TITLE : 古酒新酒 講談社電子文庫 古酒新酒 坂口謹一郎 著  目 次 第一部 世界の酒 口噛み酒造法 カビの酒 粉食の酒と粒食の酒 パンの酒——ソ連邦の酒 土に醸(かも)す——中国の酒 ビールの先祖——イギリスのビール シェリーの国——スペイン遊記 第二部 日本の酒 世界の酒から見た日本の酒 日本酒の季節性 正月の酒 忘れられた酒 灘の酒 いずこへ行くかわれらの酒 焼酎——日本の酒の盲点 君知るや名酒泡盛 尚家の紅麹 第三部 酒と人 酔話の魔力 中国酒客 世捨て酒——芭蕉翁と酒 酒と短歌——百穂と憲吉 「福翁自伝」 矢内原総長と酒 鈴木信太郎先生と酒  後 記 古酒新酒 第一部 世界の酒 口噛み酒造法  木の実の汁が自然に醗酵しておいしい酒になるのは、人間不在の酒であって、それは人の造った酒ではない。ここで問題にするのは、人間の智能が作用してはじめてできた酒のことであって、穀類などでんぷん質を原料とする酒のことである。もっとも、木の実の汁にしたところで、何かの中にたまらなければ、飲めるほどの酒にはならない。そこで猿酒は木のまたを使い、中国では石器を、また他の国では貝殻という説もある。土器はその後であろう。酒という字は、もともと旁(つくり)から始まった。壺の形である。〓(さんずい)の方は中身であって、古い字には、酉の右側についたものもある。この方は濃い酒であって、酎という字はそれから出たという説もある。また「さんずい」の数も、古くは三点に限らず、四つも五つも点が並んだものもある。  人類の肉食のはじまりは人肉を食することからであるという人がある。その筆法でゆくと、酒のはじまりはどうしても「口がみの酒」ということになる。「口がみの酒」は現在この地上のどの地方に現実に造られているか知らないが、戦前まではたしかにあった。そして古い記録をも含めて考えると、その存在は地球上の各地にわたって広く分布されていることや、後世に残されているものでは、多く神事や儀式など古い時代のシンボルの形が主であることなどからも、それが世界の人類社会を通じての酒造りの原始型であるように推察される。唾液の弱い糖化酵素に比べて、はるかに強力な、麦芽やカビの酵素力がはやくから発見されていた地域の酒造りの記録には全くこれがなく、アフリカや、南米やアジアの奥地、太平洋の孤島などの種族など、長い間中央の文化から隔離されている地方の間にのみ知られていることなどもその証拠のひとつであろう。  新大陸などは、一万年も前に、旧大陸の文化から隔離されたという説があるが、泉靖一教授によると(『インカ帝国』、岩波新書)、インカ帝国(十三世紀頃から十六世紀)の農民は、朝食にもチッチャ(チカ)という、玉蜀黍(とうもろこし)で造った酒を飲む習慣があって、それを造るのは女性の仕事であった。「彼女たちはトウモロコシをゆで、これをかんで大甕(おおがめ)のなかにはき出す。トウモロコシの澱粉は次第に糖化する。ころあいをみはからって、水を加え火をいれる。やがてはっこうがはじまり、一日たつと立派なチッチャができあがる。トウモロコシをかむことは、女の夜の仕事である。」と書かれている。インカ皇帝の一番大切な「太陽の祭り」も、六月にその年にとれたトウモロコシで、チッチャを造って太陽を祭る行事が、中心となっていたということである。  わが国では「大隅(おおすみ)国風土記」の断片に残されているほか、戦前までは沖縄と北海道のアイヌ族の間に実際に行なわれていた記録があるので、本稿ではそれらのうちから、この地上から消え去ろうとしている酒造りの実際のありさまを御紹介して見たいと思う。  先ず「大隅国風土記」により、奈良朝またはそれより古い頃に行なわれていたらしいわが国の「口がみの酒」の状態は、「ある家で水と米とを用意して、村中に布れてまわると、村の男女が集まってきて、米を噛んで酒ぶねに吐き入れ、後めいめいの家へ帰って行く。酒の香りが出てくる頃になると再び集まってきて、先に噛んだ連中がこれを飲むのである」という。  原料は生(な)ま米のようであり、噛む人に特定の資格を要せず、またそれを飲む権利は「サキニカミテハキイレシモノドモ」に限っていたらしいところに特徴がある。沖縄での神酒すなわち「ミキ」の造り方は、噛み手を十三、四から十五歳までの少女の特に容姿の端正なものを選むことや、原料の糯(もち)白米の一割くらいを生まのまま粉にして噛んで加えるところなどに特徴がある。酒色潔白で味甚(はなは)だ甘美であるという。「成形図説」という書物には「女子の口気により、その気味あるいは甘く、あるいは辛し、これを甘口辛口という」などと余計な註まで加えてある。噛む前にはめいめい甘蔗(さとうきび)で歯をみがき、海水で口をすすぐともいう。  筆者の先輩の元台湾総督府中央研究所醗酵部長、現在武田薬品工業会社顧問をされている中沢亮治博士と、東京農業大学名誉教授住江金之博士のお二人は、実際に口がみの酒を味わったことのある数少ない人たちである。次にこの両氏の経験を記録を通じて記させていただく。  先ず中沢さんは、大正四年十二月に台湾の蕃社チブー社の酒造を、警官の案内で実地に見聞された時の話である。原料の粳米(うるちまい)(モチ粟も使う)を六時間水に漬けて後、籐(とう)のザルにあげて水を切り、石臼(いしうす)でついて粉にしたものを鉄鍋に水と加え、鉄のヘラでかきまわしながら煮る。よく煮えた時これを米粉で目をぬりつぶして水のもらないようにした籐ザルにあけ、摂氏五十度ぐらいまで冷えた時、男女数人が口をよく清めた後、ザルのまわりに坐って人指しゆびと中ゆびを使って、米塊や米粥のまざったものを口中にとり、かむこと約二十回、その上に再び同様に一とすくいしてかむこと二十回、これを続けること五回で口中一ぱいになった時、ザルの中に吐き出す。吐き出した部分の液面は光っているが、まだかまない液の部分はザラついているから、その部分を同様に取ってかむというようにして、全部をかみ終った時これをカメに仕込む。  カメは前もって熱湯でよく洗い、更に熱湯をつめて温めた後、それをすて、屋内の土間に熱灰を三センチくらいの厚さにしいた上にのせる。このカメに、先の噛んだ液一に対して二の割合で新たに水漬粉砕した米粉を加え、それに等量の水をよくまぜ、「ツオウ」という草の葉でふたをする。夏は一昼夜、冬は二昼夜で醗酵が盛んになるから、これを籐の袋にあけてこす。飲んで見ると、酸味は強いが渋味や苦味はなく爽快であったという。それを分析したらアルコールが十一パーセント、酸は一パーセント近くあったといわれるから、麦酒の倍くらいの強さのものである。  次に住江さんの経験は、やはりその頃のことと思われるが、卑南蕃社の祭礼用の酒である。「私はこれを実見したが、十五—十六から十七—十八くらいの少女が集まり、少しやわらかく炊いた飯を三本の指でつまんで口に入れる。長くかんで甘くなったところで、平たいザル(ザル目に甘藷をすりこんで水がもらぬ様になっている)に吐きためておき、一昼夜くらいしてから飲用するのである。私の飲んだところでは、粥状をなし、甘さも甘酒程度で、また酒精分はほとんどなかった」という。とにかくこれだけ詳しい記載があれば、われわれは今でも口がみの酒を造れるわけである。  口がみの酒の原料は国によって異なる。たとえば太平洋諸島ではカッサバなど根茎類、中南米では玉蜀黍(とうもろこし)、稀に小麦粉、沿海州や東南アジア地方は主に米などである。噛み手としては婦人か少女が一番普通で、稀にメラネシアのカヴァのように男子に限るものもある。日本や台湾は前述のように多く男女を選ばない。原料の処理も生まのままの穀物を使うものもあるが、台湾のように、原料の大部分を砕いて煮て使うようなものは、幾分進歩した型であろう。  さて原始酒造の形式として、上に述べたような口がみは、糖化という酒の大切な工程の原始型であるとすれば、これに対する酒造のもう一つの大切な工程である酵母(こうぼ)添加にも原始型が考えられるわけである。酵母は大気中のどこにも飛んでいるから、糖液に特別に酵母を加えないでも自然に醗酵がおこることは周知の通りである。しかしいやしくも酒造という以上は、原始時代といっても、醗酵を確実に始めさせるための何等かの工夫が見られてもよいのではないか。それは如何なる方法かというと、草を加えることである。  先の中沢さんの話の場合に、一体酵母はどこから供給されるかを考えて見るに、熱湯で殺菌したカメに仕込まれるのではあるが、そのカメの蓋(ふた)に「ツオウ」という草の葉を使うというのである。どんな植物か不明であるが、とにかく草には酵母やカビが沢山ついているわけであるから、この場合の蓋の役目は重大であろうと思われる。明治の中頃日本酒の研究がさかんであった頃、その酵母は一体どこから来るかという問題について、西欧の学者と日本の学者の間に有名な論争が行なわれた。デンマークのジェルゲンゼン教授らは、日本酒の酵母は麹菌(こうじきん)の菌糸がちぎれて発生したものであると報告したのに対して、東大総長の古在(こざい)由直先生らは、実験の結果そのような事実の全くないことを証明し、日本酒の酵母は酒造場でどこにも使われている「わらむしろ」などの藁(わら)製品から、入ってくるものであると主張されたことがある。  台湾の場合にも、別の文献では「あかざ」の実を酒に投ずることや、そのほか「とうあずき」「たかさごぎく」などの水漬液を粉にまぜて使うことを秘伝にしているなどという記載も見られるのである。ことに花は蜜があるから酵母の巣としては最適であろう。山崎百治博士によると、中国南部地方の麹には、古来草麹という麹が普及していて、その製法は、いろいろな草木の根や皮や茎葉などを麹にきざみこんだり、その水漬液で麹を造るのであるという。現在でも中国では〓子(きよくし)という麹を造る時に、「ばれんそう」などという草の葉を敷いた上に並べて造るようなこともしている。  そのようなことから、酒造りのはじまりの形としては、糖化は口がみ、酵母は草根木皮というあたりででもあったろうかと考えられる。もっとも原料が穀類に限られるわけではなく、焼畑農耕の原始型では、芋類も多かったのであるから、それらでの酒の造り方を書いた文献も、そのうちに見つけたいと思っている。 (初出=学鐙 昭和46年12月号)  カビの酒  中国の科学技術史には、筆者の知人のヨセフ・ニーダム博士のScience and Civilization in Chinaの七巻に亙(わた)る厖大な著書があって、まだ完結に至っていない。しかし中国の酒類に関する限りは、農学博士山崎百治著「東亜醗酵化学論攷」が一番の力作である。ここでは、この著書を通して、中国はもちろん、世界の他の国々の酒の起原を、もう一度ふり返って眺めることにしたい。  農学博士故山崎百治氏は大正五年に東大農学部農芸化学科を卒業後中国に渡り、東亜同文書院上海自然科学研究所にあって多年中国の酒類の醸造を研究し、数千年の古い歴史をもつ中国の酒に対して、初めて近代科学のメスを加えてその科学的基礎を築いた人であって、その厖大な研究成果は長年に亙って同所の報告に発表されている。ところがそのかたわら、氏は中国の酒に関する古来の文献を微に入り細に亙って渉猟し、中国の酒の由来や世界の酒の間における中国の酒の位置づけ、その特徴などを氏一流の見解を以て説かれているのがすなわち本書である。  中国の事物の科学的開明の緒は、わが明治初年と同様に、多く欧米学者の手で開かれているが、酒に関する限りは偶然にもわが国の科学者による所が多い。老酒(ラオジオウ)、黄酒(ホアンジオウ)のような中国プロパーの酒類は、前述のように山崎博士の厖大な研究があるほかに、中国の他の酒類、すなわち主に北部や山岳地帯で造られている数多くの蒸溜酒(焼酒(シアオジオウ)または白酒(パイジオウ))類の代表的のものとしての満州の高粱酒(カオリヤンジオウ)の研究は、満鉄中央試験所で阪大教授故斎藤賢道理学博士や長西博士、また中国南方酒類の流れをくむ台湾の酒類の研究は、台湾総督府中央研究所の中沢亮治博士その他の多年に亙る数多くの研究があって、いずれも中国の酒界はもちろん世界的にも著明なものである。それ故酒学者の間の日中親善は昔も今も極めてこまやかである。  本書で著者は、先ず人類と酒との出会いはどのような形で始まったかという点に強い関心を示している。それには果汁や樹液や蜂蜜や乳のように、糖分を含んでいてそのままほうっておいても自然に酒になるようなものは二の次として、穀類のような澱粉質(でんぷんしつ)でそのままではアルコールができないものが、どのようにして酒にされて来たか、つまり澱粉が糖化される過程に重点をおいて世界の酒を考えるという行き方をとっている。  そのような考え方に基くと、原始の酒の形は、まず砕いた穀物に水を加えておくと自然にその中にバクテリヤや酵母が繁殖して、一種の腐敗醗酵をおこす、腐臭の強い、しかしアルコールも多少含まれているというような「バクテリヤの酒」。その次には澱粉質のものを焼いたり炒ったりすると、澱粉の一部が糖分に近いものになって、それに水を加えておくとアルコールができる。このような原始的な酒を著者は「温熱利用の酒」といっている。そして前者の例としては、ブータンのマルワ、ヒリピンのパンガチ、メラネシヤのモロオ、タイのバクスム、アラビアのスビア、アフリカ・カメルーンのガヤンラス、南米のアロハ及びネトなど、また後者の例としては、カメルーンのジンジンディ、アビシニヤやエジプトのブザやソワ、などの酒をあげている。  酒の原始型のうちでは、上の二種の酒よりはるかに分布も広く、かつ古いものに「口がみの酒」がある。これは唾液の糖化力を利用するものであって、山崎さんによると、この種の酒は南太平洋の諸島、中国に近い諸島とその沿岸地域、北海道アイヌ族、女真(じよしん)族韃靼(だつたん)族(いずれもシベリヤ、北満)と南米中米などに分布され、そのうちでも南太平洋地方のものは植物全体を軽く噛みくだくのを特徴とするから、むしろ植物体を歯で破砕することを主目的とするに対し、中国沿海系のものは澱粉に富む穀類などを口中で十分に噛むことを特徴とするから、この方は唾液の糖化力の利用を目的としたものと見て、両種の酒を区別している。前者に属するものとしてはメラネシヤのカヴァ、フィジー島のアンゴナ、ポナペのチョコ、そのほかサモアなどの酒をあげている。また後者の例としては中米のチカ、ミシュラ、ブラジルのアイピ、チリのムダイ、「大隅国風土記」の口がみの酒、沖縄の米奇(ミキ)、台湾蕃社の酒、アイヌ族の酒などをあげている。原料には米麦などの穀類のほか、カッサバなどの根茎類も使われ、また噛む人も男子のみに限るものは稀れで、女子が多く、特に美人、少女などに限るものも見られるという。  以上の酒類はいずれも、過去に消え去ってしまったか、または一部の国々に祭祀などにのみ残されている酒の造り方であるが、山崎さんは更に現在の世界の国々の酒造りの原理につながっているような古来の酒造りの方法を列挙して、それらと中国の酒造りの行き方とを比べている。  まずエジプトでは古王朝時代から葡萄酒と麦酒があって、その製法なども有名な「死者の書」から想像することができる。またチグリス、ユーフラテス両河地方には椰子(やし)酒、麦酒、葡萄酒が、イラン高原の西辺エラム文化は有名なハオマ酒(ハオマの樹液に乳を加えて醗酵)、葡萄酒、麦酒を生み、パレスチナ地方のヘブリューはノアの葡萄酒や乳酒をもっていた。  次にインドはモヘンジョ・ダロなどの発掘によって推定されるように、初期のドラヴィダ族の文化はメソポタミヤのシュメール文化に近いところから見ても、それと同じく椰子酒や麦酒をもっていたことが想像され、またそれに次いで現れたインドのアーリアン族のヴェダ文化に見られる有名なソーマ酒は、ソーマの樹液に大麦粉、バター、野生稲粉などを加えて醗酵させたもの、またソーマ酒と並んで有名なスーラ酒は椰子汁の酒であったらしく、その他に麦芽で造ったサーナ酒といわれる麦酒もあったことなどから推察すると、インドでは樹液の酒と麦酒とが古くからあったようである。このように見てくると、中国以外のこれらの国々では、澱粉質物(でんぷんしつぶつ)を原料とした酒類の糖化法としては、ただひとつの方法、すなわち麦酒のように麦芽の酵素を利用する方法しか知られていなかったことは明らかである。ところが中国の酒ではこれらとは全く異なった「かび」の酵素による糖化法が古くからとられ、それが中国人の世界の酒における大きな発見であるというのが著者の大切な結論となっている。  石器時代の末期の中国の古い文化のあとは、その遺物から二つのグループをあとづけられる。その一は「細石器で特長づけられる文化で、東は北満から一部北朝鮮に及び、西は遠く支那トルキスタンから中央アジアに達する」もので、これには造酒のあとを的確に見出すことは困難である。もうひとつは「西は甘粛、東は南満、北は赤峰に及ぶ地域で、ちょうど前者の南に当り、大体黄河の流域を占めている。その文化の土器の特徴は、黒乃至(ないし)鼠色土器と彩色土器とであって、普遍的なのは手づくねの黒色土器で、その表面に縄蓆文を印し、鉢壺などのほかに浅い鉢に高い足をつけた高杯(たかつき)(豆(とう))、三足の袋脚をした鬲(れき)など特別のものがある。鬲型土器と類似のものに、トロヤ及び中米の土器があるが、中国で特に特殊な発達をとげた点において、支那民族特有の土器とされる。鬲形土器を火上におけば、袋状の三脚の面は多く熱をうけるから、容易に内容物を煮炊することができる。またこの土器の上に、底部に孔をうがった壺、すなわち甑(こしき)をのせ、水蒸気を発生させれば内容物を蒸炊することもできる。」というわけで、後者のような土器も発見されている。このようにその時代には穀物を煮たり蒸したりすることは知られているが、これでたしかに酒を造ったという証拠はないということである。  青銅器時代になって、河南省安陽のいわゆる殷墟(いんきよ)などから見出された多くの銅器には、酒を入れて神を祭りまたは飲用したと思われる礼器や祭器の類やその銘文から、酒関係の銅器が他の種類に比して断然主位を占めていることが知られる。またその時代の文字を記された亀甲獣骨の破片のいわゆる卜辞(ぼくじ)にも酒の関係の文字が見られる。そのうちの酉という字は壺、瓶、尊(〔ママ〕)などを表わし、〓は液体を表わすとされてはいるが、山崎さんによればそれだけでは、それが酒を意味することにはならない。それよりは別に鬯という文字がある。この字の上部のは潰米の象(かたち)で、これは酒の「もろみ」、すなわち「どぶろく」に当り、その他の下の部分は、〓(さん)すなわち石の容器を意味するから、これは「石器に造られた醪(もろみ)」を意味する。「酒」すなわち「土器にもられたる液体」よりは、この字の方が当時の酒の真相を示すのによほど的確であるという。興味深い意見である。  さてそれでは、このようにして煮たり蒸したりした穀物を、はたしてどのような方法によって糖化し醗酵して酒を造ったものであろうか。これについての一番古い文献、書経の「若作酒醴、爾惟麹蘖」(説命)の語によって察するよりほかに道がないとのことである。著者によれば麹(きく)は日本語で「こうじ」、蘖(げつ)は同じく「もやし」を意味する。いずれも穀類に「かび」を生やしたもので、澱粉を糖化する強い酵素を含む。そこで中国人の発明した酒は「要するに支那民族特有の鬲もしくは、これに甑(こしき)を上わづけした土器で、穀米粒を煮炊または蒸炊し、これを該民族が発明した麹もしくは蘖で糖化し、(酵母で)醗酵して造った鬯が支那民族特有の酒である」ということになるのである。 (初出=学鐙 昭和46年7月号) 粉食の酒と粒食の酒  西洋の酒は麦芽の酒、東洋の酒はカビの酒という事実は、昔からの定説であるが、このことを、中国の酒を中心とした世界の酒についての豊富な文献によって立証されたものに、山崎百治著「東亜醗酵化学論攷」がある。その中で氏は、中国の古い酒には麦芽を併用して造られた酒があるにもかかわらず、西洋には昔からカビで造られた酒が全く見当らない点を強く主張されている。そして次には、それにつながる問題として、同じくカビを使っている、わが日本の酒と中国の酒との間には、その系統の上からどのような関係にあると見るべきか、ということが引き出されてくることになる。  この問題に対する山崎さんの結論を先に出させていただくと、「要するに日本固有造酒法が、先進文化国なる支那朝鮮の造酒法に圧倒克服せらるることなく、よくその伝統を持続しえたのは、天孫民族、日本民族が優良なるカビを保有し、その性能の発揮に不断の努力を重ねた結果によるものと信ずる」ということになっている。そしてこの結論の裏づけとしては、日本古来の酒に関する文献は申すまでもなく、「日本酒類に対する朝鮮の影響」「日本酒類に対する支那の影響」とそれぞれ別の項目を立てて検討されているのである。今その立論の内容をわかりやすく御紹介すると、およそ次の通りになる。  中国には太古から酒造の「もと」になるカビを生やした穀物、すなわち「麹(こうじ)」には、二種類の代表的な型式がある。そのひとつは餅麹(へいきく)といって、生穀を砕いたものを水で固めて、円板状や角状や塊状に成型したものにカビを生やしたもの、他のひとつは蘖(げつ)といって、ばらばらの粒状のまま穀物にカビを生やしたもので、近頃日本の言葉では、「バラ麹」などともいわれる形のものである。ところで中国では、長い歴史の経過にともなって、酒造の上では後者のバラ麹を使う方法が次第になくなって、近世では専(もつぱ)ら餅麹による方法ばかりが発達して現在に至っているというのである。今の中国の酒類は、老酒つまり紹興酒(シヤオシンジオウ)でも、黄酒でも、または高粱酒や茅台酒(マオタイジオウ)のような蒸溜酒類でも、主に餅麹の方法で造られているのである。  それに対してわが日本の酒は、太古から今に至るまで飯(めし)にカビを生やした一種のバラ麹である「加無多知」、すなわち「かびたち」を使って造られていて、これは中国の方法とは無関係に自然発生的に生まれた日本人独特の発明であるというところに、山崎さんの立論の根拠があるのである。このお説についても、また前記の西洋の酒は麦芽、東洋の酒はカビという点についても、私も大体において山崎説に賛成である。しかし近頃、西洋の麦芽の酒にも、古い頃の造り方では、麦芽の酵素のほかに、無作為的または無意識的に、自然にカビも作用していたのではないかという説のあることを発見したので、ついでにそれについて少しく御紹介してみたい。  その書物はロンドンのエドワード・アーノルド出版社(初版一九二六年、増補第四版一九六二年、五二〇頁)の"Ancient Egyptian Materials and Industries"で、エジプト学で有名な化学者Alfred Lucas(一九四五年逝去)及びオクスフォードのエジプト学者J. R. Harris(増補者)の共著である。記述によると、エジプトには現在でもヌビヤそのほかの土地に、ブーザと呼ばれる古エジプト時代の製法に近い麦酒が造られているとのことである。その製造操作は、先ず原料の小麦の一部をあらく砕いて水でこね、自然に醗酵させたものを軽く焼いて一種のパンをつくり、小麦の残部は水でぬらして放置した後砕いて、それに前述のパンをちぎって入れ、多量の水を加えて醗酵させて酒にするのであるという。暑い地方であるから、その操作の途中で自然にカビが生え、それが小麦の澱粉を糖化してアルコールができることも考えられるというのが著者の説である。著者は「糖分はまた、カビの作用によって穀粒の澱粉から作られることも考えられる。カビは東洋では古くから酒造に利用されていて、今日でも大規模のアルコール製造に用いられている」と述べ、更に古代エジプトの麦酒については、「ベルリンのDr. J. Gruss(一九二八)は前王朝期(三〇〇〇BC頃)から第十八王朝(四〇〇BC頃)に亙る数多くの墳墓に残された麦酒壺の残滓(ざんし)を検して、エンメル小麦の澱粉粒、酵母細胞、カビ及びバクテリヤや少量の不純物を検出している」というようなこともつけ加えている。西洋の酒についてのこのような意見は、おそらく著者らがはじめてであるかも知れない。要はブーザや古代麦酒で、水でぬらした小麦粉などが、カビの十分に生(は)えられる程度の長い時間水と接触されていたかどうかの点にあると思われる。ブーザのほかにも、現代のエジプトには、スーダン地方にメリッサという麦酒があり、アビシニヤやカイロなどにもそれと類似の製法のものがあるというから、実物についてよく調べてみたいものである。  エジプトでは、麦酒の存在はすでに第三王朝(二七〇〇—二六〇〇BC前後)から知られ、その製法の詳細は、数多くの墳墓の壁画などを通じて推察されている。中でもライデン美術館にあるスカラの第五王朝(二五〇〇—二三〇〇BC)墳墓の画などが有名である。それらに見られる古代麦酒の製法の特徴は、先ず麦粉をこねてパンを焼き、それをちぎって水に入れて醗酵させるというところにあるようである。パン造りと酒造りとは、同じところで行なわれ、製法の上から前者が後者の前段階であったことは、多くの壁画の物語るところである。ドイツなどでも麦酒は液体のパン("fl?ssiges Brot")であるという人があるが、そのような表現の淵源は古いものといわざるをえない。  メソポタミヤの麦酒も、紀元前三千年頃にはすでにスメール人によって造られていたらしく、セム族の古バビロニヤ王国(一八〇〇BC頃)の頃にはその製法もかなり進歩していたようである。ここでも発芽穀粒を粉砕したものでパンを造り、それをちぎって水に漬けて醗酵することが中心の技術であった点は、いずれが先か知らないが、エジプトのそれとよく似ている。  パンで造る酒として、そのほかに古くから知られ、現在も盛んに造られているものに、ソ連のクワスがある。この酒の製法については、以前ソ連から帰った時の話として書いたことがあるので、ここでは省略するが、ウオッカと並んで、ソ連人の最も愛好する飲みもので、家庭的にも親しみの深いものであることは、やはりその時にモスクワの醸造試験所を訪れて、所長さんに「クワスはどうやって造っていますか」とたずねたところ、「自分も大好物だが、実はどうやって造るのか、あまり正確な話は申し上げられません」と笑って返答されたほど一般的な、家庭的な飲みものであるようである。  これまで述べてきたところによって、私は近頃、従来の「西洋は麦芽の酒、東洋はカビの酒」という一般的な分け方のほかに、もうひとつの新説を出すことにしたい。それは世界の酒を「粉食の酒と粒食の酒」とするという二つの分け方である。「ある国の酒精飲料の原料は、概してその国の主食糧と一致している」ということがいわれているが、それと同様に、「一国の酒精飲料の製法は、その国の主食の食形態に支配されている」というように言えるのではないかということである。パンの国にはパンの酒が生まれたことは既に述べた通りであるが、わが日本のような粒食の国には、前述のようなバラ麹の酒があることもその一証になる。中国となると問題は少しく複雑になるが、それでも、中国は昔のいわゆる中原の地を含めて、華北地方は饅頭(マントウ)とか、焼餅(シアオピン)とか、麺類とか、とにかく雑穀を粉にしてたべる習慣の行なわれている粉食地方である。しかし中南部の米作地帯になると、粒食が主体であるようである。中国の麹に餅麹と蘖(げつ)のバラ麹との二種類あることは、必ずしもこれと直接の関係の下に発生した事実であるとは言い難いが、とにかく二種の麹形式が共存していることは事実であり、また山崎さんの意見のように、酒造に関する限りは、今では華北も華南もともに餅麹を主体としていることも現実の姿である。詳しい話をいえば、中南部地方の酒でも、紹興酒のような主要な酒や、そのほか米を原料とする各種の蒸溜酒なども、白米を粉にして大きな「サイコロ」状にしてカビを生やした餅麹の一種の「酒薬」というものが「もと」になって造られているのである。しかし華南で造られる紅酒(アンジオウ)の場合には、モナスクスという赤いカビを米粒に生やした紅(アンカー)を使って造るから、これはバラ麹の酒といわざるをえないように思う。なお蘖(げつ)がバラ麹を意味するという山崎説に対し、篠田統博士はこれを「もやし」として、麦芽のような、穀物の芽を出したものと解する方がよいと言っておられる。  さてこの辺でもう一度話を前にもどすこととして、何故に世界の酒が、地域的に、このように「麦芽の酒」と「カビの酒」との二つにはっきりと分かれるようになったかという問題は、ひとり醸造学の上からのみならず、文化史的に、また環境学的または生態学的に見ても、専門学者にとってなかなか興味深い問題ではなかろうかと思われる。おそらく、温暖湿潤な気候の地方では、自らカビが生えやすいためにカビの酒に傾き、乾燥または寒冷な風土ではカビの力によることが困難であるために、仮りに前述のエジプト学者リュカス氏の説の如く、はじめは麦芽とカビの両方の力が作用していたとしても、後には次第に麦芽による確実なる道に進んだものと考えてさしつかえないようである。  この問題で私がかねてから興味をいだいている点は、このような「麦芽酒文化」と「カビ酒文化」との二つの文化が、東西の何れの地点でぶつかって、境界線が引かれているかという点である。これは中近東からインド、マレーにかけての地方的小規模な酒造りを、詳しく調査してみなければ確実なことはいえないが、少なくとも現在では、マレーからインドネシヤの線までの酒造(アラク酒・米の焼酎など)は、中国の酒薬式の麹で、ラギーとかそのほかの名称で呼ばれている餅麹の形のものを使っているのである。インドは紀元前一世紀頃に成立したお経(十誦律)によると木酒と穀酒とがあって、前者は果実や樹液の酒であるが、後者には麹を使っていたようである。東西の中間文化地帯というものを、世界の文化史上に考えている人もあるようであるが、酒文化の場合には、そのいわゆる「中間」なるものが果して如何なる実態で存在しうるものであるか興味ある問題である。  エッソ・スタンダードという石油会社で出している「Energy」という雑誌の一九七〇年第三号に出ている大阪府大の中尾教授の東南アジア地方の食生活についての御報告によると、「つぎに酒の一種で、丸い形のモチこうじを使って雑穀をぬれた状態で醗酵させて、それに熱湯をそそいで竹のストローで飲むのがあるが、これはネパールからボルネオまできている。チベット語でチャンと呼ばれるものだが、これはタイにも見られるようだし、第一ヒマラヤのダージリンで売っているモチこうじがそっくり同じだ。そういうものを使って雑穀を醗酵させ、それに熱湯をそそいで竹のストローで飲むというようなことは、とても各地で独立に発生したものとは思えない。伝播が十分に考えられる。……どこかに中国文明の影響があるようだ。直接伝播かどうかはわからないが、すくなくともそういうものの素地はある」ということである。中尾さんはこの報告のうちで、日本の納豆や類似の大豆醗酵製品の分布を調べて「ナットウの大三角形という形で、日本と中国南部および東南アジアの間に基底文化の上での連続性があり、これはインド文明とも華北の中国文明ともちがう要素だというのが私の考えである」と結論されている。一つの文化の独立性や依存性と、地理的あるいは気候風土的環境との関連については、これからの文化史研究上にも、さらにつっこんでもらいたい問題ではないかと、しろうとながら考える次第である。古代の記録にあることを環境学的に考証して、その条件を現状の下において設定し、再現するような試みがもしできれば、これはあながち文化史の範囲のみに限られた興味ではあるまいと思われるのである。 (初出=学鐙 昭和46年9月号) パンの酒——ソ連邦の酒  このたびは日ソ復交の機会でもあるので、酒の話でもまだあまり世に紹介されていないソ連邦の酒について、少し古くなるが、その国を訪問した時の見聞をもとにして話させていただくことにした。それにどういうわけかソ連の酒には、世界の他の国とは異なった珍しい特色がある。例えば、乳の酒とか、太古のエジプトのビールそっくりの酒とか、山野の果物で造る酒とか、あるいは木の酒、草の酒というような酒があり、その上に他の国々ならば、木の樽の中で長年かかって貯蔵して熟成させるのがふつうの酒のならわしであるのに、その効果を一挙にしてあげてしまうという珍しい方法、つまり大量の炭を使うというような、他の国では見られない酒があるなど、興味深いと思ったからである。  このたびの田中首相のソ連邦訪問によって、両国の文化交流の協定も今度は成立するらしいが、今から十二、三年前にも似たような話が両国の間に持ち上がったことがある。その時の取りきめでは、まず両国の学界でお互いに派遣を希望する科学の分野を選んで専門家を呼び、講演や研究上の交流をやろうではないかということであった。ところが、当時はまだ外交上の機が熟さなかったとみえて、その条約はついに成立を見なかったが、ソ連側では協定の締結にはこだわらず実行を決意し、日本の醗酵学を希望して、筆者のほか東大の朝井勇宣教授と、抗生物質の梅沢浜夫教授を名ざして来た。そこで筆者は老妻を伴い、一行四人で行くことになった。時は八月末、モスクワ飛行場には柳のような葉の白樺の林が遠く初秋の陽光にきらめいていた。花束をたずさえた多くの未見の知友に迎えられて講義の日程に入ることになった。  科学アカデミーの研究所での講演を終えて所長室にもどったある日のこと、どやどやと大勢の所員が入ってきて、雑談がはじまった。話は自然に酒のことになる。せっかくはるばる遠い国へ来たのだから、せめて珍しい酒でも飲んで帰りたいものです。ソ連酒といえば有名なウオッカは東京でも飲めますが、かねてあこがれていたのはクーミス(馬乳酒)とクワスです。どこかでめぐりあう機会はないものでしょうかといえば、タラス・ブーリバのような大入道の通訳の助教授が、クーミスなどはウラルの彼方の話であって、われわれでさえ見たこともありません。クワスだけはモスクワでも瓶詰を売っているから飲むチャンスはあるでしょうと言う。そこへアカデミシアンのクラシリニコフさんの室のシロコフ博士が口をはさんで、それなら私が引きうけたと自信あり気(げ)に言い出した。そこでクワスというお酒はどんなふうに造るのでしょうかと一同に聞いたら、めいめいが顔を見合わせてさぁと言う。アメリカでは自分の専門外のことをきかれると、知らぬのは当り前のようなそっ気ない返辞をうけ取ることになるが、ソ連の学者は東洋的人情味を持っている上に基礎学の人でも応用に深い関心や経験を持つ人が多く、これがソ連の学風の一つの特徴と言ってよいくらいである。その連中がお互いに顔を見合わせるのはどういうわけか。これはよほどこみ入ったことか、それとも、あまりにも日常茶飯事のような、たとえば家庭の主婦のお料理の一端というようなことに相違ないかとも思われた。それがどちらだか、とうとうこの国を去るまで判断がつきかねた。というのは、その後モスクワの酒精研究所を訪れたとき所長さんに、クワスはどうやって造るのでしょうかと、持ち越しの質問をもちかけてみたところ、彼の返答は意外なことに、私もクワスは大の好物ですが、どうやって造るのか知りませんということであった。一時はアメリカ流か、それとも、外国に情報をもらすことを恐れるといわれているソ連の学者のくせの一端でもあるのかとひがんではみたものの、どうもその様子から察して、そんなことは誰でも知っているでしょうというような風に見えた。要するに、多分に期待をかけていたこの件は、ここでは何の知識も得られず、東京にいて文献をあさっているのと少しも違わないことになったのは、全く意外といわざるをえない。  紀元前二千年頃のエジプト王の墓の壁画などによると、パンと麦酒が同じ工場で造られている。ドイツでは今でもビールのことを液体のパンなどともいっている。大昔はパンと酒との製造工程はあるところまでは一緒であったようである。しかし、現在では、パンで酒を造るというような原始的な酒は、世界中でソ連のクワスとスーダンあたりのブーザなどに残されているのみである。クワスの製法を書いた文献では、筆者の知人であるベルリン醸造試験場の故リンドナー博士のものがある。それによると、ロシヤの家庭で造られている国民飲料のクワスについては、専門の立場からの研究はあまりない。要するに、広く飲まれているだけあって、その製法が極めて多種多様で記録もまちまちである。しかし、クワスは大きく分けて二つの種類がある。その一つは「甘味パンクワス」で、他は「酸味レモンクワス」であると言う。まず、ロシヤ特有の黒パンをちぎって水に浸し、数日後これを荒い布で濾(こ)し、濾液(ろえき)に砂糖とパン酵母を加えて醗酵させる。醗酵のすんだ後に干葡萄などで味つけをする。これがパンクワス。酸味クワスの方は、干葡萄やみかんの汁に砂糖を加えた煮出し汁にパンやパン酵母を加え、醗酵させて造る。また、昔、ロシヤでは、いずれの連隊もクワスの自慢の秘法をもっていた。なかでも有名な製法は、六百立(リツトル)の桶の底から十八糎(センチ)の高さに穴のあいた板を設け、その上に布を敷いてこれを石の重しで止め、次に百ポンドの黒パンをよく焼いて細かくさき、三百八十立(リツトル)の湯とともに仕込む。それに十立(リツトル)の茶でハッカ草二ポンドを煮出した液を加えて密封する。二十四時間くらいで醗酵して酸味をおびたクワスとなる。これは「お茶クワス」の一種である。  モスクワを去る前になって、シロコフ博士が一かかえのクワスの瓶を持ちこんで来たので、われわれは、やっとクワスにめぐりあうことができた。早速コップに注ぐと、ブツブツと泡が立ちのぼる醗酵中のビールのような感じで、色は日本の麦酒より大分濃く、酵母や乳酸菌でうすく濁っている。ドイツでおなじみのワイスビーヤによく似ている。飲んでみると、甘ずっぱくて苦味はないが、ビールのように麦芽の香味も豊かである。また、糖蜜のような香気や果実の味もする。ビールに糖蜜や果汁をまぜたらこんな味になるかと思える。とにかく複雑でおいしい飲物で、流石(さすが)国民飲料といわれるだけの貫禄十分である。  ソ連人の国民飲料としては、クワスよりもっと国際的に知れ渡ったものはウオッカである。モスクワにはソ連邦でも一番有名な工場があるというので案内してもらった。それは帝政時代の一九〇一年創立の古い工場で、モスクワの旧市街の山の手らしいところにあって、赤レンガ造りの中世のお城のような塔や、噴水をもった広い庭などのある神さびた工場である。見学を終って後、昼飯をごちそうになった室も帝政時代そのままの豪華なセットであった。もちろん国有だから経営者は国家公務員のわけであるが、家族などの人柄やもてなしぶりから察して、前時代から経営者ごとそのまま引きつがれたもののような感じであった。  工場長は、若いまじめな研究者風の人で、そのお話によると、毎日九万立(リツトル)のアルコールに相当する酒類を造っていて、地方の工場のように馬鈴薯や糖蜜のアルコールは一切使わず、大麦、燕麦、ライ麦などの穀類を原料とした、いわゆるグレインアルコールのみを原料とするとのこと。工場に入ると中は炭を一ぱいつめた銅製錫張りの一米(メートル)くらいの太い塔が、見上げるように林立しているだけで、酒工場としては異様な景色である。二十本がワンセットになっていて、その中を四十パーセントにうすめた酒を通すが、上ものほど炭との接触時間を長くする。ここでの最高級はモスコウスカヤ・オソバーヤ(モスコウ・スペシャル)、これに次ぐのがストリチナーヤウオッカ(首都ウオッカ)で、いずれも普通品のモスコウスカヤより二、三割高価である。わが国の焼酎には二種あって、甲類焼酎というのがウオッカと全く同じものである。異なるところはただ炭を通さないだけである。それだのにウオッカは堂々たる世界の名酒であるのに比べて、焼酎は宴席で口にするのさえ多少の遠慮を感ずるというのはどこに原因があるのだろうか。  さて話をもとにもどして、この工場ではウオッカのほかに、他の国ではヴェルモットやリキュールに相当するナリブカとかナストイカとかいう珍しい酒を造っている。いずれもソ連特産の野生の草や漿果(ベリー)の類、さてはドングリや木の皮までも原料に使う。野生の草では、白ロシヤ特産のズブロフカという香草を使ったウオッカは皆様もご存知のことと思う。そのほか例えば、ゴルニー・ズブニヤク(み山のかしの木)という酒は、樫の木のけずり屑とドングリ、それに生姜(しようが)、アンゼリカ根などを配した苦味渋味の極をつくしたもの。また、オコートニチヤ(猟人のジン)は、ブラックペッパー、レッドペッパー、おまけに杜松実、生姜、アンゼリカ根などで造った猛烈酒。胡椒(こしよう)の酒にはそのほか、ペルツオバヤ(ペッパーブランデー)もある。強いアルコールに胡椒であるから、飛び上るような口中の燃える感じなど、ご想像におまかせしたい。  ナリブカという酒の類は、アルコール分が幾分低く、他の国のヴェルモットに似ている。ウオッカやブランデーをうすめたものを土台とするが、ポートやクリミヤ梨、クリミヤりんご、桜んぼなどの酒も使うおいしい酒である。そのなかには、黄金の秋(ゾロタヤ・オーセニ)などという風流な名の酒もあるので、そのわけを聞いたら、ソ連では中秋のある極く短期間に限り、輝くような麗わしい日よりがやって来る。一年中の最高の季節といわれている。しかし残念なことにはその期間は極めて短かい束(つか)の間にすぎない。あたかも婦人の一生で中年の年頃のさる時代の姿が一番麗わしいが、その寿命が極めて短かいのとよく似ているという説明であった。その風味は今では全く記憶に残っていないが、文献で見ると、これはアリカ杏、かりん、りんごで造った酒を土台としたもので、色は黄金色、味は甘酸っぱく、デリケートな果香ありと書いてあった。ザペカンカなどという桜実を煮込んだ酒もこの類に属する。  最後に、ソ連の酒の第四番目の特徴としてあげられるのは乳の酒。幸田露伴翁のいわゆる動物性の酒、中でも馬乳酒クーミスであろう。牛、馬、羊、山羊などの乳を酒にすることは、古来アフリカから中近東、バルカン、イラク、イランなどから蒙古、中国の北辺にかけてのいわゆる内陸地方、シベリヤなどの牧畜を主とする地帯に最もふつうなアルコール飲料であって、土地によりいろいろな名前がある。そして、そのまま飲む酒のほかに、それを蒸溜したアルコール分の強い酒もある。馬乳酒の特徴は、馬乳は他の動物の乳に比べて乳糖の含有量が多く、従ってアルコール分も幾分強いことである。研究室の連中もウラルの彼方の酒であるといって相手にしてくれないし、私も実は戦前満州に行った時、ハルビンで国境の町ジャラントンのクーミスだというのを、たった一度だけ飲んだことがあるにすぎないので、ここではこれ以上触れないことにしたい。それはすっぱくて強い酸のためカゼインが沈澱して、うす濁りのバタくさい水のような酒であった。それでも土台が乳であり、その上アルコールも入っているから虚弱な人にはよく、ソ連ではサナトリアムなどでクーミス療法も採用されていたようである。  ソ連の滞在中に公式のレセプションやホテルでの会食のほか、教授たちの家庭にもしばしば招かれて、ゆかいな会合をもつことができた。なかでもモスクワから百粁(キロ)くらいはなれた深い山林の中にあるクラシリニコフ教授の別荘に行った時は、一同実にゆかいに飲んだ。オパーリンの別荘も近くにあるという話であったが、行くひまがなかった。  そのようなわけで、ソ連の人の飲みっぷりも十分見せてもらえた。家庭の招宴では、葡萄酒やビールも出されるが、主体はやはりウオッカである。夫人や若い人たちまで、あの四十パーセントもある強い酒をぐいぐいあふるのには愕かされた。特にソ連の酒席での特徴は乾盃である。ソ連での乾盃は開宴の際に一度やる式ではなく、宴中のべつ幕なしに、しかも指名されなくても自由に立ち上って、乾盃を請求する権利があるようである。乾盃の口実も初めはしかつめらしい研究上の話などで切り出されるが、後は全くたわいのないことになってしまう。例えばあなたの奥さんの帯は実にきれいだ、それを祝ってサアみなさん乾盃しましょうというような具合ではてしがない。その度ごとに強い酒を一盃ずつ飲まなければならないのには閉口した。中国には昔から酒令という遊びがあって、詩作や言葉のしゃれのやり取りにかこつけて客に乾盃を強いる習慣があるが、ソ連のやり方もこの類である。乾盃の際に、盃の底を客に示すやり方なども似ている。何事につけソ連人は東洋と西洋の中間をつないでいるような気がする。  モスクワを去るに当り、科学アカデミーのおえら方が集って、お礼の別宴があった。その席上、何かソ連のことで質問があればということだから、私は如何なる完備せる研究組織があって、ソ連は各国にさきがけてスプートニクのような大業を果したのかと質問したら、その返事は意外にも、あれは政府の研究所でやったことで、科学アカデミーは直接の関係がない。ただ頼まれれば研究や人を引きうけるだけであるということであった。百年前ドイツのフンボルトの指導の下に当時のドイツ学士院にならって、独立自由な学者の府として出立し、政府に対しても隠然たる勢力を持していた昔の気概の一端がまだどこかに残っているのであろうか。帰ってから湯川秀樹教授にこの話をしたら、ニュートン力学の範囲内で間に合うことですからね、とさりげない返答であった。 (初出=税務大学校誌 昭和49年1月号) 土に醸(かも)す——中国の酒  戦前の文部省には妙な内規があって、大学や高専の教授になるには、その前に二、三年間の外国留学することが条件であった。私の属した東大農学部の農芸化学科には、当時私を入れて四人の助教授がいた。どのような上層部の都合かわからないが、いつまでたっても留学の番がまわって来ず、そのうちに日華事変が突発し、私の先任の助教授が辛(かろ)うじて当時の同盟国のドイツに留学できたのを最後として、私の番にはそのドイツへの道も断たれてしまった。それでも留学の内規だけは守らなければならなかったものと見えて、当時渡航可能の唯一の外国である満州国と中国への留学を命ぜられることになった。仕方がないので、軍部の制圧下の満州国や北京を中心とした華北で、文字通りの遊学をしてまわった。私が中国の酒や醤油や酢の見学ができたのは、全くその変な大学の内規のおかげである。  満州国では遼陽、華北では天津の郊外に、多くの焼鍋(焼酒(シアオジオウ)即ち高粱酒(カオリヤンジオウ)の工場)があり、北京の西直門のところに比較的大きな黄酒(ホアンジオウ)工場があった。そのほかには、北京大学の中国人の講師や助手の若い人たちと毎晩街を飲みまわった程度の勉強にすぎなかった。もっとも、中国酒については、それより十年近く前に、台湾に酒の専売制度が施行された時、二、三回出張して、まだ新しい組織にならない以前の古い酒(福建、広東あたりの華南の酒類に近い)の工場を見ることができたのは幸であった。つまり私の中国の酒の知識はその程度にすぎないので、あまり語る資格がない。しかし専門の研究の方では、私は偶然にも中国の麹のカビ、つまり「くものすかび」の生化学に頭をつっこんでしまったので、私の前半生は直接間接に中国のカビにこだわって終えたことになるというのも、今から顧みて全くの奇縁といわざるをえない。つまり酒造りは知らないが、それの微生物は多少おなじみがあるというわけである。  前おきが長くなってしまったが、中国の酒を大観すると、東北(旧満州)から北部、山西、陜西、四川、雲貴の畑作地帯にかけては、高粱や黍類などで造る蒸溜酒が名物であり、中部から南部にかけての米作地帯では、米を原料とする老酒、つまり紹興酒(シヤオシンジオウ)や黄酒のような日本酒に似た酒類が主であって、米は糯米(もちごめ)を使うが、中部では粳米(うるちまい)も使い、また山東山西など畑作地帯では粟(あわ)や「もちきび」の類の黄酒が普通であった。黄酒と紹興酒との関係は、わが江戸時代の地方の地酒(じざけ)に対する関西の本場の酒のような関係に近い。アルコール分は日本酒より幾分うすく十一、二から十四、五パーセントである。そして、これらの地方では蒸溜酒もいわゆる米酒(ビーチユウ)型のもので、酒薬という麹を使う米の酒を蒸溜したものが多く、このタイプの蒸溜酒は、華南から台湾はもちろん、ベトナム、マレー、インドネシヤにも及んでいる。  先に述べた高粱酒やその他いろいろな白酒(パイジオウ)(白乾児(パイカル)ともいう)、たとえば山西の汾酒(フエンジオウ)、陜西の西鳳(シイフオン)酒、四川の大(タアチユイ)酒、貴州の茅台酒(マオタイジオウ)のような酒類はいずれもアルコール分強く(四十—六十パーセント)長期の貯蔵を経て熟成するが、これらは雑穀を原料として、これに中国麹の中でも大麹または〓子(きよくし)という、大麦に小豆や緑豆の類を加えて煉瓦状または円盤投げのディスク状に固めた一種の麹を加えて醗酵して造るのである。