、家にいることを望んでいる。今は、このことでいい争いはしたくなかったが、子供が生まれて落ち着いたら、ゆっくり話し合わなくてはならないと思っていた。  彼は勝ち誇った顔で、私の手からグラスを取りあげると、一気に飲み干した。すべての問題は終わったといわんばかりのその態度に、私はカッとした。ソファから立ちあがると、流しに行き、新しいグラスにブランデーを注ぐと、彼の前に立って、ぐいっと飲んだ。彼の顔が怒りで赤くなった。 「やめろといってるだろ」  私は、独身時代から大事にしている、手造りの木の椅子に腰をおろした。 「命令口調でいうのは止めてちょうだい。あなた、気がついてないでしょうけど、私が仕事を辞めてから、そんないい方をするようになっているわ。純一はいいわよ。仕事が終わったら、仲間と一緒に飲みにいって、鬱憤を晴らして帰ってくる。家庭のことは放っておいて、自分は好きに外を出歩いている。だけど私は? 一日中家にいて、夜遅くしか帰ってこない夫を待っているだけ。あなたが父親としての権利を主張するのなら、妊娠したからといって家にいなくちゃならない妻の立場をもっと理解できるはずよ。出産の大変さは妻にかかり、子供の養育権利は夫にある、っていうのは理屈にあわないわ。私のことを考えてくれないのなら、とやかくいう権利だってないはずよ」  私は一気にいってのけた。怒りで、組んだ足の膝が震えていた。  彼は、たじろいだらしかった。自分を落ち着けようとするように、目を閉じた。そして、次に目を開けると、にやっとした。 「その調子で、出産における妻の権利について、日本国中、講演して回ったらどうだい。きみみたいな才色兼備の論客を相手にしたら、世の男は太刀打ちできないよ」  私は苦笑した。彼の仲直りの申し出だった。|夫《ふう》|婦《ふ》|喧《げん》|嘩《か》は、たいてい彼が私をからかうところで終わる。仕事で疲れている純一を相手に、とことんやり合う気力もなかったので、私は和解に応じた。 「それじゃ、純一を私の広報官に任命してあげるわ」 「ははっ、ありがたき幸せ」  純一は|大仰《おおぎょう》にお辞儀をしてみせた。そして私たちは笑いだした。しかし笑いながら、私には、問題は解決したわけではないと、わかっていた。  純一がソファから立ちあがって、風呂にはいりたいといいだした時、ズボンの|裾《すそ》の汚れが目にはいった。 「それ、どうしたの」  純一はうつむいて、黒い汚れを見た。そして子供のように目を輝かせた。 「忘れてた、あれがあったんだ」  彼は椅子にかけたジャンパーのポケットを探り、現場で見つけたといいながら、ハンカチにくるんだものを渡した。  ハンカチを開くと、丸い石が出てきた。表面に模様がついている。|容《い》れ物になっていて、石の上半分をひっぱると、|蓋《ふた》が取れた。中は空だった。 「プレゼントだよ。縄文時代のものかもしれないんだぜ」  純一は得意そうに、出張先の富士川の河原で拾ったと説明した。私は、石の器を流しで洗った。複雑な模様に覆われた青灰色の石だった。小さな宝石箱のように、電灯の下でつややかに光っている。 「気にいったわ、これ」  私は、それをテレビの上に置いた。ごとっ。小さな石の器は意外に大きな音をたてた。  骨ばった純一の手が、私の乳房をまさぐっていた。薄闇の中の影に向かって、私は、だめよ、と|囁《ささや》いた。 「どうして」 「赤ちゃんがいるんだから」 「俺の子なんだもの。お父さんのためのちょっとした場所くらい開けてくれるさ」  私は小さな声で笑った。彼の手がネグリジェの下に這いこんできて、私の体を撫ぜまわす。その温もりを心地好く感じながら、私は、彼のパジャマの上衣を脱がしていった。  カーテンの|隙《すき》|間《ま》から忍びこむ街の明かりに、純一の上半身が浮かびあがった。ほっそりした彼の体は、夜の海に跳ねる魚のようだ。私は夫を抱きしめた。|痩《や》せた背骨のひとつひとつを、そっと指でなぞる。  ふと、彼の背中が|微《かす》かに青く光っているのに気がついた。その肩ごしに、寝室のドアを見た。ドアの隙間から、居間の光が見えた。弱々しく、青白い光だ。私は体を起こそうとした。彼が不満気な声を|洩《も》らして、私をベッドに押しつけた。  その時だった。ボンッと大きな音が響いた。  私は悲鳴をあげて、純一にしがみついた。何かの焦げる|臭《にお》いが漂ってきた。彼は、ゆっくりと私から離れて、隣の部屋にいくと、電気をつけた。 「テレビだ……」  純一の声がした。私もベッドから起きあがると、居間にはいった。リビングボードの上に置かれたテレビから、うっすらと煙が立ち昇っている。 「どうしたっていうの」  純一は上半身裸のまま、テレビの前に座りこみ、チャンネルをいじっている。しかしブラウン管は、暗く沈黙したままだ。 「壊れてる」  純一は|呟《つぶや》いた。まるで死刑の宣告のように、重々しい口調だった。無理もない。あれほど執着していたテレビだった。私はといえば、目障りだったおんぼろテレビが壊れてくれたので、むしろほっとしていた。 「寿命だったのね」 「だけどテレビは消えてたんだぜ。なぜ急に壊れるんだ」 「電源を消し忘れてたんじゃない。さっきこの部屋から、青白い光が洩れていたから」  寝る前にちゃんとスイッチを切ったと、純一はいい張った。私の責任だといいたげな口ぶりだった。いつもの私なら、|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》だと反論したかもしれないが、今回は聞き流すことができた。なにしろテレビを買い換える口実ができたのだ。  私は、充分使ってあげたのだから、テレビとしても本望だろうとか、ものはいつかは壊れる運命なのだとかと、なぐさめの言葉を並べたてた。それで彼も、ようやくテレビを|諦《あきら》める気分になったようだった。  午前二時だった。純一にしても、壊れたテレビを前にして、通夜をしてあげられるほどの元気はなかった。私たちは、寝室に引きあげていった。  寝室のドアを閉める時、ふとまた青白い光を見た気がした。しかしそれは、純一の拾ってきた石の器が、寝室の窓から|射《さ》しこむ光を反射していただけだった。 「こちらは今年でたばかりの新型29インチでして、ハイビジョン番組用機能をはじめとして、重低音システムもついております」  顔色の悪い若い店員が、パンフレットを丸暗記した口調でいった。純一は『¥299800』という値段にちらりと目をやって「うーん」と|唸《うな》った。店員は察しよく、今度は少し先に展示してあるテレビを指さした。 「あちらの型でしたら、ただいまセール中ですが。衛星放送も見られますし、BSアンテナとセットで十五万五千円です」 「あら、いいじゃない」  私は純一の腕を揺すった。  秋葉原電気街にある家電製品のチェーン店の中だった。四階にあるテレビ、オーディオ売り場は、日曜ということもあって|賑《にぎ》わっていた。売り場を歩く客たちは、家族連れかカップルが多い。肩を寄せあって整列するテレビたちの前を、夫も妻も子も、期待に顔を輝かせながら歩いていく。  家族の誰にとっても、テレビはありがたい友達だ。お|喋《しゃべ》りをして欲しい時は、延々喋ってくれるし、黙っていて欲しい時は、ため息ひとつもらさずに沈黙していてくれる。 ——私を選んで。僕を選んで。いい友達になってあげる。  何も映っていない暗いブラウン管の奥から、テレビが|囁《ささや》く。テレビのある楽しい生活。退屈した子供たちの遊び相手に、休日の夫の昼寝のお供に、テレビはいかが。特に、寂しい妻の夜のお伴には、テレビは不可欠だ。  私は皮肉な笑みを浮かべた。  店員の勧めたテレビをじっと見ていた純一が、不満気にいった。 「さっきのと比べたら、デザインがなぁ……」  ぶしつけな純一の言葉にもひるむことなく、店員は、テレビ電話の静止画面のように笑いを顔に|貼《は》りつけたまま答えた。 「そりゃあセール品ですから、去年の型なんです。でも、それほどの差はありませんよ」 「だけど、せっかく買うんだからな」 「だったら、あれは」  私は斜め上のほうに展示してある、黒のすっきりした形のテレビを指さした。店員は我が意を得たり、という風に|頷《うなず》いた。 「あちらはですね、今いちばんよくでているタイプなんです。フラット画面に、文字放送機能つき。もちろん衛星放送も見られます」 「文字放送までは必要ないな」 「あら、いいじゃないの。テレビ映画も字幕スーパーみたいに見られるんでしょ」 「十九万円だぞ」純一が小声で値段をいった。 「いいじゃないの、私の貯金を使うわ」  彼の口の右端が、きゅっと上がった。 「それは出産費用に取っておくはずだろ。俺の予算の中で買えるものにしておかないと、この先大変だぞ」 「先は、先の話よ」  小声でいいあう私たちの横で、店員が困った顔で立っている。私はきまり悪くなって、少し待ってくれと頼んだ。店員が、また静止画面の笑顔を取り戻して、他の客のほうに歩み去ると、私は彼にいった。 「とにかく私は、気にいったテレビを買っておいたほうがいいと思うの。また壊れるまで使うに決まってるんだから」 ——寂しい妻の夜のお供に、テレビはいかが。  頭の中で、からかうような声が響く。 「そりゃあ、俺だって気にいったものにしたいよ」 ——休日の夫の昼寝のお供にも、テレビはぴったり。 「だから、お金のことは別にして、まず好きなものを選んで。安いのはデザインが嫌だ、高いのは値段が気にいらない。これじゃ、いつまでたっても決められないわ。デザインか値段か、どっちかにしなきゃ。私は、値段を後回しにしたほうがいいと思うの。これから先、何年も、子供が生まれてからだって、そのテレビとつきあっていくんだから」 ——退屈した子供の遊び相手に、テレビをどうぞ。  自分と子供が、黙ってテレビに目を注ぎながら、夫の帰りを待っているイメージが浮かんで、ぞっとした。たかがテレビ一台買うことで、いい合っていることが馬鹿らしくなって、私は黙った。  純一は口を|尖《とが》らせて、売り場を見回した。やっと真剣に自分の欲求を検討しはじめたようだ。セール中のテレビと最新型のテレビを、しげしげと見比べている。  私は、近くにあった椅子に座った。  妊娠しているせいか、人込みにいると疲れる。バッグの中からウェットティッシュを取りだして、額を|拭《ふ》いた。  少し離れた展示スペースに、縦に四台、横に五台、計二十台の黒の最新型のテレビが並んでいる。店員に最初に説明された商品だ。全ての画面に、無音のまま番組が映っている。野球の試合、ホームドラマ、時代劇、バレエの舞台中継、お笑い番組、旅番組……。  旅番組では、レポーターが清水寺の本堂の欄干の前でマイクを持っていた。背後に京都の町並みが見える。それで実家のことを思いだした。今頃、父や母はどうしているだろう。自分たちの経営するブティックで、客相手にお喋りしているだろうか。それとも狭い京都の道を、車で問屋回りをしているだろうか。  東京の大学に通うようになって以来、家に帰るのは、年に一、二回がせいぜいだった。なのに近頃、妙に故郷が懐かしい。やはり里帰りして、出産しようか。二十八歳で初めての出産。不安感はあった。  私はバッグから手帳をだした。出産予定は十一月。十月くらいに帰省して、正月明けに東京に戻る。純一は何というだろうか。考えながら手帳をぱらぱらとめくった。今年始めのページには、予定があれこれと書きこまれていた。『資料作成締切』『コピー機、定期点検』『報告書作り』……。そして二月二十日の『送別会 PM6〜』を境にして、ぷっつりとスケジュールは真っ白に変わる。  三月の予定に書きこまれていることは個人的な用件ばかりだ。あさっては大学時代の友人の|加《か》|奈《な》と会う。今週の終わりには、産婦人科の定期検診……。もう、今年のこの手帳に、仕事の予定が入ることはないのだ。私は、しげしげと手帳の文字を見ていた。  ふと気がつくと、あたりを静寂が支配していた。あれほどに騒がしかった人の話し声も店内アナウンスも聞こえない。手帳から顔をあげたとたん、悲鳴が喉元まで出かかった。  展示スペースの二十台のテレビ画面全部に、同じ老婆の顔が映っていた。  おばあちゃん……。  私は、声にならない呟きを洩らした。音という音が消えた無音状態の中で、ほつれた白髪をなびかせた二十人の祖母が、私を見据えている。黒く四角いテレビの枠が祖母の顔をとりかこみ、葬式の写真が並んでいるようだ。祖母の口がゆっくりと開かれた。 ——ムシガイル——  低い囁き声が、耳の奥に響いた。その音が静寂の中に消えたと思うと、次の瞬間、すべての音が戻ってきた。まるで誰かがパチッと指を鳴らして、開演の合図をしたようだった。テレビ画面には、もとの通り野球の試合や、お笑い番組が映しだされている。食べ物に群がる蠅の羽音を思わせる、客や店員の話し声が聞こえてきた。そして、純一のにこにこした顔が現れた。 「決めたよ、めぐみ。最初に見た、黒の最新型だ。ローンにして買うんだ」  はしゃいだようにいってから、私の様子に|眉《まゆ》をひそめた。 「どうしたんだ。気分、悪いのか」  私は黙って頷いた。さっき見たことを、どういっていいかわからなかった。  いや、本当に「見た」のだろうか。  どんなに展示スペースのテレビ画面に目を凝らしても、祖母の幻影のかけらすら残ってはいない。私はポケットからハンカチを出して、口にあてた。  気分が悪かった。吐きそうなほど、気分が悪かった。     二 章  久し振りに会った加奈は変わって見えた。長身を赤の皮ジャンと|色《いろ》|褪《あ》せたジーンズに包み、新宿の人込みを|掻《か》き分けてやってくる。キャリアウーマンです、と自己主張しながら揺れているような、がっちりした茶色のバッグ。ベリーショートの髪が、弱々しい春の光の中で、これから伸びていこうとする緑の草を思わせた。 「いかにも若手のカメラマンって感じね」 「つまり貧乏フリーカメラマンってことね。わかってるよ、いいたいことは」  加奈は、あっさりと|誉《ほ》め言葉をいなして、ブルーのジャンパースカートに包まれた私の下腹部に目をやった。 「めぐみはちっとも変わってないね。お腹も大きくなってないじゃない」 「まだ三か月目よ。でも、なんとなく突っ張った感じはあるの」  私は照れと誇らしさの入り混じった気分で、白いモヘアのカーディガンの前をかきあわせた。加奈は、私の下腹部から視線を|逸《そ》らせた。  私たちは、新宿三丁目のほうに向かって歩きだした。平日の昼間だというのに、新宿通りは人で|賑《にぎ》わっている。私は無意識に、手で下腹部をかばいながら歩いていた。脇をすり抜けていく会社員、大きな買い物袋をさげて亀のように歩いてくる女性の一団、くすくす笑いながら肩をぶつけあい、お|喋《しゃべ》りに夢中になっている女子学生たち。加奈と私が並んで歩くのも難しい。  いったい、これだけの人間が、昼間から何を求めてこの路上に|溢《あふ》れだしてきているのだろう。私は、加奈の背中に声をかけた。 「昔は、新宿もこんなに人が多くはなかったわよね」 「新宿も変わったよ」  加奈は大声で応えた。 「東口はまだいいけど、西新宿の変わりようなんて、すごいものね。どんどん新しい高層ビルが建ってるわ。今度、またスペーシアってのができたんだって。おもしろいビルとかいうんで、けっこう話題になってるの」  私は西新宿の方向を振り返った。白く|霞《かす》んだスモッグの中から、都庁を中心に高層ビル群が頭を突き出している。広告や電線にまといつかれた雑多な町並みの頭上で、そこだけは異次元空間のように見える。白く濁った空に向かって伸びるバベルの塔。塔は、神のいる天国に向かっているのだろうか、それとも破滅の門に向かっているのだろうか。  加奈が、伊勢丹百貨店の入口を指さした。私たちは、ガラスのドアの向こうのきらめく世界に入っていった。何万円もの値段のついている靴やバッグやブランド物の衣服の中を通り、新館八階の美術館に行く。『英国幻想イラストレーション展』という金色の大きな看板が立っていた。加奈はバッグの中から招待券を二枚だして受付に渡した。彼女と新宿で会う約束をした時、仕事先でもらった美術展の券が余っているので行ってみようという話になり、それほど絵に興味のない私もひきずられて来たのだった。  私たちは会場に入っていった。|仄《ほの》|暗《ぐら》い照明の中に、大小の絵がかかっている。客は、それほど多くはなかった。美術愛好家らしい中年女性のグループが、会場の一角で素人解説を披露している声が耳に触るくらいだ。私は一枚の絵を指さしていった。 「あら、不思議の国のアリスだわ」  それは、アリスと、頭は豚で体が海亀の怪物が、海辺で話している銅版画だった。 「私、この挿絵のついた本、持っていたのよ」  母に買ってもらった本だった。私には本、妹にはぬいぐるみや人形。母からのプレゼントは決まっていた。それが最も喜ぶ品物だと信じていたのだ。だが現実は、私は、母が思うほど満足してはいなかった。母が買い与えてくれる本は、どれも書店の店員に勧められたものばかりで、何の基準もなかった。たまに気にいる本はあったが、三分の二はつまらなかった。この『不思議の国のアリス』もそうだった。子供の私には、その中に潜むナンセンスや風刺など、皆目わからなかったのだ。むしろ、いかめしい顔つきのトランプの女王や、目をぎょろぎょろさせた帽子屋のウサギ、木の間から、にやにや笑っているチェシャ猫の不気味な絵に|脅《おび》えた。夜、ページの中から、それらの怪物たちが|這《は》いだしてきそうで、本棚の奥に本を突っこんでいたくらいだった。  私がそんな思い出話をすると、加奈は、おかしそうに笑いながら絵に顔を近づけた。 「画家はジョン・テニエルだって。知ってた?」  私は頭を横に振った。ジョン・テニエルという人物は、自分で作った登場人物たちの悪夢に悩まされはしなかったのだろうか。  ニール・ペイトンの『水の子』、アーサー・ラッカムの『ピーターパン』、アンブリー・ビアズリーの『サロメ』……。画家の名前は知らなくても、見たことのある絵は多かった。加奈が、嬉しそうな声を|洩《も》らして、一枚の水彩画の前で足を止めた。 「ウィリアム・ブレイクよ。私、好きなんだ」  彼女は、うっとりしたように絵を見ている。  奇妙な図柄だった。土の中から、大勢の裸体の男女が浮かびあがっている。青白い燐光を放ちながら、天使に見守られて天に昇っていくところだ。しかし死者たちは、昇天をありがたがっている風でもなかった。|蒼《あお》ざめた顔で、天に引き寄せられていく。喜びの表情を浮かべる回りの天使たちと比べると、その違いは皮肉なほどだ。 『死者の復活』  絵の題名が目に飛びこんできた。  脳裏に、テレビ画面に映った死んだ祖母の顔が浮かんだ。ほつれた白髪をなびかせて、こっちを|睨《にら》み据えていた。今にも、この絵の死者の顔のひとつが、祖母に変わりそうな気がした。絵から離れようとした私に、加奈が得々としていった。 「ね、いいでしょ」 「この絵、あまり好きじゃないの」  むっとしたような加奈の表情に、私は、素っ気なくいいすぎたことに気がついた。 「ごめんなさい。これを見ていて、なんだか気分が悪くなったの」  とたんに加奈の顔が曇った。私の背中に手をのばして聞いた。 「大丈夫? ちょっと休む?」  私は、いいの、いいの、と答えて、次の絵に移った。加奈は、すっかり|悪阻《つわり》のせいだと思ったようだった。私も、テレビに映った祖母の顔について、話す気にはなれなかった。  あれから何度も、祖母の幻想について考えた。なぜテレビだけに映ったのか。  虫が起きた。虫がいる。  耳の奥に響いた、この言葉は何だろうか。しかし、幻覚と幻聴の土台の上に、論理の城を築こうとしても無駄なことだ。私はすぐに、この砂遊びをやめてしまった。しかし、それですべて忘れられるわけはなかった。幻覚だとわかっているのに、死者からの声は、心のどこかで私を脅えさせていた。  会場を歩きながら、ちらりと絵を振り返った。死者たちは相変わらず、沈鬱な表情で天を見上げていた。 「で、優雅な奥様業はいかが?」  加奈の茶化すような質問に、私は肩をすくめてみせた。 「まあね。お金はないけど、時間だけはふんだんにあるわ。今まで読みたかった本やビデオを片っ端から見ているところ」  美術展を見終わってから、私たちはデパートの中にあるティールームに入っていた。  軽やかなクラシック音楽が流れている。店の中は、圧倒的に女性が多かった。隅のほうで、背広姿のサラリーマン二人が仕事の話をしていたが、女性客たちの華やかな色に埋没していた。  加奈はバッグから煙草をだして、一本引き抜いた。口に含んで、ライターを探そうとして、はっとして|呟《つぶや》いた。 「いけない、妊娠してたんだ」  私は|頷《うなず》いた。彼女は煙草をしまうと、手持ち無沙汰にストロベリーソーダのストローを回した。  私は悪いような気分になっていった。 「吸いたければ、どうぞ」 「ううん。いい、いい」  加奈は唇を丸めてソーダを|啜《すす》った。  ふと、学生時代によく行った喫茶店を思いだした。授業を抜け出して、友達と店の奥にある黒い丸テーブルを囲んでいた。私たちの大学は、そこそこに名のある私立の女子大だった。平和な家庭に生まれ、周囲からは「いいお嬢ちゃまね」と誉められて育ち、中の上くらいの成績で、表だった波風もたてずに生きてきた娘たち。そんな学生たちにできるささやかな不良行為が、授業をさぼっての喫茶店の長話だったのだ。集まる顔ぶれはいつも違っていたが、私がいるなら、必ずといっていいくらい加奈もいた。飲み物一杯で、何時間も喋っていたものだ。あの頃、何をそんなに話していたのだろう。  加奈のことで、最も記憶に残っているのは、ナイフの話だった。横浜の輸入雑貨の店で見つけたといって、ある日、銀色の美しい曲線のナイフをみんなの前にだした。そして、意味あり気な顔で、これで手首を切って死ぬのだと|囁《ささや》いた。その場にいた友人たちが、真剣に理由を尋ねたり、止めたりするのを硬い表情で聞いていた加奈は、突然、大きな声で笑いだした。「やだな、私が自殺なんかするタイプと思ってるの」。誰もが冗談だったと知って、彼女を吊るしあげたものだった。  しかし私だけは、後で加奈に打ち明けられた。本当に死のうかなと思ったのだと。彼女が、二歳年上の大学院生の恋人と別れたのは、それからすぐ後のことだった。  次の年、加奈は学校を辞め、写真の専門学校に通いはじめた。そして私たちの人生は分かれていった。 「加奈こそ、最近はどんな調子?」  私は、あの頃よりも痩せてきれいになった加奈を見つめた。 「そうねぇ。まあまあってとこ。コマーシャルの撮影も入るようになって、少しは認められてきたし、自分のスタジオも持ったし」 「まあ、スタジオを」 「高田馬場にあるの。一度、新宿にでてきたついでにでも寄ってよ。おんぼろビルだけど、お茶ぐらいは出せるわ」  彼女の顔は誇らし気に輝いていた。心臓にちくりとした痛みを覚えた。加奈は着実に、自分のキャリアを積みあげている。  大学で過ごしたあの時期、同じスタートラインにいた。しかし、今、私たちの生活も状況も、どんどん離れつつある。 「他に変わったことは?」  別にないけど、といいながら、加奈の顔が少しほころんだのを、私は見逃さなかった。 「いいこと、あったんじゃない」  加奈は照れたように笑った。 「いいなさいよ」  私は加奈の腕を揺すった。加奈はストローをいじりながら、恋人ができたのだと告げた。相手は同じカメラマン。会ったのは、去年のクリスマスの夜。 「かといって、ロマンチックな出会いではないの、ちっとも」  加奈は、むきになっていった。  その夕方、銀座でクリスマス風景を撮るという仕事のあった加奈が、あらかじめ目をつけていた撮影場所に行ってみると、そこには、すでにもっさりした男がカメラの三脚を立てて陣どっていた。怒りを押さえて、隣で仕事をはじめたが、男はぼそぼそと彼女に話しかけてくる。そっけない応対をするのに、彼はひるむ様子もない。「銀座の交番の警官って英語、喋れるの、知ってる?」「いい年した大人がクリスマスではしゃいで、みっともないな。サンタさんってのは子供の遊びだぜ」という調子で、くだらないことを話し続ける。だが、自分でも驚いたことに、夜も更けて撮影が終わった時には、男の誘いを受けて一緒に飲みに行く気になっていた。  その妙な男が、恋人になってしまったのだと、加奈はわざとらしく困った風な顔をして見せた。 「いいじゃない。同じカメラマンなら、話があうでしょう」 「とんでもない。|喧《けん》|嘩《か》のほうが多いんだ。下手に仕事が同じだけに、相手のやり方が気にくわないわけ。私は、仕事なら何でも引き受けるけど、彼は社会的なテーマを追っていて、それを週刊誌や新聞に売っていきたいと思っている。だから彼にいわせると、私のやり方は節操がないっての。私にとっては、彼のやってることは、採算のあわないアマチュア仕事みたいなものに思えちゃうのよ」 「刺激的な関係じゃない」  加奈は吹き出して、そんなかっこいいものじゃない、と|応《こた》えた。 「だけど、お互いの存在が刺激にはなってるのかな。今度、作品を|貯《た》めて二人展をやろうって話してるんだ」  加奈の目が輝いていた。  私はぬるくなったミルクティーを啜った。 「いいわね」  ふと言葉が口をついてでた。 「やだ、優雅な奥様が何をいうの」  私は皮肉な笑みを浮かべた。  優雅な生活とは何だろう。何もしないで、じっとしていることだろうか。掃除も洗濯も、さほど時間はかからない。帰宅の遅い純一は、たいてい食べてくるから、毎日の献立で頭を悩ませることもない。時々、自分が大学時代に戻り、一人暮らしをしているような気分になる。一日、アパートで本を読んで暮らしていたあの頃。親の仕送りが、純一の稼ぎとすりかわっただけだ。 「仕事をしていた頃が、遠い世界のことみたいだわ」  加奈があきれた声をあげた。 「なにいってんの。まだ辞めたばかりじゃなかった?」 「一か月前よ」 「つい、この前じゃないの。大げさねぇ」 「でもね……。なんだか今までの社会と、ずいぶん離れてしまったなと思うの」  糸を切られて、はじめて自分が地面と|繋《つな》がっていたのがわかった気分。今の私は、ふわふわと空に浮かぶ風船だ。ぼんやり夢見心地のうちに、下界が遠ざかっていく。先程見た『死者の復活』の絵を思いだした。喜びも悲しみもない。|虚《うつ》ろな表情で天に昇っていく死者たちは、今の私のような気持ちなのだろうか。  加奈は、じれたように目を|剥《む》いた。 「めぐみ、あんたらしくないよ。しょぼくれちゃって。子供が幼稚園にでも通いはじめたら、また勤めればいいじゃない。人生、長いんだもの」  よくわかっていた。しかし、幼稚園にいくようになるまでの三年か四年間、私は家庭という風船に乗り、宙に浮いているのだ。いざ仕事に戻ろうとした時、ぱちんと風船を割って下界に|墜《お》ちていく勇気をなくしているのではないだろうか。私は、それが怖かった。  ピーピーピー。甲高い音がした。回りの客がこっちを見た。加奈が慌ててベルトに手をのばした。ポケットベルだった。彼女は「ちょっとごめん」と謝って、ティールームの入口にある公衆電話に行って、電話をかけはじめた。分厚いシステム手帳をだして、メモをしている。きびきびした雰囲気が漂っていた。そこには私が背中を向けた世界があった。仕事という糸を通して、社会と繋がっていた世界。仕事にうんざりしていたとはいえ、あの頃の私の生活には張りがあった。  ふと胎動を感じた。  とん、とん、と小さな鼓動が体の内壁を|叩《たた》く。まるでお腹の赤ちゃんが、他の世界を見てはいけないと警告したようだった。  私は下腹部に手をあてた。  自分で選んだことだ。仕事を辞めたのも。しばらく育児に専念しようと決めたのも。  今更、後悔はするまい。私は、自分にいい聞かせた。  加奈が受話器を置くのが見えた。  向かいのマンションの外壁タイルに、夕日が反射していた。四角い建物にとり|憑《つ》いた、赤い火の玉のようだ。ベランダの洗濯物をとりこみながら、どうして、こんな家に住むことにしてしまったのだろう、と思った。  窓から見える景色といえば、白いタイルのマンションの外壁。台所や居間には窓はなく、昼間でも電気をつけないといけない。仕事に出ている間は、家にいるのは朝と夜だけだったからよかった。しかし一日中、家で過ごすようになると、暗いLDKは私の気分を憂鬱にさせた。  ここは穴蔵みたいだ。もっと広く、快適なマンションに移りたい。しかし、どうやって? 私が仕事を辞めて、収入は減ってしまった。これ以上、いいマンションに移れるはずはない。 ——優雅な奥様業はいかが?  加奈の声が|蘇《よみがえ》った。 「ええ、とっても素敵でございますわよ」  私は独り言をいって、シャッとカーテンを引いた。それが合図ででもあったかのように、居間で電話が鳴りだした。私は洗濯物を放りだして、受話器をとった。 「ああ、めぐみぃ?」  関西|訛《なま》りで名前を呼ばれた。  私は、お母さんかぁ、と呟いた。 「なんや、そのいい方。ちっとも連絡ないから心配してたんや。どうやの、赤ちゃんは。順調?」 「うん。この前、定期検診にいったら、大丈夫だって、太鼓判、押されたわ。その時、超音波検査も受けたの。お腹の中の赤ちゃんの体が見えて、すごかった」 「超音波検査か。私らの時代とは、えろう違うてんやな。で、悪阻は?」 「ほとんどない。油の匂いがきついと、時々うっとくるくらい」 「うちもせやったわ。仕事があったもんやから、ほんま助かったわ。まあ、もし悪阻がえろうても、そんなことで仕事、よう休めへんかったやろけどな」  胸を針で刺された気がした。長く仕事を続けてきた母は、私が妊娠のために仕事を辞めると聞いて反対したのだ。 「みんな、元気?」と、私は話題を変えた。 「ああ、お父さんは、最近、町内会の世話役の集まりに忙しゅうて、ちいとも店のほうにいてはらへん。|朔《とも》|美《み》はゴルフをはじめてな。パターやらなんやらクラブを買うゆうて、お金せびられてばっかり。かないまへんわ」 「ゴルフやって? 生意気やな」  母につられて、無意識に故郷の言葉遣いがでてきた。 「独身貴族どすがな。ゴルフに行くボーイフレンドもぎょうさんおって、私には、誰が誰かわからへんくらいや。そいでも店の手伝いは、ようやってくれるからええけど。この前は、自分で仕入れるゆうて、けったいな服ばっかり入れてしもうてな。お父さん、目ぇ飛びでるくらいたまげてはったわ。ところが、その服の評判ようて、私らもびっくりしたわ。あの子、けっこうこの仕事に向いてるんやな。うちの店、どんどん大きゅうしたるて、豪語してるわ」  また朔美の話だ。母は、昔から妹のほうがお気にいりだった。私は、まだ話したそうにしている母に、ぶっきらぼうにいった。 「私、夕食の支度、せなならんから」 「ああ、私かて忙しいんや。これから会計士と会わんならん。年度の変わり目やからな、税金対策でおおわらわや。ほな、体、大事にしてな」  母は早口で締めくくると、私の|挨《あい》|拶《さつ》も聞かないで電話を切った。私の生活に乱入してきた、慌ただしい空気が不意に消えた。そして部屋の静かな空気が、またひたひたと押し寄せてきた。  夕食の支度など、それほど急ぐことでもなかった。母に素っ気ない対応をしたことに少し後悔しながら、洗濯物をたたみはじめた。  いつもそうなのだ。母と話していると、少しずつ|苛《いら》|立《だ》ってくる。多分、母が妹に満足していて、私に不満を抱いているせいもあるためだろう。私は、いつも母の期待を裏切ってきた。小さい時から「いい子」で「賢い」、そして「可愛らしい」子供として通ってきた長女なのに、店も継がず、大学を卒業しても東京に残り、企業の資料室勤務という、上昇志向の母にとっては何の面白味もない地味な仕事に就いた。そして妊娠すると、退職してしまった。私の生き方に対する母の苛立ちが、私に伝わり、二人の間にわだかまっている。  洗濯物を|箪《たん》|笥《す》にしまい、夕刊を取りにいくと、ソファに座った。外を走る車の音が、小さく聞こえてくる。  私は、ゆっくりと新聞をめくりはじめた。  チベットの独立運動は、インドと中国の対立に発展していた。フランスの放射能漏れに抗議して、国民の大規模デモが起こっている。オーストラリアでは、海岸に四百頭もの鯨が打ちあげられて、腐臭の中で死につつあると報じられていた。  ひと通り夕刊を見ると、時計を見た。まだ八時。今頃、純一は何をしているのだろう。あの造園課の窓際の製図版に向かって、図面を引いているのだろうか。それとも、夕食は中華料理屋に行くか、焼き鳥屋にするか、弁当を注文するかと、仲間と一緒に騒いでいるだろうか。造園課や設計課の部員ときたら、食事のことしか頭にないのだ。……ひょっとしたら、この東京のどこかで打合せと称して、飲んでいるのかもしれない。仕事相手か、同僚か友達か……若い女性かもしれない。  ふと浮かんだ、いやな想像を、慌てて頭から追い払った。  私たちは職場結婚だった。大学で図書館司書の資格を取った私は、『内田建設』の資料室に採用になった。地下にある、青白い蛍光灯の光に浮かび上がる空間。灰色の本棚が、永遠に呼ばれることのない朝礼の点呼を待ちながら、静かに整列している資料室。その部屋が、私の人生を決定した。ここで私は、同期入社の純一と親しくなったのだから。  私たちは、本の後でデートの約束をとり交わし、本棚の間でこっそりとキスをした。二人の関係は、社内では秘密だった。私は、「秘密」という、甘い言葉の響きに酔っていた。彼も私も独身だったのだから、べつに秘密がばれても困ることはなかった。自分たちが傷つかないですむ程度の「秘密」だからこそよかったのだ。  純一は、秘密をわかちあう相手としては申し分なかった。飛び抜けてハンサムというわけではないが、すらりとした長身は、都会的でかっこよかったし、理知的で話題も豊富だった。  何よりも他の男たちのように、デートを重ね、一緒にホテルに行っても、「この領土、占有しました」といわんばかりの態度をみせなかった。つきあいはじめると、待っていたかのように、私の生活や習慣にまで口を出してくる男たちには、うんざりしていた。 「その服さ、少し胸が開きすぎてない?」「電話してもいなかったぞ。今まで何していたんだよ」。愛情と引換えに、そんな|台詞《せりふ》を当然の権利のように、私に押しつけてくる男が多すぎる中で、純一だけはあくまでも、私の自由を尊重する態度を示した。 「いい男女関係は、お互い、個人として独立していることが基本条件だよな」などと、けろりとしていっていたものだ。  しかし、結婚してわかった。やはり彼もまた、心の底では思っていたのだ。 「こいつは俺の女だぞ」と。  私の反発を察して、そういう自分の内面を見せなかっただけだ。しかし一皮|剥《む》けば、純一も他の男と同じだった。  もちろん今でも、露骨には、私に自分のそんな気持ちを押しつけるようなことはいわない。だからこそ私は、彼との結婚生活を、続けてこれた。  でも、一緒に暮らしていると、|些《さ》|細《さい》なところで、隠していた気持ちがこぼれ出る。会社のコンパで、他の男性と冗談口を叩いている時に感じる、純一の不機嫌な視線。私が、女友達と、旅行や夕食の約束をしたことをいいだした時に、彼の顔を|過《よぎ》る苛立ち。そんな表情の変化に、私は彼から放たれる、見えない糸を感じる。自分の世界の中に、私を手繰り寄せようとする糸を。  会社に勤めている頃は、その糸の存在を感じるたびに、腹立たしくなったものだ。私は、自衛手段として、母親の役割を演じることにした。甘えん坊で、独占欲の強い子供の態度を、やんわりといなす母親役。その試みは、けっこううまくいった。純一は、私が諭すような態度を見せると、いたずらが見つかった子供のように照れ笑いをして、自分の主張を引っこめた。  私が会社を辞めると、彼は見えない糸を手繰ることはしなくなった。その必要がなくなったのだ。家という、彼の世界に、私がいるようになったから。  だが、純一の心の平安と引換えに、私は自分の内に不安を抱えることになった。  家の外にいる時の夫の姿が見えない。同じ会社で働いていた頃は、廊下や資料室で、絶えず彼の姿が視界にはいった。出勤する時も、退社する時も、一緒のことが多かった。当時は、いつも純一が、どこで何をしているかわかっていた。昼食には誰と出かけたか、打ち合わせで外に出ているかどうか、夕食には何を食べることにしたか。  ……しかし今は、彼が会社で何をしているのかわからない。彼が、遠いところにいってしまった気がする。  私は頭を振ると、そばにあった女性雑誌を取りあげた。本を開くと、大きな見出しが目に飛びこんできた。 『妊娠中、夫の浮気に御用心!』  いやだ。私は乱暴に雑誌を閉じて、ソファの上に放りだした。  そしてテレビをつけようと、前まで歩いていって気がついた。まだ新しいテレビは届いてないのだ。壊れたままの暗いブラウン管に、私の姿があった。背後には、台所と、寝室に続くドアが奇妙に曲がった形で映っている。まるで、自分自身が|歪《ゆが》んだ家に閉じこめられている気分を覚えて、私は暗いブラウン管から目を逸らせた。  テレビの上の石の器が目にはいった。  取りあげると、しっとりとした石の冷たさが伝わってくる。表面の模様を、じっくりと調べた。何かの木を表しているようだ。かなり古いものだといっていたが、いつの時代のものなのだろう。私は、リビングボードの横に置いてあるステレオをつけた。FM局から、ジプシー・キングスの軽快なスペイン語の歌が流れてきた。私は石の器をステレオの上に置いて、またソファに戻った。  食器棚の上の時計が八時十六分を指している。私は、放りだした雑誌に手を伸ばすと、のろのろとページをめくりだした。     三 章  蛙の鳴き声が響いていた。満天の星空、白い薄絹のたなびくような天の河の下で、水田の稲の苗が、夜の涼風に揺れている。  ちぃいいいん、ちぃいいいん。  風に乗って、|鉦《かね》の音が流れてくる。燃えさかる|松明《たいまつ》を掲げた人々の行列が、水田の|畦《あぜ》|道《みち》を進んでくる。緑の苗の上で振り回す松明の赤い火が、水面に反射する。揺れる松明の炎の周囲を、小さな羽虫の群が飛び回っていた。  行列に連なるのは、男ばかり。みんな青白い顔をして無表情だ。ただ口だけがぱくぱくと開き、くぐもった声で唱和している。 ——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——  行列の先頭の男が、|藁人形《わらにんぎょう》を抱えている。人形の胸には、やはり藁で作った箱がくくりつけられていた。それに続く男が小さな鉦を鳴らしていた。ちぃいいん、ちぃいいん。霊前に置く、供養の鉦だった。  私は|爪《つま》|先《さき》立って、行列を見送っていた。誰かが私の手を握っている。顔をあげると、おばあちゃんだった。私たちは、遠くからその行列を眺めていた。  虫送りの季節やなぁ。  おばあちゃんは|呟《つぶや》いた。  虫送り?  へえ。悪い虫を遠いところに、追いだすんどす。  どこに追いだすの?  おばあちゃんは黙って遠くの|闇《やみ》を見た。白髪が夜風に吹かれて、|蜘蛛《くも》の糸のように流れていた。松明の赤い炎が、ゆらゆら揺れながら遠ざかっていく。おばあちゃんは、行列の後についていきはじめた。 ——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——  ちぃいいん、ちぃいいん、という鉦の音と、念仏のような呟きが絡みあいながら消えていく。夜に尾を引く松明の光は、蛇のようにくねりながら、|遥《はる》か先まで続いている。  みんな、どこまでいくの?  私は、おばあちゃんの背中に聞いた。  |幽《かす》かな声が返ってきた。  ……この世と、あの世の境までどす。  満開の桜の木の下で、子供たちが砂遊びをしていた。はらはらと散る薄桃色の花びらを髪や腕にくっつけて、歓声をあげている。  私は、日だまりのベンチに座って、伸びをした。ビルと住宅に挟まれた長方形の小さな公園では、若い母親たちが集まって、楽しそうに井戸端会議をしている。  持ってきた新聞を広げると、大きな見出しが目に飛びこんできた。 『チベット自治区からの難民、ネパール、インド国境から続々と国外退避。インド政府は、自治区内で、無差別攻撃が行われていると発表』  私は新聞をひっくり返すと、三面記事から読みはじめた。