[#表紙(表紙.jpg)] 黄金伝説 半村 良 目 次  1 舞台裏  2 縄文《じようもん》の誘《いざな》い  3 蜻蛉《とんぼ》の目  4 埋《うずも》れた黄金  5 酒を飲む夜  6 濡《ぬ》れたピーナッツ  7 ベランダの客  8 風韻閣《ふういんかく》  9 ハーバーライト  10 霙《みぞれ》三景  11 光る小人《こびと》  12 奈良の狐《きつね》  13 池の鯉《こい》  14 水を持って来た男  15 旅だち  16 僻地《へきち》の円盤  17 キリストの墓  18 吠《ほ》える怪獣  19 真珠色の炎《ほのお》  20 子連れ狼《おおかみ》  21 オーバーラップ  22 怪人の素顔  23 鴉啼《からすな》く朝  24 1プラス1イコール1  25 大咆哮《だいほうこう》  26 岩窟の黄金  27 待っていたもの  28 終章 [#改ページ]   1 舞台裏     1 「総理。あちらでお待ちです」  舞台に立って脚光を浴びる者より、それを舞台裏で補佐する者のほうが、かえって肚《はら》がすわり、糞《くそ》度胸がつく場合がある。  いま内閣総理大臣に声をかけ、広い廊下の奥を指さした男などもそのくちだろう。政界の隅々まで知りつくし、権力者たちが何をどう考えるか、まるで予知能力でもさずかっているかのように読みつくすのがその男だった。  一国の首相といえど俺《おれ》なしには何もできない……そういうひそかな自負と、舞台裏にいる一種の無責任さが、虎の威をかるといった浅薄さとはかけはなれた、その男の本質に根ざす人間|蔑視《べつし》の精神を形成しているのだ。  だが今、その男が怯《おび》えていた。奥のドアを指さす彼の表情には、おのれの身がわりに首相を死地に追いこみ、一刻も早くこの危険な穴からのがれ出ようとする焦《あせ》りのようなものが泛《うか》んでいた。 「判《わか》った」  首相は言い、眉を寄せ、唇《くちびる》を噛んで立っている。男はひょっとしてこのままくるりとうしろを向き、今来たほうへ引き返して行きはすまいかと、首相の背を押すような口調で言った。 「少し遅れております。お待ちになっておられますから」  すると首相は恨めしげな瞳《め》でちらりと男を見やり、胸を膨《ふく》らませて一度大きく息をはいてから、ゆっくりと歩きだした。分厚い絨緞《じゆうたん》を敷いた廊下を、静かに突当たりのドアへ近づいていく。  首相がドアをあけ、部屋へ入ってうしろ手にそっとしめた。  部屋の中に巨人がいた。  その巨人は睨《にら》みつけるように首相の視線をとらえた。いつも傲然《ごうぜん》と胸を張っている首相の体がみるまに縮み、ドアのノブのはるか下で天井の一角を見あげているような雰囲気になった。  事実、相手は相当な大男だった。背丈《せたけ》は二メートル近く、骨格はがっしりとたくましかった。しかし首相も一メートル八〇近くはあり、血色のいい頬の辺りには、きたえぬかれたしぶとさがあって、その表情から真意を読みとるほどの者はまずないといってよい。  だが相手はとほうもない巨人だった。政界に生きぬいた者の心理の厚みなど、その人物の前では薄紙ほどもなく透《す》けて見えるようだった。その差は老人と幼児よりももっと大きく、一国の首相がそのひと睨みで、両の掌《てのひら》をひろげ口をあけて、心に秘めたすべての事柄をさらけ出してしまうようだった。 「坐れよ」  巨人が言った。年齢はその人物のほうがはるかに若いように見えた。五十か五十五どまり。それ以上には見えない。首相はすでに七十歳に近い。  気を奪われたように、ただすがりつくような表情で相手の顔をみつめながら、首相は手近の椅子に坐った。 「もう時期が来た。ずいぶん長くやったものだ。党内の調整は進んでいるか」 「はい。なんとか……」 「次は天童健策《てんどうけんさく》だぞ。反対派は潰《つぶ》しておけ」 「承知しました。必ずそのようにとりはからいます」 「わたしがやればかんたんにけり[#「けり」に傍点]がつく。しかしいちいちそんなことをしておれるか。日本人は一億いる。一人一人に会っているわけにはいかん……いくらこのわたしでもな。お前の発言力を残して置きたいなら、政権が天童へ円滑に移るよう努力しろ」 「はい」 「その方法を教える」  その人物は首相に指示を幾つか発した。     2  陽《ひ》がさしこむ窓を背に、幕僚の一人が机に肘《ひじ》をつき、額をおさえて言った。「どうしてこんなことになってきたんだ。路線がどこで違ってしまったんだ」  片方の手で机の上の書類を叩きながら、彼は心細いうめき声をたてた。 「資源確保のためにはやむを得んじゃないか。それに今すぐこれらの地域に出て行くというものでもない。これはひとつの未来図にすぎん。こういうことが必要な国際情勢が生まれるかどうかもまだ判らんのだし」  その前で机に両手をついた男が言った。二人とも制服を着ていた。 「これは以前、日本が歩いた道とまったく同じ道に通じてしまっている。第五次以降の防衛計画がこの路線にそって企画されるとすれば、やがて疑いもなく超軍事国家が生まれてしまう」 「日ごろ、高度国防体制を口にする君にしてその言ありか」  机の前の男はからかうように言った。 「莫迦《ばか》な。俺がいつも言っているのはこんなこととは違う。あくまでも防衛本位だ。だが、こいつだとどうなる。かつての大東亜共栄圏構想とそう違わんじゃないか」 「いや違う」 「どう違うのだ」 「ひとつだけ大きな違いがある。それはあの人だ。あの人がいるかぎり、この路線は大東亜共栄圏にはつながらない。新しい世界だ。新しい国際間の秩序が生まれるのだよ。たしかに力は力を呼ぶ危険性がある。しかし、あの人は我々の力をそうした危険から遠ざけてくれるだろう。彼は超人だ。千年に一人、いや一万年に一人の大天才だよ」 「しかし国民が納得するか。バイバイ・ゲームだぞ」 「バイバイ・ゲーム……」 「防衛予算のことだ。三次、四次、そして次の第五次。予算はその都度、倍にふくれ上がらねばならない」 「あの人は我々のほうだけではなく、あらゆる方面に手を打っている。政府を引っぱってここまでの状態に国力をつけさせたじゃないか。もうすぐアメリカを追いこすだろう。世界第一位の経済力だ。このさき諸外国が打つ手といったら資源封鎖しかない」 「だが、下手をすれば小国を使った限定戦争に引きこまれるぞ」 「だがそれもこの構想に示されているだろう。初期の或《あ》る程度の段階で核を使う。タイミングはむずかしいが、あの人ならその一発で限定戦争を打ち切らせることができる。そのための核だ。アメリカが犯した誤りを我々は繰りかえしはしない。核はタイミングだ。ためらったら宝の持ち腐れ……泥沼のゲリラ戦にひきこまれてしまう。限定戦争の初期に、小型核兵器がどれほど有効か、その理論はいちばんよく判っているはずじゃなかったのか」 「もちろん知っている。しかし生理的な拒絶反応があるんだ。しかも我々がすでに核を持っていることを国民は……」 「いつからそんな弱気になった」  前の男は机から手をはなし、それを腰にあてがって叱りつけるように言った。 「我々が核を保有していないと思っている国家がどこにあるというんだ」 「しかし国民が……」 「莫迦《ばか》。国民だって非核を信じちゃいるもんか。政府がそれを建前にしているから、一部の者がその建前にくらいついているだけじゃないか。第一、核なしに四次防のこの数字が出るわけがない。ジャーナリストたちだってそのくらいは知ってる。しかも防衛計画は第四次で終わるわけじゃない。それも常識だ。どこかの時点で我々は将来核保有宣言をしてみせればいい。それだけのことだ。要はそのタイミングだ。核はタイミングなのだよ。そのタイミングはあの人にまかせれば間違いないんだ」  窓の下をジープが走りぬけ、銃を持った自衛隊員が、隊列を作ってゲートのほうへ去っていくところだった。     3  長い石塀をめぐらした大きな邸宅があった。殺人者はそこの石の塀をのりこえて、夜の間に広い庭へしのびこみ、よく繁った植込みの一隅で息をひそめていた。  彼は朝を待っていた。  学生時代、彼は登山とレスリングで体をきたえた。思想というほどのものは何もなく、学業もどちらかといえば好きなほうではなかった。  それが或る右翼的な団体へ入ることになったのは、彼にしてみればごく自然のなりゆきだったといえる。  大学を出たら職につかねばならない。だが、彼には一流企業へのコネなどなかったし、二流以下の企業でも、実力で入社試験を通れるとは思ってもいなかった。  それに、高校、大学と続いた運動部ぐらしで、見知らぬ仲間とやっていく自信をなくしていた。先輩、後輩と頼り頼られ、その中で暮らしていくのが一番気楽だったのだ。理窟の多いサラリーマン社会には、軽蔑と嫌悪《けんお》と危惧しかなかった。  レスリングの先輩が何人もその団体にいた。そして、お前も来いと言ってくれた。彼は一も二もなく運動部生活の延長であるその社会へ入って行った。  そこでは、空手《からて》や合気道《あいきどう》が必修課目のような具合だった。レスリングの合間にそうした体術にもいくらか手をだしていたので、馴染《なじ》むのは早かった。体術の才能なら充分にあり、すぐ一、二を争う技《わざ》の持主になった。  団体はいろいろな名目で銃器の取扱いを教えてくれた。自衛隊の経験入隊ということで、ほとんど常連のように入隊し、射撃の腕もみがいた。大きなデモがある時は、保守党の本部や議員会館、官邸、私邸に配備され、いい待遇をたのしんでいた。二、三度ボデーガードとして海外旅行もし、爆薬や暗号、尾行やその回避法についての基礎も教えられた。  団体内での地位があがり、部下らしき男たちの数が増《ふ》えるにつれ、彼は自分が保守党の或る派閥の底辺近くに所属していることを知るようになった。敵は革新勢力、と単純に思い込んでいたが、いつしか本当に闘うべき相手は、他の派閥勢力であるということが呑みこめてきた。  その社会での自分の位置がはっきりし、団体内での地位向上のために、そうした敵を屠《ほふ》るのに積極的になった。陰険な闘争が日常の仕事になり、暴露文書の配布やいやがらせ行為、そして暴力行為と、しだいに彼の活動はエスカレートしていった。  彼の立場が確定したのは、或る汚職事件の拡大阻止のため、役人の一人を庁舎の四階から中庭へつき落として殺した時だった。その小役人は自殺ということになり、二人の政治家が身の安全を確保した。  その団体内だけでなく、似たようなムードの社会で有名人となり、彼が現われると怯《おび》える人間が増えた。部下をひきつれてキャバレーで豪遊し、地元の暴力団が彼の前では丁重に膝を屈してご機嫌をとり結んだ。  そんな或る日、彼はドレスアップして団体のリーダーと一緒にさる料亭へ入った。保守党の一方の大立者《おおだてもの》と目《もく》される人物から酒盃《しゆはい》をうけ、ただそれだけで帰ってきた。しかし数日後、彼の上司はひとつの仕事を命じた。料亭での酒盃と、それとなんの関係も見出せなかった。しかし彼はふたつをごく自然につなげ、納得した。  仕事は楽そうだった。あたりは物静かな高級住宅街で、相手は世間に名も知られていないただの男だった。その男は毎朝きまって、広大な邸の庭の小径《こみち》を散歩する習慣を持っていた。夜のうちにそう高くもない石塀をのりこえ、植込みにかくれて朝を待てばよかった。いっそう楽なことに、その男は侵入警報装置はおろか、犬さえも飼っていなかったのだ。  朝がきて、空が濡れたように白むころ、遠くの母屋《おもや》で人の気配がした。彼は肩の肉を一、二度あげさげして、ウォーミング・アップした。どんなに頑健でも、五十歳をこえた男が彼にかなうはずはなかった。首をしめても、頭を石で叩き割っても、手刀で頸骨を砕いても、または刃物を用いても、それは彼の自由にまかされていた。死因は心臓麻痺ということにすでにきめられていた。  男が現われた。びっしりと生い繁った植込みの間の小径を、のんびり両手をふりまわしながら歩いて来た。彼はやりすごし、持ち慣れた九寸五|分《ぶ》の鞘《さや》を払って男の背中に体ごとぶち当たって行った。  手で突くな、腰で突け。……それがこうした場合の鉄則だった。突いたらすぐ左腕を前にまわし、掌で相手の顎を下からつきあげるように上へ持ちあげるつもりだった。声はそれでとまる。  が、たった今そこを歩いていたはずの男の背中が、彼の視界から消えてなくなった。彼は短刀を腰のあたりに握ったまま、さすがに二歩ほどで踏みとどまった。前傾した体をたて直し、さっと振り向いた真正面に、のしかかるような大きさで男の姿があった。全視界がその男でみたされているように思った。強すぎる気迫、強すぎる威圧、強すぎる眼光……。  彼は茫然《ぼうぜん》となった。蛇に睨《にら》まれた蛙《かえる》といったところだった。攻撃を忘れ、防備を忘れ、でく[#「でく」に傍点]の坊のように立っていた。  彼が最後まで正気でいたかどうか、それは疑問だ。ただゆっくりと巨人の右腕が動くのを見ていた。  強烈な平手うちが彼の頬を見舞った。彼はその一発で自分の身長ほどの距離をとび、八《や》ツ手《で》の根本へ叩きつけられた。眼球がとびだし頸骨が折れ、耳から血がふきだしていた。男は黙って朝の散歩をつづけた。     4 「総理。あちらでお待ちです」  厚い絨緞を敷いた廊下でそう言われ、内閣総理大臣は膝頭をふるえさせながら突当たりのドアへ向かった。秘書はいつもと同じように怯《おび》えた瞳《め》でそのうしろ姿を見守った。  世の中の大きさを、彼はここへ来るたび思い知らされるのだった。裏を知りぬいた者が、建前を信じて議論を重ねる人々を見るとき、世の中はほとんど一望のもとに見わたせる。  しかし、それは一時の錯覚にすぎない。世の中でもっとも巨大な裏面を背負い、それを重荷とも武器とも喜びともして権力をふるう一国の首相が、そのドアの中の人物に対すると、まるで小人《こびと》のようにしか見えないのだ。上には上があり、そのいちばん上は仰ぎ見ることさえできない角度で彼の前にそそりたっている。  彼は古色蒼然《こしよくそうぜん》としたそのホテルの奥にある、従者の控室にあてられた小部屋の椅子に戻って、じっと首相が戻るのを待つ。  いつもそう長い時間はかからなかった。ものの五分もすると首相は蒼《あお》ざめた顔で戻り、あわただしく車に乗りこむと、だいぶたってから太い吐息をして、いつもの顔色に戻るのが常だった。  だが今日は少し違っていた。二、三分で面談をおえ、老人にしては気になるほどの急ぎ足で車へとび込むと、 「本部へ」  と噛みつかんばかりの形相《ぎようそう》で言った。額に怒気をはらんだ筋が浮き、いらいらと膝をゆすっていた。  保守党本部の総裁室へ入ると、電話で自派の首脳にかたっぱしから招集をかけた。 「なんという莫迦《ばか》なことを……」  呼ばれた政治家たちが集まるまでの間、首相はそうつぶやきつづけていた。秘書は急に変更されたスケジュールを調整するため、詫《わ》びやら申入れやらで大活躍をしている。 「栗栖重人《くるすしげと》氏をやろうなんて、どこの莫迦が考えついた」  首相のつぶやく声が聞こえ、秘書はハッと体を堅くした。 「あの人を殺せるものか……あの人を」  首相は泣くように言った。  その夕方、新聞は保守党実力者の一人が急遽入院したことを報じた。そして翌朝、テレビは実力者の死を報じていた。死因は脳溢血《のういつけつ》だった。  同じ日の夜、一人の医者が交通禍にあった。帰宅の途中、乗った車がトラックに激突され、病院に運ばれる途中息を引きとった。その医師は実力者の死を看取《みと》った人物だった。  だが、ふたつの死を結びつけて考える者はどこにもいないようだった。その夜ふけから東京に強い風が吹きはじめていた。 [#改ページ]   2 縄文《じようもん》の誘《いざな》い     1  麹町《こうじまち》の帝都ホテルは、今では都内の大ホテルに較べると部屋数もずっと少なく、設備も古めかしくなってしまっているが、長い伝統と格式を誇る名門ホテルだ。客の選択が厳しく、閣僚クラスでもどうかすると予約を断わられることがあるという。  かつては日本一の最高級ホテルとして知られていたが、そうした閉鎖的な経営のため、いつとはなしに人々の記憶から薄らいで、今ではごく一部の富裕な人々か、好事家《こうずか》の間に知られているにすぎない。  古色蒼然としたそのホテルへ、いま一台のベンツが着いたところだった。  待ち構えていたように、十人ばかりの従業員がベンツの前に並び、客がドアから現われると恭《うやうや》しく一斉《いつせい》に頭をさげた。  客はあたりをよく見もせず、いきなり、 「支配人はおるか」  と大声で訊《たず》ねた。訊ねるというより怒鳴るといったほうがいいかもしれない。 「いらっしゃいませ。お待ち申しあげておりました」  支配人は並んで頭をさげた従業員の列の一番左側にいて、そう答えると一歩進み、客を案内するかたちをとった。 「おう、そこにいたか。また嫌な客が来た。我慢せいよ」 「とんでもございません。湯平《ゆひら》様でしたらもう……」  支配人は世馴れた温厚な顔に微笑を泛《うか》べ、客の左を半歩先導しながら言った。 「判《わか》っとる。儂《わし》はどこへ行っても好かれん客だ。それが判っとるからこのホテルを使うのだ。このホテルはな、どいつもこいつも客を紙幣《サツ》だと思うことに徹しとる。儂は好けんが紙幣なら大好き……そうだろうが。いい教育をしとる。そういう態度に徹してくれれば、儂のように好かれん客でも安心して来られる。このホテルがなかったら、儂のようなもんは一生奈良へとじこもって東京へなど来ん」 「恐れ入ります」  二人のあとから、ひどく婀娜《あだ》っぽい和服の女と、茶色の革鞄《かわかばん》を後生大事にかかえた従者らしい初老の男が跟《つ》いて行く。 「やれやれ。今度は幾日ご滞在ですかな」  客が建物の中に消え、従業員たちが散ったあと、ベンツのトランクから荷物をとり出しながら、制服を着た男がぼやき気味に言う。 「大変ですなあ、君たちも。いろんな客がいて」  ベンツの運転手が言った。 「これでなかなかいい商売だと思う時もあるんですがねえ」 「しかし、人間もほどほどがいいね。あんまり大それた金持ちになるもんじゃない。あの人みたいに金を持つと、思いやりもへったくれもなくなっちまうからなあ」  運転手はホテルの中をのぞくようにしながらそう言った。  ホテルの制服を着た男は声をひそめた。 「でも、こう言っちゃなんだけど、あの人はそう昔っからのお金持ちじゃないみたいで……」 「そう見るかね、やっぱり」 「そりゃこれでも客商売ですからねえ」 「僕もそう思う。でもとにかく今は大変な金持ちでいらっしゃる。……おっと、そのケースは壊れ物とかだそうで、東京駅でのせる時も大騒ぎだったんだから、気をつけてくださいよ。……それにしても大したもんです。三協銀行ともあろう大銀行の本店の車を、電話一本でハイヤーがわりに使おうというんだからねえ。今日から僕も幾日かはあの人の言うなりに走らせなければならない」 「さあて、一応はご同情申しあげますけどね……」  ホテルの男は手押車に荷物をのせおえて、ニヤリとしながら言った。「それだけのことはあるんでしょう。あの人の金のばら撒《ま》き方は常軌を逸してますからね。今もご本人が言ってたでしょう。俺を紙幣《サツ》と思えって」  そう言われて運転手は頭を掻いた。 「あの人の心づけは銀行のほうでも見て見ぬふりをしてくれているんです。なにしろ人物が人物でしょう。へたにご辞退申しあげるとあとがどうも……そういうわけで楽しみのような苦しみのような、あの人が東京へ来るとどうも妙な具合です」 「ま、お説のとおり紙幣と思いましょうや」  制服の男はそう言うと、車を押して建物の中へ向かった。     2  帝都ホテルの三階東南の一画は、その昔は部屋の配置図さえ門外不出だったといわれている。内外の要人、貴賓《きひん》が宿泊したからだ。  湯平弥市《ゆひらやいち》はそのロココ風のサロンの椅子に腰かけて、傲然と顎をあげていた。 「四十分も前から待っておったのか」  彼の前には、五十がらみの身だしなみのいい、中肉中背の男が立っている。 「は……そのくらいになりましょうか」  男は白いふっくらとした左手首をあげて腕時計をみながら言った。 「無駄だ」  湯平弥市は吐き出すように言い、男をねめつけた。男はかなり広いサロンのほぼ中央に立たされており、机も椅子も近くにはなく、やや右手の天井からシャンデリアがぶらさがっているだけだった。 「無駄……でございますか」  男は不審そうに尋ね返した。 「儂《わし》が新幹線で着く時間は言ってあったはずだ。遅れることはあっても、四十分も早く着く道理がない。老《おい》先き短い儂が、東京の画商ずれに四十分も無駄づかいさせるため大枚の金を出資しているのではない。そんな時間があったら商売せい」 「恐れ入ります」  男は身を縮めるようにして頭をさげた。 「とはいうものの、儂を待たせるよりはましだ。なあ穂積《ほづみ》……万一遅れて儂に怒鳴られるのが嫌だったのだろうが。そうだと言え、そうだと」  画商の穂積はそっと目をあげ、湯平弥市の顔にいつのまにかからかうような微笑が泛んでいるのを知ると、ほっとしたように自分もかすかに笑いかけた。 「何はさておきましても、湯平様のご機嫌を損じますと店を閉めねばなりませんので……」 「素直だな。商売とはそういうものだ。金を持っている相手にはまず頭をさげる……儂はな、お前たちにしんそこ恐れられているのでもなければ、うやまわれているのでもないことは百も承知だ。だが儂とお前の間には金というものが置いてある。金がそこにあれば、そのまわりには規則が生まれる。誰が与えるか誰が受取るかだ。安心せい、儂はその規則をたのしんどるだけだ。儂とお前の間にある金は儂が置いた。だから儂はこうして威張っておる。お前はそこに立ってこらえておる。それだけのことだ。……内心儂を見くだしておろうが」 「とんでもございません」 「言うな言うな。見くだしてもいい。いくら金を出してもそれはとめられんからな。それに金のためにこらえておるのだと信じ込んだほうがいいぞ。そのほうがしあわせだからな。金とは金持ちのためにばかりあるのではない。金は、金を持てん貧乏人のためにもあるのだ。金というものがあるから貧乏人はすべてを金のせいにできる。ない金で、ない物を買うのだ。それで気が安まる。家へ帰って、糞、あの爺《じじ》い今にみておれと、女房子供に当たり散らせる。それが金の功徳《くどく》だ。金のことなしに儂に威張られてみろ。このホテルから出ていく時、お前はどんなにみじめか」 「そういうものでございましょうか」  穂積はあきらめたように微笑しながら言った。 「判らんでもいい。余談だ……」  湯平弥市は急に声を落としてつぶやくように言い、 「ところで、例の絵描きはいつもあんな絵ばかりを描いておるのか」  と質問した。 「はい。堀越《ほりこし》画伯の作品は、初期には、いま少し幻想的な傾向があったようですが、最近ではずっと、先日ご覧に入れたような作品ばかりです」 「骨董《こつとう》趣味でもあるのか」 「古代の壷や皿や土偶《どぐう》などには、画家の幻想を超《こ》えたものがあるとか主張なさっておられます。ご自分でもかなりそういった古代の出土品を収集され、神話や考古学についてのご著書もあるくらいです」 「妙な奴だなあ……」 「最近はもっぱら私どもと親しくおつき合いをいただいておりますが、初期のものはほとんど同業者の柳画廊が扱いましたので……しかし手をまわせば今すぐにでも何点かは手に入りますが」 「儂には油絵など興味ない。堀越正彦《ほりこしまさひこ》の絵さえろくに見たことはなかったのだ。古代の品ばかり描いておるというのも、ついこの間知ったばかりだ」  湯平弥市は穂積の頭ごしに遠くを見つめ、 「だが、それにしてもおかしな奴だ。古代の壷や皿や土偶などに気をひかれるとはな」  と赤黒い顔を歪《ゆが》め、ぶきみな含み笑いをはじめた。     3  穂積の運転するセドリックは、三田《みた》から伊皿子《いさらご》へ抜け二本榎《にほんえのき》の辺《あた》りへさしかかっている。  彼は湯平弥市と堀越正彦を会わせることに気が進まなかった。だいいち堀越は典型的な芸術家タイプで、あのがむしゃらな老人とは、どう考えても肌が合うはずがなかった。それに、この業界の謎のひとつにされている彼の強力な資金源を、たとえ堀越にでも、知られたくなかったのだ。  だがそれも当の湯平弥市の要請とあれば仕方がない。このうえはまかり間違っても正面切ったトラブルなど起こしてくれぬよう、堀越によく言い含めておくしかなかった。  穂積は目をあげてちらっとバック・ミラーを見た。うしろのシートに、茶色い革ケースがふたつ並んでいた。あれを渡せばなんとかなるだろう。さすがに人を人とも思わぬ大富豪だけあって、そのふたつなら土産《みやげ》として充分すぎるほどだ。……穂積はそう計算しながら高輪《たかなわ》警察署の横を直進して行く。  やがて左前方に八階建ての小ぢんまりとしたマンションが見えてくると、彼はスピードを落とし、勝手知った様子で細い一方通行の路へ左折する。そこは重厚な石の塀がつらなる古い高級住宅地で、よく茂った巨《おお》きな樹木や、いわゆる洋館建てといった古めかしい建物などが並び、どことなく明治の匂いさえ漂《ただよ》っている感じだった。  右側の石の塀が急に途切れ、そこにかなり広い駐車場が広がっている。たっぷり三十台分はあるだろう。その小ぢんまりとしたマンションの専用駐車場だった。  そのマンションは完全な十字形をしている。十字の腕のひとつひとつが独立した住居で、十字の交差した中央部に二基のエレベーターが背中合わせに並び、その横が階段になっている。  穂積は海側の大きな椎《しい》の木をとりかこんだ来客用の駐車スペースに車を停《と》め、両手にひとつずつ茶色の革ケースをぶらさげると、自動ドアを通って建物の中へ入った。小さなロビーの右側の壁にあいた窓の中にいる管理人に、堀越正彦を訪ねるのだと告げ、エレベーターへ向かう。堀越の部屋は真東に突きだした十字の腕の八階だった。  エレベーターのドアがあくと、薄茶色のカーペットを敷いたホールの左右に、A、Bと同じ書体の飾り金具を打ちつけたドアがあり、穂積はBのドアに近づいてチャイムのボタンを押した。 「どうぞ」  穂積よりだいぶ長身の男がドアをあけて招き入れた。  画家のアトリエであることがひと目で判る。大きな額縁や、十五号、二十号といったカンバスが壁にたてかけてあり、写真スタジオなどによくある投光機の黒いシェードが目についた。 「なんですかきょうは……珍しいじゃありませんか」  堀越正彦は笑顔で言った。 「非常事態発生さ。覚悟してもらいたいな」  穂積は冗談めかして答え、堀越についてアトリエのとなりの部屋へ入ると、テーブルの上に両手の革ケースを置いた。 「なんですか、それは」 「或る人物から君へのプレゼントだ。いや、挨拶がわりの手土産かな」 「ほう……」  堀越は椅子に腰をおろすと長い脚を組み、パイプを咥《くわ》えた。いかにも画家のすまいという感じで、粗《あら》いスペイン壁に見なれない銅版画や、イスラム風の壁かけが飾ってある。     4 「あす、その人物と会ってもらいたい」  穂積はふたつの革ケースの上に両手を置き、立ったまま言った。 「いいですよ」  堀越は気やすげに微笑して穂積を見あげる。 「その老人は今日の午後、東京へ出て来て、いま麹町《こうじまち》の帝都ホテルにいる」  そう聞いて堀越は唇をとがらし、口笛を吹くまねをした。 「例のルイ何世風とかいう部屋だ」 「なるほど。あの部屋へ泊まるようじゃ、ちょっと厄介な人物らしいですな」 「こっちには事情があって、その老人とトラブルを起こしたくないんだ」  二人はお互いをみつめ、僅かのあいだ探り合うような沈黙のあとで、堀越がニヤリとして言った。 「会いましょう。決して喧嘩はしません。ご無理ごもっともで通しましょう。絵描きだって商売だ。そうあなたが心配するほど子供っぽくはありませんよ」 「有難う。ほっとしたよ」  穂積は軽く頭をさげて見せ、革ケースの留め金をパチンと外《はず》した。 「その老人から君への贈り物だ」  気を持たせるように言い、両手を差しこんでそっと中身を持ちあげた。  堀越は驚きの声をあげて立ちあがった。 「火焔《かえん》土器じゃないか」 「そう。そしてこっちは」  穂積は自慢するようにふたつめのケースをあけた。 「遮光器《しやこうき》土偶……」 「両方とも完全な物だ。驚いたかね」  堀越はテーブルをまわって穂積と並び、ふたつの縄文《じようもん》期の遺物を眺めた。 「ダミーじゃない。ふたつともほんものだ」  堀越は顔を近づけ、白く長い指で触れながら唸《うな》った。その方面では専門家はだしの知識を持っているのだ。  高さ約三十センチほどの、やや黒みを帯びた褐色の壺は、下部がバケツ状をしていて、全体が異様なほど複雑な深い筋目模様で掩《おお》われていた。上部は壺自体の高さと同じ寸法ぐらいにまで拡がっていて、鋸歯《きよし》状の三角形の突起の間から、波濤《はとう》のような飾りが四ヵ所、躍りあがりそうな勢いで上に伸びている。 「新潟《にいがた》の馬高《うまだか》遺跡から出た、A型式の一号器と同じ物だろう」  穂積が言った。その土器から漂いだす異様な雰囲気に気《け》おされたように、低くくぐもった声だった。 「しかもこっちは無瑕《むきず》……こんなことがあるだろうか。フリーハンドで作られる縄文土器に、これほどデザインの似たものが現われるなんて」  二人の前にある壺の仲間は、一般に火焔型土器と呼ばれている。上部に突出した把手《とつて》の部分が鶏冠《とさか》状をしており、その勢いのある複雑な形態が、火焔を連想させるからだ。  しかし、単に火焔土器、と「型」を抜きに言う場合は、馬高遺跡出土のA型式に分類されるもののうちの、特に第一号器のみを意味する。火焔型土器の典型であるばかりでなく、全縄文文化の最高傑作であるとさえ目されるからだ。 「この遮光器土偶だって大した代物《しろもの》じゃないか」  穂積がまたくぐもった声を出した。  それは飴《あめ》色に近い肌を持つ奇妙な土偶だった。高さは火焔土器とほぼ同じくらい。下部の形状の特異さもさることながら、顔面いっぱいに巨大な目玉が与えられている。しかもそれはまんまるに近く、中央に横一文字の線が刻まれて、睡《ねむ》っている者の像のようにも思われる。  この不思議な横一文字の線が入った巨眼は、普通、極地民族が用いる紫外線よけの原始的な雪めがねであると解釈されている。エスキモーたちが獣皮や木で作る遮光器が結びつくのだ。 「これは大したものだ。誰ですか。こんな餌で私を釣り出そうというのは」  堀越は手近の椅子に坐った。 「湯平。湯平弥市という人物だ」 「え……」  堀越の表情にかすかな暗さが泛んだ。彼は視線を遠くへ移し、何かを思い出そうとしているように見えた。 「心当たりがあるのかね」  穂積がそう言い、堀越はしばらくしてから急に気がついたように首を左右に振った。     5  暗いベランダへ出ると、街の騒音が足もとから這《は》いあがって、すぐに堀越の体をつつみこんだ。秋の夜風が少し強めに吹いていて、海側の空にジェット機の音が聞こえている。  彼は左手を軽く鉄の手すりにのせ、暗い空を眺めた。  湯平弥市。……ひどく遠い日のことをその名が呼び寄せている。穂積たちが帰ったあと、古い記憶が前後の順もないままに、ひとつまたひとつとよみがえりはじめているのだ。  照りつける陽の光の中を、靴下もなしにゴム底の靴をじかにはいて歩きまわっていた。  そのボロ靴の中は汗と埃《ほこり》が入り混ってグリスを詰めたようになり、ひと足ごとにクチャクチャと不快な音をたてていた。  乾いた髪の匂いと柔らかい肩の感触……胸をしめつけるような甘酸《あまず》っぱい衝動。追われているような慌《あわ》ただしさと、たとえようもなくのどかな波の音、磯《いそ》の香り。ビンタ、制服、餓《う》え、汗、青空、そして……。  堀越正彦はいつのまにか自分が鉄の手すりを握りしめているのに気づくと、ハッとしたように手をはなし、掌《てのひら》をひろげて眺めた。  思いがけぬ人物が、思いがけぬ時に現われたのだ。 「どうなるというのだ、いまさら……」  堀越はつぶやいた。 「それほどあの子が好きなのか」 「はい」 「一緒になりたいのだな」 「そうです」 「それもよかろう。仕方のないことだ。若い者に惚れ合われては、父親など無力なものだ。しかしな、今は時勢が悪い。若い者が惚れ合ったからといって、すぐ一緒になっていい時局ではなかろう。邪魔をして言っていると思ってくれるな。一緒になってどうやって食っていく。日本中の人間が食うや食わずだ。結婚したら一年後には子供が生まれるのだぞ。乳を飲ませて育てられるか。父親はそれまで生きていられるか。いや、この日本という国が一年あとにあるのかどうかさえ判らんのだ。大きな声では言えんが、この戦争に日本が勝てるとしたら、この先、際限《きり》もなく戦いつづけてからのことだ。すぐに終わるとすれば、それは日本が敗けるということだ。そういうきわどい瀬戸際で、二人は一緒になろうというのか」 「だからこそ、生きている間に」 「それも判る。儂《わし》もあの子たちも一度に死ぬと判っておればとめはせぬ。だが、一方が死んで一方が生きのびたらどうなる。亭主をなくした若い女が乳呑子《ちのみご》をかかえて生きていくのは、平和な時でも並大抵ではないぞ。儂の娘にそれをさせようというのか。話はたしかに聞いておく。決して忘れはせん。だがあと一年、それとも二年か……とにかくこの戦争のけりがつくまで待ってくれ。あの子はまだ十八。お互いに待てる歳《とし》だ。そうじゃないか」  羽田へ降りるジェット機が、また暗い海の上で音をたてていた。  閃光。熱風。……堀越はそれを実際に見たわけではないし、肌に感じた記憶もさだかではなかった。しかし、広島でのことを思い出すたび、最後には必ずそのふたつが現われて回想を断ち切るのだった。  原爆という言葉ほど堀越をいらだたせる言葉はなかった。白々《しらじら》しく、うつろな飾りものに思えるのだ。しかもそこには彼自身も飾り納められてしまっている。  彼の記憶にあるのは、原爆というような煮つまった単語ではなかった。すさまじい破壊と、とほうもない混乱。死者と焔と煙と、そして恋の終わりだった。  茫然と彼は焦土をさまよい歩いた。通い慣れた立町《たてまち》がどこかも、よく判らないほどだった。そして焼けただれた広島の町で、湯平弥市とその娘たちの姿を見出《みい》だすことは、ついにできなかった。  その湯平弥市が、いま予想もしなかった場所からぬっと姿をあらわしたのだ。画商の穂積を通じ、豪奢《ごうしや》な帝都ホテルで、しかも火焔土器や遮光器土偶という謎めいた土産を持って。  真正面の東の空に、星がふたつ光っていた。堀越はそれをみつめ、かすかに身ぶるいした。秋風に、肌が冷えたからだった。だが彼は、その冷えを不吉な予感のように思った。 [#改ページ]   3 蜻蛉《とんぼ》の目     1  翌る日の午前中、堀越は描きかけの絵を仕あげようとしていた。  外は秋晴れのすっきりとしたいい日和《ひより》で、明けがたの強い風のためにスモッグが吹き払われ、珍しく透《す》きとおるような青空がひろがっている。  だが、アトリエの中は窓が分厚いカーテンでとざされ、南側のカーテンの合わせめだけが、クリップを使ってわずかに隙間をあけてある。光がそこからアトリエの中央へ斜めにさし込み、その光線の中にスペイン風の衣裳をつけた若い女が椅子にかけている。 「お仕事中でしたか」  訪ねてきた男が済まなそうに言った。堀越は男を招き入れてドアをしめ、 「いや、かまいません。どうぞご自由に」と答える。 「それじゃ失礼して、早速《さつそく》……」  男は足音を忍ばせるようにアトリエの東側の隅へ行き、長い円筒型のケースを床に置いてしゃがみこんだ。 「美術評論家の梶岡大介《かじおかだいすけ》さんの弟さんでね」  堀越はカンバスの前へ戻って言った。 「あれは望遠レンズね」  椅子に坐っている若い女が、意外に歯切れよく言った。外見はしっとりと愁《うれ》いを漂《ただよ》わす美女だった。  すると男はアトリエの隅で顔をあげ、 「キャノンの一〇〇〇ミリです。ニコンには一二〇〇ミリというのがありますよ」  と、ざっくばらんな調子で答えた。  円筒型のケースから抜きだした一メートル近い望遠レンズの最後尾に三五ミリカメラを装置し、先端に黒い大きなフードをつけた。 「バズーカ砲みたい」  スペイン風の衣裳をまとった美女が言うとおり、それはかなり物々しく、カメラというよりは火器のような感じがしてくる。  男はそれに三脚をつけおわると、制作中のアトリエの空気をできるだけ乱すまいと、忍び足でカーテンに近づき、そっとガラス戸をあけてベランダへ出て行った。  好奇心をおさえかねたように女が低い声で言う。 「何するの。盗みどり……」 「ん……」  堀越はカンバスに当てた絵筆の先を凝視しながら生《なま》返事をした。 「どういう人……」  また尋ねた。 「中央新報の佐々木君というんだよ。君とはいつもすれ違っているが、ここのところちょいちょい来てるんだ」 「中央新報みたいな大新聞でもそんなことするの……」 「いや、写真を撮《と》るのが目的ではないらしい。何処《どこ》かを見張っているんだろう」 「そう……ねえ先生、あとであのカメラを覗《のぞ》かせてもらってもいいかしら」 「物好きだな、君も。彼に訊《き》いたらいい。差障《さしさわ》りがなければ見せてくれるだろう」  モデルは愉《たの》しそうな微笑を泛《うか》べ、画家は絵筆をとりかえた。  かなり広いベランダの左隅が、つくりつけのフラワー・ボックスになっている。佐々木は壁と同じコンクリートでできたそのフラワー・ボックスの端に腰をかけ、もう一時間以上も高輪の町を見おろしていた。  ときどきフラワー・ボックスのへりに立って、据えつけたカメラのファインダーをのぞき込むのだ。ベランダの端には黒い鉄の手すりがあり、長い望遠レンズを俯角《ふかく》で据えているので、ファインダーを覗くにはそんな高い位置になってしまうのだ。  十分おきぐらいにその高い位置へ体を移すだけで、佐々木は根気よくベランダに坐っている。表情は堅い。何か思いつめたような気配があり、時折りカラリと晴れあがった空を見あげる瞳にも、暗いかげりがあった。     2  ガラス戸があき、ベランダへ女が出て来た。 「大変ですのね」 「いや……」  佐々木はなんとなく照れたように答え、立ちあがった。 「よろしかったらひと休みなさいませんか。紅茶が入ったんですけど」 「それは恐縮です。じゃあ、いただきます」 「ずいぶん遠くまで見えるんでしょう、それ」 「ええ、まあ」 「ちょっとだけ覗かせてもらえません……見たことないんです」  ひどく子供っぽい表情だった。そのくせ目もとに溢れるような媚《こび》が泛んでいる。佐々木は苦笑しながら、 「どうぞ」  と言った。  若い女は嬉しそうに、ゆったりと膨《ふく》らんだ長いスカートの前を両手でつかみ、たくしあげるようにして右足をフラワー・ボックスのへりにかけた。形のいい脚が、ドキリとするほどの高さまであらわになり、すぐにかくれた。 「あら、凄いわ。とてもよく見える」  女はファインダーをのぞいてそう言い、すぐ顔をあげてレンズの方向をすかすように眺めた。 「これ、どの辺かしら」  佐々木は答えず、女の美しい横顔をみつめていた。女はまたしばらく覗きこみ、「でもこんな大きなレンズ、普通じゃちょっと使い道がありませんわね」  と言って納得したようにその場所から降りかけた。佐々木が手をさしのべると素直に白い左手をあずけ、小さな掛声をかけてとび降りた。降りた瞬間、佐々木の肩に手をかけたので、だきかかえられる形になった。 「どうもすみませんでした」  礼を言い、先に立ってアトリエへ入って行く。  カーテンが引かれて薄暗かったアトリエに、今は秋の陽がいっぱいにさしこんでいる。その部屋のさきの、上がアーチ風に丸くなったドアの奥で、画家がティーポットを片手に言った。 「どうぞ、ひと休みしてください」  佐々木はアトリエを横切りながら、 「お仕事はもういいのですか」  と訊ねる。 「今日はもう終わりです。このお嬢さん、ほかに仕事の約束をしてるそうなので」 「じゃあ遠慮なく……」  佐々木はアトリエの次の部屋に入り、すすめられた椅子に腰をおろした。壁にハッチがあり、その裏側はキッチンになっているらしかった。 「そうだ、紹介が遅れたな。……これはヘレン・土屋といって」 「ああ、Pレーヨンの……どうもよく知ってるような人だと思った」  美女はティーカップをとりあげながら、軽く頭をさげた。 「よろしく……」 「Pレーヨンの専属になれば、もうモデルとしては超一流ですよ」  佐々木は画家に言った。 「まったく女の子はいい。修業なしで一流になってしまうんだから。モデルにでもなろうかと言っていたのは、ついこの間のことですからね」 「でもPレーヨンの契約はきついのよ。……ほかの仕事は全然とっちゃいけないんです。Pレーヨンとまるで関係ないお仕事でも、いちいち宣伝部のオーケーをもらわなきゃならないんです」  彼女は佐々木と画家を半々に見ながら言う。 「当たり前さ。企業イメージを代表させているんだ。安っぽい建売住宅のコマーシャルやポルノ映画などに出られたんじゃたまらんさ」 「そんな仕事なんかするはずないわ」 「すると、堀越さんの絵のモデルになるのもいちいち断わっているんですか」 「先生のは特別なんです。もしPレーヨンがいけないなんて言ったら、向こうをことわっちゃう……」 「ほう、そうかい。Pレーヨンを棒に振っても僕のモデルになってくれる気か。それは気がつかなかったな。大いに感謝しなけりゃならんな」  そう言われると、佐々木にむけて、ちょろっと舌をのぞかせて笑ってみせた。 「いつもこの調子で皮肉ばかり言われちゃうんです。そろそろ逃げ出さなくっちゃ……」 「Pレーヨンのテレビ・コマーシャルの会議なんだそうです。そんな会議にこの子が出て、どれほど役に立つんですかねえ」  画家は半《なか》ば本気で佐々木に言った。 「ほらね、このとおりでしょう。いやになっちゃうんです」  彼女はそう言い、ティーカップを置くと、 「着替えますので……」  と立ちあがった。     3  堀越は着替えに去った女のうしろ姿を目で追いながら言った。 「我儘《わがまま》娘でしてね。本名は香取公子《かとりきみこ》というんです。妹のほうはもう結婚したんですが、あの子はまだ当分しそうにもありませんな」 「僕は絵のほうは苦手でよく判らないんですが、堀越さんはああいう女性の肖像もよくお描きになるんですか」 「それは絵描きですから、いろんなものをやってみたいんですが、あのテの作品でイメージづけられてしまったもんで、人物を描くと画商にあまりいい顔をしてもらえんのですよ」  堀越はあけ放したドアの向こうのアトリエの壁にたてかけてある、十五号ほどの静物画を顎の先で示した。暗いバックの中に、所々欠けたり罅割《ひびわ》れたりした土器が克明なタッチで描かれていた。 「なるほど、そういうものでしょうかね。それにしても、お一人じゃご不自由でしょう。大きなおすまいだし……」 「一日おきに家政婦が来るんです。それにもうすっかり慣れてしまっています」 「結婚のご経験は、本当に一度もないのですか。……いや、兄からそう聞きましてね。もう少しお若い方かと思っていたんです。僕もまだ独身なんですが、近ごろでは僕ぐらいの年輩ですと独身もそう珍しくはないんですが……」 「そう、私は四十五ですよ。私らの世代だと、結婚しないというのは片輪か、そうでなければよほどの変人……時には私のことをとほうもないプレイボーイだと思い込んでる人もいますがね」  堀越はそう言って笑った。「実はあなたのお兄さんもそんな風に私を誤解している一人らしい」  佐々木も笑って、 「どうもその傾向があるようです。お会いしたら全然印象が違うんでびっくりしているんです」  と言った。 「あまり似ていらっしゃいませんな。お兄さんより背がだいぶ高いんじゃありませんか」 「ええ。兄はずんぐりむっくりのほうで……気にしてるんですよ。若いころはよくひがんでお袋に文句を言ったそうです」 「これはいいことを聞いた。批評家の弱みを握るというのはいい気分のものです。なにしろしょっちゅうこっぴどくやられますからね」  二人は声をあげて笑った。天井の高いマンションで、特別に壁をぶち抜いたらしい広いアトリエに、二人の笑声が反響していた。 「聞いていいですか」 「は、何でしょう」 「あのことですよ」  堀越はまた顎をしゃくってベランダのほうを示した。 「気になりますよ。中央新報の敏腕記者が何かを夢中で狙っている……知りたいのが人情でしょう。さっきあの子がファインダーをのぞかせてもらっていたけれど、実のところちょっと羨《うらや》ましかった……」 「いやあ、申しわけありません」  佐々木は頭を掻いた。「堀越さんには隠す必要もなかったんですが、僕自身にもまだはっきり掴《つか》めていないことなんで……」 「相手はどんな人物です」 「実はこの近くに、栗栖重人《くるすしげと》という人物が住んでいるんです」 「栗栖重人……」 「どうも不思議な人物らしいんです。だいたい栗栖重人という名を知っている人間だってそう多くはないんですが、とにかく何か得体の知れない大きな勢力を持っているらしいんです。もちろん、僕などは顔を見たこともありません。名前はもちろん、その顔を知っているのは、政界とか財界とか、要するに社会のごく上層部の限られた連中だけなんですからね」 「しかしよくそのテの怪人物というのはいるんじゃないですか。近くは例の森脇《もりわき》とか」 「たしかにそのたぐいの人物です。でもどうにも気になるんです。というのは、偶然のことからその人物が防衛庁関係に深く食い込んでいることを知ったからなんです」 「防衛庁……」 「幕僚長クラスを平気で呼びつけたりするらしいんです。それも、たとえば帝都ホテルなどのような、とほうもなく贅沢《ぜいたく》な所へ」 「幕僚長というと……どうもそっちの方面にはうといもんでね」 「階級で言えば、幕僚長が行きどまりです。陸上自衛隊なら星が四つ。三つが陸将で二つが陸将補。その下が一佐、二佐、三佐、一尉、二尉、三尉、准尉とさがって、一曹、二曹、三曹、一士、二士。……三士でどん尻になるわけです。大将ですな、昔の」 「なるほど。最高位の軍人をねえ……」 「これは僕の感じなんですが、どうも内閣の中にも彼の言うなりに動く連中がいるような気がするんです。何をやってるかよく判らないんですが、どうせろくなことじゃないという勘《かん》がするんですよ。いままでそういう人物がいいことをしてくれたためしがない……そうでしょう」 「まあ、そう言えばそうですな」  堀越はパイプに葉をつめはじめながら答えた。 「すると、人の出入りを監視しているわけですか」 「それもあります。が、まず第一に顔をよく覚えたいんです。ポートレートでもないと、何を調べるにしても雲をつかむようなはなしなんで」 「それは大変な仕事だ。協力しますよ。よかったらいつでも来てのぞいてください。カメラなんかもいちいちお持ち帰りにならなくていいんですよ。もっとも僕はよく外出してしまうんで……今日も午後から出かけるんですが、独身だとこういう時、不便ですな」 「よろしくお願いします」  佐々木はあらためて頭をさげた。  あけ放した東側のベランダから、爽《さわや》かな秋の風が吹き込み、堀越の咥《くわ》えたパイプのけむりがキッチンのほうへ流れていった。     4  着替えをおえて香取公子が戻って来た。青い男物のような綿シャツにブルージーンをはいて、大きなペーパー・バッグをぶらさげていた。 「ねえ先生。あのケース何が入ってるの」 「これか」  堀越はうしろをふり返り、飾棚の上のふたつの革ケースを見あげた。 「何だか物々しいケースだこと」 「見せてやろうか。縄文時代の遺物で珍品だぞ」 「縄文時代の……見たいわ」  堀越は立ちあがり、ケースを両方ともテーブルの上へおろすと、まず火焔土器のほうからとりだした。 「ほほう、火焔式ですね」  佐々木はいくらか知っているようだった。 「すてき……はじめて見たわ」  公子はおそるおそる指で触れた。 「こっちはどうだい」  堀越が自慢そうにとりだした土偶を見て、二人とも目を丸くした。このほうは佐々木もあまり自信がないらしい。 「亀《かめ》ガ岡《おか》遺跡……でしたか」 「ええ。これは俗に遮光器土偶と呼ばれています。この大きな目玉を見てください」  堀越は土偶の巨大な目を指でこすりながら公子に説明した。 「とんぼの目みたいだろう。まんまるくて真ん中に一本、線が入っている。まるで昆虫の目のようだ。この目玉をみて知識のある人々はすぐ雪めがねを連想したんだ。エスキモーの文化には紫外線よけのために、木の板や獣の皮でサングラス状の目かくしを作り、その中央にこれと同じような、細い横一文字の覗き穴をつけた雪めがねがあるんだ。服装も、ズボンにブーツ、そしてベルトを使って体に密着させている。だからちょうどこの土偶のようなスタイルになるわけさ。これの仲間は青森県西津軽郡の亀ガ岡遺跡から出たのが有名だが、岩手県あたりからも出ているし、中には土面……土製の面なんですが、遮光器土面というのもあります。だが日本にスノー・グラスがあったという話は聞きません。だから昔はエスキモーかそれと同じような人種が、日本列島あたりにまで住んでいたのだろうという考えがなりたつわけですよ」 「でも変な人形だわ」 「たしかに異様なものでしょう。火焔土器もそうだが、特にこの遮光器土偶をみていると、縄文人というのは、我々にない特殊な美意識を持っていたような気がしますね。……だがね、公ちゃん。これにはもっと妙な考えがついてまわっているんだ」 「何……」 「宇宙人さ」  公子は呀《あ》っと言った。 「ほんとだわ。宇宙服じゃないの、これ」 「僕はさっきから潜水服みたいだと思っていた」 「そうでしょう。昔はそんな説はなく、せいぜい雪めがねの遮光器土偶だとされていた。でもだんだん科学が進むにつれ、これを……そう、潜水服も宇宙服も結局は似たような目的で作られたわけだが、これは宇宙服を着《つ》けた人物だとみる人間が多くなってきた。おかしなことだね。何千年も前の土偶の形に、現代科学の粋《すい》を凝《こ》らした道具がだんだん似てくるんだ。そうなると、宇宙人説はますます勢いづく。今まで乳房だとしか思われなかったこの両方の胸の突起にしても、よく見るとまわりに刻み目が入っていて金庫のダイアルみたいだ。これなんかは内蔵した生命維持装置を調節するダイアルかスイッチのようなものじゃないかと言いだされる始末さ」  佐々木は唸りながら土偶を正面からのぞき込んだ。 [#改ページ]   4 埋《うずも》れた黄金     1  デパートに並べれば百万以上の値がつくのではないかと思える豪華なソファーに堀越が腰をおろすと、すぐに正面左側のドアがあいて、 「莫迦《ばか》者。お前はここで待っておればよい」  と傍若無人《ぼうじやくぶじん》に喚《わめ》きたてる声が聞こえ、茶の三つ揃いの背広を着た老人が姿を見せた。  堀越は坐ったばかりのソファーから腰をあげ、相手の顔をじっとみつめた。秋の光がロココ風のサロンの中へさしこんでいて、老人は堀越と視線を合わせるとすぐ、眩《まぶ》しそうに目をそらせた。 「堀越正彦。芸名のようなものは使わんのだな」  老人は少し離れた椅子に腰をおろすと、傍《かたわら》の小さな円卓に右腕をのせて言った。 「お久しぶりです」 「生きていたことは承知しておったな」  湯平弥市は唇を歪めて言った。堀越は相手の変わりように驚いていた。 「知っていました。しかしずいぶんお変わりになられた……」 「出世したとは言わんのか。このサロンも含めて五つの部屋を占領しておる。