なかでも高粱酒の造り方は一風変っていて、如何にも中国人の知恵の所産らしく、広い世界にも他にその例を見ない珍しいものである。  人類の酒造りの起源は、壺や甕(かめ)のような容器の発明からであるといわれている。ところが高粱酒の造り方ではそのようなものは全く不要なのである。それはどういうわけかといえば、高粱酒では「もろみ」は土の中へ穴を掘って、その中で醗酵させるからである。酒のもろみといえば、普通は水を十分入れた液体であるから、土の穴などに入れればたちまち水分は土に吸われてしまうわけである。ところが高粱酒のもろみの場合には、ドロドロではなくてパサパサの状態にするのである。つまり砕いて蒸した高粱に、前記の〓子の砕いたものを混ぜてパサパサの状態のものを、土に掘った窖(あなぐら)に仕込んで、その上を土で塗りこめるのである。つまり半固形の醗酵である。カビによる糖化も酵母の醗酵もすべてがその状態で高粱の実や殻や皮の固形物に付いた僅かな水分の中で行われるから、土に吸いとられるようなことはない。一週間か十日ほど経て、醗酵が完了した頃に、スコップで掘り出して「こしき」か「せいろう」のようなもので蒸溜して酒を取ればよいのである。まことに珍しい仕かけである。中国の白酒類のうちで他のどの地方が高粱酒のような醗酵法によっているか私は知らない。しかし多くの地方では、米酒の場合のように、大甕をならべあるいは地にいけたものの中でふつうの醗酵法によっているようである。四川の大酒は古い地窖を尊ぶように聞いているが、地窖に直接にもろみを入れるのではなく、桶か甕のようなものをその中において行うようである。もっとも、高粱酒の場合でも、窖の底は土をたたき固めただけのもののほか、あるいはそれに瓦をしいたものもある。側壁は煉瓦でできているのも多く見られた。今は恐らくセメントくらいにはなっているかも知れない。単に地下の穴倉を使うというだけであれば、葡萄酒やビールの場合もそうだが、じかにもろみを土に置くから珍しい。ビールやウイスキーも麦芽を砕いて水を加えて糖化するのは高粱酒とあまり変らないが、この場合は多量の水を加え、まず穀皮類を分離して糖液だけを醗酵するところが常識を出ない。  もっとも高粱酒のこのような珍しい酒造法も、蒸溜という操作と結びついたからこそ成立するのであって、醗酵液を直接に飲む酒、例えば老酒や日本酒はこれでは造れまい。そのように考えてくると、この方法の発明も、蒸溜酒が中国に入った元時代(近頃は唐時代との説もある)以後のことかも知れない。中国の白酒の一種の泥くさい風味は、土に親しむこのような造り方に起因するかも知れない。土中に住んで、泥の特徴あるにおいを出す菌、この種の菌は只今では、抗生物質を生産する花形の菌とされているが、その種の菌も古く日本の研究者によって、高粱酒のもろみの中から見つけられている。  さて次は中国の麹の話にもどることとするが、中国の麹には大別して二つの型がある。その一つは前述の白酒の類の糖化に使われる大麹、または〓子といわれるもので、大麦や小麦など穀類を砕いたものを水でこねて成型してカビを生やしたいわゆる餅麹(へいきく)である。この餅麹には別に形がずっと小さく、五糎(センチ)くらいのさいころ型のものがあって、これは主に米粉に漢薬の煮出し汁、稀には土なども加えてカビを生やしたもので酒薬と呼ばれるものがある。黄酒や紹興酒の「もと」(酒醸)を造るのに使われ、またラギーその他いろんな名称で南方の酒造にも広く使われる一種の固形の酒の「もと」である。台湾の米酒(ビーチユウ)の麹も、昔は白(ペイカ)という一種の酒薬を使っていた時代がある。餅麹のほかには日本の麹のようなバラ麹もないではないが、小麦の麦〓とか紅酒(アンジオウ)の原料の紅(アンカ)とかに過ぎず極めて稀である。  紹興酒には御承知のようにいろいろな種類がある。淋飯(リンフアン)酒は風味うすく地酒(土酒)の類で、攤飯(タンフアン)酒がオルソドクスの紹興酒の代表である。加える米の割合も多く、醸造の操作も複雑で、長く保存すれば品質がいよいよ高まる。さらに米の割合を多くした甘い酒が加飯(チヤフアン)酒、また仕込水の一部に攤飯酒を使った、いわゆる酒を以て酒を醸した濃厚型が善醸酒(シヤンニヤンジオウ)である。  そのほか中国には、白酒(パイジオウ)や米酒(ビーチユウ)に、草根木皮などの漢薬類、花実、動物質などまで加えて造られる数知れぬ薬酒(葯酒(ヤオジオウ))の類がある。よく知られている五加皮酒(ウーチヤビジオウ)、〓瑰露酒(ムイクイルジオウ)、香梅酒(シヤンメイジオウ)、人蔘酒など、また動物性には蛇、蛤〓(トカゲ)、鹿角、虎骨などを入れたものもあって、いずれも補精強陽を目的とする。  第二次大戦後の中国の酒造は、新技術の導入で工程や操作なども大分変ったらしく、また葡萄酒、ビール、ウイスキー、ブランデーの生産も増えたようであるが、それらについてはまだ実地に見ていないのでふれないことにしたい。ただ戦後間もなく、日中の通交がはじめて開けて、関西の繊維問屋の有志の団体が最初のお客として中国に行った時、その団長の竹中さんが、中国の進出口公司(わが貿易局に当る)の次長さんから、私に見せてくれといって二十種近くの酒を托されたことがあった。どうして私を名差したのか不明だが、恐らく留学時代の北京大学の飲み仲間の仕業かと思う。とにかく謹んで拝味すると、製法の改良(?)のためか、どうも戦前の品質には劣るように思われたので、その旨をきたんなく申し送った。ところがその数年後に、やはり進出口公司から今度は直接私に送られたものを拝見すると、品質はほとんど復旧していたのには感心した。第三回目は品川沖の中国船へ見に来てくれという通知であった。多分税関の関係で陸上げできなかったせいでもあろうか。私の方もちょうど何かの用事のため、ついにこれは見に行かずに終ってしまった。近頃の毛沢東など、国をあげての茅台酒の宣伝を見ると、戦争直後からの出口局の連中の意図もわかったような気がして、中国人の商魂に感じ入ったのである。  なお中国の酒に関係しては、戦後に中国科学院から、微生物利用の研究について連絡を依頼されたので、東大農芸化学の専門家を中心とした一団を組織して、中国各地をまわってもらったことがある。これは自然科学関係の訪中団としては戦後最初のもので、その次に招かれたのはたしか物理学の連中であったと思う。 (書下ろし 昭和49年) ビールの先祖——イギリスのビール  イギリスのビールは表面醗酵のイーストを使うので、筆者のように日本の底面醗酵ビールの講義ばかりしていたものには大変珍しく、また同じく表面醗酵といわれている日本酒の場合などにも参考になるような気がして面白かった。  イギリス人は万事に古い習慣やしきたりを尊重するといわれているが、ビールのような科学技術に専(もつぱ)らたよらねばならない仕事にさえもその頑固さが遺憾なく現れていることは実に面白い。一体醗酵の技術を歴史的に検討して見ると、表面醗酵は原始的であって、底面醗酵は人為的であると言わざるを得ない。表面醗酵がなぜ原始的であるかといえば、筆者は先年沢山の種類の葡萄の果実についている酵母をしらべた事があるが、その時に得られた多数の酵母の大部分は表面醗酵性であって、底面性のものは極く僅(わず)かしか見つからなかった。だから糖液を自然に放置すれば、まず表面醗酵が優先的圧倒的におこるのは当然のことである。この場合に、底面醗酵をプレドミネートさせようと思えば、どうしても液を一先ず殺菌して底面酵母を植えつけなければうまくゆく筈がない。世界中の酒を見てもわかることだが、ドイツ式ビールだけが底面醗酵であって、これはハンゼンの純粋培養法とリンデの冷凍機の発明とのすばらしい合作の申し子のようなものであって、全くの人為的の産物である。  それだから十九世紀までの世界のビールは、何処の国のものもすべて表面醗酵式であるのも当然のことであろう。しかしまたひるがえって考えれば、科学的管理の容易な底面ビールが、世界のビール界を風靡(ふうび)し、表面ビールなぞは頑固なイギリス人を除いてはヨーロッパの所々にわずかに名物的存在を保っているにすぎないのもまた当然である。筆者が面白いと申したのは、イギリス人が斯様(かよう)な古い式にこびりついているために、どんなに無理な算段をしたり骨の折れる工夫をしてやって来ているか、その救われざる頑固さの跡が歴々として見えることである。しかも彼等はこれでなくては良いビールはできないと得々としているのである。  前置きが長すぎたが、それではイギリスのビールには幾通りあるかといえば、およそ三つにグルーピングできる。即ち辛口、甘口、それにスタウトやポーターのようなアルコール分の特に強い古代型である。辛口は即ちバートン名産のペールエール、またはビタービーヤであって、色白く糖分の喰い切りよく苦味(にがみ)強く、しかもドライホッピング(出来上ったビールに生まのホップを加える)をするからホップの香りが高い。しかし代表的のバス社のものなどは、石膏の含量の高い水を使うから泡持ちがよくない。そんな水を使いながら、一生けんめいに泡持ちに苦労するあたりが即ち英人気質とでも申されようか。甘口はマイルドエール又はスウィートビーヤといって喰い切り低く色はやや濃く甘口でホップも少く、多くのものは出来上ったビールに葡萄糖や砂糖を加えて出す。英国ではあとで糖分を加えても税金は同じである。第三番目のグループは昔のビールの型でアルコールが強くて強く炒った麦芽を使うものは色特に濃くトースト香が高い。貯蔵中に二次醗酵をして一種の高級エステル香の高いものもある。またなかには濃い糖液を加えてしつこい味のものもある。この連中のうちには地方的の名物もあって、ハーフアンドハーフにして(二種のビールを半々に割って)飲むのが通人だともいう。これ等(ら)の三種のビールは同一の工場で造っている場合が多い。イギリスのビールはエールと称するものでも、昔は日本酒のようにアルコールが一般に強かったようである。その証拠には、バートンでヒル工場長が筆者のために特にあけてくれたナムバーワン・ストロングエールというレッテルのものは一八六九年十二月十六日のもので、アルコールは容量で一三・〇パーセント、また別の一九〇二年キングエドワード七世がこの会社に行幸された時のキングスエールは、容量で一〇・七パーセントであった。いずれもコルク栓がしてあって、色は真黒で、ガスはぬけてしまっているし〓(おり)が多いので、ガーゼをファンネルの上にのせてコップに濾(こ)し入れて飲ませて貰った。ヒルさんも自分は古いビールが一番好物であると、この壜香(びんか)百パーセントのビールをうまそうにのんでいたには愕いた。十九世紀の末に有名なハンゼンの方法が発表された時でも、イギリスビールではこの新発明の方法は余り問題にされなかった。というのは、当時は主醗酵も大切ではあったが、それよりは長い貯蔵が不完全な樽で行われ、その間に特別のイーストが作用して出来る香味の方が支配的であったために、主醗酵に使う酵母が純粋であってもなくても大勢に影響のない状態であったためである。そのせいか後に述べるように、今でもイギリスでは酵母をなるべくくりかえし使用して、特別の場合のほかはピューアカルチュアにスタートすることはめったにやらないようである。とにかく古い方法なら、たとえ雑菌のまざった酵母でも何でもやたらに有りがたがるのがイギリス人の流儀である。筆者ののませて貰った八十六年前のビールも、シェリーの古酒香のような香が強かったが、当時は何年位の貯蔵のものを飲んでいたのかという筆者の質問に対して、ヒル先生は昔は二年位樽において出すのが普通であったと言われているが、自分の見解ではもっと長かったのではないかと思うとの話であった。以前に菊正宗の二十年以上経たものを味わせて貰ったことがあるが、ちょうどその時のような風味がこのビールはしたのである。シェリーでも中国の老酒でも古い酒にはいずれも共通した一種の香がある。日本人だけがそれを珍重しないというのはどうしたものであろうか。  イギリスビールの製法を理解するには、イギリス人が古来の表面醗酵イーストを使っているために、次回の仕込に使うイーストを集めるのにどんなに苦労をしているかということに先ず深い同情を示す必要がある。底面醗酵の場合には、イーストは特に選ばれた連中であるから、至極(しごく)お行儀よく醗酵槽の底にピッタリと沈んでぽつぽつと静かに湧いてくれるから、醗酵が済んで後、その底の酵母の上のきたない部分をけずり去って中層を採れば真白な純粋なものがとれて、これを次の仕込にすぐにも使えるが、表面酵母の場合にはそんなに簡単にはゆかない。彼等は野ばなしのあばれ者であるから液中をあばれまわって激しく醗酵し、時には炭酸ガスにつかまってやたらに表面に浮び上ってくるなど、全くしまつに負えない。そこで表面に泡とともに浮び上ったところをうまく捕えるスキミングシステムというやりかたもあれば、少々疲れて流れの底に一休みという所を捕えるバートンユニオン式などという流儀も出てくるわけである。後者の場合の取り方は一寸(ちよつと)底面醗酵のような趣がある。しかしこのように表面酵母をしつけることもまた容易なわざではない。  次には仕込用の種(たね)酵母を採ることばかりに気を取られていると、かんじんのビールの方が醗酵不十分になるおそれが出てくる。底面酵母のように空気の少いところでも気長に醗酵してくれる連中とはわけが違う。そこで攪拌(かくはん)が必要になってくる。攪拌しながら酵母を取って行くという一見矛盾したはなれわざをやるのがヨークシャの所謂(いわゆる)ストーンスクエア式であり、あの奇妙な形をしたバートンユニオンのスワンネックも、実はこれをねらったものであろう。酵母のすくい取りに重きをおくスキミング式のような場合は一般に喰い切りわるく、マイルドエールには好適であるが、ペールエールには向かない。逆に攪拌効果が強すぎる場合には喰い切り一方で、それだからこそあとで砂糖を加えることなどの必要がおこってくるわけである。攪拌は底から液をポンプで引きぬいて、フィッシュテールと称する魚尾形の口から表面に散布したり、エーアリフト式や一種の回転羽根でおくる式等もある。日本酒でも櫂入(かいい)れは相当な荒仕事であるが一工夫あって然るべきかも知れない。  実際の手続きはどんなことをやるかというと、ヒル氏が筆者に説明される時メモ用紙に書いてくれた略図が一目瞭然であるから、それをそのまま写真にとったものをここにかかげ、それについて簡単な説明をいたすことにする。  図のDはスキミング式である。この式は単槽式であって今では一般の工場で一番広く使っている。恐らくはイギリスの醗酵法は将来もこの式が基本で、だんだん改良されてゆくものと思われるが、少くとも現在のところでは、前述のように喰い切りのよい特徴あるビールをつくり出すには不適当とされているようである。醗酵槽はオープンもあり、炭酸ガスをとるための密閉式もある。百五十—四百ヘクト立(リツトル)位、木槽銅張り、コンクリ、アルミ、ステンレススチール等もある十呎(フイート)位の深さで泡のアローワンスは十分に取ってある。ロンドンのウェトネーコムで見せて貰ったのは密閉式で、トップに近い所の側面に四角い穴があいていて、醗酵の盛んな時は泡のあふれないようにしめてある。槽には温度調節用のコイルがついている。  イーストを加えて十二時間位で泡が見えだし、二十時間位で泡の高さが最高に達する。その時の泡は真白で余りイーストを多く含んでいないが、その後泡の高さは次第にかさ低くになり、コムパクトになるに従って厚いイーストヘッドが形成される。これが四十時間から五十時間目位でこの時にイーストをスキム(すくい取る)するのである。スキミングの方法は醗酵槽の側面の開口又は槽の縁から槽の側面の可動式のファンネル状の中へ、木製の櫂でかき出したり、槽内にファンネルの高低を自由に調節できるものを備えてあったり、または太いパイプで吸い出したりする。出て来たうすい粥状のイーストは、ステンレスのトロッコに受け冷室に運ぶ。スキミングは三回位に分けて行うことが多い。はじめに取れるものは不純物が多いから次の仕込に使わず、バイプロダクトイーストとする。しかし余りイーストをセレクトすると全体の収量が少くなるおそれがある。またスキミングが遅れると、ビールに酵母臭がついたり、再醗酵の原因になったりする。  攪拌は槽底に達するパイプからポンプで液を吸い上げて表面に散布するのであるが仕込後二十四時間位に始まって四乃至六時間毎に行う。仕込温度は華氏六十度内外で高泡の時が六十三—四度、スキミングの頃最高に達し(七十度位)、その後はクーラーをきかせて四日目位には六十度に下がるようにする。糖の喰い切りはスキミングの時位が最高で、その後はそのまま続く。スキミング後は次第に二、三吋(インチ)厚さの小じわの泡蓋になってゆく。イーストの分離がうまくゆけば、スキミングの翌日に貯槽に移すこともあるが、普通は冷却をしながらイースト蓋をなるべくこわさずに三—七日間位そのまま静置する。この際イーストキャップに泡の白点が現れるのはイーストの揚りがわるくて底にイーストが残っているか、またはスキミングがうまく行かなかったか又は蓋をこわした証拠であって、よろしくないとされている。  スキムされたイーストは冷室で静置して〓ビール(バームビーヤ)と分け、粥状のまますぐに次の仕込に用いる。フィルタープレスを使ってケーキ状にすることも多いが、酵母の自家消化による弱り方はこの方がひどいという。前の場合には酵母と混っている〓酒の分だけは二重課税になるわけである。  ドロッピング式というのは(図B参照)スキミング式の原型であって、上下二槽を使うから工場は一階だけ余計になることになる。下槽は比較的広く浅くできていて、空気との接触をよくし、また冷却と酵母分離の設備もある。操作は前式で攪拌のはじまる二十四時間(バートンでは三十六時間)位の時に上槽から下槽におとす。スキムして後ビールを別槽または樽に移してセトルする。この間五—七日間を要するという。筆者は遂にゆくひまがなかったが、スタウトで有名なギネスなどはこの式が多いということである。  次はバートンユニオン式(図C参照)であって、これは昔小樽で自然醗酵して造った時の形がそのまま残っているのでまことに珍物である。しかもこの古代型で出来るビールが今もイギリス人の一番好物で自慢のペールエールであるのも面白い。また仕込用のイーストもこの式で取れるものが一番純粋で健康であるという。この式はしかしバートン・オン・トレントというバーミンガムの北に当る地方の附近のみにしかない。此所(こ こ)はイギリスビールの灘ともいうべき名醸地とされて、醸造用水は石膏が多く、永久硬度は五十位、全硬度七十位もある。昔は沢山のビール会社があったが、今は合併して五つ位となり、そのうち一番大きいのがダイヤモンド印のラトクリフのバス会社である。筆者が此所を訪れたのは一九五二年の冬であるが、英国ビールの大御所のホプキンス教授からの電話がきいたせいか、工場長のヒル氏をはじめ、研究所長のセントジョンストン博士夫妻など大ぜいの出迎えやら歓迎やらを蒙(こうむ)って、恐縮にたえなかった。  さて、この式では醗酵が二段になっていて、まず麦芽汁は五、六十石位の普通のタンクで三十時間内外醗酵させ、イーストの生長が最高に達した頃で醗酵の最盛期の一寸手前の頃にこれをユニオンと称する樽におろして醗酵を完了するのである。このユニオンと称する樽は、内容約二石五斗位の木製で、これが二十四位ずつセットになって二列に並んでいる。広い工場の中に数百の樽がスワンネックを並べて何列にも並んでいるのは実に壮観である。二列セットの中間で樽より数呎(フイート)高い所に広い浅い槽が竪に長く置いてある。この槽即ちトップトラフは一端に向ってわずかに傾斜し、且(か)つ冷却装置がついている。トップトラフの端にはこれと直角の位置に一寸下って槽があってこの両槽はレベルを異にした三本のパイプで連結されている。これがフィーダーである。フィーダーの下にはコックがあって、そこから出たチューブは各ユニオン樽の側面中程のサイドロッドを経て樽に開いている。また各ユニオンの中央最上部には径二吋(インチ)位の銅管がかたくはめ込んであって、その管の立ち上がりの先はちょうど白鳥の首のようにトップトラフの中へ曲り込んでいる。これを俗称スワンネックという。トラフは木製で銅張りもあればアルミまたはステンレスもある。ユニオンにも温度調節用のパイプがついている。  さて、前述の醗酵液がユニオンにおろされると、空気との接触のため醗酵がさらに進んでビールと酵母とを含んだ真白な泡がスワンネックを通ってトップトラフ中に吐き出される。この際泡が続いて落ちず切れ切れに落ちるのを度(ものさし)として、温度その他操作を調節するのが大切である。上槽に落ちた泡は破れて酵母は槽の底に沈み、ビールは傾斜に沿ってフィーダーに流れ込み、そこから側管を通じて各ユニオンに還流し、再び醗酵してスワンネックを上り、斯様(かよう)に循環して適当な喰い切りに達するまで醗酵をつづけるのである。  上槽の底に沈んだ酵母は温度が高いと自家消化をおこして力が弱るので冷却を怠らぬようにする。また樽に還流するビールの温度も樽中のものより少し冷えているようにすることも秘訣(ひけつ)であるという。醗酵が済むとクーラーをきかして〓引き温度まで下げて樽の下部の栓を開き、下の溝を通じて〓引槽に導く。普通は特に〓引きの必要もない位に酵母がよく分離しているという。また上槽にたまった酵母は、まずビールを別にからのままで取ってあったユニオンに移し、〓引きの前日位に手で上層を去り、よい酵母をイーストアウトレットから出し次の仕込に使う。プレッスする場合にはクーラー附のフィルタープレスでないとイーストが弱るという。ビールの貯蔵は十三度に二、三週おくが、特別のものはその後零度で四週間位貯蔵して出すものもあるという。  ユニオン式で厄介(やつかい)なのは多数の木樽を洗ったり殺菌したりすることに人手のいることである。まず水で洗い、側管やネックをはずして熱湯を入れて人手でゴロゴロやるらしい。湯に使う石炭もなかなか大変らしい。ヒル氏は此所(こ こ)の附近は英国でも有名な炭田だが石炭は別に安くはないという。年に一回はすっかり取りはずして大掃除をし二年に一回は管の取りかえなどもするという。使わない時は硫黄燻蒸(くんじよう)をしておく。ユニオンの建設費もスキミングの二倍以上かかり、スペースも三倍位要するという。ビールのロスも一パーセント位は多いらしい。それでもイーストの分離もよく、できたビールは喰い切りの度も自在であり、ホップもマイルドでしかもこれで取れるイーストは頗(すこぶ)る健全であるなどの点からとても止められぬという。しかしスキミング式も大分ふえてきたし、ユニオンの代りに大きなステンレスのシリンダーを使う式なども生れて来たという話である。  筆者の見たバスの工場は年約百万石生産するが、樽(たる)詰が多く、樽詰のものは時に糖シラップを加えて出すこともある。樽詰を買って行って加工して壜につめて出す小業者もあって、バス製と称して売るので困るとのこと、また壜詰のパストールビールもここでは沢山出している。バイプロダクトイーストはどう利用するかと聞いたら、酵素分解で調味料を造っているとのこと、それならばトルーブ(〓)の方はどうかと言ったらそれは此処に流していると溝を指さされる。まさかと思ったがそれは塩酸で分解するとMSG(グルタミン酸ソーダ)を沢山含んだよい調味料になるではないかと言ったら、それはよいことをきいて有難いとお礼を言われたが、あるいは単なるお世辞であったかも知れないと思っている。  麦芽は此処では古い床式によりクリスタルマルツはよいがラクチックアシッドマルツも混用しているというのは珍しかった。他社からも沢山の麦芽を買うが、その時は砒素のテストを厳重にするという。なるほどあとでセントジョンストン氏の研究部を見せて貰った時に、広い実験室で大ぜいの人がこれにかかっていたのを見た。わが国でも砒素ミルク事件のようなことが起ったが、英国はこの点でも何か経験があったに相違ない。先進国はどこまでも先進国であると思いあわされたわけである。このセントジョンストン博士はビール界のベテランであるが、その夫人もなかなか一かどの人らしく、盛に教育論をきかされたが、その後筆者の帰国後令息が優等の成績で学校を卒業したので、クイーンと並んで写真を撮ったという御自慢の手紙がきた。  麦汁はインフュジョン法で六十五度、一—三時間、ボイリングは直火(じかび)を使う。冷却には大昔の相当深さのあるキュールシフもあればこれを改良した内部にしきりが沢山ある間を流動するようになった浅型のものもあり、新式のベリーゼルング式もあり、さらに最新式のフラッシクーラーもある。最後にはいずれもこれを通すらしい。徐々に冷却することもフレーバーのためには大切であるという。とにかく古い方法にあくまでこだわっているところが面白い。醗酵室の温度は十三度(摂氏)を標準とし、麦汁の最高温度は十九度になるよう操作する。完了までには二週間近くかかることもあるという。  最後にヨークシャのストーンスクエアシステム(図A参照)であるがこれは筆者は見ることができなかったので、専らヒル氏の説明とものの本によって御紹介することにする。この式はイングランドでもスコットランドに近い東海岸のヨークシャやランカシャやスコットランドの一部に限って昔から行われた式で、バートンのユニオンと相並んで良質の酵母が採れ、且つ風味の良いビールができるといわれている。  昔はその地方に産する石材で醗酵槽が造られたためにこの名があるし、また形もそのために小さく二、三十石であったが、その後スレート、アルミ、ステンレス等で造られ、今では四十石乃至(ないし)八十石位がふつうである。構造は開放槽の下から三分の二位の高さに仕切りを設ける。この仕切り即ちトップデッキの中央には径二十吋(インチ)位の円いマンホールがあり、そのまわりには四吋位の高さの縁がついている。またそれとは別にこのトップデッキにはオルガンパイプという三吋径位のパイプが開き、そのパイプは下槽の底までとどき、上口は上下バルブで開閉できるようになっている。その他にも一本の細管が下底まで通じているが、これはビールをポンプで引きぬいて上槽の表面にフィッシュテールで散布して攪拌するためである。  まず麦汁をデッキの上一乃至二吋まで仕込み、二十四乃至三十六時間位そのまま醗酵させて後攪拌をはじめる。これにはまずオルガンパイプのバルブを閉じ、前述の細管からポンプで下槽のビールを引きぬいてデッキ上に散布し、デッキ上に溜ったビールを今度は木製の櫂で攪拌する。それからオルガンパイプを開いて下槽へおとす。昔は二時間半毎にこれをやったが今は四時間おき位であるという。醗酵の進行とともに中央のマンホールから泡が上って来るが、そのうちのイーストが次第に濃くなってくる。適当な喰い切りに達した時に攪拌をやめてデッキ上に集まったイーストを前述のイーストアウトレットから取り出し、〓酒(バームビーヤ)を分けて酵母だけを次の仕込に使う。昔はこのバームビーヤを樽詰の時に混ぜて出したので、この方法のビールは特に風味があるといわれていたそうであるが、今ではいろいろよくないことがあり、特に夏はきけんなので余りやらないとのことである。攪拌も昔はマンホールから斜めにパイプをつき込んで行ったそうである。  以上でイギリス式上面醗酵ビールの基本的の四つの醗酵方法の説明を終ったわけであるが、前にも述べたように、このうちでスキミング式即ち単槽式が国内いずれの工場でも広く行われて、次第に普及されるような傾向である。ユニオンやストーンスクエアは喰い切りのコントロールが楽な点や、イーストのよいものが取れる点ですて難いものとされているが、イギリスでも純粋培養からスタートするイーストが追い追い普及されていくので、それには単式のスキミング法が便利であることは申すまでもない。ところで凡(およ)そイギリス人ほどビール酵母の性質に苦労している国はあるまい。それというのも、彼等は表面醗酵の酵母にくっつき、しかも醗酵の装置がいろいろあるところへもってきて、仕込には前回の醗酵で出てくる酵母を集めて使い、ドイツのように純粋培養の種からスタートすることはめったにやらないためである。近頃になってようやく純粋酵母の工場的生産をデンマークあたりまで習いにゆくというようなスローモーぶりである。勿論大工場ではそれほどではないが、小工場などではイーストが悪くなると近所の工場から分けて貰うのが普通であって、ストーンスクエア式やユニオン式の酵母は特にこの点で人気がある。イーストの方でも斯様に種々の式があるから、それ自体でトレーニングをうけているばかりでなく、所謂ミキスドイーストとして適当な連合軍になっているのである。  それではイギリスのイーストはどんな性質を備えていなければならないかといえば、まず第一に次の仕込用のイーストの収量を多くあげるためには、泡中へどんどん上っていく性質が強くなければならない。この性質はおそらくイーストの細胞膜の親水または疎水性にも関係することであって、まだどういう基本的の性質によるかは不明の点も多いが、とにかく酵母による差は大である。次には喰い切りがよいためにはイーストは始終液中にサスペンドしていなければならない。このためにはイーストがバラバラである性質がほしい。ところがビールはまた清澄が速かなことも大変大切である。それにはバラバラではなくてより集まってフロッキュレントになる性質も大いに要求されなければならない。なおそのほかに後に述べるように、ビールにアイシングラス(魚膠)を加えたときに速かに沈着するような特性もほしいというわけである。  これ等の大切な性質はなかなか一種類のイーストで兼備するわけにはゆかない。そこでミキスドイーストの状態が自然に出来上らざるを得ない。しかもスキミング式は浮き上る一方でよいが、バートン式では浮き上ってしかもトップトラフの底に沈んで貰う性質もほしい。またストーンスクエア式ではぐるぐる液をまわすので、初めから浮き上ってしまわずに最後まで液中にサスペンドしていて、最後にはトップデッキの底に沈むような特性がほしいというような工合である。純粋な酵母からスタートする方法によれば、どうしてもバラバラ性イーストに幾分のフロッキュレントイーストを加えたり、またはそのために硅藻土(けいそうど)を醗酵の途中で加えるというような芸当もする必要がある。  ロンドンの南のサーレーにあるイギリスの醸造試験所にいて、今ではコペンハーゲンのカルルスベルヒ研究所に行っているソーン博士は、このバラバラ性と凝結性とを研究し、後者が遺伝的に優性であることを発見し、酵母同士のかけ合せによってこれ等の性質をコントロールすることができるという研究をしたが、この困難なイギリスビールの問題も案外この辺から次第にほぐれてゆきはしないかと思い、また希望する次第である。  日本酒にもあるように、攪拌を盛にしても温度をあげても、または酵母を加えてもどうしても喰い切りの進まぬ場合があったり、表面に泡が上らずボイリング醗酵をやって酵母がなにも取れないというようなこともイギリスのビール工場を困らせる問題のようであるが、これ等は正確な原因は不明ではあるが、その原因がイーストではなくて麦芽であるらしいことになっている。  筆者はここでイギリスイーストの厄介な面だけを強調しすぎたおそれがあるが、実はなかなかよい所も少くないのである。例えば醗酵の安全のためにも極度の低温を要せず、室温で貯蔵まで行われるから、年中を通じての気候が華氏の四十度から七十度位のイギリスでは大金をかけて工場を冷房する必要がない。稀にこれをやっている所でも五十五度位を標準としているから金がかからない。浮き上るイーストにはトルーブのような不純物を含まず、またバクテリヤや野生酵母にもこの浮き上る性質がないから、比較的ピューアな仕込用イーストが取れるなどである。  最後にイギリスビールの仕上げのことであるが、全ビールの消費の七十パーセントに当る生ビール(ドラフトビール)からはじめると、これは大部分樽詰であって、醗酵槽から直接に樽につめ、ふつうは炭酸ガスを加えずに、消費の時期を見計らって慣らして出す。辛口はドライホッピングすることもあり、甘口は糖を加える。前者は一週間位おくのがふつうである。街の飲み屋(パブリックハウス)へは一週間毎に出し、少くとも二週間以内には消費しつくされるようにする。しかし軽くプライム(加糖)したエールやビターエールは満樽状態ならば一ヵ月位は持つという。奇妙なことはイギリスビールは一般にアイシングラスで清澄にする習慣のあることである。アイシングラスは魚の浮袋で製したゼラチンで、今は主としてニューファウンドランドから来る。樽が工場から出る直前にビールにとかして加える。一時間以内に清澄がはじまり一夜で十分である。混濁はかたく底に沈んでしまい、樽をうごかしてもまたもとへもどる。もっともこれは多少初回ほどには澄まないそうである。但し八十度(華氏)以上の加熱はよろしくない。壜詰ビールは普通室温で貯蔵した後に零度近くで貯蔵し、カーボネートして出す。清澄にはタンクでアイシングラスを使う方が濾過のロードを軽くするのでよいという。最新式は無菌濾過機を使うところもある。  イギリスのビール研究機関は前に述べたサーレーのナットフィルドの研究所であるが、これが出来る前まではイギリスのビール研究のセンターは、バーミンガムの工業大学であって、そこには今でも大御所のホプキンス教授が居られる。教授は七十以上の高齢であるが、なかなか元気である。筆者のビール見学は教授に負う所がすこぶる多い。誌(しる)して感謝の意を表したい。筆者が訪ねた時はいろいろの話に花がさいたため、筆者の宿所のバーミンガムから二時間近くのドロイトウィッチ礦泉場行きのバスの最後が出たあとであることを時間表で発見した教授は、いそいで筆者を御自分の自動車にのせて自動車でこみ合う街道を相当危険なドライヴをして、そのバスをつかまえて下さった元気には敬服した。その翌日筆者は教授に紹介されたバートンへ立つために、ドロイトウィッチから汽車でバーミンガムの駅を通過したとき、汽車の窓のところへスマートなゼントルマンが親しげによってくるので、斯様な天涯孤独の身に誰れかしらと答礼もせずに、君はどなたですかと聞いた所がその人は帽子を取ったとたんにそれが教授であったことを発見して大いに愕いたのである。あなたは帽子をかぶっていらっしゃると大変お若く見えるために失礼したと、我ながら即妙のあいさつが出たには感心したが、筆者が教授を大学に訪ねた時は教授は、赤いワイシャツ一枚で禿頭(とくとう)に白髪を乱して居られたのが失敗のもとであった。聞けばバスで来ると思ったのでその時間にも出て見たとのことで、益々恐縮を重ねた次第である。  イギリスの醸造技術者はこの大学のほかエジンバラとマンチェスターの大学で養成されるが、そのうちでマンチェスターの卒業者のみは月給など公の資格が一寸(ちよつと)下のようである。マンチェスター大学のウォーカー博士は、筆者の訪れたとき自分の上に専門ちがいの教授が居て万事に不都合が多いことを嘆いて居られた。いずこにもいろんなことがあるものである。 (初出=日本醸造協会雑誌 昭和31年4月号)  戻る シェリーの国——スペイン遊記  本項は、記載が専門的の部分もあって、本書に入れるには不適当かと思ったが、公害退治のドンキホーテ式大計画が面白く、またワインブームの折から、一般の読者のシェリーへの関心も深かろうと思って採録することにした。  筆者が、雪のマドリードに着いたのは、ちょうど一九五一年一月二十四日の夜のことであった。マドリードで見物したのはスペイン科学研究最高委員会Consejo Superior de Investigaciones Cientificasと国立工業研究所カルボソテロ液体燃料及び潤滑油研究所Laboratorio del Instituto del Calvo Sotelo de Combustibles Libuidos y Lubricantesとラモン・イ・カハル研究所微生物部醗酵研究科Instituto Ramon y Cajal, Laboratorio de Fermentaciones de la section de Microbiologiaの三ヵ所である。  第一の最高委員会はスペインの科学研究のセンターであって、フランコ委員長の下に二十人の科学者の最高委員がいて(全委員は約百人?)科学研究の国策を立て、国内の全研究所を統轄し、主な学会や科学的研究の出版をも管理し、莫大な予算と強力な人事権を持っているとの話であった。大規模な会議室や事務所、集会所、図書館、カソリック教会堂から、宏大な寄宿舎まで設置されている。羨しいのはその寄宿舎で、むしろ贅沢(ぜいたく)な旅館と言う方が当っているくらい行き届いた設備であって、其処(そ こ)は地方の研究者をマドリードに呼んで研究させたり、外国から招いた学者や留学生のためのものである。その他すべてがフランコが如何(い か)に科学立国の方針に力を入れているかという事を、まざまざと見せつけられるような立派な施設である。  次のカルボソテロ研究所は、工業研究系統の五つの重点的研究所の一つである。その五つというのは、液体燃料、動力機関、ボールベアリング、造船及び戦艦であって、中でもガソリンの不足は、この国の最大の弱点であってそのために外交上でも常に英米に頭が上がらないのである。研究所の名にとったカルボソテロという人は、ちょうど満州事変の中村震太郎大尉のように、その死がフランコ政権出現の動機になったという。フランコにとっては最も大切な人であるところを見ても、重視の度合が察せられる。さてその研究所であるが、意外にもその研究の中心を占めているのは醗酵の研究であり、施設の中心となっているのが一大醗酵工場であったのには一驚を喫せざるを得なかった。即ち彼等が燃料の最も重大な原料として第一に着目したのは、国民の六十五パーセントを占める農民が生産する農産物の廃棄物、即ち、オリーヴや棉実の粕、葡萄酒の搾粕、藁、玉蜀黍稈、籾殻等であった。これ等のうち、一定のルートで政府が入手し得る見込量の概算は約七十五万噸(トン)であって、この研究所附属の醗酵工場の年処理能力は約五万噸であるという。それ故に第一期計画として国内二十ヵ所にかくの如き工場を建てて、全見込量の約二十パーセントを、まずガソリン化しようというのである。その方法は上記の原料のうち葡萄の種子や棉実のような油を含んだものは、まず溶剤抽出法で油を採り、これを水添硬化する。油を含まぬものは二パーセントの硫酸で百四十度で、ペントザンの全部やセルロースの大部分を糖化し、糖化液は石灰で中和して醗酵する。醗酵は酪酸菌とプロピオン酸菌の混合醗酵であり、別にペントース醗酵性乳酸菌を用うることもあるような話であった。中和した醗酵液は蒸発して、石灰塩としてこれを乾溜してケトン混合物からまずアセトンを分取し、残部はニッケル銅触媒により水添して高オクタン価燃料を得るのである。また前記の硫酸糖化の時の残滓は乾燥し、更に煉瓦状に圧搾成型してこれを乾溜すると、まずメタノール醋酸が得られ、続いて多量のタールが出て来るから、そのタールからパラフィンやクレオソートやその他油状の燃料が得られる。罐に残るものはセミコークスであって、これも良い燃料となるのである。その収量の大体は一万噸(トン)の農産廃物から四百噸のガソリン、二千噸のコークス、合計千八百噸のタール、パラフィン、醋酸、メタノール等の予定である。この研究所は多数の研究室を含む建物と附属工場に分れていて、醗酵の工場などは二千石以上にも見える鉄タンクがずらりと二列に五本ずつ並んでいるには愕くの他なかった。その他の設備もその調子で全体としてはまだ未完成であったが、非常に大規模なものである。所長のエジュアルド・アンギュロ博士と、醗酵の技師のアドルフォ・トレダノ・ヒメネス・カステラノス氏(トレダノは父の姓、ヒメネス・カステラノスは母の姓で、スペイン人は普通この両方を書く)、それに筆者と同行したラモン・イ・カハル研究所に属する醗酵研究所長エンリケ・フェドウッチ博士の三人で懇切に案内された。筆者も戦争中に似たような経験を持ったのでその仕事の困難な点などを話して、大いに同情の意を表わし、この研究上の大冒険ともいうべき大規模な試みの成功を心から祈ったのである。夜レシデンシャ・リスカールという一流の料亭らしい所へ連れられて、スペイン料理のパエリヤという、飯に豚、鳥、魚、貝、トマト、ピメント、茄子等を混ぜて大鍋で焼いたのを、しかも念入りに今までにそこで出した第一万二千二百十四番目と番号までついたのを中心に、スペイン名物のワインやシェリーの満を引き、最後には美しく色取ったアイスクリームの大塊におしげもなく高価なブランデーをそそぎ、それに点火して火のまだきえぬままを、めいめいに切り分けてくれるという凝(こ)り方であったのには、大いに恐縮した。その席上日本は戦時中、木炭をたいて自動車を動かしたと語り、スペインでもこれをやるようにすすめたのを大変珍しく聞かれたが、その後実際にやり出したかどうか不明である。  ラモン・イ・カハル研究所に属する醗酵研究所も相当な規模であり、中の設備もよく整っているように見えた。アセトン・ブタノール醗酵、プロピオン酸菌、枸櫞酸(くえんさん)醗酵、食糧酵母の製造等が主な題目であった。ワルドホーフ・ファーメンターなども動いていた。葡萄酒の関係では、マロラクチック(林檎酸・乳酸)醗酵だの、亜硫酸を加えて貯蔵しておいた葡萄からここで工夫した脱亜硫酸装置を以て亜硫酸を抜いたものから亜硫酸に強い酵母を用いて葡萄酒を造る試験等もされていた。イタリー同様に、スペインもその前年は葡萄の生産過剰のため、濃縮ジュースの装置が間に合わないので、汁そのままに濃度高く亜硫酸を加えて貯蔵することが行われたのである。ビラフランカの葡萄試験場長クリストバル・メストロ・アルチガス教授もこの研究所に関係していて、筆者のためにわざわざ出かけて来て種々説明されたが、英語をよく話さない人であったために要領を得るに苦しんだ。  スペインでも北部や中部では、フランスにまけない葡萄酒ができる。中でもバルセロナ地方でできるもの、又はアラゴンのリオハ酒などはよく、特に後者は赤はボルドーのクラレットに、白は中仏のシャブリーに比せられる名酒である。南部に近いヴァルデペニャスも名産地であるが、ブランデーで強化したものも、あるとのことである。その他普通のものでは、北部のガリシャ地方で出るリベイロは酸味強いヴィノ・アシドであり、同じ北部のアスチュリアスでは、良い林檎酒が出てマドリード辺りでも大いに広告している。カスチラ・ヴィエハのヴィノ・フィノも良い酒である。その他は多く加工してアルコール分の強い、または甘い酒のみである。そのうちで一番有名なのはシェリーであって、これは後に述べるが、それに次いではシェリーと同じ南部のアンダルーシヤ地方で出来るマラガ、又地中海沿岸のタラゴナ酒はポートワインの代用品としてヨーロッパで有名である。その他アリカンテ、ヴァレンシヤ、ロタ・テント等も知られているが、最後のものは祭壇酒(オルターワイン)としても有名である。筆者はやはりリオハ酒が一番よいと思ったが、シェリーの辛口の並物は一寸日本酒の古酒のような風味があって懐しく愛飲した。もっともスペインで飲んだ酒は、どの酒も多少シェリーやポートワインに似た風味があるのが、一種のくせのように感じられた。  シェリーの産地は、スペインの最南端でジブラルタル岬の近くにあるので、マドリードを朝早く急行で立っても夜十時頃でないと着けない。途中シエラモレナ山脈を越えて、アンダルーシヤ地方に入ると、風物はすっかり変って如何にも南国の感が深い。七世紀に侵入したサラセン人が十四世紀の初めのグラナダの落城で、全く政権を失うまで止まった地方であるので、汽車もコルドヴァとかセヴィリヤとか遺跡で名高い地方を通って行く。  ヘレス・デ・ラ・フロンテラは小さな町であるが、これを中心としたグァダルキヴィル河岸の地方、即ちカジス、セヴィリヤ、コルドヴァ、サンタマリヤ港などを含む狭い地方がスペイン政府に認められたシェリーの産地である。この地方の近年の産額は、約五十万ヘクトリーターであるという。本格的製法のものは南阿、オーストラリヤ等でも、夫々(それぞれ)十万ヘクト近く出来るというし、米国では例のベーキング法によるクックドシェリーは、全米葡萄酒年産量の五分の一をこえるという盛況である。米国では神経質に考える連中は、これ等の偽物シェリーを単に、シェリーとせずに、カリフォルニヤシェリーとか、アメリカンシェリーとか一定の形容詞を附すべきであるとしているが、必ずしもこれは厳守されていない。一般にシェリーはこの点では、ポートやシャムパンなどほどやかましくないようである。面白いのはスペインではブランデーの事をコニャックと言う人が多く、広告などにも平気で使っていることである。  ヘレス・デ・ラ・フロンテラでの筆者の勉強は、葡萄酒試験場の見学から始まる。目ざした醗酵の方の専門家はちょうど不在で、場長のホセ・ラモン・ガルシャ・デ・アンギュロ博士が懇切な説明をされる。主な仕事は、葡萄の栽培法の研究と品種改良である。栽培は耕すことを機械化するための種々の耕作機、除草機などの普及の仕事であるらしい。葡萄園も見せてもらったが、葡萄の仕立てが他の地方より非常に低いのが特に目立って感じられた。品種の改良は目下世界の多くの試験場でどこでもやっているように、そしてアメリカでは既によい品種ができたといわれているフィロキセラ免疫性の台木に接木をする事の不用な、それ自体が抵抗性を持つ品種の造成である。即ち免疫性のベルランディエリ種にシャスラーやコロムバルやペドロシメネスをかけて出来た品種などが造られ、特に最後のものは、フィロキセラにステーブルなばかりではなく、多産性で大いに有望であるとのことであった。醗酵の部は葡萄酒の分析が主な仕事であるが、葡萄や葡萄酒のアミノ酸またはそれ等の蛋白質のアミノ酸をペーパークロマトグラフィーで調べていた。  シェリーの原料となる葡萄は、パロミノが主であってこれは香の低い白葡萄である。その他に用いられるのはペドロシメネスで、これも同じく白であるが、糖分が強いのでPXと称するペドロシメネスの冠字を取ったブレンド用の濃い甘い酒や、ヴィノ・デ・コロルという葡萄汁をオープンの鍋で濃縮した、これも調合用の濃い汁液やパキサレットと称する同様のものに、シェリーやブランデーを調合したもので、濃甘味酒の原料に適するといわれている。ムスカットの類もこの地方ではよくできるが、このように香の高い種類は、シェリーの原料にはむかないので、ムスカテル酒等に使われている。日本の甲州葡萄なども風味のニュートラルな点では、シェリーに向くようである。ベーキング法によるシェリーは、筆者もこれで相当なものを造ったことがあるし、近頃品評会等で甲州や堅下の製品中に稀にシェリーの香味のうちで、筆者が古酒臭と称する特有なシェリー香を発するものも見うけられたので、これに例の花(フロール)の酵母をつけると、エステル香も附いて完全な上級フィノ型シェリーに近づくのではないかと大いに望を嘱している次第である。その他に日本に多いデラウエアも、糖分が多くて無臭な点では、大いに有望である。これはアメリカから来たものではあるが、狐臭がなく、ドイツ系の白葡萄のトラミネから出ているらしく思われるふしがあるし、シェリーの原料のペドロシメネスも古くピーター・シーメンスという人がドイツのリースリング種を持って来たのだという話があるくらいであるから、甲州種よりはデラウエア種の方がより有望であるかとも思われる。この地方でその他にシェリーの原料になる葡萄には、ヴィジュエニョやマンチュオ・カステラノやマンチュオ・デ・ピラなどがあり、後者は果皮が厚いので、パロミノなどに比べて、長く木につけておいても雨にいたまず、完熟させるに便利であるという。  此所の土質は、炭酸石灰を混じた石膏が主で、丘陵地の土は白色を呈し、アルバリサと呼ばれているが、この土質は収穫は少いが一番よいシェリーの原料が出来る。それに次いでは、バロスと称する赤乃至(ないし)暗褐色の土質の所は収量は多い。一番下級品はアレナスという低地の砂質土からできる。アルバリサの極上品を出すところなぞは、一エーカー三ボタス即ち千五百リーター(〔ママ〕)くらいしかとれないといわれている。収量と品質はおよそ逆比例しているらしい。  