[#表紙(表紙.jpg)] 幕末辰五郎伝 半藤一利 目 次  辰五郎登場  慶喜登場  黒船が来た  山あり谷あり  政治はむつかしい  京からの手紙  東山三十六峰  帰るところなし  将軍への駆け引き  男の生きる道  勝つか負けるか  江戸の夕映え  どちらさまも、ご免下さいまし  あとがき [#改ページ]   辰五郎登場 火事と喧嘩は江戸の華 「火事は江戸の華」という言葉がある。明暦元年(一六五五)から四年にかけて毎年、江戸は大火で焼野原になった。ときの老中永井信濃守尚政が、 「火事は江戸の恥じゃ」  といった。これを伝え聞いた負け惜しみの強い江戸ッ子が、「江戸の恥じゃねえ、江戸の華だ」といいかえたのが起り、といわれている。  まったくの話が、江戸時代をとおして、大火といわれるものが百回以上も起っているからびっくりする。二年半に一度の割である。焼失面積をおおざっぱに勘定してみると、十五年強に一度は江戸全体が焼けてしまっている。  なんのことはない、江戸の人は、一生に三度焼けだされるというひどい目にあった。それでやけっぱちもまじって「江戸の華」と意地を張ったのかもしれない。  享保三年(一七一八)十月十八日、八代将軍吉宗のとき、南町奉行大岡越前守、北町奉行中山出雲守、中町奉行伊丹能登守が合議して、火事をなんとかすべく知恵をだしあった。江戸の大火は筑波おろしの空ッ風の吹きまくる冬に多い。その猛威はとてものことでは防ぎきれないから、なかなか妙案はでてこない。  このとき、大岡越前守がいった。 「ともかくも町火消なるものを組織し、専門に消火に当らせてみてはいかがなものか」  この案が採用となって、翌四年四月から町火消が組織される。一町内から駈付人足三十人ずつをだして、江戸市中に、いろは四十八組の町火消、いまでいう消防隊が誕生した。念のために書くが、「ひ」は火、「へ」は屁、「ら」はゴロが悪い、「ん」は言葉にならないから「ひ組」「へ組」「ら組」「ん組」はない。かわりに「百組」「千組」「万《よろず》組」「本組」が加わっている。隅田川をへだてた本所と深川には、別に十六組をおいた。  さらに享保十五年には、いろは四十八組は一番組から十番組の大組にわけられる。ただし、四番組と七番組はない。「シ」「シチ」を「ヒ」「ヒチ」となまって、「ヒ」は「火」を連想させ、「火」を嫌う意味でのぞかれたのである。  これはたしかに妙案であった。町年寄を中心に、市中の町がめいめい自治制をしいた。町火消はそれぞれの町から生活費がでる。火事がないときは、普請場の高い足場を組んだり、井戸さらえ、道普請、地固めなどの仕事をすると、それに応じて町名主から、組の頭《かしら》へ賃銀がでる。町内のために働く一種の雑用係の役割もはたした。また、節季節季には町内の商家がこぞって心づけを頭に渡す。それらを頭が組のものへわけるのである。  ふだんは雑用係であるが、ヂャンヂャンと心臓を刺すようなすりばんの音が響こうものなら、「それッ」とかけつける火消しの存在は、町の衆にとっては実にたのもしい。いかな凍った寒夜であろうと、きびきびと統制のとれた動きで猛火に立ち向かっていく。何事も町のためと、いっさいを捨て、命すらも捨てて立ち働く気ッ風のよさ、心映えの明るさは江戸ッ子の好みと本領にぴたりと合うのである。  そこから江戸ッ子の「いなせ」「きおい」の代表として、火消しが大いにもてはやされるようになる。  消火活動のさいには、建物破砕用具としてもっぱら鳶口が使われた。そこでつねづね手入れをおこたらずに磨きあげる。それから一名「鳶」が火消しの代名詞となった。  そして文化・文政のころ(一九世紀はじめ)になると、江戸幕府成立いらい二百年もたち、各町にはそれぞれの町の特色というか、独特の雰囲気がいつのまにか形成されていた。おのずと各町の自慢や対抗意識がうまれ、これが江戸ッ子らしい競争、張り合いとして、つまり「喧嘩」という形で表現されるようになった。その代表選手がいろは四十八組の火消しなのである。 「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が、拡大されてそこからうまれた。  もちろんここにいう喧嘩は、町火消の喧嘩だけをさすものではなかったろうが、弘化・嘉永(一九世紀なかば)の以後になると、喧嘩は町火消の喧嘩をさすものになり、 「火事と喧嘩は江戸の華、またその華は町火消」  と謳われるようになる。  こうして江戸ッ子のあこがれとしての町火消四十八組、これに加えて本所・深川の十六組は、幕末になると総数は一万一千人を超えたという。上に立つ頭《かしら》は百七十人。  この頭のなかに、いまに名を残しているのが浅草の新門辰五郎である。この人はいろは四十八組の「を組」の頭であるだけではなく、町火消十番組の頭取でもあった。 浅草寺の掃除人  辰五郎は寛政十二年(一八〇〇)、下谷掃除町の煙管《キセル》職人(一説に錺《かざり》職人)中村金八の長男に生まれた。お七夜に金太郎と命名される。  煙管職というのは、煙管の雁首と吸い口にきれいな細工をする職人であるが、ときにはかんざしや櫛などにも注文に応じて細工をしたことから、錺職ともいわれた。弟子も七、八人いることであるし、中村という姓を名のっているから、単なる裏長屋の職人なんかではなかった。  また生年は各説あってまちまちであるが、墓碑にしたがっておく。  辰五郎が九歳のとき、自家から火をだして隣近所が類焼した。このとき、他出していた父は急ぎ戻ってきたが、「世間に申しわけがねえ」と、みずから火に飛びこんで死んでしまう。辰五郎は幼なごころに火事は親の仇と思い、火消しになろうと心に決めた。  父が死んだあと、生家のなりわいはいっぺんに貧しくなったから、辰五郎は満足に寺子屋に通うこともできなかった。仕事師の小僧にやられ、苦労を重ねた。  しかし性格的には快活でいじけたところがなく、気も強く、小柄ながら機敏で、かなり年上のものと喧嘩となっても負けることはなかった。子どものころから、気負いに満ちた生き方を示している。  文化十二年(一八一五)、十五歳のとき、八番組「わ組」の小頭であった伯父村田屋仙三郎の世話で、十番組「を組」の頭で、上野輪王寺の衛士をかねた町田仁右衛門の世話になる。自分ののぞみどおりの町火消の道をやっと歩きはじめる。  仁右衛門は九年前にせがれの辰五郎を亡くしていた。生きていれば同じ年ごろの金太郎を大そう気に入って、 「名を辰五郎と改めろや」  と、否応もなく金太郎を辰五郎と改名させた。そればかりでなく、自分の娘の錦《にしき》と結ばせて養子縁組をさせるという気の入れようである。  火消しとなった辰五郎は、水をえた魚のように頭角をあらわしていく。  文政元年(一八一八)冬、理由は不明ながら、「ち組」と「を組」が派手な大喧嘩をしたことが記録にみえている。「ち組」の負傷者二十人、うち纏《まとい》持ちの藤兵衛と幸次は瀕死の重傷。「を組」のほうも、纏持ちの卯之助と幸吉をふくめて十三人の負傷者がでた、とあるが、残念ながら辰五郎の名はまだみつけられない。  町火消になったばかりの十九歳の若ものであるからやむをえないが、さぞや大活躍をしたのであろうと想像するのは、こっちの勝手というものか。  とにかく巷説によれば、やや小柄ながら、気ッ風がよくて金ばなれもよく、火事場では豪胆そのものであったという。そのうえに、若いころから乱暴者を統御していく力倆にも、目を見張るものがあった。  養父仁右衛門にかわって「を組」の頭になったのは文政七年(一八二四)、二十四歳のとき。そんなに若くての感もあるが、「火事は親の仇」と火消しになるために生まれたような男が、もたもたとしているわけがない。  それというのも、「を組」の辰五郎(当時は小頭)の名をいっぺんにあげる事件が、たちまちに起きているからである。  文政四年(一八二一)三月、浅草花川戸の智光院の裏から火がでたとき、まっさきにかけつけた「を組」が、消し口の屋根に、芥子《けし》に隅切角に「を」の字の纏を立てた。そこへ九州は柳河藩(立花将監家)の抱え火消がかけつけてきた。 「どけ、どけ、ここは立花さまの消し口だ」  と、「を組」の纏を倒して、立花家の纏を立てようとした。 「何をいいやがる、いまごろやってきやがって。ここは『を組』が消し口をとったのだ」 「うるせえ、たかが町火消が……」  消し口というのは、火事の現場にかけつけた火消しが、これぞという焦点となる屋根にあがり、纏を押したてて、消火ポンプである龍吐《りゆうど》水の位置を指図したり、火消しに右だ左だと下知したりする消火の目標としての持ち場のことをいう。  そこに纏を立てるのは、戦国時代の合戦にならうもの。味方の本陣や、大将の位置を、乱戦にあっても見失わないよう馬印の纏や旗指物を立てた。そもそもは大名火消にはじまったが、やがて町火消にもうけつがれた。  のちには纏は火消したるものの生命ともなった。それを倒され、消し口をとられては引っこんではいられないと、辰五郎が躍り上って、倒されかけた纏を立て直すと、「これをみやがれ」と立花家の纏持ちを纏ごと屋根から蹴落とした。  大名の抱え火消はいきり立って、さてこそ大喧嘩に、というときに、辰五郎が大手をひろげて怒鳴った。衆人環視のなかである。 「ここは喧嘩場じゃねえ、火事場だ。いまは火を消すのがさきよ。喧嘩はそのあとだ」  それだけではなく、火事騒ぎがすんでから、辰五郎はたったひとりで、「頭、この落し前つけてまいります」と、立花将監の屋敷にのりこんでいった。  その胆の太さに立花家のサムライもおどろいたが、玄関さきで言うことがまた筋がとおっているのである。 「いいか、纏といやあ、わが組の魂よ。それを倒されたんじゃ許すことはならねえ。これがお前さんたちのほうだったら、どうする。やっぱり黙っちゃいられねえんじゃねえか。そこでこっちが纏を立て直そうとしたら、お前さんとこの纏持ちが勝手に吹っとんだんだ。それが気にいらねえというんなら、斬るなり突くなり勝手にしろいッ」  さすがに相手は、辰五郎のとてつもない気魄にのまれて、「そのほうは火消しにしておくのは惜しい男よ」と、そのままお引きとりを願った。  齢《よわい》二十一にしてこの意気のよさである。江戸町民にうけないわけがない。「幼にして警敏、長じて胆略あり」と、「を組」の辰五郎の名はいっぺんに知れ渡った。  また、天保五年(一八三四)七月の芝の火事で、消し口のとり合いから二番組「ろ組」と十番組「と組」との喧嘩があったとき、あとからくりだした「を組」の数人の火消しもまきこまれて、辰五郎の手下が殺されるという事件があった。仲間を死なせたとあって、はげしくいきり立つものを抑えて、 「この喧嘩は、辰五郎があずかった」  と見事な大人の分別ぶりを示して、それをおさめてしまった。 「火消しはたがいに助け合わなきゃならねえことがある。江戸の人のお役に立つ、それをいちばんに考えなくちゃならねえ」  これでまた「を組」の頭辰五郎の名があがった。  こうして天保の年代の終るころ(一八四二年ごろ)に、辰五郎は町火消十番組の頭取に推されてなっている。その受けもちの地域は浅草黒舟町から北寺町、新鳥越、山谷、今戸橋、下谷坂本、金杉、三の輪である。いまの浅草を中心にした上野、そして三の輪の広い地域ということになろうか。 「と組」二百十三人、「ち組」百二十一人、「り組」七十八人、「ぬ組」七十五人、「る組」百五十五人、「を組」二百八十九人の鳶のものが十番組の傘下にいた。計七百三十一人の頭取が辰五郎である。鳶仕事師の親分として、ほかに人足を多くかかえているから、千人近い人数を支配していたことになる。  しかも、十番組頭取としての辰五郎は、ほかの頭取とはちょっと違っていた。ほかの火消頭取は組を運営していくために、どうしても町内の富商とのつき合い、というより援助をうけなければならない。辰五郎にはそうした金権への従属はいっさいなかった。  その受けもち地域に、浅草寺とその境内および奥山という江戸最高の盛り場がある。つまり宝の山がある。大名や富商といううしろ楯はなかったが、辰五郎には浅草寺掃除人という特別の仕事があったのである。  あるとき、上野の山で首を吊ろうとしていた男を、通り合わせた辰五郎は手持ちの財布をそっくり渡して助けたことがあった。その一部始終をみていたのが上野大慈院の別当、覚王院義寛という僧上、すっかり感じいって、後日、辰五郎をよびだすと、 「先日の松林の件、なかなか奇特な方と思い、調べさせましたら頭取とわかった。ついては是非頼みたいことがある」  と、浅草寺の掃除方を依頼したのである。  掃除方とは境内や奥山に店を張る連中を取り締る絶大な権限をもっている。こうして境内や奥山で小屋がけをする香具師《てきや》、大道商人などその一帯を生活の場にするものが支配下にはいり、かれらから上り高のいくらかをうけとり、それを最大の財源にすることができた。  浅草寺はゆるがぬ存在である。財源は浮きあがることはあっても、沈むことはないのだから、何があろうとびくともしない。  このほかに、うさんくさい連中から、スリやかっぱらいまでが、 「親分ににらまれては、仕事ができない」  と、目こぼし料としてつけとどけする金もある。これもばかにはならない。塵もつもれば山となる。子分たちを十分に支配するだけの収入となっただけではない。毎日の入り銭をそのまま押し入れに投げこんでおいたら、その重みでとうとう床がぬけた、というほどの新門一家の財源となった。辰五郎はまた、そのありあまる金で稲荷町で寄席の経営をやり、これがまた大当りした。  なお辰五郎が「新門の」とよばれるようになったことにも上野の山との関連がある。輪王寺門跡の舜仁准后《しゆんじんじゆんこう》が、安政の大地震のあと、浅草寺別当の伝法院に隠居することになった。そのさいに通行に必要な新しい通用門が伝法院の西側に特別に造られたのである。人びとはこれを新門とよんだが、その番人を辰五郎が仰せつかった。養父の仁右衛門が輪王寺の衛士を兼ねていたという関係もあったのであろう。それでだれが名づけたわけでもなく新門辰五郎とよばれるようになった。  子分は千人、金はとにかく貯まる、そのうえに、色の白い、小ぶとりの、ゆったりとした風格の男である。度胸は図ぬけている。それでなくとも江戸町民のあこがれをひく資格が十分なのに、さらに喝采を博するようなでっかいことを新門の辰五郎は、やってのけるのである。 遠山の金さんと辰五郎  弘化二年(一八四五)正月の江戸の大火のときである。青山権田原に発した火は、麻布、白金、高輪と延焼していった。このとき、江戸中の火消しが集まった。  芝三田の有馬家(久留米藩)への類焼を防ごうとする大名火消(有馬火消)と、付近の町家への消火にあたっていた「を組」とが、消し口の争いから大乱闘となる。  もともとが大名火消人足は、町火消より浮浪的であり、それゆえ乱暴ものが多かった。それで火事場では、大名火消のために町火消がややもするとひどい目にあわされることが多かった。ひとり十番組のものだけが、互角に張りあっていた。  辰五郎はつねづね手下のものにいっていた。 「大名火消だろうと、町火消だろうと、同じ火消しだ。人数が少なかろうと、あんなやつらに圧倒されてたまるもんか。こんど、いつか面《つら》があったらどっちが強えか、くらべてみようじゃないか。いいか、みんなもそのつもりでいてくれ」  その勝負をつける機会がめぐってきたということなのである。  それだけに喧嘩はすさまじいものとなった。手鉤や梯子を武器としての乱戦である。大名火消側の死傷者十八名、「を組」も七名の負傷者をだした。辰五郎のふだんのハッパの効もあって、町火消側がだんぜんの勝利となる。町人衆は十番組の猛威を恐れつつも、大喜びである。  しかし、大名抱えの火消し相手に死者をだしたとあっては、ことは単なる喧嘩といってすますわけにはいかない。辰五郎は十番組の責任者として、南町奉行所にみずから出頭した。  裁判の結果は、非が有馬側にあるというので、辰五郎は江戸十里外に追放(江戸払い)という刑ですんだ。  これで終れば、痛快な一幕ものですんでしまうのであるが、そこは辰五郎である。四十五歳の男ざかり。昼間は姿をみせないが、夜になるとそっと江戸に戻ってくる。ときに女房のところ、ときに妾《めかけ》の家に泊って、手下への指図をいつものとおりやっていた。どうしたって噂になって広まってしまう。  辰五郎は最初の女房の錦を病気で失い、後妻にぬいをめとっている。これが芸者あがりの鉄火肌のきりっとしたいい女である。  その行為まことに神妙ならず、ということで、ふたたび捕吏に捕えられる。辰五郎は、しかし、頑として江戸もぐり込みを認めない。旅支度をしているのだから、追放された禁止地帯に入ってもただ通過するだけ、というのが言い分だった。その口実でおしとおし、辰五郎は拷問されても頑張った。  奉行所は妻妾をよびだして対決させたが、それでも辰五郎は認めなかった。面白いのは妻と妾がいっしょに奉行所によばれていることである。  さらに、お白洲の問答、これが痛快無類である。 「この女どもはどこの女衆か存じません。私は一度もあったことはない。お二人の女衆は、心にもない事を申しますので困ります」と辰五郎。 「親分、気がすまないでしょうが、どうかまげて白状して下さい」と妾。 「罪は妾《わたし》たち二人で引受けますから」と女房。 「だまれ、ばいた奴《め》、お前たちは何の恨みがあって、このおれを、罪に落とそうとするのか」  と、辰五郎は叱りとばしたというのである。  結局は、白状せぬまま佃島の人足寄せ場に送られてしまった。  ところが翌三年正月十五日、本郷円山に発した火が下町一帯に延焼し、佃の牢にも迫ってきた。慣例によって囚人は一日かぎり釈放されることになる。このとき、火消し辰五郎の本領が見事に発揮された。そこは、昔とった杵柄である。辰五郎は牢にとどまり、囚人たちをひきいて、魚油を積みいれたばかりの油倉庫に目塗りして類焼を防ぐなど、若いもの顔負けの大活躍をした。  そして町奉行の遠山金四郎景元が、辰五郎のこの殊勝な働きぶりをたいそう喜んだ。役者がそろっていて出来すぎの感があるが、これは事実である。遠山の金さんは、消火につとめ延焼をとめた功を認め、辰五郎をただちに釈放した。  こうして、新門辰五郎は火事のたびに豪胆さと気ッ風のよさとで名をあげていった。江戸町民の人気も上昇するいっぽうである。  さて、辰五郎が赦免された弘化三年の翌々年、嘉永元年と年号が変った。多難なる幕末がいよいよ幕をひらく。 [#改ページ]   慶喜登場 天下の副将軍ということ  新門辰五郎が、頭角をあらわし「を組」の頭としていよいよ男を売っていたころといっていいか。天保八年(一八三七)九月二十九日、江戸小石川の水戸藩上屋敷に、烈公《れつこう》徳川|斉昭《なりあき》の第七子が生まれた。  母は京都の有栖川宮家から降嫁した正室の吉子《よしこ》である。結婚前は登美宮《とみのみや》といわれていた。  と、わざわざ書くのも、「水戸の御隠居」とよばれている斉昭は、病的なほど女好きで、側室が多くいてやたらに子をもうけているからである。実に二十二人の男子があり、十五人の女子がいた。ちなみに、そのうち成人したのは男子十二人と女子六人の十八人である。  男子は、長子の鶴千代麿(のちの水戸家十代|慶篤《よしあつ》)のあとは、二郎|麿《まろ》・三郎麿・四郎麿と数字をたして命名された。十郎麿のあとは余一《よいち》麿から余九麿、そのあとは廿《はたち》麿・廿一《はたひと》麿・廿二《はたふた》麿で、これで終った。なるほど、これなら楽だとつくづく思える。姓名学などにこって考えていったら、きっと最後はごちゃごちゃになる。  第七子であるから、生まれた子は七郎麿と名づけられる。  尾張・紀伊・水戸の徳川「御三家」は、世子のみが徳川を称し、あとの子は松平と称するのが慣例である。したがって七郎麿は松平姓である。  それまで正室吉子が産んだのは鶴千代麿と二と五であり、二は早逝した。ついでに記せば、三、四、六も早く死んだ。斉昭は、鶴千代麿と五郎麿の成長をほかの男子よりも期待したが、ともに京都堂上風の柔和な顔になり、性質もいたっておとなしいのが、ひどく気に入らなかった。そこに生まれてきたのが七である。  斉昭は、当然のことながら、七郎麿にこんどこそはたくましき男であれよの願いをこめて、生まれた翌年に水戸へ送りだした。  大名の子は、人質の意味もあって、江戸屋敷で育てることが幕府の法であるが、水戸家だけは例外を認めてもらっている。とくに斉昭は、子が江戸の華美の風にそまることを好まなかった。水戸の質実剛健の空気のなかで、水戸人たるべく育てることを第一とした。  七郎麿は、それゆえ水戸で育っている。斉昭も吉子も、わが子がどんな風貌の、どのような性質をもった少年に成長したか、あまりよく知ることがない。斉昭がひさびさに国へ帰って、大きくなったわが子をみたのは、七郎麿が十歳のときである。  いっぺんに十年も物語の年代がとぶわけであるが、その前に、水戸家について少しく書いておく。実は、かなり大事な問題がそこにふくまれている。この七郎麿のちの徳川慶喜が水戸の生まれということは、本来的にはもっとも将軍職につく可能性の少ない家に生まれたことを意味しているのである。  一概に御三家というけれど、水戸家は官位・封禄においては尾張・紀伊にくらべて一等下の位置にある。尾張と紀伊の殿さまは三位《さんみ》中将からすすんで二位|大納言《だいなごん》になるが、水戸は四位《しい》少将から三位中納言どまりときまっていた。  しかし、尾張・紀伊両家は、諸大名と同じに参勤交代の義務があるのに、水戸家だけは江戸屋敷に常住する特権があたえられている。これを江戸|定府《じようふ》といい、将軍とともに江戸にいることから、俗に「天下の副将軍」とよばれて幕政に重きをなした。  もちろん副将軍という役職は制度上はない。が、幕府は、江戸庶民がそういいたてるのを、とがめたり禁止したりすることはなかった。そのことで、将軍家自体の権威をむしろ強めることができるとでも、幕府が判断していたのかもしれない。  ただし、そのことはまた、水戸家からは将軍になることはありえない、ということを天下に示す結果にもなっている。水戸家は本来的に副将軍格に定められている。そこで、将軍にもし世子がないときには、候補者は尾張か紀伊から迎える。水戸はそこでも副の地位に立つ、というのが長年の慣例であった。  そのうえに八代将軍吉宗のときに田安家と一橋家、九代将軍家重のときに清水家と、いわゆる「御三|卿《きよう》」が成立し、いざというときに尾張と紀伊とが張り合って相続問題が紛糾することのないように準備された。尾張・紀伊に適当な候補者のないときには御三卿から、というわけである。これで水戸家からの将軍の可能性はますます遠くなったのである。 例外的な暴れん坊  徳川斉昭はもちろんそうした水戸家の慣例的立場というものを承知している。ただし、この資質英邁な殿さまはまた大いなる野心家であったのである。自身は副将軍として江戸城中を闊歩しているが、うちうちに将軍の父になれれば、の野望を心に抱いていた。それを最初から七郎麿に期待していたとしてしまうのは、あまりに話の都合がよすぎるが。  しかし、ほぼ十年ぶりに水戸へ帰城して十歳になった七郎麿を目のあたりにしたとき、斉昭の胸中には野望実現のための鬱勃たる闘志がわいてきたとみていいかもしれない。 「この子だけは違うな」  と斉昭は老臣たちを前にはっきりといった。  七郎麿は貴公子然とした風貌をもってはいたが、その挙措はおよそ京の堂上風ではない。たしかに聰明である。が、驚くほど暴れん坊である。しかも大の読書嫌いで侍臣たちを手こずらせていた。さまざまに侍臣たちがいさめたが、一向にきこうとはしなかった。 「読書を否《いな》ませ給うなら、お指に大きな灸をすえ奉ります」  とおどかしても、平気の平左。そこで七郎麿の右の人さし指に大きなもぐさをすえた。指がちぎれるのではないかと思ったが、七郎麿は堪えた。灸はなんどにも及び、やがて灸点がただれて腫れあがったが、 「これを我慢しさえすれば、陰気くさい読書なんかしなくてすむと思えば、灸をすえられるほうがましだ」  と広言し、なお読書嫌いをやめなかった。  さすがに閉口しきっていた侍臣たちは、烈公の帰城をまって、そのことを訴えた。 「それは捨ててはおけない。余の命令である。ただちに七郎麿を座敷牢へ入れよ。食膳も与えるな。いますぐ実行せよ」  と斉昭は命じた。  水戸藩では、公子の懲戒に三等級あった。譴責《けんせき》・灸点そして座敷牢である。さっそく座敷内でえらばれた一坪ほどの場所の、前後左右を襖《ふすま》でかこんだなかに、七郎麿は入れられた。縄でその外側をぐるぐると結いめぐらして出入りのできぬようにする。食事はまったく供されない。一等の懲戒である。  これにはさすがの暴れん坊も、腹がへってついに音をあげた。遊びざかりには、閉所にとじこめられるのは恐怖そのものである。その後は、少しく従順になり勉学にはげむようになった。  いや、はげむふりをした。こんな話がある。  水戸家の教育はなかなかにきびしいものがあった。その日課は、早暁に起き、手水や盥漱《かんそう》をすまし、衣服を着て座につくと髪をととのえる。そのさい侍臣が公子の前に見台をもちだし、公子は四書五経のおさらいを「子《し》のたまわく、学びて時にこれを習う」などと声にだして読ませられる。髪をすきながら侍臣が、その復読の誤りをきびしく正す。それがすまないと、朝食とはならないのであるから、それでなくとも腹をすかしている子どもにはつらい修業である。  ある朝、七郎麿が侍臣に髪を結わせながら復誦をしていると、侍臣が何かの用事でよばれて座敷の外へ出た。従順になったはずの七郎麿は、素早く見台の上の本を二、三枚めくって先に進め、知らんふりをして大声で復読をつづけた。  これをうしろからみていたのが、父の斉昭である。やりおったなと感心しながらも、 「この不埒《ふらち》ものめ」  と斉昭はきびしく七郎麿を叱った。いっぽうでそのきかん坊ぶりを好ましく思った。結局この少年が学問に興味をもつようになったのは、二十歳以後のことであったという。  すでにふれたように、兄たちは早く死んだゆえに、幼年時代の七郎麿の遊び相手は、五郎麿である。のちに因州鳥取藩をつぎ、慶徳《よしのり》と名のることになる五郎麿は性おとなしく、素直な子であり、奥むきの女どもにも好かれた。そんな兄にやること成すこといちいちくらべられるから、いたずらであり乱暴である七郎麿は、いっそう悪さをしては女どもに憎まれ、嫌われた。  ある日、五郎麿がお付きの女たちと雛人形をかざって遊んでいた。そのなごやかな遊びの部屋に、突然、七郎麿が入ってきた。 「五郎さまは、面倒なことをなさる」  というや、七郎麿は雛壇にかけより、人形や雪洞《ぼんぼり》をはらい落とし、人形をつかんで手足をちぎったり踏みつぶしたりした。 「なにをなさる」  五郎麿はむしゃぶりついた。七郎麿はこともなげに、突きとばすと、五郎麿は尻餅をついて大声で泣きだした。それを冷ややかにみながら、なおも暴れん坊は思うがままに荒らしまわって、意気揚々とひきあげていった。  五郎麿づきの女たちは、 「七郎君は、諸事よろしからず」  といっそう憎しみをまし、嫌われもの七郎麿の悪名はますます水戸家中になりひびく。  そんな、さまざまにいいふらされる七郎麿の悪名を、斉昭はむしろ楽しく聞いた。 「大名はただの武士よりいっそう強くなければならない」  と考えている斉昭には、その溌剌としたところ、その剛情っぱりのところが、頼もしいとさえみえたのである。  とくに七郎麿は幼なくして並はずれて雄渾な字を書いた。書は体をあらわす、と信じられていた時代である。気宇の大きさが書にでていると、斉昭はわが子の文字をほれぼれとした思いで眺めやった。  なるほど、奥むきの女どもの評判がきわめてよからぬ。ではあるけれど、いや、むしろその点に、斉昭は「この子は何者かになる」の期待をかけたのである。 「五郎君は堂上風にて品よく、少しく柔和に過ぎ、俗にいふ養子向なり。七郎は天晴《あつぱれ》名将とならん、されどよくせずば手に余るべし」  と斉昭はわが子を評したという。  七郎麿の乱暴と剛情は「常人にあらず」として、しかもきちんと育てれば……の期待を斉昭が抱いたことを語っている。  七郎麿の幼少年時代の、大名の子らしからぬエピソードはほかにもたくさん残っている。「武士たる者は、右腕を下にして寝るべきである」と教えられ、それを習慣とした。もし寝込みを襲われ敵に腕をとられたとき、下にしていれば利き腕の右は自由であるゆえ、反撃できる。強きサムライたらんとしている七郎麿は「然り、それは正しい」と、忠実に守りつづけた。老年になっても右下の片寝のみでとおした。  たしかに大名の公子としては型破りのところがある。なんなりといわれたままに、「床の間の飾り物」に祭りあげるのにふさわしく幼少時代から育てあげられ、没個性的な存在となっていく公子ばかりのなかにあって、七郎麿は例外である。乱暴といい、剛情というが、つまりは自分の意思をもち、自分の判断で行動するということである。  しかし、そうも一辺倒にほめてばかりはいられないところもある。これも有名な挿話として、多くの人が書いていることであるが、七郎麿はあまりにも寝相が悪かった。それを実際にたしかめた斉昭が、 「武士は寝ているときも行儀を正しくしていなければならん。この寝ざまでは武士の性根が入らぬ。七郎麿の枕の両側に剃刀《かみそり》の刃を立てよ」  と命じた。  その夜から、両側に剃刀の刃が内に向けて立っている枕で、七郎麿は寝かされた。うかつに寝返りをうとうものなら顔や頭が切れてしまう。七郎麿の寝相は自然と正しくなった、というのである。  七郎麿がいかにきびしい教育をうけ、そして武士らしい躾《しつけ》を身につけていったか、ということを語るものとしてこの逸話はある。そしてこのエピソードを紹介している『徳川慶喜公伝』は、そのあとにこう書いている。 「公は幼心にも、いかでかさる事あるべき、我|睡《ねむ》らば彼等は必ず之を取除けんとは推知し給ひしかども、さすがに刃の間に枕する事の心地よからねば、自然に寝相も正しくならせ給へり」  これをよくよく読むと、七郎麿は幼なごころに「いかでかさる事あるべき」すなわち�どうしてこんな事がそのまま行なわれようか�と賢くも見抜いているのである。自分が眠ったならばきっと侍臣か侍女がとりのぞいてくれると、推知しているのである。そのように結果的には優しく育てられている。いよいよせっぱつまれば、きっとだれかが助けてくれるという甘えの精神が、幼ないときから心奥に植えこまれている。この話をよくよく吟味すれば、そういう結論になるのではないか。  それはともかく、いま、何年かぶりにみた七郎麿のたくましい成長に、斉昭はホクホクした想いを味わっている。斉昭は京都の宮家の血ではなく、武門の血の濃さを少年のうちにみたのである。徳川家の家祖である家康の再来を期待させるほどの暴れん坊ぶりに、斉昭はひとまず大いに満足を味わっている。 阿部正弘の接近  ここで歴史年表風に、日本をめぐる国際的な動きを、ちょっと記しておかねばならない。寛永十年(一六三三)いらいの鎖国政策による泰平の夢が、辰五郎や慶喜の成長とほぼ時を同じくして破られ、激動の歴史がはじまろうとしているときである。  享和三年(一八〇三)アメリカ船が長崎に来航し、通商を求める。これは新門辰五郎が三歳のとき。  文化元年(一八〇四)ロシア使節が長崎に入り、貿易を求める。  文化十四年(一八一七)イギリス船が浦賀沖に姿をみせる。翌年、英国人ゴルドン、浦賀に来て貿易を求める。  文政五年(一八二二)イギリス船が浦賀に入港してきて、薪水を要求する。  こうして一九世紀の初めから、日本近海には外国船がしきりに姿をみせはじめた。これにどう対処すべきかの方針は日本国において定まっていない。ともあれ、たび重なる外国船の開国の要求をこのまま看過しておけないと、幕府が声を大にして「異国船打払令」を発したのが文政八年(一八二五)のこと。柳河藩お抱え火消との大喧嘩の処理で、辰五郎がめきめきと男をあげているころである。  年代がすこしとんで、その十二年後の天保八年(一八三七)に、江戸の水戸藩邸に七郎麿がうぶ声をあげた。これ以前から、その父の徳川斉昭は、異国船打払いを強硬に主張する極端な武力撃攘主義者として、多くの攘夷論者から敬慕を集めている。率先して水戸に砲台を築き、藩校弘道館を設立し、尊皇攘夷の水戸藩の精神的中核をつくる。さらには断乎として異国船討つべしの意見書を幕府に提出する。これが天保九年(一八三八)、生まれたばかりの七郎麿が水戸へ送られた年である。幕府は、いまだ対岸の火事視して、命令を発したものの、なんらの手を打とうともしなかった。  しかし幕府の退嬰的な方策をよそに、世界情勢はとどまることなく激変していく。天保十一年(一八四〇)阿片戦争が起き、清国はイギリスを先頭とする西欧列強によって、植民地的な商品市場として荒らされる。  そんな情報とともに、弘化元年(一八四四)、長崎でただ一国通商の扉のひらかれているオランダの国王が親身になり、国書をもって幕府に「開国」をすすめてきたのである。 「余の誠意をもって大府にすすむる所またかくのごとし、ねがわくは異国の人にたいするの法を寛《ゆるや》かにし、幸福の日本をして兵乱のために荒|敗《(ママ)》せしむることなかれ。余のこの儀を大府にすすむるは一片の誠心にして、少しも私利の心を挟《はさ》むにあらず」  しかし、時代遅れの幕閣はなお目をさまそうとはしなかった。  翌二年、オランダ国王に返書して、開国の意思のまったくないことを通告する。幕府はあくまでも鎖国を貫く方針である。  ときの首席老中は阿部伊勢守正弘である。備後福山藩十万石の殿さまで、若いながら端正な顔立ちと温厚な人柄で知られていた。山路愛山が評するように「善く人のいうことを聞いて、たとえ自分の意見と違うものでも、まずそのままにして、長所のみ使うという器量をもっていた」。いわば寛容と忍耐の人である。  この阿部正弘が翌三年に時局多端の折から、攘夷論者に人気のある斉昭に接近することを考えた。  当時、斉昭は家督を鶴千代麿にゆずって、隠居の身にあった。弘化元年五月に、幕府からあまりに矯激な言動にたいする七カ条の訊問書をつきつけられ、「御疑心の廉《かど》あり」ということで、謹慎を命ぜられていたからである。 「水戸中納言御家政向、近年追々御気随の趣相聞え、かつ御驕慢募られ、すべて御自己の御了簡をもって、御制度に触れられ候……」  と、まことに漠然としているが、幕府にとっては、罪状なんかなんでもよかったのであろう。  斉昭はやむなく、江戸駒込の屋敷に閉じこもっている。盛夏でも戸障子を閉めきって、麻の裃《かみしも》を着て、終日厳然と端座して読書にすごす。やるとなったら徹底している。十一月には、謹慎は解かれたものの、なお藩政への参与を禁じられていた。つまり隠居は続行中である。  その髀肉《ひにく》の嘆をかこっている斉昭に、阿部正弘がわざわざ一書を送ったのである。それも超攘夷論者の斉昭を刺戟するに十分な内容をもったものであった。今日の言葉に翻訳するとこうである。 「今や異国船撃攘の令を発しても、必勝を期すことはできぬ。もし勝てぬなら、日本国の恥辱となるだけであろう。日本の小さな船では異国の大船にたいして抗戦することはできないのみならず、第一に異国船によって江戸近海の通路を絶たれ、糧食欠乏におちいるのみである。よって堅牢な軍艦を製造し、海岸防備を厳にしなくてはならない。これが今日の急務である。いかが考えられるや」  もちろん、攘夷論でコチコチの斉昭が髪を逆立てて怒ることは承知である。思慮ぶかい正弘は、猛烈な反対意見を予期して、ただ斉昭におのが存在を十分に知らしめ意識させるためにこの手紙を送った。  結果は正弘の思うとおりに運んだ。猛反対の返事がかえってきた。老中何するものぞ、と正面から噛みついてきた。政治的野心でおのれを奮いたたせておかなければ生きている気のしない斉昭が、なお健在であることがそれで証明された。そしてその後も、何通かの書簡のやりとりがあった。  阿部はかつて斉昭を「獅子」にたとえたことがある。ほめ言葉ととれるが、裏に複雑なニューアンスがこめられている。 「獅子を怒らせると、荒れくるい咆えたて、人を傷つける。だが、その獅子をなだめる方法がある。それは毬《まり》を投げてやることだ。毬はころころころがる。獅子は怒って噛みついたりするが、毬はころがるばかり。ついに獅子は根負けして怒りを忘れ、こんどは一日中毬をおもちゃにして遊び暮らすようになる」  阿部はたしかに斉昭の人となりを見ぬいている。  こうして�獅子�がいぜんやる気まんまんであることを確認した上で正弘は大事なことをもちだした。深謀遠慮の老中の真の狙いはそこにあった。 七郎麿、一橋家へ  それは弘化四年(一八四七)八月、七郎麿の数え十一歳のときである。ついでにいえば、佃島の寄せ場で大手柄をたてたことで十番組の頭取新門辰五郎が、江戸きっての大親分の名声を獲得したころでもある。  阿部正弘は水戸家の付家老中山備後守を屋敷によんで、 「このたび一橋|昌丸《まさまる》君病い重ければ、もし不諱《ふき》にのぞむ節は、水戸の松平七郎麿君をもってその後とせらるべしとの内密の台慮なり。ただし右相続のことはなお極秘とし、ただなんとなく中納言殿(斉昭)の旨をもうかがいし上、七郎麿君のすみやかに出府あるようとり計うべし」  といった。内密とはいえ「台慮」すなわち十二代将軍|家慶《いえよし》の命令である。  実をいえば、一橋家は弘化四年五月に慶寿《よしひさ》が死に、そのあとを尾張家から昌丸がついだが、この若君も七月十六日に病死してしまっているのである。しかも将軍家をはじめ尾張・紀伊の両家にも、田安家にも適当な養子候補者がいない。かつ清水家はいま空家《くうけ》である。それで一橋家の後継者問題で、正弘はほとほと困りぬいていた。  それを知らぬ中山家老は、斉昭が「七郎麿はどこへも養子にやらぬ。世子の控えにしておきたい」とつねづねいっていた言葉を想いだした。それで、 「はてはて七郎麿さまにかぎりたることでございましょうか。ほかの公子にてもよろしいのでしょうか」  と念を押した。万が一にも、斉昭がこの養子の件を断るようなことがあったなら、と余計な心配をめぐらしたのである。  阿部正弘は、書簡の交換で斉昭の野心を見ぬいているから、なんらの危惧をいだいていない。 「深き思召《おぼしめ》しもあれば、この話はかならず七郎麿君にかぎることなり」  とはっきりといった。  それはもう正弘の読みのとおりになった。斉昭は、備後守から老女中川をへてもたらされた「内密の台慮」の話を聞くと、ただちに受諾する。阿部の意図も素早く見ぬいた。老中は将軍の跡つぎの有力候補に七郎麿をノミネートしたいといっているのであると。  しかし、そこは一筋縄ではいかぬ狸である。嬉しそうな顔はいっさいみせなかった。 「ウム、台命とあらば背き難しだ」  といい、そうしてこうつけ加えた。 「隠居の毎日は退屈なものよ。いくらか慰めになるかもしれん。七郎をすぐにも江戸へよび寄せよ」  そうとぼけながら、稀代の政治好きの脳漿のなかの計算機は、ものすごい勢いで答えをはじきだしていたかもしれない。隠居のつれづれに、すでになんどか検討していたことの再確認でもある。  将軍家慶は健康ではない。長生きしそうにない。その世子の家定ときたら虚弱体質そのものである。一人前の男子でなく、生理も特異で、女性とまじわれないという噂がある。後継者をつくれぬどころか、おそらくは短命で生涯を終るに違いない。そこで話は必然的に養子ということになるが、慣例として、これまでは水戸をのぞく御三家のほか、御三卿からえらばれてきた。尾張は養子を他家から迎えたばかり、紀州も清水家からの養子でやっと支えている。このため清水家は空家となった。田安家は当主が元服したばかり……。  わが子のなかでも例外的な資質をもった七郎麿が、水戸家から、例外中の例外として、ひょっとしたら〈将軍になるかもしれない〉の思いが、斉昭の胸中にはげしく渦まいた。新しい時代がいまや例外を要望しているのではないかと。  阿部正弘の斉昭接近が、そこまで見越してのものであったのであろうか。弘化年間に入ってからやたらにやかましくなった国防問題に対処すべく、いまのところ鳴りをひそめてはいるが、やはり一方の雄である斉昭の歓心をえておきたい。阿部の接近はそうした政治的な魂胆によるものであったに違いない。要は斉昭の長所たる胆力と人気を借りたいのである。狙いはあくまでおやじどのであり、まだ十歳そこそこの七男坊のほうになんかなかった。正弘がわずかに知っているのは、斉昭がこの少年に奇妙なくらい期待をかけているらしい、という風聞だけである。  いずれにしても七郎麿に思いもかけない機会が訪れたことになる。将軍にはいちばん可能性の少ない水戸家の、それも七男坊から、今いちばん可能性のある一橋家の当主となる。まだ、そんなことをぜんぜん知らされない七郎麿が、江戸の父からの命令であわてて馬上ゆたかに出府してきたのは、弘化四年八月十八日のことである。  同年九月一日、正式の台旨により松平七郎麿は一橋家を相続した。名を徳川七郎麿と改めた。石高は十万石である。といっても、これは幕府の賄《まかない》料にちかくて、幕府がこれを管理する。また、家臣も幕府からのいわば出向のものばかり。  一橋家だけではなく、三卿家は純粋な意味での直属の家来はもっていない。法制上は将軍家の家族ということなのである。  七郎麿すなわち徳川慶喜が、江戸最後の侠客ともいえる新門辰五郎を重用し、自分の身辺の私設護衛役としたわけは、そこにある。直接に警護する家臣が少なすぎる。これはのちの話ではあるが……。  十二月一日、元服。江戸城に登って将軍家慶に挨拶をする。家慶は、なぜかまだみぬうちから七郎麿へ親愛の情をよせていたが、親しく対面したのちは「七郎麿は、初之丞(故一橋慶昌、家慶の実子)によく似ている」とますますその情愛を厚くする。  七郎麿は従三位、左近衛《さこんえの》中将に任ぜられ、刑部《ぎようぶ》卿と称せられる。そして家慶の名の一字を賜って名を慶喜《よしのぶ》と改めた。水戸の暴れん坊はいっぺんに立派になった。  斉昭は満面に笑みをうかべて機嫌をすこぶるよくしている。いまでこそ謹慎中の身ながら、こうなれば、いつの日にか将軍の実父として天下の政治をみることができるかもしれない。江戸城はずっと手のとどかない聖地であったが、そこにのりこむことのできる日がぐんと近づいた想いなのである。明るい未来を想い描けば相好もおのずと崩れようというものである。  ときに斉昭は四十八歳である。 [#改ページ]   黒船が来た 奇しき出会い  弘化元年、すでにふれたようにオランダ国王が、イギリス対清国の阿片戦争の経過およびそれにともなう前後の情勢を知らせ、英米あるいはロシア、フランスといった列強の勢いが、やがて日本に及んでここに一大国難を生ずる恐れありと、親切にも知らせてきた年である。  同じ弘化元年に、仙台の人斎藤竹堂が『鴉片《あへん》始末』一巻をだし、多くの知識人のあいだでこの本が評判となった。清国で起ったことは、やがて日本にも及ぶであろう。そのときの恐怖が心ある人の心臓をつかんでしめつけている。  けれども、いっぽうにオランダ国王のせつせつたる忠告を一笑に付し、『鴉片始末』を狂人の妄想とする空気もなかったわけではない。しかも大騒ぎしたのに一年たち、二年たち、四年、五年たっても異国船はこなかった。弘化元年の騒動は嘘みたいである。幕府のなかに「それみろ、あんなことはオランダのおどかしにすぎぬ」という信念を強めるものが多くなる。  攘夷論の権化である徳川斉昭も、阿部正弘からオランダ国王の手紙を示されて、なんども読み返し、要すれば「お為ごかしのいらざる世話」と笑いとばした。 「皇朝は一小国にても、人民衆多くかつ忠信義勇|剛僻《ごうへき》の性情に候えば、無理に襲来戦争にては、利運すること能わず」  つまり日本に戦争をしかけては、忠勇なる日本人を相手に勝ち目がないから、開国がよき知恵などと、親切ごかしに口説いてきただけである、と結論した。  この水戸烈公の言葉はたちまちに下々にまで伝播する。いっときの緊張感は失せて、またまたのんびりとした空気だけが日本を蔽った。年号は嘉永に変った。  まこと悠揚とした江戸の春である。  江戸いちばんの盛り場の浅草では——観音堂のうしろの奥山はその日もいつもの賑わいをみせている。つきあたりにならんだ楊弓矢場では、きれいでお侠《きやん》な矢がすり姿の娘たちが、客を呼びこむ声を張りあっている。それから西のほうにはずらりと常小屋があり、相変らず活人形とか熊娘とかを見世物にして押すな押すなの客である。  三社権現のうしろの念仏堂では、これまた例によって、声自慢のものが伏鉦《ふせかね》をかんかん叩いて調子をつけて念仏を歌っている。それをとりまいて念仏信者でもない連中が大勢集まって、鉦の調子のよい音に合わせて首をふりふり歌を聞いていた。  伝法院の庭から真西の方角、一面に青|田圃《たんぼ》がひろがり、一丁ほどで東本願寺の東門に達する道がとおっている。その道の、伝法院の広い庭の切れるあたりに門が一つあって、その門を新門という。その新門のきわにこざっぱりとした大きな家が一軒ある。書くまでもなくそこに住まっているのが十番組の頭取辰五郎である。ちょうど新門を護る形で家構えがある。それで新門辰五郎とよばれるようになっている。  家に入れば広い土間、壁には提灯、鳶口、掛矢《かけや》、梯子がずらりとかけられている。龍吐水が十台近くならべられ、正面の座敷には堂々たる纏がうやうやしく飾られているのをみると、大ていの人は気圧《けお》された気分になる。でも、そこは江戸ッ子一流のざっくばらんさで、なんどか訪れれば至極居ごこちのよさが感じられてくる。  こうして嘉永四年(一八五一)春を迎える。辰五郎は五十歳を越えて、いっそう男を磨いて堂々たる貫禄を示す親分となっている。  観音様を厚く信仰した辰五郎は、親分としてみんなに立てられながら、博奕《ばくち》をしなかった。観音様に護っていただいているかぎり、それだけの人間らしい人間でなくてはならないと、行ないを慎んだのである。そして観音様に護られているからと、死生の巷をも平然として往来し、少しも恐るるところがない。  その日、辰五郎は下谷の稲荷町にはじめた寄席小屋に、客の入りはどんなものかと、ぶらりと姿をみせた。なかなかの賑わいに気をよくして楽屋で講釈師相手に一服していると、なにか客席がざわざわと騒がしくなった。子分のひとり聞きこみの半六が、 「とんだ酔っぱらいがおりやしてね。二人連れの浅黄裏《あさぎうら》の野郎で、これがしつこくくだをまいていやすんで」  と長いアゴをさしのばして報告した。辰五郎は、はじめのうちは腹の虫を殺していたが、いつまでたっても静かにならないので、立ち上った。「どうかお静かに願います」と客席に姿をみせて頼んだが、ぜんぜんきかない。「静かにしろとはなんだ、静かにしようとすまいと勝手だ。ぐずぐずぬかすな」と、ますます居丈高になる。ごちゃごちゃ言い合っているよりはと、とうとう二人の侍をひきずりだして、半六に手伝わせて稲荷前のどぶへ叩きこんでしまったのである。  ところがこれが大問題となった。  古老の語った想い出ばなしが残っている。 「この二人っていうのが、御三卿一橋さんの家来だったんで、事が面倒になっちまった。仕事師のくせに手向うとは不埒《ふらち》ということで、罪人同様にしょっぴかれたのは当時あたりまえの成りゆきで……。縛られ、引きすえられたのは裏庭でござんした。そして、芝居によくあるじゃありませんか、白塗りの殿さまが庭下駄をつっかけて歩み寄る。そのお手には抜身をひっ下げて、 『憎き奴、そこへ直れ』  と、型通りにきた。が、このとき、辰五郎は少しも騒がず、すっぱりやんなせえと胸を張ったてんだ。  ここんところで馬鹿殿さまならカッとくるんだが、時の一橋さんはご利発の噂高い慶喜公。さすがは仁侠で名ある男よ、とお気に召し、以後すっかりご贔屓になったもんでござんしたな」  裏庭にひきだされた辰五郎がきっぱりと、 「あっしは浅草十番頭、を組の当番(纏のこと)をあずかって、観音様と五カ町の町内と店々《たなだな》をうけもっている町火消でござんす。将軍御三卿も大事だろうが、町の人びとに火の心配なく、夜々安心して眠ってもらう、その商いも軽い事じゃねえ」  と啖呵のひとつもきった。  しかし想像をふくらませるにしても、「そこへ直れ」と抜身をひっさげて白面の貴公子慶喜がでてきたとするのは、少々殺伐すぎる。やはりここは屈強の家来が刀をぬいて、とするのが穏当ではあるまいか。  平岡円四郎、名は方中と書いてケタチと読む慶喜お気に入りの家来がいる。慶喜より五歳年が上。幕臣岡本近江守の四男で、下谷に生まれた。貧乏旗本の平岡家の養子となり、幕閣に命ぜられて一橋家へ派遣されている。この男が辰五郎につめ寄った。そばで側用人の中根長十郎がおろおろしている。 「平岡円四郎と申す。覚悟はいいか」  辰五郎は細い切れ長の目をちょっとひらいて、刀をさげた円四郎を仰ぎ見た。とたんに思わず吹きだした。大きな才槌頭、円四郎と名のったが顔は駒下駄のようにほんとうに真四角である。それに太い眉毛は鼻緒そのもの。これでは笑うなというほうが無理である。 「円四郎よ、刀をおさめよ。刀を前に笑うとは、サムライ以上にあっぱれな度胸の男、さすがに火消しの頭だ」  とかいって、慶喜がとめた……。  いずれにせよ、慶喜と辰五郎とは、これが最初の出会いとなったのである。慶喜は十五歳、年若い貴公子である。世なれた辰五郎の目にどんなふうに映じたものか。たしかに世俗の言葉でいえば、眸と鼻筋がまぶしいほどにすがすがしく、あたりを鎮めるような気稟《きひん》にみちているようにみえる。といってそれで人間の内容がわかるというものでもない。人生五十年の五十をすぎた老江戸ッ子が、いっぺんに惚れこんでしまうほどの人なみはずれた言動を示した、とするのはやはり無理がある。  古老の言にあるように、慶喜のほうがスパッと竹を割ったような老侠客に大いに魅かれてしまい、贔屓にした、とみるほうが正しかろう。要するに辰五郎の気ッ風のよさにほれこんだ。