名古屋で老人の他殺死体発見。暴力団の抗争で五人死傷。中学生グループ、深夜のカップルに暴行、重軽傷を負わす。 「まあ、マルゲンがまた改装するの?」 「知らなかった? 今、大売出し中よ」 「私なんか、ベビー服、もうたっぷり買いこんだわよ」  隣のベンチの母親たちの|賑《にぎ》やかな声に、顔をあげた。うららかな春の光に溢れる公園にいることが不思議な気がした。ここには、新聞に出ているような、暗い事件の影すらない。  私は、二月まで勤めていた内田建設の資料室を思い浮かべた。  厚いコンクリートに閉ざされた地下の空間。あそここそ、この新聞記事にふさわしい場所だった。資料室の一角の、コピー機や貸出票のあるコーナーが、私と|北《きた》|村《むら》|美《み》|津《つ》|子《こ》のデスクだった。北村は、私より四年先輩。不倫の|噂《うわさ》のある女性だった。しかし、いわゆる愛人にありがちな日陰の花のような雰囲気はない。資料室の鉄の女と呼ばれるほどに、その歯に|衣《きぬ》を着せない言動や仕事ぶりで、一目置かれる存在だった。資料室には、資料探しだけでなく、息抜きも兼ねてやってくる社員も多く、私や北村相手によくお|喋《しゃべ》りをはじめたものだ。何気ない世間話から社会問題まで、話題は豊富だった。しかし、人の顔色すら幽霊のように見せてしまう蛍光灯の影響か、北村の皮肉に満ちた意見のせいか、どの話も最後には暗い方向に流れていった。 ——|賭《か》けてもいいさ、今に世界は環境問題で破滅するよ——僕が思うに、第三諸国が力をのばしてくるだろ。で、第三次世界大戦に発展するというわけだ——あまり想像したくないことだけどね、人類は今にエイズで滅びるな——  夕方、会社から外にでて、いつもの通り、夕日が輝いていると、不思議に思ったものだ。まだ世界は破滅していないのだと。  目の前を小さな男の子が走り過ぎた。 「ママーッ、虫だよ、虫」  手に持った緑の葉を、隣のベンチの母親につきつけた。母親は、|微笑《ほ ほ え》みながら息子を振り返った。しかし、その葉の上に|蠢《うごめ》くものを見たとたん、悲鳴をあげた。 「毛虫じゃないの。早く捨てなさい」  男の子は、母親の反応が理解できないという表情になった。 「怖くないよ。かわいいんだよ、ママ」  子供は、指の先で毛虫を触ろうとした。 「やめなさいっ」  母親は、その葉を地面に払い落とすと、我が子の手をつかんでいい聞かせた。 「毛虫は刺すの。悪い虫なの。触ったら、指の先、イタイ、イタイになるのよ。そうなってもいいの?」  男の子は口をヘの字に曲げて、頭を横に振った。 「ほーら、いやでしょ。虫なんか触っちゃいけません」  男の子は、足元で蠢いている毛虫を見おろした。焦げ茶色の毛がびっしりと生えた、人指し指くらいの虫が、もぞもぞ動いていた。男の子は、ゆっくりと足をその上に持っていって、靴の先で虫を踏んだ。毛虫は、ぐしゃりと|潰《つぶ》れて、小さな靴の横から、黄色く濁った汁が地面に|滲《にじ》みだしていった。私は虫から目を背けた。 ——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——  地の底から歌声が聞こえた気がした。  そして昨夜の夢を思いだした。  あれは子供の頃、祖母に連れられて、虫送りを見にいった時の夢だった。  祖母は、京都の|太秦《うずまさ》に住んでいた。洋装品店をはじめたばかりだった両親は、忙しくなると、私を車に乗せて祖母の家に預けにいった。妹はまだ生まれてなかったから、私がいないと、たっぷり仕事に打ちこめたのだ。一度預けられたら、私は、二、三日は滞在することになった。  祖母の古めかしい家は、太秦の田園風景のなかに、城のように|聳《そび》え立っていた。祖父が亡くなった後、伯父一家が移ってきたのだが、それでも使ってない部屋がたくさん残っていた。端の擦り切れた覆いのかかった鏡台がぽつんと置かれている和室、薄暗い納戸、何に使ったのかわからない、二畳だけの部屋……。祖母の家に滞在することは、いやではなかった。大きな家を探検していると、一人遊びも苦にならなかった。  家の造りは、大人になっても、頭に焼きついている。竹の生け垣に囲まれた家の門をくぐると、てっせんの茂みがあった。その横を通って玄関を入ると、小さな三畳間。そして長い廊下が続いている。廊下の横には階段。二階には、伯父夫婦の寝室と書斎があった。一階には客間、茶の間、台所。茶の間の向こうにさらに廊下があって、|従兄弟《いとこ》の孝太郎さんの部屋、祖母の居室と続いていた。祖母の部屋は縁側に面していて、よくそこに腰かけては、昔話をしてもらったものだ。  今でもよく覚えているのは、応声虫の話だ。京都市内の長三郎という男の子が、ある時、原因不明の病気になった。そして熱が下がると、腹に人の口そっくりの形をしたできものができていたという。その口は、長三郎のいったことを、そっくりそのまま|口《くち》|真《ま》|似《ね》するうえに、とんでもない|大《おお》|喰《ぐ》らい。困り果てた両親が、高名な医者に頼んで薬を調合してもらった。 ——ほな、お|尻《しり》からでてきたんどす。頭に角の生えた虫が、にょーろにょろにょーろにょろ……。  私は悲鳴をあげたものだった。祖母は、私を怖がらせて笑っていた。  あれは七夕も過ぎた頃だった。その日、私は浮き浮きしていた。両親が、祖母の家に預けられた私を迎えにきてから、花火に連れていってくれる約束だったのだ。  ところが、夕方になって電話がかかり、急用ができたので花火は中止、もう一泊、祖母の家に世話になるようにといわれた。一度もらった誕生日の贈り物を、中を見ないままに返せといわれたようなものだった。怒って、泣き叫んでいる私に、祖母がいった。 「めぐみ、ほな、虫送りにいこ。今晩、近くであるみたいやし」  |怪《け》|訝《げん》な顔をする私に、祖母が教えてくれた。 「虫送りゆうんはな、悪い虫を、遠いところに送りだすもんどす」  そして私たちは手をつないで、虫送りを見にいったのだ。  あの夢の通りだった。松明を持った農家の男たちが、行列をなして歩いていた。 ——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——  |田圃《たんぼ》にでてくる虫の名を呼ばわりながら、藁人形を掲げて、村境まで虫を送っていく。藁人形につけた藁の箱には、害虫がはいっていた。そうして夏の間、虫害から農作物を守ってくれ、と祈るのだ。もう二十年以上も前のことなのに、よく覚えていたものだ。  しばらく私は、明るい日射しを浴びながら、昨夜の夢を|反《はん》|芻《すう》していた。食べた草を再び|噛《か》む牛のように、ゆっくりともう一度、味わいながら。  初夏の夜気。満天の星。揺れる松明の火。緑の稲の苗の香り。何の憂いもなく、ただじっと、移りゆく眼前の風景を見つめているだけでよかった子供の頃……。  ふと、夢の中の最後の会話を思いだした。 ——みんな、どこまでいくの?—— ——この世と、あの世の境までどす——  虫送りの時、祖母は、あんなことはいわなかった。  この世と、あの世の境……。  突然、風が吹いてきて、地面の桜の花びらが舞いあがった。私はびくっとして、ベンチから腰を浮かせた。生暖かい春の風は、死者の息吹。そんな思いが、頭を|過《よぎ》った。立ちすくんでいる間に、風は吹いてきた時と同じように、一瞬にしておさまり、息吹の名残が地面の近くで桃色の花びらを円舞させていた。両腕をかきあわせると、鳥肌が立っているのがわかった。  私は新聞を小脇に抱えると、足早に公園をでていった。  公園の近くには、小さな商店街が続いている。気分を変えて、買い物をすることにした。八百屋、魚屋、豆腐屋、酒屋……。古ぼけた商店が軒を並べている。仕事をしていた時は、スーパーでまとめ買いをしていた。この商店街を利用するようになったのは最近だった。八百屋の店先で、赤ら顔の店主がだみ声を張りあげていた。 「小松菜一束百五十円、安いよ。新たまねぎ一袋二百円。あっ、奥さん、こんちはっ。どう、この前の玉葱、おいしかったろ」  声をかけられ、私は教師に呼びとめられた生徒のように、びくっとした。 「えっ、ええ。ほんと甘くてね」  この前の玉葱とは、どの玉葱だっただろう。たいして味は変わらなかったと思いながら、口は反射的に模範生徒の返事になっていた。店主は早くも空の白いビニール袋に手を伸ばしながら聞いた。 「なっ、いった通りだ。で、今日は何にしますか」  別にこの店で買う気持ちがあったわけではない。しかし、もう逃れられなかった。私は、店先に積みあげられた緑の野菜を見回した。 「|韮《にら》と、ほうれん草とピーマンください」 「はいはい、韮とほうれん草。このほうれん草は、柔らかくておいしいよ。生のままで食べられるくらいだ。おっとと、ピーマンを忘れていた。そうそう|長《なが》|葱《ねぎ》はどうだい。ぬたにするといいよ。一束百円、安いんだから」  ぬたの作り方を知らないからというと、店主は目を|剥《む》くようにして、最近の若い奥さんはこれだからな、と怒鳴って、ぬたの作り方の講釈をはじめた。他の客の買い物を扱っていた店主の奥さんが、からからと笑った。 「よしなよ、お父さん。いっぱしの料理家みたいにさ。お客さん、この人のいうこと、信じちゃいけませんよ。だいたい家で台所に立つと雪が降るくらいの人なんですよ。その通りに作ったら、まずい、まずい」  奥さんのしかめ面に、私も笑いながら聞いた。 「じゃあ、おいしいのはどう作ればいいんですか」 「まずお|味《み》|噌《そ》をすり鉢にいれて、お砂糖とお酒をちょっといれて、よく練るんですよ。好みで|胡《ご》|麻《ま》や、お酢をいれる。味をみながら少しずつ混ぜあわせていくのがこつですよ」  大根を買っていた女性が会話に加わった。 「うちはね、それを小松菜と|烏賊《いか》で|和《あ》えるの。主人が好きでね。おいしいのよ」  私も奥さんも、なるほどといっている横から、店主がまた口をだした。 「俺は、やっぱり|鮪《まぐろ》と長葱だな」 「だれもお父さんの意見なんか聞いちゃいませんよ」  奥さんがこういったので、私も客の女性も大きな声で笑った。結局、長葱も買って、私はまだ笑みを顔に浮かべたまま、八百屋を後にした。  魚屋と肉屋で買い物をすませてから、クリーニング屋に寄った。年寄り夫婦が、家の一部を改造して、クリーニングの取り次ぎをしている店だ。  いつも店にでている老婆はいなかった。代わりに頭の|禿《は》げあがった夫が、カウンターに|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、うつらうつらしていた。二、三度声をかけて、彼はやっとゆっくりと目を開けた。そして私を驚いたように見あげた。 「おや、こりゃあ、こりゃあ……」  また大きな|欠伸《あくび》をした。すえたような口臭が私の顔に吹きかかった。老人は、照れ笑いを浮かべていった。 「店番、頼まれた揚げ句に、うたた寝しちゃったよ。夢まで見ていたんだから、おめでたいですな、あははは」  春ですものね、と調子をあわせて、私はクリーニングの引換え券を渡した。老人は慣れない手つきでビニールのかかった服の山をひっくり返しはじめた。 「春らしい、いい夢でしたよ。故郷の人たちの中にいるんですよ。もう、ずいぶんと会ってない人ばかりだった。|親《しん》|戚《せき》の者や、幼なじみ。あはは、みんな生きているかどうかもわからないな、この年になると」  老人は、独り言のように喋り続ける。 「そしてね、私の前には、なんだかとってもいい香りのする木があるんですよ。その木を見ていると、悲しいとか、嬉しいとかじゃなくて、ただもう静かな気分で、気持ちいいんです。私は、じっと、そこに黙って立っているんです」  老人は微笑んだ。顔に刻まれた|皺《しわ》の奥まで明るくなったような笑みだった。 「私も、そんな気持ちのいい夢なら見てみたいものだわ」 「あはは、こんな年寄り臭い夢。奥さんみたいな若い人は見たくても、見られやしませんよ」  いいえ、昨夜、おかしな夢を見たんですという言葉を、私は呑みこんだ。虫送りの夢が|蘇《よみがえ》りそうになった。あの夢には、何か私を不安にさせるものがあった。私は無理やり心のドアを閉めて、あの夢は思い出さないことにしようと決めた。 「ああ、これかな。まったく、|婆《ばあ》さんがいないと、よくわかりませんでね」  老人が預けていた衣類を引っ張りだした。私は買い物袋とクリーニングを入れた袋を両手に抱えて、帰っていった。  マンションのエレベーターを降りると、家のドアの前に、お揃いの薄茶色のつなぎ服を着た、二人の男が立っているのが見えた。手持ち無沙汰な様子で煙草をふかしている。  角刈りの頭に耳にピアスをした、筋肉質の男。その横には、金色に染めた髪を後で束ねたほっそりした男。異様な風体に、私の足が止まった。  いやだ、私の家の前で何をしているのだろう。そう思った時、二人の足元にある大きなダンボールの箱が目にはいった。電気メーカーの名前が書かれていた。私は、はっとした。 「あのう……、テレビの配達の人?」  二人はこっちを振り向いた。ピアスをした男が煙草を床に投げ捨てると、メモに目を走らせて聞いた。 「多田さんですか」 「ええ。すみません。お待たせしたかしら」  私は家の|鍵《かぎ》を開けながら聞いた。 「いや、いいですよ。さあ、カヤ」  カヤと呼ばれた金髪の男は、ポケットからカッターを出して、手際よくその場でダンボールの箱を開けはじめた。私は部屋に入ると、慌てて壊れたテレビの上に置いてあったものを他に移した。 「おじゃましまーす」  ピアスの男が元気のいい声で|挨《あい》|拶《さつ》をして、居間にはいってきた。 「テレビ、どこに置きますか」  私は壊れたテレビのある場所を指さした。古いほうは引き取ってもらうことになっているというと、ピアスの男は|頷《うなず》いて、カヤの名を呼んだ。カヤがカッターを手にしたまま現れた。二人の青年は、ビデオのプラグをはずして、壊れたテレビを運びだすと、すぐに新しいテレビを持って戻ってきた。  リビングボードの上にテレビを置いて、ピアスの男が、新しいテレビにビデオを接続しておくかと聞いた。 「お願いします。よくわからないんで」 「そりゃそうですよね。最近は、電気製品も複雑になってるから、どこのプラグをどうつなげばいいかなんて、わかんないのが普通ですよね。僕らも、この仕事をはじめて、やっとわかったくらいですよ」  ピアスの男は、人なつこい笑みを浮かべた。よく見ると、りりしい若武者のような顔つきをしている。私は作業をはじめた二人の背中を見ながら聞いた。 「この仕事、長いんですか」  ビデオのプラグを調べていたカヤが、ぷっと吹きだしていった。 「電気屋が板についてきたなぁ、ミナミ」  柔らかな絹ずれのような声だった。切れ長の目。すっと通った鼻筋。|瓜《うり》ざね顔の美青年だ。日本的な顔だちと染めた金髪が、不思議な調和をみせている。ミナミというらしいピアスの青年といい、このカヤといい、地味な電気屋の仕事には似つかわしくない雰囲気を持っていた。 「じゃあ、アルバイトなの?」  ミナミがテレビの背面を調べながら答えた。 「何が本職っていっていいかわかんないけど、俺たち、芝居、やってんですよ」  年は私より二歳か三歳、下だろうか。確かに二人とも、舞台が似合いそうだ。人に見られることに慣れている身のこなしというのだろうか。だが、芝居というよりも、ロックバンドの雰囲気だ。私がそういうと、ミナミは、指をぱちんと鳴らした。 「あたり。俺たちがやってるの、ロック・ミュージカルみたいなもんなんですよ」 「どんなところで公演するの?」 「全然、メジャーじゃないもんで、小さなスペースを借りてやってますよ。新宿が多いかな」  ミナミが答える。  カヤは無口な性格らしく黙々と仕事をしている。劇団の名前はアルバトロス。フランス語で|阿《あ》|呆《ほう》|鳥《どり》という意味だ、とミナミがいった時、皮肉気なカヤの声がした。 「僕たちには、日本語の名前が合ってるって」  そして、一人でくっくと笑った。  何をいっても様になる美しい青年たち。狭い居間は、この二人の存在感で膨れあがっていた。私は、自分がまだ三十前の女で、この家に一人だということを強烈に意識した。まだまだ女としての魅力には自信がある。独身だったら、こんな恋人をもってみたいと思ったかもしれない。心の底で|囁《ささや》き声がした。 ——どうして今はだめなの?  私はどきりとした。それは結婚して以来、見ないようにしている心の部分だった。『立ち入り禁止』と赤い文字で書かれた札がぶら下がっている、秘密の領域。  純一との結婚生活に不満だというわけではない。かといって百パーセント満足というわけでもない。その|隙《すき》|間《ま》に時折忍びこむ想像。もし、他の人と結婚していたら、どうなっていただろうか。気持ちをそそられる男性を見ると、ふと想像してしまう。想像した先の結末は、心の中の秘密の領域の中に隠されている。もし、純一とではなく、こういった男性と結婚していたら……。  その時、誰かの視線を感じて、私ははっとした。カヤが、突き刺すような澄んだ目で私を見ていた。私は心を読まれた気がして、うろたえた。 「そうだ、音楽でもどう?」  私は独り言のようにいって、ステレオのスイッチを押した。ブゥウウウウン。かすかな音が聞こえてきた。私はボリュームを上げた。音は雑音に変わった。電源ははいっている。ラジオのスイッチを切り換えて、テープにしてみた。すでにセットされていたテープが回りはじめた。しかし、やはりブゥゥウウンという、音しか出ない。 「どうしたんですか」  ミナミが聞いた。 「ステレオの音が変なんです」  ミナミがカヤに、「後で見てあげろよ」といってから、私に顔を向けた。 「こいつ、音楽に詳しいんですよ。俺たちの芝居の音楽も担当してるんだから」 「それは、ありがたいわ」  ステレオのスイッチを切ると、部屋に、沈黙が訪れた。二人の青年が作業する、かちゃかちゃという音だけが響く。落ち着かない気分になって、私は会話を探した。 「それじゃ、電気屋さんの仕事でお金を貯めて、お芝居をしているのね」  ミナミがテレビのリモコンを押した。画面にコマーシャルが映っていた。アイドル女性歌手が、激しく体を動かしながら歌っていた。ミナミは画面をじっと見つめていった。 「芝居だけじゃ食ってけませんからね」 「大変ね」 「でも好きなことですから」  ミナミはチャンネルを変えた。英会話の番組が映った。彼は私の横に立って、リモコンの使い方の説明をはじめた。 「テレビを見る時は、このボタンを押してください。ビデオにする時は……」  私の肩が彼の腕に触れた。  私は体を離した。胸が、小さな音をたてて、どくんと鳴った。  青年に対する自分の動揺が恥ずかしかった。私は彼の説明を上の空で聞いていた。  ミナミは最後に説明書を渡して、これに詳しく出ていますからと告げて、カヤにステレオを調べるように促した。カヤは気軽に頷いて、ステレオに近づいた。 「ええっと、スイッチは……」といいかけた彼の言葉が途切れた。彼の目は、ステレオの上に置かれた石の器に釘づけになっている。 「すみません。邪魔ね」  私は、その石をどけた。カヤの目が、私の持った石の器を追っていた。私はそれを、ダイニングテーブルの上に置いた。ミナミがじりじりしたようにいった。 「おい、カヤ。ステレオ」  カヤは、はっとしたように、ステレオのスイッチをつけた。その顔はこわばり、青ざめていた。私は、石の器とカヤの顔を見比べた。  どうしたのだろう。何か変だった。  カヤは、しばらくステレオの音量を上げ下げしたり、スイッチを切ったりつけたりしていたが、最後に「壊れてますね」と告げた。 「壊れてるの? いやだわ。テレビの次は、今度はステレオの番?」  あきれた声をあげる私を、カヤは何を考えているかわからないような目で見た。 「ちょっと僕では、直せそうもありません。近くの電気屋さんにでも持っていったほうがいいですよ」  カヤはこういうと立ちあがって、ミナミを誘って玄関に向かった。私も二人を送っていった。ミナミがぺこりとお辞儀していった。 「それじゃ、どうもありがとうございました」 「こちらこそ」  私も頭をさげた。ミナミが出ていってからも、カヤは落ち着かない様子で玄関に立っていた。 「どうもごくろう……」と、礼をいいかけた私を遮って、彼は口を開いた。 「奥さん、あのステレオの上にあった石……。どうしたんですか」  私は|眉《まゆ》をひそめた。いったい、あの石の何を気にしているのだろう。  夫が、静岡で拾ってきたものだと答えると、カヤは少しためらってから、|訊《たず》ねた。 「中に何かはいってましたか」 「いいえ」  カヤの顔から緊張が溶けていった。 「そうですか」  彼は、ほっとしたように息を|吐《つ》いた。 「あの、何か……?」  カヤは頭を横に振った。金色の波のように髪が揺れた。首にかけた水牛の角の形をした白いペンダントが、鈍い光を放った。カヤは絹ずれに似た声で、ゆっくりといった。 「だったら大丈夫です」  いったい何のことをいっているのだろう。私が戸惑っていると、彼は突然、別人のようなはきはきした声をだした。 「ありがとうございました。またよろしくお願いします」  カヤは玄関の戸を閉めて出ていった。ドアの閉まる音に、私は我に返った。慌てて、外に顔をだした。 「待って、大丈夫ってどういうこと?」  カヤはもう廊下にはいなかった。  きょろきょろすると、つきあたりのエレベーターが見えた。閉まろうとする灰色のドアの隙間に、金髪に縁どられたカヤの顔が|覗《のぞ》いていた。  彼の細い目が、私を認めた。能面のような表情に|逡巡《しゅんじゅん》が走った。  カヤの薄い唇が、何か告げようと、動いた気がした。  何だろう?  しかし私が聞き返す前に、重い音をたてて灰色のドアが閉まり、カヤの白い顔は消えた。     四 章  どこかで音がしたように思った。私は、ほうれん草を洗っていた手を止めて、水道の蛇口を閉めた。……ポーン。脳を震わせるようなチャイムの音が響いていた。ダイニングテーブルの上の時計を見ると六時半。私は冷蔵庫の|把《とっ》|手《て》にひっかけたタオルで手を|拭《ふ》いてから、インターホンを押した。 「どなた?」 「俺だよ、俺」  純一だった。すぐに、玄関の戸の|鍵《かぎ》を自分で開ける音が聞こえてきた。私は、また水道の蛇口を開いて、声を張りあげた。 「どうしたのぉ」 「どうしたって?」  純一がふらりと居間に現れて、聞き返した。 「こんなに早いなんて、珍しいじゃないの。まだ六時半よ」  純一は腕時計を見た。 「七時だよ」  私は、はっとしてダイニングテーブルの上の時計を確かめた。やはり六時半を指している。時計は遅れていた。 「七時としても、ずいぶん早いわよ」 「仕事が乗らなくてね」  彼はブリーフケースを|椅子《いす》の上に置くと、疲れた声で、飯はまだかと尋ねた。 「これから作るところ。先にお風呂、はいってきたら」  純一は、ああ、と答えて、寝室に消えた。  動きが妙に緩慢だ。私はまた大きな声をあげた。 「大丈夫?」 「何がぁ」 「元気ないわよ」 「なんでもない……」  そのまま寝室は静かになった。気になって様子を見にいくと、彼はパジャマに着替えたまま、ベッドに横になっていた。背広もズボンも脱ぎっぱなしで、床に散らばっている。結婚以来、ずっと共働きだったので、純一も、自分の服は自分で管理する癖がついていた。この乱雑さは、彼らしくなかった。 「どうしたの。徹夜明けじゃあるまいし」  声をかけたが、返事はない。肩がゆるやかに上下している。眠っているようだ。よほど疲れているのだろう。私は、スーツをハンガーにかけると、そっと寝室を出た。  ダイニングテーブルの上の時計の電池を替えて、冷蔵庫を開けて中のものを点検しはじめた。  三十分ほどしてから、食事の支度ができた。私は何度か大声で純一の名を呼んだ。やっと起きて、寝室から出てきた彼は、まだぼうっとした顔をしていた。そしてリビングボードの上のテレビに目を|遣《や》って、目を細めた。  新しいテレビは、居間の帝王のように君臨している。純一は、|掌《てのひら》でテレビをぽんぽんと|叩《たた》いた。 「よしよし、かっこいいぞ、おまえ」  私はテーブルの上に皿を出しながらいった。 「テレビが観られるようになったと思ったら、今度はステレオがだめになったなんて、いやになっちゃうわね。今日、近所の電気屋さんに見てもらったら、修理に二週間はかかるって。とにかく持っていってもらったけど」  長方形にへこんだカーペットが、ステレオが置かれていた時間の長さを示していた。純一が兄から譲られたというステレオだった。愛用のテレビの次にステレオが壊れたと聞いた時の純一は、怒りに顔を赤くしたものだ。世の中のすべてが、自分の宝物に攻撃をかけていると思ったようだった。 「いくらかかるかな」  彼は、|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で|呟《つぶや》いた。一万円くらいだと答えると、純一は不満気な声を|洩《も》らして、テレビのリモコンに手を伸ばした。 「どうしてテレビ、つけてないんだ」 「純一が寝ていたから、静かにしておこうと思ったのよ」 「あ、そうか」  彼は、テレビのスイッチをいれた。  画面に時代劇が映しだされた。 「俺、どのくらい寝た?」  小一時間くらいだと答えると、彼は黙って頭を振った。まだ眠そうだった。  私は食卓に料理を並べ終えると、純一を呼んだ。ハンバーグと、生ほうれん草とベーコンのサラダ、フライドポテト、|胡瓜《きゅうり》と|若《わか》|布《め》の酢のもの。自分一人の夕食なら、サラダと酢のものだけにしておこうと思っていた。冷凍のハンバーグとフライドポテトは、思いがけず早く家に帰った夫のために、慌てて調理したものだった。  純一は食卓を見て、嬉しそうにいった。 「おっ、ほうれん草か。野菜が食べたかったんだ」  そして冷蔵庫からビールを出して、私を見た。私は、どうぞ、という代わりに|頷《うなず》いた。彼は少し考えたようだったが、またビールを冷蔵庫に戻した。 「たまにはアルコール抜きもいいさ」  私たちは夕食にとりかかった。  珍しく夫が早く帰宅した夕食。楽しいはずだった。しかし、どこか様子が変だった。着ている服の下に|棘《とげ》がはいって、ちくちくする感じ。何か落ち着かない。純一は、テレビをぼんやりと眺めながら、始終、|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺している。 「会社のみんなは元気?」  私は話を向けた。純一は頷いて、資料室に新しい子がはいったと告げた。  後任が決まったのか。もう私の場所はない。  胸に寂しさが|過《よぎ》った。 「どんな子?」 「可愛くて、素直な子みたいだな」  彼は興味なさそうに答えて、またテレビの画面に目をやった。私はリモコンを取りあげて、テレビを消したくなった。 「北村さんは、どうしてる?」 「さあ……。最近、資料室にもあまり行ってなくて……」  私は、砂漠でへたりこんだ|駱《らく》|駝《だ》に乗っている旅人。|叱《しっ》|咤《た》激励しても、二、三歩進んで、またへたりこむ。それが今夜の夫との会話だった。そのことを非難すると、疲れているという答えが返ってくるのは目に見えていた。外で働く夫にとって、「疲れている」は魔法の言葉だ。|煩《うるさ》い妻も、面倒な家庭の雑事も、すべて「疲れている」といえば逃れられる。  私は黙って、ご飯を口に運んだ。  テーブルの隅には、新聞のちらし、ガスの使用料通知、雑誌などが積みあげられている。その横には、調味料セット。結婚祝いに、|従姉妹《いとこ》からもらったスウェーデン製のしゃれたデザインだ。二年前結婚した彼女に、私は何をあげただろう。スリッパとマットのセットだったような気がする。従姉妹夫婦も、こうして気まずい食事をすることがあるのだろうか。確か夫となった人は、ごく普通の感じのする会社員だった。つまり、純一と大差はないということだ。  テーブルの上の時計は、八時六分を指していた。今はちゃんと動いている。やはり電池が古くなっていたのだ。時計の後からは、石の器が|覗《のぞ》いていた。いつの間にか、私のアクセサリー入れになってしまった器には、サファイヤの婚約指輪と金のネックレスをいれてある。結婚指輪はない。それは私の指にしっかりと|嵌《は》まっている。私は素早い視線で、彼の指にも同じ結婚指輪がはまっているのを確かめた。最初、純一は、結婚指輪を嵌めて外にでるのを嫌がった。それまで指輪など嵌めたことのない人間だった。しかし純一がつけないなら、私もつけないというと、彼は折れた。契約済み。相手に、その|烙《らく》|印《いん》を押したがっているのは、夫ばかりではない。  ふと妙な音を聞いた気がして、私は顔をあげた。テレビではなかった。  しゃりしゃりしゃり。  どこか遠くから響いてくるような、|微《かす》かな音が続いている。私はあたりを見まわした。そして純一がほうれん草を食べている音だと気がついた。彼の|顎《あご》が震え、草を|噛《か》む音が|洩《も》れてくる。私は|箸《はし》を止めた。 「純一、そんな食べ方、やめてよ」  彼は、きょとんとした顔をあげた。 「ほら、これ」  私は、ほうれん草の葉を箸でつまむと、奥歯で音をたてて噛んでみせた。純一はむっとしたようにいった。 「俺、そんな食べ方、しないぞ」 「したって」 「してない」  彼は、ほうれん草とベーコンをまとめて箸でつまむと、口に、どさっと放りこんだ。そして、|頬《ほお》を膨らませて聞いた。 「どうだ」  私は、それ以上いいあいはしたくなかったので黙った。純一がテレビのチャンネルを変えた。画面が変わって、戦車が映っていた。戦車から|狙《そ》|撃《げき》されて、路上の人間がばたばたと倒れている。 「おっ、どうしたんだ」  純一がテレビのボリュームをあげた。ニュースキャスターの声が流れてきた。 『インド政府は、今日、チベットの独立運動の鎮圧という名目で、中国政府軍が国境を侵したという非難の声明をだしました。中国側が警告を受けいれない場合、戦争にはいる可能性も示唆しています。国連は、この問題解決のために緊急特別会期を招集しました』 「戦争ですって」  私は驚いていった。 「いやだわ。そんなことになったら」  純一も難しい顔をした。 「中国もインドも核を持っているんだ。戦争になったら大変だ。核戦争になりかねない」  世界の厄難パイの投げ合いは、キノコ雲風味のパイで終止符を打つ。後に残るのは、パイクリームでべとべとになった地球だけ。  私の手が下腹部に伸びた。私の中の生命は、今は安全だった。まだ、この危険に満ちた世界に出てきてはいないのだから。  純一は眠気を忘れたような口調で続けた。 「残された道は、国連の調停だ。それもだめなら、国連軍の派遣だな。目には目を、だ。武力には武力で鎮圧しないとな」 「そんな理論、嫌いだわ」 「女はすぐ好き嫌いで物事を判断する。世の中っていうのは、それだけじゃ動いていかないんだよ」  純一は断定的にいった。  どうして、こういう話になると、男たちは生き生きとしてくるのだろう。私が会社のことを聞いた時には、あれほど眠そうな顔をしていたくせに。 「男って、戦争が好きなのね」 「そんなことないさ」  純一は驚いたようにいった。そして、にやっとしてつけ加えた。 「|机上《きじょう》の空論が好きなのさ。男は、いざとなるとからきしだめなんだから。戦争自体は好きじゃないんだよ。その点、実際に戦争になったら女は強いよな」 「そうやって持ち上げて、大変な役回りを女に押しつけようっていうわけね」  私は元気をとり戻していい返した。いつもの私と彼との会話の流れになってきた。 「そんな横暴な推理ができるってことが、女の強みだよなぁ」  純一が笑った。私もつられて笑みを浮かべた。その時、彼の皿が目にはいった。 「あら、ハンバーグ、ちっとも食べてないじゃない」  二個のハンバーグのうち、まだ一個半が残っていた。肉好きの彼にしては珍しかった。 「今、食べるよ」  純一は手を伸ばした。しかし箸がつまみあげたのは、ほうれん草だった。口を大きく開けて、緑色の葉を押しこんだ。白い歯が、ゆっくりと上下する。純一は、先程の私とのいい合いを忘れたかのように、また、あの食べ方をはじめた。  しゃりしゃりしゃりっ。  葉を押し|潰《つぶ》すようにして噛む、規則正しい音が続く。私は箸を止めて、絶え間なく動く夫の|口《くち》|許《もと》を見つめていた。 ——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——  生温かい風に乗って、虫送りの声が流れてくる。|田圃《たんぼ》はいつしか消え、あたりは真の|闇《やみ》が支配していた。行列の男たちの持つ|松明《たいまつ》に照らされて、さわさわと揺れる草の葉が見える。草原の中だった。  草原の向こうは闇に呑まれている。暗闇の中には、石ころだらけの白っぽい道が一本、浮かびあがっていた。松明を掲げた行列は、その道を蛇のようにくねくねと進んでいた。私とおばあちゃんは手をつなぎ、その行列の後に従っていた。  まだやのん?  私が聞くと、おばあちゃんは、まっすぐに顔をあげたまま答えた。  もうじきどす。  かさかさしたおばあちゃんの手は、木肌の感触だ。私は、その手を握りなおした。 ——つき虫でてけ、のろい虫でてけ——  ちぃいいいん。ちぃいいいん。|鉦《かね》の音と虫送りの声が、私たちを導いていく。  白い道の横に一本の木が見えてきた。地面から突きだした人間の両手の骨のような幹。木に繁る深い緑の葉が、両手の捧げ持つ供物に見えた。  行列は、木の下でゆっくりと止まった。  ここやの?  おばあちゃんは頷いた。  あの世と、この世の境どす。 「アメリカわぁあ、自らの軍隊にぃ国連軍という名前をつけてぇええ、チベットをぉお侵略しようとぉおうしているぅ。しかるにぃ、ここわぁあアジアであるぅう。アメリカの干渉をぅう許せばぁあアジアの将来わぁああ欧米諸国のおおおぅ手にぃいい握られるのだああっ。日本国民よぉお、今こそアジアのためにぃい立ちあがろうでわぁあないかあっ」  マイクを持った男が声を張りあげて、車の上で演説をしていた。黒く塗られた車には、『チベットに自衛隊派遣を。アジアの自立はアジア人の手で!』という幕が張られていた。その前を、腕を組んだ学生カップルが、ふざけあいながら通りすぎる。結婚式の帰りらしい、白い包みを持った人々が立ち話している。約束に遅れているのか、赤信号の横断歩道を髪をふり乱して走り抜ける会社員の二人連れ。高田馬場の駅前に立って、私はあたりをきょろきょろと見ていた。 「めぐみーっ」  雑踏の中で呼び声がした。加奈が左手を振っていた。右手は男性の手を握っている。 「おまたせ」  加奈は、大股で歩み寄ってくると、隣の男を私に紹介した。彼女の恋人は、|浅川章《あさがわあきら》といった。日に焼けて、がっちりした体型。人の良さそうな顔つきだが、私と向かいあっても、硬い表情を崩さない。加奈は、こんな人を選んだのか。意外な感じがした。 「よろしく」と、私は会釈した。 「加奈から、お|噂《うわさ》は伺ってました」  浅川は、何といっていいかわからないというように|曖《あい》|昧《まい》に笑った。口下手の恋人をかばって、加奈が私の手を取った。 「おいでよ。私のスタジオ、見せたげる」  加奈のスタジオは、小さなビルの一室だった。十畳ほどの空間に、ソファセットやカメラ機材が置かれていた。真新しいファックス付きの電話が置かれた、部屋の隅の机。緑色のファイルボックスが並んだ窓際の棚。棚と反対側の壁にはコルクボードが掛けられ、写真展の案内状や、何枚かの写真、カレンダーやメモがピンで留められていた。  私は感心していった。 「すごいわ。こんなところ、一人で借りてるなんて」 「仕事のためだものね」  加奈は、満更でもない顔で答えると、私にソファを勧めてくれた。浅川は、やはり無表情なままに机の前の椅子に腰かけた。  加奈がお茶をいれている間、私は浅川と向かいあう形になった。 「突然、お邪魔してすみません」  私は何か話をしなくてはと思いながら、口を開いた。しかし浅川は、そんな努力は評価にも値しないという風に、いえ、と呟いただけだった。 「池袋で用があったものですから、ついでだと思って」  今度は、はあ、だった。とことん無口なタイプらしい。こんな人と加奈は、どんな会話をしているのか想像もつかなかった。最初の出会いで、加奈にあれこれと話しかけてきたということ自体信じられなかった。それとも、彼は私が嫌いなのだろうか。しかし、私たちは会ってまだ十五分とたってない。嫌われる覚えはない。  加奈は、私の持ってきたケーキを皿に取り分けている。お湯はまだ沸いてもいない。私は沈黙に耐えきれずに、再び会話の糸口を探す旅にでた。 「お住まいはどこなんですか」  大森という返事が返ってきた。私の知らない町だった。一度だけ会社の用で図面のコピーを届けに、あのあたりに行ったことがある。小さなビルの建設現場だった。東京のどこにでもありそうな、ごたごたした町並みが続いていた。大森はどんな町なのかと聞こうという気にはなれなかった。 「やはりカメラマンなんだそうですね」  加奈の恋人だというだけで、辛抱強く会話をしようとしている自分に感心しながら、再び話を向けた。関係のない男性だったら、相手のほうが気まずくなるまで、私も仏頂面をきめこんでいたにちがいない。  浅川は私の質問に頷くと、机の上に置いてあったキャメルを取って、煙草を一本引きだした。 「加奈とは違って、僕は地道にテーマを追いかけるほうなんだけどね」 「テーマ?」  カチッとライターで煙草に火をつけて、浅川は頷いた。 「東京をテーマにしているんだ。場所を決めて、そこに集まる人たちを撮っていてね」  急に口調が滑らかになった。 「知ってる? 同じ東京でも、びっくりするくらい、場所によって集まる人間が違うんだよ。浅草の路地を歩いているおじいちゃんたち、上野に集まる国籍不明のアジア人たち、青山を歩くファッショナブルなお姉ちゃんやお兄ちゃんたち。人種が違うといっていいくらい、場所によって、人間も町の雰囲気も変わる。そういった意味で、東京はおもしろいところなんだ。写真を並べた時、見る人が、これが同じ町だろうかと驚くような作品を撮るのが、俺の夢でね」  スイッチ・オン。電流が流れだして浅川ロボットが動きだした。私が黙って、彼のお|喋《しゃべ》りを聞いていると、加奈がティーカップとケーキを乗せたお盆を持ってきた。 「めぐみ、章ちゃんの話につきあっていたら、夜になっちゃうよ。自分の写真の話になるととまらないんだから」  おもしろいからいいわ、と私はお世辞をいった。加奈は、わざと腹立たしそうな顔で浅川を|睨《にら》んだ。 「ほんと、他人の事務所を我が物顔に使って、お喋りしているだけなんだから」 「電話番、ただでやってくれるなら、ありがたいっていっただろ」  浅川は、ぷーっと白い煙を吐きだした。ティーカップとケーキをテーブルに並べていた加奈が慌てていった。 「あっ、煙草はだめ。めぐみは妊娠してるのよ」  私の、少し|脹《ふく》らみかけた下腹部にはじめて気がついたように、浅川は煙草を消した。 「ほんとに男って鈍感なのね」  と、加奈がいった。 「鈍い女ってのもいるから、世の中、釣り合いはとれているよ」  浅川が、ぼそっと|応《こた》えた。 「おや、誰のこと?」  加奈が、浅川に近づいて、ぱしんと背中を叩いた。私は笑った。  加奈と浅川の|辛《しん》|辣《らつ》な言葉の応酬は、仲のよい恋人同士のじゃれ合いそのものだった。  浅川と加奈が向かいに座ると、私たちは、ケーキと紅茶に手を伸ばした。  ベリーショートの加奈と、角刈りの浅川が並ぶと、ユニセックスのカップルのようだった。体つきも同じくらいだ。ひょっとすると、浅川のほうが小柄かもしれない。  元気にしてたかと、加奈が聞いた。  この前、会ってから一か月は過ぎていた。私は、元気だと答えようとして、口ごもった。ケーキを口に運ぼうとしていた加奈の動きが止まった。 「どうかしたの?」  私はティーカップをテーブルに置いた。 「たいしたことじゃないけどね。……最近、変な夢をみるの」  それは虫送りの夢だと説明したが、加奈にはぴんとこなかったようだった。  浅川が口を挟んだ。 「昔の行事だろ。