角川文庫    死国 [#地から2字上げ]坂東眞砂子  炎が赤い舌のように揺れていた。|蝋《ろう》|燭《そく》の灯に、輪になって座る男たちの顔が浮かび上がる。彫刻師が丹念に刻みつけたような、深く険しい|皺《しわ》。高い頬骨、筋肉で盛り上がった肩、張りのある太股。男たちの体つきも顔つきも、どこか似通っている。  そこは暗い岩屋の中だった。湿った岩肌に、重なり合う男たちの影が揺れている。 「もう三か月が過ぎた」  男たちの一人がいった。 「あれの家の桜が狂い咲きしゆうぞ」 「山犬が、おかしげな|吠《ほ》え方をしよったが」 「今年は桃がえらいようできた。別れ作やないか」  男たちの輪から天変地異を告げる低い声が次々に洩れた。話が出尽くすと、声は、岩屋のじっとりとした空気に呑みこまれていった。 「死んだか……」  静まりかえったなかに、老人の声が重く響いた。出入口の方向と向かい合うように座っていた長老たちの一人だった。輪になって座る男たちは、それに沈黙で応えた。 「次は誰の番じゃ」  男たちは互いに視線を交わし合った。首を横に振ったり、|頷《うなず》いたりする影が、蝋燭の灯の中で操り人形のように動いた。 「わしかの」  しゃがれ声が響いて、一人の男がのっそりと立ち上がった。岩屋に吹きこんできた一陣の風に、蝋燭の炎が強く揺れた。皆、押し黙っていた。それが承認のしるしだった。彼は居並ぶ者たちに一礼すると、出入口へと向かった。  外に足を踏み出したとたん、男は、小鳥の|囀《さえず》りに包まれた。木々の|逞《たくま》しい緑が目を射る。そこは小さな神社の境内だった。神社の本殿が、男たちのいた岩屋だ。鳥居の向こうに、|山《やま》|間《あい》の小さな村が見渡せる。猫の額のような水田、斜面にへばりつくようにして建つ粗末な家々。村の頭上には、険しい山々が|聳《そび》えている。猪の牙のような尾根の中で、ひときわ厳しい線を見せて|屹《きつ》|立《りつ》する岩山があった。男は、その山に向かって目を閉じた。  岩屋の中から、|呟《つぶや》くような声が流れてきた。彼を送る祈りの声だった。  男は静かに境内から去っていった。 [#改ページ]    第一部 [#ここから1字下げ]  ———かごめかごめ [#ここから6字下げ]   かごのなかのとりは   いついつねやる——— [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      1  薄暗い駅の構内の向こうに、光に|溢《あふ》れる世界があった。緑の葉の上で、太陽の|雫《しずく》を転がしているような|椰《や》|子《し》や|蘇《そ》|鉄《てつ》の木々。白く乾いたビル群の上に広がる南国の青い空。大きな荷物を抱えた帰省客たちがタクシー乗場に立ち、|眩《まぶ》しそうに目を細める。  列車の窓辺に頬杖をつき、|明神比奈子《みょうじんひなこ》は駅前の光景を眺めていた。こうしていると、子供の頃を思い出す。教室の窓から、家の窓から、心の窓から、いつも外を眺めていた。この暗く窮屈な部屋から、光に溢れる外の世界に飛び出したいと願っていた。もうずいぶん昔のこと。子供時代。大人の世界に出ていく前の、期待と怖れの入り交じった日々。あの頃、外の世界は、胸を高鳴らせるほどの強い輝きを放っていた。しかし本当は、暗く窮屈な部屋だと思っていた子供時代こそ光に満ちていたのだ。優しく包みこんでくれるような、暖かな光に。今ではそれがわかる。  かすかな風に吹かれて、ほつれ毛が舞い上がり頬にへばりついた。比奈子はもの憂げに、それをかき上げた。むっとくるような夏の湿った空気は、暗い駅のホームにまで押し入ってきていた。 「ゆうべ、こじゃんと飲んだがやき」「情けないこというなや、ちっくとならええじゃろ」日焼けした二人連れの男が、怒鳴るような声で|喋《しゃべ》りながら、列車の前を通り過ぎた。比奈子は思わず|微笑《ほ ほ え》んだ。土佐弁。この乱暴で素朴な言葉を聞くのは何年ぶりだろうか。  やはりどこか土佐弁の響きをまとわりつかせた構内放送が、中村行き普通列車の発車を告げた。ジリリリリという、けたたましいベルの音とともに、一輛しかない列車は動きはじめた。  比奈子は前向きに座り直した。車窓に沿った長い座席には、客の姿はまばらだ。開け放した窓から、生暖かい風が吹きこんでくる。窓の外に、高知市街が流れ去っていく。比奈子は籐製のハンドバッグから扇子を出すと、ゆっくり|煽《あお》ぎはじめた。シャネルの〈ココ〉の甘い香りが、周囲に広がっていく。買物袋を|足《あし》|許《もと》に置き、友人と話していた隣の女が比奈子のほうを見た。  三つ編みにした長い黒髪。青いリボンを巻いたストローハット。肉感的な体を包む褐色の麻のパンツスーツ。黒目がちで小さな鼻。美人とはいえないが、個性的な顔だち。隣の女は、水を入れたグラスの中に異物を見つけたような表情で比奈子を|一《いち》|瞥《べつ》すると、再び友人との会話に戻っていった。  比奈子は、自分がこの車輛の中で妙に浮き上がっていることに気がついて、扇子を動かす手を止めた。そして息をひそめるようにして、また窓の外に目を遣った。列車が進むにつれて、雑然とした町並みに少しずつ緑の水田や山が入りこんでくる。真新しい団地やマンション。宅地造成のために切り崩された赤茶色の山肌。けばけばしい色のドライブインの看板。比奈子の実家のある千葉県の田舎とさほどちがわない景色が続く。ここにも都市化の波が押し寄せてきている。  仕方のないことだ。二十年前と同じ光景が残っているはずはない。そう思いながらも、比奈子は少しばかり幻滅を味わっていた。  |矢《や》|狗《く》|村《むら》はどうなっているのだろう。  彼女は、険しい四国の山並みが続く列車の行く手を見遣った。  矢狗村は、比奈子が小学校時代を過ごした土地だ。中学校に入る前、機械技術者の父親の仕事の関係で関東に引っ越した。その一年後、村に残っていた祖父が死んだ。一人になった祖母は、長男である父の許に身を寄せた。以後、たまに墓参りに矢狗村へ帰っていた祖母だったが、十年ほど前から一人旅はできなくなっていた。父の兄弟も、今では皆、高知県外に住んでいる。明神家にとって、矢狗村は遠い土地となってしまった。  埼玉から千葉へ。住まいを変わりながら、中学、高校時代を過ごした。そしていつしか比奈子の記憶から、矢狗村のことは薄れていった。しかし、こうして四国に戻ると、それは決して消えたのではなく、眠っていただけなのだとわかる。心の底で眠りつづけていた記憶は、列車が四国の山に分け入っていくにつれて少しずつ目覚めてくる。足を泥だらけにして手伝った田植え。川に流しに行った七夕の笹竹。吐息のような光を放つ蛍を追った田舎道。鉢巻きをしめて裸足で走った運動会。  一学年三十人ほどの小さな学校だった。あの頃、一緒に遊んだ友達はどうしているのだろうか。  白鶴のような少女の顔が脳裏に浮かんだ。  |莎《さ》|代《よ》|里《り》ちゃん……。比奈子は心の中で|呟《つぶや》いた。  日浦莎代里。小学校時代、いちばんの仲よしだった。おかっぱ頭で切れ長の目。色の抜けるほどに白い美しい子。大人に干渉されるのを極度に嫌う性質だった。一人でいる時は、満ち足りた表情でにこにこしている。その穏やかな顔につられて大人が話しかけたとたん、笑顔はふっとかき消え、無表情な能面のような顔に変わるのだ。莎代里は、近づけば逃げていく鳥のようだった。  動物にたとえていうなら、比奈子のほうは亀に似ていたかもしれない。自分の感情をどう表現していいかわからず、厚い殼に閉じこもっている愚鈍な亀に。  比奈子は、莎代里の白鶴のような美しい姿に感嘆し、大人に|媚《こ》びない|毅《き》|然《ぜん》とした態度に、自分もそうありたいと望んだ。比奈子は、莎代里の後を追うように山を歩き、川辺をたどり、花を|摘《つ》んで遊んだ。彼女のそばにいると、なぜか楽な気分でいられた。黙っていても、つまらない子だと非難されることもなかった。それは莎代里も同じだったにちがいない。「川に行こうか」とか「お腹、空いたね」というような、短い言葉を口に出すだけで事足りた。誰かが嫌いだとか、父に叱られたとかいうことを洩らしはしても、話はそこで終わってしまった。慰めたり、自分の意見をいったりするような、複雑な会話を交わすことはなかった。  比奈子の母は、いつも「莎代里ちゃんとあんたは似た者同士やね」といっていた。しかし比奈子にはわかっていた。二人は決して似てなぞいなかった。感情を表すことが下手というところで似ていたにすぎない。  はっきり覚えているのは、莎代里の家で飼っていた猫が死んだ時のことだ。二人は、前の夜から帰ってこない猫を探し歩いていた。道路脇に横たわる灰色の小さな塊を最初に見つけたのは、莎代里だった。二人は走り寄った。探していた猫だった。頭も尻尾も生きていた時と同じように、ふわふわした毛に包まれていて、寝ているようだ。しかし胴体が半分ほど欠けていた。鳥か野犬に食われたらしく、内臓がごっそりなくなっていた。黒ずんだ肉の間に細いあばら骨が見えた。  比奈子は息を呑んだ。猫の前にしゃがんで泣きじゃくっている莎代里の背後で、比奈子は立ちすくんでいた。かわいそうというよりも怖かった。小さな死骸は、地の底から|湧《わ》いて出た化け物のように思えた。比奈子は、その場にいるのがたまらなくなった。 「莎代里ちゃん、おばさんにいいに行こう」  しかし莎代里は首を横に振って、そっと猫の頭を|撫《な》でた。いとおしげに灰色の尻尾に触れ猫の名を呼んだ。やがて立ち上がると、猫の頭と尻の下に手を差し入れて持ち上げた。肉の食いちぎられた胴体がだらりと垂れ下がり、そこから黄色に濁った体液が滴り落ちた。莎代里は自分の手が汚れるのも気にせずに死骸を道端に運ぶと、草の上に横たえた。  そして近くの棒を拾ってきて、穴を掘りはじめた。|茫《ぼう》|然《ぜん》としている比奈子に、莎代里は墓を造るのだといった。 「きれいなお墓にするがよ。丸い土を盛って、石を並べて。お花やお魚を供えるところもちゃんとあるがで」  莎代里は、それがどんなに美しい墓になるか語った。その様子は、|愉《たの》しそうですらあった。猫の死はすでに頭から消え、墓を造るという考えに夢中になっていた。  その時比奈子は、自分の考えていることと莎代里の考えていることはずいぶん違うのだと、おぼろげながら理解したのだった。絹と麻が異なるように、魂の肌ざわりが違うことに気がついたのだ。  お互い内に潜むものが違っていたからこそ、仲がよかったのだろう。しかし引っ越して以来、簡単な手紙を数度やりとりしただけで、連絡は途絶えた。たぶん二人とも、文字や言葉で感情を伝えるすべを知らなかったせいだ。顔を合わせていれば、同じ時を重ねていれば、感情を伝え合うことができた。しかし遠く離れて別々の人生を歩むようになると、二人は別の世界の人間になってしまった。  祖父の初盆で、両親とともに最後に矢狗村に帰ってきた時も、比奈子はその足で莎代里を訪ねた。二人とも中学一年生になっていた。だが、ひと言ふた言、言葉を交わすと、もう何をいっていいかわからなくなった。二人は、はにかみながら向き合っているしかなかった。言葉によって離れていた時間を埋め合わせることができるほど、大人にもなっていなかったし、言葉なしで満たされた気分になれるほど子供のままでもなかったのだ。  大人になり、比奈子はイラストレーターとして絵という手段で他人に感情を伝えるすべを身につけた。言葉を使うことも上手になったと思う。人類が道具を使いこなすことで進歩してきたように、比奈子も言葉という道具を使いこなして、外の世界に出ていくことができるようになった。莎代里は、どんなふうに感情を伝えるようになっているだろう。どんな女になっているだろうか。今、あの鶴のような莎代里をつかまえて、その心の内を見つめたら、自分との違いがわかるだろうに。子供の自分ではつかみきれなかった、二人の魂の違いがわかるだろうに……。 「きゃあああっ」  甲高い子供の声が、比奈子の思考を引き裂いた。車輛の前のほうから、小さな男の子が笑いながら飛び出してきた。 「おい信春っ、走ったらあかん。こけたらどないするんや」  派手な半袖シャツを着た男が座席から腰を浮かして、子供の後を追いはじめた。男の子は比奈子の前でよろめいた。比奈子はとっさに手を差し伸べた。子供は彼女の手にすがると、にやっと笑った。ふてぶてしい子供だと思って、比奈子は手を放した。 「すんまへんなぁ」と大きな声でいいながら、父親らしい男が近づいてきた。後退しかかった額の髪にゆるやかなパーマをかけた、細身の男。突き出した額が、目の前の子供とよく似ている。  記憶の壁を、何かがひっかいた。  子供ではない。別の誰かに似ている。  息子の手を引いて戻ろうとする男に、比奈子はおずおずと声をかけた。 「あの……あなた君彦君じゃないかしら……」  男は|怪《け》|訝《げん》な顔で振り返った。  やはりそうだった。島崎君彦。つるりと出た額のために、小学時代はデコキンと呼ばれていた。  比奈子を思い出せないらしい君彦に、彼女は自分の名前を告げた。君彦は大きな声をあげた。 「比奈子ぉ? |嘘《うそ》やろ」  彼は、比奈子をじろじろと見た。 「そういわれりゃ、比奈子やなぁ。けど、ごっつう変わったさかい、ちっとも気ぃつかへんかった」  君彦は、大阪弁の混じった言葉で大仰に驚いてみせた。 「二十年ぶりだもの。仕方ないわね」  そういいながらも、確かに変わったにちがいないと思った。  子供の時の写真は見たくない。|臆病《おくびょう》そうな目つきでレンズを見ている、もっさりした子供。それが比奈子だった。 「ほんで、今、どこに住んでんのや」 「東京よ」 「結婚して?」  比奈子は心に突き刺さる|棘《とげ》を感じながら、結婚はしていない、と答えた。三十歳を過ぎてからは、あまり耳にしなくなっていた質問だった。彼女は、あれこれ聞かれる前に、イラストレーターをしているのだと答えた。君彦はますます驚いた顔をした。 「カタカナ職業やな。かっこええやんか」 「そんなことないわ」  |謙《けん》|遜《そん》しながらも、最近手がけた大手企業のポスターをいえば、君彦も知っているだろうと思った。比奈子は〈HINA〉というペンネームで、イラストレーターとしてはけっこう知られていた。  ——きみを見つけたのは俺だぜ——  男の声が頭の中に響いた。比奈子は無意識のうちに扇子を握りしめると、君彦に聞いた。 「それで君彦君は何してるの」  君彦は、もみ手をしながらいった。 「大阪で細々と商いをやってま。大阪商人でっせ」  比奈子は笑い声を洩らした。君彦は昔から同級生を笑わせることが上手だった。 「へえ、大阪に住んでるの」 「そうや。お盆で帰ってきたとこ。比奈子こそ、なんで高知に?」  仕事に疲れたから。恋人から逃げ出したかったから。子供時代が懐かしくなったから。比奈子の脳裏にさまざまな理由が浮かんだ。彼女は、最もあたりさわりのない言い訳を選んだ。 「家のことでね。私の家、まだ矢狗村に残っているの。ずっと人に貸していたんだけど、今度、その人たちが出ていくというので、家の状態を見に帰ってきたわけ」 「一人で?」 「うん。私が全権大使。また人に貸すか、改築するか、売るかを決めるの」  君彦の子供が、母親の|許《もと》に戻るとむずかりだした。君彦は息子の尻を叩いた。 「ああ、行け行け。おとなしゅうしとくんやで」  よちよち歩いていく子供の後ろ姿を眺めながら、比奈子はいった。 「君彦君も、もう立派なお父さんね」  君彦は照れ臭そうな顔をした。 「もう三十三や。俺だけやないぞ。みんな、ええおっさん、おばはんや。豊は家業を継いで農業やってるし、恭三は農協勤め。ゆかりは藤本商店に嫁いだし……」  君彦は小学校時代の同級生たちの消息を告げた。 「莎代里ちゃんは? 今、どうしているか知ってる?」  君彦は口を半ば開いたままで、比奈子を見下ろした。そして暗い声でゆっくりと聞いた。 「莎代里のこと、聞いてへんか」  比奈子は首を横に振った。いやな予感がした。 「あいつ、死んだんや」  ガタンゴトンという列車の音が急に大きく耳に響いた。うつろいやすい笑みを浮かべた莎代里の顔が、心の中で|硝子《ガラス》のように砕け散った。比奈子は何を言っていいかわからず、君彦の顔を見つめていた。君彦は、両手で|吊《つ》り皮にぶら下がったまま、莎代里は中学三年の夏に事故で死んだのだといった。  信じられなかった。比奈子の脳裏には、まだしっかりと莎代里の顔が焼きついている。矢狗村を離れて以来、子供時代の記憶の中には、いつも莎代里がいた。突然、彼女が二十年近く前にこの世から消え去っていたのだといわれても、現実のこととは思えなかった。比奈子の中で、莎代里は今の今まで生きていたのだ。 「比奈子、あいつと仲よかったさかいなぁ」  こわばった表情の比奈子を見て、君彦がいたわるようにいった。  どうして今まで知らずに過ごしてきたのだろう。祖母が墓参りに四国に帰った時、耳にしてもいいはずだった。いや、祖母は後年、急速に|惚《ぼ》けてしまった。孫の幼なじみの消息なぞ、聞いたとしても記憶から滑り落ちてしまったにちがいない。  莎代里は、比奈子の知らない間にこの世から消え去っていた。裏切られたような、悔しいような複雑な気持ちだった。  列車は川沿いの盆地を走っている。盆地の底には、小さな家が固まっていた。青や赤のてらてらと光る屋根や、コンクリートの四角い家。新建材で建てられた家の多い、まとまりのない町だ。アナウンスが聞こえた。 〈次は佐川、佐川。お降りの方は、お忘れ物のないようにお願いします〉  佐川は、矢狗村の最寄りの駅だった。車輛の前のほうで、乳飲み児を抱えた女が立ち上がった。君彦は、妻らしいその女に合図すると、「ほな、またな」と明るい声でいって去っていった。比奈子は気の抜けた顔で、その背中を目で追った。さっき聞いた莎代里の死の|報《しら》せが、黒い泥のように胸の底に沈澱していくのを感じていた。  男は細い山道を下っていた。白装束で、首から|頭陀袋《ずだぶくろ》をかけ、足には草履。遍路の旅姿と似ていた。道脇の草むらから熱気が立ち昇る。  暑い日だった。乾いた汗が白い塩となって、男の顔にこびりついている。少し前かがみになった男は、膝をバネにして、たったっと小道を降りていく。短く刈りそろえた頭。象の皮膚のように細かな|皺《しわ》の刻みこまれた肌。若々しい身のこなしとは対照的に、外見は老けている。四十の声を聞いたばかりだというのに、五十歳は過ぎているように見えた。  眼下に小さな町が現れた。男は立ち止まって息を整えた。狭い県道沿いに続く町並み。てんとう虫のような車が行き交っている。町の一角にある寺の境内に、人々が集まっているのが見えた。竹を組んで、|櫓《やぐら》を作っていた。通りに沿って|提灯《ちょうちん》も下げられている。  祭りだろうかと思ってから、今日が盆の入りだったことに男は気がついた。盆踊りでも催されるのだろう。灰色の屋根の下では、女たちが|蒸《むし》|籠《かご》で赤飯を蒸しているにちがいない。男の妻も、盆には必ず作った。妻の赤飯はうまかった。ふっくらと蒸しあがった赤飯を、男は何杯でも食べたものだった。しかし、もうその妻の赤飯を食べることはできない。  頭の隅に、妻の姿が|蘇《よみがえ》ろうとしていた。血に染まった下半身。どす黒い血が白い着物を染め、裸足の甲に滴り落ちていた。紫色の|死《し》|斑《はん》が浮かんだ顔が不意に持ち上がり、力の失せた瞳は男を……。  遠くで太鼓の音が響いた。男はびくりと頭を上げ、目をしばたかせた。男はむりやり、妻の姿を記憶の|闇《やみ》の中に押し戻した。そして厳しい顔つきで、再び歩きはじめた。斜面を下っていく男の頭上で、不意に太陽が雲の中に隠れ、山の緑が|色《いろ》|褪《あせ》ていった。  矢狗村は、佐川町からさらに二十キロほど四国山脈の中に分け入ったところにある。駅前でタクシーを拾い、国道三十三号線に沿って北上すると、道はやがて|仁《に》|淀《よど》|川《がわ》と合流する。深い山と急流の|狭間《はざま》を、灰色の糸のような道路が続く。午後の強烈な太陽の下で、山も川もぎらぎらと生命の炎を燃え上がらせている。  比奈子は冷房の効いたタクシーの窓から外を眺めていた。景色に見覚えはあるのに、懐かしさを感じるほどには心に迫ってこない。どこで|撮《と》ったか思い出せない、昔の写真を見ているようだ。そのもどかしさは、少しずつ故郷に近づくにつれて強くなっていた。  車が北野町に入った。道路脇にスーパーマーケットや病院、農協が立ち並んでいる。『ようこそ。秋桜と平家隠れ里、北野町へ』という大きな看板が立っている。整備された歩道や川沿いの公園を横目に車は国道を離れ、仁淀川の支流の|逆《さか》|川《がわ》に沿って、さらに深い谷間に入っていく。山の急斜面を切り崩して、アスファルトの道路が延びている。比奈子は感心していった。 「道も、すっかりよくなったわね」 「このへんだけですぞね、お客さん。もうちょっと行くと、車同士、すれ違うこともできんほど狭うなってきますきに」  白い手袋をはめた運転手が答えた。 「それでも昔と比べると、立派になったわ。前は舗装もしてなかったのに」 「そんな昔の逆川を知っちょりますかね」 「ええ、小さい頃、矢狗村に住んでいたから」  運転手は、バックミラーの中の比奈子を見遣った。生真面目な表情の奥に戸惑いが浮かんだ。比奈子と矢狗村が結びつかないようだった。 「この道が舗装になる前ゆうたら、こじゃんと昔になりますぞね」 「二十年以上は前ね。あの頃は台風が来るたびに、国道に出るこの道が|崖《がけ》|崩《くず》れで閉鎖になったものだわ」 「そりゃあ、今でもおんなじじゃ」  初老の運転手は笑った。無愛想だった声に明るい調子が混じってきた。 「逆川ゆう名前はどこから来たか知っちょりますかね」  比奈子が知らないというと、運転手は得々として説明した。 「逆川は逆さ川。昔、仁淀川からの水がえらい増えて逆川に流れこんで、そのまま上流に向かってごんごん流れたことがあったと。ほんで逆川ゆう名前がついたんじゃ」  比奈子は、まさか、と笑った。 「昔話ぞね、お客さん」  彼自身、信じてないというように、少し笑いながら運転手はハンドルを切った。  車がカーブを曲がったとたん、|眩《まぶ》しい太陽が比奈子の目をまっすぐに射た。一瞬、谷間が白色に変わった。その無彩色の風景に、ひときわ白く輝く人の形が浮かび上がった。比奈子は路肩に目をこらした。白衣姿に白い|脚《きゃ》|絆《はん》。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》に死者の旅姿のような|恰《かっ》|好《こう》。背中に小さな|行《こう》|李《り》を背負っている。頭の|菅《すげ》|笠《がさ》には、筆で黒々と『|同行二人《どうぎょうににん》』と書かれていた。  遍路だった。前に一人。そして、後ろには子供のような小さな姿。重なるように歩いている。照りつける日射しの下で|陽炎《かげろう》のように揺れながら、ゆっくりと矢狗村に向かっていた。  タクシーは、あっという間に白装束の遍路に追いついた。運転手がいった。 「歩きゆうとは感心なお人じゃ。四国八十八ケ所の霊場も、近頃はみんなぁバスで回るゆうに」 「ほんとにね」  比奈子は窓の外を見た。車が白い人影を追い抜いたところだった。彼女は、あらっと思った。  遍路は一人しかいなかったのだ。  どす黒い顔色をした初老の女だった。杖にすがって、足をひきずるようにして歩いている。二人だと思ったのは、目の錯覚だったのだ。それでも比奈子は不思議な気がして、遍路が遠ざかるまで体をねじって後ろを見ていた。  やはり一人だった。  車が次のカーブを曲がった。目の前に、渓流沿いに開けた細長い谷間が現れた。険しい斜面に作られた段々畑では、緑の稲穂がさわさわと揺れ、農家の鼠色の屋根が鈍い光を反射している。うっそうとした深い山が、|遥《はる》か向こうの四国山脈へと連なる。  矢狗村だ。  比奈子は車の窓を開けた。夏草の匂いを含んだ風が吹きこんできた。  川が心地よい音をたてて流れていた。つるりとした氷のような水面に、木々の緑が映っている。こんな日には、木陰で本でも読んでいるにかぎる。  秋沢文也は、ため息をつくと窓際から離れた。目の前には、相変わらず雑然とした光景が広がっていた。  矢狗村村役場の資料室の中だが、物置といったほうがふさわしい。スチール製の灰色の戸棚と段ボールの箱が、ひしめき合って狭い部屋に詰まっている。床には、|蓋《ふた》を開けた段ボールの箱が置かれている。中にあった本やパンフレットがおおまかに分類されて積まれていた。『高知県の歩み』、『土佐勤皇志士覚え書』、『土佐の民俗と風習』……。長年、役場にためこまれていた郷土資料が種々雑多に広げられている。文也は、うんざりした顔でその雑然とした光景を見下ろした。  窓を開け放っていても、室内にはむっとした空気がたちこめている。汗で額にへばりついた茶色がかった髪の毛をかき上げながら、文也は再び床に座りこんだ。段ボールの中から、小冊子の束を抱えて床に投げる。もわっと|埃《ほこり》が舞い上がった。再び分類に取りかかった時、ドアのきしむ音がして、森田堅のにきび面が顔を出した。 「やりよりますねや、先生」  森田は資料室の乱雑な様子を認めて、おかしそうにいった。  文也のあだ名は先生。矢狗村の歴史や遺跡に関することに詳しいためだ。彼は二年ほど前、逆川の河岸段丘で縄文時代の住居跡を発見した。そのことが新聞や地方のテレビ局に取り上げられたせいで、先生というあだ名が定着してしまっていた。  本来の仕事は役場の広報係だが、それにかこつけて矢狗村の歴史を調べている。役場に眠っている郷土資料を整理して、郷土史資料室として一般に公開したらどうかと村長に提案したのも、自分の興味による部分が大きかった。もっとも、資料整理がこんなに大変な仕事だとは思いもよらなかったが。  文也は苦笑しながら、堅に埃まみれの両手をかざしてみせた。 「手伝いに来てくれたんなら、大歓迎や」  堅は慌てたように頭を振った。 「遠慮しときます。それより秋沢さん、実はちくと留守番、頼みたいんじゃけど」  床にちらばった本を調べている文也を困ったように見ながら、森田は続けた。 「今日から盆休みに入った者が多うて、今、窓口、俺一人なんですわ。ほいたら、さっき勝美から電話があって、急に家のことで行かにゃいかん用ができたがやき。すまんけど、窓口におってくれませんやろうか」  文也は、役所の人手不足も|無頓着《むとんちゃく》に資料室にこもっていた自分に気がついて、すまない気持ちになった。 「そんなん、お安い御用や。すぐ行くよ。気にせず出かけろや」  文也は、手にしていた本の束を床に置いた。一番上の小冊子の表紙の題名が目をひいた。『四国の古代文化』。明日から彼も盆休みに入る。休暇中に読むのによさそうな本だった。文也は古ぼけた小冊子を手に取ると立ち上がった。  道路に面した役場の玄関は、南向きになっている。日射しが容赦なくふりそそぎ、資料室よりもさらに暑かった。壁に取りつけた扇風機は故障していて、不在の村民課の課長の机ばかりに風を送っている。手を洗った文也が熱帯のような席に戻ると、森田が出ていこうとするところだった。 「そうそう川上さんが、それを村便りに入れてくれ、いいよったで」  文也の机の上には、クリップで留めた原稿用紙が載っていた。  外でパッパーッという車のクラクションが聞こえた。役場の|硝子《ガラス》窓ごしに、白の軽自動車に乗った森田の妻の勝美が手を振っているのが見える。森田は半時間ほどで帰ってくるといいおいて、妻の車に乗りこんだ。  役場の中には誰もいなくなった。文也はワープロを机の上に置くと、村長の川上の原稿に目を通した。 〈夏も終わりに近づきますと、気の緩みから川や山に於ける児童の事故が発生致します。そのような悲惨な事故を防ぐ為に、父兄各位の一層の注意を喚起したいものであります〉  相変わらず、|杓子《しゃくし》定規の文章だった。文也は『村長からのご|挨《あい》|拶《さつ》』と打った。  月一回発行の『矢狗村便り』の原稿作りは、広報係の文也の仕事になっている。村長の挨拶からはじまって、村の行事や出生、死亡者の報せ。そして文也が集めた村のささいな記事が載っている。自己顕示欲の強い村長は月の半分をかけて文章をこねくり回して、原稿を持ってくる。文也は、格式ばって回りくどい村長の文章を手直ししたいのを我慢しながらワープロを打っていった。 〈間もなく二学期です。児童達が元気な姿で全員|揃《そろ》って学校に戻れるように、御協力を仰ぐ次第であります〉  夏休みが終わって二学期となる。二学期が終わると冬休み。三学期の次には春休み。時間と規則に縛られた学校生活には、いつも休みという救いがあった。大人になって、長い休みがなくなる日がくるとは想像もしなかった。そればかりか、自分が将来、暗い村役場の片隅に座りつづける運命にあるとは考えもしなかった。学校の行き帰りによく見かけた“おじさん”たち。村役場の硝子戸の向こうで、似通った表情を顔にへばりつかせて机に向かっていた。もしもあの頃、おまえは将来、その一人になるのだという大人がいたとしても、彼は声を大きくしていっただろう。僕は絶対にならない、と。  しかし人生において、絶対ということはあり得ない。かすかな苦々しさを伴いつつそう思い、ワープロを打つ手が止まった。  役場の前は、村で唯一の商店街になっている。駄菓子屋、八百屋、美容室、コンビニエンスストア、郵便局、医院、酒屋に魚屋……。ひととおり生活に困らないだけの店や施設が並んでいる。子供たちがアイスクリームを食べながら通り過ぎる。麦わら帽子を被った農家の主婦が買物包みを下げて、車に乗りこんでいる。バイクで走っていくのは、農協に勤めている同級生の庄野恭三だ。文也が見ていることを知ってか知らずか、役場の前で片手を上げて挨拶して過ぎた。そろそろ恭三が北野町に飲みに行かないかと誘ってくる時期だなと思いながら、彼は再びワープロに向き直った。  その時、誰かの視線を感じたような気がした。自分をじっと見据える、熱く、冷たい視線を。  文也は顔を上げた。灰色の事務机が並んでいる。机の上に積まれた書類。|椅《い》|子《す》にかけられた上着。飲み残しの湯飲み|茶《ぢゃ》|碗《わん》。役場の中は人の気配もなく静まりかえっている。窓の外から、こちらを|覗《のぞ》いている者もない。  カタカタカタ。扇風機の回る音が、やけに大きく聞こえてきた。  気のせいだ。文也は頭を横に振ると、猛烈な勢いでワープロを打ちはじめた。      2  家は、逆川を見下ろす山際にひっそりと立っていた。茶色に薄汚れたモルタルの壁。端の反り返った玄関の戸。朽ちかけた雨戸。長年雨ざらしになっていた積木の家のようだった。  タクシーから降りた比奈子は、意外な思いに打たれて、家の前に立った。記憶の中の家よりも小さかった。子供の頃には、もっと大きく奥が深かったはずなのに。幽霊屋敷を昼間に見た時に似ている。仕掛けに陽が当たると、どこをどうひっくり返しても、自分を震え上がらせた空間は見当たらない。たったこれだけか、と問い返したくなる。祖父母、両親と比奈子と弟。この小さな空間で六人の家族が、泣いたり笑ったりして暮らしていたのだ。  家は小さくなっただけではなかった。何か、よそよそしい顔になっていた。長い間、借家人の手に渡っていたためかもしれない。比奈子の知っているだけでも、三家族がこの家に住んでいた。空家だったこともある。それらの人たちの思い出も融合して、家は以前とは違う空気を漂わせていた。  捨てられた家が、そこに住む新しい人々と心を通わせるようになるのは仕方のないことだ。比奈子の両親も、長くこの家に帰ってきていない。家のことは近所の大野家にまかせっきりにしてきた。小額の家賃は、家の修理代や維持費にあてられた。両親にとって、家が矢狗村にあるということだけでよかったのだ。それが故郷を忘れないためのお守りのような役目を果たしていた。  車の音が聞こえた。振り向くと、白の軽自動車が門から庭に入ってきたところだった。 「すんません。待ちましたぁ?」  髪をひっつめにした若い女が助手席から降りて、大きな声で聞いた。運転席からは、ずんぐりとした固太りの男が出てきて、にきびあとの残る|愛嬌《あいきょう》のある顔で会釈した。ここ三年間の借家人であった森田堅と勝美夫婦だった。佐川町を出る前、これから向かうと電話しておいたのだ。勝美は自己紹介もそこそこに、はしゃいだ声でいった。 「光栄やわぁ。うちヒナさんのファンなんです。あのロボットとピエロが踊りゆうポスター、電気屋さんでむりゆうてもろうてきたんですよ。家に飾ってあるんです。ついこのあいだ、うちらの借りちょった家がヒナさんの家やったゆうて大野さんから聞いて、びっくりしましたわ」  比奈子は面食らって、口の中でもぞもぞと礼をいった。自分のことがこの地で知られているとは、思いもよらなかった。  矢狗村にいる間、ぜひ自分たちの建てた新しい家に遊びに来てくれと誘う勝美の肩を、堅がふざけるように揺すった。 「ええかげんにせえや。着いたはしから、おまんのお|喋《しゃべ》り聞かされたら、たまらんが。そうでのうても明神さんは東京から着いたばっかりで疲れちゅうに」  勝美は今度は大きな声で謝りはじめた。東京の人間は、初対面で、これほど感情をあからさまにはしない。相手の心の底に潜むと信じる本音を探り合い、容易に気を許さない。勝美のあけっぴろげな感情の表現に、比奈子は知らないうちに|微笑《ほ ほ え》んでいた。  堅が玄関の戸を開けた。比奈子は家の中に足を踏み入れた。湿った空気が鼻をついた。森田夫婦がこの家を出てから、一か月が過ぎていた。勝美が比奈子の先に立って説明をはじめた。 「うちらの荷物は一応全部、出しました。|襖《ふすま》も張り替えちょきました。お風呂場の戸は大工さんの都合がつき次第、直してくれるゆうことです。プロパンガスもまだ残っちゅうし、電話も切ってないき、まだ使えます。それから、こっちの部屋は畳を新しゅうしたき、寝室にしたらええ思いますよ、ヒナさん」  比奈子は、ヒナはやめてくれ、と頼んだ。生まれ故郷の村で、そんな歯の浮くようなペンネームで呼ばれると、我ながら気恥ずかしい思いにとらわれた。  ——明神比奈子って、田舎臭い名前だな。もっと都会的な名前にしろよ。比奈……、そうだ、いっそローマ字でHINAがいいんじゃないか——  そういったのは彼だった。  沢田透。  比奈子の|眉《み》|間《けん》に、かすかな|皺《しわ》が寄った。今は思い出したくない、彼のことは。  がたがたと大きな音をたてて、堅が雨戸を開けている。すり硝子を|嵌《は》めた戸で仕切られた台所と食堂。六畳と八畳の和室、そして六畳の洋室。|暗《くら》|闇《やみ》から、少しずつ懐かしい家が姿を現す。  家の建てられた昭和中期、矢狗村では和洋折衷の家はまだ珍しかった。比奈子は自分の家が自慢だった。しかし、その家も今は老朽化して、窓枠や柱は|歪《ゆが》み、壁には幾筋もの傷が走っている。台所の隅の神棚には|埃《ほこり》がたまっていた。それでも家の中には、冷蔵庫や古びた食卓、|鍋《なべ》類もあって、どこか人が住んでいる風情を漂わせていた。森田夫婦は、新しい家に不要の品を残したのだという。 「へごなもんやけど、食器も置いちょきました。ここにおる間はどんどん使うてください。比奈子さんが帰られたら、うちら取りに来ますき」  比奈子が礼をいうと、勝美は、いいんですといいながら、冷蔵庫を開けた。 「なんか冷たい飲み物でも買うちょくんやったわぁ……あ、麦茶のパックがあるわ。よかった。水出しやわ。比奈子さん、ちょっと待っちょってください」  勝手知った様子で食器棚を開けている勝美に、比奈子は軽い不快感を覚えた。自分の家を取られたような気がした。  弟と走り回った茶の間と食堂。|隙《すき》|間《ま》風の吹きこんできた廊下の硝子戸。火鉢の横に座って、そば粉を練ってくれた祖母。  左官屋だった祖父が、白い|漆《しっ》|喰《くい》の飛び散った作業着のまま縁側に座って煙草を一服していたのを覚えている。比奈子は縁側に出て、庭を見下ろした。子供の時にあった柿の木が今もそこに立ち、|天鵞絨《ビロード》のような緑の葉を茂らせている。小さかった南天が、比奈子の背丈ほどに伸びている。大きくなった庭の木々が、その向こうの矢狗村の景色を隠していた。庭からの眺めは父の自慢の種だった。客が来ると、この縁側に連れ出して披露したものだ。  勝美が、庭に面した和室に麦茶を運んできた。堅も続いて入ってきて、三人は縁側でコップの中の氷を揺すりながら麦茶を飲んだ。比奈子は問われるままに、二十年前、小学校を卒業するまでは矢狗村に住んでいたことを話した。堅は考えるようにいった。 「ほんなら比奈子さん、秋沢文也さんと一緒の年やないですかね」 「そうよ。同じクラスだったわ。知ってるの?」 「俺と一緒に村役場に勤めよります」 「村役場に?」  比奈子は驚いていった。  秋沢文也は活発な子ではなかったが、クラスでは目立つ存在だった。もの静かで頭のいい子。きりっとした顔だちの中に、大人びた雰囲気を漂わせていた。他の男の子たちと騒いでいても、彼はどこか違っていた。何といっていいかわからないが、一種の優雅さが|具《そな》わっていた。莎代里と遠い|親《しん》|戚《せき》関係にあるということで、小学校に行く前までは三人で遊ぶこともあった。  引っ越していってから、莎代里の次に思い出したのは、文也のことだった。授業中、遠くの山に視線をさまよわせていた、文也の横顔が妙に心に焼きついていた。 「結婚したのかしら」  無意識にこんな言葉が口から出ていた。勝美が飛びつくように答えた。 「離婚したがですよ。東京で勤めよった時に。ほいでこっちに帰ってきたが。お子さんがおらんかったきね。今は実家で家族と一緒に暮らしゆうがですよ」 「いらんこというなや」  堅が妻のお喋りを押し止めて腰を上げた。 「ほんなら明神さん、俺ら、これで帰りますきに」  まだ比奈子と話したがっているふうの妻の手をつかんで、堅は玄関に出ていった。何かあれば連絡をくれといいおいて車に乗りこんだ二人を見送りながら、比奈子は心の中で文也の離婚という事実を|反《はん》|芻《すう》していた。  莎代里が死んだことが理解できないように、あの文也が大人になり、女と知り合い、離婚したということが理解できなかった。君彦やその他の同級生なら、そんなこともあり得ると思う。なのに、どうしてだろう。莎代里と文也は特別だった。  自分は文也のことが好きだったのだ。  比奈子は不意にそう思った。あまりに淡い恋心だったから、自分でも気がついていなかった。あれはたぶん初恋だったのだ。  白の軽自動車が、ハッチバック式の車体を左右に揺らせながら坂道を遠ざかっていく。道の先には矢狗村の全景が広がっていた。細長い盆地の底を逆川が流れている。点在する集落。川沿いのひとかたまりの集落が、村の中心だ。そこにある学校まで、毎日ランドセルを背負って通ったものだった。  比奈子は幼い頃の思い出に誘われるように、家の門を出て坂道を降りはじめた。  段々畑の中の道を下っていくと、大野の家がある。その前はもう逆川だ。橋を渡って、|苔《こけ》むした石塚の立つ道の角を、逆川に沿って左に曲がる。夕暮れが迫っていた。暑さも薄れて、緑の稲穂の上を涼風が吹き渡る。昔ながらの農家があるかと思えば、水田が|潰《つぶ》されて新しい家が建っていた。逆川の両岸は、灰色のコンクリートの堤防で固められている。水田の中に新しい道ができていた。矢狗村はホノグラムの肖像のようだった。ある一瞬はよく知っているように見えても、次の瞬間はまったく別の顔に変わる。  自転車に乗った、中学生らしい男の子たちの一団が横を通り過ぎた。白いTシャツを着た若鹿のような背中が、水田の中に小さくなっていく。頭上に|聳《そび》える|蒼《あお》みがかった山々。比奈子は、胸いっぱいに夏の空気を吸いこんだ。体の隅々にまで解放感が広がっていく。東京の生活が遠ざかっていく。  道端には、小さな野の花が揺れていた。この道を朝夕、莎代里と一緒に歩いたのだ。学校から帰ると、よく山に遊びに行った。莎代里の家は、逆川の上流にある。最初に比奈子が自分の家に戻り、ランドセルを置いてから、莎代里と一緒に彼女の家に行く。そして身軽になった二人は出かけるのだ。  神の谷に——。  比奈子は逆川の上流を見遣った。切り立った谷の|間《あわい》が夕もやに煙っている。その向こうに神の谷があった。神の谷で遊ぶようになったのは、いつの頃からだろう。最初は、莎代里に誘われて行った記憶がある。谷は、花に埋もれた美しい場所だった。初夏には紫色に白い筋のついた|蝮蛇《まむし》|草《ぐさ》の花、夏は鬼百合。秋には真っ赤な|曼《まん》|珠《じゅ》|沙《しゃ》|華《げ》が咲いていた。  神の谷で莎代里と比奈子は、花を摘んだり、草を踏みしだいて迷路を作ったりして遊んだ。神の谷に来る子供は、めったにいなかった。二人は誰にも邪魔されることなく、心の通じ合う自分たちだけの世界で遊ぶことができたのだ。  比奈子の視線は逆川に沿って流れていき、やがて山裾にある、どっしりした家で止まった。莎代里の家だった。矢狗村でただ一軒、造り酒屋を営んでいた。あの白壁の家には、もう莎代里はいないのだ。いや、莎代里が死んだとは、到底信じられなかった。  比奈子は莎代里のことを思い出すのを避けるように、神の谷に背を向けた。  道は村の中心部に入っていった。学校の帰りにいつも立ち寄った駄菓子屋、母がひいきにしていた八百屋の店先では、記憶にある親父はいなくて、息子らしい男が客となにか話していた。クリーニング屋、美容室、酒屋……。ところどころ新しい建物に変わっているが、ほとんど昔のままだった。  比奈子は学校の前に立った。『矢狗村村立矢狗小学校』と『矢狗村村立矢狗中学校』という札が、左右の門にひとつずつ掛かっている。門の間から見える校舎は、黄淡色に塗られたコンクリートに変わっていた。比奈子が通っていた頃は、まだ木造の校舎だった。建てられて何年たつのだろうか。壁にはひび割れができていた。  彼女がここで学んでいた時代は、この、すでに古びたコンクリートの校舎が建つ前だった。比奈子は、自分がとほうもなく年寄りになって、この村に帰ってきた気分になった。  地面から|湧《わ》き上がるようなエンジンの音が聞こえたかと思うと、バスが向かいの道路脇に止まった。佐川町から帰ってきた人々を降ろすと、空のバスは器用に方向転換をして走り去った。矢狗村が終点だった。バスが去った後に、『コンビニエンス・フジモト』という看板がかかった、真新しい商店が現れた。昔の藤本商店だ。比奈子は、さしあたって食料がないことを思い出して、道路を横切り店に入っていった。  村人たちが備えつけの|籠《かご》を提げて、棚の間を買物している。あちこちで盆の支度のことで会話が交わされていた。比奈子に気がつくと、奇異な視線を送り、慌てて目を|逸《そ》らす。自分が「よそ者」と大きな字で書いた紙を背中に|貼《は》りつけて歩いているような気がした。野菜と肉類、卵を籠に入れて、レジに行く。 「いらっしゃいませ」  レジに座っていた丸顔の女が、比奈子を見た。そして口を丸くすぼめるようにして、顔をぱっと輝かせた。 「いやぁ、比奈ちゃん!」  比奈子は驚いて女の顔を見た。くりっとした目に、少し上を向いた鼻。小づくりの顔だち。西川ゆかりだった。そういえば、君彦が、ゆかりは藤本商店に嫁いだというようなことをいっていたのを思い出した。  ゆかりはレジの椅子から身を乗り出すようにして、比奈子の顔を見た。 「変わったねぇ、比奈ちゃん。君彦君から聞いてなかったら、あたしもわからんかったやろね」 「君彦君?」  ゆかりは、君彦はさっきこの店に寄って牛乳や紙おむつを買いこんで帰った、とおかしそうにいった。首を|傾《かし》げかげんにして、口を半開きにしたまま話すゆかりの癖は、昔と変わらなかった。かわいらしくて、誰からも好かれていた。クラスの男の子は、みんな彼女に|憧《あこが》れていたのではなかったろうか。  小学校一年の頃だった。お姫さまごっこという遊びが|流行《はや》った。お姫さま役は、いつもゆかりだった。ジャングルジムのてっぺんにゆかりが座り、侍女役の女の子たちは下のほうにへばりついて守りにつく。そこに攻めてきて姫を奪うのが、男の子たちの役目だった。侍女役の女の子たちと、騎士に見立てられた男の子たちの間で、とっくみ合いの|喧《けん》|嘩《か》が繰り広げられた。子供ながらに“女を奪う”という行為に興奮するのか、男の子たちはこの遊びを好んだ。しかし侍女役しか回ってこない比奈子たちにとっては、おもしろくもなんともなかった。自分ではなく他の女を、男たちがこぞって奪い合うのを眺めるのは、幼かったとはいえ、楽しいことではなかった。  そしてジャングルジム城のお姫さまは、最後には、藤本商店の跡取りに略奪されたというわけだ。比奈子は、しっかりと化粧をしたゆかりの顔を眺めながら思った。 「イラストレーターなんやってね。君彦君から聞いたわ。そういや比奈ちゃん、絵が上手やったもんね。いっつも絵が教室の後ろに飾られちょったの覚えちゅう。あたしも比奈ちゃんみたいに絵がうまかったらええに、と思うたもんやった」  ゆかりは、比奈子の買ったものをレジに打ちこみながら笑った。比奈子は、ゆかりが自分のことを少しでも|羨《うらや》ましく思っていたことに驚いた。ゆかりこそ、比奈子の羨むすべてを持っていた子供だった。愛らしくて、話し上手。幸福に包まれた子供時代を送ったはずの人間だった。  比奈子の後ろに客が並んだ。花柄の日除けのついた帽子を被った、|割《かっ》|烹《ぽう》|着《ぎ》姿の農家の女だった。ゆかりは、手早く品物をビニール袋に詰めていった。 「そうそう、ええとこに戻ってきたわ。明日、同窓会をやるんで。比奈ちゃん、来てや」 「同窓会?」 「毎年、盆と正月にやりゆうが。明日の二時から、うちの二軒隣の仕出し屋の岡田よ。みんなぁ集まるがやき」  比奈子は|曖《あい》|昧《まい》に返事した。もともと学校では目立つほうではなかった。莎代里がいないのに同窓会に出席しても、つまらないと思った。ゆかりはビニール袋を差し出しながら念を押した。 「絶対、来てね。楽しみにしちゅうき」  比奈子はしぶしぶ|頷《うなず》いた。 「ええ、できるだけ行くようにするわ」  ビニール袋を持って外に出ようとドアを開けた時、後ろにいた女が、ゆかりにいっている声が聞こえた。 「どこの人ぞね。えらい東京弁を話しよったが……」  比奈子は、どきりとした。  自分は、この村の人間ではないのだ。  いいようのない寂しさが胸に広がった。  夕焼けが、山々を赤く染め上げていた。縁側に座っていた大野シゲは、空を見上げて目をしばたかせた。このあたりには、夏に血のような夕焼けの日が続けば害虫に注意しろ、という言い伝えがある。何日もそんな夕方が続いたら、虫送りをしないといけない。以前、虫送りを怠ったために、|蝗《いなご》の大群が発生して、畑の作物を食い荒らしたことがあった。  あれはいつのことだったろう。戦前だろうか、戦後だろうか。夫がまだ生きている時分だっただろうか。シゲは入れ歯の内側を舌で|舐《な》めた。最近、時間の感覚が薄れている。むりもない。もう九十歳に近い。我ながら、よく生きてこれたと思う。  そうだ、夫の力馬が死んだのは、自分が二十九歳の時だった。六十年ほども前になる。六十といえば、力馬の母が死んだ歳。あの日は雪が降っていた。墓掘りに行った近所の者が、土が硬くて往生したといっていた。|棺《かん》|桶《おけ》を担いで山に埋めに行く時も、雪は降りつづいていた。村を囲む山々の頂が、うっすらと白くなっていた。このところ、冬になっても雪を見た覚えはない。いったい、どういうことだろう。冬が暖かいのだ。それどころか汗ばむほどに暑い。違う、違う。今は夏だ。まだ冬のことを考えるのは早い……。  シゲの思考は、ころころと変わる。ひとつのことを考えつづけるのは難しい。だが、節くれだった手は休みなく動いていた。松の根と麻幹を混ぜて束にしている。束ができると、力をこめて|麻《あさ》|紐《ひも》で縛った。  納屋の後ろから嫁の|千《ち》|鶴《ず》|子《こ》が現れた。 「おばあちゃん、これでええですかね」  まるまるとした手には青い|竹《たけ》|竿《ざお》が握られている。千鶴子も、この家に嫁いできた時には、頬の赤い元気な娘だった。太っているのは昔と同じだが、今では顔の肉は張りを失い、容赦のない老いの影が忍び寄っている。  シゲは縁側に立てかけられた竹竿に触れた。 「ちくと弱いかもしれんが、まあええじゃろ」  そして、竹竿の先に|木《き》|屑《くず》の束をくくりつけはじめた。千鶴子もシゲの横に座ろうとして、動きを止めた。 「あ、上の家に灯がついた」  シゲは顔を上げた。山の斜面の中腹に小さな家がある。ついこの前まで借りていた若い夫婦が引っ越していってからは誰も住んでいなかったはずなのに、今は白っぽい明かりが灯っている。伸び上がるようにして隣家を見つめていた千鶴子がいった。 「初枝さんのお孫さんが帰ってきちゅうがやとね。ほら、あの比奈ちゃん。えらいこときれいになっちょって、びっくりしたわ。さっきお菓子を持って|挨《あい》|拶《さつ》に来てくれたんやけど、そのお菓子からして違うがやき。やっぱり東京のもんはしゃれちゅうねぇ」  初枝と聞いて、シゲは昔近所に住んでいた女をおぼろげに思い出した。シゲがこの家に嫁に来た後で、初枝も明神家に嫁いできた。長い間、いい話し相手だった。そういえば無口な孫娘がいた。弟は活発で挨拶もちゃんとしたが、姉のほうは愛想のない子だった。  逆川に沿って神の谷のほうに歩いていく姿をよく見かけた。自分だったら、孫を神の谷で遊ばせることはしないと初枝にいったことがある。しかし初枝もその息子の嫁も矢狗村の者ではなかったから、シゲの言葉を聞き流しただけだった。  神の谷には近づかないこと。あそこは神の宿る谷。それも尋常な神ではない。語ってはならぬ神、見てはならぬ神がいる。  シゲは、幼い頃、祖母から聞かされた言葉を教えてやった。だが、初枝は笑っただけだった。確かにその頃にはもう、そんなことを真面目な顔でいう者はいなくなっていた。いかにも、あそこは美しい谷だった。村人も、時には花を見に出かけたりするようにもなっていた。ただ、神の谷は子供が遊ぶような場所ではない。これだけはわかっていた。  一度、あの子に直接、神の谷には行かないほうがいいと忠告してやったことがある。あの子は、きょとんとした顔でシゲを見返した。すると隣にいた子が、初枝の孫の手をひっぱった。そしてシゲのいったことは無視して、また神の谷のほうに歩きはじめた。シゲは忌ま忌ましい思いで、二人の小さな背中を見送っていた。その時、友達らしいもう一人の子が振り返ったのだった。  つり上がった目、白瓜のような頬。その表情はよく覚えている。いらぬことはいうな、と脅迫している顔だった……。 「あの子といっつも一緒に遊びよった子がおらんかったね」  千鶴子は声をひそめた。 「日浦さんとこの子供やろ。もうずっと前に亡くなったじゃろ……」  シゲは、日浦の娘かと|呟《つぶや》いた。千鶴子が何かいいたそうに頷き、二人は意味あり気な視線を交わした。  砂利をはねとばす音がして、軽トラックが庭に入ってきた。シゲの息子、|靖《やす》|造《ぞう》だった。|埃《ほこり》にまみれた運転席のドアを開けて、地下足袋を履いた靖造が降りてきた。彼は、縁側に座っている母と妻に目を止めた。 「まだホーカイ、上げてないがかや」  シゲは、木屑をくくりつけた竹竿を指さした。 「用意はできたき、おまん、上げとうぜ」 「なんじゃ、わしを待ちよったがか」  靖造はぶつくさいいながら、土で汚れた手で竹竿を持つと、庭の物干し台のところに歩いていった。そして妻の千鶴子にいって、マッチを持ってこさせた。マッチに火をつけながら、靖造は千鶴子に聞いた。 「時男と厚子が帰ってくるんは、土曜日やったな」 「ええ、もう仕出し屋に|皿鉢《さ わ ち》は注文しちょきました」といいながら、千鶴子はシゲに大きな声でいった。 「おばあちゃん、今週の土曜日には孫の時男と厚子が帰ってくるがですよ」  シゲは口を曲げた。 「盆が明けてから来たち、御先祖さまは帰った後じゃ。何にもなりゃせんが」  靖造が苦笑いした。 「むりゆうてもいかん、おばあ。子供らぁやち、仕事の都合があるがやき」 「盆にゃみんなぁ、仕事を休むもんじゃ」  シゲはむっつりと答えた。 「みんなで何しゆうがですか」  庭に面したまだ新しい家から、孫の嫁の里美が|曾《ひ》|孫《まご》の武の手をひいて現れた。  千鶴子がホーカイを上げるのだと答えると、里美は思い出したように、ああ、と声を洩らした。そして武に、「今にきれいな火が上がるき、見よろうね」と話しかけた。  千鶴子がマッチを擦って、シゲの|撚《よ》り合わせた木屑に火をつけた。火は油分の多い松の根に燃え移り、赤い炎を燃え上がらせた。靖造が火のついた竹竿を物干し台に縛りつける。空を焦がすような炎が皆の頭上で燃え立った。  武が、「火や。火やでぇ、お母ちゃん」と大きな声を上げた。  シゲは縁側から、夜の|帳《とばり》がおりようとしている矢狗村を見遣った。ぽつんぽつんと、ホーカイの朱色の火が灯っていた。昔はどの家も、盆の三日間、ホーカイを上げたものだ。その時は、村中がいっせいに巨大な|蝋《ろう》|燭《そく》を灯したように竹竿の先の|松明《たいまつ》が燃え上がった。最近では、この風習を守るのは、シゲのような年寄りのいる家だけになってしまった。  今、ホーカイの上がっている家を見ると、それが誰の家なのかすぐにわかった。北畑の重秋さん、狩場の牧さん。東のほうに見える灯は、確か谷之内の大石さんの家だ。点在するホーカイは、その家に住む年寄りの命を示すように頼りなげに燃えている。 「さあさあ、おばあちゃん。夕ご飯にしましょ」  千鶴子が、武を抱いた里美を促して家に入った。靖造は農具をしまいに納屋に入っていった。庭には、シゲ一人が残された。  風のない宵だった。じっとりとした熱気がこもっていた。シゲは庭に立ったまま、村中のホーカイを見守っていた。松明の炎が、ひとつまたひとつ消えてゆき、矢狗村がまたいつもの寂しい夜を迎えたことを確認すると、シゲは家に入っていった。  縁側の開け放した障子の向こうから、蛙の鳴き声がうるさいほどに響いていた。蚊取り線香の白い煙が、部屋の中で一筋の帯のようにたなびいている。比奈子は静まりかえった家で、荷物を整理していた。  何日この村に留まるか、予定もないままに帰ってきた。自分が無意識に服を幾枚もバッグに詰めこんでいたことを発見して、どれほど遠くに逃げたがっていたのか気がついた。  生活に割りこんでくる電話。人の|噂話《うわさばなし》。中傷。仕事先への気遣い。机に向かって絵を描いているだけなら、これほどに疲れることはなかっただろう。言葉では表せない感情を、絵にする行為だけで生きていけるのなら。しかし生活はそれだけではすまされない。都会で生きていくとは、人と人の間に張り巡らされた糸の中で、自分の巣を張っていく行為だ。比奈子は、|蜘蛛《くも》のようにとめどなく糸を吐き出すことはできなかった。比奈子の糸は、すでに枯渇しようとしていた。  そんな時、両親からこの家のことを相談された。売るべきか、このまま持っておくべきか。気に入ったら、改築するなり、比奈子の自由にしていい、といわれた。  これまでの比奈子なら、家の様子を見に行くという、それだけの理由で四国に帰ってきたかどうかわからない。ただ、彼女は逃げ出したかったのだ。  沢田透から……。  透。彼のことを思うと、胸が苦しくなる。彼との関係は、すべて砂上の楼閣だったのだ。いや、二人の築いてきたものが、果たして関係といえるほどに緊密なものであったかということすら今は疑わしい。  バッグの底をかきまわしていた指が、ざらざらしたものに触れた。ひっぱり出すと、スケッチブックだった。比奈子は皮肉な笑いを|口《くち》|許《もと》に浮かべた。  こんなところにまで、仕事を持ってきている。  比奈子が絵を本格的にはじめたのは、中学生になってからだった。一家で移り住んだ埼玉県の中学校に美術部があった。放課後、美術室に座って、木炭を手にイーゼルに向かう。相手はものもいわない石膏像。