幼少のころから際立っていたずらっ子であった慶喜には、大名の子でありながら、いかにも江戸ッ子的なスカッとした勇み肌を好む気質があったのかもしれない。  ともかくもこれを機に、辰五郎は一橋家へ出入りするようになる。 戦さする勇気がない  三浦半島の浦賀は江戸時代には港町として知られ、江戸湾(東京湾)への入口であるということから、幕府はここに奉行所をおいて出入りの船をきびしく監視している。  嘉永六年(一八五三)六月三日〈太陽暦の七月十二日〉午後五時ちかく、この浦賀の鴨居村の沖合いに四隻の見知らぬ大船が接近してきた。M・C・ペリー提督がひきいるアメリカ東インド艦隊の砲艦サスケハナ以下である。  洋上に十隻ほどの日本漁船があったが、この遠来の客の姿を発見すると、怪物でもみたようにあわてふためいて海岸のほうへ漕ぎ逃げていった。  このときから、泰平の夢は破れて日本に幕末動乱の時代がはじまるのである。  アメリカのペリー提督派遣の目的は、鎖国から開国へと、日本に国策の変更を求めるためのものである。アメリカ大統領のサインのある徳川将軍あての手紙は、かなり長文のものであるが、その内容は、要するに、 「余が強力なる艦隊をもってペリー提督を派遣し、陛下(将軍)の有名なる江戸市を訪問せしめたる唯一の目的は、つぎのごとし。すなわち友好・通商、薪水と食糧との供給、および難破船員の保護これなり」  というものである。  ところが鎖国日本では、この異国の書簡をうけとるべきかどうかが、まず大問題なのである。浦賀奉行戸田氏栄は、これは一大事、一刻の猶予もならずと、一書をしたため、与力香山栄佐衛門に江戸表へとどけよと命ずる。栄佐衛門は馬に鞭をくれ江戸に走った。  その江戸表では、実はペリー来航について事前に承知していた。というのも、アメリカ政府がオランダと事前に連絡をとり、長崎のオランダ商館長に通商・供給の便宜をはかってもらいたいという依頼をしてきており、オランダは商館長をとおしてそのことを幕府に連絡している。それも合計六回におよんでいる。  いちばん早いのは嘉永三年六月。ペリー提督の名を知らせたのは三回目の通報で、嘉永五年のもの。さらには直前の嘉永六年五月には、ペリー艦隊の行動から、ひきいる軍艦の細かいデータまでをオランダは幕府に知らせてきている。  それとともに、このさい日蘭条約を結んでしまうことが、ペリー来航によってひき起される危機から脱出できる唯一の道である、と再度にわたる勧告もしてきていた。  しかし幕府は、この緊急情報をもただ聞きおくだけで、何の対策もたてようとはしなかった。前回のオランダ国王親書のときのように、余計なお世話だ、しつこいな、ぐらいに軽視した。対策をたてねばならないのではないか、と評定でもひらこうとすれば、 「とんだ物好きな人よ」  と、衆議はただ笑いとばすだけである。事を決する緊迫した雰囲気などまったくない。  それだけになおのこと、六月四日、浦賀からの報告をうけたときの幕閣の周章狼狽ぶりはひどすぎた。ペリーの強硬な「砲艦外交」という現実にぶち当ってみると、いまさらなすべき策のあろうはずもない。あわてて会議をしばしばひらいてみるが、老中や若年寄のだれの頭にも名案の浮かびようがない。  要求をはねつけるとすれば、一戦を覚悟するほかはない。が、近代兵器を誇るペリー艦隊に対抗できる武力など整備されていないことは、だれの目にも明らかである。その上に阿片戦争での清国の屈辱の教訓をわずかながらでも知っている。オランダとよく相談しておけばよかったと思っても、あとの祭りである。幕府の会議は字義どおり踊るだけ踊った。  とりあえず、阿部正弘と老中たち(長岡藩主牧野|忠雅《ただまさ》、西尾藩主松平|乗全《のりやす》、上田藩主松平|忠固《ただかた》など)は警備四藩(川越、忍《おし》、会津、彦根)に、大目付をとおして米艦隊にたいする警戒を厳重にすることを命じた。なおつけ加えて、 「軽挙妄動することの絶対にないように」  といいそえた。そして、四藩では兵力不足と佐倉、館山、勝山など江戸近辺の十一藩に出兵をうながし、沿岸の要衝を守らすことにした。とった処置はそれだけである。  当然のことながら、早馬につぐ早馬による浦賀からの相つぐ注進に、黒船来たると知らされた江戸市中は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなる。各所の陣屋から馬が走り飛脚がとびだす。福地櫻痴がその著『幕府衰亡論』に書いている。 「海岸警備を諸大名が命じられたが、二百有余年の泰平になれた悲しさ、武器兵具とて満足になく、かれらはあわてて商人に武器を買い集めさせ、屋敷出入りの口入れ屋に足軽従卒の斡旋《あつせん》を依頼し、とりあえず頭かずだけ揃えるなど前代未聞の醜態を演じた……」  醜態は幕閣や大名ばかりではない。旗本・御家人連中も、お家伝来の武具甲冑は天下泰平の間に紛失したり、質屋の質草に化けたりで、これまた大騒動。ふつうのときなら十両の具足が七、八十両にはねあがる。破れ具足でさえ二十両から三十両で売れた。  おかげで市中と近在の鍛冶屋も武具屋も大工も左官屋も大いそがしとなった。ひまになったのは芝居、見世物、料理茶屋、遊廓である。江戸市中はいまこそ稼ぎどきと飛びまわる連中と、町役人の制止もきかず逃げ支度をするものとでごった返した。おかげで車力と駕籠《かご》屋と船宿が大もうけ。そんな騒然たる状況下で「幕府ないないづくし」がひそかにささやかれている。 「御規則を破りたくない。御威光をおとしたくない。老中に外国人と応接できるものない。軍備が足りない。戦さする勇気がない。御体裁を失いたくない。老中の決心がつかない」  この情けなさを見越したように、ペリー艦隊は各艦から一隻ずつ武装したボートをおろして江戸湾内に入り、悠々と水深などの測量をはじめた。  六月五日、薩摩《さつま》、福井、熊本、長州などの大藩に出兵、江戸湾ぞいの要衝の警備を命じた上で、阿部正弘はあえて徳川斉昭の意見をただすことにした。七年前の往復書簡で、斉昭がすさまじいばかりの攘夷開戦の意見をよこしたことを、阿部は承知の上での危急存亡のさいの接触である。  たとえば七年前のその意見とは—— 「夷狄《いてき》は一疋も残らざるよう召捕り次第、打殺し、切殺し候よう、厳重お達し相なり候よう致したく候。……異国船防禦の儀は(国内戦争と違って)なんの益もこれなく候えば、せめて船、大砲などにてもとり候えば、少しは励みのためにも相なるべく候」  その豪気一点ばりの斉昭も、七年たって、事がいざ、現実になるにおよんで、強硬論ばかり唱えているわけにはいかないことを自覚した。といって、はっきりとした意見もない。阿部に答えている。 「いまと相なり候ては、打払いをよきばかりとは申しかね候。よろしく衆議をつくしてご決断あるべく候」  阿部正弘はとりあえずホッとする。言質《げんち》をとったの思いなのである。これで万が一にも攘夷論者に強硬な意見をつきつけられても、幕閣の決定は攘夷論のエース水戸の斉昭公のご意見にもとづく、といって矛先きをかわすことができる。  このときのものと伝えられる二人の和歌の応答が残されている。これが当時のエリートの心境が察せられて面白い。  寝てはさめ覚めては思ふ異国《ことくに》の   ことうき船のよるべいかにと  正弘  武士《もののふ》の道しととのふものならば   ねてもさめても何憂かるべし  斉昭  この五日、米艦隊に動きなし。その報告を聞いたとき、おそらく幕閣にあっては、ずるずる時をかせぐことで、事態が不意に好転したのかもしれないと、ひとりよがりの妄想にふけったことであろう。実はこの日は日曜日で、ペリーは安息日を重んじていた。 白刃一閃、敵将の首をとる  六月六日、米艦隊からの武装測量船がふたたびおろされ、湾内深く進んできた。幕閣の楽観は崩壊した。そればかりではなく蒸汽艦ミシシッピも錨をあげ、測量隊を援護するかのように、江戸湾に入ってきたのである。喨々《りようりよう》たる汽笛が止みまた鳴る。  香山栄佐衛門は浦賀沖の旗艦にのりつけてはげしく詰問する。 「なぜ湾内深く進むのか」 「交渉が破れたならば、来春はさらに大艦隊をもってきて天理にそむく貴国の罪を問わねばならぬ。いまはその準備、江戸と交通するに便利なところをさがしているまでのことである」  と、ペリーは参謀長を介していい放った。  この米艦侵入の知らせは、幕閣を震撼させた。戦争か否かの瀬戸際まで追いつめられたの想いである。折から征夷大将軍たる徳川家慶は重い病いで床に臥しており、幕閣はこれまでペリー艦隊の来日のことを将軍に秘していたが、もはやこれ以上は隠蔽しているわけにはいかないと衆議一決した。阿部伊勢守は将軍の側近に奏上のことを依頼する。  側近は将軍家慶の病間に入り、黒船来日の今日までのあらましを言上する。家慶は愕然として頭をようようにしてあげると、 「肩衣をもて。伊勢をよべ」  と息せきこんでいった。やがて阿部正弘はその枕頭に坐する。 「国家の大事ぞ。水戸(斉昭)によく相談せよ。処理を誤るな」  家慶は憂悶の色もこく、そういうとどうとばかりに伏す。熱がいちどにあがった。  これで老中阿部正弘の胆《はら》はきまった。もはやこれ以上の老中会議の議は無駄であるばかりか、有害そのものである。一戦すべく国防を充実しようにも財政力はまったくないにひとしい。つまり、かれと戦うことは、彼我の戦力に格段の差があり、結局は敗れて屈辱的な姿で国書をうけとることになるであろう。  ペリーは白旗二|旒《りゆう》を示し「これをあげて無条件降伏するもまたよし」といったとかいうではないか。  夜に入って、老中や若年寄一同を御用部屋に集め、阿部は最後の決断を示した。 「国法破りがたしといえども、社稷《しやしよく》また危うくすべからず。国書をこばんで戦端をひらくは一大事たらん。まげて国書をうけて、いったん米艦を退去せしめた上で、後図を策するのほかはあるまいと存ず」  だれにも異存のあろうはずはなかった。幕府の名誉も誇りも、大砲の威嚇の前にあっては、残念この上のないことながら投げすてるほかはない。  阿部はほかの老中とも語らって、日光東照宮の神君家康公へ使者を送り、黒船退散を祈願してもらうことをきめた。高家《こうけ》宮原義周が使いとなって白銀百枚をおさめるべくうやうやしく持参することになる。  この苦しきときの神頼みの知らせが、斉昭の耳に入る。さしたる策もないゆえよろしく評定にてきめよ、といったんは答えたもののおさまってはいなかった斉昭の腹の虫は、この報に、ふたたび強硬無比の攘夷論をよみがえらせて鳴きだした。 「なんという恥さらしのことを。いまさら神君に祈ってなんになるというのか。神風でも吹かせようというのか。祈願するための金があるならば、その金で鉄砲の薬玉でも買ったほうがよいではないか」  さらに八ツ当りしていう。 「だいたい早鐘を打ったり、火事装束で登城を命じたり、情けないことこのうえのない話だ。早鐘は女子供を驚かせただけであるし、この暑いときに、火事装束なんて着こんでは暑気あたりで倒れるのがおちじゃ」  斉昭の当るべからざる勢いが伝えられてきて、幕閣は根もとを揺さぶられる思いである。内憂外患とはこのことか。煽られて激烈な攘夷論が諸藩からふきあがるのを恐れた阿部は、翌七日、いそぎ駒込の水戸藩邸に斉昭をたずねると、おごそかな顔をして、 「登営して海防謀議に参与せよ」  という将軍家慶の命を伝えたのである。こうなっては城中に斉昭をよんでとりこんでしまおう、という苦肉の策である。  隠居中の斉昭は、よかろう、十年ぶりに陽の当る場所にでられると、大満悦となる。相好をすっかり崩しながら、  雲きりのへだつも晴れてさやかなる   月の光を仰ぐかしこさ  と、かねて用意の一首を朗々と詠じ、さらに秘蔵の甲冑を阿部に進ぜるといった喜びようを示すのである。  そして、そのすぐあとで「われに秘策あり」と、阿部が仰天するようなことを、斉昭はそっとささやいた。 「いいか、交渉するとみせかけ白刃一閃、敵将の首をとり、船も人も奪ってしまおうではないか。そうすれば難問一挙に解決のうえに、軍艦四隻が手に入り、積みこんである大砲もこちらのものとなる。どうだ、まさに一挙両得ではないか」  阿部はわれとわが耳を疑いながら、悪魔的な笑みをうかべ得意になっている斉昭に、きっぱりといった。 「いや、幕議はアメリカ大統領の親書のいったんうけとりを昨夜きめてある。今朝すでにして、使者は米艦に赴きてその旨を申し伝えたはずである。いまさら白刃一閃などとはとんでもないことでござる」  斉昭はみるみる不快の色を満面にうかばせたが、なんにもいわず、ぷいと横を向いた。 ただちに御出発相なりたく  六月九日、日本代表は、久里浜の応接館で、米大統領の親書正副二通とペリー自身が将軍にあてた書簡二通とを受領した。つづいて香山栄佐衛門が一書を米国側にひざまずいて渡した。米国側の通訳が「この紙はなにか」とたずねるのに、日本側通訳堀達之助が「受領書だ」と答えたのが、このおごそかな式のあいだにかわされた唯一の会話である。  翌十日の午後、アメリカの黒船四隻が突如としてなんの予告もなく、江戸湾深く進入してきた。小柴沖から羽田沖へと進み、夕暮れになって恫喝の大砲をいんいんと撃ち放った。  将軍家慶から賜った防暑薬をわけたりして、ひとまず大事がすんだあとホッとした、ゆるやかな時の流れるにまかせていた幕閣は、大地をゆるがす砲声に思わず飛びあがった。なにか出先きが不都合なことでもしでかしたのではないか。  なんの不都合のあったわけではなく、要はペリーがつむじを曲げたのである。日本の国書受領書を読んだペリーはいったんは至極満足したのであるが、書簡受領いたしたうえは「ただちに御出発相なりたく」と末尾に書かれていることに、ひどく気分を害した。さっさと帰れとはなんといういい草か。つぎの来日のために、この日本政府の傲慢とうぬぼれに決定的打撃を与えておく必要がある、とかれは確信し、あえてこの行動にでた。  そうとは知らぬ江戸八百八町は、尻に火のついたようにふたたび大騒動である。半鐘が急をつげて打ち鳴らされ、陣笠、火事羽織の武士が槍をさげ、銃をかついで右往左往する。往来の人びとの顔色もひとしく尋常ではない。  江戸市内には、いまでいう戒厳令が布かれる。各番所は警備を厳重に固められる。すべての武士には非常出陣の用意が命ぜられる。海岸線は芝や品川付近に藩邸をもつ諸大名によりいっそうの警固が命じられた。  こうなると、諸侯のなかには家族を領地に避難させる用意をはじめるものがでる。その噂がまたぱっとひろがって、江戸の町にはますます混乱の度が加わる。買いだめで物価はうなぎ登り、なかでも梅ぼしの値が倍になったのは非常食なのであろう。  老中、若年寄、大目付らは夜中にかかわらず、にわかに総登城。といってもただ雁首をならべるだけで妙案もなく、とにかく幕吏に命じ早船を飛ばして、不法をなじり、退去を願うほかはない。  やがてその返事がとどけられた。 「来春によき返事をもらえない場合には、品川沖に大艦隊をならべ、その趣きを本国に報じ、かつ大君にじきじきにお目にかからねばならぬことになろう。いまはそのときのための下見である。他意はない」  しかし、おどかしてはみたもののペリーのほうにも事情があるのである。アメリカ本国から失礼きわまることに幕府への贈答品が到着していなかったし、薪や水や食糧が欠乏しはじめている。それよりもなによりも、中国に長髪賊の乱がはじまっていて、在留米人の保護の必要が生じている。これ以上、日本にとどまって威嚇をつづけているわけにはいかなくなった。  こうして六月十二日、黒船四隻は錨をあげ、八百八町を雲煙の間ににらんで外洋に去っていく。戦さがないと知れば、恐ろしいもの見たさは人情である。江戸や近在の人びとは遠路と炎天をいとわず、よそいきの装《な》りをして黒船見物に足をのばした。  この日は風がなく、やむなくサスケハナが帆船サラトガを、ミシシッピが同じく帆船プリマスを曳航して走った。四隻がつながって滑るような快速で走りゆく様は、江戸ッ子たちのかつてみたことがない壮観である。沿道には湯茶や甘酒を売る店が多くならんだ。   三味線をひかずに江戸はから騒ぎ  当時の落首にいう大騒動の十日間が、やっと終ったのである。 サムライはだらしがない  浅草の新門辰五郎はこの十日間、東にヒステリーあれば行ってこれを鎮め、西に世をはかなむものあればかけつけて元気づけというふうに、猛暑をものともせず縄張りの町内をかけめぐり、てんてこ舞いの大活躍を毎日つづけていた。  子分千人を総動員して、いったん緩急あったときに備え、浅草寺のまわりに防火の壁をつくり、浅草や上野の町を灰燼に帰せしめないようにと時をおかずに見廻った。手に鳶口をもち、円に二つ引両《びきりよう》の法被《はつぴ》を着た辰五郎の姿をみると、町民はどれほどか気の休まる思いをしたものか。  火事場と喧嘩場で鍛えてきた辰五郎の土性ッ骨の太さは、危機となると際立って、いっそう見事に発揮される。なまじっかのサムライなんか足もとにも及ばない。若いころのようなぎらりとした凄みは影をひそめ、一見は好々爺の感じさえただよわしているが、それが頼もしさをぐんとましているのである。  辰五郎はまた、この変事のあいだじゅう一橋家に子分数十人を送りこんで警固にあたらせた。ふつうの大名家などと違って屈強の家臣団のいるわけではない一橋家は、とくに女衆は、力強くて実のある味方の来援を心から喜んで迎えた。新門の株はまず女たちからあがる。  慶喜と辰五郎が知り合ってまだそれほどの時がたっていないが、とんだ黒船騒ぎが二人の絆をいっぺんに強めたことになる。わが子というより早孫《はやまご》にも近いほど年齢が違うが、およそ貴公子らしくない少年を、なんどか会ううちに、辰五郎はひどく気にいるようになっている。  この若殿さまはおよそ大名の子らしくない育ち方をしている。まるで下町のガキのように、なんでも自分でするように鍛えられている。それが辰五郎にはたまげた話であり、愉快でもある。しかも、きびしい躾《しつけ》としてではなく、およそ身辺雑事でいちど見ると、自分のほうからこれを究めなくては納得しないという気質と、だんだんに知るにおよんで、さすがの辰五郎もひっくり返った。世にこんなに気さくなさばけた殿さまがいるもんなのか。 「とにかくなんでも自分でしたがるんだから、こっちは大迷惑なんだ」  とお気にいりの家臣のはずの駒下駄の平岡円四郎までが、迷惑そうにいう。 「文は会沢正志斎に学び、剣は雑賀八次郎、鉄砲は神発流の福地政次郎、弓は大和流の佐野四郎右衛門、馬術は新当流の久木直次郎に学んで、ぜんぶ一応はこなしておられる。それで十分だと思うのに、むしろそうした表芸より裏芸のほうが殿さんはずっと得意なんだから恐れいる」  自分でこしらえる味噌汁や漬けものの味付けから、飯の給仕のしかた、剃刀の研ぎかた、絵凧の作りかた、墨のすりかた、なんでも知らないということはない。それに女の裸体の克明な調べ方。いま猛稽古中なのは投網の打ちかたであるという。 「そうだ、親分、消し口の見分けかた、纏のふりかたも伝授してもらえまいか」  といわれたときには、辰五郎は思わず目を白黒させた。そのさわやかな貴公子慶喜が、拙者のいちばんの得意技は、知っていて何も知らないふりをして黙っていられることだ、と洒々《しやあしやあ》としていってのけるのを聞いたときには、辰五郎は薄気味悪くさえ感じたものである。  黒船が去って十日後の六月二十二日に、将軍家慶が「今後の政治は徳川斉昭と阿部正弘にゆだねる」と遺言して不帰の客となった。享年六十一。  上つかたの事情にはてんからうとい辰五郎の耳にも、一橋のお屋敷でささやかれている不景気な話が入ってくる。家慶には、慶喜を世子にしようという意思があった、というのである。智能の遅れた実子の家定にあきたらぬ将軍は、英明の評のある元気で健《すこ》やかな慶喜をこよなく愛していた。それでそれとなく「一橋を世嗣《よつぎ》に」と意思表示をしようとしたが、反水戸派(正確には反斉昭派)の猛反発を気づかった阿部正弘の切なる意見を聞き、 「そうか、まだ早いか」  と残念そうにいったのは、ついこの先日の、嘉永五年十二月のことという。  その家慶が、慶喜の後継についてなんの指示することもなく逝ってしまったのである。一橋家はもちろん駒込の水戸家までが、大黒柱を喪ったかのように気落ちし悲嘆した。  そのいきさつを一橋家の女中から知らされた辰五郎と聞きこみの半六は、隅田川で釣り落とした鯉の大きさをひたすら歎くように、大そうな地団駄を踏んだというのに、当の慶喜はどこ吹く風で一所懸命に庭で汗いっぱいに投網を稽古している。つぎの将軍に擬せられたということを、この若大将が承知していて知らん顔をしているのかどうかさえ、まったくうかがい知れぬ。サムライの世界とはシチ面倒くせえ、ややこしいもんだ、と辰五郎はあきれるばかりなのである。  月が変ってようやく秋風が立ちはじめたころ、久しぶりにたずねてきた辰五郎をつかまえると、将軍になりそこないの若大将がさっそくに、 「どうだ、親分。親分も妙案をひねりだして奉行所にとどけたか?」  と、冷やかすようにいった。  辰五郎にもすぐにピンとくるものがある。さる七月一日、幕府は、譜代であろうと外様《とざま》であろうとを問わず大名全員を召集し、アメリカ大統領の親書の訳文を渡し、いかに取扱うべきか意見書を提出することを命じた。そのさい、幕府の役人、諸藩士ないし一般市民であろうとよろしいから、なにかよい考えがあれば忌憚なく意見を建言せよ、と布告した。慶喜はそのことをいっているのである。 「親分がいつもいっているように、サムライはとんとだらしがなくなったようであるな。とどけられた報告によれば、諸大名の提出した意見はな、五十四藩中ではっきりと攘夷せよといったのがわずか八藩だ。これが情けないこの国の現状というものよ。開国説が十四藩。あわせて二十二藩がそれでも意見をいった。残りはみんな日和見主義ばかりでなんの意見もない。骨のないことおびただしい。で、江戸ッ子の親分なら、なにか胸のすくような妙案でも提出したのじゃないかと思ってよ……ウフフフ」  と慶喜がいう。  もちろん、辰五郎はそんな江戸城内の実情を知るはずはない。慶喜はさらにおっかないことをいった。 「福井藩主松平|慶永《よしなが》公の意見はこうだったというな。もしペリーと黒船を恐れて開国を許せば、それは幕府の祖法にそむくことだけに、諸大名から侮《あなど》りをうけ、へたをすると室町末期と同様の将軍権威の失墜すらまねきかねない。それゆえ、弱腰は禁物である。かならず拒絶すべし、とな。頭ごなしのご意見で、こりゃ堂々としている。立派である。いちいちごもっともだが、いまさらどうにもなるまい。攘夷などできるはずもない。黒船来航このかた将軍の権威はとっくに失墜しているな」  辰五郎にはなんのことやらちんぷんかんぷんである。いわんや半六においてをや。 「こちとらにそんなスパッとした知恵がありゃあ、子分三千を擁して大名になってまさあ」  と辰五郎は笑って、 「でもね、殿さん、あっしなんかはてんでだめだが、江戸ッ子のなかにはなかなかの知恵者もおりやしてね。これはたしかな筋から聞いた話でやすがね……」  と、ひと膝すすめて語りだす。  とにかく江戸ッ子の建白書は強硬論の攘夷一色にそめあげられていたのである。あんなに侮辱を蒙りながら恐れいって、日ごろいばっている役人どもの、腫《はれ》ものにさわるような意気地なしをみていられないとばかりに、主戦論が町奉行所の係りの与力の机のうえに山をなした。 「夜中に、毛唐の船の下の海底に、モグリを使って鉄の棒を何十本とおっ立てておく。干潮になると船の吃水がさがって、船底に鉄棒が突き立ってものの見事に沈めることができる、なんてのはどうでしょうかね」 「ハハハ、その卓見はだれの考案かな」 「吉原の遊女屋の因業《いんごう》なおやじのものなんでがすが、ま、だめでしょうな。と思えば、深川の材木問屋組合からこんな意見がでていやす」  寄席の経営者である辰五郎は、自身が講釈師になったつもりなのかもしれない。まったく、いきがけの駄賃とばかりにいい調子である。 「江戸湾の入口の水底に石をつめこんだ木柵をつくるっていうんです。味方の船がとおるときにゃ船路《ふなみち》をあけ、あとはぴたりと閉ざして賊船の通航を不可能にする。そこまではいいんでやんすが、あとに一行ついていた。なにとぞ、この木柵の製造にわれらが材木問屋の木材を使用されたし。……こりゃあ胴欲な余計なことでしたな」  初秋にしてはあたたかい日で、障子戸が開けてあって、やわらかい日射しが膝もとにまでとどいている。  このあとも、「江戸のことならあっしらに」とばかりに、辰五郎と、とくに半六が見聞のひろいところを披露《ひろう》する。深川で大工たちが車輪船というものを工夫して造ったが失敗。浅草の馬具師は水中を潜って敵船に接近する革の袋を考案したが、呼吸のかよう手段を考えずこれも失敗。……などなど。 「ま、江戸ッ子はサムライにまかしちゃおけないと、みんなして歯ぎしりをしているという図でござんしょうかね」  と辰五郎がいうと、 「実は、ですね」  と半六が突然長いアゴを辰五郎の肩ごしに突んだしていった。 「あっしも奮発して奉行所に意見書をおだししたんですがね」 「ホー、半どのにどんな名案があったというのかな」 「殿さん、およしなせえ。聞くに及びませんよ。どうせ半六の空っぽ頭においそれといい知恵が浮かぶわけがありませんや」 「でもね、頭《かしら》、あっしのは女攻めなんですぜ。新吉原を先陣にしやして、深川、亀井戸、品川、そのほか岡場所の女、矢場の女、なんなら夜鷹までぜんぶ集めて、メリケンの船に送りこむんでやす。そいで毛唐が女でめろめろになっているところを、あっしら鳶と、力の強い相撲とりが船にのりこんでいって……」  半六の長談議を聞きながら、慶喜はほかのことを考えている。  知らしむべからず、よらしむべし、を二百六十年間の信条としてきた幕府としては、まことに思いきった手段に訴えたもの。それだけ策に窮しぬいている証しであるが、大小の諸侯すべてがいちいち幕政に口をはさむことができるという前例を、こんどのことでつくったのは明らかである。江戸ッ子たちの幕閣頼むにたらずの怪気焔をみよ、である。そしてこのことが、 〈やがては倒幕の動きともなる幕政批判の、そのきっかけをつくったことになる。その事実は否めないのではないか〉  さきが見え、自得する才能にたけている慶喜の顔には、朗らかに語る老侠客のそれとは異なり、ある種の憂色がうかんでいる。間もなく米艦隊がまた来航する。こんどはぬきさしならぬ決断を幕閣はせまられる。いい逃れなどできないのである。しかし、そんな憂愁をみせないように、若大将は微笑をたやさずに辰五郎に向けていた。  その、翌春再来との予定であったペリーの艦隊が、こんどは七隻におよぶ大艦隊で浦賀沖をさっさと通過し、江戸市中を望見することのできる羽田沖まで進入してきたのは、年も明けてすぐの安政元年(一八五四)一月十六日である。  イギリス、フランス、ロシアなど列強が、アメリカ独自の対日交渉のさきを越し、妨害にでるらしいことを知って、ペリーは予定を早めたのである。  幕府は当然のことながらまたしてもあわてた。浦賀への回航を要請したが承知されるはずもなく、ペリーは前回にもまして強圧的である。艦隊泊地に近い横浜を交渉の場所にせよと強引に主張する。抗弁する余地もなく、幕府はただ押し切られるばかりとなる。  談判は二月五日からはじまり、三週間で終った。一方的に押しまくられて、三月三日、十二条にわたる日米和親条約が締結される。 「下田、箱館の二港を開港し、薪水・食糧・石炭を供給する」 「右の二港周辺にアメリカ市民の遊歩区域を設ける」 「下田に外交官の駐在を認める」  完全な開国ではないものの、日本国がはじめて外国と近代的形式をもった条約を結んだのであり、幕府の祖法として長く堅持してきた鎖国政策がついに打ち破られた、とだれの目にも映じたのである。  さらに八月二十三日には、日英和親条約が、十二月二十一日には日露和親条約が調印される。下田、箱館の開港がきまった。  歴史は大きく転回した。 [#改ページ]   山あり谷あり 英明な人を跡つぎに  和親条約が結ばれた翌年、安政二年十月二日、夜の十時、江戸に大地震が起った。あたかも幕府の瓦壊を象徴するかのように。  死者は万を超えた。全壊家屋一万四三四六軒。とくに浅草の新吉原の被害は甚大である。廓内はすべて焼失、六百三十人におよぶ娼妓が焼死した。浅草寺の地内でも、馬道あたりから発した火があたりをなめつくし、十八寺院が町家とともに灰になった。  十番組が全力をあげて消火につとめても、それは詮ないこととなる。田町、下瓦町、聖天町、猿若町から花川戸まで、ことごとく灰になった。それでも辰五郎が心からほっとしたのは、浅草寺本堂と仁王門、風神雷神門の三つが焼けることなく残ったことである。それがもう奇蹟といえるほどの大地震と火災であったのである。  火災がおさまったあとには、ガレキの整理、怪我人の手当てと大いそがし。さらには「御|仁恵《じんけい》御|救《すくい》小屋|施行《せぎよう》」といって、被災者や難民を救うための小屋が篤志家によって江戸市中ほうぼうにつくられる。  浅草寺山内一統には、もちろん「を組」が一門をあげて出ばって御救い小屋の施行をしている。 「米揚げざるで白米一升ずつ施行」  と看板をかかげ、浅草・上野界隈の人びとの飢えを救った。寝るところもない人びとのための掘立小屋もつくられる。 「さあ、ここからが江戸ッ子の意地のみせどころよ。くじけちゃならねえぞ」  と辰五郎たちは廃墟から立ち上った。  しかし、立ち上れない人もいた。同月九日、長いあいだの疲労もあり体調をくずした阿部正弘は、佐倉藩十一万石の藩主堀田|正睦《まさよし》に首席老中の座を譲った。苦労人だけにその心労も大きかった。阿部は内外ともの難局処理の大任を、「西洋かぶれ」(蘭癖家といった)の堀田にまかせる道をえらんだのである。  このことはいままで阿部と緊密な連携をとってきた徳川斉昭にとっては、どうにも理解のつかぬ裏切りのように思えたのである。自慢の子一橋慶喜を将軍の跡つぎに仕立てるかれの夢が、これでははるかに遠のいてしまうではないか。斉昭は西洋かぶれの堀田が嫌いである。 「あの蘭癖は危険きわまる。その知識はもの好き程度よ。夷人の餌《え》じきになるだけだ」  と、地震で藤田東湖という右腕とも頼む家臣を死なせた悲しみもあって、斉昭はしきりにぼやきつづけている。  安政三年七月二十一日、和親条約にしたがって米国総領事ハリスが下田に赴任してきた。ハリスは星条旗(ただし星印がまだ三十一しかない)をあげ、玉泉寺を総領事館とし、通訳官ヒュースケンを介して、幕府との交渉をはじめる。ハリスは江戸に公使館を設置せよといい、幕府はそれは困るといい、一年以上も下田と江戸の間で話が大もめにもめた。  そうこうしているとき、安政四年六月十七日、かんじんの阿部正弘が死んだ。三十九歳というだれもが痛惜する若さである。  そしてそのほぼ一カ月後の七月二十三日に、堀田老中によって斉昭は、 「爾後海防および軍制改革に参与するを免ず」  と幕政から遠ざけられてしまう。  それというのも、将軍家定に謁見させよ、国書を直接に奉呈したい、というハリスの強要を、堀田が認める決心をしたからである。斉昭一派の反対を見越し、物騒な攘夷派を刺激することを十分に承知しての強気の処置である。斉昭は邪魔な存在でしかない。  十月二十一日、金モールの大礼服に身をかためたハリスが江戸城に登った。朝鮮使節やオランダの商館長《カピタン》を別にすれば、鎖国いらいかつてない外国使臣の登城である。物見高い江戸ッ子は大名なみのハリスの立派な行列を見物した。  その一方で、十月十四日、初の江戸入りで、品川から宿所の九段下の蕃書調所まで行列をつらねてやってきたとき、見物人は十八万五千人とハリスのほうも計算している。 「距離が七マイル、一人分二フィート、それが五重になっていた」  ハリスの手記である。この見物のなかに、好奇心旺盛な辰五郎や半六や、辰五郎の娘お芳の姿があったか、これははっきりしない。が、当然あったにちがいない。  十月二十六日、堀田正睦をはじめとする幕閣列座の前で、ハリスは有名な外交演説をぶった。その要旨とするところは、 「日本は危機に立っている。英仏露の国々は、みな日本に通商を求めようとしている。なかでもイギリスは�五十隻の大艦隊をもって江戸湾に入り、その要求の一は使臣を江戸に常駐させるにある。もし欲するところを得ずんば一戦あらんのみ�と息まいている。まだ来ないのは、いま、清国との戦争がすまないからである。すめば、かならず来る。フランスもまた同じである。だが、もし日本国がわがアメリカと同盟せられるならば、余は貴国のために、英仏両国の提督に告ぐるであろう。�わが政府はすでに日本と約を結べり、諸国もまたかくのごとくせられよ�と。しからばかれらは決して日本国を脅迫せざるべし」  ハリスの演説は、通訳つきで、とうとうと六時間におよんだ。世界情勢の解説でもある情理をつくしたこの熱弁に、堀田老中以下の蘭癖家はもとより、こちこちの攘夷論者もいささか心境に変化をきたさないわけにはいかなかった。  こうして幕府は、ハリスの勢いにもおされて、同年十二月二日に、諸藩のなかにかなりの反対意見があったにもかかわらず、下田奉行井上|清直《きよなお》、目付岩瀬|忠震《ただなり》を全権委員に任命し、ハリスと通商条約の内容を協議させることにした。いやもう従来から守りきたった政策の大転回で、幕閣は条約締結と江戸に公使駐留を許すことを決意したのである。  ハリスと幕府側の会談は十三回におよんだ。  そして安政五年(一八五八)正月十二日に全条約案を議了した。  条約は十四カ条からなっている。その主なところはつぎの点である。 「下田、箱館のほかに、横浜、長崎、新潟、兵庫のあわせて六港を順次開港し、江戸と大坂を開市とする」 「両国の首都に外交代表を、開港場に領事を、それぞれ駐在させる」  このあと当然、英・仏・露・オランダも同じような条約の締結をせまってくるにきまっている。事は重大なこととなった。そこでこのとき、尾張藩主や仙台藩主などから、京都の朝廷に奏上して、事前に正式調印の勅裁を仰いでおくべきである、との主張が強くうちだされたのである。しかも妙に説得的であって、幕府はこれを容れた。  これがのちの倒幕論をひき起す遠因となるのである。幕府をひらいていらい、いかなる政策をたて実行するにさいしても、幕閣が朝廷の許しなどを求めたことはない。あとでせいぜい報告するぐらいのこと。それがこのたびだけは違った。幕閣は完全にお手上げの弱味をさらけだした。京都の公卿たちに政治に参加できる自信をすら与えてしまった。  がぜん京都に、攘夷派も開国派も、視線を集中していく。勅許をめぐって舞台は京へ自然に移っていったといえようか。腰抜けの条約調印に反対する攘夷論者は、それならばと京都に手をまわしてこれを阻止しようとする。先頭に立つのは水戸斉昭。いまの関白|鷹司政通《たかつかさまさみち》の奥方は、斉昭の姉である。斉昭はこの線を通じて朝廷への手入れを怠らずにつづけている。諸藩の有志もまたさまざまな手をつかって条約締結の調印阻止の運動を京都に向かってこころみる。  幕府も真剣になった。 「日本の、いってみれば精神的支柱である京都の帝《みかど》の勅許をえてくるから、正式調印は二カ月のばして三月五日まで待ってもらいたい」  とハリスを説得し、堀田正睦がみずから特使となって上洛することにした。かれはこのときはまだ、わざわざ上洛して自分がくわしく事情を説明すれば、天皇の勅許はかんたんにおりるものと思っている。  ところが、このとき条約勅許問題と密接かつ微妙にからんで、これまで暗闘がつづけられてきたもうひとつ重大なことが、いよいよ顕在化してきたのである。将軍家定の跡つぎをきめておく、つまり継嗣《けいし》問題である。  条約勅許問題は、明日の日本の方針をきめる天下の大事。したがって声高にだれもが憚ることなく論じた。たいして将軍継嗣問題は徳川家一個のきわめて私的な問題である。これまでは、幕府に遠慮してひそひそ話であったものが、老中堀田正睦が上京するのを契機に、突如外様大名もまじえて大声に論じられだしたのである。 「公」と「私」の二大問題がどうして複雑にからみ合うのか。それを理解するのは容易ではない。ところが幸いに福井藩主松平|慶永《よしなが》が堀田正睦の諮問にたいして提出した答申書がある。これをみると、まことにわかりやすい。  松平慶永は、このときにはもうかつて提議した強硬な攘夷論を捨てて、開明的にこう論じている。 「現下の世界情勢からみると、鎖国に拘泥する理由はなくなった。清国の阿片戦争の惨敗を後事の戒めとし、みずから進んで諸外国と貿易し、国を富ませなければならない。強兵の基《もとい》は富国にあり、富国の道は貿易にある。そのためには政治の変革が必要である、内政改革が必要である。すなわち、英明な継嗣を立てること、天下の人材を登用すること、兵制を改革することが不可欠なのである」  つまり慶永は日本の明日のために「英明な継嗣」つまり頼りない将軍家定の、後継者を一日も早く立てよ、と強調している。「公」と「私」がいっしょになって論ぜられるのは、これに代表される声なのである。  家定に少しでもきびしくものをいうと、この征夷大将軍はオイオイ泣きだす。一人前の男性として認められないような将軍にかえて、いまこそ英明なる君主を立て、その下に一丸となって幕藩体制を強化、外圧に当らねばならないという声なのである。  では、「英明な継嗣」にふさわしい人はいるのか。  ここに、一橋慶喜がいる。幼少のころより「英明ニシテスコブル胆略アリ」といわれてすでに久しい。しかも将軍候補次席の御三卿の一をついでいる。血筋には文句のつけようもない。これ以上の人物はいないではないか。公卿の一条忠香の養女と結婚し、京都の朝廷のおぼえもよろしく、そのことも諸大名には頼もしくみられている。  いまや、条約案の議了をまって、松平慶永をはじめ、薩摩の島津|斉彬《なりあきら》、土佐の山内豊信、宇和島の伊達|宗城《むねなり》、徳島の蜂須賀|斉裕《なりひろ》ら、徳川家門と外様雄藩の藩主がずらりと顔をそろえて、旗幟《きし》鮮明に一橋慶喜をかつぎだした。さあさあさあと幕閣を攻めたてはじめたのである。川路|聖謨《としあきら》、永井|尚志《なおむね》という開明派の幕臣も、慶喜への肩入れを明らかにしている。  しかも、京の朝廷にまで運動をすでに開始している。京へ出発前の堀田正睦をたずねて、松平慶永は「京都へいけば、将軍継嗣問題について朝廷からきっと話があるであろう。それゆえに、あらかじめ幕閣の方針をきめておいたほうがよろしからん」と、将軍の跡つぎは慶喜と、さっさときめていったほうがいいぞ、といわんばかりに迫っている。  かれらは、こうなれば京の朝廷から将軍家にたいして、慶喜を立てよ、と勅命をもって指名してもらうつもりなのである。およそ徳川幕府の成立いらい前例のないことを、あえてしようと画策しているのである。  二月五日、堀田正睦が京都へ入ったころ、条約調印と将軍継嗣の二大問題をめぐって、両派の人びとが入りまじって暗躍し、京は混乱のさなかにあった。やたらに人びとは金品をもって走りまわった。朝廷の公卿をとり合い、政争は激化するいっぽうなのである。  ところが次第に、鷹司政通をとおして、内大臣、右大臣と同意者がふえ、慶喜擁立派は着々と地歩を固めだした。おかげで、 「一橋卿が世に立てば」  と思う公卿や門跡がみるみるふえていく。その反面に、「天下をわがものにしようとしているのか」と水戸派への猜疑心もまた増大しつつあったが……。 紀州派と一橋派 「……なるほどね、じゃあ殿さんの将軍さま就任はもう決定したようなもんじゃござんせんか」  と辰五郎は思わず年に似合わぬ素ッ頓狂な声をだした。シーッとばかりに唇に指一本をたてておさえて、平岡円四郎は目で庭のほうを指しながらいった。 「それが、そうはやすやすと問屋がおろさぬ」  庭では、聞きこみの半六を師匠に慶喜が火消しの纏のふり方を習っている。  それに視線を送りながら辰五郎が聞いた。 「京の天子さまが反対なんで?」  ちなみに書いておくが、当時は天皇という語はほとんど使われていない。天皇はもっぱらミカド(御門)であり、ダイリ(内裏)であり、キンリ(禁裏)であり、民衆的には天子さまであった。もっとも江戸町民には将軍さまないし公方《くぼう》さまだけが大事な君主であり、京の天子さまなど日常ほとんど考えたこともない雲か霞かのような存在である。辰五郎がどこまで天子さまを理解していたか、心もとない話であるが……。 「いや、そうではない。むしろ問題は江戸城内にあるのよ。お城のなかには、われらが殿さまを嫌うものが多い。いや、わが殿ではない、水戸の老公のことよ。とくに大奥の評判が悪い。毛嫌いされている。大奥は水戸嫌いで徹底しておる」  それでも、もし阿部正弘が生きてあらば、その温和な性格と協調主義の政治力で、なんとか大奥の疑心暗鬼をとかしたであろうが、と平岡はいまさらのように残念に思う。 「しかもなまじの人が老公を嫌っているのではない。いまの大奥の主宰者は、将軍家定公のご生母お美津の方さまだ。本寿院さまとよばれてな。これがさながら室町時代の尼将軍のような絶大なる権力をふるっておるんじゃ」  辰五郎には、室町の尼将軍についての知識はないからきょとんとして、円四郎の顔をみているばかり。 「とにかくこの尼将軍が、お上をたてて水戸の老公が徳川宗家を乗っとろうとしていると、わが子可愛さもあって、本気で信じているのだから始末が悪い」 「で、その尼将軍とか大奥とやらが考えている将軍さまの候補はいったいどこのだれなんで。そんなやつがほかにおりやすんで?」 「ウム、いる。紀州藩主の徳川|慶福《よしとみ》といってな。御《おん》年十三歳なんだが、十一代将軍|家斉《いえなり》公の直孫にあたる。つまり現将軍の従弟《いとこ》というわけだ。将軍家との血筋からいえばわが殿よりはるかに色濃い。これがわが殿の行く手を邪魔している。しかもこの紀州公を推す大小名連中の数がもう圧倒的に多い」 「これはしたり、十三といやあ、まだガキじゃござんせんか」 「だからかえって都合がいいわけよ、老中や若年寄とかいう連中には、品性もすぐれていて英明な将軍はかえって邪魔になる。凡庸な将軍ほど手前《てめえ》らの権柄《けんぺい》をふりまわすのにぴったり、なんでもいうがままになるほうが有難い、というわけだから、わが慶喜公の将軍継嗣なんかテンから願い下げにしたいんだな」  エラそうに講釈するが、さすがの円四郎もいまだ見たことのない江戸城中の説明をしておくと、読者には話はもっとわかりやすくなる。  天下の諸侯は登城すると、それぞれ家格によって定められた「詰《つめ》の間」に入ることになっている。最高の席が「大廊下」つまり表座敷で、上《かみ》と下《しも》にわけられる。上の間は御三家にかぎられ、下の間に坐ることのできるのは越前の松平、加賀の前田、薩摩の島津など、大藩・親藩の数家だけである。  つぎが「溜《たまり》の間」といい、常溜《じようだまり》と飛溜《とびだまり》にわけられる。常溜は代々の家格がものをいう藩主だけ、彦根の井伊|直弼《なおすけ》、会津の松平|容保《かたもり》と高松の松平|頼胤《よりたね》という大名。飛溜はそのときそのときで変るが、いまは姫路の酒井、松山の松平、桑名の松平、忍《おし》の松平、佐倉の堀田、小浜の酒井の六藩の藩主がつめている。 「溜の間」のつぎが「大広間詰め」で、仙台の伊達、肥後の細川、広島の浅野、長州の毛利、土佐の山内といった国持大名はみんなここに入れられる。そのつぎが「帝鑑《ていかん》の間」で徳川家の譜代大名、つぎが「雁の間」で高家衆……。  あとは略すが、問題なのは「溜の間」の大名なのである。たむろしているのは、いってみれば次期内閣の閣僚候補ばかり。井伊、酒井といった大老格がいれば、もと老中もいるし、明日の老中を夢み虎視たんたんと狙っている若い藩主もいる。  この連中は「水戸の老公は徳川宗家の乗っとりを策している」という情報を、事実と信じきっている。かれらは斉昭を「悪龍」とよんで嫌った。そしてうるさい「大廊下詰め」の島津斉彬や松平慶永の�慶喜かつぎ�に意地になって反対しているのである。  国家の明日のことなどはどうでもよろしい。大名などという連中はおのが出世と安泰がなによりさきに立っている。この危機の時代に、かなり疑問視しなくてはならぬ現将軍をいただき、万一の場合の跡つぎに十歳そこそこの紀州公を立てることに、なんの疑問も抱いていない。青二才の少年に欧米列強を相手とする国難のさなか、三百諸侯を統率していくことができるはずはないではないか。  全員一丸となってと、お題目をいうことはいうが、つまりは大藩・親藩の意向にタテつくことを生き甲斐としているのである。 「とにかく、これが容易ならぬ障害になっている。それともう一つ……」  と円四郎が渋っ面をしたところに、聞きこみの半六が汗をふきふきやってきて、地に腰をおろすと、 「いやもう驚き桃のき山椒のきってやつでがす。殿さまの覚えの早いったら。たちまちぴしゃりと腰がすわる。纏は、十年ふっている野郎もかなわねえくらい、すっかり上手になりやした。こんどは梯子のりの稽古だなんて、おっかねえことをいうんだから……」  とひとしきり感服しながら長いアゴをなでる。それを無視して円四郎はいう。 「このいまだ幼なき慶福公擁立派を、われわれは紀州派と名づけている」 「で、こっちには名称はないんで」 「もちろん、ある。向うはこっちを一橋派とよんでいる」  半六が口をだした。 「へー、サムレエの世界にも火消し同様に組があるんですかい。それじゃたまには気に喰わねえって喧嘩なんぞおっぱじめるんでがしょうね」 「半六ッ、余計な口をはさむな。大事なところなんだ」と辰五郎がおさえていった。「それともう一つ、といいなさいましたが……」 「あの方よ」  と円四郎は、また目で教えた。  片肌ぬいだ慶喜が汗びっしょりで、まだ一心不乱に纏を高くさしあげてふっている。なんどもなんども、同じ動きで楽しそうにふっている。半六のいうように、型はぴしゃりときまってなんとも格好がいい。  水戸からもってきて植えられた庭の梅が、かぐわしい香をあたりに漂わせている。 「殿よ、お上にはその気がまったくない。余には宗家を継ぐ気は微塵もない、と先日も老公にじきじきの手紙をだされた。大奥や溜の間詰めの諸大名が、急速に紀州派に傾きだしております、と申しあげると、殿はなんといったと思う? 親分」 「へえ、なんといいなすったんで?」 「それはよかった、助かった、だ」 「なるほど、そりゃいけねえや。このわけのわからなくなった御時世だ、それほどみんなの期待を一身に集めてる方は、有難迷惑だろうと、われこそはと立たねばいけねえ。あっしら町人だって、義をみてせざるはナントカ、といって、これはというときにゃ、観音さんの欄干から目をつむってだってとびおりまっさあ」 「親分、そこだよ。乃公《だいこう》出でずんば、だ。ところが殿はそうじゃない」  平岡円四郎は過日、本気になって慶喜と対決した。恐れながら殿は神君(家康)いらいの英明にまします、とまずほめあげ、 「外、外夷を防ぎ、内、大公儀を昔日の隆盛に立てなおし、ミカドの御心を安んじ奉るは、殿をおいてほかにありませぬ」  と涙で声をつまらせながらいった。人徳・識見ともに天下の人心をつなぐにたる人物は、慶喜のほかにいない、とまで円四郎は思っている。  ところが、話題が将軍継嗣問題にふれると、慶喜はぷいと横を向く。ついには「おれは将軍になんてなりたくないんだ。これ以上なにもいうな」といい放つ。これが円四郎にはぶっ裂いてやりたいくらい口惜しい。 「気力も体力も人一倍に充実しているじゃないか。それにみろ、纏だって師匠の半六が感心するくらいたちまちにわがものにする。万事できぬことなしだ。その人がなぜ、みんなが推すのに、いやだいやだと逃げまわるんだ? なんでもできないことがないから、自足自慰、気をまぎらわすことができる。楽しむことができる。それがいかんのだな」 「よくわからねえが、楽しみが多いと人はそれにのめりこんで満足しちゃいますからね。それと頭がよすぎるんじゃねえんですか。さきが見えすぎるんじゃ」  若いころから、血気にはやって火の中水の中にとびこみつづけてきた辰五郎は、女房のおぬいに「まったくお前さんという人は、さきがぜんぜん見えないんだから」としょっ中どやされている。そのことを思いだしていった。 「ウム、そうかもしれん。しかし、暗澹としたさきの世が見えるからって、そんならそのさきの世を自分の力で変えてみたらどんなものかと、おれなんか思うんだがね。男子として天下に志をのべそれを実行する、反《かえり》みて縮《なお》くんば千万人といえども吾往かん、これだよ、この世に生をうけてこんな快事はあるまいぞ」 「ハハ、円四郎さんは野心家だね」 「そうだ、その野心が、わが殿からは完全に欠落している。なんたることか」  四角い顔の平岡円四郎は、辰五郎の前でぼろぼろ小豆のような涙をこぼした。顔も六角にゆがんでいる。あっけにとられて言葉を失っている辰五郎の耳に、澄んだいい声でうたう慶喜の歌声が流れ入ってくる。 ※[#歌記号、unicode303d]芝で生まれて神田で育ち   今じゃ火消しの あの纏もち  ——その夜、浅草への帰途、辰五郎はなににたいしてかわからないが、やたらに腹を立てている。サムライの世界のいざこざには関心がそれほどないが、二十二歳の若ものがなぜかもう老人のような韜晦隠遁《とうかいいんとん》の心をもっているのが、大いに気に入らないのである。  町家の火事だって国家の火事だって、達観して外から見ていたんでは金輪際消えることはない。まず火の中にとびこんでみなくては消し口がみつからないではないか。 「男ってやつはなあ、いざというときにゃ……」  と怒りが言葉になって口をついてでたとき、辰五郎にふらふらふらとぶつかってきた二本差しがいた——と、 「こうするんだ」  と辰五郎は、拳で一撃しウッと身体を折ったその男を腰にのせて地べたに叩きつけた。あとも見ずにすたすた立ち去る辰五郎を追ってきて、半六が目を丸くし、さも愉快そうにアゴをつんだし、 「頭、あいつは紀州派のやつに違いねえ」  と小声でいった。 