半村 良 闇の中の黄金 目 次  第一章 市 街  第二章 荷 物  第三章 参 加  第四章 死 体  第五章 午 後  第六章 録 音  第七章 質 問  第八章 発 見  第九章 苦 悩  第一章 市 街     1  その男が何の前触れもなく久しぶりに目の前に現われたとき、津野田《つのだ》の頭の中に一瞬白く光るものが走ったようであった。 「よう」  三年。その男と別れてからもう三年たっていた。  津野田は古びた木のドアをあけて立っている相手の姿を何秒間か無表情でみつめていた。そして、自分の放心状態に気付くと、椅子《いす》に坐《すわ》ったまま僅《わず》かに顎《あご》を引いて挨拶《あいさつ》を返し、持っていたボールペンをなかば無意識に机の上のペン立てへ放り込んだ。高さ一〇センチ、直径六センチほどの黒いペン立てだが、実は安物ながら一応|織部《おりべ》の抹茶茶碗《まつちやぢやわん》なのである。  津野田は相手をみつめたまま煙草《たばこ》を咥《くわ》え、古ぼけたライターで火をつけてから言った。 「驚いたな。どういう風が吹いているんだ」  相手は苦笑して見せた。  その小さな薄暗い部屋には木の机が四つ置いてあった。ドアから一番遠い所に、窓を背にしていま津野田がいる机と、その前に向き合ってくっつけた机がふたつ、もうひとつはドアを背にする形で四つひとかたまりになっていた。  ドアを背にした机は書類置場のようなもので、人がその椅子に坐れば向かい合っている津野田の顔も見えないはずであった。  その男と津野田の顔を見くらべるようにしてから、松本《まつもと》という青年が椅子から立ちあがり、 「そちらへ……」 と自分の向かい側にあいている机を、どことなくぎごちない態度で示した。加藤《かとう》という男が使っている机で、加藤は外出中であった。  水曜日の午後二時近くである。津野田も松本もまだ昼食をしていなかった。一応有限会社の形にはしてあるが、部屋はその小部屋ひとつ、社員は津野田と松本と加藤の三人だけだ。 「紹介しよう」  その男が空いた椅子に坐ろうとするのを見ながら津野田は松本に言った。 「白日書房の宗像《むなかた》編集長だ」  松本は自分の真正面にまわった客の顔をちらりと眺《なが》め、 「はあ……」  と要領を得ない答えかたをしたが、すぐ顔を紅潮させてうつむき、二百字詰の原稿用紙の位置を直してからまたボールペンを動かしはじめた。 「忙しそうだな」  椅子に腰をおろした宗像は、両肱《りようひじ》を机の上につき、体をやや前に傾けて言った。そうやって軽く浮かせた両手のあいだに鉛筆を一本持たせれば、津野田が以前毎日見ていた形になるのだ。 「これは松本と言って、俺の相棒の一人だ。一流誌の編集長に会って興奮している。純情なもんだろう」  津野田はそう言ってから、自分の声に自嘲《じちよう》の響きが混ったのを舌打ちしたいように感じた。 「用事があって来た」  宗像は津野田の目を見て言い、すぐ視線を自分の左手の拇指《おやゆび》の爪《つめ》のあたりへ移した。言いにくいことを言うときのそういう癖も昔通りであった。 「そうだろう。でなければ君がこんなところへ来るわけがない」 「外へ出られんか」  津野田はちらりと松本を見てから答えた。 「そうするか」  津野田が立ちあがると同時に宗像も腰を浮かせた。板張りの床に椅子の音が重なって響いた。  古いビルであった。どの部屋も床は板張りで床油の匂《にお》いが強く漂っていた。廊下はところどころが欠け、窪《くぼ》んだコンクリートの床で、柱の太さも壁の厚さもたっぷりとしており、天井も最近の建物にくらべるとずっと高い。  津野田の〈東京PR企画〉はその古ぼけたビルの三階の北側の隅にあり、二人は靴《くつ》の音を響かせて階段をおりて行った。地上四階地下一階。エレベーターはなかった。  正面玄関の重いドアを押して国電|神田《かんだ》駅へ通じる道へ出るとき、強いアンモニアの匂いを嗅《か》がされた。地階に青写真屋が入っているせいだ。  津野田は国電のガードのほうへ歩いた。 「それにしても古いビルだな」  宗像が言った。 「戦前の建物だ。二流の繊維会社の本社だったそうだ」 「そろそろ取り毀《こわ》して新しいビルになりそうな気配がする」  宗像がそう言うと津野田は軽く笑った。誰が見てもそう感じるのだ。だから一年中そのビルに関しては取り毀しの噂《うわさ》が立っている。しかし、実際にはいっこうにそんな動きは起らないのであった。     2  喫茶店のテーブルに向き合って、注文したコーヒーが来るまで、二人は何も喋《しやべ》らなかった。その席は二階の窓際で、窓ガラス一面に何色もの色を使った絵が描いてあったが、それがどんな絵柄であるかは、屋内からはよく判らなかった。その絵は外の道路と、窓の正面に見える国電の駅のホームに向けて描かれているのであった。絵の裏側の重なり合った塗料のすきまから、ホームで電車を待つ人々の姿が見えている。  コーヒーが来て最初のひと口を飲んだあと、津野田は手にしたカップの中の焦茶《こげちや》色をみつめたまま言った。 「用件を伺おうか」  すると宗像はカップを受け皿に戻し、スプーンの位置を直してから、率直な様子で言った。 「来るまでに、話の切り出しかたはいろいろ考えてみた。だが、君の顔を見たとたんに気が変ったよ。やはりざっくばらんに行こう」 「俺《おれ》もそのほうがいい」 「俺は自分で来たくて来たのではない」 「そうだろうな」 「君に会わねばならない状態になった」  津野田は顔をあげて宗像と目を合わせた。 「仕事を手伝って欲しい」  津野田は眉《まゆ》を寄せた。それは意外な申出であった。 「なぜだ」  しばらく間を置いてから津野田は尋ねた。どんな仕事かと訊《き》くより、そのほうが重要であった。 「どんな形ででもいいから、今度の仕事で君を起用するように言われた。命令されたのだ」 「編集局長にか」 「いや」 「社長……」 「そうだ」 「おかしいな。東《あずま》社長は俺のことなどろくに憶《おぼ》えてはいないはずだが」 「ちゃんと憶えている」  津野田は自分の唇《くちびる》がつい歪《ゆが》んだのを意識して、さりげなくコーヒー・カップを口へ運んだ。 「それは光栄なことだ」  カップを置いてからそう言うと、宗像は煙草をとり出して火をつけた。 「この件については、俺もよく判《わか》っていない。実は、半年ほど前からそれとなく話が起きていたんだが、先月の編集会議で会社側の意向として正式に持ち出して来たんだ」 「企画をか」 「そうだ。うちの雑誌に限らず、よくあることだが」  宗像はちょっと険しい表情になった。それは津野田に向けられたものではないようであった。 「なぜ今頃になって俺を引っ張り出す」 「それがよく判らん」  宗像は本当に訝《いぶか》しげな表情で津野田を見た。三年の歳月がふと消え去って、机を並べていた頃の同僚の顔になっていた。 「君は断われなかったのか」  津野田が訊いた。さりげない言い方だったが、それは二人の古い傷に突きささる言葉であった。とたんに宗像の瞳《ひとみ》から昔の光が消えた。 「今更、頼みごとを持って君の前へ出ようなどとは思っていなかった」  津野田は頷《うなず》いてみせた。 「当然だな」  宗像の側に、万《ばん》やむをえぬ事情が発生しているのだ。それでなければのこのこと津野田の前へそんな依頼をしに現われるような男ではないのである。 「編集局長はまだ鈴木さんだろう」 「そうだ」  今度は宗像が頷いた。社長はとにかくとして、古い仲間なら誰でも津野田と宗像のこじれた関係を忘れてはいないはずだった。それでいてなお、宗像に津野田を訪ねさせたということは、余程の事情があるに違いなかった。 「まったく、妙な風が吹きはじめたものだ」  津野田はそうつぶやき、あらためて宗像を見た。日焼けした広い額、よく光る切れ長の目、幾分こけたように見える頬《ほお》。昔よりずっと貫禄がつき、肚《はら》も据《すわ》って来たように見受けられた。     3 「で、企画というのは……」  津野田はそう言って窓の外をちらりと眺めた。塗り重ねた色彩の間から、国電の駅へ電車が入って来るのが見えている。 「俺に言わせればなんとも間の抜けた話なのだが……」  宗像はちょっと言い渋り、 「邪馬台国《やまたいこく》さ」  と自嘲めいた薄笑いを泛《うか》べた。 「邪馬台国……」 「うちの雑誌でも、今までたびたびとりあげて来た。特集を組んだことも二度ある」  それは津野田も承知していた。退社したあとも、月刊誌〈白日〉は毎号目を通しているのである。 「邪馬台国をどうするのだ」 「当分の間、毎号連続して取りあげて行こうというのさ。あらゆる角度から徹底的に斬《き》り込んで行って、今の邪馬台国ブームにひとつの結着をつけてやろうというわけだ」  津野田は軽く笑った。 「ちょっと手遅れのようだがな」 「俺もそんな気がするが、営業のほうは大乗気だ。さすがは社長、とかなんとか褒《ほ》めあげている。もっとも、邪馬台国ブームがおわりかけているという観測ではみな一致している。そのしめくくりをやって、層の一番拡大したところをいただいてしまおうというのだ。考え方によっては、ひとつの先手をとることにはなる。君は今のブームに火をつけた人間の一人だし、そういう意味では社長が君の起用を命令することも判らんではない」 「編集の現場を去った今、出版界の邪馬台国ブームを見ると、あれは俺たちがやったんだという誇りのようなものがうずかんではない。でももう先が見えた。近頃は電車の中などでよく中学生や高校生が議論しているよ。ここまで浸透すればもう言うことはない。何を今更という感じだな」  宗像はしばらく黙っていた。津野田のそういう出方は充分に予想して来たはずであった。 「引っ張り出しに来る以上、俺なりに手は打って来た」 「手……」 「社長がなぜ君の起用に固執《こしつ》するかということが判らなくては話にならんからな」 「ほう」 「多分、この件は宝田五重郎《たからだごじゆうろう》から出ていると思う」 「宝田さんが」 「はっきりとは判《わか》らんが、多分そうに違いない。知っての通り、社長は宝田氏には頭があがらない。ひょっとすると、また新しい事業のことか何かで宝田氏のところへ通っているのかも知れん」 「宝田さんか……」  津野田は考え込んだ。宝田五重郎なら多分宗像より津野田のほうがずっと詳しく知っているはずであった。 「だが、よく判らんのは……いや、さっぱり判らんのは、なぜ宝田氏がうちの雑誌に邪馬台国問題を突っ込ませたがるのかということだ。あの人は金融業者だ……いや、そればかりではないが、とにかく要するに商人だ。今まで邪馬台国のようなことに興味を持っていたなどということは噂にも聞いていないしな」  津野田は冷めかけたコーヒーを飲みほした。コーヒーは苦かった。そして底に砂糖がたまっていた。 「選《よ》りに選って、嫌《いや》な話を持ち込んで来やがったな」  津野田はつぶやくように言った。宗像は黙って煙草をふかした。 「その後、脚の具合はどうだ」  宗像は文字通り古傷に触れて来た。津野田は今でも右足を引きずるようにして歩くことが多い。季節の変り目や天候の変り目には、右の膝《ひざ》のあたりが痺《しび》れるのである。 「痛みは殆《ほと》んど感じない」  津野田はそう答えた。  秋子《あきこ》を奪ったのは同僚の宗像であった。月刊誌〈白日〉の副編集長であった津野田は、当然のように生活が荒れ、飲み歩いた。そして秋子よりずっと若い女にめぐり会い、愛を告げられた。  伸子《のぶこ》は積極的だった。贅沢《ぜいたく》な暮しをしていた。我儘娘《わがままむすめ》だった。宝田五重郎の孫娘だったのである。  伸子は或る夜、酔った津野田を同乗させ、スポーツカーで夜道を飛ばした。男を乗せて長い髪を風になびかせ、派手なスポーツカーで飛ばす伸子に、トラックの運転手が関心を持った。トラックは伸子の車にしつっこくからみ、そして衝突した。伸子はコンクリートの道で死んだ。津野田は入院し、そのまま白日書房を去った。殆んど同時に編集長が重役の一角に加わり、宗像がその椅子へとびあがった。     4  宗像が敢《あえ》て仕事の話をたずさえて会いに来た訳が判った。たしかに宗像も立場上やむを得なかったのだろうが、その話は津野田としても断わるわけには行かないのである。  白日書房をやめたあと、〈東京PR企画〉というオフィスを持って、ほそぼそと暮しはじめた津野田に、大企業のPR誌の仕事がまわってきたのは、どうやら宝田五重郎のおかげらしいのであった。津野田はかなりあとになってそのことに気付いたが、あらためて挨拶に出向くほど表立った動きではなかったので、今日までそのままになっていた。  恐らく、宗像は津野田に会う前に、その辺のことをいろいろと調べたに違いなかった。津野田がこの件を断われないと判ったのでやって来たに違いないのだ。  狡《ずる》いのではない。万事に慎重な男なのだ。宝田五重郎のことがなければ、多分別な方法で津野田を断われなくして置いてからやって来たに違いない。彼にとって、これは仕事なのだ。そういう慎重な男が、一度だけ無計算で突っ走った。その情熱に秋子が応《こた》えたのである。 「ひとつだけ言って置きたい」  宗像は無表情に言った。 「あのとき俺は会社をやめる気だった」 「判っている」  津野田も無表情に相手を見返して答えた。三年たって、秋子のことについてはそれでおしまいになった。  今ではもう数えるのさえ鬱陶《うつとう》しい苦い夜が、急に津野田の胸に蘇《よみがえ》って来たようである。  言う通り、津野田がその苦い夜を噛《か》み潰《つぶ》し、冷静な昼の顔を続けていれば、当然去って行くのは宗像であったろう。津野田秋子と言う女を宗像の姓に変えるためには、それしか方法がなかったはずである。  伸子の事故死が起ったのは、だからその寸前ということになるのだろう。津野田の入院によって事情が変り、退社によって宗像が辞める必要はなくなってしまった。二人とも、雑誌〈白日〉の創刊当初からの編集者で、自分たちの雑誌に対する愛着は、今もって津野田が毎号欠かさずに目を通していることでも知れよう。  つまり、津野田のほうが弱かったと言う結論にならざるを得ない。津野田は妻と仕事の両方に対する権利を一度に放棄したことになる。  ただ今日の飯を食うだけのためにはじめた、アドマンともジャーナリストともつかない立場の仕事が一応軌道に乗り、なんとか新しい人生に目を向けることができたのは、ひとえに宝田五重郎のおかげなのであった。  宗像と別れたあと、津野田はぼんやりと古いビルの中へ戻《もど》って行った。 「白日の宗像さんが来たんだそうですね」  部屋へ入ると、外出から帰っていた加藤が勢い込んでそう言った。松本はまだ大学を出たばかりだが、加藤はもうかなりのベテランと言える。 「知っているのか」 「そりゃね」  加藤はあいまいに濁した。宗像と津野田の関係を聞いているのだろう。 「面白い仕事が来た」 「ほう、仕事の話だったんですか」 「レギュラーの仕事のほうは、外注のスタッフで何とかやって行けるはずだな」 「全面的にと言うわけには行かないでしょうが、もうみんな慣れましたし、次は六月号ですからね。今年一杯は既定方針どおりやって行けばいいんですから」  加藤は何かを期待して瞳を輝かしていた。 「遊軍的な扱いで、当分白日の取材の一部をまかされることになった」 「ほらみろ」  加藤は松本を見て笑った。 「編集長が入れ広《こう》の相談に来るわけがないじゃないか」  加藤はうれしそうだった。同人誌に身を入れすぎて、とうとうPR誌の編集などで暮すようになった男だが、かなりの夢想家で、いまだにどこかの文芸誌の編集にもぐり込めないかと狙《ねら》っているのだ。 「僕ら、白日の編集を手伝うんですか」  松本は信じられないと言う顔をしていた。 「テーマは邪馬台国」  津野田はそう言って椅子に腰をおろした。かすかに脚が痺れるように思った。 「また雨かな」  そう言って窓の外を見たが、そこにはとなりのビルの白い壁があるだけであった。     5  そのビルは、戦後すぐまで二流の繊維会社の本社だったらしいが、その会社はもうとうになくなって、今では地下一階から四階まで、雑多な職種の会社が入っている。  地下は青写真屋のほかにタイプ印刷屋と写植屋が入っている。津野田にとっては都合のいいことで、この古いビルにオフィスを借りることにしたのも、タイプ印刷と写植が同じ屋根の下にあるからであった。  一階は小さなダイカストのメーカーで、二階は法律事務所と興信所のオフィスに使われている。どちらも小見《おみ》という老弁護士がやっていて、いつとはなし、津野田はその小見老人と親しい間柄になっていた。  三階は〈東京PR企画〉のほかに、内装工事専門の会社と、ビル清掃会社のオフィス。そして四階は平岡プラスチック工業という会社が占領している。  その夕方、津野田は急に思いついて二階の法律事務所を訪ねて見た。折よく小見老人がいて笑顔で迎えられた。 「待っていたんだぞ」  小見は古ぼけた大きなデスクの向う側から立ちあがると、痩《や》せた体をゆっくりと動かして、窓際にある白いカバーをかけたソファーへ移った。  その前のテーブルに碁盤がのせてある。 「今月は二勝三敗だったな」  津野田とは丁度《ちようど》いい腕前で、まず絶好の碁仇《ごがたき》と言えた。 「別な用で来たんですが、そこへ坐られては黙って帰るわけには行きませんね」  津野田も白いカバーをかけたソファーに腰をおろし、白石《しろいし》を取った。  パチリ、と小見が石を盤へおろす。 「別な用というと何かな」  津野田も打ちながら言う。 「宝田五重郎氏のことなんですが」  パチリ。 「ほう。大物だな、そいつは」  パチリ。 「特に歴史に関心がある人なんでしょうか」 「このところいつも同じ布石だな。それでひねられていては沽券《こけん》にかかわる」 「日本史です」 「日本史か……」 「ご存知ありませんか」 「金は腐るほど持っている男だ。そういう男はとかく古いものを集めたがるな」 「書画|骨董《こつとう》のたぐいのことじゃありません」 「ほう。すると何かな」  好きだが大した腕とは言えない。パチリ、パチリという音が早いテンポでその法律事務所の中に響いている。 「古代史。考古学」 「こりゃ考えどころだぞ」  小見の石を打つ手がとまった。中年の女がお茶を運んで来てくれた。 「どういうことかね」  小見は急に顔をあげた。 「知りたいんです」 「仕事でかね」 「プライベートなことと半々です」 「ほう、君はあんな男とつながりがあったのか」 「妙なことで、ちょっと」 「あれは怪人物だな。経済誌にはよく書いてある。現代の怪物……そうそう、先月の雑誌にそんなのが何人か並べてあったな」 「何という雑誌ですか」 「まだそこらに置いてあるだろう。あとで探して持って行くといい」  パチリ。 「歴史のことについてなんですが」  パチリ。 「儂《わし》も歴史は嫌いなほうではない。そう言えば、あの男も似たような年のはずだし……違うのは持っている金の桁《けた》だけだ」  小見はそう言って笑った。 「すると、宝田氏に関してはそういう噂はないのですね」 「さあ、どうかな。いったい、歴史と言ってもどの辺りのことなんだ」 「邪馬台国などです」 「ほ……それはまた遠い昔のことだな」 「宝田氏がどうやら邪馬台国に関心を持っているようなのですが、もしそうだとしたら、いったいどういうことなのかお判りになりますか」 「邪馬台国ねえ……」  小見は考え込んだが、それが津野田の質問に答えるためなのか、次の一着についてなのか、よく判らなかった。     6  勝負は小見老人の勝利で終った。 「今日は気が入っておらんようだったな」  小見はそれでも満足そうに打ち終った盤面を眺めていた。 「これで三勝三敗になったわけだ」  二人は石を拾いはじめた。 「宝田五重郎などという人物に、君のような男が近づくのは感心せんな」 「そうですか」 「朱に交われば赤くなるということわざがある」 「それほどの気はありませんよ」 「ではなぜあんな男のことを知りたがる。以前君はジャーナリストだったそうだな」 「ええ」 「そういう立場での仕事なら、いくらか知っていることを教えもしようが、プライベートだというのは気になるぞ」 「困ったな」  津野田は当惑して老人をみつめた。小見に好かれていることは判っていた。それだけに事情を説明しておかねばならない気がしたのである。 「怪物だという噂は聞いています。幾つもの会社を乗っ取った前歴がありますし、疑獄事件にからんだことも知っています。しかし、そういう人物でも時には或る特定の個人に対して、無償の行為をすることがあるでしょう」 「それはあるだろうが……まああの男に限っては考えられんな」 「実は、僕が彼のおかげを蒙《こうむ》った一人なのです」  小見には、津野田にとって妙に心魅《こころひ》かれるところがあった。そう頼もしいようにも見えないが、何か包み隠さずに喋ってしまいたいような気分にさせられるのである。  古い傷が口をあけていた。うずいていた。そしてそれを語る友を持ちたかった。老人だが、小見はそのとき恰好《かつこう》の相手であった。 「この傷を見てください」  津野田はズボンの裾《すそ》をまくりあげて膝の辺りまでむき出しにした。 「ときどきびっこを引いていると思ったが、こりゃ酷《ひど》い傷だな。どうした」 「宝田伸子という若い女が、この傷を受けたとき死んでしまったのです」 「宝田……」 「五重郎氏の孫娘です」 「なんでまた……」 「車に乗っていてやられたんです」 「交通事故か。君が運転していたのか」 「いいえ。僕は酔っ払ってとなりのシートにいたんです」 「その娘が運転を誤ったのか」 「トラックにからまれましてね。その女性も気が強かったものですから、抜き返したりしていてとうとう」 「君はそれをなぜとめてやらなかった」 「酔って睡《ねむ》っていたんです。素面《しらふ》でいたらもっと酷くやられたかも知れないそうです。でも何しろベロベロでしたから、体もグニャグニャしていて、それで助かったと医者が言っていました」 「すると、君には責任がなかったわけか」 「あったと思います。彼女の前でそんなに酔わなければ、伸子も車に乗せて突っ走ったりしようとは思わなかったでしょうし」 「こみ入っているようだな。ひとつ、身の上ばなしを聞いてみるか」  小見は興味を抱いたようであった。  津野田は喋りはじめ、喋りはじめると次々に当時のことが目の前に蘇《よみがえ》って来るようであった。  津野田は伸子に対してそう優しくはなかった。積極的に近寄って来る伸子を、時にはうとましくさえ思った。  それでいて、実は甘えていたようである。津野田が妻のことで深く傷ついているのを知ってからは、伸子はどんなことでも寛大にゆるしてくれた。正体もなく酔って見せても、それを介抱することが自分の愛の証《あか》しだとでも言うように、夢中になってかばってくれた。年上の津野田に対し、伸子は母性的な愛情を注《そそ》いでいたようであった。  最後の夜、なぜ伸子が酔った津野田を乗せて夜の道を突っ走ったか、いまだによく判らない。病院で意識をとり戻した津野田に、その間のこまかな記憶がないのであった。  ただ、伸子が繰り返し叫んでいたことだけは朧気《おぼろげ》に憶えていた。 「さめて……さめて……」  伸子はそう叫び続けていたようである。そしてその叫びは、たしかに疾走する車の中だった。 「醒《さ》めて……」  酒の酔いを醒ませと叫んでいたらしいが、果してたしかにそうなのかどうか、確信はなかった。  迷いから醒めよと叫んでいたのかも知れないし、秋子への愛を冷まして自分に向けよと言っていたのかも知れなかった。     7  小見は一度席を立ち、自分の大きなデスクへ行って部厚い住所録のようなものを調べると、また碁盤を置いたテーブルの前へ戻った。 「儂と同じような年輩だと言ったが、あれは間違いだった」 「そうでしょう。僕は小見さんの年齢を存じあげないし、宝田五重郎という人にも直接会ったことはありませんが、小見さんのほうがずっとお若いはずですよ」  津野田は微笑して言った。 「儂は何度も会っているのでな。それでかえって間違えてしまったのだろう。まったくあれは怪物だな。恐ろしく若く見える」 「幾つなんです」 「今、ちょっとあの本に当たって見たら、なんと君、明治二十一年生まれじゃないか」 「すると……」  津野田は満年齢を計算しはじめたが、明治二十一年というのが古すぎて、彼が簡単に年齢を算出できる世代をはるかに越えてしまっていた。 「八十七のはずだよ」  さすがに小見はその年代に慣れていて、戸惑ったような津野田の表情を愉《たの》しむように眺めながら教えた。 「八十七ですか」  津野田はなんということなしに溜息《ためいき》をついた。 「儂は三十六年生まれだ」 「すると……」  津野田は計算しようとしてやめ、苦笑して見せる。 「七十二歳」  小見はそう言い、声をあげて笑った。 「七十二……ですか。小見さんだって相当にお若いですよ」 「そうだろう。これでも人よりはずっと若々しいつもりでいるのさ。心身共にな。しかし宝田にはかなわんな。どう見ても十《とお》は若く見える」  その辺の年齢感は津野田には遠すぎてまるで判らなかった。 「そうですか」 「あの男の前歴はよく判らない。ことに青年時代のことは恐らく今では誰にも判らんのじゃないかな。とにかく、かすかに知られていることは、一時|児島《こじま》金属に籍があったということだけだ」 「児島金属……」 「知らんのか」 「いえ、少しは知っています。児島金属というと、例の金の業者の……」 「そうだ。日本金市場の最大手だ。戦前から日本の金市場に君臨して来ている。ただ、児島金属に籍があったと言っても、ただの使用人だったかどうか、はっきりしない。何しろ児島金属というのは、言って見れば他人の金庫の中のようなものでな。こういう世の中になっても、依然として外部の者にその内情が洩《も》れることは滅多にない。極端な秘密主義を守り通して来ている。スイスの銀行などと似たところがあるのさ。君らは憶えておるまいが、昔は銀行というと役所よりも冷たい感じで、しかもとりすましていた。今はどの銀行も窓口はカウンターで、その上に特別な柵《さく》などないが、昔は厳重な格子《こうし》で仕切ってあったものだ。その格子がとり外《はず》されたのは戦後のことなんだぞ。児島金属は黄金取引の最大手として、今でもそんな昔の雰囲気《ふんいき》を変えていない」 「すると、宝田氏は金市場で今日の財力の基盤を作ったわけですか」 「いや。あの男は金市場などという生ぬるい場所で満足できる人間ではなかったようだ。いつのことかよく判らんが、とにかくいつのまにか児島金属から離れてしまい、戦後はまず闇物資《やみぶつし》、そして少し世の中が落着いて来ると株式市場で暴れまわった。だからあの男には幾つもの顔があって、そのどれかひとつで人物像をとらえようとしても駄目なのだ。宝田五重郎は総会屋の大立者でもあるし、乗っ取りの専門家でもある。勿論《もちろん》、世間には金融業者として知られているが、そのほかにも古美術商の側面を持っているし、政界にもかなり首を突っ込んでいる」 「僕も或る程度のことは知っているのです。以前編集者でしたからね。かなり追いかけて見たことはあるんです……。しかし、まず会えない人物ですね」 「うん」  小見は頷いた。 「その点はやはり児島金属的だな。決して手のうちを見せない。自分に関する情報を外へ出さないことが、勝負に勝つ第一の条件だと思っているらしい」 「僕が知りたいのは、まず本当に冷酷な人間なのかどうかということです」  津野田は慎重な様子でそう言った。     8  小見老人は結局大した情報を津野田にもたらしはしなかった。小見が教えてくれたことくらいなら、津野田もとうに知っていた。あの事故が起った当時、津野田は宝田五重郎という人物について取材してまわっていたのである。宝田伸子と知り合ったのも、その取材の過程であった。  だが、小見を訪れたことはそう無駄でもないようだった。少なくとも小見には、本格的に宝田に接近し得るルートが幾つかあるようだった。現に小見は別れぎわ、津野田にこんなことを言った。 「そういうことなら、宝田について少し訊きまわってやるよ。何人か彼をよく知っている人物がいるからな。しかし、とにかく危険な男だから充分警戒してかかりなさい。危険な男だというのは、敵にまわして、という意味だけではないぞ。儂が心配するのはむしろその逆のことだ。仮りにあれ程の男が君の味方についたとしよう。君は一度棄てたジャーナリストの夢をまた取り戻すこともできる。白日などという雑誌にまけんくらいの雑誌をあらたに出すことだって不可能ではない。ああいう男の武器のひとつに、マスコミの操作ということがある。ジャーナリストたちが時の首相を退陣に追い込むことだってできたではないか。それは君にとって大きな誘惑になるだろう。君は敢《あえ》てその餌《えさ》にとびついて行くかも知れん。君は檜舞台《ひのきぶたい》を与えられ、君の踊りを踊り、喝采《かつさい》を浴び、そして腐る。判るかな、儂の言っていることが」 「ええ」  津野田は素直に小見の忠告に耳を傾けていた。 「完全な復帰ではなかろうが、君はいま昔の職場に呼び戻されている。しかもその背後には宝田五重郎が動いているらしいという。君はそういう形でなくとも、今にきっと自分の力で自分の舞台を持てる男だと儂は見ている。だから心配なのだ。できれば宝田の匂いがする所へなど君を追いやりたくはない。しかし、それも君の人生だとすれば、この行きずりの老人がとやかく言って引きとめることもできんだろう。しかし、ひとつだけ言って置くぞ。万一、宝田五重郎と対決するようなことになった場合、君の勝ち目はただひとつしかない。それは時間だ。宝田がどんなに強かろうと、財力があろうと、人生の残り時間についてはまったく君のほうが優位にある。宝田の罠《わな》にはまったら、決してジタバタせんことだ。あの男は必ず君より先に死ぬ。明治二十一年生まれだからな」  津野田はその時、小見という老人をはじめて恐ろしいと思った。やはりここにもたたかい抜いて来た男がいると思った。  小見と別れ、一旦《いつたん》部屋へ戻った津野田は、松本と加藤を残してひと足先に表へ出た。三年間、何かを噛み殺し続けていたその狭苦しい部屋にいる気分ではなかった。新しい局面が拓《ひら》けたのである。三年の時があれば、傷が癒《い》えようが癒えまいが、もうそんなことは問題にならないはずであった。  暮れかかった市街の上の空はどんよりと曇っていた。歩きはじめると右脚に痺れを感じた。だが決して重くは感じなかった。 「行こう」  神田駅へ向かう退社の人波とは逆に、駅を背にして当てもなく歩きはじめながら、津野田は自分自身に対してそうつぶやいていた。  多分それは最前線へ向かう兵士の気分に似ているのだろう。前方には、確実にたたかいが待っていた。そして、引き返すよりは、そのたたかいの中に身を投ずるほうが、今となっては余程気が安まるような気分なのであった。  ——金こそ永遠不変の財産です——  駅からちょっと離れた場所に、そんなキャッチ・フレーズのついたポスターを貼《は》った小さな店舗があった。閉店したと見え、内部の灯《あか》りは消えていたが、津野田はその前に立ちどまってポスターを眺めた。ドアのガラスの奥の暗がりに、宝田五重郎が坐っているような気がしてならなかった。  何かがある。  津野田の勘がしきりにそう喚《わめ》いていた。ことは雑誌の編集上の問題ではないはずであった。  邪馬台国。卑弥呼《ひみこ》。魏志倭人伝《ぎしわじんでん》。  そんな文字づらが次々に津野田の脳裡《のうり》をかすめていた。津野田は右脚を引きずって急ぎはじめた。何はともあれ、今すべきことは最近の邪馬台国論争に通じて置くことであると思ったからだ。  津野田は腕時計を眺め、書店の閉る時間にまだだいぶ間があることを確認した。邪馬台国に関する書物を、手当り次第に買い集めるつもりなのだ。  街はもうすっかり夜になっていた。     9  翌日の正午近く、津野田は飯田橋《いいだばし》にほど近い白日書房の本社へ姿を現わしていた。  三年ぶりでその正面玄関へ入るとき、やはり感慨が湧《わ》いた。〈東京PR企画〉のオフィスに選んだ神田のボロビルから、そう大した距離ではないのである。それなのに、この三年間、白日書房は津野田にとって遥《はる》か遠い世界の存在だったのである。それがいま、ひょっこりとこうしてやって来て見ると、何ひとつ変ってはいず、何の抵抗感もなくするりと心の中へ入り込んで来るのだった。拗《す》ね悶《もだ》えた三年間が嘘《うそ》のようであった。 「あれ……」  素《す》っ頓狂《とんきよう》な叫び声をあげて津野田をみつめた男がいた。 「やあ、元気か」  津野田の顔に、自分でも思いがけぬほど自然な笑《えみ》が泛《うか》んだ。 「どうしたの、津野田さん」  その男は、どうしたの、と尻上《しりあが》りに言い、相変らずゴタゴタと雑多なものを積みあげた正面玄関のまん中で、近付いて来た津野田の両肩に手をかけた。 「どこへ行ったのか、連絡ぐらいしてくれたっていいのに」  その男は、深々と津野田の瞳をのぞき込んで言い、声をつまらせた。 「済まなかったな」  津野田はそう言ってあたりを見まわした。 「あんまり変ってねえな」 「変りましたよ。津野田さんがいた当時とはまるっきり違っちゃった」 「そうでもなさそうだがな」  男は津野田の肩から手を放し、半歩さがってちょっと照れたような表情になった。 「で、体はもういいんですか」  津野田は視線をちらりと自分の脚へ落してから微笑した。 「びっこを引くようになっちまったよ」 「へえ」  男は気の毒そうに津野田の脚のあたりを眺め、急に気が付いたように言った。 「まだ三分の一くらいしか出て来ていませんが、呼んで来ます」  そう言うと階段を駆けあがりはじめた。 「いいよ。放っといてくれ」  昔の仲間に集られては、社内を掻《か》きまわすような具合になりかねなかった。しかし男は津野田の言葉を無視して上の階へ消えて行った。  津野田は受付へ行った。さいわい受付の女の子は知らない顔で、 「編集局長の鈴木さんを」  と言うと、青い電話を外しながら、 「お約束ですか」  と尋ねた。 「呼ばれたんだ」  そう答えると、愛想のいい笑顔を見せてダイアルをまわした。 「津野田と言えば判るはずだ」  そう言っているところへ、うしろから幾つか靴音が重なって近付いて来た。 「水臭えな、受付にいるよ」  さっきの男が呆《あき》れたように言った。 「ツノさん」  四、五人がひとかたまりになって受付の窓口を塞《ふさ》いだ。受付の女の子が目を丸くしていた。 「ボアへ行こう、ボアへ」  集った男たちがそう言った。ボアは近くの喫茶店の名である。昔から白日書房の編集部員の溜《たま》り場になっていた。 「待てよ。鈴木さんに会いに来たんだ」 「戻るんですか」  男たちはすでに今度の件を知っているらしく、期待のこもった目で津野田をみつめている。 「鈴木さんの話を聞いてからだ。まだ何が何だかさっぱり判らないのさ」 「戻ってくださいよ」 「そう簡単にも行かんさ」 「ツノさんとなら面白く仕事ができるのになあ」  津野田は感動していた。そして反省もした。退社に際し、たった今までこの仲間たちのことは何ひとつ考えなかったことに気づいたからである。  だが、宗像の存在がそれと比例して大きく意識に上って来た。いま、彼らの指導者は宗像なのだ。 「やあ、現われたな」  編集局長の鈴木が大声で言った。 「どうもご無沙汰しまして」  男たちが道をあけ、津野田は丁寧に頭をさげた。 「元気そうじゃないか。よかった、よかった」  鈴木はそう言い、 「こんなところではどうしようもない。ボアへ行こう」  と歩き出した。     10  ボアはすっかり様子が変っていた。去年の春に大改装をしたということであった。  だが、二人のウエイトレスとカウンターの中にいる男は同じ顔であった。 「おかえりなさい」  ウエイトレスが水の入ったグラスを置くときにそう言った。 「富岡さんたちに聞いたの。ツノさんが帰って来るらしいって」 「まだ決ったわけじゃないさ」  津野田は何か晴れがましいような空気が、自分のまわりで勝手に育って行くのに閉口しながらそう言った。 「おいおい、おどかすなよ」  鈴木が言った。 「戻ってくれなければこっちは困るんだ」  津野田は慎重に言葉を選んで言った。 「とにかく、一度辞めた人間ですからね。あらためて仕事をさせていただくにしても、以前どおりというわけではありませんし」  みんな黙っていた。生真面目な雰囲気であった。 「ま、それはそうだ」  鈴木がその沈黙を破った。 「たしかに、戻る戻ると言って騒ぐのは、ツノさんにとって迷惑かも知れないな」  鈴木は集った男たちに確認させるように言った。 「別に迷惑という程のことでもありませんよ」 「いや、俺たちはただ、昔の仲間の一人が、それも一番頼りにしていた男が帰って来ると言うので、単純にうれしがっているだけなんだよ。しかし、やはり事情は昔と違っている。君の協力を要請はしたが、正規の社員として迎え入れたいという話にはなっていないんだ。そこのところが微妙なわけさ」  津野田は鈴木と宗像が、あまりうまく行っていないらしいことに気付きはじめていた。もしそうなら、事態はいっそう複雑になるわけだった。 「きのう宗像が来てくれました」  津野田はみんなによく聞えるように、はっきりと喋った。 「三年たって、僕のほうも今度の話を客観的に聞けるだけのゆとりができたようです。社の申出には感謝しているんです。やはり雑誌の仕事はやりたいですからね。有難くお受けしようと思っているんです」  鈴木は深く頷いて見せた。 「編集長をやればいいのに」  誰かが言った。津野田はそのほうを見て、きっぱりと言った。 「それを言われると仕事に戻れん」  言った男は肩をすくめ、頭を掻いて見せた。 「それにしても、邪馬台国とはまたどういうことですか」  津野田は態度を柔らかくして鈴木に訊いた。 「何を今更、というところだろうな。君は昔から先乗り専門だった」 「そういうわけではありませんが、宗像に聞いた範囲でははっきりしなかったものですから。僕を呼び寄せてまでやろうというからには、何か特別な意図があるんでしょうね」 「それが……」  鈴木は口ごもった。 「俺も困っているんだ。君の言う通り、何か特別な意図を持たなければ、今あれをやるというのは余り意味のないことになる。ところが、その意図という奴《やつ》がどうもな」 「ほう……」  津野田は先を促すように鈴木をみつめた。 「ないのさ。いや、ないとはっきり言ってしまっては、こっちも立場がなくなるわけだが、宗像もそれで困っているのだろう。何しろ、上からの要請があっただけで、雑誌として何を狙うのかは、こっちに下駄を預けられている。君に早く来て欲しかったのもそこのところがあったからなんだ。邪馬台国をやれというオーダーと君を起用せよというのが、ワンセットになっているんだからな。これは君なら判るんじゃないかと思って」 「僕にだって判りませんよ、そんなこと」  津野田は笑って見せた。 「でも、うちがやる以上は」  津野田はそう言ってからふと口をつぐみ、昔の仲間の顔を見まわした。 「まあいいさ。うちだ。うちの雑誌と言わせてくれ」 「そんなことをいちいち」  当然すぎる、と言うように昔の仲間は笑った。 「うちがやる以上は、邪馬台国論争に結着をつけるくらいのつもりでやるべきだと思うな」 「結着をつけるというと……」 「いろいろな見解の総まくりという形では何の意味もない。それならどの雑誌でもできるし、単行本だってもうそれに近いものは本屋で売っている。結着というのは、どこだろうか、ここだろうか、という疑問の余地をなくしてしまうことさ。邪馬台国をみつけてしまうことさ。卑弥呼のいた場所をはっきりさせてしまうことしかないじゃないか」  うへえ……という嘆声があがった。 「それを俺達がやるわけか」 「そうだよ。……どうです、鈴木さん。会社がやれと言っているんです。倭人伝に関する論議もそろそろ出尽しているようじゃないですか。あとは疑わしい土地に膝をついて、匂いを嗅ぎまわるだけですよ。手で掘ってやるんです」 「そいつだ」  鈴木は気負いたって叫んだ。  第二章 荷 物     1  津野田は仕事の態勢を整えた。  PR誌の仕事は大して問題なかった。去年のうちに決定している年間の編集プランに従って進めて行けばいいのだし、それも既に軌道に乗ってしまっていた。従来の方式だと、問題が出た場合津野田が最終決定を下し、実際の仕事は加藤がとりしきって行く。松本はその補佐役であった。  それをひとつずつ格上げして、松本に現場をまかせ、加藤にチェックさせる。撮影や取材などは外部のスタッフにやらせており、それも現在の連中はもう二年も付き合っている仲だから、殆んどまかせっぱなしにしておいてもまず心配はなかった。それに松本もそろそろ一人だちさせていい頃合いであった。  加藤が白日書房の仕事にひどく興味を抱いているのも、津野田にとっては都合のいいことであった。加藤は充分筆も立つし、できれば白日の編集部にもぐり込みたいと思っている程だから、そちらの仕事を半分預けても不平を言うどころか大はりきりであった。  局長の鈴木のお声がかりで、白日書房の資料室の隅《すみ》にデスクがふたつ運び込まれ、加藤を連れた津野田が自由に使ってもいいことになった。何日か後には電話も一本取りつけてくれるそうであった。 「それにしても思い切ったことを言ったもんだな」  その遊軍のデスクへ顔を出して、宗像が苦笑していた。 「邪馬台国《やまたいこく》を発見しようだなんて……局長はまるでその気になってしまっているよ」 「気合の問題さ。部数を伸ばすたしになるだろう」 「そのかわり、下手をすれば笑いものだ」 「そうでもあるまい。だいたい、議論ばかりでスコップひとつ持たないんじゃ意味がなかろう。論者の中にはひどいのもいるらしいぜ。何しろ行ったこともない土地を邪馬台国に比定して平然としているくらいだそうじゃないか。中には魏志倭人伝《ぎしわじんでん》の書き下し文しか読まないで議論に参加して来たりするのもいるって言うぜ。俺《おれ》はそういうのは嫌《きら》いだ。伝聞だけで記事を書くようなもんだからな。俺が言ってるのは、裏を取ろうということだよ。少なくともそのつもりでやらなければ、いろんな学者のいろんな説を紹介するだけになっちまう。そうだろう」 「そうには違いないが、邪馬台国がみつかる可能性はゼロと見ておいていいだろうな」 「編集長がのっけからそう弱気じゃ困るな。たしかな裏付けのある事実を報道することが俺たちの使命の第一だが、そればかりじゃない。読者に夢を売るのも俺たちの商売のひとつだ。ただ、夢と嘘《うそ》とはおのずから違うものだ。むずかしい問題だが、それは虚構と虚言の差だと言ってもいい。邪馬台国にこれだけ世の人々の関心が集っているのは、それが日本人の夢だからだ。信頼度の高い説から、ひとつひとつその現地に取材班を送り込もうじゃないか。調査班じゃないぞ。俺たちは学者じゃないんだからな。倦《あ》くまでも取材班だ。その土地土地の言い伝えから岡、森、池、沼……、写真を撮り、必要なら少しくらい掘り返したっていい。そういう作業の集積の中から、何か、姿を現わして来んとは言い切れんだろう。嘘でなく夢にしようというのはそのへんのことさ。これはまだどの社もやってはいないことだ。学説の裏をとるんだよ。海峡を渡った例の古代船くらいなもんじゃないか、裏をとろうとしたのは。俺は風景写真に期待してるんだ。邪馬台国で見ることのできた風景は、俺たちの心に何かピンと来るものがあるかも知れないだろう」  津野田はそう言って宗像をみつめた。     2  編集局長の鈴木は、津野田の復帰を高く評価しているようであった。  邪馬台国の特集を連続して行なえ。  