半村 良 魔女街 目 次  魔女街  魔王街  幻《まぼろし》 町《ちよう》の女  最初の夢  窓辺の円盤  中年天使 [#改ページ]   魔女街  一日中あたりの空気を激しく震わせていた帯鋸《おびのこ》の甲高い音が急にやんだ。 「だから……」  工場を背にして帯鋸の音に負けまいと大声を出していた貧相な四十男が、そう言いかけて喋《しやべ》るのをやめ、うしろを振り返ってから普通の声になって言った。 「だから組合なんてくだらねえって言うんだよ」  紬《つむぎ》康平は頷《うなず》いて見せ、 「俺《おれ》はどうでもいいんだ。本当は組合なんか関係ないよ。でも、みんな今度のことで熱くなってるし、俺だけ知らん顔をしているわけには行かないもの。それに、給料があがるのは悪いことじゃないし」  と言って歩きだした。あちこちに木材が積んであって、地面は長年の間に積もった大鋸屑《おがくず》でふかふかしている。おまけにこのあたりは低地だから湿気が抜けることがなく、歩くたび濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》を踏みつけたような音がするのだ。 「よせよ。俺はお前の為《ため》を思って言っているんだぞ。班長や係長まではまあいいや。でも、課長から上はみんなあっち側だぜ」  男は康平と並んで歩きながら、工場の先にある二階建ての建物を顎《あご》の先で示した。この木工場は柄《がら》にもなくだだっぴろい敷地を持っている。その気になって木材の山を二つか三つ別な場所へ移せば、工場のすぐ横に野球のグラウンドぐらい簡単に作れてしまう。もっとも、それは草野球には充分な広さの、という意味だし、大鋸屑でふかふかになった地面の上ではボールも思うようには弾《はず》まないだろう。 「睨《にら》まれちゃ損だぞ。組合なんか適当につき合いでやってればいいんだ。何たって金を持ってるのはあっちだからな」  男はまた二階建てのほうを顎でしゃくった。そこが事務所なのだ。 「でも、みんながおこるのも無理はないよ」  康平は木のサンダルで大鋸屑を蹴《け》った。この工場ではみんな言い合わせたように木のサンダルを履《は》いていた。作業台のあたりに積もった大鋸屑の中に、よく刃物がかくれていることがあるのだ。だから木のサンダルがいちばん安全なのだ。それに、靴《くつ》など履いていたら、すぐ大鋸屑が入って始末が悪い。木の香に混ってどこからか強いフォルマリンの匂《にお》いが漂《ただよ》って来る。 「夏のボーナスのとき、一ヵ月なんてとても出せないって突っぱねたくせに、あんな凄《すご》い家を建てるんだものな」  高須木工所の社長、高須久市の家はこの工場のすぐそばに建っている。北側の低い塀《へい》の外がすぐに社長の家の庭になっているのだ。地続きである。かなり古めかしい家だったが、最近急にそれを改築しはじめた。今度の家は以前の倍くらいの建坪があり、盛大な上棟式《じようとうしき》がおわると、艶々《つやつや》と黒光りした、いかにも高価そうな瓦が乗りはじめた。  工員たちの中には、満足な家に住んでいる者は一人もいなかった。公団アパートに住んでいる者はみんなから羨《うらや》ましがられていた。十何年勤続している男が、いまだに工場の近くの、二間《ふたま》の木造アパートなのである。  この夏のボーナスをいつもの半分くらいにおさえられたあとだけに、日ごとに完成に近づいて行く社長の家を見て、忿懣《ふんまん》のないわけがなかった。 「舐《な》めてやがるんだ」  みんなそう言って腹を立てていた。それまで組合もなかったが、金町《かなまち》の駅の近くに毎年一年の半分くらい赤旗を立て放しにして経営者と揉《も》めている組合があるので、気のきいた奴《やつ》がそこへ相談に出かけたのだ。そうしたらなんと、社会党だか共産党だかが力こぶをいれて、組合結成に至れり尽せりのお膳立《ぜんだ》てをしてくれたというわけなのだ。 「組合って、こんなに簡単に作れちゃうのかい」  工員たちはその手軽さにびっくりしたが、社長のほうはうすら笑いをして、 「木を切ったり削ったりしなくてもうちはちゃんとやって行けるんだ」  とうそぶいたと言う。つまり、木工部門を切り捨ててしまってもかまわないのだぞというわけである。木材は高騰しているし、社長は昔から原木の売買をやって来ていた。多分社長にして見れば、木工部門は足手まといというわけなのだろう。その証拠に、以前から工場を勤めあげて事務所へ移った連中は、例外なく営業部員にされている。木工の現場を監督する役につくのは、どれもこれもうだつのあがらない、もうこれで行きどまりときまったような男ばかりであった。  康平に組合活動に加わらないよういさめていた四十男は、その現場の監督の役に、もう少しで手の届く位置にいた。彼にしてみればそれでも栄光の椅子《いす》というところなのだろう。だからこの際若手に派手な暴れ方をされては、元も子もないと思っているらしい。 「俺はどうでもいいんだ」  事務所の横にある汚い小屋のような建物に入るとき、康平は結論を出すようにそう言った。  食堂兼休憩室兼更衣室である。誰《だれ》かが怪我《けが》をすれば医務室にもなる。壁の中側に正方形の桝《ます》が作ってあった。銭湯にある脱衣棚《だついだな》そっくりである。ただし鍵《かぎ》のついた扉《とびら》はなく、むき出しだった。工員たちは朝そこへ着て来た衣服をいれて作業服に着がえ、夕方はその棚から自分の服を出して着て帰るのである。  紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》で、塗りもはげガタガタになった木の長いテーブルが板の間に置いてある。テーブルの上には昼飯のとき使った大きなアルマイトの薬罐《やかん》がふたつ出しっ放しになっていて、ブリキの平べったい灰皿《はいざら》が散らばっていた。  隅《すみ》のほうに競馬好きがひとかたまり、作業服のままで週末の馬券作戦に余念がない。と言っても、大した金をつぎこめるわけもなく、楽しみは馬券そのものより、あれこれ予想をたて合う次の週末までの時間なのだ。そして、その飯場《はんば》然とした建物の窓の下では、月賦で買った250CCの単車をピカピカに磨《みが》きあげている青年がいたりする。 「おい康平。奢《おご》ってやろうか」  三十くらいのごつい男が、折り畳み式の椅子を引き寄せて煙草《たばこ》を吸いはじめた康平に言った。康平は黙ってハイライトの袋をさしだす。男は人の好さそうな笑顔で一本抜きとって咥《くわ》えた。 「今晩上野で友達に会うんだ。餓鬼《がき》の頃《ころ》からの友達でよ、お前さえよかったら一緒に来ないか。いい奴だぜ。気にすることはないんだ。ただそいつ、遊び人でよ。金廻《かねまわ》りもいい奴なんだ。東日本橋のほうで鞄屋《かばんや》をやってるのさ。不景気なつらばかりしてないでたまには付き合え。そいつがよ、キャバレーに行こうって言うんだ。なに、そんな高くはないさ。俺だって金がねえもんな。だから誘われたときちゃんと訊《き》いといたんだ。五千円もあればお前、お釣《つ》りが来るってさ」 「俺、いいよ」  康平は煙草の火を貸してやりながら言った。 「なんでえ、行かねえのか」 「うん」 「うちへ帰ってまた本でも読もうって言うんだろう。しようがねえなあ、お前はちっとじじむさいよ」 「悪いけど……」 「そうか、じゃあまた今度な。でも、お前って変ってるなあ。全然遊ばねえみてえじゃねえか。いったいお前は何が一番好きなんだ」  すると、入口の水道で手足を洗って来た男が、濡れたタオルで顔を拭《ぬぐ》いながら、 「まさか仕事が趣味ってわけじゃねえだろうな」  と大声で言った。十五人ほどの仲間が声をたてて笑う。 「そんなことはねえよなあ、紬《つむぎ》。帰るのはいつも一番先だもの」 「彼女がいるんだよ、彼女が。判《わか》ってやれよ、若いんだからさ」  いつも同じ調子だった。みんなといる時彼らが表面に泛《うか》ばせているのは、気が好くて、陽気で、冗談好きな顔である。適当に豊かでさえあれば、その顔はどこまで掘りさげても同じ顔であるのかも知れない。だが、バスや電車の中で人に押し揉まれている時の一人きりの顔は、悲しげで依怙地《いこじ》で、どこか怯《おび》えているようでさえあるのだ。  この辺りは葛飾《かつしか》区の北端に近い。昔の利根川《とねがわ》の名残りだという小合溜《こあいだめ》はすぐそこで、その向こう岸は埼玉《さいたま》県になる。最寄りの駅である国電金町駅のあたりには大きな団地ができてすっかり昔とは様子が変ってしまったが、水元《みずもと》と呼ばれるその界隈《かいわい》でも、特に高須木工所のある辺りは、二十年ほど前と余り変ってはいなかった。  康平はジーパンをはき、薄い化繊のジャンパーを着ると事務所のわきに突き出した、青い塩《えん》ビの庇《ひさし》の下にあるタイムレコーダーに自分のカードを突っ込んでガシャンと鳴らし、カードをケースに戻《もど》すと門を出た。すぐに茶色いサングラスをかける。もう日が暮れかけていたが、康平は夜でも外を歩くときはサングラスをかけるのだった。  人に目を見られるのが億劫《おつくう》だった。ことに着飾った若い女と目が合い、それが自分のタイプだと思ったりすると、余計億劫な気がするのだった。  古い靴は歩くたびポコポコと音をたてた。ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、家まで歩いて帰るのである。バスの停留所が四つほどの距離であった。  康平は滅多にバスに乗らない。会社がバスの定期はくれるのだが、持ち歩くことさえしなかった。うつむいて、そう急いでいるようには見えない歩きかただが、その実かなり大股《おおまた》で早く、彼を追い抜いて行く者はそう多くなかった。彼はバス通りをさけて近道へ入る。 「ええ、安いよっ」  狭い道の両脇《りようわき》に、八百屋や魚屋が並んでいて、威勢よくというよりはやけくそのような声が響いていた。キャベツの葉が泥《どろ》にまみれて人に踏まれており、饐《す》えたような漬物《つけもの》の匂いがした。うしろのほうをパトカーのサイレンが右から左のほうへ移動して遠のいて行った。乳母《うば》車と乳母車の間をすり抜け、康平はむっつりとその商店街を通りすぎて行った。はやばやとライトをつけた自転車にのった子供が、よたよたしたこぎかたで康平を追い抜いて行く。そんな狭い道にも、赤く塗ったコカコーラの車が乗り入れて来ていて、道を塞《ふさ》いでいた。ガシャンと、瓶《びん》の鳴る音がする。康平はその先にある煙草の自動販売機の前で立ちどまると、百円玉をいれてハイライトのボタンを押した。いま彼が持っている金は、その百円玉一枚だけであった。それがお釣りの十円玉にかわり、康平は煙草と十円玉をジャンパーのポケットへ落とし込むと、またむっつりと歩きはじめた。  彼の家は細い路地の中程にあった。上下合わせて四部屋の家で、両どなりの家とは壁でつながっていた。つまり長屋である。それもひどく古い。それでも両親が苦労して自分のものにした家なのだ。 「……ま」  ただいま、の「ま」だけしか聞きとれない声で玄関のガラス格子《ごうし》をあけてボロ靴をぬぐと、下駄箱《げたばこ》の横に置いてある雑巾で足を拭《ふ》いた。靴下を履いていないのだ。  一階には人の気配がなかった。康平は茶の間を通り抜けて台所へ出ると、便所のドアの前にある階段を登って暗い二階の北側の四畳半の襖《ふすま》をあけた。敷きっぱなしの蒲団《ふとん》を踏んで電灯《でんとう》をつける。四角い部屋の三方の鴨居《かもい》の上に棚《たな》が作ってあり、本や雑誌がぎっしりと積み重ねてあった。 「康平、帰ったのかい」  裏の戸があく音がして、母親の声が聞こえた。 「ああ」  康平は蒲団の上に仰向《あおむ》けにひっくり返って答えた。ジャンパーのポケットを探ってハイライトをとり出し、枕《まくら》もとへ抛《ほう》り出す。 「お父さんは清子のうちへ行ったよ」  母親の声に康平は眉《まゆ》をひそめる。彼は二十七で、妹の清子はことし二十五。この春|嫁《とつ》いで花畑町に住んでいる。そこは足立区で、乗り物を使うとひどく遠まわりになるが、直線距離にすればさほど遠くない。 「そうちょいちょい新婚のところへ行ってどうする気だい」  低い声でつぶやいている。父親はこのところめっきり老いが目立ち、やたらと人恋しがるようになっている。  長男の純一は水産会社に勤めていて、一年のうち数ヵ月しか日本にいない。遠洋漁業の母船要員なのである。収入は比較的よく、一家の生計のほとんどは純一の仕送りでまかなわれている。  と言っても、康平は親がかりをきめこんでいるわけでもない。給料袋は毎月手つかずで母親に渡している。単車もステレオも身のまわりのおしゃれにも、まるで関心がないようだった。 「そのうちお前の貯金もはじめなければねえ」  母親がいつかしみじみとそう言った。結婚資金のことを言ったのだろう。 「金なんか要らないよ。みんな使っちゃいな」  その時康平はそう答えた。母親はギョッとしたように彼を見たが、康平は別になげやりな様子でもなかった。 「おたくの子供はみんなよくできてるもの」  近所の主婦が茶飲みばなしによくそう言って母親を羨ましがっている。 「康ちゃんだって真面目《まじめ》一方だしさ。それに、こう言っちゃ悪いけど、両親に似ずいい男だよ。それなのに、彼女だってまだいないんだろう。ねえあんた、ほんとにあのご亭主《ていしゆ》の子供なんだろうね」  そんなあけすけな冗談が出るほど、康平は父にも母にも似ていなかった。きちんとした恰好《かつこう》をさせれば、相当の美男子なのである。いや、優《や》さ男と言うべきだろう。逞《たくま》しさはないが、繊細な感じで、身のこなしもどうかするとひどく優雅に見えることがあった。 「まだ欲がないのよ、あの子は」  康平の話が出るたびに、母親はそう言っている。たしかに、その年頃の男ならあれこれ欲しいものだらけで、給料を家に入れるどころか、もらったとたんにパッと使い果してしまっても不思議はないのである。  襖《ふすま》があいて母親が顔をのぞかせた。 「康平、今度のお休みにちょっとたのまれてくれないかい」 「何を」  康平は天井を向いたまま問い返した。 「お兄ちゃんの会社へ持って行って欲しい物があるんだよ」 「またか」 「嫌《いや》ならいいんだけどさ」 「いいよ、行ってやるよ。何を持って行くんだい」 「手紙だよ」  その水産会社では、遠洋漁業に出ている社員に対する家族からの手紙や小荷物は、本社ですべて処理してくれる仕組になっていた。地方にいる家族は本社の係りあて郵送すればよかったし、近い者は直接届けてもよかった。しかも、日、祭日にしか外出できない者の便宜《べんぎ》も考えて、本社が休みの日でも守衛室で受付けてくれることになっている。 「手紙か」 「そう。あのね、お兄ちゃんにどうかと思う人がいるんだよ」 「嫁さんかい」  康平はむっくりと体を起した。 「そう」 「見合写真か」 「そうなんだよ。帰って来てからでもいいんだけどさ、向こうでゆっくり眺《なが》めててくれたほうが、考えもよくまとまると思うしね」 「見せてよ」 「お兄ちゃんのお嫁さんだよ」 「いいじゃないか、ねえ、見せて」  康平は立ちあがって襖をいっぱいにあけた。 「下にあるよ」  母親は階段をおり、康平があとに続いた。 「どうだろう」  茶箪笥《ちやだんす》の抽斗《ひきだし》から、母親は二ツ折の台紙にはさんだ写真を出して康平に渡した。 「ふうん」  康平がひろげて眺めた。 「よさそうな人だろ」 「うん」 「お兄ちゃんにはそういう人がいいと思うんだよ」 「うん」 「いいだろう」 「うん」 「気に入らないかい」 「…………」 「ねえ、どっちなのさ。はっきり返事しなよ」 「ばかだな、俺の嫁さんじゃないだろ」 「でもさ、兄弟なんだから、お兄ちゃんがどう思うか、だいたい判るだろう」  康平はあっさり台紙を閉じて写真を母親に返した。 「兄貴《あにき》がいいって言えばいいさ。俺が賛成したり反対したりしてみたってはじまらない」 「やだ、この子。おまえ、この写真の人を気に入らないんだね」 「そんなことはないよ」 「だって気のない言い方じゃないか」 「またはじまった。母さんは下らないことでおこり出すんだから」 「おこってやしないよ。でもやっぱり、お兄ちゃんのお嫁さんになる人はお前にも気に入ってもらわなくちゃ」 「兄貴の嫁さんなら、俺はどんな人だって好きになれるよ」 「ほんとかい。そう言ってくれるとあたしもうれしいんだけど」 「でも、ああいう仕事だからな。嫁さんになる人も可哀そうだな」 「どうして」 「だって家にいつかないじゃないか。しょっ中留守ばかりでさ」 「それはお前、仕方ないよ。好きで一緒になったんだもの」  康平はふき出した。 「変なおふくろ」 「だってそうだろ。いくら見合だって、気に入った相手でなけりゃ誰が一緒になるもんかね。好きだから結婚するんじゃないの」 「それに、兄貴のほうだって心配だろうな」 「なぜ」 「留守の間に、もっといい男ができやしないかなんて、思わないかね」 「そんなことあたしがさせないよ。あたしがそばについてるのにそんなことをするような女なら、はじめから奨《すす》めやしないさ」 「あれ……あ、そうか。ここに住むんだね」  すると母親は急におどおどして、 「そんな、今日あすという話じゃないんだから。それに、おまえだっていずれは結婚して所帯を持つんだし」 「そうか、兄貴が結婚するとここに住むんだなあ」  康平は天井を睨んで言った。 「まだきまったわけじゃないよ。晩はメンチカツだよ。いいだろ。ビールでも抜いてやろうか。お父さんのを一ダース買ったばかりなのよ」  母親はそう言いながら台所へ去った。  康平はしばらく茶箪笥の前に坐《すわ》って考え込んでいた。……そうなればこの家から出て行かなければならない。多分両親は近くに四畳半くらいのアパートを探して、そこに住めと言うだろう。放っておけばそうなるにきまっている。  康平はそう思った。  次の土曜日、康平は見合写真をいれた厚い封筒を持って家を出た。  高須木工所も近頃では土曜日を休むようになっている。ただし隔週である。今週は休みの番に当たっていた。  康平も今日はさすがにいくらかましな靴を履いていた。だいぶ以前に兄の純一からもらった靴で、純一はそれを買ってしばらく履いたが小さめだったらしく、靴ずれがしてかなわないと言って康平にくれたのだ。康平にもややきつめだったが、痛くて仕方がないというほどではなかった。  黒いスラックスに茶色のブレザーを着ている。スラックスにはきちんと筋が通っていた。ブレザーはやはり純一のお古で、純一よりずっと胸の厚みがない康平には、肩幅や袖丈《そでたけ》はとにかく、胸のあたりがだいぶだぶついているようであった。  茶のブレザーの下に黒いハイネックのシャツを着ていつものサングラスをかけている。康平は内心その恰好が気に入っていた。少なくともスラックスはぴったりと体に合っていた。脚の長さに自信があるのだ。事実よく見るとなかなかいいスタイルであった。  だぶつき気味のブレザー・コートも、敢《あ》えてお洒落《しやれ》はしていないぞと主張しているようで悪くないと思っている。全体として、身なりにかまわない印象があり、しかもそう武骨ではなく、特にいくらかでも高価そうなものはいっさい身につけていないところが気に入っていた。腕時計さえ持っていなかった。  康平は金町の駅前へ出ると、国電の駅を素通りして京成《けいせい》電車に乗った。その水産会社は大手町に本社があり、地下鉄の方が手っとり早い感じだった。  朝からいい天気だった。風も穏《おだ》やかに乾いていて、快《こころよ》かった。秋のなんとなく透明感をともなった日射しが街をいつもよりきれいに見せているようだった。ビルの裏手にある通用門を通って守衛室に行くと、何度か来て見覚えのある守衛が心得顔で見合写真の入った封筒を受取ってくれた。用件はそれだけで、あっけなくすんでしまった。  ひさしぶりの都心であった。康平は、お濠端《ほりばた》の道に出ると、ぶらぶらと日比谷《ひびや》の方へ向けて歩き出した。日比谷に向かう道路の、日の当たる右側の歩道ではなく、左側のビルがつらなる道だった。  康平はその道が好きだった。実を言えば、母親に手紙や小荷物をあの守衛室へとどけさせられるたびにいつもその道を歩いていたのだ。左につらなるビルは、どのビルもぜいたくな匂いを発散させているようだった。少なくとも康平にはそう感じられるのだった。彼はそこを歩くたびそそり立つ壁のひとつひとつにこめられた途方もない金額を感じずにはいられなかった。それは、大鋸屑にまみれた、彼の日常には存在し得ない富がその壁の表面からにじみ出しているような気がするのだ。  厚い壁、巨大な板ガラス……。人間をおさめる容器としてそれ以上ぜいたくな、そして、高度なものを康平はおもいつくことができない。何もそのビル群が大企業のものであるからというわけではなかった。康平は、ビルそのものにあこがれているようである。彼の望みは、いや夢は、鉄筋コンクリートで固められた近代的な高層建築である、いわゆるマンションに住むことであった。もっと詳しく康平の夢をいえば、そのマンションはこの東京に存在する数多いマンションのなかでも、最高級のものでなければならないのだ。そこに最高級の家具を並べ、最高級の服を着て、最高級の食事をすることであった。 「あの子はまだ欲がないのよ」  実の母親でさえ、康平をそんなように見ていた。事実康平は、あまりものを欲しがらない若者だった。ステレオも、単車も、小粋《こいき》なライターも、背広も、靴も、ワイシャツも、ネクタイも彼は決して欲しがらなかった。タバコはハイライト。食べものはラーメン。休みの日はごろ寝。趣味と言えば読書ぐらいなものである。  ところが、一見無欲なそうした日常の裏側でもうずいぶん以前から康平は途方もない欲を育て続け、夢を見続けていた。彼の好む小説はその物語のなかに必ずぜいたくな生活を描写した部分があった。彼は書店の書棚《しよだな》から独特の嗅覚《きゆうかく》を働かせてそうした本を選び出してくるのだった。むさぼり読み、そして学んだ。ぜいたくについて学んだ。どんなものが高級なのか、時計なら、服なら、家具なら、靴なら、酒なら……。  この世のぜいたくは知れば知るほど奥深いようだった。いまここに康平が心を開いて語り合える友人がひとりいたとしたら、たとえばライターの話ひとつで彼は二時間以上も喋り続けることであろう。時計や服や家具についても同じことである。だが彼にはそういう友達がひとりもいなかった。彼は品物について学ぶだけではなく、いつのまにかぜいたくな人間についても学んでしまっていた。  明察と高度なウイット、博識、自尊心、そして何よりも踏めばジクジクと音のする、湿った大鋸屑の堆積《たいせき》などとはまったく無縁であること……。そういう人間が彼の周辺に存在し得ないことは、当然のようである。康平自身もだからそういう人物を友として欲しがりはしなかった。手に入らぬものを欲しがってもしかたないことなのだ。また、最高のものが手に入らぬからといってそれに準ずるもの、あるいは二段、三段と格の下がったもので間にあわせることは、自分自身に対して許せなかった。  つまり、彼の無欲さとはそういう種類のものであった。いくらさそわれても、上野の安キャバレーで楽しむわけにはいかないのだ。それなら家に帰って四畳半の万年床で寝ていた方がまだ救われる。もしさそいに乗って、安キャバレーへ行き、そこで本当に自分が楽しんでしまったとしたら、きっと康平は死ぬほどくやしがり、はずかしがるにちがいなかった。  すくなくとも、製品番号入りのデュポンのライターが持てるなら話は別だが、そうでなければタバコはマッチでつけるに限る。近ごろはデュポンやダンヒルそっくりのデザインの国産品がはばをきかせているが、そういうライターを得意気に持っている男を見ると、康平はもっとも無能で無気力な人間に会ったとき以上にその男を軽蔑《けいべつ》し、自分自身もうんざりした気分にさせられてしまうのであった。  兄に送る見合写真を覗《のぞ》いて、康平がしらけたような顔になったのはやはりそれと同じことであった。不美人だからがっかりしたのではない。その写真にうつっていたのは、十人並みよりはいくらか上の感じがする女の姿だった。兄の妻になるかもしれぬということで康平は充分な好意と興味を抱いて写真を見せてもらった。ところが、見たとたん彼はすべてを悟ったような気になってしまったのだ。いくら高望みをしたところで、紬《つむぎ》家の息子のところへくる嫁は、そんなところがせいいっぱい……。そう思ったとたん康平は激しい自己嫌悪《じこけんお》にとらわれたのであった。  自己嫌悪。いいものを決して持つことがない手。外交官やフランスの富豪たちが舌つづみを打ってほめたたえるような料理を決して味わうことのない舌。目のある人を驚かすような靴を決してはくことのない足。  どうしようもないことなのだ。そういうものを手に入れようと奮起して立ち向かっていく人生があることもよく知っている。挑《いど》んで努力して目的のものを手にする人生があることも知っている。だがそれ以上に康平は自分にはとうていそういうことができないのだということを知っていた。手に入るわけがなかった。だから逆に康平は多くを望まない男になろうとしているのだ。  だが誰《だれ》ひとり知った顔のない都心の街路では自己のそういう無力さを一時たな上げにしておくことが可能だった。彼は急に左へ曲がりビルとビルの谷間へ入り込んで行った。彼の夢見ているものの匂いがそのあたりからただよってくるようだった。彼は歩き続け、いつのまにか銀座へ来てしまっていた。  銀座の表通りは土曜の午後なのでごった返していた。若者たちの姿がめだった。二人づれが多かった。みなそれなりに装い、女たちの中には、つい康平が目を向けてしまうような美人も多かった。康平はまずデパートへ入った。彼はまっすぐエスカレーターで貴金属売り場へ向かった。彼はそこで自分が久しぶりにくつろぎはじめるのを感じていた。楽しいのだ。顔なじみの宝石類や高級腕時計がずらりと並んで彼をむかえてくれた。所有できなくても見ることはできるのだ。考えてみれば康平の夢はやっかいなものだった。夢の半分はいつでも実現しているのだ。高級なマンションも家具も服飾品も、いつでも彼を待ってくれていた。ただ手に入れられないだけなのである。しかもただ手に入れたのではまったく意味がないのだ。いくらそういう品々を欲しいと思っても盗んでまで手に入れようという気はまったくなかった。彼が夢見ているのは、そういうものを自分の金で自由に買うことであった。そのためにはそれ相応の生活力を身につけねばならない。要するに品物が欲しいのではなく、そういう暮しが欲しいのだ。だが、そういう暮しを成立させる力を手に入れることについて、康平ははじめから絶望していた。  康平がややすねたような性格に見えるのは実はその夢と絶望のせいだった。その点では高須木工所の他の工員たち同様ひとりでいるときの彼の顔は、哀《かな》しげで、依怙地《いこじ》で、何かにおびえているような感じでもあった。  デパートを出た康平は、銀座の表通りを歩きはじめていた。彼は商店の飾り窓のガラスにうつる自分の姿をチラチラとながめながら、彼の好みに合った服装をしている男を見かけるたび心の中でそれと自分を見比べたりしていた。  このところ久しく都心へ出てこなかったが、出てくればいつもそうやってそぞろ歩きをするのが常であった。人混みの中で気ままにそうやって歩いていると快感を伴なった孤独感が彼の心にあふれるようであった。  しかしその日はなんとなくいつもと違っていた。デパートを出るとすぐ誰か知っているような人物に会いそうな予感がしてならなかった。表通りを歩き出してしばらくするとそれがますますつよくなって、康平は飾り窓から目をそらせ通行人の顔を見まわしたり、名を呼ばれたような気がして急に振り向いたりしていた。  そのとき彼は輸入食料品の専門店の前にいた。最高級のブランデーや、ぜいたくなチョコレートの箱が飾ってあるのをながめていた。するとまた、誰かが呼んだような気がした。彼は急に振り返った。 「お……」  振り向いたとたん、彼の目の前に茶色い背広の生地がいっぱいに広がっていた。 「あ、失礼しました」  すぐうしろをやけに背の高い中年の男が歩いていたのだ。康平は振り返ったはずみに、その男の胸に顔をぶつけてしまったのであった。二人はちょっともつれあうようになり、康平が詫《わ》びを言って、飾り窓の方へ身を引いたとたん相手の胸に当たって外れてしまったサングラスが舗道へ落ちてあっけなく割れた。 「あ、これは……」  茶色い服を着た中年の男が腰をかがめてあわててそれを拾い上げた。そのはずみに、割れ残っていたレンズが外れ、また舗道に落ちて、音を立てた。 「これはどうも申しわけない」 「いえ、いいんです」  康平は相手の手から片一方のレンズが無くなったサングラスをとり戻そうとした。男はその手を引いて康平に渡さなかった。 「すまないな……。本当に失礼した。許して下さい」  男は慇懃《いんぎん》に言った。 「安ものですから」  康平は心配ないというように微笑して見せた。 「考えごとをしながら歩いていたものだから」 「急に振り向いたんですから、僕の方が不注意でした」 「いやそんなことはない。ぶつかって行ったのはわたしの方なんだ。弁償させて下さい」 「弁償だなんて」 「すぐそこに眼鏡屋があるから、あそこへ行ってなんとかしましょう」  茶色い服を着た背の高い中年の男は、そう言うと片眼《かため》のないサングラスを左手につまみ、右手で康平の背中を押すようにして歩き始めた。康平はなんとなくその男に気圧《けお》されて眼鏡屋の方へついていった。  サングラスは店の入口から中ほどにかけてびっしりと並んでいた。店の中へ入ってしまってから康平は改めて言った。 「ほんとに心配しないで下さい。それはすごい安ものなんですから」  すると男は柔和な微笑を泛べ、 「サングラスは値段ではないでしょう。顔に合うか合わんかですよ。君はそのサングラスがとてもよくお似あいだったようだから」  康平はなんとなくその男に好感を持った。押しつけがましくもなく、大げさでもなく、ごく自然にふるまっているようだった。男は手を伸ばして棚から茶色いレンズのひとつを取り、 「これなんかどうだろう。ちょっとかけてみて……」  と言った。そのくったくのなさに康平はなんということなしに言われた通りサングラスをかけてしまった。 「やあ、似あうじゃないか」  男はもの判りのいい父か兄のような言い方で笑った。 「サングラスが似あうんだね。どうかすると、ギャングのようなのもいるけどね」  確かに康平はサングラスが似あう方であった。面長で鼻が高く、眼尻《めじり》の下がった形のサングラスをすると、白い額がきわだって見え、外国の俳優のような感じになった。 「どうだろう、これよりその方がもっと似あうんじゃないのかな」  康平は微笑して頷《うなず》いてみせた。 「そこに鏡がある。写してみなさい」  そう言われて康平は手近の鏡でチラリと自分の顔を見た。 「とてもよく似あっている。それに決めなさい」  男はあっさりそう決めてしまった。 「おい君、これをくれないか」  男は内ポケットからさいふを取り出しながら店員に言った。ちょっと一方的な感じもしないではなかったが、とっかえひっかえ品定めしたあげくに決めるより、この際、あっさりそうした方が受取る方も受取りやすかった。男は金を払い、 「さあ行こう」  と言ってその眼鏡屋を出た。四十くらいの年かっこうに思えた。店にいる間にいつのまにか言葉つきも年下のものに対する喋《しやべ》り方に変わっていて、しかもそれがごく自然だったから、康平はいっこうに気にならなかった。 「どこかへ行くところだったのかね」 「いいえ、あてもなくただぶらぶら歩いていたんです」 「今日は休みだね」 「はい」 「わたしはパイプを探しに来たんだが、気に入ったのがみつからなくてね」 「パイプですか」  二人はゆっくり歩きながらパイプについて語りはじめた。康平はまだ自分のパイプを一本も持ったことがなかった。パイプでタバコをすったことはあるが、それはおもしろ半分に人のを借りてすっただけで実際には自分で葉をつめたことさえなかった。だが、知識は充分にあった。男は康平の答えがいちいち的を射ているので、 「まだ若いのに、君も好きなんだな」  と驚いてみせた。話しがひと区切りしたところで康平はふと耳をすますような表情になった。 「何かね」  男は不思議そうに尋ねた。康平は照れくさそうに笑い、 「実はさっきからちょっと変なんです」  と答えた。 「何が」 「気のせいだろうと思うんですけど、さっきから誰《だれ》かに呼ばれているような気がしてしかたがないんです。それで急に振り返ったらあなたにぶつかってしまって」 「ふうん、そういうわけだったのか」  男は康平を見下ろして何か観察しているようであった。康平はその無遠慮な視線にくすぐったくなって、 「僕がどうかしましたか」  と逆に尋ねた。 「いや」  男は居眠りから覚《さ》めたときのような顔になり、首を横に軽く振った。 「面白い男だね。君は」  と言った。  康平はいっそう擽《くすぐ》ったい気分になった。今まで他人に面白い男だと言われたことは一度もなかった。彼は擽ったがりながらも、ちょっと気分をよくしていた。 「急がんのだろう。お茶でも付き合ってくれ」  男はそう言ってさっさと裏通りへ入り込み、小さなビルの中へ入った。康平は何かに引かれるようにそのあとについて行った。 「わたしは心霊現象などに興味を持っていてね」  凝った喫茶店だった。入るとき、仰々《ぎようぎよう》しい看板などどこにも見かけなかったが、内部は床も壁も大理石で、その中に曲線ずくめのテーブルと椅子《いす》が並んでいた。あちこちに真鍮《しんちゆう》の金具が光っていたから、金ピカ趣味と言えば言えるのだが、それがすべてまがい物ではないらしく、康平の夢に描く世界の中で気軽に出入りする店のひとつに採用してもいい感じであった。 「心霊……ですか」  意外な言葉を聞いて、康平は相手をみつめた。コーヒーが旨《うま》かった。 「心霊現象というより、いわゆる超能力といわれるものを含めた人間の精神活動の幅広い領域のことなんだがね」 「はあ」 「ずばり言うと、君は特殊な才能……天分というかな、とにかくそういうものに恵まれているような気がしてならないんだ。わたしはこれでもいくらかその方面の研究を積んでいる。見ただけでも、或《あ》る程度はそういうことが判《わか》るつもりだよ」 「面白そうですね。僕は何も能のない人間です。学歴もない。だから、そういうことを言われるととても魅力を感じます」 「百あるとしよう」  男はテーブルの上へ平らに左手をあげ高さを示した。 「君という人間の中身がだ。だが君はそれを知らない。まわりはみんなせいぜい三十か五十どまり」  男は右手を平らにあげ、左手よりは低い位置を示した。 「君は自分のことを、今までどうもおかしいと感じたことがあるはずだぞ」 「どういう風にです」 「なぜこうも周囲とうまく協調して行けないのか。そう感じたことはないかね」  心当たりがあった。康平はかすかに頷いた。 「君は友達がおらんはずだ。違うかね」  男は浮かせた両手をテーブルの上におろして言った。 「はい」 「君は自分でくやしく思うほど低い位置から、いつも高いところを見あげている」 「驚いたな」  康平は頭に手をやって苦笑した。 「なぜ高いところばかり見る。それでは生きにくいだろう。君は決して欲の深い人間ではない。それなのに、自分でも息苦しくなるほどいつも高いほうを見あげている」 「そうなんです」 「君が百だからだ」 「百……」 「まわりよりずっと高いところに目玉がついているということさ。それなのに、君は何かの都合で今ひくい所にいる。人間の体なら、しゃがめばまわりと同じところへ目の位置が来るが、頭の中身の問題だからそうは行かない。目玉はずっと高い所についている。なあ君、立ちなさい。本来の目の位置まで立てばいいんだ。そこには君がうまくやって行ける世界がある。同じ仲間がいる。友達もできるし、恋人もできる。もしよかったら、わたしの所で働いてみないか。仕事はごくありきたりの仕事かも知れないが、わたしは君のその特殊な才能……いや、体質と言うべきかも知れないな。それを見事に開花させてやろうと思う。つまり、もとの百にしてあげたい。今の仕事で満足かね。今の暮しで満足かね。よく考えてみたまえ」 「僕はいったいどんな才能に恵まれているとおっしゃるんです。どんな体質なんですか」 「まだそこまではっきりとは言えない。或《ある》いは君は念力を持っているのかも知れない。手を使わずに物を動かしたりするあれだよ。或いは壁の向こうのものを見たり、遠くの出来事を感じたりするのかも知れない。ひょっとすると、霊界と交信できる人なのかも知れない。まだはっきりは判らないが、とにかく君は何かを持っている。……種あかしをしようか。あの食料品店の前で急に振り向いたわけさ。わたしが霊波で呼びかけていたんだよ。デパートの中で偶然君を見かけたのさ。ひと目で君がそういう体質に恵まれている人間だと判ったよ。わたしはそのほうの専門家だからね。そしてあとをつけた。すぐ声をかけてもよかったが、それでは君がわたしを信用してくれぬかも知れない。だからまず呼びかけたのだ。君はわたしの呼びかけを聞いたはずだ」 「はい、感じました。あんなことははじめてです」 「だんだん君は方角をはっきり感じるようになり、しきりに振り返っていたね。そしてわたしと衝突した。サングラスをこわしてしまったのはおまけだがね」 「そうだったんですか」 「こういう話は突飛だから、すぐに答えてくれなくてもいい。だが君の住所と名前を教えて欲しい。わたしは君を自分の研究対象にしたいのだよ。それに、うまく君が自分の才能を開花させることができれば、それは君にとっても大変いいことだ。君は多分君の望むような生活ができるようになると思う」  康平はその話に魅《み》せられてしまった。 「返事を延ばす必要はありません。是非《ぜひ》僕をあなたの所で働かせてください。実は兄が結婚するのです。そうなれば今のところからどこかへ引っ越さねばなりませんし、それに、今勤めている会社も、どうやら近い内におしまいになるようです」 「倒産かね」 「いや、合理化という奴《やつ》です。僕の職場はそれでなくなってしまうでしょう」 「じゃあ渡りに舟というわけか」 「ただひとつお願いがあるんです」 「何だね」 「どんな仕事でもいいんですが、ちゃんとした手順できちんと就職したことにしていただきたいのです。でないと、両親が……昔風の頭の堅い人間たちですから、すぐによくないほうへよくないほうへと考えてしまうんです。僕が口で説明したくらいでは納得しないでしょう。もしかすると母などは泣いて反対するかも知れません。兄の結婚のことなんかがからみますから、すぐにひがんだり拗《す》ねたり……。つまり、こじれてしまうんです」  男はにこやかに笑って聞いていた。 「いいだろう。そういうことはよく判る気がするな。君が今の生活から脱け出し易いようにしてあげるよ」  男はそう言うと名刺をとりだして康平に渡した。変った苗字《みようじ》であった。月という姓で、名は治郎。月治郎であった。  東京心霊研究所。そんな小さな金色のプレートが、赤坂の氷川《ひかわ》神社の近くにあるビルの一階に出ている。所長は勿論《もちろん》月治郎だが、ほかに社員らしい人間と言うと、辻《つじ》洋子と言う秘書のような女性が一人いるだけであった。  だいたい、心霊研究などというものは、新興宗教のようなものにでも結びつかぬ限り、経済的に成り立って行くわけがない。だが月の研究所は、どこからの援助もなしに立派にやって行っているようであった。  康平はその東京心霊研究所へ、半月ほどしてから円満に送り出されることになった。  高須木工所をやめることについては、両親とも意外にあっさりと認めた。 「そりゃ、おまえがもっといい職場へ移りたいと言うなら、好きなようにするがいいさ」  母親はそう言ったし、父親はあからさまに安心した顔を見せ、 「そいつはよかった。あそこはよくねえもの」  と言った。 「おまえが糞真面目《くそまじめ》に通っているから今日まで言うのを控えていたんだがな、あそこはもう長えことねえらしいよ。何でもな、あの工場の土地を不動産会社に売り出してるんだそうだ。でも不景気だし、だいいちおまえ、あんな水っぽい土地じゃ、そうそう買手がつくもんでもないさ」 「へえ、そうだったのかい」 「実はこないだっから清子のとこへちょくちょく顔出していたのも、向こうの親のほうにちょっとした手蔓《てづる》があるらしいんでよ。それでおまえに向いたいい仕事はねえかと思って、それとなく当たりはじめていたとこなんだ。向こうの遠い親戚《しんせき》に、草加《そうか》のほうでちょっとした本屋をやっているのがいるそうなのだ、なんたっておまえは本好きだからな。本屋の店員にでもなれれば本望だと思ってよ」  父親の心遣いは有難かったが、本屋の店員なら本望だろうと言われて、康平はいまさらながらわが家の水準の低さを思い知らされた。 「成るほど、三十だな」  思わずそう言うと、 「なんだい、三十って。……そうだね、三十になるまでにおまえもお嫁さんをもらうんだね」  母親はそう言って楽しそうに笑った。  新しい就職先についても意外に抵抗はなかった。月から鹿爪《しかつめ》らしくタイプで打った書類が届き、それに待遇とか仕事の内容とか勤務時間とかが記してあったし、何よりもその末尾にある、是非ともわが研究所に加わっていただきたく云々《うんぬん》という文句が効いて、両親はすっかりいい気分になっていた。 「高校しか出てなくたって、力さえあれば研究所からだって来てくれと言われるんだ。これからもしっかり本を読んで勉強しろよな」  父親は本さえ読めば勉強だと思い込んでいるらしかった。心霊の二字に引っかかって少し揉《も》めはしないかと思っていたが、そういう両親にとってはその下の研究所という三文字のほうが重要であったようだ。  それでもさすがに、心霊とは何かという質問が出た。 「超能力だの、そういうことを研究するんだよ。今までの科学はそういうのはあり得ないときめつけていたけど、今の科学のいちばん新しい分野はそっちのほうなんだぜ」 「そうかい。あのスプーン曲げとか……」 「そうだよ」 「やっぱりあるんだねえ、ああいうことは」  すると父親は何度も頷いた。 「俺《おれ》も若い時に田舎で幽霊を見たことがあるんだ」 「あらやだ」 「本当さ。戦争中だったなあ、あれは」  ひとしきり両親は怪異譚《かいいたん》を語り合っていた。そんなわけで、簡単に転職は決まったが、問題は康平が同時に転居する点であった。 「無理しなくていいんだよ。お兄ちゃんの結婚だって、まだ決まったわけじゃないんだし」  母親ははじめのうちそんな風に穏やかに引きとめたが、しまいには案《あん》の定《じよう》涙を見せて、 「おまえがそういう風に考える気持は判るけどさあ、何もそうひがまなくたって」  と言った。 「うるせえ、康平はもう一人前だ。考えがあってやっているのに、めでてえ門出を涙で湿っぽくすることはあるめえ」  父親のその一喝《いつかつ》でやっとけりがついたが、とにかく厄介《やつかい》な場面ではあった。  そんな騒ぎのあと、康平はわずかな、本当にわずかな身のまわりの品を持って月に身柄をあずけたのであった。  月はあちこちのマンションに小さな部屋をたくさん持っているらしかった。すぐにわかったことだが東京心霊研究所の経済的基盤は、月がやっているほかの仕事によって支えられていた。  ほかの仕事、というよりむしろそれが月の本業であった。驚いたことに月は東京の全域にわたって二十ばかりのバーやクラブそれにキャバレーなどを経営しているのであった。したがって、そういう職場で働く女性たちの住居というか、一種の寮のような施設としてあちこちにマンションの部屋を持っている必要があったのだ。康平はそのひとつをあてがわれた。むろん家賃など負担できるはずもなく月のオフィスが一切の面倒をみてくれた。  