半村 良 魔女伝説 目 次  妻は窓あかりのように  描《か》きかけの夜空  謎は苔寺《こけでら》のあたりに  夜は真珠色に光って  絵の中の風も冷たく  冬の陽ざしの中で  うすけむりの女  玉露のかおり  降りつもる雪  奥能登の波  残雪の町に  若草萌ゆる  皐月《さつき》の海へ  海の上の風  涙は石鹸《せつけん》の泡に  緑つらなる  狙撃者は古墳のかげに  夜のぬくもり  よろこびの午後  静かな里へ  往《ゆ》き交《か》う便り  妻は窓あかりのように  妻は窓あかりのように     1  ふと思い出した。  蓼科《たてしな》高原のホテルの裏の林の中で、瑤子《ようこ》とはぐれてしまったことがあった。そこは遊歩道から少しはずれた所にあり、美しい白樺《しらかば》林に見えたので行って見たのだが、奥へ進むに従って樹影が濃くなり、深い森になってしまうのだった。  あれは結婚した次の年の夏だった……。邦彦《くにひこ》はそう思い、我に返った。自社製品である淡いブルーのスチール・デスクの上にレポート用紙が置いてあり、その右|隅《すみ》へ無意識にボールペンを当てて動かしていたのである。レポート用紙の上のほうには、会議のはじめ頃に書いた文字が幾つか並んでいる。  その部屋には、主として会議室用に開発されたRB90と言うタイプのデスクが二つ並べてあり、それを囲んで八人の部課長が、かなりゆったりした間隔で坐《すわ》っていた。  いま発言しているのは営業第二課の課長で、前期の支社や営業所の売上実績を分析し、各地の地方差を説明していた。そのとなりにいる営業部長が、しきりに頷《うなず》いているが、邦彦はすでにその説明を聞いてしまっていた。  ボールペンの先に付着した僅《わず》かなインクのかたまりを掃除するようなつもりで、漠然《ばくぜん》とレポート用紙の隅に線を引いていたのだが、いつの間にかその線から蓼科のホテルを連想していたのである。  ホテルは小さな人工湖のそばにあった。対岸へまわって眺《なが》めると、静かな湖面の向こうに白い建物があり、その背後に緑濃い山々が重なり合っていた。瑤子とはぐれた林は、奥へ進むと八子《やし》ガ峰《みね》の南斜面になるのだ。ほんのちょっと樹のかげに入っただけだろうと思っていたが、白い袖《そで》なしのワンピースを着た瑤子の姿はいっこうに現われず、五分もすると邦彦はたまりかねて探《さが》しはじめたのだった。  二十分、いや、四十分ほども探し続けた。子供じゃあるまいし……。はじめはそんな風に感じて腹立たしかったが、そのうち不安になって来て、瑤子、瑤子、と大声で呼び歩いた。  瑤子は邦彦が思ったよりずっと奥のほうへ入り込んでいた。そのあたりは下生《したば》えの雑草がからみ合うように茂っていて、うす暗い感じであった。  白いものがちらりと動いたのを見た瞬間、 「瑤子」  と邦彦は叱《しか》るように言った。瑤子は太い杉の木の幹に手を当て、梢《こずえ》を見あげていた。邦彦はその時のほっとした気分を思い出し、同時に回想を打ち切った。さっきから続いていた説明がおわったからである。  会議の雰囲気《ふんいき》は急になごやかになり、雑談のようになった。月例の各部合同会議で、企画課長である邦彦は、一番はじめに高級品開発の状況を報告してしまっていた。 「野川《のがわ》君」  総務部長が邦彦に笑顔を向けて言った。 「は……」 「今日あたりデートじゃないのか」  するとみんな一斉に邦彦を見た。 「いいえ、まだです」  調査課の課長が笑いながら言った。三、四人が声をあげて笑う。 「いいえまだです、はよかったな」  総務部長がニヤニヤしながら言った。 「野川君の奥さんのマネージャーのようだ」 「何しろ注目の的ですからね」  調査課の課長は弁解するようにそう言い、 「そうそう。この間、うちの課の若いのが、野川さんはいずれあの女性と結婚するんでしょう、と訊《き》くんですよ」  と、おどけた顔をして見せた。 「そうかも知れんな。まだ若いし、美人だし、人妻には見えんよ」 「それが半月に一度、必ず下の喫茶店へ現われて野川君を待っている……カフェ・オーレを注文して彼と十分ほどお喋《しやべ》りをして、それからいずくともなく……」 「おいおい、飲物まで知っているのか」  総務部長が呆《あき》れたように言った。 「みんな知っていますよ。若い女の子たちは、今度はどんなおしゃれをして来るか、当てっこをしている位です」  すると営業部長が、 「とにかくこれはただごとではないのだ」  と深刻ぶって言った。会議室の中に笑い声が溢《あふ》れた。 「結婚してもう三年だろう」  そう訊かれて邦彦は照れ臭そうに頷《うなず》いた。 「ええ」 「どうしたらそういつまでも新婚気分でいられるんだか教えてもらいたいもんだ。俺《おれ》なんか三年目にはもう、ろくに口もきかなかったぞ」 「それでいて五年目には三人の子持になっていやがった」 「それとこれとは別ですよ」  男同士の雑談は、いつもそんな調子でおわって行く。  一人が腕時計を見ると、それが合図だったかのように、みんなメモや書類を揃《そろ》えはじめ、 「それでは今日はこれまで」  と言う常務の西本《にしもと》の声と同時に、次々と立ちあがってドアへ向かった。  外はもう薄暗くなりはじめ、廊下へ出ると、少し寒いような感じだった。     2  邦彦は東日機材の企画課長である。東日機材は事務機の総合メーカーで、正しくは東日機材工業と言い、世間では〈トーキ〉という商標で知られている。スチール製のデスクや椅子《いす》から、各種のキャビネット、ロッカー、複写機、タイム・レコーダーなど、オフィスに必要な物で取扱わないのはコンピューターだけと言っていいほどであった。  その業界が本格的に発展しはじめてからまだ日が浅く、従って社員の平均年齢も他業種からくらべるとかなり低い。しかし東日機材は業界のトップに位し、二十代で課長の椅子に坐ったのは邦彦がはじめてであった。  邦彦は自分のデスクに戻ると、会議室から持ち帰ったレポート用紙をちらりと眺め、蓼科の夏を連想させたいたずら書きのある一枚を破り取ると、そばの屑籠《くずかご》へ丸めて捨てた。  商売柄、オフィスは整然としている。そのオフィス自体がショー・ルームの役を果すからである。デスクやキャビネットなどの並べ方も念入りで、書類を積みあげたデスクなど一つも見当たらなかった。  もう退社時間を過ぎていて、誰《だれ》も残っていない。邦彦は抽斗《ひきだし》へボールペンとレポート用紙をしまうと、肱《ひじ》つきの回転椅子をデスクの下へ押し込み、壁際のロッカーへ行った。そのロッカーは明るいクリーム色に塗られていた。殺風景で冷たい色ばかりのオフィスを少しでも明るい感じに変えるため、二年ほど前に邦彦の提案で量産化された製品である。  その企画は図に当たった。頭の古い経営者たちにも、その程度の色彩であれば大した変化には感じられなかったのだ。クリーム色のロッカーはいたるところのオフィスに姿を現わし、大げさに言えばオフィス向け収納家具の色彩革命をもたらしたのだった。  邦彦はそれを充分に読み切っていた。はじめはクリーム色で穏やかにオフィスへ色彩を持ち込み、それに成功したら、あとはもっと強い色へエスカレートして行く計画であった。  工場などは更衣室が独立している。そういう所では従来の物堅い一方で冷たい感じのロッカーを選ぶ必要など、はじめからなかったのである。ワイン・レッドやコバルト・ブルーのロッカーが発売されると、新設の工場などは在来型の薄暗い感じのロッカーには見向きもしなくなった。ことに女子の従業員を主体とする工場では、こんな色をと特別に指定して来るほどである。  オフィスの色彩革命、などと業界誌がはやしたてたりする中で、邦彦は社内における立場をかため、出世コースを順調に走りだしていたのである。  邦彦はそのきっかけを作ってくれたクリーム色のロッカーから、カシミヤのコートを出して着ると、壁のスイッチに触れて灯《あか》りを消し、廊下へ出た。 「どうだ、一杯やらんかね」  トレンチ・コートを着た常務の西本が、エレベーターの前で声をかけた。 「今日は勘弁《かんべん》してください」  邦彦は笑いながら言った。 「そうか」  西本も笑っていた。 「あの奥さんに恨まれるようなことはしたくない」  エレベーターのドアがあいて、二人は中へ入った。 「いつだったかな、君を引っぱりまわして午前さまにさせたのは」 「去年の暮ですよ」 「そうそう。翌朝目がさめてから気になってなあ。あの奥さんが一人でずっと外の物音に耳を澄ましているところを想像してしまったんだ。君の靴音《くつおと》が聞こえるのを待って……。これはいかんことをしてしまったと、あわてて電話器にとびついたよ」 「家内が笑っていました。あの時の常務の電話はしどろもどろで、まるで浮気をして自分の奥さんにあやまっているようだったって」  ドアがあく。一階のロビーには冷たい風が吹いていた。 「この倖《しあわ》せ者め」  西本はエレベーターから出るとき、邦彦の肩を叩《たた》いて言った。 「焼鳥の話を聞いたぞ」 「ああ、あれですか」  邦彦は右手を首筋に当てた。 「はずみでああいうことになったのです」 「君は奥さんに感謝するべきだな」  西本は真面目《まじめ》な声になって言った。自動ドアがあいて、外の北風がもろに吹きつけて来た。  社内の評判になっている通り、瑤子は半月に一度必ず丸《まる》の内《うち》へ出て来て、邦彦と一緒に外で夕食をするのだ。食事だけでなく、映画や芝居を見ることもあるし、買物をすることもある。二人は恋人同士のように夜の町を楽しむのだった。  だが、それが恒例化すると、ときどき邦彦の部下が割り込んで来るようになった。夏に一度、ビルの屋上で生ビールを二、三人に奢《おご》ったのがきっかけで、その次瑤子が現われると、 「奥さん、今日は僕たちが接待しますよ」  などと言うことになる。この前は六本木《ろつぽんぎ》のサパー・クラブからはじまって、彼らの馴染《なじみ》の店を何軒か梯子《はしご》した揚句《あげく》に、神田《かんだ》のガード下の薄汚れたホルモン焼屋にまで連れて行かれてしまったのである。  それが翌日すぐ社内の話題になって、さばけているとか、ホルモン焼の食べかたが慣れていたとか……。優雅な感じの瑤子がそんな店で楽しげにしたのが意外だったようで、彼女の人気はこのところ一層高まっているのであった。     3  常務の西本はどこかで人に会うらしく、東日機材の本社があるビルの前でタクシーをとめ、 「旱く帰ってやれよ」  と言い残すと去って行った。  邦彦はいつものように東京駅から地下鉄に乗った。  瑤子に感謝するべきだ。西本はそう言っていた。たしかに彼女が部下たちに好かれることは、邦彦にとっても仕事がやり易《やす》かった。企画課は家族ぐるみの付合のような雰囲気で、社内でも最も気の合ったチームを形成している。若い社員たちはそれを羨《うら》やみ、内心企画課へ転属を希望している者が多いようである。  電車の中は大半が帰宅するサラリーマンである。退社のラッシュ時を過ぎているから、若い女性の姿は少なく、比較的年のいった男たちが多かった。  電車を乗り換えたあと、邦彦は座席に坐ることができた。それから日吉《ひよし》駅までは一本道である。いつも通りに家へ向かっているので、邦彦にはとりたててこと新しく考えるようなこともなかったが、このサラリーマンたちの中で自分のように仕事が順調に行き、部下の信望を集め、上司たちから信頼されている男はそう多くあるまいと思ったりしていた。  電車を降りて駅を出ると、ちょうどバスが来ていた。家は駅からそう離れているわけではないが、タイミングさえよければバスに乗ったほうが楽だった。邦彦はバスの吊革《つりかわ》につかまって停留所を幾つか過ぎ、やがて見なれた花屋の前で降りた。  乗って来たバスの排気ガスを浴びながら歩きはじめるとすぐ、左角に小児科の小さな病院があり、その角を曲ると狭いながらそれぞれ庭のついた家が建ち並ぶ道になった。  静かだった。たいていの窓はカーテンを引き、内側のあかりがそれぞれのカーテンの色に染まって見えていた。庭の暗がりから白い湯気が立つのは、クリーン・ヒーターの排気なのだろう。邦彦はゆっくりと歩く自分の靴音を聞きながら、心の中ではもう自分の家のドアをあけていた。  ドアをあけるときまって玉のれんの音がするのである。 「おかえりなさい」  靴を脱《ぬ》ぎおわる前に瑤子が玄関へ出て来てそう言うのだ。はじめのうち不用心だから錠《じよう》をかけて置けと言ったのだが、瑤子はとり合おうとしなかった。夫が妻のいる家へ帰るのに、いちいちチャイムの釦《ボタン》を押したり鍵《かぎ》を使ったりするものではないと言うのだ。それで結局は錠をかけぬことになっている。  靴を脱いで家にあがり、すぐにコートを脱ぐとそれは瑤子が受取ってハンガーにかけるのがきまりであった。従って居間へは邦彦が先に入ることになる。その日来信があれば、それは居間のテーブルの中央に置いてある。邦彦はソファーに体を沈めて端書か封書を取りあげる。来信のないときは夕刊をひろげる。  瑤子は何かしら話しかけて来る。ソファーで適当に答えているとお茶が出て、それを飲みながら夕刊を読みおわると着がえである。そして夕食がはじまる。  毎日きまりきってはいるが、それでいてどこかしら少し違っている。まだ一度もその時間の話題に緊張するような事件は起っていない。豪華ではないが毎日念の入った料理で、近頃《ちかごろ》は夕食のたびにいろいろな料理のことが話の種になっている。  入浴、テレビ、ベッド……。邦彦がいま向かっている場所には不安の影さえなく、暖かで優しい適度なあかりがあるのだ。  左側に大谷石を積んだ塀《へい》の家があり、そのとなりが邦彦の家であった。いつものように門灯がついていて、玄関のドアの横の細長いはめころしのガラス窓からあかりが洩《も》れていた。  胸くらいの高さの黒く塗った鉄パイプの門扉《もんぴ》を押しあけて邦彦はドアの前に立った。ノブを掴《つか》んでいつものように軽くひねり、手前へ引いた。  が、どうしたことかドアは動かなかった。  邦彦は眉《まゆ》を寄せ、もう一度引いた。やはり動かない。錠がかけてあるのだ。わざともう二回ほどノブをガタガタ言わせて見たが、中で瑤子が動く気配はしなかった。  仕方なくチャイムの釦を押した。チャイムは確実に作動して、家の中で鳴っている。  それでも瑤子は出て来なかった。……風呂《ふろ》へ入っているのかな。邦彦はそう思いながら、舌打ちをひとつするとコートの釦を外し、上着のポケットから鍵を取り出した。  鍵穴へそれを差し込んでいる間も、邦彦は肌《はだ》を桃色に染めた裸の瑤子が、浴室であわてふためいてバスタオルを体に巻きつけているところを想像していた。  ドアをあけ、 「ただいま」  と、少し高い声で言った。ドアをしめ、いつものように錠をかけてから靴を脱ぎはじめる。 「おい、どうしたんだ」  家の中はいつもの通りあかりがついていた。しかし、どことなく空気が冷えているような感じであった。 「おい、瑤子」  邦彦はコートを着たまま居間へ入って行った。 「瑤子」  キッチンをのぞき、浴室をのぞき、書斎がわりの六畳の和室の襖《ふすま》をあけ、そして寝室をのぞいた。寝室も六畳間も浴室もあかりが消えていた。  邦彦は最後にトイレのドアをノックした。 「瑤子」  トイレにもいなかった。急いで居間へ戻るとカーテンを引きあける。小さな庭に居間のあかりがひろがった。  瑤子は庭にもいなかった。     4  何かが足りないのに気付いて、急に買物に出たのだろう。  そう判断すると、邦彦はカーテンをしめ、コートを脱いでいつも瑤子がしてくれるように、玄関の横にあるハンガーに掛けた。そして、瑤子がいるときとそっくりそのままに居間のソファーへ体を沈めた。  夕刊はいつもの位置に置いてあった。  ガサガサという新聞の音が、邦彦を落着かせてくれた。邦彦はいつものように新聞を読みはじめた。しかし耳は外に向かって澄まされていた。  帰りぎわ、常務の西本が言った言葉がよみがえって来た。 「奥さんが一人でじっと外の物音に耳を澄ましているところを想像してしまったんだ。君の靴音が聞こえるのを待って……」  たしか西本はそんな風に言っていた。そして今、同じことを邦彦がしているのだ。  我慢して夕刊を全部読みおえてしまった。それでも瑤子の戻る気配はない。 「どこへ行ったんだ……」  邦彦はつぶやき、ソファーを立つとキッチンへ行ってみた。夕食の仕度をしかけているに違いないと思ったのだ。  だが、あらためてキッチンへ入って見た邦彦は、ガスのコンロにかけてある湯沸しに何気なく手を触れてギョッとなった。  冷え切っているのだ。  そのときになって、邦彦はやっと異変を感じた。両脇の下が寒気《そうけ》だって来るようだった。  瑤子が家を出てからもうかなりの時間が経過している。……邦彦はそう悟り、あわてて腕時計を見た。あまりにもいつもの通りだったので、駅へ着いた時間も、バスを降りた時間も確認していなかったが、おおよその見当はついた。会議がおわった時間から起算すれば判るのである。  会議があることは瑤子に告げてあった。たいていその月例の会議は退社時間を一時間ほどこえるのだったし、そのあと今日のように西本か誰かに飲みに誘われることも稀《まれ》でなかった。そういう場合は必ず社を出る前に連絡をすることになっていて、その頃電話がなければ、邦彦はまっすぐ自宅へ向かっているということになるのだった。  つまり、瑤子にはその日も邦彦の帰宅時間が判《わか》っていたことになる。邦彦は気付いてポットを取りあげ、流しに向けて傾けて見た。  ほとんど空《から》で、しかも指で触れて見るとその湯は生ぬるくなっていた。  おかしい……。  邦彦は自分がひどく深刻な表情になったことに気付いていた。  たしかにおかしいのだ。  ポットの湯はいっぱいになっていなければならない。でなかったら、コンロの上の湯沸しがもっと温くなければいけない。邦彦が戻るとすぐ、冬なら熱い煎茶《せんちや》、夏なら冷えた焙《ほう》じ茶《ちや》か麦茶を出すことにきまっているのだ。邦彦はコーヒーや紅茶より日本茶が好きで、コーヒー好きの瑤子とその点だけは好みが合わなかった。  いずれにせよ、湯が沸かしてないと言うことは、邦彦が帰宅するまでにまだ充分間があるときに、瑤子は外出してしまったことを意味しているではないか。  だが、夕刊はいつもの位置にあった。  とすると、夕刊が来てから、まだ湯を沸かすには間がある時間の中で、瑤子はどこかへ出掛けたのだ。  邦彦は反射的に冷蔵庫を見た。その扉《とびら》に、瑤子はコートの釦《ボタン》ほどの大きさの、裏にマグネットの付いた赤い玉を貼《は》りつけていた。  買わねばならぬこまごまとした品物や、何かの約束などを記したメモ用紙が、冷蔵庫のドアにマグネットの玉を使って貼りつけられ、黒板がわりになっているのだ。  邦彦は自分への伝言がないかと思ったのだ。メモは貼りつけてあったが、それらしい文字はなく、  ——青いスーツ。プレス。金曜日——  とだけ書いてあった。  金曜と言えばあさってである。今日のことは何も記してない。  近所の商店へ行ったにしては時間がたちすぎていた。と言って、瑤子が突発的なことで出掛けなければならない所と言うと、横浜《よこはま》の津田《つだ》家か、練馬《ねりま》の邦彦の実家ぐらいなものだった。  瑤子の旧姓は津田である。清一郎《せいいちろう》と言う未婚の兄が父親の津田|久衛《きゆうえい》と二人で横浜市内の古い家に住んでいる。母親はかなり若い頃に死んでおり、だから瑤子はずっとその家の主婦がわりであった。それが邦彦の妻になって、ほかに兄弟はないから、父の久衛が病気で寝込んだりすると、面倒を見に行くことがある。  練馬の野川家は邦彦の兄夫婦もいれば、両親もいてにぎやかだから、瑤子が行ってもいつも客扱いである。  津田久衛が倒れたのだろうか……。邦彦はそう思った。それだとすると、メモも残さずにあたふたと出て行った理由も納得できるのだ。  邦彦はキッチンを出ると、居間へ行って電話のダイアルをまわしはじめた。 「あ、もしもし」  相手が受話器を外すと、邦彦は急《せ》き込んで言った。 「僕、邦彦ですが」 「やあ、今晩は」  瑤子の父の久衛であった。晩酌《ばんしやく》でも楽しんでいたらしく、上機嫌《じようきげん》な声だった。 「あの……」 「何かね」  邦彦は言葉に詰《つま》った。しかし、ほかに言うことは思い付けなかった。 「瑤子がそちらへ行っていませんか」 「いや、来ておらんよ」  久衛は不思議そうに言った。 「どうしたんだね。何かあったのか」  邦彦はあわてて否定した。 「いえ、大したことじゃないんです。実は今戻ったところなんですが、瑤子がいないもので」 「どこへ行ったのだろう」  久衛は父親らしく、心配しはじめたようであった。 「判りました。それじゃ何か買物にでも出たんでしょう。いえ、お父さんが病気でもなさったんじゃないかと思ったものですから。悪い風邪《かぜ》が大はやりですからね」  久衛は笑った。 「帰ったらママがいないので心配になったのかね。まるで子供みたいだぞ」  邦彦は久衛の不安を消すために笑い返してやり、 「それじゃあ」  と電話を切った。  そのとたんだった。聞き慣れた鉄パイプの門扉の音が、ごくかすかだがしたようだった。邦彦は急いで玄関へ行くと、サンダルをはいてドアの錠を外した。瑤子が寒そうに肩をすくめて帰って来たのだと思い込んでいた。  だが、いなかった。 「瑤子」  隣りの家へ聞こえてもかまわぬ気で名を呼び、門扉をあけた。門扉はたしかに今聞いたのと同じ響きを立てた。  道へ出て見た。人影はなかった。  たしかに誰かが門をさわったはずだ。……邦彦はそう確信しながら、暗く寒い道に立ちつくしていた。     5  夜が更《ふ》けた。  邦彦は待ち続けた。自分で湯を沸かして茶をいれ、自分で一人分の食事の用意をして、それも一時間ほど手をつけずに瑤子を待ってから、仕方なく食べはじめたのだった。  練馬へ電話をしようと、何度もダイアルをまわしかけた。しかし、もし練馬へ行っているのなら、とっくに邦彦に連絡して来ている時間になってしまっていた。  つまり、練馬へも行ってはいないのだ。  この三年間、瑤子は邦彦だけが相手の生活をしていた。妻になる以前の友達もいただろうに、そういう交際もする気がないらしく、彼女の友人はすべて邦彦の友人たちに限られてしまっている。  その友人のどれを思い泛《うか》べても、仮りに瑤子が訪ねて行ったとして、まだ連絡をして寄越せない距離に住んでいる者はなかった。  いつ外出してもかまわぬよう、邦彦は会社から戻ったままの服装でいた。しかし時計の針は容赦なく零時に近付いて行き、そして零時を過ぎてしまった。  その、不安で物哀しい時間を、邦彦は家中歩きまわり探《さぐ》りまわることで過した。どこかに行先か目的か理由を語ってくれる何かの痕跡《こんせき》があるはずだと、衣裳《いしよう》だんすから押入れや冷蔵庫の中、はては食器棚《しよつきだな》まであけて調べた。  しかし、家の中は憎らしいほどいつものままであった。業《ごう》を煮《に》やした邦彦は、しまいに懐中電灯を取り出すと、夜の一時近くだと言うのに庭へ出て見た。  ひどく寒く、すぐ手の指がかじかんだ。だが邦彦はなかば意地になって、徹底的に庭を調べまわった。隣家との境いの、低い竹の垣根《かきね》に人が乗り越えたあとがありはしないかと、それまで注意して見た。  何もとりたてて変ったところはなかったが、ただひとつだけ、変化と言えば言えそうなことがあった。  四角く平たい植木鉢《うえきばち》がひとつ、勝手口のドアのところに置いてあったのだ。  それは本来なら、家の中にあるべきはずのものであった。いつも玄関の下駄箱《げたばこ》の上に置いてある苔《こけ》の鉢なのである。  瑤子はそれを可愛がっていた。と言うより、ひどく大切にしていた。邦彦は観賞用の苔があるなどと言うことを、瑤子と結婚するまで知らなかったが、瑤子はその苔に毎日霧噴きで霧をかけてやり、寒い季節になると家の中へいれ、万一鉢の中の土に含まれた水気《みずけ》が凍りでもしたら苔が死んでしまうからと、玄関を照らすための、壁にとりつけたランプの真下へ苔の鉢を置いて、ひと晩中あかりをつけ放しにしているのであった。その位置がちょうど下駄箱の上になるのである。  だから、冬の間は苔をあたためるために玄関の中のあかりがつけられ、そのかわり夜中は外の門灯を消してしまうのである。  その苔の鉢が空にされ、外に置いてあるのだ。入っていた苔を探したがどこにもない。ひょっとすると枯れ死んでしまい、どこかへ捨てたのかも知れなかった。  変化らしいことはそれくらいなもので、邦彦は庭の探索を打ち切ると、しばらくの間、ぼんやりと周囲の家々を眺めていた。  はす向いの家の二階に灯りが消え残っていた。もうたいていの窓は暗くなっていて、その窓だけが妙にあたたかそうであった。  その赤味がかったあかりを、邦彦は家庭の色だと思った。そこにはいつも通りの、何気ない、平凡な、しかしそれだからこそかけがえのない生活があるのだった。  邦彦が家へ入りかけたとき、その二階の窓あかりが、ふっと消えた。瑤子もその窓あかりのように消えてしまったのであった。  描《か》きかけの夜空     1  目覚めたとたん、邦彦は言いようのない不快感に襲われた。全身に、耐えようもない重圧がかかっていて、少しくらいの気力ではとても起きあがれない感じであった。  今日も晴れている。  カーテンごしの光で邦彦はそう感じた。そして、そんな平凡なことを考えてしまう自分自身がまた不快になるのだった。  この朝は嵐《あらし》が吹き荒れているべきだと思った。それでなければ、車も通れぬほどの大雪であって欲しいと思った。それならば、瑤子が帰らない説明がつくのだ。  しかし、現実は憎らしいほどの晴天であった。邦彦は十分以上もそのまま夜具にくるまってカーテンのあたりをみつめていたが、やがて根まけしたようにベッドからおりた。  それも邦彦にとっては腹立たしいことであったが、時間はいつも通りであった。  瑤子がいなくなったと言うのに、自分はいつも通りの生活をはじめようとしている……。そう思うとなぜかなさけなかった。体の奥のほうから、手当たり次第に物を投げつけ蹴《け》りとばし、すべてを破壊し尽してしまいたいような、狂暴な衝動が湧《わ》きあがって来るのを必死に抑えつけているのだ。しかも、そんな自制をしている自分自身が、何か不純で不道徳な、偽善者であるように感じて仕方がなかった。  邦彦はそんな気分を鎮めようと、つとめていつも通りに振舞った。だが、昨夜ベッドにつく前に暖房をとめたので、家の中はどこも冷え切っていた。洗面台の蛇口《じやぐち》から出る水もことさらいつもより冷えた感じだったが、邦彦には湯沸器の口火をつけることさえ億劫《おつくう》に思えた。  それでもコーヒーだけは沸かした。ゆうべの残りのコーヒーはいつも瑤子がいれてくれるものよりだいぶ苦《にが》く、その苦さだけが邦彦の気分によく合うようであった。  コーヒーを飲みながら、邦彦は何度もヒーターのほうを見た。そのスイッチを入れれば、すぐに家の中はあたたまりはじめるのだ。そうすれば、パジャマの上へガウンを着た姿で、何時間でも居間のソファーに坐《すわ》っていることになるはずであった。そして、瑤子を待ちながら、思いつく限りの所へ電話をするはずであった。  邦彦は熱く苦いコーヒーを啜《すす》りながら、その誘惑とたたかっていた。ヒーターをつければ会社へは行かずにすむ。行かずに瑤子を探《さが》せる……。  だが、コーヒーを飲みおわると、邦彦はカップを持ってキッチンへ行き、流しにそれを置いて着替えをはじめた。帰って来れば会社へ連絡して来るはずだった。帰って来なくても、きのう連絡しそこなっただけなら、やはり電話はかかって来るはずだった。  今日は一日中会社にいよう。  ネクタイをしめながら邦彦はそう決心していた。できれば一日中デスクにしがみついている気だった。電話のベルが鳴り、受話器を取りあげる自分の姿が目に見えるような気がしていた。その受話器から、瑤子の細く柔らかな声が聞こえるのを想像していた。……それ以外のことは想像したくなかった。今日一日の内に何の連絡も入らないことなど到底考えられなかったし、どこかの病院から、あなたの奥さんが、などと言う電話をかけて来られる場面など、想像しようとするだけで全身が寒気《そうけ》だって来るのだった。  背広を着おわり、電気のスイッチやガス栓《せん》の点検をしてまわりながら、今日一杯は決して瑤子を探す電話などかけまいと心に誓っていた。迂闊《うかつ》にそんなことをしたら、瑤子の名誉に瑕《きず》がつくと思った。これはほんのちょっとした手違いなのだ。瑤子は誰かに頼んでもうとっくに連絡した気になっているのかも知れない。どこにでも無責任な人間はいるものだから。頼まれた人間が自分に連絡し忘れているのかも知れないではないか……。  邦彦はガスと電気を完全に点検しおわると、靴をはいてドアをあけた。門扉にとりつけた郵便受けから朝刊を引き抜いて下駄箱の上へのせると、鍵をとり出してドアの錠をかけた。鍵穴から鍵を引き抜くとき、 「瑤子……」  と低くつぶやいた。行って参りますという挨拶《あいさつ》のつもりであった。  道へ出ると丁寧に黒い鉄の門扉をとじ、思い切りよく大股《おおまた》で歩きだした。ふしぎなもので、そうなると幾らか気が軽くなって来た。会社へ着くのが楽しみになったからである。必ず今日中に電話して来る。……そういう確信があった。そして、どんな手違いがあっても決して叱《しか》ったりはすまいと思った。いや、自分には瑤子に対する難詰などできるわけがないと、苦笑まじりに思ったのであった。この三年間の生活の中で、いささかなりと瑤子に疑いをさしはさまねばならぬことなど、まったくなかったのである。  バス停があり、いつものようにバスが来た。バスはいつものように混んでいた。朝の出勤時には駅へ向かって一方通行になる道を、バスはいつものようにのんびりと進んで行った。  ただ、その朝が邦彦にとっていつもと違うのは、やたらに瑤子の面影が目に泛《うか》ぶことであった。キッチンの流しの前からふと振り向いたときの表情とか、浴室のドアをあけて新しい石鹸《せつけん》を手渡してくれるときの微笑とか……、邦彦が思い泛べる瑤子の表情は、どれもこれもごくさりげない日常のものであった。     2  会社へはいつもより少し早めに着いた。企画課の自分のデスクについて経済紙をひろげ、煙草《たばこ》に火をつけた。が、すぐに気が付いて席を立つと、一般紙を取って来て社会面をひろげた。相変らずいろいろな事件が起っているが、瑤子が巻き込まれそうな事故や事件は何ひとつなかった。 「お早うございます」  部下たちがそう言って部屋へ入って来るたび、邦彦は新聞から目をあげて頷《うなず》き返した。 「課長、時間が空《あ》いていたら五反田《ごたんだ》へ行って頂けませんか」  部下の一人がそう言って来た。邦彦は新聞を畳んでデスクの左端に置くと、意味もなく腕時計を見た。 「今日はちょっとまずいな」 「そうですか。じゃ、僕らだけで見て来てもいいでしょうか」  五反田の新しいビルに入ったオフィスを、東日機材がレイアウトしていて、今日あたりその作業が終了する予定だった。 「うん、そうしてくれないか」 「はい」  その男は、かえって張り切ったようであった。すぐ自分のデスクに戻って、となりの席の男と打合せをはじめている。  何があってもここを動くものか。  邦彦は自分のデスクの上にある白い電話器をみつめてそう思っている。すると、思いがけない強さで瑤子をあわれに感じた。  どこかで自分に連絡を取ろうと焦《あせ》っているのではなかろうか。だが何かが邪魔をしてここへ電話をかけさせないのかも知れない。いったいその何かとは……。とにかく、瑤子が連絡しようとしていることはたしかなのだ。それだけは間違いない。  邦彦はいつの間にか受話器をとりあげていた。そして自宅の番号をまわしはじめていた。入れ違いに飛んで帰り、いつもと同じように自分が出勤してしまったのを知って、拗《す》ねているのかも知れないと思ったのだ。ひょっとしたら、こういう場合夫としては出勤するどころではないのが本当かも知れない。……邦彦はそんなことを考えながら受話器に耳を当てていた。  が、呼出音が続くだけであった。  その呼出音を十回ほども聞いてから、邦彦は受話器を戻した。呼出音しか聞こえない受話器を戻すのを、それほど惜しく思ったことははじめてだった。  それと同時に、無人のわが家で電話のベルが鳴りやむのを想像して、邦彦はひどく物哀しくなった。  何処《どこ》へ。  ボールペンをとりあげて、なかば無意識にそう書いた。  なぜ。  また書いた。そして最後に、  瑤子。  と書くと、ボールペンをデスクの上へ乱暴に抛《ほう》り出して、そのメモを両手でもみくしゃにすると、左の足もとにある屑籠《くずかご》へポイと投げ入れた。  別な部下がさっきから新しい企画のことで話したがっていた。だが邦彦はあいまいに答えて席を動かないでいた。他のセクションから連絡票がまわってきて、それに了解のサインをして返してやる。誰も彼も、いつも通り屈託のない表情をしていた。だが邦彦の気分は一秒ごとに沈鬱《ちんうつ》になるばかりであった。そして、自分のそんな沈鬱な気分を悟ってくれないことが、邦彦をいっそう沈鬱にした。  十一時ごろ、邦彦はたまりかねてまた自宅へ電話した。今度は呼出音しか聞こえないことをはじめから覚悟していた。そしてその覚悟は、期待したようには裏切られなかった。やはり呼出音だけであったのだ。  昼になった。  だが邦彦は昼食にも行かずに席にいた。東日機材では商売柄オフィス内での飲食を厳禁していた。ショー・ルームの役割を果す場所へ、ラーメンやもりそばが運び込まれては困るのである。そのかわり、狭いながらも社員食堂が完備していた。もっとも、それも実用ばかりではなく、自社製品の展示をしているわけなのである。  無人になった昼休みのオフィスで、邦彦はずっと待っていた。  すると突然電話のベルが鳴った。邦彦は高鳴る胸を鎮めて、そのベルを二回聞いてから受話器をとりあげた。 「内藤さん、おいでですか」  その声で気付くと、外線のではなく、相互呼出のランプがついていた。 「昼食に行っている」 「あ、すみません」  社内の女子社員の声らしい。電話はすぐ切れてしまった。ランプの位置も見ないで受話器を取りあげたのは、やはりだいぶ落着きを欠いていた証拠なのであろう。  邦彦はそんな自分がいまいましかった。そしてその腹立ちは、すぐ瑤子に向けられて行った。  いったいどこで何をしているんだ。無断外泊じゃないか。そんなことをしていつまでも詫《わ》びの電話をして来ないなんて……。邦彦はそこまで考え、急に表情を堅くした。  無断外泊。  そうだ、これは無断外泊なのだ。正常な夫婦の間では、決して起ってはならない現象なのだ。  まさか……。  邦彦は首を激しく左右に振った。瑤子と自分の間で、そんなことが起るわけはないと思った。自分たちは愛し合った夫婦なのだ。信ずるの信じないのと、口に出して言い合う必要もないほどの夫婦なのだ。  ……しかし、瑤子はまだ家に帰っていない。     3 「どうしたんです。課長」  部下の一人が呆《あき》れたように言った。だが邦彦はそれに答えもせず、コートをひっ掴《つか》むとオフィスをとび出した。 「奥さんとデート……」  誰かが言うのが聞こえた。 「あ、そうか」  あとは笑い声であった。  しかし邦彦はそれどころではなかった。見栄も何もなく、ひたすら家へ飛んで帰りたかった。道路が空いているという保証があればタクシーに飛び乗っただろう。だがその時間では電車のほうがずっと早いのだ。  邦彦は地下鉄の入口から階段をかけおり、いらいらと電車を待った。階段で追い抜いた乗客たちがホームへ次々に現われるのが癪《しやく》にさわった。  電車が来ると、邦彦は乗り換えに一番都合のいい入口を選んだ。そんなことをするのも久しぶりのことだった。まるで新入社員が出勤するときのようだ、と思いながら要領よく乗り換えると、あとは日吉駅まで一本道である。時間が早いので電車の中は若い女性の姿が多かった。  今日出勤したことは決して手落ちではない。邦彦は自分の行動をできるだけ客観的に点検しはじめていた。夢中になってあちこち電話をかけ、探しまわるほうが余程思慮のないやりかたである。そんなことをすれば、あとで瑤子はほうぼうへ弁解してまわらなければならなくなるのだ。  しかし今夜を経過したら、もう非常事態と考えていい。万一瑤子が今夜も現われないようなら、明日は欠勤すべきだろう。そして八方手を尽してみよう。……邦彦は鉛筆の芯《しん》を舐《な》めて書きつけるような思いで、尋ねるべき相手の名を一人一人しっかりと頭に刻み込んだ。  だが、それでもまだ警察|沙汰《ざた》にはできないと思った。瑤子がどこかの病院で身もとも告げられない状態でいるとは考えにくかったし、まして身もと不明の変死体になっていることなど、考えるのも嫌《いや》だった。  だが、邦彦の心の底には、家のすぐ近くで暴漢に襲われ、どこかに監禁されている瑤子の哀れな姿が泛《うか》んでいた。……もしそうだとしたら、警察に届けないのは大きな失態である。  どうしよう……。  邦彦は迷った。しかし、それも日吉駅の改札口を出るまでにはほぼ結論が出ていた。  家へ着いたら、まず第一に津田久衛に相談するのが一番正しい方法らしいのだ。津田久衛は瑤子の父親である。その横浜の実家には、ほかに清一郎と言う兄もいるのだ。練馬の野川家、つまり邦彦の実家にはとても相談はできない。うまく行っているとは言え、瑤子にとっては姑《しゆうと》や小姑《こじゆうと》たちのいる家なのである。  邦彦は無理をして満員のバスへ体を押しこみ、花屋の前の停留所で降りた。 「おかえりなさいませ」  角を曲ったとたん、そう声をかけられた。 「やあ、どうも」  邦彦は無理に笑顔を作って軽く頭をさげた。前の家の奥さんが買物籠《かいものかご》をぶらさげて、幼稚園へ通っている坊やと出かけるところであった。  誰もまだこの異変には気付いていない。……そう思うと邦彦は少しほっとした。  今なら間に合う。瑤子よ、早く出て来てくれ。邦彦はそう祈りながら門扉をあけ、鍵《かぎ》を出してドアをあけた。  きのうと違って門灯も、玄関の灯りもついていなかった。無人のわが家へ入るのが久しぶりのような気がした。  邦彦は居間の灯りをつけるとコートを着たまま、まずヒーターのスイッチをいれ、すぐに津田家へ電話をかけた。  すぐに相手が出た。 「はい、津田です」  久衛の声であった。 「あ、お父さん、僕です」 「邦彦君か」  久衛の声はいつもより少し厳しい感じがした。 「どうしたんだね」 「実は」  邦彦がちょっと言い澱《よど》むと、久衛のほうから要点に触れて来た。 「ゆうべ瑤子が来ているかと尋ねたね」 「はい」 「あとでちょっと気になってね。それで昼間そっちへ電話をして見たんだ。だが、三度かけて三度とも留守だった。いったいどうしたのかね」 「そのことなんです。実は瑤子が居なくなってしまって」 「居なくなった……」  久衛は絶句したようであった。 「きのう会議がありまして、いつもより少し遅くに帰ったんですが、そのときもういなかったんです」 「なぜ……」  久衛は邦彦を責めるように言った。 「僕にもさっぱり訳が判らないんです。ただゆうべの状況から見て、僕が帰る一時間か一時間半ほど前に家を出たようです」 「それから全然連絡なしか」 「はい」 「困ったな」 「でも、とにかく様子を見ようと、今日は出勤したんです。社のほうへ連絡が入るだろうと思ったものですから」 「うん」  久衛は沈んだ暗い声で答えた。 「でも、まだ戻りません。これはちょっと異常です」  邦彦はつい訴えるような言い方になった。     4 「警察はちょっと待ってくれんか」  久衛は邦彦の説明を聞きおわると、ゆっくり区切りながらそう言った。考え考え喋《しやべ》っているらしい。 「ふしだらなことでこういう事態になったのでないことは、君も信じてくれるだろう」 「はい」 「君が今日一日じっと我慢していてくれたことには、父親として充分感謝する。それに、君同様わたしもあの子を信じているのだ。おかしなことで家を出たのではないことは……」 「判っています」  邦彦は皆まで言わせずきっぱりと言った。 「わたしの言い分は少し筋が通らんかも知れん。そういうことはないと信じていれば、すぐにでも警察に届けるべきだろう。しかしもうちょっと待ってくれないか。或《ある》いはこれは三つか四つの子供が迷子になったのと同じように扱わねばならん事件かも知れんが、万一|誘拐《ゆうかい》されたとしたら、今ごろはとうに犯人から連絡が入っているはずだし、そのあたりは夕方になると買物に出る人が多いはずだから、何かと人目があってそういう犯罪も起きにくいと思うのだよ」 「たしかにそうですね」 「ただ、これ以上手をこまねいて連絡して来るのを待つというわけにも行かんね」 「ええ」 「君のほうは君のほうで、手を尽してみてくれないか。わたしのほうも昔の友達などを当たって見るから」 「そうお願いできると有難いのです。何しろ瑤子は結婚以来クラス・メートたちともろくに付合っていないようでしたから、僕には見当もつかないんです」 「判った。やがて清一郎も帰るはずだ。とにかくまた電話をしよう」 「じゃあお願いします」  邦彦は電話を切るとコートを脱ぎ、電話台の下の抽斗《ひきだし》から早見表をとり出すと、帰る途中で考えて来た尋ね先にかたはしから電話をかけはじめた。  だが、どこも平穏無事なのんびりとした声を聞かせるだけで、瑤子が立ちまわった様子はなかった。  練馬の野川家へは一番最後にダイアルをまわした。 「邦彦かい、珍しいね。何か用事……」  母親の声が聞こえた。 「あの……うちの奴、行ってないか」 「うちの奴って、瑤子さんのこと……」 「うん」  母親は笑った。 「生意気にうちの奴だなんて」 「行ってない……」 「来てないよ」  母親は笑いを残しながらそう答えると、急に冷静な声にかわり、 「どうかしたの」  と尋ねた。 「いや、別に。ただ、帰ったら瑤子がいないもんで」 「変だね。瑤子さんと何かあったんじゃないのかい」  さすがに母親は敏感だった。邦彦はできるだけさりげなく言ったつもりなのに、もう異変に気付いたようであった。 「何もないよ」 「何もないのに瑤子さんがいなくなるわけがないじゃないか」  わけが、と力をいれて言う。 「本当に何もないんだよ。だから心配して探《さが》してるんじゃないか」 「いつからいないの……」  到底隠し通せるものではなかった。 「ゆうべ」 「ゆうべからかい」 「うん」 「大変だわ。それで、探したの……」 「うん。でも、あまり騒ぎ立てるわけにも行かないしな」 「横浜は……」 「まっ先に電話したよ」 「それで……」 「行っていない」  母親はしばらく沈黙していたが、急に叱《しか》るように言った。 「お前、悪いことしたね」 「悪いことって……」 「浮気したんでしょう」 「冗談言うなよ」 「瑤子さんみたいないい人を……」  母親はそうきめてしまったような口ぶりであった。 「違うよ。そんなんじゃないんだ」 「可哀そうに。この寒いのにどこへ行ってしまったんだろう。お前、箪笥《たんす》や押入れをよく調ベてごらん」 「見たけど、いつも通りだ」 「ばかだねえ。瑤子さんが持って出た品を調べてごらんと言っているのよ。女だもの、何日も戻らない気なら、あれこれ持って行かなければならない物があるはずよ」  そうか、と思い、 「判った、すぐ調べて見る」  と言って邦彦はすぐ電話を切った。  部屋はあたたまりはじめていた。邦彦はまず寝室に造りつけになっている衣裳棚《いしようだな》の戸をあけた。自分の服と瑤子の服がずらりと並んでかけてあった。  邦彦は茫然《ぼうぜん》と立ちつくしてしまった。手がつけられない感じなのだ。どれもこれも瑤子の衣裳には見憶《みおぼ》えがあった。しかし、それでいながら、なくなっている物の見当がつかないのである。  自分は妻のことを何も知っていなかったのではないか。邦彦はそう思った。     5  昨夜は家の中の乱れを点検しただけだった。押し入った者がいはすまいかと、それだけを考えていたからである。しかし今度は瑤子が何を持ち出したかを点検するのだ。  邦彦は茶色いハンドバッグと、薄茶のコートが見当たらないことに気付いた。それで玄関へとんで行き下駄箱を探して見ると、そのコートに合う茶のハイヒールが消えていた。  が、判ったのはそこまでであった。新婚旅行のときに使った白いスーツケースは残っているが、そのあとの小旅行のたび、日数や季節に合わせて旅行用の鞄《かばん》を幾つも買ったから、どれがなくなっているかまるで見当がつかなかった。まして下着類に至っては、結婚以来はじめてその抽斗《ひきだし》をあけて見るわけで、数の増減など判るわけもなかった。  預金通帳も、印鑑やキャッシュ・カードと一緒にちゃんとしまってあった。また、現金もキッチンの食品棚の抽斗のひとつに、いつも通り納まっていて、そのことがいっそう邦彦の気持を乱れさせた。  金も持たずに出て行ったのだろうか……。いや、そんなことはあるまい。コートにハイヒール、それにハンドバッグ。少なくともそれだけを身につけて外出したからには、タクシー代くらいは持って行ったはずなのだ。  邦彦は、 「しまった」  と声に出して言い、また寝室に戻った。その隅《すみ》に三面鏡が置いてあり、邦彦は勢いよく抽斗をあけた。  ない。  口紅がないのだ。その口紅は比較的高級な品で、つい半月ほど前に瑤子が丸の内へ出て来たとき一緒に買ったからよく憶えていた。その口紅がなくなっている。  邦彦は自分がなさけなくなった。心の底から愛しているつもりでいながら、妻の愛用する品について口紅一本しか思い当たらないとは……。  家の中を探しまわる邦彦の視点が、また少し変ったようであった。  自分の知らない瑤子の姿を知ろうとしはじめたのだ。そして、邦彦の気付かなかった瑤子が、すぐに押入れの中から姿を現わして来た。  なんとそれは油絵の道具一式であった。画架《イーゼル》に絵具類、筆が十何本か、そして十二号のカンバス。  カンバスには絵が描きかけてあった。ほとんど完成しかけているようだったが、空の部分にまだカンバスの生地が露出していた。  その絵は少年の絵だった。  目の大きな少年が、夜空を背景に正面を向いていた。少年の姿は腰のあたりで切れ、その顔はまったくの無表情にも見えるが、何か底知れぬ謎《なぞ》を語っているようにも思えた。  邦彦は商売柄絵画についてよく知っているほうだった。だから、それが写生ではなく、想像画らしいと言うことはすぐに判った。異様に大きな瞳《ひとみ》と、整いすぎる顔だち。衣服も着皺《きじわ》などまるで描かれてなく、背後には地平線までただ闇《やみ》が伸びているだけであった。そして地平線の上のあたりが僅《わず》かに暁の色に染まり、すぐ空も夜の色になっている。が、その夜空がまだ一部描きかけなのである。  邦彦は自分の留守のあいだ、瑤子が少しずつ楽しみながらその絵を描いていたのだろうと思った。いつからか知らないが、それをコツコツと描きはじめ、完成したら居間の壁にでも飾って、帰宅した夫を驚かせようと思っていたのかも知れない。  それにしても、かなりうまい絵だと邦彦は感心した。瑤子は編物などの手芸でも素人《しろうと》ばなれした腕を持っていたが、これほどの絵を描くとは思っても見なかった。  その無理解が瑤子を家出させたのではあるまいか。邦彦は描きかけの絵を前に、床《ゆか》にへたり込んでしまった。  しかし、すぐにそれを否定した。もしそうなら、きのうの状況はすべてにわたって余りにも突発的であり過ぎる。違う……違う。邦彦は心の中で何度も叫んだ。そんな衝動的な女ではない。瑤子はこんなやりかたで夫の前から姿を消すような妻ではないのだ……。  そのときになって、邦彦はやっと空腹に気付いた。だが、昨夜の食事でもう何も残ってはいなかった。学生時代からずっと練馬の家で生活して来たから、飯の炊《た》きかたもろくに知らないのだ。  邦彦はやむを得ず、サンダルを突っかけて外へ出た。バス通りに中華料理の店がある。と、言っても餃子《ギヨーザ》かラーメンかチャーハンくらいなもので、ほかにそう大げさな料理を出す店ではなかった。しかし、それでもないよりはましで、早く行かないと店を閉めてしまう時間になっていた。  邦彦は小走りにその店へ行き、チャーハンを食べるとまた小走りに家へ戻った。今朝から何も口へ入れていないから、食事をしたあとのほうがかえって腹具合がおかしいような感じであった。  鍵穴へ鍵をさしこんだとたん、家の中で電話のベルが鳴り出した。とたんに邦彦は心臓が高鳴り、大急ぎで家の中へとび込んで受話器をとりあげた。 「邦彦君か」  久衛の声だった。邦彦は気落ちしながら答えた。 「はい僕です」 「そっちのほうはどうかね」 「どこもまったく反応なしです」 「こちらもだ」  久衛はすまなそうに言い、すぐ声の調子を変えた。 「もう一日待って見てくれないか」 「何か心当たりがおありですか」 「はっきりは言えんが、瑤子が行きそうな所がひとつだけ残っている」 「どこです」 「京都だ」 「京都……」 「うん。あれの母親の実家だ」 「と言うと、お祖父さんの……」 「そうだ、瑤子が八つのときに死んだわたしの家内の実家だ。実ははじめからそこではないかと思っていたのだが、先方が留守らしくてまだ連絡が取れんのだよ。でも、明日になれば連絡がつくはずだ。瑤子は京都のおじいちゃんに可愛がられていて、昔からよく遊びに行ったりしていたんだ」 「そこですね、きっと」  邦彦はほっとして言った。あの描きかけの夜空に、明るい月が現われたような気分であった。  謎は苔寺《こけでら》のあたりに     1  快晴の日が続く。邦彦は目覚めたとたん、体を横にころがすようにしてすぐベッドから降りた。カーテンを引きあけると、ガラスごしの陽光をいっぱいに浴び、胸のあたりが急に暖かくなった。 「瑤子、待っていてくれ」  邦彦はひとりきりの家の中で、そう声に出して言った。  今日は会社を休むときめていた。必要なら、明日もあさっても、妻を発見するまで欠勤するのだ……。そんな決意が邦彦の心をきのうよりはずっと軽くしているようだ。  邦彦は妄想《もうそう》を振り払うときのように、頭を左右に振って寝室を出た。明るい朝の光が活気をもたらし、少しは楽天的な気分にさせているようであった。とは言え、それはあくまでもきのうにくらべてのことで、妻に突然|失踪《しつそう》された夫の心に、重苦しいものがないはずはなかった。  邦彦はヒーターのスイッチをいれ、湯沸器の口火をつけた。洗面台のコックをひねると、その湯沸器が作動《さどう》する軽い音が聞こえた。邦彦は髭《ひげ》をそりながら欠勤の口実を考えはじめた。  今の段階では、家内が家出しまして、などと言えるわけがなかった。練馬の野川家、つまり邦彦の実家に対する場合と同じように、瑤子の名誉にかかわることだし、自分たち夫婦の今後の立場を考えても、おいそれと公表できることではないのである。  髭をそりおえるまでに、邦彦はそのことに結論を下《くだ》していた。朝の社内の微妙な時間があるのだ。年輩の役づき連中が出社するのはおおむね始業時間ギリギリの頃で、入りたての若手や女子社員などはそれより少し早めに顔を揃《そろ》える。平《ひら》でも中堅、古手《ふるて》といったクラスは、そのふたつのグループの中間あたりで出社して来るのだ。これはどこの会社でも似たようなものであろう。だから欠勤の連絡をするようなとき、上司に直接電話口へ出てもらいたくない場合は、少し早目に電話をかければ良い。いま、上役に直接連絡はしたくないが、仕事上のことなどを同僚に頼んで置かねばならないときは、中堅クラスが出社しはじめている時間を狙《ねら》うことになる。いずれにせよ、そうした時間帯は幅のごく狭いものなのだが、今の邦彦の場合は、できるだけ早い時間に欠勤の連絡をしてしまえばよかった。そうすれば、電話に出るのは新入社員か若い女子社員で、詳しい説明をせずにすむのである。  邦彦は時間を気にしながら食事の仕度をするためにキッチンへ入った。 「ちゃんと飯を炊いて見せるからな」  邦彦はどこかへ消えてしまった瑤子に対して、また声に出してそう言った。どこへ行ってしまったのか判らないが、瑤子がこの朝の夫の食事を気にかけているのは確実に思えた。邦彦はそういう妻に対して、安心させようとしていたらしい。  だが、その意気込みは次々に呆気《あつけ》なくうち砕かれるのだった。  まず第一に、米のしまい場所が判らなかった。邦彦はさして広くもないキッチンの中を這《は》いまわるようにして、やっとの思いで流しの下の戸棚《とだな》から米の容器を見つけ出した。  が、米を発見したよろこびもつかの間で、どのくらいの量を取り出せばいいのかよく判らなかった。邦彦はため息をつくと、仕方なくキッチンを出て居間の電話器のそばへ行った。  練馬の野川家へダイアルをまわす。 「もしもし……」  聞こえて来たのは妹の敬子《けいこ》の声だった。 「母さんを呼んでくれないか」 「あ、お兄ちゃん。ちょっと待ってて……」  妹の声は屈託がなかった。すぐ母親の声に変った。 「邦彦……」 「うん」 「どうした……」  瑤子のことを尋ねているのだ。 「まだ帰って来ない」 「しようがないねえ」  それは瑤子一人を責めている言い方ではないようだった。 「まだ誰《だれ》にも言っていないんだよ。だから早くなんとかして頂戴よ」 「判ってる。今日は会社を休んで探す」 「早く出て来てくれるといいのにねえ」  母親が瑤子の家出の原因を尋ねたくてうずうずしている気持が、その声で手にとるようによく判った。 「飯の炊き方を教えてもらいたいんだ」  母親は、え……と短く言い、すぐ笑いを含んだ声になった。 「ばかだねえ」 「教えてよ」 「お前はずっとうちにいて、外で生活したことなんかなかったからねえ」 「米は見つけた。俺《おれ》一人分だと、どのくらい炊けばいいんだい」 「そんなのはゆうべのうちに言うもんだよ」  母親は一瞬|憤《おこ》ったような声になったが、すぐ静かな調子で、噛《か》んで含めるように教えだした。  邦彦は、母親から炊き方を教えられている内に、自分が何か大きな忘れ物をして来てしまったように感じはじめた。たしかに夫婦というものは、生活して行く上で男女それぞれの仕事を分担すればいいのかも知れない。しかし、毎日食べる米すら満足に処理できないのは、どこかに大きな欠落があるような気がしてならなかった。     2  朝食ができあがった。炊《た》きたての飯に味噌汁《みそしる》、漬物《つけもの》に海苔《のり》……。何も毎朝そんな古めかしい献立ての食事ばかりではないのだが、邦彦は意地をはってそんな風に一人だけの朝食を作りあげたのであった。  箸《はし》をとるとき、心の中で瑤子に言った。……いただきます、と。そんな子供っぽいことでも考えていたほうが、邦彦の気が紛《まぎ》れるようであった。  母親は突然一人きりにされた邦彦を憐《あわ》れんだのか、懇切丁寧に作る手順を教えてくれたが、瑤子のことには深く触れようとはしなかった。何かにつけて、世話を焼きすぎるほど焼きたがる日頃《ひごろ》の性格からすれば、それは極めて異例のことだったが、それだけ今度のことを重大視しているようである。  飯はいつも瑤子が炊くのより柔らかかった。葱《ねぎ》の味噌汁は上出来だった。漬物は瑤子が漬けていたのを、邦彦が洗って刻んだだけだから、まったく瑤子の味そのものだった。  悪戦苦闘して作ったその朝食を、邦彦はいつの間にかゆっくりと時間をかけて楽しみながら食べている自分に気づき、……まるで母親に置き去りにされた子供のようだ、と思った。柔らかすぎる飯はとにかく、何から何まで瑤子がしてくれる通りにしたわけであった。突然口をあけた大きな穴を、そんなことで埋めようとしたらしかった。  食事をおえた邦彦は、まだ少し時間があるのを確認してから熱い茶をいれ、それを飲みながら新聞に目を通した。  実を言えば、起きるとすぐに朝刊をひろげたかったのだが、万一瑤子が事故に遭《あ》った記事でも出ていると、と思うと何か恐ろしくて手が出なかったのである。  幸いそれらしい記事は出ていない。邦彦はこれからの一日を冷静に過すべく、自分自身をできるだけいつも通りに振舞わせるよう努力していた。  会社への電話はうまく行った。ダイアルをまわすと、案の定若い女子社員が出た。東日機材本社の電話は交換手が受けるのではなく、それぞれのデスクごとに直通番号を持った新しいシステムを採用しているのだ。 「野川だが、部長は……」 「まだおいでになっていません」 「そうか」  邦彦は困ったような調子で一度言葉を切った。彼が課長をしている企画課は、調査課などと共に開発部に所属している。総務、営業などとくらべると、一番新しく、一番小さな部だが、それだけに会社の最も近代的な部分なのである。 「企画課の方をどなたかお呼びしましょうか」  女子社員が気をきかせて言った。 「いや、いい。それでは部長が出て来たら、よんどころない用事で休ませてもらうと伝えてくれないか」 「今日は欠勤なさるのですね」 「そうだ。仕事のほうは特に大きな問題はないはずだからと言ってくれ」 「はい、判りました」 「頼んだよ」  邦彦は事務的な調子で言いおわると受話器を置いた。置くと同時に勢いよく立ちあがり、食事の跡始末をはじめる。  きっと京都の祖父のところへ行ったのだ。そうに違いない。……キッチンで手早く食器を洗いながら邦彦はそう考えた。瑤子が家を出た時間なら、まだ新幹線で京都へ行けるはずであった。  食器を洗いおえたとき、居間の電話が鳴った。邦彦はなぜかそれが瑤子からの連絡ではないことを直感し、そうあわてずにキッチンを出た。 「はい野川です」 「あら、まだおうちにいらっしゃるの」  その声は、昨夜瑤子が行っていないか探《さぐ》って見た友人たちの一人、新沢《にいざわ》夫人の声であった。 「やあ、ゆうべは突然妙なことを言って失礼しました」 「それより、どうなさったの……」  新沢夫人は心配そうな声で尋ねた。 「参りましたよ。実は瑤子の奴、急に消えてしまったんです」  昨夜はあいまいに、瑤子がお邪魔していませんかと尋ねただけであったが、新沢夫妻が相手ならもう隠す必要もなかった。 「まあ……」  新沢夫人は絶句し、すぐ男の声にかわった。 「いったいどうしたんだ」  夫の新沢|信行《のぶゆき》は画家で、邦彦とは高校時代からの親友であった。 「わけが判らないのさ」  邦彦は声ばかりか表情まで、困り果てた様子で答えた。 「喧嘩《けんか》でもしたのか」  新沢はそう言い、すぐ自分で打ち消した。 「いや、違うな。君ら夫婦が喧嘩なんかするわけがない」 「そうなんだ。全然思い当たるふしがないので困っている」 「いつからだ」 「きのう……いや、おととい会社から戻るといなかった。それっきりだ」 「探せ」  新沢は厳しい声で命令するように言った。 「うん、会社は休んだ」 「必ずみつけろ」  新沢は憤《おこ》っているようだった。 「きっと瑤子さんだって困っているに違いない。……なぜだかは知らんが」  邦彦には新沢のそういう激しい言い方がこころよかった。何はともあれ、そこに味方がいるのが確かだったからだ。 「何か判りしだいに報告するよ」 「あんないい人はいない。探してすぐ連れ戻すんだぞ」 「うん」  邦彦よりは新沢のほうが興奮してしまっているようであった。     3  新沢との通話のあと、邦彦はすぐ横浜の津田家へ連絡した。 「京都と連絡を取っている最中なのだ。すまんが電話を切って、こちらから掛けるまで待っていてくれないか。何しろ先方の家には電話を引いてないのでね」  瑤子の父の津田久衛は、すまなそうな声でそう言い、電話を切った。すぐ横浜の津田家を訪ねるつもりだった邦彦は、出ばなをくじかれた感じで居間のソファーに沈み込んだ。  京都に瑤子の祖父がいることは、たしかに聞いたことがあった。しかし、瑤子の母は早くに死んでいて、それ以来ずっと父親の久衛の手ひとつで育てられて来たのだ。従って結婚するときも、特に京都の祖父という人物は登場して来なかったし、邦彦はいまだにその苗字《みようじ》すら知らないでいる。 「おかしな奴だ」  ソファーに坐って横浜からの電話を待ちながら、邦彦は舌打ちしてそうつぶやいた。考えて見れば瑤子という女は、余りにも自分のことについて語っていなかった。しかも、語っていないことを、今日まで全然邦彦に感じさせないでいたようである。  それからどのくらいたっただろうか。瑤子と過した日々のあれこれをぼんやりと思い浮べていた邦彦の耳に、突然玄関のチャイムが大きすぎる感じで響いた。  邦彦は反射的にソファーから腰をあげ、少しうろたえながらドアの錠《じよう》を外した。 「お早うございます」  若い威勢のいい声と一緒に、邦彦の目の前に青いものが突きつけられた。 「ん……」  邦彦は無意識に青いものを受取ってしまってから、まじまじと相手をみつめた。 「奥さん、お留守ですか」  相手はクリーニング屋だった。 「うん、留守なんだ」 「必ず今日お届けするように言われてたんですよ。毎度……」  クリーニング屋は、そう言うとあっさり帰って行った。邦彦はドアをしめ、じっとクリーニング屋が届けた品を眺《なが》めていた。  青いスーツであった。 「青いスーツ……」  邦彦は足早にキッチンへ入った。 「これだ」  冷蔵庫の前に片膝《かたひざ》つくと、その白いドアにコートの釦《ボタン》ほどの大きさのマグネットの玉を使って貼《は》りつけたメモをみつめた。  ——青いスーツ。プレス。金曜日——  メモにはそう書いてある。  金曜は今日である。そして今日は、いつもの半月ごとのデートの日でもあった。もし何事も起っていなければ、邦彦はいつも通り出社し、夕方になると瑤子が丸の内へ出て来るはずであった。瑤子は一階の喫茶店で邦彦の退社を待ち、二人|揃《そろ》って夜の街へ出て行くことにきまっていたのである。  瑤子は少なくとも水曜日の夕方まで、二日後のデートを予定に入れており、そのために青いスーツをプレスに出していたのだ。とすると、水曜日の宵《よい》の外出はどうしても突発的な出来事と言うことになる。  まったく掴《つか》みどころのない妻の失踪《しつそう》に関して、それが突発的であったという部分だけ、少しかたまって来た感じだった。  青いスーツをしまおうと、キッチンを出て寝室へ入った邦彦は、急に気を変えると、スーツをベッドの上にほうり出し、和室へ行って押入れから例の描《か》きかけの絵を取り出すと、画架《イーゼル》を立ててそれにかけた。  その大きな瞳《ひとみ》を持った無表情な少年の絵に、何か瑤子のかくし持った秘密がのぞいているような気がしてならなかったのである。  何か知っているなら教えてくれ……カンバスの中の少年に心の中でそう言ったとき、また居間で電話が鳴った。邦彦は大股《おおまた》で和室を出た。 「待たせてすまなかった」  津田久衛であった。 