半村 良 闇の中の哄笑 目 次  第1章 闇《やみ》の中の出発  第2章 闇の中の通信  第3章 闇の中の抱擁  第4章 闇の中の謀略  第5章 闇の中の約束  第6章 闇の中の断崖《だんがい》  第7章 闇の中の殺人  第8章 闇の中の哄笑《こうしよう》  第1章  闇《やみ》の中の出発     1  東京・渋谷《しぶや》・道玄坂《どうげんざか》二丁目。  地下二階から七階まで、飲食店がぎっしりとつまったビルの二階に〈新かわ〉という料理屋がある。活魚料理が専門で、ひとけのなくなった店内は、壁際の水槽《すいそう》の中を泳ぐ魚たちの動きだけがばかに目立っている。 「徳《とく》さん、灯《あか》り消して」  奥で女の声がすると、二、三秒してから店内の照明が一度に消え、暗い中をゴトン、ゴトンと井《い》の頭《かしら》線の電車の響きが鈍く伝わって来る。  調理場のほうの照明はまだしらじらとついている。白タイルとステンレスずくめの、案外清潔な調理場である。一番奥の大きな冷蔵庫のかげが、畳を二枚敷いた小間になっていて、よく陽《ひ》に焼けた引き締った体つきの男が、そこでブルーのスラックスをはいているところだった。男は白いベルトをしめる。 「徳さん、あんた本当に行く気……」  紺の紗《しや》に銀色がかった夏帯をした中年の女が、その男のほうをちらりと見て言う。左手に伝票の束を持ち、右手の人差指と中指の間にセブン・スターをはさんでいる。 「ええ」 「そりゃ、もともとお休みの番なんだしさ、行くのは構わないけど、ゴルフもやらないのにそんなとこへ行ったって面白くないでしょうに」  ちょっと肥《ふと》り気味で、帯のしめかたもいかにも着慣れた風にゆる目であった。貫禄からおしても、この店のおかみに違いない。 「勉強すよ、勉強」  徳さんと呼ばれた男は、乾《かわ》いたタオルで上半身を拭《ぬぐ》い、白いポロシャツを着る。髪は短い。陽焼けした顔にもたるみはなく、精悍《せいかん》な感じだ。 「板前《いたまえ》だってたまには洋食も食いたいすよ。それに、そういうとこで出す和食がどういうものか、見てみたいす」  おかみはセブン・スターを吸い、煙草《たばこ》を口から離して首を軽く横に振って見せる。 「商売熱心だね、あんたも」 「料理が好きなんす」  徳さんは小間をおり、ビニール製の雪駄《せつた》まがいの草履《ぞうり》を突っかけた。 「あんたが真面目《まじめ》ならあたしは助かるけどさ、昌《まさ》ちゃんとのこと、いいかげんにふん切りつけたらどうなの」 「世帯持つの、何だか怕《こわ》いす」 「何言ってんだろうね、いい男が」  おかみは失笑した。 「面倒なんすよ」  徳さんも自嘲《じちよう》するように笑う。 「あんた、どうでもいいけど、そのホテル、大層な格式だってじゃないの。そんなとこで、いつもみたい喋《しやべ》りかたすると、ばかにされちゃうわよ」 「そうすかね」 「それよ。そうすかね、面倒なんす……」  おかみは徳さんの口真似《くちまね》をした。 「すぐにお里が知れちゃうわよ」 「金払えば客じゃないすか。気どることないす」 「でもさ、そんなとこで徳さんが甘く見られたら、あたしだって癪《しやく》だもの」 「俺《おれ》、一人で行くから」  おかみは大げさに徳さんをぶつ真似をした。 「あたしがついてくわけないでしょ」  徳さんは肩をすくめた。 「ちゃんと背広着て行くす。常川《つねかわ》さんに言われてるし」 「でも、勿体《もつたい》ないねえ」 「どうして……」 「だってそれ、二人部屋でしょ。ツインて奴《やつ》」 「ええ」 「昌ちゃんを連れてってやったらいいのに」  徳さんはそっぽを向いた。おかみは焦《じ》れったそうにその精悍な横顔をみつめる。いわゆる、苦みばしった好《い》い男という奴だ。腕がよくて人間が堅いと来ている。おかみだって、もうちょっと若ければ放っとかない、と思っているようだ。  その徳さんこと天田徳三《あまだとくぞう》をひいきにしている常川という客が、今夜急に伊豆《いず》のホテルへかわりに行かないかと言い出したのである。ゴルフ場があって海のそばで、歴史も古く格式の高いホテルだそうだから、普通ではなかなか泊れないらしい。常川は予約してあったのだが急に行かれなくなり、お盆休みのかわりに明日から店を休む徳さんを泊めてやろうと思い立ったようだ。勿論《もちろん》費用は常川が持つ。徳さんは常川が板前としての自分に見学させてやろうという好意を素直に受取って、有難くその申出を受けることにしたのである。     2  幌《ほろ》をかけたトラックが一台、まだネオンの消えやらぬ街を走り抜け、ゲートの前でとまった。海上自衛隊の制服を着た男が、そのトラックの運転席をみあげてふたことみこと言葉を交わすと、ドアをあけて中へ入った。トラックはすぐにゲートを通過する。階級章は金筋一本に桜がひとつ。三等|海尉《かいい》だった。  いれ違いにゲートを出るところだった二等|海士《かいし》が二人、足をとめてそのトラックを見送る。 「何だろう」  小首を傾《かし》げ合い、すぐ午前零時の街路へ出て行った。トラックは陸上自衛隊のものだった。  トラックは構内へ入って急にスピードを落し、ゆっくりと奥へ進んで行く。遠くで、カーンと鉄板を打ちつける音がひとつ、静かな夜気を震わせた。  幌の中には逞《たくま》しい男たちが、黙然《もくねん》と揺られている。とりたてて緊張した様子もないが、無言の彼らには一種の威圧感が備わっている。火器を持たせれば今にもトラックから飛びだして、あたりに死を撒《ま》き散らしそうだ。