ヘレス・デ・ラ・フロンテラの町には凡(およ)そ百位のボデガ(シェリー醸造場即ちシェリー輸出業者)があるが、そのうちで十九世紀の末から一千樽(ボタス)(シェリーの樽はボタスまたはバッツと呼ばれ、内容約五百リーター、百三十ガロンである)以上も毎年出すボデガスは、ゴルドン、ガルヴェー、ゴンサレス、マッケンジー、ミサ及びペドロ・ドメクの六社であって、筆者が見せてもらったのはそのうちのガルヴェーとペドロ・ドメクの二社で、前者はマドリードの日本の在外事務所長の矢口さんや、事務官の内藤さんのお骨折りで、後者はヘレス・デ・ラ・フロンテラ葡萄酒試験場長からの紹介によったので、ここに記して謝意を表したい。  これらの工場の主な部分は、高い一階建の倉庫で厚い瓦でふかれ、壁も石や煉瓦であるが、風通しはよく出来て、床はよく乾燥した土間でできている。このような倉庫が幾棟も並んで広い露天の中庭を囲んでいる。倉庫の中には木を組んだ上に、普通は五百立(リツトル)であるが筆者の見たガルヴェーでは七百立(リツトル)のボタスが、何千となく三段に組んで積まれている。これが即ちシェリー独特のクリヤデラであり、ソレラである。ソレラは四乃至六段に積まれてある所もあるそうであるが、筆者の見たのは皆三段であった。倉庫に入るとヒンヤリとするので、寒暖計を見たら、摂氏十五度であった。夏の暑い時は華(か)氏で八十度近くにもなると言われている。中庭は樽の処理や葡萄園の圧搾場から来た醗酵中の樽を置くのに用いる。筆者の訪れた一月の末はこれらの樽は殆んどクリヤデラに入っていたが、未だ多少残されて、樽の栓口から白い泡を吹いているのも見うけられた。聞けばこれは余りよくない酒だとも、又樽を酒を入れて慣らしているのだともいう。新樽は米国又は北欧から来る白樫で造り、湯とアンモニヤ水で処理し、後水洗しまたは悪いシェリー酒で処理することもある。新樽は多く新酒の醗酵にまわすという。  シェリーの製造は、ちょうどフランスのコニャック地方のような組織になっている。即ち最大百エーカー以内の多くの小地主の葡萄園に圧搾場があり、そこで樽につめた汁が醗酵が始まっているのを、二樽ずつ驢馬(ろば)の背や小さな馬車にのせて、町のボデガスに運んで来るので、ボデガスはこれらを集めて醗酵の仕上げをし、熟成貯蔵をして後、壜詰して輸出する仕事をするなどもよく似ている。  葡萄園での醸造関係の仕事は、九月から十月の初めにかけて始まるので、筆者の行った時は時期はずれであったが、現地で聞いた話や本によってその大略を記すと、葡萄の収穫の開始は、正式には九月八日という事になっているが、大概その前後に始まり、約一ヵ月後の十月の初めに終る。その間農家は三回位に亙って同一の葡萄園をまわり、熟果のみを摘みとるのである。摘み取ったものは籠に入れて、木で組んだわくを背にした驢馬に二籠ずつのせて圧搾場(ラ ガ ー)(正確にはカサ・デ・ラガレス)に運ぶ。圧搾場の側には広場(アルミハ)があってそこで葡萄をエスパルトという菅(すげ)草のような草で編んだ直径一米(メートル)位の円い厚い茣蓙(ござ)の上に並べて天日にあてて乾燥する。この茣蓙は筆者が苦心をしてポルトガルの港まで運び、そこから日本へ送って現在、山梨大学の醗酵研究所へ寄贈してあるので好事の御方は御一覧願いたい。酒の種類や葡萄の種類によって乾す時間は一定しない。フィノやマンザニラのためには短時間、即ち二十四時間くらい、甘口のオロロソのためには四十八時間、又PXやモスカテルには二週間位即ち干葡萄に近いまで乾燥する。勿論夜は露のおかないようにエスパルトマットでよく蔽うのである。水分のロスは普通五乃至(ないし)十二パーセントの程度であるという。日本の様に葡萄の成分のうすい所では、濃縮果汁の方法で特殊の葡萄酒を造ることも考えられるが、税法上の関係では斯様に葡萄を圧搾前に乾燥するような方法の方がよいのではないかと思う。何とか工夫して、ポートワイン式の天然葡萄酒やシェリーを日本にも造り出したいものである。スペインやポルトガル式の重い葡萄酒が日本人の嗜好(しこう)にも適するようである。そのつもりで筆者も苦労してエスパルト蓆を持ち帰ったつもりである。乾燥には、皮のうすいものが適するようである。  葡萄をつぶすのはラガーと言う木製または石またはコンクリートの十尺と十五尺位深さ二尺位の槽を用い、これに約一噸(トン)くらいの葡萄を入れて大ぜいの男(女は特別の家に限られているとのこと)が種子をつぶさぬような仕かけの底のついた長ぐつをはいて、入って踏みつぶすので、非常な重労働であるとのことである。つぶし終ってラガーの口から流れ出す汁は、その口の所についているストレーナーをこして樽に入れる。残ったマルクは、ラガーの中央で手じめの圧搾機の心棒のまわりに積んで、エスパルトの細長いマットを巻いてしめる。その上に水圧機も使うともいう。ここに出てくる汁は、労働者の常用酒やブランデーの原料にする。葡萄を踏みつぶす時にエソを加えるのが、シェリー製造の一つの特徴である。エソはなるべく純粋な石膏土を焼いて粉砕したものであって、その主成分は八十四パーセントの硫酸石灰と、五パーセントの炭酸石灰とであって、葡萄一噸当り六乃至(ないし)十ポンド(または一噸に十キロも加える)という。硫酸石灰は、酒石や恐らくは液中の燐酸加里等にも作用して、硫酸加里と遊離の酒石酸を生じ、液を酸性に傾かせるから、醗酵も健全に濾過清澄もたやすくなる。また生成した硫酸加里はシェリー特有の苦味の一つの原因ともなるという。このプラトラージュの習慣は、古くローマ時代から行われているが、現在ではフランスや米国その他の国々では、厳重な法規の下に禁止または一定の限度を示してある。また、この地方では古くは亜硫酸を使わなかったが現在ではこれを使うところが多いそうである。また純粋酵母の添加も行われないので、樽により多少の差が生じる。  ボデガに運ばれた酒は其所(そ こ)で更に醗酵を続ける。運ぶ途中でも湧いているので、栓口に漏斗(ろうと)を置いて溢出を防ぐ。ボデガスに着いてから三乃至十二日で強い醗酵が終了するが、尚そのまま二乃至四ヵ月静置した後、〓引して詰めかえる。この新酒をモストスという。そこでこの樽を慎重に〓酒(ききざけ)して、分類してランキングをきめる。よく喰い切った健全な醗酵をしたものは、フィノやアモンチリャドの候補者として、なるべく早くブランデーをまぜて、十五と十六パーセントの間に調製する。クルエス教授の研究によると、醋酸菌の耐アルコール限度は、十四・七辺であるが、シェリーでは十五・五附近を目標としている。この級のものはパルマと言い、樽にチョークでY字に似たマークをつける。次は甘口のもので、よいものをパロ・コルタドスと称しオロロソシェリーの候補者とする。これ等は初めの醗酵も多少長引くからブランデー添加の時期も多少おくれる。以上の中間の性質の酒は、ラヤ級であって、品質によりウナ、ドス、トレス等のラヤスに分けられ、夫々(それぞれ)一から三本までの斜線のチョークのマークを樽につけられる。これ等は極上のものはフィノにも入るが、多くオロロソやゴールデンタイプのシェリーの土台になったり、下級品は最下級シェリーのパリラスに育ってゆくのである。新酒(モスト)の最下級品はクェマと称し、斜めの井字形をマークされ、常用酒やブランデーにするために、速かにボデガを去らせる。またそれより悪くてヴィネガーにまわすものも相当出るとのことである。また分類は上記の他に、会社によりガンチョー、オパルマ等のランキングもあって、複雑である。さてこのように分類してブランデーでアルコール分を調節したモストスは、実際は尚そのまま二、三ヵ月おいて、も一度慎重な〓酒によって、先の分類が正しかったかどうかを確かめた後に、それぞれのクリヤデラに送る。  クリヤデラはシェリーの保育庫である。ここは前記の様に三段に樽が積まれていて、シェリー特有の産膜性酵母(花という)が生育する。そのためには樽の栓を開け放し、または軽い綿栓やカヴァーをするに止め、内容を充たさずに三分の一乃至四分の一の空間をのこしておく。この期間は約半年乃至一年半くらいである。この間フィノ級になるものは一番完全に花(フロール)がつくが、オロロソ級のような甘口は、多少ブランデーの量も多いせいもあるが、花のつきが悪いか、又は全然つかずに過ぎるものもあるという。  クリヤデラを卒業したものは、いよいよソレラに入るのである。ソレラは先に述べたように、筆者の見たのは樽を三段に組んだもので、葡萄酒や栓の状態も、クリヤデラと似ている。即ち約五百立(リツトル)のボタスに、その四分の三位の酒が入っている。クリヤデラを出たものは、勿論その最も若い列の最上段に入るわけである。毎年二回内容の約二割の酒を、なるべく花をこわさぬよう注意して、下段の樽へ順次移して行くが、その時には直下の樽に、一度に入れずに、之(これ)を下段の十樽位に分け入れて、品質の均一を期するという。このようにしてそのボデガの創立の年の樽が、最古の列の最下段に位し、そこから毎度創立の年に相当するような古酒が、前記のように少しずつ引き出されて行くことになるのである。もっとも、普通市販のシェリーは、そんなに古いものではなく、大部分は三乃至五年目のソレラから出て行くのだ、との現地の人の話である。よく花のついたものは、酒の色が白くエステル香が高いが、花の沈んだものは酵母の臭味がついて色が濃い。また若い酒をつぎ足して行くことは、花を保つのに効果がある。アモンチリャドは最後には、花をつけずに充して長く貯蔵するから色も幾分濃く、風味もマイルドであるという。酒は普通二十五年くらいの貯蔵で半分に減るが、アルコール含量は、却ってはじめの十五から二十パーセント近く増えるのである。  さてソレラを出たシェリーは、ブレンドしてスペイン土、卵白、アイシングラス等で清澄して壜詰して出すのであるが、筆者の見たガルヴェー社ではブレンドしたものを、二十石くらいの、外をコルクで絶縁した銅製ガラスライニングの槽で、マイナス七度に一週乃至二週間冷却して沈澱を完全にする新法を行っていた。  ブレンドはシェリーの最後の仕上げであるとともに、真正のシェリーの誕生である。これによって一定した形の性格をもったシェリーが新たに造り出されるのである。シェリーが多くの国で薬局法に採用されているのも、このブレンディングがいつも正確に行われているからである。ブレンディングの基本は、勿論、最初のモストスの分類に基く夫々(それぞれ)のソレラの別であるが、その同じ級のうちでも新古は使い分けされなければならない。古酒は風味づけに欠くべからざるものである。また異る級を混合することも必要である。例えば花のつかなかったオロロソやアモロソ級にフィノ級を加えて、花の風味をつけ、又フィノ級に甘口を加えて円味を増す等である。アルコール量を増すには、ブランデーを加えるが、輸出用は普通は十八パーセントにおさえてあるようである。スペイン国内のものは十六パーセントくらいで、大変飲み口がよろしい。甘味はPX、またはヴィノ・デ・コロルを用いる。前者は甘味の強いペドロシメネス種を極端に乾燥して造った甘味酒を、ソレラで熟成したもので、単独でも用いられる。後者は葡萄汁を三分の一または四分の一に常圧で濃縮したものであるが、それにブランデーやシェリーを加えたものも、別の名で行われている。上記のような材料を使って仕上がったシェリーには、どんなタイプがあるかといえば、先ずフロールの香の強いものと、弱いもの、これはシェリーの香りに二通りあって、筆者の所謂(いわゆる)古酒の香り即ちシェリーに限らず、日本酒やビール(英国で経験した一八六〇年もの)なども古くなると出てくる香りと、産膜酵母特有の香りとである。これによってフィノやアモンチリャドと他の酒の別が出てくる。また甘味の度合も有力な区別で一般に甘味が強い程色も濃い。即ちフィノ級とゴールデン級とアモロソ級とでもいってもよいと思う。辛口では、フィノ級のほか、モンチラ、マンザニラ等があり、ゴールデン級ではヴィノ・デ・パスタやゴールデンシェリーの類、甘口にはブラウンシェリーの類、アモロソ、オロロソ(これは稀に辛口もある)等が代表的である。また序(ついで)であるが、ブレンドするブランデーにも区別があって、レパントは上級品、ソベラノは下級品である。  筆者の見せてもらったガルヴェーは一七八〇年、ペドロ・ドメクは一七三〇年の創立で、そこにはナポレオンの飲んだ樽や、ネルソンやクリスチナ女王の名をマークされた樽などもあった。中身はすでに入れかわっているかも知れないが、とにかく試飲させてもらった。シェリー樽から酒をとり出す時には、細い三尺内外または長短いろいろな鯨のひげの先に小さい銀のコップを取りつけたものを、樽の栓の口からつき込んで、なるべく表面の膜をこわさぬように底の方の透明な酒を取り出すのが「こつ」である。しかもそのフレキシブルなしないやすい棒の元の方を持ちながら、先端の銀コップから小さな〓酒(ききざけ)コップに、一滴もこぼさずにつぐのも自慢のたねである。百年近い古酒になると、色は黒い濃褐色で、渋くて苦くて、舌がまがりそうである。筆者が味のひどいのに顔をしかめるのを見て、支配人は、シェリーも百年くらい古くなると、ストレートではとても飲めない、それは極上シェリーの味附けに使うのである、と言って、シェリーの並品をとらせて、それにコップに飲み残した例の古いシェリーを極めて僅かに混ぜて、これを飲んでみなさいと言う。なるほどその変ったこと、味の深みといいふくいくたる香気といい、全く別物になったには愕いたのである。 (初出=日本醸造協会雑誌 昭和30年11月号) 第二部 日本の酒 世界の酒から見た日本の酒  このような、私の力ではさばき切れないような題をいただいたわけでありますが、その上に、日本の酒のベテランのお集りである本会でお話を申上げるということは、全く自信がないのであります。これというのも、昔、大蔵省の御依頼で「財政」という雑誌に連載した記事が、岩波新書に出されて「世界の酒」などという名前をつけた「むくい」であろうかと存じます。  私は生涯のうち酒造りの研究などはひとつもやったことがないくせに、大学につとめて長年の間、醸造の講義などで、学生諸君に多大の御めいわくをかけて来ましたことを、いつも後悔いたしているのであります。せめてもの罪ほろぼしに、大学を引いて閑暇のできた身分では、酒というものを世間の人々によく理解してもらい、また酒のイメージアップにも役立つようにと「世界の酒」とか「日本の酒」とか、お恥しい著書を書かせてもらった次第であります。しかし、幸にして酒が人類のライフサイエンスのはじまりであり、また日本酒の造り方が世界に誇るべきものであることなどが、一部の知識人にも認められてもらえたようであります。私は酒の研究はしろうとではありますが、その消費力や鑑賞力では決して皆様には劣らない自信をもっていると信じているものでありますから、僭越ながら今日は市井の一酒客といたしましての話で、しばらく御静聴をお願いいたす次第であります。  日本酒が他国の酒のまねをしたり、あるいはその代用になるかならぬかというようなことは問題になりませぬが、元来日本酒は、その歴史の上から見ましては、昔から製法や酒質の上におきまして、極めて強靭なフレキシビリチーを示してまいりましたので、これからの社会情勢や食生活の変遷に応じまして、昔の実績を掘り出したり、新しい技術をとり入れたりいたしまして、時勢に適合する酒質を造り出して行くことは、あるいは十分可能性のあることと思われます。今回の御出題の御主旨も、多分そのあたりにあるのではないかと存ずる次第であります。  さて日本酒の英訳には昔から大体三通りあるようであります。そのひとつはライスワインまたはサケワイン、それに対してライスビーヤまたはサケビーヤ、そのほかにはワインやビーヤをつけずに、単にサケとする訳し方もあります。穀類の酒という意味では、あるいはビーヤが正しいかも知れず、アルコール含量などの酒質の点からは、ワインに近いといってもよろしいかも知れません。あるいはまた、ワインでもなくビーヤでもない、日本酒は即ち日本酒、世界独自の酒であるという意味で、単に「サケ」とすべきであるという説もまた一理あることでありましょう。私の話はこのあたりを一応の手がかりとして始めさせていただきたいと思います。  まず第一に日本酒をライスワインと見ての立場から考えてゆくことにします。明治初年の西洋崇拝文明開化の風潮にかられて「日本酒は衛生上有害である。酒は須(すべか)らく葡萄酒またはビールの如き外国酒を用うべし」というような極端な時代から、明治末年の「近頃は清酒も西洋料理の卓上に用いられるようになり」という大蔵省の高官の演説がきかれるようになるまでには、大衆のひいきもさることながら業界の努力もなみなみならぬものがあったと想像されます。然るに聞くところによれば、最近のワインブームは、先人のこの折角(せつかく)の努力の結晶をも忘れて、再びホテルの洋食の卓上から次第に日本酒のかげが消え去ろうとしているかの如くでありますることは、世道人心の上からまことに寒心にたえぬところであります。  それはともかくとして、日本酒をワインとして考え、または使ってゆこうとするには、どうしても食事との関係を先ず第一に頭におかなければなりませぬ。古い話になりますが私が昔「菊正宗」の二合ビンを沢山いただいて、ヨーロッパの各国をお土産がてら飲ませて感想をきいてまわったことがあります。いろいろな意見がありましたが、その中での代表的なものは、フランス飲食料品輸入組合の書記長ルシヤンモロー氏のそれであります。それは「この酒は食事中に葡萄酒の代用に使うにはアルコールが強すぎるから、アペリチーフとしてよりほかには使い道が考えられぬが、それにしてはあまりに味が淡白で香味に乏しい」というのであって、私の売り込みはまず落第に近いところでありました。そのほかには、品質がシェリーに近いという意見もありました。シェリーはスペイン国内では、アルコール含量が一定しませんが、国外への輸出用は必ずアル添といってもブランデーですが、それで十八パーセントに調整してありますから、日本酒の普通ものより多少濃い、それにもかかわらず、広くアペリチーフとして、時にはデザートワインにも使われていますことは御承知の通りであります。日本酒のシェリー化の可能性について思い出されますことは、数年前に信州の大沢さんの元禄二年の古酒を、畑生さんや野白さんに開けていただいた時の、香気ふくいくとしてたちまち室に満ち、しかも昔私がヘレス・デ・ラ・フロンテラで経験した、百年のシェリーにほうふつたるもののあったことであります。鹿又親さんの名著に「工業酒の確立」という本があります。その中に日本酒の訳名として「サケシェリー」という言葉がのっています。日本酒の実体を表わしているかどうかは別としまして、日本酒の対外的普及のためには極めて有用な訳語であると思われます。この書物にはそのほかにも、「品評会落選酒すなわち市販優良酒」というような極端なる名説もあったり、酵素法酒造の革命的な御意見があったりして、なかなか面白い本でありますからぜひ一読をおすすめいたします。  シェリーは御承知の通り、酒質に広い幅がありますから、シャムパンなどと同様にそれ一式で食卓の全料理をカバーすることがある程度可能であると思われます。ラインモーゼルのドイツの白ワインが、濃淡酸甘、いろいろで、大体全料理に間に合うといわれていることなどは、将来の日本酒のあり方について大いに参考になることではないかと思うのであります。  このように、ワインとしての日本酒を考える場合の焦点は、どうしても食事や料理との関係、またいわゆる「酒のさかな」なるものの実体の考察から始まらねばなりませぬ。岩波の「日本の酒」の中で、それにつきまして神前にそなえる御供物の順序、すなわち酒と海の幸、山の幸をはこぶ前後の関係や、室町時代に始まったといわれる茶の湯の懐石の場合の食事と酒との関係などから、日本酒の飲み方が、大昔から近頃のようなアペリチーフ的なものではなかったことを述べておきましたが、最近私はそのほかにもうひとつの有力なる証拠を発見いたしましたことを、ここで御披露させていただきます。  それは後三年合戦絵巻という、飛騨守惟久という人が鎌倉時代に画かれた絵巻物であります。それを見ますと、二人の武将が二人の家来のお給仕で食事をしている図ですが、高杯(たかつき)に盛り上げた米の飯の三分の一くらいが、すでに食べ欠いてありますのに、家来から手に持った大盃に酒を注いでもらっているのであります。  昔の酒はなぜ食事中にも飲めたか、これはほんの私見にすぎませんが、「日本の酒」五頁をごらんいただきますと、江戸時代も遠からぬ明治十年(一八七七)に農科大学英人教師エドワード・キンチ氏の当時の市販酒の分析表がのっています。それによりますと、アルコールは今の酒と大差ないにもかかわらず、酸の量が四乃至(ないし)六倍になっているのであります。近頃もと鑑定部におられた千葉県の古川薫さんが、木戸泉の荘司さんと造られた酒を拝見する機会をえましたが、この酒は酸が四—六倍のもので、あたかも白葡萄酒かシェリーのような風味を持っていましたので、なるほど江戸時代以前の酒はこのようなものであって、鎌倉時代にも食事と並行して飲めた理由もわかったような気がしたのであります。  日本酒を食事に密着させるためには、以上のほかに、甘口と辛口とのタイプをはっきりと確立していただくことが必要であろうかと思われます。現在の酒質のようによほどの通人でないと甘口と辛口の区別さえつきかねるようでは、通人の自慢のたねにはよいかも知れませんが、一般の大衆からは縁遠い状態であります。甘辛の区別は、単に糖のみによらず、酸との関係で成立することは申すまでもありません。葡萄酒のようにその関係を規定してもっと素人にもわかるようにタイプを確立していただくのは如何(いかが)なものでしょうか。わが国の昔にも、博多の「ねり酒」とか南蛮渡りの「みりん酎」などのもてはやされた実例もあるようであります。  ワインでも赤白の普通のタイプが消費の主体をなすことは申すまでもありませぬが、それに配するに甘口、ヴァン・ロゼ、シェリー、ポート、またワインを加工したヴェルモットなどが、側に存在することによりまして、ワイン全体の消費の形をつくり出し、それによりまして全体の生産を維持している形というものは、日本酒の場合にも深く考うべきことではないかと思われます。  次に大きな問題は、エージングについてワインと日本酒との比較であります。私は平素から、日本酒と麦酒と、中国の老酒すなわち紹興酒または黄酒(ホアンジオウ)を以って、穀類の酒の中で世界の三大名酒としているものでありますが、これらの酒のうちでエージングの点で、現在の日本酒と麦酒とが二、三ヵ月か、せいぜい半年くらいを限度といたしますのに比べて、老酒だけがワインなみの熟成を誇っているのであります。私の考えでは、昔の日本酒のような酸度の高い酒は、老酒と同様に長期の貯蔵によってはじめて飲めるようになったに相違ないのであります。  ただ杉樽を使うようになってから、腐りやすい点と、特に木香(きが)の点とで、いわゆる今年酒とか新酒(現在の意味ではない)とかでなければならぬようになってしまったものと思います。その証拠には、室町や江戸の時代でも、壺または瓶(かめ)に貯蔵された三年、五年、稀には八年などという古酒が尊重されたことでも明かであります。先ほどお話いたしました元禄の酒なども、伊万里(いまり)焼風の白い一升ビンに詰め、うるし塗りの桐の栓を、同じくうるしを以て固く塗りこめてあったのであります。現在におきましてもこれほど熱にも酸アルコールにも強い完全な瓶詰法はないのであります。これがもし杉樽などであったとしますれば、腐ることは別といたしましても、木香のためにジンそこのけのひどいものになっていたことは必定でありましょう。  ワインの場合にも、シェリーは樽の中での長い貯蔵を尊びますが、一般のワインはビンの中で熟成することは御承知の通りであります。日本酒でも「古酒」のよろこばれたことは、すでに鎌倉時代の日蓮上人の手紙にも書かれているくらいですが、現代の人も決してきらいではないことは、先に御紹介しました「木戸泉」さんの古酒の三越での販売実験でも明かなところであります。従いまして、熟成でよくなるという点でも、日本酒はワインであるといっても、さしつかえないものと思うのであります。この点は二、三ヵ月かせいぜい半年で濁り出すビールとは比較にもならないのであります。  日本酒が将来ワインに学ぶべき点がありとすれば、それは料理との関係をもっと深く掘り下げて研究すべきであるという点であります。日本酒によって日本料理の風味が一層おいしくなり、また日本の洋食や中国料理は日本酒に合うように、今ではなっていると私は思いますが、これからもそのように育てていくように努力するなどこの点に一層の関心をもつべきでありましょう。日本酒を洋食の料理を造る時に、ワイン代用に使うというようなことはまだ聞いたことがありませんが、ぜひ試みていただきたいと思います。この点すでに西洋人も使い出した醤油の方に一日の長があるように思われます。  昨年なくなられた住江先生が、以前に農大の学生を使って酒のさかなの比較テストをされたお話を伺ったことがありますが、多くのさかなのうちで、一番人気のあったのが雲丹(うに)、それについでは羊羹であったように記憶しています。羊羹の例の如きは、正しく日本酒のデザートワインとしての適格性を示すものと思われます。酢のものが一般によろこばれることは、近頃の日本酒に酸味が異常に不足していることに原因することでありましょう。御承知の通りよいワインなどの場合にはサラダ・ドレッシングの酸味は最大の敵とされているのであります。  次にはライスビーヤとしての日本酒につきまして、若干の感想を述べさせていただきたいと思います。  ある人は現在の日本のビールは日本酒であるといった人があります。そのわけは、原料として大麦は七割だが、その残りは米を主体とした澱粉質で造られるからであるというのであります。私も昔アメリカの新聞広告で、たしかバドワイザーであったと思いますが、わが社のビールは米を沢山使用しているから特においしい、というのを見たことがあります。米はビールの味を淡白にし、安定性を増すといわれています。棟方博久博士が昔われわれの研究室におられた時、米を発芽した米芽の酵素や、それで米ビールを造る研究をしていただいたことがあります。酵素力の不足という点で、実用性がうすいということになりましたが、とにかく出来ることは出来たのであります。これが実現すれば、このビールはあるいは日本酒といってもよろしいかとも思われます。  イギリスには今でも、スタウトとかポーターとかストロングエールとかいう、アルコール分の強いビールがあります。日本で造るスタウトでも、先日朝日ビールで伺ったら十パーセント近くあるそうです。イギリスでは前世紀の末から今世紀初めに造られたビールは、アルコールが一一・二パーセントで、私も試味いたしたことがあります。一般のビールのアルコールは、御承知の通りうすいのでホップの香味でもなければ飲めません。穀類の酒そのままでアルコールのうすいものはおそらく、世界の一流酒にはビール以外にはあまりないでしょう。朝鮮の国民酒ともいうべき「マッカリ」は、もろみを磨(す)って、水を加えて、アルコールを五パーセントくらいに下げたものを、あたためて飲むものですが、このようにどぶろくの形になっていればうすくとも飲めます。近頃のマッカリは米使用禁止で小麦粉を代用しているそうです。エジプトのスーダンあたりには、太古のビールの形のブーサ、などという、ホップのないビールのどぶろくのようなものがあるそうです。ソ連の国民飲料のクワスなども、ホップのない一種のビールですが、これは例のパンのどぶろくで、その上、果物、茶、糖蜜などで味つけがしてありますので、十分おいしく飲めるわけです。清酒はいわばどぶろくを濾過したようなものですが、これも住江さんから、味噌汁を濾過して澄明にしたものを飲ませられたことがあり、その風味のまことに味けなかったこと愕くほどであったことを、おぼえています。  日本酒に玉(タマ)をきかせた場合に、何パーセントまで酒として通用するか、昔の小売やさんの重大関心事であったでしょうが、今でも別の意味でそのような研究の必要があると思います。そのような場合に食塩とか、ある種のザルツとか、とうがらしの少量などを加えると、稀釈率を上げることができるなどの古い秘伝も数々あったようであります。日本酒自体の造り方を工夫して、たとえば酸味や甘味その他特殊な風味をつければ、相当加水が可能になるかも知れません。昔渡辺喜久造というお方が、主税局の長官の時、私の「世界の酒」に書いた説に共鳴され、清酒のアルコール度の低い酒を造れるようにして下さったことがあります。しかしそれは、アルコール度の下った分だけの減税しか許されず、製造上や包装上に容量の増す分の費用の増加を許すことをされなかったせいか、造れば損をするような関係になっているために、実際には市場に現れなかったことは、まことに残念です。もし売って十分の利益があるようになっていれば日本酒のアルコールの強いので閉口されている下戸(げこ)や婦人層の一つの福音となったのではないかと思っています。濃いほど良い酒、などということは世界中どこの酒にも、あまり聞かないことと思われます。  さて日本酒はワインなりやビールなりやの問題に関連いたしましての談義はこのくらいにいたしまして、次は世界の酒の中から見ての日本酒と焼酎(しようちゆう)の問題にふれさせていただきたいと存じます。ワインにブランデーがあり、ビールにウイスキーがありまするように、日本酒には昔から焼酎があるのであります。ことに粕取(かすと)り焼酎の如きは、日本酒の副産物の利用として、また灘地方などのアル添用の柱焼酎として、また酒取りや醪取(もろみと)りは、腐造酒の処置法として、江戸時代から日本酒醸造の重要な支柱となっていたのであります。それ故(ゆえ)に明治政府は「乙類」という名称の下に、税法上の優遇措置を取って来ましたことは、ドイツ政府がビールの小規模業者の酒税を、特に軽減してこれを保護したのと似た賢明なる処置であると思われます。このような特別の保護にもかかわらず、乙類焼酎が後には、九州の一角に余喘(よぜん)を保つにすぎないというあわれなる状態に立ち至りましたことは、まことに不思議千万の現象といわなければなりませぬ。それならば、その原因ははたして何でありましょうか。世界の酒、つまりスコッチにせよ、コニヤックにせよ、または中国の白酒類や茅台酒にせよ、少くとも三年乃至(ないし)五年の熟成を経なければ、まともな製品とされないことは、スコッチでも、たしか三年(五年?)以上のものでなければウイスキーと呼ばせないことになっているのを見ましても明かなところであります。またソ連のウオッカは、炭ごしという非常に頭のよい方法によりまして、熟成の一部の目的を達成いたしているのであります。このような酒質の熟成による向上に対して、全く無関心でありましたことは、世界中で日本のみに限る特殊な現象であります。戦後に鹿児島のある焼酎業者にこのことをお話いたしましたところ、早速実行いたしまして、これなどが最近の乙種焼酎ブームのさきがけとなったものではないかと、ひそかに愚考いたしております次第であります。西洋の酒から見まして、日本酒が最も学ばねばならぬものは、わが焼酎の復興に止めをさすといっても過言ではないと思うのであります。  さて最後に、これは全く専門外のお話で恐縮でございますが、世界の酒から見てとの御出題でございますので、一言申し述べなければなりませんのは、酒類の取引きや販売の機構または政府の行政指導のあり方の問題であります。  まず経営の面におきましては、ウイスキーを見ますると、スコッチではエジンバラとかグラスゴーとかいう大きな町に、数多くのいわゆるメーカーがございますが、これらのメーカーの多くは、実は自分のところでウイスキーを造っているわけではなく、スコットランドの谷間や島などにある数多くの原酒工場から酒を買い集めて、これをブレンドし、さらにグレーンウイスキーなどといわれるパテントスチルのアルコールをもブレンドいたしまして、広い倉庫に貯蔵して後、ビンにつめ、自分のマークをつけて売り出すのであります。ブレンディングや貯蔵ビン詰めなども製造工程の一部でありますから、もちろんメーカーと申してさしつかえありませんが、私どもの常識とは一寸(ちよつと)ちがったものであります。しかし乍(なが)らこれと同様の型式が、フランスのコニャックにもあることは御承知の通りであります。また葡萄酒ではこれよりは一層複雑で、メーカーとしてのシャトーははっきりと存在しておりますが、そのほかにいわゆるシェーとか、ネゴシャンとかいう、昔の日本の酒問屋のような業務を行う業者が多く存在いたします。そこでは、シャトー元詰めのワインをビンのまま買って、倉庫に貯蔵しておいて売る、ということのほか、樽でシャトーの酒を買って来てこれをシェーでビンにつめ、元のシャトーのほかに、シェーの名をも並記して出したり、あるいは多くのシャトーの酒をまぜて、そのシェーの特別のマークをつけた酒として売出すこともやっているのであります。要するにメーカーと問屋との区別が、いろいろ複雑に入りくんだ形の酒やさんが多いということであります。このほかに、フランスでは、農家あるいは農協から直接ワインを買入れて、町の市場でブレンドと、アルコール濃度の調節を行ってテーブルワインとして出す場合もあります。  日本酒の場合、近頃、灘、伏見その他の大手メーカーの桶買いは、先に述べました外国の例に近づいてゆく傾向にあるとも見られるのでありますが、問屋さんの側からの外国式への接近はいかがでしょうか。日酒販あたりがあるいはそのきっかけになるかも知れません。また、大企業と小企業との共存関係は、スコッチウイスキーやフランスのブランデーの場合には、蒸溜器のポットスチルのおかげ、またワインの場合は、農園のおかげで、ある程度うまくいっているようでありますが、そのような質的に特殊の差の存在しないビールの場合は、製造規模の大小が直接生産費に作用しますので、特徴ある酒質を守るとか、あるいは地方の産業を振興するとか特別の見地に立って税制その他の措置により調節する必要が生じて来るのかも知れません。この点日本酒はビールに近い関係にあるといえるかも知れないのであります。  昔、池田首相が主税局におられた時、伺った話ですが、酒造家がやたらに増石の許可を希望されるのは、過当競争を招来して、自らを亡ぼすものだ、誰かがにくまれ役になって、それを押えてやるのが真の親切である、というお説をおぼえています。このような考え方が、今の洋酒攻勢の激しい中で通用するかどうかは知りませんが、やはり有益なる見解であるかも知れません。  次は外国の酒と日本酒との酒に対する行政のあり方という順序になるわけであります。全く専門ちがいの私は、この方面のことにあまり関心をもったことがございませんので、御遠慮すべきが当然でありますが、話のついでになりますので、しろうとのたわ言としてお聞きずてを願うことにいたします。  岩波の「日本の酒」の中で「酒に従って法をつくることが大切で、もし法に従って酒を造らせるようになれば、それは酒を殺すことであり、また酒を亡ぼすものである」という意味のことを述べましたところ、一部の方々のおほめに与(あずか)ったことがあります。この文句は、実は私としましては私ながらの根拠のあることでございます。と申しまするのは、昔台湾に酒類の専売が施行されました時、現在もまだ至極(しごく)御元気の中沢亮治先生が、私にその状況を視察するように、御招待をいただいた時のお話でございます。酒の製造も販売も全部政府の手に収められることになりました結果、台湾古来の米酒と称する焼酎はことごとくアミロ法という世界でもあまり行われていなかった最新の方法に切りかえられますし、日本酒は大規模な冷蔵庫工場で年中の醸造が行われるし、当時内地では禁ぜられた日本酒と合成酒の混和による新しい酒が自由に販売されるし、また酒の卸店には冷蔵庫を設備するなど、政府自身の専売ですから、酒によって法を設けること自由自在であったのを親しく拝見させていただいた経験があるからでございます。そしてその自由奔放なる施策により台湾以外の日本全体の醗酵工業にも、大きな飛躍をもたらしたことは、今では何人も認めるところであります。もっとも最後の冷蔵庫の件だけは、私自身のつまらない思いつきが、御採用の栄に浴したので、つけ加えさせていただいた次第でございます。  外国の酒類行政のことは調べたことがございませんので、自信が全くありませんが、フランスでは、ワインの原料を支配する農林省が酒造りに関係し、それが販売用になるとたんに、産業省のコントロールの下に入るようにきいています。ほかの国も大体これに近いあり方ではないかと思います。日本では昔は米と酒は有無相通じて、米価コントロールの大切な一環となっていましたが明治に入ってからは、酒造は一時農商務省の管轄となり、後に現在の大蔵省に移ったことは御承知の通りであります。そして世界にもその例を見ないような完璧なる技術指導制度を完備して今日の日本酒を育てて来られたことは周知の通りであります。この上はさらに、一歩を進めて中国で出口局(輸出の役所)が毛沢東のあと押しで、茅台酒はじめ中国酒を世界に押し出そうと懸命の努力をしていますように、また今次大戦直後のイギリスが対米輸出額の三分の一以上を、スコッチウイスキーでかせいだように、日本の酒類産業奨励の見地に立って御指導されますよう切にお願いいたす次第であります。そんなことを申すと、叱られてしまうと思いますが、中央の政策がいかに適切であっても、多年一般の脱税の取締りなどに手を焼いて来られた、直接窓口行政に当られる税務署などが、案外重要な鍵をにぎっていられるのではないかと愚考いたします。むつかしい問題でありますが、どうか御一考を煩わせたいと思うのであります。  長々と御静聴をけがして、まことに恐縮に存じますが、最後に一言これも本日の御出題の線に沿ったことかと思いますので私が外国人になったつもりで、日本酒の悪口を言わせていただきたいと思います。  何と申しても日本酒の一番の欠点は、アルコールの濃度の標準を十五、六度に決めておられること、これは日本酒の酒質を画一化する元凶と思いますが、どういう理由か私にはわかりません。それからビールとワインの中間にさまようからと申しても、これを逆に積極的に考えれば両方の特徴を持ちうるという利点にもなります。これからはビールとしての日本酒、ワインとしての日本酒の両面に向って進むことも単なる夢とは考えられないのではないでしょうか。それにしては熟成による香味の調和がまだ完全ではない、これは焼酎については特に甚だしい、酸味のよさがわからない、甘口辛口の区別がはっきりしない、一般酒に対して特殊の酒の性格のタイプができていない、などがさし当り気のついたところであります。私の考えでは、世界の酒の通人にとっては酒や料理のうまさは元来インタナショナルな性格をもっていますから、うまい酒はどこの国の酒であってもうまい。お世辞でなくこれはうまいと外国の酒通にいわせることができるまでは、日本の酒はまだまだ努力が足りないのではないかと思われます。年に一度くらいは、外国の一流の通人を招いて日本酒の審査会を開いてはどうでしょうか。  これは今の若人は戦前のわれわれに比べると、全くの外国人と考える方がよいと思われる点も考慮に入れての話であります。先日もモーゼルのある古いシャトーのお祝いに、世界中の酒通が集るというので、外池さんと御相談して代表的の日本酒を選んでいただいて、とどけてもらいましたところ、世界の他の国々からの酒に比べて、メニューでの取扱いも、現地の新聞の報道も、日本酒だけを格段に優遇して扱ってもらったようですが、私の考えでは、これはどうも物珍らしさが半分以上ではないかと思われます。  実例になるかどうかわかりませんが、昔栂野明二郎さんと会飲いたしました時、そこに出たおさしみの醤油のにおいをかがれて、このにおいさえなくすることができれば、醤油が世界的商品になることまちがいないのですがねえと長嘆されたのを忘れません。また昔、船旅で洋行した連中の話によりますと、スキ焼などを食べる時は遠慮して甲板上でやったというような話もきいています。それが最近では、キッコーマン醤油の大工場が北米の真中のウィスコンシンに生れ出るということになり、ほかの国々でも、それぞれ別の計画があるなどという噂も出るような時代となりましたことは、まことに隔世の感にたえないところでございます。これと申しまするのも、ひとつには、西洋人の食習慣が、彼らの国力が世界中に広まるに連れて、世界を風摩(ふうび)するようになったように、わが日本人は今や世界の至るところに発展し、国力も世界有数のうちに列するようになったおかげであると思うのであります。海外に赴いた日本人が、何故に至る所で日本の酒を註文して自分も飲み外国人にも飲ませないか。これは恐らく、日本酒メーカー諸君の努力が足りないために、国民の誇りとして、大いばりで飲めるような酒質になっていないことがその一番の原因であるのではないでしょうか。  私は近頃、明治二十二年発行の醸造学雑誌を読んでいましたら、上野という人のフーゼル油についての論文(日本酒に特にフーゼル油が多いなどというのも、明治人のインフェリオリチー・コムプレクスの一例にすぎませんが)の中に次のような文句を見つけました。「醸造原料を撰び、醸造法を工夫して、可及的この害物(フーゼル油のこと)を生ぜざらしめ、あるいは既に出来上りたる酒よりこれを精製分離して酒の品位を高尚ならしむることを発明せば、日本酒も大いに海外人の嗜好に適し、麦酒を圧倒して、皇国の一大輸出品となるや知るべからず」と結ばれています。どうか先人の意気にまけないようにしたいものであります。  御静聴を感謝いたします。 (初出=醸造論文集 第29輯 昭和49年4月) 日本酒の季節性  すべての生活の面において、日本人ほど季節のうつり変わりに対して、鋭敏な感覚や反応を示す国民はあまりないと思う。それは俳句のような季感そのものの上に成り立っている特殊な芸術を身につけているせいばかりではなく、日本という国土が地理的におかれている条件が、四季の風物の移り変わりを、人びとにことさら強く感じさせるためでもあろう。  生活の上の季感は、食生活をも特に楽しいものにしている。そして酒も、日本酒ほど季節によって風味のうつろいやすい酒はあまりあるまい。それというのも、江戸時代のはじめまでは、春も秋も、あるいは夏に近い頃でさえ造られていた酒が、いわゆる寒造りといって、厳冬を中心にした季節だけに集中的に造る習慣になって来たことが、一番大きな原因であるともいえる。つまり冬醗酵した酒を、早春に槽(ふね)にかけてしぼり上げ、そのうすにごりの酒を大桶に移しておりを沈め、八十八夜といって、立春から八十八日目の新暦でいえば四月の末から五月のはじめにかけて、うわ澄みの澄んだ酒を取り出して大釜で火入れをし、それを再び大桶に移し入れて、涼しい酒庫のうちで土用すなわち夏を静かに越し、新秋の風さわやかな頃になって、はじめて呑み口を切って、いわゆる「冷やおろし」となるのである。この頃の酒が昔から一番おいしいとされている。春しぼり立ての酒は新酒といって、風味が苛烈で丸味なく、味も香りも整っていないが、庫のうちで夏を越す間にすっかり熟成して香味ともに円熟して来るためである。  酒のうま味はこのあたりを境として、秋の末から冬にかけて次第に老化して古酒となり、翌年の春頃になれば大古酒などといわれて、香りは幾分熟柿(じゆくし)臭味をおび、色は馬のしょうべんなどといわれるような濃い色になってゆく。老酒という言葉は中国では酒を称美する言葉となっているが、日本の同じような言葉の古酒は酒の品質の劣化したのを意味する。  このように四季の移り変わりに敏感であった日本酒も、戦後にはまったくうって変わった不死身の性格を身につけるようになって来たのは、昔風の風流人にはちょっと寂しい気もするであろうが、一般の消費者や、酒の販売者にとっては便利な世の中になったといえよう。  その原因の第一は、米の入手や、工員、すなわち蔵人(くらびと)の労働条件の都合などのために、酒造の時期が秋の末から春の初めまで、大昔のようにかなり幅が広くなって来たこと、その上に冷蔵庫の利用で年三回醸造とか、四季醸造とか、夏を除くほとんど一年中酒を造るところまで現われるようになって来たことのために、年中新酒が出まわらざるをえないことになり、メーカーとしては自然の勢で新酒に熟成したような風味のお化粧をする技術を身につけるようになって来た。  前に述べた古酒の色のようなものも、酒に活性炭という色の成分を吸着する物質を、たくさん加えて着色の原因をとり去る、というようなことが始まったために、すべての酒は水のようになって、「油のようにとろりとした」とか「琥珀(こはく)の光」などという形容詞は、今ではまったく古文献の世界のみとなってしまった。便利なことには消費者の側も、今ではそれにすっかり慣らされてしまって、日本酒とは無色のものと割りきっているようになって来た。そのおかげで昔のような「冷やおろし」の実感も、あまり味わえないようになった。  このような日本酒の季節性が、一体いつごろ、どんな原因からできたか。大昔は「万葉集」や「古事記」の「待ち酒」のように、家人が来客をもてなすために「かもしもうけて待つ酒」であって、年中時をえらばず手造りされたものと思われる。それが、平安朝以後、酒の市販が行なわれ、酒屋が現われるようになって、酒の造り方もおいおい進歩し、御即位式の大嘗会(だいじようえ)で今でも行なわれる「白き」「黒き」のように、めしと麹と水を混ぜて醗酵したうすい酒から、それにさらにめしと酒を、何回にも分けて加えてゆくという、いわば出来た酒をもととして、それを土台に酒造りを重ねてゆく技術(重醸酒の技術)が生み出され、酒も濃いうまいものができるようになってきたわけであるが、このやり方で江戸の初期までは、冬に限らず年中酒が造られていたようである。その証拠には、室町時代の中期に書かれた書物にも、温暖な時季でも強い酵母を育てあげて酒を造ることのできる「ぼだい〓(もと)」という、日本の優れた酒造法がすでに行なわれていたことがしるされている。この方法は、江戸時代を通して、さらに明治を経、大正末期までも地方の酒造家で行なわれていたのを筆者も知っている。  江戸時代に冬以外の時季の酒造りが、ずいぶん広く行なわれていたことは、江戸の多くの文献に、彼岸酒、新酒、冬酒、間酒、寒前酒、正月酒、夏酒、春酒などの名が見えることからも知られる。以上のうち冬酒は秋造って冬に飲む酒、夏酒は冬造って夏飲む酒の意である。また新酒は秋新米が出た時にこれを以て造った酒と解するのがよいようであって、つまり江戸時代の新酒には、しぼりたての酒と、大阪から江戸へ、新秋八月(旧)に積み出される寒造りの新酒との二通りがあったのである。  江戸時代に「ことし酒」といわれたものは、おそらくその年の秋に、上方から送られて来る「下(くだ)り」酒であって、お正月の一夜が明けて、年を越せば去年の「古酒」となるのである。江戸の狂歌「春立てる年の内田の一徳利古酒とやいわん新酒とやいわん」なども、新酒という言葉が上のような意味に使われていたことを示すものといえる。この歌で内田屋というのは、江戸で豊島やと並び称された酒屋で、外神田にあったという。  元禄八年(一六九五)に出版された「本朝食鑑」という書物に、「年を越すものを諸白古酒と称す。甕壺に収蔵して、よく年を経べし、その三、四、五年に至るものは味濃く香美にして最も佳なり。……三秋造るものは皆濁酒にして清酒を取る能はず。」などと書かれている。ここで注目すべきは、日本酒にも昔は「かめ」や「つぼ」に入れて、三年以上五年も熟させたものが賞美されたこともあるということである。現代の酒とちがって一年以上の古酒が賞美されたということになると、初めに述べた日本酒の季節性が、現在一年以上の酒は問題にされていないという事実の上に立っての話であったから、もしこうなれば、日本酒も季節性のない酒ということにもなるわけである。  寒造りの酒造法の確立されたことは、とりもなおさず、その後の現代に至るまでの日本酒の性格がはっきりと築きあげられたことであり、日本酒の特徴ある風味も、世界無比のアルコール高濃度も、この冬期酒造を中心として組み立てられた複雑な酒造法によって育まれて来たものである。しかしながら、このような高度の技術が発達するについては、次に述べるような、大きな社会的原因があったからでもあることを見逃すわけにはゆかない。それは徳川幕府の成立とともに、わが国の経済事情も一変して、江戸という一大消費地の出現と、それに対応して発展した大阪という生活物資の供給地、つまり江戸の台所としての大阪の成立という、江戸時代の特別の経済事情のために、酒の産業も大きく影響されたことにもよるのである。