紙の上に再現されるのは石膏像の陰影でしかなかったが、少なくともそれは、比奈子の目を通して見た風景だった。そこに彼女は、自分の感情を表現できる場を見出した。こうして沈黙の時間を積み重ね、少しずつ亀の|甲《こう》|羅《ら》の下から自分の手足を伸ばしていくすべを学んでいった。  一浪して美術大学のグラフィックデザイン科に入り、やがてイラストレーターになった。最初は売れなかった。絵での表現力は進歩しても、比奈子は自分を言葉で表現することは下手だった。率直にいった言葉が相手を怒らせたり、お愛想のつもりの話がいやみにとられたりする。仕事は人間関係で大きく左右される。子供時代の比奈子は自分の内なる壁につまずき、大人になってからは、外との壁につまずいた。  友達もほとんどなく、雑誌や企業のPR誌に小さなカットを描いて暮らしていた比奈子の前に現れたのが、沢田透だった。広告会社のプロデューサーの彼は、比奈子に大きな仕事を与えてくれた。彼女がイラストレーターとして名が出たのは、それからだった。  こんな経緯があるだけに、透は、いつも比奈子に対して強気だ。俺のおかげで、おまえは現在ここにいる。無言のまま彼はそういいつづけていた。  畳の上で、線香の煙にまかれた蚊が仰向けになり、四肢を震わせていた。月明かりが部屋の明かりと溶け合って、縁側に続く敷居の上を淡く浮かび上がらせている。  自分が築いてきたと思っていたものは何だったのだろうか。  仕事。そこそこの成功。優雅な独身生活。金銭的にもゆとりはあるし、仕事も順調に進んでいる。高層ビル十八階のマンションが仕事場兼自宅。しゃれたインテリアで整えた家で、いかにも都会的な生活を送っている。  透もまた、その都会的生活の一部だった。これは透が定めたことだ。お互いをお互いの生活のインテリアとしてみなすこと。つきあいはじめた最初から、透は比奈子を彼の一部ではなく、彼の生活の一部と考えた。  透は大手広告会社のプロデューサーという仕事柄もあって、そこそこに女にもてて、金回りもよい。結婚して家庭に縛られるタイプではない。しかし精神的につながっている女は欲しいからと、その役回りを比奈子にあてたのだ。金、仕事、女。彼の生活は美しく完結していた。これ以上のものも、これ以下のものも必要としていない。  比奈子と透は、同じように自己完結したボールだった。しかしボール同士、一緒に遊ぶことはできても、合体することはできない。球体自体、すでに究極のフォルムだから。  そして二人は、お互いの完結した生活を揺るがさない程度の交際を続けてきた。  大人の男と女の縛り合わない関係。週に一、二度デートをして、抱き合う関係。言葉にすればかっこいいが、その内実は空虚。欲望の|捌《は》け口にすぎない肉体関係。  比奈子が二人の間のことをそう思いはじめたのは、今年に入ってからだった。何がきっかけというわけでもない。ただ毎日眺める鏡の中の自分の肌に、昔のように張りがなくなってきたことに気がついたからかもしれない。  老いはゆっくりと、だが確実に迫ってきていた。死が近づく足音が聞こえた。何も奪われないと同時に何も得ることのない関係に、無意味さを感じた。そんな時、透の浮気が発覚した。今までの比奈子なら、大人の女を演じようと、水に流しただろう。  ——肉体は肉体。私と彼は精神的にはつながっている。それでいい——  そう自分にいい聞かせたはずだ。しかし、その言葉も、空虚でしかなかった。  比奈子は小型のスケッチブックを部屋の隅に置いた。そしてバッグからこぼれた煙草の箱を拾うと、縁側に出た。湿り気を帯びた夜気が、体にしみこんでくる。比奈子は、箱から一本、煙草を抜き出して火をつけると、深く息を吸いこんだ。  矢狗村の家々に明かりが灯っていた。夕方に美しく灯されたホーカイは夜の|闇《やみ》に消えようとしていた。あれがホーカイというものだと教えてくれたのは、比奈子のために布団を持ってきてくれた大野千鶴子だった。それで、子供の頃、祖父母がホーカイを上げていたことを思い出した。  比奈子はゆっくりと白い煙を吐き出した。それは自分の体内から流れ出る魂のようにも思えた。死者の魂は、ホーカイの灯を目印に空から降りてくるのだ。しかし生きている者の魂は、何を目印に進む方向を定めればいいのだろう。  莎代里の顔が浮かんだ。彼女がそばにいたなら、わかってくれただろう。今の自分のことを、言葉に出さないでもわかってくれただろう。莎代里もまた、外との距離をどう置いていいかわからない人間だったから。  莎代里に会いたい。比奈子は痛切にそう思った。大人になった莎代里と、いろんなことを話したかった。だが今では、莎代里がどんなふうに成長したか、確かめるすべはない。比奈子にできるのは、昔の莎代里を思い出すことだけだ。  白鶴のように美しい女の子の姿を……。  庭で小さな音がした。誰かが、草を踏むような音。比奈子は、はっとして闇をすかし見た。しかしそこには、土の臭いの混じった静寂が漂っているだけだった。      3  |樒《しきみ》の木立をかきわけると、こぢんまりした境内が広がっていた。鉛色の空の下、あたりは陰気な空気に包まれている。男は、のっそりと境内に足を踏み入れた。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》をついて石段を登ってきた遍路の一人が、|怪《け》|訝《げん》な顔で彼の現れた茂みを見遣った。その奥には、深閑とした森が続いていた。  早朝の四国八十八ケ所十一番札所藤井寺。遍路の腰に下げた鈴が、澄んだ音を境内に響かせている。和気あいあいと話しながら、カメラを向け合ったり木陰で休んだりしている遍路たちには目もくれず、男は大股で境内を横切っていく。  彼のいでたちは、正装した遍路の姿とは少し違っていた。白装束に、足袋、|脚《きゃ》|絆《はん》、手甲、|菅《すげ》|笠《がさ》は同じだが、どこにも経文は書かれていない。洗いざらした白の布一色。手に数珠もなければ、杖にも「地水火風空」を表す|梵《ぼん》|字《じ》が刻まれていない。本堂の前で、経や真言を唱えることもない。ただ境内を回り、片隅に静かな場所を見つけると座りこんで黙想する。やがて目を開けると、再び木立の中の小道へと立ち去るだけだ。  |参《さん》|詣《けい》することが目的ではない。巡ることが大切なのだ。男は、うっそうと繁る木々に囲まれた薄暗い山道を歩きつづける。地面に積もる枯葉の腐臭が、彼の全身にまとわりついていた。  白壁の酒蔵を見たとたん、比奈子は懐かしさに胸がいっぱいになった。子供の頃遊んだ莎代里の家の庭は、いつもかすかな酒粕の香りが漂っていた。鼻孔をくすぐるその甘い匂いは、莎代里の思い出と耐えがたく絡み合っている。  比奈子は朝露に|足《あし》|許《もと》を|濡《ぬ》らしながら、家の前に立った。今朝起きて、まだ|醒《さ》めやらぬ頭の中で莎代里の死を想った。やはり現実とは思えなかった。朝食をすませると、散歩がてらここまでやってきたのだった。  以前、自家製造の酒の販売もしていた表の小さな店は、木戸で固く閉ざされている。久しく使われた形跡はない。土塀を巡らした古い門から庭に入ると、酒蔵の重々しい扉もまた錠が下りていた。酒造場も静まりかえっている。酒蔵と|母《おも》|家《や》に囲まれた庭にも人影はなかった。  この家には、もう誰も住んでいないのではないかと思いはじめた時、庭の片隅ではためく洗濯物が目に入った。今にも雨が降りだしそうな曇り空だというのに、白の上衣や脚絆を干している女がいた。 「すみません」  声をかけると、女が振り向いた。  比奈子は、はっとした。昨日、タクシーから見かけた遍路の顔だった。今やっと、それが莎代里の母の照子だったことに気がついた。彼女の姿を見たのがこの家でなければ、思い出せたかどうかわからなかった。  子供の頃の比奈子にとって、莎代里の母は別世界の人間だった。遊びに行くと、優しく話しかけてくれたり、おやつをくれたりするのだが、その動作や言葉すべてがテレビの中の人間を見ているように現実味が薄かった。矢狗村の他の女たちには見られない優雅な物腰の底に、常に冷気が漂っていた。  だが、目の前の初老の女の顔は、かつての照子とは別人のようだった。こけた頬、日焼けして荒れた肌。あの優雅さは、土俗的ともいえる|逞《たくま》しさの中に消え失せ、ひどく老けて見えた。歳月のためだけではない。それよりもさらに残酷な爪が彼女の顔をひっかき回し、|変《へん》|貌《ぼう》させてしまっていた。  照子は比奈子を見ても、誰だかわからないらしかった。警戒心を露わにした声で、どちらさんですか、と聞いた。 「あの私、明神比奈子です。……莎代里ちゃんと仲のよかった……」  照子の目が見開かれた。 「比奈ちゃん? あの比奈ちゃんやの」  語尾が甲高く響いた。照子は洗濯物を干すのをやめて、比奈子の前にやってきた。 「ようおいでてくださいました。比奈ちゃんが来たゆうて聞いたら、莎代里もそりゃ喜びますやろ」  その口調に、比奈子は一瞬、莎代里がまだ生きているのではないかと思った。しかし通されたのは、庭に面した部屋の仏壇の前だった。|位《い》|牌《はい》の横には、黒枠に囲まれた女の子の写真が飾られていた。中学生時代の莎代里だ。セーラー服を着て、カメラに挑むようなひきつった笑いを浮かべている。彼女らしい表情だった。  仏壇には、盆らしく花や果物が供えられていた。比奈子は位牌に向かって合掌し、目を閉じた。それでも莎代里が死んだとは、まだ信じられなかった。学芸会で芝居を演じている気がした。  比奈子は祈り終えると、照子に向き直った。照子は目をかっと見開いて、比奈子の頭上の宙を見つめていた。比奈子は落ち着かなくなった。その表情に見覚えがあったのだ。  あれは莎代里と遊ぼうと、誘いに来た時のことだった。水田に|蓮《れん》|華《げ》|草《そう》が咲き、村全体が紅紫色に染まっていた。春だったにちがいない。庭で莎代里の名を呼んだが返事がなかった。|桶《おけ》を洗っていた顔なじみの雇い人が、家の奥にいると教えてくれた。 「けんど、今は行かんほうがええぞ」  雇い人の男は、ぎょろりとした目で意味あり気に告げた。その言葉に従って、比奈子はしばらく莎代里を待っていたが、いっこうに現れる気配はない。とうとう|痺《しび》れをきらして、家の裏手から行ってみることにした。  |竹《たけ》|藪《やぶ》と板壁の間の小道を進んでいくと、低い声が聞こえてきた。抑揚をつけた|唸《うな》るような声だ。裏庭に面した奥の部屋から流れてくる。彼女は|硝子《ガラス》窓ごしに、そっと部屋を|覗《のぞ》きこんだ。  カーテンの|隙《すき》|間《ま》から白い人影が見えた。照子だった。白い上衣をはおり、低い声で何か|呪《じゅ》|文《もん》のように唱えながら、左回りにぐるぐる巡っている。その輪の中に、莎代里が座っていた。莎代里は白いワンピースを着て頭を垂れている。部屋の隅には見覚えのある村の女が二人、|固唾《かたず》を呑んで照子と莎代里の親子を見つめていた。  何をしているのかわからなかったが、儀式のようなものであることは感じとれた。  突然、莎代里の体が震えだした。きれぎれの声が聞こえはじめた。照子は、ますます激したように、わけのわからない言葉を唱えながら回りつづける。目はつり上がり、|唾《つば》が飛び散った。突然、莎代里の口から言葉らしいものが洩れた。普段の莎代里とは似ても似つかぬ、大人の男の声だった。比奈子は恐ろしくなって走って帰った。  その時見たことは、決して莎代里には伝えなかった。話すと、莎代里が突然、あの大人の男の言葉を話す怪物に変わってしまう気がした。  母から、日浦家が口寄せ|巫女《みこ》の家系だったと聞いたのは、引っ越してからだった。死者の霊を、娘の体に降ろすのだと告げられても、さほど驚きはなかった。子供心に、日浦家に関する不可解さを感じていたのだと思う。娘を|依《より》|童《わら》にして、回りつづける白衣の照子の姿。大人になってからも、脳裏にしっかりと焼きついている光景だった。そして今、照子の顔には、あの口寄せの儀式に見た時と似た表情が浮かんでいた。 「莎代里も喜んじょります」  照子はひたと宙を見つめたままいった。|恍《こう》|惚《こつ》とした表情に|微笑《ほ ほ え》みが広がった。 「比奈ちゃんとは、ほんとに仲ようしてもらいましたきね。あんたが引っ越していってからもしょっちゅう、思い出したみたいに、比奈ちゃんどうしゆうろうね、いいよったくらい」  胸に痛みが走った。どうして、あのままになってしまったのだろう。中学校に入ってから、比奈子は二通手紙を書いた。祖父の初盆の時、矢狗村に帰って莎代里と再会した後のことだった。会話らしい会話を交わせなかった自分に不満で、長い手紙を書いた。莎代里をいかに懐かしく思っているか。小学校時代の自分にとって、莎代里はただ一人の友達だった。そんなことを書いた気がする。  最初の手紙には返事がきた。神の谷の様子を書いた短い手紙だった。莎代里はまだ神の谷で遊んでいるのかと思うと、複雑な気持ちになった。中学生になっても子供っぽい遊びを続けている彼女に対する優越感が、混じっていたかもしれない。比奈子は、次の手紙で自分が美術部に入ったことを知らせた。莎代里にも何かクラブに入ることを勧めた。返事はなかった。比奈子は、莎代里はもう自分を忘れてしまったのだと思った。再び手紙を出すことはしなかった。返事がこないことで、傷つきたくなかった。  しかし莎代里は返事を書けなかったのだ。死んでしまったのだから……。 「すみません。莎代里ちゃんが亡くなったなんて、私、全然知らなくて……」  比奈子は小声でいった。  照子は、ゆっくりと彼女の顔に視線を移した。そして、莎代里は川で|溺《おぼ》れて死んだのだと告げた。 「逆川ですよ。神の谷の近くやった。莎代里はあの谷に行く途中やったらしい。ほんで岸辺から足を滑らしたみたいでね。普通なら、よう溺れんばあ浅い川やに……。頭を強う打って、意識がのうなったまま溺れ死んだがです。盆のしまいの日やったもんで、死人に足をひっぱられたがじゃ、ゆう人もおりました」  では、莎代里が死んだのは、十八年前の今頃のことだったのだ。彼女は小さく息を吐いて、家の中に目を遣った。  開け放った家は裏庭まで見通せた。隅々まで、すっきりと片付いている。隣の部屋の座卓の上に湯呑み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が一個、所在なげに残されていた。どくだみの茂った裏の石垣から、息苦しいほどに湿った空気が流れてきている。人の気配はなかった。莎代里の父や兄はどこにいるのだろう、と比奈子は不思議に思った。  子供の頃、遊びに来ると、中学生だった莎代里の兄、耕治の部屋から耳をつんざくようなロックが流れていた。音を下げるように怒鳴りながら、父親の|康《やす》|鷹《たか》が長靴を履いて、酒蔵の裏手から出てきたものだ。  雇い人たちも十人ほどいただろうか。半裸姿で大きな桶やざるを洗ったり、酒瓶を運んだりしていた姿を覚えている。午後になると茶菓子を囲んで、雇い人たちが縁側で一服していた。たまに莎代里の父が何か夢中になって話しはじめると、茶を運んできた照子もその場に残り、穏やかな笑みを浮かべて耳を傾けていた。そんな時には、照子の冷やかな風情も薄らいで見えた。 「あの……造り酒屋さんのほうは、もうやってないんですか」  照子は頭を横に振った。 「うちの主人が入院しちゅうもんですき。事故に|遇《お》うたがですよ、莎代里が死んだ次の年に。交通事故で植物人間になってしもうて。しばらく息子が跡を継いでやってくれよったが、みょうなことでヤクザ者と|喧《けん》|嘩《か》して、ここにゃおれんなりました。今はどこにおることやら……。莎代里がのうなってから、うちはろくなことがないですわ」  他人事のように語るその口調には、怒りも悲しみも感じられなかった。そんな感情すら、不幸に押し流されてしまったようだった。思いもよらなかった日浦家の悲運を慰める言葉も浮かばず、比奈子は視線を表の庭にさまよわせた。白い洗濯物がはためいていた。上衣の背中に『|南無大師遍照金剛《なむだいしへんじょうこんごう》』の黒々とした墨文字が揺れていた。 「昨日、おばさんの姿、見ました。逆川に沿って歩いてましたよね」  照子の無表情な口許がぴくりと動いた。 「莎代里が死んでから、四国八十八ケ所、回るようになったがですよ。そりゃもう何遍も何遍も……」と不意に言葉を切って、真剣な顔つきで比奈子に向き直った。 「比奈ちゃん、|逆《さか》|打《う》ちゆうの、知っちょりますかね」  比奈子は首を横に振った。照子は|囁《ささや》くような声でいった。 「逆打ちゆうんはね、八十八ケ所の最後の礼所から、一番目の札所に逆回りでお参りして歩くことです。莎代里と仲がよかったあんたやき打ち明けますけど、この日浦の家には昔から言い伝えがあるがですよ。左回りは、死の国に行く道ゆうてな。死んだ者のことを一生懸命考えながら、四国を死んだ者の歳の数だけ左向きに回るがや。ほいたら死んだ者を死の国から連れ帰ってこれる」  比奈子は一瞬、どのような顔をしていいのかわからなかった。しかし、照子の真剣な顔つきに、唾を呑みこんだ。照子は比奈子に|頷《うなず》きながらいった。 「私はね、比奈ちゃん。十五回、回ったがですよ。昨日で十五回目。莎代里の死んだ時の歳の数だけ」  つり上がった目が細められ、鎌の刃のように光っていた。その視線を比奈子の頭上に移し、照子は満足そうな笑みを浮かべた。 「おかげさまで莎代里は帰ってきました。昔のまんまの姿で。莎代里は帰ってきたがですよ」  照子は、まるでそこに誰かがいるように、宙に笑いかけながら座っていた。いつの間にか、比奈子の首筋に鳥肌がたっていた。恐るおそる頭上に目を遣ると、染みの広がった天井の木目が見えただけだった。  照子は甲高い声で笑った。 「まだですが、比奈ちゃん。もうちくと待たんといきません。莎代里が元の通りになるには、もっともっとみんなぁに思い出してもらわにゃいかん。そうゆうちょります」  照子は確信のこもった顔で、比奈子の顔を見つめていた。狂っている。比奈子は視線を|逸《そ》らせた。家の奥からは、相変わらず湿った空気が流れてきていた。  目が覚めると、|枕許《まくらもと》の時計は十時を指していた。寝過ごしたかと一瞬慌てたが、すぐに今日は休みなのに気がついた。文也はのろのろとベッドから手を伸ばしてブラインドを細めに開けた。薄明かりの中に雑然とした部屋が浮かび上がった。  灰色の|絨毯《じゅうたん》を敷いた六畳と、隣の三畳の間。秋沢家の二階全部が、文也の領土だ。三畳の部屋は本棚が並び、書庫のようになっている。だが、増えつづける書籍類は割り当てられた場所に収まっていてはくれない。机とベッド、洋服|箪《だん》|笥《す》の置かれた六畳の部屋にも侵入してきて、床の上に山積みとなっていた。  文也は、手探りでベッドの下にあった本を拾い上げた。『四国の古代文化』。昨日、役場から持って帰った小冊子だった。本の隅が|紙魚《しみ》に食われて黄色くなっている。楠瀬康鷹という人物が書いた、自費出版らしい小冊子だった。  昨夜、寝る前に読もうと思って枕許に置いたまま、開きもしないで眠ってしまったのだ。文也は本をめくった。 〈国|稚《わか》く、浮く脂の如く、|海月《くらげ》の如く、漂える時——。  古事記の冒頭の件に、このような記述がある。天と地が分かたれてまだ間もない頃、この世は大海原に浮かぶ海月のように漂っていた。始原の海に次々と姿を現した神々の命により、日本の国土を生むようにと遣わされたのが、|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》、|伊邪那美命《いざなみのみこと》の男女二柱の神である。  このあまりに知られた話、今更聞くまでもないと、立腹される読者諸兄もおられると思う。しかし、ここで諸兄に注意を喚起していただきたいのは、神々の契りにより生まれた子の素性と順番なのである。暫く、お付き合い頂きたい。  伊邪那岐命と伊邪那美命が天の浮橋に立ち、天の|沼《ぬ》|矛《ぼこ》で海水を掻き混ぜて、ひき上げると、その滴り落ちる潮で島が出来た。そこで二神は島の中央に一本の柱を立て、まわりを巡った。右と左、それぞれの方向から回る男女の神は、やがて出会うことになる。そして互いに声をかけ合い、臥戸に入って契りを結んだ。最初の子は失敗に終わったが、再び柱巡りからやり直して出来た子が、日本の国々となった。  最初に産まれたのは「|淡道《あはじ》|之《の》|穂《ほ》|之《の》|狭別《さわけ》|嶋《しま》」。淡路島である。次に「|伊豫《いよ》|之《の》|二《ふた》|名《なの》|嶋《しま》」が生み出された。この島は、身が一つに顔が四つあり、顔ごとに名があった。続けて、「|伊《い》|豫《よの》|國《くに》」を「|愛比賣《えひめ》」、「|讃岐國《さぬきのくに》」を「|飯《いひ》|依《より》|比《ひ》|古《こ》」、「|粟國《あはのくに》」を「|大《おほ》|宣《げ》|都《つ》|比《ひ》|賣《め》」、「|土《と》|佐《さの》|國《くに》」を「|建《たけ》|依《より》|別《わけ》」という、と説明されている。それぞれ愛媛、香川、徳島、高知の古名であるから、「伊豫之二名嶋」とは、四国を指すことがわかる。「二名嶋」の由来は、讃岐と土佐の男神、伊予と阿波の女神がそれぞれ二柱ずつおいでになるからだという説や、伊予、現在の愛媛県にある「二名」という地名からきているという説などがある。  ところで最初に生まれた淡路島であるが、この「淡」と、現在の徳島県の古名「阿波」は同じ発音である。古代、日本語の音に中国伝来の漢字をあてはめて、文字表記としていたことを考えれば、この「淡」は「阿波」を意味しよう。つまり「淡路」とは「阿波路」、阿波に続く道という意味を持つ。最初に阿波である四国に続く道、淡路島が出来て、そして四国が生まれた。淡路島は、次なる四国を生むため、そこに|辿《たど》り着くための産道のようなものだったのだ。  こう考えると、日本列島の他のどの島より先に、四国が生まれたということにもなるであろう。それだけ古代において、四国は重要な意味を有する島だったのである。  四国のほぼ半分を占める国が土佐である。土佐は昔から、鬼の住む国といわれてきた。古くは、鬼とは死者の霊を指した。つまり土佐は、死者の住む国と思われていたのだ。  死者の住む国とは、平明にいえば|黄泉《よみ》の国である。この黄泉の国は、|黄泉津《よもつ》|大《おほ》|神《かみ》の治める黄泉津国である。ヨモツクニは、|四方《よも》つ国。この言葉の最初の文字と最後の文字を取ると、四国となる。  これらのことから、見えてくるものは自明である。つまり四国は古来、死者の国、死霊の住まう島であったのだ〉  文也は苦笑した。四国が死霊の島だとは。こんな突拍子もないことを書いたのは、どんな人物だろう。彼は著者紹介の欄をひっくり返してみた。 〈楠瀬康鷹/本名日浦康鷹。高知県高岡郡矢狗村在住〉  文也の目が名前のところで|釘《くぎ》|付《づ》けになった。日浦康鷹。莎代里の父親だった。  康鷹は文也の父のいとこだった。父はよく「タカさん」と呼んでいた。あの康鷹が、こんな本を出版していたとは思いもよらなかった。  文也はベッドからむっくと起き上がると、本をつかんだまま階下に降りていった。 「お父さんっ」  茶の間に顔を出したが、誰もいなかった。茶の間の向こうの部屋から、母の声が返ってきた。 「文也、起きたがかえ」 「うん。お父さんは?」 「出かけたよ」  |襖《ふすま》が開いて、母が出てきた。ショートカットの髪を薄紫色に染めて、|鶯色《うぐいすいろ》の派手なワンピースに身を包んでいる。 「お盆で本家のほうに行ったが。ほんとなら、あんたもついていきゃよかったけどね。公香もデートやゆうて、おしゃれして出ていったし、こんな時間まで寝よったんは、あんたばぁのもんで」  母は非難するように文也を見た。彼はそれを無視して、手にした本を見せた。 「タカさんがこんな本、出したが、知っちょったかや」  母は、興味なさそうに古ぼけた本を見た。 「ああ、それか。どこで見つけたが」  役場の資料室だと答えると、母は首を|傾《かし》げた。 「うちにもあったで。できた時に、タカさんが持ってきてくれたが。日浦の家に養子に来る前の楠瀬姓で書いたゆうてね。タカさん、博学やったきね。それが今はあんなになってしもうて、かわいそうに……」  廊下で電話が鳴った。母は言葉を切って、慌てて応対に出た。文也は内心ほっとした。日浦家のことが話題になるたびに、いたたまれない思いに襲われる。 「文也、あんたによ」  母が呼んだ。  文也は、本を小脇に抱えたまま受話器を耳にあてた。 「俺や、忠志。今日は休みみたいやな、文也」  片田忠志のがらがら声が聞こえた。同級生の忠志は、北野町のスーパーに勤めている。話し下手で一見おとなしい男だが、面倒見はよかった。友人同士で何か事を起こす時は、決まって彼に世話役が押しつけられた。電話の用件も、今日の同窓会の確認だった。 「二時からや。来るやろ」 「あ、ああ……」  文也は、気乗りのしない返事をした。同窓会のことなど、すっかり忘れていた。 「待ちゆうきにや」  行けないとは、いいにくかった。文也はしぶしぶ、承知したと答えた。  電話を切って、文也は洗面所に行った。鏡に向かって歯を磨きながら、やはり行きたくないな、と思った。  同級生。同じ年に生まれ、同じ学校に通い、今も同じ村に住む。同じように二十代初めに結婚して、同じように子供を二人か三人もうけている。矢狗村に残っている同級生たちは、ほとんど同じ人生の路線を歩んでいた。それは、村という共同体に組みこまれて生きるためには必要な資格だった。  村に生きるとは、他の者と同じ歩調で生きることだ。文也は、子供の時から、そんな村の生活の流れから抜け出したいと思っていた。他の人間と同じ経験をしたくはない、村から出て、父や友人たちとは違う人生を送りたい、と願っていた。  東京の大学に入り、一人暮らしをはじめて、文也は念願の新世界に踏み出した。東京という大都市は、未知の女に似ていた。彼はその女の尻を追いかけて、さまざまな場所に頭を突っこんだ。酒場、アングラ演劇の芝居小屋、学生の政治討論会、コンパ。社会に出ると、会社という組織の中で新しい経験を|貪《どん》|欲《よく》に味わおうとした。  しかし、やがて自分が|檻《おり》の中で回転車を回すハムスターのような気がしてきた。新しい経験の新奇さは、一度味わえば消滅する。興奮できるのは、最初の一瞬。二度目からは輝きを失う。次々に新しい何かを追い求めることと、いつも同じことを繰り返すことは、結局同じことなのだと思いはじめた。  そんな徒労感の終局に、離婚があった。新しい経験を味わうのは、もうたくさんだと思った。何も起こらない静かな生活を求めて、彼は矢狗村に帰ってきた。なのに、村の生活に溶けこめない。自分の居場所が見つからないのだ。同窓会に顔を出せば、自分と他の者たちの差を|否《いや》|応《おう》なく見せつけられ、疎外感を味わうことは、わかりきっていた。  文也は重い気分でタオルで顔を|拭《ふ》いた。 「ちょっと文也」  母の元気のよい声が廊下から聞こえた。洗面所から出ていくと、母が玄関の戸を開けているところだった。 「私、これから店に行くき。家でごろごろしゆうんやったら、たまには部屋の掃除もするんで。家中で、あんたの部屋がいちばん汚いがやきね」  農協で事務員をしているもの静かな父とは対照的に、商売上手で積極的な母だ。実家のある北野町に手芸品を扱う小さな店を開いていて、週のほとんどは店に出て過ごす。 「いやや、雨が降りだした」  母は大きな声をあげると、外に走り出ていった。その太り|肉《じし》の背中を見送りながら、文也は、ふと幼かった自分を思い出した。  幼い時から、母はいつも彼に背中を向けていた。母が見つめているのは、彼女の店、人間関係、そして父だった。母が文也を可愛がらなかったということではなかった。ただ彼女の心の中が、文也のことだけで占められることはなかった。  文也は二階に戻ると、ブラインドを上げて窓を開けた。ベッド脇の|硝子《ガラス》戸の向こうは、ベランダになっている。ベランダごしに、母の車が水田の中の道を遠ざかるのが見えた。逆川を中心に、山の斜面に田がびっしりと作られている。その上に、小雨がしめやかに降りはじめていた。  しっとりした寂しい風景は、子供の頃から何ら変わっていなかった。この村では、時間は水田を吹き渡る風のように住む者の頭上を流れ去る。風に吹かれて成長してきた人間は、冬になり稲が枯れるように死んでゆく。そして地に落ちた稲粒から、また新たなる稲が芽吹いていく。しかし文也は変種の稲穂だった。風に吹かれても、皆と同じ方向になびくことはできない。  これまで幾度となく思ったように、村を出ていこうという考えが頭をよぎった。せめて高知市に出て、もっと活気のある仕事を探すのだ。自分はまだ若い。活力を与えてくれる環境に身を置くのだ。そうすれば自分の居場所を見つけることができるかもしれない。大都市でも、|鄙《ひな》びた村でもない地方の県庁都市あたりこそ、自分に合った場所ではないのか。今のまま、村にくすぶっていてはいけない。出ていくのだ。  その時、誰かの視線を感じた。  文也の顔に苦しげな表情が走った。  まただ。あたりを見ても誰もいないことはわかっていた。それでも、そろりと見回さないではいられなかった。  部屋のものはすべて、写真に|撮《と》られた光景のように凍りついていた。物音ひとつしない。窓の外にも、人の影すらなかった。銀の糸のような雨を受けて、緑の水田が続いていた。  しかし、何かに見られていた。その視線が誰のものか想像できるほどに強く……。  文也は乱暴にベッドのシーツを|剥《は》ぎ取った。そして大きな音をたてて、部屋の掃除をはじめた。      4  |襖《ふすま》を開けたとたん、さっきまで聞こえていた騒がしい声がぴたりとやんだ。比奈子は戸惑って立ちすくんだ。  十二畳ほどの部屋に座卓が並べられて、|皿鉢《さ わ ち》料理が置かれている。そのまわりに男女合わせて十人ほどが集まっていた。皆、比奈子を|訝《いぶか》しげに見ている。君彦が怒鳴った。 「なんじゃい、みんなぁわからんか。明神比奈子やで」  一同は口々に驚きの声をあげた。ゆかりが比奈子の名を呼んだ。比奈子は、彼女の隣に腰をおろした。 「遅かったやいか。電話しょうか思いよったとこで」  ゆかりがビールをつぎながらいった。  比奈子は、雨の中を歩いてきたからだと言い訳しながらビールを一口飲んだ。  午前中に莎代里の家を訪ねてから、妙に落ち着かなかった。莎代里が生き返ったと|囁《ささや》いた照子の言葉が、心の底にひっかかっていた。たぶん比奈子自身、まだ莎代里の死を現実のものとして受け止めることができないためだろう。莎代里のことを考えているうちに、気がつくと時計は二時を回っていた。  しかし、そんな気分も、騒がしく飲み食いしている同級生たちの中にいると薄らいでいった。比奈子の前に座っていた細面の男が、自分のことがわかるか、と聞いた。知っているはずの顔だった。が、名前が浮かばない。比奈子はもどかしい思いで首を傾げた。ゆかりが笑いながら、山崎豊だと告げた。比奈子は、ああ、と大きな声をあげた。休み時間になっても、気弱な顔で机の前にじっと座っていた子だった。あのおどおどした表情は消えていた。今は父親の農家を継いで、子供も二人いるといった。隣にいるのは、いつも一言多いと叱られていた庄野恭三。斜め前にはガキ大将だった西村雅男。寄るとさわると人の|噂話《うわさばなし》をしていた飯野美香が、座卓の隅で、仲よしだった森田克子を相手にやはりこそこそ話をしている。  座卓を囲む一人一人の顔と記憶が少しずつ一致してくる。それは時間という半透明のゼリー状の壁を通して、過去を|覗《のぞ》き見るような行為だった。ある部分では過去そのままの姿に映るが、別の部分はまったく違った姿形をとって現れる。 「比奈ちゃん、久しぶりやねえ」  肩を叩かれて振り向くと、真鍋久美の細い目が笑っていた。比奈子は驚きの声をあげた。小学校時代、莎代里の次に仲がよかったのは久美だった。世話好きな|姐《あね》|御《ご》|肌《はだ》。ひっそりと肩を寄せ合うように孤立していた比奈子と莎代里を、何かにつけてクラスの女の子たちの輪にひきこもうとしてくれた。  もともと体格のよかった久美は、貫禄充分のおかみさんになっていた。農家に嫁いで、三人の子供の母だという。 「結婚した先の苗字も真鍋。今も名前はおんなじ真鍋久美やけど、生活はいっぺんに大変になったわ。家のことやら子供の世話やらで、毎日忙しゅうて忙しゅうて」 「そのわりにゃ、よう肥えて」  恭三が茶々を入れて、久美に背中をどやされた。しばしば集まっては同窓会をやっているというだけあって、皆仲がよい。二十年ぶりに加わった比奈子には、溶けこみにくいほどの親密さが流れている。  久美が恭三を押しのけて横に座ると、比奈子にビールをつぎ足しながら聞いた。 「比奈ちゃん、結婚は?」  比奈子がまだだと答えると、ゆかりがにやにやしながらいった。 「けど恋人くらいはおるやろ」  比奈子は笑ってごまかした。ゆかりは大きな声で、独身はいいな、といった。すかさず君彦が口を出した。 「ほんなら、ゆかり、さっさと離婚したらええやろが。今度は僕とどうや」  森田克子が内緒話をやめて、ゆかりにいった。 「ゆかりちゃん、君彦君はやめたがええで。この人、小学校の時、私を|箒《ほうき》で|叩《たた》いてばっかりやった。そんな人が、ええ|旦《だん》|那《な》さんになるわけないわ」 「昔のことはいうなや」 「箒やったらまだええぞ。俺らぁ、デコキンの家に行ったら、|蠅《はえ》叩きを持って追いかけられた」  恭三の言葉に、どっと笑いが起こった。そして一座は、子供時代の思い出話で盛り上がった。比奈子は同級生の話をくすくす笑いながら聞いていた。|耳《みみ》|許《もと》で久美が囁いた。 「莎代里ちゃんのこと聞いた?」  比奈子はどきりとした。久美は、気遣うような表情で彼女を見ていた。  比奈子は、昨日聞いたばかりだと、小さな声で答えた。久美は少し黙ってから、また口を開いた。 「あんたが引っ越していってから、莎代里ちゃんとよう話したんは私くらいやった。中学校になってから、クラブも同じやったし……」 「クラブ? 莎代里ちゃん、何のクラブに入ってたの」  久美は理科クラブだと答えた。比奈子は意外な気がした。莎代里が理科に興味を持っていたとは知らなかった。久美がまた何かいおうとした時、襖が開いて誰か入ってきた。歓声が起こった。 「おーっ、先生のおでましや」 「遅いやないか」  部屋の入口に、すらりとした男が立っていた。細面の端正な顔。焦茶色の瞳に、柔和な光をたたえている。短い髪に、白い綿シャツとジーンズが似合っていた。久美が自分の隣を指して叫んだ。 「文也くーん。ここがあいちゅうよ」  久美の隣に座ろうとした文也の目が、比奈子の前で止まった。比奈子は照れながら、会釈した。久美が比奈子だと告げると、文也はしげしげと彼女を見つめた。 「へーえ、比奈ちゃんか」  比奈子は顔が火照るのを感じた。まるで昔に逆戻りしたようだった。自分の感情をどう表現したらいいかわからず、亀のように|甲《こう》|羅《ら》に閉じこもっていた女の子に。 「おい、恭三が去年、どうなったか教えちゃおぞ」  雅男が怒鳴った。 「この会の後で、逆川にこけてなぁ」 「知っちゅう知っちゅう。ずぶ|濡《ぬ》れになって、うちの店に電話貸りに来たわ」  ゆかりの話をさえぎるように、恭三は、雅男に突き落とされたのだとわめいた。忠志がカラオケのマイクを準備しはじめた。 「よっ、カラオケの女王の出番でぇ」  みんなの拍手の中を久美が立ち上がり、部屋の隅の舞台に出ていった。そして身ぶり手ぶりも大胆に歌いだした。 「今、どこにおるがで」  気がつくと、文也が比奈子のコップにビールをついでくれていた。比奈子は東京だと答えた。そして、聞かれるままに、自分の職業をいった。 「イラストレーターか。かっこいいな」 「そんなことないの。自宅兼仕事場で、毎日一人でせっせと絵を描いているだけ。文也君は役場に勤めてるんだってね」  驚いた表情の文也に、昨日森田から聞いたことを告げた。 「ほんやき田舎は怖い。そいたら僕がどればあさぼりゆうかも聞いたろ」 「ええ。今度、村長さんに直訴するつもりだって」  文也がぎょっとした顔になったので、比奈子は笑った。文也もすぐに冗談だと悟って、おかしそうに目を細めた。  |喋《しゃべ》っているうちに緊張がほぐれていった。ビールの酔いが回ってきたようだ。しばらくして文也の口調が標準語になったのに気がついた。彼が以前、東京で暮らしていたといっていた森田の話を思い出した。 「そういえば、さっき入ってきた時、先生って呼ばれていたけど、どういうこと?」  比奈子が聞くと、文也は照れたようにビールを飲み干した。 「趣味でちょっとやってることがあってね。それをみんなからかっていうんだ」  二人の会話を聞いていた豊が、座卓ごしに口を挟んだ。 「文也は昔のことに詳しいがじゃ。矢狗村の古い遺跡を見つけて、新聞にも載ったがやき」 「ほんと?」比奈子は驚いて文也を見た。彼は居心地が悪そうにあぐらを組み直した。 「矢狗村近辺は、かなり古くから人が住んでいたところらしくてね。偶然、逆川沿いの縄文時代の住居跡を発見したんだ」 「すごいわ。歴史学者なのね」  文也は困ったように首を横に振った。 「大学で歴史学をかじったぐらいのものだよ。ただのアマチュアさ。古い文献を読んだり、山や谷を歩き回ることが好きなだけ」 「文也君、山歩き、好きだったものね。昔、莎代里ちゃんと三人で神の谷で遊んだの、覚えているわ」  一瞬、文也の顔がこわばった。比奈子は、まずいことをいったのかと思って、口を|噤《つぐ》んだ。文也は比奈子を気遣う口調でいった。 「莎代里は……もう死んだよ」  比奈子は知っている、と答えた。そう話すことによって、心の中で彼女をますます死の国に追いやっている気がした。 「今日、莎代里ちゃんの家に行って、お母さんに話を聞いたの」  文也は驚いたように比奈子を見た。 「照子さん、いたのか?」  比奈子が遍路から帰ったばかりだったと答えると、文也はため息をついた。 「年に一、二回は、お遍路さんに出て家にはいない。そんなに根をつめて回らないでもいいと、|親《しん》|戚《せき》中の者が止めるけど、聞きやしない」  比奈子は、逆打ちのことをいおうとしてやめた。照子の|憑《つ》かれたような目つきを思い出すのが怖かった。彼女はバッグから煙草を取り出した。文也が、ライターで火をつける比奈子の手つきを見ていた。  文也は、自分がずいぶん変わったと思っているのだろう。しかし、いつまでも亀の甲羅の中に潜んではいられない。比奈子は心の中で|呟《つぶや》きながら、ビールを飲んだ。煙草とアルコールのせいで、頭がくらくらした。  まわりでは、かつて同級生だった男女が酒を酌み交わし、笑い、騒いでいる。この輪の中に莎代里もいるはずだった。もしいたなら、どんな女になっていただろう。誰かと結婚していただろうか。自分と、どんな会話を交わすようになっていただろうか……。  比奈子は紫煙の中で目を閉じた。 「神の谷はどんなになっているかしら」  文也は流れていく煙を見遣った。 「そういえば、僕もしばらく行ってないな」 「行ってみようかな。明日にでも」 「よかったら案内してあげようか。明日、僕、休みだし」  比奈子は驚いて彼の顔を見た。文也から、そんな申し出を受けるとは思いもよらなかった。何ということもないのに、胸が高鳴った。比奈子は、ぜひ連れていってくれと頼んだ。文也はまだ中身の入ったビールのコップをもてあそびながら、それじゃ明日の朝、迎えに行くといった。 「約束ね」  比奈子は、照れ隠しに文也のコップに自分のコップをカチンとぶつけて、ビールを一気に飲み干した。 「……ねぇ踊ろうちや、文也君」  久美の手が二人の間に伸びてきて、文也の腕を取った。気がつくと、カラオケはムード音楽に変わっていた。照明も暗くなり、あちこちでカップルができて踊っている。渋る文也を、久美がひきずるようにして輪の中に連れ出した。  向かいに座っていた山崎豊が、おずおずと比奈子に踊ろうと誘った。比奈子がやんわり断ると、豊は困ったように酒をちびりと飲んだ。  奇妙な雰囲気だった。いい年をした大人たちが、無邪気な表情を浮かべて踊っている。不倫というような|淫《いん》|靡《び》な空気はなかった。運動会で手をつないで踊る子供たちのような|微笑《ほ ほ え》ましさが漂っていた。  豊が呟いた。 「毎年こうなんで。最後はいっつもチークダンスや。君彦の相手は決まってゆかり。あいつ、ゆかりが好きやったもんやき」 「豊君も、そうじゃなかったの」  比奈子は煙草の煙を吐きながら聞いた。豊は、首まで赤くなった。比奈子は明るい声で笑った。  曲は終わりに近づいていた。今は父や母となった男と女たちが、黙って体を揺らせていた。安心しきってお互いの肩に手を回した姿が、|薄《うす》|闇《やみ》の中に沈んでいる。それは、もう返ってこない子供時代そのものを抱きしめて踊っているようにも見えた。  鈍い光を反射するリノリウムの廊下が、まっすぐに続いていた。|硝子《ガラス》窓の向こうでは、患者たちが白いシーツにくるまって寝ている。安田|智《とも》|子《こ》は脳外科病棟の病室に入っていった。  薄暗い部屋に、|芋《いも》|虫《むし》のように横たわる患者たち。かすかな|鼾《いびき》や、身動きする時の布のこすれ合う音が聞こえる。智子は患者に異常はないか、一人一人見ていった。  一週間前、屋根かち落ちて|昏《こん》|睡《すい》状態に陥っている初老の男。風呂場で転んで、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》を起こした老女。職場で倒れて、|脳《のう》|腫《しゅ》|瘍《よう》が発見された働き盛りの男……。意識を失った男や女は、いつ|醒《さ》めるとも知れない眠りを|貪《むさぼ》っている。  智子は患者の手足をシーツの中に押しこみ、|枕《まくら》を直し、微笑みかける。この病棟の患者たちは子供を連想させる。誰かの手が差し伸べられないと、途方に暮れて、生命すらも落としかねない幼い子供を。  そんなことを思いはじめたのは、十七年前からだ。義母に幼い二人の子を預け、この病院に勤めだした時だった。  智子は一人の患者を受け持った。頑丈な体つき。大きな鼻。男らしい顎を持つ男。まだ若く、精力が体に|漲《みなぎ》っているはずの男。しかし彼はまるで幼い子供だった。意識のない彼の体を洗う時、口からこぼれた食べ物を|拭《ぬぐ》う時、智子は自分の子供を世話しているような気分になった。やがて智子の子供たちは彼女の手から離れて大きくなっていったが、彼だけが、いつまでも子供のままだった。  智子は、窓際のベッドの前に立ち、そこに眠る一人の男を見下ろした。日浦康鷹。北野町の隣、矢狗村の患者だ。  一時期、勤務の関係で、この病棟から離れたこともあったが、今またここに戻ってきた。康鷹は相変わらず成長しない子供のように一人、彼女を待っていた。彼は孤独だった。彼のベッドは、病院の中の離れ小島のように孤立していた。妻は、めったに訪れない。息子は数年前から、ぷっつりと姿を現さなくなった。親戚の者も盆と暮れに見舞いに来ればいいほうだ。康鷹の様子を毎日見守っているのは、彼の家族ではなく智子だった。|髭《ひげ》を|剃《そ》ってやるのは智子だ。床擦れを気遣い、体を動かしてあげるのも智子だ。十七年の間に康鷹の髪には白いものが交じってきたが、最初に運ばれてきた時の男ぶりは、今も失われてはいない。  こんな男が意識をなくしてしまうとは、なんと人生は無情だろうと思った。仕事を転々と替えて、稼いだ金は女遊びや酒につぎこむ自分の夫こそ、昏睡状態にでも何にでもなればいいのだ。  智子は、康鷹の頬を|撫《な》でた。口を半ば開いて眠っている。初老の男が顔の筋肉を|弛《し》|緩《かん》させて眠るさまは、決して見てくれのいいものではない。しかし智子には、いとおしく思えた。何の夢を見ているのだろう。  彼の唇が、何かを語りたげに動いた。智子は、はっとして顔を近づけた。  気のせいだった。康鷹は口を開いて息を吸いこんだだけだった。智子は半ば落胆し、半ば|安《あん》|堵《ど》した。康鷹が意識を回復して退院する日がくることは、想像したくもなかった。彼は彼女の永遠の子供だった。いつまでも大きくならないし、彼女から離れていくこともない。  智子は康鷹に微笑みかけると、病室を出た。  比奈子は闇の中に横たわっていた。こうしていると、目覚めているのか、眠っているのかわからなくなる。自分と闇の境界は消え、肉体の感覚は消滅し、意識が闇の中にどろどろと流れ出していく。  子供の頃、夜、眠るのが怖かった。闇の中に自分が溶けて消えてしまうような気がした。祖父が死んだ時、しばらくそのことが頭から離れなかった。祖父は土葬だった。土の中で溶けていく祖父の|痩《や》せた肉体。しかし、意識は腐りはしない。墓から漂い出て、闇に混ざりこんでいく。闇には死者の意識が漂っている。祖父、そして莎代里の……。  比奈子は、暑苦しい空気の中で荒い息を吐いた。風呂に入ったとはいえ、同窓会で飲んだ酒の酔いがまだ体に残っていた。  妙に寝つけなかった。莎代里のことが思い出されてならない。同級生たちに会ったためだろうか。いや、照子の言葉のせいだ。  ——莎代里は帰ってきました。昔のまんまの姿で——  確信に満ちた口調で、照子はこういった。  莎代里。あんたは、ここにいるの?  比奈子は闇の中で呟いた。  家の外でかすかな音がした。比奈子は体を硬くした。タオルケットを握りしめて耳を澄ましたが、もう何の音も聞こえなかった。空耳だったのだ。眠ろう。眠るのだ。自分にいい聞かせて、目を閉じようとした。  しかし眠れない。  比奈子はとうとう起き上がると、手探りで部屋の|襖《ふすま》を開けた。廊下を通って台所に入る。コップに水を汲んで一気に飲んだ。深い息を吐いて、茶の間を見ると、月明かりが縁側に面した障子を|仄《ほの》|白《じろ》く浮かび上がらせていた。比奈子はコップを手にしたまま茶の間に入り、障子とその向こうの硝子戸を開けた。上弦の月が空にかかっていた。矢狗村が青白い月光の底に沈んでいる。遠くで蛙の声が聞こえていた。  その静かな光景を眺めていると、心も落ち着いてきた。これで眠れるかもしれない。硝子戸を閉めようとした時だった。庭で音がした。草を踏む足音のようだった。 「誰かいるの?」  比奈子は恐るおそる声に出してみた。  返事はない。  がさり、がさり。音は、ゆっくりと庭先を横切るようにして続く。比奈子は硝子戸の縁を握りしめた。泥棒だろうか。近くの大野の家に助けを呼ぶべきだろうか。  比奈子は思いを巡らせながら、|山茶花《さざんか》や南天の木の茂る庭を見つめた。月明かりの中でどんなに目をこらしても、誰の姿も見えない。かすかな草を踏みしだく音が続くだけだ。何かが庭を歩いていた。人間ならば、庭の低木にぶつかって、枝の揺れる音もするはずだ。猫だろうか。だが、猫がこんなはっきりした足音をたてるだろうか。 「いたずらはやめてっ」  彼女は悲鳴のような小さな叫びをあげた。  足音が突然、止まった。比奈子は、しばらく縁側に|佇《たたず》んで耳を澄ました。もう物音は聞こえなかった。しかし、今もそこに何かがいた。闇の中から息をひそめて、自分を見つめている。  莎代里だろうか。  比奈子はふとそう思い、身震いした。彼女はぴしゃっと硝子戸を閉めると、台所に戻って、また水を一杯、飲み干した。水で膨れ上がった胃から不快感が広がっていく。このままではとても眠れそうもない。  台所の棚の上に、黒光りする電話があった。がっちりしたダイヤル式のその電話が、今はとても頼もしく思えた。比奈子は受話器を取って、ダイヤルを回した。過去五年間、幾度となく回した番号を。  長い呼び出し音が続く。留守なのだろうかと思いはじめた時、受話器が取られた。 「はい……」眠たげな透の声が聞こえた。 「私よ」比奈子は|囁《ささや》いた。そして何といったらいいのかわからなくなった。  透は少しあらたまった口調になった。 「比奈子か。こんな時間にどうしたんだ」 「声が聞きたくなって」  違う。そのためではない。私は怖くて、眠れなくなったのだ。物音に|怯《おび》えて、誰かに抱きしめてもらいたくなった、それだけだ。なのに、そのことは口に出せなかった。 「あぁ、なんだい二時半じゃないか。せっかくいい気分で寝てたのに。少しは、こっちの都合も考えてくれよ」  透の不機嫌な声が耳を打った。比奈子の心の中で感情の波がひいていった。透は文句をいいつづける。 「しばらく一人でいたいといったのは、きみだろう。三日もたたないうちに、声が聞きたいとかいって、こんな時間に電話してくるなよ。そんなことなら、最初から強がりをいわなきゃいいんだ」  一人になりたいといったのは、強がりではなかった。悲鳴だったのだ。二人の関係を見直してほしい、と彼にいいたかったのだ。自分も考えるから、彼にも考えてほしかった。  透の前から姿を消すことで、彼に自分の存在の大切さを感じてもらいたかった。ひょっとして、追いかけてきてくれることを期待していたのかもしれない。「僕にはきみが必要なんだ」そんや安っぽいメロドラマのような言葉が欲しかったのだ。単純なことだ。あまりに単純すぎて、自分がそんなことを求めていたことに気がつかなかった。彼に求めても無駄なことはわかっていたのに。  比奈子は電話をしたことを後悔した。 「ごめんなさい」  比奈子は小さな声で謝った。透が聞いた。 「今、どこにいるんだ」  蛍光灯の光に古ぼけた台所が照らし出されていた。どこからか入ってきた|蛾《が》が、電灯のまわりを飛び回っている。 「高知よ。……矢狗村っていうところにいるの」 「高知だってぇ」  透は絶句した。 「いったい、なんだってそんなところにいるんだ。仕事はどうしたんだ。俺んところから回した仕事、あっただろう。あれ、ちゃんとやってくれたのか。いつ帰ってくるつもりなんだ」  比奈子は、仕事は一段落つけておいたこと、いつ帰るかわからないということを告げて、彼の返事も待たずに受話器を置いた。  結局、何も変わりはしない。電話を切ると、寂しさが全身にこみあげてきた。  これならまだ、死者に怯えているほうがましだったかもしれない。比奈子は皮肉な笑いを浮かべた。  寝室に戻って布団にもぐりこむ。もう闇は怖くなかった。この闇に莎代里が息づいているとしても、彼女は自分を傷つけない。眠りの世界に溶解してゆく意識の中で、比奈子は思った。  庭の闇の奥でゆらりと空気が揺らいだ。      5  緑の木立の間に、青い海がきらめいていた。遠くに室戸岬の険しい|崖《がけ》が見える。男はかすかに目を細め、下生えの草を|杖《つえ》で払いながら細い山道を歩いていく。  今もこの道を使うのは、彼の仲間だけだ。目をこらさないとわからないほどの小道が、薄暗い森の中に続いていた。  この道を歩くのは何度目かを数えようとしたが、思い出せなかった。ただ、最初に歩いた時のことは、はっきりと覚えている。二十二歳だった。どうして自分が新妻を置いて旅に出なくてはいけないのかと憤りながら、父の後ろを歩いていた。父とともに四国を回ったのは、後にも先にも、その時一度きりだった。  子供の頃から、村の神社の岩屋の奥で、男たちが集まりを開いていることは知っていた。会合が終わると、決まって誰かが旅に出た。その者が旅から帰ると、再び会合が開かれ、別の者が村から消えた。  何年に一回か、父の順番も回ってくる。そのたびに母はため息をつき、押入れの|行《こう》|李《り》から白衣を出した。父は水ごりをしてから、白衣を着る。その時の父の顔を見るのが怖かった。それは、一人の人間が|変《へん》|貌《ぼう》していく過程だった。いかにも気のいい平凡な農民の父の顔から、表情というものが消えていく。代わりに|僧《そう》|侶《りょ》のような静かな顔が現れる。白装束に身を包み終えた男は、彼の知っている父ではなかった。父は、別人となって家を出ていった。  帰り着くのは、一か月も半ば過ぎた頃。頬はこけ、目には異様な光が宿り、|憔悴《しょうすい》しきった姿で戸口に現れた。  彼の小さな村では、男たちの誰もが、いつもそうして|何処《いずこ》へともなく出かけ、疲れ果てた顔で帰ってきた。「うちの人は、今お勤めに出ています」それが留守を守る妻たちの決まり文句だった。  お勤めの意味を知ったのは、彼が結婚して独立した世帯を持った時だ。祝言の前の晩、男は父に連れられて村の神社に行った。  いつもはがらんとした|洞《どう》|窟《くつ》の中は、その晩、人いきれに満ちていた。赤い魂のような|蝋《ろう》|燭《そく》の灯に、輪になって座る村の男たちが浮かび上がっていた。彼が指示に従ってその輪の中に座ると、正面に座った村の長老が|謡《うた》うような声で語りはじめた。お勤め、その由来。その|掟《おきて》。長老の口は、|涸《か》れることを知らない言葉の泉。語りは夜が更けるまで続いた。  男には長老のいっていることが、どこまで真実なのかわからなかった。わかったのは、お勤めは自分の息子が一人前になるまで続くこと。それがこの村の男たちの定めということだった。  しかし自分は、子供に恵まれなかった。男は心に刺すような痛みを覚えながら思った。お勤めは死ぬまで続くのだ。最近では、村の人口は減っている。お勤めをひき継ぐ者もほとんどいない。彼の番が回ってくるまでの間隔は、どんどん短くなっている。  自分は、この四国を巡る山道のどこかで、野垂れ死にすることになるだろう。村にとうとう戻ってこなかった、彼の前の番の男のように……。  男は道をふさぐ|蔦《つた》を杖で払った。どこに隠れていたのか|蝙蝠《こうもり》が、鋭い声をあげて飛び去った。  背後で悲鳴が聞こえた。振り返ると、比奈子が道の脇に|尻《しり》|餅《もち》をついていた。 「大丈夫かい」  文也は彼女を助け起こした。ジーンズの腰のところが泥で汚れていた。比奈子はそれを見て、顔をしかめた。 「あーあ、ひどい道」  空気はじめじめとしていた。赤土を踏み固めてできた|小《こ》|径《みち》は、水を含んで軟らかい。 「気をつけないと、神の谷に着く頃には泥人形になるよ」  文也は笑いを含んだ声でいった。比奈子は近くの切り株に腰をおろした。そしてティッシュペーパーでジーンズの泥を|拭《ふ》きながらこぼした。 「こうなったらもう泥人形になったも同じ。洗濯することには変わりないもの。家じゃ洗濯、ひと苦労なのよ」  文也も、彼女の向かいの岩に体をもたせかけた。 「洗濯機に放りこむだけだろ」  比奈子は大仰に顔をしかめてみせた。 「残念ながら、森田さんたち、そればっかりは置いていってくれなかったの。洗濯は昔ながらの手洗いよ。お風呂もガスで沸かさないといけないし、台所は、お湯も出ない。すごい生活だわ」 「便利な東京の暮らしとは大違い?」  比奈子は|頷《うなず》いた。そして泥のついたティッシュペーパーを丸めながらいった。 「でも、この不便な生活を私、わりと楽しんでいるの。次に借す人が見つからなければ、あの家を改造して、別荘にしてもいいなと思いはじめてるくらい。別荘を持ってるって、かっこいいじゃない」 「八ケ岳や那須あたりならいいけどね。高知の矢狗村に別荘を持っているといっても、東京じゃ自慢にならないよ」  比奈子は明るい声で笑った。 「とにかく今夜、家の面倒を見てくれていた大野さんの家に行って、別荘にできそうかどうか聞いてくるつもりよ」  |足《あし》|許《もと》に、りんどうの花が咲いている。頭上から降りそそぐ蝉の声。細い山道は、ゆるやかな上り坂になって、雑木林の奥に続いていた。林の間から逆川のせせらぎが聞こえてくる。神の谷は逆川の上流にある。矢狗村から遠くはないのだが、人があまり通らないせいで道は荒れていた。  比奈子は肩から下げた花柄のビニールバッグから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。文也は煙草は吸わない。比奈子の吸い慣れた手つきを見ながら、彼はしっくりしない気分を感じていた。  子供時代の比奈子の印象は薄かった。