鈴木の受けた命令はそれだけであった。しかし、邪馬台国関係の企画なら、もう殆んど出尽している形で、誌上にどんな論者を登場させても目新しさは期待できなかったし、目新しさを狙《ねら》えばすぐに珍奇な説を並べたてるゲテものに堕するばかりであったろう。  その点、津野田の考えは正攻法だったし、費用の問題を度外視すれば、もうこの手しか残っていないと言っていいほどのものであった。  白日書房は大々的に地方と連絡をとりはじめた。津野田の言う、取材班も、できるだけアマチュアを多数参加させるようにはからっていた。  総合誌として一流の地位にある〈白日〉の計画だけに、各地元での期待は大きく、反応は編集部の当初の予想を大きく上まわった。  まず順序をどうするかが問題になった。  畿内《きない》か九州かである。 「順序から言って、大和《やまと》から始めるべきじゃないかな」  宗像がそう主張した。 「卜部兼方《うらべかねかた》、北畠親房《きたばたけちかふさ》、瑞渓周鳳《ずいけいしゆうほう》……古い学者はみな邪馬台国を畿内大和に想定していたじゃないか。九州説が現われるのは、たしか新井白石《あらいはくせき》あたりからじゃなかったかな」 「それはそうかも知れんが」  鈴木が反論する。 「今の読者は大方が九州説に傾いていると思う。読者の期待はまず九州に取材班が入ることだ」 「たしかに、営業的に考えればそのほうがいいでしょうがね」 「営業がどうのこうのと言っているんじゃない。我々は読者を相手にしているんだ。学説の順序なんかにこだわることはない」  その会議には津野田も同席していたが、遊軍であり部外者でもある身では、そういう議論にも特に求められなければ発言は控えたほうがよかった。 「ツノさん、どう思うね」  鈴木が尋ねた。  津野田はできるだけさりげない調子で答えた。 「結局取材班は各地元ごとに組むことになったのでしょう」 「そうだ」 「だったら、取材の仕上ったところからでいいじゃありませんか」  津野田が昔のポストにいたら、そんな順序などどうでもいいことだと、きつい調子で言ったことだろう。津野田の頭には、白日書房の総力をあげて邪馬台国を追い求めることしかなかった。それはかつて、政治の腐敗を追ったときや、国際外交の裏に隠された真実を追ったときと同じ種類の、精神の昂揚《こうよう》状態であった。 「取材班が地元中心のメンバーになるというのが引っかかるんですがね」  スタッフの一人が言った。 「どこでも地元は自分の所こそ邪馬台国だと主張するでしょうし、もっと冷静な人でもそういう期待は捨て切れんでしょう」 「かまわんさ」  宗像があっさり言った。 「そんなことより地元の協力が欲しい。そのほうが取材のスピードも早いし、やはりその土地はその土地の人間でないとこまかいところまでは手が届かんさ。彼らの偏りは君がチェックすればいい。そのために一人ずつ各取材班を受持つんだ」 「それにしても、いったいどのくらいの期間が許されるんですか」 「何のことだ」 「取材の期間ですよ。こいつは普通の取材と違いますからね。相手は地べたですよ。二日や三日でサッと引きあげてしまうわけには行かないでしょう。と言って二ヶ月も三ヶ月もその土地にかかりっ切りで帰って来なくてもいいというわけでもないでしょうし」  津野田は宗像が眉《まゆ》を寄せて考え込むのをじっとみつめていた。  俺とはだいぶ違う。  津野田はそう思った。津野田なら即座に、気の済むまでやれと言ったに違いないのだ。場合によっては、一年いてもいいと言うかも知れない。それでスタッフをその気にさせればいいことなのだ。仕事はどのチームも結局同じことなのだから、実際に着手すればおのずから必要な期間はきまって来るし、結局きめてもきめなくても同じことになってしまうだろう。  しかし宗像は考え続け、あとで経費の問題とからめて結論を出そうと答えていた。     3  すべてが蘇《よみがえ》って来た。  白日書房内で、津野田がどう遠慮しようと、周囲が彼を中心に動きはじめていることは否定できなかったし、それをとめる方法もなかった。 「ツノさん、今夜は付き合えよ」  三日後の夕方、編集局長の鈴木が睨《にら》みつけるようにしてそう言った。 「サシでですか」  津野田がそう答えると、鈴木は一瞬眉を寄せてからニヤリとした。 「そう気を使うな」 「別に気を使っているわけじゃありません」 「若い連中を入れて誤魔化《ごまか》そうというんだろうが、その心配なら無用だ。君を呼びに出向いたのは宗像だったんだからな。俺と二人だけで飲んだって気にはせんさ」 「そんなつもりで言ったんじゃないですよ」 「それなら問題はなかろう」  たしかに、津野田は宗像を気にしていた。宗像は先代の編集長にくらべても、社内の人気がずっと薄いようであった。その点津野田は仕事に関しては猪突盲進《ちよとつもうしん》タイプで、それだけに津野田がいれば当然編集長になっていようし、そうであれば仕事の面でももっとずっとやり易かったろうにという声が起るのは仕方のないところであった。  鈴木に連れられて昔懐しい小料理屋で飲みはじめた津野田は、しきりに宗像の立場を気にした。 「やはり、どうしても僕がいるとあいつがやりにくくなりますよ」  鈴木から酒を受けながら津野田が言うと、鈴木はギョロリと目を剥《む》いて叱るような声になった。 「そんなこと、今のお前さんに関係あるのか」  鈴木は酒が入ると、お前さん、と言い出す癖があった。 「仮りに奴《やつ》がやりにくくなったとしても、それは普段の心がけの問題さ。お前さんは必要があって呼び戻されたんだ。自分でもう一度使ってくれと頼み込んで来たわけじゃない。それに、編集者として、リーダーとして、お前さんのほうが宗像より一枚も二枚も上なのは昔から判《わか》っていた。衆目の一致するところ、と言う奴だ。おまけに、今度の事で我々にもお前さんにも命令を拒否し切れないところがあるのは奴だって承知していた。四の五の言うところは何もないんだ」 「でも僕にしてみればいい気分じゃありません。僕は客員ですからね。この仕事がおわれば、また神田のオンボロビルの一室にある社員三名の会社へ戻って行くんです。だが宗像は今後もずっと今のスタッフを動かして行かなければならない身です。いいように引っ掻きまわして、あとは野となれ、って言うのは無責任でしょう」 「妙な考え方をしやがるなあ」  鈴木は溜息《ためいき》をついた。 「僕の考え方がおかしいんですか」 「そうさ」  鈴木はその店の女将《おかみ》のほうをちらりと見た。女将は左手で右の袖口を押え、素木《しらき》のカウンターごしに熱い徳利を二人の前へ置いてから、深刻そうな表情で口をはさんだ。 「ほかのことは別よ。宗像さんだってそんなに悪い人じゃないんだから。でもこれは違うのよ。誰だってツノちゃんの味方よ。宗像さんが悪い」 「おいおい」  津野田は閉口して半《なか》ば本気で抗議した。 「もう済んだことじゃないか。そういうことを言われるんじゃ来ないほうがよかったということになりかねないぜ。あれは俺と宗像の二人だけの問題だったんだ」 「違うわ」  女将は言い切った。 「白日の人たちみんなに関係があったわ」  その女将は当時の経緯《いきさつ》を知り抜いている人間の一人であった。いま津野田が手を置いている素木のカウンターのどこかに、酔って喚《わめ》いて徳利を叩きつけたときの疵《きず》が残っているはずであった。 「みんなに関係がある……」 「そうよ、あのことがなかったら、間違いなくあなたが編集長よ。ツノちゃんと宗像さんじゃまるで違うんじゃない……」  津野田は助け舟を求めて鈴木を見た。しかし鈴木は知らん顔で言った。 「とにかくお前さんは仕事を引受けた。引受けた以上はやるしかない。あとのことなんか関係ないだろう。それに、お前さんはあいつに大きな貸しがあるはずじゃないか。威張っていろ、威張って。そんなことだから、あの時も自分から引き退ってしまったんだ」  女将がドキリとしたように顔色を変え、そういう鈴木をたしなめている。     4  神楽坂《かぐらざか》の小料理屋を出ると、二軒目は九段《くだん》で、そのあとが銀座《ぎんざ》だった。そのコースも津野田にとって蘇ったもののひとつであった。昔は三日にあげずその道順で飲みまわったものであった。 〈クラブ・もとき〉  もとき、というのはその店のママの本名から取っていた。元木という姓なのである。津野田たちはそれをよく、クラブもどき、と言って冗談の種にしたものであった。  夜の銀座から遠のいたのも、三年前からであった。事故以来一度も足を踏みいれてなかった。  見憶《みおぼ》えのある、と言うよりは、記憶がしみついてしまっているような木のドアを押して中へ入ると、何ひとつ変っていない眺《なが》めが津野田を待っていた。 「変らねえなあ、ここも」  ドアのところで、そうつぶやきながらしばらく突っ立っていると、一番奥に見えているカウンターのスツールから、一人の女が弾《はじ》かれたように床へ降り、そういう店の中の顔にしては異様にこわばった顔で津野田のほうをみつめていた。 「ツノちゃん……」  その唇《くちびる》から甲高い叫びがあがった。声に驚いて店の中の会話が一瞬やんだほどであった。  女は走って来た。津野田めがけてまっしぐらに走り、思い切りよく飛びついて来た。 「ツノちゃん……」  女は泣いていた。涙が津野田の襟首《えりくび》のあたりを冷たく濡《ぬ》らした。  そうか、この女がいたのだ。  津野田はそう思いながら女の体を引き離していた。 「泣く奴があるか、ばか」  津野田は女の左肩に手を置いて言った。 「まあ、ツノちゃんたら、どうしてたのよ」  ママが寄って来て言った。 「どうだ。いい土産《みやげ》を持って来てやると言ったのは本当だったろう」  鈴木がその横で得意そうに笑っている。 「ほんとに。とにかくお席へ行きましょうよ。詩乃《しの》さん、こんなとこにいちゃお客さまのお帰りの邪魔よ」  ほら、と言ってママは詩乃の体を押した。詩乃は津野田の手を握って空いたテーブルへ連れて行ったが、津野田が腰をおろしてもそのそばに立ってじっと見おろしていた。 「脚が……」  詩乃の目からまた新しい涙がふき出しているようであった。 「ツノちゃん、ビッコになっちゃったのね」 「痺《しび》れてるだけさ」  津野田は笑って見せた。 「可哀そう、ツノちゃん」  くずおれるように詩乃は津野田の横に腰をおろした。 「とにかくお久しぶりです」  ママがあらたまって言った。 「仕事を変えたからね。銀座にも用はなくなってしまったよ。それに、あの頃のように気前よく飲ませてくれるスポンサーもいないし」  津野田は向かい合った鈴木の顔を見ながら言った。 「会社の有難味が判ったか」  鈴木はおしぼりを使いながらそんなことを言って笑った。 「白日書房へお戻《もど》りになったわけ……」  ママが訊《き》いた。 「いや」  津野田が首を横に振り、鈴木が、 「うん」  と言って頷《うなず》いた。 「そうなんだよ。戦列復帰さ」 「まあ、それはおめでたいこと。サービスしなくてはね」  ママはそう言い、ボーイを呼んで新しいボトルを持って来るように命じた。 「おいおい。俺はそんな金払えないぞ」  津野田が冗談めかして言うと、詩乃がママの娘のような態度で津野田の体をゆすった。 「ママの奢《おご》りよ、もらっといたほうがとくだわ」  ママは笑っていた。 「そうよ。あたしの心づくし」 「そいつは有難い。遠慮なくいただこう」  津野田はうれしかった。ここにもまだ自分をうけいれてくれる場所があったと感じていた。 「宗像の奴、あれっ切りこのお店へは来ないのよ」  詩乃が容赦ない言い方をした。 「詩乃ちゃん」  ママがたしなめていた。  あいつも世間を狭くしている……。津野田はそう思い、心がうずいた。そのうしろのほうに、肩をすぼめてひっそりと息をしているような秋子の姿を感じたのであった。     5  その席へ顔馴染《かおなじみ》のホステスたちがひとわたり挨拶《あいさつ》に来て、それが一段落した頃、鈴木がひょいと思い出したように言った。 「お前さん、知らんだろう」 「何をですか」 「この子はどうやら後家を通したらしい」 「後家……」  何のことかよく判らなかった。 「鈍い奴だな。この三年、彼女はお前を待ち続けていたということだよ」  まさか、と言おうとした津野田は、詩乃を見て危うくそれを口の中でとめた。  詩乃は恥ずかしそうにそっぽを向いたが、その耳のあたりに紅がさしていたのだ。 「どうした。感想はないのか」  鈴木に言われ、津野田はグラスに手を伸ばした。 「有難う」  そのグラスをどこへ向けるともなくあげ、津野田は低い声で言った。詩乃がまた鼻をすするような息をし、左手で乱暴に自分のグラスを掴《つか》むと、カチリと津野田のグラスに合わせた。 「いいか、ツノ」  鈴木は酔っていた。 「今夜は看板までここにいるぞ。俺の命令だ。局長命令だ。店が終ったあと、この子を連れてどこかへ行ってやれ。そのあとは俺の知ったこっちゃない。その先、この子が望むようなことになってもならなくても、俺は関係ない。しかしな、ツノ。女は……いや、人間て奴は、いざとなって見なければ本当のことは判らんもんだぞ。お前さんがいなくなって一年も過ぎてから、俺はこの子の気持に気付いたんだ。お前さんに対する気持さ。この子はいい子だ。俺はお前さんを羨《うらやま》しい奴だと思った。こういう女を三年も待たせるんだからな。なあ詩乃ちゃん、お前さんは待ったよな、見事に」  詩乃は居直ったらしく、いかにもすれたような笑い方をした。 「判んないわよ。陰でこっそりやってたかも知れないじゃない」  津野田はその答え方に真実を嗅《か》ぎ取っていた。 「えらい監視役がついていたわけだ」  そう言うと、鈴木は弾《はじ》けたように笑い出した。 「そう言えばそうだ。こいつは気が付かなかったぞ。おい詩乃、お前さんやりにくかったか」 「そうよ。うるさいおやじがついてるんですもの」 「こいつ」  詩乃の機嫌が一度によくなり、体いっぱいに浮き浮きした様子を示しはじめた。 「ねえツノちゃん。どこへ連れてってくれるの」 「さあ、判らないな」 「どこでもいい。うるさいおやじがいないところなら」  酔いがまわりはじめていて、事と次第によっては新しい道へ足を踏み入れてもかまわないような気分になっていた。 「おい。ところでお前さんはどこへ行く」  鈴木は突然話題を変えた。仕事の話なのであった。 「僕はどこでもいいですよ」 「いや。いま言ってくれたじゃないの、二人っきりでどこかへ行けって」 「ばか、俺たちの仕事のことだ」  詩乃は舌を出した。 「これでも会社を持っています。現地へとび込むのは余り気が進みませんね」 「何を言っているんだ。お前さんが行かんでどうする」 「いや、スタッフはあれで結構みんな張り切っていますよ。一応は連中にやらせてください。その上で、何か問題のある所とか、これは夢みたいな話ですが、その……例の場所である可能性が強まった場合とか、そういうときに行かせて欲しいですね」 「それもそうだな。まあ考えて置こう。しかしお前さんはどう思ってるんだ」 「可能性ですか」 「いや。一般論的にだ。邪馬台国ファンとしてはどこをとりあげたい。あの議論の面白いところは、めいめいが自分の比定地を持つことじゃないか。お前さんはどこが邪馬台国だと思っているんだ」 「さあ……」  津野田は笑って誤魔化した。 「俺は昔から筑後山門《ちくごやまと》郡説さ」  鈴木はいとも簡単に言ってのけた。 「やはり山門郡の古墳を重要視するわけですか」 「いや。あそこに親類がいるんだ」  鈴木は笑いもせずにそう言った。     6 「あたし、物欲しそうな顔をしていない……」  店から出て、タクシー乗場の行列に加わった鈴木が車に乗り込むのを見届けてから、津野田は詩乃が腕を組んで来るにまかせて歩きはじめた。 「なぜそんなことを訊く」 「なんでもないわよ」  詩乃はそう言い、唇をとがらして口笛を鳴らし、石を蹴《け》るような恰好《かつこう》をした。詩乃の口笛はかすれた音しか出ず、まるで子供のようだった。二人はタクシーがひしめく外堀通りの混雑を避けているうちに、銀座の表通りへ出てしまっていた。 「向こう側のほうが静かだわ」  通りを渡る横断歩道の信号が青になっているのを見ると、詩乃はそう言って津野田の腕を引っぱるようにして東側の通りへ渡った。 「酔ってる……」  詩乃はまた尋ねた。 「どうかな。そんなに酔ってはいないつもりだ」 「よかった。だって、酔ってたんじゃいろいろ話せないんだもの」 「どんな話」 「いろいろよ。三年ぶりじゃないの」 「そうだな」  津野田は詩乃の浮き浮きしたような気分を、そのままにして置いてやりたいと思った。 「あのね」 「ん……」 「気にしないでね」 「何をだ」 「鈴木さんが言ったことよ」 「…………」 「あたし、以前ちょっとした事件を起したの」 「ほう」 「男性とのことでよ」 「そうかい」 「そのあとホステスになったの。それで、もう二度とああいうことはごめんだって……懲《こ》りちゃってたのね。でも、ああいうお店にいるといろいろ起るでしょう。それが嫌《いや》だったから、誰か一人に的をきめちゃってたの」  詩乃はクスクスと笑った。 「ツノさん、ずっと前に一度、奥さんを連れて飲みに来たでしょう」 「そうだったかな」 「綺麗な奥さんだと思ったわ。あたし、まだお店に入ったばかりだったけど、ああいう場所へ奥さんと一緒に来る人がいるなんて思わなかったから……いいなあ、って。ほんとよ、とてもすてきだと思ったのよ。ああいう奥さんと一緒に飲んで楽しんで歩く男性なら、どう間違ったってあたしたちなんか相手にしないはずだしと思ってね」 「それで俺を的にしたってわけか」 「そうなの。それなら怪我《けが》がないでしょう。的をきめておかないとついフラフラしちゃうんですもの」 「なるほどね」 「そうしたら……」 「あんな事件が起きたというわけか」  詩乃はコクリと頷いた。 「的がなくなったわけだな」 「違うわ。ツノちゃんは来なくなったけど、的はそれ以前よりしっかりしちゃったの」 「そういうことも言えるわけか」 「そう。三年……なんだかとても短かかった気がするわ。あたし、この三年、的をみつめて暮してたの。的はツノちゃんの姿をしてたけど、本当は違うのよ。あたしが勝手にそうきめてただけ。だから気にしないでね」 「君は俺に同情したな」 「あら、いけないの」 「いや、いいんだ。有難く思ってる」 「よして、そんなの。だって、本当にツノちゃんは酷《ひど》い目に遭ったんじゃないの。あたしのときよりずっと酷いわ。でも男ねえ。こんなにちゃんと立ち直っちゃって」  津野田は詩乃という女をいとしいと思った。面と向かって、立ち直っただの、酷い目に遭っただのと、表現は拙《まず》いがその心は素直に受取れるのだった。 「おかしな話だ」 「何が」 「俺は君の苗字《みようじ》もまだ知らない。詩乃という名も本名かどうか判らないんだ」 「詩乃は本名よ」  詩乃は哀《かな》しそうな声で言った。 「塚本《つかもと》詩乃。つまんない名前でしょ」  津野田は歩度を早めた。 「どこかへ行こう。そうだ六本木《ろつぽんぎ》あたりにするか。三年ぶりだが、あのクラブがまだやっているといいな」 「うれしい」  詩乃は津野田の腕にぶらさがって跳ねるようにした。     7 「だいぶにぎやかになったな」  六本木の交差点の手前でタクシーを降りた津野田は、あたりを見まわしてそう言った。  どこがどう変ったのか、はっきりしなかった。しかし、三年前にくらべると、その交差点のあたりがだいぶ明るくなっているような気がした。詩乃に腕を組まれるときちらりと腕時計を見ると、零時四十分になるところであった。 「まだやっていると思うよ」  交差点を渡るとき、津野田は自信なさそうに言った。 「この時間なら六本木はどこだって……これからよ」 「違うんだ。三年も来ていないから、まだ同じ奴がそこで商売してるかどうか、はっきりしないのさ」 「とにかく連れて行って」  途中で引き返されては一大事というように、詩乃は津野田の腕をかかえ直した。  その店はろくに看板も出していなかった。角を曲ってすぐ青く塗ったドアがあり、それをあけると地下へ降りる階段になっていた。 「すてきなお店じゃないの」  詩乃はうれしそうに言ったが、津野田の目には少し薄汚れて見えた。三年前にはまだ新しかった。緑色のカーペットは柔らかく靴《くつ》を包むようだったし、階段の左側にはピカピカに磨《みが》いた真鍮《しんちゆう》の手すりがついていたはずだった。だが、カーペットはしみが目立ち、真鍮の手すりはなくなっていて、金具を抜いたあとが無残な感じであった。  その店は階段を降り切ってから、客を細い通路で一番奥まで連れ込むような形になっていた。津野田はその通路で、右側の格子のすきまから店の中を覗《のぞ》いた。  薄暗くてよく判らなかったが、どうやら店の内部は以前とそう変らないように思えた。  突き当りは電話のボックスとトイレのドアになっていて、津野田と詩乃はその手前の入口で立ちどまった。 「いらっしゃいませ」  見憶えのない黒服に蝶《ちよう》タイの男が二人を迎えた。 「どうぞ」  左隅にある空いた席へ案内しようとしたが、それについて行ったのは詩乃だけで、津野田は入口に立ったまま店の中をジロジロと見まわしていた。  すると、津野田の少し異様な態度に気づいたのか、詩乃が案内されたほうと反対側の隅にある、小さな半円形のカウンターのところで背中を見せていた男が急に振り返った。  その男は紺のブレザー・コートにグレイのスラックスをはき、赤いネクタイをして髭《ひげ》を生やしていた。坐《すわ》っていたスツールをさっととびおりるようにすると、津野田をみつめたまま大股《おおまた》で近付いて来て、黙って右手を差しのべた。  津野田の右手がそれを握る。 「連れがいるんだ」  津野田は顎《あご》をしゃくって席に坐りかけている詩乃を示した。髭の男は頷くと手を離し、左手を軽く津野田の肩にまわして詩乃のいるほうへ連れて行った。  津野田が隅のソファーに詩乃と並んで腰を落着ける間に、その男はボーイに何かを口早に命じたようであった。 「ごぶさたしたな」  津野田が言った。 「元気そうですね」  男は微笑して言い、スツールを引っぱって二人の前へ坐った。 「ここのマスターだよ」  津野田は詩乃に教えた。 「昔馴染ね」 「そう、昔馴染さ」 「あれからどうしました」  マスターが訊いた。 「あら……」  詩乃が津野田を見る。 「何だ、来てるんじゃないの。三年ぶりだなんて」  津野田は笑った。 「あれから、というのは三年前からということさ。この人はそういう言いかたをする」 「へえ……」  詩乃はその男に興味を持ったらしく、じろじろと見た。  ボーイがウイスキーのボトルとグラス類を運んで来た。 「またごひいきに願えるようになったらしいですから」  マスターはそう言って新しいボトルの封を切った。 「多分な」  津野田は微笑して頷いた。     8 「なんか訳ありの感じだわ」  三人で乾杯したあと、詩乃が言った。たしかにその髭のマスターと津野田の間にはちょっとした因縁があった。しかし津野田はそれを詩乃に説明する気にはなれなかった。 「変なことで白日書房へ戻ったよ」  そう告げると、マスターは、ほう、という顔で津野田をみつめ、それから妙に哀しそうな表情になって言った。 「僕も結婚しました」  今度は津野田がマスターをみつめた。 「三年は長いですよ」 「そうだな」 「忘れるって、嫌なことですね」  津野田は頷いたが、相手の言った意味を正確にとらえた頷きかたではなかった。 「悲しいことを忘れてしまうんです。人間というのは、そういうようにできているんですね」  マスターはしんみりした口調で言った。 「去年の暮れに式を挙げたんですが、結構うれしがっていました」 「忘れたほうがいいのさ。俺も忘れたよ」 「さあ、どうですかね」 「忘れたさ。だからこうやってここへ来たじゃないか」 「僕は忘れましたが、津野田さんは少し違いますよ」 「どう違う……」 「多分……これから津野田さんはあのことを一生背負って行くんじゃありませんか。荷物になったんですよ」  津野田は眉を寄せて相手をみつめた。 「まさか、まだ俺を責める気じゃなかろうな」  マスターは首を横に振った。 「宝田伸子を殺したのは津野田さんじゃない」 「ねえ、どういうことなの」  詩乃は伸子という名を聞いて緊張していた。 「あれっきりだったから、まだご存知ないはずですね」 「あの晩のことか」 「ええ。僕は津野田さんにあの晩のことを言う義務があるんです。僕が言わなければ、多分津野田さんは彼女が死んだことを一生荷物にして行くはずなんです」  マスターはそう言うと詩乃に向かって軽く頭をさげた。 「ごめんなさい、お楽しみを邪魔して」 「いいんだ」  津野田は詩乃の肩に手をまわして言った。 「宝田伸子があなたを乗せて行くのを、僕は見送ったんです」 「君がか」  記憶のない時間のことであった。 「あなたは酔ってそこで睡《ねむ》っていました」 「この店へ来たのか。まるで憶えていないんだよ」 「そして彼女と僕は言い争いをしたんです。僕はもう会いたくないといい、彼女を追い出しました」 「あなた、死んだ女《ひと》の恋人だったのね」  詩乃が感情をおし殺した声で言った。 「そうなんです。でも、仮りに津野田さんが現われなくても、僕らはもうおしまいになりかけていたんです。僕は相手が津野田さんなら仕方がない……いや、津野田さんが相手なら自分も諦めようがあると……この人が好きでしたから。でも、人間というのはそう簡単には行かないものですよ。ちゃんと話もついて、綺麗に別れたつもりでいたんですけれど、彼女がこの人を連れて現われたら、どうにも我慢できなくなってしまいましてね」 「それで追い出したの」 「ええ。こう言うと三角関係みたいですが、実はのぼせてたのは彼女一人で、あの頃の津野田さんは別なことでただ荒れていただけなんです」 「奥さんのことよね」 「そうか、最後はここだったのか」  津野田は溜息をついた。 「あなたをかついで階段をあがったんです。あなたは重かった。途中でよろけてつかまったら、階段の手すりが取れてしまったんです」 「今もそのままか」 「ええ。あれを直す気になれないんです」  そして津野田は車に押し込まれ、あの事故が起ったのであうう。 「よそう」  津野田は強く言い、ウイスキーを口へ放り込んだ。 「すみません。でも、津野田さんに会ったらこのことだけは言わなくてはと思いつづけていたんですよ」     9  空気が沈んだ。 「どっちもどっちよ、あなたたち」  詩乃が脹《ふく》れて言った。 「そんなこと、今更言ったり聞いたりしたってはじまらないじゃないの」 「その通り」  津野田が言う。 「まあそうです。これはここでおしまいにしましょう」  マスターも同意した。三人は暫《しばら》く黙ってめいめいのグラスを口に運んでいた。 「マスター、愛していたのね」  詩乃が急に明るい声で言った。 「亡くなった女《ひと》を一番愛してたのはあなたよ」  髭のマスターは黙って微笑していた。 「とにかく、結婚おめでとう」  津野田がグラスをあげた。 「有難うございます」 「でも判るわ。本当よ。こんな悲しくって辛いこと、もう一生忘れるもんかと思ってるのに、いつの間にかケロケロッと忘れちゃってるんですものね。忘れたのに気が付いてまた悲しくなっちゃったりして……」  津野田は詩乃の顔を見た。詩乃はうれしそうにそれをみつめ返した。 「いい人ですね」  マスターは津野田にそう言った。 「なんでもないのよ」  詩乃は念を押すように言った。 「恋人でもなんでもないんですからね」  マスターが頷く。 「白日書房へお戻りになったというと……」 「いや、アルバイトみたいなもんさ。社員に戻ったわけじゃない」 「そうですか」 「何もかも久しぶりなんだ。銀座も六本木も、昔の顔を見るのは本当にあれ以来なのさ」 「ほう」  マスターの顔が曇った。 「というと、あれ以来どなたとも連絡なしでしたか」 「そうだ。俺は少し世の中に拗《す》ねていたのかも知れん。いや、多分そうだ。自分じゃなかなか判らないものだが、たしかに俺は拗ねていたようだ」 「愉快でない話はまとめてすませてしまいましょう」 「おどかすなよ。何か悪い話があるのか」 「ご存知ないようですね」 「何のことだ」 「乃木《のぎ》さんのことです」 「乃木|浩明《ひろあき》か」 「ええ」  マスターはちょっと言葉を切り、思い直したようにはっきりした口調で言った。 「亡くなりましたよ」 「まさか」  津野田が高い声を出した。 「いつ」 「去年の暮れです。僕の結婚式の少し前です」 「なんで死んだんだ」 「あの方にも何か苦しいことがおありでしたか」 「いや、あいつは……おい、乃木は……」  津野田はうろたえたように坐り直した。 「伊豆《いず》のほうで亡くなったそうです。海で」 「海で……」 「ええ。自殺、と聞きました」  津野田は黙り込んだ。 「松崎《まつざき》の旅館に何日も泊っていらしたそうです。お一人きりで。そして急に姿を見せなくなって、旅館のほうで警察に届けを出したそうなんです。旅館では様子がおかしかったからだと言っていたそうですが、支払いが残っていたらしいですし、案外逃げられたと思って届けたのかも知れません。とにかくそれからまる一日あとに、近くの海で水死体になって発見されたんです」 「なぜ……」  津野田は両手を耳のあたりに当てて体を前に折った。 「あいつはうまくやっていた。自殺することなんかありはしないんだ」  マスターはゆっくり首を左右に振った。 「たった一日で人生が変ってしまうことだってあります。津野田さんがあれ以来乃木さんと往き来なさっていないとすると、二年半にもなるでしょう」 「その間に何かあったというわけか」 「そうでしょうね。とにかく、警察でもかなり長い間調べたようです。僕はこれ以上のことは知りませんが、多分自殺という結論が出るような何かがあったのでしょうね」 「知らなかった」  津野田は呻《うめ》いた。 「嫌だわ。人が死ぬ話ばっかり」  詩乃がうんざりしたように言った。     10  詩乃のアパートは三田《みた》にあった。木造で、よく足音の響く鉄の外階段を登った二階の部屋であった。 「悪かったな、今夜は」  その部屋の窓際にある小さな椅子《いす》に坐った津野田が謝った。椅子はそれひとつだけであった。多分学生時代から使っていて、独り暮しになっても手放せずにいる机なのだろう。古びた木の勉強机と対になっている椅子であった。  詩乃は小さな薬罐《やかん》で湯を沸かし、赤い卓袱台《ちやぶだい》の前に坐ってお茶をいれていた。乃木という男の死を知らされてから津野田はすっかり沈んでしまって、二人の間にあった男と女の危うげな雰囲気《ふんいき》はとうに消えていた。 「ほんとよ」  詩乃は抗議するように言い、顔をあげた。 「はぐらかされちゃったみたい」 「すまん」 「変ね、すまん、だなんて」  詩乃は笑った。 「まるであたしがお願いしてたみたい」  津野田は笑い出した。 「とにかく変な晩だったな」 「今晩はノー・カウントよ」 「ノー・カウント……」 「そう。なかったことにして今度あらためてはじめからやり直し」 「いいだろう」 「お茶をどうぞ」  どうぞ、と尻上《しりあが》りに言い、詩乃は椅子に坐っている津野田を仰いだ。 「乃木さんて、ツノちゃんの親友……」  津野田が卓袱台の前の座蒲団に坐ると、詩乃はそう尋ねた。 「ああ、学生の頃からのだ」 「ツノちゃんて運が悪いわね。次から次、大事な人を……」 「運勢が下り坂なんだろう」  津野田は笑って見せた。 「あたしは上りも下りも今のところ全然なしよ」  詩乃は立ちあがり、部屋の突き当りのカーテンをひらいた。 「久しぶりだなあ、このお部屋に人が来るのは。男の人ははじめてなのよ」  そう言ってガラス戸をあけ放った。 「見て」 「ほう、ベランダがあるのか。木造のアパートにしては珍しいな」 「下が全部大家さんの住いなの」 「何だ、自転車を持っているのか」 「よく見てよ、車がついてないじゃないの」  詩乃はたしなめるように言う。 「なんだ、美容体操の奴か」 「夜中に帰って来て、ときどきこれをこぎたくなっちゃうの。思いっきりこいでくたびれたところで寝ちゃったら気持がいいだろうになあって思うのよ」 「やればいい。大きな音がするわけでもないだろう」  詩乃は戸を閉め、カーテンを元どおりに引いた。 「駄目なの。ここへ入ってすぐ文句言われちゃった」 「なぜ」 「下の大家さんのところが揺れるらしいのよ。木造ですものね。昼間ならいいんだけれど」 「鉄筋の建物へ移ればいい」  詩乃は元のところへ横ずわりに坐った。 「マンション……」 「そうだ」 「うちの子たち、たいていマンションに住んでるわ。でもあたしは駄目。彼氏がいないもの」 「なるほど、そういう仕掛か」 「そうよ。女一人じゃマンションのお部屋を借りるなんてとてもよ」  詩乃は悪戯《いたずら》っぽい目で津野田をみつめた。 「今晩ここへ泊って行ったらどう……。そうしたらあたしもマンションに移って、夜中でもあれをこげるかも知れない」 「おどかすな」  津野田は笑った。 「俺は貧乏人だ。マンションに女を囲うほどのしろものじゃない」 「一緒に住めば……。二人ならなんとかやって行けるわよ」 「悪い奴だな」 「あら、どうして」 「俺をからかっている」 「そう、今のは冗談」  詩乃はそう言い左肱《ひだりひじ》を卓袱台に突いて顎を掌にのせた。 「でも、何か起らないかなあって感じたわ」  詩乃は正直な女らしかった。しかし、その夜二人の間には何も起らず、津野田は二十分ほどそこにいて帰って行った。  第三章 参 加     1  翌朝十時、津野田は神田のオフィスへ顔を出した。PR誌の仕事のほうが気になったからだった。  松本が来ていたのは当然だが、加藤も同じように若い松本にまかせ切りにしているのが気になったのか、ひと足遅れて姿を現わした。 「なんだ、来ていたんですか」  加藤は津野田を見るとそう言った。 「きのうまでの様子だと、君が邪馬台国《やまたいこく》に浮かれ切っているようだったからだ」  津野田は叱《しか》るように言いながら、内心満足していた。加藤が〈東京PR企画〉を忘れていないのがうれしかったのだ。 「アルバイトばかりしていては会社に申しわけないですからね」  加藤は津野田の期待通りの答えかたをして、すぐテキパキと松本のデスクに集っていた外部のスタッフの仕事の結果について点検をはじめた。 「まあ上出来だな。これなら安心して白日の仕事に専念できそうだ」  加藤は加藤で松本にそう言うと、 「とかなんとかおだてておいて、好きなことをやらせてもらおうと言うんですから調子がいいですね」  と津野田に舌を出して見せた。 「向こうの仕事は面白そうですね」  松本が羨《うらやま》しそうに言う。 「そうでもないさ。まだ海のものとも山のものともつかない。何しろ邪馬台国を突きとめようって言うんだからな」 「本気ですか」  松本が目を剥《む》く。 「本気だとも」 「そりゃ無理だ」 「何が無理だよ。いまだに所在が判らないと言うほうがおかしいくらいなもんさ。日本にあるんだぞ、この日本の中に」 「でも……」 「でもも糞《くそ》もあるかよ。俺《おれ》に言わせれば魏志倭人伝《ぎしわじんでん》なんかどうだっていい。里程、日数、戸数に方位……水行だの陸行だのと言ったって、外国人がはじめての土地へ来て人に聞いたりだいたいの見当で書いたりしただけのもんじゃないか。要するに、邪馬台という国があって、そこに卑弥呼《ひみこ》という女王だか何だか、とにかく女神主みたいな人物がいたことだけはたしかなんだ。この国のどこかにあるその場所を見つければいいのさ」 「簡単に言いますけど、今までにたくさんの学者が研究していて、それでもまだ見つからないじゃありませんか」 「いいか。俺に言わせれば、倭人伝を書いた奴なんて無能のかたまりみたいな奴《やつ》だよ。そうじゃないか。ちゃんとした人間なら地図をくっつけて報告するね。あれじゃ何の為に記録したんだか判《わか》りゃしない。あとから来る奴の為になってやしないだろう。あれをたよりにやって来たらたちまち迷子さ。そうでしょう、社長」 「そうも言えそうだな」  津野田は苦笑した。加藤は津野田のほうへ向き直り、まくしたてた。 「俺はこう思うんですよ。白日書房じゃ遠慮があるから大きな声じゃ言えませんがね」 「言ってみろよ」 「たとえばエルサレムです。あそこは聖地の本家みたいなところだけど、いったい何の聖地なんです。キリスト教……冗談じゃない。回教徒だってあそこを自分たちの聖地だと思ってますよ。でも、それ以前にも聖地だったんですよ。このことは知っているでしょう」 「ああ」 「いつから聖地だったか判らないくらい古くから聖地だった。キリスト教も回教も、その上に乗っかっただけです。回教のもうひとつの聖地であるメッカだって、物の本によるとマホメット以前から尊い土地だったそうじゃないですか。要するにそういうことですよ。尊ばれ、崇《あが》められる土地というものは、ずっと昔から尊ばれ崇められて来たんです。たとえば漠然《ばくぜん》と太陽を拝んでいた連中が何かのシンボルを置いて大事にしていた場所へ、それよりちょっと進んだ宗教がやって来て同じ所を聖地にするわけです。その土地に根づこうとする新しい宗教は、古い聖地を足蹴《あしげ》にして見せるより、実はここはこういう神様がいるんだと、人々に乗りかえやすくさせたほうがいいにきまってるじゃないですか。太田道灌《おおたどうかん》の城のあとへ家康《いえやす》がやって来て、そのあとへ天皇が来るという形と同じことですよ。魏志倭人伝を信ずるなら、卑弥呼が有力な人物だったということを信ずればいいんです。それほど有力なシャーマンだったのなら、ずっと古くから人々に崇められて来た聖地に関係していたはずでしょう。そして、卑弥呼がいなくなったあとでも、その聖地は聖地として残って来たはずです。神や鬼を信じる古代人が、そういう聖地を簡単に放棄するはずがありませんよ。ただ、その上に乗っかった宗教の形が変って行くだけです」  津野田はキラリと目を光らせた。 「すると君は、今もそこが宗教上の聖地として残っているはずだと言いたいのか」 「そうです。単純すぎますか」 「いや、いい線だよ」 「おや、社長も同じ考えなんですか」 「君が睨《にら》んでいる場所を言って見ろ」  津野田に言われて加藤はニヤリとした。     2 「聖地というのは禁忌の土地です。タブーですよ。タブーがあるから俗人は侵すことをためらいます。一種の権威でもあります。そしてその権威を利用できる者が現われます。それが次の新しい宗教です。聖地は時代に応じて姿をかえますが、相変らず聖地です。仮りに畿内説をとるなら、そういう聖地はどこです。三輪山《みわやま》のあたりですか。多分あの辺になるでしょうね。しかし、卑弥呼が強力な……女王のようなシャーマンだったというほかに、倭人伝は方位や里数で場所を示そうとしています。そしてその研究が進めば進むほど、九州説が強くなって来ています。では九州のどこです。筑前《ちくぜん》の博多《はかた》、甘木《あまぎ》、筑後の山門、肥後《ひご》の佐俣《さまた》、肥前島原《ひぜんしまばら》……」 「ひとつ落したぞ」 「ええ、豊前宇佐《ぶぜんうさ》ですよ」 「宇佐説だな」 「そうです。宇佐八幡。ほかにもっと有力な聖地がありますか。九州の宗教上の聖地で、のちの世まで中央に影響を及ぼしたのは、ないでしょう」 「ふしぎだな」  津野田が首をひねった。 「今度の事が起るまで、君とは一度も邪馬台国の話などしていないのに、まるで同じ意見だったとはな」 「そうですか、社長も宇佐八幡を卑弥呼の宗教の後身だと思うんですか」 「ああ。俺なりにその論拠は幾つかある。しかし俺はアマチュアだからね。想像してたのしんでいただけだった」 「結構」  加藤は指をパチリと鳴らした。 「僕もそうです。学者じゃないんですからね。想像して楽しめばそれでいいんです。僕が作家だとしたら、魏志倭人伝をそっくり鵜呑みにして、書いてある通りに国をつなげて行きますよ。海の中へ入っちまおうがどうしようが関係ありません。そうでしょう、それでまことしやかな物語を書いて、自分なりに空想の翼をひろげて見ました、でおわればいいんです。極端に言えばそういうことです。仮りにいくら僕が宇佐だと思い込んでいても、空想です。学術論文にする気はありませんよ」 「そのうち、邪馬台国を扱った小説を書いて、白日書房あたりへ売り込むことだな。今度のことでコネもできたことだし」 「ええ」  加藤は当然だと言わんばかりだった。 「俺は白日書房へ行く前に、ちょっと訪ねなければならない所がある」  津野田は立ちあがって言った。 「仕事ですか」  加藤があとを追うように尋ねた。 「いや、私用だ。死んだ友人の家へ行くのさ」  津野田はそう答えて部屋を出たが、自分がいま死んだ友人、と言ったことがひどく不思議なことのように感じていた。  乃木が死んでいた。  まったく信じられないことであった。しかも自殺だという。乃木という男は何事につけ積極的な性分であった。津野田とは、同じ高校から同じ大学へ入った。津野田は文学部を選び、乃木は政経へ進んだが、卒業後も何かにつけて会っていた仲である。  専門である政治や経済は勿論だが、小説にしろ絵画にしろ音楽にしろ、ひと通りは首を突っ込んで博識を誇っていて、そういう乃木と会っていると、津野田は人生のたのしみ方を教えられる思いがしたものであった。  それが病気や事故ならばとにかく、自殺したというのが何とも納得できないのだ。この三年、乃木からも遠のいてひたすら自力で心の傷を癒《いや》すつもりでいたが、死んだと知ってはすぐ彼の家へ行って見ないことには気がすまなかった。  津野田は国電で新宿《しんじゆく》へ出ると、小田急線に乗りかえて乃木の家へ向かった。     3  乳母車を押した女の姿がやたらに多い新興住宅街の道を歩きながら、津野田は一度手の甲で目のあたりを押えた。一瞬涙が溢《あふ》れそうになったからであった。  嘘《うそ》だ。  乃木の家が近付くにつれ、津野田は口の中で何度もそう言った。いま歩いている道を、ひと頃は毎週のように通っていたものである。このまま乃木の家に着けば、 「馬鹿野郎。三年も何してやがった」  という元気な声が聞けそうな気がして仕方なかった。  その乃木の家が見えて来た。七年ほど前に結婚し、結婚と同時にその家へ入ったのであった。  小さなポーチのついた玄関を入ると、すぐ右側が居間になっていた。左はトイレと浴室で、その先にキッチンがあった。奥は和室がふたつ。二年後に男の子が生まれて名前は浩行《ひろゆき》と言った。細君の名は常子《つねこ》。いかにも乃木らしい性急な恋愛結婚であった。  津野田はその家の前に立ってポーチのあたりを眺《なが》めた。乃木、と書いた表札がなくなっているのが変化を物語っていた。  引っ越したのだろうか……。  津野田は眉《まゆ》を寄せていた。最後に見たときとくらべると、随分ひからびた感じになっていた。埃《ほこ》りをかぶって全体がくすんでいるような気がした。すぐ二、三軒先に、見憶《みおぼ》えのない大きな家が建っていて、乃木の家をいっそう貧弱な感じに見せている。  ポーチに立って柱についた白いプラスチックの小さな釦《ボタン》を押す。無人ではないかとおそれたが、中でチャイムの音がしたようなので何となくほっとした。  しかし、人の出て来る気配がない。津野田はもう一度釦を押した。内部の動く気配をうかがいながらじっと待っていた。  と、右のほうに人の視線を感じた。 「奥さん」  顔をその方に向けたとたん、津野田は大きな声でそう言った。粗く竹を組んだ垣根《かきね》と建物の間に乃木常子が津野田をみつめて立っていた。 「津野田さん」  常子は低い声で言い、右肩から羽目板に倚《よ》りかかった。  