大老井伊直弼の条約調印  安政五年三月——京都に着いていらいもう一カ月、本能寺に止宿した堀田正睦は、金品による買収はもちろん、あらゆる手段をつくして条約勅許をもらおうと朝廷工作に奔走した。使った金は総額三万両という莫大さ、ところが幕府の読みは甘すぎた。  孝明天皇がだれよりも外国人嫌いであり、骨の髄までの攘夷論者であるとの情報を、幕閣はそのときまでなにひとつ知ることはなかった。「脅迫されての開国」にいちばん強く反発したのが天皇その人なのである。ほとんど神がかりに近い攘夷論者であった。幕府の認識は足りなすぎた。  黒船来航の第一報が入ったとき、朝廷は伊勢の大社はもとより畿内の社寺だけではなく、東は鹿島大社から西は箱崎宮、宗像《むなかた》大社にまで敵国退散の祈祷を命じた。それほどぶるぶると震え上ったのである。そのことを江戸は知らなかった。  三月二十日、最終的な勅答書が堀田に手渡される。いかめしく理由がならべられているが、要するに「条約調印は国家の大事ゆえに、御三家をはじめ諸大名の意見を徴してから、重ねて勅裁を願いいでよ」というものである。強い拒否ではないが、  �出なおしてこい�  というわけで、幕府の願いは却下された。  また、将軍継嗣についても、同二十三日に一書が堀田に手渡されている。 「急務多端の時節、養君御治定、西丸御守護、政務御扶助に相成候者、御にぎやかにてよろしいとおぼしめし……」  つまり時勢柄跡つぎのものを早くきめたほうがいい、という内意は示された。しかし、だれにせよという明瞭な指示はない。  紀州派も一橋派も、どちらも京都で金を使っての画策をやりすぎた。足の引っぱりあいは、なんだ、こいつらは適当にあしらえる連中だと、朝廷公卿に軽んじられ、乗じられることになり、公卿たちを強気いっぽうにさせた。なんのことはない、公私をごちゃごちゃにしての権力争奪戦は、両派いずれにもアブハチ取らず、残ったものは、朝廷が幕政にたいして強い発言権をもつことを、幕府のほうから心ならずも認めてしまったというおかしな結果だけである。  堀田正睦は失意のままに四月五日に京をあとにした。条約勅許の件はみじめな敗北、継嗣問題では禁裏はどちらかといえば白紙、なんの成果もない、と堀田は落胆を隠すことはできない。  そしてこのとき堀田は、この難局に直面しては「英明・人望・年長」の一橋慶喜を跡つぎにすること、補佐の大老に松平慶永を就任せしめ、このコンビで国難に当るのほかはないのではないか、と心をぐっと一橋派に傾けさせている。  しかし、禁裏がこの件について白紙というのは、紀州慶福の世子擁立でもよろしいと解釈する余地を残しているにひとしいのである。江戸へ帰ればややこしくなると思いつつ、そのときの堀田はそこまで考えをひろげることはできない。  あとは話をトントンと運ぶためにいささか年表風に書く。  四月二十日、堀田正睦が疲れきって江戸にもどる。  同二十二日、堀田正睦、将軍家定に謁し、越前松平慶永を大老に推したところ、家定は待っていたとばかりにその意見を一蹴し、井伊直弼に大老を命ぜよ、といった。  同二十三日、井伊直弼が大老に就任。  幕政の決定はつねに将軍の意向を第一とする。井伊は老中をとびこえて、一気に大老の地位へ二階級特進である。大老は将軍にかわって政務を総裁する。将軍が人なみでないのであるから、幕政は大老の思うままになる。独裁である。  同二十七日、大老は閣老会議で継嗣問題にふれていった。 「徳川家が二百数十年の長きにつづいているのは、明君がつねにあってのことではない。むしろ幕臣や諸侯が、徳川家の血を尊崇しているおかげである。この尊崇をこそ重んずべきであり、明君をえらぶ必要は毛頭ござらぬ。英明をえらぶは外国の風習である。皇国には血脈の近いほうを迎える美風がある」  五月六日、井伊は一橋派の開明的な幕吏をつぎつぎに左遷する。まず閑職へ追いやられたのは大目付土岐|頼旨《よりむね》、勘定奉行川路|聖謨《としあきら》、京都町奉行浅野|長祚《ながやす》などなど。  五月七日、そして十一日。井伊大老は余人をしりぞけて単独でこの両日に将軍に謁し、継嗣問題についての家定の意向をただした。両日とも、 「紀州好き、一橋好かぬ」  と将軍は不鮮明ながらはっきりといったという。もちろん、証人はいない。  これを井伊は公表こそしなかったが、自然と老中たちにつたわるように万全の手をうった。  五月三十一日、紀伊慶福を将軍継嗣に、という台命を大老はまたまた単独で家定からとりつける。  六月一日、井伊は、御三家、溜の間詰め諸大名を召集、台命であるといい、将軍の継嗣を紀伊慶福にする予定と全員に告げる。また、その勅裁を仰ぐ使者を京へ送ることを言明する。  こうして紀伊派、一橋派の抗争は台命によって実質的にとどめをさされたことになる。  さらに六月十九日の午後、井上清直と岩瀬忠震を全権として派遣し、神奈川沖に停泊中の米艦ポーハタン号上で、ハリスとのあいだにすでに協議のすんでいる日米修好通商条約十四カ条と貿易章程七則の条約書に調印を敢行させた。いうまでもなく無勅許の開国の調印である。  ポーハタン号は十六発の祝砲をうって、これを大歓迎した。  しかも井伊大老は、老中松平忠固の意見によって、五老中連署の報告をただ宿継《しゆくつぎ》奉書のみをもって京都に奏上することにきめ、それ以上のものものしい形式をとろうともしなかった。要するに、いまでいう速達で朝廷にとどけたことになる。  剛腹な井伊直弼には、勅許なにするものぞの思いがあったのである。攘夷論者や調印延期論者がなにかといえば「勅許勅許」とお題目のように口にすることが、前々から腹にすえかねている。元和《げんな》のはじめ(一六一五年ごろ)幕府と京都の朝廷のあいだで、たがいに守るべき大憲として定められた十八カ条諸|法度《はつと》があり、その第二条に、 「親王摂家をはじめ、公家《くげ》ならびに諸侯といえども、ことごとく支配いたし、政道奏聞に及ばず候」  と記されているではないか。勅許勅許と朝廷を恐れるのは、この尊崇すべき幕府の伝統にそむくことになる。幕府は政道をいちいち奏聞しなくてもいいのである。家光公が鎖国をするときも勅許などえてはいない。そもそも幕府にたいする朝廷の大政委任の真の意味を考えてみよ。そう井伊大老はおのが信念として考える。  勅許なしの条約調印は、井伊直弼にあっては当然のこと。思想的信念の発露なのである。いまこそ幕府の権威を正道にもどし、いっそう海内に発揮せんがために、千万人といえどもわれ往かん、の一大勇猛心をふるいたたせての調印の実行であった。  しかし、この井伊の勇断は、不臣不遜、万世一系の朝廷を蔑視するにもはなはだしいものがある、として、難詰論難の攻撃がいっぺんに噴きあがる。調印の大役をはたした岩瀬忠震さえもが「諸侯の反発はもとより、一橋派の激昴は当然予想される、天下大乱の危うきをよぶ」といいだす始末なのである。  井伊大老は、六月二十二日、在府諸大名の総登城を命じ、条約調印のことを公示する。二十三日に堀田正睦と松平忠固の両人の老中職を罷免。後任の老中にはいずれも老中職経験者の、掛川藩主太田|資始《すけとも》、鯖江藩主|間部詮勝《まなべあきかつ》、西尾藩主松平|乗全《のりやす》が任命される。  なんとかこの二老中の引責辞職でことをおさめようとの、苦肉の策と一見してみられたが、それで万事目出たしとならないことは百も承知の上の処置である。強行突破のためにはあらゆる犠牲をおしまない。それに堀田のクビは一橋慶喜推戴派とみられたゆえとの評もとびかい、老中再任の三人は反一橋派の面々ばかりである。これで政争がもりあがらないはずはなかった。  水戸の家中はもちろん、「掃部頭《かもんのかみ》は怪しからぬ」「井伊を斬れ」の声がいたるところであがりはじめる。尊皇攘夷論者の総|蹶起《けつき》である。 慶喜と直弼の対決  平岡円四郎もまた、憤怒が全身の毛穴から噴きでて仁王のように真ッ赤になった。その男に、 「ここで立たなくては男でない」  とあおられたからではないが、二十三歳の一橋慶喜がこのときはキッと眉をあげていった。 「登城する。違勅ということはあるまじきことなり。何としても直弼に詰問せねばならぬことがある」  慶喜が政治にたいし積極的になったのは、実にこれが最初のこと。 「勃然として顔色変り、声色ともに激しく、側近たちはけわしい剣幕に恐れをなし、恐惶逡巡したほどである」と福井藩の中根|雪江《せつこう》が書いている。  ただし、御三卿はいわば将軍家の一員、部屋住みといった身分である。また慶喜は刑部卿であるが、この官位はむろん空名にすぎない。政治とは無縁であるべきもの、本来の発言権はない。それが自分の意思で勝手に登城し、大老を詰問するというのは、おのれの分をはみだす行為となる。完全な慣例違反である。慶喜はそれを覚悟している。  井伊大老のほうはむしろそれを待っていた。 「悪龍どののご子息どのがまず出てきたか」  と、当惑したふりをしながら、「一橋卿が、じきじきに掃部頭を弾劾あそばされるらしい」という城中の噂を心地よく聞いている。  大老をかこむ幕閣と慶喜との会談は、大廊下の上の間で行なわれた。 「余が慶喜である」 「ははッ、井伊掃部頭直弼にござります」  と、まずは初対面のおだやかな挨拶ではじまり、やがて本論ともいえる違勅問題に入ったときには、水戸学で育てられた若き慶喜の語調は秋霜烈日のきびしさを加えたという。しかし四十四歳の直弼は政治の駆け引きでは役者が二枚も三枚も上である。  白面の貴公子が音吐朗々と、微塵の乱れもすきもみせずに、幕閣の最高権力者をつるしあげる。違勅が明らかである以上は、正面から違勅の当否ということで論争しようとすれば、直弼にいえることはおのれの信念しかない、論理なんかない。そこで直弼はなにをいわれてもいっさい抗弁しないことにした。 「恐れ入り奉ります」  ひたすらそういうにかぎるのである。 「違勅をよもや正当なこととは、大老もお認めにはなるまい」 「恐れ入り奉りまする」 「大罪を犯したばかりではなく、京に奏し奉るにあたって宿継奉書のごときとどけ捨ての方法をとったのは、いかなる存念か」 「恐れ入り奉り候」 「恐れ入ったではわからん。朝廷をないがしろにするとは思わなかったか」 「恐れ入り奉りまする」 「台慮というか。まさか台慮ではあるまい、そうであろう」 「恐れ入り奉りまする。なにぶんにも恐れ入り奉り候」  同じ言葉をくり返すだけである。  こうしてひたすら「恐れ入り奉り候」では、慶喜にもそれ以上の追及のしようがない。だんだんに言葉をうしなっていく。  老中久世|広周《ひろかね》が見かねて「これにはよんどころなきわけもござりますれば」と余計な口をだしたとき、慶喜はもう一度勇みたった。 「よんどころなきわけとは何か。恐らくは外国の軍艦の来襲のことをいうのであろう。しかし、それも噂だけではないか。何隻の軍艦がどこへきたというのか。はっきりと見たのか。見えもせぬ船に恐れて、よんどころなきとは許しがたいことよ。幽霊におびえて勝手に調印いたし、勅旨をないがしろにするとは、不遜も不遜、それで幕閣の役目がつとまるというのか」  慶喜はよく光る目で一同をねめ渡す。気負ったところはないのに、あたりを圧する気品があり、幕閣一同はシュンとして声もない。 「この上は、掃部頭みずからが老中をしたがえ、一刻も早く京にのぼり、違勅は将軍家の思召《おぼしめ》しにあらず、幕閣の不調法による由をお詫び申しあげよ。そして、この大罪を心肝にとどめて善後を計るゆえお許しあるよう、至誠をつくして奏上してまいれ」  と最後に慶喜はそういい放った。  京都に大老、老中がうちそろって行き、違勅の罪は自分たちにあるとのお詫び言上をするなどは、幕閣の総辞職を意味する。そんなことはできるはずもない。一座は白けきった。そのなかを、井伊大老の、 「恐れ入り奉りまする」  の声のみがやさしい語調で流れていた。  明治になってから慶喜は回想談のなかで、直弼を評して「才略には乏しいけれども、決断には富んでいた」といったという。よほど「恐れ入り奉り候」には参ったものとみえる。  翌二十四日午後、慶喜のあとを追うように、水戸斉昭、同じく慶篤、尾張|慶恕《よしくみ》が時ならぬ推参登城をして、それぞれが井伊大老をきびしく問いつめたが、この日の井伊は負けてはいなかった。攻めるほうはいずれも乳母《おんば》日傘の殿さま育ち、他人を叱りつける言葉は知っているが、口答えされて議論になったとき、筋道たてて闘わせる論争の技術などまったくもちあわせていない。海千山千の大老がそんな甘ちゃんのかれらを軽くいなすことなど朝飯前のことである。  尾張慶恕が違勅問題をはなれて、あえて将軍の継嗣問題にふれていった。 「朝廷の思召しは、ご存知のことと思うが、実は年長のものをということでござる。さすれば紀州慶福公ではご幼年のことであるから、一橋卿を立ててはいかがであろうか。これにより朝廷もご満足となり、違勅調印の申し訳もお許しになろうというものではないか」  井伊は一言でこれを突っぱねた。 「ご後嗣のことは、上さまの思召しによって決すること。筋違いのお話はお慎しみいただきたい」  攻めるほうがこれでは防戦いっぽうとなる。  実のところ弁が人一倍にたつ越前の松平慶永が同席し、直弼と丁々発止《ちようちようはつし》とやることを斉昭は期待していたのである。当の慶永もまたそのつもりで時を合わせて不時登城してきたのであるが、老中の間部詮勝にとめられてしまっていた。 「越前さまと御三家とでは家格が違います。お詰めなさる間が違う。ご同席は相なりませぬぞ。それが営中の慣例。よもやお忘れでは……」  慶永は身を震わして口惜しがったが、理論家は屁理窟も押せず正論の前には自然と頭が下がってしまう。すごすごと戻っていかざるをえない。  井伊大老はものの見事に難局をのり切った。  翌二十五日、再度の総登城が下令され、将軍継嗣に紀州宰相慶福が決定したことが公表される。井伊は許可の勅答が京よりとどいていることも付言した。  一橋派の完敗は決定した。  しかも、継嗣発表の直後、慶福との「ご対面」をすました将軍家定の健康が、突然悪化した。松の廊下から人に支えられて退出し、小座敷で倒れた。  しかもだれいうとなく、水戸老公の一味が将軍暗殺をたくらんでいるのだ、という噂がしきりとなる。家定が死んで、十三歳の慶福が将軍となれば、後見人をつけよという声が、油然として起ってくる。その適材は一橋慶喜をおいてほかにない。さればこそ暗殺を……というわけである。  七月五日、家定は死んだ。数え年三十五歳である。つぎの将軍は慶福(家茂《いえもち》)である。  井伊はこの機会をのがさなかった。慶喜擁立派の息の根をとめるためには、将軍の死をめぐる黒い噂の立ちこめているいまが、絶好のときである。将軍が死んだと同じ日、直弼はその喪を秘したまま行動を起した。斉昭を中心とする徳川一門の巨頭たちの処罰の決定である。  水戸斉昭は謹慎、その子水戸慶篤と一橋慶喜とは登城さし控え、尾張慶恕と福井の慶永とは隠居謹慎。押しかけ登城にたいするきつい処罰である。大名にたいして隠居を命じるとは、藩主の地位からの追放で、切腹につぐ重い刑罰である。  その御沙汰書には、 「台慮により」  とある。家定はすでに死んでいたが、そんなことはだれも知らない。死骸の「台慮」によって、斉昭以下は世の中から葬られた。  謹慎とは、屋敷全体を牢にするようなもの。雨戸を閉めきり、わずかな光をいれた部屋で、麻の裃をつけて一日中坐っていなければならない。外部の人と会うことはもちろん手紙の往復も禁じられた。月代《さかやき》を剃ることも不可である。  井伊直弼の復讐はあまりにも暴戻《ぼうれい》でありあざやかにすぎた。老中太田資始が、 「罪証なくして有為の親藩を幽閉す。後患おそるべし」  と震えあがったほど、千代田城内を震撼せしめた。そして一橋派が最後の頼みとしていた薩摩の島津斉彬が七月十五日に死んだあとは、井伊大老を中心とする一派に正面から立ち向かうものなど、江戸においてはひとりもいなくなった。幕府は七月中にオランダ、ロシア、イギリスとの間に、ほぼアメリカと同じ内容の通商条約を結び、九月に入ってフランスとも調印する。もちろん無勅許。向かうところ敵なしである。  もし水戸・越前・薩摩などの反井伊派が、なんとか巻き返しをはかろうとするなら、こうなれば京都においてよりほかはない。ここには直弼の意のごとくにならないものが数多くいる。天皇、公家《くげ》、門跡、そしてそれにつながる身分もない浪士や儒者や神官そして諸藩士などである。かれらはいっせいに無勅許調印の幕政批判で活発に動きだした。京都での志士の反幕運動は、朝廷と結んだ水戸の陰謀によるものと、直弼は信じた。  いわゆる�安政の大獄�はここに発する。安政五年九月にはじまり翌六年にかけて進行し、六年八月から十月までに処分が断行された。切腹一、死罪六、獄門一、そして遠島、追放、所払い、押込め、手鎖など、およそ七十名以上。  浪士逮捕については直弼の腹心の長野主膳が活躍した。その命をうけ必死の働きを示したのが、九条家の家臣島田左近と目明し文吉である。  梅田|雲浜《うんぴん》、頼三樹三郎《らいみきさぶろう》、水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門・幸吉父子などが捕まり、かれらと親しく交際している鷹司、三条、近衛以下の諸公卿の臣がいもづる式に捕まって、六角牢屋敷はいっぱいとなったほど。  松平慶永の家臣橋本左内は江戸で捕まった。この橋本と長州の吉田松陰を殺したことが、井伊直弼の致命傷ともなったといわれる。  とくに水戸藩士にたいする処分がもっとも苛酷なものとなっている。斉昭を中心に徳川宗家乗っとりをたくらむ不敵な集団と、直弼は心から思いこんでいる。そこで最大の仇敵斉昭は謹慎をさらに重くして「国もとにて永|蟄居《ちつきよ》」。慶喜の罰も、八月二十七日、登城禁止から隠居謹慎へと重くなった。慶喜の政治生活へのスタートの結果が、この情けない始末であったのである。 辰五郎の長広舌 「……とにかくお城ンなかのことはなにがなんだかわからねえが、あっという間に殿さんは牢に入れられちまった。お座敷に押しこめられたんだが、まあ牢には違いねえ。なにしろだれもお目通りかなわねえんだ。さぞかし殿さんご不自由しているだろうなと、なんどかお見舞いにうかがったけれど、いつだって門前払いよ。そっけねえたらない。  これで人生がおしまいだなんてあんまりじゃありませんか。まだ二十歳を越えてちょぼちょぼの、あっしらの世界じゃ青二才というところですぜ。  平岡円四郎さん? これだってだめよ。御役御免になったばかりでなく、頭からぴしゃとやられて甲府勤番となって江戸におさらばしちまった。円四郎さんのような旗本には、甲府へやられるといやあ、遠島も同様、もう生涯江戸へ帰ってくることはねえというじゃねえか。四角い顔を真ッ赤にして、そうなんだな、茄であがった蟹そっくりに頭から濛々と湯気をたてて、 『無念だ、無念だ。辰五郎親分、殿のことを頼む、万事は親分に頼むほかはない』  と吼えるように、なんどもくり返していって江戸を七ツ立ちで去って行きなすった。  頼まれなくったってこの辰五郎、大丈夫でござんす、お殿さんに井伊のやつらの指一本もささせるもんじゃねえ、と威勢よく啖呵をきったまではよかったんだが、お殿さんのひどく律儀なことといったら、どうにも手のつけようがねえ。あいそもこそもつきましたぜ。  先日も、ええい面倒くせえ、一人二人じゃだめであっても、大勢で押しかけりゃどうにかなるんじゃねえかとね。そこはもうこの辰五郎の号令一下というわけで、奥山の連中に残らず声をかけやしてね、浅草から一橋まで大挙してくりだしやした。命の洗濯よ、殿さんの無聊を少しでもお慰め申しあげようじゃねえかッて寸法でね。集まりましたな。  三河万歳、太神楽、恵比寿という目出てえのから、飛んだり跳ねたり、お釜おこし、角兵衛獅子、松井源水に長井兵助、手遊び売り、そして猿舞い。そう、猿舞いは猿まわしともいいますな。それから皿まわし。煙管呑みの豆蔵もやってきた。お千代坊主に大黒舞。ヂャガラカ糖、とっけえべい、そんなこのごろになりゃあ珍しい連中もきたな。  娘のお芳のアマも面白えからってついてきやがった。なんの役にも立ちゃあしねえのによ。  それと忘れちゃいけねえ、なんたって厄払いが大切よ。それでイの一番にひっぱりだした。『御ン厄払いましょう。厄払い』といい声でね、呼ぶものがあると、その家の前に立って『ああら目出たいな/\、今宵めでたき御旦那の、めでたき神に御参詣、そり橋から西を眺むれば、……』とやる、例のやつよ。  ナニ、飛んだり跳ねたりがわからない? ホレ竹でつくった人形よ、膏薬をねりつけてそっと地べたにおくとぴょん、と跳ねあがる人形売りで、『飛んだり跳ねたり、替ったり、雷門の手拍子や』とか何とか歌いながら、鬼やら獅子やら、はたまた浅草の名物男の助六の人形を売るんさ。  と、いちいち説いていたんじゃ、日が暮れちまわあ。とにかく、こうして毒にも薬にもならねえ連中をぞろぞろひきつれて一橋邸まで行ったんだが、これまた門前払いときたもんだ。天下の政事とはおよそ関係がねえ、いずれも遊びの世界の人間じゃねえか、と思うんだが、とにかく取締りがきびしい。新しい公方さまは、一橋さまのなにを恐れていやすんでがしょうね。お目通りのかなうどころの話ではない。  それにしても、殿さんは聞きしにまさる剛情な方ですねえ。殿さま自身がだれも寄せつけないというじゃありませんか。平岡さんもよくこぼしておりやした。『殿は一度こうときめたらもうそのとおりにする。この聞く耳もたぬは困ったものだ』と。まったくそうなんで、苦しいときだ、少しは自分を甘やかしたって、だれもなあーんだなんて思いもしないもんでさあ。それをどうしてか、一所懸命に自分ひとりできめて自分をいじめぬいている。どこまで我慢できるか、自分で自分を試しているとしか、はたからは見えないんでがすよ。あっしらがいくら心配しても、余計なことをするなというんでがしょうかね」  たしかに二十三歳の慶喜は自分で自分をいじめぬいて謹慎していたようである。 「慎《つつしみ》隠居を命ぜられてからは、昼もなお居間の雨戸を閉て、雨戸のところどころに二寸ほどに切った竹をはさんで細目に開き、その隙間から外光を取るだけであった。したがって光は座敷まで届かず、縁側に出なければ暗くて書見もできなかった。  朝は寝所を離れるとすぐに麻上下を着用し、夏の暑いときでも沐浴せず、もちろん月代《さかやき》ものびっぱなしにまかせて剃ることはしない。  べつに幕府から見回りがあるわけではない、寛いでいてもよいわけだが、身に覚えのない罪を蒙ったのだから、一つは青年の意地もあって、このように厳格に法に従って謹慎していたわけである」  慶喜が七十三歳のときの回想である。明治四十二年(一九〇九)五月、渋沢栄一邸で行なわれた昔夢《せきむ》会の席上で、慶喜はこう語っている。暗いなかに端座し、することといえば読書だけで、話し相手もない。剛情といわんか、律儀といわんか。なみの人間ではとてもできない。  ただし、慶喜はひとつだけ誤った観測をしている。「べつに幕府から見回りがあるわけではない」とはとんでもない誤認である。井伊大老は極端に警戒心の強い男である。また天下を牛耳るトップとしてはそれは当然なので、水に落ちた犬は徹底的に叩かねばならない。かれらのスキをさぐりだそうと、隠密が江戸と京都には充満していた。隠密たちはひっきりなしに「隠密廻報告」なる文書を、直弼の手もとにとどけている。 「いたって御慎しみよからず」  とは斉昭の行状である。 「御慎しみよし、平穏の様子なり」  隠居して「春嶽」と称した松平慶永のこと。  とすれば、あるいは、 「門前に厄払いほかの芸人密集、目出たいな/\の歌かまびすし」  なんていう一橋邸の探偵報告を、直弼は読む機会があったかもしれない……。 「とにかく円四郎さんにたいし胸を張って引受けた手前もありまさァ、おさおさ注意は怠りませんでやした。子分たちを八方に走らせまして情勢をさぐらせまして。尾張さまに越前さま。そう尾張さまは戸山の下屋敷におられましたな。越前さまは霊岸島の中屋敷が火事で焼けている、で、常盤橋の屋敷におられました。  密偵とおぼしき連中がぴたっと屋敷に張りついている。部屋でそっとしていればいい、なんていうのん気な情勢ではありやせんでした。なにか怪しげな言動でもありァ、すわこそ御|謀叛《むほん》、と待ちかまえたように襲いかかって切腹ということになりかねない。  そこまでいかなくても、いざとなればただちにしょっぴいて投獄するつもりで、城内の吹上のお庭には秘密の牢獄がつくられている、てな仰山な噂も流れていてね。  そういう風説は面白えくらい、ひんぴんとこっちの耳に入ってくる。  狙われているのは水戸のご老公に越前さま、それと一橋のわが殿さん。ご老公は水戸表にいてご家来衆がたんと守っておられる。越前さまは、お家の大事となりゃあ、在府藩士一同が刀の目釘のつづくかぎり死闘して守りぬき、どうしてもというそのときには薩摩藩の軍艦におのせして、春嶽さまを国もとに落とす目論見である、というんでやす。  半六を中心にして子分どもがそんな嘘ともほんとともつかねえ話をいっぱい仕入れてくる。なるほど、と思いやしたね。こうなりゃおたがいに死ぬか生きるかの国をあげての大喧嘩、一歩たりとも退くこたァできねえ。軍艦だろうと大砲だろうと、槍鉄砲に鳶口に梯子と、ありったけの殺し道具で闘わなくちゃならねえ。  どっこい/\、わが殿さんは? とみてあれば、これが頼りになるご家来衆がぽっちりもいないンじゃありませんか。大名とは違うんだ、公方さまのご家族と同じだからなんだっていわれたって、紙ぺら一枚のかっこのいいお印《しる》しだけじゃ、鳶口一本の役にもたたねえ。すわ鎌倉ってときに、殿さんはたったひとりで手前の刀をふりまわすだけッてんじゃ、あんまりな話じゃござんせんか。ひとりで討死じゃ、瓦版にだってなりゃしませんぜ、みっともなくて。  あっしは、まこと浅草に生まれて育ったくずみてえな、卑賤の身とは承知しておりやすが、殿さんをお守りするのは町火消十番組しかいねえんだと、覚悟をあらましきめました。いえ、なにね、立ち上ったのは組合の見栄や外聞のためじゃねえ。なにかと永年ご贔屓をこうむった一橋さまへのご恩返しに、まさかのときには十番組二千人の命を投げだし、一橋さまのご馬前をつとめようっていうだけの話でして。  江戸ッ子というなァ、理不尽なことは許せねえんで。二本差しがこわくちゃ、うなぎの蒲焼は食えねえじゃござんせんか。  どのくらい長いことお屋敷のまわりを固めましたかね。目立たねえように手配りをいたしまして。ときには酔ったふりをして密偵らしいやつに喧嘩を売って、思いっきり張り倒してやったりして。夏から秋がきて、冬がきて。太陽が東から昇って西へ沈む毎日っていうのは、人間さまの悲しみやよろこびとはかかわりがなく過ぎていくもんなんで。  そりゃ、申すまでもなく、その間《かん》、殿さんのお顔を一度だって見たことがありゃしませんやね。殿さんも、あっしらがこうやって昼夜の別もなく構えていたなんて、ご存知じゃなかったんじゃないかと思いやす。  ま、とにかく、なんとも面白くねえ、色消しな御時世だったと思いますな。物の値段ばかり上って、毎日の暮らしは切なくなるいっぽう、江戸町民ひとりひとりがそう思っておりやした。八文の湯銭で朝風呂のざくろ口をくぐると、井伊さまの悪口をぶつけ合って、鬱憤を晴らしていましたな。世の中が、こうなんとなく全体が暗くなっちまった感じでしてね」  ちょうどこのころ、咸臨丸艦長として、通商条約批准のための初のアメリカ行きの準備でいそがしかった幕臣勝麟太郎(海舟)が、ずっとのちに随想集『牆《かき》の茨《いばら》』を書いて、井伊の幕政についてふれている。わかりやすく現代語に意訳してみる。 「井伊大老によって重用される連中ときたら、たいていゴマスリの小人で、世界の大勢などに目を向けるものなどなく、文武の道にはいくらか達しているなんていうが、ことごとく虚飾に近く、実地応用には適せず、賄賂《わいろ》などが次第に盛んになっていく。このためにコネを求め、その門を拝むようにして出入りすれば、たちまち登用されるといった有様だ」  世はまことに末の感じである。情けない政治であっても、井伊の独裁下、反対派は影をひそめた。水戸をはじめ尾張、越前の各藩は形なしの凋落ぶりである。 「これじゃ一橋さまは永久に世にでられなくなる。なんとかうまい手はないか、と子分ともどもない知恵をめぐらしましたな。半六のやつがでけえ声できいた風なこといいやがんですよ。からっきし弱くて、サムライはもうあてにはできねえ。こうなりゃおれたち鳶の連中で天下の大喧嘩を一丁ッはたいてみせやしょうや。何だ、そりゃ? 大老襲撃でござんす。思わず息をのみましたな。でも、考えてみるとそれがいちばん手っとり早い世直しの近道じゃねえかと……。守るより攻めよっていうじゃありませんか。三宅坂上の井伊邸に火をかけて、あっしらが火消し装束でなぐりこむんでさあ。ははは、忠臣蔵そのものですな。夢みたいな話でやんすな」 桜田門外の変のあと  安政の大獄は安政六年十月で一段落をつげ、その翌年は万延元年(一八六〇)と改元された。  その三月三日、江戸にはめずらしく朝からの大雪がふった。太陽暦に直すと四月ということになるから、これまでに例のない雪で、江戸町民はひとしく目を白黒させた。  午前八時ごろ、その雪を蹴たてて、上巳《じようし》の節句の祝詞を言上するため江戸城に登ろうとする井伊大老を、桜田門外に襲撃した一団がある。十七人の水戸浪士と一人の薩摩藩士である。  大老を襲撃した浪士が懐中していた斬奸趣意書によれば、かれらの一挙は大老の専断の行為をあらため、幕府の政治を正道にもどすためのものである。決して幕府に敵対するものにあらず、ましてや倒幕運動なんかではないという。  井伊大老の首は浪士たちの手によって挙げられた。激闘の場の目の前にある杵築《きづき》藩邸より、その様を実見していた興津某の談によると、「接戦中は時計三歩ばかりに至って早く相すみ候」ということで、ごく短時間のうちにいっさいが終ったとみられる。「マリなど蹴り候やうな音、三度ばかりいたし……」直弼の首は打ち落とされたという。  井伊直弼はときに四十六歳。  �桜田門外の変�の報は午後も早く浅草まで達している。聞きこみの半六はとびあがって喜んだ。それから地団駄踏んでやたらに口惜しがった。 「こん畜生め、サムレエにさきをこされたか」  辰五郎はさっそく一本をぶら下げて一橋邸におもむいてお祝い言上、のつもりであったが、顔見知りの女中が「上さまはいつもと同じで、暗い部屋に閉じこもりきりで、お問いかけもなければご返事もない」と、ホトホト困りきったようにいう。お目通りなんてかなうはずもない。 「なんだってまた、いつまでいっこくな剛情を張りつづけるつもりなのかねえ」  辰五郎はさすがに渋い顔をみせた。  その辰五郎を仰天させるような情報を半六がもたらしたのは、翌四日の夜である。衆人環視のなかで首級をとられたはずの井伊直弼のもとへ、将軍家から見舞いの上使や医師が差し向けられたというのである。 「薬用として朝鮮人参などがご下賜されたといいますぜ。井伊さまは影武者をたてていたんでしょうかね」 「フーム、あれくれえ憎まれていたんだから、万に一つを考えて、そんな奥の手を使っていたかもしれねえな」  四日ばかりではない。七日にもふたたび見舞いが井伊邸に差し向けられている。 「こんどは鮮魚と氷砂糖が贈られたっていいますぜ」  半六がくそいまいましそうにいうのを、辰五郎は聞きながら、慶喜がなお他人にはできない謹慎ぶりをつづけている理由が、なんとなくわかった気になった。町人の世界と違って、雲の上の世界では一朝で事がすむわけではない。うしろで何事が起っているや、はかりしれないとみるのが常識というものなんであろう。江戸町民ののこらずが井伊大老は殺されたと知っているときでも、江戸城の流儀ではなお直弼は病床にあって呻吟していることになっている。 「遺言は尻でなさるや御大病。人参で首をつなげとおん使い。頭ッ、まったくうめえことを、川柳ってのは詠むもんですね。あっしにはとてもできねえ」  と半六は、例によって長いアゴをつかむようにしてなでさすっている。  事変後ほぼ一カ月たった三月三十日、井伊直弼は大老職を免じられた。それからさらに一カ月後の閏《うるう》三月三十日に、ようやくその死が発表された。しかし、なお慶喜や、斉昭や松平春嶽たちの謹慎は解かれていない。かりに直弼の政治が誤っていたとしても、ただちに罪人を無罪釈放というわけにはいかない。前言訂正などはとんでもないこと。それでは幕府の威信にゆらぎがでる、と幕閣は考えるからである。  首のない人を二カ月も生かしておいて、幕府の権威なんかとうの昔に地に堕ちていることに、かれらは気がつかない。いや、気づきたくはないのである。 「その、井伊さま亡きあとの天下を動かしている安藤対馬守信正というのは、あかぬけねえ、井伊に負けず劣らずの悪《わる》かもしれねえな」 「へえ、世間の噂じゃ、なかなかの利《き》けもので、井伊さまの子分の老中をつぎつぎに首にしたっていいますがね」 「それじゃご立派な殿さまじゃねえか」 「へえ、それがですね、よくわからねえ。なんでも、いま、その安藤さまが、京都の天子さまの妹のお姫さまを将軍の正室にしようという大それた計画をねっているといいますしね。とんだ大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》かもしれませんぜ」 「なんていうお姫さまだ?」 「へえ、和宮《かずのみや》さまだか、亀宮《かめのみや》さまだか……」 「いずれにしたって、公方さまと天子さまとが親戚づき合いになるなんて、ちかごろ目出てえかぎりじゃねえかよ」  そこへ辰五郎の娘のお芳が顔をだした。すらりとした痩せ型ではあるが、色白で愛嬌のある顔をしている。 「目出たいって、お父っつあん、私の嫁入り先の話? 私ァまだいかないよ」 「なにいってやがる、手前の嫁ぎ先ぐれえ、手前で探してこいってんだ」  お芳はにこにこしているが、いつだって辰五郎に負けてはいない。ポンポンという。 「おっかない父親がいたんじゃ、なまじっかの男はごめんだっていうにきまってるよ」  春日遅々——騒然たる世の状況をよそに、辰五郎とお芳と半六ののん気な会話がいつまでもつづいている。 天狗以下鳥獣も  安藤信正を中心とする幕閣が、尾張|慶恕《よしくみ》、松平|慶永《よしなが》(春嶽)、山内|豊信《とよしげ》(容堂)そして一橋慶喜たちに、 「謹慎を解く」  の特赦令をだしたのは、井伊直弼の横死から半カ年たった万延元年(一八六〇)九月四日である。ただし、面会・文通はいぜん禁止されたまま。いわんや政事に口を出すことなどもってのほかである。このなかに水戸の老公斉昭の名は見いだせない。斉昭はこの年の八月十五日に、公的には国もと永蟄居の罪をえたまま心臓破裂で死んでいる。享年六十一。太陰暦で仲秋の明月の夜である。あまりの突然の死ゆえに、彦根藩の復讐ではないかという噂もひろまった。  慶喜は謹慎中であるから、父の葬儀にもでられない無念を味わった。  このように年来の二人の政敵は同じ年に相ついで世を去った。主君が桜田門外の春の雪を朱にそめていらい、彦根藩の家中では、桃の節句を忌んで祝うことをしなくなった。いっぽう水戸藩中では仲秋の名月を賞でることはなくなったという。雪と月、日本人好みの美学が奇妙に英傑の死にからまっている。  それにしても、なぜ幕府が特赦令をだしたのか。  実は、難航に難航を重ねていた将軍|家茂《いえもち》と皇妹和宮の婚約が、ようやくに成立する運びとなる、という慶事があったからである。  この将軍家と皇族との縁組は、朝廷との関係修復のために、井伊直弼が政策の一としてすすめていたもので、桜田門外の変で一時中止の形になっていた。老中安藤はそれをこのまま継承した。安藤は公(朝廷)武(幕府)合体の大方針をおのれの政策としてたて、そのためにも公武一和のかすがいとすべく、和宮御降嫁の運動を強硬に進めた。これがはじめはうまく運ばなかった。なにしろ和宮はこのおりまだ十五歳で初潮もみていないお姫さまである。それに四歳のとき有栖川宮家との婚約が成立している。稚い姫君は徳川将軍家への嫁入りの話を聞かされたとき、 「東《あずま》の代官へ行くのは、いやや」  とぜんぜん聞く耳をもたない。しかし、 「尼となるとも、関東へは参るまじ」  と固く誓ったものの、兄の孝明天皇が、側近の岩倉具視から悪魔的な助言をふきこまれ、それに大きく心を動かされてしまってからは、将軍家茂への降嫁要請に和宮は屈しないわけにはいかなくなってしまう。  岩倉は、関東からの申しいれを逆手にとることを、天皇にすすめたのである。すなわち、この願いを聞きとどける。そのかわりに攘夷攘夷と強要し幕府を窮地に追いこみ、国政上の大事は今後いっさい朝廷の許可を仰ぐようにさせる。そうすれば、政権は名目上は幕府にゆだねられていても、 「その実権は朝廷において握られ候御事にあいなり申すべく候」  さすがは一代の策士である。岩倉はほかの公卿とは違い、政略結婚で皇女を高く幕府に売りこもうと、計算高いことを考えたのである。  和宮は泣く泣く承知する。 「……天下泰平の為め、誠にいやいやの事、余儀なく御うけ申し上げ候におはしまし候」  兄孝明天皇あての、和宮の手紙である。いやでいやでたまらないが、仕方なく行くことを承諾すると、ハッキリと表明している。  幕閣は、朝廷が受諾する代償にかなりの策謀をめぐらしていることを知ってか知らずか、ひろく大赦令をだして、皇女降嫁のことを大いに寿《ことほ》いだのである。  十月十八日、正式に勅許がおりる。十一月一日、御三家ならびに在府の大名を城に集めて、安藤信正が婚約成立のことを正式に通達した。  万延元年は一年間で終って、翌年改元されて文久元年(一八六一)となる。和宮は、四月十九日、内親王の宣下があり、同年十月二十日の朝、いよいよ京洛の地をあとに江戸に向かって出発した。  幕府からは、御呼迎えのお供として、老中一名、若年寄一名、御側御用取次一名、御広敷《おひろしき》一名の重役をはじめ、おびただしい人数が上洛している。朝廷からは中山大納言|忠能《ただやす》、岩倉具視らの公卿をはじめ、女官、それに警護の十二藩のサムライが勢揃いする。合計して八千人、馬三百頭という大花嫁行列である。  京都三条大橋の橋づめには、 「此度和宮様関東御下向に付、士農工商を始め、天狗以下鳥獣に至る迄、可拝者也」  と書かれた高札が立てられている。この世に生をうけているものは、みんなして拝せよというわけである。  徳川幕府の威勢を天下に誇示する最後の盛事なのである。 新郎・新婦ともに十六歳  東海道には由井に|薩※[#「土+垂」、unicode57f5]《さつた》峠があり、「去った」と音《おん》が通じて不吉であるからと、行列は中山道を進んだ。一日に五里の速度である。道々は先発の作事奉行と小普請支配が道普請をすましている。各宿場は二里四方煙止めで、炊事や葬式など火を使うものはいっさい禁じられた。 「……それがなんともおかしいじゃありませんか。いよいよ江戸へ入るというところで、中山道にはまことに具合の悪い木がありやしてね」  と浅草の新門の家では、聞きこみの半六が、辰五郎と女房ぬいと娘お芳を相手に、例によってアゴをなでなでいい調子で一席やっている。その名のとおり実にほうぼうからいろいろな話を聞きこんでくるやつである。 「ホレ、ご存知の、板橋宿の縁切り榎《えのき》でやす。縁切りだなんてこりゃ縁起が悪すぎまさあ。でね、わざわざ御行列の道を別に造りかえ、榎は下から上まで薦《こも》でつつんで葉一枚見えねえようにしやんしたッてんですからね」 「そんな面倒をするより、縁結び榎と名を変えたほうが早手廻しなんじゃないの」  とお芳がのほほんという。  大行列は、十一月十五日にとにも角にもつつがなく江戸に着御、江戸城北廓の清水門から入って清水邸に入られる。内親王はここに数日をすごして、十二月十一日、御輿入れである。万事は申し合わせどおりである。 「これがまた、目もくらむような豪勢さでしてね。絵巻物を見るような思いでやした。宮さまは唐庇《からびさし》の牛車、御所車に、御|上臈《じようろう》の富士の方がごいっしょにのられましてね。四方にすだれをさげ、うちに蝦夷飾りに菊葉模様の御帳がさがり、すだれの外側は金絲八分丸の玉簾をたれ、これを曳く斑《はん》牛には紅白のちりめんをよった綱をかけましてね」 「半六や、お前さんはえらい物識りなんだね。ホホホホ……あたしゃ、いままでお前がそんなに学があるなんて、ちっとも知らなかったよ」  と女房のおぬいはいいながらおごそかな面持ちで襟を直した。 「へえ、実のところ、正直に申しやすと、そこの裏長屋に住む樋口清之っていう学者先生のうけ売りなんですがね」 「どうせ、そんなこったろうと、はなから思っていたよ」  その学者先生の話を半六にかわってもう少しつづければ、清水邸から御広敷門をへて大奥に入られるまでの道の左右には、緋と紺との緞子《どんす》をぬい合わせた幔幕を張りめぐらし、葵の紋をうった台提灯に白昼火を点じ、一間おきに立てていた。内曲輪のすべての門をとざして、警戒は厳重をきわめた。  将軍家茂は、吹上御上覧所に出て、華やかな花嫁の行列をしばし眺めていたという。  結婚式(大婚の礼式)は翌文久二年二月十一日に江戸城中御対面所で行なわれた。新郎の将軍および新婦の内親王はともに十六歳である。  これより前に、上京している岩倉具視と千種有文《ちぐさありふみ》の二人は、幕閣に孝明天皇の宸翰《しんかん》をしっかりと手渡した。「和宮の好まぬところを国家のためにとて無理に納得させたわけである。されば卿らは関東に到着せば、老中に面会してこの書中に記するところをかならず実行せしむるように」との孝明天皇の強い命令つきのものである。  書簡は、  一、攘夷の徹底、公武一和、大事はすべて朝裁を仰ぐべきこと。  一、戊午(安政の大獄)の大赦を行なわしむること。  一、関東にて承久攘夷の先例を調査すとの風聞あり、その実否をただすこと。  などなどを命じていた。  この宸翰にある「大赦」実行のこともあって、幕閣は井伊直弼が下した大獄での罪をほとんど水に流す決定をする。一橋慶喜は、これによって松平春嶽、山内容堂、伊達宗城たちといっしょに、他人との対面および文通も許され、 「先年御不興の筋は悉皆御宥許さる」  との命をうけたのは、文久二年四月二十五日である。�安政の大獄�は一場の悪夢としてここに消えていった。  いとはじな君と民とのためならば   身は武蔵野の露と消ゆとも  いよいよ京都を出発するときの和宮の和歌である。このか弱い皇女の悲痛の涙が、慶喜、春嶽たちを生き返らせた、ということになる。  この知らせは辰五郎や半六を大喜びさせた。いや、それ以上に二人が狂喜したのは平岡円四郎が新門の家にひょっこり顔をみせたときであったろう。 「いやあ、親分、元気でしたか」  とその四角い顔が衝立ての上から突きだされたとき、辰五郎の両目はさあっと曇ってあたりが見えなくなった。気強いこの人にはここ十年以上およそなかった感激ぶりということになろう。 「円四郎、このたびふたたび江戸へ呼び戻され、もとのように一橋家付を仰せつけられてござるよ」 「それはなによりなにより。毎朝毎晩の観音さんへのお願いが聞きとどけられたんでござんしょう。目出てえことで……」 「ついては、親分、またまたお願いがあって参った」  と円四郎はすこぶるせっかちな男である。  二人の話となれば、これはもう慶喜のこと以外にはない。罪とされたことはすべて消えて、慶喜は完全に自由な身となった。ところが例によって韜晦するかのように世に出ようとはしない。家にこもりきりである。それに怪しからんのは、春嶽や容堂はすぐに政事参与を命ぜられているのに、慶喜にはなんのご沙汰もないことである。これが円四郎には腹立たしくてならない。 「要は、大奥なんだよ。大奥の水戸嫌いは、烈公亡きあともずっと尾をひいている。わが殿はいぜんとして将軍の敵であるかのように敬遠されている。一橋卿がでてくると、将軍家の影がうすくなる、とな。ところが、大奥や幕閣がいかにお上を嫌おうと、時代はその登場の一日も早からんことをのぞんでいる。とくに京都の朝廷だ。内親王さまのご降嫁の条件のひとつに、禁裏ではわが殿を将軍家の後見職にせよと要求してこようとしているようなんだな」 「へえ、そいつはまた豪気な」  円四郎は半六がびっくりするくらい情報を仕込んできている。 「ところが大奥や幕閣は、そんなことは真ッぴら御免だ。それをなんとかしてとめたい。いや、とめる決意だ。禁裏からの正式な要求がくる前にとめるにゃ、親分、どんな手がある?」 「それにゃァ……ご当人がこの世からいなくしちまえば万事解決」 「それよ、そこそこ」 「つまり……まさか」  ついこの間の正月十五日、老中安藤信正が坂下門外に要撃されるという物騒な事件のあったことを、辰五郎はとっさに想いだした。暗殺がいまや正義になりつつある。剣呑なこと限りない。 「ウム。いっそ謹慎の身であったときのほうが安全だった。いまは出入り勝手で、だれだってお目にかかれる」 「殺し屋集団も、ですね。わかりやした。円四郎さんがおっしゃりてえことは。いままでどおりあっしら十番組で殿さんをお守りすりゃいいんでがすね」 「さすが、親分はわかりが早い」  辰五郎と円四郎はその夜遅くまでいろいろと細かい打ち合わせで時をすごした。あとで女房のおぬいや娘お芳も加わって、にぎにぎしく徳利を何本となく空にしたことは書くまでもない。 叡慮をもって後見職に  二人がない知恵をしぼっているよりさきに、情勢のほうが、ぐんぐんと突き進んで変っていく。  六月一日、勅使として大原|重徳《しげとみ》という老公卿が江戸へ下向してきた。薩摩藩主の島津久光が、大原を武力援護するかのように、一千名の家来に砲車をひかせて六月三日に江戸に入った。  六月十日、登城した大原卿が、幕閣につきつけた勅諚は三つである。一は、攘夷問題を議するため、将軍家茂の上洛を要望すること。これは老中がすでに相談して、承諾することに決していた。第二は五大老(島津、毛利、山内、前田、伊達)設置のこと。ただし、朝廷としてはそれほど固執しなくてもいい方針である。  第三の勅諚が問題なのである。これをいいだせば、幕閣が最大の難色を示すのは目にみえているが、大原卿はこの一件だけはなにがあっても承諾させる覚悟を固めている。  追いかけるようにして、六月七日に発せられた孝明天皇の勅書が、江戸表にとどけられる。 「……幕吏しきりに内外の事情を陳謝し、朕が憐みを請うてやまず、朕もついには忍ばずといえども祖宗の天下の事には代えがたしと、意を決しその請を許し、十年を出でず外夷掃除のことを命じ、海内大小名に朕意を伝示し、武備充実せしめんとす。幕吏連署奏上し、みな朕が命を聴く。故に去冬、和宮入城のことに及べり」  和宮降嫁は、幕府が開国の条約を放棄して攘夷を行なうことを約す、その交換条件によるものであったことが、はっきりとスッパぬかれている。幕閣にしてみれば、強引に降嫁を承知させて、公武合体をうまくやったと思っていたのに、自分で自分の首を絞めていることに気づかされ、あわてふためくばかりなのである。  これに力をえた大原勅使は、いよいよ天皇の命をもって第三の勅諚を幕閣にせまった。要は「幕政を改革し、攘夷を決行せよ」である。そして幕政を改革するためには、 「一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職にせよ」  という要求なのである。  井伊直弼によって登城停止を命ぜられてから四年という長い歳月の間に、一橋慶喜という存在がひとつの偶像となっていることを、このことは意味している。京都の公卿や薩長の士や、日本中の在野の攘夷の志士たちが、 「一橋卿が世にでて政治をリードすれば、腰抜けの幕吏を押しのけて攘夷を断行し、神州日本の栄誉を海外に示すであろう」  と、なぜか確信するようになっているのである。  ところが、幕府にとってはこれは信じがたい勅諚ということになる。薩摩の武力を背景にして、幕府の人事にまで朝廷が容喙《ようかい》してきているのである。とても我慢のならぬこと。幕政にたいする脅迫そのものではないか。  とくに将軍後見職となれば将軍位そのものにかかわる大問題である。一橋慶喜がその職にすわれば、幕政の実権は年少の将軍からかれの手に移ることは明白。いや、ここでこれを許容することは、やがては慶喜を将軍とせよとの朝廷からの命令にも服さねばならぬことになろう。  幕閣はもとより、大奥がぶるぶると震え上った。悪龍一派にたいする嫌悪感は、当の斉昭の亡きあとも江戸城中に、上は幕閣から下は茶坊主、奥女中にいたるまで根づよく残っている。それが改めて蘇ってきた。慶喜のうしろには薩長土などの外様大名がついている。島津久光が大砲をもって上京したのも、一橋さまがよびよせたものにちがいない、と城中のだれもが信じきった。 「慶喜公にはやたら人望が集まっておられるが、それは公の人物を知らないゆえのもの。実はかの人は権謀術数、奸智謀略のみに生きるお方である。そんな方が大政に参与あそばせば、徳川幕府は亡びることであろう」  そんな憂慮の声が城中をかけめぐった。  こうなると大原卿のほうも、命にかえても幕閣をウンといわせなければならないと、いっそう躍起になる。薩摩藩の知恵者大久保一蔵と相談し、「刺客の用意もある」と老中を恫喝までした。六月二十九日、最後の談判のために江戸城へ入ろうとするとき、卿は従者にいった。 「これが四度目の登城である。今日の登城は、死生の決するところなり」  幕閣が勅命をどうしても奉じなかったなら、城中で腹を切る、そのさいはわが遺骸を京都に護送せよ、という悲壮な覚悟まで示した。  幕府はついに屈した。老中らは勅命に従う旨を、渋々ながら大原卿にいった。  慶喜がこのことを正式に知らされたのは七月六日である。老中脇坂|中務大輔《なかつかさたいゆう》らが上使として一橋邸にきたり、台慮(将軍の意思)により、隠居を解いて一橋家再相続、十万石を賜う、と伝えたうえで、 「叡慮《えいりよ》をもって仰せつかわされたるにより、刑部卿を御後見となす。相勤め候ように」  とおごそかにいった。  叡慮とは天皇の意思である。幕府の辞令に「叡慮をもって」の一句が入ったことなど、かつてない。