充分すぎるほどそういう技術を叩《たた》き込まれた精鋭、という感じである。  ただし、全員火器は携帯していない。そのかわり、よく見ると足もとに何やら工具らしいものをつめた袋を置いている。どこから来た連中か、はっきりしないが、海上自衛隊の基地へ陸上の部隊が、しかもこの夜ふけに人目をはばかるように入って来たのだから、何かいわくがなくてはおかしいだろう。  トラックは奥まった一画にある工場らしい大きな建物のそばでとまる。浮標《ブイ》の下におろす巨大な錨《いかり》が柵《さく》で囲った芝生の中に点々ところがっている。  ドアをあけて三等海尉がまずトラックをおり、ひとけのないコンクリートの道に靴音《くつおと》をたてて海のほうへ遠のいて行く。 「乗船の前に計量がある。先がつかえるから、二人ずつギャングウェイを渡れ」  幌の中でそんな声がする。ギャングウェイはギャングウェイ・ラダーの略だ。昔風に言うとタラップのことである。  運転席では三等海尉が去ったほうをじっと見ている。汐風《しおかぜ》がどこかで断続的に鋭い風音をたてていた。  小さな灯りが明滅した。運転席の男がそれを確認すると、今度は反対方向に人影がないことをたしかめてから、ビー、と短く警笛を鳴らす。とたんに後部の幌がはねあがり、底の厚い頑丈《がんじよう》な靴をはいた兵士たちが、その靴の音もさせずに海へ向かってさっと走りはじめた。  先頭の男が右手をあげると、二十名の兵はピタリと動きをとめる。八メートルほど先は海だ。ひたひたと波の音がしている。そして、その波の上に、まっ黒いものがうずくまっている。  潜水艦であった。ずんぐりと丸っこくて、水の上へ出ている部分が少ない。まるで鯨《くじら》だ。その鯨の背中へ、二人ずつ、二人ずつ、兵士が素早く渡って行く。背中に丸く口をあけたハッチから光がもれている。ハッチのそばにも小さな灯りがある。兵士は荷物のある者は荷物を手に、その小さな灯りのそばで計量し、するりと丸い穴の中へ吸い込まれて行く。計量した数字を書き留めているのは潜水艦の乗員だろう。  ハッチは垂直な丸い穴で、白く光る鉄梯子《てつばしご》が三層下まで続いている。二十名の陸兵がその穴へ吸い込まれると、急に機関音がたかまる。 「あの辺は漁船がたくさんでている」  発令所で艦長がひとりごとのように言う。 「厄介《やつかい》ですね」  白い帽子をかぶった小柄な青年がそう言って健康そうな白い歯を見せる。 「ま、近い所だしな」  艦長も含め、発令所の男たちはなごやかにやっているらしい。ひとクラス下の相手と練習試合をするバスケットボールのチームの控え室のような雰囲気《ふんいき》だ。  黒い潜水艦の向こうに、灰色に塗った大きな米艦が側面を見せている。第二次大戦中の艦にくらべると、舷側《げんそく》がばかに高く、力まかせに鉄板をうちつけたビルが浮かんでいるように思える。  潜水艦はのっそりと動きはじめた。最初から半分以上水の中に潜っているから、出港の勇壮感など皆無で、そのかわり忍者が動き出したような物々しさが漂う。  それでも航跡は白い。が、それもすぐ闇《やみ》に消され、黒い潜水艦は夜に紛れて見えなくなった。  陸兵を案内して来た三等海尉が、コツコツと靴を鳴らしてトラックのほうへ戻り、無人になった幌の中をチェックしてから、ゲートのほうへ帰って行った。     3  小林貞夫《こばやしさだお》は六本木《ろつぽんぎ》のクラブのピアノのそばの席に陣どって、二人の女を相手にブランデーを飲んでいた。小林は中どころの建設会社の資材課の課長補佐だが、いろいろと役得《やくとく》があってなかなか遊びっぷりがいい。三十四で独身だから、ホステス稼業《かぎよう》から足を洗いたがっている女たちにとっては、恰好《かつこう》の標的となる。 「だめよ、あの子なんかに引っかかっちゃ」  たしなめるというより、嘲笑するように女の一人が言う。二人とも銀座のクラブがおわってから小林について来たホステスで、どちらも美人だ。 「そうかい」 「特攻隊よ、あれは」  もう一人が笑う。黒服|蝶《ちよう》タイの男が、そのテーブルの脇《わき》に膝《ひざ》をついて、笑う女のグラスに氷をいれていた。 「何か食うか」  小林が言うと女たちは首を横に振る。 「とにかくコバちゃんはうまいんだから」 「何が」 「やり方よ。どこかに彼女がいるはずなんだけど、絶対に尻《し》っ尾《ぽ》をつかませないんだから」 「おいおい」  小林は苦笑して見せる。 「名探偵《めいたんてい》の妙子《たえこ》にそう言われるのは光栄の至りだがね。別にいやしないよ」 「嘘《うそ》」  妙子という女はテーブルの上へ体を乗り出すようにして言う。 「いるわよ、絶対に」 「じゃあ誰《だれ》だよ、言ってみな」  すると妙子は急に声をあげて笑う。 「言っていいの。あたしには一人だけ判《わか》ってるんだけど」  小林は煙草に火をつけて表情をかくす。 「ねえ篠子《しのこ》、いつからなのよ」  篠子という女は大きな目をしばたたいて見せる。 「かくさなくてもいいの」  妙子は篠子の肩を叩く。 「あたしは味方よ。そのあたしにまでかくしてたっていうのはちょっと気に入らないけど、とにかく気をつけなさいよ。あたしの勘じゃまだいるみたい」  篠子はあいまいに微笑する。妙子は、 「ちょっと」  と言って席を立ち、トイレのほうへ向かう。 「嫌《いや》なこと言うわね」  篠子は細い眉《まゆ》を寄せた。 「気にするな」  小林は低い声で短く言い、ブランデーを飲んだ。 「でも、名探偵って言われるだけあって、彼女の勘は凄《すご》いのよ」  篠子は疑わしそうに小林を見た。 