前は夏が近くなると、日本のあちこちの村でやっていたというよな。俺も、実際に見たことはないけど」 「私、知らないわよ」 「加奈は横浜生まれでしょ。無理ないわ。私も小さい時に一度、見ただけなの。それがしょっちゅう夢にでてくるの」  しかも夢は、連続ドラマのように進んでいた。最初の夢は、子供の頃に遠くから眺めた虫送りの光景と、ほぼ同じだった。現実には、その後、私と祖母は家に戻った。だが夢の中では、私と祖母はそのまま行列につき従っている。|田圃《たんぼ》風景はすでに遠ざかり、今では私は、夢の中の知らない世界で、進行する虫送りの儀式の傍観者となっている。  そんなことを喋りながら、視線を落とすと、加奈の手が浅川の|膝《ひざ》をゆっくりと|撫《な》ぜていた。二人は微笑みながら、時々視線を交わしている。とたんに私は、馬鹿らしくなった。自分たちのことしか目にはいらない恋人たちの前で、夢の話をして、何になるだろう。 「妊娠のせいで、ちょっと神経がまいってるんでしょうね」  私は夢の話を切りあげた。  加奈は、生き生きした表情で頷いた。 「そうよ、気にしちゃいけないよ。続きものの夢なんてさ、たまに私だって見ることあるわ。妊娠中だからって、あまり家にこもってるのがよくないんじゃない。ちょくちょく外にでて、気分転換してみたらいいのよ」  恋する者は、エゴイスティックだ。自分が幸せの絶頂にいる時、他人の不安など理解できはしない。私もかつてそうだった。加奈と浅川に、以前の自分と純一の姿を見ている気がした。恋人時代、二人きりでいる時は、会話の必要性など感じなかった。会話は意識しないで|溢《あふ》れでてきた。しかし、今は会話を続けることが難しい。  今夜は、彼と、どんな会話ができるだろう。  そう思って、もう夕方になっていることに気がついた。  私は、帰る、といってソファから立ちあがった。 「もう少し、いればいいのに」  加奈が不満気に頬を膨らませた。 「だめなの。夕食の支度をしなくちゃ。最近、純一ったら、どういう風の吹き回しか、早く家に帰ってくるの」  感心な夫ね、と茶化す加奈に、私は顔をしかめてみせた。 「とんでもない。毎晩の夕食の献立を考えるのって、大変なのよ。たまには遅く帰ってもらいたいわ」  浅川がぼそりといった。 「亭主なんて、陰で何をいわれているか、わかんないもんだな」  私と加奈は、顔を見あわせて苦笑した。  加奈は、私を玄関まで見送ってきた。 「せっかく来たのに、こんなに早く帰るなんてさ。またゆっくり来てよ」  私は、彼女の後の浅川に会釈して応えた。 「いいの。今日は、彼に会っただけで、目的は果たしたから」 「僕は見せ物ってとこか」  浅川は下唇を突き出して、おどけた表情をして見せた。少しは私に打ち解けたようだった。私は、ほっとしていった。 「しばらく加奈の友達の見せ物になるのは、覚悟しておいたほうがいいですよ」  ぞっとしたような顔の浅川の腕に、加奈が自分の手を絡めた。 「大丈夫。章ちゃんのこと、打ち明けたのは、今のとこ、めぐみだけだから」 「今のとこ、ね」  浅川が呟いた。  私は二人に手を振って、エレベーターに歩いていった。背後で、スタジオの茶色のドアが閉まる音がした。  私の去ったあのドアの向こうで、加奈と浅川の親密な時がはじまる。その親密な時の流れは、二人をどこに導いていくのだろう。  私はエレベーターのボタンを押した。  ゴトン。エレベーターの動きだす、鈍い音が聞こえた。     五 章 『で、交番にいく途中で見つかったんだよ、落とした財布が』 『そりゃあよかったな』 『俺んじゃないけどね』 『おいおい、それじゃ泥棒じゃないか』  テレビから|賑《にぎ》やかな笑い声が流れてくる。私はダイニングテーブルの上で、新聞をめくりながらいった。 「純一、八チャンネルで映画やってるよ。そっちがおもしろそう」  返事はなかった。顔をあげると、彼はソファにうつ伏せになって寝ていた。パジャマに着替えた体を長々とのばして、|肘《ひじ》かけから足の先を飛びださせている。  私はその姿をじっと眺めた。部屋の中で動いているものといえば、テレビの中の芸人だけだった。この部屋の主人公である夫も妻も、ぜんまいの切れた|玩《がん》|具《ぐ》のように動かない。  私は長いため息をついた。息を吐き尽すと、今度は怒りが|湧《わ》きあがってきた。  私は、新聞をテーブルの上に置いた。 「純一ったら!」  彼がゆるゆると動いた。ソファの背もたれの向こうから、むくりと頭が持ちあがった。そして、まだ半分、寝ているような声で「なんだい」と聞いた。私は、腹立たしい気分を鎮めるように努めながら口を開いた。 「テレビ、見ているの?」  純一はテレビに目を|遣《や》った。そして平気な顔で、うん、と答えた。それがさらに私の神経に触った。 「|嘘《うそ》よ。寝てたじゃないの。まだ九時半よ。少しは起きていたら? 寝すぎよ」  彼は|煩《うるさ》そうに|頷《うなず》くと、また頭をソファのクッションに埋めた。私は|椅子《いす》から立ちあがると、彼の肩を揺すった。 「まだ寝る時間じゃないわよ」  彼は、何かもぞもぞと|呟《つぶや》いた。私は、その耳元で大きな声をだした。 「眠り病みたいよ。どこか悪いんでしょ」 「悪くないよ。……すごく気持ちがいいんだから……」  彼は、頭を腕の中に埋めた。私は、カーペットの上に座りこんだ。正体もなく眠りこけているこの男が、夫とは思えなかった。少なくとも、私の知っている純一だとは。  早く帰宅するようになったことは、ありがたい。しかし帰ってきても、ソファに横になってぼんやりしているか、寝ているだけだ。さすがに食事中は、私の話を聞いているふりをしているが、右から左に流れていっているのはわかる。加奈の恋人の浅川よりもひどかった。浅川はまだ自分の仕事の話になると、夢中になった。しかし純一に会社の話を聞いても、別に変わったことはない、で、会話は途切れてしまう。この傾向は、日を追うごとにひどくなっていた。最近では、夕食時間は私の独壇場になっている。 ——スーパーのレジ打ちの女の子が|莓《いちご》の値段を間違って打ちこんだから、莓、違いますっていったの。そしたら不思議そうな顔して「これ、莓ですよ」だって——電車に乗ったら、高校生の男の子二人が話しているの。「ホモジナイズって、ホモサピエンスの一種?」「まさかぁ。きっとそれ、ホモになる、って動詞だよ。でも、どうして牛乳に、そんな名前がついてるのかな」——  お義理の笑い声もないワンマンショー。フィナーレの拍手は、席を立つ音だけ。これでは、あんまりだ。  意見の食い違いなら、話をすればいい。しかし、これはもっと違うものだった。私たちの間を構成していた何かが、ぼろぼろと崩れ落ちていく。私は、二人で創りあげた空間が崩壊していくさまを、傍観者のように見ていることしかできない。  涙がこみあげてきた。私は声をあげて泣きだした。自分でも子供っぽいと思った。泣いて、夫の注意を|惹《ひ》こうとするとは。しかし私は手持ちの札を出し尽くして、途方に暮れていた。  ようやく純一が、首をこちらに向けた。 「どうしたの」  純一は何も気がついていない。私の|苛《いら》|立《だ》ちも、自分の変化も。襲いかかろうとする無力感を|撥《は》ねのけて、私はいった。 「あなた最近、変よ」  彼は|眉《まゆ》をひそめた。突然、妻がおかしなことをいいだした、としか思ってないのだ。 「私が何をいっても知らん顔じゃない。自分の殻に閉じこもって……」  私は言葉を探した。寝てばかりいるので変。食事の好みが変わったのが変。ビールも、煙草も吸わなくなったのが変——。結局、こんな陳腐な説明しかできない。無力感が力を取り戻し、襲いかかってきた。 「私のことなんて、もうどうでもいいんだわっ」  私は大きな声をあげた。語尾が悲鳴のように破裂した。また涙が溢れてきた。  純一は顔を曇らせて、起きあがった。そして床に座りこんでいる私の肩を抱くと、優しい声でなぐさめた。  どうでもいいだなんてことはない。疲れているだけだ。自分は、この家で寝ているのが最高に幸せなのだ。つまり、めぐみの側にいることが。こんなことで、ヒステリックになるのは、馬鹿げている。  神経を優しく撫でさすってくれるような言葉に、気分が少しずつ落ち着いてきた。  そうなのだ。純一は疲れているだけだ。家でくつろぎたいだけ。私の居る家庭で……。  心の底で「気をつけろ」と|囁《ささや》く声がした。  おまえは、|溺《おぼ》れそうな人間のように、彼の言葉にしがみついている。疲れている、などという魔法の言葉にだまされてはいけない。それはただの言い訳。開けゴマといったほうがまだわかりやすい。  しかし、私はその言葉を無視した。 「愛してるよ」  純一が囁いた。  私は|微笑《ほ ほ え》むと、彼にキスをした。純一は軽くキスを返してきた。私は彼を抱きしめた。彼の暖かな体温が私に伝わってきた。彼の息遣いが、首筋にかかった。  すぐ横にリモコンが転がっていた。私はテレビを消して、純一の顔を見あげた。 「寝る?」  彼は頷いた。私たちは肩を抱きあって、寝室にはいっていった。彼がベッドに横になると、私は電気を消した。そして彼の唇にキスをしながら、パジャマの下から手を滑りこませた。脇腹から|尻《しり》にかけて、その|痩《や》せた体をそっと|撫《な》ぜていく。しばらくセックスしていない。私は期待をこめて、またキスをした。  純一は赤ちゃんがむずがるような表情を見せて、居心地が悪そうに動いた。そしてくるりと背を向けると、「眠いんだ」と呟いた。  私は純一から体を離した。隣の部屋から|洩《も》れてくる光の中に、その骨ばった背中が浮かびあがっていた。彼のめくれたパジャマを、強く引っ張ってもとに戻すと、羽根布団をかけた。無視された怒りに、自分の息が荒くなっているのがわかった。私はベッドから降りると、寝室のドアを乱暴に閉めて出ていった。  グラスにブランデーを|注《つ》いで、ソファに腰をおろす。クッションには、まだ彼の温もりが残っている。 ——愛している。  さっきの彼の言葉がまだ耳元に残っていた。自分の馬鹿さ加減を|嗤《わら》いたくなった。優しい言葉をいうのは簡単だ。煩く泣く妻を黙らせるには、愛の囁きほど効果的なものはない。私はまんまと、それにのせられただけだ。  少し|脹《ふく》らみかけた下腹部から目を|逸《そ》らすようにして、ぐいっとブランデーを飲んだ。焼けるような液体が、怒りと一緒に喉を滑り落ちていった。  私は息を吐いて、グラスを揺らした。|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の波がガラスの壁にぶつかって、押しもどされる。出口のないグラスの中で、液体は渦を巻くしかない。その渦を見ているうちに、私の心に疑問が浮かんだ。  優しい言葉をいうのは簡単、だろうか。  議論好きだが、愛情表現となると苦手な純一は、今まで面と向かって私に「愛している」といったことはない。愛の言葉も、感謝の気持ちも、いつも茶化していうことしかできなかった。プロポーズの言葉さえ、「僕たちの関係をこのまま続けていくつもりなら、社会的には、結婚したほうがいいだろうな」と、まるで|他人《ひと》|事《ごと》のようにいったものだ。  その彼が、どうしてさっきは照れもしないで、「愛している」などといえたのだろう。  私は寝室に目を遣った。ことり、とも物音はしない。閉ざされたドアの向こうで、ひたすら眠り続ける男のことを想った。  いったい彼はどうしたというのだろう。  早々に帰宅して寝てばかり。ここ一か月、セックスもしていない。私の今まで知っている純一は消えて、別の人格が現れたようだ。  私と彼とを隔てているのは、合板製の薄っぺらな一枚のドアに過ぎないのに、世界の反対側にいる気がする。  私は寝室のドアに背を向けるようにして、またブランデーをあおった。 「いえね、メーカーさんのほうに修理に持っていったら、どこも壊れてなかったっていうんですよ」  電気屋が困った顔でいった。『大原電気』という近所の電気屋の主人だった。白髪頭に、紺の野球帽を|被《かぶ》っている。私は、電気屋からメーカーの修理部へ、無駄な旅を経て、居間のカーペットの上に再び返ってきたステレオを見おろした。 「変ね。あの時は絶対、壊れてたのに。電気屋さんも確かめたでしょ」  電気屋は頷いた。そして、しゃがみこむとステレオのスイッチをいれた。日本語のポップスが流れてきた。ボリュームの調節をする。どこにもおかしいところはなかった。 「たまたま何かの加減で調子が狂っていたのかもしれませんね。とにかく、これじゃお代はいただけませんや」  彼は笑いながらいうと、玄関に向かった。  私は礼をいって、玄関の戸を閉めた。居間に戻ると、ステレオの調子は上々で、女性歌手の声がよどみなく流れている。とにかく修理代がいらなかったのは、ありがたい。  私は椅子に腰かけようとした。そのはずみに、ダイニングテーブルの上に置いていた時計に肘があたって倒れた。白くて丸い時計を起こしながら表示板を見ると、四時だった。まだそんな時間なのだろうかと、ビデオのデジタル時計に目を遣ると、そっちは五時五分を示していた。遅れている。電気が切れたのだと思って、つい一か月ほど前に電池を替えたばかりだったのに気がついた。  私は時計を取りあげて、時間を合わせた。  壊れてしまったのだろうか。最近、ものが壊れてばかりだ。テレビ、ステレオ……そして、時計。ステレオは壊れてなかったが、調子がおかしかったのは事実だ。  その時、時計の後に置かれていた石の器が目にはいった。頭に何かが|閃《ひらめ》いた。私は、石の器に手を伸ばした。すべすべした青灰色の塊が、ずしりと|掌《てのひら》に沈んだ。表面を覆う模様が、石をさらに重々しく見せている。  この石の器は最初、テレビの上に置いていたのだ。そしてテレビが壊れて、ステレオの上に移動した。次にステレオの調子がおかしくなって、ダイニングテーブルへ。そして今、同じテーブルの上の時計が遅れはじめた。  まさか、この石の器のせいだということがあるだろうか……。  ルルルルル。  突然、電話が鳴り、思わず石の器を落としそうになった。私はそれをテーブルの上に置いて、食器棚にある電話を取った。 「私ですよ。日野の多田です」  笑っているような、元気な声が聞こえてきた。日野市に住む純一の母だった。 「純一は元気かい」  義母は真先に聞いた。 「ええ。最近は仕事も楽になったのか、早く帰ってくるのが、健康にはいいみたいですね。よく寝て、よく食べて。少し太ったかもしれません」  私は言葉を選びながら|応《こた》えた。 「そりゃ、いいことだ。あの子はちょっと痩せすぎだったからね」 「今度は運動不足が心配ですよ。最近のあの人ったら、休みの日もごろ寝してるばかりで。この調子じゃ、今度の連休だって、どこかに行く気力はなさそうだし」  義母は、私が心の底で息子を非難しているのを感じたのか、かばうようにいった。 「そりゃ、あの子は優しいから、めぐみさんの体のことを心配しているんだよ。連休だからって下手に出て行って、無理したらお腹の子に悪いからねぇ」  義母は、自分の二人の息子を|溺《でき》|愛《あい》している。彼女に、純一のことをこぼした自分に後悔しながら、私は、そうですね、と気乗りのない|相《あい》|槌《づち》を打った。 「それより、めぐみさん。実は今日、突然、浩一の会社の人から宅配便が届いたのよ。産地直送の鮮魚セットとかいってね。そりゃあまあ、どっさり|蟹《かに》やら魚やらが入っているの。家だけで食べるの、もったいないから、今夜、あんたたちも夕食に来ないかと思ってね」  義母が夫を亡くして以来、同居するようになった、義兄の浩一一家の顔が頭に浮かんだ。陰気な兄嫁、騒がしい三人の子供たち。いつもだったら、断ったかもしれない。しかし、このマンションで、純一と向かい合って黙々と食事することに比べれば、大勢で、|賑《にぎ》やかに食べるほうがまだましだ、と思い直した。純一の気分転換にもなるだろう。  私は義母に、純一の会社に電話して、彼の予定を聞いてから、連絡すると答えた。 「純一に、おいしいもの食べさせてあげる、といってやってね」  義母の張りきった声が受話器から響いた。  私は電話を切ると、彼の会社の電話番号を押した。  呼び出し音が一回鳴っただけで、受話器が取られた。 「はい、内田建設です」  造園課の|酒《さか》|井《い》の声だった。何度か純一に誘われて、三人で飲みにいったことがある。  純一の名前を告げただけで、私が誰だかわかったらしい。 「やあ、|秦《はた》さんじゃない。元気」  酒井は、打ちとけた声で聞いてきた。会社に勤めていた時の旧姓で呼ばれて、懐かしい気分が湧きあがった。毎晩、夫を相手にワンマンショーを演じているともいえず、私は、元気だと答えて、酒井の近況も聞き返した。酒井は乾いた笑いを洩らした。 「元気とはほど遠いな。もう忙しくてね、徹夜の連続さ」 「あら、まだそんなに忙しいの」 「ああ、この仕事は夜が勝負みたいなところがあるからな。毎日、早く帰れたら|羨《うらや》ましいが、結局、その|皺《しわ》|寄《よ》せはこっちに……」  酒井は急に言葉を切った。私はぴんときた。純一のことをいっていたのだ。 「あ、ごめん、すぐに多田を呼ぶから……」  酒井は慌てていうと、保留の音に変わった。しばらくして保留の音が切れた。 「純……」といいかけた私の耳に、また酒井の声が聞こえた。 「あ、秦さん。ご亭主の姿は、今、ちょっと見えないな。社内のどこかに居ると思うけど。何か伝言、しとこうか」  私は、家に連絡するようにと伝えてくれ、と頼んで、電話を切った。  心の中で割り切れない思いが残っていた。純一の帰宅が早くなったのは、残業がなくなったせいだと思っていた。まさか仕事を他の人間に押しつけて、帰っているとは思わなかった。純一は、そんな人間ではないはずだった。彼は仕事が好きだった。責任感もあった。疲れるとか、大変だとか、文句をいいながらも、造園設計には夢を抱いていた。 ——都市に緑がないっていうけど、俺たちはそれを作っているんだよ。都市の中に組みこまれた、人工的な緑地かもしれない。だけど、人の心に潤いを与えることはできるんだ。  酔っぱらって、こんなことをいっていたことがある。その彼が、どうして急に仕事への意欲を失ったのだろうか……。  私は、木の椅子に腰をおろした。日野の義母の家に行く気分も|萎《な》えていた。  学校で、手に余る宿題を与えられた生徒のような気がした。解けないとわかっているのに、やらなくてはならない。  いったい、純一に何が起こったのだろう。彼の不可解な部分が膨れあがっていく。  ぴくん。腹の奥で、胎児が動くのを感じた。  私は、あ、と声を洩らして、自分の下腹部を見下ろした。  私たちの子は、そこで着実に育っていた。  この子を出産する時、二人の関係はどうなっているのだろう。もうすぐ親になるというのに、私たちは、空中を漂う煙のようにゆらゆら揺れている。  こんなことでいいだろうか。泣きたい気持ちで、両手で腹を撫ぜた。張ったような腹が、掌を押し返す。|喉《のど》に熱いものがこみあげる。胎児を腹に抱え、私は孤独だった。このコンクリートの空間に閉じこめられたまま、誰に助けを求めていいかもわからない。  テーブルに肘を突き、頭を抱えた。  部屋の静寂が、私の上に舞い降りてきた。     六 章  満天の夜空が広がっていた。|闇《やみ》の中に一本の白っぽい道が延びている。道の脇に、節くれだった老人の手のような木があった。深緑色の葉の繁るその木の下で、|松明《たいまつ》を持った男たちが輪になっていた。  私は離れたところからそれを見ていた。隣には、おばあちゃんが立っていた。  男たちの輪の中に、ぼっと赤い灯がついた。炎が、はためく無数の朱の布のように、ひらひらと空に舞いあがる。 ——つき虫でてけ、のろい虫でてけ——  虫送りの声が、まわりから聞こえてきた。炎に照らされた人々の影が、道の上に長くのびている。私は、おばあちゃんの手を握ったまま、輪の中を|覗《のぞ》きこんだ。  炎の中で、めらめらと|藁人形《わらにんぎょう》が燃えていた。人形の胸にくくりつけられた藁の箱の中では、小さな虫たちが黒い灰になっていく。  藁人形と虫の体から立ち昇る白い煙は、頭上の木の葉を包みこみ、さらに風に乗って向こうに延びる道の彼方に消えていく。 ——|憑《つ》き虫でてけ、|呪《のろ》い虫でてけ——  地の底から|湧《わ》きあがってくるような人々の声が、燃える藁人形に投げつけられる。ごおおおおっ。草をざわめかせて、風が吹いてきた。炎が揺れて、人形の顔が現れた。  息が止まりそうになった。  純一!  それは藁人形ではなく、私の夫だった。赤い炎の中で、燃えた髪の毛が灰となってこぼれ落ちる。火に|炙《あぶ》られ、酸化した銀の色に黒ずんでゆく皮膚。炎に包まれた体は、黒い影にしか見えない。その影は、マリオネットの踊りのように不自然な|恰《かっ》|好《こう》で動いている。  私は走り寄ろうとした。しかし、おばあちゃんの手が放さない。その手を振りほどこうとしたが、おばあちゃんは、万力のような力で私の手を握っている。  放してっ。  私は叫んだ。おばあちゃんは厳しい顔つきで、首を横に振った。私はなすすべもなく、燃えていく夫に目を|遣《や》った。  彼は炎の中をのたうち回っていた。顔も手も足も、黒く焼け|爛《ただ》れている。両手を空にさしのべて、|虚《むな》しく宙を|掻《か》きむしる。口を大きく開けている様子から、悲鳴をあげているのはわかるのに、不思議と声は聞こえない。  ぢりぢりぢりりりり。純一の体の焼ける音だけが、耳の奥で響いていた。  私は目を覚ました。  カーテンの|隙《すき》|間《ま》から|射《さ》しこむ街の明かりが、寝室をぼんやりと浮かびあがらせている。隣では、純一が軽い寝息をたてて眠っていた。  枕元の時計を見ると、午前二時半。  真夜中だった。  私は横になったまま、荒い息を吐いていた。全身がじっとりと汗ばんでいる。  なんて夢だろう。あまりにも真に迫っていた。彼の体の燃える音が、まだ耳に残っていた。  しかし、夢でよかった。目が覚めてよかった。私は再び眠りにつこうと、目を閉じた。  その時、音が聞こえた。|幽《かす》かな音だった。薄い皮がめくれあがるような音。まるで何かが燃えるような……?  私は耳を澄ませた。寝室の中は、静まりかえっていた。窓越しに、車の通り過ぎる音が聞こえるだけだ。  気のせいだろう。そう思ったとたん、また音がした。すぐ側から、枯れ葉を踏むような、いや、何かを|押《お》し|潰《つぶ》すような……そう、闇の深部で、何かを|噛《か》んでいるような音だ。  私は枕元の電気をつけた。  純一が背中を丸めて眠っていた。部屋の隅に上半身を起こした私の影が映っていた。ドレッサーの鏡の中に、|脅《おび》えた顔の私がいる。しかし、それだけだった。部屋の中に動くものの|気《け》|配《はい》はない。  パアーッ。遠くで車のクラクションが聞こえた。純一を起こそうかと思ったが、結局やめて、その顔を覗きこんだ。電気をつけたことにも気づかずに、眠りこけている。筋肉の|弛《し》|緩《かん》した死体にも似た、無表情な寝顔だった。最近では、見慣れてしまった顔つきだ。すべてに無関心になった彼は今や、起きている時でも、この寝顔のように表情を失っている。  私は、そんな夫を心のどこかで憎んでいるのだろうか。だから、あんな夢を見たのだろうか。私はもう彼を愛してないのだろうか。  眠る純一の顔が、一瞬、痙攣するように歪んだ。淡い光の下に、目の下の細かな|皺《しわ》が現れた。彼も年をとってきたのだ、と思った。  知り合ってから、六年経つ。その年月を、私たちは一緒に過ごしてきた。彼のこの皺は、私の皺でもある。彼が変わったように見えても、ここにちゃんと私たちの経てきた歴史が残っている。  私は|微笑《ほ ほ え》んで、彼の目の下から頬にかけてそっと|撫《な》ぜた。そして、彼を愛しているのだと思った。  もう何の音も聞こえなかった。やはり気のせいだったのだ。私は電気を消すと、毛布をひっかぶって、無理やり目を閉じた。 「いいの、こんな高いところ」 「まかせといてください。退職金、たっぷりもらったんだから」  私は胸を|叩《たた》いてみせた。 『内田建設』本社近くの静かなレストランの中だった。普通のランチを食べるには、少々値の張る店なので、昼時でも空いている。 「うちの会社が、そんなにたっぷり退職金をくれたとは信じられないわ」  北村美津子は、ピンクの布のかかったテーブルの向こうで、ふくよかな|頬《ほお》にえくぼを浮かべた。三十歳はとうに過ぎているのに、そのえくぼのおかげで若く見える。  私は、お金のことは気にしないでといって、メニューを広げた。三種類ほどのランチメニューが載っていた。どれもスープからはじまるコースになっている。北村の昼休みの時間が限られているせいもあって、一番簡単なコースに落ち着いた。  注文が終わると、まずはお定まりの近況報告になった。私は、気になっていた自分の後任の女性のことを聞いた。 「まあ、いい子よ」  北村は、テーブルの上のスプーンをいじりながら答えた。 「いわゆる今風の子ね。かわいくって害はなくて。純真とバカとの間、紙一重ってところで揺れてる子。お|頭《つむ》の工合は、水はけの悪いスポンジ。十いえば、三つくらいは残るわ。悪くはないわね」  私は苦笑した。久し振りに聞く北村の毒舌だった。いつも私が一言いうと、三言ほどの|辛《しん》|辣《らつ》な意見が返ってきたものだ。 「仕事に関しては、時々大チョンボをやるけど、素直にあやまるところが取り柄ね」 「私とは大違いだっていいたいんでしょ」  北村が、けろりとして「そうよ」と答え、私たちは低い声で笑いあった。  最初、私たちはぶつかってばかりいた。ずばずばとものをいう先輩の彼女の前で、新入社員の私は|萎縮《いしゅく》してしまっていた。緊張すると、思わぬところで失敗する。しかし、それを指摘されると、とたんに私は強情になった。素直に謝りもせずに、言い訳ばかりしていた。今、思えば、北村は大人だった。かんしゃくを起こしながらも、辛抱強く、私に仕事を教えてくれた。  だが、何度か衝突を繰り返すと、お互いの性格を理解するようになった。結局、私たちは似た者同士だったのだ。資料室の静かな空間と、本を読むことを愛していた。ただ、感情の表現方法が違うだけだった。北村は、その場その場で毒舌をふるって発散させる。私は考えを|溜《た》めこんでから、最後にどっと堤防決壊してしまう性格。そこを納得すれば、私たちはお互いの欠点を補いあうことのできる、いい仲間となった。  資料のコンピュータ入力も、データベース導入も、渋る会社を説得して行った。私と北村とで、資料室の内容はずいぶん充実したはずだ。私の退職を、社内で最も残念がってくれた人間は北村だったと思う。  スープが運ばれてきた。しばらく黙ってアスパラガスのポタージュを|啜《すす》ってから、北村が聞いた。 「で、秦さんのほうは? 仕事を辞めた感想は?」  私が妊娠のために退職すると決めた時、彼女は反対した。出産休暇をもらえばいいと主張した。しかし、私は、多分一年で復帰はできないだろうといって、辞めてしまった。職場の雰囲気が恋しいなどと答えれば、それみたことか、といわれるのはわかっていた。私は、のんびりしています、と答えた。 「毎朝、ゆっくり起きて、丸一日、家にいてね、本を読んだり、テレビを見たりして、ただ寝ているの」 「それで、後は子供ができるのを待つばかりか。平和だこと」  独身の彼女は少し冷やかな口調でいった。彼女は、愛人との結婚は|諦《あきら》めていた。今のままで、ずっと一生を過ごすかもしれないと、私に|洩《も》らしたことがある。そういう覚悟をした人間にとって、私の生き方は逃避のように思えるのだろう。しかし、あの頃、私は企業の資料室での仕事にうんざりしていたのだ。建設会社ということで、集める資料が専門分野に偏っていた。一度、仕事を辞めて落ち着いたら、もっと大きな公立の図書館に勤めたいという希望が芽生えていた。  だが、それは北村にはいってない。いえば、彼女の職場を否定することになる。地下の女王として君臨できる資料室が、北村にとっての城。家庭に匹敵する城だった。だからこそ彼女は、城を堅固にするために情熱を傾けた。だが私は、女王である彼女の侍女の役目を果たすことがいやになっていたのだ。  スープが下げられて、メインディッシュの|鱸《すずき》の香草焼きが出てきた。魚を切りながら、北村が|窺《うかが》うように私を見た。 「で、何なの」  突然、聞かれて、私がきょとんとしていると、北村はしたり顔でいった。 「何か相談事があるんでしょ。こんな高いところでランチを|奢《おご》ってくれるからにはね」  もちろん、そのつもりだった。だが、いざとなると、どう切り出していいかわからない。 「いいなさいよ」  北村が命令口調で促した。  時々、かちんとくるのは、彼女のこのいい方だ。一瞬、黙っていようかと思った。しかし、北村に悪気がないのはわかっていた。 「実は、聞きたいことがあるんです」  北村は頷いた。私は少しためらってからいった。 「純一のことなんです。彼、最近、変わったことはないですか」 「変わった?」  彼女は戸惑いを見せた。 「ええ……」私は口ごもった。 「最近、仕事も早めに切りあげて帰ってくるし。なんだか前とは変わった気がして。……それに、この前、同じ課の酒井さんと話したんですが、……彼、純一のこと、怒っているみたいで」 「どうして酒井君が、多田君のことを怒っているのよ」 「純一の仕事が、酒井さんに回ってくるとかで……」  北村は|眉《まゆ》をぴくりとあげた。前髪を全部後にひっつめて、|髷《まげ》を結っている彼女の顔には、そんな表情がよく似合う。北村は、二、三回、軽く|頷《うなず》いてから口を開いた。 「そういえば、そんな話、聞いたことがあるわ。誰か、造園課の人が資料室でこぼしていたのよ。最近の多田は、まるで丸の内のOLみたいだ。五時になったら、さっさと帰っていくって」 「五時?」  私は聞き返した。北村は、五時に帰る日はけっこう多いみたいだと答えた。  そんなに早く、純一が退社していたとは、知らなかった。私は驚いて、まじまじと北村の顔を見た。 「やだ、多田君の帰ってくる時間くらい、秦さんのほうがよく知ってるんじゃないの」  北村の声には、好奇心が混じっていた。しかし、彼女にすべてを話す気にはなれなかった。私は、家で、のんびりしすぎて、時間の感覚がなくなっているのだといい繕った。  北村は、くすくす笑った。 「|惚《ぼ》けるには早いでしょ。そういえば多田君のこと、誰かが惚け老人みたいだって、ひどいことをいってたわよ。父親になるせいか、やけに落ち着いてきて、年寄りみたいだ。つまんなくなった、結婚なんかするものじゃないって。思いだしたわ、こんなこというの、あいつよ、吉田。設計課のプレイボーイ。彼に関しての話なら、腐るほどあるわよ、つい昨日だって……」  もう北村の話は聞いてなかった。純一のことで頭がいっぱいだった。五時に退社して、まっすぐ家に帰ると六時半に着く。しかし、帰宅はいつも八時頃だ。一時間半の空白の時間。彼は、何をして過ごしているのだろう。  女? 『妊娠中、夫の浮気に御用心!』  以前に見た、雑誌の見出しが頭に浮かんだ。浮気中の夫は、妻に優しくなるという。最近の彼の優しさは、浮気が原因なのだろうか。あんなに「眠い、眠い」というのも、考えればおかしい。本当に疲れ果てているのではないか。他の女とのセックスで。  食事を終えて、北村と別れてから、私は歩きはじめた。  結婚して三年、彼が他の女に|惹《ひ》かれているような兆候はなかった。私も彼も、お互いだけを見つめていたと思う。しかし、ここ数か月、その確信も揺らいでいる。彼の変化も、私に対する無関心も、すべては疲れているせいではなく、他に女ができたことを示しているように思えた。  二人は、会社の電話で連絡をとりあって、帰りに待ち合わせるのだ。一時間半あれば何でもできる。デートしたり、映画を観たり、……ラブホテルにいくことすら。  私は|拳《こぶし》を握りしめた。いやらしい想像をしている自分が腹立たしくなった。  灰色のタイルの敷きつめられた歩道の上を、ベビーカーに子供を乗せた母親が歩いていた。ベビーカーから、溶けかかるアイスクリームを握りしめた小さな手が突き出している。公衆電話で、笑い声をあげながら受話器の奪いあいをしている女子高校生たち。スニーカーにリュック姿の中年の外国人カップルが地図を片手にきょろきょろしている。『初夏に向かってのクリアランスセール』という垂れ幕が、暖かな風に翻る。こんなに平和な風景の中で、私は|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》に|苛《さいな》まれ、暗く濁った心を抱えて歩いている。 「問題は、皆さんの心の中にあるのです。心を病んだ人間が増えているからこそ、この世界も今、病んでいるのです。まず、あなた自身の心の病を治すこと。それが、あなた自身、ひいては世界を救うことにつながるのです。心静かに、私たちと共に祈りましょう!」 『救心教』と書かれた宣伝カーが、教義を説きながら、私の横を走り去っていった。  そうかもしれない。問題は、私の心にあるのかもしれない。夫を疑うのは、よくないことだ。しかし、そう思う端から、どろどろとした疑問が湧きあがる。  純一は、浮気しているのではないか?  パッパーッ。耳許で、車のクラクションが鳴った。赤信号の横断歩道を渡ろうとしていた私に、乗用車に乗っていた、髪を逆立てた青年が、ガラス窓の向こうで口を大きく開いて通り過ぎた。「ばかやろーっ」。音にならない声が飛んできた。私は走り去る車に向かって、怒鳴り返したい気分に襲われた。 ——オマエナンカ、シンジマエ!  私は目を閉じた。自分が、凶暴な殺人者になった気がした。何も考えてはいけない。気持ちを空っぽにするのだ。大丈夫。純一は、浮気なんか、してはいない。  ついこの間も、愛している、と私にいったじゃないか。  しかしどうして、彼はそんな言葉を口にしたのか。愛している、と口に出すのは、愛していないことを隠すためではないのか。  私は立ちどまって、息を整えた。  命令もしないのに動き続ける脳を冷凍庫に入れて、凍らせてしまいたい。そうすれば何も考えないでいられる。 「大丈夫ですか」  顔をあげると、銀色の髪をきれいに撫でつけた品のよさそうな男性が、心配そうに私を見ていた。夫よりも、この見ず知らずの初老の男のほうが、まだ私に近い存在に思えた。|溢《あふ》れそうになる涙をこらえて、私はいった。 「ええ、ありがとうございます」  私は、深く息を吸うと、お辞儀をして歩きだした。  純一の背中が、人混みの中でふらりふらりと揺れていた。彼は、私の前をゆっくりと歩いている。  夫のあとをつける妻。これでは、昼のメロドラマのヒロインそのものだ。きっと彼は、まっすぐに家に帰るだろう。そして私は、|安《あん》|堵《ど》と、疑ったことに対する恥ずかしさを覚えるに決まっている。  やめるのだ。こんなみっともない|真《ま》|似《ね》は。  自分自身にいい聞かせているのに、足はやはり夫の跡をつけている。どんよりとした曇りの日だった。西の雲の切れ間から覗く夕日が、|錆《さ》びたような柿色に光っていた。  待ち伏せをはじめて三日目だ。朝、その日の予定を聞いて、純一が、打合せや現場にいくために会社から外に出ないとわかれば、私は午後三時半頃、家を出る。そして『内田建設』の社員通用口の前にある喫茶店で、彼を待つのだ。六時まで待って、現れなければ、そのまま家に帰る。この二日間は、私が家に着いて二十分も経たないうちに、彼が帰ってきた。  しかし今日、彼は五時過ぎに会社を出てきたのだった。  自分が|嫉《しっ》|妬《と》に狂った妻の役目を演じているのはわかっている。しかし、どうしようもなかった。夫が浮気をしているのではないかという疑惑と戦いながら、どろどろとした嫉妬を胸に抱え、家でじっと彼の帰りを待っていることはできなかった。  純一は山手線に乗って新宿で降りた。ここから家までは、電車で一本だ。彼は寄り道せずに家に帰るはずだ。私は、祈るような気分で、純一の背中を見つめた。  彼は、京王線には乗り換えずに、西新宿の方向に出ていった。頭から血の気が引いていく。やはり誰かと待ち合わせているのだ。彼は、高層ビル群の下を東京都庁のほうに歩いていく。目標を定めた、しっかりした足どりだった。心臓が大きく収縮する。これから目撃するだろう光景のことを思うと、逃げだしたくなった。  世の中には、知らないほうがいいことがある。知ったばかりに後悔したことは、これまでにもたくさんあった。好きになった相手の心の内を聞いて、彼から友情以上のものを引きだせなかった時。親友だと思っていた人間が、自分の悪口をいっていたと知った時。大学時代の友人が万引きで捕まったことを知った時……。  愛しているからといって、相手のすべての面を知り尽くすことがいいとは限らない。相手の中の、見ていたい部分だけに目を開いているほうが、幸せに暮らしていける。  わかっているのだ、そんなことは。知らないのが、いちばん。知らなければ、悩みも、苦しみもない。しかし、人間とは、基本的にマゾヒスティックな生物なのかもしれない。知らないですますよりは、知って苦しむほうを選んでしまう。  灰色の城のような都庁の向こうに、中央公園が見えてきた。再開発の波は、緑に覆われた公園でかろうじて止まり、公園の背後には、低層の|煤《すす》けたビル群が肩を寄せあっている。その、古ぼけたマッチ箱を集めたような町並みと、高層ビルの立ち並ぶ未来都市との|狭《はざ》|間《ま》に、新しいビルが|聳《そび》えていた。半円形の白いビルで、下方はガラス張りの円形になっている。  純一は、そのビルの中に吸いこまれていった。ビルの入口の壁に青いプレートがある。『スペーシア』。加奈が、この名前のビルのことを話していたことを思いだしながら、私は入口の回転ドアをくぐった。  突然、緑の森に迷いこんだような錯覚を覚えて、足が止まった。背後で、ちっ、という舌打ちが聞こえて、続いて入ってきた男が通り過ぎていった。立ち止まった私にぶつかりそうになったのだ。私は、自分が悪いのに不快な気分になって、足早に去っていく男の背中を|睨《にら》みつけた。  それから気をとりなおして、ゆっくりと森に近づいていった。ガラスを隔てて、木々を植えた空間が作られている。植物園のようなその半円形の空間に沿って通路が続いている。通路の両端は森の向こうのエレベーターホールにつながっているようだった。  ガラスの壁には『サンクチュアリ』と書かれていた。この植物園の名前らしかった。緑の木々の間に、ちらりと純一の背中が見えた。私は慌ててガラスのドアを押して中に入っていった。  木の香りが私を包んだ。四、五階分はありそうなガラスの吹き抜けの中に、別世界が広がっていた。空調の風に緑の葉が揺れている。木々の間に赤レンガ敷きの散歩道が作られていた。あちこちにベンチも設けられている。ベンチに座って休む人、書類を抱えて通り過ぎる人、立ち話をしている人。サンクチュアリの中は、静かなざわめきに満ちている。純一は、林の中の散歩道に消えていくところだった。私は彼の後を追いかけた。  中は、かなり広かった。純一は小道に分け入り、人気のないほうに入っていく。|微《かす》かなざわめきも遠のいていく。ガラスの天井の向こうには、錆びた柿色の弱々しい夕焼けの空が広がっている。人里離れた森の中をさまよっている気がしてくる。  やがて純一は立ち止まった。彼の前に一本の木があった。ごつごつした幹が、老人が骨ばった両手を広げたように上に伸びている。枝には、深緑色の葉が繁っていた。  それは、虫送りの夢にでてきた木を思い出させた。炎に包まれて、燃えていた純一。彼の体の焼け爛れていく音が耳の底で響いた。そうだ、あれはこんな木の下だった。純一が炎の中で|悶《もだ》えていたのは。見れば見るほど、そっくりだ。その幹の曲がり方、葉の形……。背中に震えが走った。  しかし、これは夢ではない。ここは新宿の新しいビルの中。そして彼は、燃えてもいない。あたりには火の気もない。そう思い直すと、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。  純一は静かに木に近づいていくと、幹を両手で包みこむように触り、体をもたせかけた。