川原に転がっている、ずんぐりした灰色の石。他の石とたいして差はない。しいていえば、そんなところだ。だが目の前にいる女は、記憶の中の比奈子とは別人だった。会話を交わして、一緒に笑えるような相手だとは思ってもいなかった。そして、それ以上に外見が変わっていた。小柄だが肉づきのいい体から、いやみのない色気が匂ってくる。昨日、同窓会で比奈子を見た時は、心底驚いた。たぶんその驚きと戸惑いは、あそこにいた男全員、感じていただろう。  こんなにいい女になると知っていたなら。そう後悔したにちがいない。もちろん、そうと知っていて、何をどうできたわけでもない。しかし、誰もが|密《ひそ》かに自分の妻と比べていたことだろう。  比奈子を神の谷に誘ったのも、突然、目の前に現れた彼女に心|惹《ひ》かれたためだ。そんな気持ちになったのは、ここしばらくないことだった。  比奈子は煙草の煙をおいしそうに吐くと、首を伸ばすようにして、あたりを見回した。耳の金色の大きなピアスが光った。 「莎代里ちゃんと文也君と、三人そろって最後に神の谷に来た時のこと、覚えてるわ。小学校の四年生だったでしょ」  その言葉が文也の心の底に沈んでいき、すっかり忘れていた記憶を突っついた。  その日、遊び友達と|喧《けん》|嘩《か》をした。ふてくされて一人で学校から帰る途中、莎代里と比奈子に会ったのだ。  ——文也君、神の谷に行こう——  莎代里は、あの切れ長の目で、ひたと彼を見つめていった。文也は自分でも知らないうちに頷いていた。  小学校に入る前、莎代里と比奈子と三人で、ちょくちょく神の谷に行くことはあった。しかし当時まだ生きていた祖父に、神の谷に行くものではないと、こっぴどく叱られて以来、他の男の子たちと遊ぶようになった。小学校四年の時には、神の谷に行くことはなくなっていた。 「あれが三人で来た最後だったのか」  文也は、山道を一列になって進んでいく三人の子供たちの姿を思い出した。先頭を行くのは莎代里。莎代里とはぐれるのを怖がっているように、比奈子がすぐ後に続いた。自分はどこにいただろう。道端の植物を観察しながら、二人の後からゆっくり歩いていたかもしれない。  文也は自然を観察するのが好きだった。虫の動き、雲の流れ、風のそよぎ。そんなものを眺めながら、子供だった自分はいったい何を思っていたのだろう。あの頃の思考は、まだ生まれたばかりだった。今となっては霧の中の光景のようだ。 「行きましょうか」  比奈子は煙草の火を消して、吸殻を土の中に埋めた。二人は腰をあげた。  文也は歩きながら、東京での大学生活を話しはじめた。文学部の史学科だったから、休暇になると教授に発掘調査に駆り出された。成り金が税金逃れで埋めた大金を掘り出して、大騒ぎになったり、テントで寝ていて|蟻《あり》が服の中に入りこみ|痒《かゆ》くてたまらなくなった話。比奈子は楽しそうに|相《あい》|槌《づち》を打ちながら聞いていた。  女の子の一人が、うっかり冬眠中の蛇の巣を掘り起こして文也に抱きついてきたという話をした時、比奈子が意味あり気な視線を送って聞いた。 「文也君の彼女だったの?」  |狼《ろう》|狽《ばい》が顔に出たにちがいない。比奈子はくすりと笑った。 「そうだったのね」  文也は照れながら頷いた。  学生時代につきあっていた女は、ひとみといった。同じ学科にいた女。初めて寝た女。しかし文也が就職すると、デートもままならなくなり、自然消滅のように別れてしまった。社会に出たばかりの彼は無我夢中だった。会社では、人材開発を担当した。毎日、仕事をしているという確かな自覚が、彼の生活に張りを与えていた。別れた妻の純子と会ったのは、そんな時だった。彼女は、企業研修の運営を引き受けている会社の窓口だった。気が強くて、仕事のできる女。欲しいものを手に入れるまで、|諦《あきら》めない女。  彼女のことはもう過去のことになっているのに、時々ふとしたはずみに思い出す。愛情は消えていたが、彼女との間で育んだ生活には愛着が残っていた。  不意に体がよろめいた。文也は近くの木の枝にすがりついた。思い出に気をとられていて、足が滑ったのだった。彼は苦笑して、比奈子に聞いた。 「僕ばっかり話してるな。比奈ちゃんは、大学の頃はどうしてたんだい」  比奈子は、美術大学の雰囲気を語った。誰もが個性的であることを競っていた。比奈子は、そんな中では平凡な学生だった。とはいえ映画に狂ってみたり、ロックコンサートに行ったり、仲間に誘われてひと通りのことはしたといった。  文也は、比奈子が最初に男と寝たのは、いつだったろうかと思った。大学の頃だろうか。その後だろうか。背後から聞こえてくる|喘《あえ》ぐような息遣いに、文也は彼女が男と抱き合っている姿を想像した。そして自分たちが二人きりで人気のない林の中にいることに思い到って、慌てて|淫《みだ》らな連想を振り捨てた。  突然、林が終わった。目の前に、小さな谷が現れた。谷は丈の低い緑の草に埋め尽くされていた。天に首を突き出すように咲く鬼百合の群落。その毒々しいまでの朱色が、穏やかな谷の光景に活気を与えている。青い空からふんだんに注がれる光が、谷全体を草色に明るく浮き上がらせていた。  神の谷だった。比奈子は息を吸いこむと、ため息のような声を出した。 「昔と変わってないのね」  文也は神の谷を見渡した。雑木林の流れは谷の際でぴたりと止まり、木は一本も生えていない。端から端まで十分もあれば歩ききってしまえるほどの狭い空間だ。谷というよりも、|山《やま》|間《あい》の小さな空地というにふさわしいかもしれない。実際、標高は矢狗村よりも高いところにあった。だが、ここは昔から神の谷と呼ばれ、それ以外の場所ではなかった。  谷には、風ひとつ吹いていなかった。草の葉の先までも動きを止めている。確かに神の谷は昔と同じだ。ここには時の流れすら存在しない。  二人は、滑りやすい地面を踏みしめながら神の谷に入っていった。やがて小径も消え、文也と比奈子は雑草の生い茂る谷に立った。 「最後に来た時、かごめかごめをやったっけ?」  文也の言葉に、比奈子は笑うような声をあげた。 「そうそう、そんなことしたわね」  誰がいいだしたのか、三人きりだというのに、かごめかごめをはじめた。輪が小さすぎて、手もつなげない。鬼の子のまわりを二人で巡る、ささやかな、かごめかごめ。  かごめかごめは、幼稚園児の遊びだ。小学四年の子供にとっては、もう卒業した遊戯だった。しかし、その時の三人はさらに幼い頃に戻って遊んでいた。人は、いつの時代でも過去を振り返るものだ。子供だった三人もまた、もっと仲がよかった幼い時代を懐かしんでいたのかもしれない。  ——かごめかごめ [#ここから5字下げ]  かごのなかのとりは  いついつねやる—— [#ここで字下げ終わり]  静かな谷に、細い声が響きわたった。 「私が鬼になったの、覚えてる?」  比奈子に聞かれて、文也は首を|傾《かし》げた。比奈子はその時のことを話しはじめた。二人しかいないのだから、後ろにいるのは誰かすぐにわかりそうなのに、ちっとも当たらない。 「目を閉じていると、文也君と莎代里ちゃんが、私のまわりをぐるぐる回っているのがわかる。だんだん怖くなってきたわ。このまま永遠に私は輪の中に閉じこめられて、出ることはできないのじゃないか。そう思うと泣きたくなった」  聞いているうちに、文也にもその情景が思い出されてきた。あの時、彼と莎代里は歌いながら回っていた。時折、比奈子の丸めた背中ごしに、莎代里が彼を見た。切れ長の目がますます細くなり、薄い唇が笑みをたたえていた。目が合うたびに文也の顔が赤くなった。今にして思うと、そこには何か|淫《いん》|靡《び》なものがあった。人目を盗んで、秘密の合図を交わしているような……。 「後ろのしょうめん、だあれ」  比奈子の声が耳に飛びこんできた。文也は、はっとした。風に飛ばされて髪の毛にまとわりつく草の葉をつまみながら、比奈子がいった。 「何度目だったかしら、莎代里ちゃんが、わざとこんな大きな声を出して、自分が後ろにいることを教えてくれたのよ。次に莎代里ちゃんが鬼になった。やっぱりちっとも当たらなかった。だけどなんだか、わざと間違って名前をいっているみたいだった。私、莎代里ちゃん、鬼でいるのが好きなのかしらと思ったわ」  鬼とは死者の霊。  昨日読んだ小冊子の一節が突然、頭に浮かんだ。文也はその言葉を追い払うように、地面に視線を落とした。|足《あし》|許《もと》の鬼百合が暗赤色の花粉をいっぱいにつけた口を開けて、文也を見返していた。 「鬼百合、きれいねぇ」  文也の視線を追っていた比奈子が明るい声をあげながら、花柄のショルダーバッグに手を入れた。 「ちょっとスケッチしていいかしら」  文也は、比奈子がイラストレーターだといっていたのを思い出した。 「どうぞ。僕はこのへんを散歩してるよ」  比奈子は草の上に腰をおろした。文也は、ぶらぶらと谷を歩きはじめた。  神の谷の中心には、すり鉢状の小さな|窪《くぼ》|地《ち》がある。そこが谷の最も低い地点だった。文也は窪地に向かって、なだらかな斜面を降りていった。地面が湿り気を帯びてくる。スニーカーの先を土の中にめりこませながら、窪地の底に着いた。ここは水気が多すぎるのか、鬼百合も生えていない。よく見ると泥の中から、小さな気泡が|湧《わ》き出ている。深い地底から不満の|呟《つぶや》きのように、黒い泡がぷすぷすと出ていた。  文也は降りてきた斜面を見上げた。生命力に|溢《あふ》れた緑の世界が彼を取り囲んでいた。草が、木々が、山が、いっせいに背伸びをして覆い被さってくる。空は|遥《はる》か高いところに広がり、厳しい顔つきの山々が、文也を|威《い》|嚇《かく》するように見下ろしていた。  足許から、ひんやりとした感覚が|這《は》い上がってきた。うつむくと、スニーカーが黒い泥の中に半分以上めりこんでいる。突然、そのまま地底に沈んでいくような恐怖を覚えて、文也は右足をひき抜いた。白いスニーカーの下半分が、べっとりと黒い泥で汚れていた。左足もひき上げようとすると、今度は右足が泥の中に沈んだ。  底なし沼に沈んでいくのに似た恐怖を覚えた。訳のわからない|怯《おび》えを|圧《お》し殺しながら彼は歩きだした。針のように|尖《とが》った星草の葉が足首を刺す。あたりには湿っぽい臭いが漂っていた。泥沢地となった窪地の底を注意して進みながら、昔はこれほど水気は多くなかったのにと不思議に思った。  中学校の時、神の谷の調査に来たことがある。理科クラブの活動のひとつとして、逆川の源流を探るために訪れたのだった。調査とはいえ、中学生のことだ。担当教師の指導で、逆川の流れをたどったり、岩石を拾って地質を調べたりした程度だった。逆川は、神の谷のはずれの林の中から突然、小さな流れとなって出現する。周囲の山々から神の谷に流れこんできた水が伏流水となり、その地点で地上に現れてくるのだろうという結論になった。  珍しく反対意見を述べたのが、莎代里だった。莎代里は、神の谷の窪地こそ逆川の源だといった。窪地には水なぞないではないかという他の部員を、|睨《にら》むようにしていた莎代里の顔をよく覚えている。白い顔を上気させて、首を横に振りつづけていた。誰が何といおうと、真実は自分だけが知っている。そんな確信に満ちた顔だった。  莎代里が今の状態を見たなら、満足するにちがいない。この窪地の底から湧き水が出ているといっても、反対する者はいないだろう。  しかし莎代里は死んでしまった。それも理科クラブで神の谷を訪れた数か月後に。  莎代里の葬式には、理科クラブの部員たちとともに文也も出席した。最後の|挨《あい》|拶《さつ》を、といわれて列席者が|柩《ひつぎ》の前に進み出た。その時に見た莎代里の死顔は、穏やかとはいいがたかった。顔はいつにも増して白く、口許は怒っているように|歪《ゆが》んでいた。|溺《おぼ》れる前の|驚愕《きょうがく》がそのまま顔に張りついていた。つり上がった目が今にも開いて、文也を見つめそうだった。その死顔を思い出すと、今でも首筋を冷たい手で|撫《な》でられたみたいな気分になる。文也は掌で首筋をこすった。どうして莎代里のことばかり思い出すのだろう。  突然、何かにつまずいて滑りそうになった。慌てて体の均衡をとり、かろうじて転ばないですんだ。見ると、足許の泥の中から石の角が突き出ている。文也は忌ま忌ましくなって、スニーカーの爪先でそれを押した。泥がこぼれ落ちて、緑色をした石の表面が現れた。こんな緑色がかった石は珍しかった。しゃがんで観察すると、石のまわりの黒い泥が揺れている。無数の気泡とともに、地底から黒い泥が沸き上がっていた。文也が石につまずいたとたん、何かのスイッチを押してしまったかのようだった。さっきまで穏やかだった泥の表面が今、波立っている。  文也は眉根を寄せて沸き立つ泥を見つめていた。泥とともにじりじりと、緑色の石が押し上げられてくる。文也の腕の太さほどもある長方形の石だ。横倒しになったままゆっくりと地底から吐き出されてくる。  びちゃっ。小さな音をたてて、石が泥の上に現れた。表面のあちこちが、粗く削られている。でこぼこの岩を長方形に整えようとしたようだ。自然石ではなかった。 「比奈ちゃん」文也は叫んだ。  比奈子は草の上に座って、慣れた様子でスケッチしていた。顔を前に向けたまま、手許を見もしない。それでも手先だけは素早く動きつづけている。  文也はさらに大きな声で、彼女の名を呼んだ。比奈子がゆっくりと顔を上げた。文也がもう一度、名を呼んで、ようやくこっちに気がついたようだった。  比奈子が何かいった。しかし、くぐもった声だったので、意味はわからなかった。 「へんなもの、見つけたんだ」  文也は叫んだ。比奈子はスケッチブックを草の上に置くと、斜面を降りてきた。靴が汚れるのをためらうように泥地の手前で止まった彼女に、文也は泥の中に横倒しになっている石を示した。 「それがどうしたの?」 「へんなんだよ。こんな重そうな石が、急に泥の中から湧き出てきたんだ」 「まさか」 「ほんとうだよ。それにこんな緑の石、このあたりのものじゃない。誰かがどこかで長方形に切り出して、持ってきたんだ。とても古いものみたいだ。道標みたいなものだったのかもしれない」  説明しているうちに、自分でも興奮してきた。文也は石のほうに足を踏み出した。 「たぶん、ほら、こんなふうに立っていたんだ」  彼は泥の中に手を突っこむと、指先で石のへりをつかんだ。石の冷たさが指先から全身に走った。いや、冷たさだけではない。いいようのない悪寒が全身を貫いた。文也はとっさに手を離した。  ばしゃっ。石が地面に落ちて泥がはねた。彼の綿パンツが黒く汚れた。まだ悪寒が体の中に留っていた。文也は石を見つめた。ねっとりした泥の中に、墓標のように横たわっている。ただの石だ。水気の多い土の中で冷えていただけなのだ。何でもない。文也は自分にいい聞かせた。 「どうしたの?」  比奈子が心配そうに見ていた。 「手が滑ったんだ。このところ力仕事してないからね」  文也は、わざとおどけて肩をすくめてみせた。  そして、また泥に手を突っこんだ。再び指先が冷たいものに触れた。しかし今度は予期していたせいか、あまり奇妙な感覚はなかった。文也はぬるぬるする泥土の中で石をつかむと、満身の力をこめて持ち上げた。  長方形の石の片方が持ち上がった。黒い泥が、血のように、たらたらと表面を流れ落ちた。文也は先の尖ったほうを上にして、石を押し立てた。石は自身の重みで泥に沈んでいき、やがて動かなくなった。まるで最初から石柱としてそこに立っていたように安定した。石の表面には、何の文字も印も見当たらなかった。高さ七十センチメートルほどの、ただの長方形の石。いつの時代のものか判定もできない。文也は、石柱の山形に尖った先に触れながら呟いた。 「いったい何のための石柱だろう」  ばさばさばさっ。突然、大きな羽音がして、彼方の雑木林から鳥の集団が飛び立った。耳をつんざくほどに甲高い鳴き声をあげている。文也は不安な気分で、遠ざかる鳥の群れを目で追った。 「文也君、空が……」  比奈子の脅えた声がした。見上げると、空の様子がおかしい。さっきまでの澄んだ青は消え、汚れたような色に変わっていた。空のどこかから薄墨を流しているようだ。見ている間にも、空はどんどんと暗くなってくる。生暖かい風が吹いてきた。文也は泥地を横切り、比奈子のいる乾いた地面に戻った。 「どうしたのかしら」  比奈子が文也に体を寄せるようにして聞いた。文也は、わからない、と答えた。  泥の中に、緑色の石柱がすっくと立っていた。そのまわりを黒光りする泥が渦巻いている。地底から湧き上がってくる泥水。渦は左に巻きながら次第に大きくなり、乾いた草の上にまで泥を広げてゆく。比奈子は青ざめた顔で、その渦を見つめていた。文也のスニーカーの靴先に、黒い泥の波が押し寄せてきた。彼は再び地底にひきずりこまれていくような恐怖を覚えた。 「帰ろう」  文也は、声が震えないように願いながらいった。比奈子が彼の手を握りしめた。温かいものが二人の間をつないだ。そのとたん、|呪《じゅ》|縛《ばく》が解けたようだった。二人は全力で斜面を駆け上がった。  比奈子は彼の手を握ったまま、草の上に置いていた花柄のバッグとスケッチブックをつかみ上げた。そして二人は走りだした。  風に吹かれた木々が|吼《ほ》えている。鬼百合が朱色の口をぱっくりと開けて、ちぎれるほどに頭を揺らせている。|嘲《あざけ》るような笑い声が聞こえた気がした。まわりの景色が、一瞬のうちに狂気に陥った。  何が起こったのかわからなかった。ただ、この場から立ち去れと本能が告げていた。矢狗村に続く小径が、林の中に見える。二人はその方向に向かって、草原を駆け抜けた。  ごおごおお、ざざざざあああっ。風が荒れ狂っていた。比奈子が足を滑らせて、地面に転がった。文也が手を伸ばした。その手に草が絡みついた。まるで生命を持つ|蔦《つた》だ。草の細長い葉が、彼の手首を撫でた。  文也は大声をあげて、草をひきちぎった。比奈子が立ち上がるのが見えた。そしてまた走りだそうとした時だった。背中に、視線を感じた。あの視線だった。文也の足が止まった。 〈かごめかごめ [#ここから2字下げ] かごのなかのとりは いついつねやる〉 [#ここで字下げ終わり]  背後から、小さな歌声が聞こえてきた。比奈子が足を止め、凍りついた。 「莎代里ちゃん……」  二人は、はじかれたように後ろを振り返った。  窪地の中央に、緑色の石柱が|屹《きつ》|立《りつ》していた。渦巻く泥の|裳《も》|裾《すそ》をたらした王者のような風格が漂っている。風が石柱の回りを渦巻いていた。かぼそい悲鳴に似たその風音が吹き上がってくる。  ひゅうううかかかかごめかごめ。  風の音が歌に変わろうとしていた。比奈子が口を大きく開けた。彼女が叫びだす前に、文也は乱暴に比奈子の手をひっぱった。  二人は石柱に背を向けて、転げるように走りだした。 [#改ページ]    第二部 [#ここから1字下げ]  ———よあけのばんに [#ここから6字下げ]   つるとかめがすべった——— [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      1  気を許すと、すぐに雑草が土の中から細い葉を伸ばしている。まるで家の中の|埃《ほこり》のようだ。掃除しても掃除しても、いつの間にか部屋の隅や棚の上にたまっている。埃は、雑草だ。いいや、違う。ああ、なぜ埃のことを考えたのか忘れてしまった。  シゲは|豌《えん》|豆《どう》畑にしゃがみこんで、雑草をひき抜いていた。細長い葉を親指と人差し指の間に挟んで、ぐいっと引く。これまで、どれくらい草むしりに時を費やしてきたのだろう。|舅姑《しゅうと》が死ぬまで農作業を手伝い、その後は細々と家の畑を耕し、着物の仕立てをしながら子供たちを育ててきた。畑の草むしりは、生活の裾野の部分にいつもくっついていた。  |母《おも》|家《や》の隣の孫夫婦の新しい家からは、子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる。|曾《ひ》|孫《まご》たちを見るたびに、自分はなんと長生きしたのだろうと思う。夫を亡くして六十年近く、よく一人で生きてこられたものだ。  もちろんシゲの長い人生において、何の色恋沙汰がなかったわけではない。今も心に秘めている恋愛関係はあった。篠原竹雄。苗や種の卸商だった。仕事で足繁く家に訪ねてくる竹雄にいつしか好意を感じるようになり、やがて|密《ひそ》かにつきあいはじめた。夫の力馬がまだ生きている頃からの関係だった。魔がさしたとでもいうのだろうか。夫の目を盗んで一度、死んでからは幾度となく抱き合った。  竹雄にも妻と子がいた。二人は、のっぴきならないところに追いつめられたまま、それでも会わずにはいられなかった。肉と肉が呼び合うように、人目を忍んで会いつづけた。しかし、その竹雄もあの世に|逝《い》ってしまった。いつだっただろう、竹雄が死んだのは……。  シゲは、もどかしさに顔を|歪《ゆが》めた。  忘れてしまった。あれほど好きだった竹雄なのに。  ただひとつ覚えているのは、その時からシゲの人生は、白黒テレビのように色を失ってしまったことだ。もちろん白黒とはいえテレビはテレビだ。毎日、いろんな事件が画面に映し出される。しかしシゲの生活には以前ほどの活気はなくなった。竹雄の存在が、どれほど彼女の人生に張りを与えていたことか。  シゲは雑草をひき抜きつづける。竹雄が死んでから、この草ひきのように、頭に浮かぶさまざまな欲望を|摘《つ》み取ってきた。男と寝たい、子供から逃れてどこかに行きたい、着飾って町に出かけたい。毎日、頭をもたげてくる小さな欲望の芽を摘みつづけてきた。今、シゲの心の中に残っているのは、荒涼とした風景。草一本生えない寂しい大地が広がっているだけなのだ。  時々、自分には別の人生もあったかもしれないと思う。シゲは、今朝見た明神の家の孫娘の姿を思い出していた。この歳になっても視力はよかった。上の家から小柄な女が出てきて、迎えに来た紺色の車に乗りこむのが見えた。大きな耳飾りをつけて、胸の大きく開いた上衣を着ていた。あまりにも|垢《あか》|抜《ぬ》けていて、別世界から来た女のようだった。孫の嫁、里美も時々眉をひそめる|恰《かっ》|好《こう》をした。だが、あの女の全身から立ち昇る|華《はな》やかさに比べたら、まだ地味なものだった。  自分もこの村から出ていっていたなら、違った女になったかもしれなかった。無口で目立たない子供だった明神の孫娘が、あれだけ派手な女になったように。そうしたら力馬と結婚することはなかっただろう。夫に若くして先立たれて、苦労することはなかっただろう。  ひょっとしたら最初に竹雄と出会っていたかもしれない。あの男と結婚していたなら、自分は幸せだっただろう。だいいち、あの男は女の扱いがうまかった。あの男の体には、自分を狂わせるものがあった。  そこまで思って、シゲはびくりと顔を上げた。冷たい影がシゲの前に立った感じがしたのだ。  風ひとつない豌豆畑の中で、夏の熱気が立ち昇っている。あたりは目が痛いほどに明るい。暗い部分といえば、地面に落ちる豌豆の茂みの影だけだ。  誰もいないではないか。  シゲは首にかけていた|手《て》|拭《ぬぐ》いで頬の汗を拭った。しかし奇妙な感覚はまだ尾をひいていた。なぜかはわからないが、さっきの影が竹雄のような気がした。  盆のせいだ、|遥《はる》か昔に死んだ男のことを思い出してしまうのも。  シゲは、庭の物干し台に縛りつけられたホーカイを見上げた。|竹《たけ》|竿《ざお》の先は、天空を指す焼けた指のように黒く焦げている。今日で盆は終わる。死者の霊がこの家を訪れていたとしても、今日また戻っていく。|何処《いずこ》と知れぬ死の国へ。  ホーカイの先から神の谷の方角へ視線を移した。シゲは目をしばたかせた。矢狗村と神の谷をへだてている低い山陵の木々が揺れている。大風を受けたように、木がしなっている。まるで|田圃《たんぼ》に吹きこんだ一陣の風だ。木々が易々となぎ倒されていく。何かを追いかけるように、さあーっと山を横に走る風の吹き過ぎた跡が見えた。 「通り魔じゃ」  シゲは|呟《つぶや》いた。  風は突然、ぴたりとやんだ。シゲはその場にしゃがみこんだまま、神の谷の方角を見つめていた。青い空が輝いている。そのあまりに深い空から、恐ろしいものが降ってくるように思えた。|虻《あぶ》が羽音をたてて、シゲの頬をかすめていった。  静まりかえった空気を震わせて、車のエンジンの音が聞こえてきた。シゲは、ようやく金縛り状態から解き放たれて、音のしたほうを見た。逆川を渡って紺色の車が走ってきた。車はシゲの家の横の坂道を上りきって、上の家の前で止まった。車から明神の孫娘が降りてくるのが見えた。髪は乱れ、シャツは土の上を転げ回ったように汚れている。車の中にいるのは男のようだった。  シゲは顔をしかめた。最近の若い者は、盆の間くらい慎むということを知らないのか。あんな娘がやってくるから、通り魔なぞが起きるのだ。  シゲは地面に向き直ると、力まかせに草をひきむしった。ぶつっ。鈍い音をたてて、草の根がちぎれた。  比奈子は家に戻ると、昨夜の風呂の残り湯をかぶった。服を着替えて、畳の上に横になる。裏山から聞こえる蝉の声。家を吹き抜ける涼しい風。心を落ち着けようとしたが、さっきの神の谷での出来事を頭の中から消し去ることはできなかった。  追いかけてくる風のうなり。行く手を阻むように立ちはだかった木々の枝。ようやく止めた車にたどり着いて、飛び乗った。車の中でひと息つくと、比奈子は文也に、今しがたのことは何だったのかと聞いた。ただの風だ、と文也は答えた。山では突然、風が荒れ狂うこともあるといった。 「でも、かごめかごめの歌は……」  そういいかけた比奈子の言葉を、文也は怒ったようにさえぎった。 「空耳だ」  比奈子は黙ってしまった。  空耳だったかもしれない。比奈子は、そう思いこもうとした。  しかし、あれは莎代里の声だった。かごめかごめの歌声は。  比奈子は起き上がると、土で汚れたビニールバッグの中から煙草をひっぱり出して、もどかしい気分で火をつけた。バッグの中からスケッチブックが|覗《のぞ》いていた。開くと、神の谷で描いたスケッチが現れた。  谷に向かってなだれ落ちるような山の斜面。頭をぴんと立てた鬼百合の花や、掌を|窪《くぼ》めたような谷の風景が細いサインペインで描かれている。細部から細部へ目を移していた比奈子は、不意に煙草を口にしたまま動かなくなった。  窪地の中央に黒々としたものが立っていた。細長い岩のようだ。先端が山形に|尖《とが》っている。文也が泥の中で発見した石柱とそっくりだ。  しかし彼が石柱を立てたのは、比奈子がスケッチを終えてからだった。これを描いていた時の自分は、石柱の存在なぞ知りもしなかったのに。  比奈子は、黒い斜線で陰影をつけられた岩を見つめた。どうしてこのスケッチに石柱を付け加えたのか思い出せなかった。ただ夢中でサイペンを走らせていただけだ。  比奈子は、スケッチブックを閉じた。灰になった煙草を欠けた小皿に押し|潰《つぶ》す。タンクトップからむきだしになった腕には、鳥肌がたっていた。  ざくっ。庭先で音がした。  比奈子は体をこわばらせた。恐るおそる縁側のほうを見た。そこに女が立っていた。 「比奈ちゃーん。おるぅ?」  真鍋久美のおっとりした声が耳に飛びこんできた。比奈子は、ほっと肩の力を抜いた。いったい何だと思ったのだ。自分の|臆病《おくびょう》さがおかしくなった。 「はーい」比奈子は立ち上がって出ていった。手に大きなビニール袋を提げた久美は、比奈子を見ると、昨夜はどうも、と|挨《あい》|拶《さつ》した。そして突然の来訪を驚いている比奈子に、自分の家の畑がこの近くにあるのだといった。 「畑のもん、|穫《と》りに来たついでに寄ってみたが。はい、これ、おすそ分け」  麦わら帽子をかぶった久美は、ビニール袋を縁側に置いた。袋の中からは、穫れたてのトマトの青臭い匂いがした。 「ありがとう。トマトは大好きよ」  比奈子は明るい声をあげた。トマトよりも久美が来てくれたことが|嬉《うれ》しかった。今は一人でいられる気分ではない。誰でもいい、話し相手が欲しかった。そうすれば神の谷でのことを考えないでいられる。  比奈子は冷蔵庫からジュースを出して、久美に勧めた。久美は麦わら帽子を脱いで、縁側に座った。昨日の同窓会では化粧していたせいか気がつかなかったが、今、昼間の光にさらされた素顔は、肌も荒れ、ずいぶん老けて見えた。  比奈子が子供のことを聞くと、久美は、上の子は小学生だし、下の子二人は同居している姑が見てくれていると答えた。そしてしばらく自分の家のことを|喋《しゃべ》ってから、比奈子の顔を|窺《うかが》うようにいった。 「本当は、今日寄ったんはね、ゆうべ比奈ちゃん、莎代里ちゃんのこと聞きたそうにしちょったのが、気になっちょったがで。私、あれからカラオケに夢中になってしもうて、何も話してあげられんかったき」  比奈子は儀礼的な声で、ありがとう、といった。今、最も話題にしたくないこと、それが莎代里の話だった。だが、久美にそんなことがわかるはずもなかった。彼女は、莎代里のことを熱心に語りはじめた。  莎代里は中学生になって、ずいぶん同級生たちと話すようになったらしい。しかしそれも以前と比べてのこと。休み時間は一人でいることが多かったし、放課後、誰かの家に遊びに行くこともなかった。 「うちらと一緒におる時やって、いっつも輪の端のほうで、何考えゆうかわからんようなところがあったよね」  久美の言葉に比奈子は|頷《うなず》いた。それでも莎代里が、みんなの輪の中に入っていたこと自体、大きな変化だと思った。比奈子が亀の|甲《こう》|羅《ら》から頭を出したように、莎代里も少しずつ自分の殼から脱皮していたのだ。  久美は爪の間につまった黒い土を眺めながら、思い出をひき出していった。  莎代里は、理科クラブに入って、久美たちと一緒に実験をした。地質調査といってハイキングにも行った。中学二年も終わりの頃になると、莎代里はずいぶん打ち解けてきた。久美には、クラブ活動の合間に自分の意見を洩らしたりもした。先生のこと、将来のこと、おしゃれのこと。 「莎代里ちゃん、あれでけっこう音楽が好きでね。ロックやらも聞きよったがで。お兄さんの影響やったと思う。アメリカのなんとかいうロックグループのファンでね、家に遊びに行くといっつもレコードをかけてくれた。歌詞みたいなもんも作りゆうみたいやった。絶対、見せてくれんかったけど、帳面に詩をいっぱいつけよった」  比奈子は久美の語る莎代里の話に、しっくりいかないものを感じていた。莎代里は、自分の代わりに久美を友人の対象としたのだろうか。信じられなかった。莎代里は、久美とは違いすぎる。莎代里と久美の魂は、銀河系の端と端にいるくらい離れていた。久美は、莎代里が心を打ち明けるような人間ではないと思った。  だから久美が、莎代里は男の子の話になると口を閉ざしてしまったといった時、ほっとした。当然だと思った。 「莎代里ちゃん、きれいやったき、けっこう上級生の男の子にもてよったがやき。ラブレターもいっぱいもらいよったみたいやった。けんど誰ともつきあいはせんかった。莎代里ちゃんは男の子に興味はないがやろうゆうて、みんな|噂《うわさ》しよった」  比奈子は軽く頷きながらジュースを飲んだ。二人は縁側に腰をかけて、庭を見ながら話していた。 「けどね、私、わかっちょった」  久美は不意に顔を上げて、比奈子を見た。 「莎代里ちゃん、ちゃんと好きな人がおったんで」 「誰?」  比奈子は思わず大きな声を出した。  久美は、他人の秘密を暴く人間に特有の、獲物を追いつめた狩人のような表情で答えた。 「文也君。莎代里ちゃん、文也君が好きやったんで」  比奈子は、はっとした。驚きと、やはり、という思いが交錯した。子供の時からそんな予感はあった。口数の少ない莎代里が、文也に関することは好んで話題にした。 「昨日、文也君のお父さん、家に来て、夕ご飯を食べていったで」「文也君、転んで怪我したがやと」「|親《しん》|戚《せき》のおばちゃんところのお祭りで、文也君に会うたで」  莎代里は何かにつけて文也のことを比奈子に告げた。比奈子は、二人が遠い親戚関係にあるためにすぎないからだと思っていた。それでもどこかで感じていた。莎代里が文也を見る視線の熱っぽさを。 「文也君のこと、好きやゆう女の子はけっこうおったけど、莎代里ちゃんは、絶対、自分も好きやとはいわんかった。けど、私、莎代里ちゃんが理科クラブに入ったんも、文也君がおったせいやと思う」  比奈子は、莎代里の家で見た彼女の遺影を思い浮かべた。少女から女へと成長する一歩手前の顔。細面の顔。涼しげな|目《め》|許《もと》。美しい女になっただろう。人の中で自分を表現するすべを身につけたら、文也との恋が叶うことがあったかもしれない。しかし莎代里は死んでしまった……。  台所で電話が鳴った。莎代里の思い出に浸っていた比奈子は、びくっとした。比奈子は、久美に謝って家の中に走っていった。受話器を取って返事をしたが、向こうの答えがない。 「明神ですけど」  比奈子はもう一度いった。ようやく、ためらうような声が聞こえた。 「あの……秋沢だけど……」  比奈子は息を呑んだ。 「さっきは悪かった。さんざんな目に遇わせてしまって」  体の中の緊張が溶けていくような気がした。文也と気まずく別れたことが無意識のうちに、心にひっかかていたのだ。 「文也君のせいじゃないわ」  比奈子は答えた。莎代里のせいだ。そんな声が頭の隅で響いた。比奈子は慌てて、その声を追い払った。 「残念ね。せっかく連れていってくれたのに、あんなことになって……」 「その……おわびというか、気分直しというか……。明日の晩、よかったら一緒に花火大会に行かないか」 「あら、いいわね」  思わず声がうわずった。 「北野町であるんだ。近隣の人たちが集まって、けっこう|賑《にぎ》やかだよ」 「嬉しいわ。しばらく花火なんか見たことないもの」  文也は明日の夕方迎えに行くといって電話を切った。比奈子は縁側に引き返した。さっきまでのふさいだ気分が吹き飛んでいた。 「誰からやったが?」  久美に聞かれて、比奈子は、とっさに母からだと|嘘《うそ》をついた。莎代里の話を聞いた後で、文也のことはいいたくなかった。久美は少し疑うように比奈子を見たが、腕時計を見て腰をあげた。 「あ、もうお昼過ぎやわ。ゆっくりしたかったけど、家に帰ってご飯の支度せんといかん。ほんなら、また寄るわ」  比奈子がトマトの礼をいうと、久美はまるまるとした顔に人のよさそうな笑いを浮かべた。 「なんちゃあじゃない。うちにゃ売るばあ、あるがやき」  そして家の前に止めてあった軽トラックに乗りこむと、短くクラクションを鳴らして帰っていった。  地蔵像を刻んだ小さな墓石が肩を寄せ合って並んでいた。その背後には、|孟《もう》|宗《そう》竹の茂みが涼しげに揺れている。  四国第三十二番霊場|禅《ぜん》|師《じ》|峰《ぶ》|寺《じ》。黒い|縞《しま》の入った青い奇岩が、境内を囲むように、にょきにょきと突き出ている。小高い山の上の寺はひっそりとしていた。男は本堂の階段に腰をおろして、疲れた足を休めていた。  境内の向こうに、鮮やかな黄緑色の|刷毛《はけ》でひと|撫《な》でしたような南国平野が見える。平野に沿って広がる海は、空との境目がわからないほど青かった。  ちりんちりん。澄んだ鈴の音がした。|菅《すげ》|笠《がさ》に白衣の遍路が一人、腰に下げた鈴を揺らせながら本堂の前にやってきた。四十半ばだろうか。黒光りするほど日に焼けた肌に、厳しい表情を漂わせている。左手の指に白い包帯を巻いていた。全身から深い疲労感が滲み出ている。男と目が合うと、軽く合掌して|呟《つぶや》いた。 「|南無大師遍照金剛《なむだいしへんじょうこんごう》」  遍路同士の|挨《あい》|拶《さつ》だった。男は口の中でもぞもぞと挨拶を返して頭を下げ、そっと視線を|逸《そ》らせた。話をするのは苦手だった。この遍路が話し好きだったら困ると思った。しかし彼は男のいる本堂に背を向けて、黙って海を見つめた。男はふと、この遍路は漁師ではないかと思った。まだ巡礼の旅に出たばかりらしい。真新しい白装束が、疲れ果てたような彼の様子とそぐわなかった。ひょっとしたら、今日が出立ちの日かもしれない。  遍路はやがて本堂に向き直った。そして灯明と線香を上げると、合掌して経文を唱えはじめた。 「納め奉る。この所の御本尊、高祖弘法大師をはじめ、当山鎮守、総じては日本国中、大小の|神《じん》|祇《ぎ》に祈願し奉る。|至《し》|心《しん》|発《ほつ》|願《がん》、天長地久、即身成仏、|密《みつ》|厳《ごん》|国《こく》|土《ど》、風雨順時、|五穀豊穣《ごこくほうじょう》、世界平和、|万《ばん》|民《みん》|豊《ほう》|楽《らく》、|乃《ない》|至《し》、法界平等|利《り》|益《やく》……」  線香の香りと読経の声がひとつになって、境内を流れていく。男は目を閉じて、それに聞き入っていた。経は終わりがないように思えた。|祈《き》|願《がん》|文《もん》から|開経偈《かいきょうげ》、|懺《ざん》|悔《げ》|文《もん》と続き、|般若心経《はんにゃしんぎょう》、そして|回《え》|向《こう》|文《もん》で終わるまで、遍路はつかえながらも唱えつづけた。  男は、霊場のあちこちで、遍路の読経を聞くのが好きだった。意味はわからないが、気持ちが落ち着く。かといって、自分も覚えて唱えようという気はない。男が信じてきたのは、別の神だったからだ。  遍路は、大師堂やその他のお堂にも経を上げると、最後に境内の隅にある観音堂の前に立った。そして懐から供え物でも取り出すように小さな物を堂の前に置いて、再び経を唱えはじめた。今度は、さらに長い経だった。かんかんと照りつける日射しが容赦なく降りそそぐ。何かよほど祈らなくてはいけないことがあるのだろうか。炎天下の中、太くしゃがれた声で一心に経を唱えつづける。  四国霊場を回りながら、男は幾度となく、似たような光景を目にしてきた。遍路たちは皆、心に切ない願いを抱きながら、四国を巡っているのだ。だが、彼らは気づいていない。弘法大師へのその祈りが、実は四国という土地への祈りへとつながっていることに。  四国を巡りつづける人々の祈りを正しい方向に向けることが、我らのお勤めなのだ。長老は、そういっていた。そうすることで、四国に恐ろしいことが起こるのを防いでいるのだと。  ようやく祈りを終えると、遍路は澄んだ鈴の音とともに、石段を降りていった。  男も立ち上がった。疲れが少し回復したようだった。境内を横切る時、ふと先の遍路が長く祈りを|拝《ささ》げていた観音堂の前で立ち止まった。堂は|船《ふな》|魂《だま》観音と記されている。前に、小さな|硝子《ガラス》瓶が飾られていた。その瓶の中を見て、男はぎょっとした。  硝子瓶の中には、まだ赤い血が滴っている指が入っていた。先の遍路の包帯を巻いていた指を思い出した。瓶の中には、白い紙が入っており、|拙《つたな》い筆文字でこう書かれていた。『高知県香美郡夜須、寺田稔。息子が生きて帰ってきますように』  男は遍路が消えた石段を眺めた。彼の息子は、どうしたのだろう。行方不明なのだろうか。指を切ってまで祈らずにはいられなかったのだ。  大勢の人間が、やりきれない思いを抱えて、この四国の道を巡っている。だからこそ、そこから大きな力が生まれてくるのだ……。  男は黒ずんだ血の固まりかけている硝子瓶の中をじっと見つめていた。  小さい頃から比奈子は、農家といえば大野の家を思い出した。昔は、ここで山羊や牛を飼っていた。大野シゲと話しこんでいる祖母を迎えに行くたびに、納屋の中を|覗《のぞ》かせてもらい、山羊の鼻づらを撫でたものだった。軒先に下がった干し柿や大根。|筵《むしろ》の上に広げられた|籾《もみ》|殻《がら》。納屋に仕舞われた農耕具……。ここは比奈子にとって、いつも|日向《ひなた》の匂いのする場所だった。  しかし、今、大野の家は夜の|闇《やみ》に包まれていた。|樟《くす》の大樹が、黒々とした枝で家を抱きかかえている。比奈子は砂利を踏みしめて、広い庭へ入っていった。どっしりした造りの|母《おも》|家《や》から、明るい光が洩れている。比奈子は、玄関の前で大きな声をあげた。 「ごめんください」  家の中から、テレビの音と皿の触れ合う音がする。比奈子は玄関の戸を開けて、また、ごめんください、と声を張りあげた。 「はぁーい」若い女の声がして、孫嫁の里美が現れた。今まで何か食べていたらしく、口をもぐもぐさせている。比奈子が用件をいう前に、里美は|口《くち》|許《もと》を手で隠しながら「ちょっと待ってください」といいおいて、家の中に走りこんだ。明神さんが来たという声が、奥の部屋から聞こえてきた。すぐに千鶴子が出てきた。 「こりゃあ、よう来てくださいました。上がってください」 「お食事中でしたら、また出直しますが。七時くらいがいいと伺ってたもので……」 「そんな、ちっともかまやせんですよ。ご飯も、もうすむところじゃき。さあ、どうぞどうぞ」  比奈子は茶の間に通された。隣の板の間が食堂になっていて、大野一家がテレビを見ながら食事をしていた。シゲと靖造、千鶴子、そして里美と二人の子供たちだ。里美の夫はまだ帰ってないようだった。食堂に隣接して土間があり、台所になっていた。  比奈子は一同に挨拶して、茶の間に座った。丸い座卓の置かれた八畳の茶の間は、大野一家の生活の匂いに満ちていた。壁に|貼《は》られた農協のカレンダー。畳の上には転がった里美の子供たちのビニールのアヒルや、ロボット人形。部屋の壁際には、黒光りする水屋が置かれている。天井近くに神棚が|祀《まつ》られていて、まだみずみずしい|榊《さかき》が供えられていた。  比奈子は居心地の悪い思いで、千鶴子の出してくれた麦茶を飲んだ。  東京で暮らしていると、他人のむきだしになった生活に触れる機会は少ない。人と会うのは、街の喫茶店やレストラン。生活と関係のない場で、きれいごとをいっていられる。透と自分がそうだった。生活感のない空間で、内面をさらけださずにつきあっていた。だから五年もの期間、続いてきたのだ。比奈子が矢狗村に住みはじめて、その家に透を連れてきたら、彼は十分といられないで逃げ出すだろう。透が好きだったのは、矢狗村出身の明神比奈子ではない。自分の命名したHINAというペンネームを持つイラストレーターだった。  比奈子は、透のことを思い出したことで、自分でも気がつかないうちに|眉《み》|間《けん》にかすかな|皺《しわ》を寄せていた。 「あれぇ、見て見て。北野町やって」  里美の驚いた声があがった。食堂に置かれた小さなテレビを指さしている。靖造や千鶴子とともに、比奈子もテレビに視線をそそいだ。画面には転覆したトラックが大写しになっていた。積み荷の材木が散乱している。 〈今日の午後四時頃、北野町を走行中の大型トラックが国道三十三号線から仁淀川に転落。運転手は重体。路肩を歩いていた主婦と二人の子供がトラックにはねられ、即死しました。現場は見通しのよい一本道で、関係者は死因について首を|傾《かし》げています〉  仁淀川と逆川が合流する地点の近くだった。ぐにゃりと曲がったガードレールの映像が流れていた。 「ありゃあ北添電気店やぞ」  靖造がいった。住居兼用らしい二階建ての小さな電気店が映り、死亡した母と子供二人の写真に変わった。北添美奈子二十九歳。子供はそれぞれ七歳と五歳だった。鼻の横に|黒子《ほくろ》のある夫が|茫《ぼう》|然《ぜん》自失の面持ちで話していた。 〈子供らを幼稚園に迎えに行っての帰りやったがです。わしは店におって、三人が道路脇で車が通り過ぎるのを待ちゆうのを見よったが。ほいたらトラックが……、それまでちゃんと走りよったがやに、突然、妻らぁのほうに突っこんできた。道路の真ん中をよけゆうみたいやったけんど、道路にゃ対向車も、なんちゃあおらんかった。どうしてあんな方向に行きよったか、どうしてよりによって、人のおるほうに突っこんでこにゃいかんかったがやろ〉  テレビを見ていた千鶴子が首を傾げた。 「幽霊でも見たゆうがやろうかね」  里美が笑った。 「やめてや、お義母さん。へんなこというがは」 「どうせ酒でも飲んじょったがや」  靖造はビールの瓶と飲みかけのコップを持ってきて、比奈子の前にどさりと座った。 「いやあ、|別《べっ》|嬪《ぴん》さんを待たせて悪かったねゃ。おい、千鶴子。比奈ちゃんにもビールのコップ、持ってきちゃれ」  比奈子は慌てて、おかまいなくといったが、靖造はさっと千鶴子の持ってきたコップにビールをついだ。 「まあまあ、遠慮せんで飲んどうぜ。久しぶりやきねゃ。わしが覚えちゅうんは、まだこんまい頃の比奈子やったぞ」  |痩《や》せた空豆のような顔をした靖造は目を細めて、比奈子を眺めた。比奈子は、きまり悪くなりながらグラスに口をつけた。ビールはぬるくなっていた。  テレビはニュースを終えて、クイズ番組に変わった。もう誰も見ている者はいなかった。千鶴子は土間の台所で洗い物をはじめ、里美は子供たちを風呂に入れるといって、食堂から消えた。  靖造が煙草に火をつけながら聞いた。 「元ちゃんや絹さんはどうしゆうかのう」  比奈子は父母は元気だ、と答えた。父は退職後も会社の相談役を務めていること、母は|稽《けい》|古《こ》事に精を出していると告げた。そして聞かれるままに、自分の仕事や、塾の講師をしている弟のことを語った。  ぷんと|樟脳《しょうのう》の臭いがした。気がつくと、シゲが食堂から茶の間に席を移して、比奈子の前に座ったところだった。シゲは、顔も手も皺に埋もれていたが、その固太りした体は、まだまだ元気そうだった。 「お久しぶりです。お元気でしたか」  比奈子が声をかけると、シゲはむっつりとした顔で|頷《うなず》いた。そして気乗りしない様子で聞き返した。 「初枝さんも、機嫌がええかね」 「ええ、体のほうは元気なんですが、祖母は少し|惚《ぼ》けてしまって……」  シゲが入れ歯を見せて、わずかに笑った。 「そうかね、初枝さんも惚けたかね。お町で畑仕事もせんと、暇に暮らしゆうきやろ。あてらみたいに毎日、自分のことは自分でせにゃいかんかったら、惚けやせんに」  千鶴子が台所から大きな声を出した。 「やめてや、おばあちゃん。うちらがおばあちゃんの世話、なんちゃあしやせんみたいに思われるやいか」  靖造が笑いながら比奈子にいった。 「ほんとうは、うちのおばあも、ええかげん惚けてきたがぞ、比奈ちゃん。初枝さんにゆうちゃってや」 「あては、まだ惚けちゃあせん」 「惚けてきたち」  シゲと靖造の間で口論がはじまりそうだった。比奈子は用件を切り出した。 「家のこと、これからどうしたらいいか、決めないといけないんですが」  靖造が|怪《け》|訝《げん》な顔をした。 「どうしたらええかゆうて?」 「次の借家人はいそうなんでしょうか。あんなに古くなっているので、誰も借りたがらないなら、うちの両親は、売っても仕方ないかと考えているんですが……」 「売るじゃとお」  靖造が大声をあげた。ビールを飲み干して、千鶴子に「酒!」と怒鳴ってから、比奈子を詰問するようにいった。 「ほんなら元ちゃんらぁは、もう矢狗村に帰らんつもりか」 「それは、まだわかりませんが、なにしろ千葉にも家があるし……」 「千葉の家がなんじゃ。わしゃ元ちゃんが、いつかは矢狗村に帰ってくる思うちょったき、喜んであの家の世話をさせてもろうてきたがで。それを今になって帰らんゆうんは、裏切られたも同じじゃ」  靖造は本気で気分を害したようだった。比奈子は内心、困ったことになったと思った。冷や酒を持ってきた千鶴子が口を挟んだ。 「あんた、そんなこと比奈ちゃんにゆうたち、しょうないやろ」 「元ちゃんは、比奈ちゃんを代理によこして、わしんところに顔も出さんで売るつもりがぞ。人をわやにしちゅう」  比奈子は慌てて、まだ売ると決めたわけではないといった。 「どちらにしろ、あの家、ずいぶん老朽化しているみたいですから、遅かれ早かれ、何とかしないといけないと思うんですが」  千鶴子は頷いた。 「そりゃ、比奈ちゃんのいう通りや、私は、借家人は、そのうち見つかると思うよ。けんど家を長もちさせたいなら、今のうちに大工さんに頼んで、手を入れてもろうちょいたがええやろね。ほうっちょいたら、家はどんどん傷んでくるき」 「帰ってくる気がないやったら、さっさと売り飛ばしゃええ」  靖造が口をへの字にして、冷や酒を飲んだ。靖造は昔から、へそまがりのところがあった。父が靖造のことを、「靖ちゃんは、いごっそうやき」といっていたのを覚えている。比奈子が靖造の態度に内心あきれていると、千鶴子が夫を|睨《にら》むようにしていった。 「えらそうなことゆうてからに。許しちやってや、比奈ちゃん。この人、元次さんと老後を一緒に過ごしたかったがやき」 「私、家に戻ったら、おじさんが矢狗村に帰ってくるようにいっていたと、父にいっておきます」  靖造は首を横に振った。 「わしがいつ、元ちゃんに帰ってこいゆうて頼んだ? 一遍、顔を見せて、わしに直接、その話をしろ、いいゆうだけぞ」  その時、シゲの声が割って入った。 「そう、どめかんでもええ、靖造。しまいにゃ、みんなぁ帰ってくるわ」  茶の間の三人は、背を丸めた老婆を見た。シゲは、しなびた|林檎《りんご》のような顔を一同に向けて続けた。 「四国で生まれた者は、死んだら四国に帰ってくる。神の谷の神さまに呼ばれて、もんてくるわ」  神の谷と聞いて、比奈子は息を止めた。今朝のことが|蘇《よみがえ》ってきた。 「|嘘《うそ》やないぞ」  シゲは威圧するような声でいった。 「四国の者は、死んだら神の谷にもんてくる。あそこの神さまに呼ばれてもんてくる」  靖造が不機嫌にいい返した。 「そんな話ゃ、耳にタコができるばあ聞かされたわ。あそこにゃ、ゆうちゃならん神さま、見ちゃならん神さまがおるゆうがやろ」 「そうじゃ」 「ゆえもせん、見えもせん。そんなもん、どんな神さまかわかりゃせんわ」  シゲは息子をじろりと見た。 「そがなことゆうなら、教えちゃる。神の谷におられる神さまはな」  シゲは、丸い座卓を囲む三人のほうに身をかがめた。小さな体が、麻袋のように丸まった。 「死んだ者じゃ」  比奈子の頭に莎代里の顔が浮かんだ。彼女は奥歯を噛みしめた。力を抜くと、体が震えだしそうな気がした。 「神の谷は、死んだ者の場所ながや」  |藪《やぶ》|蘭《らん》の黒い実のような老婆の目が光った。一瞬、茶の間を沈黙が支配した。つけっぱなしのテレビの音がやけに大きくなった気がした。 「また、おばあの迷信話じゃ」  靖造が吐き出すようにいって、冷や酒をあおった。      2 〈四国の地図を広げていただきたい。南北は、高知県の足摺岬から香川県庵治町の北端まで、東西は、徳島県蒲生田岬から愛媛県佐多岬の先まで。この四国の端と端を結んで、その交わる地点を探す。すると、矢狗村、神の谷の文字が見つかるはずである。ここ神の谷こそ四国の中心地点なのである〉  文也は|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せて、『四国の古代文化』から顔を上げた。神の谷が出てきたことに、薄気味の悪さを感じた。昨日、石柱を発見して以来、神の谷のことが頭から離れない。彼はベッドの上でごろりと体の向きを変えた。階下から、妹の公香のかけている歌謡曲が流れてきている。熱い午後の空気が、窓から押し入ってくる。二日続けて盆休みをとったのはよかったが、やることもなくこうして昼間から、日浦康鷹の書いた本を開いていたのだった。  文也は、また小冊子に目を落とした。 〈矢狗村のはずれにある神の谷は、山間の小さな谷である。ここは古来、村人によって、神の宿る聖なる場所と考えられてきた。その神は、見てはならない神、語ってはならない神とされている。四国の中心部たる神の谷は、神の宿る場所。私は、この土地こそ、四国の最も聖なる場所と考える。  四国の最も聖なる場所、神の谷に宿る神とは、|遥《はる》か古代の神である。現在の神の谷には、いかなる神の偶像も、|社《やしろ》も存在しない。これは|祀《まつ》られる神そのものが、かなり古い起源のものであることを示している。民間伝承の中によってのみ生きのびてきた神。形を持たない、古代の神なのである〉  古代人たちは山の木の実や草を採集し、鹿や猪を狩って食料としながら、逆川の源流である神の谷で彼らの神を礼拝した。その神は、仏教が伝来する以前、弥生や縄文時代に|遡《さかのぼ》ることのできる神。とすれば、あの石柱が古代人たちの礼拝の対象だった可能性もある。しかも四国の中心が神の谷なら、その中央に位置する石柱のあった場所は、四国の|臍《へそ》といってもいい地点だ。これは何を意味しているのだろうか。  もちろん石柱が本来、あの|窪《くぼ》|地《ち》の中央に立っていたという確証はない。しかし、石柱をあそこに立てたとたんに起こった不思議な現象をどう説明すればいいのだろう。突然、荒れ狂いだした山の自然。突風、からみつく草。かごめかごめの歌。  文也は、無意識に|頁《ページ》をめくる指先に力を込めた。違う。あれは、ただの突風だったのだ。単なる自然現象だ。かごめかごめの歌は幻聴にすぎない。別の何かの力が働いたなどということはあり得ない。そんなこと、信じてはいけない。  文也は『四国の古代文化』をベッドの脇に投げて、別のことを考えようとした。比奈子の顔が浮かんできた。  今夜、また彼女と会う予定だった。北野町の花火大会に行くのだ。その後、ドライブに誘ってみようか。山のほうに上がっていって、夜景を見せてあげてもいい。東京の夜景ほどではないにしろ、きれいなものだ。  そうだ、車を洗っておこう。文也はベッドから起き上がった。そして古ぼけた小冊子から目をそむけるようにして、階下に降りていった。  灰色がかった蛇がくねりながら土の上を|這《は》い、ずるずると草むらに消えた。  シゲは慌てて、左手の親指と人差し指で環をつくり、その中に息を吹きかけた。蛇の|魔《ま》|除《よけ》のまじないだった。  気に入らなかった。気に入らないものが、そこらじゅうに満ちていた。まるで村の空気に得体の知れない成分が少しずつ混じりこみ、村の様子を変えていっているようだ。  シゲは鎌を持ったまま腰を伸ばすと、目を細めて雑木林に囲まれた畑を眺めた。雑草が刈り取られた畑は、散髪をしたばかりの子供のようだ。こざっぱりした|畝《うね》に沿って、芋の葉が元気よく伸びている。家から離れたこの小さな畑を気にかけるのは、家族の中でもシゲくらいのものだ。  孫嫁の里美なぞは来たことすらない。この畑はシゲのものだった。姑に|苛《いじ》められたり、つらいことがあると、ここにやってきた。雑草を刈ったり、実った野菜を|摘《つ》んだりしながら、存分に泣いた。この畑は、シゲの涙を吸い取ってきたのだ。  シゲは、鎌にまとわりついた草を前掛けの裾で|拭《ふ》き取ると、今日はこれくらいにしておこうと思った。そろそろ夕方だった。空の端が赤らんできている。暗くなる前に、家に帰ったほうがいい。|黄昏《たそがれ》|時《どき》の山にいてはいけない。子供の時から、そういい聞かされてきた。地面に立てた棒につけた、野犬よけのまじないの古|草《ぞう》|履《り》に手を合わせてから、畑を後にした。  雑木林を貫く|小《こ》|径《みち》を歩いていく。林の中に逆川の小さな流れが見えてきた。川底の石が水面に顔を出している。水量が減っているのだ。日照りが続いているわけでもないのに、どういうことだろう。シゲは不思議に思いながら、木の板をさし渡しただけの橋を越えた。  小径はやがて神の谷へと続く道と合流する。その|三《さん》|叉《さ》|路《ろ》でシゲは、ちらりと神の谷の方向を見遣った。さっきの気に入らない空気が一段と濃くなったのを感じた。シゲは慌てて神の谷に背を向けて歩きだした。  神の谷は、死霊の谷。死人の神が住んでいる。  シゲは口の中で南無阿弥陀仏と唱えて、村の方向へと足を早めた。ゴム草履の音が静かな山にぺたぺたと響く。夕焼けに染っていく空。木立を吹き抜ける生暖かな風。気がつくと、薄暗い小径の奥から人影が近づいてきていた。女のようだ。いったい今頃、誰が山に入ろうとしているのだろう。  シゲは立ち止まって、女が近づいてくるのを待った。神の谷には行かないほうがいいと、いってやるつもりだった。  