すなわち、大阪から江戸への長途の輸送のためには、しかも杉樽のような不完全な容器では、どうしても、酒の方を、濃度の高い腐りにくいものに育てあげる必要があったからである。  江戸の年消費量百万石といわれた酒の大部分、すなわち約八十パーセントは、いわゆる「下(くだ)り」といわれる酒、つまり大阪を中心とする「摂泉十二郷」の酒屋から集荷された酒が、はじめは「菱垣(ひがき)舟」で他の雑貨といっしょに、後には酒専門の「樽廻船」などという千石舟につみこまれて、遠州灘をこえ海路はるばると江戸に送られていたのである。江戸では「くだり酒」以外のいわゆる「地廻り」の酒は約二十パーセントにすぎず、それも多くは尾州三州あたりからのものであったようである。守貞漫稿に江戸末期の酒を記して、「昔は摂伊丹を酒の最上とし、今も酒造家多しと雖(いえど)も近年は灘目の酒を最上とす。灘目とは大阪西方の近き海湾をいう。池田も昔は伊丹に次げり、今は甚だ衰えたり。然れども伊丹、池田、灘等を専らとし、尾参等を中国物といい之(これ)に次ぐ。その他の国製を下品(げほん)とす。」などと書いている。  最後に、日本酒の季節性を、一番よく発揚するものとして、冬の「造り」の時季の「どぶろく」をあげなければならない。冬が来る毎に、村や町の酒ぐらの庭を開いて、五郎八茶碗かなにかで、湧き立ての「どぶろく」を飲めることにでもなれば、冬の日本の景物として、おそらく世界中の人が訪れて来るであろう。 (初出=NOMAプレスサービス  昭和44年9月20日) 正月の酒  酒を飲むという習慣がはたして奨励すべきものであるかどうかは別として、とにかく酒を飲むことをおぼえる第一のチャンスはお正月でありましょう。  筆者の国は新潟県高田市(現在の上越市)です。この地方ではお年取りといって、元旦の朝よりは大みそかの晩さんが一年中での一番の御馳走で、事実上ここで新年を祝うのであります。広い座敷に店の小僧さんから台所の女中さんに至るまで一家うちそろってめいめいのお膳に向う。お膳には塩ぶりの焼魚、きんとん、かまぼこ、大根と人蔘の酢のものなどは欠かさずにつく。めいめいのお膳にはお年玉と書かれたのし袋がのっています。中身は人によりけりですが、筆者のような子供には大概新しい大きな五十銭銀貨が一つ入っている筈であります。  お膳に向いながら正月二日の買い初めの日にはそれで何を買おうかなどと考えるのがまたうれしくてたまらない。お膳の上の盃にはふだんは子供には禁断のお酒がなみなみと盛られます。上座の祖父の音頭につれて「おめでとうございます」といいながら一同で盃をあげます。そのあとも欲しいものはいくらでも飲む。玉子酒なども出ることもあります。筆者も何歳の年からこの年取りの酒を飲まされたか覚えがないほど幼い時からの習慣です。  お屠蘇(とそ)をのむ習慣も、近来は、おいおいすたれてきたようですが、これは、中国では漢の末、日本でも平安朝のはじめから、宮中をはじめ民間でおこなわれたお正月の行事であって、千年来の古い歴史をもっています。近頃、いろんな食品添加剤の公害が問題にされていますが、生体にもともとふくまれていないような薬品は、すべて、人体にとっては異物とみなされてよいわけですから、多少にかかわらず、人体に自然でない作用をおよぼすことは当然のことでしょう。そんなわけですと、草根木皮の自然物のみを使う漢方だけが安全ということにもなりかねません。この調子ですと、お正月に屠蘇を飲むなぞは、もっとも先端的な健康法として復活しないともかぎりません。  ところで屠蘇に使う漢薬はなにかといいますと、あの赤い絹で造った三角形の袋のなかに入っているのは先ずオケラ、これは健胃利尿剤、それに肉桂(につけい)、これも健胃作用と皮膚や粘膜の強化作用があるという。防風も同様の作用があり、つぎにサンショウの実は防寒、健胃、桔梗(ききよう)は沈咳(ちんがい)、去痰(きよたん)、大黄(だいおう)は下剤として悪血を下す作用があり、アズキ(赤小豆)は利尿の妙薬であります。胃腸を丈夫にし、便通をよくし、ことに利尿、去痰など排泄作用に重点がおかれたところは、お正月の食いすぎ、飲みすぎには、時宜に適するばかりではなく、日常の健康にも適した調剤であるといえましょう。  中国ではじまったころのオリジナルの古い屠蘇の処方箋には、このほかに、ウズ(烏頭)という毒薬がもられています。これはトリカブトという毒草の根の製品で、少量にのめば不老長寿の薬であるというような信仰もあったので、これをのみすぎて死んだといわれる明治時代の有名な植物学者もあるくらいの劇毒であります。まして、酒などに入れたばあいには、十分に殺人的効果を発揮することは疑いがない。そんな毒物がはいっていた屠蘇がなぜ平気でおこなわれていたか、それには理由があるようであります。つまり、そのころの屠蘇の用法は、いまとはちがって、まず大みそかの夜に、その袋を井戸のなかにつるしておいて、元日の朝にひきあげて、これを酒に入れるので、毒の一部は水中でのぞかれたかも知れません。平安朝の朝廷などでも、そのようなやりかたであったということであります。このようなはげしい作用のある霊薬で、一年中の井戸のなかの悪気をのぞくと同時に、その酒をのんで不老長寿を獲得するという、おめでたい儀式であったようであります。現今の屠蘇には、ウズがふくまれていないことは申すまでもありません。  お屠蘇ののみかたで、もうひとつ、あまり知られていないことがあります。それは、「家をあげて東に向い、少より長にいたる」といって、家中で、いちばん若いものから先に、順々に、盃をまわしてゆくのが、本式の作法だそうで、宮中でも、古くは屠蘇は清涼殿でのまれることになっていましたが、そのさいにも薬子という役の、幼ない女の子にまずのませて、そのあとで天子さまが盃をとられる習慣であったとのことであります。これは、若いものは先が長いからおめでたいし、老人は先が短かいから、えんぎがよくない、若いものにあやかりたい、というようなところからきたともいわれ、あるいはまた、「礼記(らいき)に言う、君の薬をのむや臣まず嘗(な)む、親の薬をのむや子まず嘗む」という、お毒味的しきたりにすぎないという説もあります。  九州の一部でおめでたいときに使う酒に、肥後の赤酒(あかざけ)という酒があります。これは、赤褐色をおびた味醂(みりん)のような甘い酒で、熊本県の三角(みすみ)地方の特産です。わたくしは、近年、お正月にはこの酒を使わせてもらっています。お屠蘇にも使えますが、家人はストレートのままを好みます。赤酒をのむことは、なぜおめでたいか、それはこの酒が、古い歴史をもった、由緒ある酒だからではないでしょうか。  大むかしの日本酒というものが、いったい、どんな形のものであったか、それを考えるひとつの手がかりとしては、平安朝のころから、天子さまの代がわりのときにおこなわれる大嘗会という儀式がありますが、その儀式の中心のひとつに、「くろき」「しろき」という二種類の酒をかもす神事があります。その酒をつくる操作は、現今の酒造りと、大すじにおいては、よく一致しています。ただ、すべてにおいて非常に原始的であります。そして、「しろき」は、すなわち現代の清酒、「くろき」は、すなわち肥後の赤酒の原形であろうと思われます。なぜといえば、「くろき」は、「しろき」にクサキ(久佐木)という木の灰を加えてつくるということが、延喜式に書かれているからであります。  赤酒も、醗酵の途中で、「もろみ」に、石灰をふくんだ木灰を加えて酸を中和し醗酵をとめるために、甘い、赤褐色をおびた酒になるのであります。このような「くろき」系の酒は、灰持酒(あくもちざけ)ともいわれ、赤酒のほかにも、鹿児島県の地酒、島根県の地伝酒(じでんしゆ)などとして、現代まで残っていましたが、地伝酒のほうは、昭和のはじめごろから造られなくなってしまったようであります。  慶長年間に、大阪鴻池酒屋の使用人が主人のしうちをうらんで、大桶の酒のなかへ火鉢の灰をなげこんで逃げてしまったところ、それまでにごっていた酒が、一夜にして変じて、澄明なる清酒となったという話なぞは、むしろ後世に、変敗酒をなおすのに木灰や牡蠣(か き)灰を使うようになったはしりともみるべきであって、「これ、すなわち、本朝清酒のはじまりなり」などということは、あまり、信用がおけません。清酒は、すくなくとも平安朝のころから存在していたことは、いろんな根拠から、もはや疑う余地がないからであります。 (初出=財政 昭和32年1月号) 忘れられた酒  本稿では、日本酒に昔はあったが、今はすたれたり、税法上の都合で禁止されたりして、現代人に忘れ去られようとしている、二、三の酒の型についてお話することにします。  それは、ひとつは「どぶろく」すなわち「濁酒」であり、もうひとつは日本酒の「古酒」であります。まずどぶろくについていえば、これは酒をしぼって清酒にする工程をはぶいた「もろみ」そのものを飲むことであります。昔は関西の本場の酒は別として、いわゆる地ざけの類は、また、ことに冬以外に造られた酒は多く「どぶろく」のままで飲まれたようであります。そんな関係で明治初年頃の清酒の統計を見ますと、県によっては全体の酒の半分くらいが「濁酒」免許の下に販売されているところもあったくらいです。その免許制もいつの間にやら、昭和のはじめ頃かも知れませんが、酒税法のうちから消えて、特別の神事以外の許可は見られないようになってしまいました。これはひとつには「どぶろく」が一般に市販されたりすると、家庭などで手造りしたものまでが市場に出まわるようになるおそれがあるという、役所の密造取締りの面からそのようになったものかとも思われます。 「どぶろく」は麹や米粒のはいったままの酒ですから、その舌ざわりや歯ざわりも清酒とはちがった味がするばかりではなく、甘味も酸味もアルコール味もあって、清酒には見られないおいしい味があります。先日東京農業大学教授の住江さんから、味噌汁と、それを濾(こ)した汁とを比較して試味することをたのまれまして、拝見しましたところ、濾した汁の方は実に風味がなく、同じものでありながら、全く別の汁であるかの如く感ぜられまして、おどろいた次第ですが、どぶろくと清酒との関係も、全くこれと同じではあるまいかと、その時に感じた次第です。その理由については、なかなか複雑であろうと思われますが、固体の粒やあるいは泡のような気体の粒でも、その表面には液中の微粒成分(コロイド)が吸着されて集まって、その部分が特に濃くなっていることを、昔ビールで実験したことがある経験からもうなずかれることと思っています。  それは第二次大戦中に日本のビール会社の直営のビヤホールなどで、そこへ入って来た樽ビールの量に比べて、ジャッキーで売ったビールの総量が著しく多くなっていることを警察に発見されて、当時の総動員法違反に問われ、会社の重役の人まで法廷に引き出されたことがありました。つまり、ジャッキーにもる際に浮かぶ泡の部分に相当した量だけ増えるわけですから、泡をビールなりと称して増量することがけしからんというわけであります。筆者は造る方も消費する方も専門家と思われたと見えて、その鑑定人として「泡はビールなりや否や」という裁判官の質問に返答しなければならぬはめに追いこまれました。そこでビールの泡ばかりを大量に集めて、それを消すと、もとのビールのような液体にもどるから、その泡ビールを詳細に分析してみたところ、意外なことには全く予想に反して、ビールの風味を形成するのに大切ないろいろな成分、またアルコールさえも、もとのビールよりは濃く含まれていることが判明しました。しかしよく考えて見ればそれは当然なことであって、液中にコロイドのような微粒子が共存すると、液に溶けた成分がその微粒子の表面に吸着して、その部分が特に濃度が高くなります。気泡ももちろん炭酸ガスの微粒子ですから、ビールの泡も一種のコロイドと見なされてよいわけで、従ってその部分のみを集めれば、ビール中に含まれているいろいろな香味の成分が、特に濃厚に含まれていることも当然であるといわなければなりません。結局、私どもの研究によって「泡はビールよりは濃い」のであるから、この訴訟は当然警察側の完敗となり、各会社は安堵(あんど)の胸をなでおろすことになったのであります。  どぶろくの中には大きな米粒から微小な粒子に至るまで、あらゆる大きさの固形物が含まれていて、それらの表面に風味成分の吸着のおこらないわけがありません。清酒に比して格別にうまい理由もあるいはこの辺にあるのではないでしょうか。そうかといって、清酒の方を濾した味噌汁同然であるというのも、また少し言いすぎのようでもありましょう。 「どぶろく」で思い出されるのはウィーンのホイリゲであります。今ではグリンチングあたりのウィーンの町はずれに軒並みの飲み屋の観を呈しているが、おそらくそのはじめはもっとウィーンの森の奥の葡萄酒造りの農家に始まったものでありましょう。秋に新酒が出る頃になると、庭の門のところや家の戸口に、松の枝をブラさげた棒を出す。その中に入ると庭の方々にそまつな木のテーブルと椅子がたくさんおいてあり、食卓の代りに樽を立ててあることもあります。大がい夕刻ですから庭の木から木へ赤青のランタンが方々につるしてあって、そこへすわると家人が大きなジャッキーに湧きやんだばかりのブドウ酒の「どぶろく」を満々ともったものを運んできます。もし古酒をたのむと、ジャッキーの壁が垂直ではなしに少し内側に傾いた形のものにもってくれる。香をかばうためだそうです。台所のような所へ皿を持ってゆくと、丸焼のにわとりを大きなはさみで腕も体も一しょくたにジョキジョキと切って皿におとしてくれる。それに塩をかけてさかなにします。夜も更けてくると庭の一隅にジンタの楽隊がはじまる。さすがはお国がらですから、ワルツのリズムですが、その辺の昔からの音楽であります。すっかり酔いのまわったお客達はテーブルからテーブルに渡り歩くものもあれば、手を組んでおどり出す組もある。今でも少し奥の方へはいると、大きなホイリゲなどではこのような古い情調を満喫できます。日本でも、酒造りの時節にブドウ酒どころではなく、おいしい「どぶろく」でその土地の造り酒屋の庭などを利用して、このような楽しみを持てたらとつくづく思われます。おそらく世界的の名物となることまちがいありません。  どぶろくのようなうまい酒がありながら、単なる税金とりたて上の便宜から国民の楽しみをうばうようなことは、近頃の役所の精神ではなかろうと思われますので、いずれは考えてもらえる時がくることと信じますが、私はある偶然のチャンスから、どぶろくに近いものが、今の税法の範囲でも許していただけることを発見しましたので、そのいきさつについて少し述べさせていただきます。  それは今から三年前の三月のはじめで、まだ酒造りの時期が終らず、方々の造り酒屋には、まだおいしい「どぶろく」のままの酒が、醗酵タンクの中で湧いている頃のことです。カルピスの三島海雲翁が、私財の全部をなげうって日本の学界のために研究援助の財団法人をたてられていたのですが、そこの財団から、三島さんの御発意に基いて、京都大学にひとつの研究所を建てて寄附されたのであります。私も関係者の一人として、その開所式に伺ったのですが、式も終り、夜京都ホテルで祝宴のありました席上で、京大人文系の教授方が大ぜいおられた中から「お前は酒の専門だが、今夜はひとつどぶろくを取りよせて飲ませてもらえまいか」という御要求が出ました。どぶろくは前にも述べた通り、税法上から不許可の酒ですから、万一これを酒工場の外へ持ち出すようなことがあっては、酒税法違反の大罪をおかすことになります。  そこで考えたあげくに、近くの銘醸地の伏見に古くからの造り酒屋として知られている「月の桂」の御主人に電話で御相談をしましたところ、「おり酒」はいかがでしょうかという御意見がでました。なるほどこれならば、米粒こそ含まれていないが、その他の性質は、どぶろくそっくりともいえまして、失礼ながら素人の先生方には十分御満足がえられることと思いましたので、早速伏見から御持参を願って、諸君に供しましたところ案の定の大好評、「月の桂」さんも私も、このような皆さんのよろこびようを拝見して、はじめて、「おり酒」のよさを認識させていただいたような次第です。 「おり酒」というのは、酒のもろみ、すなわちどぶろくを布の袋でしぼったものを、大きな酒タンクに入れて清澄させる時に、タンクの底に近い部分にたまった一種の「おり」の部分です。米粒だけは袋の中へ残りますが、その他のこまかい濁りの部分は、全部そのまま酒の中に入っていますから、いわば「どぶろく」をすりつぶして袋でこしたようなものであります。この酒は、にごりの粒が細かいので、江戸時代以前から日本人に親しまれて来た、「中汲み」の「うすにごり」、または「かすみのような」一種のにごり酒とも言えましょう。韓国では、御存じの通り、濁酒(まつかり)という国民飲料がありますが、これは「もろみ」を磨って、水でうすめたようなものですから、外観は、これにも似ているといえましょう。  昔は珍重されて今はない清酒のもうひとつの型に古酒があります。御承知の通り今の清酒の大部分は、秋の末から春の初めにかけて造られますので、その前年の同じ季節に造られたような酒は、古酒といって、香も味も劣化して、一般にはきらわれ勝ちとなります。つまり清酒の寿命は一年くらいに限られていますが、江戸時代以前の人たちは三年、五年あるいは七年を経たものも珍重し、値段もそれに応じて高く取引されていたようです。同じ米で造った中国の老酒などが十年、二十年あるいは五十年と年を経たものほど貴ばれていることなどとも考えあわせますと、清酒の古酒の流行も単なる夢というわけにもゆかないと思います。前記の「どぶろく」の新生のように、誰れかに先鞭をつけてほしいものと思っていましたら、これも先頃、千葉県大原の「木戸泉」という酒造家がこられて、偶然にも、五年と八年の古酒をたくさん持っていたので、三越から出して見たら、飛ぶような売行きです、というお話でした。それは大変だ、早速売り止めになさい、売り尽してしまったら、あなたは唯の酒屋になってしまいますよと、御警告をするようなことでした。いよいよ日本も古酒復古の時代に入るかも知れません。いずれにしても、酒徒にはありがたい話です。  酒を樽に入れて何年もおけば、杉のやにが溶け出して、ジンそこのけの香味になってしまうから、「本朝食鑑」(一六九五)の古酒のところにも古酒は壺または「かめ」に貯えると書かれています。容れものは、それで万全ですが、かんじんなシールの仕方には、食鑑は少しもふれていないので、長年の疑問にしていましたところ、先般長野県で、元禄二年に詰めた古酒が発見されまして、なるほどこれならばと、感服させられました。それには、うるし塗りの桐の栓をした上に、そのまわりをうるしで完全にシールしてあったのであります。現代でも、これほど完璧な方法はありません。いかなるプラスチックよりも、うるしの方が、アルコール、酸、油、酸化などには強いわけですから。やはり日本人の優れた智恵であります。  この長野県で発見された古酒のいきさつは、一昨年の春、長野県佐久市(*注)の大沢さんという酒屋さんが、約三百年前の元禄二年に自家の創業時代の酒を封じたものであるといって持参されたものです。それはその旨を墨書した木の箱におさまって、同家のお倉の二階から発見され、白い古伊万里の胴の太いひさご形の陶製瓶(びん)であって、うるしをぬった木栓を、同じくうるしで十分にシールされていました。  振ってみると底の方で重い液体のうごく音がきこえ、開栓して猪口(ちよこ)につぐと、ドロドロの褐色の液体が出てきました。そのとたんに、狭いわが家の応接間の裡は、ふくいくたる芳香に満たされました。その香りは、あたかも昔スペインのシェリーの工場で見せられた百年ものと称するシェリーそっくりです。  後に醸造試験所でこの酒を分析していただいたら、アルコールは二十四パーセント近く含まれていました。もっとも、この酒が、はじめからこのような高い含量をもっていたわけではなく、フランスのコニャックなどと同様、この場合は陶器の微小な孔(あな)を、長い間に分子量の小さい水の方が、割合によけいに通過して蒸発したせいであります。  その後、古酒の「木戸泉」の御主人の荘司さんが、一本の酒をもって来訪され、「あなたの書いたものによると、酒の酸味を、今のものより強く造れば、ワインのように食事中にも飲める、ということであるから、前大蔵技師の古川さんの指導で、この酒を造ってみた」というお話です。飲んで見ると、なるほど酸味十分で、全く白葡萄酒のような感じです。江戸時代の酒の分析はありませんが、明治十年に、東大農学部の外人教師、エドワード・キンチ氏が、当時の市販酒数種を分析されたものがあります。それによると、アルコール分は、現在の酒より、多いものも少いものもあって、大差ありませんが、酸だけは、現在の酒の四—六倍となっています。江戸の酒は、今の酒より、よほど酸味強く、辛口であったことがこれから想像されます。持参された酒は、その上に、一種の乳酸醗酵の香りが、かすかにして、これがあるいは、昔もてはやされた「灘香(なだか)」ではあるまいかと思わせるものがありました。このような江戸の昔の酒の酸味酒タイプも、将来あるいは再興する時期が来るのではないかと、楽しい気もちがします。  酸味酒もそうですが、古酒も珍重されるようになれば、はじめからその目的にかなうような酒質や熟成の方法なども研究されて、真の古酒が生れるようになるでしょうし、第一そうなれば日本酒の販売の面でも、幅が広く、ゆとりが出来て、酒造業の上にも大きな利益となるでしょう。  木香(きが)のついた酒なども、近頃は杉樽を使わなくなったために、若い人たちの間には忘れ去られようとしていますが、復活の試みなどもあって、これは忘れられた酒の中に入れることはできません。杉の木香自体には好き嫌いの問題はあっても、樽材の表面作用による酒の熟成効果の方は、これからもますます研究してもらわなければなりません。  忘れられた製法とは逆の話になりますが、大正以来日本酒製法の上に新たにつけ加わった操作は、でき上った酒に活性炭を加えて、色ばかりではなく、折角の香気や、濃醇な「こく味」まで取り去ることです。これは酒の中の微量栄養分を取り去って、酒を腐りにくくする効果や、フーゼル油などを取り去るという利点はありますが、昔の酒には全くなかった今の日本酒にだけ生れた新製法で、その功罪は将来に定められることでしょう。 (初出=学鐙 昭和46年1月号) *編集注:北佐久郡望月町・大澤酒造ですが、本文は原文のままとしました。(「世捨て酒——芭蕉翁と酒」の項参照) 灘の酒  本日はおめでたい五十周年(灘(なだ)酒研究会五十周年祝賀会)をお迎えになりましたことについて、謹んでお祝い申し上げます。私ども平素から、よく立場の違った方々が結束をされまして、会がお続きになっておるということを、非常に感心申し上げておった次第でございますが、ただいま伺いますと、十三人でスタートをなさったのが、今は二百人近くの方々がご結束になっておることを承りまして、ひとり灘の酒ばかりでなく、日本の酒の品質を皆さんで五十年の間守っていただいておるということにつきましても、心から敬意を表しますとともに、また感謝の意を申し上げたいと存ずるわけであります。  私はご承知のように何も酒のことを知らないものでございまして、五十年間研究さしてもらっておりましたが、ただ酒のまわりをうろつくようなことばかりでございまして、皆さんにお話を申し上げるというようなことは、いわゆる釈迦(しやか)に説法以上でございまして、甚だせんえつなことでもあります。  もっとも私は酒を造る方はよく存じませんが、飲む方はこれで皆さんに負けないつもりでおるわけでございます。ことにオカンをつけて、料理を前にして飲む場合の鑑定に至っては、相当自信もございますし、また酒が体に非常にいいということも身を以て体験いたしております。私は四十歳まで体が弱いため、酒は医者に止められまして絶対に飲まなかった。台湾で酒の専売が施行されます時に嘱託にして下さいまして、台湾へまいりました。ところが毎晩飲まざるをえないことになりまして、飲んでみるといくら飲んでも酔わない、翌日は非常に快適、ということを発見しまして、それ以来もうほとんどいつ死ぬかと思っておったような悪い状態の体が、七十歳まで、とにかく働かしていただいたということは、全く酒のお蔭で、その意味で酒のお話を申し上げる資格はある……もっとも鑑評会や品評会でのお酒は私はダメでございます。やはりチャンとした席で、チャンとした酒を飲んで、これはうまい酒かまずい酒かというのでないと、私には具合が悪い。私も長年大蔵省酒類審議会の委員をやっておりましたので、醸造試験所にも審査の度にひっぱり出されまして、はじめは点をつけてみるがどうもうまくいかない、自分のうまいと思う酒はどうも皆さんが良い点をつけられず、しまいに考えてみると、どうも逆につけるとちょうどいいような結果になったものですから(笑)、もう一切、点をつける審議会には出ないということで通してしまったわけでございます。そんなわけで資格があるやらないやらわかりませんが、しばらく御静聴をお願いしたいと思います。  お話し申し上げる順序でございますが、まず外から見た灘のお酒の状態をお話し申し上げたい……外から見たんですから、中においでの方々はそんな事は、とおっしゃる方もあると思いますが……江戸時代において灘の酒がどんなに日本の酒に貢献してこられたかというようなこと、第二には明治以後における灘の酒の貢献、御功績、第三番目には、これはちょっとおこがましい話ですが、灘の酒の今後は外からみるとどうなるかということについての雑感、四番目に時間かありましたら、酒の研究というものが、我国の現在の醗酵工業全般、あるいは世界の醗酵工業に対してどんな影響を与えているかという問題を、私なりの考え方でお話し申し上げてみたいと思います。  私が常々非常に意外に感じておるのは、日本の清酒というものに対して日本の人々はどうも少し尊敬の念が足りない、甚しい場合は、これはたびたび書きましたが、戦後なんかにはバーへ行っても日本の国でありながら日本の酒がない。酒飲みといえば日本の酒を飲んで、あまり調子のよろしくないようなことをやるのが日本の酒飲み。そのように酒飲みというと、何となく尊敬はせずに幾分いやしめるような傾向がある。どうしてそのようになったのか私は存じませんが、酒全般として考えますと、古来からどの国におきましても、酒というものは非常に品位のあるものである。インドの太古の儀式によりましても、ソーマの酒をつくる儀式が中心になっています。あるいはキリスト教よりもっと古いいろいろな原始宗教が中近東にありますけれども、それらは酒をつくること、あるいは酒に水を割ることが儀式の中心である。酒に水を割るというのは何を意味するか……、酒というものは泡が出て、ものがどんどん増える姿ですから、これは女性であって豊穣を意味する、男性は水であって、つまり原始宗教というのは多くそのような陰陽和合に基盤をおいている。またキリスト教でも旧教の系統ではぶどう酒を飲むことをキリストの血をすすることと同じであると考えていて、洗礼をうけた信者のみがその資格があるというように、酒は神聖なものであり、民族や宗教のシムボルであります。  日本においても酒を造ることが皇室の儀式の中心であるということは御承知の通りであって、昔から年一回新嘗祭(にいなめさい)というものがある。御即位のときには新嘗祭の一番大きなお祭りである大嘗会があり、これはもちろん酒造りのことが一つの中心であります。特別の酒を酒殿やこうじむろを設けて(延喜式に書いてある通りでございますが)酒造りを一種の儀式として行なう。  これは無理もないことで、酒をつくるということは昔の一番知識階級でないとできないことで、原始集団の中ではマジナイ師であるとか、医師であるとか、そういう知識階級のやることである。その後になっても酒造りはどの国でも昔では一番大きな工業、重化学工業であります。  そういう科学知識の中心になる事柄である酒を、おれの国はこういう酒があるんだという誇りをいつのまにか忘れてしまって、明治の初年には「清酒は有毒であるから、すべからく栄養に富む西洋の酒を飲むべし」というようなことを政府当局者が自らしゃべっておるようなことさえある。どうも関係のあるわれわれも大いに自重して、この点の迷妄(めいもう)を開く必要がある。フランスなんかへ行かれた方は御承知と思いますが、自分の村の酒を誇りとし、また同じ村でも人のところのはまずい、おれんところの酒はいいんだと言って大変威張っておる。こういうふうな、つまり酒を誇りに思うのは愛国心に通じることでもあると思うのであります。日本の酒のような酒はどこにもないのですから、西洋の酒に対してもう少し誇りをもたなければいけない。  ビールがちょうど西洋にすれば日本酒に当るものでありますけれども、ビールと酒をくらべたらどっちがうまいか、紹興酒(シヤオシンジオウ)(老酒)は日本の酒のような口当りのものでして、あるいは古いものを尊ぶという点で、日本の酒よりはちょっとすぐれた点があるかもしれません。日本の酒も昔は三年酒から九年酒などまで、室町時代から徳川の初期にかけてあったんです。非常に値の高いのがあった、菊正宗の五十年ものというのをいただいたことがありますが、ああいう香に近いものであったかもしれません。とにかく私はビールと酒、あるいは紹興酒というものは世界の東西の名酒であると思っておるのであります。ビールは昔一八六二年と一九〇二年のものを飲んだことがありますが(「世界の酒」一六五ページ参照)、これはアルコールが十一パーセントくらいある。今でもヨーロッパの田舎へ行くと上面醗酵ビールで少しは強いのがありますけれども、日本の酒のようなこんな立派なものはとてもビールではできない。  日本の酒というのは、製法からいいましても品質からいいましても、非常にユニークなものであります。中国の周辺の国々のお酒は、たとえばベトナムのような南の方は大体どろと米の粉をまぜて固めた麹で酒を造っている。これは中国では酒薬という一番大切なもので、チャイニーズ・イーストといっているくらいで、老酒の「もと」である。南の方の国々でも酒薬と同じ製法のものをラギーといいまして、ベトナムからマレー、インドネシヤに至るまで皆それをこうじのように使います。ところが北の方は朝鮮から今の中国の東北地方などでありますが、これは〓子(きよくし)というものを使う。これも老酒の製造にも一部使うこうじの一種で、あるいは北の方では高粱酒とか汾酒(フエンジオウ)とか白酒(パイジオウ)に使う。それは何かというと、生の麦を砕いて固めてレンガのようにしたものである。朝鮮でも形は多少異なっても同じ〓子を使う。そういうわけで、日本酒がもし中国のマネをしておったんであれば、今でもそのようなものを造っておるはずですが、現在の日本の酒は全然別個の酒である。第一に穀類を蒸すということが違うし、こうじの菌も作り方もまるで違う。そういうわけで今の日本の酒というものは非常にユニークなものである。日本人の知恵がじゅうぶんはいっておる。  これは私の考えでは海というものがあって、中国の文化から適当に隔離されていたために、独自の発明が加わって今のようなものになってきたと思われます。歴史によると、応神天皇の朝に百済から酒造法が伝わったといわれますが、そのころ中国にできた「斉民要術」という本には酒造法も書かれていて、〓子のつくり方など現今の方法と大差がありません。砕いた麦に水をまぜて子供や女に握らせなくてはいかん、なぜかというと男が握ると大きくなりすぎるからではないかと思うのでありますが、そんなことまで書いてありますから、その時日本に伝わったものは、必ずそれであるに相違ないのであります。それを克服して現在の日本の酒になっておるわけであります。  大変脱線いたしましたが、次に、江戸時代に灘の酒が日本の酒造上にどんな功績があったか、私はこれを二つの点について考えてみたいと思います。一つは技術上の問題、もう一つは流通上の問題であります。日本では昔は飯にカビをはやしたものから酒を造ったので、決して麦なんかを水でこねてレンガみたいなものを作ったんではない。飯にカビをはやしたものから、めいめいの家庭で酒を造っておったのが、だんだん変化してきた。酒の造り方に関係した文献では、「令集解(りようのしゆうげ)」という大宝律令時代のことを書いた本もありますが、その後の延喜式などを見ましても、中国くさい、大陸くさい酒の造り方がみられます。ところが室町時代になりますと、まるでそんなものはなくなってしまう。そして日本独特の今の酒の先祖みたいなのが現われて来ます。けれどそれはどうもやはりうちで料理のさいつくる待酒という形式に毛のはえたようなもののようである。だから夏だろうと冬だろうとみな造るという形であった。この状態は室町、鎌倉時代あるいはもっと以前のものでありましょう。ところがだんだん江戸時代の中期ぐらいになりますと冬つくる酒、寒づくりの方になってきた、むしろどうしてもそれでなくちゃいかんというふうになってきた。これは池田、伊丹の時代にはじまったかとも思うのでありますが、少なくとも灘がこれを完成された。灘の本当の技術が完成されたのは、おそらく、文化文政のころだろうと思う。そのころ精米の点でも改良があったようでございますけれども、いわゆる生〓(きもと)というのは、どうもそのころから江戸末期にかけて完成したものと思われますが、要するに灘における生〓と寒造りの完成ということが、技術上、今の日本の酒を世界一だといえる品質まで引き上げる上に、非常に大きな力になった。また生〓から明治の酒もスタートしたわけでございます。  ただその前に、室町時代から江戸時代にかけては、生〓のような行き方のほかに、まだ萌芽といいますか、それをのばしたらよかったなというのが一つ二つある。一つは〓を煮るということで煮〓という技術があった。そう古い本ではありませんが、元禄からちょっと下ったころの「童蒙酒造記」に記載がある。また別の本にはその操作もくわしく書いてある。例えば、煮る温度というのは腕をつけ根ちかくまでつけて、ゆるく二度かきまぜられる程度であって、それ以上はダメだというのですから、やはり六十度くらいではないかと思う。これが生〓のだき樽にも影響したと思われますが、今で考えるとまさしく高温糖化〓であります。この〓が後世に続けば、日本の酒というものの製法も、ちょっと変ったんではないかと思いますが……。  もう一つは、いわゆる菩提〓(ぼだいもと)でありますが、これは西洋はもちろん、世界を通じてどこでもやる方法であります。乳酸の利用で速醸〓になったのがこれであります。琉球の泡盛、中国の黄酒(ホアンジオウ)など、いなかの紹興酒(シヤオシンジオウ)みたいな酒でも行なっています。これは世界的なもので、西洋ではアルコール醗酵のときやるんですね。こういう二つのことが明治以前にあったわけであります。そのうちの菩提〓の方は、大正の末期まで地方の酒屋さんに残っていたようであります。そのような二つの道にかかわりませず、灘では独特な生〓というものが伸ばされた。これは日本酒というものの性格をつくる上に、大きな原因となったものであります。  それからもう一つ、取引の面ですが、これはもう江戸時代になってからですね、灘(伊丹、池田)でつくった酒、大阪周辺の酒もはいっていたようですが、千石船で消費地の江戸へ送られた。これがいわゆる「下り」でありまして、これが江戸で消費される酒の八十パーセントを占めていた。残りの二十パーセントは「地廻り」といって、三河や江戸周辺の酒であります。このように生産地と消費地とがはなれていたということが、酒の取引の上にも、また酒の品質や製法の上にも大きな影響を及ぼしたのであります。取引の上では関西の荷主と江戸の問屋との関係の成立が、今に至る日本全体の消費形態の基礎になってきた。  また品質の上でも、例えば腐るということでありますが、遠くはなれた江戸へ海路を送るとき腐ると困りますから、自然アルコールの強い酒を造る必要が生じ、生〓のような方法がのびてきた。菩提〓の昔行なわれたものは、いろんな記載を見ましても、どうもアルコールが薄く酸の強い、ピチャピチャした酒のような気がします。しかも濃厚な、アルコールのうんと強い、いわゆる柱というような技術も発達しておる。柱に使う焼酎をとる方法なんてものは非常に厳密なもので、いわゆるサイレントアルコールをつくる方法であります。そのほか火入技術の発達ということがあります。火入はもちろん室町時代からありましたけれども、江戸時代に酒を江戸積するということで非常に発達して、西洋人も驚く低温殺菌というものが、パスツールの発明に先立って日本で完成していた。  取引の面におきましては、灘から大阪へかけての摂泉十二郷の酒を船で江戸へ送り出すようになり、ともかく江戸にはそれを受けて立つ問屋ができたことであります。大阪には送り出すための機関はあったけれども、現今の意味における本当の問屋というものはなかった。いわゆる問屋は江戸にのみあって、しかもこれは官許である。そういう一つの荷主とそれを受けて小売り酒屋に売り捌くシステム、それが今の卸(おろ)し制度のもとになったのですが、それは結局、酒が灘で造られたことが中心になって発達して現今の制度になったと思われるのであります。  ところが江戸時代には地廻りというのがありまして、これは江戸の商品の二十パーセントくらいの扱い量にすぎない。しかしそのため買いあつめたものを売るという地廻り問屋というものも江戸にはできた。この地廻り酒問屋というものも、明治になって卸し問屋になった。昭和十二年に卸し制度が一本になるまでは、酒類問屋と酒問屋と両方あったんです。要するにこのようなことのおかげで日本の酒の取引は円滑に行なわれてきたという点において、江戸時代から明治にかけての灘の功績があったと思うのであります。  次には、明治以後において、私ども外から眺めまして、灘が関係された日本の酒の上への大きな影響と申しますか、事件と申しますかは、品評会独立の事件であります。明治四十年ころにはじめて酒の品評会というものができまして、初期には灘伏見はほとんど全部上位に入賞し、岡山、広島あたりの地方からの最優等は一点くらいであったのが、五、六回目くらいになると全く逆になってきた。このような形勢をうけて、ついに灘地方の酒は大正八年の十一月から全国品評会を脱退されたわけであります。私はただ今まで、大正六年に創立されたこの灘酒研究会と、この時に発生した灘五郷清酒鑑評会とは同じものと思っておりましたが、研究会の発足の方が先であったことをはじめて知りました次第であります。そうすると、この灘酒研究会がすでに設立されていたということが、あるいはその独立の原因になったかも知れぬ、という見解に今なってきたわけであります。私はこの灘が全国品評会から独立されたということが日本の酒造界にとっても、また日本酒の酒質の上にも非常に大きな事件だと思うんであります。つまり日本の酒というものの品質に相当大きな転回を強いたのは品評会である。これが酒造技術の向上に非常に役に立ったことは否むことはできませんし、日本全体の酒の品質をあげたという点においても非常に功績があった。したがって品評会というものはなくちゃならんのでありますが、一方、大衆の好む酒、売れる酒というものと、品評会でいい酒と認めるものとが必ずしも一致しない、これを一体どういうふうに考えたらいいのか、ということでありますが、私はこれを、先ほどもお話し申し上げました通り、灘の鑑評会の独立という事実が適確に示していただいておるわけで、しかも、その後、独立しているということが、日本の酒の品質の維持と申しますか、そういう点に非常に大きな功績があったと思うのであります。  それは品評会というものも、非常に日本の酒の行き方に役に立ちましたけれども、大衆がうまいと思う酒という行き方を維持したという点についてこれは別個に考えなくちゃならん。このへんになると、先ほど私は坐ってカン酒を飲む点になると自信があると申したのは、このことでもあると思うのであります。そのような実際上の関係を、どのように考えていったらいいかというようなことは、まだ実際技術的には解決しておらんのではないかというふうに私は考えております。  近ごろの傾向をみますと、灘の酒もだんだん、品評会風といっては叱られますが、あるいは醸造試験所の御指導ということを言っても悪いかもしれませんが、そういうふうな一つの流れと灘の酒というものは非常に近づいてきたように私は思う。これらの点が、私は灘の明治以後における品評会からの独立は、日本の酒に対する大きな功績と思っておるんでありますが、さてどの辺までこれが行くか、御承知のように、生〓系の、山廃なんかの研究が、研究者の間で非常に盛んになったことがあります。これは私がただ今述べました事実を裏書きするものと信ずるのでありますが、要するに問題は依然として解決しておらないということはあると思います。これは何を意味しているか、私は品評会的酒と灘的酒との再評価再検討ということを意味しているのではないかとみておったのであります。  これは漫談になりますが、私は関西の料理というものがうまいので、関西の酒がよくなるものと思ってるのですが、そうでないという人もありまして、「いや先生、それは違います。酒がうまいから料理がうまいんです」。どうも関東で出される酒と、関西で出される酒と違うというふうに考えている人が今まで非常に多い。というのは、そこに何か非科学的と笑ってすませない何かがあるんじゃないかと思われます。この原因は、単に生〓系の研究だけで片付くことではなく、もっと広い意味の酒の味といいますか、酒を味わう環境といいますか、日本の酒の本当のよさを保つという点で広く品質の御検討を願いたいと思います。  私は京都でのむと伏見の酒がうまいですね、やはり。これは笑われるかもしれませんが、昔のあの酸の少い、非常にやわらかい、素直な酒もまたいい。私の趣味からいいますと、灘の酒と伏見の酒と、二つの型を考えて、日本中の酒をのんで、これは灘型かな、これは伏見型かなと思って飲んでいるとちょうどいい。灘でも昔からよくおっしゃることですが、西宮の方の酒は甘いし、魚崎、御影、住吉と西に行くほど辛くて強い。そういう傾向はあったようですが、伏見の酒は女型、ドイツでいえばモーゼル、灘の酒は男型すなわちライン型と私は言ってるんですが、そのへんがバラエティの出てくる一つのもとかとも思います。灘でもそういう二つの型があってもいいんじゃないか、もっと極端に出てきてもいいんじゃないかという気もします。  しかし大体バラエティというものは贅沢なものでありまして、大衆の公約数というものはアメリカのようにひどいことはなくても、かなり一つのところへ行くようです。しかし一方バラエティがないと、どうも淋しいといいますか、本当に大衆の嗜好も発達してこないといいますか、そういうことがあるようで、ぶどう酒なんかでは通人が指導しておるように思います。しかしながらビールとかその他のものは大衆が指導しておる。ぶどう酒は通人がこれはいいと言えば大体いいんでありますが、ほかのやつはどうもそうはいかない点もあります。これらの点を考え合わせることが、これからますます必要ではないかと思います。  灘の酒がどうして品評会の酒と対立する形で日本の嗜好を維持して来られ得たかという原因が、私どもにはまだ十分納得がいかない。水のせいということになっておりますが、そのせいかどうか……。今この壇の前におられる井上さんや樋口さんのお酒を夏前に頂いて、なんだかものたりないなあと思って、失礼な御批判を申し上げてると、秋に頂いてみると、どうもこんどはよくされたなあという手紙を差し上げるわけです、ところがちっとも変わらない、同じ酒をやったんだよというわけで、こちらはギャフンとなるわけでありますが、どうしてそういうことがあるんでしょうかね。実に飲みよく、力強く、コクがあってしかもサラッとしておる。非常に具合がいいんですね。春の酒はどうも合成酒に近いようでものたりない。水のせいであるかどうか存じませんが、たしかに水も一つの原因ではないか、昔から桜正宗の伝説がおありになり、あるいは松原先生の御研究もあり、最近は竹村さんも御研究になりまして全国の水を調べられましたが、これからあと十年くらいやって頂かないと、なかなかかと思いますが、水一つにしても研究会として十分御関心をもって頂くお仕事があるんじゃないかと思う次第であります。  明治以来の灘の酒の品評会からの脱退がまず一つの功績であると結論を下すわけでありますが、第二は何かと申しますと、さっき申し上げた流通組織の問題であります。こんどはもっぱら戦後の問題となってまいりますが、ご承知のように桶買と桶売りの非常に盛んになった状態であります。どのくらいこの状態があるのかと思いまして、少し資料をもらってまいりましたが(こういうことを調べたことがありませんので)、年々増えるばかりでありまして、四十二年度では五十パーセント以上桶売りを希望するのが十、四十パーセント以上希望するのが七、その買受け希望数量は三十五万九千キロリットルで、桶売り希望数量が四十万キロリットルとなっております。全製成数量と桶売りの割合をみますと、三十六年度は二十九パーセント、三十九年度は三十九パーセント、四十一年度は四十六パーセントとなっております(これはあとでよくチェックしませんと、よく読んで来ませんでしたから)。要するに非常な数量ですね。これが流通といっていいか、日本酒の酒造形態の大変化といっていいか、私は存じないんでありますが、とにかく灘を中心とした日本酒流通上の一大変化であります。  これを外国の例にみますと、例えばスコットランドのウイスキー、これが全部桶売りですね。ほとんど原酒そのままとしては現在出なくなっている。だからウイスキーに関する限り、酒造家というものを一体どう考えたらいいかというと、原酒を造っているのが酒造家であるのか、それを買って来てブレンドしているのが酒造家であるのか、今の大衆の方々はブレンドする方を酒造家と思っておられる。主要なマークが六十ぐらいあるんですが、そういうマークを出してるのは全部ブレンダーですね。しかしながら醸造と蒸溜だけをやってるのは、もうほとんど誰も知らない原酒メーカーである。これは非常に極端です。それからブランデー、コニャック、ただしここでは買い集めるほかに自分のところでも造っているところが多い点多少ちがいますが、要するに蒸溜酒になると、どうもそういう傾向になるんです。コニャック地方などではご承知のように非常に大きいタンクの中に、方々から買い集めたものを〓酒(ききざけ)をしては混ぜていく、それを一度にせず、布だか紙だか大きなものでもう一度こして大桶に移しそれを小樽の方へ入れていく、十分によく混ぜる意味だろうと思いますが、要するにそういう状態のものがコニャック地方のいわゆる酒屋の一つの形であります。  ところがぶどう酒になるとちょっと様子が違う。ぶどう酒ではご承知のようにシャトーとシェーという二つのランクがあります。シャトーというのは原酒メーカー、シェーはできた酒を買い集めて売り出すのを言う。ふつうならば自分のところのレッテルで、自分のところで醸造し貯蔵しびん詰めまでやって、出すのがシャトーでしょうが、しかし大部分のシャトーは一部分の酒、おそらく自分のレッテルでは出したくないような酒をシェーに出しておる。シェー(売る方の形からいうとネゴシャンともいう)は、蔵元からぶどう酒をたるで買って来て、さらにたる貯蔵をして、ある程度のときにびん詰めをして蔵元のレッテルを張って売り出す。元づめではないが、元のとおりの酒をもとの蔵の範囲でブレンドして貯蔵して出すというやり方です。そのほかにはいろんな酒をたるで買い集めてきて、ブレンドしてびんに詰め、自分だけのレッテルを貼って特別のマークで出すということもやっておる。  先のコニャックの場合は、自分のところで僅(わず)かながら造るんですから、ウイスキーと同じとはみなせない。ウイスキーは全然自分のところでは造らずに、原酒屋は原酒屋として製造している。ブランデーの方は買い集めはするけれども、自分のところでも少しは造るというのが普通であります。ところがぶどう酒の方になりますと、全然自分のところでは造らずに、シャトーのものをそのままのマークで出すものと、自分のマークで出すものと、いろんな出し方、おそらくもっと他の出し方もあると思いますが、そういう行き方です。  日本の酒屋における桶売りの傾向が盛んになると(主として灘におかれての現象と思いますが)、これがノルマルの形になるのかどうかということであります。日本の酒屋の歴史は、ここですっかり変わらなくちゃならんので、昔の問屋さんはタマを利かすということはやられたでしょうが(あるいはブレンドもやっておったかな)、とにかく酒屋と問屋との仕事の上で、今度ここではじめて日本の酒造界に大革命がおきるんではないかというふうな気がします。