月のオフィスというのは、東京心霊研究所とはまったく別個の存在であって、池袋の西口のビルのなかにあり、各店舗の売上げを集計したり酒や食品類の仕入れを一括《いつかつ》して行なったりするための人員が、二十名近くもそこで働いていた。 「本当になにも持っていないのだな」  南青山のマンションに入った康平をたずねてきた月が、ガランとした部屋を見廻《みまわ》してあきれたように言った。 「いいものなんていままでの僕には何ひとつ手に入りませんでしたからね」  康平は月になら思ったことを何でも平気で言えるようだった。 「中途半端なものでは満足できないというわけか」 「その中途半端、という程度のものでさえ僕にはたかねの花なんです」 「そういう考え方も案外悪くないものだ」  月ははげますように言った。 「いいかげんなところで妥協するより、思い切ってこころざしを高く持っていた方が男は成功するものだよ」 「でも、今まではなんだか途方もない夢ばかりを見続けていたような気がしていました」 「今はそれが実現しそうな感じなのかね」  そう言われて、康平はかすかに笑いを含んだ目で月をじっと見つめた。……あなたしだいですよ。そう言っている目だった。 「勝負はこれからさ。わたしの確信は日ましに強くなってくる。わたしは既成のどんな宗教も拒否している。神は結局人がつくるものだと思っているのだ。だれかがこしらえた神を自分の神として敬うことなどわたしにはできない。だがわたしにはわたしの神がある。その神が、遠くからわたしに告げているのだ。その男はたしかに強い霊能力を持っている、とな」 「僕もいちおう無神論者です。前にいた会社には、新興宗教の熱心な信徒がたくさんいました。そういう連中にこの数年間せめられ続けました。自分達の集まりに出席しろ。とにかく話を聞くだけでも聞け、などとね。だが僕はとうとう断り続けました。僕には僕の神様みたいなものがあるんです」 「ほう」 「働くことなんです」 「働く……」 「そうです。神も仏も結構ですが、その前にまず理屈抜きに体を動かすことなんです。なんといったってまず自分の命は自分で保っていかなければなりませんからね。喰《く》いぶちを他人に頼っていて神も仏もないでしょう」  月は笑った。 「明快だな」 「働かしてくれるんでしょうね。ごろごろしているのはごめんですよ」  康平の新しい生活はそんなふうにしてはじまった。  月が康平にはじめからそうさせようと思っていたかどうかは疑問である。だが康平はみずから望んだような形で月の水商売の部門にとびこんでいった。とはいうものの、池袋のオフィスに加わることはできない相談だった。康平は生まれつき悪筆で字を書かせればおそろしくきたなかったし、計算も得意ではなかった。だから帳簿などあつかえるはずもないし、仕入れ係にしてもそれ相応の経験が必要であった。したがってまず彼がやれることと言ったら、丸い銀色のトレイを持って飲みものや簡単な料理を客の前に運ぶことであった。つまり彼はクラブのボーイになったのだった。  月はなかなかいそがしい男で康平を心霊研究の対象にすると言っても、その時間はとれないようで、二ヵ月あまりも康平と会う機会はなかった。  ボーイになった康平はしだいに生き生きとしてきた。贅沢《ぜいたく》なもの高価なものを知る康平にとって、そうしたクラブでの客のもてなし方は、自然に要領がのみこめてゆくようであった。 「君ははじめてじゃないんじゃないのかい」  クラブのマネージャーがそう言ったほどである。それに、客の前へ出るのだから今までのように故意に身なりをかまわないでいるというわけにはいかなかった。髪をこざっぱりとなでつけ、シャツもズボンも白いコートも蝶《ちよう》ネクタイも、人なみ以上にきちんと着こなすよう気を配りはじめた。  赤坂のクラブにすごくハンサムなボーイが入った。  康平の知らぬところで、そんな噂《うわさ》が飛びかったようであった。赤坂を中心にすると、六本木、飯倉《いいくら》、新橋、銀座と、月が持っているチェーン店は、その一帯だけで十に近かった。そこには、みな女たちがいた。どれも高級な店で、比較的閉店時間の早い銀座の女たちが、遅くまでやっている康平のクラブへ客といっしょによく流れてきた。康平は気がつかなかったが、その女たちの中には康平を見にやってくる者もいるらしかった。同じチェーンに働く仲間だとも知らず、ていねいに客あつかいをする康平に女たちはくすぐったいような優越感を感じるらしかった。  かわいい。  女たちは康平をそんなふうに思いはじめた。連れてきた客そっちのけで、康平に何かと声をかけてうれしがる女がふえてきた。 「紬《つむぎ》君は、ボーイではもったいないですよ」  クラブのマネージャーが、月にそんなことを言ったという噂が聞こえた。そしてまもなく、康平は六本木の別なクラブに移され、カウンターの中へ入れられた。見習いバーテンダーというわけである。  どうやら、康平はそういう仕事が性に合っていたらしい。もともと、カクテルなどというものは、生活に直接関係ない贅沢なものである。そういう意味で言えば、バーもクラブもキャバレーも、皆贅沢なものであった。そして、贅沢と康平とははじめから性が合うのであった。  その日康平は、月に呼ばれて午前十時に、氷川神社のそばの東京心霊研究所へ行った。ついたとき、月はまだ来ておらず、辻洋子という秘書とはじめてあいさつを交わした。 「心霊研究ってどんなことをするんでしょうか」  洋子は美人だった。男物のような、きつい感じのスーツを着て、眼鏡をかけていたのではじめのうちはいかにも才走った秘書という感じを受けたが、よく見ると大変な美人であった。  それに気づいた康平は、もう彼女をまともに見ることさえできなかった。なぜなら、洋子は康平が夢見てきた、贅沢な恋人にぴったりのタイプであったからだ。 「すぐにわかるわよ」  なぜかしら洋子も康平に好意をもったようであった。 「なんだかいやな気分がする。モルモットの気持がわかるみたいだ」  直接洋子にではなく、康平はつぶやくように言った。洋子は笑いながら紅茶を入れてくれた。 「心配することないわよ。あたしもそのモルモットですもの」  はげますつもりらしかったが、洋子は康平にとって意外なことを言った。 「へえ。君もそうなの」  康平は目を丸くした。その理想の美人との距離が急に短くなった感じであった。洋子がそれに答えて何か言いかけたとき、月がやって来た。 「相変らず道が混《こ》んで……」  月はいいわけのように言い上着を脱ぐと、医者が着るような白衣に着替えた。 「辻君、カーテンを閉めて。オーラの撮影をする」  オーラが何であるか、康平は知っていた。部屋が暗くなると、洋子はてきぱきとスクリーンのようなものを部屋の中央に持ち出し、奇妙な形の照明器具を二つほど並べてスイッチを入れた。暗かった部屋に不思議な真珠色の光があふれた。康平が嘆声を上げると、月は真珠色の光のなかで得意そうに頷き、 「こんな色の光ははじめてだろう」  と言った。 「僕が考案した装置だよ。パテントもちゃんと取ってある。君、この光の特許だけでも、売れば一生食えるだけのねうちがあるんだぞ」  するとその横で、洋子が口をはさんだ。 「これを作って売らせてくれと言って、大きな会社がしつっこく言ってきているの。でも所長が、うんと言わないから……」 「金が必要になれば売るさ」  月は複雑なかっこうをしたカメラをいじりながら言った。 「どうせなら早く売ってしまってください。きのうも来たんですよ。ああ熱心に言われたのでは、とてもお断りしきれない」 「売らないと言ったら売らない。そうぴしゃりと言ってやればいいんだ。君、そのスクリーンの前へこちらを向いて立ってくれないか」  康平は言われたようにスクリーンの前へ立った。 「楽にしていてくれればいい。レントゲンの撮影じゃないんだから。息なんかつめていることはない」  いくらか緊張気味の康平を楽にさせようと、月は冗談のように言った。撮影はあっけなかった。カシャリ、とシャッターの音が続き、すぐに終った。 「さて、これからだ」  月はカメラをしまい、洋子が二つの照明器具をスクリーンのうしろ側へ移動させた。月がどこかを操作して電圧を上げたらしかった。 「どうだ辻君。わたしの見込みどおりだろう」 「ほんとに」  洋子の声には、喜びと驚きが入り混っているようであった。 「何か見えるんですか」 「見えるとも。君には見えまいが、いま君の体のまわりには、強いオーラがくっきりと見えているのだ。いい形だ。ひどい歪《ゆが》みがない。こんなに素直なオーラはひさしぶりだ」 「見たいな。鏡に写せば見えますか」 「いや、見えん。この装置によるオーラは決して鏡には写らない。だから、鏡を利用したカメラでは撮影もできない。オーラは、肉眼で見るか、または鏡を使わないカメラでフィルムに記録するしかないのだ。そうだ、辻君。君のオーラを見せてやってくれ」 「はい」  洋子は、スクリーンの前へ来て康平と入れ変わった。康平がスクリーンの後側へ行って月と並んだ。  康平は息を呑《の》んだ。  七色の虹《にじ》のようなと言いたいが、その七色のどれでもない複雑極まる色が、ゆらゆらとゆれていた。スクリーンの後ろ側から色が投射されているので、洋子のシルエットは見えなかった。しかし、ゆらゆらとゆれるオーラは、洋子の体の外側にほぼ同じ幅でゆれており、その内側の線は、決してあいまいではなく、きっちりと人の形を現わしていた。洋子は男物のようなきついシルエットのスーツを着ているはずだが、そこに現われたひとがたは、衣服をつけていない裸の形であった。  康平は、まるで洋子の裸を見たような気分に陥った。美しいプロポーションだった。 「横を向いてごらん」  月は命令した。洋子が体を廻《まわ》した。彼女の裸体を覗《のぞ》き見ているという康平の感覚がいっそう強くなった。ゆらゆらとゆれ動くオーラの、内側の線は洋子のふっくらとした乳房の形まではっきりと示していた。やや、上向きの小さな乳首まではっきりと現われていたのだ。 「僕のときも、こんなふうに見えたのですか」  康平は月に尋ねた。 「そうよ」  洋子が答えた。 「あたしも、あなたの裸を見たわ。いいスタイルをしているのね」  それは、たとえオーラの線とはいえ、自分の裸を見られている若い女の、ちょっと意地になった言い方であった。月が、照明器のスイッチを切った。照明はすぐには消えず、すうっと尾を引くような消え方をした。そのとき、オーラはまるで狂ったようにゆれ動いた。  が、それも一瞬のことで、あたりは闇《やみ》になり、洋子の靴音《くつおと》が聞こえてすぐに蛍光灯《けいこうとう》がともった。  それから、康平が研究所へ通う回数が急にふえだした。月も、最初のオーラ測定の結果を見て、康平に対する興味をつのらせたようであった。康平に対してさまざまなテストが行なわれ、康平はそのすべてにかなりの成績を示したようであった。  とはいうものの、手を触れずにダイスを動かして任意の目を出させるとか、ふせたカードを百発百中で言い当てるようなことは、康平にはまだ無理のようであった。  そのことについて、月はしだいに首をひねりはじめた。 「先天的な霊波も強いし、君がたぐいまれな霊能力の持ち主であることははっきりしているのに、遠隔感応《テレパシー》や念動力《サイコキネシス》や|透 視《クレアボヤンス》などについてどうしてこう平均的な数字しか出てこないのだろう。ひょっとすると君はまだわれわれの知らない新しい種類の超能力を秘めているのかもしれないな」  そのころになると、康平は研究所のことについてかなりわかって来た。  辻洋子は、月の研究対象としては、最高級の素質を持っているらしい。そのために月は辻洋子をぜったいに手ばなす気がないようであった。 「辻君は、何万人にひとり、いや何百万人にひとりの貴重な超能力者なのだ」  月はよくそう言った、もっとも、そうした天分というか体質に恵まれた女性は他にもまだかなりたくさんいて、それがみな月のチェーン店のどこかで働いているようであった。というよりも、自分の店に集ってくる女性のなかから、月はそうした人物を拾い上げているようである。はっきりしたことはわからないが、そういう体質は男性より女性の方にはるかに数が多いらしい。だから、月の研究対象としては、女性の数の方がはるかに多く、男性も何人かいることはいるが、月を満足させるほどの体質を持った男は、康平ひとりと言ってもよいようであった。 「オーラなどというものは、誰《だれ》にでもあるのだよ。ただ、ふつうの人間はそれがごく微弱だし、常時発散しているというものでもない。形も歪んで、君のようなわけにはゆかないのだ」  月はそう説明したが、洋子は康平とふたりきりのときに、その月の体質的な秘密を康平にあっさりうちあけてくれた。 「所長は、オーラが全然ない人なの。そんな人ってめずらしいのよ。彼がこんな研究をはじめたのも、ひょっとするとオーラがゼロというめずらしい体質のせいではないのかしらね」 「オーラが全然ないということは、どういうことなんだね」 「わからないわ、でもあたしには見当がついているの。彼には、超能力は操れないけれど、超能力者は操れるらしいのよ。あたしだって、こんな奇妙なことのモルモットみたいにされてあんまりいい気分じゃないわ。いままで何度もやめてしまおうとおもったの。でも結局彼にはさからえなかった。あなた、よく考えてみて、はじめて彼に会ったとき何だか催眠術をかけられたみたいに、自分の方からすらすらと彼の思い通りになったんじゃないの」 「そう言えば、そんな気もした」  洋子は、康平のマンションとは目と鼻の距離にあるマンションに住んでいた。すまいが近いので、研究所から一緒に帰ることも多かったし、研究所へ行かない日でも電話で連絡を取りあって一緒にコーヒーを飲んだり、食事をすることが多くなった。  洋子は、康平が彼女の眼鏡を気に入っていないと知ると、二人きりでいるときはハンドバッグにそれをしまい込むようになった。  康平の方も、彼女のような美人とひと前にいるときは、彼女に恥をかかせないような男でありたいと思うようになった。おしゃれに気を使い、給料はほとんど服装にかけるようになった。  そんなわけで、康平は見違えるような美男子になっていった。もともとが、やさ男なのである。しかも、本当のおしゃれがどんなものであるか、何が最高であるか、そういうことばかりに情熱をもやして来た人間なのだ。今までそれをしなかったのは、自分が望むものが手に入らなかったにすぎない。恋人も、十人並み十五人並みというものではがまんがならなかったからつくらなかっただけのことだ。ところが今彼は、辻洋子という途方もない美人を恋人にしはじめていた。そうなると、最高でなければ、最低でいたほうがいいというわけにはいかなくなっていた。彼は全力をあげて、おしゃれな男に生まれ変ろうとしていた。心霊的な才能より、むしろその方の才能の方が、まさっていたようでもある。  日に日に美しくなる……男なのに、美しくなるとはおかしな言い方になるかもしれないが、事実その通り、康平は美しい男になってゆき、洋子もそれを歓迎しているようであった。洋子は、ことさら人前で康平と腕を組んで歩きたがった。それまでの冷たい秘書の感じが消え、洋子も持ち前の女性美を発揮しはじめていた。二人が歩くと、振り返って見る人が、多くなった。まさに美男美女の組み合わせであった。  康平は、研究所に呼ばれないときは、六本木のクラブで働いていた。バーテンとしても、めっきり腕を上げ、人に頼らなくても自分の守備範囲をがっちり固められるようになった。だが、それ以上に店でも康平は女たちにちやほやされるようになった。そうしたクラブでは、男客よりむしろ女客の方が主導権をもっている場合が多い。その女たちが、康平とひとこと、ふたこと言葉を交したり、常連に対する特別な笑顔を投げかけられたりするために、そのクラブへ来たがるのだから、彼女らの連れである男客もしぜん数が多くなり、康平はいまやその店になくてはならぬ存在になりつつあった。 「銀座の方へ移ってもらいたいんだ」  そういう康平を、チェーン店のオフィスは放ってはおかなかった。康平は、経験が浅いにもかかわらず、傘下《さんか》でもトップクラスの銀座のクラブへ配属替えをされることになった。  康平は仕合せだった。得意の絶頂だった。  その店はモロッコと言った。店の名などどうでもいいだろうが、客の大部分はその店へ入って、マダムの真弓という女の顔を見たとたんに店の名の由来がわかったはずであった。まじり気なしの日本人なのだが、真弓はマレーネ・ディートリッヒそっくりの妖艶《ようえん》な美人であった。  康平が配属されたとたん、その妖艶な美女の目の色が変わってしまった。真弓は、人目もはばからず、あからさまに康平を可愛がりはじめた。  どうやら以前にも似たようなことがあったらしい。モロッコのボーイやバーテンたちは、康平のたぐいまれなやさ男ぶりを見て、はじめからあきらめてしまっていたようである。  嫉妬《しつと》する気配もなく、また真弓の男遊びがはじまったというような調子で、むしろけしかける様子さえあった。また、真弓のほれこみようがあまりにも急であったために、ホステスたちも、いちおうは康平に興味を示すものの、浮気の対象としては高級すぎるといった態度で、康平は真弓のものと決めてかかったようであった。  真弓はモロッコを自分自身の手で繁栄させているという自信にあふれていたし、事実、彼女は数え切れないほどの上客を擁していて、モロッコは完全に彼女の掌握下にあった。  だから、一介の新米バーテンダーである康平を、好き勝手なときによび寄せたり、連れ出したりした。真弓のような女にとって、康平のような男との情事は、小さな勲章がひとつふえるような程度のことでしかないようだった。たぶん、人の口に登っても、気にもならないのだろう。正体ははっきりしないが、彼女には政、財界の大物たちが何人もパトロンとしてついているようでもあった。幾つもの情事を並行して進行させることなど、真弓には不徳でも何でもないらしかった。  康平は、真弓の投ずる妖《あや》しい糸に苦もなく捕えられた。すまいへ送らされ、酔わされ、裸にされ、からみつかれた。  と、そこまでは明らかに真弓が主導権を握っていた。それは、しごく当り前のことであった。康平には、正確に見極めることもできなかったが、真弓は彼よりはるかに年上で、情事の場数もけた外れに差があった。  だが、そこで奇蹟《きせき》のようなことが起こってしまった。初めての夜、酔った康平は真弓のベッドで裸にされ、さんざんになぶられて、もだえ狂ったあと、やっと彼女の体を与えられたのだが、体を合わせたとたん、狂い出したのは真弓の方であった。 「あなた……誰なの」  真弓は、今にも悶絶《もんぜつ》しそうな表情の中で、あえぎながら、かすれ声でそう言った。 「あなた、誰なの」  繰り返し繰り返し、そう言って頂きに駆け登り、すこし降りてはまた駆け登った。  不思議なことに、経験の浅い、というより自慰以外にほとんどセックスを知らない康平の動きが、ことごとく真弓の弱点を攻め立てるらしいのである。もちろん、康平にも快感はあったが、それは奇妙な静けさを伴った熱しぶりであった。  康平は、己れを自由自在に持続させることができた。反対に、真弓は若く経験の浅い男に負けまいと、歯をかみ鳴して耐えるのだが、いかんともしがたい様子でわれを失し、際限もなく、愉悦の淵《ふち》に浮かぶのであった。  翌朝、真弓は日が登っても泥《どろ》のように眠り続けていた。そして、康平が身じたくをして帰る気配を示すと、 「いかないで、お願いだから行ってしまわないで」  と、夢うつつのようにすすり泣いたのである。  それからというもの、真弓はうつけたようになってしまった。さすがに店で仕事をしはじめると、いつものようにしっかりものの妖艶なマダムの顔になるのだが、どうかしてふと目のはしに康平の姿を認めたりすると、とたんに放心したような状態になり、それがまたいとも甘美な風情《ふぜい》に見えるので、事情を知らぬ客たちまでが、それに気付いてさわぎたてるのであった。 「おまえ、あのママをどうしちゃったんだ」  もう六十近いチーフ・バーテンダーが、毒気を抜かれたような顔で康平にそんなことを言ったりした。 「なんでもしてあげる。いいえ、どんなことでもしてあげたいの。だから、あたしを捨てたりなんかしないでちょうだいね」  真弓は、そんなことをよく言うようになった。そして、事実、真弓は惜し気もなく高価な品々を康平が求めもせぬのに次々に買い与えた。真弓は最高級のテーラーで三日にあげず、康平のスーツを注文した。新しいスーツを注文するたびに、靴とシャツとネクタイがそれに合わせて選ばれた。 「こんなに着きれないよ」  康平が閉口して言っても、 「あたしがしたいんだからいいじゃない。勝手にさせておいて」  と、甘え切った調子で言うのであった。しまいに、真弓は康平をモロッコに出すことすら嫌《きら》いはじめてしまった。 「若い女の子がたくさんいるところに、あなたを放り出しておくわけにはいかないのよ」  自分でも無理を承知の上でそんなことを言ったりする。年下の女なら、だだをこねるというところであろう。 「会社のマンションに入っているのね。そんなみすぼらしいお部屋に、あなたをすまわせておきたくないわ」  真弓はそう言って、自分の住んでいるマンションの近くに、本気で康平のための住まいを探しはじめた。 「俺は、そんなに値うちのある男じゃないよ。そう甘えさせないでくれ」  康平はそう言って断ったが、彼女は聞き入れなかった。  幸か不幸か……たぶん不幸、だったのであろう。そんなとき、真弓のマンションのすぐ近くに、一億円もする新しいマンションが売りに出された。それは、十一階建ての最上階の部屋で、ワン・フロアーが丸ごとひとつの住居になっていた。  冗談じゃない、と康平が断わると真弓はしまいに本気で涙を浮べながら、 「お願いだから、あそこに住んでちょうだい。あなたは最高の生活をするべきなのよ。そうしなくてはいけないの」と懇願した。  康平に、身も心もしびれさせてしまって、他の女に彼を奪われることを心配し切っている真弓は、そんな高価なおりに入れることで愛する男をつなぎとめようとしていたようである。そこまで、康平の生活をもち上げてしまえば、よほどの女でも真弓の手から康平を取り上げるわけにはいかなかったろう。  それにしても、康平は若かった。真弓ほどの女を完全に屈服させて、有頂天になりすぎていたのかもしれないし、自信過剰になりすぎていたのかもしれない。それに、根っからの贅沢好きで、昔からの夢が片っ端から現実になっていたのである。感覚がまひして、一億という金がどんなものか、深く考えることもしなくなっていた。ただ、自分に惚《ほ》れ切った美しい年上の女に、しつっこくくどかれて、可哀そうだから住んでやるといったような調子で、その部屋へ入ることを承知してしまった。  真弓ほどのキャリアを持った女だから、それくらいの金は貯め込んでいるのだろうと軽く考えていた。だが、いくら真弓でもそんなような際限もないいれあげようは、能力の限界をこえてしまっていたようだ。  すぐに、あちこちから真弓がたちの悪い借金をしているという噂が聞こえはじめた。だが、そのときにはもう、十一階の部屋には世界各国の最高級の家具や調度がつめ込まれ、康平の王様のような暮しがはじまってしまっていた。 「おまえ……」  康平は、真弓をおまえと呼ぶようになっていた。 「おまえ、あっちこっちに借金があるそうだな」  或《あ》る夜、康平は妖艶な真弓のヌードを楽しみながら、さりげなくそう切り出してみた。 「あなたは、そんなこと心配しなくてもいいのよ。お金のことなら、あたしにまかせておいてちょうだい」 「そんなこと言ったって、おまえ金がないんだろ」 「ないから借金したんじゃないの」  意外にも、真弓は自信たっぷりに微笑んでいた。 「返せるのかよ」 「だいじょうぶ、もう返せるわ」 「別なところから借り直すのか」 「そんなことしないわ。もう借金はしないの」 「そんなこと言ったって、どうする気なんだ」 「あたしが悪いことするとでも思っているの」  真弓は妖しく笑った。久しぶりに見せる、自信たっぷりな年上の女の笑いであった。 「でも心配だな」 「あら」  真弓は目を輝かせた。 「ほんとうに心配してくれてるのね」 「うん」 「それなら、あたしの最大の秘密を教えてあげる。そのかわり、もうあなたとは一生離れないわよ」 「離れる気なんかないよ」 「じゃあ、あしたあたしと一緒に来て」  そんなやりとりがあった翌日、康平は空の大きなカバンを持たされて真弓と一緒に街へ出た。真弓は、あてもなさそうに、まず銀座へ出て、行きあたりばったりのようにある銀行へ入った。ロビーの椅子《いす》に腰をおろした真弓はちょっと緊張しているように見えた。 「どうする気だ」  低い声で、康平が言うと、真弓は黙っていろというような目で康平をにらみ、軽く目を閉じて背筋を伸ばした。  とたんに、康平が自分の膝《ひざ》の上に乗せていたカバンがずしりと重くなった。驚いてカバンをかかえ直したとき、真弓がすっと立ち上がった。康平はそのあとに続いて銀行を出た。 「どうかした」  真弓が謎《なぞ》めいた表情で言った。 「カバンが重くなった」 「そう。ちょっと中を覗いて見たら」  そう言われて康平は立ちどまり、カバンの止め金を外して中を見た。一万円札の束が、カバンを半分ほども埋めていた。 「どうなってるんだ、これは」 「ひとつの銀行でそのカバンをぎっしりにしてしまっては気の毒でしょう。もう一軒まわるわね」  真弓はすぐその先の銀行へ入ってゆき、また同じことをした。 「念動力《サイコキネシス》か……」  さすがに康平は気づいた。それ以外にこの奇蹟を解釈する方法はなかった。二人は十一階の部屋へ戻《もど》り、テーブルの上に積み上げた札束《さつたば》を中に向きあって坐《すわ》った。 「あたしは魔女なのよ」  真弓は、告白した。もっとも、彼女は自分がはじめから魔女であったことを知っていたわけではないらしい。ただ、月の心霊研究の対象として優秀な人材であることは自覚していたという。だがそれは、透視実験で一般的な確率よりははるかに高い的中率を示せたり、水槽《すいそう》の中をゆっくりと落下する小さな植物性の粒子の落下軌道を念動力で、わずかに曲げたりすることができる程度のものであったらしい。  ところが、康平と体を交えるような関係になってから、その能力が急激に増大したのだという。彼女は生理的に、それが康平とのセックスによって増大した能力であることを悟っていたのだ。だからこそ、康平に対して途方もない惚れ込み方をしたのだし、一生手離したくないと願ったのだとも言った。払い切れぬほどの借金を平気でしたのは、近いうちに自分が今日のような離れ技ができるようになるということを感知していたからだと言う。 「つまり魔女は実在したわけよ。そしてあなたは、あたしのような女の体の中に潜伏した魔女の能力を引き出す役をする男なの。おたがいにそういう生まれつきなのよ」  真弓はそう言って妖しく微笑んだ。  康平は恐しくなった。真弓の能力は、際限もなく増大しているようであった。 「あなたさえいてくれれば、そのうちにあたしにできないことは、何もなくなってしまうわね」  事実そのとおりだと思った。真弓は魔女だった。それも女王級の魔女になろうとしていた。 「あたしの秘密を知られたら、その相手を消してしまうことだってできるのよ」  真弓は道を歩きながらあるときそう言い、すれ違った娘がつれていたスピッツを冗談半分に、本当に消してしまった。その娘は、鎖を手にきょとんとしていた。その先につながれた犬が、首輪ごと消えてしまっていた。  身の危険を感じた。真弓ほどの女を一方的に惚れさせてしまったことで得意になっていたが、この分では、結局とりこになるのは自分の方だと思った。何しろ、逆らえば消されてしまうのである。  康平は隙《すき》をみて研究所へ走った。折悪しく月は不在で、洋子だけがいた。 「いい人ができたんですってね」  洋子は、うらめし気にそう言った。 「そんなんじゃないんだ。大変なことになってしまったんだ。所長になんとかしてもらわなくては」  あのような強力な魔女が相手では、どこに隠れようとすぐみつけ出されるに違いないと思った康平は、うろたえきっていた。洋子はそのさし迫った様子をみて、眉《まゆ》をひそめた。 「いったい何が起こったというの」 「とにかく所長をすぐここに呼んで欲しいんだ。わけはあとで話す。すぐ呼んでくれ」  洋子は、あちこち心当りへ電話をし始めた。月の行先はすぐにわかったが、博多《はかた》にいるということであった。 「間にあわない」  康平はうめいた。 「言って、あたしでは力になれないの」  洋子は、訴えるような目で康平をみつめた。 「いつか、所長が僕の能力について首をかしげていたはずだ。覚えているかい」 「ええ覚えているわ。あなたには未知の超能力があるのかもしれないって」 「そいつなんだ。僕は君やモロッコの真弓のような体質の女性から、超能力を引き出す役目をはたしてしまうんだ。僕は、真弓に誘惑されて、からだの関係を持った。そうしたら、真弓のやつ本物の魔女になってしまったんだ。今の真弓は、人間を消してしまうこともできるし、何もしないのに、銀座中の客をモロッコに集めてしまうこともできるんだ」  康平は、そう言って銀行での出来事や、犬を消してしまったことを洋子に話した。  普通の女なら、そんな話を信じはしないだろう。しかし洋子は、月治郎の秘書だった。東京心霊研究所の唯一の職員だった。そして月の最高の研究対象でもあった。 「大変だわ。モロッコのマダムのすることを止められるのは、所長しかいないわね」 「僕は、もういやなんだ。ひょっとすると、真弓は電池で動く人形のようなものかもしれない。僕が電池だ。だが、その人形は途方もない力を持った魔女なのだ。おもちゃの人形と違うところは、自分の動力源である電池を、自分で自由に操ってしまうかもしれない点なのだ。僕はあんな化物のエネルギー源になっていたくはない。放っておいたら、あいつはこの世界を丸ごと自分のものにしてしまうだろう。何とかならないものか。あいつを滅ぼす方法はないものだろうか。僕が逃げ出したことがわかれば、あいつはきっと自分の超能力で僕を取り戻してしまうだろう。そうなれば、僕はもう二度と逃げ出せまい」  すると洋子は、椅子から立ち上がって、きっぱりと言った。 「ひとつだけ方法があるわ」  洋子は、そう言うと、足早やにドアのところへ行ってドアをロックした。そして、服を脱ぎはじめた。 「あたしを抱いて。もしかしたら、もう手遅れかもしれないけど、それ以外にあなたをたすける方法はないわ」  洋子は、羞恥《しゆうち》で肌《はだ》を染めながら、必死の面持ちでそう言った。 「どういうことなんだい」  はじめて会ったとき、オーラの内側の線で知った、美しい洋子の曲線がそこにあった。 「お願い。カーテンを閉めてちょうだい」  全裸の洋子は、自分からソファーに倒れ込んでそう言った。康平はカーテンを閉めた。ドアの隙間《すきま》から射し込んだわずかの光でソファーの位置がかろうじてわかった。 「モロッコのマダムなんかより、あたしの方が、超能力の指数はずっと高いのよ。あんな人、問題じゃないわ。あなたという男性が、あたしたち女性の超能力にとって、そういう役目を果たすなら、あたしを魔女にして」  康平はソファーに近より、そっと洋子の肌に触れた。 「そんなことを言ったって……」  おびえていたし、いくら自分を救うためとはいえ、急にそんな気になれるものでもなかった。 「あたし、泣いたのよ。あなたがモロッコのマダムに夢中だと聞いて、とても悲しかった。死んでしまいたかったわ。あなたがモロッコへ行かされさえしなければ、あたしたちは結ばれていたに違いないのに」  薄暗い中で、洋子の白い体が動き、康平の服を脱がせはじめた。 「好きだったの。あなたを愛してる。女の口から、こんなことを言わせないで……あなたが欲しいの。抱かれたいの。滅茶苦茶にして欲しいの」  康平は、自分から服を脱ぎ捨てていた。だが、萎《な》えていた。洋子の柔らかい掌が、焦《じ》れたように、康平の下腹部を動き廻った。康平は、含まれ、吸われた。  理想のタイプの女に、自分はいま愛撫《あいぶ》されているのだ。そう思うと、危機感がやや遠のき、洋子の肌のぬくもりが意識できるようになった。  あの形のいい、小さな唇《くちびる》が……そう思ったとたん康平は、力を漲《みなぎ》らせはじめた。まず、洋子が息をつまらせたように、うめき、そのうめきに康平のうめきが重なった。 「抱いて」  洋子は、か細い声で言った。語尾が震えていた。 「いいんだね」  康平は、床に膝まずき、洋子の胸に両手を当てて言った。 「あなたを、たすけるなんて半分は嘘《うそ》なの。なんでもいいから、あなたにこうされたかったの。もし、あたしが間に合わなくて、モロッコのマダムにあなたを取り返されたら、あたしは、あの人と刺し違えて死ぬ覚悟よ。そうなれば、たぶん刺し違えるなんてことできないでしょうね。あたしは消されるか殺されるかしてこの世からいなくなってしまうの。でも、生きてあなたがあの人のものになっているのを見ているより、その方がましよ」  康平の耳もとで、洋子の熱っぽい早口のささやきが聞こえていた。その間に、康平の体は、洋子の中心を探っていた。ささやきと同じように洋子の肌は、熱っぽかった。花芯《かしん》は、もっと熱かった。熱くあふれていた。康平は、ためらいがちにその中へ入っていった。  真弓のときと、同じことが起こった。洋子はたちまち狂乱し、あられもない声を上げた。真弓よりもっと素早く頂きに達し、さらにそのまま空へ舞い上がって行くようであった。康平は、真弓のときと同じように、熱い冷静さを保っていたが、その熱さは、真弓のときの比ではなく、それこそ灼《や》けるようだった。  女の体が、それほどたて続けに、それほど深く、愉悦の淵に沈めるものだということを康平は改めて思い知らされた。硬直を続けていた洋子の体が、限界へ来たように、急にぐったりと柔らかくなった。康平は、そのやさしい柔らかさに、かえって刺激され、一気に登りつめはじめた。洋子という女に対するいとしさが胸にあふれた。木工所時代、夜ごと夢見た理想の女が洋子だったのだ。年もつり合っていた。真弓は、道草だったと思った。魔女に対する恐怖がうせ、二人きりのいとなみに没入した。真弓のときには無かった強烈な爆発が起こった。自分でも信じかねるほど、長く長く尾を引いた爆発であった、康平はその無上の悦楽のなかで自分の体が、空っぽになってゆくようなのを感じた。  その響きが、洋子に確実に伝わったようであった。弛緩《しかん》した洋子の体が、急にそり返り、康平を深く深く咥《くわ》え込んだ。細く鋭い悲鳴のような声を上げ、二十秒ほども彼の胸の下でそり返りおし上げていたが、突然がくりと姿勢を崩した。  交わりは終った。  洋子は、失神してしまっていた。自然に体が離れたとき、康平は深い溜息《ためいき》とともに起き上がり、自分の上着をそっと彼女の腰にかけてやった。衣服をつけた康平は、ほの暗い部屋の椅子に坐ってじっと時を待った。  目覚めた洋子は、手さぐりで脱ぎ捨てた衣類を拾い集め身につけると、そのままソファーに坐り直した。康平は、部屋の一方の隅《すみ》にある洋子の椅子に坐っていた。 「カーテンを開けるわね」  洋子の落ち着いた声が聞こえた。そしてその声が終わるやいなや、窓のカーテンは軽い音を立てて左右に開いた。洋子はソファーに坐ったままだった。 「あたしも、魔女よ」  洋子は、明るくなった部屋の中で、謎めいた微笑を泛《うか》べてそう言った。 「知らなかったわ。あなたがこんな人だなんて」  康平は立ちあがり、洋子のそばへ行って坐った。 「さっき、わかったんだ。僕が愛しているのは、君だったんだよ。君と一緒なら、もうどうなってもかまわない。真弓が何をしようともういいんだ。さっき言ったことは、本当だね。場合によっては、僕と一緒に死んでくれるね」  すると洋子は、甘えたように康平の肩に頭をもたれさせた。康平が、その肩へ手を廻《まわ》し、やわらかい髪をなでた。 「心配することはないわ。彼女に何かさせたりはしないわよ。だって、魔女としては彼女よりあたしの方がずっと上なんですもの」 「そんなこと、もうどうでもいい。消されても殺されても、君と一緒ならそれでいいんだ」 「そうよ。あなたはもうあたしのもの。誰にだって指一本触れさせはしないわ。見てごらんなさい」  洋子はそう言って、ソファーの前のテーブルの上を指さした。その指の動きにつられて、康平がテーブルへ視線を移したとたん、テーブルの上に札束があふれてその端の部分がぱさり、ぱさり床に落ちた。 「彼女はこれができるまでに、ずいぶん長い時間がかかったのね。あたしの方がずっと上だわ」  洋子はくすくすと笑いだし、しだいにその笑い声が高くなっていった。その笑い声のなかで、康平はぎょっとして洋子から体を離した。洋子は、まるで彼女らしくない高笑いを続けていた。 「もう世界は、魔女のものよ。この世界は、あたしたちのものよ」 「あたしたち……」  康平は、洋子をみつめながらそうつぶやいた。 「そうよ。あたしたちなの」  洋子はそう言うと、どこか天井の一角を見上げ、 「そうでしょう」  と言った。 「ええ、そうですとも、世界はもう魔女のものに決まりましたわね」  どこからともなく、そう言う声が聞こえた。真弓の声であった。 「超能力を持った女の子を、どこか一ヵ所に集めてちょうだい」 「はい、承知いたしました、女王さま」  真弓の楽しそうな声が答えた。 「何てことだ。君らは協力する気か」  康平は叫んだ。 「当然でしょう。魔女は魔女同士よ。そしてあなたは、これから魔女をもっとふやさなければいけないの。駄目《だめ》なのよ、もう。あなたは、あたしからは逃げられないの。自殺することさえできないのよ。あきらめなさい。あきらめて、最高の生活を楽しむがいいわ。あなたには、最高の暮しを保証してあげる。女の子たちを可愛がってあげてね。あなたもセックスを楽しめばいいのよ。もちろんあたしも、ときどき可愛がってもらうわ。あなたのおかげで、あたしたちの仲間は、どんどんふえるのよ。ひょっとすると、あなたが一番得な役廻りかもしれないわね」 「そんな……。まだ所長がいる。月さんが帰ってくれば、君らの自由にはならないさ」 「まあ、馬鹿《ばか》なこと言って」  魔女の女王は、そう言うとまた宙に向かって言った。 「真弓。あの男はどうなったか教えてあげて」 「はい女王さま。女王さまが、魔女におなりあそばしたとき、一番先になさったのは、九州にいたあの男を消しておしまいになったことです」 「カーテンを開ける前にね」  二人の魔女の笑い声が、部屋のなかにあふれた。そして、康平はその笑い声にうっとりと聞きほれていた。康平の魔女に対する批判力は、完全に封じられてしまっていた。批判することを封じられたこと自体、もう康平は意識できなくなっていた。そして康平は自分が夢見続けた、最高の生活が完全に実現したことの喜びにひたっているだけであった。美しい女たちとの贅沢《ぜいたく》な暮し、これからの世界を支配する魔女たちが、康平にそれを約束してくれているのだ。もう他に何を望むことがあろう。 [#改ページ]   魔王街     1  岸はデスクの上の灰皿《はいざら》に煙草《たばこ》を押しつけて丹念に火を消すと、卓上ライターをその横へきちんと並べ、湯呑《ゆのみ》の蓋《ふた》をして立ちあがった。  小さな部屋だが掃除整頓が行き届いて、デスクの前に置いてある来客用のソファーのカバーも、しみひとつない純白であった。  岸は窓際へ行ってブラインドの紐《ひも》を引いた。上の何階分かが夕陽《ゆうひ》を浴びて赤く染まったとなりのビルが、乾いた軽い音と同時に姿を消し、部屋の中は蛍光灯《けいこうとう》の白い光だけで満たされる。  窓からドアへ向かう途中、岸はなかば無意識のようにして、椅子《いす》をデスクの下へ押し込んでいた。  午後五時五分であった。いつもだと岸はそのまま帰宅してしまうのだが、今日は金曜日なのでまだすることがあった。  左手でドアをあけ、右手で入口の壁にあるスイッチをさげ、振り返って灯《あか》りが完全に消えたのを確認してから廊下へ出てドアをしめた。  廊下をふた部屋ほどエレベーターのほうへ行くと、非常口、と書いたドアがあり、それが今はあけ放しになっていて、岸の姿はそこへ消える。  ドアの内側は階段になっている。まだ新しいビルなので、プラスチックの床材が艶々《つやつや》と光っていた。岸の靴音《くつおと》がかすかに鳴りながら下へおりて行く。  六階、五階。  次の階へ着くたびドアの内側に黒い文字で階数が標示してあり、岸は階段を二階分おりて五階の廊下へ出た。  今度はエレベーターの前を通り過ぎて次の角を曲がると、最初のドアをあけた。ドアの上に、研修室、と書いてある。  中は学校の教室そっくりであった。二十人ほどの若い女たちが、思い思いの場所に坐《すわ》って机の上に紙を置き、硯《すずり》の墨を摩《す》っていた。  岸が入って行くと、若い女たちはすぐ不揃《ふぞろ》いだが全員椅子から立ちあがり、 「よろしくお願いします」  と挨拶《あいさつ》した。 「みんな、家へ帰っても書いているかね」  椅子に戻《もど》る女たちに、岸は微笑しながら言った。 「はぁい」  一人が子供のように答えたので笑い声が起こった。 「本当はね、字などというのは一応の手本があればたくさんなんだよ」  岸は女たちがいる机のあいだをゆっくり歩きはじめながら言った。 「たくさん書けば自然にうまくなる。うまくなるということは、慣れるということなんだ。いくら筋がよくても、慣れなければ何にもならない」  髪を極端に短くした痩《や》せぎすの女が筆をとって書きはじめると、岸はそのうしろに立ってじっと眺《なが》めていた。その女は自信があるとみえ、岸に見られているのを明らかに意識しながら、一気に仮名を書きあげた。 「だいぶ練習したね」  岸は褒《ほ》めてやった。 「筆の運びにためらいがないのはいいことですよ。勢いのない字はいけないからね。しかし、欠点を言うと手本に似すぎているな」 「あら、我流でもいいんですか」  その女は理屈っぽい性格らしかった。  岸は笑って見せる。 「我流という考え方がおかしいのさ。今我々がお手本にしている、たとえば紀貫之《きのつらゆき》なら紀貫之の文字は何かお手本があったのかな。違うだろう。みんな自分の字を書いているんだ。いいかね、君が今書いた、はるさめは、の、さの字と、さくらはな、の、さの字は……よく見てごらん。まるでおんなじだろう。これじゃ活字になってしまうよ。は・る・さ・め、と、最初のさは下にめが来ている。さの字を書いたときの最後の筆の位置から、めの字の書きはじめの位置までは、筆を一度あげてしまわなければならない。ところが、さ・く・ら、のさは、次のくの字とつなげて書くことができる。そうなると、ふたつのさの字のおわりは違う形にならなければおかしいじゃないか。まっすぐ家《うち》へ帰る時と、デートのある時の君たちの帰りかたは、見ていてちゃんと違っているよ」  筆を動かしはじめた女たちが、手をとめて笑った。  岸はその女のそばを離れ、またゆっくりと歩きはじめた。 「あの、お願いがあるんですけれど」  柔らかそうな長い髪をゆるく波うたせた女が、岸の近付くのを待っていたように言う。 「何だね」  岸は柔和な微笑を泛《うか》べてその女を見おろした。ふっくらとした美人だった。 「これに書いていただけませんか」  短冊をとり出して見せる。 「ほう、これは高そうな短冊だな」 「短冊に書くとどういうようになるか知りたいんです」 「そうだね、勉強になるかも知れんな」  するとほかの女たちも次々に席を離れて集って来た。岸はその女のとなりの椅子に坐り、筆と硯を自分の前へ移して短冊を持った。    はるさめはいたくなふりそさくらはな    またみぬ人にちらまくもをし 「春雨は、いたくなふりそ、桜花。まだ見ぬ人に、散らまくも惜し」  岸が手早く書きあげると、その女はよく透るすずやかな声で読んだ。     2  精神障害者社会復帰指導協会。  岸はその協会の常任理事である。と言っても、協会の運営に関与しているだけで、復帰指導の現場などは一度も経験したことがない。