そして、そのまま動かなくなった。  私は彼の背後に忍び寄った。木には名前を書いた札がついていた。 『ニッポンタチバナ(橘) Citrus tachibana』。  橘。聞いたことのある名前だった。  純一は身動きひとつしないで、心地良さそうに、橘の幹に額をつけている。誰かを待っているようではない。彼は、浮気していたわけではなかったのだ。  ほっとしたと同時に、ここで何をしているのだろうという疑問が頭をもたげた。私は彼の肩に手をかけて揺すった。 「純一……」  彼の体は|芯《しん》を失ってしまったように、ぐねぐねと揺れた。純一の名を重ねて呼んだ。やはり返事はない。  どこからかいい香りが漂ってきた。レモネードのような爽やかな匂い。私は頭をあげた。橘の緑の葉が、|柑《かん》|橘《きつ》系の香りを放っている。  私は胸いっぱいに息を吸いこんだ。|爽《さわ》やかな芳香が、私の体を満たした。全身の血が清められるようだ。香りは血の成分となり、指の先、皮膚の表面にまで|滲《にじ》みわたっていく。胸の底にわだかまっていた、暗く濁った猜疑心の塊が消えていく。  私は微笑みながら純一を振り向いた。そして、血が逆流するのを感じた。  うつむいた純一の首筋に、薄い緑色のものが見えた。半透明のぬめぬめと光る粘膜に覆われたものが、彼の白い首から蠢きながら|這《は》い出してくる。海中のクラゲのように、それは緑の木々の中に透き通っていた。口らしい先端の小さな突起が、絶えず動いている。二つの青い目が見えた。  それは虫の頭だった。  純一の首筋から、粘液を引きずるように出てくる巨大な虫。頭を天に向け、空気を|嗅《か》ぐようにゆっくりと回している。口の上に二つついた触覚が、ぴくぴくと動いていた。  私はその場に凍りついた。|喉《のど》の奥で、いいようのない不快感が膨れあがり、息が詰まりそうだ。  黒い斑模様に覆われた虫の結節が、順番に、純一の体からこぼれ出る。ぼこり、ぼこり。結節が抜け出すたびに、音が聞こえる気がした。粘膜に包まれた結節が鈍く輝く。小さな突起のような足が次から次に現れる。外に出た虫の頭部は、純一の体を足場にして、橘に向かって頭を伸ばしていく。  虫の体はあまりに長く、永遠に純一から這い出し続けるように思えた。それは、純一の体から溢れる腸に似ていた。腐りかけて、あちこちに黒い死斑の浮きでた薄い緑色の巨大な腸。しかし、この腸は生きていた。生きている虫だった。虫は長い体の前半分を橘の幹に這わせながら、まだ下半身は、純一の体から出てこようともがいていた。  目の前の光景が理解できなかった。ただ、おぞましいことが起こっていることだけが、わかった。  永遠とも思える時間が過ぎ、虫の|尻《しり》がぷつりと純一の体から切れた。彼は、脱け殻のように、地面に崩れ落ちた。  私の喉からかすれ声がもれた。悲鳴をあげようとしたのか、泣こうとしたのか、自分でも定かではなかった。  私の声に気がついたのか、橘の幹に吸いついていた虫が、こちらに頭を向けた。虫の青い目が私を|捉《とら》えた。深く澄みきった湖のような、静けさをたたえた目だった。  虫は、長い上半身を、ゆらゆらと私の前にもたげてきた。  私は後ずさった。|膝《ひざ》が震え、足がもつれた。赤レンガの地面が、ゆっくりと目の前に迫ってくる。  倒れているのだ、と私は他人事のように思った。やがて赤いレンガの地面に、顔が叩きつけられた。下腹部に鈍い衝撃が走った。衝撃は鋭い痛みに変わり、私は悲鳴をあげた。  だが、その声は、はるか遠く、闇の彼方から聞こえてくるようだった。     七 章  目を開けると、クリーム色の天井が見えた。四角い埋め込み式の電気がついている。私は頭を巡らせた。隣にはスチールパイプの空のベッドがひとつ。白いカーテンの奥のガラス窓に、暗い曇天が広がっていた。今にも小雨が降りだしそうだ。遠くで医者を呼びだす放送が聞こえている。  病院だった。  どうして私がここにいるのか、すぐにはわからなかった。純一に知らせなくては、と思い、体を起こそうとした。そのとたん下腹部に鋭い痛みが走り、私は|呻《うめ》き声をあげた。  きれぎれの記憶が頭を|過《よぎ》った。腰から下を|鉈《なた》で断ち切られたような痛み、病院の長い通路、私の上にかがみこんで「大丈夫か」と叫んでいた白衣の医者と看護婦。それらが、スライドのようにパッパッと浮かんでは消えた。違う。これは、もっと後のことだ。その前に見たのは——。  私は、吐き気を覚えて目を閉じた。  虫だった。純一の首筋から、もぞもぞと|這《は》いだしてきた虫。ちょうど|林《りん》|檎《ご》に巣くっていた虫が、中身を食べ尽くして出てきたようだった。しかし、あれは本当に私が見たことだったのだろうか。あまりにも現実離れしている。幻覚に決まっている。  私は心の中で叫んだ。  あんなこと、あるはずはない。  ドアのノブの回る音がして、病室に誰かがはいってきた。私は目を見開いた。 「お母さん!」  弱々しい声しか出なかった。それで私は、自分が衰弱していることに気がついた。母は、私を見てほっとしたように、「目ぇ、覚めたんか?」と聞いた。 「どうして、ここにおるん」  母は、ハンドバッグをベッドの|裾《すそ》に置くと、脇の|椅子《いす》に腰かけた。 「あんたな……」  そして言葉を探すように、視線を宙にさまよわせた。いつも会うなり、ぽんぽんと言葉を繰りだしてくる母だった。嫌な予感を覚えて、私は母を見つめた。  母が思いきったようにいった。 「流産したんや」  一瞬、時が止まった。私をとり囲むすべてのものが色を失った。私は目を閉じて深呼吸した。「気分を落ち着けるには深呼吸が一番」。小学生の頃、習っていたピアノの先生の口癖だった。発表会で出番を前にした生徒の一人一人に同じことをいったものだ。私は、ゆっくりと目を開けた。時の流れも回りの色も、元に戻っていた。しかし、私の心は元通りにはならない。  下腹部に手をあててみた。まだ赤ちゃんがいるような気がした。今まで私のお腹の中で動きながら、ここにいるよ、と主張していた生命。それが消えてしまったとは信じられなかった。  母は、私に何かいわれるのを怖がっているかのように、一気に|喋《しゃべ》りはじめた。 「いや、もうたまげたわ。夕べのこと、多田のお義母さんから電話、もろうたんや。あんたが病院に担ぎこまれたゆうて。そいで今朝、一番の新幹線で駆けつけたんやけど、もうみぃんな、終わった後やったわ。多田のお義母さんと、純一さん、一晩中あんたの側についてはったんやで。私がここに着いた時は、純一さんは仕事があるゆうて家に服を着替えに帰らはって、多田のお義母さんしかいてはらへんかったけどな。それから私が交代して、ここに残っとったんや」  私は母を遮って聞いた。 「赤ちゃん、女やったの、男やったの?」  母は苦しそうな表情で、知らへん、と答えた。むきになった私が、それなら担当の島元医師に聞くというと、母は首を横に振った。 「ここ、あんたの通うてたとこやあらへんし。伊東病院ゆうとこ。新宿の救急病院やて聞いたけど」  新宿。その地名に、また昨日の出来事が悪夢のように|蘇《よみがえ》ってきた。まさに悪夢だった。私は、スペーシアに入った時から、夢を見ているのかもしれない。ぱん、と手を|叩《たた》けば、催眠術にかかった患者のように目が覚める。  ぱんっ。ほら、目が覚めた。  涙がこみあげてきた。目など覚めるはずはない。これが現実なのだから。  母がハンカチで涙を拭いてくれた。 「ええがな。また子供作りなはれ。それでええがな。泣くことない」  何もかも忘れてしまいたかった。子供のことも、サンクチュアリでのことも。時間を一月前に戻したい。私の妊娠がわかる前、私が会社を辞める前、純一が変わってしまう前に。  虫。虫送りの夢。純一の中の虫。虫に関することが多すぎる。いったい、いつから私たちの生活に虫がはいりこんできたのだろう。  |啓《けい》|蟄《ちつ》の日。  突然、天の啓示のように頭に|閃《ひらめ》いた。あれは、純一が静岡から帰った日、テレビに映ったアフリカの老女が、祖母に見えた日。 ——虫が起きた——  彼女は確かそういった。そして、次の日曜日、電気店のテレビにも祖母は現れた。あの時は何といったのだろう。  少しずつ、頭の片隅に追いやっていた記憶が浮かびあがってきた。 ——虫がいる——  テレビ画面に映った二十人の祖母がこういったのだ。  祖母と虫。何か関係があるのだろうか。 「おばあちゃん、どんな人やったの?」  突然、祖母のことをいいだされて、母はきょとんとした顔になった。|太秦《うずまさ》に住んでいた祖母のことだとつけ加えると、母はますます戸惑ったようだった。しかし、流産の話以外なら、何でも嬉しかったに違いない。喜々として喋りだした。 「そら、きついお人どしたえ。孫のあんたには優しかったみたいやけど、私ら嫁には怖い|姑《しゅうとめ》でな。かなわんかったんは、迷信深いゆうところ。これこれ、ひとのまわりを三遍回ったらあきまへん。回られた人に災いが降りかかります。いや、目疣ができたんやって。ほな、井戸ん中へ小豆を三粒放りこみなはれ。きれいに治ります。今日は|三《さん》|隣《りん》|亡《ぼう》や、何もしたらあきまへん、ゆう具合で、毎日、毎日、気の休まる日ぃ、あらしまへん」  私は思わず笑いを浮かべた。  母は生来の話し上手だ。どんなことでも楽しい話にしてしまう。またそれが、小さな洋装品店を、四階建てビルのブティックにまで大きくしてこれた|秘《ひ》|訣《けつ》でもあった。 「私もようは知らへんけど、お義母さんの家は、代々続いとった大きい養蚕農家やったらしゅうて、お義母さんも小さい頃は、おんば日傘で育たはったらしいんや。せやけど、お義母さんのお父さんが、他の事業に手ぇだしはって、借金のかたに桑畑を売ってしもうてな。結局、養蚕では食べていけへんようになったんや。ほいで、お義父さんを婿養子に迎えて、今度は服地屋をはじめはったらしいな」  店を継いだのは、祖父の長男、伯父だった。伯父は、最初の頃こそ一生懸命、稼業に精をだしたが、性格に合わなかったのか、まもなく傾きかかった店を弟である私の父に譲った。そして自分は、代わりに太秦の家を受け継いで、会社員になってしまった。父は、京都の伏見の米屋に生まれた母と結婚して、服地屋を洋装品店に変えた。母のファッションセンスに|賭《か》けたのだ。私がそういうと、母は、大きな声で華やかに笑った。ふくよかな体からは、生気が|溢《あふ》れていた。  |頬《ほお》|骨《ぼね》の高く、きつい顔立ちの私と、白い|大《だい》|福《ふく》|餠《もち》のような丸顔の母とは、少しも似ていない親子だった。母に似ているのは妹だ。子供の頃はひがんだものだ。忙しい母が時間を割いてでも、遊びや買物につきあうのは、いつも妹。母と妹は気があった。  私は太秦の祖母に似ていた。嫁に対しては女帝のように君臨していた、頬骨の高い、きつい顔つきの老女に。だからこそ、母は私を祖母の家に預けっ放しにしていても気にはならなかったのだ。 「おばあちゃん、私が小学校の時に死なはったんよね」  母は顔を|歪《ゆが》めて「むごい死に方どしたえ」といった。私は驚いて聞き返した。 「肺炎じゃなかったの?」 「あんたらには、そうゆうてたけどな……」  母は意味あり気に答えた。 「何やの」 「川魚、食べはったんや。その魚に寄生虫がおってな、それが体に卵、産みつけて……。解剖しはったお医者さんが、お腹の中、虫だらけやったゆうて……」  吐き気がこみあげてきて、私は掛け布団の中に顔を埋めた。母が困ったようにいった。 「いや、かんにんな。けったいなことゆうて。あの後、私かてしばらく川魚、食べられへんかったくらいやもんな」  また虫だ。祖母の体を|喰《く》った虫。純一の体を喰っている虫。私のまわりは虫だらけだ。 「あっ、純一さん」  母の明るい声が聞こえた。布団から顔をあげると、純一が病室の入口に立っていた。ひょろりとしたその姿は、長い虫が半身を起こしているようだった。再びサンクチュアリでの悪夢が蘇ってきた。  私は息を詰めて、純一を見つめた。  彼はベッドに身をかがめて聞いた。 「大丈夫、めぐみ?」  優しい声だった。私のことを気遣ってくれているのがわかった。しかし、その声はかえって私を落ち着かなくさせた。  以前、駅の階段から滑り落ちて、骨折したことがある。その時、病室に現れた彼は、からかい口調でいったものだ。「駅でスキーでもしたの」。自分の妻への気遣いをあからさまに表現するような彼ではなかった。  この優しい声は、あの虫が出しているのかもしれない。ふと思って、我ながらその考えにぞっとした。  母が椅子から立ちあがった。 「ここに座っとくれやす」  辞退する純一に、飲み物を買ってくるからといって、母は病室から出ていった。気をきかせたつもりらしかった。しかし私は、むしろ母に居てもらいたかった。引き止める言葉が|喉《のど》|元《もと》まで出かかった。だが、私が声を出す前に、病室のドアは閉まっていた。  純一は、母の座っていた椅子に腰をおろして、何といっていいかわからないらしく、気弱に笑いかけた。私は素直に笑い返せなかった。これは純一だ。虫なんかではない。自分にそういい聞かせた。そうしないと、今にも彼が、あの巨大な虫に変わってしまう気がした。 「どこも痛いところはない?」  純一が聞いた。再び、優しすぎるほどに優しい声。私は体を硬くした。 「ええ、ちょっとお腹が痛むけど」  口に出していってみると、そこにいた赤ちゃんのことを思いだした。私の顔が歪んだ。  彼が私の気持ちを察していった。 「子供のこと……、気にするなよ」  いったい、どうしてこんなことに、と私は|呟《つぶや》いた。倒れたせいだと、純一が医者の言葉を伝えた。 「スペーシアでだよ。気を失って倒れていたんだ。なぜ、あんなところにいたの?」  他でもない、彼のせいではないか。怒りが、こみあげてきた。 「あなたの後をつけていたのよ。このところ五時なんて早い時間に退社してるって聞いたから、浮気でもしているんじゃないかと思ったの」  私は身構えるように、彼の顔を見あげた。きっと怒りだすと思った。妻に尾行されて、喜ぶ夫はいない。  しかし純一は平静だった。「そうだったのか」といっただけだった。きっと私が、夫を殺そうとして待ち伏せしていたといっても、同じように平静だったに違いない。 「あそこには、いつも行くの?」 「スペーシア?」  私は|頷《うなず》いた。純一は、ぼんやりした顔を窓の外に向けた。灰色に曇った空の下に、新宿の町並みが続いている。もうネオンが瞬きはじめていた。 「ああ、そうだな……。よく行くかな」 「どうして、あんなところに」  純一は、無意識に手の甲を|爪《つめ》の先で|掻《か》きながら答えた。 「さあ……どうしてだろう。……最初は、仕事の打合せであのビルに行ったんだ。その時、サンクチュアリに入って、いいところだなと思った。それから家に帰る前に、自然と足があそこに向いてしまうようになった。……自分でもどうしてだかわからないけど」  自分の理由のない行動に、何の疑問も抱いてない口ぶりだった。私は割れきれないものを感じた。ここに男が一人いる。会社に勤める、普通のサラリーマンだ。その男が突然、会社を早退して木を見に行くようになる。その理由は、これといってないという。浮気をしているといわれたほうが、まだわかりやすい。彼は何かを隠しているのだろうか。  私は心の底を針のように突き刺す、|苛《いら》|々《いら》した気分を押さえながら聞いた。 「あそこで何をしていたの?」  純一は首を|傾《かし》げて、ただくつろいでいただけだと答えた。  私は、こらえきれなくなって叫んだ。 「違うわよ。あなたは、あの橘の木に抱きついていたのよ。様子が変だったわ」  純一は|眉《まゆ》をひそめた。そして、ゆっくりと首を横にふった。 「いいや。俺は、昨日、サンクチュアリの中を散歩していただけだよ。とても気持ちがよかった。橘の前に行ったのは覚えている。俺は、あの木が好きなんだ。胸いっぱいに木の香りを吸いこんでいた。そしたら……急に後で悲鳴が聞こえたんだ。振り返ると、めぐみが倒れていた。俺は驚いてガードマンを呼んで、二人でおまえをタクシーに乗せて、病院に駆けこんだんだ」  虫の話はひとつも出てこない。  そう思って、おかしくなった。出てこなくて当然だ。あれは幻覚だったのだ。事実は、純一がいう通りなのだろう。  私は、彼の様子を眺めているうちに、倒れてしまった。  純一が、橘の木に抱きついていたのも幻覚。  彼の首筋から、虫がでてきたのも幻覚。  しかし、私の流産は現実だ。  胸に重い鉄の玉を打ちつけられたように、ずしんと痛みが響いた。  私は深呼吸した。鼻の奥がつんとなった。純一は、私の髪を|撫《な》ぜた。 「もう過ぎたことだよ。忘れるんだ」  白っぽい蛍光灯に照らされて、清潔な四角い天井が見えた。どこにも不可解な影はない。恐ろしい幻覚なぞ、はいりこむ|隙《すき》のない病室だった。  忘れようと思った。妊娠していたことも、純一の虫のことも、流産したことも。すべてを忘れるのだ。私は、そう決心した。  看護婦が来て、面会時間の終わりを告げた。 「今はとにかく、ゆっくり休むことだ」  純一は別れのキスをしようと、私にかがみこんだ。彼の黒い瞳の奥に、青い光を見たような気がした。あの虫の青い目を思いだして、私はとっさに顔を背けた。純一は、キスをやめて体を起こした。  忘れようと決めたのに。後悔と自分に対する腹立ちを覚えながら、彼を|見《み》|遣《や》った。しかし彼の顔には、拒絶された怒りはなかった。ただ静かに、私を見おろしているだけだ。  これが本当に純一なのだろうか。私の知っている純一なら、怒りを抑えきれないはずだ。唇の右端をつり上げて、「こんなに心配させた癖に、お姫様は、ご機嫌斜めってわけか」などと、皮肉のひとつもいっただろう。  そう、私の知っていた純一なら……。  あの純一は、もうここにはいない。  私の目から涙がこぼれた。彼が指の先で、それを|拭《ぬぐ》ってくれた。 「泣くことはないよ」  私は枕に顔を埋めると、頭を横に振った。  彼は、それ以上、何もいわなかった。ぱたん。病室のドアの閉まる音が響いた。  ドアを開けると、鮮やかな紫色の|花菖蒲《はなしょうぶ》が目に飛びこんできた。私は息を|呑《の》んだ。 「はい、プレゼント」  花の後ろから、加奈が顔をだした。 「ああ、きれい。ありがとう」  私は花束を抱えると、加奈を家に通した。彼女は、首に巻いた薄いブルーのスカーフをほどきながらはいってきた。 「花が|萎《しお》れたら、葉は菖蒲湯にするといいわよ。体が温まるから。あんなことの後は、特に体を大事にしないといけないんですってね」  あんなこと、などと気を遣っていってくれなくていいのにと思いながら、私は加奈の連休の予定を聞いた。彼女は、台所の椅子に腰かけて、つまらなそうにいった。 「それがさ、彼が急にやりたい仕事がはいったからって、予定は全部、お流れ。私は暇を持て余して、毎日スタジオで写真の整理よ」 「あら、気の毒なゴールデンウィーク」 「お互いさまじゃない。めぐみだって、家で療養中でしょ。どう体の調子は」 「おかげさまで、もう、ほとんどいいわ。ちょっと疲れやすい気はするけど」 「それじゃ早いとこ、次の子供をつくらなくちゃね」  励ますようにいった加奈に、私は、そうね、と素っ気なく返事した。誰もが次の子供をつくればいいとなぐさめてくれる。その度に、自分が子供製造機のような気分になる。これがだめなら、次がある。生きている人間は、そう思える。しかし、たった一度の、この世に生まれる機会を逃してしまった子は、何と考えるだろう。忘れようとすればするほど、私の中から滑り落ちた生命が主張しているのがわかる。自分はどうなるのだ、と。  加奈が家を見回して、純一のことを尋ねた。彼は、日野の実家に呼ばれて帰っていた。私も誘われていたが、加奈が来ることを口実にして行かなかったのだ。義母や義姉に、流産のことでとやかくいわれるのは苦痛だった。  加奈は、純一が不在だと知って、くつろいだ顔をした。加奈は、純一のことを、私の背中のリュックサックと見なしている。私が背負っている限り、加奈は何ともいわないが、心の底では、重いからおろせばいいと思っている。もし自分がそのリュックを背負うはめになれば、さっさと道端に投げ捨てるだろう。  結婚する前、加奈が私に、なぜ、あんな偽善者とつきあうのかと聞いたことがある。彼女は正しかった。当時の私は、彼のものわかりのよい言動を、知性の現れだと思っていた。それがただの仮面だったと気がついたのは、ずっと後だった。しかし私にいわせると、浅川もまた、なかなかの偽善者だ。無口で、男っぽいというポーズをとっている。  お互い、背負ったリュックの不格好さだけはよくわかるのだ。私もまた、加奈の、浅川というリュックを背負うはめになったら、道端に放りだしてしまうに違いない。結局、女友達にとって、相手の夫や恋人とはそんなものだ。本質的には、友達同士で一緒に山に登ったり、野を歩いたりできればいい。付随物はそれぞれで管理していれば問題はないのだ。  私は冷蔵庫を開けて、作りおきのアイスティーを取りだした。クッキーを添えて持っていくと、加奈はテレビの前に立って、しげしげと見ていた。 「そのテレビ、この前、買ったばかりなの」  テーブルの上にお盆を置いて、私は加奈の隣に立った。 「かっこいいじゃない」  加奈は腕を組んでいってから、「あら、これなに?」と、隣の食器棚に置かれていた石の器を取りあげた。 「石の小物入れよ。純一が静岡で拾ってきたものなのよ。けっこう古いものらしいわ」  加奈は興味をそそられたように、椅子に座って、石の器を眺めはじめた。私は自分の分のアイスティーを飲みながら、加奈の様子をぼんやりと見ていた。 「何か文字が書いてある」  加奈がいった。 「木の模様じゃないの?」  その木の模様が文字になっているのだと、加奈は興奮したように答えて、石の器を電灯の光にかざした。私も横から|覗《のぞ》きこんだ。木の枝と思っていた模様だが、そういわれれば、文字らしくも見える。しかし表面に彫られた溝は、長い年月にさらされて薄くなっている。木の模様と、後でついたようなひっかき傷とを区別することすら難しい。 「うーん。おもしろいわねぇ」  加奈が|唸《うな》るようにいった。  この石の器もまた、啓蟄の日に、家にはいりこんできたのだ。考えてみれば、私は、この石の器のことを不思議に思っていたのだった。まず、石を置いていたテレビが壊れた。次に石を動かした先にあったステレオの調子がおかしくなった。最後に、石の横に置いていた時計が遅れたのだ。  私は、テーブルの上の丸い時計を見た。三時二十分。ビデオの時計と同じ時間を指していた。もう遅れてはいない。このところ何も問題は起きてないのは、電気製品のない食器棚に置かれていたせいなのかもしれない。  この石の器に、何かがあるのだろうか。電気製品の調子を狂わせる不思議な力が。そういえば、テレビを届けにきたカヤという青年も、妙なことをいっていた。 「写真に撮れば、読めるかもしれないよ」  加奈の声に、私は、はっとした。 「なんの話?」 「この石の模様に、斜めから照明をあてて、溝の影を出すの。肉眼で見るよりも、被写体のおうとつがわかるものよ」  私は、ぜひ写真に撮ってくれと頼んだ。加奈は、二つ返事で引き受けてくれた。 「ちゃんと料金は払うから」  石の器の中に入れていた装身具類を取り出して、加奈に渡しながらいった。 「水臭いなぁ、お金なんかいいよ」 「でも忙しいのに悪いわ」 「じゃあ個展を開いたら、私の写真、買ってくれるってのは?」 「いいわよ。いつ開くの?」  加奈はバッグに石の器を入れながら、来年の春あたりだと答えた。 「浅川さんと?」  加奈は幸せそうに頷いた。  味のある人だと、あたりさわりのない言葉で、私は浅川を|誉《ほ》めた。 「味はあっても、金がねぇ。気にいらない仕事は引き受けないで、好きな写真ばかり撮ってるから、困りものね。先々思いやられるわ」  加奈は、ちっとも困ってないような顔でいってから、急に真顔になって私に向き直った。 「ねえ、めぐみ、これからどうするつもり?」  私は、その意味がわからずに、加奈の顔を見返した。 「専業主婦におさまるの?」  何も考えてはいなかった。私はクッキーをポリッと|齧《かじ》った。そして、わからないと答えた。退院して一週間しか経ってなかった。自分の傷をなめるのに一生懸命で、まだこれから先があることなど忘れていた。 「いつまでも、家でくよくよしててもしょうがないよ。また働きにでたら?」 「そうねぇ。公務員試験でも受けて、公立の図書館にでも勤めてみようかなぁ」  私は無理して明るい声を出すと、背中を椅子の背に押しつけて、伸びをした。がたん、と音をたてて、下腹部がテーブルにあたった。無意識に下腹部を守るように手が伸びた。私は苦笑いを浮かべた。 「不思議ね。まだ赤ちゃんがいるみたい……」  悲しみは、それを忘れた時を見計らって、襲いかかってくる。不意を突かれて、泣きだしそうになった。加奈が私の腕に触った。 「そうだ、めぐみ。夏になったら、大島あたりに行かない? 船に乗ってさ、ちょっとしたクルージングよ」  私は笑った。 「ただのフェリーでしょ」 「覚えてる? 大学の夏休みに、二人で船に乗って北海道に行った時のこと。あんた、船酔いでげえげえ、やっててさ」 「覚えてるわよ。私が苦しんでるってのに、加奈は、船で一緒になった大学生の男の子とべったりしててね」  加奈は口を|尖《とが》らせた。 「そんなことないよ。彼が船酔いにいい薬持ってるっていうから、頼んでたのよ」 「それが、ただのウイスキーのストレートだったんだものね」  私たちは大きな声で笑いだした。そして、ひとしきり昔の話に花を咲かせた。  やがて加奈は、新宿で人と会う約束があるからと立ちあがった。今度、カナダに出張があるという。私が|羨《うらや》ましがると、彼女は、つまらなそうな顔をした。浅川と離れることになるので、気が進まないようだった。  玄関口に立った時、加奈は真顔でいった。 「何かあったら、いつでも相談してね」  私は頷いた。やっぱり友達だ。胸に暖かいものが広がった。一人で落ち込んでいる必要はないのだ。ここに手を差し延べてくれる人間がいる。私のことを気にかけて、考えてくれる人がここに……。  その時だった。私の思考に、突然、冷たい風が流れこんできた。加奈の友情に対して抱いた、胸にせりあがるような熱い感情が、かき消えてしまった。  まるで燃えかけた炎が、誰かの息でふっと吹き消されたようだった。  何だろう……。  私は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として自分の心を探った。心の中に異質なものの息吹を感じた気がした。 「それじゃあ、またね」  加奈が玄関の戸を開けた。生暖かい風が家の中に吹きこんできた。  私は我に返って、|微笑《ほ ほ え》んだ。 「来てくれて、ありがとう」  そして心に浮かんだ疑問は、初夏の風と一緒に家の奥へと流されていった。     八 章  白い煙が頼りなげに立ち昇っていた。|闇《やみ》の中に、ぼうっと浮かびあがる|橘《たちばな》の木に、煙が絡みつく。まるで体を|捩《よじ》らせて泣く亡霊のようだ。  くすぶり続ける赤い|燠《おき》|火《び》を囲む男たちが、青白く無表情な顔で、煙の流れる方向をじっと見つめている。風に乗った煙は、闇の果てまで続く一本道の彼方に消えていく。  私は人の輪から離れて、煙を見送っていた。隣にはおばあちゃんがいた。その顔の表情もまた凍りつき、顔を縁取る白髪は、煙のように風になびいて舞いあがる。  私は、おばあちゃんに聞いた。  虫、どこに行ったの。  おばあちゃんは、煙のたなびく空の彼方を指さした。  あの世どすがな。  あの世?  そうとも。この世からあの世へ。  低い男の声がした。  私は驚いて、おばあちゃんの顔を見た。  おばあちゃんは私を見返した。その青白い顔の真ん中に、ぽつんと白い穴があいた。穴は、音もなくじわじわと広がっていき、やがて、おばあちゃんの顔だけでなく、まわりの景色までも浸食しはじめた。まるで古い写真が|紙《し》|魚《み》に食べられて、崩れていくようだ。  私は叫び声をあげて後ずさった。  周りの橘の木も、男たちの姿にも、どこもかしこも穴がぽつぽつとあいている。私の腕にも、ぽつんと穴があいて、見る見るうちに広がっていった。私の肩が、胸が腰が|蝕《むしば》まれていく。穴の向こうに、霧のような色の空虚な空間が現れた。周囲の景色は、見えない力によって浸食され、崩壊していく。  おばあちゃんの耳のかけら、男の指、橘の緑の葉、夜の断片、煙の一筋……。景色の切れ端が、薄明の空間に浮かんでいる。しかし、それすらも写真の最後の一片が虫に食べられるように、次第に消えていく……。  私は目をあけた。頭の上では、電気が|煌《こう》|々《こう》と|灯《とも》っている。 『中国政府が国連の調停案を拒絶したため、和平交渉は暗礁に乗りあげました』  テレビが七時のニュースを流していた。私はテレビの前のソファに座っていた。  夢を見ていたのだ。  しかし、何という夢だろう。突然、夢の中の光景がきれぎれになり、消えていくとは。私はまだ覚めきらない頭で思った。  どこからか焦げ臭い匂いが漂ってきた。はっとして起きあがると、ガスレンジの上でシチューが焦げついていた。  その夜の食事は、黒ずんだミートボール・シチューだった。しかし純一は、焦げ|滓《かす》の浮いたシチューを文句もいわずに食べはじめた。皿の上にかがみこんで、スプーンでシチューを|啜《すす》る。唇を突き出すようにして、舌をちろちろと出して、ずずずっ、と音をたてて汁を飲む。一息ごとに、頭をわずかに上下に振り、|喉《のど》を伸びあがらせる。その姿は、頭をもたげた虫を連想させた。  私は軽く目を閉じた。  そんなことを考えてはいけない。  だが、忘れようと思っているのに、心にかぶせた|蓋《ふた》の下から絶えず|這《は》いだしてくる、サンクチュアリで見た虫の姿。それが純一とだぶって見える。  私は、純一の前にアスパラガスとトマトのサラダの皿を押しやった。彼がサラダに|箸《はし》を伸ばした。虫の印象が消え去った。  私たちは、しばらく黙って食事をしていた。テレビの音が、二人の間に横たわる沈黙を埋めてくれる。  私は、何気ないふりをして口を開いた。 「また仕事に出ようかしら」  加奈にいわれて、考えはじめたことだった。純一の考えを聞きたかったのだ。  しかし、彼は顔もあげずに、そうかい、と|呟《つぶや》いただけだった。 「で、純一はどう思うの」  私は、しつこく|訊《たず》ねた。彼はちらりと顔をあげて、「いいんじゃないの」と|応《こた》えた。  探している文字が辞書に見つからないような、もどかしさを覚えた。そんな返事を求めたわけではなかった。 「で、また妊娠したら、仕事を辞めろというの?」 「好きにしたらいいだろう」  私は口に運ぼうとしていたスプーンを下に置いた。カチャッと音がして、茶褐色のソースがテーブルに飛び散った。 「子供が大きくなるまでは、母親が育てて欲しいといったのは、純一でしょ」  思わず声が大きくなった。純一は眼鏡の奥の目を見開いた。今夜はじめて見る、生き生きした仕種だった。 「そうだったっけ」 「忘れたの?」  私は低い声で聞いた。気味悪さが、背筋を這いあがってきた。私の目の前にいるのは、本当に純一なのだろうか。虫の形をした人間なのではないだろうか。  純一は、そんなことをいった気もする、と|曖《あい》|昧《まい》に答えた。 「考えを変えたのね」  私は断定的にいった。そんなことをいった記憶はない、というよりは、意見を変えたといわれるほうが、まだましだった。純一は「そうなるかなぁ」と無責任に呟くと、テレビのドラマ番組に視線を移した。  私は、再びスプーンを取りあげてシチューを啜りながら、上目遣いに彼の青白い顔を見た。少し太って|頬《ほお》が|弛《ゆる》んだせいか、顔つきが変わったように思える。私が妊娠した時には、あれほど母親が家にいることにこだわった純一だった。今更、何をいいだすのだ、と詰め寄りたい気がした。 「それじゃあ、私の好きにするわ」  私は、ぶっきらぼうにいった。純一は、どうでもいいという風に軽く|頷《うなず》いた。  私たちは、誰かに手繰られている人形のようだった。口をぱくぱく開いて、言葉を交わしているだけ。その会話の中に、感情のぶつかりあいも、触れ合いもない。こんなことはもうたくさんだと、叫びたくなった。テーブルをひっくり返して、泣きわめく自分の姿が頭に浮かんだ。そして私は無言のうちに、その想像の馬鹿ばかしさを|嗤《わら》った。  純一がスプーンを置いた。シチューを食べ終わっていた。 「おかわり、どう?」  純一は首を横に振った。 「じゃあ、サラダは?」  といってから、ほとんど私が自分で食べてしまったことに気がついた。 「ごめんなさい、また作るわ」 「いいよ。お腹いっぱいだ」  彼は席を立ってソファに座ると、夕刊を読みはじめた。後片づけをしながら、ふと彼を見ると、白い首筋が目にはいった。私は顔を背けた。  あの巨大な虫は、彼の首筋から這い出てきたのだ。いかにあれは幻覚だと思っても、未だに、私は彼の首筋を直視できない。目に触れるたびに、鳥肌が立ちそうになる。  しかし、退院してもう三週間は過ぎている。いつまでも自分の幻覚を引きずっていてはいけない。このままでは、二人の間の溝は深まるばかりだ。今、何とかしないと、取りかえしのつかないことになってしまう。  私は皿を洗い終わると、|布《ふ》|巾《きん》で丁寧に手を拭いた。そしてソファに歩いていくと、純一の横に座った。 「私、疲れているみたい」 「あんなことがあったんだ。無理ないよ」  純一は夕刊から顔をあげて、|微笑《ほ ほ え》んだ。私は彼の首筋に目を|遣《や》って、さっと|逸《そ》らした。 「……そうね。気分転換が必要みたい」  彼は、どこかに行こうかと誘った。 「いいわね。ゆっくり温泉にでも行きたいわ」  少し気分が軽くなった。そうだ、温泉にでも行ってゆっくりすれば、私にとり|憑《つ》いている虫の幻想も消えるはずだ。 「いつ行く?」  純一は、眼鏡を上にずらして、鼻梁をもんだ。 「もう少しで、仕事が一段落するから、その時にしよう。夏前には行けるよ」  私は探るように、仕事は忙しいのかと聞いた。彼は、まあまあだと答えた。  今も、彼は早く帰宅している。入院中も退院後も、かつての同僚から何もいってこないことを考えると、彼は、私の流産のことを会社ではいってないようだった。ありがたいと思う半面、同僚との不仲を物語っている気がした。 「仕事のことで、他の人に恨まれたりしないでね」  冗談めかしていった私の言葉をどうとったかはわからなかったが、純一は「大丈夫さ」と請け合ってみせた。そして温泉の話を蒸し返して、行く場所を考えておくと約束した。  私たちはソファに並んで、テレビの画面に顔を向けた。  そこではホームドラマが進行中だった。赤ん坊を抱いた母親が海の見える土手を歩いていた。顔見知りに|挨《あい》|拶《さつ》しながら、嬉しそうな顔で、散歩する若い母親。通りすがりの人が目を細めて眺めている。  流産しなければ、私もああして子供をあやしていただろう。小さな体を胸に抱いて、一緒に笑っていたはずだ。  でも、あの子は死んでしまった。もう、この世にはいない……。  その時、お腹の中で何かが動いたような気がした。私は、はっとして、自分の下腹部を見下ろした。クリーム色のワンピースの下で、腹部が動いている。呼吸に合わせて、上下しているだけだった。  私は、体の力を抜いた。  気のせいだ。赤ちゃんは、もうこの体の中にはいないのだ。  だが、心の底には、まだ気味の悪さがわだかまっていた。内側から|叩《たた》かれたような、あの感じが、まざまざと残っている。まるで死んだ赤ちゃんが、自分の存在を忘れるな、といっているような胎動が……。  私はソファの背もたれに、体を沈ませた。  未練たらしく、まだ赤ちゃんのことを考えている自分が情けなかった。私は下腹部を見ないように、再びテレビに目を遣った。  画面の母子は、いつか海辺の砂浜を歩いていた。母親が子守歌を口ずさんでいる。  ねんねんころりよ、おころりよ。  ぼうやはいい子だ、ねんねしな。  そうだ。私の赤ちゃん。いい子だから、眠るのだ。死の世界で安らかに眠っておくれ。生きているふりをして、私をもう悩まさないで……。 「……おい、めぐみ。めぐみっ」  肩を揺すられて、目を開けた。 「こんなところで寝るんだったら、ベッドに行ったほうがいいよ」  私はいつか彼の肩に頭を乗せていた。 「いやだ、私、寝てないわよ」  そういいながら、|瞼《まぶた》を手でこすった。頭の|芯《しん》がぼうっとしている。本当に眠っていたのかもしれない、と思った。  純一は、なだめるようにいった。 「寝ていたよ。最近、めぐみ、やけに眠そうだよ。まだ体力が回復していないんだろう」  私は不承不承、頷いた。実際、彼のいう通りだった。朝、なかなか起きれないし、家事の合間にも居眠りするようになっている。  時計を見ると、まだ九時半だったが、私はソファから立ちあがった。 「純一は?」  彼はテレビに目を注いだまま、首を横に振った。細い体がブラウン管のほうに伸びている。繊毛のような柔らかな茶色の髪。眼鏡の奥の二つの目が、一瞬、青くきらめいた。サンクチュアリで見た巨大な虫の目が、頭に|蘇《よみがえ》った。  私は奥歯を|噛《か》みしめた。  彼が虫のはずはない!  心の中で叫びながら、もう一度、彼を見直した。青い海を映すテレビの映像が、眼鏡に反射していただけだった。  私は|痙《けい》|攣《れん》に似た笑みを彼に送った。 「おやすみなさい」  純一はテレビから顔をあげると、静かな声で、おやすみ、と|応《こた》えた。  私は寝室のドアをきっちりと閉めると、パジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。  これ以上、夫と向かいあっていないですむのはありがたかった。起きていれば、虫の幻想が夫と重なり、私の心を|苛《さいな》むだけだ。  目を閉じると、すぐに眠気に襲われた。夢ひとつない眠りが、甘い香りを漂わせながら、優しく私を包みこんだ。     九 章  灰色の空から、とめどなく雨粒が落ちてくる。道を歩く人々は、雨傘の下で|眉《まゆ》をひそめ、恨めしそうに天を仰いでいる。  私は、銀行のキャッシュコーナーのガラス窓越しに外を見ていた。ガラスについた水滴が筋になって伝わっていく。一つの筋が消えると、次の筋が現れる。それは綿々と続く時の流れを思わせた。  私の生活は、妊娠していた頃と何の変わりもなく過ぎていた。朝、純一を送りだしてから、掃除と洗濯をして、新聞や雑誌を読み、テレビを見る。そして午後になると、近所の商店街に買物に出かける。純一は、いつも八時半頃帰ってくる。彼が五時に退社しているのかどうかは、もう知りたいとも思わない。浮気はしていそうもなかったし、興味もなくなっていた。私の|嫉《しっ》|妬《と》|心《しん》は、胎児と共に体内から流れ落ちてしまった。  以前は、この生活も子供が生まれるまでの一時的なものだと思っていた。今は、いつでも終わりを告げられるかわりに、いつまでも続けられる。また仕事にでようかと迷ううちに、いたずらに日が過ぎてゆく。  決められないのだ。新しい仕事を見つけて、働きにでる決心も、家で主婦を続ける決心もつかない。何もかも面倒な気がした。面倒なままに人生が過ぎていく。それでいいのかもしれない、と思った。これをやりたいということもなかったし、かといって子育てに専念したいという情熱も|湧《わ》かなかった。  私が失ったのは子供ではなく、人生を刻む時計の針だった。人生の目標を失ったというのはおおげさすぎる。ただ昨日と今日の境目をどうつけていいか、わからない。|茫《ぼう》|然《ぜん》と時の過ぎるのを眺めている間に、私は空白の空間に沈んでいく……。  |苛《いら》|々《いら》と肩を|叩《たた》かれた。見ると、後の女性が険のある顔つきで、私の前を指さしている。列の間に隙間ができていた。私は一歩、進んだ。私の後の人たちが、ぞろぞろと前に移動した。  月曜日だった。キャッシング・マシンの前には長蛇の列ができていた。週末に金を使い果たしてしまった人々が、空の財布を抱えて並んでいる。