わざわざこれを書き入れたあたり、幕閣たちのせめてもの抵抗がうかがえる。  慶喜は受けたが、春嶽は政事総裁職という新設の職をただちに受けようとはしなかった。幕府の政事は、家康いらい将軍の番頭として譜代大名がこれを担当する。越前松平家は三十二万石、徳川御家門の筆頭で、番頭大名ではない。が、結局は春嶽もまた「叡慮」に従うことにせざるをえなかった。  ともあれ、後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽という幕府の新人事は、江戸城内は別として、天下の人びとに大いなる希望を与えたことはたしかである。薩摩の大久保一蔵はこの報に大喜びして、 「多年苦心|焦思《しようし》せし事、今更夢のやうなる心地、皇国の大慶言語につくしがたき次第なり」  と、その日記に書いている。  辰五郎も半六も、いや側近の円四郎も狂喜した。殿さんが国政を担当するかぎり、毛唐どもに好きなようにされている日本は、これにて滅亡しないですむ、と心の底からそう思って喜んだのである。おそらくは天下の万民がそんなほっとしたような明るさを、日本国の明日に感じとったにちがいない。 「で、殿さんはどんなご様子で……」  と辰五郎が、円四郎と例によって一献傾けながら、はずんだような声で聞く。ところが、円四郎は四角い顔をいっそう角ばらせて、いっこうに浮かない表情をとかないのである。 「お上の不機嫌は、ここ数日、ますますひどくなってな。拙者などには、あれほどお断りしたのに、押しつけられたと、大こぼしにこぼしているが、こうなりゃ一歩も引かぬと、なぜに奮起されんのかなあ」  辰五郎も、慶喜の人となりを知るゆえに、いくらかはそうではないかと察している。 「そりゃあ、まあ、つらつらこれまでの事情を按じますれば、責任ばかり重くて、殿さんは決して幸福なる地位をえられたとは申せませんでがしょうが」 「お上はこういうんだな。いいか円四郎、よく聞けよ。昨日までおれはお咎めを蒙り隠居させられていた身であったのだぞ。それを今日は掌《てのひら》をひるがえすがごとくににわかに赦免、ただちに後見職というわけだ。朝令暮改もいいところじゃないか。幕府の威厳はいったいどこへいったんだ、とな……そりゃまあ、そうに違いないが、それが御時世というもんだろ、親分。神や仏だって明日のことはわからないのと違うか。ましてやこんな世の中だ、国がどうなるかわからんときなんだぜ、人の身がくるりくるりと変ったって、なんの不思議があるものかね。だれも幕府の威厳が損なわれたなんて思いやしないやね」  その夜の円四郎はいささかきこしめし過ぎたようで、やたらに饒舌になっている。 「そのうえに、なんとも情けないこともいうんだな。いいか、円四郎、禁裏や外様の大名や志士たちが、いまおれに期待しているのはなんだ? ハハァ、上さまをいただいての公武合体、そのうえの攘夷にござります……。親分、公武合体って何だかわかるか。いや、わからんでもいい、京都も江戸も一丸ということさ。と、拙者が答えたら、お上は何といったと思う? 情けねえたらありゃしない。公武合体ができたとしても、さて、攘夷はほんとうにできるのかッて、こうだ。できるもできないもない、お上ご自身がやらなきゃならない大仕事じゃありませんかッてんだ」 「ホンに、さいでがすな」 「なら、禁裏にそんな実力があんのか、とこうだ。幕府には大いなる武力はない。禁裏は御威光はあっても戦力はない。しかも、どちらも金がない。それがほんとうの話だ。口ばっかりだよ。で、公武合体したからって日本国から毛唐を追っぱらうことなんか金輪際できやしない。そうとわかっていて、禁裏をたきつけて幕府にできない攘夷をやらせようとする。そんなとんでもない黒幕がいる。わが父は悪龍といわれていたというが、世には父以上の悪龍が山ほどもいる。この悪龍どもが、攘夷だ、攘夷だと……」  剛腹の辰五郎であったが、思わず唇に指一本をあてがって「シー」といわないわけにはいかなかった。  攘夷だ、攘夷だとそれだけをふりかざし、はじめは浮浪人だの、偽《にせ》有志だのと、それまで相手にもされなかった連中が、いまや大手をふって歩いている。京都だけではなく、攘夷の志士たちは江戸にもごろごろするようになった。それが馬鹿にできない勢いなのであるから、時勢の流れというのはおっかないと、辰五郎はつくづくと思っている。なにか小さな火が、次第次第に地をはって吼えるように、じりじりじりと江戸城へとせまってきているようである。 [#改ページ]   政治はむつかしい 旧礼墨守の頑迷固陋を排す  一橋慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職という期待のコンビではじまった文久二年の幕政改革は、すべりだしはかなり順調であった。  朝廷を尊崇する精神をなんとか形にだして示そうとしたことが、京都はもちろん攘夷の志士たちからも歓迎されたのである。和宮を将軍御台所と称したのをやめて、和宮さまとよびつづけることにした。京都町奉行が路で公卿に出会ったときの礼節を改め、幕府が任命していた京都御所の九つの門の警備も、朝廷の意向に移す。  さらに京・奈良などにある皇室の御陵の修築のことが、ひろく下令されたときは、尊皇の心をもつものがひとしく慶喜と春嶽とを見直し、讃めそやした。  この二人のコンビは、ともかくも朝廷へのこれまでの非礼をひたすら陳謝することで、公武合体・富国強兵の実をあげようと考えている。九月七日には、幕閣が大原勅使に約束した将軍の上洛を、来年二月に実行するときめ、これを発表した。そして、後見職の慶喜が将軍上洛の先がけとして先発するであろうことも、つづけて公けにされた。これもまた皇室尊崇の誠心のあらわれとして、 「さすがは御両人、やることが早い」  と、薩摩、長州、土佐の連中をはじめ尊皇攘夷の浪士たちは大歓迎する。  それというのも、徳川将軍がみずから上洛して、親しく天皇に謁し話をするということは、三代将軍家光いらい二百年間たえてなかったことなのである。それがなんの支障や妨害もなく実現されるという。その画期的なこと、だれもが驚いたのは自然である。  新門辰五郎や聞きこみの半六をはじめ、長屋の八っつあん熊さんにいたるまで、江戸の町民たちはこのことをちょっと複雑な想いで聞いた。公方さまがわざわざ京都くんだりまでお出かけになる。黒船来航いらい、実際に戦争に負けたわけでもないのに、外国勢力が武力をちらつかせながら脅《おど》しにかかると、ずるずると後退してきたこれまでの幕閣のやり方は、たしかに我慢がならなかった。なるほど、京におでかけになることで天子さまと公方さまとが一つになって国難に当る体制ができるにちがいないと、自分たちを無理にも納得させることにしたのである。  慶喜・春嶽コンビは、さらに一歩、思いきった改革につきすすんだ。とにかくまだなにをやるにしても「慶喜英明」の神話がものをいう。そこで、まず人材の登用である。大久保越中守|忠寛《ただひろ》の側御用取次への昇進、御家人勝麟太郎を起用しての軍艦奉行並の下命などは、人を驚かせるに十分なものがある。この両人はともに名にしおう開国論者なのである。  数日後に、将軍みずからおでましの大会議がひらかれ、幕府の幹部どころが総出席のところで、軍制改革案が大いに論ぜられた。このとき、 「軍艦三百数十を備え、幕臣をもってこれを動かし、東西南北の海の防備を固める、との一項が改革案に書かれてある。これを完備するにおよそ何年を要するか」  と老中水野和泉守|忠精《ただきよ》がただし、新任の勝麟太郎が名指された。側御用取次の大久保の、 「それへと仰せらるるぞ」  の声を待っていたように勝はつと座を立った。この動きは幕臣全員にとっては破天荒そのもの。将軍から「それへ」と声がかかっても、匍匐《ほふく》膝行のまねをするだけで、ほとんどもとの座にとどまるのが昔からの慣例である。それを承知で勝は、しっしっとの牽制の声も無視し、つかつかと御前に進んで答えた。 「五百年の後《のち》にならなければ、軍艦三百隻はなりませぬ。いや、軍艦三百隻の前に、操縦すべき人物の養成が今日のままではとても無理に存じます」  慶喜と春嶽は顔を見合わせてにやりと笑った。勝の答弁の痛快さもさることながら、慣例打破の振舞いが気に入ったのである。. 「旧礼墨守の頑迷固陋もここらで打ち破りましょうぞ」  と二人してあとで呵々大笑した。  これに力をえたかのように、二人は思いきった制度改革に手をつける。主として春嶽と、かれの参謀格の横井|小楠《しようなん》の献策によるものであるが、まず参勤交代の変革である。これまで隔年であったのを三年に一回とする。人質の意味で江戸藩邸においてあった妻子を国もとへ帰す。江戸在住の家臣の数も減らす。そう春嶽は強く主張する。  これに猛反対をとなえたのが老中の板倉|周防《すおう》守|勝静《かつきよ》。備中松山藩五万石の藩主、松平定信の孫にあたる利《き》けものである。 「そのような無茶をすれば、幕府の統制力は弱まるいっぽうとなる。家光公いらいの祖法の廃止は幕府の権威をたちまちに失墜させますぞ」  たいして、横井小楠は「制度を廃することで厖大な費用を節することができる。そこから生じる余力を外国の勢力に負けぬよう国防の充実にまわすことができる」と反論し、その巧みな話術で板倉勝静を説得してしまうのである。  慶喜は微苦笑をうかべながら春嶽にいった。 「いまの幕府に、諸侯がかりに好き勝手に妻子を国もとへ帰したからといって、許しがたいとこれを制する力なんかないものな。旧制度を存続することの意味はなくなったさ」  ついでに、二人は習慣になっている諸大名からの献上物や贈りものを廃止することにした。さっそく城中で議案にのぼらせると、老中も若年寄も口をそろえて反対する。その理由はただ「幕府の政治が崩壊するゆえ」とかれらは異口同音にいうだけである。  不思議がる慶喜に、改革に賛意を示している側御用取次の大久保忠寛が耳うちしていう。 「これを廃止されることで、老中や若年寄には年に千両以上の減収になりますな。既得権を奪うことです。それを承知で強行されますか」  幕閣はボーナスがなくなることにとても我慢がならなかったのである。  さらについでであるからと、このコンビは登城のさいの仰々しい大名行列まで廃止することにする。諸侯は騎馬二名をしたがえただけで馬で登城してもよろしい。下馬札のところへ連絡係の二人の武士をだしておく。計四人で十分であろう。これによって四人の老中で計六千両、同じく四人の若年寄で計四千両、総計して一カ年に一万両の冗費が節約できる、という計算である。  ところが、改革というものには思いがけぬ犠牲がともなうもの。こんどは江戸市中にこれがとんだ騒動をもたらしたのである。 「頭ぁッ、いってえ公方さまはなにを考えていなさるのかねえ。頭の力でなんとかしてもれえてえよ。明日から大名行列をやめる? 笑わしちゃいけねえ。やめるのはそっちの都合でそっちの勝手かもしれねえが、あの�下にィ下にィ�でおまんまを食ってるもんが、江戸にゃあごまん[#「ごまん」に傍点]といるんだ。頭ッ、お前さんは恐れ多くも一橋さまのご懇意をいただいているというじゃねえか。ひとつ、ここのところはほんとのことをお知らせして、思いとどまっていただけるよう、とっくり話しちゃくれめえか」  と、浅草の新門一家の玄関を叩くものが続出した。  なるほど、当時の人口百万の江戸には、あの馬鹿馬鹿しくも大仰な大小名の�下にィ下にィ�で生計をたてているものが、「五万」は大袈裟にすぎるが、四万人ちかくいたのである。いつだって行列が成立するだけの人数をそろえておく請負業者が、村松剛氏の調べによれば、当時百五十人はいたという。その「人宿日傭頭」の下に、渡り徒士《かち》や日傭い人足がわんさといて、その日その日の暮らしを�下にィ下にィ�でたてている。 「こりゃ、お前さん、大ごとだよ、その四万もの人を路頭に迷わしたら、攘夷どころの話じゃないよ」  と女房のおぬいが攻めたてる。娘のお芳も「弱いものを助けるのが辰五郎だと、いつもいってるわよね」と口をだす。どこで探ってきたのか半六までが、 「こうなりゃもうヤケのやん八だ。いちばんの張本人の松平さまを襲撃してしまおう、なんて連中があらわれましてね、ひそかに策がねられているといいますぜ、頭。なんでも湯島下の儒者が、職を失った連中をあおりたて、すっかり連中はその気になっているとか……」  と物騒な報告をもってきた。  辰五郎はおよそふだんの辰五郎らしくなく深く考えこんだ。このところ滅茶苦茶に忙しいらしく殿さんに会える機会はおろか、駒下駄の円四郎ともろくに話をすることもならぬ。そのわずかな折をやっとみつけて円四郎から聞いた話によると、 「お上はかなりふてくされている」  という。さもありなんと辰五郎は思う。これが下世話にいう「あちら立てればこちらが立たず」ということなのであろう。この世の中、なにか変えようとして四方八方丸くおさまることのあろうはずはない。どこかで衝突がおきる。 「開府いらい二百六十年、幕府は繁文|縟礼《じよくれい》で権威を保ってきたようなものだからな」  と円四郎がぼやくようにいった。辰五郎は目を丸くする。 「なんですか、その半分じゅくじゅくというのは」 「そうよな、わかりやすくいえば格好つけた無駄ということかな」  ひろい江戸、ひと口に八百八町というが、その六割までが武家屋敷である。寺社地が二割、残りの二割が町屋で、人口の約半数がそのせまいところにごちゃごちゃと住んでいる。江戸の町とはつまるところ、「左様しからばごもっとも何のことやら然《し》かと存ぜぬ」というご大層な武家屋敷の町なので、江戸町民の生活は武家を相手にする商売で成り立っている部分がかなり多かった。その武家の社会は因習や面倒くさい慣習を守ることによって、なんとなくこれまで治まってきている。景気のよいときは古くさく阿呆くさくても、かえってそれを潤滑剤としてうまく使うのが、組織運営の要諦でもある。  ところがいま外圧という国難に見舞われて、組織のあり様を改革しないことには危機を乗り切ることはできないことが明白になった。どこから手をつける。まずは、冗費節約であろう。そうすることで反撃のための体力をつける。つまり、格好つけた無駄を削ることに、まっさきに目がいくのは当然である。  慶喜も春嶽も、それが幕政立て直しの捷径《しようけい》と考える。サムライ社会だけをみてみればそれはあまりにも正しかった。なにしろ春嶽の福井藩を例にとれば、借財はこのころ八十五万両にも達しているのである。藩の経済を荒廃させるばかりの無駄な制度を廃止して、余力を国防にまわそうとのスローガンは立派そのもの。  しかし三百諸侯といわれる大小名が、参勤交代をいっせいにやめると、毎年街道筋にまきちらす厖大な貨幣がびた一文落ちなくなる。たちまちに地方財政は赤字となり、一般庶民のアゴが干上ってしまうのである。それをあてにして成り立っているあちらこちらの宿場は、恥も外聞もなく悲鳴をあげざるをえない。そこに思いがいたらなかった。  登城のさいの大名行列を簡素化すれば、武家相手専門の職業は連鎖的に倒れるほかはなく、職人は仕事にあぶれる。多量の失業者が八百八町をうろつきまわることになる。そんな連中が荒々しい気持になるのは目にみえてわかる。 「殿さんはさばけているようでも、やっぱし乳母《おんば》日傘育ちのいいとこの坊っちゃんだ。下々のほうにまではとても目が届かねえ。こいつァ一番、俺がしっかり仕込んでやらにゃならねえな」  と辰五郎はぶつぶついいながら、それにしてもなにか妙案はないものかと、珍しくも、ない知恵をしぼって、「また、今日も休みに似たりかい、お前さん」と、女房のおぬいのひんしゅくを買っている。  こうして慶喜・春嶽の幕政改革は、すなわち旧習の打破は、結果として、江戸町人をはじめ各地の庶民たちの大不評を買った。なんにもしないのも悪いが、幕府が手前《てめえ》たち本位に、しなくてもいいことをするのはもっと悪い、というのがかれらの実感である。これがのちの幕府対薩長の対決となったときに、微妙に影響してくるのである。  さらにこの上に、二人のコンビは「叡慮《えいりよ》に従う」ためと、老中たちの反対を押しきって、国事犯の全面的赦免という思いきったことを実行しようとする。安政の大獄関係の末端のものまではもちろんとして、桜田門外や坂下門外(安藤信正暗殺未遂)などの襲撃犯人までを「死者は礼を以て改葬し、現存の者はそれぞれ旧に復せ」という叡慮に従おうとしたのである。  板倉老中の猛反対で、赦免は安政の大獄の関係者だけにとどまったものの、結果として井伊直弼いらいの幕政は間違っていたと、幕府がみとめてしまったことになる。これが京都の攘夷の志士や浪士たちの火のような気持に油をそそいだ。よかろう、政治的なテロ行為はいつか赦免のときがある、と一様に確信し、これが「天誅」という名の暗殺実行へとかれらを誘いこんでいく。  早い話が、テロリズムが正義と化したのである。人を斬らねば志士としては一人前ではない、という風潮がそこにうまれる。朝廷の策謀家の公卿たちがまたそれを喜んだ。こうして文久二年の夏から秋へ、京都は少壮激派の公卿と尊皇攘夷の志士の天下となっていく。  殺しのねらいの第一は、安政の大獄のときに活躍したものにしぼられる。七月二十日、九条家の島田左近が殺され、首は四条河原にさらされる。閏《うるう》八月二十日、裏切りの嫌疑で本間精一郎殺し。同二十二日、九条家の諸太夫|宇郷里重固《うごうりしげかた》が殺《や》られる。目明し文吉が絞殺されたのは九月一日。九月二十三日、大獄時に鬼といわれた京都町奉行所の与力同心が四人もいっぺんに斬られる。十月九日、平野屋寿三郎と煎餅屋半兵衛が「不正を働いたゆえに」と斬り伏せられる。町人であろうと容赦はされない。  直弼の右腕であった長野主膳の妾である村山カズが、十一月十五日に三条大橋にさらしものにされた。同日、多田帯刀が殺される。長野主膳は八月二十七日に、藩命によって斬罪となっている。十二月十八日に華頂宮家の侍臣深尾式部が殺される。これで穏健派の公卿は震えあがった。  この騒然たる京都のテロに呼応するように、大原卿の護衛に江戸へ下っていた島津久光が、幕府をへこませたことで意気も高らかに京都へもどる途中で、国際的なテロ事件をひき起している。八月二十一日に生起した生麦事件である。行列の前を乗馬で横切ったイギリス人を、「無礼者!」と一人を斬りすて、二人に重傷をおわせてしまった。しかも薩摩藩は、行列に無礼をなしたるものを斬りすてるは昔からの定法でごわす、と解決の責任を幕府へおしつけて、さっさと国もとへ立ち去っている。  あちらでもこちらでも殺伐とした事件がつづき、「世は末」の感を人びとに与えはじめる。  京では尊皇攘夷のスローガンのもと、公武合体派はだれかれの容赦なく排撃され、長州を中心とする反幕の急進過激派がいまや�正義�となっている。その正義に迎合する連中が暗殺を武器に天下に横行するのであるから、手がつけられない。過激の論が朝廷と志士のあいだを行きかう。へっぴり腰の幕府なんかいらないと、同志の徒がいたるところで糾合し、激論を吐露し、熱はあがるいっぽうである。京に秩序をのぞむことなど無理な相談ということになる。  そして江戸では、英国公使館からの厳重なる抗議である。イギリスが要求しているのは犯人の処罰と、賠償金としての十万ポンド(三十万両)の支払い。ところが島津久光は「だれが斬ったかわからぬ」とうそぶくばかりで、 「あえて犯人を出せというなら供揃えの全員を出す」  と喧嘩腰である。幕府に、一戦も辞さずという強い姿勢を示している。  慶喜も春嶽もほとほと困りぬいた。さりとて手をつかねているわけにはいかない。京の無法地帯化をまずはなんとか押さえこむ必要がある。そこで京都所司代の上に京都守護職をおき、治安の回復に当らせることにし、これに会津中将松平|容保《かたもり》を任じた。二十九歳の、颯爽たる青年武将である。  容保は将軍の上洛にさきだって京都へ行く。かれは尊皇攘夷論者としてもよく知られ、この任命は朝廷にも大受けであった。 「さて、つぎなる問題はイギリスであるが、はてさて、なんとしたものか」  生麦での殺傷事件にことよせて、イギリスを筆頭にして諸外国の見幕と要求は、がぜん凄味をましている。いまや攘夷論がいよいよさかんの日本の国内事情を熟知しているから、より居丈高になっている。  各国公使が、まごまごしていると軍艦を江戸湾に集結させて射つぞ射つぞという面構えで、外国奉行を押しまくっている。こちらはとても攘夷どころの話ではない。京都の志士どもはその事情がまったくわからない。慶喜と春嶽とが知恵をいかにしぼろうとも、にっちもさっちもいかなくなるのはもう目にみえている。 「と申して、はいどうぞと簡単に英国に賠償金を支払えるほど御金蔵にたっぷり金があるわけではなし……」 「それに将軍《だんな》の御上洛の供割りを考えますと……これもまた莫大な……」 「左様、なにからなにまでもの要り[#「もの要り」に傍点]でござるよのう」 「さてさて、どうしたものか……」  江戸城もいちばんの奥の間で、思案投げ首の二人の、無言のにらめっこがはじまっている。そんなこととは誰も知らない。 前例にないことばかり  日中はけっこう暑いのに、朝夕はいつのまにかさわやかな秋風が、軒の釣りしのぶをゆらすようになっている。  どこで聞いてきたのか聞きこみの半六が最新の情報を、その日、辰五郎にもたらした。 「また、京から天子さまのお使いが江戸にやってくるということですぜ。それもこんどは叡慮とやらをただ伝えるというのではなく、有無をいわせぬ厳命をもってくるらしいんでがす。くそこいつァ面白くねえ話じゃないかって……」 「で、こんどもまた島津さまの大層な行列がしかつめらしくついてくるのかい」 「いや、こんだァ土佐の山内さまの行列がくっついてくるといいやす」  辰五郎はフンというと、ちょっと、そっぽを向いた。半六のいうように、たしかにこいつァ面白くねえ話である。  攘夷の催促にやってきた第一回の勅使のうしろには、七十七万石の薩摩がついていた。こんどの勅使には、薩摩だけにしてやられてなるものかと、三十六万石の長州と二十四万石の土佐が後押ししている。京都の朝廷での権力争いのあおりが、江戸の公方さまに余計な難題となってふりかかっている。  薩摩はイギリスとの思いもかけぬ喧嘩もあって、国もとを固める必要がある。殿さんも賢臣謀臣もひとまず京を離れざるをえない。こんどは、薩摩という鬼のいぬ間の洗濯で、長州が土佐と手をくんで朝廷の公卿をそそのかし、幕府をさらに追いつめてやろうと、特使をしたてたのはもうみえみえである。京都にはまったく権力|亡者《もうじや》のタチの悪い連中ばかりがいる。  ちかごろの辰五郎は、慶喜にさとされ円四郎に教えられ、自分でもとつおいつ考えているから、かなりの政治通、事情通になっている。それだけに時代の動きに一家言をもつようにもなった。 「なんたってかんたって、田舎もんの厚かましさにゃかなわねえな。やることがあざとい。攘夷だ、毛唐を追っ払えと怒鳴りゃあ、それですむって話じゃねえ。そうと知っていながら、なんでもかんでも公方さんにできねえ仕事を背負わせて、手前たちはあっけらかんとしていやがる。攘夷だなんて、そんなご時勢ではないことはわかっている。わかってるからいっそう高飛車になりやがる。すれっからしもいいとこだ」 「で、頭《かしら》のいうその田舎もんは、ぎゃあぎゃあほざきながら、いってえ何をねらっているんですかい」 「天下よ。公方さまになりかわって、手前たちが将軍《だんな》になって手玉にとろうっていう寸法よ。とんだ天一坊よ。しかも、それとはっきり正体をみせねえで、お公家さんを使ってお先《さ》き煙草《たばこ》のあざとい工作ばかりしていやがる。敵とはっきりすりゃ喧嘩のやりようもあるが、味方みてえな顔をして、へらへらとな。そして江戸の足をひっぱる」  そこへ辰五郎の娘のお芳が顔をだした。 「マナ板さんが、お父っつあんに至急の用なんだって」 「マナ板さん?」 「平岡さんよ、そっくりよね。オホホホ」  このお侠《きやん》は人なみ以上に口が悪い。  さわやかな風が吹いているのに、外の日射しは強いのであろう、円四郎はうっすらと汗をかいている。 「親分、急な願いがあってやってきた。女だ、女をひとり探してくれ。それも身もとのたしかな、しっかりものの、その上にちゃきちゃきの江戸ッ子の娘をひとり……」  と藪から棒にいう。汗はどうやら日射しのせいではなかったらしい、マナ板が女を欲しがるとは、と辰五郎は思わずくすりと笑った。しかし、「実はな」と、とたんに小声になった円四郎のつづく話を聞いたときは、押さえきれずに「ぷはァ」と吹きだし、それからククククと腹をよじって大笑い。 〈なんと、われらが殿さんが一夜も女を欠いてはぐっすり眠れぬ男であろうとは。身分がどうであろうと、男ってやつは……〉  という思いである。そんな笑う辰五郎におかまいなく、円四郎はいっそう声を低くしてささやくようにいう。 「その上にお好みが狭く、京女を好まれぬのだ」 「好まれぬって……たしか奥方さまは京のお公家の……」 「左様、それでわれらは困っとる。それだけではない、奥方さまは妬心が人一倍に強くてなァ」  慶喜は間もなく将軍の先ぶれとして京へのぼる。その準備にいま一橋家はしゃかりきになっている。そんななかで、慶喜がぽつりと円四郎に洩らしたというのである。「京へ連れていくのは江戸の町育ちがいい」と。いわれて円四郎たち家臣も気がついた。夜のことはもとより、日常の身のまわりの世話から、ときには楽しい話し相手、三度の食事の毒見も必要であろう。なにより京都は暗殺者の集まるところなのである。 「それはもう物騒きわまりないところだ。いざという場合もあろう。したがってこたびの願いは、なみのものではご奉公かなわぬ。そこでだ、こういう人探しとなれば、もう親分をおいてほかに頼むものはない。なにしろ親分は江戸ッ子きっての江戸ッ子、人にことを頼まれてはたさぬものはない仁侠の人だ」  とふだん無愛想の円四郎らしくなく、さんざんにおだてあげておいて、 「じゃあ、親分、たしかに頼んだぞ。そうだ、いい忘れていた、面《つら》のほうは少々まずくてもよかろう」  と疾風のごとく帰っていった。  ひとりになった辰五郎はしっかと腕組みして、半眼で天井をにらみつけながら、またしても考えに沈んだ。格好だけはととのえても、ろくな考えはでてこないで、妙な江戸のはやり言葉がつぎからつぎへと浮かんでくる。 「下女は鰯《いわし》のごとし 好味《よきあじ》なれども床《とこ》いやし」 「妾《めかけ》は赤貝のごとし 子をうむと味《あじあ》いなし」 「女房は鰹節のごとし さして味いなけれどあかず」 「人の女房は鰒《ふぐ》のごとし 好味なれども命あやふし」  辰五郎はウムとうなった。「娘は……」がどうしても想いだせない。鯛であったか、鯨であったか、四苦八苦してみたが無駄である。女房にまた「休みに似たりかい」といわれるのも癪で、腕組みをほどいてぽんと立ち上って、 「考えるより人探しは歩くにかぎる」  そうひとりごちた。  浅草から南西へ五里ほど離れた江戸城内では、それから旬日ののち、というよりは正確には九月三十日、京よりの勅使を迎えるに先だって、重《おも》だった幕閣総集合の大会議がひらかれている。伝わってきた報告によれば、朝廷では攘夷論が勝ちをしめて、勅使は誓約した攘夷の決行[#「決行」に傍点]を幕府に督促するために、江戸へ下るという。幕府はいよいよ追いつめられ、ぐずぐずしてはいられなくなったのである。  予定ではそろそろ京へ出発のはずであったのに、この勅使下向のために上洛は延期となり、この大評定に慶喜は不機嫌そうな顔でつらなっている。  春嶽のいきなりの強硬攘夷論の主張で会議がはじまると、慶喜はいっそう不愉快の表情をあからさまにした。町奉行小栗|忠順《ただまさ》が反対論をのべ、京へ出発直前の松平容保は激越な賛成論をのべ、板倉は「すでに四カ国と通商条約を締結しているいま攘夷など不可能である」と反対した。賛否いり乱れて、こうなると、だれもが慶喜に注目することになる。  慶喜は視線をあびながら淡々と、 「断然、攘夷に不同意である」  と、春嶽にたいして、はじめてといっていい反対意見を開陳した。通商条約を結ぶに当って勅許をえたか否かは日本の国内問題にすぎない。条約は国家間の約束であり日本の未来を保証する信義の問題である。それを棄てて条約を破棄すると申しでても、諸外国が承諾しないことは明らかである。その結果として、 「およそ理窟のとおらない諸外国を敵とする戦争をして、それで国家を敗亡にみちびくようなことがあったら、どうする気か。もちろん、幕府がどうのという小さなことではない。国家全体の問題である。すでに幕府はなきものとみて、もっぱら日本全国のために私は考えている」  とまで慶喜はいった。  春嶽はしばらく声もないほど愕然となった。おのれの説く攘夷論だって単純なそれではないとの思いが春嶽にはある。なんとなれば、ここで攘夷などとんでもないと幕府がいいだせば、勅使はただちに席を蹴って京へ帰るであろう。朝廷はおさまらない、いや日本国中がおさまらなくなる。外様の雄藩が起《た》ち、内乱が起きよう。そこで政治的工作の色合いのこい攘夷論、はっきりいえば時間かせぎの攘夷論を主張したまで、そう春嶽はいいたいのである。しかしあとは勝手にしろと黙りこくってしまう。  十月一日、幕閣の方針は一転して開国にきまったが、その件は超極秘とされそれが厳守された。ところが勅使が江戸に到着する直前に、またまた攘夷へとひっくりかえった。春嶽の説得もあり慶喜が折れたのである。「薩長をはじめとする外様大名たちの幕政干渉を断乎として排除すべし」という小栗忠順の意見にも同感なら、「外国の圧力によって屈辱をうけるいっぽうの今日は、ひたすら国威を落としている。国威が落ちれば幕府の権威も失墜する。もはや我慢がならぬ」とはげしく抗議する松平容保の熱情にも慶喜は打たれている。辰五郎のいうところの「お坊っちゃん」は右に左にとよたよたとしたのである。  結果としては、和宮降嫁のときの約諚もあるから、ひとまず攘夷の勅旨をうけたうえで、実行にあたっては再度協議すればよい、という大方の意見に慶喜も従うことにした。それに「もしどうしても違約するというのなら和宮を返せという勅諚がでたら、いかがするか」という説には、「ウム」とただうなるばかりなのである。  こうして大勢に従った。従ったものの慶喜はぷんぷんとしている。  結果的には幕府は朝廷をあざむくことになる。朝廷は朝廷で、できない難題ばかりをいってくる。そのごたごたをいいことに薩摩も長州も土佐も、せり合って京都で藩威を張り、勅諚を責め道具にして幕府を倒さんとし、おのが天下をねらうだけで日本全体のことを微塵も考えてはいない。なんたることか。  さきを読むことをつねに心掛けている慶喜は、このとき、大会議の席上で大久保忠寛が、おのれのクビをかけて直言した大政奉還説を、心のうちでひそかに反芻しているのに気づくのである。 「攘夷が不可能であり、日本国のためにならないことを、禁裏があくまでも聞きいれられないならば、このさい政権を朝廷に返還し、徳川氏は駿河・遠江・三河の一大名になればよろしい。そして攘夷実行のさいは一方の備えをうけたまわる。薩摩も長州も同じように一方を固め、朝廷の指揮をうけるのがいちばんよろしい。徳川家にかわってだれが国政を担当しようとも、もともと同じ日本人なのであるから、一向にかまわないではないか。外国人に支配されるよりはいい。カビのはえた古店《ふるだな》はさっさと譲ったほうが、だれをも苦しめることなく国政がさきに進む。それが仁かつ智あるやり方であろう」  と大久保は堂々と論じたのである。  それがあるいは最高の妙案かもしれない、と慶喜は考える。しかしそのいっぽうで、勅諚といったって薩長の藩士や浪人どもが裏で工作してでっちあげたものにすぎない、と鋭敏な頭で喝破している。そんな連中のために、徳川二百六十年の政治の大権を返上することなどは……と考えをたどってくると、 「とうていでき申さぬ」  思わず甲高い声となって口からついてでる。こうして迷いの淵から慶喜はなかなか這《は》いだすことができないでいる。  そしてその日が来た。文久二年十一月二十七日、二十六歳の少壮急進派の三条|実美《さねとみ》、二十四歳の同じく姉小路|公知《きんとも》の両勅使が、江戸城に登った。護衛として一千の土佐藩兵をつれて下ってきた山内容堂が随行する。将軍|家茂《いえもち》、後見職一橋慶喜がうやうやしく玄関に出迎え、先導して大広間に入る。  勅使は上段に着座した。家茂、慶喜、春嶽が中段にひかえ、諸臣は下段に居ならぶ。将軍が臣下の礼をとったのは、江戸幕府創設いらい一度もなかったことである。  勅諚の主たる趣きは——  一、速《すみや》かに攘夷の策を定めて天下に布告し、かつその期日を奏上すべきこと。  一、諸藩より、強幹忠勇の士をえらびて京都守護の親兵となし、この武器糧食などは石高に応じて諸藩に賦課すべきこと。  この二カ条である。  勅諚伝達の儀が終ると、家茂はまた先導して玄関に見送った。これも二百六十年間にかつてなかったこと、朝廷尊崇の実を大いに示した。  越えて十二月五日、ふたたび城中に勅使を迎えて、将軍は奉答書を提出する。その末尾に「臣家茂」と署名してある。これまた前例のないこと。「攘夷の件は、謹しんでこれをうけたまわった、実行案は衆議をつくし上京の上で言上する。親兵の件は、征夷の任にあり右大将を拝している家茂がしかと御守衛申しあげる、これまた上京の節につぶさにご説明いたす」。これが奉答の要点である。  ちなみに松平容保は一千の会津藩兵をひきいて十一月二十四日、京都守護職として京に入り、黒谷金戒光明寺に本陣をもうけている。朝廷守護の実はもうあがっている。  ものものしい儀式ではあったが、すべては「上京の上委細申上げ奉るべく候」ということ。しかし、こうなっては将軍家茂が否応もなく上洛しないことにはすまなくなった。もはやどんな言い訳もきかぬ。  もうひとつ、勅使下向が天下の世論にもたらしたものは、「慶喜英明」にたいするまたしても人気の上昇であったから皮肉である。過去において何事にも姑息因循であった幕府が、ひと昔前とはうって変って、ああも明快に攘夷の態度を示した。これは尊皇攘夷の本山たる水戸出身の一橋公が、後見職としておわすからであろう、というとんだ買いかぶりなのである。  実はその慶喜はいろいろ迷いつつも、その胸の底の底に尖鋭な開国論をいだいている、ということは外には少しも洩れていない。これが世間に知られれば大混乱となる。政治的な配慮から、虎のかぶりものをしているまでの話である。  なぜにこんな皮肉なことになるのか。実は、慶喜にはある種の自信がそこにある。自分が将軍の先ぶれとして京に上った折には、激越な攘夷論者であるミカドに、国内外の情勢をくわしく申しあげる。それによって、攘夷の不可能なこと開国の必要なことを、かならずやわかっていただけるであろう、という自信なのである。つまり、おのれの才にたいする自恃である。  しかし慶喜は知らなかった。いや、のちに知った。ミカドの攘夷思想が実は理知や道理とはまったく関係のない、驚くべき感情論の上に立っているということを。もともとが外国にかんしてはなにも知らず、外国人はけだもので、「煎じ詰めた話が犬や猫と一緒にいるのが嫌だ」(『昔夢会筆記』)と思う、そうした攘夷論であったことを。そしてそこから天皇の「叡慮」が発せられていることを、上洛前の慶喜は知らなかったのである。 [#改ページ]   京からの手紙 慶喜の側室にどうぞ  いよいよ上洛のために慶喜が江戸を発つ日が近づいてきた。  京にいけばますます御用繁多になるであろうし、身辺警固の必要もあって、水戸家から原市之進、梅沢孫太郎、梶清次右衛門ら八人の気骨あるサムライがえらばれて、一橋家へ派遣されてきた。いずれも錚々たる水戸攘夷派の面々。攘夷論者に護られていることは結構なカムフラージュにもなる。  慶喜は京のコチコチの攘夷論者どもの度胆をぬいてやるべく、京の町を洋式軍装でアラビア馬をのりまわそうと、いまから妙な茶目っ気をだしている。そのための馬や軍装の輸送準備もおさおさ怠りがない。  さて、残されている問題は、夜の話し相手となる江戸の娘の物色である。なみのものでは御奉公のかなわないことははじめからわかっている。半六が中心になって獅子奮迅で江戸市中くまなく調べにあたっているけれど、いざとなると下世話にいう帯に短し襷に長しで、これだと即座に手を打てるのがいない。いよいよのっぴきならなくなった。  平岡円四郎はちょっとでも身体が空くと、あたふたと浅草くんだりまで駈けつけてきて、いうことはいつも同んなじで、 「親分ッ、まだか?」  の一言である。  辰五郎も女房のおぬいもそのつど頭をかかえている。もうちょっとお待ちを、と答えるたびにご両所とも、鬼の借金取りに追いかけられているような珍なる気分になる。 「金は押入れに腐るほどあるのに、こう首がまわらなくては、いっそ吊っちまおうか、てな気分になるんだな」  と辰五郎がぼやけば、おぬいが合わせて、 「あたしゃ、悪どい女衒《ぜげん》になったみたいな、お天道さまをまともに仰げない気分だよ。因業な話ったらないよ、まったく」  とぼやき、とたんに、 「お前さん、顔がひろいこと江戸一番だなんて、大見得切ったんでしょう、なんとかしとくれよ。お前さんの責任だよ。それとも、そろそろ焼きがまわっちまったのかね」  と攻勢にまわるのがいつものこととなった。  暦はどんどんめくれて十二月である。師走と聞くと、めっきり寒さが身にしみてくる。それにしきりと空ッ風が吹く。火消しにとっては険呑この上のないある夜のことである。いや、険呑なのは外の火事ではなくて、新門の家の夫婦喧嘩のほうであったようである。 「なにも俺はナ、無二無三に押しつけようてんではないんだ。さっきから口を酸っぱくしていっているように、本人がその気なら、の条件つきだ。いいか、相手はもしかすれば明日は公方さまになるかもしれねえ尊いお方なんだ。その方が京へいって国のためにご苦労をなさる。その話し相手だ。どこに不足がある?」 「なにいってるんだ、馬鹿をお云いな。相手がどなたさまであろうとお妾《めかけ》なんだよ。どこの空に、食うに困ってもいないのに、手塩にかけた大切な娘を、それもすっぽんぽんの生娘だよ、そりゃ少し年をくっちまったがね、それをへイどうぞと妾に差し出す親があるもんか」 「なにを、この唐変木のわからず屋」  そこへ、平岡円四郎が「ずいぶんと派手にやってますな」と顔をだした。話を聞いて円四郎、「エッ」といったきり目をカッと見開いたまま二の句がつげなくなっている。こうなりゃ、娘のお芳を慶喜の側室に差し出そうと辰五郎がいいだした。それで揉めているという。 「いいえね、江戸の隅々までねんごろにかけ回ってさんざん探してはみたが、どこにも、これはという娘がおりゃせんでして。ところがふと気がついてみりゃ、足もと提灯というやつで、手前のすぐそばにいちばん格好のがいるじゃありませんか、というわけでしてね。それにこいつあ、お国のためでもある。ところがこの抜作が猛反対ときやがって……」  円四郎は瞼の裏を熱くした。困難な立場にある慶喜が、京へ行くというのはより困難な、へたをすれば四面楚歌、幕閣も禁裏もまわりがすべて敵という状況下で、国難打開の道をさぐらねばならないということである。味方はひとりでも多くほしいのである。 「悪い話をもちこんだ。すまぬ」  と円四郎は心から詫びたものの、気心の知れたお芳が承知してくれればと欲が頭をもたげる。幼ないときから何十何百の火消人足を相手に育っているから、ちょっと男勝りの威勢のよすぎるところもある。しっかりものという点ではこれ以上の娘はいないであろう。それだけにまた、武家奉公人としての、いざというときに死ぬ覚悟もそなわっていようではないか。それになにより美人である。  こうしてどうやらこうやら三人の大人の不埒《ふらち》かつ不謹慎きわまる合意が成った。本人が「嫌です」といったらそれまでのこととする、と。  よばれてお芳が姿をみせる。それまでの一家をあげての血眼《ちまなこ》の娘探しの経緯《いきさつ》を知っているから、多くの説明はいらない。大人どもが頭を下げるのを見ると、なぜかキリキリといっぺん柳眉を逆立て、急に膝の上の手をにぎりしめて、深くうつむいた。それから、またふだんの顔にもどって、お芳はいった。 「よござんす」  おぬいが思わず「お前、まさか本気で」というよりも早く、お芳はこんどはニコッと白い歯をみせて笑うと、 「火消しの娘が火事場にとび込むのは当り前じゃない」  といってのけた。円四郎はきちんと坐り直した。 「かたじけない。よくぞ、思い定めてくれた」  お芳は平然として答えた。 「そんなに多くの考えのいることじゃないわ」 「べら棒め」  と、辰五郎は掌ではげかかった自分の広い額をぴしゃと叩き、吼えるようにいった。  円四郎と側用人中根長十郎の手びきで、おぬいにつき添われたお芳は、はじめて一橋慶喜に会った。帰ってから「殿さまはえらくお気に入りのようで」とおぬいはいったが、身贔屓を割り引いたとしても首尾は上々であるようで、辰五郎は妙に安心するものを感じている。  その夜のこと——、明け方に遠くの半鐘の音に辰五郎は起された。いっしょに起きたお芳が、はじめて、殿さまの印象をぬけぬけといった。 「顔立ちのすっきりとしたいい男前じゃない」  その声を背で聞きながら、真ッ赤にそまった南のほうの夜空を辰五郎は黙って眺めている。品川あたりと見当をつけたが、空を焦がす火炎が浅草からも望見されるとは、かなり大きいと思われる。あたりに延焼して大火事とならなければよいが、と、指二本をなめて立ててみる。風はさして強くないのでいい塩梅《あんばい》に大したことにはならねえよ、と辰五郎は安心した。十番組の出番はないようだ。 「お芳、早く寝ろよ。風邪でも引くといけねえ。大事な身体だ」  と辰五郎はかつていったことのないようなよそいきの優しい言葉をかけた。  火事は、幕府が品川の御殿山に建設していた公使館群のうち、ほぼ完成していた英国公使館から起ったものであった。アーネスト・サトウによれば「公使の邸宅は、海に面する小高い場所を占めた大きな木造二階建で、見事な巨材を用い、部屋は宮殿のように広く、床板は漆を塗り、壁は美しい模様の日本紙を張ってあった」(『幕末維新回想記』)という。その宏壮な建物がめらめらと燃え落ちた。  放火によるものであるが、毛唐の建物の警備に幕府の番人のほうも手をぬいていて、犯人はだれひとり捕えられなかった。実は、長州藩の高杉晋作を首謀とするほか十二人が犯人で、久坂|玄瑞《げんずい》、伊藤俊輔(のち博文)、志道|聞多《もんた》(井上馨)、品川弥二郎の名もみえる。攘夷を約していながら幕府が公使館などを建てていることが、かれらには許せぬことであった。  それに本館のうしろには馬匹四十頭を収容できる廐も建てられ、白人の兵隊用の建物もある。かれら若き攘夷派には目ざわり以外のなにものでもない。  十二月十二日夜もふけたころ、火薬弾をもちかれらは突入した。だれに見咎められることもなく、放火は成功する。ただし、あまりうまくいきすぎて、長州攘夷派の仕業とみるものは残念なことにいなかった。攘夷の雄長州の名を大いにあげるつもりであったものが成らず、それがかれらにとっては唯一の誤算となった。  不安はかなりかもしだしているが、平穏をかろうじて保ってきた江戸も、どうやら物騒になっている。英国公使館灰燼騒ぎの余韻のいまださめやらぬ十二月二十五日、品川宿まで、辰五郎は半六たち子分をひきつれて出張ってきている。女房には「未練もいいところだね」ととめられたが、娘お芳の初の旅立ちぐらいは見送ってやらにゃあと、足腰の突っ張るのを我慢してやってきた。辰五郎も六十二歳、寄る年波は押しかえせねえなあと苦笑せざるをえない。  慶喜はすでに昨二十四日に江戸を出発、陸路を京に向かっている。  京都町奉行永井|尚志《なおむね》から悲鳴に近い手紙がとどき、京が一日も捨ててはおけない状況になっていることがわかり、歳末おしつまってのあわただしい出発なのである。危機の時代には万事がいそがしく回っている。 「関東の勢《いきおい》日をおうて退縮し、朝幕の間いたく隔絶し、意思ほとんど通ぜず。これにひきかえ薩長など外様《とざま》の諸藩は朝廷を擁し、いよいよ一手で動かす勢なり。一橋殿をはじめ重職の方々、すみやかに上京ありて誠心誠意朝廷を尊崇せらるるにあらずんば、ついに挽回のときなからん」  この永井の手紙で大騒ぎとなり、老中一同が、慶喜の一日も早い上洛を懇請したのである。  これにつられてこっちも一日遅れの大急ぎの出発となり、円四郎のほか三、四人の供揃えのお芳の一行は、箱根あたりで追いついて慶喜の行列に合流することになっている。温泉にゆっくりつかって、初の床入りかよ、殿さんもきまりが悪いほどイキなことをするじゃねえかと、かえって辰五郎はすこぶる満足なものを感じている。  品川の宿のはずれまでやってきて、お芳は平然としてただ一言。 「じゃあね」  あとも見ず七、八歩行って、振り向きもせず「おやじ、いつまでも達者でな」と大きな声をあげた。  辰五郎は、「これからはおやじと呼ぶから」と円四郎に言《こと》付けた慶喜のありがてえ言葉を想いだしながら、 「なにをいいやがる、手前こそ」  とぶつぶつといった。すべてはさっぱりとした壮快な旅立ちであった。半六だけがボロボロ大粒の涙をこぼしている。 江戸は極楽、京は地獄  文久三年二月十三日、将軍家茂もご大層な行列をつらねて江戸城をあとにした。したがうのは、老中水野|忠精《ただきよ》、板倉|勝静《かつきよ》以下三千人の軍兵である。これも陸路をえらんでいる。はじめは勝麟太郎が指揮する軍艦順動丸での上洛が予定されていたが、大奥からの猛反対で沙汰やみとなった。 「なれない船旅で上さまの身に万一のことがあれば、つぎの将軍は�悪龍の子�ということになる。それは好ましくない」  まだこの期《ご》になっても、大奥の女どものヒステリーはおさまってはいない。海路でいけば四、五日で大坂に着けるのに、陸路では二十日以上もかかる。出費の莫大さでは海路の比ではない。  将軍家の上洛は、三代家光が征夷大将軍の叙任をうけるためのときいらい二百三十年ぶりのことである。あのときも大軍をひきつれていったが、半ばは京を威嚇するためであった。家光は牛車《ぎつしや》を内裏に乗りいれ、上皇なみの資格で天皇と対座した。こんどもそのとき同様の格式にのっとる供揃えとしたが、威嚇どころか、将軍家が臣下として朝廷に深く尊崇の意を表そうというのである。金はたっぷりかかったが、待遇は関白三大臣の下、将軍は宜秋《ぎしゆう》門から歩いて御所にはいることになっている。  そうと知らされたらあまりの扱いに江戸ッ子は総蹶起したかもしれない。蹶起したって無手勝流でどうなるものではないが、江戸ッ子独特の負けん気から「売られた喧嘩だ、買ってやろうじゃないか」ぐらいの啖呵を切ったことであろう。しかし、そんなこととは知らないから人びとは沿道に総出でへっつくばって、公方さまの旅立ちを見送った。いくらか事情通のなかには、 「公方さまは御《おん》年十八歳の若さ、ひょんなことから将軍となりこのご苦労、痛わしさに胸のふさがる思いをいたしております」  と心のうちで叫んでいるものがあったかもしれない。  将軍が上洛したその日から、江戸の物価がぐんとあがってべら棒なこととなっている。時勢のさき行きが見えない八幡の籔知らずだから当然でもあった。主食の米はもとより、味噌、醤油、薪炭、野菜に魚介、それに酒と、のきなみに一気に値がはね上った。  そのうえにきびしい寒さが戻ってきて、八百八町は完全に凍りついた。春がそこにきているというのに、悪い風邪もはやり、死人が続出で、世の中はただごとではない。 「いやはや、どうにもやりきれねえ毎日で、京にいかれたお芳坊さまがうらやましいかぎりで」  半六が、将軍が西上の途についてから三日目の二月十六日、そんなことをいった。 「半ちゃん、お前はものを知らないねえ。京はまわりを山に囲まれて、江戸よりずっと寒いとこだというじゃないか。なにがうらやましいもんかね」  おぬいがはすっぱにいうのに、半六は、不思議そうな顔をして、 「でも江戸よりずっと西でがんしょう。西へ行けば暖かいんじゃねえんですかい」  そんな阿呆くさい話を小耳にはさみながら、〈お芳のやつ、あれほど便りをよこせと念には念を押しておいたのに、よこさねえな〉と辰五郎はぼんやりそんなことを思った。  浅草にはこんなのんびりとした時間が流れているとき、江戸城中では、将軍をはじめ重職すべて上洛のあとの留守居役の諸侯が、蒼白となった顔をひきつらせてひとしく右往左往していた。突如としてこの日、イギリスが軍艦九隻を横浜沖に集結させたのである。しかも、 「砲数は全体で百門をこえまする」  と報告書にはある。そして、生麦事件にたいする賠償の正式要求書を、イギリス代理公使が幕閣にとどけてくる。  留守老中松平豊前守は委細を書状にしたためると、急飛脚をしたてて、将軍の行列を追わせた。この処理はいかがすべきや。  その急飛脚と東海道のどのへんですれ違ったものか、浅草の新門辰五郎のもとへ御用飛脚が、京都からのお芳の手紙をとどけたのは、三月になってすぐのことである。  当時は、ふつう三度笠をかぶっているので三度飛脚とよばれる飛脚が、一カ月に上中下旬と三度にきめて、主要の街道を走っていた。このほかに特別の定飛脚というきまり(契約)の飛脚がある。町人の商用飛脚と、官用の御用飛脚である。さらには幕府や尾張、紀州は七里ごとに飛脚をおいて急用のさいにリレーして走る七里飛脚というのもある。  その速さは、ふつうでは二時間に一里半と三町三十間走るが、早飛脚は二里九町であったという。なんのことはない、歩くよりやや速い程度であるが、とにかくそれで京から江戸へ休まず走りぬけてくる。ふつうは七日をかけてそれぞれの目的地についたらしい。  お芳の京からの第一報が、一橋家の官用飛脚によることは、考えてみりゃ当然なのに、辰五郎もおぬいも「なに、三度飛脚じゃねえのか」とひどく感心したものであった。  お芳の手紙は金釘流ながら、何日もかかって一所懸命に記したらしく滅法に長かった。 「お正月の三日に京都に着きました。寒くてぶるぶる震えました。