月曜から金曜まで、毎朝十時半に出勤して五時にはオフィスを出る。月に二度か三度の会議と、週に二度自分の部屋へ運び込まれる書類の山に目を通して捺印《なついん》して返せばそれで仕事はおしまいである。  岸は清廉《せいれん》な人物で通っている。挙措《きよそ》が穏やかで人の話をよく聞くから、ことに女子職員の間には信望があり、書道クラブも彼が能筆家であるところから成立したようなものであった。  年は四十二。身長百六十八センチ体重五十七キロ。短めに刈った髪をきちんと撫《な》でつけて、やや面長な顔からは、いつもシェービングローションの匂《にお》いが漂って来るようであった。  一時間のレッスンがおわると、女たちは筆や硯をしまって三々五々、その建物を出て行った。 「兄が岸さんのことを存じあげておりました」  宮園|悠子《ゆうこ》は薄手の赤いコートを着ていた。風がもう冷たくなっている。 「ほう」  二人は協会のオフィスがある虎《とら》ノ門《もん》を背に、ゆっくりと新橋へ向かって歩いていた。午後六時。初冬の街路はもう夜の灯に溢《あふ》れていた。 「君のお兄さんがねえ」  岸は意外そうに言う。悠子はさっきの短冊をいれた茶封筒を、赤革のハンドバッグと一緒に大切そうに左の胸のあたりにかかえている。家は藤沢。したがって帰りは新橋駅まで歩いてしまうことになる。出勤時や雨の日などは地下鉄を使っているようだった。 「あたくし、少しも存じませんでしたわ」  岸の父親が、以前大臣をやっていたことがあるのだ。悠子はそのことを言っているらしい。 「どこかへお勤めかね、お兄さんは」 「はい。一番上の兄です。法務省へ……」 「法務省か。法務省のどこ」 「いまは大臣官房です。司法法制調査部という所にいます」 「むずかしい所にいるんだな」  岸は笑った。悠子の赤いコートは襟《えり》が立っていて、歩くたびに白い裏地がのぞいていた。 「仕事は面白いかね」  岸は月並な質問をした。ほかに話題もなかったのだ。しかし、書道クラブができてから、この宮園悠子は岸に親しみを示していた。折さえあれば話しかけて来るし、こうして帰りには一緒に歩きたがりもする。 「はい。……とお答えすれば優等生なんですけれど」  悠子は悪戯《いたずら》っぽく言った。 「毎日おなじことの繰り返しで、あまり面白く思えないんです」 「そうか」  岸はまた笑った。悠子は自分の率直さが通じたと思ってうれしそうだったが、岸は典型的な優等生タイプの彼女が、そのことをまるで自覚していないようなのをおかしがっていたのである。  そう言えば、協会の女子職員は大半が箱入り娘であった。中にはラフそうなのもいないではなかったが、厚生省の外郭団体で、職員の大部分は何らかの形で厚生省につながっていた。 「お兄さんは何人かね」 「法務省へ行っているのと、もう一人、陸連へ行っている兄がいます」 「陸連……するとスポーツマンか」 「ええ、学生時代はボート部の選手でした」  要するに上流家庭の子女なのであろう。岸は父親のことを訊《き》くのをやめた。多分官庁関係で、それもかなり高い役職についている人物なのだろう。  岸はわざと歩調をゆるめ、悠子の姿を眺めた。年は二十二歳。もう熟《う》れはじめた体を、堅い躾《しつけ》が無理やり稚くさせているといった感じであった。     3  赤いコートは新橋駅の雑踏の中へ紛れ込んで見えなくなった。  岸は改札口の前を通り抜けて銀座へ向かった。医者の高見沢と会う約束があるのだ。高見沢とはこのごろよく会って一緒に飲んでいる。高見沢が医師側の代表者の一人になったからだ。岸の妻と高見沢は縁つづきなのである。  岸は銀座の東側の通りへ入って行った。西側にくらべるとだいぶ薄暗いその通りに、小さなオレンジ色の灯りが見えて来た。〈ハイランド〉という文字が読める。  やがて岸はハイランドのドアを押して店の中へ入った。天井の高い、古びた感じのバーであった。入ると右手に突き当りまで長いカウンターが伸びており、棚《たな》にぎっしりと並んだ酒の瓶《びん》が、色とりどりの光を反射させていた。  やや赤っぽい照明の中に煙草の煙がたちこめていて、長いカウンターにはずらりと客の背中が並んでいる。岸はもうその店へは五、六回顔を出していて、見憶《みおぼ》えていたらしいバーテンが、カウンターの外にいる女に合図を送った。  濃い臙脂《えんじ》のドレスを着たホステスがやって来て、 「もうあちらでお待ちです」  と言った。  岸は女のあとについて、かすかに油の匂いが漂い出す板ばりの床の上を奥へ向かった。  その時だった。  カウンターと平行になったその通路の突き当りのドアがあいて、意外な人物が岸と真正面から顔を向き合わせたのであった。  レコードの音も、客たちの話し声も、一瞬岸の耳から遠のいて行った。彼はその店の赤味がかった照明の中で、相手をまっ白なホリゾントの前に立っているように感じていた。  その男は黒いスーツを着ていた。艶のある柔らかそうな生地で、ぴったりと体に合っていた。白いワイシャツに渋いネクタイをしめ、すらりと、だが逞《たくま》しく立っていた。細く高い鼻、薄く引き緊《しま》った唇《くちびる》。眉《まゆ》は太いがやや茶色がかって濃い感じではなく、眉のいちばんあがったあたりから髪の生えぎわへかけて、額の骨の角が薄い肉をとおしてはっきりと区切りをつけているようだった。深い二重瞼《ふたえまぶた》。瞳《ひとみ》はひどく奥深い感じで、はっきりと視線を合わせているにもかかわらず、その瞳から心の動きを窺《うかが》い知ることは難しいようである。  そして、髪がまっ白であった。それがその男の最大の変化であった。以前は漆黒《しつこく》だったのに……。 「岸頼二郎」  よく響く声で言った。岸はそれに答えようとしたが、うまく言葉が出なかった。無意識に唇を舌で湿しながら、二歩ほど近づいて右手をさしのべた。相手は軽く手をあげてそれを握った。  乾いたあたたかさが掌から伝わって来た。  とたんに遠のいていた音が、一度にぐわっとボリュームをあげたようであった。赤っぽい照明が実際以上に赤く感じられ、鼓動さえ早くなったようである。 「大門《だいもん》……」  岸は相手の右手を握りしめ、左手をその上へかぶせて何度も上下させた。 「大門京介じゃないか」 「そうか。生きていたか」  大門の薄い唇が綻《ほころ》んで、岸を見る目に熱が感じられた。 「久しぶりだなあ。いったい何年ぶりだろう」  岸は心の底から感激していた。 「そうだ、二十五年だ。二十五年ぶりだ」 「そんなになったか」  大門は掴《つか》まれている右手を引き、左腕を岸の肩にかけた。岸は入口のほうへ逆戻りする形で、大門に肩を抱えられて歩き出した。 「こんな店へ飲みに来るのか」  大門が言った。 「友人と会う約束があったんだ。そこへ来ている」 「まあ坐れ」  そこが大門の席だったらしく、岸は押し込まれるように黒いソファーへ坐らされた。 「どうしていた」  岸が言うと、大門はそばの女に顎《あご》をしゃくって見せた。和服を着ていて、ハイランドのホステスでないことはひと目で判《わか》った。  その女はこういう場所に慣れ切っている様子で、ごく簡単な手真似《てまね》でホステスに新しいグラスを運ばせた。 「二十五年たっている」  大門はボトルをとりあげ、そのグラスに自分で注ぎながら言った。 「言葉をそんな一度に喋《しやべ》れると思うか」  注ぎおわるとボトルを置き、自分のグラスをとりあげた。 「乾杯」  岸は大門をみつめたまま慌《あわ》ててグラスを持った。 「乾杯」  大門の深い瞳をみつめたまま言い、グラスに唇をつけると一気に呷《あお》った。  スコッチ・ウイスキーだった。それもシングルやダブルならいざ知らず、オールド・ファッション・グラスに八分目くらい注いであった。当てにしていた分量よりずっと多すぎて呼吸が狂い、呷りそこねた岸は激しく噎《む》せた。 「馬鹿が」  大門は笑った。たのしそうにのけぞって笑った。  ポケットからハンカチを引っぱりだし、口に当てて体を折った岸は、咳込《せきこ》みながらその笑い声を聞き、夢中で咳を鎮めようと努めた。 「中学生にスコッチを飲ませたようだ」  岸がやっとの思いで顔をあげると、大門がそう言った。 「こんなに注いであるとは思わなかった」 「俺の顔ばかりみつめているからだ。ちっともおまえは変らんな」 「あんまり久しぶりだったからさ」  岸はそう答えたが、頸動脈《けいどうみやく》のあたりからひどく熱いものが登って来るのを感じてうろたえた。 「おしぼりをくれないか」  そばのホステスに言う。ホステスはすぐに立って取りに行った。  だが、おしぼりで誤魔化すのは、間に合いそうもなかった。頬《ほお》のあたりが熱くなり、耳が赤く染まるのが自分でも判った。 「懐《なつか》しいなあ」  岸は息を深く吸ってから言った。 「こいつと俺《おれ》は中学の頃《ころ》の友だちなのさ」  大門は連れの和服の女に言っているのだが、目は岸をみつめていた。  おしぼりが来て、岸はそれを顔に当ててやっとどうにか赤くなった顔を隠した。  だがうれしかった。理屈ぬきにうれしかった。鼓動は早くなりっぱなしで、気分が浮き立っていた。  大門京介。  その名を少年の岸は何度ノートの隅《すみ》に書きつけたことであろう。授業中も、家へ帰ってからも、その名を書いては心を躍らせたものであった。それは、岸の遠い日の秘密であった。     4  ハイランドには高見沢がいた。岸は大門にめぐり会って、しばらく彼の席にいてから高見沢の席へ移った。 「二十五年ぶりだそうだね」  その再会の瞬間は高見沢の席のすぐ前で演じられたから、やりとりが聞えていたらしい。 「親友だったんだ」  岸は弁解するように言った。大門は話がすむまで待っているから、おわったらゆっくり飲もうと言ってくれていた。ところが、実際にはその高見沢とも特別な用件などなく、週末の夜をのんびり飲もうというだけの約束だったのである。 「うれしいもんだね、こういう再会のしかたは」  岸はそわそわしていた。しばらく飲んでいるうちに、高見沢にもそれが判ったと見えて、 「親友が待っているんだろう。二十五年ぶりじゃあ話は尽きんはずだ。僕は一人でも行く所へ行けばこれで結構にぎやかにやれる。かまわずに彼の所へ行ってやれよ」  と言った。 「悪いなあ」  岸はもう少し高見沢に対してましな態度が取れるはずだともどかしく思いながら、髪をちょっと掻《か》きあげて見せた程度で、そうそうにまた大門のところへ移ってしまった。  大門は岸が来るとすぐに席を立った。 「彼を拝借します。何しろ久しぶりなものでして」  高見沢の所へ行ってそう挨拶《あいさつ》していた。  岸はそれを待つあいだに、妙な感覚に襲われていた。それはあの既視感覚に似ていたようだ。  ずっと以前、同じことが起こっていたような気がしたのだ。彼が少し離れた所で大門を待ち、大門は誰《だれ》かに自分が岸をどこかへ連れて行くことを告げている。  それが少年の日のことであることはたしかであったが、どんな場面だったかさっぱり思い出せなかった。 「さあ行こう」  大門に体を押されて岸は我に返った。和服の女が先頭に立ち、三人は一列になってハイランドを出た。 「あの店へは仕事で行ったんだ」  大門はハイランドから少し離れるとそう言った。 「仕事……何をやっているんだ」 「いろいろだ。ひと口には言えん」 「だいたいの方角というものはあるだろう。繊維関係とか建築関係とか」  大門は笑った。 「じゃあ出版関係ということにして置こうか」 「出版か」 「神秘社というのをやっている」 「神秘社……どんな本を出すんだ」 「名は体をあらわす。神秘な本さ」  大門はからかうように言った。和服の女は道案内をするように五、六歩先に立って歩いている。 「おかしなものだ」 「何が」 「二十五年ぶりで会って、いきなり俺、おまえではじまった」 「そうだな。しかしおまえはあの当時、俺のことをおまえとは呼んでいなかったぞ」 「憶《おぼ》えているよ。なぜか君と呼んでいた」 「しかし俺のほうはおまえだ」 「学生時代の友人だけだな。いきなりこんな調子ではじめられるのは」 「軍隊へ行ったことのある連中もそうらしい。何十年ぶりで会って、貴様、と来る」 「まったくだ。……そうか、思い出したよ。君のお父さんは軍人だったんだな」 「戦犯だ。捕虜虐待で死刑さ」  大門はひとごとのように言った。しかしそれももう遠くへ霞《かす》んだ昔のことである。無理もなかった。 「ほかの連中には会うか」 「ほかの連中……」 「同級生たちさ」 「会っているかも知れんな。しかし知るものか。まるで記憶にない。あの学校で憶えているのはおまえ一人だけだ。先生の名も憶えてはいないぞ」  大門が、あの学校で、というのは、彼が中学三年になる時転校して来て、それからまる三年後にまた転校して行ってしまったからである。  彼らは戦後の学制の転換期にいた。だから旧制中学へ入学して、翌年にはそれが新制に切りかわっていた。旧制中学は新制高校になり、旧制のしっぽのような彼らは、その付属中学の形で中学三年をおえると、やっと正規の新制高校の一年生になれたわけである。したがって高校二年まで下級生を持ったことがない。  先に立った女は角を曲がって表通りへ出て行く。二人もそのあとに続いた。 「思い出した」  岸が笑い声をたてた。 「何だ」 「君はピエール・ブランシャールだ」 「何だ。そんなことか」  大門は興味なさそうに答えたが、岸はわざとらしくその顔をのぞき込んだ。 「まだブランシャールの面影があるな」  岸はそう言うと、頭に泛ぶ古い映画の題名を思いつくまま挙げて行った。 「キュピドン酒場、舞踏会の手帖、罪と罰、生けるパスカル、田園交響楽……」 「ピエール・ブランシャールが出た映画ならまだあるぞ」  大門にそう言われたが、岸は思い出せなかった。 「桃源郷、血の仮面……」 「いい俳優だったな」  岸はしんみりと言った。 「ここに線路があった」  大門は表通りのまん中を指さして言った。 「スカラ座は毎日新聞の前だった。二人でよく行ったな。松坂屋の前で黒人兵に呶鳴《どな》られたのを憶えているか」 「君がちょっかいを出したからじゃないか。それをあの黒人兵は、俺がやったと思い込んだんだ」 「子供だったなあ」  大門も昔を懐しみはじめているようであった。  女は信号を待って歩道のへりに立ちどまった。 「こいつは俺の初恋の相手だぞ」  女と肩を並べた時、大門はいきなりそう女に言って笑った。     5 「名刺ぐらい寄越せ」  大門がそう言って手を出したのは、豪華なクラブの中だった。緑色のソファーが円を作っており、その円の中にホステスが八人も入って騒いでいた。 「そうかなあ。君らではもう、ピエール・ブランシャールは判らなくなっているのかなあ」  岸はそう言いながら名刺を出して大門に渡した。もうかなり飲んでいた。和服の女は、〈琴江〉という店のママで、二人はその店に一時間ほどいて、ここへ移って来たのであった。 「俺はうれしいよ」  岸はホステスを三人置いた向こうにいる大門のほうへ、体を乗り出すようにして言った。 「君は立派にやっていてくれた。それだけでもう充分だ」  感情をこめて言ったつもりだったが、その場の雰囲気《ふんいき》は少しも落着こうとしなかった。  それどころか、 「見ろ、これを」  と言って大門が大声で笑い出した。 「精神障害者社会復帰指導協会……。何だこれは」  名刺を左手にかざし、狂ったように笑っている。 「どれ……見せてえ」  若いホステスがその名刺を取りあげる。 「まあ、長い名前ねえ。こんな会社にいたら、電話が掛って来た時大変でしょうね。……はい、こちら精神障害者……者……なんと言ったかしら」 「馬鹿《ばか》。会社じゃない、協会だ」 「長すぎるわよ。ジュゲムジュゲムだわ。ねえ、普段はつめて言っていらっしゃるんでしょう」 「復帰協会、かな」 「それなら言い易いわね」  大門はまだ笑っていた。 「おまえは女学校の先生にでもなったと思っていたぞ」 「あ、そうね。そういうタイプよ」  岸はその店の女たちが、店の豪華さにくらべて少し品が落ちるような気がしている。しかし大門が気に入って通っているのなら、自分も堅いことは言わずに楽しもうときめていた。 「今日は思い切り楽しめ」  大門は岸をみつめて言った。 「ああ、君と会えたんだ。はめを外そう」 「よし、たっぷり楽しませてやろう。で、女房はいるんだろうな」 「いる」  すると大門の表情が複雑な変化を示した。頬のあたりに漂う冷笑的なものがゆっくりと消え、そのかわり、目尻《めじり》のあたりからジワジワとひどく好色そうなものが拡《ひろ》がって来るようだった。 「そうか。結婚したか」 「そりゃするさ」  岸は大門の奇妙な感じの凝視からのがれるように、となりにいるホステスに言った。  さいわいそのホステスはしとやかそうな女で、 「お子さんもいらっしゃるんでしょう」  と訊いた。 「ああ、二人いる。どっちも娘だ」 「いやねえ、これはと思う男性はみんなそうなんですもの」  すると大門が口をはさんで来た。 「芳江、その男が気に入ったか」 「気に入ったなんて、そんな失礼な」  芳江というホステスはへりくだった様子で言った。 「岸、どれでも好きな女を抱けよ。この席にいる女でなくてもいいぞ」  岸はさすがにびっくりした。大門がそういうことをずけずけと言う男になっているのがふしぎだった。 「驚くな」  大門は岸のそんな気持を見抜いたように笑って言う。 「二十五年だ。二十五年あれば、尾をふるわせて泳いでいた小さな虫が、好きな女と結婚式をあげるくらいの大きさになる」  大門の左どなりには、とりわけ蓮《はす》っ葉《ぱ》な感じの若い小柄な女がへばりついていて、 「それ、精虫のことでしょう」  と得意そうに言った。 「そうだ、精虫だ。ここにいるんだ」  大門はその女の手を取って自分の下腹部へ押しあてた。女は大門が手をはなしてもそのままにしていた。 「おまえ、家へ電話して置くなら今の内だぞ」  大門は嚇《おど》すようにそう言った。     6  岸が見たところ、大門はクラブの遊びにどっぷり浸り込んでいるようだった。  岸の身辺にはあまりいないが、そういう人間を満更《まんざら》知らないわけでもなく、彼も適当に大門のペースに合わせていた。  仕事が順調で、金まわりがいいに違いなかった。かつての親友が大変な遊蕩児《ゆうとうじ》に変貌《へんぼう》したという驚きはあっても、それで大門を批判したりする気持はまったく起らなかった。  むしろ、みごとな遊びぶりを賞讃したい気持のほうが強かった。……これで立派にやって行けるのだから大したものだ。そう思っていた。  そして、飲むほどに酔うほどに、少年時代の気分がよみがえり、今夜ばかりは番外にして、とことん大門に付合ってやろうと思いはじめた。  自宅へ電話する気になったのは、十一時半ごろだったろう。 「いま銀座にいる」  妻の信子が電話に出ると、岸は酔いを隠さずに勢いよくそう言った。さっきのしとやかそうな和服姿のホステスが、フロアーのはずれにある電話台のところまで案内して来てくれていた。 「あら、まだそんな所にいらっしゃるの」  信子の声は笑いを含んでいた。夫の珍しい酔い方に気付いたのだろう。 「今日は戻《もど》れんかも知れんぞ」  岸はその反応につけ入って、ことさら威張って言った。 「おやおや、大変な勢いだこと。でも、あまり無茶をなさらないでくださいよ」 「俺はまだ若いんだ」 「おかしなかた。どうなさったの」 「中学、高校と一緒だった親友に、バッタリめぐり会ったんだ。二十五年ぶりだぞ。十七の時に別れてそれっ切りだ。二十五年ぶりの再会なんだ」 「まあ。それでお話が尽きないわけね」 「そうだ」 「じゃあ、玄関の鍵《かぎ》はしめてしまっていいんですか」 「かまわん。戸締りをして火の元を点検して、寝てしまえ」  信子は笑っていた。 「はいはい。でも、くれぐれもあまりはめをお外しにならないように」 「オーケー。オーケーだ」  岸はそれまでよりいっそう楽しくなった。電話を切り、芳江というそのホステスのそばへ行くと、 「連絡おわり」  と言ってきものの肩に腕をまわした。 「とっても愉快そう。あたしまで楽しくなっちゃうわ」 「彼はよく来るのか」  円型の客席の間を自分たちの席へ戻りながら訊いた。 「大門さん……ええ、よくいらっしゃるわ」 「いい男だろう」 「ほんと。ピエール・ブランシャールって俳優さんに、そんなに似ていらっしゃるの」 「ああ、そっくりだ」 「その人もおつむがあんな……」 「髪か。さあ、どうだったかな。昔の映画はみんなモノクロだからな。多分ブランシャールは金髪だったんだろう。白っぽいような気もするが、あんなまっ白じゃない」 「あのくらいのお年で銀髪って、すてきね」 「子供のころは凄《すご》く可愛かった。それこそお人形さ」  席へ戻ると大門の姿がなかった。 「彼はどうした」  すると残っていたホステスが、 「オ・ト・イ・レ」  と区切って言った。 「判ったわ、なんとなく」  席についた芳江は、岸に倚《よ》りかかって低い声で言った。 「何がだ」 「男性でも、子供の頃ああいうのがあるんでしょう。ホモというんじゃないけれど、綺麗《きれい》な男の子を愛しちゃうのが」 「ああ、そんなようだな」 「あたしも小学生のころ、近くにいた中学に行ってる女の子に夢中になってたわ」 「小学生でか」 「ええ。中学のときはもう男の子。同級生だったの」 「ませてやがるなあ」 「変なことなんかしないの。でもその、最初の中学生の女の子の時は、キスされちゃった」 「へえ……向こうも君が好きだったわけか」 「これでも小さい頃はとても可愛らしかったのよ」  芳江は冗談のように言った。     7  大門は閉店までそこに頑張《がんば》っていた。ホステスたちもボーイたちも大門には充分すぎるほど敬意を払っているようであった。 「今日はおまえは家へ帰れん」  大門はそんなことを言いながらみこしをあげた。ボーイが二人とんで来て、鄭重《ていちよう》に送り出す。 「どこへでもついて行くよ」  岸はその夜一度ピークに達した酔いが少し醒《さ》めかけて、割合いしゃきっとしていた。それでも豪快に飲んだ大門とくらべると、ずっと酔っているように見えた。 「強いんだなあ、君は」 「そうだ。何事によらず俺は強い」  エレベーターの前に、二人を送って来たホステスがにぎやかに並んでいた。  と、エレベーターの前で別れを告げる女もいたが、半分くらいはそのエレベーターに乗って一階まで降りて来た。 「ありがとうございました」  季節外れの薄着をした女たちは、二人をビルの出口まで送って来ると、寒そうに肩をすくめながら手を振った。  岸は振り返ってそれへ笑顔を送ったが、大門は気にも留めず大股《おおまた》で歩いた。  するとその先の角に、黒服|蝶《ちよう》タイの男が一人立っていて、大門が近付くと丁寧にお辞儀をして一緒に歩きはじめた。さっきのクラブの男のようであった。  男は外堀通《そとぼりどお》りのハイヤーの溜《たま》りまで二人を連れて行った。 「ご苦労」  大門はハイヤーのドアをあけるその男に、たしか金を渡してやっていたようだが、岸にははっきり見えなかった。  大門と反対側のドアから岸が車に乗り込むと、さっきまであのクラブにいたはずの芳江が前のシートに坐《すわ》っていて、楽しそうな笑顔で振り返った。 「早いでしょう」  岸は呆《あき》れて芳江よりは大門を見た。 「早わざだな」  すると大門は当然だと言わんばかりな顔をした。 「帰さんと言ったろう」 「なるほどね」  岸も遊びなれた風を装って平然と脚を組んだ。ハイヤーの運転手はすでに行先を知っていると見えて、車の流れの中へ巧みに割り込んで行く。  芳江を抱くことになりそうであった。岸は本格的に肚《はら》を据《す》えなければならなかった。  しかし考えて見れば、大門に対抗して、と言うよりは大門に調子を合わせて、なぜ自分がそれほど遊びなれて見せなければいけないのかよく判らなかった。 「二十五年ぶりか」  岸は走り出した車の中でそうつぶやいて見た。大門はシートにもたれて目をとじており、芳江は右側のドアにもたれるように半身に構えて顔を前へ向けていた。  二十五年ぶり。  いくら親友であっても少年時代のことだ。二十五年たてば赤の他人であってもいっこうに支障ないはずである。しかしなぜか有頂天になってしまった。自分の人生の重大事件のように感じてしまった。そして思い切りはめを外すことにきめ、したことのない外泊宣言まで妻にしてしまっている。  これはいったいどういうことなのだろう。……岸は心の中で首をかしげた。 「手をかせ」  大門が目をとじたまま低い声で言った。 「え……」 「さっき久しぶりでお前の手を握った。もう一度握らせてみてくれ」  岸は眉《まゆ》を寄せた。しかし、前のシートにいる芳江が、面白そうにうしろをのぞき込んでいた。 「手か。ほら」  岸は酔った勢いのように、左手首をぶらぶらさせながら大門に差しだした。実際には、酔いはそれほどでもなかった。  大門は泰然としていた。右手で岸の左手をとらえると、それを自分の膝《ひざ》の上へ置き、左の手をそえて、掌《てのひら》で岸の手の甲をさすりはじめた。 「俺も白髪《しらが》になった」  しみじみとした口調であった。 「少しなりかたが早かったな」  岸がつり込まれて同じような言い方になった。芳江は前を向き、坐り直しながら言った。 「男性って、いいわねえ。そんなに長く会わなくても、会えばすぐ親友の昔に戻れるんですものね」 「おまえは関係ない」  それはびっくりするほど冷たい声であった。芳江は首をすくめて沈黙した。大門は岸の手の甲をさすり続けている。 「岸は小さい頃綺麗な子だった。美少年だった」  岸は運転手の存在を気にしはじめていた。左手を引こうとしたが、その手の下で掴《つか》んでいる大門の右手の力になぜか抗しかねた。 「中学三年の一学期にはじめておまえに会った。席がとなり同士だった。高一、高二と、まる三年間、俺たちは離れなかった。教室でも、運動場でも、いつも一緒だった。俺はおまえの家を訪ね、おまえも俺の家へ来た。一緒に映画を観に行き、一緒にコンサートへ行った。判《わか》るか。あれは、俺のいちばん平和な時代だった。おまえと一緒だったという以外に、何事も起こらない平和な三年間だった」  大門は低いがよく透《とお》る声でそう言い、岸の手の甲をさすりつづけるのだった。     8  そのホテルは岸もよく知っていた。しかし大門はそのホテルで、まるで帝王のように振舞っていた。いや、ホテル側でそういう扱いかたをしたのだ。  大門が車を降りてロビーに入ると、ベル・ボーイが素早くフロントのほうからとんで来て、キーをふたつ渡した。 「これは大門さま、これはお連れさまのでございます」  大門は歩きながら自分のキーを受け取って無造作にポケットへ入れた。お連れさま、である岸のキーは芳江が受け取ってくれた。 「酒はどうだ」  大門がバーへ行きそうに言ったので、岸はあわてて断わった。 「いやもう結構。これ以上飲《や》ると参ってしまう」  大門はエレベーターの前でとまった。 「では部屋へ行くか」  六基ほど並んだエレベーターの半分はロビーにとまってドアをあけていた。 「どうぞ」  ボーイが素早くその一つに入ってボタンをおさえながら言う。三人はあとに続いた。するとボーイは大門たちの行く階のボタンを押してさっと外へ出ると、うやうやしくお辞儀をした。それが頭をあげ切らないうちにドアが閉って、エレベーターは昇りはじめる。 「君はよほどこのホテルをご愛用とみえるな」  岸が感心したように言うと、大門は鼻の先で笑った。 「こんな所で田舎者扱いをされてたまるか」  岸はその時になってはじめて、大門から強い圧迫を感じた。  大門は迫力を身に備えていた。岸に向けた砕けた笑顔や喋《しやべ》り方は、彼にしてみればかなり特別なものらしかった。  エレベーターは二十一階でとまった。ドアがあくと大門は躊躇《ちゆうちよ》せずに右側のほうへ進んで行った。歩きながらポケットからキーを出し、その番号もたしかめずにいきなりドアのひとつへそれを差し込んであけた。 「入れ」  振り向かずに言い、スイッチの音をさせて先に中へ入った。芳江と岸は他人の家を訪問する夫婦者のように、おずおずとそのあとについて行った。  続き部屋だった。  大門は大きなソファーにどすんと腰をおろし、背もたれに後頭部を押しつけるようにして背筋をそらせた。 「肩が凝《こ》ったようだ」  そうつぶやくと、まだ立っている二人に顎《あご》をしゃくって坐るよう指図した。 「おまえはあのほうはどうだ」 「あのほうというと」 「セックスだ」 「ああ……」  岸はあいまいに笑った。 「元気かどうか訊《き》いているんだ」  大門はニコリともしない。 「よく判らんな」 「なぜ」 「あまり浮気をしないほうでね」 「ためしてみろ」  大門は芳江をまた顎で示した。 「おまえに馳走《ちそう》する」  馳走、と、大門はひどく古めかしい言葉を使った。それは下賜《かし》する、というように受け取れ、しかも大門が言うと少しも違和感がなかった。 「やあねえ」  芳江はそれが儀礼のひとつででもあるかのように言った。     9  それから間もなくするとチャイムが鳴って、芳江がドアをあけに行くと二人の女がその部屋へ入って来た。  一人は外人、一人は日本人であった。両方ともとびきりの美人で、金のかかったドレスを着ていた。 「こいつらはコール・ガールだ」  大門は情容赦ない態度で言い、ソファーから起きあがると上着を脱いだ。 「おまえらはとなりの部屋だ」  そう言うと、もう二人が出て行くものときめたように、 「風呂《ふろ》の支度をしろ」  と、日本人の女のほうへ命令していた。 「行きましょう」  芳江がそう言って岸をうながした。 「うん」  岸はうろたえて芳江のあとに続いた。 「どうせおまえは朝早いんだろう」 「ああそうだ」  岸は大門の声にそう答えていた。 「そのまま帰っていいぞ。またあとで連絡する」 「判った」  バスルームで水の音がしはじめていた。  二人は廊下へ出ると、その続き部屋のもうひとつ先のドアへ行った。 「ここだわ」  芳江がキーを使う。  ドアがあき、芳江が先に入って灯《あか》りをつけると、 「どうぞ」  と、その部屋の主が客を迎えるように岸を招き入れた。 「お邪魔するか」  岸は冗談のように言って中へ入った。こっちはダブル・ベッドが置いてあった。 「上着をお取りになったら」  ドアをロックした芳江が岸のすぐうしろへ来て言う。岸は素直に上着を脱いだ。 「お煙草《たばこ》は」 「そうか、右のポケットだ」  芳江は岸の上着の右のポケットからセブンスターを取り出して作りつけのデスクの上へ置くと、衣裳棚《いしようだな》の戸をあけてハンガーを外し、上着を掛けてまたハンガーをパイプに引っかけている。  心得ている。岸はそう思いながら椅子《いす》に腰をおろした。カーテンが引かれていて、窓の外は見えない。  芳江はデスクの上から煙草の袋を取りあげ、窓際のテーブルのほうへやって来た。 「不束者《ふつつかもの》でございますが」  本気とも冗談ともつかぬようにそう言ってから、岸と向き合った椅子に浅く腰をおろした。 「君は結婚したことがあるようだね」  岸が言った。芳江はセブンスターの袋から煙草を一本途中まで引き出して、出たほうを岸に向けてテーブルの上の灰皿《はいざら》のそばへ置いた。 「いいえ」 「そうかな」 「結婚したことがあるように見えます……」 「ああ」  芳江は今度はホテルの名を印刷した半透明のカバーからグラスをとり出して上に向け、ポットを取って水を半分ほど注いだ。 「無理もないんです。あたし、結婚したことはないけれど、ある方の持物になったことがあるんです」  持物、とは古いがうまい言葉を選んでいた。 「今はそうじゃないのか」 「ええ」  岸はグラスに手を伸ばし、冷えた水を一気に飲んだ。したたかに飲んだ。喉《のど》を冷たい水がこころよく通りすぎる。 「だめだな、俺《おれ》は。この期《ご》に及んで野暮なことばかり言っている。少し大門を見習わなければ」  芳江は微笑した。 「あなたもお風呂へ……」 「ああ、そうするか」  芳江は待っていたように、すっと腰を浮かすと、衣ずれの音をさせてバスルームへ消えた。  岸は彼女が半分まで引き出して置いてくれた煙草をつまみあげ、咥《くわ》えるとマッチを擦《す》って火をつけた。 「悪くはない」  最初の煙を吐《は》き出す時、低くそうつぶやいた。外泊は公認の形だったし、大門は遊び相手として申し分ないようだった。それに、芳江は妙な負担など感じさせぬように振舞うすべを心得ていた。  まったく、悪くなかった。     10  翌朝、岸は九時ごろその部屋を出た。  全裸のまま睡《ねむ》ってしまった芳江は、岸が起き出す気配を示すと、 「ちょっと待っていて」  と甘えたように言い、カーテンを引いた暗い部屋の中で手早く長襦袢《ながじゆばん》に伊達締《だてじめ》を巻きつけると、足音もたてずにバスルームへ行き、すぐ戻って来てスタンドの灯りをつけた。  ざっとだが寝乱れた髪が梳《と》いてあり、またしても心情のよさを示したのであった。  煙草を咥えて火をつける姿が仇《あだ》っぽかった。 「お目ざよ」  その煙草を持って来て岸の口に咥えさせると、ベッドの横の床に膝をついて倚りかかり、岸の体を覆ったシーツの下へ柔らかい手を入れてまさぐった。 「すてきだったわ」  岸は太腿《ふともも》の内側をまさぐられて体を動かした。 「擽《くすぐ》ったい。灰が落ちるぞ」 「何時にお出になるの」  それが八時半ごろであった。 「九時にはここを出ねば」  岸がそう答えたのは、芳江に対する思いやりであったようだ。土曜日は休みなのであったが、ゆうべ大門はそれに気付かぬらしく、どうせお前は朝早いんだろう、と言っていた。芳江もそれにつられて岸が出勤すると思い込んでいる以上、部屋を出るなら早いほうがよかった。そうすれば芳江もそのあと少しはのんびりできるはずである。  それに、妻の信子に対しても昼前になるべく早く帰ったほうがよかった。 「大変……もう八時半だわ」  そういうと芳江は煙草を取りあげ、片手で岸の手を引っぱって起こしてしまった。  岸も全裸だった。 「いまお湯を出して来ます」  芳江はデスクの上の灰皿で煙草を揉《も》み消し、バスルームへ行って湯の音をたてはじめた。 「そのままでいらして」  バスルームの中で芳江が言う。岸は言われた通り全裸で入って行った。すると芳江はすでに手早く長襦袢を脱いでバスタオルを胸に巻き、頭にもタオルを巻いて待っていた。 「お入りになって」  湯の増えはじめているバスタブへ入って岸が体を寝かせると、 「あたし、ゆうべ夢中だったから点検して置かないと」  と言いながら、素手に石鹸《せつけん》をつけて岸の臍《へそ》のあたりから洗いはじめた。 「浮気がバレたら大変でしょう」  岸はふと、子供の頃《ころ》入院したことを思い出した。七つか八つの時だった。若い看護婦にこうして体を洗ってもらったことがある。それはちょっと照れ臭く、そして大変|贅沢《ぜいたく》な、至れり尽せりの感じであった。 「この子がいけないのよ。あたしをあんなにさせちゃって」  芳江は柔らかい手でペニスを包み込み、丹念に洗っていた。  それはかなり母性的な態度であった。官能よりは安らぎを岸から引き出し、刺激よりも鎮静へ彼を導いてくれた。 「君はいい女だな」  岸は素直にそれを言うことができた。しかし、岸の言い方があまりにも善良すぎたのが逆に芳江の羞恥心《しゆうちしん》を誘い出してしまったらしく、 「ええ、みなさんそうおっしゃるわ」  と、少し依怙地《いこじ》になったように答えた。 「そんなことはどうでもいい」  岸はバスタブに横たわったまま言った。 「君はたしかにいい女だ。俺は君のような女が好きだ」  すると芳江は手を引き、立ちあがって洗面台のコックをひねり、石鹸のついた手を洗いはじめた。 「ずるいわ、こんな時間になってそういうことを言うのは」  手の石鹸を落とすと、歯ブラシの包装を破って小さなチューブの練歯磨《ねりはみがき》をそれにつけ、グラスに水を入れて鏡の前へ並べた。 「あたしはおとなりに泊ったようなコール・ガールじゃありません。でも、必要があればはじめての男性に平気で抱かれてしまう女よ」 「どんな必要」  岸は上体を起こし、湯をとめて言った。バスルームの中が静かになり、岸が動くたびに揺れる湯の音だけになった。 「大門さんに言いつけられたような時よ」  芳江はそう言うとそっぽを向いて表情を隠した。     11  朝食は自分の家でした。  味噌汁《みそしる》と納豆の、どちらも葱《ねぎ》の香がする爽《さわ》やかな食事であった。 「大門さんて、何をなさるかた」  信子が好奇心を顔に溢《あふ》れさせて訊いた。 「出版社をやっているそうだ」 「有名な出版社……」 「いや、それほどではない」 「雑誌なども出していらっしゃるの」 「さあ、どうかな。とにかく昔ばなしばかりでね」 「そうでしょうね。中学の時のお友だちでは」 「あれはまるで兄弟か夫婦のようなものだった。どこへ行くにも、何をするにも一緒で」  信子は頷《うなず》いている。 「中学三年というと、十五ね」 「そのくらいだな」 「そのころの親友と言ったら、人生で一番思い出深い相手でしょうね」 「ああ」 「それは判るんですけれど……」  信子が言い澱《よど》んだので、岸は箸《はし》をとめた。 「何だ」 「いえ、美子《よしこ》のことなんですよ」  岸は内心ほっとした。 「美子がどうかしたか」 「その、親友がいるんですよ」 「いいじゃないか」 「あなたとその大門さんとかのようなのなら、男同士ですし、問題はないんですけれど」 「ほう……」 「ちょっとどうも」 「どんな子だね」 「津山さんとか言うんですけれど……とても綺麗なお嬢さんで、お宅もかなりしっかりしたおうちらしいんです」 「俺もちらっと見たことがあるな」 「ええ、あるはずですよ」  美子は岸の上の娘で、私立中学の二年生であった。  信子の表情から察すると、美子はその津山という美しい女の子と、かなり熱っぽい間柄になっていて、信子は彼女らの何かの現場を目撃してしまっているようであった。 「そう心配はないと思うがな」 「でも、感じ易い年頃ですし」 「そうだ。あの年頃は何につけひどく感じ易くなっている。おまえがへたに注意でもしたら、どうなるか予測がつかなくなる」 「ええ。ですから注意する気などないんですけど、もうほかのお友だちが気付いているらしくて、いろいろからかわれたりしているようなんです」  岸は舌打ちをした。 「弱ったな、それは」 「本当に困りましたわ」 「とにかくそういうことは男親の出る幕ではない。おまえがよく注意して見てやるよりしようがなかろう」 「ええ……」  信子は頼りなさそうに答え、美子の話はそれっきりになった。  居間へ入って朝刊をひろげたが、活字の上を目が走るばかりでいっこう身が入らなかった。  芳江は二十八。二十八でああも心得られるものなのだな、と、岸は昨夜から今朝にかけてのことを反芻《はんすう》していた。  細くしなやかなくせに、豊かであるべきところは人一倍|稔《みの》っている女であった。白く肌理《きめ》こまやかで、それにもまして情のこまやかな女であった。  少し渇《かわ》いていたようだ。  岸は、徐々にしどけなさをくりひろげて行った芳江の嬌声《きようせい》を思い出していた。喉にかかった細い声で、その声を聞かせはじめる寸前には、人差指の腹を噛《か》むようにして耐えていた。  大門の部屋の影響も少なくないようであった。二人の美女を引きいれた大門の部屋からは、岸の指戯がはじまると同時くらいに、あられもないというような程度を通り越した、まるで獣のような女の叫びが聞こえはじめたのである。  たしかにそれに煽《あお》られてもいた。  芳江もしまいには痴《し》れ狂ったようになった。それは岸が少し疲れを感じて、体を入れかえてからであった。  芳江は岸にのしかかり、果ててくれることをせがんだ。下の時、すでに芳江は一度頂きに達していたようであった。  静穏な岸の日々を、冬の夜の猫《ねこ》の声が掻《か》き乱しはじめたようであった。  新聞を読むふりをして、岸はその紙の上に芳江の苦悶《くもん》するような表情を見ていた。     12  その週末、岸は金曜の夜の波乱から遠のこうと努めた……。あれは例外的な一夜だったのだ。あんなことばかりをしているわけには行かんじゃないか……。日曜日の午後、岸は和服姿で散歩に出て、その途中ふと苦笑しそうになった。  行ないすました顔で若い女たちに書道を教えている自分と、芳江をベッドに押しつけて居丈高に責めている自分が、我ながら同じ人物だとは思えなくなったのだ。  しかし、まだ老人ぶる年には間がありすぎる。……しばらく歩くとそうも思った。天秤《てんびん》は金曜の夜のほうへ大きく傾いて、書道を教えている自分がひどくみすぼらしい人間に思えた。  今までの生活は決して間違ってはいない。たとえて言えば、それは模範答案のようなものだ。しかし、まったく次元の異なるところで、まだ若さを残した自分を、思い切り開放してもいいではないか。それが今まで通りの、模範答案的な人生を傷つけない限りにおいて……。  芳江はすばらしい女だ。俺はああいう女を理想に描いていたはずだ。まだ若さの残っている自分に、ああいう女が与えられてもいいはずではないか。もう前後の弁《わきま》えもなく暴走する年でもない。おのれの管理はおのれの力できちんとやって行けるのだ。誰《だれ》にも知られずにああいう女と蜜《みつ》の部屋にこもる時間を持てぬはずはないのだ。  岸はさまざまに考えた。散歩の道すがら、金曜の夜のことから遠ざかろうとする一方で、野放図もない空想を生み出していた。  岸は結局その天秤を水平にしたまま家に戻った。そしてその天秤は、次の週いっぱい水平のままかすかに揺れ続けていたようだ。  芳江は金曜日の午後に協会へ電話をかけて来た。 「あの、少しお話をしたいことがございましたので……」  芳江であることは声ですぐに判ったが、彼女の言い方は岸の職場であることを意識して奥歯に物がはさまったようであった。 「かまわんよ。自由に喋りなさい」  岸は自分の笑いが判るように、わざと声を大きくして言った。 「いいんですの」 「俺一人の部屋でね。電話も直通番号のほうへ掛って来ている」 「ああよかった」 「もっと早くに声が聞けるかと思っていた」  嘘《うそ》ではなかった。岸は芳江からの電話を心待ちにしていたのだ。 「もう一週間……」  芳江の声には情感がこめられている。 「会いたいな」 「本気でそう言ってくださるの」 「本気さ。今夜はどうだ」  芳江は少し黙っていた。 「今夜はだめ」  笑いを含んだ声が聞こえた。 「なぜだ」 「だって、先週はあんなだったでしょう。続けてじゃお家《うち》に無理ですもの」  たしかに今夜芳江と会っても、はやばやと帰らなければ具合が悪かった。 「あしたはだめ……」 「仕事は今日までだ。土曜は休みさ」 「やっぱり週休二日なのね」 「そうだ」 「じゃお願い。あした会ってください」 「ああ。どこにする」 「横浜がいいわ」 「横浜か」 「ええ」  芳江は横浜にあるホテルの名を教えた。 「判った。何時にする」 「なるべく早いほうが」  芳江は甘えるように言った。 「ホテルはたいてい二時から部屋に入れるが」 「じゃあ二時。予約はあたしがしておきます」  どこまでも要領を呑《の》み込んでいる女であった。岸は楽しくなった。 「大門はどうしている」 「あれから一度お見えになったわ」 「また行ったか」 「ええ。何だかお仕事だったみたい」 「そう言えば、この間も仕事のようなことを言っていたな」  ハイランドへ、大門は仕事で来たのだと言っていたような記憶があった。 「じゃあ、あした。お待ちしています」 「よし判った」  岸はうきうきと言って芳江が電話を切る音を聞いてから受話器を置いた。     13  その金曜日、先週と同じように岸は研修室へ行って若い女たちに書道を教えた。書道のレッスンは毎週あるわけではなく、その研修室があいている時に限られていた。それもレッスンはクラブ員たちの希望ではじめから金曜日に限られていたから、研修シーズンになると三ヵ月あまりも集まる機会がないことになりかねない。  