津野田は次の言葉を探したが、何も出て来なかった。二人はかなりの間みつめ合い、やがて常子のほうが目をそらせた。 「申しわけありません」  津野田はそう言うと頭をさげた。常子は黙って羽目板にもたれ、空を見ていた。 「でも、いったいどういうことなんです」 「もう……」  そのあとの声が聞きとれず、津野田はポーチをおりて垣根ごしに常子と向き合った。 「もうみんなすんでしまいました」  常子はそう言い、 「ドアをあけますわ、ちょっと待っていてください」  と小さな庭へ姿を消した。  すぐ玄関に人影がさし、ドアがあいた。 「どうぞ」  常子はさっきよりずっと蒼《あお》い顔で言った。津野田は黙って頭をさげ、中へ入った。  下駄箱《げたばこ》も、絵の額も、玉のれんも、みんななくなっていた。 「坊やは……」  靴を脱ぎながら尋ねると、常子は首を横に振り、 「スリッパもないんですけど」  と言って奥の和室へ向かった。 「富山の母のところにいます」 「預けたんですか」 「ここの整理がすんだら、あたしも富山へ行きます」 「引き払うんですか」 「ほかに仕様がありませんもの」  和室の隅《すみ》に夜具がひと組積み重ねてあり、押入れの襖《ふすま》があけ放してあった。押入れの中は空だった。  常子は気力の失せた様子でその襖をしめ、積んだ夜具を背にして坐った。座蒲団《ざぶとん》すらなかった。 「でもよかったですわ。あと二日かそこらでここは空き家になるところでしたもの。……もう空き家も同然ですけど」  庭に面した椽側《えんがわ》に、本がうず高く積んである。津野田は部屋の中を見まわし、 「位牌《いはい》なども、もう富山へ……」  と訊《き》いた。 「ええ。すみません」  今度は常子が詫《わ》びた。 「ゆうべはじめて知ったのです。この三年、誰にも会わずに暮していたもので」 「判っています」  常子はうつむいて言った。 「あなたも大変だったんですねえ」 「ここへだけは来ているべきだった。後悔しています」  そう言うと、常子はこらえかねたように泣きはじめた。     4 「ああいう性分ですから、仕事のことは何も教えてくれませんでしたし、わたしもそういうことは訊かない主義でした。だから、いまだに何が何だかよく判らないんです。とにかく乃木は仕事をひろげようとしていたらしいんですけど」 「理由は仕事の上のことですか」  常子は頷《うなず》いた。 「うまく行っていなかったようです。あの人が死ぬと同時に、乃木精工も潰《つぶ》れてしまいました」  乃木精密工業。彼の父親が作った小さな会社である。 「お父さんは」 「大田《おおた》区の病院に入っています。もう長くはないらしいです」 「ひどいことになったものだ」 「でも、あちらはまだ弟さんがいらっしゃいますから」 「証券会社へおつとめでしたね」 「ええ」 「すると、要するに乃木は倒産を苦に……」  言いにくいことだが訊かねばならなかった。 「結局、そういうことですわね」  常子は避けられない話題からできるだけ遠のくような言い方をしていた。 「あの男が自分から死のうだなんて……とても考えられないんです」 「ええ」  常子は頷いた。 「でも、あの人は自殺しました」 「彼は泳げたんですよ」 「警察もそれは調べて判ったようです」 「おかしいじゃないですか」 「乃木はボートを借りたんだそうです。それで自分が泳ぎ切れないほど遠くへ行ってから飛び込んだらしいんです。警察ではそういう死に方もできると考えているようでした」  常子はその話を、痛々しいほどの努力で事務的に喋《しやべ》っているようだった。津野田は溜息《ためいき》をつき、訊くのをやめた。 「僕が彼と会い続けていれば防げたかも知れない」  津野田はそう言ってしまってから悔いた。そういう可能性を示すこと自体、今となっては常子を苦しませてしまうのだろう。  ふと、ゆうべの会話を思い出した。……そうだ、悲しくとも早く忘れてしまうほうがいいのだ。 「おかしいな。僕は乃木のことを彼と言ってしまっている。あなたの前で彼なんて言ったことはなかったですね」  津野田は話題を変えようとした。以前は乃木のことを常子に言う場合、あいつは、とか、奴は、とか言っていたのだ。 「この家だけは残りました」  常子は庭を見て言った。 「建売でしたし、ローンでしたからね。生命保険がついていたんです。だから、ローンの支払いももうなくなったんです」  常子は涙をかくすように急に立ちあがり、椽側へ行った。 「ベルを憶えていらっしゃる……」 「あの秋田犬ですか」 「柴犬です」 「ああ、そうでしたね」 「あの犬と別れるのが一番こたえましたわ。浩行もとても可愛がっていましたし」 「奴は犬好きだった」 「こうしていると、椽の下から尻《し》っぽを振ってひょっこり出て来るみたいな気がして」  犬に託して夫のことを言っているようであった。 「どこへやったんです」 「静岡の知り合いの家へもらわれて行きました。あれでも血統書つきでしたからね。今度の家は広いお茶畑を持っていますから、ベルもそのほうがしあわせでしょうね」  津野田は立ちあがり、常子のいる椽側へ近付いた。常子は振り返り、はじめて弱々しい微笑を見せた。 「あの人の本を整理していたんです。もうすぐ古本屋さんが取りに来てくれるはずです。ひとつずつ、なんとか片付いて行きますわ」  津野田は積みあげた本の山を見た。居間の書架に並べてあった本で、大半は見憶えのある全集類だったが、その隅にかたまりになっている雑誌をまじえたひと山を見て目を丸くした。  邪馬台国に関する出版物ばかりであった。 「あいつ、こんなことに興味を持っていたのか」  常子は、ええ、と答えた。     5  乃木常子と別れた津野田は、乃木家の近くの文房具店で買った大型で丈夫な紙袋を重そうに提げて小田急の駅へ着いた。  袋の中には乃木の遺品である邪馬台国関係の出版物がつまっていた。常子に言って譲り受けて来たのだ。  乃木は殆んど歴史には興味を示さない男であった。小説をよく読むと言っても、古典を読むわけではなく、ミステリーを主とした現代小説が多かったし、いろいろな分野に関心は持っていたが、どれも広く浅くという調子で、津野田の知る範囲では、邪馬台国のことなど一度も話題に上ったことはなかったようだ。  一度だけ、津野田が卑弥呼についての記事を或る人物に書いてもらったという話をしたとき、 「そんなことが今更判ったって何の役にたつのかなあ」  と、半ば冷笑するように言ったことがあるくらいのものだった。  だから、空き家になる寸前の乃木家の椽側で、邪馬台国に関する出版物の山をみつけたときは、いったいどういうことなのかと目を疑う心地だった。  電車が来て空いた席に坐るとすぐ、津野田は待ちかねたように床に置いた紙袋の中から、一番気になっていたものをひとつかみとり出した。  それは日本中どこへ行っても、書店や駅の売店などで買うことができる、ごくありふれた地図であった。  道路を主とした観光用のものと、それよりもう少し総合的に詳しい記載のあるものなど、それぞれ多少の特徴は打ち出しているものの、その三つの地図は、みな同じ地方の地図であった。  大分《おおいた》県の分県地図なのである。  ことにその中の真っ赤なカバーに入った地図は畳み目が乱れていて、何度もひろげたりしまったりしたことを物語っていた。  取材で見知らぬ土地を飛び歩いた経験の多い津野田は、そうした地図のありようにも憶えがあった。  会社のデスクの抽斗《ひきだし》の奥から、或るときひょっこりと畳み目の乱れた地図が出て来たりする。はじめは記憶がなくて、ついひろげて見たりすると、やがて何年か前取材に行った時のことなどを、ありありと思い出すのであった。同行者は誰で、どんな人物たちに会ったか。時にはその時食べた料理まで思い出すこともある。そして、その地図をひろげたり畳んだり……。必要な部分を一番表に出す為に、売っていた時の畳み目にさからって、折りにくい地図を畳み直す時のあのいらいらした気分……。  ちょうど電車の中だっただけに、津野田は乃木が乗物の中で繰り返し繰り返しその地図を眺めたのを、まるで自分のことのように感じることができた。  走る車内で手擦《てず》れのした個所を探し出し、それが一番上に来るように畳み直して見た。すると乃木がそれを列車の中ではなく、多分自動車の中で眺めていただろうということが判った。  鉄道線路はその辺りに一本しか見当たらないからである。  そして、元のカバーに納まる大きさにして手に持って見ると、上部に周防灘《すおうなだ》の青色の部分が現われ、その下にそう凹凸の多くない海岸線があった。  スピードの出し過ぎによる重大事故多発地点!  細くとがった矢印の先が幹線道路の一個所を鋭く示しており、そんな警告文が朱線で囲ってあった。そして、それを右へ辿《たど》って行くと、〈大分59・長州6・安心院11〉というキロ数標示の紫文字が浮き出した次に、〈宇佐市〉と記入してあった。  宇佐。  それはちょうど今朝、加藤が得意気に邪馬台国所在地に比定してみせたばかりの土地であった。  津野田はその地図を手に凝然としていた。  これはいったいどういうことなのだ……。乃木は何を考えていたのだろうか。彼が邪馬台国に関心を持っていたとすれば、当然自分に話しているはずではないか。音信不通になってから興味を抱くようになったとすれば、その二年半の間に各種の文献を読み漁《あさ》り、宇佐を比定地にするほどになったのだろうか。会社の経営が危機に陥り、遂には自殺にまで追い込まれるような中で、果してそれほどのことが可能だったのだろうか。  電車は津野田を新宿へ運んでいた。     6  死んだ親友の乃木が、今度の仕事に参加して来ている。津野田はそんな風に感じながら白日書房へ入った。 「遅かったじゃないか」  自分のデスクが置かれた資料室へ着くとすぐ、待ちかねていたように宗像がやって来て言った。 「すまん。私用でね」 「昼から会議があったのは知っているはずだぞ」 「うん。だからかわりに加藤を出席させた。加藤、会議には出たんだろう」  加藤は頷いた。 「君に出てもらわねば話にならん。おかげで雑談ばかりの下らんことになってしまった」 「おいおい、編集長は君だぜ。俺は客員だ」 「この件に関しては君が中心ということにきめてある」 「そう固いことを言うな」  津野田は笑って宗像を見た。 「仕事は仕事だ。編集長などでなければ誰がこんなことを言うものか」 「大変ですな、編集長」  津野田はデスクの上へ運んで来た紙袋の中の本を積みあげはじめた。 「ゆうべ、俺の親友が死んだことを知らされた。それでその男の家へ行って来たんだ」  そう言うと、宗像は言葉を嚥《の》み込んで白けた顔になった。 「これがその男の遺品だ。何の因縁か知らんが、死ぬ直前まで邪馬台国について調べていたようだ。ほら、この本の奥付を見ろ。この発行の日付で、彼が死ぬぎりぎり前まで邪馬台国に関心を抱いていたことが判るんだ。それにこの地図さ。実際に九州を歩いて廻った証拠だ」  宗像は赤いカバーに入った地図を押しつけられ、口ごもるように言った。 「大分県か。なぜ邪馬台国探しに使った地図だと判る。別な仕事で行ったかも知れんじゃないか」 「あけて見ろよ。どこが出てる」  宗像はカバーを外し、細長く畳んだ地図を手に持った。 「国東《くにさき》半島か」 「その裏側だ」 「裏……」 「宇佐市が出ているだろう。そういうように畳み直して持ち歩いたことは汚れかたで判る。その男は邪馬台国を宇佐に比定していたらしい」 「どういう人物だ」 「小さな会社の経理部長さ。おやじが作った会社だ。会社と言うよりは工場と言ったほうがいいかも知れない。高い精密度を要求される特殊な機械を専門に作っている会社だ。しかしもう潰れてしまった。おやじは脳軟化症で入院しっぱなしだそうだ。細君は子供を連れて郷里へ引きあげるところだった。俺は辛うじて間に合ったがね」 「そういう事情ならやむを得んが……」 「いったい何の会議をやろうと思っていたんだ」 「取材方針をもう一度検討したかった」 「まずい所でもあるのか」 「いや、そういうわけじゃない。しかし念には念を入れておかんとな。期間の問題もはっきりさせておかねばならんし」 「下らないな。それより早くゴーのサインを出すことだよ。現地取材の期限なんて成り行きにまかせておけばそれでいい。一年間も現地に入りびたる奴なんか出て来っこないさ」 「ルールはきめておかねばならんよ」 「こういう仕事はスタッフのやる気がルールさ。ルールで縛ってやる気をなくさせたら何にもならん」 「とにかく、明日にでももう一度集りたいからよろしく頼んだぞ」  宗像はそう言うと慎重な手付きで地図を赤いカバーの中へ戻《もど》し、津野田のデスクの上に置いて資料室を出て行った。 「会議は雑談ばかりか」  そう訊くと加藤は目を剥いて首を横に振った。 「揉《も》めてましたよ」 「なんでだ」 「取材期間とか経費のこととかで」 「結論は……」 「何も出ません。ただ、社員の人たちが言いたい放題みたいでした。編集長って人は随分辛抱強い人ですね。明らかに自分のやりかたにケチをつけられているのに、いちいちきちんと説明してやってました」 「いかんなあ」  津野田は宗像が去ったほうを振り返って顔をしかめた。     7 「その、亡くなった方はなぜ宇佐へまで行ったんでしょうね。そんなに好きだったんですか」  しばらくすると、加藤が好奇心を抑えかねたように言った。  乃木の本のページをかたはしからめくって何か書き込みか傍線でもないかと探していた津野田は、本を伏せて椅子《いす》の背にもたれると煙草に火を点けた。 「俺の知る限り乃木という奴は邪馬台国になど関心を持ってはいなかったんだ」 「でも、わざわざ現地へ行くほどじゃ余程のマニアですよ」  加藤の好奇心が、津野田の抱いている疑問を一度に燃えあがらせたようであった。 「おかしいんだ」  津野田は喋りはじめた。 「君に言うべきことではないかも知れんが、実はその乃木という男は去年の暮れに西伊豆《にしいず》の海で自殺している」 「自殺ですか」  加藤は声をひそめた。 「うん。会社の経営に失敗したらしい。おやじさんがもう使いものにならなくなっていたし、何か新しいことにでも手を伸ばしたのかも知れん。本業は精密機械のメーカーなんだがね。だから、さっき宗像に言ったように、死ぬぎりぎりまで邪馬台国の本など買って読んでいるのがおかしいんだよ」 「この本でしたか……」  加藤は津野田のデスクに手を伸ばしてさっきの本を探しあて、一番うしろのページをめくった。 「十二月一日。発行は十二月一日になっていますね」 「そうだろう。奴の死体が発見されたのは十二月の九日だ」 「こういう本は、奥付にある発行日の少し前に書店へ並ぶことがありますね」 「うん。遅れて出る場合もある」 「版元に聞けば判りますよ。そう古いことじゃないんですから」 「そうだな」 「あとで調べて見ましょう」 「とにかく、その本が奴の書架にあったということは、十一月のごくおわり頃か十二月のはじめに手に入れたということになる。死ぬ前一週間ほど松崎《まつざき》の旅館に泊っていたのだからな」 「すると、こいつを買って読みおわるかおわらないかで西伊豆へ籠《こも》っちゃったわけですね」 「そうなるな」  加藤は本を丁寧に調べはじめた。 「読んでますよ、これは。僕だって本にかけてはそう素人というわけじゃありません。たしかにこれは全ページ……少なくとも終り近くまで読んだ本です」 「俺もそう思う」 「嫌なことを忘れようとして読んだんじゃありませんかね。僕の友人で会社を馘《くび》になった奴がいるんです。ちょっと使い込みをやりましてね。そいつはそれが発覚しそうになったとき、会社を休んで一日中テレビばかり見ていましたよ」 「そういうケースかも知れん。だが俺にはどうも納得が行かんのさ。いま別な本の間からこいつが出て来やがった。見ろよ」  津野田はよく新聞にはさみ込んであるような、チラシ広告めいた印刷物を加藤に渡した。 「宇佐神宮御案内……たしかに宇佐へ行っているんですね。こいつはお宮の前かどこかの食堂とか土産物屋で配ってるチラシでしょうね。ほら、丸福製飴本舗って広告が刷り込んであります」 「現地でなければ手に入らないしろものだな。しかも宇佐神宮へ行かなければ……」 「そうですね」 「ここにはさまっていたんだ」  津野田は別な本のページをひらいて見せた。 「こいつは直接邪馬台国とは関係がない本じゃないか。日本の神々という本だ。しかもはさんであった場所が気になる。春日神社の項だぜ」 「僕や社長と同じ線みたいですね」 「宇佐と春日社は当たり前のつながりだが、邪馬台国がからんでいるとなるとちょっと意味が違ってくる。まさに俺たちの宇佐説そのものになりそうだぜ」 「豊前の国宇佐の郡《こおり》に座《ま》す広幡《ひろはた》の八幡《やわた》の大神《おおかみ》。八幡と邪馬台を結びつける考え方なら以前からあります。そういう結びつけかたでしょうか」 「判らん。それよりも、なぜあいつが邪馬台国に引き込まれたかだ」  津野田は天井へ煙草《たばこ》の煙を吹きあげた。     8  資料室へ鈴木が姿を現わした。 「こいつ、ゆうべはどうした。うまくやったか」 「やあ。どうも」  津野田は笑顔で鈴木を迎えた。 「どうだったんだよ」  鈴木はスチール製の本棚《ほんだな》にもたせてあった折り畳み式の椅子を引っ張って来て、二人のデスクの境い目あたりへ逆向きに置くと馬乗りにまたがって坐《すわ》った。 「局長命令ですからね。仰せの通り一軒寄ったあと家まで送ってやりました」 「それだけか。意気地のない奴だな」 「でも、おかげで楽しかったですよ。久しぶりに」 「そうか」  鈴木は津野田をみつめた。 「それより、いまちょっと二人で話しかけていたんですが、我々の邪馬台国説を聞いて見てはくれませんか。この加藤はとにかく、僕はまだ人に喋って見たことがないものですからね。人に聞かせてどんな反応を示されるか、ちょっと知りたいんです」 「おお、伺おうじゃないか。仕事だからな」 「僕らは宇佐説なんです」 「なんだ」  鈴木は失望したように言った。 「でも、僕らの宇佐説は余り倭人伝に関係ないんです」 「ほう」 「方位だの里数だのということに関しては素人ですからね。とにかく地理的な正確さを求める為の測量隊などではなく、別な目的を持って倭国に来た……多分二度の使節団の訪倭報告をまとめたというのが正しいんでしょうが、そういう資料でしょうから、方位、里数、戸数、日数などが、そう現代風にピタリピタリと正確に記されているものではないでしょう。そのもやもやした記述の中から正確な判断を下すほどの学識は持ち合わせていません。だから、僕らが倭人伝……正確に言えば、三国誌の魏書東夷伝倭人《ぎしよとういでんわじん》条、ですか。その中から掴《つか》み出すのは、ひどく大ざっぱなものです。ひとつは、邪馬台国という強力な、諸国の中心になるような国があったということ。ひとつは、そこに卑弥呼という名の強力なシャーマンがいたこと。そしてそれは女王と崇められるほどの存在であったこと。もうひとつは、男弟と記される人物がそのシャーマンを補佐していたこと。それくらいなものです」 「ひどくあっけらかんとしているな」 「ええ。それ以上の字句を詮索《せんさく》する力はないんです。しかし僕らは倭人伝の基を作った二人の……いや、二回のかな……とにかくその報告者よりも日本という国をよく知っているはずです。この土地をね」 「倭人伝の昔とは大分違っているだろう」 「でも、僕らの体の中には多分卑弥呼たちの血が混ってはいるでしょう」 「さあ、そいつも判らんぞ」  鈴木は笑ったが津野田はそれを無視した。 「僕らは墓を暴《あば》きたがりません。建物を建てる時にはいまだに地鎮祭をやります。結婚式で神に誓いをたてますし、道ばたの地蔵や路地の鳥居のしるしにも、小便をひっかけることをためらいます」 「おいおい、何を言い出す気だ」 「そういう精神構造というのは、ごく古くからのものだと思うんですよ。しかもこれは日本だけのことじゃない。世界中に共通していることでしょう。加藤の論法で言えば、タブーですよ」 「タブー……」 「ええ。僕らはいま邪馬台国最高位のシャーマンである卑弥呼の所在地を突きとめようとしていますね」 「うん、そうだ」 「そういう古代の聖女は、ただの、何でもない場所にいるものでしょうか」  鈴木は肩をすくめた。 「卑弥呼が本邦初のシャーマンというわけじゃないでしょう。古代の……神道でも鬼道でもかまいませんが、そういう宗教の最高位の人間が卑弥呼だったのだし、最高位の宗教家は最も崇められている尊い場所にいなければならないわけでしょう」 「なるほど、君らの狙《ねら》いが判って来たぞ」 「そうですよ。そういう聖地は、時代が変り支配者が変り、宗教が変っても、よく保存されるはずだと思うんです。現に日本各地にある古い寺院は、その前身を辿《たど》ると別の宗派に属していることが多いし、更に辿ると神社であることが多いはずです。エルサレムだってそうです」 「そうだな。あそこはキリスト以前からの聖地だそうだな」 「のちにはモハメッドの聖地にもなります」  加藤が口をはさんだ。 「たしかにそういう傾向はあるよ」  鈴木が頷く。 「九州説にも欠陥はあるそうですね」  津野田が言った。 「うん。俺のも今までの会議や何かからの聞き齧《かじ》りだが、倭人について述べた部分だけを東夷伝全体から切り離して議論するのは間違いなのだと聞いたよ。片手に倭人伝、片手に現代の地図というのは、そう言われて見るとたしかにおかしい。昔丸いと思われていた土地が、今のやりかたで測って見たら四角だったなどということは起りがちだろう。倭人伝の書かれた時代の地形と今の地形は、たとえ同じ場所であっても人間の頭の中では大違いかも知れない。今の地図で合わなければ誇張だとか何だとか言ってしまうのはこじつけにすぎんからな。例の、水行《すいこう》十日、陸行《りくこう》一月という伊都《いと》国の南の地点は、そのままでは九州内部に納まらなくなってしまうそうじゃないか」 「日数は信頼してもいいそうですね」  加藤が言った。 「言われて見れば当然だな。倭人伝の日数を勝手に修正してしまうのは少し話がおかしいような気もする。それだったら里数はまるで滅茶苦茶のはずじゃないか。古代の旅人がうしろを振り返って、ああ何里来たか、なんて正確に知れるとは思えない。ましてはじめての土地じゃないか。次の村まで何日ある、と言うほうが正しいだろう」 「でも、僕らは九州説なんです。どう考えたって、卑弥呼の時代に向うからの使節が奈良盆地をめざすわけはないように思うんですよ。奈良あたりから九州まで支配できる勢力なんて、ちょっと大きすぎます。現に島津《しまづ》は家康《いえやす》の時代になったってけむたがられていたわけでしょう」 「まあそういうことも言えるな」  いつの間にか鈴木は津野田たちの議論に対する審判者の立場を取りはじめていた。     9 「僕らが字句の問題を放棄してしまったのはそこなんです。それをなお九州に比定させるだけの知識は持ち合わせていませんからね。別な角度から考えて、宇佐を怪しいと思ったんです」 「聖地存続説とでも言うかな」  鈴木は真面目な顔でそう言った。 「そんなもっともらしいもんじゃありませんよ」  津野田は笑った。 「ただ宇佐という土地に何となく勘が働いただけです。断わって置きますが、僕らはこれを本気で信じてるわけじゃありませんよ。仕事で以前邪馬台国を扱ったとき、いろいろな考え方があるのを知って、自分ならこう考えるけどなあと感じた程度のことです。もっともこの加藤がどういう筋道で僕と同じ考えを持つようになったかは知りませんが」 「僕はごく初歩的に、神功皇后《じんぐうこうごう》を卑弥呼に擬《ぎ》した古い説があることと、その神功皇后が宇佐に関係あることを結びつけて考えたのがはじまりです。例の宗像《むなかた》三女神である三柱の比売大神《ひめおおかみ》が宇佐に在《あ》ることも、ひょっとしたら宇佐の神の原型が女神だったのではないかという思いつきにあと押しをしたわけです」 「宇佐の神が女神ねえ」  鈴木が首を傾げた。 「女神ではないかも知れません。しかし、例の道鏡《どうきよう》の神託問題のような重大な場面に、神託をとりつぐ霊媒として女性が登場して来たりするでしょう。要するに、宇佐の神と最も近い関係に立つ者が女性だという考え方は成り立つと思うんです。そうですよね」  鈴木を前にして加藤はしどろもどろになりかけ、津野田に助け舟を求めた。 「僕らは偶然同一の結論に導かれたんですが、結局のところいま加藤が言ったようなことです。倭人伝の卑弥呼を連想させるものが、宇佐にはかなり多いんです。まず、女性が多く関係して来ることですね。学説は別としまして、いま宇佐神宮側で説いているあの聖地の歴史を順に追って見ると、まず祭神ですが、八幡大神とされている誉田別尊《ほんだわけのみこと》は応神《おうじん》天皇のことで、一之御殿に鎮座し、比売大神とされる三女神、多岐津《たぎつ》姫、多紀理《たきり》姫、市杵嶋《いちきしま》姫が二之御殿、そして神功皇后である息長帯《おきながたらし》 姫が三之御殿です。このうち三女神が最も古いらしく、八幡神が宇佐へ出現する以前からその土地にいた神とされ、それよりもっと昔に宇佐島へ天降《あまくだ》った三女神というように言われています。宇佐島というのは神宮から五キロほど行った大元山《おおもとやま》という山のことだそうです。八幡宮の奥院と言ったところですね。それに神功皇后が登場して来ますし、女禰宜《めねぎ》が活躍する神社でもあります」 「要するに、女性が神に奉仕する伝統を持った神社で、だからその流れを辿ると卑弥呼に至るのではないかと言うんだな」  鈴木は審判官としての立場を崩さないようであったが、津野田の期待する反応は、充分その表情に現われていた。 「だが、肝心の八幡神はどうなるんだ」 「三女神の天降った宇佐は、のちに宇佐の国造と呼ばれるようになる豪族の開いた土地ということになりますが、そこへなぜ八幡神が出現したか、神宮側も今後の究明を要するとして明確には言えないようです。これは一見三女神を主神にした宇佐が、時代の流れに沿って誉田別《ほんだわけ》すなわち応神を神に戴《いただ》き直したようにも解せますが、僕は別な考え方をしているのです」 「どういうことだね」 「誉田別で代表される勢力の里帰りですよ」 「里帰り……」 「ええ。卑弥呼を男弟が補佐していましたね」 「うん」 「その、現世を支配する力を持った男弟側が畿内で成功したんです」 「なるほど」 「神武天皇が日向《ひゆうが》の高千穂《たかちほ》を出発して東に向かう途中、宇佐では菟狭津彦《うさつびこ》が迎えて接待をしたという伝承も残っています。一《あし》 柱《ひとつ》 騰《あがりの》 宮《みや》というのがその場所ですが、このことも神武側の隆盛に対する宇佐側の迎合だとしないで、神武を送り出す側に宇佐があったと考えると面白くなります」 「そうだな。東へ送り出し、昔ながらの信仰を保っている所へ、強大になった昔の仲間が戻ってくる。よかったよかったと歓迎されて上座へ坐らされるか。よくある図じゃないか」  鈴木はたのしそうだった。 「それが八幡神か」 「そうです。ことのついでにそのえらいお母さんも」 「神功皇后だ」 「でも、実際にはほんの少しだが違う主神を奉じていた二氏族の再会だったかも知れませんよ。神功皇后は誉田別の母に当っていますから、成功者の祖神と考えてもいいかも知れません。つまり、宇佐も応神も女神を奉じていた」 「なるほどな」 「宇佐の伝承には、天降った神があたりの要所要所を次々に移動してまわる遊幸神話がありますが、これは霊媒である女禰宜《めねぎ》が巡回したことを示してはいませんかね。つまり、卑弥呼のある所に神が現われるというわけです」 「卑弥呼は言い過ぎだろう。卑弥呼はその時すでに神になりあがっていたかも知れん」 「ええそうです。神があり、神に仕える者がまた神格化し、それに仕える者が更に神として崇められる。出雲にはその典型がありますからね」 「こいつは楽しい議論だな。どうだい、今度のでちょこっと紹介して見ては」 「邪説ですよ。やめておきます」  津野田は慌《あわ》てて手を振った。 「それより、話はまだあとに続くのです。昔の男弟に相当する人物で大神比義《おおがのひぎ》なる人物が出て八幡神を宇佐に据《す》えることに成功したのですが、今度は仏教が入って来て中央の主座に納まる形勢になるわけです」 「そうだな」 「これは中央にとっても冒険だったでしょう。旧《ふる》い宗教と激突するわけだし、しもじもの支持も得なければならないが、モダンな仏教はなかなか理解されにくい。そこで奈良の東大寺を作るに当って、一般に理解されている八幡神の協力を仰いだ」 「こいつは驚いた。そうなるわけか」 「ええ、それが手向山八幡宮《たむけやまはちまんぐう》というわけです。平安京のときも石清水《いわしみず》八幡宮が山城《やましろ》の男山《おとこやま》に建てられましたが、それは手向山八幡の例にならったことになるでしょうね」 「八幡さまとして卑弥呼の流れは今日まで生き延びて来ているわけだな」 「ひと口に言いますと、全国十一万の神社のうち、八幡社は四万と六百ばかり。その次がお稲荷《いなり》さんで三番目がお伊勢さん。そういう順番になっています」 「で、そうすると邪馬台国は豊前宇佐郡ということになるわけだな。ちょっと珍説だが、ヤマトとヤバタで音も通じるし、宇佐をやる時は今のを是非書き加えてもらわないと面白くないな」  加藤はニヤニヤしていた。 「やがて八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》となって武士に尊ばれ、誰も気付かぬうちに卑弥呼は日本を征服していた。……いや、こいつは愉快だ」  鈴木は声をあげて笑った。  津野田だけが考え込んでいる。乃木は果して宇佐に卑弥呼の姿を見たのだろうか……。乃木が白日書房の仕事に参加しているような気がして来た。  第四章 死 体     1 「ツノさん」  若い編集者が白日書房のすぐ近くの道でうしろから声をかけた。 「よう」  津野田は歩度をゆるめずに、相手が追いつくにまかせて答えた。 「面白いですね、あれ」  若い男は小走りになって津野田と肩を並べた。 「何がだ」 「ツノさんたちの宇佐説ですよ」 「宇佐説なんて昔からある。そう珍しいもんじゃないさ」 「そりゃそうだけど、ツノさんたちのは面白い。第一愉快ですよ。きのう局長から聞かされたとき、やられた、と思っちゃいましたからね」 「なんだ。局長はもう喋《しやべ》ってまわってるのか」 「まるで自分が考えたみたいに威張ってましたっけ。どうだユニークだろうって」  津野田は微笑した。 「証拠なんか何もありはしない。でも俺《おれ》はああいうのが好きなんだ」 「倭人伝《わじんでん》と関係ないのがいいですね」 「ヨタだからな。誰が聞いたって学問的じゃないところがいいんだ。あれにいろいろ理屈をこねて反論したら、するほうが馬鹿みたいなもんさ」 「宇佐も取りあげることになるんです。そのときは是非派手にやってくださいよ」 「白日の看板が泣くぜ」 「そんなことありませんよ。うちだって雑誌ですからね。読者がうれしがるほうがいいにきまってます」 「でも、あんなことをデカデカとやったら、正統派の先生がたは協力してくれなくなっちまうぞ」  二人は白日書房の正面玄関を入って行った。 「お早う。ツノさんの宇佐説、聞いたよ」  階段ですれ違った男が威勢よくそう言って駆けおりて行った。 「畜生、局長はあっちこっちでやったらしいな」 「社内巡業ですよ。ツノさんのことというと目の色が変わるんです」 「気持悪いことを言うなよ」  津野田は笑い、道で会った男は二階の廊下へ去って行った。  資料室へ入ると、隅《すみ》のデスクにもう加藤の顔が見え、津野田の椅子《いす》に男が坐《すわ》っていた。 「お早う」  津野田が加藤に言うとその男は慌《あわ》てて立ちあがり、椅子をあけた。 「何だ、君か」  その男は津野田が辞めた時はまだ新入社員だったはずである。 「お邪魔してました」  男は丁寧に言った。 「君がこんなところへ……何か用かい」 「ええ、あの宇佐説を聞いたものですから」 「君もかよ」  津野田は嘆くように言った。 「どうです、本にしませんか」 「本に……」 「新書判でやらせてくださいよ」 「そうか、そっちへまわっていたのか」 「ええ、出版をやっているんです」 「社内で執筆依頼とはまた楽な手を考えやがったな」 「よければ銀座あたりでゆっくりお話しさせていただきますが。いつでもご都合《つごう》のいい時に」  男は真顔で言った。 「冗談だよ」  津野田は椅子に腰をおろしながら笑った。 「お願いしますよ。あれはいけます。邪馬台《やまたい》ものは売れるんです」 「本気らしいぜ、これは」  津野田は加藤を見た。 「やってくださいよ」 「君まで……」 「東京PR企画としてはおすすめしたいですね。ベストセラーにでもなればこっちも潤《うるお》うんだし」  なるほど、と思った。津野田は一応社長なのである。個人的な美意識の問題より、社員のボーナスのことのほうが重要かも知れなかった。 「一応考えておこう」  津野田はわざと尊大な様子で言い、ニヤリとして見せた。 「お願いします」  男は真に受けてお辞儀をすると、うれしそうな様子で戻《もど》って行った。     2 「乃木という人について考えて見たんですが」  加藤が言った。 「ほう」  津野田は煙草《たばこ》の袋の封を切りながら加藤を見た。 「なぜ伊豆へ行ったんでしょう」 「判《わか》らんよ、そんなこと。そいつが判れば苦労はないって奴さ」 「気になったんです」 「何が」 「まさか、邪馬台国のことで急に伊豆へ行ったんじゃないでしょうね」 「西海岸の松崎へか。冗談じゃないぜ。どうやってつなげるんだ」 「でも、乃木という人が最後に買った本が気になるんです。邪馬台の人々、でしょう。あの本も僕は読んでます。あれは古代の部族について書いてあります。主として山人系と海人系についてですが、読みましたか」 「いや、まだだ」 「あれにも宇佐について触れてあります」 「そうか」 「ええ。例の宗像《むなかた》三女神は明らかに海人系なのに、宇佐では大元山へ天降ったとされ、山の神的にも扱われるんです。ただ、宇佐島へ天降るというように、大元山あたりを島になぞらえたりするんです。これは海人系と山人系が宇佐で融合した証拠だというんですね。高千穂を出て東に向かった神武《じんむ》が上陸した地点などというのも宇佐にはあります。まあ、神武はとにかくとしても、卑弥呼《ひみこ》という女王が出現したのは、それまで山人と海人というようにはっきり分れていたものが、ひとつにまとめられたことに関連しているだろうというのがあの本の結論なんです」 「そうか。面白い考え方だな。山人と海人がかなり大きな規模で手を握った時点があるとすると、それは古代社会の中で大化改新や明治維新などと同じような意味を持つ出来事だったかも知れんな」 「ええ。男弟はその両方に睨《にら》みのきく軍事力を持っていて、しかもその上に山人海人双方が崇《あが》めることのできる卑弥呼というシャーマンがいる。実際には男弟と卑弥呼はそれぞれ別な集団に属していて、卑弥呼は各地にいるシャーマンの最高権威者。もう一方は少なくとも九州北部を統一した王。どうです、いくらか卑弥呼に血が通って来ませんか」 「ヨーロッパの、王権とローマ法皇の関係に似ているな」 「メカニズムは同じですよ。双方とも自分の権威を保つ為には協力しなければならない。しかも、力のある王が神の権威をかりる法皇にひざまずく。外国人はこれを見て、この国は女王の国だと思ったことでしょう。だが、そう見えるということは、実は卑弥呼を補佐している形の男弟の力が大きいということです。もっとも、男弟と言うのに二通りあったのではないかとも思いますがね」 「二通り……」 「ええ。実際に卑弥呼のシャーマン集団の中で卑弥呼を補佐している男と、その外にいて自分は実際の王の役を果している男です。原始的な形態では二人が同一の男であってもいいでしょうが、山人海人の両方をまとめたような段階では、既に日常の神主と王は別なものになっていたのではありませんかね」 「で、それが伊豆とどうつながるんだ」 「よく判りません。しかし、あの本を読めば、ひょっとすると伊豆へ行く気になるかも知れませんよ。あの本には、伊豆と出雲《いずも》の共通性というか関連性というか、そういうことにも触れているのです。海人系に、イズとかイズモとか発音する連中がいて、一方は山陰に、一方は伊豆に、それぞれ根拠地を持ったという考えです。三島《みしま》にある大三島《おおみしま》神社は出雲系です。しかもあの神社はもっと南の伊豆半島にあったものです。僕の記憶ではたしか上賀茂《かみがも》か下賀茂《しもがも》あたりだったはずですよ」 「まさかそこまで疑っていたわけもないだろう。邪馬台の人々、という本が出版された。それをすぐ買って読んだ。読みおわると伊豆へとんで行った。そして海へ……」  津野田は首を左右に振った。 「会社は倒産寸前だったはずだ。そんなゆとりはあるまい」 「ひとのことなので興味本位に考えすぎるのかも知れません。その点はお詫《わ》びしておきますが、とにかく気になるんです。なんだか知らないけれど、その乃木という社長のお友だちは、邪馬台国とか卑弥呼とかの線の上を歩いて、その糸に引きずられていたような気がしてならないんです。僕らにはまだ見えない何かが、乃木さんにははっきりと見えていたんではないでしょうかね」  加藤は首をひねっていた。     3  その日の昼すぎ、津野田は宗像と一階の小さな応接室で向き合っていた。 「名乗りをあげたわけじゃない」  津野田は憮然《ぶぜん》としていた。邪馬台国論争の渦中《かちゆう》へ新説をひっさげ、名乗りをあげて乗り込む気かと言われたのだ。 「君らしくない」  宗像は堅い表情で言った。 「判らん奴だな、俺は鈴木さんに言って見ただけだぞ。言い触らして歩いてるわけじゃない。第一なんだよ、こんなことで大の男が深刻に話合う必要がどこにある。餓鬼《がき》じゃあるまいし」 「子供っぽいと言うなら、それはあの妙な宇佐説のほうだ。本気ではないんならそれに越したことはないが、今後周囲から何か言われても乗せられんでくれよ」  宗像は念を押すように言った。 「いったい何を言いたいんだ、君は」 「大向う受けを狙《ねら》っているわけではなかろうが、下らん説を吐くのはやめてくれと言っているんだ。特にここではして欲しくない。取材はこれから始まるんだからな。正攻法で行きたいんだ。仮りに宇佐の番になっても、君のああいう話は取りあげるわけには行かんからそのつもりでいてくれ」 「結構だよ」 「ああいうことを大きく扱えば、一部の読者はよろこぶかも知れんが、正統派の学者や作家は執筆を嫌《いや》がるようになる」 「まるで俺が今度の企画で、自分の宇佐説を発表しようとして根まわしをはじめたような具合だな。冗談じゃない。おかしいのは、君のほうだ。いくら何でも少し偏狭すぎやしないか。言いたいことがあったらもっとはっきり言うもんだ。別に俺は今更ここへ来たくて来たわけじゃない。邪魔ならいつでも出て行く。よろこんで帰らせてもらうよ。編集長の邪魔にはなりたくない」  津野田は早口で強く言い、宗像を睨みつけた。あの宇佐説を本気でとりあげ、批判されたことが肚《はら》に据《す》えかねるのだ。 「俺だって邪馬台国に関してはここにいた時分から首を突っ込んでいて、どういう姿勢で扱うべき問題かぐらいはよく判っているつもりだ。あれを世間に持ち出したがっていると本気で考えたとしたら、間違っているのは君のほうだぜ。あげ足とりのようなことはするな。そういう姑息《こそく》なことをしたら、リーダーというのは一度に仲間からそっぽを向かれるんだぞ」  宗像はむっとしたように黙り込み、二度ばかり、ちらっと津野田を見ては目をそらせた。 「勘違いしてもらっては困るな」 「何が勘違いだ」 「邪馬台国の企画自体、そう大したものじゃないということだ。平凡すぎる。雑誌の企画として平凡すぎるからこそ、君の提案した方法以外にはもうやりようがないということだ。それをなぜはじめなければならなかったか、もう一度よく考えて欲しいな。よく考えて、警戒していて欲しい」 「警戒……」  津野田は意表を衝《つ》かれた。 「そうだよ。お互いに断わりにくい情況でもってここまで来てしまった」 「宝田氏のことを言っているのか」  津野田は驚いて宗像の顔をみつめた。 「迂闊《うかつ》だな。忘れていたのか」 「そういうことか」  津野田は腕を組んだ。 「あの人物が圧力をかけて来たので白日は邪馬台国の企画を一も二もなくとりあげることになったのだ。あの人物にどんな意図があるのか、まだ何も判ってはいないのだろう」 「君はそれを知っているのか」 「よくは判らんさ。しかし、編集長としてはそういう点はことに警戒してかかる必要がある。うかうかと乗せられてはたまらんからな。とにかく、企画は平凡だ。これは雑誌の編集者なら誰にでも判るはずじゃないか。いまうちの連中が乗って来ているのは、平凡でもやると決めた以上、仕事として面白くやったほうがいいからだろう。本気で夢中になれる企画なら、ほかにいくらでもあるさ」 「宝田氏は何を意図しているんだ」 「判らんと言ったろう。しかし、そういう何かの意図があることだけは忘れんで欲しいな。妙な宇佐説などにうつつを抜かしていると、君は利用されてしまうぞ」 「利用される……。宝田氏にか」  宗像は答えずに立ちあがった。 「言って置きたかったのはそういうことだ」 「待てよ。俺が宝田氏の何に利用されるというんだ」 「そこまでは判らないと言ったじゃないか」  宗像は応接室を出て行った。     4  午後六時ごろ。  津野田の姿が日本橋のデパートの前にあった。もう十分以上もそこにいる。閉店時間に近く、デパートから出て来る人のほうが多いが、まだ入って行く者もいた。  乃木|明夫《あきお》を待っているのだった。死んだ乃木浩明の弟で、証券会社へ勤めている。  約束は六時だったが、腕時計を見るともう五分近く過ぎていた。津野田は何時間でも待つ肚《はら》をきめていた。乃木の弟にはどうしても会わねばならないと思っているからである。  常子からは大して聞き出せなかった。夫を失い、家を売り払い、子供をかかえて生まれた土地へ戻ろうとしている女に、しつっこく質問することは津野田にはできなかった。それに乃木は妻の常子に対して、仕事のことを余り言わないほうだったようだ。まして卑弥呼だの邪馬台国だのということについては、完全に自分一人のことにしていたようである。  少し離れた所に、女が一人いた。やはり同じように人待ち顔であった。わりと金のかかった茶色のスーツを着ている。そうとび切りの美人というわけではないが、ちょっと男好きのするタイプで、どちらかと言うと下町娘がおしゃれな年増にかわった、というような感じを受けた。ただ、年増と言ってもまだ三十をこえたわけではない。二十七か八……。津野田は退屈しのぎになんとなくその女を観察していた。  するとその女が急に姿勢をしゃんとさせて動いた。ハイヒールの踵《かかと》を鳴らして足早に津野田の前を通り片手を軽くあげた。待人が来たらしい。  津野田はそのほうを見た。すると乃木の弟の明夫と視線が合ってしまった。 「すみません」  明夫はまず津野田にそう声をかけ、それから女のほうに笑顔を向けてひとことふたこと低い早口で何か言った。津野田は何となくバツが悪くなってデパートのショーウィンドウを品定めするように眺《なが》めた。 「すみません」  乃木明夫はそのそばへやって来てもう一度言った。 「出がけに社の前でバッタリお客に会ってしまったもんで」  そのうしろで、茶のスーツの女が照れ臭そうに目礼を送っていた。 「紹介します。これ、津坂容子《つざかようこ》君です」  乃木は悪びれた様子もなく闊達《かつたつ》に言った。 