しかし相手の顔を見たとたん、そんなお節介な気分は消えてしまった。  口寄せ|巫女《みこ》の日浦の女。気にさわることをいって、犬神でもくっつけられたら事だ。シゲは道の脇に寄った。  矢狗村の者は、原因不明の病気になったり、不作に悩まされたり、不幸が続いたりすると、そっと日浦の家を訪ねていく。犬神の|祟《たた》りといわれることもあるし、田の神さまの祭りを忘れていたために怒りを買ったのだといわれることもある。その理由は、|依《より》|童《わら》を務める日浦|嘉《よし》|子《こ》の娘、照子の口から伝えられる。  今、近づいてきている女は嘉子だ。そう思ってから、嘉子はとうに死んだことに気がついた。葬式に出たのだから確かだ。では、あの女は照子か。  シゲは、女の顔をまじまじと見つめた。日浦の女たちは、皆なんとよく似ているのだろう。照子も確か、自分とよく似た娘を依童にして口寄せを行っていた。明神の孫娘と仲のよかったのが、その照子の娘だったはずだ。何という名前だっただろうか……。  照子は、ふらふらと近づいてきた。普通の歩き方ではなかった。誰もいないのに、絶えず後ろを振り返っては笑って、ひとりごとをいっている。 「もうちょっとかね。そりゃ、ええ。そりゃええわ、莎代里」  莎代里。そうだった。照子の娘はそんな名前だった。だが、あの娘は死んだはずだ。シゲは体を硬くして、さらに道脇に退いた。照子は、シゲの姿なぞ目に入らないように通り過ぎた。  シゲは肩をすくめて、小径を遠ざかっていく照子の後ろ姿を見送った。行く手には、|薄《うす》|闇《やみ》が降りてこようとしていた。 「こりゃ、待ちや、莎代里っ」  森の奥から照子の笑い声が流れてきた。シゲは肩を震わせると、小径を歩きだした。早く家に帰りたかった。照子が神の谷に何をしに行くのか、考えたくもなかった。夜気を含んだ風が吹いてきて、雑木林をざわざわと揺らしはじめた。  ドーン。小気味のよい音がして、夜空が明るくなった。大きな花火が、空に円を描いて花開いた。赤い火花がきらめきながら、ゆったりと流れる仁淀川の上に落ちていく。 「きれいねぇ」  比奈子が|呟《つぶや》いた。横を歩いていた文也が笑った。 「隅田川の花火には負けるだろうけどね」 「あれね」比奈子は顔をしかめた。 「ずいぶん前に行ったけど、人ばっかりで疲れただけ。後はテレビのニュースで見るくらいよ。こっちのほうが、ずっと花火大会って感じがするわ」 「そりゃよかった」  その言葉の温かな響きに、比奈子は幸せな気分になった。  矢狗村から文也の車に乗って北野町に着いたのは、六時半を過ぎていた。会場は北野町小学校。川沿いの校庭から、仁淀川の上空に打ち上げられる花火がよく見える。校庭には、近隣の人々が押しかけていた。|浴衣《ゆかた》を着た家族連れ、ふざけあっている若者たち。校庭には屋台が出て、焼きとうもろこしや、タコ焼き、イカ焼きなどを売っていた。  あちこちで、顔見知り同士の話がはじまっていた。文也も知人から、何度か声をかけられていた。 「いやあ、明神さん!」  突然、自分の名を呼ばれて、比奈子は驚いた。浴衣姿の女と、スポーツウェアを着た、ずんぐりした男が現れた。勝美と堅だった。堅は、文也に頭を下げた。 「こりゃ、お二人で」 「案内しちゃりゆうがや」  文也は照れたふうに応えた。勝美が比奈子に飛びつくように話しだした。 「東京に戻る前に忘れんと、うちに寄ってくださいよ。明神さんのサイン、ポスターに書いてもらおう思いゆうがやき」 「サインなんて……そんな恥ずかしいわ」  堅が口を挟んだ。 「勝美のゆうこと、取りあわんとってください。こいつ図々しいがやき」 「そりゃあ、私なんかのサインでよかったら、お安い御用ですけど。たいしたものじゃないですよ」 「いいんです。私、明神さんの絵、好きながやき。ほんなら絶対、書いてくださいね」  勝美と堅は|賑《にぎ》やかな空気をふりまきながら、別の友人を見つけて行ってしまった。  文也が感心したように比奈子にいった。 「比奈ちゃんの絵、人気があるんだね」 「ただのイラストよ」  そういいながらも比奈子は、誇らしい気分を抑えることはできなかった。  屋台が並んでいるところに来た。『北野町青年会』と書かれた白いテントの下で、飲み物やかき氷の模擬店が開かれていた。どの店の前にも行列ができている。 「ビールでも飲むかい」  文也が聞いた。比奈子は|頷《うなず》くと、彼はちょっと待っていてといいおいて、行列に並んだ。比奈子は、隣の店を見遣っていった。 「そしたら私、タコ焼きでも買ってくる」 「おっ、いいなあ」  目を細めた文也に笑いかけて、比奈子は隣のテントに行った。タコ焼きコーナーの前の行列についた。ソースの焦げるおいしそうな匂いが漂ってくる。辺りでは相変わらず、花火の打ち上げられる音が続いている。比奈子はくつろいだ気分になって、空を彩る火の花を眺めた。 「比奈ちゃんやないが」  |耳《みみ》|許《もと》で名前を呼ばれた。振り向くと、後ろにゆかりが立っていた。桜色の薄手のワンピースを着て、若やいで見える。比奈子は顔をほころばせた。 「あら、こんなところで」  ゆかりは|挨《あい》|拶《さつ》もそこそこに、比奈子のブラウスの袖をひっぱった。 「聞いたで。昨日、文也君と一緒に車に乗っちょったとね」  比奈子は言葉につまった。それで確信を得たらしい。ゆかりは勝ち誇ったようにいった。 「やっぱりやわ。うちの人が、配達の途中で文也君の車とすれ違うたんやって。きれいな女の人、乗せちょったゆうて聞いて、ピンときたがで。デートやったがかえ」  神の谷から帰ってくる時だ。昨日の出来事を思い出したくなくて、比奈子はぶっきらぼうに答えた。 「神の谷に連れていってもらっただけよ」 「へええ」ゆかりは、にやにやした。 「ここも、文也君と一緒?」  比奈子は口ごもりながら、そうだといった。そして隠すことでもないのに、どぎまぎしている自分が腹立たしくなった。 「ゆかりちゃんは? |旦《だん》|那《な》さんと?」 「ううん。うちの人は店番やし、子供はまだ小さいからお義母さんに預けてきたが」 「じゃあ一人で?」 「まあ、そんなとこ」  ゆかりは素っ気なく答えてから、言い訳がましく付け加えた。 「私やって、たまには息抜きさせてもらわんとね。毎日毎日、店番ながやき。つくづくいやになるわ。比奈ちゃんは東京に住んじょって、おもしろいやろうねぇ。都会やき、刺激がいっぱいあるんやろ」  比奈子は苦笑して、首を横に振った。 「仕事をしていれば、どこでも同じじゃないかしら。そうそういつも、変わったことなんかありゃしないし……」  毎日、同じ自宅兼仕事場で寝起きして、仕事をする。ほとんど家から出ていくこともない。会うのも仕事関係の人間ばかり。友人たちは、結婚して家庭に入り、話題も離れてしまっている。『コンビニエンス・フジモト』のレジに座るゆかりと自分と、どう状況が違うというのだろう。違うのは、環境だけ。東京では、山並みがビルでできていて、川は道路でできている。  しかし、ゆかりは比奈子の言葉を信じたようではなかった。 「一度、都会で暮らしてみたいちや」  彼女は夢見るようにいった。比奈子が、そんなにいいものではないと答えようとした時、威勢のいい声が聞こえた。 「はい、お待たせっ!」  比奈子の順番がきていた。慌ててタコ焼き一折を頼んで、屋台の男を見ると、見覚えのある顔だった。名前を思い出す前に、後ろのゆかりが叫んだ。 「忠志君やない。こんなところで、何しゆうがぁ」  同窓会にも来ていた片田忠志だった。首からタオルをかけ、Tシャツを汗で|濡《ぬ》らせて働いていた。忠志は、器用な手つきでタコ焼きをひっくり返しながらいった。 「どうもこうも。俺、北野のスーパーに勤めゆうやろ。職場の者に手伝えいわれて、いやいややらされゆうがや」  横で、缶ジュースを氷水の中に入れていた角刈りの男が忠志の背中をどやした。 「文句あるかや。後でビール飲み放題ゆうたら、ほいほい来たくせに」  同じテントの中の仲間から笑い声が起こった。比奈子も笑いながら代金を払って、タコ焼きを受け取った。そして、ゆかりに声をかけようとして振り向いた。ゆかりは、人込みの中の誰かに合図しているところだった。その視線の先を見ると、君彦がいた。派手なアロハシャツを着て、半ズボンのポケットに手を突っこんでいる。君彦も一人のようだった。 「君彦君と来たの?」  比奈子の声に、ゆかりはぎくりとしたように顔を向けた。 「いやや。違うわ。今、そこで会うただけやき。忠志君、タコ焼きひとつちょうだい」  ゆかりはタコ焼きを買うと、比奈子に、またね、といって、そそくさとテントを離れ、君彦のいる方向に消えていった。  比奈子はタコ焼きを抱えて、文也を探した。彼は少し離れたところで手を振っていた。比奈子は人の間を抜けて、文也のほうに歩いていった。  文也は片手に二本の缶ビールを持って、比奈子をジャングルジムの前に連れていった。 「ここからなら、よく見えると思うよ」 「特等席ね」  二人はジャングルジムの一番上に登って、花火を眺めながら、タコ焼きをつまみ、ビールを飲んだ。夜空に|炸《さく》|裂《れつ》する光の下に北野町が浮かび上がる。 「昔は矢狗村でも花火大会をしたのにな」 「あっ、覚えてるわ。やっぱり学校の校庭でやっていたわ」  打ち上げが十本も上がったらおしまいの小さな花火大会だった。それでも村人はみんな楽しみにしていたものだ。文也は、あの花火大会はもう十年はやっていない、といった。 「費用がかかるんだ。役場でも何度か花火大会を復活させるように議案が出されたけど、いつも予算がとれないってことでおしまいさ」 「確かにね。ひと晩でなくなってしまうお金だものね。考えてみると、つくづく人間って無駄なことが好きなんだと思うわ」  文也は肩をすくめた。 「人生、無駄なことばかりさ。何に時間を費やそうと、結局、人は死んでいく。すべては無になる。これ以上に無駄なことはない」 「そんなふうに考えちゃいけないわ」  比奈子は文也に顔を向けた。 「花火は無駄かもしれない。だけど、きれいだったって気持ちは残る。無駄って、決して悪いことばかりじゃないわ」  文也が|微笑《ほ ほ え》んだ。比奈子は口を|噤《つぐ》んだ。青春ドラマの|台詞《せりふ》のような言葉だったと思って、我ながら恥ずかしくなった。文也は缶ビールを膝の上に置いたまま、静かにいった。 「比奈ちゃんのそんないい方、好きだよ」  優しさのこもった声だった。比奈子は、顔を赤らめた。 「矢狗村には、いつまでいるの?」  文也が聞いた。比奈子は缶ビールを握りしめた。 「まだ決めてないの。少し、ゆっくりしてから東京に帰りたいと思ってるわ。せっかくだから、あちこち見て回りたいし……」 「よかったら、連れていってあげようか。車があると便利だろ」 「ほんと?」比奈子は目を輝かせた。 「あさっての日曜日はどうかな」 「せっかくの休みなのに……」 「いいさ。どうせ、ぶらぶらしている身なんだ。朝からドライブすれば、けっこう見て回れるよ」  文也と二人でドライブ。考えただけで心が騒いだ。 「どこに連れていってくれるの」 「考えとくよ」 「びっくりツアーね」  二人は笑みを交わした。  ドーン。花火の音がした。比奈子は大輪の光の花が拡がる夜空を見上げながら思った。あさってドライブに行ったら、また誰かに見られて|噂《うわさ》をされるだろう。私はそれでもかまわない。  文也のひきしまった横顔が浮かび上がった。大人になって、彼とこうして隣合せで花火を見る日がこようとは想像もしなかった。しかもジャングルジムの上で。  ジャングルジムのお姫さまごっこ。小さい頃は侍女でしかなかったけれども、今、自分はこうしてジャングルジムのてっぺんの、お姫さまの席にいる。隣にいるのは文也だ。  大人になるのは、悪いことではない。子供の時には夢でしかなかったことが、現実のものとなることもある。自分は、もっと違う夢を見てもいいのではないだろうか。透との破れた夢は投げ棄てて、新しい夢を追いかけるのだ。  花火大会は終わりに近づいていた。体を揺さぶるような|轟《ごう》|音《おん》をたてて、次々に大型の花火が打ち上げられる。仁淀川の川面がきらきらと輝いている。そういえば、シンデレラ物語の最後は、結婚式の花火大会だった。赤や緑に染まった夜空を眺める比奈子の胸に、淡い幸福感が広がっていった。  星がまたたいていた。漆黒の森林が空を覆っている。男は小さな地蔵堂の軒下に座り、冷えた弁当を食べていた。昼に立ち寄った岩本寺の門前で買ったものだった。  男は弁当に入っていた|鶏《とり》の空揚げを、暗い茂みに放りこんだ。油は冷めると胃に悪い。昔は途上のあちこちに遍路宿があった。夜には温かい食べ物にありつけたものだが、今はそんな宿はほとんど消えてしまっている。  町に降りていって小さな旅館に泊まってもよかった。しかし、そうすることで気持ちの張りが失われるのが怖かった。  四国巡りには、気力が必要だった。夏場はまだましだが、冬は気をゆるめると体調を崩しかねない。それがもとで途中で野垂れ死にした仲間も多かった。  村の誰かがお勤めの途中で死ぬと、男の妻は、しばらくふさぎこんでいた。妻は男に幾度か、村から逃げようと|囁《ささや》きもした。子供のいない男が、いつの日かお勤めの途中で死んでしまうのは目に見えていた。実際、そうして村から逃げていく者もいた。  しかし男は逃げることを考えもしなかった。彼は、お勤めがいやではなかったのだ。何年かに一度、すべてを投げ出して、四国を巡る。先祖の歩いてきた太古の道を、巡るだけを目的として歩きつづける。妻のことも畑仕事も、すべて忘れてひたすら歩く。それは別の世界に入りゆくこと。村で一生を終える定めの男が自由になる時だった。  私はどうなるのだ。男が村から逃げる意思がないとわかると、妻はよくそういった。今度も無事に帰れるだろうかと不安にさいなまれながら、あんたを待つのはいやだ、と泣いた。もしあんたが死んだら残された自分はどうなるのか。  だが、そういっていた妻のほうが先に死んでしまった。しかも彼がお勤めに出ている間に。妻の死を思うと、男の|腸《はらわた》をヤットコで挟まれてひきぬかれるような痛みを覚えた。 「すまん」  男の口から低い声がついてでた。  その時、|耳《みみ》|許《もと》で誰かが囁いた気がした。彼は、ぎょっとして振り向いた。誰もいなかった。しかし、そこに何かいた。|闇《やみ》の中に漂うものが……。  闇が揺らめいて、底知れぬ森の茂みがざわざわと音をたてた。男は険しい顔で闇を|睨《にら》みつけた。闇の中のものは少しずつ退いていき、やがて霧のように消えていった。  男は荒い息を吐いた。背中がじっとりと汗ばんでいる。  ふと不吉な予感を覚えて、男は慌てて打ち消した。まさか。そんなことが、あるはずがない。祝言の夜、長老が語ったようなことが起こるはずはない。老人の|戯《ざれ》|言《ごと》だ。  男はすっくと立ち上がった。もう弁当を食べる気にはならなかった。月明かりに照らされて、|仄《ほの》|白《じろ》い夜道が山の中に消えている。男は地蔵堂の軒下から出た。弁当を茂みに捨てると、歩きはじめた。歩かずにはいられなかった。巡るのだ。四国を巡るのだ。心の中で|呟《つぶや》いた。  遠くで犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えが聞こえた。      3  蝉が短い命を嘆くように盛んに鳴いていた。真昼の日射しが、|樟《くすのき》の|梢《こずえ》に容赦なく照りつけている。シゲは庭に|筵《むしろ》を敷き、薬草を干していた。げんのしょうこ、せんぶり、いしゃいらず、おおばこ……。  わざわざ山に行って薬草を|採《と》ってこなくても、今は西洋の薬があることはわかっている。しかしシゲは、結局は自分の手で選んだ薬草がいちばん安心できると思っていた。人のいうことは、心底信用してはいけない。それは彼女が長い人生をかけて確信を重ねてきた金科玉条だった。  小さい頃、人が死んだらアメリカに行く、と友達に教えられた。アメリカには、地獄や極楽があるのだろうかと不思議に思ったものだった。それを親にいったら、こっぴどく叱られた。死んだら神の谷に行くのだと、シゲの母はいった。娘になって、隣の集落の木山猪太がシゲを好きだといった。それを信じていたら、猪太は森トキにも同じことをいっていたのを知った。北野町の製糸工場に働きに行っている時は、色白になるというクリームを行商人から高い値で買わされた。クリームをいくら塗っても白くならないことに気づいたのは、しばらくしてからだった。  最大の思い違いは、夫の力馬が結婚する時にいった言葉だった。 「うちは長生きの家系や、苦労はさせんき」  子種だけさっさと|播《ま》くと、自分は結婚して六年目に死んでしまった。  人のいうことは信用しない。他人には期待しない。この鉄則のおかげで、シゲは長い人生をさほど落胆せずに過ごしてこられた。息子たちが期待していたほどの出世をしなくても、孫の浩が農業を継がずに北野町の材木会社に勤めるようになっても、こんなものだと思うことができた。  シゲの現在の立場は恵まれているほうだ。靖造と千鶴子も、浩と里美も、自分を邪険に扱ったりはしない。とはいえ、最初から大事にされることを期待していたわけではなかったから、ありがたい気持ちも薄かった。千鶴子が里美との会話のはしばしに、いかに自分が|姑《しゅうとめ》のことを大切にしているかを匂わせるたびに、そんなにしなくてもいいよ、といいたくなった。千鶴子が、里美も自分を大切にしなくてはいけないと暗に告げているのもわかっていた。千鶴子は、そんな女だ。彼女の親切心は、自分が親切にされたい気持ちの裏返しなのだ。  シゲ自身は、姑に優しくされた覚えは何ひとつなかったが、姑を立てて暮らしてきた。この家の嫁となった運命を甘受しただけだ。力馬の妻となったことが、彼女の人生を決定してしまったのだ。  シゲは、せんぶりの黄色く枯れた草を集めてわらしべで縛った。|曾《ひ》|孫《まご》の満がランドセルを背負って庭先に現れた。シゲが、おかえりというと、満はうるさそうに「うん」と答えただけだった。  満の妙にこまっしゃくれた態度は、シゲの気に入らなかった。あれは姑の血だ。いつも人の欠点ばかり見ていた、|痩《や》せて顔色の悪い、それでいて長生きした姑の血だった。だが、満の顎の張った顔はシゲに似ていた。満の中で、自分の血と姑の血が混じり合っていることが忌まいましかった。  すべては力馬の妻となったことが原因なのだ。それだけ今の自分の人生に影響を与えた男なのに、夫のことを思い出そうとしても、あまりに記憶はおぼろげた。力馬が死んだのは、半世紀も前。ほとんど忘れてしまっても不思議ではない。九十年近い長い人生で、たかだか六年間、共に暮らしただけの人間。ただひとつ鮮明に覚えているのは、力馬と寝た時のことだ。彼との夜は苦痛以外のなにものでもなかった。力馬は、シゲの苦痛の|呻《うめ》きを悦びの声と信じこみ、さらに性急に挑んできたものだ。竹雄とは、なんと違っていたことか。  シゲは再び、昔の夢のかけらを集めはじめた。竹雄は彼女に、力馬との間では到底得られなかった満足を与えてくれた。滑らかな肌、すらりと伸びた手足。竹雄は、このあたりではなかなか見かけないような優男だった。時間をかけてシゲの体を|愛《あい》|撫《ぶ》して、お互いの精が尽きるまで|睦《むつ》み合った……。  風が吹いて、シゲの手許にあったげんのしょうこを鳥の羽のように空に舞い上がらせた。その行方を追って屋根を見上げたシゲは、おや、と思った。  |母《おも》|家《や》の|鬼瓦《おにがわら》の上に、何かがいた。そのあたりの空気だけが|歪《ゆが》んで見える。水の中に浮かぶ蛙の卵のように、空中でふわふわと半透明な形で漂っていた。  シゲは目をしばたかせた。もう一度よく見た。何もなかった。生気のない黒い目をむきだしにした鬼瓦が、シゲを睨みつけているだけだ。  シゲは、また薬草を束ねはじめた。しかし妙に落ち着かなかった。自分の|密《ひそ》やかな思考を誰かに読まれたような気がした。  再び吹いてきた風が、筵の上の薬草を吹き飛ばしていった。  役場から家に帰ると、玄関の戸も窓も開けっぱなしになっていた。文也はガレージに車を入れて、母の車も、妹のバイクもないことを確かめた。とすれば、帰っているのは父らしかった。家で日頃車を使っているのは文也と母しかいない。妹は勤め先の北野町の小学校まで、母の車に同乗したりバイクで通ったりしている。父は自転車で農協まで通っていた。  文也が茶の間に顔を出すと、案の定、父が老眼鏡をかけて新聞を読んでいた。麦茶を入れたコップと、せんべいの袋が|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》に置かれている。文也が、ただいまというと、父はちらりと顔を上げて驚いた顔をした。 「えらい早いのう、文也」 「土曜やで、お父さん」  父は、ああ、と照れたように笑った。 「盆休みが続くと、曜日の感覚がのうなるな」  文也の父は農協の事務員という仕事によって、その全人格が決定されてしまったような人間だ。帳簿を調べるように新聞を読み、仕事中の禁じられた私語のように言葉を交わす。感情をめったに表に出したことはなかった。しかし不思議なことに、その律せられた態度からは、父の真の穏やかな本質が|滲《にじ》み出ていた。文也は言葉にこそ出さないが、そんな父が好きだった。自己を平穏な生活に埋没させているような人間。彼もまた、似た人生を歩みはじめていたから。  文也は冷蔵庫を開けて、麦茶の瓶を取り出しながらいった。 「役場に行っても、出てきちょったんは七人じゃった。みんなぁ高校野球を見て暇そうにしよったわ」 「高校野球も、今年は高知は出ちゃあせんき、おもしろうもないやろう」  父は新聞から目を離さずにぼそぼそと答えた。文也は麦茶のコップを持って、テレビのスイッチをつけた。そして父の前に座ると画面に目をそそいだ。 〈四国最高峰の|石《いし》|鎚《づち》山は夏のハイキング客で賑わっています〉  昼時の四国のローカルニュースだった。若い女性レポーターがマイクを持って|熊《くま》|笹《ざさ》の生い茂る草原に立っている。背後には、力まかせに岩塊をもぎとったような石鎚山が映っていた。 〈私は今、石鎚山が最もよく見える|瓶《かめ》|ケ《が》|森《もり》に立っています。石鎚山の標高は千九百八十二メートル。今日は少し曇り気味とはいえ、うっすらと頂上が見えます〉  父が新聞から顔を上げた。 「ほう、石鎚山か」  文也は懐かしそうにいった。 「そういや昔、お父さんと石鎚山に登ったな」  父は画面に目をそそいだまま答えた。 「ああ、お山開きの時やろ」  石鎚山では、七月になると山開きが行われる。全国から集まってきた修験者たちが|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を吹き鳴らしながら、|麓《ふもと》にある石鎚神社の御神体を山頂に上げるのだ。修験者といっても、年に一度、山開きの時だけ登るという人が多い。父も毎年、白装束に身を包み、修験者の恰好をして参加していた。  父が何を思ったのか急に文也を山開きに誘ったのは、彼が高校の時だった。おもしろそうだと承知したものの、すぐに自分の考えの甘さを思い知らされた。まず山に行く前の|禊《みそぎ》があった。初夏とはいえまだ冷たい山間の渓流で水ごりをした。何を好きこのんで、こんなことをしなくてはならないのかと、文也は|憮《ぶ》|然《ぜん》としたものだ。しかし体を清めてから白装束に袖を通す時は、さすがに身のひきしまる思いがした。  そして二人は車で石鎚山の麓まで行き、他の信者たちとともに登りはじめた。山頂に到達するまでに、絶壁に設けられた三ケ所の鎖場を通らないといけない。  ずしりと重い鉄の鎖を握りしめて、白装束の信者たちが連なって鎖を登っていく。彼の後ろに父がいた。滑りそうになると、父が頭で尻を支えてくれた。その時、彼は父の存在を感じた。おまえが落ちそうになれば、自分がこうして支えてやる。そう語りたがっているように思えた。文也は、父の、そしてその下に連なる大勢の人間の気力に押し上げられるように頂上へ近づいていった。  彼の下からは、無数の白装束の人々が、ぞろぞろと|這《は》い上がってくる。まるで『|蜘蛛《くも》の糸』のようだ。救いを求めて、地獄から這い上がってくる罪人たち。 「なんまいだ、なんまいだで登りゃんせ  登れば御殿が近くなる なんまいだ なんまいだ」  人々のかけ声が山にこだまする。山頂には御神体を納める|祠《ほこら》があった。「御殿」というには、あまりにもささやかだ。そう思った時、文也は空の輝きに気がついた。どこまでも青く、山を抱きこむように広がっていた。「御殿」とは、天かもしれない。鎖をよじ登ってくるのは、天に昇ろうと希求する魂たちだと思った。  たぶん、その時の印象が強すぎたせいだ。文也は、その後、父とともに石鎚山に登ることはなかった。登りつづければ、自分が天に消えてしまうような気がした。理に合わないことだとは思いはしたが。  父は今も時折、石鎚山に登っている。  テレビには、石鎚山の山頂がクローズアップされていた。灰色と緑色の混じったような色だった。文也は身を乗り出した。  神の谷で見つけた石柱と同じ色のようだった。画面が変わり、石鎚山の麓の|面河《おもご》渓谷が映し出された。やはり緑色の石の上を透明な水が滑り落ちていく。レポーターが、石鎚山から流れ出た水は仁淀川の源流となり、海に流れていくと説明していた。  あの石柱の岩は、石鎚山から来たものではないだろうか。文也は、ふとそう思った。 「タカさん、石鎚山に一遍登りたかったじゃろにな」  父が、ぽつんといった。ぼんやりと川の流れを見ていた文也は、タカさんがどうかしたのか、と聞き返した。父は、康鷹が事故に遇ったのは石鎚山に行く途中だったと答えた。文也には初耳だった。 「日浦の家で碁をしている時やった。急にタカさんが石鎚山の行き方を聞いてきたがや。明日、登りたいゆうことやった。日曜まで待ってくれるなら、わしがついていっちゃるゆうたに、タカさんは急いじゅうみたいやった。ほんで次の日、一人で行きよったがじゃ」  父は、|昏《こん》|睡《すい》状態の康鷹を思いやってか、暗い顔つきで言葉を切った。文也には、父と康鷹が碁をしている様子がありありと思い出された。  碁に興じている父を迎えに日浦家に行くのは、妹の役目だった。時に文也が遣わされると、照子が上品な声で「今日は文也君かね。ごくろうさまやね」と笑いかけたものだ。勝負の途中で行き合わせたら、文也は決着がつくまで待つはめになった。  父と康鷹は碁盤を挟んで、黙って向かい合っていた。父の表情からは、勝っているのか負けているのかわからなかったが、康鷹はすぐわかった。負けていると、親指と人差し指で鼻を上下から押さえこむようにして|揉《も》むのが癖だった。人差し指を見ているのか、寄り目がちになっていた。いつもは柔和な人なのに、考えこむ時の|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せた表情が少し怖かった。  文也は、生温かくなった麦茶の入ったコップをいじりながら聞いた。 「それ、『四国の古代文化』を出した後やったがやろ」 「あの本なぁ」  父は顔を曇らせた。 「莎代里ちゃんが|亡《の》うなって、ひがちになって仕上げよった。碁をしゆう間も、びっしりそのことをゆうもんやき、閉口したわ。本を出版したら、ちくとは落ち着くと思うちょったに、あんなことになってしもうて。あの男も気の毒なやつじゃ。植物人間には世話はいらんみたいに思われて、病院に入れられっぱなし。照子さんも遍路にばっかり行かんと、もっとそばにおっちゃりゃええに」  珍しく父の言葉には非難がこもっていた。むりもなかった。昏睡状態になった康鷹に、日浦の家は冷たかった。養子が本家に世話をかけて、酒屋も|潰《つぶ》してしまったというふうにとられていた。妻の照子は四国遍路に出て不在がち、日浦の|親《しん》|戚《せき》の者たちが見舞いに行くこともなかった。なにかと世話をしてきたのは、康鷹の実家の縁者だった。  家の外で車のエンジンの音がした。父と文也は顔を見合わせた。 「春代が帰ってきたかな」  母は、土曜日の昼は北野町の店から食事を作りに帰ってくる。すぐに玄関から母の威勢のいい声が聞こえた。 「ただいまーっ」  母が買物包みを抱えて茶の間に入ってきた。 「いやーっ、ごめんごめん、遅うなって。お客さんが、なかなか帰らんで。お腹空いたやろ。今、お昼ご飯、作るき」  母は包みの中からスーパーで買いこんできた|惣《そう》|菜《ざい》を取り出した。今日の出来事を機関銃のように連発しつつ、昼食の用意に入る。父は母の話を聞き流しながら、また老眼鏡をかけて新聞を読みはじめた。  文也は立ち上がって、廊下に出た。二階に上がろうとした時、電話が目に入った。比奈子は家にいるだろうか。そう思うと、無性に比奈子に会いたくなった。しかし、昨夜、会ったばかりだ。今日も誘うのはかっこ悪い。階段を二、三段上がった。が、その足が止まった。彼はひき返すと、考える前に受話器を取った。これまで森田の家だった番号を回す。三回目の呼び出し音で、比奈子の声がした。 「あ、僕やけど」  文也は年がいもなくどぎまぎしながらいった。比奈子が明るい声で昨日の礼をいった。そして、役場ではないのか、と聞いてきた。 「土曜日だから、半日でおしまいなんだ。もう家に帰ったところ。あの……比奈ちゃん、もし午後、空いてるなら、どこか行ってもいいかなと思って」  比奈子は残念そうに、午後はプロパンガスの交換にガス屋が来るので待っていないといけないのだと答えた。 「でも、夕方なら大丈夫よ。それからでよければ」 「いいよ。夕方なら涼しいしね。何時に迎えに行こうか」 「五時だったら確実だわ」 「いいよ。五時にね」  電話を切った時、背中で声がした。 「今日もデート、お兄ちゃん?」  いつの間に帰ったのか、妹の公香が玄関から彼を見ていた。文也は、ぶっきらぼうに友達と会うだけだと答えた。 「女の友達でしょ」  公香は、にやにや笑いながらいった。 「今度は長続きするといいね」  文也は|拳《げん》|固《こ》で妹をぶつ真似をして、階段を駆け上がった。心が浮き立っているのがわかった。部屋の|襖《ふすま》を開けて部屋に入った。  そのとたん、湿った空気の塊が、彼をめがけて押し出されてきた。まるで手足をからめるように、体にまとわりついてくる。息苦しさに襲われて、文也は顔をしかめた。  急いでブラインドを上げ、窓を開け放した。夏の日射しと、暑い空気が部屋に流れこんできた。ステレオのスイッチを押すと、音楽テープが回りはじめた。部屋は、夏の家らしい暖かな空気と、軽快な調べに満たされていく。文也はポップス音楽に合わせてハミングしながら、服を着替えはじめた。さっき感じた不快感のことは、すぐに意識から滑り落ちていった。  病室に入ると、誰かの低い声が聞こえた。智子は部屋を見回した。  窓際のベッドにかがみこむようにして、一人の女が座っている。|硝子《ガラス》窓の向こうの夕焼けに照らされ、女の横顔も赤く染まっていた。智子の顔が嫌悪に|歪《ゆが》んだ。  康鷹の妻、照子だった。月に一度くらいやってきては、康鷹に何やら|喋《しゃべ》りかけて帰っていく。まるで康鷹が自分のものであるかのように独り占めする彼女の態度が、智子には気に入らなかった。康鷹の世話をしてきたのは、この自分だ。彼の体を洗い、髭を|剃《そ》り、糞や尿の始末もしてきた。彼女以上に、彼の体の隅々まで知り尽くしているのだ。  智子は照子を無視して、他の患者たちの様子から見ていった。照子の声がきれぎれに聞こえる。 「莎代里が……怒りよった……あっちで……止めるゆうて。あんた、なんで娘を……」  照子が夫の|耳《みみ》|許《もと》で喋るのは、莎代里とかいう死んだ娘のことばかりだ。意識を取り戻してくれとか、元気になってくれといった言葉は聞いたことがない。 「すみません。検査しますんで」  智子は照子に断って、康鷹のリンゲルの残量を確かめた。照子は看護婦が聞いていることに|頓着《とんちゃく》せず、愚痴をいいつづける。 「あんたが何ゆうても、もう遅いですき。莎代里は帰ってきたきね。今に、体も元の通りになる。これで日浦の血も続いていける。あんたも日浦の人間なら喜んでくださいや」  康鷹は口を半開きにして、天井を見つめているだけだ。智子は、照子の言葉を聞きながら、彼女が狂っていると確信した。|親《しん》|戚《せき》の者は気がついているのだろうか。今度、担当の森本医師に、このことを告げておこうと心に決めた。  智子は康鷹のシーツをめくり、床擦れしないように体を動かした。そしてわざとらしく病院の寝巻をめくって、おもらしをしていないか確かめた。照子はいやな顔をして|椅《い》|子《す》から立ち上がった。 「また来るけど、くれぐれも、莎代里の邪魔はせんでくださいね」  照子は病室を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、智子は、康鷹が|昏《こん》|睡《すい》状態でいられるのは幸せなのかもしれないと思った。少なくても、気のふれた妻のことを知らないでいられる。  窓で、かすかな音がした。見ると、大きな|蛾《が》が窓硝子にぶつかっている。外はもう暗くなっていた。山際に朱色の夕焼けの残光が一筋、輝いている。茶色の蛾が病室の明るさに焦がれるように、|執《しつ》|拗《よう》に|夕《ゆう》|闇《やみ》の中からたち現れ、窓硝子を全身で叩きつづけていた。  智子は白いカーテンをひいた。夕焼けの残光も茶色の蛾も、カーテンの背後に消えた。智子はベッドに横たわる康鷹を優しい目で見つめた。そしてシーツの中に手を突っこんで、康鷹の股間に手を滑らせていった。 「今日はどうもありがとう。楽しかったわ」 「じゃあ、また明日」  文也の車が方向転換して坂道を降りていった。比奈子は家の門を入った。夜の中に、平屋の小さな家が黒く浮かび上がっている。矢狗村に帰って五日が過ぎていた。最初は少しよそよそしかったこの家も、今ではとても親しげに見える。比奈子は、心の中でただいま、といいながら玄関の|鍵《かぎ》を開けた。  夕食は、文也と一緒に北野町の和食屋ですませてきた。比奈子は服を着替えて、風呂場に行った。浴槽を洗い、水を入れて湯を沸かす。風呂場の壁に井守が這っていた。最初の頃のように驚くこともなく、窓を開けて外に逃がしてやった。東京の生活も透のことも夢のように遠く思える。五日どころか、もう一か月もこの村にいる気がした。比奈子は満ち足りた気分で、家の戸を次々に開け放っていった。  後で千葉の両親に電話して、こっちの様子を知らせてあげなくてはと思った。矢狗村に帰ってから、文也のことで頭がいっぱいで、両親のことには気が回らなかった。  このまま文也とうまくいくなら、矢狗村で生活するのも悪くはない。この家を改造しよう。東京に事務所を置いて、仕事はここでする。都会と田舎の二重生活。自分に合っているかもしれない。そんな将来を頭に描きながら、縁側の戸を開けた時だった。  みしり。庭先で小さな音がした。比奈子は立ちすくんだ。この前の晩の不気味な音を思い出した。みしり。また音がした。粘つくような夜気が漂っている。比奈子の全身から汗が吹き出した。庭木の間から、白っぽい姿が浮かび上がった。 「比奈ちゃん……」  か細い女の声がした。比奈子は悲鳴をあげた。女が近づいてきた。 「しっ、静かにしてや。私よ」  ゆかりだった。比奈子は驚いて彼女を見た。ひどい|恰《かっ》|好《こう》をしていた。髪は乱れ、口許からは血が流れている。ブラウスの袖は片方破れていた。ゆかりは縁側に腰をおろすと、申し訳なさそうにいった。 「ごめんね、こんなに夜遅う。けど、うちの人に見つからんところゆうたら、比奈ちゃんくしか思い浮かばんかったき」 「何があったの?」  ゆかりは上目遣いに比奈子を見た。 「浮気がばれたが」  比奈子は、花火大会の夜、|人《ひと》|混《ごみ》の向こうに消えていったゆかりと君彦の姿を思い出した。 「君彦君と?」  ゆかりは驚いた顔をした。 「知っちょったん」  比奈子が、あてずっぽうでいったのだと答えると、ゆかりはほっとしたようだった。 「比奈ちゃんにまで|噂《うわさ》が聞こえてきちょったんやったら、たまらんきね」  神経質そうに笑うと、浮気がばれた経過を話した。やはり昨日の花火大会の時の二人の様子を見かけて、ゆかりの夫に告げた者がいたらしい。 「うちの人、私をこじゃんと殴ると、かんかんになって君彦君のとこに乗りこんでいったがやき。君彦君、大丈夫やろか。そうや、比奈ちゃん電話貸してくれん?」  比奈子はゆかりを台所に案内して、電話を指し示した。ゆかりは受話器を取ろうとして、ためらった。 「君彦君の家の人が出たら、取り次いでくれんかもしれん。比奈ちゃん、悪いけど、君彦君、呼び出してくれんやろか」 「私だって警戒されるかもしれないわ」 「大丈夫やき。あんたの東京弁やったら、誰も私と関係あるとは思いやせん。君彦君の家が用心するんは、村の者やも。頼むで、ね」  ゆかりはさっさとダイヤルを回すと、比奈子に受話器を渡した。比奈子は仕方なく、受話器を耳にあてた。君彦の母親らしい年寄りの女が出た。比奈子は自分の名前をいって、君彦を呼んでくれるように頼んだ。母親は少しためらいながらも、息子を呼んだ。比奈子は彼が電話口に出たのを確認して、ゆかりに受話器を渡した。 「君彦君? 私、ゆかりや」  ゆかりが、すがりつくようにいった。比奈子は縁側に出て座った。  下の大野の家から陽気な声が洩れてきていた。昨日、訪ねた時、土曜日には息子や娘たちが帰ってくるといっていたことを思い出した。靖造は子供たちと酒盛りをしながら、騒いでいることだろう。夜の|闇《やみ》にまたたく村の光を眺めながら煙草を吸っていると、ゆかりが台所から出てきた。 「ありがとう。助かったわ」  ゆかりは落ち着きを取り戻していた。台所で洗ったのか、顔の血は消え、髪の毛もみっともなくない程度にまとめられていた。ゆかりは比奈子の隣に座ると、おかしそうにいった。 「うちの人、君彦君のところに怒鳴りこんで、反対に殴り返されたんやって。ええ気味や」 「でも、君彦君の家も大騒ぎになったんでしょう」 「そうみたい。私らのことがばれたんやも。電話口で、奥さんが泣きわめきゆう声が聞こえたわ」  ゆかりは、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。比奈子は子供時代のことを思い出した。小学生の時、ゆかりは女王だった。クラス委員に選ばれた時、学芸会で主役を演じる時、みんなの先頭に立って行動する時、決まってこんな表情をしたものだ。それは比奈子が決して身につけることのできない表情。人の優位に立ちつづけてきた人間が、幼い時から身につけてきた表情だった。  ゆかりは縁側に投げ出した足をぶらぶらさせながらいった。 「私らのことがはっきりして、かえってよかったがよ。これから二人で大阪に行くことになっちゅうし」  比奈子は驚いて聞いた。 「でも、ゆかりちゃん、子供は?」 「お義母さんが見りゃええわ。結婚したら、子供はいつできるかゆうてせっついて、生まれたら、育て方で文句ばっかり。そんなに子供が好きやったら、自分で育てりゃええがよ」 「でも君彦君だって、奥さんも子供もいるでしょ。二人で大阪に行ったら、かわいそうじゃない」 「あそこの奥さん、君彦君のこと、ほったらかしにして遊び回りゆうがやと。自業自得や。君彦君、私に会うたんびにいいよったわ。私が離婚したら、あんな女とは自分も離婚するゆうて。ほんで大阪で二人で暮らそうって。大阪ゆうたら、おもしろいところやってね。あたしら、そこで暮らすんやわ」 「大阪が、そんなにいいところとは思えないけど」 「比奈ちゃん、東京におるき、そんなこといえるがやわ。この村と比べたら、どこやちおもしろいに決まっちゅう」 「私は矢狗村もいいところだと思うけど……」  突然、ゆかりは比奈子の顔を見据えた。その瞳には怒りが混じっていた。 「あんたに村のことの何がわかるが? ずっと昔に出ていったくせに。莎代里ちゃんもいいよったわ。比奈ちゃんは町に行ったき、もう話はできんゆうて」  鋭い針で心臓を突かれた気がした。 「莎代里ちゃんが? どういうこと?」  ゆかりは、じらすように口を|噤《つぐ》んだまま、比奈子を横目で見た。催促すると、ゆっくりとした口調で話しはじめた。 「中学の時やったわ。逆川のへんを犬を連れて散歩しよったら、莎代里ちゃんと会うたがや。莎代里ちゃん、すごい顔して橋の上で紙を破りよった。手紙やった。封筒にあんたの名前が見えたがよ。私が比奈ちゃんの手紙やないのゆうて聞いたら、莎代里ちゃん、あの目をつり上げて、こうゆうた。比奈ちゃんなんか、もう知らん。お町で絵をはじめたからゆうて、えらそうに、あんたもなんかしたらええやと、人を馬鹿にしちゅうゆうて」  比奈子が最後に出した手紙だった。美術部に入った近況と、莎代里も興味を持てることがあればはじめたらいい、と勧めた手紙だ。しかし莎代里が、そう受け止めていたとは思いもよらなかった。  ゆかりは、比奈子の青ざめた顔から、自分の裸足の爪先に視線を移した。そして爪先をバレリーナのように反らせてみせた。 「あんまり話をせん莎代里ちゃんが、私にそれっぱあゆうたがやき、よっぽど怒っちょったがやね。私、莎代里ちゃんの気持ち、わかったで。自分の子分みたいに思いよった子が、反対に命令するようなこといいだしたら、ショックやも」  言葉を失っている比奈子に、ゆかりは止めを制するようにいった。 「小学校の頃の比奈ちゃん、莎代里ちゃんの金魚の糞みたいやったきね」  心の中で何かががらがらと崩れていった。ゆかりは自分のことを、莎代里の金魚の糞だと思っていたのだ。同級生たちもみんな、同じ考えだったのだろうか。いいえ、それよりも莎代里は? 莎代里も、私のことを付属物にすぎないと思っていたのだろうか。 「ごめんくださーい」  玄関口で男の声がした。 「君彦君やわ」  ゆかりの顔が輝いた。さっきまでの意地悪な表情は、淡雪のように消えていた。 「ほんなら、お世話になったね。比奈ちゃんらも、うもういくようにね」  比奈子が戸惑った顔をすると、ゆかりは片手で軽く彼女の肩を揺さぶった。 「わかっちゅうよ、文也君とのこと」  言葉を失っている比奈子に、ゆかりは無邪気に手を振って庭の暗闇に消えた。門の外で、ぼそぼそと君彦と話す声がして、二人が坂道を降りていく足音が遠ざかっていった。  ゆかりが立ち去っても、比奈子は身じろぎもせずに縁側に座っていた。信じられなかった。信じたくなかった。莎代里が自分を、意のままに動く人形のように思っていたとは。  大野の家から、どっと笑い声が沸き起こった。比奈子にはそれが、自分を|嘲《あざけ》っている声に聞こえた。      4  シゲはつんのめるように歩いていた。夏の盛りの太陽が、ゆるゆると流れる逆川の水面を光らせている。時折、車が通り過ぎる川沿いの道なのに、前方に注意を向けようともせず、ひたすらうつむいていた。うっかり顔を上げるのが怖かった。また、あれを見てしまうことを恐れていた。  つい今しがたのことだった。縁側に座って繕い物をしていると、いつの間にか前に一人の男が立っていた。短く刈りそろえた頭。笑っているような目、しゃくれた鼻。どこか見覚えがあった。シゲは手を止めて、どちらさんじゃね、と尋ねた。しかし男は答えずに、じっと自分を見つめている。  そして……、シゲは思い出した。  篠原竹雄。シゲの愛人だった男。死んだはずの人間だった。  |喉《のど》が急にカラカラになった。思考が縛られたように動きを止めた。  竹雄は、ぞっとするほど冷たい目でシゲを見つめていた。心の底を氷の手で|撫《な》でられた気がした。  そして不意に竹雄は消え失せた。まるで静かな午後の日射しの中に溶けこんでしまったようだった。シゲは繕い物を握りしめたまま、さっきまで竹雄のいた地面を凝視していた。|鶏《にわとり》が真っ赤なトサカを振りながら、ゆっくりと庭を横切っていった。  かつての愛人の凍てついたような目つきは、シゲを不安にさせた。どうして、あれほどの冷たい視線を投げてきたのだろう。その理由を知っているような気がした。しかし思い出そうとしても、頭に霧がかかったようで記憶をたどれない。なにしろ遠い昔のことだった。  きっと竹雄は何かを伝えたかったのだ。自分が忘れてしまったことを。そう思うと、じっとしていられなくなった。繕い物を裁縫箱に放りこむと、縁側から立ち上がった。自分の部屋に戻り、財布をもんぺのポケットに入れると、ゴム草履をつっかけて外に出た。洗濯物を干していた千鶴子が、どこに行くのかと聞いたが、返事もしなかった。そんな余裕はなかった。知らなくてはならないと思った。死者がいいたがっていることを。心のどこかで、やめろという声がしたが、シゲの足は勝手に先へ先へ進んでいた。  逆川沿いに山の手に入っていくと、白壁に囲まれた家が見えてきた。シゲは|手《て》|拭《ぬぐ》いで、吹き出した汗を|拭《ふ》きながら、日浦家のひっそりした庭に入っていった。庭に面した|硝子《ガラス》戸は開いていた。家の中はきれいに掃き清められていて、畳が竹の皮のような色を放っている。シゲは硝子戸に手をかけて、中を|覗《のぞ》きこんだ。昼間だというのに、奥で黒い人影が横になっていた。 「ごめんつかぁさい」  |挨《あい》|拶《さつ》したが人影は動かない。かすかに|鼾《いびき》が聞こえた。シゲは身を乗り出した。 「嘉子さんよ。起きとうぜ」  しかし相手はまだ眠りつづけている。シゲがもう一度、大きな声をあげると、ようやくもぞりと動いた。 「私は照子です。母はとっと前に死んじょりますが」  不満気な声が聞こえた。それでシゲは、また自分が間違えたのを知った。しかし、そんなことはどうでもよかった。日浦の女ならば、誰でもいいことなのだ。 「ちくとお頼みしたいんじゃがね」  照子は、重たげな動作で戸口に出てきた。顔はやつれて土気色だ。つり上がった目だけが異様に輝いている。 「口寄せをお願いしたいんじゃが」  照子は迷惑そうな顔をした。この頃は忙しくて、そんなことはしないのだという。さっきまで居眠りをしていたくせに。シゲは、そういいたいのをこらえた。 「昼間ゆうに死んだ人が出てきたがじゃ。胸がふたふたして、たまらんがやき」  照子のやつれた顔に笑みが浮かんだ。 「そんなんは、びっくりするにようびません。うちの莎代里も夜昼、関係のう出てきよります」  莎代里と聞いて、シゲは戸惑った。どこかで聞いた名だ。記憶の底から、ゆらゆらと女の子の顔が浮かび上がってきた。確か照子の娘だったと思い出した。 「娘さんゆうたら、あんた、とうに亡うなった子じゃろ」  照子の笑みは、ますます広がった。黒く|煤《すす》けた骸骨が笑っているように見えた。 「死んだけど、帰ってきたがです」 「死んだけど……帰ってきたと……」  シゲは|惚《ほう》けたように繰り返した。口に出すだけで不安な気分にさせられた。照子は、視線を遠くにさまよわせて|頷《うなず》いた。 「みんな帰ってくる。死んだ者のことを思い出す者のところに、そのまんまの姿で帰ってくる。そう莎代里はいいよります」  もともと日浦の女たちは、どこか浮世離れしていた。あの世の者を呼び出したり、|祟《たた》りを|祓《はら》ったりできるのだから当然だ。シゲは、照子の言葉はよくわからなかったが、素直に、そうですかね、と答えた。  そしてまた口寄せのことを頼もうとして、はたと思い止まった。日浦の女の口寄せには|依《より》|童《わら》が必要だ。シゲは自分のうかつさに顔をしかめながらいった。 「こりゃいかん。あんたんくにゃ、もう依童になる娘さんがおらんかったがやね。口寄せ、できんはずじゃ」  照子はきっとして答えた。 「莎代里はおります。口寄せはできます」  シゲは驚いて、まさか、といった。それが照子を怒らせたようだった。 「できますゆうに。さあ、上がってください。口寄せ、しちゃります」  照子は強制するようにいいはった。シゲは半信半疑で日浦の家に上がりこんだ。北向きの奥の部屋は、シゲもかつて何度か訪れたことのある祈りごとの場だった。薄暗い六畳の部屋の一面に、祭壇が作られている。御神体の緑がかった石に|注連《しめ》|縄《なわ》が巻かれて、木の祭壇の上に置かれていた。石の両側に供えられた、|榊《さかき》と白い|御《ご》|幣《へい》。家業をやめてからさびれてしまった日浦の家で、この部屋だけは昔と変わりなく保たれていた。  照子は祭壇の前に座ると棚の上の|蝋《ろう》|燭《そく》に火をつけて、シゲに聞いた。 「呼び出す人のお名前は?」  シゲは口ごもりながら、篠原竹雄の名前をいった。照子が竹雄とのことを知っているはずはないと思いながらも、かつての愛人を呼び出すことへの後ろめたさを覚えた。しかし、照子は誰とも聞かずに頷いた。  日浦の女は、口が堅いことで信頼を得ていた。昔から矢狗村の女たちは、寺には相談に行けないようなことがあると、日浦の家の戸を叩いた。公にできない関係でできた子を|闇《やみ》に葬った時、自分を恨んで誰かが死んだ時、他人を|呪《のろ》いたい時、日浦の家では、誰にも知られずに死者の霊をなだめたり他人に崇ったりできた。寺が死者への明るい祈りの場なら、日浦の家は死者への暗い祈りの場だった。  照子はしばらく祭壇に向かって合掌すると、シゲを部屋の隅に下がらせた。 「依童のおる場所を空けてください」  シゲは部屋を見回して、どこに依童がいるのか、と開いた。 「なにいいよりますかね、大野さん。そこにちゃんとおりますぞね」  照子は部屋の中央を指さした。しかしシゲには何も見えなかった。シゲは心の中で、照子に口寄せを頼みに来たのを後悔しはじめた。ずいぶん長いこと口寄せなぞ頼んだことはなかった。照子は、自分を適当にあしらうつもりかもしれない。  照子は祭壇に向かって一礼した。そして低い声で篠原竹雄の名前を十回ほど呼び、出てくるようにと唱えた。次に立ち上がると、部屋の中をぐるぐると左向きに回りはじめた。シゲは隅に座って両手を合わせた。  畳を裸足で擦る音に、榊を振るざわっざわっという音が混ざりこむ。揺れる蝋燭の灯の中で、照子の目は、ひきつれるようにつり上がっていた。額に汗が|滲《にじ》んでいる。部屋の空気が妙に蒸し暑くなった。息をひそめるようにして照子の様子を見ていたシゲは、少しずつ身を乗り出した。部屋の真ん中が、暗くなった気がした。目をこらすと、その暗い部分が人影のように見えた。  ざっざっ。照子は回りつづける。輪の中の人影は、だんだんはっきりとしてきた。正座する少女のようだった。顔形は定かではないが、ほっそりした顔やきゃしゃな肩の線、ちょこんと突き出た膝頭が黒い影のように浮き上がっている。  驚きのあまり口をぽかんと開けているシゲの耳に、低い声が聞こえた。 〈シゲ……シゲ〉  男の声だった。声は影のような少女のほうから流れてくる。シゲは震える声で聞いた。 「た、竹雄さんかぇ」  男の声が、そうだといった。確かに懐かしい竹雄の声だった。シゲが、いうべき言葉を探している間に、再び声が響いた。 〈よう俺を見棄てたな〉 「見棄てた?」  シゲは問い返した。竹雄は何をいいたいのだろうと思った。 〈おまんは俺を棄てて逃げた〉  水の底から聞こえるような竹雄の声が続いた。 〈あの台風の晩に〉  シゲは、ひしゃげた声を洩らした。荒れ狂う風の音を聞いた気がした。滝のように屋根から落ちる雨。じめじめとした炭焼き小屋……。断片的な記憶が脳裏に浮かんでは消えた。それらは少しずつまとまって、ひとつの流れをかたちづくる。忘れていた記憶の流れが|蘇《よみがえ》ってくる。シゲは震えだした。 〈俺はもんてくる。おまんところにもんてきちゃる〉  竹雄の声は、重い空気のように畳の上を|這《は》い、シゲの体を包みこんだ。 〈俺はもんてくるぞ。もんてくる。もんてくる。もんて…〉 「やめりゃーっ」  シゲが輪の中に突進した。足を踏みこんだとたん、依童のもやもやした影はかき消えた。そこには誰もいなかった。シゲは荒い息を吐きながら、蝋燭に照らされた部屋を見回した。さっきまでの暑苦しい空気は失せていた。足の下の畳が|濡《ぬ》れたようにじっとりとしていた。横に立っていた照子が、抑揚のない声で呟いた。 「死んだ者は、今にみんなもんてきます」  照子は満足そうな笑みを浮かべた。  太平洋が銀色の気球の表面のように光っていた。紺のセダンは|横《よこ》|浪《なみ》半島に沿ってカーブを曲がりつづける。カーステレオから流れてくるアメリカン・ポップス。開け放した窓から吹きこんでくる風。ハンドルを握る文也は、ストライプの半袖シャツにジーンズ姿で、小ざっぱりした|恰《かっ》|好《こう》がよく似合っていた。  比奈子は風に髪をなびかせながら、昨夜のことを考えていた。  ——比奈ちゃん、莎代里ちゃんの金魚の糞みたいやったきね——  ゆかりの言葉は、|棘《とげ》のように心に突き刺さっていた。そうだとしたら、これまで信じてきた莎代里との友情は、立脚地点からまったく違ったものだったことになる。比奈子は莎代里を対等な友人と信じていたのに、莎代里は自分を子分としか見ていなかったのだ。  ゆかりのいったことが|嘘《うそ》だとは思えなかった。莎代里に出した手紙のことを知っているのが、その証拠だ。あの手紙が莎代里の怒りを買ったとは、考えもしなかった。 「台風がきているんだな」  文也の声が、比奈子の思考をドライブにひき戻した。比奈子が聞き返すと、文也はハンドルから左手を離して海を指さした。 「ほら、海の色がおかしいだろう。台風の影響さ」  見てみると海は暗い青灰色に沈んでいた。遠くの水平線のあたりは、鉛色で縁取られたようになっている。対照的に、空には白い入道雲が|呑《のん》|気《き》な風情で浮かんでいた。 「こんなに晴れているのに、いやだ。お天気、崩れるのかしら」  文也は笑った。 「今日明日に、くるわけじゃないよ。安心していい。まだドライブする時間はたっぷりある」  比奈子は|微笑《ほ ほ え》んだ。毎日のようにデートをするのは、何年ぶりだろう。大学の時につきあった学生と、そんな経験がある。一緒にいないと居ても立ってもいられない気分になって、会いつづけた。しかし、それも一年あまりのつきあいだった。  急に胸に痛みを覚えた。文也との関係も、このまま夏の楽しい思い出として消えていくのだろうか。莎代里が、比奈子を意のままになる付属物だと思っていたように、人の考えはわかりはしない。文也は自分のことをどう思っているのだろう。短い間、帰省しているだけの東京の女。夏を適度に楽しく遊ぶ相手。その程度のものかもしれない。  透とつきあいはじめた時も、最初は会うたびに胸が高鳴った。ところが半年もたたないうちに、彼の浮気癖が露呈した。彼女は怒ったが、それを露わにすることで彼を失うのが怖かった。比奈子が選んだのは、寛大な女を演じることだった。そうやって二人の間のバランスをとろうとするあまり、内部が空洞化していくことには気がつかなかった。  気がついた時には、わずかながらも存在していた純真な恋人関係は消え失せ、恋愛の駆け引き上手な男と、相手の浮気を恋愛のアクセサリーとして受け流す女が残った。駆け引き上手は遊び上手。透と一緒にいて楽しくないことはなかった。しかしそれは空虚な楽しさ。うすっぺらな娯楽。無感動と|馴《な》れ合いより、さらに少し上の段階にすぎなかった。  また同じような結果にならないと、どうしていえるだろう。比奈子は皮肉に思った。 「この先には幕末の志士、|武市《たけち》|瑞《ずい》|山《さん》の銅像があるんだ」  文也がいい終えてすぐに、青銅の像が見えた。 「あの像、最初は別のが建てられてたんだ。ところがそっちはあまりに史実に忠実だったせいか、頭でっかちの三頭身だったらしい。地元の人が、こんなのいやだといいだして、今のかっこいい像に変えたんだってさ」 「本物そっくりというのはだめなのね」 「人間ってのは、むきだしの現実は見たくないらしい」  私だってそうだ。現実から目をそむけている。比奈子は、|喉《のど》|許《もと》まで出かかった言葉をこらえた。  透と定期的に会って寝ることが、愛情の|証《あかし》と信じようとしていた。その内実の空虚さを見つめるのが怖かった。