宮園悠子は書道クラブの幹事をしていた。岸に対しては代表者として何かと言葉を交す折も多く、先週一緒に新橋まで歩いたこともあって、以前よりいっそう親しみを感じているらしかった。  岸はそういう宮園悠子を新しい目で眺《なが》めはじめていた。実を言えば、二十七歳で信子と結婚して以来、妻以外の女を抱いたのは先週の金曜の晩がはじめてなのであった。  はじめて浮気をして、まだ自分に若さが残っていることを知らされた。男を知り抜いているような、男に奉仕するすべを心得切ったような芳江が、彼の体で痴れ狂わされたのである。しかも彼は、充分なゆとりを持ってそれを楽しむことができた。  浮気の経験がなく女体のあつかいについて無知を自認していた。従って芳江が自分の体にとりのぼせ、我を忘れて悦《よろこ》んだことに、彼は新鮮な驚きとともに自信を持ちはじめていたのである。  そういうことは若い頃の経験より、中年以後の精神的な落着きのほうがものを言うのだと考えるようになったのだ。  宮園悠子に対して、それまで関心がなかったわけではない。しかし、あまりにも若すぎるように感じていたし、妻以外の女性と男女の関係を持つことなど、先週まで考えてもいなかったのである。  だが突然世界が変った。岸は目から鱗《うろこ》が落ちたような感じであった。親し気に話しかけてくる悠子の頤《おとがい》のあたりがひどく気になった。ブラウスの襟《えり》もとから覗《のぞ》いている鎖骨のあたりにも目が行ってしかたがなかった。胸のふくらみはもちろん太いプラスチックのベルトで絞めた胴のくびれや腰の線にも目が行った。  岸はその下にある白い肌《はだ》を目に泛《うか》べていた。いとしいという感情ではなく、ころころと肥え太った仔犬《こいぬ》を庭の土の上につき転がして楽しむように、若い悠子を思いのままに操って楽しみたいと思った。  それはたしかに岸の妄想《もうそう》であった。その妄想はやがて明日の二時に会える芳江のイメージと重なり、重なるとすぐに悠子は消えて芳江だけになった。書道を教えながら岸は土踏まずのあたりがむずがゆくなるのを感じた。明日の情事への期待があふれて、そんなところに溜《た》まってしまったような感じであった。岸は悠子から女の色気を感じたが、心の一方ではその色気の稚さを嗤《わら》ってもいた。  その帰り道、岸はセックスに淡白だと思いこんでいた自分を、評価し直していた。……俺はこれでなかなか多情な男だったのだ。結婚以来みずから好んでそれを小さなわくの中におし込めていたにすぎないのだ。  岸は大門の顔を思い泛べていた。  すでに中学生のときにああいうことがあったではないか。早熟だったのだ。……何が何でも大門のそばにいなければすまなかったその時期の感情をまざまざと思い出していた。大門と離れていると例えようもなくさみしかったし、わけもなくもの哀《がな》しかった。明日の朝大門に会えると思うと胸が躍ったものだった。そしてその追憶は自然と娘の美子の上へ移っていった。  やはり俺の血が流れている。岸はいささか不謹慎な感じでそう思った。思春期のはじめの同性に対するあこがれなど、自分の経験から推してもたいして問題になるまいと多寡《たか》を括《くく》っていた。  美子はいまあの感情のなかにひたっているのだ。岸は微笑《ほほえ》ましくさえ思った。あの頃自分が大門に感じていたものは、男性だったのだろうか女性だったのだろうか。多分そのどちらでもなく、そのどちらでもあったのだろう。しかし大門はあきらかに自分を女性として見ていたような気がする。彼は庇《かば》ってくれた。優しく年下の者のように扱ってくれた。時には弱い者をいたぶって楽しむようにいじめてもいたようである。  岸はそんなことを考えながら中野区|白鷺《しらさぎ》の自宅へ戻った。  その夜おそく、岸は風呂に入り、妻の信子を呼んで背中を流させた。何ヵ月に一度かそういう夜があるのだ。いつの頃からはじまった習慣か岸はもう覚えていないが、それはそのあと夫婦のいとなみがあることの合図になっていた。信子は岸に呼ばれ、 「はいはい……」  と軽く言ってすぐ風呂場へ入ってくると、何の感情も示さず、洗濯《せんたく》や掃除をするときと同じような態度でタオルに石鹸をつけ耳の後ろあたりからわき腹、そして小さな木の台に腰かけている臀《しり》のあたりまで、平均した力で要領よくこすった。 「お湯をちょうだい」  石鹸のついた手を洗うために新しい湯を求めたとき、ください、と言わずに、ちょうだい、と言ったことだけが、信子の合意を表わしていたようだ。  信子は女として決して魅力にとぼしい方ではなかった。素材としては水準以上であろう。しかし彼女はものがたい、小さな社会のわくの中に完全に適応していた。信子にとって度の強い性技は無頼な心がおこす行為であり、こまやかすぎる愛情の表現は淫蕩《いんとう》に通じていた。信子と岸は年齢が三つしか違わず、ことにそういう方面にかけては信子の方がむしろ岸よりもうひとつ古い世代に属しているようなところがあった。従って閨房《けいぼう》のことも積極的に淡白であろうと努め、ほとんどとりみだすということがなかった。かといって禁欲主義者的では決してなく、それはそれなりにセックスを期待し愉《たの》しんでもいるようである。  どちらにしても、芳江に及ぶべくはなかった。岸にしてもかつて用いたことのない体位やテクニックをそういう信子の体にくわえてみる気もなかった。ただその夜彼が風呂場へ信子を呼んだのは明日への期待が大きすぎて、何か後ろめたく、申しわけないような気になっていたからである。  背中を流させたときのしきたりに従って岸が先に夜具の中に入って煙草をすっていると、すぐに風呂場から信子が湯を使う音が聞こえてきた。やがて信子は寝室へ入って来て湯上りの体を岸の隣りへすべり込ませた。岸が煙草をもみ消すと信子は肉づきのいい腕を伸ばして枕許《まくらもと》の灯りを消した。  その時になって岸は体力の温存を計算しはじめていた。過去のどの夜とも一致するように、余分に踏み外さないよう、岸はわずかに信子を愛撫《あいぶ》した後、かさなっていった。  性の歓《よろこ》びとはどうやら相対的なものであるらしい。それでも信子は充分にうるおっていた。すぐに喘《あえ》ぎだし、やがて重い物を持ち上げるときのように息をつめた喉声を発して、岸をきつく抱き締めておわった。まったく相対的なものであった。芳江という女を知ってしまった岸は、いっこうに熱中できず、しらじらとした気持で妻の体からおりた。果てなかったのである。信子は息をはずませながら用意していた紙で夫の体をぬぐった。そのとき岸はまだ屹立《きつりつ》していた。だが信子はそれについての意見や感想を口にするような女ではなかった。自分のセックスから目をそらすように夫のそれに対しても無意識に関心を消してしまうのである。信子はすぐ寝息を立てはじめ、岸はその妻をあつかましいかた太りの肉塊のように感じていた。  そして眠り、夜があけ土曜日になった。     14  土曜の午後でかけて帰りが夜遅くなることは金曜の夜のうちに妻に告げてあった。信子は岸が協会の仕事で出かけると思い込んで疑わなかった。Kホテルの場所を、岸は横浜市の地図でみつけておいた。その地図の記憶をたよりに行ってみると、Kホテルは横浜港の見える山側にあって、思ったよりずっと小さな、そして洒落《しやれ》た感じのホテルであった。  ソファーが二つ置いてあるだけの小さなロビーのつき当たりに短い大理石のカウンターがあって、部屋の番号が並んだ鍵棚《かぎだな》を背に、髪の白い太った老婆がその中に坐《すわ》っていた。 「岸といいますが」  そう言うと老婆は愛想よく微笑して、 「キーは先においでになったお客様がお持ちになりました」  と品のいい喋《しやべ》り方で答えた。 「二〇三号室です。その階段をお登りになって左側の廊下のいちばん外れです」 「どうもありがとう」  岸は軽く頭をさげ古びた赤い敷物を踏んで二階へ上がった。廊下は広く、並んでいるドアは大ぶりだった。かなり古い建物らしい。ドアのそばにチャイムのボタンは付いておらず、岸は二〇三号室の木のドアをノックした。二秒ほどしてそのドアが内側へ開いて、芳江のうるんだ瞳《ひとみ》が彼をみつめた。岸は黙ってかすかに頷いてみせ、中へ入った。岸が後手でドアを閉めると芳江はつま先立って抱きついて来た。長いキスをかわし息苦しくなった二人の顔が離れると、芳江は岸の手を引いて奥へ歩いて行った。 「いいホテルだな。こんなところにこんなホテルがあるなんて知らなかったよ」 「ここは連込みホテルの元祖なんですって」 「ほう、そうかい」 「ええ、戦前からそういうホテルとして有名だったんですって」 「なるほどねえ」  岸は改めて部屋の中を見廻《みまわ》した。そういえば品よくまとまってはいるが、壁紙は淡いピンクのバラの連続模様だったし、ダブルベッドのシーツもピンクのカラーシーツを使っていた。随所にそういった甘いムードを醸《かも》し出す趣向がこらしてあるようだ。 「だから、気にすることはないの。何をしても……」  芳江は照れたような、それでいて期待するような、複雑な微笑を泛べた。 「ここの人たちはなれているのよ。感じなくなってしまったんですって。少しぐらいの声では眉毛《まゆげ》も動かないそうよ。それにほら……」  芳江はドアの方へ足速に行き、 「ドアが二重になっているのよ」  と笑った。 「珍しいな」  廊下からドアを開けて入ると左側がバスルームでその前が狭い通路のようになっている。そしてその通路からベッドを置いてあるかなり広いスペースへ出る境に、もうひとつドアがついているのだ。これなら仮に廊下から踏み込まれても、すぐには情事の現場を見られないですむことになる。 「君は妙なところを知っているんだな」 「あら、それ皮肉かしら」 「とんでもない。これから君について大いに勉強しなくては」 「いやだわ、そんな言い方」 「いやがらんでくれ。俺は本気でそう思っている。俺ははたち代からずっと糞真面目《くそまじめ》な生活をしてきた。このあいだは言いそびれたが、正直に告白すると、結婚以来君がはじめてだったんだ」 「まあ」  芳江は目をまるくした。 「信じられない。だって……」  そう言うと芳江は欲情した目を岸に向けた。二番目のドアのところによりかかって後ろに手を廻《まわ》していた。 「そういうスタイルも似合うんだな」  芳江は衿《えり》の大きい、シャツスタイルの白い絹のブラウスを着ていた。下は焦茶《こげちや》のパンタロン。厚味とつやのある白絹のブラウスの肩のあたりの肉の薄さが、いかにも女らしく、岸は椅子《いす》から立って抱きしめに行きたいような衝動を感じた。 「あたしって、悪い女でしょう」  芳江はそう言いながら二番目のドアを閉めた。窓際へ行きカーテンも閉める。 「夜にしてしまうの。いいでしょう」 「それはかまわんがまだ二時だぞ」 「だってあなたは泊ってはいけないんでしょう」 「それはそうだが」 「お願いがあるの」 「なんだい」 「晩にステーキをご馳走《ちそう》してくださらない」 「いいとも。うまい店があるのか」 「このホテルの一階の向こう側がステーキ・ハウスになっているの。遠くからわざわざ食べに来る人もいるくらいよ」  岸は腕時計を見た。 「何時にする」 「七時か八時」 「よしそうしよう」  すると芳江は岸のそばへ歩み寄って、床の上へ横坐りになり、彼の左の腿《もも》に両腕をのせてそこへ顔をふせた。 「どうしてこんなふうになっちゃったのかしら」 「後悔してるのか」 「こんな気持になったのは久しぶり……」  岸は芳江の髪を撫《な》ではじめた。 「あたし、もっとちゃんとした女でいたかった。あなたのような人とこんなふうになるんなら」 「過去を言ってもはじまらんよ。俺は気にしてなどいない」 「あたしは気になるわ。いやでしようがないの。いろんな目に遭《あ》ってしまったわ。悪い女なの。汚れてしまった女なの」  芳江は低い声でつぶやくように言い続けた。 「あなたに愛してもらう資格なんかない女よ。駄目《だめ》な女なの。あたしをちゃんとした女のようには扱わないで。それでないと、あたしはかえってあなたに近寄れなくなってしまう。奴隷にして。あなたの奴隷にして。あなたに軽蔑《けいべつ》され、手荒く扱われた方があたしは気が安まるの」  いつのまにか芳江は顔を上げ重ねていた両手を離して、椅子に腰かけている岸の脚の間へ入り込んでいた。     15  岸は王のようにその椅子に坐っていた。両わきの腕木の端を手で把《つか》み胸をそらして坐っていた。それは傲然《ごうぜん》とした坐り方であった。芳江はその王に仕える奴婢《ぬひ》であった。彼女は王が椅子から立つことをよろこばなかった。彼女は王の椅子をめぐりながら、王の衣服を一枚一枚丁寧に剥《は》いでいった。天井の中央にある大きな灯りを消し室内に散らばった四つのスタンドのスモールランプだけにしたほの暗い光の中で全裸にされた王が、椅子に傲然と坐っていた。芳江はまだ服を着たままであった。踵《かかと》の高い靴《くつ》さえ脱いではいなかった。彼女はその高い踵をパンタロンの裾《すそ》から覗かせて、王の股間《こかん》にひざまずいていた。ひざまずいて、唇《くちびる》だけで王に奉仕していた。それ以外の部分では王に触れようとはしなかった。王の肉体は猛《たけ》り狂っている。彼女はうっとりと目を閉じ白く細い頸《くび》をゆっくりと上下させていた。彼女はときおり顔を右に向け、左に倒した。椅子の腕木を把んだ王は背筋を伸ばし胸を張り、顎《あご》を引いて彼女を見降していた。彼女は急がなかった、ゆるく、ゆるく、際限もなく頸を動かし続けた。昂《たかぶ》った王は、悦びを与えられるのみで、果てることを許されなかった。 「芳江……」  とうとう王が言葉を吐いた。芳江は顔を引き左手を王のそれにあてると、やっと唇を離して上目づかいに王をみつめた。王は相手の名を呼んだだけで何も言わなかった。芳江は唾《つば》を飲み込み熱っぽくささやく。 「判《わか》った……。悪い女なのよ」  自分の唾液で濡《ぬ》れそぼったものを、彼女は包むようにあてがった。掌《てのひら》で微妙にゆすりはじめた。二人はみつめ合っていた。掌は動く速度を増してゆく。 「悪い……女でしょう」  見つめ合ったまま、また芳江がそう言った。見つめ合ったまま、王は下唇を噛む。王の目に訴えるような光が生じた。芳江はその変化を読み取って掌の動きをいっそう早くした。王の右肩が急に動いた。芳江の腕の動きが止まる。王は芳江の手首をきつく握って彼女の動きを止めさせてしまったのだ。 「こいつ……」  芳江の手首をつかんだまま王は立ちあがった。把まれているので芳江も一緒に立ちあがった。 「いたい」  岸は芳江の左手首を背中へ廻させて、肩胛骨《けんこうこつ》のあたりへ押しつけるようにしていた。 「あたりまえだ」  岸は素早く芳江の手首を左手に持ち代えると、空いた右腕を彼女の体の前へ廻して引きつけた。 「いたい」  芳江は前よりずっと細く、ねばるような声で言った。 「生意気なことをするからだ」  岸はそう言うと白絹のブラウスの上から彼女の胸をつかもうとし、ブラジャーをしていたことに気付くと、がむしゃらにブラウスのボタンを外しはじめた。ボタンを外すとそのすそをパンタロンから引き抜き背中へ手を入れてブラジャーを外した。肩紐《かたひも》のないブラジャーは、ほんのわずかのあいだ彼女の胸にへばりつくようだったがすぐに外れて床に落ちた。  岸は芳江の手首を離すとブラウスの衿に両手をかけて引き降ろしざま、彼女の背中をトンと突きとばした。芳江は突きとばされて三歩ほど前へのめりダブルベッドに膝《ひざ》をぶつけてうつぶせに倒れ込んだ。  岸はそれでブラウスを脱がせたつもりであった。だが長袖のブラウスの袖口《そでぐち》が二重のボタンで止めてあってブラウスは肘《ひじ》のあたりまでめくれただけであった。  芳江は裸の背中をさらしてベッドに倒れている。  全裸の岸は素早く近寄ってブラウスを把み上へ持ち上げた。袖口のボタンで引っかかったブラウスは、芳江の両腕を後ろへ高く反らせることになった。 「ごめんなさい……」  そういう芳江の声は妖《あや》しいまでに甘かった。それは男の征服欲を燃えたたせる効果があった。  岸は我を忘れた。ブラウスをもみくちゃに丸めると、芳江の両手は後手に括られたようになった。事実、岸はそのブラウスで括ってしまおうとした。芳江はそれに抵抗するようにベッドの上でうつぶせのまま両肩をゆすったが、どういうわけか両手首の自由を得ようとはせず、下手人を演ずる役者のように、縛られた形を崩そうとはしなかった。     16  岸はベッドのすその方に立って、漠然《ばくぜん》と芳江の白い体をながめていた。我に返ってみれば、自分がそんなことをしたのが信じられない気分であった。  なんと芳江はそうされるための仕度をしてきていたのだ。  彼女は後手に括《くく》られ、二の腕のあたりへかなり太めの縄をかけられていた。  縄《なわ》。いや正確には紐《ひも》であろう。しかしそれは直径三センチほどもある太い縄であった。それは柔らかい布で作った三本の細紐から成っており、ロープのようにその三本が撚《よ》り合わされていた。きつく縛っても肌を傷つけず、見た目にはかなりものものしい効果があった。  ブラウスで仮りのいましめを受けたとき、芳江はその姿勢のまま衣裳棚《いしようだな》にある紙袋の中を見るように言った。言われたとおりにその紙袋を見ると三本の紐を撚り合わせた太い綱がとぐろを巻いているのであった。  岸はそのまがまがしさに煽られて猛り狂った。綱をわしづかみにすると残りをずるずるとひきずって芳江の傍に馳《か》け寄り、※[#「手へん+宛」]《も》ぎ取るように両袖のボタンを外すと、ブラウスを完全にはぎ取り、投げ捨て、その柔らかい綱で締め上げたのであった。  下半身はまだ焦茶のパンタロンをまとい、その裾がまくれ上がって踵の高い角張った靴を覗かせてベッドの上へ仰向けに転がった芳江は、どうかすると少年のように見えるのであった。しかしその胸は手荒いいましめを受けていた。左右の白い丘の頂は、幾重にも交錯した綱によって奇妙な方向にねじれ、歪《ゆが》み、本来あるべき形よりもはるかに強く、それが女体であることを訴えていた。  いましめを受けてからの芳江の瞳は怯《おび》えと、哀訴の弱々しい色に変わっていた。 「おねがい、乱暴にしないで」  岸はそれをはじめのうち一種の演技であると思っていた。綱を用意して来たことが、疑いもなく彼女のそうした嗜癖《しへき》を示していた。だから演技に違いないと思ったのである。  しかしそれはなかば以上本心から出た言葉であった。そのような加虐遊戯になれない岸は、おのれの異常な行動に興奮して、遊戯以上の力をこめてしまいがちであった。 「これ以上は、乱暴にしないで」  そんな風に芳江の言い方が微妙な変化を示したとき、岸はやっとそれに気づいた。  要するにこれは遊びなのだ。そう理解すると岸は奇妙な冷静さを取り戻《もど》した。ひどく興奮しているくせにどういましめれば女体がよりつややかに見られるか、何が芳江を悦ばすのか、それを客観的に考えはじめたのであった。芳江は岸の手で何度も解かれたり、いましめられたりした。いつの間にか芳江は全裸にされていた。綱はかなり長くどんないましめ方も自在であった。綱によって花芯《かしん》を隠すことを許されなくされた芳江は、泣くような声で岸に許しを乞《こ》うた。  しかし岸は許さなかった。芳江が羞恥《しゆうち》し許しを乞う言葉を吐くときは彼女がもっとも悦びを味わっているときであることが判っていたのである。花芯をあらわにされたとき芳江はもっとも激しく許しを乞うた。つまり彼女は最大の愉悦に身をゆだねていたのだ。  岸は花芯をもてあそんだ。そこはぬめりにぬめり、熱く熟《う》れていた。  岸は目撃した。芳江が胸を反らせて達するとき、それが痙攣《けいれん》するさまを。彼の手が女体に対してそのように圧倒的な勝利をおさめたことは一度もなかった。あの狂熱と冷静さの見事に入り混った感覚のなかで、岸は嵩《かさ》にかかり勝者のゆとりを持って芳江を翻弄し続けた。  岸はそのとき驚くほどたくみであった。芳江はと言えば、これはまた憐《あわ》れなほど脆《もろ》かった。二度三度……。芳江はいましめを受けたまま岸の指技に陥落した。陥落までの時間は見る間に短くなりはじめた。 「おねがい……」  芳江の言葉の意味が変化した。岸は需《もと》めに応じ、おのれをそこに臨ませた。浅い接触だけで白かった芳江の肌が見る見る桃色に染まりうわごとのように様々な言葉を吐きちらした。芳江は岸を愛しており、待ち望んでおり、おそれており、かけがえのないものとして大切にされているのだそうであった。芳江はその状態で、岸のごく軽い動作に屈した。屈している間岸は待たねばならなかった。待ったあと岸はさらにおのれを進めた。手足の自由を奪われた芳江は花芯の動きだけで岸をむかえ撃たなければならなかった。岸がついに断固とした行動に出たとき、芳江は白目を剥《む》いた。もう叫ぶこともなかった。最奥の愉悦が噴きだして岸に熱を感じさせ、あふれて流れた。岸が果てる少し前に、芳江は弛緩《しかん》し、岸はしばらくの間まったく抵抗のない眠ったような女体で悦しまねばならなかった。     17  勝利ほど男を酔わせるものはない。  岸は芳江によって、生れてはじめて男のよろこびを教えられていたとも言える。かたちこそ違え、芳江が悦楽の淵《ふち》に沈むたび、岸も悦《よろこ》びにうち震えていたのであった。  いましめを解かれたあと、芳江は岸の胸にすがりついて泣いた。岸はそれを、真に女が男を愛した時の形であろうと思った。 「もうあなたなしでは……」  生きて行けないと言う。  それは極めて月並な台詞《せりふ》であったかも知れないが、それだけに岸を有頂天にさせた。 「俺《おれ》ももうお前を離さん。おまえは俺の女だ」 「お願い、捨てないで」  二人とも、すでに燃え尽きていた。しかし心が熱くほてり、とめどなく愛の言葉を吐きつづけていた。  やがて二人は少し眠り、すぐ起き出して衣服を着けると、腕を組んで一階のステーキ・ハウスへ向った。  そこに大門が待っていた。  はじめそれは偶然のように思えた。だが実は、そのホテルこそ大門の秘密の愉しみの舞台だったようである。  顔を合わせた時、大門はニタリと無気味に微笑した。 「何だ、隅《すみ》に置けん奴《やつ》だな」  大門は褒《ほ》めそやすように言い、テーブルを共にするよう提案した。岸に否やのあろうはずはなく、大門とその連れの女と一緒に、岸たちは血のしたたるような肉を賞味した。  食事の途中、ワインが空になり、もう一本追加された。四人はほとんど均等にそれを飲んだ。  うまいワインであった。もちろんステーキも最高の味であった。食事のあと、大門は太い葉巻を岸にも与え、二人でくゆらしながらしばらく雑談をかわした。 「何時に帰るんだ」  席を立ってレジの前へ行った時、大門は伝票に手早くサインをしながら訊《き》いた。 「まだ二、三時間はいいだろう」  大門の出現で、岸は予定より少しホテルにいる時間を延ばす気になっていた。 「それなら俺の部屋へ寄っていけ。面白いものを見せてやる」  大門は岸の好奇心をそそるように言った。 「ほう……」  岸はあいまいに答えたが、内心大門の部屋へ行くことに期待しはじめていた。このあいだの晩、となりの部屋から聞こえた叫びを思い出したからであった。  言うなりに大門の部屋へついて行ったが、まだ人の寝た形跡のない巨大なベッドがあるだけで、何も目先の変ったものは見当らなかった。 「何もないじゃないか」  岸が言うと、大門はいきなり自分が連れていた女をつかまえて、乱暴にベッドへ抛《ほう》りあげた。女は悲鳴をあげてベッドの上にはずむ。 「この女が面白いんだ」  大門は少年の昔にかえったように、ふわふわと揺れるベッドの上へとび乗ると、奇妙な踊るような足どりで女のところへ行き、その着衣を剥ぎ取ってしまった。  彼女は髪を男のように刈りつめていた。芳江にくらべるとずっと骨ばっていて、中性的な感じであった。それに、大門でなくても軽々と扱えそうな華奢《きやしや》な体つきであった。  そのとき急に灯《あか》りが消えた。ドアのところでスイッチを切る音がしたから、その近くに立っていた芳江が消したに違いない。  まっ暗な中に立っていると、かすかに香水の匂《にお》いが漂って来た。それは芳江のものではなかった。  とたんに岸はうしろから羽交い締めにされた。驚いてそれを振りほどこうとしたが無駄《むだ》だった。相手の力のほうが遥《はる》かにまさっていた。  大門であることはすぐに判った。  羽交い締めにされた岸の耳朶《じだ》を、男の息が擽《くすぐ》っていた。 「おまえは俺と何度キスをした」  大門がささやくように言った。 「…………」 「言え」  大門の声は岸の心から何かを奪い去って行くようであった。 「言え」 「…………」 「言え」  岸はかすれ声で答えた。 「忘れた」 「思い出せ」  大門は暗い中で、背後から岸の耳朶を唇ではさんだ。言いようのない戦慄《せんりつ》が岸の背筋を駆けあがった。  その戦慄は、少年の日の記憶に直結し、まざまざとそれを思い出させた。 「思い出したろう」  大門が耳朶から唇を離して、岸の心理を見抜いたように言った。 「…………」 「もっと思い出せ」  耳朶を、襟首《えりくび》を、大門の唇が這《は》った。  これだ……。  岸はそう思った。遠い日の鮮烈な悦びが胃のあたりを中心によみがえっていた。  暗がりで、衣服の下で、岸はみるみる怒張した。するとそれを待っていたかのように、嗅《か》ぎなれない香気の主が、岸の服を剥ぎ取りはじめた。岸はさせまいと脚を動かしかけた。 「動くな」  大門が羽交い締めの力を強くした。肩のあたりに痛みが走った。そして岸は、その痛みよりも、大門の制止する声に体を痺《しび》れさせていた。  靴を脱がされ、下半身を露出させられた。少し萎《な》えかけた岸を、柔らかく含んだ唇があった。 「和子《かずこ》。最高によろこばせてやれ」  岸の前にひざまずいているであろうその女の名は、和子であった。岸は抵抗しようもなく昂りはじめた。和子は巧みであった。そして大門は強力だった。  岸は身動きもできないでいることに奇妙な安らぎを感じた。拒否することも許されないということは、拒否しなくてもいいということであった。  自己放棄、他力本願。……すべてはおのれの責任ではないのだ。 「俺たちが下で最後に飲んだのは、特別強力な媚薬入《びやくい》りのワインだ。俺もおまえも女たちも、今後はもうとめどがないのだぞ」  大門は耳もとでささやいた。 「あたしを縛ったのよ、この人」  芳江の声がした。 「芳江は悦んだろう」  大門はまた岸にささやいた。和子の唇がいったん離れ、それとは別に岸の足首を縛る手があった。感触から考えて、それはさっき芳江を縛ったのと同じ綱であるようだった。 「足を揃《そろ》えて」  芳江の声が下でした。 「言う通りにしろ」  大門が命じた。岸は彼の命令に従う為に生れて来たように感じながら、足を揃えた。  太く柔らかい綱が足首から臑《すね》、そして膝から腿へと巻きついて来て、太腿のあたりでとまった。結んでいるらしい。 「もう動けん」  大門はそう言い、腕を離した。芳江が立ちあがったらしく、すぐ上半身を裸にされた。     18  赤く薄暗い照明の中で、岸は巨大なベッドに仰臥《ぎようが》した芳江を見ていた。  岸自身は壁に倚《よ》りかかっていた。と言うより、立てかけられていた。あの綱が、彼の両手両足の自由を奪って棒のようにさせてしまっていたからである。  その前にひざまずいているのは全裸の和子である。ベッドの横に引き緊《しま》った裸体を見せているのは大門であった。 「おまえに本当の悦《よろこ》びを教えてやろうと思ってな」  大門は無表情に言った。 「なぜ教えてやろうとしているか、そのわけはおまえにも判っているはずだ」  大門はベッドに片膝をかけて言った。 「おまえは俺の初恋の相手だ」  大門は岸の股間を指さした。 「俺はそれを知っている。よく憶えている。女たちを知ったあとも、それをよく思い出した。おまえは俺のこの手ではじめての悦びを知ったはずだ。あの時に見せたおまえの美しい顔を、俺は一生忘れないぞ」  大門はベッドの上へあがった。 「これは俺のいちばん新しい女だ」  大門は芳江に触れながら言った。 「芳江をおまえに与えたのは、久しぶりに会えた俺の心づくしだったのだ。どうだ、堪能したか」  岸はこくりと頷《うなず》いた。その下で、和子がまた愛撫しはじめていた。 「おまえはあれからくだらない人生を歩んでいた。それはおまえをひと目見て判った。愚にもつかないものを恐れ、とるに足らないことに拘束されていた。ええ……いつまで生きる気だ。人間はすぐ死んでしまう生き物なんだぞ。女房や親類や勤め先の人間にどれほど信頼されようと、決して名誉なことではない。それはおまえが彼らにとって単に無害な存在であるというだけのことじゃないか。自分を悦ばすために生きたことはあるのか。あるまい。だがこれからは違うぞ。俺はもうおまえを離しはせん。俺と一緒に死ぬ日まで生きるのだ。この女の悦びを悦び尽し、自分が味わうことのできる悦びを味わい尽すのだ」  大門は心得切った様子で芳江を責めはじめていた。岸はついさっきまでの女体に対する自信が、粉々にうち砕かれるのを感じていた。大門はそれほど巧みだった。芳江はまるでころころとベッドの上をころげまわっているように見えた。  芳江は甘い声を発しはじめた。その声に応えるように、和子が本格的に岸の体に触れはじめていた。  大門は、実際に岸を教育しようとしていた。ありとあらゆる角度から芳江を侵し、すぐにやめてまた別の角度から侵して見せた。  芳江はたえずころころところがりながら、大門を迎え、しだいに嬉声《きせい》を高くして行った。 「神などおらん」  大門は叫ぶように言った。 「神がいたらこんなに命が短ろうはずがない。人間はすぐ死んでしまう。生れてすぐ死んでしまう。しかもこんな悦びを俺たちは持っている。いったいどうしろというのだ」  芳江は大門の体に白い脚をまきつけていた。心よりも体が、大門の岸に対する教育をやめさせたがっているのだろう。 「やめて、もういや……」  大門が彼女の中から逃げだすと、彼女は狂ったように喚《わめ》いた。  和子は慎重に岸を刺激し、暴発させないでいた。  もう岸にはそれがこの世のものかどうか、判らなくなってしまっていた。媚薬のせいか精力がこんこんと体の奥から湧《わ》きだして来るような気がしていた。 「大門……大門……」  おのれの愉悦を告げるかわりに、岸は友の名を叫んだ。 「あなた……あなた……」  それに応えるかのように、芳江は大門の体の下でそう叫んだ。 「岸……」  大門が喚いた。ベッドが激しく軋《きし》み、芳江の体が大門の下でガクガクと揺れた。 「きしいぃ……」 「だいもおぉん……」  二人は視線を粘っこくからみ合わせ、名を呼び合った。和子の頭が激しく動いていた。 「岸」 「大門」  最後に短く叫び合うと、大門の頬《ほお》に痙攣のようなものが走り、岸は口を大きくあけて息をつめた。  離れた二人が同時に吐いた。  目はみつめ合ったまま。 「岸、俺と死ね」 「よし」  二人は絆《きずな》を新しくした。     19  岸は相変らず実直に職場へ通っていた。その内部がまるで変ってしまっていることに気付く者はほとんどいなかった。  ただ、宮園悠子だけは岸の変化に気付いていた。彼女の目からは、近頃岸がひどく淋《さび》しそうに見えるのであった。 「露、という字の位置はこのあたりでいいのでしょうか」  昼休みに岸の部屋をおとずれ、色紙を出してそんな質問をした。 「ほう、熱心だね、君は」  岸は色紙を取って眺《なが》めた。 「山人の折る袖匂ふ菊の露、うちはらふにも千代《ちよ》は経《へ》ぬべし。俊成《しゆんぜい》か。なかなか上達したじゃないか。これならもうどこへ出しても恥ずかしくない」 「岸さんにそう褒めていただけると、とても張り合いが出ます。でも、まだ散らしかたがうまく行かないんです。いつまでもお手本通りでは、なんだか理屈がよく呑《の》み込めませんし」  岸はちょっと首を傾《かし》げた。 「そうだね。まあ露の字の位置はこれでいいとしても、全体が揃いすぎて味というものがない。たとえば色紙はこう持って、右からこう書いて行くものだろう」 「ええ」  悠子は岸のほうへ肩を寄せて頷いた。 「そうすると、一気にさらさらと書きあげた場合、左のほうの字は筆尻《ふでじり》が右へ寄りがちになるはずじゃないか」 「そうですわね」 「ところがこれはみなどの行もまっすぐ下へおりている。お稽古書《けいこが》きだからこれはこれでいいが、前に手本を置いてそれを見ながら慎重に書いたことはすぐに判るよ。自分の詠《よ》んだ歌だと思ってごらん。よく歌を理解して、その上で作者と同じ気分になって一気に書けば、散らしかたも何もない。味もおのずからあらわれるというわけさ。ここまで来たら、歌や字句の解釈の度合がきめ手になる。これから君はそっちのほうを少し勉強するといい」 「よく判りました。岸さんのおっしゃりかたが、あたくしにはいちばん納得が行くんです」 「そうだ、歌のことについてはいい人がいる。ちょっと君を連れて行くような場所にいる人物ではないが、一度会って見ないか」 「あたくしの行くような場所でないと言いますと……」 「なに、銀座のバーさ」  すると悠子は得意げに笑った。 「あたくしだってお酒くらい少しはいただけますのよ」 「ほう、これは驚いた。じゃあお伴《とも》願おうか」 「はい、そういうことでしたら、いつでも」  悠子はいっぱし世なれた風に答えた。     20  悠子はハイランドへ連れて行かれた。ハイランドはどうやら大門の金が出ている店らしく、事前に連絡すると、大門が悠子をそこへ連れ込むように指示したのだ。 「おまえの初舞台だ。俺は顔を出さないから適当にやって見ろ」  大門はたのしそうな声でそう言って電話を切った。  悠子はハイランドを一目で気に入ったようであった。 「本格的なバーなんですね」  他愛もなかった。  例の媚薬がすぐに与えられ、二十分もたたないうちに目を潤《うる》ませ、けだるげに溜息《ためいき》をついた。 「君は美人だ」  岸はありきたりの言葉をつらねた。 「君のような美人と、もっと若い時にめぐり会っていればなあ」  悠子はそれを恥ずかしがりもせず、うっとりと聞いていた。 「僕は家庭を築くことに失敗した男だ。もうやり直せない」 「そんなこと……」  悠子は潤んだ瞳《ひとみ》で否定する。 「今の僕は、君を眺めて暮しているだけなんだ」  岸は面白がって歯の浮くような言葉を並べた。そんな単純なひとことひとことで、悠子の心がガクリ、ガクリと大きく傾いて来るのが読みとれ、その脆さを楽しんでいるのだった。  あたくしも岸さんをお慕いしていたのです、という言葉を悠子が吐《は》いたのは、ハイランドへ入って一時間もたたない頃《ころ》であった。 「その男、今日は休みらしい」  スツールをおりてレジで勘定を払い、まるでそれを尋ねに行って来たように悠子に告げた。 「これから横浜へ君を連れて行きたいんだ」 「横浜でしたら……あたくし藤沢ですから」  ハイランドを出ると、悠子は岸の腕にすがるようにして歩いた。お互いの服地を通して、悠子の胸の膨《ふくら》みが岸の二の腕のあたりにはっきりと感じられた。悠子は肩をすぼめるようにして、自分から押しつけているのだった。 「車にするよ。大丈夫かい」  酔いのことを尋ねた。 「そんなこと、いちいちお尋ねにならないでください」  悠子は岸を押すようにして言った。 「有難う」  岸は声をつまらせるように言う。 「何もかも、すべて僕にまかせると言ってくれるんだね」  悠子は黙って歩きつづけた。その沈黙は明らかに肯定の沈黙であった。  タクシーの中で、悠子は頭を岸にもたれかけさせていた。清潔な髪の匂いの中で、岸は悠子をかかえ込んでいた。 「こんな急に君とこうなるとは思わなかった」  岸は悠子の感情の進行具合を考えながら、さりげなく事態を確認させて行った。 「明日からもう、君は僕の恋人だ」  悠子はこくりと頷いたりしている。  あの媚薬は予想以上に強力だったようである。ホテルの前でタクシーを降り、小さなロビーの奥の大理石のカウンターへ向かいながら、 「僕の女になってしまうことを後悔しているかい」  と言うと、うらめしそうな目でみつめる始末であった。  それでも岸は、部屋へ入るとシャンパンを奮発して取り寄せ、乾杯させた。 「僕らの夜のために」  悠子は岸をみつめて一気に飲みほし、グラスを持ったまま、 「あたし、はじめてなんです」  と震え声で言った。岸はその震えが怯《おび》えのためではなく、期待のせいであることを見抜いていた。 「優しくする。とてもとても優しくしてあげる」  岸は立ちあがり、悠子にグラスを置かせると、床に両膝《りようひざ》をついてゆっくりと顔を近づけて行った。悠子は目を閉じ、それを受けようとした。  しかし、顔の位置は岸のほうが下であった。悠子は一度閉じた目をあけると微笑し、しばらく岸をみつめてから、顔を寄せて来た。  悠子が唇《くちびる》を授ける形になった。岸が受身一方なので、とうとう悠子は彼の顔を両手ではさみ、そのことでいっそう積極的になって唇を押しあてた。岸は気づかせぬ程度にゆっくり用心して唇を開いて行った。すると悠子は胸を反らせて岸の胸に触れたそうな動きかたをしたあと、急に深いキスにのめりこんで来た。唇を合わせたままためしに岸が上体を引くと、悠子はガタンと椅子《いす》からすべり落ちてついて来た。  もう意の儘《まま》であった。  立たされ、運ばれ、灯りが消えたのを意識するゆとりもなく、悠子は剥《は》がれ、撫《な》でられ、そして溢《あふ》れた。暗い中で抱きしめ、体を交えたまま動きを中断した岸が、 「君の裸を見たい。この夜の思い出に」  と言うと、すすり泣くような息と共に頷いた。 「灯りをつけるよ」  岸は断わってからスタンドの灯りをつけ、交わったまま上体を起して、 「床に立って欲しいんだ」  とせがんだ。悠子は焦点のぼけた目をあけて、微妙に腰を左右に揺らせた。多分いやだと言いたかったのだろう。床に立ってヌードを岸の目にさらすことより、岸と体を離すことを……。  岸はそれも見抜いていた。ゆっくりと体を離すと、悠子の肉感的な唇が、ひくり、ひくりと二度ほど動いた。熟《う》れ切ったその体は、もう登りつめる寸前だったようである。  悠子はもぞもぞと起きあがり、ベッドをおりた。おりる時、一度ふらりとよろめいたが、両腕を交差させて岸が示したベッドのすその床に立った。 「綺麗《きれい》だ」  岸は言った。悠子は早く彼の体の下へ戻りたがっているようだった。 「もうだめなんだぞ」  そう言うと、わけも判らずにまたこくりと頷く。その懸命な様子がいじらしく、 「おいで」  と岸は手まねきした。  戻って来た悠子は、すっかり思い切りがよくなっていた。かすかだが腰を反らせて岸を待っていた。 「おまえはもう俺の女だ。もうだめなんだぞ」  暗示をかけるように言いながら、再び岸がつらぬいた時、悠子は高い声をあげて下肢《かし》を硬くした。  生まれてはじめて、女の悦びを感じたのだ。岸はその反りぎみの硬直へ、衝撃を加えはじめた。長い優しい時間がおわり、悠子ははじめてにしてはひどく泥深《どろぶか》い淵へ墜ちて行かねばならなかった。  悠子は必死に喚いていた。先を曲げた十本の指が空を掴《つか》み、すぐ岸の背中があることを悟ってそこにしがみついた。 「悪魔……」  我に返った悠子が最初にささやいた言葉がそれであった。     21  岸の漁色の日々が始まっていた。まったく手当りしだいという他はなかった。  そうなると怖いものなしで、たいていの女は呆気《あつけ》ないほど簡単に彼の手中に陥ちた。少し手ごわい相手は大門が力を貸してくれた。  岸は性についての約束ごとがいかにくだらなかったかを思い知った。人間の体はそういうよろこびを得るように出来ているのだ。かつて、そのよろこびの生理的なメカニズムは、種の存続のために成立し、存在したことであろう。 「もともとセックスは苦痛のはずなんだ」  大門はある時そう言った。 「苦痛では人も獣も、いや鳥も魚も花も木も、アメーバのような下等な生き物でさえ、それを拒否するに違いない。そこで快楽が必要となるのだ。苦痛をごまかすために」 「セックスは本来苦痛なのか」 「そうさ、考えてもみろ。自分の生命を他に移すんだぞ、麻酔もない時代、自分の皮膚を他人に移植することは、苦痛でしかあり得ないだろう。人間の痛みをやわらげる、あるいはなくしてしまう技術が現われなければ、皮膚などの移植を実用として考える人間などいはしなかった。移植すれば最も愛するものが救われると判《わか》っても、移植を神が許すとは思わなかったろう。それは苦痛のせいだ。苦痛があるから移植の発想がないのだ。夢のような話として移植を考えたとしても、そこに神の存在をおくことによって否定してしまっていたのだ。それと同じことだ。移植でさえそれだからおのれの生命を他に放出しあるいは、異質な他人の生命をおしつけられることは苦痛でしかないはずじゃないか。例えばアメーバが最初の分裂をしたとき、アメーバは苦悶したに違いない。不思議な力で体を引き裂かれたのだからな。がそれでは次の増殖はできない」 「アメーバにも快感があるとそう言いたいのか」 「そうだ。彼らが何らかの快楽を得ていないと言い切れるか。自分自身のことを考えてみろ。おまえは種の保存のためにセックスをするのか。そうではあるまい。セックスにはまず快楽があり、次にそれを求める欲望がある。快楽をめざして欲情し、快楽を得るのだ。子供に小遣をやって使いに行かすのと同じ理屈だ。どこかで苦痛と快楽がすり変っている。セックスとは、その一回一回が小さな死ではないのか。たしかにセックスは一回ごとの死だと俺はそう思っている。死とひきかえに快楽を得ている。昔のモラリストたちが快楽を否定したのはたわけたことと言う他ない。それならば死をも否定しなければなるまい。セックスの快楽と死は同じものではないか」  なぜ大門がそんなことについて多弁になるのか岸にはよく判らなかったが、つき合えばつき合うほど大門の享楽の仕方は度が外れており、ことセックスに関しては変質症的であった。  最も顕著なことは、女に対して大門が特定な好みのタイプを持たないことであった。Kホテルで彼らに奉仕した芳江と和子にしてからがまるで違ったタイプであった。ひとりはしなやかでひとりは骨張っていた。  しかし、その程度のことなら別にとりたててどうということはなかった。芳江と和子もそれなりに美しかったし、似たような年齢でもあった。  岸が大門の異常な性格に気付いたのは偶然彼があるホテルに女を連れて入るのを目撃したときであった。初め岸はそれは大門のセックスの相手だとは思わなかった。なぜならそれは大門が経営している、神秘社という出版社のあるビルの掃除をしているおばさんだったからである。  どんな事情があるか知らないが、あんな年になるまで体を使って働かねばならないものか。娘や息子たちはいないのだろうか……。そう思ったことがあってよく憶《おぼ》えていた。  ところがそれからしばらくして大門がこんなことを言った。 「女はいくつになってもやれるものらしいぜ」  岸はその時反射的にうす汚ない白髪まじりの女を連れてホテルに入ってゆく大門の姿を思い出していた。 「なぜそんなことまでする」  岸は腹立たしそうに言った。すると大門はせせら笑い、 「俺が婆さんを抱いてみたことが、なぜおまえに判った」 「いまそう言ったじゃないか」 「まあいい。俺がただ楽しみのためばかりで女漁《おんなあさ》りをしていると思っているのか。おまえらとはわけが違う」 「何にせよほどほどにするがいい。若い女ではもう感じなくなってしまったのではないのか」  そう言うと大門はのけぞって笑った。  その話はそれまでになったが、岸だってあまり大きなことは言えなかった。悠子を色したたかな女に育てあげようと教育する一方で、協会の書道クラブの女たちに片っ端から手をつけていた。