こんな莫迦な贅沢をするにはかなりの財力が要《い》るとは思わんか」  だが堀越が驚いているのは、弥市のそんな富豪ぶりではなかった。昔は頑固だが人の世に理解のある人物だった。それが今は口もとにいやしげな歪《ゆが》みが生じ、瞳におごりたかぶった濁りが宿っていた。堀越は黙って弥市をみつめた。 「金、金、金だ」  とほうもない大声で喚《わめ》くように言った。堀越は自分の沈黙が弥市をいらだたせたらしいとさとり、その短気さに幾分異常なものを感じはじめていた。 「世の中は金で動く。誰でもその事は知っておるくせに、そこから目をそらせようとするのだ。金で心は動かなくとも体は動かすくせに。……何が心だ。体が動けばそれで終わりだろう。そうじゃないか」 「お目にかかるのは何年ぶりでしょうか」  堀越は得体の知れない相手の昂《たかぶ》りように、ひどく冷たい声で応じた。 「戦後何年たった。それが勘定できぬはずはあるまい」  弥市は鼻白んだように声の高さを落として答え、 「規子《のりこ》は元気でやっておるのか」  と尋ねた。 「は……」  堀越は意表を衝《つ》かれた。 「なんだその顔は。知らんのか」 「戦後、一度もお目にかかっていません」 「そういうものかな、男と女というのは。お前はあれに子を生ませたのだぞ」  堀越は思わず下唇を噛んだ。愛し合い、体を交え、そして消息のたえた歳月が過ぎた。かつての恋人が自分の子を生んだらしいと知った時は、お互いに別々の人生を歩んで遠い人になってしまっていた。 「まあいい。過ぎたことだ」  弥市は勝ち誇ったように言い、堀越をみつめた。 「子供は死んだそうですね」 「誰に聞いたのだ。誰がそう言ったのだ」 「なんとなく耳に入りますよ」 「ふん。なんとなくか。まあいいだろう。しかし、いい気分のものではないぞ。お前が規子に生ませた子供は、儂《わし》が育てていたのだ。あの物のない時代、どれだけ儂は苦労させられたことか。本当ならお前が背負うべき苦労だったのだぞ」 「申しわけないと思っています。あのあと私も必死になって探したのです。しかしとても生きているとは思えない状況でした。爆心地のすぐ傍《そば》なんですからね」 「生きていると知ったのはいつだ」 「三年前です。大二郎《だいじろう》君が芸大を卒業する年に、私をたずねて来たのです」 「大二郎……ああ、規子の下の倅《せがれ》だな」 「ご存じなんですね」 「なんとなくだ……」  弥市は皮肉たっぷりに言い、「あれたちの親を知っておるな」  と尋ねた。 「それが、大二郎君は何も言いませんので、しばらくは知らなかったのです。だがそのあとで律子《りつこ》さんの娘さんの公子《きみこ》さんが、大二郎君につれられて私の家へ出入りするようになり、彼女に教えられてびっくりしました」 「驚いたろうな。何しろ次の総理大臣の息子だ」  弥市は窺《うかが》うような目付になり、「しかし正妻ではない。可哀そうにあれは天童健策の二号で一生を終わるしかないのだ」  と言った。だが憐れんでいる気配はなく、むしろ誇っているように見えた。     2 「判っておる。儂にはお前が今考えていることぐらい、手にとるように判るのだ」 「何をですか」 「儂がこのように安楽に暮らしているのは、二号とはいえ、娘の亭主が今をときめく大物政治家だからだと思っているのだろうが。阿呆《あほう》め、逆だ。天童健策が次の総理大臣の椅子を狙おうというほどの政治家になれたのは、この儂がいたからなのだぞ。……そういえば、お前はこの儂をまた誇大妄想かなにかだと思うことだろうが、儂は正気だ。儂があの広島の炭屋を今日までにしてやったのだ」 「それは知りませんでした。しかし、それなら大した功績じゃありませんか」  堀越は焦《じ》れていた。相手は昔の湯平弥市とあまりにもかけ離れてしまっていた。長い歳月の間に積もり積もった思いのたけを、沁々《しみじみ》と語り合って詫びたり懐《なつ》かしんだりしたかったのだ。そうできると思い込んでここへやって来たのだ。  ところが言葉の調子が端《はし》ばしでことごとに行き違い、かどだって、心から言おうとする自分の言葉までが、裏に冷たい皮肉を帯びてしまうのだった。 「そうやってお前はせせら笑うように言うが、どれほど儂のおかげで浮かびあがれた人間が、いるのか判らんくらいなのだぞ」 「別にせせら笑うようなつもりはありません」 「ほう憤《おこ》るのか。しかし腹を立てる前に儂の言うことも聞け。お前の身近にも儂のおかげをこうむっている者がおるのだ」 「誰のことです」 「穂積だ。銀座の画商の穂積|一成《かずなり》だ」 「穂積さんが」 「そうだ。あれがやりたい放題の商売をできるのは、儂の金のせいだ。儂の金があの男をあれだけの画商に仕立てあげたのだ。別に穂積でなくてもよかった。儂はあの時は誰か一人、画商として一流に仕立てあげてやればそれでよかったのだ。たまたまそれが穂積だったわけだ。穂積は今では銀座では一流だろうが」 「銀座に限らなくとも、画商としては超一流ですよ」 「そうだろう。だから儂は穂積に金銭以外でも貸しがある。したがって穂積は儂の言うことなら何でも素直に聞かねばならんのだ」 「それでどうしてもあなたに会えと言ってきたわけですね」 「そうだ。多分、儂に逆らってくれるなと念のひとつも押したことだろうな」  堀越は黙っていた。そのとおりなのが不愉快だった。 「ところで儂が穂積の尻押しをしたわけは……」  弥市は急に前かがみになり、両肘を膝にあててのぞきこむように堀越をみつめた。堀越はなぜか背筋がぞくっとした。 「お前だ」 「私……」 「お前を一人前の絵描きにしてやりたかった。金は腐るほどあっても、しっかりした理由のある使い道となるとなかなかないものでな」  弥市は言い終わるとのけぞって哄笑《こうしよう》した。豪奢なサロンにその笑い声が反響した。 「まさか」  堀越の顔から血の気が引きはじめていた。 「まさかだと……まさかだと言うのか」  弥市はますます強く笑った。 「やめなさい」  堀越は立ちあがって怒鳴った。「なんだあなたは。昔の湯平弥市氏はどこへ行ったんだ。あなたは私の知ってる湯平弥市じゃない。なぜそう人を傷つけるのです。私は絵に自分の人生をうち込んできた。それは幸運もあっただろう。しかし、今の私を築いたのは私自身だ。穂積画廊とめぐり合わなくても、ほかの画商たちだって私を認めてくれていたはずだ。絵の世界にも金銭はつきまとっている。しかしそれだけじゃない」     3  湯平弥市は心得ていた。馬鹿笑いをやめると、いきりたつ堀越の顔をみつめて根気よく沈黙していた。怒りを発して大声を出した堀越は、やがてそのことを悔い、慚《は》じた。唇を噛んで椅子に戻り、表情を殺した瞳を見返しているうちに、真意を掴みかねる相手にしだいに気《け》おされて、おのれ自身に対する疑念にとらわれた。 「それはお前にも才能というものがあっただろう。絵のことは何も判らんが、それは認めよう」  弥市は静かに言った。 「だがな、そのお前の才能は本当にたしかなものだったのか。儂はな、以前、或る有名な年老いた詩人からこういうことを聞いたことがあるのだ。……どんなに自分でよく出来た作品だと思えても、この日本のどこかの家の机の抽斗《ひきだし》に、永久に他人の目に触れることのない、すばらしい詩の一節がしまわれていて、それに較べたら自分の作品など屁《へ》のようなものにすぎないのではなかろうかという疑いを、ついに生涯打ちけすことができなかったというのだ。所詮《しよせん》、自分の才能など、前へ出て踊ることでしかなかったようだと、その年老いた詩人は笑っておったよ」 「前へ出て踊る……」 「発表する才能という意味だろう。才能を人に認めさせる才能といってもいいな。儂もそれはたしかなことだと思う。絵を描く才能があったとしても、それを人に認めさせる才能がなければ陽の目は見ん。そのふたつは分けられんものだ。どちらが欠けても画家として世に出ることはできんのだ。ところでお前は絵の才能があると思っている。あることにしよう。いやたしかにあるのだろう。だがしかし、人にそれを認めさせる才能はあったかな。何万という絵描きの二軍選手の中から、掻きわけ掻きわけ前へ出て踊る才能は……」 「人生の運、不運でしょう、それは」 「運がよくて前へ出たのか、お前は。それなら儂がいたことがお前の幸運というものではないか。よく考えてみるがいい。儂がお前に対して働きかけはじめたのは、多分お前がまだ三十代のはじめのころのことだ。穂積に金を出しはじめたのは昭和三十五年だぞ。そのころ、お前はもう一家をなしていたのか。ええ、よく思い返してみろ。穂積画廊とお前は一緒に伸びてきたはずだ。それまでは柳画廊とかを相手にどんぐりの背くらべをしとっただろうが。儂はな、なんとかしてお前を一流にしてやりたかった。そのために穂積に金を出してやった。そればかりではない。お前についているコレクターとかいう者たちをよく調べてみるがいい。みな儂の縁につながる者だ。むろんお前は独《ひと》りでも世に出たかもしれん。しかしもし独力だったら、もっと時間がかかったかもしれんな」 「いったい私にどうしろというんです」  堀越は悲鳴をあげるように言った。弥市が創作活動について何も理解していないのは明白だった。少しでもそれについて知っていれば、絵を描き、物を創りだす人間にこれほど無残な言葉は吐けないはずだった。  この人物の戦後に何かがあったのだ。それがすべてを金で押しまくらせ、思いやりを奪い、今のような言葉を吐ける人間にしてしまったのだ。  堀越は耐え難《がた》い嫌悪に、あやうく席を立ってサロンを逃げ出すところだった。しかしそれをおしとどめさせたのは、弥市の言い分に恐るべき真相が垣間《かいま》見えたからだった。  古いコレクターの一人に、後藤一郎《ごとういちろう》という財界人がいた。後藤一郎は弥市のもう一人の娘、律子の夫だった。そしてあと二人の後援者も、たしかに後藤と何らかの縁がつながった人物たちだった。  堀越は、憤りと屈辱と、自尊と自嘲の激しく入れ替わる中で、額に脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませ、呼吸を荒くして高価な椅子に坐りつづけていた。     4  弥市は立ちあがり、堀越をそこへ置いたままホテルの前庭が見える窓際へ行った。 「芸術家という奴は、幾つになっても気が若いものだな」  からかっている様子ではなかった。率直《そつちよく》に感想をつぶやいているらしい。 「額に汗が浮かんでおるぞ。憤《おこ》ったのだな。たしかに今儂が言ったことは、絵描きのお前にとってはむごい言いようだったかもしれん。……そっちの身になればそういうものだろうな。しかし」  弥市は振り向き、「儂がそうしてしまったのだから仕方なかろう。過ぎたことを元へは戻せん。お前は儂に自分の子を育てさせた。そのうえ、本来なら儂に借りを返すべきところを、もうひとつ儂に助けられたのだ。お前にしてみれば余分なことだったかもしれんし、お前の出世に陰から手を貸したのなら、なぜ最後まで黙っていなかったのかと思うだろう。もちろん儂だとて黙っていてやるつもりだった。しかし考えを変えたのだ。……尋ねるが、お前はこのことを生涯知らずに終わりたかったか。たしかに儂の言いようは無慈悲だったかもしれん。傷ついたことだろう。だが、それでも知らぬよりはましだと思わんか。どうだ」と言った。  堀越は顔をあげて弥市を見た。窓際で逆光を浴び、表情が掴みにくかったが、なんとなく彼が素直な気持ちで言っているのが判った。 「聞いた今となっては、どうしても知るべきことだったと思います」  堀越は感情をねじ伏せて答えた。握りしめた掌《てのひら》が汗ばんでいた。 「そう思う……だろう。そう思うはずだ。だから儂はお前を呼んで、こうして教えてやったのだ。儂の身になって考えてくれられるかな。儂は今、こうすることが結局は正しかったのだと思っているのだ。儂には儂の立場がある。悩みもしようし、苦しみもないことはない。だから人の心が判らぬでもない。儂と別れたあと、お前は苦しむにちがいない。助けられたという口惜しさを吐き出し、もだえきったそのあとで、お前は自分をとり戻すのだ。助けられたことは、お前の中でそれで消える」  弥市は戻って来てまた椅子に坐り、最初の時とまったく同じポーズをとった。 「私が何を考えているか判りますか」  堀越が沈んだ声で言った。 「なんだ。言ってみろ」 「穂積氏に出資することで、あなたは私に貸しを作った。私の人生の荷をとりのけてくれたかわり、別な荷を背負わせたのです。そして今、急にその荷をとり除いてやるのだという。いったい、あなたは私にとって何者なのでしょうね。子供のこともあるし、遠くにいながら私の人生を支配しきっているようじゃないですか。もちろん、たしかにそのとおりなので、抗議する気はありませんよ。だが、おかげを蒙りすぎると、感謝よりはむしろ憎しみが湧くようです」 「そう思うか」 「ええ」 「それなら返してくれ」 「は……」 「返してくれ。今まで助けた分を返してくれ。そうすればその憎しみとやらも幾分消えるだろう。受けた傷も癒《い》えるかもしれん」 「どういうことです、それは」 「今度は儂を助けてくれ。助けが欲しくてお前を呼んだ。助けが欲しくて昔のことを話した。貸しがあることを知らせたのだ」 「なるほど。借りを返せというのですね」 「それがきのう穂積に届けた品物の意味だ。お前はどういうわけか、ああいった古代の物に興味を持っているらしい。それならば儂にとって願ったり叶《かな》ったりだ」 「たしかに火焔土器と遮光器土偶のふたつを受取りました。しかしあれとあなたを助けることとどういう関係があるんです」 「あれは儂にはもう用のない品だ、絵にでも何にでもするがいい。そのかわり、儂があれを掘り出した場所へ一緒に行ってくれ」 「あなたが自分で掘り出したんですって……いったいどこで」  堀越は眉をひそめた。 「今は言えん。だがあのふたつは同じ場所に埋《うず》もれていたのだ。縄文時代のあの遺物が、とほうもない謎をかくしているのだ。儂はもう一度あのふたつが埋まっていた場所へ行きたいのだ。そこには莫大な黄金が眠っている。それを掘り出したいのだ」 「黄金ですって」 「そうだ。お前はひょっとすると黄金には興味がないかもしれん。しかし古代の品には関心があるはずだ。儂は最近になってお前がああいう古代の品の絵ばかり描くことを知ったのだ。お前には大きな貸しがある。そのうえお前は儂の身内同然の男だ。黄金となればおいそれと他人を信用するわけにはいかん。ぜひ助けてもらいたい。黄金の発掘に協力してほしいのだ」 「夢のような話ですね」  堀越はふたつの縄文遺物を思い泛《うか》べながら言った。湯平弥市が不可解でならなかった。新しく何かの罠《わな》をかけているのではなかろうかと思った。 [#改ページ]   5 酒を飲む夜     1  堀越は送られて来たときと同じセドリックで帝都ホテルをあとにした。運転しているのは穂積画廊の社員だった。  画廊の社員は出版社の編集部員と芸能プロダクションのマネージャーを合わせたような性格をもっていて、その堀越を担当する男は、時には個人的な秘書役まで果たして、親しい間柄になっている。 「僕はちょっと穂積さんに会う用事ができた」 「じゃあ銀座ですね」  車はお濠ばたを日比谷《ひびや》に向かっている。 「まだ陽《ひ》が高いな」  酒を飲むことになる……堀越は今夜の自分をそう予測していた。  男は弥市と会ったあとの堀越がひどく不愉快な顔をしているので、気にしているらしかった。 「どういうことだったんですか」  たまりかねたように言う。堀越は苦笑してみせた。 「別に悪いことじゃない」 「それならいいんですが、なんだか心配だなあ……まああとでゆっくり聞かせてください」 「言うほどのことでもないよ」 「どうでした、湯平さんの印象は」 「あの人とは古い知り合いなんだよ。戦争中からのね」 「ほう、そうだったんですか」  弥市と堀越のことを、その男は本当に何も知らないらしかった。穂積と弥市の関係が、さっき帝都ホテルで聞かされたとおりだとすると、穂積は自分の部下たちにも口をとざしとおしてきたらしい。いかにも律儀《りちぎ》な穂積らしく、それが幾分か気を楽にさせた。 「広島の人だ。終戦の年、僕も広島にいたんだ。湯平さんには娘さんが二人いてね。一人は山口のほうにいたんだが、もう一人のほうは例のあれに……」 「原爆でやられたんですか」 「八月六日、その人は広島の立町というところにいたんだ。爆心地とは目と鼻のさきだった」 「お気の毒に……」 「いや、そうじゃないんだ。僕もてっきり亡くなったと思っていたんだが、これが元気でいたんだな」 「へえ、それは奇跡的ですね」 「そうでもない。そりゃたくさんの人が死んださ。でも、生き残った人もずいぶんいたんだ。僕は直後に湯平さん一家を探して爆心地近くをうろつきまわったもんさ。君たちはきれいに根こそぎやられたと思い込んでいる傾向があるが……」 「そうなんですか。人間てのは死なないもんなんだなあ」 「そうだ。立町の辺りではこんな例があるよ。福屋《ふくや》デパートというのがあるんだがね……これは有名な話だから知っているかも判らんが、あの直後に分娩した女性がいるんだ。被爆のショックで出産したんだよ。当時、立町の平和公園寄りの所に難波《なんば》病院という広島一の病院があってね。その病院から百五十メートルほどの所に福屋、そしてその間にゴミゴミした小さな家が並んでいたんだ。まあ、スラムといってもいいかな。問題の女性はその病院の裏の家で被爆したんだが、大きな難波病院の陰に当たっていたので生きのびたんだ。産気づいてすぐ福屋の地下に運ばれ、そこで子供を生んだのだ。だから全滅したわけじゃないんだ」 「すると湯平さんの娘さんも、たまたま何かの陰にいて助かったんですね」 「そうらしいな。しかしなにしろめちゃくちゃな混乱だ。とうとう僕にはみつけられなかったよ。……難波病院はなくなったが、福屋というデパートは今もある。湯平さんたちが住んでいた辺りは、飲み屋やキャバレーが並んですっかり変わってしまったが、ごたごたと細い道が入りくんでいるのは昔どおりだ」 「そんな古いお知り合いだったんですか」 「あれ以来だ。戦後一度も会ってはいなかったんだよ」  男はそう聞いて勝手に会見の内容を想像したらしく、安心したように何度もうなずいていた。だが堀越は穂積に対する気の重い質問をかかえていた。車は日比谷通りをすぎた。     2  穂積画廊では堀越の顔見知りの、同じ光水会《こうすいかい》に所属する新進画家が個展をひらいていた。ちょうど初日で、かなりの客がいた。 「やあ、これはこれは」  若い画家は堀越が入って行くと、嬉《うれ》しそうに大声をあげて近寄って来た。見に寄ってくれたものと思い込んでいる様子だった。 「盛況だね」 「堀越さんがお寄りになるとは光栄の至りです」  若い画家はドスキンのダブルを着て、いかにも気負った風情《ふぜい》だった。穂積画廊で個展を開ければ画家として一応の成功ということになっている。 「家内です。こちら堀越正彦さんだ」  画家はドレスアップした美人を呼び寄せて紹介した。 「主人がいつもお世話になりまして……今後ともよろしくお願いいたします」 「そうだ、大木昭夫《おおきあきお》や犬飼良夫《いぬかいよしお》も来ているんですよ。……おい、大木。堀越さんだぞ」  堀越と大声で言ったので、ほかの客たちもいっせいに視線を動かした。どこかの美大生らしい娘が二人、堀越たちの傍へ寄って来て、憧れるような熱っぽい瞳《め》で見守っていた。 「どうもごぶさたしてます」  呼ばれた二人の仲間が交互にそう言った。  いつもなら、そう悪い気分のものでもなかったが、今日は違っていた。……これが湯平弥市のおかげなのか。そう思うと居たたまれない恥ずかしさを感じた。 「生意気に会期に間に合わなくなってしまいまして、点数を揃えるのにあわをくいました。駄目ですねえ、僕らなんかは。怠け者だからいざというとき結局恥さらしになってしまう……」 「堀越さんに言いわけしたってだめだよ。ねえ堀越さん」  仲間の肥ったほうがそう言った。堀越はゆきがかりで、並んだ絵を眺めながら、そういう若い画家たちのやりとりを聞いていた。  この若さがあったら、もう十年若かったら、弥市の援助などもののみごとに蹴とばして、自分自身の力で一流の地位に辿《たど》りついてみせるものを……。そう思っていた。  同時に、若く気負った画家たちに言いしれぬ恐怖をも感じている。堀越正彦の地位は実力ではなかったのだ。それを彼らに見抜かれた時、画家としての自分に、いったいどういうことが起こるのだろう。  画壇の中央から志なかばで去っていった多くの画家を彼は見てきた。画壇の片隅で夢を見つづける老人たちを知っている。……その仲間に入れというのか。  嫌だ。絶対に嫌だ。堀越正彦は湯平弥市の手で作られた画家ではない。俺は俺自身が作りあげたのだ。こんな青臭い絵など、俺のどの作品と並べても一度でかすんでしまう。こいつらと同じ年輩のころ、俺はすでに較べものにならないような立派な絵を描いていたのだ。穂積一成がそれを証明するはずだ。そして俺の絵の絶対値がゆるぎないものであることを証明してもらわなくてはならない。  堀越は次の壁をまわって男たちから離れたのをしおに、身を翻《ひるがえ》すようにして足早やにオフィスのドアへ向かった。 「社長は……」  オフィスへ入るなり堀越は若い女にそう尋ねた。 「あ、いらっしゃいませ。社長は二階ですが」 「そう」  堀越はその部屋の奥の螺旋《らせん》階段を登って行った。  二階は広い応接間兼社長室になっていて、白布をかけたカンバスや、平たい箱が積みあげてあった。 「穂積さん。話があります」  穂積はデスクから顔をあげ、予期していたように苦い笑《え》みを泛べた。     3 「たしかに一流ではなかった」  穂積は言った。「僕は画商として伸び悩んでいた。自分の力には自信があったが、資力が限界にきていた。画商として後世に残るような仕事をしたかったが、君も知っているとおりわれわれには金が要《い》る。かといって儲けに走ってばかりいては大きな仕事などできるものではない。そこへある日、湯平弥市という人物が現われたのだ。湯平弥市はとほうもない資産家だった。しかも、地方の資産家によくあるタイプだが、あり余る金で中央の文化的な事業に関係したがっていた」 「だが、あの人物は絵など判る人物ではないでしょう」 「僕もたしかにそう思った。しかしそれは僕の立場からいって問題にならんよ。僕は資金が欲しかった。向こうは金を使わないかと誘ってきていた。一も二もないじゃないか」 「だが条件があったわけですね」 「ひとつだけ……君だ」 「そのころ……昭和三十五年ごろ、あなたは僕の存在を知っていましたか」  堀越は相手をくい入るようにみつめて尋ねた。祈るような気持ちだった。 「湯平さんに名前を言われてすぐ思い出したよ」 「思い出した……」  堀越は繊細な神経の持主であるはずの穂積が、今日に限ってとほうもなく鈍感になっているような気がした。堀越がどんな思いで尋ねているのか、まるで判っていないようだった。 「うん。すぐ思い出したよ」  穂積はそれまで自分の絵を認めていなかった。ただ画商として名前を憶えていた程度なのだ。そう思うと堀越は地の底へ引きこまれるような気分になった。 「たしかあれは、柳画廊さんで個展をひらいたばかりのころだったな。今でこそ穂積画廊といえば柳さんあたりでも一目置いてくれるが、あのころの僕はまず柳さんが当面の目標だった」  穂積はふと昔を懐かしむ表情をのぞかせた。  そうか。画商は絵を売買する商人にすぎなかったのかと、堀越はあらためてそう認識し、絵描きと商人の距離の遠さに呆《あき》れる思いだった。 「それであなたは僕を拾ってくれた……」  堀越が言うと、穂積はこの十年来示してきた理解者の顔になって、慌《あわ》てて手を振った。 「拾ったなんて言わんでくれ。僕はね、それから君を研究したんだ。大事な出資者の申し出でもあるし、画商としてそういう人に損をさせるわけにはいかんからな。もし君が僕の見たところ、具合が悪い画家だったら、あの画家はおよしなさいと、はっきり湯平さんに断わっただろう。だが君は僕にそうさせなかった。大物だった。僕は湯平弥市という人を見直す思いだった。柳さんだって、まだ君の真価には気づいていなかった。それをあの素人《しろうと》然とした人が応援しようと言うのだ。いったい何者なんだろうと思ったよ」  穂積はそういえば堀越が機嫌を損《そこ》ねるはずがないと確信しているようだった。「君は幸運な画家だと、つくづくそう思ったものだ。ちょうど君が放っておいても伸びはじめる時期に、あんな強力な陰の後援者が現われたんだからなあ。そりゃ幸運だよ。羨ましいくらいだった」  堀越は耳をふさぎたかった。せめて、弥市が出資する前、すでに穂積たちに才能を認められていてほしかった。だが、穂積は堀越がもっとも神経をとがらせている部分に、手ひどい真実を叩きつけて何も気がついていない。「ずいぶんあとになって知ったんだが、古いおつき合いなんだそうだね」  堀越は黙って答えなかった。無意識に、左の人差指の爪を噛んでいた。 「そうそう。湯平さんは、けれどやっぱり素人だったんだよ。こんど君に急に会う気になったわけというのが、君の絵を見たからなんだそうだ。……今まで見てなかったんだね。古代の土器や土偶などを君はよく描いているだろう。それで火焔土器などをプレゼントする気になったらしい。君の絵をろくに見もしないで後援してたことになるじゃないか。変な人だ」  穂積は笑ったが、唐突《とうとつ》に立ちあがって出て行こうとする堀越の様子に驚いてその笑いを消した。 「どこへ行くんだい」 「酒を飲みに」 「まだ四時じゃないか」 「バーが開店するまで歩いて頭を冷やしてますよ」  堀越は捨て台詞《ぜりふ》のように言った。     4  俺はやはり湯平弥市に作られたのか……堀越は歩きながらそう思った。穂積に言ったとおり本当に歩きまわり、何軒も行きあたりばったりに喫茶店へ入ったりしていた。  一ヵ所にじっとしていることができなかった。同じ場所にいると辛《つら》さがつのり、移動していれば幾分かは紛《まぎ》れるようだった。  たしかに自分には才能があるはずだ……プロの絵描きとして充分やってゆける才能だ。しかし、弥市の言ったとおり、才能を認めさせる才能ということになると、まるで自信がなかった。誰かが引きあげてくれぬかぎり、永久にアマチュアかセミプロの域であえいでいたように思える。  絵で食ってはいけたかもしれない。しかし現在の立場に独力で辿《たど》りつけたかどうか、それは疑問だった。  本当の作品と売り絵を区別するケースがある。……あれは売り絵として描いたものだから、といえば、仲間うちではそれで判ってもらえるものがあった。しかし、堀越は売り絵と自分の精いっぱいの作品を早くから区別しないで済んだ数少ない画家の一人だ。描くはしから売れた。どんな実験的な作品でも、穂積やコレクターたちが好意的に処理してくれた。  自分がどこか高い場所からつまみあげられていた証拠だ……堀越はそれを、首筋をつかまれ、より有利な場所へ移される小猫のように戯画化して考えている。  才能を認められる。力のあることを認められる……結構なことだ。だがいったい認めるのは誰だ。誰に認めてもらいたいのだ。大衆か……いや、大衆は絵など買いはしない。絵を買う多くの者は投機、もしくは投資としてだ。本当に好きで部屋に置き、眺めていられるのは、それこそ選ばれたごく少数の人間でしかない。 「そんなこと言ったって判ってもらえっこないよ。うちの部長はね、そういうことは好きじゃないんだ」  築地に近い喫茶店のとなりの席で、サラリーマンがふたり、熱心に仕事の話をしていた。  彼らも判ってもらいたがっている……認められたがっているのだ、と堀越は思った。いずれ彼らももっと出世するだろう。課長になり、部長になり、重役の仲間に入るかもしれない。だがそれは果たして彼らの実力でなのか。それとも、誰かに認められ、引きたてられてのことなのか。  堀越は伝票をもって立ちあがり、暗くなった通りへ出た。  背の高い彼の姿は、認められたがっているサラリーマンたちの、家路を辿る列にまじって銀座へ向かって行く。  ネオンサインが派手《はで》にともって、夜は華やかに始まっていた。堀越にはそれがひどくうつろに感じられ、そのくせ華やかな光の下だけが、唯一の逃げ場所のように思えるのだった。  なぜまっすぐ帰らない。なぜ酒を飲みに寄り道をするんだ。……堀越は心の中で、前後左右のサラリーマンたちにそう問いかけていた。  自分の絶対値を求めているのかもしれない。堀越はふとそう感じた。飲んで、酔って、そこで得られるものは認められる必要のない自分自身ではないだろうか。どの世界へ移しても、それだけは不変の、人間としての値打ちを確かめようとしているのではないだろうか……。  誰もが支配されているのだ。誰もが力の強い連中からつまみあげられたがっているのだ。だが、自分は絵描きだ。芸術家だ。弥市や穂積の庇護を受けて、それで満足してはいられないのだ。なぜ俺をつまみあげた。なぜ実力のままに闘わせてくれなかった。俺は偽せ者だ。玩具だ。絵を描くペットだ……。  夜になった。 [#改ページ]   6 濡《ぬ》れたピーナッツ     1  飛騨《ひだ》の民家を思わせる重厚なつくりの店だった。  高い天井にかなり濃い煙が這《は》っており、それは店内の三ヵ所にある囲炉裏《いろり》から立ちのぼったものだった。  店は三つの小間に仕切られ、それぞれの中央に囲炉裏が切ってある。炭火の入った囲炉裏を前に、きりりとした表情で、裁着《たつつけ》をはいた男が胡坐《こざ》している。  小間の三方の三和土《たたき》には床几《しようぎ》が並べてあり、客はそこに坐って酒を飲んでいる。薄縁《うすべり》を敷いた小間の上には、皿、小鉢、徳利《とつくり》に盃といった小物が、ずらりと並んでいた。  客は小間の上の裁着の男にときどき酒肴《しゆこう》を注文する。男は魚を焼き、酒をぬくめ、それを器用に長い木のへらを扱って客の前に置く。男の背後には客用の器《うつわ》類に混《ま》じって、まんざら模造品でもなさそうな刀や槍が飾ってあり、客はなんとなく地方の豪族の屋敷で振舞いをうけている感じになる仕組だ。 「昔の絵描きというのは或る意味で幸せだったな」  美術評論家の梶岡大介《かじおかだいすけ》が、益子《ましこ》焼の大ぶりな盃を薄縁の上へ置いて言った。 「どうしてです」  長髪で、米軍のブッシュ・ジャケットを羽織《はお》った若い男が梶岡の顔を見た。 「昔の絵描きの卵は描いてばかりいられなかった。食うために工場で旋盤をいじったり、区役所の戸籍係をしたりしていた。昼間は絵とまるで関係のない仕事をしなければならなかった。だから家へ帰ると夢中で自分の仕事に打ちこめた。制作意欲を集中して吐きだしていた。ところが今は、広告といううまい仕事がある。絵描きの卵はかんたんにデザイナーに化けて広告代理店に入ってしまう。それで結構食うだけ以上の金がとれる。制作意欲も適当に発散させている。そして夜になると麻雀をして酒を飲んでテレビを見て寝てしまう。胡麻化《ごまか》されてしまうんだな。食えるが修業はしにくい。ついアイデア本位になる。手がおろそかになる」 「なんだ、お説教ですか」 「違うな」  梶岡は憐れむように若い男を眺めて酒を飲んだ。「君たちはむずかしい時代に生まれたということさ。いくらでも遊ばせてくれる。能書きも言わせてくれる。昔より自由だが、僕は決して羨ましいとは思わない。……大変だね、君たちは。自己規制をしないかぎり、ほかからは何もしてくれない。こういう時代にみっちり基礎を作る人間というのは、よほど意志が強いんだろうな。僕なんかとてもとても」  梶岡は長髪の男を突き放すように首を振った。 「梶岡さんの言うことも判るような気がしますが、僕らは僕らなりに道をみつけますよ」 「そこさ。自分で道をみつけるんだから大変だよ」 「そりゃたしかに、たとえば堀越さんの基礎の力なんてのは見ならわなきゃいけないと思いますよ。でもね、堀越さんだって昔の画家にくらべればはるかに要領がいいんじゃないですか。梶岡さんはそうおっしゃるけど、僕らのテキストになってるのは堀越さんの世代……つまり梶岡さんたちの世代じゃないですか。僕らから言わせてもらえれば、あんな処世術は嫌だな。体制に癒着《ゆちやく》してますよ。コレクターに恵まれて、一流の画商とつながって……絵は大衆のものであるべきでしょう。堀越さんがどんな立派な絵を描いたって、庶民が買えますか」  梶岡はむっとしたように酒を呷《あお》った。 「君は堀越正彦の弟子じゃないのかい」 「もうやめました。一年ほど行ってません」 「何かまずいことでもあったのか」 「いいえ」 「なんとなく自分から弟子《でし》をやめたわけか」 「大学だって行かなきゃ自然にやめられますよ」  梶岡は憮然《ぶぜん》として徳利を傾けた。 「ゴッホもルノアールもレンブラントも、庶民の手には入らん。でもそういう絵はみんなのものだ」 「エリートは劇場へ行き、大衆はテレビでCMと一緒に見ろというわけですね」 「いったい君自身はどうする気だ。絵描きになるのかならんのか」 「なりたいですねえ。でも堀越さんみたいな画家は嫌だな。もっと大衆のために……」 「世の中を変えてからか。それじゃ寿命が足らんさ。絵を描くのは個人的な作業だよ」 「でも穂積画廊みたいなところと手をつなぐのは許せない。あそこは絵を投機の対象にしてしまった元凶じゃありませんか」 「そう言いながら君は自動車や化粧品の広告を作って給料をもらってる」  梶岡は酒のかわりを命じた。     2  梶岡のとなりの三人づれが席を立って帰っていくと、絣《かすり》の着物に赤い前掛けをした女中が、手早く器をさげに来た。 「やっと空いたか……」  女中が器を盆に並べているうしろで、徳利と盃を両手に持って、佐々木|義章《よしあき》が大声でそう言った。 「向こうの席からこっちへ移るからね」  佐々木と並んで、同じように両手に徳利と盃を持った若い男が、柔らかい物腰で女中に断わっている。 「やあ」  米軍のジャケットを着た長髪の青年が軽く言った。佐々木の連れと画家志望らしいその青年は、驚くほどよく似ていた。 「やれやれ、兄弟がふた組か」  新来の二人が席につくと、梶岡はそう言って苦笑した。佐々木は梶岡に一杯つぎ、 「これが兄貴だ。絵描きになり損ねて評論家をやってる」  と言うと、青年は立ちあがって慇懃《いんぎん》に頭をさげた。 「大二郎の兄の湯平雄一郎《ゆひらゆういちろう》です」  梶岡は盃を唇に当てたまま意外そうに眺め、あわててその盃をおろすと、 「どうも、梶岡です。……なんだ君は、兄さんとまるで違うんだなあ」  とブッシュ・ジャケットの大二郎に言った。 「まったくおかしなもんだな。顔はそっくりなのに一人は戦前派風、一人はヒッピー風……」  佐々木は腰をおろした雄一郎にもついでやりながら笑った。 「ちえっ、やりにくいのが来やがった」  大二郎は半ば本気で舌打ちをしている。 「噂には聞いてたけど、それにしても似てるねえ。そっくりじゃないか」 「小さいころは母でさえ間違えたそうです」 「ということは、どっちが後天的なんだい」  佐々木が雄一郎に尋ねた。 「さあ……」  雄一郎は控えめな微笑をした。 「そりゃ兄貴ですよ。彼はお袋べったりに育ったんです。そのぶん僕は好き勝手ができたんです。ありのままに育ったのは僕で、兄貴はお袋に飼育されちまった……」  大二郎が冷たい言い方をした。 「一卵性双生児でもこんなに差ができるもんなのかね」  梶岡が佐々木ごしに首をつきだして雄一郎の顔をのぞきこみながら言った。 「先生は、先輩とどうして違うお名前なんですか」 「いや、これはペンネームです」  梶岡が答えた。 「ところで先生よ」  佐々木が言った。「俺、ひょっとすると中央新報を遠からずやめることになるかもしれねえぜ」 「それはまた……」 「妙なことにひっかかっちまったのさ」  佐々木は淡々とした様子で言い、すぐ声を低くした。 「世の中にはブン屋が触れてはいけない人間がいるらしい。いや、いるのさ。俺が調べはじめたら、だんだん上のほうがおかしな態度になってきやがった」 「なんだ、汚職か」 「それもあるかもしれない。そいつを調べると汚ねえいろんなものがゾロゾロ出てくるんじゃねえかと思うんだ」 「面白そうじゃないか。やれよ」 「それが面白くねえんだよ。なあ……」  佐々木は相槌を求めて雄一郎を見た。雄一郎は黙ってうなずく。 「何だ、圧力がかかってるのか」 「いや、まだはっきりしない。しかし、デスクから何から、みんな妙なそぶりになってる。こんなことは今まで一度もありはしなかった。このまま突っ込んでいけば、俺はきっと何かにぶち当たる。その時が見ものさ。俺はひょっとすると寄ってたかって叩きのめされるかも判らない」 「どういう人物だ、それは」 「栗栖重人《くるすしげと》」 「聞かない名だな」 「兄貴に堀越画伯を紹介してもらったのは、そいつの家を張り込んでみたかったからなんだ。だが、社じゃ俺に、なんかそれをさせまいとしてるみたいなのさ。堀越さんの所で張り込むんだって自分の時間を使ってるくらいだ」 「中央新報あたりにそんな反応をさせる人物なんているのかね」 「だろう。そう思うだろう。だからやってるんだよ。勤めを棒に振っても、こいつだけはやってやる。でも今のところ味方はこの湯平君だけなんだ」 「若い人を危ないことのまきぞえにするなよ」 「なに、この雄ちゃんは天童健策の身内だ。馘《くび》になんかなるもんか」     3  その店のあと、佐々木は四人でもう一軒まわろうと言った。しかしまず湯平大二郎が断わった。どうやら兄の雄一郎と一緒では嫌らしかった。梶岡大介も頼まれた原稿の締切りが明日だからと言って帰っていった。 「畜生。それならあいつらの縄張りを荒らしてやれ」  佐々木は陽気にそう言って、四谷の通りへ出るとタクシーをとめ、雄一郎と二人で六本木へ向かった。 「君の弟さんはなかなかの拗《す》ね者らしいね」  車の中で佐々木が言った。 「逆《さか》らっているんですよ。昔からあんな風だったみたいに言ってますが、比較的最近になってからなんです。やはり天童とつながっていることが嫌なんでしょう。学生運動なんかやったりしていても、天童と知れると白い眼で見られがちだったそうですからね」 「でもそれはお母さんまでのことだ。君の代には関係ないだろう」 「そうでもないですよ。現に僕が中央新報へ入《はい》れたんだって、天童健策の存在があったからでしょう」 「そう自分をいじめるもんじゃない。君は実力で入ったんだ。中央新報ともあろう大新聞が、そうそうコネや何かで……」  すると雄一郎はおしかぶせるように言った。 「そうでしょうか。だったら栗栖重人のことでどうして圧力がかかるんです」  佐々木は言葉につまったらしく、ハイライトをとり出して火をつけた。車は青山通りを横切ろうとしている。 「さっきお兄さんに言ってたのを聞いてましたが、佐々木さん今夜はおかしいですよ。あれは空《から》元気みたいだった。僕らの状況はもっと悪いほうへ進行してしまっています。上のほうはみんなで僕らを抑えにかかっているじゃないですか。……やれるところまでやってみて、それで駄目ならおしまい。そういう挫折を予期した空元気なんて僕は嫌ですよ。僕は僕なりにこんどの件に賭けてるんです。大二郎が逆らっているのと同じように、僕だって一方的に庇護してくれている力からぬけ出したいんです。栗栖重人という謎の人物は、ひょっとすると天童健策あたりの政界首脳にまでつながっているかもしれないがどうだ、とあなたが言ってくれた時、僕は本当に救われたような気がしたんです。新聞記者として父と対決できたら、僕ははじめて一人の男としてこの社会に存在できる……そう思ったんです。大二郎を見てください。彼は精いっぱい抵抗しているつもりでいますが、彼のいる広告代理店は父のコネで大きなスポンサーを幾つか手に入れているんですよ。彼はそれを知らされてない。妾《めかけ》の子でも天童健策につながれば、今やそれほどの利用価値が出てしまっているんです」 「驚いたな。そんなことはじめて言うじゃないか」 「自分の猟場を持って自分の力でけものをたおし、その獲物をひきずって妻や子のいる自分のすみかへ帰る……今さらそんな原始人同様の生活ができる場所はないでしょうが、この大都会をジャングルと見れば、同じことができるはずなんです。僕はそうしたい。誰のおかげも蒙《こうむ》らずに生きてゆきたい」 「酔ったな、雄公」  佐々木はなぜか淋しそうに笑った。「そいつはむずかしい。強力なバックがあるのに贅沢を言ってるとは言わんよ。気持ちはよく判る。多かれ少なかれ、男はみんなそこからはじまる。でも、ほとんどその志は挫折する。俺なんか性《しよう》こりもないほうさ。雄ちゃんは挫折を予期する戦いは嫌だというが、俺だって好きこのんで予期してるわけじゃない。だが一人じゃ生きられんのだよ。たとえば山で遭難してみろ。頼まないのに救援隊が来る。助けられたら一生の借りだ。だったら登らなきゃいいんだが……」     4  それは美術関係の客がよく集まる店だった。昭和二十年代のおわりから三十年代にかけてよくあった、名曲喫茶といった雰囲気のバーで、板ばりの床に、背もたれの高いソファーを向き合わせた席が、入口から奥へ一直線に並んでいて、その横に高いスツールを並べた長いカウンターが伸びている。  経営者は元美術雑誌の編集長で、ときどき手伝いにカウンターの中へ入る末娘は、いま売れっ子のモデルだった。自然、カメラマンや画家、それに末娘の仲間やそのとりまき連がよく出入りする。  シェーカーを振る若いバーテンの横で、蝶ネクタイをしめた元編集長のマスターが、カウンターごしに堀越正彦に言った。 「そんなに酔ったあんたを見るのは久しぶりだよ」 「俺はね……」  堀越はソファーにもたれ、グラスを持った左手を突きだして、「梶岡大介に会えるかもしれないと思って来たんだ。そしたら、こんなブン屋がいやがった。知ってるか、これ……梶岡の弟さんだ」 「おやそうだったんですか。似てらっしゃいませんな」 「そうさ。こっちのほうがずっといい男だ。あんなかぼちゃ頭の能書き野郎とは大違いだ」  酔った堀越が大声で言うと、梶岡を知っているらしい客たちが笑った。堀越はそれに気づいた様子もなく、佐々木に言った。 「でもな、あいつはいい奴だ。俺は今夜|無性《むしよう》にあんたの兄さんに会いたかったんだ。昔っからそうだった。嫌なことがあるとあいつの顔がみたくなった。……でも奇遇だよ。ほんとに奇遇だ。わが弟子湯平大二郎の兄があんたの部下だったとは」 「部下じゃないですよ。パートナーですよ」  佐々木もだいぶ酔った様子だった。ウイスキーの水割りが何度もこぼれて、黒い小さなテーブルの上はほとんど水びたしだった。水たまりにピーナッツがころがっている。 「兄貴に言ってくれ。俺はもう絵を描きたくないって」  カウンターの中で、マスターがスツールの客に低声《こごえ》で言っている。 「珍しいんですよ、あんなに酔うのは。昔はずいぶん無茶をしたんだけど……疲れてるのかなあ。まあこの店なら仲間の家みたいなもんで心配ないけど」  客は首を傾《かし》げている。 「中堅というより、今や大家の仲間入りをしかけている人だからね。出たてのころとか、あのくらいになった時とか、とにかく曲がり角の時は大変なんだろうな」 「でも、彼なんかはもう指定席をとったようなもんだから」  ……佐々木は舌打ちをして火の消えてしまったハイライトを灰皿に押しつけながら、 「絵描きが絵をやめて何をするんです」  と言う。堀越は雄一郎をじろじろと眺め、 「地べたを掘るのさ。ここ掘れワンワンの金《きん》さがしにでも行くよ」 「金さがし……面白そうだな。新聞社を馘《くび》になったら連れていってもらおうか」  佐々木は雄一郎に言った。 「金さがしって、どこへいらっしゃるんです」  雄一郎は真顔だった。 「莫迦《ばか》だなあ、冗談にきまってるじゃねえか」  佐々木が笑う。 「冗談……冗談なんかじゃないぜ。どこだか知らないがとほうもない黄金が埋まってるという伝説があるんだ。俺はその爺さんの片棒かつがされるんだよ」 「やだな雄ちゃん。本気みたいだぜ、この先生は」 「本気さ。誰のものでもない黄金を掘り出せば、もう天下にこわいものなんかなしだ。誰の世話にもならず一人で立派に生きてゆけるぞ。金を探し当てたら、また俺は絵に戻るかもしれない。一からやり直すんだ」 「それはいい。それはいいことだ。そしたらこっちは二人で新聞社をやる。なあ……」 「よし、お前らもつれてってやる」 「夢みたいな話ですね」  雄一郎は醒《さ》めた顔でつぶやいた。 「なんだ、おい湯平雄一郎。雄一郎とかいったな」 「はい」 「お前だって、まんざらこれに関係ないわけはないんだぞ」 「どうしてです」 「その黄金伝説を知ってる爺《じじい》っていうのは、お前のおじいさんだ。湯平弥市って糞じじいだ」  雄一郎は唖然として堀越をみつめていた。 [#改ページ]   7 ベランダの客     1  モデルのヘレン・土屋……香取公子は、キッチンで紅茶の用意をしていた。胸へ深く切れこんだVネックの秋物のセーターにパンタロンをはき、白い頸《くび》に短いスカーフをまいている。前かがみになるとバストの膨《ふくら》みが半分以上|覗《のぞ》けた。  それが体を折ってハッチから首をだし、椅子に坐って着いたばかりの端書《はがき》を読んでいる堀越に声をかける。 「女名前らしかったけど、お安くないのね」  堀越は顔をあげ、 「莫迦《ばか》、ラブレターが端書で来るものか。それよりなんだ、おっぱいが丸みえだぞ。僕ならいいが佐々木君だったら目をまわす」  と苦笑した。 「見たな……」  公子は照れかくしにおどけて言い、慌《あわ》てて首をひっこめた。すぐに紅茶の道具をそろえて出てくる。 「やっぱりブラジャーしなきゃ駄目かしら。ついうっかりしちゃうの」 「ノーブラでいたかったらセーターを変えるんだな」 「誰からなの」 「これか」  堀越は端書をテーブルの上に置き、パイプをいじりながら答えた。 「個展の案内状だ。くだらん……それより彼を呼んであげなさい」  堀越はぼんやりとポットをとりあげながら言った。公子は東側のベランダにいる佐々木を呼びに行った。 「お邪魔します」  佐々木が言った。ぼんやり考えこんでいた堀越は我に返ってポットを持ち直した。 「どうぞ」 「今日はゆっくりなんですね」  佐々木は椅子に腰をおろしながら、公子にそう言った。眩《まぶ》しそうな顔だった。公子はなんとなく胸もとに手を当てながら、 「今日はお休みなんです。遊びに来ただけ」  と答えた。 「しばらく来なかったじゃないですか」  堀越は紅茶をつぎながら言った。 「いや、あの晩は参りました。翌日はてきめんに二日酔いで、それから二、三日は仕事で手が空《あ》きませんでしたし」 「あら」  公子は二人をかわるがわる睨《にら》んで、「あの晩、佐々木さんと飲んだわけ……」  と言った。 「そうなんですよ」 「あの翌朝、私ここへ来ちゃったの。ひどいざま……」 「よせ、いいよ」  堀越は閉口したように言う。 「臭いの……先生ったらアトリエでゲロ吐いたまんま寝ちゃってるんですもの」 「お喋《しやべ》りだな、君は」 「だってお掃除《そうじ》させられたんですからね」 「君が勝手にしたんだ」 「それは大変でしたね」  佐々木は堀越へとも公子へともつかずに言った。 「年に一度ぐらいはああいうこともあるさ」 「でも面白かったですよ、黄金伝説の話は。お前のおじいさんだ、って言われた時の彼の顔ったらなかった。堀越さんも人が悪い」 「いや、本当なんですよ、あれは」 「まさか」 「この間お見せした土器と土偶に関係してるんですよ」  堀越にそう言われて二人は顔を見合わせた。     2 「すてき、ロマンチックだわ。私そういうの大好きなの。この縄文時代のふたつの遺物が、どこかの埋蔵金の謎を解く鍵《かぎ》ってわけね」  公子は土器と土偶をテーブルの上へ置いて燥《はしや》いだ。 「堀越さんは信じていらっしゃるんですか」  佐々木は堀越をみつめながら言った。  微《かす》かにからかうような表情が泛んでいたが、悪意といったほどのものではなく、一緒に悪戯《いたずら》を愉《たの》しもうとしているようだった。 「どうなんですかね」  堀越は軽く失笑しながら答えた。かなり自嘲めいていた。しばらく土偶を撫《な》でながら考え、「信じてはいないでしょう。こういう街のまん中に住んで、ジェット機の音や車の排気ガスにかこまれている人間は、誰だって信じやしないでしょう。しかし、信じてみたい気になりはしませんか」  と佐々木は逆に尋ねた。 「そうですねえ……」  佐々木は椅子に戻り、ハイライトを抜きだして火をつけた。堀越も公子も腰をおろした。紅茶がぬるくなりかけている。 「信じたら楽しいでしょうな」  佐々木は吐き出した煙を目で追いながら言った。 「信じちゃいましょうよ。行きたいわ私」  公子は二人の男の話のなりゆきに期待して、瞳を輝かせている。 「考えてみれば、我々は黄金伝説のようなものから遠ざかりすぎているんではないでしょうかね。みんな小利口《こりこう》なリアリストになってしまって、コストがどうのマージンがどうのと、損得勘定の折り合いがつかねば動かない。だから黄金伝説のようなものを信じて出かけるのはひどく間の抜けたことに思えてしまう」  堀越はそう言い、ひどくしんみりした表情になった。 「白状しますとね、実はこの間の晩、僕は反省させられていたんですよ。絵描きには絵描きの黄金伝説みたいなものがあったのではなかろうか……芸はみな同じでしょう。行きつけるかどうか判らない黄金境を求めて芸の道を歩いて行くのです。だが、黄金境がその道の涯《はて》にあることだけは信じているべきなのです。ところが、みんなそれを忘れかけている。いや、忘れ果ててしまっている。私にしたところが、絵が高く売れて、仲間|内《うち》での地位があがって、老後もそれがゆるがなければ成功だと思っている。いつのまにかそう考えるようになってしまっていた。だから、根本的な問いかけをされるとうろたえてしまう。これ以上のものを求められても無理というものだ。青臭い理想論を言ってくれるな……そう思って逃げてしまうんです。それから幾日か考えて、今では信じてみようかと思っています。  しばらくアトリエを離れて土を掘ってみるのも悪くない。むしろこの際そうしたほうがいいのではないかと思いましてね」 「連れていってもらえるんでしょう」  公子は何がなんでも、という表情だった。 「堀越さんがいらっしゃるんなら、僕も行ってみたいような気になりますね。しかし、肝心の例のご老人というのは、どの程度……と言っては失礼かもしれませんが、はじめから空振りと判りきっているんじゃ、損得ずくばかりでなく、そういうものを無理に信じてついて行くのはかえって不健全な結果にしかならんでしょう」 「君にすすめるわけじゃありませんが、あの人物は実際に大変な金持ちです。しかも昔は大して裕福ではなかった人物です。証明するならわけありませんよ。この公子君に訊いてみてください。公ちゃん、君は湯平弥市という人を知っているだろう」 「湯平弥市。おじいさまのこと……」 「なんですって。この人が……それじゃ湯平君とは」 「湯平雄一郎のいとこに当たるんですよ」     3  話が長びいて、男同士は自然、酒ということになった。堀越は部屋の隅のキャビネットをあけて、ずらりと並んだ洋酒瓶の中から、I・W・ハーパーを選びだし、公子は察しよく角氷をいれたアイスペールとミネラルウォーターの小瓶を二本運んで来た。 「そうか、雄一郎、大二郎の兄弟と香取公子がいとこ同士ということを、まだ知らなかったのか」  不思議なもので、酒瓶が現われると言葉つきから態度までくだけてくる。堀越はグラスに氷の音をたてさせながら、この間の晩、目の前の相手と、俺お前でやりあったのを思い出していた。 「あなたとはどういう関係なんです」  佐々木が尋ねる。堀越にはちょっと答えにくい質問だった。 