「疑うなら勝手に疑えばいい」  小林は冷静な言い方をした。 「疑うわけじゃないけど、嫌よ、変な子にひっかかっちゃ。あの子が何で特攻隊って言われてるか判《わか》ってる……」 「知ってるさ。しかし、古めかしい言葉がはやるもんだな」 「もしそんなことをしたらあなたが笑われるんですからね」 「判ってるよ」 「ねえ、あしたからどこへ行くの」 「ゴルフだよ。得意先との付合いだ」 「金曜よ、あしたは」 「ああ」 「一泊するんでしょう。土曜日はお休みじゃないの」 「だから金曜日にきまったんだ。先方だってサラリーマンだ、ウイークデーに泊りがけでゴルフに行けるか」 「本当にゴルフなの…………」 「いいかげんにしろ、ばか」 「じゃ、日曜日は帰ってるのね」 「ああ」 「日曜にあなたのマンションへ行っていい……」  小林は鬱陶《うつとう》しそうな表情を泛《うか》べて篠子を見た。 「いいよ」 「だって、もう二週間も放ったらかされてるんだもの」  篠子は鼻声になる。妙子が帰って来る。 「さて、ぼつぼつ引きあげるか」  小林は内ポケットから紙入れを出しながら席を立つ。 「うまく言っといたわよ」  妙子がささやく。 「あと三十分くらいでそっちへ行けるからって」  篠子のパトロンがどこかで待っているのだ。     4 「日本のいい建物は、みんな消防法にやられているな」  ソファーに体を沈め、テーブルの上に足をのせた男が言った。  窓際に外を向いて立っていた男が、ゆっくりと体の向きを変える。 「消防法と言うと……」 「あれのことさ」  ソファーの男は顎《あご》をしゃくって天井《てんじよう》を示した。窓を背にした男がその視線を追う。シャンデリア風の照明器具のそばに、小さな円筒形のものがとりつけてあった。 「何だ、あれは」 「停電の時の非常灯さ。日本中の、古い趣きのある旅館やホテルは、みなあいつをつけさせられているんだ」 「非常灯か。艶消《つやけ》しだな」 「まったくさ。スプリンクラーをとりつけろとやいやい言われて困っている京都の古い旅館があるよ。万一の場合を考えれば、人命にはかえられないだろうが、そのテの建造物は一種の文化財なんだからな。例外的な扱いをするくらいの融通性があったってよさそうなもんだ」 「津野田《つのだ》さんは相変らずロマンチストだな」  津野田と呼ばれた男は、テーブルの上にあげた足をおろし、立ちあがった。 「俺は嘘部《うそべ》のほうがよほどロマンチストだと思うぜ」  年齢は津野田のほうが上であった。 「嘘部の末裔浅辺宏一《まつえいあさべこういち》か」  そう言って北側の窓際に近寄る。右足を少し引きずるようにしている。 「まったく、うまい具合にこの部屋が空いていたもんだ。まさかこれも君の仕業なんじゃあるまいな」  津野田は塗装が無残な感じで剥《む》けはじめている窓際の壁に手を伸ばし、軽く指を触れた。パサリと乾いたかけらが床に落ちて砕けた。 「何日か前、誰かがこの部屋へ泊った。その客が帰ったあと、すぐ壁が剥け落ちはじめる。壁の剥けた部屋に客を泊めることができないから、修理がすむまで空き部屋になってしまう。君らならそういう芸当もできるんだろう……」  浅辺は笑った。 「そこまで疑わなくてもいいでしょう。勿論やればできるけれど、この部屋の壁が剥け落ちたのはまったくの偶然ですよ」 「君ら嘘部が相手だと、つい何から何まで疑って見たくなるんだ」  津野田はそう言いながらしゃがみ込み、カーペットの上に落ちた白いかけらを拾いあげて注意深く観察した。  浅辺はまた窓の外に顔を向ける。 「問題は天候です。雨だと計画は中止だ。すべての準備が無駄《むだ》になってしまう。いくら嘘部でも、空までは欺《だま》せない」  津野田は笑いながら立ちあがった。 「空と言わずに天と言って欲しいな。天は欺せず……何だか哲学的な感じがするじゃないか。モロコシの格言みたいだ」 「冗談じゃないんですよ」  浅辺は腕時計を見た。午前一時をまわっていた。 「若い連中ならかなりの雨でもコースに出るだろうけど、総理のような年寄りではね」 「それはそうだ」  津野田も右足を引きずるようにして浅辺と並んだ。二人は暗い空を眺《なが》めた。 「俺の右足は雨が近いと言っている。季節の変り目や、天候の変り目には膝の辺りが痺《しび》れるんだよ」 「例の事故のせいで……」 「うん」 「予報では明日一日は何とかもつそうだけれど……それより今はあのいさり火が気になるな」  そのホテルの正面玄関は山に向かっている。建物は東西に細長く伸びていて、南向きのその窓の前面は、眼下にプールがあり、その先はゴルフ場になっている。更にその先は海で、暗い沖合に漁船の灯が点々と並んでいた。 「相手はプロだよ。心配することはない」  津野田は軽く言った。 「雨が降らなくても、潜水艦があの漁船に接触でもしたら計画は即座に中止になる」 「そんなに心配なのか」  浅辺はいさり火をみつめたまま頷《うなず》いた。 「すべて僕が考えたことですからね」  津野田はその横顔をちらりと見た。 「君の嘘はいつだって完璧《かんぺき》だよ」 「実は、この作戦が中止になったときの、かわりの作戦がまだ考えつかないんです」 「心配するなって」  津野田は浅辺の肩を励ますように叩いた。     5  麻績部左織《おみべさおり》。  美女である。それも豪華な美しさだ。彼女を飾る宝石はダイヤしかない感じだが、それも一カラット以下では絶対に似合いそうもない。  麻績部、オミベ、と読む。古代にあっては文字通り麻布を織る部民であった。麻を績《つむ》ぎ、もって衣を織り、神明に供す。