それが岸にとって何を意味するか考えずとも判っているが、目の前に呼べばついてくる若い女の体を見ると、自制するのもわずらわしく誰《だれ》の次に誰をするという計画のようなものすらなしに、手当り次第抱いてしまったのである。  どうもそれは居直りとも少し違うようであった。いままで自分を規制していたものをひと思いに取りはらってしまったあとでは、思い切り自由で闊達《かつたつ》な視界が拓《ひら》け、自分でも両肩のあたりに精気のようなものが立ち昇っているらしいのを自覚できた。  協会の風紀は一度に乱れた。そのあっ気ない乱れ方さえ岸には快《こころよ》かった。それは取るに足らないものにとらわれて、かたくなに胸をおおっている若い女を、放恣《ほうし》な欲望に身をゆだねる女に変えてしまうこととよく似ていた。  岸は何食わぬ顔で悠子を連れ、もう一人の新しい女と一緒にホテルへ乗り込むことさえした。 「悠子は帰れ」  どちらを帰してもよかったが、岸は悠子をいたぶってみたかった。案の定悠子は泣き出した。それを見てもう一人の女も岸を非難した。 「あなたがこんなひどいことを言ったりしたり出来る方だとは思ってもいなかった……」  同病|相憐《あいあわ》れむ心理か、岸の前で二人はさめざめと泣き合った。岸は黙ってその二人の肩に手を置き、なだめるふりをして両わきにかかえ込んでしまった。  ほんの思いつきだが、悠子を二対一の遊びに慣れさせてみようと思い立ったのであった。新しい女の方はまんまと岸の術中に陥って肌《はだ》をさらしてしまったが、さすがに悠子は服を脱ぎかけた途中でやめ、乱れた服装のままとび出して行ってしまった。  何とか岸がそれまで通りの生活を保っていたのはその時が限界であった。悠子は家族に告白した。ものがたい彼女の家族は激昂《げきこう》して協会へ乗り込んで来た。  すでに肚《はら》をきめていた岸は弁明を試みるどころか、相手をあざ笑って職場をとび出した。  あとの生活は大門が引き受けてくれることに決まっていた。彼はその夜媚薬を用いて妻の信子を乱れに乱れさせた。翌朝別れも告げずに妻と子と家を捨てた。 「こんなさっぱりしたことは生まれてはじめてだ」  大門に会った岸はそう言うと、本当に心から笑った。     22  大門と岸は、まったくよく気の合った仲であった。岸は大門がいまどの女に目を付けているかすぐ判るようになった。それが判るようになると、大門がなぜあらゆるタイプの女を試してみたがっているかも何となく理解できるようになった。  こういう生活をはじめるようになった当初はいざ知らず、いまの大門はセックスを楽しみたいために女を漁《あさ》っているのではないようであった。彼はセックスを見たいらしい。セックスが何であるか見つめずにはいられないらしいのだ。その意味では、大門ほど性に飢えている男はいないのではなかろうか。大門が求めているのはおのれの快感ではなく、他人の、わずかではあろうが一人一人異なった快感のありようを知ろうとしているらしい。その快感のありようは一人一人が持って生まれた体型の差、知能の差、感覚の差、生い立ちの差によって異なるのだ。大門が好みのタイプの女を持たないのは、その必要がまったくないばかりでなく、彼の目的から外れているからであった。 「おい」  岸が家を出てから三ヵ月ほど経ったとき、大門はひどく真剣な顔で岸に相談を持ちかけた。 「なんだい」 「おまえの女房を抱くにはどうしたらいいかな」 「くだらないな」  岸は即座にそう言った。 「あんな女はどうしようもない。君のような男が抱く必要のない女だ」  すると大門は疑うような目つきで岸を見つめた。 「いやがっているのか」 「とんでもない」  岸は大笑いした。 「本当にくだらんからくだらんと言っているんだ。でも君がその気なら手を考えてもいいよ」 「おまえの女房だからな。どうなっているのか知りたい」  大門は真剣であった。そして岸はおもしろがって計画を練った。  何と言っても永年連れそった妻である。いかに信子が腹を立てても、いかに世間の評判がひどかろうと、岸が密かに会いたがっていると言えばとんでくるに決っていた。だがいまの信子は恐らく危機意識の塊であって、セックスなどという問題については関心もなければ反応も示さないであろう。 「薬の力を借りるよりないな。それもあの飲み薬程度のものではだめだ」 「それならまかせておけ」  大門は自信たっぷりに言った。  快楽のためだけに女を抱くのではない。だから大門が抱くとき相手は意識を失っていてはいけないし、普段とまったく異なる精神状態に陥っていてもいけないのであった。 「そんな強力な薬があるのか」  岸は自分も利用しようと思って尋ねた。 「強い。正常な精神状態をそこなわずに色情だけを拡大してくれる。知り合いの学者が開発したんだが……少し副作用が強すぎてまだ……」  珍しく大門が言いよどんだ。 「かまわん。使ってくれ。そのかわり頼みがある」 「なんだ」 「拝見したい。慣れすぎ知りすぎて、俺ではどうにもならない部分がある。だが君なら遠慮会釈なく信子をせめたてることができるだろう。いまとなっては手遅れだがどうすればよかったのかとっくりと拝見させてくれ」  岸は最後の夜の信子の乱れようを思い泛《うか》べながら言った。     23  信子はやって来た。彼女は大門の名を憶えていて、大門に同情されるとしだいに警戒心を解き、くどくどと愚痴を並べはじめた。  堅肥りの信子は苦労してもあまりやせ細りはせず、そのかわり以前よりいっそう世帯じみて見え、横顔にはとげとげしさが覗《のぞ》いていた。 「あんなのをよく抱く気になる」  仕掛のあるその部屋を隣りの部屋から覗いて岸は大門の旺盛《おうせい》な探求心に感心した。二人の間のテーブルにコーヒーが運ばれてきた。大門はことさらすすめもせず、黙ってミルクを入れたり砂糖を入れたりしてやっていた。そうしておいて大門が飲んでみせると話のあい間あい間に、信子もコーヒーを飲んだ。大門はだらだらと話を引き伸ばし、二十分ほどすると信子が額に手を当てはじめた。そしてすぐ貧血を起こした時のように椅子から滑り落ちて床に尻《しり》をつけた。  大門が使う薬は静脈へ注射しなければならなかった。大門は強心剤を打つと称してまんまと信子に注射をしてしまった。初めのコーヒーには目まいを起こさせる軽い薬が混ぜてあったのだ。女中たちの手で、とりあえずといった形に急いで床《とこ》がのべられ信子は遠慮がちにその上に横たわった。大門は信子を置いて部屋を出て行き、五分ほどして戻《もど》ってきた。  信子が横になっている夜具のそばにあぐらをかいてじっと信子を見つめていた。目を閉じて仰臥《ぎようが》していた信子はいつのまにか目を開けて、見つめてくる大門の目を見返していた。大門はまるで催眠術師のようであった。ゆっくりと手を動かして信子のこめかみのあたりへ近づけて行き、軽くそっと触れた。信子の顔に奇妙な安らぎの表情が泛んだ。稚く頼りなげな表情であった。大門の手は信子の顔の輪郭を一周し喉《のど》のあたりへ降りて行った。  ただそれだけのことであった。信子は起き上がると、横坐《よこすわ》りになって帯を解きはじめた。手速く正確に脱いで行った。なんと彼女は次々に帯や紐を解いて着物の袖《そで》を通しているだけのかっこうになると、大門の手を取って引き寄せたのである。大門がごろんと横になるともどかしそうに自分から大門の着衣を脱がせはじめた。  そのあとのことはまったく岸の予想外の展開であった。 「あの信子が……」  岸は呆然《ぼうぜん》としていた。  信子はなにもかも心得ていた。大門を吸い、くわえ、まるで男がするようにただあお向けに寝ている大門に対して様々な愛撫《あいぶ》を加えていたのである。信子は際限もなく大門を求め、かつて夫に一度も聞かせたことがないみだらな言葉を吐き散らして果てた。大門はとうとう一度も体を動かさなかった。     24  信子は急に死んだ。  どうやらあの薬の副作用だったらしい。  さすがに岸も駆けつけないわけにもいかなかった。彼は周囲の冷たい視線を意に介さなかった。  しかし葬儀が終わり一段落すると、何かすべてが終ったような虚《むな》しさを感じた。 「お父さん。また以前のようなお父さんになってくれるのでしょうね」  たった二人の姉妹だが、美子はその代表のような改まった態度で岸にそう言った。 「うん」  岸はあいまいに答えるわけにもいかず、美子の目を見つめて頷《うなず》いてやった。 「もうあの中学へは通えないの」  美子はそのことを不安がっているようであった。信子は夫に去られて生活の不安を感じていたから、美子に対してそんなことも喋《しやべ》っていたのだろう。 「安心おし。お父さんがちゃんとしてあげるから」  すると美子は、 「ああよかった」  と笑顔を見せた。だがその家に住むことは何かと不都合なのだった。娘たちのことを考えれば、信子の亡いあともその家に住み続けるのがいいのだが、岸に対する世間の冷たい目を考えると、それもかえって娘たちにいい結果をもたらさないような気がした。  そのことを大門に相談すると、大門は少し贅沢《ぜいたく》だがマンションの部屋がひとつ空いていて、岸が娘二人と暮すなら多分好都合だろうとすすめてくれた。  岸はまた二人の娘を背負わされて、いや応なしに生活の設計を考えねばならなかった。  大門は親の代からの土地を都内各所に持っていて、それを生活の基盤にしていた。神秘社とかその他の水商売関係とかは道楽のようなもので、岸が自分で金をかせぎ出さねばならないようになると、露骨に軽蔑《けいべつ》しはじめるのだった。  岸は大門があてにならなくなり、職を求めて毎日駆け廻《まわ》るようになった。大門はそれを尻目にあい変らず気が向くと手なずけた女たちを引きつれて遊び廻ったり、あるいは新しい女を求めて一人でどこかへ潜り込んでいったりしている。  職探しは職探しで、夜になるとやはり岸も大門の女たちと同じように彼のそばを離れることはできなかった。冷たくされても、あざけられても、一度わくを取りはらった性への欲求は抑えようがなく、大門のおこぼれをちょうだいしてかろうじて渇《かわ》きをふせいでいた。 「おまえは近頃|俺《おれ》の女たちに片っ端から手を出すじゃないか」  大門はそう言って冷笑した。 「何を言っている。君は俺の女房を殺してしまったじゃないか」 「おまえの女房……。おまえはあの女を必要としなくなっていたじゃないか。だいいち俺はあの時おまえの許可を得ているんだぞ」 「しかし殺してもいいとは言わなかったはずだ。おかげで俺は娘たちをしょいこんでしまった。女房が生きていればこんなことにはならずにすんだんだ」 「俺を責めている気か」  大門はそう言うと不機嫌《ふきげん》に黙り込んでしまった。  そんなことがあって岸は一週間ほど大門に近づかなかった。すると大門の店から逆に呼び出しがかかった。もともとけんか別れなどする気はさらさらないのだから、岸は喜んで大門の所へ行った。 「おもしろいものを見せてやる」  大門は待ちかねたようにそう言い、珍しく岸をせかせてある建物の中へ入った。それは以前大門がある女にやらせていた店のあとで、その女が大門に捨てられて以後閉鎖したままになっていたはずであった。 「空いたままにしておいてはもったいないから、ちょっと手を入れたんだ」  大門は元小料理屋だったその店の裏口から足音を忍ばせてそっと中へ入ると、調理場から女将《おかみ》が寝起きしていた部屋へ入った。 「この隣りが可愛らしい洋間に生まれ変っている」  大門は畳の上にあぐらをかき、楽しそうにそう言った。 「いったい何がはじまるんだい」 「おまえの驚く顔が見たいのさ」 「俺の……」 「そうおまえのだ。おまえは子供の頃俺とああいう仲だった。おまえにはどうやらそういう血が流れていたらしいな」  岸は何のことか判らず、それでもこのところ気まずかった大門と和解できるいい機会だと思い、調子を合わせてニヤニヤしていた。 「言っておく。おまえはもうとっくに俺なしでは生きていけない人間なんだぞ。そのことは判っているんだろうな」  その日の大門は久しぶりに岸に関心を集中してくれているようであった。  岸は大門と二人きりでいる場合、いつでも彼の言いなりだった。その点では大門の他の女と同じだった。大門が一人の相手にいつまでも愛情を集めている人間でないことは百も承知しているくせに、みんな大門の愛を求めていたのだ。そして岸もまた無意識のうちに大門の愛に頼り、大門の愛を求めていたようである。 「判っているよ。このあいだのことは悪かった。しかし俺も多少混乱していたんだ。こんなことなら子供などつくりはしなかったんだ。とにかくいまでは二人の娘の父親だ。しかも母親がないときている。やはり俺も人の子さ、娘たちを何とか仕合わせにしてやらなければならない」  すると大門はくすくすと忍び笑いをした。 「おまえの娘なら、結構幸福にやっているよ」 「なぜ……」  言葉の意味を解しかね岸は眉《まゆ》をひそめた。 「男と女の違いはあっても美子という娘はおまえそっくりだ」 「それはどういう意味だ」 「津山という美しい友達がいるのさ」 「あ……」 「知っているな、おまえ。美子はその子に首ったけさ。津山という子もおまえの娘が好きらしい。そしておかしなことにおまえの娘は可愛がられる方へ廻っている」 「どうしてそれを知っている」 「知らぬは親父ばかりなりだ。あんなに二人きりになりたがっているのを放っておけるか。このもの判りのいいおじさまがよ。おまえにあの子を叱《しか》る権利はないぞ、いまここでそのことは厳重に言っておく。おまえと俺がああなっていたとき誰かに小言を言われたか。俺もおまえも、誰からも何も言われなかった。おまえは俺の愛撫を受け、あられもなかったじゃないか」 「判ったよ。津山という子と美子とのことは何も言うまい」 「それでいい。それでいいんだ」  そう言うと大門は押入れの襖《ふすま》に手をかけ、するすると開けた。  押入れはなくなっていた。襖の向こうはじかに白い壁であった。そしてその白い壁にはちょうど坐っている二人の顔の高さあたりに窓が開いていた。  マジック・ミラーだった。向こう側が見える。マジック・ミラーの向こうはベージュの壁と小さな可愛らしい椅子とそして小さな冷蔵庫、小さな食器棚《しよつきだな》、小さな三面鏡、そしてベッド。  そのなかで、美子と津山と言うやや大柄な美しい娘がベッドの縁に並んで腰を降ろし抱き合っていた。  声は聞こえない。  だが二人が、愛の言葉に近いものをささやき合っているのは、はっきりと見てとれた。  もうずいぶん長い間その状態が続いているようであった。 「あの二人には天井の蛍光灯《けいこうとう》を消すことができないんだ」  大門は楽しそうにそう言った。 「見ていろ、もうすぐ我々の歴史が繰り返されるのだ」  窓の向こうの二人は互いに抱き合った手を離すとベッドからはなれ左右に別れた。左の隅《すみ》に津山という娘、右の隅に美子がいた。二人はそうやって別々な場所で服を脱ぎはじめた。お互いに背を向けあい、脱いではたたみ、きちんと衣服を積み上げてから振り返って向き合った。二人は微笑み合い、何か叫んだようであった。  二人は稚《おさな》さを丸出しにして競争するようにベッドへ飛びついた。毛布の下へ潜り込み、すぐ頭まで隠して激しく動き廻った。  ふざけているのだ。じゃれているのだ。  やがて二人の動きが急に止まった。そのまましばらく時間が経過し、やがて急に毛布の一部が跳ね上った。どちらかが息苦しくなって、毛布を跳ねのけたに違いなかった。 「もう立派な女だ」  大門はそう言った。  たしかにその通りだった。ことに津山という娘は美子の倍も豊かな胸をしている。  抱きすくめられているのは美子の方であった。美子は下になって唇を吸われていた。津山という娘はベッドの上に膝をつくと美子の頸筋《くびすじ》に唇をはわせ、そのまま下がってまだ丸味を欠いた美子の胸の頂きを吸っていた。 「こうされているのだぞ」  大門はささやくと、いつか暗闇《くらやみ》の中で羽交い締めにしたときのように、岸の頸筋に熱い息を吹きつけてくすぐった。 「あれを見るために部屋までつくったのか」  岸はそう言って立ち上がった。 「つまらん。少しもおもしろくない」 「自分の娘だと思うからだ。あれも女体だ。他の女と少しも変わらん。いまのうちはまだ相手が女だが、いずれ男に抱かれるようになる。それを欲するようになる。恋人も、妻も、娘も、孫も、みんな同じことだ。同じことの繰り返しだ。未来|永劫《えいごう》こればかりは変りようがない。みんな死だ。一回ごとの小さな死だ。それを積み重ねて本物の死に近づいて行く。聞いてくれ。俺は死ぬのが怖《こわ》い。なぜみんな死を恐れないのだ。毎日死を怖れずに生きて行けるのだ。俺は毎日が恐ろしくてしかたがない。必ず死ぬのだぞ。一秒一秒、一分一分、俺は死に近づいている。そのことを忘れることはできない。だのにおまえたちは平気な顔をして生きている。金だ、地位だ、名誉だ、仕事だ、遊びだ……いったいそんな図太い神経がどうして持てるのだ。俺にはとてもできない。死以外のことに目をそらすことができない。俺がセックスを追い求めるのは快楽を求めるのではなく、一回ごとの小さな死に魅《ひ》かれるからだ。まってくれ。行かないでくれ。俺はいま真実を告白しているのだ。俺は狂っているのか。死を忘れることのできない俺は異常なのか」  岸は言った。 「たぶん君は異常なのだろう。判り切っていることは考えない方がいいのではないのか。判り切っているからこそ忘れているのではないか。とにかく俺にはそんなことは判らん」  大門も立ち上がった。 「おまえは俺の親友だ。この先もそばを離れないでくれ。俺と一緒に死ぬ日まで、おまえは俺のそばで生き続けなければいけないのだ」     25  ひょっとすると、それは例の媚薬《びやく》の影響なのかも知れなかった。それよりずっと強力な、未完成の薬品だったとはいえ、信子を死に至らしめた薬と同系統のものなのである。  大門の健康は急速に悪化しているようであった。  大門の死が近づいている。  岸はそれを直感していた。大門はそれに必死で抵抗しているようであった。この世に存在するほとんどのセックスを見た彼は、津山という娘と美子の、稚く新鮮なからみ合いだけが、残された興味の対象であるようであった。  大門から悦びを与えられなくなった女たちは、しきりに岸にそれを求めるようになった。  媚薬を用いることもあったし、媚薬を用いないこともあった。組織とは言えないまでも、大門がつくりあげた淫蕩《いんとう》な集団の規模は想像をこえた大きさであったが、結果として徹底的に大門に仕込まれた岸は、見事にその役を果していた。  事実上大門は隠退しはじめており、彼にすべてをゆだねられた岸は、信子の死の前よりもいっそうたくましく女たちを支配しはじめたようであった。  大門は二人の少女におぼれ切っていた。 「結局あれがいちばん美しいのではないだろうか」  折りあるごとに大門はそう言った。  そんな大門を見て岸は同情した。津山という娘と美子の関係を看過《みすご》してやることは、大門に贈り物をすることと同じであった。  どうやら美子とその娘は毎日のようにあの秘密の部屋へ行って楽しんでいるらしい。そして精気を失った大門はやはり同じように二人の少女の愛し合う姿を見て楽しんでいるのだった。  大門の代理として多忙な快楽の日々を送っていた岸は、久しぶりに大門に会ってみようと思いたってあの秘密の部屋を覗ける場所へ訪ねて行った。  そっと勝手口から入り込んであの部屋へ行ってみると、案に相違して大門の姿がなかった。  不思議に思った岸が襖を開けて見たものは、全裸の大門にさしつらぬかれて悶《もだ》えている、すっかり大人びた美子の肢体《したい》と、美子の悦びをより大きくしようと大門に力を貸しているあの娘の姿であった。  当然予想するべきであった。津山という娘も、すでに大門の女になっているに違いない。二人は交互に大門に犯され、大門に悦びを与えているに違いなかった。  岸の心に奇妙な嫉妬《しつと》が湧《わ》いた。大門がそうするなら、まずその先に自分こそその権利を与えられるべきだと感じた。  たぶん岸も狂いはじめていたに違いない。大門とわが子のセックスを、血走った目で一部始終ながめていた岸は、彼らのからみ合いが終って大門がこちら側へ戻ってくる気配を示すと調理場へ隠れた。  大門は全裸のまま、脱いだ衣服をかかえて戻って来た。たぶんこちら側へ来てから体を清めるつもりだったのだろう。  だが岸は見た。大門の股間《こかん》が濡《ぬ》れ光っているのを。  岸の心が裂けた。大門がしたことを自分もしたかった。するべきだと思った。する権利があると思った。跳び出して行って彼らの間に割り込むことは簡単であった。なぜしない……。なぜできない……。見ている間岸はおのれをそう責め続けていた。だがついにそれははたせず大門が股間を濡れ光らせてこちら側へ戻って来てしまった。  あいつだけが。  嫉妬で岸は世界が赤くなったような気がした。 「そんなに見たければ見せてやる」  そう叫んで岸は跳び出して行った。素っ裸の大門に体をぶち当てていた。どの女のときにも味わったことのない、深い愉悦とともに、岸は大門の体を押し倒していた。聞いたこともない激しい音が聞こえた。調理場で無意識に把《つか》んだ柳葉包丁《やないばぼうちよう》が刃を上にしてふかぶかと大門の下腹部に突きささっていた。  突きさした包丁の柄を、岸は大門の体に押しつけるようにした。プツプツと岸の掌の下で何かがたてつづけに裂けた。 「大門。これが死だ。見るがいい」  そう言うと岸は包丁を真上へはね上げた。切先が弧を描き、赤い筋が大門の左の乳あたりまで一直線に走った。大門は仰向けのまま体を起こそうとした。 「見たい」  大門が言った。  右手に包丁を持ち左腕を使って岸は大門の背中を押して起こした。伸びた体がL字型に折れると、腹の肉がたるんで、ポコッと水音のような感じで傷口が鳴った。大門の膝《ひざ》から腿《もも》へかけてどす黒い血が一度にあふれしぶきをあげた。 「死ぬのか、俺は」 「そうだ、これがおまえの死だ。さわってみるがいい」  すると大門は両手を大きく裂けた腹の血汐《ちしお》の中へもぞもぞとさし入れ、 「死だ」  と言った。 「いい気持だ。死ぬのは、ほんとうは……いい、気持ち、なんだ」  大門は自分の腹に手を突っ込んだまま、カクンと頸を落とした。 「死は快楽……ほんとうか、大門。ほんとうなのか」  岸は包丁を落とし、夢中になって息絶えた大門の両肩を把み、激しくゆすりながらそう叫んでいた。 [#改ページ]   幻《まぼろし》 町《ちよう》の女  店はいつもより閑散とした感じだったが、私は気にならなかった。このクラブ・リトリートはそう大きなほうではないが、銀座でも客筋がいいので知られていて、今夜はとりわけ極上の客ばかりが集まっていた。  私は入口の横にあるクロークの前で腕時計を見た。あと四十分で閉店の時間だった。もっともそれは手の空《す》いているホステスが帰るなら帰ってもよい時間という程度のことで、客が長居すればそれから二時間近くも閉店が延びることもまれではない。  キッチンのハッチから首を突き出して、コックの内藤が私に笑顔を見せた。 「オードブルを少し残して、あとはしまいますよ。今日は早そうだから」  私は頷《うなず》いた。頷いたときあごの先に蝶《ちよう》ネクタイが触れたような気がした。私は左手でタイの結び目を水平に直しながら客席のほうへ戻《もど》って行った。 「マネージャー、かわってよ」  ママの登岐子《ときこ》がすれ違いざまに低い声で言って入口のほうへ去って行った。雇われママだ。それも彼女は二代目で、まだ二年半ほどしかたっていない。  私は登岐子のいたテーブルを目で探した。一番奥の席の通路ぎわにスツールがひとつあいていて、テーブルにサワー・グラスが置いてあった。  私はさっき見た腕時計の針の角度を思い泛《うか》べながら、ゆっくりとそのほうへ歩いて行った。サワー・グラスにはまだ半分ほど飲物が入っていた。ママの登岐子のものだった。彼女はブランデー・サワーしか飲まない。それもブランデーはごく僅《わず》かしか入れさせない。飲《い》ける口だが店では酔いたがらない。ママだから当然だろうが、それにしてもちょっと御身《おんみ》御大切すぎる。本当に自分の店だったらもっと体当りで商売に励むはずだが、雇われだからどうしても踏み込みが足りない。今だって、閉店後の遊びに付合えと言われそうだったから逃げ出したに違いないのだ。家に子供がいるのだ。小学四年生。女の子だ。一度会ったが、綺麗《きれい》で可愛い子だった。それに三つ年下の恋人がいる。今夜はどっちの為だか知らないが、とにかく若手なみにはやばやと帰ってしまう気なのだろう。営業成績はまずまず順調に行っているからいいようなものの、自分がそれに大して貢献していない事実をもっとよく自覚するべきなのだ。 「どうも……おにぎやかですね」  その席の、壁を背にした客と目が合うと私はちょっとからかうような調子で言った。志村という医学博士だった。 「おう、本間。この女はいかんぞ。もう三回も中絶手術を受けとる」 「あら嘘《うそ》よ」  私は登岐子のいたスツールに腰をおろした。黙って志村の目をみつめている。素透《すどお》しのガラスのような目になっているはずだった。相手はそういう目を向けられると、何か答えを聞いたように思うのだ。 「ほらみろ、当ったろう」 「マネージャーはなんにも言ってないわ」 「あの顔を見れば判るさ」  私は素透しのガラスに色をつけた。となりの京子というホステスを意地悪そうに見てやる。 「あきらめなよ。先生には隠しても無駄《むだ》だ」 「やだ、あたしおろしたことなんてないわ」  私は微笑してサワー・グラスに目を移した。京子は冗談めかしてはいるものの、何パーセントかは本気で否定しているようだった。そのテの冗談を百パーセント冗談として受け流せる女と、今の京子のように冗談と判っていても自尊心が傷つく女がいる。世が世ならこんな所で酔っ払いの相手なんかしてはいないのにという思いが、いつまでたっても心の底にわだかまっているタイプだ。そして、そういう女に限って朋輩《ほうばい》同士の諍《いさか》いが絶えない。これはどうやら生まれつきのことで、いくらキャリアがあってもなかなか抜けるものではないようだった。 「ママのだけど、かわりにいただきます」  私はサワー・グラスをとりあげて客たちに言った。私の正面の志村が主賓格で、その左に京子をはさんで製薬会社の井戸専務、反対側に同じ会社の高木部長がいた。 「間接キッスか」  うんざりするような古臭いことを言って高木が笑った。私はひと口飲み、おやと思った。強《きつ》いのだ。ブランデーの量が登岐子のにしては入りすぎている。きっと先月来た新しいバーテンが作ったのだろう。きっちりワン・シャットいれたに違いない。多分登岐子は裏へ行ってひとこと文句をつけていることだろうと思った。そういう時に限って、たっぷりとママの貫禄《かんろく》を示してしまう女なのだ。 「ママはどうした」  志村が尋ねた。 「彼女は今夜は大変なんですよ」  私はできるだけ無責任な様子で答えた。 「ほう、何かあるのか」 「帳簿の……そうですね、高木さんのところのような大きな会社で言うと、監査っていうんですか。あれなんです」 「夜中にか」  高木が目を丸くした。彼らに取ってクラブの裏側のことなど、想像の世界のものでしかない。仔細《しさい》ありげに言えばたいていのことは通ってしまう。 「そうしょっ中あることじゃないんですが……」  私はちょっと言い澱《よど》んで見せた。 「ははあ、抜きうちだな」  志村がしたり顔をした。私は京子のほうへ視線を移し、お互いの立場を憐《あわ》れむような調子で言った。 「うちのママも雇われてる身ですから」  普通はそんなことは言わない。しかし志村たちは登岐子が雇われママであることをはじめから承知しているし、逆に内情を洩《も》らすような素振りで客の気分をよくするテだってあるのだ。 「なんだ、そうか」  志村はちょっと残念そうに言った。さすがに登岐子も抜け目がなく、誘われる前にぬけ出してしまったようだった。 「なあ本間。君は今夜あいているか」  志村が身をのりだし、わざとらしく声をひそめて言った。 「はあ」 「実は君とママを連れ出そうと思っていたんだ」 「それはどうも……で、どんなところです」  すると志村は急に背中を伸ばし、うしろの壁にもたれるようにして連れの二人を見るとたのしそうに笑った。 「それは言えんよ、なあ」  専務も部長も何やら得体の知れない笑い方をした。 「やっぱりママはよそう。ああいう所へ女を連れて行くのは悪趣味だろうからな」 「随分面白そうな所らしいですね」  私がそう言うと、志村は鋭い目になって言った。 「君がいくらこういう商売に明るくても、あそこは知るまい。後学の為だ、是非連れて行ってやる」  私は当惑した。ママなら途中で連れ出されてもかまわないが、マネージャーは閉店まで出るわけには行かない。しかし、志村はリトリートで現在最も重要な客の一人であった。何かうまい口実を見つけなければ、無下《むげ》な断わり方はできない。 「マネージャー」  折りよくうしろから呼ばれた。電話らしい。 「それはたのしみですね。どんな所を見せてもらえるんですかねえ」  私はそう言いながら席を立った。 「いいか、連れて行くぞ」  去りかける私の背中へ志村が念を押した。  電話ではなかった。登岐子がクロークの横にかくれるようにハンドバッグを持って立っていた。 「本間さん、ちょっと用があるの。あたし帰っていいでしょう」  やっぱりそうかと舌打ちをしたかった。登岐子は私がそういう気分になることを最初から予想していて、それでもなお言い分を通そうと、かたくなな表情になっている。何か言っても無駄は知れていた。 「ええどうぞ」  私は愛想よく言った。 「あら、優しいのね」  登岐子はそれでも拗《す》ねたようにからんだ言い方をすると、ドアを押して素早く外へ出て行った。クロークの女が私に肩をすくめて舌をのぞかせて見せた。 「中野」  私は部下の名を呼んだ。部下と言うより相棒と言うべきかも知れない。この商売では私より五、六年後輩に当たるが、頼りになる男だった。リトリートではマネージャー代理ということになっている。なかなかモテる男で、ホステスたちにはサブとかサブちゃんとか呼ばれている。名は常雄と言い、サブは副の意味なのだった。 「志村さんたちと出なければならないかも知れない。ママに逃げられたしな」 「大丈夫です」  中野は軽く頷いて見せた。 「金を少し貸してくれ」  私はレジをのぞいて言った。連れて行かれた先で客が白けでもしたら、次はこっちが案内しなければならない。レジは万事|呑《の》み込んでいて、素早く札《さつ》を数えて渡した。私はそれを内ポケットへいれ、志村たちの席へ戻った。  志村たちは車を持って来ていた。電話でその車を地下の駐車場から呼び上げると、私を連れて妙にたのしそうにリトリートを出た。そして車に乗り込むと意外なものをとり出して私に渡した。  国際線の旅客機の中などで使う、スランバー・マスクであった。 「すまんがこいつをかけてくれないか」  志村がニヤニヤしながら言った。 「目かくしですか」  私はちょっと薄気味悪く思いながらそれを眺《なが》めた。顔に当たる部分が黒い布になっていて、ゴムのひもがついている。それを目に当ててひもをかけると、何も見えなくなってしまった。 「君にも場所を教えるわけには行かんのだよ」  井戸専務が本気ですまなそうな声を出した。 「お遊びにしてはだいぶ念がいっていますね」  私は決して不愉快ではなかった。これも仕事の内だと思っていた。しかし、そんな念の入ったやり方で私をどこかへ連れて行こうとしている三人に、あまり好感は持てなくなっていた。運転していたのは色の白い女性的な感じの若い男で、多分井戸たちの会社の社員なのだろう。  志村は学者である。たしかに彼はひとつの分野の権威者であるようだった。十何年か前、彼は新しい薬を開発し、それが井戸たちの会社で大量に生産されて、長いあいだテレビのコマーシャルで名前を売りまくっていた。会社も志村も、それでたっぷりと稼《かせ》いだはずであった。しかし、二年ほど前から、その薬の副作用が問題にされはじめていた。勿論《もちろん》私などにそのような問題の詳細《しようさい》が判《わか》ろうはずもないが、志村が自分の後輩の学者を何人も抱き込んで、その薬に害のないことを証明する実験データを作らせていることはよく知っていた。井戸、高木、志村の三人が、そういう連中を連れてよく飲みに来ているからである。  しかも志村は、最初からその薬品について表面には出ていないのだ。実《じつ》は自分が取って、名は後輩に与えていたらしい。だからマスコミにもその件では志村の名は浮んで来ない。私は最近になって、ひょっとすると志村は最初からそのような問題が起きそうなことを知っていたのではないかと疑いはじめている。そして現に、世の中にはその薬害の為らしい患者が数多く苦しんでいるというのに、三人は以前にもまして豪勢な遊びを続けているのだ。  そういう男たちのおこぼれで暮している立場だから仕方がないが、あまりいい気分のものではなかった。 「これから行く場所は、実は以前から君に関係があったのだよ。だから連れて行ってやろうと言うのさ。君にはいろいろ教えてもらったからな。そろそろお礼をせんといかん」  志村が言った。 「僕が……。何か先生がたにお教えしましたか」 「ああ、いろいろ教えてくれたじゃないか」  車はのろのろと動いているようだった。多分|外堀通《そとぼりどお》りを抜けるのに手間取っているのだろう。とにかく、車の先が東京駅のほうへ向いていることは判っていた。  私が答えずに黙っていると、志村はそれを考え込んでいるという風に感じたらしい。 「女のことだよ。どんな女が本当にいい女か、君は例をあげてくわしく教えてくれたじゃないか」 「ああ、そんなことですか」  酒と女の番をするのが仕事である。毎日酒席に侍《はべ》るいろいろなタイプの女たちに接していれば、どんなタイプの女が男にとっていちばんいいか、自分なりに一家言《いつかげん》持つようになるのは自然のなりゆきであった。私はそれを、やや面白おかしく志村たちの座興に提供したにすぎない。  とは言うものの、よく考えてみれば、かなり詳細に自分の意見を述べていたようでもあった。 「ああいう話を、先生がたはお仕事で僕に喋《しやべ》らせていたのですか」 「そうだよ。高い酒をただ飲んでいたわけじゃない。いや、君ばかりではないんだ。いろいろな店で、君のような立場の男たちから女に対する見方を聞き出していたんだ。しかし、お世辞ではなく、君の言うことが我々には一番よく納得できた。いつも君が言っていたようなタイプの女がいたら、男はもう言うことはないという感じだな」 「ちょっと待ってください」  私はおどけたようにうろたえて見せた。 「たしかに僕は僕なりに、こんな女が一番いい女なのだということを先生がたに喋りましたよ。しかし、それは浮気とか遊びとか……つまり、そういう場だけのことです。実際にそんな女がいたとしても、僕がそいつと結婚するとは限りませんよ。そうですね、僕が言ういい女とは、せいぜい二年もくっついていればいいところで、女房ということになれば、理想の女はまた違ったことになります」 「それでいいのさ」  志村は笑った。車が左に曲がり、スピードを増した。桜田門の方へ行くな、と思った。 「まあ、とにかく着いたら判るさ。浦島太郎《うらしまたろう》ではないが、あけてびっくりと言うところだな」  それが高木部長の声に変った。 「ところで君は本当にいま独り身なのかね」 「ええそうです」 「奥さんがいたりすると気の毒だからな」 「なんで先生がたにそんなことを隠したりしますか。若い女の子なら話は別ですが」  すると三人は声を揃《そろ》えて笑った。 「実は、今夜は君にたっぷりとご馳走《ちそう》をしようと思っているんだよ」  志村が笑いながら言った。 「ご馳走……」 「そうだ。すばらしい女を君にプレゼントしようと思っているのさ」 「ご冗談を」  私はスランバー・マスクを取ろうとして、左どなりにいる井戸専務の手でとめられた。 「心配するな。君だって男だろう」  井戸はきつい声で言った。 「はあ……」 「据《す》え膳《ぜん》食わぬはなんとやらさ。あと腐れの心配もなければ病気の心配もまったく要らんのだ。勿論金も要らんよ。我々が世話になった礼をしようというのさ。こころよく受けてもらいたいな」  私は肚《はら》を据えた。 「嫌《いや》ですよ、私にいろんな恰好《かつこう》をさせて置いて、テレビかなんかの仕掛けで覗《のぞ》いてたのしもうなんて」 「そんな愚劣なことはせん」  志村はちょっと憤《おこ》ったように断言した。 「じゃあまあ、おまかせします。こうなれば俎《まないた》の上の鯉《こい》です」  すると志村は、フフフ……といやらしい含み笑いをした。車はたてつづけに右へ左へとハンドルを切りはじめていた。坂を登ったりおりたりする気配を感じたが、たしかなことは判らなかった。それに、意外なことを聞かされている内に、方角がまるで判らなくなってしまっていた。おまけに、井戸専務らしい骨ばって乾いた手が、私の耳に耳栓《みみせん》までつめてしまった。  方向感覚がすっかり狂ってしまっていて、車がとまったとき私はそこが中野か阿佐谷《あさがや》……ひょっとすると吉祥寺《きちじようじ》辺まで来ているかと思っていたのに、ドアがあいたとたん、汐《しお》の匂《にお》いが鼻をついて来た。 「海……」  私はスランバー・マスクの下で眉《まゆ》をひそめた。 「マスクはまだそのままに」  高木の声がした。 「いらっしゃいませ」  それに重なって柔らかい女の声が聞こえ、私の左手を湿った掌《てのひら》が包んだ。 「こちらへどうぞ」  女に手を引かれ、木の板らしいものの上を歩かされた。三人が私のそばを一緒に歩いているようだった。  建物の中に入った。それは靴《くつ》の下の感じで判った。板の感触から、柔らかいカーペットの感じに変ったのだ。背後で軽く空気が吹き出すような音がした。自動ドアが閉じたようだった。汐の匂いが消え、乾いたタオルのような清潔な匂いに変った。 「さて……マスクをとってやりなさい」  志村の声がすると、柔らかい手が私の顔に触れた。  マスクがとり去られたとき、私は目をとじていた。眩《まぶ》しく感じるのが判り切っていたからである。そして徐々に閉じた瞼《まぶた》をゆるめて行った。目の前に、白い肌《はだ》の感じのいい笑顔があった。 「お飲物は……」  その女が小首を傾《かし》げて尋ねた。そのうしろで三人がニヤニヤしながら私をみつめていた。私は女の問いを無視してあたりを見まわした。立派なシャンデリアが天井で光を放っていた。背の部分が極端に高い、ひどくゆったりとしたソファーが十ばかり、かなりの広さのフロアーに並べられていて、そのひとかたまりずつが柔らかい穴倉のような感じだった。 「さあ、こっちへ来て」  志村が先に立ってその円型の柔らかい穴倉のひとつへ入って行った。 「いらっしゃいませ」  私たちが席につくと、ひらり、ひらりと若い女たちがその穴倉へ舞い込んで来た。 「いいクラブだろう」  志村は得意そうだった。  たしかに、並外れて豪華にできていた。私にも文句のつけようがなかった。それに女たちも選《え》り抜きの美人ぞろいだった。しかし、そう驚きもしなかった。金をふんだんにつぎ込みさえすれば、私にだってその程度のことは楽にできそうであった。  酒が出て、少量だが贅沢《ぜいたく》きわまる食べ物が出て、女たちが精一杯のサービスをしていた。 「こんなクラブへお出入りをなさるようでは、とてもうちなどはかないっこありません」  私が閉口したように言うと、三人は得意げに笑い合った。 「ここは幻《まぼろし》 町《ちよう》一丁目さ」 「幻町……」 「そうだよ。これでも東京の中だ。だが、余程の人間でない限り、この幻町へは来ることができんのだ。向こうを見なさい。大物がずらりと並んでいるよ」  私は背もたれの高いソファーの間から、となりの席を見た。僅かな隙間《すきま》しかなかったが、閣僚級の政治家の顔が三つほど見えた。  私はピンと来ていた。汐風で判ったのだ。だいぶ以前にさる筋の客が冗談のように言ったことがあった。 「東京港の中にとほうもない歓楽街があるって言うぜ……」  私はそれを思い出し、さりげなく言ってやった。鼻づらを引きまわされたようでいささか癪《しやく》にさわっていたのだ。 「ここはやはり江東区になるのですか。それとも中央区……」  志村は驚いたように高木や井戸と顔を見合わせた。 「さすがだな。知っていたのか」 「いいえ、幻町などという名ははじめて聞きました」  空とぼけている。志村たちはそう受取ったらしい。 「本当にここははじめてか」 「ええ、本当です」 「この下はゴミだ」  志村は左の人差指で床を示した。 「その上に現代貴族のお遊び場があるわけですね」  私は褒《ほ》めそやすように言った。 「おかしなものでな、ここは水上署の管轄になっている。公式の地図にはまだ載っていない土地だ。都市計画図にならすでに記されているがね」 「つまり、銀座からすぐのところにある、幻の町というわけですね」 「方角を誤魔化そうと余分なまわり道をしたが、君のような人間には無駄だったようだな」  志村は苦笑していた。 「賭博《とばく》も女もここでは自由だ。重い責任を負って働いている人間には、こういう特別な息抜き場所が要るのさ。もっとも、我々ならそうでたらめもせんが……」  志村はそう言った。どこか弁解じみた言い方であった。 「この女《ひと》たちが、ですか」  私は席に侍っている美女たちを見まわして訊《き》いた。 「ああ、この子たちも君なら嫌とは言わんだろう。なあ……」  高木が女たちに言った。女たちはみなあいまいな微笑を泛べていた。 「好きな子がいたら指名すればいい。ここはホテルでもある」  女たちは志村にうながされて、一人一人私に名乗った。私は何だか白けてしまった。 「僕に提供するという例の話はどうなったのです。何かもっと特別なことのように思っていましたが」 「彼女たちでは不足かね」 「いや、そういうわけではありませんが、こういうことですと正直言ってそう意外でもないんです」 「そうだろう、そうだろう」  志村はまたニヤリとした。 「実は、ここには特別室があるのさ。君にそこでひと晩過してもらいたくて呼んだのだ。驚くなよ、そこには君が言っていた通りの女性がいる。多分君の理想の女性ではないかと思うんだ。ひと晩じっくりそこでたのしんでもらって、あとでくわしく採点などしてもらおうと思っているのさ。何しろ、その女性は我々の努力の結晶のようなものだからな」 「努力の……」 「そうだ。君はサイエンス・フィクションを読むかね」 「ええ、たまには」 「じゃあ、人間そっくりの姿をした機械について知っているな」 「人間そっくりの……ああ、ヒューマノイド・ロボットですか」 「ロボットというと、人はすぐ人間そっくりの姿をしていると思いがちだが、ほとんどの場合、そんな必要はない。いったい、ヒューマノイド・ロボットはどんな必要から発達して行くと思う」 「さあ、そういうことは苦手でして」 「ダッチ・ワイフさ」 「え……」 「それ以外のことで、人間そっくりの姿をしていなければどうにも都合の悪いことなどありはしないだろう。そうじゃないか」 「すると、僕にダッチ・ワイフを抱けというんですか」 「ヒューマノイド・ロボットさ。我々はあらゆる分野の専門家たちと協力して、それを作りあげようとしている。今夜君に提供しようというのは、その試作品だ。試作品と言ってもいいかげんなものではない。女性に対する君のイメージを、完璧《かんぺき》に近いほど採りいれたものだ。さあ、ついて来なさい」  いやも応もなかった。私は志村のあとについて、その建物の奥へ入って行った。  ルイ何世風とか言うのだろう。贅《ぜい》を凝《こ》らした寝室であった。私はその部屋へ送り込まれ、ぼんやりと突っ立っていた。  すると、かすかにどこかでドアがあく気配がして、衣ずれの音が聞こえた。そして、不意に絹のナイトガウンを着た女が私の前に現われた。  私はその顔を見て息を呑んだ。 「紹《しよう》ちゃん……」  紹子だった。紹子は悲しそうな瞳《ひとみ》で私をみつめ、ゆっくりと近付いて来た。 