これが灘の酒が日本酒造界に与えようとしている第二の問題点であります。  灘の酒がなぜ日本の酒の主流を保っておって頂いてるのか、その理由がちっとも分らないのと同じように、今度これをブレンドするということになると、非常にわけの分らぬことが多いんじゃないかと思う。ウイスキーやブランデーの場合、ブレンドの技術というものはどういうところに彼らの秘訣があるのか知りませんが、スコットランドなんかへまいりますと、酒はただ混ぜたんじゃいかん、マリッジさせなくちゃいかんと言います。日本にも江戸時代酒は交合させなくちゃいかんということがありますから、酒というものはただ混ぜておったんじゃいかんということになりましょうが、さてこれを理論的に科学的に考えるということは非常に難かしい問題であろうかと思うんであります。  ブレンドした場合どうなるのか……灘ではおそらく自分のお酒というものを基準にしてそれにブレンドしていくという、世界的にみてもちょっと例のないやり方をやっておられるように想像致しておりますけれども、これをどう考えたらいいのかという問題、要するに酒というものは分らない事ばかりで、皆さんはお分りになっておられると思いますが、われわれちっとも分らない。たとえば熟成ということですね。酒は熟成しないと味も少しも濃厚になってこないし、調和してこないし、いわゆる飲める酒にはならない。熟成とは何ぞやということ一つでも大変なことです。  これはブレンドにも関係がありますが、ちょうど灘へまいりまして思い出すのは、嘉納治郎右衛門会長が終戦直後、私のところへ来られまして、どうも酒は熟成しないとまずいんだが、熟成ということを一つ研究させてくれないかということで、赤星さんという嘉納さんの知り合いで、これは工学部電気科を出た人であります(今は東洋大学工学部の教授をしておられる)が、この人を私はあずかることにしたんですが、とても私の手に負える問題ではありませんから、赤星君の工学部の電気の坂本教授と、今は教授、当時は助教授だった岡本さん、それから有名な理学部の物理化学の水島教授、この三人でみることにしました。ところが手のつけようがない。アルコールは古いものがあるからというので、焼酎の古いものをたくさん集めたり、あるいは新しいものを集めたり(十年くらいやりましたから、そのうちには古いものも自分で造った中に出てきましたが)、そういうことで酒とアルコールだけの熟成を研究した。これは官能でやると、どなたもすぐ分るんですね。アメリカのカナディアンクラブの工場に行ったとき、「ウイスキーなんかに混ぜるアルコールは、昔は一年樽(たる)貯蔵をやっておったけれども、いろいろ研究してみたら、半年で大部分の効果があがるようだから半年にしました」と言っておりました。どうして分るのかと聞きますと、いやもっぱら官能でわかるんだという返事です。なるほどアルコールというのは、なれたやつになると実にうまい、甘みが出てきて辛みがなくなって、しかもアルコールのかおりが何もしない。そういうのが古い蒸溜酒の状態。それを二割だけ新しいのにまぜると二割だけなれる。もっと余計にやると、余計にやった分より多く馴れる、ということがわかるんですが、研究の段階になると非常に困る。先生方の意見も二派に分れてしまって、電気が専門の人は、もっぱら液体構造から解釈する。アルコールの水溶液は分子の固まりなんです。分子がお互に水素結合で引っぱりあっておる。あるいはファンデルワールの分子同士の間のわずかな力がはたらいている。この二つ以外に分子が結合するという説明は現在の物理学にはない。もしそういうものが全然ないとすると、水は零下八十度で蒸発気化しておらねばならんのだという。アルコールがはいると、水とアルコールの分子あるいはお互同士が引っぱりあって固まりになっておる、そういう分子間の結合がだんだん緊密になるんではないかというのが、電気派の考えかた。水島教授は実際的にはそういうことは考えられんことはないけれども、理論的にはそういうことはないんだ。蒸溜凝縮した瞬間に固まってしまって、その固まりがより緊密になることは今の物理学じゃ考えられんのだと言う。それ故(ゆえ)他の原因、おそらく微量化学成分が貯蔵中に出てきて、それが役に立つんだろうというようなのが、もっぱら水島説なんです。私の立場から言えばともかく官能的には分ることなんで、どうにもしようがない。  菊正さんから多額の研究費をいただいて十年間、赤星君にやってもらったわけですが、結局液体構造の分子間の結合が大きくなるならば、第一に表面張力が大きくなる。また蒸発熱というものが違ってこなけりゃならん。それから蒸気圧も……いろいろ調べてみると確かにどうも違うようなんですが、何しろ僅かな差をみようってんですから非常に困ってしまう。ただ最近の赤星君の研究では、かれのいわゆる微分分留(ぶんりゆう)という、いろんな細かい分留を通して、その時々の蒸気圧、分子圧などをサムアップすると、差が出てくるということも分ってきたようでありますが、物理的の数に表われる範囲ではなかなか面倒である。ところが電気を通す力、交流を通すキャパシティは分子が緊密になればなるほど困難になる、そういうことは考えられるんだそうでありまして、いろんな温度と圧力でやってみて、結局イプシロン(透電恒数)だけが、非常にアルコールと水のみの場合の熟成度と平行な関係がある、平行しておるんだということがわかったんです。凍結させてみると、古いやつは凍りやすいという事実も多少わかった。そういうふうに物質構造、液体構造がどうにかなるんだということがわかったんですが、現在の物理学ではまだ説明のつかない点が多い。非常に厄介なことになりましたが、とにかく論文としてまとめ上がった。  こういうことから考えてみましても、科学者としてはなはだ申しわけないことですが、酒には分らないことだらけ、実際まともに取り組むのもいやになるほどでありますが、今でもいろいろやってはおりますが、もっとほかにやれる方法がないものかということを、私は常々考えておるんであります。  熟成は化学的には酸化とエステルの生成だということを昔からいっております。赤星教授によりますとエステルというものはまわりにモレキュルを集める作用がある。それが水の成分、ザルツ、アニオンとカチオンがそれぞれアルコールと水のOHの、Oを引くのがカチオンでHを引くのがアニオンで、自分のイオンのまわりにクラウド(雲)をつくるんだということは分析的にも認められるそうである。そうなるとまぜる水の中にも、酒をなれやすくする水となれにくい水とがあるんじゃないかという想像も行なわれるわけでありますが……。またすべて酒は混ぜるほど風味が複雑になるのは事実であります。私の経験では単独に〓(き)いては全く同一であると思われるものでも、これを混合すると別の良さが出ることがあります。もちろんその逆もあります。  要するに、ブレンドから脱線をしましたが、第二の大きな功績になるか、その反対になりますかわかりませんが、戦後の桶買問題は酒造業界の大変革を来すんじゃないか。ただ混ぜればいいんだということでも困るんで、なんとか技術的に、今赤星教授の例を引いていかに困難かということを申し上げたわけでありますが、何らかの方法でもう少し科学的にお考え願うことが、日本酒の大変革に対して必要ではないかと、しろうとながら考えるわけであります。  もう一つついでに申しますと、灘伏見を中心と致しましての酒造の大変革と申しますと、それはエンジニヤリングの適用であると思います。これもご承知のように、酒というものは昔からある通りが一番いいんだという考え方が大衆の間にありますから、少しでも方法が変わればもういけない。そういうような保守的な性格がありますために非常に困難があると思いますけれども、これとエンジニヤリングとは、どの程度まで調和できるかという問題であります。もちろんこれは経済上の問題が主でありましょうけれども、これもまだ生れたばかりであって、これからどういった形のものを生み出して行かれるか、もちろん醸造試験所等でもお考えになると思いますけれども、実際の適用例といいますか、現になさっているのは灘を中心とした酒造家の方々であります。これにはエンジニヤリングばかりでなしに、ご承知のように酒造法自体の変革というのもあります。数年前から名古屋の食品工業試験所で研究してもらっている問題、これは酵素を用いてこうじを使わずに行く方法です。昨年のごときは、こうじを使わんと税法上酒になりませんから、全こうじの十四パーセントだけをこうじにして、あとは全部酵素を用い、収量もよし、品質もまずまずである、という結果を出してもらいました。また御承知の通り、四段仕込などではすでに酵素の応用は実用化されているようであります。またもうすでに方々で実施になっておる、もとのかわりに酵母を使う、あるいはビール式に純粋培養酵母を高温糖化でやったものに、そのままビールのように加えるといういき方もありましょうし、あるいは圧搾酵母を加えるという方法もありましょうけれども、このようにエンジニヤリングではなしに、酒造法自体にいろいろな新法が出てくるんではないかと思います。  またこれは遺伝学の方でございますけれども、菌というものは、例えば酵母にしましても、個個にいろんな性格を与えることができる。酒造界では秋山博士の泡なし酵母のごときは一つの異常なる性格でありますけれども、これに仮に一番いい七号酵母の性格を付与することができればどうなりますか、というような、つまり菌の改善というようなことがかなり可能になってまいりました。つまりエンジニヤリングで注文をつけた型にあてはまるというような機能をもたせることができるようになるということも、あながち夢ではない。おととし、東大の応用微研でマイクロバイオロジカルエンジニヤリングのシンポジウムをやりました際、フィラデルフィヤのハンフリー教授とか、応微研の合葉教授とかいうベテランの話の最後に、閉会の辞をのべろといわれましたとき、私はいなか者をいきなり第一級の至れり尽せりのアパートに住ませるようなことばかり考えずに、中へはいるものをもっと早く慣れさせて、都合のよい機械に菌の方をあてはめてゆくようなことも考えていただきたいとの笑い話をしたんですが、そのようなことも、ある程度可能な時点に来ておるんではないかと思うんであります。(中略)  終りにのぞみまして、灘酒研究会というのは、先ほども申しのべましたように、いろいろ立場の異なった方々の集りにもかかわらず、技術的によく団結されまして、日本の国の清酒の技術は申すまでもなく最も大切な嗜好の主流を支えているということは、厳然たる事実でありますから、どうかこの組織をますます強固にされまして、先ほど申し上げたような、いろいろな難関をのり越えていただくようにお願い致します。  私どもの関係している学問では、私は基礎と応用の区別は全然ないと思っております。基礎科学というものは学問の進歩しないときは非常に幅をきかせておったものでありますが、今ではほとんどなくなってしまって、素粒子くらいが、かろうじて基礎科学である。生物学ではほとんどそういうものはない、ワトソン・クリックの説くらいがあるいは基礎科学と言えば言える程度のものであります。使用する実験方法に至ってはほとんど区別はない。どうも私どもの古い時代に、基礎は理科であり、応用は工科、農科であると考えましたのとはまるで変わってきておる。つまり全てが昔の意味での基礎であって、基礎的にものを考えなくては何事も技術ではない、方法的にも、むろん考え方においても変ってきているということを、私どもは戦後におきましてかたく信じているわけであります。どうか皆さんも、酒の科学は一番めんどうのようなふうに存じますので、とくにそういう考え方で、最先端の技術と考え方を、じゅうぶん遠慮せずに取り入れてお考えいただくようにお願いする次第であります。大変長々とご静聴をありがとうございました。 (初出=灘酒研究会創立50周年記念式典講演・昭和43年9月24日) いずこへ行くかわれらの酒  もはや十年くらい前にもなろうか、アメリカ大使館員のピーカンという酒通が本誌に寄稿して、「日本でふしぎなことは、料亭で酒を註文すると、ただ一級ですか特級ですかときくだけであって、あのたくさんある酒の銘柄については一言もふれないことである」というような言葉にはじまって、最後には自分にはたとえば何々正宗はテンプラによく、何々銘柄はさしみにあうことなどさえはっきりとわかるにもかかわらず、そういうことには全く気のつかない、日本人の酒の鑑賞力の貧弱なことを大いに笑った記事がのったことがある。  当時の酒通の読者の間にはこの記事がよほどかんにさわったと見えて、その次の号あたりで、筆者にそれに対する反論を書くように本誌の記者からの依頼があった。さて何を書いたか、その号が今手元に見あたらないので全く思い出せないほどであるから、あまりぴんと来るようなうまい論旨が見つからなかったに相違ない。  それというのは、当時の日本の酒の実状は、ピーカン大通のごたくせんとは全くうらはらの、どれを飲んでも、われわれのような多少の経験者にとってさえ、全く区別のつけようがないというのがほんとうの姿であったからである。ましてさしみにあうとか、テンプラにあうとかいうことになると、当時の日本の他の社会の御連中と同じく、多分にインフェリオリティー・コムプレクスのとりこになっていたわれら「十二歳」の日本の酒通は、なるほどそのようなものであるかと、先進国の知識人の見識に、ただ驚嘆の目をみはるという次第でもあったわけであろう。  それではどうして戦中戦後の酒が、このようにどの酒も区別のつかぬ似たようなものになってしまったかというと、昔は日本の一部の酒の小売屋さんには、「玉(タマ)をきかす」といって、酒に水を割って、つまり水を売って利益をあげていたものもないではなかった。これでは消費者の方も、酒が濃いかうすいかということにのみ、異常に敏感にならざるをえない。世界中どこの国でも、ただ濃くさえあればこれは良い酒だなどという国は、日本のほかには見られないことも、全くこれから来たことでもあろう。  とにかく物資不足の戦時ともなれば、先ず流行するのはこの古来の慣用手段ということになる。「金魚酒」などといわれたのは、その中で金魚も生存できるほどの水っぽい酒という意味である。  日本では当時麦酒(ビール)でさえもそのような疑いをうけたと見えて、ある大きなビヤホールで、仕入れた樽(たる)のビールの量に比べて、ジョッキーで売られた総量が何割か多くなっていることを警察で摘発され、これはてっきり日本酒の例の手段が、ビールでも使われたに相違ないということになった。 「麦酒に水を割った場合、どの程度まで味覚による判別が可能なりや」などという奇妙な御下問を、裁判所から蒙ったのもその当時のことである。業者や専門家を研究室にお集まり願って調べた結果は、その道の人なら五パーセント、しろうとは十パーセント以上というような結論であったように記憶する。  もっともその時の実際の犯人は、実は水ではなしにビールの泡(あわ)であったのではある。「泡はビールなりや否や事件」としてビール界をさわがせたことは周知の通りである。  さてこの段階にまで立ち至ると、戦時中のこと故、例の官僚統制の発動もまたやむをえないことになり、われらの酒は厳重なる検査の下におかれ、上等は一級、並ものは二級と名づけ、前者のアルコール含量は十六、後者は十五と定められることになった。わずかに一パーセントのアルコール含量を以て上下の区別としたあたりは、芸の細かさを見せたところらしく、当時その任に当った役人の一人の話によると、規格の上のよるべき根拠はそのくらいしかないではないかということであった。日本酒の評価もおちぶれたものである。  清酒のアルコール含量を法律できめるようなことは、日本酒始まって以来なかったことで、風味の上のヴァラエティーなどはこの時に殺されてしまったも同様である。  それよりも一層奇怪なことは、このような無理な圧制が、三十年近くも経た現在でも依然としてまかり通っていることである。しかもその一級とか二級とかいう区別についても、一般の消費者には大変な誤解があるようである。  すべての酒が一応の審査をうけた上で、特級、一級または二級酒とされるものと考えると、これは大まちがいで、自分の製品を特級、一級にしたいと思うメーカーのみが、特別の審査をうけて認定をうけるのであって、全国の酒の大部分、おそらく六、七十パーセントの酒はその審査を希望せず、したがってそれをうけていないのである。そしてそのような酒は、法律上自動的にすべて二級酒と認定される仕組になっていることを知っている人は、おそらく極めて少数であろう。  二級酒は一級酒から落第した品質上劣等な酒ではなくて、ただ審査をうけなかっただけの酒にすぎないのであるから、これはむしろ「無級酒」あるいは「無鑑査酒」あるいは「自由酒」とでもすべきであって、いやしくも二級などと、いかにも劣っているかのような表示は理屈の上からも実におかしい。今までよくこのような不当に甘んじていたものと、メーカーのすなおさにもあきれる。それにもまして、二級酒の本質も知らされずに、無理をして一級、特級を選ばされていた消費者大衆も気の毒なものである。これからは大いに御自分の鑑賞力の自主性を、二級酒の上にも発揮していただきたいものである。  戦争のおかげで日本酒の酒質が一変した原因には、まだそのほかに大ものがひとつひかえている。それは清酒の組成を微量成分に至るまで研究しつくして、それを調合して造る合成清酒(新清酒)という他国に例のない酒が完成されていたためである。それはすでに、ひとかどのくろうとを以て任ずる人たちでも、だまって出されれば清酒と思いこむほどの出来ばえにまで達していた。  西洋にも、ブドウ酒や麦酒でこのようなことを考えた人もあるが、天然物の原料の方がはるかに安価なために伸びなかった。米騒動というような特殊の事情のために日本のみに生れた発明品である。  戦時中の米不足はそれ以上であったから、この合成酒があったために酒の不足は大いに緩和されたわけであるが、それと同時にこの酒が、従来の清酒の製法の上に一大革命を引きおこす原因となった。  それは何かというと、大蔵省醸造試験所で工夫されたいわゆる「三増酒」の誕生である。三増酒というのは詳しくは三倍増醸酒といい、従来の造り方だと米一リットルから清酒が一・五リットルくらいしかできないところを、それにアルコールや合成酒に使われる糖類、アミノ酸、コハク酸などを加えて増量して引きのばして、三リットル近くの清酒を造り出すという方法であって、いわば清酒と合成酒との合の子である。  それ以来現在に至るまで、わが清酒は大部分この製法によって造られることになり、とっくの昔に「戦時は終った」といわれる現在でも、酒だけは、一流の銘柄とされているものでも、三増ほどではなくても、二増、一増の程度をまぬかれないようである。ほんとうに「どこへゆくか、われらのさけ」と言わざるをえない気がする。  もっとも江戸時代にも、「柱」と称して、酒に特別に注意して造った無臭に近い焼酎を加えることは行なわれていたから、酒にアルコールのみを加えるいわゆる「アル添」は、古くから清酒の製法のうちに定着した方法であると見なしてもよいかも知れない。  現在ではスコッチの一流製品も、原酒に十五—三十パーセントくらいのアルコールを加え、水で引きのばしているようであって、その方がむしろ酒味を軽くする効果があるといわれている。  昔イギリスの麦酒工場を訪れた時、麦酒の最後の工程のあたりに、葡萄糖のマークのついた袋がたくさんころがっているので、これは何に使うのかとたずねたら、それは麦酒に甘味を加えるためであるとの答であった。イギリスではこの点案外ルーズのようである。  これに反してドイツでは、なかなか潔癖で、ヴァワリヤでは国内消費用のものには絶対に大麦以外の原料を使ってはならぬことになっている。麦酒の風味の純潔を保つためでもあるが、よくきいて見ると、国産の大麦の価格政策上の目的をねらったもののようでもあった。  麦酒の原料に大麦のほかに、米や澱粉(でんぷん)を加えることは、麦酒の風味を軽くしたり、寿命を長くしたりの効果があるので、ドイツでも輸出用麦酒には「純潔律」は適用していない。  アメリカのある会社のごときは、「うちの麦酒は米を使っているからうまい」というような意味の広告を、大々的にやっているのを見たことがある。日本の麦酒が米や澱粉を大麦の二割以上も使っていることは周知の通りである。  近頃のようにやたらに食品への異物添加が問題にされるようになると、問題は単に着色料や防腐剤などの食品添加物や、残留農薬などに限られない。本質的には、天然食品の中にも有害物質が自然に含まれているものが多いのではないかというところまで発展して行かざるをえない。  天然食品の再検討もアメリカでは着手されているし、日本でも次の問題がそこにあることは皆考えている。そしてこれをつきつめて行くと、結局は、合成酒のように食品の栄養素の成分の純品を調合して造った人工食品が一番安全というところまで行かざるをえまい。  筆者などは、なるべくそんな味気ないことにならないうちに死んでしまいたいものと考えているが、そのうちには、案外正気でそんなことを言い出すものも出ないとは限らない。とにかく日本で生まれた合成酒だけは、この方向で成功した食品の最初であるといってもよいと思う。  そういえば合成酒という酒も、近ごろは迷える羊の中にはいりそうな状態ではなかろうか。理研酒発足当時の大河内博士の大宣言にあるように「理研酒は日本酒にあらず、より衛生的なる現代的天(てん)の美禄(びろく)なり」という、科学時代の人類の新しい飲料であるという気概も、意図もすっかり忘れはてられたのではないかと思う。  数年前に合成酒組合の集まりで卓話を乞われた時に言ったことであるが、科学技術は日進月歩である。現代の諸産業はすべてその上に立って栄枯盛衰をむかえているのである。旧をすて新を取ることに一刻のゆうよをしても直ちに敗者になるのは当然のことである。合成酒は酒ではなく、それら他の企業同様の科学技術の基盤の上に立つ産業である、三十年も五十年も方法をかえない化学工業はいずこにありや。これでは全く眠れる合成酒といわなければなるまい。  現代の科学進歩の花形は、生化学であり分子生物学である。その上に立って生まれてきた合成酒である。現代の合成酒はすべからく「生合成酒」でなければならない。微生物の酵素を縦横に駆使し、原料から製品に至るまですべて純粋な微生物の合理的な使用によって造りうるべきである。もしそのようになれば、三増酒が合成酒の研究で生まれたように、次の清酒業は必ずや再び「生合成酒」に学ぶことになるであろう。というような卓話であったように思う。  およそけんらんたる芸術の花は太平栄華の境に開く。そこまでは行かなくても、わが国民も、そろそろまにあわせのアメリカ文化にあきが来かかって、もっと本質的なものに眼が向き出してもよいころである。  酒は人の飲食の中での最高の芸術品である。われらの酒ももう少し何とかならないものかと考えつくのもあながち懐工合のせいばかりではなかろう。そこへもってきて、大正のはじめや昭和の戦時のような米の不足時代ならいざ知らず、米の過剰を退治しようと、国をあげての減産運動の最中に、酒のみが依然として三増酒体制とは何たることであるかという議論も出てくる。  そのせいでもあるか、数年前から米だけを原料とした昔なつかしい全米の酒が、「無添加酒」などという妙な名のもとに、ボツボツと各地に現われてきた。  ある報道によれば、去年一月の日本酒造組合中央会の調査によると、「全国で八十銘柄にのぼり、その後もふえつづけている。とくに目立つのは埼玉県の十七銘柄、長野県下の十一銘柄などで、逆に大手どころの灘(なだ)、伏見をかかえる兵庫県、京都府は三、四銘柄しかない。つまり地方の中小酒造が、有名銘柄に中身で勝負をいどんでいるといえる」というような形勢であるという。  このような酒に対して、消費者大衆がはたしていかなる反応を示すか。また戦中戦後の二、三十年間を通して、安易な三増酒のみに慣らされ、失礼ながら古いつくり方を忘れかけている全国の酒造庫人や杜氏(とうじ)諸君が、現在の消費者のきびしい要求に対して、はたしていかなる技術上のリヴァイヴァルを示してもらえるものか。不敏なる筆者には全くわからない。  しかしながらこれだけは筆者にもいえると思う。それはわが日本の酒は古い伝統の酒であるから、その酒造技術のうちには数百年間にわたり、われらの祖先によって積み上げられてきた、すぐれた技術やとうとい経験が数多く含まれているはずである。願わくばこのリヴァイヴァルの好機に当って、単に原料を米のみにもどすということではなく、もう一度それらの全体にわたってふりかえってみて、すでに久しくうずもれていた技術をも掘り出すことにより、新しく生まれた技術とあいまって新時代の要求に答えていただきたいものである。  たとえば「どぶろく」の復活は、消費者大衆に忘れ去られた悦びをとりもどすとともに、わが国の酒の消費の上に季節的名物をつくり出すという点で、あるいはウィーンのホイリゲのような観光上の世界的名物にならぬとも限るまい。  また古く室町時代から江戸時代にかけて、古酒が珍重されたにもかかわらず、近頃のように一年以上たった酒は飲めないなどという妙な習慣は一体いつ頃にはじまったことであろうか。同じ米で造り、しかも日本酒よりずっと酒精濃度の低い中国の老酒(ラウジオウ)でさえ、娘の誕生の時に一かめの酒を買って貯蔵すれば、その嫁入りの時に全費用をまかなうことができるといわれるのとは、全く対蹠(たいしよ)的なおかしな話である。  昔から「酒屋万流」という言葉がある。それは日本人の細かくはたらくすぐれた注意力が、酒造の場合にも地方によりメーカーによって、ひとつひとつのテクニックの端にまで微妙な相違を生み、したがって酒質も千差万別であることを意味する。現代の酒についてもそれがいかに流動的であったかということを、明治以来の酒についてお話ししてみたいと思う。まず大すじをたどってみると、明治維新のころわが国には、濁酒(どぶろく)と清酒とが共存していた。両者の割合は県によっていろいろであるが、前者の方が多いところもあったように記憶する。  そして濁酒の方は、室町時代以前、おそらく平安朝のころから、わが国の家庭や酒屋で行なわれてきた「水もと」とか、あるいは「ぼだいもと」とかいわれる一種の安全醸造法によって、春夏秋冬随時随所で造られてきた方法によったものであり、それに対して清酒の方はもとよりそれらの方法に源を発してはいるが、主として江戸時代の初期以来、関西地方で工夫発達した手のこんだ醸造法によるのであって、冬季に適した方法であるから「寒造り」などともいわれ、その代表的なものは灘地方の「生(き)もと」の方法である。  このような状態で明治初年にうけつがれた古来の酒造りは、その後明治四十年前後になって、大蔵省醸造試験所で「生もと」法を合理化した「速醸もと」法が発明され、それ以来わが国の清酒は、この二つの方法、すなわち灘流と大蔵流との二流の酒として並び行なわれて来たのである。  それでは、これらの両法の酒には一体どのような特徴があるか。一言にしていえば、灘流の酒は多少の「くせ」はあるが「こく」があってうま味深く、大蔵流の酒は概して風味淡麗であって、さわやかさに勝(まさ)っているとでもいえようか、その特徴は一長一短である。  これらの二法のほかに、強いていえば、伏見流とか、京流とでもいえる方法で、最後に米と麹(こうじ)を加えて甘口の酒を造る方法があるが、この方法は今では、前の二法に結びついて採用されているようである。  また大蔵流の酒は、さらに一段の工夫を重ねて、いわゆる「吟醸酒」という、従来の酒には見られなかった一種の果実香を放つニュー・タイプの酒を生み出すに至った。この酒は米の精白を極度に高める必要があるので価格が高く、これまでは新潟、大分(おおいた)そのほかわずかのメーカーで市販されるのみであったが、筆者の紹介などがきいたせいか、去年あたりから増加する傾向があるようである。高精白によって、もし全国の酒がすべてこのようになると仮定すれば、おそらく百万石以上の米の消費を上げることにもなろう。  上述の諸流の明治以来の酒の上での消長を見ると、「水もと」流は大正の末年まで尾を引いて消え去り、灘流優位時代から灘流大蔵流併位時代、大蔵流優位時代、合成清酒優位時代を経て、清酒合成清酒結婚時代に入るというような順序で、それにしたがってわが酒質もさまざまに移りかわって来ているのである。  すべて学問にも芸術にも初等と高等とがある。そして初等は大衆に通じ、高等は特殊のクラスに通じる。酒も一種の芸術であるから、その例外ではありえない。しかも奥深いくせに、それを感得し表現する手段に乏しいために、これを正しく鑑賞するには、特別な深い経験と教養とを要する。それ故に、酒には特に大衆酒と高級酒との別が自然に発生する傾向がある。たとえばフランスのブドウ酒に、銘柄酒と大衆酒があり、たとえばボルドー三千軒のうちにも、赤に五軒、白に一軒の大銘柄を許して何人も不思議としない。一般酒は大銘柄の存在によって、そのイメージの向上を達し、高級酒は大衆酒の普及によって、ますますその真価を発揮するからである。  さてこのような酒の両極性を、わが日本酒の場合にあてはめてみるとどういうことになるか。三増酒が大衆酒で全米酒が高級酒であるか、また灘、伏見の酒が高級酒で、その他の地方の酒が大衆酒であるか。必ずしもそうともいえず、いずれにしても何となく釈然としないものがある。  つまりそれというのも、現在の清酒はいわば高級酒なしの大衆酒のみの状態にあるからである。また折角高度の伝統と技術をもちながら、そのすべてを発揮しようとしないからである。戦争がすべての原因とはいわれぬが、酒をこのようにした主犯に相違ない。  これに対する不満は、戦後「青天井価格」の要請によってその第一声があげられている。地上の価格、すなわち最低価格の維持に対する官の統制はやむをえないが、大空の価格、つまり最高の技術をつくした酒の価格に対しては、青天井のごとき無制限をゆるすべきであるというのである。「米の値段が統制で一定されているのに、そのような値開きをゆるしてよいものか」という議論も出た。「同じ値段のカンヴァスと絵具を使ったからといって、筆者の絵とピカソのそれとが同価格でよいものかどうか」というのが返答であった。  しかしながら、このような青天井思想も残念ながら現在の酒にはまだ十分発揮されているようには見えない。  酒は芸術品であり、すぐれた芸術は、それを理解しうるもののみに価値がある。そして高い価を払わずして、良い酒を飲もうというような野望は全くナンセンスでもあるからである。  今の日本の酒は、麦酒に似て、短期間で飲めなくなる程度のところをねらいとした大衆酒である。しかも高級酒をもたぬ大衆酒である。大衆酒は婦人にも、場合によっては“異った人種の人”にも広くアピールする必要がある。したがってヴァラエティーよりは平均性を重んじ、深みよりは口当りを重んじ、特徴よりは平凡をとうとぶ。そしてややもすれば、デリケートな風味を犠牲にしても、価格や生産費の低価のみを第一とする。  そのように言っても、それならば高級なる真の日本酒とはどういう性格のものかといわれると、これに正確に答えうる人はおそらくあるまい。現在の酒質に対する一種の欲求不満と、まぶたの酒としての昔の酒のイメージに対する一種のノスタルジアとの間にさまようストレイシープが、わが清酒のいつわらぬ姿である。  一旦殺された酒である。濁酒も、古酒も、樽酒も、また「ねり酒」の復活も、また合成酒や三増酒、吟醸酒や活性炭酒や「アル添酒」も、すべてはおそらくすぐれた将来の酒への大きな試練の道の一つの階段となろう。われらも、どこへ行くかとただ見まもるだけではなしに、皆で国の誇りの酒を育てて行きたいものである。 (初出=文藝春秋 昭和47年1・2月号) 焼酎——日本の酒の盲点  去年の秋、熊本国税庁鑑定官室長の菅間誠之助博士が「先生珍らしいものが見つかりました」と、一枚の写真を私のところへもって来られた。それを見ると、古いながらもはっきりと文字の書かれた一片の木札の写真である。  この木札は鹿児島県大口市の大口郡山八幡神社が昭和三十四年に改修された時、神社の屋根裏の木にはめこまれていたのを発見したものであり、大口市の酒造組合長川原三善氏がそれを写真にとって、菅間さんに贈られたものであるとのことであった。言い伝えによるとこの八幡神社の建造物は、七百年くらい前に建てられたもので、その後現在に至るまでの間に、四回くらいの改修を経たものであるとのこと、またこの板はおそらく昔の棟木札(むなぎふだ)であったものを、改修の際屋根裏に移されたものと思われるとのことであった。  興味深いのはそれに書かれている文句である。その写真を東大史料編纂所教授の今枝愛真博士にお願いして読んでいただいたところ、およそ次の通りである。 永録(禄)二歳八月十一日   作次郎              鶴田助大郎 其時座主は大キナこすでをち やりて 一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉  と読めるという。これによると、当時その神社の建設に関係した大工か、あるいは施主かが、この棟札をあげる時に、日頃からりんしょくな座主が、一度も焼酎をふるまわなかったことに対するうっぷんの言葉を、棟札に書きこんだもののように想像されるのである。「こす」は「こすい」ということで、新村出先生の辞書によるとそれは「わるがしこい」とか「りんしょく」とかの意味である。  また「座主」というのはどのような人物であったのか。おそらく平安時代の末から室町時代にかけて行われた、公家や社寺を中心とする同業組合的組織である「座」の制度が、この神社にもあって、その座元(ざもと)を指したものではなかったかとも思われる。その地方での有名な神社を今枝先生に調べていただいたところ、古くから大口市大田というところに八幡神社があって、その祭神は神功(じんぐう)皇后で、菱苅氏の祖重妙が建久年間(一一九〇—一一九九)に宇佐八幡を勧請(かんじよう)したものであるとのことであった。問題の大口郡山八幡とこの神社とが同じものであるかどうかはまだたしかめて見ないが、その建立が約七百年前といわれるあたりはよく一致している。また鶴田氏というのは、古く薩摩の地頭(じとう)であった渋谷氏の一族で、宝治二年(一二四八)に渋谷重茂が薩摩郡鶴田を領したのがその起源であり、この札に書かれた鶴田助大郎や作次郎などは、おそらくその一族であろうかとのお説である。  永禄二年という年は、年表によれば、西暦一五五九年すなわち今から四百年前に当り、それは桶狭間(おけはざま)合戦の前年、中国では明の世宗の嘉靖三十八年、西洋ではイギリスのエリザベス女王即位の翌年に当る年である。そしてフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来てわが国に初めてキリスト教を伝えたのは、この年より十年前、またポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのは十六年前のことである。このような時代に、「焼酎」と呼ばれる酒が鹿児島県の一角に、しかも作事の際の大工などの飲みものとして、すでに世間に広まっていたということは、このたびこの木札の発見によって初めてわかったことである。もしこの札がまちがいないものとすれば、酒や食生活の歴史にたずさわる人たちにとっては、極めて貴重な資料である。  筆者はその方面の専門家ではないので、くわしい調べが行きとどかず、全く自信がないのであるが、「焼酎」という言葉は、わが国で始まったものではあるまいかと思う。明の万暦年間に造られた李時珍の大著『本草綱目』(一五七八)は、それまでの中国の本草に関する文献を集大成したものである。それには「焼酒」という酒名があって、これには「火酒」及び「阿剌吉酒」の異名があることがしるされているが、「焼酎」という酒名はどこにも見当らないから、少くとも明の時代までは、中国では存在しなかった酒名であると見るのが至当である。ところが日本の江戸時代の正徳二年(一七一二)、寺島良安によって著わされた『和漢三才図会』には、見出しに「焼酒」とあり、それに「しやうちう」と仮名がついている。そしてその下の右すみの方に、おそらく『綱目』を引いたものであろうか、火酒、阿剌吉酒と書し、後者には「アラキサケ」と仮名がふってある。また同じ見出しの左下の部分にはさらに、「今は焼酎の字を用う、酎は重醸酒の名なり、字義また通ず」とも書かれている。この部分は『三才図会』の著者の記述で、『綱目』にはない解説であるから、焼酎という熟字は『綱目』から『三才図会』に至る百三十年くらいの間に、日本か、あるいは中国かで造り出された言葉ではないかと思う。(大谷惣助氏によれば唐代に焼酒または焼神酎という酒名があることを最近中国で発表されたという)  昨年三月の本誌所載の筆者の泡盛(あわもり)の話に引用した東恩納寛惇氏の論文のうちに、琉球王から江戸幕府への献上品目録中泡盛のことを、はじめは「焼酒」と書かれていたのが、後寛永の頃(一六三六年頃)には「焼酎」という字にかわっていることを指摘されていたようにも思われる。『三才図会』の記述ぶりから見ても、その頃の「しやうちう」という酒には、正式には中国同様に「焼酒」と書かれたが、民間では「焼酎」という書き方も普通に行われていたと見られる。  要するにこのたびの棟木札の発見により、「焼酎」という文字は、正徳に先立つこと百六十年も前に鹿児島県の田舎で、すでに一般に通用していたことが判明したのである。またこの札は李時珍の『本草綱目』の書かれた年より二十年も前に書かれたのであるから、少くともその時代には焼酒に対して焼酎という字は中国にはなかったが、日本ではごく普通に知られていたものと見なければなるまい。  もっとも中国には、「焼酎」という熟語はたとえ無かったとしても、「酎」という酒は古くからあったのである。それについて、手もとにある文献を使っての筆者のしろうと考証を述べてみたい。中国の漢の初め、紀元前四○年頃に書かれた『礼記』に、「猛夏の月に天子酎を飲む」ことが見え、またやはりその少し前に書かれた『史記』にも、その註によると、「正月旦に酒を作り、八月にできあがる酒を酎と名づける」というような酒の造り方まで出ている。ずいぶん醸造期間の長い酒のようである。加藤繁博士訳註の『史記平準書』(岩波文庫)によると、本文に「酎に至りて、少府、金を省(み)る。而して列侯の酎金に坐して侯を失ふ者百余人なり。」とあって、その訳註には「漢代にては毎年八月焼酎成るや之を捧げて宗廟を祭るを例とす。この時諸侯王、列侯は皆な其の封土の大小に照らして一定の黄金を献ぜざるべからず。而して其の黄金の斤両数の如くならず色沢よからざる時は厳酷なる処分を加へき。」と書かれている。  ここで加藤博士は「酎」を「焼酎」と解されているようであるが、筆者はこれには大いに疑問がある。前にあげた明の時代の『本草綱目』には、焼酒、すなわち酒や酒粕を蒸溜して滴露を取って造る酒について、「古法にあらざるなり、元の時よりその法を始創す」と記されている。漢の時代から、しかも朝廷のような公のところで造っていたものであれば、『綱目』ほどの著述に見落としのあろうはずがないと思われる。漢以後の文献にも焼酒のはっきりした記載が見当らないところを見ると、やはり李時珍の元時代創始説をとらざるをえない。  蒸溜の技術はずいぶん古い時代から知られていたらしく、メソポタミヤでは紀元前三千年の遺跡から、縁辺が二重になった壺状の土器が見つかっていて、花や香料からエッセンスを取るに使われたものと推定されているし、紀元前三、四世紀の頃には、ギリシャのアリストテレスやテオフラスツスなどはいろいろな液体を蒸溜したことが文献に残っている。ことに前者は葡萄酒まで蒸溜を試みていながら、溜出液を酒として飲んでみることに気づかず、ただ不純な水くらいにしか思わなかったようである。実際に酒からアルコールを取って、それを飲みものとするようになったのは西洋でも中世以後のことであって、しかも初めは酒としてではなく、薬としての目的に考えられたようである。現在のウイスキーの前身の麦酒の蒸溜酒が始まったのは十二世紀頃といわれているが、一般に普及されるようになったのは、やはり十五世紀から十七世紀にかけてである。コニャックも一六三〇年頃に始まったといわれる。中国では元の前の宋の時代の文献にも、暹羅(シヤム)から入った蒸溜酒についての記載が見られるが、中国での製造は李時珍の元の時から始まるというのが正しく、大体の時代が西洋とも一致している。この新顔の酒はこの時代における全世界を通しての酒界のブームであったかも知れないのである。  さて再び焼酎の話にもどることにして、酎すなわち焼酎、すなわち焼酒、つまり蒸溜酒という間違いは一体どこから起ったことであろうか。今考えられることの一つは、先にあげた『和漢三才図会』の焼酒の説明の文句、すなわち「酎は重醸酒の名なり、字義また通ず」である。重醸酒という酒を蒸溜によって造った酒と思いこんだような記述である。ところが重醸という酒の造り方には蒸溜によるという証拠はどこにも見出されていないようである。この間違いは『三才図会』の寺島良安に始まったことであるか、あるいはそれより以前に、日本ばかりではなく、中国などにもあったことであるか、それともまた重醸という言葉には、もともと蒸溜操作の意味も含まれていたものかどうか、そのようなむつかしい考証になると、筆者の片手間仕事の手に負えそうもないことである。  ただ石橋四郎氏の『和漢酒文献類聚』によると、『古今図書集成』という書物に、元の朱徳潤という人が至正四年(一三四四)に「軋頼機(アラキ)酒」の賦を作らせた時、それを重醸酒と解しているような文意が見えている。もしこれが正しければ、中国の一部にも重醸酒が蒸溜酒であるという解釈があったようにも思われる。また日本での例としては、同じく石橋さんの著書に、「慶長二年版のよだれかけという艸紙に、三重の酒ということもあり、酒を煎じそのいきの雫を受けとめてそれを三度せんじたるをいう」ということが『陶犬新書』という本に出ていることが書かれている。これによると、日本にも『三才図会』以前に同じような解釈が行われていた疑もある。慶長二年(一五九七)といえば、今回の棟木札の書かれた年より四十年ほど後であって、焼酎という名前はすでに広く知られていたはずであるから、そのうちでも特に、蒸溜の回数を重ねて造ったアルコール分の強い酒だけを「三重の酒」というように呼んだものであろうか。とにかく重ねるという字を、蒸溜の意味で使ったことにはまちがいがないようである。それで連想されることは、戦前に広東か香港あたりにも、たしか三重酒と呼ばれる酒があったことが想い出されるが、それが蒸溜酒であったかどうかについては確かでない。  さて再び酎の話にもどることにして、山崎百治博士著『東亜醗酵化学論攷』という書物によると、『説文解字』という後漢の頃に書かれた書物に「酎は三重醸酒なり」とあり、また『通雅』には「酘という、重醸酒なり」「酎と曰い〓というは酘なり、酘は酒を以て重ねて之を投ずるなり、漢の酎酒は三重酒なり」などとあって、先に述べた漢の朝廷の儀式に使われた酎は重醸酒であるという。また酘すなわち酎という酒は「酒を以て重ねて之を投ずるなり」というのは、すでに一応でき上った酒を、重ねて酒を造るのに使う、というような造り方、わかりやすくいえば、水のかわりに酒を使って造る酒、つまり酒を以て酒をかもしたもののように解される。  日本での解釈も、もちろんこの中国の説に従ったものであろうと思われる。たとえば『古事記伝』で、「やまたのおろち」に飲ませた「やしほおりのさけ」の解釈では、先に述べた『説文』の説を引き、また「やしほおり」とは、一度醸熟し、その汁をしぼり取り、その粕をすて、更にその酒を用いて汁となし、また更にこれをかもす、かくの如くすること八度、というようになっている。また『和名鈔』には、酎酒は「つくりかへせるさけ」であって、三重醸酒であると書かれている。その上にその酒のつくり方を、俗語では「そへ(曽比)」ということもつけ加えてある。後に述べるように、現代の日本酒の製法でも、原料を段階的に加えてゆく操作を「添(そえ)」といい、初添、中添、留添(とめぞえ)の三段仕込が常法である。  今の酒にも、例えば、焼酎にもち米と麹とを仕込んで醸造する味醂などは、この造り方に似ている。また上述のように、現在の日本酒の造り方では、先ず米と麹と水と酵母とを混ぜて第一段の醗酵をおこさせ、それが進んで薄い酒になった時、更にその上へ米と麹と水とを仕込んで第二段の醗酵を行い、それが進んで第二段の幾分濃い酒の状態に近づいた時に更に第三段の添加を行うという風にして、酒を以て酒をかもす操作を、次々と積み重ねて行って出来あがるのであって、現代の日本酒もいわば三重酒ともいうべきものである。漢の酎もおそらくこのようにして造られた濃い酒であったであろう。時には四段がけなどといって、更にその上に一段の添加を行うこともあって、今の甘口の酒などはこの方法によっている。  このような酒の造り方は、中国の漢の時代の酎に推察されるばかりではなく、わが国の古代にも行われていたことは、『延喜式』に記されている酒造法からも明らかである。そして酎という酒が当時の他の酒に比べてアルコール分が強かったことは次のようなことからも想像される。今から千五百年くらい前の、中国の北魏の頃に書かれた『斉民要術』という書物は、当時の農業技術を書いた世界でも珍らしい著作であるが、それに酒の造り方も数多くのっている。今、山崎百治博士著『東亜醗酵化学論攷』からの孫引きをゆるしてもらうと、それらの酒の中に酎と名のつく酒が二種類ある。そしてそのアルコール分の強かったことは、次の記事からも想像できる。「酒色は〓油の如くにして甚だ濃厚なり、好く一斗の酒を飲む者も、一・五升を限りとす、三升を飲めば大酔し、それ以上となれば必ず死す。」また「少飲は可なるも多飲すれば死す、毒殺にあらずやと疑わる、必ず量を計り軽々しく飲むなかれ」などである。よく一斗の酒を飲むということは、当時の普通の酒がよほどアルコール分が低かったことを思わせる。今でもビールでは十リットルくらいのレコードは珍らしくない。仮りに今の日本酒くらいのアルコール濃度であれば、なるほど三升以上も短時間に飲めばおそらくは死を招くこともあるであろう。  前にも述べたように蒸溜技術そのものは太古から知られていたこと故、あるいは長い歴史の間に偶発的突発的にそれが酒の上に現われなかったとは言い切れないが、一度おぼえたら忘れられぬという人類の酒に対する執念から考えても、もし重醸に蒸溜技術が含まれていたとすれば、上記の酎のような酒の製法に、「焼」とか「煎」とかの文字の出てこないはずはあるまい。中国では蒸溜酒は今も焼酒と呼ばれ、蒸溜業者は焼鍋ともいう。また白酒(パイジオウ)、白乾(パイカル)というような言葉も見られる。もっとも李白などの詩に見られる唐時代の「白酒」は「にごり酒」であるという説もある。蒸溜に対して焼という字をあてることは、あながち東洋ばかりではなく、たとえばドイツ語ではブラントワイン、すなわち焼酒であり、葡萄酒の焼酒はワインブランドともいう。またコニャックのような果実酒の蒸溜したものをブランデーというのもこれから出た言葉のようである。有名な中国の名酒の高粱酒、汾酒、茅台酒、大酒などはいずれも焼酒であって、ことに貴州の茅台酒は新中国がスコッチウイスキーの向うを張って外貨獲得のチャンピオンに仕立てようとしていることは、筆者も、もとの出口局(貿易局)次長から親しく手紙をもらったので知っているのである。自分の国でできる穀物と、水と、土(瓶)とで貴重な外貨がかせげれば、それ以上の良策はあるまい。  ウイスキーはビールの焼酒であり、ブランデーやコニャックが葡萄酒の焼酒、ラムは甘蔗酒の焼酒であることはごぞんじの通りである。それと同じく日本酒の焼酒は焼酎であり、酒そのものを蒸溜すれば「酒取り」、醪(もろみ)のままで蒸溜すれば「醪取り」、また粕(かす)を蒸溜すれば「粕取り」である。またわが国にはそのほかに、世界に例のない甘藷の焼酒や、沖縄の名酒泡盛がある。  西洋の蒸溜酒がいずれも万金に値する世界の名酒であり、国民の誇りであることに比べると、日本の焼酎の肩身のせまいこと、一体これはどうしたわけであろうか。  