古文書《こもんじよ》にそう記された麻績部は、のちに庶民の着る布を織るようになる。オウミベ、と読まれることもある麻績部氏が麻を績ぐ人々ならば、それは当然|服部《はつとり》氏とも関係がある。服部氏は、ハットリ、ハトリと読まれ、要するに機織《はたお》りを職とする部民である。  すでに今日、一部の人々はこの麻績部氏や服部氏が、古代社会にあって或《あ》る特殊な任務についていた氏族であることを知っている。彼らは衣服を作ることに関係する技術者集団であると同時に、時の権力に奉仕し、民衆の間にその為《ため》の嘘をふり撒《ま》く嘘部の民でもあったのだ。  たとえば、藤原京《ふじわらきよう》や平城京《へいじようきよう》の時代、この国土を支配し、社会を動かしていた人間の数は、役人約一万、貴族二百人弱で、そのうち大臣、長官、参議など閣議に列席するいわゆる公卿《くぎよう》は二十人足らずであった。  当時の日本の人口を推定すれば約六百万人程度、首都平城京の人口約二十万人で、それを実際には天皇を含む二十人ほどの人間が支配したのである。  その二十人が神託とか呪術《じゆじゆつ》とかいうものが本気で信じられていた時代の、知的水準の低い民衆を動かすには、当然陰から民衆の心をそれとなく揺り動かす力と方法が要求された。  祭政一致の時代、権力側について民衆の中に自然に入り込み、為政者の希望する通りの方向に民心を誘導する役を与えられたのは、神社機構の一部として神衣の製造に関係した、神麻績部とか神服部とか呼ばれる人々であった。彼らは祭りの際の占いを操作したり、吉兆や凶兆を演出したりして、巧みに民意を誘導した。彼らは各地の神社に散ってその任務を果したのみでなく、新興の仏教に入り込んで、各地の国分寺などを通じて一層民衆の間へ深く根を張って行った。  朝廷にとって確立が必要な各種の法体系、特に租・庸・調などの税制は、それまでゆるやかな規則の中にいた民衆にとって、耐えがたい収奪であったはずである。つまり、支配者にとって理想に近づく道が、被支配者にとっては地獄に通じていたのである。  大化改新《たいかのかいしん》の直後、長門国《ながとのくに》から吉兆である白い雉《きじ》が献じられて年号が白雉《はくち》と改まり、各種の新政策が連発された天武《てんむ》帝の治世には対馬国《つしまのくに》から白銀が発見されたとして民衆の関心がそのほうに向けられた。持統《じとう》女帝のときは伊予国《いよのくに》から白銀と銚《あらかね》、文武《もんむ》帝が即位すると困幡国《いなばのくに》から銅、丹波《たんば》からは錫《すず》。大化改新から半世紀して更に完成度の高い法律が民衆に押しつけられた時は、遂《つい》に対馬国から黄金が現われたとして年号を大宝《たいほう》と改められるのである。  このような節目ごとの吉兆はすべて演出されたものに違いなく、そこにいわば、今日の言葉で言うサクラとしての嘘部が介在していたのだ。  律令によって地獄に追いやられる民衆に対し、その救済として新しい宗教が与えられる。愚昧《ぐまい》な民衆に仏教の理念を植えつける為にも嘘部は大いに活用された。或る寺を霊験あらたかに、或る仏像を奇蹟《きせき》の根源とする為、麻績部や服部の名にかくれた嘘部の民が、絶えず無数の嘘を作り出し、演出し、時には自らの命を絶ってまでその嘘にリアリティーを与えて行ったのである。  エジプトのピラミッドを例にとるまでもなく、古代の宝庫は至るところでその財宝を盗まれ、破壊されている。その事実を思い合わせれば、日本の正倉院《しようそういん》がいかに希有《けう》の例であるかが判る。正倉院の宝物は、その所在を地下に隠すこともなく、堅牢《けんろう》な石の壁に守られることもなく、また頑強《がんきよう》な兵に囲まれることもなくして今日までその姿と内蔵物を残している。  これはまさに世界の奇観とも言うべきであって、或る時期のたった一人の盗賊によってすら、簡単に打ち破られ宝物を奪い去られても不思議はなかったのである。  それが今日まで残ったのは、ひとえに嘘部の連綿たる活動があったからにほかならない。嘘部はそれを守る為、正倉院に関してさまざまな禁忌が実在することを演出して来た。或る時は自らが盗賊となって宝物を襲い、雷撃に遭《あ》って焦げ死んで見せたことであろう。その為にこそ、正倉院という宝庫は生きのびることができたのである。  いま、べッドに入ってまだ眠らずにいる麻績部左織という名の美女も、その嘘部の末裔の一人にほかならない。     6  麻績部《オミベ》氏は各地に散って、多くの支族を生み出した。  小見、尾味、大小見、尾見、小味、尾美。部《ベ》の名を残した麻部。麻が朝に変った朝部《アサベ》。朝をトモと訓じて朝部《トモベ》。朝《とも》を友と書いて友部。部を辺と記した麻辺、浅辺、同じく浅部。  勿論、現代に残るそれらの姓が、すべて嘘の才能を持つ人々で占められているわけもないが、その一部にはやはり古代から伝わる嘘部の血と、それがもたらす類《たぐ》いまれな嘘の才能に恵まれた人物が数多く混っている。  しかし、嘘の才能は時としてその所有者を苦しめる。嘘部として正当な場を与えられない時、その人物はおのれの嘘を重荷として生きなければならないのだ。不幸な場合には嘘をつく才能の為法に触れ、罪におちなければならない。また、そうでなくとも、嘘言癖《きよげんへき》を人に知られてあなどられ、嫌われることも少なくない。  ところが、時代はひそかにその嘘部の復活を求めていたのである。いわゆるマスコミの発達にともなって、古代の嘘部の価値が支配者の間で再評価されたのである。  