「今夜あなたが見えるって教えられていたの」  紹子は聞き憶《おぼ》えのある声で言った。 「俺《おれ》は……」  私は唾《つば》を嚥《の》んだ。 「俺はロボットに会うつもりだった。そう言われていたんだ。まさか……まさか君がそのロボットじゃあるまいね」  紹子はゆっくりと私の肩に両手をかけて来た。卵形の顔、柔らかい髪……それは私がひそかに惚《ほ》れ抜いていた女であった。 「よせ」  私はかたくなに紹子の手をふりほどいて一歩さがった。 「どうしてこんな所へ来てしまっているんだ。あれ以来、中野はすっかり陰気な男になってしまった。君らはあんなに愛し合っていたじゃないか。なぜ急に姿を消したんだ」  紹子は愁《うれ》いを帯びた目に優しい光をたたえ、白い人差指をたてて私の唇《くちびる》にあてた。 「何も言わないで」 「よせ」  私は華奢《きやしや》な紹子の体に押されるようにして後退をつづけた。 「以前からあなたが好きだったの」 「まさか。君は中野の恋人だ。中野は今でも君を待っているんだ」 「いいの。あたしはこの日を待っていたのよ。今までのことはみんな間違い。そして今夜だけでもいいの。お願い……」  紹子は私に倒れかかって来た。それは機械などではなかった。たしかに紹子だった。紹子を先に発見したのは中野だった。だから私はどうすることもできなかった。しかし、紹子こそ私の理想の女だったのだ。  私は紹子を胸に乗せたまま、押されてベッドに倒れた。 「中野のことはどうする気だ」 「中野……どうもしないわ。あなたが好きなの」  私は紹子に惚れ切っていた。どんな女を見ても、紹子より劣っているとしか思えなかった。独身を続けたのもそのためだった。中野と付き合い続けているのもそのためだった。また紹子は中野のもとへ帰って来るに違いない。友人の妻でもいい。せめて紹子のそばにいることができたら……。  それが今、私の腕の中に身を投げて来ていた。私は抵抗できなかった。私はすべてを忘れた。私たちは肌を合わせ、狂ったようにお互の体を貪《むさぼ》り合った。 「なぜこんなところへ来てしまったんだ」  狂乱の時間が過ぎたあと、私たちは並んで仰臥《ぎようが》していた。私の右腕は紹子の柔らかい髪の下にあった。そして紹子は、それっきり答えなくなった。 「紹子、どうしたんだ」  私は紹子の長すぎる沈黙に、彼女の頭の下から腕を抜いて体を起し、その顔をのぞき込んだ。紹子の白い胸はかすかに上下していた。胸に耳を当てると規則正しい鼓動が聞こえた。しかし、大きく開かれた目は、明らかにガラス玉であった。 「お前は……機械なのか」  私はつぶやいた。 「ロボットなのか」  私はのろのろとベッドをおりた。 「ダッチ・ワイフだったのかよ」  私は紹子の体をかかえあげた。ずしりと重かった。私はそれをさしあげはじめた。紹子のしなやかな体が私の頭上にあった。 「こん畜生め」  私は二、三歩踏み出してそれを壁へ叩《たた》きつけた。とたんにドアがあき、男たちがなだれ込んで来た。 「何をするんだ」  全裸のまま、私はうしろから羽交い締めにされた。 「ロボットだって言って置いたろうが」  志村の喚《わめ》き声が聞こえた。私にはもう理性のかけらもなくなっていた。ただ、あらん限りの力で羽交い締めからのがれると、手あたりしだいに投げつけ撲りつけ蹴《け》とばした。 「人でなし……」  私はそう喚きつづけていたようだったが、何かで後頭部を強く撲られて意識を失ってしまった。  その後私は志村たちと和解した。すべては彼らの作品がうまくできすぎていたためだった。志村たちは今でもリトリートへ機嫌《きげん》よく通って来るし、私も時々は幻町へ連れて行ってもらって、あの女を抱く。  しかし、中野には何も言っていない。中野はまだ紹子の行方を探しているようだ。そして私は、本物の紹子の行方を考えるたび、何か背筋の寒くなるものを感じてならない。 [#改ページ]   最初の夢     1  墓石《はかいし》でも新しいと気分がいい。  空は青く晴れているし、風はそよ風だし、まったくいいお墓参り日和《びより》。見渡すかぎり、ずらりとお墓が並んでいる。新しいお墓、古いお墓。でも、きょう、このうららかな春の日のお昼ちょっと前、お骨《こつ》の入った小さな白い壺《つぼ》を石の下に納めて、塔婆《とうば》って言うのかしら……よく判《わか》んないけど、薄べったい木の板に字を書いた奴《やつ》も、鉋《かんな》をかけたばっかりみたいにまあたらしくって、つまり、店開きしたてのお墓は、いまあたしが立って眺《なが》めてるお墓ぐらいなものだろう。  皆川家之墓、って彫ってある新しい墓石の前でお経を読んでるお坊さんは、若すぎて何だか貫禄《かんろく》がない。やっぱり坊さんは年寄りのほうがいいみたい。  墓石に彫る文句を、皆川家之墓ってすることにきめたのは四郎だった。でも、左どなりのお墓には、伊藤家代々之墓って書いてあるし、右どなりのには、先祖代々之墓とだけ書いてあって、苗字《みようじ》は墓石の前のお花やお線香をたてる小さな四角い石に横書きになってる。  来る途中でうんと大きなお墓をたくさんみかけたけど、そういうのには、入口の横のところにすごく洒落《しやれ》た感じの石の板があって、お骨になって地面の下に入ってしまった人たちの命日や名前なんかが、ずらりと並んで書いてあったりした。  でも、うちのはまだ一人だけ。お母ちゃんの骨は田舎の村はずれにあるお寺の裏の古いお墓の中。いつかの夏、急にお参りしたくなって行って見たら、草ぼうぼうで何だか気持悪かった。  たしかあの墓には、やっぱり先祖代々之墓って書いてあったけど、いったいおんなじようなお墓ばっかりの中で、どうやって自分のうちのお墓を見つけるのかしら。もしかすると、どこかのお墓には、間違ってよそのうちの人のお骨が入っているんじゃないだろうか。  もうすぐお経がおわるみたい。あたしと四郎と、それからお墓を作ってくれた石屋さんの若い人が二人。もっとも拝《おが》んでるのはお坊さんとあたしと四郎だけだし、お坊さんだって商売でやってるんだから、淋《さび》しいお葬式だわ。  やっとおわったわ。石の前へ行ってしゃがんで、形ばかり水をかけてやって、お線香をひと束まるごと火をつけて、手を合わせて拝んで……すぐやめちゃおかしいから、せいぜい時間をかけて、立ちあがって四郎と交代。  四郎の奴、ほんとに悲しそうな顔してる。でも、真面目腐《まじめくさ》った四郎って、案外かっこいい。もしかすると、舞台がいいせいかしら。石段だってちゃんと三段ついてる。二段と三段じゃ値段が違う。……やだわ、洒落になっちゃってるじゃない。  とにかく、この皆川家って奴にしては立派なお墓よ。もしかすると、いや、多分父ちゃんも死んだらこの中へ入るんだわ。  なんかいやな感じ。父ちゃんが入るには立派すぎるわ。呑《の》んだくれの甲斐性《かいしよう》なしの糞《くそ》おやじなんか、誰《だれ》がこんないいお墓へ入れてやるもんか。そうよ、父ちゃんなんかもう野垂れ死んだって引取り手がないんだわ。どこかのドヤ街で、安酒に溺《おぼ》れ腐っておっ死《ち》んじまえばいいんだ。  さて、お葬式はこれでおわり。もっとも、本当のお葬式はもっと手間ひまのかかるものらしいわ。お通夜のあとお葬式をして、焼場へ持ってってお骨にしたって、まだお墓の用意まではできていないはずだもの。  でも、これでいいの。お骨でほったらかされるより、よっぽど上等よ。四郎の言うとおり、ちゃんとしたお墓だけでも作ってよかったわ。なんと言ったって、他人のお墓じゃないんですものね。     2  あたしは今までこんな大きな墓地へ一度も来たことがなかった。とにかくでかくて立派。石屋さんの話だと、ぐるりをゆっくり歩くと半日はたっぷりかかるんだって。  たまげちゃうな。知らなかったけど、死ぬとみんなこんなとこへ埋められてたのね。でも、貧乏人にはちょっと無理みたい。四畳半かせいぜい六畳ひと間の木賃アパートぐらしの人間には、親が死んだってこんな霊園にお墓を作ってやるなんて無理な話よ。  そうじゃないの。赤ん坊が生れるんなら、何ヵ月も前から判るから準備のしようもあるけど、死ぬのはたいてい急なことよ。お金をためてお墓の用意をするひまなんかあるわけないじゃないの。それに、いずれ死にそうだって前から判ってれば、それこそひどいもんだわ。医者だ薬だって、散々お金を絞り取られたあとよ。着物も時計もみんな質屋へ行っちゃって、借金だらけになった揚句《あげく》の果てに、また焼場だお坊さんだ……。それでお墓まで作ったら、馴染《なじ》みの刑事《デカ》につけまわされるのがオチよ。 「どうも、いろいろ有難うございました」  四郎の奴、坊さんにペコペコしてる。あんな生臭坊主にペコペコすることはないんだわ。 「ああ疲れた。やっとおわったよ」  四郎はなんだか面白がってるみたい。疲れたって言ってるくせに、いやにはればれとした顔をしてる。  あたしたちはハイヤーを待たせてあるほうへ歩きだした。霊園の入口のわきにバス停があって、十人ほど並んで待ってるけど、いまさらバスなんて、おかしくって乗れませんわよだ。  霊園の塀《へい》ぞいに少し行くと、黒い外車がとまっていた。あたしたちを待っているの。四郎がちょっと手をあげて合図すると、運転手があわてておりる。うしろのドアをあけてあたしのほうを見てるわ。……この気分、すてきよ。  あたしは黒いスカートの膝《ひざ》のところをちょっと引っぱるようにして、白いカバーのかかったシートへすべりこむ。ハイヤーに乗るたびそう思うの。とってもすてきだけど、金持は昔っからこんな気分で街を走っていたんだなあ、って。癪《しやく》にさわるわ。  四郎も乗って、車が走りだす。 「お疲れになったでしょう」 「いいえ」 「ほんとですか」  四郎の奴、からかっている目だ。 「母と父とので慣れましたわ」  四郎は何か言いかけ、急にあたしから目をそらせて運転手をちらっとみた。ざまみろ。 「ご不幸があったばかりの百合子《ゆりこ》さんに来ていただいたので、ご家族やクラスメイトのかたがたも、感激していらっしゃいましたね」  あたしは思わず笑いかけたらしい。四郎が咳《せき》ばらいをした。 「そうかしら」  あたしは窓の外を見る。車は石屋さんが並んだ長い霊園の前の並木道を通り抜けて、松戸のほうへ向う道へ入った。  太いタイヤのちっちゃな単車に二人乗りした若いのが、あたしたちのハイヤーを追い抜いて行く。音ばかり騒々しくって、あんなのに乗ってよろこんでるなんて、ばかみたい。 「煙草《たばこ》を吸ってもよろしいでしょうか、百合子さん」  四郎の奴、やっぱり面白がってる。 「どうぞ」  あたしはとびきり上品な声で答えた。すぐに四郎のつけた煙草のけむりが車の中にひろがる。 「金町《かなまち》でお降りになるんでしたわね」  あたしは思い出したように訊《き》いてやった。 「え……はあ」  四郎は面喰《めんくら》っている。 「運転手さん。金町の駅前で一人おろしてくださいません」 「はい、かしこまりました」  運転してるのは、五十くらいのがっしりした体つきの、どことなく優しそうなおっさん。父ちゃんも、せめてこのくらいの人だったらよかったのに。  実際、四郎は金町《かなまち》でおりて京成《けいせい》電車で帰ったほうが早いんだけど、あたしのほうから言いだされて、ちょっとむくれたみたい。でも、どうせおりるんなら早いほうがいいのよ。  それにしても、四郎は今度も手ぎわよくやってくれたわ。焼場へ持ってってお骨にして、お墓の手配をして……。おかげであたしはちゃんとできあがったお墓の前へ行って手を合わせるだけですんだじゃない。サンキュー、四郎。でも、これからはあたし一人よ。今までのことであんまり恩に着せるようなら、こっちも考えるからね。  とにかく、いいお墓だったわ。上出来よ。いつか、小松川の源さんのうちへ寄ったら、新聞紙をひろげた上で、あの爺《じい》さんが泣きながらトンカチで何かを叩《たた》いてたっけ。何やってるの、って訊いたら、 「いま、婆さんのお骨を粉にしてるんだ」  って……。 「十年たってもこの骨をいれる墓はつくれなかった。俺ももう長くねえし、ドヤによっちゃあ骨壺を嫌《いや》がりやがるからな」  そう言って、また泣きながら、石の上でお骨をトンカチ、トンカチ……。  そのあとどうしたか知らないけど、きっと川へ流しちゃったんだろうな。その源さんももう死んじゃった。…… やだやだ。貧乏はやだわ。貧乏人なんて、人間じゃないのよ。     3  目黒のマンションの前でハイヤーをおり、重いガラスのドアを押して中へ入ると、管理人が首を突きだすようにしてあたしのほうを見ていた。  あたしは丁寧にお辞儀をしてやった。すると管理人はあわてて管理人室から出て来た。 「いいお天気でよろしゅうございましたね」  ちぇっ、何言ってんだい。若い女が一人っきりになってしまったからって、そう見えすいた優しいふりをしてどうなると思ってるんだろう。おじさま、かなんか言って頼りにして来ると思ってんのかよ。管理人のくせしやがって。金持にしっぽを振るしか能のない甲斐性なしの犬め。 「おかげさまで」  あたしはたちどまって笑顔を見せてやる。 「お客さまが見えていらしたようですよ」 「あら、どなたかしら」  あたしは眉《まゆ》をひそめた。 「よくお見かけするかたですが、多分またいらっしゃるか、それとも電話でもなさるんじゃありませんか」  大きなお世話だよ。だいいち、面倒な客なんか来て欲しくないんだわ。 「いつもお世話になります」  あたしはまた丁寧にお辞儀をしてエレベーターのほうへ行った。  エレベーターのボタンを押したとたん、 「百合子さん」  とうしろで男の声がした。 「お嬢さま」  とそれに管理人の声が重なる。あたしは振り向いて、おめめをパッチリあけて小首をかしげる。可愛いんだ、こうやると……。 「さきほどのお客さまです」  お節介な管理人の奴が先に言った。 「いまお戻《もど》りでしたか」  小室《こむろ》というにやけた若僧だった。若僧だけど年はあたしより五つくらい上かしら。小金井興産の秘書課の奴だ。 「あら、お客さまって、小室さんでしたの」 「お留守でしたので、前の喫茶店でお待ちしていたのです」  ちょっと清潔な感じはする。さすがは秘書課だけど、てんであたしのタイプじゃない。  エレベーターが来ちゃった。ドアがあく。 「何か急なご用でしょうか」  あたしはかすかに当惑の表情を泛《うか》べた。 「いろいろお話したいことがございまして」  このばか、七階へあがってあたしの部屋で話をしたいんだわ。そうはいくか。 「あら……」  あたしはますます困ったような顔をして管理人のほうを見た。おっさん、ちょっと気を揉《も》んでるみたい。 「こんな恰好《かつこう》ですし……」  あたしは黒のスーツを着てる。もちろん薄いものだけど、そこらの喫茶店へ入るにはあらたまりすぎている。  舐《な》めてるんだわ。秘書課員なんて、肝っ玉が小さいくせに、虎《とら》の威をかることになれてやがんの。普通ならとっくに気をきかせてるはずなんだけど、図々しくエレベーターの前に突っ立って、ばかみたいにあたしをみつめてる。 「お部屋まであがって来ていただきたいのですけれど、あたくしひとりだけですし、若い男性とご一緒するのでは困るんですの」  こういうときは、かなりきっぱり言ってやったほうがいい。あたしは急に冷たい目をしてみつめ返してやった。  秘書課の若僧はすぐ目をそらし、 「ええ。……ですから」  と口ごもった揚句、 「あの、前の喫茶店ででも」  と言った。 「着がえますし、少し手間どると思うんですけれど」 「いいですよ。お待ちします」  安月給かも知れないけど、会社からちゃんともらってやがるくせに、勝手なことで時間を潰《つぶ》していいのかね。サラリーマンなんてみんな調子がいいんだから。 「では……」  あたしは一度閉じたエレベーターのボタンをまた押して中へ入った。 「有難うございました」  わざと管理人に礼を言ってやった。あんなおっさんでもそばにいたから、秘書の奴きっとやりにくかったんだわ。ひょっとしたら、お手間は取らせませんかなんか言って、あがって来たかも知れない。  管理人はいまごろ、秘書の奴に冷たい目を向けているかも……。この百合子さまのピンチを救ってやったつもりでさ。  みんな狼《おおかみ》ばっかり。あたしは若くて綺麗《きれい》で一人ぼっちで、でっかい遺産を継ぐんだから無理もないけどね。     4  高級ってことは、まず第一に静かだってことかしら。鍵《かぎ》をあけて部屋へ入ると、シーンと静まり返ってる。閉め切ってあったから、生《なま》あったかいけど、このマンションの静かさってものは、どこかしっとりとしてて気分がいいの。  それにしても、ずいぶんお金をかけたもんだわ。壁紙って言うから紙かと思ったら、本物は布なのね。どこからどこまで毛あしの長いカーペットを敷きつめちゃってさ。家具だって新しく買おうと思ったら目の玉がとび出しちゃうくらいよ、きっと。自分の部屋じゃなくてこんなの見せられたら、腹が立っちゃうはず。  陰気臭い服を脱いで、春らしいワンピースに着がえる。あたしの部屋の三面鏡もでかいけど、入口の壁や浴室のとこなんかにもでかい鏡がとりつけてあって、着がえをするのがちっとも面倒じゃない。ママの部屋にある鏡なんか、ばかばかしいくらいでっかいの。  またママって思っちゃった。ママじゃなくて、お母さまだったっけ。  あたしのお母さまの名前は舘山美津子。むかし映画の女優だった。それがあたしを生んで女優をやめ、赤坂の洒落た料亭の経営者になり、こんな六部屋もある凄《すご》いマンションに住んでいたわけ。ここへはあたしが高校二年のとき引っ越して来た。  ずいぶん贅沢《ぜいたく》をさせてもらってたわけだけど、それもこれも、あの小金井吉兵衛という脂《あぶら》ぎった助平おやじのおかげなんでござあますわ。有難くって涙が出ちゃいそう。  小金井吉兵衛は……あらやだ、新しいほうの口紅はハンドバッグの中だわ。……そう、小金井吉兵衛が問題なのよ。あのじじい、死ぬまでにいったい何人女を作ったのかしら。小金井興産なんていう凄い会社を一代でおったてたんだから、やり手には違いないけどさ。最初のおかみさんは名前も知らないけど、二度目が松代って奴でしょ。もと松千代っていう芸者じゃないの。三番目が常子っていう今の奴。常子は吉兵衛にとってあんまりよくない女だからそう問題ないし、第一子供がいないけど、松代には登って言うドラ息子がいて、小金井興産に勤めてる。大学を出たばかりだけど、いずれは社長になるかもね。  小金井登はまあいいわ。本家の一人息子というわけだし、会社を継ぐのはあいつでも仕方ないからね。うるさそうなのは、それより小姑《こじゆうと》たちよ。静岡に住んでる三島よう子と、千葉にいる津田てい子。二人とも最初のおかみさんの子供で、お嫁に行っちゃってるけど、遺産の取り分が少ないって判ると、ガタガタ言ってくるでしょうね。  それに、うちのママ……じゃなかった、お母さまとおんなじ立場の、つまり妾《めかけ》の浦野良子に宇田川みどりがいるわ。あいつら、少しはもらうのかしら。  さて、お化粧直しもすんだし、あのくだらない若僧に会ってやらなきゃいけないわ。     5  小室はあたしを見ると、ちゃんと立ちあがってお辞儀をした。人目があるから、会社の用事で来たってことを、まわりに判らせたいのね。 「いらっしゃいませ」  感じのいいウェイトレスだと思ったら、この店のママの姪《めい》だってさ。姪だか娘だか判るもんか。みんな世間|体《てい》ばっかりつくろってるから、なんだって一応疑ってみなければ……。 「レモンティー」  あたしはにっこりして言う。 「実は秘書課長から言われまして……」  ウェイトレスに聞えるように小室がいやに事務的に言った。でも、ちょっと言葉を切るうちにウェイトレスが退場。すぐ言葉の調子を変える。 「と言っても大した用件ではないんです」  ちょっとなれなれしいぞ、こん畜生め。 「はあ、何でしょうか」  喫茶店の椅子《いす》に坐《すわ》って膝を合わせ、その上に両手を置いてかしこまってるのは楽じゃない。早く帰れ、安サラリーマンめ。 「四日ほどお見舞いしておりませんでしたので、ご様子を伺って来いと」 「あら、そんなことでしたの。……ご苦労さまです」  あたしは頭をさげた。 「おかわりないようですね」  いやらしい。兄貴みたいな面《つら》をしやがる。物欲しげなほうがまだましだわ。 「あんなご不幸があったあとですから、百合子さんについてはみな心配しておるのです」  おるのです、と来た。生意気に。 「有難うございます。お戻りになりましたら、課長さんによく申しあげてくださいませ。百合子はもうすっかり気をとり直しておりますから、ご心配には及びませんと……」  小室はわけ知り顔で何度も頷《うなず》いてる。 「よかった」  何がよかっただ、ばか。関係ないくせに。 「ここから先は僕の個人的な発言なんですが……」  と煙草をとりだす。さっきのウェイトレスがあたしの紅茶を持って来た。あたしは面倒臭いのを我慢して、小室の話に耳を傾けるふりをした。紅茶だって、本当はウィスキーをいれてもらいたいのに。  小室は声を低くした。 「実は、弁護士の笹木健造先生が社に見えたとき、副社長たちと話していたことなんですが、総会までは副社長が今のまま社長のかわりにやって行くそうです」  あたしは要領を得ない顔で頷いてみせた。 「で、そのとき百合子さんに関係のある話も出ましてね」 「あら、何でしょうか」 「社長はずいぶん百合子さんを愛していらっしゃったようですね」 「ええ、とても可愛がっていただきましたけど」  あたしは目を伏せた。悲しんでるように見えるはずだわ。 「遺産のことなんです」  小室は早口でささやいた。あたしはうつむいたまま。 「どうも問題でしてね。今の常子夫人はお邸《やしき》を出なければならんようです」 「まあ、なぜですの」 「行くものは相当行くでしょうが、登さまがやはり社長の跡をお継ぎになるわけで、そうしますと、常子夫人との仲がどうも……。社長はさすがにそこまでお考えだったようです」 「奥さまはどうなさるのですか」 「さあ、そこまでは判りません。しかし、笹木先生のお言葉では、法律的には問題ないそうで……」 「登さまはいずれご結婚あそばすのでしょう」 「ええ。もうご婚約なさっています」  あたしは頷いた。  このばか、大した情報を持って来てはいないらしい。でも当人はあたしの役に立つと思って大真面目。 「静岡の三島さま、千葉の津田さま、それぞれ一応の配分をお受けになります。それに……」  小室はわざとらしく言いにくそうにしてからつづけた。 「例の浦野さんと宇田川さんと言う二人の女性も、少ないですが受取る分があるそうです」 「あたくし、お金のようなことはあまり興味ございませんの」  あたしは閉口したように言った。 「いや、そう言ってはいけません」  こいつ、自分がもらうような顔してる。 「問題と言うのは、百合子さんがお受けになる額なんです。比率が高いんです。赤坂のお店は当然ですが、なんと十億円近いんですぞ」 「要りませんわ、そんなに」 「そりゃ、相続税も大変です。しかしそれにしても大変なことです」 「もしそうだとしたら、母に対する愛情なのでしょう」 「いえ、僕ら秘書課の者はみんなよく知っています。社長は生前何かと言うと百合子さんのことを話題にしていらっしゃいました。舘山さん……いや、お母さまにもですが、百合子さんに対しても、絶大な愛情を抱いておられたのです」  それが判ってどうだと言うんだろう。こいつに関係ないことじゃないの。 「でも、もう母も、そして父もこの世にはおりませんわ」  あたしはますます深くうつむいてやった。この舘山百合子というお嬢さんが、有名な財界人の娘であることは、この近くの人間はみんな知っているし、父の小金井吉兵衛が小型機に乗っていて墜落死したことと、その直前に舘山美津子が急死したことは、新聞にも週刊誌にも書きたてられたから、知らない者はいないのだ。  そういう気の毒な娘を喫茶店で泣き出しそうにさせる奴なんて、みんなに嫌《きら》われるにきまっている。小室もすっかりあわてたようだった。 「いや、百合子さんを悲しませようと思ったわけではないんですよ。僕はなんとかお力になりたくて。……大したことはできませんが、秘書という仕事はいろいろ内密な件も耳に入りますし」  判ってるのよ。死んだ老人から十億円ばかり贈られることになってる綺麗な女の子を、放っとくテはないって言うんでしょ。万一うまく行けば出世のタネにもなるしね。 「あたくし、疲れましたの」  ゆるく首を振って言うと、小室の奴ほっとしたように声を高くした。 「そうでしたね。お母さまのお墓まいりにいらしたあとですからね」 「いいえ、今日は違います」  あたしは否定した。こういうことはちゃんと言って置かないと、あとでとんでもないことになる。 「お友達がなくなったのです」 「おやおや、それはかさねがさね……」 「いいえ、そう親しいお友達ではなかったんですけれど」 「そうですか。まあ、いずれにせよ人生にはこれからもいろいろなことが起こるでしょうが、どうかお大事にお過しください」  大きなお世話よ。そんなことより、その煙草を吸わせて欲しいわ。     6  あたしは贅沢な家具にかこまれた高級マンションで、じっと日を送っていればそれでいいのだ。いい物を着て、おいしい物を食べて、ただ十億円をじっと待つ。それだけ。  お酒だけは用心している。でも、煙草なら人にみつからない限り大丈夫。そのかわり、知ってる奴は誰も来ない。電話もろくにかかって来ない。  迂闊《うかつ》に動いたら敗け。遺産が少なくて当てが外れた奴らが、鵜《う》の目|鷹《たか》の目で見張っているかも知れないじゃない。おっとり上品にかまえて見せたって、心の底は貧乏人以上に強突張《ごうつくば》りなんだからね。  ことのおこりは、あの高野敏明っていうインチキ医者よ。痩《や》せて貧相なあん畜生が、あたしたちのとこへ流れて来たことからはじまったの。 「似てるなあ」  あたしを見るたびそう言いやがんの。はじめはいい加減なことを言ってると思って気にしなかった。あたしだってちっとは綺麗だと言われてたし、遠まわしに気をひいてものにしようとする男はいくらでもいたわ。  でも、あんまりうるさいから言ってやった。 「誰に似てんのさ」  って。そしたら高野の奴、ニヤリとしやがってさ、 「大金持の娘にそっくりだ」  そう言ったっけ。大金持って聞いて、ハッと緊張しない奴なんてあたしのまわりにはいないもんね。みんなお金じゃ泣かされてる奴らだもん。あたしだって、お金があったら体なんか売りゃしないよ。それほど助平じゃない。母子《おやこ》二代で体売ったって言われたけど、そうじゃない。貧乏な親からは、貧乏な子供しか生れないだけなんだ。  あの高野って奴、何か悪いことして食いつめたんだわ、きっと。それで上から落ちて来たのよ。だって、舘山美津子なんて女をよく知ってたんだものね。  でも、おそろしい奴だったわ。悪《わる》だし、頭がいいし。 「十億円ほど稼《かせ》ぐ気はないか」  そう言われて、あたし夢中になっちゃった。十億なんて、夢に見るだけでもいいと思っちゃった。あいつ、蒲団《ふとん》の中であたしの顔をつねったり引っぱったりして、 「おまえならやれる」  そう言った。口ばっかりじゃなくて、あのほうの腕もたしかだったわ。ひとっきり、あたしはまるであいつの女みたいだった。ただで抱かれて、逆に稼いだ金をやっちゃったりさ。たしかに、あいつに抱かれるとよかったけど、あたしだってそこらの世間知らずじゃないからね。適当なこと言われてヒモになられるんじゃかなわない。  それで、四郎に言いつけた。四郎はいざとなると、きちんと殺《や》れる男だからね。あたしをどうする気だ、って高野につめ寄った。 「舘山美津子という女は、大金持の小金井吉兵衛から、十億円の遺産を受ける約束をしている」  高野はそう白状した。高野はあたしを見て、いろいろ考えてたのよ。でもそれは空想でしかないみたいだった。ただ、舘山美津子は小金井吉兵衛が死んだら十億円もらう約束をしてたっていう話はたしかだったのよ。  四郎は高野の空想にとびついたの。もちろんあたしだってそう。高野にとっては空想かも知れないけど、あたしたちにとってはパラダイス行きの船に見えたのよ。判《わか》ってもらえるかな。あたしたちは、夢を見ることさえ夢だったんだから。  あたしがいちばんよく見た夢は、あたしのまわりがみんな見てた夢とおなじ夢よ。それは死んじゃう夢。死んだらどんなに楽だろうって。  あたし、忘れない。お母ちゃんだって、いつもそう言ってた。 「おまえや父ちゃんを置いて死んじゃえたら楽でいいんだけど」  ってね。そう大人にもならないうち、あたしもお母ちゃんとおんなじように思ったわ。父ちゃんの友達に無理やり女にされて少しばかりのお金をもらったあと、自分から体を売るようになって、父ちゃんに稼いだ金をまきあげられたとき、はじめてその夢を見たわ。だってあの糞おやじ、すぐその金で酔っぱらって、ドヤ街の道にひっくり返ってたんだもの。父ちゃんをうちへ連れて行きながら、あたし死んじゃおうかと思った。  あたしだけじゃないのよ。みんなそうだった。形は違うけど、 「死んじゃえたら楽だろうな」  って、みんな百遍や二百遍はそう思ったことがあるのよ。  あたしと四郎はその夢へとび込んでった。当然でしょ。自分から死んじゃうより……いや、死んじゃう気になれば、この世で十億ってお宝が手に入るのよ。     7  電話って、おかしな道具だと思う。  あたしは目黒のマンションに引きこもったまま、毎日電話を眺《なが》めて暮しているのだ。この賭《かけ》のすべてが、この電話ひとつにかかっているような気がして来ちゃう。  夢がぶちこわれるとすれば、きっとこの電話のベルがきっかけね。 「もしもし、百合子さん……」  もしかすると、そいつはあたしの親友かも知れない。あたしたちだってずいぶん一生懸命調ベたけど、なんと言ったって時間がなかった。大急ぎでやったんだから、調べおとしはいくらでもあるわよ。  あたしの声が判らないなんておかしいわ……こっちがうけこたえにドジを踏むと、そいつはそう言って首をかしげるだろう。で、誰《だれ》かにそれを告げ口したりして……。  そうなれば、何かイチャモンをつけるネタはないかって考えてる連中ばっかりなんだから、まさかと思っても調べにかかるかも知れない。 「あなたを上野の動物園にお連れしたときのことを憶《おぼ》えていらっしゃる……」  なんて、カマをかけて来たりする。  ああいやだ。身ぶるいするわ。うっかりハイなんて調子のいい返事をしたりすると、本当はそんなことなかったりして、……やっぱりあいつは怪しい、なんて思われちゃう。  でも、夢がひとつひとつ実現して行くのも、電話のベルが鳴るからよ。ベルが鳴るたび、あたしの遺産相続の手続きが進んで行くわけ。 「これですべておわりました。今日からあなたは大金持です。おしあわせに……」  早くそういう台詞《せりふ》を聞きたい。金さえ掴《つか》んだらこっちのもんよ。小金井一族とそのとりまき連中の前から、ドロンと消えてやる。そして好きなことをするんだ。もうきたならしい男たちに体を売ることもない。四郎だって、人を殺《バラ》したりする必要はなくなるのよ。  ……畜生、ベルが鳴った。一回……二回。誰だろう。まったくドキドキしちゃう。 「ハイ、舘山でございます」 「あ、百合子さん。僕です」  やだ、小室のばかじゃない。 「は……どなたでしょう」  とぼけていやがらせてやれ。 「僕ですよ、小室です」  できるだけ関心のなさそうな声で言おう。 「小室さん。……ああ、小金井興産の秘書課のかたですね」  きっと電話の向うでしらけた顔してるよ。 「いかがですか」 「あの……何がでしょう」 「いえ、その、お元気ですか」 「はあ、おかげさまで」 「あ、それならいいんです」 「何かご用でしょうか」 「いえ、別に。ただ、どうしていらっしゃるかなと思いまして」 「…………」  返事をしてやらない。 「おうちにばかりいらしてはお体に毒ですよ。たまには散歩くらいなさらないと」  大きなお世話だよ。 「いろいろご心配いただきまして、有難うございます。いま散歩から戻ったところなのです」 「はあ……」  ざまみやがれ。金と出世と両方一度に手に入れようと、何かって言うと電話をして来やがる。お前の魂胆《こんたん》はとっくに判ってるんだよ、このばかやろう。 「申しわけありませんが、もうすぐお友達が見えることになっているんです」 「お友達ですか」  気にしてる。男だと思ってるかも知れないな。 「学校で同じクラスだったかたがたですの」  これならいいだろう。男を引っぱりこんでると思われちゃ迷惑だもの。 「じゃあ、また電話いたします。どうぞお大事に」 「有難うございます」  電話は切れた。笑っちゃうよ、まったく。どうぞお大事にだってさ。あたしは病人じゃない。  でも、このところあの小室だけじゃないのさ。ほかの連中はなぜ電話して来ないんだろう。そろそろつらくなって来ちゃった。欲のない顔してここにとじこもってるうちに、お金をくれないような話がどんどん進んじゃってるんじゃないだろうなあ。  やだよ、もう。いいかげんに舞台がまわってくんないと、このまんまじゃ何がなんだかさっぱり判りゃしない。     8  やっと笹木健造って言う弁護士のじじいから連絡があった。会って大事なことを話したいから、日比谷のオフィスへ来てくれってさ。  オフィスって、どんなとこだろう。同じ弁護士でも、小金井のような大金持ばかりを相手にしてる奴だから、きっと凄く豪勢なとこにいるんだろうな。  着て行く服に注意しなくっちゃね。いかにもお上品でかよわい百合子姫って恰好がいいんだけど、衣裳棚《いしようだな》にいっぱい服がありすぎるんで迷っちゃう。  それに、気をつけなきゃならないことがもうひとつある。あたしは遺産のことなんか何もまだ知っちゃいないことになっているんだからね。笹木って弁護士が、きょうはじめて舘山百合子にその話をするわけ。  高野が舘山美津子からそれを聞きだせたのは、あいつが初恋の相手だったかららしい。高野って奴《やつ》は、本当は医者になるはずの男だったんだけど、どこかで足を踏み外して詐欺師《さぎし》みたいなことになっちゃってた。そしてむかし、あいつがまだちゃんとしたくらしをしてた頃《ころ》につき合ってた、舘山美津子にめぐり合ったというわけ。  元女優で、赤坂の高級料亭のおかみで、小金井吉兵衛がいちばん可愛がってる妾。詐欺師なら誰だってとびつく相手じゃない。  一時はすっかり信用されて、相談相手になっていたというけど、ひょっとしたら体の関係だってできてたかも知れない。舘山美津子は綺麗だったし、まだそんなばばあでもなかった。  イヤリング、して行こうかどうしようか。  きっと体の関係があったんだろうな。それでなかったら、高野が冷たく抛《ほう》り出されたことの筋が通らないじゃない。あいつ、きっとやりすぎたか何かしたのよ。美津子はこれ以上高野とつき合ってると、小金井吉兵衛との関係がうまく行かなくなると心配したのかも知れない。  そうよ。綺麗な顔してたって、要するに肚《はら》の底はお金めあてよ。二号なんかやってるくらいだもの。たくさんいたほかの女たちを蹴落《けお》として、本妻以上に可愛がられてた。それだからこそ、遺産だって一番有利にとりはからってもらえたんだわ。  いけねえ。あたしはその娘よ。しかも小金井吉兵衛の血もうけついでるんだわ。そうなると、お上品ばかりでもいけないんじゃないかしら。  芯《しん》は案外しっかりした娘じゃないと、笹木健造みたいな弁護士の気には入らないのかも知れない。いや、気に入られなくったってかまわないけど、舘山百合子っていう娘は、本当にそういう人間で、笹木みたいな古狸《ふるだぬき》は、とっくにそれを見抜いてたんじゃないかな。  この計画を作った高野の奴も、ここまでそれをおしすすめた四郎も、いまあたしが感じていることだけはまるで気がつかないでいる。それは、舘山百合子が本当はお姫さまのような女じゃないってことよ。外見がどう見えようと、どんなに金をかけて手厚く育てられようと、実際は妾の子だし、父親は一代で大金持にのしあがった男じゃないの。  あたしたちは貧乏人だから、金持っていうのはみんなおっとりかまえてる上品な奴らで、そういう連中の子供たちは、お城の王子さまやお姫さまみたいだろうと思い込んじゃってたのよ。  だから、あたしだってお上品にお上品に振舞っていたけど、そればっかりじゃ間違いだったんだわ。金持ってのは、なぜ金持になったの。たくさんの人間を踏んづけて成りあがったんじゃない。奴らの金はどこから来てるの。貧乏人じゃない。小金井吉兵衛のとこに集まったたくさんのお札《さつ》の中には、あたしの手を通り抜けてったお札だってまじってるんだわ。その一枚のために泣いたり喚《わめ》いたりしたあたしのお札が、奴らのとこへ行ってるのよ。大がかりな仕掛けで吸いあげられてさ、貧乏を自分たちに甲斐性《かいしよう》がないせいだと思い込んで、運が悪いんだとあきらめて、何十年もそういう辛《つら》いくらしを一緒にして来た女房のお骨《こつ》をいれる墓ひとつ作れずに、しまいにトンカチで叩《たた》いてお骨を粉にして川に流しちゃうような人生を送っても、どこへも尻《しり》の持ってきどころがないと思い込んでたのよ。  でも上品ぶっていいくらしをしてる連中が、あたしたちを貧乏にした犯人なんだわ。  舘山百合子だってその一人よ。  あ、チャイムが鳴ってる。弁護士のとこからのお迎えだわ。行かなくっちゃ……。  畜生、なんとしても金をふんだくってやるぞ。敗けてたまるか。 「いらっしゃいませ。笹木先生のご用でいらっしゃったかたで……」 「ええ。川村と申します。お迎えにあがりました」 「お待ちしておりました。仕度《したく》はできております」 「ではどうぞ」  あたしはハンドバッグを持ってドアの外へ出ると、鍵をかけた。背の高い、ハンサムな、感じのいい男だった。     9  日比谷のでっかいビルの四階。やっぱり金をかけた贅沢な部屋だった。金文字の入った厚い本が、あたしをおどかすようにずらりと並んでいる。あたし、本には弱いんだ。字を読むとすぐに頭が痛くなる。 「まあ、そこへおかけください」  ガラガラ声だわ。それに脂ぎってる。いやらしいじじい。 「有難うございます。では失礼いたします」 「冷たい物を用意しましたが、それでよろしいかな」  威張ってやがる。金持にへばりついてる寄生虫のくせしやがって。 「はあ、どうぞもう、おかまいなく」  迎えに来てくれた川村という奴が静かに立ちあがってとなりの部屋へ何か小声で言った。きっと、ジュースか何かを持ってくるようにって命令したんだわ。 「みんな、あなたのことについては心配しとったのですよ。お母さんがあんななくなりかたをなさるし、お父さんも……」  舘山美津子は赤坂の狭い道を夜中に歩いてて、単車に撥《は》ねられて死んじゃった。小金井吉兵衛は自家用のビーチなんとかという飛行機に爆弾をしかけられて死んだ。どっちも犯人はまだつかまっていない。あたり前さ、四郎がそんなヘマをするわけがないよ。 「悲しいことは忘れることにいたしました」  か細い声でなくちゃ感じがでない。あたしは精一杯けなげに言った。  笹木はじっとあたしをみつめて頷いてる。目で判るわ。こいつあたしを信用してる。 「さすがだね」  笹木のじじいは川村って奴に言った。なんでこんなかっこいい奴が、笹木みたいなじいさんの下で働いてんだろう。名刺には弁護士って書いてあったけど、笹木の弟子かな。 「さすがは小金井社長の血をうけたお嬢さんだと感心しているのですよ」  今度はあたしに笑いながら言う。これだからやんなっちゃうんだよ。貧乏人は親が死んだって、そういつまでも泣いてくらしちゃいらんないのさ。食べなきゃならないからね。仕事で体を動かしてると、いつのまにかそんなことは忘れちゃうんだ。いやおうなしに、毎日の生活の中で忘れさせられちゃうんだ。金持はそれがないから、いつまでも悲しみつづけていられるらしい。贅沢だよ、どこからどこまで……。  となりの部屋から、あたしくらいの女の子がすきとおった飲み物を運んで来て、テーブルの上へ置いてった。サイダーみたいだ。 「今日お呼びしたのは、あなたの財産についてです」 「あたくしの……」  びっくりしたような顔が自然にできた。 「そう、あなたのです」 「あたくし、何も持ってはおりませんけど」  まあまあ、というように笹木は手をあげた。うまく行きそうね。 「わたしは飛行機事故でなくなった小金井社長の資産を管理しています。そして小金井氏はなくなるずっと以前に、きちんとした遺書を作成されていたんですよ」 「はあ」  眩《まぶ》しそうにじじいを見てやった。じじいはうれしそうだった。こんな奴でも他人をよろこばせる役はうれしいらしい。 「それが急になくなって……本来ならばもっと早くにお伝えするところなんですが、こういうことになると、遺族の間でいろいろ面倒な話が持ちあがりましてな。この川村とも相談しまして、万事|綺麗《きれい》にかたづくまで、あなたをこの問題から遠ざけていたんですよ」  道理でいつまでも音沙汰《おとさた》がないと思ったわ。でも、笹木は川村をたててるみたい。かなりやれる男なのかも知れない。 「あなたのようなかたを、欲にからんだみにくい争いにまき込ませたくなかったのですよ」  その川村があたしに言った。優しくて、しかも頼りになるという感じ。あたしたちのまわりには、こういう男だけは絶対いないわね。こういう男がかりにいたとしても、すぐ上へよじ登って行っちゃう。畜生、なんだか知らないけど妬《や》けて来ちゃった。 「有難うございます」  でも、あたしはいま、本番の舞台に乗ってるの。ピンと神経を張ってなくちゃいけない。だから、前後の筋をよく計算して、何だか判らないけどとにかくお礼を言った、という様子で頭をさげて見せた。 「全部おわりました。常子未亡人はじめ、登さん、三島さん、津田さんなどの遺族のかたがたや、ほかに一、二関係のあるかたがいらっしゃるが、これがみなさん多かれ少なかれご不満をお持ちでしてな」  笹木は気持よさそうに笑った。 「あなたを羨《うらや》んでいるのですよ。いや、憎んでいるかも知れん」 「まあ」  あたしは怯《おび》えた目で二人の弁護士を見た。 「ですから、ご忠告までに申しあげると、今後あなたはそういう、小金井家と関係ある人々に接触せんほうがおためです。あなたはあなたご自身の新しい人生をきりひらいて行って欲しいものです。わたしたちは二人ともそう願っています」  そんなことはどうだっていいんだよ。糞《くそ》じじいめ、早く結論を言えばいいのに。じれったいな。 「小金井吉兵衛氏の遺志により、あなたにこれだけの遺産がおくられることに決定しました」  笹木はそう言って、いとも無造作に一枚のひらひらした紙をあたしによこした。  一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億……。  やった。やったぜ、こん畜生。ざまみろ、ばかやろう。 「あの、随分な金額でございますけれど」  辛いな、とぼけるってのは。 「現金で二億八千万。そのほかに土地が二ヵ所。もちろんこの一部は本来ならあなたのお母さんにおくられるものですが、そのお母さんはすでになくなっておられる。小金井氏の遺言状によれば、その場合はお子さんであるあなたに権利が生ずるようになっています。それにあなたご自身に対する分と合わせますと、これだけのものになるわけです」 「でも、ほかのかたがたに……」  申しわけない、というそぶりをした。笹木は笑いだした。 「それ相応のものは皆さん受取っています。別にあなたが気になさることはないし、だいいち小金井氏の財産というのは、もっとずっと巨大なものです。ご安心なさい」  あたしはなんとなく父ちゃんを思い出した。あののんだくれの糞おやじ。あいつが死んだって迷惑するばかりじゃないの。それにくらべると、小金井って奴はやっぱり凄《すご》い奴だったんだわね。デキが違うんだ、人間の……。 「今後、及ばずながらわたしたちがあなたのお力になりましょう。どういう人生設計をなさるにせよ、一番いい途《みち》を考えようじゃありませんか」  川村は笹木の言葉がおわるのを待っていたように立ちあがり、あたしに握手してきた。