「京都と連絡は取れましたか」 「いや、それがまだなのだよ」 「そうですか」  邦彦は気落ちした声になった。 「引き続き向こうと連絡を取って見るつもりだが、何せ呼出し電話では話にならない。君は今日休むとすると、土、日も休みのはずだね」 「ええそうです」  東日機材も週休二日制になっている。 「どうかね、いっそ京都へ行って見るかね。もっとも、ほかに心当たりがあれば別だが」 「心当たりなんて全然ないんです。よければ京都のおじいさんの家へ行って見たいんですが」 「電話のない相手だから、この際行ったほうが早いかも知れないな。よし、京都に宿の手配をしてあげよう。北園《きたぞの》の家はちょっと判りにくいから、新横浜の駅で会うとするか、わたしもよくは憶《おぼ》えていないが、だいたいの地図を書いて渡そう」 「北園……」 「瑤子の母親の実家だよ。何だ、北園という姓も聞いていなかったのか」 「ええ」 「しようがないなあ」  久衛は邦彦の迂闊《うかつ》さを咎《とが》めるように言った。     4  邦彦は新横浜駅で津田久衛と落合った。久衛のほうが先に着いていて、次の列車の切符を買って置いてくれた。 「これが北園の家の所番地とだいたいの地図だ。何しろあのあたりへは随分行っていないし、新しい道などができていると探すのに手古摺《てこず》るかも知れないぞ」 「探します」  邦彦は切符とメモを受取って言った。久衛は邦彦が財布を出しかけるのを見ると、その手をおさえつけるようにして金はいいと言った。 「二人が円満にやっていたのは、わたしもよく知っている。瑤子にも今の暮らしに不足はなかったようだ。だから突然居なくなるなんて考えられないが、とにかくこうなってしまった」  久衛はそこで言葉を切り、かすかに頭をさげて見せた。 「できるだけ早く、表沙汰《おもてざた》にならぬうちに探して欲しい。ところで、この件は練馬の皆さんはもうご存知なんだろうね」 「いいえ、母だけです」 「ほう、そうか」  久衛の顔に感謝の色が見えた。 「今回は僕も母を見直しました。父にも誰《だれ》にもまだ伝えていないようです」 「わたしからもお母さんに電話するよ。とにかくこんな姿の消しかたはよくないことだからな」  邦彦は黙って頷《うなず》いた。 「そうそう、宿の手配をして置いたのだ」  久衛はそう言うと、もう一枚のメモを手渡した。ホテルの名と電話番号が書いてあった。 「北園家と言うのは、亡くなった奥さんの実家になるわけですね」  邦彦は少し口ごもりながら訊《き》いた。 「そうだ。あれは瑤子が八つのときに死んだ」 「もう長いことおたずねになっていないようにおっしゃいましたが、そうすると、余りお付合いは深くなかったのですか」 「それはそうだ。もう随分昔のことになるからな。先方もおばあちゃんが死んで、ずっと一人暮らしだったし……」 「なぜ瑤子だけそのおじいちゃんと往き来していたのでしょう」 「あの子が一人で旅ができるような年になってからのことさ。それ以前にわたしと北園家はいったん縁が切れたような形になっていたから、まあ言って見れば、あの子が一人で関係を復活させたようなものだよ。おじいちゃんも淋《さび》しくなっていたのだろう。大層可愛がってくれていたようだ」  邦彦は久衛からもらったメモを見た。 「北園|延弘《のぶひろ》……」 「そうだ。たしか今年でちょうど八十歳になるはずだよ」 「京都市右京区|松尾《まつお》……」 「うん、例の西芳寺《さいほうじ》の近くだ」 「そうですか」  邦彦はもっと久衛から聞いて置くべきことがあるような気がしたが、列車の来る時間になっていた。 「では行って来ます」 「万一あの子が京都へ行っていなくて、君の所へ連絡して来るようなことがあっても、日吉の家が留守ならすぐ横浜へ電話をくれるはずだ。だからあとのことは気にしなくていい。わたしか清一郎のどちらかが、必ず家にいることにするから」 「お願いします」  邦彦は小さな鞄《かばん》をひとつさげて、足早に改札口を通り抜けると、振り返るゆとりもなくホームへ出た。階段を駆けあがるのと、列車が入って来るのと同時であった。  当然のことながら、新横浜で降りる客は一人もなく、邦彦が乗り込むとすぐにドアがしまった。久衛はグリーン車の席を取っていてくれた。窓際には肥った中年男が坐《すわ》っていて、少し酒の匂《にお》いをさせているようであった。ゆうべ銀座《ぎんざ》あたりで飲んで、二日酔いのまま帰る大阪の商人と言った印象であった。  席に落着くと、久衛がひどくすまながっていたことに改めて気付いた。わけはともあれ、今度のことを瑤子の不始末と感じているのは明らかであった。  だが、それだからと言ってやたらな臆測《おくそく》を口にしたがらないのは、久衛も邦彦と同じで、それは瑤子に対する強い信頼感のあらわれでもあった。  誰であれ、瑤子の日常を知る者は、今度の失踪《しつそう》を男性との関係などに結びつけて考えることはためらうに違いなかった。瑤子はそれほど優雅で明朗で、そして貞淑な女であった。  しかし、それだからこそ、今度の件について、言いようのない不安感にとらわれもするのである。余りにも潔白で、余りにも動機がなさすぎるだけに、二日間の行方不明の背後には、重大な意味がかくされていなければすまないようなのだ。同時に、特に邦彦にとっては、瑤子の行方不明が二日や三日では納まりのつかないことのように思え、ひどく不安なのである。二日や三日ですむ程度のことなら、もうとっくに連絡をして来ているはずだし、ひょっとすれば失踪などしなくてすんでいるかも知れないのだ。  ともあれ、列車は快晴の空の下を西へ突っ走っている。この列車の乗客の中で、妻を探しに行く男はほかにいるだろうか。……邦彦はそう考えながら座席の背を倒して目を閉じた。     5  京都駅で新幹線を降りた邦彦は、八条口《はちじようぐち》から出ると念の為京都の市街地図を買い、タクシーの乗場の列に並んだ。  順番が来て小型車のシートに坐った邦彦が、 「西芳寺へ」  と行先を告げると、運転手は車をスタートさせながら、 「苔寺《こけでら》ですか」  と念を押すように言った。 「うん」  邦彦は走り出した車の中で頷《うなず》きながら、思わず眉《まゆ》を寄せた。  苔寺。……たしかに西芳寺は一名苔寺と呼ばれている。  苔寺……。  いつも日吉の家の玄関の灯りの下に置かれていた、あの苔の鉢植《はちう》えが目に泛《うか》んだ。  瑤子が可愛がっていたあの鉢植えの苔は、ひょっとすると、これから訪ねる北園家でわけてもらった苔なのではないだろうか……。可愛がってくれるおじいちゃんからもらった苔……。  邦彦は苔のことが気になりはじめた。おとといの夜、帰らぬ瑤子を待ちながらうろうろと家の中の異常を調べたとき、あの苔だけがいつもの場所になかったのだ。苔を植えた浅い鉢は、空《から》にされて勝手口のそばに置いてあった。  瑤子はあの苔を持って出たのではないだろうか……。邦彦はそう考えると絶望に近い感情にとらえられた。仮定に仮定を重ねたことではあるが、その苔が北園延弘からもらったものだとして、家を出る瑤子が苔を持って行ったとすれば、行先は北園家ではあり得ないことになるのだ。日吉のわが家にもいられず、京都の北園家にも行けぬからこそ、大事な苔を持って出たことになるはずである。そして更に、あの苔がそれ程瑤子にとって大切なものだったとすれば、相当長期にわたって日吉の家へは戻らないことを意味してしまう。持ち歩いて世話をしなければならないほど長期間……というわけである。  だが、いったい苔をどうすると言うのだろうか。  邦彦はかすかに首を振って苔のことを頭から追い出した。祖父に当たる北園延弘の家が苔寺の近くにあるのなら、瑤子が大事にしていた苔の鉢は、その祖父からもらった物である可能性は大きい。しかし、家を出るとき瑤子が苔を持って行ったかどうかは、余りはっきりしていないのだ。あの朝、すでに苔の鉢は空けられ、玄関の下駄箱の上になかったかも知れないのである。それどころか、何日も前に玄関から姿を消していて、邦彦がそれに気付かなかっただけなのかも知れない。  苔と妻の失踪を結びつければ、嫌《いや》でも不吉な方向へ事態が移ってしまう。だから邦彦はその考えを捨てることにきめた。 「その先が西芳寺です」  運転手が小さな川ぞいの道で車のスピードを落しながら言った。 「お待ちしますか」  邦彦を観光客だと思ったらしかった。 「いや、いい」  そう答えると運転手は、西芳寺の総門がある橋の近くで車をとめた。 「このあたりは詳しいかね」  料金を払いながら邦彦が訊《き》くと、運転手はすまなそうな微笑を泛《うか》べ、 「余りよく知らないのです」  と答えた。  車を降り、ドアがしまる。タクシーは砂利の音をさせて駐車場へバックして行き、方向を変えて、やって来たほうへ走り去った。  邦彦はなんと言うことなしに歩き出しながら、久衛からもらったメモをとり出して番地をたしかめた。その小さな川は西芳寺川という名らしく、北園家は川ぞいに進んで行ったあたりにあるようだった。  付近の様子は、どうやら久衛の知っている頃とそう大きな変化はないようであった。久衛の書いた大ざっぱな地図の通りに進んで行くと、結局広大な西芳寺の外側を西側から北へまわり込むかたちになり、寺の真裏に当たると思われるあたりで北園の名を尋ねると、やっとその家の所在が知れた。  多分そこは嵐山《あらしやま》の南に当たるのだろう。北園家はゆるい斜面の広い敷地の中に、黒光りする瓦《かわら》を僅《わず》かにのぞかせた、ひどく古びた、そして意外に小ぢんまりとした家であった。  門のようなものは見当たらず、手入れの行き届いた生垣《いけがき》の切れ目に、枝折戸《しおりど》のような入口があった。案内を乞うには建物の位置が深すぎるし、呼鈴の釦《ボタン》のようなものも見当たらなかった。  邦彦はためらいながらその枝折戸をあけ、庭の中へ入った。  庭いちめんに、びっしり緑の絨緞《じゆうたん》が敷きつめてあった。いや、絨緞と見紛《みまが》うばかりに、見事に苔が密生しているのだった。その苔の庭の隅々《すみずみ》に、寒椿《かんつばき》の赤が鮮やかに目に映った。 「ごめんください」  黒ずんだ格子戸の前でそう声をあげると、思いがけない近さで嗄《しわが》れた声がした。 「どなたかな……」  左手に和服姿の老人が、花鋏《はなばさみ》を持って立っていた。 「北園さんでいらっしゃいますか」  茶色い裁《た》っ着《つ》けをはいた老人は、無表情で邦彦をみつめている。 「東京から参りました野川と言う者ですが」 「瑤子のご亭主か」 「はい」 「よう見えた。入りなさい」  老人はそう言うと格子戸をあけ、中へ入った。多分そこが玄関なのだろうが、若い女のいる気配はまったく感じられなかった。  夜は真珠色に光って     1  その家は何もかも小ぶりにこしらえてあるような感じであった。しかし、それでいて柱などは充分に太く、やや薄暗いが重厚な雰囲気《ふんいき》をかもし出している。  室内には、良質の香の匂《にお》いが隅々まで深くしみ込んでいるようだった。その匂いはたとえかすかであっても、新幹線とタクシーを乗り継いでやって来た邦彦には、全身の肌《はだ》へしみとおるようにはっきりと感じられるのであった。  瑤子の祖父に当たるという北園延弘は、長い沈黙の中で茶を点《た》てていた。邦彦をこの家へ請《しよう》じ入れてから、まだひとことも口をきいていなかった。その部屋のその場所へ邦彦を坐《すわ》らせて、長い間姿を見せなかった。そう広くはない家なのに、老人が立ち動く物音はまったく聞こえてこず、邦彦は予想もしなかった深い静けさの中に身を沈めることになった。  その部屋は茶室として作られたものではないようであった。すべてが古びて何やら禅味が漂《ただよ》う質素な造りであるし、たしかに炉は切ってあったが、炉に置かれているのは茶釜《ちやがま》ではなくて、武骨な感じの鉄瓶《てつびん》であった。  鉄瓶は小さな炉の中へ埋もれたような恰好《かつこう》で置かれ、はじめは炉に火が入っているとも感じられなかったが、やがていつの間にか白く薄い湯気を口から噴きはじめていた。それが室床《むろどこ》と言うのだろうか。三方の壁や天井が土壁の小さな床が、炉の向こうにあり、隅々の土壁が古びて白く変色している。  邦彦はそこで、鉄瓶の湯が沸ききるまで老人を待っていたことになる。新横浜駅を出るときには妻を追い求めて気負い立っていたが、京都までの間にその気分はやや納まっていた。しかし、波立つ心は抑えようもなく、北園家を見つけた時には一気に相手を質問ぜめにして瑤子の行方を訊《き》き出さずにはいられない心境になっていたのである。  それが、京都市内だというのに、山深い林の中にいるような静けさの中に置き放されてしまった。沸きたって鳴る鉄瓶の音と共に、邦彦の心には普段味わったことのない落着きが生まれて来た。  老人の沈黙は、まるで邦彦のそうした落着きを生み出そうとしているかのようであった。茶道具を持って音もなく姿を現わし、目礼というには無表情すぎる一瞥《いちべつ》を邦彦に与えたきり炉を前にして坐ると、客の存在をまったく感じていないような超然とした態度で茶を点てはじめたのである。  なぜか、邦彦も、老人の無造作な手の動きを目で追ったまま、語りかけようとはしなかった。  この家へ入って以後の深い沈黙に、何か言いようのない安らぎを感じていたからであった。  それにしても、茶の作法のなかに、そんなやりかたが果してあるものかどうか、邦彦には見当もつかなかった。老人はひょっとすると、すべての流儀や作法を無視して、まったく自分勝手に茶を愉《たの》しんでいるのかも知れなかった。  老人は裁《た》っ着《つ》けの腰の辺りに袱紗《ふくさ》らしいものをはさみこませてはいたが、それを用いる様子もなく、奈良|晒《さら》しの茶巾《ちやきん》らしいものも置いてはいたが、それに手を触れたのは、鉄瓶の蓋《ふた》を取った時だけであった。だいたい、鉄瓶を使う点前《てまえ》など、邦彦の知識にはまったくないものであった。  が、それでも茶は点てられる。老人は見るからに扱い易そうな黒楽の茶碗《ちやわん》から茶筅《ちやせん》を引くと、手もとを見もせずにその茶筅を置き、急に邦彦を凝視《ぎようし》すると肩を斜めにして茶碗を邦彦のほうへすすめた。  邦彦は一度老人の目をしっかりと受けとめたのち、茶碗に手を伸ばした。うろ憶えの知識ながら、老人が形どおりの作法を無視していることは判っていたし、自分が正しいやり方で茶を服《の》める自信もはじめからなかったから、形式ばることなく、ごく自然に体が動いて、いつの間にか茶を喫しおわり、茶碗を老人のほうへ戻していた。  その茶碗を手もとへ引いたとき、老人の目にはじめて表情らしいものが泛《うか》んだ。 「茶は好きかな」  そう問いかけている老人の顔には、何やら邦彦に対する好意らしいものが窺《うかが》えて、 「はい」  と、邦彦は思わず頷いていた。 「こういうお茶なら好きです。でも、余り服んだことはないのです」  老人の顔にはっきりと笑いが見えた。 「そうか。あの瑤子が夫に選んだのは、あなただったのか」  ひとりごとのようにそう言った。     2 「瑤子のことでお尋ねにあがりました」  邦彦は切り出した。老人は膝もとに茶碗を置くと、黙然と邦彦をみつめている。 「実は、瑤子がいなくなってしまったのです」  そう言うと老人の目がそれ、寒いのにあけ放してあった小さな障子の向こうに視線を移した。いちめんに苔《こけ》が密生した庭が見えている。 「いかんな」  老人はまたつぶやくように言った。 「僕には理由が判らないのです」  邦彦はもっと詳しく話さねばならぬと思い、いつから、どのような消え方をしているのか説明しようとしたが、言いかけてやめてしまった。邦彦の世界では、そういう説明が不可欠のものであった。いつ、どうやって失踪《しつそう》し、その後自分はどんな気持でどう行動したか。失踪する以前の夫婦の間はどんな状態であったか、など。  しかし、老人はまったく別の世界にいた。まず第一に、ここには邦彦の世界につきものの、街の音が零であった。老人は自然の中に、少し悪く表現すれば箱庭のような景色の中に生活していた。苔と言い樹木と言い、それは自然のものであるにもかかわらず、どこからどこまで人の手が行き届き、その分だけ自然が本来持っている荒々しさがなくなって、浮世ばなれした静けさと、何か邦彦の尺度とは異る尺度による調和が、その老人をとりまいているようであった。  しばらくの沈黙があったのち、邦彦は老人と同じように広い庭に目をやり、 「瑤子がここへたびたび来た理由が判るような気がします」  と言った。 「ほう、そうかね」  老人は邦彦の言葉に興味を示したようであった。 「こういう場所があると知っていれば、瑤子と一緒にお邪魔していたでしょう」 「好きかね」 「はい」  邦彦は老人とまた目を合わせた。老人の言い方はいかにもその庭にふさわしく、意味深い感じであった。庭のたたずまいと共に、瑤子という人間を好きかと尋ねていたようだ。 「信じることだ」  老人は、今度は邦彦の目をみつめてはっきりと語りかけていた。瑤子について言っているのは明らかであった。 「はい」  邦彦は何か感動のようなものを味わいながら深く頷《うなず》いた。 「あなたは祈ることがあるかな」 「祈る……」 「そうだ」  邦彦は考えた。父も母もまだ健在であった。邦彦の脳裏《のうり》に練馬の野川家の仏壇が泛《うか》んで消えた。まだ心の底から仏を念じたことはないようであった。しかし、高校や大学の入試の時など、神や仏とは違った、漠然《ばくぜん》とした何かに強く祈った憶《おぼ》えがあった。 「あります」  老人はかすかに頷いた。 「信じることは祈ることだと思う」  再びつぶやくように老人は言った。 「人の苦しみは信じることで耐えられる。信じることを形にあらわせば祈る姿となる」  邦彦は黙って老人の目を見ていた。 「あなたはあなたを信じればよい」  老人は意外な方角へ話を移動させた。 「瑤子を信じるなら自分をも信じることだな。あの子が姿を消したのなら、あの子の為に祈ってやることだ。それが自分を信ずることにもなる」 「よくお話が判りません」  邦彦は詫《わ》びるように言った。 「理由がなくて妻が夫の前から姿を消すわけがない」 「ですから、その理由を知りたくてここへ伺ったのです」 「理由を知りたければ自分で探《さが》しなさい。あなたはあの子を信じたのだろう」 「はい。でも……」 「妻を追うのもあなたのさだめかも知れん。あなたの仕事かも知れん」 「ここへ来ませんでしたか」 「ゆうべ泊って行った」 「ゆうべですか」 「そうだ。だが、あの子はいつも通り何も言わなかった。祖父と孫という間柄だが、あの子と儂《わし》はそのような関係でもある。互いに顔を見せ合い、しばらくそばにたたずんで、また去って行く……」 「でも、今度は特別の筈《はず》です。何か言い残しませんでしたか」  老人はゆっくり頭を左右に振った。 「行先も言わん、なぜ来たかも言わん。一日この庭や近くを歩きまわって、この家に泊って行っただけだ。しかし儂には判っている。何があろうと、あなたとあの子が仲たがいしたわけはない。それはさっきあなたの顔を見て判った。あなたに判らんとすれば、あの子が姿を隠した理由はあの子だけの問題であった筈だ」 「でも、夫婦なのです。僕に説明してくれてもいいじゃありませんか」  邦彦は目の前に瑤子がいるかのように、老人に向かってなじるように言った。 「言えなかったのかも知れん。だが信じてやって欲しいものだ。あの子は決してあなたに悪意を持っているわけではない筈だからな」 「それはそうですが」  邦彦は言い、ふとうろたえた。 「瑤子は僕にも言えない悩みごとを持っていたとおっしゃるのですか」  その時、老人はすっと立ちあがった。     3  客らしかった。老人は気配でそれを察したのだろう。邦彦は昨夜この家に泊った瑤子がまた戻ったのではあるまいかと緊張し、そっと様子を窺《うかが》ったが、どうやら違うようであった。  客は男の二人連れらしかった。案内を乞《こ》われる前に老人のほうが出て行ったようで、老人のほうが先に声を発していた。 「先日|西芳寺《さいほうじ》さんから紹介のあったお方ですな」  相手の声はいやに低くボソボソした感じで、内容は聞きとれなかった。 「どうぞご自由にごらんください」  どうやら家へは入れず、庭へ廻って行くようであった。 「家の中におりますが、お帰りにも声をおかけくださる必要はありません」  老人はひどく素っ気なく言い、二人連れを庭へ案内するとすぐ戻って来た。 「苔を見に来たのだ」  老人は部屋へ入るときそう言い、元の座につくと黙って茶を点《た》てはじめた。 「ほう、外人のようですね」  邦彦は庭を歩く二人連れのうしろ姿を見て言った。 「外国語は喋《しやべ》れんし、外国人は好かん」  老人は客に示したのと同じように、素っ気ない態度でそう言った。茶を点て、自分で服《の》む。それはまるで、嫌《きら》いな外国人に会ったあとの口なおしをしているように思えた。  庭の外人はひどく背が高かった。艶《つや》のある黒いコートを着ていて、連れの日本人は日本人としても標準より背が低いようだったから、対照的すぎて少し滑稽《こつけい》な感じがしていた。 「そう言えば瑤子は苔を鉢植えにして可愛がっていました」  邦彦はふと思いついたように言い、同時に少しうしろめたさを味わったようであった。  本当に何気なく口を出た言葉ではあったが、その何気なさが老人を引っかけようとしているようで気になったのだ。  それほど老人には公明正大な感じが強く、駆け引きや小細工などをしかけると、しかけたほうが慚《は》じてしまわねばならぬようなところがあったのである。 「苔をかね」  老人は眉《まゆ》を寄せた。 「はい。水盤と言うんでしょうか。平べったい花器に土をいれまして」 「苔をか。いつからかね」 「結婚する時、もう育てていたようです」  老人は感心したような声を出し、すぐそれを打消すように言った。 「東京あたりではいい苔が育たんからな。東京で育つのはゼニゴケのたぐいくらいだ」 「瑤子の苔はこちらで分けていただいたものではないのですか」 「いや」  老人ははっきりと首を振って否定した。 「こちらに伺ってふと気付いたのですが、瑤子は何か苔のようなものに……」  邦彦は先を言い澱《よど》んだ。瑤子の失踪と苔の間に何かつながりがあるのではないかと言おうとしたのだ。しかし、口に出して見れば、それは余りにも飛躍した考えであった。 「苔と……」  老人はそれでも邦彦の言おうとすることを察したようである。 「いや、ただ瑤子が家を出るとき、どうも可愛がっていた苔を捨てて行ったような気がするものですから」  邦彦は弁解するようにあわてて言った。 「ここや西芳寺の苔を見て、自分でも育てて見ようとしたのだろう」  老人は微笑して言った。 「西芳寺は苔の寺として、日本ばかりではなく、今では世界中に知られている。モス・ガーデンと言ってな」 「ほう、そうですか」  老人は障子の外へ顎《あご》をしゃくって見せた。 「そこらにびっしりとはえているのはオオスギゴケだが、外国人の中には芝を植えるより余程いいと言って、これを自分の国で育てている者もいるらしい。しかし、育てるのはむずかしい。このあたりでよく苔が育つのは、京都という土地が苔に適しているからなのだ。京都盆地の空気は湿気が多いのでな。大阪でこういう庭を作ろうと思ってもうまく行かん」 「大阪でもですか」 「夏の乾燥期にみな参ってしまう。スギゴケのたぐいは湿気を好むくせに排水が悪いとすぐ腐ってしまうのだ。だから、鉢植えにしてもたいてい二年くらいで駄目《だめ》にしてしまう。まして関東は霜が立つからな。霜で根を浮かされたらそれきりなのだ」  老人は苔のことになると少し多弁になるようであった。     4  苔《こけ》といっても種類が多い。たとえば、スギゴケ類ひとつ取っても、日本に一千種以上も生育していると言う。  従来、コケの仲間は蘚苔類《せんたいるい》と呼ばれ、蘚類と苔類に大別されていた。蘚類はスギゴケの仲間、苔類はゼニゴケの仲間である。  だが近頃《ちかごろ》は研究が進み、スギゴケ、クロゴケ、ミズゴケ、ゼニゴケ、の四つに大別されていて、その四つが更に分類されることになる。  スギゴケは最も種類の多いコケで、茎と葉が分化している。クロゴケは高山の岩に生え、まだ二種類しか知られていない。ミズゴケは寒い地方の湿原に群生する大型のコケで、苗木を包んだりランを植込むのに利用されている。種類は二十あまり。  ゼニゴケは茎と葉が分化していなくて、日本に数百種あることが判《わか》っている。  いずれにせよ、苔寺の庭のように観賞される上には、ゼニゴケは造園上悪いコケとされ、最も美しいのはオオスギゴケとされている。コケを熱帯産のように思っている者も多いが、元来は高地に産するものだから寒さに強く、常緑であって四季その美しさに変化がないから、近頃しだいに愛好者が増えていると言うことである。  北園延弘は見事な苔の庭を所有するだけあって、苔の話になると急に熱心になった。  多分瑤子もその祖父の感化を受けて、自分で苔を育てて見る気になったのであろう。  が、老人から苔の話を聞いているうちに、邦彦は自分の心に焦燥《しようそう》感が湧《わ》きあがって来るのを抑えられなかった。  多分瑤子はこの家へ来て、老人と苔の話をしたのだろう。何か心の安らぎを求めてここへ来たには違いないが、老人の与えてくれる安らぎは、彼女の本質的な悩みを解決してくれるものではなかったようだ。  その朝、瑤子はどんな思いで祖父のもとから去ったのであろうか。祖父にも父にも夫にも頼れず、重い荷を背負ってどこかへ去った瑤子のことを考えると、のん気に苔の講釈など聞いてはいられない気分になるのだった。  外人と日本人の二人連れは、老人に言われたとおり声もかけずにひっそりと帰って行ったようである。ふと気付くと障子の外がすっかり薄暗くなっていた。  邦彦は老人に別れを告げた。暗い家を出て、枝折戸《しおりど》のような小さな入口から外の道へ踏み出した邦彦は、自分の過した時間の虚《むな》しさに気が滅入るようであった。  所詮《しよせん》は違う世界の住人だった。  失望の中で思ったことがそれだった。老人……北園延弘は、自分の苦しみや瑤子の悩みには程遠い人間だったと思った。下って行く薄暗い小径《こみち》で一度迷いかけ、なんとかタクシーを降りた道へ戻れたものの、邦彦は心細さをつのらせていた。  いったい、再び瑤子にめぐり会えるのだろうか。あの柔らかい体をまた抱きしめることができるのだろうか。  それにしても、瑤子はなぜ自分の背負ったものを、父にも祖父にも夫にも、打ち明けようとはしないのだろうか。自分は夫として、それほど頼り甲斐《がい》のない存在だったのだろうか。  そして、これからどこへ探しに行けばいいと言うのだ。……邦彦は途方に暮れる思いであった。  苔寺。  邦彦はふと心の中で舌打ちするように道の左側を眺《なが》めた。小さな川の向こうに西芳寺の総門があり、薄暗い中に禅宗洪隠山西芳禅寺と言う白い文字が泛《うか》んで見えていた。  川に木橋がかかり、中央に車止めの高札が立ててある。門はまだ開いていて、中に白い塀《へい》が見えている。  きのう瑤子がここへ来たのだ。……そう思ったとたん、邦彦の足は誘われたように橋を渡りはじめていた。鴉《からす》の啼《な》く声がひと声きり、かなり遠くで聞こえた。  総門をくぐると、今やって来た道を逆行するかたちで、白い塀ぞいに歩くことになった。  塀は高く、脇道《わきみち》はなかった。ひと気もなく、参観の刻限はとうに過ぎているようだった。  が、邦彦は行手をさえぎるもののないまま、奥へ進み続けた。すると、突き当たりに小さな料金所の小屋のような建物があった。  もう庭内へ入ることができないことは判り切っていたが、邦彦はとにかくその料金所のところまで行って見た。  白い土塀が尽きて、そのあたりから小径をめぐらせた苔庭の一部が眺められた。  もう暗くて木立の下の苔の色も見定め難かったが、踵《きびす》を返して戻ろうとした邦彦が急に足をとめたのは、妙に差のありすぎる二つの人影に気付いたからであった。  あの二人連れだ。  邦彦はそう直感した。北園家の庭を見に来たノッポとチビの二人連れに違いなかった。  こんな遅くに何をしているのだろう。  邦彦は苔寺の中の二人を凝視《ぎようし》した。老人がその二人に向かって、西芳寺の紹介とか言っていたから、何か特別のはからいでこんな時間に庭へ入れてもらっているのだろうが、何かしらその二人の影には不吉なものが感じられるのであった。  その理由は、二人の姿勢にあった。彼らは互いに立ったり膝《ひざ》を折ってしゃがみ込んだりしているが、それがどことなく刑事の現場検証のような感じを漂《ただよ》わせていたのである。  二人連れ、というせいもあるのだろうし、テレビの刑事ものなどで、俳優のそういう演技を見なれすぎていたせいもあろう。どちらにせよ、邦彦にはそれが苔の観賞などという優雅なものには感じられず、何かギスギスとした、非常に事務的な動作に思えたのである。     5  いったい、あそこで何をしているのだろうか……。邦彦は相手に悟られぬよう、少し体の位置を変え、木立にかくれるようにして眺め続けた。  と、二人が急に位置を入れ替えた。しきりに地面を見て議論しているようなのだが、二人が入れ替ったとき、何か光るものが見えたようであった。  懐中電灯でも使っているのか……。  邦彦は一瞬そう思い、納得しかけた。苔を観賞に来て、二人のうちのどちらかが落し物をしたのかも知れないのだ。それだったら、時間外に庭へ入れてもらうこともできようし、ギスギスした雰囲気《ふんいき》も理解できる。しかし、次にまた二人が体の位置を動かしたとき、さっきの光が懐中電灯のものなどではなかったことがはっきりとした。  なぜなら、その光は冷たい真珠色をしていたのだ。しかも光源は決して人間の手もとになどなく、地中に埋まっているようなのである。  この寺の僧が三人ほど、ノッポとチビのほうへ近寄って行った。 「いや、光る苔というのは聞いたことがありますが……」  僧の一人が声高にそんなことを言っていた。 「ヒカリゴケでしょう、それは」  もう一人の僧が答える。  光源は地中に埋まっているのではなく、苔そのものが真珠色の光を放っているらしい。  背の高い外人が、興奮したような早口で何かまくしたてている。チビがそれに何か答え、また外人がまくしたてる。  とにかく、苔寺の苔の一部が真珠色に光りはじめているのだ。そしてそれは、苔寺の僧にとっても奇異な現象であるらしい。 「ゆうべは気づきませんでした」  多分僧の声だろう。 「いったいいつから……」  ふしぎがっている。 「もしもし」  邦彦はギクリとして振り返った。 「何かご用ですか」  若い僧が薄暗い中で悪意のない表情を邦彦に向けていた。 「いや、折角近くまで来たのだから間に合うかと思いまして」  邦彦はガラス窓をしめた料金所を顔で示しながら答えた。 「それはどうも申しわけありません。でも、もうとうに閉ってしまいました。明日おいでください」 「ええ、もうすっかり暗くなってしまいましたね」  邦彦は苦笑するように言い、ノッポとチビと三人の僧がいるほうを指さした。 「何か、苔が光っているようですが……」 「え……あの……」  若い僧は笑顔になり、 「何の拍子か、新しい苔が生まれたようなのです」  と言った。 「それは結構なことです。新しい苔を見に、また見物が押しかけることでしょう」  邦彦は若い僧が中へ入れてくれはすまいかと期待していたが、寺の外へ使いにでも行くところだったらしく、促すように総門のほうへ歩き出されてしまった。  仕方なくそれについて行く。 「外人のようでしたね」 「ええ」  若い僧は屈託がない。 「このお寺のお知り合いですか」 「ファンなのですよ」  僧は軽く笑って見せた。 「ファン……」 「ええ。アマチュアの苔の研究家です。愛好家、と言うのが正しいかな」 「ほう。苔の愛好家が近頃多くなったそうですが、外人まで……」 「そうなのです。だいぶ以前から、日本にもミタイカイというのができていますよ」 「ミタイカイ……」 「美しい苔の会と書きますから、本当はビタイカイと読むのでしょうが、会いたい見たいに引っかけて、ミタイカイと洒落《しやれ》て読むのが正しいのだそうで」 「美苔会ですか」 「このお寺は何しろ苔寺ですから、そういう苔の好きな人たちの中心のような場所になってしまうのです。もっとも、オオスギゴケばかりを好む人たちは、この京都でも、円通寺さんとか、東福寺さんとか、三千院さんとか、そちらのほうを褒《ほ》めるかたも多いのですけれど」  若い僧は総門までの間に、苔について邦彦の知らなかったことを、かなりの早口で教えてくれた。  やはり瑤子の失踪《しつそう》は苔に関係があるのでは……。邦彦の心にまたそんな疑いが首をもちあげて来たが、たしかにそうだと思える証拠は何もなかった。  ただ、美苔会という三文字を、邦彦は心にしっかりと焼きつけただけであった。  冬の夜は早かった。若い僧と別れた邦彦は、どうやってホテルへ向かうかという心づもりもなく、深まる京都の闇《やみ》の中を一人で歩き続けた。  ネオンのともるあたりへ自分を連れ込むのが何となく嫌《いや》だった。そこでは、またあの喧噪《けんそう》にまき込まれ、瑤子への思いを跡絶えがちにさせねばならないのだ。  瑤子……。  ひっそりとした暗い道に、瑤子の白い優しい顔が泛ぶように思った。そしてその白いおもかげを、いつの間にか真珠色に感じはじめるのであった。  苔だとしよう。  邦彦は瑤子の失踪の理由をそう仮定して見た。  苔だとして、いったい苔のような植物が、瑤子にどのような重荷を背負わせ得るのか。  ……そんなことはあり得ない。苔はたしか植物の中でもとりわけ原始的なもので、下等な植物ではないか。  苔ではない。  邦彦は立てたばかりの仮定を一気に崩《くず》した。だが、そのあとには深い底知れぬ穴が残るばかりであった。まず理由を探し当てぬ限り、瑤子の行方は判らないだろう。理由を探り当てれば、彼女のいそうな方角もおのずと知れるのだ。  邦彦はその夜、歩き続けた。タクシーの空車もたくさん見たが、手をあげてそれを停《と》めようとはしなかった。ただひたすら、トボトボと歩き続け、無益な疲れを自分に与えることで、得体の知れぬ瑤子の重荷をわかち合おうとしていた。  足を引きずってホテルにたどりつき、フロントでキーを受取ったとき、邦彦はふと、背にして来た西芳寺の庭で、一群の苔がまだ真珠色に光り続けていることに気付いた。そして、その真珠色の光が、なぜか瑤子の背負った重荷の象徴であるように感じるのであった。  絵の中の風も冷たく     1  瑤子《ようこ》を探《さが》す手がかりさえあれば、邦彦《くにひこ》は少くとも日曜日の夕方まで、京都にいるつもりであった。  しかし、期待して会った北園延弘からは、何ひとつ手がかりらしいものは聞き出せなかった。ただ、ゆうべその家へ泊ったということだけであった。  邦彦は翌朝早めに食事をすませると、フロントのカウンターのそばにある観光案内の札を置いたデスクへ行って、そこに坐《すわ》っている初老の男に質問した。 「京都の苔《こけ》の名所というと、苔寺のほかにどんな所があるのですか」  相手は意表を衝《つ》かれたように邦彦の顔をまじまじとみつめた。 「苔……ですか」 「ええ」 「苔寺のほかにと言いますと」  初老の男は考え込んだ。 「苔見物の観光客と言うのは多くはないのですか」 「はあ」  男は詫《わ》びるように頷《うなず》き、 「余りお聞きしませんので」  と微笑した。 「そうですね、円通寺のお庭は見事な苔が生えておりますよ」  円通寺のことは昨夜西芳寺で若い僧から聞いていた。 「円通寺でしたら、駅前からバスで……深泥《みぞろ》が池《いけ》行きのバスです」  邦彦はポケットから手帖を取り出していた。 「円通寺、東福寺、三千院……ほかにご存知ありませんか」  一応行って見る気でメモをして置いたのだ。 「そうですな」  男は手を頭にやった。 「苔寺の近くの地蔵院はおいでになりましたか」  邦彦は頭を横に振った。 「竹の寺ということになっておりますが、苔が少しあったようです」  余り尋ねられたこともないのだろう。初老の案内係は思い出し思い出し答えた。 「御寺《みてら》さん……ええ、東山の泉涌寺《せんにゆうじ》にも苔の生えた庭があったような気がします。そうそう、あなた、金閣のある鹿苑寺《ろくおんじ》の庭にも生えていますし、等持院の庭にもありますな。修学院、銀閣の慈照寺、それに退蔵院。まだあります」  さすが案内係の席についているだけに、思い出し始めると男の知識はなかなかのものであった。 「あなた、桂離宮の庭にもなかなか見事な苔が生えておりますし、竜源院を忘れてはいけませんな。黄梅院、真珠庵……大徳寺の塔頭《たつちゆう》はみな美しい苔の庭を持っておりますな。ですから、大徳寺へおいでになることです。それから南禅寺ですな。それから曼殊院《まんしゆいん》。こりゃいかん」  男は嘆息した。 「きりがありませんよ。苔だらけです」  邦彦は案内係が並べたてる庭園を次々にメモした。そして案内係の前に積んである京都市内の略図を一枚もらうと、メモした庭園の位置を赤い丸で記して行った。 「なるほど、苔を見にまわるというコースの作り方もあるわけですな」  案内係は感激したように言い、 「いや有難うございました。勉強になりました」  と逆に邦彦へ礼を言う始末であった。だが邦彦は気落ちしていた。京都にこれだけ美しい苔を持った庭園が多いと、そこで瑤子と行き会える確率は、偶然に頼るにせよ余りにも頼りないものであった。  だがとにかく、その日は土曜日で、このままむなしく東京へ戻るわけには行かなかった。邦彦はタクシーを借り切りにして、ホテルを離れた。苔の庭をめぐることになったその日は、空が高く澄み、かなり強い北風が吹いていた。     2  会えるわけはなかった。古びた寺から寺をいくらめぐっても、瑤子に似た女すら見かけることはなかった。  苔。そんな頼りない手がかりしかないことが情なく、邦彦はその土曜日も打ちひしがれた思いでホテルへ戻った。  日曜日、ホテルのあたりはにぎやかに人々が行き交《か》っていた。邦彦はその平和な雰囲気《ふんいき》に居たたまれぬ思いになり、昼少し前にホテルを引き払った。なぜか、空けたままにしてある我が家が気になって来たのだ。  もう家に帰っているかも知れない。  我ながら子供っぽい感じ方であったが、そんな気がしてならなかった。言い争いひとつしなかった妻が、突然無断で家を出て何日も戻らぬ以上、尋常な事態ではなく、そうあっさりと家へ帰る筈《はず》もないことは判っていたが、すでに瑤子が家へ戻っており、明日からまたあの甘く平和な生活が続けられるのではないかという、安易な僥倖《ぎようこう》を願う心が強かったのだ。  京都駅の構内へ入り、新幹線の切符売場に近づくと、何やらそのあたりが騒がしい感じであった。それでも追い立てられるように次のひかり号の切符を買った邦彦は、改札口を入ってからあたりが少し騒然としていた理由を悟った。  一時間ほど前、関東から伊豆《いず》にかけての一帯に軽い地震があり、その為列車が自動的にとまって、少しダイヤが乱れているのだった。  次の列車は十二分ほど遅れるようであったが、邦彦は別に気にしなかった。列車を待つこと、乗って東京に向かうこと……次の行動予定さえはっきりしていればそれで少しは気が紛《まぎ》れるのである。  実際のところ、東京へ戻ってから何をするべきか、邦彦にはまるで判っていなかった。瑤子の父の久衛に電話しなければいけないということくらいしか思い浮ばないのだ。  邦彦は自分が広い人間の海に、突然一人ぼっちで放り込まれたように感じていた。誰《だれ》に会い、どう尋ねたらいいのだろうか……。  列車が来た。駅のアナウンスがくどいほど時間の遅れを告げている中でドアがあき、邦彦は一番先に乗り込んだ。幸い席はかなり空いていて、自由席であったにもかかわらず、海側の窓際の席へ坐ることができた。  その席へ落ちついたとたん、列車は動きはじめたが、それから先の走り具合はやはりいつものひかり号とは少し違っているようであった。  ことに名古屋《なごや》を過ぎてからは、ときどき極端に減速し、豊橋《とよはし》を通過するときなどは徐行運転に近かった。 「近頃では新幹線もダイヤ通りにはなかなか走ってくれませんね」  名古屋からとなりの席に坐った中年男が、気易《きやす》げにそう話しかけて来たが、邦彦は短く答えただけで、また堅い表情を窓へ向けるのであった。  男。  そうしてなすこともなく坐っていると、自然に浮んで来るのはそのことであった。  そんなことが起るわけがない。  邦彦は必死の思いで瑤子がほかの男と並んで歩いている情景を心の中から追い出した。しかし、心の奥底には嫉妬《しつと》の火がか細いながらくすぶっているのが判るのだ。苦しかった。  信じることは祈ることだと思う。  ふと老人の声がよみがえった。北園延弘はそう言っていた。  信じることで耐えられる。  邦彦は一層強くその声を思い起していた。あの老人はこのことを言っていたらしいと思った。仮定の上に立つ嫉妬にせよ、それは苦しいことであった。嫉妬の苦痛を消すには相手を心から信ずるよりなさそうである。  自分を信じろ、と老人は言った。相手を信ずると同時に、相手が裏切ることのない自分を信ずるのだ。邦彦は過去を振り返って見た。どこかに瑤子の不信を買う行為があっただろうか。瑤子に不幸を感じさせるものが自分にあっただろうか。  日記を綴《つづ》るように、瑤子との日々が甦《よみがえ》って来た。回想をおえたとき、邦彦は息を深く吸い、胸を張った。  ない。瑤子に裏切られるようなことは自分は何もしていない。  邦彦は確信をもってそう思い、そう思える自分を少しはしあわせに感じるのだった。やはり瑤子を信ずるしかないのだ。信じていればいいのだ。  体だけは大切にな。  窓の外の遠い空に向けて、邦彦はそう祈った。どんな理由で家を出たのか知らないが、とにかく元気でいてくれと祈ったのである。  下り線の列車が来てその窓の視界をしばらく奪った。そしてそのあわただしいすれ違いがおわったとき、邦彦はまた老人の声を思い出していた。  あの子の為に祈ってやれ。それが自分を信ずることにもなる。  老人はたしかにそう言っていた。そして今、邦彦は老人に言われたとおりのことをしてしまっていた。 「北園延弘」  邦彦は低く声に出して言って見た。今回のことで、あの老人は自分が頼れる唯一の杖《つえ》のような気がしたのだ。  列車は速度を早めたり落したりしながら東京に近付いていた。地震の為、東京までの間に何本もの列車が互いの間隔を調整しながら走っているらしい。  それでも静岡《しずおか》を過ぎると、ようやく一定の速度で走りはじめ、箱根《はこね》を越えたあたりでまた少し減速したようだった。  邦彦は京都以来、ほとんど身じろぎもせず窓に顔を向けていたが、小田原《おだわら》に近づくと少し気をゆるめ、煙草をとり出して咥《くわ》えた。  火をつけるため目を伏せ、ふとその目をあげたとき、列車はちょうど小田原駅を通過しようとしていた。  下りも同じようにダイヤが乱れているのだろうか。向う側のホームにいつもより人の姿が多いように思えた。  あ……。  邦彦は咥えた煙草を無意識に素早く左手で抜き取り、窓ガラスへ額を押しつけるようにした。  ひかり号にしては比較的ゆっくりと通過する小田原駅のホームに、薄茶のコートを着た女の姿があったのだ。  華奢《きやしや》な体つきだが、何となく清潔な華《はな》やかさを漂《ただよ》わせている。  瑤子……。  邦彦は食い入るようにみつめたが、遅いと言ってもそれは普段とくらべてはということで、ひかり号はすぐ駅を通過してしまった。  はっきりしなかった。ホームにいたのが果して瑤子だったのか、それともよく似た他人だったのか……。薄茶のコートを着て、体つきもだいたい瑤子ほどだったから、そんな気がしてしまっただけなのかも知れない。邦彦は左手の指にいつの間にか煙草をはさんでいたのに気付き、じっとそれをみつめた。  すると意外なことに、波立っていた邦彦の心は急速に安らいで、焦燥《しようそう》も不安も嘘《うそ》のように消えてしまった。  邦彦は目をとじた。今のが瑤子であろうとなかろうと、自分は彼女を信じ続けるだけだ。平穏な心の中でそうつぶやいていた。  ゆったりと座席に坐り、頭を背もたれに預けて、邦彦は妻の俤《おもかげ》を偲《しの》びながら小田原を遠のいて行った。     3  瑤子は小田原駅のホームで、上りのひかり号が去って行くのを見送った。  薄茶色のコートを着て、悲しげな顔をしていた。  瑤子は今の列車に自分の夫が乗っていたことを知っているのだ。列車が通過するほんの少し前、そのことに気付いた。  あの人は私を探《さが》しに京都へ行ったのだ。  気付いた瞬間そう思った。北園延弘に会って来たことは確実であった。突然の家出を詫《わ》びたい気持が胸に溢《あふ》れるようだった。  列車は風を巻き起してホームへ突っ込んで来た。瑤子は夫がその列車に乗っていることを気付いた時の位置を動かずにいた。自分がそこにいることに気付けばよし、また気付かなければそれでも構わないと思った。  突然、夫の心が強く波立ったのを感じた。自分を見たのだ。瑤子はそう思いながら、なおも身じろぎもしなかった。  この世の男と女は、みなそういう風にすれ違っているのだ。特別なことをしてはならない。  瑤子の心には、その時強い悔いがあった。あやまちを繰り返してはならなかった。  しかし、夫の心は余りにも悲しげに波立ち騒いでいた。  あなた、許して。それ以上探さないで。  瑤子は夫にそう告げたかった。しかしそれは辛うじて自制することができた。そのかわり、夫の波立つ心をできるだけ優《やさ》しくしずめてやったのだ。  間もなく下りの列車がやって来る。  瑤子は意味もなく腕時計を見た。その列車に乗るべきかどうか、迷っているのだ。どこへ行くというあてもなかった。  が、急に警戒心が戻った。瑤子はホームに立つ人々の姿を、それとなく見まわした。たった今、してはならないことをしてしまったのだ。走り過ぎる列車の中の夫の心へ、常人にはない不可視のものを送りつけてしまったのである。  気付かれただろうか。  瑤子は不安に襲われた。以前なら、自分に注意している人間がいれば、苦もなくそれを探し出すことができた。しかし今はそれも出来ない。追われる身が迂闊《うかつ》にそんなことをすれば、どんなことになるか見当もつかなかった。  瑤子は靴《くつ》の踵《かかと》を小さく鳴らしてさりげなく階段に向かった。今のことに気付いた者がいれば、必ず追って来る筈であった。瑤子は階段に近付くと、急に足を早めて駆けおりた。  誰も追って来る様子はない。  瑤子はコートの襟《えり》を立て、白い顔を隠すようにして改札口を出ると、人ごみに紛《まぎ》れ込んだ。     4 「いったいどうなっているんだ」  月曜日の昼、東日機材の本社があるビルの一階の喫茶店で、新沢が眉《まゆ》を寄せて言った。 「心配かけてすまない」  邦彦はそう言って目を伏せる。 「心配するよ。してるんだよ」  新沢は何か邦彦を疑っているようなそぶりを示した。 「お前、本当に何もしなかったのか」  瑤子に辛い思いをさせたかというのだ。 「しない。誓ってもいいよ」 「変だなあ」  新沢は納得しなかった。 「女房とも話したんだが、あの瑤子さんがちょっとやそっとのことで、お前との生活を捨てて逃げ出すなんて考えられん」 「そうなんだ」  邦彦は深く頷《うなず》いた。 「何かよほどのわけがあるんだ」 「いったいどんな事情なんだ」  新沢がそう言うと、邦彦は自嘲《じちよう》するように顔をあげて唇を歪《ゆが》めた。 「俺《おれ》にも言えないことだ。君らに判ってたまるか」 「たしかに、そう言われればその通りだな」  新沢の目が穏やかになっていた。 「力になりたい」 「有難う」 「で、何をすればいい。俺はこの通り時間を持て余しているような人間だ。会社勤めでは何かと動きにくいだろう。何でも言ってくれ」 「困ったな」  邦彦は本当に困惑していた。 「君に何を頼んだらいいのか、皆目見当がつかない」  短気な新沢は何か言いかけ、ひと息吸い込んでから穏やかに言う。 「何もなしか」 「うん」 「それは困る」 「君が困ることはない」  邦彦は苦笑した。 「いや困るんだ。聖子《せいこ》に厳命されて来てる」  新沢夫人と瑤子とはとりわけ仲がよかった。邦彦と結婚してから出来た、瑤子の唯一の友達と言ってよかった。 「何か俺達の為にしないと叱《しか》られるのか」  邦彦はからかうように新沢を見た。 「そうなんだ」  新沢が頭を掻《か》いて見せる。邦彦はそんな新沢をふと羨《うらや》ましいと思った。恐妻家と人には言われても、新沢夫妻は結構円満に暮らしていた。だが自分には……。  邦彦は暗くなりかけた表情をつとめて明るくし、 「それじゃひとつ頼もうか」  と思いつくままに言った。 「何だ」  新沢は猟犬のような目で邦彦をみつめ、坐《すわ》り直した。 「美苔会というのをそれとなく調べて欲しいんだ」 「ミタイカイ……」  新沢は、邦彦がはじめてその名を聞いた時と同じように、目を丸くした。 「美しい苔の会と書く」 「美苔会か」  新沢は、画家にしてはかなりごつい指でテーブルに書いて見ている。 「苔を観賞する人たちの集まりらしい」 「お……」  新沢は更に目を輝かした。 「そう言えば、日吉のお前の家に苔《こけ》が飾ってあったな。こんな鉢《はち》に入れて」  新沢は左手で大きさを示しながら、大ざっぱな言い方をした。 「うん」 「あれはたしか、瑤子さんが育てていたんだったな」 「可愛がっていたよ」  新沢は声をひそめた。 「何かあの苔と関係あるのか」  自分で事あり気にそう言ったくせに、言いおえると急に照れたように体をのけぞらせ、 「そんなことはないよな」  と大声で笑った。 「多分そんなことはないと思う。しかし知りたいんだ」 「なぜ」 「ひょっとしたら、彼女はその美苔会という会に入っていたのかも知れないからさ」 「瑤子さんが美苔会に……」 「うん。彼女は君が今言ったあの苔を、娘時代から持っていたらしくて、俺と結婚した時に嫁入道具と一緒に持って来たんだ」 「すると、結婚前に美苔会へ入っていたかも知れんと言うんだな」 「そうだ。彼女が頼って行きそうな人物の心当たりが全くないんだから、もしそういう人物がいるとすれば、結婚前のつながりかも知れないだろう」 「美苔会というのはどこにあるんだ。……その、事務局みたいなところは」 「知らない。ただそういう会の名前だけ知っているのさ」 「こいつは骨が折れそうだ」 「苔の愛好家が増えているそうだ。花屋とか植木屋とか、そういう園芸関係のところから探《さぐ》れば案外すぐ見つかるかも知れない」 「そうか、それなら聖子が適任だ」  聖子は前衛華道をやっていて、その筋ではかなり名を知られている。 「これで叱られないですむか」  邦彦が言うと、新沢は厳しい表情になって、 「俺のことなどからかってないで、もっと自分のことを考えろ」  と言った。     5  自分のことを考えろ。  まさにその通りであった。新沢が訪ねて来た月曜日以来、邦彦は仕事の上で何かと苦境に立つようになった。  別に邦彦は、瑤子に家出をされたことを、そう仕事に反映させてはいない筈であった。むしろ妙な噂《うわさ》を立てられぬよう、態度にも出さぬよう注意したし、特に仕事の手が抜けるというようなこともなかった。  しかし、何かが微妙に変化しはじめていた。部下が妙によそよそしかったり、会議の席で提案が受け入れられなかったり、上司が彼の仕事を信頼しなかったり……。  しかし、それは決して急激な変化ではなかった。ただ、社内で邦彦の立場が、少しずつ、少しずつ厳しいものになって行くのであった。 「あまり空《から》まわりをせんように」  常務の西本からそんな注意を受けたとき、邦彦は自分をとり巻く情勢の変化にやっと気付いたようであった。  毎日妻のいない家へ戻り、一人きりの侘《わび》しい生活を続けているからだろうか。  邦彦はそんな風に考えた。今まで自分の肩先から放射していた生気のようなものが、瑤子に家出されて以来、すっかり消えてしまったような気がしたのだ。その為に、以前なら通る主張も通らないし、何かを提案してもいっこうに説得できない。部下達の信頼もいくらか失っているほうだし、そうしたことは自然上司の批判の対象にもなる。  頑張《がんば》らねばならない。  邦彦は自分にそう言い聞かせ、仕事に精を出した。  新沢は美苔会について、あれから電話で二、三度連絡をして来た。たしかに、美苔会という組織は関西を中心に存在しており、東京にもその会員がいるということだった。事務局は大阪にあり、会員数は今のところ約五百名。近頃はそれが急増する傾向にあり、海外から来た苔の愛好家を、各地の庭園などに案内して組織を国際的な規模にひろげようとしているそうであった。 「そのうち名簿を手に入れて見せる。なに、今は複写機があるから簡単さ」  新沢はそう言っていたが、それっきりでまだ連絡がなかった。 「その後、どうかね」  或《あ》る夜邦彦が帰宅して風呂《ふろ》に入ろうとしていると、津田久衛からそんな電話が掛って来た。 「相変らずです」  邦彦は沈んだ声になるのを承知しながら答えた。 「元気がないようだな」 「実は、練馬の家のほうが少し」 「お母さんか」  久衛も当惑したような声になった。 「そういつまでも押さえて置けませんしね」 「それはそうだ。で、お母さんは何と……」 「こうなったら、津田さんと一度お会いしなければならないなどと言うんですよ」 「やむを得んな。わたしも覚悟はしているさ」 「家の者にも喋《しやべ》ってしまったらしいのです」 「瑤子もいいかげんに現われてくれんと困るな」  久衛は本音を吐いたようである。何ひとつ言い残さず、理由らしい理由もないままに家を出てしまった娘を、これ以上かばう方法がないのだろう。  しかしさすがは父親で、 「とにかく、いつでもお目にかかるよ。何ならこっちから出向いてもいいんだがね。明日にでも行っていいかな」  と言った。 「ええ、そうしていただけると……」  邦彦はほっとして言った。ウィーク・デーならそのいざこざに直接巻き込まれずにすむ。 「よし、じゃあそうしよう」  邦彦は礼を言って電話を切った。  いよいよ来る所へ来てしまった。  湯に浸りながらそう思った。ひとつ、またひとつと、自分を保護する板のようなものが取り外されて行く感じであった。……何もかもうまく行かない。邦彦はそう感じ、はじめて瑤子をうらむ気になった。  が、その翌日、思わぬ方角から瑤子の情報が入った。  邦彦が自分のデスクについていると、一人の男が勝手知った様子で企画課へ入り込んで来た。 「いやあ、さすがにここは整然としていますな。おたくへ来るといつもいい気分になるんですよ。まったく、ショー・ルームを見ているようだ」  インテリア・デザイナーで佐倉《さくら》という名の男であった。デザイナーと言っても、東日機材の下請《したう》けの仕事をしているのではなく、逆に東日機材の製品を、各地のオフィスに売ってくれる立場の人間である。 「やあ、お久しぶりです」  邦彦が腰をあげると、佐倉はそれを制して勝手に近くの椅子《いす》を引き寄せ、邦彦の前へ陣取った。 「いつぞやはご馳走《ちそう》さまでした」  笑顔でいう。 「ご馳走だなんて、そうたいしたおもてなしをしたわけじゃありませんよ」 「いや、ご馳走さまだった。まったく綺麗《きれい》な奥さんだよ」  以前、瑤子と例のデートをしている時、偶然道で会って、一緒に軽い食事をしたことを言っているのだ。 「バッタリ会っちゃってね」  邦彦は居合せた部下の一人のほうを見てそう言った。 「それにしても仲のいいご夫婦さ。こっちはまるで当てられに行ったようなものさ」  佐倉は大声で笑った。 「で、美人の奥さんはお元気かな」 「おかげさまで」  すると佐倉は急に真顔になり、 「それにしてはちょっと気になったよ」  と言う。 「何がです」 「あの時からくらべると、少し窶《やつ》れたような感じだった」 「いつ家内と……」 「ほら、箱根さ」 「箱根……」 「君もいたんじゃないのか」 「いつです」 「ええと、あれは一か月くらい前になるかな。そうそう、日曜日さ。地震のあった日じゃないか」 「ああ……」  邦彦はあいまいに答えた。それなら京都から帰って来た日であった。 「町でデートはするは、休みには強羅《ごうら》あたりへ出掛けるは……まったく新婚さんそこのけだなあ」  佐倉の笑いに合わせて、邦彦も笑顔を示したが、心の中は渦《うず》を巻いていた。  小田原で見かけたのは、やはり瑤子だったらしい。……強羅……小田原。間違いないようだ。  しかし、残念なことに、佐倉とは事情を打ちあけて詳しくそのことを尋ねられるほどの関係ではなかった。佐倉は社長の縁者の一人で、打ちあければたちまち上のほうへ知れ渡ることになる。 「あのとき、家内は佐倉さんに見られてしまったんですね」 「そうだよ。何だか浮かない顔をしていたが、さては喧嘩《けんか》をしたな」 「ええ、まあ」  邦彦は無理に笑顔を作った。  遅い、もう一か月たってしまっている。  心の中でそう叫びながら、邦彦は佐倉のはじめたとりとめもない話に相槌《あいづち》を打っていた。  冬の陽ざしの中で     1  その日、邦彦は母親と日吉駅で落合った。 「よかったのかい、会社のほうは」  母の房子《ふさこ》は先に来ていて、邦彦が近付いて行くとまずそう言った。茄子紺《なすこん》の地に枯葉色の格子柄の結城紬《ゆうきつむぎ》は、邦彦にも見憶《みおぼ》えのある着物だった。 「ちゃんと時間まで社にいたよ」  邦彦は微笑して見せた。実は仕事の打合せがあって定時に退社するのはちょっと気が引けたのだが、房子と約束してしまったので無理に帰って来てしまったのだ。  邦彦と房子は黙ってバス停の列のうしろについた。狭い駅前の道へ、バスがのろのろと入って来る。 「連絡はなにもないんだね」  そのバスに乗り込んで、並んで吊革《つりかわ》につかまるとすぐ、房子はさりげない声で尋ねた。 「うん」  邦彦はそう答えたが、房子の溜息《ためいき》を聞いたような気がしていた。 「横浜のお父さんが見えてね」  津田久衛が練馬の野川家へ行って話合ったのだ。 「それで……」  久衛からは練馬へ行くと言う話を聞いていたが、その後の報告はまだ知らせて来ていない。 「安心したよ」  房子は穏やかな声で言った。バスは細い道をゆっくりと走って行く。 「何がだい」 「お前のほうに落度がないと言うことよ」 「久衛さんがそう言ったの……」 「ああ」  房子はそう言ってから、フフ……と笑った。 「何だい」 「お前にはそんなことできっこないものね」  房子は満足そうだった。  つまり、邦彦には妻を虐待したり、浮気をしたりできるわけがないと言っているのだ。  邦彦は少し不満だった。 「できるさ。やろうと思えば」  窓に顔を向けて言った。 「こっちに責任があったらどうしようかと思ってたのよ」  房子は邦彦のそういう心理にお構いなく、心そこ安心したように言った。難問の半分はもうかたづいたような言い方であった。 「いっそ、そういうことのほうが気が楽だ」  邦彦は我知らず激しい口調で言った。  房子は沈黙した。邦彦の傷ついた心に思いをめぐらせているようだった。 「次だよ」  邦彦はそう言い、房子の体をうしろから支えるようにして、揺れるバスの中をドアへ向かった。  バスがとまり、二人は降りた。バスは白い湯気のような煙を残してゆっくりと走り去って行った。 「洗濯物《せんたくもの》なんかどうしているんだい」  小児科の病院の角を曲った時、房子が言った。 「自分でやってるよ」  邦彦が答えると、 「まったくねえ」  と房子は首を振った。  狭いながら、それぞれ庭のついた家が建ち並んでいる道を、母子は元気のない足どりで歩いて行った。  キィ、と鉄パイプの門扉《もんぴ》をあけ、邦彦は玄関のドアをあけた。  房子は門扉を背に立って、家を眺めていた。 「こんなちゃんとした家に住んでいるのに」  悲しそうな顔でつぶやき、ドアをあけて待っている邦彦の前を通り抜けて家へあがった。 「ご近所はどう言っているの」 「どう、って……」  邦彦はドアをしめ、靴を脱ぎながら訊《き》いた。 「瑤子さんのことよ」 「さあね」  邦彦は淡々と答える。 「噂《うわさ》くらいしているんだろうけれど、俺《おれ》の耳には入らないから平気さ。何しろ朝出て夜帰るだけだからね。近頃は慣れたから、食料品なんかも昼休みに会社の近くで仕入れちゃう」 「都心じゃ高いでしょうに」 「少しはね」 「まったく不経済だねえ」 「ヒーターをつけてもすぐにはあたたまらないから、しばらくその儘《まま》にしたほうがいいよ」  ショールを外しかける房子に言い、邦彦はクリーン・ヒーターのスイッチを入れると、自分もコートを脱がずにキッチンへ入って湯沸しをコンロにのせてガスに点火した。 「そうか、近所で噂をしてるな」  居間へ戻って房子と向き合って坐った。二人とも外にいた儘の姿で、冷え切った室内ではそれが一層|侘《わび》しく感じられた。 「何とか取りつくろって置いてやらないと、帰って来てから嫌《いや》な思いをするかな」 「必ず帰って来ると思う……」  房子は邦彦の目をみつめて尋ねた。 「うん」 「だといいんだけどねえ」  邦彦はギョッとした。 「久衛さんが何か言ったのかい」 「いえ、そんなことはこれっぽっちも」  房子はあわてて首を横に振った。     2  家の中があたたまり、コートを脱いだ邦彦が房子に茶をいれてやっていた。房子もショールを外していた。 「瑤子さんはいい女《ひと》だよ」  房子が言った。 「いいお嫁さんだと思っているわ。お前には過ぎた女《ひと》よ」  房子は真剣な表情で言った。 「でも、これはよくないわ。これはとてもよくないことよ」  念を押すように繰り返し、邦彦のいれた茶に手を伸ばす。 「お前、判《わか》っているんでしょうね」  邦彦はあいまいに頷《うなず》き、自分も茶碗《ちやわん》をとりあげた。 「お前に落度がないことは、横浜のお父さんもはっきり私たちに言ったのよ。うちのお父さんと私の前でね」 「親父、なんと言ってた……」 「お父さんは昔っから、こういう話は苦手《にがて》なのよ。瑤子さんには瑤子さんなりの事情があったのだろうって、それだけ」 「で、それに対して久衛さんは……」 「瑤子さんは決してあなたが嫌になって家を出たんじゃない、それだけは信じてやってください、って」 「母さん」 「え……」 「俺も久衛さんと同じ考えなんだ」 「つまり、あの女《ひと》を信じるのね」 「うん、信じる。だってそうだろう。こっちに落度がない……」  邦彦はそう言い、少し考えてから続けた。 「落度って言い方はよそうよ。落度があれば出て行っても当然だってことになってしまうもの。夫婦というのはそんなもんじゃないと思ってる。