亀の|甲《こう》|羅《ら》の内にひきこもっていた子供の頃とどう違うというのだろう。  バックミラーに自分の顔が映っていた。大きな瞳。鮮やかなルージュをひいた唇。首に巻いた薄手の白いスカーフが風に揺れている。外見はもう愚鈍な亀ではなかった。だけど内面は変わったといえるだろうか。  比奈子は煙草を出して吸いはじめた。文也がわずかに眉をひそめるのがわかった。彼は、私をはすっぱな都会の女と見ているのだろう。彼の嫌いなタイプにちがいないと思った。そしてそう思うことで自虐的な気分を味わった。 「もうちょっとすると浦の内湾が見えてくるよ」 「浦の内? そういえば小学校の時、みんなで先生の実家に遊びに行かなかったっけ。バスに乗って、すごい道を何時間も揺られて。このあたりじゃないの」  文也がハンドルを叩いた。 「そうそう。あれ竹内先生の家。夏休み、泊まりがけで遊びに来いといわれて、みんなで押しかけたんだ。今思うと迷惑だったろうな」  比奈子は声をあげて笑った。  赤いボンネットバスに乗って、海沿いの狭い道路を走った。対向車と出会ったら、ひと騒動だった。車掌がバスから降りて、笛を吹きながら誘導する。窓から外を見ると、波の打ち寄せる海が真下に見えた。今にもタイヤが滑って、海に転落するのじゃないかと生きた心地がしなかった。 「ここが、あの怖い道と同じだとは思えないわね。まるで別の場所みたい」 「僕たちが成長したように、場所も成長したってことだよ」  カーブを曲がった時、前方を白装束の人間が二人、横切っていた。遍路だ。比奈子は白い影のようなその姿を見つめた。遍路に照子の姿が重なった。そして、もう一人。子供のような白い姿……。  文也がブレーキを踏み、体が前につんのめった。普段着の上に白衣をはおった夫婦の遍路が、車には|頓着《とんちゃく》しない様子で道路を横切り終えた。二人は『奥の院入口』という看板のある山の小道へと消えていった。  再び車が走りだすと、比奈子は聞いた。 「このあたり遍路道になっているの」 「うん。この横浪半島を通って足摺岬のほうに向かっているんだ。四国八十八ケ所の多くは、四国の海岸線に沿うように造られている。しかも岬の突端にあったりして難所も多い。今は車や観光バスで回るのが普通だけど、昔はみんな歩いたんだ。その頃のお遍路さんは大変だったろうな」  照子も歩いたのだ。莎代里が蘇ることを願って十五回。逆さに回ったのだ。  文也は、興に乗ったように話しつづけた。 「四国八十八ケ所は、もとは修験者たちが海辺の険しい道を歩いて修行する場だったという説がある。その途上にあった霊場が、今の札所の母体となったんじゃないかといわれている。弘法大師も、八世紀の末頃、この霊場を巡った。それが現在の四国遍路に引き継がれているんだ。ほら、お遍路さんの|菅《すげ》|笠《がさ》に『同行二人』と書かれてるだろ。あれは弘法大師と一緒に歩くっていうことなんだ」 「詳しいのね」  文也はにやりとした。 「昔、興味があって調べたのさ。これでも郷土史家の卵だからね」  そして、ふと真面目な顔になった。 「だけど、弘法大師が修行して歩くよりもずっと前から、四国を巡る遍路道の原型はあったんだよ。大昔から、無数の人間たちが祈りの言葉を唱えながら四国を回りつづけてきたということになる。この島を輪で囲むように右回りにぐるぐると。なんだか結界を作っているみたいだ。右回りっていうことも何か意味があるのかな」  比奈子は|呟《つぶや》いた。 「左回りは、死の国に行く道……」  文也が驚いたように彼女を見た。 「なんだって」  比奈子は指先で口を押さえた。自分でも気がつかないままに言葉が出てきていた。一昨日、照子から聞いた言葉だった。 「ちょっと思い出したの」  文也は、もう一度、比奈子のいったことを聞いてから、考えるようにいった。 「確かにな、おばあちゃんの葬式の時、家族の者で|棺《かん》|桶《おけ》を左回りに巡った覚えがある」 「左回りが死の世界に入っていく方向としたら、右回りは生の方向……」  文也は|頷《うなず》いた。 「四国遍路の道だ。無数の遍路たちが右回りに巡ることで、四国の中に生の結界を作っているのかもしれない。しかし、それで何を遠ざけ、何を守ろうとしているのか……」  かごめかごめ……。みんなで輪になって、ぐるぐると巡る。円環の中に閉じこめられているのは鬼。鬼が不意に顔を上げた。白い顔をした莎代里だった。  バックミラーに映る自分の顔が|歪《ゆが》んでいた。どうして莎代里のことばかり頭に浮かぶのか。  道路脇に大きな表示が見えた。『四国霊場第三十六番|青龍寺《しょうりゅうじ》入口』と書かれている。 「四国遍路の話のついでだ。寄ってみようか」  比奈子は頷いた。気は進まなかったが、いやがる理由も見つからなかった。  車は細い道へと入っていった。小さな集落を抜けると、山際に沿って道が延びている。道には赤い前掛けをつけた地蔵像が並び、その向こうに寺があった。駐車場に車を止めて、文也と比奈子は青龍寺の門をくぐった。白装束の遍路たちが、|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》をつきながら本堂ヘと続く険しい石段を登り降りしている。 「四国は死霊の住む島か」  文也がぽつんといった。比奈子は、その言葉の響きにぞっとしながら、何のことかと聞き返した。 「いや、タカさん……莎代里ちゃんのお父さんが書いた本を見つけたんだ。それに、そんなことを書いていた。馬鹿げていると思うけど……こうして島全体を死装束のお遍路さんたちが巡りつづけているところは、日本の他の場所にはないんじゃないか。それを思うと、四国は死霊の住む島というのも、あながち|嘘《うそ》じゃないと思えてくるよ」 「莎代里ちゃんのお父さん、そんなこと、考えていたの?」 「ああ」  文也は石段を登りながら、途中まで読んだという『四国の古代文化』の内容をかいつまんで教えてくれた。聞くにつれて、比奈子の心の底で|茫《ぼう》|洋《よう》とした考えが、ひとつにまとまりはじめた。  大野シゲは、神の谷は死んだ者の帰る場所だといった。四国が死霊の島で、その中心は、死者の帰る神の谷。そこで比奈子と文也は、莎代里の声を聞いた……。 「あーっ、やっと着いた」  文也が息をきらせていった。比奈子は、慌てて頭を切り替えた。文也と一緒にいる時は、死者のことなぞ考えたくはない。  山の中腹にある境内には、本堂と大師堂、白山社が並んでいた。辺りには線香の匂いが漂っている。遍路の一団が七、八人並んで経を上げていた。寺に来たのは久しぶりだった。|爽《さわ》やかな空気。奉納された絵馬や、柱や格子窓に|貼《は》りつけられた千社札。祈りを|捧《ささ》げては消えていく遍路たち。境内にいるだけで、心が静まってくる。比奈子と文也は|賽《さい》|銭《せん》を投げて、|鰐《わに》|口《ぐち》を鳴らした。  帰りは石段ではなく、山道を下っていった。肩を寄せ合うようにして歩いていた二人の指先が触れ合い、からまり合った。山の緑が、優しく比奈子と文也を包んでいた。  分かれ道に出た。一本は入口の門の前に出る道だったが、もう一本の細い道はさらに山の奥に消えている。『奥の院へ』という立板が出ていた。さっき車から見た遍路たちが目指していた奥の院に続いているようだった。文也は彼女の顔を見た。 「行ってみる?」  比奈子は頷いた。文也と手をつないで、もっと散歩していたかった。  二人は、木洩れ日の落ちる山の中に入っていった。雑木林の中を上り坂が続いている。坂に沿って小川が流れていた。山道の脇には、風化した岩肌をさらして、地蔵像や墓石が並んでいた。墓石は、遍路の途中、行き倒れた人のものだろう。名前も彫られていない、ただの石を積んだだけの墓標だった。比奈子は痛みのこもった目で墓標を眺め、文也の顔へと視線を移した。そして彼女は足を止めた。文也も比奈子を見つめていた。彼の瞳に比奈子の顔が映っていた。二人の体は胸と胸が触れ合うほどに近づいていた。彼が何かをいいたそうに口を開きかけた。  その時だった。強い風が吹きつけてきて、比奈子の背中を突いた。比奈子は悲鳴をあげて文也にしがみついた。彼の体臭と洗いたてのシャツの匂いがした。しかし、それにうっとりとしたのは|束《つか》の|間《ま》だった。今度は脇腹に突風を感じて、比奈子はよろめいた。  靴底がごろごろした石の上で滑った。比奈子は、そのまま川に倒れこんだ。水しぶきが飛び散った。 「比奈ちゃんっ」  文也が叫んだ。比奈子は、川の中で起き上がろうとした。冷たい水面に両手をついた時、彼女の体が凍りついた。  そこに二つの目が浮かんでいた。つり上がった瞳は、憎悪に燃え、比奈子を刺すように|睨《にら》んでいる。すぐ近くのようにも、|遥《はる》か遠くにあるようにも思えた。しかし距離は問題ではなかった。比奈子を殺すほどの強い憎しみは、痛いほど身近に感じられた。  それは莎代里の目、|嫉《しっ》|妬《と》に燃えた少女の目だった。 「比奈ちゃん、どうしたんだ」  文也の手が、彼女を揺さぶった。比奈子は、はっとして顔を上げた。 「め、目が……」といいながら、恐るおそる川面に視線を戻した。そこにあったのは、黒い石だった。ちょうど人の目のように横に二つ並んでいた。  石を見間違えただけだったのだ。比奈子はそう思おうとした。だが、彼女の心の中で声がした。莎代里は、文也が好きだった。だから怒っているのだ。文也を奪おうとしている自分に、殺したいほどの憎悪をぶつけているのだと。 「|風邪《かぜ》ひくよ。さあ立って」  文也が彼女の手をひっぱり上げた。比奈子は文也に助けられて、川から上がった。|足《あし》|許《もと》に水が滴り落ちた。さっきの突風が嘘のように、山は静まりかえっていた。  比奈子は彼の胸に顔を埋めた。体が震えていた。|怯《おび》えと安心感のないまぜになった感覚だった。 「あれ……莎代里ちゃんよ」  文也が驚いた顔で比奈子を見た。 「川底に目を見たわ。莎代里ちゃんの目よ」 「馬鹿なことをいうなよ」  比奈子は彼の胸から体を離した。 「ここにいるのよ。私たちのそばに。わかってるでしょ。神の谷でもそうだった。莎代里ちゃんの声だったわ。莎代里ちゃんが歌ってた」 「空耳だよ。莎代里は死んだんだ」 「じゃあ、さっきの風はなんだったの。突然吹いてきたのは普通じゃないわ」  比奈子の語調が荒くなった。  文也は固い口調で答えた。 「風くらい、いつでも吹く。いちいちそんなことに|怯《おび》えるなよ」  比奈子は、彼をまじまじと見た。その顔は感情を殺した仮面のようだった。不意に彼との間に、そそり立つ壁が出現した気がした。 「どうして認めないの。神の谷のことも、今のことも。ただごとじゃないわ、わかるでしょ」  文也は彼女から顔をそむけた。 「ただの風だ」  文也の声は、氷でできているかのように冷たく響いた。さっきまでの温かな感情は、どこかに消え失せていた。  比奈子はうつむいてスカートの裾を絞りはじめた。水滴が涙のように草の間に落ちていった。  遠くで波の砕ける音がした。男は足を止めて、耳を澄ませた。椿林の奥から潮風が吹いてくる。目には見えないが、果てしなく広がる太平洋を感じて、彼はふと怖くなった。  四国の最南端、足摺岬。つやつやと照り輝く椿の葉が岬全体を覆っていた。ここまで来ると、四国巡りの旅は半分を過ぎたことになる。椿林の上には、金剛福寺の塔の相輪がすっくと立っている。男は相輪を仰ぎながら足を進めた。椿林の中に作られた散歩道は、岬全体に広がっている。平日だというのに、あちこちで観光客とすれ違った。腕を組んで、仲がよさそうに歩く若い新婚連れを見て、男は、かつて妻と一緒に足摺岬に来たことを思い出した。  あれは結婚して何年か過ぎた頃だった。冬だったことは確かだ。妻が近所の誰からか、足摺岬のことを聞いてきた。冬の寒さの厳しい男の村とは違い、足摺岬は暖かいのだと。妻は、そこに行ってゆっくりしたいといいだした。  お勤めで何度か訪れたことのある足摺岬だったが、男も行っていいという気になった。そして二泊三日の旅行をした。車も持っていない夫婦だった。列車とバスを乗り継いでの長旅となった。|気《き》|根《こん》を垂らして海を見下ろしている溶樹や、扇子のような葉を広げた|蒲《び》|葵《ろう》。今まで見たこともなかった南方の植物をバスの窓から眺めながら、妻がしみじみといったのを覚えている。あんたは、こんな広い四国を歩いて回っているのかと。  それから妻は、男がお勤めに出る前になると、以前にも増していいつのるようになった。あんたがいなくなったら、私はどうすればいいのか。男は、妻の|焦燥《しょうそう》から逃げるように、村を後にした。  今思えば、もっと妻を旅に連れ出してやればよかった。お勤めという運命にがんじがらめにされたあの村を離れて、もっと妻と二人だけの時間をもてばよかった。妻が、村から出たことは数えるほどしかない。同じ景色、同じ四季を眺めながら死ぬまで暮らし、生きていたと同じ場所に埋葬された。  男は腹立たしげな表情を浮かべて、目の前の椿の枝を払った。駐車場が現れた。男は車の間を通って道路を渡ると、『四国霊場第三十八番金剛福寺』という札のかかった朱塗りの山門をくぐった。石段を登って、広い境内に足を踏み入れる。普段着の上にかたちばかりに白の上衣をはおった家族連れ、ヘルメットを抱えたバイク旅行の途中らしい若者、団体旅行の遍路たちが行き来している。境内の雑踏に気疲れを覚えて、男は近くのベンチに腰をおろした。  昔と比べて体力が落ちていた。むりもない。男の父は、彼の年でお勤めをやめた。 「ここ、かまいませんかね」  目の前に初老の女が立っていた。男は黙ってベンチの端に体を寄せた。小さな格子模様のワンピースを着た女は、首からカメラを下げた夫を呼んで、仲よく腰かけた。 「ここの寺は昔、|補《ふ》|陀《だ》|洛《らく》|渡《と》|海《かい》ゆうががあったところなんじゃと。えらい坊さんになると、外に出られんようにした船に乗って、海に流してもろうたんやと」  夫が、寺の説明書らしいものを広げて妻に聞かせていた。 「ほんなら自殺やないの」 「自殺やないち。そうやって極楽浄土に行くがや」 「あたしゃ、飢え死にしてまで極楽に行きたいとは思わんが」 「おまさんは極楽には行けそうもない」  夫があきれたように笑った。男はその笑い声から逃げるように、ベンチから立った。  境内を横切って、奥の院に続く小道に入ると、そこは静寂に包まれた別世界だ。緑に圧倒されるような亜熱帯の林が続く。ここまで入ってくる遍路の者はほとんどいない。  茂みをかきわけて歩きながら、男の心の中に複雑な思いが|湧《わ》き上がっていた。  あの夫婦のような人生もあったはずだ。歳をとるとカメラやビデオを手にして、妻と一緒に四国八十八ケ所を物見遊山がてら回る。その人生においては、お勤めの最中に妻が死ぬこともなかっただろうし、子供も生きていたはずだ。男の日に焼けた顔に苦しげな表情が浮かんで、ゆっくりと皮膚の中に沈んでいった。  あの村に生まれさえしなければ、妻はあんなことで死ぬことはなかった。少なくとも妻か子供か、どちらかが助かっていた。設備の整った病院に担ぎこまれていたら、二人とも、命をとりとめたかもしれない。いくら歳をとってからの初産だったとはいえ、あのような結果になりはしなかったはずだ。もしも自分がそばにいたなら……。  ふと、何かが男の視界に入った。だらりと垂れた溶樹の気根の間に、白いものがひっかかっている。まるで男に手を振っているように揺れていた。  男は草を踏み分け、近づいていった。それは千切れた白い布だった。男は不吉な予感を覚えながら、溶樹の大木の根元まで進んだ。|屏風《びょうぶ》のようにそそり立つ灰色の根の間に背中をもたせかけ、人間が座っていた。雨風にさらされて、ぼろぼろになった白装束に包まれている。男は立ち止まった。  投げ出された二本の足。がくりと前に倒してうつむいている頭。まるで打ち棄てられた人形のようだ。男はいい知れぬ恐怖を覚えながら、溶樹の木陰に入っていった。  その時、白装束の人間が、むくりと顔を上げた。青ざめて|浮腫《むく》んだ顔。目は暗く落ち|窪《くぼ》んでいる。男は、はっとした。それは同じ村の者。男の前にお勤めに出て、死んだとみなされた者だった。 〈戻れ〉  青ざめた唇が動いて、聞き覚えのある仲間の声が男のところに響いてきた。 〈早う……戻れ……たいへんな……こ……と……〉  最後の言葉は聞きとれなかった。仲間の肉体が煙のようにかたちを崩しはじめた。顔も体も白いもやもやした空気の塊となり、渦巻いていたと思うと、不意に二つに分かれた。そして、ひとつは溶樹の梢から空へ消えていき、もうひとつは黒っぽい土中へと吸いこまれていった。  男は、仲間の名を呼んで、溶樹の根元に飛びこんだ。ぐじゅっ。|草鞋《わらじ》が、軟らかな土の中に沈んだ。強烈な悪臭が鼻をついた。そこには、白骨が|覗《のぞ》く腐乱死体が横たわっていた。鳥や野犬に食われたのだろう。内臓や腕、太股の肉がごっそりとなくなっていた。短い髪の毛がまばらに残った頭蓋骨。肉片がこびりついた大腿骨。地面には無数の|蛆《うじ》が、てらてらと体を光らせながら|這《は》い回っている。  死後、一か月は過ぎているようだった。仲間は、男が来るのを待っていたのだ。彼に先の言葉を伝えるために。伝え終えたから、仲間の霊塊は肉体を離れていったのだ。  男は沈痛な面持ちで、仲間の死体を見下ろした。そして蛆の海に沈んだ骸骨の中から、にょきりと一本、下膊部の骨が突き出ているのに目を留めた。骨は蛆虫の波に押されて、ふらふらと揺れている。その人差し指が、ひとつの方向を指していた。男は白骨の指先の示す方向を見遣った。深い亜熱帯の森林の奥深く。それは、男の村のある方角だった。      5  車の中は|陰《いん》|鬱《うつ》な空気に満ちていた。文也は、助手席の比奈子を横目で見ながら、運転を続けていた。黙りこくった彼女に何といえばいいのか、わからなかった。  青龍寺を出て、気まずい昼食をすませると、比奈子は帰ろうといいだした。文也も反対もせずに帰路についたのだが、心に重い鎖をひきずっているようだった。  自分が悪いのはわかっていた。青龍寺や神の谷で起こったことは、ただの自然現象で片付けるには、あまりにも不可思議だ。それは彼自身、感じていた。だが、これをまともに認めることはできなかった。認めたら、彼のまわりの現実がすべて崩壊していく。認めたら、あの視線も現実となる。  あの視線。  文也は、ハンドルを握りしめた。  そう思っただけで、また見つめられている気がした。  莎代里に——。  莎代里が自分を見つめる視線に気がついたのは、いつの頃だったろうか。中学に入ってから。いや、もっと前だった。誰かに見られているような気がして、あたりを見回すと、そこには、いつも莎代里がいた。校舎の陰から、教室の窓から、運動場の片隅から、理科クラブの部員の群れの中から、その視線は送られてきた。文也は舞台の上の俳優のようだった。常に一人の観客が彼を見ていた。色白の美しい少女の観客。時には、その観客を意識して、友達とふざけ合ったり、ケンカじみたこともした。しかし、ほとんどの場合、照れ臭さもあり、その視線をわざと無視していた。  莎代里は自分のことが好きなのだろうとは思っていたが、そのことを突きつめて考えたことはなかった。それを考えることが怖かったのかもしれない。  あれは中学三年の夏だった。盆祭りの宴席が莎代里の家で催され、文也の一家も招かれた。|皿鉢《さ わ ち》料理が置かれた宴席で、文也は黙々と食べていた。そこに、酒に酔った父の弟の大介|叔父《おじ》がやってきた。からかう相手を探していたらしく、文也の肩に手を回して大声で聞いたものだ。 「大きゅうなったな、文也。どうじゃ、好きな女ぐらいおるやろ」  文也は顔を赤くして、いない、と答えた。 「情けない奴じゃのう。好きな女くらいつくれやねゃ」  叔父は笑い声とともに文也の背中を思いきりどやした。首をすくめるように顔を上げた時、障子の陰から|覗《のぞ》いている娘の白い顔が目に入った。  莎代里だった。心臓を|槌《つち》で打たれた気がした。胸の開いた白のワンビースを着た莎代里は、驚くほど大人びて見えた。その切れ長の目を美しいと思った。しかし文也と視線が合った瞬間、莎代里は顔を伏せてひっこんだ。  その三日後、彼女は逆川で|溺《でき》|死《し》した。思えば、あの盆の宴の席が、生きている莎代里と顔を合わせた最後だった。今でも、あの時の莎代里の顔は鮮明に残っている。障子の陰から文也をじっと見つめていた白い顔を。  文也は、自分の結婚がうまくいかなかったのも、あの視線のせいのような気がしていた。新婚旅行で行ったハワイのワイキキ海岸。ホテルの大きなベッドの上で妻の純子を抱いてキスをした。  その時、視線を感じた。文也は、純子の髪の毛ごしに視線を部屋に走らせた。半開きの大きなドレッサーが目に入った。抱き合った二人の姿が左右の鏡に無数に映っていた。視線は、その淡い緑色の鏡の奥深くから送られてきていた。文也はドレッサーに歩いていき、しっかりと扉を閉ざした。そして再び純子の体をまさぐりはじめた。しかし、どんなに夢中になろうとしても、その夜の文也は妻を満足させることはできなかった。結婚生活に入ってからも、そんな夜が一か月に数回はあった。  もちろん、あの視線が離婚の原因だというのは論理的ではない。破局に至った理由は、離婚カップルのほとんどが口にする、性格の不一致というものだ。彼の時間の流れと、彼女の抱えこんでいる時間の流れが違ったのだ。最初はその差が新鮮だった。純子は、ぷちぷちとはじける醗酵途中の|葡《ぶ》|萄《どう》液のような女だった。文也の腕を取って、ひきずり回して、大きな声で笑って、大きな声で怒った。最初は、その|溢《あふ》れる熱気が好きだった。しかし一緒に暮らしていると、文也はへとへとに疲れてしまった。彼の生きる活力まで、彼女に吸い取られてしまうような気がした。純子が男をつくって、離婚をいいだした時、心のどこかで、ほっとしている自分を感じていた。  もちろん離婚には痛みが伴った。別れる前、純子はその|旺《おう》|盛《せい》な活力でもって文也の欠点を逐一、挙げつらった。  あなたが、つまらない人間だからこうなったのだ。休みといってもドライブするしか能がない。旅行しても、団体旅行のほうがまだ楽しいくらい。何にも感動しないし、いつもぼやっとしてるだけ。自分は、もっと楽しい生活を望んでいたのだ。その夢を破ったのは、あなただ。自分が別の恋人をつくったのも、仕方ないことだ。  何の自己矛盾もなく、自分を正当化してみせて、純子は他の男の|許《もと》に走った。半年後、再婚したと聞いた。しかし二度目の夫も、文也とさして性格が違っているようでもなさそうだと、友人が便りをよこした。文也は苦笑したものだった。それでもまだ離婚したという|噂《うわさ》が聞こえてこないところをみると、うまくいっているらしい。結局、自分と同じタイプに見えても、その男は彼女に合っていたのだろう。  彼女は、自分に合った男を見つけて、新しい人生を歩んでいる。そして自分は、せっかく比奈子という女を見つけたのに、こんなことで失おうとしているのか。  比奈子は、思いつめたように前をじっと見つめている。ふと小さい頃の彼女を思い出した。口を開くことを怖がっているように、いつもこのような緊張した表情をしていた。 「ごめん」  文也はいった。比奈子が驚いた顔をこちらに向けた。 「さっきのこと、僕が悪かった」  比奈子の目許がゆるんだ。 「あんなこと、忘れましょう」  文也は|頷《うなず》いた。車内の空気が少し軽くなった。車は北野町を過ぎ、逆川に沿って|遡《さかのぼ》っていた。比奈子がぽつんと、昨夜、藤本ゆかりが家に訪ねてきたといった。 「君彦君との浮気が、|旦《だん》|那《な》さんにばれたみたい」  文也は目を見開いた。 「そりゃ大変だ。ゆかりの亭主は、気はいいけど、すぐカッとなるたちだし。君彦はあの通り、お調子者だからな」 「大阪に駆け落ちするっていってたわ」 「だけど、お互い子供までいるんだし、そう簡単には事は運ばないだろう」 「ゆかりちゃん、すごく興奮してた。町で暮らすんですって。村の暮らしは、飽きあきしたみたいにいっていたわ」  カーブの向こうに、矢狗村が見えてきた。役場や農協の並ぶ中心地を囲んで、のんびりした田園風景が広がっている。比奈子も、この村での暮らしを退屈だと思っているだろうか。  まるで文也の心を読んだように比奈子がいった。 「私は村の暮らしもいいと思うのにね。東京より、ずっと住みやすそうだわ」  比奈子は真剣な顔で文也を見た。 「私ね、矢狗村に帰ってきてもいいかなと思っているの」  文也は思わず|微笑《ほ ほ え》んだ。 「いい考えだと思うよ」  彼はそういってから、ゆっくりした口調で付け加えた。 「そしたら、もっと会える」  比奈子が|嬉《うれ》しそうに顔を輝かせた。  逆川を渡って、大野の家の横を過ぎ、上り坂を車で上がっていった。比奈子の家の前で止まった。比奈子は助手席から降りようとして、文也の顔を見た。 「寄っていかない?」  |囁《ささや》くようなその声に、文也はどきっとした。まだ午後三時を回ったところだった。比奈子の家に二人きりになることの意味が頭を|過《よぎ》った。そして、いいよ、と答えた。二人は車を降りると、家の門をくぐった。 「やっと帰ってきたか」  庭のほうから声がした。  そこに一人の男が立っていた。ウェーブのかかった髪、均整のとれた中肉中背の体つきだが、腹のあたりがたるみはじめている。目鼻だちのしっかりした顔に銀縁眼鏡をかけ、麻の背広を着ていた。  比奈子は、その場に棒立ちになった。彼女の表情から、文也にはすぐわかった。二人の関係が、友人以上のものであるということが。体の内部が砂と化して、足許にさらさらと落ちていく気がした。  男も、文也に気がついて会釈した。 「比奈子がお世話になってますようで」 「透、黙ってよっ」  比奈子が叫んだ。文也は、東京から来た男にいった。 「僕は小学校時代の友人なんです。べつにお世話なんかしていません」  そして比奈子に硬い口調で告げた。帰る、と。比奈子が今にも泣きそうな顔になった。東京から来た男が愛想よくいった。 「お帰りになることはないですよ。小学校の頃のヒナの話も聞きたいなぁ。彼女、私には子供の頃のこと、話したがらないんですよ」 「いや、お邪魔しちゃ悪いから」  文也はくるりと背を向けた。 「文也君っ」  比奈子の声が聞こえたが、振り向きもせずに車に乗りこんだ。乱暴に車のドアを閉めると、エンジンをかけた。  私の幸福が逃げていく。遠ざかっていく車を見つめながら、比奈子は思った。文也の後を追いかけてひき止めたかった。しかし何と申し開きをすればいいだろう。自分のいいかげんな生き方を白日のもとにさらすだけだ。決着をつけることもできなくて、逃げてばかりの自分の姿を見せつけるだけだ。ますます彼は比奈子を嫌いになるだろう。  透が、うすら笑いを浮かべながら近づいてきていった。 「すごい田舎だな。道できみの家を聞いたらすぐわかった。あの、東京から戻ってきた娘さんの家か、だってさ。狭い村だな」  比奈子は彼の言葉をさえぎった。 「どうして来たの?」  透はむっとした顔になった。 「ご|挨《あい》|拶《さつ》だな。よく来たのひと言でもいってもいいだろう。一週間も仕事を放り出していなくなってりゃ、心配にもなるさ。電話で聞いた高知の矢狗村って場所だけで、探し当てたんだぜ」  来てやったのだという響きがこもっていた。比奈子は、まただと思った。透は、自分より弱い立場の人間に対して、押しつけがましい口調になる。それは彼の態度や口調の底に流れる基調のようなものだった。いつもは他の調べに隠されていてわからないが、耳を澄ますと聞こえてくる。しかし今の比奈子には、ことさら耳を澄まさなくてもよく聞こえた。 「迎えにきてなんて頼みもしなかったわ」  透は、銀縁眼鏡の奥の目を皮肉っぽく光らせた。 「ははあ、俺の浮気の仕返しをしようと思っていたところを邪魔されたんで、ふくれているんだな」 「あなたの浮気とは関係ないことよ」 「いいかげん、機嫌直せよ。あんな遊び程度の女のことで、もめるのはよそう。俺たちの仲とは別の次元のことなんだからさ」  透は過去数々の浮気を通していいつづけてきた言葉をまたも口にした。今回の彼の相手は、モデル志望の娘だった。他の浮気相手と大差ない。歌手志望の娘、ピアノ教師、スナックでアルバイトしている女子大生、スタイリスト……。そのたびにいさかいをしたが、すべてうやむやになってしまった。 「もう終わりにしましょ」  比奈子は思いきっていった。心臓が大きく波打っていた。透が、あきれた顔をした。 「なに急にいいだすんだよ」 「この関係を続けても、何にもならないってことがわかったのよ。あなたは浮気を続けるだろうし、私はそれを許容する大人の女を演じるだけ。無意味よ」  透が意見をさしはさもうと、口を開きかけた。比奈子は彼にものをいう|隙《すき》を与えずに、早口で続けた。 「五年つきあったけど、私たちの仲はいつも同じ。同じ距離で、お互いの手を汚さずに向き合っている。これから先、何年たっても同じだわ」  透はにやりとして、比奈子の顔を見た。 「結婚したいんだろう」 「結婚?」 「そうとも。きみが結婚したがっていたのはわかっていた。今の状態じゃいやになったんだ。俺もべつに結婚をしないってわけじゃない。時期をみていただけなんだ」  比奈子は、透を嫌悪感を持って眺めた。確かに比奈子は結婚を望んでいた。しかし、いつものらりくらりとはぐらかされていた。それを今になって伝家の宝刀のように持ち出してくる。男にとって結婚とは女をつかまえる最後の切り札で、女はそれを出されたら、常にありがたがって拝受するものと決めてかかっている。 「結婚しても何も変わらないわ」  比奈子は大きな声をあげた。 「私たちの関係は、とうの昔に終わっていたのよ。終わっていたのに、続けていただけ」  終わっていたのに、やめはしなかった。彼との関係が何も生み出さないと同じように、二人の関係を断ち切っても失うものも得るものもない。続けても続けなくても同じなら、続けていてもいいだろうと思ったのだ。恋人の存在は、いないよりいたほうがいいし、セックスもないよりあったほうがいい。|曖《あい》|昧《まい》なままここまできた。ところがどうだ。真面目に恋愛をしようとしたとたん、手痛いしっぺ返しを受けてしまった。身から出た|錆《さび》。もうこれ以上、愚かなことを重ねたくはない。  比奈子は玄関の|鍵《かぎ》を開けると、中に入った。透が旅行バッグを持って、格子戸の内に滑りこんできた。比奈子は彼のふやけたような白い顔を|睨《にら》みつけた。この男はこうして私の中に入ってきたのだ。心の扉の隙間から、|爬虫類《はちゅうるい》のようにぬるりと体を滑りこませてきた。それを受け入れた私の体は、彼の巣のひとつになってしまった。  比奈子はまっすぐ台所に行くと、電話帳をめくって北野町のタクシー会社を調べた。 「だだをこねるのはよせよ。終わっただなんて、俺は思ってない。きみもそんなこと考えてもいないだろ。わざわざこっちから、俺のところに電話なんかしてきてさ。声が聞きたいなんていったから、迎えに来たんだぜ。いったい何の文句があるんだ」  透は台所の|椅《い》|子《す》に勝手に腰をかけると、彼女に話しかけた。比奈子はダイヤルを回して、タクシーを一台頼んだ。矢狗村の明神では通じなかったが、大野の家の上だというとすぐにわかったようだった。電話を切って、車が二十分ほどで着くと告げると、透はほっとした顔をした。 「助かった。こんな村に長居したくないからな。今夜は高知市内あたりに泊まって、明日は町を案内してくれよ。それで明日の夜の便で東京に戻ろう」 「帰るのは、あなただけよ」  比奈子は透のバッグを持つと、玄関に行って、ドンと床の上に置いた。 「私の家から出ていって」  透は、彼女をあやすようにいった。 「なあヒナ、下手な意地の張り合いはやめよう。きみには俺が必要だし、俺にもきみが必要だ。今回のことは確かに俺が悪かった。許してくれ」  透が彼女に近づいてきてキスをしようとした。比奈子は彼を押し返した。彼はまだにやにやしながら続けた。 「意地っ張りだなぁ。だけど、そんなところが好きだよ」  透は、比奈子の良さを数えあげた。そして、こんなに彼女を認めている自分との関係を終わらせようとするのは馬鹿げているといった。東京に戻ったら、今度こそきちんと考えよう。一緒に暮らしてもいい。そうしたら比奈子も安心するだろう。  比奈子は耳をふさぎたくなった。  透は、人を説得することにたけていた。彼と話し合えば、自分がまるめこまれるのは目に見えていた。これまでもそうだった。話して、わかり合おうとすればするほど、甘ったるい香りを放つ彼の論理の中で迷ってしまった。やがてその甘い匂いに頭が|痺《しび》れ、どうでもよくなってしまう。そんなことは、もうたくさんだった。わかっているのは、同じ場所にいつまでもいたくないということ。比奈子は、透のバッグを玄関の外に投げ出した。バッグは土の上を転がった。 「なにするんだっ」  透は声を荒げた。 「帰ってといってるのよ」  透の顔が赤くなった。靴を|履《は》くと、大股で玄関から出ていった。 「他の男ができたから、おさらばってわけか。人のことをさんざん利用して、売れっ子になったら、ポイか。怖い女だ」  比奈子は笑いたくなった。そんなテレビドラマのヒロインのような真似ができたら、これほど長く透と関わり合ってはいなかった。 「さよなら」  比奈子は格子戸を閉めようとした。その戸を透が押さえた。 「ここまで来た俺に、そりゃないだろ」  透の顔は、傷ついた自尊心に|歪《ゆが》んでいた。比奈子は心を打たれた。どのような経過であろうと、自分で別れをいいだして、彼を傷つけたのだ。こんなことになると思ったことはなかった。彼が彼女を棄てることはあっても、自分から透との関係を断つ日がくるとは。比奈子は、さよならの言葉をもう一度、|喉《のど》の奥から押し出した。 「おい、ヒナっ」  透が格子戸を押し開けようとした。 「帰って」  力をこめて格子戸を支えた。透の悲鳴があがった。指をつめたようだった。 「こいつぅ」  透は怒りの声をあげて、力まかせに格子戸を押し開けた。戸は一気に開いた。透は右手の指先を左手でもみながら立っていた。その顔は怒りでどす黒く見えた。いつもの冷静そうな様子はかなぐり捨てられていた。全身から湯気のように憤怒が沸き上がっていた。殴られる。比奈子はとっさにそう思った。透が一歩、家に入ろうとした時だった。  プップーッ。門の外で車のクラクションが鳴った。頼んだタクシーだった。運転手が驚いたように、地面に転がっているバッグを見ている。透は比奈子に憎々しげな視線を送ると、玄関から出ていってバッグを拾った。 「後でよりを戻したいといってきても、知らないからな」  |捨《す》て|台詞《ぜりふ》を吐くと、彼は大股でタクシーに乗りこんだ。ドアの閉まる音とともに、車は走り去った。  比奈子は格子戸をゆっくりと閉めた。最後まできっちり閉めると、家に入った。  縁側に座って、煙草に火をつける。白い煙が庭に流れていく。心の中が空っぽになった。何も考えられなかった。煙草の煙を吸い、吐き出す。吸い、吐き出す。吸い……涙が出た。  感情は無感覚なのに涙だけが|溢《あふ》れてくる。比奈子は涙を|拭《ぬぐ》おうともせずに、煙草を吸いつづけた。 〈神の谷は、矢狗村の北にある小さな谷である。不思議と木の生えない場所で、草花の咲き乱れる静かな|山《やま》|間《あい》の地となっている。  この神の谷から|湧《わ》き出た地下水が、村を貫く逆川の源流だ。村の伝承に、死水や墓にかける水は、逆川から|汲《く》んでくるというものがある。このことをみても、死者と逆川、そしてその源流にあたる神の谷とは深い関係があることが|窺《うかが》われよう。  一方、逆川が合流する仁淀川は、古代においては神河と呼ばれていた。神河である仁淀川は、四国最高峰の石鎚山を源としている。石鎚山は日本修験道の開祖|役小角《えんのおづの》が開いた霊峰といわれている。イシヅチとは、古語で石之霊を意味する。まことに石鎚山は、石の霊の宿る山なのである。  石鎚山付近では、縄文時代前期の上黒岩岩陰遺跡も発見されている。また、その近くに「二名」という地名がある。私は、この地こそ古事記において四国を意味する「伊豫之二名嶋」の発祥の地とみている。以上のことから石鎚山一帯は、古来より四国の聖域だったと推測するのである〉  寒気を覚えて、文也は腕をさすった。日浦康鷹の『四国の古代文化』を伏せて、ベッドから起き上がると、押入れから毛布を出して被った。深夜だった。網戸の外では、矢狗村が月明かりを浴びて寝静まっている。  夜とはいえ、夏のさなかだ。寒いのは変だった。電気を|煌《こう》|々《こう》とつけているのに、部屋も妙に暗い。ネジがゆるんで傾いたブラインド。しわくちゃのベッドカバー。|埃《ほこり》の積もった本類。部屋の中は生気がなく、死んだように見える。その雰囲気は、今の彼の気持ちにあまりにも合っていた。  ——私ね、矢狗村に帰ってきてもいいかなと思っているの——  比奈子の声が|蘇《よみがえ》り、胃がきりきりと絞り上げられる気がした。  |大《おお》|嘘《うそ》だったのだ。真剣に矢狗村に帰ってくる気なぞなかったのだ。彼女にとっては、夏の遊び相手。浮かれてデートを重ねた自分を思い出して、屈辱感が湧いてきた。  比奈子のことは忘れるのだ。これまで関係なかったように、これからも関係ないのだ。彼女は、東京という別世界の女。矢狗村からすぐに消えていく存在。  しかしそう思うはしから、今日別れる間際、比奈子が見せた、傷ついた表情を思い出した。恋人らしい男の出現に動揺し、嫌悪感すら|滲《にじ》ませていた。ほんとうは彼女は、自分が考えているような女ではないかもしれない……。  文也は慌てて、独りよがりな考えを打ち消した。甘い希望を抱いて、再び幻滅したくはなかった。忘れるのだ、比奈子のことは。自分は矢狗村にいる。東京に帰っていく女のことは、頭から追い払うのだ。  彼は毛布にくるまったまま、再び本に意識を集中した。 〈古代より高い山は、神の宿る場所とみなされてきた。神とは先祖の霊である。石鎚山に宿るといわれる石の霊とて、その実体は祖霊だと私は考える。死者の魂が、高い山に登っていくことで浄化され、祖霊となり、子孫を見守るのである。  ところで死者の霊は、このように守護神的な存在と|崇《あが》められる一方で|祟《たた》りをなす死霊として恐れられてもきた。その死者の霊の二面性は、霊の相異なる二つの性質からきていると、私は考える。  霊の二つの性質を語るに適した言葉に、|魂《こん》|魄《ぱく》がある。「魂」とは、死と共に肉体から遊離したがる霊、「魄」は、肉体から離れたがらない霊だと私は思っている。  魂という文字は「云」と「鬼」から成っている。云は雲の原字である。鬼は、死者の意味。つまりこの文字は、蒸気のようにもやもやと立ち昇っていく死者を示している。天に昇り、浄化されることを希求する霊。つまり、祖霊ともなる魂である。  魄は、「白」と「鬼」から成る。白は、白骨化した体を指し、形骸の意味となる。さらに身体に宿る活力をも表す。腐乱し、|蛆《うじ》に食われ、白い骨が見えてくるまで、自分の体のそばに残り続ける死者の霊が魄である。これは、人間の思考から生まれる「心」というほうが理解しやすいだろう。心は、肉体に固執する。生に固執する。肉体が消滅しても尚、生に未練を残しながら地上をさまよう。  このように死者の霊は、魂と心の二つの部分を併せ持っている。どちらの比重が大きいかは、その人となりによって違ってくる。  四国において、魂が浄化を求めて集まっていく場所が石鎚山である。一方、神の谷は、肉体に固執し、生きることに執着する死者の心の集まる場所だ。  この二つの霊場は、神河である仁淀川によって結ばれている。水によって、魂と心は結びつき、また分かたれてもいるのである。もし、魂と心が分かたれることがなければ、どうなるのだろうか。死後も魂と心がひとつとなって存在するなら、生者と死者を隔てる要素は、肉体の有無以外なくなってしまう。が、もし魂と心だけで肉体を形成できるものなら……。  土佐は鬼の住む国、死者の住む国である。このような呼び方が残っているのは、かつて人が死後においても、魂と心に分かれずに何らかの形で、この世に存在していた証拠ではないだろうか。死者も生者も同じように、この世に存在していた時があったのではないだろうか。もしそうなら、その地こそ、死霊の住む島、死国——そう、この四国であったはずだと、私は思うのである〉  文也は、無意識に首筋をかいた。首筋の産毛がさかだっていた。  日浦康鷹は、ここで論説を止めていた。後半は四国に伝わる古い伝承の記述に終始している。彼は本を胸の上に置いて仰向けになった。  肉体を離れたがる霊は石鎚山に昇り、肉体に固執する霊は神の谷に集まる。しかし、石鎚山の石で作った柱が、神の谷にあるのはどういうことだろう。  神の谷は死者の心が集まる場所。そこに石鎚山の石柱を置くことで、古代人は何をしようとしたのだろう。  開け放した窓から、青白い月明かりが洩れてくる。部屋はますます寒くなっていく。しかし文也はもう部屋の冷気は感じなかった。彼は|腕枕《うでまくら》をして、天井を|睨《にら》みつけていた。  石柱を巡る古代人たちの姿が頭に浮かんできた。草を踏みしだき、何か|呟《つぶや》きながら、神の谷の|窪《くぼ》|地《ち》で輪になって踊っている。顔には入れ墨、手足に大きな輪をつけて、鹿や猪の歯を連ねた首飾りをぶら下げる。その情景が目の前にありありと浮かんだ。  部屋の|闇《やみ》が、少しずつ濃くなってくる。それとともに、湿った臭いが漂ってきた。腐りかけた水の臭いが、ねっとりとした泥のような闇の中から湧き出してくる。  文也は瞬きもせずに横たわっていた。体が下に沈みこむようだ。暗い世界の底へ、ずぶずぶとひきずりこまれていく。彼の意識も、どこか深い地下へと沈んでいく。そこは冷たい意識の水底。水を通して外を見るように、まわりを踊る古代人の姿がゆらめいている。手足を振り回し、顔には|恍《こう》|惚《こつ》の表情を浮かべて、狂ったように踊り巡る。しかし、彼には、その踊りの音楽も、熱い吐息も伝わってこない。文也は氷のような空気に抱かれていた。体は冷えきり、唇は青ざめていた。しかし、その冷たさが心地よかった。文也は、夜の世界の|深《しん》|淵《えん》で|微笑《ほ ほ え》んでいた。      6  カミサマトンボが、黒い影のように川面の石に降りたった。水中では、魚が涼しげに尾ひれを揺らせている。  比奈子はスケッチブックを膝の上に置いて、逆川の岸辺に座っていた。川向こうに矢狗村の家々が点在している。水田の中の道を、緑色の制服を着た郵便配達人のバイクが走っていた。太陽は照っているのに、日射しは強くはなかった。それでも妙に蒸し暑く、家に閉じこもっているのがたまらなくなって、朝食をすますとスケッチに出たのだった。  昨夜は眠れなかった。透を追い返したことに後悔はなかったが、文也を傷つけた事実が、夜の|闇《やみ》とともに彼女に覆い被さってきた。今朝、目覚めてもその気分は少しも軽くなってはいなかった。布団の上で真っ先に頭に浮かんだのは、文也を失ったということだった。そして大きな空白感を覚えた。  せっかく完成しかかった彼との間の懸け橋が崩れ落ちたのだ。二人をつなぐものは消えてしまった。どうすれば橋を架け直せるかわからない。前にも進めないし、後にも戻れない。|崖《がけ》っぷちで立ちすくむだけ。落ちた橋が、濁流に流されていくのを見守ることしかできない……。  ふと、背後からの足音に気がついた。振り向くと、川沿いの道をやってくる男が見えた。地下足袋を履いて、麻の袋を担いでいる。大野靖造だった。 「おはようございます」  比奈子は頭を下げた。靖造は、いやいやながらというふうに口の中でもぞもぞと|挨《あい》|拶《さつ》を返した。四日前、酒を飲みながら好き勝手なことをいっていた靖造とは別人に思えるほど、無愛想だ。しかし、そのまま通り過ぎるでもなく、足を止めた。 「昨日やけど、男のしが、あんたとこの家を聞きに来たで。教えちゃったが、わかったやろか」  透が来たことがもう知られている。この調子では、その後、自分が文也と車で帰ってきたことも知っているにちがいない。いやな気がしたが、一応の愛想よさは崩さずに答えた。 「おかげさまで会えました。東京の知人が挨拶に寄っただけです。すぐに帰りましたけど」 「たまあ東京から」  靖造は目をむいた。 「わざわざ、あんたに会いに来たがかね」  靖造が透のことを、もっと聞きたがっているのがわかった。比奈子は話題を変えようと、これから畑仕事かと聞いた。靖造は渋面をつくった。 「畑に植えちゅう|芋《いも》を|穫《と》りに行くところじゃ。早う穫らんとふとうなりすぎるきに。いっつもやったら、うちのおばあの役目じゃに、昨日から様子がおかしゅうてな」 「シゲさんが?」 「おばあに似合いもせん。この暑いに、窓もなんも閉めて部屋にこもっちゅうがや。畑に行ってくれゆうても、神の谷にゃ近づきとうもないゆうてな」 「畑って、神の谷にあるんですか」 「谷に行く途中じゃ。げにこの頃は、どこいっても、妙な話ばっかしじゃ。昨日のこと、道で喜っさんとばったり会うたがやき。顔つきがおかしいき、なんでか聞いちゃったら、いんまさっき幽霊を見たゆう。死んだお父が出てきたゆうて、昼間から真っ青になっちょらあ。息子の浩も、店の客がおんなじようなこといいよったゆうし。みんなあ、この暑さで頭がどうかなったがやないろうか」  靖造は|一《いっ》|旦《たん》話しはじめたら、止まることがなくつらつらと続けた。 「それに、なんやら藤本の店の若嫁さんが駆け落ちしたゆうて、あそこも大騒ぎやし」  比奈子は口を開きそうになるのをこらえた。靖造は顔をしかめた。 「最近の若い者は何を考えちゅうかわかりゃせん。相手は、川内谷の島崎さんくの息子やと。男のほうも嫁さんやら子供を放り出して、ふん逃げたらしい」  やはり、ゆかりは君彦と大阪に行ったのだ。一昨日、比奈子の家から出ていったその足で、駆け落ちしたにちがいない。  靖造はおかしそうにいった。 「昨日、うちの千鶴子が藤本に買い物に行ったら、あそこの息子が嫁を探しに行くゆうて、たまあ騒ぎよったと。わしなら、そんなことせんで、たったと新しい嫁さんをもらうがねや」  靖造は野太い声で笑った。 「比奈ちゃん、藤本さんくのお嫁さんに行っちゃったらどうかね」  比奈子はその冗談に不快感を覚えて、返事もしなかった。靖造はしゃがれ声で笑いながら、神の谷のほうに去っていった。  比奈子はしばらく草の生えた川岸に座ったまま、ぼんやりしていた。  ゆかりは、比奈子に矢狗村のことはわからないだろうと非難した。そうかもしれない。比奈子は、心の傷を癒したくて矢狗村に帰ってきた。そのことからして、とんでもない思い違いだった。結局は、莎代里との友情に幻滅し、文也との関係をめちゃくちゃにしてしまっただけではないか。矢狗村に帰ってこなければ、莎代里の死も知らず、文也と恋におちることもなくいられたのに。今まで通り、透と|喧《けん》|嘩《か》しながらもつきあっていた。  ……駄目だ。それも今となっては何の魅力もない生活だ。  比奈子はそれ以上考えるのもいやになって、スケッチブックに向き直った。サインペンを握り直し、画面にかがみこんだ彼女の動きが止まった。  そこには、川辺の風景は描かれていなかった。代わりに、なだらかな谷、窪地。生い茂る木々……神の谷があった。どうしてか理解できなかった。さっきまで自分は川辺のスケッチをしていたのではなかったのか。いつの間に川辺が神の谷に変わったのだ。  比奈子は不意に、自分が神の谷にいるのではないかという恐怖にかられて、顔を上げた。逆川が静かに流れていた。カミサマトンボが黒い羽を震わせて舞い上がった。彼女は逆川の岸辺にいた。  比奈子は再びスケッチブックに視線を落とした。やはり神の谷が描かれていた。黒いサインペンで、陰影がつけられている。前のページをめくった。そこには、先日、神の谷に行った時に描いた絵があった。二つの絵を比べた。同じ構図だった。同じように石柱が立っている。  しかし石柱の立つ窪地は、今描いたスケッチでは、池となっていた。水面から煙のようなものが湧きのぼっている。  その池のほとりに、人影があった。一人は男。もう一人は少女。  比奈子は画面をじっと見た。ラフタッチの線の中から、おぼろげに顔が浮かび上がる。男は文也。そして少女は……莎代里。  手をつないで、池に入ろうとしているところだ。二人とも幸せそうに微笑んでいる。だが、その顔は張りを失い、たるんで見える。死人の顔だった。  二人は、草と木々に囲まれていた。絵の中の植物の陰影は、どれもが人の顔に見えた。だまし絵のように、谷の草や木々の中から、無数の人々の顔が浮かび上がる。男、女。老人、若者、子供。笑い、悲しみ、怒る顔がびっしりと背景を埋め尽くしている。紙の表面から、無数の顔が|溢《あふ》れ出そうとしていた。  比奈子は悲鳴をあげそうになるのをこらえて、ぱたんとスケッチブックを閉じた。息が荒くなっている。胸の奥から不安が湧き上がってきた。  この前、神の谷で石柱が立っている情景をスケッチした。そのすぐ後で、文也が石柱を見つけて立てた。絵は現実となったのだ。ということは、この絵も現実となるというのか。文也と莎代里が手をつないで歩く姿が……。  昨日、水中から睨みつけていた莎代里の目。文也に心|惹《ひ》かれた比奈子に怒っていた。莎代里も文也が欲しいのだ。放っておけば、文也は手の届かないところに行ってしまう。今、この時にも文也と莎代里は、神の谷にいるのかもしれない。  比奈子はスケッチブックを放り出すと、逆川沿いの道を走りだした。  道はすぐに山の中に入った。蝉の声が彼女を追いたてるように響く。先を行く男の背中が見えた。大野靖造だ。もう少しで追いつくという時、靖造は木立の中の別の|小《こ》|径《みち》に入っていった。比奈子は、そのまま神の谷に向かう道を走りつづけた。息が苦しくなってきた。汗が全身から吹き出す。この不安が思い過ごしであってほしいと思った。  神の谷が現れた。この前と変わらずに、朱色の鬼百合が咲き誇っている。比奈子は花をけちらすように窪地へと走っていった。石柱が見えた。石柱のそばに人影があった。  石柱を中心に白い人影が回っている。文也かと思ったが、すぐに違うことに気がついた。照子だ。|安《あん》|堵《ど》がこみあげてきて、自分を笑いたくなった。絵の通りのことが起こるなんて、馬鹿げている。比奈子は、ゆっくりと斜面を降りていった。  谷底の泥地の部分は、四日前に来た時よりも、また広がったようだった。その軟らかな泥に足首までめりこませながら、照子が歩いていた。遍路のような白装束に身を包み、石柱を左向きに回りつづけている。泥に汚れた素足。泥のはね返しが黒く散った白い背中。視線を宙にさまよわせ、口の中で何かぶつぶつと呟いている。その様子にただならぬものを感じて、比奈子は眉をひそめた。 「おばさん」  呼びかけても、聞こえたふうもない。比奈子はふらふらと歩く照子を追いかけていくと、肩をつかんだ。 「おばさんっ」  照子は黄色に濁った目で比奈子を見返した。比奈子がわからないようだった。 「私よ、明神比奈子。莎代里ちゃんの友達だった……」  友達という時、胸に痛みを覚えた。莎代里は、ほんとうに自分の友達だったのだろうか……。  莎代里と聞いて、照子の虚ろな目に光が宿った。 「莎代里か。莎代里なら、ほれ、私と一緒です。そこにおりますやろ」  照子は青い血管の浮き上がった手をよろよろと伸ばして、自分の前を指した。泥の臭いが、比奈子の足許からじわりと這い上がってきた。彼女は糸に操られるように、恐るおそる前方を見た。  そこには誰もいなかった。静まりかえった谷に、黒い泥地が広がっているだけだった。  草原に細長い岩が|屹《きつ》|立《りつ》している。その下で、男と女が性の営みを行っていた。日に焼けた男の背中が、柔らかな女の体に沈みこむ。男も女も熱い息を洩らしている。天空で月が|皓《こう》|々《こう》と輝いている。男が大声を発して、精液を放った。白瓜のような頬をした女の顔に満足の笑みが浮かんだ。切れ長の目の中で、|闇《やみ》の色をした満月のように光る瞳。女の頭上では、緑の岩肌が男の陰茎のようにそそり立っていた。 「……ん、……沢さん」  肩を揺すられて、文也は顔を上げた。横に座っている森田堅が、にやにや笑いかけていた。 「休みボケやないですかね」  文也は目をこすった。机の上で県の広報関係の資料整理をしているうちに、いつの間にか居眠りをしていたらしかった。何か夢を見ていた気がしたが、思い出せなかった。堅は、ボールペンの先で村長室を指さした。 「村長さんがお呼び」  文也は、礼をいって|椅《い》|子《す》から立ち上がった。まだ頭がぼんやりしていた。昨夜、眠ったのか眠らなかったのか、それも思い出せなかった。ベッドに横たわっている間は、いい気分だったのに、朝起きると、全身が気だるく疲れていた。文也は、雲の上を歩くような気分で村長室の戸を叩いた。中に入ると、村長の川上が、矢狗村の航空写真の額の前に座っていた。文也を見ると、濃い眉を八の字にして笑った。 「ああ、秋沢君。これ見たで」  村長の指さす先には、今朝できあがったばかりの『矢狗村便り』が積まれていた。 「いやあ、ええ出来映えじゃ。こういっちゃなんじゃが、わしの文章、印刷したらなかなか読めるじゃないか。助役もたいちゃ|褒《ほ》めてくれよったきにのう」  文章は、文也が手を入れたものだったが、村長は気づきもしなかったらしい。文也は、はあ、と答えただけだった。 「九月の矢狗村便りな、もっとわしの分量、増やしてほしいと思うたがや」  村長は悦に入って、矢狗村便りへの注文をあれこれつけると、文也を下がらせた。彼はまた自分の席につくと、読みかけていた資料に目を通した。テレビからニュースが聞こえていた。 〈小笠原列島付近に発生しました大型の台風二十四号は、本日沖縄に上陸。少しずつ進路を変えながら、北北東に向かっております。早くて明日の午前には九州地方が暴風域に入る見込みです〉  ネクタイ姿のアナウンサーがきびきびと話していた。しかし、その声も、どこか遠いところで聞こえている気がした。  誰かが、今日は蒸し暑いとこぼしていた。しかし文也は、むしろ寒かった。資料の文字がぼやけて見える。白い紙の上に黒い文字が|滲《にじ》んでいく。それらが大小さまざまな|恰《かっ》|好《こう》をした石に見えた。石は固まって、山のようになっていく。文也は、じっと紙面を見た。役場の電話の音も、話し声も、すべて遠い世界へと退いていった。  家の奥で物音がした。比奈子は、ぎくっとして顔を上げた。耳を澄ませたが、もう何の音もしなかった。  日浦の家の中だった。昔ながらの造りらしく、|襖《ふすま》で仕切られた部屋が続いている。比奈子の前では、照子が横になっていた。目を閉じて、|鼾《いびき》をかきながら眠っている。その寝顔は、家に帰ったのが不満なのか、どこか|苛《いら》|立《だ》たしげだった。  神の谷で、比奈子が気のふれたような照子を前に困っているところに思い出したのが、大野靖造だった。急いで、彼の姿を見失った分かれ道のところに引き返すと、ちょうど芋を袋に入れて帰る途中の靖造に出会うことができた。靖造に手伝ってもらって、なんとか照子を日浦の家に連れ帰ったのだった。  照子は家に戻ると、急におとなしくなり、布団に寝かすと、すぐに眠りにおちた。靖造は比奈子に、彼女を見ていてくれと頼んで、日浦の|親《しん》|戚《せき》の者と連絡を取るために一旦家に帰っていった。  開け放した戸の向こうに、静まりかえった庭が広がっている。照子はまだ鼾をかきつづけている。比奈子は庭に出た。夕方に近づき、太陽も力を失っていた。さびれた酒造工場が今にも崩れ落ちそうに見えた。  昔、莎代里と一緒に、この庭で遊んだ。あの頃の照子は美しく優雅で、康鷹は穏やかににこにこ笑っていた。耕治は、少し陰気な感じはあったが、優しい少年だった。日浦家にこんな未来が待ち構えているとは、誰に想像できただろう。  比奈子はかつての日浦家の記憶をたどるように、庭を歩いていった。