「容子でございます。どうぞよろしく」 「はあ」  津野田はあいまいに受け、明夫をみつめた。 「その……フィアンセです」 「なんだそうか」  津野田は笑顔になり、 「津野田と言います。明夫君とは彼がまだこんな頃からの付合いでしてね」  と、左手で子供の背丈を示した。 「明夫さんからいろいろと伺っておりました」  津坂容子はそつのない返事をした。だいぶ世なれた女性らしかった。 「とにかく行きましょう」  そこで落合って夕食をすることになっていたのである。店は明夫がもう手配してあるらしく、先に立って歩きだした。 「彼女と先に会って、それから二人で津野田さんをお迎えしようという手はずだったんですが、失敗しました」 「いつ婚約したのかね」 「結婚しようということになったのはごく最近なんです。それでももう半年以上はたちましたが」  抜け目のない言い方であった。婚約してすでに半年以上、しかもその上にかなりの交際が進んでいたことを、一度にすらりと説明してしまっている。 「電話で言ったとおり、兄貴のことをくわしく聞きたくてね」  津野田は明夫と肩を並べて歩きながら、ひと足遅れてついて来る容子に聞えないような声で言った。 「彼女ならかまいません」  明夫はそう答えてから急に歩度を落した。 「足を……」 「うん。あの事故のときやられてね。痛みはないんだが、すぐ痺《しび》れてしまう」 「それはいけませんねえ」  明夫は気の毒そうに言った。 「こんなことで君に会おうなんて、思ってもいなかったよ」 「兄貴が死んだとき、連絡しようとしたんですが、居所が判らなくて」  明夫は詫びるように言った。     5  三人は表通りに面した大きなビルの地下にある和風の店の小部屋へ落着いた。それはしゃぶしゃぶの専門店で、和服を着た女中が明夫から注文を聞いて退って行った。 「兄貴を応援していたんですがねえ」  明夫はもう乃木の死を醒《さ》めてみつめることができるようであった。容子の顔に目をやりながら淡々と言う。 「融資の世話……」 「いや、僕は弟ですから何をしようと当然ですが」  どうやら乃木の会社に容子も力をかしていたということらしかった。 「兄貴があんなことになるずっと以前ですが、この人の力ぞえでかなり割りのいい仕事が乃木精工に入っているんですよ」 「大したことじゃありませんわ」  容子は小ぶりの茶碗《ちやわん》を両手で持って津野田にそう言った。 「いや、そうでもないさ」  乃木の死の前後の事情を知ろうとしているのに、明夫の話は津野田の意図しない方向へころがって行きそうだった。 「奴《やつ》がなぜ死んだか知りたいんだ」  津野田は確認させるように言った。 「ええ」  明夫は軽く頷《うなず》いた。 「魔がさした……それよりほかに言いようがありませんね」 「なぜ」 「僕も仕事が仕事ですからね。兄貴が自殺したらしいと聞いて会社へすっとんで行きましたよ。総務と経理の長ということでしたが、おやじがあんなですから実質的には社長も同じことでした。僕は本当に現地へ行くより先に会社の帳簿を見に行ったんです。そのことで、あとになってだいぶ嫂《ねえ》さんに言われてしまいましたがね」  それはそうだろう。死体が発見された西伊豆へ駆けつけるより先に、会社の帳簿を調べに行ったのでは、明夫の立場が立場だけにあとで相当揉《も》めたはずである。 「僕も軽率でした。世間というものを考えに入れなかったんですからね。しかし、兄貴が自殺するなんて信じられなかったもんですからね。まずわけを知りたかったんですよ。やはりこんな仕事をしているせいでしょうか。何がなんでも帳簿を見ておきたかったんです」 「で、どうだった」 「よくありませんでした。しかし、すぐ倒産するとかいう状態でもありませんでした。少なくとも僕の見た限りでは、その危険性があるというだけで、あのくらいの状態からなんとか立ち直る会社なら、それこそ掃《は》いて棄てるほどありますよ」 「ということは……」 「ええ、僕は徹頭徹尾反対したんです。自殺でなんかあるわけがない、とね。でも結局は自殺だったらしいですよ。警察は僕の言うことに充分耳を傾けてくれましたし、その上で随分長いこと調べてもくれたんです。兄貴は思い切り沖へボートで出て行って、海へはまったんです。泳げましたからね、兄貴は」 「そうだな」 「でも、なぜ海で死ぬことを選んだのでしょうか。乃木精工には劇薬がごろごろしていますよ。仕事が仕事ですからね。シアン系のものだってあったはずです」 「じゃあ、なぜ会社は潰《つぶ》れたんだ」  すると明夫は妙な笑い方をした。 「潰したんですよ。そのほうがいいと僕が判断したからです。乃木精工はたしかに重病でした。そいつを建て直すのは容易なことじゃありません。やってやれないことはないでしょうが、いったい誰がやるんです。おやじは駄目だし兄貴は死んじまった。僕一人の手には負えませんよ。自信がありませんよ。それより、嫂《ねえ》さんはまだ若い。コブつきでも再婚のチャンスはあります」 「でも、家まで売り払ってしまったじゃないか」 「そりゃ、嫂さんは悲しんでいます。何もかも、兄貴とつながりのあるものは手放してしまうんですからね。でも、そのほうがいいでしょう。僕はそう判断しました、乃木精工をなくしてしまったおかげで、嫂さんはあれでもちょっとした金持ですよ。余計なことですが、僕は何ひとつ得ていません。嫂さんと浩行の将来だけを考えてしたんです」  会社を潰すというのがどういうことなのか津野田には見当もつかなかったが、明夫はいまやその道のプロであった。計画倒産という言葉はもう津野田のような門外漢の耳にも馴染《なじ》んでしまっている。きっと周到な操作をして潰してしまったに違いない。 「奴は本当に自殺だろうか」  津野田は唸《うな》った。     6  しゃぶしゃぶの肉が半分ほどになっていた。テーブルの上にビールが二本、ほとんど空になりかけていた。  それまでに、容子という女のことがだいぶ判った。一度結婚している女なのだ。 「その浅辺《あさべ》に頼んで、乃木精工に仕事をまわしてもらったんです」  容子は淡々と言った。浅辺というのは彼女の前の夫の名であった。浅辺|宏一《こういち》。話では明夫よりずっと若く、容子と似たような年齢らしかった。 「どういう仕事に関係していらした方ですか」  津野田は尋ねた。そういう若さで七千万も八千万もする機械の発注先を左右できるというのが不思議であった。 「特に関係といっても……」  容子はあいまいに答えて明夫を見た。 「僕も彼のことはよく知りませんが、年齢にしてはかなり重いポストにいる人のようです。新科学研究財団というのに関係していましてね」 「新科学研究財団……」 「ええ。そいつは実は防衛庁と関係がありましてね。アメリカのランド研究所のようなものと言ったら判ってもらえましょうか」 「戦略とか戦術とか、それに兵器や装備のことまで研究する奴だな」 「ええ」 「そういうのが日本にもあったわけか」 「そうですよ。乃木精工はそこから受注したわけです。本来なら入札とか見積りとか言ってやかましいはずなんですが、そういう仕事というのはとかく機密に属しますからね。機密保持さえ充分に期待できるなら、あまり堅いことは言わないらしいのです」 「乃木精工も妙なところへからんだものだな」  もし乃木が生きていて、自分がそのことを知れば、二人の間にひと議論あっただろうと津野田は思った。  明夫は急に居ずまいを正し、低い声で言った。 「兄貴は一応自殺ということでけりがつきました。僕も多分そうだろうとは思っています。しかし、釈然としないものが残っている状態です。仮りに自殺でないとしたらどうでしょう」 「他殺……」 「ええ。いろいろ考えて見たんです。実は僕が乃木精工を潰してしまったのも、その点が大きく影響しているんです。いや、確証は何もありませんよ。しかし、もし他殺だとすると、気味の悪いことになるんです。いいですか……他殺だとしたら、やはり警察はその徴候くらい発見できるんじゃないかと思いますよ」 「他殺だとしたら、自殺でけりをつけた当局側に何かの事情が介在していた。こう言いたいんだね」 「ええそうです」 「たしかに気味の悪いことだな」  何かに火がついた感じであった。津野田はそれが自分の中で燃えあがるのを感じていた。 「そういうことになれば、怨恨《えんこん》だの痴情だのということは度外視してよくなると思いませんか」 「新科学研究財団か」 「ええ。国防上の機密に触れたことになりましょう……」 「大げさすぎやしないか」  津野田は自分の体の中の炎に水をかける意味で言った。 「津野田さんなら判ると思っていましたが」  明夫は不服そうだった。 「どうも、兄貴はあの仕事がおわったあと、そのルートを追いまわしていたようなんです」 「あの……」  容子が口をはさんだ。 「浅辺というのはスパイみたいな人なんです」 「スパイ……」 「ええ。とてもいい収入があっていくらでも贅沢《ぜいたく》できるくせに、小さなプラモデル屋をやったりして」 「容子は気味悪がっていたんです」  どうやら明夫は、容子がまだ前の夫と暮している頃から彼女と関係があったようである。 「怪人物だな」 「ええ。お兄さまは一度、浅辺のことでわたしに会いに見えました。浅辺のことをもっとくわしく知りたがっていたみたい」 「防衛庁の秘密を知ろうとしていたのかな」 「とても率のいい仕事らしかったですからね。その線とつながりたかったんでしょう」  明夫は暗い顔で言った。     7 「兄貴と飲んだ時、兄貴は変なことを言っていました」 「どんな」  津野田はもう食べる気も失せて明夫の話に夢中になっていた。 「あの機械は役たたずだって」 「役たたず……」 「ええ。あんなもの、何もしやしないんだって言ってました」 「妙な話だな。奴には用途が判らなかったんじゃないのか。そういう機械はこまかく分散して発注するんだろう。全体を把握《はあく》できたんじゃ困るからな。下請けには判らんようにするんだよ」 「そうかも知れません。しかし、本当に兄貴は何かに気付いていたとも考えられますよ。こけおどかしの、用途不明の機械の形だけ作って、何かの新兵器が出来上ったとか……」 「ばかな。あの連中は遊びでやってるんじゃないよ。世の中で一番遊びの少ない世界のひとつだ」 「そうでしょうね。しかし兄貴はたしかにそう言っていましたよ。実際には兄貴の言ったとおりであってもなくても、兄貴はその機械が見せかけだけの役たたずだと信じて何かの行動を起したんじゃないでしょうか」 「松崎のあたりに、自衛隊のそのテの基地か何かがあったのかな」 「いいえ。僕もざっと当っては見たんですが、何もひっかかっては来ませんでした」 「仮りにその機械の秘密が解明できたとしてだよ、うまくまた率のいい仕事を取れたら乃木精工は持ち直したかね」 「それは勿論《もちろん》です。ただし、ああいう奴が継続してとれたらということですがね。何しろ、帳簿の数字から見ても、ばかばかしいほどいい仕事だったんです。これは僕の想像に過ぎませんが、仮りに何かの理由で画期的な新兵器か何かの開発に成功したと見せかけようとするなら、外部への発注や支払いについても念入りな偽装工作を行なうはずでしょう。愚にもつかないしろものにも、それらしい大金をはずんでおかねばならないんですよ。そうじゃありませんか」 「なるほどな」 「もっとも、その機械は材質自体には高価なものが要求されていたようで、特殊な合金なんですがね。だからコストは高くついています。その為に乃木精工としては高額な受注になっているんですが、それだって、ブリキでかまわないとは言えないからじゃありませんかね。いずれにせよ、金に糸目はつけないという調子です」  津野田は考え込み、前の鍋から立つ湯気の動きを見ていた。 「それは新事実だ。いいことを知らせてもらったよ」  一旦そう礼を言ってから続けた。 「だが、そうなるとますます判らんことがでてくる」 「何です」  今度は明夫が乗り出した。津野田は空き家寸前の乃木家で手に入れた、邪馬台国関係の資料について語った。 「おかしいなあ」  明夫は容子と顔を見合せて首を傾げた。 「そんなことに熱中するような兄貴じゃありませんよ」 「そう思うだろう」 「ええ。兄貴はリアリストでした。小説や音楽や芝居などにも興味は持っていたようですが、それは一般教養としてというか、要するに人と付き合って行く上で必要だと思っていたからでしょう。知らない人は兄貴を大変な物|識《し》りだと思い込んでいましたよ。多趣味多芸な人間だとね。でも、兄貴の本当の姿は違います。まあ邪馬台国ブームのようですから、一応のことぐらいは知って置こうとしたでしょうが、ピンチの会社をそっちのけにするほど打込みはしませんよ」 「奴が夢中になっていたのは、乃木精工の建て直しだけだとはっきり言い切れるかい」 「言えます」  明夫は断言して見せた。 「じゃあなぜ九州へなど行った」 「九州へ……」  津野田の鋭い言い方に当惑したように明夫は眉《まゆ》を寄せた。 「奴は宇佐説だったらしい」 「邪馬台国は今の宇佐にあったと言うんですか」 「そうだ。現実に宇佐神宮へ行って調べていたようだ」 「まさか」 「証拠がある」  津野田はまるで乃木を相手にしているように明夫を睨んだ。     8 「何かのついでに寄ったとは考えられませんか」  明夫は反論するというより、頼み込むように言った。 「それは当然考えられるさ」  津野田は態度を柔らかくして答えた。 「卑弥呼の国を探しに行ったという確証は何もない、地図の折り方と、汚れたあとでそう推測しただけだ。宇佐のとなりの町に用があったのかも知れん。だが、或る本にはさんであったチラシのようなものは、宇佐神宮へ行かない限り手に入らないものだし、そのチラシを挟《はさ》み込んであった場所は、春日神社のことが出ているページだった。君に説明してもはじまらんことだが、俺は以前から宇佐説で、なぜ東大寺が作られるとき宇佐から八幡神が奈良へ呼ばれて行ったかということを重要視していたんだ」 「それで余計引っかかるんですね」 「そうだよ」  明夫は邪馬台国と兄の死をつなげて考えることには消極的なようであった。津野田は失望を感じながら、それ以上邪馬台国の件を持ち出すことを控えた。乃木の性格からして、その新科学研究財団という存在のほうが重要であると考えるほうが正しいような気もした。 「九州か……」  明夫はそれでもしばらく考え込んでいた。 「そうだ、ひょっとするとあれかも知れないな」 「何だい」 「いえ、大したことじゃないんですが、兄貴は会社の建て直しについて、いろんな角度から考えていたようでしたからね。乃木精工を精密機械のメーカーとして考えるだけでなく、必要とあれば定款《ていかん》を変更して、不動産とかレジャー産業とか、別な面へ進出してもいいというようにです」  津野田はハッとしたように顔をあげた。 「それで西伊豆か」 「その線もあり得ますね。たしか九州のこともそれで言ったような気がします。まだ競争相手がたくさん入り込んでいなくて、それでいて先行き見込みのあるリゾート・ランドのようなものはないかって訊《き》かれたから教えたんです」 「どこを」 「国東《くにさき》ですよ」 「国東半島か。それじゃ宇佐のすぐそばだ」 「ええ。だいぶ前から、僕らの業界では国東を開発する資本の動きが伝わって来ていたものですから」 「どんな会社だ」 「はっきりはしませんが」  明夫はそう言って有名な電鉄会社や土地会社の名を幾つか挙げた。どれも超一流の名であった。 「そうか。国東も開発されてしまうわけか」 「もう日本中、静かな所はなくなってしまいますね」 「みほとけの里にハイウェイが通れば、もうおしまいみたいなもんだ」  乃木はそのために現地を見に行ったのかも知れない。津野田は何か気落ちしたような感じであった。 「とにかくきょうは」  明夫はそう言って容子に目配せをしたようであった。容子は坐り直し、津野田をみつめた。 「津野田さんに僕らのことを報告しようと思ってお呼びしたんです」 「何を言うんだ。会ってくれと頼んだのは俺のほうじゃないか」 「とにかく、兄貴がいなくなった今では、僕は津野田さんを兄貴だと思っています。今後ともよろしくお願いいたします」 「どうぞよろしくお願いいたします」  明夫と容子は気の合ったところを見せ、同時に頭をさげた。 「君たちはうまくやってくれよ」  津野田も真面目に言った。 「成り行きまかせより仕方がないように見えるが、やはり毎日の努力が人生には必要なんだ。俺は大失敗をやらかしてそれが骨身に沁《し》みて判ったよ。男と女の仲は、お互いの愛情ということに甘えて、つい毎日少しずつ手を抜いてしまうようだ。愛されているといくら判っていても、自分の愛を相手に判らせる努力が要るんだな。妙な言い方だが、相手に惚《ほ》れられているということを考えないほうがいい。いつまでも相手を口説《くど》いている気になることだよ」  二人は顔を見合せて笑った。 「そいつは大変」 「でもやって見ますわ。わたしも失敗した一人ですから」  容子は津野田をみてそう言った。     9  二人と別れた津野田は、タクシーをつかまえて大急ぎで白日書房へ戻った。軽く夕食をしたあとどこかで飲みながら話し合おうと思っていた予定が、容子の登場で変ったこともあったが、もう一度あらためて乃木の残した資料を眺め直す必要を感じていた。  社内にはまだ大勢の男たちが残っていて、特に編集部はこれからが本格的な作業時間なのだというように、活気に溢《あふ》れた動きを示していた。  津野田は忍び込むように資料室へ入った。乃木のことで頭がいっぱいであった。声をかけられ、ほかのことで気をそらされてしまうのが嫌《いや》だった。  さいわい、誰も津野田の姿を気に留めないようだった。津野田は上着を椅子の背にかけると、じっくり腰を据えて乃木の本を調べ直すことにした。  まずあの地図だった。  赤いカバーから地図を出して手に持った。  スピードの出し過ぎによる重大事故多発地点、という文字が目の中にとび込んで来る。  津野田はすぐその地図から目の焦点を外し、右膝《みぎひざ》の感覚を探った。スピードの出し過ぎによる重大事故の結果がその痺れであった。 「馬鹿野郎が……」  津野田はつぶやいた。伸子も乃木も死に急いだ。わけもなく死に飛び込んで行ったと思った。  また目の焦点を地図に合わせ、宇佐市から中津市に至る道路の両側を丹念に追って行った。観光用の道路地図だから、石油スタンドの位置やキロ数標示の標識が克明に記載されている。  車で走りまわったに違いない。もうとっくにそうきめていたことだが、あらためて確認した。  法鏡寺、常徳、糸口山、猿渡、伊呂波川、木部……。木部の読み方が判らなかった。  津野田は各地方のそういう小さな地名については、すべて漢字で憶えて置くことにしていた。地名は地元でどういう読み方をするか見当もつかない場合が多いからである。  たとえば九州の或る場所で、一の通り、というのにぶつかった。イチノトオリ、と何の疑いもなく憶えていたら、地元の人がハジメンドウ、と発音していて、一の通りに結びつけて考えることができなかった。一の通りはハジメノドオリだったのである。  だが、それでも見なれぬ地名の場合には、何通りかの発音をつい考えてしまう。木部はキベなのだろうか。まさかモクブではあるまい、モクベか……。  その先へ進んでも、定留、稲男、加来、などと、迂闊《うかつ》には読めない地名がたくさんあった。ことに助部は難物である。  単純に読めばスケベになってしまう。スケベという読み方は絶対にあるまい。タスケベ、スケブ……間にのを送って、スケノベ、タスケノベ。いや、助はまったく違う読み方をするのかも知れない。  それにしても、部とは例の部族の部のはずである。玉造部とか、牛養部、馬食部、卜《うら》部などの部である。木部とは古代の木に関する部なのだろうか。だとしたら助部はどうなる。いったいどういう機能を持った部なのか。  津野田はその地図からできるだけ多くのものを感じ取ろうと、文字を拾いつづけたが、とりたてて彼の勘に訴えて来るものは何もなかった。  地図をくるりと裏返した。  スピードの出し過ぎによる転落事故に注意。鋭い矢印の先に、朱線で囲った文字がまっ先に目をひく。その道路は宇佐からやや西寄りに南下して、日豊本線とからみ合いながら国東半島のつけ根を横断していた。  国東半島。  細長く畳んだその地図を、津野田は今まで宇佐市の出ている側を表として扱って来た。しかし、裏を返すとそれは国東半島の西半分を示す地図になる。  それをじっと睨み、急に気付いてもうひと折り内側へ折り込んだ部分を出して見た。そうやると半島の残る東半分が現われて、ほぼ正方形の中に国東半島が完全に納まることになる。その東半分のほうにも手ずれの痕《あと》があった。  しまった、と思った。  津野田は慌ててそれを引っくり返した。裏は大分市あたりが出ているが、表とは天地が逆になってしまう。そしてそこにも手の汚れがついていた。  乃木は国東半島を見ていたのだ。国東半島がひと目で判るように地図をひろげて左手に持つと、その裏へまわった宇佐のあたりが、ちょうど指の当たる位置に来て汚れかたが際立つのである。 「邪馬台国じゃなかったのか」  津野田は唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「それではこの本の山はどうなる」  デスクに積みあげた出版物の山が、謎《なぞ》をはらんだ乃木の死体そのもののように津野田の前にあった。     10 「なんだ、まだいたのか」  うしろで宗像の声がして、津野田は我に戻った。 「今日はすまなかった」  宗像はそう言いながら資料のつまった棚《たな》の間を抜けて近付き、加藤の席に坐った。 「何のことだ」 「俺は言い方が突慳貪《つつけんどん》なんでな」 「昔からだ。気にしてはいないよ」 「そう突きはなされると余計心細くなる」  宗像は苦笑していた。 「気が弱いくせにきつい態度をとる。損な性分だ」 「まったくその通りさ」  宗像は津野田と和解したがっているようであった。 「しかし、君ならそう悪くはとらんだろうと安心している」  津野田は地図をデスクの上へ抛《ほう》り出して宗像をみつめた。 「どうだ」 「え……」 「うまく行っているんだろうな」  秋子のことであった。いずれは触れねばならぬ問題なら、こうした雰囲気《ふんいき》のときに触れてしまったほうがいいような気がしたのだ。 「ん……うん」  宗像のほうが動揺していた。 「俺のことならもう遠慮しないでいい。遠慮などしはせんだろうが……もう三年もたったのだ」  宗像は津野田をみつめ返した。 「素直に受け取ってくれ」  喉《のど》にからんだ声でそう言うと、いきなり頭をさげた。ガクリと首の骨を折るような、勢いのいい頭のさげかたであった。 「すまん」  はっきりした声でそう言った。  津野田はそれをみつめた。 「判った。もういい」  宗像は顔をあげた。瞳《ひとみ》が潤んでいるようだった。 「これを言いたかったのだ」 「もういいじゃないか」  津野田は辟易《へきえき》したように言った。 「そんな昔のことより今のことだ。君は今日、俺が宝田氏に利用される、と警告していた。あれはどういう意味なんだ。君は宝田氏に関して何か知っているようだな」 「そのことを言うつもりだった。俺は最初から今度の企画には少しおかしいところがあると感じていた」 「宝田氏の圧力か」 「そうだ。うちの社長は宝田五重郎の勢力の一部のようなものになっているから、宝田が何か要求して来れば当然その通りにしてしまう。邪馬台国の件を白日にやらせたがっていることが判れば、一も二もなく自分から積極的に俺たちへ押しつけて来るさ。それはいい。今までにも例がないわけじゃない。しかし、君の起用がその要求にくっついているのはどういうことだ。宝田五重郎が何かで急に邪馬台国に興味を抱き、白日という一流の雑誌に特集をやらせようと考えた。そしてそれとは別に、ちょうどいい折りだから君を元の場所に返してやろうとか……そういう二元的な発想なら問題はなかろうが、もしそれがひとつのものだとしたらどうなる。おかしなところというのはその点なんだ」 「宝田氏は俺と邪馬台国をひとくるみにして考えているというのか」 「そんな気がする。いや、もっとはっきり言うと、そうに違いない」 「なぜだ」 「宝田五重郎は自分が表面に立たずに、一見とても遠まわりなやり方で何かを企《たく》らんでいるのかも知れんだろう。そうは思わないか」 「見当もつかんよ」 「いま、倭人伝研究の結果は、本物の学者たちの間ではとにかく、一般大衆の間では九州説が圧倒的になっている。畿内説をこと新しげに持ち出せば、奇説珍説のたぐいと思われかねない。つまり、宝田五重郎の狙いは九州説にあると思う。現に今日の午後、このシリーズの順序について上から要求があった。畿内説などはあとまわしにしろというのだ。これはもう、宝田の狙いが九州のどこかにあるということは確実だと思う」  津野田の頭の内で何かが火花を散らしたようであった。 「九州説と俺か」 「そういうことだ」  宗像は頷いた。 「まさか、あの宇佐説のことじゃあるまいな。宇佐説は俺が最初などではないぞ。たくさんいる。以前から言われている」 「だが、白日の編集部内では君が最右翼だ。内部に君がいれば宇佐へ誘導して行くことはたやすいと見るだろうな」 「しかし、俺自身そう本気にしてはいない。俺だって恥ずかしいことくらい知っているさ。鈴木さんに喋ったのがはじめてくらいのものだ」 「そうじゃなかろう。俺は以前から知っていたぞ」  宗像は遠慮がちに言った。その臆《おく》したような言い方で津野田は思い当った。昔、妻の秋子には聞かせたはずである。女相手の気易さで、かなり熱っぽく喋った記憶があった。  それにもう一人、宝田伸子。なんと宝田五重郎の孫娘に喋っていたのだった。  第五章 午 後     1  宗像は津野田のことを案じて警告を発したのだった。 「俺《おれ》は宝田五重郎の圧力で今度の企画が上からおりて来て、しかもそれに君の起用が動かしがたい命令としてひとくるみになっているのを知った時、すぐあの宇佐説を思い出したのさ」  宗像はその夜、弁解するように言っていた。 「宝田五重郎は今までにも、これに類したことを何度かやって来ている。マスコミに情報を流して特定の企業の内情をじわじわと世間へ知らせ、やがて不良企業へ乗り込んでそれを再建するという形で実質的な会社乗っ取りをやる。中には宝田に利用されたことすら気付かないで記事を書きまくった連中もいるんだ。今度のことは、ことが邪馬台国《やまたいこく》だけに、いったい宝田の狙《ねら》いがどこにあるか見当もつかなかった。だから俺は余計慎重に宝田の動きを調べまわっていたのさ。いいように利用されてはかなわんからね。やむを得ず利用されるにしても、向うの真意くらい知っておかねば癪《しやく》じゃないか」  津野田はそういう宗像に敬意を感じた。編集長という立場になれば、そこまで気を配るのは当然であり、宗像はよくその職責にたえていると思ったのである。 「俺は想像力の貧弱な人間だ。それはよく自覚しているよ。こういう時、君の協力を得られないのが残念だったが、とにかくその貧弱な想像力を俺なりに使って考えて見た。たとえばだが、宝田が何かの利権にからんで今度のことを起したとしたらどうだ。九州に何か宝田の欲しがるものがあるんだ。だが、正面切った動きはできない事情がある。その欲しがっているものが何であるかということになると、皆目判らないが、俺達の所へ邪馬台国の件が来ているからには、ひょっとすると邪馬台国そのものに関係しているのかも知れない。仮りにどこかの土地を大規模に開発しようとする動きがあるとする。宝田はその開発に噛《か》みたがっているがそれができない。開発の場所が実は邪馬台国の比定地のひとつを含んでいて、天下の耳目をそこへひきつければ、ひそかに進行中の開発計画も自然明るみへ出て、文化財の保護という見地から計画の変更を余儀なくされてしまう。そうしておいて何かの方法で介入して行く。そういう狙いなのかも知れない。もっと想像を逞《たくま》しくすれば、宝田が介入したがっている土地開発で、邪馬台国を証拠だてる遣跡か何かがひそかに発見されたのかも知れない。だが、それが世間に知れればその開発計画は大きな変更を余儀なくされてしまう。宝田は白日という一流誌を使って何者かに対する恫喝《どうかつ》を行なおうとしているとも考えられるじゃないか」  宗像の言葉は乃木明夫が言ったこととぴたりと重なっていた。明夫は国東半島の開発計画が動き出していることを告げていた。  乃木はその渦中《かちゆう》で死んだ。  津野田はもはや疑いなどというなまやさしさではなく、冷たい怒りを伴った確信をもってうす暗い資料室の天井を睨《にら》んでいた。  宝田五重郎ははじめから俺の宇佐説を知っていた。  津野田は唇《くちびる》を噛んでそのことに精神を集中した。それはいったい何を意味するのだろうか。勿論《もちろん》、そのことが今度の起用になったことは疑う余地がない。しかし、今の段階では津野田が自説を白日誌上で開陳する可能性は五分五分かそれ以下である。それなのになぜ……。  ひょっとすると、取材の過程でその五分五分は四分六分から七分三分と確率をあげて行くのかも知れないと思った。宝田五重郎がそう読んだ上で津野田を招き寄せたとすれば、津野田の宇佐説が本当に正しいものである可能性も出て来る。もし自説通りのことが発見されれば、白日は一挙に宇佐説を読者に叩《たた》きつけることにもなるだろう。  国東の開発について至急調べる必要が出て来た。     2  調査の手配のため、久しぶりに神田の自分のオフィスへ顔を出した津野田は、午前中いっぱいあちこちへ電話をかけまくり、それが一段落すると、思いついて二階の小見老人を訪ねた。 「どうしたというんだ。白日書房の仕事にかかりっきりで、自分の会社は放ったらかしじゃないか」  小見は津野田の顔を見るなりそう叱《しか》りつけた。 「知らんぞ、どうなっても」  小見は本気でプリプリしていた。 「すみません、ついいろいろなことで夢中になっていたものですから」 「いろいろなこと……」 「今のところ、おっしゃる通り宝田五重郎に手玉にとられている感じですよ」  二人はいつもの白いカバーをかけた窓際のソファーに向き合って坐《すわ》ったが、小見は碁石を持とうとする気配を示さなかった。 「何があったのだ。聞かせてくれ」 「いや、まず小見さんにお尋ねしたいことがあります」 「儂《わし》にか」  小見はなぜかちょっとうろたえたようであった。 「いったい儂から何を訊《き》きたい」 「宝田五重郎に関することですよ」 「ああ、それならあれから幾らか調べて置いた。それを教えようと待っているのに、いっこうに顔を出さんのだからな」  小見は不服そうに言う。 「宝田の奴《やつ》は児島金属と完全に手を切ったわけではないらしい」 「ほう。例の黄金商人とまだつながっているんですか」 「奴は何かやっている。児島金属とつながっていると言っても、仲よくやっているとばかりは限らん」 「というと、喧嘩《けんか》をしているんですか」 「前にも言ったろう。あの連中は極端な秘密主義だ。灰皿《はいざら》で煙草《たばこ》を揉《も》み消すときも、煙草の銘柄を判らんようにしてしまうくらいなものだ」 「まさか。たとえばなしでしょう」 「いや、そういう実話があるのさ。戦前の話だが、児島金属の児島|貞助《ていすけ》がそういうことをした」 「どういうことなんです、それは」 「その煙草が外国製だったのだな。どの国の煙草を吸っているかで、気のつく人間なら児島の動きの一部を垣間《かいま》見ることができるわけだ」  津野田は唸《うな》った。 「凄《すご》い連中ですね」 「彼らが用心深いだけではない。彼らのまわりには黄金の匂《にお》いを嗅《か》ごうと、それこそ目から鼻へ抜ける連中がうようよしているのだ。その点から言うと、銀行屋などまだまだ甘いもんだ。数字を扱う人間と、ナマの黄金を持ち運ぶ人間の違いだな」 「で、宝田五重郎は、そういう金市場にどの程度関係しているのでしょう」 「あれを津野田君に渡してやりなさい」  小見は中年の女にそう命じた。女は小見の大きなデスクへ行って、週刊誌ほどの大きさの薄い茶封筒を持って来た。 「何です、これは」  津野田はそれを受取ると封筒の口に指をいれて中の紙をとりだした。  金こそ永遠不変の財産です。  そんなキャッチフレーズが黒ベタの帯に白抜きで記してあり、金投資の手引き——全国貴金属取引協会、という文字がその下に並んでいた。 「金取引のパンフレットですね」  表紙は全面金ピカであった。黄金のテーブルの上に、世界各国の権威ある金業者の刻印を打った純金を積みあげ、それを写真に撮って印刷したものらしい。  その金塊が実際はディスプレイ用の鉛でできたものであろうと何であろうと、津野田のような貧乏人の目から見ると、そのパンフレット自体、贅沢《ぜいたく》というより何か物々しく、物騒な感じさえするのであった。 「日本金市場のマークというのがこれですか」  津野田は楯形《たてがた》の中にGの文字が入り、その楯の右側に獅子《しし》らしい動物が立ちあがって楯を支えているマークを、物珍しそうに眺《なが》めた。     3 「中はあとでゆっくり読めばいい。裏を見なさい、裏を」  小見は老人らしく性急な様子で言った。 「重宝堂……」  そのパンフレットの裏面いっぱいに、昭和四十八年四月一日に金が自由化されて以降の、金相場の推移状態がグラフで示されていて、右肩の余白に〈株式会社重宝堂〉という社名と所在地・電話番号などが記されていた。 「ジュウホウドウ、と読む」  小見が教えた。 「宝田五重郎の重と宝ですか」 「そうだ」  津野田の素早い理解に小見は満足したようであった。 「室町《むろまち》。本店はこのすぐ近くですね」 「そういうわけだ」 「すると宝田五重郎は児島金属に対抗しようとしているわけですか」  小見はそう聞いて失笑した。 「児島金属はそんななま易しい存在じゃない。マッカーサーも潰《つぶ》せなかったくらいだ」 「マッカーサー……」 「そうだよ。マッカーサーは児島金属を徹底的に潰して、二度とああいう怪物的な金商人が出ないようにしようと考えていたらしい。それは財閥の解体と同じ意味を持っていたのさ。しかし結局手がつけられなかった」 「なぜです」 「児島金属は国際金市場の一員として、戦時中も国際的な金商人たちと連絡を保っていたらしい。児島金属に対する救いの手が、マッカーサーの背後から伸びて来たのだ。それほどの存在だよ。いくら宝田五重郎が力んだところで、五分の太刀うちは望むべくもない。へたをして相手を万一追いつめでもして、児島金属に本気になられてみろ。いくら宝田でもひと晩で潰されてしまうだろう」 「じゃあ、このパンフレットは……」 「宝田は日本金市場の一角にもうがっちりと食い込んでいるということだ。全国貴金属取引協会という所で当って見るがいい。重宝堂はすでに上位にランクされている」 「そうなんですか」  それは津野田にとって新しい事実であったが、今度のこととは関係がないようだった。 「僕も以前仕事で金の問題に幾らか触れたことがあります。最近でも、今やっているPR誌で金問題を少し扱いました。金市場はいま新しい段階に入っているようですね」 「例の、ワシントンの各国蔵相会議が直接のきっかけを作ったわけだが、金の国際公定価格を廃止する方向で、各国の足なみが揃《そろ》ったということは、金業者にとってはいよいよ出番がまわって来たということだな。ことに日本の金市場は、いままで地味な存在を強《し》いられていただけに、いま腕をまくっているという状態だよ。儂の所へも少なからずそれに関連した仕事がまわって来ている。これは或る銀行の一幹部のアイデアに過ぎんが、金を銀行で売買できるようにならんか検討したいそうだ。考え方は乱暴だが、狙いは判らんでもない。まず、今の銀行にはコンピューター・システムが行きわたっており、しかもそのコンピューターが余剰能力を持て余しているんだ。アメリカなどではコンピューターを導入した銀行は、取引先の企業にその能力の一部をレンタルで使わせているくらいだが、日本ではいろいろな事情でそういうこともしかねるらしい。金の市場は四時半までセリが行なわれている。大きな余剰能力を持つコンピューターと、街角ごとにある支店をそれに結びつければ面白いことになるのさ。金の大衆化がはじまって、銀行がそれに参加したら、この重宝堂クラスといえど、とうてい太刀うちはできまいな。それに、金取引の場合、支払いは現金か銀行振出しの小切手に限るということになっている。この点でも、個人口座を握っている銀行が、同じコンピューターでやるのだから、一般の業者よりはずっと有利な立場に立てるわけだ」 「金の取引は税金がかからないそうですね」 「取引税、譲渡税、登録税、物品税などは免除されている。ナマの金塊による財産の移動などは、税務署員の捕捉《ほそく》半径にはないわけだ。しかも、取引を連続して行なえば株式と同じように利喰《りぐ》いもできる。投機としても面白味があり、手数料は一〇〇グラム一五万円としてその五パーセントの七五〇〇円。一キロなら七万五〇〇〇円になる。銀行が目をつけるわけだろう。しかも定期的に現金輸送をしているのだから、客に現物を渡す仕組はすでに出来上っているわけだ」  どうやら小見は金市場に関心が深いようであった。     4 「いま君が金を一キロほど買って現物を自宅へ届けさせると、二〇〇〇円の配達手数料を取られる」  小見は金にこだわっていた。 「へえ、そうなんですか」  津野田もそれは知らなかった。 「金の業者はそう多くない。みな都心のような繁華な場所へ集っている。だから自分で運ぶのが面倒な場合にはキロ当り二〇〇〇円の手数料と交通費の実費を払って配達させるわけだ。しかし、銀行の支店網がこれに参加して来ると、君の家のすぐそばの支店で受取れることになる。実質的には配達料のサービスと同じことだ」 「金のことはだいたい判《わか》りました。実はお尋ねしたかったのは……」 「判っている。別なことだと言うんだろう。しかし聞きなさい」  小見は老人の頑固《がんこ》さを示して強引に続けた。 「金市場は活溌《かつぱつ》になるぞ。君はたしか磁器陶器の類に興味を持っていたな」 「ええ。生齧《なまかじ》りですが」 「宝田も同じだ。美術品とか古銭《こせん》とかの収集を熱心にやっている。宝田に限らず、金をたくさん掴《つか》んだ連中はみなそれをやる。単なる老人趣味ではない。税というもののばからしさを知り抜いているからだ。美術品は一度入手してしまえば税の対象にならない。その点不動産よりずっと割がいい。価値もそのときどきの物価にスライドして行く。黄金はもっと安全だ。汚損で値を減ずることがないのだからな。そして金の自由化は世界的な傾向だ。このインフレの世界で金の自由化がひろがれば、需要がはねあがって金相場も急騰する。宝田のような男がそれを黙って見ているはずがなかろう。恐らくいま宝田がいちばん力をいれているのは金の問題に違いない。宝田が何か大きな動きをしているとすれば、それは金にきまっている」 「そうでもないようです」 「ほう。何か情報があるのか」 「よく判りませんが、何か小見さんのところへそういう話が聞えていないかと思いましてね。九州方面に宝田氏が手を出したがるような大きなプロジェクトは動いていませんか」 「九州……」 「観光開発とか、そういったものです」 「見当違いだな」  小見は即座に言い切った。 「宝田という男は、そういう甘っちょろい計画に色気を見せるような人物ではないよ。観光事業などは、宝田の目から見たら二流、三流の仕事だろう、あれは世の中の仕組のもっと基本的なところを押えている」 「しかし、そういう疑いが出て来たのです。宝田氏は九州で何かをやりたがっていはしませんか」 「九州のどこだ」 「国東半島です」  小見の眉《まゆ》がひくりと動いた。 「国東……」 「ええ」 「はて……待てよ。儂の所へも何かそういうのが来ていたな」 「あの、ホテルの」  いつも小見につきっきりで、秘書とも女中ともつかない役をしている中年の女が言った。 「おお、それだそれだ。左の二番目の抽斗《ひきだし》に入れてあるはずだ」  小見は女にそう言い、 「役に立つかどうか知らんが、たまたま招待状が来ていたのでな」  と笑った。女が大きめの封筒を持って小見に渡した。小見法律事務所の宛書《あてがき》があり、切手にスタンプが押してあった。 「国東サファイア・ホテル」  小見は目を細くして封筒の裏に印刷してある文字を音読すると、ニヤニヤしながら津野田に渡した。 「無料招待だ。昔からその親会社の法律顧問をしているのでな。二人までいいそうだ。別に本人でなくてもいいのだし。どうだ、彼女でも連れて行って見ては」 「ほう……」  津野田は封筒の中身を引き出した。毛筆書を和紙に石版刷りにした挨拶状《あいさつじよう》とパンフレット、それに仰々《ぎようぎよう》しい飾りのついた招待券がついていた。 「もうこんなのができていたんですか」 「あそこには国体があって道路が整備された。その頃から大手の観光業者が入りこむことは知れ切っていたさ。今ごろになって宝田ほどの怪物が国東にどうのこうのと言うのは少し手遅れすぎるだろう。何を聞いているか知らんが、まるで見当違いもいい所だ。もっとも、国東にゴールド・ラッシュでも起るというなら話は別だがな」  小見はからかうように言った。     5  津野田は耳鳴りに似たものを感じながら三階の部屋へ戻った。椅子《いす》へ坐るまで、ほとんど無意識に歩いていたようであった。 「どうしたんです」  松本が津野田の異様な態度を見てそう言った。 「ん……」  津野田は驚いたように松本をみつめ、そのあとで我に戻《もど》った。 「いや、何でもない」  そう言って自分の左手へ目を移した。小見からもらったホテルの招待状を封筒ごとしっかりと掴んでいた。たった今のことなのに、それをどう挨拶してもらい受けて来たのかまるで憶《おぼ》えていなかった。  乃木は他殺だ。  唐突《とうとつ》にそれが頭いっぱいにひろがった。同時に、何かが激しく回転しているような感覚があって、それが耳鳴りに似た音のない音を感じさせていた。  胸がどうしようもなく高鳴っていた。 「国東にゴールド・ラッシュ……」  そう小見老人が言ったとたん、津野田はストンと自分一人の世界へ陥ち込んでしまったのである。目に入るものがみなひどく遠い感じであった。  国東半島に黄金の匂いがするのだ。  特殊な合金を使った見せかけだけの機械……。明夫は津坂容子が乃木精工に紹介してやった仕事の内容をそんな風に言っていた。特殊な合金とは、黄金のことではなかったのだろうか、純金ではないにしても、金を多量に含んだものである可能性は強い。見せかけではなく、実際に何かの機能を持つ特殊な部品で、その材質に多量の金を含んでいることが要求されたのではないだろうか。  判らない。  それがなぜ宇佐や国東へつながって行くのか。なぜ宝田五重郎がからんで来るのか……。  俺はいまどうすれば一番いいのだ。  津野田は封筒の中から国東サファイア・ホテルの招待状をとり出して眺めながらそう思った。  ……あなた様をお招き致し、最高のおもてなしをさせて戴《いただ》きます。  招待状にはそんな約束の言葉が印刷されていて、きちんとした楷書《かいしよ》で小見の名が記してあった。しかも代理の者が行く場合に備えて、その下に氏名の記入欄があり、そこに小見が津野田の名を書き入れて認印を捺《お》してくれていた。  このホテルへ行くまでに、俺は何かをして置かねばならないはずなのだ。  津野田はもどかしくそう思った。  国東サファイア・ホテルへどうしても行って見なければならない。しかしその前に準備が要るはずなのだ。  ゴールド・ラッシュ。金鉱。金塊。そして宝田五重郎、児島金属……。  いま、この国から莫大な黄金が出て来たらどうなる。