落度がある、ない、というのは他人同士の言い草さ。夫婦が世間に対して落度があることはあり得るだろうけど、夫婦の間では失敗があるだけだ。女房の落度は亭主の責任でもあるわけだし、その逆も同じことだ。仮りに亭主が浮気をして、それで夫婦の間に泣いたり喚《わめ》いたりのひと幕があったとしても、それを失敗として、なんとか納めて行くのが夫婦ってもんだろう」  房子は微笑した。 「判ったわ。落度という言葉はもう使わないわよ」 「瑤子はきちんとした女だ」 「母さんもそう思っていた」  房子は頷いたが、瑤子の失踪《しつそう》についてのわだかまりがあって、全面的に邦彦の言葉を肯定したようではなかった。 「判ってやって欲しいんだよ」  邦彦はそういう房子を少しでも納得させたくて、強い口調で言った。 「あの瑤子が今度のような行動を取ったことには、余程の事情があったと思うんだ」 「でもねえ、連絡くらいして来たっていいと思うよ。今どこにいるか、その余程の事情ということで言えないにしたってさ、元気でいるからとか、もう少し待ってくれとか、それくらいのことは妻としてお前に言って来るべきだよ。……優《やさ》しそうなんだけど、芯《しん》は情のこわい女《ひと》なんだねえ」 「判らない」  邦彦は茶碗をテーブルの上へ置くと、両手で頭をかかえた。母親だからこそして見せられる姿勢であった。 「私はね」  房子はゆっくりと言った。 「瑤子さんとはじめて会った時、すぐにこの女《ひと》ならと思ったんだよ」  頭をかかえてうつむいた邦彦の耳に、それはひどく遠くからの声であるように聞こえていた。幼い日、邦彦は何度もその声で励まされ、慰められ、諭《さと》された憶えがあり、その記憶が過ぎ去った長い時間の彼方から、不意に近々と戻って来たのであった。 「もちろん、瑤子さんは綺麗《きれい》だし優しいし、それに何よりもお前を愛してくれていたものね。でもそれだけじゃなかったの。私は女だから、女同士ピンと来たのよ。お前はまだ気が付いていないかも知れないけど、あの女《ひと》は、それはもう芯の強い女《ひと》なんだよ。私はね、そういう瑤子さんだからこそ、お前のお嫁さんとして一も二もなく賛成したの。……いいかい。お前はそんなに強い男じゃないのよ。お父さんに似てるの。いくじなしと言ったら悪く言い過ぎるけれど、よく考えてごらん。小さい時から人さまと喧嘩《けんか》したことがある……」  房子はそう言ってしばらく邦彦をみつめているようだった。 「ないでしょう。素直で勉強もできたけれど、喧嘩だけはできない子だった。乱暴者になって欲しくはなかったけれど、私はいつもそれが気になっていたの。もっとも私だって当時はお前が優しい子であることに満足していたし、外で喧嘩して、泥《どろ》だらけや血まみれになって帰って来て欲しいとは思っていなかったわ。でも、どこか心の底で心配していたの。近頃《ちかごろ》になって……こういうようにおばあちゃんになってから、やっとそれが判って来たのよ。あの頃もう、私は無意識のうちに、お前が社会へ出てからのことを考えていたのね。よく知りはしないけれど、今の会社だって、お互いに競争し合っているんでしょう。男は一生他人と競り合って生きて行かねばならないんですものね。お仕事の上で、誰《だれ》かにそこをどけと言われて、おいそれとどけるものじゃないでしょう。まるで喧嘩のできない子供だったお前を、私が心のどこかで心配し続けていたのは、きっとそういうことだったのね」  房子はなぜか声をくぐもらせた。 「今のお前を傷つけるようなことは言いたくないけれど、ことと次第によっては喧嘩をして欲しいの」 「え……」  邦彦は顔をあげて房子をみつめた。 「もしもよ……。もしも、万一、瑤子さんの家出が何か男の人のことに……憤《おこ》らないで聞いてよ。何か男の人のことに原因があるのだったら、喧嘩をしてちょうだい」  房子の目に涙が泛《うか》んでいるのを邦彦は見た。 「どんなことになっても、お母さん、味方してあげる」 「母さん……」  房子は叱《しか》るような声になった。 「奪《と》られるんじゃないよ。負けちゃ嫌だよ。私は瑤子さんが好きなの。お前には最高の女《ひと》だと思ってる。もし瑤子さんを奪《と》ろうとしている奴がいたら、ぶちのめしてやっておくれ」  邦彦は生まれてはじめて母を見たような気持だった。     3  次の土曜日、邦彦は新宿《しんじゆく》駅から小田急線に乗った。よく晴れた日で、ロマンス・カーは家族連れで満員だった。  湯本《ゆもと》から箱根《はこね》登山鉄道に乗りかえて強羅《ごうら》へ向かう。乗客の半分以上は湯本からバスやタクシーに移ったようだったが、それでも古ぼけた小さな電車は通勤電車さながらの混みようだった。  終点の強羅駅へ着くと、まず早雲山《そううんざん》へ登るケーブル・カーを待つ人の列が目に付いた。土産《みやげ》物を売る店が並んだ狭い駅前に、冬の陽光を浴びて長い行列ができていたが、人々はやはり都心のバスを待つ時などとは程遠い、のんびりと豊かそうな表情で並んでいた。  瑤子はこの強羅のどこかにいた。  邦彦はケーブル・カーを待つ人々の表情とは逆に、緊張した面持ちで駅を出た。  目あてはまるでない。頼るのは自分の足だけなのだ。念の為、瑤子のポートレートを一枚持って来てはいるが、長い行列を作っている人々を見ると、テレビ映画などで刑事がやるような、写真片手の聞き込みなど、とても試みる気にはなれなかった。  邦彦は物見遊山の人々の雰囲気《ふんいき》に巻き込まれぬよう、自分の感覚をとぎすませることにした。そうやって歩き廻れば、何かが自分の第六感に訴えて来るかも知れないし、今はそれだけが頼りでもあった。  人々が行列を作っている場所は、ケーブル・カーの終点が今乗って来た箱根登山鉄道の駅と重なるようになっていて、広場とも言えない駅前の小さな広場はそこで突き当たりになっている。  邦彦はそこを境いに、まず上か下かをきめなければならなかった。登れば早雲山であるし、下れば道はうねうねと曲って早川《はやかわ》畔の強羅坂下へ着く。上にも下にも、ホテルや旅館が並んでいるが、邦彦はまず坂の上へ行くことにきめた。はじめに坂を登れば、収穫もなく引き返さねばならなくても、帰りの足が楽だからだ。  いずれにせよ、歩き廻ることを計算に入れて、二度ほどハイキングに使ったゴム底の軽い靴をはいて来ている。  邦彦はケーブル・カーに乗る人々の行列の最後尾あたりから、急な坂を登りはじめた。  道はまっすぐ山頂へ向かっている。ジーンズ姿の若い連中が何組も同じ道を登っていた。 「君たち、どこへ行くの」  邦彦はその中の一人に声をかけて見た。 「てっぺん」  高校生だろうか。屈託のない声で言う。 「もうここへは随分来ていないんだけど、早雲山の頂上に何か新しく出来たのかい」 「ケーブル・カーの終点がある」  若い連中はそう言って笑った。 「それなら昔からあるさ」  邦彦はあたりに気を配りながら調子を合わせた。頭のどこかで、何かがもやもやと動きはじめている感じだった。 「遅いぞ」  若い連中は少し下を歩いている仲間に声をかけ、 「置いてっちゃうからな」  と、ことさら走り出して見せた。 「ばか。湖尻《こじり》まで行くんだぞ」  下の連中が呶鳴《どな》り返している。どうやら強羅から芦《あし》ノ湖《こ》畔まで歩くつもりでいるらしい。  そう言えば、以前邦彦もそのコースを歩いたことがあった。姥子《うばこ》あたりからは道路をそれ、急斜面の木立の中を面白がって駆けおりた昔の秋の日ざしが、懐しく目に泛《うか》んだ。  瑤子に会ったのは、その小旅行のすぐあとだった……。  瑤子は薄手のセーターを着ていた。ミニ・スカートがはやっていた頃のことで、すらりとした白い脚《あし》の線に目を奪われたものだった。  邦彦はいつの間にか、若い連中から離れて、ゆっくりと坂を登っている自分に気付いた。  気を引き緊めなければ。  そう思い、また周囲の景色に気を配った。  何かが気になっている。しかし、それが何であるか、はっきりとしないのだ。  邦彦は自分自身をもどかしく思いながら、ゆっくりと登って行った。  このまま行けば道は大きく右へ曲って、ケーブル・カーの上強羅駅に出てしまう。  邦彦は自分の足が感じるにまかせて、次の角を右へ曲った。その先にもケーブル・カーの駅がある筈《はず》であった。  こっちではないのではないか。  邦彦はふとそう思った。何かが気になっているのだが、その何かとは、この方角に自分が足を向けてしまったことではあるまいか……。     4  ケーブル・カーが下って行くのがちらりと見えた。  いよいよ迷いはじめたな。  邦彦はそう思った。強羅へ行くと決心した時から、足が棒になるほど歩くことになるのは覚悟していた。どっちへ向かっても坂ばかりの土地である。その土地で、ただ自分の勘だけを頼りに、瑤子の痕跡《こんせき》を求めてさまよい歩くのだ。  行き当たりばったりに坂を登りはじめた時も、それが正しい道だとは全く思っていなかったが、ただひとつ、邦彦には信ずべきものがあった。  他人に聞かせたら笑うにきまっている。しかし、自分だけはそれをゆるぎないものと信じる……。邦彦は自分でも強引だと思うくらいにそれを信じていた。  それは、瑤子への愛情と信頼だった。  母の房子が日吉《ひよし》の家へ来た時、彼はそう決心したのだ。……どんなことがあっても瑤子を疑うまいと。  それまで通り瑤子を信じ愛し続けることだけが、彼女の原因不明の失踪《しつそう》から自分を救ってくれるのだ。もし疑ったら際限もない嫉妬《しつと》の地獄に堕《お》ちなければならない。  房子が房子なりの言い廻しで諭《さと》してくれたことは、そういうことであった。  奪《と》ろうとする奴がいたら、ぶちのめしておやり。  邦彦は房子をそれ程素晴らしい母親だと思ったことはかつて一度もなかった。当人の邦彦以上に瑤子を信じようとしているらしかった。そして彼女の息子が、いや世の中の男という男がとるべき態度を、彼女は母親としての言葉で告げたのだった。  ひょっとすると、それは房子の男性に対する理想を語っていたのかも知れない。  いずれにせよ、邦彦の心はそれできっかりとふんぎりがついた。強羅へ来たのはその第一歩のつもりだった。京都へ行った時はまだそれだけ堅い気持は生じていなかったのだ。  母さん、俺《おれ》、きっと瑤子をみつけるよ。  邦彦は心の中で房子にそう呼びかけながら、車のスリップをとめるために、横にこまかな凹凸《おうとつ》をつけた舗装道路をまた右に曲り、ゆっくりと下りて行った。  瑤子を信じ、今まで以上に愛すれば、自分の体内のどこかにひそんだ何かが、きっと彼女のいるほうへ導いてくれる。  それはいささか神がかり的な考え方かも知れなかったが、邦彦はいま心の底からそう信じていた。明日は日曜日。もし今日何の手がかりも掴《つか》めないなら、どこかの宿へもぐり込んで、明日も朝早くからその辺りを歩きまわる覚悟であった。また、もしも明日、何かの手がかりが掴めたなら、月曜日も瑤子を追って突き進む気であった。  たとえ今の職場を失っても……。  邦彦はそこまで決心していたが、よく考えれば、その底には多少自分にとって都合のいいものがひそんでいる筈だった。  邦彦はまだそこまで深く考えてはいないが、職場を棄ててもよいと考えはじめたことの原因は、東日機材という会社における、邦彦の立場が微妙に揺れはじめていることにあった。  なぜか今までどおりに行かないのだ。社内における行動が、みなちぐはぐになっている。つまり、何をやってもうまく行かないということだ。  今まで邦彦の能力を買っていてくれた者が、次々に批判的な態度を示しはじめているし、部下の中にも課長としての邦彦の能力に疑問を持つ者が出はじめているらしい。  これまで順風満帆であっただけに、そういう動きが、たとえ僅《わず》かであっても、邦彦に孤独感をもたらしているのだ。  たとえ会社をやめても、瑤子を探《さが》し出すことに賭《か》けよう。……そういう思い入れは、どうも一種の現実逃避につながっているようだ。しかし邦彦はそれに気付いてはいない。むしろ、課長の椅子《いす》や望みの多い将来を犠牲にしてまでも妻への愛に殉ずるということに、いささか甘美な酔いを感じていたようだ。  が、今は晴れた冬の日。  邦彦は妻を求めて箱根の道を一人で歩いているのであった。道端に枯葉がたくさん落ちていた。  邦彦はふと足をとめ、腰をかがめてその枯葉の一枚を拾いあげた。何の木の葉か、邦彦にはよく判らなかった。 「綺麗《きれい》……」  ふとそんな声を耳もとで聞いたように思った。  瑤子がそばにいたとしたら、この春めいた暖かさの冬の陽ざしの中で、きっとそんな言葉を聞かせてくれたことであろう。  そうだ、いつか蓼科《たてしな》の林の中へ入って行ったように、道をそれて木立ちの中へ入り込むかも知れない。  邦彦はそう思うとつぶやいた。 「瑤子、冬の箱根もいいものだね」  すると邦彦の心の中に、いかにも瑤子が答えそうな台詞《せりふ》が生じた。 「あたしはいつでもいいの、季節なんか。あなたと一緒なら」  蓼科で、たしか瑤子は同じことを言った筈であった。  邦彦はそばに瑤子がいるようなつもりで、道をそれ、木立ちの中へ入って行った。  しばらく木立ちの中にいた邦彦は、突然目をみはった。  瑤子がそこで自分を見あげているような気がした。  苔《こけ》が生えていたのだ。     5  苔。  邦彦は凝然《ぎようぜん》としていた。  苔が生えている。苔が……。  頭の中にそう言う自分の声が谺《こだま》しているような感じであった。  邦彦はあたりを見まわした。あちこちの木の幹に、露出した岩肌《いわはだ》に、土の上に、濃い緑色の苔が生えているのである。 「畜生……」  罵《ののし》る言葉ではなかった。自分の迂闊《うかつ》さを責めたのでもなかった。瑤子という自分の妻を隠している相手をみつけた喜びの声であるようであった。  邦彦はしゃがみ込んだ。岩肌をこまかい苔がびっしりと掩《おお》っていた。 「おい、教えてくれよ。瑤子をどこへやったんだい」  箱根にも苔が生えている。  考えてみれば当たり前すぎることではある。しかし、瑤子がいる所に苔があったという発見は大きかった。原因不明の失踪に、たったそれだけでもひとつの法則のようなものが現われたのだから……。  邦彦は大急ぎで道へ出た。  何かが心の中にひっかかっていたのは、苔のことなのだ。強羅へ着いて歩きはじめて以来、邦彦はあちこちで苔を見ていた筈なのだ。  美苔会《みたいかい》。  苔を観賞する人々の集りだという、その会の名称が頭に泛《うか》んだ。  瑤子も美苔会に入っていたのだろうか。邦彦はそれまでよりずっと慎重に、道の左右を観察しながら歩いた。めあては苔だ。苔のある所に瑤子の手がかりがある。  道はかなり急な下りだった。もし自転車に乗っていたとしたら、ブレーキをかけずにはいられない坂だ。  近い。  邦彦の勘がそう言っていた。瑤子本人はとにかくとして、何かの手がかりが近いのだ。  両側に塀《へい》がつらなるようになった。石の塀とその上の生垣《いけがき》。苔は見当たらなくなったが、邦彦はかまわず下って行った。右前方に何かの建物が見えていた。コンクリートのがっしりした建物だ。かなり大きい。  あれは何だろう……。  邦彦の足が少し早くなった。下り坂をはずむように下って行く。  箱根美術館。  邦彦の足が急にとまった。何かの制服らしいブルーの上着を着た若い男が、立看板を道端に据《す》えつけようとしていた。陶器のコレクションを陳列している所らしい。 「もしもし」  邦彦はその男に声をかけた。 「その美術館というのはどこにあるのですか」  すると相手は振り向いてひどく朗らかそうな笑顔を向けた。 「そこです」  声も笑っていた。当然だろう。十メートルも離れていない所に、四角ばった低い建物があって、そこに二、三人、ハイキング姿の男女が立っているのが見えていた。ハイキング姿の男女は、切符売場らしい所にかたまっていて、すぐその奥へ入って行った。 「あ、なんだ」  邦彦は苦笑した。 「はじめてですね」  立看板を据えつけた男は、邦彦と並んで歩きはじめた。 「ええ」 「ここが入口です。どうぞごゆっくり」  ブルーの上着はやはり制服だったらしく、そう愛想よく言ってさっさと中へ入って行った。  邦彦はポケットから小銭入れを出し、三百円払ってパンフレットと切符がわりの絵葉書を受取ると中へ入った。  すぐ左側に休憩所のようなものがあり、その中でお茶を飲んだり弁当を食べたりしている人々の姿が見えた。  邦彦はそれをガラスごしにのぞき込みながら進んだ。  そして顔を前に向けた。 「あ……」  邦彦は立ちすくんだ。  目の前に、見事な苔庭がひろがっていたのである。モス・ガーデンと矢印《やじるし》のついた標識まであった。  小さいが深くえぐれた川が流れており、その小川の岩にまで、びっしりと緑の苔がついていた。 「オオスギゴケ……」  その流れへ落ち込む庭の斜面に生えているのは、京都で見たあのオオスギゴケであった。  ここだ。ここに違いない。  邦彦は心の中でそう叫びながら、左手へ廻り、橋を渡って苔庭へ入って行った。  美しい庭だった。西芳寺の苔庭よりも、ずっと明るい感じを受けたが、オオスギゴケそのものは、思ったより多くないようだった。  そのかわり、重厚なオオスギゴケにはない、かろやかな感じが漂《ただよ》っていた。  邦彦はわけの判らない感動にとらえられた。瑤子にめぐり会えたという感じがあったが、それよりももっと強烈に、大きな謎《なぞ》の一端に触れることができたよろこびを感じていた。 「瑤子、瑤子、瑤子、瑤子……」  邦彦は心の中でそう叫びながら、自分が何を探し出すべきか悟っていた。  瑤子を探し出すことは当然だが、それよりも、もっと重要なのは、瑤子を連れ出してしまったものの正体を知ることだった。苔はその謎の入口なのだと思った。  うすけむりの女     1  土曜日の夜、邦彦は強羅《ごうら》でも一番の安宿ではないかと思われる、うらぶれた感じの旅館に泊った。  帳場の老夫婦は、邦彦をふらりとやって来た気紛《きまぐ》れな客だと思いこんだようであった。乾《かわ》いた海老《えび》フライにひとつまみのポテトサラダ。鮪《まぐろ》の刺身《さしみ》に、赤貝の酢《す》のもの……どこの温泉地でもお目にかかるお定まりの夕食のあと、邦彦は宿の下駄《げた》をつっかけてふらりと外へ出ようとした。 「たいしておもしろいところはありませんよ」  宿の老主人が、そう言って帳場から声をかけた。 「散歩ですよ。強羅の夜はどんなかと思いましてね」 「およしなさい。坂ばかりでくたびれるのがおちです。それよりいかがですか」  見ると老主人のそばに碁盤《ごばん》が置いてあり、盤面に石が少し並べてあった。 「お上手《じようず》そうですね」  邦彦がそう言うと老人はうれしそうな顔になった。 「寒いですよ。散歩などやめてこちらへいらっしゃいませんか」  老人は相手が欲しくてしかたがないらしかった。 「とにかく思いたったのですからひと廻りして来ます」 「そうですか……」  老人は残念そうな顔をしたが、邦彦は強引におもてへ出た。  街路灯と旅館やホテルの看板の灯りでその道はひどく明るかった。しかしどれも蛍光灯《けいこうとう》ばかりで白々としており、その坂道を風が吹き抜けていくと、邦彦は思わず身震いをした。  それでもあの美術館のそばへ行かねばならなかった。美術館の庭のどこかに、光るものが見えるのではないかという期待があったのだ。京都の北園家を訪ねたとき、西芳寺の庭に光る苔《こけ》が生えたと言って珍しがっていたあの二人連れが邦彦の記憶に、なぜか鮮やかに残っている。  瑤子と発光する苔。  つながりはしなかった。ただ瑤子の姿が現われたあたりには必ず苔がある、という法則のようなものを、邦彦は感じはじめているのである。それからさらに発展して、苔の発光現象にまで結びつけて考えてしまうのは、たぶん苔だけでは漠然《ばくぜん》としすぎていて、もう少しはっきりとした特徴のある手がかりを欲しがっているからなのだろう。  わざわざ強羅で泊ったのは、瑤子と苔の法則性の上に、もうひとつ発光現象という確認しやすいものをおきたかったからなのだ。  道はしだいに薄暗くなり、体が冷えきってくるようであった。山の上から風が吹き降ろすたび、轟《ごう》と樹々が鳴り、去った妻の手掛りを追う男の侘《わび》しさを感じずにはいられなかった。  寒々とした下駄の音をたてて、邦彦は美術館の前へやって来た。くやしいことに、その苔の庭を外から覗《のぞ》くことはできそうもなかった。それでも邦彦は未練たっぷりに行きつ戻りつし、かなりの時間をついやしてからやっと坂を下ることにした。  ひょっとすると、もう消えてしまったのかもしれない。  苔の発光現象は、ごく限られた時間内のことかもしれないと思った。しかし、いずれにしても、オオスギゴケなどの発光は珍しい筈で、もしそういう現象が起きていれば、光は消えても噂《うわさ》は残っているに違いない筈だと思った。  それからいかにもこの土地に古そうな、あの老主人あたりが聞いているかもしれない。  宿へ戻る邦彦の足が早くなった。  しかしその邦彦の心のどこかでは、そんな考えを苦笑している部分があった。  飛躍しすぎている。たしかに苔と瑤子の関係は、どうにか結びつけるにたるだけの事項があるようだ。失踪のあと玄関にあった苔の鉢植《はちうえ》が消えていたこと。瑤子をかわいがっていた祖父の北園延弘が、自宅の庭を苔で埋めつくしていること。その北園家のすぐそばに苔寺として有名な西芳寺があること。瑤子が失踪直後にそこへ現われていること。次に瑤子の消息のあった場所が箱根の強羅であり、そこにある美術館の庭園がいわゆるモス・ガーデンであったこと。  いまのところほかに確たる手掛りがない以上、瑤子を追う邦彦としては、その苔の件だけが手掛りであると言えた。しかし苔の発光現象は西芳寺に一度あっただけである。     2  これでいま、この美術館の庭の苔に発光現象があったというのならとにかく、それも確認できないのだし、またありそうもないことであった。  俺《おれ》はいったい何を考えているのだろう。邦彦は舌打ちをするような気持で歩いていったが、白々とした街路灯の光のなかで急に足をとめた。まさか……、寒さのせいばかりではなく、邦彦は自分の顔がこわばっているのを意識した。  瑤子と結婚して以来、ずっと玄関の下駄箱の上に飾られていた、あの苔の鉢植を思い泛《うか》べたのであった。それは玄関の内部を照らす小さなランプの真下にいつも置いてあった。苔の成育のためにということで、夜になるとその小さなランプはいつもつけ放しにされていた。寒い季節にはまんいち鉢植の土の水分が凍って、霜でも立ってはというのが、瑤子の言い分であったから、邦彦もそれを鵜《う》のみにしてなんの疑惑もさしはさむことがなかったが、いま考えてみると、その言い分には少しおかしな部分があり、しかもそのおかしな部分が、実は重大な意味を持っていたように思えてきたのである。  瑤子には何か大きな秘密がある。邦彦は寒い坂道にたちつくし、全身に痺《しび》れに似た感覚を駆けめぐらせながらそう確信した。  たしかに瑤子と苔の発光現象とは関係があるのだ。しかもそれは最近になってからのことではなく、結婚した当初からの……、いや結婚する以前からの秘密かもしれないのである。玄関の内側を照らすランプの真下に苔の鉢がいつも置かれ、結婚以来一度も暗くなってからそのランプが消されなかったという厳然たる事実があるのだ。苔が霜を嫌《きら》うなど口実にすぎなかろう。家の中は冬になるとヒーターで充分暖められており、たとえ玄関であろうと、屋内である限り水が凍ることなどあり得なかったのだ。おまけに春、夏、秋いずれの季節をとっても、その小さな玄関のランプは一晩中苔を照らし続けていたのだ。邦彦は自分の帰りが遅く、ひとりっきりで家にいるときの、瑤子の或《あ》る姿を想像して慄然《りつぜん》とした。  灯りを消した暗い玄関に瑤子がたっているのだ。下駄箱の上の苔の鉢植が、ぼうっと真珠色の光を放って瑤子の顔を照らし出している。  邦彦は自分の両腕を抱えるような腕の組み方をして、背を丸めとぼとぼと歩き始めた。  下駄箱の上の苔が光るのを、邦彦に知らせまいとしていたのだ。そうに違いなかった。  発光する苔を瑤子がかわいがっていたのか。それとも瑤子が育てたから苔が発光したのか。いずれにせよそれは瑤子の持って生まれた体質にかかわっているような気がしてしかたがなかった。  なぜ光る。  なぜ光らせる。  似ているようでいて、その実途方もなく意味のかけ離れた二つの問いが、邦彦の頭の中で谺《こだま》していた。 「ただいま」  安旅館の戸を開けて、邦彦は無意識に言った。 「おかえりなさい」  宿の主人は帳場から伸びあがるようにして邦彦を見ると、機嫌《きげん》のよさそうな声でそう言った。 「ほらごらんなさい、寒かったでしょう」  邦彦が下駄を脱《ぬ》いであがる。 「さあさあこちらへ来ておあたりなさい」  帳場には石油ストーブが暖かそうな炎を見せて燃えていた。 「お茶の熱いのを入れましょう」  老人はいそいそと茶のしたくをはじめた。 「お勤めですか」 「ええ」 「どんなお仕事です」 「ただのサラリーマンですよ」 「銀行……」 「いや、事務機です」 「ああそうですか」  老人は大切な碁の相手を逃すまいと、邦彦に隙《すき》を与えずにたたみかけていた。しんと静かな帳場に暖かそうな茶をつぐ音が響いていた。 「さあ、どうぞ。冷えきってしまったでしょう。あとで寝る前にもうひと風呂《ふろ》お浴びになるといい」  邦彦は茶を啜《すす》り微笑を向けた。 「その前に一局でしょう」  老人は大仰《おおぎよう》に頭を掻《か》いてみせた。 「やあ、これはこれは」  邦彦は結局その老人と碁を打つことになった。     3  翌日の昼ちょっとすぎ、邦彦は箱根を下り東京へ向かった。  宿の老夫婦は苔《こけ》が光るという噂《うわさ》などまったく耳にしていないようだった。念の為あの美術館へもう一度足を運んだが、モス・ガーデンになっている部分はそう広い面積でもなく、どこにも異常は発見できなかった。磁器のコレクションを陳列した建物の中も、蒐集《しゆうしゆう》ぶりに感心させられただけで瑤子に関する収穫は何もなかった。  家へ戻って、途中で買った植物学の本を開いてみたが、発光する苔については、あることはあっても実際にはミズゴケ、藻の類で、スギゴケなどが発光する現象については何も記されてなかった。  瑤子と苔の発光現象の間に関係があるとしても、それがどういうことなのか見当もつかなかった。とにかく調べた限りではスギゴケの類の発光は一般には無いことのようである。  瑤子はその珍しい性質を持つ苔の近くにいると、何か得るところがあるのだろうか。たとえば、精神が昂揚《こうよう》するとか、気分が落ち着くとか……。  あるいは、瑤子がそばにいるとその珍しい現象が苔に起こるのだろうか。もしそうだとしたら瑤子はいったいどんな特異体質なのだろう。  そんなことを考えているうちに時が過ぎて月曜日になり、邦彦はいつものように丸《まる》の内《うち》へ向かった。瑤子の失踪《しつそう》以来、邦彦の仕事ぶりはずっと低調だった。妻のことと仕事は別である。自分に何度もそう言いきかせ、会社では瑤子のことを極力忘れ去っているつもりなのだが、やはり張りのようなものが失われているのだろうか。課長就任の年少記録を作った当時の勢いが嘘《うそ》のようになくなっていた。自分では一生懸命やっているつもりなのだが、何をやってもうまく行かない。他の管理職たちからうらやましがられるほどだった部下たちの信望も日に日に失われ、一種のエリート集団と目《もく》されていた企画課の雰囲気《ふんいき》がこのところひどく沈滞していた。それでもひところは何とか盛り返せる筈だと自分に言いきかせ努力してきたが、このところずっと手に余る感じなのだ。  企画課のデスクにつくとすぐ、電話のベルが鳴った。受話器を耳に当てると声は常務の西本であった。 「はいすぐに参ります」  邦彦はそう答えて受話器を置き、立ちあがった。何か不吉な予感がしてならなかった。ところが常務の部屋へ行くと、西本はつねにない笑顔で邦彦を迎えた。 「急な話だから来てもらったんだ。まあ掛けたまえ」  西本は椅子《いす》をすすめ煙草《たばこ》をつけると、煙をはきだしながら言った。 「君はいままでに金沢《かなざわ》へは行っていたかな」  北陸《ほくりく》支社のことを言っているのだ。 「いいえ」  邦彦は西本を見つめて答えた。視線が合うと西本のほうから目をそらす。 「それはちょうどいい、一度見ておいてくれ」  西本はあいまいな言い方をした。 「出張ですか……」 「うん、そうだ」 「いつです」 「急なんだが、明日にでもとんで欲しい」  邦彦にはぴんと来るものがあった。金曜日の午後、社長を交えた上層部の会議があった筈なのだ。主として人事関係の話だったと聞いている。 「で、北陸支社へ行って、何をすればいいのでしょう」 「いや、先週末の会議で急にその話が出てね。あそこはどうもセンスが古くていけないというのだ。いつも君が言っている事務機に関する新しい考えを、北陸支社の連中にひとつ大いにふきこんでやって欲しいのだ。北陸支社はこのところ人事的な交流も少し欠けているようだし、そろそろ活を入れてやらんとね」  西本はそう言って、あまり意味のない笑い声をあげた。  人事異動……。これは人事異動の前触れなのだ。邦彦はそう直感した。 「雪の兼六園《けんろくえん》もいいものだぞ。君は仕事以外でも金沢へは行ったことがないのかね」 「学生のころ、能登《のと》へ旅行する途中で一度通り抜けました。その程度ですから」 「何かむこうの連中の刺激になるような資料があったら持って行くといい」  西本はそう言うと煙草をもみ消し、椅子の位置を正面に直して、デスクの上の書類に目を通した。邦彦が入って行ったときのにこやかさが、西本の顔からぬぐうように消え去っていた。     4  新幹線で米原《まいばら》廻りにするのをやめ、邦彦は火曜日の夜行列車で上野《うえの》駅から金沢《かなざわ》へ向かった。まだ北陸支社へ左遷《させん》されるとは決っていなかったが、その可能性が強く、上野駅からの夜行列車が、都落ちするような邦彦の気分にあっていたのである。寝台もあいていなくて、邦彦は小柄な高校生と向き合った席に坐《すわ》り、窓辺に肩を押し当てるようにして身動きもせず東京から去って行った。高崎《たかさき》、水上《みなかみ》、小出《こいで》、長岡《ながおか》……。夜中の三時過ぎても邦彦は寝つけなかった。見廻すと車内の人々は、めいめい少しずつ家庭の匂《にお》いを覗《のぞ》かせて眠っていた。  これが女房といっしょの旅だったら、自分たちはどんな眠り方をするだろうか……。邦彦はふとそう思った。  きっと瑤子は窓際に坐っているに違いない。自分は通路側だ。窓際にミカンがのせてあるかもしれないし、網棚《あみだな》の下には瑤子のコートが掛っているかもしれない。瑤子はいま自分がしているように窓辺に肩をもたれさせて眠っているだろうか。いやそうではあるまい。通路側に坐った自分は瑤子の体重を受けとめているだろう。そんなことを想像しているうちに、邦彦はいつかうつらうつらしていたようだ。ふと気付いて目を開けると海が見えていた。まだ暗い海だったが、夜の明けかけているきざしはありありとしていた。もう親《おや》不知《しらず》のあたりだろうか。邦彦はそう思ったが、次に停《とま》った駅は黒部《くろべ》で、ものものしい雪山の装備をした男たちが、まだ眠っている人々を起こさぬよう、そっとホームへ降りて行った。  富山《とやま》では、はっきり夜が明けていた。富山からは停る駅の間隔が短くなって、人々は皆、目を覚ました。  金沢の朝は寒かった。改札口を出たとき、時計は七時をさそうとしていた。駅はいつもの仕事に出る人で活気があった。駅前にはチェーンをつけたタクシーの列があって、まだそれに乗る人の数はそう多くないようだった。道路はとけた雪でびしょびしょで、その水のところどころに雪の白い塊《かたまり》が浮いていた。どの車の排気管からも白い湯気のような煙が大きくひろがって風に流されていた。  邦彦はそんな金沢駅の朝景色を納得のいくだけ眺《なが》め続け、やがて駅の中へ引き返して売店へ向かった。朝刊を買う。ベンチへ坐ってそれをひろげはじめたが、急に生臭《なまぐさ》い風が起きたので顔を上げると、白い手拭《てぬぐい》を頭にかぶった女が大きな荷物を背負って目の前を通りすぎて行くところだった。ざっと新聞に目を通す。時間はいっこうに進まなかった。支社も出社時間は九時半の筈である。邦彦はゴム底のレインシューズを履《は》いてこなかったことを後悔していた。雪解けの水があふれる道では、いま履いている靴《くつ》などひとたまりもなかろう。  いずれにせよ、明日行くと電話連絡はしたものの、到着時刻さえ告げていなかったから、支社が開くまでは行く場がないわけである。  邦彦はその新聞を隅《すみ》から隅まで読みつくした。両隣に坐っている人物が何回も入れ替った。  やがて学生たちの姿が増えはじめた。九時になると急に強い陽が射して来た。その強い陽射しに誘われたように邦彦はふらりと立ち上がり、タクシーの乗り場へ向かった。支社があるのは県庁のあるあたりだと聞いていた。だから邦彦はタクシーに乗ると、 「県庁へ」  と運転手に告げた。一度来ただけだから、タクシーの走る街並みは見当もつかなかった。そして何度も曲ったあげく、邦彦はいきなり県庁の正面へほうりだされていた。県庁はすでに開いていて、その中へ入れば公衆電話ぐらいある筈であった。     5  午後。  邦彦は田辺《たなべ》という男に案内されて兼六園の霞が池の畔《ほとり》に立っていた。よく写真で見る二本足の燈籠《とうろう》がすぐ近くにあった。 「これだね徽軫《ことじ》燈籠というのは」 「はいそうです」  田辺という青年はよく気のつく男で、支社を出る前に、どこからか黒いゴムの長靴を都合してきて、邦彦に貸してくれた。 「よく冬の兼六園がいいという人もいますが、やはり緑のある季節のほうがいいですよ」  田辺はそう言い、うながすようにまた歩きだした。 「そうだろうな。何度も見なれてよく知っている人なら雪景色もいいだろうが、僕のようなはじめての者には何がどうなっているのかよく判らないまま終りになってしまった」  邦彦がそう言うと、 「もっとたびたびこちらへも来てくださればいいんです」  と田辺が熱心な口ぶりで言った。田辺は邦彦を本社きっての切れ者というイメージで理解しているようだ。だから充分に敬意を払ってくれている。邦彦もそれに甘えて、久しぶりに以前の自信にあふれた気持をとり戻していた。 「これをまっすぐ行くと、さっきの石川門に出ます」  兼六園のすぐ外の駐車場の前を通り過ぎながら田辺が教えた。 「街も案内してもらいたいな。香林坊《こうりんぼう》というところはここから遠いのかね」 「いいえ。そう遠くはありません」  田辺はそう言ってから兼六園のほうを振り返った。 「それにしても残念でした。美術館が休館しているとは知りませんでした。あの美術館にある仁清《にんせい》をぜひ見ていただきたかったのに」 「ほう。君はそういうものに趣味があるのかね」 「ええ、家がわりと古いものですから、小さいときから何となく爺《じじ》むさいものに親しんでしまいましてね。美術館が休館していたのでつい寄りそびれましたが、あの隣りに建っている成巽閣《せいそんかく》へは、もう百回以上も行っています」 「そんなにいいところなのかね」 「はい。あそこへ行けば加賀《かが》百万石がどんなものだったか、よく感じとれるのです。ことにわたしは飛鶴庭《ひかくてい》がたまらなく好きなのです。あのびっしりと美しい苔《こけ》を敷きつめた……」  邦彦はぎくりとして思わず足をとめた。 「苔……」 「ええ、飛鶴庭は苔の美しさで有名なのです」  邦彦は思わずその成巽閣へ引き返そうとした。しかし、よく考えてみればこの雪である。それにたしかその建物はいまいる位置の真反対の側にあり、行ってみるならもう一度出直したほうがよさそうだった。 「そうですか。野川課長のようなモダンな方が、苔に興味をお持ちだとは知りませんでした」  田辺は邦彦の反応を勝手に解釈してうれしがっていた。邦彦は石川門のほうへ歩きだしたが、また新しい疑惑にとらえられていた。 「その仁清はどんな品かね」 「色絵雉《きじ》香炉という国宝です。そのほかに古九谷の名品がずらりと並んでいますよ」  それをきっかけに田辺は九谷焼について熱弁をふるいだした。しかし邦彦はろくに聞いていなかった。  今度は磁器と苔が重なっているのである。箱根の美術館は磁器のコレクションとモス・ガーデン。兼六園は仁清や古九谷と飛鶴庭。そういえば京都の北園家の座敷でも、由緒ありげな清水焼の壺《つぼ》を見たような気がする。  何かが邦彦の頭の中でカチリと音をたててひとつにつながったようであった。  ひょっとするとここへも瑤子は来ているのかもしれない……。 「そうだ。市役所のそばの建物で、現代加賀陶磁器展というのをやっているんです。よかったらちょっとお寄りになってみませんか」  邦彦は田辺の誘いを断らなかった。それほど厳密に、磁器だけにこだわる必要はないような気がした。苔と重なっているのは陶磁器と考えていいだろう。そう思って邦彦はその会場へ足を向けた。  思い切り広い空間をとって、陶器や磁器の新作がぽつり、ぽつりと並べてあるのは、見るからに高価そうであった。  だが邦彦にとって何も得るところはなかった。 「さすがは野川課長、お目が高いようですね」  田辺はつまらなそうな邦彦の表情を見て小さな声でそう言った。 「たしかに今年は低調なようです。僕が見てもそう思いますからね」  田辺はそう言うと思いきりよくさっさと邦彦をその会場から連れ出した。 「田辺君、成巽閣の飛鶴庭のほかに、この金沢で苔の美しい庭というとどういうところかね」  邦彦がそう尋ねると、田辺は愉快そうに笑った。 「この裏ですよ」 「この裏……」 「ええ、行ってみましょう。この横を入ったあの突き当たりの左にある建物がそうです。中村記念館といいまして、茶道具などが展示してあります。庭はあまり大きくありませんが、茶室も建ててあって苔が生えています」  その建物は目と鼻の先にあった。左右にコンクリートの建物があってその間を抜けて行くのだ。  邦彦は田辺の説明を聞きながら、さっき頭の中で結びつき、カチリと閉じた環が、いっそう固く締ったのを感じた。     6  田辺と、邦彦が、コンクリートの建物の間を歩いて行く。邦彦が進む右側の建物の二階の窓ガラスの内側に、和服を着た小柄な女が立っていて、凍りついたような表情で邦彦をじっと見つめていた。  白地の綸子《りんず》に可憐《かれん》な小菊が散らしてあり、その古典的な柄へ、大きな雲取を割り込ませて近代的な感じに仕上げていた。雲取の縁は金糸で幅を太目にとってあり、中は淡いベージュである。白地だが雲取のベージュが大きいから全体的にはベージュの感じが勝っている。帯は黒地に金銀の焼箔で、帯締めは純白無地かと思えるなかに、金糸銀糸がわずかに織り込んであった。  瑤子《ようこ》だった。  その部屋は何かの会の控室らしく白布をかけたテーブルに灰皿《はいざら》や茶碗《ちやわん》が並んでおり、いまはその人々も外へ出ているらしく、瑤子ひとりきりであった。  瑤子の指が細かく震えていた。形のいい小さな唇《くちびる》もわなないているようだった。  心で呼びかけたいのを必死にこらえているのだ。小田原駅のときのように、瑤子が心で呼びかければ、邦彦は必ず彼女のいる窓のほうに振り向くに決っていた。  しかし、いまはそのたぐいまれな超能力を使ってはならないのである。まして、階段を駆け降り、 「あなた」  と叫ぶその簡単な行動を、絶対にとるべきではなかった。  瑤子は逃げなければならない。あの執拗《しつよう》な追手からのがれるためには、その強力な心の声、つまりテレパシーを使うわけにはいかないのである。  瑤子はいま、たったひとりでたたかっているのだ。その孤独なたたかいに勝たなければ、愛する夫の胸へ戻ることさえできないのである。  瑤子は大きく息を吸い、目を閉じた。それは追手からのがれるために、やむをえず習得したテレパスとしての高度な技術であった。  テレパシーを発することなく、相手の思考だけを読み取る……。  あのなつかしい夫の思考が彼女の心へどっと流れこんできた。瑤子の閉じた目から、熱い涙があふれでてとまらなかった。  邦彦は妻を信じていた。理由も告げず行き先も告げずに、ある日いきなりとび出したままなのに、邦彦は妻を信じているのだった。  どういう経路で邦彦がそういう結論にたどりついたかは判らなかったが、瑤子は自分が恋人のころよりもっと強く恋され、仲の良い夫婦であったときよりもいっそう深く愛されているのを知ることができた。  それは言葉ではなかった。心の声だった。邦彦はそこに瑤子がいることに気付いてはいない。それでなお、一点の疑念もなく瑤子を信じているのだ。  悲しみとうれしさ、しあわせとふしあわせ。そのあい反するものが入り混り、瑤子の胸の、白く柔らかい肌《はだ》の下で、せつない渦《うず》を巻いているのであった。  邦彦は中村記念館のほうへ去って行く。きっと建物へ入る気なのだ。  瑤子にはとてもその自信がなかった。邦彦がその建物の中に消え、内部をひと廻りして出て来れば、またその窓の下を通るに決っていた。  出て来るのを待ちたかった。もう一度窓の下を通るのを見たかった。しかし、そうしたらきっと、瑤子は精かぎり根かぎり、テレパシーを、体中の愛を込めたテレパシーを、邦彦にぶつけずにはいられなくなるだろう。さもなくば、夫婦ともども逃げ廻る苦しみに、夫をまき込み、破滅させてしまうに決っているあの行為……つまり階段を駆け降りて夫の胸に身を投げかけてしまうこと……それをせずにはすまないだろう。いままで何度邦彦のもとへ戻ってしまおうと思ったことか。  瑤子はねばりつくような足を、自分自身目を見はるような自制心を発揮して動かしはじめた。最初はのろのろと、そしてすぐに逃げるような素早さで、階段に向かい駆け降りはじめた。  講演を終えた陶芸家の岡崎唯士《おかざきただし》が、その姿を見て後を追った。 「冬子《ふゆこ》さん、冬子さん……」  瑤子は銀髪のその高名な陶芸家に、冬子という名で呼ばれた。  しかし瑤子はとまらなかった。夢中で外へ出るとタクシーを停め、犀川《さいがわ》と野田山にはさまれたあたりにある、岡崎唯士の仕事場へ逃げ帰ってしまった。  北陸の雪景色のなかで、瑤子の着物姿が窯からたつうすけむりにつつまれていった。  玉露のかおり     1  明るいブルーに塗ったボルボが、未舗装の道をゆったりと揺れながら戻って来た。排気ガスが白く見えている。  瑤子がそれを家の中から、レースのカーテンごしに見ていた。もう顔からはさっきまでの思いつめたような表情が消えている。  岡崎唯士は頑丈《がんじよう》な屋根のついたカーポートにボルボを納めると、ドアをあけて降り立った。いつもその車に乗る時は勝手口から来るらしく、玄関へ向かう方向には雪が積っており、逆の方向へは雪を踏み固めた道がついていた。  岡崎は長い足を慎重に動かして、勝手口へ向かった。 「お帰りなさい」  瑤子が迎えた。 「どうしたと言うんだ。凄《すご》い勢いで出て行ってしまったから、ここへも帰っていないのかと心配したんだぞ」  岡崎は土間で何度か足踏みし、靴についた雪を落しながら言った。変った造りの家で、玄関から勝手口へ土間が突き抜けている。この辺りに古くからある構造には違いないが、ほかがすべて洋風にできている。しかも、洋風と言っても家具類はみな民芸調のもので、少しもバタ臭くはない。玄関を入ってすぐ左側にある応接間などは、床が土間になっているから、履物《はきもの》を脱がずに外からそのまま入れる。下駄《げた》や草履《ぞうり》がよくマッチする洋間、と言った感じだ。  その上、応接間のすぐそばに、風炉の敷瓦《しきがわら》にでもしたら合いそうな、黒っぽい茶の大きなタイルを貼りつめた一坪ほどの靴脱ぎのスペースがあり、天井から古びた小さなシャンデリアがぶらさげてあった。ちょうど、家の中にもうひとつ玄関がついている感じである。  岡崎はそこで靴を脱ぎ、スリッパに履きかえる。  廊下の床は檜《ひのき》で、建ってからもうだいぶたっているらしく、程の良い色で艶《つや》光りしている。 「いったい何があったと言うんだね」  岡崎はぼやくように言いながら居間へ入った。無造作な感じで積んだ大谷石の桝《ます》が中央にあり、天井から自在鉤《じざいかぎ》が下げてあった。囲炉裏の感じだし、大谷石の桝の中には事実炭火が勢いよく熾《おこ》っているが、それがなぜかひどくモダンな感じに見える。大谷石の炉縁《ろぶち》が高いのと、幅が広いせいだろうか。自在鉤は飾りで、灰の中にはちゃんと五徳《ごとく》が埋めてあって、黒光りした南部の鉄瓶《てつびん》がかかっている。 「すみません。勝手なことをして」  瑤子は微笑して見せ、 「お茶の仕度をして置きました」  と言った。 「うん、もらおう」  その大谷石の炉の二辺の、普通ならソファーでも置かれるべき筈の位置が、高麗《こうらい》べりの畳を敷いた小間になっていて、岡崎はそのひとつに腰をおろすと、背筋を伸ばして二、三度肩をまわした。  瑤子は絣《かすり》の小|座蒲団《ざぶとん》を敷いた民芸調の椅子《いす》に浅く坐《すわ》って、茶をいれはじめる。帰る時間の見当がついていたと見えて、もうすっかり準備は整っていた。  それがこの家のやり方なのだろう。瑤子はしゅんしゅんと音をたてている鉄瓶の蓋《ふた》を取り、大谷石の炉縁に置いた柄杓《ひしやく》を使って、湯ざましに移す。そばに品のいい藍染《あいぞ》めの玉露茶碗《ぎよくろぢやわん》が二つだけ並んでいる。  茶托《ちやたく》がちょっと変っている。程のよい大きさの木を、自然の形のまま輪切りにしたものらしいが、よく見るとそれでも取りあげ易いようにへりの外側が僅《わず》かに削ってある。実は玉椿《ねずみもち》の木で造ったもので、岡崎がひどく気に入っている品であった。茶碗や急須《きゆうす》はすでに湯を入れてあたためてある。  瑤子は鍋島焼《なべしまやき》の茶壺の蓋を取り、飴色《あめいろ》に光った竹の茶合へ茶を移した。玉露の緑色が飴色の茶合の中で鮮やかに見えた。その茶合を、あたためてあった急須の口に持って行くと、口の円と茶合の弧は殆《ほと》んど同じ大きさであったことが判る。瑤子の白い指が茶合を傾けると、緑の茶葉はかすかな乾いた音をたてて落ちた。  湯ざましの湯が急須に入れられる。また柄杓で鉄瓶の湯を取り、湯ざましに入れる。茶碗の白湯は銀の建水《けんすい》にゆっくりとあけられ、舞うような手つきで二つの茶碗に茶をついだ瑤子は、玉椿の茶托にのせてその一つを岡崎の前へ置きに行った。  岡崎は近付いた瑤子の横顔をじっとみつめていた。 「お相伴いたします」  瑤子はにこやかに言い、自分も茶碗をとりあげる。 「君は……」  岡崎はそう言い、残りを言わずに茶碗に口をつけた。  とろりと重い露が舌に落ち、豊かで底深い味が体中にひろがって行くようだった。  飲みおえて、岡崎はため息をついた。 「何ですの」  瑤子が小首を傾《かし》げて訊《き》く。 「君は謎《なぞ》のかたまりだと言いたかったのさ」  岡崎は憤《おこ》ったように言って茶碗を置いた。 「まったく何ということだ。俺《おれ》はまだ君の苗字《みようじ》も知らん。冬子という名前しか教えてはもらえんのだからな。それでいて、もう君がいてくれねばろくに茶ものめんようになってしまった。こんな旨《うま》い茶をほかの誰《だれ》が入れられるというのだ」  岡崎はそう言うと、ふと窓の外へ目をそらせた。その目はどこか物哀しげであった。     2  二煎目を岡崎が口に含んだ時、ポロロン、とチャイムの音がした。瑤子は素早く立って廊下を玄関のほうへ行く。  岡崎は瑤子が戻る間、肩の辺りに孤独のかげりを見せて茶をのんでいたが、戻って来た瑤子のうしろにある顔を見ると、 「よう」  と急に元気よく言った。 「いい所へ来た。君に会いたくなっていたところだよ」  現われたのは半白の髪をした初老の男だった。痩《や》せていて、ちょっと猫背《ねこぜ》の感じだ。油気の抜けた、物判りのよさそうな顔に笑いを溢《あふ》れさせている。 「嘘《うそ》をつけ。とんだ邪魔が入ったと思っているんだろう」 「どうぞ」  瑤子が小間へ座蒲団を置き直して言う。 「はいはい、ありがとう」  田辺清次郎《たなべせいじろう》という洋画家である。東京と金沢の間をめまぐるしく往復している男だ。 「こういう日は、きっと東京は雨だぞ」  窓の外の晴れた空を見て言う。 「こっちが降ればあっちは晴れ。いつも逆だ」 「たまには東京にも降ってやらんと、水に困るだろう」  岡崎が言うのを聞き流しながら、田辺はじろじろと無遠慮に瑤子を見ている。 「まったく美しい。あなたが来て以来、ここへ来ると家へ帰る気がしなくなるよ」 「お茶をいかがですか」 「おう、玉露かね。いただきましょう」  瑤子は仕度を改めに立つ。 「とうとう居ついてくれそうな具合だな」  そのうしろ姿を見ながら田辺が言った。 「まあな。しかし相変らず判らん人だ」 「そうか」 「ついさっきも講演会の会場から、急にあわただしく逃げ出してしまった。何に怯《おび》えたのか知らんが、本当に胆《きも》を冷やしたぞ。あのままどこかへ行かれてしまうのかと思ってな」  半分は瑤子自身に聞かせている言葉のようであった。 「君が何かわるさをしたんだろう」 「冗談を言うな」  岡崎は大声を出したが、 「俺はただ、彼女がいつまでもそばにいてくれるだけでいい」  と、すぐにしんみりとした声になる。 「冬子さんを見ていると、俺にもその気持は判るな」  瑤子が戻って来て、また茶をいれはじめた。 「しかし、冬子さんだっていつまでも君に観賞されっぱなしで過すわけには行かんだろう」 「おいおい」  岡崎があわてて言う。 「寝た子を起すようなことを言わんでくれ」 「しかし本当だぞ。なあ冬子さん」  瑤子は田辺を見て微笑した。 「それそれ、その笑いかたがこの男には毒なのだ。いや、岡崎ばかりではないかな。モナ・リザの絵の前で首を傾げる男はそこら中にいる」 「本当によくしていただいて、感謝しております」  瑤子はそう言って茶碗を二人の男の前へ配った。二人は瑤子のしとやかな動作に気おされたように黙り込んだ。 「弟子たちはどうした。ばかに今日は静かじゃないか」 「休みだ」 「ほう。仕事が一区切りついたと見えるな」 「うん。おかげで今回は何とか満足の行く仕事になったようだ」 「それはよかった」 「どうだ。今日はゆっくりして行かないか」  すると瑤子が口をそえた。 「そうですわ。ぜひそうなさってください」  田辺は相好を崩し、 「ご馳走《ちそう》してくれるかね」  と言った。そんな時の田辺の顔は、邪気のないいい顔であった。 「そういうことならまず酒を選んでもらおうか」  岡崎は張り切って言う。気の向くままに、各地の地酒を集めているのだ。 「うんと辛口がいいな」 「よし、来い」  二人の男は、子供のようにはしゃいで立ちあがると、酒をしまってある納戸《なんど》のほうへ去った。  瑤子は大谷石の炉のまわりをひとまわりして茶碗を集めると、手早く茶の道具を盆にのせ、鉄瓶に水をさして台所へ行く。 「これこれ、こいつにきまったぞ、冬子さん」  納戸から台所へまわったらしく、岡崎の声が聞こえている。  無人になった居間の飾り棚の端に、小さな水盤に入れた苔《こけ》が置いてあった。     3 「しかし、縁と言うものはふしぎなものだ。俺はつくづくそう思うよ」  男二人の酒宴がはじまっている。二人とももういくらか酔っているようだ。 「俺は行きずりの若い女性に、自分から声をかけるような男では決してない」  そういう岡崎を、田辺がからかうように見て瑤子に言う。 「どうだか判るもんか。この前ヨーロッパへ行ったとき、どこかでそいつをやったと言うぞ」 「ばか。あれは道を尋ねただけだ」 「でも、若い綺麗《きれい》な子を選んだそうだ」 「向こうの男は恐ろしげでいかん。会話のときの表情のタイミングが俺みたいな純日本人にはどうもピンと来んのだ」 「若い美人ならいいのか」 「うん。話しかけるとまず、かすかにでも笑ってくれるからな」  岡崎よりずっと海外旅行の回数が多い田辺は、ワハハ……と声をあげて笑った。 「とにかく信じて欲しいな。ところが、金沢の駅で、列車から降りたばかりのこの人に、俺はどういうわけか衝動的に声をかけてしまった。うん、あれはまったく衝動的としか言いようがない」 「何と言ったのかね」  田辺が瑤子に聞く。 「お嬢さん、お茶でもいかがですか、かね……」 「冗談言うな」  岡崎が大声で言う。瑤子は微笑していた。 「で、何と言ったんだ、君は……」  田辺はふと真顔に戻って訊《き》いた。 「それがよく判らんのだ。何かこう、ぼんやりとしてしまってな。ただ、初対面と判っているのに、とてもなつかしい人のような気がしたんだ。あんなことははじめて経験したな。昔からよく知っている人に会った感じで、ついうっかり訊いてしまったのさ」 「だから何と言ったんだ」 「ええと……」  岡崎はぐい呑《の》みを左手にした儘、しばらく考えた。 「畜生、やはり思い出せん。冬子さん、君は憶《おぼ》えているかい」  瑤子は首をゆっくりと横に振った。 「忘れてしまいましたわ。あんまりさりげなくおっしゃられたので」  すると田辺が騒いだ。 「ほれほれ、そこが曲者《くせもの》なのだ。それほど年季が入っているんだよ」 「まったくふしぎだなあ」  岡崎はそれにかまわず、しみじみとした口ぶりで言うと首をひねり、思い出したように酒を飲んだ。  瑤子は早くその話題からのがれたかった。 「能登《のと》の冬って、どんなですの。きっとすばらしいと思うんですけれど」  男二人が顔を見合わせる。 「そうだ、連れて行ってあげよう」  田辺が先に言う。 「何を言ってる。車も運転できんくせに」 「車などどうにでもなるさ」 「うちにはちゃんとボルボがある。天気のいい日を見はからって、ひとまわりして来るか」 「おいおい、俺が先口だぞ」 「うちの冬子を人に貸してたまるか」 「あ、うちの冬子だと。冬子さん、何か言ってやりなさい」  話題はあっさりとそれた。風が出たらしく、どこかの窓がガタガタと音をたてていた。 「窓が鳴っているようですわ。見て来ます」  瑤子はそう言うと中座した。居間を離れると寒かった。また降るのかも知れなかった。  風に鳴る窓はすぐに判った。掛金がゆるんでいるのだ。釘《くぎ》で打ち直さねばならないだろう。瑤子はとりあえず、マッチ箱を使ってその掛金にはさみ込み、音をとめて居間へ戻った。  男たちは能登で瑤子に見せるべき場所について議論しはじめている。  二人とも紳士だった。その二人が清潔な心を持っていることは、誰よりも瑤子が一番よく知っていた。  だからこそ、行き当たりばったりに降りた金沢の駅で、岡崎に声をかけさせたのである。岡崎がその時何と言ったかよく憶えていないのは、瑤子に強制的に声をかけさせられたせいなのだ。  そのテレパシーを用いた時、近くに敵がいなかったのは幸運だった。瑤子はせっぱつまってそういう非常手段を講じたのである。  泊ろうにも、もう金が心細かった。 「宿をお探《さが》しですか」  岡崎はその時そう言ったのである。 「ええ」 「わたしでよかったらご案内しましょう」 「でも、お金が……」 「それは困ったな」  そんなやりとりであった。心細いと言っても、一泊や二泊なら市内のホテルへ泊る位はあったが、それでは発見されるおそれがあった。  雪は降るし、うろうろと逃げまわるのに疲れてもいた。せめて春が来るまで、どこか一個所で過したいと思っていた。  岡崎が芸術家であることはすぐに判った。話している内に、岡崎が瑤子をアシスタントに使ってもよいと考えはじめたのが判ると、瑤子はひたすらそれにすがる気になった。金沢の町はずれなら、追手もおいそれとは発見できまいと思ったのだ。  岡崎はくわしく尋ねなかった。瑤子の人柄を見て信用してくれたのだ。決してテレパシーで強制したのではない。強制したのは、最初に声をかけさせた時だけだ。  そして今のような状態になった。八、九年前に妻をなくした岡崎は、兼《かね》さんというおばさんを通いの家政婦にして、七人ほどの弟子たちと陶芸の仕事をしているのだが、やはり何かと不便していたらしく、瑤子のような女性を探していたのであった。  すべてうまく行った。難を言えば岡崎が瑤子をやたらに外へ連れ歩きたがるくらいなものだ。しかし、瑤子は用心して、なるべく外出しないようにしている。それに念の為、苔も身近に置いている。苔が瑤子に取って警報装置の役目を果すことは、ずっと以前に祖父の北園延弘が教えてくれていた。     4  東京は雨があがったばかりだった。 「やんだようだな」  小柄だが、見るからに敏捷《びんしよう》そうな男が窓の外を眺《なが》めて言った。庭園灯に照らされて、広い芝生の庭と、その先に四本ほど並んだ太い椎《しい》の木が見えている。 「兼六園の成巽閣《せいそんかく》はどうだ」  背の高い、陰険な感じの男がそばのデスクに坐《すわ》っていて、ファイルをめくりながら言った。 「金沢か」  小柄なほうが外を見たまま問い返す。 「そうだ」 「雪だ」  小柄なほうが言って振り返る。 「いずれは調べねばならんだろうが、雪が積っている所はあとまわしになる。それでなくても手が足りないのだ」 「野川瑤子か。どこへ消えたのかなあ」 「亭主にもまだ連絡がないのだろうか」 「うん」 「気の強い女らしいな」  すると小さいほうが内ポケットから瑤子のポートレートをとり出して、デスクの上へひょいと投げた。 「ほう、美人じゃないか」 「それが気の強い女か」 「たしかにそのようにも見えんな、これは」  小男は肩をすくめて部屋を横切り、ソファーに体を沈めた。カーペットもソファーも、重厚なものばかりだった。 「厄介な相手さ」  煙草をとり出しながら言う。 「なぜ」 「あんたはいいよ。俺たちの尻《しり》をひっぱたいていればそれですむ」 「嫌味《いやみ》を言うな、嫌味を」  のっぽのほうは苦笑を泛《うか》べている。 「その顔を見ればどう厄介か判るだろう。決して気が強くもなければ勇敢でもない。少女の頃が判るぜ」 「どう……」 「純情一途な娘だった筈《はず》だ」 「今でも清純派だな」 「それが夫にも連絡を断って頑張《がんば》っている。なぜだか判るか」 「さあね。こっちは事務屋だから」 「亭主を愛しているに違いない」 「そりゃそうだろう。まだ結婚して三年しかたっていない」 「半年で別れる奴もいるよ。野川瑤子は本当に亭主を愛しているんだ。俺にもだんだん判って来たよ。だから今度のことに亭主を巻き込みたくないのさ」 「成る程ね」 「それでやけに頑張るんだ」 「テレパシーを使う奴に頑張られてはかなわんな」 「彼女はきっと後悔している筈だ」 「何を後悔する」 「自分がテレパスであることをだ」 「生まれつきなのだから仕方あるまい」 「しかしそれを利用した。利用してしあわせになった」  小柄な男は天井へ煙を吐き出しながら言った。 「それで俺たちに発見されてしまったのだからな。あんなことをしなければよかったと後悔しているだろう」 「しかし判らんな、その女」  のっぽが言い、今度は小柄なほうが訊《き》いた。 「何が判らない」 「そうじゃないか。何千万人……いや、一億人に一人というような、またとない能力に恵まれているんだぜ。他人の思考を自由自在に読みとれるし、こっちの考えを相手に気付かれずに押しつけることもできる。そんな力がもし俺にあったとしたら、たちどころに俺は大金持ちになってしまうだろう。ところがこの女は、亭主を出世させただけだ。月に二度か三度、定期的に亭主の会社へ行って、亭主に好感を抱いてもらうように手当たり次第テレパシーを使う。だがそれで、亭主のほうはどれ程出世した。たかが二部上場の会社の課長じゃないか。選挙にでも出して見ろ、トップ当選間違いなしなんだぞ」 「それがテレパスの特長なのさ。テレパシーを使える奴は、みな子供の頃から人の心をくまなく知っている。それだけに、自分を目立たなくしてしまうんだ。テレパシーを使って人の上に出て見た所で、大して幸福になれるわけではないということが判っているそうなのだ」 「そんなものかな」 「仕事だからやむを得んが、彼女を追いつめるのは気が進まんよ。彼女の祖父の北園延弘と同じように、あの能力が老化して消滅してしまうまで、ほどほどにひっそりと暮らさせてやりたくなっているんだ」 「小さなしあわせ、って奴か」 「そうだ。どうも、しあわせという奴は、あまり大きなものではあり得ないような気がする。みんなめいめいしあわせを求めているんだからな。それは、たとえて言えば頭の上に風船をうかべているようなものだ。一人だけその風船を大きくふくらませれば、まわりの風船のいくつかを破裂させなければなるまい。しかし、もっと大きくしたら、自分の風船がふくれすぎて薄く破れ易くなるじゃないか。そしてバーンさ」  小柄なほうは、両手で玉が割れる仕草をして見せた。 「本物のしあわせは大きくない。だが、大きい小さいは本当は問題ではないのかも知れんな。問題はそれが安定しているかどうかだよ。いつ燃え出すか判らない家で笑っているより、絶対燃えないと判っている家でほほえんでいるほうがいい」 「センチメンタルになっているようだな。そんなことを言って、仕事がおろそかになっては困るぞ」 「またはじまったな」 「本気で言っているんだ。我々はどうしても強力なテレパスが必要なのだ。ソ連の超能力研究は我々西側諸国よりずっと進んでいる。彼らが国際会議のたびに、その随員としてかなり強力なテレパスを連れて来ていることははっきりしているんだ。その為に向こうの思い通りにされてしまう。また、スパイにテレパスを使っていることもたしかだ。ビルの外で煙草でも吸いながら、極秘の会議の内容を全部聞き取ってしまうんだぞ」 「判ってるよ」 「だったら早くつかまえてくれ。CIAもやいのやいの言って来ている。野川瑤子は今のところ、存在が判っているテレパスの中では世界一の能力を持っているんだからな。何しろ、苔を発光させてしまう程の力なのだぞ」  東京の高輪《たかなわ》にあるその家は、雨あがりの夜空の下で、黒くぬれ光って見えている。     5  金沢。香林坊《こうりんぼう》からちょっと離れた所にあるビルの三階の酒場だ。 「人口の割りに飲食店の数が多いことでは、ひょっとするとこの金沢は日本一かも知れませんよ」  東日機材金沢支店の田辺が、邦彦を案内してその酒場へ入って来たところである。 「おや、また降り出しましたか」  和服を着たママがそう言い、カウンターに坐った二人に湯気の立つおしぼりを渡す。 「うん。風も強くなった」 「まったく、晴れても長く続かないのだから」 「ママ、紹介しよう。うちの本社の野川課長だ」 「まあ、課長さん。まだお若くていらっしゃるのに」 「切れるんですよ、野川さんは」  田辺はお世辞ではなく言ったようである。 