工場も蔵も頑丈な|鍵《かぎ》がかかっている。酒蔵と酒造場の間の細い路地に入る。朽ちた|酒《さか》|樽《だる》や|埃《ほこり》の積もった洗い|桶《おけ》などが置かれている。そこを抜けると、突き当たりに物置のような小屋があった。|瓦屋根《かわらやね》には|苔《こけ》が生え、小さな窓は雨戸でふさがれている。長く使われた形跡はなかった。  記憶の中の康鷹は、いつもこの路地から姿を現していた。彼は、この小屋から出てきていたのかもしれない。比奈子は興味を覚えて、小屋の戸に手をかけた。朽ちかけた引き戸は、がたがたと音をたてながら敷居を滑った。  小屋の中は、六畳ほどの空間になっていた。すり|硝子《ガラス》の小窓から入ってくる光で|仄《ほの》|明《あか》るい。壁のほとんどを埋めつくす本棚。厚い埃の積もる板張りの床。比奈子は靴のまま床に上がった。|黴《かび》の臭いがぷんと鼻をついた。壁や本の背は、青い黴に覆われている。本棚には民俗学や古典、民話の本などが並んでいた。しかし、それらの分厚い本も|紙魚《しみ》に食われてぼろぼろになっている。本棚の間に傷だらけの木の机があった。  ここは日浦康鷹の書斎のようだった。部屋の主が倒れて以来、誰もこの部屋に入ったことはなかったのだろう。康鷹がいた時のままになっていた。机の上に、埃に埋もれた白い原稿があった。これから書きだそうとするように、横に万年筆が置かれている。書き終えた原稿が左側に伏せて重ねられていた。ひっくり返すと、一枚目に表題が見えた。『四国の古代文化・|補《ほ》|綴《てい》』とあった。  文也がいっていた『四国の古代文化』の本に付け加えたかったものだろう。比奈子は、原稿を取り上げた。二十年近く、そこに置かれたままだったのだ。読ませてもらっても、誰も文句はいうまい。比奈子は埃を払いながら原稿を持って外に出た。そして眠りつづける照子に時折、視線を投げかけながら、縁側で原稿を読みはじめた。 〈長年の研究の成果を『四国の古代文化』として、まとめあげて半年が過ぎた。しかし私の心境は満足というには程遠い。時が|経《た》つほど、後悔の念が|湧《わ》き上がってくる。そこに書けなかったことが多々あるのだ。自分自身の気持ちを整理するためにも、せめて、そのことをここに付記しておこうと思う。  今は夜だ。この物置小屋にいても、耕治のかける騒がしい西洋音楽が響いてくる。照子は、莎代里のために遍路に出た。四国のどこかの宿で寝ていることだろう。莎代里が死んでから、妻は変わってしまった。日浦の女の血が途絶えてしまったと嘆きつづけている。私が、息子がいるではないかといっても、男では駄目なのだ、女の血が続いていかないと駄目なのだと叫ぶように言い返す。このことが耕治に与える影響を私は|危《き》|惧《ぐ》している。母に見捨てられた気分ではないかと思う。あの子が日増しに|拗《す》ねたような顔つきになっていくのが、私には|辛《つら》い。  本心をいえば、私にとって、莎代里よりも、耕治のほうがより我が子だという気がする。莎代里が生きている間中、自分の娘であるという確信は、どこかで揺らぎつづけてきた。莎代里も私に甘えもしたが、決して心を開きはしなかった。いつも、あの切れ長の目で私を評価するように見つめていた。娘が怖いと思ったことすらある。それは妻の照子に関してもいえた。二人とも心の奥底で私を拒絶していた。それは二人が日浦の女だったからだと、今になって了解した。  婿養子として、この家に入って以来、私は日浦の女の血の濃さをまざまざと見せつけられた。この家にとって男の存在は、種馬以外のなにものでもない。日浦の女が大事にするのは母娘の|繋《つな》がり。日浦の家系が、女によってのみ受け継がれるからだ。それはとりもなおさず、矢狗村における口寄せ|巫女《みこ》としての役割の継承である。  口寄せ巫女としての日浦の女たちについて考えるきっかけとなったのは、照子との初夜だった。私は義母の嘉子から、照子と神の谷に行けと言われた。この家では、長女が結婚したその夜は、夫を伴って神の谷に行き、契るしきたりになっているというのだ。  神の谷は、昔から死者の場所だと言われている。そこで初夜を迎えるとは、奇妙な風習だと思った。しかし、義父と義母もそうしたと言われて、不承不承、|頷《うなず》いた。日浦の家に養子に入ったからには、その家のしきたりに従うのは仕方あるまいと思ったのだ。  冬だった。冴えざえとした星が空に輝いていた。私と照子は、星明かりを頼りに山道を歩いていった。神の谷に着くと、照子は谷の中央の|窪《くぼ》|地《ち》に私を誘った。草も生えない湿地になっていた。照子は、そこに身を横たえ、私たちは契りを結んだのだ。  不思議な気がした。誰もいないのに、まわりから見つめられていると思った。私の肌に、無数の者たちの視線が突き刺った。  まもなく照子は妊娠した。しかし生まれた子が男だったとわかるや否や、照子も義母も私に非難の目を向けた。義母なぞは、悔し涙を流したほどだ。そして、私が神の谷の神を敬ってなかったから、男の子ができたのだとなじった。日浦の女の最初の子は、女でなくてはならない。男の種を植えつけた私が悪いといわんばかりだった。  耕治の手が離れるようになった頃、照子は再び、私を神の谷に誘った。初夜をやり直すのだと言う。私は再び神の谷に行った。その時の私は、どこにでも行っただろう。耕治が生まれて以来、妻は私に肌を許してはくれなかったから。私と照子は、再び神の谷に行き、あの窪地で交わった。私はまた無数の目に見つめられているのを感じた。冷気が全身を貫くのを感じた。私は夢中だった。最初の時よりも、さらに|恍《こう》|惚《こつ》状態になっていた。自分がどのようにしてことを終えて、家にたどり着いたのか、覚えてないほどだ。  そして莎代里が生まれた。  娘の莎代里は、神の谷が好きな子だった。時々私は、娘が自分の生を|享《う》けた場所を知っているのではないかと|訝《あやし》んだものだ。そう考えて、私はあることに気がついた。  日浦の女たちは、神の谷で男たちと交わり、娘を生んできた。つまり日浦の女は皆、神の谷で生まれるのだ。死者の場所で生まれる女たちが死人の口寄せができるのは当然だ。  私は、昔、彼女たちは神の谷で口寄せを行っていたのではないかと思っている。ひょっとしたら、神の谷に住んでいたのかもしれない。人々は、今、私の家にやってくるように、死者の霊に会いに神の谷を訪れた。だから神の谷は、死者のいる場所として|畏《い》|怖《ふ》をこめて語りつづけられてきたのではないか。  私は、神の谷について調べはじめた。しかし照子は口寄せ巫女と神の谷との関係を聞こうとすると、ぴたりと口を閉ざした。口寄せを行っているところも、私には隠すようにしていた。儀式が行われるのは、私が仕事をしている日中だったからだ。私は、妻としての彼女を知ることはできたが、口寄せ巫女としての照子に触れることはできなかった。  昨年、莎代里が死んだ時、照子は半狂乱になった。日浦の女の血筋が途絶えたというのだ。子供を亡くしたことより、血筋が消えたことに悲嘆しているように見えた。最後には莎代里の死は、私が原因だと決めつけた。莎代里が最初の子として生まれていたなら、強い運を持っていたはずだ。最初に女の子を|孕《はら》ませることのできなかった私が悪いのだ、と非難した。  嘆き悲しみ、私を糾弾し尽くすと、次に照子は突拍子もないことを言いだした。 「あんた、四国は死の国。死国いうこと、知っちゅうかね」  聞いたこともないというと、照子は、ぞっとするような笑いを浮かべた。 「四国は死国。この世で死の国に最も近い場所が、四国ながや。なぜなら遠い昔、四国と死国は同じもんやったがやき」  神の谷は、霊的に死国に最も近い場所。日浦の女は、その神の谷の巫女なのだと。照子はさも重大な秘密であるかのように|囁《ささや》いた。 「私なら死国に行ってしもうた莎代里を連れ戻せる。遍路に出て、四国を左に巡るがよ。左回りは、死国の方向。死国に行って、莎代里の霊を連れ戻しちゃる」  照子は正気を失いつつある。私はうすら寒いものを覚えた。しかし表面は、その言葉を理解したふりをした。妻は私に秘密を打ち明けたことで、落ち着いたようだった。私は、娘の死から立ち直ったのだと安心した。そして『四国の古代文化』の執筆に打ちこんだ。私は私なりに、そうやって莎代里の死を忘れようとしていた。  本を出版して一箇月ほど過ぎた時だった。突然、家から照子の姿が消えた。後には「遍路に出る」と一言、書き置きが残っていた。私は捜索願いを出した。二週間ほどして照子は家に連れ戻された。彼女は私を殺しかねない剣幕で、どうして自分の邪魔をするのかと食ってかかった。日浦の|親《しん》|戚《せき》の者たちも、死者を弔う遍路の旅に反対するのは言語道断だと私を責めた。次に照子が遍路に出た時、私はもう止めなかった。  莎代里の死をきっかけに、すべてが狂いはじめた気がする。もしかしたら、その原因は、莎代里がまだ死んでないということかもしれない。莎代里は、照子の中で今も生きている。自分の跡継ぎとして生きている。  しかし、ほんとうに莎代里は死んだのだろうか。私は先日、一人で神の谷に行ってみた。花の咲き乱れる谷で、今も莎代里が遊んでいる気がした。そして私は、ふと思ったのだ。神の谷に集まってくる死者の心は、ここから死国に赴くのではないだろうかと。  死の国は、古来、根の国や、|黄泉《よみ》の国と呼ばれてきた。それは浄化を願う魂の産物ではない。生に執着する、死者の心の産物である。死んでもまだ生きることを望む死者の心が|創《つく》り出した、生の国に似た死の国。  四国は死国。四国は、その原初において、死国だった。死国は、かつてこの世に存在したのだ。そして今も神の谷によって、四国は死国につながっている。しかし生身の人間が死国に行くには、別の道をたどらないといけない。それが左回りの遍路道……。  なんということだ。いつの間には、私は照子の言った言葉に影響されている。こんなことを考えるとは、私もまた照子のように莎代里の死を受け止めきってないからだろう。照子は照子なりに、私は私なりに莎代里の死と向き合っている。しかし照子は莎代里を生き返らせることを願い、私はたぶん、莎代里を葬ることを願っている。  明日、私は石鎚山に登るつもりである。なぜかはわからないが、山に呼ばれているような気がする。『四国の古代文化』に記した通り、生に執着する死者の心が赴くのが神の谷なら、石鎚山に行くのは、浄化を願い、天に昇ることを希求する魂。石鎚山には、莎代里の魂がいるはずだ。私はそこで娘の|冥《めい》|福《ふく》を祈るつもりだ。  今も私の心の中には、莎代里が生きている。私の中のしこりのように生きている。しかし莎代里は葬られねばならない。莎代里をきちんと葬ることが、残された家族が立ち直れる唯一の道なのだ〉  どこかで山犬が|吠《ほ》えた。男は鋭い目を四方に走らせた。獣の気配はない。近くにはいないようだった。野犬と化した犬たちは、気分次第で襲ってくる。用心するに越したことはない。  男は月明かりのなか、石段を登っていた。夜空を覆うように茂る杉木立。道の脇には、小さな地蔵がびっしり並んでいる。目の前に黒々とした岩山が|聳《そび》えていた。四国霊場四十五番札所、岩屋寺だ。ぬっとそそり立つ岩山に食いこむように本坊が建っている。男は本坊に住む|僧《そう》|侶《りょ》たちに気づかれないように、石段をさらに登っていった。  本堂と大師堂が月光に浮かび上がる。階段の途中を右に曲がる。突き当たりは岩山だ。山肌にへばりつくように小さな堂がある。男は堂の中に入りこんだ。左手から、湿気を含んだ空気の流れが感じられた。堂の左には岩を|穿《うが》って|洞《どう》|窟《くつ》が続いている。洞窟の奥から|蝋《ろう》|燭《そく》の光が洩れてきていた。男は手探りで岩肌を伝い、漆黒の|闇《やみ》の中に足を踏み出した。闇を伝い、遠い世界に向かう。蝋燭の淡い光に浮かび上がる世界は、この世とは別の世界のように思えた。  洞窟の奥に着いた。そこは六坪ほどの空間になっていた。石の地蔵が数体、置かれている。粗末な棚が設けられていて、信者たちが持ち寄ったらしい|位《い》|牌《はい》や小さな仏像が並べられていた。男は首から下げた|頭陀袋《ずだぶくろ》を下ろすと、洞窟の岩肌に背をもたれて座った。  もう遅かった。今夜は、ここで一夜を過ごすつもりだった。山中に寝ないですむのはありがたい。体の|芯《しん》から疲れていた。今日は、これ以上、先には進めなかった。  仲間の者は、死んでまでも何をいいたかったのだろう。お勤めを放り出して、村に戻れというのは尋常ではない。男の心には、どす黒い不安が渦巻いていた。  しかし気ばかり急いでも、体がついていけなければ仕方ない。まあいい。明日は村に帰り着く。何が起こったのか、わかるだろう。  男は深い息を吐くと、頭を後ろに傾けた。  洞窟にこもった重い空気は、真綿の布団のように温かく彼を抱きこんでくれる。不安な気分も少しずつ薄らいできた。かつて四国を巡る古の道の途上には、こんな岩屋がいくつもあった。それが彼らの宿であり礼拝所だった。岩屋は聖なる場所を意味した。彼の先祖たちは聖なる場所の点在する道をたどり、四国を巡ってきた。  時代が下ると、岩屋の場所に四国霊場と呼ばれる寺ができるようになった。男たちは、先祖の通った道を踏襲して四国を巡る。四国霊場と重なっている場所もあれば、まったく別の山の奥深くに崩れ落ちた岩屋が残っている場所もある。しかし巡る方向は同じだ。四国を右に回る。  四国を巡ることは、石鎚山のまわりを巡ること。そうすることによって、神の宿る山、石鎚山を悪しきものから守るのだ。石鎚山を聖なる山として保つこと。それが男たちが四国を巡る使命だった。  男は|喉《のど》|元《もと》を|掻《か》いた。日焼けしてはがれた皮膚がこぼれ落ちた。赤い前掛けをつけた地蔵が、じっと闇を見つめていた。供えられた菊の花びらが、つやつやと蝋燭の光を反射している。ここは、仏教の霊場となる前は彼らの神の礼拝場だった。今も岩肌から|滲《にじ》み出てくる、彼らの神の息吹が感じられた。  明日は村に帰る。神に守られた村へ。そう思っただけで、心が和んだ。  男は湿った岩に頭をよりかからせた。頭が|朦《もう》|朧《ろう》としていた。体が突っ張っている。疲労感が全身を包む。瞼が重くなった。 〈村ではない〉  頭の中に声が響いた。長老の声か。いいや祖父……父の声にも似ている。男は眠気の中で思った。そして思い出した者は、すべて死んでいることに気がついた。 〈止めるのだ〉  再び声が聞こえた。男は、はっとして目を開けた。  蝋燭の火が消えかかっていた。神の息遣いがすぐそばに感じられた。男は岩屋を見回した。地蔵に供えられた花の前で視線が止まった。さっきまで生きいきとしていた菊は、今は茶色に|萎《しな》びていた。それはまるで死神の手で|撫《な》でられて、一瞬にして生を失ってしまったようだった。 〈石鎚が汚されようとしている〉  はっきりとした声が、岩屋の空気を揺るがした。その空気の震えが移ったように、男もまた体を震わせはじめた。  長老の語った恐ろしいことを思い出した。まさか、あれが起きることはないだろう。単なる言い伝えだ。  しかし打ち消そうとすればするほど、不安がこみあげてくる。石鎚山が汚されようとしているとは、あの前兆以外のなにものでもない。  男は奥歯を噛みしめた。だが、体の震えは止まりそうもなかった。 [#改ページ]    第三部 [#ここから1字下げ]  ———うしろのしょうめん、だあれ——— [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      1  シャッシャッシャッ。灰色の|砥《と》|石《いし》の上で、半月形の鎌が音をたてていた。シゲは刃を研ぎながら、ここ二日間、絶えず頭に響いている声を聞いていた。  ——俺を見棄てたな——  日浦家の薄暗い部屋で、あの声がいった。そしてシゲは思い出したのだ。何もかも……。  もう五十年も前のことだった。忘れようと努め、見事に葬り去っていた記憶だった。シゲは思い出したことを後悔していた。照子のところになぞ行くのではなかった。死人の口寄せなぞ頼むのではなかった。  夫の口寄せをしてもらったほうがまだよかった。顔すら思い出せなくなっている夫なら、シゲを脅かすようなことはいいはしなかっただろう。  ——俺はもんてくる——  照子も同じようなことをいった。死者たちが戻ってくるのだと。戻ることが何を意味するのかわからないが、耳にするだけでシゲをぞっとさせた。  照子は気が狂ったのだ。口から出まかせをいっているのだ。自分は、あの家でたぶらかされたのだ。だいいち、|依《より》|童《わら》もいなくて口寄せができようはずはない。  だが、あの声は間違いなく竹雄のものだった。柔らかく、男にしては高めの声。|遥《はる》か昔、シゲの心をとろけさせた声だった。あの声で、シゲに|惚《ほ》れているといい、いい体だと|囁《ささや》いた。声とは記憶を手繰り寄せる強い糸だ。どんなに長く会わなかった人間でも、それを聞いただけで記憶が|蘇《よみがえ》る。だからこそ竹雄の声に、忘れていた過去を思い出してしまった。  とんでもないことだ。竹雄が帰ってくるなぞ。かつての愛人ではあったが、幽霊になってまで会いたくはない。ましてや、あんなことがあったのだから。  鋭く研いだ鎌を陽にかざした。青い空を背景に、|鈍《にび》|色《いろ》の刃がぎらりと輝いていた。シゲは横に置いてあった|竹《たけ》|竿《ざお》を取って、先端に鎌を縛りつけはじめた。 「おばあちゃん、何しゆうがかね」  掃除機をかけていた千鶴子が、庭のシゲに声をかけた。シゲは鎌の柄を縛りつけた竹竿の先を見せた。 「タツよけじゃ。これをつけちゃると、|時化《しけ》がきてもこまりゃせん。風も家をよけて通ってくれるきね」  千鶴子は空を見上げた。雲は多いが晴れている。彼女は太った体を揺すって笑った。 「台風やったら、九州のほうに抜けると。天気予報でいいよったで」  しかしシゲは口をへの字に結んだまま、竹竿を立てた。千鶴子が慌てて庭に出てきて、手伝いはじめた。 「こんなもん倒したら、えらいことで、おばあちゃん。しっかりくくらんと」  千鶴子はぶつぶついいながら、物干し台に竹竿を固く縛りつけた。シゲは空に向かってすっくと立った竹竿を見上げながら、先日の盆のホーカイを思い出した。ひょっとしたらホーカイに呼び寄せられてきた死者の霊が、盆が終わってもあの世に帰らなかったのかもしれない。 「ほら、これで気ぃすんだかね」  千鶴子は物干し台に縛りつけたタツよけを揺らして、しっかりと立っているのを確かめた。 「台風のたんびにタツよけ立てる家ゆうたら、うちんくばあのもんで」  千鶴子は、面倒なことをしたがるシゲを暗に非難するように小声でいうと、また掃除に戻っていった。  風が吹いてきた。タツよけの鎌の刃が風を切る。シゲは下唇を突き出して、一人|頷《うなず》いた。天気予報が何といおうと、シゲにはわかっていた。台風は近づいていた。湿気と爆発するような力をはらんだ風がそう告げていた。幼い頃から知り尽くしている、体がむずむずしてくるほど危険な風だった。  ——俺はもんてくる。おまんところにもんてきちゃる——  風の中に竹雄の声が聞こえた気がした。  シゲは逃げるように家に入っていった。  北野町の整備された歩道を横切り、タクシーは駐車場に止まった。比奈子は料金を払って、車から降りた。アスファルトから立ち昇る、むっとくるような熱気に顔をしかめながら、正面の古びたコンクリートの建物を見上げた。県立庄野病院。このあたりでは最も大きな総合病院だ。  玄関の階段を上り、自動ドアを通って中に入る。スリッパに|履《は》きかえて、広々とした待合室を横切り、受付に向かった。エアコンディションの効いた冷たい空気に、消毒液の臭いが混じっている。ソファの上で通院患者たちが、煙草を吸ったり、テレビを眺めたりしていた。  赤のサマーセーターにぴたりとしたジーンズ姿。花柄のバッグを持って、サングラスをかけた比奈子の姿は目立つらしい。背中に視線が集まるのがわかった。彼女はサングラスをはずして、受付の女に聞いた。 「日浦康鷹さんの病室はどこでしょうか」  たるんだ顎が|蜥蜴《とかげ》を思わせる女が、比奈子の顔をじろりと見て、即答した。 「四階の脳外科病棟です」  女が調べもしないで病棟を答えられたことに驚き、すぐに当然だと思い直した。日浦康鷹は、十七年もの間、この病院で眠りつづけているのだ。比奈子は礼をいって、エレベーターに向かった。  日浦康鷹に会ってみようと思ったのは、昨日読んだ原稿のためだった。|昏《こん》|睡《すい》状態の彼に会っても、どうしようもないのはわかっていた。しかし、あの原稿を読んでから日浦康鷹がひどく身近に思えた。長い間、誰も見舞いに行ってもないだろう。それを思うと気の毒でもあった。  エレベーターのドアが開いて、比奈子は他の患者や見舞い客たちと一緒に外に吐き出された。四階の廊下は一階と比べて閑散としていた。病室の窓|硝子《ガラス》ごしに、ベッドの上で休んでいる患者たちの姿が見えた。  比奈子は廊下を歩いていって、日浦康鷹の名札が掛かっている病室の前で足を止めた。  その病室の六つのベッドは、同じような昏睡状態の患者で埋まっていた。酸素吸入器をつけて横たわる女。カンフルを注入している老人。廊下側のベッド脇には見舞いに来た家族が、意識のない父の名を泣きながら呼んでいた。  日浦康鷹の名前は、窓際のベッドの頭上にあった。比奈子は、頭のほうに回りこんで、彼を見下ろした。康鷹は一見、健康そうに見えた。頬は桜色に張り、体もそれほど|痩《や》せてはいない。短く刈った白髪交じりの髪がどこか小学生じみた幼さを漂わせていた。  だが、その表情には動きというものが欠如していた。天井の一点を見つめているだけの目。顔の筋肉は|弛《し》|緩《かん》し、口は半ば開かれていた。表情をかたちづくろうとする力が失われているのだ。人間から表情を取り払うと、誰でも似たような顔になる。個性を失った顔は、腐敗段階に入る前の死者のようにも見えた。  比奈子はシーツの上に出た康鷹の手をそっと握った。温かく柔らかな手だった。そのぬくもりが、康鷹が生きている証拠だった。  夫の見舞いに来ていた妻と子供二人は、肩を落として病室を出ていった。部屋には、昏睡状態で横たわる患者たちと比奈子しかいなくなった。あたりが静かになると、患者の異様に大きな|鼾《いびき》や、|痰《たん》のつまった|喉《のど》の鳴る音が耳にさわった。  眠りつづける康鷹。精神の平衡を失ってしまった照子。行方不明の耕治。そして死んでしまった莎代里……。どうして日浦家はこんなことになってしまったのか。人の運命は一歩先は|闇《やみ》だ。いや、それともこれはすべて決められていた運命なのだろうか。莎代里の死を起爆剤にして連鎖爆発していく運命のダイナマイト……。  康鷹がかすかに動いて、比奈子の手を握り返した。彼女は驚いて康鷹を見た。康鷹の唇が震えていた。 「おじさん」  比奈子は|耳《みみ》|許《もと》で呼んでみた。康鷹の硝子玉のような瞳が動いた気がした。意識を取り戻したのだろうか。比奈子は、康鷹の肩を軽く揺すった。康鷹の瞳孔がひきしまるのが見えた。彼は目を彼女に向けた。 「莎……代…里が……」  かすれた声が洩れた。十七年ぶりに口を開いたのだ。康鷹は、発声練習をするようにひと言、ふた言、苦しげな息の下から言葉を押し出した。 「い……石…は死霊を…集める力がある……神の…谷…底から…出してしまった……」  比奈子は誰かを呼ぼうとした。しかし康鷹は放すまいと決心しているように、強い力で彼女の手を握りしめた。 「あの娘は……神の…谷を……神を…おとろ…しい…こと…が……」  康鷹の目がぐいっと開かれた。 「莎代里…を……とめてくれ……。わしには…できん……。わしは…半分、死の国に……おる。死の国に……」  比奈子は|茫《ぼう》|然《ぜん》として康鷹の顔を見つめていた。|眉《み》|間《けん》には|皺《しわ》が寄っていた。|喋《しゃべ》るほどに、どこか痛むように顔をしかめる。さっきまでの無表情な顔の男はもういなかった。康鷹は静まりかえった死の|淵《ふち》から頭を出した魚のように、|喘《あえ》ぎながら言葉を発していた。 「莎代…里を……」  康鷹の口の中で、舌が硬直するのが見えた。それでも彼はものすごい努力をしながら語ろうとしていた。 「と……め…ろ……」  比奈子を握りしめていた康鷹の手から力が抜けていった。 「おじさんっ」  比奈子は、康鷹の顔にかがみこんだ。康鷹は、すがるような視線で彼女を見た。その瞳の焦点がだんだんぼやけていく。そして目を閉じた。頭が|枕《まくら》に沈んでいった。  比奈子は病室を飛び出した。 「看護婦さんっ、看護婦さんっ」  廊下を歩いていた小柄な看護婦をつかまえて、康鷹が意識を取り戻したことを告げた。看護婦は驚いて病室に入っていった。そして康鷹の様子を見て、首を横に振った。 「今は眠っておいでです」 「でも、さっきちゃんと言葉をいって…」 『安田智子』という名札をつけた看護婦はとまどった表情になった。むりもなかった。十七年間、昏睡状態を続けた患者が一瞬、意識を取り戻したといわれても、信じられないだろう。比奈子は康鷹に声をかけてみた。彼は目を閉じたままだった。 「あなたは……日浦さんとはどういう?」  看護婦は警戒するような顔で聞いた。娘の友人だと答えると、彼女は表情を和らげた。 「わざわざ、お見舞いに? そりゃあ日浦さんも喜びますやろねえ」  五十歳くらいだろうか。目許や口許の細かな皺が、干し柿を思い出させるような丸顔の看護婦だった。人の好さそうな顔のつくりの中で、小さな目だけが異様に強い光を放っていた。康鷹の体をシーツの上からさするようにしていった。 「ほんとに意識を回復したがならええけど、長いことこのままじゃきね。あんまり期待はせんほうがええですよ」 「……そうですね」  比奈子はもう一度、康鷹の手を握り、何の反応もないのを知ると、|諦《あきら》めた。  あれは一時的なものだったのだ。だが彼女の手には、まだ康鷹に握られた感触が残っていた。  比奈子は看護婦に礼をいって病室を出ると、エレベーターに乗り、一階に降りた。康鷹の|謎《なぞ》めいた言葉が頭に残っている。しかし長年、昏睡状態にあった人間だ。意識が回復したといっても、意味をなす言葉をいったかどうかは怪しいものだ。  ただ、気にかかる。なぜ彼は石のことを知っていたのだろう。さっきの言葉は、文也が神の谷で見つけた石柱のことを指していたとしか思えない。昏睡状態の康鷹に、どうしてそれがわかったのだ。  ひょっとしたら、康鷹は死霊となって見ているのだろうか。浮遊する康鷹の霊は、今ここに漂っているのかもしれないのだ。比奈子は、ぞっとして、あたりを見回した。ベンチで静かに雑談している患者たち。行き来する看護婦。医師を呼ぶ院内放送の声。とりたてて変わりのない病院のロビー風景のどこかに、康鷹の霊は紛れこんでいるのだろうか。  ——莎代里を……とめてくれ。わしには……できん。……わしは半分…死の国におる——  きれぎれの言葉が、比奈子の頭に反響していた。  無数の緑の石が宙に浮かんでいた。石たちは、ゆっくりと動きながら、ひとつの場所に集まっていく。まるで誰かが石の山を築いているようだ。わずかな|隙《すき》|間《ま》も残さず積まれていく石片は、空高く伸びる山となり、天を貫く。  文也は、切り立った山の頂を見上げている。彼の体もまた、その石の山へと吸い寄せられていく。緑色の石のなす|峻厳《しゅんげん》なる山の頂上へ。 〈文也、文也〉  自分を呼ぶ声がした。山の映像に重なって、母の顔が見えた。何か、さかんにいっているが、その言葉は蜂の羽音のように意味をなさない。まだこの山を見ていたいのに、母の顔が邪魔をする。文也はうるさくなって首を横に振った。  母の顔が消えて、再び険しい山肌が眼前に迫ってきた。文也は山肌に沿って昇りはじめた。山を|這《は》い上がる雲になったようだ。石だらけの斜面をゆっくりと上がっていく。  頂上が見えた。あと少しだ。文也はさらに上に昇ろうとした。その時、何かが彼の体をひっぱった。石ががらがらと崩れはじめた。文也は無数の石片とともに落下していった。  彼はびくんと体を動かして目を覚ました。家の中は静まりかえっていた。ブラインドの隙間から、弱々しい光が射しこんできている。枕許の時計を見ると、十時二十分を指していた。役場に遅刻していたが、たいしたことには思えなかった。  彼の頭の中には、さっきまでありありと見えていた山があった。文也はベッドに起き上がった。外はとても明るいのに、部屋の中はやけに暗かった。本棚の奥や机の下、|襖《ふすま》の向こうにひそむ|闇《やみ》が部屋全体に|滲《にじ》み出てきたようだ。  文也はパジャマを脱ぎはじめた。上衣が汗で|濡《ぬ》れている。額や|腋《わき》の下が汗ばんでいた。悪寒がした。|風邪《かぜ》でもひいたかな、と思った。仕事を休もうか。今、何時だったろう。文也はまた時計を見た。十時二十八分。パジャマの上衣を床から拾い上げて、汗に湿っているのに気がついた。そういえば、さっき脱いだのだった。また着ようとしたのだ。役場に行かなくてはいけないのに。……いや、休もうとしたのではなかったか。  水に落ちる赤い血のように、思考が重く沈んでいき、意識の底に停滞する。文也は、衣装|箪《だん》|笥《す》の中からのろのろと服をひきだした。シャツを頭から被る。ズボンに足を突っこむ。体はいつも通りに動いているが、意識は|混《こん》|沌《とん》とした世界をさまよっていた。その世界で、ただひとつ、現実感に満ちて迫ってくる光景があった。  それは宙に浮かぶ無数の緑の石。石たちは、ゆっくりと動きながら、一つの場所に集まっていく。まるで誰かが石の山を築いているようだ。石の山は空高く伸びていき、天を貫く……。文也の意識は再び、緑の山を高く高く昇りはじめていた。 「ミックスサンドはこっちですね」  比奈子は、はっとして顔を上げた。まだ高校生のような女の子が、サンドイッチの皿を持って立っていた。彼女は|頷《うなず》いて、テーブルを指した。髪の毛を赤茶色に染めた娘は、皿を置くと、店に流れる音楽に合わせるように尻を振りながら歩み去った。  北野町の喫茶店の中だった。病院を出てから軽く食事をしようと、ふらりと立ち寄った店だった。重たげな赤い|天鵞絨《ビロード》のカーテン。焦げ茶色の|椅《い》|子《す》。模造大理石の天板を|嵌《は》めこんだテーブル。精いっぱい重厚に見せた安物の調度品でまとめられている。まだ昼前で客の姿はまばらだ。比奈子はコーヒーを|啜《すす》りながら、サンドイッチを頬張った。  目の前の壁にポスターがあった。海辺の窓際の風景を描いたしゃれた絵柄だ。ふと仕事のことが頭に浮かんだ。いいかげん、東京に戻らないと。仕事の依頼もきていることだろうに、ほうったらかしになっている。ここ二日間、留守番電話を聞いてもいない。プッシュホン式の公衆電話がすぐそばにないと、つい聞くのを忘れてしまう。いや、それよりも、仕事のことを考える余裕がなかったのだ。  考える時間はすべて文也のことに費やされていた。彼を思うと、比奈子の心がまた痛んだ。このまま東京に帰ろうか。そして文也なんか関係なかったように生きていくのだ。  また逃げるの? 心の中で|嘲《あざけ》るような声がした。比奈子は食べかけのサンドイッチを皿に戻した。  文也は自分のことを|酷《ひど》い女だと思い、怒っているだろう。東京に帰ってしまえば、彼にとって自分は永遠に浮気な女で終わってしまう。そんな人間ではないのだと主張しない限り、ずっとそう思われてしまう。  莎代里とのことも同じ。何もいわなくても、二人の気持ちは通じていると思っていた。とんでもない思いこみだった。比奈子が莎代里について思っていたことと、莎代里が比奈子について思っていたことには、大きな開きがあった。黙っていれば、それだけ二人の距離は開いていくばかりだ。  |甲《こう》|羅《ら》から抜け出すのだ。文也に会って、話をするのだ。拒絶されても、誤解だけは解いておきたい。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。今、矢狗村に戻ったら、役場の昼休みに間に合う。文也に会えるはずだ。  比奈子は立ち上がると、代金を払って店を出た。道路の向こうにタクシー会社の看板が見えた。比奈子は横断歩道の前に立った。  歩行者用信号は青になったところだった。向こう側から小学生が二人、飛び出してきた。比奈子は横断歩道を歩きだした。走ってきていた紺色のセダンが減速するのが見えた。文也の車と同じ型だと思い、何気なく運転席に目を遣った比奈子は驚いた。ハンドルを握っているのは、ほんとうに文也だったのだ。  比奈子は|嬉《うれ》しくなって、彼に手を振った。しかし文也は彼女に気がつかない様子で、止まった車の中から、ぼんやりと前を見ている。無視しているのだろうか。比奈子は手を下ろした。悲しい気分でまた横断歩道を渡りはじめた。目の前にタクシー会社の看板がある。あそこからタクシーに乗って、役場に行くはずだった。文也に会うつもりだったのだ。しかし文也はここにいる。横断歩道を渡った先には、比奈子の行き場はない。  青信号は点滅しはじめていた。比奈子は、紺色のセダンを見遣った。自分が行きたいと思ったのは、あそこだ。横断歩道の向こう側ではない。  比奈子は、文也の車に駆け寄った。前部席の窓は開いていた。彼女は運転席の文也にいった。 「文也君、話があるの」  彼が顔をこちらに向けた。その視線は比奈子を突き抜けて、向こうのどこかを見ていた。比奈子はたじろいだ。彼の虚ろな表情は照子を思い出させた。 「乗ってもいい?」  比奈子は、おずおずと|訊《たず》ねた。文也が何か答えた。しかし、その声は|不明瞭《ふめいりょう》で聞きとれない。比奈子がもう一度、問いかけようとしたとき、後ろで車のクラクションが鳴った。車道の信号が青に変わっていた。文也がエンジンをふかそうとした。比奈子はとっさに窓から手を伸ばしてドアのロックをはずし、助手席に滑りこんだ。ドアを閉めるのと、車が発車したのが同時だった。その衝撃で比奈子はよろめいて、文也に肩をぶつけた。 「ごめんなさい」  彼は何もいわなかった。 「怒ってるの」  重ねて聞いたが返事はなかった。比奈子は下唇を噛んで、窓の外を見た。車は北野町の中心街を通り抜けた。そのまま国道三十三号線に沿って仁淀川も|遡《さかのぼ》っていく。 「どこに行くの」  彼は、まっすぐに前を見てハンドルを握っているだけだ。  昨日一日、会っていないだけだったのに、文也は変わって見えた。やつれた頬。|隈《くま》のできた目。熱を帯びたような目つき。 「ねえ、文也君。何かいってよ。役場は今日は休み?」  文也が比奈子を見た。今度こそ、焦点は彼女に合っていた。しかし、それはまるで路上の石ころでも眺めているような目付きだった。冷水をかけられた気がして、比奈子は口を|噤《つぐ》んだ。  車は四国山脈に向かって走りつづけていた。どこに行くつもりなのだろう。比奈子は、『松山』と書かれた国道の表示を見つめた。こうなれば文也の目指すところまで、黙ってついていくしかない。比奈子は覚悟を決めて、座席に身を沈めた。  大型トラックや乗用車とすれ違う。文也はすごいスピードを出していた。比奈子はふとバックミラーに視線を移した。細長い鏡の中に後部座席が映っていた。リアウィンドウの脇に置かれたティッシュペーパーの箱。小さなアヒルのカーアクセサリーが揺れている窓。薄汚れた|硝子《ガラス》の向こうに、黒いものが見えた。比奈子は目をこらした。黒髪だった。さらさらした黒髪が風になびいていた。まるで誰かが、車の屋根から逆さに|覗《のぞ》いているように……。  比奈子は悲鳴をあげて、目を閉じた。彼女は|暗《くら》|闇《やみ》に閉ざされた。ブゥウウン。車の低いエンジン音が聞こえる。次第に気持ちが落ち着いてきた。比奈子は目を開けると、思いきって後ろを振り返った。  何もなかった。窓の外には、後続のバンが映っているだけだ。  比奈子は息をはずませながら、文也を見た。彼は、さっきの悲鳴も聞こえなかったようにやはり運転を続けていた。  幻覚だったのだろうか。自分が悲鳴をあげたのも幻覚だったのだろうか。  比奈子は両手を膝の上で握りしめた。車は険しい四国山脈に向かって疾走していた。  誰かが乱暴に肩を揺すっていた。男は|呻《うめ》き声をあげて、細く目を開いた。顔に|眩《まぶ》しい光が当てられている。背後の暗闇に、自分を取り巻く数人の男たちがいた。  男は目をこすった。岩屋の中だった。昨夜、岩屋寺で過ごしたことを思い出した。この闇の中では、朝なのか夜なのかわからない。どのくらい寝てしまったのだろう。疲れがたまっていたせいか、眠りすぎたことを、だるいような体の感覚が告げていた。 「あんた、ここで寝たがか」  懐中電燈を持った男が聞いた。男はがらがら声で、そうだと答えた。 「やっぱり怪しい」 「こいつに決まっちょる」  まわりを囲む男たちが口々にいった。男が何のことかわからずにいると、誰かが彼の腕をつかんで立たせた。 「ともかく、ここから出るんだ」  男はひきずられるように岩屋から連れ出された。  外は明るい光に満ちていた。気温がかなり上がっているところをみると、もう昼近くらしかった。男は、しまったと思った。うかうか寝ている場合ではなかったのだ。  彼は数人の者に囲まれていた。一人は制服を着た警官だった。あとは寺の者だ。誰もが殺気だった顔をしている。寺の者の一人が警官に、この男だと囁いた。警官は頷くと、男に詰め寄った。 「おまんは、誰だ」  男は、こんな時の|常套句《じょうとうく》になっている言葉をいった。 「お四国の者です。遍路で回りゆうがです」  遍路だといえば、大抵の面倒は避けられた。浮浪者のように、どこの軒下で寝ても、白装束に身を包んでいれば、尊敬の混じった|眼《まな》|差《ざ》しで見てもらえた。  しかしこの警官は違った。詰問口調を変えずにいった。 「そんなこと聞いちょりゃせん。名前と住所じゃ」 「名前は、仙頭直郎といいます。家は、この先の二名の向こうの村です」  直郎はしぶしぶ答えた。寺の者たちが顔を見合わせた。 「近くやないか」 「二名ゆうたら、|久万《くま》川の先か」 「そうです」  警官がうさんくさそうに彼を見た。 「この近くの者が、どうして家やのうて、ここで寝ゆうがじゃ」 「ほんやき、お遍路やと……」  直郎は内心焦りながらいった。こんなところで時間をつぶしている暇はない。今にも山が|汚《けが》されようとしているのだ。 「おまん、本当は|賽《さい》|銭《せん》泥棒に来たがじゃろう」  警官が直郎の胸を押すようにしていった。 「めっそうもない」  直郎は首を横に振った。 「|嘘《うそ》をついたらためにならんぞ。ここんとこずっと続いちゅう賽銭泥棒は、おまんにちがいない」  警官は直郎の腕をつかんだ。 「駐在所まで来てもらおう。話を聞きたい」  おとなしくついていけば、誤解は解けるだろう。しかし、そのために何時間も無駄にしたくはなかった。直郎は警官の腕を払うと走りだした。 「待てっ」「こいつぅ」  寺の男たちが追いすがった。直郎は彼にむしゃぶりついてきた男を突き飛ばした。寺の男はよろめいたはずみに足を滑らせた。 「うわああああっ」  悲鳴をあげながら石段を転げ落ちていった。別の男が前に立ちふさがった。直郎はその男の股間を|蹴《け》り上げた。男は倒れて、石の縁に頭をぶつけた。|剃《そ》った頭から血がたらたらと滴り落ちた。 「待てっ。待たんと逮捕するぞっ」  警官が怒鳴って、警棒を直郎に振り下ろした。頭を打たれて、一瞬気が遠くなった。男の一人がすかさず直郎をはがいじめにした。警官が手錠を出すのが見えた。直郎は彼を押さえこむ男の手に噛みついた。男が絶叫して手を離した。直郎の口から、男の手の甲の肉片が吐き出された。口許が真っ赤になっていた。  警官の顔に脅えが走った。その|隙《すき》に、直郎は石段を駆け上がった。警官や寺の男たちが、人殺しだ、人喰いだと大声をあげながら追いかけてくる。本堂のある境内に出た。左手に山門が見えた。山門の向こうに、道が続いている。山の奥へと続く|古《いにしえ》の道だった。 「待てーっ、撃つぞーっ」  背後でわめき声が聞こえた。口の中に血の味が残っている。直郎は|唾《つば》を吐き散らしながら走りつづけた。バアンという音が|轟《とどろ》いた。直郎の肩に激痛が走り、彼はよろめいた。 「当たった!」  驚いたような声がした。  茶褐色に汚れた白装束が血に染まっていく。しかし直郎は体を起こすと、再び走りだした。石ころだらけの山道を登っていく。  ——止めるのだ——  ——石鎚が汚されようとしている——  彼の頭に神の声が響き渡っていた。      2  碧緑色の水をたたえて、仁淀川が静かに流れていた。行く手には、青みがかった四国山脈の山並が重なり合っている。道の両側にも、迫る山々。山頂近くまで続く段々畑。斜面にへばりつくようにして農家の集落が点在する。  文也の車は、国道三十三号線を走っていた。彼は相変わらず黙りこくっている。車内に比奈子なんかいないように、運転を続けている。見ず知らずの他人に対しても、これ以上、|完《かん》|璧《ぺき》に無視することはできないだろう。  文也の様子は釈然としなかった。比奈子への怒りではない。何か得体の知れないものが彼の内部に居すわっていた。いったい何が、彼の意識を占領しているのか?  比奈子は彼の心がつかめないことに|苛《いら》|々《いら》して、バッグから煙草を取り出して吸った。白い煙が窓の隙間から滑り出ていく。矢狗村を出る時には晴れていた空は、雲に覆われはじめていた。窓から入りこんでくる風は、べたべたと肌にまとわりつく。  比奈子は煙草の吸殻を車の灰皿に入れて、窓を閉めた。急に車内が静かになった。前を見つめる文也の横顔は、彫像のように動かない。比奈子は彼の少し|尖《とが》った顎の線を美しいと思った。 「何を考えてるの」  比奈子は聞いた。文也は、やはり何も答えなかった。  比奈子は泣きたくなった。このままでは、とりつくしまもない。沈黙に耐えきれなくなって、勝手にラジオのスイッチをつけた。文也が文句をいうなら、そのほうがありがたかった。しかし彼は何もいわない。ローカルラジオ局のディスクジョッキーのお|喋《しゃべ》りが流れてきた。 〈えー、次は吾北村の山本さんからのお電話が入っています。山本さん、山本さん。うちんくの村自慢。さあ何でしょうか〉  電話に出た女が、家の畑に巨大な|南《なん》|京《きん》が実ったと告げた。 〈両手で持てんばあ大きいがです。近所の人も集まってきて、おばけ|南瓜《かぼちゃ》じゃいいよります。このあいだは記念写真を|撮《と》りたいゆう人も出てきて、まあえらい騒ぎです〉 〈そりゃあ、僕も見てみたいですね。でも、そんなおばけ南瓜、どうやって食べるつもりですか〉 〈食べやせんよ。こんなん食べたら、ほんとにおばけになって出てくるかもしれんき〉  女の陽気な笑い声が車の中に広がった。  文也は前の車を次々に追い越していく。彼が妙に急いでいるのが気になった。  道路脇に『愛媛県』の表示が出ていた。仁淀川は面河川と名を変えた。車は川に沿って、四国山脈の奥へ分け入っていく。やがて川が大きく|迂《う》|回《かい》して中洲を作っている場所に出た。河畔に突き出した大きな岩。緑と青が混じり合った水の色。深い山の中から流れてきた面河川と久万川の二本の川が、ここで合流していた。流れが|拮《きっ》|抗《こう》する合流地点では緑色がかった水面は湖のように静かだ。  文也がハンドルを切った。車は「面河村」という標識に沿って右折した。別の標識に『石鎚スカイライン』という文字を見つけて、比奈子は、はっとした。 「石鎚山へ行くの」  文也は答えなかった。フロントガラスをひたと見つめているだけだ。  康鷹の原稿の中にあった石鎚山。山に呼ばれていると、|綴《つづ》っていた。文也も、それを目指しているのではないだろうか。  車は面河川に沿って細い道を進んでいく。対向車はほとんどなかった。右手には、山肌を切り崩した急|勾《こう》|配《ばい》の斜面。左手には深い渓谷。切り立った|崖《がけ》の底に澄んだ川が流れていた。ところどころに落石注意の看板がある。道路脇には、山から落ちてきた大きな岩が転がっていた。アスファルトで補修せず、ネットを被せただけの道路脇の斜面も多い。落石事故が起きても不思議はなかった。  フロントガラスに、ぽつぽつと小さな水滴が当たった。雨だ。 「いやだわ」比奈子は|呟《つぶや》いた。  やはり文也は無言のままだった。比奈子はますます泣きたい気分になった。  遠くの山の頂に白い霧が降りてきていた。彼はワイパーのボタンを押した。フロントガラスの水滴がワイパーに押しやられていく。シャッシャッというかすかな音が車内に響いた。比奈子は、ひき返したほうがいいといいたいのをこらえた。何をいっても無駄だった。しかし、いったい何が彼をこれほどまでに|頑《かたくな》にしているのかわからない。  雨は次第に激しさを増していた。山頂から降りてきた霧は、見る間に視界を閉ざしていく。大粒の雨が地面を叩く。渓流沿いの岩の輪郭は、はじける雨で白く煙っていた。  ラジオの声が耳に入ってきた。 〈ここで天気予報です。台風二十四号は今日の午後になって進路を東北東に変え、しだいに勢力を強めながら四国方面に向かっています。今日の夕方には足摺岬に上陸するもようです。すでに四国の山間部を中心に天気が崩れはじめており、今夜半から明朝未明にかけて|大《おお》|時化《しけ》になるでしょう。現在、四国全域に大雨洪水注意報、大波警報、暴風波浪警報が出ております〉  比奈子は文也の顔を見た。文也はハンドルを握りしめている。天気予報も、打ちつける雨も眼中にないようだった。ただ前方を見つめて運転を続けている。比奈子はその横顔に照子を思い出した。昨日、神の谷で石柱のまわりを回っていた照子の顔。ひたと宙の一点を見つめていた。何かに心を奪われて、他のことは考えられない状態。何か、とは莎代里。考えるのは莎代里のことばかり。 「文也君っ」  比奈子は、たまらなくなって大きな声を出した。  文也は振り向きもしない。比奈子は彼の肩を揺すった。彼の手が滑り、ハンドルが空回りする。車が横滑りした。キキキキキーッ。ブレーキの甲高い音が耳をつんざいた。  比奈子も文也も大きく前に倒れた。文也の頭がガツンと大きな音をたてて、車の窓枠にぶつかった。そして車は止まった。道路をふさぐように横に向いていた。目の前に、切り崩した山の斜面が迫っている。正面衝突する直前だった。手足の先で血管が波打った。全身に血を送るのを止めていた心臓が再び動きだしたようだった。 「どうしたんだ……」  文也の呟きが聞こえた。車に乗って以来、はじめての言葉だった。ほっとしたと同時に、死ぬところだったのだという実感が|湧《わ》いてきた。比奈子は震え声でいった。 「ごめんなさい。私、文也君がちっとも台風のこと気にしてないみたいだから……」 「台風がどうしたって」 「天気予報、聞いてなかったの。これから四国に上陸するっていうのよ」  文也は激しい雨にはじめて気がついたようだった。車を車線に戻して、エンジンを止めると、戸惑った声でいった。 「すごい降りだな。どうして、こんなところに来たんだろう」 「私が聞きたいくらいだわ。いったい、どうしたの。ひと言もいわずに運転して……」  文也が|怪《け》|訝《げん》な顔で比奈子を見た。 「なぜ、ここにいるんだ」  比奈子は心臓を火で|炙《あぶ》られるような気分を覚えながらいった。 「北野町で乗りこんだの。文也君、気がつかなかったの」  文也は覚えてないらしかった。何かいいかけて口を|噤《つぐ》んだ。しばらく運転席で、ハンドルにもたれかかって考えこんでいたが、しばらくして口を開いた。 「今日は寝坊して……起きたとたんに、石鎚山に行こうと思ったんだ……」  やはり、と比奈子は思った。文也は石鎚山を目指していたのだ。 「なぜ石鎚山に?」  文也は、わからないというふうに首を横に振った。 「きみこそ、どうして僕の車に乗ったんだ」  彼の言葉には|棘《とげ》があった。いわれるのは、わかっていた。彼女は自分のジーンズの膝小僧を見つめた。 「文也君と話したかったの。一昨日のことで」 「聞きたくないよ」  ぶっきらぼうな文也の返事に耳をふさぐようにして、比奈子は一気にいった。 「あの人、東京から来た彼は、すぐに帰ったわ。もう終わりだったのよ。別れたわ」  文也はじっと比奈子を見つめてから、やがて視線を|逸《そ》らせた。 「もう帰ろう」  文也は車のエンジンをかけた。ハンドルを回して、車をUターンさせようとした。そして、|呻《うめ》き声をあげた。 「どうしたの」  文也は眉をひそめて、ハンドルが重いといった。力仕事でもしているように、ギシギシとハンドルを回す。車はいやがっている馬のように方向を変えた。路面では雨が躍っていた。怒り狂った風が山の木々を揺らしている。車はゆっくりとひき返しはじめた。 「おかしいな、なんか調子が……」  その言葉をいい終わらないうちに、頭上で割れるような音が響いた。前を見た比奈子は悲鳴をあげた。牛ほどもある岩が二、三個、山の斜面を転がり落ちてきた。文也がブレーキを踏んだ。ずずんという地響きと、ブレーキの音が雨の中にこだました。  雨と土砂で前方が何も見えなくなった。パンパンパン。細かな岩の破片が車にぶつかって花火に似た音をたてた。しばらく二人は、なすすべもなく車の中で息を止めていた。やがて土煙が消えた。フロントガラスの向こうを見遣って、文也が低い声でいった。 「帰れなくなった」  落ちてきた岩で道路はふさがれていた。  そうだ。岩が落ちてきたのだ。あの台風の日の|崖《がけ》|崩《くず》れだ。シゲは吹き荒れる風雨の音を聞きながら、仏壇に向かっていた。千鶴子が夕食に呼びに来たが、食べたくないと答えて部屋に閉じこもり、仏壇の前でただひとつ知っている般若心経を唱えていた。 「|観《かん》|自《じ》|在《ざい》|菩《ぼ》|薩《さつ》、|行深般若波羅蜜多時《ぎょうじんはんにゃはらみたじ》、|照見五薀皆空《しょうけんごうんかいくう》、|度《ど》|一《いっ》|切《さい》|苦《く》|厄《やく》……」  ぴたりと閉めた雨戸の向こうでは、風が荒れ狂っている。それは五十年も前の台風を思い出させた。あの日、シゲは竹雄と|密《ひそ》かに会っていた。朽ちかけた炭焼き小屋が二人の密会場所だった。閉めきった暗い小屋の中で、二人は汗みどろになって抱き合った。|恍《こう》|惚《こつ》とした顔で竹雄がシゲの体から離れ、二人して疲れ果てて横たわった。その時はじめて、外の雨音に気がついた。屋根を突き破りそうなほど強い雨だった。  竹雄が驚いて、もう時化がきたのかといった。二人とも台風が近づいてきているのは知っていた。だが、こんなに早くやってくるとは思いもよらなかった。慌てて身支度を調えて外に出ると、すでにあたりは暗く、雷が耳をつんざくような音をたてていた。  しかし台風が過ぎるのを待っていたら、朝になってしまう。朝方、山から降りているところを他人に見られたら、村中の|噂《うわさ》になるにちがいなかった。  シゲと竹雄は雨の中に走り出た。風に吹き飛ばされそうになりながら、山道を駆け降りていった。そして崖崩れに遭ったのだ。|轟《ごう》|音《おん》とともに土砂と岩が落ちてきて、シゲの前を走っていた竹雄が呑みこまれるのが見えた。一瞬の出来事だった。シゲは竹雄の名を叫びながら走り寄った。手で土砂をかきわけて、竹雄を掘り出した。彼はすでに息がなかった。岩に直撃され、頭が半分|潰《つぶ》れていた。どす黒い血が、雨に打たれて土を汚していた。濁った|脳漿《のうしょう》がゆっくりと地面に広がっていく。シゲは悲鳴をあげて|尻《しり》|餅《もち》をついた。  雨は滝のように降っていた。土砂はぬかるみとなり、どろどろと崩れていく。竹雄の体が泥土に埋まっていく。助けを呼ばなくては……。だめだ。そんなことをしたら、竹雄と一緒だったことがばれてしまう。シゲは、混乱した頭でどうすればよいか考えた。  竹雄の顔に雨が叩きつけていた。だが彼は表情ひとつ変えずに、天を|睨《にら》んでいる。竹雄は死んでしまったのだ。シゲは思った。助けを呼んでも、もう遅い。寡婦として生きてきた生活を守るのが大事だ。  シゲは逃げた。転げるように山道を下り、家に帰った。  竹雄は三日後、発見された。台風というのに、どうしてそんな人里離れた場所に行ったのか|訝《あや》しむ者もいたが、それだけだった。  そしてシゲの生活から竹雄は消えた。彼を見棄てて逃げた記憶も、朝露のように消えていった。シゲは忘れようと努め、忘れることができた。竹雄との思い出は楽しいことだけが残った。照子のところに行くまでは……。  がらがらがらっ。近くに雷が落ちた音がした。シゲは仏壇に手を合わせた。  竹雄よ。どうか今いる場所にいてくれ。自分をそっとしておいてくれ。 「|不生《ふしょう》|不《ふ》|滅《めつ》、|不《ふ》|垢《く》|不浄《ふじょう》、|不《ふ》|増《どう》|不《ふ》|減《げん》、|是《ぜ》|故《こ》|空中無色《くうちゅうむしき》、|無受想行識《むじゅそうぎょうしき》、|無《む》|眼《げん》|耳《に》|鼻《び》|舌《ぜつ》|身《しん》|意《に》……」  シゲの祈りは、|闇《やみ》に降りつづける雨に溶けていった。  仙頭直郎は、ぬかるんだ道を歩きつづけていた。全身、雨が滴り落ちている。撃たれた左肩が、ずきずき痛んだ。草に覆われた|洞《どう》|窟《くつ》が見えた。直郎はその中に倒れこむと、這うようにして、狭い洞窟の奥の岩に身を寄せた。外の景色が、稲妻に白く浮かび上がる。岩の縁からとめどなく流れ落ちる雨。寒気が|足《あし》|許《もと》から|這《は》い上がってくる。傷を負った肩だけが、火照るように熱かった。  直郎は上衣をずらして傷口を見た。幸い弾は貫通しているようだった。傷口から、潰れた肉の繊維が見える。その間に骨が|覗《のぞ》いていた。衣類や身の回りのものを入れた|頭陀袋《ずだぶくろ》は岩屋寺に置いてきてしまった。仕方なく上衣の裾を裂くと、包帯にして巻いた。布はすぐに血で染まっていった。  直郎は傷をいたわるように、洞窟に横たわった。たぶん、ここも彼の先祖たちが使っていた岩屋のひとつだろう。岩屋寺から石鎚山まで、|古《いにしえ》の道が続いている。それは、直郎の村から石鎚山に向かう道と合流していた。今は獣しか通らない廃れた道だ。直郎を撃った警官たちには、決して見つけることはできない。直郎の村の者だけしか知らない石鎚山への道だった。  直郎の村では人が死んで一年たつと、肉親は、この道を通って石鎚山に登っていく。そして山頂で死者に祈りを|捧《ささ》げ、降りてくる。両親が死んだ時も、妻の節子が死んだ時も、直郎はこの道を通って石鎚山に登った。今も彼は、この道を通って山に行こうとしていた。あの声が告げたように、石鎚が汚されようとしているなら、行って止めなくてはならない。  石鎚山は、聖なるものしか登れない山だ。直郎の村の人間も、用がないのに石鎚山に登ることはしない。山に宿る神は静けさを好む。天に近いところに漂い、子孫である直郎の村の者を見守っていてくれるのだ。汚れたものは、そこには近づけないはずだった。そしてまた近づけさせないためにも、直郎たちは四国を巡ってきたのだ。  激しい雨音の中で、直郎は自分の祖先を想った。四国を巡りつづけてきた祖先を。体が温かくなるのを感じた。肩の痛みが薄らいだ。  神はそばにいる。彼の顔に笑みが浮かんだ。  ビールの白い泡がこぼれそうになって、文也は慌てて口をつけた。比奈子が、ごめんなさいといって笑った。  二人は|浴衣《ゆかた》姿で向かい合っていた。前には川魚料理が並んでいる。外では相変わらず、森が|怒《ど》|濤《とう》のような音をたてて荒れていた。しかし、閉めきった雨戸の内側にまで、|嵐《あらし》の這いいる|隙《すき》はない。  面河村でやっと見つけた木造旅館の一室だった。台風に備えて宿の主が、玄関付近のものを片付けている最中に飛びこんだのだ。ちょうど予約取り消しの電話が相次いでいたところらしく、部屋はあった。ただ、別々に部屋をとりたいというと、主は困った顔になった。