新しい金の鉱床が発見されたとしたら。  誰かが一夜にして大富豪になりあがるという程度のことではない。国としてどうなのだ。世界の金市場はどうなるのだ。それによってこの国はどうなって行くのだ。  津野田の頭の中で、いろいろな喚《わめ》きがはじまっていた。  スクープ。  その喚きはスクープという言葉が泛《うか》んだとたん、急に静かになった。  国東の黄金は、津野田にとってその一点に凝縮されて来るのであった。津野田は招待状を丁寧に木の机の抽斗にしまうと立ちあがった。 「どこへ……」  松本が訊いた。 「本屋へ行って来る。すぐ戻るよ」  津野田はそう言い残して廊下へ出た。天候がよくなるらしく、脚の痺《しび》れはなくなっていた。津野田は昔のように軽快な足どりで階段を駆けおりていた。     6  津野田はその日白日書房へ行かなかった。神田の東京PR企画で、買い集めて来た本を夕方近くまで読み漁《あさ》り、日が暮れかけるとそれをオフィスに置きっ放しにしてあった古いボストン・バッグへつめ込み、タクシーで白日書房からそう遠くない例の昔|馴染《なじみ》の小料理屋へ行った。  昼間のうちに連絡がしてあって、まだ暖簾《のれん》を出していないその店の二階の小さな座敷へあがり込むと、 「すまないが仕事なんだ。軽い肴《さかな》と水割りの仕度《したく》をしてくれればそれでいい。ひょっとすると飯をたのむことになるかも知れんが……相変らず余りいい客じゃないな」  と女将《おかみ》に言った。  女将はしげしげと津野田の顔を眺めた。 「いいわねえ、男は」 「なぜだい」  津野田が煙草を咥《くわ》えると女将は座卓の上の灰皿のそばに置いたマッチを素早くとって火を点《つ》け、 「あんなことがあったら、女はもう駄目になってるところだわ」  と、しんみりした口調で言った。 「そうでもなかろう。女のほうがああいうことには強いんじゃないかな」 「とんでもない。そりゃ、新しくやり直して以前よりちゃんとした生活を送る人だっているかも知れないけど、今のツノちゃんのようにはなれないわ」 「どういう意味だ」 「違う人間になっちゃうのよ、女は。その点ツノちゃんは、あの頃とまるっきりおんなじ顔になってる」 「そうかな」 「この間はじめて来た時はまだ傷が顔に出てたみたい。でも、まだ何日かしかたっていないのに、もうケロリと治っちゃってる。驚いてるのよ」  女将の言葉に納得の行くものがあった。顔から古傷が消えたとすれば、この数時間のことに違いなかった。自分でも鎖を解かれた猟犬のような感じがしているのだ。 「生きて行かなければならないんだ。そういつまでも古いことにかまっちゃいられないよ」  津野田は笑って見せたが、半分は自分に言っている言葉でもあった。  三年で充分だ。いつまでも古傷にこだわっていてもはじまらない。それは傷そのものに甘えていることになるだろう。  津野田はそう思いながら二人の男を待った。女将が水割りの仕度をして二階へ運んで来た時、早くも階下へその一人がやって来たようであった。 「おい、誰もいないのか……」  格子戸をあけて男の声がする。 「あら、宗像さんだわ」  女将はそう言って降りて行った。 「津野田が来ているはずだが」 「上ですよ。あがってすぐのお部屋」 「そうか」  トントンと階段をあがる足音がして、すぐに宗像が顔を出した。 「どういうことだ、いったい」 「まあ坐ってくれ。暫《しば》らく帰さんが、仕事のほうはいいか」  宗像は津野田をみつめ、 「ほう」  と言って白いカバーをかけた薄い座蒲団《ざぶとん》に坐った。 「君が先でよかった」 「まだ誰か来るのか」  宗像はウイスキーのボトルの横に並んだ三つのグラスを見ながら言う。 「本当ならまず君に話してから局長へ通すべきだろうが、一存で両方へ一度に話すことにした」 「重大事件だな」  宗像は苦笑しながらはぐらかすような言い方をした。 「その通りだ」  津野田は宗像のはぐらかしを許さず、まともに受け留めて見せた。 「白日の編集長として君がいくら胸を叩いてくれても、こればかりは君のところでとめて置くわけには行かないんだ。悪く思わんでくれよ」 「大変な意気込みだな。いったい何が起ったと言うんだ」 「局長が来たら話す。話を聞けば判ってくれるはずだ」 「スクープか」 「危険なしろものだ。潰されるかも知れない」  宗像は顔を伏せ、表情を隠したようであった。 「俺の仕事ならかまわん。しかし今度のことで余り深入りしてくれるなよ。相手が相手だから、本当に心配しているんだ」  津野田は笑った。 「もう手遅れらしい」  宗像はきっとなって顔をあげた。 「やはり宝田五重郎に関係したことだな」 「そうとは言えん。この件では宝田五重郎も部分に過ぎんような気がするんだ」  宗像は顔をしかめた。 「君の見込み違いであることを祈るよ。何だか知らんが」     7  鈴木がやって来た。 「襖《ふすま》をしめておいてください」  津野田が言うと鈴木はうしろ手で襖を閉め、 「こいつは面白そうだ」  と笑った。 「ブルー・フィルムでも見せてくれるのかな」  そう言ってあぐらをかく。 「ブルーじゃありませんよ。ゴールドです」 「ゴールド……」  津野田は手早く鈴木のグラスにウイスキーを注ぎ、 「いいように割ってください」  と言った。 「邪馬台国を発見したのかと思ったら、いきなりゴールドと来た。いったい何のことだ」 「新しい金鉱が発見されたとしたらどうします」  宗像が眉を寄せて津野田をみつめ、鈴木はたのしそうに笑った。 「掘りに行くな。どこだい、それは」 「国東半島」 「おいおい、本気で言ってるのか」 「ええ」  津野田は言葉を整えるためにちょっと沈黙した。その間に鈴木が宗像に言う。 「俺たちはそれで呼ばれたのか」  宗像が頷《うなず》いて見せる。 「確実な情報か」  鈴木はとがめるように津野田に言った。 「匂うんです」 「匂う……。それだけか」 「これから裏をとりはじめます。いいでしょうね」 「もっとはっきり言え。どこから出たことなんだ」 「宝田五重郎です」 「まさか」  鈴木は一度手にしたグラスをすぐ座卓の上へ戻した。緊張でみるみる顔が白っぽくなった。 「宝田氏の身辺から匂っているんです」 「ばか、いいかげんなことを言うな」  鈴木は本気で呶鳴《どな》った。今度は赤くなりはじめている。 「そもそも今度の邪馬台国の件は宝田氏の線で出て来たことでしょう」 「そうだ」  宗像が助け舟を出すように答えた。 「この僕を起用することがそれにセットされていた。違いますか」  津野田は鈴木に向かって言った。 「それはその通りだ。だが、そいつは例の亡くなったお孫さんの……」 「宝田という人物はそんな人情家ですかね。僕には別の線が見えているんです」 「どんな線だ。言って見ろ」 「例の宇佐説です。僕は局長に言うまで、あれを誰にも喋《しやべ》ったことはないんです。二人の女を除いてはね」 「女……」 「邪馬台国のことなど、女なら聞き流すだけだろうと思ったからですよ」  鈴木は気を鎮めるようにゆっくりとグラスを口へ運び、ひと口飲んでから言った。 「お前さんらしいな。それは判った」 「一人は……」  津野田はふと澱《よど》んで宗像を見てから、思い切りよく続けた。 「一人は秋子だ。前の女房です。ところがどうしたわけか秋子はそれを憶えていて宗像に喋っている」  宗像が頷く。 「もう一人は宝田伸子」 「死んだ……」 「ええ、彼女です。どうやら宝田伸子もそれを人に喋っていたようです」 「宝田五重郎にか」 「可愛がられていたそうですからね」  鈴木が唸った。 「僕が自分なりの宇佐説を持っていることを知っていたからこそ、白日に邪馬台国を扱わせる必要が出たとき、宝田氏は僕の起用をセットにして持ち出したんでしょう」 「宝田五重郎が白日に邪馬台国を扱わせる必要があるのか。どうしてだ」 「必要があるからうちの社長をつついたんでしょう。以前から古代史に関心の深い人なら道楽だということもありますがね」 「それもそうだな」  宗像はもう何かを察したようであった。 「宝田は九州説にしか興味がないようですね。畿内のほうはあとまわしにしろという指示があったばかりですよ」 「うん」  鈴木は話が宇佐へ近づいて行くのを嫌《いや》がっているかのように、渋い顔で認めた。 「宗像の言う通りです。宝田氏の狙いは邪馬台国にかこつけて何かを画策しているのです」 「参ったな、白日は利用されるわけか」  鈴木は暗い表情になって考え込んだ。     8  津野田は乃木の死について語った。語り進むにつれ、鈴木も宗像も喋らなくなった。 「つまり、狙いは宇佐ではなく、国東半島だというわけですよ。まだはっきりとはしませんが、宇佐をよく調べて行くうちに、もう少し東寄りの、国東半島へ僕らを誘導する何かがあるのかも知れません。宝田氏がやろうとしているのは、僕らに国東半島のことを気付かせ、ひと騒ぎ起させることじゃありませんかね」 「まあ待てよ」  鈴木は顔をしかめて言った。 「国東とか宇佐とかいうあたりに、宝田五重郎が食指を動かす何かがあるというのはいい。しかし、それをいきなり金だときめつけるのは少し性急じゃないかな。勿論、ここまで聞けば俺も乗っている。完全に乗せられたよ。だから水をかけるわけじゃないが、金は少し性急だと思うぞ」  宗像もそれに同意した。 「そうだよ。金である徴候はどこにも出ていないじゃないか。宝田は観光事業などに手を出す人物じゃないというのは俺も納得する。しかし、いきなり金というのはどうもな」 「たしかにそっちの言う通りかも知れない」  津野田も強いてそれ以上は主張しなかった。ただ、喋っているうちにますます強く勘に響いて来るのだった。 「これは僕の直感にすぎない。だから白日に恥を掻かせるようなことはしませんよ。しかし、どうします。宝田氏の意図はこれで掴めたことになりませんか」 「なるね。間違いないよ。何も気付かずに踊らされることを思えば、状況はぐんとよくなったと言えるな」 「突っ込んで行きますよ」  津野田は念を押した。 「しかし、金だとしたら凄《すご》いことになるな」  鈴木はその時になって逆に物欲しそうな顔をした。 「僕は金の線を当分棄てずに行きます。そしてもし金だとしたら、いったい白日はどういう態度を取りますか」  問題は核心に触れた。 「書くさ」  鈴木は当然のように答えた。宗像が驚いたようにその横顔を見ていた。 「知ったら書くしかない。俺達はそういう動物なんだ」  津野田はニヤリとした。我意を得たりと思ったのだ。 「いよいよになったら、ひょっとすると当の宝田五重郎が圧《おさ》えにかかるかも知れん。マッチ・ポンプという奴だ。だからこそ自分のコントロールがきく白日を選んだということも充分考えておかねばならんさ」  鈴木はそう言うと、いきなり宗像の肩を叩いた。 「おい編集長。今のうちに行先を考えて置いたほうがいいかも知れんぞ。東京PR企画じゃ二人一度には抱え切れんだろうからな」  宗像は柔和な微笑を泛べた。 「一度あの社長と真正面からやり合って見たかったんです。出版社の社長が自分の社の雑誌の記事を差しとめるようなら、ラーメンでも売っていたほうがいいんですからね。こういうことは僕らにとって気が楽でいいですよ」  二人ともやる気であった。 「それにしても、その乃木という男は本当に殺されたのだろうか」  鈴木が言った。 「黄金に触れた者は王になるか死ぬかのどちらかだ。……昔読んだ本にそういう文句がありましたよ」  宗像が言う。 「ただし、君の勘が正しくて国東に莫大《ばくだい》な黄金があったとしての話だが」 「俺たちは黄金に触れてルンペンになる、か」  鈴木が笑った。 「伊豆、というのが二重の意味で引っかかるんです」 「なぜ……」 「宇佐と伊豆。古代史から見ると海人族でつながりそうです。それに、黄金という見方をすれば、伊豆はその昔、金を産した土地じゃありませんか」 「ひどく入り組んで来たな。いずれにせよ古代史がらみだ。俺は金のことなど何も知らんぞ」  鈴木が威張るように言った。     9  鈴木は九段《くだん》のホテルへ部屋をひとつ用意した。黄金の可能性を秘めた国東の謎《なぞ》に関しては、三人だけのことにして置く必要があったからである。  津野田はとりあえず集めた資料を持って、その部屋へ移った。 「これは一九七四年の統計ですが、日本の産金量は約八トンです」  津野田は鈴木の前へ本のページをひらいて押しやった。宗像は白日書房へ戻っていた。 「八トンの金と言われてもピンと来んなあ」  鈴木は嘆くように言う。 「キロ一五〇万円として八キロで一二〇〇万円。その一〇〇〇倍です」 「一二億円か」 「もうひと桁《けた》上でしょう」 「一二〇億……。勘弁してくれ、ゼロが並びすぎると訳が判らなくなる」  鈴木はまだカバーのかかったベッドにあおむけに倒れて見せ、すぐに起きあがった。 「たった一二〇億か」 「意外に少ないでしょう」 「そうだな。大金は大金だが、一国が年間に産出する金の量としてはひどくみみっちいじゃないか」 「それでも、昭和十五年に二七トンという最高記録がありますよ」 「金といえば南ア共和国だろう。あそこはどれくらい出しているんだ」 「この本ですと、一九六九年現在で九六九トン」 「日本は八トンそこそこか」  鈴木は情けない声になった。 「二位がソ連の一九四トン。三位がカナダの七六トン。その三国で世界の年産の八割近くを占めています」 「世界中では、すると……」  津野田が答を言おうとすると、鈴木が暗算して先に言った。 「一五〇〇トンくらいなものか」 「計算は苦手だって言ってたくせに」  津野田が笑う。 「なに、四ケタや五ケタならいいんだ」  鈴木はけろりとした顔で言った。 「とにかく、金など無縁だからなあ。日本ではどこで掘っているんだい」 「北海道の千歳《ちとせ》と鴻之舞《こうのまい》。静岡の持越《もちこし》。鹿児島の串木野《くしきの》と大口《おおくち》。この内、鴻之舞と串木野が大手で、この年鑑にはそのほかに青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島、茨城、群馬、埼玉、新潟、富山、石川、岐阜、三重、兵庫、島根、岡山、広島、山口、愛媛、高知、福岡というように数字が並んでいますね」 「案外あちこちに出てるんだな。金の出る山など聞いたこともないが」 「みんなトン以下ですよ。中には一キログラムなんていう所もありますね」 「そんなにあちこちからドカドカ金が出れば、それこそマルコ・ポーロの言う黄金の国ジパングだ」 「金鉱というのは銀を伴っているらしいですね」 「金でも銀でもいいさ。俺はだんだんあほらしくなって来たよ」  鈴木はふてくされたように言った。 「もう勝手にしてくれと言いたいな。どこから金が出ようと俺のふところには関係ねえや」  津野田はそれを無視した。 「そうか、石英に含まれているんだったな」 「世界中にいったい金はどれくらいあるもんかね」 「推定ですが六万トンだそうです」 「何だと。たった六万トンかよ」 「各国が通貨準備として保有している分が三万トンくらい。私蔵されているのがほぼ同じくらいだそうです」 「六万トンか。値打ちがあるわけだなあ。東京都が出すゴミの量とくらべてみたいぜ。日本政府が持っているのはどれくらいだい」 「ドルに換算して八億七〇〇〇万ドルとなっていますね」  津野田は薄いパンフレットをあけて読んだ。 「アメリカがトップで一一五億ドル。次が西ドイツの四九億ドル。フランスが四二億ドルでイタリーが三四億。イギリスが九億ですよ」 「西ドイツは頑張ってるな。イギリスはひとケタか」 「ずっと昔は日本もかなり金があったらしいですね。ただ、無闇《むやみ》やたらと外国へ出してしまった。マルコ・ポーロが黄金の国だなどということを書いたのも、昔の日本の主要な輸出品が金だったからなんですね」  当分金に関する学習が続きそうだった。     10  事態は動きだしていた。宗像が編成した取材班の一部が九州へ移動を開始したからである。  東京を出るとき、その取材班はカメラマンをいれて一班三人か四人にすぎない。しかし現地へ着くとそれが二、三十名にふくれあがるのだ。  要所要所では中央からその分野の権威とされている著名な学者が何日か参加するし、学者以外でその土地に邪馬台国に比定した議論を展開している人物が何人か、適当に顔を出して行く。  実際にやって見ると、地元においてはこの取材がそれ自体一種のショーになることが判った。最初に取材班が入った甘木《あまぎ》市や八女《やめ》市ではことにその傾向が強く、地元の新聞や放送局が煽《あお》りたてたおかげで、急遽《きゆうきよ》現地で、派遣した関係者による講演会を開かなければならなくなったほどであった。  津野田はその間に国東入りの予備知識の収集と、裏付け調査を進めている。国東サファイア・ホテルのオープンを待っているのだが、加藤を連れて行くことにきめていた。 「地方のホテルというのは、少し古くなってからはとにかく、新しい内はやたらと格式ばって見せがちなんだ」  津野田は九段のホテルの部屋で、新しい服に着がえている加藤にそう言った。 「まったくどうしてでしょうね」 「近所の田吾作《たごさく》と一緒にされてたまるかという、妙な気負いがホテル側にあるからだろうな。新しいホテルではないが、奈良でひどい目に遭ったことがあるよ」 「例のスープの一件ですか」  松本は笑った。 「真夏に二人で食堂へ入って、一人が冷たいスープ、一人が熱いスープをたのんだら、スプーンをつけ忘れてスープだけ来ちゃったって奴ですね」 「あれは本当に酷《ひど》かったぜ。黙って待っていたらいつまでたってもスプーンが来ない。熱いのはさめるし冷たいのはぬるくなっちまうし」 「ウエイターに早く言えばよかったんですよ」 「それが変にしゃちほこばったサービスをしやがるから、そんなに折目正しくできるんならというんで……こっちもいささか中っ腹だったんだ。入るときフロントの奴にも嫌な扱いをされたしな」 「シェリーの話も聞きましたよ」 「ああ。ディナーのとき、食前酒を訊きやがるからドライ・シェリーをくれと言ったんだ。そうしたらオードブルの皿が引っ込んだころになって、申しわけありませんが、シェリーは只今できませんので、と来やがった。それに、ダイニング・ルームではメンズとメルシャンしかワインを出さねえのに、赤をくれって言うとどちらにいたしますかって尋ねやがんのさ。もっとも客の中にも考えてる奴がいたけどな」  加藤はケタケタと笑った。 「癪でもそういう所ではそれなりにするより仕方がない。まして今度は小見さんがもらったVIP扱いの招待券で行くんだ。正体不明でもいいが、ああいう所ではこっちがうるさい客だというように思わせないと、何かと粗末に扱われて損をする」 それで加藤に新しい服を奢《おご》ってやったのである。 「どういう思い入れで行ったらいいんです」  いつも妙なヒッピーじみた恰好《かつこう》をしている加藤も、銀行マン風の物堅い背広を着るとなんとなくそれらしく見えるようになった。 「あきらめてその長い髪を切っちまえ」 「いいですよ」  加藤はあっさり言った。 「脇も刈りあげて七・三に分けますか。ポマードなんか塗ったくっちゃって」 「好きなようにしろ」  そういう津野田も、加藤よりはましという程度のものだった。 「社長はどうするんです」 「そうだな。ちょっと派手なスタイルで行こうか」 「芸能プロみたいな……」 「まあその線かな。レジャー産業関係に見せるのが一番無難だろう。それなら小見さんにかわってホテルを見に行く人間でもおかしくない」 「そうですね。インテリア・デザイナーか何か、そう言ったとこでしょうね」  二人とも本気で身なりのことを考えているのだ。ホテルの親会社の線を辿《たど》って行くと、国東で金の問題にぶつかるのは、案外そのホテルの中である公算が大きいのだった。  第六章 録 音     1  快晴であった。  羽田から大分への直行便を選んだ津野田は、二時間余りの飛行で定刻通りに大分空港へ降り立った。 「町はどっちです」  空港の建物へ入るとき、加藤がうしろを振り返りながら言った。空港は海に面していて、あたりには人家らしいものもろくにないようだった。 「大分市か」 「ええ」 「大分市は海の向うだよ」  津野田は笑って南を指さした。 「海の……」  加藤は怪訝《けげん》な表情をしていた。 「この南に湾がずっと西まで入りこんでいる。別府《べつぷ》湾だ。湾の突き当りが別府だよ。大分はここからだと別府を通り過ぎて湾の反対側になる」 「なんだ」  加藤は不服そうに言った。 「そんなに遠いんですか」 「大分空港は以前大分市のすぐ近くにあった。だが四年くらい前に閉鎖されてしまったはずだよ。今ではここを大分空港と呼び、新大分空港とも言わなくなってしまった」 「まあ同じ大分県の中ですから大分空港でもいいですがね。でも大分空港というとつい大分市に近いと思ってしまう」 「ここは国東半島さ」 「え……もう来ているんですか」 「国東半島の東の端、かな」 「前に長崎《ながさき》の大村《おおむら》空港へ着いたことがありますが、なんとなく似ていますね」  加藤はキョロキョロしながら建物へ入った。  幅の狭い建物を通り抜けた二人は、空港の外にあるレンタカーのオフィスへ行ってブルーバードを借りると荷物を積み込んだ。 「ホテルは二日前にオープンしたばかりだ。恐らくまだほとんどが招待客だろう。こちらにはかえって都合がいいが、怪しまれずに動きまわるには、一目置かせたほうがいい。小見さんの代理でサービスその他をチェックしに来ているという態度でいることだ」  津野田は念を押した。 「それにしてはレンタカーで……」  加藤はハンドルを軽く叩《たた》いて笑った。 「マイカーならベンツぐらい欲しいところだが、レンタカーならブルーバードでもおかしくない。東京から国東まで自分の車を持って来る酔狂もいまい」 「まあどうでもいいですがね」  加藤は車をスタートさせた。オフィスの男が愛想よく手を振って送り出した。 「十時か」  津野田は腕時計を見て言った。 「試合開始ですね。収穫があるといいんですが」  津野田は緊張を感じていた。 「とにかく用心しよう」 「用心……」 「俺《おれ》の勘が外れていれば問題ないが、万一本当に金がからんでいたりすると、異常なことが起る可能性もある」 「異常なこと……」 「そうだよ」 「どんなことです」 「忘れたのか。もう一人死んでいるじゃないか」 「乃木という人を他殺ときめてしまったみたいな言い方じゃないですか」  車は空港をうしろに、広い道へ出た。 「右だ」  加藤はハンドルを右に切って車を南へ向けた。広い道は車影はまばらであった。 「いい道ですね」 「まだ新しい。これも国体のおかげらしいな」 「そう言えば大分も国体をすませましたね。オリンピックで東京の道路が一度によくなったのと同じだ」 「乃木のことだが」  津野田は煙草《たばこ》を出して咥《くわ》え、ダッシュ・ボードのライターのボタンを押した。 「たしかに他殺かどうか判らん。警察を信ずれば自殺だ。しかし、国東に黄金の秘密が動いているとすれば話は違う。他殺の線が濃くなる。そうは思わんか」 「そうですね」  加藤は注意深い顔になって頷《うなず》いた。 「慎重に行こうぜ」  津野田はそれを強調したかったのである。もし金だとすれば、これは危険な旅なのである。     2 「一応これでも海岸沿いに走っているんですね」  加藤が言った。 「この道路は国東半島を一周している。だいたいこの道のほかには紛《まぎ》らわしい脇道もないんだ。まっすぐ走っていれば嫌《いや》でもサファイア・ホテルのあたりへ出る。通りすぎてまっすぐ行けば宇佐へ出るんだ」 「海ぞいの道というのはもっと海っぺりの、崖《がけ》の上をうねうねと行くものなのに、この道は随分内側へ入り込んでしまっていますね」  眺《なが》めが思ったほどでないからだろう。加藤は失望したように言った。  たしかに陸へ入り込んだ道で、切り通しが多く、すぐ海が見えなくなる。 「またトンネルか」  加藤は前方にトンネルがあるのを見て言った。車はその穴へ向かって突進し、すぐ通り抜けた。 「こりゃ、昔はかなり不便な所だったらしいですね。今まで抜けたトンネルはみな新しいですよ」 「今だって大して便利のいいところじゃないさ」 「でも、この道とトンネルのおかげでだいぶ楽になってるはずですよ」 「キャンプ場や海水浴場はいくらかにぎやかになったらしいな。しかしそれだって県下の学校の生徒たちが主らしい」 「ブームは起きないんですか」 「ブーム。何のだ」 「国東ブームですよ。京都《きようと》も倉敷《くらしき》も萩《はぎ》も、主に女性向けの雑誌が煽《あお》ったんでしょう。ここもそうしてやればいいのに」 「国東ブームか」 「ええ。僕らの目から見ると、まだ毒されていない感じだなあ。道ぞいの看板も余り目立たないし、ガメツさが全然感じられませんよ」 「ここに若い女の子を集めるのはちょっとむずかしい仕事だな」  津野田は加藤の夢想を笑った。 「鉄道は日豊《につぽう》本線がこの半島の頸《くび》のところを通っているだけだ。半島内部にはこの道があるだけさ。一応国東から豊後高田《ぶんごたかだ》市へ、両子山《ふたごやま》を通って縦貫する道路が地図には出ているが、実際にはまだ途中からガタガタ道で使いものにはならない。トンネルがたくさんあるくらいだから、坂が多くてサイクリングもそうおすすめはできんし」 「でも国立公園なんでしょう」 「いや県立だ」 「なあんだ」 「しかし、見るべき場所には事欠かない。みほとけの里、六郷満山の地だからな」 「六郷満山って何のことです」 「六郷というのはこの豊後国国東《ぶんごのくにくにさき》郡の六つの郷のことだ。この辺りが武蔵《むさし》町で、もうすぐ国東港のある国東町へ入るはずだ。両方とも六郷のひとつさ」 「満山というのは……」 「その六郷に点々と山寺があるのさ。そういう古い寺々を総称して六郷満山というらしい。どうやらこのあたりは、仏教が日本へ入って来た直後に根をおろした土地らしい、俺の考えだから当てにはならないが、ひょっとすると集団的に仏教をうけ入れた最初の土地じゃないかな。百済聖明《くだらせいめい》王の献仏などよりずっと早くに、ひとつの異教徒集団としてこの土地の人々が仏を崇《あが》めていたのかも知れない。半島だから周囲の他部族との宗教的な摩擦も避けられるし、それにどうも宇佐の神様が前面に立ちはだかって彼らを庇《かば》ってやった形跡もあるようだしな」 「ほう、宇佐の神様がねえ」 「君も宇佐説を唱えていたんだろう。知らないのか」 「残念ながら、そこまでは手がまわりませんでしたね」 「まったく宇佐の神というのは面白い性格を持っているな。俺は日本文化というか、日本人の文化に対する態度というか、そういったものを考えると、宇佐に卑弥呼《ひみこ》がいたとしか思えなくなる時があるんだ。背広着て車を運転して、ウルトラ・ルーセント・スキン・ケアーだとかなんとかいう広告をちらちら見せられて、フォークとナイフでハンバーグ・ステーキとライスを食ってさ、それで家へ帰ると服を脱いで浴衣《ゆかた》かなんかに着がえて、下駄《げた》を履《は》いて散歩をして、畳の上にあぐらをかいて箸《はし》と茶碗《ちやわん》で飯を食ってだな、それで便所は水洗の洋式で寝る時はベッドだ」  加藤が途中から笑い出していた。 「まったくごちゃごちゃですね。われながらおかしくなる」 「家を建てる時は神主を呼んでお祓《はら》いをして、仏壇に灯《あか》りをあげて死んだおやじにそいつを報告する」 「うちの田舎《いなか》におかしな婆さんが一人いましてね、クリスマス・イブに誰かがケーキなんか買って来て子供たちとにぎやかにやるでしょう。そうするといつの間にかうちの外の道の四つ辻にあるお地蔵さんのところへ行って、蝋燭《ろうそく》に火をつけて明るくして来ちゃうんですよ」  今度は津野田が笑い出した。 「神さんのお祭りの日だからって……。判《わか》るでしょう、これ」 「判る。世界中にこんな人間どもはいないな。何もかも呑《の》み込んじまうんだ。こと宗教に関しては化け物だよ。底なしの胃袋を持っていると言うか、無定見きわまると言うか」 「だいたい地蔵さんなんていうのはいったい何者です。道祖神で境神《さかえのかみ》で、陽物崇拝のシンボルで……縄文《じようもん》時代から生きのびているものなんじゃありませんかね。男根をかたどったものが道祖神になり、地蔵|菩薩《ぼさつ》になっちゃった……」 「それさ」  津野田は我意を得たというように頷いた。     3  二人の会話がちょっと跡切れた。国東港、という道路標識が見えて、国東の町へ入ったからであった。 「港町らしい雰囲気《ふんいき》はあるけれど、少しも荒っぽい感じがしませんね」  加藤が感心したように言った。 「白水郎と書いてアマと読む。その白水郎《あま》が住む海部《あまべ》郡は大分市のもっと南だが、この港も古代の白水郎《あま》たちが出入りした港だろうな」 「豊《とよ》の国ですね」 「そうだ。……マキムクヒシロノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトの御船《みふね》、すおうの国のさばの津より発《た》ちて渡り行き給い、はるかにこの国をみそなわして勅《の》りたまわく、その見ゆるは、若《も》しくは国《くに》の端《さき》かと。よりて国埼《くにさき》の郡《こおり》と言う」 「なんですか、それは」 「豊後国風土記さ。景行《けいこう》天皇が熊襲征伐《くまそせいばつ》に九州へ来た時、これが豊《とよ》の国のさきっぽかと誰かに訊いたんだな。それで国埼《くにさき》となったと言うんだ」 「吾妻《あづま》はや、の口ですね。俺もやろうかな」  加藤はふざけていた。 「加藤の命《みこと》この地に至り、ろくなキャバレーもないのにがっかりしたまいて、つまんねえとこだな、とのたまいぬ。よりてそれよりのち、この国をツマンネの国と言う」 「ツマンネの国か」 「女房の妻に根っこの根」 「妻根の国か。それならあっちこっちに出来るぞ。日本中妻根だらけだ」 「妻根銀座なんて」 「妻根温泉……誰も行かなかったりしてな」  冗談を言い合っている内に、車はさして大きくない国東町を走り抜けて直線に近い海ぞいの道へ出た。  人家が減ったとたん、二人の乗ったブルーバードは、うしろから威嚇するような警笛の音をたてつづけに浴せられた。 「なんだい、あん畜生」  加藤は罵《ののし》りながら、それでも素直に左へ車を寄せて道をあけてやった。  すると、淡いベージュの大きな車が、金具をこれ見よがしに輝かしながら、ぬっとうしろから出て来て、ブルーバードの右を一気に走り抜けて行った。 「サンダーバードでやがら」  加藤は呆《あき》れたように言った。 「おい見ろ。品川ナンバーだぞ」  津野田も驚いて高い声を出した。乗っていたのは女が一人だけである。 「いい女だなあ」  加藤はサンダーバードのうしろ姿をみつめて言った。 「同じバードでも大違いだ」  津野田はそう言って笑った。 「フェリーで来たんですね。ダイヤモンド・フェリーというのが大分まで来てるはずですよ」 「ホテルの招待客か」  津野田は警戒するような目になっていた。 「凄《すげ》え連中が来てるんだなあ。ねえ社長、本当に金の匂《にお》いがしそうですね」 「でも余り品がよくないような気もする。運転しているのが女だったしな。黄金の秘密がうごめいているとすると、もう蠅《はえ》がたかりはじめているんじゃないだろうか」 「あのテの車は、やくざなんかがよく乗りまわしていますからね」 「まあいいさ。行って見れば判る」  二人はしばらく黙り込んで国東の景色を見ながら走った。     4 「羽田海岸か。ハネダって読むんでしょうね」  加藤が言った。沿道の看板を見たのだ。 「判らんな。ウダかも知れんしウタかも知れん。日本語は厄介《やつかい》だなあ」  津野田は嘆くように答えた。 「両子《ふたご》山というのはどれです」  津野田は左側の窓の外を眺めた。 「見えないようだ」  津野田は背中をずらして少し右向きに坐り直し、 「大分が福岡県と接している部分にミヤコ郡というのがあるのを知っているか」  と尋ねた。 「京都と書くんでしょう。あれは福岡県の郡ですよ」 「昔風に言えば豊前《ぶぜん》だ」 「ええ」 「豊《とよ》の国が豊前《ぶぜん》と豊後《ぶんご》に分けられたのは七世紀の終りだが、豊の国という名はさっきの景行天皇がその京都《みやこ》の行宮《あんぐう》にいた時に付いた名だとされている」 「命名天皇と名前を変えればいい」 「その頃としては農産物というか山の幸というか、まあそういうものの豊かな国だったんだな」 「ねえ社長、痩《や》せ我慢をすることはありませんよ」 「痩せ我慢を……」 「豊の国なんでしょう。例の、卑弥呼が死んだあとを継いだ宗女|台与《とよ》の国だって、思い切って言っちゃいなさいよ。楽になるから」 「刑事の尋問みたいなことを言いやがる」  津野田は苦笑した。 「卑弥呼もって死す。大いに冢《ちよう》を作る、ってね」 「倭人伝《わじんでん》だな」 「徇葬《じゆんそう》する者、奴婢《ぬひ》百余人。更に男王を立てしも国中服せず。兎々《こもごも》相 誅殺《ちゆうさつ》し、当時千余人を殺す。……で、収拾がつかなくなって、復《ま》た卑弥呼の宗女|台与《とよ》、年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まるって奴です。卑弥呼婆さんのあとに、お台与《とよ》ちゃんという十三の女王が出現したわけです。そのお台与ちゃんの国で台与の国」 「気楽なもんだな」  津野田は呆れたように言った。 「豊の国と言うが、気候風土に敏感にならざるを得ない古代人にとって、それは決して単一の条件下にあるひとつの国であったとは思えない」 「どうしてです」 「恐らく、最低三種類の部族に分れていたんじゃないかと思うんだ。昔は平均化されていないから、性質の異る集団が豊の国地方に三つあったと考えていい。なぜかと言うと、海ぞいの北の部分は……つまり瀬戸内海に面した側だが、これは同じ海ぞいでも南のほうにくらべると雨量の点ではっきり違っている。北部は雨量が少なく気候は穏やかだ。米や果物がたくさんとれるし、芋草《うも》茂る豊の国と言っていい。芋草は里芋のことさ。一方、南は高温多湿で年間雨量も段違いに多い。二〇〇〇ミリもあるんだ。そして内陸部はこれまた寒暑厳しく、今でも牧牛や高地野菜、それに林業が中心だ。つまり、三つの異る植物相を持っていると言ってもいい。今ではそれ程の差には思えないかも知れないが、頼る山の幸で……つまり何を主に食っているかで文化が決ってしまうんだからな。それは海の幸についてだって言えるんだぞ。漁法が一定していれば、海流によっておのずから海の縄張《なわば》りのようなものが決って来る。三陸沖あたりには太平洋側と日本海側の漁法の境界があった痕跡《こんせき》が見られるというじゃないか。そこらあたりから北は、太平洋なのに日本海側の漁民の縄張りになっていて、互いに侵さなかったそうだ。つまり、豊の国もはじめは三つの集団がバラバラに存在していたんだな。南部の多雨地帯には江南型の文化が入っていたかも知れないし、或いは北部が江南型で南部はもっと南のタイプとか」 「そうすると内陸部は大陸北部、騎馬民族系と言いたいんでしょう」 「その通りさ。渡来人は故郷に似た土地に落着くだろうからな。それは単なるノスタルジーなどというものじゃなくて、持って来た技術なり文化なりが生かせるからだ。炭を焼いていた人がタクシーの運転手になるというような時代じゃないからな」 「そうすると、寒いところから馬やなんかを持って来た連中は山の人ですね。そういう連中は寒暑の差のはげしい山岳地帯に住むのがうまい。山歩きをしたり馬に乗ったり、寒さを防いだりするからズボンにシャツを着ている。筑前《ちくぜん》、筑後《ちくご》、肥後《ひご》、日向《ひゆうが》と、九州を縦に占領してその中心部に豊の国が来る」  加藤は調子に乗って来たようだった。     5 「大分に耶馬《やば》があり宮崎には高千穂の峰や天の岩戸があり、九州における邪馬台国の比定地はほとんどその地帯に含まれてしまう。これが大陸から来て好んで高地に蟠踞《ばんきよ》した人々と見ても、一番古くからいて沿岸部のいい所をあとから来た連中に取られた人々と見てもいいが、とにかくこれは祖先が天から降ったという信仰を中心にしている。一方、沿岸部には明らかに海人系の人々が住みついている。彼らは当然海の神を尊めている。宗像の三女神や綿津見神がそれだ。海人の神がその二つの神に分けられるところから見て、二系統あったと考えてもいい。それらの文化が異る集団は、互いに反目し合い、摩擦を繰り返しながら接触して融合の方向へ近づいて行く。宇佐のようなところは、その海人と山人がなれ合った場所ではないのかな」 「そうなんですよ。その点では僕の考え方も同じです。僕は宇佐を海人系の根拠地か前進基地のひとつと考えているんです。宇佐八幡ははじめに三女神がありましたからね」  加藤が言うと津野田は目を細めた。 「君とこのことについて深く話合うのはこれがはじめてだな。俺は少し違う意見だ」 「ほう、宗像三女神じゃないんですか」 「三女神はあとだと思う」 「なぜ」 「いいかい。宇佐の二之御殿、つまり三つ並んだ神殿の中央に位置しているのはたしかに宗像の三女神と同じらしいが、その三女神は宇佐では大元山《おおもとやま》へ天降ったことになっているんだ。宇佐島へ天降り給いぬ、さ。これは天孫降臨説話《てんそんこうりんせつわ》を持っている連中のところへ、それよりやや強力な三女神がのちになって嫁入りして来たことにならないか」 「なるほど」 「とにかくオリジナルではないんだ。俺は二つの宗教が重なったと見るね。山人の聖地へ海人の神が入ったんだ。これは三女神でも起ったことだし、綿津見のほうでも起っていると思う。要するに、山人と海人が融和して行くのが時代の方向なんだよ。そして融和は彼らの世界に新しい力を呼び起すのさ。綿津見と天孫、三女神と天孫という組合せは、それまでの分裂したものをまとめてより強力なものにする。その融和を加速したものとして、俺は稲作を考えているんだ。山人は、言って見れば神出鬼没の漂泊民だ。定地耕作者にとって、これは厄介な存在だぞ。どうしたって連中と融和して行かねばならん。と言っても、山人が剽悍《ひようかん》で海人がおとなしいばかりとは言えん。海人だって剛の者|揃《ぞろ》いだろう。だが稲作が重荷だ。融和してどちらが上《かみ》についたかと言えば、多分山人ではないかな。だが山人は移動を常としているだろう。その根拠地を仮りに高千穂あたりとしようか。危険な連中だがたまにしか出て来ないから、収穫期になるとはやばやと初物《はつもの》を呉れてやって、そのかわり山の神、田の神として安全を保証させている。このパターンはよくあるよ。ギャングに一定のものを払って、そのかわりほかのギャングから守ってもらおうって奴だ。そしてギャングのほうもだんだん統一に向かって行く。そして大親分が出て来た。海人のほうでも、一番強力なシャーマンのいる聖地がいわば都のような形になって来る。海人は多分山のギャングよりまとまりかたはゆるやかだったろう。彼らの縄張りは海だからな。そして海は山よりずっと危険だ。航海も漁撈《ぎよろう》も投機性が強い。シャーマンにたよる度合は海人のほうが高かったんじゃないかな。だから強力なシャーマンを中心に集まる傾向があり、そのシャーマンは、これはもう間違いなく女だったはずだ。そして或る時点で、山のギャングのボスと海の女王が結びついた。こいつは時代の必然的な流れだった。ここで二つの、山と海の宗教が習合してしまったのさ。天孫に三女神や綿津見が結びついて、天孫を芯《しん》にした新しい神々の物語が生まれるんだ。それは山人にとって、野心の拡大でもあった。強い海軍を持ったわけだからな。大元帥は陸軍を従え、征服の旅に出る」 「神武だ」  加藤が大声で言った。 「そうだよ。高千穂を出た神武を宇佐側が迎えた伝承があるじゃないか。一《あし》 柱《ひとつ》 騰《あがりの》 宮《みや》がその歓迎のあとだ」 「神武は瀬戸内海を抜けて大和へ行った」 「大ざっぱに言うとそういうことになる」 「でも、大和には大和の勢力があって、なかなか思うようには行かなかった」 「ああ、恐らく吉備《きび》あたりでも手間どったはずだしな」 「そしていくらか九州北部でつながりのあった……多分三女神を共通項としていたんでしょうが、最後には大和へ進出していた出雲の勢力と握手して大和へ食い込んで行くわけですね」 「うん。俺は出雲系のほうがその地方へ進出していたのは先だろうし、文化程度もいくらか上だったように思うな」 「とにかく、そうやって三輪山の祭祀権《さいしけん》を奪《と》って、しまいには出雲勢力を追い出すかどうかしてしまう」 「その間にも、吉備や出雲の神とも習合しているんだ。それに、神武が大和へ入って活躍したと考えるのは少し単純すぎるな。もう爺《じい》さんになってしまっていたか、或いは何代も首長が交代していただろう。ひょっとするとはじめは出雲勢力の下についていたかも知れん。新来の九州勢は神さんが親戚《しんせき》であるという縁でオオモノヌシ、或いはオオナムチ、オオヤマズミなどとも呼ぶ神を主神とする出雲勢の一員として働いていた可能性が強い。ヤマトトトビモモソヒメとオオモノヌシのドラマを、九州勢はうしろのほうで眺めていたかも知れん。俺は箸墓の主だというそのヤマトトトビモモソヒメの死のあたりから、どうも九州勢が力を伸して来たような気がする。これは或る古代史研究家の先生のうけ売りなんだが、ヤマトはいいとして、トトビというのは鳥が飛ぶという意味で、時には魂の飛ぶたとえに使われるんだそうだ。そして、モモソというのは百の襲《ソ》ということで、百人の襲《そ》の人ということになるらしい。百人の襲の人の魂が飛ぶ女さ」 「何のことです」 「殉死《じゆんし》さ。それも自発的でない奴だよ」 「熊襲《くまそ》の襲《そ》ですね」 「うん。これを奴婢と解してもいいが、景行天皇と呼ばれる人物がいたな」 「ああ、国東や豊の国の命名者のあの命名天皇……」 「うん。第十二代ということになっているんだが、応神は十五代だからその少し前ということになるわけだ」 「そうなりますね」 「熊襲征伐に来ているんだぜ、この九州へ」 「出戻りですね」 「のちの大和の天皇の直系かも知らんが、その当時はまだ一部将ではなかっただろうかな。一説では、景行天皇というのは伊都国の王ではないかとも言う。景行の王子と目される人物に襲津彦《ソツヒコ》というのがいる。ヤマトタケルノミコトはこの景行の王子の一人だ。おやじさんが熊襲征伐に来たあと、王子のタケル君がまた寄越されるんだが、このときタケル君はヤマト姫という姫君の衣裳《いしよう》をかりて着て来るんだ。これは有力なシャーマンであるヤマト姫の霊力をかりたことになるのだろうが、ヤマト姫はモモソ姫の孫《まご》に当たるくらいのところにいる人物らしい。ということは、百人の襲の人をともなって死んだというモモソ姫は、死んだとき景行やタケルの得た戦果である奴隷《どれい》を百人も殺して葬られたというのが俺の考え方なんだよ」 「タケルは東のほうにも遠征しますね」 「うん。そしてヤマト姫はのちに伊勢と結びつけられる。つまり、景行やタケルの時代は大和が四方八方に力を伸して行った時代で、その拡大期の功労者が、やがて権力の座につく機会を得るのはいつの時代でも同じことじゃないか。死んだあとでモモソ姫と呼ばれるようになるのと同じように、景行天皇ものちにそう呼ばれたというのはどうだい」 「なるほどね。そして、応神天皇、つまりホムダワケノミコトあたりで、九州でも畿内《きない》の勢力に従うようになって、そうなるといったん出て行って向うで成功した仲間を、あれはうちの親戚だと言いふらすことになるわけか」 「宇佐に八幡神が現われるのはその頃なんだな。