誰もが、神経質そうな表情で、機械の前で手続きをしている人の手元を見ている。少しでももたつくと、その人の背中に非難の視線が集中した。  雨のせいか銀行の中の空気は、湿気がこもっていた。水蒸気の中に、眠りの精のまく粉でもはいっているかのように、重い眠気に包まれた。  誰かが肩をぶつけるようにして、私の横を通り過ぎた。はっとして目を開けると、私は行列の一番前にきていた。空いた機械に、後にいた女性がカードを差しこんでいるところだった。割りこまれたのだ。怒る気力もなかった。ただ体がだるく、息をするのすら面倒だった。私は、肩からずり落ちそうになったバッグを揺すりあげた。  ひとつの機械が空いた。私は前に進むと、カードを差しこんだ。  現金をおろすと、次は電話料金の払いこみが残っていた。受付待ちの番号札を機械から引きぬいた。二百四十九番。窓口には、現在の受付番号の、二百三十五という数字がでていた。しばらく待たないといけない。どちらにしろ、家に帰っても、やることなぞなかった。私は銀行のソファに腰をおろした。  待ち合いコーナーの隅のテレビが、昼のニュース番組を放送していた。画面には、戦車が出動して、砲撃を行っている映像が映っていた。 『ついにインドと中国の国境で戦闘がはじまりました。チベット自治区内でも、引き続き独立運動が行われている模様ですが、そちらの情報は流れてきていません』  砲弾で燃えあがる家屋。|瓦《が》|礫《れき》の山に散らばる黒々とした死体。逃げまどう人々。すべては、この世の外の出来事に見えた。  そして、どうしてだかわからない。不意に涙が|溢《あふ》れてきた。悲しいわけでもないのに、涙がぽろぽろと落ちる。自分の体と、心が分離してしまったようだ。心には何も伝わってこないのに、肉体だけが何かに反応していた。私は自分自身に驚きながら、バッグからハンカチを取りだして、目許を|拭《ふ》いた。 「年をとってくると、同じような夢を何回も見るものなんでしょうかね」  すぐ隣で男の声がした。私はどきりとした。虫送りの夢を思いだしていた。  そっと横を見ると、老人が二人、並んで座っていた。ハンチングをかぶったほうが、「そんなものですかね」と首を|傾《かし》げると、もう一人の、|痩《や》せた白髪の老人が半ば目を閉じていった。 「この頃、不思議な夢を見るんです。いい匂いのする木の下でね、これから何もかもがうまくいくと思っているんです。そりゃもう、何度も何度も、夢に、同じ木が出てくるんですよ」  いい匂いのする木。どこかで聞いたような夢の話だと思った。 「その木の下にいるのは、私だけじゃないんですよ」  白髪の老人は、遠くを眺める表情で続けた。 「誰かは思いだせないが、昔、ずっと昔に知っていたような顔ぶればかりなんです。ひょっとしたら、私の故郷の人かもしれない」  ハンチングの老人が驚いたようにいった。 「えっ、あんた、東京の人じゃなかったんですか」  白髪の老人は笑って、違います、と答えた。 「ご自分が東京出身だからって、みんなそうだ、と思っているんじゃないですか」  ハンチングの老人は頭に手をやり、苦笑した。二人のかさかさとした声を聞いているうちに、私は、似たような夢の話をどこで聞いたのか思いだした。  クリーニング屋の主人だった。彼もまた、いい匂いのする木の夢について話していた。いい匂いのする木……|橘《たちばな》の木。  そう思ったとたん、銀行の無機質な空間の中に、あのレモネードのような|爽《さわ》やかな香りが漂うのを感じた。  私は小鼻をひくつかせた。  気のせいだった。|埃《ほこり》っぽい空気の中には、何の香りもない。窓口でせっついている客の背中や、にこやかな笑みを顔に|貼《は》りつけた案内係の姿が見える。爽やかさに包まれた一瞬は消え、銀行のざわめきが私に襲いかかった。  私は、もう一度、あの木の下に立ってみたくてたまらなくなった。 「二百四十九番のお客さま」  コンピュータの呼びだしの声が、遠くで響いている。私は番号札の紙をくず箱に放りこむと、銀行から飛びだした。  雨の日のサンクチュアリはひっそりしていた。天井のガラスを通して入ってくる弱々しい光の中で、木々は眠っているように見える。私はゆっくりと木立の間を歩いていった。空調が行き届いていて気持ち良い。一見、人気のないように見えたサンクチュアリの中だったが、歩いていると、あっちの木の陰、こっちのベンチの上に人が|佇《たたず》んでいた。まるで、だまし絵のように人の姿が木々の間に溶けこんでいる。寂しい雨の日、行くところもなく、都会の|隙《すき》|間《ま》に迷いこんだ人々。私もその一人だった。  赤いレンガの小道を曲がると、橘が見えた。踊っているように見えるほど、くねくねと|歪《ゆが》んだ枝。柔らかに光る深緑色の葉。木全体から、爽やかな芳香が立ち昇っている。天井から降り注ぐ薄明かりの下で、橘は静かに枝を広げていた。  私は少し離れたところで足を止めた。  虫送りの夢を思い出した。夢の中では、この木の下で青白い顔をした男たちが、火を燃やしていた。煙が木の枝を伝うように|這《は》い昇り、|仄《ほの》|白《じろ》く光る道の彼方へと消えていった。  |紙《し》|魚《み》に食われるように夢が崩壊して以来、虫送りの夢は見なくなった。祖母も、あの木も、私の眠りから消えてしまった。  ひょっとしたら、あの木は私の夢の中から抜け出して、この橘となったのかもしれない。  それとも、私はまだ夢を見ているのだろうか。虫送りの夢ではなく、今度はサンクチュアリにいる夢を。純一の後をつけてここに来て、歩道に倒れて気を失って以来、私は夢を見続けているのかもしれない。すべては、夢のことなのだ。私の流産も、橘の木に体をもたせかけた純一の首筋から這い出ていた巨大な虫のことも……。  だとしたら、どんなにいいだろう。 「すみません」  後から声をかけられて、ぎくっとした。  黒い服を着た女性が立っていた。髪をきれいに束ねて、黒いリボンで結んでいる。四十代後半くらいの年齢だろうか。落ち着いて、知的で厳しい雰囲気を漂わせている。彼女の後には、四、五人の学生らしい若い娘たちが従っていた。私は小道の真ん中で、彼女たちの前をふさいでいたのだった。  私は謝って、脇に寄った。黒服の女性は、軽く会釈をして通り過ぎた。後から、サンクチュアリの広さや、木々の大きさに驚きの声をあげる娘たちが続いた。 「新宿にこんな場所があったなんて知らなかったわ」 「最近できたんですよね、ねぇ、先生」  先頭を行く黒い服の教師が、きびきびした声で答えた。 「そんな情報なら、あなたたちのほうが詳しいでしょ。あれだけくだらない雑誌を読みふけっているんだから」 「ひどーい」 「それはないですよぉ」  甘ったるい抗議の声があがった。まるでサンクチュアリに|闖入《ちんにゅう》してきた光る波のようだった。女学生たちは、若さという剣を振りまわし、この静かな雰囲気をなぎ払っていた。 「あら、こんなところに非時の香果があるわ」  教師が橘の前で足をとめた。女学生たちは、きょとんとした顔でトキジクノカグノミと、いいにくそうに|呟《つぶや》いた。 「なんですか、それ」  教師は、うんざりしたように生徒たちを見まわした。 「国文科の学生のくせに、かぐや姫の話を知らないの」  それを聞いた私は、ああ、と思った。  この前、ここを訪れて、橘の名前を見た時、知っているような気がしたのは、あの話があったからだ。かぐや姫が、求婚者たちに要求した無理難題。その中に、非時の香のする木の実を取ってこいと命ずる件りがある。どこかで、それは橘の木の実のことだと読んだ記憶があった。  かぐや姫の話は知っていても、橘とは結びつかないらしい女学生たちに、次の講演がはじまるからとせかして、教師は一団を連れて遠ざかっていった。何かの会議の合間にやってきた、学生と教師のようだった。  ふたたび静けさが訪れた。私は、橘に近づいた。枝の所々に、小さな白い|蕾《つぼみ》が見えた。まだ固く、握りしめた|拳《こぶし》のような蕾。まもなく花が咲こうとしていた。  私は深い息をした。爽やかな香りが体の隅々にまで満ちていく。頭がくらくらした。全身に波のように心地よさが広がった。私は、ほうーっと息を吐きだした。  非時の香り。確かに、時を忘れるほどの|恍《こう》|惚《こつ》|感《かん》を覚える。純一が、会社の帰り、ここに立ち寄っていた訳がわかる気がした。  私は、もう一度、大きく息を吸いこんだ。  頭の中が真っ白になっていく。心が静かに、清らかになっていく。私は、木にもたれかかろうとした。  突然、胸が苦しくなった。うねりのようなものが、|喉《のど》から胸、そして腹にかけて駆け抜けた。体の中で、何かが暴れまわっている。それは私の体内で膨れあがり、喉を押しあげた。息が詰まった。視界が霞む。まわりのものがスローモーションのようにゆっくりと動いていた。赤いレンガ敷きの地面が眼前に迫ってくる。遠くで誰かが叫んでいる。駆け寄ってくる足音を聞いているうちに、鈍い衝撃を|膝《ひざ》に感じた。  そして私の意識は遠のいていった。  橘の木が頭上で枝を張っていた。足元では、虫送りの後の火がくすぶり続けている。火のまわりに人々が立ち尽くしていた。虫送りに参加していた人たちだった。  見慣れた虫送りの夢の光景だ。しかし、どこか違っていた。橘の木は、奇妙にあちこちが欠けている。枝が途中でちぎれていたり、葉がごっそりとなかったりする。虫送りの人たちも、ある人は頭がなく、別の人は体が半分ない。夜空すらも、あちこちが欠けて白っぽい空間が顔を|覗《のぞ》かせている。  夢の景色は、今にも崩壊しようとしていた。  私の横で何かがもぞもぞと動いている。見ると、おばあちゃんだった。私は叫び声をあげた。その首の上には顔がなかったのだ。体だけが、赤ん坊がむずがるように四肢を動かせている。骨ばった手が宙を指し、ゆっくりと文字をなぞりはじめた。  蛇の這ったあとのような、曲がった線が描かれる。しかし私には何を書こうとしているのか、わからない。そのうちに、ぽつんと指に穴があいた。おばあちゃんの指が、ぽーっと消えていく。最後に残った|爪《つめ》の先も小刻みに震えたかと思うと、ふっと消えた。  映像を浸食する白い穴が広がっていく。そして夢の風景は、白い穴に|潰《つぶ》されていき、薄明の空間へと変わっていった。  乳白色の空間に、うっすらと何かの輪郭が現れた。人の頭のようだ。 ——だ……じ…ぶ……か——  遠くで声が聞こえる。帽子をかぶった人の顔が、次第に現れてきた。まるで霧の中で人が近づくに従って、その姿がはっきりとしてくるようだ。 ——だいじょうぶで—— 「大丈夫ですか」  声が耳に飛びこんできた。そして私の前の霧が晴れた。  私は、灰色の壁に囲まれた部屋のソファに寝かされていた。ガードマンの青い制服を着た初老の男性が、心配そうな顔で私を見おろしている。  私は起きあがった。スチール製の机がひとつ。机には、日誌のようなものが置かれ、壁には、電気のスイッチの並ぶパネルがくっついている。  ガードマンが、ここはサンクチュアリの管理事務所だと教えてくれた。そして、気がかりそうに聞いた。 「気分はどうですか。なんだったら、医者を呼びましょうか」  胸の苦しさは消えていた。私は大丈夫だと答えて、背中をソファに沈めた。まだ頭がぼやっとしていた。  どうして急に倒れたのか、自分でもわからなかった。痛みや苦しみは、その場限りの感覚で、後で思いだすのは難しい。あの、息が詰まるほどの圧迫感が、なぜひきおこされたのか、今となっては、さっぱり理解できなかった。 「ほんとうに、大丈夫ですか」  ガードマンの声に、私は軽く|頷《うなず》いた。そして、乱れたスカートの|裾《すそ》を正して、ソファに座り直した。 「ええ。ほんとに。ご心配かけまして、すみません」  人の良さそうなガードマンは、白髪の混じった太い眉を心配気に寄せていった。 「いや、びっくりしましたよ。突然、人が橘の前で倒れたというもんだから、またかという感じで」 「また?」 「実は、この前も、あなたぐらいの女性が倒れて、車で病院に運ばれた、という話を聞いたからね。またそんなことになって、サンクチュアリでは人がバタバタ倒れるなんて、へんな|噂《うわさ》でもたったら大変だから」  ガードマンは、太い声で笑った。額に汗が浮かんだ。私はポケットを探ってハンカチを取りだした。そして、すみませんと、また頭を下げて、ソファから立ちあがった。このまま居続けると、以前、倒れたのも私だと見破られて、非難されそうな恐怖を覚えた。  机の上に置いてあったハンドバッグを返してもらい、礼をいって出口に向かおうとした。 「こっちですよ、こっち」  ガードマンが呼びとめた。見ると反対側に、もうひとつドアがある。 「そっちはサンクチュアリに続くドアでしてね。こっちのほうが、直接、外に出られますよ」  そのドアの向こうは廊下だった。つきあたりは、人々が行き交っているエレベーターホールになっていた。廊下に出た私は、ふと聞いた。 「そういえば、あの橘、蕾がついてましたけど……」 「ええ、もうすぐ花が咲くんです。秋には、金色の実がなるそうですよ」  その言葉に、金色に輝く実が眼前に現れた気がした。ざわめく緑の葉。たわわに実った金色の実。爽やかな|柑《かん》|橘《きつ》|系《けい》の香りを含んだ風が、あたりに吹き渡る……。  見たこともないはずなのに、その映像は不思議にありありと、私の脳裏に浮かんだ。  なぜかはわからないが、心の中に幸福感が広がった。私は知らないうちに|微笑《ほ ほ え》みを浮かべていた。微笑みは水に落とした青いインクのように、ゆっくりとガードマンにも伝わり、彼の顔にもまた笑みが浮かんだ。 「私も妙に、橘が好きでしてね。なんともいえない、いい香りがしますからね。なんでも、あの橘は、わざわざ沖縄から取り寄せた原生木らしいですね。けっこう見にくる人も多いんですよ。花が咲いたら、また見物人が増えるでしょうな」 「きれいでしょうね」  ガードマンは頷いた。  しばらく私たちは、無言のままドアの前に立ち尽くしていた。橘の香りが私たちを包み、優しく子守歌を歌ってくれているようだった。私は急に眠気を覚えた。ガードマンも、|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺した。 「またいらしてください。でも、倒れるのは、今回で最後にしてもらいたいものですよ」  私は肩をすくめた。 「どうも御世話になりました」  ガードマンは軽く会釈して、ドアの後に引っこんだ。『サンクチュアリ管理事務所』と書かれたドアが閉まった。  私は廊下を歩いていった。つきあたりのエレベーターホールを曲がって、出口に向かう。通路のガラス越しに、サンクチュアリの緑の木々が見えた。内部の水蒸気で、ガラスの表面がうっすらと曇っている。  何気なく見ていると、つつつーっとその表面に水滴の筋が縦に走った。次に、横に線が走る。まるで、見えない一本の指が、ガラスを|撫《な》ぜているようだ。筋は、震えながら形をなしていく。線が増えるごとに、水滴が、たらたらと滴り落ちる。  ぎくしゃくした線が交差し、|撥《は》ねあがる。何かの文字のようだ。四角ばった線が、ひとつの形に|綴《つづ》られていく。ガラスの表面を見つめる私の全身に、鳥肌が立ってきた。 『蟲』  震える文字は、そう書かれていた。  私は、悲鳴をあげそうになるのを必死でこらえた。もういい加減にして、と叫びたくなった。  その不気味な文字は、私が凝視するうちに、新しい水蒸気に覆われて跡形もなく消えていった。  私は、|喘《あえ》ぐように息をした。また、倒れてしまうかもしれないと思った。  隣をOLたちが、笑いながら通り過ぎていく。ガラスの表面は、何事もなかったかのようにうっすら曇っている。  目の錯覚だ。ガラスに水が滴っただけだ。  私は自分にそういい聞かすと、サンクチュアリから顔を背けて歩きだした。  玄関の回転ドアの向こうでは、雨はまだしめやかに降り続いていた。     十 章  |闇《やみ》の奥から電話の音が聞こえた。私は、うっすらと目を開けた。寝室のドアを隔てて、電話は鳴り続けている。隣の純一は、背中を丸めてぐっすりと眠っていた。  枕元の時計が二時を指している。誰だろう、こんな時間に。  私は手探りでドアに向かった。  受話器を取って耳にあてたとたん、加奈のかすれ声が聞こえた。 「ごめんなさい、めぐみ。こんなに夜遅く……」 「どうしたの?」  しばし沈黙があった。そして大きく息を吸う音。様子がおかしい。眠気が波のように引いていく。  私は、もう一度、どうしたのかと聞いた。  なんでもない、と加奈は答えた。ただ、ちょっと話したくなったのだと。スタジオに遅くまでいると、人恋しくなったのだ。あなたはそんな時、夫がいるからいい、どんなに夜遅くても話相手がいるのだからと、|羨《うらや》みの混じった声で|呟《つぶや》いた。酔っているようでもない。加奈は疲れた声で|喋《しゃべ》り続けた。 「今日、私、大変だったの。インタビューの仕事で、機材をセットして待っていたら、急に相手が具合が悪くなったとかで来れなくなって、仕事はパア。帰りの車は混んでいて、ちっとも前に進まないし、カメラを落として、フレームにヒビが入っちゃうし」  加奈は、めったに仕事の愚痴はこぼさない。こぼすにしても、失敗談をおもしろおかしく語るくらいで、こんなにくどくどと話し続けることはなかった。私は不安になってきた。 「ねえ、加奈、大丈夫?」  加奈は、電話の向こうで乾いた笑い声をあげた。 「大丈夫、大丈夫。彼が他の女と寝ていたって大丈夫。そのことで大喧嘩しても大丈夫、男が出ていっても大丈夫」  私は受話器を握りしめた。浅川が原因だったのか。加奈は、わざと茶化していった。 「カメラバッグ抱えて、ふてくされてスタジオに帰ったらさ、あいつ、他の女を連れこんで、いちゃいちゃしていたってわけ。とんだ浮気者だよね。この私のスタジオで、よくもあんなことができるもの……」  彼女の声が震えた。  私は加奈の名を呼んだ。返事はなかった。すすり泣きが|洩《も》れてきた。闇に響く泣き声は、私の心の中にこだまして、強く揺さぶった。なぐさめの言葉を探したが、どれも|虚《うつ》ろに思えた。泣き声を聞いているうちに、次第に、それが彼女の中から流れてくるのか、私の内から|溢《あふ》れてくるのか、わからなくなってきた。私まで一緒に泣きたくなってくる。 「加奈、今、行くから。そこにいるのよ、わかった?」  いいのに、と加奈は、しゃくりあげながらいった。私は「行くから」と、押しつけるようにいい放って、電話を切った。  寝室に走りこんで電気をつけると、純一を起こした。彼は、|煩《うるさ》そうに目を開けた。 「加奈の様子がおかしいの」  すぐには加奈が誰なのか、わからないようだった。私が大学時代の友達の加奈だと説明したので、ようやく思いだして、ああ、あの背の高い子、と眠そうな声をもらした。 「泣きながら電話をかけてきたのだけど、様子がおかしいの。スタジオまで、車で連れてって」  純一は眉をひそめると、何もいわずに|頷《うなず》いた。そして、ベッドから上半身をむくりと起こした。  スタジオの入口は、二センチほど開いていた。ドアの|隙《すき》|間《ま》に、煙草の吸殻が落ちている。|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で、吸いさしのキャメルを投げ捨てて出ていく浅川の姿が容易に想像できた。私は小さくノックして、部屋に入っていった。  部屋は|廃《はい》|墟《きょ》と化していた。一か月ほど前に私が立ち寄った時、この部屋には幸せが宿っていた。しかし今、床には写真が散らばり、|椅子《いす》は転び、コップや酒がこぼれている。あの日の輝きは失せていた。  乱雑な部屋の隅に、加奈が放心したように|佇《たたず》んでいた。壁に背中をあずけて、|両膝《りょうひざ》を立てて座っている。私は彼女の名を呼んで駆け寄った。加奈は力なく|微笑《ほ ほ え》んだ。 「ごめんね」  がらがらした老女の声だった。恋に生き生きしていた加奈は、もういなかった。そこに座っているのは、愛の|葛《かっ》|藤《とう》に疲れ果てた一人の女だった。  彼女は虚ろな声で呟いた。 「最近、なんとなく勘づいてはいたの。それがもとでちょくちょく|諍《いさか》いはしていたのよ。だけど、ついこの前、あの女とは別れたなんていったのに……。とんでもない嘘つきだわ」  そんな男と早く別れて、よかったのだ、となぐさめると、加奈は頷いた。泣き|腫《は》らした目は赤く濁っていた。 「自分が情けない、あんな男に夢中になっていたなんて」  加奈は自分の腕の中に頭を埋めた。私は彼女の横に座ると、肩に手を回した。  どういっていいかわからなかった。彼女の悲しみが、波のように私の心に押し寄せてきていた。こんなことは、はじめてだった。普通なら、いくら親友が悲しんでいようと、心のどこかに冷静な部分が残っていて、相手を離れたところから見ていられた。だから、なぐさめの言葉も簡単に見つかったのだ。  しかし、今、私の心は、彼女の悲しみで満たされていた。まるで彼女の心にはいりきらない悲しみを、私の心を差し出して受けとめているようだった。  涙すら浮かびそうになって、私は驚いた。もらい泣きをする年頃は、とうに過ぎているのに。私は気を取り直していった。 「もう遅いわ、加奈。眠ったほうがいいわ」  自分はここで寝るからいいのだと、加奈は投げやりな口調で|応《こた》えた。 「だめよ。寝る場所なんかないじゃない。ね、帰って寝たほうがいいよ。純一の車で送っていくから」 「純一さん?」  加奈は顔をあげた。そして、戸口で手持ち無沙汰に立っている純一に目を止めた。 「純一さんまで来てくれたの?」 「ええ、車を運転してもらったのよ」  加奈は背筋を伸ばした。そして、無理に笑って、純一に声をかけた。 「明日の仕事もあるのに、ごめんなさい。純一さんにまで迷惑をかけちゃって」  純一は、部屋に一歩、足を踏みこんだ。 「僕のことはいいんです。それより家まで送りますよ。帰りましょう」  私は加奈の肩を揺すって、そうしようと勧めた。彼女は、部屋の中を見回して、首を横に振った。そして、自分は部屋の中を片づけて帰るからといった。 「明日、こんなひどいありさまで、一日をはじめたくないものね。また男に裏切られたことを思いだしちゃう」  加奈は唇の端を曲げて笑った。 「じゃあ手伝うわ」 「いいよ。ほんとに、もう帰って」 「そんなこと、できるわけないじゃない」  私は立ちあがると、床のコップや写真を拾いはじめた。逆さにして振り回されたような部屋には、加奈の逆上した様子がそのまま映しだされていた。落ちた物のひとつひとつが、彼女の|剥《む》き|出《だ》しの精神状態の産物だった。その中に割れた石の破片があった。拾いあげると、片方の面に模様がついていた。  純一が拾ってきた石の器だった。  加奈が、あっ、と声を|洩《も》らした。 「ごめんなさい、私がやったのよ。もう、何がなんだかわからなくなって、そこら中のもの、投げつけたものだから……。どうしよう、大切なものだったのに……」  おろおろした声で謝る加奈に、私は、どうせ拾ったものなのだから気にしないで、といった。純一も横から、たいしたことではないと口添えしてくれたので、加奈もほっとしたようだった。  青灰色の石の破片は、スタジオの明るい照明を受けて、鈍い色を放っている。私は石のかけらを集めはじめた。表面に刻まれていた模様が、ばらばらになったジグゾーパズルの断片に見えた。それは、やはり木の模様だった。ぎざぎざした葉。曲がった枝。 |橘《たちばな》の木に似ている、と思い、私の動きが止まった。  |啓《けい》|蟄《ちつ》の日に、純一が家に持ちこんできた石の器。その模様が、橘に似ているというのは、どういうことだろうか。しかも、この石の器が来てから、おかしなことが起きるようになったのではなかったか。  虫、祖母、橘……石の器。  何か関係があるのだろうか?  だが、何も思いつかなかった。  私は考えるのは止めて、石の破片をごみ箱に投げいれた。がらがらっ。石のぶつかり合う音が響いた。この石が割れたことで、一連の不可思議なことも終わってくれればいいのに、と私は|密《ひそ》かに思った。  三人で片づけたので、すぐにスタジオはきれいになった。部屋の中はがらんとして、私がこの前に来た時よりも、物が少なくなった気がした。浅川が自分のものを持ち去ったのか、二人の関係が失われたぶん、部屋が寂しく見えるのか、わからなかった。  加奈は部屋の中を眺めていった。 「これでおしまいか」  それは、片付けのこととも、浅川との関係のこととも取れるいい方だった。  彼女は大きく肩で息をすると、私と純一に向き直った。 「ありがとう。ほんとうに」  私は、彼女の言葉を遮るように、その肩を|叩《たた》いた。純一も横から、気にしないでくださいといい添えた。  加奈の顔が泣きそうに|歪《ゆが》み、呟きが洩れた。 「優しいのね……」  加奈を家に送って帰途につくと、もう四時を回っていた。空の端が薄明るくなっている。夜を引き裂く赤紫色の朝焼けが、でこぼこしたビルの稜線にかぶさる。  |欠伸《あくび》をしながら運転している純一に、私はいった。 「ありがとう」  純一が怪訝な顔をした。加奈のことで、朝までつきあってくれたことに対してだというと、彼はにっこりした。 「当然だよ。めぐみの友達なんだもの」  通り過ぎる車のヘッドライトに、彼の横顔が浮かびあがった。髪の毛が乱れている。慌てて着てきたポロシャツの襟が|捩《よじ》れていた。私は微笑んで、彼の襟元を直した。そして、その手を彼の膝に置いた。  自分から彼に触れるのは、流産の日以来、はじめてだった。彼に触れようとするたびに、虫のイメージが浮かんできて、気持ちが|萎《な》えるのだ。しかし、今は彼を避ける気持ちは消えていた。  私の|掌《てのひら》を通して、彼の温もりが伝わってくる。自分が優しい気分になるのを覚えた。  運転している時に、彼の膝に手を置くのは、私の癖だった。彼は片手で私の手を握り返してくれる。そして私たちは、満ち足りた気分でドライブを続けたものだ。  私は期待をこめた目で彼の顔を見た。純一は、前を向いたまま運転を続けている。その顔は穏やかで、道路の|遥《はる》か遠くを眺めている。何を考えているのだろう。膝の上に私の手が乗っていることすら気がつかない。私は、そっと手を引いた。  私を抱きしめてくれるのは、夜明け前の冷気だけだった。  薄明の中に、おばあちゃんが浮かんでいた。もう夜は消えていた。橘の木も、行列の人々もいない。おばあちゃんだけが、ゆらりゆらりと浮かんでいる。しかし、その姿すら、あちこちにぼろぼろと穴があき、今にも崩れていこうとしている。  おばあちゃんの|皺《しわ》だらけの口が開いた。  |喉《のど》の奥から声がした。  虫が|喰《く》う。  低い男の声だった。 「新宿、新宿。終点です。どなたさまもお忘れ物のないように、お降りください」  電車のアナウンスに、私は、はっと顔をあげた。まわりの人が立ちあがり、ドアから外に出ていった。私も、ぼんやりとした頭を振りながら立ちあがった。  またおかしな夢を見てしまった。  この頃は、夜、夢を見ない。その代わり、夢は、昼間の居眠りに割り込んでくる。それは決まって、虫送りに関係した夢だ。  虫送り……『蟲』。サンクチュアリで見た、ガラスの上の文字を思いだした。  まわりの物すべてが、私に何かを語りかけているようだ。しかし、何を?  考えてもわからなかった。喉の奥に、魚の小骨がひっかかった気分だ。 「ちょっとお客さん」  後から声をかけられた。振り返ると、電車のドアの間から、車掌が傘を振っていた。私の忘れ物だった。慌てて引き返すと、傘を受け取った。  新宿駅東口に出ると、雨はほとんどあがっていた。私は、それでも傘をさして、新宿三丁目のほうに向かって歩きだした。今日、外出したのは、退院の快気祝いの品を選ぶためだった。数はそれほど多くはなかったが、入院中や、退院してからも、お見舞いに来てくれた|親《しん》|戚《せき》や友人がいた。快気祝いの品を何にしようかと迷ったが、結局、百貨店にでかけていって選ぶのがいちばんだと思ったのだ。  伊勢丹百貨店が見えてきた。三月、加奈と一緒に、ここの美術館に展覧会を見に来たのだった。あの時の加奈は、|眩《まぶ》しいほどに輝いていた。五日前の、泣き崩れて、絶望した彼女とは別人のようだった。精神的な打撃が、どれほど人を変えてしまうことか。あれから何度か、加奈のスタジオと家に電話をかけたが、いつも留守番電話になっていた。気がかりだったが、今はそっとしておいたほうがいいのかもしれない、と思っていた。 「お願いします」  傘の下から白い腕が滑りこんできて、黄色いビラが差しだされた。私は、何気なく受け取って、傘を上げた。 「あら」  以前、家にテレビを配達してくれた青年が立っていた。髪を金髪に染めた、カヤという男だった。|色《いろ》|褪《あ》せたジーンズに、袖をまくりあげた白い綿のシャツ。首には、先日見たと同じ、白い水牛の角のペンダント。電気屋の制服を脱いだ彼は、ますますその女性的な顔が際立ち、中性的な魅力をかもしだしていた。  彼も私のことを覚えていたらしい。金色の髪に雨粒を宿らせて、笑みを浮かべた。 「先日はどうも」  私も、奇遇に驚きながら会釈した。彼はビラを指さしていった。 「僕たちの劇団の公演なんです。ぜひ、観に来て……」  カヤの指が、私の手の甲にあたった。その瞬間、言葉がかき消えた。カヤの顔色が、さっと変わった。目は私に釘付けになっている。その|瞳《ひとみ》が大きく見開かれた。 「どうかしたの?」  私は心配になって聞いた。彼は、後ずさった。背中が他の通行人にぶつかったが、まるで気がつかないように、私の顔を凝視している。その表情には見覚えがあった。家で、あの石の器を見た時も、彼はこんな|脅《おび》えた顔をしていた。 ——もう大丈夫です——  カヤのいった、不思議な言葉を思いだした。あの時、彼は、何が大丈夫だといったのだろう。その後に我が家に起こったことは、大丈夫とは程遠いことばかりだった。彼は何か知っているのだろうか。 「ねえ、あなた……」  私は、カヤの腕を取ろうとした。彼は悲鳴のような声を洩らして走りだした。  一緒にビラを配っていた男が、驚いたように声をかけた。 「おいっ、カヤッ」  しかし彼は振り返りもせずに、人混みに消えた。  浮世絵入りのTシャツを着た仲間の男が、きょとんとして私を見た。 「どうしたんですか、あいつ」  私は首を|傾《かし》げた。そして、私の顔を見て、突然、逃げていったのだと答えた。 「ははあ、またか」  男は、にやりとした。 「あいつ、霊能者なんですよ。道を歩いていて、霊につけられたから逃げてきたとか、部屋に入ったとたん、悪い霊がいるって騒ぎだしたり。変なものが見えるんだ。お姉さんにも、何か見たんだな、こりゃ。それにしても、仕事を放りだして逃げだしたくらいだから、よほどすごいものだったのかもしれないな」 「私に何が見えたっていうの?」  おもしろがっているような口調に、私は気分を害していった。男は、まだにやにやと私の全身を眺めながら、自分には、きれいな女の人しか見えないから安心してください、といった。彼の想像の中で、自分が裸にされたのがわかった。下品な男だ。私は、むっとした顔で立ち去ろうとした。後から、男の声が追ってきた。 「アルバトロスの公演、よろしくねっ」  私はビラをくしゃくしゃに丸めて、ごみ箱に突っこむと、百貨店にはいっていった。  買物は、|恰《かっ》|好《こう》の気分転換になる。快気祝いの品を選んでいるうちに、カヤの不可解な行動も忘れることができた。結局、|佃煮《つくだに》セットを選び、発送も頼むと、私は百貨店の中をぶらついた。初夏に向けてのタイトな白のワンピースと、それに合う白いサンダルを買って、足取りも軽くマンションに戻ると、ロビーの郵便受けに、大きな封筒が入っていた。  差し出し人は、吉見沢加奈。私は驚いて、その場で封筒を開いた。  中には、大きく引き延ばした写真が入っていた。あの石の器の写真だった。はらりと手紙がこぼれ落ちた。私は床から拾いあげると、手紙を読んだ。 『この間は、ひどいところを見せちゃって。今、思えば、お恥ずかしい限りです。めぐみと純一さんの優しさ、身にしみました。どうもありがとう。  あの石、割っちゃって、ごめんなさい。幸い、その前に約束の写真は撮っていました。表面の模様、やっぱり文字みたいだけど、めぐみはどう思う? 本物が壊れてしまったので、今さらわかっても、何にもならないかもしれないけど、一応、写真、お送りします。  私は、明日からカナダへ出張。しばらく、すべてを忘れて、仕事に没頭したいと思います。男は消えても、仕事は残る。頑張るゾ。 [#地から2字上げ]加奈 P.S. たいしたことじゃないけど、この前の夜、あなたたち、素敵なカップルだと羨ましくなっちゃいました。前は、もっとケンカ口調の時が多かったのに、まるくなったというか……、変わったなと思いました。あんな優しい旦那様なら、私も見つけたいものです。羨ましい!』  変わったな……?  私は、エレベーターに乗って、五階のボタンを押した。  やはり純一は変わったのだ。私だけの思いこみではなかった。最後通牒を突きつけられた気がした。  私は手紙を持ったまま、唇を|噛《か》んだ。そして手元の写真に視線を落とした。石の表面が拡大されて映っている。斜めから照明をあてた写真は、光の強さを変えて四枚撮ってあった。一枚、一枚、めくっていく。確かに何かの文字のようだ。  エレベーターのドアが開いた。私は外にでた。外廊下の光の中に、四枚目の写真が浮かびあがった。 『常世蟲』  写真には、その文字が薄く映っていた。  私は立ちどまった。  普通の「虫」の字ではない、古い文字の「蟲」。サンクチュアリのガラスに記された文字と同じ字。  常世蟲。蟲。  夢の声が|蘇《よみがえ》った。 ——虫が喰う—— 『変わったなと思いました。』  加奈の手紙の文字が見えた。  純一は変わった。  彼が変わったのは、啓蟄の日。この石の器を拾ってからだ。そして私は、虫送りの夢を見るようになった。  虫送り。虫。蟲。常世蟲。常世。常世国。非時の香の木の実の国。橘の実る国。橘。  しりとり遊びのように、関連する言葉が頭を巡った。どこかに、この言葉をつなぐ糸があるはずだ。うまくつなげば、ひとつの意味が浮かびあがってくる。私を悩ましているものが、姿を表してくるのではないだろうか。  私は、家のドアの前で、じっと写真を見つめた。 「常世蟲」。そのぼやけた文字が、私を|嘲《あざ》|笑《わら》うかのように震えていた。     十一章  蛍光灯の青白い照明の下に、本棚が整然と並んでいる。私は古い本の匂いに包まれて、棚の間の狭い通路を歩いていた。雨の日だけあって、図書館は人影が少なかった。建物の中に侵入してくる絶え間ない雨音を聴きながら、石像のように静かに|佇《たたず》む人々が、本を選んでいる。  百科辞典がずらりと並ぶ棚の前に来て、私は立ち止まった。「ト」の項の辞典を引きだして、ページをめくる。『とこぶし常節』『とこやま床山』。「とこ」の項目を追っていた私の視線が止まった。『とこよのくに常世国』という文字があった。 『海の彼方にあるという、死者や祖霊の住む国。記紀には、|垂《すい》|仁《にん》天皇は、食べると不老不死となるという非時の香の木の実(|橘《たちばな》のことといわれる)を取りに、|田《た》|道《じ》|間《ま》|守《もり》を常世国に遣わしたことが記されている。』  夢の中で見た、橘の木がまざまざと頭に浮かんできた。夜の中に、両手の指を広げるようにして立っていた橘の木。その向こうに広がる草原……。  橘の木の実のなる国。夢の中のあの草原は、常世国だというのだろうか。  私は頭を振って、また辞典に目を落とした。 『永遠の命と|豊穣《ほうじょう》なる楽土。それが常世国の基本的イメージとなっている。』  常世国に関する記載は、それで終っていた。次の項目に目を|遣《や》って、一瞬、体を硬くした。 『とこよのむし常世虫』があったのだ。私は、こわごわ読みはじめた。 『古代の俗信仰である常世神の一種。日本書紀、|皇極《こうぎょく》三年(六四四年)の条に、以下の記述がある。  秋七月、東国、富士川のほとりに住む人物、|大《おお》|生《ふ》|部《べの》|多《おお》が、常世神と称して虫を祭る。この虫を信じれば、貧しき者は富み、老いた者は、若返るといわれて、民衆の間に大流行した。人々は家財を投げだして、常世虫を祭り、歌い舞い狂ったという。』  富士川のほとり。純一が石の器を拾った場所だ。本を持つ手の指先に、いやな感覚が走った。 『常世虫は、常に橘の樹に生じる。長さ、四寸あまり。太さは親指ほど。色は緑で黒い|斑《まだら》があり、蚕によく似た虫だった。』  緑で黒い斑。橘の木の下で、伸びあがっていたあの虫と同じだ。しかし四寸どころではない。私の見た虫は、もっと大きかった。  それにしても話が符合しすぎている。読み進むのが怖くなった。だが読むことをやめることは、もうできなかった。私の目は、次の行に釘付けになっていた。 『この事態を憂慮した地方豪族、|秦河勝《はたのかわかつ》により、大生部多は打ち懲らしめられ、騒ぎはおさまった。』  秦河勝。  遠い昔、その名を聞いた覚えがあった。同じ名字だから、覚えていたのだろうか。  私は百科辞典をもとに戻すと、棚に目を走らせた。『古代人名辞典』という本があった。もどかしい思いで「ハ」の項目をめくる。秦河勝の記事はすぐに見つかった。 『秦氏は、養蚕に関する専門知識を独占して栄えた渡来系の地方豪族。本拠地は、|山背国《やましろのくに》(今の京都)の|太秦《うずまさ》。秦河勝は、この秦氏の七世紀後半における大首長。聖徳太子の近侍者。聖徳太子より賜った仏像を安置するために、京都、太秦に|広隆寺《こうりゅうじ》を建立する。』  太秦は、祖母の家のあった場所だ。  私は本棚に背をもたせかけて、じっと宙を見つめた。これまでのことが、ひとつひとつ頭に浮かんできた。  純一が富士川のほとりで『常世蟲』と書かれた、石の器を拾った日、私は祖母の声を聞いたのだ。  虫が起きた、と。  その時、今まで忘れていたことが、頭に浮かんだ。  新幹線の中で、純一は、おかしな夢を見たといっていた。十センチメートルほどの虫が胸の中に頭をつっこもうとしていた、という話だった。十センチメートル。昔の尺度に換算すれば、約四寸ではないか。  あの石の器の中に、常世虫がいたとしたら、どうだろう。そして十三世紀の時を経て、虫が起きたのだ。純一の体内にもぐりこんだ四寸の虫は、成長して、彼の体ほどの大きさになる。とすると、私が橘の木の下で見た虫は、幻覚ではないかもしれない。彼の中に、実際に虫が住んでいるのかもしれない。  背中から、氷のマントをかけられたようにぞくぞくとした。心臓が大きく打っているのがわかる。額や|脇《わき》に、じっとりと汗が浮かんできた。  まさか、そんなことはあるはずがない。  あの虫が実在して、寄生虫のように純一の体内に巣くっているというのなら、宿主である彼が平気でいられるはずはない。あんな大きな虫を抱えていたら、病気にでもなっているはずだ。でも純一は、ぴんぴんしているではないか。  しかし、純一は変わってしまった。  意地悪い声が心の中で|囁《ささや》いた。  彼はもう、以前とは違う。  虫が体内にいることの影響が、彼の精神に出てきたのだ。梅毒のようなものだ。脳が病菌に冒されると、精神の異常をきたす。  心臓が|押《お》し|潰《つぶ》された気がした。  違う。純一は正常だ。ただ、優しくなっただけじゃないか。  だけど、あれは以前の純一ではない。虫に食われたのだ。そして、彼の内部は崩壊して、精神が変容してしまった。彼の変化は、虫を抱えているせいではないか……。  まさか、あまりに突拍子もない考えだ。彼の中の虫なんて存在しないのだ。  思考が、破れた紙きれのように、散り散りになって舞っている。なんとかそれをつなぎ合わせようとするのだが、考えはまとまらない。足から力が抜けていく。私はうずくまり、両腕のなかに頭を埋めた。  常世虫。それがあの虫の正体なのだろうか。七世紀にいた虫が、どうして現代に現れたのだ。しかも、なぜ、よりによって純一と私の前に……。  何かが、私の脇腹にあたった。顔をあげると、むっつりした顔の男が、うずくまった私の体を|膝《ひざ》で押していた。