台風なので、本館の部屋だけを使ってもらいたいのだという。本館の部屋といっても二階の三室しかなく、あとの二室はもう客が入っていた。文也が困って比奈子の顔を見ると、彼女は遠慮がちに、私ならいいわといった。  文也は今夜、同室になることを思い、慌てて比奈子の顔から目を逸らせた。自分の想像が彼女に伝わるのが恥ずかしかった。その時、宿の女が部屋の|鍵《かぎ》を持って案内に立ったので、救われた気分になったものだ。  だが、こうして温かい部屋で夕食をとっていると、戸惑いも薄らいできた。最初は緊張していた比奈子も、今ではくつろいでいる。二人は、駆け落ちした君彦とゆかりの話に花を咲かせていた。  ふと文也は、ここにこうしているのが不思議に思えた。どうして崖崩れを起こすほど雨がひどくなる前に、ひき返さなかったのだろう。比奈子に肩を揺すられて我に返るまで、自分が自分でなかったような気がした。雨が降りはじめたのも、どこか遠い世界の出来事のように思えていた。石鎚山に行かなくてはいけないという気持ちでいっぱいだった。  いったい自分がどうなっていたのか、わからない。さっき役場に連絡したら、無断で休んだことなぞ今までなかった文也だけに、誰もが驚いていた。しかし、いちばん驚いているのは文也自身だった。 「子供の頃は台風が好きだったわ」  山菜の天ぷらを|箸《はし》でつまみながら、比奈子がいった。文也はわざと驚いた顔をしてみせた。 「女の人ってみんな台風を怖がるもんだと思っていたけど」  比奈子は笑いを含んだ顔で、首を横に振った。酔いのためか桜色に染まった頬が、|艶《つや》のある黒髪に包まれている。それがとても色っぽくて、文也はぞくりとした。しばらく遠ざかっていた女の存在感だった。  彼女の男関係はどうなっているのだろう。東京から来たという、にやけた男と肉体関係にあったことは想像がついた。比奈子があの男と別れて、自分に話をしにきたといった時、認めたくはないが文也は喜びで体が熱くなった。しかし、それを素直に受け入れると、次にやってくるものが怖かった。  男と女の関係は、ひとつところに止まってはいられない。前進しつづける列車のようだ。恋愛が成就しても、列車は走りつづける。燃料は女の感情だ。女はいつも新しい場所を求めている。先の景色が、今の景色より美しいと信じているのだ。そして列車の旅の果ての景色に幻滅したら、別の列車に乗り換えて、今度こそ美しい光景に出会えると期待する。女は基本的に楽天家だと思う。  比奈子と一緒に列車に乗ったら、どんな駅に行ってしまうのだろう。「失敗」という名の駅に着くとは限らないのはわかっている。だが、「幸福」という名の駅に着くとも限らない。だいいち、幸福とは何なのだろう。自分にとって幸福とは、どういう状態なのだろうか。人間は誰でも幸福と不幸の|狭間《はざま》を行ったり来たりしている。たとえ恋愛をしても、幸福の側にいつまでもいることはできないだろう。  比奈子がビールをついでくれた。 「文也君は、台風、嫌い?」  好きでもあるし、嫌いでもあると彼は答えた。好きなのは、外に出ていかなくていい理由ができるから。嫌いなのは床下浸水。 「一度、僕の家、床下浸水、やったんだ。その頃の家はまだ建て直す前でね、外便所だった。浸水がひいてから庭を歩くと、そこらじゅう臭くて、しばらく悩まされたもんだ」  二人は一緒に笑った。強い風が建物に吹きつけて、二階の部屋が揺れた。まるで笑い声が強風を巻き起こしたようだった。 「失礼します」  |襖《ふすま》が開いて、仲居が|膳《ぜん》を下げに来た。手早く皿を片付けながら、愛想よく話しかけてきた。 「せっかく来られたのに、こんな天気でお気の毒ですねぇ」 「高知からなんだけど、道路が崖崩れで帰れなくなったんです」 「そうらしいですねぇ。他のお客さんも、どうしょうかゆうて困ってました。こんなこと、あんまりないですけどね。なんやら二日間くらい通行止めになりそうですとね。村の者もええ迷惑ですわ」  |痩《や》せた体を尺取り虫のように伸ばして座卓の上を|拭《ふ》きながら、仲居はいった。比奈子が文也に困ったような顔を向けた。 「二日も交通止めですって」 「弱ったな。いくらなんでも仕事を三日間も休むわけにはいかないし……」 「お客さん、高知といいなさったね」  仲居が皿を載せた盆の隅に布巾を置きながら聞いた。文也は|頷《うなず》いた。 「ほんなら別の道を通って帰ったらええですよ。石鎚山の土小屋から|瓶《かめ》|ケ《が》|森《もり》林道を通っていくと、寒風トンネルの入口に出るんです。そこはもう百九十四号線ですから、高知に抜けられますよ」 「そりゃよかった」  仲居は|一《いっ》|旦《たん》、膳を片付けてから、すぐに布団を敷きに戻ってきた。そして今夜の台風は大荒れになるだろうが、建物はしっかりしているので安心してくれといって下がった。  文也と比奈子は、それからもしばらく話を続けた。今の仕事のこと、東京生活のこと、日浦康鷹の書いた本のこと。話が途切れた時、二人は肩が触れるほどに近づいていた。  文也は比奈子にキスをした。いや、顔を近づけてきたのは比奈子だったかもしれない。二人は引力にひき寄せられるように少しずつ近づいていき、腕をからめ合わせ、抱き合った。  比奈子の浴衣に手を滑りこませながら、文也は列車に乗ってしまったことを感じた。ためらう気持ちよりも先に、体が動いてタラップに足をかけていた。文也は比奈子の柔らかな唇を|貪《むさぼ》り、ほのかな香水の匂いに顔を埋めた。やがて比奈子が立ち上がり、電気を消した。部屋のなかは真っ暗になった。そして二人は布団の上に転がりこむようにして、浴衣をほどいていった。  外では雨が激しく降っていた。遠くで雷の音がした。比奈子が文也の耳許で|囁《ささや》いた。 「私のこと、怒ってる?」  文也は、怒ってないと囁いた。比奈子が彼の体に強くしがみついてきた。比奈子の情熱が、彼のためらいを焼き尽くしたようだった。文也は、彼女の内に燃えている情熱の炎に手を伸ばした。体に力が|漲《みなぎ》るのを感じた。このまま比奈子と一緒に、どことも知れない未来に行ってもいいと思った。老人でもあるまいし、村で隠居したような生活を送るのは、馬鹿げている。自分には、まださまざまな未来があるはずだ。  文也は比奈子の中の情熱の炎をつかみ、呑みこんだ。体の中で火が燃える。比奈子が|喘《あえ》ぎ声を洩した。二人はお互いの炎に焼かれながら、固く抱き合った。火のまわりを巡りながら踊りつづける原始宗教の崇拝者のように、激しく体を動かした。興奮と陶酔のなかで、文也は神の谷の石柱を思い出していた。  かつて人々は|恍《こう》|惚《こつ》の表情を浮かべて、あの石柱のまわりを巡り、交わった。瞼の裏に、昨日から絶えず浮かび上がってくる映像が現れた。石柱の下で喘ぐ男と女。声をあげて射精する男。満足気に笑うつり目の女。日浦の女……。そして、彼女たちはこの世に自分の分身を生み出すのだ。死者と生者をつなぐ者、死者を復活させる女を……。  体に震えが走り、文也は一気に射精した。  ドドーン。強い風が旅館を直撃して、部屋が大きく揺れた。窓辺が、がたがたと鳴り、不意に窓の外が明るくなった。雨戸がはずれて落ちたのだ。突然、テレビのスイッチを入れたかのようだった。窓|硝子《ガラス》に、大きく揺れる木々と、稲妻の閃く空が映っていた。強い風と雨が硝子を震わせる。薄明かりの中に、比奈子の裸体が浮かび上がった。彼女は、虚ろな顔で|微笑《ほ ほ え》んだ。 「台風は好きよ……」  その声に呼応するように稲妻が走った。バリバリバリッ。木がひき裂かれるのにも似た音が|轟《とどろ》き、窓の向こうの渓谷に青白い火柱が上がった。雷が落ちたのだ。すぐにまた、くねる蛇のような白い稲妻が空を貫いた。部屋全体が小刻みに揺れている。床の間の掛け軸がするすると落ちた。消したはずの電気が、点滅しはじめた。  比奈子の顔に恐怖が浮かんだ。台風は好きなんだろう。そういってからかいたかったが、文也もまた恐れに近いものを感じはじめていた。文也は比奈子を布団に招じ入れると、彼女を抱きしめた。体のぬくもりが、脅えを追いやってくれる気がした。  と、思った瞬間、ひときわ強い風が宿を揺さぶった。パァーン。鋭い音とともに窓が割れた。硝子の破片が部屋に降りそそぐ。風と雨が吹きこんできて、カーテンがちぎれるほどにひるがえった。湯飲み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が倒れた。座卓の上に、どす黒い血のような色の茶がじわじわ広がっていく。比奈子が震えているのがわかった。 「だいじょうぶだよ。硝子が割れただけ……」といいかけた。  その時、あの視線を感じた。自分を見つめる、熱く、冷たい視線を。文也は恐怖を覚えて半身を起こした。  比奈子がもの問いたげにかれの顔を見た。その瞳の中に何かを認めたらしい。比奈子の顔が|歪《ゆが》んだ。 「莎代里…」  彼女がかすれた声を洩らした。 「違うっ」  文也が怒鳴った時だった。ぱたりと風がやんだ。部屋の中が静かになった。すべてが動きを止めた。空気すらも凍りついた。ざあざあという雨音だけが部屋に満ちている。その静寂のなかで、あの視線がさらに強くなったのを感じた。かつてなかったほどの強烈な怒りをこめて、文也の背中に食いこんでくる。  違う。莎代里ではない。彼女は死んだのだ。  文也は心の中で叫んだ。そして歯をくいしばるようにして後ろを振り向いた。割れた窓があった。彼は窓の向こうを|睨《にら》みつけた。  闇が漂っていた。夜空に映る影絵のような木々の奥に、底のない暗闇が広がっていた。漆黒の闇は動いていた。木立を抜けて、この部屋に迫りこようとしていた。あたりに漂う静寂こそ、闇の足音。文也を呑みこもうと、割れた窓からその黒い舌を伸ばしてくる……。彼は思わず身震いした。  木々が揺れはじめた。木立の奥から、風の音が聞こえてきた。ひゅうううううぅぅぅうう。まるで誰かが泣いているような音をたてて、突風が部屋に吹きこんできた。      3  青空がずいぶん高いところに見えた。険しい山々の|狭間《はざま》に時折、不器用に岩を削ったような石鎚山の姿が現れる。文也の車は石鎚スカイラインを走っていた。不通になった道を避けて矢狗村に帰るには、|一《いっ》|旦《たん》、石鎚スカイラインを通って、登山口にあたる土小屋に出て|迂《う》|回《かい》しなくてはならなかった。  開けた窓から、|爽《さわ》やかな風が吹きこんでくる。路面に散らばった木の葉や小枝が、昨夜の|嵐《あらし》のよすがを止めていた。前にも後にも車は見えない。こんな台風明けの早朝に石鎚山に向かう者は、誰もいなかった。  比奈子は窓の外に顔を出して、息を吸いこんだ。冷たい空気が、寝不足でぼんやりした頭に心地よかった。  昨夜、部屋の窓が割れてから、二人は大急ぎで服を着て、宿の宿直室を叩いた。深夜に起こされて不機嫌だった雇い人も、部屋の惨状を目にすると驚いたようだった。すぐに代わりの離れの部屋を準備してくれた。しかし部屋を移っても、恐怖は去らなかった。比奈子と文也は、湿気のこもる部屋で、脅えた子供のように抱き合って横になった。そのまま朝まで、よく眠れなかったのだ。  彼女は花柄のバッグからコンパクトを取り出して、鏡を|覗《のぞ》きこんだ。目の下に|隈《くま》ができていた。肌も張りを失っている。比奈子は、文也を見た。うっすらと生えた不精髭。|憔悴《しょうすい》しているようだった。彼女は苦い笑いを洩らした。 「どうかした?」  文也が聞いた。 「ひどい顔ね、私たち」  文也は左手で顎を|撫《な》でた。 「ひどい夜だったもの……」  そういってから、比奈子に目を遣って、気まずそうな顔になった。彼女は、窓に顔をそむけた。自分の顔が歪んでいるのがわかった。  ひどい夜! 二人で過ごした初めての夜を、そういい表すしかないとは。情けなくなった。普通なら、二人は笑い合い、幸福感に包まれていたはずだ。比奈子の目から涙が|滲《にじ》んだ。|嗚《お》|咽《えつ》がこみあげてきた。  車が減速して、路肩に止まった。 「どうしたんだい」  文也が|訊《たず》ねた。比奈子は黙って、うつむいていた。膝に置いた手が涙で|濡《ぬ》れていた。文也がその手に、自分の手を重ねた。比奈子は、彼の首にしがみついた。彼の体は温かく、冬の日だまりのようだった。文也はそっと彼女の背中に手を回した。二人は夜が明けるまでそうしていたように、しっかりと抱き合った。比奈子の気持ちが少しずつ落ち着いてきた。顔を上げると、文也と目があった。気遣いと不安がないまぜになった瞳だった。比奈子は自分の衝動が恥ずかしくなって、気弱く微笑んだ。文也が彼女にキスをした。  ぐしゃっ。何かが|潰《つぶ》れるような音に、文也と比奈子は顔を上げた。フロントガラスに赤い血が広がっていた。見ているうちに、血は下へ滴り落ちていく。  比奈子は小さく悲鳴を洩らして、文也の胸に顔を埋めた。文也はゆっくりと比奈子から体を離すと、ドアを開けて外に出た。比奈子は恐るおそる、前を見た。ボンネットの上に柔らかな羽毛に覆われた小さな塊が落ちていた。文也は木の枝で鳥の死骸をはね飛ばすと、運転席に戻ってワイパーのスイッチを押し、フロントガラスを掃除した。 「馬鹿な鳥だ。止まっていた車に、向こうからぶつかってきた」  文也が、たいしたことはないといいたそうな口ぶりでいった。だがその声には、不自然な緊張がこもっていた。比奈子は、座席に体を埋めて|呻《うめ》いた。 「莎代里ちゃんね」  文也は怒った顔でエンジンをかけた。車は再び走り出した。比奈子は声を大きくしていった。 「ゆうべのことも莎代里ちゃんのせいよ」 「莎代里は死んだんだ」  文也は前を向いたままで答えた。比奈子の頭に血が上った。青龍寺での態度と同じだ。文也は決して、莎代里のことを認めようとしない。 「何もかも莎代里ちゃんのせいよ。私たちに怒っているのよ。わかってるでしょ」  文也は返事をしなかった。車が大きなカーブを曲がった。少しずつ石鎚山が近づいてくる。 「莎代里ちゃん、文也君のこと好きだったのよ。知ってた?」  文也は|頷《うなず》いた。比奈子は内心驚きながら、また聞いた。 「文也君は彼女のこと、どう思っていたの」 「何も思ってなかった」といってから、文也は眉根に|皺《しわ》を寄せた。 「いや……わからない」  自分のことはどう思っていたのか、そう聞こうとして、比奈子は|躊躇《ちゅうちょ》した。返事を聞くのが怖かった。自分はこうして言葉を呑みこみつづけてきたのだと思った。言葉を|甲《こう》|羅《ら》の中に隠しながら、こぼれた感情を絵に吐き出してきた。相手と話し合うことなく、感情だけを昇華してきた。だから、透とのつきあいでも何も生み出せなかったのだ。  やめようと決心したはずだ、自分の中だけで完結していくのは。比奈子は思いきっていった。 「私も文也君のこと、小学校の時から好きだった」  文也が意外だという表情で彼女を見た。 「だけど私って、いつも亀みたいに甲羅に閉じこもっていた。だから表には出せなかったのよ」  比奈子はフロントガラスを睨みつけながら続けた。一度口を開くと、どこで話をやめていいかわからなくなった。言葉はつっかえながらも次々に出てきた。子供の頃のこと。透との恋愛のこと。何も与えず、何も得なかったこと。それをやめようと思ったこと。もう語ることがなくなると、比奈子は大きく息をして座席に体を沈めた。  文也は黙ったまま、前を向いて運転している。比奈子は急に不安になった。言葉を発しても、無意味なのかもしれない。話したからといって、他人が自分を理解してくれるわけではないのではないか。  しばらく車のエンジンの音しかしなかった。車を降りて逃げ出したくなった時、文也が口を開いた。 「強いね、比奈ちゃん」  比奈子はその意味がわからなくて、文也の顔を見た。 「みんな程度はどうであれ、甲羅は被っているよ。それは自覚すればするほど重くなる自分の殼だ。だけど比奈ちゃんは、その重さを感じながらひきずってきた。強いんだと思う。僕は……」  文也は言葉を切って、ハンドルを回した。車はまたカーブを曲がった。 「僕は、甲羅というものを見ないようにしてきた」  文也は苦々しげにいった。 「自分が、人生にも、他の人たちにもものわかりのいい人間だと信じてきた。ものわかりがよすぎたから、早くから人生に疲れたのだと思ってきた。だけど、今では何だかわからない。……ひょっとしたら僕は安全な自分の甲羅の中にいて、外の世界に自己流の解釈をつけていただけかもしれない。甲羅の外の世界に出ていくことをせずに、それを直視することを避けてきた。純子……別れた妻が抱いていた不満も……莎代里の視線も……」 「莎代里の視線?」  比奈子は|囁《ささや》くように聞いた。 「莎代里は昔から僕を見ていた。僕のことを好きだとは、うすうす勘づいていた。しかし、僕は気がつかないふりをしてしまった」  文也はぷつんと言葉を切った。向こうに駐車場が見えてきた。 「土小屋についたよ」  文也は話を打ち切るようにいった。 「せっかくだから、石鎚山を拝んでいこうか」  比奈子は、それもいいわねと答えた。車は駐車場に入っていった。  駐車場のまわりには数軒の|土産《み や げ》|物《もの》屋やレストランが集まっていた。『石鎚山登山口 土小屋』という看板が立っている。比奈子は車の外に出た。駐車場には他の車は一台も止まっていなかった。土産物屋やレストランはシャッターをおろしている。|人《ひと》|気《け》のない登山口は、台風の後の|清《すが》|々《すが》しい空気に満ちていた。目の前には石鎚山の|尖《とが》った山頂が天を貫くように伸びている。この山は、見る角度によってずいぶんと形を変えていた。  比奈子は大きく腕を広げて深呼吸した。肩の荷がおりた気がして、気持ちがよかった。思っていたことを口に出したせいかもしれない。  ——強いね、比奈ちゃん——  文也のいった言葉が、胸の奥にしっかりとしみこんでいた。自分の性格が強いといわれたのは、はじめてだったから、|嬉《うれ》しかった。  文也は駐車場の横にある案内図を見ていた。 「高校の時登ったことがあるけど、表参道っていわれる北側からだったんだ。こっちの裏参道のほうが近いな。それでも、山頂まで二時間半だって」 「石鎚山か。私は登ったことないわ」  文也は腕時計を見て、八時半だといった。そして青い空に屹立する石鎚山を見た。 「どうせ今から役場に出ていっても遅刻だ。登ってみてもいいな、どう?」  比奈子は一瞬、迷った。それほど登りたいという気持ちもなかった。しかし、登ることにすれば、今日一日、文也と一緒にいられる。それが彼女を決心させた。 「登りたいわ」  文也はにっこりした。 「じゃあ行こう。実は僕、タカさんの書いていたことが気にかかっていてね。石鎚山は死者の魂の行く山だってことなんだけど、何かおもしろいものが見つかるかもしれない」  比奈子はいやな気がした。二人の間に、死者の話なんか出てきてほしくはなかった。比奈子は彼の手の中に自分の手を滑りこませた。 「タカさんのことよりも、ハイキングよ」  文也は、そうだなといって、比奈子の手を握りしめた。そして、役場に明日から出勤することをいってくる、と公衆電話に走っていった。比奈子は車に戻って、バッグからハンカチとティッシュペーパーを取り出した。財布一式はバッグごと置いていくことにした。山登りで貴重品を落としたくはなかった。小銭だけポケットに入れると、車をロックしてドアを閉めた。文也が電話から戻ってきた。 「道路が不通になってるっていったら、すんなり休ませてくれたよ」 「悪い人ね」 「年休が余るよりは、いいさ」  文也は笑って比奈子の手を取った。二人は手をつないで|栂《つが》林にかこまれた登山道に入っていった。  木の|梢《こずえ》から落ちた水滴が、直郎の|襟《えり》|許《もと》に降りかかった。彼は驚いて肩を震わせた。茶色の|栗鼠《りす》が木をかけ登っていくのが見えた。直郎は弱々しい笑みを浮かべた。  頭が|朦《もう》|朧《ろう》としている。肩が燃えるように痛む。|足《あし》|許《もと》がふらついていた。  目の前には、|灌《かん》|木《ぼく》の茂る林が続いている。下生えの草を注意深く観察しないと、そこに道があるかどうかわからない。しかし直郎は長年の勘で、無意識に道を感じとり、山に分け入った。  最後にこの道を通ったのは、妻の節子が死んで一年たった時だった。直郎と、妻の年老いた母と兄妹と登っていった。義母は七十歳になろうとしているのに、足腰は驚くほど丈夫だった。|杖《つえ》をつきながら、曲がった腰で坂道を登りつづけた。あれはどこだっただろう。深い沢を渡っている時、義母が急に足を止めた。下方から吹いてくる爽やかな風に涼んでいるのかと思っていると、やがて低い声で、誰かの魂が今、山に昇っていったと|呟《つぶや》いた。その時、直郎は、節子の魂もこの沢を渡っていったのだろうかと思った。そして節子の死を思い出し、心の底が抜けたような空虚感を覚えた。  節子が死んだのは、秋も深まった頃だった。|芒《すすき》の穂をかきわけて、その夕、直郎が長いお勤めから帰ると、家は庭先まで明かりが灯り、人で|賑《にぎ》わっていた。直郎はとっさに赤ん坊が生まれたのだと思った。お勤めに出る前、節子は臨月に近かった。  直郎は喜びにはちきれそうになりながら、家の中を|覗《のぞ》いた。そこに見たのは、黒い着物を着た人間ばかりだった。部屋に漂う影法師のように、見覚えのある人々が酒を飲み、料理を食べていた。その中から、直郎の父が出てきた。父は言葉につまりながら、難産で母子共に死んでしまったのだと告げた。  信じられなかった。父は、縁側に座りこんで|茫《ぼう》|然《ぜん》としている直郎に、葬式は今日終わったところだといった。  直郎は、すぐさま墓に駆けつけようとした。父が彼の腕をつかんだ。 「行ったらいかん」  恐ろしい形相で父がいった。なぜ、駄目なのかわからなかった。直郎は、父の手を振り払って、先祖代々の墓に向かった。  墓地には、人がいた。鎌を手にした村の老女たちだった。女たちの足許で、妻の|棺《かん》|桶《おけ》が開かれていた。鎌が振り上げられ、節子の下腹部に突き刺さった。そして黒々とした塊がひきずり出された。胎児だった。手足が、丸焼きにした|鶏《にわとり》のように縮こまっていた。鎌の先の黒い血が、粘るように滴り落ちるのが見えた。  悲鳴をあげて止めに入ろうとした直郎を、後ろから太い手が幾本も伸びてきて止めた。村の男たちが、暴れ狂う直郎を墓地から連れ出していった。  |身《み》|籠《ごも》ったまま死んだ女は、埋葬後、腹の子を取り出して、二つ身にしてもう一度埋めないといけない。そういうしきたりがあると知ったのは、後のことだった。そうしなければ、母も子も共に山に行くことはできない。永遠に、この世をさまようことになるというのだった。  墓地で見た光景は今も直郎の脳裏に焼きついている。腹から子をひきずり出されて、横たわる節子の姿。その記憶が強烈すぎて頭から離れない。子供は男だったという。  直郎は木立の間にのぞく石鎚山を見上げた。妻と子は、あそこにいるのだろうか。黒い血の滴る胎児を抱いた節子の姿を思い浮かべて、|眉《み》|間《けん》の|皺《しわ》がさらに深くなった。  五葉松が尖った葉を天に向けて立っていた。救いを求めるように枯れた枝を広げる白骨樹、地面を覆う深緑の|熊《くま》|笹《ざさ》の原。吹き上げてくる風に揺れる熊笹の音を聞きながら、文也と比奈子は歩いていた。道は台風のせいでぬかるんでいた。雷に打たれた大木が、黒こげになった枝を力なく垂らしている。幾重にも連なる斜面の向こうに、石鎚山の岩だらけの山頂がくっきりと見えた。  文也は時折立ち止まっては、比奈子を振り返った。彼女は荒い息を吐きながら、一生懸命に彼についてきていた。さっき車の中で打ち明けられた話のせいだろうか。その姿は、|甲《こう》|羅《ら》を脱ぎ棄てて変わろうと努力している亀のように思えた。 「足許に気をつけて」  朽ちた木の階段を昇ってくる比奈子に、文也は手を差し出した。 「ありがとう」  汗の|滲《にじ》んだ顔に笑みを浮かべて、比奈子が彼の手を握った。その様子がいとおしくて、文也も笑みを返した時だった。彼女の肩ごしに誰かが立っているのが見えた。文也は、はっとして、目をこらした。  誰もいなかった。熊笹が風に揺れているだけだ。ざざざわわ。熊笹の音が、彼を包んだ。 「痛いわ」  比奈子の声がした。気がつくと、彼女の手を強く握りしめていた。文也は、ごめん、と謝って、そっと熊笹のほうに視線を戻した。やはり誰もいなかった。そばに、ひょろりとした白骨樹が立っていた。空に広げた枝の一本一本が、奇妙にばらばらの方向に揺れている。見ているうちに、自分の心まで四方八方にひっぱられて均衡を失いそうな気がした。  文也は前を向くと、ずんずん歩き出した。背中にまた、あの視線を感じていた。  熊笹の原を抜けると、岩だらけの斜面に道が続いている。石鎚山はその名の通り、石でできている山だ。積み重なった石の上に生える|苔《こけ》。岩の間に根をはり、斜面にへばりつく木々。ところどころに立っている『落石注意』の札。古木の股や平らな枝の上、道端の岩の上に、小さな石が積み重ねられているありさまは、|賽《さい》の河原のようだ。  山の小動物だろうか、時折、草むらでかさこそと何かが動く音がする。頭のすぐ上に、石鎚山の頂上の岩が|屏風《びょうぶ》のようにそそり立っている。かつて父から、あの|崖《がけ》っぷちに半身乗り出して度胸を試す修験者の修行があると聞いたことを思い出した。 「あれ、何かしら」  比奈子が、前方に見える青い小屋を指さして聞いた。 「二の鎖小屋だよ。あそこに二番目の鎖があるんだ」  比奈子が|怪《け》|訝《げん》な顔をしたので、文也は山頂までには三つの岩場があって、それぞれ鎖を登って上がることになっていると説明した。 「この道は、二の鎖のところに出るみたいだな」 「なんだ、もうすぐ到着ね。四国最高峰っていっても、意外と楽じゃない」  文也はにやりとした。 「ところが、ところが。最後のひとふんばりが、大変なんだよ。確か二の鎖は五十メートル、三の鎖となると六十メートルくらいはあるんだからさ。楽なんていってて、後で泣きっ面するなよ」 「意地悪ね」  比奈子は文也の肩を叩いた。文也はふざけて逃げるふりをした。  カランカラカラ。突然、頭上で音がした。|遥《はる》か上の岩だらけの斜面から、小石がひとつ二人めがけて落ちてきていた。子供の|拳《こぶし》ほどの石は二人の間を裂くようにして、さらに深い谷底に落ちていった。  文也は頭上を仰いだ。風も吹きつけていないその斜面に、動くものはなにもなかった。石たちは地面に|貼《は》りついている。落ちてきた小石だけが、命を持って動きだしたかのようだった。比奈子が脅えた顔で、彼を見た。 「行こう」  文也は、ぶっきらぼうにいうと歩きだそうとした。 「私を先に行かせて」  比奈子が彼の前に割りこんできた。文也は、いいよといいながら、彼女もまたあの視線を感じているのだと思った。  再び歩きだしてからも、誰かに見られているという感覚は消えなかった。背筋がぞくぞくして、首のうしろの産毛が逆立った。振り返ると莎代里がいるような気がした。  いや、そんなはずはない。莎代里は死んだのだ。死んだ莎代里が自分を見つめているとは、絶対に認めたくはなかった。  子供の頃、視線を感じて振り返ると、そこにはいつも莎代里がいた。しかし文也はそれを無視していた。莎代里の視線にこもる愛情を無視したのだ。彼女の愛情を受け入れたくなかった。そうしたら、自分の気持ちも受け入れないではいられなくなる。自分の気持ち、それは——。  文也は石ころだらけの道を|睨《にら》みつけた。  莎代里の視線に感じた心地よさ。  文也は奥歯を噛みしめた。自分は莎代里の視線を浴びることが好きだったのだ。好きだったからこそ、気がつかないふりをしていた。そうすれば、その視線は永遠に自分にそそがれるであろうことを、本能的に悟っていたのだ。彼は正しかった。子供から大人になり、結婚しても、さらには離婚してからも、視線は文也から離れることはなかった。彼は、そこにこもる熱く冷たい愛情に心地よいものを感じていた。  彼自身、そのことを今まで明確に意識したことはなかった。考えることすら避けていた。  しかし事実なのだ。彼は、莎代里の視線が好きだった。いつも誰かが自分を見ていてくれるという思いは、彼の孤独感を癒してくれたから。  だが莎代里の視線は、中学三年の夏を境に、死者のものとなってしまった。以後、その存在を意識の外へ追いやろうとしてきた。死者の視線に心地よさを感じている自分を認めるわけにはいかなかった。彼は生きているのだ。生きていたいのだ。  莎代里はもう死んだのだ。  悲鳴にも似た声で、これまで幾度となく思ってきたことを、文也は心で叫んだ。 「着いたっ」  比奈子がほっとしたようにいった。青いペンキで塗られた二の鎖小屋が、明るい日射しの下に立っていた。登山者の休憩所や、宿泊場所に使われているようだが、今はトタンの雨戸に閉ざされていた。台風で下山した小屋の者は、今日は商売にはならないと踏んで、上がってこないのだろう。二人は小屋の前の自動販売機でジュースを買うと、ベンチに座って少し休んだ。比奈子が小屋の前に『石鎚大天狗』と書かれた小さな石像を見つけて、ふざけながらお祈りした。小屋を抜けると茶色の大きな鳥居があり、その奥に岩だらけの急斜面が続いている。斜面には鈍い色を放つ鉄の鎖が下がっていた。 「あれ登るの」  こわごわ尋ねる比奈子に、文也は別の道があるといって鳥居の前を通り過ぎた。鎖を登れない者のために、|迂《う》|回《かい》路が設けられていた。とはいえ、それも決して安心できる道ではなかった。急な小道は、ところどころで絶壁に分断され、その間は鉄板で作られた階段でつながれていた。手すり代わりに張られたロープを伝っていかないといけない。 「ここで待ってるかい」  文也が聞いた。比奈子は、さっと後ろに目を遣った。からりと晴れた空から、太陽の光が降りそそいでいる。比奈子は目を細めて首を横に振った。この|眩《まぶ》しいほどの明るさの中で、彼女は|怯《おび》えていた。  文也は比奈子の手を握った。そしてまた手を離すと、先に立って迂回路を登りはじめた。あたりは静かな明るさに満ちていた。眼下に連なる鮮やかな緑の山並。透明感のある空気。石を照り返す光。文也は緑がかった石に覆われた頂を仰いだ。  ここは、あまりに天に近い。|畏《おそ》れに似た感情にとらわれて、彼は目がくらみそうになった。  直郎は石鎚山の山塊を仰いだ。三の鎖がぶら下がる絶壁が見えた。この道は、三の鎖を迂回する道に通じていた。額から|脂汗《あぶらあせ》が流れた。悪寒がした。直郎はしばらく立ち止まって、呼吸を整えた。肩の痛みは、ずきんずきんと波のように押し寄せてくる。力が脂汗とともに、体から抜けていく。  心が洗われるような透明で青い空がひろがっていた。太陽は暖かく輝いている。こんな天気のいい日に、苦痛に顔を|歪《ゆが》ませ、悪寒に震えているのがおかしいくらいだった。ひきつるような笑いを顔に浮かべて、再び歩きだした時、三の鎖から山頂に続く道を登る人影が見えた。台風の翌日に登ってくるとは、よほど山が好きな連中にちがいない。  直郎は登山者といわれる者たちを好きになれなかった。山は遊びで登る場所ではない。|崇《あが》め仰ぐ場所なのだ。しかも、あの一行はどうだ。子供まで連れて登っていく。  そう思ってから、鉄板の階段を登る男女の後についていく子供の様子がおかしいことに気がついた。少女のようではあるが、その姿がはっきりしない。|蝋《ろう》|燭《そく》の炎にも似て、絶えずかたちを変えている。ある時には、おかっぱ頭の黒髪が見えたかと思うと、次の瞬間には顔も体も立ち昇る煙のように|捩《よ》じれてしまう。歩いているようではなかった。頼りなげにふらつきながら、階段を滑っていく。まるで黒い水が低いところから高いところに、ずるずる|這《は》い上がっていくようだ。  直郎は息を止めた。  まさか……。  少女の周囲には、影のような黒いもやが渦巻いていた。それは山の清浄なる空気とは違う空気。  ——石鎚が汚されようとしている——  岩屋で聞いた神の声が彼の全身を打った。直郎は山頂に向かって走りだした。      4  岩だらけの山頂に風が吹きすさんでいた。眼下に緑の尾根が続いている。空がひときわ近くなったようだ。太陽の光がその輝く腕で辺りを包みこんでいる。比奈子は風に舞う髪を押さえながら、荒い息を整えた。冷たい風に、汗はすぐにひいていった。  石鎚山の頂上は、学校の教室ほどの広さの岩場になっていた。下のほうには、石鎚神社のコンクリートの|祠《ほこら》が立っている。比奈子は文也に、神様にお祈りすると声をかけて祠の前に立った。  祠には、丸い鏡が|捧《ささ》げられていた。比奈子はその前で|柏手《かしわで》を打った。  文也との仲がうまくいきますように。真っ先に頭に浮かんできた願いを心の内で|呟《つぶや》いた。祠から離れて文也の姿を探すと、かれはさらに二メートルほど上にある、岩場の頂上によじ登っていくところだった。その一帯は岩が崩れるのを防ぐように、太い鉄の鎖で覆われている。頂上は、木の|柵《さく》に囲まれた四角い神域になっていた。『キケン立入禁止』という立て看板を見て、比奈子は叫んだ。 「文也君っ、だめよ、そこ」  文也は、にやりとして手を振ると木の柵をまたいだ。その背中が二重にだぶって見えた。背中から影のようなものが現れて、ふいっと垣根を越えて、神域に滑りこんだ。  比奈子は目をしばたかせた。明るすぎる光のせいだろうか。四角い神域が急に暗くなったようだった。胸騒ぎを覚えて、文也を追って岩を登っていった。  柵に囲まれた神域の前の立て札に、石鎚山の開祖役小角記念の地というようなことが書かれていた。中には無数の石が積み重ねられ、小山のようになっている。文也はその石の山の上にかがみこんでいた。どの石の表面もつやつやと光って見えるほど明るいのに、文也の顔がよく見えない。彼のまわりに黒い空気が渦を巻いている気がした。 「文也君っ」  比奈子は恐ろしくなって声をかけた。  文也が顔を上げた。その手には緑色の石が握られていた。 「見て。これ、神の谷の石柱と同じ石だ」 「ほんと……?」  比奈子も柵を越えて、文也の横に立った。緑色の石は確かに神の谷の石柱とそっくりに思えた。  文也は緑色の石を指先で|撫《な》でながらいった。 「古代人たちは、これで作った石柱を神の谷に持ってきて、礼拝の対象にしていたんだ。たぶん死者に対する礼拝だったんだろう。しかし時代が変わり、石柱は泥に沈んでしまい、礼拝の対象はなくなった……」  石には死霊を集める力がある。  昨日、病院で聞いた日浦康鷹の言葉が|蘇《よみがえ》った。あの石柱は、死者の霊を集めるために置かれたのだ。死者の場所としての神の谷の力を強めるために。  それを谷の底から出してしまったのは莎代里だ、と康鷹は告げた。石柱を文也に立てさせたのは、莎代里ということか。一昨日、神の谷で見た照子は、莎代里と一緒だといった。照子に石柱のまわりを左向きに回るようにそそのかしたのも、莎代里にちがいない。神の谷は、四国の中で最も死国に近い場所。そして左回りは死国への道だ。神の谷で石柱を左に回っていた日浦母娘は、石の力を増大させ、死国から死霊たちを呼び寄せていたのではないか……。  背中に冷たいものが走った。比奈子は考えを打ち切った。 「ここは立ち入り禁止区域よ。出ましょ」  緑の石を捨てて立ち上がった文也が、あっと声を洩らした。 「霧が出ている」  下のほうから、白い霧が|湧《わ》き上がっていた。切り立った深い谷を、熊笹の茂る斜面を、細くカーブしながら続く道路を、霧は信じられない早さで覆い隠している。 「大変だわ。降りられなくなる」  比奈子は柵のところに戻ろうとした。しかし文也はその場から動かない。比奈子は、文也の名を呼んだ。彼は興奮したようにいった。 「古事記だ」  比奈子は眉をひそめた。こんな時に何をいいだすのかと思った。それでも文也は目を輝かせて下界を見つめている。  もう霧は、どっぷりと下方を覆っていた。比奈子たちの立つ山頂のこの岩場だけが、浮島のように白い霧の海に浮かんでいる。霧の表面は煙立ち、全体が大きな渦を巻いていた。比奈子は恐怖を覚えた。世界が白い霧に覆い尽くされ、消滅してしまった気がした。  文也の呟きが聞こえた。 「国|稚《わか》く、浮く脂の如く、|海月《くらげ》の如く、漂える時……」  比奈子は|苛《いら》|々《いら》していった。 「何いってるの。早くここから降りないと」 「古事記だよ。タカさんの『四国の古代文化』の冒頭にもあった、この世のはじまりだよ。見てごらん、比奈ちゃん。そっくりじゃないか」  文也は下界を指さした。  どこまでも続く霧の海。空は青く輝いている。湧き上がる白い波間に浮かぶ島のように、石鎚山の頂上だけが残っていた。 「|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》と|伊邪那美命《いざなみのみこと》が国を生んだ時の様子って、こうだったんじゃないか。乳白色の海から浮かび上がってきた、|伊《い》|豫《よ》|之《の》|二名嶋《ふたなのしま》。四国のことだよ。大海原から最初に現れた土地こそ、四国最高峰の石鎚山の頂上だったにちがいない。四国は、今僕らが立ってる、この場所から生まれたんだ」  熱に浮かされたような文也の言葉が、比奈子の心にしみこんできた。確かに、この光景は世界のはじまりのように思えた。世界がまだ|混《こん》|沌《とん》としていて、かたちを成していない時代。霧の海に浮かんだ、最初の島……。  文也の声を聞きながら、比奈子はあたりを見回した。と、その時、くるぶしまで届く霧の海から、黒々とした手がにゅっと突き出された。血まみれの手が近くの岩をつかんだと思うと、次に頭を短く刈ったいかつい男の顔が現れた。比奈子は悲鳴をあげた。  直郎が怒鳴った。 「そこから降りろっ」  汚れて煮しめたようになった白装束。顔の髭は長く|剃《そ》ってないらしく野放図に生え、目はらんらんと光っている。左肩から滲んだ血が、|赤《あか》|錆《さび》色に広がっている。直郎は、ふらふらと二人に近づいてきた。文也が比奈子をかばうように前に立った。 「おんしらは石鎚を汚した」  直郎は二人を殺しかねない剣幕でいった。 「何のことですか」  文也が比奈子を柵のほうにひき寄せながら問い返した。 「汚れた霊を連れてきおった。やつらは自分の力ではここには登れやせん。あいつらを連れてこれるのは生きた人間じゃ。あいつらに魅入られた人間、おんしらのことじゃ」  突然、高らかな笑い声が響いた。三人は、はっとしてお互いの顔を盗み見た。笑い声は続いている。|嘲笑《あざわら》うような少女の声は、その場の者が出しているものではなかった。  笑い声は、神域の中央から聞こえていた。三人の視線がゆっくりと移動していき、そこに|釘《くぎ》|付《づ》けになった。  石を積んだ山の上に、黒いものが漂っていた。ぼんやりと人のかたちをした影法師。その下の岩から、水が|滲《にじ》み出していた。水の表面から白い霧が立ち昇っている。いや、霧とも違う何かだった。どろどろと重たげに地面から|這《は》い上がり、影を包みこんでいく。卵の白身のように影を覆ったと思うと、人の姿をかたちづくりはじめた。最初に細面の少女の顔が現れた。白くまだ柔らかい粘土を、見えない手が彫刻しているようだった。目の部分が落ち|窪《くぼ》み、切れ長の瞼が刻まれた。顔の中央に、鼻がひねり出された。墨色の影が頭頂に集まり、髪の毛となった。鶴のような首筋、膨らみかけた胸、すんなりした腕。そこに、ほっそりした体をセーラー服に包んだ少女が立っていた。  莎代里!  比奈子は両手で口をふさいで、叫び声をあげそうになるのをこらえた。叫びはじめたら、やめることはできないだろう。声が|嗄《か》れ果てるまで叫びつづけるにちがいなかった。今、見ているものが夢であってほしいと願った。  しかし莎代里は、そこにいた。彼女の覚えている莎代里より少し大人びた姿で立っていた。それは、日浦家の仏壇の遺影に映っていた莎代里だった。中学生に成長し、死ぬ直前の彼女。それでも小学生の時の面影を色濃く残していた。射るような瞳の奥に宿る、誇り高い精神。  莎代里は文也に向かっていった。 〈文也君、あたし、帰ってきた〉  莎代里は、彼に見せつけるように自分のすべすべした白い手を|撫《な》でた。莎代里の|足《あし》|許《もと》の石が、彼女の重みでカチリと音をたてた。  文也は真っ青になって莎代里を見つめていた。莎代里は|微笑《ほ ほ え》んでいた。それは、生きている人間の笑みではなかった。冷たく、張りのない笑み。死者の顔だった。 「そこから出ろ、汚れた霊めっ」  直郎が木の柵を越えてきた。  莎代里は嘲るような表情を浮かべた。 〈どうして、あたしが汚れた霊やの。おんなじよ。谷におる霊も、山におる霊も。汚れたやの、汚れてないやのは、あんたらの決めたこと。うちは、この世に戻ってきとうてたまらんかっただけ。ほんやき魂を取りに来た〉  莎代里は歌うように続けた。 〈この世に戻りたがっちゅうんは、あたしだけやない。みんなあ、戻りたがっちゅう。死国やのうて、この四国に〉  莎代里は運動靴の先で、足許の石を|蹴《け》った。小石の山が四方に飛び散った。それが合図だったかのように、山全体が揺れはじめた。頂上の岩がガラガラと崩れていく。岩にからみついていた鉄の鎖が、強い力にねじ曲げられるように飛び散った。  大地に揺さぶられ、直郎がよろめきながら倒れた。比奈子は叫び声をあげながら文也にしがみついた。岩の表面が|濡《ぬ》れてきた。透明な水が中から|滲《にじ》み出てきて、岩が汗を流している。水は、さっき莎代里の影を覆った白い霧に似たものを|湧《わ》き立たせながら、細かな筋となって山から流れ落ちていく。  ようやく起き上がった直郎が怒声とともに、莎代里につかみかかった。莎代里は|陽炎《かげろう》のようにするりと逃げた。追いかけようとする直郎の前に、文也が立ちふさがった。 「邪魔するな。そいつは魔物ぞっ」  直郎が叫んだ。文也がたじろいだ隙に直郎は、また莎代里に向かっていった。 「待ってくれっ」  文也が直郎の腕をつかんだ。直郎は文也を殴りつけた。文也は殴り返した。水が滲み出した岩の上で、直郎の足が滑り、柵に背中をぶつけた。木の柵は根元から折れて、直郎は柵もろとも倒れ、悲鳴をあげながら岩場から落ちていった。比奈子は、直郎の消えていった深い霧を見遣った。 「文也君っ。あの人、怪我しているのよ」  返事がなかった。  文也は莎代里と向かい合っていた。二人の視線は見えない糸でつながっているように、からみ合っている。その緊迫した|眼《まな》|差《ざ》しに、比奈子は立ちすくんだ。地鳴りも地面の揺れも遠ざかっていった。わずかの間だったのに、永遠の時間が流れたように思えた。  莎代里が視線を|逸《そ》らせた。そして壊れた柵の間を通って神域の外に出た。文也は莎代里の後に続こうとした。比奈子は文也にすがりついた。 「しっかりして。莎代里は死んだのよ。死んでいるのよっ」  しかし文也は、比奈子の言葉を聞いてはいなかった。彼の瞳には、何も映っていなかった。昨日、石鎚山に向かって夢中で車を運転していた時の文也にそっくりだった。  莎代里のせいだ。昨日も、そして今も。莎代里が文也の心をつかみ、彼の意識を現実から遠ざけているのだ。 「莎代里のこと、考えちゃだめっ」  比奈子は文也の肩を揺さぶった。彼は彼女の手を邪険に振り払うと、岩場を降りはじめた。比奈子は慌てて彼の後を追った。  山はまだ揺れつづけている。岩から流れ出る水はますます量を増していく。滴り落ちる水で、岩場全体が川になったようだ。湧き上がる白い気体が湯気のように立ち昇るなか、文也は石を伝って軽々と遠ざかっていく。比奈子は必死で足場を探しながら降りていった。  文也の前には、莎代里のセーラー服の四角い襟がひらひらと揺れていた。下方に広がる霧の中に消える直前、莎代里が振り向いた。黒髪が、白い顔のまわりで蛇のように揺れた。 〈文也君はあたしのもんよ〉  莎代里がいった。勝ち誇ったような響きが、比奈子の心に突き刺さった。莎代里の顔が霧に消えた。文也の背中も薄れていく。 「待ってっ」  比奈子は走りだそうとした。その時、誰かが足首をつかんだ。比奈子はバランスを崩して、地面に叩きつけられた。|向《むこ》う|脛《ずね》に痛みが走った。 「助けて……く……れ」 すぐ近くで|呻《うめ》き声がした。霧の中から、直郎の顔が現れた。転げ落ちた時、したたか打ちつけたのだろう。額から血が流れていた。下半身は山頂の|崖《がけ》から飛び出してもがいている。手ががりとなる岩は、水を流して滑りやすくなっている。今にも直郎の体は深い谷に落ちそうだった。最後の力をこめて、通りかかった比奈子の足首をつかんだのだ。放っておくわけにはいかなかった。比奈子は急いで、直郎をひきずり上げた。 「ありがたい」  直郎がいった。比奈子は、その汗と|垢《あか》の混じった臭いに顔をしかめた。  ガタンガタガターッ。耳をつんざくような音がした。比奈子と直郎は顔を見合わせた。比奈子は、下に続く道へ向かった。鉄板で作られた階段が壊れていた。岩を留めていた大きなネジがはずれて、ぶらぶらしている。傾いた鉄板は、見ているうちに|断《だん》|崖《がい》の下へ落ちていった。  山頂に取り残されたのだ。山は、ますます激しく揺れていた。比奈子は怖くなって、直郎の許にひき返した。直郎は額の血を|拭《ぬぐ》おうともせずに、水を滴らせる岩の上に座りこんでいた。肩の傷口が開いたらしく、新たな鮮血が白衣を染めていた。 「下に降りる道は、あそこしかないの?」  ざあさあと大きな音をたてて流れる水音に負けないように、比奈子は声をはりあげた。直郎はそれには答えずに|呟《つぶや》いた。 「神の魂が山を下っていく」  比奈子が、その意味を聞こうとした時、大きな音が|轟《とどろ》いた。二人のいる場所の岩に亀裂が走った。 「ここにいたら危ないわっ」  直郎はだまって岩場の向こうを指さした。比奈子は、そこに別の道でもあるかと思って行ってみた。太い六筋の鉄の鎖が深い霧の底まで続いていた。三の鎖だった。六十メートルはあるといった文也の言葉を思い出して、比奈子の足がすくんだ。しかし山は揺れつづけていた。霧の底から、水の轟きが聞こえてきた。水を吐き出した岩はもろくなるのか、砂のようにぼろぼろと崩れていく。崩れた岩の断面から、とめどなく水が流れつづけている。 「早う降りたがええ」  気がつくと、直郎が横に立っていた。 「わしのお勤めの時に、こんなことになるとは……」  比奈子は、直郎の目から涙が流れているのに気がついた。涙と額から流れる血が一緒になり、いかつい顔を汚している。 「あなたは……どなたです?」  直郎は深い霧の奥を見つめた。 「四国巡りの者じゃ」  大きな音をたてて、石鎚神社の|祠《ほこら》が崩れ落ちた。三の鎖を留めている岩も小刻みに揺れている。留め具の鉄輪がゆるみそうだ。このままでは鎖もいつまで保つかわからない。直郎は比奈子を促した。比奈子は鎖に手をかけた。冷たい鉄の鎖が掌にぴったりとくっついた。 「あなたは?」  直郎はくるりと比奈子に背を向けて、山頂の岩場に戻りはじめた。足許に、肩から流れる血が点々と落ちていた。比奈子は降りたほうがいいと叫んだが、直郎は振り返りもしなかった。  他人のことを心配するより、今は自分の命すら危なかった。比宗子は決心して、鎖を伝って降りはじめた。すぐに鎖を握る手が痛くなった。足場の岩は、流れ落ちてくる水で滝のようだ。水量はどんどん増している。こんなに多量の水を放ったら、山は砂のように崩れ落ちてしまうのではないかと思った。  水から湧き立つ白い気体と霧が混じり合い、もうあたりは何も見えない。自分がどれくらい降りたのか、あと地面までどれくらいなのか少しもわからない。鎖は永遠に続いている気がした。底があるとしたら、それは地獄ではないだろうか。死者の|蠢《うごめ》く地獄……。  突然、鎖の手応えが消えた。次の瞬間、鎖が切れたのがわかった。体が宙に投げ出された。比奈子は悲鳴をあげながら、霧の中に消えていった。  女の悲鳴を聞いた気がした。直郎は沈痛な表情で霧を見下ろした。山鳴りは大きくなる一方だ。山が泣いていた。魂を流しながら泣いていた。直郎は体をひきずるようにして、石鎚山の頂上の神域に戻った。肩の痛みは耐えられないほどになっていた。激痛に気が遠くなりそうだ。左手の先まで血が滴り落ちていた。出血は止まりそうもなかった。直郎は崩れ落ちていく石の上によろめきながら立った。  眼下には、白い霧の海が渦巻いていた。その底に広がる世界を見たくないと思った。  かつて四国は、死国であった。  長老の言葉が頭に響いていた。  死者も生者も、同じこの島に住まっていた時代があった。四国を生者の島にしたのは、わしらの先祖。四国を巡ることにより、死者の霊を天に昇る霊と、地に沈む霊の二つに分けて、この世に存在できないようにした。天に昇る霊は、われらの神となり、石鎚へと集まっていった。  地に沈む霊は、死国とともに、この世の外に追いやられた。しかし彼らは生に執着する。この世で生を取り戻したいと願っている。だから、いつか石鎚に昇った魂を取り戻し、|蘇《よみがえ》ろうともくろんでいる。そうなれば恐ろしいことになる。四国は、死者と生者の入り交じる国に戻ってしまう。  それが今、現実となろうとしていた。あの忌まわしい少女がここで蘇り、山を汚してしまった。そのため神を天にひきつけていた力が弱まったのだ。神の魂は水に乗り、地に降りはじめた。地に沈んだ霊が呼んでいるのだ。  四国は死国になろうとしている。  直郎は、滑る岩の上を歩きだした。右回りに、岩場の上を巡っていく。肩の傷口が焼けるようだ。ふらつく体を前かがみにして、顔を苦痛に|歪《ゆが》めさせて、それでも回りつづける。  巡ること。四国を巡ること。石鎚を巡ること。彼も、彼の先祖もそうやって巡ってきた。それが彼らの知っている、ただひとつの祈り方だった。代々、その祈りを守ってきたのだ。歩くこと。祈ること。一歩、一歩に、心をこめて前に進むこと。時が移ろうとも、この祈りだけは変わりはしない。  地底から湧き上がる霧が、直郎のまわりに渦を巻く。地鳴りが続く。四方から水の轟きが聞こえる。山は怒り狂い、|吼《ほ》えていた。  もう彼を見守る神の存在は感じられなかった。  シゲは急に陰った空を見上げた。さっきまで真っ青に晴れ渡っていた空を、無数の雲が流れていた。小さな雲が、隊列を組むように山の向こうに遠ざかっていく。台風の後に、これほど多くの雲が流れるのは見たことがない。シゲは下唇を突き出して、しばらく雲の行方を見送っていた。  台風の後片付けをしていたところだった。庭や家の前の畑には、風に落とされた木の枝や葉、|桶《おけ》やゴミが散らばっていた。  ゆうべは竹雄のことが思い出されてならなかった。しかし朝になり台風が過ぎてしまったのを知ると、恐怖も|嘘《うそ》のように消えていった。竹雄がこの世に戻ってくるのではないかと怖れた自分が愚かしく思えた。もう過ぎたことだ。今更、何に脅える必要があるというのだ。竹雄には悪いことをしたにはちがいないが、他にどうしようもなかった。  シゲは、|曾《ひ》|孫《まご》の遊び道具らしいプラスティックのスコップを拾いながら、自分の|皺《しわ》だらけの手に目を落とした。あれは、まだシゲが張りのある肌をしていた頃のこと。遠い昔の話だ。  ゴミを入れたバケツにスコップを放りこんで顔を上げると、畑の端まで来ていた。正面を逆川が流れている。台風のせいか増水していた。このところ水が少なくなっていたので、ちょうどいい。それにしても水面から白い湯気のようなものが湧き上がっているのは、どういうことだろう。心の中で|呟《つぶや》きながら、川のほうに身を乗り出した。|紙《かみ》|屑《くず》が流れていた。最近の者は、何でもぽんぽん川に投げ棄てる。片付けついでに、あの紙屑も拾ってやりたいものだと、それを|睨《にら》みつけたシゲは、おや、と思った。  紙屑は上流に向かっていた。水は下流から押し寄せ、山のほうに流れていく。逆川の水は逆流していた。シゲはバケツの柄を握りしめたまま、じっと川の流れを追った。流れの果てにある、神の谷に視線がぶつかった。谷は濃い霧に包まれていた。白い霧が、矢狗村のほうに|溢《あふ》れ出している。  シゲの内に、得体の知れない恐怖が、またじわじわとこみあげてきた。  土小屋の|土産《み や げ》|物《もの》屋は開いていた。駐車場には車が数台止まり、観光客たちが霧にすっぽり包まれた石鎚山を恐ろし気に見ていた。相変わらず、山鳴りが轟いている。比奈子は駐車場を歩いていた。膝はすりむけ、手は血だらけだった。鎖が切れて落ちた時、岩場に叩きつけられたはずみに掌を切っていた。幸い地面まで数メートルの距離だった。命拾いしたとほっとする間もなく、二の鎖を降りて、やっとの思いでここまで帰ってきた。  彼女は紺のセダンを探していた。それらしい車を一台一台、|覗《のぞ》いてまわったのに、文也の車はなかった。比奈子は、駐車場に立ち尽くした。  文也は、自分を置き去りにしたのだ。そして莎代里とともに行ってしまった……。  鎖が切れた時のようだった。最後まで信じていたものが、ぷつりと切れて、宙に放り出された。さっきは地面が近かったが、今度は違う。真っ暗な空間をどこまでも落ちていく。何にすがっていいかわからない。 「どうしました」  |耳《みみ》|許《もと》で声がした。観光客らしい中年の夫婦が比奈子を心配そうに見ていた。比奈子は、自分が泣いているのに気がついた。 「あの、私……」  そのまま何といっていいかわからずに唇を震わせた。ハンドバッグを車の中に置いていたことを思い出した。金もないまま、石鎚山の中腹に取り残されていた。おまけに、ひどい|恰《かっ》|好《こう》だった。サマーセーターは泥だらけ。ジーンズの膝も破けている。  手製らしい黄色い布の帽子を被り、首にスカーフを巻いた女が困ったように、比奈子の肩に手を回した。 「家はどこかね。帰ったがええやろうに」  東京という言葉を呑みこんで、比奈子は矢狗村と答えた。 「でも……一緒にいた人が先に帰ってしまって……どうしたらいいか……」  いつの間にか近くにいた人たちが集まっていた。矢狗村ゆうてどこかね。どうしたんやろう。そんな|囁《ささや》き声が聞こえた。 「矢狗村なら、俺の家に近いけど」  若い男の声がした。パーマをかけた、小柄な男が人をかきわけて現れた。 「ああ、よかった。そんなら、この人、送ってったげてくださいよ」  先の黄色い帽子の女が頼んだ。若い男は、ぼろ布のような恰好の比奈子から目を|逸《そ》らせるようにして|頷《うなず》いた。 「ええですよ。どうせ、これから帰るところやったき」  パーマの男が車を回してくるといって立ち去ると、野次馬たちも散っていった。黄色い帽子の女は夫に若者の車を待つようにいいおいて、比奈子を手洗い所に連れていった。そして甲斐がいしく彼女の手の傷を洗い、持っていたバンドエイドを|貼《は》ってくれた。  比奈子は、女の親切を傍観者のように眺めていた。投げやりな気分になっていた。文也は自分を見棄てて、莎代里を選んだのだ。莎代里は死んでいるのに。愛は死を|超《こ》えるという言葉は美しいが、それが現実となれば、死者と生者が愛を奪い合うことになる。理不尽なことだと思った。  黄色い帽子の女が比奈子を駐車場に連れ戻し、パーマの若者の車の助手席に乗せてくれた。 「早いとこ家に帰って、服でも着替えたら、落ち着くきね」  比奈子はぼんやりと女を見た。彼女の優しさも、今の比奈子には親切の押しつけのようにしか感じられなかった。比奈子は、小さく頷いただけだった。黄色い帽子の女は、自分の行為に満足したような笑みを浮かべて、車のドアを閉めた。パーマの男が慣れた様子で白のクーペをバックさせた。 「国道三十三号線に出る道は、|崖《がけ》|崩《くず》れで通行止めや。別の道を通るきな。なに、矢狗村までやったら二時間ばあで着く」  比奈子は返事をしようとしたが、|喉《のど》の奥からかすれた音が洩れただけだった。男は気の毒そうな顔で彼女を見遣ると、車を駐車場脇の細い林道に入れた。