畜生、ジーンと来ちゃった。こういう男に愛されたら素敵だろうな。     10  札束をリュック・サックか何かにつめて、よいしょとかついで逃げだしたかったけど、実際はなかなかそうかんたんには行かなかった。  金はあちこちの銀行に分散して預けられ、金が金を生んであたしのくらしがいっそう安泰になるように取りはからわれてしまった。  それでも、四郎や高野たちには楽をさせてやることができたけど、やっぱり早いところ全部を思いのままにしてみたい。四郎たちもそのことではやいのやいの言って来る。  でも、あたしはまだ当分目黒のマンションを出ることはできない。舘山百合子の役をしつづけてなきゃいけないんだわ。  もう、そうそうとじこもってばかりいなくてもよかった。四郎とも気ままに会えるし、外泊だってしようと思えば問題なくできる。  もちろん、四郎ともうあれから何度も寝た。寝たけど、今までみたいに夢中にはなれなかった。あたしのどこかでもう一人のあたしがみつめてるみたい。  それはあの人のせいだ。川村さん。くやしいけど、いつのまにかあたしは彼を川村さんと、さんづけで考えるようになっちゃった。だって、四郎よりずっとすばらしい男よ。あたし、尊敬しちゃってる。何かというと日比谷の事務所へ電話して、ときどきはデートみたいなこともする。川村さんもあたしに少しは気があるみたい。……気があるなんて言っちゃ品が悪い。川村さんを侮辱してるみたいだ。そう、あの人はあたしを気に入ってくれてるし、ひょっとしたらそのうち愛してくれるかも知れない。奥さんがいるらしいけど、そんなことどうだっていい。あの人に抱かれたい。愛されたい。あの人の気に入られるなら、もっともっと、本当に、芯から上品な女になってもいい。一生舘山百合子でいてもいいのよ。川村さん……会いたいわ。     11  その川村さんからあたしに呼出しがかかったのは、金曜日だった。今日こそ、ひょっとしたら抱かれることになるかも知れない。キスくらいはされるかも知れない。  あたしはそういう予感がして、なんだかゾクゾクしていた。  川村さんは自分の車で迎えに来てくれた。 「どこへ連れて行っていただけますの」  あたしは訊《き》いた。でも川村さんは黙って車を走らせていた。あたしは幸福だった。どこだっていい。この人と一緒なら……。  でも、様子がおかしくなった。車はどんどんごみごみしたほうへ入って行くじゃないの。やだわ、あたしの古巣のほうよ。  荒川の土手へ登り、土手の下の駐車場でとまると、川村さんはあたしの手を引っぱって土手の上の道へ戻《もど》った。まっすぐに続いた土の道をどこまでも歩いて行った。 「ねえ、どこへおいでになるの」 「君の故郷だよ」 「あたくしの……」  ドキッとした。畜生、やっぱりバレてしまったのか。 「そう、皆川敬子のね」 「どなた……」 「君さ。お父さんは皆川金蔵。お母さんはなくなっているね」 「…………」 「ねえ君。嘘《うそ》はいずれバレる。犯罪者は結局破滅するんだよ」 「…………」 「しかし、いったいどうやってこの大芝居が組めたんだ。まるで奇跡だよ。舘山百合子を殺して、皆川敬子がそれと入れかわる。百合子と敬子はそっくりだから、それはやろうと思えばかんたんかも知れん。しかし、百合子の母と小金井吉兵衛をなぜ殺せたんだ。その二人を殺せば必ず君は莫大《ばくだい》な遺産がころがり込むと、なぜ判ったんだ。僕はそれが知りたい」  あたしたちは土手の上に立ちどまった。あたしの育ったスラム街が目の前にひろがっていた。 「教えて。どこからバレたの」 「君がクラスメイトの墓参りに行ったという嘘をついたからさ。だが、クラスメイトは誰も死んではいない。ハイヤーの運転手、管理人、そして小金井興産の小室という青年……。君はとるに足らない嘘だと思っていたろうが、嘘はそういうささいなところから崩れるのさ」  あたしは笑い声をあげた。これでもうおしまいね。 「高野という奴が話を持ち込んだのよ」  あたしは教えてやるつもりだった。 「知ってる。それも調べた」 「それなら、百合子に遺産がころがり込むのを知ってたわけが判ったでしょう」  川村さんは首を横に振った。 「高野の話が確実だという証拠はどこにもなかった。君らは夢のような話にとび込んだのだ。舘山美津子が小金井氏と約束をしたとしても、小金井氏がその約束を実行して、言うとおりの遺言状を書くとは限らない。女と男の仲のことだぞ。だが君らはそれを信じ込んで、三人の人間を殺した。そんなあやふやなことで、どうして三人も殺せたんだ」  判っちゃいないんだわ。こいつはやっぱり金持側の人間ね。 「夢だって何だっていいのよ。あたしたちはね、そういうものにつかまりたいのよ。一生に一度でも、そういう夢にすがってみたいのよ。死ぬこと以外に自分を救う夢なんか見られない連中の、そういう間抜けな願いなんて、あんたには判んないでしょうね」 「待てよ」  川村の奴が遮《さえぎ》った。 「この件は僕しか知らない」  じっと川村はあたしをみつめた。  あたしの目から、涙がポタポタと流れおちはじめた。  次に川村の言う台詞は、そのみつめてる目で判った。内緒にしてやるからわけ前をよこせ、なのだ。  ばか。ひとでなし。なぜ仲間になりたがるんだ。これじゃ、あたしの夢は……せっかくつかまえた、あたしの夢の中の夢は……。  畜生、みんなおんなじじゃないか。やっぱり、こんな世の中から、早くバイバイしちゃったほうがいいのか。  最初の夢がいちばん正しかったんだわ。 [#改ページ]   窓辺の円盤  街が突然暗くなって、大きな雨の粒がパラパラと灼《や》けた舗道に黒い跡をつけはじめた。  あっちでもこっちでも、キャー、という娘たちの悲鳴がしていた。  青山通りから原宿の駅へ行くために表参道へ入ったばかりの戸川啓介は、ひどい夕立が来ると見て、いち早く雨を避ける場所を探していた。  日曜の午後であった。  啓介のいる位置から眺《なが》めると、ゆるい下り坂になった並木道の両側で、若い男女が右往左往しているのが見えた。彼の右脇《みぎわき》を、白い服を着た二人連れが坂の下のほうへ駆け抜けて行った。 「いやーん……」  背のひょろ高い青年と手をつなぎ、引きずられるように前のめりに走って行く娘の甘ったるい声が啓介の耳に残った。  だが啓介はそれどころではなかった。明日の朝一番に印刷所へ渡す、ポスターカラーで描いた絵を持っていたのだ。その絵は薄茶色の大きな封筒に入れてはあったが、一滴でも雨に当てればだいなしになってしまう。  左手は古い石垣《いしがき》で、それが切れたところに細い横道があった。啓介は大きな封筒を胸に当て、上体を折るようにしてその横道へ入った。  よく通る道だからなんとなく見憶《みおぼ》えていた。たしかその横道へ入るとすぐ、石垣をえぐった小さなガレージがあったはずである。  角を曲ると記憶どおりガレージがあった。多分その石垣の上の家のものなのだろう。最初のひと粒が落ちて来てから、啓介がそのガレージへ着くまでに、ものの二分とたっていなかった。  だが、着いた時にはもう激しい雨がバシバシと音をたて、舗道にしぶきをたてはじめていた。  啓介が見るともなく見て記憶していたのは、古い石垣に口をあけた、車一台分ほどの幅の小さなガレージであった。そこにいつも白塗りの洒落《しやれ》たスポーツカーが駐《と》めてあり、ナンバー・プレートは青地に白数字の外交官ナンバーであった。啓介はそのナンバー・プレートの一番左に書いてある「外」という字を、はじめのうち外交官の外だと思い込んでいて、会社の先輩にそれは外交団の外だと教えられたから、特によく記憶していたのだ。  だが、そのときガレージの薄いグリーンのシャッターは、半分ほど引きおろされていた。上体を折り、腰をかがめるようにしてガレージにたどりついた啓介は、なかば閉じかけたシャッターの下からのぞいた、青地に白数字のナンバー・プレートを見ながら、シャッターの内側へもぐりこんだ。  ガレージは暑くてうす暗くて、それにガソリン臭かった。しかしここなら絵を濡《ぬ》らす心配はなかった。啓介はほっとして封筒を体から離し、中の絵が無事であることをたしかめた。さいわい濡らさずにすんだが、胸に当てて抱いて来たので、少ししわが寄りかけていた。啓介は用心深く封筒をまっすぐにのばし、白いスポーツカーのフロント・フードの上に置いた。  雨音はいっそう激しくなっていた。閉じかけたシャッターの下から、白い靴《くつ》やサンダルをはいた足が駆けているのが見えたが、誰《だれ》もそのガレージへ逃げ込むことには気がついていないようであった。  すぐに、ガレージの前を駆け抜けて行く者もいなくなった。舗道に叩《たた》きつける強い雨のしぶきが、啓介の足もとへも霧のように入りこんで来ていた。  遠い雷鳴が聞こえはじめ、それが二つか三つあとには、びっくりするような近さになっていた。  この位激しく降るなら、そう長くは続かないはずだ……。啓介は白いスポーツカーと乾いたコンクリートの壁の間に立って、そう楽観していた。  たしかにその雨は典型的な夏の夕立で、激しく降ってさっとあがるはずであった。啓介は気味が悪いほど暗くなった外の舗道を眺めながら、赤く染まった今日の夕焼け空を思ったりしていた。  と、いきなりシャッターをくぐって白いものがとび込んで来た。啓介がはっとした時には、その白いものがキャーッという叫びをあげ、それとまったく同時に、頭の真上で烈しい雷鳴がとどろいていた。  若い女の子だった。  その子はシャッターをくぐるときかがめた姿勢のまま、ガレージの入口の壁に額を押しつけるようにして、顔に両手を当てていた。 「もっと中へ入らないと濡れるよ」  雷鳴のあと、すぐに啓介はそう注意してやった。注意してやったというより、相手をびっくりさせまいとしたようであった。  啓介の声に、その子は顔に当てた両手を外し、ふり仰いだ。 「凄《すご》い雨だね」  変に警戒されるのが嫌《いや》で、啓介は自分もそこで雨やどりしているのを強調する言い方をした。  そのとたん、ピカッと青白く光った。その光りようと言ったら、まるでガレージのまん前で何かが爆発したような感じであった。  キャーッとも、アーッともつかない叫びをあげて、その女の子がとびあがった。啓介はその子に肩から突き当たられて右足を半歩ひいた。  雷は光と音の間隔がひどく短くなっていて、啓介が女の子の体を胸に抱きとめるとすぐ、バリバリ、という轟音《ごうおん》で空気が震えた。  女の子は左手にハンドバッグを持っていた。バッグは白い服に合う夏物ではなくて、焦茶色《こげちやいろ》のショルダーバッグであった。右手には青い綿の帽子を掴《つか》んでいる。その帽子を掴んだ手が、ごく自然に啓介の左の脇の下に差しこまれ、手首を肩胛骨《けんこうこつ》のあたりに押しつけていた。髪はポニーテイルで、空色の小さなスカーフで束ねてあった。  啓介はなんだか小さな男の子に抱きつかれたような気がしていた。多分、乾いた髪の匂《にお》いのせいだろう。  音が去ってから少しの間、女の子は体を堅くしてじっとそのままでいた。それがやっと体を離そうと動きかけたとたん、ガレージの中へまた強く青白い光がとび込んで来て、今度は三度ばかり明滅した。  バリバリッ……。  啓介は顎《あご》をあげ気味にしていた。女の子の体をすっぽりと胸に抱き込んでしまったからである。ポニーテイルにした頭のてっぺんが、啓介の顎の先に触れていた。  その子は、啓介にしがみついていることに気づくと、 「ごめん……」  と言った。ごめーん、と長く伸ばした言い方で、いかにもこわそうに、細い声を震わせていた。  肩をすぼめ、見も知らぬ若い男にしがみついているのは心外なのだが、さりとてまたいつ雷が鳴るか判《わか》らないし……と言った様子であった。  啓介のほうも、胸を反らし気味にして体を堅くしていた。  ピカッ、バリバリッ、という空の騒ぎが急に遠のきはじめ、忘れていた雨の音が耳につきだした。 「雷って大嫌《だいきら》いなの」  その子は弁解するように言い、照れ臭そうに啓介から体を離した。 「この雨はすぐにやむさ」  啓介ははじめて正面からその子の顔を見た。ひっつめた髪の下に、丸くおでこがとび出している感じであった。眉《まゆ》は少し薄めで、目が大きかった。口もとは小さくて、外国の女優のような感じの、幅の狭いやや高めの鼻の形が印象的であった。 「このままやまなかったら大変ね」  女の子は半分おりたシャッターに向いてしゃがみ込み、そう言った。たしかにこの勢いで何日も降りやまなかったら、東京は水びたしになることだろう。 「急に降って来たものな」  啓介は答にならないことをつぶやいた。気がつくと、その子は道に向かってしゃがんだ膝《ひざ》のあたりに、うす青い色の綿の帽子を当てていた。それで撥《は》ねて来るしぶきをよけているらしい。 「帽子が汚れるよ」  啓介が言うと、その子は肩ごしに彼を見て、 「いいの。洗濯《せんたく》するんだもん」  と笑った。若い女の子なのに、啓介はそれを少しも意識せずにすんだ。……そんなことは珍しいのである。まだ二十四になったばかりで、これと言ったガールフレンドもいない彼は、いつも若い女の子のそばへ行くと異性を意識して堅くなるのだった。 「だって、かぶるんだろ」  それがなんとなくうれしくて、啓介は気安い口をきいた。 「これじゃかぶれないじゃ……」  女の子は左手を後頭部に当てて見せた。なるほど、空色の小さなスカーフで髪を束ねていた。 「変だな。かぶれないのに帽子を持って歩くなんて」  啓介はその子の横にしゃがみこんだ。 「もらって来たのよ」 「へえ、誰に」 「お店の女の子。昌代って言う子。凄いお洒落なの。お店へ気に入った品物が入るとバンバン買っちゃうの」 「お店って」 「ブティック。原宿の交差点のすぐそば……」  雨脚《あまあし》が急速に衰えて来ていた。 「ほら、もうやみそうだろ」 「そうね。風が涼しい」 「俺も原宿のほうへ行くところだったんだ」  啓介は女の子の頭ごしに手をのばして、スポーツカーのフロント・フードの上に置いた大きな封筒を取った。 「それなあに」 「イラストが入ってる。ポスターカラーだから、濡れたらパアになっちゃう」 「イラストやってるの」 「うん」 「広告の……」  女の子はいい勘をしていた。 「そうだよ。でもこれは俺のイラストじゃない」  啓介はそう言って、青山のマンションに住んでいる有名なイラストレーターの名を言った。 「知ってるわ。あの人よくこの辺を散歩するのよ。ねえ、そのイラスト、見せてくれない」 「いいよ」  啓介はたのしくなっていた。子供の頃《ころ》、友達とこんなことをしたような気がしてならなかった。その子は啓介がトレーシング・ペーパーをかけたケント紙を封筒から引き出すと、「わあ……」とうれしそうに言ってそのイラストを眺めた。 「あなたもこんなの描いてんの」  啓介は首を横に振りながらケント紙を封筒に戻した。 「俺《おれ》のタッチはこういうんじゃない」 「名前は」 「え……」  絵のことを訊《き》かれたのかと思った。 「あなたの名前」 「俺……戸川。戸川啓介」 「あたし市村久子」  市村久子はハンドバッグと帽子を左手に持ちかえ、右手を出して握手を求めた。乾いた小さな手だった。  雨はやんだ。  二人はガレージを出ると、雨あがりの並木道を下って行った。あちこちから、雨を避けていた若者たちが道に湧《わ》き出していた。 「日曜でも仕事なの……」  久子が言った。 「新しくできるアスレチック・クラブのパンフでね。遅れてるんだよ。だから」 「そう。うちのお店は日曜がかきいれ。休みは木曜日」 「デパートなみか」 「そう。ちっちゃいくせにね」  二人は声をあげて笑った。舗道はくろぐろと濡れていて気分がよかった。 「今日はきっと夕焼けになるな」 「そうね。空が晴れてれば、円盤が見えるかもね」 「円盤……」 「そうよ。このごろよく飛ぶのよ。きっとそのうち新聞なんかにも出るわ。だって、見たのはあたしばかりじゃないもん」 「へえ。一度見てみたいな」 「あら、夜になったらよく空を見てればいいのよ。うちの店長もこの間の晩、代々木公園のとこで見たって……。彼女と歩いてたらしいの。三十四でまだ独身」 「君はいくつ」 「今年成人式をしたわ。久しぶりに田舎へ帰って……」 「田舎って」 「弘前《ひろさき》のほう」 「俺は静岡さ」 「去年|御前崎《おまえざき》へ行った。知り合いのカメラマンの車にのっけてもらって。ファッションの仕事よ。見物するつもりで行ったら結構使われちゃったけど。ナナ・杉山なんかが一緒だったのよ」  久子は少し得意そうに言った。 「ナナ・杉山ならこの前うちでも使ったな」 「あら、そうなの。綺麗なモデルね。そうそう、御前崎でも円盤を見たわ。帰りが暗くなっちゃって……あれ、七時ごろだったかなあ」 「そんなにしょっちゅう円盤を見るのかい」 「変ね。見ない人はちっとも見ないのに。……それでね、この間のユリ・ゲラーのテレビのとき、あたしのお部屋にあった目覚しが動いちゃったの。二年もこわれてた奴《やつ》なのよ」 「儲《もう》けたじゃないか。修理代を払わなくてすんだんだろ」  啓介は笑った。 「うん。でも次の日帰ったらもうとまってたの。動いたとき、すぐにネジを巻いとけばよかったんだけど」 「それっきりかい」 「うん」 「ばかだなあ。折角《せつかく》動いたって言うのに」 「そうなの。あたしってそそっかしいのよ」  二人はもう何年も前から付き合っている仲のように、肩をならべて日曜日の人ごみの中へ入って行った。  それから啓介と久子が同棲《どうせい》するようになるのに、ひまはかからなかった。  会った日の夕方、彼らはさっそく渋谷でデートをした。そのデートの別れぎわ、翌日の晩に会う約束をしている。そして久子の次の休日である木曜日まで毎日続けて会って、木曜日の昼休みには、新橋にある啓介の会社の近くの喫茶店へ久子がやって来た。  その日啓介は口実を設けて三時頃早退し、日比谷にある小さな装身具の店で久子のささやかな買物に付き合ったあと、パンと国産のワインを一本と、なまのとうもろこしを二本買って東中野にある彼のアパートへ行き、結局そこで結ばれてしまった。  久子は若いデザイナーたちが集まって作った小さな会社に勤めている、洋子という同じ年の娘と一緒に千駄《せんだ》ヵ谷《や》のアパートに住んでいたが、それから毎日のように東中野へ泊りに来て、或《あ》る晩啓介に、 「そんなんなら一緒に住みなさいって言われちゃった」  と舌を出した。 「来いよ」 「来てもいい……」 「下のおばさんに話をつけといてやる」 「うん。それじゃ来るわ」  ……話はかんたんであった。  寸づまりの六畳ひと間に少しばかりがらくたが増えて、そういう安アパートにはよくあることだから噂《うわさ》にもならなかった。  久子は人なつっこく、それまで啓介がろくに挨拶《あいさつ》さえしなかった隣人たちにも、 「こんちわ。となりへ引っ越して来たの。うん、彼と一緒」  などとすぐ親しくなって行った。 「戸川さんの彼女って、可愛い子だねえ」  一階の入口の部屋にいる管理人がわりのおばさんが、そんなことを言ったりした。誰も二人が正式の夫婦でないことをとがめたりはしない。アパートの住人は出入りが激しく、それがみな似たり寄ったりの暮しぶりなのである。 「やだあ……折角乾きかけてるのにぃ」  真下の部屋に住んでいるOLが大声で啓介たちに抗議すると、もう外出するときには着なくなったミニスカートをはいた久子が、窓の敷居を両手で掴み、上体を逆さにして、 「ごめんごめん」  と、しずくのしたたる洗濯物をかけたことを階下に詫《わ》びたりする生活であった。  二人とも、食べて行くのがかつかつの給料であった。……いや、かつかつでも食べて行ければよかったが、どうかすると給料日にはまだ十何日もあるというのに、両方の持金を合わせても千円以下ということがよく起った。 「そんなに無駄《むだ》づかいしてないわよねえ」  久子はそんなとき、自分自身を怪しむような顔で言うのだった。だが、それもごく短い間のことで、久子はすぐに屈託のない表情に戻《もど》ってしまう。 「なんとかなるわ。あたしには円盤ちゃんがついてるんですもの」  啓介は何のことか判らなかったが、とにかくそんな風に物事にくよくよしない久子を好もしく思っていた。  そして、結局なんとかなって給料日が来るのであった。  秋が去り、冬が来て、新年になった。 「憂鬱《ゆううつ》だなあ」  さすがの久子も、正月の三日になるとそう言って溜息《ためいき》をついた。  商店はみな閉っていた。映画くらいはやっているだろうが、特に観る気も起こらないし、だいいちそんなことは二人にとってこの上もない無駄づかいだったのである。 「敬子のテレビを買っとけばよかった」  となりの部屋から、寄席中継をやっているらしいテレビの笑い声が聞こえると、久子はくやしそうにつぶやいた。  去年の暮れに田舎へ引き揚げた友達がいたのだ。その子が白黒のテレビを買ってくれないかと久子に持ちかけたらしい。だが、万事につつましい久子は、 「テレビなんて、あたしたちにはまだもったいないわ」  と即座に断わってしまったのだ。 「しまったな」  久子が退屈し、退屈している以上になんだか淋《さび》しがっているようなのに気づいて、啓介は詫びるように言った。 「会社にポータブルのが三台もあるんだ」 「三台も……どうして」  久子が目を丸くした。 「だって、俺の会社は広告屋だぜ。テレビだって扱ってるもの」 「あ、そうか」  久子は頭に手を当てた。 「正月休みの間、借りて来ればよかった」 「そうね。……カラーなの」 「そうだよ」 「すてき。ねえ、これから借りに行こうか」 「だめさ。鍵《かぎ》がしまっている」 「ちぇっ」  久子は男の子のように言うと、しばらく黙って考え込んでいたが、急に押入れをあけて何かを探しはじめた。 「ねえ、あんた着物を着せられる……」 「着せるって、誰に」 「一枚だけ持ってるの。お正月だから着てみてあげようか」 「へえ、久子が着物着るの」 「古いけどいい着物よ。富田のおばさんにもらったの」 「富田のおばさんて……」 「やだ、弘前《ひろさき》のよ」 「知らないな、そんな人」 「あら、言ってなかったっけ」  久子は古ぼけた紫色の着物を引っぱり出して笑った。 「いけね……帯もなんにもなかったんだわ」 「着てみろよ」 「うん」  久子はナフタリン臭い着物をひろげて、セーターのまま袖《そで》を通した。 「長襦袢《ながじゆばん》なんていうのも要《い》るのね」 「そうさ」 「これ、こうやるのよ」  久子は着物の両脇をつまんで腰のあたりへたくしあげて見せた。 「そのくらい知ってるさ」  久子はそのまま前を重ね合わせ、窓のそばへ坐《すわ》り込んだ。 「匂うわ」 「何が」 「田舎の匂いよ。おばさんやおかあちゃんの……」 「ナフタリンだよ。ナフタリンの匂いさ」  啓介は否定したが、久子は頤《あご》を埋めて目をとじていた。 「よせ」  啓介が大きな声で言った。 「脱いじゃえ。早く脱いでしまっちゃえ」  啓介は憤《おこ》っていた。久子がびっくりしてそれをみつめた。 「どうして」 「やだよ。田舎なんて」 「あたしが思い出したから憤ってんの……」 「うるさい。早く脱いでしまっちゃえ」  それははじめての喧嘩《けんか》であった。いや、喧嘩とは言えなかったかも知れない。久子は啓介に呶鳴《どな》られて、ほんのしばらく脹《ふく》れっつらでいたが、いつの間にか着物をついていた折り目どおりに畳んで押入れへ戻していた。  そしてまた窓際へ戻ると、今度は窓に向かって坐り、戸を細くあけて、半曇りの白い空を眺めはじめた。 「円盤ちゃん、来ないかなあ」  冷たい風がその隙間《すきま》から吹き込んでいた。電気ストーブの赤く熱した管が、その風でときどき白っぽく色をかえた。 「円盤ちゃんごめんね。啓ちゃんがいるのに田舎なんか思い出しちゃって……」  久子はつぶやくようにそう言った。啓介はそのうしろへいざり寄り、同じように白い空を見あげて言った。 「なんだか、バラバラになりそうな感じだったんだよ。それだけさ。今度テレビ買おう」 「いいのよ」  久子は珍しく女らしい言い方で答えた。 「それより、寒くない……」 「平気さ」 「じゃあ、もうちょっと空を見てていい」 「いいよ。俺も見てる」  啓介は久子の肩を抱くようにして言った。 「円盤ちゃんを見せてあげる」 「来るかな」 「来るわ。こんな気分の時に呼ぶと、きっと来てくれるの」 「なんて呼ぶんだい」 「わかんない。声には出さないの」 「呼んでみな」 「いま呼んでるの。あたしの円盤ちゃんはちっちゃいのよ、とても」 「へえ……」  冷たい風が啓介の手をかじかませ、頬《ほお》を堅くさせていた。  どのくらい二人はそうやって空を見ていただろうか。啓介は何も考えず、ただぼんやりとその時間を過した。 「ほら、来たでしょう」  久子が啓介の胸にもたれて低い声でささやいた。曇った、いかにも寒そうな白い空に何かが動いていた。 「あれかい」  啓介は夢の中にいるような気分で言った。彼の目にも、妙な銀色の点が見えていた。それは銀色だが光ってはいず、円よりは少し扁平《へんぺい》な感じであった。 「そうよ。あれがあたしの円盤ちゃん」  円盤といっても、マッチ棒の頭くらいの大きさであった。しかし啓介がよく見ようとまばたきをした短い間に、それは思いがけない近さになってしまっていた。  となりもアパートで、その間に四、五メートルほどの隙間があった。向かいは屋根の高さまでずっと羽目板だけで、左の通り寄りに小さな窓があるだけであった。  その空間へ、円盤が音もなく舞いおりて来ていたのだ。大きさは……そう、さしわたし四十センチほどの幅で、厚みは二十センチもあっただろうか。中央上部に円筒状の出っぱりがあり、下の面はふっくらとほどよい感じでふくらんでいた。 「円盤ちゃん、あけましておめでとう」  久子がそう言った、小さな円盤はふわりとした感じにひと揺れすると、二人がいる窓辺へ、手を伸ばせば触れそうなところまで近寄って静止した。 「久しぶりね。あたし、この人の奥さんになっちゃった」  久子は円盤に見せつけようとでもするように、甘えた感じで体を反らせ、啓介にもたれかかった。 「いい人よ、とっても。あたし好きなの。彼を愛してるの」  円盤はじっと動かなかった。 「そしてね……いいこと教えてあげる。あたし、赤ちゃんができたの」  久子の声を、啓介はばかに遠いものに感じていた。なんだか知らないが、子供の頃によくそんな感じになったことがあるようだった。物がすうっと小さく、遠くなるようで、時間がとまったような気分である。何もかもが自分にかかわりのないことのようで、それでいてあらゆる物がはっきりとよく見えていた。 「でも、お正月って退屈よ。二人ともちょっと淋しくなっちゃってるの」  その声もひどく遠くから聞こえているようだった。 「うちはテレビもないんだもの。貧乏って、やあね」  久子は笑ったようだった。  すると円盤が急に動いた。左の端をさげ、右側をひくりとあげて何かを煽《あお》るようにして元に戻った。 「聞こえた……」  久子が言う。 「いや」 「外へ出ておいでってさ」  円盤がまた同じ動きをした。啓介はそれを見ると無意識に立ちあがっていた。なんだか朦朧《もうろう》としていて、自分がこれから何をするのかもはっきりとはしないまま廊下へ出ると、階段をおりた。  アパートはしいんと静まり返っていた。通りへ出ると通りも静かだった。人も車も、何ひとつ動いてはいなかった。ただ、彼のすぐ前方にあの円盤が浮かんでいて、それがゆっくり表通りのほうへ進んで行った。  啓介はそれからのことをよく憶《おぼ》えていない。ただ、表通りを歩いて、どこかの商店の前へ行くと、休業の札を貼《は》った戸の前に中年の男がどてらを着て立っていて、その男が待ちかまえたように四角い段ボールの箱を啓介に手渡し、その上へ細長い箱をもうひとつのせてくれた。  啓介はそれを両手でかかえて、自分のアパートへ戻って来たらしい。らしいと言うのは、自分のアパートの前で、 「あらやだわ、はだしで出て行っちゃったのね」  と久子に声をかけられ、はっと我にかえったからである。  啓介は何がなんだか判らなかったが、久子は万事呑《の》み込んでいる様子で、 「冷たかったでしょう。早くあがりなさいよ」  と先に立って階段を昇って行った。  部屋へ着いて荷物を畳の上へおろすと、久子が靴下《くつした》を脱がせてくれて、お湯につけてしぼった雑巾《ぞうきん》で足を拭《ふ》いてくれたが、その先はひどく睡《ねむ》くなったことだけ憶えていて、気がついた時には蒲団《ふとん》の中で横になっていた。  何か音がするので首を持ちあげると、もう外は暗くなっていて、テレビで森進一が歌を唄っていた。  カラーだった。 「あ、目がさめたの」  久子はいつもと同じ調子で言った。 「そのテレビ……」 「あなたがもらって来てくれた奴じゃない。ねえ、アンテナ線のつなぎかたはこれでいいのよねえ」  久子は中腰になり、テレビの横へまわって裏をのぞいて見せた。 「俺がもらって来た……」  たしかに、どてらを着た男から受取った記憶があったが、どこでいつそんなことをしたのか、よく判らなかった。 「ねえ、見てよ」  啓介は立ちあがり、フィーダーの接点を見た。テレビの上にのせた室内アンテナと、ちゃんとつなげてあった。 「これでいいんだ」 「そうでしょ。あたしがつなげたのよ」  久子はうれしそうだった。 「円盤ちゃんにもらっちゃった。すてきなお年玉ね」 「参ったな」  啓介は首を振った。円盤を見たことや、それがおいでおいでをするように動いたことも、次々に思い出していた。 「久子はあの円盤を前から知ってたのか」 「うん。ときどき淋しくなるとお話ししてたの」 「でも、俺ははじめて見た」 「ここんとこ、あたしずっとしあわせだったでしょ。……ううん、いまふしあわせって言うんじゃないけどさ。ごめんね」  久子はあやすように啓介の顔を両手ではさみ、キスをした。 「たのむと何かくれるのかい」 「そんな……」  久子はいやしいと言われたように、むきになって否定した。 「たのみなんかしないわ。やあねえ。あんたも聞いてたじゃ……テレビもないし、貧乏はいやねえって言っただけよ。そしたらくれたのよ」  たしかにそれはそのとおりだった。 「円盤て、ほんとにいるんだな」 「だから先《せん》から言ってたじゃ……」 「でも、小さかったなあ。あんなに小さいもんだったのか」 「本なんかには、もっと大きいのや、いろいろあるんだって書いてあるけど、あたしの知ってるのはあのちっちゃい円盤ちゃんだけ」 「あ……」  啓介は驚いたように言うと、久子の肩を掴《つか》んで立ちあがらせた。じろじろと体を眺《なが》めまわす。 「やあねえ、何よ」 「久子、赤ん坊ができた、って言ったな」  久子は急に深刻な表情になった。 「うん。失敗しちゃったの、ごめんね」 「ほんとにできたのか」  すると久子はあとずさりして壁に背中をつけた。 「いやよ、あたし。絶対いやよ」  そのさし迫った表情に気を呑まれ、啓介はテレビの横に突っ立っていた。 「生むんだからね。……赤ちゃん生む」  啓介はまだ何も言っていないのに、久子は敵意をむき出しにして言った。 「おろさないわ。生みたいの。あなたの赤ちゃんを生む……」  啓介はしらけた気分で畳にあぐらをかいた。 「煙草《たばこ》が吸いたいな」 「ないわよ」  久子は挑《いど》むように言った。久子と一緒になってしばらくしてから、啓介は節約のため禁煙していたのだ。 「久子、俺はまだなんにも言ってないんだぞ」  啓介はうつむいて、いやに沈んだ声で言った。 「だいいち、赤ん坊のことだっていまはじめて聞いたんだ」 「でも顔に書いてある」  久子はまだ壁を背にして立っていた。 「ばか、勝手にきめるな」 「なら訊くけどさ、ちゃんと話したとして、生めって言ってくれた……」 「言いもしないで何言ってんだよ」 「嘘《うそ》、生めって言うはずないわ」 「俺がいつ嘘ついた」 「だって……」  冷たい沈黙が流れた。  久子がそんな態度に出るのは当然かも知れなかった。恐らく、いや百パーセント、啓介は生むなと言ったに違いない。運も才能もコネもない二十四とはたちの男女が一緒になって、まだ籍をいれる心の構えさえないのに、子供を作って育てる自信などありはしないのだ。  だが、久子は余りにも先まわりしすぎていた。赤ん坊のことについては、余りにも信頼がなさすぎた。母性愛|一途《いちず》で、啓介をまるで敵のように見たのだ。それが啓介を傷つけ、失望させた。  その夜二人は一応仲直りした。啓介も折れ、久子も機嫌《きげん》を直した。しかし、久子はあくまで赤ん坊を生むという主張を捨てず、いつものように求められると、おなかの子に悪いからと言って、はじめて唇《くちびる》を使って啓介に満足を与えた。  久子のそれは稚拙《ちせつ》で、その上わざとらしかった。啓介に献身的な奉仕をするように見せかけて、その実、子供を生むことを強調しているのだった。  啓介にもそれがよく判《わか》ったが、やはりはじめての刺激には堪らず、久子の稚拙な唇へしたたかに果てておわった。  その日から、なんとなくちぐはぐになった。啓介が遅れて帰ると、久子はいつも窓辺にいて、どうやら円盤と話していたらしい場面が度重なった。  日一日と二人の心が離れて行く……。啓介はいら立った。子供が生まれたあとのことを考えると気が重くなった。生むとなれば籍も入れねばならない。そうなれば両方の親に話をつけなければならないし、多分面倒な騒ぎになるだろうと思った。それに、こんな若さで子持ちになったら、将来の設計がめちゃめちゃになりそうな気がした。啓介はイラストで身を立てたいと思っているのだ。まだ修業中であることはよく承知していたが、それだけに、いざという時多少の危険をおかしても、将来を賭《か》けて冒険したいのだ。……それが子供に縛られてできなくなってしまう。  啓介は後悔しはじめていた。久子が重荷になって来たのだ。そしてその後悔の中で、久子とのことを誰《だれ》かに相談しようと思った。  相談の相手は女だった。同じ会社の総務部にいて、まだ独身だが啓介にはひどく成熟した女に見えていた。そういう女なら子供を生みたがる若い女の心理もよく判っているだろうし、あきらめさせる方法も教えてくれるかも知れないと思ったのだ。  しかし、あとから考えて見ると、どうやら啓介はその女に以前から憧《あこが》れていて、久子のことで生じた心の傷を、あわよくば甘ったるく癒《いや》してもらいたいと思っていたようだ。  そういう時、事はふしぎとうまく運ぶ。  その年上の女は、こころよく話を聞くことを承知したばかりか、東銀座の裏通りにある薄暗いバーの奥の席で、ウイスキーを奢《おご》ってくれたのである。  啓介はことこまかにそれまでのいきさつを語り、女は啓介が期待するとおりの答え方でなぐさめてくれた。その夜久子について啓介が語らなかったことと言えば、円盤についてだけであった。そんなことを言えば冗談だと思われてしまいそうであった。  啓介はその女に、ちらっとだが久子の唇の奉仕のことさえ告げた。多分酔ったせいだろうが、それまで言わねば久子のきつい主張が判ってもらえないような気もしたのである。  おまけに、啓介はひとつ嘘までついた。久子には自分の前に男がいて、その男が啓介よりずっと年上であり、今でも久子がねだれば何か買い与えさえすると言う嘘である。  しかし啓介は、それを言う時半分以上真実を告げている気であった。あの久子の円盤を、人格化して考えてしまっていたのだ。  女も酔ったようだった。別れちゃいなさい。あなたの為にならないわよ。……啓介の耳にこころよい言葉が次々にその赤い唇から出された。  そしてしまいには、 「あたしが別れさせてあげようか」  と妖艶《ようえん》な目つきで言うのであった。  その夜、啓介はかなり高級なラブ・ホテルへ泊った。  啓介の外泊が度重なり、久子と彼は顔を合わすたび泣いたり喚《わめ》いたりのいさかいをした。啓介は自分が思いもしない速度で久子から遠ざかって行くのを感じていた。 「あたし、あの頃《ころ》淋しかったのよ。だから円盤ちゃんに、いい恋人をちょうだいってたのんだの。でもだめね。あんたって……」  久子は最後には醒《さ》めた顔でそんなことを言ったりした。  別れは呆気《あつけ》なかった。年上の女の体に溺《おぼ》れて何日か過し、アパートへ帰ってみたら久子がいなかった。  ……弘前へ帰ります。富田のおばちゃんなら判ってくれると思うの。赤ちゃんを生みます。  そんな置手紙があって、それでおわりだった。啓介は、さっぱりしたような、淋しいような、そしてひどく悪いことをしたような気分であった。  以前のように一人になったアパートで、啓介があの円盤を見たのは、それから三ヵ月ほどあとのことだった。  円盤はあのときのように、向かいの家との間の空間にとまって、手を伸ばせば届きそうなところに静止し、じっとしていた。  啓介がそれに気づいてみつめると、小さな円盤は二、三度体を揺らせ、すうっと舞いあがってそれっきり見えなくなった。  久子が弘前で死んだということを啓介に教えてくれたのは、原宿のブティックで働いている女の子であった。  その子は会社へ電話をして来て、なじるように、 「久子ちゃんは赤ちゃんを生みそこなって死んじゃったのよ」  と告げた。  それは啓介がアパートで円盤を見てから五日ほどあとのことであった。彼はとたんに体を揺らせていた小さな円盤をまざまざと思い出した。  多分、あれに乗ってどこかへ行ったんだろう……。啓介はそう思い、宇宙人と仲よくしている久子の姿を想像したが、やはり心のどこかに強い痛みを感じていた。 [#改ページ]   中年天使     1  ひどく古めかしい部屋であった。しかも重厚で豪華なのだ。それがルイ王朝風とでも言うのか、椅子《いす》もテーブルも、家具類は曲線で満たされている。濃い飴色《あめいろ》の木部と、要所要所にはめこまれた分厚いガラス。ソファーや肱《ひじ》つきの椅子のクッションはぼってりとした生地が使われていて、バラの花の連続模様が刺繍《ししゆう》してある。それらの調度の高価そうなことと言ったら、たとえば窓ぎわにある 文《ライテイング・》  机《デスク》 ひとつにしても、デパートの家具売場にある婚礼家具セットがまるまるひとつ買えてしまうくらいのしろものだろう。  ただし、その部屋の広さはそう大したものではない。そして、その 文《ライテイング・》  机《デスク》 に向かって、一人の男が何かやっている。きちんと背広を着てネクタイをしめ、両膝《りようひざ》を揃《そろ》えて行儀のいい姿勢をしている。だが、全体に地味な感じで、人混《ひとご》みに入ったらすぐ見失ないそうな、至って特徴のない人物である。  年齢は四十五か六だろう。眼鏡をかけ、積みあげた書類を一枚一枚手にとって、しかつめらしい顔で眺《なが》めては首をかしげている。そばに手ずれのした黒っぽいケースが置いてあるところを見ると、その眼鏡はこまかな文字を読んだりするときだけのものらしい。多分老眼鏡なのだろう。  書類は一枚ごとに顔写真がはりつけてある。まるで履歴書のようだ。しかも積みあげた山はふたつにきちんと別れていて、一方には女の顔写真がはりつけてあり、もう一方のは男のばかりであった。 「これもだめ。これもだめ……か」  男は口の中でブツブツとひとりごとを言っている。 「これもだめ。これもだめ……。まるでだめだな。人間は多すぎるくらいいるのに、いざ捜すとなると、いないものだなあ」  男はそう言って首を振った。  ちょうどそのとき、やけにまるくふくらんだ感じの声がした。 「お呼びでございます」  すると男はあわてて椅子から立ちあがり、デスクのそばの壁にある、先が朝顔形にひらいた真鍮《しんちゆう》の管に口を寄せ、 「はい、ただいま参ります」  と言った。インターフォンの時代には珍しい、伝声管であった。男はそう答えると伝声管から離れ、手早く書類の山をかたづけながら、今度はさっきまでよりやや高い声で、 「美しいカップルを作るなんて、そんな縁結びの役はわたしには無理なんだ」  と、ぼやくように言った。  男はそのあと、大して乱れてもいない衣服を、上着の裾《すそ》を引っぱったりネクタイの結び目に手をやったりしてあらため、背筋をしゃんと伸ばすと、ドアをあけて出て行った。     2  黒塗りの高級車が丸の内のオフィス街へ入って行く。やけに長い、重そうな車だ。そんな高級車にふさわしい人物と言えば、このあたりでも社長級、いや、会長級の人物だろうと思われたのに、それが一方通行の道にとまってドアがあき、道に降り立ったのを見ると、意外にもしょぼくれたあの中年男であった。  だが、中年男は案外物なれた態度でそのマンモス商社の正面玄関へ入って行く。入口のところにダークスーツを着たしゃっきりした感じの男が待ち構えていて、中年男を見るとうやうやしく一礼する。中年男のほうも腰をかがめて、エリート社員然としたその相手にくらべると、かなりじめついた卑屈な感じでお辞儀をしている。ビジネスマン対|商人《あきんど》と言った様子であった。  二人はすぐエレベーターにのり、七階へあがった。そのビルの七階の一部は特別な区画になっていて、会長室や社長室から、専務、常務の各重役室と会議室、および特別応接室などが並んでいる。  中年男は専務室へ入りこんだ。 「やあ、須藤さん。お待ちしていましたよ」  社内実力者中のナンバー・ワンである専務がにこやかに中年男を迎える。須藤という名前らしい。 「遅くなりまして」  須藤は慇懃《いんぎん》に言ってすすめられたソファーへ腰をおろす。……ちっとも遅れていはしない。約束の時間からちょうど一分してその部屋へ入ったのだ。 「あれからすぐ手配をして、宣伝担当の常務を呼んで置きました。すぐ来るでしょう」  専務はいそがしいらしい。すぐデスクに戻《もど》ると書類に何か書き込み、ハンコを捺《お》す。人の噂《うわさ》では今の会長はもう高齢で、そう長い寿命ではないらしい。もしその老会長が死ぬと、あとの人事にかなりの異動が出て、ひょっとするとその専務が社長室に納まるかも知れないということであった。老会長に目をかけられているのだ。  須藤は、そういう人物の部屋の中にいて、割合い落着いていた。アガる様子もなく、気おされた様子もなかった。専務のそばにはあのエリート社員風の男が立っていて、書類をテキパキ処理している。  やがてドアにノックの音がして、そのエリート社員風のがあけに行った。どうやら専務の秘書か補佐役らしい。 「やあ、お待たせしまして」  でっぷりと肥った男が入って来た。ちょっと見にはこのほうが専務より貫禄《かんろく》があるが、よく見るとやはり専務より鋭さの点で劣るようだ。須藤はいつの間にかソファーから立ちあがり、実直な様子でドアのほうに向いていた。 「ああ野口君。お見えになっているよ」  専務は書類の最後の一枚をとりあげ、それをちらりと眺めてデスクの端へおいた。 「席を立とうとしたら電話がかかりましてね」  野口は弁解するように言い、ソファーのところにいる須藤をちらりと見ると、専務のほうへいぶかしげな視線を送った。専務は野口の目の問いには答えず、ひどく慎重でおごそかな表情で言う。 「とにかく、さっき伝えておいたように、このかたに便宜《べんぎ》をはかって差しあげて欲しいんだ。……須藤さん、こちらが野口常務です」 「はじめまして」  須藤はあの腰をかがめ気味にするお辞儀をして、ちょっと気弱な微笑を泛《うか》べた。 「どうも……はじめまして。わたし野口です」 「どうぞよろしくお願いいたします」 「専務もおいそがしいようですし、さっそく宣伝部のほうへ参りますか」 「お願いいたします」  キビキビしたビジネスマンたちの中で、須藤はかなり異質だった。物言い物腰の角がとれすぎ、このマンモス商社の中ではつるつるすべって置きどころがないと言った感じなのである。それはたとえば、お医者さんの大会にレストランのウェイターがまぎれ込んだようなもので、いくら上品に振舞って見たところで、その上品さ自体がまるで質の違うものなのだ。  とにかく、上品ということでは、専務や常務より須藤のほうがずっと上品であった。それでいて迫力もなく鋭さもない。