「よろしく」  邦彦は軽く頭をさげた。へたをすれば金沢へ転勤になるかも知れないのである。 「東京なみとは言いませんが、なかなかいい店でしょう」  田辺に言われて邦彦は店の中を見まわした。 「うん、洒落《しやれ》た店だね。落着いていていいよ」 「おやじがひいきにしているんです」 「君のお父さんが……」 「ええ。あの絵は父のです」  田辺は背後の壁にかけてある、二十号ほどの絵を指さした。 「勘定がたまると、自分の絵で払うんですからいい気なもんですよ」  するとママが笑って見せた。 「とんでもない。田辺先生の絵なら、いただいて損になりませんからね。右から左に売ったって、かなり儲《もう》かってしまいますよ。でも……来ていただく先生のですから、すぐに売り払ってしまうこともできないのが、少し辛いところですけど」 「そうなんだよな」  田辺は得たりというような顔になった。 「おやじはそこまで気が付いていない。今度言ってやらなくては」 「よしてくださいよ。坊ちゃん」  ママは半ば本気でとめ、 「あら、まだご注文もうかがわないで」  と邦彦を見て笑った。 「寒いからコニャックがいいですよ」  田辺がすすめる。 「いや、ウイスキーの水割りをください」  田辺が奢《おご》るというので、邦彦は遠慮していた。 「野川課長の奥さんは有名な賢夫人でね」  田辺が言う。 「あら、そうですか」 「そうさ。……いや、賢夫人というと少し堅すぎるな。とにかく美人で優《やさ》しくて、どうしようもないそうだよ」 「どうしようもない……」  ママはその言い方を笑った。 「そう。若い連中がそう言っているんだ。僕はまだ拝んだことがないけれど」 「どうしようもないって、どういう意味ですの、坊ちゃん」 「よくあるんだよ。自分の好みにピッタリしすぎてて、いやになるんだ。いやというのは、ちょっとむずかしいんだけど、そんな自分の好みにピッタリの人が、まるで縁もゆかりもなく行きすぎてしまったり、もう人の恋人や奥さんになってしまっていたりすると、がっかりするより先に、自分自身がいやになってしまうのさ」 「あら、それならよく判るわ」ママが真面目《まじめ》な顔で言った。「あたしたちにもありますもの」 「へえ、女性にもかね」 「ええ。たとえば、あたし見たいなおばあちゃんになってから、若いすてきな男性に会うことがあるんです。その男性がすてきだということは、若くてはきっと判らなかったでしょうね。男性というものが少しは判って来て、やっとそういう人が本当にすてきな人なんだ、って判るんですよ。でも判ったときはもう手おくれね。今までに何人こういうタイプの人を自分がみのがして来たかと思うと、自分で自分がいやになるの」 「僕はどう、ねえ僕は……」  田辺が気負い込んで尋ねたので、そのママも邦彦も声をあげて笑い出した。  金沢の夜が吹雪いている。  降りつもる雪     1  岡崎の威勢のいい声が仕事場から聞こえて来る。瑤子はそれを聞くと思わず微笑を泛《うか》べた。  大声になるのは、岡崎が仕事に乗っている証拠なのだ。知らない人が聞いたら、腹を立てて弟子たちを叱《しか》りとばしているように思うだろうが、瑤子はその声にもうすっかり慣れてしまった。 「冬子」  瑤子はそっとつぶやいて見る。部屋の中は暖かいが、窓の外はまっ白である。ことしは殊のほか雪が多いと言う。瑤子がこの金沢へやって来たのは、その雪のつもりはじめの頃だった。岡崎に対して咄嗟《とつさ》に冬子と名乗ったのは、町につもった雪からの、ごく単純な連想に過ぎなかった。  だが、それ以来、瑤子は冬子になってしまった。ひょっとすると、いや多分、岡崎は冬子と言う名が思いつくまま口から出た偽名であることをとうに悟っているだろう。そう考えるたび、瑤子の心の中にも、雪に似た冷たいものが降りつもるのであった。  夕暮れの雪景色の中に、一つ二つ家の灯りが見えている。瑤子は編物の手をとめてじっとその灯りをみつめた。  雪にとざされたあの家の中も、やはりこの部屋と同じように暖かいに違いない。すべての事柄がそこでは一時進行を停止し、人々は雪が消えはじめるまで、静かな時間の中に沈み込んでいる。  瑤子はそのように感じ、ため息をついた。  降りやんで欲しくない。融け消えて欲しくない。雪がもたらしてくれたこの静かな時間が、いつまでも終らずにいて欲しいと思った。厚く雪をのせた屋根の下で、冬子として存在し続けることができたら……。  瑤子は窓から目をそらし、自分の膝《ひざ》のあたりにその視線を移した。  いずれこの雪もやむ。春が融かしてしまう。そうなれば、草木の芽と同じように、自分もこの隠《かく》れ家《が》から追い出されなくてはならない。冬子は存在しなくなるのだ。そう思うと、また瑤子の心に沈鬱《ちんうつ》なかげがさすのであった。  瑤子も悟っている。岡崎唯士の心の中には、冬子という女が降らせた雪がつもりはじめているのだ。冬子が去ったあとに、その雪だけが消え残ることを思うと、瑤子はいたたまれなくなるのであった。  だが、岡崎やその弟子たちの声は、瑤子のそんな思いを吹きとばすように屈託がない。 「もうすぐ休憩になりそうですよ」  仕事場から出て来た青年が、居間の瑤子に早口でそう知らせると、小走りに廊下を去って二階の岡崎の部屋へ、何かを取りに行ったようだった。 「まだ休ませんぞ」  その声が聞こえたらしく、仕事場で岡崎が呶鳴《どな》っている。  瑤子は古風な柱時計を見あげた。たしかにそろそろひと休みしていい時刻になっていて、瑤子は編物を坐っていた椅子の上へ置くと、台所へ行って火にかけた鍋《なべ》の具合を見た。  とうに夕食の仕度はできていた。ちょっと前にお兼さんは帰り、仕事場から男たちが出て来ると、にぎやかな食事がはじまる筈であった。瑤子はもう盆にのせて揃《そろ》えてある食器類を居間へ運んだ。 「冬子さん、手伝いましょうか」  いつの間に来たのか、別な若い男が悪戯《いたずら》っぽい顔でささやいた。 「こら、島本」  また岡崎が仕事場から呶鳴る。 「一人だけいい子になろうとしたって、そうはさせんぞ」  島本はちょろりと舌をのぞかせ、あわてて居間から戻って行く。 「どうにもならんな。みんなこの時間になるとそわそわしはじめる」 「先生だって」 「ばか」  そして若々しい笑い声。瑤子はその笑い声を救いのように感じると同時に、羨《うら》やんでもいる。その声は疑いもなく、春を待つ人の声だった。  いつか自分もあのように笑えるだろうか……。瑤子は椅子の上から編物をとりあげて、居間の飾棚《かざりだな》の横へ置きながらそう思った。  たとえばこの編棒。  瑤子は使い込んだ古い竹の編棒を左の薬指の腹でそっと撫《な》でた。赤みがかった飴色《あめいろ》をしていた。亡くなった岡崎の妻が使っていたものだ。それをお兼さんが押入れから探し出して来てくれたとき、瑤子は恐ろしいような気がして、すぐには手に取れなかった。  それは笑いながら春を待った人の持物だった。人に信じられ、人を裏切らず、この世界のどこに立っても、かげりのない心で顔をあげていられる人が使い込んだ品なのだ。  瑤子は細長いボール箱に入ったその古い編棒に、何日も手を触れることができずにいた。私はこの家に新しく来た、ただのお手伝いさんなのだと、いくらそう思い込もうとしても、その編棒に手を触れることが、岡崎の亡くなった妻を冒涜《ぼうとく》するようで、出来なかったのである。  敵を持つということは、恐ろしいことだった。自分一人が追われるだけではすまないのだ。敵からのがれるためには、その逃げ道にある何かを傷つけずにはいられないようだ。本来なら行く必要のない場所へ駆け込んで、そのあたりを踏みにじってしまうのだ。  自分は今、あの立派な体格をした岡崎の心に爪《つめ》を立て、暴れまわっているのではないだろうか……。瑤子はそんな風に感じている。     2 「あなたのおかげで、こいつらこの冬は誰《だれ》も休まん」  にぎやかな食事のあとで、岡崎がそう言って笑った。 「休むものですか」  弟子の一人が即座に言った。 「抜け駆けをされてはかないませんからね」  瑤子は笑いながら台所へ逃げた。 「おかしいぞ」  岡崎が言っている。 「お前ら、俺のことを勘定に入れておらんのと違うか」 「先生ですか……」  一人がわざと驚いたような声で言う。 「何の勘定に入れるんですか」 「冬子さんのだよ」 「冬子さんがどうかしたのですか」 「こいつ、師匠をからかう気か」 「そりゃ、僕らは皆、冬子さんに憧《あこが》れていますよ。でも先生は……」 「俺は別か」 「ええ。競争圏外です」 「なぜ」 「だって、年齢が。なあ」 「そうですよ。年が違いすぎますよ」 「違わん」  岡崎が大声を出す。勿論《もちろん》ふざけているのだ。 「俺だって独身だぞ。それより加藤、お前はちゃんともう恋人がいるじゃないか。お前こそ圏外だ」 「やめてくださいよ、そんな大きな声で。台所に聞こえてしまいます」 「聞こえたほうがいい。そうだ、お前だってデートとか何とか言って騒いでいたな。加藤もお前も圏外だ。ざまみろ」  仕事場から出た岡崎は、青年たちの師匠というより、餓鬼《がき》大将と言った感じになる。 「あの大声はもう少し何とかならないものですかね」  台所へ手伝いに来ていた弟子の一人が小声で瑤子に言った。もう一人は黙々と食器を洗ってくれている。 「久野さん、いいんですよ。私があとでゆっくりかたづけますから」  瑤子はその青年に言った。 「ここの台所はお湯が出ませんから」  久野は静かな声で答え、洗いつづけている。 「そうですよ。先生は案外大ざっぱだから気が付いていないんです。お湯が使えるようにしろって言いましょうか」 「やめてください」  瑤子は思わずきつい声になった。 「そんな必要はありませんわ」 「でも、手が荒れますよ」 「かまいません。冬は冷たいのが本当ですもの。昔の人は風の吹き込むもっと冷たい台所でお仕事をした筈でしょう」 「でも今は湯沸器がありますよ。この家だってプロパンを使っているんだし」 「とにかくいいんです。先生に変なことをおっしゃらないでくださいね」  瑤子が言うと、久野がかわりに答えた。 「言いませんよ」  瑤子は久野のそばへ行き、 「さあ、かわってください。あとは私がしますから」  と言った。久野はさからわずに流しをあけ、腰にはさんだタオルで手を拭《ふ》いた。 「お兼さんがこういう所を見たら憤《おこ》りますね」 「どうして」 「お兼さんがやっていたときは、誰も台所へなんか来はしなかったから」 「そうよ」  瑤子は笑いながら言う。 「だから早くあちらへ戻ってくださいね」  二人の男は、 「はあい」  と子供のような返事をして台所を出て行った。  瑤子は冷たい水に手をひたした。そしてふと、また岡崎の妻のことを想った。  冬が来るたび、その人もこの冷たい水に手を濡《ぬ》らしていたのだ。自分は今、同じ冷たさを感じている……。  瑤子は急にうろたえた。  なぜ亡くなった岡崎の妻のことを考えはじめているのだろう。自分の心がゆるみはじめているのではなかろうか……。気にする必要はないのだ。気にするなら、その人が寝起きしていたこの家にいること自体を気にしなければならなくなる。 「あなた、助けて……」  瑤子は顔の中心あたりが痺《しび》れるように感じた。その痺れは涙を引き出して来る痺れであった。  弟子たちも師匠も、この家の男たちはみな好人物ばかりであった。ことに岡崎は、逃げ込んだ瑤子を疑いもせず、語りたがらないことは強いて尋ねもせず、ただいつまでもいて欲しいと寛大に言うだけであった。  頼るもののない女の身が、そのような寛《ひろ》い心についすがって行くのはとめようのないことであった。あなた助けて、とつい声に出して言ったのは、害意のないその強い力に引き寄せられて行きそうな自分を、励まさずにはいられなかったからである。  岡崎唯士は完成に近づいた男であった。この世の中に無造作に突っ立って、ゆるぎのない自分の居場所を確保していられる強い男だった。それにくらべると、夫の野川邦彦はずっとひよわで未熟だった。しかし、その二人には瑤子にとってくらべることのできない差があった。瑤子が愛しているのは邦彦のほうなのだ。しかし、それでもなお……どこからか冬の風が吹き込んで来るようだった。     3  弟子たちはみな通いで、夜になるとその家は岡崎と瑤子の二人きりになってしまうのだった。  が、その晩は客があった。瑤子にとっては、はじめて見る顔であった。 「あの、田辺ですが」  その青年は玄関に立って、瑤子を眩《まぶ》しそうな顔で見ながら言った。 「あ、田辺先生の……」  岡崎の友人で画家の田辺清次郎に息子が一人いると聞いていたが、瑤子は何となく高校生くらいの年齢に感じていた。しかし、目の前に立っているのは夫の邦彦とさして違わない年齢の男だった。 「どなたかね」  奥から岡崎が尋ねた。 「田辺です。今晩は」  その男は瑤子に笑顔を見せながら自分で答えた。 「圭介《けいすけ》君か」 「はい」  瑤子は体を壁際へ寄せて田辺圭介を迎え入れた。 「お邪魔します」  圭介は瑤子にそう言うと、勝手知った様子で勝手口へ抜ける土間を進み、その左側にある黒タイルのスペースへ入って靴を脱いだ。  瑤子はそのあとから、圭介の靴を揃《そろ》え直して廊下へあがり、台所へ入った。 「よう、久しぶりだな」 「ごぶさたしております」  二人の声が台所へ筒抜けに聞こえている。瑤子は手早くコーヒーの仕度をしてその居間へ向かった。 「そうか、冬子さんははじめてだったな。これは田辺の一人息子で圭介君だ」  冬子はあらためて頭をさげた。 「冬子でございます。どうぞよろしく」  明るい居間の光の中で、圭介は少しぎごちなく、 「田辺です」  と挨拶《あいさつ》した。 「ブランデー・コーヒーでは……」  瑤子が岡崎に訊《き》く。 「おお、結構だね」  岡崎は大きく頷《うなず》いて見せ、 「どうだ」  と圭介に言った。 「親父に聞いているだろう」  それが瑤子のことだと言うのは岡崎の視線と表情ですぐ判った。 「ええ」  圭介はあいまいに答えた。 「何と言ってる、あいつは」  岡崎は瑤子に対する田辺の評価を、是が非でも聞き出してやると言った意気込みで尋ねている。 「親父に聞いていた通り、美しい方ですね」  岡崎はさもありなんと言うように笑い、 「いよいよもって、これは用心をせんといかんな」  と、大げさに腕を組んで見せた。 「用心……」  圭介が怪訝《けげん》な表情になる。 「そうだよ。田辺清次郎は冬子さんに恋をしているらしい」 「およしください」  瑤子は笑いながらたしなめた。 「そんな風におっしゃると、私が困ります」  岡崎はかまわずにずけずけと言う。 「君が困ることはない。老いらくの恋の相手などしなければいいだけだ」 「老いらく、と言っても、うちの親父と先生は同い年の筈ですよ」 「や、さすがに倅《せがれ》だな。親父の肩を持つか」 「そんなわけでもありませんがね」  圭介は当惑したように瑤子を見た。 「お二人は随分仲のいいお友達でいらっしゃいますわね」  瑤子は助け舟を出した。 「そうなんですよ。先生とは無二の親友なんです」  圭介は微笑を泛《うか》べて言った。 「ところがこれは不肖の倅で、洋画家の父を持っているくせに絵筆を握る気もないらしい。焼物に熱をあげているんだよ」 「まあ、そうですの」 「ここの先生の子供に生まれればよかったんです」  圭介は半ば本気のように言う。 「陶器や磁器にそんなに興味がおありなんですの」  瑤子はサイフォンのバーナーに点火しながら言った。 「それはもう……でも父や先生のような才能がないものですから」  すると岡崎が叱《しか》りつけるように言う。 「やればいいんだ、やれば。才能、才能とふたこと目にはみなそう言うが、才能など手を動かしていればあとからついて来るものなのだ。才能が問題になるのは、百年、千年に一人と言うような天才のことだ。才能ということを言えば、この俺だって今すぐに手を動かすことをやめて見物人の側へまわらねばならなくなるじゃないか」 「でも僕は、その見物人の側ですよ。だから絵筆にも土にも触れず、しがないサラリーマンで我慢していられるのです」  瑤子はコーヒーカップを温めるために、熱い湯をそそぎながら言った。 「あら、お勤めですの」 「ええ」 「どんなお仕事をなさっていらっしゃいますの……」 「東日機材の金沢支店に勤めています」  圭介は淡々と答えたが、瑤子の手の動きが一瞬凍りついたようになった。     4 「画家も陶芸家も、こころざしてそれになれれば申し分はないが、へたをすれば糸の切れた凧《たこ》のような人生を送ることにもなりかねない」  岡崎は自分の過去をふり返るような目で言いはじめた。 「田辺が圭介君に対して何も言わん気持は俺にもよく判るよ。君は堅実な道を選んでいる。一人息子に向かって、敢《あ》えて親に気を揉《も》ませるような人生を選べとは言いにくかろうからな。しかしな、田辺は決してそれで満足しているのではないと思うぞ。ひょっとして、君が今にも会社をとび出して、何か好きなことをやりはじめるのではないかと期待しているのが、俺にはよく判るんだ。絵でも小説でも、何でもかまわん。そういうことに手を出す気はないか」  瑤子はやっと落着きを取り戻し、サイフォンのコーヒーが沸き立つのをじっとみつめていた。 「先生のおっしゃることも親父の気持もよく判ります。でも、創《つく》り出す仕事はどうも僕の性に合っていないような気がするのですよ。その点、我ながらいくじのない男だとは思いますけれど、やはり見物人……よく言えば鑑賞する側でいたいですね。そういう立場でなら、もっともっと突っ込んで研究もして行きたいし」  岡崎は豪快に笑いだした。 「やれやれ。今に俺は田辺圭介という批評家の餌食《えじき》にされそうだぞ」  コーヒーが一気に沸きあがって行くところだった。  東日機材の金沢支店。  瑤子の耳には、岡崎の大声よりも、圭介のその言葉がいまだに大きく谺《こだま》しているようであった。  夫の噂《うわさ》が聞ける。  瑤子はそう思うと矢も楯《たて》もたまらなくなりそうなのを、じっとこらえていた。たしかに邦彦は雪の金沢へ来ていた。社用で出張して来たに違いない。だとしたら圭介は邦彦が金沢のどこに泊っているかも知っている筈だった。  会える。圭介にひとこと言えば夫に会えるのだ。テレパシーなど使わなくても、当たり前の言葉で、突然姿を消したわけを話せるのだ。  サイフォンのコーヒーをカップへ移すとき、瑤子は自分の指がかすかに震えているのを感じた。  夫はすぐそばへ来ている。わけを話せばすべては解決するのだ。 「会社はどちらですの」  その言葉はまるで瑤子の意志とは関係ないもののように唇《くちびる》から出てしまった。 「県庁の近くです」  圭介は軽く言った。 「支社と言いますと、本社はやはり……」 「ええ、東京です」  瑤子は圭介の話題を東日機材の本社のことへ向けたかったのだ。  しかし、岡崎は敏感に何かを察したらしく、瑤子の横顔をじっとみつめていた。 「どんなお仕事ですの」  岡崎のそういう気配を感じては、瑤子も話をそらさぬわけには行かなかった。 「事務機を扱う会社です。近頃《ちかごろ》はうちの製品もだいぶ普及しましたから、オフィス勤めの方ならたいてい名前くらいは知ってくれていますが、あなたのような方には余り縁のない商品でしてね」  圭介は卑下するようにそう言い、 「親父から言いつかって来まして」  と、持って来た風呂敷《ふろしき》包みをといた。 「おお、修理ができたか」  圭介が取り出した箱を見ると、岡崎はうれしそうにそれへ手を伸ばした。  箱から出て来たのは人形だった。しかし、ただの人形ではなく、オルゴールつきの機械人形だった。 「こういう物はやはり東京でないと修理ができんのだ」  岡崎はそう言い、ネジを捲《ま》きはじめた。どうやら圭介はそれをすでに知っているらしく、珍しくもなさそうな顔で見ていた。 「まあ、精巧にできているのですね」  瑤子が言うと、岡崎は子供が玩具《がんぐ》を自慢するときとそっくりの表情で、 「見ていてごらん」  と台のどこかを指で押した。  オルゴールの曲は瑤子が一度も聞いたことのないものであった。そして人形は上の瞼《まぶた》を動かし、同時に腕をあげさげしながら、台の上でゆっくりと回転しはじめた。 「オランダ製だよ。十八世紀もだいぶ早い頃に作られたものなんだ」  物哀しいメロディーだった。瑤子は人形の動きに見とれるふりをして、ちらりと圭介の横顔に目をやっていた。  どこか図太そうなところのある父親の田辺清次郎とくらべると、圭介は若いくせに少し影の薄い感じがあった。しかし、その分清潔そうで、正直な人物らしかった。 「よければ君の部屋に飾っておきなさい」  人形が台の上を一回転しおわったとき、岡崎はそう言って動きをとめさせた。 「大切なお品なのでしょう」  瑤子が訊く。 「うん、まあね。しかし、故障で動かなくなってからもう随分たつ。それを直す気になったのは、君の部屋へ置こうと思ったからさ」  すると圭介が笑った。 「先生じゃこれは似合わないもの」  たしかに、優雅で可憐《かれん》なその人形は、どう見ても岡崎には似つかわしくなかった。     5  圭介が帰ったあと、岡崎は風呂へ入った。その間に夜具をのべ、戸締りを見てまわるのが瑤子の役目であった。洗濯《せんたく》はお兼さんが引受けている。それも岡崎の紳士的な配慮からであろう。しかし、とかく色眼鏡で見がちな世間の目からは、ひとつ屋根の下にいる今の岡崎と瑤子のことがどう映って見えるか、考えるまでもないことだった。  雪が融けるまで。瑤子がこの安穏なかくれ家での生活に、そういうめどをつけているのも当然なことであろう。雪融けと共に、噂《うわさ》が一気に流れ出すのは目に見えていた。 「ああいい湯だった」  岡崎はそう言いながら、丹前に帯を巻きつけて居間へ戻って来た。 「何か召しあがりますか」  瑤子が訊いた。 「うん。ブランデーをもらおう。ナイト・キャップという奴か。考えて見ると、俺も生意気なことをするようになったもんさ」  岡崎は冗談めかして言い、いつもの場所にどっかとあぐらをかいた。 「シングル……」 「いや、ダブルにしてくれ」  岡崎はそう言い、瑤子がブランデー・グラスを真横に近く寝かせる手つきを見ていた。 「まったくふしぎな人だ」 「またですの……」  瑤子はそう笑う。 「またでも何でも、ふしぎなものはふしぎさ。そうじゃないか。お茶と言えばお茶で、君は見事に作法通り、いや、それ以上に心得切った自在さでこのわたしにお茶を楽しませてくれる。料理も上手だし、花を活《い》けさせても立派なものだ。おまけにブランデー・グラスの扱い方まで心得ている。これがふしぎでなくて何だと言うんだい」 「そうでしょうか」  瑤子は岡崎の前へグラスを置きながら言った。 「正規の寸法で作られたブランデー・グラスは、テーブルの上へ横にして自然に置いた場合がダブルの分量になるようにできている。それを水平の位置になるよう尻を持ちあげるとシングルだ。しかし、そんなことも今どきのバーの連中は誰も知らなくなってしまっている。言いたくないことだが、今のような君のやり方を見ていると、つい訊いてしまいたくなる」  岡崎はそこで一度口をとじ、じっと瑤子をみつめてから、あらたまったように言った。 「どこで教わったのかね。いや、誰に習ったのかね」  瑤子は黙ってうつむいていた。 「まあいい。判っていながら訊いたわたしが悪かったのだ」 「いいえ」  瑤子は細い声で否定した。私がいけないのです、と言う意味であった。 「君は東京の人だ」  岡崎はグラスを掌《てのひら》に入れてゆすりはじめながら言った。 「圭介君に、さっき東京の話をさせようとしていたじゃないか」  声が沈んでいた。 「東京が恋しいのだね」  沈んではいたが、優しい声だった。 「なぜこんな所へ逃げて来たんだ。何があったのかね。いや、わたしは君の力になりたいのだよ。たとえばあの圭介君だ」 「え……」  瑤子は顔をあげて岡崎を見た。 「そう、圭介君だよ。たとえば彼と君が恋をしてくれてだ」  岡崎の顔には優しい微笑が泛《うか》んでいた。 「もし結婚と言うようなことにでもなったら、わたしは本当に自分をしあわせに思うことだろうな」 「圭介さんと私……」 「たとえばの話だよ。わたしは圭介君が好きだ。彼の父の田辺とも親友だ。そして、君が彼と結婚してわたしや田辺の身辺でしあわせな人生を送ってくれたとしたら、どんなにうれしいことかな」  岡崎は瑤子から目をそらし、夢を見るような目になった。 「あいにく君が若くて美しい女性だから、なんとなく話がややこしくなってしまうが、今言ったことがわたしの本心だ。もうひとつたとえさせてもらえば、さっきの人形さ。わたしは外国の町であの人形を見かけた。そうしたら、もう、一歩もそこを動けなくなってしまったのだよ。綺麗で、可愛らしくて、そして何かいじらしくて……こんなものが自分の人生の外に存在するのは許せないと言った気持になったんだ。わたしは欲が深いのだろうか。圭介君にからかわれたが、たしかにあの人形はわたしのような男には似つかわしくない。しかし、美しいものを感じる心は同じだ。外見がどんなだろうと、稚《おさな》かろうと老成していようと、そんなことは問題じゃない」  岡崎はブランデーをひと口含んでから、しんみりと言った。 「冬子さん。いや、それもかりそめの名かも知れんが、わたしにとってもう君は冬子なのだ。……ひとつ約束してくれんか」 「お約束を……」 「そうだ。君の置かれている状態がどう変化しても、これからの人生で、わたしと接触を絶やさないで欲しい。それさえ約束してくれれば、いつか君が不意にここから姿を消す日がやって来たとしても、わたしは悲しまないですむ」  この人は何もかも見通している。瑤子はそう思い、また自分の体に、雪が重く降りつもったのを感じた。  奥能登の波     1 「地図で見ると、このあたりは能登《のと》半島の項《うなじ》だな」  ハンドルを握った岡崎唯士が言った。 「項ですか」  うしろのシートで田辺圭介が軽く笑ったようだった。 「あまり綺麗《きれい》なえり首じゃないな」 「婆さんのえり首か」  男二人は声をあげて笑った。 「でも、素敵ですわ」  岡崎のとなりに坐《すわ》って瑤子が言った。和服を着て、二つに畳んだショールを膝《ひざ》の上にかけていた。 「ドライブ・コースだとおっしゃるので、ちゃんと舗装してある道路だとばかり思っていましたのに」  ブルーのボルボは海岸の砂地を疾走している。細かな砂に海水がしみこんで堅くしまり、舗装道路そこのけの安定した走路になっているのだ。  冬の北陸としては珍しく晴れあがった日で、ただ風が強く、左側にはその砂浜に打ち寄せる日本海の波が、白い牙《きば》のようにたけだけしく見えている。 「舗装道路よりこのほうがよほどいい。だいいち車の音がここへ来ると柔らかくなる」  シーズン・オフなのでほとんど車影はなく、岡崎は思い切りアクセルを踏み込んでいるようだった。ボルボはずっしりとした安定感があり、シートが瑤子の体をうしろからそっと抱きしめるように支えてくれていた。  土曜日の朝であった。岡崎は前の晩、急にいつか言っていた奥能登へのドライブをすることにきめ、田辺清次郎に電話をしたが、田辺は都合が悪いらしく、圭介をかわりに寄越したのだった。 「寒くないだろうね」  岡崎が訊《き》いた。 「暖かすぎるくらいですわ」  瑤子がそう言うと、うしろで圭介が、 「車の外へ出る時は気をつけないといけませんね。うっかりすると風邪《かぜ》を引いてしまいますよ」  と注意した。車内は充分に暖かだが、外には冷たい風が吹いていたし、その砂のドライブ・コースの右側には雪がつもっていた。 「そうですね」  瑤子は圭介の忠告を素直に聞き入れて、羽織を脱《ぬ》ぐと畳みはじめた。 「風邪くらい引いてもかまわんよ」  岡崎は前を向いたまま言った。 「君が寝込んだらみんながよろこぶだろう」 「あら、なぜですの」 「介抱できるからさ」  岡崎は当たり前だと言うような顔であった。 「おや、何かやっていますね」  圭介が岡崎と瑤子の間へ顔を突き出すようにして前を見た。 「そうだな」  ずっと前方に車が何台も停《と》めてあり、人が動いているのが見えた。 「あれはロケだな」  岡崎はそう言って車のスピードをゆるめた。 「映画のロケーション……」  瑤子は圭介に訊いた。 「さあ……そうですね。人数も車も多いし、スチール撮影ではないようです。でも、コマーシャルかもしれないし」 「いや、あれはテレビ局の車だよ。テレビ・ドラマのロケーションだろう」  岡崎が言った。たしかにテレビ局のマークをつけた車が見えはじめていた。 「見ろ。あの女優はよくテレビに出ているぞ」  白いパンタロンに薄茶の毛皮のコートを着た女優が、波打際にこちらを向いて立っていて、キラキラと光る反射板を持った男がその前にしゃがんでいた。すぐそばにカメラがあり、十二、三人の男女がそれをとりかこんで何かやっていた。  岡崎はそこを低速で通りすぎると、またアクセルを踏み込みながら、ウフフ………と笑った。 「何がおかしいんですの」 「誰《だれ》かさんのことをドラマに仕立てたら、きっとあんな場面を撮影することになりそうだと思ったのさ」  瑤子は苦笑した。 「冬の千里浜を一人|淋《さび》しく歩く謎《なぞ》の美女、か」 「やめてください」  瑤子は笑って言った。 「いいじゃないか。謎の美女だもの」 「冬子さんが困っていますよ」  圭介が言うと、岡崎ははじけたように笑い出した。 「また一人、冬子ファンが増えたな」  圭介は照れたのか、体を引いてうしろのシートによりかかった。 「あの女優より冬子さんのほうがよほどいい。それは、あの女優だって美人には違いないが、所詮《しよせん》はお芝居だ。いくら謎めいて見せたところで、本物にはかなわん」 「私はそんなに悪い女ですの」 「いや、悪いなどとは言ってはおらん」  瑤子の言い方が恨めしそうだったので、岡崎はちょっと慌《あわ》てたようであった。 「ただ謎めいていると言っただけさ」 「謎って、悪いことではないでしょうか」  瑤子は自分の胸に湧《わ》いた悲しいものを、つとめて外にあらわさぬように気をつけながらそう言った。     2  能登の雪景色は、まるで墨絵《すみえ》を見るようであった。雪が色彩を吸い取って、影の濃淡だけを許しているように思えた。白い波頭を立てて荒れる海も、その黒白の絵を引き立たせる役を果している。 「どうだね、能登の雪は」  ボルボは海ぞいの道を走っていた。 「綺麗ですわ」  瑤子はため息まじりに答えた。 「気持が鎮《しず》まります」  すると岡崎は、ひどく沈んだ声で言った。 「そうかも知れんな」  瑤子は岡崎が言おうとしたことの見当がつきかねて、その横顔をみつめた。 「君の心の中の絵がこんな風だとすると……ちょっと哀《かな》しいよ」  瑤子は言い当てられたと思った。たしかに能登の雪景色は、今の瑤子の心理状態にしっくりと合うのであった。すべてが重く冷たいものにおしつつまれていた。色を消し、息をつめ、ただその重く冷たいものが去るのを、ひっそりと待っているだけであった。 「先生を哀しませたくありません」  瑤子は詫《わ》びのつもりで言ったが、それを岡崎がどういうように受取ったかは、はっきりしなかった。 「そうそう」  圭介が雰囲気《ふんいき》を変えるように明るい声で言った。 「この間お届けした機械人形はどうしました」  瑤子もそれに合わせて笑顔で答えた。 「私のお部屋に飾らせてもらっています。もうあのオルゴールのメロディーを憶《おぼ》えてしまいましたわ」  そう言って、瑤子はハミングした。 「ああいう品は僕も大好きなんですよ」 「それじゃ、先生に言って譲っていただいたら……」  すると岡崎は憤《おこ》ったような声で、 「譲ってやるものか」  と言った。 「まあ……」  瑤子は呆《あき》れたように圭介を見て笑った。 「ただし自分のものにする方法はあるぞ」  岡崎はニヤニヤしはじめた。 「どうすればいいんです」 「俺はあの人形を冬子さんにプレゼントした気でいるよ」  しばらく沈黙が続いた。瑤子も圭介も、岡崎の言った意味を悟ったのであった。 「それで……」  圭介は瑤子の顔から目をそらし、わざと訊いたようであった。 「君も判らん男だな」  岡崎はからかうように笑った。 「彼女にプロポーズしてしまえばいいんだ。うまく口説き落せばあれは君のものになるじゃないか」 「人形のためにですか……」  圭介はそれを冗談にして、笑いながら瑤子に視線を戻した。 「似合いだよ、君たちなら」  ボルボは岩肌《いわはだ》の露出した崖《がけ》の下を曲った。バスがクラクションを鳴らしてすれ違って行った。 「先生はもう再婚しないんですか」  圭介が尋ねる。 「ああしないよ」 「なぜです」 「もう年だ」 「まだそんな年じゃないですよ」 「土をいじっているだけで、もう充分なのさ。それに俺は、死んだ女房をまだ愛している」  岡崎は淡々と言い、 「こんなことを言えるのは年をとった証拠かな」  と笑った。 「この辺は何という所ですの」  瑤子は話をそらせようと思った。 「間もなく曾々木《そそぎ》だよ」  岡崎が言った。 「時国家などへ連れて行きたい気もするが、山へ入るのはやめておこう」 「この雪ですからね」  圭介もそれに同意していた。 「しかし、このまま大谷から飯田へ抜ける分には面倒なかろう。雪の九十九《つくも》湾もいいものだぞ」 「どこか、魚料理を食べさせる店へ寄りたいですね」 「うん。今は魚が一番うまい季節だ。しかし、そうしたら次は君が運転してくれよ」 「あ……しまった」  圭介は大仰に頭を掻《か》いて見せた。 「今頃気がついても遅いよ」  岡崎が笑う。 「どういうことですの」  瑤子が訊いた。 「酒ですよ」 「お酒……」 「先生は魚料理で一杯やる気なんです」 「まあ」 「いいか、冬子さん。圭介君には絶対に飲ませてはいかんぞ。ドライバーに飲ませてはいけないのだ」 「一杯くってしまった」 「一杯飲むのはこっちだよ。ほろ酔いで車に揺られてうとうとするのはいい気分だからな」  岡崎はたのしそうだった。 「雪見酒だ。俺はイカを食いたい。コリコリした奴をな」 「どうぞご自由に。そのかわり、和倉《わくら》に着いたら僕も思いきりやらせてもらいますからね」  三人は和倉温泉に泊る予定だった。     3  和倉温泉の宿へ入ってすぐ、岡崎は瑤子の部屋をのぞいたらしく、 「何だ、君の部屋は洋間じゃないか。けしからんな」  と言って、その十畳の部屋へ戻って来た。瑤子はまだ自分の部屋へ入っていなかった。 「私はかまいません」 「艶《つや》消しだよ。能登へ来てベッドで寝るなんて」  岡崎はそう言いながら、さっさと服を脱いで宿の丹前《たんぜん》に着がえてしまった。 「下に大浴場や家族風呂があるし、部屋にも風呂がついている。どちらでもかまわんが、君も先に風呂へ入って来るといい」 「それでは私はお部屋で」  瑤子は床の間を背に坐った岡崎へ、余り上等ではないお茶をいれてやってから、そう言って立ちあがった。 「俺たちは大浴場へ行って来る。食事のことはもう言ってあるから、湯からあがったらすぐに宴会と行こう」  岡崎はその宿に顔がきくらしく、入口では主人夫婦に叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》されたりしていた。  瑤子はその十畳の和室を出ると、自分が当てがわれた洋間の前に立ち、ハンカチを出すと把手《ノブ》を包むようにしてドアをあけた。  本当を言うと、冬のホテルは苦手《にがて》だったのである。乾燥している上に換気装置が一日中働いているから、静電気が起きているのだ。うっかり把手《ノブ》や鎖などの金属部分に手を触れると、ビリッと痺《しび》れるのだ。  だからバスルームへ入って蛇口《じやぐち》をひねり、湯加減を合わせて浴槽《よくそう》を満たしはじめると、バスルームのドアをあけ放して蒸気が部屋のほうへ流れて来るようにした。しかし、温泉ホテルだから静電気のことは心配ないようであった。瑤子はダブルベッドの端に浅く腰をおろし、しばらくぼんやりと湯の落ちる響きを聞いていた。  贅沢《ぜいたく》を言ってはいけない。  そう感じた。追われる身にしては随分しあわせな生活をしているのだ。何不自由なく、身綺麗《みぎれい》に過せているではないか。好人物にとりかこまれて、ちやほやされているのだ。  悲しむことはない。気を強く持たなければいけない。  瑤子はそう自分に言い聞かせたが、岡崎ばかりか圭介までが示しはじめた異性としての態度を考えると、やはり気が重くなってしまうのだった。  どうしたら彼らの心を傷つけずにすむだろうか……。それは至難のわざに思えてならなかった。  やはり去るしかないのだろうか。  瑤子は立ちあがると、カーテンを細く開いて外を眺《なが》めた。その窓はとなりの旅館の裏手に向いていて、屋根の上のネオンが、降り積った雪を赤く染めていた。  私を追うのは敵だけではないのだ。  瑤子はそう思った。救いの手をさしのべてくれる人々の好意までもが、結局は瑤子を隠《かく》れ家《が》から追い出してしまうようであった。  瑤子はため息をつくと窓をはなれ、バスルームをのぞいた。もう湯が溢《あふ》れそうになっており、瑤子はたもとをおさえて蛇口をしめた。  部屋へ戻って着物を脱ぐと、宿の浴衣《ゆかた》を素肌《すはだ》にかけてまたバスルームへ入った。浴槽に沈むと、湯が小気味よい音をたてて溢れた。とたんに湯気が籠《こも》り、乾いた感じだったバスルームが優《やさ》しく曇った。  のぼせる程湯につかり、瑤子は時間をかけて丹念に体を洗った。湯気に包まれていると、追手がいることも忘れるのだった。  髪を包んだバスタオルを少し重く感じはじめた頃、瑤子はやっとバスルームを出た。いい気分だった。しかし、時間をかけすぎたような気がして、浴衣の上に丹前を着ると、急いで廊下へ出た。  岡崎たちの和室の入口の格子戸はあいていたが、入口にはスリッパが一つしかなかった。 「すっかりのんびりしてしまって……」  そう言いながら踏み込みの三畳間へ入り、あいた襖《ふすま》から中を見ると、 「ちょうどお仕度ができたところです」  と宿の女中さんがテーブルの前を離れた。欅《けやき》のテーブルの上に、所狭しと料理が並んでいた。 「お嬢さまのところへはサイダーをお置きしておきました」  女中さんはそう言うと、まだ何かを運んで来る様子で、急いで部屋を出て行った。  瑤子はその席へつこうとして坐りかけたが、急に体を硬《かた》くした。  床の間に、さっきまでなかった物が置いてあるのだ。  大きな鉢植《はちう》えのオオスギゴケであった。岩山に見たてた石が中央にあり、びっしりと見事に生えていた。よほど大事に育てているものなのだろう。  不安が湧《わ》きあがるのを、瑤子は深く息を吸っておさえた。  なんでもない。ただの飾りなのだ。  そう思おうとしたが、気が付くと手をしっかりと握りしめていた。 「やあ、待っただろう」  岡崎たちが戻って来た。 「お、いいタイミングだな」  女中さんも入口で一緒になったらしい。ビールが二本、ひと足先にテーブルにのせられていたが、そのほかに銚子が四本ひとまとめに届いた。 「艶やかだなあ」  岡崎は湯あがりの瑤子にみとれて、立ったままそう言った。     4  岡崎も圭介も、床の間の苔《こけ》には気が付かない様子で、 「まずビールだな」  と言いながら坐った。女中さんが素早く栓《せん》を抜く。 「最初の一杯だけは君も付合ってくれ」  岡崎はそう言い、瑤子も微笑してグラスを持った。 「さあ、何の為か知らんが、とにかく乾杯」  岡崎が言い、三人はグラスを合わせた。 「寒いから窓があけられん。しかし雪見酒は雪見酒だ」  一気に飲みほして岡崎が言った。女中さんがすぐに注ぐ。 「どうした、湯ざめでもしたのか」  岡崎はやはり圭介より気が付く。瑤子の顔を見てそう尋ねた。 「いいえ」  瑤子は苔を忘れることにした。思い切ってビールを半分ほど飲んだ。 「お、凄《すご》いじゃないか」  岡崎はうれしがった。 「よかったら日本酒もあるんだよ」  瑤子は笑った。 「とんでもありませんわ」 「酔ってもいいぞ。二人がかりで介抱してやる」  圭介はそれを聞いて苦笑を泛《うか》べていた。 「酔わせて訊《き》きたいことがある、ってな」  岡崎は上機嫌《じようきげん》であっさりビールを一本あけると、 「さあ酒だ酒だ」  と盃《さかずき》を持った。 「まるでビールはお酒じゃないみたいですのね」 「ビールは酒じゃないさ」  女中さんの酌《しやく》を受けながら言う。 「ビールは飲物さ。ただの飲物」  瑤子はイカの刺身《さしみ》に箸《はし》をつけた。 「あら……」 「どうした」 「柔らかいんですね」  すると圭介が教えてくれた。 「途中で食べたイカの刺身はもっとコリコリしていたでしょう」 「ええ」 「獲《と》った魚は朝早くに岸へあがるんです。だからあの時間だとまだ堅い。でも、もう柔らかくなっているんですよ。しかし、柔らかいと言ったって、東京あたりのとはわけが違う」 「そうだよ」  岡崎もイカを口へ入れて言った。 「能登の海ぞいでは、朝からイカ刺しを食う家が多いんだ」 「まあ、朝ご飯からですか」 「そうさ。それも、こんな上品な並べ方をしたんじゃなくて、もっと細長く切って、どんぶりにいれて掻《か》き込むように食べるんだぜ」 「おうどんみたいに……」 「そう。すすり込んでしまうのさ」 「おいしそう」  瑤子が言うと、圭介はうれしそうに笑った。 「そう言えば、東尋坊《とうじんぼう》という所を通りませんでしたわね」  しばらく飲み食いが続いたあと、瑤子は思い出したように言った。すると女中さんが笑った。 「おいおい、東尋坊は反対側だよ。通らなかったわけさ」 「あら、そうでしたの。反対側と言うと、どっちの……」 「永平寺《えいへいじ》があるほう、と言ったら判ってもらえるかな」 「ああ、富山のほうですのね」 「これだ」  岡崎は呆《あき》れて見せた。 「嫌《いや》になるな。どうして女性にはこう方向オンチが多いのだろう」  すると女中さんが、圭介の盃に銚子《ちようし》を傾けながら言った。 「女の目玉は内側に向いているのだそうですよ」 「参った。この人はうまいことを言うね。そうかい、内側へ向いているのかね」 「わたしらの所では、昔からそういうことを言います」 「男は外ばかりキョロキョロ見まわしているが、女はじっと内側をみつめているわけだな」 「それで方向オンチになる」  圭介が笑った。 「君はやはり内側を見ているのかね」  岡崎は瑤子に尋ねた。 「さあ……」 「いったいその綺麗な目が何を見ているのか知りたいもんだ」 「そうですね」  圭介が頷《うなず》いた。 「やめた」  岡崎は盃をほすとテーブルに置き、 「冬子さん、そのあいているコップをくれないか」  と手を出した。 「これですか」  瑤子はサイダーの瓶《びん》のそばにあったグラスを渡した。 「小さいのでは面倒でいかん」 「いいんですか……」  圭介がからかうように言った。 「君は二日酔してはいかんぞ」 「あ、明日も僕が運転するんですか」 「きまってるさ」 「やれやれ」  圭介はまた笑った。 「お邪魔いたします」  その時宿の主人が入って来た。     5  苔《こけ》を床の間へ飾らせたのはその主人だった。 「いや失敬した。酒にばかり気をとられて、気付かなかったよ」  岡崎は宿の主人に苔の自慢をされ、はじめて床の間を振り返って眺《なが》めた。 「うん、これはこの前見せてもらったのよりずっと立派だ」  主人はその苔を京都の寺からもらって育てたのだと言った。 「この人はね、熱帯魚だの盆栽だのに熱中しているのさ。老人じみて精神衛生上よくないと思うが、まあ好きなものは仕方ないな。そうそう、何とか言う苔の会へ入ったとか言っていたな」  美苔会。瑤子はその会の名を知っていた。 「ミタイカイ……」  主人に言われて、岡崎は大げさに驚いて見せた。 「洒落《しやれ》た名を付けるじゃないか。会いたい見たいという洒落かね」  主人は多分そうだろうと答えている。 「よし圭介君、俺たちも今度そういうのを結成しようじゃないか。君の親父を会長にしてやる」 「どんな会を作るんです」 「苔の変種ばかりを集める会さ」 「苔の変種……」 「うん。それで会の名が変苔会」 「ヘンタイカイ」  圭介は笑いこけた。  ひとしきりそんな冗談がとび交って、やがて主人は戻って行った。  瑤子はほっとした。岡崎が金沢の家にある小さな苔の鉢のことを思い出すかと、はらはらしていたのである。もしそのことが話題になったりすれば、好きなだけに宿の主人は瑤子に関心を持ったに違いないのだ。何しろまだ数の少ない苔ファンである。へたをすれば美苔会の他のメンバーに瑤子のことを喋《しやべ》られてしまうかも知れないのだ。  が、岡崎はいい具合に宿の主人が帰ってしまってからそれを思い出した。 「そうだ、君も苔を育てていたね」 「ええ」  瑤子は仕方なく微笑して答えた。 「君も美苔会かね」 「いいえ」 「でも、好きだからあの鉢を大切に持ち歩いているんだろう」 「そうですけれど」  瑤子はあいまいに言った。すると岡崎は、グラスを置いて腕を組み、鹿爪《しかつめ》らしい表情を作って瑤子を睨《にら》んだ。 「おかしいぞ。ひょっとすると、あの苔が謎《なぞ》を解く鍵《かぎ》かも知れんな」  瑤子はギクリとした。明らかに冗談のようだが、外見に似ず繊細な神経の持主である岡崎だから、その冗談をきっかけにして案外真相に近づいて来るかも知れなかった。  だからなおのこと、無理に苔から話題をそらせることができなかった。 「どうしてですの」  瑤子は甘えるように小首を傾《かし》げて見せた。 「それを今考えている」 「冬子さんも苔を持っているんですか」  圭介が訊いた。 「おいおい、失礼な言い方はよせ」  岡崎は腕組みを解いて笑い出した。 「冬子さんに疥癬《かいせん》でもできているようじゃないか」  瑤子は声をあげて笑った。笑って誤魔化《ごまか》すいいきっかけだった。だから必要以上に笑い続けた。釣《つ》り込まれて二人の男も爆笑した。女中さんまでも大笑いをしていた。  が、その笑い声の中で、瑤子の心は悲しいほど醒《さ》めていたのである。  身近で誰《だれ》かが強いテレパシーを使ったら、その苔はたちどころに真珠色の光を放つ筈なのである。  瑤子自身はテレパシーを使わぬように努めているが、いつなんどきあの小さな鉢に植えた苔が光りはじめるかも知れないのだ。そしてその時は、瑤子の身に危険が迫った時なのである。  つきつめて言えば、瑤子を追っている者は、国家であった。更につきつめれば、それは自由主義世界であり、極端に言えば全人類でもあった。  超能力者。  世間では今、それを最も興味ある話題のひとつとしており、マスコミのどこかで、毎日のように取りあげられていた。  人はそれにロマンを感じているかも知れない。超能力があれば自分の人生はどう変るだろうと、楽しい想像をしているかも知れない。  しかし、現実にその能力を与えられてしまった瑤子にとっては、すべての不幸の根源であった。  架空のもの、想像上のものとされて久しかったテレパシーが、現実に存在していることを、一部の人々はもう知ってしまったのである。  国際政治の場が、その能力を有する者を欲しはじめた。アメリカとソ連を中心に、テレパス狩りがはじまったのである。  テレパシーの能力を持った者、すなわちテレパス。それが瑤子であった。現代の魔女。世界の運命を変える力を持つ女。それが瑤子なのである。  能登の暗い磯《いそ》に、波が白く砕けていた。  残雪の町に     1  岡崎唯士は仕事場の座蒲団《ざぶとん》に坐《すわ》って、煙草《たばこ》をふかしていた。  深夜である。外には風の音もなく、家の中は静まり返っている。瑤子ももうとうに二階の部屋で寝てしまっていた。 「そうか」  岡崎は低くつぶやいた。次に手をつける仕事のことを考えていたのだろう。岡崎は急に煙草を灰皿《はいざら》に押しつけて消すと、背筋を伸ばし、両肩を何回か上下させた。  床につく気になったらしい。右脇に置いた小机の上のボールペンをとりあげ、短いメモを書きつけると、そのボールペンを投げ出すように置いて立ちあがった。  仕事場を出て居間へ行く。飾《かざ》り棚《だな》に置いたブランデーの瓶《びん》をとりあげて栓《せん》を外し、その横に置いてあった重そうなオールド・ファション・グラスに少し多めに注ぎ、瓶の栓をしめて元の位置に置いた。  グラスを持っていつも自分が坐っている場所へ行きかけたが、その居間はもう冷えていて、肌寒《はだざむ》さを感じたらしく、仕事場へ歩きはじめた。  仕事場から彼の寝室へ通じる別の出入口があって、多分そのブランデーをまだ暖まっている仕事場で一気に飲んだら、その勢いで床につくつもりだったのであろう。  が、仕事場と居間の境いの戸のところで、岡崎は急に足をとめ、振り返って居間の電灯を見た。  不審そうな顔をしていた。何かが気になっているらしい。だがその気になることの見当がつかないようだ。  岡崎は立ったままブランデーを一口飲み、大ざっぱに居間を見まわした。そして特に異常なものも発見できぬまま、壁のスイッチに手をのばしてパチリと音をさせた。  居間の電灯が消えた。スイッチをオフにした岡崎の手が、境いの戸のほうへ動きかけて急にとまった。  居間に異変が発生していたのである。  居間の隅《すみ》の棚に置かれた小さな鉢植《はちう》えの苔《こけ》から、真珠色の光が発しているのだ。  岡崎は竦《すく》んだようにそれを凝視《ぎようし》していた。暗い居間の隅の真珠色の光は、淡いだけに見れば見るほど妖《あや》しく感じられるのであった。  かなり長い間、岡崎はそれをみつめていた。そして突然右手を動かし、パチリとまた灯りをつけてしまった。その動作は、まるでおぞましいものをふり払うようであった。  ゆっくりと苔の鉢植えに近付いて行く。  人差指でそっと苔に触れて見ている。何の仕掛けもないことは明らかであった。苔は自然に発光しているのだ。  岡崎はまた電灯を見た。その明るさが苔の発光を隠していたのだ。しかし彼は知っていた。今までにも何度か、深夜にその居間の灯りを消したことがあるのだ。暗くした居間に坐って二、三十分黙考していたこともあるのであった。  だが、苔が光っているようなことはなかった。今夜がはじめてなのである。  実を言えば、万事に行き届いた冬子が、毎晩なぜ居間の灯りだけつけ放しておくのか、不審に思っていたのである。別に岡崎はそんなこまかなところまで冬子に節約を押しつける気などなかったのだが、その他のことが行き届きすぎるほど行き届いた女性だけに、妙な気がしていたのだ。 「これか」  岡崎はまたつぶやいた。その顔はひどく哀《かな》しげであった。  これか、と言い漠然《ばくぜん》と納得しただけで、詳しいことは何一つ判らない。しかし、その苔の鉢が冬子という女性の謎《なぞ》を象徴していることはたしかな気がしたのである。  岡崎は一気にブランデーを飲みほすと、空のグラスを瓶のそばへ置いて大股《おおまた》に居間を出て行った。  灯りは冬子の望み通りにつけ放していた。  仕事場の灯りを消し、寝室へ入った。岡崎はまるでふてくされた子供のように、仕事着のまま夜具にもぐり込んでしまった。  来るべきものが来た。  そう思っているのだ。理由は判らない。謎のままだ。しかし、冬子がその家から去る時が来てしまったことは、あの苔の真珠色の光がはっきりと告げているのであった。  もぐり込んだまま、掛蒲団はひくりとも動かなかった。静かな家の中で、古風な柱時計の音が、堅く冷たい音をたて続けていた。  岡崎がいつ睡《ねむ》ったのか、それとも睡らなかったのか、よく判《わか》らない。柱時計が時を刻み続け、やがて窓に白い光が現われて朝になった。     2  二階から瑤子がそっと降りて来た。明けたと言ってもまだしらしら明けである。朝刊が配達されるにも少し間があった。  それがこの岡崎家へ身を寄せてからの、瑤子の日課であった。早朝、まだ光の白い内に一度起き出して階下へ降り、居間の灯りを消すのである。その時に苔の状態を点検し、発光していないことをたしかめると、また無事に一日を送れそうだと胸をなでおろし、そっと部屋へ戻って更に一、二時間まどろむのであった。  瑤子は大して警戒もせず、居間の灯りを消した。しかし、スイッチを消したとたん、数時間前の岡崎とそっくりの姿勢で立ち竦《すく》んでしまった。  光っている。  瑤子はその妖《あや》しい光をみつめ、来た、来た、来た……と頭の中で繰り返していた。  敵に追いつかれてしまったのだ。こうしてはいられない。すぐに逃げ出さなければ……。一方ではそう思い、また一方ではうろたえる自分をおさえつけようとして、まだ発見されたわけではないと、強く自分に言い聞かせていた。  瑤子は隅の棚の上にある鉢植えへ近寄った。そして一度それを両手で持ちあげた。二階へ運ぼうとしたのである。しかし、僅《わず》かに持ちあげただけで元へ戻した。それでは岡崎に対して不自然なことになる。すでに朝の光が強くなりはじめているのだ。少なくとも朝食がおわるまでは動かさないほうがいい。岡崎は今日、午前中に外出する予定があるのだった。  瑤子は岡崎の寝室のほうへ耳を澄ませた。動く気配は感じられなかった。それをたしかめると、瑤子は苔の小さな鉢植えをそのままにして、そっと二階へ引きあげて行った。  自分の部屋へ戻ると、窓のカーテンを細くあけて外を見た。屋根の上で雀《すずめ》が啼《な》きはじめているほかは、人も車もまだ動いてはいなかった。  なぜ光ったのだろうか……。  瑤子は寒そうに衿《えり》もとをかき合わせると、蒲団の上に坐りこんだ。  苔が光る理由は判っていた。祖父の北園延弘から教えられたのだ。近くで誰《だれ》かがテレパシーの思考波を発したのだ。苔はそれに反応して真珠色の光を発するのである。だから、瑤子が苔を持ち歩くには二重の意味があるのだった。  一つは近くに自分と同じ能力を持った者、すなわちテレパスがいることを知るためであり、一つは自分自身が無意識にテレパシーを用いてしまったことを知るためである。  テレパスならば、近くのテレパシーを必ず感じ取ってしまうかというとそうではない。少なくとも瑤子の場合は、自分の脳にその不可思議な思考波を受信することを拒否させることができるのであった。  テレパシーの能力とは、それを持たない者には理解しにくいものであった。  たとえば皮膚の感覚は、それを拒否することが不可能である。肌《はだ》を刺激されて、感じないでいることはできない。だが、耳の感覚はいくらかコントロールできる。近くで発した音は必ず聞こえてしまうが、耳の栓《せん》などを用いればその音を感じずにいることができるし、他のことに熱中すれば聞こえていてもほとんど感じずにすむこともある。  だが、テレパシーは違っていた。たとえて言えば、それはラジオのスイッチを入れたり切ったりすることに似ている。必要でない時は、その能力がないのと同じように、まったく感じないですむのだった。  もしテレパスが、自分の意のままに脳のスイッチを、オフにしたりオンにしたりできないとすれば、そのテレパスは狂い死にしてしまうだろう。なぜなら、周囲の人間の思考波が間断なく脳に侵入して来るからである。人間はのべつまくなしに喋《しやべ》っているわけではないし、通常の会話に用いられる音声はそう強いものではないから、少し離れれば意味が判らなくなってしまう。  ところが、テレパシーは声よりもずっと遠距離のものまで受信してしまうのだ。相手の思考をいきなり脳に受けいれてしまうからである。通信の手段としては声によるものよりずっと効率が高い。  恐らく、そういう理由から、脳のどこかで任意に受信したりしなかったりを選択することができるようになっているのだろう。或《あ》る超能力の研究家は、テレパスとして不完全な者はその選択能力がないために早期に発狂してしまうのだと主張している。狂人の中にはテレパスがまじっているというのだ。  だが、そのオン、オフのスイッチは、何せ本人の意志の力によるものだけに、油断をしているといつの間にか、オフがオンの状態にかわってしまうこともあり得るらしい。だから、緊張がゆるんでいる時、不意にテレパシーで語りかけられると、うっかりその思考波を受信してしまうことも起るのだ。そして発信者は、呼びとめて振り向いた者の顔を見る時のように、受信者をはっきりと識別することができるのであった。  今、瑤子は未知の敵から追われている。相手はテレパスを狩り出すテレパスなのである。瑤子の敵は何食わぬ顔で強い思考波を発し、不用意にそれを受信した者をつかまえようとしているのだ。  恐らくそのテレパスが、この金沢へやって来たのであろう。車に乗ってゆっくりと走りまわり、随所で思考波の罠《わな》を仕掛けているに違いなかった。  瑤子はうまくそれを受信せずにすませたけれど、苔はその特殊な思考波に反応して光を放ったのだ。つまり、瑤子という稀代《きたい》の超能力者を追い求める組織が、岡崎家の近くを通過して行ったということである。  瑤子は蒲団の上に坐ってじっと考え続けた。どうやら発見されずにすんだようだが、敵がこの金沢にいることはたしかだし、ただ当てずっぽうに金沢へ捜索の手を伸ばしただけだと楽観することもできなかった。  去らねばならない。  瑤子はそう思った。すると、階下で寝ている岡崎のことが気になりはじめた。  苔の発光を見はしなかっただろうか……。  瑤子は岡崎の思考を探《さぐ》りたくてたまらなかった。脳のスイッチをオンにして、更にそれを通常の人間の思考波に合わせれば、テレパスでない者の思考まで読みとることができるのである。  しかし瑤子はやっとそれを自制した。受信だけにせよ、その能力を今使うことは、自分から敵に所在を告げるようなものであった。     3  青いスーツに薄茶のコートを着た瑤子が、呼び寄せたタクシーに乗って岡崎家を離れて行った。  岡崎は何かの会合に出席するため、予定どおり昼前に外出して、岡崎家は瑤子一人きりだったのだ。  呆気《あつけ》ない別れであったが、その呆気なさを悲しむゆとりは、瑤子にはまだなかった。  瑤子は車に乗って金沢市内の道をまだ走りまわっているテレパスのことを想像しながら、そうあって欲しいと祈った。それなら金沢駅はまだ安全なのだ。  しかし、すぐにそういう思考も中断させなければならなかった。  瑤子は居もしない伯父《おじ》のことを考えはじめた。その伯父は危篤《きとく》で、瑤子は報らせを受けて駆けつけるところなのだ。  何しろ、テレパスはテレパス同士の思考波のほかに、通常人の思考もキャッチできるのであった。正直に追われて逃げるのだなどと考えていたら、相手に発見されてしまうだろう。  駅へ着くと、瑤子は改札口の上の標示を見た。ちょうど新潟《にいがた》方面への列車の改札中であった。  瑤子はその列車のことだけに考えを集中して、大急ぎで切符を買うとプラットホームへ出た。  列車はすぐにやって来た。それは鈍行列車であった。瑤子は人々を掻《か》きわけるようにして、まっ先にその薄汚れた列車に乗り込んだ。  堅いシートに腰をおろすと同時に、ガタンと列車は走りはじめた。  何ということだろう……。  瑤子は涙がこみあげてくるのをとめることができなかった。岡崎が外出するとすぐ、僅《わず》かな荷物をまとめ、金沢へ着いた時の服を着てタクシーに乗ったのであった。駅へ着くと息つく間もなく列車に飛び乗り、こうしてみるみる金沢を遠のいて行く。岡崎に対して詫《わ》びる気持さえ、強く心に泛《うか》ばせることをさし控えなければならないのだ。  これはまるで、ひとでなしの所業ではないか。  理由はどうであれ、形にあらわれたものは、恩を受けた人にひとことの挨拶《あいさつ》もなく、気ままに逃げ出す礼儀知らずな行為であった。あれほどの好意を示してくれた岡崎唯士や田辺清次郎、それに田辺圭介たちに対して、何かを報《むく》いるどころか、心に傷を与えるような去り方なのであった。  ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。瑤子は体を堅くし、唇《くちびる》を噛《か》みながらそう思い続けた。 「お前を欲しがるのは権力者だ」  思うまいとしても、祖父の北園延弘の声がよみがえって来た。 「決してそのようなものに巻き込まれてはいけない。なぜなら、彼らにとってお前たちテレパスは、同じ仲間ではないのだ。彼らはお前を人間として認めようとはするまい。通常の人間にはない能力を備えているからだ。頭が二つある者のことを考えてみるがいい。手が三本、足が三本ある者のことを考えてみるがいい。お前は彼らにとってそれと同じことなのだ。お前は道具にされ、決して人間としてのしあわせを掴《つか》むことはできなくなる。だいいち、お前の愛している夫がそのことを知ったら何と思うだろうか。若くして他にぬきん出たのは妻の超能力のおかげだと知ったら、決してよろこぶまい。いや、よろこぶどころかお前を憎むだろう。そして自分をおぞましく思うに違いない。逃げるのだ。逃げる内に必ず道はひらけるはずだ。これは人類の問題なのだよ。お前をとらえ、利用した者は世界を牛耳《ぎゆうじ》ることができるのだ。そうなれば、独裁者が生まれてしまう。テレパスはこの社会の中で万能に近い。だからこそ、テレパスはそうでない者に奉仕してはいけないのだ。夫のためにそれを用いてしまったことは、かえすがえすも不注意なことだった。お前は今その罰を受けているのだと思いなさい。だから、辛くとも逃げ続けるのだ。お前たち夫婦の愛がたしかなら、彼は必ず待っていてくれるはずだし、テレパスのお前が信じた愛ならば、絶対に裏切られることはないとわたしは確信している。さあ逃げはじめるのだ……」  瑤子は北園延弘の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。列車はどんよりとした空の下を走り続けていた。  どこへ行くか、まったく当てはなかった。新潟に着いて、追い出されるようにプラットホームへ降り立った時に聞いたアナウンスの声につられて、瑤子はまた次の列車に乗った。いつか岡崎や圭介に笑われたように、方向オンチの瑤子には、その列車の行先さえもう見当がつかなくなっていた。  どこか名も知らぬ小さな町に身をひそめよう。  ただそれだけを思い、列車が駅にとまるたび、次の駅名を読んでは迷っていた。  さかまち。  その名を読んだ時、瑤子は降りる決心をした。いかにも平凡で、追手の網の目からこぼれそうな感じだったからである。  坂町。  これほど平凡な駅名はあるまいと思ってそこで降りたのだが、逆に瑤子は目立ってしまったようであった。その清楚《せいそ》な美しさが人口の多くない小さな町では、ひどく際立ったのである。  瑤子は失敗だったと思った。しかし、鈍行列車を乗り継いで来た為に、その先どこへ行くにも時間が半端になってしまっていたし、もう一度ゆっくり逃げ道を考え直す必要も感じた。  結局瑤子は小さな旅館へ入った。     4  落ちつかぬ一夜が明けた。