やはり台風のせいか、道には折れた木の枝が散らばっていた。若い男は、比奈子の気持ちをほぐそうとするように|喋《しゃべ》りだした。 「土小屋の土産物屋に、家で作りゆう漬物を納品に来たがやけど、こんな日ははじめてや。石鎚山があんな妙な音をたてたことらあ、今まで一遍もなかった。お姉さん、石鎚山に登っちょったがかえ」  比奈子は頷いた。 「ほんなら、なんであんな音しゆうがか知っちゅうやろ」 「水よ……」  比奈子は声をつまらせた。山頂での恐ろしい思いが|蘇《よみがえ》ってきた。彼は比奈子が泣きだすのではないかと思ったらしかった。 「ありゃ、ごめん。ちょっと気になっただけやき。えらいめにおうたがやねゃ」  比奈子が山で|強《ごう》|姦《かん》にでも遇ったと思っているようだった。  車は舗装もしていない道に入っていた。男は上手にでこぼこの穴を避けて運転しながら話を変えた。 「来る時、このへんで事故を起こすとこやったがやき。向こうから来た車が、たまるか、カーブでクラクションも鳴らさんで突っこんできよった。ほんで、謝りもせんと、行ってしもうた」 「土小屋からの車?」  比奈子は顔を上げた。男は彼女が言葉らしいものを発したので、喜んだようにしきりに頷いた。 「うん。青ゆうか、紺の車やった。三十くらいの男と、セーラー服を着た女の子が乗っちょった。中学生みたいの、かわいらしい子やった」  比奈子は手を握りしめた。文也と莎代里は矢狗村に向かったのだ。文也の隣で、青白い顔に満面の笑みをたたえた莎代里の表情が浮かんだ。莎代里に対する怒りがこみあげてきた。文也の隣、そこは自分の場所だった。莎代里は死んだのではないか。文也は生きているのだ。死者は、死者の場所にいるべきなのだ。 「急いでください」  比奈子が強い声でいった。男は驚いた顔をした。 「おねがいだから急いで」  その口調には、|苛《いら》|立《だ》ちと苦しみが|滲《にじ》み出ていた。  面会時間というのに、病室はひっそりとしていた。台風の次の日に見舞いに来る客はめったにいない。白いシーツにくるまって横たわる患者たちは、誰にも邪魔されずに、いつ目覚めるとも知れぬ夢を見ている。  患者の様子を見て回っていた安田智子は、日浦康鷹のベッドの前で立ち止まった。相変わらず天井を向いて目を見開いていた。意識を回復した兆候はない。昨日、見舞いに来た女が騒いでいたが、気の迷いにちがいなかった。きっと手を握った時の反射作用で握り返したか、喉のつまった音が声に聞こえたかだろう。十七年間、|昏《こん》|睡《すい》状態だった康鷹が今更目覚めるわけはない。  智子は康鷹を抱えて、体の向きを変えながら康鷹の耳許で|囁《ささや》いた。 「よしよし、ええ子やねえ。私の赤ちゃん」  その時、喉に|痰《たん》がからまったような声が聞こえた。 「わしゃ……あんたの赤んぼや……ない」  智子はぎょっとして思わず手を離した。康鷹の体がベッドに沈んだ。スプリングの振動で小刻みに揺れながら、康鷹がゆっくりと首を智子に向けた。 「起こしと……うぜ。わしは……行かんと……」  智子はまじまじと康鷹を見つめた。信じられなかった。人形だと思っていたものが、突然喋りだしたのだ。しかも自分の意思で。  康鷹は非常な努力をして肩肘をついて上半身を起こした。 「時間がない」  智子は康鷹を押さえつけた。 「動いてはだめ。今、お医者さんを呼んできますき」  康鷹は顔をしかめた。 「時間がないがや。わしゃ矢狗村に帰る」  言葉が滑らかになってくる。驚くほどの回復ぶりだ。智子は心の中でもたげてくる不安と闘いながらきっぱりといった。 「だめです。回復しても、まだ入院が必要です」  康鷹の目に|嘲《あざけ》るような光が宿った。 「ほんで、またあんたの手で触られるがか。いやらしい。この十七年、たまらんかった。わしの体をおもちゃにしおってからに。体が動くもんやったら、はたいちゃったところじゃ」  智子の顔が青ざめた。秘密の行為がすべて見られていたのだ。退院した日浦康鷹のいう言葉が聞こえる気がした。いやらしい女。彼を「私の赤ちゃん」と呼び、体を触り、性器を|玩《もてあそ》んだことを告げるだろう。  康鷹は青白い手でベッドのパイプをつかみ、立ち上がろうとしていた。智子はとっさに彼をベッドに押し倒した。 「なにす……」  康鷹がものをいう|暇《いとま》も与えずに、|枕《まくら》を彼の顔に押しつけた。康鷹が|萎《な》えた手足の力をふりしぼって暴れた。しかし智子は離さなかった。この男の体は智子のものだった。|腋《わき》の下の黒子、胸骨の|窪《くぼ》み、頑丈に張った腰、どんな小さな部分もいとおしみ、世話をしてきた。今更この男に、これが自分の体だと主張させはしない。ましてやそのことで、智子を非難させはしない。  智子は上半身の力をこめて、ぐいぐいと枕を康鷹の顔に押しつけつづけた。やがて康鷹の手がぐったりと下に落ちた。智子は枕をはずした。康鷹は目をむきだしていた。口から、泡が出ていた。智子は口のまわりをハンカチで|拭《ふ》くと、はだけた康鷹の両脚をベッドの中に行儀よく並べた。康鷹は人形のように動かなかった。この体は再び智子の手に戻ったのだ。 「おりこうさんになったね」  智子は康鷹の耳許で囁くと、彼の体にシーツをかけて、優しくぽんぽんと叩いた。  神の谷は静まりかえっていた。文也は莎代里に手を取られて、草の生い茂る谷に入っていった。莎代里の手は冷たかった。冷たく、熱い、彼女の視線と同じだと思った。  あたりには白い霧がうっすらとかかっていた。昨夜の台風にも吹き飛ばされずに残った鬼百合が点々と咲いている。  自分は石鎚山にいたのではなかったのか。どうしてここにいるのだろう。文也は、ふと思った。しかし、そう感じたのは|束《つか》の|間《ま》で、莎代里が一途な目つきで彼を見上げると、疑問はまたたく間に消えていった。  神の谷一帯に霧がたちこめていた。霧のベールの中に、窪地が見える。いや、今はもう窪地ではなかった。池になっていた。緑色の石柱が、池の中央に|屹《きつ》|立《りつ》している。莎代里と文也は斜面を降りて、池の|畔《ほとり》に立った。  そこには不思議な光景が広がっていた。池は沸騰しているようだった。ぼこぼこと沸き立つ水面から、無数の白い雲そっくりの塊が出ている。そのまま谷に浮かび上がり、しばらく上空を回っていたと思うと、どこか山の向こうに飛び去っていく。まるで無数のうろこ雲が、思いおもいの方向に散っていっているようだ。 〈自分のことを覚えちゅう人がおる霊は幸せよ。その人のところに、その人が思いゆう通りの姿のまんまで戻っていける。ほんであたしも戻ってこれた〉  莎代里は、文也の手を自分の頬にあてた。そして笑みを浮かべた。 〈あたしにはわかっちょった。文也君、私のこと、ほんとうは好きやったがよ。ほんで、心の底でいっつもあたしのこと、思い出してくれよったがよ〉  文也の心に莎代里の言葉がしみこんできた。好きな女。誰だろう。目の前にいる少女か、それとも……。こんな情景を夢で何度も見たことがあった。夢の中で納得しながらも、どこか違うと思っている。だけど夢から|醒《さ》めるまで、ほんとうのことはわからない。  莎代里が自分の手をひくのを感じた。彼は導かれるままに池に入っていった。 〈これからは死んだ者も、生きている者も一緒に暮らしていける。死んだからゆうて、終わりじゃのうなる。死んだ人らは喜んじゅう。四国が死国になるゆうて、喜んじゅう〉  水はくるぶしまでしかなかった。莎代里は池の中で文也に向き直ると、セーラー服を脱ぎはじめた。下には何もつけていなかった。まだ固い乳房が現れた。スカートもはずし裸になった。  まだ少女の肉体が、すっくと池の上に立っていた。透き通るほどに白い体は、鶴のようだ。莎代里は文也に両手をさしのべた。 〈文也君、あたし、大人になりたい〉  白い霧が空を覆っていく。山の|稜線《りょうせん》を滑り落ち、木々の間に忍びこみ、斜面を|這《は》うように広がっていく。シゲは縁側に座って、落ち着かない気分で外を見ていた。夏の昼間、それも台風の後に、矢狗村に霧が出たことなぞ見たことも聞いたこともなかった。  靖造も千鶴子も昼食後、台風の被害を調べに|田圃《たんぼ》に出ていった。満は学校だし、里美も武を連れて買い物に出かけていた。家はひっそりとしていた。  ふと頭上で、まだタツよけの鎌が光っているのに気がついた。そうだ、あれをしまっておかなくては。タツよけのおかげで、昨夜は無事に過ごせた。  シゲは草履を履くと庭に出て、タツよけの|竹《たけ》|竿《ざお》をくくりつけた物干し台に歩いていった。縄をほどいて、竹竿を下ろそうとした。竿がぐらりと揺れた。シゲは竿が地面に叩きつけられないように、慌てて力をこめた。ふっと竿が軽くなった気がした。見ると、竿の先を男が支えてくれていた。  シゲは礼をいおうとして、あっと思った。その顔に見覚えがあった。  色白で、しゃくれた鼻。笑っているような三日月形の目。竹雄だった。シゲと会う時によく着ていた、薄茶色のズボンと上衣。まるで生きているようだ。  竹雄の三日月形の瞳の奥に、怒りが燃えていた。 〈俺は忘れんかった。あの時、逃げた、おまんを忘れやせんかったぞ〉  シゲの手から竹竿が落ちた。脚が震えだした。どうして竹雄がここにいるのだ。頭が混乱して、何も考えられない。  竹雄の白い手が、ゆっくりと竹竿の先についた縄をほどきはじめた。シゲは凍りついたように、その手許を眺めていた。  縄がぱらりとほどけた。竹雄は鎌を手に取って、シゲにゆっくりと近づいてきた。 〈よくも俺を見棄てたことも忘れて、おめおめと生きてきたもんじゃ〉  股間に生温かいものを感じた。尿がモンペの裾から滴り落ちた。それを見て、再び顔を上げた時、銀色の|閃《せん》|光《こう》が目の前を走った。      5 「おかしげな天気やなあ」  運転席の男が、シートにかがみこむようにして|呟《つぶや》いた。比奈子も窓の外を見た。空は白っぽく曇っていた。雲とも霧ともつかない無数の塊が流れている。 「うろこ雲にしちゃ動きが早すぎるし……。見たこともない雲や。気象庁に電話でもして、新種の雲を発見したゆうちゃろか。田代雲ゆうて名前がついたら、こりゃいばれるぞ」  男は一人でけらけら笑った。田代俊一と名乗ったこの若者は、長いドライブの間中、一人で|喋《しゃべ》っていた。最初は比奈子のことを気遣ってくれているのかと思ったが、だんだん根っからの話し好きなのだとわかった。比奈子がろくに返事もしていないのに、気を悪くするふうでもなく喋りつづけていた。おかげで彼のことはよくわかった。北野町の隣、越知町の農家の跡継ぎらしかった。高校を出て父親の手伝いをしながら、遊び暮らしている気のいい極楽トンボ。週一回の、土小屋までの自家製漬物の配達が、ただひとつ彼に押しつけられている責任のようだった。  俊一の他愛ない話を聞いていると、昨日からの出来事が夢のように思えた。台風の恐怖。石鎚山での莎代里の|蘇《そ》|生《せい》。あまりに非現実的だった。しかし文也と寝たのは事実だ。彼の温かい感覚はまだ体に残っている。あれだけは自分でつかみとった確かな感触だ。放したくない。比奈子は痛切にそう思った。 「ありゃあっ」  俊一がすっとんきょうな声をあげて、ブレーキを踏んだ。  道路の真ん中に小さな子供が飛び出してきた。車は子供の一メートルほど手前で止まった。幸い後続の車はなかったので追突はまぬがれた。子供の後ろから母親らしい女が出てきて、道路を横切った。子供たちが車の前に飛び出したことに気づいてないように、こっちを向きもしない。俊一が窓を開けて怒鳴った。 「もうちょっとで|轢《ひ》くところやったぞ、おばちゃん。気ぃつけやぁ」  女と子供が車のほうを向いた。その顔を見て、比奈子は奇異な感じを覚えた。表情のどこかがちぐはぐだった。こっちを見ているのだが、焦点が合っていない。石鎚山で見た莎代里の目を思い出した。俊一も戸惑ったように、口を|噤《つぐ》んで車のエンジンをかけた。  比奈子は、その母子の顔をどこかで見たような気がして、後ろを振り返った。女は二人の子供の手をつないで、道路に面した小さな電気店の前に立っていた。 『北添電気』という看板が見えた。店の前のワゴンにカセットを並べていた男が、母子連れに気がついて大声をあげた。 「美奈子っ」  夫らしかった。妻と子供たちのところに走り寄っていく。鼻の横に|黒子《ほくろ》のあるその男の顔に、比奈子は、はっとした。  思い出した。この顔はテレビで見た。大野の家を訪ねていた時だ。北野町で、車が突然、道路脇を歩いていた母子連れのほうに突っこんだ事件だった。テレビで涙ながらに語っていたのが、あの男だ。そして死亡した妻と二人の子供は……。  男は妻と二人の子供を抱いて泣いていた。商店の向かいのガードレールがひしゃげていた。あの三人は死んでいるはずだ。  まさか。莎代里だけでなく、他の死者もこの世に|蘇《よみがえ》っているというのか。 「おっとぉ、矢狗村はここから曲がるんやったな」  俊一が車を左折させた。車は仁淀川を渡って逆川の方向に入ると、川沿いの道を走りはじめた。白く曇った空が、ますます低く垂れこめてくる。逆川を|遡《さかのぼ》るにしたがって霧も出てきた。俊一は八月に霧が出るのはおかしいと、しきりに呟いている。比奈子は、|痺《しび》れたような頭で窓の外を眺めていた。川は白い湯気に似たものを泡立てながら、渦を巻いて流れていた。矢狗村の方向へ。  逆さに流れている!  流れはひたひたと逆川の上流に向かっている。石鎚山の岩の中から|滲《にじ》み出ていた水にちがいなかった。  石鎚山で会った奇妙な男がいっていた。神の魂が山を下っていくと。神の谷の神が死者であるように、彼の語った神も死者を意味するのではないのか。死者の魂は水を伝い下界に降りて、神の谷に向かう。そこには死者の心が待っている。魂と心はひとつとなり、死者は蘇る。そして四国は蘇った死者の国となる。  四国は死国。死者の国となる。  比奈子は震えそうになるのをこらえた。  |嘘《うそ》だ。そんなことがあるはずはない。そんな馬鹿なことが起こるはずはない。  車がカーブを曲がった。霧の谷間に佇む矢狗村の集落が見えた。 「着いたで」  俊一がいった。  矢狗村の空は、民家の屋根に届きそうなほどに重く垂れさがっていた。山々は真綿のような雲にすっぼりと包まれている。  しかし、その下に広がる矢狗村の光景は、なにひとつ変わっていなかった。うっすらとたなびく霧に滲むような、稲穂の|瑞《みず》|々《みず》しい緑。点在する農家。のんびりと走る自転車や車。学校の校庭では子供たちが草野球に興じている。役場に出入りする人々。『コンビニエンス・フジモト』の店先では、客たちが空を見上げて話をしている。  |安《あん》|堵《ど》で、思わず|口《くち》|許《もと》がほころんだ。こんな|山《やま》|間《あい》の村で、何が起こりえるというのだ。台風の後で、天気がおかしくなっているだけだ。異常気象なら、世界各地で起こっている。この霧とも雲ともつかないものが、自分を不安がらせているだけなのだ。さっきの電気店の親子のことも思い違いに決まっている。テレビで見ただけの人の顔を、はっきり覚えているほうがおかしい。石鎚山で現れた莎代里も幻覚だったかもしれない。死者が蘇ることなど、あり得るはずはない。 「お姉さんの家は、どこで」  俊一が聞いた。比奈子は自分の家の場所を告げてから、真っ先に文也の家に行ったほうがよかっただろうかと思った。しかし慌てふためいて文也の家に飛びこみたくはなかった。すべてが幻覚だったとしたら尚更、自分を置き去りにしたことで、彼を一方的に非難してしまいそうな自分が怖かった。  一度家に戻って着替えて、少し落ち着いてから、文也に会って聞けばいい。なぜ先に帰ってしまったのか。たぶん彼もまた莎代里の幻影を見て、パニックに陥ったにちがいない。きっとそうだ。彼も今頃、自分のことを心配しているにちがいない。  比奈子はむりやり、そう思いこんだ。  逆川の橋の前で比奈子は俊一の車を降りた。ここまで送ってもらったうえ、細い坂道を上って家の前まで行くように頼むのは気がひけた。  比奈子は、何度も礼をいってから俊一の車を降りた。彼はクラクションを鳴らすと帰っていった。比奈子は坂道を上りはじめた。大野の家の横を通る時、何気なく庭を見た。薄くたちこめる霧を通して、庭先に誰か倒れているのが目に入った。比奈子は驚いて、庭に飛びこんだ。  物干し台の横に大野シゲが仰向けに倒れていた。その首には深々と鎌が刺さっている。鎌の刃は首の骨のところで止まっていた。シゲは自分が殺されたことが信じられないように、目を見開いていた。|驚愕《きょうがく》と、笑いが混じったような不思議な表情。死という運命を迎えるように両手を広げている。開いた傷口から流れた血が地面をどす黒く染めていた。  膝が震えた。すべてがあまりに非現実的に思えた。比奈子は、|唾《つば》を何度も呑みこんで、倒れないように念じながら家の玄関によろめきながら入っていった。 「誰か、誰かいませんかっ」  家は静まりかえっていた。悲鳴のような声をあげつづけたが、返事はなかった。  どうすればいいのだろう。警察に電話しなくては。それとも、家の人を探すほうが先決だろうか。混乱した頭に思考が|錯《さく》|綜《そう》する。  ざりっ、ざりっ。背後で土を踏む音がした。誰か来たのだ。  よかった。比奈子は、安堵のあまり泣きたい気分で玄関から外に飛び出した。そして、体が動かなくなった。  目の前にシゲが立っていた。きちんと着物を着て、両手を前にだらりと下げている。目は笑うように細められている。比奈子はほっとして、その場にくずれそうになった。  これもまた幻影だったのだ。シゲは生きていた。息遣いも聞こえるほど近くにいた。  シゲが口を開いた。 〈竹雄さんを見んかったかね〉  どこか遠いところから聞こえてくるような声だった。比奈子は、不自然なものを感じてシゲを凝視した。その目は、妙に生気がなかった。彼女はゆるゆると視線を庭にさまよわせた。そこに、もう一人のシゲが倒れていた。さっき比奈子を驚愕させた通りの|恰《かっ》|好《こう》で、首に鎌が刺さったまま、血まみれになって死んでいた。  比奈子は、庭に転がっている死体のシゲと、目の前にいるシゲを見比べた。頭が、この事実を理解することを拒絶していた。  シゲがぎこちない足取りで近づいてきた。草履が土を踏む音が、やけに大きく聞こえた。 〈教えてつかあさい〉  すえたような臭いが、口の奥から吐き出された。  比奈子は後ずさった。足がもつれて|尻《しり》|餅《もち》をついた。シゲは、途方に暮れた子供のような表情でかがみこんできた。 〈竹雄さんに会いたいがじゃき……〉  比奈子は悲鳴をあげて、|這《は》うように逃げ出した。  文也は、白い|蝋《ろう》を思わせる固い乳房に手を触れた。莎代里が|微笑《ほ ほ え》んだ。彼女の薄い腹が、彼の腹部にぴたりと吸いついている。文也もまた全裸になっていた。二人は霧のたちこめる池の中で抱き合っていた。  目の前には緑の石柱があった。この光景は以前に見た。乳白色の海原に漂う島に、一本の柱が立っていて、その下で、裸の男と女が抱き合っている。そして子供を産むのだ。いや、子供ではなかった。四国だ。ああ、違う。それは、伊邪那岐命と伊邪那美命の話だった。今、ここにいるのは莎代里だ。どうして莎代里と自分はここにいるのだろう。文也は頭の中の考えを必死でまとめあげようとした。しかし、その思考はすぐに|朦《もう》|朧《ろう》とした意識の中に消え失せていく。  なぜ莎代里とここにいるのか、という疑問も、やがてどうでもよくなった。莎代里は文也を見つめていた。彼のよく知っている視線で、彼だけを見つめていた。 〈あたし、大人になりたい。ほんで子供を産みたい。文也君とあたしの娘を〉  莎代里が脚をからませてきた。しかし、それからどうしていいのかわからないように、彼にしがみついているだけだ。  文也は自分が|勃《ぼっ》|起《き》しないことを不思議に思っていた。莎代里を抱きながらも、何かが彼を止めていた。莎代里が燃えるような目で、|囁《ささや》いた。 〈文也君、おねがい〉  直郎はがくりと膝をついた。高熱のために視界がぼやけていた。冷たい風が彼のまわりを渦巻いている。直郎が巡りつづけたおかげか、岩から|滲《にじ》み出る水は止まっていた。だが、眼下に広がる雲海はさらに厚みを増したようだった。  この雲の海の下に、広大な国が広がっていると思った。それは蘇った死者の国。四国はもはや四国ではない。  彼は力をふりしぼって立ち上がった。自分のお勤めの時に、こんなことが起こるとは、なんと運の悪いことだ。直郎はまた巡りはじめた。しかしすぐに突き出した岩に足をとられ、どうと倒れた。起き上がろうとしたが、腕に力が入らない。笛のような風の音が彼を包んだ。  俺はこのまま死んでいくのか。  直郎は思った。自分の村のすぐ近く、それも石鎚山頂で死んでゆくのか。自分が死んだら、家の梅の木は狂い咲きするのだろうか。たわわに実をつけた木を見た村の者は、別れ作だといい、直郎が死んだことを知るだろう。そしてまた誰かがお勤めに出る。しかし、その男の歩く道は、もう今までの道ではない。そこは死国。死者が生きていた頃のままの姿かたちでさまよう国。生者も死者も、同じように存在する世界。人と人が、死によって分かたれることのない世界。  すべて自分が非力だったせいだ。  直郎は悔しさに目の前の石を握りしめた。土で汚れた裸足が見えた。直郎は、ゆっくりと顔を上げた。女が立っていた。白装束に身を固め、手には小さな白い布に包まれたものを抱いている。  直郎は口を半ば開けたまま、|惚《ほう》けたように女を見つめた。  妻だった。死んで埋葬された節子だった。下腹部から、赤い血を流していた。腕の、白い包みの底にも血が滲んでいる。  節子は弱々しい笑みを浮かべて直郎の前にかがみこむと、白い包みを広げた。中には、どす黒い皮膚をした胎児がくるまれていた。 〈うちらの子や〉  節子はいとおし気に子供をあやしながらいった。 〈もうええやない、あんた。帰ろう、うちらの村に。もうどこにも行かんでええ。家族一緒に暮らすがや。これからずっと……〉  赤ん坊が小さな声で泣いていた。直郎の顔が|歪《ゆが》み、やがて微笑みに変わっていった。 「これから……ずっと……」  それが生きている直郎の最後の言葉だった。  比奈子は神の谷に立っていた。たちこめる霧の中から、無数の白い空気の塊のようなものが|湧《わ》き出ている。よく溶けてない粉乳をかき混ぜているように谷の上空で渦を巻きながら、どこかへと流れ去っていく。死者の霊なのだ。  死者は|蘇《よみがえ》りはじめていた。やはり、石鎚山でのことは幻覚ではなかったのだ。シゲのところから逃げ出して、その足で神の谷まで走ってきた。  ここに文也と莎代里がいるとわかっていた。莎代里が文也を連れてくるとしたら、神の谷でしかありえないと思った。  莎代里は日浦の女だから。  ここで生まれ、ここで死に、そしてここで新しい生を踏み出すだろう。だが莎代里が、文也をその新しい生の道連れにする権利なぞない。莎代里が文也を必要としているのなら、自分だって必要としている。彼の心を手繰って、死の領域にひきずりこむのは許せない。そんなことは決して、させはしない。  こみあげてくる怒りで、比奈子の体は熱くなっていた。莎代里が実在し、文也を奪おうとしていることを確信した時から、自分でも驚くほどの激しさで、彼を渡したくないと思った。  彼女は、露を含んだ草にジーンズを|濡《ぬ》らしながら、谷に入っていった。花弁に血色の|斑《はん》|点《てん》が広がる鬼百合を踏みしだき、中央の|窪《くぼ》|地《ち》に向かって斜面を降りていく。白く煙った谷の底に池が見えた。そこには、比奈子が無意識のうちにスケッチブックに描いた光景が現出している。湯気のように死者の霊が湧き上がる池。その中央に立つ緑の石柱。  傍に文也と莎代里らしい姿がぼんやりと見えた。浅い池の中で二人は横たわって抱き合っている。比奈子は心臓をもぎとられたような痛みを覚えた。 「文也君っ、やめてーっ」  彼女は悲鳴に似た声をあげて、池に駆け寄ろうとした。 「邪魔したらいかんっ」  草陰から、にゅっと人が飛び出した。照子だった。髪をふり乱し、両手を広げて立ちふさがっている。比奈子は照子を押しのけて斜面を走り降りようとした。だが、照子は細い体に似合わない強い力で、比奈子の体を突き戻した。比奈子はよろめきながら叫んだ。 「止めなくちゃ。あんなこと、だめよっ」  照子はなおも比奈子の動きに用心しながら、|唸《うな》るような声でいった。 「あれでええがや。莎代里は日浦の女を産むんやき」  照子の唇が満足気に半月形に曲がっていた。両目は冬の星のように光っている。 「日浦の女を産む? 何をいっているの。死人が子供を産むというの」 「死んだが、どうした」  照子は吐き出すように応えた。 「あの子はこの世に戻った。生きちゅう男の精をもらえば、子供も産むことができる。日浦の女の血は続かんといかん」  死者を再生させる|巫女《みこ》、日浦の女。死んだ日浦の女と生者との間に子供ができれば、それはどういう子になるのだろう。生も死も超えた子?  比奈子の全身にいい知れぬ寒気が走った。 「そんなこと……できるはずはないわ」  照子はかすかに笑った。 「できる。あの子にはできる。日浦の女には、できるがじゃ」  その時だった。照子の後ろで、低いくぐもった声が聞こえた。 〈そうはさせんぞ。照子〉  いつの間に現れたのか、草の上に、がっしりした|体《たい》|躯《く》の男が立っていた。比奈子は自分の目を疑った。|昏《こん》|睡《すい》状態のはずだった日浦康鷹が、照子の背後に仁王のように立ちふさがっている。青白い顔に浮かぶ、厳しい表情。きりりとひき結んだ口許。病院の薄水色の寝巻をはおった大きな体に、霧がまとわりついていた。照子は振り向いて、夫をまじまじと見つめた。 「あんた……どうして……」  康鷹は妻に歩み寄った。妙にふわふわした歩き方だった。素足も寝巻の裾も露でしっとり濡れている。康鷹は照子の顔を|睨《にら》みつけた。 〈莎代里は死んだがぞ〉  照子はちぎれるほど首を横に振った。 「莎代里は戻ってきた。日浦の女を産むために戻ってきたわ」  康鷹の顔の|皺《しわ》が深くなった。そして体の奥底から絞り出すような声でいった。 〈死んだ者は、死んだままにおいておけ〉 「男にゃわかりゃせん。日浦の血は続かにゃいかん。私らは続いてかにゃいかんがよ」  照子は夫に向かってわめいた。あんたには日浦の女のことはわからん、わかろうとしたこともなかった、あんたは小屋に閉じこもって|黴《かび》の生えた本を読んでいただけやき、と大声で|罵《ののし》った。何十年間もの恨みつらみを一気に吐き出しているようだった。  比奈子は、その|隙《すき》に照子の脇をすり抜けようとした。 「待ちやっ」  気がついた照子が追いすがった。しかし康鷹の腕が伸びてきて照子の肩をひき寄せ、背後から妻をはがいじめにした。照子は狂ったように歯をむきだし、放せ! と叫んだ。康鷹が力をゆるめないのがわかると、憎しみに|歪《ゆが》んだ顔を|捩《よ》じって、夫に|唾《つば》を吐きかけた。  比奈子は転げそうになりながら、斜面を降りきった。池の水面から白い雲の塊のようなものが次々と湧き上がり、宙に飛び出している。無数の死者の霊に包まれて、文也が莎代里の上に覆い被さっていた。その光景の証人のように、緑の石柱が霧に濡れた岩肌を光らせて|屹《きつ》|立《りつ》している。  比奈子は池に飛びこんだ。|脹《ふく》ら|脛《はぎ》までの浅さだが、ただの水とは思えなかった。骨まで凍りそうな冷気が、足首から|這《は》い上がってきた。水底の泥に足をすくわれそうになりながらも、比奈子は歯をくいしばって文也の両脇に手を差し込み、抱き起こそうとした。 〈うあああああーっ〉  莎代里が、生皮をはがれる獣のような叫び声をあげた。比奈子は|渾《こん》|身《しん》の力をふり絞って、莎代里から文也をひき離した。文也が、焦点の合わない目で比奈子を見た。 「文也君っ、しっかりしてっ」  ひざまずいて彼の頬を叩く比奈子の前に、莎代里の裸体が割って入った。憤怒に瞳が燃えている。|猛《たけ》り狂って比奈子に歯をむくと、深い空洞から響くような声で吼えた。 〈文也君は、あたしのもんでえっ〉  ほっそりとした頬。つり上がった目。滴り落ちる|雫《しずく》が、莎代里の透き通った白い肌に宿る宝石のように見える。比奈子はどきりとした。大人と子供の|狭間《はざま》にいる莎代里。その肉体は、死んでいるとはいえ、若さに輝いていた。  比奈子は莎代里に体ごとぶつかって、突き飛ばした。|華《きゃ》|奢《しゃ》な莎代里は転がるように池に倒れこみ、|一《いっ》|旦《たん》頭まで水に沈んだ。しかしすぐに顔を上げると、唸り声をあげて比奈子を睨みすえた。らんらんと光る目には憎しみが渦巻いている。憎悪で人が殺せるものなら、比奈子は莎代里に百回だって殺されただろう。比奈子は、文也を守るように抱きかかえた。 「あんたは死んだのよ、莎代里」 〈死んだら、何も欲しがったらいかんが?〉  莎代里の濡れた黒髪の先から、たらたらと水が流れ落ちる。白い歯の間から、苦しげに言葉を吐き出した。 〈死んだら大人になれんが? 死んだら、人を好きゆう気持ちも死なんといかんが?〉  莎代里の顔は悔しさに歪んでいた。  莎代里は大人になりたかったのだ。大人になって、自分を表現するすべを身につけて、文也に恋を打ち明けたかったのだ。 「莎代里ちゃん……」  ためらうように声をかけた比奈子を、莎代里は怒りと|侮《ぶ》|蔑《べつ》のこもった顔で見返した。 〈あんたの同情はいらん。哀れんだげるんは、あたしのほうや。あんたは愚図でのろまの亀。あんたなんかに文也君をやりゃあせん。そんなん、絶対、いややっ〉  全身を氷の刃で貫かれた。素裸にされて、野山に放り出された罪人のような|惨《みじ》めさを覚えた。莎代里は、ざばっと池の中から立ち上がった。そして膨らみかけた胸や尻を優雅に揺らせ、比奈子を|蔑《さげす》むような笑いを浮かべて、近づいてきた。 〈あたしは亀やなかった。人と話さんかったんは、みんなを馬鹿にしちょったきや。あたしはあんたとは違う。小さい時から自分の欲しいもんもわからんかったあんたとは違う〉  そうだった。私は、自分の欲しいものすらわかっていなかった。莎代里の後にくっついて、莎代里の欲しがるものを、自分の欲しいものと思いこんでいた。自分で何かを決めるなんてできなかった。  莎代里の前で、自分がどんどんちっぽけな存在になっていくような気がした。少女から子供へ、赤ん坊に戻り、消滅していく。  莎代里は、比奈子の後ろにいる文也に声をかけた。 〈あたしには、わかっちょった。自分が誰で、何を欲しいか、小さい時からわかっちょった。文也君、あんたやって、わかっちょったやろ。自分が何を欲しがりゆうか、知っちょったやろ〉  文也の青ざめた唇が震えた。比奈子は、その唇が何かいおうとして動くのを見た。文也の言葉を聞くのが怖かった。聞きたくはなかった。彼女は文也の顔を両手でしっかりと挟んで、自分に向けた。彼の頬は氷のように冷たく、血の気が失せていた。その|仄《ほの》|青《あお》い輝きは莎代里の肌を連想させた。 「文也君、何もいわないでっ。私を見て、文也君!」  比奈子は文也を固く抱きしめた。彼の体の中にかすかなぬくもりが残っている。文也は生きているのだと思った。莎代里が何といおうと、彼は生きている。自分と同じ世界にいるのだ。彼とともに生きるのは自分だ。莎代里ではない。  文也の体が比奈子の体温で熱くなってきた。彼の腕にも少しずつ力がこもり、彼女の体を抱き返してきた。 〈いかんっ〉  莎代里の金切り声があがって、二人に向かってきた。  どぉおん。風の塊がぶつかったような衝撃を受けた。比奈子は文也もろとも池に倒れた。冷気が肌に突き刺さった。比奈子は起き上がろうとした。すぐ先では、莎代里が文也の上に馬乗りになっていた。すらりと伸びた、脚を彼の脇腹につけ、固い乳房を彼の胸にこすりつけるようにして、文也の顔にかがみこんでいた。 〈文也君、あたしを見て〉  文也は|眩《まぶ》しそうに莎代里を見た。 「文也君っ」  比奈子は池を這いながら叫んだ。  しかし、遅かった。彼の目は、莎代里にひたと吸い寄せられていた。莎代里は文也に顔を近づけた。唇と唇が触れようとした。二人の黒い髪の毛がとぐろを巻いた蛇のようにからまり合っていた。比奈子は、首を激しく横に振りながら、止めようと前に手を伸ばした。その横を大きな黒い影が走っていった。 〈やめんかっ、莎代里〉  康鷹が、獲物を見つけた野犬のように二人に飛びかかると、娘の胴を抱えて文也からひき離した。ぎゃあっ、という莎代里の悲鳴があがる。彼は娘を両手で抱え上げた。父の腕の中でもがく莎代里の体から、こびりついていた黒い泥が飛び散った。  康鷹は、四肢を振り回して暴れる娘をしっかりと抱いたまま、池の中央にのしのしと歩いていく。そこには緑色の石柱が立っていた。たちこめる霧、波立つ水面から|湧《わ》き上がる死者の霊。乳白色に揺れる風景の中で、石柱だけが厳然と立っていた。それは、この|混《こん》|沌《とん》とした世界の道標のようだった。  父の目指すものに気がついて、莎代里はますます暴れだした。しかし康鷹は娘を放さなかった。石柱に娘の体を押しつけて、そのまま全身の重みをかける。莎代里の泣き叫ぶ声のなか、石柱はゆっくりと傾いていき、やがて水しぶきをあげて横倒しになった。  そのとたん、水面から湧き上がっていた死者の霊たちの動きがぴたりと止まった。池の面は、鏡のように静まった。康鷹は両手に娘を抱いたまま、倒れた石柱を踏みしめて仁王立ちになった。体がゆっくりと沈みはじめた。 〈やめてーっ、お父ちゃん、あたし、ここにおりたい〉  莎代里の叫びにも微動だにせず、康鷹は厳しい顔つきで|昂《こう》|然《ぜん》と頭をあげている。暗い哀愁を|湛《たた》えた瞳で、霧の晴れはじめた神の谷の自然をいとおしむように眺めていた。  水が渦を巻きはじめた。父と娘は次第に池の中に沈んでいく。水が池の底に吸いこまれていく。まるで吸水口に流れこむ雨水のようだ。  やがて黒い泥の底が見えてきた。石柱も、その上に立つ父娘も泥の中に沈みつづける。足から、膝、そして腰、腹……。康鷹の体が胸まで泥に呑みこまれ、次に莎代里の尻が消えた。莎代里は父の手を逃れようともがきつづけている。しかし康鷹は娘を地の底まで連れていこうと決心しているように、腕にこめた力をゆるめない。莎代里は体半分、泥に沈みながら必死で伸び上がろうと、体を天に向けて突っ張った。 〈助けて、文也君っ、助けてっ〉  文也が身じろぎした。 〈来ちゃいかんっ〉  首まで泥に埋もれながら、康鷹が文也に怒鳴った。 〈莎代里は死んだ。生き返らせるなっ、日浦の女が……〉  康鷹の口に泥が流れこんでいく。彼の最後の言葉は泥の中に消えてしまった。彼の透徹した瞳だけが、泥の上で|光《こう》|芒《ぼう》を放っていた。しかし、その目もやがて黒い泥の中に沈んでいった。 〈いややっ、あそこに戻りとうないっ〉  莎代里はまだ父の腕の中で叫びつづけていた。彼女の白い脚が、乳房が、泥に呑まれていった。手と顔だけが、かろうじて黒い泥面に残っていた。莎代里がすがるような目で文也を見た。文也が彼女に近づこうとした。 「行っちゃだめっ」  比奈子は文也に走り寄り、彼の頭を胸に抱えた。莎代里は、泥の中から比奈子を見つめた。切ないような目つきだった。 〈あたし……もっと生きた……〉  莎代里の小さな声が聞こえた。そして、ずぶりと泥に消えた。  比奈子と文也は泥地と化した池を見つめていた。水がひいたために、ひとまわり小さくなっている。もはや池というより、底なし沼のようだった。頭上に渦巻いていた死者の霊も、霧とともに消えていく。雲の間から太陽の光が射してきて、草の緑が力強く輝きだした。木々が霧の|呪《じゅ》|縛《ばく》から解き放たれ、枝を天に広げている。  比奈子は、長い悪夢から|醒《さ》めたように、あたりを見回した。草の|薫《かお》りを含んだ空気を感じた。神の谷は再び静かな明るさに満ちていた。|窪《くぼ》|地《ち》の石柱も消えている。文也が石柱を立てた時から起こった一連の出来事。それも、もう終わったのだ。死霊をひきつける石柱が消え、死者の霊はもとのところに帰っていった。そして莎代里もまた、父親によって死の国に連れ戻された。……父親に? 「おじさんっ」  比奈子は、康鷹のことに思い至って窪地に飛び降りた。石柱があったあたりの泥を両手でかき回したが、康鷹の姿は跡形もなく消えていた。石柱の手応えもない。浅い泥なのに、あの大きな康鷹の体も、石柱も見つからない。比奈子は|茫《ぼう》|然《ぜん》と立ち上がった。 「僕は……どうしたんだろう……」  文也の声が聞こえた。ようやく我に返ったようだった。自分が全裸なのに気がついて、慌てて前を隠した。  窪地の傍の草の上に彼の服が放り出されていた。比奈子は泥から出て歩いていくと、服を拾って彼に渡した。文也は照れ臭そうに受け取った。 「着替えるまで、私、上にいるから」  比奈子は斜面を上がっていった。草の中に照子が倒れていた。比奈子は走り寄った。照子は口を半開きにして、|拳《こぶし》を握りしめている。気を失っているだけらしかった。比奈子は、ほっと息を吐いた。急に緊張感がとけて、崩れるように草の上に腰を落とした。顔を上げると、斜面の下で文也はまだ服を着ているところだった。彼女は、窪地に背を向けて座り直した。  日射しが柔らかい。すでに夕方の太陽だった。あたりはほんのり赤く染まっている。よく見ると、薄紫色の嫁菜や、桃色の|山《やま》|辣韮《らっきょう》の|可《か》|憐《れん》な草花がひっそりと咲いていた。秋が近いのだ。鬼百合の毒々しい色も|褪《あ》せて目に映る。比奈子は乱れた髪を手でかき上げた。  夏は終わったのだ。莎代里も|逝《い》ってしまった、死の国へ……。  莎代里の最後の言葉が心に残っていた。もっと生きたかった、といいかけていた。莎代里は死にたくなかったのだ。生きて、大人になりたかったのだ。  莎代里が自分を付属物のように思っていたことも、今は少し許せる気がした。大人になった莎代里と再会できていたなら、彼女も、あの頃をもっと違う目で見るようになっていたかもしれない。しかし莎代里は十五歳で死んでしまった。心の中で渦巻くどろどろとした愛や憎しみを昇華させる時間もなく、死んでしまった。その死とともに、彼女の未知の未来も消滅してしまった。  早すぎる死とは、なんと残酷なものだろうか。比奈子は天を仰いだ。澄んだ青空に、哀しみが広がっていった。  文也は泥沼と化した窪地の|畔《ほとり》で、ズボンを|穿《は》いた。比奈子は黒髪をなびかせながら、草の上に座っている。夕焼けのせいで、彼女の姿が赤く輝いているように見えた。ふと、その背中に母を思いだした。いつも彼に背中を向けて、別のものを見ていた母。  もちろん比奈子は違う。自分を愛している。そう思うと、幸福感が湧き上がってきた。  自分も比奈子を愛している。比奈子だけを……そうだろうか?  心の奥底で聞こえた声に、文也はどきりとした。莎代里の顔が頭をよぎった。白くほっそりとした頬。ひたむきな目で彼を見つめていた莎代里。死ななければ、どんなに美しく成長したことだろう。全身から|仄《ほの》かな色気の漂う、白百合のような女になったのではないか。  文也は自分の心に核のように残っていた、莎代里への想いにたじろいだ。莎代里の視線を心地よく感じながら生きてきた自分。彼にはわかっていた。莎代里は決して、自分に背を向けはしないということを。どんな時でも、痛いほどの愛情をこめて彼を見つめていたはずだ。あの熱い視線で……。  ——文也君、あんたやって、わかっちょったやろ。自分が何を欲しがりゆうか、知っちょったやろ——  頭の隅で、莎代里の声が響いた。どこで聞いた声か思い出せなかったが、その問いは|閃《せん》|光《こう》のように放たれ、彼の心を照らし出した。  彼が欲しがっていたもの。手を出さないことで、大事にとっておいたもの。文也には、わかっていた。子供の頃から、心の|深《しん》|淵《えん》にひそませていた願望。それに感づかないことで、それを守っていた。死ぬまで守っただろう……愛。  突然、こぼれ出てきたその言葉に、文也は|愕《がく》|然《ぜん》とした。彼は比奈子の丸い背中に目を遣った。駄目だ。俺は何ということを考えているのだ。あそこに自分を待っている女がいる。愛している女がいる。  文也はシャツを着ると、比奈子の|許《もと》に行こうとした。  その時、冷たいものが彼の足首をつかんだ。文也は驚いて視線を下に落とした。  泥の中から伸びてきた細い手が彼の足を握っていた。身じろぎもできず、文也はその滑らかな手を見つめた。白い|睡《すい》|蓮《れん》の花のような腕が黒い泥に持ち上がってくる。  ぽこっ。小さな音がして、少し向こうに顔が浮かんだ。泥がたらたらと滴り、抜けるほどに白い頬が現れた。莎代里だった。切れ長の目で文也を見上げている。|眼《まな》|差《ざ》しに漂う、仄かな色気。唇は誘うように開いている。それは成熟した女の顔だった。ついさっき、彼が頭に描いた通りの、大人になった莎代里の顔。  莎代里の視線が、彼をとらえた。その目は彼を見つめていた。子供の頃と変わらない、|憧憬《しょうけい》と熱情のこもった目で。  その時、文也は理解した。これから先、どんなに比奈子を愛していこうと、自分は莎代里から離れることはできないだろう。莎代里の視線は、あまりにも幼い頃から、あまりにもひたむきにそそがれていたために、大人になった彼の恋愛すべてに関わり合ってきた。彼の人生そのものが莎代里の視線と離れがたいほどに、からみ合ってきた。  比奈子と自分と、二人だけで幸せになることなぞできはしないのだ。三人きりのかごめかごめ。いつも誰かが鬼になる。今までは、莎代里が鬼だった。  文也はその場にひざまずき、莎代里の顔をまっすぐに見つめた。もう視線を|逸《そ》らさない。受け入れるのだ、と思った。自分の感情、解決をつけてこなかった心の奥を見つめるのだ。  泥の海に浮かぶ能面にも似た莎代里の顔に、自分の顔をゆっくりと近づけていく。莎代里の底のない暗黒のような瞳に文也が映っていた。莎代里は|微笑《ほ ほ え》みながら、両手を彼の首にからみつけた。ひんやりとした指先が彼の髪の毛をまさぐり、ひき寄せる。  莎代里の赤い唇が|濡《ぬ》れていた。彼女は、文也の唇に自分の唇を重ねていった。  ——かごめかごめ [#ここから5字下げ] かごのなかのとりは いついつねやる—— [#ここで字下げ終わり]  夕日の中を赤トンボが飛んでいた。比奈子は目を閉じて、暖かな風を感じていた。草の上で、かごめかごめの遊びをした自分と文也と莎代里が見えるような気がした。  ——よあけのばんに [#ここから5字下げ] つるとかめがすべった—— [#ここで字下げ終わり]  三人とも仲がよかった幼年時代。どうして文也を奪い合うことになってしまったのか。子供のままでいられたなら、そんなことはなかっただろう。しかし人は死によってしか時の流れを止めることはできない。比奈子と文也は成長して大人となり、死んだ莎代里は、少女のままで死の国に取り残された……。  ——うしろのしょうめん だあれ——  文也と莎代里の声を聞いた気がした。比奈子は、はっとして背後を振り向いた。  窪地の底の泥の中に、文也が倒れていた。比奈子は叫び声をあげながら、斜面を駆け降りた。文也は|俯《うつぶ》せになり、泥に顔を突っこんでいた。腕が何かを求めるように泥をつかんでいる。  比奈子は彼を抱き起こした。ぞっとするほど体が冷たい。 「文也君っ」  揺さぶってみたが、文也はすでに息を止めていた。黒く汚れた文也の顔には、満足気な表情が浮かんでいた。  比奈子は文也を抱きしめた。風が二人のまわりを渦巻いた。  ふと、笑い声を聞いた気がして、比奈子は顔を上げた。泥地を渡る風が、彼女の髪をかきまぜていく。耳許を、風が音をたてて通り過ぎる。風の中に莎代里の笑い声が聞こえた気がした。それはもう少女のものではなく、成熟した女の|嬌声《きょうせい》……。  ひゅぅぅぅぅううふふふふふふ。  笑い声は風に乗って、神の谷に広がっていく。  比奈子は、文也の胸に顔を埋めて泣いた。  墓地は朝露に濡れていた。|櫟《くぬぎ》の|梢《こずえ》からこぼれてくる日射しが秋の気配を漂わせている。まだ墓石もできていない文也の墓は、板で作った角塔婆だけが立てられていた。比奈子はバッグを地面に置くと、持ってきた花束を供えて合掌した。  文也の死因は|溺《でき》|死《し》だった。浅い泥の中で|溺《おぼ》れ死んだのだ。それが莎代里の死因と同じだったことが、比奈子を最終的に打ちのめした。結局、莎代里に文也を奪われたことを、まざまざと見せつけられた気がした。  むろん文也の両親には、そんなことはいえるはずもない。ただ文也と二人で神の谷を見に行って、どういうわけかわからないが、溺死するような事故に遇ったのだと告げた。彼の両親は息子の死を受け止めるだけで精一杯で、その説明の納得のいかなさにまでは気が回らなかった。  神の谷にいたはずの日浦康鷹は、あの日、すでに死んでいた。彼を殺したという看護婦が逮捕されて話題を呼んでいた。しかし、比奈子は、康鷹が自ら死を望んだのではないかと思った。自分の手で娘を埋葬するには、死んで彼自身が|蘇《よみがえ》る必要があったのではないか。  台風の翌日、矢狗村の三人の人間が死んだ。文也、康鷹、そして何者かに惨殺された大野シゲ。村の人々は恐ろし気にその原因を|噂《うわさ》し合った。そうでなくても、その日は四国各地で不思議な事件が起こっていた。四国全域を霧とも雲ともつかないものが覆い尽くし、死者がこの世に現れた、と誰もが口をそろえた。霧や雲の中に、途方もなく広がる荒涼とした大地を見たという人間もいた。しかし夕方には空は晴れ、死者たちは跡形もなく消えてしまった。ある学者は、台風の後の気圧の変化が異常気象を生み出したのだといった。別の学者は、台風の被害が大きかったために、集団ヒステリーに陥ったのだと語っていた。  比奈子は、勝手|気《き》|儘《まま》に大騒ぎしている村や世間から離れて、生まれ育った古ぼけた家にこもり、一人、文也の死をかみしめていた。  台風の夜、激しく抱き合ったこと。あれはほんとうにあったことだろうかと思った。あまりに早く時が過ぎ、文也は死の手に連れ去られてしまった。  これからはじまるだろう彼との日々を思い、悔しさで涙がこぼれた。せっかく見つけた新しい恋だった。文也と新しい人生を歩むことができたなら、どれほど素晴らしかっただろう。しかし文也は比奈子の傍にはいない。この冷たい土の下で骨となっている。  雑木林に囲まれた秋沢家の墓は、矢狗村を見下ろす山の斜面にあった。木立の間に、澄みきった|蒼穹《そうきゅう》が広がっている。この空の下を再び手をつないで歩くことも、もうないのだ。  比奈子は長い間、文也の墓の前で手を合わせていた。やがてのろのろと立ち上がった。花束を包んでいた新聞紙を拾い、バッグを持ち、もう一度文也の墓に目を遣ると、山の中の墓地を後にした。  山道を下る足取りは重く、悲しみがまたこみあげてきた。やりきれない気分で、手にしていた新聞紙に目を落とした。『石鎚山の修験者 |謎《なぞ》の死』。黒々とした見出しが飛びこんできた。比奈子は立ち止まって、記事を読んだ。 〈台風二十四号のために、山頂への道が不通になっていた石鎚山に、八月二十三日、地元の消防団が登頂。山頂で男性の遺体を発見した。服装から石鎚山の修験者と思われ、台風の前後に登頂して帰れなくなり、衰弱死したもよう。警察で身許を探している〉  二週間も前の新聞だった。比奈子は、考えこみながら再び歩きだした。石鎚山で出会った不思議な男のことだった。全身から厳しい雰囲気を漂わせていた男。彼は何者だったのだろう。  山道が終わり、アスファルトの道路に出た。比奈子は稲穂の揺れる田圃の中の道を歩いていた。稲は黄金色に変りつつある。道端に|曼《まん》|珠《じゅ》|沙《しゃ》|華《げ》の真っ赤な花が咲いている。秋はすぐそばにきていた。  後ろで車のクラクションが聞こえた。軽トラックが横づけして、窓から真鍋久美の顔が|覗《のぞ》いた。 「比奈ちゃんやない。どこまで行くが」 「バス停まで。これから東京に戻るの」 「へえ、東京に?」 「いつまでも仕事ほったらかしにして、ぶらぶらしてるわけにはいかないから」  比奈子は小さな旅行用バッグを見せた。他の荷物は、もう東京の自宅に送っていた。久美は助手席のドアを開けた。 「バス停まで送ってくわ」  軽トラックは、比奈子を乗せて走りだした。フロントガラスに下がった、小熊のぬいぐるみが揺れている。 「今日は朝からばたばたしよってね。子供が熱だして寝ゆうもんで、お昼の用意したり、飲ませる薬をお義母さんに教えたりせにゃいかんかったがやき。やっとこれから畑仕事に行くところよ」  久美は、相変わらず元気な声で話しかけてきた。 「比奈ちゃんは、こんな朝からどこ行っちょったがで。家とはえらい離れたとこ歩きよったけど」  比奈子は文也の墓参りをしていたのだと答えた。久美は悪いことを聞いたという顔をした。比奈子と文也がつきあっていたことは、村の|噂《うわさ》で知っているようだった。しばらくはガタゴトと走る車の音しかしなかった。軽トラックは、学校に行く小学生を追い抜いていく。子供たちの背中でランドセルが無邪気に揺れていた。 「文也君が死ぬゆうてねぇ。私、まだ信じられんわ」  久美はぼそりといった。比奈子は|頷《うなず》いた。久美と、文也のことを話すのはつらかった。このまま黙っていてほしいと思った。  しかし久美は低い声で続けた。 「私ね、小学校の時、文也君のこと、好きやったんで」  比奈子は驚いて久美を見た。彼女は、農作業で皮膚の荒れた顔に笑い|皺《じわ》を寄せた。 「おかしいやろ。三人も子供がおるおばさんになって、こんなことゆうて」  乾いた笑い声に、悲しみが|滲《にじ》んでいた。比奈子は首を横に振った。 「おかしくないわ。私も小学校の時、文也君が好きだった。あの頃から|憧《あこが》れていたの」  久美と目と目が合った。二人は、お互いの瞳の中に、同じ哀しみを見いだしていた。  みんなそうだったのだ。子供時代、口に出せない思いを、どうしたらいいかわからずに胸に抱えていた。|密《ひそ》やかな思いは大人になっても消えはしない。心の大地の奥深くで、地下水のように連綿と流れつづける。誰だって、亀の|甲《こう》|羅《ら》を背負って生きている。文也はそういったではないか。自分一人ではないのだ。比奈子は座席に背を埋めて、深く息を吸った。  車が『コンビニエンス・フジモト』の前のバス停留所で止まった。比奈子は礼をいって、久美の車から降りた。軽トラックは、クラクションを鳴らすと走り去った。  店に入ると、レジに座っているゆかりに気がついた。ゆかりは照れ臭そうに比奈子に|挨《あい》|拶《さつ》した。ゆかりと君彦の駆け落ちの|顛《てん》|末《まつ》は、借りていた布団を返しに行った時、大野千鶴子から聞いていた。結局ゆかりは、大阪に乗りこんでいった夫に連れ戻されたということだった。  佐川町までのバスの切符一枚を頼むと、ゆかりは切符をカウンターに置いた。そして、文也君のこと、大変だったね、といった。比奈子は頷いただけだった。ゆかりは、店に誰もいないのを確かめて|囁《ささや》いた。 「この前は、お世話になったわ。うちの|旦《だん》|那《な》があんまり頼むもんで、戻ってきたけど。大阪いうとこも、どんなもんかわかったし」  ゆかりは、帰ってきてやったといわんばかりだった。きっと誰彼となく、同じように弁解してるのだろう。 「比奈ちゃん、これから佐川まで?」 「ええ。東京に戻るの」  ゆかりは、がっかりしたように、もう帰るのかといった。 「けど、お正月は帰ってくるよね。また同窓会するき、出てや」  その同窓会には、もう文也はいないのだ。比奈子の顔が|歪《ゆが》みそうになった。  表で車のエンジンの音がした。バスが店の前で止まるのが見えた。比奈子は救われた気分で、ゆかりに別れを告げた。  ワンマンバスは、三人の乗客を乗せただけで走りだした。矢狗村が遠ざかっていく。比奈子は窓際に座って、|山《やま》|間《あい》に消えていこうとする村を振り返った。逆川が、仁淀川に向かって流れている。その源にあるのは神の谷。死者の心が集まる場所。  四国は死国。神の谷の石柱が泥の中に沈み、死国はこの世の外に消えた。しかし、この島には、今も死者の心が渦巻いている。死者は、私たちのそばにいて、私たちを見ている。私たちが、彼らを呼び出す日を待ちながら……。  文也の死顔が脳裏に浮かんだ。穏やかな顔だった。恐怖も苦痛もなかった。彼の死後、彼女を最も苦しませたのは、あの表情だった。文也は、莎代里のいる世界に行くことを求めたのだろうか。それとも|抗《あらが》ったのだろうか。あの表情からは見当もつかなかった。これから先も、この疑問は自分を悩ますだろうと思った。文也は、自分を愛していたのだろうか、と。  心の痛手を癒そうと帰ってきたのに、またひとつ、痛手が増えただけだった。透とのことを解決したと思っても、また別の問題が生まれてくる。矢狗村の家をどうするかも、まだ決めかねていた。  生きていくとは、こういうことだ。山積する問題を背負いこんで歩く。それが亀の甲羅。比奈子は、膝の上に置いた手を握りしめた。人は皆、意識するにしろしないにしろ、その甲羅を背負って生きている。甲羅を抱えこむこと自体、生きていることの|証《あかし》、生者の特権だ。  その時、誰かの視線を感じた。比奈子は、あたりを見回した。他の二人の乗客は、退屈そうに窓の外を見ている。白いビニールをかけたバスの空席。|吊《つ》り皮が遊ぶように揺れている。誰も彼女を見てはいなかった。  比奈子は、座席に座り直した。それでも、まだ視線はそこにあった。包みこむような視線。彼女が、この夏、慣れ親しんだ優しい|眼《まな》|差《ざ》しが……。  比奈子は、まっすぐ前を見つめた。その顔にゆっくりと静かな笑みが広がっていった。  バスがカーブを曲がり、矢狗村は山の後ろに消えていった。  バスを草むらに避けてやりすごしてから、照子は道路に出てきた。洗いざらしの白装束に、|菅《すげ》|笠《がさ》。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》をつきながら、また歩きはじめた。  巡りゃええ。|逆《さか》|打《う》ちで、死んだ数だけ、巡りゃええ。照子は心の中で|呟《つぶや》きつづける。何年かけても、何十年かけても、いつか回り終える時がくる。そしたら莎代里が戻ってくる。戻ったら、いい男を見つけて日浦の女を産んでくれる。自分の代で、日浦の女の血を途絶えさせはしない。  アスファルトの道は黒々と延びていた。照子は、やつれた顔に決然とした表情を浮かべて一歩、一歩と進んでいく。腰につけた鈴が揺れる。  ちりんちりん、ちりん。  澄んだ鈴の音が、白いうろこ雲の浮かぶ秋の空に流れていった。   参考文献 「鬼むかし」五来重 角川選書 「遊行と巡礼」五来重 角川選書 「土佐の海風」桂井和雄 高知新聞社 「生と死と雨だれ落ち」桂井和雄 高知新聞社 「古事記」倉野憲司校注 岩波文庫 「新・古事記伝」中山千夏 築地書館 「日本の古代遺跡 39 高知」森浩一企画 岡本健児 保育社 「日本の憑きもの」石塚尊俊 未来社 「私度僧 空海」宮崎忍勝 河出書房新社 「山岳霊場巡礼」久保田展弘 新潮選書 「土佐の神ごと」吉村淑甫 高知市民図書館 「世界の迷路と迷宮」ジャネット・ボード 佑学社 「霊魂の博物誌」確井益雄 河出書房新社 「遍路 四国霊場八十八カ所」監修/四国八十八カ所霊場会 講談社 「佐川の昔ばな志」佐川民話の会 |死《し》|国《こく》  |坂《ばん》|東《どう》|眞《ま》|砂《さ》|子《こ》 平成13年1月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Masako BANDO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『死国』平成8年8月25日初版刊行 平成11年2月28日16版刊行