社会の裏側で、黒虹会《こつこうかい》という集団が組織されたのはそうした事情からであった。嘘部という秘められた部民の歴史を知る者たちが、麻績部氏や服部氏の末裔たちの中から、その嘘の能力を現代に伝えている人々を探し出し、ひそかに黒虹会へ参加させ続けた。  嘘つきの天才集団である黒虹会は、彼らの意図通りよく機能して、日本を彼らの望む方向に導きはじめたが、何よりもそのことで救われたのは、嘘部の末裔たち自身であった。  社会のルールに抵触しやすい彼らの性格は、黒虹会に加入することで正当な嘘の場を与えられ、水を得た魚のようにいきいきと生活することができたのである。  伊豆のこのホテルに、その黒虹会の最も有力なメンバーである浅辺宏一や麻績部《おみべ》左織がやって来ている。  八月二十四日午前二時。何か巨大な嘘が、じわじわと闇の中にひろがっているようであった。  麻績部左織は目をあけて天井をみつめている。黒く大きなその瞳《ひとみ》は深い謎《なぞ》をたたえているように見える。女の瞳《ひとみ》の奥にあるそうした謎は、妖艶《ようえん》さにつながって行く。  となりのべッドで、左織と似たような年恰好の男が軽い寝息をたてている。部屋の隅《すみ》の小箪笥《こだんす》の上にカメラや三脚が置いてあり、そのそばに白いスーツケースがある。  どう見ても新婚旅行かそれに近い男女の関係に見える。しかし、それにふさわしからぬ小物がひとつあった。  左織の枕《まくら》の横に置いてあるマッチ箱くらいの大きさの、四角い金属製の器具である。それが突然、ピッ、ピッ、と短い音をたてた。  左織は仰臥《ぎようが》したまま手探りでその箱に触れる。 「熊谷《くまがい》より海岸通りへ」 「はい、海岸通り」 「大工が着いた」 「了解」  ピッと音がして静かになる。左織は箱から手を離した。 「何だい」  男が目をさまして訊《き》く。 「大工が着いたそうよ」  男は当然だというように寝返りをうって左織のほうに顔を向ける。 「予定通りだな」  左織は起きあがり、べッドを離れて窓際へ行き、カーテンを少しあけてからテーブルの上のシガレット・ケースをとりあげ、煙草を抜き出して官能的な感じの唇《くちびる》に咥《くわ》える。 「まだ二時ね」 「寝ろよ」 「不思議な気がするの」  左織は煙草に火をつけた。窓ガラスが一瞬赤くなる。 「たのしくてワクワクして来るのよ。あたしたちは生まれつきの嘘つきなのかしら」 「そうさ」 「昔からそうだったのかと言う意味よ」 「昔から……」 「嘘つきの血を持った者が嘘部になったのか、嘘部として嘘をつき続けたから、あたしたちのような嘘つきができあがったのか、どっちだと思う……」 「判らんな」  男はその問題にさして興味を示さない。 「とにかく、総理大臣が崖《がけ》から突き落される。それだけははっきりしている」  男はそう言うと目をとじて眠ろうとした。     7  静まり返った廊下に並んだドアのひとつが、そっと開いた。青い半袖《はんそで》のシャツに白いスラックスをはいた男が姿を現わし、音を立てぬよう慎重にドアをしめると、忍び足で廊下を歩いて一つ先の反対側のドアの前に立ち、廊下の気配を窺《うかが》ってから、トン、とひとつドアをノックする。靴ははいておらず、スリッパをはいていた。  二、三秒するとそのドアがあく。男の姿はそのドアに吸い込まれた。ドアがとじる。  暗い部屋で、ネグリジェを着た女が男に抱きしめられている。ドアのそばで長いキス。その二人にとって言葉はたいして要らないようだ。長いキスがおわると、もつれ合うように奥へ進む。  男の手がそっとカーテンを引く。部屋の中が少し明るくなる。男は女の着ているものを脱がす。薄いネグリジェは呆気《あつけ》なく床に落ち、豊満な女体が薄明りの中に白く泛ぶ。  男は溜息《ためいき》を洩《も》らしながら、少しさがってその裸身をみつめる。女はしばらく男に観賞されるままにしていたが、たまりかねたように近寄って男のシャツのボタンを外《はず》しはじめる。  女がネグリジェの下に何もつけていなかったように、男もシャツとスラックスをとると全裸であった。  二人は犇《ひし》と抱《いだ》き合う。再び執拗《しつよう》なまでのキス。やがて男は姿勢をさげ、女の胸に唇を当てる。女はのけぞり、長い髪を揺らす。男は更にさがり、女を味わいはじめた。  女は耐えて立ち続ける。 「ああ……」  声を出す。 「べッドへ行きたいわ」  その言葉で男は女体から顔を離し、立ちあがって女を抱き直す。女は男の胸に顔を埋めるようにする。 「ベッドは使えません」  男は案外冷静な声だ。 「だって……」  女は甘え声で言い、男がしたようにずりさがって行く。 「凄《すご》いわ。すてきよ」 「ああ、奥さん」  女が男を味わいはじめる。色のない夜の光の中で、女の口もとが白く光る。 「立って」  男は女の両脇に手をいれて、引きあげるように立ちあがらせる。二人は互いに下腹部を押しつけ合い、喘《あえ》いでいた。  やがて女は焦《じ》れったそうに体を離すと、カーテンを少しあけ窓際に両手を突き、山に顔を向けて上体を倒す。  男はそのうしろに立って、女と同じようにガラスごしに暗い山を見る。  女が低い悲鳴をあげる。男は女の腹に手を当て、暗い山に向かって突き出す。 「ゆっくり……」  女がかすれ声で言う。夜の海のうねりのように、男はゆるやかに波うつ。女はうねりを受けとめ、喘ぎはじめる。 「愛してる。愛してるのよ」  うわごとのように言った。その言葉に煽《あお》られたように、男の波が激しくなる。 「あなたがいいの。