「とにかく、あの子たちが生まれる前からのつながりですよ」 「やはり、ご親戚か何かで……」 「まあそうですね」 「今のうちにちょっと……」  と佐々木はハッチのあたりを見ながら低声《こごえ》で言った。公子は腕によりをかけると言って、今キッチンに入っている。 「例の栗栖重人のことなんですが」 「ああ。謎の人物ですね、君が今追っている」 「そのことをちょっと彼女に訊いてみていいでしょうか」 「かまいませんけれど……」  堀越は不審げに眉を寄せた。 「大蔵大臣の天童健策が、新しい防衛計画の推進に一役買っているんです。まあ防衛費の拡大は財界にとって有利なことなので、与党幹部ともなれば当然すぎる動きでしょうが、裏に栗栖重人が暗躍しているとなると、当然天童との関連も考えられるんです。もちろん天童健策のことでしたら、僕には湯平君という絶好のニュースソースがあるわけなんですが、彼の家ではこっちが思うほど、天童のそういう方面のことは判らないらしいんです。それにお母さんという人が、天童に関してはひどく口が堅いらしくて……僕にしても彼の実の父親に当たる人物のことですし、あまりスパイめいたことをさせる気にはならんのですよ。だがどうしても手がかりが欲しい。公子さんと雄一郎君がいとこ同士というと……」 「母親が姉妹です。香取のほうは妹で」 「案外、少し離れているほうが、家庭内でも気軽に話題にするでしょうし、ぜひ訊いてみたいんです」 「そんなの、遠慮することはない」  堀越はそう言うとすぐ、公ちゃんちょっと、と大声で呼んだ。 「何かご用……」  公子はハッチから首をだしかけ、すぐ肩をすくめて引っ込んだ。胸もとに手をあてながら上気した顔で部屋へ来る。 「佐々木君が新聞記者として君に情報を提供してもらいたいことがあるそうだ」 「いや、そんな大げさなことじゃないんですが」  佐々木は頭を掻きながら笑った。 「あら、なんでしょう」 「或る人物について訊きたいんだよ」  堀越は何気なく言ってから、公子の表情の動きにハッとするものを感じた。公子がその瞬間、ちらっと東側のベランダへ視線を動かしたのだ。そこには今日も佐々木の一〇〇〇ミリ望遠レンズが据えてある。 「栗栖重人という名前なんですが」 「どうしようかな」  公子は堀越に謎めいた微笑を示して言う。 「知ってるんだね」 「悪いことかしら」 「いや、政界の動きを探りたいのだよ」 「教えてください。恩に着ます」  佐々木は真剣な顔で言った。 「妹の明子《あきこ》がついこの間お嫁にいきました」  公子は喋りはじめた。「旦那さまの名前は嶺田高志《みねたたかし》といいます。三協《さんきよう》銀行のエリート社員で、歳は二十九。お仲人は頭取の津島修造《つしましゆうぞう》さんで、一応、見合結婚ということになっていますが、本当は彼が明子を見染めて猛烈に働きかけたからです。明子は私と違って素直だから、まわりでお膳だてされるとあっさりお嫁にいってしまいました。そういうわけで、今はとても可愛がられていて、明子はときどき私におのろけを聞かせるんです。彼は自分がどんなに有能か明子に自慢するらしく、それをまた明子がそのまま私に自慢するんです。その自慢ばなしの中に、しょっちゅう栗栖重人という人がでてくるんです。とても偉い人だそうで、明子のご亭主はよく高輪のお屋敷へ伺《うかが》うのだそうです。大きな門の左右に椎《しい》の木が二本あって、お城のようなどっしりした建物だと言っていました。だからこの間、佐々木さんに望遠カメラをのぞかせてもらった時、ひょっとしたらその家ではないかと思っていたんです」 「どういう風に偉いんだい」  堀越が焦れったそうに尋ねた。公子の答えは内容が佐々木の求めることからはだいぶ離れているように思ったからだ。だが佐々木は、会心の笑みといってもいいような微笑を泛《うか》べていた。 「なるほど、三協銀行ね」 「ええ。それから、明子のご亭主は嶺田という姓ですけど、もとは後藤という苗字《みようじ》です。先生は嶺田|敬順《けいじゆん》という人を知っているでしょう」 「昔の陸軍大将だ」 「お亡《な》くなりになりましたけど、それが嶺田家のおじい様に当たる方で、彼は養子なんです。そして本当のお父さまは通産大臣の後藤一郎」  呀《あ》っ、と佐々木は低く叫んだ。 「なるほど、見えてきたぞ」  佐々木の瞳が熱っぽくなっていた。 [#改ページ]   8 風韻閣《ふういんかく》     1  めっきり冷たくなった夜風の中を、妙に郷愁をそそる色の灯《あか》りをつらねて電車が去って行った。あとにはひっきりなしに続く自動車の音ばかりで、東急|池上《いけがみ》線|洗足池《せんぞくいけ》駅の前は、しばらくの間、人影もたえている。  やがて電車を降りた人々が現われ、それも十一月の強い夜風に追われるように、足早やに散って行く。  湯平雄一郎は中原街道を横断すると、両手をズボンのポケットに突っ込み、洗足池に沿って暗い住宅街へ入って行く。昼すぎからの強い風に吹き払われて、空には雲ひとつなく、上弦《じようげん》の月が白い光を放って浮いていた。  きれいに舗装された道に彼の靴音が響く。その音は凍《い》てついた道を歩く音に似ていた。  俺に恋がくるのだろうか……雄一郎はふとそう思った。自分でも不思議に思うのだが、彼にはまだ恋愛の経験が一度もなかった。よく人がいう淡い初恋さえ、彼の思い出にはない。自分が美男だといわれているのは知っていた。思い返せば、今までに何人か好意を示してくれた女性もいるようだった。だがそれに応《こた》えて恋愛にまで至ったことはまだ一度もない。  なぜだろうか……そう自問すると、自然に母の規子《のりこ》の貌《かお》が泛んできた。  美しすぎる。あんな美しい人を母に持てば、恋などできるものではないかもしれない。雄一郎は白い月と星々をちりばめた夜空を見あげながらそう思った。  行く手に暗いかたまりが見えてきた。広い敷地に存分に樹木を生《お》い繁らせ、大谷《おおや》石を積んだ上に土を盛って芝と躑躅《つつじ》を植えこんだ塀で囲んだその暗いかたまりが、雄一郎の家だった。  入口はどこかの古い建物から移してきたという、鉄帯の入った木の門で、煌々《こうこう》とあたりを照らしだす門灯の光の中に、風韻閣《ふういんかく》、という扁額《へんがく》があげられている。  門はまだあいていて、突当たりの砂利を敷いた駐車場に黒い車が四台ほど見えた。雄一郎はその左手の植込みの奥にある建物のほうに耳を澄ませながら、大きな柘榴《ざくろ》の木の下を通って、細い石だたみの路に入った。両側に野良犬よけの粗《あら》い竹垣が組んであり、その中に見事な懸崖《けんがい》の菊がずらりと咲き並んでいる。  細い格子《こうし》の硝子《ガラス》戸をあけて玄関に入ると、奥で微《かす》かにブザーの音が聞こえた。衣摺《きぬず》れの音がして、五十がらみの物堅い様子の女が、磨きこんだ檜《ひのき》の廊下から顔をだした。 「おかえりなさいませ」 「ただいま」  雄一郎はボソリと言い、靴を脱いだ。 「大二郎さまがいらしてたんですよ」 「へえ、珍しいな」 「つい先ほどお帰りになりましたけど」 「そう。母さんは」 「お茶の間です」  ふうん、と言って雄一郎は女が現われたほうとは逆の、右側の廊下へ入って行った。 「ただいま」  障子をあけると八帖の部屋の隅の茶|箪笥《だんす》の前に膝をついて、規子は何かをしまっているところだった。 「今日も遅かったのですね」  規子の声は柔らかく、微《かす》かに訛《なま》りのある喋り方をする。振り向いて伸びた白い頸《くび》の線が、妖《あや》しいほどなめらかだった。 「仕事だもの……大二郎が来たって」 「ええ。アメリカへ行くそうですよ」 「ほう……」  規子は冷房はもちろん暖房も今|風《ふう》のではだめで、この季節になると昔ながらに炭火を使った切り炬燵《ごたつ》が出ている。雄一郎は紫色の炬燵|蒲団《ぶとん》をめくって坐った。 「ご飯は……」 「済んだ。社の仲間とラーメンライスを食べて、そのあと焼鳥屋で少し酒を飲んだ」 「ラーメンライス」  規子は眉をひそめ、すぐ微笑を泛べて自分も炬燵の前へ坐った。 「変な組合わせね」 「そういう食い方があるのさ。母さんなんかラーメンも食べたことはないだろ」 「馬鹿にしないでちょうだい。支那《しな》そばは好きですよ」  雄一郎は手に負えない、といった顔で首をすくめた。 「ねえ。酒が飲みたいんだ」  甘えるように言った。規子は、まあ、とたしなめるような笑顔を見せ、 「寒い晩だし、面白そうね。あなたにこのお部屋でお酒を飲ませるのも」  と言って上体を傾け、うしろにあるインターフォンのボタンを押した。  ——はい——  インターフォンの小さなスピーカーから、金属性の声が聞こえた。 「佐和《さわ》さん。雄一郎がここでお酒を飲むんだそうですよ」  規子は面白がっているようだった。  ——おやまあ—— 「すみませんけど、いいだけあげてくださいな」  ——それは大変。お肴《さかな》は何にしましょう——  雄一郎は蒲団の上に顎をのせて、 「なんでもいいよ」  と言った。 「佐和さんにおまかせするって」  ——責任重大だこと。それじゃ向こうへ行って何か見つくろって参りますわ—— 「そうしてください」  規子はボタンから手をはなし、笑顔のまま体を元に戻した。 「今日はおねだりの続く日ね」 「大二郎、お金もらいに来たのか」 「ええ。アメリカへ行くのなら少しは余計に要るでしょう」 「母さんだってハワイぐらいへは行くべきだよ」 「おおこわい……外国だなんて。お蜜柑《みかん》は」 「要《い》らない。それより母さん、俺が新聞社|辞《や》めるって言ったら、母さんどう思う」 「辞めるの……」 「もしもだよ」 「新聞社がはじめてのお仕事でしょ。お母さんわからず屋じゃないわよ。高校、大学、そして新聞社……あなた一度も落第や浪人などしなかったし、このままずっと最初のお仕事で進んでいったら、かえっておかしいくらいなんじゃないのかしら」 「なんだ、案外判ってるんだな」  雄一郎はそう言い、独《ひと》りでクスクスと笑いだした。 「拍子抜けしちゃったよ」  風の音が聞こえたようだった。     2 「自分の子供がお酒を飲むのを見るのって、何だか擽《くすぐ》ったいわね」  規子は本当に擽ったそうな表情で、佐和という女に言った。  炬燵の上の台に鉢がふたつと皿が一枚。それにそれぞれ酢の物と煮物と刺身があって、雄一郎はもう飲みはじめていた。規子の前にも箸とつけ皿があって、盃も置いてある。盃は空のままだ。 「でも、なかなかいいものでございましょう、奥さま」  佐和は昔からこの家をとりしきってきた女中だ。別棟の風韻閣は一応規子が経営する料亭というようなことになっているが、実際に規子がタッチすることは何もない。 「雄一郎さま。その車海老はまだ生きているはずでございますよ」  佐和はのぞき込むように言った。 「ラーメンライスのあとでおどりを食うなんて、いったい粋《いき》なのかね、野暮《やぼ》なのかね」 「ラーメンライス」  佐和は妙な顔をした。 「何だかこの子、急に男臭くなったようよ」  規子は雄一郎が持つ盃を目で追いながら、真剣な表情で言った。 「立派な新聞記者でございますよ、もう」  佐和はたしなめるように言い、雄一郎に何度めかの酌《しやく》をしてやると、手にした徳利を規子のほうへ押しやって、「奥さまがお酌をしてさしあげてくださいませ。お勝手におりますから、お酒のおかわりはどんどんおっしゃってください。明日はお休みの日でございますものね」  と、最後は雄一郎に言って立ちあがった。珍しい母子の酒宴に気をきかせたらしかった。 「あなた、お酒は強いの」  佐和が出ていくとすぐ、規子はそう尋ねた。 「弱くはない」  雄一郎はそう答え、盃を乾してから、規子の手もとへ行った徳利をちらっと眺めて、空の盃をうろたえたように動かした。 「はい、お酌……」  すると雄一郎は居直ったように、背筋を伸ばして盃をつき出した。注ぎおわるとまっすぐ唇に運ぶ。  カタリ、と音をさせて徳利を置いた規子は、左の袖口で口もとを掩《おお》うと、ク、ク……と肩をふるわせて炬燵の上に顔を伏せた。 「どうしたの、母さん」 「おかしくって……」  規子は息をつまらせながら答えた。 「なぜさ」 「あんまり可愛らしいからよ」  規子は忍び笑いを続けながら顔をあげた。 「俺が……酒を飲んでるのにかい」 「お母さん、たのしいわ。なんだか、あなたをうんと可愛がってあげたくなっちゃった」  雄一郎は驚いた表情で規子をみつめた。かすかに、怯《おび》えのようなものがその瞳に現われていた。  その瞬間の規子は、それほど艶《なま》めいていた。媚《こび》がそのほっそりとしたからだ全体から湧き立ち、雄一郎が一度も見たことのない、女の性《さが》をのぞかせたようだった。  雄一郎は憤《おこ》ったように徳利を引き寄せ、手酌で飲みはじめる。 「今夜、俺は母さんに取材に来た」  下を向いてつぶやくように言った。 「取材……」  規子はまだ笑いながら問い返す。 「母さんの子供じゃなく、一人の新聞記者だと思ってほしい」 「こわいのね。あら、それじゃ新聞社の人にお酒をご馳走しちゃったわけね」 「ずいぶん前から尋ねようと思ってたんだ。母さん、ひょっとしたら栗栖重人って人知らないかい」     3  外の北風が茶の間に吹き抜けたようだった。規子は痺《しび》れたように体をこわばらせ、宙を見据えている。  雄一郎はそんな規子を正視していられない様子で唇を噛み、おのれをはげますようにまた酒をついで呷《あお》った。 「どうしたの……」  規子の変化に気づかなかったように、それでいて赦《ゆる》しを乞うような甘えた言い方をした。 「知らないわ、そんな名前」 「本当……」 「ええ」  規子はそう答えると急に気をとり直したように体を動かし、「私もおつき合いしようかしら」  と盃を持った。 「俺、お酌する」  雄一郎は言わずもがなのことを言って母親の盃に徳利を寄せた。 「それ、大事なことなの」  規子はつとめてさりげなさそうに言い、白い両手の指を揃えて盃を口に運んだ。 「うまいかい……」 「ええ。あなたは知らないけど、私このごろよく独りでいただくのよ。ときどきは佐和さんがおつき合いしてくれるけど」 「そりゃいい。それはいいことだよ。母さんは何もしなさすぎる。この家のことは何でも佐和さんがやってしまう。買物も旅行も、何もしない。どこへも行かない」 「春にお芝居を見に行きましたよ」 「帝劇へ出かけたんだって、十年ぶりのことじゃないか。それだって、気分が悪くなってすぐ帰って来ちゃった。あんまり人なかへ出なさすぎるから、たまに出ると神経がだめになっちゃうんだ。たしかにこの家には毎日いるけど、それじゃ世の中にいてもいなくてもおんなじだ」 「人間なんてみんなそうです。一人くらいいてもいなくても、大して変わらないものですよ」 「中にはそうじゃない人間もいる」  すると規子はまた凝然《ぎようぜん》と雄一郎をみつめた。その緊張を雄一郎の酌がほぐす。 「それじゃ、これ以上栗栖重人のことを訊かない。そのかわりもう一人、俺たちのおじいさんのことを訊くよ」 「おじいさんのことを……」 「湯平弥市という人は、なぜそんなに大金持ちなんだい。この家もたしかに貧乏じゃない。でもうちの豊かなことと湯平弥市さんが大金持ちであることは、別に関係ないんだろ」 「お父さんと私は、もうずいぶん前から往《い》き来してないのよ。だからなぜお金持ちになったのか、私にはよく判らないわ」  雄一郎はしばらくじっと考え込んでいたが、急に坐り直した。 「母さんをいじめるつもりなんかないんだぜ。その反対さ。俺は綺麗《きれい》な母さんが大好きだ。母さんさえいてくれたら一生結婚なんかしなくてもいいと思ってるくらいだ」 「何を言いだすのよ、あなたは」  規子はうろたえ気味に言った。 「だからもっと幸せになってもらいたいんだ。母さんは何かとほうもなく重い荷物をしょわされてる人みたいだ。もっと貧乏でもいいから、普通の女性のように自分の生活を持ってほしい。そのためには、俺どんなことをしても母さんのしょってる荷物をどけてあげなくては……お願いだから協力してくれよ、母さん。母さんはいったいどんな秘密に縛られてるんだい。それを教えてくれないか。大二郎が出て行ったのは、その秘密が嫌だったからなんだぜ。見てられなかったんだ。俺だって同じ気持ちさ。天童健策なんかに縛られてることはない。自分の人生を生きてくれよ」 「でもこれが私の人生よ」  規子は謎深い自嘲を泛べて言った。     4  もう自分たちは立派に一人でやってゆける年齢に達している。兄弟で力を合わせれば三人で自活することなどわけもないことだと、雄一郎は力説した。今までは二人の子を育てるために、何かに縛られもしただろう。しかしもうその必要はないのだ……雄一郎はそう言って規子を勇気づけようとした。 「あなたも大人の知恵を身につけたのね。こういうお話にお酒を手つだわせるなんて……」  規子は雄一郎を頼もしげに眺めて、台所で待っている佐和に酒の追加を命じた。 「でもこの話はだめ。どんな賢い人の手にも負えないことよ」 「そんなはずはない」  雄一郎は焦《じ》れて声を高くした。「俺にだって相談する人はいる。必ずなんとか解決できるよ」 「それじゃ、反対に私が訊くわ。あなたの母親が言ってるんだと思わないで、取材している人間に言われたと思って聞いてちょうだい」 「いいよ」 「最初にあなたお仕事だと言ったわね」 「うん」 「その人を調べるように言われたのね」  雄一郎は黙って徳利を傾けた。徳利は空だった。 「きっと調べてるうちにお父さんやおじいさんの名が出てきたんでしょうね。それであなたは私のところへ取材にやってきた。そうでしょう」 「違うな」  雄一郎が言いかけた時、襖《ふすま》があいて佐和が酒を運んできた。 「お酒が弾《はず》みますのね」 「ああ」  雄一郎が答えると、佐和は母子の間の雰囲気の堅さに気づいたらしく、手早く台の上を整え直し、空いた器を盆にのせて去っていった。 「どう違うの」 「それはね……」  母子は酌をし合って盃を熱い酒で満たした。「湯平弥市さんのこととこれは別さ。最初、俺たちはただ防衛庁関係のことを調べていたんだ。そしたら栗栖重人という名前が出てきたんだよ。暗がりにいるもののけ[#「もののけ」に傍点]のような人物なんだ。どうしても正体がつかめない。そしたら偶然のことからそれが天童健策や後藤一郎という人物につながっているらしいと判ったんだ。後藤というのは香取の明ちゃんの旦那さんの実家だろ。それと俺のおやじだ。きっと母さんに関係がある……そうピンときたんだ。母さんの秘密についてはずっと触れないようにしてきたけど、いつまでそうしてもいられない。もし栗栖重人に関係あるんなら、この際一度に膿《うみ》を出しちゃったほうがいい……そう思ったわけさ」 「有難う。あなたの気持ちは本当に有難いと思うわ。でもね、それで私はあなたが一番最初に、新聞社を辞《や》めるかもしれないって言った意味が判ったわ。私が逆に質問しますというのはそのことだったのよ。栗栖重人は、あなたの新聞社では調べられないはずよ。調べる力がないのよ。栗栖重人を調べるように、あなたの新聞社はあなたに命令したの……しないでしょう。防衛庁とかを調べていて、たまたま栗栖重人にぶつかったのね。でもそれ以上調べろとは言ってもらえなかった。むしろその反対のはずね。無理にそのうえ調べつづければ、あなたは新聞社を辞めなければならなくなる……そうでしょう」  雄一郎は首をふり、ため息をついた。 「よく知ってる。そのとおりだよ、母さん」 「栗栖重人という人間は、そのくらい強いのよ。賢くて強くて、どんな人間もかないっこないのよ。もうやめるのよ。私はあなたの思ってくれているほどには不幸な女じゃないかもしれないし、とにかく栗栖重人にはこれ以上さわらないで。約束して、もう栗栖重人にはさわらないって。あなたは不幸になるわ。あなたはさわってはいけないのよ。特にあなたは、いけないのよ。やめて。お願いだから……」  規子は急に激しく叫んで顔を伏せた。半分ほど酒の入った盃が、規子の翡翠《ひすい》の指輪に触れて、堅い音をたてて台の上に転がった。肩が震えている。泣いているのだ。  雄一郎はしばらく震えている肩先をみつめ、やがて立ちあがると炬燵をまわって規子のうしろへ行き、肩に手を当てた。 「判ったよ。だから泣かないでよ」  すると規子は顔を伏せたまま涙を拭い、雄一郎の腕を掴んだ。 「あなたは私の子供。いつまでも私と一緒にいて」 「母さんが好きだ。離れやしないさ」 「昔から、私はたったひとつのことを願いつづけたわ。時間が停《と》まってほしいって。母親にとって、子供が大きくなるのは恐ろしいことなのよ」 [#改ページ]   9 ハーバーライト     1  香取公子と佐々木義章は、堀越のアトリエ以外でも会うようになっていた。  その喫茶店の窓からは、ガラス張りの円筒形の建物が見え、銀座通りを歩く人波を見おろすことができた。 「いま一番有名なのは、赤城《あかぎ》の埋蔵金だろうな。幕末の小栗《おぐり》上野介《こうずけのすけ》が埋めたもので、江戸城明け渡しの時、幕府再建のための軍資金として持ちだしたのだといわれているが、本当はそれよりも、開国したことで日本の金が一度にどっと海外へ流出してしまうことを惧《おそ》れて、何年間かにわたって、少しずつ利根川を船で運びあげたということらしい。もっとも、どっちにしてもはっきりしない説で、小栗の持逃げ説さえあるくらいだ」 「それはどのくらいの金額になるの」  公子は裾の広いパンタロンにパンタロン・ブーツをはき、丈の長い男物のような上着にヴェストを着けて、シャツブラウスの襟《えり》に細いブルーの紐をまきつけていた。西部劇に出てくるギャンブラーのスタイルだ。 「正確な埋蔵額など判るはずがないさ。だが一説には甲州金百五十万両、それにかなりの量の慶長大判……。センセーショナルな見出しをつければ、時価三十数兆円の埋蔵金、ということになるかな」 「今でも掘ってる人がいるんでしょ、赤城山のは」 「うん。四ヵ所くらいに分けて埋められていると考えられ、特に赤城山の北の山腹では、親、子、孫の三代、八十年もの間探しつづけている有名な一家がいる。その辺りに埋まっているという証拠になるのは、赤城の麓《ふもと》にある深山双栄寺《みやまそうえいじ》という寺の本堂の地下から発見された秘密をとく鍵となる或る数字を記した銅板だ。現に麓の七坂七曲がりと呼ばれる土地から、五十七枚の小判が出ている。また、本当は甲州に埋めたのだという話もあって、このほうは小栗上野介の子孫に当たるという人が、もう三十年も掘りつづけているそうだ」 「よくお金がつづくわね、三十年も」 「ちょっと古いが、東京近辺だと、里見《さとみ》家の埋蔵金も有名だな。里見家は関東の名族で、清和源氏《せいわげんじ》の流れをくんでいる。慶長年間というから豊臣が滅んで徳川の世になりかけているころだ。里見家はわけがあって徳川につぶされたが、当主の里見|忠義《ただよし》はそれ以前に、たくわえた財宝を何ヵ所かにわけて埋めかくしてしまったといわれる。よく判らないが、やはり兆という数字の埋蔵金だ。もっともこれは砂金らしいが」 「上野の彰義隊《しようぎたい》がお金をかくしたという話を何かで読んだ憶《おぼ》えがあるわ」 「うん、そいつは比較的場所も限定して伝えられていて、それだけによけい怪しいんだが、ひとつは三河島《みかわしま》の宮路《みやじ》ロータリー付近。もうひとつは寛永寺別邸|御院殿《ごいんでん》のしだれの井戸……そこまで判ってるんなら掘ればいいのにな」  佐々木はそう言って笑った。 「東京付近はそれだけ……」 「まだあるさ。箱根の仙石原《せんごくばら》から乙女《おとめ》峠へかけてのどこかにある、佐渡金山の増産や何かで、よく時代劇の悪役にされる大久保|長安《ちようあん》の埋蔵金だ。長安の領地は八王子あたりで、位は石見守《いわみのかみ》。石見銀山の石見《いわみ》で、とにかく家康の財政を金銀発掘で支えた人物だが、家康の信任をいいことによほどくすねたとみえ、長安が死んだとたん、一族みな殺しで財産をとりあげられた。バレたらしいんだな。しかし全部じゃなかったらしく、その残りが箱根に埋まっているというんだ。キー・ワードは黒《くろ》躑躅《つつじ》。ちょっと出来すぎてるって感じがしないでもないね。それから山梨県の黒川谷《くろかわだに》と身延山《みのぶさん》。黒川谷というのは武田家の遺臣が記録に残した信玄の財宝。身延山のほうは穴山梅雪《あなやまばいせつ》の軍資金さ。額は信玄のが三千億、家来の梅雪のがその〇・一パーセントの三億。家来ともなると、殿様のたった零《れい》コンマ一パーセントだ」 「それだって三億円じゃない」  公子は失笑した。 「でも〇・一パーセントじゃ大したことはない。ただしさっきから言ってるこの時価換算額ってのはどういう計算なんだか、僕は全然知らないぜ。ただ暗記しているだけだ」  佐々木はうそぶくように言っておどけた。 「でも面白いわ」 「栃木県に行くと結城《ゆうき》家の埋蔵金。結城家は家康の次男|秀康《ひでやす》を養子におしつけられ、財産を徳川に乗っとられそうだと、先祖伝来の財産を二ヵ所に分けてかくしてしまったが、その一ヵ所は徳川時代に発見されてしまい、あと半分が残っているだけ」 「ずいぶん、埋蔵金って方々にあるのね」 「つわものどもの夢のあとってわけだ」  佐々木はそう言って笑った。     2 「とにかく黄金伝説っていうのは世界中至る所にある。しかしそれを、だから黄金の魅力は……という風に説明するのは、いささか猟師《りようし》、山を見ずのたぐいだと思う。黄金というのは、それがいちばん判りやすい宝だからだ。腐《くさ》らず錆《さ》びず、いつまでも値打が変わらない。夢の終点として、こんなに都合のいいものが他にあるかい。あとはダイヤなどの宝石類くらいなもんさ。だがそれじゃ、手に入れても一度換金しなくちゃならない。その点、黄金はそのものズバリだ。その証拠に、物々交換時代の宝は黄金より、絹、漆《うるし》、藍《あい》といった物が多く語られている。大昔にも埋宝伝説はあったが、銀や黄金の他に、漆百|樽《たる》、藍千樽、といった表現が多い。たとえば、銅が貴重な輸入金属だった時代、それが矛《ほこ》や鐸《たく》などに装飾したのべ板としてしまい込まれていたとすれば、いくつもまとまって出土する銅鐸の謎は、みな一挙にとけてしまうんじゃないかな。だが銅なんかじゃ時代がたつにつれ価値が減じてしまい、人間の夢の終点としてはお粗末になる。やはり黄金でなくてはね。漆、藍、銅、銀、さらに古くは朱などという物が、しだいに価値のうえで淘汰《とうた》されていって、黄金だけが残されたんだ。だから、黄金伝説は黄金の魅力によるものじゃない。極端に言えば、その終点は何だってかまわないんだ。問題は人間の夢だ。その夢が燃えたつものならなんでもよかった。夢の燃料だ。触媒《しよくばい》だ。黄金はその最大公約数だよ。よくサラリーマンが、どっか面白いバーはないかな、なんて言うだろ。そういう気分がとてもよく似てると思うよ」 「それにしちゃスケールが小さいわ」  公子がまた失笑する。 「以前、この話を最初に堀越さんから聞いた時、彼が言ってたろう。夢がなくなった。小さくなったって……そのことさ。現代人も夢を完全に棄ててはいない。だがあまりにも雑事が多すぎる。現実の生活の負担が重すぎる。本気で夢を追いはじめたら餓えて死んでしまう。リアリストにならざるをえない。小利口ぶって、その実もっと大きなものを忘れてしまうのさ。それでやっと生きてゆける。今やわれわれサラリーマンの黄金伝説は、みじめに萎縮《いしゆく》して、性感豊かな女体《によたい》の物語の中にとじこめられてしまった。雑誌のアナ場探訪記事にかすかに痕跡を留《とど》めているにすぎない。自分を自分の好みどおりに愉《たの》しませてくれ、あわよくばそのような敏感な女体の物語が現実にならないかと……どっか面白いバーはねえかな、さ」 「あなたの言い方がうまいのかしら。なんだか絶望的になってきたわ。あそこを歩いている男たちが、みんな莫迦みたいに思えちゃう」  公子はそう言って、指にはさんだラークを唇にくわえた。煙を細く吐きだす。となりの席の客がかわり、来たばかりの青年がしきりに公子の横顔をぬすみ見ている。 「だがバランスはそれでいい。みごとにバランスがとれている。それ以上ロマンチックになっちゃいけないんだ。そうすれば落伍《らくご》してしまう。堀越さんのような絵描きでさえそうだ。よほどの力がないかぎり、昔のような夢は追いきれない。いや、昔だってふつうの人間は夢をほどほどにしてバランスをとることが必要だったんだ。堀越さんが湯平弥市と一緒に黄金伝説を追って出かけようというのは、あの人がいま本物の絵描きになろうとしているからじゃあるまいか。芸術家は夢を追うもんだ。売り絵屋から本物の画家に、彼はなろうとしているんだよ」 「で、あなたは」  公子は真顔《まがお》で尋ねた。 「俺にも黄金伝説ができたらしいよ」  佐々木はそう答えて、公子の美しい顔をじっとみつめた。 「え……」  公子は眩しそうにそれを見返す。 「君を小さな夢だと言ったら憤《おこ》るかい」  佐々木はさりげなく言ってのけた。     3 「何時、いま」  公子は高価な腕時計をしているくせに、それを見ようともせず佐々木に訊いた。佐々木は黙って左手首を公子の前へ突き出す。公子は時間を知り、軽く目をとじて考えこむ様子だった。 「もうすぐ日が暮れるわね」 「ああ、もうすぐだ」  佐々木は外を見て答えた。 「晩ごはん、私に奢《おご》らせてくださらない」 「それは結構な提案だね。おうけしましょう」 「腹ごしらえしなくっちゃ」  公子は悪戯《いたずら》っぽく笑った。 「なんのための腹ごしらえだい」 「あなたのみじめに萎縮した黄金伝説のために……」 「え……」  佐々木はきょとんとしていた。 「敏感な女体の物語のためによ」 「…………」 「憤《おこ》らないわ私。小さな夢でもあなたの黄金伝説になれたのなら幸《しあわ》せよ」 「驚いた人だな」 「簡単に掘りあてたんでがっかりしたの」 「そうじゃないが」 「でも憤《おこ》ってるみたい」 「そうかもしれない。だって僕はたった今、はじめて君に求愛したばかりなんだぜ」  すると公子は突然笑いこけた。佐々木は憮然《ぶぜん》としてそれを見ている。 「ごめんなさい」  公子は笑い残しながら謝《あやま》った。 「何がおかしかったんだい」 「佐々木さんておかしい人。だってそうじゃない。黄金伝説の話題にまんまと私を引きずりこんで、いともスマートにプロポーズしてくれたのに、その次すぐに求愛しただなんて沢庵《たくあん》石をコンクリートの上へ転がすような言い方するんだもの」  佐々木は公子の言い方につり込まれて噴《ふ》き出す。 「違《ちげ》えねえや」  二人は長いこと顔を見合わせて笑いつづけた。それが収まると佐々木がまた憤ったように言う。 「でも君もおかしいぜ。自動ドアみたいだった。愛してる……じゃどうぞ。男は憤るよ」 「へえ、佐々木さんて、案外、子供っぽいところがあるのね。牧歌的なスカートの裾ヒラヒラの追っかけっこがないとはじまらないみたいね」 「別にそういうわけじゃない」 「これはどっちが先かの問題みたいよ」 「どういう意味だい」 「私が男だったら、もっとずっと早くに言ってるわ」  佐々木は奇声を発して照れた。 「おもしれえバーをみつけちゃった……」 「でも、私には私の黄金伝説があるのよ。それは判っていただきたいわ」  公子は真面目《まじめ》な顔で言った。 「ほう……いや、それはそうだろうな」 「何事も最初が肝心ですからね。それは判ってください」 「うん。判った」 「本当……」 「ほんとだ」 「じゃ、今晩これからずっと私は佐々木さんとご一緒させてもらいます」 「ずっと……かい」 「そうだったら」  公子は一瞬顔を赫《あか》らめ、すぐ居直って、「夜明けのコーヒーまでよ。途中で逃げ出さないでね」  と無表情を装《よそお》って言った。 「判らんね、君という人は」 「判ったって言ってくれたじゃない……」  公子は甘ったるい声になった。     4  六本木のステーキ・ハウスで厚い肉を食い、デザートを省《はぶ》いて近くの小さなフランス菓子店へ移ると、とびきりのコーヒーを二人はおかわりした。 「いま東京でいちばんおいしいケーキを作るのはこの店よ」  公子は通《つう》ぶってそう言った。事実、辛党《からとう》の佐々木にもそのケーキのうまさはよく判った。  その店を出ると公子は、 「私の受持ちはあのお店で終わりよ」  と言って佐々木の腕を深々とかかえ込んだ。公子の美貌はこの辺りでもよく目立ち、道ゆく男女がみな振り返った。 「つまりこのさきは朝まで僕まかせというわけか」  佐々木はつぶやくように言った。 「あんまり汚らしいホテルは嫌よ」 「舐《な》められてたまるか」  佐々木はおのれを励ますように言い、手をあげてタクシーをとめた。  窓の外に港の灯りが見えていた。  横浜港を見おろす高台に、とがった青い屋根を持つ白い小さな建物があり、二人はその中の一室で抱き合っていた。  港側の壁の一部が斜めになっていて、バスルームもツインのべッドも、都内の一流ホテルと変わりがないが、屋根裏部屋のような趣きがある。 「すてきなお部屋ね。こんなうちに住みたい」 「僕は安サラリーマンだぜ」  佐々木は左肘をベッドの上について、公子の柔らかい髪を撫でながら言った。ここへ来てから、公子があらかじめ夕食を奢らせろと言ったのは、思ったより深く先を読んでのことだと判った。  公子はこの夜を、より豪華な思い出に仕あげたかったらしいのだ。佐々木の懐《ふとこ》ろをいち早く計算していたのだ。彼には今日プロポーズするというはっきりした予定もなく、ましてこのように急テンポで事が運ぶとは思ってもいなかった。だから公子は佐々木の負担を半分にしたのだ。  公子はすでに素肌でいた。身にまとっているのは、薄い僅かな布切れだけだ。佐々木はその肌へ柔らかく触れていく。 「お嫁に行った明子という妹を、あなたに会わせたいわ」  公子は仰臥したまま言った。 「なぜ」 「私のプロトタイプなのよ」 「ほう……」 「でも今の私はこんな女」  公子は急に佐々木の首に両腕をまわし、首をあげて唇を求めてきた。舌が滑りこみ、佐々木の舌の付け根あたりを突いた。片腕が首をはなれてさがっていく。  佐々木は右掌《みぎて》で公子の左のバストを押しあげ、ゆるく揉んだ。公子の腕が毛布の下で佐々木の腕と交差し、脇腹を愛撫し、さらにさがっていった。 「私はこんな女」  唇をはなして公子がかすれ声で囁《ささや》いた。佐々木の耳朶《じだ》を吸い、熱い息を吹きつけた。佐々木は目をとじ、眉を寄せてそれを味わった。公子が受動的にではなく、みずから佐々木を悦ばせようとしているのは明らかだった。彼女の手は佐々木の裸の腰に触れ、すぐ硬さをたしかめた。柔らかい指が踊りはじめている。耳を、喉《のど》もとを、唇がねっとりと這う。  かなりの間、佐々木はうっとりと公子の攻めるにまかせていた。が、急に爪をたてるようにして公子の乳首をいためつけ、すぐ顔を伏せ、唇に含んでそれをいたわった。  それは効果があり、公子の指がとまった。喘《あえ》ぎはじめ、攻めを忘れて受けた。佐々木は公子を翻弄《ほんろう》しはじめ、自失させた。腰の小さな布をとり去る時、公子はもう備えをなくしてすべてを佐々木に曝《さら》し、眉を寄せて呻《うめ》いていた。体を合わせると、公子は悲鳴のような高い声を、短く発してしがみついてきた。途中で一度|抗《あらが》うように体を起こして上になる意思を示したが、佐々木の力がそれをさせなかった。公子はそのあと二度震え、三度めは佐々木とともに硬直して、やがて柔らかくなった。 「判らない」  佐々木は煙草を咥《くわ》えながら、裸のままベッドの横の椅子に坐ってつぶやいた。「時間がかかるかもしれんな」 「なんのこと」 「高輪の堀越さんのマンション、君の青山のマンション。哲学堂の君の実家に、二の橋の後藤邸。天童健策の本宅は常盤松《ときわまつ》の豪邸だし、雄一郎君の家は洗足池の風韻閣という豪勢な料亭だ。絵描きの卵の湯平大二郎でさえ目黒駅のそばの立派なマンションに住んでいる」 「みんな調べたのね」 「君の周辺にいる人々は、どれもこれも立派な家に住んでいる。ところが俺は、板橋の公団アパートずまい……実家は熊本の三等郵便局。何かにつけてみな違う。君を理解するのに時間がかかりそうだ」  すると公子はベッドの上に横ずわりになり、バスルームから持って出たタオルで体をまいた。乱れた髪が、カメラマンが演出したかのように美しく肩に散っている。 「私を見て。灯りを全部つけてよく見て」  佐々木はブリーフをつけ、壁のスイッチを押し、スタンドの鎖を引いた。 「美人でしょうと威張るつもりはないわ。でも小さい時から綺麗だと言われつづけてきたの。自分でも鏡を見て、本当に綺麗だと思うことがあるわ。そういうように生まれついたのね。もちろん、得だと思うし感謝もしてます。でも私の顔や姿は、決しておてんばをしてはいけない種類のものよ。しとやかで、おとなしくて、素直で、泣虫で、たよりなくて、人にかばってもらって……誰もがそれを期待したし、私自身もその枠《わく》から出ることができなかったの。そして妹の明子はそのとおりに育ってお嫁にいき、今もそのとおりの若奥さまになってるわ。でも私は、途中から自分が自分に与えられた肉体的な外見にしばられているのがたまらなくなったの。変えたいの。行動的で、積極的で、エロチックで、奔放で、おしゃべりで、浮気で、強情っぱりで、エゴイストで、小粋で、我儘《わがまま》で……」  公子は首を振った。髪が乱れて揺れた。「でもとてもなれそうもない。セックスだって、まだそんなに知らないのよ。でも変わりたいの。あなたの奥さんになったって、私は決して明子みたいにはなりたくないの。それは無駄な抵抗かもしれないけど、私の肉体は私をその型にとじこめようとしすぎるのよ。私は自分を創りたいの。……これが私の黄金伝説よ」  佐々木は煙草を消し、立ちあがってベッドへ戻ると、公子をきつくだきしめた。 [#改ページ]   10 霙《みぞれ》三景     1  堀越は部屋の中を眺めまわして唇を歪《ゆが》めた。ウイスキーの瓶やグラスがテーブルの上に散乱し、皿の上に食い残しの肉やチーズがひからびかけていた。中央新報の佐々木たちと、昨夜遅くまで飲んだからだが、そうでなくても連日のように酒にひたっているのだ。  テヘランでみつけた古い壁かけの鏡に顔を写してみる。髭《ひげ》が伸び、肌も荒れていた。指さきで軽く下瞼《したまぶた》をさげると、細い血管がただれたような赤い肉の中に浮いていた。  かすかにエレベーターの震動が体に伝わり、堀越は鏡の前を離れた。入口のドアをあけると、チャイムのボタンを押そうと手を伸ばしかけた穂積一成がいた。 「いらっしゃい」  堀越は抑揚のない声で言い、穂積をみつめた。 「寒い日だ。霙《みぞれ》が降ってるよ」  そう応ずる穂積の瞳には、忸怩《じくじ》とした色がある。ドアをしめ、コートを脱いで壁の帽子かけにつるした。アトリエへ入り、隣りの部屋の荒れようを見ると、臆《おく》したような目でちらっと堀越の表情をうかがい、隅の壁にたてかけてある絵に近づいた。 「グラシが効《き》いてる。君にしては珍しい絵だな」 「酒ばかり飲んでいるのも、しまいには退屈するもんですよ。結局、絵描きは絵に戻ってしまう。悲しいことだ」  堀越はそっぽを向いたまま、ひとりごとのように言った。 「悪くない。……もらえるかね」  穂積はカンバスを両手で持ちあげ、眺めながら言う。 「励ましてくれるのですか」 「そうじゃない。いいものはいいさ。商売だからね」 「その絵は売れませんよ。エチュードですから。暗中摸索してるんです。いまの僕は一からやり直さねばならんのです。……酒はどうです」 「いや、やめとこう。車だから」 「僕は飲みますよ」  硝子《ガラス》の触れ合う音と一緒に堀越は言った。  穂積はカンバスを元に戻し、スペイン壁にあいたアーチ形の入口に立って声をあらためた。 「あの問題については、別の機会にゆっくり時間をかけて話し合おう。お互いに子供じゃないんだ。僕は君が非難するほど幼稚な人間じゃないと信じている」 「あんたを非難してなんになる」  堀越は吐きだすように言った。「僕はあなたを非難してもいないし、恨んでもいない。あなたは自分の仕事を大きくするために、金主との約束を守っただけだ。あなたらしい律儀《りちぎ》さで、この十年おくびにも出さなかった。立派な男だ。信用できる人間だ。これは皮肉でもなんでもない。  僕にはよく判った。実直であるということは、往々にして小心と間違えられる。しかし十年も誠実に秘密を守りとおすことができるのは、よほど肚《はら》が据わっている証拠だ。僕なんかとても真似できん。何年めかには、実は……と言って喋《しやべ》ってしまうだろう。しかし僕のことも少し判ってほしい。そうでないという自信があったとしても、十年も金に守られていたと知らされれば、絵描きは自分の才能に対して疑問を感じてみないわけにはいかない。まして僕はそんなに強くない男だ」 「正直に告白すると、それを君が知った時のことまで僕は考えていなかった。商売本位だった。その点に関してはなんと言われても仕方がない」  堀越は黙ってグラスを呷《あお》り、霙《みぞれ》の降る外の景色をみつめていた。沈黙がつづいた。 「一からやり直すというならそれもいい。だがこの十年、君とつながっていたのは金のことばかりではなかったということを信じてくれ。そう信じてくれるのが、僕にとってはもちろん、君にとってもいいことだと思う」 「…………」 「ところで、今日は君に尋ねたいことがひとつあってやってきた。坐ってもいいかな」  堀越は散らかった部屋を出ると、広いアトリエの隅に置いてあるソファーへ向かった。穂積もついていく。 「それは湯平弥市さんのことだ」 「湯平弥市……」  堀越は先に坐った穂積を見おろして言った。 「あの老人と君の関係を知りたい」 「今まで知らなかったのか」  堀越は意外そうな表情でつぶやいた。 「今日、三協銀行で湯平さんのことを聞いた。実はあそこの頭取が菊の絵を買い集めているんだ。三協のバンク・フラワーだからな。僕は三田常務というのと支店長時代から親しくしていてね。それでそっと耳うちしてくれたんだが、驚いたことに湯平弥市氏は、ただの管財人だったっていうじゃないか。僕はもうびっくりしてしまって」 「ただの管財人……すると本当の金持ちは他にいたわけですね」  堀越は冷たい微笑を浮かべた。 「そうなんだよ。ところがその人物の名前をどうしても明かしてくれない。こっちは何億という金を融通してもらっている。不安でたまらんじゃないか。君は湯平さんと古い知合いだそうだ。心当たりはないかね」 「ありませんな」  堀越はにべ[#「にべ」に傍点]もなく答えた。誰の金であろうと、十年間それで操《あやつ》られていたことに違いはないと思った。     2  その霙《みぞれ》を、公子は母親の部屋で眺めていた。  庭の枯れた芝生のほうぼうに小さな水たまりができて鈍《にぶ》く冷たい光を放っている。 「今度は本物なんでしょうね」  裾を引くような長いニットのスカートに、毛のふさふさしたスリッパをはき、白の若やいだセーターを着た美しい母親が言った。 「多分ね」  公子は一度手で拭《ぬぐ》ったガラスがまた曇っていくのをみつめながら、立ったまま答える。 「多分じゃ困りますよ」  おっとりとした言い方だが、それなりに強くとがめる調子だった。 「だって先のことは判らないでしょ。本当は私、堀越正彦みたいな旦那さんが欲しかったの」 「莫迦《ばか》を言って……親子ほども年齢《とし》が違うじゃない」 「親子くらい違ったっていいじゃない。だいいちお母さまは堀越さんが幾つだか知ってるの」 「四十五でしょ」  美しい母親は、その美貌にもうひとつ鋭角的な美しさを加えてうけついだ娘を見ながら、よどみなく答えた。  公子は驚いたようにふりかえり、 「ずいぶんよく知ってるのね」  と不審そうに言う。 「だって私たちと同じ年齢《とし》ですもの」  すると公子は母親の坐っている椅子の傍へ甘えるように近寄り、ベージュのカーペットに横坐りになった。 「堀越画伯って、若い時どうだったの。ハンサム……」 「今でもそうでしょうけど、昔はそれは美男でいらしたわ」 「ねえ、聞かせてくれない」 「何をです」 「先生の昔のことよ。洗足池《せんぞくいけ》の大ちゃんに教わって、先生とおつき合いするようになったんだけど、よく考えてみると、ウチと先生の関係、まるで知らなかったのよ」 「古いことですよ」 「ねえ……」  公子に甘えられて、母親は遠くを見る目つきになった。 「もう喋ってもいいでしょう。時効ですものね。堀越さんはむかし洗足池のおばさまの恋人だった人なのよ」 「へえ……」 「ひどい時代だったわ。着る物も食べる物もろくになかった時代よ」 「おばさまは原爆のときに広島にいらしたってことは聞いたことあるけど……」 「あれがなかったら、洗足池のおばさまも今ごろは堀越画伯夫人だったかもしれないわね」 「お母さまはそのころどこにいらしたの」 「山口ですよ。運がよかったのね。でも私たち姉妹はどちらも幸運だったのよ。洗足池のおばさまだって、広島の、しかも爆心地のすぐそばで命びろいをなさったのですものね。そして二人とも今はこんなに幸せに暮らしているし」 「どうしてお二人は別れちゃったの」 「どうしてって……かんたんなことだけど、あなたたちには実感としてつかみにくいでしょうね。堀越さんはその日、広島にいなくて、駆けつけたときはもうめちゃくちゃ……死んだものと思い込んじゃったのよ」 「よく探せばよかったのに」  公子は憤《おこ》ったように言った。 「だからあなたたちには判りにくいでしょうと言ったのよ。焼けただれた死骸がゴロゴロしてるのよ。誰がどこにいるか、探そうといってもとてもできない相談よ。堀越さんだって、そうそう自由にはならない体だし」 「兵隊さん……」  母親はうなずいた。     3 「そして終戦でしょ。洗足池のおばさまだって探したいけど、汽車に乗るんだって今のように自由にはいかないし、堀越さんが無事に生きのびたかどうかもはっきりしないのだから、どうにもなることじゃないわよ。堀越さんのおうちは東京で、それも焼けてしまっているし……」 「ひどい時代だったのね」 「みんなその時代を生きてきたのですよ。あなたたちみたいに勝手気儘に暮らしてきたわけじゃないんですからね」  母親の顔に誇るような色があった。 「それだけなの……」  公子は不満そうに言った。「それじゃほんとの淡い初恋ってわけね」 「とんでもない」  母親は反射的に言った。 「あら、もっと深刻だったの」 「おばさまは、別れ別れになったあと妊娠してたんですよ。終戦の年の秋になってそれが判ったの。大変だったわ……」  公子は大きな瞳をさらに大きくして母親の顔をみつめている。 「今の人はかんたんにおろすとか流すとか言うけど、それだからあなたみたいな悪い子ができるのね。あの新劇の人だって悪い人じゃなかったし、テレビ局のディレクターさんだってしっかりした男性でしたよ。悪いのはあなた……遊びでおつき合いして、いつだっていいかげんなんですものね。今度の新聞記者さんとかはどうやら本物らしいけど、本物なら本物ほど、以前の男の人たちとのことを後悔するでしょ」  公子は照れたようにそっぽを向いた。「ほらみなさい。だから注意してあげたんですよ。私は決してわからず屋の母親じゃなかったつもりよ」 「それじゃ、洗足池のおばさまは先生の子供をお生みになったの」 「そうよ。でも、少しして死んでしまったそうよ」 「死んじゃったそう……って、変じゃない。お母さまよく知らないの」 「私たち姉妹は、おじいさまの男手ひとつで育てられたのよ」 「ああ、湯平弥市ね」 「呼びすてにする人がありますか。……おじいさまは、それは心配なさって。だって当たり前でしょ。嫁入り前なんですからね。それで、乳《ちち》ばなれするころ私たちと別れ、赤ちゃんを引きとってよそで育てはじめたのよ。さっきも言ったように、すべてがめちゃくちゃになってしまった時代でしょ。おばさまはそれで傷つかずにすんだわけ……でも結局、赤ちゃんは死んでしまったのよ。犠牲になったみたいだけど、今、考えてみると、あのころはそれ以外仕方がなかったんだわ」 「そんなの……違うわ」 「どうして」 「だって、おばさまは……」  公子は言いよどみ、「赤ちゃんと一緒に暮らすべきよ。それで死んだのなら仕方ないって言えるけど……そうでしょう。それなら先生にめぐり会えたかもしれないし。卑怯よ。逃げたのよ。お母さまは、今、二人ともこんなに幸せだっておっしゃるけど、洗足池のおばさまは、現に天童健策の二号じゃないの」 「公子、なにを言うんです」 「だってそうじゃない」 「違います」 「どう違うの」 「おばさまは一度ちゃんと結婚したんです」 「天童健策と」 「そうよ。でもすぐまた子供ができたの。そうしたら逃げ出してしまったのよ」 「どうして……」 「恐ろしかったんだわ、きっと。前の子供のことが心にひっかかって、どうしようもなくなってしまったんでしょう。妊娠したのをご主人にも知らせず、身を引いてしまったのよ。書置きを残してね」 「なんて馬鹿なことをしたの」 「今のあなたよりもっと若かったころのことよ。どうしていいか判らなかったんでしょう」 「先生を愛してらしたのね」  公子が言うと、母親は黙って複雑な微笑を泛べた。それを言うべきではない……とさとしているような表情だった。 「そうよ、先生を愛してたんだわ。だから昔の人って、いや……ギリギリに追いつめられなくては自分の主体性ってものが出てこないんだから」 「とにかく天童さんはそれで親戚や世間に大恥をおかきになり、すすめられるまま、すぐ翌《あく》る年、再婚なさったの。それが今のかたよ。そしてずっとあとになって、おばさまが雄ちゃんと大ちゃんを一人で苦労して育てているのを知ったわけ。だから洗足池のおばさまは二号さんなんかじゃありません」  母親は断固として言った。     4  佐々木義章と湯平雄一郎も、その霙を喫茶店の窓ごしに見ていた。 「関西支社か。とうとう都落ちだな」  佐々木はそう言って喫茶店のマッチでハイライトに火をつけた。 「たしかなんですか、それは」  水を注《つ》ぎに来たウエイトレスを、身をのけぞらせてよけながら雄一郎が言った。 「新年早々の発令らしい」 「そんなの蹴とばしちゃいなさいよ」  雄一郎は口惜しそうだった。 「覚悟はできてた。この調子じゃ、いずれ地方にとばされるのは判っていたよ」 「どうするんです」 「一匹狼さ」 「辞《や》めるんですか」 「社だって辞めさせたいが、それができないからまず関西へ俺をやるんだ。組合というものがあるからな。だが俺には、組合だってもう関係ない。組合に頼ってへばりついてみたところで、一度こうなったからには将来もたかが知れてる。俺はもっと楽な立場でやるよ。今の社のサラリーマンとしてはもう望みがないが、記者としてはまだまだ闘える。ルポライターでもトップ屋でも、なんでもやってやるさ。食うには困らん」  雄一郎はそう言う佐々木を羨ましそうにみつめた。 「僕を助手に使ってくれませんか」 「勘弁してくれ。二人じゃ食えんよ」  佐々木は笑った。 「生活はなんとかなります。僕と先輩が同じ行動をしていたのに、先輩だけ左遷《させん》だ、退社だというのは理窟《りくつ》に合いません」 「合ってるよ。君は俺に使われただけだ」  佐々木は真面目な顔で言った。 「駄目ですか」 「駄目だね」  佐々木は故意に冷たい言い方をしたようだった。雄一郎は唇を噛んで霙《みぞれ》の降る街を眺めている。 「しかしおかげでこの暮れはのんびりできる。ひとつ盛大に飲み歩くか」  佐々木は雄一郎の機嫌をとるように、陽気な声になった。 「そうですね」  雄一郎は外を見たまま答える。 「弟の大二郎はニューヨークでクリスマスか。