なぜか突如としてヤワタの神が出て来る。これは強くなった分家に対する遠慮もあったろうし、本家側の保身でもあったんじゃないかな。今さらうちが本家だとも言えないし、ひょっとするとヤマトという呼び方だって、畿内へ行った連中があとになって言い出したことかも知れない。それに、出て行く時に持っていた宗教は、現地でいろいろと習合して変ってしまっている。だが元は同じだと言わなければならないし、そこでヤワタの神、又はヤバタの神が宇佐に忽然《こつぜん》と出現し、それを実はこの神さんは応神さんなんだよ、ホムダワケさんなんだよ、と主張したのさ。それを補強するか、或いはそうなるまでの過程のひとつとして、ホムダワケさんのお母さんに当るオキナガタラシ姫、つまり神功皇后《じんぐうこうごう》をあわせて祭神としたわけだ。一之御殿は八幡大神、二之御殿は比売《ひめ》大神、三之御殿は神功皇后だ。ずっとあとになって、これはそれぞれ春日神社、比売神社、住吉神社の三つにそれぞれ結びつけられて行く。もともと九州の三集団が手を結んだ土地だし、主神は三女神だったわけだし、なかなか面白いと思うんだが、二之御殿の北辰神社というのは北極星や北斗七星を崇拝し、妙見さまとして祭るものだから、三人の海の女神という性格からすれば、まさにそのものズバリというところだな」 「またトンネルだ。やけにトンネルが多くなりましたね」  加藤は面倒そうにライトをつけた。     6 「のちの大和朝廷は何かというと八幡神社を頼りにする所があった。東大寺の件では明らかに仏教採用に対するバックアップを要求しているし、後継者問題では道鏡が宇佐を利用しかけ、和気清麿《わけのきよまろ》が同じ宇佐の神託でその野望をくじいたわけだ。道鏡に有利な最初の神託は習宜阿曾麿《すげのあそまろ》という男の禰宜《ねぎ》が扱っているが、清麿は古式通りに女禰宜辛島勝乙目《めねぎからしまのかつおとめ》によって神託を得ている」 「宇佐は黄金にからんでいるんですね」  加藤が言うと、津野田は一瞬戸惑って、 「え……」  と加藤を見た。 「聖武天皇が奈良東大寺の大仏にメッキする黄金がなくて困っているとき、宇佐の神さんが八幡の力で黄金をこの国土から出るようにしてやると言ったでしょう。そして陸奥の国から百済敬福《くだらけいふく》という男が掘り出して来るんじゃないですか」  加藤は津野田の度忘れをとがめるように言った。 「あ、そうだったな」  津野田は考え込んだ。 「聖武天皇はその黄金を宇佐に奉納したり、おかげさまでとか何とか言いながら、手向山八幡宮を建てるんです。でもちょっと八百長臭いな。タイミングがよすぎますよ。ひょっとすると宇佐の側に金の手持があったんじゃありませんかね」 「おい、あれはさっきのサンダーバードじゃないか」  津野田は加藤に教えた。 「あ、そうだ。エンコしてやがら」  派手なサンダーバードが道路わきの溝《みぞ》に左の前輪を落してとまっていた。 「ざまみろ」  加藤がそう言ったとき、車のかげから鮮やかなブルーのスーツを着た女の姿が現われ、津野田たちの車にさっと右手をあげて合図した。 「とめろ。乗せてってやろう」  津野田が言った。 「どうせあのホテルの客だろう。早く知合いを作ったほうがいい」  加藤ははしゃぎながら減速する。 「只今のざまみろはお詫《わ》びして訂正いたします。気の毒ゥ……」  サンダーバードで追い抜かれた時はいかにも驕慢《きようまん》な女に見えたが、よく見ると案外しとやかな感じであった。 「誰だい、やくざの情婦みたいに言ったのは」  加藤はつぶやいてサンダーバードのそばへ車をとめた。  津野田が窓をあける。 「どうしました」 「ごらんの通りですの。やっちゃった……」  美女は気さくな態度で言った。 「見てあげましょうか」  津野田がドアをあけると、その美女は首を横に振った。ゆるく波打たせた長めの柔らかそうな髪が品よく揺れる。 「シャフトが折れちゃったらしいんです。この先まで乗せて行っていただけませんかしら」  津野田は手を伸ばしてうしろのドアのロックを外した。 「どうぞ。でも、荷物はいいんですか」  女はハンドバッグひとつを手にしているだけだった。 「荷物はこれだけ」 「じゃあ乗ってください。どうせ一本道ですし」 「すみません。じゃあお願いします」  女は軽い身ごなしでうしろのシートへすべり込むとドアをしめた。加藤はちょっと照れ臭そうな表情で車をスタートさせた。 「どちらまで……と訊《き》くところですが、見当はついています。当ててみましょうか」 「あら……」 「サファイア・ホテルでしょう」 「驚いたわね。当りましたわ。ああ、そういえば東京弁ね。あなたがたもあのホテルへ招待されていらっしゃるの……」 「そうです。もう少し推理させてもらいましょうか」 「ええどうぞ」 「今日で二日目。お連れさんあり」  女は笑い出した。 「易者さんみたい。よく当るわ」 「荷物がないのはもう泊っている証拠。一人であのでかい車を飛ばしているところは退屈した証拠。溝へ突っ込んじゃったのは余り運転が上手でない証拠で、品川ナンバーだからほかにもっと運転のうまい同行者あり」 「まあお見事。こんなところでシャーロック・ホームズにお会いできるなんて意外ですわ」 「僕、ワトソンと言います」  加藤が言い、三人が一緒に笑った。旅先の気易さか、すんなりと親しくなれたようであった。     7 「古いお寺がたくさんあるって聞いたから見に行ったんだけど、駄目でしたわ」  女はハンドバッグから煙草を出しながら言った。 「そりゃそうですよ。あの車じゃでかすぎる」  津野田が答えた。 「国東町のはずれあたりで抜いて行きましたね」 「あら、そうだったかしら」 「派手な車を美人が一人で乗りまわしているんです。そこら中の人が憶《おぼ》えているでしょう」 「ほんと、大きすぎたわ、あの車」 「国東町から高田へ抜ける標識を見て入って行ったんでしょう」 「そうなの。入口はとてもいい道だったけど、すぐにガタガタ……引っ返して来ちゃったんです。でもよくご存知ね。こちらへはちょいちょいいらっしゃるの……」 「そうしょっ中来るわけじゃありませんがね」 「でも、この辺りは詳しいみたい」 「いくらかは知っていますよ」 「このくらいの車なら入って行けそう。折角来たんですもの、お寺を見てまわりたいわ。ホテルで貸してくれないかしら」  すると加藤が間髪をいれずに言う。 「よかったらご案内します」 「あら……」  女は瞳《ひとみ》を大きくして加藤を見た。 「かまいませんよ。どうせ山へ入りこむつもりなんですから」  津野田も口をそえた。 「真木大堂というのを見たいんです」 「それならこの道をぐるっとまわって豊後高田《ぶんごたかだ》から桂川《かつらがわ》ぞいに入って行ってもいいし、鉄道線路ぞいに行って立石《たていし》というところから入る行きかたもある」 「やっぱりお詳しいのね。ご一緒しちゃおうかしら」 「でも、いつまでご滞在です。今日これからというわけには行きませんよ」 「あと何日いるかよく判らないんです」 「ほう」 「父が何かこちらに用があるらしいんですの。あたし、国東は来たことがないからくっついて来ただけなんです」 「それなら丁度いい。あ、ここが伊美《いみ》だ。国東半島のいちばん北の端に当る」  津野田はさっきの話の続きのように加藤に向かって言った。 「この辺は熊野《くまの》そっくりなんだ」 「紀伊《きい》半島のですか」 「うん。半島のとっ先だから地形が似てしまうと言えばそれまでだが、那智《なち》のあたりに本当によく似ているのさ。ここの海人族がもし紀伊半島へ神武たちを運んで行ったとすれば、那智の辺りへ上陸させたかも知れんな。こことそっくりなんだからね」  女がうしろのシートからたまりかねたように身を乗り出して尋ねた。 「神武って、あの神武天皇のことですの」 「そうですよ」 「あら、神武天皇って、このあたりの人でしたの」 「日向《ひゆうが》の高千穂《たかちほ》の峰から出て、宇佐《うさ》のあたりへも立寄ってから大和《やまと》へ向かったことになっているんです」 「まあ」  女は意外だったようである。 「この辺は八幡さまの本場ですよ。この道の近くにも、岩倉《いわくら》八幡、伊美《いみ》八幡、別宮八幡、真玉《またま》八幡と幾つも八幡さまを祭ったお宮がありますし、もう通り過ぎてしまったけれど、八坂さんもあるんです」 「八坂さまって、京都のあの八坂さまかしら」 「ええ」 「どうして……」 「どうしてと言われると困るけど、とにかくあるんです」 「やだわ、どうしてなのかしら」  女は我儘娘《わがままむすめ》が甘えたときのように言った。     8 「国東という所は、昔は便利のいい所だったんですよ。海上交通が主だった古代にはね。だから今でもいろんなものが入りまじっているんです」 「昔は栄えたところなのね。栄えたところはどこもごちゃごちゃしてるわ。京都もいろんな神さまや仏さまがいるし、そうかと思うと共産党が強かったり」 「この人の見方はユニークだね」  津野田は加藤にそう言って笑った。 「ごめんなさい、とんちんかんで。あたし歴史は苦手なの」  女も笑いながら言った。 「ごちゃごちゃなのは実は国東の大きな特徴なんです」 「あら、なぜ……」 「いまも来る途中で彼とずっとその話をしてたんですが、宇佐からこの辺りへかけては古いものが新しいものに化けて生きのびる名所みたいなもんです。たとえばあなたが見たいという国東半島の古いお寺は、仏教がまだこの日本の国の宗教として定着しない頃、朝鮮半島からかなり早くに伝わって来ていて、それをもとにして出来上がっているらしいんです」 「じゃ随分古いんですのね」 「お寺そのものは奈良あたりのものにくらべるとそう古いほうではないんですが、まだお寺などどこにもない頃、すでにこの辺りには仏教の匂いがする、坊さんとも神主ともつかない人々が入りこんでいたんですよ。朝鮮半島の新羅《しらぎ》という国に花郎《かろう》とか花郎道とか言うものがありましてね。山伏とか修験道とか言うのと同じものです。仏教とシャーマニズムの入りまじったものらしいんですが、その人たちが母子神《おやこがみ》の信仰を運んで来たんですね。宇佐に祭られている神功皇后と応神天皇は母と子の関係ですし、古代の神には母と子の関係が出て来るものが多いんです。これはアマテラスなどにつながるのかも知れませんが、神さまの母ですからね。神の母と書いて神母《しんも》。古代の発音ではそれをニンモと言ったかも知れません。そういう神母を奉ずる人々の中から、専門の僧や神主のような連中が出て来て、やがてそれがニンモンと称されるようになるのです。そしてニンモンたちは初期の仏教をうけいれ、花郎道をとり入れて山伏・修験道になって行くんですが、これは当時とてもモダンなことだったようです。最新の科学技術を身につけるんですからね。仏の僧でもなく、シャーマンとも少し違う。道教《どうきよう》の道士みたいな感じでもある。役行者《えんのぎようじや》を知っていますか」 「少しは聞いたことがあるわ」 「ああいう感じです。火薬や医学にも詳しくて、一部はおなじみの忍者などにつながって行くんですが、国東ではそれがニンモンになり、やがて或る時期に至ると、ニンモンたちがいっせいにお寺を作るのです。それがだいたい養老二年ということになっていて、だから国東六郷の古い寺はみな養老二年にニンモン菩薩が開基したことになってしまう。これは一人の高徳の僧がやったのではなく、ひとつの流行のように、ニンモンたちが我も我もとお寺を作りはじめたということでしょうね。鎌倉時代になると、このニンモン菩薩は八幡さまと同じものだということにされます。つまり、宇佐の神さまも国東の仏さまも、もとを辿れば同じ人たちの宗教からはじまっていて、それがごちゃごちゃにうまくミックスされて、その時代時代を生きのびて来ているわけです。その点で言えば、最も日本的な構造ですよ。アマテラスも観音さまもお地蔵さんもいっしょくたにして、ただ有難い神様でございますと、こうなるんですからね」 「面白いわ、そういうお話」  女は真面目な表情で言った。 「サファイア・ホテルの看板があります」  加藤が言った。  道の前方に大きな野立看板があり、青地に白抜きで大きな矢印が海のほうを示していた。 「ほう、岬《みさき》の先端に建っているんだな」 「あら、サファイア・ホテルははじめてですのね」 「建ったばかりでしょう」 「あらごめんなさい。そう言えばそうね」  女はのけぞって笑った。喉《のど》のあたりの白い肌《はだ》が、いかにも柔らかそうで艶《なま》めいている。  車は右折し、専用道路へ入った。思ったよりずっといいホテルらしかった。     9  周防灘《すおうなだ》を背景にした、まあたらしい白亜の南欧風の建物であった。  よく手入れされた緑の濃い土地のまん中を白い専用道路が続いていて、近付いて来るその建物の窓を縦に数えあげて行くと、窓は六つあり、七つ目はアーチを連続させた装飾をとりつけて、その上に赤い洋瓦《ようがわら》の屋根が粋《いき》な感じで乗っていた。 「七階建てか」  加藤がつぶやいた。 「七階はパブリック・スペースよ。ラウンジにバーにダイニング・ルームに……それから何だったかしら」  女は小首を傾げた。 「案外よさそうだぞ」  津野田はそう評した。どことなく隙間風《すきまかぜ》を感じさせる田舎ホテルだと思っていたのだが、目の前の建物からはたっぷりと金をかけた迫力のようなものが漂って来るのだ。 「ヒナマレ……ですね」  加藤も同じように感じているらしい。 「たしかにいいホテルよ。あれなら東京のまん中にあってもおかしくないわね。それに、オープンしたばかりのせいかも知れないけど、従業員も粒ぞろいみたい」 「そう……」  津野田はホテルをみつめて頷いていた。 「何だか知らないけど、迫力があるな。この土地の人は入りにくいんじゃないだろうか」  まったく加藤の言う通りであった。陽光を浴びて一見もの柔らかに建っているが、贅《ぜい》の凝《こ》らしかたが並々でなかった。ここまでいいセンスで押しまくられると、このテのホテルに慣れない人間は、取り澄した冷たさを感じてしまうようであった。 「食事はどうです」  津野田は振り返って女に訊いた。 「それが凄いのよ。東京でもあれほどのお料理はなかなか頂けないわね。あたしはとにかく、父がかなりの食通なんですけど、驚いていましたわ。ワイン・リストを見たんですけど、ほとんどないものはないんじゃないかしら。テラスのコーヒーまで申し分ないの。こんな所にこれ程のものをこしらえてしまって、成り立って行くのかどうかって余計な心配をしたくなるわ」  津野田は唸《うな》った。あらためて建物を眺める。 「どうやったら採算が取れるんだろう。作った人間は何を考えたのかな」  六郷満山の古びた寺々とそのホテルが、うまく結びつかない感じであった。  車が正面に着いた。  エメラルド・グリーンの制服を着た男が二人さっと近寄って来てドアをあける。 「いらっしゃいませ」 「荷物はトランクに入っている」  津野田は少し気おされているらしい加藤にかわって素早くそう言い、目くばせをした。 「どうぞこちらへ」  一人が三人を先導しようとして女に気付いた。 「あ、お帰りなさいませ」  加藤がキーをもう一人に渡している。 「車を溝に突っ込んじゃったのよ。手配してくれる……」  女が言う。 「どの辺りでしょう」 「多分|住吉崎《すみよしざき》のあたりだったと思うよ」  津野田が教えてやった。 「サンダーバードでございましたね」 「そうなの。シャフトが折れたみたい」 「すぐ手配いたします」  あわてる気配もなく言い、制服の男は三人の先に立って歩きだした。 「車、どうします」  加藤が小声で言った。 「放っておけば納まる所へ納まる」 「こういうの、弱いんですよ」  加藤ははやばやと弱音を吐いた。  エントランスは吹き抜けで、大きな車輪形の枠組《わくぐみ》を持ったシャンデリアが煌々《こうこう》と灯《とも》っていた。その真正面の突き当りに巨大な両びらきのドアが見え、そこまでの間がロビーになっていて、一人掛けのソファー二つと三人がけのソファーが対になった三点セットが五組、一直線にでんと置き並べてあった。  フロントは左手前で、清潔な感じの黒服|蝶《ちよう》タイの男たちが津野田に目礼を送っている。 「608はどうなっているかしら」  フロントへ着くと女が先に尋ねた。 「608。麻績部《おみべ》さまでいらっしゃいますね」 「そう」 「おでかけでございます」  女は津野田に笑顔を向けた。 「父たちは仕事で出掛けたようだわ」  津野田は愛想のいい笑顔で待っているフロントの男に、招待状を差し出した。 「お待ち申しあげておりました」  その男の声は、録音した声を聞いているような感じであった。  第七章 質 問     1  外人の姿が目立った。  津野田と加藤のスーツケースを提げたベルボーイがエレベーターのボタンを押した。 「いいホテルだね」  エレベーターのドアが閉ると、三人きりになった箱の中で津野田が言った。 「有難うございます」  ベルボーイはなめらかに受け、微笑して軽く頭をさげた。  六階へ着いてドアがあくと、 「610号室でございます」  と言った。 「610か」  津野田は鸚鵡《おうむ》がえしにつぶやいた。明るいブルーのカーペットが敷いてある廊下を、ボーイが先に立って行く。 「何室ぐらいあるのかね」  そう訊《き》くと、 「客室は一三〇ほどです」  という答が返って来た。  ボーイが610号室のドアをあける。向かい側のドアには611という番号があった。  津野田は部屋へ入った。 「セミスイートか」  加藤がうれしそうに言う。ボーイはスーツケースを運びいれ、キーをテーブルに置きながら言った。 「本営業になりましたら新婚用のお部屋になります」  くどくどと室内の説明をしないところがいい。 「建物のわりに客室の数が少ないんじゃないのかね」 「はい」  ボーイは津野田を褒《ほ》めそやすようにみつめて答える。 「一部はマンションになっております」 「え……」  津野田は呆《あき》れたように言った。 「こんな場所にか」  その言い方が少し鋭すぎたので、加藤がボーイの味方をするように言った。 「別荘にするんだよな」  ボーイはニコニコと笑い、ハイと答えてから、 「ほかに何かご用はございませんか」  と言った。 「どうも有難う。結構だよ」  津野田は窓の外にひろがる周防灘《すおうなだ》に目をやりながら答え、ボーイが出て行くとすぐ、たまりかねたように加藤に言った。 「おかしいと思わないか」 「何がです」  加藤は自分のスーツケースの留金をはずし、中のものを出しはじめていた。 「呑気《のんき》な奴だな。俺たちはここへ見物に来たんじゃないんだぞ」 「判《わか》ってますよ」  加藤はちょっと不服そうだった。 「何か怪しい所があるんですか」 「あるね」  津野田は窓を背にしたソファーにどさりと沈み込んで脚を組んだ。 「このホテルを見たときから、俺《おれ》の頭の中の警報装置が鳴り続けている感じだよ」 「思ったより立派だからですか」 「そうだ。パンフレットは見ていたが、写真ではこの感じは掴《つか》めなかった。こいつは立派すぎる。これより立派な、設備のいいホテルはいくらでもあるかも知れんが、この土地にあるのはおかしい」 「国東《くにさき》の人が聞いたら憤《おこ》りますよ」  加藤は笑った。液体整髪料の瓶《びん》を持ってバスルームへ消える。 「この辺りの開発の拠点というか、基地にするつもりなんでしょう」  声が先に聞え、姿があとから部屋へ戻《もど》って来た。 「半分はマンションらしい。マンションだぞ、おい」 「分譲でしょうかね」  さすがに加藤もいぶかしげであった。 「いいか」  津野田は声を低くした。 「金《きん》があるとしよう。黄金だ。一攫千金《いつかくせんきん》を夢みて貧乏人が群がり集ったのは昔のことだ。今のこの日本では一定の水準以上の地位を獲得した連中でなければそういうことには参加できなくなっている」 「サンダーバードやベンツに乗った連中ですか」 「そういうことだ。この古い寺や神社しかない半島のどこかに莫大な黄金が眠っているとすれば、まず必要になるのはそういう連中の宿泊設備だろう。金を実際に掘り出すときには、その金の配分はもう決ってしまっている。黄金があるという考えに立てば、このホテルは少しも不自然でなくなる。陸の孤島みたいな所のマンションでも、買う奴《やつ》には事欠かないはずだぜ」 「匂《にお》いますか、黄金が」 「匂う。このホテルは金の匂いそのものだ」  津野田はあらためて贅《ぜい》を凝らした部屋の中を眺めまわした。     2  大分空港へ着いたのが九時半で、かなりのんびり走らせて来たつもりだったが、それでもホテルには正午前に着いていた。 「さあ、飯を食いに行こう」  津野田はバスルームのドアの横の姿見でネクタイをしめ直した。 「開業披露で客が多いようですよ」  加藤は尻込《しりご》みするように言った。 「だからどうなんだ」 「少し時間をずらせたら」 「ばか言え」  津野田は加藤を叱《しか》りとばした。 「なるべく客の立て込んでいる時間に出て行くんだ。何か耳に入るかも知れんじゃないか」 「あ、そうでした」  加藤は首をすくめた。 「お上品ぶった連中の中で食事をするのが苦手なもんですから」 「俺だってぞっとしねえよ」  津野田は荒っぽく言う。少し気が立っているようであった。 「欲のない奴だな」  それに気付いて柔らかい調子に変る。加藤は上着を着てキーを持った。 「なぜです」 「黄金の匂いを嗅《か》いだんだ。もう少しいきり立ってもいいはずだぜ」 「人の金じゃね」 「諦《あきら》めが早いな」  津野田は笑った。 「僕には関係ありませんよ。もしいれ歯をするんだって金なんか使わないでしょうね」 「縁がないときめてやがる」  二人は笑いながら廊下へ出た。 「それじゃ、こっちはどうだ」  津野田はエレベーターのほうへ歩きながら、となりの部屋のドアを顎《あご》で示した。 「何のことです」 「となりは608だ」 「ええ。海側が偶数、山側が奇数になっていますね」  津野田は含み笑いをしてささやいた。 「スパイとか探偵《たんてい》には向いていないな」 「そんなことありませんよ。推理小説のファンですからね」  加藤はちょっとムキになった。 「それでか。サンダーバードの彼女はどこに泊っているんだい」 「あれ、となりでしたか」 「フロントで言っていたろう」 「そうですか」 「だから駄目だって言うんだよ」  エレベーターのドアがあいた。 「まず一階からじっくり拝見しよう」 「うまい飯を食わせるホテルだって彼女が褒めていましたね」 「うん」 「招待された客はどうなんです。自由にメニューを選べるんですかね」 「俺もこういうちゃんとしたホテルから招待されるのははじめてだ。どうなっているのか判らん」 「ちぇっ、心細いな」  加藤は舌打ちをした。 「おどおどしてくれるなよ」 「本当を言いますとね。町のホテルでも苦手なんです。洋食のマナーに自信がないんですよ」 「中学生みたいなことを言うな」 「でも本当だから。自慢じゃありませんがれっきとした田舎者《いなかもの》なんです」 「要するに口へいれて歯で噛《か》んで腹の中へいれる。それだけのことさ。でも気をつけてくれ」 「何をです」 「口以外のところで食うと人に笑われる」  加藤は笑った。  一階へ着くと、正面の車寄せにずらりと高級車が並んでいた。 「団体さまのお着きらしいな」 「観光バスじゃないところが凄《すご》い」  加藤は少しはしゃぎだしたようであった。 「半分は外人だな」 「派手な連中ですね。夜になるとルーレットでも始めるんじゃありませんか」 「カジノのようにすればたしかに客は集るだろうな」  津野田はそう言って目を光らせた。     3  カジノ、と口にしたとたん、津野田は札束の山を連想し、それがすぐ刻印を打った黄金の板につながって行った。  客はみないかにも金《かね》がありそうな連中ばかりであった。日本人と外人がほぼ半分ずつで、全体の三分の一は女であった。外人をまじえた一団が着いたばかりで、フロントのところに人だかりができている。  二人はぶらぶらとロビーを横切り、海側にあるコーヒー・ショップのあたりに行った。 「コーヒーも旨《うま》いといいんですがね」  加藤は無類のコーヒー好きであった。 「どこからどこまで金をかけてやがる」  津野田はそうつぶやいた。 「いますよ」  加藤が肱《ひじ》で突ついて知らせた。津野田がその視線を追うと、あの女が窓際のテーブルから二人のほうに笑顔を向けていた。  津野田はコーヒー・ショップへ入って行った。 「やあ」 「どうも有難うございました」  女は津野田がそのテーブルへつくのを当然のように笑顔で迎えた。 「もうお昼ですね」  まったく、サンダーバードで追い抜かれたときにちらりと見た横顔とは、印象がまるで違っていた。上品でしとやかで、屈託がなかった。すんなり相手を受け入れてたちまち友だちのようになってしまうのは、生まれの良さなのだろうか。 「少し見てまわろうと思って」  ウエイトレスが来て注文を訊いた。 「コーヒーをふたつ」  津野田が言う。 「ここのコーヒーはどうです」  加藤が女に訊いた。 「極上よ。少なくともあたしにはピッタリ」  女は小首を傾げるようにして加藤に答えている。  そのとき、フロントのほうから背の高い中年の男が足早にコーヒー・ショップへ入って来た。黒服に黒の蝶《ちよう》タイであった。女がそれに気付いて軽く頭をさげる。 「失礼いたします」  その男は三人がいるテーブルのそばに立って鄭重《ていちよう》に言った。 「お部屋へお電話を致しましたら、お出になったあとだったものですので」 「何でしょうか」  津野田が訊いた。 「東京の小見さまのかたでいらっしゃいますね」  代理とかかわりとかという言葉を巧みに避けている。 「ええ。津野田と加藤です」 「よくおいでくださいました。手違いでちょっと遅れてしまいましたが、お部屋へご挨拶《あいさつ》に伺うことになっておりまして」 「そうですか。僕らが出るのが早すぎたんですよ」 「お部屋に歓迎のお花を届けさせて頂きました」 「それはどうも」 「お食事、お飲物その他いっさい、一般のお泊りのときと同じようにご利用くださいまし」 「そうですか。判りました」  つまり、伝票にルーム・ナンバーと名前を書けばいいわけである。 「それで、誠に恐縮ですが、お泊りの間、手前どもがお招き致しました特別のお客さまには、これをつけて頂くようお願いしておりますのですが」  男は十円玉ぐらいのバッジのようなものを二つ取り出してテーブルの上へうやうやしく置いた。鮮やかなサファイアの色をしていて、文字や模様は何もなかった。 「特別待遇のしるし」  女はそう言って自分のスーツの左の襟《えり》に白い指を置いて見せた。同じものがそこについていた。 「なるほど」  津野田は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》き、すぐそれを取って襟につけた。加藤も手を伸ばす。 「何かお尋ねなりご注文なりございましたら、アシスタント・マネージャーに仰せつけください」 「有難う」 「今後とも、よろしくお願い致します」  男は名刺を出して加藤と津野田に渡す。副支配人であった。 「お帰りの節にもう一度ご挨拶させて頂きますが、小見さまによろしくお伝えくださいますように」 「承知しました。大変立派なホテルなので感心しているんです」 「それはどうも光栄です」  いろいろ質問して見たかったが、津野田は目の前の女を意識してあっさり副支配人を帰した。     4 「僕らも紹介が遅れたようだ」  津野田は加藤に言った。 「僕、加藤です」  加藤は津野田の計算どおり、女に自己紹介をする。 「僕は津野田。唐津《からつ》の津に野原の野、田圃《たんぼ》の田」  必要以上にすらすらと節をつけて言うと女は軽く笑った。 「困ったわ。あたしのほうはそう簡単に行かないもの」  知り合ってからまだ間がなく、女の言葉づかいは津野田たちに対して、打ちとけたり他人行儀になったりする。 「むずかしい字を書くんですか」  津野田は催促気味なのを笑って誤魔化す。 「麻……植物の麻よ。それに紡績の績、そして部」 「ブ……」 「ええと、部隊の部」  女は白い指をテーブルの上で動かした。 「オミベと言うんです。それに左《ひだり》の左《さ》、布を織るの織るでサオリ」 「麻績部左織《おみべさおり》……」 「ええ」 「凄い名前ですね」 「ややこしいでしょう。全部で六十一画もあるんです。姓名判断の人がびっくりしちゃうの」 「六十一画……」  加藤は目を丸くすると、上着の内ポケットから手帳とペンを出して字画を数えはじめた。 「麻績部とはまた、由緒正しいお名前ですね」 「古いらしいわね」 「古代の職業部のひとつですね。麻を紡いだり織ったりする仕事を持った人たちの名でしょう」 「よくご存知ね。父もそれを知っているのであたしが生まれたとき、左織と言う名を付けたんです」 「苗字と名がぴったりつながっている。もうそんな名は滅多に付けられないでしょうね」 「うちはオミベだけれど、オウミベとも呼ぶ人がときどきいますわ」 「オウミベ。多分そう読める人は学があるんだな」 「子供の頃、あたしの家に出入りしていた人が片仮名で教えてくれたんです。オミべという三字をね。それで、うまく書けるようになったので得意になって祖父のところへ行って書いて見せたら、違うと言って憤《おこ》られちゃったの」 「何で……」 「オの字が違うって」 「あ、ワ行のヲを使うんですか」 「そうなの。でも、今だってなぜアイウエオのオではいけないのか判らないくらいですもの、子供に判るわけないわ」 「そりゃそうだ」 「あたしくやしくって泣いちゃったの」  加藤が首を傾げている。 「どうした」 「六十二画になっちゃうんです」  津野田と女は顔を見合せて笑った。コーヒーが来て加藤は手帳をポケットへしまう。 「出版関係のお仕事ですの」  二人がコーヒーに砂糖をいれていると、左織が尋ねた。 「え……」  津野田は意表を衝かれて絶句する。 「出版社の手帳をお持ちだったわ」 「鋭いんだなあ」  津野田はあっさり兜《かぶと》を脱いだ。へたに隠しだてしないほうがいいようであった。 「こういう仕事です」  渡すのを避けていた名刺をとり出して渡す。〈東京PR企画〉の名刺で、社長という肩書きがついている。 「やっぱり」  左織は満足そうに頷いていた。 「どういうお仕事の方か、とても判りにくかったの。だってサラリーマンには見えないし、実業家タイプでもないし。まあ、自由業の方だろうとは思ったんですけど、絵描きさんにしてはきつい感じでしょう……」 「誰にでもそういう観察をしているんですか」 「別にそういう訳じゃないけど、お二人ともあたしのよく知らないタイプの方だったから」 「広告屋みたいなもんです。このホテルを見に、半分は仕事で来ているんですよ」  津野田は左織に好感を抱きはじめていた。     5 〈東京PR企画〉というのは、考えて見ればこうしたホテルの開業披露の場へ現われるには絶好の名目になるようだった。神田駅のそばの薄汚れたビルの一室にある総勢三名の、会社とは名ばかりのしろものだというようなことは判るわけがなかった。  麻績部左織《おみべさおり》も津野田たちがそこに来ている役割を納得したようであった。 「そうね。便利とは言えない場所ですものね。相当徹底してPRをしないと、普通の人はなかなか来る気にならないでしょうね」  津野田は頷いたが、その話に調子を合わせると嘘《うそ》をつかねばならなくなるので、さり気なく話題を変えた。 「麻績部といっても、まさか今でも麻を織ったりしているわけではないでしょうね」 「それが、案外昔のままなの」  左織はおかしそうに言う。 「父は紡績会社に関係しているの」 「おやおや」  津野田はふざけて見せた。 「十年一日というが、それじゃ千年一日だ」 「もっとも、父はいろんな会社とつながりがあるから……」 「要するに、あっちこっちの会社の役員をなさっているわけでしょう」  この左織という娘から想像すると、当然そんな父親像が描けるのである。 「まあ、そういうわけ」 「で、ご本業は……。何しろ古代からの由緒正しいお名前ですからね。興味があるんですよ」 「あたしは余り好きじゃないんですけど、金融業なの」  さてこそ、と思った。 「で、ご令嬢は呑気に遊んでいらっしゃる……」 「まあ、ばかにするのね」  左織は睨《にら》んで見せた。 「あたしも仕事を持っているわ」  津野田は左手を左織のほうへ押し返すようにした。 「今度は僕が当ててみましょう」  左織は興味深げに津野田の言葉を待っている。 「彫金か何かじゃないかな」 「あら……」  左織は驚いたように目を丸くした。 「え、当ったんですか」  逆に津野田のほうがびっくりしたように言うと、左織は愉快そうに笑った。 「残念でした。かすった程度ね。あたしはこれでも貴金属のお店をやっているんです」 「芸術家タイプだと思ったのにな」 「でも、彫金もやるわ。趣味なんです。指輪だのブローチだの、オリジナルなデザインのものも扱いますからね。あたしのは趣味で、それこそお嬢さん芸ですけど、ちゃんとした専門家も店にはおりますのよ」 「金やプラチナの台にダイヤの指輪か。僕らには縁遠いお店らしいな」  津野田は加藤に言った。 「宝石だけなんですか」  加藤が訊く。 「宝石だけということはありませんわ。どうしたって金や銀や白金などを扱わなければ」 「それはそうですね。でも、お金のかかる商売だな」 「まあ、そうね。でも、商品が商品だから」 「古銭《こせん》に興味を持っているんだけど、そういうものは……」  津野田が質問を交代する。 「扱っている業者もいますわね」 「お宅では……」 「あれはちょっとむずかしいんです。だいたい貴金属商より古美術のほうの分野ね。その両方をやっている人も多いけれど」 「そうか、古美術商か」 「ダイヤや金にかこまれていたらいい気分でしょうね」  加藤は素っとぼけている。案の定左織は笑って答えなかった。 「そう言えば金は自由化されましたね」  津野田が探りを入れ直す。 「ええ。金市場はだんだん活溌《かつぱつ》になって来ているみたい」 「あなたのお店でも金が売買できるんですか」 「貴金属商ですもの。興味がおあり……」 「金《かね》を銀行へため込んでも目減りするだけでしょう。金利はさげられてしまったし。保守党百億の借金のおかげですよ。その点|金《きん》はいい。いくら連中が図々しくても、個人が持っている金塊の端っこをむしり取って行くことはできないからね」 「あら、うまい言い方。それ、さっそくお店で使わせてもらうわ」  左織は半分本気のように言った。     6  左織の父親がどこへ出掛けているのか、それが知りたかったが、余り急いでは事を仕損ずる惧《おそ》れがあった。  十二時半ごろ、津野田は左織を連れて最上階のレストランへ行き、昼食をした。 「あの崖《がけ》の下に何かあるんですか」 「小さな港ができるみたい。オープンには間に合わなかったのね、まだ工事をしているわ」 「ほう、港をね」 「ホテル専門の港ね。近くに徳山《とくやま》からフェリーが来ている港があるんですって」 「そうか、竹田津《たけたづ》港との間をデラックスなクルーザーでつなぐ気だな」 「この建物を作るときも、資材はほとんど船で運んで来たそうよ」 左織は岬《みさき》の突端からやや左寄りを指さした。 「あそこがわりといい海岸になっているの。このホテルのプライベート・ビーチよ」 「ほう。そいつは凄い。なるほどね、金さえかければひと気のない岬が一遍に贅沢な保養地に化けられるわけだ」 「そのうち、別館のほうのクレー射撃場もオープンするそうなの」 「別館……」 「あら、気がつかなかったかしら。外の道路から入って来るとき、反対側にも道があったでしょう」 「山のほうへ行く道がついていましたね」  加藤は運転して来ただけに、ちゃんと憶《おぼ》えていた。 「そうか、気がつかなかった。こっちの建物に気をとられていたからな」  そればかりではなかった。小見老人からもらった封筒に入っていたパンフレットには、別館のことなど載っていなかったのだ。 「別館へは行って見ましたか」  左織に尋ねる。 「これで、従業員が七十人近くいるそうなの。こんな場所ですもの近くに寮のようなものを作らなければ不便でしょう」  そう言えば、従業員はみな都会の一流ホテルで鍛えられた連中のようである。 「なんだ、そういうことか」 「その寮が凄く贅沢に作ってあるんですって。裏がすぐにゴルフ場になっているし、射撃やアーチェリーのコースもあるらしいし。だから向うでお食事もできなきゃいけないし、シャワーとか、そういった設備もなければいけないでしょう」 「やるもんですねえ」  加藤が津野田に言った。 「道理でプールがないと思った」 「あら、プールはこっちにあるわ」 「え……どこに」  また見落したのかと思った。 「地下よ」 「この建物の下に……」 「ええそう。随分よく考えてあるのよ。天気がよければあの崖の下のプライベート・ビーチへ行けばいいわけでしょう。プールが必要なのはお天気の悪い日とか、夏以外の季節とか、夜とか」 「だから屋内に作った……」 「ええ、そうらしいわ。ここは小さな岬の岡の上に当たるわけだけれど、あの崖の下のプライベート・ビーチや港へは、雨が降っても濡《ぬ》れずに行けるそうよ」 「…………」 「地下道よ」 「地下道……」  津野田は焦点のぼけた目を海へ向けていた。何かが激しく回転し、唸《うな》りをあげはじめたような感じだった。 「まさか」  そうつぶやいた。まさかこんな所に黄金の鉱脈が走っているわけではあるまいと言おうとしたのだ。 「本当よ。さっきの副支配人が父に説明していたんですもの」 「見物しましたか」  津野田は二、三度まばたきをしてから左織を見て尋ねた。 「父は案内してもらったようよ。あたしは余り興味がなかったから……。嫌《きら》いなの、地下道って。冷たいし、なんだか気味が悪いわ。大きな鼠《ねずみ》が出て来そうな気がしちゃうの」  加藤が笑った。 「見たいな」 「副支配人に頼めば見せてくれるでしょう」  左織は本当に関心がなさそうに言った。 「あれは何です」  津野田はレストランの隅《すみ》にあるディスプレイのようなものを顎でしゃくって示した。ごつごつした岩に注連縄《しめなわ》がしてあった。     7  その岩は、加藤と津野田が両手をまわしてやっと囲めるほどの大きさがあった。  食事のあと、三人はそのそばへ行って見物した。 「牟婁《むろ》神社……知らなかったなあ」  津野田は厚いガラスばりの中の、注連縄を張った岩の説明書きを読んでそう言った。  ホテルが建設される以前、この岬の小高い岡の上に、その岩をご神体とする小さな神社があったと言うのである。神社は取り毀《こわ》されたが、ご神体の岩はそうやって展示され、解体した神社の一部は屋上に組み直してホテルの守り神として扱われているらしい。 「かなり古そうですね」  加藤が言った。 「でも大きな神社ではなさそうだ。地図に載っていれば憶えがあるはずなのに」  津野田は首を傾げた。 「名もない祠《ほこら》のようなものだったんでしょう。長い間忘れ去られていたのが、ホテルのおかげで息を吹き返したわけですよ。かなり大げさに扱われているようだ」  加藤が言う。 「あたしもまだ見ていないの。行って見ましょうか」  左織が言い、三人はレストランを出ると、階段を登って屋上へ出た。 「なんだ」  加藤は一目見るなり、がっかりしたように言った。 「近ごろは少なくなりましたけれど、まだあちこちの会社で見かけますよ。屋上にお稲荷さんみたいなのを祀《まつ》ってあるんです。古い会社の本社屋の屋上へ行くと見かけます。そのお稲荷さんの世話をするのはたいてい総務部の役目でね。株式課の課長あたりが屋上へ行ってはお供え物をとりかえたり……」  まさにそう言う感じであった。 「しかしここは国東だ。油断がならんぞ」  津野田はその祠に近付いて行った。左織は髪に手をあてて風の中へは出て来なかった。  祠と左織がいる階段の出口のところとは、十歩ほどの距離があった。 「こいつは太郎天童じゃないか」  祠の中の木像を見て津野田が言う。 「太郎天童……。何だか聖徳太子のように見えるけど」 「太郎天童は三尊形式なんだ。中央に太郎天童がいて、左右に二人の童子が脇侍《きようじ》している。聖徳太子も同じように三尊形式で扱われることが多い。ほうぼうにある太子堂というのは、聖徳太子への信仰のように見えるが、実はそれ以前に拡まっていた太郎天童のような形の信仰と結びついたらしいんだよ。たった今これを見て気が付いたんだが、三尊形式と言うのは案外日本の原始宗教の基本的なパターンかも知れないぞ。宗像の三女神や、宇佐の三つの神殿につながって行くんじゃないだろうか」 「そうですね。しかし、これはそんなに古いような気もしないですがね」 「中国風だと言いたいんだろう」 「ええ」 「六郷満山中でも重要な地位にある長安寺にこれがあるんだ。等身大の像で、見れば判るが聖徳太子そっくりの姿をしているよ。髪はまん中で分けて耳のところで輪になっている。角髪《みずら》という奴さ。服装もこれとおんなじで、闕腋《けつてき》の袍《ほう》というのを着ている。闕腋の袍というのは武官束帯《ぶかんそくたい》の上着で、コートのようなものではなく、両方の脇の下を縫い合わせていないから運動性がいい」 「武人の着る物ですね」 「天皇や皇太子も着るそうだ。たしか、元服のとき一番|仰々《ぎょうぎょう》しいやり方をするとこれを着ることになるんじゃなかったかな。闕腋などというのは勿論《もちろん》中国風だが、和風に言えば、わきあけのころも、さ」 「両手に何か持っていますね」 「右が杖、左が木の枝だ。長安寺のは重文に指定されているよ。ひょっとして同時代のものだったら大変なしろものだな」 「太郎天童が一番古いと考えているんですか」 「そいつははっきり言えん。この姿からすれば大陸から入って来たもので、日本土着のものじゃないということになるだろうさ。でもな、聖徳太子と結びついたりするわけだし、宗像三女神と八幡の関係でも判るように、神様ってのはよく化けるんだよ。土着のいちばん古い何かと天童に共通性があり、すんなり化けてしまったということも考えられるさ」 「あとで……」  加藤は左織を気にして言った。 「うん」  津野田も同意し、左織が待つ階段の出口のほうへ戻った。     8  左織はそのホテルの招待客たちに顔が広かった。 「俺たち、ツイているぜ」  津野田が加藤にささやいたように、左織はお誂《あつら》え向きの情報源であった。  あれは神戸の何某さん。あれは何銀行の誰というように、かたはしから知った顔を見て教えてくれた。どうやら社交好きなご令嬢らしかった。 「凄いもんだ。財界のパーティーみたいだ」  加藤が感心して見せる。 「外人はどういう関係の人たちだろう」  津野田は尋ねるともなく左織に言って見た。 「あたしもよくは判らないけれど、マルコ・ポーロ・クラブの人たちがいるわね」 「マルコ・ポーロ・クラブ……」 「ええ」 「何ですか、それは」 「遊び仲間よ。大変なお金持ばかりだけど、会長はチャールズ・オスマンという人」 「え……」  津野田はギョッとしたように眉《まゆ》を寄せた。 「あら、ご存知なの」 「そりゃ、名前くらいはね。ロンドンの金市場の大物じゃありませんか」 「ロンドンばかりじゃないわ。あの方はパリでもチューリッヒでも大立物よ。ベイルート、ホンコン、トロント」 「それじゃ世界中の金市場に……」 「そう。ゴールドスミス一族と五分に渡り合う国際金商人。ゴールドスミス一族も凄いけど、ただ一人だけで言えば金業界のナンバーワンね。だから黄金の男というとあの方のことになるわけ」 「そんなのが来てるんですか」  加藤が度肝を抜かれたように言った。 