蛍光灯の光の中で、男の顔は鉛色に見えた。無言のまま、迷惑そうに私の頭上の棚を指さしている。  私は立ちあがって、場所を譲った。男は、本棚に手を伸ばした。私は古代人名辞典を棚に返すと、図書館の出口へと向かった。  外は雨に煙っていた。図書館の前には、車がずらりと止まっている。屋根やボンネットの上で、無数の雨粒が白く|撥《は》ねあがっている。私は傘を開いて、玄関前の階段をおりていった。アスファルトの地面に足がついた時、靴のすぐ前を、焦茶色の|蚯蚓《みみず》が|這《は》っているのが目にはいった。鈍く光る胴を震わせて、全身を伸縮させながら進んでいる。  純一の体から出てきた虫を思いだした。あの虫も緑色に|濡《ぬ》れた体を|蠢《うごめ》かして、こうして這っていたのだ。  蚯蚓は、私の前を時間をかけて、じわりじわりと横ぎっていく。そのくねるような動きが「蟲」という文字に見えてきた。顔から血の気が引いていくのがわかった。  私は、蚯蚓のまわりを大きく|迂《う》|回《かい》すると、雨の中に走りだした。  その夜、純一は、細い体をかがめるようにして、のそりと家にはいってきた。私は台所に立って、背広を脱ぎ、ネクタイをはずす夫の姿を見ていた。少し太った|頬《ほお》には、穏やかな表情が浮かんでいる。下腹部のあたりの肉が緩んでいる。以前は、もっと引き締まった体をしていたはずだ。彼は緩慢な動作で、脱いだ背広の|皺《しわ》を伸ばしている。  この人の体の中に、ほんとうに常世虫がいるのだろうか。青白い皮膚の下で、あの緑色の虫が蠢いているのだろうか。  純一が私の視線に気がついて聞いた。 「どうかしたの」  私は頭を横に振ると、慌てて|茄《な》|子《す》を洗いはじめた。  純一は寝室にはいって服を着替えると、また居間に戻り、テレビのスイッチをつけた。画面にクイズ番組が映しだされた。司会者とゲストが笑いながら、回答のことでいいあっている。私は食事の支度をしながら、夫をそっと|窺《うかが》った。  彼は、|口《くち》|許《もと》にうっすらと笑みを浮かべて、テレビに見いっていた。最近の純一は口数が少ない。何を考えているのかわからない。  彼の体に虫がいるのならば、それも当然かもしれない。彼の考えも、虫の思考に影響されてしまっているのだろうから。今、ソファに座っているのは、私の夫ではなく、大きな虫といってもいいかも……。 「あっ」  私は小さな声を|洩《も》らした。指から血が|滲《にじ》んでいた。包丁が滑ったのだ。  水で血を洗い流しながら、また純一を見た。彼に私の声は聞こえなかったようだ。身動きもしないで、テレビに目を注いでいた。  食事の用意ができた。刺身とポテトサラダ。それに茄子と豚肉の|炒《いた》め物だ。私たちは黙って食べはじめた。  くちゃくちゃくちゃ。彼が御飯を噛む音が耳に触る。うつむき加減に、ぼんやりとした目つきで食べ続ける純一。規則正しく動く、細い|顎《あご》。歯の間で、唾液が糸を引いている。その動作のひとつひとつが、すべて虫を連想させる。  私は叫びだしたくなった。彼に詰め寄って、虫がいるのではないか、と問い|質《ただ》したい。|箸《はし》を持つ手が震えそうになった。  しかし、その爆発しそうな気持ちは、沸点寸前になって、ふっと消えた。感情が、砂に吸いこまれる水のように引いていった。 「今日、図書館にいったわ」  我ながら、自分の冷静な声に驚きながら口を開いた。 「ああ、そう」  さくさくさく。純一は、茄子を噛みながら|頷《うなず》く。 「純一の拾ってきた石の器のことを調べに行ったの。加奈が撮ってくれた写真を見たら、表面に『常世蟲』って文字が彫られていたの。それが気になったから」 「ふぅん」  彼は頭をぐねりと曲げるようにして|喉《のど》を鳴らすと、口の中の食物を|呑《の》みこんだ。 「そしたら、びっくりすることがわかったの」  私は何も考えないでいられるように、早口で話しだした。 「その虫は、実際にいたらしいの。七世紀に富士川のほとりで、常世虫という虫が、神様として祭られたことがあったんですって」  純一は、へえ、といって|微笑《ほ ほ え》んだ。 「やっぱり古いものだったんだ」  再び|苛《いら》|立《だ》ちが波のように沸き立った。石の器の古さをいいたいのではないのだ。どうしてわからないのだろう。それでも私は落ち着こうと努めた。 「あなた、新幹線で虫の夢を見たといっていたでしょ」  彼は、そんなこと、いったかなぁと首を|傾《かし》げた。私は、いったのだと、押し殺した声で告げた。純一は困ったように答えた。 「覚えてないけど、いったとして、それがどうしたんだ?」  常世虫は、純一の体の中にいるのだ。  私は、心の中で怒鳴った。声に出していわなかったのは、ぎりぎりのところで理性が仲裁にはいったからだった。  馬鹿げている。  私の理性は、きっぱりといった。  おまえの聞いた祖母の声も、虫送りの夢も、純一の体から出てきた虫も、すべては思いこみ。疲れているのだ、幻覚だ。それで一笑に付されるのがおちだ。  私はため息をついて、|呟《つぶや》いた。 「なんでもないわ」  純一は、わけがわからないという顔をして、またテレビに視線を戻した。番組が変わって『特別討論会・自衛隊海外派遣を考える』という文字が映しだされていた。  私は驚いて何のことかと聞いた。 「中国とインドの戦争だよ。国連がインドを支持して、平和維持軍の派遣が決まっただろ。それで自衛隊も行くことになったのさ」  テレビでは、背広姿の男たちが、難しそうな顔つきで日本の役割だとか、世界の風評だとかについて話しあっていた。純一はポテトサラダを箸で挟みながらいった。 「やめればいいのにな。平和維持軍の派遣だなんて。結局は、ますます戦争を複雑にさせるだけじゃないか」  私は彼を見つめた。  武力には、武力で鎮圧を。  ついこの前まで、そういっていたのは、純一だった。私が、そのことをいうと、彼は、きょとんとした顔で、そうだったっけと聞き返した。今日の食事で、彼が自分の言葉を覚えてなかったのは、これで二回目だ。私は、再び「いったのよ」と繰り返した。  純一は唇を突きだすようにして考えていたが、やはり思いだせないようだった。 「ま、そうだとしても、今は違う考えだよ。自衛隊が、他の国にまでしゃしゃり出ていくことはないよ。静かに自分たちの平和を守っていればいい。それが世界平和につながるんだから」  こんなに人の意見が変わるものなのだろうか。私は純一から目を|逸《そ》らせた。彼を見つめ続けていると、再び巨大な虫が這い出してきそうな気がした。  やがて純一は、空になった茶碗を置くと、またソファに戻って、ごろりと横になった。  風呂にはいったらどうかと声をかけたが、生返事が返ってきただけだった。二度ほど勧めても、彼が動きそうもないので放っておくことにした。私は手早く後片付けをすませて、先に風呂にはいった。  風呂からあがって純一を見ると、やはりさっきと同じ|恰《かっ》|好《こう》でテレビを見ていた。鼻の頭が、テレビの光を反射させて、てらてらしている。白い喉仏がゆっくりと上下していた。私はもう一度、入浴するように声をかけて、寝室に行った。彼が風呂にはいろうが、はいるまいが、どうでもいいことだと思った。  ベッド脇の鏡台の前で、化粧水を手にする。頬骨の高い顔が、ぼうっと浮かびあがった。自慢の肉感的な唇。濃い|眉《まゆ》。一瞬、夢の中の祖母と向きあっているような錯覚を覚えた。  私は真綿を化粧水に浸して、顔に|叩《たた》きつけた。ふと、鏡台の上に置いた写真が目に飛びこんできた。新婚の頃、二人で行った日光で撮った写真だった。私と彼が腕を組んで笑っている。純一は、ひょうきんに両手でVサインを出している。彼が、そんなに子供じみたポーズをとるのは珍しかった。私はカメラを意識して、挑むような顔つきをしていた。  写真の中にいる二人が、知らないカップルのように見える。かつて自分たちが、こんなに楽しげな顔をしていたことが信じられなかった。いったい私たちはどうしてしまったのだろう。  私は、薄い黄色のクリームを指ですくった。鏡に映った部屋のドアの間から、テレビに向かう純一の姿が見えた。  私たちの間を埋めていた愛情は、今や希薄になっていた。このコンクリートの密室の中で、二人して愛という名の空気をほとんど吸い尽くしてしまったのだ。  クリームをゆっくりと顔に広げていく。不思議と悲しみはなかった。心が、つるつるとしたガラスに変わっていた。すべての感情が、ガラスに落ちた水滴のように、私の心から滑り落ちていく。ガラスの向こうにいるのは彼。私たちは、冷たくて硬いガラスの板によって分かたれているのだ。  私の手の動きが止まった。  それでいいのだろうか。私たちは夫婦ではないか。  鏡に映る彼をもう一度見た。ソファに座って、テレビを漫然と見ている、鏡の世界の夫。その姿がとても孤独に見えて、目に涙が滲みそうになった。私は両手で顔を強くこすった。このままではいけない。二人の気持ちは、離れてしまう一方だ。私は、思いきってドレッサーから離れると、夫のいる居間に|戻《もど》っていった。  彼の横に座って、手をその膝に置く。彼は微笑んで、私の手の上に自分の手を重ねた。私は彼の肩に頭を乗せた。  夫の体内は、人間の肉で詰まっているのだ。薄緑色のぬめぬめした虫が、内部にいるわけはない。自分自身にいいきかせた。  彼は、私が急に体を寄せていっても、当然のような顔をしてテレビに目を注いでいる。私がずっと彼を避けていたことにも気がついているかどうかわからなかった。ましてや、私が逃げ出したい気持ちを押し殺しながら、肩に頭を乗せているとは想像もつかないだろう。  テレビは野球番組を映しだしていた。私たちは手を握りあって、ソファに並んで座っている。結婚以来、何百夜と過ごした夜と、何ひとつ変わりはなかった。|全《すべ》て、気の迷いなのだ。彼が変わったということも、私たちの愛情が希薄になったということも。  以前、彼はテレビを見ながら、よく番組について講釈したものだった。私は、それに意見をさし挟む。そして夜は更けていった。今は、私たちの間に会話はない。  いけない、そんな風に考えては。  私は会話のきっかけを探して、テレビに目を|遣《や》った。あいにく野球は、スポーツ番組の中でも、最も私の興味を|惹《ひ》かないものだった。他人がボールを打ったり追いかけたりするのを見て、どこが楽しいのかと思う。何度も、その件で純一といい合いになった。彼は最後には「しょせん女にはゲームの|醍《だい》|醐《ご》|味《み》がわからないんだ」と、男女の性差のせいにした。それでまた、ひとくさり|喧《けん》|嘩《か》したものだ。  しかし今は、そんな喧嘩を蒸し返す気力も|湧《わ》かなかった。私はつまらない気分で、ふと視線を下に向けた。彼の腹がゆっくりと上下していた。胸から下腹部にかけて波だっている。腹の下を、巨大な虫が動いているのだ。私はごくりとつばを呑みこんだ。肩が|痙《けい》|攣《れん》するように震えた。 「どうしたの」  彼が私の背中に手をかけた。肩に虫がとりついた気がした。私は肩を揺すって、|弾《はじ》けるように立ちあがった。純一は|怪《け》|訝《げん》そうに私を見た。私は彼を見返した。  純一の体が虫の姿とだぶってくる。ソファに長々と体を横たえる薄緑色の虫。  もうだめだと思った。抑えようとしても、抑えきれない。 「あなた……虫がいるのよ」  私は、ゆっくりといった。舌がうまく回らない。 「さっきいったでしょ。七世紀に、富士川のほとりではやった虫。常世虫よ。あなたの体の中に、その虫がいるの」  純一は戸惑った顔で、「変なこというなよ」といった。口の端が少し上がっていた。妻のいいだした冗談に笑っていいのか、単に受け流していいのか、決めかねているというふうだった。その態度が私をかっとさせた。私は一気に|喋《しゃべ》りだした。 「私、見たのよ。新宿のスペーシアでよ。あなたの体から、大きな緑の虫が出てきたの。純一の体の中には虫が巣くっているのよ。その虫は、昼も夜も、あなたの体の中を這い回っているんだわっ」  私は叫んでいた。叫びながら、心の隅で、まるで、テレビの中で私そっくりの別の人間がわめいているようだと思った。そんな自分の冷静な部分を感じたくなくて、私はさらに怒鳴った。 「気持ち悪いのよ、ずっと。あなたの中の虫のことを思うと、いてもたってもいられないわ。その虫は、純一を食べているのよっ」  純一は立ちあがって、私に手を伸ばしてきた。 「めぐみ、いったいどうしたんだ」  私は彼の手を払った。 「私は正気よ」 「わかってるよ。だけど、興奮しすぎてるよ。ね、もう寝たほうがいいよ」  自分の中に虫がいるといわれたのに、怒りもしないし、否定もしない。興奮する妻を優しく気づかう夫の態度を貫き通す。私は、そのことに|愕《がく》|然《ぜん》とした。  やはり、昔の純一ではない。  私は、食卓の|椅子《いす》に腰をおろすと|呻《うめ》いた。 「こんなんじゃ、結婚生活、続けられないわ」  純一は、わけがわからないというように首を横に振った。 「いったい、どうしたんだ。なにがいけないんだよ」  どうしたんだ、とは。打ちのめされた気分だった。さっきから私のいっていることが、少しも通じていない。 「あなたには、わかってないんだわ」  私は呟いた。  純一は眉をひそめた。その顔に、途方に暮れた子供のような表情が浮かんだ。ふと以前の純一を|垣《かい》|間《ま》|見《み》た気がした。 「虫が体に巣くうようになってから、あなたは変わったのよ。あなた自身は気がついてないけど、私にはわかる」  自分でも驚くほど優しい声だった。私は、まだ彼を愛しているのだと思った。できることなら彼に抱きついて、みんな冗談だ、からかっただけだといってやりたかった。彼は手を伸ばせば、触れるほど近くにいた。そうするのは簡単なはずだった。しかし、今の私には、彼に触れる勇気すらないのだ。彼の中の虫に|脅《おび》えていた。虫が現実のものであろうとなかろうと、すでにそれは私の心の中に実在し、大きく成長していた。私と彼との間には、どうしようもない異質のものが横たわっていた。 「私……実家に帰るわ」  気がついた時には、こんな言葉が口から出ていた。純一は、一瞬、息を止めて、やがて、そうかと頷いた。 「そのほうがいいかもしれない。ゆっくり休んでくるといいよ」  そうすることは、私にとっていいのだと本心から思っているようだった。妻が実家に帰るといいだして、こうまで穏やかな顔をしていられるものだろうか。私は、彼の体を揺さぶって、その落ち着きを振り落としてやりたくなった。  しかし、それも無駄だろう。純一の全身からは、何ものにも動かされない空虚な静けさが漂っていた。それは、あの常世虫の青い目を思いださせた。深い湖のように静けさに満ちた目を。  私はそれ以上、純一と向かい合っていられなくなり、寝室に飛びこんだ。  ばたんっ、という大きな音が、私と彼の間を決定的に引き裂いた。     十二章  雨の中に、白い四階建てのビルが立っていた。雨粒を滴らす『ブティック・フロール』という看板が|侘《わび》しげに見える。  帰ってくるたびに思う。  ここは、本当に私の家なのだろうかと。  実家が新しいビルになったのは、私が東京で大学生活をはじめてからだった。ある時、帰省すると、それまでの木造モルタルの店舗が真新しいビルに変わっていた。店の奥にあった住まいは、その三、四階に移っていた。以来、このビルは、懐かしい家の後釜に座った、ふてぶてしい顔をした建物にしか見えない。  傘をバラの花に縁どられた傘立てに入れて、私は店の中に足を踏みいれた。白いリノリウムの床、模造大理石の壁や階段。小さなスポット照明が、店内に飾られたドレスを色鮮やかに浮きたたせている。あちこちに客の姿があり、店は、けっこうはやっているようだった。  奥のカウンターに座って帳簿を調べていた母が顔をあげた。「おいでやす」といいかけて私だと気がつくと、はちきれんばかりの声でいった。 「おかえり。えろ早う着いたんやな」  昼を過ぎたばかりだった。私は朝一番の新幹線に乗って、京都に戻ってきたのだった。  昨夜は、まんじりともしなかった。純一がベッドで寝返りをするたびに、私は身を硬くした。|暗《くら》|闇《やみ》に紛れて、彼の体から、薄緑色の虫が|這《は》い|出《だ》しそうな気がした。結婚以来、あれほど長く感じた夜はなかった。しかし、このモダンな店の中では、昨夜のことすべてが非現実的に思えた。  母が、せっつくように聞いた。 「どないしたんや、いったい。急に帰ってくるやなんて」  家を出る前にかけた電話では、ただ帰る、と告げただけだった。母に帰省の理由を何といえばいいのかと迷っていると、後から大きな声がした。 「いやぁ、お姉ちゃん」  陳列してあるドレスの間から、妹の朔美が顔を出した。髪をショートカットにして、大きな銀色の丸いピアスをぶら下げている。白いブラウスに、|派《は》|手《で》なオレンジ色のパンツを|穿《は》いていた。  帰省の理由を説明する時間が稼げたので、私はほっとしていった。 「相変わらず、すごい|恰《かっ》|好《こう》やな、朔美」  朔美は両手を腰にあてて、むくれた顔をした。 「お姉ちゃんがもっと派手な服、着はったらええんやわ。私、選んだろか」 「ええわ。あんたにまかせたら、後が怖い」  朔美は、失礼ね、といって、けらけらと笑った。母によく似た笑い声だった。  父のことを聞くと、母は、奥の事務室を指さした。 「下村さんと話したはりますわ。どうせまた、町内会の集まりのことやろ。ほんまにもう、毎週毎週、ええ大人が集まって、ろくなことしてはらへん」 「町内のこと、決めてるんやないの」 「せやったらよろしけどな。私は、集まりの後のカラオケ目当てに、ああしてごちゃごちゃ約束を取りつけてはるんやと|睨《にら》んでるわ」  私は、くすりと笑った。のんびり屋の父は、昔からやり手の母の目を盗んでは、息抜きを見つけていたものだ。以前は稽古事だった。店の主たるもの、教養がないといけないといって、仕事の合間を縫って習字に俳句、お茶まで習ったものだった。残念ながら、どれも稽古を放りだして仲間との交遊に走るので、母の怒りが爆発し、稽古事の時代は終わった。しかし私は、それには稽古事先で知りあった女性関係も絡んでいたと思っている。私が高校の時、一時、家の雰囲気がおかしくなったことがあった。  母は、カウンターの帳簿をぱたんと閉じるといった。 「ほな、めぐみ。上行って、ゆっくりしよ。私も一息つきたいと思うてたとこやし」  母は、客の応対に戻っていた朔美に店を頼むと、私を連れて階上にあがっていった。  三階の玄関から家にはいり、居間のカーペットの上に腰をおろす。壁にかかったユトリロの複製画。ピアノの上の陶器の人形。グレーのソファ。どれも私が東京で暮らしはじめてから、この新しい家に来たものだ。私にとっては見慣れぬ調度品だ。  棚の上に貝がら細工の小箱を認めて、懐かしい友に会った気分になった。それは昔の家から来たものだった。現在も小物入れとして使っているのだろうか。取れたボタン、もうどこに使うのかもわからなくなった|鍵《かぎ》やネジ……。過ぎてゆく時とともに忘れられてしまう、そんな昔の家の落とし物が、かつてはしまわれていた。だが、きっと今、あの小箱を開いても、私の見覚えのない小さなものが収まっているだけだろう。  母はクーラーをつけると、ブラウスの|裾《すそ》をぱたぱたとはためかせて、太った胸に風を送った。 「ほんまに、いやになるな。毎日毎日、雨ばっかり。この、むしむしするのがかなわんわ」 「梅雨やもの、しょうがないわ」  クーラーの冷気が急速に部屋に満ちていく。私はほっと息をついた。昨夜から張り詰めていた気が、ふっと抜けたようだった。 「純一さんは、元気か?」  母が何気ない風に聞いた。  私は、元気よ、とそっけなく答えた。母は身を乗りだして、私の顔を見つめた。 「あんた、純一さんと|喧《けん》|嘩《か》でもしたんやないの」  私はどきっとして聞き返した。 「どうして?」 「こないに急に帰るの、普通やないわ」  母は有無をいわせない口調でまた聞いた。 「何があったんや」  純一の体に、巨大な虫が住んでいる。  |喉《のど》|元《もと》まで、その言葉が出かかった。しかし、私はひと呼吸おいていった。 「なんでもないわ」 「めぐみ」  母が非難する目で、私を見た。 「ほんとに何もあらへんって」  思わずきつくいい返して、ますます母に、純一との間に何かあったという確信を抱かせてしまったのに気がついた。  私は話題を変えた。 「それより朔美、なにあれ。すごいショートカット。|爪《つめ》まで真っ赤っかにしてから」  母もとりあえずは、私のことはそっとしておこうと決めたらしい。わざと口をヘの字にして、朔美に対する愚痴をこぼしだした。 「あの子ゆうたら、親が何ゆうたかてきかへん。ブティックの店員は、人がびっくりするくらいの恰好がええのんですと」 「まあ、そういわれれば、そうかもね」 「若い人のファッションには、もうついてけへんわ」  母は、ため息をついた。 「おいおいは、この店、朔美に継いでもらおう思うてるから、ええけどな」 「朔美ならうまいことやるやろ」  私は駄目だ。ブティックの経営など、できはしない。母から朔美へ。似た者同士。つながっていくものがある。私なら、祖母。祖母から私。何を伝えてくれたのだろう。  夢? 虫送り?  私は、無意識に肩を震わせていた。 「寒いんか?」  母が聞いた。  私はクーラーのせいだとごまかした。母がクーラーの設定温度をあげていると、玄関の戸が開く音がして、父が、にこにこしながら居間にはいってきた。 「よう帰ってきたな、めぐみ。なんや、|挨《あい》|拶《さつ》もせえへんと、こっちにあがってきてからに」  私は、接客中だったのでといい訳した。母が皮肉っぽく、お父さんは町内の人と話すんで忙しいから、と口を挟んだ。父は苦笑いして、グレーの革張りのソファに腰をかけた。その、穏やかな笑みがソファにまで広がっていき、|椅子《いす》全体が笑っているような感じがした。父は、どこにいてもその場の風景に溶けこんでしまう人間だ。父が母と隣合わせに座ると、母の存在感に圧倒されて、まるで黒子のように見えてくる。 「純一さんは元気か」  また同じ質問だった。私が口を開く前に、母がいった。 「元気やて。この子、なんや、急に里心がついて帰ってきたらしいわ」  暗に、父に、それ以上聞くな、といっているのだった。父は母の合図に気がついたかどうかはわからなかったが、外面はその答に満足した様子で、今度は東京の生活や、義母の様子などを聞いてきた。母も交えて、ひとしきり身辺の話題で花が咲いた。しかし流産の話はひとつもでなかった。二人とも示しあわせたように、それを避けている。その心遣いが、かえって私を落ち着かなくさせた。 「私、夕方まで、ちょっと出てくる」 「どこへ?」  母が驚いて聞いた。 「|太秦《うずまさ》」  父も母も当惑したようだった。私は、祖母の家が懐かしくなったのだと説明した。 「けど、もうあの家、あらしまへんで」  母がいった。私は、わかっていると答えた。 「あのへんも、えらい変わってしもうたしなぁ」  父が煙草に火をつけながらぼやいた。 「この前、用があって通ったけど、なんや知らん町みたいやったわ。昔、お袋に預けてためぐみを引き取りに行った帰りに、よう立ち寄った|寿《す》|司《し》|屋《や》があったやろ。あれかて、もうマンションに変わっとったわ」 「せやろ。お義母さんの家、手放したら損やって、私、お義兄さんにあないにいうたのにな。あのまま持ってはったら、今頃はなんぼの資産になっとったことか……」  それは、十年ほど前、伯父が祖母の家を売り払い、転勤先の福岡に家を建てて以来、続いている母の口癖だった。まだ何かいいたそうな母を制して、私は聞いた。 「お父さん、秦河勝ゆう人、知ってはる?」  父は、聞き覚えがあったらしく、思い出そうとするように首を|傾《かし》げた。奈良時代、太秦に住んでた豪族なのだというと、父は、ああ、と|頷《うなず》いて、祖母が、そんな人のことをいっていた、といいだした。 「確か……、そうやった。太秦に蛇塚ゆう古墳があるんや。子供の頃、そこで遊んどったのがばれて、この罰当たりが、ゆうて、えろう怒られたわ。その時、聞いたんが、あそこがご先祖様の秦河勝のお墓ゆうことやった」 「ほんまやの」  父は煙草の煙を吐き出しながらいった。 「まあ、はっきりした証拠はないみたいやがな。お父さんの子供の頃は、そのあたりは蛇がぎょうさんおるんで有名やったんや。秦河勝ゆう人も気の毒に。自分の墓が、そないな蛇の巣になってしもうてからにな」  常世虫を退治した秦河勝が、蛇塚に葬られる。蛇とは長虫。また虫だ。  私は顔を|歪《ゆが》めた。父が気づかわしそうに聞いた。 「それが、どないかしたか」 「ううん。ちょっと、そんな人の話、聞いたんでな」  私は、話を切りあげて、出かけるために立ちあがった。  父が、太秦まで送っていこうかといいだして、母に、店の仕事が残っていると釘をさされた。私は、電車で行くからといって、窓の外を見た。  もう雨は小降りになっていた。  小雨の中に朱色のスペイン瓦がつやつやと光っている。その白い壁の洋風の家は、祖母の家だった敷地に建っていた。祖母の家がここにあったのは、|遥《はる》か昔のことだった。今、その土地は、二つの区画に分けられて、スペイン風の家の横には、どこの町にでも見かける平たい屋根のプレハブ住宅が建っていた。プレハブ住宅の塀ぎりぎりに、隣の家が続いている。  私は、あたりを見回して、変わったな、と思った。祖母がまだ生きていた頃、この付近は水田だった。今では水田は消えて、住宅が野放図に広がっている。祖母に連れられて虫送りを見にいったのはどの地域だったのか、思いだすのも難しい。  私は傘をたたんで、霧雨の中を京福電鉄の駅のほうに戻りはじめた。トラックやバスに混じって、のんびり走る路面電車だけは、昔と変わってなかった。よく祖母と一緒に、太秦の映画撮影所あたりにまで散歩に行ったものだった。時折、時代劇の恰好をした役者たちが門から出てくるのに会うと、私は後についていこうとした。そんな時、祖母は、私の手をぎゅっとつかんで放さなかった。  私は、自分の手を広げて見た。この手が、今は鬼籍にはいっている祖母の生きた手を握りしめていた時があったのだ。  |広隆寺《こうりゅうじ》の門の前に来た。秦河勝の建てた寺だ。そういえば、ここも祖母と私の散歩コースだった。ベールを少しずつ|剥《は》ぐように、幼い頃の思い出が|蘇《よみがえ》ってくる。夕暮れ時になると、祖母に手をつながれて、この門にはいっていったものだった。  門の向こうは、広い砂利道が続いている。うっそうと繁る木々のトンネルの正面にあるのは本殿だ。祖母は、いつも本殿ではなく、右手にある小さな社の前で手を合わせていた。私は、祖母がお参りしていた社に近づいていった。『太秦殿』という看板のかかった社だった。縁起にこう書かれていた。 『往古より秦氏を|祭《さい》|祀《し》せる神社なり。本尊は秦河勝』  やはり、という気がした。見えなかった糸が、少しずつ現れてくる。  後で砂利を踏む、いくつもの足音がした。振り向くと、修学旅行らしい紺の制服姿の一団がこっちにやってきていた。 「はーい、ここで止まって。こちらが聖徳太子様のお像をご本尊として|祀《まつ》っております、本殿でございます」  黄色の帽子と黄色のスーツに身をかためたガイドの女性が、やはり黄色の声を張りあげていた。学生たちは、小声で話しながら遠巻きに本殿を見ている。静かな空気が、カチャカチャとセルロイドをつぶすような音をたてて崩れていく。私は逃げるように、本殿から離れた。  本殿の裏に、霊宝殿というコンクリートの建物があった。せっかく来たのだからと思い、拝観料を払って中にはいった。  うす暗い展示スペースの中に、たくさんの仏像が並んでいた。怒りを|露《あら》わにした四天王像や不動明王像。無数の|蠢《うごめ》く手を持ちながら、その胴体は微動だにせず落ち着いている千手観音像。たくさんの仏像の中央に、|弥《み》|勒《ろく》|菩《ぼ》|薩《さつ》像があった。まわりに人だかりがしているのを見ると、有名なものらしかった。私は、その像の前に立った。  秦河勝が聖徳太子から賜ったとされる仏像で、日本で最も古く、美しい弥勒菩薩像という説明がついていた。右足を左の|膝《ひざ》の上に乗せて、静かに考えている弥勒菩薩の|半《はん》|跏《か》|思《し》|惟《い》像だ。筆ですっと|撫《な》ぜたような半円形の|眉《まゆ》、薄く閉じた目、|微笑《ほ ほ え》みを浮かべた|口《くち》|許《もと》。自己の内部に広がる深遠を見つめて、ただ満ち足りた表情。  私は、純一のことを思いだした。静かに座り、じっとテレビに目を注ぐ純一。彼の目は、テレビの画像を追ってはいない。この弥勒菩薩像のように、内なる宇宙に向けられていたのではなかったろうか。  私は、それ以上、純一と重ね合わせて考えるのが怖くなって、弥勒菩薩像から目を|逸《そ》らせた。  隣には、男女の像が置かれていた。『秦河勝御夫妻像』とあった。目をかっと見開いた、意思の強そうな男の像だった。きりりとつりあがった眉、引き締まった口許。厚い唇。太い筆先のような|顎《あご》|髭《ひげ》を生やしている。それが秦河勝だった。常世虫を追い払った人物。蛇塚に埋葬された男。  私は、また隣の弥勒菩薩像に目を|遣《や》った。静けさに満ちた菩薩と、激しい感情を|漲《みなぎ》らせたような男。聖徳太子に賜ったものとはいえ、果たして秦河勝は、この弥勒菩薩像が好きだったのだろうか。  横に並べられた二つの像の表す表情は、あまりにも違いすぎた。  外に出ると、灰色の雲の間から、弱々しい|陽《ひ》が|射《さ》していた。境内の木々の若葉が透き通って見える。 ——ほな、もうちいっと回っていきまひょか。  祖母の声が聞こえた気がした。  一度散歩に出ると、私たちは、かなり長く歩いたものだった。映画撮影所から、広隆寺へ。そして……、そうだった。蚕の社に足を向けたのだった。  広隆寺から歩いて五分ほど、大きな神社が今もそこにあった。『蚕の社』と彫られた石柱の向こうに、濃い緑の森が広がっている。大木に囲まれて、昼でも薄暗い神社の中にはいると、祖母は、こういったものだった。 ——めぐみちゃん、うちはな、ずっとお蚕様の御陰で栄えてきた家なんや。さあさ、お蚕様にお礼を申しあげまひょ。  そして境内にある神社にお参りした。祖母の思い出を追いかけるように、私は蚕の社に足を踏みいれた。  雨あがりで、境内のあちこちには水たまりができていた。まわりを囲む森の中から、白いもやが漂ってくる。  ぱんぱん。大きな|柏手《かしわで》が響いた。見ると、薄茶色のズボンをはいた、|痩《や》せた老人が、境内に点在する|祠《ほこら》のひとつひとつにお参りしてまわっていた。  私は、もやのたなびく森の中に歩いていった。石段を少し降りると、小さな泉がある。音もなく|湧《わ》き上がる水は、泉から|溢《あふ》れだし、細い川となって、太秦の地へと流れていく。泉の中央に三本足の鳥居が立っていた。  私は、鳥居の前に立って、その奇妙な形を見つめた。  ちょうど正三角形の位置に、鳥居の柱が三本立っている。普通の鳥居は前後、二面しかないが、この鳥居は三方に開かれている。とはいえ、泉の真ん中に立っているので、誰もその下をくぐることはできない。  祖母と一緒に訪れていた頃、子供心にも、この三本足の鳥居は不思議な存在だった。いったい誰があの鳥居を使うのかと、祖母に尋ねたことがあった。 ——あそこをくぐらはるんは、生きたはるお人やあらへん。  泉に浮かぶ鳥居をじっと眺めながら、祖母は、こういったような気がする。しかし遠い昔のことだ。それは、今、この三本足の鳥居を見ているうちに、私の頭に浮かんできた言葉なのかもしれなかった。  ぽとっ、ぽとっ……ぽとん。静まりかえった泉の周囲で、木の葉から落ちる雨の|雫《しずく》が、小さな音をたてていた。白いもやが、鳥居の下の水面から絶え間なく湧きあがっている。  突然、耳元で柏手が響いた。  ぎょっとして見ると、さっきから境内をまわっていた老人が|頭《こうべ》を垂れて、隣で合掌していた。白いもやに包まれて、老人の姿は亡霊のように見える。  私は、彼の祈りを妨げないように、そっとその場を離れようとした。その時、老人は顔をあげた。 ——常世蟲をはびこらすな——  低い声が聞こえた。私は驚いて老人を見た。彼は、まっすぐに私を見つめている。 ——あれは人の心を|喰《く》い荒らす蟲——  しゅうしゅうと歯の間から息を吐きだすようにしていった。奇妙に単語のはっきりしない言葉だった。老人の目は黄色く濁り、顔は|頬《ほお》|骨《ぼね》から|顎《あご》にかけて、あらぬ方向に|捩《ね》じ曲げられたように|歪《ゆが》んでいる。 ——憎きは、大生部多のやつ。せっかくあやつめを討ったというに、ただひとつ、卵を残しおった。無念じゃ、無念じゃ——  私は息を|呑《の》んだ。  老人の顔は、さっき見た秦河勝の像に似ていたのだ。ごつごつとした四角い顔。肉付きのいい鼻。厚い唇。老人は、かっと目を見開いて、怒りに満ちた声をあげた。 ——蟲を増やしてはならぬ。常世蟲を退治するのだ——  老人は私に向かって叫んだ。そして、不意にぷつんと言葉を切った。その顔から、怒りの表情が消えていく。同時に、老人の顔が変わりはじめた。張りつめていた肉がしぼんでゆき、無数の|皺《しわ》が波立ちながら現れてきた。唇は縮み、小鼻が空気を抜いた風船のように小さくなった。黄色に濁っていた目に、|幽《かす》かに光がさしてきた。まるで奇術師が布を頭からかぶせて、いち、に、さん、と数えたようだった。老人の頭から見えない布がとり去られると、まったく別の顔になっていた。年老いた鶏のような顔。秦河勝の面影は、もうどこにもなかった。  老人は目をぱちぱちとさせた。そして三本足の鳥居に向かって一礼すると、立ち去ろうとした。私は慌てて聞いた。 「お|爺《じい》さん、どういうことやの。さっきの話」  老人は、きょとんとして私を見た。 「話? なんのことどすか」 「さっき、私に常世虫のこと、いわはったやろ」  老人は驚いた顔を私のほうに突き出した。 「わし、あんさんには何もゆうてまへんがな」  足元から、じくじくとした泉の冷気が|這《は》いあがってくる。私は、それを払いのけるようにいった。 「いわはりました。それも大きな声で」  老人は困ったような笑いを浮かべた。 「わしは、ただここで柏手を打って、神様にお祈りしてただけどすがな。お祈りの最中に、あんさんと話なんかするわけないだすやろ」  覚えてないのだ。  私は、まじまじと黄色い鶏に似た老人の顔を見つめた。彼は、私の視線を疎ましそうに避けると、そそくさと神社から出ていった。  さっきのは夢だったのだろうか。獲物を見つけた鷹のように、再び冷気が襲いかかってきた。私は両手で体を抱えこんだ。  あれは、私の幻覚だったのだろうか。変化した老人の顔も、あの言葉も……。 ——常世蟲を退治せよ——  いいや、あの声は、まだ私の頭に響き渡っている。しゅうしゅうという息遣いまでも、しっかりと耳の奥に残っている。  私は震えそうになりながら、目の前の泉を見つめた。三本足の鳥居の下から、もやが湧きあがっている。それは私に、虫送りの夢を思い出させた。燃やされた害虫から立ち昇る、あの白い煙を……。     十三章  |襖《ふすま》を開けると、湿っぽい匂いがぷんと漂ってきた。電気のスイッチをつけると、|箪《たん》|笥《す》と仏壇が置かれているだけの、がらんとした和室が浮かびあがった。いつもは使われていない部屋の真ん中に、客用の布団が敷かれていた。横に立った母が聞いた。 「なんか足らへんもの、ないか」  枕元には、電気スタンドに目覚し時計。部屋の隅には、私のバッグが置かれている。忙しい仕事の合間に、母は私のために寝支度を整えてくれていた。  私は、これで充分だといって、掛け布団をめくった。 「もう寝るんか?」  母が驚いた声をあげた。まだ十時前だった。 「うん、疲れたし」  私は応えた。昼間、蚕の社で見た幻影が、まだ頭の隅にどっかりと腰をおろしていた。夕食中、両親や妹を相手に話しをしていても、常にあの老人の声が頭に響いていた。  母がためらいがちに|訊《たず》ねた。 「純一さんには電話、せえへんの?」  私の顔がこわばった。そして、実家に着いてから、彼から何の連絡もなかったことを思いだした。 「ええわ。用があったら、向こうから電話をかけてくるやろ」  母は私の顔を|睨《にら》みつけるようにして、小声で聞いた。 「あんた、ほんまに純一さんとの間になんもなかったん?」  私は、何もないとつっぱねた。母は、まだ何かいいたそうにしていたが、結局、視線を畳の上に落とした。 「そうやったらええけどな。……ほな、まあ、おやすみ」  静かな音をたてて襖が閉まった。部屋の空気は、よそよそしく私を包んでいた。この部屋で眠るのははじめてだった。帰省するたびに、私は自分の部屋で寝ていた。しかし今回、帰ってみると、その部屋は店の商品置き場と化していた。どうせビルに建て替えた時に作ってくれた部屋だ。その部屋で過ごしたことは、ほとんどない。|馴《な》|染《じ》みのない部屋だったので何とも思わなかったが、家の中から、私の存在が薄らいでいく寂しさは残った。  私は電気を消して、布団にもぐりこんだ。テレビの音が聞こえている。朔美と母の笑い声が二重奏のように流れてきた。  いつも、この家では親子三人、ああして夜を過ごしているのだろう。私が出ていってから作られたこの家は、最初から三人家族の家として出発したのだ。両親と朔美の歴史が着実に積み重ねられてきている。その中に私はいない。この家にとっては、私はよそ者だ。普段は使われていない客間と客用の布団。それが、この家での私の位置をよく示している。  私の居場所は、東京の狭いマンションのあの一室しかないのかもしれない。小さなキッチン、ダイニングテーブルに、本や雑誌の積み上げられたリビングボード。そしてテレビの前に、でんと居座るソファ。あの、物のごたごたと置かれた家こそ、私の家。二人で買いにいった食器棚。どのデザインがいいかで|喧《けん》|嘩《か》になったランプシェード。裸で抱き合っていた時に足元のコーヒーカップが倒れてできたカーペットの|滲《し》み。私と純一の歴史が積み重ねられてきた、あの家。  今頃、あの家に一人、ぽつねんと座っているだろう夫を想った。その体に両手を回して抱きしめたくなった。そうやって抱きあって、何百もの夜を過ごしてきた。夜毎に|洩《も》れゆく二人の吐息が、少しずつ家の中に満ちていき、私たちの家の空気を造りあげたのだ。  私は布団から起きあがった。電気もつけずに手探りで襖を開けた。廊下の明かりが部屋に射しこんできた。私は玄関口にある電話の前に行った。  一息おいてから、家の番号を押した。呼び出し音が鳴っている。カチリと受話器がはずれて、純一の物憂げな声が聞こえてきた。私だとわかっても、彼は驚きもしなかった。 「今、京都の家」  私はわかりきっていることをいった。純一は、そうか、と|呟《つぶや》いて、両親は元気かと聞いてきた。私は一通り、実家の様子を説明した。 「純一は? なにも変わったこと、ない?」 「べつに。駅の近くの食堂で、てんぷら定食を食って、ビールを飲んで、今帰ってきたところさ」  もう何年も、一人でそんな生活を送ってきたかのような淡々とした口調だった。今の彼にとっては、私なんて、家にいてもいなくても同じことなのだ。  胸の底に、うっすらと悲しみが|湧《わ》きあがってきた。  私がいなくて、寂しくないの?  そう訊ねたかった。しかし、その問いを口にしなくても、返事はわかっていた。優しくなった彼はきっと、寂しいよ、と答えてくれるだろう。  だが、そんな言葉を引きだしても、何にもなりはしない。ままごと遊びをしているようなものだ。パパ役とママ役の人形を向かい合わせる。お帰りなさい、あなた。ただいま、おまえ。食事はどうするの。もらおうかな。愛してるわ、あなた。僕もだよ——。幼い時にやったたわいない遊び。  いいや。今は、ままごと遊びのような夫婦の会話はしたくない。  二人の間に沈黙が流れていた。電話から、すうすうという彼の呼吸音が聞こえてきた。その息が私の心にはいりこんできて、空虚な音を響かせた。 「おやすみ」  私はたまらなくなって、いきなり電話を切った。そして、うす暗い玄関の片隅で、泣きだしたい気分に襲われた。  