翌日は青空のひろがった好天で、それだけがいくらか瑤子の心を軽くしてくれるようであった。  ゆうべの内にきめた通り、瑤子は駅へ行くと米沢《よねざわ》までの切符を買った。そこから米沢へ通じる支線があったのだ。  とにかく米沢へ行ってみよう。地図で見ると、金沢を探《さが》しまわっている相手からは、まるで見当違いの方角であるような気がして、瑤子はその道を選んだのであった。  列車はきのうの鈍行より、いっそう頼りなげな気動車であった。その上レールは単線で、どんどん山深いほうへ入って行く。  これなら大丈夫だ、と瑤子がやっと安心したのは、三月だというのにまだ深くつもった山々の雪を見たからであった。  安心したとたん、瑤子は睡気《ねむけ》に襲われた。ゆうべはうとうとした程度で、ほとんど眠れなかったからである。 「お婆ちゃん」  いつの間にか眠っていた瑤子は、甲高《かんだか》い子供の声で目ざめた。乗客の大半は黒い制服を着た学生たちで、四つくらいの男の子が瑤子の前の空いた席へついたところであった。 「これこれ。あまり動きまわらないで」  そう言う声がすぐそばで聞こえた。そのとたん、列車が大きく揺れた。  瑤子の前へ老婆がころげ込むように倒れかかって来た。瑤子は反射的に腰をあげてその小さな体を両手で抱きとめてやった。  不意に花が咲き乱れた。  いや、本物の花ではない。瑤子がうっかりその老婆の心を読んでしまったのである。 「まあ、お花……」  瑤子は思わず感嘆の声をあげた。その老婆は、色とりどりに咲き乱れる花の形を、心の中いっぱいに繰りひろげていたのだ。  抱きとめられながら、老婆は瑤子をみつめた。 「お花……」  逆に尋ねた。 「危いですわねえ」  瑤子は笑いながら言い、心を閉じた。 「どうもすみません」  老婆も微笑を泛《うか》べ、男の子のとなりに腰をおろした。  年齢は七十をこえているようであったが、まだ顔に艶《つや》を残し、どこか朗らかな感じを漂《ただよ》わせていた。 「お前がチョロチョロするから、ご迷惑をおかけしてしまったよ」  その老婆が言うと、男の子はよく躾《しつ》けられているらしく、 「ごめんなさい」  と行儀よく瑤子に向かって頭をさげた。 「まあ、お利口さんねえ」  老婆はニコニコと笑っていた。 「お孫さんでいらっしゃいますか」 「それが、曾孫《ひまご》でして」  瑤子は思わず目を丸くした。 「お婆ちゃまもお元気そうでいらっしゃいますこと」 「ええもう元気で元気で」  老婆は闊達な態度でそんな答え方をした。そのまま二人はしばらく黙っていた。瑤子はいずれそのお婆ちゃんが自分の行先などを尋ねはじめるものと思っていたが、案に相違して、お婆ちゃんはそんなことは言わず、 「今年は雪がよく降りましてねえ」  などと、当たりさわりのない話題を持ち出し、それもごく通り一遍で、やがて連れの男の子と話しはじめた。  瑤子はまた目をとじ、うつらうつらとしていたが、ふと薄く目をあけると、お婆ちゃんがじっと自分を観察しているようなのに気付いた。  これはただのおしゅうとめさんの目ではないようだ。  瑤子はあけた目をとじてそう思った。たしかに自分を観察する目は、さっきの柔和で朗らかそうな目とは違って、ひどく厳しい感じであったが、何か家庭の中に籠《こも》り通した人の目ではないような気がした。  もっとずっと広い世界を見て来た人の目であるようだった。  なんで心の中が花だらけだったのだろうか……。瑤子はそういぶかしんだが、同時にそのお婆ちゃんを敬《うやま》う気持が強くなるようであった。  このお年で、あのように花のことばかり考えていられるなんて、すばらしいことだわ。  瑤子はまたうとうとしはじめながらそう思った。     5  残雪の中を、列車はしだいに山から平らな土地へ出て行った。山を抜ければ雪はなくなるに違いないと思っていた瑤子にとって、平地にもまだそれほどの雪が残っているのが意外であった。 「もう米沢ですよ」  あれっきりろくに言葉もかわさなかったのに、お婆ちゃんはへだたりを感じさせない声で、ごく自然にそう教えた。  列車はゆるく曲り続け、のんびりと走っていたが、やがて線路と交叉《こうさ》する道路が増えはじめたので、大きな町に近づいたのが判った。  そして終点の米沢駅に着いた。瑤子はそのお婆ちゃんたちと一緒に列車を降り、改札口を出た。  またしても瑤子の予感は外れた。意外に小さな駅だったのである。  上野方面。そう書いた標示板を見て心をうずかせながら、瑤子は立ちどまった。 「お婆ちゃん」  二人の若者が、お婆ちゃんのほうへ駆け寄っていた。多分孫なのであろう。お婆ちゃんは瑤子へちらりと目礼を送って来た。瑤子はそれにかすかに頭をさげ、ゆっくりと駅前へ出た。  空が広かった。高い建物がないせいでそう感じるのであろう。タクシーがのんびりと列を作っており、バスが左のほうにとまっていた。  殺風景だが、どこか落着いた感じであった。瑤子は金沢駅へ着いた日のことを思い出しながら歩きはじめた。  乾《かわ》いて埃《ほこ》りっぽい町のように思ったが、駅前を離れ、バスが走り去ったばかりの停留所を通り過ぎると、あちこちに残雪があるのに気付いた。雪は無残な感じでくろずんでいた。  まっすぐに道が伸びていた。バスが走り去って行ったのをたよりに、瑤子はその道を進んだ。右側だけにガードレールがあり、しばらくその右側の歩道を歩いて行くと、その道が一方通行になっていることに気付いた。  バスが走るのは町の幹線道路のはずだから、そのまま行けば繁華街に出られると思ったが、案に相違して家並みはどんどんさびれて来る感じであった。  駅前通りらしい華《はな》やかさはなく、歩いている人影もまばらであった。車の交通量もひどく少ない感じだった。  それでも、幾つか旅館の看板を見た。しかしそれは、みなごく小さな旅館で、その辺りに泊っても、この町の様子はとても把《つか》めそうもないように思えた。  瑤子はその殺風景な道に引きずられる感じで、トボトボとどこまでも歩いて行った。すると右側に、やっと町の臭《にお》いを感じさせるちょっとした病院が現われ、その前を通り過ぎると信号があって、その先が橋になっているのが判った。  この川の向こうが中心街になっているらしい。瑤子はそう思いながら、橋を渡りはじめた。  川原にも残雪があった。そして、その橋の右手にも、もうひとつ橋が見えていた。その橋を渡る道の前方には、ビルの塔上広告が見えているから、中心街へ駅からまっすぐに行くには、もう一本右の道を行くらしいと判った。  が、それだからと言って、瑤子には特に町の中心の繁華街へ行ってどうするという当てもなかった。とにかく行って見てからのことでしかない。  橋を渡りおわると、また信号があった。道はどうやら二本平行に走っているらしいので、瑤子は土手づたいに右の道へ移るのをやめ、来た道をまっすぐにもう少し進んで見る気になった。  橋から土手を下ると、お寺が多くなった。落葉を焚《た》いているのだろうか。その先の寺の塀《へい》の内側から、煙が横になびいていた。  雨でないのが救いだった。薄い日がさして、小さな雑貨屋のガラス戸の中で、二匹の猫《ねこ》が重なり合うようにしてじゃれていたりしたが、本当に人影はごく少なく、瑤子は心細くなってしまった。  パタン、パタンという音が聞こえて来たので、やっと町にいる感じがしたが、その建物には何の看板も出ていず、とりつく島もないように思った。  この町は、みんな家の中へとじこもっている。瑤子はふとそう思った。  パタン、パタンと音のする家を通りすぎかけた時、そこの玄関の柱に、繊維という文字を見て、やっとその音が織機の音だと判った。印刷機が立てる音そっくりの調子であった。  次の角には信号があって、ちょうど赤になったところだった。  瑤子がそろそろ右の道へ移ろうかと考えていると、急に車のクラクションがたてつづけに鳴った。  交差点の信号機の下に立ってそのほうを見ると、信号待ちの車のドアがあいて、青年が一人、瑤子のほうへ飛び出して来た。  車の中で、あのお婆ちゃんが手を振っていた。 「どうぞ乗ってください。うちのお婆ちゃんがそう言っていますから」  車から降りて来た青年はせきたてるように言い、瑤子の持っている鞄《かばん》を奪い取るようにすると、車へ駆け戻って行った。  瑤子は当惑してそのまま立っていた。すると信号が変り、青になった。うしろの車が動かないお婆ちゃんの車に、クラクションを鳴らしはじめた。  瑤子は仕方なく、小走りに車のほうへ近寄った。 「早く乗りなさい」  お婆ちゃんが笑顔でそう言い、瑤子はいやおうなしに乗せられてしまった。  車が走り出す。 「うちへ来なさい」  お婆ちゃんが言った。 「米沢ははじめてなのでしょう」 「ええ」 「わたしがご招待します。わたしの家へお泊りなさい」 「でも……」 「かまいません。行く当てはないのでしょう。もし行く所があるなら、この車でお送りしますよ」  決して押しつけがましい感じではなかった。 「はあ……」  瑤子は気おされてあいまいに言った。 「それに、あなたにお尋ねしたいこともあるのです」 「何でしょう」 「今すぐ答えてくださらなくてもいいのですよ。それはね、あの時のこと」 「あの時の……」 「ええ。あなたは、まあお花、と言ったではありませんか。わたしはあの時、帯の絵柄のことで頭がいっぱいだったのですよ。なぜ、わたしが花のことを考えていると判ったのですか。あなたは本当にふしぎな人ですね」  お婆ちゃんの言い方は淡々としていた。  若草萌ゆる     1  瑤子《ようこ》は絵を描いていた。春の野に柔らかい風が揺れている。そばに四つぐらいの女の子が立っていて、 「おばちゃん、綺麗《きれい》」  と言った。 「ほんと、綺麗ねえ」  無心に水彩の筆を動かしていた瑤子は、そう答えてから女の子に視線を移した。 「あら……」  女の子は絵を見ているのではなかった。三、四歩離れたところで、絵を描く瑤子をうっとりと眺《なが》めているのであった。黒く大きな瞳《ひとみ》が潤《うる》んでいた。幼い子なりに、何か感動を味わっているような感じだった。 「お花も咲いているし、草の芽もいっぱいね」  そんな明るく柔らかい色ばかりを使って絵を描くのは、瑤子にとってはじめてであった。長く厳しい冬、厚く重い雪にとざされていた置賜《おきたま》の野は、その雪が融けると、野に山に春が一気にはじけたように拡がって行くのであった。  瑤子はその溢《あふ》れ返る春のさなかに、こころよく漂《ただよ》っていた。敵を感じて金沢を脱出したときの、あの不快な感情はもう残っていなかった。米沢へ着いた夜、僅《わず》かばかりの身のまわりの品をひろげると、陶芸家岡崎唯士がいつの間にか忍び込ませていた、白い封筒があったのだ。  体に気をつけて。約束を守ってください。  文字はそれだけだった。そしてそのほかに、一万円札が三十枚ほどあった。岡崎は知っていたのだ……。瑤子はそのことを悟ると、思わずうれし涙に頬《ほお》を濡《ぬ》らした。岡崎のそのような行き届いた好意もさることながら、突然あの家を去ることについて、何がしかの諒解が得られたことをよろこんだのである。  この苔《こけ》の光を見たに違いない。そのとき瑤子は、すでに光を失っている小さな苔の鉢植《はちう》えをみつめながらそう思い、岡崎の深い洞察《どうさつ》力に感嘆した。岡崎にとって、苔の発光現象は、一直線に瑤子の旅立ちをさし示していたのだろう。  愛とは惧《おそ》れるものであるのだろうか……。  瑤子はそう思った。自分に対する岡崎の愛情を疑うわけには行かなかった。それは世間一般の、いわゆる男女の愛よりも、はるかに老成し、洗練されてはいたが、それにしてもなお、岡崎は愛するがゆえに瑤子の去ることを惧れつづけていたのである。常に惧れていなければ、そのことが起ったとき直ちに悟れるわけのものではなかろう。  心の稚《おさな》い者にとって、その惧れは強い不安となり、嫉妬《しつと》と化すのであろう。嫉妬は地獄だ。瑤子はかつて何人もの嫉妬する男女の心を覗《のぞ》いて、そのおのが身を焼き殺すような心の有様を知っていた。その地獄では、まず嫉妬する者自身が鬼と化していた。世間では迂闊《うかつ》に、心を鬼にする、などとも言うが、瑤子の知る範囲では、鬼になった者の心は弱かった。心の弱い者が鬼と化すようであった。  岡崎は強い。  瑤子はしみじみとそう思った。鬼の心など寄せつけもせず、見事に愛を一〇〇パーセント思いやりに換えてしまっていた。恐らく岡崎としても、過去に嫉妬の心にさいなまれた日々があったに違いない。その地獄を踏み越え押し渡り、いまはあのように毅然《きぜん》と頭をあげて生きている。  岡崎から離れ、米沢へついてから瑤子はあらためて岡崎という男の素晴らしい強さを思い知らされたのであった。  強い女もいる。  瑤子はそう思い、春風の中で微笑した。その微笑は春風に融《と》けて、彼女自身をいっそうゆとりある心にさせた。  柴崎《しばさき》ふじ。去年喜寿を祝って、ことし七十八歳になる人であった。十代のはじめからその年まで、機織《はたお》りひと筋に生き続けた女性だ。戦争も、子や孫たちの人生も、踏木《ふみき》を踏み筬《おさ》を操りパタンパタンというあの単調な響きの中からみつめていたのだ。  考えてみれば、それは気が遠くなるほど単調な日々であっただろう。だが、踏木が擦《す》り窪《くぼ》み、竹の筬がまるで鼈甲《べつこう》のような艶《つや》を帯びるように、その人の心もまた艶やかに育って行ったのだ。同じことの繰り返しのように見えて、糸は日ごとに微妙な変化を示し、心の動きにつれて織りあげる布にも出来の差が生じるに違いなかった。  その中で、柴崎ふじという女性は、心をきたえていたのであろう。彼女は今日も柴崎家の一隅《いちぐう》で、パタンパタンと単調な音を繰り返し響かせているが、その単調さの背後には何千反という彼女の作品が積み重なっているのだ。  柴崎家の近くの道を通るとき、布を織ることの真の意味を悟った者は、その音を聞いて思わず厳粛な気持になるという。家族も町の人も、機織りの長《おさ》ともいうべき彼女に対して、敬意を払わぬ者はいないのだ。  こんな挿話を瑤子は聞いた。  機織りを業とする一家に嫁《とつ》いだ女が、数年後その一家と不和になって大いに悩んだとき、まる二日、柴崎家の塀《へい》の外に立って老婆が鳴らす機《はた》の音を聞いていたという。  三日目、塀の外にその女の姿はなかった。機織りの老婆はいつの間にかそれを察知していて、どうやら元の鞘《さや》におさまってよかったとつぶやいた。その言葉どおり、女は婚家を去ることもなく、今はしあわせに暮らしているという話である。     2  置賜の野は、いまいちどきに春であった。 「あなたは絵を描《か》けますね」  最初の夜、柴崎ふじはそう言った。 「はい」  瑤子は素直に答えることができた。普通の相手なら、描くことの上手へたをまず口にしてしまったであろう。しかし、ふじという女性には、相手を素直な心に導く力が備わっているようだった。七十八歳にもなって、そのように柔らかく、優《やさ》しく、しかも靭《つよ》い心を持った人に、瑤子ははじめて接する思いであった。 「あなたはきっと、花の心を読みとることもできるのでしょうね」  ふじはそう言ってたのしそうに笑った。 「もし当座の行く当てがないのなら、わたしにその力をかしてください」  ふじの言い方は、決して強制的ではなかった。しかし、幾つかのものからひとつを選ぶなら、自分の望むものを選べというその気持は、瑤子の心を強く捉《とら》えた。 「よろこんで」  瑤子はそう答えた。 「わたしに仕えてもらうことになりますよ」  ふじは念を押すように言い、顔をあげて家人に宣言した。 「春子さんは今日からわたしのお客さまです」  家人はみな頷《うなず》いた。  春子。  その名で呼ばれたのは、そのときがはじめてであった。瑤子はふじの思いやりを有難く思った。なぜならば、それ以前にふじから名を尋ねられてはいなかったからである。春子はふじの勝手な命名であった。  深く尋ねなくても、ふじは瑤子の立場を的確に把握《はあく》していたのであろう。名も言えず、旅の目的も言えないことを。  テレパシーなどという特異な能力を用いなくても、ふじほどに人生をよくみつめて生きれば、たいていのことは見当がつくようになるのであろう。 「今に雪が融けます。するとこの土地は、いちどきに春になるのです。そのいちどきの春を描いて見せてください」  ふじはそう言ってから、少しくやしそうな表情になった。 「わたしは花の帯を織り続けています。咲く花をわたしなりによく見て、克明な下絵を描くのですが、花は描けても春を描くことができないのです。この置賜の野のいちどきの春を、どうしても帯に織り込んでみたいのですよ」 「私にできますでしょうか」  そうまで言われると、瑤子は自信がなくなった。 「できますとも」  ふじはいとも気軽に言った。 「春になればいいのです」 「春になれば……」  瑤子はふじの言葉を解しかねて小首を傾げた。 「あなたが春になるのですよ」  ふじはたのしそうに笑った。 「私が春になる……」  春に同化せよということか。瑤子はそう思った。 「あなたなら春になれますよ」  ふじは励ますように言った。 「わたしの心の中の花を、あなたは見たではありませんか。それならば、あなた自身の心に描いた花も見ることができるはずです。今に春になりますから、そうしたら毎日春の野にいてください。あなたは春のただなかにいて、春の心になるでしょう。絵筆をとって、その春の心を紙に写してくださればいいのです。わたしにはとうとう描けなかった春を、あなたはきっと絵にしてくれるはずです」  瑤子は愕《おどろ》いていた。自分の心を、自分自身で外側からもう一度|探《さぐ》って見る……そんなことは今まで考えたこともなかった。しかしできそうな気がした。他人の心を探るように、自分の心を探るのだ。テレパシーが必要なのかどうか判らなかったが、瑤子は大いに心を動かされた。 「自分の体を自分の手で触れることができるのですから、自分の心を自分の心で触れることもできるはずでしょう」  ふじはそうも言ったが、実際にやって見るとなかなかむずかしそうだった。  自分の右手で自分の右手を握ることはできない。ひょっとしたら、ふじは不可能なことをいっているのではなかろうか……。瑤子はそう思いながら日を送り、やがて春になったのであった。  そして今、瑤子は見事に春と同化しているのである。  童女が春の野で絵を描く瑤子を見て、綺麗、と言った。無垢《むく》な童女だからこそ、美しいものを美しいと見たのであろう。そのとき瑤子は本当に美しかったのである。  テレパシーなど使う必要はなかった。若草の萌《も》える春の野にいて、その若草と同じに自分の命をいとしいと思えたとたん、瑤子は春の心になり切っていた。  絵を描いていることさえ、ほとんど忘れていた。瑤子は自分の命の歓《よろこ》びを紙に記していたのだ。筆が躍《おど》り、色が冴《さ》えた。みずみずしい春の野は今や瑤子そのものであった。柔らかい風が、そんな瑤子をいつくしむように撫《な》でた。  お婆ちゃまによろこんでもらえる。  描きおえた瞬間、瑤子はそう思った。なぜか涙が溢《あふ》れ出た。  あなた、私はこうして生きていますよ。  瑤子は立ちあがり、心の中で夫の邦彦に向かってそう叫んでいた。     3  茶を飲みながらその男は、 「おや、妙だな」  と柴崎志郎《しばさきしろう》に言った。がっしりとした体つきの、物静かな人物であった。 「どうした」  柴崎志郎はその男をみつめた。 「音だ」 「音……」 「そうだ。お婆ちゃんの機《はた》の音が、いつもと違っている」  柴崎志郎は、あ……と目を丸くした。 「さすがだな、判るか」 「軽い。うたっているようだ」  柴崎は茶碗《ちやわん》を置くと腕組みをした。 「なぜ判るのだろうか」 「何かあったのか」  柴崎の友人は目を細め、ふじの機の音になおも耳を澄ませながら訊《き》いた。 「あの人のせいだ」  柴崎が答える。 「あの人……さっき庭を通った春子さんのことか」 「お婆ちゃんがあの人に春景色の写生をたのんでいた。そのあいだ、お婆ちゃんは十日も仕事をせずにいた」 「ほう、十日もか。珍しいことだな」 「そのあいだ、三郎がつきっ切りであの人をあちこち案内してまわっていたのさ。そして三日ほど前、あの人は一枚の絵を仕あげてお婆ちゃんに渡した」 「するとあの音になったのか」 「そうだ。お婆ちゃんはその絵を見るとすぐに仕度をはじめた。君の言うとおり、いつもとは意気込みが違っていたよ」 「いったいどんな絵だ」 「だから春景色さ」 「どこの」 「笹野観音あたりで写生したらしい。絵はよく判らんが、たしかにまろやかな感じだった。しかし、そう珍しい絵でもないようだ」 「見たい」  柴崎の友人は今にも腰をあげそうに言った。 「よし、持って来てやろう」  柴崎は気軽に言って立ちあがると、部屋を出て行った。そのあいだ男は膝《ひざ》に当てた手の指を、お婆ちゃんの機《はた》の音に合わせて動かしていた。  柴崎はすぐに戻って来た。 「夢中で織っている。声をかけてもうわの空だったよ」  元の座に戻りながら言い、友人のほうへその絵を差し出した。 「これか」  男は貴重な品を扱う慎重な手つきでそれを受取り、態度を改めてじっと絵を見た。 「何か判るか」  柴崎が尋ねても、男はしばらく答えなかった。 「春だ」  やがて男は低くつぶやき、顔をあげるともう一度言った。 「春だ」 「春……」 「春が描けている」  男はテーブルの上に絵を置くと、あらためてつくづくと眺《なが》め入った。 「たしかに春の絵には違いないが」  柴崎は不審そうにその絵と友人の顔を見くらべている。 「この絵の中で春がうたっている」 「春がうたう……」 「そうだ。描いた者のうたが聞こえる絵にはときどき出くわすことがある。しかし、描かれた対象物のうたが聞こえる絵ははじめて見た」 「春がうたっているのか。わたしにはよく判らんな」  柴崎はあきらめたように首を振った。 「いったい春子さんというのはどういう人かね」  男はなおも絵に見入りながら尋ねた。 「どこの生まれだ。どこから来たんだ」 「それが判らんのさ」 「判らん……」  男は驚いたように顔をあげて柴崎を見た。 「列車の中で偶然会ったらしい」 「お婆ちゃんとか」 「うん。米坂線に乗って米沢で降りた。判っているのはそれだけさ。お婆ちゃんが駅から松川を渡ってこちらへ歩いて来るあの人に声をかけ、車に乗せた。そしてわが家に居ついたというわけさ」 「姓は……」  そう訊かれて柴崎の顔に苦笑がひろがった。 「知らん。春子という名も、恐らくお婆ちゃんが咄嗟《とつさ》につけた仮りの名だろう。しかし、お婆ちゃんがそうするなら、わたしらにそれ以上|詮索《せんさく》する必要もないのでな」  男は頷《うなず》いて見せる。 「この家ではそうだろうな」 「たしかにそれ以来、お婆ちゃんは少し変ったよ。張り切っている様子が見えた。そしてこの絵を見たとたん、その張り切りようがいっそう大きくなった。機の音が軽いと言ったが、わたしもそう感じている。絵は判らんがお婆ちゃんの機の音なら君以上によく判るつもりだ。軽い。わたしには絵でなくて、お婆ちゃんのうたが聞こえるようなのだ。お婆ちゃんの機の音をあんな風に変えたのがその絵なら、きっと大した絵に違いあるまいと思っているのさ」 「春子さんに会って見たい」  柴崎は微笑した。 「そう来ると思ってもう呼んであるさ」  二人はしばらく黙り込んだ。パタン、パタンという機の音以外は、春の陽ざしが音になって聞こえそうなほど静かな午後だった。     4  襖《ふすま》があき、敷居の外に手をついた瑤子の姿があった。 「お邪魔いたします」  瑤子は静かに柴崎の居間へ入った。 「是非あなたと話がしたいそうだ」  柴崎が笑いを含んだ声でそう言った。 「さっきお庭を通るところを、ここから拝見していました」  柴崎の友人は物柔らかな声で言う。 「花をお活《い》けになるのですね」 「はい」  さっき、この家の客間を飾る花を持って庭を通った瑤子は、相手に視線を合わせて臆《おく》せずに答えた。 「お流儀は」 「池の坊です」  瑤子は膝《ひざ》をずらせ、客の茶碗《ちやわん》を取った。 「ほう、お茶もなさる……」 「はい」  僅《わず》かな動作から、その客はいろいろなことを見抜いて行く。 「絵も拝見しましたよ」 「笹野観音あたりを描きました」  柴崎が口をはさむ。 「観音さまのほかには、何の変哲もない場所だ」  瑤子は否定も肯定もせずにほほえんだ。 「この男は、春のうたうのが聞こえると言っているんですよ」  柴崎はそう教えてじっと瑤子をみつめた。 「まあ」  瑤子は茶をいれ、客の前に茶碗を戻してから笑った。 「この絵をお描きになっているとき、どんなお気持でしたか」  男が尋ねた。 「とてもたのしく感じていました」  男はその答えに満足したようだった。 「そうでしょう。春になり切らねば、こういう絵は描けるはずがありません」  瑤子は礼を言うように、ゆっくりと頭をさげた。 「でも、それはお婆ちゃまに教えていただいたからです。私は教わったとおりに描いたのです」 「ほう、お婆ちゃんが……。お婆ちゃんはあなたに何と教えたのです」 「春になれとおっしゃいました」 「なるほどねえ」  男は溜息《ためいき》をついた。 「しかし、そうたやすく春の心になれるものではないでしょう。……おや、また音がはじまったな」  男はそう言って音の聞こえて来るほうを見た。瑤子が現われる少し前から、機《はた》の音が中断していたのだ。 「これをお客さまにお渡しするよう、お婆ちゃまに言いつかって参りました」  瑤子は柴崎を見てそう言うと、二つ折りにした小さなメモを男の前へ置いた。 「拝見」  男はメモをとりあげ、すぐに瑤子へ目を移した。 「なるほど」  物静かなその男にしては、少し高い声で言った。 「どれ……」  柴崎が男からメモを取りあげ、 「紅《べに》、花《ばな》」  と、声に出して読んだ。書かれていたのはその二字だけらしい。 「紅花……」  瑤子は小首を傾げて二人の男を見た。 「そうか」  柴崎も合点がいったらしく、男と顔を見合わせている。 「さすがにお婆ちゃんだ。なるほど、あなたにあの色の着物を着てもらったら」 「どういうことでしょうか」  瑤子は客に尋ねた。 「着物ですよ。紅花をご存知ですか」 「ええ」 「紅花で染めた着物をあなたに着ていただきたいのです」 「私が……」 「そうですよ」  男は少し興奮しているようだった。 「わたしは染めることばかりに気をとられて、着る人のことを忘れていた。誰《だれ》にでも着てもらえるのが理想だが、現代ではあの色を着こなす人のことも考えねばならない。そうです、あなたなら」  男はそう言ってしげしげと瑤子をみつめた。 「そうだ、春子さんならぴったりだ」 「でも、高価なものだとうかがっております」  瑤子は尻込《しりご》みするように言った。すると柴崎は愉快そうな声になる。 「彼がその紅花の本家本もとなのさ」 「まあ……」 「失われた紅花染めを求めて、彼は十五年間試行錯誤を続けた。十五年、ただひとつの色を探したロマンチストですよ。金銭のことを気にする人間には、そんな真似《まね》はできるはずがないでしょう。そしてとうとうその色を探し当てたのです。ただひとつの色を求めて世界中を旅した男は彼くらいなものですよ。その本人が、あなたに着せたいと言っているのだから気にかけることは何もない」 「紅花は植物染料の一種で、この辺りでは室町《むろまち》時代から盛んに栽培されていました。しかし、今では化学染料に押されて、栽培する者もいなくなりかけていたのです」 「口紅にも使われていたそうですね」 「ええ。是非あなたに着ていただきたい。着て見せてくださいますね」  柴崎の友人は熱っぽい口調で言った。     5 「お婆ちゃまのおっしゃるとおり、ここでは春が一度に押し寄せるのですね」  その夜、ふじと枕《まくら》を並べて床についた瑤子が言った。 「そうですよ」 「厳しい冬があるせいなのですね」 「そうですよ」  ふじの声は睡《ねむ》そうであった。 「あの花もこの花も、一度に咲き揃《そろ》うみたいです」 「そうですよ」 「人もですね」  ふじは睡気を少し去らせたようである。 「人も……どういうことです」 「十何年もひとつの色を追った人を見ました」 「ああ、あの人のことですか」 「それに、お婆ちゃまも」 「わたしなど、ただ布を織り続けただけですよ。機《はた》の音が体の奥まで浸み込んでしまいました。きっと、死んでからもわたしはあの音を聞き続けるのでしょうね」 「冬が人をきたえるのです。我慢強い人を作り出すのですね」 「多分そうでしょう。昔はわたしも雪のない国の人を羨《うら》やんだものです。でも今は、羨やみもしません。人は所詮《しよせん》、土地なりに生きるものなのでしょう。雪深い国にはそれなりに、一気にはじけるような春があるではないですか。暖かい国の人は、この春のよろこびを生涯《しようがい》知らずに過してしまうのでしょう。雪に埋もれて耐え忍ぶとき思い描く、春のあたたかさを知らないなんて、今のわたしには不幸なことのように思えるのですよ」 「お婆ちゃまにも、女の悲しみを味わった昔もあるのでしょうね」 「雪は降りましたよ。わたしにもね」 「知りたい」 「わたしに降った雪のことをですか」 「ええ」 「人のしあわせを羨やむのは愚かなことですよ。まして人のふしあわせを羨やむなんて、ばかげています」 「でも知りたいのです」  瑤子は甘えるように言った。 「知る必要はありません」  ふじの声が微かに厳しくなった。 「自分の雪をみつめていればいいのです。心の雪はどんな国の人にもつもりますからね」 「はい」 「だいいち、あなたは今、雪に降りこめられている最中でしょうに」  ふじはそう言ってクスクスと笑った。 「若いのに、強い人ですよ。昔のわたしだったら、きっと泣いていますね」 「そうでしょうか」 「あなたを泣かせてみましょうか」  ふじはいたずらっぽく言った。 「どうするのです」 「少しご主人のことを聞かせてもらいましょうかね」 「え……主人の……」 「あなたのご主人は、とても好い人なのでしょうね」 「…………」 「あなたはそのご主人にも言えない重荷を背負って、あてのない旅を続けている」 「どうしてそんなことがお判りになるのです」  瑤子の声はくぐもっていた。 「ほらほら」  ふじは軽く笑い、 「よしましょうね、いじめるのは」  と言った。 「何でも見抜いてしまうのですね。お婆ちゃまとあのお客さまは、どことなく似ていらっしゃいますよ」 「そう、楽しい話をしましょう。紅花の着物を是非着なさい。あの人もそう言っていたのでしょう」 「お婆ちゃまのメモを見て急に気付かれたようでした」 「あなたならきっと似合います。紅花で染めた赤を見たことがありますか」 「ええ、一度だけ。とても綺麗な色でした。淡くて上品で」 「あれは朝の光の色です」  ふじは断定するように言った。 「春の野に出て、空に向かって軽く目をとじてごらんなさい。若草の萌《も》える野原で昼寝をしたら、きっと瞼《まぶた》の裏で紅花の色を見ることができるでしょう。同じ赤でも、夕焼けにはあの色はありません。澄んだ、けがれのない赤です」 「朝の光の色……」 「朝靄《あさもや》の中からだけ現われる色です。優しくて柔らかで、それでいてこの上もなく力強いのです。これはわたしだけの考えかも知れませんが、あの色にくらべたら、金色など貧しいものです。あれは色の王様です。いや女王様と言うべきでしょうか」 「そんな色が、なぜ失われていたのでしょうね」 「人の心が貧しくなったからです」 「それを復元した人の心は豊かなのですね」 「そうですよ」 「えらい人ですね」 「そうですよ」  ふじの声はまたしだいに睡たげになって行った。  瑤子はその夜、花に埋もれて空を眺めている夢を見た。そして次の朝、本当に紅花色の光を見たのである。  皐月《さつき》の海へ     1  瑤子はジーンパンツをはいて、高校一年の男の子と歩いている。上は黒いセーターに同じデニムのジャンパーである。ジャンパーの袖《そで》を折り返して、手首にセーターをのぞかせていた。 「春子さん」  伸次が言った。 「え……」 「春子さんはUFOを見たことがある……」 「いいえ」  瑤子は微笑を泛《うか》べた。柴崎ふじの孫の伸次は、その笑顔を横目で眺め、眩《まぶ》しそうにすぐ目をそらせた。 「残念ながら今まで一度も見たことがないのよ」  瑤子の微笑は二重の意味を持っていた。ひとつはもちろん伸次の質問に対するものだったが、もうひとつは自分の服装に向けられていた。  今の自分の姿を見たら、夫の邦彦はどう言うだろうかと思ったのだ。もし今この道で向こうから邦彦がやって来たとしたら、一度何気なく目をそらし、それからあわててみつめ直すのではなかろうか……。  邦彦と結婚する前も、してからも、瑤子はジーンパンツなど一度もはいたことがなかった。ましてジャンパーと上下お揃《そろ》いのスタイルなど、着て見る気さえ起さなかった。  それが、着て見ると案外それなりにさまになるようなのだ。太くてごつい茶の革ベルトをして、バッグも持たずに歩くのはさっぱりと若々しく、つい足どりもいつもより軽く、大またになるようであった。 「伸次君は見たことがあるの」  瑤子は逆に尋ねて見た。UFOの話題がブルージーン・スタイルにはいかにもふさわしいような感じがした。 「まだない」  伸次の言い方は、いかにも残念そうであった。  瑤子は声をあげて笑った。ついさっき、伸次は瑤子に数学のテストで満点をとったことがあるかと訊《き》かれ、まったく同じ答えかたをしたからであった。 「どうしてかしらね。雑誌などに目撃した話がよくのっているけれど」  伸次は勢いよく言った。 「そうなんだ。UFOを見る人は、何回も見てる。僕、あれはやっぱり、生まれつきがあるんじゃないかと思うな」 「生まれつき……」 「そう。だって、UFOには宇宙人が乗っているでしょう。宇宙人にコンタクトできるのは、そういう能力を生まれつき持っていないとだめなんじゃないかと思うの」 「そうかしら。それより、伸次君の姿勢のせいじゃないの」 「姿勢……」 「そうよ。伸次君はいつも少し前かがみの姿勢で歩いてるわ。猫背《ねこぜ》になっちゃうわよ。そういう姿勢だから、下ばかり向いていて、空を見ないからUFOもなかなか見られないのよ」 「ちぇっ」  伸次ははぐらかされたように舌打ちして見せたが、すぐにまた勢いよく喋《しやべ》りはじめた。 「UFOって、アルファ・ケンタウリから来るんだと思うんだ。アルファ・ケンタウリって知ってる……」 「星の名前だと思うけれど」 「そう。凄《すご》いな春子さんは。春子さんくらいの女の人で、アルファ・ケンタウリを知ってる人なんて、はじめてだ」 「よく知らないのよ」  瑤子は詫《わ》びるように言った。 「どこにあるの……そのアルファ・ケンタウリって」 「恒星の中では太陽系に一番近い星なんだ」 「おとなりね」 「そう。ケンタウルス座のアルファ星のこと。四・三光年のところにあるんだ」  伸次は得意そうであった。 「四・三光年なんて言われてもピンと来ないわ」 「光が一年かかって進む距離だよ」 「一秒間に地球を七まわり半でしょう」 「そう。だから一年で約五千億キロメートル」 「あら、計算が早いのね」  瑤子はさっきまで数学が苦手《にがて》だとぼやいていた伸次をからかった。 「そうなるはずだよ」  伸次はむきになった。 「ちゃんと自分で計算して見たの……」 「計算……そんなの面倒臭いよ。いちいちしていられない」 「だめよ、しなくては。本に書いてある数字を丸暗記したのでは勉強にならないでしょう」 「とにかく一光年は約五千億キロメートル」 「じゃあ訊きますけどね」 「うん」 「二百カイリ問題が起きているでしょう」 「うん」 「時速二十ノットの船で二百カイリの専管水域の外へ出るには何時間くらいかかると思う……」  伸次はたちまち返事につまった。 「知らないよ、そんなの」 「だめねえ」 「何時間くらいかかるの」 「十時間じゃないの」 「ちぇっ、なんだ」  伸次はまた舌打ちして見せた。     2 「僕、宇宙のことが専門だものな」  伸次は気をとり直したように言った。前方に杉《すぎ》の木立ちが見えて来た。 「そう。宇宙のことが専門なの」  瑤子はおかしそうに言った。 「地球は宇宙の中の星のひとつでしょう」 「それはそうだけれど。じゃあ春子さん、パーセクって何だか知っている……」 「パーセク。知らないわね」  伸次はそれ見ろ、というような顔になった。 「パーセクも宇宙の距離をあらわす単位のひとつだよ」 「あら、そうなの」 「うん。年間視差が一秒に当たる天体の距離を一とするんだ。でパーセクは三十兆九千七百億キロメートルさ」 「それ、何光年になるの」 「ええと……」  伸次は沈黙し、少し歩いてから笑った。 「意地悪なんだなあ、春子さんて」 「だいたいでいいから計算してみなさいよ。三十兆九千何百億かだったら、三十一兆でいいじゃないの。三十一兆を五千億で割るのよ。両方とも単位はキロメートルでしょう」 「判らない」  伸次は憤《おこ》ったように言った。 「もうガイドしてやらないから」 「いいわよ。終点は見えているもの。あれがそのお墓でしょう」  たしかに、二人の行手にある杉木立は、上杉家|廟所《びようしよ》の森であった。 「いいよ、一人で行けば。でも帰り道が判らなくなるよ。方角オンチのくせに」  伸次は走り出した。 「待って、伸次君。こら待て」  瑤子もふざけて走り出した。軽快なジーンズ姿でいることが、そんな風に瑤子を活溌《かつぱつ》にさせているようであった。 「ここは、おたまやと呼ぶんだ」  伸次が瑤子を残して突っ走ったのには目的があったようだ。上杉家歴代の廟所であるその「おたまや」の入口には料金所があって、伸次は先に行って参拝料を自分で払いたかったらしいのだ。  瑤子がその料金所の前を通ると、中で柔和な顔をした老人が、軽く頭をさげて見せていた。 「案外小ぢんまりとしているのね」  瑤子はそう言いながら、ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、少々男っぽい歩きかたでゆっくりと両側の杉木立を眺めた。高校生の伸次と連れ立って歩くには、そんな恰好《かつこう》が一番ふさわしいような気分であった。 「あれが上杉謙信公のお墓……」  瑤子は正面を指さして尋ねた。どこから来た人達か、四十人ほどの団体が一団となって、ガイドの女性の説明を聞いていた。 「上杉謙信の遺骸《いがい》はよろいかぶとを身につけて、大きな甕《かめ》の中に入っているんだって。もとはお城の中にあったのを、明治になってからここへ移したんだそうだよ」 「へえ……あの両側に並んでいるのはなあに」 「上杉家の十二代までの殿様たちの廟だって」  伸次はつまらなそうな顔をしていた。身近なことより、今の伸次の関心は大宇宙の彼方にあるのだろう。 「静かで気持のいい場所」  瑤子は胸を張って息を吸い込んだ。 「杉の匂《にお》いがするわね」 「うん」  伸次は気のなさそうな返事をする。 「あら……」  瑤子は杉木立の中の地面に目をやって足をとめた。 「何……どうしたの」  伸次がそのとなりへ立って訊いた。 「苔《こけ》が生えてるのね」 「スギゴケだろ。あっちは苔が絨緞《じゆうたん》みたいにふかふかに生えているよ」 「本当……」  瑤子は上杉謙信と十二代の藩主の廟が並ぶ奥のほうへ進んだ。 「まあ……」  みごとな苔であった。瑤子はジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、そこに立って眉《まゆ》を寄せながら苔を眺めていた。 「苔、嫌《きら》いなの……」  伸次はその表情を見て言った。 「苔の鉢植えなんか持っているくせに」 「この辺りにも苔が生えるのね。雪がたくさんつもる所だから、生えないと思っていたわ」 「苔くらい米沢だってはえるよ」  伸次はけなされたときのように、口をとがらせて言った。 「西大通りのほうの法泉寺はもっと凄《すご》いよ。苔庭で有名なんだ。京都のほうのお寺の真似をしたんだとか聞いたな。行って見る……」 「そう、法泉寺って、モス・ガーデンがあるの」 「うん」 「見たいわ」 「じゃ案内する。そう遠くないよ、僕の学校の近くだから」  観光客の一団が、説明をおえたガイドについてぞろぞろと入口のほうへ戻りはじめた。どうやら近県からの団体のようであった。 「行きましょうか、私たちも」  瑤子は何気なくそう言った。その団体の移動に釣《つ》り込まれたように、伸次と瑤子は一緒になって歩きはじめる。  と、廟所の入口にタクシーが来てとまり、中から背の高い外人を連れた二人の日本人がおりた。やはり廟所を見学に来たらしいのだが、瑤子には不吉な直感があった。     3 「どうしたの……」  伸次は低い声で言った。団体の観光客はまとまりが悪く、なかなか観光バスに戻ろうとせず、土産物を物色したり並んで記念撮影をしたりしている。  瑤子はバスのうしろに半分身をかくすようにして、外人をまじえた三人づれのうしろ姿を見ていた。 「知っている人……」 「いいえ」  瑤子はそう答えた。たしかにはじめて見る三人ではあったが、瑤子の心の中で警報のようなものが鳴り響いているのだ。  三人はまっすぐに突き当たりの廟《びよう》が並んでいる所へ行った。まるでそれは廟そのものに用事のある人間の歩き方であった。  観光客ではない。  瑤子は三人の歩き方を見てそう思ったのだ。はっきりと目的を持った人間の歩き方で、なんとなく見物に来たのなら、足どりはもっとあいまいな感じでなければならなかった。 「あ……」  瑤子は思わず声をあげた。突き当たりの廟が並んだ所へ行くと、その三人はすぐにしゃがみ込んだのである。  苔を調べている。 「ねえ、どうしたの」  伸次は瑤子の態度に異変を感じたらしく心配そうに言った。 「あの外人がどうかしたの……苔を見ているようだけれど」  伸次にもそのように見えたのだ。 「行きましょう」  瑤子は身を翻《ひるが》えすと足早に「おたまや」をあとにした。  ブルー・ジーンズを着ていてよかった。  瑤子はそう思った。まかり間違って、東京から着ていた服でいたら、発見されてしまったかも知れないのである。 「法泉寺はこっちだよ」 「いいの」  瑤子は叱《しか》るように言った。 「帰りましょう」 「え……法泉寺へ行かずに」 「そう、早く帰りたいの。お願いだから近道をして。タクシーが入って来ないような道を選んで」 「よし」  伸次は急に意気込んだ。なぜか理由は判らなくても、瑤子の身に危険が迫ったらしいことを感じたのであろう。それでなくても、柴崎家へ突然ころがり込んだかたちの瑤子に、何か人に言えない事情があることは判っているのだ。 「春子さんの都合が悪ければ、今のことは誰《だれ》にも言わない」  伸次は誓うように言った。 「お婆ちゃんにもだよ」  瑤子は高校一年の伸次に歩調を合わせるので息を切らせており、答えるゆとりがなかった。ただ少しでも早く裏道へ逃げ込みたかった。今にも「おたまや」の苔を調べおえた三人が、タクシーに戻って背後から追いついて来そうな気がしていた。 「ほら。もう大丈夫だよ」  伸次は瀬戸物屋の横から裏道へ入ると、急に足をゆるめてそう言った。しばらく二人は黙り込んでいた。 「ねえ春子さん」 「なあに」 「もしかしたら、どこかへ行ってしまうんじゃないの……」  伸次は思春期の男の子らしく、そういう別れにはことのほか敏感であった。 「いつまでもおたくにお世話になり続けているわけにも行かないのよ」  無益な否定をして見せる気は、瑤子にもなかった。伸次が何かその胸の内にほのかな想いを抱いているとすれば、この場合否定することがかえって伸次の心を傷つけることになると思ったのである。 「大変だねえ」  伸次の稚拙《ちせつ》な言葉が、瑤子の心を動揺させた。 「ごめんなさいね」 「ずっと米沢にいればいいのに」 「多分……出て行くことになりそう」  伸次は、ふうん、とあいまいに言った。しばらく黙って歩き、突然小石を蹴《け》った。 「かっこいいお姉さんができたと思ったのに」  瑤子は励ますように笑った。 「伸次君は、ガールフレンドまだいないの」 「いないよ」  いないよォ、と伸次はふてくされたように言う。 「ハンサムだから、きっと今にすてきなガールフレンドができるわよ」  伸次は照れて、エヘヘ……と笑った。 「あたしは逃亡者。以前そんなテレビ映画があったじゃないの」 「インベーダーに追いかけられてるの……」 「そう」  伸次は少し考え込み、 「判った。そう思うことにするよ」  と、ひどく大人びた返事をした。 「早くやっつけちゃってくださいね」  言葉つきをあらためて言う。 「ええ、そうするわ」 「すんだらまた来てくれる……」 「ええ、きっと」 「約束して」  金沢のときと同じだ。  瑤子はそう思い、悲しくなった。岡崎の顔が泛《うか》んで来る。どこへ行っても自分に対する好意があった。そして、どこへ行ってもその好意にむくいることができないのである。いまに……いまに……。瑤子は涙ぐんだ。     4 「お別れのときが参りました」  夜、瑤子は柴崎ふじの前へ坐《すわ》ってそう言った。ふじと瑤子の膝《ひざ》の間に苔《こけ》の小さな鉢植《はちう》えがあり、それが真珠色の光を放っていた。 「そうですね」  ふじはそのふしぎな光をみつめながら頷《うなず》いている。ふじもくわしいことは何ひとつ知らないのだ。知らないでいて、別れの時が来たことだけは悟っている。 「いずれは逃げなくてもすむようになるのでしょうね」 「はい、多分」 「早くご主人としあわせにお暮らしなさい。で、どこへ行きます」 「さあ」  瑤子は困ったように小首をかしげた。 「思い切り遠くへ行こうかと思っています」 「思い切り遠くへね」  ふじも小首をかしげた。 「手伝いたいのですよ。手伝っていいですか」 「それはもう」 「ではちょっと」  ふじはそう言うと立ちあがり、 「苔をしまっておきなさい」  と注意してから、瑤子をその部屋に残して出て行った。  瑤子は苔をしまうついでに、手早く旅立つ用意をした。荷物は少なく、すぐに仕度はおわった。  ふじは三十分ほど戻って来なかった。瑤子はその間にいつものように床をのべ、ふじを待った。  ふじは戻って来ると、着がえをはじめながら言った。 「汽車には乗りたくないのでしょう」 「ええ」  あの三人が同じ列車に乗り合わせたら大変なことになる。 「赤沢に小さな造り酒屋さんがありましてね。そこのトラックがあした東京へ向かうのです。朝早くここへ寄って乗せてくれるよう、たのんでおきました。東京の近くへ行ってから、タクシーなり電車なりに乗りかえて、そこから一人で川崎《かわさき》というところへ行きなさい」 「川崎へ、ですか……」 「川崎は知っていますか」 「ええ、だいたいは」  瑤子は心細そうに答えた。 「あたしの姪《めい》が一人、日向《ひゆうが》にいます。その姪の娘がいま、東京の学校へ来ているのです。姪の家は少し豊かでしてね。娘に贅沢《ぜいたく》をさせているのですよ。それがちょうど、あした日向へ帰るところなのです。今度は船で帰って見るのだそうです」 「お船で……」 「どうです。ちょうどよくはありませんか」 「あの、日向と言いますと、何県になるのでしょうか」 「相変らずですね」  ふじは笑った。瑤子の方向オンチを笑ったのだ。 「宮崎《みやざき》ですよ」 「ああ……」  瑤子は納得した。 「船で宮崎へ渡ったとは誰も考えつかないでしょう」 「そうですね」 「さあ、おやすみなさい。朝が早いですよ」 「はい」  瑤子は頷いて着がえた。 「本当にお世話になりました」 「あたしはもうこの年ですからね。うまくまた会えるかどうか判りません」 「そんなことをおっしゃらず、いつまでもお元気でいてください。今にきっとお目にかかりにうかがいます」 「あなたのことは忘れません」  ふじは瑤子に背を向けて言った。 「ふしぎな妖精《ようせい》のような人でした」 「…………」 「その妖精のようなところが、今のあなたを不幸にしているのですね」 「そうかも知れません」 「がんばってくださいよ。くじけてはいけませんからね。いいですか、あたしの言うことを、よく憶《おぼ》えておいてください」 「はい」 「虫は草の葉っぱを食べて育ちます。でも、葉っぱを食い荒して地面を這《は》いまわる虫より、葉っぱを食べられても元気に天へ向かって伸びて行く草のような人になりなさい。これはただの負けじだましいのようなこととはちがうのです。草にとっては葉っぱを虫に食べさせることも役目のひとつかも知れないではありませんか。世の中は、すぐ役に立つ者を利用しようとしてかかります。それに対して、利用されまいとたちまわるのは、一見利口そうに見えて、実は大して利口なこととは言えないのです。草は自分がすくすくと大きく育つことだけを考えていればいいのです。その点、葉っぱを食べる虫は気の毒ですね。他人を利用したばかりに、いつまでも地面を這いまわっていなければなりません」 「はい。よく判りました」  瑤子は夜具の中に横たわって頷いた。たしかに柴崎ふじの言うことは正しい。しかし、それは通常の世界での正しさであった。  いま瑤子が置かれているのは、そんな生易《なまやさ》しい世界ではないのだ。瑤子の持つ稀有《けう》な超能力を、世界中の権力者が利用しようと狙《ねら》っているのだ。もしそれを利用させてしまえば、世界の情勢は一夜にして変ってしまう。独裁者が生まれるのである。     5 「新栗子《しんくりこ》トンネル」  運転している男が、大声で怒鳴るように教えてくれたとき、そのトラックはまだへッド・ライトをつけて走っていた。長いトンネルを出ると、東の空にうっすらと赤味がさして来ていた。  福島《ふくしま》市街へ入ったのはそのすぐあとで、町はまだ静かであった。 「一軒途中に寄る所があるので、このまま121を行くから」  会津若松《あいづわかまつ》の手前でそう教えられたが、瑤子には何のことかさっぱり判らなかった。運転手は加藤という寡黙な男で、年は三十五くらいだった。  トラックは驀走《ばくそう》を続ける。そんな大きなトラックに乗ったことははじめてだったし、そんな長い間車に乗り続けるのも瑤子にははじめての経験であった。  121が国道の番号だと気付いたのは、途中にときどきその数字を書いた標識があったからだ。 「川治《かわじ》温泉」  加藤がまた怒鳴るように言ったので、瑤子は自分が日光《につこう》のほうへ来ていることを知った。日光なら二、三度来たことがある。トラックは今市《いまいち》市の入口あたりの倉庫でいったんとまり、うしろへ荷を少し積み足してすぐまた走り出した。  宇都宮《うつのみや》、小山《おやま》、古河《こが》、栗橋《くりはし》……。 「川口《かわぐち》へ寄ってあげるから」  加藤はそう言い、春日部《かすかべ》から道をそれた。  川口市の近くに、大型のトラックばかりが駐《と》まっているドライブ・インがあった。 「ちょっと待っていてください」  加藤はそこへ車を乗り入れるとエンジンをとめて車をおり、小走りに汚《よご》れた食堂のほうへ去った。  川口からだとまっすぐ国電で川崎に行ける筈だったのではないだろうか。  瑤子がうろ憶《おぼ》えの地理を頭に思い泛べていると、すぐに加藤が戻って来た。 「うまい具合にいましたよ」  そう言って瑤子の側のドアを外からあけ、手をさしのべた。降りろということらしい。 「ここでお別れするんですか」 「荷物を持って」  加藤は大声で言った。瑤子は叱《しか》られたように首をすくめ、荷物を取って加藤に渡した。加藤はそれを地面に置き、途中の休憩所で何度かそうしてくれたように、瑤子が高い運転席から降りるのを受けとめるように手伝ってくれた。  ブルー・ジーンズ姿の瑤子は、大きなトラックに囲まれて、途方に暮れていた。 「こっちこっち」  加藤が荷物を手に走り出す。その先に、エンジンをかけたトラックが待っていた。 「これが木更津《きさらづ》へ行くんです。乗りなさい」  有無を言わせず、加藤は瑤子をそのトラックに押しあげ、無遠慮に尻《しり》に手を当てて乗せると、荷物を渡してその運転手に言った。 「お前、綺麗《きれい》な人だと思って妙な真似をすると、あとでひどい目にあわせるぞ」 「この人なら半殺しにされてもいいや」  運転手は笑い、手を振った。 「さようなら、春子さん」  加藤は米沢《よねざわ》以来はじめて笑顔を瑤子に向けた。歯の白い、優《やさ》しい笑顔であった。 「さようなら。どうも有難う」 「また米沢へ来なさいよ」  加藤は意外にも、熱烈に手をうち振って瑤子を見送った。 「加藤と知り合い……」  新しいトラックの運転手が訊《き》いた。 「ええ、まあ」 「いい奴でしょう」 「そうですね」 「運転も俺《おれ》よりずっと上だ」  その男は加藤よりお喋《しやべ》りだった。道に乗り入れると、自分と加藤の付合いがいかに古いか、子供の頃にまでさかのぼって語りはじめた。 「あの……」  瑤子はたまりかねて口をはさんだ。 「なんですか」  運転手は上機嫌《じようきげん》で訊く。 「このトラック、木更津へ行くそうですね」 「そう」 「川崎へ寄ってくれるんですか」  瑤子が言うと、男は声をあげて笑い出した。 「なんだ、そいつを心配してたのか。こっちは心細そうにしてるから、安心させようと思って喋りまくってたのに」  瑤子もその屈託のない笑いに釣《つ》り込まれて笑った。 「川崎のね、浮島ってとこから木更津へフェリーが出てるのさ」 「フェリー……」 「渡し船」 「まあ、こんな大きなトラックを乗せる渡し船があるんですか」 「いやになるな」  運転手はたのしそうに笑った。 「日向へだって乗せて行くよ。お嬢さん、日向へ行くんだろう」 「ええ」 「じゃこれでいいんだ。安心して乗ってなさいよ。ちゃんと九州行きのフェリーに間に合わせてあげるから」  そう教えられて瑤子はやっと気分が落ちついて来た。  しかし、そこはもう東京の道であった。やがてトラックが高速道路に入り、東京タワーの近くを通り過ぎたとき、瑤子は目にごみが入ったふりをして、ハンカチで涙を拭《ぬぐ》っていた。  海の上の風     1  横浜には父の津田久衛と兄の清一郎がいる。市内の古い家だ。瑤子はそこで生まれ、東京と横浜の間を往復しながら育った。ところが、その中間の川崎についてはほとんど何も知らないと言っていい。  何と自分は世間のことにうとかったのだろう……。瑤子はいまさらながらそう思った。東京と横浜を往復する、と言っても、ごくまれにタクシーを利用した程度で、国電や東横線の駅名なら知っているものの、高速道路で羽田《はねだ》から横浜へ向かうことなど、一度も経験したことがなかった。  まして、そのトラックが羽田の少し西の大師インターチェンジを出て、幅の広いまっすぐな道を海へ向かって走りはじめたとき、瑤子はまるで外国へ来てしまったような心細さを味わった。 「ここも川崎市……」  瑤子が信じられないというように尋ねると、運転手は愉快そうに笑った。 「お姫さまなんだなあ、あんたは」 「こんな場所があるなんて知らなかったわ」  瑤子は思わず拗《す》ねたような表情になった。 「左が六郷川《ろくごうがわ》と言ってね」 「六郷川……」 「そう。多摩川《たまがわ》の下流さ」 「同じ川なのに……」 「うん、なぜか河口が六郷川になっている。第一京浜には六郷橋があるじゃないか」 「知らないわ」 「蒲田《かまた》の先は六郷という名前の土地だよ」 「昔からなの……」 「そう。まあ、知らなくてもどうということはないけれどね。地理の試験じゃないんだから」  運転手はそう言ってまた笑った。 「とにかくこの道は、まっすぐ行くと海の中へドボンさ。もっとも、その手前にトラック・ターミナルがあるけれど」 「あれは何線……」  瑤子は右側を指さして言った。線路がその道と平行に走っている。 「さあ、何と言う名前か知らないね。とにかく貨物線さ。あっち側は石油会社だらけだ。石油コンビナートって言うのかな。その先は多分大師運河とか言ったはずだよ」 「よくご存知」  瑤子はほとほと兜《かぶと》を脱いだ気持で言ったが、運転手は照れ臭そうな顔をした。 「俺たち、よく地図を見るからね」  トラックはスピードを落した。 「さあ終点だ。カーフェリーのターミナルだよ」  瑤子はほっとした。目的地へ着いたことよりも、その場所が東京のすぐそばなのに、まるで自分とは縁のない世界だったからである。これなら安全だという確信があった。 「さあ、ここで降りて」  運転手は左折するとすぐトラックをとめ、後続車が迫っていないのをたしかめながら言った。 「ここで……」 「そう。あの建物の一階がフェリーの待合所になっている」  瑤子はドアをあけた。 「気をつけて、高いから」  瑤子はうしろ向きに降りかけ、 「有難うございました。お名前は……」  と言った。 「名前なんか」  運転手は白い健康そうな歯を見せて笑った。 「あんたみたいな綺麗な人とは、この先一生ご縁がなさそうだもの」  瑤子はもう一度礼を言ってトラックをおりた。運転手が荷物を渡してくれた。 「おしあわせに」  バタンとドアがしまると、瑤子の目からその男の姿がまったく見えなくなってしまった。巨大なトラックが、物々しい感じでターミナルへ入って行く。  何とも呆気《あつけ》ない別れであった。  この先一生ご縁がなさそうだ……。瑤子はその言葉を噛《か》みしめながら、教えられた建物のほうへ歩いて行った。  たしかにそうかも知れない。だが、それだからこそ、瑤子は今の男の顔を忘れたくないと思った。同じ好意を受けた場合でも、すがすがしい場合とそうでない場合がある。今の男から受けた好意は、すがすがしかった。それは、彼が瑤子を二度とめぐり会うことのない相手だとはっきり認識していたからなのだ。  ああでなければいけないのだ。瑤子は自分にそう言い聞かせながら、その建物の中へ入った。     2  たくさんのトラックや乗用車がきちんと列を作って海岸の広場を埋めていた。待合所の前にはオートバイも並んでいる。  瑤子はうろうろとそんな風景を見ながら歩きまわるだけであった。柴崎ふじは、谷村伸子《たにむらのぶこ》という姪《めい》の名前しか教えてくれなかった。迂闊《うかつ》なことだが、目的地へ着いて見れば、その谷村伸子をどうやって見分けたらいいのか、途方にくれるばかりであった。  二十分もたつと、瑤子はこのまま船が出てしまいそうな気がして心細くなった。トラックを降りた頃から風が強くなりはじめていて、空が薄暗くなりはじめると風はいっそう激しくなった。 「春子さん……」  たくさんのトラックを乗せた木更津行きのフェリーが出港しはじめるのを眺《なが》めていると、瑤子のうしろからそう声がかかった。瑤子はビクッとしたように振り向き、 「あの……谷村伸子さんですか」  と言った。二十一か二、といった年頃《としごろ》の大柄な女性が、ちょっと眉《まゆ》を寄せた感じで瑤子をみつめている。 「よかった。柴崎のおばあちゃんたら、あなたの着ている服だけしか教えてくれないんですもの。途中で着がえたらどうするつもりだったのかしらねえ」 「お世話になります」  瑤子は深々と頭をさげた。 「でも、あなたが春子さんでよかった」  伸子はそう言うと急に笑顔になり、 「ほら、あの売店のところにもジーンズを着た女性がいるでしょう」  と低い声で教える。 「え……ああ」  伸子の視線の先に、金色の飾りボタンがついたブルー・ジーンズを着た背の高い女がいた。 「あんなトゲトゲした感じの人だったらどうしようと思ってたの」  伸子はそう言ってクスクスと笑った。 「どなたかお友達とご一緒の予定だったのでしょう。そこへ私が割り込んでしまって」 「いいんです」  伸子は鷹揚《おうよう》に言い、 「さあ、行きましょう。その前にこの切符に記入して」  と、自分はスーツケースを持ったまま、瑤子に乗船券を渡した。瑤子が書くものを探《さが》すと、黙ってボールペンを貸してくれる。 「すみません」 「この船ははじめて……」 「ええ」  瑤子はしゃがみ込み、自分のバッグにその紙を当てて少し考えた。 「あたしもはじめて。何でこんな気まぐれを起したのかしらね。飛行機で行けばすぐなのに」  伸子がそう言うのを聞きながら、瑤子は思いつくままに適当な名を書いた。新沢春子……友達の新沢夫妻の姓に、春子という名をつなげたのだ。住所も新沢家の番地にした。 「さあ、偽名を書いたら行きましょう」  立ちあがった春子に、伸子は無表情で言った。建物を出て長い歩道橋を渡り、船へ向かう。 「なぜ偽名だと……」 「おばあちゃんに言われてるの。深いことを訊《き》いてはいけないって」  強い風に二人の髪が乱れる。 「柴崎のおばあちゃんがそれほど気をつかうなんて、珍しいことよ。何でも判ってるくせに、人を突き放すような態度をとるおばあちゃんなんだから」  伸子はそう言い、ちょっと間を置いてから、 「そうか、判ってるから突き放すのかも知れないわね」  と笑った。長細い箱のようなタラップの登り口に改札係がいて、船へ入ると今度はホテルそっくりのフロントがあった。  伸子がそこでキイを受取り、ルームナンバーをたしかめながら階段をあがって特別室と書いた通路へ入った。 「ここだわ」  伸子は薄暗い通路に立ちどまってドアをあけると、中へ入って突き当たりの窓へ行き、荷物を持ったまま振り返ると、 「うん、わりとよくできてる」  とつぶやいた。  突き当たりの窓ぎわにテーブルと椅子《いす》が二つあり、両側にべッドがあってカーテンで仕切られるようになっていた。ドアの近くには洗面台と衣裳棚《いしようだな》、反対側はバスとトイレである。 「特別室だなんて私には贅沢《ぜいたく》ですのに」  瑤子が遠慮がちに言うと伸子はベッドに腰をおろし、スーツケースを床《ゆか》に置いて、 「あたしは特別室でなければいやなの」  と微笑した。 「たしか通路の向こう側は一等客室よ。でも窓がないらしいの」 「窓が……」 「そう。船の両舷《りようげん》にそって特別室、まん中が一等ですもの。……しまったなあ」  伸子は舌打ちをしながらハイヒールを脱いだ。 「どうかしましたの……」  忘れ物でもしたのかと思って瑤子は訊いた。 「このお部屋、左舷じゃないの。あいつ、ほんとに頼りないんだから」  どうやら部屋が気に入らないようであった。それに、切符の手配を人に頼んだらしい。 「左舷じゃいけないんですか」 「そうよ。だって船は西へ行くのよ。日本列島は右側。つまりこの窓から見えるのは水平線だけ」  瑤子は思わず笑った。電車に乗るとすぐに座席にうしろ向きに坐《すわ》って窓の外を見たがる男の子を連想したのだ。 「退屈しても知らないから」  笑った瑤子に口をとがらせて言ったあと、伸子は自分でもおかしくなったのか、軽く肩をすぼめて笑った。 「あたしってわがまま娘なの。贅沢なことばかり言って」 「でも私なんか右舷だって左舷だって、そんなこと全然気が付きもしませんわ。乗物になれていらっしゃるのね」 「わがままなだけ。自分でもこれじゃいけないと思うんだけど」  瑤子はやっとその女性を自分より年下なのだと感じることができた。 