東本願寺というすごうく大きな寺が宿舎と相なりそろ。大きすぎてとても寒くてたまらないところにてそろ。  御わかれした初のうちは夜も目がさめるとねられぬ位かんがえ出して困りましたが、いまはおもしろくて、いそがしくて、夜はぐっすりねむっています。  ダンナはやさしくしてくれます。妾《わたし》も万事こころづけ、よくよくこころづけ、愛想づかしをされて新門の名を汚さぬようと精いっぱいはげみ居りそろ。  ダンナは到着早々張りきりなされ、洋式騎乗〈この語はダンナに教えてもらいそろ〉にて関白さまのお邸をはじめ議奏、伝奏とかの屋敷をのきなみ、風をまいてお訪ねになり、ご挨拶をすませ、帰ってこられ、 〈やりすぎたかな〉  とペロリと赤い舌を出しました。あきれたダンナにてござそろ」  おぬいがたどたどしく読んでくれているのを、耳をすませて辰五郎は聞いている。ときどき「ナニナニそろ」がとびだしてくるのがおかしいが、それに合わせてどうしたことか、ヒクッヒクッとひゃっくりがでてきてとまらない。押さえようと辰五郎の顔は真ッ赤になっている。 「京は天誅という人殺しのはやる、がたがたしたがさつなところにてそろ。天子さまのおわす千年の古都などとは、ちゃんちゃらおかしく、義理にもいえないのではないかしら」  このあと一月二十九日夜の、佐幕派公卿の千種有文《ちぐさありふみ》の家臣賀川肇殺しの詳細をお芳は書き記している。攘夷派の浪士七、八人がその居宅に押し入り、賀川を家人や子どもの前で殺害、その頭と両手を切断してもち去った。  片腕が千種邸へ、もう片腕が岩倉具視邸へ放りこまれたのが二月一日の夜。同じ夜に、慶喜宿所の東本願寺内の太鼓楼の上に、うやうやしく奉書紙に包んだ肇の首がのせられた白|片木《へぎ》が、書面をそえておかれた。 「この首はなはだ粗末ながら攘夷の血祭り、お祝いの印までに進覧奉り候。一橋殿へ御披露下さるべく候」  と書面にあった。  二月七日にもひと騒ぎがあった。河原町の山内容堂屋敷前の高瀬川の橋の上に、風呂敷包みの首級がおかれ、封書には右と同じような文句が書かれていた。大酒のみの容堂はさっそく春嶽に一書を送っている。 「今朝僕が門下へ首一つ献じ有之候。酒の肴にもならず、無益の殺生憐れむべし」  もちろんこの騒ぎは慶喜の耳にも入っている。 「今朝も早くほんとうにおかしなことがありました。四条大橋の下の加茂の河原に、生首ならぬ木像の首がさらされていたといいます。よくは知りませんが、足利将軍さまのものとか、それも三つにてそろ。余程おかしな人の仕業と思われますね。通る人はみな手を打って大喜びだったそうです。なんでも鎌倉いらいの国の逆臣をつぎつぎに殺す予定にて、まず第一の賊の首に天誅を加えたとのことにてそろ。笑っちゃいました。  ダンナのいわれるには、間もなくお着きになる公方さまやダンナへの脅し、いやがらせだそうです。他愛のないやつらだと笑いとばしておられましたが、ご存知のマナ板さんはえらく憤激しておりました。妾もかなり心配いたしおりそろ。  いず方におりましても、わざわいは致し方なく思いますけれど、頼りになるおとっつあんがダンナのそばにいてくれたらと、ふと思ったりしています。ダンナのご苦労くれぐれもお気の毒ゆえ、いかようにも世話いたす覚悟をきめおりそろ。  ダンナが妾をおーいおーい早くこーいと、ただいま寝室にてよんでおりますそろ」  お芳の手紙はそれで終って、日付は二月二十三日とある。読み終えたとき、辰五郎は後悔の念がみぞおちのあたりにうずくのを感じた。いまのところ江戸は極楽、京都は地獄、しまった、俺が殿さんのお護りに京へ上るんだった、という痛切な想いである。辰五郎はお芳の手紙を浅草観音を祀った棚の上にささげて、ぽんぽんぽんと拍手《かしわで》を大きく打ちながら「待ってろよ、すぐ行くからな」と小さくだれにいうともなくいった。  江戸は、しかし辰五郎が楽観するほど、極楽ではなかった。横浜沖にあったイギリス軍艦九隻のうち四隻が錨をあげて、品川沖にまで前進航行してきたのは二月のなん日であったろうか。将軍上洛のあとの留守居役として尾張の徳川|茂徳《もちのり》が江戸に到着して、まだ何日もたっていないとき。いちばんの柱と頼む茂徳がまっさきに狼狽してしまった。  老中松平豊前守のだした急飛脚は掛川宿で将軍の行列に追いついたが、板倉老中は「万事は京へ着いてより」と返報を江戸城へ返すより仕方がない。この要領をえぬ返事にイギリスは業を煮やしたのである。それならとゆったりと構えていればよかったのに、茂徳をはじめ留守老中たちが、生麦事件の報復に江戸を砲撃する気なのかも知れぬと、あわてふためいてしまう。  茂徳は江戸藩邸内の婦女子全員に即刻帰国を命じた。戦争となれば、逃げるが勝ちである。尾張藩は市ヶ谷御門の外に広大な屋敷をもっていた。四ツ谷、市ヶ谷界隈の古道具屋が呼び集められたことで、江戸中に「こんどはイギリスと戦争だ」の噂がたちまちにひろがる。  江戸市中は黒船が来たとき以上の大騒動となった。将軍が留守というのが恐慌状態をいっそう大きくする。半鐘がやたらに乱打されるし、瓦版はでたらめをしきりに書きたてる。家財道具をのせた馬車や大八車が街道にひしめき合った。かつげないほど荷をかついだ人びとがさきを争う。江戸中の大かたの町民が夜逃げ同様の情けない有様である。毛唐相手に果敢なる一戦をする気などさらさらない。 「公方さまの名代が腰をぬかしてへなへなすると、江戸ッ子までがあがったりで、こうもだらしなくなるもんなのか。なってねえ話だぜ」  とさすがの辰五郎もしばし天を仰ぐよりほかはない。 孤軍奮闘のはてに  お芳の手紙の第二報は、イギリスとの戦争はなんのことやらわからぬままに艦隊が去って雲散霧消し、すっかり安穏をとり戻した五月の初めに新門の家にとどけられた。 「四月十二日の今朝《こんちよう》、ダンナは京をあとにし急いで江戸へ旅立ちました。お前さんは残れ、なにすぐに京にまたもどるにきまっているとダンナが申されますゆえ、妾は一橋家の人びととともに残って、ここでひとり淋しく、のんびりと暮すことと相なりましてそろ。元気ですので御安心なされませ。  公方さまが三月四日に京にお着きになられましてより、めまぐるしいほどにまわりにいろいろなことがこれあり、とても残らずお伝え申しますのはむつかしく、頭のそれほどよろしからぬ自分にほとほと愛想をつかしおりそろ。なにしろおとっつあんおっかさんの子ゆえ、仕方のないことかもねと自分にいいきかしておりそろ」  この手紙も、辰五郎は例によって、おぬいが読んで聞かせてくれるのにただ耳を傾けている。なんだと、手前の頭の悪いのを親のせいにしやがってと、にが笑いをうかべながらも、二十一歳の娘が殿さんや俺のために役に立とうと懸命になっているけなげさがあわれでもあり、辰五郎はぐすんと鼻をこすりあげている。 「お芳のやつ、京にひとりぽっちにおいていかれて大丈夫だろうか」 「なにいってるんだよ、お前さんの娘じゃないか、観音さまがついてるよ」 「違えねえ。……でも、江戸と京の水は違うからねえ」  と余分な合いの手を入れながら聞いていると、京都が尊皇攘夷派と公武合体派とのいまや角逐《かくちく》の場と化し、煮えたぎっているらしいことが、辰五郎にも十分に察せられた。 「ダンナの申されるには、天子さまと公方さまとの御対面はまことによろしう運ばれましたそうでございます。和宮はいかがしているか。お気丈にいらせられます。攘夷のこと、よろしく頼む。委細承知つかまつりました。およそそのようなお話がかわされました由にそろ。  ダンナの推量では、天子さまは公方さまにご厚意をもたれ、これからはこうぶ[#「こうぶ」に傍点]派となられ、じょうい[#「じょうい」に傍点]派に反感を抱かれたのではないかとのこと、にこにこと珍しくご機嫌にて申されましてそろ。  十一日には、天子さま公方さま連れ立たれて、加茂の社におまいりになられてそろ。あいにくの春雨のしとしとと降る日にて、なれど公方さまもダンナも、お二人とも馬にお乗り遊ばしてご立派にて、おとっつあんにも見せてやりたく思いましたよ」  この「攘夷祈願加茂行幸」は、攘夷派の雄長州藩が画策して実現したものである。関白・大臣以下が供奉し、前後には備前藩以下十一藩の銃隊数百人をつらねた行列は、四キロにも及んだという。行列の美麗荘厳なること「さながら古き絵巻物を見るようなり」で、沿道は人で埋めつくされた。将軍よりも天皇が上位であることを、天下万民に、攘夷派はたっぷりと見せつけることに成功した。 「行列をながめる人びとのうちより、イヨー、征夷大将軍ッ、と冷やかしの声がかかりしこと、マナ板さんより聞かされましてござります。あやつはたしかに長州はんの高杉しんさくにちげえねえなどと、えらくマナ板さんは憤慨しておられました」  攘夷論者の鼻息の当るべからざる様がみえるようである。そしてこれに味をしめて、公卿の三条実美や長州藩を中心とする尊攘激派は、思うように朝廷を利用して政治をひっかき回した。朝廷が直接に諸藩に命令をするようになる。幕府の権威などいまや形なしである。慶喜は関白に厳重抗議するが、効果はまったくあらわれない。  また、慶喜はすでに、孝明天皇が倒幕の意思などもっていないことを、はっきりと確かめている。そして、人心いまだ一致せぬときに無闇に攘夷を急いでは動乱の因《もと》になる、との思召しをもっていることも、その耳でたしかに聞いていた。  にもかかわらず、天皇の周囲は長州激派と、それに煽動されている公卿たちによってがっちりと固められ、攘夷一色なのである。  その公卿たちも、うち割ってみれば、どうして情けない連中ばかり。土佐の山内容堂が大酒をくらった勢いで、三条実美をその屋敷に訪ね、きびしく問いつめたことがある。 「即刻に攘夷を決行することは、いまの日本の力では至難のことである。そのことを主上はご存知なのか」  これにたいして「ご存知ない」というのが実美の答えであった。びっくりして容堂はさらに声を荒らげて「なぜに主上にほんとうのことを申しあげない。輔弼《ほひつ》の臣としての務めをなんと心得ているか」と叱ると、実美は泣かんばかりにしていった。 「容堂殿、そうすれば自分たちが攘夷の志士に殺される。私なども、常に長州系志士から脅かされつづけているのだ」  容堂はあいた口がしばしふさがらなかった。  斬奸の刃はもう敵味方の容赦なく、いつなんどきふってくるかわからないのである。こうした話も、慶喜の耳に入っている。  こうしていつの間にか「叡慮」が、攘夷派がイニシアチブをとるための政治の道具にされていることもわかった。権力争いの魔法の杖のようにこの言葉がふりまわされる。抵抗しえない絶対的な力として「叡慮」が、いまや公武合体派の動きを封じこめようとしている。尊攘激派の策動に手を焼いた公武合体派の有力大名はどんどん京から去っていった。 「土佐の山内さん、宇和島の伊達さん、薩摩の島津さん、えらいお殿さんはみなお国もとへ帰りなされました。三月二十一日には福井の松平春嶽さんまでが、政事総裁職の辞表をだし、京をお捨てになりてそろ。ダンナだけがみそっかすにてそろ。  ダンナさんはみんな無責任もいいところだとひどく怒りなさって、一日中ぷんぷん当り散らしておられました。床につかれてもうっ憤やるかたなきご様子にて、妾がたんとおなぐさめいたしそろ。それからぐっすりお休みになられてそろ。  あくる朝は、いつものダンナにもどり、さてつぎなる難題をいかにすべきや、などとりんりんたる勇気をお示しになっておられました」  その難題とは、四月十一日に予定されている男山の石清水八幡宮行幸である。叡慮により将軍家茂はお供を命ぜられる。長州の連中の策謀が当然のこと予想されるから、そのワナに陥らぬように、慶喜はあえて強引な手を打った。  いやがる家茂を説きふせて、病気ということにして随従を辞退させ、慶喜が名代として鳳輦《ほうれん》にしたがった。そして男山のふもとまでいった慶喜も、突然の腹痛を理由に山には登らなかった。そればかりではなく、宿をかえて身を隠した。『昔夢会筆記』では、ほんとうに下痢であったのだと回想するが、これはあてにはならない。  慶喜の決断で、尊攘激派の陰謀は見事に肩すかしを食ったことになる。強引に山の上につれだし、社前で古式にのっとり攘夷の節刀を将軍または後見職に授けて、幕府の立場をのっぴきならないものとしよう。それが長州藩の知恵者と三条実美や姉小路公知たちとがしかけた政治的なワナであったのである。  節刀とは、皇軍出陣の折に天子手ずから賜る刀で、賊を平らげ凱旋すればこれを返上する。これを受ければ天皇の名代として将軍が攘夷の先頭に立たなければならない。  慶喜はとうにこれを見ぬいている。役者が一枚上であるのはたしかであるが、いかんせん孤軍奮闘である。囲みを破って無事生還するのが精いっぱい、というところである。  攘夷派の憤激は極に達した。四月十七日、三条大橋に高札が立ち、家茂と慶喜とを糾弾する文字が大きく書かれた。「虚病を構へ」あるいは「出奔」するなど朝廷を侮辱するにもはなはだしいものがある。「一々誅戮を加ふべきはずなれど」と高札はいう。将軍はまだ若く、すべては奸臣どもの策謀であるというので、しばらくは許しておく。そこで、 「速やかに姦徒の罪状を糺明して厳科に処すべし。もし遅緩せば、旬日を出でずしてことごとく天誅を加ふべし」  将軍を名指しして天誅を加えるという公然たる宣言は、これがはじめてである。慶喜の見事すぎる肩すかし戦術は、攘夷派をいたく刺激したことになり、攘夷論のうしろにちらちらしていた倒幕論は、このときから明瞭な形をとって表面にではじめる。  高札のでた翌日から連日のように勅使が東本願寺へやってきた。攘夷実行の期日の催促である。いや、脅迫に近い。公武派の大名は逃げ、だれも防波堤となってくれるものはいない。慶喜の支持者もいない。京にあるのは擁夷強行派の長州ばかりで、怪気焔は威勢をあげるいっぽうである。  では京の大道を闊歩している人殺し集団を徹底的に取り締り、秩序の回復がはかれるのか。京都守護職の任についた松平容保にたずねれば、いまのところはまだ不可能の言葉が返ってくる。慶喜はいい加減に腹にすえかねてきた。  将軍いじめもほどほどにせよの想いである。高札にある「因循」「奸吏」「奸謀」「姦徒」「出奔」などの措辞のひとつひとつが許しがたいものとして読める。慶喜は「英明」であるだけに、これ以上の我慢はその自尊心が許さなくなっていたようである。  ついに勝手にしろとばかりに、四月二十日、将軍の名をもって、 「攘夷期日を五月十日とする」  と慶喜はいけぞんざいに奉答した。三条実美らは「困らせる」つもりであったからアッケにとられた。板倉老中をはじめ幕閣は仰天した。あと二十日で諸外国すべてに宣戦を布告するなどは準備はおろか心構えすらもできていない。もう無謀をとおりこして、「一橋公は狂われた」としかいいようがないではないか。  四月二十二日、在京の諸大名に攘夷期日の決定が公示される。 「ダンナはもうにこにこなさって妾にだけそっとお教えくださいました。どうせできやしないじょうい[#「じょうい」に傍点]なんだから、準備もあるもんか。どうしようもない早目の期日にきめたほうが、うぞうむぞうの目のさめるのも早かろうというものさ。このときのダンナは、まことにまことに颯爽としたいい男っぷりにてそろ。  それで、俺は江戸に帰ってじょうい[#「じょうい」に傍点]の準備万端をするからと、みんなに言ってきた。将軍を京に残して逃げるのか、なんていうものもいたが構うもんか。これからすぐに出立する。そうダンナはいわれましたのでござそろ。  これにて書くことはなくなりました。こちらの事情はほぼおわかりいただけたかと存じそろ。まだなに一つ、京にては、もつれた糸のほどけたものはなく、ますますもつれるいっぽうと、妾にもようくわかりますれば、ダンナの京都へのお帰りもきっと早かろうと思い、それではしばしのお別れとお送りいたしましてそろ」  お芳の手紙は尻切れとんぼのようにぷつんと終る。いや、これ以上は気の強いあいつにも書けなかったのだろう、と辰五郎は思う。そういえば、最後の「いたしましてそろ」の文字はなんかに濡れたようににじんでやがる。辰五郎もなんとなく泣きたくなっている。 辰五郎、京へ行く  ふつうなら十日間ほどで江戸に帰れるのに、慶喜はことさらゆっくりと東海道を下っている。つき従ったもののなかに、水戸藩家老武田耕雲斎がいた。バリバリの攘夷論者として有名な人物で、「一橋公もいよいよ本気でやる気だな」と思わせるのに十分である。  五月十日の攘夷決行の二日前の夜に一行は一橋邸にもどった。この知らせはすぐに辰五郎にももたらされた。簡単な文面のあとに、ただ一行ながら「すまんが、大事な預りものは京へおいてきた」旨のこともあって、「大事な」の文字が辰五郎とおぬいを喜ばした。  攘夷開始の前の日の五月九日、上を下への大騒ぎをしている江戸城に、慶喜は悠々閑々たる顔をして登城すると、留守居役の重役諸侯を召集し、「攘夷決行の期日は明十日である」との沙汰を伝えた。それから静まりかえる一座をひとわたり見渡す。 「よろしいか。明十日である。諸有志よろしく戒心し、いかにして戦うべきか、その儀をよくよく考え策をねって決行につとめられたい。また、在府の諸侯にはその旨を伝えられたい」  それだけをいうと、慶喜は質問を封じ、さっさと城から退出してしまった。老中、若年寄、奉行たちは呆然とするばかり。列強を敵としていよいよ開戦となれば、将軍上洛中の現在、総大将代理は後見職の徳川慶喜である。その人が希望だけのべて、一瞬にして姿を消してしまったのであるから、さてあとはどうしたものか。 「勅諚は下った」とはいったが「戦闘を開始せよ」とはいっていない。いや、勅諚があったということは命令が下ったと同じなのだ。なにをいうか、政事実行の大権はなお幕府にあるのだ。いろいろな議論が城中に沸騰したが、やがて議論疲れで諸侯はそれぞれ引き揚げていき、その日はそれで終った。  翌十日、総大将代理は登城さえしてこない。  それだけではない、神奈川奉行から、威嚇的な無言の碇泊をつづけていたイギリス軍艦が、錨をあげて外洋へ出ていったとの報告がとどけられてくる。閣老小笠原|長行《ながみち》が無断で賠償金十万ポンドを支払ったゆえ、と、愕然とさせられる情報がつけ加えられている。  幕閣たちは、この処置が慶喜のひそかな指図によることをぜんぜん知らされていないから、いまや開戦せんとしているときに何事か、と烈火のごとく怒った。しかし、実際はほっと胸をなでおろしている。戦うにも相手がいなくなった。これでは戦えないではないか。  勅諚によって攘夷だとあげた拳《こぶし》をおもむろにさげはじめたころ、五月十三日、待ちに待った慶喜がやっと登城してきた。こんどこそ、いざ鎌倉! と城中には緊張が走ったが、居合わせた幕閣の要人に集まってもらったところで、 「思うところあって将軍後見職を辞職する」  と慶喜はのんびりといった。それから老中太田|資始《すけとも》に向かって「私からの辞表はこれよりきちんと書く。正式の手続きをとりはからうように」とおだやかに命じた。  このあと一室にこもって朝廷へ提出する辞表をしたため、細かい事務的なことをすますと慶喜はこの日もあっさりと引き揚げた。  そうと知らされてから城中はひっくり返った。�悪龍の子�はやっぱりとんでもない人物だ、いったい何を考えているのか。それが大方の感想である。どこまでが本気で、どこからが芝居なのか、得体が知れなくてとてもついてはいけない、とだれもが感じた。禁裏よりこれを平然と受け、攘夷の号令を発したあと、六方を踏んでご自身は花道をさっさと引き揚げていく。  もっとも、よくよく考えれば、これですべてが丸くおさまった模様である。朝廷への尊崇はとおした。勅諚は受けた。といって、全面的な戦さにはなっていない。幕がしずしずとおろされたと、江戸城内のものにはなんとなく思えたことである。  幕閣たちが、もしもこのとき慶喜が書いた辞表の文言《もんごん》を読むことができたら、もう一度ひっくり返ったかもしれない。 「……綸言《りんげん》如汗《あせのごとし》に候えば、関東諸役人とともに、討死する覚悟にて東帰仕り候ところ、閣老ならびに大小の役人、一人として攘夷に同意のものはこれなく、かえって慶喜の心事を疑い申し候。慶喜は攘夷実行の混乱につけ入って、天下を奪おうとするかのごとく臆測する有様にて、とうてい勅旨の貫徹は成らざるものと存ぜられ、……」  幕閣や役人にとっては、あまりといえばあまりの申し条ではないか。しかし、これが「攘夷決行の期日は五月十日」と答えたときから、慶喜がひそかに構想していた自作自演の大芝居でもあったのである。しかも、この辞表の冒頭には、 「愚臣、攘夷の聖旨を奉じ、東帰仕り候は、まったくもって勝算あっての事にはござなく候」  とぬけぬけと記して観客をアッといわせている。  慶喜の見事な独り芝居のおかげで、戦争にはならないんだと江戸はまた平常に戻った。物価の高騰は相変らずであるが、攘夷の騒ぎなどどこ吹く風で、じめじめした梅雨もすぎ夏を迎え、いつか蝉しぐれも終りに近づきつつある。 「……そりゃ親分よ、お上は深く思いをいたしたわな。朝廷を軽んじるような越権行為があっては、生まれ育った水戸の精神に恥じねばならぬ。だから、お上は禁裏とのお約束はまちがいなくはたされた」  円四郎は久闊を叙したあとすっかりくつろいで、辰五郎を相手にさっきから長広舌を弄している。新門の家のいちばん奥の座敷である。よく風が吹きとおって、ここにいると暑さをしのぐにはもってこいの感がある。 「はたして攘夷ができるのか、できないのかは問題になんかしていない。だから勅諚は有難くおうけしたわけさ。もっとも、その勅諚が本物かどうかは疑問だがね。おっかねえ連中に脅かされ、あやつられている公卿どもが、まわりをとりまいていたんでは……」 「天子さまもとんとご不自由ってわけでござんすね」 「勅諚はうけたが、お上は初手から攘夷はできないと思っている。幕府の連中のやり口は、もう因循姑息で、にっちもさっちもいかなくなるそのときまで、動きやしない。そしていよいよとなれば、閣老も若年寄も、奉行も、病気だなんだかだといって、ひきこもってしまうにきまっている。そんな連中を指揮して戦さなんぞできはしないよ。お上はもうてんであきらめているんだな」 「じゃあ、殿さんは開国が……」 「国を開いて諸外国と交易をする。ほかにとる道がいまの日本にはない。そうはじめから覚悟をきめていたのさ」  辰五郎は〈それがまことのご本心か〉とそれなりに理解はしたが、江戸ッ子の流儀からいえばいささか釈然としないところがある。 「それをわからせないように、江戸へは武田耕雲斎という自他ともに認める水戸攘夷派の筆頭を供にして、京から帰ってこられた。芸の細かいところよ」 「でもね、円四郎さんよ、その細かい芸が殿さんの命とりになりゃしませんですかね。千両役者の踏む六方の見事さに観客がアッといっているうちはいいが、千両役者がとんだ喰わせものとバレたときの、裏返ったときの人気の寄せ返しはおっかねえもんですぜ。それに殿さんには、だれもが芸の見事さに拍手するものときめこんでいるところがおあんなさるんじゃねえかと……。例の、後見職のことだってそうだ。辞表をだしたって、京都がそれをすんなり受けいれないと。いやネ、受けいれるはずはねえと、もうハナから踏んでいる。結局はまた頼んでくるにちげえねえ。事実そうなりやしたね。そんときにはうんと恩を着せて、なんて、そんなうさんくさい駆け引きが衣の袖にちらちらしているんじゃねえかと……」  朝廷は七月四日に慶喜の辞表を却下し、「さらに皇国のため精誠を致すべきこと」と優渥《ゆうあく》な御諚があった。慶喜はもちろんこれを受けた。 「親分、痛いところを衝くね。たしかにそんなところがある。でもな、天下の衆目の一致するところ、慶喜公なくして日本国の兵の指揮をとれるものはほかにいない。攘夷だろうと公武合体だろうと、慶喜公あってはじめて成立する、というのがはっきりしている。だから、お上がまた上洛なさるときがすぐそこにきているというわけさ」  慶喜が聖恩に応えるべく上洛すると申し送ったのが七月十八日である。  辰五郎の脳裏にはさびしげなお芳の横顔がちらとかすめた。それを押し殺して、 「だから、なおのこと、芝居気たっぷりは危険じゃござんせんか。本心を隠しての人をなめた独り芝居はいい加減になすって、誠心誠意、江戸ッ子のいうイキとハリでまともにぶつかりなすったほうが……」  といった。そういいながら、ふと前に聞いたことのある慶喜幼なきときの、寝床の剃刀の話を辰五郎は思いだしている。怪我をして困るのは父の斉昭であり、侍臣や侍女たちである。どうせとりのぞかれるのにきまっていると、薄目でながめている幼なき七郎麿と、みんなが困惑するのを承知しているいまの慶喜は同んなじじゃないか。しかし、辰五郎はそっと呑みこんで、円四郎にはいわなかった。  陽も西へ傾いて、秋の蚊がではじめたようである。羽音がやたらにうるさい。大の男が二人でぴしゃんぴしゃんと小さいのを追っている。おぬいが豚の蚊遣りをもって部屋に入ってくると、 「円四郎さま、京にも蚊がいるんでしょうか」  と、なんともつまらぬことをいい、話の腰を折る。二人の男は顔を見合わせる。しばらく沈黙が支配する。浅草寺の鐘がゴーンゴーンと刻を告げている。  旬日後、その京都からお芳の手紙がまたとどいた。どこでどうやって仕入れてくるのかいろいろな消息が、例によって下手くそな字でいっぱい書かれている。辰五郎は、お芳のやつもできる範囲で一所懸命になっていやがると、鼻のあたりにむずがゆさを感じている。年をとってとんと俺も泣き虫になったものよ、と思う。  お芳の手紙は伝える——。  ——攘夷の尖兵になるのだと長州藩が外国船を砲撃した(五月十日)。——攘夷派の急先鋒だった姉小路公知が寝返ったという理由で殺された(五月二十日)。——姉小路暗殺のあおりで薩摩藩が宮門出入りを禁じられた。——将軍さまが京を発しやっと江戸への帰路についた(六月九日)。——英艦を砲撃した薩摩藩を天子さまがほめられた(七月五日)。——松平容保さまお預りで新選組という名のサムライ集団ができ、夏のはじめごろから市中見廻りをはじめた。——八月十八日、突如として、朝廷の御門がすべて薩摩と会津の兵で固められて長州兵を一気に排除。長州藩士は京都から全員追放された。ついでに攘夷派の公卿七人も宮中に入れてもらえず長州に落ちていった。——京都はそれで突然に静かになった。  そんなこまごましたことを、なんの強調もなく日常茶飯の出来事のようにぶっきらぼうに、お芳は書いてきた。  かなり事情通になったとはいえ、一日にして、京を制圧していた尊攘激派の長州のサムライたちが京からいなくなったということは、辰五郎にはとてものこと理解できない話である。のちに円四郎の説明を聞いて腑におちた。  ことの起りは長州激派の指導者|真木《まき》和泉《いずみ》の策謀に発している。天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵から伊勢神宮に詣で、そこで攘夷決行の勅命を幕府に下し、それを受けえないであろう将軍をただちに追討し、天皇をして倒幕戦と攘夷戦の先頭に立たせる。この計画のもと準備を着々とすすめていたという。ところが当の天皇がそのあまりの過激さに震え上った。天皇に倒幕の考えなどなく、ただ攘夷の熱い想いがあるだけだからである。  ここに及んで、天皇は薩摩の島津久光と京都守護職の松平容保を頼みとして、尊攘激派の宮中からの排斥を考えるようになった。宮中への発言権回復をねらう薩摩藩はがぜん勇み立った。絶好の機会とみた。公卿のなかからも中川宮朝彦親王を中心に反長州派がこれに同調する。京都朝廷は一夜にして、反長州の公武合体派の占拠するところとなる。  八月十八日、政権奪取はものの見事に成功する。三条実美以下の七人の攘夷派の公卿は、宮中出入りをさしとめられ、長州藩兵には京よりの退去命令がだされる。あるいは一戦かと思われたが、薩摩と会津連合軍を相手にしては衆寡敵せずとみた長州藩は、再起を期して雨中の大坂に向けて退き、そこから七卿とともに本国に引き揚げていった。 「しかし、これで万事が治まるはずはないな。攘夷熱はいっそう燃え上るものと俺はみる。お上は間もなく京へ上られるが、さて、公武合体派の天下となったと、そんなに安心していいものか。長州の連中は、親分のような江戸ッ子なんかと違ってしつこいからね。いや、長州の攘夷派ばかりじゃない。全国ののぼせあがった連中が、こんな屈辱をうけて黙ってひき退っていられるはずはないね」  と円四郎がていねいに説明してくれたが、その予言を裏書きするような大事が、江戸も江戸の、慶喜の身辺に起ったのである。  それは慶喜が再度上洛のため江戸を出発することになっていた十月二十六日の三日前の、二十三日のこと。慶喜の側用人中根長十郎が雉子橋御門の外でめった斬りに殺されてしまった。水戸精神の裔たる慶喜が攘夷にふみきれないのは、側近に奸物がいてその英明を曇らせているからだ、と思いこんだ江戸府内の攘夷浪士の手にかかったものにちがいないが、ついに犯人はあがらなかった。  中根は一橋家つきの用人として長くつとめ、金銭や俸禄を扱う裏方の仕事をし、朴念仁と陰口をきかれているくらい地味な事務官である。政治とはおよそ関係がない。その人が暗殺されたというのは、勘ちがいがあるにせよ、慶喜その人への警告と、平岡円四郎や原市之進たちだれもが考えた。いや、かれら側近たちへの脅迫といってもいい。  この思いもかけない事件を聞かされて勇みたったのが新門の辰五郎である。こんど殿さんが上洛すればより複雑な立場にあって重責をになわされるにちがいない。その殿さんが邪魔で、身辺をねらうものも多くなるのは芝居の筋書以上にたしかである。中根さんの死はそれを語って余りある。そうなりゃ殿さんの身を護るための命知らずの男がどうしたって必要となる。 「……ところがな、一橋家は、公方さまのお家族とやらで、帰るべきお城もなければご自身の家来がほとんどいねえ。円四郎さんのように旗本の派遣やら、原さんが代表している水戸家からの借りものばかり。娘のお芳をはじめ、それ、日ごろご愛顧を蒙っているわれら新門の一家が、ここ一番と思いさだめて立たねばならねえときだと思うんだな。そうだろう、ぬい」 「なにをえらそうにあさっぱらからごたくをならべてんだよ。とどのつまり、娘の顔が見たいんだろ。それで京へ上りたいんだろ。正直にそういやあ可愛いものを、なんだかだとゴタクをならべやがってさ、ふだんのお前さんらしくもないね」 「てやんでえ。女にゃ命をはるときの男の心意気というもんがわからねえんだよ。ひとつおいら江戸ッ子がはるばる京へのりこんでいって、いきがけの駄賃に国を賭けるような大喧嘩をうってみようってんだ。お政事向きは行きづまって、おサムライは姑息のかぎりで、万民はもうフウフウ吐息をついているだけじゃねえか。そこを殿さんをかついで、どかーんと風《かざ》っ穴《ぱな》をあけようって大そうな寸法だ。いくらか眠気もさめるというものよ」  辰五郎は連日気焔のあげっ放しである。女房のおぬいには、久しぶりといっていい亭主の武者ぶりにあてられて、物の怪に憑かれたような妙な気分である。 「半六ッ、腕っぷしの立つ、いきのいい奴を二百人ばかりえらんでおけ」  おぬいは仰天した。二百人も連れていくのかい。こりゃとんだもの要りだ。しかし、うちの人はいいだしたらきかないのだからと、とっくにあきらめている。 「死にそこないのジジイにとって、いい死に場所ができたよなあ、ぬい」  辰五郎はそうくだまいて勝手にぶるぶる身体を震わしている。  慶喜一行は、十月二十六日、幕府の軍艦蟠龍丸で上洛の途についた。この船上で慶喜は軍艦奉行の勝麟太郎に会い、はじめてといっていいくらい長い話をかわしている。  辰五郎は、子分二百人をひきいてそれから十日ほどのちの晴れた朝、幕府の商船にのせられて江戸を離れた。品川の埠頭まで見送りにきたおぬいが、眉のあたりに色気をただよわせながら、 「いってらっしゃい。立派に死んでおいで」  と、大きな声でいった。 [#改ページ]   東山三十六峰 池田屋への斬りこみ  冬の極寒のときにちょっと風邪をひいたが、河原町二条下ルに住居を構えた辰五郎はもうすっかり京の水にもなれた。慶喜にたいしてはもとよりのこと、自分が京にやってきたことが娘のお芳にも、大そう力頼みになっているらしいことを辰五郎は素直に喜んでいる。  それに春の近いことを思わせるやわらかな日射しをあびて、どこをみても絵になる京の町のたたずまいを、辰五郎は妙に気にいっている。浅草の観音さまのかわりに清水坂の観音詣でを月ぎめのこととし、隅田川と見たてて加茂川畔の風光をめで、ついでに東山界隈を半六をつれて見物かたがたほっつき歩いたりするのを楽しみにしたりしている。そこは江戸ッ子の気の置けなさがあって、どこへいったってすぐになれ親しめるのである。  慶喜も、「よして下さいよ」というのに、「おやじ」と辰五郎をよび、理非もなくついてきてくれる味方としてすっかり頼りにしている。  その慶喜は、こんどは東本願寺から御池神泉苑町の、若狭藩の酒井忠義の空《あき》屋敷(若州屋敷とよばれていた)へと居を移すことにした。前回の上洛のときと違って、辰五郎の新門一家が昼夜のわかちなくらんらんと警戒の目を光らせ、びっしりと屋敷を固めている。開けっぴろげの東本願寺にいるよりも、まず警備の点ではずっと安全となった。  お芳も、いまでは台所方の女中たちを指図したりして、すっかり仮の奥方ぶりも板についた。江戸の水でみがきぬかれたしゃんとした立居振舞いと、江戸育ちの生一本のひたむきさで慶喜に仕える様には、辰五郎もこんなにも女というやつは境遇で変るものかとびっくりしている。  文久四年(一八六四)は甲子にあたり、甲子改元の慣例にしたがって二月から年号も変って、元治元年となった。その年の京は、長州の勢力がすっかり追われ、天誅大はやりの殺伐たる空気がしばし消えている。朝廷からも無謀の攘夷派は影を没した。そしてそのかわりに薩摩が、いつのまにか京都政界の主役にのしあがってきている。  慶喜が上洛する前の十月三日に、すでに京都に入っていた島津久光は、家老小松|帯刀《たてわき》、軍賦役の西郷吉之助さらに大久保一蔵といった軍師をしたがえ、薩摩藩主導による公武合体政府をつくるによい機会と、さかんに画策をすすめている。薩摩が考えているのは、朝廷のもとにあって、幕府をぬきにして諸侯が合議して政治を推進していく、ただしあくまで薩摩が頭領、というものである。  しかも面白いことに、前年の七月に、生麦事件の報復のため鹿児島湾に入ったイギリス艦隊と薩摩藩は戦い、完膚なきまでの敗北を喫した。それで藩の政治方針はぐるりと変っている。近代的軍艦にたいして日本側の戦闘力はあまりにも劣弱であり、攘夷を言うはやすく行うはとうてい不可能、とかれらは思い知らされたのである。そこから薩摩藩は「攘夷するための開国」の方針を打ちだしはじめている。  ただし薩摩の評判は、そのころはまことに悪かった。諸国の志士とくに長州人のあいだには「薩賊会奸」の語が公然ととなえられている。薩摩は奸物の会津と組んで巧妙に長州を追い落として、政治的主導権をにぎり、勝者の勢いにまかせて上海あたりで密貿易をさかんにやっている。そしてなにを目的か不明であるが、ひとり国力を養成している。国禁を犯して恥じざる大賊は薩摩である、という声が京や江戸でもっぱらなのである。  おくれて上洛してきたとはいえ、それだけに慶喜にはチャンスがあった。明敏な慶喜は迅速に動いてそれをうまくつかもうとした。それには新門の一家によって厳重に警固されているこんどの居宅の若州屋敷がまことに都合がよかった。ここに松平春嶽、伊達宗城、山内容堂そして島津久光、さらに松平容保を呼びよせて、慶喜は「後見邸会議」なるものをひらき、政治をリードしようとした。  そして、この六人の会議の結論をもって国策方針とし、朝廷や幕府を動かそうと、慶喜は江戸を発つ前から構想していたのである。これ以外に政事の混乱を収拾する道はない、とかれは確信する。会議の結果を天皇の意思とし、それを幕府が主となって諸藩に命じて実行に移す、この合議政治機構(参与会議と名づけられた)がうまく働けばの思いである。  折も折、この年の二月十五日に将軍家茂が二度目の上洛をはたした。宿営の二条城の老中部屋への出入りも、六人は許された。朝廷と幕府との両方へ橋をかけることが、これで可能になったと慶喜は思った。  しかし、慶喜の構想は薩摩のそれとは真っ向から衝突せざるをえない。慶喜にはもともと、島津久光にたいしててんから信用できない人という先入観がある。ゴチゴチの保守主義のこの殿さまは、謀臣たちにそそのかされ、朝廷の力を借りて、徳川にかわって幕府をひらこうとしているのではないか、との疑いを、慶喜はついに消せないでいる。  参与会議は第一回目から和やかさとは無縁のものとなった。解決すべき課題は、長州藩の処遇と対外方針の決定である。はげしいやりとりではじまった。しかも、慶喜をすっかり困惑させたのは、盟友ともいえる春嶽、宗城の二人までが、薩摩の攘夷のための開国論にいつのまにか洗脳されていることであった。  とくに対外方針決定の論議はしばしば妙なことになった。開国論を胸にひめながらこれまで攘夷をとなえた慶喜は、親しい春嶽なんかにはときに本心の開国論を口にするようになっている。ところが、この六人の会議では、久光や春嶽や宗城らのとなえる「開国もやむをえない」説に反駁して、しばしば攘夷論に近い説をとなえることになる。  たとえば、江戸城に近い横浜をこのまま外国に開港しておくべきかの問題がある。久光は「このさいは開港のままを是とする」といい天皇側近にも働きかけ、春嶽や宗城の賛同もえた。慶喜もその気になる。  たいして老中たちは「国策は攘夷に決している。いまさら薩摩の説には従うことはできない。昨日は長州の攘夷に従い、今日は薩摩の開国に従う。そのときどきの流れに身をゆだねているようであり、幕府の面目はどこにあるか。もしいま開国方針を打ちだせば、薩摩の名が大いに揚るだけである。私たちはともに辞職する」といいだし、将軍家茂も「老中のいうとおりである」と答える始末。慶喜はやむなく翌日の会議では「本心に反して」横浜鎖港を主張せざるをえなくなり、春嶽、宗城、久光と激論をまじえるのである。攘夷論者の容保は慶喜に同調する。会議はおよそ同じことのくり返しであった。  春嶽も宗城も、そして容堂も、慶喜を疑いだした。変節常ならざる人物としかかれらの目には映らなくなった。久光がいうように「稀代の奸謀家なのかもしれぬ」とすら思いはじめたのである。春嶽は困惑し沈黙を守るようになり、容堂は論争をいとうて好きな酒にもっぱら身を沈めた。  二月十六日の中川宮邸の会議では、慶喜は酒気を帯びて、中川宮が久光の言を支持する姿勢を大声でなじり、 「かくなる上はご一命を頂戴し、それがしも切腹する決心である」  といいだす始末。暴言のついでに春嶽、宗城、久光の三人を「天下の大愚物、天下の大奸物」とののしって、三人を唖然とさせた。  しかも慶喜が将軍後見職を辞任し、「禁裏御守衛総督」に任ぜられんことをと朝廷に請願したということを知ると、こんどは幕閣までがその意図に疑いを抱きはじめる。なんのための自薦か? 京都守護職の松平容保がすでにいるではないか、後見職辞任はもはや将軍を見捨てたということではないか、と思い、 「一橋公は、御謀叛の用意をなされている」  と、ひそひそと話し合い「二心《にしん》殿」というあだ名を慶喜につける。また、それを聞いて、春嶽や宗城は「よくぞ、つけたり」と顔を見合わせて笑う有様なのである。かれらには、慶喜が薄気味悪い権謀の鬼ともみえたのかもしれない。  こうして「後見邸会議」はあっというまに有名無実なものと化した。四月に入ったころにはもうひらかれなくなり、四月二十日前後には、容堂も宗城も久光も京をあとにサジを投げて帰藩してしまう。将軍もまた江戸へ帰った。  そして五月に入って京都に残されたのは、しばしの静けさと、禁裏御守衛総督の慶喜・京都守護職の容保・京都所司代の松平|定敬《さだあき》(容保の弟・桑名藩主)のいわゆる「一会桑」の三人体制ということになる。  朝廷と幕府と雄藩とが協議して国策方針をきめ、国を動かしていくという慶喜の夢は泡となって消えている。 「……せっかくの、うまい案だと思ったのだがな。ところが、それぞれ胸に一物も二物もあるえらい殿さまばかり。一つ机を囲んでもうまくいかねえもんだなあ」  と、河原町二条下ルの住居に辰五郎を訪ね、平岡円四郎はこんな経緯を語ってさっきからしきりにぼやいている。 「いってえ、どなたが考えたことで……」 「軍艦奉行の勝麟太郎さんよ。アメリカにいったとき学んできた合議による政事方針の決定という……まあ、賢人評定といったところだったんだが」 「なるほどね、といっても、それが名案なのかどうか、あっしには、よくわからねえところがありやすが、天子さまのお考えをきつい攘夷から開国へと変えていただくには、いまがいちばん、まことにいい塩梅《あんばい》のときと、あっしなんかには考えられたんですがね」 「ウム……親分もそう思うか。俺もそう思ったんだが、そうすんなりといかないところが、そもそも政事というものでな」  たしかに政治には微妙なところがある。薩摩の朝廷工作がうまくいって、このとき、天皇は横浜開港はやむなしと思うようになっていたのである。攘夷一本槍で目を吊りあげていた朝廷が、開国論に転じたとき、といえようか。しかし長州に完全に牛耳られていた過去のいくつかの勅諚の例もある。さては天子さまもお考えを変えられたかと、さっそくそれに乗るとひどい目にあわされる危険は、たいていのものにも推察できる。 「ところが、第三者はそんな内情をてんで知らぬゆえ、一橋公がひとり剛情をはってぶちこわしたのは、側近がいけないんだ、ということになる。困ったことだが、いまやその声のみが高い」  ぼやきながら、いつものん気そうな円四郎の眉のあたりが、どんどんと曇ってくる。 「それにしても京は静かになりやした。こんなならあっしら鳶の連中はこけおどかしの多勢の人数は要らねえくらいだ」 「いや、状況はかえっていかん。京はからっぽだ、いまこそ失地回復には……」 「長州人の望むところ、ってわけですか」 「左様、そのとおりだ。攘夷派の連中がまたぞろ蠢動しはじめている。中心はもちろん長州よ。影をまったく没したかに見えたのは、ほんのしばらくのことで、昨今はおいおい同志をたより、町人やら商人《あきんど》なんかに姿を変じてどんどん京に入りこんできている」  辰五郎は、そういえばつい先日、半六から同様の情報や風説のあることを聞かされている。長州追放の元凶である中川宮を襲うとか、京都守護職の館に火をかけるとか、いや天子さまを奪って都を長州へ遷しまいらせるとか、そんな風説が京に流布されているという。それを近藤勇を局長とする新選組がきびしく追いつめているとか。 「朝廷への復権のねらいもある。藩としての誇りの問題もある。会津や薩摩に復讐してやろうの必死の想いもある。何をしでかすかわからん。お上の護衛はいちだんと固めてもらわねばな」  円四郎はそういうと、いつものようにあわただしく帰っていった。  そういえば五月に入って、かれらの仕業らしい天誅が二、三、京と大坂に起っている。辰五郎はなにか胸底にひびくものでもあったのか、若いころのようなぎらりとした凄気《そうき》を全身にあふれさせた。 「おーい、かな、出かけてくる」  そういって家を出る。かなとは、布屋かなといい辰五郎の身のまわりの世話をしている京の女である。  辰五郎が出かけたのは壬生《みぶ》の新選組屯所である。「松平肥後守御預新選組宿」と墨痕も太くたくましく書かれた門札をみながら、屯所になっている八木邸に入る。すでに近藤や副長の土方蔵三とは近づきになっている。局長は他出ゆえに辰五郎は土方と会うことにした。 「どうなんです。探索はつきましたかね」  だしぬけに辰五郎はそういった。 「さすが、新門の親分だね」  と土方は笑って、 「いまにでっかいことをやることになりましょう。どうせやるなら派手に大きくです」 「よし、喧嘩はそうでなくちゃいけねえ」  辰五郎は目を細めてうなずいた。  とにかく、またぞろはじまった攘夷の浪士たちの所行で、夏を迎えて、京都は前年八月十八日の政変直前に似た不安に包まれはじめている。これまでのような手ぬるいことをやっていたんでは、暴徒どもの好き放題にされるだけである。暴に酬いるには暴をもってするのもやむをえない。攘夷といえば正義で、なにをしても許されるというわけではない。無頼の徒どもに、それを一度思い知らせてやる必要がある。と、そんなことを考えて自然と力みはじめる辰五郎をおさえるように、土方はにこにことしていった。 「親分のところの若い衆にはいろいろと探索で役にたってもらっています。なげかける網は広ければ広いほどいい。そうすりゃ獲物は大きいですからね」 「うむ、土方さん、いいねえ、そのセリフ、気に入った。とにかく期待しているよ。手伝えることがありゃ、何なりといっとくれ。喧嘩じゃサムレエ以上に上手なのを揃えてある」  土方は、黙って、そしてまたくすくす笑った。  京都三条小橋の長州藩の定宿であった池田屋に、新選組が斬りこんだのは、それから数日後の六月五日の夜である。会津、桑名、彦根、松山、加賀の五藩の兵がまわりを囲んだ。池田屋に集まっていた尊攘の志士は二十余名、闘死者七名、重傷四名、捕縛者十余名。天皇側近の中川宮を幽閉し、容保を殺し、朝廷をふたたび長州藩の手にいれようという密謀は、これで潰《つい》えた。 「やった、やった。頭ッ、新選組がえれえ大仕事をやりやした」  と半六が、その夜もおそく小躍りしながら河原町二条下ルの家へやってきた。その日の午後、土方よりの極秘の知らせもあり、辰五郎は若州屋敷の警固を倍にする指図をすませている。斬りこみをのがれて自暴自棄になった連中が、功名にかられて慶喜を襲うかもしれないと、万一のさいの準備はおさおさ怠りない。そうではあるが、はじめて知ったように、 「フン、フン、フーム」  と、半六の報告に耳をすませた。  斬りこみは大成功であった。近藤さんも土方さんも刃がぼろぼろになるほど闘ったことであろう。ともあれ目出たい。しかし、これによってまたしても慶喜公が悪玉視されることになるであろうの取越苦労の予感が、辰五郎の胸にうかんだ。京の治安を守るための禁裏御守衛総督という肩書は、「斬りこめ」の命令者と思われても仕方がない。どこまでも殿さんは疑われ嫌われねばならぬ星のもとに生まれたものか。  それはもう辰五郎が予想したとおりであった。その直後に、京のあちらこちらに、落首が貼りだされた。 「一橋中納言、奸計をもって勤王正義の士を捕殺す。その罪により、その旅館に放火しこれを焼き払うべし」 「このたびのこと、一橋の手より出づ。されば一橋は皇国の大罪人なり。遠からず天誅を加うべし」  京都の治安を維持し、険悪な政治的謀略を追放することは、断乎たる取締りによるほかはないのであるが、あまりにも華々しすぎた。狂暴な弾圧と解され、それを命令したものこそ殺戮者とする宣伝はまた、実によく世論にはきいた。薩摩藩の知恵者たちは慶喜追い落としのためにうしろからさかんに太鼓を叩いた。  京都の治安は、池田屋斬りこみをきっかけにして、また崩れはじめた。そしてそれは、思いもかけない悲劇をもたらした。  池田屋騒動から十一日たった、十六日の夕刻である。平岡円四郎はいいつかった用事があり、御池神泉苑町の邸をでて堺御門の関白邸へ向かう途中の、堀川の橋付近まできたとき、左うしろから、 「平岡さん」  と呼びかけられた。なんの気もなくそちらへ顔を向けた。刀を抜く暇もなかった。円四郎は右肩から左の肋骨の下まで深々と斬り下げられ、昏倒した。護衛の川村恵十郎が奮闘し二人を斬り、二人を自裁させたが、甲斐はなかった。平岡は斬りつけられた一刀ですでに絶命していた。ときに四十三歳。  暴漢は当然ながら長州藩にかかわるものと考えられていたのに、なんと水戸藩のものと知らされて、慶喜とその周辺は愕然となる。犯人は水戸家中でも知られた急進攘夷派で、池田屋騒動の首謀者と目される慶喜の身代りに円四郎を襲ったものであるという。  側近の原市之進が慶喜にいった。 「お心にかけられますな」  円四郎の遺骸がはこばれてきたとき、慶喜はなにもいわずただ合掌した。うしろに沈んだ顔のお芳が従っている。そのお芳は、あわててかけつけてきた辰五郎の顔をみると、 「おとっつあん、円四郎さんが……」  というや、下町娘に戻ったように派手にわんわん声をあげた。お芳が円四郎と名をよんだのを聞いたのは、辰五郎にはそれがはじめてである。 「人を殺してもいい正義なんかあるもんか」  お芳はなおも泣き叫んでいる。 「泣くな、泣いちゃ仏さんが浮かばれねえぞ」  辰五郎が底ごもるような太い声で、びしっといった。泣き虫の辰五郎が涙ひとつぶ浮かべることなく、細い目をかっと見開いて、朱泥をぬったように血にまみれた円四郎の遺骸をしばらくにらみつけている。 一世一代の晴れ姿  池田屋騒動の反動は、個人の死にとどまらなかった。もっと大きな津波と化してそれは京の町に押しよせてきた。まず長州藩に身をよせていた諸国の攘夷の浪士たちが立ち上った。それが長州藩士たちにも及んでいった。もはや黙して朝廷のお許しを待っているわけにはいかない。かれらは、七卿の朝廷復帰と、長州藩主父子の無実を訴えるため、京にぽっかりと権力の空白がうまれたいま、急ぎ上京することを決意したのである。  周布《すふ》政之助、高杉晋作、桂小五郎たちはそのような行為にでることには反対である。いま起《た》っても事は成らないとみている。しかし家老福原越後はすでに兵をひきいて、六月十六日には山口を出発していた。幕府と決戦の覚悟である。同じく家老益田越中、国司《くにし》信濃も兵を授けられて上洛の途につく。  長州藩の強硬派の目論見のなかには、武力をもって脅かせば、戦さ嫌いの朝廷の公卿たちが震えあがり、結局は歎願の趣旨に同調することになるであろうという期待があった。 「……九重《ここのえ》深き所、奸徒その羽翼を伸張し、讒誣欺罔《ざんぶぎもう》を逞《たくましう》して遂に今日あるを致したるを恐察して、臣等が胸膈《きようかく》ここに寸裂し、訴ふる所を知らず、天に呼《よば》はり地に叫び、悲痛泣哭に堪へず……」  哀訴状の一節であるが、哀訴やら強訴やらいずれとも判じがたいものである。  