手紙は来たかい」 「いいえ、まだ……」 「一卵性双生児ってのは仲がいいんだろう」 「さあ、どうですか」  雄一郎は苦笑しながら首を傾《かし》げた。 「雄一郎、大二郎……なるほどね、雄大か。ふたごだと、親はそういう名のつけ方を考えるものかね」 「公子に明子……そんな名前のつけ方をする親もいますよ」  雄一郎はからかっているらしい。「一卵性双生児の片方の恋人になると、どんな気持ちがするんですか」 「本当によく似るもんだな。俺この間、日生劇場で嶺田夫人に紹介されてびっくりしたよ。うちのお公《きみ》そっくりなんだ」 「どうでした。おたくのお公さんと同じように愛せちゃうんじゃありませんか」 「この野郎きわどいことを言いやがる。でも、なんとなくそんな感じだな。変な気分さ。向こうのほうが人妻で、しかもうちのお公よりだいぶ初々《ういうい》しいだけ癪《しやく》だった。ああやって並べると、お公のほうが少し手あかがついている感じだな」 「あ、言ってやろう」 「よせよ莫迦《ばか》。男同士の話じゃないか」  佐々木が慌《あわ》ててみせると、雄一郎はたのしそうに笑った。 「いつ結婚するんですか」 「さあ……どうなるんだろう。なにしろ遠からずルンペンの身の上になるんだからな」 「佐々木さんが赤ん坊のおむつをとりかえてる図なんてきっと珍妙だろうな」 「俺はそんなことしない」 「風呂へ入れたりミルクを飲ませたり」 「それも断固拒否する。男がそんな日なたぼっこみたいなことをするのは堕落だ」 「でも判りませんよ。だって公ちゃんはふたごを生みますからね」 「おどかすな莫迦野郎」 「いや本当です。うちはふたごの家系ですからね。僕と大二郎、公ちゃんに明子さん」 「偶然さ。遺伝じゃねえよ……でも、遺伝かね」  佐々木は自信なさそうだった。 「僕たちと公ちゃんたちの母親もふたごですよ」  ひえっ……と佐々木は奇声を発した。 「ほんとか、おい」 「湯平規子に香取律子……規律の規と律です」  佐々木は口を半開きにして雄一郎をみつめていた。 [#改ページ]   11 光る小人《こびと》     1  アトリエにもそのとなりの食堂兼用の居間にも、ありったけの灯りが煌々《こうこう》とついている。 「タンシチューはもう出すとき暖めるだけでいいし、鰤《ぶり》のお刺身も届いたし……」  キッチンをのぞいた堀越正彦に公子がそう言った。 「それにしても妙なクリスマス・イブだな」  堀越が笑った。 「彼、本当は日本酒党なのよ。かたどおり七面鳥にクリスマス・ケーキなんてつまんないでしょ。だからみんなの好きなものにしたわけ」 「彼、彼って、もう大っぴらにやってるが、本当に佐々木君と結婚するのか」 「どうかしら……」  公子は濡れた手をタオルで拭きながら堀越を見た。ビロードのワインレッドのドレス。背中は腰の辺りまでむきだしだった。 「まだきめてはいないのか」 「もし彼の奥さんになったら、私って案外古風なおかみさんになるかもしれないわね」 「判るもんか。しょっちゅう出歩いてばかりいる悪妻になりそうだ」 「人は見かけによらないものよ」 「それにしてもなにやってるんだろう。遅いじゃないか」  堀越は腕時計をみた。 「買物たのんだから……セロリやなんか」 「莫迦だな。クリスマス・イブにそんな買物をたのんだら遅くなるのが当たり前だ」 「判ってるわ。でも彼ったら、もし結婚しても家事の手つだいなんか絶対しないって言ったのよ。男として最大の堕落なんですって」  公子は悪戯《いたずら》っぽく笑った。 「なるほど。今からなし崩しに彼のそういう手ごわいところをつぶしていこうというんだな」 「実績作られちゃ損ですものね」 「で、頼んだらどうだった、反応は」 「気軽に引きうけたわよ」 「まだ試合開始とは思ってないんだろう」 「剣豪小説で読んだわ。試合の約束をしたとたんに勝負がはじまるんだって」 「佐々木君も大変な相手に試合を申し込んだもんだ」  堀越はそう言って笑った。 「ふだんはなんか凄く戦闘的なこと言ってるけど、案外平和な人なのよ」 「平和な人はよかったな。うん、たしかに彼にはそんなところがある。とにかく好人物であることはたしかだ」 「日本酒ファンなのが玉に瑕《きず》……お酒ってあとで匂うでしょ。私あれあまり強くないの」 「慣れるさ」 「そうかしら。私、そのうち洋酒党に転向させちゃおうかと思ってるのよ」 「それはやめろよ。男の酒の好みに女がくちばしを入れるもんじゃない」  そう言った時、チャイムも鳴らずにドアがあいたようだった。 「あら、来たわ」公子はいそいそとキッチンを出る。  佐々木も公子も一階の管理人とはすっかり顔|馴染《なじみ》になっていて、だいぶ以前から住人同様フリーパスなのだ。 「いやあ参った。道が混んでやがって」  佐々木は大きな紙袋をかかえて入って来た。そのあとから湯平雄一郎も、同じくらいの紙袋をかかえてくる。 「佐々木君、車で来たのかね」 「ええ。いつものオンボロサニーですよ。ただしもう今日は乗りません。前の椎《しい》の木の下へ置いときましたから、明日の午後にでもとりに来ますよ」 「当たり前よ、今夜は盛大に飲むんですからね。鍵ちょうだい。私が預かっとくわ」  公子は片手を突き出した。 「信用ねえんだな。乗らないよ、飲んだら」     2 「メリー・クリスマス」  四人がそう言って最初のグラスを合わせたのは、八時近くなってからだった。  鰤《ぶり》の刺身と日本酒を用意したのに、みんなと同じウイスキーにすると佐々木が言いだして、ひとしきり公子が膨《ふく》れてみせたあとだった。 「何がめでたいのか判らないが、とにかく今夜は愉しく飲もう」  堀越は宣言するように言って、グラスを一気に乾す。湯平弥市から贈られたふたつの縄文遺物を飾った棚を背にしていた。  社内情報で来春早々の人事異動に佐々木が引っかかったと判り、急に思いついたクリスマス・パーティーだった。 「堀越さんはこんなブロイラー・チキンなんて食わないですよね」  佐々木は大皿の上に積まれた鶏の腿肉《ももにく》の骨をつかみあげながら言った。 「チキンは嫌いじゃないが……」 「僕はね、これが一番のご馳走なんですよ。骨を持ってこうやってかぶりつくと、バイキングの頭領かなんかになった気分で、モリモリ戦闘意欲が湧いてくる」 「あら、バイキングってチキンを食べてたの」  公子が真顔で言った。 「知らねえよ。ただそんな気分だって……判るだろ」 「どうせなら七面鳥にすればよかったのに。クリスマスじゃない」 「知るか。通りがかったらこいつを山積みしてたんで買ってきたのさ」 「佐々木さんの買物は荒っぽいんです。セロリだっていきなり四キロくれって……」 「四キロ」  公子が目を丸くした。雄一郎は佐々木の横顔を見ながら、 「そう。八百屋がびっくりしてた」  と笑った。 「どのくらいくるのか判らないからさ。まさか百円ちょうだいとも言えねえだろ」  堀越は苦笑した。ふと湯平弥市のことを思い出したのだ。 「君のおじいさんみたいだ」  と公子に言う。 「あら、湯平弥市ってそういう人物なの」 「知らないのか」  堀越は公子と雄一郎を交互に眺めながら言った。 「高校のころ、何度かうちへ訪ねて来たことがあったようですけど、母もあまり話してくれませんし」 「うちもよ。おじいさんのことなんて、まるで話題にならないの」 「そうか。君のうちも……」  佐々木はいとこ同士のやりとりを聞きながら、妙にしいんとした表情で堀越をみつめていた。 「とにかく大変な人だよ」  堀越はそれに気づかず、ちらっといとわしげな色を泛べて言った。 「ねえ堀越さん」  佐々木は腿肉に塩をふりかけながらさりげなく言った。 「何だい」 「その人のことで何かあるんじゃないですか」 「何かとは」  堀越は警戒するように問い返す。 「いや、別に。でも、この間ここで飲んだとき、酔っぱらってさかんに湯平弥市という名を言ってましたから」 「そうだったかな」  堀越は軽く聞き流そうとしている様子だった。 「忘れちゃったんですか」 「なにしろひどく酔ったからな」  すると佐々木は雄一郎の顔をちらっと眺め、 「だろうと思った。でも僕は忘れてません。何か調べてほしいと言いましたよ。だいぶこみ入った事情があるようですが、僕はもちろん、お公《きみ》だって雄ちゃんだって、あなたのためなら、ひと肌もふた肌も脱ぐ仲間です。鬱陶《うつとう》しいものをかかえてないで言ってくれたらどうですか。この二人のおじいさんだっていうし」  と真顔で言った。 「どこまで喋ったか知らないが、だいぶ聞かせてしまったようだな」  堀越は頭を掻いた。 「そうよ、水臭いわ」  判らぬまま公子も言い、雄一郎もうなずいた。  堀越は黙ってグラスを満たしはじめ、三人はその手もとをみつめて彼が語り出すのを待つ恰好《かつこう》になった。  味方があってもいい……堀越はそう考えはじめていた。孤独に慣れて、味方というものがあることさえ忘れていたと思った。     3 「そんなの嘘よ」  公子が叫んだ。「先生はそんなお金に守られなくったって、立派な画家です。お金で才能まで買ってくれたわけじゃないでしょ。お金じゃ買えません、絶対に」 「そうですよ。そんなこと気にすることじゃない」  佐々木も言った。 「でもね。絵を描くという仕事は或る意味で精神のバランスの上になり立ってるんだ。バランスがとれすぎてもいけない。……これは佐々木君が、マイホーム主義に陥ることを男の堕落だときめている考え方と同じだ。バランスがとれすぎると精神が不活性になる。といって、動揺すればまた描けない。或る偏《かたよ》りでギリギリの平衡を保っているから描けるようなもんだ。他人のことは知らないが、僕に関してはそうだ。今度のようなことが起これば、だから当然バランスは崩れ、秤《はかり》は揺れ動く。揺れ動いたということで動揺し、自分からいっそう揺らせてしまう。……始末が悪いが、そういうのが絵描きの本当のところだろう。しかし、だからといって動揺しっ放しで右往左往してるかというと、そうでもない。ちょうど僕は今、年齢的にも、画家としてのライフサイクルからいっても、ひとつの曲がり角にさしかかっている。何度も何度も曲がってきた曲がり角を、また曲がらねばならないところなのさ。曲がる経験を積んで、ああまた来たなと、わりあい冷静に見ている面もある。ヒイヒイ言いながら、もう一人の自分がそれをじっとみつめているんだな。このことが起こる前から、たとえば君の肖像を描いたりしてただろう」  堀越はそう言って公子を見た。「あれは無意識のように自分の絵の新しい局面を求めていたということなんだ。そして、湯平弥市の件を知らされてから、そのもう一人の醒《さ》めている僕は、こいつを踏切り台にして次の境地へとび込んでやれと考えてる。二重人格的だがそれが本当のところだ。湯平弥市の黄金発掘に力をかす……参加する。そうきめたのは、絵描きとしてそのほうがいいと思ったからだ。考えてもみてくれ。いくら自分の才能を信じたところで、ずっと金に守り育てられていたと知って、いやそんなものは……と。これは絵描きの神経じゃない。もし僕がそういう風に割切って今までどおり仕事をつづけたとすれば、僕の絵描きとしての寿命はそれまでだ。むしろバランスが狂って絵筆を持てなくなったことにこそ感謝しなくてはならない」 「そうか、判りますよ。いやそうでしょう。要するに堀越さんの体内にはまだ青春の血がある。そいつがなくなったら、絵描きといわず男はみんな駄目だ。そいつは夢があるかないかってことだよ。黄金伝説を追いかける。追いかけずにはいられない……」  佐々木は途中から公子に言っていた。傍で雄一郎がしきりにうなずいている。 「と、まあそういうわけで、そこまで判ってもらえれば話しやすいんだが、調べてもらいたいというのはここからさきのことなんだ。湯平弥市という人物は、僕が以前知ってたのとはだいぶ違ってしまっているんだ。どうしてなのか。戦後何が彼に起こったのか……」 「腕っこきのブン屋がついてる。なあ雄ちゃん」 「ええ、そうですとも」 「待ってくれ。まだ情勢は動いてる最中なんだよ」 「というと……」 「穂積一成が三協銀行から聞きだした情報によると、その湯平弥市は、実は莫大な資産の管理者にすぎなかったらしい。穂積社長もこれはまるで知らなかったんだ」 「ということは、あなたのために穂積画廊に大金を出しつづけた本当の人物がほかにいたということになりますね」  佐々木はグラスをみつめながら言った。     4  箸で鰤《ぶり》の刺身をつまみあげ、口の中へほうりこんだ佐々木は鮮やかにひとつ舌鼓《したつづみ》をうってみせ、薄手の盃でぐいと日本酒を飲みほした。一人だけ酒に刺身というのを避けていたその遠慮が、十杯近いウイスキーの水割りでとれ、亭主|然《ぜん》と公子に酒の支度を言いつけたのだった。  パーティーの雰囲気もそれでガラリと陽気になった。酒に強い男三人に囲まれて、公子もだいぶメーターをあげているようだった。 「私って、酔うと凄く好色な女よ」  佐々木のとなりへ必要以上に椅子を寄せながら、公子は誰に言うともなく言った。外見はしとやかそのものといった公子がそんな風にしてみせると、恐らく公子自身でさえ計算外の、とほうもない艶《つや》っぽさがあたりに漂うのだった。 「雄一郎君もかなりいける口なんだな」  堀越が目を細めて言う。 「ええ、公ちゃんも女にしては飲むみたいですし、飲める血筋なんでしょうか。近ごろでは母も少しお酒をやるようです。一度一緒に飲んだことがあるんですよ」 「ほう……」  堀越は意外そうな顔をした。 「私にも、お刺身……」  公子はあけすけに甘ったれて、佐々木に向かって口をあけて顔を突き出した。佐々木はなんのためらいもなく、当然のように与える。 「ね、案外平和な人物でしょ」  食べおわると公子は上気した頬を片手で押さえながら言った。 「いいかげんにしなさい。なんてこったろうね、佐々木君も」  堀越は苦笑している。 「いいじゃないの。もう二人はとっくに出来ちゃってるんですからね、先生」  公子が居直ってみせた。 「まあクリスマスだからいいようなもんだけど」  すると公子は反抗的に肩をそびやかし、 「おい、ブン屋さん。駄目じゃないの」  と佐々木に言った。 「何がだよ」 「あなたの取材がよ。なっちゃないわ」 「どうして」 「肝心なこと聞き洩らしてるじゃない。湯平弥市の秘密を探るんなら、先生と私や雄ちゃんとの関係を知っておかなくちゃ」  佐々木は盃を胸の辺りでとめ、顔をあげて堀越に尋ねた。 「どういう関係です」  堀越が何か言いかけると公子は押しかぶせるように、 「私と雄ちゃんはいとこ同士、そして先生は雄ちゃんのお母さんの恋人よ」  と言った。 「え……」  佐々木と雄一郎が同時に言った。 「駄目だな、女が酔うと」  堀越はぼやき気味に天井をふりあおいだ。 「ほんとですか」  雄一郎の瞳はキラキラと光っていた。 「昔のことだよ。恋人だったことはたしかだがね」 「嘘、だったなんて。まだ恋人よ」  公子に言われ、堀越は少しむき[#「むき」に傍点]になったようだ。 「なぜそんなことを言うんだ。戦後一度も会っていないんだぞ」 「だって先生はまだ独身じゃない。なぜなの。その恋がまだ終わってない証拠じゃないの」  公子はズケズケと斬りつけていく。 「いや驚いた。そんなんだったんですか。俺はまた遠縁か何かなんだとばかり思ってたよ」  佐々木はそう言って雄一郎を見た。 「僕も初耳でした」  雄一郎は少し昂奮したらしく、急に酒がまわって顔が赤くなっていた。     5 「おかしいぞ、おかしいぞ……」  佐々木は仰向けに寝そべり、脚を組んで唄うように言った。 「何がだい」  堀越もアトリエの床にじかにあぐらをかいて坐っていた。椅子に疲れた四人は、皿やグラスを持ってだいぶ前から広いアトリエのまん中に移動している。暖房をフルにきかせて、部屋の中はムンムンするほどだ。 「新聞記者の勘てやつ……さっきからピリピリしてるんだ」  佐々木はくるりと体の向きをかえ、椅子の丸いクッションに肘をついた。 「いいですか。これはたしかに事件じゃない。汚職も殺しも盗みもない。でもきっと何かある。かつてあなたの恋人で、子供まで出来た仲の女性が雄ちゃんのお袋さんだ。そりゃ雄ちゃんのお袋さんは、ちっとばかり美人だっていうだけで、ただのお袋さん……ただのご婦人だろうけど、でも今や違う。次の保守党総裁、つまり次期内閣首班の……雄ちゃんのお袋さんてことは、つまりそういうことだ。そうでしょう。社会的に普通の女性じゃなくなっちまってる。そこへもってきてだな、ここに湯平弥市という人物がいる。その人物は十何年もあなたをバックアップしようとしたんでしょ。そうですよ。理由がないじゃありませんか。そうでしょう。雄ちゃんのお袋さんとあなたの関係がなかったら、そんなことする必要がない。それでも湯平弥市が本当に底の知れない大金持ちっていうんなら話は別だった。何かの気まぐれで昔馴染を応援しようとしたのかもしれん。でもそうじゃない。聞けば穂積画廊は何億という金を湯平弥市から使わせてもらっている。あなた、さっきそう言いましたね。ところが実はどうやら湯平弥市は一|介《かい》の管財人らしいときた。どういうことです。どんな金持ちが億の金を十何年も管財人の自由にさせてるんです。横領ですか。背任《はいにん》ですか。違うなあ。違うんだなあ。そこにはあなたに対する何か大きな事情があるんだ。あなたはそれを知らないか、まだ気がついていないか、そのどっちかだ。物事は金では測《はか》れんかもしれないが、その事情の大きさは、穂積画廊に対する億単位の金がある以上、普通の事情じゃない。謎だ。謎は謎を呼ぶ。ジャジャーン……」  佐々木は酔っていた。 「何が謎だ。……朝顔の、からみ合いたる、つるの謎、だったかな。久保田万太郎の句だよ。こうしてこの四人が、この年のクリスマス・イブにここに集まっているほうがよほど謎だ。戦後二十数年、三十年近くなって、昔の縁が切れずに公ちゃんや雄一郎君が僕の傍へ来る。不思議なものだ。君との縁だって謎だ。この秋ひょっこり望遠レンズかついでこの部屋へやってきたばかりじゃないか。それがもう、公ちゃんとくっついちまって、なあ雄一郎君」  堀越は雄一郎に相槌を求めた。 「でも、それは僕が佐々木さんの部下で、ここが栗栖重人の屋敷に近そうだって言ったからですよ。僕と先生は母の縁でずっとつながっていたことになります」  雄一郎はうつむけに寝たまま顔もあげず、こもった声でやっとそれだけ言った。十時をとうにすぎ、みなそれぞれに酔っていた。 「ん……栗栖か」  佐々木はむっくり起きあがった。 「何……どうしたの」  うとうとしかけていた公子が顔をあげて言った。 「あいつだって今夜はクリスマスだ。どんなクリスマス・イブを過ごしてるかのぞいてやろう」  佐々木はふらつきながらアトリエの隅に三脚ごと立ててあった望遠カメラに近寄っていく。 「のぞいてやるんだ。顔を憶《おぼ》えなくては……」     6  師走《しわす》の北風が吹きつけるベランダのフラワー・ボックスの上で、佐々木はファインダーをのぞいている。  寒いからよせととめられ、それをふりきってよろよろと出てしまったのだ。寒さに肌がしまり、酔いがむりやり体の奥へ沈みこんでいくようだった。 「畜生め。人を馘《くび》にしやがって」  佐々木は呪いの言葉を吐きながらピントを合わせようとしていた。すっかり慣れてしまい、酔っていても方角だけはきちんと栗栖邸に向けてあった。  暖いガラス戸の中には、公子と雄一郎が堀越の指さす星を眺めている。強い北風に吹きはらわれ、雲ひとつない星月夜《ほしづくよ》だった。 「あれが君たちの星だよ」  堀越は左手にグラスを持ち、右手の人差指でベランダの先にひろがる夜空の一角を指さした。ベランダは真東に向いていて、堀越の指は天頂と地平の中間あたりを示している。 「私たちの星……雄ちゃんと私の……」 「そうだ、ふたご座だ」 「あら、どれ……」  公子はガラス戸に手をついて体を支えながら、酔った瞳を凝《こ》らした。 「大きい星がありますね」  雄一郎が見つけたようだった。 「そうだ。あれがポルックスだ。ポルクスでもいいが、正しくはポリュデゥケースと呼ぶ。ギリシャ神話の双子神だ。そのほんの少し北に並んでいる星がカストール。カストルでもかまわない。カストールとポリュデゥケースのことを知ってるかい」 「カストルって聞いたことあるみたい」 「ゼウスが白鳥に化けて情を通じた、レダの子供たちだよ」 「あ、思いだしたわ。絵にあるじゃない。白鳥が沐浴《もくよく》してる裸婦をのぞいてるの……」 「レダと白鳥を描いた絵はたくさんあるよ。とにかくポリュデゥケース、つまりポルックスとカストルは、ゼウスがレダに生ませた双生児の兄弟なんだ。ギリシャ神話にはいろいろな別伝があって、どの神がどういう存在か一定させるのが仲々むずかしいが、ポルックスとカストルがレダに生ませたゼウスの子供だという点では、どの別伝でもだいたい一致している。つまりあれは君たちの星だ」 「でも男のふたごでしょ」 「うん。レダはその兄弟のあとまた子供を生んでいて、トロイのヘレンもレダの子供とされている」 「あ、それがいいわ。私ヘレン・土屋ですもの」  公子はそう言ってたのしそうに笑った。 「よく星のことを知ってるんですね」  雄一郎が感心して言った。 「君らのお母さんたちがふたごだった。それがきっかけさ」  堀越はさりげなく答えた。雄一郎はその顔をみつめ、感傷的な気分になっているらしかった。母をしのんで星を眺める夜があったに違いない……多分、雄一郎はそう思ったことだろう。酔いがその感傷をことさら深くし、雄一郎は瞳をうるませている。  公子もしなやかな腕をいとこの肩にのせ、佐々木のほうを見ながらつぶやくように言った。 「あの人、私が死んだら双子《ふたご》座のこと調べてくれるかしらね」  だが、ベランダではそれどころではなかった。佐々木は大声で喚《わめ》いていた。 「なんだあれは。おい、来てみろ」  ファインダーの中に何か見えたらしい。 「おい、みんな来てみろよ」  右手を烈しく振りながら怒鳴った。 「呼んでるよ」  堀越は二人の反応に少し照れていて、億劫《おつくう》そうに言った。公子が重いガラスの戸をあけた。 「どうしたの」 「来てみろ。あいつの屋敷の庭に小人がいる」 「小人ですって……」  公子は笑いながらアトリエの二人をふり返った。 「来い。来てみろ……あっ、小人が光る。光る小人だ。本当だ。遮光器土偶そっくりだ」 「酔っちゃってるわ」  公子はそう言い、心配そうに、「およしなさいよ、そんな寒いところで」と近寄っていった。 「見ろ、早く」 「ほんとなの……」  公子がフラワー・ボックスへ登ろうと足をかけた時だった。 「あっ」  アトリエの二人が叫んでベランダへとび出した。公子もそれを見た。もちろん、佐々木も。  橙色《だいだいいろ》の光の輪が、滲《にじ》んだような輪郭でレンズを向けたあたりの高輪の闇から舞いあがり、鏡を反射させるように一瞬銀色に変わったかと思うと、とほうもない早さで南へ消えてしまった。     7 「あれは……」  四人は北風の吹きつけるベランダで顔を見合わせた。 「見たぞ。俺は宇宙人を見たんだ。飛んだのは空飛ぶ円盤だ」  佐々木が大声で喚《わめ》いた。 「なに言ってるのよ」  公子はたしなめるように言い、寒そうに肩をすぼめ、腕を組んでアトリエへ逃げこんだ。  堀越はベランダの冷たい鉄の手すりにつかまって海のほうを眺め、 「UFOというのはああいうのかな」  とつぶやいた。 「何だったんでしょうね、本当に」  雄一郎はそう言ってふり返り、アトリエの中の公子を見た。 「そんな寒いとこで何やってるのよ。みんな風邪を引いたってしらないから」  公子に言われ、男たちは急に寒さに気づいた様子で、ぞろぞろとアトリエへ戻ってガラス戸をしめた。佐々木は指がかじかんでしまったらしく、せわしなく両手をすり合わせ、ぬるくなった酒をついで呷《あお》った。 「早かったですねえ」  雄一郎は三人の顔を見まわしながら言う。 「円盤だよ、円盤……」  佐々木はそう断言してまた酒を呷る。 「公ちゃん。君もたしかにあれを見たのか」  堀越が念を押した。 「見たわ。どこからとび出したかよく判らなかったけど」 「見たとおり言ってみなさい」 「だってみんなも見たんでしょ」  公子は不服そうに堀越をみつめた。 「みんなが同じものを見たのかどうかだ。とにかく言ってごらん。僕と雄一郎君はガラスごしに見てたんだ。ガラスに反射した何かを見たのかもしれん」  すると佐々木は両手で輪を作ってみせ、 「このくらいの橙色が沖へビュッととんでったんだ。間違いなく円盤さ」  と言った。 「彼はだいぶ酔ってる。しかしたしかに最初は橙色だったな」 「小さくなってから銀色に光ったわ」 「僕は白いように思ったな。月の光のようでしたよ。銀色というのは少し違う……」  雄一郎がそう口をはさむ。 「たしかに四人とも同じ物を見たんだな」 「俺だけが小人を見た。あの部屋の棚の上にある遮光器土偶って奴さ。あれが光ってた」  佐々木はごろりと横になった。 「駄目よ、そんなとこで寝ちゃ」  公子は世話女房|然《ぜん》として佐々木の肩をゆすっている。 「鏡を悪戯《いたずら》したことがあるだろう。反射させた光の輪を動かすと、とんでもない所へあっという間に移動する……僕はあれを連想した」 「そうですね。何かこの世のものでない動き方でしたよ」  堀越の言葉に雄一郎が答えた。だが公子は、そう関心を示していないようだった。 「箱根のドライブウェイで、ガスにかこまれた時、あんなの見たわ。遠くから登ってくる車のヘッドライトが、霧のスクリーンに当たってあんな風に見えることがあるのよ。きっとそんなことよ。スモッグに何かの光が反射したのよ、きっと」  堀越は真顔だった。 「そうだろうか。風でスモッグなど吹きはらわれているよ。雲ひとつない星月夜だ」 「男の人って変なこと面白がるのね。それより彼だいぶグロッキーだわ。もう飲むのやめさせなくちゃ……」  公子はそう言い、「先生、毛布一枚お借りします」  と自分もかなり危《あや》うげな足どりでアトリエを出ていった。堀越ももう一度空を見に立った。 [#改ページ]   12 奈良の狐《きつね》     1  奈良を見渡す西側の高地、信貴山《しぎさん》の南に、湯平弥市が住む広大な邸宅があった。山を南に下ればすぐ大和川《やまとがわ》と関西本線が走っており、その広い敷地は奈良市と大阪府の境界線にまたがっている。私道、といっても近ごろはやりの分譲別荘地など顔まけの、まっ白い本格舗装の道が竜田《たつた》神社の裏あたりから山腹へ伸びている。  すでに三月。東大寺|二月堂《にがつどう》のお水取りも終わり、あたりは一気に春めいて、佐々木|義章《よしあき》がたたずむ小径《こみち》にも、浮きたつような微風と小鳥の囀《さえず》りが聞こえている。  私道・行きどまり。  古都探訪のマイカー族の目につきやすいよう、でかでかとそんな看板めいた立札がかかげられている。  佐々木はまだ中央新報を辞めていない。意外なことに左遷である関西支社転勤の辞令に反抗するそぶりもみせず、暖かくなるとこうして毎日のように奈良がよいをはじめたのだ。  彼には、他人に説明のしようがないひとつの確信が生まれていた。それは去年のクリスマス・イブに見た奇妙な現象がもたらしたものだった。  湯平弥市は栗栖重人とどこかでつながっているはずだ。……それは飛躍しすぎて、堀越や公子でさえ容易に納得してはくれない考えだった。しかしあの翌日、酔いつぶれた睡《ねむ》りからさめたとたん、佐々木にはそれが動かせない事実だと感じられたのだ。  一〇〇〇ミリの望遠レンズをつけたカメラのファインダーの中で、遮光器土偶《しやこうきどぐう》そっくりの小人が光ったのを、佐々木はたしかに見たのだ。  あいにく酔っていた。公子も雄一郎も堀越も、佐々木の見たものを確認しようもなく、いくら主張しても結局、議論は彼の酔眼のほうへ傾いてしまう。だが佐々木は自分が小人を見たことを確信していた。それはまさしく遮光器土偶そのもので、淡い白光を発しながら、栗栖邸の窓下の枯れた芝生を、滑るように移動していたのだ。  堀越は佐々木が見たものを、その直後に発生したあの怪光現象と関連づけて納得しているようだった。堀越は怪光現象を確認しており、望遠レンズが他の三人より早く怪光をとらえたのだというのだ。遮光器土偶そっくりの光る小人というのは、酔った佐々木の誤認であり、多分、小人を連想させるような形で見えたのだろうと言っている。したがって遮光器土偶そっくりというのは、佐々木の想像力の所産という結論だった。  それにしても、佐々木が空飛ぶ円盤と即座にきめつけたあの怪光現象のほうは、翌朝|素面《しらふ》に戻っても四人は否定できなかった。額を集めて朝刊をのぞきこみ、それらしい記事を探したが、円盤、もしくは怪光現象を目撃したというニュースはまったく見当らなかった。中央新報へ行って、そのニュースが没になっていはしないかと調べたが、社内のどこにもそのような報《し》らせをうけた者はいなかった。  堀越たちと違い、佐々木はその怪光現象のほうを軽視した。それが事実あったとしても、現実のどんな問題とも結びつかないからだ。  だが、栗栖重人邸の庭には、遮光器土偶そっくりの小人がうごめいていた。佐々木がそれを堀越正彦の住むマンションからではなく、どこか別な場所から目撃したのであれば、そんな直感も働きはしなかっただろうが、望遠レンズで覗いていたのは、堀越のアトリエの外のベランダなのだ。  堀越は光る小人そっくりの遮光器土偶を棚に飾っている。その土偶は、湯平弥市という人物から贈られたものだ。そして湯平弥市は、或る莫大な資産の持主と信じられていたが、つい最近になって、それの単なる管理者にすぎず、実際の持主が他にいることが暴露されたばかりの人物なのだ。しかも彼はその土偶に関連する黄金の埋蔵場所を知っており、発掘に行こうとしている。  弥市の管理していた資産が、栗栖重人と結びつきはしないだろうか……佐々木は遠い縄文期の遺物である遮光器土偶が結びつけるかすかなつながりをたよりに、東京から奈良へ、栗栖重人追求の舞台を変えてみたのだった。     2 「ランドクルーザー……そうか。それの最高のものを探せ。いくら高くてもかまわん」  佐々木が遠望しているこんもりとした緑の中の家で、湯平弥市は大声でそう怒鳴っていた。その前のテーブルの上にカタログやら設計図やらをひろげた二人の男が、怯《おび》えたように顔を見合わせている。 「それでこの旅行用の車のほうはいつ仕上がるんだ」 「ですから、大変申しわけありませんが、そういう事情で来月のなかばになってしまいます」 「たしかだな。それ以上延ばさんな」 「はい。今度は間違いございません」 「阿呆め。商売が大事ならそんな言いきり方はせんものだ。客を見る目を持っておらんのか、いい年齢《とし》をして。そういう言い草はせいぜい女子供に毛の生えた程度の奴に言え。きっぱりと言ってやればそれでその場かぎりの安心をしてひっこんでしまうようなのは大した人間ではない。儂に向かって日限をきっぱり言いきって、もし、もう一度延ばさねばならんようになったら、どうする。儂《わし》の口汚いののしりを、じっとこらえねばならんぞ。死んでしまえと言われて平気でいられるか、お前たちは。だが儂は言うぞ。それでお前らは儂に腹を立てる。金のために頭をさげても、本心からは頭をさげきれんようになる。客と商人がそういう間柄になった時、儂のような客はそれを見抜いてお前らを抛《ほう》り出す。嫌ほど金のある人間は何ひとつ我慢することはないのだ。そしてお前らはいい買手を一人失うのだ。そこまで見通せんで断言してしまうような莫迦者だから、今度のように約束を守れんで平あやまりにあやまらねばならんのだ。そのキャンピングカーとか……儂が特別に注文した車で旅行するのは雪の多い地方だと言ったろうが。四月なかばではまだ出かけるには早いのだ。よくそこまで考えてみんから、期限を自分から早めて苦しまねばならんのだ、愚か者めが。こういう儂を悪く思う人間は多いが、その全部が全部、自分から儂のことを憎むように立ちまわってしまうのだ。愚か者が人を憎むのよ」  湯平弥市は怒鳴るだけ怒鳴ると、くるりとうしろを向いてその玄関につづいた広間を立ち去っていく。 「幾江。幾江はおらんか……」  改めてそう喚《わめ》きだす声が奥から聞こえた。ひと癖ありそうな初老の小男が、広間の二人に同情するような微笑を見せ、あわててその声のほうへ行く。 「幾江さまはたった今おでかけになりましたが」 「なにッ。あの女はどこへ行ったのだ。儂に飼われている者が儂にことわらずにどこへ行った」 「旦那様のご用事だとばかり思っておりましたもので」  小男がそう答えると、弥市はさっと顔色を変え、ドタドタと廊下を踏み鳴らして幾江の部屋へ向かった。 「幾江っ……」  居ないと知りながら、手荒く襖をあけ放つ。 「お部屋にはいらっしゃいません」 「いま聞いたっ」  弥市は身を震わせて幾江の部屋のまん中に仁王立ちになり、隅々を見まわした。 「おい。持物を調べろ」 「お持物を……でございますか」 「早くしろっ」  小男はおずおずと部屋へ入り、総桐の箪笥《たんす》に手をかける。 「容赦するな。みな畳の上へ引きずり出せ」  弥市の見幕に小男は素早く箪笥の中身を畳へ並べはじめた。 「見ろ。半分に減っておる」  弥市はそう言って、バリバリと歯がみをした。色とりどりの高価な呉服を爪先《つまさき》でめくり返し、蹴りとばし、 「全部だ。全部何もかも引き出してみろっ」  とまた喚《わめ》いた。その命令を従順に実行している小男にも、いつのまにか女の持物が減ってしまっているのが判ったようだった。     3  佐々木が立っているだいぶさきで、女が車から降りた。ふたことみこと運転手に何か言った様子で、ドアが閉まると車は女を追い越し、私道のはずれで鮮かにUターンすると、今来た道を引きかえしていった。  女は一度立ちどまって車をふり返り、そのあと急に足を早めて未舗装の道へ出た。紺地の着物に銀糸で梅を散らした帯がよく似合い、アップに結《ゆ》った髪に手をやると水色の長襦袢が袖口から覗いた。  うなじから頤《あご》のあたりの線が、春の陽を浴びて紺の襟許《えりもと》から艶《つや》やかにうきあがっている。  佐々木は眉を寄せてその女を見た。ひどくさし迫った様子だった。女は私道の脇の小径にいる佐々木にはまるで気づかず、土埃《つちぼこ》りの立つ道を王寺《おうじ》の町のほうへ歩いて行く。  と、すぐにすすりあげるようなエンジンの始動音が聞こえ、佐々木が東京で乗りまわしていたのとよく似た、かなりガタのきたサニーがその前方で動きだした。  佐々木は慌《あわ》てて小径《こみち》を駆けおり、女のあとからついて行った。こちらに尻を向けたサニーのドアがあき、女はとうとう走りだした。佐々木も追いつこうと走りだした。 「おおい。ちょっと待ってください」  佐々木が言うと女はさっとふり向き、すぐサニーにすべりこんでドアをバタンと閉めた。佐々木は追いついたが、動きだした車のガラスを二度ほど叩いただけだった。  運転しているのは大学生くらいの若い男だった。女は怯《おび》えたような瞳で佐々木を見据え、車はすぐに土埃りをまいて去ってしまった。  凄艶《せいえん》、といってよい美人だった。年の頃は記者を十年以上やっている佐々木にも、はっきりとは断定できなかった。かんたんに年齢をいうことがむずかしいタイプの女だったのだ。一般人とは少し異なった生活を送り、しかもとびきりの美人であった場合、年齢《とし》が見かけだけではひどく不確かなものになる。それでも肥り気味の女は比較的年齢が当てやすいが、今の女のようにキリリと引締まった痩《や》せがたの場合は、五十歳近いのを、三十そこそこに見誤ることさえあるのだ。またそういう女に限って、動物でいえばどことなく狐のような印象がある。肌のきめがこまかく、老化しにくい体質なのだろうか。奇妙に不活性な若さと、謎めいた美しさが観察を狂わせてしまうらしい。そのとらえにくさが、狐という印象を生むのだろうか。  佐々木は女の婀娜《あだ》っぽい姿を思い返しながら、しばらくはその場所にぼんやりとたたずんでいた。閨房《けいぼう》での技巧や彼女を支配する男を無意識に想像しはじめていた。湯平弥市とはどういう関係なのだろうか。弥市に囲われているのだろうか。あの若い男は何者なのだろうか。想像は次から次へと拡がっていった。  だが、いつまでも道のまん中にそうやって突っ立っているわけにもいかない。佐々木はやがて湯平邸へ通ずる舗装道路の脇の小径へ戻っていく。その小径もやはり私道で、ゆるく登った突当たりに、湯平邸ほどではないが、かなり広い敷地を持つ家があるのだ。  その家の姓は岩本といい、あるじは奈良でも一流の文化人とされている。  乞《こ》われれば雑誌や新聞にも気軽に含蓄《がんちく》のある随筆などを寄稿し、市の文化財保護委員会のメンバーでもあった。  その岩本家が湯平邸にもっとも近い隣家の位置に当たっていて、佐々木はすでに何度か訪問し、それとなく情報を集めていたのだ。     4  会うたびに、佐々木の岩本という人物に対する好意は増していくようだった。在宅するかぎりいつでも暖かく迎えてくれたし、慈愛とでも言えそうな寛大な態度が佐々木の心を和《なご》ませるのだった。 「また来てしまいました。奈良へ来ると自然にこちらへ足が向いてしまうのです。自分でも不思議なんですが……」  四阿《あずまや》を摸《も》して母屋《おもや》から庭へ突きだして建てられた応接間で、佐々木は幾分甘えるような気持ちでそう岩本に言った。  年齢《とし》は五十を幾らかこえたところだろうか。岩本は血色のいい若々しい肌をした、背のすらりと高い男だった。どこか仏像めいた豊かさの溢れる横顔をほころばせて、 「あの家のことは何か判りましたか」  と微笑しながら尋ねる。佐々木はまだ湯平弥市のことについては岩本に聞かせてなく、それとなく様子を探っているつもりだったのだが、どうやら相手はとうに気づいていたらしかった。 「あれだけ大きな土地に住んでいると、人間も少し妖怪じみてくるようです。噂ばかりで実態がまるで掴めません」 「そうでしょう」  岩本は微笑しながらうなずいたが、佐々木はふと慚《は》じる気分になった。最初会った時から湯平邸探索の意図を打ちあけておくべきだったと思った。 「別に岩本さんに隠すつもりはなかったのですが、なにしろ自分でも何を探るのか、実際のところ見当もつかないものでしたので……」 「まあ普通の人でしょう。愛も憎しみもあるし、むなしい物欲のようなものにも人一倍とらわれやすい……つまりもっとも人間臭い人間とでも言いましょうか。あなたが好奇心をいだく理由も判らないではありませんが、かといってそう重要な人物でもなさそうです」 「重要でないことは見当がついていました。しかし何かの手がかりになりそうなので」 「それと空飛ぶ円盤とかに何か関係がおありですか」  岩本に言われ、佐々木は今度こそ心の底から恥ずかしくなった。この前は空飛ぶ円盤の話題を雑談の中におりこんで、もしやこの家の住人たちが何かそういった現象を目撃してはいないかと探ってみたのだった。 「いや、先日申しあげたのは、この奈良という土地にも最近十年間その目撃談が幾つか生まれているからなのです。別に湯平邸とどうこういうことは……」 「ないのですか」  岩本は佐々木の顔を見守りながら言う。佐々木は肚《はら》の底まで見透かされる思いだった。 「当たり前ですよ」  その恥ずかしさをねじ伏せるように、彼は大声で笑ってみせた。 「それにしても、何かだいぶご苦労なさっておいでのようですね。去年の今ごろでしたかな。この南の二上山《ふたかみやま》のあたりで、二個の光る物体が西へ飛び去ったのを高校生たちが目撃したといいますよ。UFOというのはいったい何なのでしょうかな」  相変わらず岩本は柔らかい微笑を見せながら言った。 「ドイツのヘルマン・オーベルトという人物などは、何者かにコントロールされている高度な科学技術の産物だと断言しています。未確認飛行物体……つまりUFOの情報を総合すると、大きさは直径七ないし八メートル。円盤状で、中央に二メートルほどのドームを持ち、それがちょうど操縦席か司令塔のように見えるということです。飛行中のものは楕円《だえん》、葉巻型、まんまるの円盤など、何種類かの見え方をし、発する光の色は、オレンジか白、または強い銀色の光とされています。出現が頻発《ひんぱつ》したのは一九四〇年代から五〇年代へかけてで、世界中からその目撃が報告されています」 「私も円盤については関心があるので、そのうち、郷土の円盤目撃例について調べてみようと思っています。とりまとめたら、何はさておいてもあなたに資料をさしあげます。そういう日がくるはずです」 「ぜひ……」  佐々木はうれしそうに頭をさげた。いつかはもらえるはずの資料ではなく、この岩本という人物にそうした好意を示されるのがうれしかったのだ。  雄一郎くらいの年頃の、美しい岩本の娘が、しとやかな和服姿で現われた。 「きょうはお着物ですか」  佐々木は娘の美しさを賛嘆する瞳《め》になった。 「どうぞ……」  娘は羞《は》じらいを見せて茶をすすめた。 [#改ページ]   13 池の鯉《こい》     1  空に白みがかかり、消え残ったネオンサインの光が力を失いかけていた。  香取公子はカーテンの隙間から、明けようとしている大阪の家なみを眺め、躯《からだ》のどこかから湧いてくる、悔いに似たうすら寒さを、意識の外へ追いやろうとしている。 「風邪を引くよ」  佐々木の半《なか》ば掠《かす》れたような声が背後でした。振り返ると佐々木は寝乱れたベッドの白いシーツに片肘をつき、情愛のこもった目で、裸身のまま起きだしている公子をみつめていた。  公子の腕は反射的に胸へ動いた。乳房を掩《おお》い、すぐ気づいてその備えを解いた。  ひと睡りする前の、自分の放恣《ほうし》な痴態を思い出したからだった。飲んで、酔って……本当にそれほど酔ったのかあるいは酔ったふりなのか、自分自身にもはっきりしないまま、甘え放題我儘を言って、男を困らせて、裸になってからは思いつくあらゆる愛戯を要求し、ためし愉しみつくしたのだった。  それは東京を出る時からきめていたことのようだった。佐々木が中央新報を辞《や》めず、社の言いなりに大阪へ転勤してしまってからは、週に一度か長くてもせいぜい十日に一度の間隔で、彼女はせっせと佐々木に逢いにやってきており、今度はああしよう、この次はこう振舞おうと、その都度《つど》何かしら考えてくるのだった。  公子にとって、逢う瀬の不便は問題ではなかった。むしろそのほうが愉しかった。梅田や心斎橋《しんさいばし》や道頓堀《どうとんぼり》が、銀座や新宿と同じように、彼女の行動半径に加わり、時には奈良や京都や神戸の夜が、佐々木とともに待っていてくれた。  公子がそれを言うと、佐々木は生きる目的がはっきりしていないせいだと、からかい気味に笑うのだった。だがいま公子はその虚《むな》しさを理解したようだ。 「嫌、こんなホテル。みじめったらしくて……この次からもっとちゃんとした所で過ごしたいわ」  公子は佐々木に背をむけてベッドへすべり込むと、肩ごしに相手の右腕をかかえ、その指を唇にあてた。醒めた眸《ひとみ》で今まで立っていた窓のあたりをみつめている。 「そうそう金持ちのお嬢さんの世話にはなっていられないよ」  一、二度、公子は佐々木の油断をついて、自分でこうした宿の支払いをすませてしまったことがあるのだ。 「安サラリーマンにはこれでも贅沢なくらいなんだぞ」  佐々木の指は公子の唇からのがれ、本来そこにあるべきものだったかのように、ごく自然に乳首のあたりへ移った。 「引っ越して来《こ》ようかしら、大阪へ」 「無駄だよ。俺は湯平弥市という君のおじいさんと栗栖重人の関係を洗うために関西へ来たんだ。もってこいの左遷だった。だが目鼻がつけばやめてフリーになる。東京の出版社にも幾つか声をかけてある。そうなれば東京に戻るんだ」 「妹が羨ましい……」  公子は別なことを考えていたらしく、佐々木は、え……と言って彼女の体を自分のほうへ向けさせた。 「赤ちゃんができたらしいんですって。私も欲しい」  公子は静かに男の胸へ顔を埋めた。 「いつでも結婚するよ」 「そうじゃないの。もっとはっきりしたものが欲しいの。作ったり、育てたり……そしてそれが将来光り輝いて私を満足させてくれるものが欲しい」 「それはつまり生き甲斐だな。むずかしいな。  あるんだろうか、本当に。いま、みんなそいつを欲しがってる。  企業家は会社をでかくする。銀行は金を増《ふ》やす。百姓は収穫を多くする。だがなんにもならない。革命家でさえ、革命のための革命に走ってしまう。将来の輝きを約束するものなんて、何もない。なくなってしまった。昔はあったらしい。二宮尊徳の節約、武芸者の修業……光り輝かないのは努力不足か不運なだけだ。ところが今はみんな鉛《なまり》か土くれさ。どこかおかしい。何か根本的なものが変わってしまったんだ。まるで人間は生きていなくてもいいみたいじゃないか。レジャー、レジャー……おかしいぜ。  余暇がどうしてそんなに大事なのだ。働くことに人間性はなくなったのか。自分たちの存在する意義がみつからないので、問題をすりかえ、胡麻化《ごまか》しているんじゃないのか。物理学者の努力が原子爆弾を生んでしまって以来、だんだん似たような事が多くなっている。努力が光り輝かない。やってもやっても、結局、生き甲斐なんかありはしない」     2 「みんな行け。行ってしまえ……」  湯平弥市は広間にあった花瓶をつかむと、力まかせに玄関の外に見えているライトバンに向かって抛《ほう》り投げた。  花瓶はガラスに当たって砕け、大きな音をたてた。ガラスも割れ、少し間をおいてから、割れ残ったガラスがずり落ちてもう一度ガシャンと音をたてた。  長年執事の役を果たしてきた初老の小男が、車の傍でおどおどと弥市の様子をうかがい、隙をみてさっとまた家の中へ走りこむと、廊下を鳴らして奥へ去り、すぐ最後の荷物をひとかかえ持ち出してくると、玄関のところで居直ったように立ちどまった。 「あなたは尋常な人ではなかった。申しあげたいことはいくらでもあります。だがもう何も言いません。ただこれだけは聞いてください。この家であなたに仕えて暮らした間、一日として心からたのしんだことはありませんでした」 「生意気言うな」 「いえ言います。もうこの家の人間ではなくなるのですからね。言わなければこれから先の短い人生を、くやみとおして送らねばならないからです。いいですか。私は一日たりと人間ではなかったことはないのですよ。涙も出れば恨みもあった。私だって人間です。そして今日からはもっと人間らしく生きられるのです。たった一度、この家からこうして出て行くのが楽しかった思い出になるでしょう」  弥市は鼻を鳴らしてうそぶいた。 「みじめな男よ。儂に金を動かす力がなくなったら、みんな逃げ散ってしまうのか。人間、人間と言いながら、今まで我慢していたのは金のせいか」  小男は重い荷物をライトバンにほうりこむと、ドアをあけ、片足かけて吐きすてるように言った。 「一人でお暮らしなさい。もうどうなろうと私の知ったこっちゃない」  バタンとドアが閉まり、ライトバンは小男そのもののように、荒々しくエンジンをふかせ、ギクシャクと走り出して弥市の視界から去った。 「莫迦者。莫迦者ども。人間が何だ。人間などみな死んでしまえ。そのほうがいいのだ。糞、みておれよ。儂だけはあの黄金で人間らしく暮らしてやる。誰の助けも借りん。誰の世話にもならん。餌を与えられ、守られ、行先を教えてもらう者のどこが人間だ。いいか、この儂こそ人間なのだ。最後の人間なのだぞ」  弥市は狂ったように、広い家の中で喚《わめ》いた。だがそれにこたえる者はもう誰もいない。  広間の隅に純白の椿《つばき》の花が落ちている。さっき投げつけた花瓶に飾られていた加茂本阿弥《かもほんあみ》だ。彼はそれを拾おうとし、途中でやめた。 「もう終わる。あとは静かに消えていきたいだけだ」  それはこの十年というもの、誰にも見せたことのない沈静な表情だった。 「あんな化《ば》けものさえいなければ、この椿でも育てて、やれ新種よ、珍品よと、面白おかしく暮らしていただろうに」  弥市は爪先《つまさき》で白い椿をころりところがした。 「あの化けものに、儂《わし》という人間はぶち壊されてしまったのだ。いつか堀越正彦が言ったように、昔はこんな人間ではなかったのだ。しかし、あの化けものとつき合っていると、自分の無力さ、みじめさが骨身にこたえるのだ。拷問《ごうもん》だ、まるで……あの化けもののいない所で、儂はその辛《つら》さを、儂と同じ、無力でみじめな人間どもにぶち撒《ま》けてしまう。気づかずにそうしてしまう。それが長年の間に癖になってしまった。だが、儂の動かす金に、思いどおりに動かされ、恥をしのび、おのれの心をおさえてしまう奴らも奴らだ。そんなことだから、あんな化けものがあらわれてしまったのだ。金で言うことをきかぬ人間を、一度でもいいからこの目で見たかった。……しかし、それももう終わりだ。儂が自分から離れていくのでないのが残念だが、とにかくもう終わったのだ。化けものと縁を切るかと思うと、気がせいせいする。このうえは、あの黄金を掘り出して、人間らしい暮らしをしたいものだ。あの化けものだって、そのくらいのことは許すにちがいない。もうあいつにとって、黄金などあってもなくてもいいのだからな。……だが、昔のようなおだやかな人間に戻れるだろうか。いや、戻らねばならんのだ。あれ[#「あれ」に傍点]から離れて時間がたてば、自然に元の儂に戻れるはずだ。そうあってほしい。そうありたい……」  暮れかかる奈良の空を見あげながら、たった一人、広い邸宅にとり残された湯平弥市は、いつまでもつぶやきつづけていた。     3  東京の洗足池近く。  風韻閣の一隅にある大きな池のほとりで、湯平規子がじっと水面をみつめていた。  池の水に陽春の光がさしてキラリキラリと輝いている。  そのうしろで、鯉の餌箱をかかえた女中の佐和が、足音を忍ばせるようにして去りかけているところだった。  池の中で、大きな鯉がねっとりと水を割って背を見せすぐ澱《よど》んだ水底にかくれた。  黒いダブルの服を着た天童健策は、どうやら席を中途でぬけ出して来たらしく、大きな庭下駄を勝手悪そうに突っかけて池の見える生垣《いけがき》の間へ現われ、規子の部屋の縁側へ庭づたいに行きかけて立ちどまった。  絵のような眺めだ、と思ったに違いない。池の向こう岸に大きな桜の木があって、いまあるかなきかの風に花びらが水面へ散っていくところだった。そしてそれを背景に、浮世ばなれした美しい女が、じっと鯉の動きを追ってたたずんでいるのだ。  天童は見惚《みと》れている様子だった。  ぶおとこ……容貌はそう表現してもいいだろう。目、鼻、口が、いかつい輪郭の顔の中にがむしゃらに居すわっているといった感じで、強情で闘争心の強そうな人相だった。  しかしその顔も、すでに美醜をこえた風格で満たされており、それなりに世の辛酸《しんさん》をなめつくしたゆとりのようなものが漂《ただよ》っている。 「鯉は達者かな」  しばらくして声をかけ、ゆっくりと近寄っていった。 「しばらくぶりですのね」  規子は池をみつめたままだった。 「このところ、何やかやとな」  天童はあたりを見まわしながら、少し離れた池のふちに立った。 「ディプロゾーンというのだそうです」  規子は何か話の続きのような言い方をした。 「ディプロゾーン……なんだ、それは」 「鯉が何匹か病気なのです」 「ほう……」  天童は中腰になり、池をのぞきこんだ。 「ふたごむしのことですわ」 「ふたごむし……寄生虫か、鯉の」 「ええ。ご存じですの」 「いや、知らんな」 「鰓《えら》につくそうです」 「大きな虫か」 「いえ、五ミリほどの……」  天童はちらっと規子の横顔を見た。規子はその前から彼を見ていたらしく、視線が合うとあでやかに微笑した。 「小さいな」  天童は眩しそうな顔で言い、また池に目を戻した。 「子供の時は別々なのですよ。