風呂場から、朔美に風呂にはいれ、と勧める母の声が聞こえた。私は、風呂場から出てくる母に見られないように、足早に部屋に戻った。  部屋は、私の心を、その暗く湿った空気で包んでくれた。さっきよりこの部屋が好きになって、私は布団にはいった。  これからどうすればいいのだろう。夫の側にいれば、巨大な虫を連想して、我慢できなくなる。しかし、こうして離れても、何の解決にもならない。私の居場所は、純一と暮らしたあの家以外にはないのだから。  どうすればいいのだろう。わからない。どうすれば……。  堂々巡りの思考の中で、私はいつか眠りに落ちていた。  蒸し暑かった。全身、じっとりと汗ばんでいる。私は寝返りを打った。どこかで、ちいぃぃいんという|鉦《かね》の音がした。  部屋は、重油のようにねっとりとした空気に満ちていた。その漆黒の|闇《やみ》の中で、部屋の片隅がぼうっと白く光っていた。光は、白い帯となって畳の上をじりじりと近づいてくる。  やがて、布団の上に|這《は》いあがり、輝く蛇のように鎌首をもたげて、私の上に覆いかぶさってきた。悲鳴をあげようとしたが、干からびた|喉《のど》からは、かすれ声すらでない。体は布団の下で硬直している。光の蛇は、私の足から、腰、そして胸へと、ずりりずりりとせり上がってくると、私の顔を包んだ。土臭い、湿っぽい|臭《にお》いがした。 ——常世蟲を退治せよ——  頭の奥で声がした。  パチン。電気スタンドのスイッチをつけた。赤味がかった光の中に、畳の部屋が浮かびあがった。時計を見ると、午前二時半。汗が乾いたせいか、寒気がする。油のように重苦しかった空気は消えていた。  今、見たのは何だったのだろう。夢だったのだろうか。  私の目が仏壇で止まった。閉まっていたはずの扉が開いていた。一瞬、体が硬直した。私は立ちあがって、部屋の電気をつけた。蛍光灯の光が、部屋の隅々まで行きわたった。私を|脅《おび》えさせるような、どんな暗がりもない。それでも私は、びくびくしながら仏壇に近づいていった。  開いた仏壇の扉の奥に、祖父母の|位《い》|牌《はい》があった。その前に、祖母の写真が飾られている。祖母は、|毅《き》|然《ぜん》とした顔で私を睨みつけていた。その時、私は気がついた。厚い唇。大きく見開かれた目。祖母の顔は、|広隆寺《こうりゅうじ》にあった秦河勝の像に似ていた。  ということは、秦河勝に似ているということか。  祖母は、秦河勝は、先祖だといっていたという。それが本当なら、私には、秦河勝の血が流れている。常世虫を退治した男の血だ。  私にも、常世虫を退治できるのではないだろうか。純一の体に巣くう、あの虫を。  水が沸騰する直前、小さな気泡が水面に沸きあがるように、少しずつ少しずつ、体の中に力が湧いてきた。  私は仏壇の扉を閉めた。その閉まる音と共に、心が決まった。 『卵から孵化する蚕の幼虫は「|毛《け》|蚕《ご》」といわれています。毛蚕は、生まれたとたんに柔らかい桑の葉を食べはじめます。バリバリと音をたてて|貪《どん》|欲《よく》に食べ続け、脱皮を繰り返しながら大きくなっていきます。約二十五日で、毛蚕の時の一万倍以上の大きさに成長すると、やがて動きが緩慢になってきて、繭を作りはじめます。そして|蛹《さなぎ》となり、約二週間、繭の中にいます。  この時期、蛹の内部では、奇妙な変化が起こっています。幼虫の体が分解されて、どろどろになるのです。成虫は、その栄養素を再構成して生まれます。その再生が完成されると、|蛾《が》となり、繭の外に出てくるわけです。  蛾の雌は、雄と交尾をして、一晩で五百個以上の卵を産みます。  卵の孵化する温度は、二十五度です。冬の間とか、それよりも低い温度の場所では、いつまでも孵化しないで、卵のままでいつづけます。これが休眠卵です。  二十五度以上で孵化した卵からは、また毛蚕が生まれます。こうして次々に世代を交代させながら、蚕はどんどん増えていくのです』  読み進むうちに怖くなってきた。  常世虫が、蚕に似た虫というからには、ここに書かれた記述に、あてはまる部分は多いだろう。ひっかかったのは、低温状態では、蚕の卵がいつまでも孵化しないということだった。「常世蟲」と刻まれた石の器は、地面に埋められていたのだ。地中の温度は一定しているし、高温状態にはなりにくい。ということは、常世虫の卵が、七世紀の昔から地中で眠り続けていた可能性はある。そして、純一によって地上に出されたせいで孵化して、彼の体内にはいりこんだ。虫は大きくなり、やがて蛹になる。純一の肉体は、蛹をくるむ繭だ。常世虫の蛹は、その安全な繭の中で、成虫となるために、どろどろに体を溶かして再構成をはじめる……。  私は顔を|歪《ゆが》めた。突拍子もない想像だ。第一、本当に巨大な虫が肉を食らっているなら、純一の体にその兆候が現れているはずだ。 ——人の心を喰い荒らす蟲——  蚕の社で聞いた声が頭に|閃《ひらめ》いた。  もし、常世虫の食べるものが、目には見えない人間の心だとしたら、純一が外見的には変化がないのも|頷《うなず》ける。彼は、心を常世虫に食べられて、性格が変わってしまった。  しかし、虫に心を食べられた人間には、何が残るのだろうか?  私は『蚕の一生』と題された本を棚に押しこむと、書店から出た。京都の駅ビルには、たくさんの店がはいっている。旅行バッグをぶらさげて行き交う人々の間に薬屋の看板を見つけて、私は歩いていった。 「虫下し、ください」  カウンターに立って頼むと、白衣を着た店の男性に聞き返された。 「何の虫ですか」  常世虫。心の中で答えてみて、私は笑いそうになった。常世虫を退治する薬があるというのなら、いくら払っても惜しくはない。 「あの、お客さん……」  店員は、私を促すように、また聞いた。 「何の虫でもいいんです。体の中の虫を追いだしたいんです」  店員は興味をそそられたように私を見た。 「南の国にでも、旅行しはったんですか」  |怪《け》|訝《げん》な顔をした私に、店員は、東南アジア付近に旅行して、寄生虫をもらってくる人が多いのだと説明した。寄生虫というのなら、あの虫も同類には違いない。私は、とにかくありったけの虫下しをだしてくれ、と頼んだ。  店員は戸惑いながらも、後の棚から小さな薬の箱をいくつか取りだした。 「こちらは回虫の特効薬。こっちは|鉤虫《こうちゅう》、|蟯虫《ぎょうちゅう》、回虫などにも効きますが、副作用が強いし下剤と一緒に飲まなあきまへん。そして、こっちは|鞭虫《べんちゅう》、蟯虫、回虫向けのサントニン配合の……」  列車の時間が迫っていた。私は、店員の話を遮った。 「全部いただきます」  店員は、あきれたように私を見た。  相手が純一の心を食べる虫だとしたら、買い求めた薬が効くとも思えないが、私の心の鎮静剤にはなった。私は紙袋を抱えて、新幹線の乗り場に向かった。  新幹線のホームから見ると、東京の方向の空は、灰色にどんよりと曇っていた。私を待ち構える|得《え》|体《たい》の知れない虫のように、雲はつかみどころなく、重く垂れこめている。  私が急にまた東京に戻るといいだした時の母は、もう、うんざり、という顔になった。 「あんたなぁ、勝手もええ加減にしときや。なんや知らへんけど、突然、家をでてきた思うたら、次の日にはもう帰るやなんて。ほんま、人騒がせな子や。純一さんかて、そのうちに怒らはりますえ」  その純一なのだ、問題は。私は、そういい返したいのをこらえた。  私の帰る場所は、純一と築いてきたあの家しかない。  夫の体から虫を追い出すのだ。二人の関係を修復するのだ。私自身のためにも……。 「まもなく東京行き、ひかり号が参ります。ホームの白線のところまでお下がりください」  アナウンスが聞こえた。新幹線の白い車体がぐんぐん近づいてくる。 ——常世蟲を退治せよ——  あの声が、耳の奥でこだましていた。     十四章 「なんだか腹の調子がおかしいんだ」  会社から帰ってきた純一が、下腹部を押さえながらいった。私は夕刊から目を放して、彼の顔色を|窺《うかが》った。いつにも増して青白い。 「お腹をこわしたのよ。下痢、しなかった?」 「うん。会社でトイレに駆けこんだ」 「その時、変なものでなかった?」  純一が|眉《まゆ》をひそめた。 「何だい?」  私は小さな声で答えた。 「虫とか……」  彼は皮肉な笑いを浮かべた。 「まだ俺が虫を飼っていると思ってるの」  私は言葉に詰まって、夕刊に目を落とした。 『インドと中国の戦争、国境近辺で泥沼化。危ぶまれる核兵器使用』  死神の|烙《らく》|印《いん》にも似た、黒々とした文字が紙面を行進していた。道端に転がっている、こんもりとした死体の白黒写真が、道を|這《は》う|蛆《うじ》|虫《むし》のように見える。こんなに緊迫した世の中なのに、少しも現実感はない。その死の蛆虫たちが、私の世界にまで行進を続けてきて、ようやく恐怖の叫び声をあげはじめるのだろう。しかし今の私にとっての現実とは、夫との関係でしかない。  純一は前かがみになって寝室にはいっていった。私は食卓の|椅子《いす》に座ったまま、新聞の陰から、彼がベッドの上に服を脱いでいく姿を見守った。シャツをぺろりとめくると、彼の上半身が|剥《む》き出しになった。純一の裸を見るのは久しぶりだった。京都から帰って以来、私は隣の和室に布団を敷いて寝るようになっている。もうずっとセックスもしていない。彼は私を誘いもしないし、たとえ誘われても、私は応じないだろう。少なくとも、今は到底、そんな気にはなれない。  純一の白く|痩《や》せた背中を見ていると、小さな|拳《こぶし》のように浮きでた|脊《せき》|髄《ずい》の骨の間から、ひょいと緑色の巨大な虫が頭を|覗《のぞ》かせそうな気がした。私は新聞に視線を戻した。 「ああ、頭痛までする」  純一の|呻《うめ》き声が聞こえた。私はさすがに気になって、寝室に様子を見にいった。彼はベッドに横になり、半ば目を閉じていた。 「大丈夫?」  声をかけると、純一は弱々しく答えた。 「吐き気と下痢と、頭痛だ。|完《かん》|璧《ぺき》に風邪の症状だよ」  駆虫薬のせいだ。副作用に悩まされるほど、たっぷり飲ませたのに、虫は出てこないのか。私はがっかりした。 「具合が悪いのなら、お医者さんに行かないと。検査してもらったら?」  駆虫薬が効果がなければ、医者に行く。それはもう決めてあったことだった。自分が、夫を計画的に殺そうとしているような気がした。純一は、それは、おおげさだといいながら、横になったまま額に手をあてた。顔色が悪い。かわいそうに。  私は、ベッドの端に腰をおろした。 「前から思っていたのよ。一度、ちゃんと健康診断をしてもらったほうがいいわ。レントゲンも撮ってもらって……」 「いいよ。めんどくさいし」 「明日は土曜日で、休みじゃないの。ね、行きましょ」  私は彼のほうに身をかがめていった。しかし、体に触れる勇気はなかった。交通事故の現場をとおまきに見ている野次馬のように、こわごわと夫の顔を覗きこんでいる。病院に行かなければいけないのは、私のほうかも知れないと思った。 「行ってよ。お願いだから」  強要口調でいうと、純一はしぶしぶ|頷《うなず》いた。 「約束よ」  私はベッドから立ちあがると、逃げるように寝室を後にした。  広げた蝶の羽に似た、|肋《ろっ》|骨《こつ》が浮きあがっている。二つの肺が、雲のようにぼんやりと並んでいる。医者は、レントゲン写真と、カルテを見比べながらいった。 「どこも悪いところはありませんでしたよ。しいていえば、肝臓の機能が少し低下しているくらいで」  純一が、私を振り向いていった。 「ほら、心配することはなかったんだ」  私は、医者が光にかざしたレントゲン写真をまじまじと見ていた。虫は、私の目には見えたが、レントゲンには映らないのだろうか。何か、うっすらとした影のようなものでも映っていてくれればよかった。  私を支えていたものが、崩れ落ちてしまいそうだ。  |常《とこ》|世《よ》|虫《むし》なんて、本当にいるのだろうか。すべては私の思い過ごしではないか。しかし、私の心が、それは真実だと叫んでいた。 「まあ、これからも時々、定期検診に来てください。今、健康でも、明日はどうなるかわかりませんからね。もっとも、明日、核戦争でも起こりかねない世の中だ。健康を害する前に、世界が終わってしまうかもしれないですな。あははは」  ぞっとするような自分の冗談に笑いながら、医者は看護婦に視線を|遣《や》った。看護婦が診察室のドアを開けて、帰りを促した。私たちは、部屋から出ていった。  白いトンネルのような病院の廊下を歩いていく。診察室の前のベンチに座った人々の|囁《ささや》き声。険しい表情で歩く、白衣の医師や看護婦たち。腹を突き出した妊婦が誇らしげに通り過ぎる。枯れた草のような顔色の老女が、パジャマ姿で壁に体をもたせかけている。目の下には|隈《くま》ができていて、運命の女神のひと息で、その命の灯も吹き消されそうだ。新たなる生を抱えた女と、死を抱えた女。今の私の抱えているものは何だろう。生でもなく、死でもない。  玄関を出ると、梅雨の合間の久々の太陽が目に飛びこんできた。病院を囲むようにしてそびえる木々の上に、澄んだ青空が広がっている。純一は、すでに習慣になってしまった、あの静かな|微笑《ほ ほ え》みを浮かべていた。髪の毛に太陽の光がまとわりついている。  彼がわからない。哀しみと、もどかしさを同時に覚えた。  常世虫が心を食べたというのなら、陽光の中で微笑んでいる、この彼には、心がないというのだろうか。だが、優しさは|溢《あふ》れるほどに残っている。それは彼の心から発するものではないのか。  常世虫が食べる心とは、彼を彼たらしめる感情かもしれない、と思った。私への愛、執着心、独占欲、彼のあらゆる情動が消え、後に残るのは、無関心ともいえる優しさだけ。  もし、常世虫を退治できたとしても、彼の心はもとに戻るのだろうか……。  涙が溢れそうになって、また引いていった。全身に無力感が広がった。私には、常世虫を退治することも、彼をもとに戻すことも、何もできはしないのではないか。 「さあ、めぐみ」  彼が車のドアを開けて、私が乗りこむのを待っていた。 「ありがとう」  私は|呟《つぶや》いて助手席に座った。彼はそれを確認すると、運転席についた。  今の私を近くで見ている人がいるとしたら、優しい夫を持って幸せな女だと思うかもしれない。外からは、心の中までは見えはしない。私の心を占める絶望はわからない。  私は助手席に体を沈めた。車は、|眩《まぶ》しい六月の中に走りだした。  加奈のスタジオのドアを開けたとたん、中から出てきた男性とぶつかりそうになった。  謝りながら顔をあげた私は、びっくりした。加奈と別れたはずの浅川だった。私の驚いた顔を見て、彼は、にやりとした。 「ああ、いらっしゃい」  平気な顔でそういうと、スタジオの中を振り返っていった。 「加奈、めぐみさんだよ」 「えっ、もう来たの?」  加奈のうろたえ声が聞こえた。浅川は、私に軽く会釈すると、肩を揺すってエレベーターのほうに歩いていった。  私はスタジオの中にはいって、ドアを閉めた。加奈はソファに座り、小型のライティングデスクの上で写真のフィルムを見ていた。 「どういうことなの?」  私がソファの前の椅子に座って聞くと、彼女はフィルムの上にうつむいたまま、なんでもないふりをして答えた。 「仲直りしたのよ」 「だって、あんなことの後なのに……」 「彼、後悔しているっていうの。もう一度、やり直させてくれっていってきたのよ」 「それ、信じるの?」  加奈が顔をあげた。ベリーショートだった髪も今では伸びて、間の抜けた感じになっていた。少し痩せたようだった。 「泣きながらいったのよ。大丈夫、もうやらないと思うわ」  彼女は、落ち着かなげにいい返した。私は、そうかしら、といった。先程、会った浅川の顔を見る限りでは、後悔している様子は感じとれなかった。 「そりゃあ私だって、最初は|嘘《うそ》だろうっていったわ。そしたら、彼……、本当に大事なのは、私だとわかったんだって。私たち結婚するの。夏までには、彼は私を両親に紹介するっていうの。もう電話で、連れていきたい人がいるといっちゃったんですって。俺の顔を|潰《つぶ》さないためにも、来てくれっていわれたら、ねぇ」  加奈は、私が言葉を差し挟むのを怖がっているように、とめどなく|喋《しゃべ》りはじめた。その顔は、彼と幸福になるという、彼女自身の妄想に|憑《つ》かれていた。  加奈が痛々しく思えた。|溌《はつ》|剌《らつ》として仕事をしている女のイメージは消えていた。そこにいるのは、荒波に揺れる小舟の上で目を閉じて、豪華客船に乗っているのだと信じたがっている女。愛に足をすくわれて、自分で造り上げた夢の中に閉じこもってしまった女。かわいそうに。目に涙が浮かびそうになって、我ながら自分の感情の動きに驚いた。  加奈は、私の同情のこもった視線に気がついたのか、話を止めた。 「ところで、めぐみは? 電話では話があるっていってたけど」  純一のことを相談しようと思って電話したのだった。彼女はカナダから帰ったばかりでスタジオにいた。しかし、こんな状態だとは思わなかった。今の加奈に、私の悩みを打ち明けても無駄な気がした。 「なんなの?」  ためらっている私の様子に興味をそそられたのか、加奈は重ねて聞いた。私は他の話題を探した。机の上に、引き延ばされた白黒写真が何枚も置かれているのに気がついた。  私はそれを手に取った。  加奈が、浅川の撮った写真だといった。銀座の交差点、原宿の竹下通り、浅草の下町の商店街。東京の町が写っている。以前、浅川と会った時、東京のいろいろな場所を撮っているといっていたことを思いだした。  私は、大判サイズに焼かれた写真をめくっていった。 「こうして見ると、おもしろいわね」  加奈は自分のことを|誉《ほ》められたように、顔を輝かせた。 「でしょ。私もなかなかだと思うんだ。ほら、その新宿なんてユニークよ」  西新宿の高層ビル街の写真だった。その背後には、今も新宿に残る平屋の家屋や、小さなビル群が映っている。横に広がる、乱雑な町並みと、直線的に天に向かって伸びていく高層ビル街。別世界の二つの町が、無理やりくっつけられたようだ。その境界線を示すのは、スペーシア・ビルの白い塔だ。私は、また一枚めくった。サンクチュアリの写真が現れた。  加奈が身を乗りだした。 「さっきも章ちゃんがいってたの。そのスペーシアのサンクチュアリ、どこか変なんだ。ほら、見て、これ」  写真の中央に|橘《たちばな》の木があった。遠目でも、白い|蕾《つぼみ》が膨らんでいるのがわかる。木を囲むように、ぽつんぽつんと影のような人の姿があった。 「その人たち、昼間から、そうしてぼんやりと立っているんだって。なにをする風でもなく、じっと木を見あげているというのよ。章ちゃん、その中の一人に、何をしているのか、聞いたんですって。そしたら、待っているんです、と応えたというの。だけど本人にも、何を待っているか、わからないみたいなんですって。わけがわかんないね、って、二人で話していたところ」  橘が関連しているせいだろうか、加奈の言葉に、胸の底がざわめいた。私は、写真に目を凝らした。  レンズの位置が遠くて、人々の顔まではわからない。木々に隠れるようにして|佇《たたず》んでいる黒い人影は、木立ちの間に配された不吉な印のように見える。私は妙に不安な気持ちになって、写真をテーブルの上に戻した。  加奈が思い出したように、あの写真は届いたかと聞いた。とっさに、どの写真のことかわからずにいると、加奈は、人差し指でとんとんとライティングデスクを|叩《たた》いた。 「ほら、カナダに行く前に送っておいた……」  心臓をどんと突かれたようだった。私は動揺を表に出さないように、ゆっくりといった。 「届いたわ。どうもありがとう。確かに文字だったの。『常世蟲』っていう……」  加奈は小首を|傾《かし》げた。 「常世虫? 何かしら」  純一の体に巣くっている虫のこと。  そう答えれば、加奈は笑いだすだろう。そして、帰ってきた浅川と笑い話の種にしてしまうのだ。 ——気の毒にね、めぐみも。あの二人、うまくいってないのね——夫婦になったら、いろいろあるんだよ——  二人の会話が聞こえる気がした。  私は、わからないとだけ答えた。本当に、わからないままでいたほうがよかったのかもしれない。そうすれば、今のように苦しまないでいられただろうに。  加奈は、組んだ足をほどきながらいった。 「常世虫か。そんな虫をいれておいた容れ物だったのかしら、それとも何かのお守りだったのかしらね。でも、古いものでしょ。きっと価値のあるものだったのよ。私、大事なもの、壊しちゃったのね……」 「もういいの」  加奈は、ジーンズの|膝《ひざ》の上に両手を置いて、私に向き直った。 「手紙にも書いたけど、本当にあの時は、お世話になったわ。ありがとう。嬉しかった」  私は再び、もういいのだ、と答えた。しかし、加奈はしみじみした口調で続けた。 「あの時、つくづく変わったなと思った」  当然だ。以前の純一は、すでにその「常世蟲」に|喰《く》われてしまったのだから。私は悲しみの混ざった声でいった。 「純一でしょ」  加奈は笑った。 「やだ、純一さんもだけど、めぐみ、あんたのことよ」  私は驚いて、加奈の顔を見た。加奈は、テーブルの上に置いてあったキャメルの箱から煙草を一本抜きとって、火をつけた。 「前のあんたって、傷つけられないように警戒しているようで、どこか自分と回りの間に、わざと距離をとっているようなところがあったのよね。いつも、ちょっぴり皮肉な目で、すべてを見ていた。だけど、あの時は本当にすぐ飛んできてくれて、なぐさめてくれたじゃない。嬉しかったわ」  胸の内が不穏な音をたてて、揺れはじめた。 「前の私なら……そうしなかった?」  加奈は、ふーっと白い煙を吐いて、首を横に振った。 「もちろん、めぐみはすぐ飛んできてくれたと思う。でも……なんていったらいいのかな。前のめぐみだったら、なぐさめてくれる口調に、女同士ならではの批判が滲み出ていたと思う。そんな男にひっかかった、あんたが悪い、って。だけど、この前は違った。私の陥った状況を批判も何もなく受けとめてくれた。今だってそうよ」  加奈は、いいにくそうにいった。 「多分、さっき章ちゃんと会って、驚いたと思うの。私を|軽《けい》|蔑《べつ》したかもしれない。だけど、あんたは何もいわない。そうやって、優しい目で私を見ていてくれる」  自分では、そんなつもりはなかった。しかし確かに、加奈に対する軽蔑や苛立ちはなかった。ただ哀れに思っただけだ。  加奈がいった通り、以前の私なら、そうは受け取らなかっただろう。加奈を問い詰めて、どうしてよりをもどしたのかと非難したに違いない。  加奈は微笑んだ。 「めぐみ……優しくなったよ」  優しくなった? 私が、純一に対して感じたと同じことを、今、加奈が私にいっていた。私は、思わず大きな声でいい返した。 「優しくなったのは、純一よ」  加奈は驚いたように、 「やあねえ。なに、むきになっているのよ。そりゃあ、純一さんも、この前、会った時、ずいぶん変わったな、と思ったわ。かっこつけ屋のところが、影をひそめてたし。だから、めぐみが変化したのは、きっと彼の影響だろうけどね」  心臓が、|槌《つち》で叩かれているように鳴っていた。性格が変わったのは、純一のはずだった。私の性格まで変わったはずはない。  加奈は煙草の白い煙の中で、にっこりと笑った。 「とにかく、いいことよ。|羨《うらや》ましいわ。夫婦でいい影響を与えあってさ、素敵よね。きっと、いつもそばにいると、いいものが移っていくのよ」  私は|喘《あえ》ぐように息をした。  常世虫。あの虫が、私の体に移ってきたのではないだろうか。虫は貪欲に|喰《くら》い続ける。純一の心を喰い荒らした常世虫は、今、私の体内にいるのかもしれない。  胸の奥から酸っぱいものがこみあげてきた。拳を握りしめた。指の先が赤くなった。  加奈が眉をひそめた。 「どうかした?」  私はハンドバッグを持って、立ちあがった。 「ごめん、帰るわ」  驚いている加奈にろくに返事もしないで、私はスタジオを飛び出した。  ビルの外では、また雨が降りはじめていた。私は腹を押さえて、高田馬場の駅へと歩きだした。傘をさす気力もなかった。|不精髭《ぶしょうひげ》を生やした浮浪者が、紙袋を抱えて、よろよろと歩いている。ぼんやりと腕を組んで、雨宿りしている学生。無表情な顔で足早に歩く会社員。駅前のロータリーは、大勢の人間が渦巻いている。  この無数に|蠢《うごめ》く人々の心は大丈夫なのだろうか。誰も虫に喰われてはいないのだろうか。見えないけれども、貪欲に心を喰らっていく虫を飼ってはいないだろうか。緑色の巨大な虫が、体の中をずるずると動いてはいないだろうか。そう、この私のように……。  胃がせりあがり、気管が|痙《けい》|攣《れん》した。私は、口を手で覆いながら駅のトイレに駆けこんだ。空いているブースに飛びこんで、体をかがめる。糞便のこびりついた便器の中に、どろどろとした液体が吐き出された。鼻が酸っぱい臭いにつんとなり、苦しくて涙が出た。  アンモニアの臭いが漂う、汚い駅のトイレの中で、私は|喉《のど》の奥から呻き声をあげ続けた。しかし、いくら胃の中のものを吐きだしても、虫が出てくるはずもない。  へとへとになり、吐くものもなくなって、やっと少し冷静になれた。  嘘だ。常世虫なぞ、いやしないのだ。最初からいないのだ。すべては妄想。純一の体の中にも、いなかったのだ。私の頭の紡ぎだした想像にすぎない。  その時、腹の中でなにかが動いた。  赤ちゃんが子宮を|蹴《け》るように、ぴくぴくと……。  私は再び、汚れた便器の中に、黄色い胃液を吐きはじめた。     十五章  新宿は輝く夜を迎えようとしていた。ネオンサインが瞬きはじめている。肩の力の抜けた表情で居酒屋の|暖簾《のれん》をくぐる、会社帰りのサラリーマン。なにやら興奮したように話している、厚化粧をしたミニスカート姿の東南アジアの女たち。輪になってふざけあっている学生の集団。キャバレーの客引きのだみ声。週末のせいか、いつもこんな調子なのかわからないが、通りに人がひしめいている。  私は神経を張りつめて、歌舞伎町を歩いていた。手には住所を走り書きしたメモを握りしめている。『ぴあ』をひっくり返して、やっと見つけた住所だった。『シタン・イベント・スペース』。今夜、劇団アルバトロスの公演が行われる場所だ。あのカヤという青年がそこにいるはずだった。  見えないものが見えるという、不思議な青年。彼の切れ長の|瞳《ひとみ》は、あの虫も見えるのかもしれないと思い至ったのだ。でなければ、『常世蟲』と彫られた石の器を見て|脅《おび》えたり、私に会って逃げだしたりした理由がわからない。  私の中に虫がいるにしろ、いないにしろ、今のように、不安な気分でいるのは耐えられなかった。カヤに、真実を教えてもらいたい。彼だけが、私に起こっていることについて知っている人間だという気がした。  私は、乱暴に走り書きしたメモの住所を|睨《にら》みつけた。  そのイベント・スペースは、雑居ビルの地下にあった。『ソルティ・ガール 劇団アルバトロス公演』という看板が、階段の入口に立てられていた。『最終日』という角張った赤いマジックの文字が、横に書き添えられている。私は、白いレースのショールをかけた女の子から当日券を買って、うす暗い階段を降りていった。  狭い会場には、破けたジーンズにTシャツを着て、髪の毛を緑に染めたカップルや、|派《は》|手《で》な赤のスカートに、チュールの大きな黒のリボンをつけた女、スキンヘッドの男など、異様な風体の若者たちでいっぱいだった。白のタイトなワンピース姿の私は、普通の|恰《かっ》|好《こう》すぎてかえって浮きあがっている。  スチール製の|椅子《いす》に座って、居心地の悪い気分で開演を待った。黒い板を敷きつめただけの舞台。後にかかっている大きな白い布の背後が、即席の楽屋らしかった。間もなく場内が暗くなり、強烈なロック音楽が耳を打った。オレンジ色のライトに照らしだされた舞台で、劇がはじまった。  もともとあまり演劇に興味があるほうではない。年に一度、大きな劇場の、定評のある芝居を見に行くくらいだ。そんな私にとっては、アルバトロスの舞台は、決して楽しめるものではなかった。がんがん響くロック音楽。不条理な展開。カヤに会うという目的がなければ、私は逃げだしていただろう。  カヤは、舞台で起こることを、いつもどこからか眺めているガラス拭きの役で出演していた。金髪に染めた髪を後で束ねて、きゃしゃな指でガラスを磨く。舞台の隅の暗がりに、彼の端正な顔は隠れていた。  あのミナミという、やはりテレビの配達に来た男が準主役だった。|伊達男《だておとこ》の役で、派手に歌ったり踊ったりしていた。  話の筋はめちゃくちゃだった。人が登場したと思ったら、|喧《けん》|嘩《か》をはじめて死んでしまう。全然関係のない人物が不意に現れて、消えていき、また知らない人物が飛び出してくる。しかし観客たちは、こんな展開には慣れているらしい。楽しそうに笑ったり、音楽がはじまると、踊りだす者までいた。幕が下りた時には、拷問が終わったような気分だった。  出口に向かって殺到する観客に逆らって、私は舞台の方に進んでいった。  舞台の後片付けは、もうはじまっている。布で仕切った簡素な楽屋を|覗《のぞ》きこんだ。役者たちが、裸になって着替えていた。私は慌てて首をひっこめた。  関係者たちが、お祝いをいったり、椅子をしまったりしている。公演が終わった後まで、会場にいるのははじめてだ。私は、どうしていいかわからず、あたりを見回した。  舞台に敷きつめていた黒い板を取りはずしていた男と目が合った。私は、この機を逃がすまいと、舞台に近づいた。青いバンダナを頭に巻いた太った男は、用をいってみろ、という風に|頷《うなず》いた。 「カヤって人に会いたいんですが」 「カヤ?」  彼は、鼻に|皺《しわ》を寄せた。 「そのへんにいない?」  私は頭を横に振った。男は、太鼓腹から響き渡るような声をあげた。 「おーい、カヤーッ。いるかーっ」 「はぁーい。ここよぉーっ」  誰かが女の声音で返事した。あちこちで笑い声が巻きおこった。階段を下りてきた、白いショールの受付の女の子がいった。 「カヤなら電話かけてくるってさ。今、出てったよ」 「戻ってくるんですか」 「決まってるじゃん。今日で舞台、終わりだもん。後片付けがあるんだ。帰ってこなかったら、縛り首だよぉ」  おさげ髪の女の子は、右手で首を縛るふりをして笑った。私は礼をいって、階段をあがっていった。  ビルの前に立ってカヤを待った。光を背に受けて、細長く伸びている私の影。アスファルトの地面を横切る、巨大な|蚯蚓《みみず》のようだ。私の中の虫は、こんな形をしているのだろうか。死刑の宣告を受ける前の罪人のような気分だ。私の中に、本当に虫がいるのだろうか。『クラブ・夜の女王』というネオンの赤い光に照らされて、道の向こうに燃えるような金髪が現れた。カヤだった。袖をまくりあげた、トルコブルーのシャツに、白の綿パンツ。暗い新宿の路地に舞い降りた天使のように見える。片手でリズムをとりながら、踊るような足どりでやってきた。  私から三メートルほどのところに来て、その足がぴたりと止まった。カヤは目を細めて、こっちを見た。私が誰だかわかったらしい。彼は、一歩、後ずさった。 「逃げないで」  私は彼のほうに足を踏みだした。 「教えてくれるまでは、追いかけ回すわよ」  一瞬の間を置いて、カヤの絹ずれのような声がした。 「なにを……教えろというんだ」 「私に関すること、すべてよ」  私は彼を見つめた。彼の視線が鋭利な|刃《やいば》となって、私を突き通した。うす暗い路地では、その瞳に映る表情は計りがたい。首元の水牛の角の白いペンダントが、ネオンの光で血の色に変わって見えた。しばらく私たちは、そうやって睨み合うように向き合っていた。 「よおっ、姉ちゃんたち、つきあわないかぁ」  カヤまで女性だと思った酔っぱらいが、私たちの間を通り過ぎた。私たちは、お互いの視線を外した。騒がしさと酒臭い空気が消えてから、私は再び口を開いた。 「私の家で石の器を見て、なにを感じたの? どうして私から逃げようとするの?」  カヤは、降り注ぐネオンの光を透かして私を見た。そして他の誰かに聞かれるのを恐れているような、小さな声で聞いた。 「あんたは……なにも感じないのかい」 「えっ?」  彼は、ごくりと|唾《つば》を飲みこんだ。 「虫だよ」  その言葉は、荒々しい風となり、私をなぎ倒した。それと共に、やはり、という気持ちが湧きあがってきた。 「あなた……虫が見えるの?」  自分でも声が震えているのがわかった。  カヤは私に視線を注いだまま、ゆっくりと頷いた。金髪が、仏像の光背のように輝く。 「ああ。ぼんやりとだけど。……最初、お宅に行った時、あの石の容れ物の中から、生き物がいた|気《け》|配《はい》がした。この世のものじゃない生き物だった。でも、家の中に、そいつはいなかった。だけど、この前、あんたに通りで会った時、僕には|視《み》えた。……あんたの中に、そいつがいるのが」  私は自分の下腹部を押さえた。常世虫は、ここにいるのだ。ここにいて、私の心を|喰《く》い続けている。足元の地面が沈んでいく。この体が自分のものではないような気がした。  カヤが私の下腹部から目を|逸《そ》らせるようにしていった。 「そこにいる虫が何なのかわからない。……変なんだ。普通なら、悪い霊とか、いい霊とか、僕にはわかる。だけど、その虫の存在が、いいものかどうかもわからない」 「どうしたらいいの。教えて、私、どうしたら……」  思わず、カヤに近づこうとしたとたん、 「寄るなっ」  悲鳴があがった。カヤは、両手で頭を抱えこんでいた。顔が真っ青になっている。しかし、目は私に釘づけになったままだ。その視線が、だんだんと遠い宙の一点へ集中していく。彼が脱け殻のように見えた。魂が今にも浮遊していきそうだ。  私はカヤの肩に手をかけて揺すった。 「どうしたの?」  カヤは、はっとして|瞬《まばた》きすると、私から飛びさがった。 「そいつを俺に近づけるなっ」  彼は脅えていた。唇に唾が飛んで、白く小さな泡がくっついていた。 「なにを怖がっているの」  カヤは、ゆっくりと頭を左右に振った。 「わからない……。ただ、そいつが語りかけているんだ。新宿で、そいつを視た時からだ。昼も夜も、僕に何かをいおうと、触覚を伸ばしてくるのがわかるんだ」 「いったい何を……」  その時、ビルの階段のところに人影が現れた。銀のスパンコールの入った黒いTシャツを着た男だった。町の|巷《ちまた》に消えて行く前に、カヤを見つけて声をかけた。 「こんなとこにいたの。みんな探してたぜ。音楽のテープのことでさ」  カヤは救われた表情で、「今、行く」と答えた。そして私を避けるようにして、ビルの階段に向かった。私はその前に立ちふさがった。 「教えて、その虫は、どんな感じなの」  カヤは、ぎくりとしたように私を見た。 「いってよ。知らないでいるのは嫌だわ」  その答えを聞くまでは、絶対に引きさがらないつもりだった。カヤは、風の中の風船のように体を揺らせた。そして大きく息を吸って私の上に視線をさまよわせた。|喉《のど》から|囁《ささや》き声が|洩《も》れた。 「そいつは……大きい。そして……どんどん大きくなろうとしている」  カヤは顔を|歪《ゆが》めると、私の横をすり抜けて、階段を走りおりていった。  大きい。私の体ほどに大きい。私の体のほとんどは、あの虫に占領されているのだ。  私は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、その場につっ立っていた。頭が|痺《しび》れたようになっていた。回りのビルが、ネオンサインが、人々がどろどろと形を崩していく。赤や紫、黒、黄色。毒々しい色が、夜の町の|坩《る》|堝《つぼ》の中で溶けあっている。  その中に私が立ち尽くしている。  いいえ、それは私ではない。虫だ。巨大な長い虫が、のたりのたりと、都市という、毒々しい色の泥の中を|這《は》いずり回っている。  なんて、おぞましい想像だろう。  私は歯を食いしばり、ビルの壁に背中をもたせかけると、天を見あげた。街の明かりに染まった夜空もまた、色のついた泥に見えた。震えている私のうえに、歌舞伎町の|喧《けん》|騒《そう》が、覆いかぶさってきた。 「ほぉう、いい飲みっぷりだな」  隣の男が感心したようにいった。私は、ちらりとその男を見ると、カウンターに空のブランデーグラスを置いた。男は、にやにや笑いながら、それを指さして、バーテンダーにいいつけた。 「おい、こちら、ブランデー、もう一杯だって」  バーテンダーは|慇《いん》|懃《ぎん》に一礼して、空のグラスを取りあげた。もう何杯目のレミーマルタンか、覚えてなかった。  心地好いジャズの流れる静かなバーだった。歌舞伎町でも、こんな店があるとは信じられないほどだ。あのまま家に帰る気にはなれなかった。町をあてもなく歩いていた私に声をかけたのが、今、隣にいる男だった。  年は五十代くらい。仕立てのいいスーツを着ている。どこかの会社の、地位のある人物のようだった。彼が私を、このバーに連れてきたのだ。  酔って、なにもかも忘れてしまいたい。そう思ってグラスを重ねるのに、意識のどこかが常に|醒《さ》めている。自分の頭を切り開き、虫の記憶をごっそりと取りだして、トイレに流してしまいたかった。  私の前に新しいブランデーグラスが置かれた。透明な|飴《あめ》|色《いろ》の液体が、バーの照明を反射してきらきらと輝いている。隣の男が、煙草をうまそうに吸いながら話しかけてきた。 「なにか悩み事がありそうだね」  私は頷いた。酒をがぶ飲みしている女を見て、幸せそうだという男がいるとしたら、とんでもない|朴《ぼく》|念《ねん》|仁《じん》だ。 「悩みなんて、まったくの他人に話してみると、気が楽になったりするものですよ」 ——私の心を虫が食べてますの。この世のものではない、巨大な虫が。  そんなことをいって、気が楽になるものなら、百万遍でもいってやる。  私は、ブランデーをぐいっと飲んだ。黒い服を着て、ポマードで|撫《な》でつけたバーテンダーの頭が、海草のようにゆらゆらと揺れている。カヤにいわれたことが、とても|滑《こっ》|稽《けい》に思えてきた。  私は、なにかとんでもないコメディ番組に出演しているのだ。カヤは役者。純一も役者、加奈も役者。みんなで私を担いでいるのだ。隣の男も実は役者。このバーは芝居のセット。そして私は、この芝居のヒロイン。 ——私には、ちょっと荷が重すぎる。この役、おろしてもらいたいわね。  隣の男が、煙草とバーボンの|臭《にお》いの混じった息を吐きかけてきた。 「きみの悩み、いってごらんよ」  浅黒い肌の上に、|世《よ》|馴《な》れた風情を身にまとい、スマートな中年だと自信たっぷりに思いこんでいる。 「私ね、病気なの」  彼は|眉《まゆ》をひそめた。 「そんな風には見えないけどね」 「外見は、普通に見えるけど、私の体の中はもうだめ。虫に|喰《く》い荒らされているのよ」  男の驚く顔に自虐的な喜びを感じながら、私はいいつのった。 「祖母が、寄生虫のいる魚を食べて、体中、虫だらけにして死んだのよ。これって、血統なのかしら」  男は笑いだした。 「おかしな|女《ひと》だ。俺を怖がらせようとしてるんだろ。その手には乗らないよ」  私は男を|一《いち》|瞥《べつ》して、ブランデーをあおった。 「もう一杯」  バーテンダーが、私のグラスを受け取った。隣の男は、まだ薄笑いを顔にとどめて、私ににじり寄った。 「本当のことをいってごらんよ。何を悩んでいるんだい」  酒と煙草に荒れた男の顔は、腐った水を思い出させた。私は顔を背けた。かたん、と小さな音をたてて、新しいブランデーが置かれた。その強い芳香を|嗅《か》いでいると、すべてがどうでもいいことのように思えてきた。 「私の夫がね、浮気をしているの」  頭に浮かんだ言葉をいってやると、男は、おおげさに驚いた顔をした。 「きみ、人妻なの? いやあ、そうは見えないなぁ。ひどいね、こんなきれいな人を放っておいて、浮気する亭主なんて」  男は、とたんに|饒舌《じょうぜつ》になった。自分にわかる分野の話になったので、喜々として私を諭しはじめた。浮気に走るのは、男の|性《さが》だ。その原因は、夫にもあるし、妻にもある。もちろん、きみのような場合は、夫が悪いに決まっているが……。