朝廷の公卿たちは、長州藩の期待どおりに動揺した。戦さはごめんだという気持がさきに立っている。七卿は召還せぬまでも、長州藩主の勅勘を免じ、入京を差し許す、というぐらいのことはいいのではないか、そんな意見にどうしてもまとまっていく。 「……ありゃァ、六月十七日の夕方でしたな」  と、辰五郎は語りだした。円四郎亡きあと、辰五郎が話し相手にえらんだのは新選組副長の土方歳三。円四郎とちがって口数は多くないが、辰五郎の長話しの聞き上手で、察しが滅法よくて、ときどきはさむ半言隻句がことごとく肯綮《こうけい》にあたるので、辰五郎の大のお気に入りとなっている。 「殿さんは、朝廷内の情勢を聞くと、にわかに参内いたしやしてね。だらしのねえお公卿さんを前にして、大反対の意見を滔々とおのべになったといいやす。長州より歎願の儀、御採用相成るとは、もってのほかのことである、とまず口を切った、というんです」  慶喜が一座を睥睨《へいげい》してぶった演説の要旨はつぎのとおりである。 「兵器を携《たずさ》えきたって朝廷に迫るごときは、臣子の分を越えたる不敵の振舞いである。歎願ならば歎願らしく武装を解き、縄つきにでもなって、至誠を表示して訴えでるべきである。いやしくも兵をもって相迫るなど、はなはだもって無法の至り。歎願の筋を、採用する、せぬは、かれらが撤兵した上のことである。したがって断じて認めがたい」  辰五郎は語りきたって、つけ加える。 「ここまでは殿さんはまっつぐな意見で、堂々とあっぱれなんだが、さて、問題はこのあとだ。こういったというんです。——もしこの儀にして行なわれぬとあらば、今晩にも、会津容保ともども辞職して、関東にひき退《の》くまでである。その上にて、長州人を召し入れらるるなり、なんなり、御勝手にさるるがよい、と、まあこうだ。こりゃ、いけませんな、ここで子供のように駄々をこねちゃせっかくの大演説も形なしよ。そうじゃござんせんか。歳さんはどう思われやす?」  歳三はその精悍な顔をちょっと朱にそめていった。 「辞職する、それが一橋さまの、口癖であるとうけたまわっております」  しかし、辰五郎も土方も存ぜぬことであったが、公卿たち一同は駭然《がいぜん》としそのすさまじい頭ごなしの見幕に恐れをなし、だれもなんとも言いだせず、その夕の朝廷内はただシーンと静まりかえるばかりであったという。  こうして歎願は一蹴された。長州の家老国司信濃が兵八百をひきいて兵庫に着いたのは七月八日。翌日はすでに山崎に駐兵している福原越後の軍と合流する。そこへさらに益田越中の兵六百が加わる。いよいよ京へ進撃である。  元治元年七月十八日早朝、長州藩兵は三方から京都御所をめざして殺到した。会津、桑名、薩摩、彦根など六藩の兵がこれを迎え撃った。長州藩は来島《きじま》又兵衛のひきいる一隊が蛤御門の前まで攻めきたって一時は優勢となり、砲戦から白兵戦が御所の内外で行なわれる。が、薩摩藩のはげしい砲撃がこれを阻止。大混戦のうちに来島が戦死して敗退した。  前関白鷹司邸でも激闘が展開された。久坂玄瑞、真木和泉が指揮する軍勢と、会津藩の兵とが、邸の内外で大白兵戦で斬り合った。一弾が久坂の脛を砕かなかったら、死闘はまだつづいたといわれる。久坂はついに諦めた。 「まこと申し訳なし。今が最期だ」  鷹司邸の玄関さきで腹を切って死んだ。二十五歳の若さである。  卯の刻(午前六時)にはじまった戦闘は、巳の半刻(十一時)には決している。真木和泉は山崎の天王山に退いて自決。尊皇攘夷運動の指導者たちの多くが戦死または自決した。  このかん慶喜はなにをしていたか。会津藩の屯営である凝華洞《ぎようかどう》わきに布陣し、そこを本陣に、慶喜は床几に腰かけ、金の采配を手にして全軍の指揮にあたった。朝の太陽をまともに浴びて、葵の紋をつけた陣羽織や手にした采配が燦《さん》として輝やき、まぼしいばかりの総大将ぶり。芝居なら「待ってました、一橋ッ」とかけ声のかかるところである。  そして御所内に、それも紫宸殿の庭に、砲弾が落下するほどの大激戦のさい、例によって公卿たちは周章狼狽して、「叡山に御動座したほうがよいのではないか」とか「一刻も早く和睦して、長州藩主父子の上京を仰せつけられるのが上策」とか、さかんにいいたてた。慶喜はこれを一喝した。 「禁闕《きんけつ》に発砲せる賊徒と和睦など、思いもよらざること。また、必勝は疑いもなし。御動座などとんでもないことであるぞ」  おそらくは慶喜の生涯のうちいちばん颯爽としていたときでもあったろうか。 「ところで、親分はあのときは……」  と歳三が、辰五郎にとって聞かれたくないことを、あっさりと口にする。鳶がサムライの戦さに加われるはずもない。 「いや、面目もねえ。とにかくあの火事だ。敵も味方もなく家に火をつけやがるから、目もあてられねえ。いっぽうは退くため、いっぽうはあぶりだすため、滅多矢鱈に火をつけやがった。火焔天にみなぎって京の町すべてを灰燼に葬ろうってな勢いでがしょう。こっちは本職だからなんとかしようと思ったって、あの風だし……それに道筋をすっかり呑みこんでいるわけではねえし……京の人たちはやたら泣きわめくし……言葉がなんともわからねえし」  辰五郎の言い訳とも、愚痴ともつかぬ話がえんえんとつづいた。七月二十一日夜になって鎮火するまでの京の類焼家屋二万八千戸、東本願寺などの寺社二百五十三と、武家屋敷五十一とが焼け落ち、洛中の半ばは焼土と化した。加茂の河原は町人の被災者でいっぱいになった。  四、五日あとになって辰五郎は、新選組がどんな活躍をしたのか聞きそびれたことを、ひどく悔いていた。 「山崎くんだりまで出ばったそうだが……新選組がえれえ働きをしたという噂はあまり聞きやせんでしたが……」  そう土方にいい返してやりたかったのである。  しかし、もし辰五郎がそんな愚かなことをたずねたとしたら、口数の少ない、功を誇らぬ土方歳三がはたしてなんと答えたことであろうか。  新選組はこの戦いに「誠」の旗をかかげ百人の隊士をもって出陣した。山崎の天王山の戦いで、戦い敗れて退いてきた長州勢の、ここぞ死に場所といわんばかりの猛撃をうけ、戦い終ったときは六十名ばかりになっていたという。  辰五郎は余計な恥をかかなくてすんだのである。 玉《ぎよく》を奪うということの意味  それからしばらく京都復興にあたっては、新門の連中は本職の鳶にもどってよく働いて京の人びとの役に立った。辰五郎もまたいっさいを請け負う人足頭の重要な役割を十全にはたした。  お芳も、円四郎の死にうち沈んでふさがっていた心が少しは晴れたのか、工事場へときどき姿をみせ、甲斐甲斐しく茶菓子の用意などをしている。 「サムライってやつはどうしてこう火を粗末にしやがるのか。火をつけるなんざ、おのが身を喰らうと同じってことがわからねえのかねえ」  と辰五郎が苦虫をかみつぶすようにいうのをひきとって、お芳が答えた。 「どうせ天誅さんのやることさ」  まだ円四郎の死の悲しみをひきずっているのか、その口調には少なからぬ憤りがこめられている。辰五郎は、鼻ッ柱は男なみに強いがやっぱり女だなあ、と改めて自分の娘の横顔にちらりと視線を送った。  ところで、この復興中の京の町を「時に一様の外套を製し、長刀地に曳き、或《あるい》は大髪頭を掩ひ、形容はなはだ偉《きび》しく、列をなして行く。逢ふ者みな目を傾けてこれを畏る」と会津の老臣広沢富士郎の手記にも書かれている新選組が、京の人に恐れられながら、松平容保の命のままに夜も昼もなく警戒をつづけている。  それというのは、戦闘がとうに終ったあとの二十日の夜に、奇っ怪なことが御所内に起っていたからである。  それは、大和十津川藩郷士が宮中に潜入し、孝明天皇を奪おうとした、というおかしな事件であった。慶喜がその夜それを知らされてあわてて参内すると、天皇や皇太子睦仁親王たちがいる常御殿の東の縁側下に、暗闇のなか三百人ほどの人影をたしかにみとめた。慶喜は大喝して「ただちにこの地より退去すべし」と命じ、御殿内に入り、天皇や睦仁親王たちを紫宸殿に移した。そしてそのあと、 「徹宵殿中を捜索すれども、遂に一人を獲ず」  というから、全員が雲か霞かと消えてしまったらしい。しかし、猿が辻の穴御門の錠前は確実にこじあけられていたという。  これでは油断がならないことは以前と同じなのである。新選組が「一様の外套を製し」つまり袖口にだんだら山道をそめぬいた羽織を着て、「列をなして」京の町を目を光らせて歩かねばならないのは当然なのである。 「……もしこの噂が本当とすれば、この連中がねらったことは、禁裏さまを奪ったほうが勝ち、ということなのです」  と土方歳三がこのおかしな夜の風評について、辰五郎に珍しく長々と説明してくれた。 「攘夷派の浪士たちは、前々からしきりに玉《ぎよく》を抱く、玉を奪うだとかいっている。それなんですな。考えてみれば、思いあたる。長州が京を占拠していたころの勅諚はみんな偽勅だ、といまはいわれている。八月十八日の長州追いだしのあと、禁裏さまが会津侯にそう明言されたからなんです。ところが、長州や過激派の公卿たちは、八月十八日以後の勅諚こそ偽勅だと、天下にさかんに吹いてまわっている。なんとなれば、いま天子さまは会津藩の拘束下にあるからだ、というわけでね。このことは、この玉を奪うということの意味を実によく語っている。親分、そうは思わないですか。禁裏さまをおのが陣営にとりこめば、いかようにも勅諚がだせる、いくらでも自分たちが有利になれる……」 「じゃあ、このあいだの長州勢の華々しい喧嘩も、天子さまを奪えばなんとかなるっていう……」 「だから真一文字に御所へ突っこんできた」 「なるほどね。で、もしもですぜ、天子さまを奪われてしまって、それに承知できねえってんで刃向かうとしたら、いってえ、どういうことになるんで?」 「朝敵になる。いまの世の中、禁裏さまに刃《やいば》を向けることは国に刃を向けると同じことになる」  と土方は憮然とした顔でいった。  公方さまのほうが天子さまより偉《えれ》え、とずっと思いこんできている辰五郎には、わかったようでわからない話である。黒船四隻の来航いらい、天皇もしくは朝廷の政治価値が上昇しつづけてやまない、ということは、裏返せば幕府の政治指導力がどん底化しつつあるということなのであるが、それがなぜだか、いつからそうなったのか、とんと辰五郎には見当がつかぬ。 「朝敵とはね、……そうか、そいつなんだね? いまの長州は。この殺し文句で袋叩きにされようとしているわけか」  と、ひとつだけわかったことを辰五郎はいった。  辰五郎のいうように、天皇の御所に大砲を射ちこんだ長州藩はまさしく、�朝敵�になっている。それは幕府にとっては、反幕府の姿勢を強める長州藩を、叩きつぶすための絶好の理由づけとなる。  八月二日、江戸の将軍家茂は長州征伐を朝廷に奏請、追討の御沙汰書をえて、三十六藩におよぶ大名に出兵を命じた。大坂の陣いらいの大動員である。征長軍総督に徳川慶勝、参謀に薩摩の西郷吉之助が命ぜられる。  このころ長州の藩論は二つに割れていた。恭順すべしとする派と、不当な幕府の弾圧に屈服すべきではないとする派である。ところが、藩をあげての激論が戦わされているとき、思いもかけない大事が長州藩を襲った。八月五日の早朝、英米仏蘭の四カ国連合艦隊の軍艦十七隻が、下関沖にあらわれ二百門以上の砲列をずらりと長州軍に向けたのである。前年五月、長州藩がおこなった尖兵としての攘夷決行にたいする報復のためである。  藩論は攘夷とり止め、�和議�ということにこぎつけたが、奇兵隊軍監山県狂介(のち有朋)を筆頭とする若手の決戦論を抑えきるには、あまりにも遅すぎた。午後三時、戦闘開始。戦いは八日までつづき、下関砲台も応戦したが一発も敵艦にとどかず、あべこべに砲台は潰滅し、敵の陸戦隊に占拠される。長州軍は惨憺たる敗北を喫することになる。 「八日は海岸に降旗を建てしよりわが方の諸船ことごとく砲発をやめ、一日無事なり。長門より説話(講和)を望むの趣を申し出でたり」(四国連合艦隊の『別段新聞』)  講和使節高杉晋作たちの努力もあり、予想外の条件で講和はまとまったが、長州藩のうけた打撃はあまりにも大きすぎた。  こうなっては、国境付近に押しだしてきた征長軍の総攻撃(十二月予定)を前にして、いかに強気な長州藩も恭順の意を表して降伏するほかはない。征長軍総督の慶勝も参謀の西郷も、長州の戦わずしての降伏は、オンの字である。それぞれが藩財政の窮乏をおしての出陣であるから、慶勝はただちに休戦をうけいれる。  藩主父子の蟄居謹慎。責任者として益田・福原・国司の三家老の切腹。藩内にかくまっている三条実美ら五卿(七人のうち一人は脱走して行方不明、一人は病死していた)を九州へ移す。山口の新城を破壊する。条件は以上の四つ。幕府は完勝、長州は完敗そのものである。  十二月二十七日、すべての降伏条件の確認をすますと、幕府にこれを報告、徳川慶勝はさっさと解兵の命令を発した。もちろん参謀西郷の献策をとりいれての、早目の処置である。  これをあとから知らされて春嶽も、宗城も、容堂も大不満であった。いやしくも禁裏に向けて発砲したものである。もっと厳罰あって然るべきである、というのが、かれらの意見である。おそらく慶喜も、といいたいが、実はそれどころではなかった。武田耕雲斎、藤田小四郎らを首謀とする水戸の天狗党の蜂起、それが信濃路から京へ押しのぼるという大問題にかれは直面していたからである。  結果において、慶喜は、自分を頼って西上してきた天狗党の総勢八百人を叛徒とみなし、追討に向かった。慶喜が討伐に来ると知って、武田らは戦意を喪い加賀藩に投降する。しかも慶喜は助命の動きもみせず親しいかれらを見殺しにした形をとり、水戸勤王派とも手を切ったことになる(天狗党の面々は翌年二月に斬罪に処せられた)。  それもこれも、天狗党の武力を頼みに薩摩と結んで天下をねらうのではないか、という幕府内部の猜疑に、慶喜は実行をもって証しをたてねばならなかったからである。天狗党を鎮圧することで将軍職への野心のないことを、慶喜は天下に証明してみせたのである。  こうして慶喜はますます孤立化していく。ますます評判を落としていく。慶喜はのちにこのときのことを聞かれて、 「江戸の方では、武田が私等と気脈を通じているとこう見ているのだ。……こちらから何かいえば、そらというわけになるのだ。それでよほどどうもむづかしい」(『昔夢会筆記』)  と、当時のおのれがいかに危うい立場にあったのかを述懐している。 [#改ページ]   帰るところなし 辰五郎がついている  年が明けて京に正月がくる。実は四月に改元されてから慶応となるのであるが、ここはわかりやすく慶応元年(一八六五)正月三日としておこう。辰五郎は聞きこみの半六をつれて、年始のご挨拶に慶喜の宿所を久しぶりに訪れた。慶喜二十九歳、辰五郎六十五歳。  春がそこにきているというのに、京の朝夕はまだ底冷えがする。しかし、加茂川のせせらぎからはうっすらと靄の立つこともあって、天下はいまだはげしく流動をつづけているが、人の心は浮き浮きしはじめている。 「おやじには苦労をかける。京で二度目の春を迎えることになったが、こんなに長く放っておいて浅草のほうは大丈夫なのか」  と慶喜が聞いた。正月の目出たさをよそにその日の慶喜は屈託するものがあるらしく、言葉にとんと力がない。 「ありがてえお言葉で。ま、そんなご心配はご無用で」と辰五郎は礼をいった。そして、 「倅の仁右衛門にとうに組のほうはまかしておりやすから、そっちのほうは女房のおぬいと相談しいしい、何とかうまくやっておりやすでしょう。……いいえネ、仁右衛門とあいつとは」  といいかけて辰五郎はあわてて口を押さえた。そして額をぽんぽんと軽く叩きながら、 「あいつなんて、こらあとんだことを申しました」 「ハハハハ、お芳のことか」 「へい、いくら娘だからって、あいつなんていっちゃあ……」 「おやじにとってはあいつだ、それでいいじゃないか。それでそのあいつと倅さんとは」 「いえネ、腹違えの兄妹だと……」  半六が辰五郎の袖をひいた。 「そんなこと殿さまにおっしゃらなくても」 「違えねえ、まったく余計なことだ」  と辰五郎は、ふところからだした手拭いでごしごしと汗を拭った。そこへ、話題の「あいつ」が銚子のかわりをもって姿をみせる。美しく化粧をしている。小柄なわりに肉付きもひとまわり色香をましてしゃきとしてきている。その姿に目をやりながら、 「かなさん、といったかな。変りはないかえ」  と慶喜が不意に妙なことをいいだした。 「ゲッ、ご存知なんで……」  辰五郎は身も世もあらぬほどあわてた。顔は江戸の大火のようである。慶喜は笑いもせず辰五郎のひろい額にいっぱいの汗を眺めている。辰五郎は自分でもわけのわからないことをぺらぺらとやりだした。 「昔から東男《あずまおとこ》に京女とか申しやしてね。殿さんもご存知でしょうが、やっぱり女子《おなご》は上方のほうが……なんでござんしょうか。それがこうと……しっとりとしていやんしてね。それに甘ったるい言葉がなんともこころよく聞こえまして……そいで、いい年をしていながら……なんといいましょうか……風情があって……」  慶喜が「やっぱり女は江戸がすっきりしていていいと思うが」と口をはさむのに、なおも意気ごんで辰五郎はひと膝のりだしてくる。そこへお芳がぴしゃりといった。 「お父っつあん。浅草に手紙を書こうか」  辰五郎はぺしゃんこになる。半六がほっとしたように胸をなでおろしている。 「おやじには浅草という帰るところがあっていいな」と慶喜は、辰五郎に酌をするお芳をみながらいい、加えるようにぽつんと、 「俺には帰るところがない。この広い天下、五尺のわが身をいれるところがない」  ともらし、それからやっとにっこり笑った。 「いや、お芳の胸のなかがあったな」  そしてお芳にやさしいまなざしを送った。辰五郎は盃を膳部におくと背筋をのばした。 「殿さん、お芳だけじゃねえ、はばかりながらこの新門の辰五郎がついておりやす。決しておひとりなんかじゃござんせんぜ」  辰五郎にも、死んだ円四郎の口をとおして、慶喜がもう幕府だの長州だの薩摩だのを超越している傑物であることは、どうやらわかっている。この危機をうまく処理し、国家を鎮め、高い見地からの大方針をもって国の方向を過《あやま》たぬように導く、それのみを考えている人だ、ということも人一倍に理解しているつもりである。 「殿さんは、どうも頭がよすぎるんじゃありませんか。才華にあふれた男ってやつは、ともすれば誤解されやすいものなんですな。ましてや上に立つ人があかぬけすぎると、いっそうややこしくなる。頭が人より早く回転するから、やることなすことが素早すぎる。とてもついてはいけない。しかもなんとなくすべてが実がなくて計算ずくのようにもみえる。お芝居とも思えてくる。それにわからず屋にはついつい言葉に棘をつけて、あからさまにいってしまう。そうなると、もういけやせん。考え方がまともで、いたずらに生真面目な連中には、殿さんがさながら妖怪のようにも思えてくる。ハハ、とんだ講釈だが、半六、お前もそうは思わねえかい」  突然に名指されて半六は「へえ」といったきり、それこそ恐れ多くて真ッ赤になって、膝をもじもじさせているだけである。 「半六、俺にばかり講釈させてないで、お前もなにか一席弁じるこたあねえのか」  と辰五郎がおっかぶせると、お芳が助け舟をだす。 「半ちゃん、お前さん得意の聞き耳で、なにか聞きこんできたことがおありじゃないのかえ。殿さまの一時《いつとき》のおなぐさみに、ちょことなりだしても損をしないんじゃないか」  こうせっつかれて半六はやっとの思いで長いアゴを突んだしながら語りだした。それは慶喜の屈託を吹きはらうに十分な衝撃的な内容をもっていた。 「実は薩摩の西郷とかいう方のことでがすが、妙な風評を聞きこんでまいりやした」 「その人がどうかしたのか」 「へい、ひょっとするとひょっとするような話でして。あの猿と犬のようないがみ合いをしている長州と、この人はひそかに通じている匂いがぷんぷんしているというんでございやして」  慶喜は、はっきりと真剣な顔になった。  半六のえた情報というのはこうである。征長軍参謀となった西郷吉之助は、はじめから幕府の長州征伐の意図や政略に疑いの目を向けていた。薩摩も長州も幕府にとっては関ヶ原の戦いこのかた好ましからざる西国の雄藩である。蛤御門の変につづいて、この両藩が総力をあげて相戦うことは、いわば毒をもって毒を制する効果を幕府に与えることになる。征長の旗印を高くかかげているが、はじめからそう考える西郷には戦闘の意図はない。恩を売りながら長州藩を救うつもりであった。そこで西郷は自分で策定した戦術にそって政略を推進してきた。すなわち幕府側の、長州藩処分の強硬論に猛反対し、正式の処分を未決定のまま、十二月下旬にはさっさと全軍を撤兵させることに成功した。 「……と、まあ、こういうわけで。で、長州藩は危ねえところを西郷に救われたってんで」 「その西郷という人が長州を救っておくことが、どんな値打ちがつくんだ?」 「なにね、恩を売っといて、あとで長州を仲間にひきこんでいざというときの味方にすると……」 「半六、馬鹿いっちゃいけねえよ、長州が御所まで攻めてきたときの旗印は、薩賊会奸を討ちほろぼすことだったんだぜ」 「そこが、頭《かしら》の単純、いや、生一本の江戸ッ子というやつで、長所にもなるが短所にもなる。いいですか。とにかく両雄はふたたび相戦わず、ということでその人は押し通した。長州がどんな旗印をかかげようがそんなことは昔のこと、いまはいまッてんで、その人は長州にともかく恩を売ったんですよ。実は西郷とかいう人の、その、なんともどっちつかずのヌエ的なやり方を、かえってじっと注目していた人がいたっていうですぜ」 「だれだい、そんなひねくれた見巧者は?」 「へい、なんでも長州に身を寄せている土佐脱藩浪人の中岡慎太郎とかいうお人と……」 「中岡? 知らねえ名だね、そいつがなにをしようと……」 「いえね、過去のいろんなひっかかりを捨て去って、大きな藩同士の手を結ばせたら、いったい天下はどうなるかと……そんなことを考えたとか考えなかったとか……」  辰五郎と半六のにわか漫才のようなやりとりを黙って聞いていた慶喜が、ここではじめて口をだした。 「半六師匠」  慶喜は纏ふりを手ずから伝授されたことから「師匠」とよんで、半六をあれからずっと恐縮させている。 「そりゃ風聞でなくて多分に事実だろうよ、きっと。フム、薩摩と長州がひそかに手を結ぶ、か……。仲介するのが元土佐藩の脱藩者とは、まったく話がよくできている」  といい、慶喜はちょっと遠くを見るふうである。 「そんな西の大きな二つの藩が手を結んで、なにをやらかそうてんでござんすので」  と半六が師匠とよばれたいい気分をとりもどして聞いた。 「なにを考え、なにを画策しているか、それはわからない。長州は無邪気だが薩摩はずるいからな。はじめは幕府と親しくして長州を追い落とした。こんどはその長州と結ぶ。老獪といえば聞こえはいいが、要は権力亡者といえんこともない」  といい、慶喜はすっかり考えこんだ。こうなるともう会話ははずまないから、娘に酌をさせて辰五郎はしばし盃を口にはこぶだけとなった。 城中、狂せるがごとし  このあとの政治状況は、辰五郎や半六や、いくらかは政治にからんでいる新選組の土方歳三すらも関知しないところではげしく動いていく。  一つは第二次長州征伐の問題である。  あのあと、長州藩は、内乱があって保守派にとってかわり、桂小五郎、高杉晋作、広沢|真臣《さねおみ》らの新しい政権が、この年のはじめにはうまれていた。かれらは蛤御門の変の罪については深く恭順するが、自藩の存立のためには戦備を強化するという方針を高くかかげた。この態度硬化は、幕府に第二次征長の軍をおこす決意を固めさせたのである。  しかし長州軍の勢いは当るべからざるものがある。大規模な軍制改革をすすめ、五月には大村益次郎を迎え、軍の総指揮をゆだねた。いっぽうでは土佐の中岡慎太郎、土方元久、坂本龍馬の斡旋による薩長密約の路線にのろうとしている。いよいよ幕府軍と対決となれば、長州藩にはこんどこそ和睦や条件つき降伏の余地はない。藩をあげて決戦するばかりであるからである。  閏《うるう》五月十六日、将軍家茂は長州征伐実行のために江戸を発ち、同二十五日に大坂城に入る。ここが大本営となる。ちなみに家茂はこの年十九歳である。  長州藩が徹底抗戦の意をはっきりと示したのは、それから十日後の六月六日。その前の閏五月二十一日には坂本・中岡の斡旋で薩長連合への確たる道の第一歩が踏みだされている。長州にとっては、いまや心強い味方がついてくれるの思いがうしろにある。  対決はのっぴきならなくなった。慶喜・容保・定敬の一会桑政権は参内して、長州再征の勅許を求めた。九月二十日のことである。  例によって幕閣から足をひっぱられる。長州を征伐するのは幕府の権能においてやるのだから、勅許は要しないのではないか、という幕閣の強硬論である。慶喜は断乎としてこれを押さえつけた。  もうひとつの大抗議は薩摩藩からきた。朝廷が長州再征を勅許したと聞くと、翌二十一日、大久保一蔵らは関白二条|斉敬《なりゆき》のもとにいたり、声を荒らげていった。 「兵を動かさんとするには大義を明らかにし、名分を正せねばならぬ。その儀あいまいならば諸藩は、たとえ将軍の命令あっても動かぬであろう。長州は恭順の道をつくし、勅裁のいたるをまっている。いまこれを幕府が征討するがごときは条理が立たぬ。願わくは朝廷において勅命をもって断然再征の挙を停止《ちようじ》せしめられたい」  朝議はこれによってまたひっくり返りそうになった。慶喜・容保・定敬はこれを聞くとただちに参内し、 「征長の建言をご採用なくば、職を辞するのほかなく」  と強硬に主張し、もとどおり長州再征は勅許となった。ただし勅許とはなったが、大久保のいうとおり諸藩は動かない。諸藩は動くまいの予想があったゆえに、慶喜は強引に「勅許による」方式をとったのであるが、それでも動かない。しきりに流言蜚語がとび、幕命に従いそうもない藩の続出である。薩摩は完全に知らん顔である。親藩の尾張も越前もよう動く気配をみせない。幕命は鼻つまみとなった。まだまだなにが起るかわからない。  もう一つの問題は外交である。  薩摩藩が攘夷論を捨てた。長州藩もまた、下関戦争いらい開国論に変りつつあるという情勢をみてとった英米仏蘭の四国が、このときになって、通商条約の勅許と兵庫(神戸)の開港を強く要求してきたのである。安政五年に幕府が調印した通商条約によれば、文久二年に兵庫開港が約束されているのに、まだ実行しないのはどういうわけか。こうなれば幕府と交渉しても埒《らち》があかない、朝廷に直接談判するのみと、連合艦隊九隻をもって兵庫沖にあらわれたのが、長州再征の勅許に先だつ九月十六日。  これには朝廷がまずはげしく動揺する。朝廷内には開国を嫌う空気がなお強くある。それをみてとった幕閣はこんども勅許などえる要はないと、兵庫開港を主張し、幕議はいったんこれを決定する。ところが慶喜がまたこれに強硬に反対し、勅許の必要を説き、みずからが動いて朝旨をもって、二人の老中を罷免するという離れわざをやってのける。大坂城中の将軍家茂をはじめ、幕閣ならびに幕臣たちはこの勝手な処分に興奮でわきたち、慶喜にたいする怨恨と疑惑をいっそう深める。 「城中、狂せるがごとし」  と目撃者は記録している。  ついには十月一日に、将軍家茂が将軍職の辞表を朝廷に提出という前代未聞のことをやるにいたった。慶喜が将軍をここまで追いつめたと解釈した旗本衆のなかには憤激のあまり、慶喜を襲撃する計画もねられる騒ぎである。  慶喜は、しかし、このたびはひるまなかった。十月四日、容保、定敬そして老中格の小笠原長行らをともなって参内、朝議の開催を要求する。もうテコでも動かず意思をまげない強い態度を示す。これで、その日の夕刻、やむなく天皇も出御し御簾《みす》をおろして会議の逐一を聞くという御前会議がひらかれる。  慶喜はおそらく天下第一であろう弁論をその席でふるった。しかも音吐《おんと》は朗々としてよく響いた。しかも江戸弁に近い威勢のよさもある。家茂が将軍職辞表提出にいたった内情をくわしくのべたのち、 「……兵庫沖の外国船はいまや兵端をひらきかねまじき勢いを示しております。さればこのさい是非ともさきの箱館《はこだて》、長崎ともども兵庫の開港の条約に御許容あられたく、さすれば外国船はただちに退去するでありましょう。勅許もなく、なお攘夷などとの空想にふけりますれば、戦端がひらかれ、外夷の軍は京都へ殺到するやもはかりがたく、そのときにおよんで和を講ずるなどとても不可能なことに存じます。日本全国は焦土と化し、恐れ多くも皇位の安泰も保証のかぎりにてはございませぬ」  この慶喜の熱弁は相当に効果があった。しかしなお、朝議は決せず夜になる。薩摩藩や土佐藩が蠢動しはじめる。薩摩の大久保一蔵は、いま直面しているさまざまな問題に対処するため、諸侯会議をひらくことを執拗に画策する。内大臣近衛忠房に会い「外国条約のことは国家の重事である。よろしく諸侯集会をまって決定すべきである」と強く建言する。政権を雄藩連合にうつすきっかけをつくろうという構想を、チャンスとみて推進しようとしているのである。  また朝廷内はごたごたした。こうなると諸藩からの物議をおそれて、朝議は容易に決しうべくもない。それでも夜半、にわかに在京の諸藩の国事に関係せるもの三十九人をよんで、十分に議論をつくしてから勅裁を仰ぐ、ということがきめられる。 「なにをされるもよろしかろう。慶喜は条約勅許をいただくまでは、朝内を下りませぬ」  そういって慶喜はその夜は朝廷内にとどまった。  翌十月五日、ふたたび、こんどは天皇の出御はなしの「議論をつくすための」大会議がひらかれる。もう論議は紛糾を重ねるだけ。例によって薩摩藩は手をかえ品をかえて策謀的な論を吐くから、議事は難航するいっぽうとなる。  たとえば、大久保はしきりに大原三位重徳卿の名をもちだし、外国船との折衝の局にあたらしめることを主張する。大原卿なら自分たちの言うがままになる。もちろん幕府の外交権を奪おうというねらいである。それが思うにまかせないとなると、策を変えて、 「外人、いかに頑冥なるも諭《さと》すに道理をもってすれば、納得するにちがいない。わが薩摩藩誓ってかれらを退去せしむべし。願わくは応接の使命をわが藩に下したまわらんことを」  と大久保がいいだすのである。議論にあいて、これに賛成する他藩のものがかなりでる。これにたいして小笠原長行が厳としていい放つ。 「外人応接は、幕府ご委任の事務なれば、他藩にご下命あるべきではない」  そして慶喜も、ことごとに薩摩藩の意図をふみつぶす言を吐いた。慶喜はただ一筋、なにとぞ通商条約の勅許を賜りたい、とのことを切言しつづけたのである。  二条関白以下の公卿たちはほとほと困りはてる。それに次第に声高になる諸藩士の議論に辟易するところもある。それで席を立ってしばし退散の姿勢を示したとき、慶喜がきっとなっていい放った。 「このような国家の大事をよそにみて、いかに退散せらるることやある。それがし不肖ながら多少の人数を有している。よいか、このままではすみませんぞ」  この見幕に恐れをなして、公卿たちはあわててまたもとの席に戻る。  それを冷笑視しながら小笠原長行がいう。 「関白殿下をはじめとして、あくまでこれまでの持説を固執せられるのであれば、いまにあなた方は清国人と同様の負け犬となるだけだ」  慶喜は、失言にも近い小笠原の言を笑いながら押しとどめると、すっくと立って、公卿たちを恫喝せんばかりに声を大にした。 「かく申しあげきたるもなお御許容のなきときには、それがしとしてはやむをえぬ。この場で腹を切り、将軍にたいする責《せめ》をはたすのみでござる。それがしの一命はもとより惜しむところにあらず。されど、それがしが切腹いたしましたる折は、家来どもが諸卿にたいしていかようなことにおよぶや、もはやそれがしの存ぜぬこと。そのお覚悟あってなお勅許の要なしとせらるるならば、それもまたよし、ご存分に致されよ」  と、いって慶喜は席を蹴って去るふりをした。身についた大芝居といえようか。いや、芝居とすればまこと小面憎いほどのあっぱれな大見得である。公卿たちはあわてて制止し、結果的には、これで事態は急転することになる。  その夜、天皇は「一橋中納言らの願のとおり、御|免《ゆるし》の方然るべし」と勅書を賀陽《かや》宮(中川宮)と二条関白とに下される。御沙汰書は伝奏をもって慶喜に渡された。 「条約の儀、御許容あらせられ候間、至当の処置いたすべき事」  一昼一夜におよぶ朝議ののち、通商条約の勅許はここにおりたのである。  条約調印の勅許をめぐってはじまった大騒動大論議は目出たく終焉した。  ただし兵庫開港のことは、 「兵庫開港之儀は止められ候事」  と、許可にならなかった。そして、将軍の辞退隠居は許容なりがたし、との命が達せられた。  兵庫沖の四カ国艦隊は、とにかく最大の難関であった通商条約の勅許の要求がとおったことで大満足である。兵庫開港が拒否されたことについては、なおいくらかの強硬姿勢をみせたものの、外国奉行山口駿河守の、 「条約勅許があった以上、他日かならず開港にいたるは必定にござる。後日、この件については関東において談判したい」  の言をいれて、十月八日、艦隊は錨をあげて兵庫港をあとに、横浜へと引き揚げていった。朝廷・幕府あげての大評定はやっと終る。  ところで、慶応元年の、この長州処分、条約問題の二つの勅許をめぐっての大論戦の結果は、奇妙なくらい薩摩藩と幕府とが、というよりも薩摩と慶喜・容保・定敬の一会桑政権とが、対立を深めていくことになった。  しかも対立は実に将来の国家構想にまでおよんでいる。諸侯会議という薩摩藩の構想は、慶喜によって徹底的にはばまれた。がぜん慶喜との敵対関係に薩摩は自藩をおくようになる。一会桑政権を許すことは、自藩の明日にとって由々しきことになるにちがいない。となれば、この政権を倒す、倒幕という大命題が当然浮かびあがる。薩摩藩の長州藩への接近はもう必然的に急となっていく。 またまた辰五郎の長広舌 「……どんなもんでござんすかねえ。あっしみてえな一介の鳶人足だって、少々ぐらいは事の道理をわきまえてるってもんでしてね。いいですかい。ことの起りはたしか安政五年の、そうでやんしたね、大老井伊さまが、京の天子さまのお許しもなく、幕府単独で毛唐どもと条約を結んだのが怪しからん、ということでござんしたね。  それから薩摩や長州とかが旗をふって尊皇攘夷とかの運動がはじまった。それからは、まったくもうサムレエの世界っていうやつはうんざりするほど人殺しがつづきやした。腰の抜けたような開国は怪しからん。あっしだってそう思った。で、黒船がやってきやがったとき、公方さまから毛唐を追っ払うためのなにかいい知恵はねえかってきかれたから、あっしもない知恵をしぼったねえ。半六なんか女攻めって妙なことを考えた。もち、ご採用になるはずはござんせん。それもこれも東照大権現さまこのかたの征夷大将軍であられる公方さまが、先頭に立って諸大名をひきいて毛唐退治の大喧嘩をおっぱじめるにちげえねえ、と思ったからでしてね。  でも、それがならねえという。それほど国が弱いんだという。喧嘩をおっぱじめると日本中が焼け野原になるという。となっちゃ、あっしら火消しがいくらいたって、日本中じゃこりゃ手に負えない。あっしは正直のとこひっくり返った。長生きするんじゃなかったとしみじみと思った。  ま、それからいろいろごたごたありやした。中根さんが殺された、円四郎さんもやられた、京都の人たちがたんと家や財産を失った。が、それはともかくだ、みんな隅田川でも加茂川でもよござんす、川の流れにまかせてあっちへ流してしまいましょうや。つまりは、安政五年のあのときから七年たって、こんどは天子さまもそれはやむをえないことだからってお許しになりなすった。いいですかい。つまり幕府が勝手にやった開国ということを、天子さまも正式にお認めなすった、ってことは、ごたごたの根本がなくなった……ということじゃないんですかい。こいつあ、うちの殿さんのお手柄だったと、身贔屓でなしにそう思いやすよ。ごたごたをおさめて天下がひとつにまとまるに、もってこいの話じゃござんせんか。  天子さまだってその功をお認めなすった。で、殿さんの官位を従二位大納言にすすめようって内議があったといいますぜ。でも、それをお断りなすった。殿さんのいうことにゃ、幕府のお役人さんが、きっと殿さんのほうから要請したんだろうと疑ぐるにきまっている。もうこれ以上幕府とのあいだに余計な波風をたてたくないって……サムレエの世界ってやつは疑いぶかくて……嫉妬ぶかくて……なんとも面倒くせえもんでやんすね。  そうだ。余計な波風を立てるっていやあ、なんといったって、薩摩藩だ。なにを考えてやがるんでしょうな。長州藩を征伐するって、天子さまのお許しもあって、きまったことなんでしょう。それでご老中が大久保とかいう薩摩の重役をよんで、ぜひ兵をだしてもらいたいって頼んだ。ところが、その大久保という重役さんはこういった、というんですな。�はあ、倒幕という命令でごわすか。それはどうも困り申《も》す。まさか幕府を討つわけにはいき申さん。お断り申すでごわす�と大きな声でね……。耳の聞こえないふりをして。ふざけてるじゃありませんか。もっとも、半六がさぐってきた話なんで、どこまでほんとのことか、ちっとわからねえところはある。  半六がもってきた話といやあ、妙なのもありましたぜ。なにね、まだ新年があけてすぐのころの、一月の終りごろ、いえね、ついこの間のことでござんすな。薩摩屋敷で、薩摩と長州のお偉がたの秘密の会談があったというじゃありませんか。いままでの喧嘩沙汰を水に流して手打ちといこうと……それがまるでやくざみてえな話でしてね。仲直りというのはなんによらずいいことですがね。じゃ、なにを話し合ったのか、手打ち式をやるにはなにほどかの条件もあろうと半六にたずねたら、それがなんとまた、いっしょに手をつないで幕府を倒す相談だというもっぱらの風評だと、半六がいうじゃありませんか。  いいですかい、せっかく開国して新しい国づくりという国全体の方針が定まってこれから、という矢先に、なんですかい、またぞろぶっそうな殺し合いに戻ろうという寸法なんですかね。幕府を倒すってったって、黙って倒れるわけにゃあいかねえ。この辰五郎だって黙ってはいねえ。いやでもこれは大喧嘩となる。困るのは家を焼かれたり壊されたり、ときにゃあ命も奪われてしまうあっしら町人や百姓なんだがね。連中はちっとも考えてはいねえんだろうねえ。  とにかくちかごろの雲行きはただごとじゃない。明日があけたら大風か大雨か、ッてことになりかねない。どうも台風の目は薩摩のような気がしきりにしますんですがねえ」  辰五郎の話にもでてきたが、聞きこみの半六はかなり正確な情報を京の巷からとってきている。辰五郎はもちろん、慶喜でさえ知らぬことであったが、慶応二年一月二十二日、坂本龍馬があいだに入って、薩長両藩の軍事同盟が成立していたのである。出席したのは薩摩側が西郷吉之助と小松帯刀、長州側が桂小五郎、場所は京都三条河原町の薩摩屋敷である。  盟約は六カ条であるが、その最後の条にはこうある。 「……双方誠心を以て相合し、皇国の御為に砕心尽力|仕候事《つかまつりそうろうこと》は申すに及ばず、いずれの道にしても今日より双方皇国の御為、皇威相輝き御恢復に立至り候を目途に、誠心を尽して尽力致すべくとの事」  つまり、単なる雄藩連合というより、「皇国の御為」の語が象徴するように、両藩は倒幕後の皇国体制の確立つまり尊皇倒幕をめざしているのである。この薩長同盟によって、幕府打倒は大目標となり、そのための倒幕勢力がいまや実体ある存在となった。幕末史は最後の曲がり角をまわったことになる。  そうともしらぬ辰五郎のその日の長広舌は、とどまるところもなくつづいている。 「あっしはね、だれにもそれぞれの生きようがある。自分のえらんだ道を行くよりはねえ。そうは思っておりやすよ。ただねえ、世の中には人の処すべき道というものが、やっぱりあらあね。大道もあれば小さな路地もある。ぶきっちょに小さな道を行くも勝手でしょうが、裏道はいけねえよ。人をあざむいて手前《てめえ》の栄耀栄華をはかるなんざ、こりゃ外道《げどう》の道でさあ。風上におけねえ野郎と思いやすね。それが江戸ッ子の心意気というやつでね。  せっかく治まりかかった世なら、このままうまく治めたらどんなものでしょうね。いや、そうはいかねえ、どうしても喧嘩だっていうなら、べら棒め、江戸ッ子だい、と受けて立ってもようがすがね」 [#改ページ]   将軍への駆け引き 家茂が死んだあと  慶応二年(一八六六)七月二十日、将軍家茂が大坂城中で病没した。あまりの突然の死である。  しかも六月七日、実に一年余ももたついた揚句にやっと長州再攻撃の命令が下され、戦闘が各所ではじまっている。はじめから戦意の高くない西国の各藩で構成されている幕府軍は、芸州口(山陽道)、石見口(山陰道)、周防大島口(瀬戸内)、それと小倉城を本拠に海峡を圧する小倉口と、長州をかこむ四つの国境線から攻めいったが、いずれでも苦戦を強いられ、敗報しきりである。あおりをうけて京都の政情もまた日々険悪をつげているさなかの将軍の死である。  それだけに突然の死は、人びとに疑心暗鬼をいだかせる。 「一橋殿が一服もったらしい」 「医師に匙加減せよと一橋殿が命じたのだそうだ」  そんな為にする噂が大坂城中に乱れとんだが、事実は四月ごろから家茂はしきりに胸痛を訴え、脚に水腫を発し、食欲も不振であった。脚気衝心による急死に間違いはない。  安政五年、十三歳で紀州家から将軍後継として江戸城に入っていらい九年、波瀾万丈というよりただ苦悩に苦悩を重ねる歳月をすごして若き将軍は逝った。ただし、幕府としては権威回復のためののるかそるか、長州相手の戦いのまっただ中である。将軍の死はいっさい外部には秘匿された。  その遺言によれば「田安家の亀之助を後継とせよ」とあったが、当の亀之助はようやく三歳になったばかり。こんな幼児を将軍にして敗報しきりの征長戦のいまの苦境をまかせるわけにはいかないから、幕閣は江戸の大奥がなにをいおうが、慶喜にあとを継がせるほかはないとやむなく決心を固める。朝廷と有志大名の賛同をえて、いそぎ老中の板倉勝静が大坂より京におもむいた。  どっこい慶喜は、はっきりと後継を拒絶する。「今日の国家の有様をみるに、なにびとが将軍家を相続するとも、天下の治平を保つことは難い。まして人気の悪いそれがしが、とてもとてもお受けいたしかねる」とくり返しいう。板倉はびっくりしたが、こちらもまた一歩ものかない性情の人である。説きに説いたそのはてに、 「たってご辞退されるにおいては、朝廷よりご沙汰を拝してでも……」  とまでいって、尊皇の気持の強い慶喜の弱いところをつく。これにも、 「勝手にめされよ。それがしは、それがしの所存どおりにいたす」  と慶喜は吐きだすようにいうと、あとはそっぽを向いた。  板倉は弱りはてて春嶽に訴える。春嶽はよかろうと、慶喜説得に重い腰をあげたが、やがて渋い面をして戻ってきた。 「もし朝廷から強いて後継を仰せだされるにおいては、自分は腹を切るか、江戸へ逃げ帰るかの、二つに一つだ……などと、いや、例によって剛情なこと剛情なこと……」  と春嶽は笑いながら、板倉にいったあと、すっと声をひそめた。 「いや、ご老中、安心して勅諚を仰がれるとよろしい。勅諚があれば、二心《にしん》殿はごたごたいってはいるが、結局は受けられるよ。諺にいうねじあげの酒呑みで、十分にごたくをならべていろいろごねたあとで、それではやむをえんとお請けになるは必定と拙者はみるよ」  そして春嶽はニヤリと複雑な笑みをもらした。  孝明天皇は、すでにふれたように病的なほどの保守主義者である。それだけにだれよりもいまの朝幕体制の保持を信条とする公武合体論者である。幕府にとってかわって政事の全権をにぎろうなどとは露ほども思っていない。将軍あってこその天下泰平と信じているから、慶喜継嗣をだれよりも喜んだ。御沙汰書は問題なくおりる。  死したる将軍がなお生けるがごとくに家茂の名においていろいろと公文書はだされているが、いつまでもこんな不合理は許されないのである。朝廷の同意もあり、板倉や容保や定敬にかこまれて、日夜つめっきりで迫られては、慶喜もすっかり追いつめられた形である。 「わかった。なればそれがしも覚悟をいたした。事ここにいたっては、徳川宗家相続を慶喜は承知いたすとしよう」  三人の説得者が頭を下げるその上を、慶喜の思いもかけぬ言葉が流れた。 「ただし、宗家の家督を継いでも将軍職は継がぬ。それでよろしいな」  三人はあっけにとられた。徳川宗家と将軍職はひとつのものではないのか。家康いらいこれを別のものとして考えたものはひとりもいなかった。板倉は、春嶽のいうこれも酒呑みのねじあげかと、ふと思った。とにかくも、よくわからないまま、もういっぺん三人は頭を下げた。七月二十六日のことである。 「……どういうこった」と奇声を発したものはほかにもいる。新門の辰五郎である。翌々日二十八日、やっと後継を慶喜がうけたというので、ささやかながら鯛のお頭付きで祝いの膳をと、若州屋敷をたずねたとき、そのことを辰五郎は知らされた。 「公方さまにはなったが将軍《だんな》にはなられない?……いってえ、なんのこって? 殿さんが真っ二つにされたわけでもねえんでしょうに」  それより辰五郎がびっくりしたのは、いやいや家督を継ぐのを承知したはずの慶喜が大いに張りきっているらしいことで、若州屋敷全体がにわかに浮き立っている。側用人の原市之進から、 「長州征伐へ御みずから出陣されるのだ」  と、邸内のにぎにぎしいわけを説明され、しかも、この日、将軍家茂の名で、「それがし病気危篤にいたれば慶喜に徳川家を相続させ、名代として長州に出陣させる」旨、朝廷に申しでている、とまで教えられて、辰五郎の膝はがくがくとした。 「だって公方さまはとうにお亡くなりに……」  原がとっさに大声でいう。 「親分よ、知らぬが仏だッ」  へエッと辰五郎は思わずあたりを見回した。  奥の間にとおされて辰五郎は、こんどは完全に腰をぬかした。慶喜が毛唐の服を、お芳に手伝わせて、試着しているさい中である。おお、おやじよく来た、という慶喜に、辰五郎は「この派手派手しさ、江戸好みじゃねえな」とじろじろ上から下までねめまわしながら、 「なんですかい、このきんきらきんは……」  と家督継承のお祝いも忘れて、まず毒づいた。慶喜はぜんぜん気にもしない。 「フランスのナポレオン三世から頂戴した軍服よ。どうだ、似合うだろ」 「お似合いでございますこと」  とお芳がお愛想をいい、辰五郎のほうへ顔をむけるとべエと小さな舌をだす。いい気持の慶喜はまったく気づいていない。 「どうだ、おやじ、気に入るようならおやじの軍服も注文してやろうぞ。ただし、皇帝は無理だ。せいぜい士官の軍服ならよい」 「いいえ、それはもう……そんなものを着たら観音さまに叱られやす」  ご機嫌の慶喜は、そのあともいろいろと語った。徳川家を相続した上からは、八百万石の徳川の力をもって、諸藩の力は借りずに長州追討をする。われには訓練十分の洋式兵団がある。大砲八十門の砲兵がいる。それによっていま奈落の底に失墜している幕府の内外の権威をとりもどす。朝敵長州を征伐して徳川家の功業を広く天下に示すためにも、家康公が関ヶ原合戦の陣頭に立ったがごとく、われもまた陣頭に立たん。 「おやじには、俺のこの決意をだれよりもわかってもらえよう。この天下に帰るべきところのない男の、はじめての雄叫びと聞け。そんな気持よ」 「へい、せっかくの出陣でござんすな。お目出とうございやす。およばずながら、新門も一家をあげてお供を」 「ウム。この大|討込《うちこみ》についてきてくれるか。……そうよ、その前に、おやじの一家のものたちによって、大いに、大討込の声を京都市中にばらまき、にぎやかにしてもらえんか。声が大きくなればなるほど味方は勇みたち、敵は萎縮する。それよ、吹聴と宣伝で、おやじ、まずは大討込の先陣をきってくれ」  そういいながら慶喜は足音も高く、ナポレオン風にそりかえって廊下を行ったり来たりした。フランス人にでもなったつもりかも知れん、と辰五郎は思う。  新門の一家をあげての京の町への吹聴は、半日もたたずに隅々にまでゆきわたった。慶喜が大討込をするからには、たちまちにして長州藩は降伏するであろうと。  ところが、そのいっぽうで、将軍家茂の死もひそかに語りつがれている。将軍さまがおらなくなってあとを継ぐものがいないらしい。町家の小童《こわつぱ》でさえそのことを知るようになっている。戦火で家を失いやっと掘立小屋を建てて食いつないでいる人びとは、そんな大変なときにまたまた大戦争で物価が高騰するのではないかと、不安で顔を見合わしている。  慶喜が長州へ進発のお暇乞いとして参内したのは八月八日、天皇に拝謁、盃をいただいた。さらに御学問所にて節刀を賜った。これにて賊を討てとの思召しである。さらに豊太閤出陣の例に倣《なら》って七社七寺の祈願を朝廷はするというから、慶喜は勇みに勇みたつ。  この日、旗本一同を若州屋敷の広庭に参集させて、宮廷を下がってきた慶喜は、声をいちだんと強めて訓示をたれた。 「毛利大膳父子は、君父の讐《かたき》である。このたびの出陣は、たとえ千騎が一騎になるとも山口城まで攻めいり、戦さを決する覚悟である。その方ども、余と決心を同じうせよ。そして余に随従せよ。その覚悟なきものは、随従するにおよばぬ」  旗本衆に加わって、いちばんうしろのほうで叱咤を聞いていた辰五郎には、慶喜のすさまじい気迫に、となりの半六がぶるぶると身体を震わせているのがわかった。老いの血になにやら悲壮の気が注されたように、辰五郎も全身をカッと熱くしている。  京都進発の日は八月十二日と定められた。 大討込の中止  しかし勇みたつ総大将の慶喜すら知らなかったことがある。すでに四つの国境線で戦っていた幕府軍は、いずこでも総崩れになっていた。泰平になれた武士の優柔、惰弱そのままに、幕府軍の弱さは信じがたいほどなのである。それに長州軍が火器を使うのに、幕府軍は刀と槍と弓。とても敵しうべくもない。そこへ将軍家茂が病死したと知らせがとどくと、闘志はいっぺんにしぼんだ。久留米藩も柳河藩、熊本藩もさっさと軍を引いた。  