でもおとなになると二匹が一匹になってしまうのです」 「二匹が一匹にか」 「ええ、それでふたごむしというのだそうです。背中に小さな出っぱりがあり、おなかにはへこんだ所があるのです。  ふたごむしはおとなになると別の仲間を探して、自分のおなかのへこんだところで相手の背中の出っぱりをつかんでしまうのです。相手も同じようにします。ですから二匹は交差して一匹になってしまうのです。死ぬまでそのまま暮らすのです」 「妙な奴だな」  天童は規子の知識を褒《ほ》めそやすような口ぶりだった。 「この家《や》のふたごむしはどうしている。アメリカへ行くとか聞いたが」 「大二郎はニューヨークです。もうずいぶんになります」 「雄一郎は……」 「新聞社を辞《や》めるそうですよ」 「ほう、それはまたどうしてだ。勿体《もつたい》ないじゃないか」 「ゆくゆくは政治記者にして、お傍で何かとはからってやるつもりでしたね」  規子はほほえみながら言う。 「まあな」 「私は雄一郎がお勤めを変えることをとめないつもりでいます」 「そうか」 「ええ。雄一郎も大二郎のように画家か何かになってくれればいいと思っていたのです。自由な仕事をさせたいのです。芸事とか何かそういったことで身が立っていけば一番いいのですけれど」 「どうしてだね」 「なぜでも……」  規子は謎めいた表情になった。 「堀越のようにか」  天童は淡々と言った。この二人の間には、堀越正彦にかかわるわだかまりなど、もうとうに消えている。 「そうですね。腕一本、体ひとつで誰のお世話にもならずに生きていける人になってもらいたいのです」 「やれやれ。皮肉を言われているようじゃないか」  天童は上体を起こし、大声で笑った。 「あの……」  佐和がだいぶ離れた所から声をかけた。 「お茶でもいかがですか。お縁側に用意ができたらしいですよ」  規子はそう言って体をまわした。     4  天童は縁先に腰をおろし、茶碗に手を伸ばしながらさりげなく言った。 「どうやら俺も総裁になるらしいよ」  その横で天童のほうを向いて正坐していた規子は、まあ……と言うように眉をひらいた。 「喜んでもらおうと思ってな」 「そのお祝いでお集まりなのですね」 「派のごく内輪だけだが……はっきりするのはまだ少し先のことだ」 「それはおめでとうございます。総裁ということは総理大臣におなりになることですのね」 「そうなるな」 「ではこの風韻閣もたいそう格が上がりますこと……」  規子は愉しそうに笑った。  天童はその顔に何か別の表情がありはしないか、ちらっとたしかめたようだった。 「君にはずいぶん世話になったものだ」 「私など、ここにこうして坐っていただけですのに」 「いや、そうではない。この際はっきり言おう。俺はまだ一度もお目にかかっていないが、栗栖重人氏には本当になんとお礼を申しあげていいか判らんほどだ。その栗栖氏を動かしてくれたのは他《ほか》ならぬ君だからな」  規子はじっと天童を見た。左手の指にはめた翡翠《ひすい》の指輪が、春の光をキラリと反射させた。 「私には、自分がこの家《いえ》にこうしている以外、何もできません。誰にも……あなたにも、私の父である湯平弥市という人にも、何もしてあげられないのです」 「そんなことはない。たしかに君のおかげだ。しかし俺は不思議でたまらん。昔から君は謎のかたまりだった。いいかげんに教えてくれんかな。雄一郎と大二郎を宿しながら、なぜ君は逃げだしたのだ。あのころ、俺のほうには君が逃げださねばならんような問題は、何もなかったはずだ」 「またそのことですの」  規子は軽くうけ流す風だった。 「ではこれだけは教えてくれ。栗栖氏と君はどういう間柄なんだ。今の総理が蒼くなって震えあがるほどの大人物を、君はなぜか意のままに動かしているようだ。お父上との関係か。しかし、もしそうだとしたら、湯平さんはどこでどうして栗栖氏とつながったのだ。昔の広島の湯平さんは、政治に関心を持つような人物ではなかったはずだが」 「湯平弥市という人はもう栗栖重人に棄てられてしまったはずです」  規子はそう言うと、不意に冷たい笑い声をたて、天童を驚かせた。 「冷たい言い方をするじゃないか」 「栗栖重人が世間から身を隠していた間、父は自分がその身がわりに立つことで、ずいぶんたのしい思いをしてきたのです。栗栖重人の力を自分の力と混同して、世間の人たちを猿か何かのようにあしらって来たのです」  天童はかすかにうなずいた。 「栗栖氏に会ったことのある人物は、みな口を揃えてそう言っているが、とにかく智謀といい気迫といい、人間ばなれがしているそうだな」 「それを父は利用するだけ利用して来たのです。そんなことをすれば、行先どういうことになるか、一度も考えたことさえなかったのです。自分だけのことではないのに……。そしてとうとう、あなたのお仲間や、銀行家や、そういった人たちの前に、栗栖重人が平気で姿を現わす時が来てしまったのです。もう身がわり役など要《い》らなくなったのです。もし必要なら、父などより、もっと有能な人物をいくらでも利用できるようになってしまったのです。……抛《ほう》り出されるのが当たり前ですわ。命を奪われないのがふしぎなくらいなのです」 「物騒なことを……」  天童は冗談めかして言いかけたが、規子の真剣な表情を見て、怯《おび》えたように口をとざした。 「たしかに、あなたがお知りになりたいことを、私はすべて知っています。同じことを父も知っているのです。栗栖重人は今ごろそれを面倒に思いはじめていることでしょう。だから、口を封じるためには、私たちの命を奪ってしまうのがいちばん早いのです。でも、栗栖重人には栗栖重人の理由があって、私たちを今日まで生かし続けて来たのでしょう。私にも、その理由は判りません。仮りに判ったとしても、あなたがそれを知って、どうなるのです。どうにもならないことですわ」  再び凍《こお》ったような表情で言い切る規子を、天童は眉を寄せて眺めた。その冷たく凝固した怒りは、父親の湯平弥市に対してばかりではなく、規子自身をも含めた、何か得体の知れぬものに向けられているように思えた。  天童は大きく息を抜き、肩を落として池のほうへ視線を移した。鯉が跳ねたようだった。 [#改ページ]   14 水を持って来た男     1  御堂筋《みどうすじ》のデパートで佐々木は靴を買った。本格的な登山靴ではないが、ハイキング用にしてはばかに頑丈にできていて、どんな場所へ連れていかれるにしても、湯平弥市の黄金発掘に参加するには充分間に合いそうだった。  靴の箱をぶらさげてデパートを出かかった佐々木は、靴下も買っておくべきだと気づいた。今持っているのはみな薄い紳士用で、こんな靴を履《は》いてあるくには綿の厚手の靴下が要るはずだった。それも一足や二足ではたりないだろう。佐々木は堀越から何度か弥市の指示を知らされており、どうやら行先は北の雪深い地方らしかった。春を待って出発するのだから、現地での行動期間は限られているはずで、長くても秋の終わりまでのはずだが、それにしても靴下や下着などはかなりの数を揃えていかねばなるまい。  佐々木は御堂筋に面した入口のところで、箱をぶらさげて立っていた。靴下のことから、用意すべき品物が次から次へと泛んできている。彼の心境は複雑だった。堀越や雄一郎たちと弥市の黄金発掘に参加することには、何やら遠足めいた楽しみがあった。たとえ半年の間でもサラリーマン社会から遠ざかり、浮世を離れた山奥でくらすのは、人生のこの曲がり角で与えられた、思いがけない小休止であり、たっぷりそれを楽しんだうえに、ひょっとすると本当にひと財産つかめるかもしれないギャンブルのような夢でもある。  だが、それに参加することは、必然的に中央新報からの退社を意味している。もちろん、もっと早くに辞表を出すべきところだったのに、弥市と栗栖重人を結ぶあの土偶……クリスマス・イブに見た光る小人のことがあって、こうして関西支社でのんべんだらりとした日を送っているのだから、いつ正式に辞めてもいいようなものだが、いよいよとなると未練が湧いてくる。  その未練は中央新報に対してではなく、中央新報のような大新聞社を背景に現代社会の舞台裏をとびまわる、記者としての立場に対する未練だった。それは佐々木の性分に合っており、記者として緊張するときには、このうえもない充実感があった。  辞めればそれをとり戻せる保証は、どこにもない。  また、敗北感もあった。  総理大臣が時たま麹町《こうじまち》の帝都ホテルをおとずれると、申し合わせたようにあの古色蒼然とした建物のどこかに栗栖重人が来ていることや、彼がかなりひんぱんに国外へ出かけている事実を、佐々木は掴んでいた。しかも国外へ出るには、厚木から米軍の軍用機を使っているようだった。  だが、そこまでしか判らない。暗闇にひそむもののけ[#「もののけ」に傍点]のように、得体の知れぬ力をふるいながら、栗栖重人は決して明るみには出て来ようとはしないのだ。一介《いつかい》の新聞記者など、彼がめぐらした厚く高い壁の前ではまったく無力であり、追求をやめて黄金発掘に参加すれば、背中から相手の高笑いが聞こえてきそうな具合だった。  だが公子もそれに参加する。……こいつは長期戦だ。帰ってきたらまたはじめてやる。と、佐々木が敗北感をうち払い、靴下の売場へ戻ろうとした時、通りから一人の和服の女がデパートの中へ入ってくるのに気づいた。  ドキリとした。  踊りの心得でもあるのだろう。あでやかな裾さばきで、そのくせ人目をさけるようにややうつむきかげんで歩くその女は、いつか湯平邸の私道のはずれで見かけたあの妖《あや》しい美女だった。  佐々木は咄嗟《とつさ》に顔をそむけ、すぐまうしろに人を二人ほどおいてあとをつけはじめた。     2  佐々木は素早く計算した。  今も弥市につながっている人物なら、黙って尾行を続け、何をしに奈良から出て来たのか見きわめればいい。しかしこの前の様子では湯平邸からぬけだして来た気配だった。万一もう弥市とつながりがないとすれば、いくら尾行を続けても得るものはないだろう。  女はエスカレーターへ向かっている。  仮りに尾行の途中、女が誰かに出会ったとする。その場合、自分はどちらを優先すべきか。どちらにしてもそうなれば女と直接話す機会は失われてしまいそうだ。  佐々木は足を早めて追いついた。取材とすればもう時間ぎれ寸前なのだ。当たって砕けろだと肚《はら》をきめていた。  エスカレーターの手前で肩を叩いた。 「やあ、奥さん」  そう言ってみた。人妻かどうか判らなかったが、反応だけでも手がかりになるはずだった。  女はピクッと前傾した背筋を伸ばして立ちどまった。人が二人をまわりこんでエスカレーターのステップに乗っていく。 「あ、ここは邪魔ですね」  佐々木はそう言って人の流れから出てみせた。女は怯《おび》えたように彼をみつめたままついて来る。 「お願い。見のがして……」  低い声で早口に言った。 「どうしてです。ここでお見かけしたからには、そう簡単に放しませんよ」  佐々木はわざとあいまいな微笑を泛べた。女は視線をちらりと彼がぶらさげている靴の箱へやった。デパートの名が入った紙袋にいれてある。  何か懸命に考えをめぐらせているようだった。 「あなたのお買物……」  相当したたかな女らしく、すぐ立直って逆に尋ねてきた。しかもあたりに二人の間の緊張を覚《さと》らせないよう、さりげない会話をとりつくろっている。 「ええ」  佐々木は答え、肚《はら》の中で舌打ちをした。これではたった今、偶然見かけたことが判ってしまう。何かに怯《おび》えているなら、それを利用して極力手のうちを見せないことだった。 「放してもらえないんじゃ仕方ないわね。それじゃこんな所にいてもなんだし……」  女はゆっくりと歩きだした。横の出口からデパートを出ると、裏の通りを戎《えびす》橋のほうへ向かう。すぐ、右側に喫茶店をみつけると、先に立って狭い階段を登りはじめた。  佐々木の目の前で、白い足袋が動く。女の肌でぬくもった空気が、彼の顔にかすかに触れていくようだった。 「私をどうする気……」  コーヒーには手をつけず、女は言った。ハンドバッグをあけ、シガレットケースをとりだしていた。 「どうしましょうかね」  佐々木はまたあいまいに微笑してみせた。 「あの人はまだいるの」  弥市のことらしかった。ということは、あれ以来女は湯平邸へ戻っていないことになるようだ。 「いますよ」  女は煙草に火をつけながら、眉をあげて佐々木を見た。不審そうだった。 「そう。まだいるの」  煙を吐きだして言い、佐々木がしてみせたのと同じようなほほえみ方をした。 「まだいるのって、あなたは湯平さんがどこへ行くのか知っているんですか」  それを知っているはずは、まずないと思えた。だが女は失笑した。 「知るわけないでしょう。そんなこと、もう関係ないじゃないの」 「関係ない……」 「そうよ。私ばかりじゃないわ。あの人のお金に使われていた人間ばかりなんですからね。そのお金の力がなくなれば、誰があんな所にいますか」  女はふてくされ気味に煙草の灰を叩いた。 「薄情なものだ」 「変な人ね。あなた誰なの。なんであんな人の言うことをまだきいていなければならないの。私を連れ戻すって言うけど、それであなたは何になるの。もうあの人の自由になるお金は何もないのよ。自分のお金のような顔をして人を欺《だま》しつづけて……土地も家もあの人のものじゃなかったそうじゃない。管理人みたいなものよ、あの爺さんは。ひょっとしたら、あんたそれをまだ知らないんじゃないの。今じゃ私のほうがお金持ちかもしれないわ。もしお金で動いてるんなら、私のほうから差しあげるわ。いくらなの……」  どうやら女の考えが掴めた。彼女は佐々木を弥市にやとわれた人間だと思っているらしい。佐々木はその役を演じてみる気になった。     3 「意外でしょう。こんな所にいたなんて」  大阪駅のすぐ北側のホテルのバーへ、二人は移っていた。女が佐々木を懐柔《かいじゆう》にかかり、巧みに誘ったのだった。 「あれからずっとここにいたんですか」 「そうよ。もう誰もあの人の命令なんてきかないでしょうし、あの人の目にさえふれなければ大丈夫だと思っていたのよ。あれで結構一流趣味があるから、お金のある間は決してこんなビジネスホテルなんかには泊まらないの」 「もっと遠くへ行ってしまうことは考えなかったんですか」 「それは、いずれ東京へでも九州へでも行くわ。でも、はっきり言って、本当にあの人が追い出されるまでは心配だったの。この辺にいれば、あの人があの家を出されたということはすぐ聞こえてくるし……」  どうやら情報網を持っているらしかった。佐々木はさりげなくスコッチ・ソーダを飲みながら、この女は湯平弥市の囲い者だったに違いないと見きわめていた。 「さばさばしたもんですね。未練はないんですか」 「未練……」  女は目を丸くしてみせ、おかしそうに言った。 「そんなものあるわけないでしょ。お金、お金、お金よ。何も私があの人のお金を欲しかったっていうばかりじゃなく、なんでもかんでも使い放題にお金を使って、私をがんじがらめにしちゃったのよ。何度か嫌になって逃げだしかけたけど、そのたびにあなたみたいな人に連れ戻されちゃって」  佐々木はこの辺が一歩踏みこんでみる頃合いだと思った。 「僕に対して少しあなたのほうに誤解があるようですね」 「あら、そうかしら」 「僕は湯平さんとはほんのちょっとした知合いにすぎません。あなたをみつけても、強《し》いてつれ戻さなければならないという立場ではない」 「事情がのみこめたようね。じゃあ取引に入りましょうよ。いくらなら私を釈放してくださるの」  佐々木は苦笑した。 「お金は有難いが……」  すると女は急に息を抜き、テーブルに左肘をついて下から佐々木の顔を覗きあげるようにした。 「あなたが気に入ったわ。わりとハンサムだし……」  妖艶な微笑が泛んでいた。 「勘違いしてもらっちゃ困る。僕は……」  佐々木はうろたえた。だが女はまだ客の姿のないバーの椅子の背に左腕を移し、右の人差指をたてて彼の唇にあてた。 「あなたのご希望にそいますと言っているのではないのよ。私の希望よ」 「困るな。僕はあなたの……その、あなたの体をくれだなんて言ってやしない」 「ほら、言ったじゃない」  女はからかい半分のようだった。 「違う。僕は新聞記者だ」  えっ、と女は体を起こした。顔から演技めいたものが消えていた。艶《なま》めかしくはあっても善良そうな素顔だった。佐々木はやっとその女が台所にいる姿を想像できた。  クスクスと笑いだし、やがてその笑いは大きくなっていった。 「なによ。ずいぶん驚かすじゃないの」  佐々木も釣られて笑顔になり、頭を掻いた。 「妙に色っぽい話になっていくんで、どうしようかと思った」 「私はてっきりあの人の追手だと思って……」 「こっちもそれを利用しようとしてたんだが」 「それじゃ、あの時私が乗った車を追いかけてきて窓を叩いたのは、何かを訊き出そうとしたわけね」 「そうなんだ」 「罪な人ね。あの坊や、誰だったか知ってるの」 「いや」 「出入りの魚屋の倅《せがれ》よ。私もちょっとお色気を使って悪かったけど、あの坊や、私をつれだしたのがバレたと思ってあれ以来怯えきってるのよ」 「それは悪いことをした」 「そうよ、酷《ひど》い人よ。でもよかったわ、あなたが追手じゃなくて」 「湯平弥市という人物について、いろいろ教えてもらいたいんだ。改めてお願いするよ」  佐々木は名刺を出した。 「そう、中央新報の方なの」 「湯平氏の管理していた財産は、本当は誰のものなんだ。彼はどうしてその人物とつながったんだ」 「本当の持主が誰か、私も正直いって知らないのよ。私が知ってることは、あの人自身についてだけよ」 「教えてもらえないか」 「いいわよ。でも条件があるわ」 「何でもするよ。僕にできることなら」 「さっきの勘違いはなかったことにしましょうよ、お互いに……」 「それはもちろんだ」 「違うの。勘違いのままそっとしておかない。あの人、いくつだと思って。蛇の生《なま》殺しみたいな目に会わされつづけていたのよ」  女は妖《あや》しい微笑を泛べて佐々木をみつめた。深い淵《ふち》のような瞳《ひとみ》だった。 「砂漠で喉が渇ききっている時、向こうから水の入ったコップを持った男がやってきたと思ったの。それが蜃気楼《しんきろう》だったら、私じゃなくてもがっかりするでしょう」  佐々木はスコッチ・ソーダの入ったグラスを持ちあげた。 「僕がそのコップを持っているのか」  女はわざとバーの中を見まわしてみせた。 「ほかに誰もいないじゃないの」  佐々木の脳裡に一瞬、香取公子の面影《おもかげ》が泛んで消えた。     4  尾崎幾江《おざきいくえ》という名を佐々木が知ったのは、そのホテルの彼女の部屋へ入ってからだった。  弥市は尾崎幾江の体を玩弄《がんろう》するだけだったという。 「好きなのよ。指圧の先生を呼んで習ってたわ」  幾江は嘲《あざけ》るようにそう告げた。自分の体は役立たなくなっていても、女の肌に触れてそれに火を点《とも》し、燃えあがらせ、その痴態を見て愉しむことはやめなかったらしい。薬を用い、器具を使い、女体のツボを責めるために指圧まで学んでいたという。 「口惜しいほど達者だったわ。なにしろ金に飽かせて勉強するんですものね。むかし赤線にいたというお婆さんたちや有名なレスビアンなんかに大金を払って習ってくるのよ。考えてみると可哀そうな人よ。みんなあの人のお金には動くけど、誰ひとり本心から尊敬したり、心を割って話しかけたりする人はいなかったんですものね」 「どうしてなんだろう」 「自分が何かとても特別な人間に生まれついてると思い込んでたようよ。なんとかしてそれを証明したくてお金を叩きつけるの。結局それでは満《み》たされなくて……判るでしょ。自分のテクニックで私を悶《もだ》え狂わせると、それでやっと少しは満足できるのよ。自分はできなくて疲れないもんだから、毎晩毎晩よ。私が嫌がるとよけいたのしいらしいの。女の体なんて、そういうとほうもないテクニックの前には、結局、我を忘れてしまうようにできてるのね。そりゃ私だって抵抗したわ。貧乏だった小学生のころや母親が死んだ時のこと、はじめて博多の小さなバーへ出た時のみじめな思い出……一生懸命そんなことを思い出してみるんだけど、あの人の手の動きがだんだんにもどかしくなって、思わず知らず体がよじれてしまうの。そうなったらもう終わりよ。息が苦しくなって、恥ずかしい叫び声をあげるんだってもう気がつかないくらい」  シングルベッドの上に佐々木は仰臥《ぎようが》していて、水色の長襦袢《ながじゆばん》をしどけなく着た幾江が、その横に浅く腰をおろしている。 「そんな名人とじゃ、とても較《くら》べものにはならないぜ」  すると幾江は結いあげた髪のピンを両手で外《はず》しながら首を横に振った。白くたおやかな二の腕があらわになっている。 「だからよけいなのよ。燃えるだけよ。燃えつきはしないの。お預けをされっぱなしなんですものね」  バサリと長い髪が滑り落ちた。 「抱いていい……」  幾江が掠《かす》れ声で言った。佐々木は黙って両手をさしのべた。狭いシングルベッドに女の体がのり、唇が佐々木の胸を這いはじめた。 「こんな……こんな恋人が欲しかった……」  幾江が僅かに顔をあげて言った。 「ああ……」  佐々木が呻《うめ》いた。それは弥市が幾江に加えつづけていた技巧のひとつなのだろう。軽く、微妙で、そのくせ体の芯《しん》深くに直接響いてくる感触だった。佐々木の左|腿《もも》に、幾江のなめらかな両脚の肌が触れていた。与えられるだけだった不満を、いま幾江は一時に晴らそうとしているらしい。佐々木に悦びを与え、狂わせることが、彼女にはいちばん必要なことだったのだろう。  佐々木は復讐されていた。咥《くわ》えられ、揉《も》まれ、焦《じ》らされ……幾江がされていたとおりに、幾江にされている。佐々木の中で倒錯が始まり、幾江は男の役を演じていた。 [#改ページ]   15 旅だち     1  公子はその週大阪へ来て、佐々木がここ数日新聞社にも東|桃谷《ももだに》町の下宿にも姿を見せていないことを知った。  出発の日も間近いというのに、連絡もせずどこへ行っているのかと不満には思ったが、よく奈良の湯平邸を探りに行っているらしいので、それ以上気にもならず、とりあえず大阪に一泊して帰りを待つことにした。  独りで泊まるのは久しぶりのことで、公子は以前、何度か利用したことのある大阪駅近くのホテルへ入った。  そこで佐々木に会ったのだ。  制服を着た少年に小さなスーツケースを持たせ、そのあとについてエレベーターへ向かいかけた時、 「あら……」  と公子は嬉しそうな大声をあげた。 「なんだ、やっぱり来ちゃったのか」 「ご挨拶ね、来ちゃったのかとは」  そのあたりまで、公子は佐々木の態度を気にもとめなかった。 「電話しようと思ってたんだよ」 「あら、ずいぶん派手なシャツ買ったのね」  佐々木はひどく若々しい新品のシャツを着ていた。 「うん……」  何か落ちつかぬ様子だ。 「お部屋が無駄になっちゃったじゃないの。それにしても出発はあさってよ。私だってあしたのお昼には帰らなきゃ」  ボーイが困ったような顔で少し離れた所で二人を見守っている。 「いいわ、お部屋へスーツケースだけ入れといて」  公子は手を振ってボーイに言った。 「それなら悪いけど今日のうちに帰ってくれないか。他《ほか》に大阪には用事ないんだろ」 「どうしたのよ。みんなと行かない気」  まさかという調子で公子は言った。 「うん。俺は行けなくなった」 「どうして」 「これから広島と博多へとぶんだ」  公子は唖然とした表情で佐々木をみつめていた。佐々木のどこかに変化が生じていると思った。  その時、あでやかな和服の美女が佐々木の横に立った。幾江だ。 「あら、どなた。紹介して……」  幾江はわざと甘えるように言い、佐々木の腕をとった。佐々木は邪慳《じやけん》にそれをふりほどく。 「だれ、この人」  自分でも思いがけぬ語気で公子が尋ねた。 「尾崎幾江さんだ」 「はじめまして」  幾江にしゃあしゃあと言われ、公子の表情が歪《ゆが》みはじめたのを、佐々木は困り果てたように眺めている。 「そう。それであなたどうするの。本当に行かないの」  公子は幾江を無視した。 「例の件でどうしても西へ行かねばならなくなった。堀越さんには謝《あやま》っておいてくれないか。もちろん、電話はするが」  すると幾江はポンと佐々木の肩を押し、 「よく事情をお話ししたら。何かこのお嬢さんが誤解なさってもいけないし」  と言った。 「いいです。判りましたから」  公子は引き返し、ロビーを出ようとした。佐々木がそれを追い、はからずも幾江の言葉に従う恰好になってしまう。 「なによ、あんな人に自信たっぷりな顔させちゃって」  公子は肩にあててくる佐々木の手をふりはらうように横へ一歩それて言った。 「とにかく話したい」 「嫌です」  他人行儀に言ったが、つい声が大きくなっている。何人かの客が自分たちのほうに顔をむけたのと、佐々木がどこまでも公子をつかまえて離さない気配なので、しょうことなしに立ちどまった。 「話そう、な……。向こうにコーヒー・ショップがあるから」 「あのかたに悪いんじゃない」  そう言うと涙が一粒こぼれ落ちた。佐々木はかたくなな表情で公子の手をとり、幾江のいる場所をよけてロビーの奥へ戻った。     2 「湯平弥市の所へはときどき栗栖重人らしい人物から電話が入っていたんだ。彼女はずっと湯平氏の身のまわりの世話をしていた人で、かなり立入ったことを知っているらしいんだよ」  公子は運ばれたオレンジ・ジュースに手もつけず、なんとかして涙を納めようと体をたえず動かしつづけていた。 「それにしても、あんな人と広島や九州へ行く必要があるの」  自分とどっちが大事なのだ……大声でそう言いたいところだった。いや、どっちを愛しているのか尋ねたかった。だが、相手は佐々木の腕をとっただけで、どうという具体的な証拠は何もない。疑いと、その不確実さが、妙に公子を弱気にさせている。 「必要なんだ。どうしても調べあげねばならない」 「私たちを見捨てるのね」  私を捨てるのね、と言っているつもりだった。 「そうじゃないさ。でも君たちのは所詮お道楽だ。これは俺の人生の問題なんだ」 「勝手な言い分ね。私たちのはお道楽だって言うの」 「判ってくれよ。今どき黄金を掘り出すなんて、そうじゃないか。なんだったら、君も行かずに東京で俺の帰りを待っていてくれ」 「私は行くわ。あなたが行かなくても行きます。もっと大きな夢を追いたい。人間はめいめい黄金伝説を持つべきだ……そう言ったのはあなたよ」 「こうなったら事情が違う」 「誰の事情かしらね」 「いいか、俺は職を棒に振ってまでこれに賭けてるんだ。栗栖重人という奴を、何がなんでも明るみへ引っぱり出してやる。その俺の夢が叶ったら君と結婚しよう。そして今度は同じ夢を見るんだ」 「判ったわ。これで私の気持ちもはっきりしたわ。あなたなんかに敗《ま》けない。明子みたいに、なるようになっちゃうのなんか大嫌い。自分の持って生まれた殻《から》をぬけだしたいって、そう言ったでしょう。私はやりとげます。いいわ、あなたなんかいなくても。いい試練だと思って黄金発掘に行きます。だいいちあなたが追求しようというのは私のおじいさんじゃないの。孫娘の前でおじいさんの不正だか何だか知らないけど、そんなものをあばきたてるんだなんてよく言えるわね」 「君のおじいさんは鍵を握ってるだけだ」 「もうどうでもいいわ」  公子はさっと立ちあがり、コーヒー・ショップをとび出していった。佐々木はレジの前まで追い、伝票を掴んで茫然と立ちつくした。     3  高輪のアトリエで、堀越正彦はいたましそうな顔をしていた。 「結局それっきりか……莫迦だなあ」 「いいのよ、もう」  公子は右手で自分が持って行く荷物の重さをたしかめながら言った。顔は仮面をかぶったように無表情だった。 「なに、夫婦喧嘩のリハーサルさ」  雄一郎はアトリエの床に坐って新しい靴の紐《ひも》を通しながら、励《はげ》ますような顔をした。佐々木が買ったのと同じような靴だった。 「とにかく残念だが、まあ仕方ないだろう。湯平さんは他人が入るのを嫌がってたし、一応は公ちゃんのフィアンセだって言って承知させたんだが……そりゃ公ちゃん、佐々木君の理由ももっともだよ。男は女と違って、どこか猟犬のようなところがあるもんさ。僕ら絵描きにはあまりないが、新聞記者ともなればそうした男の本能が発達しているんだろう。今度の僕らの行動を所詮、道楽みたいなもんだと言ったそうだが、当然だなあ。浮世ばなれがしすぎてるよ。そこへいくと佐々木君のはじかに現代へつながってる。彼が躍起になるのも無理はないさ。この社会を動かす、いちばん泥深い所へメスを入れようというんだからな。雄一郎君だって、そうと知ったらついて行きたかっただろう」  すると雄一郎は気弱な顔になった。 「僕はもう挫折してしまいました。母に泣いてとめられては、それ以上さからえません。しかし新聞記者として挫折したからには、新聞社を辞めるべきです。自分の父親や祖父のことがほじくれないで、どうしてアカの他人の汚職や横領や、そういった事件をほじくれるんです。大二郎みたいな画家の道かなんかをこころざせばよかったんですね。今度のことがすんだら、なんとか新しい道をみつけるつもりです」  公子は声をあげて笑った。 「なに言ってるの、みんな弱気になっちゃって。どうしたの、私たちはこれから前代未聞の大金塊を発掘に行くんでしょう。それを手に入れて帰ってくれば、先生だって雄ちゃんだって、ガラリと考え方が変わるはずよ。逃避行じゃないのよ、これは。成功を掴みに出かけるんだわ。黄金は力よ。成功したらその力で自由に生きればいいんだわ」 「その意気だ、公ちゃん」  堀越が公子に近寄って肩を叩いた。 「そうやって挫《くじ》けずに生きるのがいいんだ。僕の口からははじめて言うが、君は雄一郎君のお母さんに本当によく似ている。彼女も君のように生きてほしかった。雄一郎君のお母さんは……いや規子という女性は、あまりにも控えめでありすぎた。他人の立場を考えすぎ、自分というものを過小評価しすぎていたようだ。今となっては、公ちゃんの生き方とどちらが幸福であったか、それは判らないし、どんな事情で彼女が天童氏から身を引いてしまったのかも判らないが、いずれにせよ、人生をよく生きるという点では、公ちゃんのほうがたしかだろうな。また、雄一郎君がそういう女性の長男として、お母さんをこれ以上傷つけたくない気持ちを抱くのももっともだ。だが仮りに、母親が公ちゃんのようだったら事情が違ってくる。  雄一郎君は自由に新聞記者として活躍しただろう。結局、本人だけの問題ではないんだな。みんなが人生を闊達《かつたつ》に生きれば誰かが犠牲になってしまうというのは間違いだ。むしろ、ちぢこまって誰かがカバーしてやらなければならない人物のほうが、世の中から闊達さを減らしてしまう要素になるんじゃないのかな。雄一郎君、挫折なんて気にするなよ。お互いに頑張ろうじゃないか」  堀越は腕時計を眺めた。迎えの車がもうやってくる時分だった。 [#改ページ]   16 僻地《へきち》の円盤     1  東北本線の三戸《さんのへ》駅に着いたのは、朝の十時少し前だった。  公子はやはり沈みがちで、雄一郎も緊張気味だった。堀越はそんな二人の気分を和《やわら》げるように、ホームから改札口へ出ると、大きく胸を張って息を吸いこんだ。 「おい、やっぱり空気が違うな」  三人は駅の外へ出てあたりを眺めた。いつも東京を見慣れている目には、町の屋根の高さが低く、山までの距離が近すぎて、ひどく遠い場所へ来たような気がしてしまう。同じ列車で降りた人々が散り、駅前の人影が薄くなったころ、どこかで車の警笛が、ビーッという金属性の音をたてた。  堀越はその警笛を鳴らした車を目ざとく見つけ、 「おい、お迎えはあそこだ」  と歩きだした。ジープを少し大きくしたような車で、アフリカの猛獣狩りにでも使いそうな、見るからに頑丈そうな車だった。 「新車ですね」  雄一郎は少し元気づいたようだ。前にロープ捲取機がついていて、泥濘《でいねい》に車輪がはまりこんでも、そのロープを伸ばして岩か樹木に縛りつければ、自力で脱出できる車だ。近づくと幌《ほろ》のように見えたのは、実は緑色に塗った鋼鉄製のボデーで、大きな投光器がその屋根についている。  湯平弥市は車のドアの横に、仏頂面《ぶつちようづら》をして立っていた。その傍に小さなナイロンバッグをぶらさげて男が二人立っており、 「では私たちはこれで……」  と慇懃《いんぎん》に弥市に頭をさげると、そそくさと駅のほうへ去っていく。 「おはようございます」  公子が言い、雄一郎もそれを真似た。 「もう一人はどうした」  弥市が憤ったように言う。 「急に都合で来られなくなったのです」  堀越はのんびりとした口ぶりで答えた。 「そうか。それならいい」  弥市は急に穏やかな表情になって、雄一郎と公子を眺めた。 「二人とも、もうすっかり大人だな」そう言う弥市の態度には、かつて帝都ホテルで堀越にみせたたけだけしさが、まったく影をひそめていた。服装も近在の農家の老人といった恰好だった。 「三人とも運転はたしかなんだろうな」 「ええ」  公子が答える。 「車はこれと同じのが二台だ。今の連中は東京で雇った陸送屋だ。何も知らん奴らだ」  堀越は荷物を車に入れ、運転席に坐った。 「これはいい車です。ちょっとした石段ぐらい平気で登りますよ」  エンジンを始動させる。続いて三人が車に入り、ドアを閉めた。 「国道へ出たら左折して、最初の小さな橋を渡ってから三つめのガソリンスタンドの先を右折だ」  弥市はそう言うとシートにもたれ、軽く目をとじたようだった。  車は屋根の低い家なみを通りすぎ、橋を渡ってゆっくりと三つめのガソリンスタンドを通りすぎた。 「その先だ」  弥市が言い、堀越はハンドルを右に切った。すぐ右側に小学校が現われ、それを過ぎると道はほぼ真北に向かいだす。 「このまま行くと川に突当たる。橋を渡って向こう側へ着くと、左側に小さな森のような木に囲まれた家が見えてくる。その家に車が預けてある」 「トレーラーのほうは僕が運転します。雄一郎君はこの車と決めてありますが、目的地への道筋ははっきり判っているんでしょうね。もしうろ覚えだったりするのなら、雄一郎君とあなたに先を走ってもらいますよ。トレーラーでは道を間違えても自由がきかない」 「心配ない」  弥市は睡《ねむ》ったような顔で言った。     2  弥市は特別に注文して、至れりつくせりのキャンピング・カーを造らせていた。 「凄い車を造ったもんだな」  堀越はそれを引っぱる車の中で公子にささやいた。弥市はうしろのシートで、さっきと同じように半分睡ったような顔をしている。  道は曲がりくねりながら北上を続け、淋しい山道が多くなっている。 「ずっと向こうが十和田湖《とわだこ》の見当だ」  堀越は左手をあげて北西の方角を示した。 「十和田湖あたりは知っておるのか」  弥市がうしろで尋ねた。 「ええ。でもずいぶん昔のことです。以前はこの辺りへもちょいちょい足を向けましたよ」 「何をしに来た」 「僕は絵描きですからね」 「おう、そうだったな。写生をしに来たか」  弥市は納得したようだった。 「それもありますが、東北地方は縄文《じようもん》の宝庫ですからね。青森県ですと、南津軽郡の八幡崎《やわたさき》、西津軽郡の鳴沢《なるさわ》、田子屋野《たごやの》貝塚、下北郡のドウマンチャ貝塚、むつ市の最花《さいばな》貝塚、女舘《おんなだて》貝塚。三戸《さんのへ》ですと田子《たつこ》に平《たいら》ですね。そのほか、天狗岱《てんぐだい》、オセドウ、ムシリ、館平《たてひら》、榎林《えのきばやし》、それに例の亀《かめ》ガ岡《おか》……」 「よく歩いたものだ」 「私、以前、梶岡大介さんが雑誌に先生のことを書いているのを見たわ。堀越正彦の古代に対する執着には、強い自己|憐憫《れんびん》がある。それは先生が自分の失われた青春に対して持っているものらしい……そう書いてあったわ」 「あれか。梶岡もときどき妙なことを言いだすので困る」  堀越はハンドルを握って苦笑していた。 「彼の失われた青春への思いは、今や彼の内部にあって抽象化され、年を逐《お》って美化、補強されている。彼の美学はそれによって構築され、失われた古代の生活に対する愛惜と執着になる……」 「物|憶《おぼ》えがいいんだな」 「誰が言ったのだ、それは」  聞いていないと思った弥市が、意外な関心を示した。 「美術評論家の梶岡大介さんですわ」 「儂《わし》はあれ以来、堀越のことを少しは考えてみた。どうやらその先生の言いようは当たっているらしいな」 「あら、そうですの」  公子はふり向いて弥市の顔を見た。 「残念なことに、儂にも人間の心が判る。判ろうとする心が残っておる」 「残念なことはないでしょう」 「いや、人間の心など判ったところで何になる。もうそんなものは要《い》らんのだよ」  公子は肩をすくめ、本格的にうしろを向く姿勢になった。 「堀越、お前の体の具合はどうなんだ」  公子は驚いて堀越の顔を見た。 「あら、知らなかったわ。どこかお悪いの」 「その男は自分の体が放射能の影響を受けたと信じ込んでいるに違いない。あの日、お前は広島のすぐ近くにいて、原爆のあと、まっさきに被爆地域の中心へとびこんで来たのだからな」 「たしかにそんな心配をした時期もありましたがね」 「かくすな。結婚せんのがその証拠だ」 「まあ、そうだったの」 「君は呑み込みが早すぎるよ」  堀越は辟易《へきえき》したように公子を見た。 「湯平さんのあて推量だ」 「そうでもあるまい。規子もそれを心配したのだ。お前たちはお互いに死んだと思い込んでいた。そして規子はまわりにすすめられ、天童と結婚した。儂もそれがいちばんいい方法だと思った」 「その前に先生のお子さんをお生みになったんですってね」 「誰に聞いたんだい」 「うちの母よ。もう時効だからって話してくれたの」 「だが、あれは天童の子を宿してから急に恐ろしくなったのだ。あの当時、草花や昆虫にまで奇型が出ていたからな。そして逃げ出してしまった。よくあることだが、式は挙げてもまだ正式に入籍していなかった。儂も離れて暮らしていたし、天童はあれが妊娠したことは知らず、以前、恋仲だったという堀越とそれを結びつけて、面《つら》を汚《よご》されたと喚《わめ》きまわりおった。天童は世間|体《てい》もあってすぐ再婚し、規子は雄一郎と大二郎をかかえて日蔭の身になってしまった。……そういう昔に対する憐れみが、古代の壺や皿や人形を描くことにつながるのは、いかにもありそうなことだと思う」  弥市の声は淡々としていた。     3  五戸《ごのへ》から十和田湖へ通じる道を横切って、一行はさらに北上した。  すると道はやがて大きく西へ曲がり、さっき交差した県道としばらく平行するような形で十和田湖方面へ向かう。  車の通行も珍しいような、ガタガタの山道が始まった。 「いちばん奥まで行けるはずだ。焦《あせ》らんでゆっくり進めばよい」  弥市は揺られながら言った。  曲がりくねり、上り下りを繰りかえしながらも、標高が次第に高くなっていくのが判った。  小さいが急な流れの川が多く、牽引《けんいん》されたキャンピング・カーがやっと通りぬけられる木の橋を何度も渡った。  そこここに、立ち枯れの巨木が目につきはじめた。  橡《とち》、楢《なら》、桂《かつら》、|※[#「木+無」、unicode6a45]《ぶな》、板屋楓《いたやかえで》、羽《は》団扇楓《うちわかえで》などの大木が天を摩《ま》し、巨大な岩塊が羊歯《しだ》や樹木の間から顔をのぞかせていた。  地表を掩《おお》うのは熊笹で、鶺鴒《せきれい》、目白、山鳩といった鳥の姿がその間に散見できる。 「ここまで来ると、さすがに自然はまるで侵されていないな」  堀越は嘆声を発した。だが運転は一瞬の油断も許されなくなっている。 「休んでもいいぞ。ときどき休んでゆっくりと進め。道もだんだん悪くなるはずだ」 「これ以上……」  公子が悲鳴をあげるように言った。  堀越は幾らかゆとりのある道幅のところへ出ると車をとめ、サイド・ブレーキを引いてエンジンを切った。 「やっぱり、こんな図体《ずうたい》のを引いていくのは楽じゃない」  彼は車を降り、川を見おろす路肩《ろけん》に立って腰を伸ばした。  その時、キャンピング・カーのうしろから雄一郎が大声で叫びながらやってきた。 「あれを、あれを……」  雄一郎は上流の山の上を指さしていた。  三人が見あげると、そこに白く丸い物体が浮いていた。 「あ、この前のと……」  公子が叫んだ。  クリスマス・イブに高輪で見た、怪光を放って飛び去ったものと同じだった。  それはかなりの時間、宙に静止していた。昼間のことではあり、白光を放つというよりは、そこだけ白く抜けて何もないように見えていた。  やがてそれはゆっくりと川にそって近づき、一行がいる場所のだいぶ手前で、急に垂直に高度をまし、空高く吸いこまれるように姿を消した。 「錯覚じゃないわ」  公子が断言した。 「もちろんだ。たしかに話に聞く円盤そっくりだった」  堀越が言い、雄一郎も、 「まるで僕らを観察しているようでしたね」  と言った。 「奈良で、儂《わし》は何度もあれを見た」  弥市は案外、平気な様子だった。 「本当ですか」 「ああ。あれはいつも儂の家から見て少し東南の空に止まった。今よりもっと低く飛んでいるのを見たこともある」 「どういうことなんだろう」 「奈良から儂を追って来たか」  弥市が言い、公子が笑った。 「まさか。空飛ぶ円盤に尾行されるなんて」 「しかし、僕らもこれで二度めだ」  堀越は気味悪そうに言って弥市の顔を見た。  どこかで小鳥がしきりに囀《さえず》り交《かわ》している。それ以外、聞こえる物音は谷川のせせらぎと、風に揺れる葉ずれの音ばかりだった。 [#改ページ]   17 キリストの墓     1 「まもなく北|戸来《へらい》だ」  湯平弥市はいやに沈んだ声で言った。しかし、公子がうしろのシートをふりむいてみると、弥市は瞳を輝かし、食い入るように前方をみつめていた。湧きあがる期待をおし殺しているようだった。 「戸来……」  堀越はますます細く、危くなる道を、慎重なハンドルさばきで進みながら尋ねた。 「知っておるのか」 「するとこの辺りは、十和田湖の南西に当たるのではありませんか」 「そうだ。よく判るな」 「僕がこの前ここへ来たのは、戸来という土地が、町村合併だか何だかで、名前を変える寸前でしたよ」 「ほう。だとすると、それは昭和三十年ごろのことだ。今は新郷《しんごう》という」  堀越は何か言いかけたが、ものの十メートルとまっすぐには続かない土の登り坂なので、しばらくは喋るゆとりもない。 「なんだか道が少し手入れしてあるみたい」  公子がつぶやいた。なんとか大型のキャンピング・カーが進んで行けるのは、要所要所に車の通る配慮がなされているかららしい。だが、最近車輛が通った痕跡はまるでない。 「僕も不思議に思ってた。おかげでなんとか通れるが……」  堀越が早口に言うと、弥市は含み笑いをした。 「紙幣《サツ》の威力だ」 「あら、誰かにお頼みになっていたんですの」 「雪が溶《と》けてもすぐには来られなかった。車が通れねばどうにもならんからな」 「上には家があるんでしょうね」  堀越が言った。カーブがゆるく、いくらか見通しもきく場所へ来ていた。 「戸来という家が一軒ある」 「一軒だけ……」  公子は驚いた様子だったが、弥市はそれに反応をせず、窓の外をみつめていた。 「多分ここはそれより北だと思うんだが、さっき湯平さんが言った新郷……もとの戸来という所には、キリストの墓があるんだよ」 「え……」  公子は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげる。 「キリストの墓ですって」 「戸来というのはヘブライの訛《なま》った言葉だというんだ。その辺りは迷《まよ》ガ平《たい》といってね。十和利《とわり》山の南麓に当たるちょっとした高原なんだが、面白いことに、登り口に赤い鳥居が立っていて、今ではその横にエデン山荘というヒュッテのようなものができているそうだ。キリストの墓も大事な観光資源のひとつというわけだな」 「本当にキリストのお墓があるの」 「あるとも。以前NHKの新日本紀行でも紹介されたくらいだ」  公子はケタケタと笑いだした。 「そう、キリストは日本へ来て亡くなっていたの」 「君はそういって笑うが、僕らだってこれからその近所へ埋《うず》もれた黄金を掘りに行くんじゃないか」  公子はくるりとまたうしろのシートをふりむき、 「キリストが残した財宝なんですか」  と言った。 「遊びではない」  弥市は気を悪くしたように、仏頂面《ぶつちようづら》になった。 「とにかく公ちゃん……」  堀越はとりなすようにつづけた。 「この辺りは、風景からして妙な雰囲気だが、昔からなんとも得体の知れない言い伝えがあるらしい」 「どんな……」 「はっきりしない。強《し》いてはっきりさせようとすれば、今のキリスト伝説になったりしてしまう。要するにモヤモヤとした、どうにでもとれるものなんだ」  すると弥市は珍しく他人の言葉に共鳴したとみえ、一気に喋りだした。 「そうだ。正直いって北戸来がどういう土地なのか、儂《わし》も今もってよく判らんでいる。キリストの墓はもちろんただの伝説だろうが、戸来の人たちの間には、日本風でない顔だちをした者もいると聞く。それは明らかに観光客めあての急ごしらえの話でもない。かなり長い間、この地の人はキリストの墓を祀《まつ》ってきている。墓そのものも観光ブーム以前の古い古いものだ。どうにも日本語では判じようのない、不思議な言葉に節をつけた唄《うた》も伝わっている。キリストの墓というのがこじつけなら、いったいその墓は誰の墓だ。或いは墓でないとすれば何の跡なのだ。唄いつがれている奇妙な言葉は……。堀越の言うとおり、わけの判らん謎のような言い伝えを、なんとか筋道だてようと、無理に解釈したのがキリスト伝説だろう。そういう解釈とは別に、この迷ガ平から北戸来一帯は、一万年以上むかしにあった、古代の文化都市の跡だという話が伝わっている。儂はどちらかといえばそれを信じる。多分、火山活動か何かが、それを地の底にしてしまったに違いない。これから行く北戸来には、吠沢《ほえざわ》とか泥根《どろね》とか毒《どく》ノ窪《くぼ》とかいう、火山特有の場所がある。いずれにせよ、儂は以前、そこから莫大な黄金を掘り出した。今度も見つかるに違いない」  車がちょっとスリップし、堀越は強めにアクセルを踏んだ。危《あや》ういところで牽引しているキャンピング・カーの後輪が、路肩ぎりぎりから道へ戻ったようだ。     2  急に両側の樹木がまばらになりはじめ、やがて熊笹が密生した急斜面になった。 「これは……」  堀越は車をとめ、ハンドルに胸をおしつけるようにして前へ身をのりだした。道は急斜面を一直線に這いあがっている。 「十和利山の向こうの迷ガ平までは観光客が押し寄せても、北戸来が昔のままひっそりとしていられるのはこの地形のせいなのだ」  弥市はわけ知り顔で言う。 「この車なら一気に駆け登れるかもね……」 「キャンピング・カーをどうする。……たしかにこいつなら登るかもしれんが」  堀越はハンドルを叩いた。 「バスや普通の車では登れたものではなかろう」  弥市は得意そうに言い、さっさとドアをあけて外へ出て行った。手招きをしている。 「いったい、どうする気だ」  堀越は不審そうに言い、エンジンを切った。とたんに水音が聞こえてきた。 「あら、滝……」  そう言いながら公子も外へ出た。  エンジンの音が消え、一度に静まった耳に、斜面の熊笹の葉を切る鋭い風鳴りと、遠近《おちこち》の森が揺れる鈍く深い音、そしてどこからか間断なく続く瀑音が聞こえていた。 「滝だ」  弥市は手をあげて、道の左前方を示した。堀越と公子は弥市の傍へ近寄り、そのほうを見た。 「何ですか、あの壁は」 「焼走《やけばし》りだ。土地では龍《りゆう》と言っている」 「なんですの、焼走りって」  公子が言い、堀越が弥市にかわって説明した。 「浅間の鬼押出《おにおしだ》しを知っているだろう。あれと同じ熔岩流のあとさ。この地方だと、岩手山の北側にあるよ」  すると弥市が言った。 「上へ着けば判るが、あの焼走りは鬼押出しのように裾が広がってはおらん。地の窪みをつたって、ゆっくりと流れ固まったものらしい。畳《たたみ》を二枚縦に並べたほどの幅で、あの春菜山《はるなさん》の中腹からずっと続いているのだ」 「二キロはたっぷりありそうですね」  堀越は右手に見える山の頂きを眺めた。 「あの滝の向こう側は沼になっておる。その水がこちら側へ溢れて熔岩の外の土を削り、あのように岩の壁が見えるようにしてしまったのだろう」  停止が長いので雄一郎も姿をあらわし、地図を片手に近づいて来る。 「この下の川が鉄砂利《てつじやり》川ですか」 「土地の者はテッサリ川と呼んでいる」 「行き止まりですか、ここで」 「これを登る」 「登れませんよ、車じゃ」  弥市は坂を背にして三人に言った。 「本来、道はここで終わりだ。この短いが急な坂路《さかみち》は、今度のことで儂がつけさせた。去年ひと夏かかったはずだ」 「でもどうやって登るんです。この車なら石段ぐらい平気で登りますが、こんな土のつるつるの道では、やり損うと、とんでもないことになりますよ」 「ちゃんと準備ができておる」  弥市はそう答えると、くるりとうしろを向いて登りだした。準備をしたにしては、人間が登り降《お》りする用意を忘れたらしく、みんな熊笹につかまって這うように登った。     3  登りきったとたん、弥市を除いた三人は、あっ、と声を揃えて叫んだ。  蜿蜒《えんえん》と続く高さ二メートルほどの熔岩の壁が、車の通れる幅だけ見事にたち切られているのだ。 「滝の所は焼走《やけばし》りの壁が七、八メートルほどもあらわれておる。おそらくこの下も、まだ四、五メートルほどは埋まっているだろう」 「誰がこの通路をつけたのです。まだ新しい痕《あと》ですが」 「戸来家のあるじが一人でコツコツやりとげたのだ。それ以前はここに壁を越えるための厚い板がかけてあった。橋のようにその板を渡り、こちら側へは段梯子《だんばしご》で降りたのだ。いま登って来た所は、石を埋めて段々になっていたものだ」  弥市はふと昔を懐《なつ》かしむ様子を見せた。  四人はその切りひらかれた岩の壁を抜けた。本当に厚さは四メートル近かった。 「なるほどこれは龍だ」  堀越はそう言って熔岩流の源である春菜山のほうを眺めた。  熔岩の壁の上部は不規則な凹凸《おうとつ》が生じ、所によっては深くえぐれたりしているらしい。そこに積もった土を頼って、這《は》い松が生《は》えつらなっている。  その匍匐《ほふく》性の常緑灌木は、五葉の短い葉を密生させて壁の上部を奇怪に飾り、巨大な蛇か、絵で見る龍のように背をくねらせながら大地を這っていた。 「並《な》みの這い松ではない。儂も木のことはそうよくも知らんが、普通の這い松はもっと高い場所に生える。……そう、一五〇〇メートルかそれ以上の高地だ。ここのは八甲田五葉《はつこうだごよう》といわれる松に近いが、種子《たね》にはふつうの這い松にないはずの翼があるようだし、葉も見てわかるとおり二センチほどの、ごく短いものだ。それに這い松なら葉の断面がほとんど正三角形に近いが、ここのは同じ三角でも極端に平たくなっている。これに気づいたら、世の植木気違いどもがどっと押寄せることだろうな」 「なんだか臭《くさ》いわね」  公子が風に向かって鼻に皺《しわ》を寄せた。 「硫黄《いおう》の匂いだ」  雄一郎が言った。 「黄金が埋まっているこの場所をみつけるのに、ずいぶん骨を折ったものだった」  弥市は立ち止まり、龍をふり返って言った。 「お前らの中で、神代文字《じんだいもじ》を知っている者はおるか」 「そういうのがあるのは知っています。