まるで会社で部下に演説しているようだ。演題は『夫の浮気についての自己弁護』。  私はグラスを取りあげて揺すった。ブランデーが、ガラスの壁にぶつかって渦を巻く。  純一が「常世蟲」と彫られた石の器を持ち帰った夜も、こうしてブランデーを飲んでいた。|遥《はる》か昔のことのようだ。一人で過ごす夜が寂しくて、ブランデーを傾けていたあの頃、私は幸せだったのだ。今になって、そうだと思える。純一が残業ばかりで遅く帰っても、私に対する独占欲を発揮しても、そのせいで口喧嘩が起きても、彼は彼だった。欠点も長所も、私の愛している夫の一部だったのだ。しかし、今、純一は、ただの優しい人。それ以上、どんな形容詞がつけられるだろう。  幸せとは、失ってはじめてわかるもの。だけど、これほど悲しいことはない。幸せを感じるために、不幸にならないといけないとは。人は、不幸と幸福の|狭《はざ》|間《ま》を振り子のように行き来する。幸福の次は、不幸、不幸の次は、幸福と。今の私が不幸というなら、次は幸福が訪れる順番だ。だが、そんな時がきても、虫に喰われた心は、幸福を感じることができるのだろうか。  |琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の液体は、私の思考のように、グラスの中でぐるぐると渦を巻く。落ち着く場所の見つからないブランデーを、一気に飲みほした。永遠に、私の胃の中を回っていればいい。私は、皮肉な笑いを浮かべた。  バーテンダーが、もう一杯、作るかと聞いた。私は、カウンターの端に座っていたカップルが立ちあがるのに気がついて、時間を尋ねた。 「三時です」  バーテンダーが腕時計を示した。そのとてつもなく遅い時間が、酔っぱらった頭に|滲《し》みこんでいった。友達と朝まで飲み明かしたことはあっても、一人で、こんなに夜遅くまで外にいたのは、はじめてだった。ついでにいえば、町でひっかかった男と、そのままバーに入るというのも、はじめてには違いない。 「帰らなきゃ」  腰を浮かしかけた私の腕を、隣の男がつかんだ。 「おいおい、もうちょっと、いいだろ」 「もう遅いから」 「どうせ旦那も浮気しているんだろうに」  私は男を|軽《けい》|蔑《べつ》の目で見た。男は、その視線を意にもかいさずにいった。 「週末だし、タクシーを拾うのも大変だよ」  路上で、あてもなくタクシーを探して立ち往生することを考えた。そこまでして帰宅する必要があるだろうか。  あのコンクリートの部屋は、もう私の家ではない。私と純一が作り上げた空間は崩壊してしまった。私にとって、純一はもはや遠い存在だ。 「どうだい」  肉厚の手が、肩に置かれた。 「もう一軒、行かないか」  網膜にへばりついた黒い滲みのように見える男の顔に、私はゆっくりと頷いた。     十六章  乳白色の空に浮かんだ黒い満月のような|瞳《ひとみ》が、私を|睨《にら》みつけていた。私が見守るうちに、その瞳は遠ざかっていき、やがてひとつの顔が現れた。  厚い唇。ぼってりとした鼻。高い|頬《ほほ》|骨《ぼね》。  秦河勝だった。彼の唇が動いた。 ——蟲を送れ——  低いその声が、私の頭に満ちていく。  蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。……。  私は、はっとして目を開けた。暗い部屋の中だった。空気を|微《かす》かに震わせるエアコンディショナーの音。ベッドサイドのデジタル時計が五時二十六分を示している。  隣で大きな影が動き、男の|唸《うな》るようないびきの音が聞こえた。  私は全裸のままベッドに寝ていた。酔っぱらって|辿《たど》り着いたホテルの一室。性急なセックス。下腹部の奥に鈍い痛みが残っている。少しも気持ちよくはなかった。興奮して声をあげる男の顔を眺めながら、私は自分の肉体が消えてしまっているような感覚を味わっていた。いいや、肉体だけでなく、感情自体が消えてしまっていた。  なにも感じなかったのだ。セックスの高揚も、罪の意識も、嫌悪感すら。  私はベッドから起きあがった。暗い部屋で、ぶよぶよに膨れた腹をさらして、大の字に寝ている男。この名も知らない男が|羨《うらや》ましく思えた。単純に女の体を求めた後、充足して眠っている。妻の|許《もと》に戻れば、わずかな罪悪感と、してやったりという満足感の入り交じった感情に揺らぐことだろう。その感情を自分の生きている証のように|呑《の》みこんで、まあ、人生、いろいろあるさ、という顔で世の中を渡っていくのだ。  頭がずきずきする。気持ちが悪い。私はバスルームにはいり、お湯の蛇口をひねった。シャワー口から熱い湯が吹き出してきた。  激しい湯に肌を打たせながら、丹念に体を洗いだした。少しずつ頭がはっきりしてくる。昨夜の出来事が、カヤの言葉との会話が思いだされてきた。私は自分の下半身に目を|遣《や》った。|濡《ぬ》れた肌が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。腹にあいた小さな口のような|臍《へそ》が、何かを語りたがっているように動いていた。  ここに、虫がいるのだ。あの緑色に黒い|斑《まだら》の巨大な虫が。この柔らかな皮膚の下で、体をくねらせて動いている。そして私の心を|貪《むさぼ》り|喰《くら》い、私を私でなくならせていく。  恐怖がじわじわと|湧《わ》きあがってくる。しかしその恐怖感すら、幾重にも重ねた布を通して、ようやく脳に達してくる。少しも直接的ではない。私の中の激しい感情が磨滅していっているのだ。恐怖も、愛憎も、悲しみも、怒りも。これも、あの虫のせいなのか。  私は、もどかしさに奥歯を|噛《か》みしめた。悲しみを感じるよりも先に、私は泣いていた。涙が、頭から降り注ぐ熱い湯と一緒になって、足元に流れ落ちていく。涙だけは、私に忠実だった。|溢《あふ》れる涙を両手ですくって、抱きしめてあげたい。これだけが、私の感情を|直截《ちょくせつ》に表してくれている。  だけど、どうしたらいいのだろう。このまま何もしないで、虫に心を喰わせ続けろというのだろうか。 ——蟲を送れ——  秦河勝の声が頭に響いた。  私は、ぎくりとして顔をあげた。シャワーの湯が、雨のように降りかかってくる。  蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。  まるで脳が「蟲を送れ」という文字を書き|綴《つづ》った経文になってしまったように、頭いっぱいに、その言葉が浮かんでくる。  虫送りの夢が、鮮明に|蘇《よみがえ》った。  橘の木の下で、めらめらと燃える朱色の炎。羽を焦がして、落ちていく虫たち。灰と化していく、害虫のはいった|藁《わら》の箱。ジャアジャアというシャワーの音が、やがて、ぢりぢりりりりり、という音に変わった。  虫の焼ける音だった。  六月の朝の空気が、肌をひんやりと包みこむ。私は、朝まだきの新宿を歩いていた。新聞配達の青年がバイクで通り過ぎる。浮浪者たちが、ダンボールの箱の中で眠りこんでいる。朝まで飲み明かした男が二人、ふらふらと駅のほうに歩いていく。毎朝、この町で繰り返されているだろう光景が、今日も同じようにはじまっていた。  しかし、私にとっては、今日は、いつもとは違う。目を覚ましたら、自分の家の中ではなく、ホテルの一室。横に寝ていたのは、知らない男だったのだから。そして、これからやることは、日常では決して、実行する勇気も生まれないことだ。  虫送り。虫を、あの世に送り返す儀式。  私は、ポケットの中でホテルのマッチを握りしめると、朝もやに|聳《そび》え立つ白い高層ビルを見あげた。  スペーシア・ビルの入口は開いたばかりだった。私は回転ドアを押して、がらんとした玄関ロビーにはいっていった。  サンクチュアリの入口には立て札があった。 『本日は終了いたしました。またのお越しをお待ちしております』。立て札を横目に、エレベーターホールへと進む。つきあたりを曲がると、『サンクチュアリ管理事務所』のドアが見えた。そのドアのノブをそっと回した。  事務所の中には誰もいなかった。机の上に開かれたままに置かれた日誌。壁にはガードマンの私服らしい、茶色のズボンをかけたハンガーがぶらさがっている。私は事務所を横ぎって、サンクチュアリの中に続くドアを押した。ドアには|鍵《かぎ》はかかっていなかった。  サンクチュアリの天井を覆うガラスから、白々とした朝の光が|射《さ》しこんでいた。私は緑の木立の中に足を踏みいれると、足音を忍ばせて|橘《たちばな》のほうに歩いていった。  橘は、緑から白へ衣替えをしていた。小指の先ほどの白い|可《か》|憐《れん》な花が、枝いっぱいに咲き誇っている。周囲の緑の木々は、橘の白い花を浮きたたせるように、鮮やかな新緑に燃えている。橘は、白い花模様の衣をまとい、サンクチュアリの中で輝いていた。  |爽《さわ》やかな香りが、あたり一面に漂っていた。私はゆっくりと木に近づいていった。  一歩、一歩、近づくにつれ、花の香りが私の心に染みいってくる。気が遠くなる。あの時と同じだ。この前、ここに来て、気を失った時のようだ。  いけない。しっかりしなくては。  私は心を引き締めた。  しかし、体内に流れこんでくる橘の香りは、そんな自戒も簡単に吹き飛ばしてしまう。陶然とした気分が私の内に忍び込んできた。心が静かになってくる。ただ心地良い。木の幹に手を伸ばそうとした。  その時、目の前の色が朱に変わった。 ——蟲を送れ——  頭の中で声が響いた。  そのとたん、どういうわけかわからない。突然、橘の木と重なるようにして、秦河勝が現れた。彼の姿は、朱色の炎に包まれていた。瞳をかっと見開いて、憤怒の表情を浮かべながら、火の中にすっくと立っている。火に焼かれているというのに、勝ち誇ったような顔をしていた。  やがて、その渦巻く炎の中から、別の顔が現れた。|皺《しわ》におおわれた厳しい顔。白髪が煙のように逆立っている。  おばあちゃんだった。  祖母は、炎の中で叫んだ。 ——あんたの中の蟲を送るんやっ。  そして、また炎の中に消えた。  次には若い女の顔が現れた。泣きながら叫んでいた。 ——蟲を送って!  私自身の顔だった。  そして炎の色は消えた。老人が両手を広げたように伸びる橘の幹だけが、先と同じように目の前にあった。  私は白昼夢から覚めて、あたりを見回した。橘の花の香りが、再び私を包みこんだ。ふと、うつむくと、自分の着ている服の白い色が、緑に見えた。白い繊維の間から、緑色がじわじわと|滲《にじ》みだしている。  純一の首筋から、巨大な虫が出てきた時と同じだった。今度は私の番なのだ。私の中にいた虫が出てこようとしているのだ。  こめかみが、ずきんずきんと脈打ちはじめた。  私は震える手で、ポケットに手をつっこんで、マッチを探った。  虫を送るのだ。私の中の虫を送るのだ。虫を、あの世に送るのだ。それが秦家の血を継いだ者の勤め。それが、先の白昼夢の意味するものだとわかった。  この体に火をつけて、虫を送ることが——。  マッチがうまくつかめない。  私の中の虫が邪魔をしているのだ。  虫よ、消えろ。この世は、おまえのいる場所ではない。  私は心の中で叫ぶと、ようやくポケットからマッチを取り出した。震える手で、マッチ棒を取り出し、火をつけようとした。  その時、誰かが私の前に飛びだした。  カヤだった。金色の髪の毛が肩から流れ落ちている。昨夜と同じトルコブルーのシャツに白の綿パンツだ。|憔悴《しょうすい》した顔つきだった。しかし、黒曜石の輝きを秘めたその目は、ますます澄み渡り、非難の眼差しを私に向けていた。  なぜ彼がここにいるのかわからなかった。さっきまで体内に|漲《みなぎ》っていた力が雪のように溶けていく。手からマッチが滑り落ちた。カヤがそれを拾った。  まわりで|灌《かん》|木《ぼく》の揺れる音がして、木の間に、人々の姿が現れた。十数人いるだろうか。みんな男たちだ。見覚えのある顔が混じっている。クリーニング屋の店主がいた。銀行で隣合った老人もいた。サンクチュアリのガードマンまでいる。彼らは夢遊病者のように、ゆらりゆらりと私を囲む円を狭めてくる。その中心を失った歩き方は、まるで操り人形のようだ。自分の意思どころか顔の表情まで消え失せて、ただ黙って、私に迫ってくる。  私は後ずさりした。橘の木が背中にあたった。レモネードの匂いを、もっと甘くしたような花の香りが、|怒《ど》|濤《とう》のように私を包む。頭がくらりとする。心地良さが波となって全身に伝わる。下腹部が、火を|灯《とも》したように熱くなる。とろとろとしたその火はやがて、激しい炎をあげはじめ、体内に広がっていく。体の芯が熱く、燃えている。炎は快感となり、私を包みこんだ。  私は爆発しそうな感覚に身を|捩《よじ》り、橘の幹に|爪《つめ》をたてた。白い花が一斉に揺れた。木全体が、風もないのに震えている。それに合わせて、私の中の炎も揺れる。橘は強い芳香を放ちながら、見えない腕で私を抱きしめた。足元からつき動かされるような幸福感に気が遠くなっていく。体が|痺《しび》れてきた。下半身が形を崩し、溶岩となってどろどろと地面に流れていくようだ。  私は深いため息をついた。どこからこれだけの空気がでてくるのだろうと思うほど、長い息だった。息が吐き出されていくに従って、私の下腹部がせりあがりはじめた。やがて腹から、薄緑色のゼリーのような半透明のものが出てきた。緑色のボールに似たものを突き出させた私の腹は、臨月間際の妊婦さながらだった。つるつると光る緑色の表面に、二つの青い目が見えた。  虫の頭部だった。ヘルメットのように硬そうな頭を先にして、私の腹からアメーバが分離するように、ゆっくりと姿を表す。しかし純一の体から出てきた時とは、形が違っていた。青い目は生気を失って濁っている。粘液で、てらてらしていた皮膚も、今は乾ききり、|蝋《ろう》|細《ざい》|工《く》のように光っていた。  私は、背中を橘の幹にもたせかけて、突き出てくる虫の頭部を凝視していた。頭頂から背中にかけて、くしゃくしゃと皺が寄っている。まるで、皺だらけの人間の大脳を、緑色のゼリーで固めたようだ。私の体はその場に凍りついていた。|膝《ひざ》が震えている。はあはあ、という自分の荒い息だけが聞こえてきた。  半透明の虫は、私の呼吸に合わせて、少しずつ腹からもがき出てくる。痛みはないが、腸が引きずりだされているような、気味の悪い感覚が続く。頭部の次には、巨大な結節が現れた。ひとつの結節は、私の胴まわりほどある。その結節を小刻みに震わせて、全身を捩りながら腹から吐き出されてくる、緑色に光る虫。結節が一個、こぽりと出ると、次の結節が続く。虫に足はなく、腹部の|蠕《ぜん》|動《どう》運動によって、前へ前へとじりじりと押し出される。  私は、巨大な虫をこの世に生み出していた。それはもはや、柔らかで細長い虫ではない。硬質の皮に包まれて、バナナのようにそり返り、短い|体躯《からだ》を震わせて|蠢《うごめ》く虫。  気の遠くなりそうな意識の中で、それが何なのかわかってきた。  |蛹《さなぎ》だった。  常世虫は、私の体内で肥え太り、いつの間にか、幼虫から、蛹に変態していたのだ。  おぞましさで、胃が|痙《けい》|攣《れん》した。その痙攣にあわせて、蛹もびくびくと揺れた。これほどに巨大な蛹が、どうやって今まで、私の中におさまっていられたのか不思議だった。  永遠とも思える時が過ぎた。ようやく虫の|尻《しり》がするりと私の腹から落ちた。蛹は地面をころころと転がり、橘の木の下で止まった。  私は、その場に崩れ落ちた。  眼前には、二メートルはありそうな蛹が横たわっていた。目は、死んだように光を失っている。|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の体は、エジプトのミイラを埋葬した|柩《ひつぎ》のように見えた。恐怖や嫌悪感を感じる気力もなかった。私の中の力という力が、蛹とともに、体外に出ていったようだった。私も、カヤもまわりの男たちも、ただ黙って、棺桶のような蛹を見守っている。巨大な蛹は、ぴくりとも動かないのに、不気味な存在感を漂わせていた。  やがて、その中から、幽かな音が聞こえてきた。枯れ葉を踏むような、乾いた音。私の唇が震えた。以前、夜中に聞いた、純一の体の中から聞こえてきた音を思い出したのだ。音は、次第に大きくなり、蛹は次第に揺れはじめた。節と節の間が伸びてきて、全身が長くなった。そして、背中にぱっくりと黒い亀裂が走った。  亀裂の中から、白いものがむくりと頭を|覗《のぞ》かせた。二つのすすきの穂のような触角が現れた。細かな繊毛のついた足が、蛹の殻を押し破った。大きく割れた殻の間から、白い産毛に覆われた巨大な昆虫の胸が出てきた。背中には、やはり白い毛がびっしりと生えた羽がついている。最後に、蛹の殻を|押《お》し|潰《つぶ》して、節のある胴体が|這《は》い出した。  それは巨大な|蛾《が》だった。柔毛に覆われた頭部の二つの目は、再び光を取り戻し、深い青に輝いている。その威圧するような蛾の足元で、蛹の殻は、跡形もなく消えていった。  白い蛾は、六本の足を使って、橘の幹を|這《は》いあがっていく。木を登るにつれて、縮んでいた羽が大きく広がってきた。白い扇のように、優美な形で震えている。橘の葉や花が、その白い胴体の中を通り抜ける。  私の体内から出てきた蛹と同様、その蛾も半透明で、実体はないようだった。  蛾は、やがて木の先端に達すると、ゆっくりと羽をはばたかせた。むせかえるほどの橘の花の香りが波となり、次から次へと私を包みこんだ。その波に洗われて、私の中の何かが外に押しやられていく。恐怖、小さな想念、心の|片《へん》|鱗《りん》……。そういったものが、淡雪のように溶けていき、空虚になった私の心の隅々が、花の香りで満たされる。  その香りに誘われるように、私の目から涙が溢れた。理由もなく、ただ後から後から、涙が頬を伝う。  白い蛾は、橘の花の|香《か》の中で、何度も羽をはばたかせた後、ふわりと舞いあがった。  私を取り巻く男たちの間に、どよめきが起こった。蛾は、男たちの頭上をぐるぐると飛びはじめた。銀色の|鱗《りん》|粉《ぷん》が雪のように舞い落ちる。男たちはその粉を浴びながら、両手を天にかざした。  やがて白い蛾は、カヤの頭上にきてとどまった。蛾の巨大な胴体が震えたかと思うと、尻から白いものが滴り落ちた。カヤは恭しく両手でそれを受け取った。  半透明の白いもやもやとした卵だった。カヤは、白い蛾に頭をさげると、卵を口に含んだ。細い|喉仏《のどぼとけ》が、こぽりと膨れあがり、卵が呑みくだされるさまが見えた。カヤの顔に豊かな|微笑《ほ ほ え》みが浮かんだ。 「常世神」  カヤが呟いた。顔は、ますます幸せそうに輝いている。  常世神、常世神、と、まわりの男たちが口々に叫びながら、白い蛾に両手を差し出した。常世神は、男たちの頭上に飛んでいき、つぎつぎと白い卵を落としていった。そのたびに男たちは歓喜の声をあげて|跪《ひざまず》き、卵を呑みこんだ。  最後に常世神は、ふわりと宙高く舞いあがった。その体は透明度を増し、青い光を放つ二つの目が星のように輝いていた。常世神は銀色の鱗粉を舞い散らせながら、サンクチュアリの木々の上をひとまわりすると、天井のガラスを通り抜けた。そして白い羽を羽ばたかせて、新しい朝を迎えようとしている東京の空に飛びたっていった。  今日は、いつもの朝ではないのだ。  私は、木の下に座りこんだまま、|茫《ぼう》|然《ぜん》と思った。特別な一日なのだ。何が起きたのか、よくわからなかったが、さっきの情景の美しさに、まだ心は高鳴っていた。  すべては終わったのだ。常世虫は、常世神となった。私の体内の虫は出ていった。私は、このうえなく満ち足りた気分と|安《あん》|堵《ど》|感《かん》に包まれていた。悪夢のような日々は終わった。もう何も私を|脅《おびや》かすものはないのだ。  静けさに満ちたサンクチュアリの中に、カヤの声が響いた。 「常世神は、この世に飛びたった。神の卵は、全世界に生み落とされる。この世は救われるだろう」  カヤの金色の髪は燃えるように輝き、その目は常世神の去っていった空の一点を見つめていた。声は深く柔らかく、どこか遠くの世界から聞こえてくるような気がした。 「しかし、まだひとつ、仕事が残っている」  カヤは周囲の男たちを見回した。 「虫を送るのだ」  男たちの間から、低い賛同の声が起こった。 「虫を送れ」 「虫を送れ」 「|呪《のろ》い虫でてけ」 「|憑《つ》き虫でてけ」  地の底から響くような声が湧きあがった。  私は橘の幹に手をかけると、震えながら立った。顔が青ざめているのがわかる。どうして彼らは虫送りの言葉を知っているのだろう。まるで私の夢を盗み見たようではないか。 「呪い虫でてけ。憑き虫でてけ」  男たちは、私を囲む輪を縮めてくる。  カヤが私を指さした。 「おまえの中の悪い虫を送るのだ」  男たちの骨ばった手が、私の体を押さえつけた。  いったい、どういうことなのだ。常世虫は出ていった。もう私の中に、虫はいないのに。  まだ|朦《もう》|朧《ろう》としている頭に疑問が浮かぶ。  しかし私には、抗議の声をあげる気力もない。すべてが夢の中のように、遠い世界のことに思えた。  カヤが美しい顔に微笑みをたたえて、私に近づいた。その手にマッチが握られている。私は恐怖に声をあげようとした。しかし喉がかすれて、老人のようなしゃがれた|呻《うめ》き声がもれただけだった。  しゅっ。耳許でマッチを擦る音がした。その音が私の|呪《じゅ》|縛《ばく》を解いた。 「やめてーっ」  私は絶叫した。まわりの男たちが、さらに力をこめて私を押さえつけた。カヤが火のついたマッチを私の服に近づけた。ぼっと小さな音をたてて、服が燃えはじめた。朱色の炎がめらめらと広がっていく。 「消してーっ、だれか止めてっ」  服の焼ける臭いに|咳《せ》きこみながら、私は声をふり絞った。すでに体は炎に包まれていた。下腹部の皮膚が焼けていくのがわかる。熱さと痛みの境目のない苦痛が私を襲った。煙が目にしみる。両手で顔を覆った。  しかし、私の手が触れたのは、自分のものとは思えないほど、たるんだ顔の皮膚だった。私は驚いて手を離した。それもまた、私の手ではなかった。黒い老人斑の滲みでた、しなびた手。細いきゃしゃな骨が、扇の骨のように浮き立っている。私は叫んだ。 「ああ、やめてっ——やめとくなはれ」  声が祖母のものに変わった。私はぎょっとして口を閉じようとした。しかし、私の口は、勝手に怒鳴り続ける。 「だれぞ、助けとくなはれっ。おお、熱い熱い」  不思議な気がした。苦しがっているのは、私ではなく祖母だった。私の苦痛は、祖母を通して伝わってくるものだった。祖母の体は、|悶《もだ》え苦しみ髪をかきむしり、怒りの声をあげ続ける。  やがて私の中から、人の形をした白い煙が流れだした。煙は祖母の姿をとっていた。ぎりぎりと身を捩りながら、上に昇っていく。  私の手から皺は消え、ごつごつした男の手に変わった。そして体は、がっちりとした筋肉質の男のものと化していた。太い足を踏み鳴らして、私の喉から声が|迸《ほとばし》った。 「熱いぞうっ、熱いぞうっ。こいつを消せえっ、わしを怒らせる気かあっ」  野太い男の声だった。|拳《こぶし》を天に振りあげ、身悶えしながら叫び続ける。全身、炎に包まれて、皮膚から白い煙が立ち昇る。私から抜け出した煙が、ずんぐりした男の姿となった。  秦河勝だった。  彼もまた、身を捩らせて昇っていく。そして、そこにたゆたっていた祖母の煙とひとつになって、橘の木の幹を這いあがる。やがて、枝の先々に達し、渦を巻き、橘の木を白い帯で絡めるように包んでいった。  煙の行方を見送っているうちに、再び熱さの感覚が戻ってきた。体が焼けていくのがわかった。皮膚が焦げ、ジリジリジリとめくれあがる。みるみる間に髪の毛に火が広がっていき、灰と化す。頭皮が|火《ひ》|脹《ぶく》れになり、ぷつぷつと皮がはじける。手は黒く|爛《ただ》れ、爪はぽろりとこぼれ落ちた。  しかし私の意識は、深いところで冷静だった。焼け爛れていくのは、私の肉体だけだ。ぼうぼうという炎の音を聞くうちに、私は眠気に襲われていた。肉体が苦しみに|喘《あえ》いでいるのに、私の精神は、深い眠りにつこうとしていた。  私は自らの発する炎の中に崩れ落ちた。仰向けに倒れると、橘の木から離れた煙が流れていくのが見えた。煙の彼方に、うっすらと水平線が浮かびあがっている。夜明けなのだろうか。薄明の世界に、白々とした光が射している。  緑の草原が、なだらかな曲線を描いて広がっている。その向こうに海がきらめいていた。草原を渡って、人々の行列が青い海に向かっている。体を煙のように揺らせて、|遥《はる》かな海原へ遠ざかっていく。  その中に祖母を見つけて、私は叫んだ。 「おばあちゃーん」  祖母が振り向いた。高い頬骨の上で、かつて厳しい光を宿していた目には、何の感情も浮かんでいなかった。祖母の後にいた男も、がっしりした首を捩って振り返った。  秦河勝だった。  彼の顔もまた、無表情だ。怒りも悲しみも喜びも、肉の張りきった顔の底に深く埋められている。  緑の草原と、青い海。そして影も落ちないほどに淡い光。感情を消し去った二人の顔も、そのあまりの平安な風景のひとつと化してしまっていた。  私は自分の体を焼き尽くす炎に包まれながら、彼方の世界の二人を見つめていた。  静寂に包まれた世界から、美しい調べのような感情が流れてきた。  それは何といったらいいのだろう。静けさの底に絶え間なく流れるもの哀しさ。清らかな、もの哀しさ——。  私と祖母と秦河勝の視線が、その調べの中で、絡み合い、離れていった。  やがて祖母も秦河勝も、また前を向いた。そして行列の人々の中に混じって、ゆっくりと遠ざかっていった。     十七章  秋の色を帯びた|日《ひ》|射《ざ》しが、ガラス窓から降り注いでいる。窓辺に飾られた|桔梗《ききょう》の花。白いベッド。クリーム色の壁に囲まれた、誰もいない清潔な部屋。まるで一枚の写真のように、すべてのものは停止している。  ドアの開く音がして、純一が現れた。優しい笑みを浮かべて、私の傍にやってくる。ベッドの横の|椅子《いす》を引き寄せて座ると、私にかがみこんだ。 「気分はどうだい」  私はわずかに頭を揺らせた。体を動かすのは、それだけで精一杯だった。  純一は、私を気遣うように聞いた。 「実は、警察の人が来ているんだ。よかったら、あの事件のことの話を聞きたいってね。まだ|喋《しゃべ》れないって断ったんだけど、合図だけでいいっていうから。どう思う?」  私は、承知したという印に、|瞼《まぶた》を一回閉じた。純一との間に取り決めた合図だった。純一は|頷《うなず》いて、病室を出ていった。  彼が連れてきたのは、小柄な男だった。細い目につるんとした顔、角刈りの頭は、刑事より、板前というほうが似合っている。 「すみません。お邪魔します」  刑事は、純一の勧める椅子に座ると、メモを取り出した。 「はい、だったら、瞼を一回。いいえ、だったら、目を左右に動かせるんでしたね」  私は瞼を一回閉じた。刑事は、視力検査の試験官のような神妙な顔でいった。 「けっこうです。では聞きますが、あなたは、自分の意思で焼身自殺しようとなさったんですか」  私は目を左右に動かした。 「では、誰かに火をつけられたのですね」  瞼を閉じる。 「それは誰か知っていますか」  カヤだ。金髪の髪を光輪のように波打たせた美しい青年。|微笑《ほ ほ え》みながら、私の体に火をつけた男。しかし憎しみは感じなかった。  今になってわかる。私には、あれが必要だったのだ。  虫送りの儀式が——。  私はゆっくりと目を左右に動かした。 「思いあたる人もいませんか」  やはり、目を左右に。  刑事は困ったように、ボールペンでこつこつとメモを|叩《たた》いた。 「ではあなたは、早朝にサンクチュアリに忍びこみ、見ず知らずの誰かに捕まって、火をつけられたというのですね」  私は瞼を閉じた。 「どうして、あそこに行ったのですか」  そういってから、刑事は、失敗した、という顔をした。はい、いいえ、では返事のできない質問だった。彼は考えるようにボールペンの|尻《しり》を|頬《ほお》にあてた。純一が口を挟んだ。 「多分、妻はサンクチュアリにある橘を見にいったのだと思いますよ」  私は瞼を閉じた。  |怪《け》|訝《げん》な表情の刑事に、純一は微笑みながらいった。 「好きなんですよ。僕も一時、あの木がとても気になって、通ったことがあるものですから、妻もそうだと思うんですよ」  刑事は|腑《ふ》に落ちないらしく、曖昧に頷いた。そして、思いついたように聞いた。 「犯人は一人でしたか」  私は目を左右に動かした。 「二人?」「三人?」「四人?」……。  刑事がうんざりした口調で「十人以上?」と聞いた時、私は瞼を閉じた。  刑事は|呟《つぶや》いた。 「いったい、どういうことなんだろうな」  しばらく考えこんでいたが、やがて頭を振りながら立ちあがった。 「どうもありがとうございました。目下のところ、なんの手掛かりもない状況ですが、この犯人は必ず捕まえてみせますから、まかせておいてください」  無反応の私に気勢を|削《そ》がれたのか、刑事は、お大事に、と口の中でもぞもぞといって外に出ていった。  純一は、刑事を戸口まで送っていってから、再びベッドの横の椅子に戻ってきた。 「お袋が、めぐみの容体を聞いていたよ。明日あたり、お見舞いに来たいといっていたが、どうする?」  私は目を左右に動かした。義母の、あたりを|憚《はばか》らない大きな声に、病室の静けさを乱されたくなかった。 「そうだね。じゃあ、また別の時にって、いっておくよ」  純一は私の気持ちを察したらしく、あっさりと応えた。それから、ああ、と思いだしたように呟いて、ポケットから白い封筒を出した。中のカードをつまんで、私に見えるように顔の前にかざした。 『浅川家、吉見沢家結婚式案内状』という文字が見えた。挙式日は十一月三日。 「結婚式には、出席できそうもないけど、祝電は打っておくよ。それでいいかい」  私は瞼を閉じた。生死をさまよう状態で、夏を過ごして、やっと秋になったばかりだ。十一月はまだ先だ。その時、私が、どうなっているのか、想像すらできなかった。  しかし、加奈が、浅川と結婚することになって、ほっとした。あんな男だ。これからもつらいことがあるかもしれない。でも、当人の選んだことだ。それに、苦しみの後には、必ず幸福が訪れる。ほんとうによかった……。  赤子の無邪気な笑い声が聞こえてきそうなほど、清らかな初秋の光。白が目に|滲《し》みる病室。純一が、そっと私の頭を|撫《な》ぜた。全身に巻きつけられた包帯のために、彼の温もりは伝わってこない。私は、白い繭の中に閉じこもっている虫のようだ。私と外界をつなぐものは、この二つの目だけ。  私は純一の目を見た。ただ優しさだけがたたえられたその目。 「愛しているよ」  彼がいった。私は、瞼を一回、ゆっくりと閉じた。  彼は私を愛している。老人が日溜まりを愛するように。子供が花を愛するように。人が、自分のまわりの世界を愛するように。私は、その中のひとつの要素。それだけ。  でも、それでいいじゃないか。私は、彼を包む世界の一部分でいられるのだ。  純一のことで、悩んだり、|嫉《しっ》|妬《と》したり、苦しんだりした日々は遠くに消えていた。もう二度と、そんなことにはならないだろう。私の中の「蟲」は出ていってしまったから。  私の精神は平安だった。それはまるで、どこまでも続く波ひとつない海。常世神の青い目のように、穏やかに澄みきっている。  私は包帯の下で純一に微笑みかけた。彼は私に微笑みを返した。私たちの間に静けさが満ちていく。安らぎに満ちた時が二人を包み、いつまでもそこに漂い続ける。  今、私は幸せだ。     終 章  多田純一は、病室のドアを閉めると廊下を歩いていった。待合室のところに来て、正面から白衣の医師がやってくるのが見えた。 「|北《きた》|見《み》先生」  白髪の混じったショートカットの女医が立ち止まった。純一は、北見医師に走り寄った。 「ちょうどよかった。これから伺おうと思っていたんです。妻の具合を聞きたくて」  北見医師は診察表を抱えた手を持ち直して、額に手をあてた。 「そうですね……。今のところはなんともいえませんが……」 「あの……皮膚は……?」  彼女は|眉《まゆ》をひそめて、首を左右に振った。 「|喉《のど》の中にまで及んでいる強度の火傷ですからね。皮膚移植するにしても、取れるような無傷の皮膚もあまり残っていませんし」  純一は返事を恐れるように、小声で聞いた。 「妻は一生、あの包帯のままで?」 「まさか。もちろん治ります。ただケロイドはかなり広範囲に|亘《わた》って残るでしょうね。治療には、さらに長い時間がかかると思います」  北見医師は、感情を殺した声でばっさりといってのけた。そして、純一の顔を心配そうに|覗《のぞ》きこんだ。 「奥さんにとっては、ショックだと思いますが……」  純一は|頷《うなず》いた。北見医師は彼の肩を|叩《たた》いた。 「私たちもできる限りのことはしますが、やはり一番の治療は、ご主人の心の支えだということを忘れないでくださいね」  純一は言葉を失ったまま、また頷いた。北見医師は会釈して立ち去った。しばらく彼は、力の抜けたように、その場に立っていた。  待合室のテレビがニュースを放映していた。 『今日、中国政府は国連の調停案を受諾するとの発表を行いました。チベットの独立に関しても協議をはじめる用意があるとのことです。突然の中国の軟化に、核戦争の危機も遠ざかり、全世界に|安《あん》|堵《ど》の波が広がっています』  アナウンサーが|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺した。  見ると、待合室の|椅子《いす》の上では、大半の人が居眠りをしている。突然、世界中が緊張感を失ってしまったようだった。純一もまた心地良い眠気を覚えながら、病院を出ていった。 「多田さん」  玄関を出たとたんに名前を呼ばれて、純一は振り向いた。さっきの刑事が近づいてくるところだった。 「すみません。まだちょっと聞きたいことがありまして」 「いいですよ」  純一は、ジーンズのポケットに手をつっこんでいった。刑事は、愛想笑いを浮かべながら聞いた。 「たいしたことじゃないんです。奥さん、例えば、ノイローゼ気味だったとか、そんなことはないですか」  純一は眉をひそめて、口ごもった。 「ええ……そういえば……」  刑事はぴくりと片方の目を細めると、近くのベンチを指さした。 「立ち話もなんですから、どうですか。あそこに座っては?」  純一は思案する様子で彼の後に従った。二人は病院の庭のベンチに腰をおろした。刑事が促すように純一を見た。彼は、両手の指を|膝《ひざ》の上で組んで、重い口調で語りだした。 「実は、あの事件の起きる一か月ほど前に、妻は流産しましてね。それ以来、どこかおかしいところがあったんですよ」  刑事は身を乗りだした。 「というと?」 「突然、僕の性格が変わった、といいだしましてね。……確かに僕は変わったと思います。変わるように努めたというか……」  純一は病院の玄関に目を|遣《や》った。人々が病いを抱えて出入りしていた。この晴れた日の明るい|日《ひ》|射《ざ》しのもとでは、その病気がどんなに深刻なものであるかは想像もできない。妻もまた普段と変わらない外見の下に、とてつもない病気を巣くわせていたのだろうか。 「で?」刑事の声に、純一は、自分がまだ話の途中だったことを思いだした。 「すみません、なんの話でしたっけ」  刑事は戸惑って答えた。 「多田さんの性格が変わられたとかいうことでしたけど……」  純一は、老人のように頭をこくりとさせた。そして両手の指を組み直した。 「ああ、そうでした。確かに、僕は変わったと思います。妻の妊娠を機に自分のことを見直したんです。父親としての自覚が生まれたというか、自分が一段と大人になったような気がしましたよ。それで、早く帰宅して妻を安心させてあげようとしたり、妻のわがままにもカッとしないで聞いてあげようとしたりして、妻のことを気づかっていたんです。……ところが、そんな僕の変化を、妻は、虫のせいだ、虫に|喰《く》われたからだなどと訳のわからないことをいいだしましてね」  刑事は、あきれたように純一に聞き返した。 「虫、ですか?」 「そうです。大きな虫が、僕の体の中に巣くっているというんですよ。病院にまで行きましたが、もちろんそんなことはありませんでした。そうして、どんどん妻の様子はおかしくなっていったんです。あの事件の起こる前夜は新宿で朝方まで飲んでいたらしいんですが、以前の妻には考えられないことです」  純一は言葉を切った。その夜、家に戻らなかったことは、もうすでに刑事には話してあった。あの夜、妻の精神を崩壊させるほどのことがあったに違いなかった。しかし、それが何なのかはわからなかったし、今となってはどうでもいいことに思えた。  妻が外泊した理由について、|詮《せん》|索《さく》したいとも思わなくなるということは、以前の自分には考えられないことだった。やはり、俺は変わったのかなと、純一は思った。|些《さ》|細《さい》なことだが、今では、酒も煙草も、家だけでなく職場でも辞めている。めぐみのいうことにも、一理はあったのかもしれない。純一は、自分にいい聞かすようにいった。 「僕が……もっと、妻のことを気をつけてあげればよかったと思います」  刑事は同情するように、上半身を揺すった。二人の間に沈黙が流れた。病院の前にタクシーが止まり、ピンクや黄色の花束を抱えた女たちが降りたった。休み時間なのか、お|喋《しゃべ》りしながら庭を歩く看護婦の白衣が|眩《まぶ》しい。  刑事はメモを閉じた。 「私は、ひょっとして奥さんは、実際、ご自分で焼身自殺を企てたのではないかと疑っているのですが……」  純一は両手の指をほどいて、膝の上に置いた。そして、ふぅっと息を吐いた。 「その可能性もあると思います。あの頃の精神状態では……。かわいそうに」  刑事はメモをポケットにしまった。 「一応、殺人未遂事件として、調査は続けてみますが……ふわぁっ」  刑事は大きな欠伸をした。そして、照れたように謝った。 「この頃、妙に眠くてたまらないんですよ」  純一は、病院にではいりする人々を眺めた。 「僕もそうでしたよ。この春先かな。眠くて、眠くて、たまらなかった」 「春眠、暁を覚えず、ですかね。しかし今は、もう春でもないのに」  刑事は、大きく両手を広げて伸びをした。純一も欠伸を噛み殺した。 「まあ、もう秋です。季節の変わり目には違いないですからね」  刑事は、それはそうだと笑った。二人は、なぜかはわからないが満ち足りた気分になって、黙って日のあたるベンチに座っていた。  病院の向かいのマンションからは、ベランダに干した布団を叩く、威勢のいい音が響いている。ビルのでこぼこした地平線に縁取られて、青い空が広がっている。遠くでは、銀色のアドバルーンが微風に揺れていた。  妻のことも、仕事のことも、すべて意識から消えていく。ただ穏やかな気分に満たされて、彼は明るい日射しを浴びている。こうして、ずっとここに座っていたい。暖かなベンチの上で、眼前を過ぎゆく光景を眺めながら、日の落ちるまで……。  純一の視線が、少し先の地面の上で止まった。巨大な影が、静かにアスファルトの地面を横切っていく。  彼は驚いて頭をあげた。  一瞬、羽を広げた白い蛾が見えた。きらめく銀色の|鱗《りん》|粉《ぷん》をまき散らしながら、天を横ぎる美しい蛾を。しかし、その姿は見る間に薄氷のように空気に溶けこみ、目を凝らした時には、澄んだ|碧《あお》|空《ぞら》が広がっているだけだった。  美しい白昼夢だ。  純一は|微笑《ほ ほ え》みを浮かべると、深く息を吸いこんだ。  初秋の空気の中に、橘の実の|爽《さわ》やかな香りをかいだ気がした。 |蟲《むし》  |坂《ばん》|東《どう》|眞《ま》|砂《さ》|子《こ》 平成13年1月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Masako BANDO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『蟲』平成6年4月25日初版刊行 平成10年11月30日15版刊行