「うらやましいですわ」  そう言って椅子に腰をおろすと、伸子はスリッパをはいて飛びつくように自分も窓ぎわの椅子へ移った。 「うらやましいのはあたしよ」  そう言って瑤子の顔をのぞき込む。 「あら、どうして……」 「こんな退屈な人生なら、いっそ死んでしまったほうがましだと思ってるの。あなたみたいな秘密を持って生きてみたいの。すてきだわ、敵に追われて北へ南へと逃げまわるのって」 「おばあちゃまがそうおっしゃったんですか」 「いいえ、あたしの直感よ。凄《すご》い秘密を背負って命がけで逃げまわってるって感じがしたの。もっとも、柴崎のおばあちゃんに事情のある人だからってことを聞いていなければ、そんな風には思わなかったでしょうけれどね」  瑤子は返事のしようがなくて、黙っていた。 「あたし味方よ」  伸子は子供っぽく言った。     3  大きなレストランに、和食堂やコーヒー・ショップ、それにサウナ・バスまでその船には揃《そろ》っていた。瑤子は船内を探検するのだという伸子に連れられて、乗客が歩きまわれるところはすベて行って見た。しかし、船は出港予定時刻を過ぎてもなかなか動き出さず、やがて船内アナウンスで、風速が二十メートルをこえたので、しばらく様子を見るという知らせがあった。 「まあいいわ。どうせフェリーを選んだんだから、少しくらい遅れたって」  伸子はそう言い、二人は和食堂で夕食をとった。 「ねえ、どういうわけなの。教えて」  部屋へ帰ると、伸子は自分でお茶をいれながら言った。 「犯罪に関係あり……」 「まさか」  瑤子は苦笑した。 「そうでしょうね。春子さんて、そんな風には見えないもの」  その頃までには、瑤子もその女王さま然とした伸子の態度の底にあるものが判って来ていた。  甘えているのだ。瑤子が自分より年上であることに、何か安心感のようなものを抱いていて、それで余計にズケズケとした言い方をするらしい。かと言って、相手が一つでも年下だったらたっぷりお姉さんぶるのだろうし、同じ年だったらそれはそれで強引に自分が優位に立ちたがるだろう。  驕慢《きようまん》。ひとことで言ってしまえばそういうことになるが、伸子という女性の本質はどうやら底抜けに善良らしく、相手に対して高飛車《たかびしや》でいながら、どこか可愛気があって憎めないのである。 「ねえ、教えてよ」  しまいには男の子のように言う。 「ごめんなさい」  瑤子は微笑して言った。 「どうしてもだめなの……」  伸子は脹《ふく》れ面になる。 「夫にも打ちあけられないんですもの」  瑤子は仕方なくそう言った。 「え……」  伸子は目を丸くした。 「夫って……春子さん、ご主人がいらっしゃるの」  なぜか突然、言葉がていねいになった。 「ええ」 「まあ……きっとすてきな人ね」 「ふつうですわ」 「ご謙遜《けんそん》よ。春子さんみたいな人のご主人がふつうの男であるもんですか」  そう言うと伸子は深刻そうな顔になり、しばらく考えていた。 「よほどのことなのね」  やがてしんみりした声でそう言う。 「しつっこく訊いて、ごめんなさい。あたし、あんまり我慢ということをしたことがないから」 「あやまるのは私のほうです。お世話になる方に、何ひとつ事情をご説明できないんですものね」 「大変ねえ」  大変ねえと言いながらも、伸子の顔には同情の色など泛《うか》ばず、憧《あこが》れるような目で瑤子をみつめていた。  要するに、ロマンチックな冒険に憧れている多感な令嬢なのだ。瑤子に夫がいると知ったとたん敬意をあらわしたのも、結局は華麗なラブ・ロマンスを夢みているからであろう。 「伸子さんて、いい奥さんになる方ね」  瑤子がそう言うと、伸子はニコリともせずに頷《うなず》いた。 「正解よ。あたしって、見かけによらないの。でも相手によるわね」  瑤子は笑い出しながら、こういう人生もあるのだと思った。物質的な不自由というものを、生まれてから一度も味わったことがなく、それだけに何かしら不自由さに憧れている。冒険を求めていると言えば人生に退屈した結果のように聞こえるけれど、冒険そのものにひそむ要素のひとつは、不自由であるということではないのだろうか。何もかも思いのままであれば冒険にならない。意のままになりにくいことに挑《いど》むのが冒険であろう。同じように、華麗なラブ・ロマンスというのも、結ばれがたい条件の中でお互いが求め合うということではあるまいか。一目で好き合って、両親も友人たちも祝福してくれて、すぐに婚約から結婚と進むのを、決してラブ・ロマンスとは呼ぶまい。  瑤子は船室の幅の狭いベッドに横になり、思い切り体を伸ばした。そういう伸子がそばにいるせいか、敵の存在をまったく感じずにすんだ。     4  船は二時間も出港が遅れた。しかし、とびきりのわがまま娘である伸子は、少しもいらだつ様子を示さず、かえってその遅延をたのしんでいるような素ぶりさえ示した。 「嵐《あらし》になれ、嵐になれ」  ふざけ半分に、祈るようにそんなことを言っている。船はタグ・ボートに引かれて東京湾へ出たところであった。 「いやだわ、これ以上揺れたら」  瑤子はそう言ったが、伸子は気に留めもせず、 「嵐になれ、嵐になれ」  と、だんだん本気で祈りはじめる。  瑤子はふと、そんな伸子の心理を知りたくなった。  あれを使って見たら……。  テレパシーをほんの少し使えば、伸子の心理が判るのである。だが、たとえ海の上に出た敵の気配のない船内であろうと、自重すべきであった。  敵に悟られずに、聞くだけのテレパシーが使えないものだろうか。  瑤子はその時はじめてそう考えた。すると今までそれを考えなかった自分が、ひどく迂闊《うかつ》であったように思えて来た。  目をとじ、深呼吸をして気を鎮《しず》めると、自分の心の中を覗《のぞ》き込むような気分で、そっと心の扉《とびら》をまさぐった。  禁じられた扉の中で、どこかが分れているような気がしてならなかった。この扉をそっとあけ、片一方を溢《あふ》れ出させぬようにしながら静かに耳をすませば、伸子の思考が聞こえるのではあるまいか……。  瑤子は自分自身に対する好奇心を抑えることができなかった。  そっと、細く、その禁じられた扉をあけて見た。  とたんに瑤子は自分の超能力が以前よりずっと成熟していることに気付いた。それは、握力が増して脆《もろ》い品物をそっと扱えるようになったことに似ていた。  海が荒れていた。伸子が乗った船はばかばかしいほど巨大な波に呑《の》まれて沈没し、ゴムボートに二人の女が水中から這《は》いあがった。夜が明けると絶海の孤島にそのボートが流れつき、伸子は瑤子とよろめきながら陸へあがる。するとヘリコプターが現われ、砂浜の二人の頭をかすめて飛ぶ……。  それは伸子の空想であった。伸子は瑤子とそんな危地に陥ることで、まんまと瑤子の秘密を知り、それを共有してしまう。  瑤子は心の扉をとじ、クスクスと笑った。 「どうしたの……」  反対側のべッドで伸子が寝返りをうち、そう尋ねた。 「いえ、何でもないの」 「いやねえ、思い出し笑いなんかして」  伸子は苦笑したようだったが、すぐにまた自分だけの世界へ戻った。  うまく行く。  瑤子は自信を持った。超能力者、つまりテレパスにしか理解のしようがないことだが、今の実験は大成功だったのである。瑤子は自分の思考を外に洩《も》らすことなく、相手の思考を聞くことができたのだった。  これは武器になる。瑤子はそう思った。今までは折角の超能力を、すべて封鎖してしまわなければならなかったのだ。しかし、付近の人間の思考を、敵に知られることなく読みとれるとしたら、身に迫る危険は充分に回避できるはずであった。  もう少し距離を伸ばしてみよう。  瑤子はまた精神をそのことに集中させはじめた。扉をそっとあけ、心の耳をすませる。  ——帰ったらお袋《ふくろ》になんと言おう——  それは、右どなりの部屋の若い男の思考であった。彼は東京で突然結婚してしまったらしい。新婚旅行がわりに花嫁を故郷へ連れて帰る途中なのだ。  ——とうとう彼に電話をしなかった——  それは花嫁のほうの思考であった。結婚する前のボーイフレンドのことを考えている。  ——ねえ、継夫さん——  これは声に出して言った言葉。  ——なんだい——  二人は窓際の椅子にいるらしい。  ——何時ごろ着くの——  男は船の運航表を見る。目が文字を追っていた。  ——うまく行けば店の借金が払える——  強い思考が新婚の二人の思考に割り込んで来て、瑤子は更に距離をのばした。もうひとつ先の船室にいる男の思考であった。二人用の部屋に一人きりだった。  ——必ずうまく行く。俺《おれ》のやることだから——  男は無理に自分の心を奮いたたせているようであった。  ——飛行機ではこれは運べないし、新幹線でも網棚《あみだな》へ置かねばならない——  男はスーツケースを見ている。  瑤子はハッとして心を閉じた。そのスーツケースに入っているものが、男の頭に泛《うか》んでいたからだ。  銃だわ。  瑤子は目をあけてそう思った。幾つかに分解した銃がスーツケースにかくしてあるのだ。  あの人、何をする気かしら。  瑤子はまた心を開いた。  ——大騒ぎになるな——  男の心には松林が泛んでいた。  ——うまく逃げられるだろうか——  男は狙撃《そげき》したあとの脱出法を考えかけ、急にそれをやめると、一人の男の顔を頭に泛べた。逃走については不安が大きいのだ。それで考えるのをやめたに違いなかった。     5  殺人をたくらんでいる男がこの船に乗っている。  瑤子は自分がテレパスとしていっそう成熟したのをよろこぶ反面、殺人者の心を覗《のぞ》いてしまったことを後悔しながらその夜を過した。  瑤子とは縁もゆかりもない男だったし、その男が標的として頭に泛べた相手もまた、瑤子にとっては無縁な存在であった。  私にはとめようがない。  瑤子は何度も自分にそう言い聞かせた。事前にその男に殺人を思いとどまらせることなど、不可能にきまっていた。自分がなぜ彼の殺人計画を知っているか、説明するわけには行かないし、仮りに説明したところで信じてくれるかどうか判らなかった。  それでも瑤子は、何度かこっそりその男の部屋へメモでも投げ込もうかと考えて見た。  あなたの殺人計画を知っています。  そう書いたメモを見せるだけで、男は用心して犯行を中止するに違いないと思った。しかし、そのかわり自分が探《さが》される側に立ってしまうのだ。  万一、その殺人者が瑤子の敵とつながりを持っていたらどうなるだろうか。男は明らかに誰《だれ》かの命令を受けているのだ。何かの店を持っていて、殺人の報酬でその店の権利が彼のものになるのだ。  つまり殺し屋じゃないの……。  瑤子はそういう職業が単にドラマの中だけではなく、この社会に実在することを知らされて慄然《りつぜん》とした。  傭《やと》い主《ぬし》はよく判らない。しかし、それが瑤子の超能力を欲している連中と同一でないとは断言できなかった。もし同じだとしたら、彼らはきっと瑤子か、もしくはそれに似た能力を持つ者が同じ船に乗り合わせていたことに気付いてしまうだろう。折角九州へうまくのがれたと思ったのに、それでは追手にこちらへ来いと言っているようなものだ。  殺人は失敗するかも知れない。  瑤子はそう思おうと努めた。最初の弾丸が外れれば、標的にされた相手も気が付いて身を隠すだろう。それなら自分がしゃしゃり出る必要はない。  失敗して欲しい。失敗してもらいたい。瑤子はまんじりともせずにそう思い続けた。それでいながら、ときどきその男の思考へそっと心の耳をすますのであった。  たしかに彼は狙撃の対象とは直接何の関係も持っていなかった。彼は金を欲しがっているだけだった。したがって、これからしようとしていることに罪の意識など持ってもいなかった。  恐ろしいことだわ。  瑤子はその殺人者が感じている一種のゲーム性を、心の底から恐ろしいと思った。たしかに彼は大きな不安を感じてはいるけれど、その不安というのは、たとえて言えば全財産を一回きりの博奕《ばくち》に賭《か》けてしまうような不安でしかなかった。自分自身の生命には何の不安もないのだ。射ちそこなってもうまく殺しても、とにかく逃げるという動作は同じなのだ。仮りに逃走に失敗して逮捕されても、自分が死刑になりはしないという確信があるのだ。彼はそうした場合の法律を熟知しているようであった。  法律って、おかしなものだわ。  瑤子はそう思った。男は自分がつかまった場合に適用される法律と、その罪に下される刑罰の範囲を知っているからこそ、死の危険を感じてはいないのである。何年くらいで出獄できるか、それさえ判っているらしい。取調べを受けることさえ恥辱に感じる人間と、少しくらいの刑務所暮しなど平気に思う人間との差が、法律にはまったくとり入れられていないようなのだ。前例に従って同種の犯罪の刑の量をきめるというやり方が、一見公正なようでいながらその実犯罪の減少には役立っていないことになる。最悪の刑期を見込んだ上で、その男のように犯行計画を組立てる者さえ現われるのだ。  阻止すべきかどうか。  瑤子は思い悩んだ。巻き込まれずにその犯行を防止することができればいいが、巻きぞえにならないという保証はどこにもなかった。  風はやんでいた。空が白みはじめると、瑤子はそっと服を着て部屋を出た。その通路の突き当たりから、じかに後部甲板に出られるようになっていた。  瑤子には巨大と思えるほどの白い航跡が、明けはじめた海の上にまっすぐ尾を引いていた。  瑤子はそれに見とれた。何もかも、このようにうしろへ置きすてて進めればいいのに……そんなことを考えたとき、重いドアをあけてオープン・シャツ姿の男が一人、甲板へ出て来た。 「イチ、ニ、サン、シ……」  男はもうひとつ下の甲板へおりる梯子《はしご》の手すりにつかまって、逞《たくま》しい筋肉を盛りあがらせながら体操をはじめた。  瑤子がその屈託のなさそうに体操をする男に思わず微笑を向けると、男は、 「お早う」  と太い声で言った。  瑤子は一瞬顔に血がのぼりかけ、すぐそれがさっと引いて行くのが判った。スポーツ刈りの丸っこい顔をしたその男こそ、人殺しをたくらんでいたあの男だったのである。  瑤子は相手のいやに乾《かわ》いた心から自分の心をとざすと、何食わぬ顔でぶらぶらとそばを離れて行った。  涙は石鹸《せつけん》の泡に     1  午前六時、潮岬《しおのみさき》沖通過。午前十時、室戸岬《むろとざき》沖通過。そして午後一時三十分、足摺岬《あしずりみさき》沖通過。  川崎の浮島を強風のため二時間遅れで出航した船は、夜の内に風のおさまった海を順調に進み、甲板には多勢の人々が、日本列島を日頃《ひごろ》見ることのできない太平洋側から眺《なが》めつくして動かなかった。  谷村伸子も一、二度甲板へ出て来たが、すぐつまらなそうにキャビンへ引き返してしまった。 「つまらないわ」  船にしたのが失敗だったと言いたげである。 「でも、このコースでお帰りになるのははじめてなのでしょう」  瑤子はこの谷村伸子という女性を理解してみようと思った。もちろんテレパシー抜きで。 「いも虫よ、これは」  伸子は自分が今乗っている船のことをそんな風に言った。 「あたし、いも虫は嫌《きら》い」 「あら、どうしてこの船がいも虫なのですか」 「いも虫は醜くて、蝶々《ちようちよう》は綺麗」  伸子はべッドにあお向けになったまま言う。 「でも、あたしはいも虫が恰好《かつこう》悪いから嫌いなんじゃないの。同じように、綺麗だから蝶々が好きなんでもない」  瑤子は気むずかしそうな表情の伸子を、反対側のべッドの端に浅く腰かけてみつめた。こういう勝気なお嬢さんが、物事をどんな風に考えるのか興味があるのだ。 「いも虫は判り切ってるのよね」  伸子は抑揚のない声で言った。倦怠《けんたい》、という言葉がぴったりするような、贅沢《ぜいたく》なけだるさを漂《ただよ》わせているが、妙に老成した感じでもあった。  やはりこのくらいの年齢の女性は、せわしないくらい動きまわっているほうが魅力的なのだ。瑤子は心の中でそうつぶやいた。 「何が判り切っていますの……」  瑤子は微笑を泛べて訊《き》いた。 「行動よ」 「行動……」 「いも虫の行動にはあたしの意志を衝《つ》いてくれるものなんて、なんにもないじゃないの」  伸子は体を起こすと瑤子のほうへ向かって坐《すわ》り、両手をベッドの端に突いた。 「じゃ蝶々は……」  瑤子はそう言い、途中でなるほどと思い当たった。たしかに、単純に言って蝶々の飛び方は小きざみでせわしなく、予測がつきにくいようだ。 「蝶々が飛ぶのは、見ていて倦《あ》きないわ。どこへ行く気なのかさっぱり判らない。そうでしょう。花にとまる時だって、あの花かなと見当をつけたって、当たることなんて滅多にないじゃないの」 「そうですわね」  瑤子は頷《うなず》いたが、すぐにくすくすと笑いはじめた。 「あら、何が……」  伸子も釣《つ》り込まれて薄い笑いを泛《うか》べはじめながら言った。 「つまり、このお船はいも虫みたいにのそのそとしていて、行動の予測がつき過ぎるとおっしゃるのね」 「そう」 「だったら、今の伸子さんもいも虫」  瑤子がそう言うと、伸子は素早く左手を額に当て、大げさに嘆《なげ》いて見せた。 「やられたわ」  二人は笑い合う。 「船のことを悪く言えた義理じゃないわね。自分が寝そべってばかりいて、いも虫みたい」 「でも、突然蝶々になるんでしょう」 「そういうこともあるわね」  伸子はそう言うと、両手を胸のあたりに寄せて、蝶々のようにヒラヒラとさせた。 「米軍の将校と友達なんだけど、あの連中がこうやるのは、浮気者というサインなんですって」 「まあ」 「ひょっとすると、スラングでバタフライというのがそういう意味を持っているのかも知れないけれど」 「あなたは蝶々さん……」 「そうかも知れないわ」  伸子は自嘲《じちよう》気味に笑った。きっと多勢のボーイフレンドを持っていて、しかもその内の誰《だれ》にも満足できないでいるのではないかと瑤子は思った。  伸子のような華麗な感じの女性に、ヒラヒラと飛びまわられたのでは、そのボーイフレンドたちはさぞかしいらいらするだろう。 「でも、このいも虫船だって、たとえば何かにぶつかって突然沈没したりするかも知れないわよ」  伸子は嚇《おどか》すように言う。 「でも、あたしが待ちこがれているのはそういう瞬間なの」 「つまり、アバンチュールを待っているわけ……」 「ええ」  伸子はけろりとした感じで言うと、今までの会話を忘れたかのように、ベッドをおりると窓の外を眺めに行った。 「いいお天気。もうすぐ日向よ」  たしかに、今まで水平線しか見えなかった左舷の窓に、島影が姿をのぞかせていた。     2  荷物を持ってタラップを渡るとき、伸子が急に思いついたように尋ねた。 「春子さん。お宿はどうなってるの」  人々の靴音《くつおと》がガタガタと鳴る中で瑤子は答えた。 「まだきめていませんの」 「そうだろうと思った。で、だいたいどこのあたりに落着くつもりなの」 「さあ」  すると伸子は空いたほうの手で右を示し、 「あっちは延岡《のべおか》。延岡から山へ入ると高千穂《たかちほ》峡。この正面が椎葉《しいば》、そしてあっちが宮崎《みやざき》」  と左を指さした。 「どこへ行ったらいいかしら」  日向《ひゆうが》というその港が、思ったよりずっと小さくて、瑤子には町らしい町として映らなかったから、つい心細くなって伸子に尋ねてしまった。 「じゃあ宮崎へいらっしゃい。無理のきく宿があるから紹介してあげるわ」 「すみません」  どうせ行く当てのない旅であった。瑤子は伸子の案内にまかせることにきめた。 「そこならまたすぐに会えるしね。明日、あたしもその宿へ行かなければならないの」 「まあ、それなら是非そこにさせてください」  タラップをおり切ると、がっしりした体つきの青年が頭の上で大きく手を振りながら伸子に言った。 「おかえりなさい」 「あら、出迎えはあなたなの」  伸子は不服そうに言う。 「ちぇっ、ひどいなあ」  青年はそう言って何か言い返そうとしたらしいが、そばにいる瑤子に気付くと黙って伸子のスーツケースを取りあげる。 「これ、岩井《いわい》君よ。今は運送会社の課長さん」  伸子に言われて、岩井は眩《まぶ》しそうな顔で瑤子に頭をさげた。 「岩井です。でも、ガンと呼ばれています」 「そう、ガンちゃん」  伸子がからかうように口をはさむ。 「春子です。どうぞよろしく」  瑤子が挨拶《あいさつ》を返すと、ガンちゃんは、 「ウヒー……」  と意味不明の声をあげた。照れくさがっているらしい。 「この調子だからいまだにお嫁さんの来手《きて》がないの」  伸子が笑う。ガンちゃんは先に立って階段をおり、ターミナルの建物を出て行った。車で迎えに来ているらしかった。  瑤子が伸子のあとについてなんとなくタクシー乗場のあたりに立っていると、案の定ガンちゃんがクリーム色のコロナを近付けて来た。 「はいはい、春子さんのお荷物もトランクへ」  ガンちゃんはおどけているが、素早いサービスぶりで車をおり、トランクへ瑤子の荷物をしまった。伸子はお姫様然としてコロナに乗り込む。 「ビュイックを持って来ればいいのに」  ガンちゃんが運転席に納まると伸子はすぐそう言った。 「あんな大きな車、厄介でしようがない」  ガンちゃんは伸子の高飛車な言い方に慣れているらしく、あっさりとそう受け流して車をスタートさせた。 「人間はがさつだけど、運転は大丈夫よ」  伸子は瑤子を心配させまいとして言う。 「伸子さんのお友達は、どうしてみんな綺麗《きれい》な人ばっかりなんです……」  ガンちゃんはハンドルを握って前を見たまま言った。 「判《わか》らないの、あんたは」 「判らないね」 「類は友を呼ぶってことを知らないの」 「じゃあ春子さんも気が強いんですか。とてもそんな風には見えないけど」  伸子は、 「こら」  と言って前のシートを軽く蹴《け》り、 「いつもこうなの。小さいときからの喧嘩《けんか》相手だから仕方がないのよ」  と苦笑した。 「春子さんは米沢のおばあちゃんからのお預りものよ。粗末に扱ったらひどいから」 「え……米沢のおばばさま」  ガンちゃんは大げさに驚いて見せる。 「それは大変だ。先刻来のご無礼の段、平《ひら》にご容赦くださりませ」 「まあ……」  瑤子はガンちゃんの芝居がかった言い方に戸惑う。 「青年会議所の演劇部員なのよ」  伸子は馬鹿にしたように説明した。 「それも、へたでもかまわないから新劇か何かやろうと言うならまだ判るけど、いつだってこの人たちがやるのはチャンバラばっかり」 「そりゃ無理だよ。お客あっての芝居だからね。新劇なんてやったら誰も見に来てくれはしないさ」 「どんなお芝居をおやりになるの」  瑤子が訊《き》いた。車は港から左のほう、つまり南へ向かって海岸ぞいの道路を走って行く。 「水戸黄門」  伸子がまぜっ返すように言う。 「ええ、そうなんです。このところ僕らの劇団は水戸黄門漫遊記専門。でも、脚本だってちゃんとオリジナルなんです。あの芝居はチャンバラと言っても滅多に人が死んだりしませんし、最後はいつでも悪人が這いつくばることになっているでしょう。爺さんや婆さんが結構よろこんでくれるんですよ。それに、テレビでやってるでしょう。だからテレビのほうでやってる人物構成を、そっくりいただいちゃって、ストーリーだけ独自にこしらえるんです」 「わりと頭のいいやり方なのよ」  伸子がいつの間にか褒《ほ》める側へまわっていた。 「お客は毎週テレビでおなじみだから、人物の関係とか、いろんな約束ごとを呑《の》み込んでしまってるでしょう。だからとても判り易《やす》いのね。役者のへたな分をテレビがカバーしてくれているってわけよ。そこへ持って来てストーリーはテレビでやらない奴だから、田舎《いなか》の素人《しろうと》芝居にしてはいつも大入り満員なの」 「ええ。だからもう水戸黄門をやめられないんです」 「で、岩井さんは誰の役をおやりになるの。助さん……格さん……」 「春子さん」  伸子はたしなめるように言った。 「見れば判るじゃないの。いつだって悪役よ」  ガンちゃんの笑い方では、どうやら事実らしかった。     3  瑤子は伸子にあの狙撃手《そげきしゆ》のことを話したくてたまらなかった。  狙撃手……。  瑤子はいつの間にかあの男のことを、そんな風に頭の中で考えている。しかし実際には殺人者、殺し屋に違いないのである。それを狙撃手というようにひと間隔おいて考えるのは、一種のおぞましさがあるからであった。  それは恐怖とも少し違う。瑤子の生命を狙《ねら》っているのではないからだ。が、あのカサカサに乾《かわ》いた異様な心は、思い出しても背筋が寒くなるようなおぞましさを瑤子に与える。それが、下船のとき注意して見ていたのだが、姿を見かけられなかったことも気になっているのだ。  だが、伸子はシートの隅《すみ》に体を埋めるようにして目を閉じているので、瑤子には喋《しやべ》るきっかけが把《つか》めなかった。 「宮崎までは随分遠いのですね」  港からすぐだと思い込んだのは、瑤子の早合点ばかりとは言えない。フェリーの案内パンフレットにはたしかに日向港と書いてあったが、その一方では宮崎行きなどという文字がちらちらしていたりしたのである。 「割りとありますよ」  ガンちゃんは相変らず屈託のない声で答える。 「ここらで丁度半分くらいかな」 「え……まだ半分なのですか」  瑤子は呆《あき》れた。 「宮崎ははじめてですか」 「そうなのです」 「ひと頃はシーズンになると新婚さんだらけでしたがね、この頃はだいぶ新婚さんの数も減りましたよ」 「そうですの……」 「そのかわり、車で来る人が増えたなあ。この道なんかも追い越し禁止になっているんだけれど、よそから来た連中の中には、平気でどんどん追い越しをやるのがいる。おどかすわけじゃありませんが、毎年一組や二組は死んでいますよ。土地の人間はそんな乱暴はやらないんですがねえ」  ガンちゃんは嘆くように言った。 「なぜあんなに急ぐんだか判らんですよ。去年も関西のほうの新婚さんがフェリーで来て、車をとばしすぎて死んでしまいました。旦那《だんな》さんのほうがね。奥さんは助かったそうだけれど、顔にひどい傷で……」 「まあ」  瑤子は肩をすくめた。 「僕ら運送業でしょう。会社のドライバーたちにも、県外のナンバーをつけた車には特に注意するよう言っているんです」 「こんな道、順番に並んで走っていれば事故なんか起こるはずはありませんのにねえ」 「そうなんです。きっと、欲ばったスケジュールなんでしょうね」  たしかにガンちゃんの運転ぶりは、伸子が太鼓判をおした通りに慎重であった。  そのガンちゃんが、 「あそこがサファリ・パークですよ」  と教えたのは、瑤子も乗り疲れて、少し睡気《ねむけ》がさしはじめた頃であった。 「佐土原町《さどわらちよう》……」  瑤子が坐り直して道のわきに立っている標識を読むと、眠っていると思った伸子がそのままの姿勢で、 「春子さんを先に送るから、有料道路へ入って頂戴」  と言った。 「諒解」  ガンちゃんはそう答えると、すぐその先でハンドルを左に切った。 「今越えたのが日豊《につぽう》本線よ」  伸子は体を起こして教える。その線路はだいぶ前から、ずっと道路の左側を平行に走っていた。 「まあ、綺麗なところ」  瑤子は少女のように歓声をあげたが、やがてその有料道路が海ぞいから少し陸へ入り込み、大きなホテルが見えはじめると、表情を堅くした。 「ご紹介してくださる宿って、あのホテルのことですの」  すると伸子は優しい微笑を泛《うか》べ、 「ええ」  と答えた。 「立派すぎますわ」  瑤子は費用の心配をしはじめていたのだ。その程度のホテルでも四、五日は心配ないが、この先どこまで続くか判らない逃避行なのであった。     4  初対面の時から、瑤子には伸子が富豪の令嬢らしいと判っていた。しかし、それならば宿を紹介すると言われたとき、そのことをよく考え合わせるべきだったのだろう。  伸子は生まれてこの方、金銭の心配など一度もしたことがない女性に違いなかった。 「あたしの大事なお客さまだから、いいお部屋をね。海側でなければ駄目《だめ》よ」  車をおりてフロントへ行くと、そんな風に念を押し、 「じゃあ、多分あしたまたお目にかかることになるから」  と、いとも気易《きやす》く引きあげて行ってしまった。 「お荷物はこれでございますね」  宿泊カードに新沢春子という偽名を記入していると、ボーイがやって来てクロークからキイを受取り、そうたしかめた。 「ええ」  カードを返して言うと、 「どうぞこちらへ」  と、ボーイはエレベーターへ案内して行く。米沢の駅に降り立って、宿らしい宿が見当たらなかった時にも心細さを味わった瑤子だが、思ったより贅沢《ぜいたく》すぎるホテルに押し込まれた今も、それ以上に心細く感じた。  エレベーターを出て部屋へ案内されると、瑤子は中へ一歩踏み入れるなり、 「まあ、ツインのお部屋じゃないの」  と立ちすくんだ。 「はい。フロントではこちらをお選びしたようです」  ボーイはそう言うと瑤子のそばをすり抜けて荷物を置く。 「キイはここへお置きいたします」 「シングルのお部屋でいいのに」  するとボーイは邪気のない笑顔になり、 「谷村さまのお嬢さまのご案内で見えられたのですから、フロントでも精一杯にサービスしたのでしょう」  と言った。  瑤子は溜息《ためいき》をつき、 「仕方ないわね」  とあきらめ、窓へ歩み寄った。 「外はゴルフ場なの……」 「はい。おかげさまでなかなか評判のいいゴルフ場でして、東京からもよくお見えになります」  ボーイは得意そうに言い、お定まりの室内や館内の説明をして部屋を出て行った。 「これから私はどうするのかしら」  瑤子は窓際のソファーに沈み込むと、まるで他人ごとのようにそうつぶやいた。何日ここにいるか、この先どこへ行くか、まるで判らないのだ。きめようとしても、きめる手がかりすらない。  瑤子は随分長い間そこにじっと坐り続けていた。窓の外が夕陽でいったん赤くなり、そして白っぽくなりはじめた。 「あなた」  瑤子は力なくつぶやいた。目に涙が滲《にじ》み出ていた。そのときの淋《さび》しさは、ひどく心細いのだが、なぜかどこかに甘ったるいものの感じられる淋しさであった。  ここから電話をすれば、邦彦はすぐに飛んで来てくれるはずだった。尾行されぬよう気をつけてくれと言えば、邦彦はきっとうまくやるに違いなかった。  誰《だれ》にも知られずにここで夫と落合うことができる。  充分に実現可能なそのことが、甘ったるい悲しみのみなもとであるようだった。ガンちゃんが車の中で言った、新婚さんの多い観光地だという一事が、瑤子に夫の肌《はだ》のぬくもりを思い出させてしまったことは間違いない。 「あなた」  ゆったりとした一人きりのスペースを得て、瑤子は今までの辛さを思い切り吐き出すことにしたらしい。あなた、とまたつぶやくと、ふたつ並んだベッドのひとつへ近寄って行き、うつむけにどさりと体を投げかけた。  あいにくなことに、そのベッドにはカバーがかけてあり、そのベッドカバーが、いきなり瑤子の嗅覚《きゆうかく》に、日吉の家のべッドカバーと同じ匂《にお》いを送り込んで来た。  第三者が見ていたら、その姿を何と思って見ただろうか。 「あなた……あなた……あなた……」  瑤子は泣きながら、たて続けにそう叫び、両手でベッドカバーをきつく握りしめると、力まかせに胸のあたりへ両手を引きつけた。  ベッドカバーが波打際で引く波のように枕《まくら》もとのほうから瑤子の体に引き寄せられた。 「いや……いや……いや……」  瑤子は、今度はカバーを握りしめたまま、柔らかいベッドを拳《こぶし》で叩《たた》き続けた。  ヒステリー……。  そうかも知れない。耐えに耐えていたものが、張りつめ切っていたものが、完全に人目を遮《さえぎ》った個室の中で、一度に解き放たれたのであろう。  そのときの瑤子の混乱した頭には、夫に対するわけの判らない恨みが渦巻《うずま》いていた。 「なぜ迎えに来てくれないの」 「なぜ助けてくれないの」  言いたかったのだ、それを。瑤子は家を出て以来、ずっとそれを言いたかったのだ。  スーパーマンのように勇ましくマントを翻《ひるが》えし、空を飛び、弾丸よりも早く、自分を助けに来て欲しかったのだ。 「愛しているのに。こんなに愛しているのに」  瑤子は次にそう言ってまたベッドを叩いた。夫への恨みが少し遠のき、それにかわって自分の運命に対する呪《のろ》いがやって来ていた。  これ程愛し合っている夫婦を、こんなように長い間引き裂いていていいものなのだろうか……。  瑤子はどこへ向けるすべもないその怒りと呪いを、力一杯べッドへ叩きつけているのであった。  そしてそのあとは、長い嗚咽《おえつ》。  窓の外はすっかり暗くなり、部屋の湿度も少しさがったように感じられた。  やがて瑤子は体を起こし、よろよろとよろめくようにバスルームへ行くと、バスタブの栓《せん》をしめ、湯のバルブをあけた。  バスタブに湯のたまる音を背に、瑤子は泣き濡《ぬ》れた顔のまま、ボーイが置いて行ったままの荷物をあけ、衣類は戸棚《とだな》へ、化粧品は洗面台へと運びわけた。  瑤子にしてみれば、最も悲しかったのはそのときであった。悲しみはじめたときは甘さが感じられた。泣いているときは涙に溺《おぼ》れていればよかった。怒っているときにはベッドを叩いていればすんだ。  しかし、悲しみを吐き出し、泣くだけ泣いたあと、まだ立ち直らねばならぬのは、泣き悲しんでいる最中よりはるかに辛いことであった。  瑤子は湯のたまり具合を見守りながら、バスルームのドアのところによりかかって、また新しい涙を溢《あふ》れさせていた。  夫への電話をいつの間にかあきらめている自分に気付いたのだった。 「あなた、ごめんなさい」  新しい涙と共にそうつぶやいた意味は、瑤子自身にもよく判らないようだった。  それは、さっき夫に対して恨みを向けたことへの詫《わ》びも含まれていたが、本当はそれ以上に重い意味があったのだ。  ひとりで立ち直り、湯につかって涙の跡を消すと、やがてエレベーターに乗って何気ない様子でダイニング・ルームへ向かうであろう自分自身の可愛げのなさを詫びたのである。  何がどうなってもいい。あとのことなどおかまいなしに、遮二無二《しやにむに》夫の力を頼ってすがりついて行ける女であったならば、邦彦にとっても、自分にとっても、よほどしあわせなのではないだろうかと思ったのだ。  瑤子は涙をポトポトとしたたらせながら服を脱ぎ、バスタブに身を沈めた。バスタブに入る前、湯気で曇った鏡に、ちらりと自分の白い裸の胸が映ると、あわててそれから目をそらせていた。  自分の裸身を見るのが恐ろしかったのだ。その白いふくよかな裸身に見入れば、想いは必ずや邦彦のもとへ飛ぶことになる。  瑤子は喉《のど》のあたりに重苦しい嘆きの塊《かたま》りを意識しながら、幾度も生唾《なまつば》を嚥《の》んでそれをおしさげ、消し去り、ひたすら石鹸《せつけん》の白い泡《あわ》に意識を集中させていた。  緑つらなる     1  瑤子が地下一階のメイン・ダイニングルームへ降りて行ったのは、もうかれこれ七時近かった。  気分を変えようと、柴崎ふじにもらった紅花染めのきものを着た瑤子は、自分が感じている以上に艶《つや》やかな雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせているようであった。  そのせいかどうか、ウェイターが飛んで来て、鄭重《ていちよう》にテーブルへ案内する。瑤子はキイをテーブルの左端に置くと、 「お飲物は……」  と尋ねるウェイターに、微笑を泛《うか》べながら首を横に振って見せ、メニューを読んだ。 「それくらいのことなら簡単だ」  男の声が聞こえた。傍若無人と言うほどでもないが、その声はかなり大きく、自信に溢《あふ》れている感じであった。それに答える声は、低くてよく聞きとれない。  食事に来た泊り客らしく、入口に背を向けた瑤子は、メニューから目をそらせて、ちらりとその客たちが席につくのを見た。  客は四人連れであった。四人ともきちんとスーツを着て、地位のある人物たちのようであった。 「谷村君がそういうなら間違いはないさ」  声の大きな男が壁際の椅子《いす》に坐《すわ》るところだった。  一度目をそらせた瑤子は、谷村、という名を耳にしてまたそのほうを見た。  あの男の標的だわ……。  瑤子はそう思いながら、声の大きな男をみつめた。感じがどこか金沢の岡崎唯士に似通っている。ただ、その男のほうがずっと年上だし、体もひとまわり大きいようだった。  間違いない……。船で一緒だったあの殺し屋が心に描いていた狙撃《そげき》の標的が、その人物なのである。  瑤子の心に困惑の雲が湧《わ》きあがった。その人物は殺し屋に狙《ねら》われていることを知らないのだ。しかし、それを警告してやることもできない。世間の常識の枠内《わくない》で説明できることではなかった。類《たぐ》いまれな瑤子のテレパシーだけが感知できる危険なのである。  谷村と呼ばれたのは谷村伸子の父親らしいが、見ただけではどれがその谷村氏かも判然としなかった。 「お食事は……」  ウェイターが来て瑤子に声をかけた。瑤子はメニューに目を戻して料理を選びながら、そっと心を開きはじめていた。船の上で会得した一方通行のやりかたであった。  開いた窓から内部の物音や匂いを外へ洩《も》らさず、外界の気配だけを探《さぐ》り取るのである。目に見えぬ瑤子の触手が、そっとあたりを探りはじめる。 「かしこまりました」  にこやかにそう言って去るウェイターの心が、まず瑤子の触手に触れた。その心は浮々としていた。まとまった思考にはなっていないが、彼の心は瑤子に対する最大級の讃辞で溢《あふ》れ返っているのだ。  瑤子は触手を思い切り伸ばした。触手は溶解したように拡散し、地下一階から更にその階上へとひろがって行った。まず自分と同じようなテレパスがいるかどうかたしかめているのだ。他にテレパシーを用いているものがあればそれで発見できるはずだった。  しかし、ホテルの中には何の反応もなかった。瑤子は安全をたしかめてから、また自分のテレパシーに指向性を与えた。不可視の触手がまたひとつにまとまり、ダイニング・ルームの四人の男をとらえた。  その四人は互いに害意を抱いてはいなかったが、それぞれの心には取引上の複雑な駆け引きがあって、たえず微妙な変化をしているようであった。  三戸田謙介《みとだけんすけ》。  瑤子は狙撃者の心にあったその標的が、三戸田という名前であることを一人の心から探り当てた。財界の実力者の一人である。  谷村雄策《たにむらゆうさく》。  伸子の父親の名も判った。何と谷村雄策は、談笑しながらとうに瑤子の存在を意識していたのである。  あの娘が伸子の連れて来た友達らしい。それにしても伸子め、早く来ればいいのに……。  どうやら谷村雄策は伸子をその席に加えたがっているようだった。三戸田と伸子を会わせることも、谷村の目的の一つらしい。その背後には伸子の縁談があるようだった。  瑤子は急に心の窓を閉じた。伸子の父親は瑤子を人妻だとは思っていないのだ。それがおかしくて、つい自分の思案を外へ洩らしてしまいそうだったから、テレパシーのスイッチをオフにしたのだった。  三戸田謙介という人を守ってあげよう。  瑤子はそう決心した。三戸田を銃で狙おうとしている男が、三戸田に何の恨みも持っていないことはすでにはっきりとしていた。事情はどうあれ、そんな殺し屋を傭《やと》って相手を滅ぼそうという、その心が許せなかった。  どこに隠れていても、私ならあの殺し屋を探し出せる。つかず離れずに三戸田の近くにいることが出来さえすれば、狙撃の瞬間に相手を動揺させるくらいのことはできるはずだった。  瑤子はふと、宮崎へ来てよかったと思った。逃げまわるだけではなく、人の役に立つ仕事を持てたようなのだ。 「春子さん」  そのとき伸子がうしろから声をかけた。     2  伸子は淡いブルーのロング・ドレスを着ていた。 「まあ、よくお似合いだわ」  瑤子はお世辞でなく、そう感嘆した。初対面のとき、いささか驕慢《きようまん》な印象を与えた伸子であったが、そういうスタイルになると、堂々としていて、そのくせしっとりとした女らしさを漂《ただよ》わすのである。 「どう、このホテルは。お気に召した……」 「ええ、とても」  伸子は椅子に腰をおろそうとした。 「あら、よろしいの……」 「何が」 「だって、あちらでお父さまたちがお待ちなのではありませんか」 「まあ」  伸子は瑤子を睨《にら》むように見た。 「どうして父だと判ったの」 「だって、三戸田さんの声が大きいから、聞こえてしまいますわ」 「嫌《いや》だわ。あたしのこと、何か喋《しやべ》ってたの」 「そうではないけれど、谷村君とか何とかおっしゃったので、すぐピンと来たんです。それに、よく拝見すると、どことなく似ていらっしゃるようだし」  伸子はちょっと鼻白んだ様子で、 「おやじに似てるの……」  と自分の顔を指さした。瑤子は笑い出し、 「だって、親子でしょう」  と言った。 「仕方ないわね」  伸子もそう言って苦笑する。 「お待ちかねのはずよ。早くお父さまのところへ行ってさしあげて」  瑤子が言うと、伸子はじっと瑤子の顔をみつめた。 「ふしぎな人ね、春子さんて……なよなよとしているみたいでいて、そのくせ凄《すご》く鋭い人みたい」  伸子はそう言うと二、三度目をしばたたき、 「いいわ、行って来る。でも、お食事のあとどこかへ……」  と尋ねた。 「いいえ。行く当てなどあるものですか。お部屋へ戻ってテレビでも見ています」 「じゃあ、あとでお部屋へ行くわ。もしかしたら、泊めてもらうかも知れない」 「いいですよ。だって、あのお部屋はツインのお部屋ですもの」 「あした、あのおじいちゃまたちとゴルフを付合わされるの」  伸子はそう言って悪戯《いたずら》っぽい微笑を泛《うか》べると、軽く手をあげてから瑤子のそばを離れて行った。  伸子が去るのを待っていたように、スープが運ばれて来た。  食事のあいだ、瑤子は心の窓を開かずにいた。船の中で会得したテレパシーの用法について、その安全性には自信が持てたけれど、ただの好奇心からその力を乱用する気にはなれなかった。類いまれな、大きな力を持つだけに、超能力者には超能力者としての慎みがなければいけないというように考えているのだ。  食事がおわると、瑤子は三戸田や谷村父娘のいる席に顔を向けぬように気を使いながら、さっさとダイニング・ルームを出た。へたをしてその席に呼ばれでもしたら、かえって殺し屋から三戸田を守りにくくなってしまうだろう。  それでも瑤子は、ホテルの様子を知っておくため、ぶらぶらと見物をはじめた。バーがあり、売店があり、寿司《すし》や鍋物《なべもの》を出す和食堂があり、館内の様子はそう珍しいものでもなかった。  瑤子は自分の部屋に戻った。窓の外には松林が暗くひろがっていて、その向こうは海であった。海ぞいに道路があり、車のライトが濡《ぬ》れた光を放って動いていた。  私はもう少し攻撃的に生きてもいいのかも知れない。  瑤子はふとそう感じた。自分のテレパシーをコントロールできなかった頃は、テレパス狩りの組織からただ逃げまわり、敵の目が届きそうもないところで、じっと息をひそめているしかなかった。  しかし、瑤子の超能力はそのあいだにも、日一日と成長していたらしい。川崎から日向へのフェリーの中で、ごく自然にその進歩が瑤子に自覚できたのである。敵に悟られることなく、周囲の人々の心を自在に読み取ることができたのだ。 「たしかに恐ろしい力だわ」  瑤子はつぶやいた。敵がなぜ執拗《しつよう》に自分を追いまわすのか、その気持が判るような気がしたのだ。  この力をもってすれば、たいていの人間関係は苦もなくさばけてしまう。相手の本音を知ることができるからだ。その上、自分の意志を相手に押しつけてしまうことだってできる。  その意味では、テレパシーを持たない普通の人間は、テレパシーを使える者、すなわちテレパスに対して、まったくの無防備であり、また無抵抗でもある。  たとえて言えば、それは視覚を持たぬ生物の中へ、視覚を持った生物がまぎれ込んだようなものだった。  優《すぐ》れたテレパスをかき集め、自分たちの思うままに働かせたら、世界を思いのままにあやつることができる。そして、どこかの誰《だれ》かが、その通りにやろうと、テレパス狩りをはじめているのだ。 「そうだわ」  瑤子はのんびりと時を費してはいられないことに気付いた。漫然と自分の能力の成長を待つだけではなく、自分からそれを開発する努力をしないと、いずれは敵の思いのままにされてしまう危険性があった。     3  瑤子は気を鎮《しず》め、テレパシーを開放したり、急に沈潜させたりする稽古《けいこ》をはじめた。それは精神の体操のようなものであった。繰り返しそうやっていると、テレパシーの力を閉鎖したときの感じに、浅い場合と深い場合があるのに気付いた。  近くに敵がいて、テレパス狩りの目的で周囲を探《さぐ》っているとしたら、やはり自分の心を外へ洩《も》らさぬように、受信一方のやり方をするに違いなかった。  自分の本当の思考を深く沈めて、その上に何気ないもう一つの思考をのせておくことができれば、そうしたテレパス狩りの手からものがれることができそうだった。  しかし、二つの思考を同時にするということは、なかなかむずかしかった。  が、声で喋《しやべ》るよりはむずかしくないはずだった。ふたつの言葉を同時に喋ることは絶対に不可能だが、人間は手作業をしながらまったく別なことを考えることができる。しかも、そうしたからと言って、手作業のほうでミスを犯すとは限らない。また、計算をしながらでも、ふと別なことを頭に泛《うか》べていることもあるし、柔軟な頭を持った子供たちは、勉強をしながらちゃんとラジオを聞いていたりもする。  瑤子は台所で洗い物をしながら、夫のことを考えている場合を想定し、夫のことを心の深部で、洗い物のことを浅部でと、ふたつにわけてためしてみた。  だが、どうもうまく行かないので、バスルームへ入って、洗面台で本当にタオルを洗いながらやって見た。  今度はうまく行った。かなりの精神統一を要したが、深部と浅部を使いわける要領のようなものが体得できたのである。  テレパシーを使いながらこれをやったらどうなるだろうか……。  瑤子は心の奥深くから、例の一方通行のテレパシーを発し、同時に洗面台の鏡に自分の顔を写して、自分の顔について考えはじめた。  見なれた顔だが、そうやるといつもよりずっと客観的に見ることができた。  と、テレパシーに伸子の心が触れた。伸子はエレベーターを出て、その部屋へ近付いて来る。心の中はほとんどからっぽで、部屋の番号以外何も泛んではいない。  瑤子はその実験をやめると、バスルームを出てドアのノブに手をかけた。頃合《ころあ》いを見て引きあけると、廊下に伸子が突っ立って、目を丸くしていた。 「いらっしゃいませ」  瑤子はおどけて言った。 「どうしたというの、これは」  伸子は驚きながら部屋へ入った。 「なぜあたしが来るのが判ったの」 「偶然よ」 「まさか」  伸子は信じなかった。 「教えて。なぜ判ったの」  子供が物をねだるように言う。 「足音よ」  瑤子は窓際のソファーに坐って笑った。 「ごまかさないで。足音なんかここから聞こえるわけがないじゃないの。学校の廊下じゃあるまいし」 「いい勘《かん》だったでしょう」  瑤子がそう言うと、伸子は仕方なく頷《うなず》いた。 「本当に勘が当たっただけ……」 「そう。私は勘がいいの」  伸子はゆるく左右に首を振りながら、瑤子と向き合って坐った。 「ふしぎ……というより、春子さんて、どこか変よ」 「どういう風に変なの……私は普通の人間のつもりだけれど」 「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんだけれど」  瑤子はそう言う伸子を微笑しながらみつめた。 「で、どうしたの……」 「何が」 「下でのお話よ」 「別に何もないわ。ただ、おじいちゃま連中のお相手をさせられただけ」 「あら、そうかしら」  そう言うと、今度は伸子がじっと瑤子をみつめた。 「やっぱり変だわ。あたしがなぜあの席に呼ばれたか、知ってるみたい」  瑤子はたのしそうに笑った。 「こう見えても私は結婚している女よ。伸子さんより年も上だし、ご縁談がからんでいそうなことくらい、雰囲気《ふんいき》で判るのよ」 「なあんだ」  伸子は釣《つ》り込まれたように苦笑したが、その目にはまだ疑いの色があった。 「父にここへ泊るって言っておいたの。あした、ゴルフの道具を届けてくれるはずよ」 「ゴルフ、お上手のようですわね」 「さあ、どうなのかしら」  伸子は他人事のように言い、 「あなたはゴルフ、なさらないの」  と訊《き》く。 「いいえ」 「この外がすぐゴルフ場になっているから、あした一緒にひとまわり歩いたらどうかしら」 「私は結構。この窓から拝見しているわ」 「そうね。ここからならよく見えるわ」  伸子はそう言うと、 「ねえ、一杯付合ってもらえないかしら。おじいちゃま連中はお部屋へ引きあげたし」  と、瑤子をバーへ誘った。     4  伸子にすすめられたブランデーのおかげで、その夜瑤子はぐっすりと眠れた。  目覚めると七時だった。寝すごしたと思い、あわててベッドをおりたが、となりにはまだ伸子が軽い寝息をたてていた。  そっとバスルームへ入り、洗顔して髪を整え、スラックスをはいて部屋へ戻ると、伸子がものうい声で訊いた。 「なん時なの……」 「お早う」  瑤子は暗い中で言い、 「カーテンをあけてもいいでしょう」  と窓際へ行った。 「もう七時すぎですわ」  さっとカーテンを引きあけると、朝の光が伸子のベッドのあたりへ襲いかかるようにさし込んだ。  伸子は黄色い声をあげてシーツをかぶってしまう。 「意地悪ねえ。あたしは朝が弱いのよ」 「さあさあ、起きて」  瑤子はふざけて伸子の手からシーツをもぎ取った。 「飲みすぎたみたい」  伸子は両手で頬《ほお》のあたりをおさえて言った。 「ねえ、あたしゆうべ春子さんにからまなかった……」 「いえ、別に。でもご機嫌《きげん》だったわ、とても」 「よかった」  伸子は起き出して素足のままバスルームへ入った。 「あたしって、ときどき人にからむのよ。酒癖が悪いの」  伸子はそう言うと、すぐにシャワーの音をさせはじめた。  窓の外の松林に、もうちらほらと人影がある。派手なシャツやスラックスのゴルファーたちであった。  たしかにここからならよく監視できそうだわ。  瑤子はそう思ったが、気がつくとその思考は心のかなり深いところでなされており、表層では晴れ渡った空の下のゴルフ場の様子をほめたたえているのだった。  瑤子はそれに満足した。いろいろなトレーニングを積めば、いずれ完璧《かんぺき》なテレパスになれるのではないかと思った。 「朝ご飯は下でしましょうか」  シャワーの音がやむと、伸子がバスルームのドアから首を突き出すようにして言った。ルームサービスですませるつもりだったらしい。  伸子はすぐに出て来ると、急に気付いたように指をパチンと鳴らして見せた。 「しまった。ロング・ドレスのままだわ」 「かまわないじゃないの」 「嫌《いや》よ。やっぱりルームサービスにするわ」  伸子はベッドに腰をおろし、ホテルの浴衣《ゆかた》を羽織って体に巻くようにすると、係りを呼び出してコーヒーや卵を、瑤子に相談もせずさっさと二人前たのんでしまった。 「家へ電話をしないと。あいつ、ゴルフ道具だけしか持って来てくれないわ」 「あいつ、って……」 「ガンちゃんのことよ」 「まあ」  瑤子は笑った。伸子はまたダイアルをまわしはじめる。  いったい、こういう女性はどんな毎日を送っているのだろうか。  瑤子は電話をかける伸子を見ながらそう思った。いつどんな時でもお姫さまの姿勢を崩《くず》さない伸子が、まるで別の世界に住んでいる女のように思えるのだった。  そしていつまでこのままの姿勢でいられるのか……。いま縁談が持ちあがっているという。それが最初の縁談だとしたら、父親の谷村雄策にはちょっと気の毒だが、絶対にまとまらないような気がした。理由は特にない。ただ、伸子のような女性が、最初の結婚話ですぐお嫁に行ってしまうとは思えないのだ。と言って、恋愛結婚で駆落《かけおち》同然に愛の巣へこもると言う風にも思えない。  ずっと成り行きを見ていたい……瑤子がそう思ったとき、伸子は電話を切った。 「ねえ、いま何を考えていたの……」 「え……別に……」 「嘘《うそ》よ。あたしのことを考えていたでしょう」 「まあ、伸子さんこそテレパシーを使うみたいだわ」 「テレパシー……」  伸子が怪訝《けげん》な表情になったのを見て、瑤子は少しうろたえた。 「伸子さんが言ったのよ」  瑤子は辛うじてごまかした。 「ゆうべ、あたしのことを、テレパシーを使うみたいだ、って」 「ああ」  伸子はどうやら納得してくれた。 「だって、それは春子さんの勘がよすぎるからよ。でもあたし、テレパシーだなんて言ったかしら」 「あら、忘れちゃったの」  瑤子はなれなれしく言ってその場をとりつくろったが、同時に伸子の思考を探りはじめた。  テレパシー……。  伸子の心にそれが大きくわだかまっている。ゆうべ伸子はそんなことは言わなかったのである。しかし、少し酔っていたらしくて、その記憶がないこと自体は決して怪しんでいない。自分が言ったこととして、いま改めてテレパシーについて考えはじめている。 「スタートはなん時からだったかしら」  瑤子は伸子の思考をそのことから引き離そうと躍起になった。 「三戸田さんという方はお上手なんでしょう」 「さあ、どうかしらね」  伸子の返事はうわの空だった。 「私はゴルフのことなんてよく知らないけれど、伸子さんのハンデキャップは……」  伸子はぼんやりと瑤子をみつめ、 「そうね」  と考え込んだ。 「おいくつ……」 「ほんとだわ。もしテレパシーを使える人がいるとしたら、きっと春子さんのような人ね」  瑤子は困惑して黙り込んだ。迂闊《うかつ》なことはできないのだ。人間はテレパシーを用いなくても、真実を見抜く力を持っている。     5  伸子たちがコースに出ている。瑤子はソファーを窓に向けて浅く坐り、窓枠《まどわく》に両肱《りようひじ》をついて、じっと外を眺めていた。  伸子たちの思案がその心に流れ込んでいる。みんなゴルフを心からたのしんでいるようだった。  が、瑤子はのんびりとしてはいられなかった。殺し屋が伸子のそばにいる三戸田謙介を狙《ねら》っているのだ。  瑤子は伸子たちの周囲にテレパシーを拡散させた。あの殺し屋が現われれば、嫌《いや》でも三戸田に対しての思念を凝《こ》らさなければならない。そうすれば必ず瑤子のテレパシーに訴えて来るものが生ずる。  三十分、一時間、一時間半と、何事もない時間が過ぎて行った。  現われないのではないか……瑤子がそう思いはじめたとたん、ひとつの思考がちらりと動いた。  来た……。  その思考は強く瑤子のテレパシーにそう触れていた。  予想していたよりずっと遠くにいたのだ。考えて見ればそれも当然だったのだ。ゴルフ場の客は歩くコースをきめられている。狙撃者はそのコースの、最も自分に有利な位置で待ち構えていればいいのだ。  瑤子は少しあわてた。狙撃者はすでに銃を構えているのだった。  拡散してあったテレパシーを、一気に束ねるようにしてその殺し屋にさし向けた。  殺し屋はすでに三戸田に狙いをつけているのが判った。  いけない、このままでは引金を引いてしまう。  瑤子はうろたえたが、何しろはじめてのことなので、どうやったら相手の意志をねじ伏せることができるか判らなかった。が、夢中になって探るうち、相手の張りつめた心の一部に、ひどく脆弱《ぜいじやく》な部分があるのに気付いた。 「ここだわ」  瑤子は声に出して言い、精神をいっそう強く集中した。  殺し屋は突然不安に襲われて、うしろを振り向いたようだった。瑤子の探り当てた部分は、彼に不安をもたらす、警戒心の中心だったらしい。殺し屋がキョロキョロとあたりを見まわしているのが判った。  しかし、誰もいるわけがない。殺し屋はまた銃を構えた。  畜生、あの女が邪魔だな。  殺し屋がそう考えたので、瑤子はドキリとした。伸子が危険だと思った。  一度不安を感じた殺し屋は、焦《あせ》りはじめていた。三戸田謙介を狙うたび、その火線をちらちらと動く伸子に対して、腹を立てているのだ。  あの女め。かまわずにぶっ放してやろうか……。  殺し屋の指に力が入る。瑤子は思わず伸子に呼びかけた。 「どいて、危い……」  伸子の心にそれがどう響いたか、知ることはできない。が、逆に伸子は竦《すく》んだようにその場に立ちどまってしまった。  殺し屋は次の瞬間を狙って引金に力をこめた指をかけたままだ。  瑤子は殺し屋の心へ、今まで一度もしたことがないほど深く介入した。 「人の命を奪ってはいけません」  実際に瑤子は部屋の中で声に出してそう言っていた。  殺し屋が目を閉じるのが判った。 「糞、ここでは無理だ」  不意に湧《わ》いた自制心のようなものを、殺し屋は自分の身の安全の為のもののように感じたらしかった。  今日はやめだ。やはりあの古墳のかげからにしよう。  殺し屋はそう考えると、急いで銃をゴルフバッグにしまい、何食わぬ顔で歩きはじめた。  瑤子は太い溜息《ためいき》をついて全身の力を抜いた。両方の掌《てのひら》は汗でびっしょり濡れていた。  でも、私は人を助けたのだわ。  疲れ切った感じで立ちあがりながら、瑤子はそう思った。今まで一度も味わったことのない充実感があった。  狙撃者は古墳のかげに     1  谷村伸子たちがゴルフ場から引きあげて来たとき、瑤子《ようこ》は一階のティー・ルームで紅茶を飲んでいた。  殺し屋を遠くへ去らせてから、瑤子はテレパシーを用いていないから、伸子が背後から近付いて来ても全然気が付かなかった。 「くたびれたわ」  伸子はそういうと瑤子の前の椅子《いす》に腰をおろした。 「あら、お帰りなさい」  瑤子は微笑した。 「どうでした……」  伸子は拗《す》ねたような表情で、 「散々よ」  と答え、片手をあげてウェイトレスを呼んだ。 「あたしにもレモン・ティーを」 「かしこまりました」  ウェイトレスは去って行く。伸子はなんとなくそのうしろ姿を目で追っていた。 「私もご一緒すればよかった。だって、こんなにいいお天気なんですものね」  すると伸子はウェイトレスから、ガラスの向こうの松林に目線を移した。 「あら、来てたじゃないの」  その言いかたは、瑤子に対して何かわだかまりを持っているようであった。 「変な伸子さん……私はずっとホテルの中にいたわ」 「嘘《うそ》」  伸子は突然瑤子を真正面から見据《みす》えて言った。 「五番のグリーンの手前であたしに何か言ったじゃないの」 「五番ホール……」  瑤子は眉《まゆ》をひそめた。  五番か六番か、実際にそのコースを歩いたことのない瑤子には判るはずもない。しかし伸子が瑤子からテレパシーを受けたことを確信していることははっきりと判った。  瑤子は伸子から目をそらし、松林を見た。 「何が危なかったの。教えて頂戴」  伸子は率直に、そして厳しく詰め寄った。瑤子の心に、自分の思いあがりを責める気持が動いた。  人間はテレパシーを使わなくても、相手の心を見抜く力を持っている。そう考えたのは今朝のことであった。しかし、そのことをもう一歩踏み込んで考えると、瑤子自身のテレパシーの問題につながって来るようなのであった。  たしかに自分は類《たぐ》いまれな超能力に恵まれている。だが、その自分も人間である以上、超能力をもたらす基本的な構造は、他のみんなと変りはないはずなのだ。たとえば、百メートルを十秒で走れればそれは驚異的なランナーであろうが、走るという能力自体はすべての人間が等しく持っている。それと同じで、広い範囲に自在にテレパシーをあやつれることは、たしかに超能力を持つということであるが、勘とか第六感とかというかたちで似たような結果を得ることは、人間として決して珍しいことではない。現にあの殺し屋は自分のテレパシーに動揺して狙撃を中止しているではないか。それは彼がテレパシーのようなものを受けとめる能力を持っているということになる。誰《だれ》でもその芽のようなものは持っていて、自分は特にそれが大きく発達しているだけなのだろう。  瑤子はそう思った。伸子はその芽が普通の人間よりやや大きい女性なのかも知れない。だから、たとえ生まれてはじめての経験にせよ、自分からテレパシーを受けたことを、事実として確信しているのだ。 「隠してはおけないわね」  瑤子がそう言ったとき、ウェイトレスが伸子の前に紅茶を運んで来た。伸子は瑤子をみつめたまま、器用にレモン・スライスをカップの中へ入れた。 「今朝、伸子さんはあたしにテレパシーが使えるのは私のような人間だと言ったわね」  伸子は熱っぽい瞳で頷いた。 「そうなのよ。私はテレパスなんです」 「テレパス……テレパシーを使える人のことね」 「ええ」 「やっぱり」  伸子の顔から厳しいものが去る。 「やっぱりそうだったの」 「あのとき伸子さんは誰かに撃たれそうだったのよ」 「撃たれる……あたしが……」  伸子は目を丸くした。怯《おび》えている顔ではない。逆にうれしがっているような表情であった。     2 「船の中で気が付いたの。私たちの近くに銃で人を殺そうとしている男がいたのよ」 「まあ……」  伸子は念を押すような目で瑤子をみつめたが、好奇心の燃えたったその表情から、急に笑いが消えた。 「殺し屋……」 「そうみたいね。実は私、あの船の中でこっそりテレパシーを使う練習をしていたの。私は迂闊《うかつ》にその力を使ったばかりに、こうやって逃げまわる羽目になってしまったんです。だから、もっと安全に……と言ったって、なかなか判ってはもらえないでしょうけれど」 「全部教えて」  伸子は姉に甘える妹のような言い方をした。瑤子も喋《しやべ》りはじめると急に気が楽になるようだった。 「テレパシーを電波にたとえるのはどうかと思うけれど、たとえばレーダーのようなものを考えて見てください。レーダーは相手のいる位置を探《さぐ》り出せるけれど、相手が適当な装置を持っていれば、逆にこちら側の位置も知られてしまうわけでしょう」 「そうらしいわね。あたしは電気のことはまるで苦手《にがて》でよく判らないけれど」 「でも、ラジオはそうじゃない……ラジオとレーダーは一緒にできないけれど、テレパシーではそうなんです。使いかたが未熟だと、受信と発信を一緒にやってしまうらしいんです。私は受信だけのやり方をあの船の中で練習していたんです。船の中に敵がいないことはたしかめたし、練習するには一番安全な場所ですもの」 「そうだったの」  伸子は感心したように頷《うなず》く。 「そうしたら、上陸後|誰《だれ》かを射殺することをきめている心にぶつかったの。それはカサカサした心で、しかも殺す相手をただの標的としか考えない、プロの殺し屋の心だったんです。彼の心には広い松の林が泛《うか》んでいました。