しかし、後世の偽作だそうじゃないですか」  雄一郎が答えた。 「いや、そういうのは生半可《なまはんか》な知識をふりまわす判らず屋の学者どもだ。古事記以前の文書がちゃんと残っておるわ」 「それも聞いたことがありますよ。たしか宮下文書《みやしたもんじよ》とかいうんでしょう」 「宮下文書というのは第七代|孝霊《こうれい》天皇の時に日本へ来た、秦《しん》の徐福《じよふく》という者が書いたといわれている。富士の裾野に古代日本の中心的大都市があったというので、富士古文書とも呼ばれる。また、大友家に伝わる上津文《うえつふみ》、ユダヤ教と関連してくる竹内《たけうち》文書、そして秀真伝《ほつまつたえ》……古事記や日本書紀以前の記録と称するものは少ない数ではない。儂にこの土地を探させることになったのも、そういう神代文字で書かれた秘本のひとつなのだ。そして、その土地を探す手がかりの最初のひとつが、龍の吐く息で鳥もけものも死に絶えた土地という一節だった。いま公子が嗅いだのは、まさしく龍の吐く息だぞ」  公子は肩をすくめた。 「その謎解《なぞと》きから参加していれば、さぞ面白かったでしょうね」  雄一郎が堀越を見あげて笑った。 「お前ごときに解けるものか。二千年のあいだ、誰ひとり解くもののなかった謎だ」 「じゃ、おじいさまは天才ね」  公子にズバリと言われ、老人はまた嫌な顔をした。     4  来る途中もそうだったが、雪はまだたっぷりと残っている。樹木は新緑の芽をふかせ、その残雪をおのれのぬくもりで丸く融《と》かして風に鳴っている。  だが、背に棘《とげ》を生やした龍のように、這い松を背負ってうねる焼走りの壁は、その黒さのためかいち早く雪を落としている。  そして、その龍をたち切った通路の先は、雪のあったそぶりも示さずに軽く乾いていた。あたり一帯は、はじめ斑《まだら》に石膏を貼《は》ったように白っぽく、進むにつれてしだいにそれが分厚く、赭《あか》く汚れてきた。 「なに、これ……」  公子が臭気に顔を顰《しか》めて弥市に尋ねた。壁の通路から広場のような平坦な土地を横切り、右前方にあるつるりとした小さな白い丘をまわり込んで行く道の途中だった。 「泥根《どろね》の匂いだ。この白い汚れも泥根から出たものだ」 「泥根って何ですの」 「行けば判る」  弥市は無愛想に言った。  角を曲がったとたん、一行の目の前が白と黄色と赤に染まった。一瞬そう思えたほど、白、黄、赤の三色が強烈に入り混じった景色だった。  周囲は硫黄に侵されて黄色く乾いていた。その黄色は中央に近づくにしたがって白くなり、そして白のまん中に、赭《あか》い怪物がうごめいていた。  ボコッ……ペタッ……その怪物はたえず盛りあがり、膨《ふく》れ、そして割れた。  朱泥が煮えている。沸きたつというにはすでにあまりにも煮つまって、飴《あめ》のように粘っこく、鈍《にぶ》い動きだった。 「これは凄い」  堀越は右の小高い丘に駆け登った。公子と雄一郎もそれに続き、弥市は道に立ち止まって懐かしそうに、ようやく展望が開けた北戸来を見まわしている。 「先生、これ何なの」 「泥泉《でいせん》、噴泥《ふんでい》……呼び方はいろいろあるだろうが、要するに温泉の一種だ」 「泥の温泉……」 「硫黄で黄色や白に濁った温泉は知っているだろう。また鉄分が溶けて赤くなった鉱泉なんかも多分見たことがあるはずだ。ここもはじめはもっと水分が多かったに違いない。だが、だんだんに水分が減り、こんな風になってしまった。よく温泉地などに、なになに地獄というのがあるだろう。灰黒色の泥のは坊主地獄とか紺屋《こうや》地獄、白いのは白池地獄、赤いのは血の池地獄さ。どれも各地にあるが、こんな水分が減ってしまっているのも珍しい」 「さっきの川が鉄砂利川でしょう。やはり鉄分を含んでいるのかな」 「多分、そんなところだろう。それにしても、ここは相当な所だ。何か異常な感じがする」 「それはそうよ。だってこんな血の池地獄があるんですもの」 「いや、そればかりじゃない。龍があることといい、何か人を寄せつけないよう、自然が作意をもって仕上げた土地のような感じだよ」 「そういえばそうですね。これだけの奇観を持ちながら、いまだに観光客を寄せつけていないんですからね」 「よしてよ、気持ちが悪いから……」  公子は雄一郎と堀越の二人に、冗談めかして言った。だがそのあとで、本当に怯《おび》えたような顔で、ゆっくりと蠢《うごめ》いている赭《あか》い泥をみつめた。 「いつまでそこにいる。行くぞ」  弥市が怒鳴って歩きはじめたので、三人は慌《あわ》てて丘を下った。  道はゆっくりとした登り坂で、岩だらけの荒涼とした高原の風景の中に、ポツンと一軒の藁葺《わらぶ》き屋根の家が見えてきた。 [#改ページ]   18 吠《ほ》える怪獣     1  戸来《へらい》家は、古く、暗く、そして大きな家だった。一行が近づいていくと、その中からひと組の男女が現われて、深々と頭をさげた。 「ご苦労だった。よくやってくれた」  弥市がそう言うと、二人はまた黙って頭をさげた。よほど寡黙《かもく》な人物たちなのだろう。 「今度は総勢四人の大世帯だ。よろしくたのむ」  珍しく弥市は上機嫌に言った。男女はどうやら夫婦らしかったが、寡黙である以上に、恐ろしく無表情だった。それでも弥市に対しては極めて丁重な態度で接している。 「茶でも……」  五十四、五といった年恰好の亭主が四人に向かって腰をかがめながら、はじめて言葉を発した。 「ここはずいぶん淋しい所ですのね。ご家族のみなさんは……」  公子がその妻に問いかけると、女はひどく眩《まぶ》しそうに、左手を額にあてがって本当に困ったような表情になった。 「二人。二人だけで……」  公子は雄一郎と顔を見合わせた。 「するとこの高原にはお二人だけ」  女はこくりとうなずいた。公子は言う言葉もないといった具合に、あらためて高原を見まわした。山々にかこまれた、石ころだらけの、風だけが鳴りつづける土地だった。 「迷《まよ》ガ平《たい》には大勢おります。親類の者も」  亭主は口ごもりながら、強い訛《なま》りのある言葉で言った。 「何がとれますの」 「何も」  公子はとっておきの笑顔で亭主の重い口を開かせようとしている。 「湯の花くらいのもので」  弥市が亭主をかばうように口を出した。 「この辺りは小さな高原のような土地が方々にある。そういう所は開墾《かいこん》地とか放牧地にされているが、なにしろここにはさっき見たとおり、ガスを噴き出す場所があったり、馬や牛でも足をとられかねない湿原がある。出入りも不便だしな」  女はひと足さきに家へ入り、大きな黒光りする板敷きの部屋の囲炉裏《いろり》の火を大きくしている。 「これ、座蒲団……」  亭主は叱りつけるような声をだした。 「いや、もてなしは結構だ。それより一服したらすぐ仕事だ。車を引きあげるウインチを組み立てなくてはならない」  すると亭主は、 「あれに……」  と、土間の隅を指さした。大きな鋼鉄の支柱がついた捲揚機《ウインチ》が、順序よく分解して並べてあった。 「この人が運びあげてくれたのだ」  弥市が説明した。  堀越はそれを眺め、ふと、眉をひそめた。かなりの重量があるはずなのだ。もしこの夫婦が運んだとすれば、それは相当な重労働であったに違いない。龍の通路といい、ここまでの道の補修といい、この二人はかなり長い間、弥市の命令に従ってひそかにその作業を続けてきたらしかった。弥市のことだから、公然とやってよければ、大金を投じて一挙にやってしまうはずだった。だが黄金発掘を目的とする以上、すべては秘密|裡《り》に行なわれねばならないはずだ。ひょっとすると、この夫婦も黄金のことまでは知らされていないのかもしれない。  それはいかにも朴訥《ぼくとつ》な夫婦だった。恐らく弥市がこのことで二人に投じた金がなければ、とうにこの僻地を棄て、少なくとも迷ガ平あたりへ退《しりぞ》いていたに違いないと思った。     2  まずキャンピング・カーとランドクルーザーが切りはなされ、車の前にとりつけてあるロープを龍のところでしっかりと固定した。ロープの捲取機をゆっくりと回転させ、最初の一台がぶじに龍の内側へ乗り入れられた。  すぐ車は捲揚機《ウインチ》を運びに家へ走り、やがてそれを使って図体の大きなキャンピング・カーが登ってきた。  雄一郎の二号車も自分のロープで簡単にあがり、戸来家の前に顔を揃えた時にはすでに陽が落ちて急速に闇がひろがりはじめていた。 「あら、そういえば電気も来てないのね、このおうち」  公子がとんでもない大発見をしたように叫んだ。 「今日から儂らは車がすまいだ」  弥市が言った。キャンピング・カーにはあかあかと灯りがついている。 「燃料はたっぷりためこんである」  弥市は得意そうに三人を戸来家の裏手へ案内した。薄暗い中にドラム罐らしいものがずらりと並んでいた。 「至れりつくせりね」  公子は感心したように言ったが、堀越はまたしても戸来夫婦の重労働に舌をまき、弥市の金が果たした残酷なまでの役割りに、うそ寒いものを味わっていた。 「ヤッホー……」  公子は第一夜の昂奮と、人里離れた土地の解放感に、黄色い声をはりあげて谺《こだま》を呼んでいた。  すると家の中にいた夫婦が揃って走り出して来て、亭主がおずおずと公子に言った。 「ここでは、なるべく夜は声をたてないでください。お願いします」 「あら……」  公子は鼻白み、すぐ素直に謝った。 「ごめんなさいね」  堀越が聞きとがめた。 「どうしてなんですか」  亭主は囁《ささや》くように答える。 「夜中に声をたてるとゼスが来ます」 「ゼス……」 「ええ。ゼスが来るのです」  女房が口を添えた。二人とも真剣な表情だった。 「言い伝えですか」 「昔からそういうことになっております」  亭主は済まなそうに言い、二度ほど続けて頭をさげて戻って行った。それは言葉以上に厳重な申し入れをあらわしていた。 「ゼス……何ですか」  堀越は弥市に尋ねた。弥市は黙って答えず、かすかに首を横に振りながらキャビンの中へ入ってしまった。 「ゼスって、キリストのことじゃありませんか」 「そうか。それが迷ガ平のキリスト伝説につながるわけだな」  堀越はうなずいた。 「キリストが来るのをなぜこわがるのかしら。キリスト教徒たちはそれを見たくて仕様がないのにね」 「判りませんねえ。いったいこの土地はどういうんでしょう」  雄一郎はすっかり自分たちをとりまいてしまった闇を、おぞましげに見まわした。 「とにかく今のそぶりじゃ、湯平さんが何か知っていることはたしかだ」 「教えてくれればいいのに」  公子はそう言ったが、すぐ西のほうを指さしてうれしそうに雄一郎に教えた。 「ほら、私たちの星よ」  龍がはじまる春菜山の上に、双子座のカストルとポルックスが光っていた。 「ほう、すっかり憶えたね」  堀越が言った。     3  夕食は公子がインスタントのカレーにほんの少し手を加えたものですませた。  そのあと弥市は三人を集め、何枚も用意したこの辺《あた》りの五万分の一の地図の一枚をひっくり返し、その裏に北戸来高原の略図を鉛筆で書いた。 「北戸来というのは迷ガ平のやや北西にあって、北西に頭を向けた楕円形の土地だと思ってくれれば間違いない。そして、その楕円形がこれからすぼまろうという上部の両端に、あの龍を噴きだした春菜山、反対側に井手《いで》山がある。突当たりは戸来岳《へらいだけ》というのだが、この山は、実は一〇〇〇メートルほどの高さで、それから上がふたつの峯に割れておる。ここから北へ向かって右、つまり西側が大駒《おおこま》ガ岳《だけ》。東側が三ツ岳だが大駒ガ岳は標高一一四四メートル、三ツ岳のほうは一一五九メートルと地図に出ておるだろう」  雄一郎は五万分の一を持っていて、それを指で押さえ、 「ええ、そうです」  と答えた。 「実はこの三ツ岳から十和田湖畔の宇樽部《うたるべ》へ通じる古い道があってな。……といっても林道程度だが、今はもうとぎれとぎれでよほど詳《くわ》しい人間でなければ通れぬ忘れられた道だが、その道がさしかかる三ツ岳のちょうど下あたりを、折伏《おりふし》峠というのだ。しかし、その地名もあの戸来夫婦の代で終わるのだろう」  弥市は感慨深げだった。 「さっき、湿地があるというお話でしたが」  堀越がパイプを手に尋ねる。 「戸来家はここだ。そしてその北にひとつ、東北にひとつ、東南にふたつ。……憶えておくといい。この辺りでは湿原を萢《やち》と呼んでいる。八甲田山の名の由来は、八つの峯々の間に、田のような萢が散らばっているからだという。浸みだした地下の水で繁殖したミズゴケなどが堆積《たいせき》し、じめついた湿原になっているのだ。その萢は細い流れとなって、最初に見た滝のこちら側の蛇池《へびいけ》へ集まっている。蛇池は龍の尾に当たり、熔岩がごつごつと顔をだした奇怪な様相をしておる。水面下に横穴のたぐいが数しれずあり、イモリやサンショウウオが棲《す》んでいる」 「蛇もいるんですの」  公子が気味悪げに言った。 「いるかもしれん」 「やだ……」 「龍が蛇池の辺りで止まったのは、そこからさきが登り斜面になるからだ。そこは標高八○六メートルの苫呂《とまろ》山だ。この北戸来の平均がほぼ六〇〇メートルくらいだから、苫呂山は二〇〇メートルたらずの山になる。そして、その真北に広がるのがカシワノ森」 「カシワ……あの木の槲《かしわ》ですか」 「そうだ。昼なお暗く槲の巨木が鬱蒼《うつそう》と繁っている。この森は大きいぞ。戸来の家の者たちでさえ、昔から用心してなるべく入らぬようにしておる森だ。しかもその森は、さっき言った北戸来の楕円形の尻に当たり、そこから十和利《とわり》山への土地は、森の終わりでバッサリと切れてしまっている」 「切れているというと、谷か何か」 「儂の考えでは、昔の火山活動でできた断層……いや亀裂《きれつ》といってよい。そのうち行くことになるかもしれんが、槲《かしわ》ノ森の裏は、その亀裂めがけてまっ逆様《さかさま》に、削《そ》いで落としたように切れこんでいるのだ。恐らく底には水があって湖のようになっているのだろうが、水は苫呂山のずっと南……つまりだいぶ標高のさがった、いわば北戸来高原の下に流出口があるため、高原の湖となるまでには水面が高くならない」 「これじゃ、まるで迷ガ平方面からの道はないわけですね」  堀越が言った。天地創造神があるならば、まるで北戸来の孤立を企《たくら》んだかのようだ。  その時、異様な叫びが聞こえた。     4  それは生物の叫びといっていいか、機械的な警報といっていいか。地の底から湧き上がって天地をとざす闇を裂《さ》く。細かい震えをともなった五、六種の音色の複合音だった。堀越と雄一郎は思わず立ちあがり、公子は堀越の腕にしがみついて聞き耳をたてた。  しかしその音響は一度きりで、あとは窓を鳴らす風の音ばかりだ。 「何ですか、あれは」  堀越はいち早く弥市の動じなさに気づいて尋ねた。  弥市は地図に谷を書きこみ、その細長い谷の一部を、さらに細くして槲ノ森の中へ突きだした。ちょうど、片仮名のトの字に見えた。横に突きだした棒はひどく細い。 「槲ノ森の南の端のほうに、この谷から細く深いわれめがとび出しているのだ。だんだんに浅くなり、森の外へ出るころにはほとんどこの辺りの土地と同じ高さになる。そしてそのわれめの中ほどに、今の音を出す噴気孔があるらしい。昔は湯か、さもなくば泥根《どろね》のように熱い泥を噴いていたのだろうが、今はそれも渇《か》れて間歇《かんけつ》的にさっきのような笛を吹くだけだ」 「いくつもの孔から一斉に強い蒸気が噴き出すと、笛のように鳴るんだ。よく汐吹《しおふ》き岩などというのがあるが、それと理窟《りくつ》は同じだ」  堀越が二人と顔を見合わせながら言った。 「ただ、ひどく不規則でな。毎日鳴るかと思えば、二十日も一ヵ月も鳴りを静めていたりもする」 「こわかったわ……何か怪獣が吠えたみたい」  公子が言うと、弥市は珍しく祖父らしい笑顔をつくった。 「だから森の中のわれめを吠沢《ほえざわ》というのだ」 「なるほど。これで北戸来高原をひとまわりしたわけですね」 「そうだ。吠沢を枝に持つこの谷を往生谷《おうじようだに》といっている。そして、もっとも注意してもらいたいものがここにある」  弥市はトントンと自分の書いた略図の一ヵ所を指で叩いた。 「なんですか」  雄一郎は好奇心に眸《ひとみ》を輝かして尋ねた。 「毒ノ窪《くぼ》だよ。泥根や吠沢はまだしも無害だが、この毒ノ窪は、狐、狸でも一分ほどでコロリといってしまう毒ガスを噴いている」 「危険ですね」 「一応、防毒マスクを持ってはきているが」 「常時、有毒ガスを噴出しているんですか」 「いや、やはり間歇的だ。言い伝えでは吠沢が吠えたあとの半日がいちばんガスが濃く、危険だというのだが、多分その通りだろう。どこかでつながっているはずだからな。こういう土地へ入ったら、莫迦莫迦しくても昔からの言い伝えは聞いておくものだ。公子はさっきゼスが来ると言われて、戸来夫婦を見くびったようだが、土地の者がするなということはしないほうがいいぞ」  公子は、ハイと答え、ちょろりと舌をだした。 「ゼスの説明をしてくれませんか」  堀越は真剣な表情だった。 「儂もよく見たが……」 「ゼスをですか」  公子が低い声で弥市の顔をのぞきこみながら言う。 「よく見るが、儂にも何だか正体はさっぱり判らん。もっとも、ゼスはこの北戸来に限ったことではない。奈良におってもよく見た。屋敷のとなりの土地に岩本という者の家があってな。夜などよくその家の上のあたりを舞っていたよ」 「まさか……」  三人は異口《いく》同音に言った。 「まさか空飛ぶ円盤のことでは」  三人とも直感的に今日の昼に見た頭上の怪光に結びつけていた。  ところが、弥市も平然として、それを口にした。 「お前らも今日の昼、ここへ来る途中の道で見ただろう。白く光って急にはねあがって消えた奴だ」 「これはおかしい」  堀越は珍しく昂奮していた。 「奈良にも現われているし、ここにもよく現われるという……湯平さん、この件と円盤の関係に何か心当たりはありませんか」 「残念なことに、それが何ひとつ判らん」  弥市の態度で、それが嘘でないことがはっきりした。しかし、そうなれば謎は深まるばかりだった。 「おかしいわねえ。まるで私たちの行動は円盤に見張られているみたい。栗栖重人の家の庭で、あの人が宇宙人みたいな小人を見たって、本当かもしれないわね」  その時、堀越も雄一郎も窓の外へ目をやって暗い夜空を眺めていた。公子は何日ぶりかでタブーにしていた佐々木のことを口にしたので、ついあらぬ方に視線をとめて考えこんでいた。  だが、公子が言い終わった瞬間、弥市の体は電流が通じたようにピクッと硬直し、公子、雄一郎、堀越の三人の顔を、探るように眺めまわしていた。 [#改ページ]   19 真珠色の炎《ほのお》     1  濃い霧が流れている。  あたりに棲《す》む鴉《からす》たちも、この朝は霧にまかれて静まりかえり、時折り霧が薄れて視界がひろがると、立ち枯れた裸の巨木が岩塊《がんかい》の散乱した間で枝を霧にからませ、妖怪めいた不気味な姿を現わしてくる。  その霧の中で、エンジンを始動させる。啜《すす》りあげるような音が響く。雄一郎が出発の準備をしているのだ。 「第一日めの朝からこれじゃ、先が思いやられるわね」  車の傍《かたわら》で公子が言った。 「心配するな。この霧は多分すぐ晴れるだろう」  キャンピング・カーのキャビンから出た堀越は、霧の中へパイプの煙を吐いた。煙は霧に混じってすぐ判らなくなった。  堀越の言葉が終わったとたん、それを証明するように、霧がさっと桃色に色づいたようだった。白とグレーのモノトーンだった世界が、昇った太陽の光にとらえられ、逃げ惑《まど》うように渦を巻きはじめる。桃色は紅に変わり、やがて黄色っぽい昼の色になっていく。  いちばん最後まで、霧が薄れるのを待ってキャビンにいた弥市は、出てくるとさっさとうしろの座席にのりこんだ。ガスマスクを四つぶらさげていた。雄一郎と公子が両側からフロント・ウインドを拭《ふ》き、堀越が運転席についた。 「しゅっぱあつ……」  バタンとドアをしめて公子が陽気に叫んだ。 「お前はまるで遠足に来たような気分でいるらしいな」  弥市が苦笑した。  車はゆっくりと走りだす。岩をよけ、立ち枯れた巨木の間を細ぼそと続く道をたどって、四人は高原の北へ向かっていく。 「まもなく完全に霧が晴れる。そうすれば真正面に井手《いで》山が見えるのだ」  弥市が説明した。 「公ちゃん。井手というのは川の水をせきとめる堰《いせき》と同じ意味なんだよ」  ハンドルを握って堀越が言いだした。 「伊香保《いかほ》ろの、やさかの井手に立つ虹《ぬじ》の……万葉集にそういう歌がある」 「ほう、絵描きのくせに万葉集など知っておるのか」  感心したように弥市が言った。どうやら機嫌がいいらしい。 「僕も井手の下帯《したおび》というのを知っています」  雄一郎は身をのりだすように前方を注視しながら言った。なにしろ車など走ったことのない道なのだ。 「あら、どういうこと……」 「そうそう。あれはたしか大和《やまと》物語だったかな」 「ええ。むかし山城《やましろ》の国の井手という所へ旅に出た男が、一人の少女に帯をといて与えたんですよ。そうしたらあとでめぐりあうことができた。……井手の下帯というのはその故事から、別れた男女が再びめぐり合って契《ちぎり》を結ぶ意味になっているんです」  公子はふざけたように肩をすくめ、窓の外へ目をやった。佐々木のことを思い出したのだろう。 「見ろ、霧が晴れる……」  弥市が堀越の肩ごしに前を指さした。なんの変哲もない井手山が、急速に逃げていく霧の間に姿を現わしていた。 「上天気になりそうね」  公子が言った。 「流れです」  雄一郎が警告する。 「萢《やち》から出て蛇池へ入る水だ」  車が停まった。     2  それは、小川と呼ぶにしては頼りない水の流れだった。ごく浅く、そのかわりかなりの幅で、溢《あふ》れだしたようなかたちで道を消していた。 「この右にある萢《やち》がいちばん大きい」  弥市はまるでガイドのような調子で、しかもそれを楽しんでいるように三人に教えた。車をのり入れても、どうということはないようだった。 「こうして見ると、あれは本当に龍だな」  堀越は嘆声を発した。 「蛇池のあたりが頭で、あの春菜山《はるなさん》のところから這い出して来たようですね」  雄一郎が相槌《あいづち》を打つ。龍ノ壁を追って春菜山のほうへ視線を移していった堀越は、なぜか急に眉を寄せて黙りこんだ。その表情に気づいて雄一郎も彼の視線を追ったが、きのうと同じように、戸来岳が見えるだけだった。  車は井手山の麓《ふもと》まで北上し、いちばん北の萢だという小さな湿原のはずれで用心深く左へ曲がり、真東へ進路を変えた。  植物の姿が減りはじめ、前方にいっそう荒涼とした風景が展開している。 「この先に毒ノ窪があるからだ」  弥市は停車を命じ、車から降りた。三人もそれにつづき、一行はかすかに小高く盛りあがった場所にでた。 「スコップを持ってこい」  弥市はそこに立って雄一郎に命じた。そしてスコップがくるとそれを堀越に渡し、 「掘ってみるがいい」  と言った。  堀越は言われたとおりスコップの先を土にさして右足をかけ、力を入れた。  カシッ、とスコップの先が堅いものに突き当たって前へ滑った。堀越は急いでスコップを左右に動かし、浅い土を払った。 「何です、これは……」  三人は土の下からあらわれた平滑なものをのぞきこんで言った。 「岩だ。一枚岩だ」 「するとこれは蓋《ふた》ね」  公子はこの下に黄金が埋まっているのかというように、瞳を輝かせて尋ねた。 「莫迦《ばか》、大きさを調べてみるがいい」  弥市に言われ、三人はあらためて周囲を見まわした。そういえば、石ころのない土の堆積《たいせき》が彼らをとりまいていた。 「公子が言うように、これは蓋かもしれんな。しかし、もし蓋だとしたら、このとほうもない大きさをどう考える」  堀越のスコップをとって、弥市は少し離れた場所に直線を引いて見せた。スコップで溝をつけながら、十五メートルほどもまっすぐにあとずさった。 「短いほうの一辺がこれだけある」  その直線を背に、三人は横に並んで地面を見ながら歩数をかぞえるように歩きだした。 「ここが終わりです」  雄一郎がふり向いて大声をだしたのは、三十メートルも弥市と離れてからだった。土の下に矩形《くけい》の岩盤があることは、その気で観察すればよく判った。  堀越は弥市の傍へ戻りながら、 「一辺が約十五メートルと三十メートルの、ほぼ四角い岩ですね」  と言った。 「表面は鉋《かんな》をかけたように、まっ平《たいら》だ」  弥市は焦《じ》れったそうにスコップで表土を払いのけた。 「龍のような火山活動の結果ですかね。インドのデカン高原は、熔岩が滲《にじ》みだすようにゆっくりと……」  皆まで言わせず、 「こんな自然現象があるものか」  と弥市は怒ったようにスコップをふるい、岩のエッジを露出させた。鋭利な刃物でたち割ったように、その角は九十度に交差していた。 「人工……」 「そうだ」  弥市は食い入るように堀越の顔をみつめていた。 「呆《あき》れたな、これが人工のものだとしたら、世界最大のものだ」 「厚さは一メートル以上ある。以前、底まで掘ってみたのだ」 「どこから、どうやって運んだのでしょう」 「判らん。仮りにこの下に黄金が眠っていたとしても、儂《わし》らにはとうてい掘り出せん」 「なんの目的で、誰がこんな場所にこんな物を作ったのでしょうね」  雄一郎は膝をつき、鋭いエッジに触れながらつぶやいた。 「謎だな」 「謎ですね……」  弥市と堀越が同時に言った。  堀越はふり向いて、また戸来岳のほうを眺めていた。     3  たとえば土地にも相《そう》があり、奈良の若草山《わかくさやま》のような場所が吉相《きつそう》だとすれば、そこはまさしく凶相《きようそう》……死相と言ってもいいだろう。  一木一草もなかった。  土という土、石という石が有毒なガスに染まって黒ずみ、弥市は全員に手袋をつけさせて、それに直接触れるのを禁じた。 「この先の窪地が毒ノ窪だ。幸い今日はここが風上になっているが、そうでなかったら今ごろはガスマスクなしではたちまちやられてしまっている」  まがまがしい紫色のガスが、そのあたりから風下へゆっくりと流れていた。 「だが、あれのおかげで黄金はぶじに守られていた。黄金の番人だ」 「この前の時は、この近くにあったの……」  公子が尋ねた。 「そうだよ。これからそこへ行ってみる。風が変わったらすぐマスクをつけないといけないぞ」  どうやら弥市は美しい公子に対し、急速に祖父の感情をとり戻しはじめているらしかった。かばうように自分が公子の左側に立ち、紫色のガスの流れに注意しながら進みはじめた。  黒ずんだ巨岩の根かたの土に、明らかに人間が掘り起こしたと判るくぼみがあり、以前は土の下だったはずの位置に、もうひとつ石塊がよりそっていた。 「あの石をどけろ」  言葉少なに弥市は指示した。  巨岩は周囲十メートル、高さ四メートル以上もあり、それによりそう石塊といっても、男三人がかりでやっと動くか動かないかという大きさだった。  堀越と雄一郎がそれにとりついてもびくともしないのを見て、弥市は苦笑したようだった。 「その石は以前、儂ら二人がそこへ置いたものだぞ」 「二人って……」  公子は弥市の低いつぶやきを聞いて尋ねた。が、弥市は急に厳《きび》しい表情に戻って答えなかった。巨岩の根かたの二人は、上の二人のやりとりに気づかず、何やら相談していたが、すぐ雄一郎がくぼみからとび出して走り去った。 「車を使いますよ」  堀越は両手の土を払いながら上がってきて言った。車が動きだし、巨岩の横へやってきた。 「それなら動くだろう。だが終わったら車を遠くへやっておいてくれ。風向きが変わってガスにやられると困るからな」  ロープがくり出され、堀越が石塊にまきつけて縛った。 「ようし……」  合図をするとロープがまき込まれ、ゆっくりと石塊は動きだしてすぐ横にころがった。 「穴だわ。穴があいている」  公子が叫んだ。  巨岩に幅一メートル、高さ八十センチほどの半円形の穴が口をあけていた。 「この穴の中に……」  土に膝をついて穴をのぞきこんでいた堀越が、弥市をふり仰いだ。 「そうだ。この中に運びきれぬほどの黄金がつまっていた。ここを探しあてるのは大変な苦労だったのだ」 「そうでしょうね。しかし、これは岩自体にえぐった穴ですよ。いったい、いつの時代にどんな人間がやったのでしょう」 「判らんな。ちょうどその真上《まうえ》の土に、小さな祭壇のようなものが埋まっておってな……結局はその下を掘ることで探しあてたのだ。お前にやった壺と土偶は、そこに土でできた家の模型といっしょに並べてあったものだ。家のほうはひどく壊《こわ》れておって、どこかそこらの土に埋まっているはずだ。そこまで掘りさげるのに夢中で、知らぬ間に土をかぶせてしまったらしい」 「ここまで一人で掘ったのですか。大変でしたねえ」  堀越は穴のまわりを見まわしながら言った。公子が彼に何か答えかけたとき、弥市は彼女の手を強くひいて穴へおりはじめた。 「下へ行ったら驚くことばかりだぞ」  雄一郎が車を置いてかけ戻ってきた。 「あそこなら大丈夫でしょう」 「さて、いよいよ穴へ入るか。久しぶりだったなあ」  弥市は人間に言うように岩の肌を撫でると、両膝をついて這い、もぞもぞと体を動かしてもぐりこんだ。  岩の中の穴は、正確な円を描きながら螺旋《らせん》降下していくらしかった。 「胎内めぐりですね、まるで……」  最後尾から雄一郎の声が聞こえ、穴の中に反響した。     4  下りきると、立てるようになった。天井までの高さが二メートルほどの空間がひろがっていた。  弥市が懐中電灯の用意もせず、まっくらな穴へいきなりおりていった理由は途中で全員に判った。下から光が射《さ》してきていたのだ。しかし、それはどこかの隙間から射す陽の光だろうと思い込んでいた。  だが、地底の広間に立ったとたん、三人は思わずあっと息をのんだ。  それはまさしく地底の広間だった。小判形の岩の広間だった。  壁と床、天井の接点はきちっと直角に交わり、みがきあげたように四面はつるりとしていた。そして広間の中央に、高さ一メートルほどの円柱があり、円柱の上に見たこともない真珠色の焔《ほのお》が揺れているのだ。 「これは……」  堀越がおそるおそる円柱に近寄った。 「危険はない」  弥市が余裕たっぷりに教えた。この広間のことを知りぬいているらしい。  三人は焔に近寄り、腰をかがめて眺めた。雄一郎が焔に手をかざしてみる。 「熱くないですよ」 「そう、熱はない。ただ光があるだけだ」 「そんなの聞いたことないわ。蛍光灯だって暖かいのに」 「いや、本物の蛍の光なら熱くはない」  堀越は観察しながら言った。 「これは柱の上に桶をのせてあるのですね。金属の容器だ」  堀越はそう言うと腰を伸ばし、その中をのぞきこんだ。焔の光が映えて、堀越の顔が真珠色に美しく染まった。それはこのうえもなく蠱惑《こわく》的な色彩だった。 「何も入っていない……」  堀越は呆れたように言った。 「手を入れてみろ。平気だ」  弥市はそそのかした。堀越はおずおずと手を焔の中にさしこみ、思いきってその焔を発する金属の容器に突っこんでかきまわした。 「何もなかろう」  弥市は笑った。 「このいれもの自体が燃えているんですよ。ほら、蝋燭《ろうそく》のようにふちがとけている」  雄一郎に指摘され、次の瞬間、堀越は大声で叫んだ。 「火焔《かえん》土器だ。これは火焔土器の原型だよ」  えっ、と言って公子は雄一郎とともにあとずさり、全体の形状をもう一度眺め直した。  蝋燭のように、ふちが不規則に溶けて奇怪な形になっていた。それはあたかも火焔土器につけられた鋸歯《きよし》状の飾りのようだった。そうなればもう、火焔土器の躍《おど》りあがるような把手《とつて》は、単なる装飾ではなく、この真珠色の焔を摸したのだということに、疑問の余地はまったくなかった。 「見ろ。この容器の肌にはモアレが生じている」  堀越が言ったとおり、鏡のような容器の肌には、見る角度によってさまざまに変化する細かい木目《もくめ》状の斑紋《モアレ》が見えていた。 「火焔土器の繁縟《はんじよく》な重渦巻《じゆうかかん》や隆起線文《りゆうきせんもん》がこの容器を摸しているのだとすると、縄文人の中にこれを見た人間がいなければならない」  弥市はそれを聞いて憤ったらしかった。 「学者のようなことを言う。見たままをなぜ信じないのだ。底が小さく、口がひろがった丸い壺ではないか。土で焔をかたどったということは、疑問の余地はなかろう。これを手本に、いくつかの火焔土器が作られたのだ。お前にやったのもそれなら、新潟の馬高《うまだか》遺跡のもそれだ。古代人は素直にこれを写したにすぎん」 「すると、遮光器土偶《しやこうきどぐう》も素直な写実ですか」  堀越は胡散臭《うさんくさ》い顔で言った。雄一郎は容器を柱からとろうと試み、不可能と知ってあきらめて手をはなした。 [#改ページ]   20 子連れ狼《おおかみ》     1  弥市のキャンピング・カーの内部は、車というより船の中の感じだった。キッチン、シャワー、トイレ、ラウンジのほか、二段ベッドが三つに倉庫用のたっぷりしたスペースまでついている。側壁、仕切り、天井はニス仕上げの木材をたっぷり使い、窓には渋い柄《がら》の厚い生地とレースのカーテンが二重につけられている。把手などの金具はみなどっしりとした真鍮《しんちゆう》製だ。  狭いなりに至れりつくせりの設備があるラウンジのソファーに、公子が疲れ果てたような顔で体を沈めていた。 「第一日からそんなことでどうなる。そう簡単に黄金がみつかってたまるものか。それに呆気《あつけ》なくみつかってはたのしみがなかろう」  弥市は孫娘をからかい、戸来家へ行ってくると言い残して高原の闇へ出ていった。  堀越はカーテンを細くあけてそのうしろ姿を追っていたが、窓から顔をはなすとひどく厳しい表情で言いだした。 「湯平さんはたしかに何かを我々に隠している。教えたくないことがあるらしい。しかしそれはそれで、聞きだせない以上、仕方がない。だが、ここはたしかに何かおかしいぞ。湯平さんが隠していることと関係あるかどうか知らんが、僕はきょう妙なことに気づいた」 「妙なことばかりだわ。あんな岩穴や、聞いたこともない燃える金属。熱くもなければ煙もでないじゃない。それにどうやってみても消えないなんて……普通じゃないわ」 「まあいいから、二人ともちょっと前の窓へ行って外をみてくれないか」  堀越は言い、先に立ってキャビンのいちばん前へ行くと、横に細長いカーテンを引いた。矩形の窓の外に北の夜空があった。 「何が見える」 「何も見えないわ。お星さまだけよ」 「それに山と……」  雄一郎と公子が窓を眺めて答えた。 「それだけ見えればたくさんだよ。星はどんな星だ」  堀越は腕時計をみながらさらに尋ねた。ちょうど八時ごろだった。 「あれは私たちの星よ。ねえ雄ちゃん」 「そうです。カストルとポルックスです」  雄一郎の返事に堀越は念を押した。 「ふたご座が見えているね」 「ええ……」  雄一郎は不審げにその顔をみた。 「その星座の真下の山はなんという山だね」 「あれは……」  雄一郎は視線を窓の外に戻し、 「戸来岳ですね」  と答えた。 「戸来岳では正確でない。戸来岳は一〇〇〇メートルほどでふたつのピークに割れている」 「左が三ツ岳、右が大駒ガ岳……」 「いまふたご座がある真下の山がそれだね」 「はい……でもどうして」  すると公子が突然、躍りあがるように言った。 「雄ちゃん、ふたご山《やま》よ。戸来岳はふたご山じゃないの」  あっ、と雄一郎は外を見直した。 「ふたご山の上にふたごの星……」 「そうだよ。そしてここにふたごの片割れがふたりいて、そのおじいさんもいる」 「何から何までふたごずくめ……どうなってるの、先生」 「判らん。判らんが偶然の一致にしては重なりすぎているとは思わないか」 「ふたごに関係ないのは先生だけじゃない」  公子はおかしそうに言い、堀越の深刻な表情に気づいて口をつぐんだ。     2  佐々木義章は尾崎幾江に嬲《なぶ》りぬかれていた。性技のツボは、男も女もそう変わらないらしい。長い間、湯平弥市に責められつづけた幾江は、おのれがあの老人に悶《もだ》えさせられた方法を、ひとつひとつ丹念に思い返し、同じやりかたで佐々木を悶えさせていた。  焦《じ》らされて佐々木は何度も幾江をとらえようとした。しかし、底知れぬ快感が彼の力を奪っていた。何度か幾江の唇で果てかけもした。しかし幾江は敏感にそれを察し、佐々木の破裂をひきのばした。  際限もなく刺激され、のたうっているうちに幾江も昂《たかぶ》り、男の手を誘って濡れた花芯《かしん》に快を求めた。  そうした責め合いでは、幾江のほうがはるかに抵抗力がなかった。  弥市の責めに馴《な》らされてしまった女体は簡単に登りつめ、呻《うめ》く度合は幾江のほうに多くなった。  幾江の表情に、佐々木の怒張《どちよう》をいつくしむ風情《ふぜい》が見えはじめた。手で囲い、唇で濡らして、ひたすらその充実したものを守り続けようとしているようだった。  そうしながら、幾江は何度となく佐々木の指できわめた。貪婪《どんらん》だった。濡れそぼち、白い腿《もも》を震わせ、きわめるたびに佐々木の内腿を強く吸って唇の跡をつけた。 「こいつ……」  佐々木は怒り狂ったように上体をはねあげると、幾江を裏返し、小ぶりだがキッと挑むように突きだしている乳房を掴んで、両手でねじあげた。  その乱暴な力が幾江の官能に強く訴えたらしく、彼女はあられもなく下肢をひらき、腰をあげて佐々木を迎え入れた。  幾江は啜《すす》り泣いた。もう快美を訴える言葉もなく、呻く力もなく、男に屈して動きのままにおのれをただよわせ、酔い痴《し》れて泣くのだった。  そしてついに悶絶《もんぜつ》した。だが、佐々木の体内にある悦楽の噴射孔は、たび重なる幾江の不自然な制禦《せいぎよ》で二重に弁を閉じてしまったらしく、昂《たか》まり、つらぬいたままその威力を温存していた。 「どうだ……」  佐々木は両手をついて幾江を見おろし、勝ち誇ったように言った。  幾江は眉を寄せ、目を堅く閉じ、唇を噛み、驕慢《きようまん》にとがった白い頤《おとがい》をあげて左右にこまかくふるわせていた。 「おい」  そう言って佐々木がまた動きはじめると、唇をかすかにあけて息を吸いこみ、寒そうに肩をすくめる。目尻から涙がシーツへ転がりおちた。 「許して……もう」  上体を起こし、瞼《まぶた》をひらくと吸いこむような瞳《ひとみ》で顔を近づけてきた。しなやかな腕を男の背にまわしてしがみついた。 「知らないの、ここまでしか……本当よ。どうなるの。こわいみたい……」  与えられた快感を言っているらしい。 「やめてもいいんだぜ」  佐々木はやくざっぽく言って体をひきかけた。 「あ、待って」  幾江は怯《おび》えたように佐々木の背にまわした腕に力をこめ、下肢を強くからませた。 「動くな、離れるな、か。どうすりゃいい」  佐々木はゆとりを見せてからかった。幾江は急に腕の力を抜いて、ふわりとシーツの上に上体を落とし、 「くやしい……」  そうつぶやくと、ものうげに顔を横に向けた。また下唇を噛み、羞《はじ》らっているようだった。花芯をうちのめされ、我にもなくありったけの愉悦《ゆえつ》を男の前に吐きだしてしまったしたたかな女の素顔だった。  その横顔が、また上を向き、怯えを示した。佐々木が力づよく動きはじめ、幾江はまた深い悦楽の淵に堕《お》ちていく。     3  幾江は裸身のままころげ落ちるようにベッドをぬけ出ると、とたんによろりとよろけて壁に手をついた。 「どうした、めまいか」  佐々木が言うと、幾江は流眄《ながしめ》で恨《うら》めしげに見返した。今にも融《と》け崩れそうな歩き様《ざま》でテーブルに近寄り、彼に背を向けてポットから水をついで飲んだ。 「こんな人だとは思わなかったわ」  幾江は戻ってくるとするりと添い伏して言った。 「舐《な》めていたな」 「うん」 「参ったか」 「降参よ。だけど、もう簡単には手ばなさないから覚悟してよ」  佐々木の腕に頤をあて、見あげるようにして言った。 「実は俺も知らなかった」  佐々木は率直《そつちよく》な笑顔になった。 「お前がどうにかしたら、あんな具合になっちゃったのさ。俺のせいじゃない」  幾江はクスクスと笑った。 「あんたって、好い人ね」 「うん」  佐々木は当然のようにうなずく。幾江はそんな彼にいとおしげに頬ずりし、 「可愛いわ」  とささやいた。 「あの子供の正体がいつまでも判らないといい……だって弥市のことが判ったら、あんた私から離れてどこかへ行ってしまうんでしょう」 「判らんさ。その場になってみなけりゃ」  佐々木は頭を枕に落とし、目をとじて公子を想い泛《うか》べた。どこか北の土地にいるはずだった。  広島、博多、山口、松江と、あれから佐々木は西日本一帯を歩きまわり、もう梅雨《つゆ》が近い季節になっていた。  幾江が弥市から聞かされた断片的な昔がたりを頼りに、その過去を追っていくと、奇妙な事実が浮かびあがってきたのだった。  弥市はものの一年と同じ場所に住まず、昭和二十二年のなかばごろから、各地を転々としはじめたらしい。  どこでも一人きりではなかった。  広島を出た時は乳呑児《ちのみご》をかかえていた。  それは堀越正彦と弥市の上の娘の規子《のりこ》の間にできた赤ん坊で、もと住んでいたあたりでも原爆っ子だということで記憶している人々が多かった。  二十一年の四月ごろに生まれたらしく、なんでも八ヵ月くらいの早産だったという。しかし、それにしては大きく健康そうな赤ん坊で、混乱期のことだから、医者がみたて違いをしたのだろうということだった。  事情はつまびらかではないが、弥市はその赤ん坊を抱いてどこかへ飄然《ひようぜん》と消えてしまった。規子も妹の律子がいる山口市の遠縁の者を頼って広島を去り、そこで縁談が持ちあがって天童《てんどう》家へ嫁《とつ》いだのだ。嫁いだときすでにその赤ん坊は死んでおり、天童家側ではすべて承知のうえのことだったという。  天童家との婚礼は二十三年の終わりで、その時は弥市も当然、出席している。が、古くから薪炭《しんたん》商を営んで、土地では資産家のひとつにあげられていた天童家の元《もと》番頭格の老人に当たると、弥市はその婚礼の時、小学一年生くらいの男の子を連れてきていたというのだ。 「恐ろしくすばしこい子供でしてな。それがあなた、たった一日か二日の間にこの界隈《かいわい》の子らをみな手なずけてしまいましたのです。それはもうびっくりするほどで、長い間その子のことがひとつばなしになっていたものです」  弥市はその前まで博多に行っていたらしく、たずねあてた博多の関係者は、四、五歳くらいの男の子の面倒をみていたと証言してくれた。とほうもない悪戯《いたずら》坊主だったということだ。  いったい最初の赤ん坊は、いつどこで死んだのだろう。……湯平家の戸籍には規子の私生児で正男《まさお》という名が記録されている。死亡年月日は二十二年の六月四日になっている。出生は二十一年の四月十四日……一ヵ年あまりで死んだ果敢《はか》ない命ということになる。死亡届は直接本籍地の役場で受付けたようになっているが、当時の湯平家を知る人々は誰もそのことを記憶していない。  そして、この松江だ。  松江市に弥市が現われるのは二十四年の終わりごろ……天童家の婚礼からほぼ一年のあとだ。  このとき連れて歩いているのは十六くらいの、体格のいいおとなしい少年で、弥市は息子だと偽《いつわ》っている。松江市の西はずれにある松風荘という旅館に長期|逗留《とうりゆう》し、今は鉄筋七階建ての堂々たる観光ホテルの社長になった老主人が、その親子のことをはっきり憶えていてくれた。     4 「ねえ、これからどうするの……」  洋風の寝室につづいた和風の八畳間で遅い朝食の膳に向かった幾江は、窓の外の雨脚《あまあし》を気にしながら甘え気味に言った。梅雨《つゆ》が始まったらしく、じっくりと降りはじめている。  その甘えが昨夜、自分に授かった意外な精力のせいだと気づくと、佐々木は脅《おびやか》すように答えた。 「雨だし、もう一日のんびり寝て思い知らせてやるか」  幾江は箸を持った手を膝の上におろし、 「うん……朝っぱらから莫迦《ばか》」  と言った。 「松風荘ホテルの主人は、松江から大阪へ出たようだと言っていたな。大阪のはなしを聞いてないのか」  佐々木は焼|海苔《のり》をつまみあげながら尋ねた。 「たくさん聞いてるけど、戦争だか何だかを見こして大阪で荒かせぎをしたこともあるんだって言ってたわ。そうそう、出たばかりの千円札をこんなに束にして持ち歩いてたって……」  幾江は左手の拇指《おやゆび》と人差指をいっぱいにひろげてみせた。 「出たばかりの千円札か……そうすると、たしか昭和二十五年だな。だったら朝鮮戦争じゃないか」 「大阪へ行ってみる……」 「いや、行ってもいいが手懸《てがか》りがまるでない。もう少しこの松江のあたりを探ってみることにしよう。松風荘ホテルのおやじさんばかりではないだろう、その二人と接触していたのは」 「あんたのいいようにして」  幾江は寛大な微笑を見せた。 「しかし、なんで、とっかえひっかえいろんな子供を連れ歩いたんだろうな」 「ほんと。ちょっとした子連れ狼ね」 「まさかお稚児《ちご》さんじゃあるまいな」 「何のこと……」 「衆道《しゆどう》だよ。まだ若かったはずだし」 「男色《だんしよく》……」 「うん」 「いやらしい。最初が赤ん坊、二番めが五つくらいの博多の悪戯小僧、その次がはしっこい一年坊主……松江に現われた十六、七の少年なら、或いはってこともあるけど。それにあの人、そっちの気《け》はなかったわよ」 「ま、その線はないだろうな。とすると、いったい何だ」 「どこかの施設を当たってみたら……」 「なぜだ」 「そんなにいろいろな子供がいる所っていうと、孤児院とか、そういう所じゃないの」 「孤児院……施設の子か」  佐々木はしばらく考え込み、やがて頭をふって飯を食いはじめた。 「やっぱり筋が通らんよ」 「どうして」 「施設の子をどうやってとっかえひっかえ連れ歩くんだ。次々に可愛がる子を変えていたのか」 「何か商売の道具に使うとか……」 「いくらいいかげんな施設でも、そんなことはさせまいよ」 「判んないわよ。日本中がみんな泥棒みたいになっていた時代なんですからね」 「いや、違う」 「可能性はあるわ。なぜ違うと言いきれるの」  幾江は焦《じ》れ気味に言った。 「勘《かん》に来ないんだ。新聞記者の勘に」 「なによ、もう新聞記者じゃないくせに……」  幾江は軽く嗤《わら》い、 「じゃ、その子供は最初っから一人だけなのよ。広島で赤ん坊、博多で四つ、山口で一年生、松江で十六……倍ずつ歳をとったことになるじゃない。計算は合うわ」  と言った。佐々木は凝然《ぎようぜん》とそれを聞いていた。 [#改ページ]   21 オーバーラップ     1  雨は北|戸来《へらい》にも降っている。 「梅雨《つゆ》に入りますね」  堀越が言った。あけ放った戸来家の縁先に、弥市、堀越、公子、雄一郎の四人が粗末な湯呑を手に雨の高原を眺めていた。  戸来の女房は、茶を配りおえると家の中でこまごまとした道具類をとりかたづけている。長持《ながもち》や箪笥《たんす》が囲炉裏《いろり》のある板の間や土間に並べられている。 「引っ越しはいつになさる」  弥市の様子がひどく変化していた。まるで隣家の老人のように、気さくな話しかけ方だった。以前、奈良や東京で見せていた妖怪じみた人間|蔑視《べつし》が消え、星霜《せいそう》に耐えて温顔を獲得した好々爺《こうこうや》のようだった。それが彼本来の姿で、奈良にいたころは何か異様なものにとり憑《つ》かれていたらしい。財力の背景なしに高原を歩きまわっているうちに、コロリとその憑きものが落ちたのだ。 「まだ判りません。……急ぐこともなし」  女房は羞《はじ》らうような笑顔で答え、ゆっくりとひとつひとつたしかめながら、小物を箱の中へ納めている。 「お子さんもないことだし、やむを得んでしょうが、そうなるといよいよこの土地は無人になるばかりですね」  堀越がいたましげに眉をひそめた。 「探し物は見つかりそうですか」  女房は世辞のつもりらしかった。 「さあ、いつ見つかるやらなあ。こっちも急ぐ身ではないが、次の雪を見るまでには探しあてたいものだ」 「ゆうべゼスが飛びましたが……」  見たか、という顔で女房が言う。 「ゼスが……本当かね」  女房はこくりとうなずいた。そのまま奥へ何か取りに去った。 「ゼスか。ここへ来てから儂らも二度見たな」 「一度はここへ着く日、下の道の途中で。もう一度はついこの間、おじいさんと僕が外にいる時、折伏《おりふし》峠のあたりからまっすぐ迷《まよ》ガ平《たい》へ飛んでいきましたね」  雄一郎が言い、堀越は公子を見ながら、 「僕らはそれを見損《みそこ》なった。ゆうべのはどんな飛び方をしたんだろうな」  と湯呑を縁に置いた。公子は答えず、口もつけぬまま湯呑を持った手を膝に置いて地面をみつめていた。顔色がひどく蒼い。 「公ちゃん、どうしたんだ」  女房が戻ってきて縁に膝をつき、空になった堀越の湯呑に茶をつぎ足した。 「具合でも悪いのか、公ちゃん」  公子は急に湯呑を置き、車のほうへ走りだした。左手で口もとをおさえ、どこか弱々しい走り方だった。 「どうしたんだろう」  呆気《あつけ》にとられていた堀越が立ちあがって心配そうに言った。 「悪阻《つわり》だ」  弥市は無表情に言って、追いかけようとした雄一郎をとめた。 「悪阻……」 「いいなずけを置いてきたそうじゃないか」  弥市は悪戯っぽくニヤリとしてみせた。まるで悪意のない、若い者をけしかけるような笑い方だった。 「そうだったのか」  堀越は車をみつめながら何度もうなずいた。 「山を下《くだ》るなら、あまり雨がつづかないうちのほうが……」  女房はたまりかねたように口をはさみ、すぐ差出口《さしでぐち》を詫びるように頭をさげて去った。弥市は膝を打った。 「そうだ、そのことよ。ここに置いてはいかんぞ。体に障《さわ》ったらどうする」  と、自分もいま気がついたくせに、堀越の迂闊《うかつ》さをとがめるように言った。     2  そのとき、亭主が古ぼけた木の箱を持っておずおずと三人に声をかけた。松材で作った厨子《ずし》のようなものだった。 「あの、少しお知恵を」 「何かね」  弥市が愛想よくふり返った。 「これを見ていただきたいので」 「どれどれ」  高さ四十センチ、幅三十センチ弱の素朴な厨子《ずし》が三人のうしろへ置かれた。亭主はその傍にきちんと正座して膝に両手をあてがった。 「古いもので、何代も前から伝わっておりますが、お目ききを願いたいので。ごらんのとおり何の取柄もない人間で、里へおりましても、これといって目当てがありません。湯平さまにいただいたお金だけが頼りで下へ参るのですが、万一の時、もしこんな物でもいくらかになると知っておりますと心強いのですが」 「見せてごらん」  弥市は顎をしゃくった。  ハイ、と答えて亭主が両びらきの扉をあけたとたん、弥市は血相変えてほとんどとびあがらんばかりになった。  中には黒褐色の複雑な彫像が安置してあった。  弥市は慎重な手つきでその彫像をとりだす。ずしりと重そうだった。しばらくみつめ、台座の辺りにいきなり噛みついた。  ぺっと唾を吐き、 「雄一郎、バケツにガソリンを入れて持ってこい」  と命じた。訳が判らぬまま雄一郎が走りだす。 「これがどこにあったか、見つけた場所は言い伝えられているのか」  気ぜわしげに弥市は尋ねた。 「槲《かしわ》ノ森だそうで。あとのことは……」  亭主はあっけらかんとした表情だった。弥市は黙って堀越に手渡す。  堀越は重みをはかり、瞳をキラリとさせて森のほうを見た。 