あなたのほうがいいの」  女は泣声になった。 「彼を殺したい。殺してしまいたいんだ」 「殺して。殺しちゃって」 「奥さん……」 「殺して……」  女の腰を掴《つか》んだ男の手にいっそう力が入り、窓枠《まどわく》に手をかけた女の腕が長く水平に伸びて、女は顔を伏せた。背中が平らになり、豊満なヒップが強くうしろに突き出される。  二人は同時におし殺した叫びをあげ、動かなくなった。しばらくそのままの姿勢が続いたが、やがて女は上体を起すと、小走りにバスルームへ去って水音をたてはじめた。  男はそのあいだにスラックスをはき、シャツをまとうと、床に落ちているネグリジェを拾いあげ、戸をあけ放したままのバスルームへ行った。  女は胸から下へ白いバスタオルを巻きつけているところだった。 「べッドの上において頂戴《ちようだい》」  男は部屋へ戻り、言われたとおりネグリジェをべッドの上に置く。 「誰にも気づかれなかった……」  女はそう訊きながら、ソファーへ坐《すわ》る。 「ええ」 「上手よ、あなた」  忍んで来かたが上手なのか、意味があいまいでよく判らない。 「早く帰りなさい。気を付けてね」 「はい」  男は従順にドアへ向かった。     8  ダブルベッドに一人で寝ている男がいる。伊奈玄一郎《いなげんいちろう》と言い、保守党実力者の一人である。現在は副首相の座にある。 「結着をつけねば」  伊奈のひとりごとは有名である。考えをまとめるには、文字に書くか声に出して言うのが一番だというのが持論なのだ。  夜が明ければ、箱根《はこね》から総理の紀尾井英介《きおいえいすけ》がやって来ることになっていた。首相はその静養先で気まぐれを起し、ゴルフをしにこのホテルへやって来て、その日のうちにまた箱根へ帰る予定である。  伊奈はそれとまったく別個に、親しい実業家数人とゴルフをたのしみに来ているのだ。そういう手筈《てはず》になっていて、偶然一緒になった首相とゴルフを付合うことになる。 「長い。もう長すぎるくらいだ」  伊奈はまたつぶやく。たしかに長すぎるようであった。颯爽《さつそう》と政界に登場し、保守党の青年将校とうたわれた頃《ころ》の面影はもうない。そのかわり、常に主流につらなって陽の当たる道を歩き続けた、老獪《ろうかい》な政治家の姿がそこにあった。  顔はしみだらけになり、長身の体をことさらしゃんと立てていた背骨はやや曲って、人を見る時はやや上目づかいに眉を寄せる癖がついている。  だが、それだけに人を説得する力は群を抜いていた。 「次は俺だ」  次期の首相は自分以外にあり得ないと確信している。この国の将来の為にも、自分が首班に指名されるべきだと思っている。 「あの男はいかん」  あの男とは現大蔵大臣の湖東進《ことうすすむ》である。 「宰相は汚れていてはならない」  湖東も次の政権を狙《ねら》っている。他にも同じ野心を抱く者は何人かいて、いまは次期総理の椅子《いす》をめぐる熾烈《しれつ》な争いの真っ最中だが、伊奈の目から見れば湖東進以外は十把《じつぱ》ひとからげの小物でしかない。  だが湖東は警戒しなくてはならない。伊奈より年齢は八歳も若く、しかも各界に多彩なパイプを持っていて、金集めの天才とうたわれている。当然派閥も強力である。 「あれを首相にはできん」  それは自分だけの考えではない。湖東を首班に指名することは輿論《よろん》が許さないだろう。伊奈が自分を次期総理に擬して疑わない最大のよりどころがそれであった。  湖東は幹事長時代、保守党の発展・強化に大きく貢献したが、それはひとえに政治資金集めの天才的な能力による。が、しかし、保守党全体に貢献したと同時に、その卓越した集金力は彼自身の勢力拡大にも用いられた。  その為には手段を選ばぬ男であった。そうした歳月が流れる内、たしかに湖東は充分に力をつけ、今では押しも押されもせぬ大派閥の盟主になって保守陣営に重きをなしたが、その分だけたっぷりと泥水《どろみず》を呑《の》んでしまった。顔も手も足も汚れ切っている。  その湖東が、ようやく伊奈と次期総理の椅子を争う地点まで達したとき、その力の根源である金が彼を裏切りはじめているのだ。  海外への経済援助にまつわる暗い影がマスコミをにぎわしはじめ、一方では建設大臣当時の汚職が暴露されかかっていた。  それが湖東の過去のすべてでないことは、保守党政治家なら誰でもよく知っていた。湖東はそれ以外にも、ありとあらゆることで金を掻《か》き集め、手を汚していた。  マスコミに洩れたのは、そのほんの一部である。しかし、暴《あば》かれれば手を汚した者が責任をかぶらねばならない。湖東の手の汚れは保守党全体に役立ち、その金は全保守党議員の政治力を増したが、川の水は三尺流れて清に戻るとされる。伊奈はその点、下流の水を汲《く》みこそすれ、自ら手を汚す愚をおかさない男として知られていた。 「汚れすぎている」  伊奈はその長身をべッドに横たえてまたつぶやく。湖東を首班に指名することは、保守党全体の汚れを国民の前にさらけ出してしまうことではないか。  湖東を切る。汚れた男を切り捨ててしまわねば、保守政権の名分がたたないだろう。国民は政界の汚濁をそしり、清明な政権を待望している。  だが、紀尾井首相はその簡明な事実をことさら複雑化させているようだった。湖東の率いる勢力を恐れているのだ。恐らく、ギリギリまで湖東を切るという決断は示さぬに違いない。スキャンダルを憂慮する表情を示しながら、成り行きを見守る気なのだ。 「ここらで手をうたせねば」  伊奈は自信たっぷりにつぶやいた。湖東の汚れは目に余る。