高杉晋作の指揮する奇兵隊の攻撃で、小倉城が落ちたのは八月一日。総大将小笠原|長行《ながみち》はそれ以前の七月二十日に将軍の死を知らされるや否や、戦場から軍艦で長崎に逃げだしている。  慶喜がその敗報を知らされたのが、明日の首途《かどで》をひかえて準備に急であった八月十一日である。しかも、小笠原長行がすでに前夜に大坂表に帰着しているというではないか。慶喜はもっていた扇子を畳の上に落としたまま、しばらく動かなかった。  慶喜の鋭敏な頭脳はいそがしくまわって、さきのことを予見した。かまわず出陣して戦場にでたあと、朝議がまたひっくり返って征長の停止を決定することがあったら……いや、その可能性は十分にある。そのときには征夷大将軍にあらざる慶喜は、ひとりの単なる大名として、戦場に孤立することになる。こんどこそほんとうに帰るところがなくなってしまう。慶喜は、敗勢であればあるほど、京を離れることはできないと考えた。  十二日、小笠原長行が京にのぼってきて敗戦の始末を報告する。惨として聞くにたえないほどである。戦う前から戦意はほとんどなし、それにひきかえ敵はまさしく死にもの狂いの蛮勇をふりしぼっている。 「わが軍はそのように無力なのか」  と慶喜は天を仰いだ。実戦経験のまったくない人に、起死回生の戦略戦術の妙策を期待するのは無理である。それほどの剛胆さもない。また、もうかなり手遅れでもある。 「中止する」  と慶喜はあっさりといった。そして十四日、何事も正式にきちんとすることを主義としている慶喜は、朝廷へ「なにとぞ中止の沙汰書を賜らんことを」と願いでた。 「なになに、頼むぞとの御沙汰書を拝し、御剣まで賜ったのに、旬日もたたぬうちに手の裏をかえして�やめた�とは、叡慮をなんと心得ているのか」  と、非難の矢は身辺に集中するし、容保、定敬は出陣中止に猛反対して、「情勢かくなればこそ、緊褌一番、速やかに御進発あって然るべく……」と必死に迫ったが、慶喜はもう動かなかった。  事実、孝明天皇は激怒した。朝廷内部のさまざまな反対論をおさえ、「速やかに進発して功を奏すべし」と激励したのは、つい先日のことではないか。むしろ征長強行は天皇の意志であったのである。  新門辰五郎が大討込中止のことを知らされたのは、大坂城中においてである。慶喜出陣を横綱の土俵入りになぞらえ、二百人の子分をひきつれて露払いのつもりで大坂にまで、かれは先のりで出張ってきていたのである。  ところが、長州まで慶喜を護衛してのりこまんと大張り切りの辰五郎がみたものは、敗軍の将小笠原長行を迎えての大坂城内のあわてぶりである。消沈ぶりである。城代をはじめ諸役は興奮と不安で顔をひきつらせている。だれに、なにを聞いても、 「これはえらいことになった」  という同じ言葉が返ってくる。あとはあっちでひそひそ、こっちでぼそぼその烏合の衆の額の寄せ合いばかりである。  いったいどうなることかと、両眉をよせて思案する辰五郎は、新任の軍艦奉行として大坂についたばかりの勝麟太郎にここではじめて会った。城壁に立って大坂の町をぼんやり見下ろしている辰五郎に「新門の親分じゃないかえ? ご苦労さんなことだ。俺は本所の勝麟よ」と、突然うしろからこの人が声をかけてくれたのである。勝は「親分の火事場のめざましい働きぶりに若いころはなんど目を見張ったことか」と会うなり辰五郎を喜ばしてくれた。  その勝が、大討込が中止となったことを、辰五郎に教えてくれたのである。 「小倉藩のざまったらないね。内福と噂される十五万石がわずか二百や三百の、いうところの町人や百姓あがりの兵卒にやられるとは何事かね。それでよく諸侯とえばっていられたものよ。武士なんだとべら棒がえらそうに肩で風を切っていたのも、こうなると噴飯ものだ。武士の世は終ったねえ。もういけないね。長年の因循姑息《いんじゆんこそく》の大きなツケがこういっぺんに利子がたんとついて回ってきては、幕府の建て直しなぞだれの手にもあまる。見ねえ、今日の城内の情けねえ有様、御老中をはじめだれもかれも漠々濛々《ばくばくもうもう》、とんと話にならねえ。江戸ッ子は、昔から川柳にもいうじゃないかえ、口先ばかりで腸《はらわた》なしってね。おいらもその腸がないゆえ、せっかく大坂に来たのにまるで天下のお役に立たねえ。なにかやろうとすればすぐこれよ」  と、勝は首を切る格好をして高笑いをした。 「いや、違った。これだこれだ」  とこんどは腹を切る仕草をしてみせた。  その夜、大坂からすっとんで戻って京は河原町二条下ルの家に帰ってきた辰五郎は、「布団をしいてくれ。俺は寝る」といったきりで、それから何日も奥の間にずっと臥せたきりになった。口もきかぬし、三度の食事もとろうとはせぬ。老いの血をさかんにたぎらせすぎたのが悪かったか、とはじめは冷やかし半分で、頭からひっかぶった布団のふくらみを眺めていた子分たちも、さすがにおたおたしはじめる。  妾のかながなんと慰めようが、半六がおだてたりけなしたりで気をひき立てようが、口をきかないから始末が悪い。布団の中で蛇のようにとぐろを巻いているだけで、せっかく口をひらけば「俺は死にてえよ」の一言があるのみ。  半六にせがまれていそがしいなかを、お芳が姿をみせたのは八月二十一日の午後。前日に将軍徳川家茂の死が公表され、徳川宗家後継の慶喜は喪に服し、やむをえず政事の表面から姿を消すことになる。そしてこの日、朝廷は、将軍の死を理由として、征長の軍に休戦の沙汰書をやっと布達した。  辰五郎の枕もとに坐ると、お芳はそんな世の動きをちょっと説明してから、ぽんぽんといいだした。布団のなかの辰五郎は目をつむったまま聞かないふりをしている。 「なんだい、お父っつあん、腰が立たないんだって。笑っちゃうねえ。京へきてからすっかり恰幅《かつぷく》もよくなって、貫禄もついて、あっぱれ関東の千両役者、新門の大親分だと、娘の私が聞いて嬉しくなるような……そんな人がなにが気に入らないんか知らないけど、ひとりですねて、大勢の人にとんだ世話をかけてるなんて、江戸ッ子らしくないね。幼ないころの私によくいって聞かせてくれていたじゃないかよ。人に大親分とか頭取とかいわれるもんは、喜怒哀楽をめったに顔にはみせず、度胸のでっけえところをみせてやるのが商売だなんてね……違ってたかしら。それにくらべりゃ、うちの殿さんはご立派だねえ。腰抜けといわれ、胆っ玉が小さい、愚昧、見せかけだけ、弱虫……なんといわれようと、屁とも思ってないね。お芳、慶喜の行動はこの慶喜だけが支持している、ほかのだれにもわかるものか。お芳、お前はどうか、って聞くからね、支持しますって……小さい声でいって、そして首っ玉にしがみついてやったよ。それから殿さんとひと晩じゅう……」  と、のろけともつかぬことをそれからそれへと、しばらくぺちゃぺちゃとやって、 「とにかくいまのお屋敷はお客、お客、お客で、いそがしいったらないから、今日はこれで帰るわね。お父っつあん、いい加減にしてね」  そういって、お芳はすたこら帰っていく。  半刻ほどして——半六を大声でよぶと、 「やめた、やめた、死ぬのをやめた」  と辰五郎はむっくりと起き上った。そして怒鳴った。 「半六、肩を揉んでくれ。かな、腹がへった。なにか作れ。もういっぺんやり直しだ」  それを聞いて半六は、両の目から嬉し涙をぼろぼろとこぼした。 やっと将軍に就任  あれほど大々的に宣伝をした「大討込」中止で、天皇が落胆したばかりではなく、朝廷内外の慶喜の権威は大きく墜落した。英明とは臆病のことか、の声がしきりである。慶喜はなんら羞《はじら》わなかったし自信を失ったわけではないが、春嶽が評するところの「百才あって一つの胆力なし。胆力なければ百才ふるえど猿芝居にひとしい」という見方に、だれもが同感した。  慶喜がまだ将軍職についていない、そのうえにこの不評の状況をみてとって、ただちに行動を起した策略の人がいる。和宮降嫁を批判され処罰されてずっと洛北岩倉村に幽居していた岩倉具視である。この人はつねづね薩摩関係の人びとと接触し、国政参加へのときをねらってきている。それにはこの政治の空白はまたとない機会であるとみてとった。  こうして岩倉がうしろから糸をひく大事が朝廷内部で起った。八月三十日、大原重徳と中御門経之《なかみかどつねゆき》を先頭におしたてて二十二名の宮中廷臣が、突如として四カ条の改革案すなわち「諫奏」を提出する。大原は薩摩派の公卿、そして中御門は岩倉の姉婿にあたる。  諸侯会議をひらくこと、幽閉の廷臣三十一名を赦免すること、征長軍を解兵すること、それと朝廷改革である。幽閉の廷臣三十一名とは、もちろん、岩倉ご当人をはじめとする反幕府ないし反慶喜的な人物ばかり。宮廷改革とは、要はいまの権力者である関白二条と中川宮を宮廷から放りだす、なぜならこの二人あるかぎり慶喜の影響から脱することはできないからである。 「……というわけだ。親分のいうとおり、大討込の中止決断の影響はすぐにでてきた」  と原市之進が、辰五郎のしつこい頼みを聞きいれて、その後の政情の解説をこころみている。ところどころ辰五郎には理解の及ばぬところもあるが、問い返さぬことを条件の拝聴ゆえに、フムフムとうなずきながらわかったような顔をして聞いている。 「またしても玉《ぎよく》を奪おうという巧妙な手段よ。ねらいとしては見事だ。考えぬかれた策略なりと、ほめ上げてもいいのだがね……」  孝明天皇は、どうしても対面したいという希望をいれて、二十二名と会い、その奏上をつぶさに聞いた。しかし、聞けば聞くほどに天皇はおだやかならざる気持になった。これまでの「政事のことは幕府委任」を原則としてきた天皇の姿勢への、全面的否認の主張なのである。天皇は当惑し、そのあまり感情的な強い発言となった。 「これくらいのことをことごとしく群をなして奏上におよぶのは、はなはだ不敬の至りである」  そして要望をすべてはねつけた。  こうして慶喜が将軍職につくことを拒否している慶応二年の秋から冬にかけて、宮廷内は大揺れに揺れていく。万事が万事、長州での敗戦、大討込の中止など、幕府の力と権威がどん底のいま、一挙に幕府制を廃止し新しい政治形態をつくろうという岩倉と、大久保一蔵を中心とする薩摩藩士の策謀に発している。�王政復古�という言葉がこのころからしきりに叫ばれるようになる。  慶喜は、しかし、こうした政治工作の駆け引きにかけては負けてはいない男なのである。自分が「将軍職を継がぬ」ということは、委託されていた大政を自然の形で朝廷に戻したということである。その結果でてくるのは慶喜年来の持論といえるもの。すなわち、これからは徳川家も一個の大名として政治の府に参画し、朝廷を中心に挙国一致の政治体制ができるはず……。まずは、お手並拝見というところである。  ところが大政を返上された朝廷は右往左往。それでも九月七日に、尾張、土佐、宇和島、薩摩、肥前など十九藩主に京へ参集するように勅命がだされ、これからの日本国のあり方は万機公論によって決しようと、堂々とのりだしたまではよかった。しかし、朝命にもかかわらず、藩主はだれも応じようとはせず、上洛してくるものもない。  そこにでてきたのが、反幕府の公卿と薩摩が手を組んだ権力奪取の大策謀であった。  原市之進の話はつづいている。 「……薩摩に西郷吉之助というなかなかの人物がいる。親分も、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。その男が、いまこそ上洛して、一挙に事を決しようと鹿児島からのりだしてきて、十月の下旬に京についた」 「いよいよ大伴の黒主の表舞台への登場というわけですかね」 「おそらくは、強行突破の策をねり直すためかともみられる。しかし、そうは簡単に問屋がおろさない。なぜなら……」  それ以前に慶喜が素早く動きだしていた。まず、家茂の死で服している喪を解かなければいけない。これを除服という。この工作が成功して、九月二十六日、除服出仕の朝命がくだった。そして十月十六日、慶喜は堂々と参内する。徳川宗家相続の謝辞をのべるというのがその名目であるが、将軍と同じ待遇で朝廷はかれを迎えた。慶喜の政治力の復活である。  政治の空白がつづいて、憂慮を深めている孝明天皇が、慶喜参内をいちばん喜ばれたようである。そして、もろもろの事情が判明するほど、なんと多くのこれまでの勅諚が袞龍《こんりゆう》の袖にかくれたものたちの陰謀奸策に発していたことか。そのことも天皇は知った。怒りにわなわなと震える。しかも、このたびの廷臣二十二名の奏上も、岩倉具視や薩摩がかげであやつっているものとわかる。  十月二十七日、中御門経之と大原重徳の二人は「朝憲を憚らず不敬の至り」として閉門に処せられる。そのほかの面々も「結党建言」は許しがたいとしてそれぞれ罰せられる。ついでに薩摩藩とぴったりの山階宮晃親王と正親町《おおぎまち》三条|実愛《さねなる》も、蟄居または閉門を命ぜられた。朝廷内の反幕府のものはこれで一掃される。天皇の強い意思は、慶喜のバックアップにささえられていることはいうまでもない。 「……殿さんは、どうして相手に負けねえくらいにうまく立ち回るんでござんすね。やっぱり、にらんだとおり千両役者なんですねえ」  と辰五郎はすっかり感心している。そして思わず、これで戦《いく》さにも強かったら申し分のない頭領なんだが、と口にでそうになった言葉をあわてておさえた。原はかまわずつづける。 「お上の力もあって、朝廷は、禁裏さまはもとより、幕府側に立つものばかりで固められた。これでお上の将軍就任への途をはばむものはいなくなったわけでな……」  このあと再度の「上洛せよ」の朝命があって、いやいや諸侯が上洛してきた。かれらが朝廷内に感じたものは、徳川慶喜の将軍就任は定まった方針であるかのような雰囲気である。おされて諸侯は慶喜の将軍就任を求める建白書を提出せざるをえなくなる。ただし島津久光、山内容堂、伊達宗城の姿はそこにない。  十一月二十七日、天皇は議奏・伝奏両役に慶喜に将軍宣下の意向を明らかにする。そして十二月五日、この日を吉日として、勅使が二条城におもむいて慶喜に将軍宣下を正式に伝えた。慶喜はこれをあっさりとうけた。松平春嶽はこの日をさけるかのように、すでに京をあとに帰国の途についていた。 「それにしたって原さまは、ずいぶんとご苦労なすったことでござんしょうね。喪に服している殿さんの名代として、いろいろとしなければならないことが山ほどもあった。朝幕双方の責任あるお方へのご連絡もある、頼みごともある。相手方の動きを知るためのご苦心もあった」 「いや、さしたることを拙者はしていない。ただ拙者が他家へ出入りすると、殿が将軍になりたいゆえの策動ととるのが一般である。これがいちばん困った。殿は心から将軍になろうという野望など抱いてはおられなかった。しかし殿が将軍辞退を公言すればするほど、そのことによって逆に期待が高まり、支持を調達するような格好になった。ところがそれもまた巧妙なる慶喜の策謀であると、操作であると……」 「天子さまのご要望もあって、ま、いずれにしても将軍さまにならなきゃおさまらねえことでしてね。……徳川家は継いだが将軍じゃねえなんて……こりゃだれにいわしたって奇ッ怪至極の話でござんすからね。それにつけても原さま、あなたさまご自身が十二分に身辺ご注意なさってくだせえやしよ。世の中、なにをとち狂ってか、原さまのお命をねらうような野郎がでねえともかぎりません。敵もずいぶんとふえたかもしれませんからね。原さまのお名前はすっかり世に知れ渡っておりやすし……」 「ウム、親分、ご親切痛みいる」  と原市之進はあたりを見回しながら答えた。うそ寒いものを背のあたりに感じでもしたのであろう。  まったくの話、百五十日もの長い政治の空白をつくったあとの第十五代将軍徳川慶喜の誕生は、原にたいしてのみならず、同時に慶喜その人への多くの強力な敵をつくりだしていたのである。そしてまたこの空白は、薩長両藩が倒幕のための武力をととのえる貴重な時間でもあった。 孝明天皇の急死  辰五郎が、慶喜の将軍で目出たい気持のままに、原市之進の話を聞いたときから、十日ほどたったある朝のことである。聞きこみの半六が顔色を蒼白にして、辰五郎の家にころがりこんできた。 「頭ッ、てえへんだ。天下の一大事だ。天子さまが急死されなすった。それも毒をもられたってことですぜ」 「ゲエッ、まさか」  と辰五郎はうなった。それ以上は声もでなかった。  半六の情報は間違ってはいなかった。慶喜の将軍宣下があってからわずか二十日後の、十二月二十五日亥半刻(午後十一時)、孝明天皇崩ず。御年三十六歳。医官は痘瘡《とうそう》による死と診断し、喪は秘されて二十九日にいたり崩御を発表する。半六が聞きこんできたのはその前日のことである。 「毒をもったというが、……毒といやあ、そうだ、まさか石見銀山なんかじゃねえだろうな」 「頭、まさしくそれよ、石見銀山を飲まされた」 「どうしてそうとわかったんだ?」 「それがですね」  と半六はやっと少し落ち着きをとりもどしている。 「昼すぎにお薬を飲んで数刻をへた七ツ刻ごろに、天子さまは頑固な咳こみといっしょに多量の血を吐かれた。あとは七転八倒のお苦しみようだったようで……もち、意識なんかはなくなってただ胸をかきむしるという状態で、手のつけようもなかった、というんでがす。なんでも当直医だった伊良子《いらこ》なにがしという医師の話だというんですが、エート、なんだっけかな……」  半六はふところから紙をだして、覚え書に記した手前《てめえ》の下手くそな字を読みあげた。 「そう、御九穴より御脱血。九つの穴から血が流れでる、というんですが、なんのことやら。頭、わかりやすか」 「フンニャ、わからねえ」 「ともかくその最後のところの症状が、石見銀山を飲んだときとそっくり同じだと……」 「だれがそういったんだ?」 「その、伊良子なにがしっていう医師がそういったんだと……」  辰五郎は半六の顔をつくづく見て、事の不思議を思った。もしも毒をもったというなら、その下手人がいなくてはならない。放火で肝心なのはだれが火をつけたか、二度とくり返させないためにもそれをさぐる必要がある。そのことを半六にいった。 「へい、それがその、こいつだというやつがすぐには浮かんでこないんで……」 「当棒《あたぼう》よ。いやしくも御所の奥に鎮座まします天子さまなんだぜ。その尊いお方に毒をもったやつが、ひょこひょこ京の町に現われるはずはねえのは、そも物の道理よ。しかし、半六、間違いはねえとハッキリいえねえまでも、怪しい影がある、その影ぐらえ程度の野郎の目星はついているんじゃねえか」 「図星でやして。ただ野郎じゃない、女郎《めろう》なんで……」 「なに、女だと……? ……ウーム、そりゃそうだ、天子さまに近づくには奥向きの女官のほうがよっぽど都合がいいや」  孝明天皇のお側にはべる女官に、良子という名の典侍がいる。これが宮廷改革の直接奏上で閉門に処せられた中御門経之の娘。この女官がもしかしたらとみられているという。  辰五郎は、長煙管に莨《たばこ》をつめながら、 「なんでえ、それじゃまるで天子さまのお側に刺客を飼っておくようなもんじゃなかったのか」  と憮然とした声でつぶやいた。 「それにもうひとり、岩倉なんとかという元の公卿さんの妹に、えらく力のあったこれまた元女官がおりやしてね、これがいまだ隠然たる勢力を奥向きにもっておりやすそうで……」 「名はなんというんだ?」 「それが残念なことにわからねえんで。なんなら明日にでも探ってまいりやすが……」  最後のところで半六の調べはとぎれて、隔靴掻痒《かつかそうよう》の感がある。おそらくは岩倉具視の実妹堀河紀子のことをいっているのであろう。宮中をすでに退いているが、たしかに宮中の女官のなかには彼女の影響下にあるものがなお多くいたらしい。 「それにしても、せっかく殿さんが将軍になってこれからごいっしょに力をあわせてというときに、なんということか。なんとも運の悪いことよのう、半六」  辰五郎はしめった声でそういうと、煙管を吐月峰《はいふき》にかーんと叩きつけた。辰五郎には、慶喜が、絶望的な状況下に将軍位についたような気がしてならない。うら悲しくて鼻のあたりがむずむずしてきた。半六がそっとうしろを向いた。 「半六、手前も……」 「へい」と声がすっかりぬれている。 「まったく気の毒としかいいようがない」 「いえ、頭がそれほどまでに殿さまのことを案じているなんて、こいつあ、おいらにも……」  半六の目から涙がボロボロ溢れだした。 「ありがとよ」  辰五郎もそういうと横を向いた。 [#改ページ]   男の生きる道 弁論戦の勝利  新将軍が入る二条城内の二の丸御殿の普請がはじまったのは慶応三年(一八六七)春からである。工事を請負ったのはもちろん新門辰五郎。大事な慶喜公は将軍となって、いまやまわりには警護の武士がもう腐るほどいる。辰五郎と子分二百人は、本職の鳶にもどって、足場を組んだりほどいたり、工事の手順を決めたり、人足をさがしてきたり、結構いそがしい毎日を送っている。  将軍が親藩の大名と会う黒書院、老中と対面をする式台の間、諸大名の控えの間の遠侍《とおざむらい》の間、そして将軍の宿泊所となる白書院から、外様各藩重臣たちを召集したときに使われる大広間まで、ついでにということで、大幅に手を加えられた。武家権力の象徴として徳川家康によって建てられた二条城は、みるみる美しく磨きなおされていく。 「殿さんが将軍さまとなって住まわれ、大事な評定をなさるところだ。手落ちがあってはならねえぞ」  と、大声をあげている辰五郎は、久しぶりにを組の袢纏を着て張りきってはいるが、さすがに鬢も髷も真っ白になっている。京の水は気にいってはいるが、そこは生まれが生まれである。やっぱり江戸の風がひどくなつかしくなることがある。そんなとき、殿さんもさぞかし江戸の空がなつかしいことでござんしょうなと辰五郎は、自分のことを忘れて、慶喜の気持に思いをやるのである。  将軍慶喜には、しかし、江戸のことなどに想をめぐらす余裕はまったくなかったのである。まず幕府の権威と力とを回復し強化せねばならない。そのためにも幕政の改革に手をつける。補佐の幕閣は老中板倉勝静、稲葉正邦、小笠原長行と、慶喜が信頼するもので固める。以下は有能なものを家格にとらわれずに抜擢する。勘定奉行小栗|忠順《ただまさ》、外国奉行栗本|鋤雲《じようん》、若年寄に永井|尚志《なおむね》、そして原市之進は目付に栄進した。  足もとを固めて、いよいよ薩摩と、そして天皇崩御の特赦で息をふきかえしてきた反幕の公卿たちとの、正面からの対決である。公卿ばかりではない、恩赦で長州藩は藩主はもとよりすべての人びとが許され、堂々と都に戻ってきた。  まったく都合よく天皇がお隠れになった。恩赦の効果だけではない。公武合体論者でもあった孝明天皇の死で、天皇という重しがとれたいま、薩長両藩とそれにぶらさがる廷臣たちが反幕倒幕の政策をすすめるに絶好の機会、有卦《うけ》に入るとはまさにこのことである。慶喜は一歩も退かず、この怒濤の勢力に対峙した。当面する問題は、内は長州処分、外は兵庫港の開港である。諸国とかわした条約によれば、兵庫は一八六八年(慶応三年)十二月までに開かれねばならない。  岩倉具視と諮って対幕準備をはじめた小松・西郷・大久保の在京の薩摩藩士は、政権を幕府から雄藩連合に移そうとの策をめぐらしている。五月、島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の実力者が朝廷からのお召しで上洛してきた。薩摩はこの四雄藩会議で、慶喜が勅許をえずに兵庫開港を外国に言明した責任を追及し、将軍職を奪うことに、全力を傾注することにした。  たしかに、将軍慶喜は三月下旬に大坂城で英仏蘭米の四カ国公使と接見したとき、条約に従って兵庫開港を約束していた。  慶喜はこれを知ると先手を打った。四侯の上洛を奇貨とし、ともに長州処分と兵庫開港問題について議そう、と四人にもちかけたのである。場所は改装なった二条城。評定となると島津久光は慶喜の敵ではない。大久保から「倒幕準備は進んでいるのだから居丈高に」といかに尻を叩かれていても、慶喜の面前にでると、押しまくられ言いまくられ防戦いっぽうとなる。ついには容堂が薩摩藩のちかごろの動きを論難しはじめるという始末なのである。  会議が終ると、慶喜はいともご機嫌でいった。 「記念に、庭先にでて写真を撮らせようではないか」  そのさまを遠くから辰五郎が眺めていた。久光の仏頂面が、辰五郎にもよくわかって、あとで腹をかかえた。  この会議に大いなる期待を抱いていた西郷は、四雄藩会議が解体した五月二十一日、こうなっては話し合いによる革命はこれまでと観念する。小松帯刀邸に、中岡慎太郎と乾(板垣)退助と会同した夜、西郷はついに武力行使に賛同する。大久保もまた然り。  五月二十三日、そんなことはさすがに知りうべくもなかったが、慶喜は四雄藩会議解体をおのが利とするかのように、板倉・稲葉両老中と京都所司代松平定敬をしたがえて宮中にのりこんだ。外国に言明してしまっている兵庫開港の勅許をもらうためである。  朝議がはじまったのは午後八時、慶喜はのっけから宣言する。「たとえ幾晩徹夜しようとも、勅許をうるまではそれがしは退出しない」。公卿たちは顔を見あわせた。その言葉どおり慶喜は奮闘する。朝廷にかえり咲いた中御門経之、大原重徳らのいかなる反対論をもはねのけて、流れるような能弁でしゃべりつづけた。公卿どもを制するにはこのように一室にとじこめ、かれらの声がでなくなるまで論じぬく以外にはない。慶喜は体力のあらんかぎり押して押しまくった。  こうして二十四日の夜十一時をまわったとき、一同「精神恍惚」の状態で慶喜に論破され、降伏するような格好で、天皇の御沙汰書を慶喜に渡した。兵庫開港の勅許である。諸国との約束どおり港を開く。慶喜は、反幕の廷臣たちが悲憤慨嘆するなかを、意気揚々と二条城へ凱旋した。 義理と人情に死のう  辰五郎はその慶喜を夜中の二条城内で迎えている。行ったきり戻ることのなかった一昼夜、文官の公卿ごときを相手に、征夷大将軍に万一のことのあるはずはないと思った。が、どうしたことか、このたびはお芳が心配してそわそわしている。女は魔もの、そのカンというやつは存外に的を射る場合がある。そう思うと辰五郎もやっぱり落ち着かない気分になっていた。 「……そこへ、颯爽としてお帰りでがんしょう。お芳のあまがはね上りやしてね、はしたねえぞとうんと叱ってはみたものの、こっちもなんともいえず楽しい気分で……」  と辰五郎は、新選組本営で土方歳三を相手におだをあげている。壬生の屯所から西本願寺へ移り、さらに新選組は本営を堀川通り東、木津屋橋南に移した。堂々たる構えの新築の家で、まだぷーんと木の香が、辰五郎の鼻をつく。  辰五郎は新築祝いというより、新選組の面々が幕臣にとりたてられたことを祝いに、酒樽をさげて久闊を叙しにやってきたのである。  六月十日の昼さがり、その栄進の沙汰が幕閣からあった。近藤勇は大御番組頭取、土方歳三は大御番組頭で、旗本としてもかなりの顕職である。世が世であれば堂々たる天下の御直参である。  土方は、辰五郎の祝いの言葉に、ひどく嫌な顔をした。 「べつに変ったことはない。土方は土方、武州多摩の百姓の倅だ」  そういって、鼻白む辰五郎に逆に祝いの言葉をのべた。 「親分こそ、将軍《だんな》から士分にとりたてるとお言葉があったとき、ポンと断ったというではないですか。あっぱれなこと。お目出とう。俺にはそのほうがよっぽど祝っていいことのように思う」  幕臣とりたての話があったとき、土方は猛反対した。ところが近藤がひどくのり気になった。新選組は至誠一途の一介の武人の集団であるべきである、という土方を、全員が望んでいることだからと近藤はおさえた。近藤のうちに、名誉と地位へのあこがれがいつしか芽生えていたのである。  土方が「親分こそ」といったのは、辰五郎にも同じように士分とりたての話が、将軍慶喜から直接にあった。辰五郎には身分がない。それで旗本にとりたてようという内意である。だれがいうともなくその話がひろまった。  辰五郎は端から断った。 「とんでもねえ。あっしはそんな柄じゃありません。どうかいままでどおりおやじにしておいて下さい。むつかしい名前は御免をこうむります。三千人の野郎どもと甘苦をいっしょになめなめ、ご奉公いたしやす、それが野人の分というものです」  慶喜はそのとき、感きわまったように「おやじ」と一言よびかけたきりそれ以上なにもいわなかった。辰五郎はその一言をおしいただいた。 「ところで、親分、さっきの兵庫開港勅許の話のつづきだが」と土方がいいだす。「将軍《だんな》はほんとうにうまくやられた。やられたが、かえって情勢は悪化した、と俺はみるな」 「悪くなったといいやすと、薩摩や長州が黙ってすましてはおられんと……」 「そう、将軍が勅許を闘いとったということは、薩摩にとっては我慢のならぬこと。いってしまえば、かれらが策していた倒幕計画をすべて御破算にされたという……」 「そういやあ、いまになると一昨年《おととし》になりやすか、あれいらい兵庫開港の問題は、薩摩が公方さまをひきずりおろすための切り札としておりやしたものね。いま勅許が下ってしまって、切り札が失われたとなりやすと、こりゃあ、あとは……」 「戦さだな」  と土方はずばりといった。 「もう話し合いじゃねえ、喧嘩を吹っかけてでも殿さんを叩き潰そうというわけですかい。べら棒め、なんで戦さなんて大それたことをやらなきゃならねえんですかい」 「親分にはわからん話だろうが、関ヶ原いらい二百六十余年このかたの怨念だな」 「サムレエってのはしつこいもんなんですね。で、戦さとなったら、いってえ天下の形勢はどうなるんで」 「わからん。わからんが、ものには時の勢い、時勢という大きな流れがある。いっていることが尊皇攘夷から尊皇倒幕へといつのまにか変ったのに、だれも不思議と思わない。いまは倒幕が正義であるかのような顔をしている。御家門、御親藩、譜代大名、旗本八万騎、あてにできるものは一つもないね。ま、幕府が過去において外様の諸藩にどれだけ横暴なことをやってきたことかを思えば、無理もないがね」  と土方はいうと急におし黙った。 「で、新選組は……」 「…………」 「まさかあてにできないなんてことは……」 「…………」 「いや、土方さんは?」 「俺かね、俺は裏切らぬ。たとえ日本中が徳川家に弓をひくようなことになって、俺が最後のひとりになったとしても、節義をつくす」 「なるほど、サムレエは節義、でやすな」 「親分はどうだ」 「あっしですかい、あっしは生まれついてこのかた義理に死ぬことときめておりやす。殿さんには多くの義理がある。はじめて殿さんに会いやしたときね、そこに直れ、手討ちにいたすってね、危うく首と胴がおさらばしても文句のいいようのないとき、よくはわからねえが、助けられた。いってみりゃ、あっしのそれからの命は殿さんにお預けしたようなもの。こんど返してくれといわれりゃ、がってん承知とすぐ差しだしやす。命を助けてもらった義理を捨てちゃ、男がすたりやす」  辰五郎はまくしたてているうちに、なんとなく話のつじつまの合わなさを感じだした。それでやめた。実はもうひとついいたいことがあったのであるが……。それは、 「義理だけではござんせん。人情もある。娘のお芳に悲しい想いをさせたくはない。殿さんは恐れ多いことですが義理の倅ということになりやす。親が子を守るのは千戴変らねえ人の情というもんでござんす」  という芝居がかったセりフであったのである。口にはださなかったが、そう思っただけで冷汗を背いっぱいにかいている。俺は千両役者になったつもりでいるらしい。そんな馬鹿な……。辰五郎はあわてて冷たくなったお茶をがぶりとのんだ。  土方も辰五郎も知らなかった——。二人が世を憂えつつ語っているのとほぼ同じころ、六月十一日か十二日に、坂本龍馬が「船中八策」として知られる大政奉還論を、土佐藩参政の後藤象二郎に見せていたことを。  龍馬がしきりに説いている。 「私がね、命がけですすめてきた薩長の同盟は、武力倒幕のためなんかじゃないんだ。戦さなんかすることなしに、幕府政治にかわる新政体の樹立の前提としてのものでしてね」  土佐の藩船夕顔丸の船上。船は長崎から兵庫へ向かう瀬戸内の航路を進んでいる。船の旅には時間の余裕はいくらでもあった。  龍馬がここで説いたのは、幕府との武力対決なしに、新しい日本をつくりだそうという妙策である。朝廷を中央政府として、議会をつくる。幕府も藩もなく中央集権的な立憲国家の建設である。これがいまの国内の分裂と混沌と、いよいよ武力対決化しつつある紛糾をとめる最良の方策であると、龍馬は後藤があきれるほど熱心に説いたのである。  その最初のステップは、とにかく幕府から朝廷に、委託されている政権を返還させることにある。「船中八策」正確には「新政府綱領八策」の第一項は、こう書かれている。 「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令|宜《よろ》しく朝廷より出づべき事」  後藤はひどく感服した。この大政奉還の向こうに、さながら海上の霧がさあと晴れ、これまでの日本でない統一国家の像がはっきりと後藤にも見えてくるような気がした。しかもそれは国内戦争をともなわないで実現するかもしれない……。 [#改ページ]   勝つか負けるか ええじゃないか、えじゃないか  この年、慶応三年の秋、東のほうは江戸・横浜まで、西は京畿はもとより讃岐《さぬき》・阿波あたりまで、「ええじゃないか」を歌いつつ踊り歩く集団的狂気ともいえる騒ぎがひろく蔓延した。  男は女装し、女は男装して、笛や太鼓や三味線を鳴らしてしきりに踊り狂う。  ——ええじゃないか、えじゃないか、おめこへ紙はれ、破れりゃまたはれ、なんでもええじゃないか、おかげでめでたし、えじゃないか。  八月の半ばすぎに尾張、三河の民家に、伊勢神宮の御札や薬師如来の護符などが降ったことが、この騒ぎの発端であるという。ときには仏像や貨幣、米、餅などが降ることもある。御札や仏像を降らされた家人は、それを神棚や仏壇にまつり、「これは目出たい」と親戚知人を集めて酒宴をはり、ついでに通行人にも酒肴を供した。そして、人びとは狂ったように歌い、踊りつづける。  いたるところにそういう家が出現し、振舞酒に浮かれ歩く人びとはつぎつぎとほかの家へも押しかけていく。こうしてどんどん踊り狂う男女の数はふえていき、もうだれにもとめられない世をあげての祝宴となったのである。  ——おまえも蛸《たこ》なら、わしも蛸、たがいに吸いつきゃ、ええじゃないか、えじゃないか、なんでもええじゃないか。  という卑猥な歌々のなかに、奇妙なほどに倒幕派への共感を囃し言葉としたものがまじったりした。  ——長州さんのお上り、えじゃないか、長と薩摩と、ええじゃないか、いっしょになって、えじゃないか。  そして、この狂乱のはじまる直前に、慶喜を補佐して活躍した原市之進が、幕臣二人によってその旅宿さきにて、斬り殺された。犯人は原の首級を老中板倉の旅宿にまで持参した。斬奸状には「このたび兵庫開港の儀につき、恐れ多くも先帝の叡旨をあらわさず、天朝を欺瞞して、わが君をして勅許を要し奉るの挙に至らしめ……」云々と、将軍慶喜の身代りであることが記されていた。八月十四日のことである。  慶喜にとっては最大の痛手となったこの惨劇も「ええじゃないか」の囃しとなって京の町でさかんに歌われる始末なのである。  ——風もないのに原あれて、首もとぶとぶ、えじゃないか、板倉門に、ええじゃないか。  京の町にも、十月に入ると、もう「ええじゃないか」の群舞が毎夜のように荒れ狂いだしている。鉦太鼓をうち鳴らし、往来通行もままならぬほどである。ところどころの富裕の商家の前には鏡をぬいた酒樽がおかれた。そうでもしないと無理やりに押し入られ、物品強奪のひどい目にあわされるほど、狂乱は攻撃性をおびはじめている。 「どうも狂った沙汰としかいいようもありませんが、これもご時勢というんでしょうかね」  と、半六が真面目な顔をしていう。二条城を下がって河原町二条下ルの家へ帰る途中で、辰五郎一行はこの享楽の集団にぶつかったのである。やむなく近道をそれなくてはならない。 「半六、おかしいとは思わねえかい」 「何がでがす? 頭」 「いやね、皇太神宮さまの神符が降るというんだろ、ひとりでに降るわけじゃねえやね。どうしたって降らすやつがいなきゃならねえ。そいつらはなんのために……」 「ちげえねえ、こいつぁ、聞きこみの半六としたことが迂闊でやした。調べてみなくっちゃあいけませんでしたね」  と半六がぽんと首筋を叩くのを横目でみながら、 「この大騒ぎは、なにかしでかそうと考えている連中には、まったくおあつらえ向き……」  といいかけた辰五郎の姿が、夜目にもきりりとひき締った。不意に、腹の底からでた斬りこむような声で、闇に向って怒鳴った。 「手前《てめえ》たち、俺は新門辰五郎だッ」  同時に、若いころより火事場で鍛えに鍛え、鉄砲玉がとんできてもおどろかぬ土性骨の太さが、小さな五体から溢れでた。闇の底で風が巻き起こるような気配がする。二人、三人……辰五郎は子分たちを手で制した。黙ってにらみ合っているほうがいい、と喧嘩なれした神経が教えている。子分たちもしっかと背後で身構えた。太刀を打ち合ったような殺気にみちたにらみ合いが一分、二分、三分……。  やがて、すうと一人が後ずさりに静かに姿を消すと、残る二、三人はまるで一太刀浴びたかのようにふらふらと逃げていった。 「倒幕派の三ぴんどもだろうよ」  辰五郎が若々しい声でいった。 「それにしたって、頭ッ。なにも頭までねらわなくたって……」 「いや、やつらは本気になったのよ。もう一歩も引かぬぞって、わざわざ将軍を護る俺にも伝えにきてくれたってわけよ」  辰五郎は、江戸をでるときおぬいにいわれたように「立派に」死ななきゃならない日が近づいたなと、あらためて覚悟をきめた。 大政奉還と密勅  薩摩藩士も、岩倉を中心とする中山|忠能《ただやす》、正親町三条ら倒幕派の公卿も、辰五郎が想像する以上に本気になっている。京は薩長の藩士であふれ、一触即発、新選組の手におえる状態ではない。  十月三日、山内容堂は後藤象二郎を介して慶喜に、龍馬の「船中八策」をもとにした政権返上をすすめる建白書を提出した。幕府と薩長との軍事的衝突が必至であるとみてとった容堂は、その調停を買ってでたのである。この容堂の行動は、長州藩と連絡を密にしつつ「挙兵倒幕」をめざしている薩摩にとっては、まったく余計な平和路線である。  折からの京の町々をねってゆく「ええじゃないか」の混乱は、西郷・大久保と岩倉にとっては、天の恵みともいえた。この狂騒の群れにまぎれて往来する薩長の藩士の行動は、幕府側に探知されることがなく、容堂の献策に慶喜と幕閣が十分な考慮と検討をなしている間に、自由自在に策謀をめぐらせる隠れ蓑ともなった。  かれらの策謀とはどんなものであったか。十月八日、前《さきの》大納言中山忠能、大納言正親町三条実愛、中御門経之にあてて、小松・西郷・大久保の連署で、倒幕の密勅降下を請う書をたてまつる。少し読みやすくすると、 「国家のため干戈《かんか》をもってその罪を討ち、奸凶を掃攘し、王室恢復の大業|相《あい》とげたく、制すべからざるの忠義、暗合会盟断策義挙に相および候につき、伏してこいねがわくは相当の宣旨降下相なり候ところ御執奏御尽力なしくだされたく願い候」  この「暗合会盟断策」の動きをうけて、十月十三日に、薩摩藩主へ朝廷から倒幕の密勅が下った。 「詔す。源《みなもと》慶喜、累世の威をかり、徳川の強をたのみ、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯《た》めて懼《おそ》れず、万民を溝壑《こうがく》におとしいれてかえりみず、罪悪の至るところ神州まさに傾覆せんとす」  慶喜はまさしく極悪人の烙印をおされ、朝敵となった。 「この賊をして討たずんば、何をもってか上《かみ》は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや」  慶喜は世に容れられざる賊なのである。 「汝よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殺戮し、もってすみやかに回天の偉業を奏し、而して生霊を山嶽の安きにおくべし。これ朕の願なり」  同日、長州藩主父子への朝敵赦免・官位復旧の御沙汰書が下された。  そして翌十四日には正親町三条が長州藩にも「倒幕」の密勅を下し、同時に、薩長二藩に会津・桑名両藩主を「その罪軽からず」、それゆえ誅戮《ちゆうりく》せよとの御沙汰書を手交している。錦の御旗の目録もこのとき下賜された。  これら密勅や御沙汰書は岩倉の秘書の玉松|操《みさお》の草するところを、正親町三条と中御門経之が分担執筆し、幼帝の生母の父親である中山忠能が幼帝の御手に御璽《ぎよじ》をもたせて捺印したものである。  幼帝とは、記すまでもなく天皇睦仁のちの明治天皇。一月九日に即位した。このとき御年十五歳。したがってごくごく厳密にいえば、勅諚は天皇の与《あずか》り知らないものなのである。もちろん摂政関白二条|斉敬《なりゆき》も知らない。まさしく偽書である。  そしてその同じ十月十四日に、考えに考えた末に決心を固めた慶喜が、建白書の形で「大政奉還」を朝廷に奏上してきたのである。密勅のことなど知らない摂政関白は、これを受けとった。  翌十五日、慶喜はお召しによって参内し、御沙汰書をうけとった。建白書の答えが下されるには時間がかかると考えていた慶喜の見通しは甘かった。それにはこうある。 「……建白の旨趣、もっともと思し召され候間、聞こし召され候。なお天下とともに同心、尽力をいたし、皇国を維持、宸襟《しんきん》を安んじ奉るべく御沙汰候」  たちまちに受け入れられたのである。ただし、別紙がついていて、諸侯上京の上で正式決定するから「それまでのところ徳川支配地、市中取締等は、まずこれまでのとおりである」とあった。「衆議」をまつ、それまではいまのまま。慶喜は、大義名分を一応はにぎったのである。  この日、政権奉還の勅許が下りると、朝廷はただちに十万石以上の諸大名に上洛を命じた。大評定のためである。これで諸侯会同して新しい政体をきめるまでは政権はしばらく慶喜に委託ということになる。  それにしても、慶喜の大政奉還という思いきった行動は、その事実がひろまると、世の中をひっくり返した。坂本龍馬は止宿先の近江屋の一室で、目を涙で光らせながら、 「よくも断行された。将軍家のご心中さこそと察せられる。自分はいまより誓って大樹公(慶喜)のために一命を捨てる覚悟だ」  といったというし、新選組の近藤勇はあわてて情報集めにあちらこちらへと走りまわり、 「近藤さん、時流に動かされてうろうろするもんじゃねえ」  と土方歳三に怒鳴られたりしている。  辰五郎は半六に「天下はこれからどうなりやすんで」と聞かれて、 「俺にそんなことわかるはずがねえ。それよりも半六センセイ、天下などとご大層な言葉を覚えなすったねえ」  と反撃しお茶を濁している。  辰五郎は、慶喜の英断でつまらねえ戦さはしないですみそうだと判断し、その点では幾分かは楽観した。万民が難儀をしないですむことはどっちにしたっていいことだ、と思うそばから、喧嘩がこわくていち早く遁《とん》ずらをしたがる、殿さんには弱い虫が巣くっているな、の感もあって、尻のあたりがいささかこそばゆい。物事はそう簡単にすむはずがない。変化には、かならず変りたくない側からの反動がある。幕府側の恥を知る武士が「はい、そうですか」とおさまらないのではないか、さて連中はどうでるかと、そんなことを辰五郎は半ば期待をこめながら思い描いている。  十七日、老中以下幕臣たちは二条城大広間で評定をひらいた。強硬論が囂々《ごうごう》としてまき起った。ただちに江戸より旗本の兵を残らず上洛させ、京都にある反幕分子を殲滅し、さらに軍をととのえ薩摩、長州をはじめ反乱をくわだてる諸藩の本拠をくつがえす。これが第一案である。第二案は将軍慶喜が江戸に引き揚げ全軍をあげて戦さに備える。  いずれにせよ主戦論である。幕臣たちの意気は大いにあがる。  慶喜は、しかし、動かない。大政奉還という路線の正しさを確信している。徳川家が政権を返上しさえすれば、戦国のころのように三百余に分裂しつつあるいまの危うい日本国が、一つにまとまって平穏となる。新政府ができて、自分はその一員になる。すべては天下安寧のためである、と信じきって、動揺する幕臣たちの鎮撫につとめている。事は新政府樹立といういいほうへ動いていると、慶喜はそこにたのしみさえおぼえている。幕臣たちの激昴も、これでは自然とおさまらないわけにはいかない。殿さまの強い平和への意志にたいして距離をおきながら従うのが、家臣の分というものと、自然に考えてしまう。  しかし、事はここからはじまっていた。  思いもかけぬ大政奉還に、岩倉、中山たち密勅の主謀者たちはあわてた。中山、正親町三条、中御門の三人は、倒幕派の急先鋒大原重徳と十五日夜にあたふたと会合する。「密勅」派のおじけづいたことを知ると、岩倉は大久保と相談し、以後は二人でともかく「王政復古の大号令」まで、主導権をにぎって時代をひっぱっていくことにきめた。  十七日、薩長の士は行動を開始する。朝廷のお召しをうけた諸大名が、命に応じておいそれと上洛してくるはずはない。大政奉還のあと、どうすべきかを議するのは、まだまだ先のことになる。時間は十分にある。小松、西郷、大久保の三人は十七日に京を発し、急ぎ長州へ向かった。薩長同盟軍の足なみをそろえるためである。改めて綿密に大戦略をねるためである。新選組の隊士がこれを追跡したという知らせが、岩倉を愕然とさせたが何事もなかった。  大久保は、愛人に買ってこさせた大和錦と紅白の緞子《どんす》とを、従者にかつがせている。京でつくったのでは目につく恐れがある。赤地の錦織に日月《じつげつ》を配した錦の御旗を長州でこしらえることにしたのである。日月をえがいたのが一本、青龍、白虎、朱雀《すざく》、玄武の四神をえがいたのが四本、計五本で、作製には三十日余を要するという。そこから逆算すれば、武力革命の旗揚げは十一月末からあと、ということになる。 [#改ページ]   江戸の夕映え 薩の挑発には乗らぬ 「……いいんですかい、どんなにうまく理窟をつけて説明されたって、これはもう薩長の暴力以外のなにものでもござんせんよ。天子さまへの忠義、勤王というんですかい、それをなにやら正面におしたてているが、つきつめれば不平不満の貧乏公卿をうまく利用して、天子さまを抱きこんだ。そう、玉を奪ったんですな。そして、三百年来の私怨と天下取りの野望とによって、公方さまを亡きものにし、自分たちが将軍になろうというんですからね。無頼の徒だって顔負けの悪業ですぜ。こんなことが正義として天下にまかりとおるんですかね。あきれてものもいえない」  慶応三年も押しつまった十二月の暮のこと、場所は大坂城内。  出陣を前に甲冑陣羽織というものものしい軍装に身をかためている土方歳三に、辰五郎は思いがけなく会うことができた。若いころの自分と同じように、喧嘩好きそのものに精悍な面構えをしている土方を相手に、辰五郎は腹にたまったものをぜんぶ吐きだしたくなった。ここ二カ月ほどのあいだ、じりじりする思いで眺めてきた天下の動き。辰五郎の目からみれば、薩長のやってきたことは「理不尽」の一語につきる。 「十一月の十五日、坂本龍馬とかいう土佐のサムレエが殺されたっていうじゃありませんか。龍馬という人は……いえね、顔をみたことすらありゃせんがね、将軍《だんな》のためにあいだに立って調停しようとしたっていう。薩摩も長州も、いらぬお世話だとうけつける気がなかった。そのうえに、この人が動きまわると事はややこしくなる。いっそ殺《や》っちまえ、ということで……あっしは下手人は薩摩とにらんでいやす」  土方はにこにこしながら聞いている。 「新選組が殺ったって風評がありやしたが……あいだに立ってまとめようとしている人をこっちが殺すわけがない」  と辰五郎はいう。  事実、その三日前、大久保は国もとより京に戻り、武力倒幕のための全般的指揮をはじめていた。戦いの前に邪魔ものは殺せで、そのなかに龍馬暗殺指令があったらしい。薩摩藩兵二千余が、藩主島津忠義にひきいられ、鹿児島を出帆していたのが十三日である。戦争はもう倒幕側においては開始されている。ここで龍馬に動かれるのは、武力蜂起のためには大きな障害である。 「もっとびっくりしたのは、忘れもしねえ、あれは十二月九日のことでやした。敵ながらあっぱれ、やり方は水際立っておりやしたね。王政復古の大号令が一気に発布されたっていうじゃありやせんか。これまでの親幕府の関白さまやお公卿さんがみんな禁裏から追いだされた。殿さんが、この謀《はか》りごとのことを知ったのはなんと六日の夕刻、そうらしいんですがね」 「ウム、間違いはない。六日だ」 「お顔の色を一瞬変えられたが、いまさらいたし方もない、考えておく、と平然としておられたとか。そしてそんな大事を守護職さまや所司代さまにぜんぜんお知らせしなかったらしいが、いったいなぜだったんでがしょう」 「俺にもわからん。あのときに、もしお知らせがあったら……新選組が動く。狂瀾《きようらん》を既倒《きとう》にめぐらす最後の機会があった」  土方の目には皮肉な色がちらとうかんだ。  辰五郎のいう九日早朝、岩倉具視に復飾参内の宣旨が下った。すでに慎重かつ周到にねられていた陰謀計画が動きだす。あれよという間に王政復古の諭告が発せられ、二条摂政をはじめ公武合体派と目されている全公卿の参朝がとめられた。会津藩と桑名藩も京都守衛を免職され、御所の御門は薩摩勢によって素早く固められた。朝廷内より幕府色を一掃するクーデタはたちまち成功した。将軍・摂政関白は一方的に廃止を宣言される。  さらにその夜、やっと上洛してきた諸侯が会同しての小御所会議。慶喜のために、山内容堂や松平春嶽が必死に弁じ、岩倉や大久保が反論し、会議は紛糾を重ねた。倒幕派のねらいは、政権のみならず八百万石の領地を朝廷に返上させ、徳川家を大名ですらなくしてしまうという。いわゆる「辞官納地」である。容堂や春嶽が反対するのは当然のこと。 「それでは地位も身分も財産も、徹底的に奪いとることになるのではないか」 「そのとおりである」 「慶喜公をこの会議に参加せしめるべきだ」 「いや、いまの慶喜公にその資格はない」  容堂はいいにくいことも口にする。 