専務室からその須藤を引き取った野口常務が、勝手の違う感じでマゴマゴしているのも無理はなかった。 「不況でして……広告関係もぐっと引きしめているのですよ」  野口はそういう話題が須藤には通じそうもないのを承知の上で、廊下を喋《しやべ》りつづけ、エレベーターで三階の宣伝部へおりた。  野口を見て宣伝部長がさっと椅子から立ちあがる。それに気づいて課長が席を離れ、部長の横に控え目な態度で並ぶ。さっきまでよりみんな少し緊張したようだが、中には「俺《おれ》は仕事中なのだ」と言わんばかりに、野口をまったく無視して、広告代理店の社員たちと仕事の話をしつづけている男もいる。女子社員はボールペンを手に伝票をつけながら、実は上目づかいに野口の動きを監視しており、もしどこかの椅子に腰をおろしたら、さっととんで行って灰皿《はいざら》とかお茶のサービスをしようとタイミングをうかがっている。  だが、野口は椅子にかけなかった。立ったまま部長と課長に須藤を紹介し、そのあと低い声で二人に何か説明している。若い課長はそれを聞いて途中からなぜかうれしそうにニヤニヤしはじめ、部長のほうは狐《きつね》につままれたような表情になった。 「どうも大変ご無理なお願いをいたしまして恐縮でございますが……」  須藤のそういう声だけが聞こえている。 「じゃあそういうことですので、あとはこの二人にまかせますから、どうぞごゆっくり……その、ナニしていただいて……君たち、判ったね。たのんだよ」  野口は急に高い声に戻って言うと、厄介事《やつかいごと》から逃げ出そうというのをかくす様子もなく、そそくさと宣伝部を出て行った。須藤はそのうしろ姿へゆっくりと頭をさげた。  課長はちょっと自分の席へ戻って手早くデスクの上の書類をかたづけると、 「それでは参りましょう。こちらへどうぞ」  と言った。須藤はまた丁寧にお辞儀をして、課長の案内でどこかへ去って行った。  いれ違いのように、その課長をたずねて五人ばかりの男たちがやって来た。この会社の社員でないことはすぐに判る。きちんと背広を着ている者も、ネクタイがばかに派手だし、長髪でノータイのヒッピーまがいの身なりをした者や、スポーツ刈りにサングラスをかけた男もいた。  どうやら広告代理店の連中らしい。 「あれ、課長はお留守……」  と、なれなれしく女の子に訊《き》いている。 「いま、ちょっとお客様がいらっしゃったものだから」 「やだなあ。この時間に来るように言われてたのに」  そんなやりとりを聞いて、部長が声をかけた。 「すぐに戻って来る。待っていなさい」  すると、広告マンたちはびっくりしたように急に静かになり、 「じゃあ、ここで待たせていただきます」  と、課長のデスクの横に置いてある折り畳み式の椅子を並べて坐《すわ》った。  が、彼らが坐るとすぐ、課長が戻って来た。 「よう」  課長は顎《あご》をしゃくって言った。 「どうも」  五人はいっせいに立ちあがって頭をさげる。 「第六応接をあけておいた。向こうで話そう」 「はい」  男たちは出したばかりの椅子を畳み、課長のあとからその部屋を出て行く。大きなスケッチブックをかかえた男や、多分ポスターのダミーだろうが、B全判のケント紙を木の枠《わく》に張ったのを持っている男もいた。  課長は部屋を出るとき、ちらりと部長を見た。部長はそれを待っていたように見返して、 「まかせたぞ」  と念を押すように言う。とたんに課長は意味ありげにニヤリとして、何も言わずに頷《うなず》いただけで出て行った。 「いったいどうなっているんだ」  部長は呆《あき》れたようにつぶやいて、出て行く男たちを見送っていた。  その男たちは、宣伝部を出ると廊下を少し歩いて、規格品の間仕切りユニットで作った小さな応接室が並んでいるところへ行き、第六応接室という札がついたドアをあけた。ドアは少し開閉がきついらしく、みんなが入ってしめるとき、ガタンという大きな音といっしょに、第一応接室のあたりまで間仕切りがグラグラと揺れた。  その第六応接室は、一方が壁で三方がスチールの衝立《ついたて》のような間仕切りユニットで囲まれている。廊下に面した側は腰の高さから上にすりガラスがはめこまれ、左右は青いスチール板になっている。間仕切りの高さは天井まではなく、だからちょっと大きな声をだせば幾部屋も先まで聞こえてしまう。 「それがダミーかね」 「ええ」  課長に言われて一人がB全判のパネルを包んだ紙をあけようとする。 「いいよ。俺は見ないでも判っている。で、モデルは決まったのか、モデルは」 「はい。一応この五人に候補をしぼって来ました」  別な男が社名入りの封筒から写真を引っぱりだした。 「どれどれ」  課長がとりあげて一枚ずつ品定めをする。 「どうです」 「どうかなあ……」  課長はあいまいに言った。 「いつものことだから、まあこの辺で決まることは決まると思うが……」 「みんな一流クラスです」  すると課長は仕事の喋りかたではない声になって、 「しかし、モデルになろうというくらいの女の子は、みんな小さい頃から自分が綺麗《きれい》だということを意識しているんだろうなあ」  と言った。 「そりゃそうです。自分を美人だと思うかと尋ねれば、みなノーと答えがちですけれど、実際にはひとより美人だと思っているんですよ」 「そうだな」  別の広告マンが同意した。 「モデルに限りませんよ。俳優だって、そもそもはみんな二枚目です。悪役だ性格俳優だと言っても、それはのちの役どころが重なって自然にそうなるのでして、まだ俳優になる前の若い頃は、結構みんな美男子なんですからね」 「そういうもんだろうなあ」  課長は機嫌がいいらしく、話は仕事のほうへ向かわず、雑談になって行った。 「たしかに、この子たちもみんな美人だけれど、個人的に言うとモデルになりすぎていて、ちょっと手垢《てあか》のついた感じがするな。モデルというのは、みんなそうなんだろうね。やはり素人《しろうと》のお嬢さんのようには行かんだろうけれど……」 「ひでえのがいますからね」  そういう世界の内情にくわしい男たちは、顔ばかり綺麗で性格のよくない例や、いかがわしいくらしぶりをしているモデルの話を幾つか課長に披露《ひろう》した。 「でも、いいのもいるんだろう」 「そりゃ、中にはいます。数は少ないですけれど」 「顔が綺麗でスタイルがよくて、性格がよくてスレていないで上品で……そんなのは無理な注文かな」  課長は笑いながら言った。 「岡部和美なんかはどうだい」  広告マン同士で課長の出した条件にあてはまるモデルを選びはじめた。 「だめさ、あいつは浮気っぽい」 「じゃあ舟木レーヌは」 「あの子は色が黒すぎるし、それにもう結婚してる」 「え……いつの間に」 「なんだ知らなかったのか」  課長は黙って聞いている。  そしてそのやりとりは、となりの第七応接室にいる須藤の耳にも筒抜けであった。 「いるよ、一人だけ」  新しい声が言った。その声は低いが確信に満ちていた。 「誰のことだい」 「紅本《べにもと》恵子」  須藤はテーブルの上に手帳をひろげていて、女の名が出るたびそれをメモしていた。 「紅本……どんな子だい」 「ほら、いつか海外向けの電卓のカタログのダミーにだけ使った子がいたろう。本番には使わなかったけれど……」 「ああ、少し寂しい感じだからってスポンサーに蹴《け》られちゃった奴《やつ》か」 「海外向けだったからな」 「そうか、紅本恵子か。あの子ならたしかに課長好みだな」 「おいおい、俺の好みの子を探してるわけじゃないんだぞ」  課長の声の半分はとなりの部屋にいる須藤に向けられているようであった。 「俺も知ってる。あの紅本恵子なら絶対にいい」 「なんだ、みんな目をつけてたのか。がっかりしたなあ」 「そんなにいい子なのか」 「いいですよ。なぜモデルなんかはじめたのか判《わか》らないくらいです。ああいう子は箱にしまってそっとしておくべきなのに……」 「ほんとにそうだな。男のモデルになんか引っかかったら俺は泣いちゃうね」 「お前が泣いたってどうってことはない」  みんなが笑った。 「所属クラブはどこだい」 「ひまわりですよ。ええと……たしかにひまわりの顔帖を持って来たはずだけど。……あ、ありました。これですよ」 「どれどれ。どの子だ」 「六十七番です」 「紅本……紅本と。あ、この子か」 「ええ、それです」 「身長、百六十四。バスト八十五……」 「ね、いい子でしょう。いわゆる痩《や》せこけた清純派っていうのとも違うんです。みずみずしいんですよ。清潔でふっくらとしてて……」 「なるほど。だがちょっと地味な感じじゃないか」 「そうじゃありませんよ。こういう写真はちょっと派手でなければ引きたたないんです。この子はモデルモデルしてないから、地味な感じになっちゃうんですけれど……まあ、あの感じをこういうモノクロで出そうというのが無理なんです」 「ひまわりクラブの紅本恵子か。年はいくつだ」 「さあ、はたちかな」 「二十二だろう」 「知らないのか。彼女は二十四さ」 「へえ、もう二十四なの」  すると課長が言った。 「二十四か。これはいいですな。この子ならご推薦いたしますよ」  広告マンたちは何かの冗談だと思ったらしく、いっせいに笑った。 「ところで君たち、今日はほかにいろいろと用事がたてこんでしまっているので、ダミーだけ預かることにしよう」  課長は必要な情報を引きだして、広告マンたちを追い出しにかかった。  それでもすぐには話がおわらず、須藤が広告マンの持っていたモデルクラブの顔帖を課長から受取ったのは、それから十分ほどあとのことであった。     3  それから数日後の夕方。  須藤は中央重工本社の裏側にある通用門のわきに立っていた。そばにひどくいかつい顔だちの初老の男がいる。  もう退社時間で、まず女子社員たちがタイムレコーダーを押して通用門から出て来る。彼女たちはその初老の男に気づくと、みな丁寧に頭をさげて足早に通りすぎる。人事部長なのだ。 「さきほどのメモにも書いておきましたが、とにかく江川という男は今どき珍しいくらいの好青年なのです。そう言っては彼女たちに気の毒ですが、わが社には彼にふさわしい女の子はおりません」 「人事部長がそうおっしゃるほどでしたら……」  須藤はうれしそうに頷いている。 「今日は遅くならんはずですが」  人事部長は心配そうに門のほうを見ている。 「いえ、やっといい青年が見つかったのですから、何時間でも待たせていただきます。……いや、それではあなたさまがご迷惑でしょう。どうも失礼な言いかたをしてしまいまして」 「いや、かまわんですよ。これも仕事です」 「恐縮です」  須藤は肩をすぼめて言った。 「あ、来ました。彼が江川哲也です」 「あの青いネクタイの」 「そうです」 「なるほど立派な青年ですね。……ではわたくし、これで」 「そうですか、では……」  その前を、江川哲也が通りすぎて行く。須藤は人事部長に充分な礼を言いそびれたまま、江川のあとをつけはじめた。  たしかに好青年であった。体格がよく、すらりとした長身を清潔な感じの背広でつつみ、大またに背筋をしゃんと伸ばして歩いている。  須藤はすぐ息を切らしはじめた。若い江川の歩きかたが早すぎるのである。だが、地下鉄の駅へおりる階段が混《こ》んでいて、辛うじて見失わずにすんだ。  須藤は帰宅する人々で混み合うその階段へ着くとちょっと浅ましい感じで人々を掻《か》きわけ掻きわけ先へ急いだ。切符を買わねばならないのだ。江川はきっと定期券を持っているはずである。  やっとの思いで百円区間の切符を手にいれた須藤が改札口を通り抜けると、ちょうど電車が入って来た。須藤はキョロキョロと見まわした。江川の姿はそのプラットホームのいちばんはずれのほうにあった。須藤はまた小走りにそのほうへ近寄って行く。サラリーマンたちの、物なれた動きかたの中で、須藤はいかにも田舎者のように見えていた。  それでも電車に乗ってしまうと、さすがに落着きをとり戻した。江川は車輛《しやりよう》のドアとドアの中央あたりの吊革《つりかわ》につかまってじっとしている。須藤はそっと内ポケットへ手をいれて、人事部長が走り書きしてくれたメモを眺めた。  江川のすまいは都内にあり、どうやら百円区間の切符で足りるようである。須藤はそれだけのことにもホッとしたようであった。もし足りなければ着いた駅で精算しなければならない。そうすれば足の早い江川を見失うにきまっていた。  電車はどんどん駅を過ぎて行く。須藤はまだだいぶ先らしいのに安心し、ドアの上にある路線案内図を眺めて、江川が降りるはずの駅名を捜していた。  電車はまた駅にとまった。須藤が何気なく見ると、江川のつかまっていた吊革が無人になっている。びっくりして見まわすと、江川が降りようとしていた。 「あ、降ります、降ります」  須藤は乗りはじめようとしていた人々を突きのけるようにしてプラットホームへ出た。最後のほうの乗客が振り返って不快そうに須藤を見た。  だが、詫《わ》びるゆとりもなく、須藤は江川のあとを追った。その駅にはエスカレーターがついていて、上へ行く人々が静かにそれで運びあげられていたが、江川はその横の階段を軽い足どりでトントンと登って行く。  結局似たようなタイミングで上へ着くのだが、須藤はつりこまれて階段のほうを使ってしまった。すぐ脚が重くなり、また息を切らせた。……エスカレーターに乗ってくれればいいのに、と須藤はうらめしそうに江川の背中をみつめていた。  江川はスタスタと、巧みに人々の間を縫って改札口から出る。須藤はそのあとから、人に突き当たり突き当たり、やっとの思いでついて行く。江川はすぐ地上へ出た。 「なんで途中で降りたのだろう」  須藤は舌打ちするような顔でつぶやいた。品行方正な好青年なら道草など食わないはずなのに、と思っているのだ。  にぎやかな表通りを歩く江川の足どりがふと鈍った。飾窓の中に目をやり、何かに気をとられている様子である。須藤はさりげなくその横をゆっくり通りすぎた。  それは大きな靴屋《くつや》だった。江川はバックスキンの小粋《こいき》な革コートを眺めていた。女物である。 「いかん。これはいかん」  須藤はまたつぶやいた。そのつぶやきを聞きとりそうな感じで、江川がさっと追い抜いて行った。 「デートに違いない」  須藤はやけくそ気味に江川のすぐうしろにくっついて進んで行った。  江川は次の角を曲り、比較的人通りの少ない裏通りへ入って行く。さすがに須藤は間隔を余分にとった。  道に面した側がガラスばりで、内部がよく見えるようにした清潔な感じの喫茶店があり、江川はためらわずにその店へ入って行った。須藤は仕方なくゆっくりと歩いてその前へさしかかった。  江川が赤っぽいワンピースの娘のいる席へ、向き合って座ろうとしているのが見えていた。須藤はそれを横目で見て通りすぎ、しばらく行ってから忘れ物でもしたようにくるりと踵《きびす》をかえすと、江川が入った店へ向かった。  江川たちがいる斜めうしろのテーブルがあいていて、須藤はそこへ腰をおろした。江川の顔は見えないが、相手の娘の顔はよく見える位置であった。  華やかな顔だちの、綺麗な娘であった。何か言ってしきりに笑っている。笑うと口の両端が内側へ少しえぐれるような感じで、それがちょっと官能的に見えた。 「あれはお父さんがいけないのよ」  そういう声が聞こえた。  須藤は眉《まゆ》を寄せた。父親のことが話題になるとすると、二人は恋人同士なのかも知れない。それとももう親たちが許す関係になっているのか……。とにかく江川の父親は二年前に死んでいる。須藤は人事部長のメモをとりだして眺めた。  コーヒーを注文した須藤は、長いあいだそこに坐って二人を観察していた。若い男女のとりとめもない話は、いつ果てるともなかった。 「やれやれ……」  須藤は腕時計を眺めてつぶやいた。その二人が恋人同士であったことは、もう疑問の余地がなかった。たしかにその娘も美しいことは美しかったが、その美しさは大して珍しいほどのものではなかった。華麗ではあるが爽《さわ》やかさが足りなかった。  それは須藤が考えているカップルではなかった。江川は合格だが、相手の娘は紅本恵子でなければならなかった。  須藤は江川たちが早く席を立ってくれるように願いながら、手持ぶさたな様子で伝票をひっくり返してボヤいた。 「こういう店のコーヒーもすっかり高くなってしまった」  江川はそれから十分ほどして店を出ると、ぶらぶらとあたりを歩きまわって、七時ごろその娘と地下鉄の駅で別れて家へ戻った。     4  それからまた半月。  須藤は六本木の写真スタジオにいた。壁も天井もまっ白に塗った大きな部屋の隅《すみ》のほうの椅子で小さくなっている。そばにあの宣伝課長がいて、このほうは悠然《ゆうぜん》と脚を組んで煙草《たばこ》をふかしている。 「いや、滅多にこういう撮影には立ち会わんのですよ」 「まったく今回は重ねがさねご無理をお願いしてしまいまして……」 「たしかにあの子は今どきには珍しいタイプですな」 「まったくです。おかげさまで……」  須藤がそう言うと、課長は声をあげて笑った。 「ねえ須藤さん。僕にだけは打ちあけていただけませんかねえ」 「は……」 「僕はあなたがどういう方で、何のために彼女に目をつけていらっしゃるのか、まったく知らないのです。すべて上司の命令でしてね。しかし、気になりますよ。いったい彼女をどうなさるおつもりなんですか」  すると須藤はすまなそうに頭をさげた。 「申しわけございません。どうしてもそのわけを申しあげることができませんので……。どうかひとつご勘弁くださいませ」 「まあいいですけれどね」  課長はあきらめたようにまた笑った。  彼が須藤に真実を教えるよう要求したのも無理なかった。何しろあの日第六応接室の話を盗み聞きさせてから、宣伝部に対して急に新しいポスターを作るよう、上層部から命令が下ったのだ。上層部からポスターくらいのことで直接指示があるのも異例だったが、それにもましておかしなのは、要するに広告すべき商品は適当にまかせるということなのだ。須藤の指定するモデルを使えばそれでいいというのである。  課長はその指示を内々で受けたとき、すぐ紅本恵子を使うのだと判った。だから彼はポスターを印刷することは、はじめから考えなかった。撮影まではすませるが、途中で計画が変更になったことにしてしまう気であった。次に須藤が訪ねて来たときそう提案すると、須藤はよろこんで承知した。  だが、広告代理店の連中は本当にポスターを作るのだと思い込んで、熱心に仕事を進めていた。紅本恵子の登用もごく自然に話が運んだ。……要するに会社の広告予算の一部で紅本恵子のカラー写真を撮影するだけのことなのである。本来なら愚にもつかない命令なのだが、課長にはなぜかそれが、どんな仕事にも増して重要な意味を持っているらしいことが判っていた。  自分が所属する超一流会社の裏側で、何かえたいの知れぬことが起っているのだと思うと、ゾクゾクするような興奮を味わうのであった。だが、いったいそれが何なのか、見当もつかない。この須藤というしょぼくれた中年男のどこに、そんな権力がかくされているのかもまったく判らなかった。  が、とにかく須藤の要求をこころよく、全面的に満たしてやることが自分の出世につながるということだけは確信していた。これは生やさしい秘密ではないのだ。そして、そういう秘密に関与することが、どんなに出世を早めるか彼はよく知っていた。  紅本恵子が青いホリゾントの前の、光の集中した場所へ入った。課長はそれとなく須藤の様子に気を配っていた。広告代理店の連中には、田舎から出て来た自分の遠い親類の者であると言ってあった。  須藤はいかにもそれらしい態度を示していた。別に演技しなくても、そういう撮影現場ははじめてであったから、みんな課長の言葉を信じて疑わなかった。  須藤はその隅の椅子から、紅本恵子を舐《な》めるような目でみつめていた。実直な田舎のおっさんが、すてきなモデルをまぢかに見せられて、内心の助平ごころをつい顔に出してしまったというところである。  だが課長はそれを軽蔑《けいべつ》する気にはなれなかった。巨大な秘密を背負った特別な人間が、必死で職務を遂行しようとしているのだと思った。ひょっとすると、それは一企業内のことではなく、もっと高度な、国家規模の秘密かも知れなかった。  どこかの国の大物が来日するのではないだろうか……。課長はふとそう考えた。紅本恵子はそのときに人身御供《ひとみごくう》にあげられるのかも知れない。サラリーマンの海外出張でさえ、女はつきものなのである。元首級の来日などにそういうことがないとは言い切れない気がした。庶民のあずかり知らぬ国際的な慣例として、そういうことがあるのかも知れないと思った。  いずれにせよ、いま誰かが4×5《シのゴ》サイズのカラー・フィルムに紅本恵子の姿を収めることを必要としているのである。須藤は多分その代理人であり、自分はその秘密の一端に加わっている。……課長は満足していた。     5  かなり強い風の吹く中を、須藤が歩いている。それでなくてもしょぼくれた中年男は、風に吹かれたり雨に打たれたりすると、いっそう侘《わび》しい様子に見えてしまう。  ネクタイがうしろへひらひらと風に舞い、右肩へかかりかけるのを、ぶきっちょな身ごなしで上着の内側へねじ込んだ須藤は、渋谷の坂道を風にさからって登って行った。  すぐ前を、男の子のようなブルージーン姿で紅本恵子が歩いている。このほうは吹く風さえも飾りになって、ハンチングのような帽子の庇《ひさし》を斜めにつまみさげるようにおさえ、右肩を先に出して斜めに歩いている。それがとても可愛らしい。  やがて紅本恵子は坂の上にあるビルの中へ入って行った。須藤の足が早くなり、そのあとにつづく。が、ビルの中へ入ったとたん、須藤の顔に困惑の表情が泛《うか》んだ。  恵子は入口のすぐ左にある喫茶店へ入ってしまったのである。それはまるで服飾店のショーケースの中のような感じの店で、店全体が若い男女のおしゃれの場になっているのであった。  須藤は溜息《ためいき》をついた。よく見れば、そのビルがまるごとおしゃれのための店で埋められているのだ。須藤のような中年男にとっては、若い女の子でも一緒にいてくれなければ、歩きまわることさえはずかしい感じであった。  それでも須藤は用ありげに、一階をひとまわりした。 「外国だな、まるで」  須藤は舌うちしてつぶやいた。彼の知らぬまに、この日本という国が、いや、日本の若い人々が、すっかりかわってしまっていたのである。  須藤はその場所でとり残されたような心細さに襲われたようであった。そういう場所を平然とうけいれている若い人々との間に、もう越えようがない断層ができてしまっているのだ。並んでいる商品は、どれもこれも、あってもなくてもかまわないような物ばかりで、しかもびっくりするほど高価だった。 「みんなよく金を持っている」  須藤は溜息をついた。ばかばかしい漫画のような絵がついたシャツが何千円もしていた。ひょいと首に巻くスカーフが一万円以上だった。そして、そういう商品を恐れげもなく手にとって見ているのが、はたちそこそこの娘たちなのであった。 「自分で働いているのだろうか。親からもらうのだろうか」  どちらにせよ、信じられないことであった。そんなにふんだんに小遣いをやる親も、まだ若いくせにそんな高給をとる人間がいることも、須藤の常識にはなかった。  須藤はやりきれなくなって風の中へ出た。ガラスばりの喫茶店の中で、紅本恵子が派手なチェックの上着にピンクのシャツを着た男と喋《しやべ》っているのが見えた。  その男の素性ならもう判っていた。テレビ局のディレクターなのである。化粧をまったくしていない、男の子のような姿の恵子にはふさわしくない相手であると思った。毒々しい色で体を飾ったとかげのような感じの男である。 「なんであんな子があんな男と……」  須藤はまた中年のつぶやきを洩《も》らして道を横切り、喫茶店が見える位置に立って、人待ち顔をして様子をうかがいはじめた。  紅本恵子の身辺を調査した探偵社の報告は、ほとんど完璧《かんぺき》であった。いつももっとずっと高度な、大臣級の人物の調査を手がけている連中にとって、恵子のような若い娘の調査は簡単すぎるほどであったろう。  恋愛歴二回。三回目がいま進行中であった。二度目の相手のとき処女喪失。……探偵社の報告には、そんな大胆な記述まであった。もちろん冗談半分に書いたのではない。彼らはそういう調査のきわめつきのプロであり、他に類のない高度な調査機関なのであった。  前のビルで強烈な疎外感に見舞われた須藤は、風を避けて横丁の出口で背を丸めているうちに、やっといつもの自分をとり戻《もど》したようであった。  考えてみれば、それが時の流れというものなのであろう。若者をいとい、彼らの行動に目くじらを立ててもはじまらぬことであった。 「こういう時代を作り出してしまったのだから……」  須藤はそうひとりごとを言い、そのひとりごとが風に乗って通りがかりの男に聞こえたようだった。男は何か問いたげに須藤を眺《なが》め、風に押されるように坂をおりて行った。  たしかに、今の老人や中年たちがこの時代を生みだしたのである。夢中になって作りあげた豊かさの中で、若者たちは次の時代に向かって歩きだしたのだ。否定しようが嫌悪《けんお》しようが、それは彼ら自身のものであり、若者について行けなくなったとしても、老いというひとこと以外の何物でもないのであった。 「何しろ美男美女だからなあ」  風の音の中で、須藤は安心してかなり高い声でつぶやいていた。紅本恵子も江川哲也も、今の須藤の立場から見れば恋人などいて欲しくないのは当然だったが、客観的に言えば、それこそ恋人の一ダースやそこら、いないほうがふしぎなくらいなのである。 「まあ、あれならやりやすいだろう」  須藤は自分をなぐさめるように言った。そのテレビ局のディレクターは見るからにいかがわしく、仮りに恵子が本気で愛していたとしても、二人の仲を裂くことにためらいは感じずにすむのだ。あのピンクのシャツの男より、江川哲也のほうがずっと優れた青年のように思えている。  問題はむしろ江川のほうで、彼の恋人の山崎敏江は、江川の恋人としてそう難癖のつけようがなかった。もし紅本恵子という存在さえなければ、そのまま二人が夫婦になっても、祝福こそすれ非難すべき点はまったくないのである。だからその仲をこれから裂かねばならぬ須藤にしてみれば、どうにもうしろめたい思いがしてならないのだ。  二度目の恋愛で処女喪失。……須藤はその報告を思い返していた。いったいどうやったらそこまで調べあげることができるのか、ふしぎに思った。しかしその調査マンたちを疑う気持はまったく起こらなかった。彼らは正しいのだ。  須藤は幾分|物哀《ものがな》しい思いで、正面にあるビルの喫茶店を眺め直したようであった。そこには彼が捜しあてた、この東京で最も好ましい美女が坐《すわ》っているのだ。しかし、今彼の体に吹きつけている風のように、世の中全体を吹き抜ける時代の風が、その美女にあっさりと処女を捨てさせてしまったのである。娘たちの貞操が、もっと重い意味を持つ時代であって欲しかったというように、須藤は首を左右に振った。  だが風は吹いている。須藤にはその風向きを変えることは不可能であった。  それから夜になるまで紅本恵子を尾行しつづけた須藤は、彼女が自宅の玄関へ消えるのを見届けた。その夜恵子がテレビのディレクターといかがわしい宿などに足を向けなかったことは、須藤にとってしあわせなことであった。  だが、住宅街の暗い道を戻って行く須藤のうしろ姿は、いつもにも増して侘しげであった。純なものが純のまま収まるべきところへ収まってくれないことが、須藤にやり切れない淋《さび》しさをもたらしていたようである。     6  太洋工機の部長である山崎は、自宅の茶の間で茶をすすりながら、妻の顔をちらりと眺めた。朝の光がいっぱいに射し込んでいて、障子《しようじ》が庭の緑に少し染まっているようであった。 「いいお話なんですけれどねえ」  山崎の妻は少し申しわけなさそうに言った。山崎は妻から目をそらせ、渋い表情でぼんやりと座卓の上に置いた新聞に目を落とした。 「どうかな……」 「え、何のことです」 「この縁談、ひと思いに行けるところまで進めてしまおうか」 「そりゃあたしだってそうしたいですわ。でもねえ……」  妻は溜息をつく。 「江川さんのほうをどうすればいいか……立派な人ですからねえ。あたし、江川さんの気持を傷つけるなんて、とてもできませんわ。それに、あなたのお立場だって……」  妻はつけたしのように言ったが、本当はそっちのほうが気にかかっているのである。  娘の敏江は名門の女子大を出てから、ずっと花嫁修業にはげんでいた。どこかへ就職したがる敏江を説得してそうさせたのである。  だが、敏江はいつの間にか恋人を作ってしまった。両親にそれをかくす気もないらしく、折りを見て家へ連れて来た。それが江川哲也だったのである。  山崎たちも江川を見てすっかり気に入ってしまっていた。さすがはわが娘というような気分で、二人の恋を進行するにまかせていたのだが、最近になって急に中央銀行の塚田専務との間に縁談が発生したのである。息子の嫁にくれというのだ。  本来ならすぐにきまった相手があるということで断わってしまうところなのだが、塚田家が相手では条件がよすぎた。山崎自身の将来につながるのである。それに、相手の青年というのがよく出来ていて、敏江の夫として文句のつけようがないのだ。  いろいろ利害を考え合わせると、江川よりはそっちの話のほうがずっといいように思えて来たのだ。江川さえうまく身を引いてくれれば、一気にまとめてしまいたいと言うのが、親としてのいつわらざるところであった。 「敏江も果報者だな」  山崎は結論をあいまいにしてそう言い、立ちあがった。そろそろ出勤の時間であった。 「果報者って……」 「どちらも甲乙つけがたい。二人とも立派な青年だ。女としてこれほどの果報があるものか」 「でも、あたしは江川さんのほうが好きですわ」  それは母親としてでなく、一人の女としての言い方であったようだ。とたんに山崎はきっぱりと言った。 「よし、それなら決めた」 「江川さん……」 「いや。塚田さんのほうだ」 「やっぱり……でも、変なかた」  妻は山崎の顔を胡散臭《うさんくさ》そうに見た。自分の今の言葉に刺激されて夫の考えがかたまったことに、まるで気がついていないようであった。 「こういうことで中央銀行の実力者と縁を結べるのは、この家にとって大変なプラスだ」  山崎は着がえをはじめながら言った。 「いや、この家ばかりではない。うちの社にとっても大いにプラスだぞ。お前には判るまいが、塚田さんが味方についてくれれば、会社は倍にも三倍にも大きくなる」 「それはそうでしょうけれど」 「決めたんだ。お前もそのつもりで精々敏江の考えを変えさせるようにするんだな」  山崎は家長の威厳を見せて言ったが、その裏に一人のしょぼくれた中年男が動いていようなどとは、思っても見なかった。     7  紅本恵子が自分の部屋で忍び泣いていた。軽い仕事で呼び出され、明治神宮のあたりの路上で撮影をしているとき、あのディレクターが妖艶《ようえん》な美人と、いやにベタベタした感じで歩いているのを見かけてしまったのだ。その女は、まるで恵子が彼の恋人であるのを知っているかのように精いっぱい見せつけ、その揚句に、 「あら、何かの撮影だわ」  と立ちどまって眺めたのである。 「モデルって、ああやって人目にさらされて、いくらくらいもらうのかしらねえ」  ……男はうろたえ切ってその場を離れようとした。恵子は感情が乱れてカメラマンの指図どおりに動けなくなってしまった。 「おい君、でくの棒みたいに突っ立っていては絵にならないじゃないか」  意地悪くカメラマンが大声で叱《しか》った。 「早く仕事をすませれば、君だってああいう風に彼氏と腕を組んで歩けるんだぞ」  仕組んだような一瞬であった。そしてそれはまさにしょぼくれた中年男が仕組んだことであった。紅本恵子の三度目の恋がそれで決定的におわってしまった。  そして恵子が家へ戻って屈辱感にさいなまれている頃、須藤は次の段階へ向かって、準備をはじめていた。  次は傷心の美男美女がいかにしてめぐり会うかということであり、江川のいる会社が中央重工である以上、それはいともたやすいことであった。中央重工はあのマンモス商社と同じ力の支配下にあったのである。  江川はいま中央重工の営業部にいるが、それをたとえば広報課あたりの、モデルと接触する機会のある部署へ移せば、紅本恵子とめぐり会うことはごく自然のなり行きということになろう。ことのついでにまだ平社員である江川に、係長くらいの肩書きを与えてやれば、前途に希望をいだくだろうし、そうなれば万事に意欲的となって、新しい恋も芽生えようというものである。  須藤は一歩一歩確実にゴールへ近づいているようであった。     8  とうとう江川は恵子と会った。  恵子はあのディレクターがいかにくだらない男であったか、江川を知ってあらためて悟ったようだった。江川は優しく、快活で、正直だった。そしてなによりも美男であった。  二人の恋は急速に燃えあがったようである。彼らが楽しげに語り合っていると、誰《だれ》もがほれぼれと見とれるようであった。まさに一対の夫婦雛《めおとびな》と言ったところで、これ以上似つかわしい美男美女の組合わせはあるまいと思えた。  須藤は自分のした仕事に自信を持っていた。もう放って置いても二人が離れることはあるまいと思った。  しかしまだ仕事は残っていた。モデルと言えども、社の仕事として出入りしている相手とそんな関係になるのは許せないことだと、強く江川の恋に反対する上司を作り出さねばならなかった。それに、建物のほうも大急ぎで完成させねばならなかった。  須藤は自分の力が及ぶ数十の企業の中から光学関係の会社を選びだし、必要な道具を作り出すように命じた。その間にも江川と恵子の仲は急速に深まって行き、それにも増して大きな理由が、彼を最終段階へ急がせた。  江川はまったく唐突に上司から呼び出され、叱責《しつせき》された。最終段階のはじまりであった。さいわい心理的に江川はもう引き返せないところへ来ていた。恵子を人生の伴侶《はんりよ》とすることに決めてしまっていた。  職場をとるか恵子をとるか、江川は二者択一を迫られた。 「あなたに申しわけなくて……」  恵子は江川の窮地を知らされて、涙ながらにそう言った。 「でも、お別れしたくはないの。……ねえ、お願い。あたしを放さないで」 「当然だよ」  江川はきっぱりと言った。母親想いの江川は、そう決心してはいたが、係長に昇進したことで有頂天になっている母親のことを思うと、つい表情が暗くなるのであった。  恋をさまたげられた美男美女は、よそ目にはますますしっとりとして見え、みんなを羨《うらや》ましがらせた。だが本人たちにとっては、悲恋としか思えないでいた。  追い込むだけ追い込んで、いよいよ須藤の出番が迫った。須藤は例の調査機関から、江川の死んだ父親に関する情報を充分に得ており、それを頭に叩《たた》き込んでから舞台へ登った。 「実は、わたしはあなたのお父さんに大変お世話になったことがあるのです」  須藤は自分から江川に面会を求め、初対面の挨拶《あいさつ》のあとそう言った。 「そうですか。少しも存じあげませんで失礼いたしました」  江川はなんとなくうつろな声で答えた。 「ずばり要点を申しあげますが、あなたはいま女性問題でお悩みですね」  須藤は赤い顔をする江川にかまわず、珍しく強引に話を進めた。 「中央重工には少しわたしも関係がありまして、先日ちらりと或《あ》る人から小耳にはさんだのです。差し出がましいことですが、多分お力になれると思うのです」 「いったい、どういうことなのですか」  江川はいぶかしげに尋ねた。 「紅本恵子とかおっしゃる女性のことですよ。たしかに会社のかたがおっしゃることにも一応の理屈はあるでしょうが、わたしにはどうも納得できないのです。そうでしょう、今は昔とは時代が違います。物の価値も考え方も、すっかり変ってしまっているのです。仕事で出入しているご婦人と、会社の社員が恋をしてはいけないのでしたら、社員同士はどうなるのです。中央重工にも社内結婚をなさったかたがたくさんいらっしゃいますし、中には結婚後もまだお二人で働いておいでのかたもあるじゃありませんか」  江川はわが意を得たりと頷きたいのを我慢して聞いているようであった。 「おまけにあなた、あなたがたのことをとがめだてしている人が、そういう社員同士の結婚のお仲人をつとめているんですよ。下請け会社の社員とご自分の娘さんを結婚させた人だっているんですし、あなたの場合だけとがめられ反対されるなんて、筋が通りません」  江川の表情がしだいに明るくなっていた。 「で、この件については、亡くなったお父さんにかわって、このわたしにおまかせ願いたいのです。もちろんわたしもこういうことを言いだすからには、紅本さんがどういうかたかということも、わたしなりにちゃんと調べました。いい娘さんじゃありませんか。お父さんが生きていらっしゃっても、きっと諸手《もろて》をあげてご賛成になったに違いありません。お二人は結ばれておしあわせになるべきです」 「僕もそう決心はしているのですが……」 「そうでしょう、そうでしょう。あの娘さんとなら当然のことですよ。でもね、江川さん」  須藤はそこで声をひそめた。 「なに分にも上司のかたが相手ですし、わたしの力でうまく行ったとしても、将来何かとしこりを残すようではなんにもなりません。ですから当分はそのかたのおっしゃるとおり、紅本さんとはお会いにならず……いえ、人目に触れるようなところでさえ会わなければ、毎日お会いになったってかまわないのです。ただ、わたしがそのかたを説得するあいだ、しばらく人目を忍んでいていただきたいのです。実はそのための場所も用意してあるのです。ちょっとあいている場所があるのです」  須藤は鍵《かぎ》を一個とりだして見せた。 「ついでのことに、あなたがたの結婚に、形だけのことかも知れませんが、中央重工の社長さんが仲人役を引きうけてくださるよう工作もいたします。なに、大舟に乗った気でいらしてください。あなたがたはもうご夫婦になれたも同然ですよ」  万事控え目な須藤にして見れば、それが精いっぱいのオーバーな表現であったようだ。そしてその懸命な様子が、江川の警戒心をとり除き、信用させることに成功したらしい。 「ではこれから、お二人の愛の巣へご案内しましょう」  須藤はそう言うと待たせてあったハイヤーに江川を乗せて去った。     9  須藤はそれっきり出歩かなくなった。中央重工へなど、まったく姿を見せなかったのである。  しかしそれでも江川との約束は完全に守れるのであった。必要な時が来たら、電話一本で江川の恋に対する障害は取り除けるのであった。 「どういう人なんだろう。須藤さんなんていう人は、僕の母に聞いても全然|憶《おぼ》えがないそうなんだ」 「よほどあなたのお父さまにお世話になったかたなのね」  須藤が貸してくれた小さな家の中で、江川と恵子は会うたびにそう言い合っていた。しかし、それにしても妙な家であった。若者好みのすてきな調度にかこまれてはいるが、居間とトイレと小さなキッチンだけで、ベッドルームがなかった。  それは須藤苦心の作であった。ベッドルームがあれば、二人が情熱のおもむくままに体を重ねるようなとき、使用する可能性のある部屋がふたつになってしまうのである。だからベッドルームを作らなかった。そして、そのかわり居間にばかでかいソファーを置いたのである。  そしてその二人の忍び会いの場所は、彼が十七のときから慣れ親しんだ屋敷の庭内に建てられていた。  須藤はそのおもちゃのような可愛らしい愛の巣へ二人が入ると、母屋からそっと車椅子《くるまいす》を押して出て行くのであった。その車椅子には、ことし八十九歳になる或る強大な力を持った人物が乗っていた。  その老人を会長と呼ぶ人々もいるが、須藤は旦那《だんな》さまと呼んでいた。彼は十七のときからその旦那さまに仕え、四十五歳の今日まで毎日身のまわりの世話をやいて来たのであった。  旦那さまは巨大な富と、それに劣らぬくらい強大な権力を握っていたが、すでに死期が近づいていることを自覚していた。 「もう女の肌《はだ》に触れなくなってから久しい。だが、死ぬ前にもう一度、あの人間が最も人間らしくなる性のいとなみを、心ゆくまで味わって見たいものだ。この世で一番美しいと思える若い男女を捜して来い。その男女が、お互いの自発的な情熱で我を忘れて抱き合い、よろこび合うところを見せてくれ。金で買われた男女ではいかんぞ。そんなものは目の汚れだ。いいか、恋い慕い合う男女でなければ意味がないのだ」  旦那さまは須藤にそう命じた。世の中に対していろいろな命令を発しつづけた旦那さまであったが、その命令だけは須藤でなければ実行できなかった。  須藤は三十年近い間、旦那さまの命令を忠実に実行して来た男であった。だから、その最後の命令もいつもどおり実行したのだ。旦那さまが生きているうちに、江川と恵子がその広大な庭の一画に出入りするようになったことは、八分どおりの成功であった。あとは、二人がその愛の巣で体を交えてくれるのを待つだけであった。  江川と恵子は会うと必ずキスをした。しかもそのキスは会うたびに大胆になり、回数も多く、時間も長くなって行った。旦那さまは庭の花が咲くのをたのしみに待つように、毎日その小さな離れへ忍び込んではよろこんでいた。 「明日はするかな。須藤はどう思う」  旦那さまは特別な仕掛けで向こう側からは壁にしか見えないガラスごしに、長いこと二人に見とれた揚句、必ずそう言った。二人がそこにいるのを許されている時間は、日が暮れるまでであった。暗くなってからでは肝心の場面を見ることができないからだった。灯《あか》りの要る頃になってそういう事態が起れば、二人が電灯《でんとう》を消してしまうのははっきり判ったことであった。  そして、とうとうその日がやって来た。二人は抱き合っているうちに自制できなくなり、求め合った。 「おお、見るがいい。二人ともなんという美しい体をしているのだ。若い……美しい。人間はこんなにも美しいのだ」  旦那さまは興奮して大声で言ったが、二人に聞こえる心配はなかった。 「見ろ、あのたくましく充血したものを。あれが娘のあの柔らかい腰に突きささるのだ。おお、それ、刺したぞ。見ろ、あのよろこびにあふれた二人の顔を。まるで体によろこびをつめこまれて苦しがっているように見える。そうだ、あれなのだ。あれだったのだ。須藤、よくやった。礼を言うぞ。若い日を思い出した。わしの若い日々をな」  旦那さまは感激して涙を流していた。須藤はそれに気付くと、前にまわってハンカチでそれを拭《ふ》いてやった。 「ああ、今だ。二人は昇りつめたぞ。見ろ、あの勇ましい腰の動きを、あれが男だ。そしてあの娘の男をしめつける白い腿《もも》を見ろ。あれが女なのだ。美しい、人間はあんなにも美しい生き物だったのだ」  人の世の醜さを知り抜いていた旦那さまは、二人の姿の美しさで、自分が人間であったことをたたえようとしていたのかも知れない。  そしてその旦那さまの目の前で、二人は同時に快楽の頂点へ登りつめ、動かなくなった。 「うつく、しい……」  かすかにそう言って、旦那さまはガクリと首を前へ倒した。若い二人が交わって頂きをきわめたとき、旦那さまの命が消えたのであった。 「須藤さんのおかげだ」  ソファーで抱き合っている江川が言った。 「あの人は天使よ。あたしたちにとっては」  須藤は二人がそう言っているのを聞いた。  しかし、彼の旦那さまは死んでしまっていた。旦那さまは彼の人生そのものであった。旦那さまは彼の仕事であり、生活の糧であり、あるときは生き甲斐《がい》ですらあった。 「たしかに君らを結びつけようとして、一時は天使気どりだったよ。でも、何が天使なものか。わたしは旦那さまを殺してしまったじゃないか」  須藤は乾いた声でそうつぶやいた。彼の目の前には、彼の人生が息たえていた。彼はじっとその車椅子にのった旦那さまをみおろしていた。  須藤がそんな無遠慮な目で自分の主人を眺めたのは、はじめてであった。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『魔女街』昭和54年8月30日初版発行