「チャールズ・オスマンが来てるわけないでしょう」  左織は失笑したようである。 「オスマンさんはマルコ・ポーロ・クラブの会長さんよ」  国際金市場の大物、チャールズ・オスマンをさんづけで呼ぶのが、津野田の耳には異様に響いた。普通なら遠すぎる存在で、呼びすてにするところである。 「マルコ・ポーロ・クラブというのについて知りたいな。どういうクラブです」  すると左織は妙な含み笑いをした。 「どうなさる気」 「好奇心ですよ」 「そうね……」  左織はじっとみつめた。 「教えてあげてもいいわ。あなたのようなお仕事だと、新聞とか雑誌にもご縁があるわけでしょう」 「PR誌程度ですが、つながりはないこともないんです」 「こう見えてもあたし、全国貴金属取引協会の会員なの」  津野田の脳裡《のうり》には重宝堂《じゆうほうどう》の金ピカのパンフレットが泛《うか》んでいた。 「協会としても、これから金の取引を盛んにするようなキャンペーンを張って行くわけだし、ちょっと興味本位すぎるようだけれど、日本人の目を金の業界へ向けるにはいい材料かも知れないわ」  左織は金業者らしい目になっている。 「バーへでも行きませんか」  津野田が誘った。このチャンスをのがすと、そのクラブについて調べるのに手間が掛りそうな予感がしていた。小見老人から聞いた児島金属の秘密主義を思い出したのである。 「バーは二時から」  左織はそう答え、 「お部屋へいらっしゃいません」  と言った。 「ルームサービスでなら飲み物がとれるはずよ」 「有難いですが、ご迷惑じゃないかな。お父さんもいらっしゃらないのに、男が二人のこのことあなたの部屋へ入り込んで酒など飲んでは」 「かまわないわ。いらっしゃい」  左織はさっさとエレベーターのほうへ歩きだした。 「半分お仕事みたいになって来たわ」  エレベーターの中で左織はおかしそうに言った。 「あたしも案外商売熱心になったわ。父が知ったら褒めてくれるでしょう」 「これは責任重大になって来た。そのクラブのことをマスコミにとりあげさせなければならない」  津野田は冗談のように加藤を見て言った。六階へ着くと、左織はキーをハンドバッグから出して608号室のドアをあけた。     9  津野田たちの610号室はセミ・スイートだったが、608号室は完全な二間続きで、多分それがこのホテルでの最高の部屋らしかった。 「さすがは黄金のレディが泊る部屋らしい」  津野田が大きなソファーに沈みながら言った。左織は寝室へ通じるドアへ消えながら、 「そっちのドアは父の運転手さんがいるお部屋よ」  と言った。 「なんだ、三間続きか」  加藤が呆れて見せる。左織が寝室の電話でルームサービスに酒を注文している声が聞えはじめた。 「まったくツイて来ましたね」  加藤が満足そうにささやいた。 「それにしても妙だ」 「何がです」 「やはりこのホテルは何だかおかしい」 「そうかなあ」 「パンフレットに載せてないことが多すぎるような気がするんだよ。このテのホテルのパンフを頼まれたら、君ならどうするかよく考えてみるがいい。できるだけ盛りだくさんにしたいんじゃないかな。別館は従業員用だけに考えていたのを、あとになって変更したからパンフに間に合わなかったとしても、プールやあの屋上の太郎天童、スカイレストランのご神体の岩……」  そう言っていると左織が戻って来た。 「頼みましたわ」 「すみません」  左織は二人と向かい合い、壁を背にしたソファーに体をやや斜めにして浅く腰をおろした。すらりとした脚が並ぶ。 「マルコ・ポーロ・クラブのことね」 「ええ」 「勿体《もつたい》をつけちゃったけど、そう大したことでもないんです」 「でも、なんとなく面白そうだ」 「それはそうね。マルコ・ポーロ・クラブというのは、金の業者の親睦《しんぼく》団体みたいなものだけど、かといって公式なものじゃないし……まあ、お遊びみたいなものなの」 「そういうお歴々が集って遊ぶなんてところは想像もできませんよ」  左織は笑った。 「旅行よ」 「旅行……」 「そう。マルコ・ポーロの書いた本がヨーロッパの人たちの目を東に向けさせたわけでしょう。まあ、そればかりではないかも知れないけれど、コロンブスたちが発見した新大陸は、やはりマルコ・ポーロのおかげよ」 「まあそうですね」 「黄金の国ジパングの夢をマルコ・ポーロはばら撒《ま》いたんだわ」 「ミリオネのマルコ、ですか」  津野田が微笑して言った。 「何です、それ」  加藤が訊く。 「百万さ。マルコ・ポーロはそう呼ばれたんだよ。ヴェネチアへ帰ってからな」 「どういう意味なんです」 「法螺吹《ほらふ》きということらしい」  すると左織がとがめるように言った。 「そうとは言い切れないのよ」 「ほう。マルコ・ポーロについてはお詳しいようだ」 「あたしばかりじゃないんです。これは金業者共通の……癖って言うのかしらね。その業界によって何かしら特定の遊びに偏《かたよ》ることがあるでしょう。石に凝るとか」 「なるほど、金業界はマルコ・ポーロについて研究するのがはやるわけですね」 「はやるっていうのは少し違うけれど、少なくともマルコ・ポーロについては普通の人たちより詳しくないと話にならないの。もっとも日本国内ではそんなでもないんですけどね」 「つまり、ゴールドスミス一族やチャールズ・オスマンみたいな人たちとおつき合いする場合には、イギリス紳士が断わり書き抜きでいきなりシェークスピアを引用して来るように、マルコ・ポーロが基礎教養の一部に組み込まれてしまっているわけですね」 「何と言っても、金の父みたいな地位にある人ですもの。だいたい、金を扱っていると、いつの間にか何かの蒐集癖《しゆうしゆうへき》が出て来るんです。コインや切手や絵などはごくありきたりの結びつきでしょう。それが知識というか学問というか、そういう方向になるとマルコ・ポーロにきまっちゃうようなんです」 「判ります。外国の黄金商人たちの雰囲気《ふんいき》が」 「マルコ・ポーロの百万という綽名《あだな》は、法螺吹き、大風呂敷などという意味に普通はとられているけれど、それは見聞して来た国々の富を百万単位で表現したからなんです。でも、本当は馬鹿にしたわけじゃなくて、マルコの洗礼名であるエミリオを引っかけたものなんです」  左織はソファー横にある電話台に手を伸ばし、メモとボールペンを取ってさらさらと何か書いて寄越した。  Marco Polo II Milione=Emilio  日本人特有の丸味を帯びた曲線はなく、しっかりした感じの直線が目立つ文字であった。     10  ボーイが来てオールド・パーのボトルと氷やグラス類、それに炭酸水の瓶を何本かテーブルの上へ並べて行った。  めいめい自分で飲物を作って飲みはじめる。 「まあ、お金がある人たちですから、暇があると自由|気儘《きまま》に旅をします」  左織が喋《しやべ》りはじめた。二人は黙って聞いている。 「仲間同士の旅行もしますわね。そうやっている内に、だんだん普通の旅行じゃつまらなくなったんです。それで、誰かがいつの頃か思いついたらしいの。マルコ・ポーロのあとを辿《たど》る旅行をね」 「なるほど」  津野田は頷いた。いかにも金業者らしいと思った。 「簡単にはできないことでしょう、これは」  左織は少し得意そうだった。 「国際情勢がからみますもの。マルコの辿ったコースは、ヴェニスからはじまって、コンスタンチノープル、そしてタブリズ、キルマン、コビナン、サブルガン、バルク、バダクシャン、カシュガール、ホータン、チャルチャン……」  きりがなかった。 「要するに、シルク・ロードのひとつでしょう」  津野田が口をはさんで打切らせた。どうやら左織も相当なマルコ・ポーロのマニアらしかった。 「ええそう。どういうことだかお判りになる……」 「どういうことと言うと」 「マルコのコースは普通の旅じゃないのよ。こちら側は問題ないけれど、ソ連と中国の勢力圏では」 「そうか。そういうわけか。さすがは黄金商人たちの遊びだな。特別なコネとか、そういうものがないと潜り込めないところが多いわけだ。調査団とか使節団とか、そういう中へ入って行ったりしなければならないし、とにかく一度に完走するわけには行かないんだ」 「ひとつひとつ、とびとびにでもいいから、タイトルを取って来るわけなの」 「凄えや」  加藤が唸った。 「それでクラブができたわけ。行って来た場所を公認する組織ね。チェック・ポイントを記した地図などもできているわ」 「で、それを今、全部通して歩けるんですか」 「まず普通じゃ無理。でも、金の業者というのは特別なところがあって、中国にしてもソ連にしても、何とかなる場合があるの」 「なぜだろう」 「そりゃ、金《きん》の問題よ。どこでも国際金市場には注意していなければならないでしょう。非公式な形で入り込めることもあるわけ。金に関する特別な情報を提供した報酬の場合もあるし、その国の政府の内緒の金の売り買いに協力してあげたお礼の場合だってあるでしょうね」 「そういうことがあり得るのか」  津野田は世界の政治や経済の裏側を垣間《かいま》見た思いがした。 「黄金はいつの場合でも切り札よ。それは個人でも企業でも国家でも同じことだわ。何年か前、日本政府がロンドンで大量の金を買いつけたわ。特別機が仕立てられてそれを運んだのよ。でも、日本のマスコミは全然報道しなかった。そうよ、切り札を見せるばかはいないでしょう。みんなポーカーをやっているの。どんな手か、言うわけないじゃないの」  金は国際関係そのものかも知れない。津野田はふとそう気付き、背筋が冷たくなった。もし国東に黄金の秘密があれば、乃木のような男が一人や二人死ぬのは……。  と、そこまで考えたとき、 「あ……」  と津野田は我にもなく立ちあがってしまった。 「どうなさったの」  左織が妙な光をたたえた目でそれをみつめた。はじめて見せる妖《あや》しい目であった。  第八章 発 見     1 「糞《くそ》。いったいどうしてこんなに泥深《どろぶけ》えんだよ」  津野田はブルーバードのハンドルを握って喚《わめ》いた。対向車はなし同乗者はなしだからいいようなものの、もし人が見、聞いたら気が狂ったと思われかねない声であり、表情であった。  あれからひと騒ぎであった。  左織の部屋で呀《あ》っと言って立ち上がってしまった津野田は、大事な用事を忘れていた、と辛うじて言いのがれると、加藤を残したまま部屋をとび出し、となりの610号室へ戻《もど》ると、どうしていいかしばらくはうろうろと歩きまわるばかりであった。  頭の中が、それこそ耳もとでいきなり空のバケツを連打されているような具合になってしまい、なかなか考えがまとまらなかった。ただ、それは極度の興奮を伴った警戒心の発動であり、ホテル全体が自分の敵であるらしいことの発見であったから、何度も電話に手が伸びかけるのを、その都度《つど》自制することができた。  まったくおかしな精神状態であった。  恐怖に近い警戒心と、戦慄《せんりつ》そのものといえる知的なよろこびがごっちゃになっていた。その警戒心は動物的な本能によるものではなく、碁や将棋《しようぎ》のときに発生するような知的警戒心で、昂揚《こうよう》状態が去れば醒《さ》めてしまう類《たぐ》いのものであったのかも知れない。  しかし昂揚した状態はいっこうに去らなかった。受けた衝撃がそれほど大きかったのであろう。  やがて津野田はなんとか考えをまとめ、まとまるとすぐダイアルをする手ももどかしく、東京の白日書房を呼び出していた。もしそのとき宗像が電話の向う側に居合せなかったとしたら、多分口汚く罵《ののし》っていたことであろうが、さいわいすぐに宗像の声が聞えて来た。津野田は何でもいいから次の連絡があるまでその電話のそばを離れるなと、宗像の所在を釘《くぎ》づけにして置いてから、外へとび出して車に乗ったのであった。  ホテルの専用道路で岬《みさき》から抜け出した津野田は、半島を一周する形になっている国道二一三号線に入って右折し、思い切りアクセルを踏み込んだ。あの事故以来ハンドルを握るのも稀《まれ》なら、そんなスピードを出したこともなかった。  ホテルの電話は盗聴の惧《おそ》れが充分にあった。ホテル側に盗聴しようとする相手のリストがあるとすれば、それには多分津野田の名など載っていないだろう。それはマルコ・ポーロ・クラブの外人金業者たちであり、麻績部《おみべ》という左織の父親であっただろう。  しかし、マークしていないとはいえ、話の内容によっては危険である。  津野田はふと左織の父親のことを頭に泛《うか》べた。ひょっとしたら彼もこのようにどこかへ連絡を取るために、ホテルの電話を避けて外出しているのではなかろうかと思った。  津野田は時間をたしかめ、できるだけホテルから遠のかなければと思った。まだ二時ちょっと前であった。 「真玉《またま》町あたりまで行けばいいだろう」  そう声に出して言った。 「それにしても、蘆溝橋《ろこうきよう》とはまたとんでもねえ方角へ飛び火したもんだな」  いくらか気分が落着いて来たらしく、車のスピードを落すと自嘲《じちよう》するようにまたひとりごとを言った。  マルコ・ポーロについて、金業者である左織ほどではないにせよ、津野田もいくらかの知識は持ち合せていたのである。  今日、キャセイと発音される中国の古称は、マルコ・ポーロの時代にヨーロッパ人が用いていたもので、源は契丹《きつたん》に発している。キャセイはカセイであり、カタイである。ミルトンの失楽園には、カタイは汗《カン》の支配する土地であるというように表現されている。つまり、モンゴル時代とその古称は重なっているのである。今日の中国より幾分北に偏ったイメージで、カタイは華北と解されもする。マルコ・ポーロはそのカタイの汗《カン》の宮廷にいたのである。彼はクビライ汗《カン》やその妃《きさき》たち、そして汗《カン》が住むカンバリーク、つまり現在の北京《ペキン》などについて詳細に述べ、汗《カン》の臣下の一人としてたびたび重要な使命を帯びて遠隔の地に旅したことになっている。  しかし、マルコ・ポーロはクビライ汗《カン》に仕えた十七年間の公用の旅については、なぜか記録に留めていないのだ。  そして津野田を戦慄させたのは、マルコ・ポーロが北《カンバ》 京《リーク》以外の土地でも行動していたことを示すひとつの証拠物件であった。  蘆溝橋。日本人にとって馴染《なじみ》深いその橋は、まさに華北《カタイ》にあり、マルコ・ポーロ・ブリッジという別名を持っているのであった。     2  蘆溝橋。マルコ・ポーロ・ブリッジ。  それが乃木の死の裏にあることを、津野田は直感したのであった。  脳軟化症で入院したきりになっているという乃木の父親は、まだ津野田や乃木が学生だった頃から、折りあるごとに昔ばなしを聞かせていた。  乃木の父親は日中開戦のきっかけとなった蘆溝橋事件のとき、問題の部隊に所属していたのである。 「第八中隊は……」  乃木の父が繰り返し繰り返し言ったその第八中隊という言葉を、津野田たちはすっかり憶《おぼ》え込んで、 「第八中隊が来たぞ」  などと暗号めいた使い方をしたものであった。  蘆溝橋西方約一〇〇〇メートルの竜玉廟、とか、永定河の堤防とか、乃木の父が語った言葉の断片が次々に蘇《よみがえ》って来た。  乃木の死に関する新しい見方がそこから湧《わ》き出し、噴きあげていた。  すべてはとほうもないつながりかたである。しかし、蘆溝橋という一点で、巨大な環がガシャン……と大きな音をたてて閉じつながった気がするのだった。  魏志倭人伝《ぎしわじんでん》の報告者はなぜあんなように、どうとでも取れる国名の並べかたをしたのか。あれではあとから行く者の頼りにはなるまい。その上、中国側はそういう報告を各地から取り寄せ、扱いつけている。いくら倭人在帯方東南大海之中、であっても、そういう文書の専門家は記述の不明確さに気付かねばなるまい。  それが易々とパスしているのはなぜだ。  地図が添えてあったからに違いない。  倭人伝の基となった報告書に添付された地図だ。  マルコ・ポーロは黄金の国ジパングの存在をヨーロッパに告げて人々を刺激した。マルコ・ポーロの記述は、今日の研究者を驚嘆させるほど冷静で客観的である。それがなぜジパングについて誇大に書いたのか。  ジパングは東の方《かた》、大陸から一五〇〇マイルの海中にある大きな島だ。住民は色白で礼儀正しく優雅である。王がおり、それはどこの外国からも支配されていない。ジパングは莫大な量の黄金を産し、王の宮殿は純金で覆われている。ヨーロッパ人が屋根を鉛の板で葺《ふ》くように、彼らは黄金で屋根を葺く。部屋は指二本分の厚さの純金で敷きつめる。  勿論それは伝聞であろう。マルコ・ポーロが日本へ来た可能性はまったくない。だが、そうしたとほうもない黄金の国の噂《うわさ》をそのまま鵜呑《うの》みにするということは、マルコ・ポーロの他の記述から見ておかしいのである。  ジパングが黄金の国である具体的な証拠を見せられて、マルコ・ポーロはそれを伝えたのだ。ずっと昔の、魏の時代の何かであるかも知れない。いや、何かなどと遠まわりに考えるのはよそう。それは黄金の国ジパング、いや、女王|卑弥呼《ひみこ》が住む黄金の国|邪馬台国《やまたいこく》への地図なのだ。その古い地図そのものが、黄金について語っていたに違いない。津野田はそう思った。  東方見聞録の原本は未発見であるという。マルコ・ポーロの記述、というような表現をよくするが、正確には叙述とか口述とか言うべきであって、ヴェニスとジェノアの戦争に巻き込まれたマルコ・ポーロが捕虜としてジェノアの獄に繋《つな》がれたとき、同じ囚人の一人であるピサの物語作者ルスティケロが、彼の語る話を書き取ったのである。ルスティケロの原本に最も近いのは、パリ国立図書館本と称される古い写本であるが、それも一部分らしく、完全な原本はいまだ失なわれたままなのだ。倭人伝の基となった邪馬台国訪問者の報告書同様、ジパングに関するマルコ・ポーロの書の原本も、なぜか失なわれているのである。  マルコ・ポーロが述べたのが卑弥呼の宮殿だとしたらどうなる。マルコ・ポーロはその黄金宮殿の地図を見て信じたとしたらどうなる。中国のどこかにそれが保存されていたとしたらどうなる。その場所がマルコ・ポーロ・ブリッジのあたりだとしたらどうなる。日本側がそれを知っていたとしたらどうなる。皇室の尊厳に関わる文書だと判断したらどうなる。その間の本当の事情を第八中隊にいた乃木の父が聞き齧《かじ》っていたとしたらどうなる。宇佐・国東の件でそれを乃木が思い出したとしたらどうなる。  とにかく、乃木は死んでしまっている。だが、その背後に、国東半島から北京、そしてヴェニスに至る壮大な時空が展開しているようであった。     3  津野田は小さな中華そば屋へとび込んで電話を借りた。 「俺《おれ》だ」  宗像の声が聞えると津野田は興奮を抑えて言った。 「どうしたんだ。いったい何があったんだ」 「とほうもない話だが文句を言わずに聞いてくれ」 「よし、判った」  宗像も何か異常な事態を察したと見えて、呑み込みよく答えてくれた。 「まず全体を掴《つか》んでもらいたい。倭人伝の件だ」 「倭人伝……」 「あの国名の並べかたはおかしい。あいまいすぎる」 「今更何を言い出す気だ」  宗像は失笑したようだった。たしかに、大気汚染だのPCBと騒いでいる今の世の中で、魏志倭人伝の記述がおかしいと緊急連絡の電話で言うのは気違いじみていた。 「地図があったんだよ、地図が」 「地図。……そう言えばそうだな。地図つきならあれでもかまわないはずだ」 「地図は中国に保存されていた」 「中国のどこに」 「蘆溝橋だ。いいか、蘆溝橋というのは例の華北の奴《やつ》だ」 「知ってるさ、それくらい」 「大理石の獅子《しし》像で飾られた立派な橋だが、同時にそのあたりの土地の名でもある。今は何と呼んでいるか知らないが、あの事件当時は宛平県《えいぺいけん》城とも呼ばれていた城壁に囲まれた町が蘆溝橋なんだ」 「それで……」 「知らんのか。蘆溝橋はマルコ・ポーロ・ブリッジとも呼ばれる」 「マルコ・ポーロだって……」  宗像の声が悲鳴に近いほど高くなった。 「彼はそこで邪馬台国への地図を見たかも知れん」 「邪馬台国とジパングが同じもののことだったという気か」 「そうだ。卑弥呼の宮殿が黄金ずくめだったとしたらどうだ」 「畜生、なんてことを言い出しやがる」  宗像は罵《ののし》った。 「あとは勝手に自分で考えていろ。とにかく全体はそんなところだ。とにかくこっちにはマルコ・ポーロ・クラブという金の業者の団体がうろついてやがる。ホテルにいるんだよ」 「マルコ・ポーロ・クラブ……」 「ああ。金を扱ってる奴で気のきいたのなら多分知っているはずだ。調べてくれ」 「よし」 「それから、これが本題なんだが、乃木の父親に会って見てくれないか。君が直接やれ。大田区のほうの病院に入っているはずだ。乃木精工という潰《つぶ》れた会社の線を追えば判る」  津野田は乃木精工のあった場所の所番地を教えた。 「乃木というのは、例の伊豆で死んだという君の友達のことだろう」  宗像が念を押している。 「そうだ。乃木のおやじさんは昭和十二年の七月七日の晩、蘆溝橋にいたんだ」 「なんだって……」 「陸軍の歩兵だよ。例の中国軍と衝突した部隊さ。そのあたりも調べて欲しい」 「ひでえ話だ」  宗像も興奮しているようであった。 「それにホテルの資本系列もずらずらっとやってもらいたいな」 「了解」 「まだあるぞ」 「何だ」 「あちらさんと国交が回復したとき、えらいさんの間で古代史に関する話かなんか、そういうものが匂《にお》いやしなかったかってことさ」 「なぜだ」 「そんな気がしやがるのさ。蘆溝橋の件が地図にからんでいたとすると、毛さんは鷹揚《おうよう》にそいつをこっちへ呉れた可能性もないじゃない」 「なるほど」 「山吹色の好きな人が行ってたからな。どうもあのホテルは彼とつながっている気がするのさ」 「おい、冴《さ》えてるぞ」  宗像が褒《ほ》めた。 「鉱脈じゃなくて、黄金の宮殿か」 「邪馬台国ブームが奇妙に国交回復とダブリやがる」  津野田は息を弾ませていた。     4  ホテルへ戻った津野田は、左織に対して何とか辻褄《つじつま》を合せたが、隠し切れない興奮の色を左織が怪しむので、風邪気味だと称して部屋にとじこもってしまった。  東京からの連絡待ちにはそのほうが都合がよかった。  二時間ほどするとベルが鳴り、受話器を取ると宗像が早口で喋《しやべ》りはじめた。 「老人と仲直りしたときのことだが、工事人との間に故郷の話が出たらしい。君の言ったとおりだよ」  盗聴を注意してあるので、宗像はうまく焦点をぼかしている。中国の指導者と日本の首相の間に、邪馬台国の話かそれに近い古代のことが話題にされたというのである。 「ズバリ、故郷の話か」 「その辺ははっきりしないが、例の紹介記事が載った雑誌のことであるのは確実だ」  魏志倭人伝について語られたという裏付が取れたらしい。津野田は白日の取材網がフル回転しはじめているのを感じた。 「商品の動きはどうだ」  金市場のことである。 「おかげさんでひどく活溌《かつぱつ》だ。外国のバイヤーがたくさん来ている。来ているも何も、びっくりするくらいだぞ」 「株の値は……」 「それがおかしいのさ。下げが続いてやがる」 「それは材料ありだな。品物がダブついているんじゃないかな」 「世界的な傾向だよ」 「かなりのものだな」  黄金商人たちの鋭敏な嗅覚《きゆうかく》に、ひどく大きな量の黄金が匂っているのだろう。 「新製品を発見した男がいただろう」  ピンと来た。コロンブスのことだ。 「ああ。ヨットの好きな……」 「そうそう。その男だよ。やはり彼もこの件にヒントを得て新製品の開発に乗り出したんだろう」  新大陸発見はやはりジパングを求めた結果だと言っているのである。 「病人はどうだ」 「それが、まだ行っていないんだ、どこにいるんだかさっぱり判らない。今調べている最中だよ」 「どうやら見物している余裕はないらしいな。その必要も特にないし」 「え、どういうことだ」 「このホテルで休養をとればそれで充分だと言っているのさ。古い寺なんか見てまわらなくてもいいだろう」 「そう思うならそうしろ」  津野田はホテルの建っている土地だけに的をしぼってしまっていた。想像通りなら、卑弥呼のいた黄金宮殿はこの地下に埋れているはずである。 「今度の社員旅行は伊豆にしろよ」 「西伊豆あたりにするか」  乃木の死の調査を、これから〈白日〉がやり直すことになるのだ。 「例の喧嘩《けんか》のいきさつはまだ判らんだろうな」 「ああ。古いことだからな。でも関係者にはそれとなく訊《き》いてみているよ」  日中開戦の引金となった蘆溝橋事件の関係者なら、まだたくさん現存している。 「彼女のおやじさんによろしく伝えてくれ」 「誰のだって……」 「俺の彼女だよ」  宝田伸子のことであった。 「ああ、判った。伝えて置く」  宝田五重郎も調べる必要があるのだ。 「そうそう、忘れるところだった」  宗像の言い方はちょっとわざとらしかった。一番重要な報告に違いない。 「もう何年も前のことになるが、溜池《ためいけ》にオフィスを持っていた男がいるだろう」  津野田はハッとした。日本のCIAというタイトルで特集記事を組んだとき、ヒルトン・ホテルを根城にして不可解な活動をしている人物にぶち当ったのだ。たしか名前を広瀬《ひろせ》と言ったはずである。 「憶えているよ。エッチなおやじだろう」  頭文字のHを利用して確認を取った。 「そうだ。彼のほうで何か動いているぜ。老人と工事人のことで」  これはいよいよ本物であった。広瀬は情報関係の特に奥深いところにいる人物らしく、当時の調査ではいろいろな所から顔をのぞかせるのだが、結局くわしいことは何ひとつ判らずじまいであった。 「まだ工事人とつながっているのか」  いつの間にか工事人というのがその頃の首相のコード・ネームになっている。 「いや、そうでもない。だがあれは危険な男だぞ。ああいう男に会ったら気をつけろよ」  宗像はそれを一番言いたかったらしい。     5  夜になった。 「ちょっとそちらへ伺ってもよろしいかしら」  608号室からの電話で左織が言った。 「ええどうぞ。別に横になっているわけではありませんし。さっき風邪薬を服んだので一時的に睡《ねむ》くなっただけですから」  津野田は宗像の連絡を受けて気が楽になっていた。  すぐチャイムが鳴り、加藤が左織を招き入れた。 「お体の加減はいかが……」  左織は菫《すみれ》色のイブニングに着がえていた。髪もアップにして、昼間よりずっと濃艶《のうえん》な感じだ。 「似合いますね」  津野田が感心したように言う。 「父の社交におつき合いさせられるんです」 「お父さまはお帰りですか」 「ええ」 「じゃあお顔を拝見できるわけだ」 「あら、七階へいらっしゃるの」 「そうですよ」 「なんだ、あたしお夕食はお部屋でなさるのかと思ってた。だって、かなりお悪いみたいだったんですもの」  なぜか左織はちょっと抛《す》ねたような言い方をした。津野田はその顔を見ながら、次の連絡では左織の父についても調べさせる必要を感じていた。 「僕はあなたのお父さまについて興味があるんです」 「あら、なぜ……」 「麻績部氏で現代もなお紡績に関係しておられる。娘さんは玉造部《たまつくりべ》になってしまったらしいが」 「まだそのことを」 「とてもすばらしい話ですよ。そうは思いませんか。千年以上も名前通りの職業にたずさわっているなんて」 「紹介しましょうか、父に」 「ええ。できたらそう願いたいですね」 「何かのお役に立つかも知れませんわ」  津野田はふと、左織が加藤を気にしているらしいことに気付いた。 「加藤」 「はい」  加藤は佐織の横のソファーに腰をおろして二人のやりとりを面白そうに聞いていたが、急に名を呼ばれて面くらったようであった。 「さっ言ったろう。そろそろフロントへ届いているかも知れんぞ」  加藤は眉《まゆ》を寄せ、落着きのない態度でゆっくりと立ちあがった。だが、さっき言ったろう、と津野田が故意にありもしないことを言っているのに気付くと、 「そうですね」  と腕時計に目をやり、結構調子を合せて廊下へ出て行った。 「何ですの」 「来る時乗った飛行機の中に忘れ物をしてしまったんですが、空港で保管してくれているそうで、ついでがあるからこっちへ持って来てもいいということなんです」 「それを思い出したわけ……」 「ええ。さっきは本当に失礼しました」  津野田は左織に対していや応なく嘘《うそ》の深みにはまり込んで行く自分がうらめしかった。 「安心したわ」  左織は急に親しげな態度に変った。 「どうしたんです」 「心配だったのよ」 「何が……」 「だって、マルコ・ポーロ・クラブのことをお話してる最中に、急にあんな風に席をお外しになるんですもの」 「どうしてそれが心配なのかな」 「東京PR企画って言うけれど、ジャーナリストのようなお仕事なんでしょう」 「え……ええ、まあ似たようなところもありますね」 「あたし、生意気に協会の側に立ってあのクラブのことが少しぐらい世間に洩《も》れたほうがこの際いいんじゃないかと思ったから喋ってしまったんですけど、あなたがあんな風にお立ちになったので急に心配になってしまったんです。金の業者のいちばん大切な心得は」 「沈黙。でしょう」 「ええ」 「沈黙は金と言うし、スイス銀行の例もあるからよく判りますよ」 「やはりあの話はここでの座興ということにしてくださらない。あたし、こんなことであなたと気まずくなりたくないの」 「そうしましょう」  津野田はどうにでも取れる返事をした。他言しないと言えばもう嘘になるにきまっているのだ。 「あとでゆっくりお会いしたいわ」 「二人きりで、ですね」 「ええ」 「でも、場所がないな。ここも二人だし」 「こういうときは男性が手配なさるものよ」 「そうですね」  津野田は微笑したが、左織はすがりつくような熱っぽい瞳でみつめていた。     6  副支配人は、プライベート、と書いたドアの中の小部屋へ津野田を招き入れた。 「もうひと部屋、でございますか」 「都合があってね」  高級なホテルはこういうとき具合がいい。津野田は物置きでも借りるような軽い調子で、事務的に言った。 「お部屋の大きさは」 「それはどうでもかまわん」 「少々お待ちを」  副支配人は立ちあがり、うしろのドアから出て行った。そのドアはフロントとつながっているはずである。  すぐに戻って来た。 「申しわけございません。ダブルのお部屋しか空きがございませんので、これでご勘弁を願いたいのですが」  ちゃんと判《わか》って呑み込んで、素知らぬ顔でキーをテーブルの上へすべらせて寄越す。 「有難う」 「お会計のとき、キーをフロントへお戻しください」  その部屋の分は払えと言うことだ。 「判った。我儘《わがまま》を言ってすまんな」 「どう致しまして」 「それからもうひとつ」 「は、何でしょう」 「急ぐわけではないが、僕をここへ寄越した人に帰ってからいろいろと土産《みやげ》話をする必要があるんだ。そういうことが僕の仕事でね」 「はい」 「地下に大きなプールがあるそうだが、探しても入口が判らない」 「まだプールは空けてございません。実はまだすべてが整った状態ではないのです。やっとなんとかオープンの日程に間に合せた程度でして」  副支配人はすまなそうに言う。 「無理を言ってすまんが見せてもらえんだろうか」 「それはお易いご用です」  副支配人は立ちあがった。 「プールへの階段はコーヒー・ショップの裏側にございます。建物の外になるような形なのでお気付きにならなかったのでしょう」  そう言えば、そのあたりに防水シートで囲った四角いものがあったようだ。 「いいのかね、今でも」 「はい」  副支配人のあとについて小部屋を出た津野田は、コーヒー・ショップの裏からその囲いのほうへ歩いて行ったが、防水シートの合せ目をまくって中へ入りかけ、急にうろたえたように振り向いた。 「あ、申しわけありません」 「どうしたのかね」 「まだ作業中のようです」  囲いの入口に立ちはだかるようにして言い、 「おかしいな、もうやめる時間のはずなのに」  と、わざとらしく首を傾げた。 「いいよ。そう急ぐことでもなし。あとでゆっくり拝見しよう」 「そうですか、どうも手違いが多くて」  副支配人はほっとしたように言って戻りはじめた。 「パンフレットも送ってもらったが、来て見るとあれとだいぶ違う印象だな」 「そうでしょうか」 「うん。僕はそういうことが専門なんで気になるんだ。実物のほうがずっと立派だよ。プライベート・ビーチや船の計画などは是非載せたほうがいいと思うな。それに別館のほうも」 「あ、それでしたら、あのパンフレットを作りましたあとで、急に計画がふくらみましたものですので。新しいパンフレットをいま作り直している最中です」 「それはいい。牟婁《むろ》神社のことなども是非いれなさいよ」 「はい」 「地下道のことなんか、とてもロマンチックな感じがする」 「は……」  支配人の肩のあたりが、不自然な動きかたをしたようであった。     7  副支配人とロビーで別れてエレベーター・ホールへ向かいかけると、コーヒー・ショップの向かい側の遊戯室の隣のバーから、加藤が出てくるところだった。  津野田は立ち停り、軽く右手をあげて合図した。 「スパイごっこをしてました」  加藤は照れたようにささやいた。 「スパイ……」 「マルコ・ポーロ・クラブの尻《しり》にくっついて、盗み聴きをしてみたんです」  加藤は少し酒臭かった。 「盗み聴きなんかできるのか」  津野田は不思議そうな顔をした。 「英語ならだいじょうぶです。ひとりが話しかけてきたので、全然通じないふりをしてやりましたよ」  加藤がそれほど英語に堪能《たんのう》であったとは津野田も初耳であった。 「それがじいさんなんです。あれは少し南部|訛《なま》りだったなあ」  二人はエレベーターへ向かった。 「連中はのんびりしたもんです」 「そうか」 「完全な観光旅行の雰囲気《ふんいき》ですよ。ここへ来る前、伊勢へ行って来たらしいんです」 「ほう」  津野田は目を細めた。エレベーターのドアがあく。 「伊勢か」 「伊勢神宮の話ばかりやっていましたよ」 「油断できんぜ」 「なぜですか」 「伊勢にはヤマト姫がいるだろう」  加藤は黙り込んだ。六階へ着く。 「そうか、伊勢か」  津野田はドアをあけながらつぶやいた。 「それも情報のひとつだ」  ドアをしめるとすぐ、加藤はたまりかねたように言った。 「社長。少し度が過ぎやしませんか」  津野田が振り向くと、加藤の少し憤ったような顔があった。 「なぜ」  津野田の態度もついきつくなる。 「そんなこと言ってたらきりがないですよ。あの外人たちが同業者の親睦団体だってことは判っているはずです。それも旅行クラブでしょう。だったら日本へ来て伊勢や京都を見物するのは当り前じゃないですか」 「当り前さ。だが、連中がのんびり観光旅行を楽しんでいると思い込むのは危険だ。国際的な黄金商人の集団じゃないか。何かとてつもない黄金の匂いがするからこそ、やって来ているわけだろう。勿論《もちろん》そうでないこともあり得るが、俺たちが今ここにいるのはそのためなんだぞ。もし連中が何かを嗅ぎつけているとすれば、俺たちより十歩も二十歩も先を歩いていることになる。卑弥呼の線を辿《たど》ればやがて大和朝廷に至る。そして伊勢だ。この列島の原始宗教が海人族の三女神と習合して二人の脇侍《きようじ》をともなった三尊形式の太郎天童となってこのホテルの岡の上に残っていた。その流れは宇佐で八幡神となり、一方では出雲の神々とも結ばれて、モモソ姫の孫であるヤマト姫が伊勢に鏡を抱いて行ったわけだ。時間が許されれば俺たちもいずれ伊勢へ行くことになるだろう。違うか」 「余りにも、ですよ」  加藤はソファーにドスンと坐り、ふてくされたように煙草《たばこ》を吸いはじめた。 「こうもスラスラと謎《なぞ》の核心へ近づいて行けるものでしょうかね」 「どういう意味だ。それは」 「たしかに伊勢の話題は油断なりません。そいつは認めます。認めるけど何か不自然だな」 「どこが不自然だ。俺たちは一歩一歩……」 「おかしいんです」  加藤は首を左右に激しく揺った。 「どこかへ吸い込まれて行くような気がするんです。どこかに穴があって、はじめから僕らはその穴へ吸い込まれるしか仕方がないみたいなんだ」 「穴はあるさ。このホテルの真下にな」 「違うんです」  加藤は強く言った。 「テンポが早すぎます」 「それはこっちが急いでいるからだよ」  津野田はなだめるように言った。 「僕、酔っているかなあ」  加藤も自制心を取り戻したようであった。 「とにかく、今夜は一人でこの部屋に寝てもらうことになるかも知れんぞ」  加藤は怪訝《けげん》な表情になったが、すぐにニヤリとした。 「そう来なくちゃねえ」     8  今度は津野田と左織がバーにいた。ただし一階のではなく、最上階にある七階のスカイ・レストランの隣のスカイ・ラウンジのカウンターに並んで飲んでいる。 「あたしたち大した浮気者ね」  左織は少し酔っていて、左手を軽く津野田の右手にのせた。 「そんな女性だとは思っていないよ」 「お礼を言うべきね」  左織は笑った。 「でも、お返しをするとは限らないわよ」 「僕が浮気者だと言いたいんだな」 「魅力があるもの」 「おだてないでくれ」  左織は、ねえ、と体を寄せて来た。 「堅いことは言わない。いいでしょう……」 「賛成だな」 「出来たてのホテルよ。べッドもバスもカーペットも、まだお客に使われたことがないの。タオルなんか、新品だから水気を吸わないからかえって具合が悪いくらい」 「そうだね」 「あたしたちのこういう夜にはうってつけだと思わない……」 「新婚旅行ならもっとよかったのに」 「その経験、あるの」 「ああ」 「嫌《いや》ねえ、男の人って。あたしはまだこれでも未経験よ。で、奥さんはいま……」 「東京にいる」 「まあ、図太いのね」 「亭主と一緒にさ」 「え……どういうこと」 「ほかの男と一緒になったんだ」 「あなたみたいな人を捨てて……。どういう人かしら、そういう強力な男性は」 「友人さ。同僚で親友」 「まあ……」 「奪《と》られたんだ。甲斐性なしさ」 「そんなことないわ。でも、同僚って言ったわね」 「うん」 「職場がおんなじ……」 「そうさ」 「困るわね、そういう関係」 「こっちが逃げ出したよ。それで今の会社をはじめたんだ」 「どうして。あべこべじゃない」 「なぜかそういうことになってしまった。信じないかも知れないが、それ以来さ。こういう晩は」  左織は津野田の肩に頬を押しつけてじっとしていた。右の腕に手をからませ、しっかりとかかえ込んでいる。 「信じるわ」 「俺たちは今東京の方角に向いて坐っている」 「そうね。あの暗い海のずっと先に東京があるのね」 「ここは静かだ」 「東京からも遠いわ。変ね。アメリカやヨーロッパにいても、東京はもっと近く感じるのよ。なぜかしら。セント・ヘレナ島の晩みたいな感じだわ」 「行ったのかい」 「ええ」 「随分旅行をして歩いてるんだな」 「そんなでもないわ」 「マルコ・ポーロ・クラブのメンバーほどには、かい」 「あたし、来年あたりあのクラブへ入れてもらえそうなの」 「凄《すご》いじゃないか。でも、そういう人を妻にする男って、ちょっと想像のほかだな」 「本当は落着きたいのよ。世話女房タイプなのよ、これでも」 「とてもそうは見えないさ」 「東京へ戻っても会えるかしらね」 「どうかな。こっちはそうなることを望むがね」 「もう行きましょうか。これ以上飲むと、あたし変になっちゃう」 「部屋は取った。でも、その前にちょっと散歩しないか」 「散歩……」 「探険、かな。子供がよくやるじゃないか。知らない家の屋根裏部屋へ行って見たり」 「ホテルを探険するの」 「そうだ。プールを見たいんだよ。さっき入口は見つけて置いた」 「あたし苦手だけど、あなたとならいいわ」 「じゃ行こうか」  津野田はスツールをおり、左織に手をかしてやった。 「今の内にひとつ訊いて置くけれど、608号室へ戻らなくても叱られないのか」 「父はもう諦《あきら》めてるわ」  左織は柄にもなく蓮《はす》っ葉《ぱ》に笑った。     9  津野田はためらわず、防水シートで囲ったプールの入口へ向かった。菫色のドレスの裾《すそ》を夜風にひるがえして左織がついて行く。 「ここだ」  津野田は副支配人がしたようにシートをめくって言った。地下へ降りる階段は思ったよりずっと幅が広かった。 「もう出来上ってるのね」  点々と灯《あか》りがついていた。津野田は重いシートを右手で支えて左織を中へいれ、その手をはなした。急に雰囲気が変り、まさに少年の日に廃屋へ忍び込んだような気分になった。 「こわいみたい」  多分いくらか閉所恐怖症の気味があるのだろう。左織はそう言うと津野田の右手を左手でしっかりとつかみ、あいた手でドレスの膝《ひざ》のあたりをつまんで階段を降りはじめた。階段には近頃普及して来た、柔らかい足ざわりの、不燃性プラスチックの床材がカーペットのように敷きつめてあって、反響しやすい階段の穴だが靴音《くつおと》は少しも響かせずにすんだ。 「かなり深いわね」  左織は前をたしかめるように見ながら言った。 「これなら子供がはだしで登りおりしても安全だな」  津野田はどこまでも行き届いた設計に舌をまいていた。 やがてその階段もおわると、ビニールのカバーをかけたゲーム・マシンが突き当りの壁までずらりと並び、〈サファイア・ゲームランド〉という看板が天井からぶらさげてあった。突き当りはソーダ・ファウンテンになる様子である。  そして、左側に大きな両びらきのガラスのドアがあり、その合せ目に、〈工事関係者以外の立入を禁ず〉と、このホテルにしては珍しく乱暴な字と言葉を並べたベニヤ板の札がぶらさがっていた。  津野田はそれを押した。  かすかに軋《きし》んであいた。 「まっ暗ね」  ゲームランドのほうから入る灯り以外、そこには灯火がなかった。しかし、左織が言うほどまっ暗ではなく、うすぼんやりとプールが見えていた。 「五〇メートル・プールだな」  コンクリートの匂いがたちこめている。水はまだ張られていないのだ。  津野田は左織の手を引いて、注意深く進んだ。その空間の感じはボーリング場に似ていた。左前に助走のためのスペースと似た幅のスペースがとってあって、そのうしろに新幹線のホームの椅子《いす》と同じタイプのプラスチックの椅子が、床に作りつけてある。椅子の列の背後は通路で、壁にドアが並んでいた。更衣室らしい。 「立派なもんだな」  津野田は感嘆した。 「冬も泳げるようにするって聞いたわ」 「そうだろうな。これだけのことをするんだから」  そう言って暗い天井を見あげたとき、どこかでガチャンと金具を外すような音がした。その音は大きな地底の空間に谺《こだま》して二人を威嚇するようであった。  どうということなしに、左織は逃げようとした。椅子の列のうしろへ行ってしゃがみ込んだ。津野田は逆に手を引かれる恰好《かつこう》になってついて行き、同じようにしゃがんだ。  音はプールの向う側からしたようだった。もう一度、今度は明らかにドアをあける音がして光がさし込み、すぐ消えるとプールサイドのコンクリートの上を歩く靴の音がはじまった。  靴音は二人分だった。津野田と左織は体をいっそう低くした。懐中|電灯《でんとう》の灯が動いている。 「上は大変らしい」  男の声が言う。まだ若い声だった。 「明日の晩連中に披露するそうだ」 「見せていいのかな」 「いいんだろう。えらいのが一人来るというから」  二人は入口の側の壁ぞいに歩いて来る。ゲームランドとの境が素透しのガラスになっていて、シルエットがはっきりと見えた。どうやらガードマンらしかった。警官のような帽子をかぶっている。懐中電灯の光が二条、さっとプールの空間を走りまわる。 