結局は自分に首相の椅子がまわって来る……そう思いながら眠りに入った。     9  明るい部屋へ、もう午前三時だと言うのに背広とネクタイをきちんとつけた男が、角氷のつまったアイスペールをぶらさげて戻って来た。ルームサービスもこの深夜では期待できず、まめに自分でエレベーターをおりてどこかへ取りに行って来たらしい。 「あったあった」  煙草の煙がこもった部屋へ入ると、ドアをしめながら言う。  ツインの部屋で、窓と平行に並べたふたつのソファーの上には、ジョニー・ウォーカーの瓶《びん》とグラス、それに灰皿とつまみ物の皿が置いてあった。 「氷がなくては寝るしか手がないからな」  そう言ってアイスペールを持った男はソファーに近づく。 「要するに、だ」  部屋にいた男は待ちかねたように運ばれて来た氷をグラスにいれ、ウイスキーをついだ。 「湖東進はスケープ・ゴートにされるしかないということさ」 「高梨《たかなし》さん、そう言い切るのは早いと思うぜ」  高梨は唇に当てかけたグラスをテーブルの上に戻した。 「それ以外に方法があるというのか」 「たしかにね……」  氷を運んで来た男は上着を脱ぐとべッドの上に抛《ほう》り投げ、ネクタイを外しながらソファーに坐った。 「たしかに湖東さんはやりすぎていた。手が汚れている」 「汚れ切ってるよ」 「しかし、今になって全部が全部私利私欲のように言うのは筋が通らない。そうじゃないか。誰かがやらなければ、保守党は今よりもっと悪い状態になっていた……それはたしかだろう。湖東さんの手が汚れているとすれば、それは保守党全体の汚れでもある」 「だから湖東をかばってやるべきだ、かばわなければならんというのか」  高梨は相手をじっとみつめ、少し間を置いてからまたグラスをとりあげた。 「なあ内田《うちだ》、君はまだまだのようだな」 「まだまだ……」 「そう。はっきり言うと、青臭いというんだよ」  内田は鼻白んで沈黙する。高梨は酔っているようだ。 「不人情だとか薄情だとか、そういうことで流れにさからう人間はこの世界には一人もいやしない」  かさにかかったように言った。 「そのくらいのことは判っている」 「いや、判っていない」  高梨は勢いよくウイスキーを呷《あお》って続けた。 「たしかに湖東は政治資金集めの天才だ。この前の選挙も、その前の選挙も、我々は湖東のおかげで楽勝したようなものだ。派閥間の公認争いを除けば、思い通りの選挙をやることができた。その点ではみんな湖東の恩恵を蒙《こうむ》っている。世間なみに言えば、湖東には義理があるから冷たいことはできない。しかしここは政界だ。世間なみの考えは通用しない。湖東だってそれくらいのことはとっくに承知している。承知した上で汚れ役を買って出たんだよ」 「こうなるのは覚悟の上だった。そう言いたいのかい」 「その通り。しかし、それだけのメリットはあったのさ。金は力だ。湖東はわが党の資金のパイプを一手に握ったからこそ今日の地位にのしあがった。自派の勢力を伸ばすことができた。彼にしてみれば、最終的な狙《ねら》いはそこにあって、汚れ役を買って出たのはその手段にすぎない」 「だからと言って彼の功績を無視するわけには行かないだろう」 「無視はしない。彼が何の傷も負わずにその役をやりとげれば、彼は当然首相の椅子に坐るべき人物だった。みんなもそれで満足しただろう」 「それがてのひらをかえしたように……」 「そこさ。苛酷《かこく》な自然条件の中に生きる遊牧民族の中には、仲間の移動について行けなくなった老人は、生きながら死者として見すててしまう習慣を持ったものがいたそうだ。見すてられた老人も、それを天命として仲間を恨んだりはしないそうだ。我々の住む世界はそれに近い。湖東進はよく戦ういい仲間だったが、手傷を受けて移動について行けなくなった。誰かが肩をかしてやるかな……」  高梨は内田をみつめた。二人とも伊奈玄一郎の秘書として、政界の裏側に生きる男であった。しかし、高梨よりやや経験の浅い内田は、地獄の淵《ふち》を覗《のぞ》いたような顔をしていた。     10 「先生でもそうなのかなあ」  しばらくして内田がそう言うと、酔った高梨はのけぞって笑った。 「甘いな、まったく」  高梨は笑いながらそう言い、急に内田の機嫌《きげん》をとるように体を乗り出した。 「そこが君のいいところなんだ。俺はそういうところが好きだな」  内田は胡散臭《うさんくさ》そうに高梨を見た。 「先生は湖東とは正反対の人だ」  高梨はニヤニヤしながら言う。 「湖東よりずっと線が細い」 「そうかな」 「ああ。湖東が強力犯なら先生は知能犯というところさ。清潔な政治家で、手を汚すようなことはできるだけ避け通して来た。だから見ろ、キャリアから言えば先生のほうがずっと上だが、派閥は湖東より小さいだろう。一般の会社の中にも、とかく企画方面の仕事を望んで、セールス現場は徹底的に避けてしまう人間がいる」 「うちの先生は恰好のいいところへばかり行くと言いたいのか」 「別にそれが悪いわけもなかろう。人それぞれに向き不向きというものがある。革新政党にだってそういうことはあるさ。政策とか理論とかいうことで地位を堅めて行く奴と、下部の日常活動……ビラ貼《は》りとか、党員拡大とか、そういった日常活動の積み重ねの中でのしあがって行く者がいる。前者はエリートと呼ばれ、後者は筋金入りと言われたりする。……うちの先生は、ずっと保守党のプリンスと言われて来たじゃないか。湖東進とは正反対なんだよ」 「正反対なのは認めるよ」 「たしかに人格も高潔だ。