「このような戦さの因《もと》ともなることを企てるのは、幼沖《ようちゆう》の天子を擁し奉って、権力をわがものとせんとする二、三の公卿ではないのか」  岩倉は真ッ赤になって反論する。 「幼沖の天子とはなんたる妄言。恐れながら聖上は英主にあらせられる。今日のことはすべて叡慮に発したるものなり」  この紛糾を禁門の守衛についていた西郷が聞かされたとき、かれはいった。 「いまにおよんで議論なんかでは埒《らち》があき申さん。最後の手段をとるのみでごわす。岩倉さんに、そういって下され」  陰謀の人にして革命家の気迫はすさまじいものがある。宮門はすべて薩摩兵が固めている。反対するものはいざとなれば斬り捨てよ、とまで覚悟をきめている。  とにかく欠席裁判によってこれまでの失政の罪を云々《うんぬん》して「辞官納地」を決定し、これを慶喜に突きつける。慶喜にはこれを受けいれられるわけがないであろうから、必然的に開戦となる。倒幕派はそれを戦略目標としていたのである。「慶喜など恐るるに足らず。逆らえば誅殺するのみである」と大久保は明快にいった。小御所会議は、容堂が疲労困憊となって沈黙したときに、万事が倒幕派の思うがままとなった。  慶喜はそれを知って大いに悩んだ。十一日に春嶽を二条城によんで、涙を流して訴える。 「なにがあっても朝廷にたいしては余計な抵抗はしない。祖先の名を汚し歴史に朝敵の汚名を残すことは決してしたくはない」  そこで春嶽は、慶勝と相談して、納地の問題についてはかならず解決を約束するから、ここはひとまず大坂に下って事が鎮静するのを待ったらどうか、とすすめた。  慶喜はそれにしたがうことにした。いま戦えば勝てるという強硬論をとろうとはしなかった。会津藩士は大いに憤慨してなかなかきこうとはしなかったが……。 「……二条城を、日がすっかり落ちてから逃げるようにして捨てるなんて、あんなもの悲しい想いをしたことは、生涯かけてありゃせんでがしたな。勝てる戦さをこちらから放棄したんですから、妙なもんでね。殿さんは陣笠に陣羽織という軽い旅装に、目印に木綿の白襷……なんかみんな力なく、とぼとぼって感じで。しかも裏門から都落ちだなんて……十二日の夜でやしたな。あっしなんかにはわからねえことなんだが、戦さとなったとき、二条城じゃ不利だから大坂城へ移ってきたんでやしょう。でしたら、大坂城へきたら大いに気勢をあげたらよさそうなものを、とんとそれらしいところもない……」 「将軍《だんな》は、薩の挑発にはのらぬ、とそうきめておられる。内乱は避けねばならぬという強いお気持なのよ。だから、ここへ来てからも京都は、将軍とわれら幕下を挑発しようとあらゆることを仕掛けている。薩摩のやつらのやることは汚ない」 「江戸の御用盗騒ぎもその一つ、ってわけですね」  西郷は、いざ開戦となった場合の後方攪乱のため、この年の五月ごろから江戸の薩摩藩邸に五百名に近い藩士・浪士を集結させていた。十月十四日、西郷は益満休之助《ますみつきゆうのすけ》に意をふくめて江戸に放ち、この連中を使って、江戸に事を起して幕府を怒らせることを企図した。倒幕の名目を失わないため、幕府軍に最初の一発を射たせることがどうしても必要となる。名を宮中の天璋院さまの守護に托して、益満のひきいる浪士団は御用盗と称し、商家や豪家に押しいり、掠奪暴行をほしいままにした。  その挑発は大成功となる。江戸市中の取締りにあたっていた庄内藩ほかの諸藩の藩兵が、治安をとり戻そうと芝三田の薩摩藩邸に焼き打ちをかけたのが十月二十五日。三日後には、その報が大坂城にとどけられる。城内は興奮のるつぼとなった。辞官納地の督促といい、これみよがしの悪口雑言の流布といい、京都の新政権の横暴に我慢に我慢を重ねてきた旗本・佐幕派諸士の鬱憤が、せきをきったように溢れでたのである。  それにまた、十一月二十四日には薩摩の大軍勢が京に入り、十二月一日には長州軍も西宮に上陸し陣を布く。倒幕挙兵の兵力配備をととのえ、挑発を日に日に高めていく。それを目のあたりにして、老中はもとより大小目付にいたるまで「半狂乱の有様」にて、 「大坂をうろうろする薩人を一人斬るごとに十五金を与える」  という通告までがでる。  慶喜は、ついに開戦の主張に押しきられた。いや、慶喜自身のうちに薩賊の増長無礼は許せぬの強い思いもあった。十二月三十日、慶喜は「討薩の表」を起草することを表明、慶喜護衛の兵を薩賊一掃の兵に変えて京都に進撃することが決定された。大坂城中のだれもかれもが決戦準備で大わらわである。 「それで京都への押しだしは……?」  と辰五郎は念を押すように聞いた。 「慶応四年一月一日。京都突入は一月三日と予定されている」  土方はあっさりという。気負いもなにもない。 「勝てるんでがしょうね」 「ただ一つ、将軍が陣頭に立てば必ず勝てる」 「えッ、立つんじゃないんですかい」  将軍になっていらい旗本衆ががっちり慶喜をとりかこんで、辰五郎が慶喜の顔をみることはめったになくなっている。このところ慶喜の心中のことがわからない。 「立たぬ。なぜかわからん」  と土方は無造作にいいすてた。  慶喜は大坂城に腰をすえたまま指揮をとる、とすでに決定されている。 「殿さんは政事を語らせれば天下一品なんでやんすが、喧嘩となると昔から妙に腰がひける。上手じゃない。大難をがんとおしのける気魄に欠けていましてね。それと�朝敵�という言葉を聞くとやたらに震えあがる悪い癖がありやしてね。……とすると、大坂夏の陣の豊臣秀頼公をきめこむわけですかい」 「親分、そんなことはあまりいわぬほうがいい。将軍がどうであろうと、われらは全力をあげて誠を尽くすのみよ。あとは成るようにしか成らん」 「まったくで。土方さん、存分にお働きを。……。昔っから誠の男のいく道はつらいものにきまっているようでござんす。といって、ちょいとでも踏み迷っちゃならねえ。あっしゃあ、土方さんがいると思うだけでも心強い。力のかぎりにやってきておくんなさいな」 「ありがとう、親分もな。目出たい正月早々に、あるいは地獄の門ですぐにまたお目にかかるかもしれないが……」  さっぱりとした顔、しかし目の底のほうに力が美しい光を放っている。辰五郎はこの土方の面構えが大好きである。 「じゃあ……」  そういって土方は白い歯をみせて笑った。  辰五郎と土方とはこの世で二度と会う機会をもつことはなかった。 東海道を急ぎ旅  翌慶応四年一月三日の夕刻、東西両軍は鳥羽・伏見で激突する。最初に火蓋をきったのは薩摩軍の大砲である。西郷吉之助はいよいよ開戦の報を聞いて、 「鳥羽の一発の砲声は、百万の味方をえたよりも嬉しかった」  と語ったという。  陰謀家たちは、鳥羽・伏見で負けた場合はどうするかを、当然のことながら考えていた。中山忠能が「玉印」をもって山陰方面へ逃げる。天皇を比叡山に移して時をかせぎ、その問に宮さまたちを地方に派遣して勅令をくばる。軍勢をととのえて、あらためて決戦にでる。なんだか『太平記』の後醍醐帝時代とそっくりの、見映えのしない作戦のようであるが、ともかく背水の陣を布いた。  薩長を主力とする西軍は、この戦いを公戦とし、幕府軍を賊軍と規定しないことには、私闘とみられてしまう。戦況は一進一退をくり返しつつ、わずかに西軍に有利に展開した。薩摩藩が運びこんできた二十門以上の火砲が、断然ものをいった。さらには、東軍の旧式の先込め銃は、西軍の新式の元込め銃の前ではものの役にもたたなかった。  そして五日、西軍は官軍である証拠とするために、長州で大至急でつくってきた錦の御旗を三本、淀川の北岸にへんぽんとひるがえらせた。 「錦旗がかかげられた」  この瞬間に、慶喜の弱さがまたしても露呈する。錦の御旗の効能は莫大なものがあり、鳥取の藩兵が寝返り、津の藤堂藩の兵も西軍側に転じ、東軍を攻撃する。前日まで「千騎が一騎になるまで退くな」と檄をとばしていた慶喜が、錦旗があがった、二藩が寝返ったとの衝撃的な知らせが入ると、 「江戸へ帰る」  といいだしたのである。老中の板倉勝静は仰天する。よばれてやってきた松平容保と松平定敬は気を失わんばかりに動転する。 「戦さはこれからであるのに、いかなる故にござりますか」 「江戸で再挙を図るためだ」  もちろん虚言である。錦旗がでたからは、このまま戦いつづければ朝敵となる、それをいちばんに慶喜は恐れたのである。それにもう負け戦さと早々と思っている。  六日の深夜、闇にまぎれて慶喜たち幕府軍数人の上層部は大坂城を脱出、大坂町奉行が大坂湾に用意した小舟に八軒家からのりこむ。天保山の沖合いに浮かぶ軍艦開陽丸にのりこむ手はずがととのえられている。総大将のとんだ敵前逃亡である。  余計なことながら軍艦には女をのせない規則があったが、慶喜の強い一言で、お芳と数人の奥女中が乗艦し、士官室を占拠したという。  慶喜はのちにいう。 「われらはたとへ幕府にはそむくとも、朝廷に向かひて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)いらいの家訓なり」(『昔夢会筆記』)  しかし、戦場にある兵になんらの指示もしないで女づれで逃げだすのは、前将軍の名が泣くというものである。恥知らずもいいところである。  慶喜をはじめ上層部が残らずいなくなった、と城内が知ったのはその翌七日になってからであった。城中、みな茫然となった。最高司令官が先頭に立って死ぬ気で戦わない軍隊は弱い。まして遁走の最高司令官をいただく軍においてをや。この日、正式に慶喜追討令が下った。東軍は総崩れとなる。  大坂市内も城内も敗走兵でごったがえした。そのあとを勝ち誇った西軍が追走してくる。  どう考えても、虚飾的、空虚化、慢心化していた幕府側の諸勢力にたいし、現状打破、改革の意識にめざめていたほうが、はるかに戦闘的であり、狂熱的であり、勝利にたいするあくなきエネルギーを集中していたとみるほかはない。それだけの理想、信念、決意そしてなによりも覚悟をしっかりと固めていた。  七日夕刻には、残った陸軍奉行の浅野|氏裕《うじひろ》が指揮し、東軍の全将兵への江戸帰府を命じる。もう指揮官もいるわけではないから、下級の兵士などはめいめいの判断と才覚で引き揚げるほかはない。正確には引き揚げというより逃亡の形である。 「……殿さんが消えたということか、そりゃ少しはびっくりしたわさ。でもな、いくらかはきっとそんなことになるだろうと察してはいたさ。お芳のやつが置き手紙を残しておいてくれたんですぐに事情はわかった。それにそうかあいつはどうやら無事に帰れるらしいと、やっちゃいられないやと思うなかで、そっちのほうは内心でえらく安心したよ」  辰五郎の、のちの述懐である。  お芳の手紙はまことに簡単な文面であった。蒼惶《そうこう》の間に綴られたものゆえ、むしろよく書き残したとほめてやるべきかもしれない。 〈殿さまと同じ軍艦で江戸へさきに帰ります。軍艦にのれるというのでたのしく思いおります。江戸でお会いいたしたくそろ〉  辰五郎の述懐はつづく。 「……喧嘩にゃ、機というものがあるんだな。京都であんとき、まず、この野郎ッてやればこっちの勝ちだった。それを大坂までなぜか逃げてきちまった。この瞬間に事は終った。一度でも敵にうしろをみせたやつはもう駄目さ。相手は安心してナメてかかれる。喧嘩になれねえやつは、きまってつぎの折にゃとか何とかいうもんだが、つぎなんてものは金輪際来ねえもんよ。そこがわからない。理窟の立つ人にゃ、よくあることよ。だからって、そんなことに歯ぎしりしたってなんの役にも立たん。それよか俺には敗け戦さとなって子分二百人をどうやって江戸へ帰すかのほうが心配だった。こいつらを無事に江戸まで連れ帰らなくては、おぬいに家から叩きだされちまうというもんだ」  幸いなことに浅野氏裕のはからいがあって、会津藩兵とともに軍艦翔鶴丸に乗るように指示されて、辰五郎は胸をなでおろす。九日の昼すぎ、指示された浜辺に子分をひきつれて集まった。土方たち新選組の生き残り四十四人は、富士山丸にすでに乗艦したと、辰五郎はそこで知らされた。  と、ちょうどこの乗船待機中のことであった。刀折れ矢つき、身も心もずたずたになっているような会津の兵たちが話している大事なことを、辰五郎は耳にした。それはいかに譜代の旗本連中がだらしなく、勇敢に戦ったのはひとり会津藩士のみ、という冷笑裡の話のなかにでてきた。 「まったく笑わせるよ、大坂城へ、大金扇の馬印をおき忘れたまま城を捨て、だれもそれに気づかず、いまになって旗本どもは大騒ぎしているっていうじゃないか」 「しかも、そうとわかってもいまさらそれをとりにいくものがいない」 「そりゃそうだ。いまごろ城中は薩長軍でいっぱいだからな。命あっての馬印だよ」  辰五郎がここで口をだした。 「その馬印ってのは、なんのこって」  面倒くさそうに頭に包帯をまいた会津藩士のひとりがいった。 「権現さまいらいの征夷大将軍の権威の象徴さ。そうだな、わかりやすくいえばだな、火消人足の纏と考えたらいい」  十番組の組頭新門辰五郎とは知らずに、藩士は纏を例にもちだしたらしい。とたんに、辰五郎の身体の芯のところに火がついた。 「おい、半六。のん気に船など待っちゃいられねえぞ。いっしょに死にてえ命知らずを十人ばかりえらびだせ。死ぬにゃあもってこいの大仕事が残っていたぜ」  会津藩士がびっくりした顔を向けた。 「なに、わけはありませんや。あっしがその纏を取ってまいりやしょう」  さっそく辰五郎以下十五人の火消人足は大坂城へととって返す。敵軍のなかを戻っていくのである。馬鹿はやめろ、死ににいくだけだ、船がその間に出ちまうぞ、の声を背にいっぱいにあびながら、 「残ったあっしの子分の乗船のこと、よろしくお願いいたしやす」  と辰五郎の声は若もののように威勢がいい。  大坂城はその日の夕刻に、櫓の下の火薬庫に火がまわり爆発して、燃えはじめていた。薩長に明け渡しの話がすすんでいるときのことで、それを無念に思った幕臣のだれかが放火してまわったのでもあろうか。火は折からの北風にあおられて、櫓を伝わって、本丸に移っている。強風下、人影も少なく、手のほどこしようもない。  しかし、そこは火消しの面々である。煙にまかれぬよう、炎の舌の下をくぐるのにはすっかりなれている。火の手のゆく路をさける術も心得ている。いわばさほどの苦もなく、大きな金の扇の馬印は半六の手にしっかりとにぎられることとなる。 「頭ッ、これをご覧」 「おお、半六、でかした。それだ、それだ」  辰五郎は、半六がかついだ馬印にぽんぽんと拍手《かしわで》を二つ打って拝んでから、 「よし、引き揚げだ。まごまごしていて、城とともに討死ならぬ焼死になんてしたら、江戸の火消しの名にかかわらあな」  その声は陽気に躍っている。馬印をかついで走りながら半六は、うちの親父は火事場が芯から好きなんだなあ、としきりに感心している。  乗船の浜にはもうだれもいなかった。天保山沖の幕府の軍艦は三隻ほどがうっすらと遠望できたが、そこにたどりつく舟はなくなっている。これには辰五郎も心からがっかりした。こうなったからには、東海道をこの大きなものを交代でかついで江戸へ向かうほかはない。  辰五郎のふところは、船路のはずであったから、いささかさびしい。江戸までの十日間、なにしろ一行十六人、それに大きくてやたらに目につく大事なしろものをかついでいる。西軍に察知でもされ、奪還の追手でもかかったら死にもの狂いの大喧嘩をしなくてはならない。揚句に奪われでもしたら新門一家末代までの名折れとなろう。それでその土地土地の貸元に仁義を切っての一宿一飯というわけにもいかない。やむをえない、辰五郎はひたすら道を急ぐことにした。きびしい寒さも気にならぬほど急いだ。  旅籠代が中級で百五十文、草鞋《わらじ》が一足五文。床《とこ》につく前に上等の酒を五合ほどおごったとして百文。酔ったついでに飯盛女をよぶと四百文。そのほかを合して一日に千文もあったら大盤振舞いの旅ができる。当時の金の計算では四千文が一両。したがって一人当り二両ちょっとあればゆっくり江戸まで行けるのである。一行十六人で三十二、三両。  しかし嚢《のう》中にはその半分もない。苦労をかけるのだから、時には酒を、時には女を、と思うのであるが、辰五郎は目をつむった。江戸につくまで遊興なしで旅路を急ぐ。 「頭、ご無理をせずに駕籠を奮発されては」  と半六がすすめるが、駕籠賃百文は貴重にすぎる。現実はそのとおりにちがいないのであるが、喧嘩に敗けて一目散に逃げ帰っているような情けない気分である。  水口、土山、鈴鹿峠、関、亀山。坂はてるてる鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る。子分のひとりがいい声で歌った。やがて遠州路から駿河路へ。雪をいただいた富士をみるのがはじめての子分もいた。  ※[#歌記号、unicode303d]三島女郎衆はノーエ、三島サイサイ、女郎衆はお化粧が長い。  もう江戸の入口の箱根の関所にかかったとき、一行は「通行まかりならぬ」と止められた。手形がないとは怪しい連中、というのである。辰五郎は思わず笑った。 「あっしらは徳川の家来ですがね、殿さんが夜逃げ同様に逃げておしまいになった。家来衆もご同様さね。手形を出してくれるものなんぞだれもいやあしませんよ」  役人たちは何をいうかという顔をならべている。 「じゃあ、あなた方は、鳥羽・伏見の戦さをご存知ないんですかい」  それから火にあたらせてもらいながら、辰五郎が知るかぎりのお粗末なわが東軍の戦いぶりを話した。関所の役人たちはにわかにあわてふためいた。 「大変だ。では薩長軍が攻めてくるというのだな。関所を守るどころの話ではない。よし、こうなったらお前たちとともにお馬印を守って江戸へ引き揚げよう」  箱根の関所の役人ともども、こんどは幕府の費用でご馳走になったりして、辰五郎の一行が江戸へ帰ったのは一月十八日。江戸は、京・大坂でなにが起きようとどこ吹く風の、泰平の屠蘇の夢をむさぼっている。物価がやたらに上って、一両で八升三合、百文でわずか一合一勺しか買えなかった米が、公方さまが京から帰ったら、一両で一斗、百文で一合三勺買えるようになった、などと、町人たちは喜んで、八文の湯銭で朝風呂のざくろ口をくぐり世間話に花を咲かせ、のうのうと暮している。もちろん京都の戦争の噂もときには話のタネとなった。 「なに、こっちが勝ったんで、先鋒は京都をとったが、長州や薩摩へでかけるにはまだ人数が足りないので、上さまは後勢をお召しつれに、中帰《なかがえ》りされたのよ」 「いや、勝負はよくわからぬが、上さまは、薩長の兵は強すぎるといっておられる」 「いやいや、お帰りになって奥へおはいりになったままで、お表へもご出御がないそうだが……こりゃ怪しいんじゃないかい」  そんな話が湯気にまぶされてとびかっている。  やっとたどりついた江戸のそんなのん気さをみせつけられて、辰五郎はほんとうにがっくりした。三年ぶりの江戸の風がいやに冷たく痛い。大事な馬印を江戸城へもっていったのに、「ご苦労」といわれただけで、おほめの言葉もない。城内はそれどころではないのである。久しぶりに、ほんとうに久しぶりに家に帰ったら、怖い女房のおぬいがいつもの顔で出迎えた。少しも無事の帰宅が嬉しそうではない。  疲労がどっとでて、いっしょに熱がでる。辰五郎はふらふらとした。女房の顔をみたら、 「お前、三年も見ねえうちに、ずいぶんと綺麗になったね」  と、旅のあいださんざん考えた名文句をいうつもりであったが、やめた。そのかわり、 「おい、今夜はまぐろの刺身とふぐ汁を用意してくれ」  と、旅中に思いつづけていた好物を大声でいった。  江戸町民が、鳥羽・伏見での致命的な敗北を知ったのは、敗残の兵が紀州あたりから船でぞくぞくと帰ってきた二十日をすぎてからのことである。江戸市中は敗残兵の処理でごたごたし、西軍が迫ってくるの報に人心は不安をつのらせ、戦々兢々とした状況になりはじめた。 江戸を火の海にする  寄る年波といういやらしい言葉があるが、辰五郎も六十八歳。やっぱり東海道をのまず食わずの急ぎ旅がこたえたのであろう、江戸へ戻ってから少しく長く床についた。熱がなかなか下らず、身体中の節々が痛んで動きもままならない。 「ああ、年だ、年だ」  と辰五郎はかなりしょげている。  殿さんがどうなされたのか、それだけが気になっている。半六たちがほうぼうに散っていろいろとさぐりをいれている。「公方さまはご出家なすったそうな」という噂もある。「城中にて薩長軍を迎え撃つため毎日軍議をこらしておられる」との風評もある。定かなのはひとつもないから、辰五郎は、当分はじっとして、様子をみているほかはないと、そう観念して寝てばかりいる。  二月三日、天皇親征の詔が発せられ、いよいよ公方さまは朝敵として征伐される、という話も真偽半々のような形で流布された。和宮さまのもと許婚者《いいなずけ》のナントカの宮が恋人を将軍にとられた無念を晴らすべく総大将になってやってくる。薩摩の西郷ナニガシという人が総参謀だとよ、そんな情報もたちまちに入ってくる。  半六の大活躍もあって、ときにはしっかりとした情報もあった。二月十日、松平容保と松平定敬をはじめとする二十四名の譜代大名の登城が禁じられた。いずれも強硬派と目されている人びとである。親幕諸藩の中核とみられた会津・桑名両藩主が江戸を去ったということは、江戸近辺にひきつけて決戦にでるという、伝えられている大戦略は、でたらめもいいところ、ということになる。辰五郎は悲しい眼射しをお城に向けた。  さらに二月十二日の昼ごろ、辰五郎をして大泣きに泣きたくなるような思いをさせる報が、半六によってもたらされた。この日の早朝、殿さんが江戸城を去り、上野の東叡山寛永寺に身を移したというのである。しかも徒歩で。  半六は例によって早口で報告をする。 「寺社奉行配下の与力、同心が護衛し、新選組の人たちが沿道にひそんで警戒にあたったということですぜ」 「なんのために寛永寺に?」 「よくはわかりませんが、罪を謝して、ひたすら、おとなしくしていよう、ということらしいんですがね。頭を丸めるんだと……」  辰五郎は「くそッ」と腹のなかで叫んだ。不貞寝なんかしていられないという旺盛な闘志が、また弱った身体のどこからか湧いてきた。さっそく東叡山に半六ら子分四、五人をつれて駈けつけた。殿さんの身柄は門跡輪王寺宮がひきうけて特に山内大慈院の一室が与えられたという。月代《さかやき》がのびたままで、髭ものび放題に、見違えるように瘠せさらばえた顔に、輪王寺宮も胸をつまらせた、と辰五郎は知らされた。 「お部屋はな、内庭に面した四畳半ほどの狭いところだが、お上は雨戸も閉めたままに恭順の誠を示すとのことだ」  と、山岡鉄太郎と名乗る親切な武士がいう。この山岡と関口良輔のひきいる精鋭隊七十人と、見廻組五十人がつめきって警固する。辰五郎たちの出番はないらしい。 「とにかく、お上はだれにも会われぬ。せっかくの親分のおでましであったが、許されよ。ま、心配されず、この山岡らにおまかせ願いたい」  辰五郎はことのついでに、ちらと、娘のお芳のことも聞こうかと思ったが、この気骨|稜々《りようりよう》たる男の顔をみていると、とても女のことなどいいだせることではない。いずれまた、珍な「そろ」の手紙で消息を知らせてくるにちがいないと、そう思いながら上野の山を下りた。  その上野の山に桜がチラホラ咲きはじめた三月はじめのことである。西軍いよいよ江戸に迫る、との飛報はひんぴんとして江戸町民に伝わってきた。駿府で進軍をやめたというのもあれば、箱根を先鋒が越えたといいふらすものもいる。諸説紛々、花見どころではなく八百八町はごたごたと騒がしさをますいっぽうである。  そんな日のある夜のこと、浅草馬道の辰五郎の隠宅を、 「久しぶりだ、新門の、ご機嫌よう」  とぶらりと訪ねてきた人がある。いまをときめく陸軍総裁の勝安房守である。名は麟太郎、ときどき勝麟と自分のことをよぶ。 「おや、勝さま、あの節は……こんなむさくるしいところへわざわざ……」  と辰五郎は丁重にこの人を迎えた。 「病いと聞いておったが、元気そうでなにより。大坂城では失礼した。お互いに、生きていてもしょうがねえような世の中だ。でもやっぱり達者がいい」 「へい、ありがとうさんでござんす。どうも長生きしたばっかりに、身も世もねえ悲しい思いをみなくちゃならねえとは……」 「なにが悲しみかよ。慶喜公が徳川家古今の名君として歴史に名を残すか残さぬか、これからが勝負だよ。まだまだ、親分には働いてもらわなくちゃならねえ」  勝は、辰五郎に負けないくらい下町育ちの伝法でぽんぽんという。本所の生まれである。 「幕臣はなっちゃいねえ、幕府はもうおしゃかだ。仕方のねえことだわさ。親分は知るめえが、江戸城のご金蔵は空《から》っぽだ。いいかい、生麦で薩摩の武士がイギリス人を殺傷した。その賠償金を払った。攘夷攘夷とのぼせあがって、長州藩がフランス船とオランダ船を攻撃した。その賠償金も幕府が支払った。一万ドルよ。薩摩がよせばいいのにイギリスと戦闘をおっぱじめ、またまた十万ドル。こんどはまた長州だ。下関で英仏蘭米と四カ国の艦隊が、こてんぱんに長州を叩きつぶした揚句に、四カ国は長州でなく幕府に要求してきた。賠償金三百万ドル。幕府はまたそれを支払った。  笑っちゃうねえ、好き放題にやった連中が、大金をオレたちに払わした揚句に、外国にゃかなわねえが、幕府相手なら勝てるというんでこんどは倒幕だそうで、トコトンヤレナとやってくるってんだから。と、あきれてばかりもいられねえ。親分も知ってのとおり、喧嘩はいくら強くたって空手空拳じゃできねえ。ご金蔵を空にしたとんでもねえ薩長の連中は、そのあいだに密貿易やらなんやらで、思うように戦さ支度をととのえてな。  しかも、喧嘩のコツをよくよく知ってやがる。�租税半減、積年の苛政もゆるめる。不満あるものは本陣へ訴え出るべし�なんて布告を、進軍の道々にだしているから、いやもう圧倒的な支持を街道筋の人びとからうけている。こりゃまさしく官軍だわね、ハハハハ。幕府はもう喧嘩する前に負けちまってるわさ」  勝はご時勢の大きく深い動きを洞察している。それを城中なんかではいえないから、辰五郎を相手にぶちまけて、鬱憤ばらしをしている。 「じゃ、もうはなから降参なんで?」 「いや、それで親分に頼みがあって来た」  陸軍総裁が供のものもつれずに、夜中のじきじきのおでましなのである。もちろん伊達や酔狂ではない。辰五郎は、だから、人払いしてだれも寄せつけないで会っている。  勝は胸のうちにあるものを打ちあけた。慶喜の一命はなんとしても守る。なろうことなら江戸市民のためにも、平和裡に戦さを収拾したい。江戸を兵火から救う。それがこの最大の難局を急にあずけられた幕臣としての、最後のつとめだと考えている。 「しかし、事が破れたときの用意をしておかぬことには、最後の談判にも腹に力が入らない。そこでだ、どうしてもこっちの歎願をきかぬとなって、錦切《きんぎ》れ(西軍)が強いて江戸市中に進撃してきたそのときには、ただちに江戸八百八町に火を放って、かれらを焚殺《ふんさつ》しておくれな」  と勝はあっさりといった。思わず息をのむ辰五郎に、何事にも非ざるけろりとした顔をして、ナポレオン戦役の話を勝はつづけるのである。モスクワに迫ったナポレオン軍を撃破したロシア軍の焦土戦術、これを江戸でも実行したい、と勝はいう。 「なるほど、ようわかりやした。ナポだかアポだか知らないが、これが公方さまのためになる大仕事というんだし、こんな危急のさいとあっちゃあ、よござんすとポンと胸を叩いて……といいたいところだが、気が重うござんすね。あっしらは火消しなんで、消すことに命を懸けてきた。それを、こんだあ、火つけでござんすかい……」 「もっともだ。モスクワでもなんの罪もねえ人が八万とも十万とも死んだという。だれがこの戦術を考えたか。俺の調べたところによれば、名前は忘れたが、プロシヤ人の総参謀なんさ。外国人だから、平気でよその国の都を焼きつくすことができたんだ。頭、ところが俺は残念ながら日本人でね、それも江戸ッ子よ。その俺が江戸の町を焼き、罪のねえ江戸市民までまき添いには、どんなことがあったってできねえ」 「策がおありなさる?」  勝はにこにことした。 「殿さんはどうなさるおつもりで?」 「すでにイギリスに頼んである。軍艦にのせてもらって安全なところにお移り願う。イギリス国は承知したよ」  さすがの辰五郎も勝の深謀遠慮にたまげている。イギリスはむしろ薩長に肩入れしているはずではなかったか。そいつを味方にひきこむとは。勝はつづける。 「また、すでに房総各地の船頭と密約を結んである。江戸に火の手があがったら、海岸にありったけの大小の船をただちに江戸に向かって漕ぎいれ、江戸の川や濠、海岸につけて、逃げてくるものをのせてやってくれ——とな。その手は打ってある」 「やったねえ、勝の旦那。嬉しいねえ。そこまで手配りができてりゃ、ようがす、お引きうけいたしやしょう。勝った勝ったといい気になっている薩長のやつらの宿所を中心に、ぐるりと輪をかくように火をつけて……」 「火消しの玄人《くろうと》が、火つけをするんだから、さぞ手際もいいことだろうよ」 「こいつァ、ご冗談を」  辰五郎はすっかり勇み立った。江戸へ帰っていらいのもやもやが、この一瞬に吹きとんだ。勝はそのあと何人かの名をあげた。ゲリラ戦による焦土戦術の手伝いをしてくれる連中である。赤坂の薬罐《やかん》の八、今加藤、松葉屋惣吉、草苅正五郎。なかで吉原の肥えた芸者|〆《しめ》の名前がでたときは辰五郎も目を丸くした。この陸軍総裁の何とさばけていることか。さすがに本所もんだねえ。 「俺はね、親分たちが結びあっている親分子分の間柄というものを、いつもうらやましく思っているんだ。サムレエの世界にはない。なんであんなに心服しているのかねえ。精神の感激というもんじゃねえか。そう思ってるがね」  と勝はいう。そんな立派なもんじゃ、といくらか面映ゆさを感じながら、つられるように、 「相模屋政五郎、秋葉の卯之助、品川の淡波《あわ》安、魚河岸のつくだ屋三吉……」  と辰五郎も同心しそうなものの名をあげて、 「こう多くなると、誤って合図が伝わったり、敵に謀りごとを知られて逆手に使われたりしねえように、合図をきめておいたほうがようがすな」  というと、勝は腕白小僧のように喜んだ。 「そうそう、赤穂浪士の討入りのように合言葉は山と川、なんてのは単純すぎるか」  それからいい大人が二人、額をくっつけるようにしてしばらくひそひそやっていたが、合言葉は、攻撃せよが「虎虎虎《とらとらとら》」、作戦中止は「豚豚豚《ぶたぶたぶた》」ときまった。  勝安房守は町駕籠にのって、月が西へかなり傾いている時刻、いい機嫌で元氷川の家へ帰っていった。来たときには疲労の色が濃く思えたのに、帰るときにはすっかり消えているようにみえる。そのことが辰五郎には嬉しかった。その辰五郎も、勝のいう「精神の感激」に酔っているように顔をカッカッと火照らせている。  三月十二日、西軍の総参謀西郷吉之助は本営を池上に進めた。翌十三日、東山道をすすんだ西軍の一部が板橋宿にはいったとの情報は、いっぺんに江戸市中にひろまり人びとの腰は落着かなくなった。そして三月十五日、西軍の総攻撃、という噂が流れでたとたんに、江戸市中は大混乱に陥った。  大小諸侯をはじめ、富裕の商家などは荷車を雇いいれ、家財道具をつんで近郊の村に送ったり、あるいは国もとへ船で送ったりする手廻しのよさである。江戸市中の四万七千余輛の荷車の連日貸しきりの盛況を、金のない連中は横目でみながら、背いっぱいの荷を安全と思われるところに運んでいる。どこへも逃げていくところのないものは地面の下に埋めている。  そのなかを、完全に生気をとりもどした辰五郎の総指揮のもと、ほかの親分衆と綿密な打ち合わせをとりながら、三千人の子分たちは火つけの具体的な準備に走りまわっている。日本橋の魚市場、神田の青果市場の兄ィたち、血の気の多い連中の働くこと、働くこと、辰五郎は何度も何度も礼をいった。 「いいか、内桜田、馬場先、和田倉と、三つの御門に同時に点火されたらそれが合図だ」 「わかってまっさあ。親分、それからあとは薩長のやつらは火の海で泳ぐことになる、そうでがしょう」  まことに呼吸はぴたりと合いだした。 「生涯の最後の場面で、これほどの大仕事を請負うとは、この俺はなんといういい星の下に生まれたことか」  と、辰五郎は女房のおぬいに何度となくいった。お芳が例の「そろ」の手紙で水戸さまの向島の邸に落ち着いていると知らせてきて、辰五郎にはいま怖いものなしである。おぬいはそのたびに仏頂面でいつも答える。 「そのセリフは何度も聞いたよ。同じことをくり返しいうのは耄碌《もうろく》した証《あか》しだと、田原町の藪《やぶ》がいってたが、お前さん、耄碌したんと違うかい。興奮しすぎて大事の前にぽっくりいかんでおくれよ」  ところが——、三月十四日、江戸城総攻めの前日、勝は西郷と会談し、一気に無血開城の決着をつけてしまう。勝の気迫勝ちといったところである。元氷川の勝邸に出張《でば》って勝の指示を待っていた半六が、すっとんで浅草馬道の辰五郎の家へ駈け戻ってきたのは、陽もかなり西に傾いたころである。 「頭ァッ、豚、豚、豚だ」  辰五郎、その声を聞いて「畜生ッ」といったきりで畳の上に大の字になってひっくり返った。 [#改ページ]   どちらさまも、ご免下さいまし 次郎長との楽しい対話 「……そう、あのときはもう身体の心棒がすとんとぬけ落ちたようなもんで、くたくたとなりやしたな。やたらに眠くなってきて、まだ陽も落ちねえっていうのに布団をしかして寝ちまいました。夢で江戸が火の海になっているのをみやしたよ。  それからもずっとどうも調子が悪くて床についたままの日がつづきました。一世一代の大働きのつもりで夜も寝ないで頑張ったのが祟ったんでがしょうね。でも、うつらうつらしながら、そのころにや江戸の町に火つけなんかしなくてよかったと、心から思っていたようでござんす。  殿さんが水戸へお発ちになる朝のこともよう覚えておりやす。無理を承知で千住のはずれまでお見送りにでかけました。四月十一日の丑の下刻(午前三時すぎ)、お駕籠にのられましてね。黒木綿の羽織にお袴は白じゃなかったか。親分もご存知の山岡の旦那が大粒の涙をぼろんぼろんと。見送りのものはみんなおいおい泣いて……あっしですかい、涙なんかこぼしてたんじゃ今生のお別れができないと、カッと目を見ひらいていましたとも。  ところがそれが今生の別れなんかじゃなくなった。  その日の夕刻でしたか、また勝の旦那がふらりとやってきて、とんだ大仕事をもちこんでこられた。御用金の二万両を水戸の殿さんのところへひそかに運んでもらえまいか。薩長の連中や食いつめもんに奪われてはならぬ、一日も早く届けたいが、大金だ。なんとかして目に立たぬようにして運んでもらいたい、と、こうなんです。  あっしは病んでいやしたし、気力もとんとしぼんじまっていた。見たとおりすっかり老いぼれちまって、こんどの御用ばかりは、ご勘弁下せいやし、とそう、いったんは勝の旦那にお断りした。旦那は大そうがっかりして帰っていきなすった。  ところが、女房のぬいがそのやりとりをそっくり聞いていたんですな。あっしの枕もとへやってきてかきくどきやがった。 『これまで公方さまにはどれくらいご恩になったか知れやしない。その公方さまのお為になる仕事を、身体がだめだからって断るなんて、お前さんらしくない。京都で捨てるはずの命じゃなかったのかい? 捨てそこなった命をこんどは水戸で捨てたっていいじゃないかえ。もういっぺんもとの辰五郎にもどって、働いてみせておくれな』  そういって、立っていったかと思うと、出刃庖丁をとって、いつも手前の寝ている部屋で、のどに突きたてて自害なんぞしやがった。そりゃ、たしかに女房もそのころ身体をすっかりこわし、死病にとりつかれて病いの床に臥しておりやした。具合はたしかによくなかった。だからといって、なにも死ななくても……。いまわのきわに、『いっしょにお供のかなわぬのが口惜しい』なんて、やさしい目をしていいやがった。  なんだい、お前の心は鬼かっていわれるかもしれやせんが、あっしは女房の死に悲しく思うより奮い立った。ぬいの遺言どおり二万両かついで水戸へいって水戸で死んでやろうと決心しやした。それに殿さんともういっぺん来しかた行く末を無性に話してみたくなりやしたしね。あの、いつも人を小馬鹿にしているようなのっぺりしたお顔が、ちょっくら拝みたくなった。  大決心をして大政を奉還するというようなどえらいこともすれば、その後に揉めごとを生じてはならぬと、穏やかに大坂に退くほどの慎重さがあったかと思うと、こんどはそれを忘れて討薩だと大号令をかけなさる。まったく移り気というか、あまり利口なために、事の利害がみえすぎる。人はあまり利口すぎると事を誤るというが……そんな殿さんのあちこちしたような可愛いお人柄が、あっしにはひどくなつかしくなりやしてね。  殿さんにくらべりゃ、薩摩の西郷とかいう男はほんとうの悪だね。ひやりとする底意地の悪さったらないね。鳥羽・伏見の戦さのはじまる前に、『この戦さが終ったらいよいよ攘夷ということになる。その手配はできるのだろうな』と公卿さんの岩倉なにがしが聞いた。するとこう答えたというじゃねえですか。『アまだ言うときませんでごわしたか。アリャ手段というもんじゃ。尊皇攘夷はネ、ただ幕府を倒すための口実よ。攘夷攘夷というて、他のものの士気を鼓舞するばかりじゃ。つまり尊皇の二字のなかに倒幕の精神がふくまれているわけじゃ』。味方もだましとおしているんですな。こんな人を喰った海千山千にかかっちゃ、真面目すぎるお坊っちゃまの殿さんを適当にあしらうことなんか、赤子の手をひねるようなもの……。  いや、いまさらのことで。敗軍の将は兵を語らずとか申しますな。で、二万両の件でやす。さっそく子分を集めて、あちこちへいって噂をまきちらすことを命じやした。このたび、水戸の公方さまに御用金を運ぶことになった。どこそこの道をこっそり行くのだそうだ。その、どこそこの道を、もうそれこそ、まことしやかに水戸街道だ、奥州街道だ、いや船でだ、いや秘密の間道だ、といっぱいにまきちらしたんで……薩長の連中がいくら血眼になったって、奪うことなんざできやしません。見事に策士どもの裏をかいてやった。  二万両を無事にとどけて、死んだ女房の供養を水戸のお寺であげさせていただきやした。さきに水戸へいっていたお芳が、泣くなといくらいってもきかずに、坊さんの読経のあいだじゅうめそめそしつづけまして、大きに困惑いたしやしたよ。親孝行らしいことをひとつもしなかったと、殊勝なことをぬかしましてね。  殿さんのお供をして船で水戸を離れたのが慶応四年の七月十九日だったと思いやす。ここ駿府(静岡)の宝台院についたのがたしか二十三日。それからはずっとこの地にお世話になって、新しい明治という時代を迎えるなんていままで思ってもみませんでしたよ。  嬉しうござんすねえ。朝夕きれいな富士のお山を拝めるなんて……。そのうえに、海道一の親分とうたわれるお手前さんにもお会いする光栄に浴することができた。長生きの甲斐があったというもんでやすな」  辰五郎が問われるままに淡々と語っているのは、清水の豪商松本平右衛門宅である。時は明治二年の十二月。慶応四年は九月から明治元年となったから、辰五郎が静岡に居住してから一年半近くたって、ということになる。六月に駿府は静岡と改められた。話を聞いているのは清水次郎長。辰五郎七十歳、次郎長五十歳。次郎長は木綿の着物の上に、この日はほんとうに珍しく紋付の羽織を着ている。ただし紋どころは松本屋のものである。 「いま殿さんはどんな毎日を送っていられるんでござんすか」  と次郎長が聞く。慶喜はこのとき数えて三十三歳。茫々としてさきの長い人生。次郎長ならずとも聞きたくなってくる。 「いや、殿さんはね、それが偉《え》れえといえばいえるんですが、今年の九月に謹慎が解かれたのに、なお恭順の姿勢をくずさない。外にでて行こうともしない。といって、退屈するってことがない。楽しみでやりたいことがつぎからつぎって有様でしてな。悠々自適という言葉があるようですが、まさにそれそれ。すっかり自分で満足しきっている。  大弓、打毬、狩猟に鷹狩り、宝生流の謡曲。女子供が楽しんでやるほれ、財布などに牡丹に唐獅子、花に蝶をぬいつける……そう、それだ、刺繍とかいうやつ。それに毛唐がもちこんできた写真術にすっかり近ごろは凝っている。しかも全部がお上手だ。  茶のみ話の折など、あっしなんかにも、 『おやじ、腕前があがったら、かならずや子々孫々にまで伝えてもらえるようなおやじの傑作写真を撮ってやるからな』  なんてね……まったく若いときから、これが御三家の水戸さまの御子かと思われるほど器用で、おどかされっぱなしでしたが、静岡へきてからいっそう腕をあげられた……」 「昔のご家来衆などが来られてお慰めするってなことはないんですか」 「そこが殿さんの殿さんらしいところでね、だれにも逢おうともなされない。もっともやってくるほうには新政府とやらへの気兼ねもあろうし、最後は殿さんを見捨てた、あるいは殿さんに見捨てられたとか、いろいろとややこしい気持が働いての遠慮もあろうというもんでね。  徳川家のご家来衆は、結局は殿さんが嫌いで嫌いで仕方がなかったんでがしょうな。川柳にもあるでしょう、『かず[#「かず」に傍点]の子がなくてにしん[#「にしん」に傍点]が役に立ち』ってね。和[#「和」に傍点]宮さまにお子がなかった。それでにしん[#「にしん」に傍点]が将軍になった。殿さんのことですよ、二心殿と異名をつけて、徳川家のご家来衆はとうとう終《しめ》えまで冷たい目でみていやしたねえ。  先年の、上野の山の彰義隊の戦争だって、よくよくご覧なせい。あれだけの騒ぎを命がけでやったが、ほとんど一橋家からお供してきた連中ばかりでござんしたぜ」 「彰義隊といやあ、親分のとこのご身内がずいぶんと肩入れなすったそうで……米俵を集めて運びこんで、江戸ッ子の意地を最後まで天下に示したとか、こっちにもいい評判が流れてきやした」  と次郎長は辰五郎を大そう喜ばした。 「そんなことより、清水の、お前さんの一家がやりなすった『死んでしまえば官軍も幕府軍もない、みんな仏さまだ』と、海の上に浮いた幕府側のサムレエの死体を、新政府側が何をいおうとかまわずに、引き揚げなすったという話。あっしはすっかり感じいりましたぜ。さすが東海道一の親分だと……」  二人の話はえんえんとつきることはない。  かんと晴れた冬の空に、雪をいっぱいにつんですっきりと立った富士が、少しずつ代赭《たいしや》色にそまりつつある。急に空気が冷えてきた。富士のお山が動かぬように、幕末を走りぬけてきた辰五郎がどっしりと動ぜざる存在になっているのを、次郎長はしみじみと感じとっている。 つまらねえ、つまらねえ  辰五郎が、お芳ともども、慶喜からお暇《いとま》をもらって江戸に帰ったのは、明治三年暮のことである。去るにあたって慶喜は約束どおり辰五郎の写真を撮っている。頭にモダーンな帽子をかぶり、短刀を腰にした写真の辰五郎は、江戸ッ子一流の�照れくさくてやってられないよ�という顔をやや斜めに向けている。  浅草へ帰った辰五郎は、子や孫に京都時代や江戸開城前後のことは語ろうとはしなかった。むろん、慶喜への燃えるばかりのわが想いは心の底の底に秘めたまま墓場へもっていくつもりである。  なつかしい江戸での生活も数年がすぎると、酒をのみながら、 「つまらねえ、つまらねえ」  というのを口癖にし、幼ない孫の頭などをなでながら、 「どうだ、面白えか」  と淋しそうにいうのを常とした。  さすがの新門の親分もぼけたのか、と昔のかれを知る人はだれもが思うようになった。しかし、ある祭礼のとき、日の丸より下に葵の紋をつけた提灯がさがっているのをみとめた辰五郎は、無言のままに、日の丸を引きおろして破り捨てた。最晩年になってもそれだけの気骨は失ってはいなかった。  そんな迫力のある辰五郎の姿をみた人のなかには、 「王政復古だとぬかした薩長の新政府のえらそうな連中は、なんだってんだ。大きなことをいいやがってからわずか一ト月もしないうちに、早くも開国を宣言し、毛唐の国にへいこらしたというじゃねえか。手前たちのかかげた尊皇攘夷とかの旗印はどこへいっちまったんだ。これは幕府がやろうとしていた政事をそっくりそのまま横取りしたと同じだぜ。なら、なんで日本国じゅうで大喧嘩を売って幕府をぶっ倒さなけりゃならねえんだ。そんな必要はこれっぽっちもねえ。きたねえ、そして新政府の高官だなんて偉らそうに……ちゃんちゃらおかしくてならねえ。野暮な連中だねえ。野暮とはなにがあったってつき合いたくねえわさ」  と、江戸に戻ってきたばかりのころに、辰五郎がだれ恐れることなくいい放った言葉を、あるいは思いだすものがあったかもしれない。  明治八年九月十七日、辰五郎は浅草馬道の自宅でなくなった。享年七十七。俺には観音さまがついていて下さると、最後までそう信じ感謝しながら、「どちらさまも、ご免下さいまし」と、静かに息をひきとった。  辞世の歌といわれているのがある。  思ひおくまぐろの刺身ふぐの汁   ふっくりぼぼにどぶろくの味  墓は西巣鴨の盛雲寺にある。 [#改ページ]  あとがき  酒席で、日本放送出版協会の藤野健一と河野逸人両君にとりかこまれて、おだてられたりすかされたり、おどされたりなぐさめられたり、あらゆる手練手管を弄してのご両人の口説にあったとき、なんとなく徳川慶喜になったような気がした。板倉老中や松平春嶽にやいのやいのといわれて「では、やむをえない」と将軍後継を承知したときの慶喜の気分は、さぞやこんなであったろうと想像できた。  もっとも、両君にいわせれば「なにをいうか、こっちはとんだねじあげ[#「ねじあげ」に傍点]の酒飲みに出っくわしたみたいな、大損した気分よ」ということなのかもしれない。ちなみに、この本を書くために大そうお世話になった司馬遼太郎著『最後の将軍』(文藝春秋刊)によると、酔うと理屈をねじあげ人に食ってかかる酒癖のものを、ねじあげの酒飲みというとある。そんな記憶はないのであるが……。  とにかく、酒の勢いもあってよくわからないままに、わたくしはこの本を書かねばならない破目となった。ひとつだけおぼえているのは、藤野君が「江戸ッ子の目から幕末維新の時代を眺めてみたら、面白いんじゃない?」といい、その意見にわたくしがひどく同感したことである。それで、えらばれた主人公が新門辰五郎。  東京は向島の悪ガキとして育ったわたくしの歴史的教養は、基本的に講談にある。ほとんどの日本の歴史的人物とは講談(本も含めて)をとおして親しくかつ長くつきあっている。新門辰五郎さんだって……と、はじめは楽観したのに、正直いって恐れ入った。浅草がうんだ江戸最後の侠客ともいわれるこの人のことは、エピソードは少しばかりあるが、まずは巷説ばかりで、歴史的人物として書くには中身がなにもない。田村栄太郎氏、森銑三氏の小さな伝記(?)があるが、たとえば慶喜護衛で京都へいったのはいつか、といった細部の年月日をあてはめようとすると、すべての本が役には立たぬ。それで、河野君をわずらわして新門宗家の町田滋氏、新門本家九代目の中村浩之氏から世に出ていない本を借りてきてもらった。両氏のご厚意はありがたかった。 「あとは、歴史探偵を名乗っているのだから、推理を大いにはたらかして……」と河野君はいう。わたくしも覚悟をきめた。よかろう、子供のころからずっとお世話になってきた講談を、こんどはお礼の意味をこめておれが書くことにしよう、そう思ったのである。想像力の枯れた齢になって、まさか講談を楽しんで書くことになるとは、いままで思ってもみなかった。しかも『ノモンハンの夏』と並行して書くなんて。  しかし幕末という時代背景はでたらめというわけにはいかない。徳川慶喜という政治家を中心に変転する政治事象は、しっかりとおさえなければならない。その幕末史をきっちりと書いているとそれだけで一冊になり、辰五郎の出番がなくなる。これには困ったが、歴史小説家でも歴史家でもないんだからと、自分を納得させてなんとかつじつまをあわせた。ただし歴史の流れから脱線するようなことはしてはいない。政治事象を語るために、史料として、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』全四冊(平凡社)、渋沢栄一編『昔夢会筆記』(平凡社)、石井孝『幕末悲運の人びと』(有隣堂)、村松剛『醒めた炎』(中央公論社)、玉木存『棟梁朽敗せば改むべし』(R出版)、徳永真一郎『幕末閣僚伝』(毎日新聞社)を参考にした。著者と出版社にお礼を申しあげる。  書き終えて、痛快講談をまた書きたい気になっている。   一九九七年十一月 [#地付き]半藤一利 半藤一利(はんどう・かずとし) 一九三〇年、東京に生まれる。一九五三年、東京大学文学部卒業。同年、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」各編集長、出版局長、専務取締役等を歴任。一九九三年『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞受賞。一九九四年に退社、文筆業に専念。「歴史探偵」を自称する。一九九八年『ノモンハンの夏』で山本七平賞受賞。二〇〇六年『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞受賞。著書に『聖断』『太平洋戦争日本軍艦戦記』『山本五十六の無念』『昭和史の転回点』『指揮官と参謀』『日本参謀論』『山県有朋』『夏目漱石青春の旅』『荷風さんと「昭和」を歩く』『日本海軍の栄光と挫折』『戦士の遺書』『日本のいちばん長い日』『戦う石橋湛山』『漱石先生がやって来た』『漱石先生大いに笑う』『漱石俳句を愉しむ』『日本海軍の興亡』『ソ連が満洲に侵攻した夏』『漱石俳句探偵帖』『永井荷風の昭和』『漱石先生がやって来た』『「真珠湾」の日』『漱石先生お久しぶりです』『日本国憲法の二〇〇日』『それからの海舟』『歴代海軍大将全覧』『昭和天皇ご自身による「天皇論」』『勝者の決断』『荷風さんの戦後』『昭和史探索』など多数。 本作品は一九九七年十二月、日本放送出版協会から刊行され、二〇〇一年七月、ちくま文庫に収録された。