「異常なし」  事務的に一人が言い、津野田たちが入って来たドアをあけて出て行った。防水シートのところで張り番をするのだろう。 「ドキドキしちゃったわ」  左織は掴《つか》んでいた津野田の手を自分の胸におし当てた。ドレスは絹で、胸はすべすべと、しかも柔らかくふくらんでいた。     10 「本当に探険ごっこね」  左織は無邪気にうれしがっている。 「今のガードマンね」 「うん」  二人はささやき合う。 「あそこへ入って見ましょうよ」  左織がせがんだ。津野田にとっては好都合だった。万一見つかっても特別重要な人物らしい麻績部の娘と一緒なら、厄介《やつかい》なことにはなるまいと思った。 「よし。探険だ」  津野田はほろ酔いで子供っぽい探険ごっこをしていることを強調するように言い、靴を脱いで手に持った。左織もクスクス忍び笑いをしながらそれを真似る。立ちあがる前に、二人はどちらからともなく唇《くちびる》を軽く合せた。 「出発」  津野田がそう言い、二人は手をつなぎ、片手に靴を持ってガードマンが出て来たドアのほうへ歩いて行った。 「つめたくていい気持」  左織ははだしの感触を楽しんでいるようであった。  ドアの前へ行くと、津野田はつないだ手をはなし、靴をそっと床へ置いて両手でノブを握って静かにまわした。ドアを持ちあげるように力をこめている。  チッ……とかすかな音がしただけで錠の爪《つめ》が外れた。津野田はノブを持つ手の力をゆるめずに元へ戻した。  中に灯りがついている。津野田は靴を持ち、左織はドレスの裾をつまんだ。目配せしてからドアを体が入る分だけあけ、左織がまるで猫《ねこ》のようにしなやかな身ごなしでまずその中へすべり込み、津野田があとに続いて、今度は片手で用心深くノブをまわしてしめた。 「なんだ、機械室じゃないの」  ドアと左側の壁はコンクリートであった。そしてその狭い中に大小のパイプがごちゃごちゃと入り組み、バルブやメーターが複雑に散らばっていた。  たしかに機械室である。しかし、右の突き当りの壁は、天然の岩肌《いわはだ》がむき出しになっていた。 「変だな」  津野田はつぶやき、入口の一段高くなったところから奥へ踏み込んだ。 「見ろ。これはずっと以前からある洞窟《どうくつ》を利用したものだぞ」  むき出しの岩肌はしっとりと露を含んだように濡《ぬ》れていて、とてもきのうきょう掘り抜いたものではないようであった。  更に奥へ入ってパイプの林の裏側をのぞいた。 「道がついている」 「ほんと……」  左織が足を踏み出しかけ、顔をしかめると手に持ったハイヒールを履いた。爪先だって歩いて来る。 「これだな、海岸へ続く地下道というのは」 「気味が悪い。これ、地下道じゃなくて自然のほら穴じゃないの」 「牟婁《むろ》神社か」  津野田がつぶやいた。洞窟の祭祀《さいし》は原始宗教につきものである。 「行くの……」 「海岸へ出られるんだろう。ほら、かすかだけど汐《しお》の匂いがしている。海の風さ」 「今更引っ返せないわね」 「よし、行こう」  津野田も靴を履き、二人は手をとり合ってその狭い穴をおりはじめた。  津野田がほんの少し腰をかがめる程度で、左織はほとんど直立したままで歩けた。だが、天井に電線が一本這わせてあり、ところどころに裸電球がぶらさがっているので、つい腰をかがめっぱなしで歩いてしまうようだった。 「随分古いほら穴ね」 「自然の穴とばかりは言えないな」  急な下りはすぐにおわり、ゆるい下りになっていたが、ところどころに人の手が加わって掘りひろげたと思われる部分も目についた。 「どのくらい深くおりたかしら」 「どうせ崖《がけ》の下が終点だろう。大した深さじゃない。精一杯下っても崖の高さと同じはずだ」  喋《しやべ》っていないとなんとなく不安だった。 「あれ、何かしら」  左織が津野田の肩ごしに前を見て言った。  津野田はそれにとっくに気付いていた。 「誰か頑張《がんば》っていて、つかまってしまうかな」  それは明らかにホテルができてから作られた部分で、コンクリートの壁がしらじらとした蛍光灯《けいこうとう》の光に浮き出していた。 「ほう、分岐点か」  さいわい無人であった。そして地底の細い道はそこから二本に分れていた。 「左へ行けばプライベート・ビーチ、かな」  津野田はその方向感覚に自信があった。 「どっちもあとで作ったもんだぞ。この道はここで行きどまりだったらしい」  明らかにそこから先は最近のもので、梯形《ていけい》にコンクリートの壁がかためていた。 「神様がいるわよ」  左織が冗談のように言った。二人が通って来た壁の反対側に一本、左側に一本、地下道がついていて、それよりやや奥行きをとった右の部分の突き当りの壁の中央に、ま新しい素木の神棚《かみだな》のようなものが作りつけてあった。 「屋上にいた神様かしら」  左織が近寄り、津野田も好奇心に駆られてそのそばへ行った。  小さな神殿の模型のようであった。階段がつき、回廊をめぐらせてあって、正面に三〇センチ四方くらいの両びらきの扉《とびら》が、おごそかな感じで閉じてあった。 「これじゃ何の神か判らん」  津野田はそっと手を伸ばし、その扉をあけはじめた。あければ神名を記した紙があるはずだと思ったのだ。 「あ……」  と津野田が言い、 「あら……」  と左織が言った。  扉の中はガラスであった。それは三〇センチ四方の、ガラスの覗《のぞ》き窓のようであった。 「何かしら」  左織が言ったが津野田は声が出なかった。彼はいま、ひとつの神殿を見ているのであった。たとえそれが地に埋れ、一部しか見えなくとも、彼は何であるかを悟っていた。垣《かき》をめぐらせた神殿である。しかもその垣の柱の一本一本が、こちら側の光を反射して黄金色に輝いていた。土に埋れ地の底となっても、その黄金の神殿の一部に間隙《かんげき》が残されて、そこから伏し拝み、見ることができるのであった。 「卑弥呼の宮だ」  津野田は無意識につぶやいていた。  第九章 苦 悩     1  薄汚れた赤い旗の列が白日書房の前に揺れていた。あたりに背広を着てネクタイをしめ、〈団結〉と書いた鉢巻《はちまき》をした若い男たちが、五人、十人とたむろしている。  津野田は白日書房の正面玄関から出ると、疲れ切った表情でその男たちの間を縫うようにして通りへ出る。 「ご苦労さまです」  若い男たちが挨拶《あいさつ》するが、津野田はものうげに頷《うなず》くだけだ。  一度退社した津野田は、もう二度とそこへは戻《もど》らないはずであった。  国東半島から戻って、もう四ヶ月になる。  あっという間に夏が過ぎ、もう秋がたけなわであった。ぼんやりと道へ出てタクシーを拾おうとして、ふと持金の心細さに気付いた。 〈白日〉の仕事で交通費が出たのはあれから二ヶ月たらずの間であった。  津野田は国電の駅へ向かってトボトボと歩いて行った。特に行くあてもなく、神田のボロビルへ戻るだけしかなかった。  元の状態に戻るだけだ。  自分にそう言い聞かせている。〈東京PR企画〉の社長として仕事に精を出せばいいのは判《わか》っていた。しかし、何かを失った物哀《ものがな》しさは拭《ぬぐ》いようもなかった。  鈴木は退社させられた。要するに馘《くび》である。宗像もたった今、遂《つい》に辞表を出したところであった。編集長から一編集部員に格さげにされ、その上追いうちをかけるように、九月の異動で営業部へ追いやられた。  白日書房の前の赤旗は、そのために起った労使の紛争によるものであった。  国東《くにさき》の黄金に関する記事は遂に一行も出ることがなかった。社長の側からがむしゃらな圧力がかかったのだ。用紙も押えられ、印刷所はどこもまったく協力してくれなかった。 「会社を潰《つぶ》してもこれは出させん」  社長はそう息まいていた。どこからか、彼に対する絶対確実な保証がおりているのだ。その上社長は正義感のようなものに燃えたっている。一般の社員はよくそれを理解できないようだが、津野田にははっきりと把握《はあく》できていた。  国家の秘密なのだ。国東の黄金は今のところ絶対に秘匿《ひとく》しなければならないのだ。     2  あの地底の神殿を垣間《かいま》見たのは、津野田と左織だけであった。  いや、他にも大勢いるのだろう。しかし誰も名乗り出ては来ない。麻績部《おみべ》左織すら沈黙したままなのである。  あの夜二人は左の穴を抜けて無事にプライベート・ビーチへ出ることができた。穴を出たところにもガードマンが一人立っていたが、穴のそばを離れた隙《すき》をうまく利用して、ホテルから降りて来る石の階段へ辿《たど》りつくと、少し登ってから体の向きを変え、わざと大声で喋《しやべ》りながら海岸へ戻って見せたのである。  簡単と言えば簡単だったが、夜中に穴へしのび込んで神棚《かみだな》の扉《とびら》をあけ、中を覗《のぞ》いて見たりする人間はそう多くないはずであるから、コーヒー・ショップの裏手と、崖《がけ》の下の二つの入口にガードマンを配置すれば、それでほぼ侵入者は防げるのだし、警備側としては充分な態度であったと言えるだろう。津野田と左織は、そのほんのちょっとした間隙《かんげき》を縫うチャンスに恵まれただけのことだ。  左織は事の重大さにすっかり怯《おび》えたようであった。彼女は金に関する専門家なのだ。あの地底の光景が何を意味するか、知り抜いているはずだった。  二泊した三日目の朝、左織はとうとう津野田の前へ現われなかった。勿論《もちろん》あの晩準備させた部屋も、無駄になってしまっている。  東京へ戻ってからも、津野田は何度も左織に連絡をとろうとした。しかし左織は声ひとつ聞かせてくれず、白日の取材網を動かしたが、彼女の店は多分父親が背後で実権を握っているだろうという程度の、大して価値のない情報しか探り出せなかった。  そのうちに、サファイア・ホテルに関する取材活動はいっさいとめられてしまった。鈴木や宗像のところにその命令がおりた頃には、すでに外部のスタッフや情報源は、殆んど白日に対して口をつぐんでしまっていた。  それでも宗像は、乃木の父親の行方を一人で追い求めた。やがて強硬に国東の件の取材活動を継続して行なうように主張していた鈴木が、有無を言わせぬやり方で退社させられ、同時に宗像も格下げされてしまった。  津野田は最も弱い立場にいたから、そんな問題が起るずっと以前に資料室を追い出され、ご用済みのかたちで抛《ほう》り出されている。  何の変りばえもしない邪馬台国《やまたいこく》の特集だけが、毎月〈白日〉の誌上でスケジュールを消化して行くだけである。 「俺《おれ》はたしかにあれを見たんだ」  津野田は、鈴木や宗像や加藤に何度それを言ったか判らない。その三人はいつも同じ答え方しかできないようであった。 「たしかだと思う。それでなければこんなことにはならないはずだものな」  再び共通の基盤に立つことになった津野田と宗像は、いつの間にか過去のいきさつを水に流していた。  三人の団結が呆気《あつけ》なく解体され、遂にたまりかねて宗像も辞表を出すに至った日、津野田は蘇《よみがえ》った友情を示すのに、それしか言えなかった。 「頑張《がんば》ってくれ。彼女をしあわせにしてくれなければ困るんだ」  津野田はひと足先に白日書房を出た。白日書房と別れる宗像の姿を見るのが嫌《いや》だったからである。  神田のビルへ戻った津野田に、加藤が声をかけた。 「電話がありましたよ。ご婦人です」  ハッとして加藤を見た。左織ではないかと思ったのだ。だが、加藤の表情は否と告げていた。 「なんだ、違うのか」 「塚本、という人ですよ」 「塚本……」  そうか、と思い当った。詩乃のことであった。 「また掛けるそうです」  津野田は木の椅子《いす》を鳴らして坐《すわ》った。黙り込んで瑕《きず》だらけの机を眺《なが》めている。  俺は堂々めぐりをしている。そう思った。もう何百回も同じことを考え続けているのだ。……このガッチリとしたスクラムはいったい何なのだろうか。なぜ自分はこんなことに捲《ま》き込まれてしまったのか。 「加藤」 「何です」 「いつか言ったな。こんなのはおかしいって……」 「ああ、あれですか」  加藤にはもうすんだことらしく、気楽に笑っていた。だが、津野田は今になってそれと同じ疑いを抱きはじめていた。     3  また覇気《はき》のない毎日に戻っていた。 「やはり俺たちの本業は、東京PR企画なのかなあ」  朝であった。三人が顔をそろえたところで、津野田が思い出したようにそう言った。仕事にとりかかる寸前で三人そろって、煙草《たばこ》に火をつけていた。煙が複雑な模様を描いて天井へはい上がっていった。 「ばかに弱気になりましたね」  加藤がからかうように言った。 「でも心配はしていません。なあ松本」  松本は加藤の言う意味をはっきりとらえかねてぼんやりと煙草をふかし続けていた。 「燃えたり消えたり、よく変る人なんだから」  自分に対してそういう評価が下されていることを津野田は始めて知ったようである。 「そうかなあ」 津野田は首をかしげた。 「例の件だが」  津野田は加藤と松本を半々に見て言った。国東の件については、松本も加藤から聞いてあらかたのことは知っているのであった。 「俺は本当に黄金の神殿を見たのだろうか」  加藤が吹き出した。いや吹き出して見せたという方が正確であろう。彼は彼なりに津野田をはげまそうとしているらしい。 「いまさらそんなことを言い出されちゃあ困るなあ」 「いやそうじゃないんだ。そういう意味じゃない。俺はあの晩サファイア・ホテルの部屋で少し酒のまわった加藤に言われた言葉が気になってきているんだ」 「なぜです」  加藤はいくらか表情をひきしめて尋ねた。 「時間がたったのでいくらか冷静になってきたのかもしれない」  津野田は率直に言った。 「俺は本当にあれを見たのだろうか。加藤の言ったことが刺激になっているのは確かだが、なんだか見せられたような気がしてならないのさ」 「見せられた……」  松本がびっくりしたような声で言った。 「自分で追いかけまわして、その獲物を追いつめたんじゃないんですか」  普段|寡黙《かもく》な松本は熱っぽくそう言い、その熱っぽさに気づいたのか急に照れ笑いをした。 「社長や白日書房のお友だちが窮地に追いこまれたのは知っています。人が困っているのを楽しむような言い方で申し訳ないんですが、僕はうらやましがっているんです。そういうすごい事件にぶつかれるのなら多少命があぶなくったってよろこんで飛び込んでいきたい気持です」  津野田は頷いた。 「松本の気持はわかる。あれはロマンチックな事件だった、ただ、そこが気になるんだ。ロマンチックすぎる。ちょっと夢の多い男なら、いやひょっとしたら女だってああいう事件にぶつかれば、匂《にお》いを嗅《か》いだだけで飛びついていってしまうだろう。いまになって考えてみるとたしかに加藤の感じたことも一理あると思うんだ」  津野田は立ち上がり、手を伸ばせば隣りのビルの壁に触れられるほどの隙間《すきま》に開いた窓ぎわへ行き、まるでサファイア・ホテルの窓から周防灘《すおうなだ》をながめるように、窓枠《まどわく》に両手をついて腰を引いた。 「なんだかハメられたような気がするなあ」  ゆったりとした声でそう言った。 「なぜそう思うんです」  松本がむきになって訊《き》いた。 「加藤は穴へ吸い込まれるようだと言ったよ。そうだったな……」 「忘れましたよ」  加藤は照れくさそうに答えた。 「まったくその通りだ。冷静になって考えれば、俺は穴へ吸い寄せられていたようだ。あの地の底の黄金の神殿へ吸い寄せられたのだ。誰かがそこへ俺が行かなくてはならないよう、し向けていたような気さえする」 「誰がそんなことをしたんですか」  松本が笑った。しばらく仕事をまかせているうちに、松本はめっきり成長したように思えた。 「ま、すんでしまったことだ。もう俺の力ではどうしようもない。恐らくどこへ持って廻《まわ》っても国東のネタに関する各社の反応は白日書房と同じことだろう。とほうもない力が、巨大な闇《やみ》の中の手が、ぬかりなくあちこちをおさえてしまっているにちがいない」  すると加藤が眉《まゆ》を寄せ、低い声で言った。 「でもおかしいですね。たしかにマスコミにはもれなかったけれど、マスコミの舞台裏では、ちょっと気のきいた男なら国東の件はみんなもう知っているんですよ」 「だが秘密は秘密だ。誰も知らないことを秘密と言う場合もあるが、一億人のなかの一万人が知っている秘密も秘密だ」 「宝田という爺《じい》さんは、あんなことをして何かの利益を得たのでしょうか」 「得たろうな。表面に浮きあがらせかけておいて揉《も》み消した。マッチ・ポンプというやつだろう」  要するに、もう操り人形たちの出番は終ったらしい。津野田はそう思った。     4  平凡な日々に戻った津野田は、たびたび二階の法律事務所を訪れたが、碁がたきの小見老人は、あれ以来ずっと姿を見せなかった。  秘書とも身の廻りのせわをする女中ともつかない役をしていた中年の女が応対に出て、たいしたことはないが少し体の具合が悪いのだと言い、 「何しろもうお歳ですから」  と、そのつど弁解がましく言うだけであった。 「そのうち見舞にいかなくてはなあ」  津野田はそう言っていたが、気が付くといつのまにか興信所のほうがどこかへ移ってしまったらしく、法律事務所のほうも出入りする人影がめっきり減ってしまったようだ。 「小見さんは引退なさったらしい」  そんな噂《うわさ》がどこからともなく聞えて来た。 「いい碁がたきだったのに」  津野田は一度そう言って惜しんだあと、もう二度と会うこともない人物らしいと、忘れるままにしていた。  宗像はうまい具合に新しく出来た小さな雑誌の編集長におさまるらしかった。鈴木は学術書専門の、小さいが比較的内容のいい出版社に落着いたという連絡があって、それはそれなりにひとつずつ落着いてゆくようであった。  津野田はときどき詩乃と会うようになっていた。もうとうに体の関係も出来て、地味でいささか世帯じみてはいるが、〈東京PR企画〉のような会社をやっている男には、至って無難な女ではないかと、近頃は結婚の時期を考えるほどになっていた。 「人生って、こんなものなんだなあ」  詩乃と二人きりでくつろぐたび、津野田は嘆くとも感心するともつかぬ調子でそういうのがくせになり始めていた。 「俺にもやはり欲があった」 「欲のない人なんていないわ」  詩乃は例のベランダに車輪の無い自転車を置いたアパートで、なぐさめるようにそう言うのだった。 「黄金のわけ前にあずかろうなどという欲はなかったさ。金《かね》に縁のある男じゃないからな。そいつは始めからあきらめてしまっていたよ。でも俺は興奮した。本当にあんなに興奮したことはなかった。加藤も、宗像も、鈴木さんも、その興奮の度合については皆似たりよったりだった」 「そしてお金《かね》に縁がないところもね」  詩乃は陽気な笑い声をたてた。 「いいのか。呑気《のんき》にそんなことで俺をからかっていて」 「あら、どうしてなのよ」 「その金《かね》に縁のない男の女房になるかもしれないくせに」  津野田は何気なくそう言った。とたんに詩乃はギョッとしたような表情になって、体をかたくし、黙り込んでしまった。 「どうしたんだ……」  津野田が訊いた。 「それ、プロポーズなの……」  詩乃の声は震えていた。  津野田はそれで気がついた。うっかりしていたが詩乃に結婚のことを言い出したのはそれが始めてだったのである。  津野田は自分の迂闊《うかつ》さに気付いて我ながらおかしくなった。のけぞって笑い始めた。 「何よ……」  詩乃はつり込まれて薄笑いを浮かべながら、半分は憤《おこ》りかけてもいるようだった。 「ごめんごめん。何だ、俺ひとりで考えていたんだったな。このところずっと結婚のことを考え続けていたんだ。もう何度も君と話し合ったような気がしてしまっていたくらいさ。まったく俺もどうかしてるな」  詩乃は、まるで場所を盗むように、素早く赤い卓袱台《ちやぶだい》の角をひとつ廻《まわ》り込んで、津野田の左肩にもたれかかってきた。 「ずるいわ」  津野田の肩先に顔を押し当てて、籠《こも》った声で言う。 「なぜだ」 「そんなインチキな言い方って……」  詩乃の頬《ほお》に泪《なみだ》が走っていた。 「お嬢さん。僕と結婚して下さい」  津野田はそうささやいていた。     5  結婚の話は別なところでも進んでいたようである。  神田のボロビルに乃木明夫が訪ねて来たのは、津野田が詩乃にプロポーズした二日後のことであった。 「郵送するより持って来た方が早いと思いまして」  明夫は表に毛筆で津野田の名を記した白い角封筒を手渡して言った。寿のマークが入ったシールで封をしてあった。 「ときどきこのあたりへ来るものですから」  津野田は封筒を受け取り、 「とりあえずおめでとうと言っておこう」  と言った。 「しかし君もひどい奴《やつ》だな。おやじさんのことではなぜあんなにがんばったんだい」  津野田は声こそ静かだが怒りをこめて言った。 「手を焼いたぜ、まったく」 「実はそのことでおわびかたがたうかがったんです」  明夫はていねいに頭を下げてわびた。 「わびてもらわなくてもいいが訳を聞きたいな」 「父が始め大田区の病院に入っていたのは本当です。ですがそのあとうちの社が面倒みてくれることになったんです。最高の病院で最高の病室をあてがわれ、もうこれ以上は望みようがないというほどの手厚い扱いをしてくれたのです。なぜ会社が僕の父の病状を知っていてなぜそんなに手厚くしてくれるのか、僕には見当もつきませんでしたが、兄があんなことになった後ですし、会社はつぶれて、いや、つぶしてしまったあとですし、筋が通らないからどうのといってもいられない気持でした。有難くお受けしてしばらくすると交換条件のようにして会社が言って来ました。父の居所に関しては誰にも言うなと……。何かあったなとは思いました。しかし結婚をひかえていましたし、僕は僕で自分の人生を築いていかなければならないのです。ましてそういう命令を、いや要求を出しているのが自分の会社ですしね。僕は目をつぶりました。津野田さんたちが何かの必要で父の所在をつきとめようとなさっていることを知っても、そのときはもう喋《しやべ》るわけにはいかなくなっていたのです」  津野田は唸《うな》った。 「まあいいさ、人それぞれだ」 「すみませんでした」  明夫は改めてもう一度頭を深々と下げた。 「しかしそれではいったいなぜいまになって、それを告白しにやって来たんだ」 「おかげさまで父の病状もかなり良くなって来ました。スピーチさせなければ何とか式にも出られるようなのです。それに」  明夫はちょっと言いよどみ、思いきったようにまた喋り出した。 「社長が仲人をしてくれるのだそうです。そのなかに書いてありますので……」  津野田は封を切った。型通りの文面が黒々と印刷されていた。媒酌人《ばいしやくにん》はたしかに明夫の会社の社長であった。 「その社長の言いつけなんです」 「なんだって……」、  津野田は呆気にとられて明夫をみつめた。 「なぜ社長が……」 「僕にもわかりません。ただこれが父のことに関係しているのは確かなようです」  津野田は頷いた。 「多分、父に関する何かの状況が変わったのでしょうね」  明夫は肩の荷がおりたように晴れ晴れとした顔で言った。 「で、よくなったと言うが、お父さんはどの程度に良いんだ」  すると明夫は眉を寄せ、 「ほとんど喋れません、まあ、はっきり言ってもう廃人というところです」 「そうなったのはいつからだ」 「去年の十一月です」 「乃木が死ぬ少し前だな」 「ええ」  黒い疑惑がまたむくむくと津野田の心の中にわき出していた。ひょっとすると一服盛られたんじゃないのか……といいたいのをあやうくおさえ、津野田は明夫の顔をまじまじとみつめた。 「そんなわけで、本来ならもっと早くにおとどけするところでしたが……社長の許可が出たのでいそいで持って来たようなわけなんです。ぜひ出席していただきたいのですが」  津野田は明夫があわれになった。ひょっとするとこの青年は何かの犠牲者なのかもしれないと思ったのだ。父と兄をうばわれ、その代償にこうした扱いを受けている。 「出よう」  津野田は自分自身にふんぎりをつけさせるようにきっぱりと答え、改めてその文面に目を走らせた。 「助かった。有難うございます」  明夫はうれしそうに言って立ち上がった。 「では当日はよろしくお願いいたします」  そう挨拶して部屋を出かかり、急に振り向いてつけ加えた。 「僕、課長になったんです」  照れたように口早に言うと、明夫は去って行った。  津野田は憮然《ぶぜん》としてドアの方をながめていた。 「畜生、安い買い物をしやがる」  それがいったい誰に向けた言葉なのか津野田自身にもよくわからないようだった。     6  明夫がわびた通り結婚式の期日はさし迫っていた。翌々日の土曜日の二時からであった。  場所はヒルトン・ホテル。  津野田は乃木一家に対する何ものかの仕打ちを憎むだけで、すでにあの事件に対する警戒心をとりさってしまっていた。  だが、その披露宴の見知らぬ客たちにまじっているうちに、国東の黄金に関連して、自分たちの調査上に一度だけ浮かび上がって来た人物の名を思い出していた。  広瀬。  それしかわかっていない謎《なぞ》の人物である。サファイア・ホテルであの晩すぐに受けた宗像の暗号もどきの報告の中に、その名がまじっていたはずである。  老人と工事人のことに関してその人物が動いているらしいと。  日本のCIAという特集をやったとき、その広瀬という謎の男はこのホテルを根城にしていたのである。明夫の会社の社長は、たしかに大物にはちがいないが、そういう秘密に深く関与するような男ではない気がした。たぶん何かの力に動かされて、津野田の方に表だった動き方をして見せているだけなのだろう。  勘が働いた。  明夫が持ってきた招待状は、この披露宴への招待状ではなく、この建物への招待状なのではなかろうか……。  吸い寄せられる。  加藤の言葉がまた甦《よみがえ》った。ひょっとするとこの会場のどこかに左織の姿があるのではなかろうかなどと思ったりした。  何が起ってももう驚くまい。津野田は肚《はら》をすえ、知った顔はないかと改めて客の顔を見渡していった。  その披露宴の会場の扉《とびら》のあたりへ目が行ったとき、津野田にとって見なれた、しかしまったく意外な顔が近づいてくるのがわかった。その男は扉のところで立ち停り、ウエイターに何か言っている。ウエイターは軽く頷いてすぐに津野田の方へ歩いてきた。披露宴はもう終りかけていた。 「会社の方が急用だと申しておられます」  津野田は目立たぬよう席を立ちウエイターの後について扉の方へ行った。背の高い、のっそりした感じの松本が扉の陰に隠れるようにして待っていた。 「何かあったのか」  敵に対して身がまえはしたが、それだけに味方の松本が現われたことが津野田を不安にさせた。 「ちょっと来ていただきたいんです」  松本はせかせかと言いすぐ先に立って歩き始めた。  津野田はその後について行きながら、 「何が起ったんだよ」  と言った。 「例の件です」  松本はエレベーター・ホールへ足早に行き、まるででたらめのように上のほうのボタンを押した。 「例の件と言うと国東のことか」  松本は頷き、それ以上何も言わずにドアが開くとエレベーターの中へ入った。  エレベーターは素早く上昇している。  松本は両手を腹のあたりに組み、ドアの上に並んだランプをじっと見つめている。  八階でエレベーターは停《とま》った。  ドアが開く。  とたんに津野田は電線に触れたときのような衝撃を感じ、 「こいつ……」  と甲高く言って廊下へ飛び出した。 「お前か」 「僕じゃありません」  松本は弁解がましく言った。 「畜生。お前が敵だったとは気がつかなかったぜ」  怒りをこめて言ったつもりなのに、津野田はまるであべこべの、妙にさばさばした気分になっていた。見事だった。見事にしくんだ罠《わな》であった。     7  ドアを開けるとそこはガランとした部屋で背もたれの高い、ちょっと古風な感じの椅子や応接セットがほどよい間隙で配置してあった。人影はなく、ただ奥の部屋に通じるらしいドアの前に、レスラーのような厚い胸をした大男が、両足を肩の幅だけ開き、腰のうしろに両手を組んで、真正面の天井と壁の角をにらんで立っていた。 「あちらへどうぞ」  案内して来た松本が言うと、男はのっそりと動いて左手でノブを把《つか》みドアを開けた。  津野田はふざけたように声をかけてからその部屋へ入った。 「失礼します、広瀬さん」  半分は当てずっぽうだった。だが、見事に的に命中したようだった。 「いやあ、まったく恐れいった。君のような勘のいい人は初めてだ」  大きなデスクがあり大きな回転椅子がその向こうにあった。そして小柄な男が坐っていた。中年というより、もう初老の感じである。垢《あか》ぬけていて、妙に人をそらさないところがあった。 「ひどい目に遭わせてくれたもんですね」 「おかげで我々の黄金作戦は大成功だった」 「黄金作戦……。あれにそういう名を付けていたんですか」  津野田にもまだまとまった筋道はたっていなかった。だが国東の黄金がとほうもなく大がかりな嘘《うそ》だったということだけは直感していた。長い間考え抜いて来た問の答が、何の脈絡もなくいきなり結論だけポッカリと浮かびあがった感じであった。 「まあかけなさい」  広瀬は回転椅子にゆったりともたれたまま、自分のデスクの真正面に置いてある背もたれの高い古風な椅子を顎《あご》でしゃくってみせた。  津野田がその椅子に腰をおろす。 「あなたはいったい何者なんです」  津野田はまず第一にそれが知りたかった。 「君らは我々のことをCIAのように言いたがっているようだったが、我々はもっとずっと日本的な存在だ。歴史もあれば伝統もある。それも千年以上のものだ」 「千年以上……」  津野田はあきれて問い返した。 「嘘部《うそべ》の集団だよ」 「嘘部……。それは何ですか」 「君の優秀さは実証ずみだから話が早い。古代の部《べ》のひとつだ。あの過程でその二字を君に見せたら、恐らく君はそれだけで総てを悟ってしまったに違いない。嘘部にとって君のような敏《さと》い人間は危険な存在なのだ。だがそのかわりうまく利用すれば今回のような素晴しい結果が得られる」 「僕のことは後廻しで結構です。いったいどの時点から嘘が始まっているんです」 「そのことなら他に適任者がいる。彼からゆっくり聞きたまえ。ただその前に彼について、というよりは嘘部について説明しておこう。君ならわかりが早くて助かるが、氏《うじ》によってその社会における職能が定《きま》っていた時代、嘘の技術をもって帝《みかど》に奉仕する集団が生まれた。嘘は動物の本能の基本的なもののひとつであると言っていい。その原始的なものを学者は擬態と称している。鼬《いたち》や狐《きつね》などは、人を化すと言われるほど高度な擬態を用いる。そういう本能を組み込んだ動物の一員である人類が言葉を得たとき、嘘は桁外《けたはず》れに発達した。嘘は罪悪だと言われる。だが生得のものとして持ってしまったものを罪悪とばかりきめつけるのはどんなものだろうか。外交辞令と言えば極端になるが、エチケットと称されるもののなかにも、人と人とが円満に芝居していくための嘘がたくさん散りばめられている」 「嘘の講義なら別の機会にゆっくりうけたまわりましょう」  津野田はあせるような気分になっていた。この小憎らしい謎の男たちの正体を早く見きわめてしまいたかった。 「嘘部は朝廷を守った。生まれつき運動神経に恵まれた家系があるように、生まれつき嘘の才能に恵まれた家系があったのだ。彼らは嘘をつくことを職業とした。正義のための嘘。世のためになる嘘。まじないや祟《たた》りや憑《つ》き物が信じられた時代、その彼らの嘘は兵士の剣よりももっと大きな効果を民衆に対してあげることができた。新しい帝が立つとき、各地から瑞兆《ずいちよう》の報告が寄せられ、新しい法律が施行されるときはそれよりももっとめでたい金や銀の産出が報ぜられ、実際にその塊りがこれ見よがしに都大路を練り歩いて帝に捧げられた。瑞兆ばかりではない。聖なるものを守るために、数多くの禁忌がつくられ、人々に信じられねばならなかった。だが人々の恐怖するものは時とともに移り変わる。昨日の恐怖は今日の娯楽になってしまいかねない。嘘部はそのため各地に散って、たえず新しい嘘を、その時代に適した嘘を生みだし続けなければならなかった。嘘部が帝のために守るべきものは、古くは神々を祭った聖地、つまり神社であった。尊めることと恐れることは同じものだ。各地に嘘部が散り、しかも嘘部であることを隠して民衆のなかに自然な形で存在して行くためには、表向き筋の通った別の職業が必要だった」  そのときドアが開いてあでやかな女の姿が現われた。 「麻績部《おみべ》」  津野田は左織に向かってそう言った。     8  左織は津野田の背中を廻って窓際の椅子に坐った。 「そうよ、麻績部よ。あたしたちの先祖は麻を織って布にする仕事をしていたの。そのなかには神社に所属する麻績部もいたの」 「神麻績部《かむおみべ》」  津野田が言った。 「ええそう。総ての布を織る者がみな嘘部だったとは限らないけれど、神社に所属して祭祀用の布や衣服をつくる者の中にはよく嘘部がまじっていたの。神《かむ》服部《はとり》などね」 「服部もそうか」 「麻績部の麻績が変化して……」  またドアが開いた。今度は老人だった。 「小見さん」  津野田はあきれたように言った。 「やあ」  小見老人は元気そうだった。 「君のそばにいたあいだ、楽しかったよ。これでまた碁の相手が出来たわけだ。たしか三勝三敗だったな」 「あなたが引っ越したのは僕があのビルを借りたちょっと後でしたね。ひどいもんだ」  津野田は苦笑しながらゆっくりと首を左右に振った。 「さて、美人の横に並ばせてもらうか」  老人はそう言って左織の隣りに腰を降ろした。 「麻績の他にも違う名になった者たちがいる。麻という字を取った麻部だ。麻部はモーニングの朝になったり、浅い深いの浅になったり、また、部《べ》はあたりという字の辺《べ》になったり……山の辺《べ》の道の辺《べ》だ。まあいろいろと組み合わさってだんだんいろいろな名に変化していったわけさ」 「浅辺《あさべ》……」  津野田は首をかしげた。かすかに聞き覚えがある名であった。すると三番目の男が現われた。まだ若い男だった。 「あなたが出席した披露宴に僕も顔を出してみたかったんだけれど」  その青年は屈託のない声で言い、窓際へは行かず広瀬の横の椅子に軽く腰をおろした。 「そうか、新婦の津坂容子の前のご主人だったな」 「浅辺宏一と言います。どうぞよろしく」  広瀬が口を開いた。 「この男が現代に甦った嘘部集団の指導者の一人だ」 「つまり嘘つきの天才というわけですか」  津野田は大して皮肉な調子でもなくそう言った。 「僕らはひとつの組織をつくっています。組織の名は黒虹会《こつこうかい》。黒い虹の会と書きます」 「真っ赤な嘘ではなくて黒い虹をたてるわけか」  浅辺はそう言う津野田を出し抜くようなことを言った。 「老人と工事人のやりとりという筋書きは、だいぶお気に召したようですね」  津野田は思わず左織の方を見た。左織は坐ったまま頭をさげてみせた。 「電話の盗聴ぐらいで自慢されてはかなわない」  津野田は笑い流した。 「電話……。そればかりではありませんよ。あなたは始めから終りまで、マイクをつけっ放しでしたからね」 「あ……」  特別待遇の招待客にだけつけさせるあのバッジであった。 「やられたね」  小見老人がなぐさめるように言った。 「小見さん。あなたは僕をあのホテルへ送り込むそれだけのために、二年半もの間あの薄汚ないビルでねばっていたのですか」 「これでもれっきとした法律家だよ。仕事はちゃんと看板通りやっていたさ」 「さすがは千年の伝統を誇る嘘のプロフェッショナルだな。で、君はどの時点から僕に対して仕掛けたんだ」  津野田は浅辺に言った。 「僕はあなたが奥さんとの問題で悩み始めたころ、まだまったく関知しなかった。だがこんどのことは金《きん》にからんでいた。宝田五重郎は金の業界に野心を持ち続けていました。僕は始めこのテーマをもらったとき宝田五重郎を核のひとつに使うことを考えていました。そこへあの孫娘の事故が突発したんだ。黒虹会は他の組織に命じてすぐ事故を調査させました。そしてあなたを知ったのです。あなたは邪馬台国について関心が深く、知識がおありだった。ジャーナリストだから金についても多少の予備知識もあり、金に限りませんが必要とあればどんな知識でも素早くかき集める方法を知っているんです。邪馬台国にこのテーマをからめてゆくことを僕が思いつけたのはあなたのおかげでした。だが、それにはちょっとした準備が必要だったのです」 「ちょっとした……。あれがか。ホテルを建て地下に穴を掘り、その一部を古くみせかけた上に、太郎天童に岩の御神体と牟婁《むろ》神社。そして、マルコ・ポーロ・クラブ」 「違いますね。国際的な金業者の親睦団体のひとつとして、マルコ・ポーロ・クラブは実在しています。ゴールドスミス一族やチャールズ・オスマンなどは、今回の作戦の重要なターゲットのひとつだったのです。準備は進みました。舞台が完成しました。国際金市場へ中国政府筋を通して卑弥呼《ひみこ》の国に関する地図の話が極めて慎重に流されました。それは金業界のウイーク・ポイントです。あのリアリストたちがロマンチシズムの唯一のはけ口としているのがマルコ・ポーロの研究だったのです。良い嘘とは、こちらが隠して、相手がむりやり覗きこみ信じこんでしまうたぐいのものなのです。嘘の舞台へ自分からとび上がらせるのです。黄金商人たちは日頃の警戒心も忘れ一気に我々の舞台へとび上がって来ました。彼らは自分たちで卑弥呼の国とマルコ・ポーロの叙述を結びつけてしまったのです。彼らは秘密の扉を自分たちでこじ開けたのです。一方で我々は国内の邪馬台国ブームを煽《あお》り立てました。邪馬台国の比定地が多くなればなるほど、議論がにぎやかになればなるほど、海外の黄金商人たちは信じ込みました。日本のどこかに黄金ずくめの宮殿が隠されているはずだとね。なんと彼らはその宮殿の総重量まで算出してくれました。伊勢皇太神宮の内宮がその計算の基礎にされました。内宮の正殿に使われた木材の石数はおよそ五三四石。西と東の宝殿がそれぞれ二〇〇石強。瑞垣《みずがき》、内玉垣、外玉垣、そして一番外の板垣。瑞垣御門と瑞垣北御門など各垣の門を加え鳥居や四丈殿などの付属構築物を加え、時代による規模の差を勘案した彼らの結論は、およそ二万トンの金塊に等しくなったのです。コロンブス以後の世界の金の総量は、各国政府の公式に通貨準備として保有している分が約三万トン。民間保有推定量がそれにほぼ等しいとされているのです。六万トンの既存の黄金に対して、幻の卑弥呼の黄金は二万トンです。しかもこれはあらたな採鉱費を必要としないものなのです。彼らがこのことをどれほど恐怖したかおわかりでしょうか。ありとあらゆる方法で、彼らはこの金を無害なものにしようと努力しました。その結果何が起ったかはあとでゆっくりお話しする機会もあるでしょう。ただ、今はこの国を含む二、三の国の元首が交代したことと彼らが石油を武器に用いたことだけを言っておきます。そしてとうとう宝田五重郎が計算通り動き始めたのです。あなたは我々の計画の仕上げの部分でした。しかるべき、権威のある報道機関がこの問題に触れようとして失敗するのです。我々は黄金商人だけをターゲットにしていたわけではありません。我々が求めたのは、たかだか八億ドルそこそこの金準備と年産八トン程度のみじめな、他国につけ入れられる隙の多い国力の補強だったのです。そのためには国際金市場の一部エリートだけではなく、もっと広い範囲で恐れ、信じてもらわねばならなかったのです。我々はいま成功に酔っています。歴史と伝統に輝く我が嘘部集団は、その歴史と伝統にもとることなく、見事に帝に奉仕することを得たのです。帝は新しい力を背景に、初めてかつての敵国にみゆきあそばされたのです」  浅辺宏一の自信たっぷりな長広舌は終った。津野田は待っていたように言った。 「それは結構なことだ。おめでとうと言ってあげてもいい。だが僕は嘘部じゃない。僕は嘘が嫌《きら》いだ。正直者だと言う気はないが嘘をつくのが苦手なのだ。君らはボールをうまく投げられる。だがぼくはうまく投げられない。一度女にプロポーズしたら、どこまでもその約束にとらわれてしまう性質の人間なんだ」 「さて、あちらでお待ちしましょうか」  左織がそう言って立ち上がった。 「待っているからね」  小見老人がちょっと物哀しげな顔でその後に続いた。 「あとは広瀬さんに……」  そう言って浅辺も消えた。     9 「我々の仲間になって欲しい」  誰もいなくなったところで広瀬が切り出した。 「黒虹会の弱点が明らかになったのだ。私はそれを補強しなければならない。君がぜひ欲しい。あの浅辺の言葉によれば、嘘とは現実の裂け目を埋めるアスファルトのようなものだという。ない物をあるように見せかけるのが嘘の本質だというわけだ。たしかにそれはひとつの哲学だろう。だがこの国はいまあるものをないように見せかけることが必要になりつつある。黒虹会は各分野からの強力な支援を受けている。心理学者を始めとするそうした協力者たちの結論は隠蔽《いんぺい》することにおいて嘘部は比較的無力だと言うのだ。嘘は現実を補強するために多く使われ、弱体化することにはそう思ったほどの力を発揮しないものらしい。今回の君の行動は総て分析され検討された。君は嘘の暴露者として非常に優れた才能に恵まれている。新しいタイプの嘘部に誕生してもらわねばならないのだ」 「ご返事の前にうかがっておきたい」  津野田はよそよそしく言った。 「乃木を殺したでしょう」  広瀬は動じなかった。 「あの作戦において、君は黄金商人たちと同じように、自発的に我々の舞台に向かって走り出していく必要があった」 「それは浅辺の理論でしょう。嘘のつき方は他にもあるはずだ」  広瀬は目を細めた。満足しているようであった。 「そう思うかね。いや、そういう考え方をする人だからこそ我々は君を欲しがっているのだ」 「人を殺すのはいやです。嘘のために人を殺すのはなおさらです。乃木は僕の友人でした。乃木の父親を廃人にしたでしょう。それも帝のためですか」  広瀬は辛抱強く言った。 「よくわかっておらんようだね。白日書房の君の仲間がどうなったか。彼らは真実を見なかったために地位を追われただけですんだ。だが君は見てしまった。友人の乃木君のようになるか黒虹会へ入るか、道は二つに一つなのだよ。考えて欲しい。あの美人も君の碁がたきも、野におけば君が危険な存在であることを承知のうえで加入を進言しているのだ。君は既に新しい友達をもっているわけになる。真実に生きるも嘘に命を張るも同じことではないのかね。我々の仲間に加われば君は世の中を動かすメカニズムを裏側からその目で見ることができるし、ときには今度のように自分で操作することさえ許される。しかも富が保証される」 「そのかわり、闇の中の系図につらなるわけでしょう」  津野田はそう反論してみたが声は弱々しくなっていた。 「話はいちおうこれで終りだ」  広瀬はそう言うと立ち上がり、 「ちょっと失礼する。すぐ戻るから」  と言って出て行った。  誰もいなくなったその部屋で、津野田は浅辺がしてみせた国東の黄金の種明かしを、順を追ってなぞっていた。  それは碁に敗けた後の時間にそっくりな感じであった。  そして全部なぞりおえたとき、津野田は浅辺の言葉が総《すべ》て嘘であるような気がした。  逆に見れば、浅辺は必死になって国東の黄金という真実を隠蔽しようとしていたようである。津野田はくすくすと笑い出した。  ひとりきりの部屋で、いつまでも笑っていた 角川文庫『闇の中の黄金』昭和54年10月30日初版発行