古くから使われている言葉や名称には、それによって表現されるはずの正しい意味のほかに、長い間にまつわる連想や因縁のために、その身のまわりに溜まった垢(あか)や体臭のようなものがついて、今さらそれを洗い流して本来の姿にもどすことがなかなかむつかしい場合が少くない。焼酎という名のイメージにもそのようなニュアンスが見られる。読者の多くの方々が焼酎という言葉からうけられる印象は、おそらく庶民の飲む下級な酒とか、またひどい場合にはあまり健康によくない飲物など、あらぬぬれぎぬまで着せられかねない。試みに一流料亭で焼酎を注文して見てもわかることである。そのくせ大衆の飲みものとしても、今の若い人たちには昔ほどの人気はないようである。同じく焼酎仲間のウイスキーやコニャックに対するイメージとは、全く雲泥の差である。これは一体何人の罪であろうか。  その原因の大きなひとつは、これもやはり李時珍の『本草綱目』あたりにさかのぼらなければならない。焼酎の製法などについてのわが国のすべての文献が、どれを見ても李時珍の祖述にすぎないことはすでに述べた通りであるが、その『綱目』という書物は、元来中国の本草学、すなわち医学の書であって、焼酒の人体に対する作用が詳細に述べられている中に、たとえば焼酒に塩を入れて飲めば冷気心痛を止めるとか、焼酒を温めて飲めば、汗が出て陰毒腹痛を止めるとか、そのほかいろいろな効能が書いてある一方に、大毒ありとか、過飲すれば胃を敗(やぶ)り、胆を傷つけ、心を喪い、寿を損ずるとかいうことも述べられている。『和漢三才図会』に限らず、わが国の多くの書物は『綱目』の文章をそのまま引用しているが、特にそのネガチーヴの部分、すなわち、純陽の毒物なり、とか、胃をやぶり胆をそこのうとかの部分ばかりを強調して引用している。益軒の『養生訓』(一七一三)なども「焼酎は大毒あり、多く飲むべからず」など、また『本朝食鑑』(一六九五)にも「濃烈人を害す」など悪い面のみを強く引用している。とかく酒などに対する医者の習性は、昔も今もあまり変りがないようである。これに比べると、このような禍をこうむらなかった西洋のブランデーやウイスキーは実に幸福であったといわざるをえない。それどころではなくフランス語の「オー・ド・ヴィー」はすなわち「命の水」であり、ウイスキーも同義の語源から出ているということである。  江戸時代を通じて、そのようなひどい目にあってきた焼酎は、明治になってからも、政府も業者もこれをまま子あつかいにし、従って消費大衆の人気も下火になるばかりとなった。  もともとわが国の焼酎業者には自から二つの種類があった。そのひとつは、清酒業者の副業としての焼酎であって、「粕取り」の名でも明らかな通り、副産物の粕を蒸溜した焼酎が主体であった。そのほかには腐った酒や醪(もろみ)の処分のためのやむをえない産物としての「酒取り」や「醪取り」である。これに対するもうひとつの業者は、今回の棟木札にも見られるように、九州の南部の地方だけに見られるような、焼酎の製造を専業とする業者である。現在でも鹿児島県などでは、清酒業は全県下に数軒しかなく、酒やといえばすなわち焼酎屋であるというような事実は、一般には珍らしく思われることである。このような専業者は清酒のように米も原料とするが、黍(きび)、粟(あわ)、稗(ひえ)のような雑穀も使い、また甘藷の渡来以後は芋焼酎もさかんになった。芋焼酎が鹿児島県下を中心として盛んになったのは、幕末の領主島津斉彬が特にこれを奨励したことにもよるようである。その目的のひとつは米の節約にあったが、そのほかに、火薬の製造に使うアルコールの生産に利用することが大きな目的であったことは、岩波文庫の『島津斉彬言行録』からも察することができる。また江戸時代からこれらの地方で焼酎のさかんであったことは、有名な橘南谿の『西遊記』の次のような記事からも明らかである。「薩州には焼酒とて琉球の泡盛ようの酒あり、京都の焼酎の如く強からず、国中七、八分は皆この酒にて酒宴することなり……琉球藷も酒に造る、味甚だ美なり、そのほか民家にては黍、粟、稗の類も皆焼酒に造るよしなり」。南方の温暖な気候では、日本酒のような酒は造りにくかったことも一つの原因である。  このように考えてくると、九州の一角こそ当然わが国のスコットランドであり、コニャック地方でなければならない運命を担っているはずである。  日本人を、国産の蒸溜酒を賞美できない「かたわ」ものにしたのは、しかしながら、消費大衆自身の罪でもあるようである。筆者が平素からふしぎにたえないことは、焼酎を蒸溜した新しいままで飲んで、古いものなどは、ともするとかえって嫌うような、他国に例のない珍らしいくせが、何故に、何時の時代に日本人についたものかということである。中国の焼酒類でも、ウイスキーやブランデーでも、五年なり十年なりの熟成を経なければ一人前の飲みものにならないことは周知の通りである。このような熟成の風味に対して、嗜好(しこう)の上では他国に劣らぬと自負している日本人が、全くの盲目で長年の間すごして来たことは全く不可解といわざるをえない。筆者は先年酒造組合中央会長の石川さんの家で、四十年を経たという「粕取り」をふるまわれて、その香りといい味といい、遠く中国の名酒をしのぐものがあるのに愕ろいたことがある。  焼酎と似たような製法の沖縄の泡盛が、名酒といわれるいきさつについては本誌昨年の三月号に述べた通りである。そうはいうものの日本人が古酒の風味に対して全くの盲目ともいえないことは、鹿児島県の一部の焼酎業者が、数年前に五年間熟成の製品を出したところが、これが市場の大評判を博し、そのために従来の十倍近い出荷をするようになったことなどはその好い一例であろう。近頃明るい話である。  さて最後に、今から百年近い前に世界中の蒸溜酒が技術上の一大変革に出あって、品質上にも大きな影響を蒙った話と、わが国の焼酎が同じこの大変革に対して、どのような反応を示したかということを述べて、本稿の終りとしたい。それは蒸溜方法の大革命である。従来の原始的なポット・スチルに対して、精溜装置による連続蒸溜法、つまりパテント・スチルの出現である。それは醗酵液を上から流し込むと、無臭でしかも高濃度のアルコールが、下の方から絶えず流れ出すという方法であって、収量も経費も従来のポット・スチルに比べてけたちがいである。この方法が初めてスコットランド地方に現われたのは一八三〇年前後であって、それ以来一八六〇年頃にかけて、この純アルコールを旧来のポット・スチルの製品に混ぜて出すものが続出して、長らくの伝統を誇ったスコッチの業界にも一大波瀾をまき起こすことになった。そして旧来の純品と、新顔の混和製品との間の闘争は、ついに有名なウイスキー裁判にまで進展することになった。その後も業界の複雑な曲折を経たが、結局は混和製品も本物のスコッチと認められることになり、今ではスコッチのどの銘柄品でもすべてアルコールの混和を見ないものはなく、むしろストレートのポット・スチルは原酒あつかいにされて、単独の独立した商品としては一般の嗜好に適しないというような事態に立ち至っているのである。とはいうものの流石(さすが)はスコッチであって、このようなブレンドの製品でも、貯蔵熟成の効果はあくまで認識し、尊重されている点は、スコッチの世界的名声の変らない秘訣とも見られ、残念ながらわが焼酎の遠く及びがたいところである。  ところで、わが国へこのパテント・スチルがはじめて導入されたのは明治三十五年前後のことである。この強力な大敵の出現に対して、わが焼酎界のとった態度は、スコッチの場合とはちょっと変っているのである。おそらく旧来の焼酎があまり高く評価されていなかったことも原因の一つであろうか、わが国でもイギリスのように、これを在来の品に混和することも一部では行われたけれども、それよりはむしろこの純アルコールをそのまま水でうすめて三十なり二十パーセントなりにしたものが甲類焼酎と称して独立に広く市販されたのである。これに対し在来の焼酎は税法上乙類焼酎として幾分税金を安くはしてもらったものの、新法の大規模な能率のよさと、大資本の力とに圧倒された結果、次第に下降の一途をたどるような事態に陥ってしまったのである。つまり旧来の焼酎と、別に新しく生れた新式焼酎との、このようなふしぎな焼酎の二筋道が現在の日本の焼酎業界を二分しているのである。もとよりアルコール自体は独特の風味をもっているのであるから、甲類焼酎のような純粋なアルコールとしての製品も、ソ連のウオッカをはじめ北欧のシュナプスなど世界の多くの国々がもっている国民的飲料であって、わが国でも近来は「ホワイト・リカー」などの愛称の下に、国民生活に定着して来たものである。おそらく科学時代の新しいアルコール飲料として将来も盛行するものであろう。そしてその消費形態としては、単独に飲まれるばかりでなく、ドイツではビールの前後、他の諸国では、トマトなどの果汁、ミルク、カルピス、コカコーラなどとの混用が、若い人たちの間の流行ともなっているという話である。またわが国独特の方法としては、例の梅酒にはじまった家庭でつくる果実の酒の原料にも強く進出して来たのである。  これを要するに、わが国には現在次のような四種の焼酎があるといってよい。すなわち第一、粕取り、酒取りまたは醪取りのような清酒の焼酎、第二、雑穀を原料とするグレーン焼酎、第三、甘藷を原料とする芋焼酎すなわち、バタタス焼酎、それに第四の奄美大島や沖縄の黒糖や糖蜜でつくるシュガー焼酎すなわち古来のジャパニーズラムである。その種類に富むことは他にその比を見ない。これを愛し育てて、焼酎、泡盛や粕取りは申すまでもなく、鹿児島の芋焼酎、米製焼酎、熊本県の球磨(くま)焼酎などまで、一段の醇化と熟成の研究によって、スコッチやコニャックに劣らないわが国の名酒を育てあげるよう、わが焼酎ファンに広くお願いしたいのである。昨年の万国博に、友人のミュンヘン醸造試験場長クレーベル博士が夫人同伴で来訪した時、日本には甘藷で造る珍らしい蒸溜酒のあることを話したところ、その後鹿児島まではるばる飲みに出かけたという通知をうけた。またかつて筆者の関係していた東大応用微生物研究所に一年間ヴィジチング・プロフェッサーとして講座を担任していただいたコロンビヤ大学のライアン教授が、無類の球磨焼酎ファンであって、研究室の実験台のわきには、いつも一瓶がそなえてあったことなども思い出されるのである。われら日本人も、もう一度この古い歴史と伝統とをもつわれらの焼酎を見直そうではないか。 (初出=世界 昭和46年2月号) 君知るや名酒泡盛  島国——日本本土もそうであるが、とくに沖縄のように小さな島国——の場合には、文化は海によって運ばれ、また海によって隔離される。そして運ばれる場合には、文化の類似化や平均化が行われるとともに、交配による雑種強勢の力が作用して、大きな精華が発揚される。また隔離される場合には、古い固有の文化の保持に役立つばかりでなく、自発的の発明作用がはたらいて、その住民独自の体質に基く文化の特異性が生まれる。このような文化の交流と隔離との二つの作用は、自然の異変や、政治経済上の変革によって、時によりその作用力がどちらかの一方へ強調される。沖縄の長い歴史の経過をみても、その例証は多々ある。  しかしながら、広い眼から眺めれば、国々の間の文化の関係は、あらゆる面を通じて限りなく微少な変差の連続から成立っているから、特定の地域における自然発生的な特異性や、截然たる不連続性や断絶などというものは、きわめて稀であることもまた認めねばなるまい。筆者はもともと沖縄、およびその歴史についての知識は全くの素人であるけれども、上に述べたような考え方をしてみると、沖縄県民は長い歴史を通じて、日本と中国と南方諸国との間に立って、流通と隔離との波に揺られながら、それらの影響の下に自らの体質に基くユニークな文化を築き上げることに成功したとともに、それらの文化との間に微妙な連続性を保っているものと考えられる。そしてそのような傾向は、文化の一端の食生活の、そのまた一角にすぎない泡盛という酒の上にも、明らかにうかがうことができることはまことに興味が深い。また泡盛について専門の立場から特に筆者を引きつけたのは、泡盛の製造に使われている黒麹菌というカビの世界で、ただ沖縄だけに発生した利用の道である。ここではそのような視点から、泡盛について思いついたことを述べてみたい。  泡盛は古くから沖縄で育った名酒で、糖業についでの大きな産業である。最近の年産額は三万五千石内外といわれ、そのうち三千石くらいが本土へ出されている。沖縄の人口を九十八万とすれば一人当りの年消費量は三升を越えるから、アルコールに換算すれば、本土の人たちの清酒よりよほど多くなる。戦前も二—三万石の生産があって、その約三分の一は、毎年、東京、大阪、福岡など、本土へ移入されていた。読者の中には、東京の場末の横丁などに柿色ののれんが下がり、店前には縄の網で巻いた褐色の堅じめの素焼の瓶が埃にまみれてころがっている飲み屋の縄のれんをくぐった懐しい思い出をもたれる方もあろうかと思う。労働者の飲みものといわれた一方に、妙にインテリ層にファンの少なくなかったのは、やはりその独特の風味が、人を引きつけるものをもっていたためであろうと思う。  江戸時代に薩摩を経て入って来た泡盛は、幕府への献上品として貴ばれたばかりでなく、市価も本土の焼酎に比べて二—三倍に近く、薬用にも供された高貴な酒であった。その頃の本土の焼酎は、酒粕を蒸溜してつくる「粕取り」が主であったから、近頃の無臭の焼酎(ホワイト・リカー)とはちがって、特有の濃い風味があったはずである。またその頃の焼酎と泡盛との差は、風味のちがいばかりではなく、アルコール濃度は泡盛の方が強かったことが、多くの文献から想像できる。蒸溜酒はアルコール濃度が高いほどあま味が強くなるのがふつうである。化学構造のよからも、アルコールは糖やグリセリンなどと同類であるからそれは当然であろう。「手があがる」などという言葉は、酒量がふえることにもいうが、実は蒸溜酒の高い濃度の方へ移り勝ちなことをいうのである。  明治十四年にアトキンソンという英人の東大教授が発表した酒の分析の中に当時の泡盛と焼酎があるが、これから江戸時代の度数の強さをうかがうことができる。それによると泡盛のアルコール度数(容量パーセント)四十四度に対し、焼酎の「五升取り」が三十二度、「二升五合取り」が四十九度となっている。元禄以来江戸の焼酎は酒粕十貫から四—五升の溜液を取る習わしであったから、泡盛はふつうの焼酎に比べればたしかに濃かったわけである。「二升五合取り」というのは、初溜の濃い部分のみを取ったもので特別のものである。泡盛製造の際の特殊な蒸溜技術が、高いアルコール濃度と固有の風味とを生んだことはまちがいない。もっとも蒸溜器がある程度不完全の方が、悪い臭の成分を蒸散させる作用のあることも忘れてはならない。  今の泡盛は本土の焼酎と同じく三十五度のものもあるが、四十—四十五度のものもあって、その方が歓迎されている。しかしそのほかに泡盛には、本土の酒には見られない熟成(老化)という秘術が加えられて、これが古来多くのファンを生み出した主な原因であるが、それについては後に述べることとしたい。  明の嘉靖十三年、わが天文三年(一五三四)に、明から琉球への冊封使陳侃の書いた見聞記に「王酒を奉じて勧む、清くして烈し、暹羅(シヤム)より来る、醸(つくりかた)中国の露酒なり」とある。これによると十六世紀初め頃に琉球で造られた酒は、その製法が暹羅(シヤム)(タイ国)から伝えられ、中国の露酒、すなわち高粱酒とか白酒(パイジオウ)とか汾酒(フエンジオウ)とか大酒(だいきよくしゆ)とか、茅台酒(マオタイジオウ)とかいわれる中国の蒸溜酒とも同じ製法であるといわれる。  ところが、それから二百年近く後の享保四年(一七一九)の日本の新井白石の『南島誌』には、泡盛の製法について「滴露の方、始め外国より伝はる、色味清くして淡、これを久しうして壊(え)せず、よく人をして酔はしめ易すし、使琉球録に暹羅より出づといふも亦非なり、造法は暹羅と同じからず、米を蒸して麹を和し各分剤あり、すべからく水を下すべからず、封醸して成る、甑(こしき)を以て蒸してその滴露をとる、泡の如きものを甕中にもり、密封七年にして之を用ふ、首里醸すところのもの最上品とす」とある。  この二つの文献を比べて見て、一番注目に価するのは、白石の当時の泡盛が、麹、すなわち日本酒の製法によっているのに対して陳侃の言を文字通りにとれば、白石より二百年前の泡盛はタイ国の製法すなわち中国の製法をそのまま伝えたものであるという点である。そのことについては、そのほかにもちょっと気にかかる文句がある。それは「すべからく水を下すべからず」ということである。日本酒は太古は麹と水、その後は麹と米と水をまぜて、醗酵させて造るのであって、水は必ず加えて来た。もし水を下すべからずが、麹と蒸米だけで水を加えずに醗酵させていたという意味であれば、このところだけは日本酒造にない、中国の法でなければならない。例えば中国の蒸溜酒の代表的な高粱酒の製法では、蒸した高粱と餅麹のみをまぜ、水を加えず半固形のまま、土窖の内に埋蔵、土で上を密封し、醗酵が終った時に掘り出して蒸溜して製するのが古来の法である。『南島誌』の「封醸して成る」というその次の文句とも考えあわせると、どのように解してよいものか、白石の時代の泡盛製法は、麹は日本式だが醗酵は中国式と文字通りに解してよいものか、水の欠乏し勝ちな沖縄のことも考えあわせると、あるいは中国とは無関係の発明か、とにかく気にかかる一文ではある。  明治以来の泡盛造りには、もちろん麹の十倍くらいの水を加えている。むしろ麹だけで米そのものをあまり加えないのが普通である。このことは、おそらく奈良朝以前、日本酒発祥の頃の製法に相通ずることであって、沖縄の文化のうちには、本土の大昔のものがいろいろと遺されているといわれることとも、あるいは相通ずることかも知れない。  東恩納寛惇氏の論文「泡盛雑考」によれば、昭和八年頃に氏がタイ国を訪れられた時の記事として「泡盛は暹羅(シヤム)酒なり」とせられ、「私が先年シャムに行った時に、偶然シャム国産のラオ・ロンという酒を嘗味する機会を得たが、その香気といい風味といい、泡盛と全然同一であるのに驚いた。私はその見本を一罎首里の酒造組合事務所に送って鑑定して貰ったところ、泡盛と似ているばかりでなく、むしろ古酒(筆者註、泡盛の古い酒)に匹敵する風味があると折紙をつけてくれた。ラオ・ロンという名もシャム語で焼酒の意味である」  さらに「シャム酒の製法」については、「国立醸造所を参観したが大体の組織は琉球の首里三箇辺の酒家と同一で、地面に埋けられたモロミ壺の具合ランビキの形式等も大略同様である。……蒸(ふ)かした米を上げて適度に水を割りモロミ壺に納め、壺一個毎に白い麹の餅を一個ずつ入れる。星槎勝覧に『以米和薬丸乾、持入甕中』とあるのはこの麹餅に違いない。……こうして造ったミキをランビキにかけて蒸溜した」ものであるという。 「白い麹の餅」といわれているものは、実は中国では酒薬、南方では広くラギーという名で呼ばれている、古来から中国およびその周辺の諸国、朝鮮から遠く南方諸国に至る国々の酒造りのかなめに当る方法であって、新井白石の書いた日本の麹とは全くちがった形のものである。この意味ではラオ・ロンは中国系の酒であり、泡盛は日本系の酒であって、はっきりと区別がつくので、少なくとも現在の泡盛は、白石と同様に「暹羅より出づといふも亦非なり」といわざるをえない。そうはいうものの、それより二百年前の陳侃の時の泡盛の製法が、「醸(つくりかた)は中国の露酒」の通りでなかったとは言いきれないのである。なぜなれば二百年間の琉球の歴史が中国法を日本法にぬりかえたかも知れないからである。  昭和六、七年頃の日本は、朝鮮や台湾からの米の移入も手伝って、現時と同様の米過剰になやんでいた。焼いて炭を造ろうか、あるいは品川の海にすてようかなどの珍案さえ出たが、政府はあわてて、農林省に米穀利用研究所を新設して、食糧以外への米の利用の道を研究するとともに、大学などの研究機関を動員してこれを助けることにした。この研究所は、後年米が足りない時代になって、現在の農林省食糧研究所に看板を塗りかえることになったが、その仕事を筆者が仰せつかったのも今から思えば奇縁である。それはとにかくとして、当時大学にいた筆者に割り当てられた仕事の一つは、過剰の米を用いて、インド、マレー、ジャワ、シャム、インドシナ、セイロンなどに渡って広く造られているアラック(またはラキ)という酒を造って輸出するための研究である。アラックという酒は、古くからそれらの地方に行き渡っている米の焼酎で、穀類で造るヨーロッパのウイスキーやジンやシュナプスの類、葡萄酒でつくるブランデー、砂糖きびで造る中米のラムの三大名酒と同様に世界的に知れ渡った酒で、江戸時代の初期からわが国でも「南蛮酒」として陳陀の酒などと並び称されて珍重されたアラキ(荒木、阿剌吉、軋頼機)の酒がこれである。わが国の焼酎や泡盛なども広い意味の言葉でいえば、アラキの一種である。『和漢三才図会』にも焼酒(しやうちう)の別名を阿剌吉酒(アラキサケ)としていることでもわかる。数年前に焼酎組合から、焼酎という名前は、何となく低い酒のようなイメージを一般にあたえているのでイメージアップのために、何か他の名を考えてくれないかという依頼があったので、筆者は即座に「アラック」にしたらと提案したのであるが、残念ながらこの由緒あり、しかも世界的に古くから通用している名酒の名が採用されるに至らず、ホワイト・リカーなどという、えたいの知れない俗な名前になってしまった。焼酎を海外に輸出するにはアラックの名が一番有力であると思ったのであるが。  泡盛や日本の焼酎をも含めて、世界中の蒸溜酒を見渡すと、ブランデーやラムは別として、穀物でつくる蒸溜酒を大別すると、いわゆる麦芽酒文化圏に属するビールを蒸溜したウイスキーなどと、カビ酒文化圏に属する中国の焼酒類、アラック、日本焼酎そして泡盛酒の二群となる。そして、前記したような中国の主な焼酒類はすべて米以外の雑穀を原料とするに対して、アラックは専ら米のみを原料とする点に特徴がある。そして両文化圏の接触点においては、中間文化ではなく、両法の混合文化圏的状態を呈しているのである。カビ酒文化の勢力は昔は遠くイランの地方まで拡がっていたらしく、インドの古いお経などにも、カビの酒の文献が見られるが、現在は大分後退して、マレー、インドネシヤの線を守っているように見うけられる。  またアラックのような蒸溜酒が東亜の地に広まった年代については、いずれの文献も李時珍の『本草綱目』(一五九〇)による中国の元の時代説を引用している。欧亜両大陸にまたがった大版図の内部の交流が、紀元前三—五千年前からメソポタミヤやエジプトに行われたといわれる香料や花露の蒸溜技術がその後錬金術の時代を通じて発達したいわゆるアランビック(ランビキ)の技術の普及を将来したものであろう。  そこで泡盛の話にもどるわけであるが、一言にしていえば、泡盛はこのような酒文化圏の一角に属し、従ってある点ではその文化圏内の酒としての共通の要素を備えてはいるが、また他の一面において、製法上の重要な点で、極めてユニークな特徴をもっているのであって、沖縄県民の優れた資性に基くものといわざるをえない。そしてその中心点は後述する黒麹菌育成の問題である。  カビを酒造に使う国々の間には明らかに二つの道がある。それを筆者の説によれば粉食の地帯では、穀物を砕いて水で固めたものにカビを生やした、いわゆる餅麹を使い、粒食の地帯では穀粒のままを蒸した、つまり飯(めし)にカビを生やした、いわゆるバラ麹の形をとるということである。そして前者が中国式酒造の根幹であり、後者はわが日本式酒造の根幹である。先に述べたタイやマレー、インドネシヤなどはいうまでもなく、沖縄と一衣帯水の台湾でさえ戦前までは白(ペイカー)という米で造った餅麹の一種で、その国民飲料の米酒(ビイチユウ)(米の焼酎)を造っていたことは周知の通りである。それに対して沖縄の泡盛は、陳侃の書いた明の時代はいざ知らず、新井白石以後に於ては、純日本式のバラ麹によっているのである。  すなわちカビ文化圏の中では日本本土と沖縄のみがバラ麹、他はすべて中国系餅麹を使って来たのである。このような酒造上重要な製麹型式を転換することの容易でないことについてはわが国でも、終戦直後酒の無かった頃、朝鮮部落で「かすとり」の密造が行われ、外部に広く流されたことがあるが、その際に朝鮮の人たちは、わが国には、簡単に造れて、しかも強力なバラ麹の法があるにもかかわらず、海路と検閲の危険をおかして、麦粉で造った〓(きよく)と称する中国系の朝鮮麹をわざわざ朝鮮から密輸入していた実例を見ても、固定した伝統的な技術がいかに変換交流の容易ならざるものであるかが知られると思う。  中国系の餅麹と日本系のバラ麹はその製法も全く異なるが、それに生える主要なカビの種類も全く異なっていて、中国系は「くものすかび」といって、一見うすよごれた蜘蛛の巣のようなカビであり、日本系は黄緑色の砂を布いたような美しいカビである。  これらの主要なカビは、それぞれ一千年以上の長い年月の間に、餅麹造りなり、バラ麹造りなりという、その地域の人たちが考え出した製造型式という一定の環境の中で適者優先の原理のもとに多くの野生の雑菌をしのいで、自然と優勢に育てられてきたカビであって、いわば野生植物に対する栽培植物のような関係にある一種の「栽培カビ」ともいうべきものである。その成立は決して一朝一夕のものではなく、またそれはお互いに相類似した無数の変種を包有した一大菌群から成っていて、祖先伝来のカビの貴重な一大宝庫ともいうべきものである。  ところがここでふしぎなことには、泡盛麹は、麹造りの型式は日本式のバラ麹でありながら、現にそこに生えているカビは黄緑色の日本の麹菌とは全く別種に属する真っ黒い、いわゆる黒カビであって、黒麹菌または泡盛麹菌といわれる種類なのである。  一体どういうわけで、また何時の時代に、このような大異変が発生したのであるか。それはおそらく日本酒造りと同じような型式の麹造りが、いつの頃からか沖縄で行われているうちに、気候風土の影響で型式は同じでも内容はすっかり変わって、自然に黒カビの方が黄カビを打ち負かして優勢を占めたものであるか、あるいは沖縄の泡盛造りの人のうちにたまたま黒麹菌の生えた麹の方が、より良質の泡盛のできることを発見して、これを助長したのであるか。私は後者の方が主な力であったろうと考えたいが、おそらくは両方の作用が結びあった結果であると見た方がよいかも知れない。  現に戦前に私らの行った泡盛麹の調査では、泡盛麹に生えているカビは決して黒麹菌のみではなく、日本酒の黄麹菌が必ず混合して生えていて、メーカーによっては、その割合が極めて多いものも少なくなかったことからもうなずかれるのである。そしてこのようなメーカーはまだ日本酒式を脱し切れない段階と解釈することもできるかも知れない。黒麹菌は、クエン酸というオレンジやみかんの酸と同じ酸を造る力が大変強く、その酸のために雑菌が負かされて生えて来ないという特性があるので、酒造りの困難な南方の温暖な地方で使うカビとしては、まことにうってつけの性格を備えている。  中国は申すまでもなく、ヴェトナム、マレー、インドネシヤのような暖地でも、ラギーという中国の麹と同じ製法のサイコロ型の餅麹を使っていて、このような便利な黒麹を使うことを発明できなかったのは、まことにふしぎである。沖縄人がこのような中国にも本土にもない、ユニークな方法を育てあげたということは全くその優れた科学力によることであろうと信ずるのである。  さてこのくらい長い前置きを述べさせてもらうと、次には私自身と泡盛との因縁を語る段階に入ることができると思われる。話は今から三十数年前の昭和五年頃のことである。前に述べたように黒麹菌を使っている地域は、当時も今と同様に、沖縄の泡盛、鹿児島県南部や八丈島の芋焼酎などであったが、その頃にはすでに本土の鹿児島県や八丈島の芋焼酎醸造家の全部が、在来の自然に育った黒麹菌で麹を造ることをやめて、特別に選んだ一種または二種の黒麹菌を純粋に培養したものを「たね」に使って麹を造るようになってしまったのである。昔から祖先が苦心して育てあげた数十、数百の変種を含んだ貴重な黒麹菌群を捨て去って、単なる個人研究者の判断による特定の一種のみを使うという大胆なる独断が酒質の上に結局いかなる影響を招来するかは、歴史のみが語る資格があるだけであろうが、とにかく結果において、黒麹菌の大宝庫は今や沖縄にのみ保存されて、それもいつ何ん時に本土のような状態にならないとも限らないというのが、昭和五年頃の形勢であった。  そこで、今のうちに集められる限りの菌種を泡盛麹のうちから分離しておかないと、カビ利用の学問を進めていくためにとりかえしのつかないことになると感じ、当時研究室にいた九大出の森貞信君を同伴して南方に向ったのは同じ年の秋も末の頃であった。私は大学の勤務の都合で鹿児島での採集を、そして森君は沖縄と奄美大島と八丈島とを受持つことにした。とにかくそれらの地方のメーカーの工場を一軒一軒訪れて採集して歩くことにしたので、その手数は容易ではなかった。ことに本土の方は前述の通り純粋種に統一されていたので、なるべく昔の「主(ぬし)」を採集するため工場内外の土などに採集の主力をおいた。それは、昔に散らばったカビの迷子を探し出すような苦労でもあったのである。  そして、結局鹿児島県と宮崎県の一部の焼酎工場六十六、沖縄県は六十八、八丈島は五工場を歩いたこととなった。沖縄県での泡盛工場の大部分は首里と那覇の一角に密集して所在し、前者では四十工場、後者では十四工場、その他島尻、国頭など七工場で、離島として採集した工場は北大東島一工場であった。そのうちから純粋に分離した黒麹菌株約千株、それを整理して結局約二百株となった。これらの菌は今でも東大その他に保存され、そのうちの幾分は海外の研究所にも渡っていろんな研究に役立っている。終戦直後渡欧の際、給油のため沖縄本島の上空を飛んで、これらの世界唯一の黒麹菌の大宝庫である泡盛工場のあったところが、一望の焼野原となってしまったのを眺めた時、微力ながらかつての採集のことが想起されて無念でもあり、感慨まことに深いものがあった。 たまきはる命をこめし戦車はも 赤さびはてて荒磯に立つ  (一九五一年十月二十日正午那覇空港にて)  この珍しい黒麹菌の分類学上の研究史には、ちょっと風変わりなエピソードがあるので、ついでに御紹介することにしたい。明治初年に東京大学の化学の御雇教師として来朝した外人化学者のコルシェルトもアトキンソンも、研究対象として第一に着目したのは、いずれも日本固有の醗酵工業である清酒醸造であった。そこへ清酒の研究から出た高峰譲吉博士のタカジアスターゼのような世界的発明が相次いだので、わが新進気鋭の化学工業学者の間に一時の研究ブームを巻きおこしたのである。すなわちアトキンソンの後をうけた東大応用化学の初代教授の川喜多能達教授の下に集った宇佐美桂一郎、田中芳雄、喜多源逸などの諸先生たちも、相競ってカビや酵素の問題ととりくまれたが、中でも宇佐美桂一郎さんは、第一着に沖縄泡盛の黒麹菌に着眼して、明治三十一年東大工学部紀要の一巻一号に、二種の黒麹菌の記載を発表した。  それと同じ年に理学部の乾環氏もまた泡盛麹菌の分類を発表し学名をアスペルギルス・リューキューエンシスと命名された。宇佐美さんは、その研究したカビに学名をつけられなかったが、そのうちの一株は、リューキューエンシスと同一の種類であることを述べられておる。  ところがそれから十年後の明治四十四年に当時台湾総督府中央研究所におられた中沢亮治博士は、泡盛の黒麹菌を研究して、アスペルギルス・アワモリとアウレウスとの二種を命名され、しかも乾さんのリューキューエンシスは重要な形質の上で観察のまちがいがあって実際に存在しないカビであるから、分類上から抹殺すべきであるという重大意見を発表されたのである。その重要な形質というのは、元来アスペルギルスというカビの分生胞子のつき方に図に示すような二通りがあるのであるが、乾さんは黒麹菌は単列であると記されているのに対し、中沢さんは複列であると主張されたのである。これが事実ならば、カビ分類上の重大問題に相違ない。そしてこの問題は長い間の学界の問題として残されていたのである。  ところが筆者の前記の研究では、その二百余株のコレクションのうちに、完全に複列のものもあるが、単複を混有しているものも少なくなく、中には単列の割合が多いのではないかと思われるものも発見された。その上、かつて乾さんが分離されたといわれる菌株を国内国外の研究所から取りよせて調べて見たところ、筆者の見解を裏書きするような事実を多く発見したので、乾さんのリューキューエンシスはそのまま実在の菌種と認めることにしたのである。しかし、多少訂正を要する点もあったので、この種のカビは乾さんのお名前をとって新にアスペルギルス・イヌイと命名させていただくことにした。これらの菌種のほか八丈島でも、昔琉球から伝来した黒麹菌を使って芋焼酎を造っているが、その菌については阪大工学部の斎藤賢道博士が明治四十年に研究して、これに甘藷の名を取って、アスペルギルス・バタテーと命名されている。筆者の調査では、あのように骨を折ったにもかかわらず、沖縄の黒麹からは、これと同種のものを唯の一株も見出すことができなかったが、やっと八丈島の焼酎工場のまわりの畑の土の中から、全く同一の種類を分離することができた。菌の迷子さがしのヤマがみごとに当ったわけである。  さてこの辺りで、泡盛という酒の製法をザッとお話しておく方が、あとの話を理解していただくのに好都合と思う。戦後の泡盛の製法は、本土の焼酎造りの強い影響をうけて大分変わっているので、戦前までの伝統的製法について述べたい。これには昭和十年熊本税務監督局編(川崎義徳)『泡盛醸造の調査』というよくまとまった著書がある。それによると、米を水につけて蒸したものに、麹のたねを混ぜ、麹室に入れ、麹ができた時、これを水とともに、土に埋めた「かめ」に仕込み、夏は十日冬は二十日くらいで醗酵が終るから、それを蒸溜器にかけて蒸溜する。蒸溜器は錫(すず)製蛇管式の簡単なもので、昔は桶の上に垂れ鍋という冷却器をのせて、そこに溜まる露、すなわちアルコール分をあつめ取るしかけを用いた。溜分はアルコール度五十—四十パーセントくらいの、ウイスキーやブランデーに近い濃度であった。これがすなわち泡盛であって、そのまま市販もされるが、本格的のものは、これを陶製の壺に入れて貯蔵熟成させるのである。新井白石の『南島誌』に「密封七年にしてこれを用ふ、首里醸すところのものを最上品とす」とあって、七年くらいで熟するというあたりは、今のウイスキーなどの及ばない先輩である。もちろん、それ以上古いものほど貴しとする。戦前には「康煕もの」などといって、二百年の古酒(クース)を誇る家格の高いメーカーもあったが、戦中に多く失われ、疎開によって助かったものが僅かに残っているにすぎないという。惜しいことである。泡盛が日本の酒類と一番ちがう点は、長期間の貯蔵によって生ずる熟成し調和した風味を貴ぶところにある。  周知の通り江戸以来の日本酒は、昔は年中造っていたものを、寒造りのみにしぼられて、その結果、春できた新酒が土用を越して新秋九月頃にいわゆる「冷やおろし」などといって、火入れをしないままの酒をとり出す頃を一番の飲み頃とするのを頂点として、お正月を越すと酒はもはや「古酒」と呼ばれて香味が次第に落ちてゆくとされて来た。  言葉をかえていえば、日本酒の寿命はふつう一年きりである。焼酎のような蒸溜酒でさえ日本では出来たてを飲用しておって古い熟成味のよさなどについては全くといってよいほど無関心である。葡萄酒でもウイスキーでも、または同じく米でつくった中国の老酒でも古酒の風味を賞美するのが世界中の酒に共通した傾向であるのに比べると、全く珍しい国民性である。  昨年の春長野県佐久市(*注)の大沢という古い酒屋さんが、元禄年間に先祖が造った酒を蔵の中で発見したといって持参された。うるしで封じた木の栓を開いたところ、何ともいえないふくいくたる香気がたちまち室に満ちた。味わって見るとその風味は、先年スペインのシェリーの産地で見せられた百年もののシェリーと全く同一の感がした。醸造試験所で分析してもらったところ、アルコールが二十四パーセントもあった。その時代の酒が今の酒に比べて特にアルコール含量が高かったとは思われないが、その酒が白い瓢箪(ひようたん)形の古伊万里の徳利に入れてあったので、陶器の微細な孔を通じて長い間に蒸散する水の量が分子量の大きなアルコールの量に比べて多いためにアルコールが濃縮された結果になったのである。  元禄時代には日本でも、三—九年の古酒を貴び、しかもそれには樽を使わず、陶製の「かめ」や「つぼ」を使って熟成させたことは古書にも見えているが、このたびその実物が現われたことは、何といっても貴重な発見である。  泡盛の貯蔵法にはそのほかにも面白い工夫が行われていた。それは、いま仮りに百年の古酒を持っているメーカーがあり、その百年ものを一杯取りだしたとすると、その減っただけの量は必ず次の、例えば九十年もののうちから一杯取り出して補てんする。このようにして次々に新しいものから移しておくのである。  酒の貯蔵でこれと同じようなやり方をするのは、スペインのシェリーである。東西遠くはなれた国の間に、このような珍しい一致が見られることは、好事家でなくともちょっとこじつけて見たくもなる。このように古酒を貴ぶという習性は、日本本土から伝わったとは考えられない。あるいは中国から伝来したか、沖縄人の自らの発明かであろう。  また泡盛の熟成には、沖縄の土で焼いた「かめ」や「とくり」が効果的である。長い貯蔵には南方から渡来した「南蛮焼」のかめが珍重された。古伊万里の「とくり」を使った前述の大沢さんの三百年前の古酒の話と思いあわされて興味が深い。壺屋という地名は、現在の那覇市で、昔の那覇と首里との間にあって、陶業家の集まっている所である。壺屋は、鹿児島県では、陶業家の通称であるが、江戸時代の初期に薩摩から陶業家が渡って、沖縄の窯業に新生面を開いたという話もあるから、あるいは、この地名もそのようなところから来たものかもしれない。現在の壺屋では、施釉した白色の陶器や、比較的火度高く焼きしめた褐色の無釉のものがあって、泡盛には後者が使われている。  山里永吉氏著『壺中天地』には沖縄の焼物と泡盛との関係について次のように記されている。 「泡盛壺の製法は、今から五百年前泡盛の製法とともに、シャムから読谷山長浜あたりに上陸して、まず喜納に最初の窯が築かれたのではないだろうか。その窯がのち、美里の知花に移り、それから二百八十年前に現在の壺屋に移ったと、私は推定している。……現在壺屋で焼いている粗焼(あらやき)と称する南蛮壺は知花焼とはまったく違う。一種の素焼で、土も違うがだいいち火度が弱いために肌が赤く焼造が粗雑である。」また貯蔵容器については、「古酒を貯蔵する容器も必ず南蛮壺ときまっていて、従って古い南蛮壺はそれだけ貴重であった。もっとも私が調べたところでは、南蛮壺にもいろいろあって、正真の南蛮壺以外に、知花焼もあれば、九州らしい壺もあり、シナ製の壺もあった。……悪いのはシナ製で、これはたいして古くなく、シナ南蛮と称して、数もたくさんある代り値段も安かった。」とある。南蛮焼というのは茶人のいわゆる南蛮であって、うわぐすりのない、素焼に似てもっと堅硬な陶器のことである。  壺屋の陶器は柳宗悦、浜田庄司、リーチなどの諸氏によって、その独特の美を広く民芸界に紹介されたことは周知の通りであって、その中に泡盛の固有の酒器としての「からから」や「だきびん」(抱瓶)あるいは「がまくびん」(腰瓶)などもあげられている。泡盛では名酒と容器とは一体不可分の関係にあるから、沖縄名物壺屋の焼物も、泡盛の品質向上のために、一段の工夫を積まれたいものである。良い酒造りには、良い土をさがし、よい壺を焼くことが、必須の条件であるから。  旧王家の尚さんの御家にも古い酒があったという話をきいている。明治以前には泡盛の製造はすべてきびしい王家の統制の下に行われて、いわば官製そのものであったから、それももっともな話である。泡盛のような高貴な酒は、沖縄のその他の優雅な文化と同様に、民衆の素質は申すまでもないが、王家の如き伝統を保持する中心なしではなかなか育ちにくかったと思うのである。私も戦争中に時の東大の物理学の中村誠二教授から、「自分は尚家と懇意にしているが、同家で昔から使っている紅麹(べにこうじ)が戦争のために中国から来なくなったので、君のところに、もしやその菌がないだろうか」と依頼されたことが思いだされる。「べにこうじ」は実は紅(アンカー)といって中国の福建や台湾で造る紅酒(アンチユウ)という味醂のような酒の原料であって、真紅の色を出すカビの一種を使って造るのである。そのカビを幸にもっていたので、早速さし上げたが、何に使われたのか伺っておかなかったのは残念であった。王家では民間と異なり、そのような中国系の酒も造っておられたかどうか、教えていただきたいものである。  明治初年に尚家の王子として生れた尚順氏は優れた才能の持主であったが、最近その遺稿が発刊された。その中に泡盛について次のような興味深い記事がある。先ず古酒の育て方については、「元来泡盛の古酒が、西洋辺りの葡萄酒のように、ただ穴倉に入れおいてすむものではない。古酒を作るには、最初からこれにつぎたす用意として、少くも二、三番乃至(ないし)四、五番までの酒を作っておきながら数百年の間、蒸発作用による減量酒精分の放散等に対し、常に細心の注意を以て本来の風味を損ぜしめないように貯えておく苦心を認識したら、誰しもこれに宝物の名称を冠するに異論はないであろう。……もし今日厳格に県下にある真銘の古酒なるものを検討したら恐らく一石(百八十立(リツトル))の上に出ないだろう。」  またこのような貴重な古酒を買いあつめたり、それを育てあげたりするための苦心については、「第一に古酒を作る順序としては、まずよい瓶を求め、それから良い親酒(アヒヤー)を気長く五勺(しやく)なり一合なり集め、これが二、三升できたら、続いて親酒をふやす二番三番の酒も用意せねばならぬ。右は仕次(シツギ)といって、古酒を作るにはぜひなくてはならぬ必要品である。たとえ最良の親酒があっても、注ぎたす時に、新醸の酒(俗にいうシピヤー)でも入れたら、親酒は、全くだいなしになって馬鹿を見た例はいくらもある。」そして口の広い瓶は蒸発が早くて、もし仕次を怠ると、たちまちマーサー(腐水、酒を取った後に残る水分)になってしまうことなどを、詳細に注意してある。またその古酒のよい香気については、「元来古酒には色々のよい香りが出るものだが、その標準の香気といっては先ず三種しかない。第一は白梅香かざで、古くから鹿児島よりはいって来た小さいびんつけ油の匂だ。第二はトーフナビーかざといって、熟れた頬付(ホオズキ?)の匂をいうものだが、第三は少し可笑しいが、これはウーヒージャーかざと称し雄山羊の匂いのこと。この匂いだけは体臭に近く頗るエロチックだが、この外に形容するものがないからそういう名称しかない。」またあるきき酒の名人の家に、首里、那覇、久米村あたりから自信のある人人がめいめい小さな急須に入れた酒を持ちよって、「貴君(イヤームノー)のは未だトーフナビーかざは出ませんね(ンジランサヤー)」とか、「あなたの(ウンジユムノー)は白梅香(ハクバイコウ)かざ(カザヌ)が始まっていますね(ハジマトーイビサヤー)」などと言いあう風景なども面白く書かれている。また古酒の献じかたについては、「うそのような話だが当時の古酒自慢の大名家では、大切な金庫の鍵をば常に手ばなしで家来に保管せしめているにもかかわらず、古酒倉の鍵はたいてい主人が自ら所持しておった。それでいよいよこの古酒を客に供する時には、決して普通の酒の如くには扱わない。先ず一般に丁重の御馳走といえば、たいてい吸物の三つぐらいは出るが、古酒の出現は最初には決して出さない。先ず宴たけなわにして、三番目の吸物が出ようとする一寸前に、主人が五勺か一合くらいの小酒器に古酒を入れて自ら酌いでまわるのだ。その時の容器は、シナ製の紫泥の小急須に杯は俗に藍花小と称する、これもシナ焼の親指大の藍色の小点々の模様入の小杯で、これも一杯だけで、すぐおかわりという事は失礼にもなれば、また他の客に対しても遠慮がいるのだ。」  どうもこれは、今時の泡盛コーク割りなどとは大分縁の遠い風景といわねばならないが、フランスあたりで葡萄酒の名品を出す時の心組みや作法とも相通ずる所があって、まことに奥ゆかしいたしなみといわねばならない。  明治以前の沖縄における泡盛製造の制度については、前記の熊本税務監督局の調査書によると、 「王庁時代における泡盛製造に関する事務は御物奉行に属する賦方に於て取扱いたるものにして、首里城下赤田、崎山、鳥堀の三箇の字に居住するものにあらざれば製造を許さず、始め古くより醸造を継続せるもの三十人あり、爾来その株を継承せるものを本職と称し、後に至り更に十人を増して許可し、その株を継承せるものを重職と称し、これら四十人を焼酎職と唱え、ともに王家の御用酒の製造をなし、そのかたわら営業を営みたるものなるが、原料には米と粟とを使用し、別に黍(きび)原料として醸せるものあれども薬用に属し、用途甚だひろからざるものの如し、原料は全部王家より下賜され、醸造垂鍋(たれなべ)(蒸溜の意)終れば番所(役所)に届けいで検者検分の上王家に必要の量を献上酒として御物奉行に属する銭蔵に保管し、その残余は製造人の取得となれり。故にもし醸造を誤り、または麹、もろみ、垂鍋などをかくしたる事露顕に及ぶ時は、軽きは垂鍋甑(こしき)(蒸溜器)没収、重きは家財を引上げ本人は久米島、慶良間島などに流刑せられ、尚お焼酎職にあらずして醸造せる者は斬刑に処せられ、家族は流刑との示達、当時の御物奉行より国内津々浦々に至るまで通知ありしかば、焼酎職は醸造に際しては、生命を賭してその緊張ぶりを見せたりという。明治八、九年にその制を改め、何人といえども出願したるものには営業を許可したり、従って製造者漸次増加せるも、記録のよるべきものなく、その数詳かならず。明治四十一年には沖縄県下にて三一八場に及びたるも、その後は漸減の傾向をたどり、現在(昭和十一年)に於ては九十余場となり、やはり醸造家の集団地は首里城下にして沖縄県下全数の三分の二以上を占むる状況なり」  昔は王家の御用をたてまえとした酒であるから熟成を貴んだ優れた香味も生まれたであろうし、命がけの醸造であるからいろいろな工夫もこらされたものであろう。そのせいかどうかわからないが、泡盛の酒造りにはこのほかにも他に見られない珍しい操作がある。  それは米を漬ける水を強い酸性醗酵をさせることである。そのために新しい漬け水の中へは、前に醗酵した古い漬け水の一部を取っておいて、これを新しい漬け水に入れて醗酵をうながすのである。何の目的であるか、漬け水の一部を酒の仕込に使うことは室町時代以後日本酒で行われているが、米の浸漬に使うことは、他国の酒にも例のないことである。暖地であるから浸水を腐らせないためであるか、または米の蒸しを容易にするためであるか、これもまた泡盛の神秘のひとつである。そしてそれも泡盛特有の香気に役立っているようである。水に不便な土地でもあるし、硬度の高い水でもあるから特別の工夫が必要になったのかも知れない。  また泡盛はその蒸溜粕で養豚を行う習慣があるといわれる。年間百石の泡盛で五十頭の豚ができるとのこと、ドイツの焼酎業は、今でも小規模の業者の間には、馬鈴薯で焼酎を造り、その蒸溜粕で豚を飼い、豚の排泄物を肥料にして馬鈴薯を作るという緊密なる輪廻(りんね)の関係の上に成立しているのと似ているのも興味が深い。ドイツの場合には焼酎造りのおかげで豚だけがただで出来る結果になるわけだが、沖縄の場合は豚の肥料の行方を知らない私には何ともいえない。  泡盛または泡盛酒という名称の起源は、あまり古いものではないらしく、江戸幕府に琉球王からの献上品の目録を見ても、徳川四代家綱の寛文十一年(一六七一)に琉球の尚貞王からの目録中にはじめて「泡盛酒」という名が現われているが、それ以前のものはすべて「焼酎」と記されていることからも察せられる。そして同じ頃に中国へ琉球から献上された酒は終始焼酒という名でなされていることや、「あわもり」という名が日本の文献のみにしか現われていないなどの事実から、この名は恐らく薩摩あたりで琉球の焼酒に対してつけられたものであろうというのが、『泡盛雑考』の著者のお説である。この著書のほかにも、泡盛の歴史や江戸時代における文献や考証については、日本醸造協会雑誌に連載された加藤百一氏(国税庁技官)の興味深い発表がある。