「この重さは普通じゃありません」  きっぱりと言った。  雄一郎がバケツにガソリンを入れて持ってくると、弥市と堀越はしゃがみこんで彫像を洗いはじめた。 「松やにだよ」  堀越は顔をあげて、雄一郎と亭主に教えた。  丹念に洗いおわると、まず堀越が腰をあげ、緊張しきった顔で弥市の手もとをみつめた。  弥市がガソリンのしずくがたれる彫像を亭主にさしだしてみせた。燦然《さんぜん》と光り輝く黄金彫像だった。 「金《かね》になるもならぬも、これは純金だよ。儂が保証する」  いつのまにか亭主の横に女房も坐っていて、二人は顔を見合わせてうなずき合っている。 「これをな……これを金に換える時は必ず鋳《い》つぶしてからにすることだ。形のまま人に見せると損をするぞ。文化財とかなんとか言って、まかり間違うとタダ同然でとりあげられてしまう。それまでは、今までどおり松やにかペンキでも塗りたくって、しっかりしまっておくことだ。いいな」  弥市は厳重に言い渡した。 「有難《ありがと》うございます」  夫婦はまるで弥市から授かったもののように、何遍も礼を言った。 「あなたはこの像が何だか知っているのですか」  堀越が弥市に言った。 「いや。知っているのはこれが純金だということだ」 「これはギリシャのものですよ」     3  堀越はこうした像の専門家といってよい。弥市も画家の知識を否定する気配は見せなかった。 「アテネのパルテノン神殿に、かつてアテナー・パルテノス……つまり神殿の本尊として祀《まつ》られていたのがこの像です。今は失われてしまいましたが、小型の模像が残っているので判るのです。実物は非常な巨像で、全体が黄金と象牙《ぞうげ》によって作られ、眩《まば》ゆく輝いていたということです。作者はペイディアース。紀元前五世紀なかばのアテネ人です。ごらんなさい。頭の兜《かぶと》は中央がスフィンクス、左右がペガサスです。衣服にはゴルゴーンの首の紋章が入り、右手の掌には勝利の女神ニーケーをのせ、左手には槍と楯を持っているでしょう。楯にはアマゾンやタイタンが描かれています。楯の下からは聖なる蛇が鎌首をもたげています」  戸来家の彫像は堀越の指摘どおりだった。  弥市は顔をしかめ、手をふって亭主に、 「早くしまいなさい。決して人に見せるのではないぞ」  と念を押して、車のほうへ走りはじめた。雨がその体をつつみこむ。 「湯平さん。待ってください」  堀越はあとを追い、雄一郎もそれにつづいた。  キャビンへ入ると堀越はいきなり語気鋭く言った。 「湯平さん。つまらん隠しだてはもういいかげんにしてください」  公子は愕《おどろ》いて立ちあがった。雄一郎がそれをおしとどめ、黄金像のことを小声で説明しはじめる。 「何を隠しているというのだ」 「あなたは何か隠してる。あの彫像がギリシャ風で、日本の、しかもこんな東北の山の中にある不思議さは誰でもひと目で気づくはずだ。あなたが以前掘り出したというのはあのテのものなんでしょう。だからあなたは、あれを見てギリシャ風である点については、まるで当たり前のような顔をしていた。ですがね、協力して探す以上、それを早く言ってもらわねば困るんです。おかげで何ヵ月も遠まわりしてしまったじゃありませんか」 「なんだと……」  弥市が気色《けしき》ばんだ。 「この高原へ来てすぐ、僕はギリシャ的な暗合に気づいたのです。しかし、あまりにも突拍子すぎた。口に出すのもはばかるほどだったんです」 「この土地がギリシャの何かにつながるのだと……この北戸来がか」 「ええ、そのとおりです」  堀越は荒々しく戸棚から以前、弥市が鉛筆で記《しる》した北戸来の略図を探しだし、テーブルの上へひろげた。 「春菜山。四年ごとに行なわれるアポローンのピューティア大祭が開かれる聖地デルポイの渓谷は、大地ゲーの託宣《たくせん》の場所でもあり、ゲーの象徴である一匹の大蛇が棲《す》みついていたとされています。そしてデルポイはなんと、パルナッソス山を背負った土地なのです」 「パルナッソス……」 「そうです。春菜山はそれにあてた日本名であると読めます」 「何を言いだすかと思えばそんなことか」  弥市は一笑に付したが、堀越はいっこうにひるまなかった。 「トロイ地方の高山で、ゼウスがもっとも好んで訪れる山のひとつがイーデー山です。井手山はここにあるじゃないですか」  地図を強く叩いた。弥市は黙っている。     4 「龍はデルポイの大蛇です。パルナッソスに尾をからませ、蛇池で水を飲んでいるのです。しかも、その水は滝になって鉄砂利《てつさり》川へ流れこんでいる。テッサリアです。それにこの泥根《どろね》……そうなればこれがドードーネーであることに間違いはありません。ドードーネーはエーペイロスの奥地にあるゼウスの聖地で、トマーロス山のふもとにある古代の町の名です。トマーロス……苫呂《とまろ》山がここにあるじゃありませんか」 「たまげたよ……」  弥市はかぶとをぬいだようだった。 「しかし、ギリシャとつながっていようとはな」 「こうなったら我々が探す場所は決まったも同然です」 「どこだ」 「槲《かしわ》ノ森です」 「なぜ」 「ゼウスの聖地ドードーネーには、聖樹である王槲《おうかしわ》の大木があったのです。太古に天上から一群の聖なる鳩がその樹に舞いおり、人語を発して神意を伝えたとされています。そしてドードーネーには、その葉のそよぎでゼウスの神意を占う聖職者の一族がいました。その聖職者たちは、ヘルロイと呼ばれているのです」 「ヘルロイ……戸来か」 「そうでしょう。だから迷《まよ》ガ平《たい》の戸来をヘブライとするキリスト説は間違いです。ゼスはイエス・キリストのことではなく、ゼウスのことでしょう。しかも、そのゼウスは明らかに空飛ぶ円盤だ。円盤は宇宙人の乗物だという説が、今日では人々のあいだで圧倒的に支持されています。未確認飛行物体、すなわちUFOとして、各国の軍隊がそれの存在を認めてしまっています。イギリスやアメリカには、UFO専門のセクションさえできているのです。あの真珠色の火焔を吐きつづける未知の金属といい、高度な知性をもった地球以外の天体の生物が、ここへやってきていることは疑いもありません。円盤なら、ギリシャと日本をつなぐことくらい平気でしょう。あのパルテノンの黄金彫像が紀元前五世紀……火焔土器を含む縄文中期は、放射性炭素測定によって、今から二五〇〇年前程度、誤差はプラス、マイナス三〇〇年です。ピタリと一致しているじゃありませんか」 「とほうもないことになってきたものだ」  弥市はため息をついた。 「だが判らないことがまだある。それはあなたの一族とこの件とのかかわり合いです。雄一郎、大二郎のふたご。公子と明子のふたご。そして規子、律子のふたご姉妹……それがこれとどうからんでいるのです」 「なぜそんなことを……」 「戸来岳はふたご山じゃないですか」  弥市はあっと顔色を変えた。 「おじいさま……」  公子が蒼い顔をあげて言った。 「この前、ここへ掘り出しに来た時にいたもう一人の人って、いったい誰なの」 「一人じゃなかったんですか」  堀越はなじるように追及した。 「その男がここを探しあてたのだ。儂はついてきたにすぎん」  弥市は困惑しきっている様子だった。 [#改ページ]   22 怪人の素顔     1  日本庭園の奥にある繁みの間から、赤い提灯《ちようちん》の灯《ひ》がのぞいている。その先にある田舎風のレストランで、何か催《もよお》し物《もの》があるらしい。  濃紺の夏の闇が、紀尾井《きおい》町のホテルをつつみこんでいた。ガラスの壁の内側から明るい光が洩れ、白服の男たちが、きょう最後の結婚披露宴のあとかたづけをしている。 「中へ入らない。汗ばんできたわ」  絽《ろ》のきものを粋《いき》に着こなした尾崎|幾江《いくえ》が、佐々木の手をちょっとつまむようにして引っぱり、すぐにはなした。  二人はこのところずっと、東京のこのホテルにいる。 「出れば暑いし……」  佐々木は嘆いてみせた。 「仕事はないし……でしょ」  幾江の言い方には、仕事を失った男の鬱憤《うつぷん》を知り尽くしているようなところがあった。 「そういうわけだ」  佐々木は苦笑する。先に立って狭い自動ドアから冷房のきいた館内へ入りかけている幾江は、ひとけのないのをさいわいに、 「私の体にも飽きてしまったし、退屈でしょう……気の毒ねえ」  と、ふざけ半分の嫌味を言った。 「またそんなこと……」  佐々木は真顔で打ち消した。それだけ彼のほうが初心《うぶ》で、年上の幾江はその一点だけでまだ佐々木という男を手ばなさずにいる。  夜ごとの爛《ただ》れたようなからみ合いは、本来そのような早さで男女の仲を終局に導くものなのだろうが、当事者の佐々木にしてみれば、思いがけないスピードでそれが近づいているようにしか感じられない。  幾江が砂漠で渇《かわ》きに渇いていた。そこへ佐々木という男が水を持って現われた……。ただそれだけの、要するに刹那《せつな》的な性愛でしかないものを、佐々木の芯《しん》にある善良さは、精神的な結びつきであるという風に思い込みたがっていた。  幾江は終わりが近づくにしたがって表面化する佐々木の初心さ、善良さを、得難《えがた》いもの、失いたくないものと感ずる反面、しだいに物足りなさも募《つの》ってきている。……所詮《しよせん》は一時の戯《ざ》れ相手。そう割り切りながらまだ手ばなさないでいる自分自身を、からかいながらみつめているゆとりを持っている。  二人はなんとなく、ほの暗いラウンジのテーブルについた。冷たい飲物を注文する。  佐々木はポケットから白い角封筒をとりだし、ぼんやりとそれを眺めはじめた。 「あの子に……会うの、やっぱり」  幾江の瞳に、かすかなからかいの色があった。 「ずっと調べ歩いたのはそのためだ」 「会いなさいよ。私ならいいのよ。いつまでもこうしてはいられないものね。無尽蔵にお金があるなら別だけど。お互いにこれからのことも考えなくてはね」 「なんだ、別れ話か」  佐々木は拗《す》ねたようだった。あご、あし幾江持ちで駆けまわっているうちに、いつのまにかそんな態度が生まれていた。 「いつ会うつもり、公子さんに」  幾江はわざと事務的に質問した。 「明日にでも……調べたら、東京へ帰ってきているらしい」 「へえ。いつのまに電話したの」 「いつだっていいじゃないか」 「へえ……そうなの」  今度は幾江が嫉妬《やき》ぎみだった。 「なに言ってるんだ。自分だって結構やってるらしいじゃないか」 「仕方ないじゃないの。あんたは情夫《いろ》にしかなれない男よ。旦那は無理よ」 「どんな男だ」 「莫迦ね。そんなこと、たとえ知りたくても訊《き》くもんじゃないわ」  佐々木は憮然《ぶぜん》としてまた角封筒に目をやった。 「もうそろそろお仕舞になってもいいんじゃないかしらね。まとまりそうなのよ、私のほうは」  まとまりそう、と幾江は言った。佐々木は色街育ちの年上の女とのへだたりを感じた。 「解放してくれるというのか」  皮肉たっぷりに言う。 「まあね。でもすんなり放してあげるわけじゃないわよ」 「どうする気だ」 「最後に足腰の立たないような目に会わせてからよ」 「生意気言うな。いつだって返りうちのくせに」  佐々木は思わずニヤリとした。そして急に気が軽くなったようだ。 「言ったわね」  幾江は瞳に欲情のきざしを見せていた。 「そんな言い草は、たまには俺にもいい思いをさせてから言うもんだ」 「知らないのよあんたは、女のことを。女って男に馴れるものなのよ。馴れてくると簡単にアレしちゃうの。でもその気になれば負けないわよ」 「京都の生まれで『オサキ・イクエ』なんて、名前からして出来すぎてらあ」  佐々木が駄々っ児のように言うと、流石《さすが》に幾江も失笑し、伝票を掴んで立ちあがった。 「いいわ、思い知らせてあげる」  佐々木があとを追う。  今夜は久しぶりに粘っこいからみ合いになるようだった。佐々木はこれで別れるのだと、奇妙にはればれと思っていた。しかしそれが幾江のあと腐れを封ずる巧妙な手順だったことには、ついに気づいた風もなかった。     2  公子は母親の部屋のカーペットの上に横ずわりになって、陽の当たる広い庭をみつめていた。 「何を考えているの」  母親の律子が言った。籐《とう》の揺り椅子に坐り、レースを編んでいた。 「え……」  公子は我に返ってふり向き、小きざみに素早く動く母親の指先を眺めた。 「なに、それ……」 「明子の赤ちゃんのですよ。本当にうちはふたごの血筋なのね。何でもふたつずつ編まなきゃならないから大変……。もしかするとあなたもふたごだわね」  公子は答えず、弱々しく微笑しただけだった。 「明子は幸《しあわ》せそうですよ。8ミリとかに夫婦で凝《こ》ってしまって、赤ちゃんたちの写真ばかりとってるの」 「私も見せられたわ。あのうちの応接間はまるで試写室みたい」 「そんな時期だから、きびしいことは言いたくありませんけど、明子にひきかえ、あなたはどうするおつもりなの」  まもなく妊娠五ヵ月。公子は悶々《もんもん》と日を送っていた。 「もうすぐ彼が来るのよ」  けだるい言い方だった。 「え……本当」  律子は編む手をとめた。 「きょう電話があったの。ぜひ、会いたいんですって」 「当たり前ですよ。それでお腹《なか》のこと、言いましたか」 「まだよ。来ればすぐ判ることですもの」 「お莫迦さんねえ、あなたって。どうしてすぐそう言ってあげないのよ」 「会ってから言うわ」  律子は何か勢いこんで言いかけ、思いとどまった。 「でもよかったわね。連絡がとれて」  穏《おだや》かに言う。 「ええ……」  公子は素直にうなずいた。  大阪であんな風にして別れた佐々木に対して、今の公子には許すとか許さないとかいう気持ちはまったくなかった。佐々木がこの責任を回避するような男ではないことを、自分でも不思議に感じるほど信じきっていた。こうなってみれば、あの妖艶な中年女性のことなど、火事を消す水をひっかけられた程度にしか思えなくなっている。この火事さえ消えれば文句はないという心境だった。  同時に、そういう心境になっている自分がうらめしかった。そして女の生理の壁の厚さ、高さを、あらためて思い知らされている。こんな妊娠のしかたをしたことから来る不安と、壁に当たってはね返された手ひどい挫折感が入り混じって、大声で泣き叫びたいような毎日だった。  いつか佐々木にも言ったと思う。  自分はたしかに美貌に恵まれた。髪は軽く、細く、柔らかで、額はほどほどに広く、その生《は》え際《ぎわ》はいつも丹念に手入れしたあとのように揃っている。耳朶《じだ》は豊かで、うなじは髪を結いあげると、あでやかに背筋へ向けて生え伸びていた。長くノーブルな首の線、上向きに実ったバスト、くびれたウエスト、しなやかな四肢……女なら誰もがそうありたいと願う天与の麗質《れいしつ》だった。  だがそれは容《い》れ物にすぎない、と公子は考えていた。美しく優雅であればあるほど、生き方がそれに左右された。たおやかに、あでやかに生きるほか、その容れ物にふさわしい人生はないようだった。  はたもそう見るし、気がつくと自分でもいつのまにかそうなっていた。そして公子は容れ物どおりの女になることに抵抗しはじめた。実行しはじめると、見かけと言動のアンバランスが、それはそれなりの美を発揮することも悟った。  だが鋳型《いがた》は鋳型で、とほうもなく固いのだ。ともすれば明子のように鋳型どおりの世界に安住してしまいたくなり、事実そのほうがずっと楽に暮らせた。  演技ではなく、芯から別のタイプの女になろうと努力を続けた。鋳型どおりの人生に満足するのは敗北だと思い、できるだけコケティッシュに、行動的にふるまっていた。時代がそういう方向に流れていて、公子はその方向に自分を変えたいと思ったのだ。  それもいまはみじめな挫折で終わった。  黄金発掘の夢も悪阻《つわり》という一事で粉砕されてしまった。身構えどおりなら当然未婚の母の立場をとるべきなのだが、ふたごの血筋という怯えがあった。一度に二児をかかえては、独りで生きていけるはずがない。両親に頼ればなんとかやっていけるだろうが、それでは身構えたことに何の意味もなくなってしまう。……結局もとへ戻るしか道はないのだった。     3 「なによ、あなたなんかの顔も見たくない」  公子はそう言って両手で顔を掩《おお》い、肩を振って泣いた。  それでも佐々木とひと喧嘩しなければ納まらなかったのだ。応接間へ入ってきた瞬間の、佐々木の妙に物おじした態度が気に入らなかったのだ。理不尽な言い方でもいい、「なんで連絡しないッ」とかなんとか、男性的に大威張りで来てほしかった。だが、それならそれでまたひと喧嘩あるのはしれているが……。 「俺は何も遊びで歩いていたんじゃない」  泣かれて、佐々木は居直ったように図太く言った。泣きながら、公子はそれをこころよく聞いた。  子供のことを持ちだして、あわてて膝を折られるのはどうにも嫌だったのだ。力ずくのように自分のほうが屈服させられ、そのうえで実は……とみごもったことを知らせたかった。 「嘘、あんな女《ひと》と……」 「莫迦、あれは湯平弥市の過去を知っていたんだ。情報源じゃないか。あの女なしには、今度のことはとても調べられなかった。だいいちお公《きみ》とくらべものになるか。色街育ちのすれっからしだ」 「だって、あんな風に恋人然としてみせられたら、私だって……私だって感情があるわ」 「あの女は金とヒマをもて余していた。一遍《いつぺん》に教えてくれればいいものを、少しずつしか教えてくれなかったんだ。長い間に寝物語で聞きだした湯平弥市の過去を少しずつ教えることで、俺を縛ったんだ。あいつは俺と旅をしてたのしんだだけなんだよ。もう別な男をみつけてどこかへ行ってしまった……」  涙がとまりはじめていた。公子の心のどこかでは、必要な手続きをすませたような、泣いているくせに朗らかに笑いだしたいような気分が動きだしている。 「そのことはあとだ」  見すかしたように、佐々木は自信たっぷりに言いきった。 「あの女のおかげでいろいろなことが判った」  広島、博多、山口、松江……彼が幾江と探り歩いた弥市の過去を語りはじめると、公子はすぐに夢中に聞き入った。 「その子供たちが栗栖重人《くるすしげと》の秘密を解く鍵だったのね」  聞きおわった時は、大阪のホテルで別れる前の顔になっていた。 「な、奇妙なはなしだろう」  佐々木は得意顔で公子をみつめた。 「ええ……それからどうなさったの」  公子の言葉つきに以前とは違うしとやかさがあった。だが本人も佐々木も気づいていない。 「一度はそこで手懸りが消えた。大阪、京都、奈良、神戸……いくら歩きまわっても湯平弥市の匂いはしてこない。参っちゃってね。それからふと思いついて、その奈良の岩本さんという人の屋敷へ行ったんだ。湯平邸の土地は、以前、岩本さんのものだったんだよ。俺はそこへ例の望遠レンズをかかえていった……弥市氏が出てしまえば、誰かあと釜に入るはずだろ」 「そうね。早くそうすればよかったのよ」 「ところが、そこで、一発で、とんでもない顔にぶつかったのさ」 「誰……」 「栗栖重人ご本人だ」 「まあ」 「僕もその時まで名前だけで顔を知らなかった。でも庭を歩いている様子が使用人じゃなかった。夢中でシャッターを切ったね……そして、大急ぎで現像すると、奈良駅の前にある三協銀行の支店長に見せたんだ。……知ってたよ。あッ、これは栗栖さんじゃありませんか、って、もう少しで写真をとりあげられるところだった。箝口令《かんこうれい》というか正体秘匿《しようたいひとく》というか、そういう指令が行届いてるんだな」  佐々木は白い角封筒をとりだし、彼にしては精いっぱいぶきみな表情を作って公子に渡した。 「これがその写真なのね」  公子は受け取ると何気なく写真を引きだした。写真は裏返しに出てきて、それをくるりとひっくり返した。  そして、キャッと叫んで床に落とした。  堀越正彦そっくりの顔だった。 [#改ページ]   23 鴉啼《からすな》く朝     1  草いきれのする山道を、白い帽子をかぶった佐々木が、北戸来《きたへらい》高原へ向かって歩いている。両側に草の生い繁った道には、よく蛇がいて、佐々木は杖《つえ》がわりの枝で一歩ごとに前を叩きながら歩いていた。白い帽子に汗の黒いしみがぐるりと輪を作っていた。  公子の妊娠を知ったとき、佐々木は短兵急に行動した。その場で母親の律子に会い、詫びと結婚の申入れをし、大急ぎで父親のいる丸の内のビルへ駆けつけると、同じように承諾をとりつけて、その日の夕方までに婚姻届に判を押してしまった。  それはあれよあれよという間の出来事で、佐々木の本籍地の関係で急には必要な書類が間に合わず、入籍こそ後日ということになったが、その日の夜には型どおりの結納《ゆいのう》の品々まで、一応は香取《かとり》家の床の間に並ぶことになった。  拙速主義が記者ぐらしのうちに身についているのだ。公子はドタバタと何度も出入りする佐々木の声を聞きながら、ひどく満足げだった。  だがそれは佐々木にとって、まず済ませなければならぬ作業のようなことだったらしい。 「北戸来という所へ行く道を教えてくれ」  翌朝訪ねてきていきなりそう言い、 「帰ってきたら結婚式だ。あんまり腹がつき出さないうちに済ませないと、そっちだって体裁《ていさい》が悪いだろう」  と、晴ればれとした顔ではしゃいだ。  公子もつりこまれてその気になり、道順を書いて渡すと、佐々木は母の律子に残務整理だと説明して、風を捲《ま》くような勢いで旅立ってしまった。  結局、自分は従順な人妻になるのだ……公子は苦笑するように思った。しかもそれで満足であり、これから充実した日々が始まるのだというように感じられるのだった。  佐々木は列車の中でも足踏みをせんばかりに先を急いだ。遮二無二なって迷《まよ》ガ平《たい》へのバスにのりかえ、走るように北戸来への道へ踏みこんだのだ。  行きどまりの熊笹の急坂をよじのぼり、龍ノ壁の通路を抜けて北戸来高原へ入った時は、すでに薄暗くなりはじめていた。  ぶきみにうごめく泥根《どろね》の赤い色もさだかではなくなり、佐々木は懐中電灯をつけてタイヤの跡を追った。  戸来家の夫婦はすでにこの土地を退いて、キャンピング・カーの姿もなく、佐々木は無人の戸来家へあがりこんで朝を待つことにした。  外から封じた雨戸をこじあけ、二、三枚はずして風通しのいい縁先へ横になった。  星が満天に輝き、すでに秋を想わせる肌ざわりの風だった。  睡《ねむ》れなかった。  事が衝撃的すぎて公子にも言わなかったが、彼はすでにひとつの仮説にとらわれている。もしその仮説が正しかったら自分はいったいこの先どう身を処せばいいのだろうか……そう思うと逆に目が冴えるいっぽうだった。  敵がいる。  とほうもない強敵だ。それはファシストになるに違いない男だった。現に彼はその異常な力を用いて自衛隊をもりたて、政、財界に根を張って厖大《ぼうだい》な軍事費を与えさせている。米軍の軍用機を自分の専用機のように使って、どこか海外へ出かけている。きっと邪悪な目的があるに違いない。彼には多分、米政府さえ動かす力があるはずなのだ。それは財力によるものでもなければ、特別な理論によって強力な支持者を集めているからでもない。ただ彼は、生まれながらにして人間以上の能力を授かっているのだ。  突然変異人《ミユータント》。  そう、栗栖重人はまさしくミュータントなのだ。人間の能力を超絶した、恐るべき邪悪の神なのだ。  あす、その魔神の存在が確認できる……そう思うと、彼はニュースを追う一頭の猟犬として、めくるめくような本能の陶酔にひたるのだった。  が、同時にそれは底知れぬ恐怖をもともなっている。  仮説が正しく、真相を握った時、彼は一人の人間として、人類の一員として、いまだかつて何人も背負ったことのない重荷を背負わねばならないのだ。  人類から発生した人類以上の存在……それが敵でなくて何だろう。人類は生物として猿の上位にいる存在にすぎなくなる。猿たちはいま、人間を憎んではいないだろうか。みずからの群れを出てみずからの上に立つ者を。支配する者を。しかも猿はついに人類をうち破るてだてを持たなかった。人類もまた、栗栖重人に対して猿同様の敗北にまみれなければならないのではあるまいか……。  その夜、高原に怪獣が吠えた。公子から知らされていた吠沢の響きを、佐々木は栗栖重人の勝ち誇った叫びのように聞いた。     2  吠沢の大音響を佐々木が聞いたころ、天童健策は妙にとりすました感じの部屋で、総理大臣と相対《あいたい》していた。 「とにかく、おめでとうとだけは言っておかねばならんな」  総理はどっしりとしたソファーに、背をもたせて沈みこんでいた。  天童健策は軽く微笑してみせ、黙って頭をさげた。保守党の大会壇上で、両者は今日の午後、笑顔で何度も握手し合ったのだった。  保守党総裁の椅子が、今日を境いに二人の間を移動したのだ。実質的に天童健策は今日から内閣総理大臣であり、権力の座に登りつめた男だった。  互いに語れることは語りつくし、もう席を立とうという寸前だったが、なぜか立ち渋っている相手の真意をはかりかね、天童はいくらか警戒気味になっていた。 「……の入閣は責任をもって実行します」  天童は先まわりして、二人ほどの名を口にした。 「そのことではない」  相手はけだるく首を横に振った。ひどく無気力な表情で、側近といわれた天童にしてもはじめて見る疲れきった老人の顔だった。 「と言いますと……」  天童はいたわるように言った。 「儂《わし》らはいったい何をしたんだろうな、天童君」 「は……」 「政権を握って、いったい何をしたんだろうといっておるのだよ。真実、自分たちの考えで政策を推進しただろうか。いや、できただろうか。権力を担った者は、それが大きければ大きいほど、世の指弾にも耐えねばならぬ。そんなことははじめから判っておる。財界よりの、米国よりの……とそんなことを言われて気にするほど未熟でもないつもりだ。それは君にしたところで同じことだろう」 「ええ」 「だが儂には儂、君には君の、政治家としての理想があることもまたたしかなことだ。一国の首相たるもの、何ひとつ良かれと思って行なわんことはない。そうあるべきだし、ありたいと願ってもいた」  元総裁はまた首を左右に振った。 「だが儂はその夢に向かって進めたかな。しみじみと思い返して、何ひとつ、半歩の半分も、儂は自分の夢に向かって進めはしなかったように思う。人々は平和を願う。軍備の撤廃を願う。……正しい希望だよ、それは。人間として、誰が闘争を好むものか。戸締まり論などはそれにくらべたらまるで次元の低い詭弁《きべん》にすぎんじゃないか。だがしかし、そういう人々の間に、同じように防衛費の拡大を願う声があるのだ。膨張し、発展しつづければ、いずれは他人と衝突し、紛争に至るのは子供でも判る理窟だ。それなのに、人々はたえず発展を求め、とり残されれば不平等だと言って騒ぎたてる。人々の中でそのふたつの声が渦をまいている。それに対して儂は何をした。たとえば、防衛予算の拡大方向にだけしか動けなかった。儂が悪いのか。無力なのか。……多分そうだろう。しかし、そのほうに儂を動かしてしまう力のほうがはるかに強かったのも事実だ。儂はその力についに抵抗できないで終わった。次期総裁にしても、君以外に適任者がないと思っていたわけではない。……いや、くりごとや皮肉で言っているのとは違うのだ。君のほうに事を運ぶように儂に対して働きかける、強すぎる力があったのだよ」 「栗栖氏のことですね」 「そうだ。君はあの人にまだ一度も会っておらんようだが、儂はどれほどそれを羨んだことか。君にはまだ判るまいな」 「どうしてです」 「あの人に一度でも会ったらそれで終わりだ。抵抗できるものではない。気力も知力もまるで桁《けた》はずれだ。人間とは思えんのだよ。儂はとうとう総理である間、あの人の言いなりに動かされてしまった。外交も、内政も、あの人の計画どおりに動いているのだ。それは辛《つら》いことだぞ。総理として、これ以上の重荷はない。死を願うほどだ。自分は自分でありたい。他の力に動かされたくない。いや総理としては動かされてはいけないのだ……そう思いながら総理の椅子にいることは、あの人がいるかぎり地獄の責苦だ。……それをいま君は儂から引きついでくれる。儂は救われるよ。これで楽になる。しかし君に何の忠告も、何のてだても授けてやれぬ。申しわけない……」  権力の座をおりた老人は、そう言うと天童に深く頭をさげ、やっと椅子から立った。     3 「おおい……」  佐々木が大声で叫んだ。槲《かしわ》ノ森の入口に車がとまっていて、そこに人影が見えていた。 「おおい……ヤッホー」  雄一郎の声がこたえてきた。走り寄る佐々木に向かって駆けだしてくるのが、雄一郎だろう。 「佐々木さあん」  左手に濃緑の萢《やち》がひろがる荒れた土地を、佐々木は走っていった。 「よう」  出会うと、彼は両手を雄一郎の肩に置いて言った。 「元気だったか」 「ええ、みんな元気です」  肩を組んで歩きだし、佐々木は堀越に手を振ってみせた。 「来たな」  堀越は白い歯をみせて迎えた。 「これが公子を孕《はら》ませた男か」  弥市は機嫌よくそう言った。 「はじめまして。佐々木|義章《よしあき》です」 「儂が公子の祖父だ。どうやら曾孫《ひまご》を作ってくれたようだな。ゆうべはどこに泊まった。野宿か」 「いえ、空家の戸をあけて……」 「それはよかった。あそこまで辿《たど》りつけば安心だからな」 「とにかく腹が減ってね」  佐々木は堀越に腹を押さえてみせた。 「まだ残ってる。食べるといい」  車の外に朝食の跡がそのまま残っていた。 「雨の日以外は外で食べるんですよ。車の中が汚れないし、そのほうがおいしいんです」  雄一郎が味噌汁の鍋を火にかけながら言った。 「東京はどんな具合だった」  堀越は公子との事を尋ねたらしかったが、佐々木は別な答えをした。 「きのう保守党の総裁選挙があったはずです」 「ラジオで聞いた。天童が総裁になりおった。総理大臣になるわけだな。この耳で天童内閣などと聞くのは、さぞ擽《くすぐ》ったいことだろう」 「お知り合いだそうですね」  佐々木は飯に味噌汁をぶっかけてかきこみながら言った。 「古いつき合いだ」  佐々木は大急ぎで飯を食い、三人はその食いっぷりを呆れたように見おろしていた。 「ご馳走さん。旨《うま》かったよ」  雄一郎に礼を言い、佐々木は手ぢかのコップに水をついで一気に飲みほした。 「香取公子とは結婚しました。婚姻届に署名捺印してからここへやって来ました」 「それはおめでとう」  堀越はほっとしたように笑った。 「ところで、とるものもとりあえずここへとんで来たのは、湯平さんと堀越さんにどうしても会わねばならぬ用件ができたからです」 「黄金が出たら公子にもとり分をやるつもりだ。みんなでそうきめてある」 「そんなことじゃありません」  佐々木は弥市を睨《にら》みつけ、次に堀越をみつめた。 「重大事件らしいな、その顔色じゃ」  堀越は手製の木のベンチに腰をおろして言った。テーブルもベンチも、ここへ来てから作ったらしく、野趣たっぷりな仕上がりだった。 「これを見てください」  佐々木はいきなり白い角封筒をテーブルの上に抛《ほう》り出した。 「何だい、これは」  堀越は長い指で写真を引きだし、みつめた。弥市と雄一郎がそれをのぞきこみ、佐々木は三人を監視するように突っ立っていた。  鴉《からす》が啼《な》いた。     4 「どうしろというんだ。儂《わし》はどうすればよかったというんだ」  弥市は突然狂ったように喚《わめ》いた。雄一郎も写真を手にした堀越も、呆気《あつけ》にとられてそれをみつめた。  高原を渡る朝風が、樹々を鳴らしている。 「なんだ、これは」  堀越が佐々木のほうに首を曲げて尋ねた。 「よくその顔を見てくださいよ」  すると雄一郎が、テーブルの上に両手をしっかりとつき、顔を真っ赤にしてうなだれている弥市を心配そうに見ながら言った。 「先生にそっくりですね」 「あ……」  堀越はやっと気づいたらしく、もう一度写真を見直した。 「湯平さん……」  佐々木はうながすようだった。 「黄金をみつけて、こういうことが来《こ》んうちに、儂は一人っきりになってしまいたかった」  弥市がつぶやく。 「言いなさい。言ってください」  佐々木は追及をやめない。 「こうなると判っていれば殺したのだ。生まれてすぐにな。だが、ただ成長が並みはずれて早い子だという以外、儂に何が判ったというのだ」 「何のことです」  堀越が怒ったように叫んだ。 「それはお前の子だ。お前と規子《のりこ》の間に生まれた正男なのだ」  嘔吐《おうと》のような喉声《のどごえ》がした。堀越は立ちあがり、まじまじと写真をみつめた。 「正彦の子で正男とつけた。規子の望みどおりに……」 「まさか……まだはたち代だ。生きているとしてもこんな年齢《とし》じゃない」  堀越は気をとり直して笑った。笑い声は虚《むな》しく風に乗って消えた。 「おかしいですよ。これは本当は誰なんです」  雄一郎は異様な雰囲気からのがれようとしている様子だった。 「栗栖重人……本名、堀越正男。堀越正彦の長男」  佐々木は検察官のように冷たく言った。 「冗談じゃないよ、佐々木君」 「信じまい。信じられまい。誰だって今となれば信じられんだろう。だが本当だ。栗栖重人は正男なのだ」 「いったいどうして……」  堀越が呻《うめ》いた。 「湯平さん。その理由も原因も判っているのですか」  佐々木の声にかすかな同情がこもった。 「考え抜いた。考えて考えて考え抜いた。どう考えても答えはひとつだった」 「原爆ですね」 「そうだ、原爆だ。堀越、お前と規子の子は原爆に呪われたのだ。いや、原爆そのものが人間に対する呪いだったのだ。その原爆は人間が作った。人間が人間を呪ったのだ。そして呪いのかたまりが生まれたのだ。正男は人間全部に対する呪いだ。あいつは今に人間をとり殺すだろう。いくつになったら死ぬのか、それすらも判らん化《ば》けものだ」 「佐々木ッ……」  堀越は佐々木につかみかかった。襟がみをつかみ、ねじ伏せるように喚《わめ》いた。 「なんのことだ。俺が何をしたというんだ」  雄一郎が慌《あわ》ててとめに入った。 「先生、落ちついてください」  佐々木は悲痛な表情になって、放された襟もとを押さえた。 「規子さんとあなたが最後に愛し合ったのはいつです。それは広島の原爆の寸前のことのはずです」  堀越は凝然《ぎようぜん》と佐々木の口もとをみつめていた。 「規子さん……つまり雄一郎君のお母さんはふたごだった。雄一郎君も、そして規子さんのふたごの片割れである香取律子さんの子供たちも……。湯平家はふたごの家系なのです」 「それとあの原爆がどう関係するんだ」 「します」  二人は対決するように睨み合っていた。また鴉が啼いた。 [#改ページ]   24 1プラス1イコール1     1 「ふたご……つまり双胎《そうたい》妊娠には、一卵性双生児と二卵性双生児があります」  佐々木は堀越の前で喋りはじめた。 「規子と律子。雄一郎と大二郎。公子と明子……湯平家は非常に顕著な一卵性双生児の家系です。一卵性双生児の場合、両胎児は必ず同性であり、胎盤は必ず一個を共有するのです。血管は直接、間接に連結し、胎盤の中隔には二枚の羊膜があるだけです。だからふたつの個体がいろいろな場所で癒合《ゆごう》した、いわゆるシャム双生児という例が生じ易《やす》いのです。また、この妊娠が異常であるため、よく無心児《むしんじ》や紙状児《しじようじ》などの奇形を生じ、それがさらにお互いに癒合した二重奇形になる場合も少なくありません。無事出産した場合には、雄一郎君たちのような健全な二個体として、立派に生活していけるのですが、奇形の場合は未然に流産、死産のかたちで淘汰《とうた》をうけます」  堀越は自制をとり戻し、佐々木をみつめたままベンチに戻った。 「ひとつの精子とひとつの卵子で二人の子が生まれるのが一卵性双生児です。それがどうしてふたつの個体に分裂するのかは、現代医学でもまだ大きな謎のひとつに残されています。とにかく、今日《こんにち》我々がまだ知ることのできない原因によって、二個体に分かれるのです。その分裂の時期は、恐らく嚢胚《のうはい》の時期だろうといわれているそうです。現代医学では、すべての人間はそれぞれ異なる遺伝質を持つとされていますが、この一卵性双生児だけは、そういうわけでまったく同一の遺伝子をもつ、この世にただ二人の人間であるということになります。たしかに、雄一郎と大二郎、公子と明子の一卵性双生児は、外見もほんの少し、そして性格はかなり大きく変わっているようです。でもそれは後天的に獲得した偏差にすぎないのです。つまり、生まれたばかりの一卵性双生児について二人が同一人であるというのもあながち無理なこじつけではないのです」  佐々木は歩を移し、堀越の真正面に坐った。 「規子さんはあなたの精子を受けた。そしてひとつの卵子がそれを受精した……受精卵は分裂し、二個体への歩みをはじめたのですよ。そこへ原爆が落ちた。湯平さんのいうように、呪いの結晶です。その結晶は放射能を持っていたのです。照射され、ほんのかすかな異常が、規子さんの胎内に起こったのです。放射能が生物にどのような影響を与えるか、よくご存じのはずです。最初のほんのちょっとした異常は、際限もなく拡大していきました。二が四となり、四が八となる分裂の過程で、それは当然のなりゆきでしょう。しかもこの場合、1プラス1が、イコール1という、世にも不思議な結果を生んだのです」 「1プラス1が1……1だって」  堀越は弥市をみつめた。 「本当ですか、それは」  弥市は力なくうなずいた。 「本当だ、規子が生んだのは正男という子供だけだった」 「しかし、規子さんが一卵性双生児ばかりを生む女性とは限らんでしょう」 「たしかにそのとおり。正男という子供は、本当に一人の子だったのかもしれない。しかし湯平さんは、なぜかその子を規子さんからひきはなし、どこかへ消えてしまった。そしてその翌年、昭和二十二年には博多で四歳ぐらいの男の子を育てていた。なぜ逃げるように広島から消えたか。それは正男という子に異常があったからだ。湯平さんは規子さんの将来を考えて、無理やり正男をひきはなしてしまったのだ」 「どんな異常が起こったのです。僕の子に」  堀越は身ぶるいして尋ねた。     2 「お前の子はどんどん大きくなった。化けものじみた成長のしかただった。はじめのうちは、それでも発育のいい子だといって喜んでおったよ。毎日の食う物にもこと欠く時代だったからな。痩せしぼみ、栄養失調で死ぬ赤ん坊も珍しくなかったのだ」  弥市は歪んだ表情をしていた。 「あれは三ヵ月ほどでつかまり立ちをし、半年で歩きはじめたのだ。喋りまくり歌いまくり、傍で話す大人たちの会話を完全に理解するようになったのだ。一年めはそれでも神童ぐらいに思っていた。早すぎる成長があまり目立ってはと、無理に抱いて歩いてもそれなりに人の目は胡麻化《ごまか》せたのだ。だが二年めに入ると、もうはっきり誰の目にもおかしいと判った。どうみても三歳児だった。薄気味が悪く、本当の年齢を知っている近所の者には見せられんようになってしまった」 「それでよそへ連れだしたのですか」 「もう乳呑児ではない。規子から離れてもやっていけたのだ。そして儂は博多へ行った。しかし博多にも長くは住めなかった。昭和二十三年……そう、あれは規子が天童に嫁《とつ》いだ年だった。その年にはもう、なぜ小学校に入れんのかと怪しまれるようになっていた。儂は転々と逃げまわった。半年と同じ場所には住めなかった。昭和二十四年には声変わりをし、どう見ても十六、七の若者になっていたのだ。二十一年の春に早産して生まれたのが、二十四年には十六、七になっていたのだ」 「どういうことなんだ。教えてくれ」  堀越は哀願するように佐々木をみつめた。 「僕も学者じゃないから、詳しいことは判りっこありません。でも、一卵性双生児として生命を得たものが、ごく初期に原爆の放射能をうけて、単一の個体に逆もどりしてしまったのだということは想像がつきます。我々より倍の密度を持った生命が誕生したのです。倍……この恐ろしい意味が判りますか」  堀越は素早く頭を横に振った。 「たとえば、僕の大脳皮質のシワシワを伸ばしてひろげると、だいたい二二〇〇平方センチ……だいたい新聞紙一ページぐらいの大きさです。一個の神経細胞は一〇〇〇分の一ミリくらいだそうですが、僕にはそれが一四〇億ある。ところが、1プラス1イコール1の正男は、それが倍あるのです。二人前ですよ。大脳皮質四四〇〇平方センチ、神経細胞二八〇億です。倍の素子をもった電子機器は、倍の能力ではすまなくなるのです。能力は足し算ではなくて掛け算になってしまうのですからね。……それが栗栖重人《くるすしげと》です。湯平さん、この正男の変名は、彼自身の命名ではありませんか」 「そうだ。奴が自分でそう名乗りはじめたのだ」 「そうでしょう。栗栖は多分クロスのつもりではないでしょうかね。重人《しげと》は読んで字のごとく重《かさ》なる人。あて推量ですが、この名前に僕は彼の思いあがりを読んでしまうのです。人間全部をからかっているのです」 「重人《しげと》……重人《じゆうじん》」  堀越はまた写真をみつめた。 「そうすると、穂積画廊を通じて画家としての僕をひそかに後援していたのは、僕の息子だったのか」 「そうだ。儂はそうするように命令されていた」 「命令……」 「命令だ。あいつは万能だ。あいつに睨《にら》まれると、自分の心の底が何ひとつ隠せずに、一度に陽の光の下へさらけ出されるような気分になるのだ。何もかもみすかされ、心の根太《ねだ》をゆさぶられるような具合に感じるのだ。頭の奥を掴まれ、考えを好きなようにねじ曲げられてしまう。そして結局、奴の都合のいいように動かされてしまう。しかもその餌《えさ》たるや、うまくてうまくて……奴は人間を思いのとおり操るのだ。みんなそうされてしまう」     3 「僕のお母さんのお母さんはどうなっていたんです。僕のおばあさんは」  雄一郎がふりしぼるような声で尋ねた。弥市は彼を乾いた目でみつめた。 「儂のつれ合いもふたごだった。ただ片方は子供のころに病気で死んだそうで、儂と一緒になったころには一人だったが……」 「遺伝するんですね、一卵性双生児は」  それを雄一郎は気にしているらしい。すると佐々木は思いやりをこめて言った。 「一卵性双生児が奇形なわけじゃない。これはあくまでも原爆による放射能障害のひとつなんだ。それに一卵性双生児が遺伝するかどうかという問題では、学界はむしろ否定的な見解を示しているんだよ。一卵性双生児には遺伝関係が認められないという学者が多いんだ」 「多いんだということは、不確実なんでしょ、それ」  佐々木は雄一郎に食いさがられ、あいまいな顔になった。 「不確かだ。まだよく判っていないらしい。君の家の場合には確実に女性側に伝わっているように見えるが、それだってどうだか判らないしね。ただ、二卵性の場合、以前は一卵性と同じように遺伝関係なしが支持されていたが、最近それに疑問が生じてきているということだ。要するにこの問題はまだ判らないことだらけなのさ」  佐々木はひとくぎりつけて唇を舐《な》めた。三人は彼をみつめて次の発言を待っている。 「知らせるのを忘れていたが、明子さんがふたごを生んだそうだ」  電流のようなものが、三人の間を走りぬけた。香取明子の双生児出産を、どう受けとめればいいのか、はっきりした態度は三人とも打ち出せないでいる。しかしこの場合、それはやはり戦慄《せんりつ》的なニュースには違いなかった。 「一卵性……」  堀越が辛《かろ》うじて言葉にした。 「ええ。両方とも女の子だそうですよ」  佐々木はつとめて客観的な言い方をした。 「やはり異常なのだろうか。ひとつの血筋の人間がこうたてつづけにふたごを出すのは……それも女ばかりが、一卵性だけを」  弥市は腫《は》れ物にさわるような顔だった。 「異常かどうか僕は知りません。しかしきわめて稀《まれ》なことでしょうね」 「待ってくれよ。たしかヤマトタケルがふたごのはずじゃなかったか」  弥市は言った。 「ええ、あれは景行《けいこう》天皇の子供ですよ」  堀越が上《うわ》の空で答える。 「ふたごは昔からあったのだな」 「僕はそのことも調べてみました。日本人にはどれくらいの率でふたごが発生しているかをね。人口動態統計ですと、三〇〇対一という数字がでています。でも、ふたごは昔から日本では忌憚《きたん》されてきました。もちろん、意味のない俗信ですが、そのために今日《こんにち》に至るまで正確な統計数値がでてこないのです。地方によって、或いは病院によって、差が大きいのです。また双胎分娩は入院するケースが多いので、逆に数値が過大に出てきてしまう傾向もあります。助産婦たちの経験則では、だいたい一五〇対一か二〇〇対一になるそうです。ただ、調べていてちょっと気になったことは海外との比較です。日本は双生児出産が特に少ない国なのです。それというのが、外国では二卵性が一卵性より圧倒的に多いらしく、双生児の六割から八割が二卵性だそうです。ところが日本ではその逆で、双生児の六割から八割までが一卵性になっています。一卵性自体の発生|頻度《ひんど》は日本も外国もそう変わりませんから、全体的には双生児の数が少ないという結果になるのです。双生児に関して、日本はその点で特異性を持っています。……これが今度のことと、どう結びつくか判りませんが、なぜか気になっているのです」  佐々木は喋り疲れたように、ポケットからハイライトを出すと、左手に袋をつかんだまま一本はじきだして咥《くわ》え、火をつけた。  紫色の煙が風にのって森のほうへ流れていった。     4 「すると、以前この北戸来へ一緒に来たというのは、その正男……栗栖重人だったんですね」  雄一郎は弥市と堀越の顔を半々にみていた。 「そうだ」 「正男はなぜここを知ったのです」  佐々木が言う。 「判らん。儂にもよく判らんのだ。ただあれはひところ神代《じんだい》文字というものに、ひどく興味をもって研究しておったようだ。そして古代文書の中から厖大な黄金がどこかに埋《うま》っていることを知ったと言っておった」 「佐々木君。ここの黄金……いや、この戸来という土地自体が、なんとギリシャ神話に関係しているのだよ」  堀越が言うと、佐々木はまさかと言って苦笑した。今度は堀越が喋る番だった。地名のこと、龍のこと、岩の広間の火焔土器のこと、そして槲《かしわ》ノ森とゼウスとの関係。さらにゼスという地元の言い伝えなど……。 「……そのとび離れたふたつの場所を結びつけるのがゼスなんだ。ゼスは空飛ぶ円盤か、或いは宇宙人のことなんだよ」  佐々木の目がらんらんと輝いた。 「ギリシャ神話だけではないかもしれない。蛇池の龍ノ壁で気づいたんですが、大昔からの言い伝えの中では、いつも蛇と木が結びついていますよ」  そう言って槲ノ森を指さした。 「そうか。エデンの園のリンゴの木と蛇だな」 「蛇は水のシンボルだともいわれ、龍とは当然同じものです。  そして奇妙なことに、世界中の伝説上の聖樹は、みな蛇とか龍に守られているのですよ。  ギリシャではラドンという名の蛇が、黄金の実をみのらせるゼウスの木を守っています。パルナッソスの龍とゼウスの槲の大木の関係と同じです。  聖樹は常に知識や知恵を象徴するんです。ヘルロイが占うというゼウスの神託も、要するにそれでしょう。エジプトにも全能の知識が記された書物を守る蛇がいるし……インドのナーガという蛇も人々が聖木に近づくのを防ぐ役目をもっています。  スラブのブャン島伝説というのにも、英知と魔力の権化《ごんげ》である石を守るガラフェナという蛇が出てきます。こいつは口から火を吐《は》くし」 「龍か……」  堀越と弥市は言い合わせたように、春菜山から伸びた龍を遠望した。 「アステカにも、これは聖|仙人掌《サボテン》なんですが、それを守るトラロックという蛇によってあらわされる神がいます。もし黄金があるとすれば、だからこの森の中にきまっていますよ。龍があるのがその何よりの証拠じゃありませんか。それに、僕は宇宙人のことも空飛ぶ円盤……ゼス、ですか。それも信じますよ。だって僕は現に光る小人を見ているんですからね。あのクリスマスの晩、みんなは僕がベロベロに酔っていたせいだと言いましたが、僕は絶対この目で見たんです。あれは遮光器土偶そっくりでした。違うところは、からだ全体が白い光につつまれていることでした。でも白い光というのは、実は、その岩の広場とかにある永遠の焔みたいな、真珠色だったかもしれませんね。とにかく僕はそれを信じたんです。だからこそ栗栖重人と、遮光器土偶をもって我々の前に登場した湯平さんの存在を結びつけたんじゃないですか。信じますとも。円盤も宇宙人も存在するんです。毒ノ窪とかにある巨大な岩の一枚板は、彼らの円盤の着陸地点なんじゃありませんか。たしかタッシリだかどこだかに、それと同じようなのがあるって聞きましたよ。ここはずっと以前、宇宙人たちの基地だったんでしょうね。そうに違いありません」  佐々木はそう断言して、三人の顔を見まわした。 [#改ページ]   25 大咆哮《だいほうこう》     1  カシワノ森。※[#「木+解」]、槲とも書き、今日《こんにち》一般には柏が用いられている。樹皮は古くから染料として知られており、皮を鞣《なめ》すのにも用いられる。  漢の武帝が蒿山《すうざん》の老柏に大将軍の位を贈《おく》った故事から、柏は皇居守護の兵衛《ひようえ》、衛門《えもん》らの別称となり、守《も》り、から転じて森、または洩りの枕詞《まくらことば》ともされる。  柏には葉守りの神が宿るという信仰もある。世界に点在する聖樹伝説ないしは信仰が、何らかの理由で空を飛び、海を渡って日本にも到っている証拠だろうか。  ともあれ、北戸来の槲ノ森は、その木が密生した、かなりの規模の森林だった。  背後には、幅は狭いが底深い往生谷《おうじようだに》があって、南からの道を完全に断《た》っている。往生谷の分枝である吠沢《ほえざわ》は、森の西南部に食いこんで、時折り不気味な音響を発する。  その森の中へ、不可解な背景を持つ黄金を求めて、四人の男が入りこんでゆく。  佐々木義章は毒ノ窪の地底にある岩の広間へ案内され、真珠色の焔を発しつづける未知の金属容器を見て、この土地が宇宙人と深いつながりがあることを完全に理解した。  それぞれに、疑い、信ずることをためらい、異なる解釈を得ようと努めた男たちも、今は相互に関連し合いながらひとつの方向を示すもろもろの不可解な要素の前に屈服して、槲ノ森にその結論が隠されていることを、疑わなくなっていた。  埋《うず》もれた黄金は、湯平弥市にとってさえ、すでに第二の目的でしかなかった。真実こそ、莫大な黄金にもまして彼らの求めるものになった。 「どこかそこらに、儂らの探している黄金が、むきだしにゴロゴロ転がっていたとしよう。もちろん、儂はそれを放っておくほど無欲ではない。しかし、ただそれだけのことだったら、儂《わし》はまだこの森を離れんだろうな」  弥市がうす暗い森の中で言った。 「どうしてです」  雄一郎は下生えの草をかきわける手を休めて祖父をふり返った。 「黄金を手に入れても心が休まらんだろう」 「そうですよ」  佐々木は弥市のうしろで、我が意を得たりとばかり大声で言う。 「こんなことを放っておけますか。円盤といい宇宙人というけれど、いったい何処《どこ》から来たんだ。地球をどうしようというのだ。高輪《たかなわ》の重人の家の庭なんかに、なぜ宇宙人がいたんだ。重人は超人的な能力を用いて彼らと友だちにでもなったのか……いちばん大きなことは、人間がこれからどうなっていくのかということだよ。そうじゃないか。こっちはなんだかそういうことに縛りつけられちまったようじゃないか。いや、もう完全に縛りつけられちまってるんだ。黄金がありました、ハイそうですか、さようなら、じゃ絶対に済まなくなっている」  雄一郎はいちばん先頭で、土の上にあるかもしれない手がかりを求め、草をかきわけかきわけ、ゆっくりと進んでいる。 