ホテルへ来て、それがこのゴルフ場のことだと判ったんです」 「でもまさか」  伸子はちょっと言い渋り、照れたような微笑を浮べた。 「あたし、そんな悪いことはまだしていないつもりよ」 「悪いこと……」 「殺し屋に狙《ねら》われるようなこと」  瑤子も思わず笑った。 「あなたじゃないわ」 「誰が狙われているか判ってるの……」  瑤子は周囲に気を配ってから、低い早口で告げる。 「三戸田謙介」 「あ……」  伸子は口に手を当てた。 「理由は私には判らないの」 「でも見当はつくわ。あの人ならね」 「その殺し屋だって理由は知らなかったようよ」 「そうでしょうね。お金だけが目的の人殺しですもの」 「あのとき殺し屋は、私が気がついたらもう銃で狙っていたの」 「まあ、そんなことまで判るの……」 「ええ。ところが、伸子さんが三戸田さんの前にウロウロしてて邪魔になっていたんです。かまわず射ってしまおうかと殺し屋が考えたから、あなたに危いと……」 「それを教えてくれたわけね。それならお礼を言わなければ。でも、とても不愉快な気分だったわ。いきなりあなたの声……いえ、それは違うわね。あなたはいなかったんですもの。あなたの印象、とでも言ったらいいかしら。とにかくあなたに間違いない印象が、声のような感じであたしの体の中に響きわたったんですもの。ビクッとして足がすくんじゃったわ。あんな物凄《ものすご》い勢いで命令されたことなんて、生まれてこのかた一度もなかった」  伸子はまざまざとその時の感覚を思い出したらしく、首をすくめて見せた。 「それで、殺し屋をどうやって撃退したの」  伸子に言われ、瑤子は苦笑した。 「撃退だなんて、伸子さんも少し大袈裟《おおげさ》ね」 「でも、射たせなかったでしょう」 「人の命を奪ってはいけないと言ってやっただけよ」 「でもそれはテレパシーじゃないの。あれがどんな感じか、あなたは自分では判らないでしょうね」  そう言えばそうだった。 「極端な場合、あれをやられたら生きているのが嫌《いや》になるかも知れないわよ」  伸子は瑤子にとって恐ろしいことを口にした。     3 「どうしたの……」  伸子に言われて我に返った瑤子は、無意識にカップをとりあげて冷めかけた紅茶を飲んだ。 「そうね。恐ろしいことだわ」 「あら」  伸子はやっと気付いたらしく、 「悪いことを言ったようね。ごめんなさい」  と詫《わ》びた。 「でも、そんな感じがしたのよ」 「いいんです。たしかにその可能性はあったようだわ。私が気付かなかっただけなの」  瑤子は目の前が暗くなる思いであった。  テレパシーを悪用すれば、一人の人間から生きる希望を奪い去り、死に追いやることもあり得るのだ。 「たとえば一人の人が崖《がけ》っぷちに立っているとするわね。私が遠くから、一歩前へ出ろと強くテレパシーで命令したら、その人は足を無意識に踏み出してしまうかも知れない。テレパシーにはそういう使い方もあるのよ」 「およしなさいよ、春子さん」  伸子は真剣な表情で言った。 「あなたはそんなことをする人じゃない」  瑤子の耳に、その声はひどく遠くからのもののように聞こえた。  涙の出かたにもいろいろある。瑤子のそのときの涙は、いきなり当人の気持に関係なくふきあげたものであった。  長い間、心の底にわだかまり、自分でもそれを極力おさえつけていたものが、一挙に解放されたのだった。  伸子は唖然《あぜん》としたように瑤子をみつめていた。瑤子は激しく流れ出す涙を人に見られまいと、真横に顔を向け松林を見ていた。しかし実際には次から次へと溢《あふ》れ出す涙で、何も見えてはいなかった。  伸子がそっと席を立った。どうやらレジで会計をすませたようであった。すぐ瑤子の肩に伸子の手が柔らかくのせられた。 「行きましょう」  チャリンと音がして伸子がテーブルの上のキイを取りあげたのが判った。瑤子はかすかに頷き、急いでハンカチを出して涙をおさえると、大きく息を吸って立ちあがった。  さいわい二人に注意を払う者は近くにいなかったし、エレベーターにも同乗者はなかった。  エレベーターを出ると、伸子は小走りに先に行ってドアをあけ、瑤子を部屋へ入れてからドアをしめた。 「どうぞ」  伸子は妙に悪戯《いたずら》っぽく言った。瑤子が思わず振り返ると、伸子は今まで一度も見せたことのない、上品で物柔らかな、優《やさ》しい微笑を浮かべて立っていた。 「どっさりお泣き遊ばせ。お邪魔ならロビーへ行っていますわ」  泣き笑い、だった。瑤子は涙を流しながら、 「いてよ」  と笑った。 「悲しいのね」  伸子は近寄って瑤子の肩に両手をかけ、ソファーに押しつけるように坐《すわ》らせた。  瑤子は素直に坐り、頷いてからまた涙をハンカチでおさえた。 「何がそんなに悲しいのか、教えてもらえる……」  伸子は明らかに瑤子の気持を楽にさせようとして訊《き》いているのだった。 「いいわ。でもその前に、顔を洗って来るわ」 「どうぞ」  瑤子は坐ったばかりのソファーから立ちあがってバスルームへ入った。お湯を出しながら鏡を見る。思ったよりはれぼったくはない顔だった。  伸子との間の垣根《かきね》が、一度に取り払われた感じであった。     4  バスルームを出た瑤子は元のソファーに戻った。 「テレパシーのことなのよ」 「やっぱりね」 「私の家系には、そういう超能力者を出す血が流れていたらしいの。私が自分のテレパシーに気付いたとき、祖父がとても心配したのを憶《おぼ》えているわ。人には知られるな、って」 「どうしてかしら」  伸子は首を傾げた。 「不幸を呼ぶからでしょうね。私もそのときはまだそのことがよく判らなかったけれど、今はよく判るの」 「不幸……」 「ええ。夫とも別れ別れになってしまったし」 「ご主人はテレパシーのことを知っていらっしゃるの」 「いいえ」 「じゃ、どうして……」 「あなたにさっき言われたでしょう。テレパシーで人を殺すことだってできるって」 「ごめんなさいね、悪いことを口走ってしまって」 「いいの。本当なんですもの」  伸子の表情が一瞬堅くなった。 「まさか」 「ええ、私は人を殺したり傷つけたりはしないわ。でも、それと同じようなことをしてしまったの」 「まあ……」 「主人の会社へ行ってテレパシーを使っていたのよ」 「ご主人の会社で……」 「ええ。月に二度くらい、主人と外でお食事をするということで、会社へ行っていたの。そこで私はテレパシーを使っていたのよ」 「何の為に……」 「主人がみんなによく思われるように、テレパシーで会社の人たちに働きかけていたの。それがどれくらい役に立ったか、はっきりと量《はか》ることはできないけれど、とにかく主人は会社でうまくやっていたわ。課長の年少記録を更新したりしてね。ところが、その罰が当たってしまったみたい。誰かが私のテレパシーに気付きはじめたの。でも、なかなかそれが私だということを突きとめられなかったようよ」 「その、気付いたというのは何者なの……」 「それが、とんでもない大きな相手だったのよ。今言ったように、私はテレパシーで他人が主人に好感を抱かせるようなこともできるわけでしょう。そういう力があると知ったら、一番それを欲しがる人はどんな人たちだと思う……」 「政治家」  伸子は即座に答えた。 「選挙は間違いなく当選ね」 「もっとスケールが大きいの。国際政治の舞台へ、そういうテレパスが送り込まれて、相手の本心を読んだり、こちらの希望するような態度を相手にとらせたら……」 「たしかに、そういうことになるかも知れないわね」 「そうでしょう。でも、テレパスは世界にまだそう多くいるわけじゃないの。そこで、東と西に分れて、世界中でテレパス狩りがはじまったのよ。以前一度テレパシーの能力を持ったことのある祖父は、そのことを知っていて、私に逃げるように教えてくれたの」 「すると、テレパシーの能力は消えてしまうこともあるわけなの」 「ええそうらしいの。ひょっとすると祖父は、それが消えるまで逃げていろと言うのかも知れない。でも、いつ消えてくれるか判らないんですもの」 「でも、なぜご主人にもわけを言わずに……」 「言えないわ。私の力で出世したと思ったらどうなるの」 「あ、そうね。そうだわ」 「言えないでしょう」 「ええ、それは判るわ。でも、黙って消えたままのあなたをご主人はどう思うか……」 「祖父は、主人が必ず私を信じてくれると言うの。ただそれだけにすがって、私はテレパス狩りの手から逃げまわっているのよ」 「安心したわ」  伸子は心からほっとしたように言った。 「あなたが人を傷つけたりしたのかと思った。でも、それなら当たり前よ。誰だって、妻は夫の力になりたいと思っているわ。それをあなたは実行できただけじゃないの」 「違うのよ。私のやり方は、他人の持っていないテレパシーを使ったやり方なのよ。これは正しい競争じゃないでしょう。不正行為よ。でも、それもこれも、私がテレパシーを持っていたせいなの。今までただ私がおろかだからそういう失敗をしてしまったんだとばかり考えていたけれど、さっきのあなたの言葉ではっきりしたの。持っている能力を使わないでいるということは不可能だったのよ。もし、さっきゴルフ場で私がテレパシーを使わなかったら、殺し屋は確実に三戸田謙介という人を射殺してしまっていたでしょう。使わないわけには行かないのよ」 「そうね」  伸子は少し考えてから続けた。 「そうだとしたら、あたしは春子さんがこれからもう少し生き方を変えるべきだと思うの。そのテレパシーというものに、もっと正面からぶつかって行く生き方をすべきだわ」  瑤子は伸子の言葉を理解しかねていた。 「どういうことなの、それは」  伸子の目はキラキラと光っていた。     5  伸子はテレパシーを瑤子の弱点ではないと断言した。 「もっと正直に生きるべきよ。さいわいと言っていいかどうか判らないけれど、あたしは本当に何不自由もなく育てられたし、今もお金に困るようなことはまずないわ。そういう家庭に生まれてしまったのよ。でも、裕福な家に育ったからと言って、人の心が全然判らないわけではないし、まして弱い者を足蹴《あしげ》にしていいと思い込んでもいないわ。ところが、世間にはよく、貧乏な家に生まれついたことを正義のように言う人がいるじゃないの。本当にそうかしら。豊かな家に生まれたから最初から悪い奴だなんて、少しおかしいんじゃない……私は貧乏な人を一度もさげすんだことはないわ。ただ、貧しい為に心がいじけたり、必要以上に卑《いや》しくなったりする人に会うと、ああよかったな、と思うだけ。自分が豊かな家に生まれたことを感謝したくなるのよ。そして、決してああいう風にはなるまいと……馬鹿にするんじゃないのよ。ただ自分をそう思って見直し、いましめるだけ。まあ、ことがお金のことになるから、いろいろとそれについては議論の余地もあるでしょうけれど、要するに豊かな家に生まれたこともまた、生まれつきということなんだわ」 「そうね」  伸子の側には伸子の側の理屈があるのだと瑤子は思った。 「あなたがそれと同じよ」 「え……」  瑤子は不意を衝《つ》かれたように伸子をみつめた。 「あなたは人の持っていない力を持っている。しかもそれは生まれつき……どうしてそれを必要以上に隠す必要があるの。それはあなたの身を守る為だけのことじゃないの。テレパス狩りがやって来たら、どこかで対決しなくてはいけないんじゃない……今は逃げ廻っているけれども、そのうちきっと対決する時が来るわ。そして、それまでの間、あなたは世にも貴重なその力を、誰の為にも使わないでいるというわけなのよ。ただひたすら、その能力が消えてなくなってしまうのを待っているだけ」  伸子はじっと瑤子を見た。 「お金持が、お金をためこんで、人に知られると盗まれるからと、じっと息をひそめている姿を想像してごらんなさいよ。今のあなたはそれに似てるわ。結局、お金をかかえ込んだまま死ぬのよ。でも、お金ならそのあとで人がまた使ってくれる。ところがあなたの能力は消えてなくなってしまうの」 「ひどい言い方ね。だけど、残念ながらその通りだわ」 「そうでしょう」 「つまり、できるだけのことはすべきだと言いたいのね」 「そう。何から何まで一人で背負い込めと言うのではないし、あっちこっちへ出しゃばりなさいと言ってもいないのよ。でも、その力を人の役に立てたらいかが……国際政治の道具になるのも困るけれど、逃げまわり、隠してばかりいたのでは、あなたはさっきのように自分を悲しむだけでしょう。大力無双の男の子が、その使い道を知らなくて、かよわい女の子にいじめられて泣いているみたい。心の優しいことは褒《ほ》めてあげられるけど、見ていてイライラして来ちゃう」  伸子は瑤子の聞きにくいことを、ズバリと言ってのけたようであった。二人は睨《にら》み合いのように、みつめ合っていた。 「有難う」  瑤子はしばらくしてそう言った。 「判ったわ」 「判ってくれた……」  伸子はうれしそうにそう言った。 「あなたはあたしに一度もテレパシーなんか使わなかった。いえ、実験台くらいにはしたかも知れないけれど、ご自分に好感を持たせようなどとしたことはないはずよ」 「ええ」 「でも、あたしはあなたが好きになっていたの。正直で優しくて、その上とても勇気のある女性だと感じていたわ。あなたはテレパシーなんか使わなくても人に好かれる人なのよ。だからあたしは信頼するの。あなたがテレパシーを使って何かしても、決して悪いことにはならないって」 「そう思ってもらえるとうれしいわ」  瑤子は伸子を十年来の親友だったように感じた。 「あたしって物好きでしょう。あなたのマネージャーになってあげる」  伸子は我儘《わがまま》な令嬢に戻って、甘えた顔で言った。 「応援したいのよ」  瑤子は微笑して頷いた。     6  結局、そうは言ったものの、伸子にも瑤子の超能力を今後どんな風にして生かして行くか、特にめあてはなかった。  しかし、瑤子の気分は一転して今までになく明るくなっていた。ホテルの内外《うちそと》を歩きまわりながら、テレパシーについて伸子と徹底的に語り合っていた。  ところが、夕食のとき、伸子がふと言い出した。 「それで、あの殺し屋はもうあきらめたのかしら」  とたんに瑤子はギクリとして、ナイフで皿《さら》に音を立てさせてしまった。 「いけない、忘れていたわ」 「何なの」 「岡……とか何とか、次の狙撃《そげき》する場所らしいことを考えていたのよ」 「殺し屋が……」 「ええ」 「大丈夫よ」  伸子は瑤子のうろたえぶりを笑ってうしろを見た。 「あの通りですもの」  三戸田謙介が、昨夜と同じように谷村雄策たちとにぎやかに食事をしている。 「でも、また狙《ねら》われるのよ」  瑤子が言うと伸子はすっと席を立った。 「ちょっと訊《き》いて来るわ」  伸子は三戸田たちのテーブルに行って、何かふたことみこと言い、すぐ戻って来た。 「大変」 「どうなの……」 「三戸田氏はあしたの午後東京へ戻るらしいんだけれど、その前に西都原《さいとばる》へ行くんですって。もしかするとそこらで狙われるんじゃないかしら」 「西都原……」 「西都原古墳群と言って、特別史跡公園に指定されているんだけど、三戸田氏はまだ行ったことがないらしく、今度は最初から予定に入れているんですって」 「古墳群と言ったわね」 「ええ。三二九基……だったかしら」 「三二九……何のこと」 「古墳の数よ。東西二キロ、南北四キロばかりのところに密集しているの」 「それだわ。テレパシーだから、言葉でははっきり把《つか》めなかったけど、岡みたいなイメージの場所よ」 「岡……それならあそこよ。岡だらけだわ。古墳は小さな岡になっているのよ」 「何とかしなければ……」 「ついて行くしかないわね」 「ホテルを何時に出るか、はっきり訊いておいて。あたしたちは先まわりしなくては、一緒について行くのでは、彼が引金を引く前にみつけられるかどうか自信がないの。だって、プロの殺し屋でしょう。憎悪も何もなくて、今日だってときどき心がポカッと空白になってしまうのよ。スポーツと同じね。無心に的を狙うんだわ」 「あ、そうかも知れないわね。すると、射つ前にいろいろ考えたりしている所をテレパシーでつかまえないと」 「そう。お願い、西都原へ先まわりできるように手配してくださらない」 「判ったわ。時間はたっぷりあることだし、ガンちゃんに車で来るように言えば、大よろこびで約束の時間より一時間も前に来てくれるわよ」 「それなら安心だけど……」  瑤子は言い澱《よど》んだ。  明日の襲撃は自分の力で防げそうだ。しかし三戸田謙介にそのような敵がある以上、いつまでも殺し屋に狙われる危険は去るわけがない。  一生、三戸田のボデーガードになるわけには行かないのだ……瑤子はそう思い、眉《まゆ》を寄せていた。  夜のぬくもり      1 「私のほんとうの名前は、野川瑤子です」  瑤子は電話機のそばに備えつけてあったメモに自分の名をボールペンで記し、じっとみつめている伸子に手渡しながら椅子《いす》に戻った。  ひどくさっぱりした気分であった。重い秘密を一気にぶち撒《ま》けたことで、こころよい解放感を味わっている。  伸子は瑤子からメモに視線を移し、思慮深そうな表情で言った。 「あたしはそう思うの。すぐにご主人に連絡すべきだわ」  今度は瑤子がまじまじと伸子をみつめる番であった。 「今すぐに……」  伸子は目をあげて瑤子と視線を合わせた。その瞳《ひとみ》は思いなしか柔和な笑いを含んでいるようであった。 「そうよ」  みつめられている内に、瑤子の顔に紅がさして来た。 「今すぐに……」  なかば無意識にくり返す。 「あなたがあたしに打ちあけた以上、もうご主人に隠している必要はなくなったじゃないの。違うかしら……」  瑤子はあいまいに、 「ええ」  と答えた。 「すぐにご主人をここへお呼びしなければいけないわ」  強制するのではなく、たしなめるような言い方であった。  瑤子はたまりかねて坐《すわ》ったばかりの椅子《いす》を立ち、窓際に両手を突いて外を眺《なが》めた。胸に熱いものがふきあげて来る。その熱いものは、痺《しび》れるほど甘美でもあった。  背後で伸子の声が続く。 「秘密を一人きりで背負っているうちは、ご主人にも会えなかったでしょう。たしかに、あなたはご主人に対して申しわけないことをしていたのかも知れないわね。男性はお仕事に関して妻から援助を受けることをいさぎよしとしないらしいから。……もっとも、それをよろこぶ人もいるでしょうけれど、あなたのご主人の場合はどうやらそういう人ではないらしいし。だからあなたはご主人にも打ちあけず、黙って一人きりで逃亡の生活に入ったんでしょう。しかし、その逃亡生活ももう随分たったじゃないの。あなたの償《つぐな》いはそれですんだのではないかしら。考えて見れば、自覚していなかったにせよ、ご主人だってそれで大きな恩恵を受けていらしたんですしね。いまだにあなたを愛し、信じているのだとすれば、今度はご主人があなたの力になるべきよ。ご主人だってそうしたいにきまっているわ」  伸子の言葉は瑤子にとって強い説得力を持っていた。  超能力が消える日まで逃げまわっている。そう思い込んで来た瑤子だったが、伸子の言う通りどこかの時点で夫に救いを求めることも考えて見るべきだったのだ。 「あなたは今、あたしに秘密を打ち明けた。あたしに打ち明けてご主人に隠している理由があるのかしら。機が熟すということを言うわね。今がそれよ。機が熟したのよ。情勢が変って、ご夫婦でその問題に立ち向かって行くべき時になったのよ。あたしはそう思うわ」 「そうね」  瑤子は自分の喉《のど》が圧迫されているような気がしていた。胸からひろがった熱いものが、喉の辺りにまで達していて、声がうまく出せないような感じであった。  邦彦《くにひこ》に連絡できる。  そう思っただけで、今にも涙がふきこぼれそうになるのであった。  瑤子はかなり長い間、同じ姿勢で窓の外に顔を向けていた。伸子の思いやりは、瑤子にその時間をたっぷりと与えてくれていた。 「そうなのね」  瑤子が再びそう言って沈黙を破ると、伸子は待ちかねたように言った。 「電話ならベッドのそばよ。いくらそこから外を見てたって、ご主人はやって来ないわ」  伸子は立ちあがり、ドアへ向かった。 「一人にしておいてあげる。どうぞゆっくりとおかけ遊ばせ」  からかうように言い残すとドアをあけ、 「でも、あたしのことを忘れないでね」  と廊下へ出て行った。  明日は三戸田謙介をもう一度殺し屋の襲撃から守らなければならないのだ。瑤子はそれを自分の仕事のように感じていた。     2  ダイアルをまわすとき、瑤子は少し指が震えるのを感じた。  今まで数え切れないほど電話をかけたが、これほど自分の人生にとって重大な電話をかけたことは一度もなかった。  時間的に言えば、野川邦彦はまだ帰宅していない筈《はず》である。  それは判《わか》っていたが、家へ電話をかけずにはいられないのだった。ダイアルのひとまわしごとに、瑤子は自分を囲んでいた固い壁が、呆気《あつけ》なく崩《くず》れ去って行くのを感じた。家の中の様子や、居間から見る小さな庭の眺めや、附近の商店などが次々に目に泛《うか》んで来た。  遂にダイアルをまわしおえて、瑤子の心臓は期待ともよろこびともつかぬもので、激しく高鳴っていた。  呼出音が続く。……呼出音が続く。  瑤子は目をとじて祈った。夫がそこにいて、受話器を外《はず》してくれることを祈った。  しかし、心の中ではその時間に邦彦が家にいることのほうが異常なのだということも判っていた。それでもなお、受話器が外される音を聞きたがっている。  長い間、瑤子は呼出音を聞いていた。それが鳴り響いている家の中に配置された家具のひとつひとつを、まざまざと思い出しながら。  結局、瑤子は受話器を置いた。判り切っているのに、邦彦が不在だったことに落胆した。ため息をつき、肩を落す。  だが、とうとう家へ電話をかけたという事実は、瑤子のかたくなだった守りの姿勢を解かせ、すぐ次の行動へ移させた。  瑤子はためらわずまた受話器を取りあげた。今度は確信のある目の色で、手早くダイアルをまわす。  横浜の実家へかけているのだ。そこになら、いつでも応えてくれる人がいる。父の津田久衛である。  呼出音。そして受話器が外れた。 「もしもし、津田ですが」  ちょっとつっけんどんに聞こえる低い声だ。 「お父さん、瑤子です」 「…………」  久衛が息をのむ気配があった。 「今九州にいます」 「…………」  久衛はまだ言葉を発しない。 「宮崎です」  とたんに押しかぶせるように久衛の声が爆発した。 「ばか」  そう怒鳴られた瞬間、瑤子の心の防壁は一度に音をたてて崩れ去った。涙がとめどもなくふき出して来る。 「ごめんなさい」 「元気なのか」  久衛の怒鳴り声は続く。 「元気よ」 「心配させおって」  その怒鳴り声の調子が微妙に変化している。鼻をつまらせているようだった。 「ごめんなさい」 「邦彦君にはもう連絡したんだろうな」 「会社へはまだです」 「家へは……」 「いまかけたんですけれど」 「留守か」 「ええ」  久衛は舌打ちする。 「とにかくそっちの番号を言いなさい」  瑤子は左手で涙を拭《ぬぐ》い、視界をはっきりさせてから、メモに刷り込んであるホテルの電話番号を告げた。 「当分そこを動かんのだろうな」 「はい」  久衛の声がやっと落着いたようだった。 「だいぶ前だが北園さんから連絡があった。お前を信じてやれとな。もちろん儂《わし》は信じていた。しかし心配であることには変りはない。でも、こうして電話して来た以上、事情はいいほうに変ったと考えていいのだろうな」 「多分そうです」  久衛は声をつまらせた。 「力になってやりたい」 「あの人に連絡したいんです」 「そんなこと、判っている」 「会社へ……」  瑤子が言いかけると、久衛はそれをさえぎり、 「邦彦君はもうあの会社にはおらんよ」  と言った。 「まあ……」 「あれから間もなく会社をやめ、一人でセールスをやっている。会社といざこざがあったというより、自分から望んでそうなったのだ。だから東日機材と縁が切れたわけではない。お前を探《さが》す為に自由な身になりたかったのだろう」 「じゃあ、すぐには連絡がとれないんですか」 「東京にはおらんようだ。しかし、会社に尋ねれば見当はつく筈だ。営業部とは連絡がとれている筈だからな」 「お願いします。できればこちらへ来てもらいたいんです」 「そうだろう」  久衛は満足そうに言った。 「まかせておけ。すぐに連絡をとってそっちへ電話をさせる。それで、お前は今、そのホテルの部屋にいるのか」 「ええ」 「なるべく部屋を空《あ》けるなよ」 「はい、判りました」 「まったくしようがない奴だ」  久衛はそう言って自分から電話を切った。最後の言葉は瑤子に聞かせるつもりではなく、それは多分父親のつぶやきとでも言うべきもののようであった。  瑤子はしばらく、うっとりした表情で受話器を手にしていた。  誰《だれ》かが待っていてくれるということのすばらしさを、しみじみと味わっていたのだ。  これからも、待たれる人間になりたいと思った。     3  伸子は心配して、二十分か三十分おきにやって来た。 「まだなの……遅いわねえ」  しまいには、いかにもお嬢さん育ちらしく、我慢できずあけすけに不満そうな言い方をした。  それでも電話で尋ねて来ないのは、瑤子にかかる電話の邪魔をしないよう気を配っているのだ。  たっぷり三時間。瑤子は青い電話機をみつめていた。  そしてベルは、いきなり鳴った。  瑤子はそのとたん、膝《ひざ》の力が抜けたようになって、壁やベッドに手をつかなくては電話機に歩み寄れなかった。 「はい」 「…………」  最初にあるべき答えがなかった。 「どなた……」 「ばか、俺《おれ》だ」  邦彦はゆっくりと言った。 「よかった」  また涙が押しよせて来る。 「探したぞ」 「ごめんなさい」 「なぜ俺に頼れなかった。どんなわけがあるか知らないが」 「それは……」 「いや、いい。それより、すぐにそっちへ行くからな」 「お願い。早く来て」 「一番早く着く飛行機で行く」 「今どこなの」 「どこでもいい。時間がないんだ。これからその飛行機の切符を手に入れなければならない。万事は着いてからだ。もしどうしても場所を移らなければならなくなったら、必ず俺に次の場所が判るようにしておけ。判ったね」 「はい」 「じゃあな」  今度も電話を切ったのは向こうが先であった。  瑤子は受話器を戻し、そのままベッドにうつぶせになった。  やっと夫の声を聞けたのだが、当の邦彦の声や言い方は、瑤子が期待していたものと少し違っていた。  何だか素っ気ないのだ。事務的な感じすらしている。たのもしいと言えば言えるが、どうも以前の邦彦とは少し違うのである。  無理もない。  瑤子は自分に言い聞かせた。黙って突然家出をした妻に対して、夫がそうベタベタと甘い言葉をかけられるものではあるまい。理由を告げぬ家出は、夫に対する信頼感のなさの表明ではないか。  瑤子は急に邦彦に会うのが恐ろしくなった。男と女の言い争いなど、この際絶対に起こって欲しくなかった。 「愛しているのに」  瑤子がうらむような調子でそうつぶやいたとき、また伸子がやって来た。  伸子はドアをあけた瑤子の顔を見るなり、 「かかって来たのね」  と叫んだ。 「ええ」 「すてき」  一人ではしゃぎはじめた。 「それで、いつ来るって……」 「一番早くこっちへ来る飛行機で」 「どこから……今どこにいらっしゃるの」  瑤子は力なく首を横に振った。 「横浜の父が探し当てて連絡させてくれたのです。だから……」 「どこにいるのか判らないの」  瑤子は頷《うなず》く。 「ばかねえ」  よくばかと言われる日だと、瑤子は苦笑した。 「飛行機の切符を買いに行くから、こまかいことを言っているひまがないんですって」  すると伸子は高い声で笑った。 「すてきじゃないの。そんなことでしょげてるんなら、あなた少しおかしいわよ。ご主人はいま、夢中でこっちへ来ようとしているんじゃないの。そうでしょう。だったら、のんびり愛の言葉なんかささやいてはいられないわ。あなた、やっぱり愛されてるのよ」  伸子は瑤子の肩を男の子のように叩《たた》いてそう言った。     4  夜八時。  伸子とダイニング・ルームで食事をしていると、ウェイターがやって来て瑤子に電話がかかっていると告げた。 「ご主人よ」  伸子はうれしそうに言った。瑤子はそれにこたえるゆとりもなく、いそいそと入口のそばの電話機へ歩いて行った。 「はい」 「あ、俺だよ。畜生、骨が折れたぞ。でも、やっと切符がとれた。明日の午後三時にそっちへ着く。宮崎空港だ。もっと早く着く便があるんだが、満席でとれないんだ」 「三時ね」 「そうだ。行く前に、もうひと仕事すませなければならない」 「いそがしいのね」 「なんとかやってるよ。そっちは大丈夫か」  明日の午後まで同じ場所にいられるかという意味らしい。 「ええ、大丈夫よ」 「よし。だが覚悟だけはしておけよ」 「覚悟って……」 「こいつ、とぼけるな。いろいろあるだろう」 「あ……それなら充分覚悟しています。どんなに叱《しか》られても文句は言いません。でも……」 「でも何だ」  瑤子はちらりと周囲に目を走らせてから言った。 「まだ愛してくれているの……以前のように」 「…………」 「お願い、返事をして」 「ばか」  また瑤子はばかと言われた。 「ねえ、私、心配で」  邦彦の声が急に低くなった。 「前と同じだ。変ってない」  瑤子は安心もしたが、少し不満でもあった。愛していると素直に答えて欲しかったのだ。しかし邦彦は快活な声で言う。 「要る物はないか。着る物とか……」 「いいえ」 「お父さんがよろこんでいた。あの人が俺に泣声を聞かせるなんて、まったく信じられないよ」 「まあ、本当……」 「そうさ。君がいた……そう言ったきり、しばらく何にも言えなかったようだ」 「セールスをしてるんですってね」 「ああ。何だか仕事がガタガタになってしまったんで、思い切って自分でやって見る気になったのさ。君を探すという点でも都合がよかったしな。でも、今ではこうなってよかったと思っている。今までの俺は甘かったんだよ。本社で綺麗《きれい》ごとばかりしていて、本当に自分の力で生きてはいなかった。セールスだっていやなことは多いが、体当りで人生にぶつかっているという感じだ。君だって俺が少し頼りないと思っていたに違いない……近頃《ちかごろ》じゃそう思うようになった。いや、少しどころじゃなかったかな」 「そんなこと……」 「いや、いいんだ。これからも一人、会わなければいけない人がいる。うまく行けばいい商売になるんだ。こいつをまとめて、君に会う前祝いにしたい。いずれ、小さいだろうが自分の会社を持つつもりさ。本社のほうでもそういうことを歓迎している。自分の力で生きて行くということは、とてもいい気分のものだ。君も帰ってくれたことだし、これからバリバリやるぞ」  瑤子は返す言葉がなかった。テレパシーを使って上司や同僚に邦彦を好かせようとしていた頃のことが、くやまれてならなかった。     5  翌朝十時。  瑤子はガンちゃんの運転する車で、伸子とホテルから西都原《さいとばる》へ向かった。 「三戸田さんたちは一時間あとにこの道を通る予定よ。瑤子さん、しっかり見張ってね。途中で狙撃《そげき》して来るってこともあるでしょう」  あまり先行しすぎては、沿道のチェックにはならないのだ。だから伸子はスタートを三戸田たちの一時間前と決定していた。 「本当にそんな殺し屋なんているのかなあ」  ガンちゃんはいまだに半信半疑だ。 「彼の心には自分が狙撃する場所として、小さな岡のイメージが浮んでいたわ。まだ見ていないから判らないけれど、ホテルのパンフレットにあった写真で見ると、その岡というのは絶対に西都原の古墳のどれかよ」 「テレパスの言うことは信じるわよ。でも念の為。現地へ来て急に予定を変えるってこともあり得るでしょう」 「それはそうよ」  瑤子には自信があった。一度ならずはっきりと捉《とら》えたことのある思考だから、今度はもう絶対に見のがすおそれはなかった。 「テレパスって……」  ガンちゃんが訊《き》く。 「テレパシーを使える人のことよ」 「へえ、そんな風に言うのか。で、そのテレパスって誰《だれ》なの」 「瑤子さんよ」 「瑤子さん……」 「春子というのは偽名だったの」 「どうして偽名なんか使うんだろう」 「テレパスだからよ」 「ひゃあ」  ガンちゃんはやっと納得が行ったように、ハンドルを握って奇声をあげた。 「春子さん……いや、瑤子さんはテレパシーが使えるんですか」 「そうよ」  伸子が答える。 「超能力者だな、それじゃ」 「それも、とび切り強い超能力を持っているのよ、この人は」 「伸子さん」  瑤子はとがめるように言った。 「かまわないわよ。こう見えてもガンちゃんは口が堅いんだから。人に言ってはいけないことは、絶対に言わない人なのよ。ねえガンちゃん」 「秘密なら守りますよ。でも、本当にテレパシーが使えるなら、一度見せてもらえませんか。俺《おれ》、UFOだの超能力だのって、まだ一度も見たことがないんですよ」  瑤子は笑った。 「いいわよ」  瑤子はガンちゃんの心を探《さぐ》りかけたが、すぐにハッとしてやめた。 「どうしたの」  伸子が気配を察して訊く。 「ガンちゃんの心を面白半分に覗《のぞ》いては悪いでしょう」 「そうね」 「なんだか信じられないな」  ガンちゃんは疑わしげに言う。 「テレパシーなんて、本当にあるのかなあ」  瑤子は、今度は覗くかわりに押し込んだ。テレパシーが実在するということを、ガンちゃんの心の中に強く挿入したのである。 「…………」  ガンちゃんは車のスピードを少し落し、考え込んでしまう。 「判った、ガンちゃん」 「え……」 「今、瑤子さんが判らせたんじゃないの……」 「あ……今のがそうなんですか。とても変な気分だった。急にテレパシーを信じちゃったんですよ」 「それは瑤子さんが判らせたのよ」 「俺、テレパシーを信じます」  ガンちゃんはおごそかな顔で言った。  車はしばらく三人の沈黙を乗せて走ったが、やがて伸子がそっと瑤子に尋ねた。 「ガンちゃんの心を覗きかけてやめたでしょう」 「ええ」 「何があったの」  瑤子は微笑した。 「知りたい……」 「ええ」 「愛よ、あなたに対する。だからやめたの」  伸子は憤《おこ》ったように横を向いた。その横顔に、赤味がさしていた。     6  瑤子の特殊な感覚に、例の男の思考は結局届かずじまいで、車は目的地に着いた。 「いなかったわね」  伸子は西都原《さいとばる》の古墳群を示す案内板の前で、ほっとしたように言ったが、瑤子はかえって緊張していた。  その場所こそ、殺し屋がひそんでいるに違いないのだ。 「気をつけてね、伸子さんたちも」 「どんな奴かしら」 「がっしりした体つきで、髪を短くしていて……」 「まあ、会ったことがあるの」  伸子は驚いたようであった。 「船の中で一度だけ見たの。朝早く、デッキへ出て体操をしていたわ」  伸子はすでに、瑤子がフェリーの中で訓練の為テレパシーを働かせていたことを知っているから、大して驚かなかったが、ガンちゃんは憤然としたように言った。 「なぜそのときつかまえなかったんですか」  伸子が笑った。 「あたし達みたいなかよわい女に、そんな殺し屋がつかまえられると思うの」  ガンちゃんはくやしそうな顔をした。 「俺がいたらなあ」  瑤子は二人のお喋《しやべ》りを制止する。 「少し黙っていてくださらない。私達が失敗すると三戸田さんの命がないのよ」  二人は肩をすくめて沈黙した。 「ゆっくり車を走らせて」  瑤子が命令した。 「はい」  ガンちゃんは緊張した面持ちで車をスタートさせた。 「伸子さんとガンちゃんは、目で見ていてくださいね」  瑤子はそう言うと、シートにゆったりともたれて静かに目をとじた。 「目をつぶっても判るんですか」  ガンちゃんが低声《こごえ》で訊いている。 「そうよ。テレパシーだもの」  伸子が答えた。 「左側を観光客が歩いているわね」  瑤子が目をとじたまま言う。 「左側を……」  二人はその方を見たようだった。 「いないわ」 「そんなことない筈よ。二十人、いや二十六、七人いるわ。親子づれのグループみたい」  二人はしばらく黙って左側を見ていたが、ガンちゃんが急に、うれしそうな声で言った。 「いたいた、ずっと向うだよ。左は左だけれど」 「あの中にはまじっていないようよ」 「へえ、あんな遠くまで判るんですか」  ガンちゃんは感心したように言った。  よろこびの午後     1  殺人者を発見できぬまま、時間が過ぎて行った。 「どうしたの……三戸田さんたちの車が着いてしまうわ」  伸子はいらいらした様子で腕時計を見ながら言った。 「ごめんなさい。でもいないのよ」  瑤子も焦《あせ》っていた。しかし、あの男の心は瑤子の類《たぐ》い稀《まれ》な精神のどこにも触れて来ないのだ。 「あなたのテレパシーに気付いてしまったんじゃないかしら。だってきのうあなたはその男の心に強く働きかけたんでしょう」 「そんなことはないわ」  瑤子は確信をもって伸子の疑問を否定した。 「あの男に少しでもテレパシー能力があれば、とっくに気がついているわ。向こうに能力がなければ、こちらの能力に気付けるわけはないんですもの」  伸子は少し考えてから、 「そうだわね」  と頷《うなず》いた。 「どういうこと……」  ガンちゃんが尋ねる。 「たとえば鼻というものがないとしたら、私がいくら匂《にお》いについて説明したって判らないでしょう」  瑤子のたとえは伸子を笑いこけさせた。 「その通りだわ」 「観念的に理解はできても、実際にどんなものかは判りっこないわね」 「そうすると、テレパシーの能力がない僕らは、鼻がない人間と同じということか」  ガンちゃんはおどけてぼやいた。伸子は何か言いかけたが、急に瑤子をみつめて口をつぐんだ。ガンちゃんもそれに気付いて緊張した表情になる。 「いた……」  伸子が小さな声で訊《き》く。瑤子はこくりと頷いて見せた。 「鞄《かばん》の中身のことを考えてるわ。分解した狙撃用の銃よ。五十秒かかる……組立てる時間のこと。道をそれた。草にかくれた水溜《みずたま》りがないか用心してる。靴《くつ》を汚《よご》すのを嫌《きら》ってるの。きめてあったのよ、場所を。きのう来て水溜りに靴を踏み入れたの。その水溜りだわ」  瑤子は自分の精神に映る殺人者の心を、伸子とガンちゃんの為にいちいち言葉にしていた。 「とまった。道から見えない。位置を確認してる」 「どこ」 「まだ判らないの。そう右のほう……斜め右前方」  ガンちゃんはその方角に顔を向けた。 「しゃがんで鞄をあけようとしてる。……迷ってるわ。早すぎるみたい」  すると伸子が切迫した声で言った。 「来たわ。あの車よ」  三戸田たちを乗せた車がやって来たらしい。 「車を出して」  瑤子は言った。ガンちゃんは車をスタートさせる。 「早く三戸田さんの車に追いつくのよ。追いついたら横に並べてしまって」  ガンちゃんの運転は急に乱暴になった。観光バスを狭い道で追い抜き、向こうからやって来た小型車に急ブレーキをかけさせた。それでもガンちゃんは減速せず、ホーンを鳴らしっ放しにして突っ走る。 「様子が変だと思いはじめたわ。銃を組立てようかどうか、いっそう迷ってる。そうなのよ。銃を組立ててしまったら、その銃は彼にとって危険なものになるのよ。見咎《みとが》められるんですもの」  三戸田の車がとまった。伸子の父が同乗しているから、狂ったように迫って来るのが伸子たちだと気付いたのだろう。かなり遅れて三戸田たちの車に随行していたもう一台の車がやって来て、三台はひとかたまりにとまった。  伸子がまっ先に車をおり、随行車のほうへ走った。中には制服の警官が四人乗っている。 「あっちにかくれています」  伸子は指さして叫んだ。 「スポーツ刈りでがっしりした男。分解した銃をいれた鞄を持っているそうです」  続いておりた瑤子は、伸子に向かって、 「サングラス」  と言った。 「サングラスをしているそうです」  その車は急に後退すると向きを変え、伸子が教えた方角へ走り去る。 「いけません」  瑤子はドアをあけて降り立った三戸田に鋭い声で言うと、素早く車をまわり込んで車内へ押し戻した。     2 「出てはいけません」  三戸田は唖然《あぜん》として瑤子の顔を見ていた。 「伸子さん」  瑤子はまた伸子に言う。 「なに……」 「銃はまだ鞄の中だけれど、別に拳銃《けんじゆう》を持っているのよ」 「あ……」  伸子は振り返った。警官たちの車にはもう声が届かない。 「たった今判ったのよ」 「彼はどうしてるの……」 「さっきと同じところに隠れているわ。でも、もう狙撃《そげき》はあきらめてる。邪魔が入ったと気付いたのよ。東京の男たちが裏切ったと思って怒ってるわ」 「東京の男たちって……」 「彼に仕事を頼んだ人たちのことよ」  三戸田が瑤子に尋ねた。 「どうして君はそんなことを」 「ご説明はあとで」  瑤子はそう言うと伸子をまねき寄せた。 「車のかげにいたほうがいいわ。彼は今とても興奮しているの。気持が悪くなるほどだわ」 「拳銃のことをあの警官たちに教えなければ」  よし、という顔で瑤子は頷《うなず》いた。 「やって見るわ」  瑤子のテレパシーが、車をおりようとしている警官たちをとらえた。 「どう……」 「判った筈よ。みんな拳銃を手に持ったわ」 「ちょっと待ってくれ」  三戸田がたまりかねたように手をあげて言う。 「儂《わし》を狙《ねら》っている殺し屋がいることは、ゆうべ遅くに伸子君から教えてもらった。しかし、君の今言っていたことはさっぱり判らない。まるでテレパシーか何かを操っているような感じだが、いったい……」 「瑤子さんはテレパスなんです」  伸子はズバリと言った。 「テレパス……」 「テレパシーを使える人です」  だが瑤子はそれどころではなかった。殺し屋が警官に発見され、鞄を持って走り出したのだった。水溜りに踏み込み、激しく心の中で罵《ののし》るのが、彼女の頭に突きささるように届いている。 「逃げてる」  瑤子は伸子に教えた。 「あ、鞄を抛《ほう》り出したわ」 「必死ね、彼も」 「警官が一人先まわりしたわ。拳銃を構えてとまれと命令してる」  三戸田はラジオのスポーツ中継のアナウンサーのような瑤子を、びっくりしてみつめていた。 「あ、嫌《いや》だ……」 「どうしたの」 「観光客のほうへ走り出したわ。別な警官が観光客に叫んでいる」  たしかに、遠くから何か喚《わめ》くような声が聞こえていた。 「あ、駄目《だめ》。早くあの子を」  瑤子は拳《こぶし》を握りしめ、じれったそうに言った。 「どうしたのよ、瑤子さん」 「ああ、駄目だわ」 「どうしたのよ」 「女の子よ。小さな女の子が彼につかまっちゃったの」 「人質か」  三戸田は瑤子に押し込まれた車からまた降り立って言う。 「殺し屋が追いつめられて女の子を人質にしたというのか」  いきり立っている。 「ええ。ひどいわ……頭に拳銃を突きつけてる」 「儂のせいだ。何とかしなければ」  三戸田は歩きかけた。 「三戸田さん、おやめなさい」  伸子の父が言った。その谷村氏も車から降りる。 「子供を射てばそいつもおしまいです。いくら逆上していても、それくらいのことは判っている筈ですよ」 「しかし……」  三戸田はくやしそうに顔を歪《ゆが》める。 「警官もいることです。まかせましょう」  伸子はガンちゃんに言う。 「ガンちゃん、どこかで電話をして来て。警察へ知らせるのよ」 「よし来た」  ガンちゃんは威勢よく言うと電話を探《さが》しに車をスタートさせた。 「三戸田さんがその男に近付いたら、相手の思う壺《つぼ》です。あなたはここを動いてはいけない」  谷村は厳しい声で言った。 「滅茶苦茶なことをする奴がいるものだ」  三戸田は憤然としている。 「伸子さん」 「なあに」 「あたしがやって見ましょうか」  伸子は目を丸くした。 「そうだわ。瑤子さんならできるわよ」 「その……テレパシーで、ですか」  三戸田は畏敬《いけい》の目で瑤子を見た。 「はい。何とかできるかも知れません」 「お願い。やってよ瑤子さん」 「じゃあ行きましょう」  二人の女性は小走りに現場へ向かった。 「三戸田さんはここにいてくださいよ」  谷村は三戸田にそう念を押し、娘たちのあとに続いた。  たしかに殺し屋は五歳ぐらいの女の子を人質にとっていた。  四人の警官がそれを前後から取り囲み、その更にうしろに観光客たちがじっと成り行きを見守っている。 「美代ちゃん。美代ちゃあん……」  母親だろう。周囲の者に飛び出そうとするのをおしとどめられながら、甲高《かんだか》い声で泣き叫んでいる。 「この辺で充分よ」  瑤子は足をとめた。 「頑張《がんば》ってね」  伸子がささやく。瑤子はそばの木の幹に倚《よ》りかかって、静かに目をとじた。  瑤子の目に見えない触手が伸びて、殺し屋の思考をまさぐりはじめる。 「抵抗はやめろ。その子を放さないとますます罪が重くなるぞ」  警官の一人が言う。 「馬鹿野郎。そこらのチンピラと一緒にされて堪《たま》るか」 「早くその子を放せ」 「てめえらこそ早くどけ。お前たちがいなくなれば俺もこの子を放してやる」  警官たちはそれに答えず、ジリッと半歩前進する。 「動くな」  殺し屋は大声で喚《わめ》いた。女の子が怯《おび》えていっそう激しく泣く。 「やい、そこの連中」  殺し屋は遠巻きに見ている観光客に向かって叫んだ。 「警官が立去れば、この子を無事に返してやるぞ。だが警官がこうやって拳銃で俺を狙《ねら》っている以上、この子の命は保証できねえ。射たれて死ぬ前にこの子を殺してやる」  人々がどよめいた。 「お願いです。行ってください」  母親が警官たちに言った。 「あとでいくらでもつかまえられるでしょう。あんたがたの手柄より、うちの子の命のほうが……」  殺し屋は得たりとばかりに言う。 「そうだそうだ」 「お願いです、お巡りさん。早く立去ってください」 「言うことは聞けねえとさ。てめえらの点数|稼《かせ》ぎのほうが、人間の命より大事だと思ってるんだ。警官なんてみんなそうしたもんさ。これが警官の正体なんだぞ」  殺し屋は巧みな煽動《せんどう》者でもあった。果して観光客の中から声があがる。 「人命優先だ。この場は引きさがれ」  警官たちは当惑した様子であった。     3  長い睨《にら》み合いが続いた。この間幹に倚《よ》りかかった瑤子は、全力をあげて殺し屋の心に働きかけていた。  しかし、殺し屋の興奮が壁となって、なかなか思い通りに行かない。 「どうしたの。駄目なの」  伸子が堪《たま》りかねて言った。 「興奮し切っていて、ほかのことを考えられない状態なのよ」 「早くしないと、万一ということがあるわ」 「こうなったら、無理やり拳銃《けんじゆう》を捨てさせるしかないわ」 「何でもいいから早くして」 「やって見るわね」  とたんに瑤子の顔が紅潮した。  すると、殺し屋にたちまち異状があらわれた。拳銃を把《つか》んだ右の手が、妙な感じでうしろへさがって行く。 「糞、何しやがる」  殺し屋は一度腕を元へ戻した。しかしすぐにまたうしろへ引っ張られるようにさげてしまう。 「誰《だれ》だ。畜生、やめてくれ」  殺し屋の拳銃を持つ手がブルブルと激しく震えた。 「やめろ」  大声で叫んだとき、殺し屋は右腕に力をこめたので、無意識に左手で女の子を前に突きとばしていた。  ポトリ、と拳銃が地に落ちる。 「それ」  四人の警官のうち三人が殺し屋に飛びかかり、もう一人が女の子を抱きあげて横へ走った。 「美代ちゃん」  観光客の間から母親が走り出し、ころげるようにわが子に抱きつく。  カチャリ、と手錠《てじよう》がかかった。瑤子はふうっと大きく息を吐くと、その木の下にしゃがみ込んでしまった。 「やったわね。お見事よ」  伸子は跳《と》びあがってよろこんだ。 「テレパシー……」  谷村はしゃがみ込んだ瑤子を凝視《ぎようし》し続けている。たしかに彼女がテレパシーで殺し屋に銃を捨てさせたのが判ったのだろう。 「凄《すご》い力を持った人だ」 「大丈夫……瑤子さん」 「ええ、私は何ともないわ」  瑤子は伸子をみあげて微笑した。そこへ三戸田がやって来る。 「解決したようだな」 「この人のおかげです」  谷村は三戸田にそう言った。 「犯人に拳銃を捨てさせてしまったのですよ。近くで見ていなければとうてい信じられないところだ」 「テレパシーを使うことのできる人間がいることは以前から聞いていた。政府部内でそういう問題をひそかに取扱っているということだった。しかし、本当にいるとはなあ……しかもこんなに若くて美しい人が」  瑤子はもう一度深呼吸をして立ちあがった。 「さあ、行きましょうか、伸子さん」 「ちょっと待ってください」  三戸田が慌《あわ》ててとめた。 「いろいろお尋ねしたいことがあります」  伸子が口をはさんだ。 「瑤子さんは自分がテレパスであることを隠しておきたかったんです。テレパシーの能力があるおかげで、誰かから追いまわされ、逃げまわっていたんです。それを緊急の場合でやむを得ず三戸田さんや父の前で使って見せてしまったんですわ。だからそっとしておいてあげなければ」 「いや、そういうことではない。この人が逃げまわっていることについて、少しお話したいのですよ」  瑤子は三戸田を正面からみつめた。三戸田の心は瑤子に対する好意で溢《あふ》れ返らんばかりであった。 「人類の変種。儂《わし》はそういうように聞かされていたのです。テレパシーの力を持つ者は、三本目の腕、三本目の足、そして第三の目を持つ者と同じことなのだと言うようにね」 「まあひどい」  伸子が憤然とした。 「で……」  瑤子は三戸田が現在の政府と深いかかわりを持ち、テレパス狩りについても知らされていることを悟っていた。 「日本はご承知のように、国際社会ではアメリカと深いかかわりを持ってやって行かねばならんのです。あちらさんが、お前のところもテレパシーを使える人間を探《さが》さねばいけないと言えば、そうしなければならんのです」 「私はそれで追われたのですね」 「どうもそのようですな。しかし、そのことを説明するのに、専門家は自分たちに都合のいい言い方をしておったのです。あなたを拝見してそれがはっきりと判りましたよ。連中はまるでモンスターのように言っているのです。人間ではない別な生き物のように……いや、あなたを悲しませるつもりは毛頭ありません。連中の言うことが嘘《うそ》であったことがはっきりしたのです。たしかにテレパシーを悪用すれば、とんでもないことが起きるでしょうが、それだったら核兵器だって人工衛星だって五十歩百歩です。どうも何かを管理統制する側の人間というのは、相手を最悪のものに考えてしまうようです。何とかしましょう。及ばずながら儂がお力になります。いや、是非やらせてください。こんなに心も姿も美しい人が、判《わか》らず屋どもに追いまわされていたかと思うと、くやしくて仕方ありませんわい」  三戸田はそう言って照れたように笑った。     4  なかなか手離したがらない三戸田や谷村に付合ってついホテルへ戻るのが遅れた瑤子は、三時になってやっとホテルへ向かうことができた。 「ガンちゃん、急いで」  伸子は車を急がせた。 「これじゃ空港へ行っても仕方ないわね。まずホテルへ行きましょう」 「ええ、そうするわ」 「だいたい瑤子さんは人がよすぎるのよ。何もこんな時間までサービスしなくたって」  伸子のほうが瑤子より余程いらいらしているようであった。 「だって、三戸田さんもあなたのお父さまも、あんないい方なんですもの。勝手を言うのは悪い気がして」 「勝手を言ったのはあの人たちのほうよ。若くて綺麗《きれい》な人をそばへ置いてニヤニヤしてるだけじゃないの」 「そんな風に言うことはないわよ」  瑤子は笑った。久しぶりに晴ればれとした気持であった。人の役に立つことができたし、三戸田が安全を保証してくれると請合ったのだ。  おまけに邦彦がもう宮崎へ来ているのだ。うれしいことも、悪いことと同じように一度にいくつも重なり合ってやって来るものらしい。 「いいお天気」  瑤子が窓の外を見てつぶやくと、いらいらしていた伸子が急に笑い出した。 「何を言ってるのかしらねえ」 「あら、私変なことを言った……」 「そりゃいいお天気でしょうよ。あなたにとってはね」  ガンちゃんも笑う。 「きのうよりは雲が多いですよ」 「無理もないわね。恋しい恋しい旦那《だんな》さまが会いに飛んで来るんですもの」 「まあ」  瑤子は顔を赤らめた。期待に胸を躍《おど》らせて、他人に対する心の備えをまったく欠いてしまっていたことに気付いたのだ。 「その旦那さま、もうお待ちかねかも知れないわね」  ホテルが見えて来ると、伸子はそう言ってからかった。 「あたしがフロントへ行ってあげる。瑤子さんのお部屋のキイがなかったら、ご主人が見えている証拠よ。そうしたらこうやってサインを送るから、エレベーターへ走って行きなさい」  伸子は右の拇指《おやゆび》と人差指で輪を作って見せた。  その言葉通り、ホテルの前へガンちゃんが車をとめると、伸子は素早くおりて小走りに建物の中へ駆け込んだ。  瑤子はさり気ない様子であとから行く。しかし、気持が平静なわけはない。できれば体より先にテレパシーを自分の部屋へ送って、邦彦がいるかどうかたしかめたい気分だったが、それをしては邦彦にすまないような気がして自制していた。  フロントは玄関を入った左側にあり、エレベーターは更にその裏側に当たっていた。  伸子がフロントのところで振り返った。右手をあげて笑っている。指が輪を作っていた。  とたんに瑤子は自分でも思いがけない勢いで走り出した。涙が溢《あふ》れて、エレベーターの表示ランプが滲《にじ》んで見えた。エレベーターがそんなに遅いものだとは知らなかった。階と階との間でとまっているような気がしたほどである。  そして瑤子はその小さな密室から廊下へ飛び出した。また走って自分の部屋のノブに手をかけた。  動かない。  瑤子は焦《あせ》ってチャイムのボタンを押し続けた。 「はい」  ドアの向こうで懐しい夫の声がした。ノブがまわり、ドアがあいた。  気がつくと瑤子は夫の胸に顔を押しあてて泣きじゃくっていた。邦彦は半歩しりぞいてドアをしめ、あらためてきつく抱きしめてくれた。 「瑤子」  無理に上を向かされ、唇《くちびる》を押しつけられた。瑤子の涙が邦彦の顔を濡《ぬ》らした。  無言だった。長いくちづけがおわると、邦彦は瑤子を抱きあげ、部屋の中央へ運んだ。  また、くちづけ。 「余りやつれてはいないな」  邦彦は唇を離すとそう言った。抱きながら肩や背中や腰などをまさぐっていたのは、離れていた間の瑤子のやつれ方を探《さぐ》る為だったらしい。 「何もかもお話しするわ」  瑤子は邦彦をソファーに坐《すわ》らせると、一気に真相を喋《しやべ》りはじめた。     5  夕食を伸子と一緒にする気でいたが、電話をすると一蹴《いつしゆう》されてしまった。 「嫌《いや》よ。あしたの朝食なら別だけれど」  伸子の声は笑いを含んでいた。 「あたしもテレパシーが欲しくなったわ。どんな夜になるのか、あれで覗《のぞ》いてみたいの」 「まあ、伸子さんたら」 「冗談はとにかく、あしたの朝までは二人きりでいること。実はさっき支配人に言って、すてきなディナーを用意させたのよ。シャンパンつきでね。あたしのささやかなプレゼントなの。適当な時間にお部屋へ運んで行く筈《はず》よ」 「まあ……」 「受けてくださるわね」 「ええ、有難くご馳走《ちそう》になるわ」 「じゃあ、あしたの朝まで」 「いろいろと本当に有難う」  瑤子は受話器を置いた。 「晩ご飯をプレゼントされちゃった。きっとフルコースよ。シャンパンもあるんですって。ルームサービスで」 「ほう、なかなかしゃれたことをする人だね、その伸子さんという人は」 「ええ、とてもすてきな女性」 「ルームサービスときまれば、ひと風呂《ふろ》浴びるとするか」  邦彦は立ちあがり、上着を脱《ぬ》ぎはじめた。瑤子はいそいそと窓のカーテンを引き、バスルームへ行って湯を出した。邦彦は瑤子が湯加減を合わせている内に、スーツケースから剃刀《かみそり》などを取り出していた。 「おかげですっかり旅慣れたよ」  バスルームから出た瑤子は、そう言う邦彦の裸の胸を照れ臭い感じで見た。 「変ったわ、少し」 「そうだろう。自分でもそう思う。どうだ、いくらか逞《たくま》しくなったんじゃないか」  瑤子は微笑して頷《うなず》いた。  ぼんぼん……という感じの強かった邦彦が、すっかり逞しくなっていた。体つきではなく、生活力のようなものが感じられるのだ。男らしくなった、というべきか。 「さて、もういいんだろう」  邦彦はスラックスを脱ぎ、バスルームへ去った。瑤子は夫の脱いだ服を片付けながら、胸がしめつけられるような気分になった。それは甘く、熱い息苦しさであった。 「瑤子」  バスルームから声がする。 「はい……」 「背中を流してくれ。旅から旅の旅鴉《たびがらす》だったから、きっと汚《よご》れているぞ」 「はい」  甘えているんだわ。瑤子はそう思い、つい微笑した。……いいわよ、いくらでも甘えなさい。あたしだってあとで思い切り甘えるんだから。  瑤子はそう思いながら、ブラウスの袖《そで》をまくっていた。  静かな里へ     1  クラブから靴《くつ》や帽子まで、何から何まで借りた邦彦が、谷村伸子を相手にホテルのすぐそばのコースへ出たのは、二泊したあとの午後であった。  ゴルフのことは余りよく判《わか》らない瑤子の目にも、伸子のほうがずっと上手《じようず》であるらしいことはすぐに判った。  それはそうだろう。伸子は金と暇にまかせて、いいコーチにもつけば、いつでもコースをまわれる身なのだ。  しかし邦彦はそんな伸子と闘志をむき出しにしてクラブを振っていた。  たかがゲームに過ぎないが、瑤子はそんな邦彦のひたむきな姿に、うろたえ気味であった。  この人は今までずっとたたかっていたのだわ。……そう感じ、あらためて詫《わ》びたい気持でいっぱいになった。何ということなしに、サラリーマンの集団に加わって、ぞろぞろと歩いているような印象を、瑤子は邦彦に対して抱きつづけていたのである。その集団の中にも競争があると理解はしていても、牙《きば》をむいて相手におどりかかるようなたたかいなどあるわけがないと安心していたようなのだ。  瑤子ははじめて邦彦の野性を見たような気分であった。  このような闘志を示す男に対して、テレパシーによる援助をしたことを、とてもはずかしいことであったように思うのであった。  伸子は悠然《ゆうぜん》としてプレーをたのしんでいた。邦彦がミスをすると、そのたびに瑤子をからかったりしている。そのくせ伸子も邦彦も充分にプレーをたのしんでいるのだった。 「久しぶりにさっぱりした気分だ」  コースのおわり近くで、邦彦は短い草の上を並んで歩く瑤子にそう言った。 「以前よりずっと元気そう」  瑤子は少しうらめしげな表情で答えた。離れて暮らしているうちに、邦彦はたしかに以前より逞《たくま》しい感じになっていたのだ。 「ばかを言え、辛《つら》かったんだぞ」  邦彦は思いがけない深さで瑤子の目をみつめると、すぐその目を伸子のうしろ姿へ移した。伸子は五十メートルほど前を歩いている。  グリーンが近くなり、邦彦の足が早くなったが、瑤子はそのままの歩きかたで邦彦を見送っていた。  邦彦が別れている間の気持を口にしたのは、それがはじめてであった。短い言葉だったが、それだけにずしりとした重味があった。理由も告げずに自分のそばから離れた妻を信じ通すには、愛情だけでは足りなかったに違いない。それには努力や勇気が、愛情と同じくらい必要だったのではないだろうか。  そんなことを考えながら、パターを手にした二人がいるグリーンにゆっくりと近付いて行くと、ゴルフ場の職員らしい男が小走りにやって来て、瑤子に小さな封筒を手渡した。 「何かしら」  瑤子がその封筒をあけると、一枚のメモ用紙が出て来た。  ——ホテルのラウンジに来ています。例の奴で話しかけてくれませんか——  メモ用紙には太いペンでそう書いてあり、三戸田、と走り書きの署名があった。  それを読んで瑤子は微笑した。ふざけているようにも受取れるが、三戸田は瑤子に対して、堂々とテレパシーを使えと言ってくれているらしいのである。  ——こんにちは——  さっそく瑤子は三戸田の思考を探《さぐ》りあて、そうテレパシーを送り込んだ。三戸田は待ち構えていたらしく、  ——やあ、来たぞ——  と、まず反応した。勿論《もちろん》三戸田にテレパシーの能力はない。自分の脳に直接送りつけられて来た瑤子の思考に対し、自分の思考を反応させるだけだから、慣れないと通常の会話のようにはすっきりと行かず、ひとりごとが合いの手に入ってしまうのだ。  ——面白がっていらっしゃるんですね——  言葉ではなく思考だから、敬語を使うわけではない。仮りに瑤子が敬語を用いて思考波を生み出したとしても、言葉そのものが伝わるわけではないから、意味と同時にこちら側の敬意が伝わるだけである。その点では、言葉を使うよりごまかしがきかなかった。  ——待っていたのですよ——  三戸田の反応にも、僅《わず》かだが瑤子に対する敬意がこめられていた。  ——しあわせなんでしょうな——  ——ええ、とても——  ——それはいい。とてもいい。いい……——  三戸田の思考は瑤子が現在幸福であることに対し、幾通りもの反応を一度に示していた。それは瑤子にとっていいことだというほかに、自分も満足であり、そして実にこの世のすべてがよく思えるという意味の反応であった。もしそれが言葉によってあらわされたら、三戸田が単に瑤子のことを思いやっている部分しか表現されなかったであろう。  他人の幸福を見て自分もうれしく感じるのは、その相手に深い好意を寄せていることだし、そうしたうれしさというのは、この世界のすべてを一時的にもせよ肯定、是認していることになるのだ。  その意味で、三戸田は今善意のかたまりのような精神状態にいるのであった。  ——東京へ帰るのを延期しましたよ——  ——なぜですの——  ——あなたを安全な立場にする為です——  瑤子はラウンジへ行くことにした。三戸田が何か重要なことをしてくれたようであった。     2 「あなたの件には少し時間がかかりそうなのですよ」  ラウンジのテーブルに向き合うと、三戸田はそう言った。そばにプレーをおえた伸子と邦彦もいた。 「そんなに面倒なんですか」  伸子はずけずけと言った。 「何しろこれは国際問題だからね。わたしの力が足りないせいもあるが、少し気長に取り組まないといかんのだ」  三戸田は伸子にそう言い、また瑤子に顔を向けた。 「でも余り心配はなさらなくていいのです。とにかくこれからは逃げまわる必要はありません。わたしとその筋の者たちとの間に、一種の協定のようなものができましてね」  邦彦が頭をさげた。 「有難うございます」  しかし三戸田は気の毒そうな表情になった。 「と言っても、すぐにお宅に帰れるというわけでもないのです。先方の言うには、当分のあいだ瑤子さんを人口の密集した場所へは置きたくないのだそうです。あの連中の言い分をご理解いただけますかな」 「ええ」  瑤子は目を伏せたまま頷いた。 