従ってこの小文では黒麹の発祥その他の点には触れないこととした。が、これは今後の興味深い課題である。  泡盛の名については、そのほかに、はじめは米のかわりに粟で造ったことによるという説もある。粟は本土でも沖縄でも、米と相ならんで古くからの穀物であるし、実際上明治以後にも、泡盛醸造に粟を使った実例もあるので、わが国に昔からある「粟飴」などと思い合わせれば、酒を「もり」とした理由は不明であるが、もっともらしい一説である。  また一説には泡盛の強さを計るのに、沖縄では古来酒に水をまぜて茶碗と茶碗との間で注ぎ交わすことを繰りかえして、泡の立たなくなるに至る水量で、アルコールの強さを計ることが行われたので、それから起ったのであるという説がある。これは、沖縄に限らず、アルコールに定量法のなかった昔、中国の酒の取引きにも広く使われていたので、たまたまこれを見た薩州人が、これによってつけたかも知れないのである。尚順氏の記事中にあった泡盛の古酒香の一種のビンツケ油香の原因は広い意味のフーゼル油の一成分であって、まさしくこの場合の泡の犯人であると思われるのである。  沖縄には、泡盛以前にも、世界の他の国々の住民と同じく、国初以来の酒精飲料はあった。それはいずれも濁酒であって、粟や米を原料としたもので、「サキ」または「ミキ」と呼ばれていたらしい。そしてその糖化の方法により、ひとつは口中の唾液のジアスターゼを利用する「口がみの酒」であって、前出の陳侃によれば、女子が水に漬けた米を口で噛んで、吐き出したものを、手でもんで放置して、自然に醗酵させたものである。このほかに麹と水とで造るどぶろく様のものも古くからあったのである。  筆者は黒麹菌というふしぎなカビを育てあげて、泡盛という名酒を造り出した沖縄県民の素質や伝統に対して限りない魅力を感ずるものである。そしてこの小文を書いてみて、その文化の特異性に対しても自ら深い興味の湧くことを禁ぜざるをえない。それとともに文化のはんらんや、やたらな交流の横行する現代にあって、隔離によって保持されたいろいろな伝統や、古くからの交流によって生み出された底力が、果してどのように将来の新しい沖縄の文化を生み出してゆくか、強い期待がもたれるのである。  近来鹿児島県の乙類焼酎(本土の麹菌による米製)が急に名声をあげつつあるのは、数年前から、メーカーの中の識者が、泡盛古来の古酒造りの習慣と同じく、焼酎の木樽による貯蔵熟成をはじめたためである。スコットランドの名酒のスコッチウイスキーも、今から百余年前には名もない山間の地酒にすぎなかったが、現今のように世界を風靡するようになったのは、ひとえに貯蔵とブレンドの技術に心血をそそいだ賜物といわれる。資源にめぐまれないこと、その昔のスコットランドにも比すべき沖縄は、その古酒技術の古来の伝統を極度に発揮して、今やスコッチの向うを張るべく懸命な中国の茅台酒にも負けないような勉強を積まれるよう心からお祈りしたいのである。 (初出=世界 昭和46年3月号) *編集注:北佐久郡望月町・大澤酒造ですが、本文は原文のままとしました。(「世捨て酒——芭蕉翁と酒」の項参照)  戻る 尚家の紅麹  日本人には、とかく自国のものの良さを、外人に教えられてはじめて気がつくような傾向がある。日本の酒の火入れ操作や、麹菌のすぐれた酵素力などもその例であるが、沖縄の名酒の泡盛なども、当の沖縄県人でさえ、近ごろは自分たちの伝統の酒の優秀なことを忘れて、本土の焼酎のまねに浮身をやつす状態であると聞いて、今のうちに注意を呼んでおかないと、残念なことにもなりかねないと思ったので、今年の三月の「世界」という雑誌に、泡盛が世界の酒の中でも、いかにユニークな地位を占めているか、そしてそれが沖縄がおかれてきた地理的歴史的関係とどんなかかわりがあるかということについて書いてみたのである。割に読者の関心を引いたと見えて、それに対して多くの投書がよせられたが、ここではそのうちの沖縄の旧王家の尚家の紅麹についての投書をごひろうして、泡盛の酒の一端にも触れてみたいと思う。  沖縄は、日本のうちでもきわめて特殊な環境にあった地域であって、たとえば文化の上では、中国と日本本土と南方諸国——それはいわゆる南蛮貿易ともいわれ、南方の商品の日本・朝鮮・中国への中継貿易の立場を通じて——との影響の下に立ち、政治的には中国と日本本土との強いそくばくをうけ、その上に周知の通り今回はアメリカによる戦禍、占領という苦い経験までも重ねたことは、長い歴史を通じて、もっぱら中国のみの影響の下にくらしてきた本土とは全く異なったきびしい環境の下におかれてきたわけであって、しかも昔から全く軍備をもたず、いわゆる守礼の民として独自の優雅な文化さえもち続けえたという点では、これから新憲法の下に、きびしい国際関係をいかにして乗り切ろうかという関頭に立つ本土の人々のむしろ学ぶべき多くのものをもっているのではないかとも思われる。また本土の文化に対しては、江戸期以来本土の音楽、演劇などの上に、支配的影響をあたえている三味線も、もとをただせば、沖縄の蛇皮線に教えられた如きは、一つの好実例である。  そのような次第で、泡盛というひとつの酒ではあるが、その製造操作の上には、上に述べたような諸文化の影響や、沖縄人自身のすぐれた資質に基づくユニークな点が多く見られるのであって、たとえば黒麹菌という世界に例のないカビの利用、長年の貯蔵とブレンドとによる古酒(クース)の醇化方法、そのほか少なくないのである。そのうちのひとつに「シージル」という操作がある。これは原料の米を浸ける水に酸性醗酵液を加える方法であって、この方法はまことに珍しいもので、中国の明の時代の『天工開物』という書物に、これほどはっきりした方法ではないが、その萌芽ではないかと思われるような原始的な方法が、丹麹という麹の製法のところに載っている。  ところが琉球の旧王家の尚家で第二次大戦中に、今まで中国から輸入していた紅麹(恐らく丹麹と同一物か)がこなくなったため、自製するのに私に紅麹菌(学名モナスクス)をこわれたことがある。前述の「シージル」操作の由来とも考えあわせられたので、尚家の紅麹は何に使われたものかという疑問を述べておいたのである。  それに対する投書が二つあって、一つはモナスクスの権威者佐藤喜吉博士で、それは乳腐という豆腐の漬物の着色のために用いられたものであるとのこと、他の一通は、昭和の初めに「泡盛雑考」というすぐれた論文を書かれた東恩納寛惇という方の甥の鈴木亨さんからであって、その一部を次にご紹介することにしたい。 「私の家は那覇東町の東恩納という旧家で父は寛文と申し寛惇は三男でございました。私の子供のころは家には祖父母も在世で祝事や祭事はたびたびあり、その馳走は一家眷族の婦女が月余に渡り準備したもので、中にも蒲鉾(かまぼこ)、花烏賊(い か)は欠かせぬものでございました。それらの着色にアカコウジを使ったことをおぼえています。——古酒(クース)につきましては誠になつかしく拝読させていただきました。私の家にも唐甕(トーガーミ)が三個、地甕(ジーガーミ)(筆者、沖縄産のカメ)が何個か床下に保存され、これの出し入れは長男の父さえも一存でくみ出すことはかないませぬ掟すべて祖父の指示によりました(筆者、泡盛古酒の熟成法はたとえば百年の酒を一盃くみ出せば、その次の九十年酒のカメから一盃を補うようにし以下順を追う)。封を切りますにも祝事の大小により客の格式と数とにより第何番目の甕をあけるかが決められます。くみ出します杓(しやく)の消毒が、またきびしいものであったことを記憶いたします。甕の酒をいためますと次からは決して酒を盛れないものと聞かされました。古道具店などで唐甕を見ることがありましたが、あれは○○甕(失念、酒の腐る甕の意)と申して酒の保存用には決してならないものだと聞かされました」  最近の報道によると、新潟県醸造試験場では紅麹によるピンクの酒を造り出して人気を呼んでいるとのこと、これは紅麹の色を利用した本土最初の食品であろう。 (初出=協和 昭和45年4月号) 第三部 酒と人 酔話の魔力 「盛年重ねて来たらず、一日再び晨(あした)なり難し、時に及んで当(まさ)に勉励すべし、歳月人を待たず」という陶淵明の詩は、恐らくいまの中年以上の人ならば、何かの書物で一度や二度はきっとめぐりあわれたことがあるに相違ありません。私なども、昔の中学校の漢文の教科書の中にあったのを、わざわざ抜き書きまでして座右の銘としたことを思い出します。  ところが、この詩には、実はすごい前の句がありまして、それをはじめからつづけて読んでみますと、若い人などには決してすすめられない文句であることがよくわかるのです。教科書の編者がそれを知らずにのせたものか、あるいは十分知ってのうえのたくらみであったかはわかりませんが、この年になってやっとその真の意味を知って、思わず、苦笑せざるをえませんでした。そこで、私同様まだご存じないかたのために、少し長いが、その詩の前句を書いてみます。 「人生根蔕無し、飄として陌上(はくじよう)の塵の如し、分散し風をおうて転ず、これすでに常の身にあらず、地におちて兄弟となるも、何ぞ必ずしも骨肉の親とせん。歓を得てはまさに楽しみをなすべし、斗酒比隣を集めよ、盛年重ねて来たらず……」と続きます。  その意味は、青木正児博士によりますと「人のこの世に生まるるは、世に結ぶ根も『へた』もなく、吹きとばされたちまたの塵のように、分かれ散って風のまにまに動きまわるので、この身はすでに常住不変のものではない、地におちて偶然兄弟となったもので、何も血縁の者に限って親しいわけではない、愉快なことがあれば楽しみをなすべきだ、一斗の酒で近隣を招き集めよ、若い盛りは二度とこぬ、一日に二度の朝があるわけでない、時におくれずせい出して遊ぶべきだ、年月は人を待ってはくれぬ」というようなことです。みなぎる力強い無常観はまさに仏教思想そのものともみられましょう。  陶淵明は酒好きで知られた人で、辞世の試作にも、自分はこの世で何も思い残すことはないが、ただもう少し酒を飲み足りなかったことが、唯一つの心残りだ、という意味の詩を残したくらいの人であります。中国には飲酒の詩がたくさんありますが、いずれも深刻な虚無観かそれでなければ無常観が底を流れているように思われます。日本でも有名な大伴旅人の歌など典型的といえましょう。オマル・ハイヤームのルバイヤットに出てくる酒の歌など、とかく酒の詩歌はその数の多いことでも、質のよいことでも、東洋がすぐれているのも、何かインド思想に根ざすものがあるのではないでしょうか。酒はしょせん寂しい人、悲しい人のためのものであるようです。「酒はやけ酒」などというのもたしかにその一面かもしれません。引き合いに出しては、少しおそれがありますが、かつて私の詠んだ「うるはしきいのちいきなむとおもふかな またあひがたきこれのよにして」という歌をみた友人に、すごいデカダンスだなあといわれて、ギクリとしたことなども思い出されます。  近ごろ京大の桑原武夫教授から、近著の中江兆民『三酔人経綸問答』の注釈をいただきました。この書は、中江兆民の著述のうちでも、その思想や抱負をうかがうのに一番よいものだとのことですが、その書き出しが、いかにも酒の作用を巧みに述べてあるので、ついつり込まれてしまいました。本文はむずかしい漢文調ですが、幸い桑原教授の名釈によりますと「南海先生は生まれつき酒が大好き、また政治を論ずることが大好きである。酒をのむとなると、わずか一、二本のときは気持よく酔っぱらい、気分もふうわりと、宇宙をとびまわるようで、見るもの聞くもの楽しくて、この世に憂いなどというものがあろうとは、つゆ思われない。さらに二、三本のむと、精神がにわかにたかぶり、思想がしきりにわきおこり、身は小部屋のなかにおりながら、眼は全世界を見通し、一瞬間に千年前にさかのぼり、千年後にまたがり、世界の進路を示し、社会の方針を教え、思うには、自分こそ人類の社会生活の指南車である」「さらにもう二、三本のむと、耳は鳴り、目はくらみ、腕をふりまわし、足をふみならし、興奮また興奮、あげくのはてはひっくり返って前後不覚、二、三時間眠ったあと、酔いがさめて正気にかえってみると、酔っぱらっていったこと、したことは、けろりと忘れて、まるでキツネつきが落ちたようなぐあいである」  いかにも、酒好きの人でなければ書けない文章です。さらに読んで行きますと「文明の進歩におくれた一小国が、昂然としてアジアの端っこから立ちあがり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵卒を人民にし、一心に道徳の学問をきわめ、工業の技術を研究し、純粋に哲学の子となったあかつきには、文明だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人々は、はたして心に恥じいらないでいられるでしょうか」「ヨーロッパの学者で戦争を否定するものは、みな、攻撃は道義に反するが、防衛は道義にかなっているとしています。それは各人のもつ正当防衛の権利を国家にあてはめようとするものです」読んでいるうちに、いつの間にやら、明治初年の話ではないような気分につつまれていました。これも酔話の魔力かもしれません。  もっともこの文章は、兆民先生の原文のままではなく、京大の桑原武夫教授の訳であります(岩波文庫)。これを訳される時、同教授から私に、「南海先生」が、金斧印火酒一瓶をたずさえて来て、それを三人で飲んだ、と書かれているが、その火酒とは一体何であったであろうか、という質問がありました。厄介な依頼と思いましたが、幸に明治二十年前後の雑誌の広告を調べて見て、やっと見つけ出して見たら、それが現在のヘネシーのブランデーということがわかったのです。なるほど現在の瓶のレッテルにも、斧をもった片腕が、しかも金色燦然(さんぜん)と書かれています。  原始民族では、酒を飲むことは、それに酔った状態で精神的に神との交流をなしとげる目的をもっていると言われています。中近東でもインドでも酒を造ってそれを飲む儀式が、神事の儀式の一番大切な行事となっていたことはよく知られています。日本の天皇即位の際の大嘗会や、あるいは毎年の新嘗会の白き黒きの儀式なども、あるいは同様な意味に解することができるかも知れません。筆者の友人のフランス学士院会員のエイム教授が、はるばるとメキシコまで出かけて調べて来たところによりますと、そこのある地方の土着民の間では、お祭りの時に酒のかわりに、それを食べると、人を一種の夢幻状態に導く茸(きのこ)を焼いてたべることになっています。大ぜいの男女が、眼をつり上げた夢中の状態で、奇妙な声を張りあげて、祭壇の前を躍り歩いているテレビ写真を、教授から見せてもらったことがあります。これはおそらく、その茸に含まれるLSDというアルカロイドが、酒に似た大脳麻酔作用を起すためでありましょう。  右の話で思い出されるのは、鈴木大拙先生の「酔払ひと心中と宗教」という随筆(岩波、鈴木大拙全集第十九巻)であります。それには「人には誰も自由を欲する心がある、即ち有限の存在を突破して無限者に合致したいとの心がある。自由なるものが実際あるか、無限者が実在かと云ふことは、確かめられても確かめられないでも、とに角、現在の悩みを突きのけたいともがくのは本当である。(中略)所が、此に何人にも忽ち役に立つものがある。一時的であつても、また或るときは、他に迷惑をかけることがあつても、もがき止めの妙薬となるものがある。それは酒である。(中略)米国で禁酒令を布いたなど云ふは、この詩趣神秘を知らぬ国民のやることで、誠に現時の器械的文明を説明してゐる。酒に宗教があり、詩があり、もがき止めの妙用があると云ふと、散文的の今の人は不思議に思ふ。(中略)天神地祇、八百萬(やほよろづ)の神々に神酒を捧げるのも、無限の神を酔はしめて有限の人間に近からしめんとの考がかうじたものである。神様も酔はぬとその無限性が発揚せられぬ、人間と同じである。」  これには、多少のアイロニー的調子もないではないが、一種の酔いの哲学と見られないことはありません。この筆法でゆくと、宗教は阿片(アヘン)なり、といいますが、精神安定剤や睡眠薬の異常な売行を見ると、現代人にはむしろ、宗教は薬剤なりと言ったら、叱られるでしょうか。また、宗教は茸なりと言えるのは、先のメキシコ人の場合でもありましょう。 (初出=毎日新聞 昭和40年4月7日) 中国酒客  どの方面でもそうだが特に酒の話となると、とかく学者や専門家の書いたもの——筆者をも含めて——は、たいくつで、ひとりよがりで、あまり面白くないというのが定評のようである。しかしそれには例外もないわけではない。昨年暮に出た青木正児全集第九巻(春秋社、昭和四十五年十二月五日)の如きはまさしくそれである。それには日頃の愛酒家としての著者の、酒に対する情熱が行間に横溢しているために、そこに述べられている酒に対するゆきとどいた考証や優れた見解の数々のすべてが、乾燥無味な学殖をはなれて、一種の詩として受取れるためである。  青木教授は京大文学部の故狩野教授の講座をつがれた中国文学者で、停年退職後は立命館大学に移られたが、数年前に物故せられたお人である。全集は十巻から成り、そのうち第五巻までが中国文学、第六、七、十巻は中国美術についての著述がおさめられている。そして第八巻と九巻とは中国の食物、名物、茶、酒などの食生活に関する随筆であって、特に第九巻は全巻ほとんど酒に関係している。すなわち、その巻におさめられているところは、先生の旧著「酒中趣」(筑摩書房、昭和三十七年)、「中華飲酒詩選」(同社、昭和三十六年)及び「華国風味」(弘文堂、昭和二十四年)の三冊である。本稿ではその内容の一部を、筆者の感想をもまじえて御紹介することにしたが、折角調子の高い原著の雰囲気をだいなしにすることが心がかりである。 「酒中趣」は三部にわかれていて、第一部の第一は「酒茶論」である。わが国には室町時代末期の酒茶論や酒飯論から江戸末期に至る間に、酒餅論とか、酒茶問答とか、そのほか数多くの著作、辛党と甘党とにわかれてお互いに酒と菓子との優劣を戦わすという同工異曲の趣向のものがあって、古い時代の酒や菓子のことを知るに便利にできている。この形式は室町末期に書かれた「醒睡笑」の僧俗問答などから見ても、当時の仏教の宗論などの影響であろうかと思っていたところ、青木先生によると、この形式と同じものが敦煌(トンコウ)から発見された宋の写本に「茶酒論」一巻としてすでに存在していたということで、ずいぶん歴史は古いようである。先生は病のため一時断酒をされて、専ら喫茶趣味を追われたことがあるとのことなので、御自身の軍配はいずれにあがるかと、興味をもって読んでゆくと、結局最後の行に至って「酒の妙趣は下戸に言っても分らない。また言ってきかす必要もないのである。酒茶酒餅の論を為す如きは野暮(やぼ)の骨頂、是等(これら)は恐らく中戸の両刀使いが物した愚作であろう。」ということになっていた。  第二は瓶盞病(へいさんびよう)の題下に、詩経の時代以来の中国酒徒の行蹟が述べられているが、いずれもあまり同情の目を以て述べられていないのが案外である。第三は止酒、陶淵明、梅堯臣、楊万里そのほか古来の有名酒徒の止酒のてんまつや、結局いずれの場合も、その「たががゆるむ」ことになる話。第四中酒、「酒ニ中(アタ)ル」と訓じて、いわゆる二日酔のことであるらしいが、先生はその話の中途で脱線されて、わが国の「中酒」、すなわち宴会の席で、先ず飯を出してその後で酒を出す風習についての考証に大部分を費しておられる。これは酒茶論に「飯後ニ飲ム之ヲ中酒トイフ」とあって、室町時代以後の風習であるらしいが、鎌倉末期僧玄恵の「喫茶往来」の茶会では、先ず第一に「水繊、酒三献」次に「索麺、茶一返」、然る後に山海の珍味で「飯ヲ勧メ」甘い菓子を出す。それから席をかえて点茶の礼が行なわれ、「茶礼マサニ終ラントスレバ則チ茶具ヲ退ケ、美肴ヲ調へ酒ヲ勧メ盃ヲ飛バシ」歌舞音楽の興を添えて上戸は大いに飲み歓をつくして散ずるという。水繊は先生によれば点心すなわち俗にいう「つきだし」の一種であるという。また「中酒」とは飯と茶との中間に酒を出すことからきているのではないかとのお説である。筆者もかつて今のような食前酒(アペリチーフ)的のみになり勝ちな日本酒の飲み方が、果して昔からのものであるかどうか、日本にも西洋のブドー酒のように食事と並行する用法があったのではないかと思って、茶道の懐石や、伊勢神宮その他の神饌(しんせん)お供えの順序などを問題にしたことがある。室町から安土桃山時代にかけて行なわれた笑話を集めた「醒睡笑」にも亭主の言葉に「中酒なんべんとほり候や」などと、食事の中途で飲む酒を中酒といったようである。もしこのような風習が復古すれば宴会の形も変り、飲酒の衛生上にもよろしく、第一に酔っぱらいを出さぬというばく大な効果を生むことにもなろうかと思ったからである。  第五が「大酒の会、附酒令」、わが国では延喜の亭子院賜宴以来、中国では漢の高祖以来の酒戦を述べ、後者は単に人を酔わせるを以て快とするに止まるのに比べ、わが国のはお互いの量の多少を鋭く競って、多分に闘争的であることは、国民の好戦性の然らしむるところときめつけ、また中国のそれには昔から罰盃的の傾向が強く、それが発達して、「酒令」というような、文筆やカルタの遊戯を闘わして酒をすすめる一種の宴会の遊戯の盛行となったものであるというお説である。ソ連人の好む乾盃のはげしいやりとりのようなものも、その源はあるいはこの辺に関係があるかも知れない。  第六、「琥珀(こはく)の光」は酒の色についての考証である。中国の普通の酒はいわゆる「黄酒」であって、黄色が本来の酒の色である。李白の「玉椀ニ盛リ来ル琥珀光」とか、陸游の「色ハ鵝黄ニ比ス京口ノ酒」、杜甫の「鵝児ハ黄ニシテ酒ニ似タリ」とか、彼らの飲んだ酒は、今の老酒のような褐色ではなくて、いずれも淡黄色であったとのこと。このように酒の色は唐以来淡黄が普通とされたが、特殊な酒として古く「周礼」の時代から葱白色や紅赤色のものがあり、晋代の文献には更に緑色の酒が現われた。「どぶろく」は白色であるから「白酒」は一番原始的な酒の色であるが、近世には精品に蘇州の「三白酒」がある。三白とは白麺(ペイカ)の麹と、精白した米と、潔白な水とで造られたという意味であるという。これなぞはわが江戸時代の高級酒「諸白(もろはく)」が、麹に使う米と、酒の仕込みに使う米との両方を精白して造った酒であるというのに似ている。片白(かたはく)もあったわけである。  緑酒は晋代の文献にはじめて現われ、陶淵明の詩「緑酒芳顔ヲ開ク」なぞもその一つであるという。また緑酒は唐代の詩に多く、宋代にはすたれたのかあまり見られないともいう。どうして緑色になったものか筆者にもわからない。青木先生の青カビ説には、にわかに賛同できかねる。日本酒にも緑色の蛍光を出す色素が含まれているから、あるいはこの成分が強くでるような醸造法であったのかも知れない。あるいはまた、青梅酒などという中国の梅酒(すもも酒)のような薬酒の若いものはやはり美しい緑色をしている場合もある。  さて最後に紅赤色の酒である。唐の李賀の詩に「小槽ニ酒ハ滴ル真珠ノ紅」とあるから、もともとは周の時代からあった酒ではあるが、唐の頃に相当広く行なわれたもののようであり、宋で更に盛行したことは蘇東坡の詩に「夜傾ク〓(ミン)酒赤キコト丹ノ如シ」とあり、またその註に「今〓広ノ間ニ醸スル所ノ酒ハ之ヲ紅酒ト謂ヒ其色殆ド〓脂煮ニ類ス」とあることなどからも知られるという。現今でも〓すなわち福建から、広すなわち広東広西にかけて紅酒(アンジオウ)の製造が行なわれているようであって、筆者の視察したのでは、台湾で盛んに製造されていた。これは紅(アンカー)というベニ麹(またはアカ麹)用の赤いカビを使うために、酒色が深紅色を呈するのである。しかしこの酒は一年以上カメの中に貯蔵して出すのが普通であって、その頃になるとこの赤い色素が、すっかり黄色に褪色してしまって酒色も単なる黄色に変ずる。これを老紅酒といって、近頃日本へも来ている台湾産の老酒(ラオチユウ)にはこの種の酒が多い。昨年の新聞によると、新潟県の醸造試験場でこの紅菌を使い赤い日本酒を造って評判をとっているとのことであるが、それにはこの色素の褪色を防いで、赤色を長く保つことが必要ではないかと思う。  再び青木先生のお話にもどると、酒の赤い色は酒に石灰を加えたり、酒を煮たりすると発色することも記されている。そして楊万里の詩「生酒ハ清キコト雪ノ如ク、煮酒ハ赤キコト血ノ如シ」などを引用されている。わが日本にも昔から、山灰を加えて造る肥後の赤酒のような、いわゆる「灰持酒(あくもちざけ)」のあることは、すでに述べたところである。また酒を加熱したり高温で長く貯蔵したりすると、次第に赤褐色になることは、いずれの酒にも共通な現象であって、マデイラなどという有名なブドー酒などもこの類である。ただ灰や加熱でできる着色は、決して紅菌の色素のような深紅色ではなしに、醤油のような褐赤色が普通である。日蓮上人の手紙にもあるように「人の血を絞れるごとき古酒」などという形容も、恐らくはこの種の色のことであったろうと思われる。  さて第七は「酒の飲み方」、ここでは古来和漢の酒ずきたちの酒をたしなむに当っての行状が数多くあげられているが、筆者にはむしろそれを通じて、青木先生自身の酒の飲み方に対する趣味を推察できることの方に、多分の興味がもたれた。陶淵明は「我は吾が盧(いほり)を愛す」と歌い、白楽天も「吾も亦吾が屋を愛す」と賛同しているが、先生もまた「私はわが家で飲むことを愛するのでありますが、それについて若い頃から一つの理想をもっております。それは茶人には茶室がある、酒徒も須(すべか)らく酒室をもつべしという主張であります。酒徒は天地をもって室となすと、大きく出ればそれまでですが、やはり酒室はほしいものです。さて酒室のしつらいは、趣向をこらせば限りがないが、要するに戸棚が一つ、瓶懸一つ、酒具食器の類を備えておいて、主人自ら燗をしながら客にすすめ得れば足るので、酒の燗を台所にまかせておいてはうまい酒は飲めません。」「更に私の理想をいえば、酒室の隣に湯殿を設くべきであります。先客から順々に一風呂浴びて、夏ならば浴衣、春秋と冬とはどてらで酒室に入り、あぐらをかいてゆるゆる酌み交わす。湯上りの酒は格別うまいことは、酒徒のひとしく経験する所で——もっともその逆は、老人などにはあまりよろしくあるまいと、愚考されるのであるが——礼記にも、君子が浴(ゆあ)みした後に『のみものを進める』と記るされております。」「それはさておき、吾党も決して酒室にのみ引籠っておる者ではありません。酒徒はやはり天地を以て家となすべきで、興に乗じてはどこにでも出かけますが、私は例の市井の縄のれんというやつは好みません。山林を愛する生れつきで、酒徒がよく口ずさむ李白の『両人対酌山花開ク、一杯一杯復タ一杯』という詩の、あの境涯が最もわが意にかなうているのであります。独酌といっても、多くの場合、月とか花とか自然を相手にして酌むのですから、これもまた一種の対酌であって決して淋しいものではありません。」酒室を設けたり、天地を以て家となされるあたりは流石に大人の酒である。とはいうものの市井の縄のれんのサロンの庶民性を解せられなかったことは惜しいことであった。  第八は「飲酒詩雑感」、第九は「蘇東坡と酒」となっている。東坡は元来下戸で大の甘党であったらしいが、後年次第に酒をたしなむようになり、広東にいた頃には、日に五合くらいを飲むようになった。当時の広東の法律では自家醸造もゆるされていたので、月に米一石を用いて六斗の酒を醸していたとのことである。当時の容量はわが国の現在の三分の一くらいに当るとのことである。要するに東坡の場合の酒の効用は、長年の謫居(たつきよ)生活の「愁ヲ掃ク帚(ハウキ)」であり、また同時に「詩ヲ釣ル鉤(ハリ)」の作用をしたものと見られるという。また東坡はいろいろな珍しい酒に興味を持ち、例えば蜜酒、松醪酒(しようろうしゆ)など詳しい製法を記し、また自ら試醸をも行なったりしている。松醪酒は松の樹脂を入れて造るから、恐らく木香(きが)の強い日本酒か、ジンのような風味のものではなかったかと思われる。また有名な東坡酒経は、当時の中国南方に行なわれた酒造法を記した貴重な文献であって、一々の操作まで詳細に記述された完全な技術書である。  これは青木先生の御意見ではないが、由来中国の学者の間には、学を貴び芸をいやしむとか、君子は庖厨(ほうちゆう)を遠ざけるとか、科学技術に関することや、実生活に則したこと、感覚や肉体に関することについては、見て見ぬふりをするのが学者の正しい態度であるというような考え方が抜けないように見える。このようなポーズが、一体どんな約束から導かれたものか、素人の筆者には全く不可解である。しかし稀には蘇東坡のような人もあったと見える。そういえば青木博士の行き方を全集第九巻を通じて見ると、あるいはこれに近く、そのために東坡に特別の親近感をもたれたのではあるまいかと疑われるのである。  抱樽酒話に続く第二部は「酒の肴(さかな)」であって、一、適口、二、塩、三、肴核、四、酒盗、五、鮒鮓(ふなずし)、六、鱠(なます)、七、蟹(かに)、八、河豚(ふ ぐ)、九、鵝掌(がしよう)、熊掌(ゆうしよう)、十、厨娘、十一、魚飯、鯛飯、河豚雑炊、十二、豆腐、十三、清朝末年或日の宮廷の献立、十四、蘇東坡の味覚、十五、橄欖(かんらん)の実、と、酒のまわりにまつわる食品についての先生の御高説は、古今を貫き、東西に亙(わた)り、まことに興の尽きるところを知らない。  次は「酒顛」、これは明の夏樹芳、陳継儒の著書の翻訳である。「酒顛とはさけきちがいというほどのことで、本編は中国歴代飲酒家の趣味深き逸話を集録したものである。」という先生の記述の通りの内容である。  第二冊目の「中華飲酒詩選」は昭和三十六年、筑摩書房から出版されたものであって、周以来唐に至る百七十余の愛酒の詩をのせてある。全集の解説者高木正一氏によれば先生の酒について「少年時代から酒を嗜まれた先生は、京都大学に進んで後、味気ない下宿生活のつれづれに、酒を飲むかたわら、陶淵明をはじめ李白、白楽天など、詩酒生涯の詩人たちの詩集を愛読された。わけても李白の詩集は、先生の酒興をたすける第一の愛読書であり、秋夜灯下に繙いていると、生唾が出て飲みたくなるとさえ言われたものである。」という。「詩選」と題されるだけあって、これは単なる愛酒詩の羅列ではなしに、詩の選出の態度や、解説の中にうかがわれる理解を通じて、先生の中国詩人たちの酒境(?)に対する好みがよくうかがえることは興味が深い。解説者の言にもあるように、先生は李白の境地に最も共感を示し、ついでは陶淵明、白楽天、蘇東坡という次第のように見うけられる。杜甫の詩も載録されてはいるが、特に重点をこれにおかれていないところを見ると、杜甫の酒に逃れるような、さしせまった対酒境界は、酒は楽しむものとされる先生の境地には、幾分重荷に感じられたのではないかと愚考されるのである。  最後の第三部は「華国風味」である。これは酒以外の食物に関することが多く、粉食小史、愛餅の説、愛餅余話、饂飩の歴史、落雁と白雪〓、用匙喫飯考、花彫、末茶源流、焼筍、〓菜譜、陶然亭、花甲寿菜単の諸編が集められている。花彫は中国の紹興酒、すなわち老酒であり、〓菜は「つけもの」である。いずれも先生一流の楽しい調子でものされてはいるが、優れた考証や珍稀な文献を随所に見るのであって、その道の専門家にも必読の要があると思われる。著書の内容の御紹介をするつもりのところを、つい著者自身の行実の方に心を引かれて、未見の愛酒家青木教授を語るというような記事になってしまったことは恐縮にたえない。 (初出=学鐙 昭和46年3月号) 世捨て酒——芭蕉翁と酒  貞享の頃、芭蕉は深川の芭蕉庵で、次のような句を詠んでいる(閑居箴)。 酒のめば いとど寝られね 夜の雪  そしてそれには、次のような文句が添えられている。「あら物ぐさの翁や、日頃は人の訪ひ来るもうるさく、人にもまみえじ、人をも招かじと、あまたたび 心に誓ふなれど、月の夜、雪のあしたのみ、友を慕はるるもわりなしや、物をも言はず 独り酒のみて 心に問ひ 心に語る。庵の戸押しあけて雪を眺め、または盃をとりて筆をそめ、筆を捨つ、あら物くるほしの翁や。」これは芭蕉が四十歳をこえた頃の句である。場末の深川とはいえ、江戸という大都会の憂うつや、多感な心の孤独感を、ひとり寂しく、酒にまぎらそうとしている気分が、読む人の心を打つ。私はこの「閑居の箴」を読んで、酒を飲む芭蕉を初めて知り、この俳諧道の偉人が酒に対して、どのように臨んだかということに深い興味を感じたので、全くのしろうとの柄にもなく、手元にある俳書をあさって、少し調べて見る気になった。もちろん間ちがいだらけの一文は覚悟の上である。  芭蕉は独りで飲む酒の心境に、しみじみとした感興を覚えたと見えて、以上のほかにも次の句がある。(泊船集巻二) 月花もなくて酒飲む独りかな  まず手元にある芭蕉の伝記でこの問題にふれたものをあげると、明治三十一年内田不知庵の「芭蕉後伝」に次のように書かれているという。(誹諧古典集第一輯、俳書堂大正十五年) 「酒、茶、煙草は共に用ひたるが如し。杉風(さんぷう)より油のやうな酒五升を贈られしを謝する手紙、及び麹屋茂作へ酒二升を所望する手紙は既に掲げたり。猶ほ句集に尾張の門人より、淡酒一樽と木曽の独活(う ど)茶を贈られし事、乙州が一樽を携へて来訪せし事、元起和尚より酒を贈られし事など見えたれば、強ちに飯くふばかりの男にあらざりし如し。(中略)嵯峨日記に『唐の蒔絵かきたる五重の器に、さまざまの菓子を盛り、名酒一壺盃添へたり』とあり。煙草のまぬ傾城(けいせい)と、菓子くはぬ俳諧師とは少なきものと、惟然が戯れしは、芭蕉の座側に菓子あるを見て愈々面白し。且つ去来がもてなしに名酒を添へたるを以て見るも、全く下戸ならぬは明らけし。行脚(あんぎや)の掟(おきて)にいふ『微醺(びくん)にして止むべし』を守りしなるべし。奥羽行脚の帰路敦賀の浜に、天屋なにがしと共に、破籠小竹筒の用意させて法華寺に遊び、茶を飲み酒を煖めて夕暮のさびしさに興じ、三井寺の月見には、乙州は酒を、正秀は茶を携へて会したるなど、斯かる事蹟は多く伝はりぬ。」  以上の文章のうちで、杉風は、芭蕉が江戸に初めて出て来た頃からの門弟で、芭蕉の生活のめんどうを見たり、深川の芭蕉庵を世話したりした人である。また麹屋茂作への手紙は、「只今田舎より僧達二三人参り候。俄に出だし申すべき貯へ之なく候。寒く候故にうめん致し申すべく候。そうめんは沢山之あり候。酒二升御越し頼み入り候。さかなは粒(つぶ)納豆茶碗に入れ、貴様お出で候て世話頼み入り申候」である。  また行脚(あんぎや)の掟(おきて)は、穎原退蔵氏によれば、後人の偽作の疑が濃いものであるらしいが、芭蕉の作として古くから伝えられているもので、道中の心得を十七ヵ条に亙って述べてあって、そのうち酒についての一ヵ条は、「好んで酒を飲むべからず。饗応により固辞しがたくも、微醺にして止むべし。乱に及ばずの節、幽乱起歳(誘乱起災?)の戒、祭にもろみを用ふるも、酔へるを憎んで也。酒に遠ざかるの訓(をしえ)あり。つつしめや。」というのである。  芭蕉の酒については、そのほかに菊山当年男氏の『はせを(芭蕉)』(昭和十五年、宝雲舎)の中に書かれている。芭蕉が晩年(元禄四年)故郷の伊賀に帰った時のことを記述したところに、 のみ明(け)て花生(はないけ)にせむ二升樽 「此句尾張人より濃酒一樽得られて、木曽のうど茶ともに弘むるとて、門人多く参りたる時なり」とある。芭蕉が二升樽の到来に、門人を招いて、共に飲みあけようじゃないか、と言っているほど、酒好きであったかどうかと句を見ては誰しもこの疑問がおこる。もっとも芭蕉には酒についてのことが随分ある。貞享四年の大年の夜に、「宵のとし空の名残をしまむと、酒のみ夜ふかして」など、酒豪ぶりを見せたのをはじめ、江戸参川から来客があったといっては、「から口一升乞食申したく候」と宗七へ頼んだり、麹屋孫作へ「酒二升御こし頼入候」(桜木俊晃『芭蕉事典』参照)とか、「さけ二升、肴何ぞ見合(みあはせ)」とか「かぜ吹かぬ秋の日瓶に酒なき日」「小三太に盃とらせひとつうたひ」とか、一寸眼につくだけでもかなりある。また曲翠へ「一樽賢慮にかけさせられ、寒風を凌ぎ、辱く存じ奉り候」とか、「油のような酒五升といふは、富貴の沙汰なり、蕎麦粉一重、小使銭二百文、忝く存じまゐらせ候」というような書簡もある。然し芭蕉は、もともと丈夫な身でないのみならず、持病に悩まされがちである。殊に酒の害は、十分に心得ていて、其角への飲酒一枚起請文、「もろこし我朝に、もろ〓〓の上戸たちの沙汰し申さるるさかもりにもあらず、ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申て、うたがひなく往生するぞとおもひとりて、一杯のむよりほか別の子細候はず、但三献四種の肴など申すことの候は、酒宴決定して、めづらしき肴もとめたると思ふうちにこもり候也 このほかにおくふかき大盃は、二尊の御あはれみにはづれ、本性を失ひ候 九こんを愛せん人は たとへ一代の法を学すとも、一文不智愚鈍の身になして、下戸にも常にふるまはせて、唯一向に酒を飲むべし。」と其角の大酒を戒めていて、酒の飲みようも、「往生するぞとおもひとりて一杯のむ」と言っているのである。そしてこれを反故(ほご)にしてはいけないので、「僧達二三人まゐり候、にはかに出し申すべき貯へ無之候」と、平常には飲まず、来客があったり、到来酒のあった時に限られている様である、と菊山さんは見ている。  芭蕉は其角の豪酒を、よほど気にしていたと見えて、天和二年板行の「俳諧三箇津」に、「貴丈(其角のこと)常に大酒せられ候故、此文句を写して、大酒無用に候、仍て一句」 朝かほにわれは飯食ふ男かな  というのがある。「此文句」とは、先に菊山さんのあげた尊朝法親王作と伝えられる、飲酒一枚起請である。当時はよほど大酒がはやったと見えて、一枚起請というような形でこれを戒めることが流行したと見える。もっともこの朝顔の句については、其角の「草の戸に我は蓼くふほたる哉」の句にこたえて、芭蕉が詠んだもので、この手紙は疑問の余地があるという説もある。とにかくその頃の芭蕉は、他人の大酒ぶりに対しては、多少の反感をもつという程度の心境にあったようには見える。  また手簡に見える「僧達二三人まゐり候、にはかに出し申すべき貯へ無之候」を引用して、芭蕉はふだんは飲まず、来客があったり到来酒があった時に限られている、という菊山説については、その後元禄三年の智月あてに書かれた書簡が見つかったが、その中に、贈物を謝して「水なハ方〓〓へわけて送り、さけはでししゆニふるまひ候」とあるのから察すると、少なくとも元禄三年時代は、あるいはその程度であったかとも見られないこともないようである。  芭蕉の酒については、そのほか萩原蘿月氏も、その著『芭蕉の全貌』(昭和十七年)に「芭蕉は酒を飲んだ」と書かれている。引用されている文献は、今までに出たものと大差がないので省略する。  芭蕉が強い影響をうけたといわれる、中国の詩人、杜甫、李白、黄山谷、そのほか蘇東坡や白楽天にしても、いずれも愛酒を看板にしている人たちである。これらの人たちの場合には、多少の文学的誇張や、時の世相に対する一種のレジスタンスの気味がないでもないが、とにかくこれらに比べると、芭蕉の場合は、少なくとも句にあらわれたところでは、そのような傾向があまり出ていない。これは一つには、俳諧という文学の性格によることかも知れないが、芭蕉の酒に対する考え方の、一面の現われとも取ることができよう。もっとも、若い天和のはじめ頃の「虚栗(みなしぐり)」あたり、漢文調の強く出た時代のものには、たとえば、延宝九年「俳諧次韻」の表題、「晋の伯倫、酒徳の頌を伝へ、楽天つぐに酒功の讃を以てす。青これに酔つて、信徳が七百五十韻に続く」の如き、また「虚栗」にあるように「憂ひてはまさに酒の聖なるを知り、貧うして始めて銭の神なるを知る」という前書きで 花にうき世わが酒白く飯黒し  酒白くは、どぶろくで、飯黒しは、麦めしか玄米のことであろうか。とにかく「わが酒」というあたりの、意気込みを見るべきであろう。また貞享三年「野ざらし紀行」の旅から江戸へ帰った頃、去来、嵐雪、其角との四吟歌仙で、 よしと口切る一瓶の酒   嵐雪  などと、嵐雪の句ではあるが、やり取りのうちに、その場の酒に対する雰囲気が、はっきりとうかがえるものもある。また天和二年に麋塒あての書簡のうちに見える次の句、 鯛売(うる)声に酒の詩を賦ス  の如きにも、その調子がうかがえないでもない。  貞享四年郷里の伊賀へ帰った芭蕉は、友人との会合や旧主関係の酒宴などで、酒の機会が多かったように見える。前述の菊山氏の著書に見える、宗七に「から口一升」の依頼などもこの頃である。またその頃、「笈(おひ)の小文(こぶみ)」にある、「宵のとし空の名残り惜しまむと、酒呑み夜更かして、元日寝わすれたれば」とて 二日にもぬかりはせじな花の春  つまり、大みそかの酒の飲みすぎで、折角(せつかく)の元日を寝わすれてしまったわけであろう。その時代には、旅先などでも酒を飲んだと見えて、元禄元年の猿雖あての旅のたよりにも、大和の竹内村の孝女「いま」を訪ねた時、「わらのむしろの上にてちや(茶)酒もてなし」などという文句が見える。  芭蕉が生涯を通じて、一番好んだ催しの一つに観月がある。そのような折には、交歓の間に盛んに盃があげられたようである。その間に芭蕉自身が、飲酒に対してどのような態度をとられたものかについては、文章の表からは確かな証拠をつかむことがむつかしい。しかし数多い観月の記や名月の句の調子から察すると、芭蕉も決して水中の油一滴ではなしに、むしろ盃をあげて歓を共にしたのではないかという疑が濃い。  貞享五年八月、芭蕉は門弟越人とともに、美濃から木曽路を経て八月十五日信州更科(さらしな)の里に着き姨捨(うばすて)の月を賞する途次(更科日記)、「とてもまぎれたる月影の、かべの破れより木の間がくれにさし入て、引板(鳴子)の音、しかおふ声、所々にきこえける。まことにかなしき秋の心ここに尽くせり。『いでや月のあるじに酒振まはん』といへば、さかづき持出でたり。」と月夜の興を記している。「あるじに」というのは、「あるじもうけ」のことであるという。この語は俗説には、本コースの前のつなぎに、亭主のこころざしで軽いもてなしをすることをいうともあって、中秋静夜の月に浮かれた芭蕉の酒の姿が目に見えるようである。この時の酒に近いものを、私は現代で味うことができたことは、後記の通りである。  また「奥の細道」の最後のあたり、敦賀の宿のあるじとの観月に、「明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すすめられて、気比(けひ)の明神に夜参す」と。またその翌夜には、「天屋何某と云もの、破籠小竹筒などこまやかにしたためさせ、僕あまた舟に取のせて」法華寺という浜の寺に行き、「ここに茶を飲み酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり」というようなこともある。  晩年に近い頃(元禄四年)でさえ、琵琶湖畔堅田(かただ)の観月には、月に浮かれ酒にうかれる雰囲気がよく書かれている。「望月の残興なほ止まず、二三子いさめて舟を堅田の浦に馳す。その日申(さる)の刻(午後五時)ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の後に至る。酔翁狂客月に浮れて来たれりと、声々によばふ。主思ひがけず驚き喜びて、簾(すだれ)を巻き塵をはらふ。(中略)岸上に莚(むしろ)をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上花やかに照らす。(中略)主またいふ、興に乗じて来れる客をなど帰さむやと、もとの岸上に盃をあげて、月は横川に至らむとす。 鎖(ぢやう)あけて月さし入れよ浮御堂  」  お寺の扉まで引きあけろなどと、芭蕉の上きげんのさまが、目に見えるような句勢である。  元禄四年仲秋、芭蕉が粟津義仲寺の無名庵にいた九月九日、乙州が一樽をたずさえて来訪しともに名月を賞した。 草の戸や日暮れてくれし菊の酒  菊の酒、つまり重陽(ちようよう)の酒であるが、菊の酒については、ほかに室町時代から今の金沢付近に、菊酒という名酒があったことが知られている。銘酒のことを菊と呼ぶ習慣があったのではないかと思う。芭蕉の貞門の先輩、松江重頼(維舟)に次のような句がある。 伊丹こそ菊の元船江戸廻し   重頼  また芭蕉にも「盃や山路の菊と是を干す」(坂東太郎)などがある。  そのほか、菊の酒については、やはり室町時代の古い文書に、「菊もと」という優れた酒造法があったことが見えている。  そのほか月見の発句では、 蒼海の浪酒くさしけふの月(坂東太郎) 盃のまはる間おそき月いでて(真蹟) 月の宿亭主盃持ちいでよ(春と秋)  最初の句の観月はおそらく舟の上かも知れないが、酒の句として、その姿の雄渾なこと、有名な「荒海や」の句にも匹敵すべきいきおいがある。  次に旅を生涯とした芭蕉には、その門出の別れの盃にも、深い感慨をこめたらしく、貞享元年伊賀吉野への門出に李下の送別の句に和して、 月ともみぢを酒の乞食(野ざらし紀行)  また元禄元年美濃から信州更科への旅の門出に、「人々郊外に送り出て三盃を傾け侍るに」 朝顔は酒盛知らぬさかりかな(笈日記)  夜の景気には無縁の花の憐れを、さかんな送別の酒盛の中の一まつの寂しさに見たものででもあろうか。  元禄六年八月、芭蕉が白雪にあてた書簡に 夕顔に(や)酔て顔出す窓の穴  それにはまた、「盆後閉関致候」ともあって、有名な「閉関之説」の書かれた年代とも一致する。窓の穴から顔を出すなどの表現も、あるいはそれと全く無関係ではないように思われて、実におかしい。  さて次には、晩年の芭蕉の酒について少しばかり見てみることにしたい。元禄二年から三年にかけての伊賀滞在中、主人すじの邸に招かれての歌仙(何袋)に 夢さえ酒に二日酔する  二日酔の句にはこのほかに、若い延宝の時代とされるものに 二日酔ものかは花のある間(真蹟)  青春の元気がみなぎっていて、芭蕉翁にもこの半面があったかと、その後の陰気な面のみ多い酒の句と比べて、まことに目を見はらさせるものがある。それに引きかえ、前句の頃は、齢すでに四十五を越え、しかも平素から多病で、健康も十分でなかったから、とかく二日酔などになり勝ちで、深酒は、すでに重荷となって来た様子がよく出ている。  同じ頃(元禄元年)、越人との両吟「深川の秋」にも 酒しひならふ此ごろの月 「しひならふ」の解には、客の取りもちと取る説と、自己の飲酒に取る説とがあるようであるが、いずれにしても、有名になるにつれて訪客も多くなり、その相手になやまされると言った感じが、強く出ているように思う。元禄七年秋胃腸の病でその生涯をとじた晩年の芭蕉にとっては、心進まぬ酒の相手は、めいわくなおつとめであったことであろう。  さてこの辺りで芭蕉の生活した時代の酒について少しくふれて見たいと思う。当時は、すでに伊丹(いたみ)、池田、大阪周辺などで、明治の酒と大差のない「寒造り」の酒造法が、大体でき上っていたので、本場の酒はアルコール分なども、今と大差ない清酒であったことはまちがいあるまい。しかしそれとは別に、秋の彼岸頃に新米の出たてを使ったものから、春おそくまで、その場の消費用に造られる酒が全国各地に存在していたと思われる。これらの酒は清酒もあるが、多くは「ぼだいもと」の酸(す)っぱい「どぶろく」あるいはうす濁りの「中汲み」の状態で飲まれて、「新酒」とか「地酒」とかいわれていたかと思われる。芭蕉の場合に出てくる「新酒」はおそらくこのようなものであったであろう。 「貝おほひ」という芭蕉の名で出された初めての句合せにも、「左右の新酒、味はひいづれかときいてみるに、鼻息もむせてくんのむ新酒はから口と見えて」など述べている。湧きたてのどぶろくは、口にも鼻にもむせるものである。「から口」という酒の評語は当時からあったと見え、元禄元年二月宗七あての手簡にも「から口壱升乞食申度候」などとあって、芭蕉はあるいはから党であったかも知れぬ。また酒を「きく」という言葉も古くからのものであることがわかる。  新酒については別に「駕(かご)かきも新酒の里を過ぎかねて」など、昔中国の居酒屋の看板に見られた「聞香下馬」の感じを出した句などもある。そのほか、芭蕉自身の句ではないが、門人たちが新酒を詠んだ句に対して下した、芭蕉の評語なども伝えられている。