「僕は心配でしょうがないんです」 「雄一郎。何が心配なのだ」 「おじいさんは気になりませんか。学説ではどうだろうと、現に僕らの血筋では、女の側にはっきりとした一卵性双生児の遺伝が見られるじゃありませんか。そしてそこから栗栖重人という怪物が出現しています。栗栖重人は結婚しないのでしょうか。倍の人間なら倍の子供を生ませることができるかもしれませんよ。その二倍人間たちが遺伝するとしたら、ホモ・サピエンスはどうなっちゃうんです」 「猿の位に落ちるのだ。それしかない」  堀越は自嘲的な笑い声をたてた。     2  なぜかみんな焦《あせ》りはじめている。一刻も早く黄金をみつけださねばならないという思いに駆られ、寡黙《かもく》になり、森を長い紐《ひも》で一区画ずつ仕切り、しらみ潰《つぶ》しに探索する作業に熱中している。  それが発見できれば、栗栖重人のような突然変異人《ミユータント》から人類を救えるのかどうか、皆目《かいもく》判ってはいない。宇宙人がどんな生物で、何処から来て、地球で何をする気なのか、その答えが手に入るのかどうかも、まったく判らない。だが彼らは探しつづけた。 「特に岩に気をつけろ。ほんのちょっとでも岩の露頭をみつけたら掘ってみることだ」  弥市は毒ノ窪の経験からそう主張した。  しかし、夏はむなしく過ぎていった。九月に入り、あたりをとりかこむ山々の色に、少し赤味がさしはじめた。 「ここの冬は厳しいぞ。十一月の末から四月ごろまでは動きがとれなくなる」  弥市はそう言い、男たちの得体の知れない焦燥感をいっそう煽《あお》りたてた。  土の家をみつけたのは雄一郎だった。 「堀越さん。ここに何かあります」  ……誰かが突然、緊張した声で仲間を呼ぶ瞬間を、四人とも待ち焦《こが》れていた。そして、それが現実となったのだ。  堀越は物も言わずにとんで来て、雄一郎が指さしているあたりにしゃがみこんだ。 「なんだ。何があったのだ」  弥市がかけつけて来て尋ねた。 「家だ。家ですよ」  堀越は土器らしいものの破片をつまみあげてみせた。それは高さ五〇センチほどの、土でできた住居の模型だった。 「縄文か」 「ええ、そうらしいですね」 「草を刈れ。このあたりをよく調べるんだ」  そこは吠沢に近く、往生谷もまぢかい森の最深部だった。  土の家はかなり破損がひどく、あたりに破片が散乱していた。佐々木と雄一郎が草を刈りひろげ、土を露出させた。 「何もありませんね」  雄一郎が気落ちして言うと、弥市はむきになって喚《わめ》いた。 「そんなわけはない。岩の広間はゼスの住居らしかっただろう。この下にある」  土を掘る道具が運ばれ、四人は弥市の熱狂ぶりに誘われたように掘りはじめた。  四ヵ所に分れてあたりの土を探っていると、堀越のスコップが突然固いものに当たって、ガリッと上すべりした。 「あった……」  堀越は夢中で土をさらい投げた。  ツルリとした石の頭が出てきた。丸くなめらかで、かなりの大きさがあるらしかった。 「間違いない。人工のものだ」  弥市が叫び、四人は狂ったように掘った。 「丸いぞ。ほら、どこまでも丸いぞ」  佐々木は平手ですべっこい石の肌を叩きながら言った。 「でかい。これはでかい」  石はみるみる全貌をあらわしてきた。それは直径三メートルもあろうかというドームのようなものだった。 「完全にまんまるだ」  しかし、それから先の作業は楽でなかった。下へ掘り進むにつれ、石の姿は現われにくくなった。なぜなら、それは完全な石の球だったからだ。下部にくわえこんだ土を除くには、そのまわりにさらにほぼ二メートルずつ余裕を持たせなければならなかった。  結局、直径七、八メートルもの大穴を掘ることになって、その日のうちにはとうてい作業は終わりそうもなかった。  キャンピング・カーを森の中へできるだけ入りこませ、電線を伸ばして陽が落ちてからもかなりのあいだ掘りつづけていた。     3 「あれなら知っている」  その夜、堀越はキャビンの中で言いだした。 「知っているって、あの球をか」  弥市はベッドの上に腹ばいになっていた。 「ええ、コスタ・リカのあたりにあるそうです。その辺には、数センチのものから三メートル近いものまで、石で作った球が何百と置かれているそうです。ピエドラス・ブランカスの石球群といえば、考古学界では大きな謎のひとつとして有名です。だが、本当はピエドラス・ブランカスというのは石球群がある代表的な場所で、ゴルフォ・ドルセ、シエラ・ブルンケラ、コルディレラ・ブルンケラなどという所にもかなりの数があるそうです」 「コスタ・リカというと……」 「中米ですよ」  雄一郎が弥市に教えた。 「ギリシャに青森に、そして今度は中央アメリカか」  弥市は首を振って唸《うな》った。 「何なのです。信仰の対象か何かですかね」 「まったく判らないそうだ。ただ、ピエドラス・ブランカスの石球というのは、ここと同じように森の奥深くにあるのだそうだよ。もっとも暑い地方のことだから、森といったってこんなものじゃない。ジャングルだろうがね」 「それについての伝説はないのですか」  雄一郎が質問した。 「よくは知らない。ただ、石の球の芯には黄金が入っているという話が古くから伝わっていて、そのために付近の人々がかなりの数を叩き割ってしまったらしい。……なにしろあたりには石切場なんてまるでないんだそうだから、まるでわけが判らない。今のところは太陽の象徴だろうというくらいでお茶を濁しているようだけれど」 「いずれにせよ、黄金の伝説には結びついているわけだな」 「ええ。ピエドラス・ブランカスの石球は、一名インディオの球、地元では空《そら》の球《たま》というんだそうです」 「空《そら》の球《たま》……空の球か」  弥市はあおむけになり、目をとじて考えこんだ。 「石でできたボールは、ほかにはないんですか」 「球のはコスタ・リカだけかもしれないが、ブラジルのリオ・ブランコ付近には、長さが一〇〇メートルで、高さがこれまた三〇メートルもある巨大な卵型の石があるそうだ。もちろん自然のものではないよ」 「龍に守られた槲《かしわ》ノ森。槲はもちろん聖なる樹だ。そこに禁断の知恵の果実がある……か」  佐々木は前の窓から外を覗《のぞ》いてつぶやいていた。森へ突っ込んだ車は、前の窓を森の奥へ向けていた。 「何から何まで辻褄《つじつま》が合うじゃないか、ええおい。合わないのは最後のところだけだ。なぜふたごに縁があるか、宇宙人は俺たちに何をしようとしているかだ。なあ雄ちゃん……」  言いかけ、キャビンの中へふり向きかけた時、佐々木は叫んだ。 「あっ……」  三人はギクリとして佐々木を見た。何か異変が起こるのではないかという予感があった。 「どうした」  次の瞬間三人は佐々木と並んで立っていた。男たちの急な移動で、キャンピング・カーがふわふわと揺れていた。 「あれだ。俺はあれを見たんだ……」  光る小人《こびと》だった、それも二人……。 「遮光器土偶……」  堀越がささやいた。袖口《そでぐち》や裾《すそ》をしぼった、ふっくらと膨《ふく》らんだ衣服のようなものをつけ、大きな二つの目を持った生物が、森の闇を滑るように移動していた。真珠色の光に全身を包み、それは地の上を何の支えもなく浮かびあがって動いていた。そしてすぐ樹間に消えた。     4 「掘れ……奴らは儂《わし》らが球をみつけたことを知っているぞ」  しらじらとした朝の光の中で、弥市はそう叫ぶと、朝露を蹴散らして森の奥へ走った。雄一郎がそれにつづく。  しかし佐々木と堀越は顔を見合わせて立っていた。 「危険だな、あの老人」  佐々木がひとりごとのように言った。 「僕もそう思う」 「ゆうべのことで小人を敵ときめこんでしまっているようじゃないですか。よしんば敵であったとしても、僕らにはどう対処していいか判りませんけどね」 「知性をもっていることは疑いもない。しかも人間以上のものだ。とすれば、万一、面とぶつかっても、こっちさえおとなしく出れば、危険は避けられるのではないかな」  二人に向かって、弥市が大声で呼びかけた。 「おおい、何をしている。早く来て掘らんか」 「とにかく行きましょう」  歩きだしたとき、突然|吠沢《ほえざわ》が吠えた。警報のような大音響は、まぢかで聞くと魂を凍らせるような威圧感があった。 「みろ、吠沢まで動きだした」  弥市は近づいてくる二人に、ののしるように言った。 「たしかにこの世の終わりが近づいているような気がするけれど、あの小人たちが我々の敵だときまったわけではありませんよ」  堀越は掘り進んだ窪みへおりて言った。 「だがこの土にもし黄金があれば、それは奴らのものだ。儂らは盗掘人の立場におるのだ。それくらいのことが判らんのか」  また吠沢が吠えた。四人は凝然とそれに聞き入った。 「急げ、急げ。何か知らんが、何かがやってくる。そんな気がしてならないぞ」  それは他の三人も同じことだった。気がせいて、掘りはじめるとすぐ夢中になった。  球が完全にあらわれたのは、それから二、三時間あとだった。直径が優に三メートルもある石の球だった。 「これ以上土を除《ど》けると危ないんでは……」  佐々木が手をとめて言った。いかにもそのとおりで、そうなればいつ転がりださぬともかぎらなかった。だが弥市は強情に言い張った。 「そんなことはない。支えもなしに置いてあるものか。それともお前はこれがただここに放りだされていたとでもいうのか。転がるのなら今も昔も変わりはない」  そう言ってどんどん球の下の接点にスコップを入れていく。 「あ、これは岩の板の上に置いてあるらしい」 「ほらみろ。多分岩にはへこみがついているのだろう。だから転がるわけはないのだ」  弥市は怒鳴るように言っていっそう手を早めた。  やがて全貌が明らかになった。下にはさらに巨大な岩盤があり、球はその上のちょっとしたくぼみにはまりこんで安定を保っていたのだ。  四人は自分たちが掘った深さ三メートルほどの穴から這《は》いあがり、そのへりに腰をおろした。みな泥まみれになっている。 「どうすりゃいいんだ。掘り出したことは出したが、これでおしまいじゃないか」  佐々木はガックリしたように、雄一郎の肩に腕を置いて言った。 「今度は下の岩盤を露出させてみますか。毒ノ窪のような穴があるんじゃないですかね」 「若いよ、雄ちゃんは。元気なもんだね。俺はもうへとへとさ」  そういう佐々木より、弥市のほうが疲労が甚《はなは》だしかった。肩で息をし、いかにも疲れ果てたという様子だった。  吠沢がこの日三度めの咆哮《ほうこう》をはじめた。 [#改ページ]   26 岩窟の黄金     1  車が二台がかりでロープを引っぱっている。  小一時間ほど休憩している間に出た知恵だった。球は露出させたものの、そのさきどうしていいか見当もつかず、ぼんやりしていたとき、堀越が最後の手段として球をころがしてみるよう提案したのだ。  球と岩盤との接点に何かあるのかもしれない……しかし球をうけてそこがへこんでいる以上、そのへこみが穴で、岩盤の奥へ通じている可能性もあった。  四人はその可能性に賭《か》けた。つるつるの石の球にロープをかけるのは大仕事だったが、とにかくやってのけ、二本のロープを二台の車が調子を合わせて引っぱっている。  十六、七トン。ひょっとすると二十トン近いのではなかっただろうか。それがかすかにゆらぎはじめ、やがて四人が掘ったくぼみの中で、土の壁に向かってゆっくり、重々しく何分の一回転かころがった。 「穴だ……」  弥市が躍《おど》りあがって叫んだ。雄一郎は穴のへりに立って、佐々木と堀越にはげしく腕をふりまわしてみせた。  弥市が、ロープを引きずりながら穴の中へ入っていく。ロープの端を佐々木と雄一郎が持ってくりだしている。堀越はその傍でじっと見守っていた。  穴の入口は毒ノ窪の洞窟の入口によく似ていた。ただそれは空に向かってあいており、中ですぐ横穴に変わっている。  弥市は四つんばいにその穴へもぐりこんだのだ。ロープはゆっくりと、確実に伸びていく。 「どこまで行くんだ。ロープがたりないぞ」  佐々木は際限もなく伸びていくロープの残りをみて心配そうに言った。 「止まりました」  雄一郎が堀越に報告した。三人は固唾《かたず》をのんで次の動きを待った。黄金がみつかれば、小きざみに連続して引っぱる手筈《てはず》だった。  が、ロープは動かない。 「どうしたんだろう」  じりじりして佐々木が言った。雄一郎が、そっとロープを引いてみた。ズルッと、ロープは手ごたえもなく引き寄せられた。 「外《はず》れています」 「自分で外したのか、途中で切れたのかだ」 「行ってみますか」  雄一郎が佐々木に相談した。 「よし。ロープの端をそこの木にしばりつけて、みんなでおりてみよう」  堀越が決断した。ロープが固定され、三人は弥市のあとを追って穴へもぐりこんだ。  穴は岩盤をつらぬいて、ぐるぐると円を描きながら螺旋《らせん》状に降下していた。三人は長い間、匍匐《ほふく》しつづけた。 「光だ」  先頭の佐々木が言った。言われるまでもなく、あとの二人にはそれが例の火焔《かえん》土器の母《マザー》型が発する真珠色の光だと判った。  穴の傾斜が急になり、三人はころげ落ちるように広い空間へ出た。真珠色の光源が何ヵ所もあり、毒ノ窪の岩の広間の何倍もの広さがあった。 「見るがいい……」  弥市は中央に仁王立ちになっていた。彼は黄金の照り返しを浴びて、黄色っぽくかすんで見えた。  まるで黄金細工の仕事部屋だった。至る所に大小の黄金彫像が並んでいた。人間、けもの、鳥、魚、そしてあの小人像……そのほか見たこともない奇妙な形の、乗物らしきものや、明らかに地球以外の場所と思える地形模型やらがあった。     2 「堀越さん。ここにシャム双生児の像がある……」  佐々木が緊張した声で呼んだ。  それは骨盤のあたりで癒合《ゆごう》した、二人の逞《たく》ましい男性像だった。二人とも円型の楯と短剣を持ち、今にも跳《は》ねあがらんばかりの姿勢で、例の遮光器土偶そっくりの小人たちにとりかこまれていた。そして、小人たちの姿勢も、明らかに必死の闘争をあらわしている。 「これは、オートスとエピアルテースだ」  堀越はしばらくその像を眺めてから言った。 「宇宙人たちは、この地球で奇形のふたごを相手に戦ったことがあるようですね」  雄一郎はそう言って肩をすくめた。佐々木はいぶかしげに堀越の顔を見た。 「どういうことなんです、これは」 「まわりの小人をゼス、つまりゼウスだと考えれば、当然これはオートスとエピアルテースということになる」 「ふたごがなぜ小人たちの敵にされているのだ」  弥市はおぞましげだった。 「宇宙人は地球の突然変異人《ミユータント》を嫌うのかもしれないな。いつか高輪《たかなわ》の栗栖邸に小人がいるのを佐々木君が見たそうだが、そうすると、あれは宇宙人が栗栖重人を監視していたということなのかな」 「この二人も、やはりギリシャ神話の人物なんでしょうね」  佐々木は像に目を移してつぶやいた。 「これはゼウスたちオリンポスの神々と、世界の支配権を争ったギガンテスの一族なんだよ。ギガンテスというのは巨人族だ」 「英語のジャイアンツのもとですね」 「そうだ。大地の女神ガイアはゼウスと対立する存在で、はじめのうちはゼウスの支配権もなかなか確立しなかった。ガイアがさまざまな巨人を生んで、ゼウスに対抗したからだ。ゼウス側は総力を結集し、女神アテーナー、海神ポセイドーン、アポーロン、ディオニュソス、それに人間界から英雄ヘーラクレスまでが参加して激しくたたかい、やっと巨人族を平定したのだ。だが、ガイアはまだあきらめず、その後もテュポーン……タイフーンのことだが、それにこのオートスやエピアルテースを生んで、ゼウスを悩ませたのさ。この二人はガイア側の抵抗の最後にでてくる人物たちだ」 「ふたごなんですね」  雄一郎は双生児にこだわっている。 「そうだ。これはギガンテスたちが曲がりなりにもガイアの子、つまり神族であったのに対し、人間から生まれた異常児たち……突然変異人《ミユータント》といったところだったらしい」  堀越は厳しい表情で佐々木をみつめた。 「今度のことと妙に一致している部分がある。この二人は、ギリシャ神話によると赤ん坊の時から素晴らしい成長のしかたをして、一年間に一|間《けん》ずつ背が伸びたとされているんだ」 「本当ですか、それ」  佐々木は愕然としたらしかった。 「九歳で九間に達したとき、この二人は天にのぼって、神々に挑戦しようとした。テッサリア地方の山をオリンポスの上に積みあげ、海を山に、山を海に変えてゼウスたちの聖地を消滅させようとしたのだ」 「それで、この二人は結局どうなったんです」 「ゼウスたちに射殺されたよ。やったのはアポローンだ。しかし、シャム双生児だったという言い伝えは僕の記憶にはない。ひょっとすると、これは双生児を象徴しているだけなのかもしれないな」 「成人したふたご像というのは、意味がよくわからなくなるでしょうからね」  佐々木は重人のことを考えながら言った。     3 「なんだ、これは……」  四人は大金塊の前に集まって首をひねった。それはこの岩の大広間のいちばん奥まった隅にあった。 「これはどう見ても、何かの形をあらわしたものではなさそうだ」  堀越は、他の三人が何の形を摸したものかと首をひねっている間に、素早く真相を見てとったらしかった。 「これはただの材料置場だ。作意のあるフォルムじゃない」 「そういえばそうだな、粘土か何かを積みあげて置いたようだ」  弥市が言った。 「でも、この筋やとんがった所はどういうことなんでしょう」  すると佐々木は、その不規則な痕跡《こんせき》に触れながら堀越に言った。 「宇宙人てのは、おそろしく固い体をしているんだとは思いませんか」 「どういう意味だ」 「人間を基準に考えてばかりもいられんでしょう。彼らが発生した天体の条件が、地球とまるで違っているとしたらどうです。密度の高い、重い天体で生まれたとしたら、我々ぐらいのものが六〇センチほどの小人になることだって考えられるし、極端にいえば、もっと鉱物に近いような生命だってあり得るんじゃありませんか。これは勘《かん》ですがね、彼らはこれを素手で細工しているんですよ。我々が土をこねるように……黄金は彼らの粘土なんじゃありませんか」  三人はふり返って黄金だらけの大広間を見た。 「遊びか、これが」 「素手でこねたんでしょうか」 「ここからむしりとって、こねあげたと、そう言うのか。儂にはとても信じられん」  三人はくちぐちに言った。 「でもこの様子はそう考えられるでしょう。小さな手いっぱいにすくいあげた。すくいあげるとき、ここで黄金がちぎれた……」  佐々木が指摘するとおり、いかにもそれは粘土の材料置場を大金塊で摸したように見えた。 「するとなんだな。あの小人たちの中には大した芸術家がいたということになるな。ええ、そうではないか、堀越」 「こうした作業には、人間の場合でも、もちろん器用、不器用といった指先の問題がありますが、それよりも重要なのは、記憶力……記憶を再現する力ですよ。全体の把握、認識、そういった知性の問題になるのです。恐らく、佐々木君の言うとおりだとすれば、これはあの宇宙人たちの一般的な技倆《ぎりよう》なのではありませんかね」 「宇宙人と儂ら地球の人間が円満につき合うようになったら、お前ら絵描きは飯の食いあげだな」 「さて、そんなことより、こいつをどうします。どうやって上へ運びあげるかですよ。重いですからね、黄金って奴は」 「また車の捲揚機《ウインチ》のご厄介になるわけだ」  弥市は鼻をうごめかした。 「見つかればこういう状態だと思っておった。捲揚機のついた車を用意したのはそのためだった。それに、黄金の処分方法もちゃんと考えてある」 「どうするんです」 「まず鋳潰《いつぶ》して形を変えてしまう」 「勿体《もつたい》ない」 「小人たちが遊びでこしらえたものだ」  弥市はやっと笑い声をたてるゆとりをとり戻したようだった。 「儂はいま気がついたのだが、あの小人たちはここの物を持ち去ってもあまり憤《おこ》らんだろう」 「なぜです」  堀越は見事な鷲の像を手に、不審そうにたずねた。 「本当に小人たちにとって、黄金は粘土ほどの意味しか持っていなかったのだろうよ。その証拠に、奴らは黄金を飾るということにまるで無頓着だ。黄金を貴重なものと思うなら、壁、天井、床、それにあの焔のいれものを置く柱などを、きっと黄金で飾るはずだ。そうだろう。これだけの量の黄金があれば、きっとそうするに違いない。しかし、奴らはいろいろな形にこねるだけで、ガラクタ同然に放置している。こねるなぐさみがすんだら、掃いて棄てるまでだと言わんばかりだ」  弥市のゆとりは、そうした憶測から生まれているようだった。 [#改ページ]   27 待っていたもの     1  昭和二十五年……弥市は孫の正男を連れて松江市に現われていた。昭和二十一年生まれの正男は、すでにその時、十六、七歳の外見をもち、恐るべき知能と気力で、むしろ弥市を引きずりまわしていたという。  弥市にしても、それ以後の正男の行動の詳細については、雲を掴むような具合で、あまりよく知らされていないらしかった。  弥市はすでにそのあたりから、正男、いや栗栖重人の道具にされ、やがて北戸来の黄金を手に入れてからは、奈良で重人の管財人としてふるまうにすぎなくなってしまったのだ。  考えれば無理もない。重人が倍の成長をつづけるなら、松江の翌年の昭和二十六年には、三十代に突入している計算なのだ。  彼がいつから超人として社会に介入していったか、またそれがどのようなやり方だったか、知る由《よし》もないが、普通人の年齢に換算して、政治や経済など、一国の動きに関心を示す時期を考えてみると、ここにひとつの奇妙な暗合が浮かびあがってくる。  吉田首相は昭和二十七年三月の参議院予算委員会で、はじめて「自衛戦力は違憲にあらず」との見解をあきらかにした。七月の衆議院では破壊活動防止法案が可決され、その前後、白鳥《しらとり》事件、メーデー事件、大須《おおす》事件などが頻発している。  もし、これら一連の動きの裏に栗栖重人が存在し、それを宇宙人たちが監視していたとすればどうなるだろう。  この年、空飛ぶ円盤の目撃例が急に世を騒がし、世相のある一面を形成したことは、戦後史のほとんどの年表に記録されている。  空飛ぶ円盤……この一見、子供じみた言葉であらわされる不可思議な現象は、一九五二年、すなわち昭和二十七年まで、目撃者があらわれるたび、世界中で公然と報道されていた。  しかし、アメリカにおいては、その八月十三日夜、首都ワシントンの上空で一挙に六十八個のUFO(未確認飛行物体)が観測されて以来、当局の検閲事項にされてしまった。  南極に対するアメリカの異常な関心が高まったのはそれと関連があるらしく、地球をとりまく強い放射能の帯……ヴァン・アレン帯が両極上空には存在していないことをあきらかにしたのは、その南極派遣科学調査隊だった。  円盤はヴァン・アレン帯を避けて地球に侵入している……それを知るための調査隊だったのではなかろうか。  いま、アメリカ空軍は、オハイオ州デイトンに、巨費を投じた重力研究施設を運営している。  ところが、西ドイツおよびアメリカの航空宇宙技術専門家たちの間では、その研究施設建設以前に、次のような発言がなされている。 「UFOが、一種の宇宙船であることに、我々は疑いを持っていない。それらは重力の場を歪《ゆが》め、または変形することで高速移動を可能にしている……これが我々の現時点での推論である」  このころ、最高機密に参与していたはずのダグラス・マッカーサーも、二度にわたってUFOに関連する発言を行なった。 「世界は宇宙生物間の紛争に備えて団結しなければならない」 「我々はいまや地球の事柄のみでなく、無限の距離、未知の宇宙を考えねばならぬ。人類と他の天体の集団との大きな紛争について考えるべきである」  ひとつはニューヨーク・タイムズ紙に、ひとつはウェスト・ポイントの卒業式で述べられた言葉だ。  UFOと、人間に似た小さな生物についての報告も、世界のあらゆる地域からもたらされている。  一九五四年十一月には、南米ヴェネズエラの首都カラカス付近で、トラックに乗った二人の男が円盤に乗りこもうとしている小人に対し、ナイフで切りかかっていった例がある。運転手は小人の体が非常に堅く、ナイフが通らなかったと述べている。  アルゼンチンのバヒフ・プランカでは、畑の中に停止した円盤と小人たちが目撃されている。  スエーデンでは学生が、やはり空地におりた円盤と小人を見ているし、フランスとベルギーの国境近くでは、光る潜水服のようなものを着た小人二人が円盤で立ち去るのを見られている。  ドイツでも、カナダでも、オーストラリア領タスマニア島からも、UFOと小人たちを目撃した例が数多く報告されているのだ。  また超古代にあって、小人が人々を文明に導いたという説話が、世界各地に残されている。  各国の人々が、おのれの出自《しゆつじ》に、より科学的な光をあてようとしはじめる時、小人がその半透明な歴史の幕の彼方《かなた》に影を投げかけるようなのだ。  日本においても例外ではない。  呉太伯《ごたいはく》や夏后少康の後裔《こうえい》とする説から始まって、林羅山《はやしらざん》の南支那|呉人説《ごじんせつ》、藤貞幹《とうさだみき》の朝鮮人説。言語比較によるエンゲルベルト・ケンペルの日本人バビロニア起源説。木村|鷹太郎《ようたろう》によるギリシャ起源説、石川三四郎のシュメール起源説、小谷部全一郎のユダヤ起源説。そして、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトのアイヌ人説……。  縄文土器は、はじめアイヌ土器とされ、日本石器時代人アイヌ説が有力になりかけたとき、日本人類学の鼻祖として名高い坪井正五郎博士が登場して、コロポックル説を提唱したのだ。  コロポックルとは、アイヌの口碑に残る矮小《わいしよう》民族で、筒袖《つつそで》、股引《ももひき》を着、遮光器を用いていたとされている。  以後、コロポックル説とアイヌ説の間で激しい論争が展開され、それは坪井博士が大正二年、ペテルブルクの第五十五回万国学士院大会に出席した帰路、モスコーで客死するまで続いた。  コロポックル説は坪井博士の死で消滅し、すぐアイヌ説も否定されて、やがて京都大学の清野博士らによって、日本民族の起源は今日《こんにち》の体系に整えられることになった。  しかし、なぜアイヌはコロポックルという、遮光器姿の小人を口碑に残したのか。それは実在したのか。あるいは空想の産物なのか。その答えが、いま北戸来の毒ノ窪で、紫色のガスを浴びていた……。     2  紫色の煙の中に、四、五人の小人たちがうごめいている。  あらゆる生物に死をもたらすはずの毒ガスの中で、小人たちはのんびりと寝そべり、ふざけ合っているようだ。  彼らの体をつつむ真珠色の光が消えていた。その光は、多分、異星におり立った際に彼らを守る、一種の防遮膜《バリヤー》なのだろう。  その防遮膜《バリヤー》をはずして、彼らはいま嬉々として紫色のガスをたのしんでいるようなのだ。そのガスはどうやら彼らの体に活力を与え、垢を落とし、血行をよくする温泉の役を果たしているらしい。  潜水服に似たもので掩《おお》われている小人たちの真の姿がどのようなものか、うかがい知るすべもないが、彼らはその衣服ごしに充分ガスをたのしんでいる。  その証拠に、ガス浴から出てきた小人たちは、足どりもかろやかに、あの舞台か滑走路のような巨大な一枚岩の所へ駆け戻って行く。そこにも、もう四、五人の仲間がいて、これものんびりと坐ったり、歩きまわったりしている。  一枚岩へ駆け戻る小人の足もとに注意すれば、その巨岩の意味がすぐ判る。  防遮膜《バリヤー》をはずした小人たちの体重は、その身長に比してひどく重く、しかも堅いので、ひと足ごとにズブリ、ズブリと土にめり込んでしまうのだ。地球人ならば何の苦もなく、ヒタヒタと走れる大地も、彼らにとってはぬかるみを行くようにまつわりつくのだった。  平滑な巨岩の板は、彼らが自由に歩きまわれるよう、そこに置かれたものに違いない。  とすれば、彼らの健康にとって有益なガス浴場といい、地底の黄金粘土室といい、北戸来は宇宙人たちの休息地であったようだ。彼らは時折りここで休み、くつろぎ、地球を、そして人類を、遠い昔から監視しつづけてきたのだろう。  が、急に小人たちはくつろいだ様子を消し、一斉に真珠色に光る防遮膜を身のまわりに張りめぐらせた。その光はどうやら電磁的な力を応用しているらしく、一瞬のうちにパッと彼らの体をとりまいてしまった。  小人たちは西南の方角にその巨眼を向けている。言葉はいっさい発していない。遠隔精神感応《テレパシー》でも用いているのか……。  外の道から北戸来へ、龍ノ壁を疾風《はやて》のようにとびこえた影があった。人体の自力による走行としては信じ難いほど早く、ほとんど黒い影が流れたとしか見えなかった。  その影が龍ノ壁の通路に気づいてふと止まった。流れる影が一人の男の姿になった。  栗栖重人だった。  湯平弥市が戸来夫婦に刻ませた龍ノ壁の通路と、そこに幾筋も残るタイヤの跡、そして大きな捲揚機《ウインチ》を一瞥《いちべつ》するとニヤリと不気味に笑い、すぐ泥根《どろね》の白い丘をまわって戸来家への道を奔《はし》った。  重人が次に止まったのは、無人の戸来家の前だった。彼はそこで素早く高原を眺めまわし、森の入口に組まれた食事用の炉や、ベンチ、テーブルなどを、その常識はずれの視覚で発見すると、また一気に森へ走りだした。  森へ着くと、重人はすぐ掘り出された石の球と、その下にかくされていた穴に気づき、高原を背にしてじっと獲物がその穴から這いだしてくるのを待った。  が、ときどきピクッとうしろをふりかえっている。何か見えない敵の気配を察知したようなのだが、慎重にあたりをうかがうとその気配も失せてしまうらしく、しだいに警戒をといてゆったりとした姿勢になる。 「あれがその突然変異人《ミユータント》だ」  光もなく、形もなく、もちろん声もなく、時空を超えた虚空の中で、ひとつの想念が他に語りかけていた。 「放射能によって癒合《ゆごう》した奇形の双人《そうじん》だな」  双人……虚空の想念が用いるその言葉には、我々、または人間という響きが感じられる。 「彼をこれ以上放置することはできない」  さきのふたつとはまったく異なった、きわめて金属的な感じの想念が断定した。 「かつて、この地球という星に生まれた生命には、あのような進化を辿《たど》ったものが続出した時期があった。我々の進化不介入の原則も、とうていそれ以上は見すごすわけにはいかず、ついに大規模な淘汰《とうた》を行なわざるをえなかったのだ」 「知っています。それは旧人たちが大洪水として記憶しているものでしょう」 「そうだ。小|惑星《わくせい》のひとつを地球の重力圏に送り込み、悪《あ》しき種《たね》を根絶させたのだ。放置すれば悪しき種によって、善き種は消され、せっかく芽生えたこの天体の知的生命も、永久に宇宙社会の構成員としては存在しえなくなっただろう。見るがいい。彼は我々が持つ基本的な能力に欠けている……」  その、金属的な異星の想念は、重人めがけて強い霊波を送ってみせた。  森の中で重人は、ピクッと何かの気配に反応したが、あたりに敵を認められず、すぐ安心したように穴の前で待つ姿勢を続けている。     3  四人の男たちが、螺旋《らせん》状の岩穴からゾロゾロと這《は》いだしてきた。地底の岩窟で彼らにとって貴重な金属を発見し、歓喜に胸おどらせているようだった。  だが、四人が穴から出たとき、その前に恐るべき敵が待ちうけていた。彼らは敵の冷酷な瞳に射すくめられて、凝然と立ちすくんでしまったようだ。 「正男、憤《おこ》らんでくれ。お願いだ」  年老いた一人が、突然そう叫んで大地に両膝をつき、かすれた声で泣訴《きゆうそ》した。彼は四人の中で、その敵の恐ろしさをもっともよく知っている男らしかった。 「余生を静かに一人で過ごさせてくれ。何も喋らんし、よしんば喋ったところで、この儂が正男をどうできるものでもない……儂が無力なのは、正男がいちばんよく知っているはずじゃないか」  男は膝を動かして、彼が正男と呼ぶ相手ににじり寄った。 「お前はもう必要ない。お前が必要だったのは、わたしの肉体が成長期にある間だけだったのだ。お前らにしてみれば、わたしの成長の速度はたしかに異常なものだったからな。だがその期間はもう終わった。こんな速度で成長したわたしをお前らから見れば、もう五十歳以上に見えることだろう。しかしわたしはまだ少年にすぎん。お前らとわたしでは、すべて尺度が違うのだ。わたしはどうやら、お前らよりゆっくりと大人《おとな》になるらしい。しかし、わたしのゆっくりと大人になる様子が、お前らには、一年に倍ずつ歳をとってゆくほどに見えるのだ。  お前らが家庭で飼うぺットたち……犬、猫のたぐいは、あとから生まれたお前らの赤ん坊にすぐ追いこされてしまう。知能も体力もだ。しかもそのぺットたちは、赤ん坊が成人になるのをほとんど見ることがない。先に死んでしまうのだ」  男はぞっとするような冷たい声音《こわね》で言い放った。相手を虫けらのように軽視しきっているらしい。 「お前らは、わたしに生命を与えた。お前らはわたしと血をわけた。その血は、わたしと同じものをこの世に送りだす可能性を秘めている。だからわたしは今までお前らを生かした。面倒を見たのだ。しかしここへ来て黄金を掘り出す気なら、先に殺してしまうべきだった」  そう言う前にひざまずいているのは、彼の祖父だった。そのうしろにいるのは彼の父だった。いちばん若いのは彼の異父弟、となりは従妹《いとこ》の夫になる男だった。  四人とも、彼の前から逃げだそうという考えを起こさないらしい。彼には、四人に対して、そういう考えを起こすゆとりなど毛ほども与えぬ、恐るべき威圧感があるのだ。 「猿に黄金は無用だ」  彼は言い放った。そしてののしった。 「猿……お前らは猿だ。手先の器用なけものに過ぎん。進化をとめた行きどまりの種族だ。もう明日を築くこともない。ただ漫然と死の日まで生きる、滅びの種《しゆ》だ」  男は四人に真相をつきつけることを楽しんでいるようだった。 「わたしは全能だ。お前らにとっての神だ。わたしはお前たちのふたごのメカニズムから生まれた、新しい人類だ。いまにわたしのような新人類が続々とあらわれるぞ。わたしはお前らのようなふたごの家系を、世界中から探しだした。放射能照射によって、それらふたごの血を持つ旧人類の中から、間もなく続々と新人類が生まれるだろう」  男は誇らしげに胸を張った。 「見るがいい、この新人類を。新人類はこのわたしでさえ、まだ子供なのだ」  四人の社会では、それは五十歳か六十歳か……功を積んだ老人の貌《かお》と、血気さかんな働きざかりの壮年の靭《つよ》さを示している。 「やがてわたしも生殖能力を持つ。わたしが作り増《ふ》やした新人類たちと交わり、あっという間に世界は新人類で満ち溢《あふ》れるだろう。お前たち旧人類は、わたしたちに奉仕しながら消えていけばそれでよい。万物の霊長の座を、このわたしに明け渡してな」 「僕らは猿か。猿になりさがるのか」  彼の父親が老人をたすけ起こしながら、辛《かろ》うじて相手の気力をはらいのけて言った。 「そうだ。二流の生物になりさがるのだ。だが、それをすべての旧人類に思い知らせる日まで、まだ少しの時がある。わたしの仲間がもっと増えるまで、まだ少しの間、そっとしておかねばならん。お前らは不幸にして知りすぎた」 「殺すのか、ここで」  従妹《いとこ》の夫が叫んだ。相手の圧倒的な気力からのがれるため、目をとじていた。 「そうだ、お前らはここで死ぬ」  重人の体が前へ動きかけた。次に起こる右腕のひとふりで、四人のうちの誰かは頭をふきとばされ、大地に血まみれになってころがるに違いなかった。     4  次の瞬間、四人の姿は真珠色の光につつまれて森の上にあった。新人類を自称する突然変異人《ミユータント》の右腕は宙を切り、彼は呆然として空を見あげた。  折伏《おりふし》峠からたてつづけに円盤が飛来していた。そして森の上の白光につつまれた四人のまわりには、四個の円盤が虚空《こくう》にどっしりと静止していた。 「あの者をとらえよ」  異星の想念が虚空に満ちた。一条の白光が円盤からほとばしって下の突然変異人《ミユータント》をとらえようとした。  彼は素早く身を翻《ひるが》えしてそれを避けた。まさに飛鳥のような動きだった。 「とらえよ……」  想念がふたたび溢れた。  白光が、二条、三条と数を増し、逃げる男をとらえようと試みた。そして一度はとらえたかに見えた。だが彼はその束縛をひっぱずして森の奥へ駆けこんでしまった。 「彼の精神力は思ったより強いようだ」  別な想念があらわれた。 「殺すな。追いだせ」  突然、森全体が灼熱《しやくねつ》した。樹木も岩も土も、炉の燠《おき》のように赤くすきとおり、槲ノ森はゆるゆると崩れていった。  真珠色の光につつまれた四人は、ただ茫然とそれを見おろすだけだった。  突然変異人《ミユータント》がとびだしてきた。北へ、北の毒ノ窪へ向かって逃げていく。  すると、紫色の煙が、風に逆《さか》らってその前に流れはじめた。煙の量が増え、高原の樹々がみるみる葉を落とし、草が倒れた。吠沢がたてつづけに吠えはじめた。  彼は慌《あわ》てて方向を変え、高原の中央にある萢《やち》へ走った。だがその時、四つの萢に四つの円盤が舞いおりていた。四つの円盤は互いに白光を連結させ、巨大な防遮膜《バリヤー》を張って彼をつつみこんだ。いつの間にか円盤から小人たちが現われて、防遮膜《バリヤー》を操作し、その大きさを縮めていた。それはまるで網をたぐる漁師《りようし》たちのようだった。 「貴様らは何だ。何者だ……」  彼はとほうもない大声で喚いた。その声はようやく吠え納めようとしている吠沢の大音響にもまけぬほどだった。  四人は虚空からひきおろされ、中央の萢のそばの大地に足をつけた。その前方に、一人ずつ白光につつまれた四人の人間が、背を見せて、同じように虚空からおり立った。  その中の一人が、声に出して言った。静かで物柔らかく、それでいて魂にしみとおるような威厳をもった声だった。 「よしなさい。我々の前では無駄なことだ」  その一人が透明な光る膜の中で暴《あば》れている突然変異人《ミユータント》に言った。 「言って聞かそう。お前は自分一人が旧人類を超えたものと思っていたらしいが、すでに我々が確固として存在しているのだ」 「だったら、なぜわたしを呼んでくれない」  彼は吠《ほ》えるように言った。 「残念だがそれはできなかった。お前は違う」  すると彼は膜の中で急に暴れるのをやめた。 「違う……違うのか、俺は」 「そうだ。お前もたしかに突然変異人《ミユータント》だが、今の人類のあとをつぐ双人《そうじん》ではない」 「双人……お前らは双人か。新人類か。ではわたしは何だ」 「新しい種《しゆ》が生まれる時の、自然の試行錯誤のひとつだ」 「奇形か。わたしはただの奇形だったのか」  悲痛な叫びだった。 「我々は間歇《かんけつ》的に、人類の歴史の中に出現しつづけていた。だが、我々はお前のように旧人類の社会を意のままにあやつろうとはしないのだ。我々の時が来るまで、旧人類には触れぬのが正しいのだ」 「時とはいつだ」 「時とは、新人類が旧人類を充分に導ける数だけ増える時のことだ」 「自然にそうなるのを待てばよかったのか……そんなことはしておれん。する必要もない。わたしは仲間を増やす方法をすでに持っている。お前らにはそれもできんのか」 「違う。世代の交代は、強者が恣意《しい》的に行なうべきではないのだ。その点で、お前の根本的な品性に問題があった。お前には、新人類として、宇宙社会の構成員としてふさわしくない、邪悪さがあるのだ。そのような邪悪な種《しゆ》が、不自然な放射能照射によって仲間を増やそうと企《たくら》んでいた……我々は、お前に対しても、できるだけ介入をさし控《ひか》えていた。お互いに、我々もお前たちも、旧人類の一卵性双生児を基《もと》に発生してきた者だ。放置しておいても、善き種《たね》に戻る可能性があったからだ。だが、お前の全一卵性双生児に対する放射能照射の企みだけは許せない。ようやく開花期を迎えようとしている我々の前途が、それによって危うくなり、再び宇宙人の手によって悪種を淘汰しなければならなくなるからだ」  すると膜の中の男は、膝を屈して哀願した。さっき祖父である湯平弥市にそうさせたように……。 「わたしを治してくれ。真性の新人類に……そうされる権利は、わたしにもあるはずだ。放射能を浴びたのは、わたしのせいではない。そっちには、方法があるはずだ。双人と言ったではないか。わたしも双人だ。ほんのちょっとしたことで、わたしを救えるはずだ」 「そのつもりではいる」  双人が答えた。 「やれるだけはやってみよう。可能性はある。しかし、生命の神秘は、我々にとってもまだ神秘として残されている。我々の中から、さらに新しい生命が生まれてくる可能性すらある……そして、それはいつのことなのか、どういう形なのか、何も判ってはいないのだ。したがって、失敗するかもしれん。よいな……」 「かまわん。やってくれ。邪悪ときめつけられ、未来を奪われたら、死んだほうがましだ。わたしは旧人類たちのように、何も知らされず、何のてだてもなく滅んでいくのはごめんだ。そっちの……あなたたち新人類の力に賭けようではないか」  小人の一人が彼の膜に何かを注入した。膜はみる間に霜をはらみ、凍りつき、白く濁って彼の体を見えなくした。  小人たちは、栗栖重人をつつみこんだ楕円形の膜に軽く手をふれ、円盤のひとつに運びこんでいった。  それはまるで、柩《ひつぎ》をかつぐ小人の葬列のようだった。     5 「あ……い、岩本さん」  ふり向いた双人《そうじん》の顔を見て、佐々木が声をあげた。  たしかにそれは奈良の岩本だった。しかし、奈良では示さなかった偉大な精神の、そして知力の威圧が、その姿全体から滲《にじ》みだしていた。  佐々木はそれをみつめ、味わい、彼らが旧人類社会に介入せず、ひっそりと時の到るのを待っていたことを悟った。  それは無力な旧人類に掩《おお》いかぶさり、怯《おび》えさせた栗栖重人とは、まったく異なるものだった。重人のようなまがまがしさはなく、ゆったりと、暖かい春の日のように佐々木をつつみこんで、清浄ですらあった。  岩本とその仲間たちは、印象のうえでひどく似通《にかよ》っていた。画家の堀越ならずとも、みな彼らの顔から仏像を連想していた。 「新しい人類は、宇宙社会と交わることができるのだ。宇宙社会は、さまざまな天体で生まれた高度な知的生物の集合体なのだよ」  岩本は諭《さと》すように言った。威厳はあっても強圧するものはなく、かえって愚かで弱い旧人類を甘やかす気配すらあった。 「僕らだって宇宙開発をしていますよ」  雄一郎は拗《す》ねたように言った。甘えたのかもしれなかった。 「さて、それでどこまで行けるかな。太陽系の外へ出る力を獲得するまでに、自分たちの社会にこもる毒で死滅せんともかぎらないだろう」  多分そうなのだろう、と佐々木は思った。そのためにこそ、ここに新人類が生まれているのだ。 「だが、あの憐れな奇形児の言ったことにも、幾分かの真実はあったようだ。我々はあくまでも旧人類の中から出る、その後継者たちだ。このわたしにしても、まだ自分の子が必ず自分と同じ新人類であるところまで、種《しゆ》として定着してはいない。わたしの娘は君たちと同じ旧人類なのだ。しかしいずれは、新人類が新人類を生み育てる日が来る。そのために、一度新人類を生んだふたごの家系は、生まれでた新人類によって、その血の組合わせが尊重される。日本の天皇家もそれだったし、門閥や家族制度といったものの中にも、我々新人類が保護し、集め育てようとした血の組合わせが投影しているのだ」 「いつ交代するのです」  堀越はもっとも恐るべき質問に触れた。 「いま我々は多発の時期にさしかかっている。旧人類社会は限りない人口増加を示しているだろう。相互交流の能力が高まり、人々は流動しはじめている。血の組合わせが増え、新人類誕生の機会を作り出しているのだ。種の繁栄とは、すなわち人口増だ。そしてその人口増は、次の新しい種を生みだすことなのだ。生命は、そして知性は、そうやって旧《ふる》い種から新しい種へと引きつがれてきたのだよ」  もうすぐ来る。もうすぐ新人類が来て、自分たちの歴史は幕をとじるのだ。……佐々木は目をとじてそう思った。 「彼らはかつて地球の古代文明を誘導した者たちだ」  岩本は円盤とその小人たちを指さして言った。 「旧人類の中から、宇宙社会に参加できる新人類が出ることを予測し、さっきのような悪種《あくしゆ》がはびこった時はそれを淘汰した。洪水伝説がそれだ」 「儂らではどうしても駄目なのですか」  弥市が尋ねた。 「そうさせてあげたいと思う。しかし、持って生まれた分《ぶん》というものがあるのだ。超えられぬ種の限界があるのだよ。我々は、君たちが、自分自身を幸福に、平和に終わらせるよう願っている。宇宙の真理を悟ってほしい。泣き叫び、もだえ苦しんで、みにくく果てないでほしいのだ。まもなく、我々の一人が平穏な終幕に君たちを導くよう、僧衣をまとって介入するだろう。その教えを信じてほしい。我々は君たちに感謝とねぎらいの念をこめて、その僧衣の仲間をさしむけるのだよ」  弥市はふり向いて灰になった槲《かしわ》ノ森を眺めた。つられてほかの三人もふり向いた。  槲ノ森は、旧人類の廃墟のように、しらじらとした灰の山に変わっていた。石の球が、陽を浴びて見えていた。 「黄金は融けただろう。古代ギリシャと日本のつながりを示すものがなくなったのは、かえって幸運だった。あの黄金を掘りだして、豊かに暮らすがいい。君たちの誰かは、やがて新人類の親になるかもしれんのだしね」  岩本は、仏像のような顔に、ゆったりとした微笑を泛《うか》べ、萢の中の円盤にむかって歩みはじめた。宇宙人の知恵である真珠色の光につつまれ、大地から浮きあがって四台の円盤に分乗した。  上空で待機していた他の円盤は、一斉に発進して折伏峠から去って行った。そして、萢の円盤が浮上した。  なんと、それは完全な球だった。萢はその円盤を受けるくぼみだったのだ。四つの萢から舞いあがった四つの球は、やがて本当に平たく、円盤に見えはじめた。重力を操作し、空間を歪《ゆが》ませる時、球はそのように見えるのだった。円盤とは、まさしくそのように見える球なのだ。  だが、旧人類は、その乗物をみずからの物語の終章に書き加える時、慣習によって単に�円盤�と記すのではなかろうか。  森のあった灰の中で、古代人が摸製した石の�円盤�が、徐々に冷えはじめていた。�円盤�は北戸来高原から音もなく飛び去った。 [#改ページ]   28 終章     0  海がゆるくうねりを見せていた。よく晴れた空の彼方《かなた》に、純白の積乱雲が昇りたっている。  雄一郎は濡れた砂を盛りあげて、小さな山を幾つかこしらえていた。  心の中で、これは春菜山、これは戸来岳と、忘れられぬ土地を思い返していた。 「すると、あなたの弟の大二郎さんは……」  かたわらに、すばらしい肢体を惜しげもなくさらして、雄一郎の恋人が水着姿で砂の上に寝そべっていた。 「彼に言っても理解してもらえないだろう。以前、堀越先生が重人の財力の保護を受けていたと知った時より、もっとずっとひどい状態に陥《おちい》ってしまうだけだろうな」 「いまが得意の絶頂ですものね」  恋人はそう言って、同情のこもった微笑を雄一郎に向けた。 「大二郎は、宇宙人に連れ去られた重人が残した一族保護の仕組みの恩恵を、それと知らず最後まで受けることになるのかもしれないね。なにしろ重人が大二郎の後援を指令していたのは、ニューヨークの画商だし、僕らが教えないかぎり判りっこない」 「でも、ニューヨークの近代美術館に買いあげられたのは、弟さんの作品にそれだけの値打ちがあったからでしょう」 「でも、それにしても日本へ帰ってからの彼は、少々のぼせすぎてるよ」 「いいじゃない。人間はみんなそうやって成長するものでしょう」 「しかし、成長してどうなるんだい。僕らはもう終わりだよ」 「またそれを言う」  恋人は怨《えん》ずるような流し目になった。 「私たちの世代では、まだまだ終わらないわ。たのしく生きるのよ。お父さんだってそう言ってくれたじゃないの」 「岩本さんはアレだもの。でも、僕らに黄金伝説がなくなってしまったことはたしかだよ」 「おじいさんはどうなさってるの、その後」  岩本の娘は話題を変えた。 「あの場所にひとりっきりで住んでるよ。黄金の取り分で高原を全部買い占めて、自家発電装置の凄いのを買って、食料なんかも二年分くらいしまい込んじゃってね。誰の世話にもなりたくないんだってさ」 「それもいいわね」  彼女は、理想境を作りあげてそこに一人きりで暮らす老人の姿を、幾分ロマンチックに描いているらしかった。  雄一郎とその美しい恋人がいる砂浜は、ちょっとした入江の奥に当たっていた。色とりどりの水着をつけた男女が、その入江一帯にちらばって、ボートを漕《こ》いだり、泳いだり、のんびりと余暇をたのしんでいる。そして、その入江全体は、砂浜のさらに奥の崖の上にある、瀟洒《しようしや》なリゾートランド・ホテルの所有地だった。プールやゴルフの練習場を持ったそのホテルには、富裕な人々が夏の休日を愉《たの》しむために集まってきていた。  ホテルの建物自体はまだ真《ま》新しく、北側は芝を植えた急な斜面にそって建っている。  その急な斜面の上の、ちょっとした平地に、これはまた絵に描いたような小さな赤屋根の家が建っていた。  その庭は海に面し、デッキチェアに若い母親が爽《さわ》やかな夏姿で赤ん坊をあやしているところだった。 「ほら、おっぱい飲みなさい……おっぱいよ……」  若い母親は赤ん坊をあやしてミルクを飲ませようとしていた。 「雄ちゃんのお袋さんが、とうとう堀越さんのマンションへ移ったそうだよ」  夫が近づいてきて、海を見おろしながら言った。 「よかったわねえ」  公子と佐々木だった。彼ら二人は下のホテルの所有者として、今この丘の上に住んでいるのだ。 「やり直すそうだよ。張り切ってる」 「ねえ、先生の今度の新しい絵、ひとつ買ってもいい……」 「お前がか。堀越さん、嫌がりはしないか」 「そんなことないわよ。私、気に入ったのが一点あるの。前の絵もよかったけど、今度のもすてきよ。やっぱり才能があるのよ、先生は」 「俺は何の能もない。お前にミュータントを生ませるだけの種馬だ」  佐々木はそう言いながら、公子の膝の上の赤ん坊の頬をつついた。  赤ん坊は、一人きりだった。 「ほんとに凄いな。どんどん成長する」 「ミュータントだって私たちの子供よ。愛情にかわりはないわ」  佐々木は眼下にひろがる自分の土地で、嬉々として遊びたわむれている人々を眺めた。 「遊べ遊べ。俺たちにはもうレジャーしかないんだ。うんと遊んで機嫌よく幕のおりるのを待てばいい。公子、俺はちょっとゴルフの練習でもしてくるよ」  佐々木はそう言い残すと、トントンと芝生の間の石段を踏んで、ホテルのほうへおりて行った。  いま旧人類は繁栄している。ジャンボ・ジェットをとばし、マンモス・タンカーを浮かべ、高速鉄道を延長しつづけている。  豊かな社会、平和な社会……それを求めて旧人たちは走りつづけている。だが、なぜ繁栄が必要なのか、その正確な答えは誰も知らない。  白い壁に赤い屋根をのせた、幸福そうな、ホテルの持主の家のさらにその上に、小高い林の斜面があって、そこにいま岩本がたたずんでいる。岩本なら、その答えを知っているはずだった。  だが彼は、仏像のような貌《かお》に慈悲深い微笑をたたえたまま、赤い屋根とホテルと砂浜を見おろして、静かにたたずんでいるだけだった。 角川文庫『黄金伝説』昭和54年4月30日初版発行           昭和56年8月30日5版発行