「考えようによっては、武器を野ばなしに持たせるようなものでしょうから」  三戸田は何かをごまかすように咳《せき》ばらいをしてから、 「実はその通りなのです」  と言った。 「彼らがあなたのテレパシーを社会にとって危険だと思わないようになるまで、どこか閑静なところで過していただく必要があるんですよ。わたしはもうその必要も感じてはいませんがね。何しろ超能力の行使を取締る法律などあるわけはなく、連中も立場上困っているんです」  瑤子は三戸田にではなく、伸子と邦彦に言った。 「テレパシーに限らず、ESPを悪用すればどんなことでもできてしまうんです。私はこの前人の持っている拳銃《けんじゆう》を、本人の意志に反して捨てさせましたけれど、当然その逆のことだってやれるのです。そして、私がテレパシーを持っていることが判っていても、今の法律は直接銃に手を触れていない私を罰することはできないのです」  瑤子の言い方は、逆に三戸田の立場に立った説明であった。伸子も邦彦も納得したようであった。 「外国からの圧力については一応排除しました。これまでのいきさつだと、瑤子さんは秘密のうちに捕えられ、外国へ連れ去られてしまう公算が大きかったのですよ。一部の連中がそんなばかげたことを計画しておったらしいのです。しかし瑤子さんは日本の国民だし、外国の自由にされてはたまったもんじゃない。わたしは断じてそんなことはさせません。その点では、瑤子さんにお礼を申しあげたい程です。よく今まで独力で追跡を振り切っていてくださった。どんな事情があろうとも、本人や国の内意なしに、勝手に外国へ連れ出すなどということが、二度と起こってはいかんのです。だが、瑤子さんが素早く身をかくしてくれなかったら、またそういうことが起こってしまったことでしょうな」 「で、瑤子をどこへやったらいいのでしょうか」 「その場所は谷村氏と相談してきめました。谷村家というのはここの有力な旧家なのですが、四代前まで住んでいた村から今のところへ出て来て今日に至っているのです。昔の本家は先代のときに建て替えられて、今では別荘のようなかたちになっています。こういうご縁もあったことだし、そこにしばらく住んでいていただきたいと思うんですがね」 「まあ、あんなところへ……」  伸子は不服そうだったが、邦彦は瑤子の顔を見ながらまっ先に頷《うなず》いた。 「谷村さんさえご迷惑でなければ……」 「よろしくお願いいたします」  と瑤子も頭をさげた。 「でも不便なところよ」  伸子は反対したいようだったが、邦彦が笑って言った。 「だからいいんでしょう。便利で人がたくさんいるところでは意味ないんじゃないですか」 「それもそうね」  伸子は言い負かされたようにちょっと沈黙したが、 「でも瑤子さんがかわいそうだわ」  と、また口をとがらせた。 「何も悪いことはしていないのに。それに、ご主人はどうなさるの……」  すると三戸田がにこやかに言った。 「さいわいと言っては何だが、野川君も今では東日機材を離れて一本だちのセールスマンになっている。仮りに瑤子さんが東京のお宅へすぐに戻れたとしても、各地を飛び歩いて留守がちな生活になるわけだし、しばらく奥さんがここに住んでいることにして、通ってもらうといいんだがね」 「事情が事情ですから、物騒な東京近くに置くよりそのほうが安心です」  邦彦は瑤子さえ戻ればあとはどうでもかまわないというような寛大さで答えた。 「よし、これできまった」  三戸田は大物実業家らしく、そう言うと右手でひとつ軽く膝《ひざ》を叩《たた》いて区切りをつけた。 「谷村氏はもう手配をしてくれているはずだ。瑤子さんがあの村にいる限り、安全はわたしが保証しますよ。まあひとつ、のんびりと過していてください。そのうち完全な自由をとり戻して差しあげますから」  三戸田はそう言って立ちあがった。     3  国鉄宮崎駅から宮崎大橋へまっすぐ伸びた通りを、見るからに敏捷《びんしよう》そうな小柄な男と、背の高い陰気な男の二人が、あてもなさそうにぶらぶらと歩いている。 「粘り強く野川の尾行を続けていたからこそ、彼女の居場所が判ったんだぞ」  陰気なのっぽがそう言っている。 「しかし宮崎とはまた飛んだものさ」  小柄なほうは気がなさそうに答える。 「川崎から船で日向《ひゆうが》港へ着いたらしい。発見できなかったわけだ」 「米沢からはトラックに便乗したというじゃないか。利口な人だよ」 「何だか知らんが、君はあの野川瑤子に好意を持ってしまっているようだな」 「ああそうだよ。彼女は無害だし、それに国際政治の舞台裏へ引きずり込んで、スパイめいた仕事を強制させるには、人柄が違いすぎる。マタ・ハリにはなれん人だよ」 「マタ・ハリとは古いことを言う」  のっぽは苦笑し、 「しかし我々はその為に働いているんだぞ」  と、念を押すように言った。 「同情などは邪魔になるだけだ。判っているんだろうな」 「判っているさ、そんなことは」  小柄なほうはそう言い、急に陽気な声になった。 「しかしよかった。ここで君と落ち合って、これから彼女をつかまえに行くのだとしたら、こんな気分ではいられなかっただろうさ」 「え……」  のっぽが足をとめる。 「どういう意味だ、それは。俺《おれ》たちは今日のうちに野川瑤子を拉致《らち》しなければならないんだぞ。その目的で落ち合ったんじゃないか」 「拉致……つまり誘拐《ゆうかい》さ。そして無理矢理アメリカへ行く軍用機に乗せてしまう。嫌《いや》な役目だったよ。俺は日本人だものな。仲間を他国に売り渡すなんて、ぞっとしないよ」 「どうしたというんだ」  のっぽは人目を気にしてまた歩き出した。人に目立たぬよう行動するのが彼らの習性になっているらしい。 「こいつを見ろ」  小男はポケットから薄茶色の封筒を出してのっぽに渡した。 「何だ、本部からか」 「そうさ」  小男はうれしそうに微笑した。 「中止……」  のっぽはギョッとしたように封筒の中の書類から目をあげた。 「そう。この件は中止だ」 「何を今更。それじゃ今まで俺たちは何の為に……」 「苦労をしたかと言いたいんだろうが、俺は違うね。ほっとしてるのさ。こいつは君と俺の国籍の違いってとこかな。とにかく俺はほっとしているんだ」 「いったいなぜこんなことになったんだろう」  のっぽはあらためてその命令書らしいものに目を通した。たしかめるような慎重さで読み返している。 「俺は或《あ》る程度予測していたよ。一人の日本人を、エスパーだというだけのことで、こっそり外国に引き渡していいとは思えなかったからな。この国にはこの国の主権というものがある。彼女が逃げまわって時間を稼《かせ》いでいるうちには、いつか主権を放棄したようなこの件を知る人間が出て来るに違いないと思っていたんだ」 「一部には早くから知らせてあった。何もかも俺たちが握って秘密にしていたわけじゃない」 「それはそうだが、決してフェアーなやり方ではなかった。エスパーというものを、必要以上に害のある存在として報告していたじゃないか。極秘に処理してもやむを得ないような印象を与えようとして」 「そいつは解釈の差さ」 「しかしとにかくこうして中止命令が出た。俺は久しぶりに気分のいい命令を受けた気がするよ。あの夫婦のことを考えて見ろ。ささやかなしあわせを追う、人の好い平凡な夫婦じゃないか」 「しかし野川瑤子は人並み外れた能力を秘めている。そいつを使えばどの国だって競争に勝ち抜けるし、国内の政治だって……」 「たとえば総理大臣になるのだっていともたやすいと言うんだろう。選挙なんて、一種の人気投票みたいなもんだ。人に好感を抱かせるようテレパシーを使えば、選挙に勝つことなんて簡単なんだ。だからと言って野川瑤子がそれ程危険かね。危険に思うのは、彼女の能力を自分がこう使えばと、野望をむき出しにしているからじゃないのか。それなら逆に聞きたいが、エスパーまでは行かなくとも、本当に能力のある者を公正に選りわけて登用しているかい、今のこの社会は。大学も金、選挙も金だ。エスパーをどうこう言うのなら、まず本当に能力のある者を、それ相応に扱ってやるべきじゃないか。このエスパー狩りは、今のところ少なくともエスパー側には何の落度もないぜ。せいぜい彼女が東日機材という中小企業の内部で、自分の夫が仲間から好いてもらうように働きかけたくらいじゃないか。それに引きかえ、狩り出すほうの心根はどうだ。本人の意志に関係なく、汚《きたな》い仕事を押しつける為にエスパー狩りをはじめたんだ」 「判ったよ」  のっぽは不承不承言って、封筒を小男に返した。     4  その二人が、一人の外人を連れて瑤子たちの泊まるホテルへ現われたのは、すっかり日が暮れてからであった。 「君の気持も判るが、そこまでやることもないんじゃないのか」  のっぽは不安そうだったが、小男は威勢よく言った。 「俺は彼女に挨拶《あいさつ》がしたいんだ。晩飯を奢《おご》るから是非つき合ってくれ」  小柄なその男が、大男二人を目に見えない綱で引っぱることにしてダイニング・ルームへ連れ込んでしまった。彼らとしても中止命令が出て、その夜は思わぬ休日になってしまったらしい。  瑤子はその三人がダイニング・ルームへ入ったとき、まだ自分たちの部屋にいた。この二日間、それこそ疲れを感じるほど邦彦に抱かれ、愛撫《あいぶ》にこたえた瑤子は、満ち足りた表情の邦彦と、しっとりとした夜を迎えようとしていた。 「おうちから出るとき、玄関にあった苔《こけ》をこれに移したのよ。あのときは悲しかったし、それに必死の思いだったわ」  小さな鉢植《はちう》えの苔がテーブルの上に置かれていた。 「この苔がなくなっているんで、こっちは余計にわけが判らなかったんだ。しかし、京都の苔寺で光る苔を見かけてから、少しずつ苔の秘密が判りかけていた」 「苔がテレパシーに反応する場合があるのよ。同じ場所に生えている苔でも、反応しないのとするのがあって、それがなぜだかよく判らないんだけれど、とにかくこれをそばに置いておくと、自分や自分以外の者が近くでテレパシーを使ったとき、真珠色に光るからすぐ判るのよ」 「ゆうべもうっすらと光っていたが……」 「昼間三戸田さんに向けてテレパシーを使ったから、今はもう少し強く光ってるはずよ」 「見たいな」 「じゃあ灯りを消すわね」  瑤子はテーブルを離れ、部屋の灯りを次々に消した。 「綺麗《きれい》だ」 「熱のない光よ。なぜ苔がテレパシーに反応するとこんな風になるんでしょうね」 「まだ人間が知らないことはたくさんあるんだなあ」  二人は小さなテーブルに向き合い、その真珠色のほのかな光をみつめていた。  瑤子にとって、かつてそれは危険を知らせるおぞましい光であった。しかし今は、まるで邦彦との愛の光であるかのように思えていた。 「瑤子を愛しているんだ。俺はどんな障害があっても乗り越えて見せるぞ」 「あなた……」  ちょうどそのときだった。  何か言いかけた瑤子は突然声をのみ、邦彦は、あっ、と低く言ってテーブルの上の苔をみつめた。  苔が発する真珠色の光が、すうっと強さを増したのである。それはみるみる明るくなって行った。 「どうしたんだ」  瑤子は立ちあがり、灯りをつけた。 「お前、使ったのか……」  半信半疑の顔で邦彦が言う。 「いいえ」 「それじゃ……」  邦彦はギョッとしたように苔に目を移し、すぐにまた瑤子をみつめた。 「下にお友達が来ているのよ」 「友達……」 「ええ。その人が今、私にテレパシーで呼びかけたのよ。外国人よ。きっとアメリカの人だと思うわ」 「そのアメリカ人が何だって……」 「長いあいだ追いまわしてすまなかったって」 「ほう」 「私に対する追跡に中止命令が出たんですって」 「あ……三戸田さんのおかげだな」 「ええ。それで彼がここへ連れて来られたの。私を追っていた人が、中止になったことを私に知らせたかったらしいの。彼もそれをよろこんでくれているのよ。だって同じエスパーなんですもの。そのアメリカのエスパーは、無理矢理エスパー狩りの道具にされていたんですって。だから、中止になっておめでとうと言って来たのよ」 「それで光ったのか」  邦彦はそっとオオスギゴケに撫《な》でるようなさわり方をした。 「彼のテレパシーには憶《おぼ》えがあるわ。一度でも相手のテレパシーを受ければ、声を憶えるよりずっと強く記憶に残るのよ」 「それで、どうする気だ」 「下へおりて行ってご挨拶《あいさつ》をしたいところだけれど、まだ問題は完全に解決したわけじゃないし、そうも行かないでしょうね。でもお礼は言っておいたわ」  邦彦は、 「そうか」  と頷《うなず》いたが、何となく警戒心を強めているようだった。 「みんなが今のようにテレパシーで意志を伝え合うようになったら、どんな世の中になるかしら」 「どうなると思うんだ」 「嘘《うそ》がつけなくなるわ」 「すると、今よりはいくらかましな世の中になるというわけか」 「そうなるのかも知れないわね」 「少なくとも、世界中の苔が光りっぱなしになるのはたしかだろう」  邦彦はそう言ってニヤリとした。     5  何とそれは、小字《こあざ》の名が谷村と言う土地であった。 「谷村から谷村家が出たというわけね」  ガンちゃんのジープでその村にたどりついた瑤子が、伸子にそう言った。 「山の中で気の毒だわ」 「まだそれを言ってる」  瑤子は笑った。 「この先ですよ。野川さんがいらっしゃったら、いつでも僕がこのジープでお送りしますからね」  ガンちゃんは車のエンジンの音に負けないよう、大声で言った。 「これ、ガンちゃんの自家用車なのよ。ご自慢の車なの」  伸子がそう教えた。 「僕もこのそばの村の出でしてね。だからジープのほうが都合がいいんです。何しろ坂ばかりで、途中からは舗装もなくなりますからね」  車が急な坂を鋭く曲りながら登ると、大きな門のついた家の前へ出た。  両びらきの扉《とびら》があけ放たれていて、ジープは小さな石橋を渡り、一気にその屋敷の中へ乗り入れた。  老夫婦らしい小ざっぱりとした感じの二人と、小学五、六年生くらいの女の子が、松を植えた車寄せの向こうで待っていた。 「来た来た」  と女の子がはしゃいでいる。 「元気……」  車がとまり切らないうちに伸子が飛びおりて老夫婦に言う。 「お久しぶりで」 「こちらが瑤子さん。こちらがご主人の野川さん」 「まあまあ、よくこんな山奥へいらっしゃいました。どうぞこちらへ」  老人が家の中へ案内しようとしたが、伸子は瑤子の手を引いて家をまわり込むように庭のほうへ連れて行った。 「こっちが南に当たってるの」 「まあ……」  瑤子は感嘆した。なぜこんな山の中にと思うほど見事な和風庭園がひろがっていたのである。 「父はここを取っておきのおもてなしの場に使っているのよ。温泉こそ出ないけれど、凝《こ》ったお風呂《ふろ》もあるし、へたな温泉旅館には負けないくらいよ」 「静かだし、すてきねえ」 「ここへ連れて来られた人は、みんなそう言うみたい。俗塵《ぞくじん》を洗いおとすというわけね」  まさにそのような感じであった。村の家々の屋根もかなり間遠に散在していて、絵に描いたような景色であった。 「転地療養という感じだな。空気が違うよ、空気が」  ガンちゃんと荷物を持って玄関から一足先に家の中へあがった邦彦が、広い縁側へ出て来てそう言った。 「俺もこんなところで住めたらなあ」 「結構ですよ。でもそれじゃお仕事のほうが」  伸子が答える。 「そこですよ。いつもぶつかる問題は」  邦彦は陽気に笑った。 「ところでこの庭には苔《こけ》が生えてますか」 「苔……」 「ええ。オオスギゴケ」 「さあ、生えていることはいるけど、オオスギゴケかどうか」 「あ……」  瑤子が走った。そしてしゃがみ込む。 「生えているわ、あなた」 「そこへあの苔を返してあげなさい。長い間ご苦労だったと言って」 「何のこと……」  伸子は怪訝《けげん》な表情で言った。 「春子さんの……いや、瑤子さんのお部屋はあっちです」  ガンちゃんが老人と一緒に広い縁側を、荷物を持って歩き出しながら言う。 「離れよ。ご主人がいらっしゃる間はいいけれど、一人になると少し淋《さび》しいんじゃないかしら」 「平気よ」 「でも、変な人が忍んで来たりしたら大変。だって瑤子さんは綺麗《きれい》だし」 「あら、忘れたの……」  瑤子はそう言って伸子を睨《にら》むようにした。 「あ、そうか」  伸子は男の子のように首をすくめた。 「あれがあるわね。痴漢が途中で改心して帰って行っちゃうのね」 「でも、こんな静かな村に、痴漢なんているもんですか」  瑤子は立ちあがり、邦彦に同意を求めるように言った。 「それはそうだが、淋しかったら部屋を変えていただいたほうがいい」  伸子ははしゃいで手を打った。 「ほらほら。ご主人が心配してるじゃないの。いいなあ」 「伸子さんも早く結婚なさることね」  瑤子は笑顔で言った。穏やかな陽ざしの中で、小鳥の声がそこここから聞こえていた。  往《ゆ》き交《か》う便り     1  邦彦は瑤子が思っていたほど足繁くはその村に来なかった。伸子に連れられてはじめて三日ほど泊って行ってから、一か月半ほどしてやっと姿を見せ、二晩泊ってまた一か月くらい現われなかった。  仕事がいそがしいのだと言う。しかし瑤子は不満ではなかった。何しろ辺鄙《へんぴ》と言ったらこれ以上はないような辺鄙な山の中なのだ。東日機材をやめ、小さいながら自分の会社を持つことを目標にしている邦彦が、その大事な時期に足繁く通って来ては、かえって先行きが不安になるくらいなのである。  それに、静かな村がすっかり気に入ってもいた。重なり合った山々の斜面に竹藪《たけやぶ》が多く、遠望するとそれがいかにも物柔らかなかたまりとなって、景色をいっそう穏やかなものにしていた。  谷村家の門のあたりは、村の子供たちの集合場所のようになった。都会の匂《にお》いを漂《ただよ》わす瑤子に対して、子供たちははじめあからさまな好奇の目を向けていたが、すぐに昔からの村人のようになついてくれた。  瑤子は谷村のお姉ちゃんと呼ばれ、午前十時頃になるときまって子供たちに呼び出されるのだった。  別に瑤子が子供たちに対して特別なことをするわけではない。子供たちが瑤子の前で、自分たちなりの遊びをして見せるのである。瑤子はそれに対して、面白がったり、不思議がったりするだけなのだ。子供たちにとっては、そういう瑤子の反応を見ることがたのしいらしい。  子供たちはほとんど喧嘩《けんか》というものをしなかった。瑤子という花のまわりをひらひらと飛び交う蝶《ちよう》たちのように、ただつきまとい遊びたわむれているだけであった。  優雅だ、と瑤子は思った。町の子供たちのほうが繊細な感覚を身につけているというのは間違いだと思った。町の子はひよわだがギスギスしていた。敏捷《びんしよう》だとすればそれは次の争いに備える為なのだ。その点この村の子供たちは、争いに関しては全く無防備であった。抜け駆けをするのは、仲間に何かの収穫をもたらそうとする場合だけであった。思いやり、という言葉さえ子供たちには無用のものらしかった。  自然は大きく、それにくらべて彼らの仲間は余りにも数が少ないのだ。助け合うのではなく、ひとかたまりになって生きているだけなのだ。そこではかばい合ったり助け合ったりすることは、歩いたり喋《しやべ》ったりすることと同じなのであった。  ここではテレパシーなんて要らない。  瑤子はそう感じていた。そしてそれは、おのずからひとつの結論に瑤子を導いて行くのであった。  大きな自然の中で少数の人間がひとかたまりに生きていた時代、他人の心を読む必要がどこにあっただろう。必要なのは兇暴な野獣たちに対する心の備えだけだったのだ。太古の人間は、現代人よりそうした危険に対する警戒心は遥《はる》かに強く、それをいち早く察知する能力にも恵まれていたのであろう。各種の防衛本能はそうして人間の体の奥深くに根を張り、現在に至っているに違いない。  文明が進むにつれ、太古の人々が持っていた自然への警戒心は、徐々に薄れて行った。そのかわり、増えすぎた仲間に対する警戒心がつのって来たのだ。野獣や天変地異などの危険を察知する能力が失われたかわりに、仲間の心をいち早く読み取ることが要求されはじめたのだ。  恐らくこれは、太古の人々が持っていたものと、根本的には同じものなのかも知れない。……瑤子は自分のテレパシーについて、そう考えるようになった。複雑化し続ける人間関係にともなって、その能力も変化しはじめたのだ。  現に、おそろしく敏感に他人の顔色を読んでしまう人々がいる。列車などで隣りの席に乗り合わせた相手を、瞬間的に警戒したりすることもある。えてしてそういう相手に対しては、好もしく思った相手より目による観察の度合は少ないのである。  人類には等しくテレパシーの能力が育ちつつあるのだ。  瑤子の結論はそれであった。何も自分が特異な体質を持っていたわけではないのだ。ただ、その芽生えが早くやって来る家系に生まれついただけなのではないだろうか……。  人類は猿《さる》から進化したものだという。たとえばその同じ猿であっても、尻《し》っ尾《ぽ》を消滅させるのが早かった者と、遅かった者がいるに違いない。また、数をかぞえることが必要な段階に至ったとき、いち早く数を理解できた一族と、それがいつまでたっても難解なものであった一族がいたに違いない。  人類の足の第五番目の指、つまり小指は、やがて退化してしまうものと予測されているそうだ。しかし、現に足の小指だけを動かそうとしても動かすことができない人と、自由にそれを動かせる人との差が生じているではないか。  ただ、早くにそれがやって来ただけなのだ。瑤子は自分の超能力をそう理解しはじめていた。  今の人の世にはびこる不信と自己本位な考え方は、テレパシーという能力が行きわたることで解消されるのかも知れない。  瑤子は人類という種族の、思いがけないたくましさを感じずにはいられなかった。人類全体がひとつの種として、自分たちの進化が生み出した危機を乗り切るべく、新しい能力を用意しはじめているのだ。  それが行きわたる日まで、無謀な核戦争など起こさないで欲しい。瑤子は心の底からそう願うのであった。     2  瑤子は今、手紙を書いている。茶室風の部屋の窓から、月の光が静かにさし込んでいた。  手紙は金沢の岡崎唯士に宛《あ》てたものであった。  もう隠すことは何もなかった。あの穏和な中に情熱を秘めた好意を瑤子は生涯《しようがい》忘れることはないであろう。とすれば、いまなすべきことは、すべてを打明け、その好意を更に昇華させることであった。  岡崎唯士は、夫の邦彦より遥《はる》かに優《すぐ》れ、完成した男性であると瑤子は思っている。そういう男性に好意を示されたのは、女として素晴らしいことだとも思っている。  しかし、愛は別であった。愛は相手の価値によって操作できるものではなかった。瑤子が愛しているのは邦彦であり、それより遥かに優れてはいても、岡崎は好もしい人物でしかないのである。その好もしい人物が、男性として自分に少しでも愛を示しているなら、その愛は更に昇華させなければならなかった。  だから瑤子は、その手紙に心をこめた。相手の心を気づかう余り、少しでもあいまいなところが出来てはならないのだった。  とは言え、手紙を書くことは楽しくもあった。すべてを告白できる日がこんなに早かったことに、感謝したい気持でいっぱいであった。手紙の後半は、自分がテレパシーというものをどう解釈したかということで埋められた。  ——今に誰《だれ》もが人の心を読めるようになるのです。私たちの社会から、嘘《うそ》というものがなくなる日が来るでしょう。私はそう信じております——  瑤子はそう書いて便箋《びんせん》から目をあげた。近くの竹藪《たけやぶ》の風に揺れる音が聞こえていた。 「その日まで人間が無事に生きのびられる為だったら……」  瑤子は窓の外の黒い山影を眺《なが》めながらそうつぶやいた。  もし本当に、その為に自分の能力が必要とされるのなら、外国へでもどこへでも出掛けてかまわない。……そう書こうと思ったのである。  しかし、軽率にはきめられないことであった。人類全体にとって、それが先走りすぎた行為になるかも知れないのだ。人類はこの先まだ何度かの大戦争を必要としているのかも知れないのだ。もっと地獄の奥深くを経験した上でなければ、嘘のない世界は得られないのかも知れない。  恐ろしいことだが、そうあっては欲しくないことだが、瑤子には神の代理人になってそれを防ぐ役を果たす自信はないのだった。  すべては人類全体がきめることであろう。今はただ、嘘のない日が来る可能性のあることを知った一人の人間として、静かに今まで通り暮して行くことが正しいのだろう。  瑤子は岡崎唯士への便りを、そこで結びにすることにした。  米沢の柴崎ふじには、もうとうに手紙を出してあった。高校生の伸次からすぐに返事が届き、おばあちゃんが春子さんに絵を描いて送ってくれるように言っていたと書いてあった。 「あしたから絵を描きましょうね」  瑤子は窓の外の夜空に向かってそう言った。この穏やかな山あいの村の景色を写生するつもりなのだ。  瑤子はふと思いつくと、自分の心の中にひろがっている明日への希望と、生きていることのよろこびを、力一杯テレパシーに乗せて外へ解き放った。  すでに眠りについた村人にも、まだ起きている村人にも、それが伝わって行く筈《はず》であった。それは月光に魅せられた笛の名手が吹く、美しい笛の音のように村人たちの心にしみ渡って行った。  この家の管理をしている老夫婦の部屋の窓が、静かにあいたようであった。 「綺麗《きれい》な月だこと」 「まったくだなあ」  老夫婦のそんな会話が、かすかに聞こえて来た。  瑤子は思念の放射をやめ、立ちあがって部屋の灯りを消した。暗くなった部屋の文机の上にのせた小さな鉢植《はちう》えの苔《こけ》が、真珠色の光を放っていた。     3  瑤子が妊娠したことをはっきりと悟ったとき、秋がはじまっていた。  とうとう……。  果して自分がそれを待っていたかどうか、瑤子はよく判《わか》らない気持であったが、とにかく来るべき日が来たのだと思った。  よろこびと期待が生じたのは、少したってからであった。そして、それが生じると、うれしさが際限もなく大きくなるようであった。  あの人の子供が生まれる。……はじめは邦彦の妻となったことを改めて感じ直すような気分であったが、たちまちのうちにそれは自分たちの子供、というように感じ方を変えて行った。  そして遂には、私の子供、となった。  邦彦がその報告をどんな表情で受けとめるか興味があったが、それもやがては大した問題ではなくなってしまった。  不思議なものだ……瑤子はそう思った。  妊娠したと悟って以来、邦彦の存在が日ましに小さくなって行くような感じなのだ。いや、小さくなって行くというのは錯覚なのかも知れない。正確には、邦彦が自分の中へ入り込んで、切り離しては考えにくくなって来たのである。  そのかわり、まだ自分の体の中にいる子供が、どんどんその存在感を大きくしているのだ。夫が内側へ入り、胎児が外側へ出て行くと言ったらいいのかも知れない。  妊娠を邦彦がどんな顔で受けとめても、もう一向に構わないという気分になって行った。問題は子供が健全かどうか、誰《だれ》に似た顔を持って生まれるか……性格は……声は……そして将来は……。  要するに瑤子は妻から親へ、女から母へと変化しはじめているのであろう。多分それはごく世間なみのことで、とりたてて言う事柄でもないのかも知れなかった。  ただ、世間一般の母親と瑤子が際立って異るところは、毎日胎児に話しかけようと試みる点であった。  テレパシーを使ってである。 「赤ちゃん……」  まだ男女の別も判らず、呼びかけようがないまま、瑤子はテレパシーでそんな風に自分の体の中へ語りかけるのである。 「まだお返事はできないの……」  もし胎児が胎内ですでに何らかの思考をはじめるものだとすれば、多分瑤子は人類で一番早くに自分の子供と会話をする母親となる筈であった。  しかし、胎内からの応答はいつまでたってもなかった。 「変ねえ、おんなじチャンネルなのに」  瑤子はときどきそうつぶやいて苦笑するようになった。同時に、好きだった山道の散歩をやめたし子供たちの相手をして駆けまわることもしなくなった。  貞造さんというその家の老人が、或《あ》る日そんな瑤子にずばりと言った。 「奥さん、おめでたではないのですかね」 「まあ……」  瑤子は目を丸くして貞造さんを見た。 「うちの婆さんがそう言っているのですよ」 「やっぱり判っちゃうのねえ」  瑤子は微笑して答えた。 「や……本当におめでたですかね」 「ええ、そうらしいの」  すると貞造さんはびっくりするような声で、 「おい、婆さんや、やっぱり当たっていたぞ」  と家の中へ叫んだ。 「やっぱりねえ」 「カズさんの目はごまかせないわ。そうなの、赤ちゃんができたのよ」 「そりゃまあ、おめでとうございます」  カズさんは縁先へ坐《すわ》って頭をさげた。 「で、旦那《だんな》さんには知らせなさったので……」  貞造さんが訊く。 「いいえ、まだなの」 「そういうことは早く知らせて差しあげたほうがいいですよ」  カズさんは諭《さと》すように言った。 「でも、手紙では知らせたくないの」 「それはまたどういうわけで……」 「どんな顔をするかと思って。だって生涯《しようがい》の見ものじゃないかしら」 「そんな面白半分のことじゃありませんでしょうに」 「それは判っているのだけれど」 「早くお知らせになることですよ」 「ええ」  瑤子はその日から、貞造さん夫婦に邦彦への報告を催促される羽目になった。  それから一週間もすると、ガンちゃんのジープで伸子がやって来た。 「おめでとう、瑤子さん」  伸子は大声でそう言いながら家の中へ駆け込んで来ると、 「すてきじゃないの。素晴らしいことだわ」  と言って一人ではしゃいでいる。 「そんなに珍しそうに言わないで。女は誰《だれ》だって母親になるもんでしょう」 「違うわよ、あなたの場合は」  伸子が力をこめて言った。 「どう違うの……」 「だって」  伸子は老夫婦のいない部屋へ瑤子を引っ張って行き、 「テレパスの母親から生まれる子なら、その子だってテレパスじゃないの」  と言った。 「そうときまっているわけじゃないわ」 「でも、もしその子がテレパスなら大変なことよ。そうは思わない……」 「私の場合のように、余分な苦労をしなければならないかも知れないのよ」 「そうじゃないわ」  伸子が勢いよく頭を横に振った。 「このあいだあなたが言ったように、人間がみんなテレパシーを持つ方向へ向かっているのだとしたら、あなたの赤ちゃんがテレパスであることは、その証明になるじゃないの。その赤ちゃんがおとなになって結婚して、またテレパスの子供が生まれて来ることになれば、世界中がテレパスで満ち溢《あふ》れて、嘘《うそ》のない社会になるのはそう遠いことじゃないのよ」 「伸子さんのほうが私よりずっと興奮してるみたい」  瑤子はそう言って笑ったが、そのことについては自分でもすでに考えていた。  ひょっとすると、新しい世界のはじまりに自分は立っているのかも知れない……。それは余りにも巨大で、余りにも感動的なことであった。 「でも、生まれてすぐテレパシーが使えるかどうかは判らないわね」  伸子がもっともらしく首を傾げる。 「言葉を操るのでさえ時間がかかるんですもの。ひょっとしたら、あの思春期という何となく混乱した時期が、テレパシーの現われる時期なのかも知れないし」 「およしなさいよ」  瑤子は笑った。伸子は空想の羽根をひろげ放題にひろげてしまうようだったのだ。     4  老夫婦に言われたせいばかりでもないが、やがて瑤子は妊娠したことを邦彦に知らせる手紙を書いた。  あいにくその手紙は仕事で旅行に出た留守に着いたと見え、邦彦からの反応はひどく遅かった。 「奥さん、電報ですよ」  カズさんが部屋の外の廊下に立ってそう声をかけた。 「電報……」  ちょうど絵を描いていた瑤子は、筆をおくと急いで襖《ふすま》をあけた。 「主人からだわ」  カズさんは心配そうに廊下に立っていた。瑤子は急いで紙をひろげた。  アリガトウ、ダイジニセヨ、クニヒコ。 「どうしたのです……」  カズさんはたまりかねたように言った。 「有難う、大事にせよ、邦彦」  瑤子は読んで聞かせた。 「まあ……」  カズさんはみるみる目をうるませた。 「いい旦那《だんな》さまですねえ、本当に」 「そう、いい旦那さま……」  平静でいるつもりだったが、瑤子もつい声をつまらせた。 「わたしはもう電報と言うと悪いことかと思って……どうも申しわけありません」  カズさんは泣き笑いの顔で言った。 「有難う、大事にせよ、ですか。これはお爺《じい》さんにどうしても聞かせなければ。あの人と来たら、一度だってそんな優《やさ》しい言葉をかけてくれたことがないのですからね」  カズさんは急に気負い込むと、廊下を足早に去って行った。  会いたい。  ちょうど胎児のいる辺りから、勢いよくそんな思いがこみあげて来て瑤子をうろたえさせた。なぜなら、突然噴きあげたその激しい思いが、自分のものでないように感じたからであった。 「あんたなの……」  反射的に瑤子はテレパシーでわが子に問いかけていた。  返事はなかった。  しかし、邦彦に会いたいという熱い思いは消えなかった。それはもう、我慢のしようがないほど激しいものであった。  少女時代に或《あ》る映画を観に行きたくて矢も楯《たて》もたまらなかったことがあるが、その時の抑えようもない衝動を瑤子は思い出していた。  会いたい、会わなければ……。  たちまち頭の中はそのことで一杯になってしまった。  その午後から、瑤子は老夫婦を心配させるほどふさぎ込んでしまったのである。 「旦那さんに会いたいのも無理はない。ここへ来てからもう随分日が経《た》つからなあ」  沈黙しがちな瑤子のそばで、老夫婦はそんなことを言っていた。 「よく今日までこらえておられたもんですね。実のことを言えば、何と我慢強い奥さんだろうと感心していたのですよ」  カズさんはそう言って瑤子を慰めてくれたりするのだが、瑤子の慕情はまったくとめどがなく、自分でも呆《あき》れる程であった。  今までの意地も張りも、一度に限界に来た感じであった。 「三戸田さんはいつまで私をこのままにしておくつもりかしら」  夜になると、ついそんな風に不満を三戸田に向けて見たりした。 「あの人もあの人よ。電報一本であとは知らん顔だなんて」  その不満を夫に向けたとたん、やり切れない程の孤独感がやって来て、瑤子をさいなむのであった。 「せめてお父さんでも来てくれればいいのに」  今度は横浜の津田久衛に怒りの鉾先《ほこさき》が向く。 「そうだ、京都へ行ってしまおうかしら。これ以上おなかが大きくなったら、船や飛行機に乗ることは避けなければならないし、長い旅も無理になってしまうじゃないの」  瑤子は身もだえせんばかりにそう思い、焦《あせ》った。  しかし数日後、多分貞造さんが連絡を取ってくれたのだろうが、また伸子がガンちゃんのジープでやって来て、 「お許しがでたわよ」  と明るい声で言った。 「お許しって……」 「きまってるじゃないの。三戸田さんから連絡があったのよ。もうあなたはいつ東京へ帰っても大丈夫なの」 「まあ……」  瑤子は躍《おど》りあがらんばかりだった。 「有難う。本当に有難う」 「嫌《いや》ねえ、あたしに礼なんか言ったってはじまらないわ」 「でもうれしいの。ねえ、このまま私を乗せて帰ってくださらない……」 「いいわよ。ひょっとしたらそうなるかも知れないと思って来たんですものね」 「じゃあそうお願いする」  瑤子は部屋へとって返し、いそいそと荷物をまとめはじめた。 「でもねえ、瑤子さん」  あとを追って来た伸子が、それを手伝いながら静かな声で言った。 「なあに……」 「少しあなたらしくないんじゃないかしら?」 「どうして……」 「貞造さんたちの顔を見なかったの」  瑤子はハッとして荷造りの手をとめた。体中の熱がすうっと冷めて行くようだった。 「ごめんなさい。どうかしてたわ」 「そうよ」  伸子は厳しい表情をしていた。 「自分のことに夢中で、うっかりしていたの。もうひと晩泊めていただいて、ゆっくりお別れを言わなくては」 「あたしたちも泊るわよ。今晩は送別会ね。カズさんにそう言って来る」 「いいえ、私が行きます」  瑤子は申しわけなさにしょんぼりしていた。まるでこの家が嫌でたまらなかったように振舞ってしまったのだ。  これではテレパシーを持っていたって何の役にも立ちはしない。瑤子はそう反省した。     5  老夫婦の笑顔に見送られて瑤子は宮崎市へ向かった。 「よかったわ、伸子さんに言って頂いて」  平和な村が見えなくなると、瑤子はしみじみとそう言った。老夫婦は是非生まれた赤ちゃんの顔を見せに来てくれと、くどい程念を押していた。 「ガンちゃん、余りとばさないでね」  伸子はガタガタと揺れるジープの中で、こわれ物のように瑤子の体を抱きかかえながら言った。  長い旅がこれで終わる。  瑤子は揺れるジープの中でそう思った。不思議なほど、ゆったりとした気持に戻っていた。きのうまでの焦りようを思うとまるで嘘《うそ》のようなのだ。  それを伸子に言うと、 「きっと妊娠したせいよ。誰《だれ》でも赤ちゃんができるとそんな風に気持の乱れることがあるそうじゃないの」  伸子は当たり前のことだと言わんばかりの顔で答えた。  それにしても、谷村氏はこの地方の実力者であった。前夜の瑤子の急ぎぶりを見ているだけに、伸子はその日の便で瑤子を東京へ送り出したがり、谷村氏はすんなりと伸子の要求通り飛行機の席を確保してくれた。 「ごめんなさい、こんなにあわただしいお別れで」  瑤子は何度も繰り返し伸子にそう詫《わ》びたが、伸子は何もこれが最後になるわけではなしと、至って陽気に瑤子を機内へ送り込んでしまった。  とうとう谷村氏には会いそびれてしまった。あっと言う間に宮崎空港を離れた機内で、瑤子は自分がいったい何人の人たちの好意でこの日を迎えることができたかと、指を折って数えはじめていた。  岡崎唯士、田辺清次郎、田辺圭介、お兼さん、そして柴崎ふじとその一家、長距離トラックの加藤、そのあとを引きついでくれた名も知らぬもう一人の運転手……谷村伸子、ガンちゃん、あの老夫婦、それに村の子供たち。  数え切れない。  瑤子は指を折るのをやめ、シートにもたれ込んだ。所詮《しよせん》人間は一人きりでは生きて行けないのだということを噛《か》みしめながら……。  旅客機はやがて夜の羽田《はねだ》空港へ着いた。  邦彦が迎えに来てくれるように手配すると伸子が約束していた。山をおり、空港から飛びのるようにして機上の人となるのが、それほどまでにあわただしかったのである。瑤子が出発してから、伸子は東京へ電話をかけることになっていた。  瑤子は席を立って、他の乗客たちと狭い通路を歩きはじめた。すぐうしろに体の大きな外国人がいて、その男が多少押し合うような感じの中を、うしろからかばうようにして歩いてくれた。  もうお腹の大きいことが判るのかしら……。瑤子はそう思い、そっと目を落して自分の下腹部を見たりした。  東京は雨があがったばかりらしく、あたりが濡《ぬ》れていた。  ガタガタとタラップをおりて行き、濡れたコンクリートの上に足がついた。  これが東京の感触なのだ……そう思いながら、紙袋をひとつぶらさげて建物へ向かった。  それが何番のゲートであったか、瑤子は知らない。とにかく人々にまじってそのゲートを入ったとき、横あいから不意に小柄なダークスーツの男が現われて瑤子の前に立ちふさがった。  不意を衝《つ》かれて、ギョッとなった瑤子へ、その男は柔和な笑顔で右手をさし出した。 「はあ……」  瑤子はわけが判らず、あいまいな表情で小首を傾げた。 「おめでとうございます、野川さん」  小柄な男は握手を求めたのだった。瑤子はつり込まれたように軽くその男の手を握って放した。  うしろに大きな外国人が立って笑っていた。それを見た途端、瑤子は気付いた。 「まあ、あなたがたでしたの……」 「そうです。いろいろとご迷惑をおかけしましたが、これですべてはおわりました。役目とは言え、気が進まない仕事だったことを判って頂きたくて」  瑤子はその外国人とも握手を交した。はじめて見る顔だが、彼のテレパシーはよく知っていた。 「元気な赤ちゃんを」  小柄な男はそう言うと、外国人と一緒に乗客たちとは逆の方向へ歩いて行った。  なぜそんなことまで知っているのか……。  瑤子は不審に思い、外国人のほうへ向かってテレパシーを……。  そして瑤子は愕然《がくぜん》とした。あの感覚が消えてしまっているのだった。テレパシーの能力がなくなっていた。  妻は窓あかりのように     1  野川邦彦は浜松《はままつ》にいた。  東日機材の工場長が、倉庫の扉《とびら》をいっぱいに開き、得意そうな顔で邦彦に言った。 「どうです。立派なものでしょう」  邦彦は図面の入った長い紙筒を腋《わき》の下にかかえていたが、その紙筒から設計図をとりだす必要もなかった。試作品は完璧《かんぺき》だった。  邦彦は倉庫の中へ入り、自分が考案した新しいデスクやキャビネット、それにロッカーなどをしげしげと眺《なが》めた。 「念入りに作ってくださいましたね。有難うございました」  邦彦がそう言うと、工場長は首に手を当てて、照れたように笑った。 「本社から送られて来た図面を一目見て判りましたよ。こいつは傑作です。今に日本中のオフィスを、こいつらが占領してしまうでしょう。売れますよ、これは。いいものは売れるんです。ただ、残念なことは、これを設計したあなたがもううちの社に籍がない人だということですよ」 「実は社長にもそう言われて来たところです」 「そうでしょう。でも、野川さんの為にはそのほうがよかった。三戸田さんなどという大物がバックアップしてくれているそうだし、量産態勢に入れば、うちの社だってこのシリーズの販売に全力をあげるでしょう。あなたの会社の前途は洋々たるもんですよ」 「そうなるといいんですがね」 「まあ、作るほうはまかせておいてください。これで日本にも、外国にまけないオフィス・インテリア群ができたわけです」 「しかし、まだ椅子《いす》が問題です。少し贅沢《ぜいたく》にしすぎて、コストが高くなってしまったものですからね」 「多少高くつくのはやむを得ないですよ。機能的で、長時間|坐《すわ》って疲れない椅子なんて、そうおいそれと作れるもんじゃありません。今までのオフィスの椅子は、ただ坐れればいいという、それだけのものだったじゃありませんか。だいいち重すぎましたよ。この椅子があるからこそ、ほかのものが生きて来るんです」  工場長は試作品の椅子に腰をおろし、前後左右に小きざみに動いて見せた。 「こいつを見たら、よそのメーカーがそれこそ腰を抜かすでしょうな。もしライバルがこいつを作りはじめたらと思うと、ひや汗が出ますよ。野川さんが東日機材と関係をたたないでくれていてよかった」 「僕も売りまくりますよ」 「オフィス・インテリアの耐用年数は長いですからね。現在使用中のものと入れかえるには相当時間がかかるでしょうが、今の若い人たちはセンスがよくなっているし、使う側も昔のように何でもかでも押しつけるというわけには行かなくなっています。その辺がこちらの狙《ねら》い目でもあるわけです」  工場長は椅子から立ちあがった。 「とにかく、おめでとうと言わせてください」  野川はさし出された工場長の手を握った。 「苦労なさった甲斐《かい》がありましたね」  工場長の顔は好意に溢《あふ》れていた。 「突然本社の野川課長が会社をやめたと聞いた時は、正直言って一体どうする気なんだろうと思っていました。しかし、独立してこんな素晴らしいものを作り出して……」 「そう持ちあげないでください。やむを得ない事情でこういうことになっただけです」  工場長は邦彦のそばを離れると、試作品のひとつひとつに、丹念にビニールのカバーをかけた。 「来週そうそう本社の営業の連中がこれを見に来ます。このところ業績が悪くなっていましたからね。こいつを見れば張り切るでしょうな」  工場長はそう言って倉庫を出た。邦彦の目の前で、ガラガラと大きな音をたてて扉がしまった。 「ここ当分、機密の保持が問題になります。社長の命令でこの工場にも保安課ができるんですよ。まだ他社には気付かれていませんが、こうなると車のメーカーなみですな」  工場長は楽しそうに笑って扉に錠《じよう》をかけた。 「試作に関係した工員たちはみなここの生え抜きの連中でしてね。その点心配ありません」 「よろしくお願いします」  邦彦は工場長と事務所のほうへ歩きはじめた。 「新幹線の駅までお送りしましょう。わたしも町に用事がありますから」 「それは有難うございます」  邦彦は晴ればれとした顔で空を見た。空も晴れ渡っていた。 「その前に電話を拝借します」 「どうぞ」 「家へかけます。夕食には間に合いそうだ」  邦彦があとの半分をひとりごとのように言うと、 「そうそう」  と工場長が大きく頷《うなず》いた。 「お子さんがお生まれになったそうで」 「ええ。男の子です」 「万事順調というわけですか。仕事も家庭も……羨《うらや》ましいですよ」  邦彦は建物の中へ入った。事務機メーカーの工場だけあって、まるでショー・ルームのようなオフィスであった。  何もかも順調……。邦彦は工場長の言葉を思い返しながら受話器をとりあげ、ダイアルをまわした。  瑤子はすぐ電話に出た。     2  瑤子が受話器を置くと、邦彦の学生時代からの友人である新沢信行の妻の聖子が、 「旦那《だんな》さまからね」  と、悪戯《いたずら》っぽい目で言った。 「ええ」  瑤子はベビー・サークルの中にこんもりと盛りあがっているかたまりを覗《のぞ》き込んで答えた。赤ん坊はよくねむっていた。 「電話のベルの音を小さくしなくては」  瑤子はソファーに戻った。 「そんな旧式のを使っていないで、音量調節のできる電話ととりかえなさい」  聖子は自分の子供をあやしながら言った。一歳と二か月になる女の子だった。 「晩ご飯には間に合うらしいわ」  瑤子は紅茶のカップをとりあげながら言った。 「いまどちら……」 「浜松ですって」 「相変らず飛びまわってるのね」 「会社を作ったのよ」 「そうですってね」 「あら、もうご存知なの……」  すると聖子は軽く笑った。 「会社を作る前、ご主人が新沢に相談したのよ」 「あら、そうだったの」 「だめねえ。さすがのテレパスも、こうなるとただの奥さんね」  瑤子は微笑した。 「そうよ。ただの奥さんでいいの」 「でも、ちょっともったいないわね」 「何が……」 「テレパシーのことよ。そんな素晴らしい能力があったら、何だって思いのままじゃないの」 「そんなことないわ。普通の人でいいのよ。現に、私がテレパシーの能力を持っていたとき、こっそりそれを使って主人のバックアップをしてるつもりだったの。でも、主人が男性として本当に力をつけたのは、私が身をかくしてからだったじゃないの」 「まったく、おたくの旦那さまは頑張《がんば》ってるわね。新沢もびっくりしてるわ。人間的にとても大きくなったなんてね。でも、うちの人がそんなことを言うと、なんとなくおかしいのよ」  聖子は笑った。膝《ひざ》の上の子供が一緒になって笑う。 「人さまの批評ができる柄じゃないのにね」 「今度また個展をなさるんですって……」 「そう。でも今度の場所はスペースが大きいのよ。そんなに作品だってたまっていないのに、どうする気なんだか」  瑤子は遠くを見る目になった。押入れに描きかけの絵が一枚あるのだ。 「ご主人に見ていただこうかしら」 「何を……」 「絵よ。まだ描きかけのままなんだけれど、そろそろ仕上げてしまおうかと思ってるの」 「おやめなさいよ」  聖子は失笑するように答える。 「あなたの絵を見て新沢がもし自信をなくしたら困っちゃうわ」 「まさか」  今度は瑤子が失笑した。 「新沢さんはプロじゃないの。それも新進気鋭と言われて注目を浴びている」 「やめて、瑤子さん」  聖子は本気で眉《まゆ》をひそめた。 「そんな風に言われると背中がムズムズして来るのよ」 「だって本当ですもの」 「本当でも何でもいやなのよ。はずかしくて死にそうになっちゃうわ」 「大げさねえ」  瑤子は笑った。 「あら、もうこんな時間だわ」  聖子はサイドボードの上の時計を見て腰を浮かせた。 「お買物をして帰ろうっと」 「じゃ私も行くわ。だからもうちょっと待っていてくださらない……久彦が起きるまで」 「いいわよ」  聖子は浮かしかけた腰をおろした。そのとたん、サークルの中の赤ん坊が身動きをした。 「あら、起きたわ」  瑤子はそう言って立ちあがると、赤ん坊をだきあげる。 「泣かないのねえ」  聖子が感心したように言った。 「凄《すご》く寝起きのいい子よ」  瑤子は赤ん坊をだいて、買物に出る仕度をはじめた。  何もかもが平凡だった。平凡な一人の主婦に、瑤子は戻ることができたのだ。そして、それに満足し切っていた。  出産前後の騒ぎにとりまぎれて、あの小さな鉢植《はちう》えの苔《こけ》も枯らせてしまった。それどころではないという感じだったのだ。  そして今、瑤子はもう苔を育てる気をなくしてしまっている。テレパシーなど、遠い遠いものに思えるのだった。  玄関の戸をしめて、二人の仲のいい主婦が、めいめい子供をだいて門をあけ、道へ出た。  キー、カタンと黒く塗った門扉《もんぴ》が閉じた。 「おたくは何にするの……」  瑤子が尋ねた。 「そう言えば新沢は何か鍋物《なべもの》が食べたいなんて言っていたわ」 「お鍋にするの……」 「どうしようかしら」  瑤子はそのやりとりを、少しもふしぎがっていない。  あの頃なら、聖子が夕食を何にする気か、口に出して尋ねなくてもすぐに判ったのだ。     3  買物から戻った瑤子は、描《か》きかけの絵を出して画架《イーゼル》にかけた。カンバスは十二号だった。  絵は完成しかけているが、空の部分がまだであった。  少年の絵である。  目の大きな少年が、夜空を背景に真正面を向いている絵を描こうとしていたのだった。  少年の姿は腰のあたりで切れ、顔は無表情だった。  ……何でこんな気持の悪い絵を描きはじめたのかしら。  瑤子は久しぶりにその絵を眺《なが》めてそう思った。  あれのせいかしら……。  その絵を描きはじめたとき、瑤子はたしかにテレパスであった。人の心の動きが言葉を聞くように判り、大勢の人の心を自分の望む方向へ一度に誘導することもできた。  そういう能力を持っていたことが、こんなような絵を描かせたのではないかと考えている。それにしても、改めてこうして見ると、とても自分が描いた絵とは思えない。少年の無表情さが、かえって何か底知れぬ謎《なぞ》を語っているように思えるのである。  背景は地平線までずっと暗く、地平線の上あたりが僅かに暁の色で染まって、その上がまだ描けていないのだった。 「見てごらんなさい」  瑤子は抱いていた久彦にそれを見せた。久彦はその絵の少年のように大きな黒い瞳《ひとみ》を、描きかけの絵に向けていた。 「ママはテレパスだったのよ」  瑤子は久彦に語りかけた。夫の邦彦と、父の久衛の名をとって久彦と名付けたのであった。 「世界でも一番強いテレパシーの力を持っていたのよ」  瑤子は絵の中の少年に向かって言っていた。 「でも、おなかに久彦ができたら、その能力が消えちゃったの」  瑤子は久彦の体をゆすりながら、絵の前を離れた。 「よかったわねえ」  そう言いながら居間へ向かう。絵を仕上げるかどうかはまだきめていなかった。しかし、もし完成させてしまうなら、地平線から上を朝の空にしようと思っていた。  暗い絵はいやだった。もっと明るくて楽しい絵にしたかった。 「そのうち、金沢や米沢へ行って見ましょうね」  瑤子は想像した。夫と一緒に、久彦の手を引いて金沢の町を歩く自分の姿を……。  すると、柴崎ふじの顔がそれに重なった。 「あのおばあちゃまにも会いましょうね」  瑤子は米沢の春景色を思い出した。 「ママは春子だったのよ。そして冬子でもあったの。でももうママの名前はひとつだけ。ママの名前は瑤子なのよ」  久彦、瑤子、久彦、瑤子……彼女は心の中で何度もそう繰り返していた。  その頃、夫の邦彦は新幹線の車内にいた。 「久彦……瑤子……」  窓に顔を向け、そっとつぶやいていた。それは全くの偶然で、決して瑤子の発したテレパシーのせいなどではなかった。  邦彦は妻と子を思っている。仕事が終った今、一刻も早くわが家に帰りたいと願っている。  瑤子は夫を思っている。仕事が終った今、一刻も早く家へ戻って来てくれと願っている。  その偶然に、常人を超えたテレパシーの能力など全く介在していないのだ。  だがそれは、本当に偶然なのだろうか。常ならざる力が働いてはいないのだろうか。  邦彦と瑤子は互いに愛し合っている。あの瑤子を逃避行に追いやった危機にも、その愛は崩《くず》れなかった。消えなかった。邦彦は行先も理由も告げずに姿をかくした妻を信じ抜いた。瑤子もまた、そのような理不尽な行為をおかしても、最終的に夫が信じてくれることを疑わなかった。  そうした愛があるとき、二人の間を結びつける強い精神の力が働くのではあるまいか。 「あなた……」  瑤子が思った。 「瑤子よ、久彦よ」  車内で邦彦が思った。もし離れた場所にいる二人を同時に見ることのできる者が存在したとすれば、夫と妻がたしかに呼び合い、答え合っているのを確認できた筈である。  いま、世はテレパシーを異常な能力であるように言う。  果してそうだろうか。愛とはこたえ合うものなのではなかろうか。こたえ合うとき、互いをつなぐ何かが必要になる。  ESPと呼ばれる人間の精神の特殊な力には、幾つかの種類がある。  その第一がテレパシーである。ほかに、まだ起こらぬ出来事を予め知ることができる力とか、遠方のものや隠されたものを見ることができる力もある。手足を使わず、精神の力だけで物体を動かすことができる力もあるし、瞬間的に自分を違う位置へ移動させる力もあるという。  それらは、かつて人間がみな等しく持っていた力なのか、これから人間がみな等しく持とうとしている力なのか、定かではない。  しかしここにひとつたしかなことは、愛が時として、テレパシーと同じ働きを生じさせるということである。  そしてそれは、少しも異常な事柄ではないのだ。誰《だれ》もが等しく持つ、生まれながらに与えられた能力に過ぎないのだ。     4  邦彦が日吉駅へ着いたのは、七時を少し過ぎた頃であった。駅を出るとちょうどバスが来ていたが、邦彦はそのバスを横目に駅前の書店へむかい、建築雑誌を一冊買って駅前のバス停へ戻った。  ちょうど人々の帰宅時間に当たっているから、バスは続いてやって来た。家は駅からそう遠くはないが、タイミングさえよければ邦彦はいつもバスに乗るのだった。吊革《つりかわ》につかまって停留所を幾つか過ぎ、やがて見なれた花屋の前で降りた。  乗って来たバスの排気ガスを浴びながら歩きはじめるとすぐ、左角に小児科の小さな病院があり、その角を曲ると狭いながらそれぞれに庭のついた家が建ち並ぶ道になった。  静かだった。たいていの窓はカーテンを引き、内側のあかりがそれぞれのカーテンの色に染まって見えていた。  邦彦はゆっくりと歩く自分の靴音を聞きながら、心の中ではもう自分の家のドアをあけていた。  ドアをあけると、きまって玉のれんの音がするのである。 「おかえりなさい」  靴を脱ぎおわる前に瑤子が玄関へ出て来てそう言うのだ。今日もそうに違いない。  邦彦は胸の高さほどの、黒く塗った鉄パイプの門扉を押しあけて、ドアの前に立った。  ノブを掴《つか》んでいつものように軽くひねり、手前へ引いた。  が、ドアは動かない。  邦彦は一瞬ドキリとして、急いでチャイムの釦《ボタン》を押した。チャイムは確実に作動して、家の中で鳴っている。  邦彦は苦笑した。以前は夫が妻のいる家へ帰るのに、いちいち鍵《かぎ》など使うのはおかしいと言って、邦彦の帰宅時間にはいつも錠《じよう》をかけずにいたのだが、久彦が生まれる少し前から、さすがに瑤子も用心深くなって、錠をかけることになっていたのだ。  苦笑を泛《うか》べた邦彦の前へ、ドアがあいて瑤子の顔が現われた。 「パパ、お帰りなちゃい。お帰りなちゃい」  小さな小さな赤ん坊の手が、邦彦に向けて振られていた。もちろん瑤子がそう動かしているのだ。 「お、機嫌《きげん》がいいらしいな」  邦彦は中腰になり、久彦の頬《ほお》にそっと人差指をあてた。 「聖子さんが見えたのよ」 「そうかい」  子を抱いた妻が先に家の中へ入り、夫がドアの錠をかけてからそれに続いた。 「すき焼か……」  邦彦は鞄《かばん》を置きながら鼻をうごめかした。 「ええ。聖子さんに付合っちゃったの」 「新沢の家も今夜はすき焼か」 「そう」 「今度の日曜には、奴の家へ行って見るかな」 「お邪魔よ、きっと」 「どうしてだ」 「また個展をなさるんですって」 「またか、よくやるなあ。まあ、それじゃ訪ねるのはやめとこう。あいつが絵を描きはじめると、気難しくてかなわないからな」  瑤子は笑った。 「聖子さん、追い出されたなんて言ってたわ」 「そうだろう。時々そばに誰もいないほうがよくなるらしいんだよ」  邦彦はソファーに体を沈めて夕刊をひろげた。それを待っていたように瑤子がお茶を運んで来た。お茶を飲みながら夕刊を読みおえると着がえである。そして夕食がはじまる。  いつもきまりきっていたが、それでいてどこかしら毎日少し違っている。  入浴、テレビ、ベッド……。邦彦がいまいる場所には不安の影さえなく、暖かで優《やさ》しい適度なあかりがあるのだ。 「今度の日曜日、おひまなの……」  久彦をサークルに入れた瑤子が、キッチンへ入って甘えたような声で言った。 「ああ」  邦彦は夕刊のページを繰りながら答える。 「どこかへ行きましょうか」 「いいな。動物園へでも行くか」  瑤子の笑う声が返る。 「久彦はまだ判らないわよ」 「そうかな」 「そうよ。それより、あなたの会社を見せていただきたいわ」  今度は邦彦が笑う。 「おいおい、あなたの会社はないだろう」 「あら、どうして……」 「俺たちの会社なんだぜ、専務さん」  瑤子はキッチンから急いで出て来た。 「うそ……」  邦彦はニヤニヤしながら夕刊をテーブルの上に置くと、鞄を取りに立った。 「ほら」  鞄から書類を取り出して瑤子に示す。瑤子は濡《ぬ》れた手をエプロンで無意識に拭《ぬぐ》い、それを読んだ。 「この通り、会社は正式に発足したよ。でもまだ規模が小さいし、俺一人の会社みたいなもんだからな。三戸田さんに相談したら、君を重役にして置けと言われてこうなったのさ」 「私が専務取締役……」  瑤子は唖然《あぜん》として邦彦をみつめた。 「ごらんの通りさ。但《ただ》し給料は当分やれないぞ」 「知らないわよ。私なんか専務にしたら潰《つぶ》れちゃうから」 「大丈夫さ。社長がしっかりしている」  邦彦は笑い、瑤子もつりこまれて笑った。 「前途洋々ね」  瑤子はキッチンへ戻った。     5 「ねえ」  夕食のあと、瑤子は真顔になって邦彦に言った。 「何だい」 「さっき、帰っていらしたとき、何か変だったわよ」 「帰って来たとき……」  邦彦は少し考え、すぐに、 「ああ」  と笑った。 「判ったか」 「ええ。変な顔をなさってたわ」 「ギョッとしたのさ」 「なんで……」 「君がドアの錠をかけるようになっていたことを、一瞬忘れたのさ。ノブに手をかけても動かないじゃないか。それで思い出してしまったんだ」 「思い出したって、何をですの」 「もう随分昔の出来事のような気がするよ」  邦彦はしんみりした声で言う。 「いつものように帰って来たんだ。ノブをまわすとすぐドアがあいて、あの玉のれんの音が鳴り、君が出て来るものだと思い込んでいたよ」  瑤子はじっと夫の目をみつめている。 「それが、あの時はあかなかった。チャイムを押したが君は答えなかった。それでポケットから鍵を出してドアをあけた。風呂《ふろ》に入っているのかと思ったよ。だって家の中の灯りはみないつも通りについていたからな」  瑤子は夫の目をみつめたまま頷く。 「コートを着たままこの部屋へ入って君を呼んだ」  邦彦はあの夜の自分の動きを追うように、視線を移して行った。 「最後にはトイレまでのぞいた」  瑤子の目に涙がたまりはじめていた。 「俺《おれ》は急いでそこのカーテンをあけ、庭を見た」  邦彦は瑤子の肩を抱き寄せた。瑤子は夫の胸に顔を埋めて静かに泣いた。 「君のいない家は、変に寒かったよ。両方の腋《わき》の下が寒気《そうけ》だって来るんだ。恐ろしかった。本当にあの時は怕《こわ》かったんだぞ」 「ごめんなさい」 「あやまることはないさ」  邦彦はしばらく瑤子を抱いていたが、やがて微笑して瑤子の額を小突いた。 「専務が社長に甘えてやがる」  瑤子が泣き笑いになる。 「変よ、やっぱり。あたしが専務だなんて、人に聞かれたら恥ずかしいわ。それに、この専務さんはいつでも社長に甘えますからね」 「いいさ」  邦彦は瑤子の体を放し、駅前の書店で買って来た建築雑誌を開いた。 「見ろよ、これを」 「なあに……」 「久彦はすぐに大きくなる。今から増築のプランを練っておかないとな」 「勉強部屋……」 「そうさ。一人にひとつずつ部屋が欲しい。久彦だけでなく、下の子たちにもだぞ」  瑤子は目を丸くした。 「下の子たち、ですって」 「そうさ。下の子たちさ」 「だってまだ……」 「いずれ生まれるさ。君は例のテレパシーが遺伝することを気にしてるようだが、俺は何とも思っていないぞ。いずれそのうち時代が変り、考え方も変るだろう。ああいう超能力に恵まれた子供たちが、魔女狩りめいた迫害を受けるとは限らないさ。むしろ、貴重な人材として社会の役に立つようになるだろうよ」 「そうだといいわね」 「そうなるさ。心配要らないよ」  邦彦は雑誌を瑤子に渡すと、立ちあがって玄関へ向かった。 「あら、どこへいらっしゃるの……」 「いや、どこへも行くもんか。ただちょっと庭へ出て、外からこの家を眺《なが》め直したいんだよ。二階だてにするわけだからな。おとなりの日照権を奪ってもいけないし」  邦彦はサンダルを突っかけて外へ出た。  庭へ出ると、邦彦はまたあの夜のことを思い出した。意地になって徹底的に庭を調べまわったのである。隣家との境いの、低い竹垣《たけがき》に人が乗り越えたあとでもついていはしないかと、隅《すみ》から隅まで丹念に調べてまわったのだった。  空にされた苔《こけ》の鉢《はち》をみつけたのはその時だった。 「また苔を育てないといかんな」  邦彦はニヤニヤしながら呟《つぶや》いていた。久彦が超能力を発揮しはじめたら、その苔が光るだろう。 「たのしみだな」  邦彦の微笑はいっそう大きくなった。  屋根のシルエットをもっとよく見ようと、門扉をあけて外の道へ出た。  カーテンの中に瑤子の動く影があった。  どの家の窓にも明るい灯がともっている。みな暖かそうな、優しいあかりであった。  瑤子がカーテンをずらせて、外にいる邦彦を見ようとしているのが判った。  窓のガラスごしに見える瑤子の顔は、平和な家庭の窓あかりのようであった。 角川文庫『魔女伝説』昭和56年3月20日初版発行           昭和57年4月10日4版発行