たとえば嵐雪の「我もらじ新酒は人の醒(さ)めやすき」に対し、芭蕉は「新酒は人のさめやすき、おのづからなる故に、一句の栞(しをり)幸なり」とほめ、また支考の「松風に新酒を澄ます山路哉」に対しては、「山路を夜寒にすべし」といい、後また「集などにもし出す時は」はじめの山路しかるべしといっている。澄ますというのは、「もろみ」を荒漉(あらご)しにしたものを桶に静置して、おりの沈むのを待つのであるから、私も夜寒の方がふさわしく思う。また其角の「足あぶる亭主に問ば新酒かな」に対しては「汝も既に風雅の魂はえたり」と大いにほめている。  芭蕉が「わが酒白く飯黒し」と身の貧を語ったところを見ると、壮年の頃(貞享元年)には少なくとも、うすいどぶろくより濃い清酒を恋しがっていたかも知れない。その二、三年後にも、 「淡酒」とどけられての句に 水寒く寝入りかねたるかもめかな  貧を慰問されての礼心の句とされているが、淡酒の淡を思い合わせるとお笑しい。フランスでは、食事時に酒のかわりに水を飲む人を「あひる」とあざける。もっとも芭蕉の時代には、今とちがって酒に水を割ることはまかりならぬというようなきゅうくつな法律がなかったから、その場で飲む地酒やどぶろくのような安酒には「淡酒」がふつうであったことと思われる。  酒の濃淡については、淡酒のほかに「濃酒」という言葉も使われている。「油のような酒」などというのも、日蓮上人の有名な手紙の文句によったものと思われる。後年の芭蕉には、醒めやすい淡酒のわびしさを愛しているかのように取られる文句も出てくることは、芭蕉の酒境の上から見逃せないことであろう。また「貝おほひ」に出ている「みぞれ酒」は、聞きなれない言葉だが、あるいは雪まじりのみぞれのような濁りの軽いうすいどぶろくのことででもあろうか。  芭蕉が「奧の細道」の旅に立った元禄二年と同じ年に造られた酒が、白伊万里のひょうたん形の瓶に詰まったまま、四、五年前に、長野県望月町の大沢さんという酒造家の庫から見つかった。私どもは、それを味わせてもらって、芭蕉の楽しんだ酒の、ふくいくたる風味を、今の世に鑑賞させてもらえたことは、一生の思い出である。  次には、芭蕉の酒を語るについて、見逃せないことは、句や文を通じて、酒には必ずといってもよいくらい、茶がこれに伴っていることである。貞享三年四十三歳の次の句なぞも、その一例である。 川舟やよい茶よい酒よい月夜 「わび」「さび」に親しむ芭蕉の性行から見れば、酒よりはむしろ茶の方がふさわしくさえ思われるのである。そこでこの辺で一言、芭蕉の茶についてふれておきたいと思う。茶に関する句は、ざっと数えたところ十数句に及んでいるが、酒のそれに比すれば、五分の一にも足りないくらいである。  芭蕉の頃の茶は、室町時代以来の抹茶が、街道の茶屋などにまで普及していたらしいが、一方、急須を使う煎茶も、江戸中期に中国から伝わって、急速に全国に広まりはじめた時代である。私も江戸初期と思われる備前焼の急須をもっている。いずれの茶を芭蕉が好んだかのせんぎは後日にゆずるとして、句の表から見ると、抹茶に関係した言葉もかなり出ている。たとえば、「口切」、「ちやのゆ」、「炉開き」、「灰せせり」、「白炭」、「一炉の散茶」、「釜霜に啼く声寒し」などである。「散茶」は、粉茶と解する説と、古い中国では葉茶、つまり煎茶のことであるという説がある。周知の句に 口切に境の庭ぞなつかしき  などがある。「なつかしき」には、当時の茶道の堕落を嘆く意がある、などの説もある。  煎茶は江戸末期には、「文人茶」というような形式まで生まれたくらい、文人の間に好まれたらしいから、当時の文化人の俳人たちの間にも行われないはずがない。芭蕉の書簡にも、元禄二年許六宛に、「煎茶李由手造りにて御座あるべく、おすそわけ一入(ひとしほ)賞翫仕るべく候」。またその翌年の同人宛に、「煎茶下さるべく候由(中略)、頃日あべ茶にもたべあき候」などともある。あべ茶は、静岡の安倍川附近の茶との説がある。元禄七年の「駿河路や花橘も茶の匂ひ」(別座敷)の句も思い出される。「煎茶」という言葉のほかに、「清茶」、「煎茶一斗」、「茶を煮る」などの記述も見える。芭蕉が利休の茶に、深い敬意をいだいていたことは、元禄元年の卯辰紀行に、自分の誹諧一筋の生涯を述べた後に、「西行の和歌における宗祇の連歌における雪舟の絵における利休が茶における、其貫道するものは一なり」と述べていることでもわかる。  さて、茶には菓子がつきものである。酒すなわち辛、茶すなわち甘とすれば、芭蕉は少なくともある程度の両刀使いであったらしく見える。餅の句なども割に多く、その一つ貞享三年(四十三歳)の句に 煩(わづ)らへば餅をも喰はず桃の花  芭蕉の嗜好が、甘辛両道のいずれに多く傾いていたか、判定することはおそらくむつかしかろう。甘辛両道の優劣についての論は、室町以来の酒飯論や「醒睡笑」の「上戸下戸の論」など、当時もすでに世に行われていて、芭蕉も多分知っていたはずである。文学的には、菓子や餅などより、酒の方に幾分の風情があるかも知れぬが、茶ともなれば、話は自ら別であろう。  最後に芭蕉一代の俳句俳文を通じて、芭蕉の酒境をながめてみることにしたい。ここで一番問題になるのは、一体いずれの文献が、芭蕉の実際の酒を記録しているかの判定である。書簡に述べられたものや、第三者が芭蕉の行実を記したようなものは、そのままを信用してよろしいかと思うが、そのほかのものは、発句連句のたぐいは言うまでもなく、紀行、俳文、たとい日記の類でも、このような大詩人の場合には、そのままを真実と受取るわけにはゆかない。それ故芭蕉が第三者の行実を述べたもの、つまり明らかに客観的描写と思われるものは別として、自分のこととして述べたもののうちにも、文学的感興に乗じて実際よりオーヴァーに書かれたり、あるいは全くの仮想が混じたりするおそれのあることは、紀行の路程のような真実を重んじなければならぬもののうちにさえ、文章のはずみによって実際の行程と異なった記述があることが指摘されている事実からも推察できる。従って以後の記述は、上述の制約の下になされた不確かなものとせざるをえない。  先ず芭蕉一代の発句や連句から、酒とか酔とか盃とか、そのほか酒に関係した事がらを詠じたのをひろい出して見ると、その数は意外に多く、私の感じでは、其角や太祇など、割に酒の句の多い名家に比べても、はるかに多いように思う。ひょっとしたら、このようなところに李杜など漢詩情調の強い影響が顔を出しているのかも知れないのである。一応前述の制約に基づいて、芭蕉自身の酒を述べたものと思われるもののみをひろいあげて見ると、その数は酒の句数約七十のうちの半分くらいに達する。  小宮豊隆さんによると、芭蕉の生涯の句は、貞享元年の「冬の日」を境として、それ以前のものは「醗酵の、若しくは準備の、もっと無遠慮にいえば、穢濁と未熟とのかなり長い過去」に属するものとのことである。酒の句にも、一介の凡人として酒にたわむれ、酒を楽しむという人間くさい調子のものと、自分の心境を酒に托して、さとりすました哲人か隠者としてこれに臨むといった、厳しい精神的な調子のものとの別がある。この区別が、世に行われる芭蕉の芸術の時代分けなどと、果して一致するかどうか即断をゆるされないが、とにかく前者に属すると思われるものの例をあげれば、 をだまきのへそくりかねて酒かはん 二日酔ものかは花のある間 酔うて又寝るこのはしの上 月暮るるまで汲むももの酒 たはれて君と酒買ひにゆく 月の宿亭主盃持ちいでよ 酔て寝むなでしこ咲ける石の上 せつかれて年わすれするきげんかな  最後の句には酒がないが、句勢からそれが何となく感じられる。「二日酔」の句は、「雪見にころぶところまで」の慨がある。また後の傾向の例をあげれば 椹(桑の実)や花なき蝶の世捨酒 酒のめばいとど寝られね夜の雪 かぜ吹かぬ秋の日瓶に酒なき日 月花もなくて酒飲む独りかな たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子  酒の飲み方には、大ぜいで会飲する「酒盛」と独りを楽しむ「独酌」とがある。柳田さんによれば前者が太古以来の日本人の酒の習慣であるという。すでに「月花もなくて」の句にあるように、芭蕉は特に孤独な寂しい独酌の感懐を愛したようである。「酒のめばいとど寝られね」の句もそれに近いが、三人同名の霊岸島の漁人から酒をもらって「盃にみつの名をのむこよひ哉」という句を得、それには特に「かの独酌の興にまかせて」と前書きまでしてある。また「独酌」という題で、元禄五年頃と推定される真蹟に「起よ〓〓我友にせむ酔胡蝶」の句がある。独酌こそ芭蕉にふさわしい「わび」と「さび」との酒境であったに相違ない。  貧と酒との関係については、前出の「瓶に酒なき日」とか、わが酒白しとか、また「寒夜の辞」には、「月に坐しては樽の空しきをかこち、枕によりては薄きふすまを愁ふ」とか、貧を楽しむ(?)わびしさを酒に托そうとしている。芭蕉は、少なくとも晩年には善美をつくした料理よりは、貧しいさかなの酒を好んだことは、行脚の途中の行実などに二、三の例が見られる。中でも「奥の細道」の帰途金沢で「饗応山海の珍味をつらね善美をつくしたる設け」をうけたのに対して、「翁曰く今宵のもてなし心づかひのほどはいふべくもあらず、されど恨らくは大名のお成のごとくにして、風雅の寂(さび)なしといはんか、我は世を浮草のよるべ定めぬたぐひにして、(中略)浮世に望み更になし、(中略)もし重ねて我と交を結ばんと思ひ給はば、食事の煩ひをひたすらにはぶき給へ」(俳諧世説)。第三者の記述であり、且つ表向きは宴席のことであるが、芭蕉の酒に対する態度も、晩年にはこのような考え方であったことが、これでよく推察できる。  志田義秀氏によれば(『芭蕉展望』、昭和二十一年)芭蕉は貞享五年頃から次第に魚味に遠ざかり、晩年の食生活は全くの精進料理になったという。また、元禄七年頃の「翁の客労を憶ふ」と題する其角の句「夏やせや能因ことに小食なり」をあげて芭蕉の晩年は小食であったことを説かれている。  友と酔い痴れ楽しむ酒境と、貧をかこち、独りをわびる厳しい酒境との、一見矛盾した両面を持ち得た芭蕉の真の酒の姿は、果していずれであったろうか。おらく凡人は前者のみを知り、芭蕉にして初めて後の酒境をも開き得たものであろう。芭蕉の芸術を通じて私どもが感得できるのは、自然の真髄に徹し、人情のこまやかな機微に通じ、人生の喜怒哀歓を深く体得した一個の人間像である。たとえ晩年といえども、上に述べたような酒の一面のみになり果て得たかどうか疑問としなければならない。小宮さんによれば、「貝おほひ」に代表されるような、芭蕉の前半生の芸術も、後年の完成された芸術のうらづけのようなものであると言う。酒の場合には「貝おほひ」と「冬の日」以後は、前後ではなく、あるいは同時であるかも知れない。たとえば「二日酔ものかは」の句(延宝九年〔天和元年〕、三十八歳)と、後に説く「世捨て酒」の句(天和三年、四十一歳)とは、ほとんど同時代といってもよく、「蒼海の浪酒臭し」の如きも、三十六歳の作である。酒の場合に、凡人流の酒すなわち「貝おほひ」、悟りすました哲人風の酒すなわち「冬の日」と、仮りに割りあてるとすれば、それは年齢の老若や、芭蕉の芸術の時代分けなどとは必ずしも一致しないように見えることは、対象が飲酒というあまりにも人間くさい現象の一特質であるかも知れない。  もっとも芭蕉にとっては、人生のすべてが誹諧の修行の具であり、場であったのであるから、もちろん酒も例外ではあるまい。もし芭蕉の酒の句のうちで、そのような特徴の特に深いものをあげよといわれれば、私は次の句を推したい。 椹や花なき蝶の世捨酒  正確な解は私のようなしろうとの及ぶところではないが、もし許されれば、この句は一応桑の実を詠じたものではあるが、それに対する蝶の世すて酒という表現で、芭蕉自身の酒境を写したものではないかと思われる。おそらく、時節はずれのため、盛りの花の甘い蜜にはぐれてしまった一匹のわびしい蝶が、桑の実に結ぶわずかな露の甘味を求めて飛びまわる、そのうらぶれた姿を、世を捨てた自分の酒境にたぐえたものではなかろうか。  人の世のわびしさに徹した世すて酒の姿は、また「月花もなくて酒飲むひとり」の、そして「心に問ひ心に語る」芭蕉の酒境真実の姿でもあったことであろう。 (初出=学鐙 昭和49年3・4・5月号) 酒と短歌——百穂と憲吉  酒をたたえた短歌は、「古事記」の酒楽(さかくら)の歌以来、歴代の歌人の作は、おそらく数えきれないほどであろう。明治以後にも、白秋、牧水、勇、その他による酒の秀歌は周知の通りである。しかしここでいう酒の歌は、それらとは少し趣を異にした、酒造りの歌、あるいは単に「造り」の歌、とでもいおうか、酒造や酒造場を詠んだ歌を問題としようというのである。そのような立場に立つと、酒の歌と見るべきものは案外少なく、昔から極めて稀であるといってもよい。酒造りの有りさまや技術などというものは、華かな酔い心地などに比べては、文学的価値も低く、感興もうすいであろうことはよくわかる。そうかといって、そのようなドライな対象を取扱っても、芸術的感興を引き出せるということも、また文学上の特別の立場や、作者の優れた感受性やテクニクを意味するものであるかも知れない。もっとも、「古事記」の歌にも、たとえば「横臼(よこす)」で醸(か)むとか、歌いつつ舞いつつ醸むとか、醸法にふれている部分も、全くないことはない。  明治以来の歌のうち、このような点で、私の目にとまったものは、平福百穂(ひらふくひやくすい)さんの歌集「寒竹」(古今書院、昭和二年)と、中村憲吉さんの歌集「しがらみ」の中の一連の歌である。  平福さんの歌は「酒蔵(さかぐら)」という題で(大正四—五年冬?) 大竈に薪(まき)投入れて燃ゆる火の赤き火影に夜くだちたり 夜ふかみ酒蔵に入る友と二人藁の草履を穿きて入りたり 灯(ともし)とり酒庫(さかぐら)に入りぬくらの中の堅土(かたつち)をふみ足音はせず 桶のもろみ泡立てる音幽かなりこの夜のうちに熟(な)らむとすらし 蔵内(くらぬち)に寒の空気の澄み徹れり灯かかげて酒を見むとす とうしみの灯の焔まろく立ち並び浮き見ゆもろみの大桶 桶べりに〓櫂(もろみかい)とりもろみかく蔵人に灯ほのかなるかも 大桶に泡立ち湛ふる寒のもろみいつくしみつつ酌みにけるかも さかふねに滴(したた)りおつる新酒(にひしぼり)かくも響きて落ち来るものか 麹窖(む ろ)の扉(と)に灯かかげてすがすがし白き神符(みふだ)の貼(は)られたる見ゆ 広土間に心静かに立ちゐたりはつはつに匂ふ糀(こうじ)の中に 酒ぐらを外に出づれば闇ながら川瀬遠鳴り啼く川千鳥 会所場に酒粕あぶり食ひゐたり杜氏(とうじ)はいまだ蔵に居るかも ゐろりべに灯を立ててにひしぼり我が飲み居れば鶏啼く聞ゆ  また中村憲吉さんの歌は、アララギ叢書第十五編の「しがらみ」(岩波、大正十三年発行)の中の、大正九年作歌の部の「大寒」「搾酒場」「大氷柱」及び「油燈」の四編である。そのうち、酒造りに特に深くふれた二編を次にあげる。     搾酒場 酒蔵も母屋(もや)もしづまり初夜掻(しよやがき)の〓摺(もとす)りうたはすでに止みたり 酒蔵に揚槽(あげふね)しまる音たかし夜は母屋(おもや)の遠くまでひびく 算用を夜おそく終へし帳場にて人手をからぬ寝酒わかすも この家に酒をつくりて年古りぬ寒夜は蔵に酒の滴(た)る音 夜を凍(し)みる古き倉かも酒搾場(しぼりば)の燈のくらがりに高鳴る締木(しめぎ) 燈のかげに酒槽(さかふね)のしまる音のして石を懸けたる男木(をとこぎ)ふるふ 夜くだちて締木(しめぎ)の懸石(い し)の垂るおとも槽(ふね)もをはりの滴りの乏しさ 槽の下の夜深き瓶(かめ)に下りて汲む搾りたての酒粕くさきかも     油 燈 夜の酒蔵(く ら)に事おこれるを我れ知れり杜氏につきて黙(だ)まりて行きぬ 桶の輪に油燈(あぶらび)ひとつかけてある酒蔵のおくは夜ぞふけたる 夜の倉に人はばかりぬ腐造酒(ふぞうしゆ)の大桶のまへに杜氏と立ちつ 夜深し醪(もろみ)の湧ける六尺(ろくしやく)桶に油燈(あぶらび)をもちあがりてのぞく 天井に鳴くねずみあり大桶のもろみの泡に燈照らし居れば もろみ湧くいきれに噎(む)せつ桶のふちに腐造酒の持つ香を嗅ぎにけり 湧きにぶき大六尺(おほろくしやく)桶に手をつけて温(ぬる)きもろみを洋盃(こつぷ)に汲むも 燈(ひ)のかげに胴(はら)ふとくならぶ桶の醪彼方(を ち)こちに湧きて音のしづけさ 含み利(き)くもろみの粒は酸(す)くなりぬ土間にし吐けば白くおつる音 人影の大きくうごく倉の燈に酸敗酒(さんぱいしゆ)の処置を秘かにはかる 牡蠣(か き)灰(ばい)をもろみの桶におろさせぬ人ら夜ぶかき桶にのぼるも  以上のほかに「杵(きね)の音」と題して、酒造の原料米を精白する情景を詠じたものに、次のような歌もある。今はもはや見ることのできない風景である。 夜くらき屋敷もとほる物おもひ音にひかれて水車へ下る 水車小屋夜目にほのけき壁のうちは絶えずかなしき杵(きね)の音かも 夜も搗ける屋敷水車の杵の音常やすらはぬわが心かも  そのほか憲吉には、「しがらみ」につぐ歌集「軽雷集」(昭和六年、古今書院。中村憲吉全歌集〈昭和四十一年白玉書房発行〉による)に、憲吉が大正十四年に、灘の水車小屋を訪れた時の作が、十首ほど出ている。そのうちの二、三を御紹介すれば 酒造る灘にせはしき牛ぐるま山の水車へ米曳きかよふ 水車屋の暗きにあまた杵(きね)つけり生きてうごけるものにぞ見ゆる 時ひさに臼に落ちつつもちあぐる杵のかうべは糠つもりたり  百穂は周知の通り、有名な画家であると同時に、短歌でも、アララギ派の古い同人である。この歌はどこの酒屋で作られたものか、私ははじめ百穂は、憲吉と親しいので、憲吉の実家の酒造場を訪れられたものと思っていたら、ある人は、俳句で有名な、丹波(京都府)篠山の西山泊雲、泊月の実家の「小鼓(こつづみ)」酒造場であると教えて下さった。自分で調べたわけではないので、自信がないが、あるいはそうであるかも知れない。いずれの歌も、明治大正時代の、寒中の酒庫の造りの情景が、まことにみごとに歌い出されている。  憲吉はアララギ派草創当時からの重鎮で、その実家は、山陰の国境に近い、広島県双三郡布野村の山峡の酒造家で、明治二十二年に生れ、十九歳の時兄の死にあい、家を継ぐことになり、大正五年には帰郷して家業についた人である。大正八年には、百穂もそこを訪れている。  深い山峡にひねもす響く米搗水車場の音、今は見られぬ、酒槽のしめ木のきしる音、夜深くひそやかに湧くもろみの音、遠く庫からきこえる酒屋人たちの「うたいもの」、あるいは、夜の庫人たちのあわただしい動きなど、いずれもその道のものには身に染む想いがされる。ことに珍らしいのは、腐造(ふぞう)といって、醗酵中の醪が、時候の暖い時など酸醗酵をおこして腐敗することが昔はよくあって、このために破産した酒屋も少なくなかった。それがちょうど憲吉の庫に起きたらしく、発見の愕き、醪に手を入れた温(ぬく)み、口に噛んだ酸味、酸敗酒(さんぱいしゆ)の異様な嗅気などから、いよいよ腐造だということのわかった時の絶望感、人知れず、ひそかに取られる前後処置など、まことに珍らしい経験が、立派な芸術として深刻に詠い出されている。時に天井に鳴くねずみの声も、また印象的である。  さて最後に、ついでと申すもまことにおこがましいけれど、実は私にも造りの歌のまねごとをしたことがある。師についたことも、歌会に加わったこともない、全くのしろうと故、もとより短歌などといえるしろものでないことは、よく承知しているが、職業名利の一端と、お許しをいただいて、左に記させていただきたい(歌集『醗酵』、白玉書房、昭和三十三年)。それは、昔から吟醸酒といって、果実のような特別の芳香を出す酒があるが、それを造ることに妙をえて品評会でも鳴らした、千葉県の「岩の井」酒造場を、ちょうどその吟醸酒造りの最中に訪れた時の印象である。 庫のうちゆもろみの香りけざやかに梅さく庭にあふれ出でつも かぐはしき香り流るる庫のうち静かに湧けりこれのもろみは 留(とめ)うちて後は静かやあけくれにうつろふ泡のゆくへをぞもる ひえびえと寒さ身にしむ庫のうち泡のつぶやく音かすかなり 湧きやみて桶にあふれし高泡もはだれの雪と消え落ちにけむ 泡蓋(あわぶた)を掻(か)けばさやけきうま酒の澄みとほりてぞ現はれにけり 泡分けてすくひ取りたる猪口のうちふくめばあまし若きもろみは 待ちえたる奇(くす)しき香りたちそめて吟醸の酒いま成らむとす  その後に、酒造りの歌は吉野秀雄さんにもある(『春雪』、昭和二十九年)ことを知らせて下さった人がある。それは氏が多摩のある酒屋を訪れられた時のもので 酒かもす家の木瓜(ぼ け)垣(がき)いちぢるく花燃えにけり雪をしのぎて 梯子(はしご)よぢてのぞく諸味(もろみ)は荒瀬なす音立て湧けり生ける酒かも 暖気樽(だきだる)を入れてぬくめつ氷蓆(ひむしろ)を巻きて冷やしつ酒をはぐくむ 蔵びとらの刀自(とうじ)うやまふさまゆかし導かれつつ礼(いや)返すわれも (初出=図書 昭和41年4月号) 「福翁自伝」  先日ある新聞社から、今まで読んだ書物のうちで感銘の深かったものを紹介するよう依頼されたので、私はちゅうちょせず「福翁自伝」を推すことにした。  本書は福沢諭吉先生が長逝される四年前の明治三十年秋、六十二歳の時、自分の一生を顧みて座談風に述べられたものの筆記であって、明治三十一年七月から翌三十二年二月までの間、六十七回に亙って時事新報に掲載されたものである。古い時代にしては珍しい平易な口語体、というよりはむしろ俗談体に書かれていて、親しく膝を交えて伺うような一種のくつろぎの雰囲気がかもし出されている。そしてその中に出てくる酒の話は、数えて見たら十ヵ所以上にも及んでいて、もちろんいずれも本書の大すじとは深い関連があるわけではないが、前述のような気分をもり上げるのに大変役立っているばかりでなく、他の部分のきびしい記述の中で、人間福沢翁の半面を浮きぼりにするのに、案外大切な役割をしているように思われるので、それらの数多くの酒話のうちから、翁の生来の酒好きや、禁酒節酒についての苦辛談の部分をここに御紹介することにした。  本書は、江戸幕府の崩壊から明治維新、さらに明治初年の文明開化期という、わが国の史上にも例の少ない一大混乱時代を舞台とし、これを生きぬいた、一人のおそろしく個性的な、きかぬ気の、しかも真直ぐな、さわやかな、それでいてぬけ目のない一個のユニークな男の一生が、身を以て体験された時局に対する鋭い観察や、つつむところのない心裡の告白をもまじえて、一種の熱気さえおびて、如何にも生き生きと物語られている。それは決していわゆる功成り名をとげた一老翁の、一片の懐旧談ではなくて、過ぎ去った過去をまのあたりの現実として、強い主張と自己批判とを以てつづられた一種の性格文学ともいえるほどの感じを与える。とにかく何か一本すじがねがはいったという感じをもたせる異様な私小説のようでもある。  福沢諭吉が独立自尊で、夏目漱石が則天去私ならば、西田幾多郎は何だろうという話が、先日ある酒席で出た。「それは頂天立地ではないか、西田先生が若い時勤められた金沢の中学(?)を逃げ出してホッとされた時、友人におくられた手紙に書かれていたように思う。漱石の文句の彼らしい気取りに比べると、孤高的な感じが、いかにも西田先生らしい」と述べたら、それは新発見だとほめられたことがあるが、それはともかくとして、本書では福沢翁のそのようなモットーの気魄(きはく)が、いかにもやにっこく肌にせまる気がする。  ところで、私が「福翁自伝」という本の名前をはじめて耳にしたのは、実は次のような因縁からである。私が以前勤めていた東大農学部の直接の恩師は高橋偵造先生であるが、そのまた先生が古在由直という先生で、いわば私から見ると、同じ学問の道の祖父に当るお方である。この先生は放胆でしかも細心な豪傑で、東大最初の公選総長を九年間にも亙って在任され、大正大震災のあとを復興して、現在の東大の全キャムパスを造りあげられた大功労者である。したがっていろいろな奇行にも富まれた方で、そのひとつ、先生が明治三十年頃にドイツへ留学された時、先ず語学を習うために、独人の教師につかれたという話である。ところが先生は、その教師の課する独作文を、一度も満足に呈出されなかったので、教師からひどく注意をうけることになった。ところが、ある一夜のこと、先生はねじりはちまきで、徹宵机に向かわれていたが、その翌日、独文で一ぱいにした大冊のノートを教師に呈出されたのである。それを読んだ教師は、一読して行文に一点の非の打ちどころのないのに、目をみはっておどろいたという伝説が残されている。その時の翻訳の原稿が、当時の時事新報に連載されていた本書、すなわち「福翁自伝」であったという話からである。豪傑、豪傑を知るというようなことで本書に傾倒されたかとも思われるが、あるいはひょっとすると、日頃から大いに酒をたしなまれた先生が、本書のこのような部分に共鳴されたためではないかと、ひそかに思うのである。  さて次には、本書中で翁が語られる飲酒についてのエピソードを御紹介することとしたい。引用が少々長くなって恐縮であるが、いかにも生き生きと語られているので、原文のままを読んでいただくことにした。万事に亙って自信満々の態度を以て説かれている翁も、談一たび飲酒に及ぶや、たちまち閉口頓首、いかにもざんきの念にたえぬという、読むもお気の毒な風に見えるのはまことにおかしいほどである。 「まず第一に私の悪い事を申せば、生来酒をたしなむというのが一大欠点。成長したのちには、みずからその悪いことを知っても、悪習すでに性を成してみずから禁ずることのできなかったということも、あえて包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公にするはあまりおもしろくもないが、正味をいわねば事実談にならぬから、まずひととおり幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。そもそも私の酒癖は、年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして、生れたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば、幼少のころ月代(さかやき)をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が、『酒たべさせるからここをそらせろ』というその酒が飲みたさばかりに、痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは、かすかに覚えています。天性の悪癖、まことに恥ずべきことです。その後次第に年を重ねて弱冠に至るまで、ほかになにも法外なことは働かず行状はまず正しいつもりでしたが、俗にいう酒に目のない少年で、酒を見てはほとんど廉恥を忘れるほどのいくじなしと申してよろしい。」  以上は本書の初めの部分の少年期のところである。同じような内容にもなるが、末尾に近い「老余の半生」というところにも、 「私の身にきわめてよろしくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少のときから酒を好む一条で、しかもずぬけの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒がうまいとは思わず飲んでも飲まなくてもいいという人があるが、私はそうでない。私の口には酒がうまくて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否(よしあし)がまことによくわかる。先年中一たるの価七八円のとき、上下五十銭も相違すれば、まず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けるというようなくろうとで、その上等の酒をウンと飲んで、さかなもいいさかなをたくさん食い、満腹飲食したあとで飯もドッサリ食べて残すところなしという、まことに意地のきたないいわゆる牛飲馬食ともいうべき男である。なおその上に、この卑しむべき男が酒に酔って酔狂でもすればみずから戒めるということもあろうが、大酒のくせに酒の上が決して悪くない。酔えばただ大きな声をしてしゃべるばかり、ついぞ人の気になるようないやがるような根性の悪いことを言ってけんかをしたこともなければ、上戸本性まじめになって議論したこともないから、人にじゃまにされない。これがかえって不幸で、本人はいい気になって、酒とさえいえば一番先にまかり出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がっていたのは、かえすがえすも恥ずかしいことであるが、酒の事を除いてそのほかになれば、私は少年のときからいい加減な摂生家といってもよろしい。」  これほどの愛酒党であった翁も、何とかその悪癖(?)をやめようと努力されたことも一再ではなかったようである。最初の断酒は、翁が十九歳の時、長崎の砲術家に書生として住みこまれた時であって、これは境遇の上からやむをえなかったためか、どうにか一年近くの辛ぼうが続いたようであるが、二度目の大阪の緒方塾時代の禁酒の思い立ちはあまり成功しなかったらしく、おまけに酒をやめるためにかわりに始められた喫煙の習慣までが、その後の生涯に定着してしまったことを嘆いておられる。  最後の禁酒は三十二、三歳以後のことで、これは禁酒というよりはむしろ節酒の程度であったらしく、そのことについて本書の末尾の近くに、翁は次のように述懐されている。 「私が生得(しようとく)酒を好んでも、郷里にいるとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てからずいぶん自由に飲むことは飲んだが、とかく銭に窮して思うようにゆかず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから、勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わずよく飲みました。それから三十二三歳のころと思う。ひとり大いに発明して、こう飲んではとても寿命を全うすることはかなわぬ、さればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、ただ一時のことで長続きはできぬ、つまり生涯の根気でそろそろみずから節するのほかに道なしと決断したのは、支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが、まず第一に朝酒を廃し、しばらくして次に昼酒を禁じたが、客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを、ようやくがまんして、のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして、これだけはどうやらこうやら首尾よくできて、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃はとても行われないから、そろそろ量を減ずるようにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反してけんかをするように争いながら、次第次第に減量して、やや穏かになるまでには三年もかかりましたというのは、私が三十七歳のときひどい熱病にかかって、万死一生の幸をえたそのとき、友医の説に、これが以前のような大酒ではとても助かる道はないが、さいわいに今度の全快は近年節酒のたまものに相違ないといったのを覚えているから、私が生涯鯨飲の全盛はおよそ十年間と思われる。その後酒量は減るばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎というよりも、年齢老却のせいでしょう。とにかく人間が四十にも五十にもなって酒量がだんだん強くなって、ついにはただの清酒はききが鈍いなんてブランデーだのウィスキーだの飲む者があるが、アレはよくない。苦しかろうがやめるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四五歳のときトウトウ酒欲を征伐して勝利を得たから、ましていまの大酒家といっても私より以上の者はまず少ない、高の知れた酒客の葉武者(はむしや)だ。そろそろやれば節酒も禁酒もきっとできましょう。」  実に無邪気な好々爺の温情溢れる話しぶりである。 (初出=学鐙 昭和47年2月号) 矢内原総長と酒  矢内原先生は高等学校の先輩であったが、有名な新渡戸(にとべ)先生引退事件で先生がみんなといっしょに校旗をささげて小石川の新渡戸先生のお宅まで見送られたなどという伝説を伺っていただけでかけちがってお目にかかれなかった。  親しく御指導を仰ぐようになったのは、戦後に先生が東大の総長になられ、私もその下で農学部長や、それに引きつづいて新しくできた応用微生物研究所の所長を仰せつかってからのことである。  先生が総長に在任中に東大にいくつかの附置研究所をおつくりになった。自然科学の方面では原子核研究所と応用微生物研究所とで、いずれも日本学術会議から東大へもち込まれたものである。先生は大学の本来の使命については深いお考えがあったようで、このように大学にやたらに附置研究所、ことに金のたくさんかかる自然科学系の研究所が増えてゆくことについては、厳しい批判的態度をとられていたように見うけられたが、このような態度が反って学術会議や文部省の信頼を高める結果ともなったと見え、また先生も一たん引きうけた上は行政的にたくみな指示をあたえられて、よくこれを完成に導かれた。  原子核研究所の場合には、学術会議からの註文が、その運営については東大以外の他の大学にも関与させることを建前とする、いわゆる共同利用研究所の形を条件としたので、これについては大学の自治に抵触するというような説も出て、その調整にはずいぶん苦心を重ねられたようである。しかしそれよりはもっと現実の問題としての難関は同研究所の敷地をどこにするかということであった。本郷のキャンパスには、もちろんそのような余裕があるはずがない。苦心の結果、思いつかれたのが、農学部の田無農場の一角をこれにあてるという案であった。そこで農学部長であった私が総長室に呼ばれてこの件を何とか農学部教授会を通すように尽力せよとのことである。ところが農学部としては大学の総合に協力するという立場から広い駒場の土地をすてて狭い本郷に移転したために、大切な実験の場が不足で困っていたばかりではなく、当時わが国には原子核の研究所はこれがはじめてであったために、放射性物質などの流出については、今では想像も及ばぬほどの恐怖の念が一般にもたれていたことなども手伝って、教授の大部分や、ことに若い層が絶対反対の気勢をあげ出したのである。さすがの総長もこれにはずいぶん心痛されたようであったが、結局当時の大学の進藤事務局長と相談された結果、総長たる矢内原先生から、農学部長たる坂口に対して、危険物に対しては絶対に万全の処置をとるようにするし、また今後はこれ以上の敷地を農学部に求めることは絶対にしないという意味の一札を出すことになり、それを持って帰って教授会の同意を懇請することになった。結局この案は僅かな得票の差で教授会をやっとパスすることになったが、私の不手ぎわで総長にずいぶんご心配をおかけしたことを今でも申訳けなく思っている。この珍らしい一札は今でもおそらく農学部の金庫の中に眠っていることと思われる。  応用微生物研究所の場合にも、総長にとってはちょっと変った御苦労があった。それはやはり学術会議からの特別の註文である。核研の場合のように、研究所をインターカレッジ(諸大学間)の運営にまかせるという共同利用研究所の形とはちがって、微生物の応用を主体とする各省所属の研究所からの研究の上の註文をもきいてほしいという要請である。これも文字通りに解釈すれば申すまでもなく大学の自治への侵犯である。しかし当時大蔵省醸造試験所、農林省食糧研究所、厚生省予防衛生研究所、通産省醗酵研究所などがいずれも切実に要求したのは、微生物の応用に関する基礎的研究部門の創設であったので、これらの要求に対して、学術会議は東大にその目的の研究所を創設することを以って答えようとしたのである。  矢内原総長は、これに対して、同研究所に前記各省研究所長をメムバーとする協議会を設け、研究所の運営には関係せず、純粋に研究課題のみの註文をきくような機関とされて、この難問題を乗り切られ、そして総長自身がこの協議会の長をお引きうけになったのである。東大ばかりではなく、多くの他大学の関係者も、大学の研究所にこのような珍らしい例のあることを知っている人は今では少ないことと思う。産学協同というようなことではなく、政府の研究機関と大学との間の連けいについて一つの新しい途を開かれたのである。  総長という職は先生にとってずいぶん御苦労に見うけられたが、そのうちにもお楽しみがなかったわけではない。そのひとつは農学部に属する演習林や農場が全国にあって、おひまの折にはそれらをまわって視察してあるかれることが、いかにも楽しそうにお見うけされた。北海道十勝、千葉県清澄山(きよすみやま)、秩父、伊豆の南端、瀬戸、岐阜などの演習林、三崎、渥美半島、新舞子などの水産学科所属の試験場や水族館などである。たいがいは進藤事務局長が随行されたが、私もひまを見てお伴することにしていた。夜、宿にくつろいで夕食の折などには、お酒をあがらない総長につい無理におすすめするようなこともあった。そのためばかりではなかろうが、総長もしまいにはおいおいお手があがって、一本くらいを楽しくおつきあい下さるようになった。以前から多少たしなまれたかとも思われるが、とにかく私の印象である。飲酒に対して、信仰上どんな考え方をもっておられたか、つい聞きそびれてしまったが、頑固派ではなかったようである。  お酒に関係ある話では、ある時総長から御郷里の愛媛県の名物の竹串にさした干し貝に、からすみを添えておとどけいただいたことがある。その時、私のお礼のこし折れ。 酒好む人のたのしみも知りませる酒を好まぬ人ぞゆかしき 珍らしきさかなたばひぬこの宵の夕げの酒の待たれぬるかな 大輪の菊をくづして花びらを綴りし如しさやけき干貝 生(なま)のままうま貝をせばはしけやしえひめの海の磯の香ぞすれ みな人のえがてにすなるからすみのいをたばひけり友よ酌まなむ いざ友よからすみはみてひと時の富めるうたげと酔ひしれめはや  これに対していただいた総長の御返事をなくしてしまって残念であるが、そのうちに「一しほよろこばしきお歌」などとあったことも今はなつかしく思い出されるのである。  (初出=矢内原忠雄全集・月報 昭和39年5月) 鈴木信太郎先生と酒  私は酒造りが専門というばかりでなく、消費の方も人後に落ちないので、そのおかげでほかの分野のお偉方などとお知りあいになるという、思わぬ得をすることが多い。鈴木先生との御縁もその例外ではない。  東大の三四郎池のほとりに、通称山上御殿といういかめしい名の食堂があった。毎週の木曜日にはそこで全学の教授や助教授が膝を交じえて会食をすることになっていた。鈴木先生とも隣席の光栄に浴し、お好きなワインのお話などに花を咲かせたりしたことが御縁のはじまりで、それ以来たまさかながら三十年の長い間のおつき合いとなった。そういえば辰野先生とのお近づきも酒の席などというには余りにも恐れ多い、渋谷のガード下の「とんぺい」という縄のれんの腰かけである。山上御殿より格の下がること数等である。  鈴木先生は三十歳頃からお酒をお始めになったようだが、私も四十歳頃から始めた晩学である。私のは肺病をわずらっていたのでお医者に止められていたに過ぎないが、先生のはその理由について次のように述べておられる。「私達の学生時代には泥酔して放歌高吟するやからが多く、その醜態を見るにつけ、口を割られても飲まないように、日本酒に対し依怙地になってしまった。ところが三十の時フランスに行って、毎日昼晩の食事にブドー酒が半リットルついて、飲んでも飲まなくても値段が同じだったことから、飲むようになってしまった。甚だ意地汚い晩学であり、其上、以後も洋酒ばかり飲んでいて、日本酒は解らない。坂口さんは体が弱かったから飲まなかったということで、私のようなだらしないのとは違うが、同じところは、日本酒に対して批判的、懐疑的な点である。」また「坂口さんは日本酒も随分好きなようで、苦言を呈しながら、貯蔵すればするほど味の旨くなる日本酒を空想し、いや、本気で考えているらしい。私だって、もっと変化の多い日本酒ができれば飲むようになるかも知れぬが、今のままでは日本の麦酒の方がずっとよい。特に日本酒の改良を要する点は、坂口さんもあまり下掛っているから言わないのかも知れぬが、はっきりと認識してもらいたいのは、日本酒飲用後の尿の不快極まる悪臭である。これは如何なる種類の酒の飲用後とも異なって、快適でない。こういう点はぜひとも坂口さんのような科学者に分析研究してもらって、臭気を芳香に変じる方法を講じたい。」と仰せられている。  これでおわかりのように、先生は要するに洋酒党であられた。ことにブドー酒にはお詳しく、深く広い御趣味の持主であった。ブドー酒の中では、どういうわけか、アビニョンの附近でできる「シャトー・ヌフ・ド・パープ」という赤酒が特別にお好きのようであった。この酒は、どちらかといえば、イタリーのキャンチなどに似て、重い風味の酒、そのかわり比較的若くてもよく飲める酒である。戦後間もなく外国のブドー酒などとても手に入らない時分に、ある外人の御馳走になった席上、偶然にも、この酒が出されたことがある。その時私は、即座に先生のことを思い浮べたので、すでに半ばをこえた飲み残しの酒を無理に頂だいして、息子にたのんで、先生の巣鴨のお宅にとどけてもらった。息子の話では、玄関の戸をあけると、待ちかまえていたかのように先生が飛び出してこられて、大変悦んでいただいたということであった。妙な酒をお好きなものである。  先生の洋酒趣味は、風味の鑑賞もさることながら、やはり御専門柄から、幾分文学的であられたようである。「私が一番興味を引かれるのは、日頃飲んでいるブドー酒、コニャック、ウイスキーの類である。こういうお酒の壜は色とりどりのレッテルがはられ、姿形も種々さまざまで、棚にずらりと竝んでいる時の美しさはたとえようがない。だから私は昔から、三越や明治屋の洋酒売場の前をぶらぶら散歩して、取りとめもなく洋酒の場を眺めるのが大好きだった。先年パリに行った時も、つくづくと酒屋のショーウィンドーを見て楽しんだ」先生は詩人であられたから、アンドレ・モロのように、「レッテルはちがっても、中身は似たりよったり」などという下品な考え方には思いつかれなかったことと思う。  日本酒の尿の悪臭については、その後私は酒に酸化性の菌を作用させると、それと同じ臭気が出ることを発見したので、先生の仰せのように、その発生の機構などがわかるようになるかとも思っている。しかし悪臭変じて芳香というようなわけにゆくかどうか、保証の限りではない。また日本酒の古酒の風味が、近頃おいおい大衆に珍重され出して、ある酒屋などは、十年酒を市価の三倍につけても、羽根のはえるような売行きだそうである。これも今は先生にお目にかけられないことが残念にたえない。  ブドー酒について思い出されることは、ある時先生から、ブドー酒醸造の際に、果汁の中へ土をほうりこむようなことが、ある詩(ヴィヨン?)の中に出ているが、それはどういうことなのかという御下問があったことがある。なかなか専門的なところまでよく注意しておられるには感心した。それは土は土でも石膏、即ち硫酸石灰の土でないといけないので、このものがスペインや、フランスの一部でできるような甘すぎる果汁を、酸っぱくする作用があって、酒にボデーをつけ、味を上品にする効果があるためである。私にはよく理解できないことであるが、先生の文学には、詩情あふるる中にも、何となくかたい、きちょうめんな、しっかりしたすじ金が通っているように思われることも、あるいはこのような科学者的な一面を持っておられたせいではなかろうか。  先生からは新著のたびに御寄贈をいただいていた。辞書に至るまで、巻頭に毛筆で書かれた謹直な献辞を給わるには、いつも恐縮している。なかなか難解な詩が多く、ことに最後に近い頃のヴァレリーなどは、御礼辞に、「如聾如唖」とか「牛前弾琴」とか不遜な言をさしはさんだのにも、別にお叱りの言葉もいただかなかった。戦後間もなくの「ビリチスの歌」を頂だいした時なぞ、次のような腰折れを以て御礼辞にかえたことなぞ、今にして思えば全く冷汗三斗である。 人の世のこの悦びをふみにのみ書くは寂しとおぼさずや君 古へにこの世を生きし人の跡のあなさやけかりいにしへなれば  最後にたまわった随筆集には、いつもの名筆はなく、表紙うらの真中に、先生の御名刺が白々とはられてあって、令夫人のお言葉のみが寂しく添えられていた。まことに痛恨の限りである。 (初出=鈴木信太郎全集・月報 昭和48年1月) 後 記  東大停年の頃までは、研究報文のほか書く経験のなかったのを、大蔵省の「財政」に、世界酒めぐりの雑文を書いたのがきっかけで、それが岩波書店の田村義也さんのお目にとまり、新書の「世界の酒」となった。続いて、停年のひまにまかせて「日本の酒」を出して以来、講演や雑誌にのせたものが積り積って、かなりの数になった。  そこで、またもや田村さんにお願いして、そのうちから酒に縁のあるもののみを選んでいただき、講談社の宍戸さんの御丹精で、一冊にまとまることになり、おのずから前二書の補遺のような形となった。古い話もそのままのせてしまったので、それを書名とした。書きおろしは「土に醸(かも)す」のみで、ほかはすべて、新聞や雑誌に既刊のもの、中でも「学鐙」の本庄さんには、数多くのお許しをいただいた。また本書の装釘も、田村義也さんのお手に成ったものである。お恥かしいものであるが、皆さんのお力でできあがったことを、心からありがたく思っている。     昭和四十九年九月 著  者    発表紙誌一覧(括弧内は初出時題名) 口噛み酒造法 学鐙 昭和46年12月号(酒造のはじまり) カビの酒 学鐙 昭和46年7月号(戦禍にあった名著「東亜醗酵化学論攷」) 粉食の酒と粒食の酒 学鐙 昭和46年9月号(酒の系譜 粉食の酒と粒食の酒) パンの酒 税務大学校誌 昭和49年1月号 土に醸す 書下ろし ビールの先祖 日本醸造協会雑誌 昭和31年4月号(イギリスのビール) シェリーの国 日本醸造協会雑誌 昭和30年11月号(スペイン遊記) 世界の酒から見た日本の酒 醸造論文集第29輯・昭和49年4月 日本酒の季節性 NOMAプレスサービス 昭和44年9月20日(日本酒と季感)、学鐙 昭和45年1月号 正月の酒 財政 昭和32年1月号(お正月と酒)、IDE 昭和45年1月号(正月と酒) 忘れられた酒 学鐙 昭和46年1月号 灘の酒 灘酒研究会創立50周年記念式典講演・昭和43年9月24日、同会会報昭和44年1月15日号 いずこへ行くかわれらの酒 文藝春秋 昭和47年1・2月号 焼酎 世界 昭和46年2月号 君知るや名酒泡盛 世界 昭和45年3月号 尚家の紅麹 協和 昭和45年4月号 酔話の魔力 毎日新聞 昭和40年4月7日 中国酒客 学鐙 昭和46年3月号(青木正児全集第九巻を語る) 世捨て酒 学鐙 昭和49年3・4・5月号 酒と短歌 図書 昭和41年4月号(「寒竹」の酒の歌——平福百穂歌集) 「福翁自伝」 学鐙 昭和47年2月号 矢内原総長と酒 矢内原忠雄全集第15巻月報 昭和39年5月(矢内原総長) 鈴木信太郎先生と酒 鈴木信太郎全集第5巻月報 昭和48年1月 ●坂口謹一郎(さかぐち・きんいちろう) 一九八七(明治30)年新潟県生れ。東京大学農芸化学科卒業(醗酵学専攻)。東京大学教授、東大応用微生物研究所所長、日本学士院会員、フランス農学学士院会員など歴任。一九六七年文化勲章。一九九四年一二月死去。著書「世界の酒」「日本の酒」「酵素」、歌集「醗酵」など。 * 本書は、一九七四年一一月、小社より単行本として刊行され、後、一九七八年一〇月、講談社文庫に収録されたものです。 古酒新酒(こしゆしんしゆ) *電子文庫パブリ版  坂口(さかぐち)謹一郎(きんいちろう) 著 (C) Kenji Sakaguchi, Fumi Sakaguchi 1974 二〇〇一年十二月一四日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。