しかし、俺たちのようにすぐそばにいて裏をよく知れば、世間で言うような清潔さとはちょっと違うことが判る。さっきも言ったように、ここは政界だ。まるっきり手を汚さずに先生が今の地位を得たと思うかい。思えんだろう」 「…………」 「そうさ。先生は手を汚してでも力を伸ばそうとした湖東を大いに利用した。湖東が苦労して集めた金を、党の金として自在に切りとって来たんだ。そればかりじゃない。君も知っての通り、公定歩合の問題にしろ何にしろ、実に巧みに動いて、手を汚さずに先生なりの資金集めはしているじゃないか。極端に言えば、手が汚れない金だったら、手当たり次第に掻き集めた。それで今日までやって来たんだ。それは、手を汚すことが危険だからだよ。ところが、湖東ははじめからその危険を承知でおかしていた。だから、今のようにその一部が暴露されれば、それは当然自分で始末しなければならない。そりゃ、湖東にすれば無念だろう。もっと大口の汚ないことがいくらでもあるのに、ほんのささいなことが命とりになりかかっている」 「だからこそ、手をかしてやれば……」 「あとは湖東の運次第さ。湖東がうまく切り抜ければ、みんなもよろこんで手をかすだろう」 「それじゃ何にもならない」 「手遅れだと言いたいのだろうが、これがおとなの世界というものだ。金は欲しいが命も惜しい……命が惜しくば金をすてるしかないが、湖東はその金を力として選んだ。流れ玉に当たったって、それは不運としか言いようがない」 「俺が心配するのは、湖東さんが黙って死ぬかということだ」 「道連れ…………」 「そうなんだ。湖東さんがその気になれば、保守党をひっくり返すことだってできる。薄情にすればわが身に返って来るぜ」 「いよいよダメと判ったら、何もかもブチ撒けるというのかい」 「…………」 「甘いよ」 「そうかな」 「湖東は完全にはダメにならない。そりゃ、最悪の場合は取調べを受けたり、ひょっとするとブチ込まれるかも知れない。しかし、湖東ほどたくさんの秘密を知った男は、結局生きのびるんだ。一時的に政治生命を絶たれたかに見えても、湖東は自派の連中を動かして以前よりもっと睨《にら》みをきかすことができる。湖東は総理の椅子をあきらめるだけでいいんだ。すべてをブチ撒ければ、それこそ自分から世の中と縁を切ることになってしまう」 「果してそれですむだろうか。湖東さんがすべてをブチ撒ける気にならないという保証は、どこにもないような気がするんだがなあ」  その夜の内田と高梨の会話は、決して特殊な見解に基づくものではないようであった。  第2章 闇の中の通信     1  小林貞夫の運転するコロナ・マーク㈼は、東名高速で御殿場《ごてんば》から乙女《おとめ》峠へまわり、芦《あし》の湖畔《こはん》へ出てからのんびりと十国《じつこく》峠をめざして走っている。 「この道、二年ぶりだわ」  年は二十二か三だろう。育ちのよさそうな若い女が、あたりの景色を眺めまわしながら言った。まだどことなく稚《おさな》さの残る、清楚《せいそ》な感じの娘である。 「そんなに久し振りなのか」  小林は前を向いたまま、ゆったりとした態度で言う。 「下田《しもだ》へ行ったときはどうだったんだい」 「小田原《おだわら》から海ぞいに走ったから」 「そうか」  小林は頷き、 「うしろから来る車をみてごらん」  と言った。娘はくるりと体の向きを変え、リア・ウインドごしに後続車を見る。 「あれも恋人同士だよ」 「そうね」 「君もあんな風に、僕にぴったりとくっついてくれるといいんだがな」 「危いわ」  娘は恥ずかしそうに答える。 「運転の邪魔になっちゃう。美代子《みよこ》、あんなことしないわ」 「して欲しいんだよ」  小林が言うと、美代子は体をうしろに向けたまま、しばらく黙っていた。 「本当……」  前に向き直って言う。白いフレアースカートの裾《すそ》があがって、可愛らしい膝《ひざ》が見えていた。 「本当さ。男なら誰だって、愛している女性には、ああいう風にしてもらいたいと思っているんだよ」  美代子はまた黙り込み、コロナはゆっくりと進む。  その後続車が二人の車を追い抜いたとき、美代子は食い入るように、寄り添った男女を眺めた。男は左腕で女をかかえ込むように運転していた。 「あたし、不合格……」  美代子は突然そう言った。深刻そうな声音であった。 「不合格って、何のことだい」  小林は微笑を泛《うか》べ、余裕たっぷりに言う。 「あの……」  美代子は言い澱《よど》み、ひとつ息を吸い込んでから答えた。 「あなたの恋人として」  小林は声をあげて笑う。その言葉をとうに予想していたらしい。 「君が不合格なわけがないじゃないか」 「だって……」  美代子は甘え声になる。 「あなたはあたしよりずっと年上だし、いろんなことをもう知ってしまっている人でしょう。でもあたしは……」 「知識や経験は関係ない」  小林は真面目な表情で言う。 「俺は君を愛している。君は俺が、ただの恋人として君を考えてると思うのか」 「そうじゃないけど」  美代子はまるで自分がとんでもない失言をしてしまったかのように弁解する。 「あたしはただ不安なの。自分があなたにふさわしい女かどうか、よく判らないのよ」 「判る必要はないんだ」  小林の言葉に力が入る。 「俺は妻として君を考えている」  美代子は体を堅くしたようだ。 「先週のことを、俺は生涯《しようがい》忘れないだろう」  この前の日曜日、美代子ははじめて小林の部屋を訪れた。二人はそこではじめて体を交えている。 「まだ日はきめていないが、チャンスがあれば来週にでも君のお父さんに会うつもりだ」  美代子はため息をついた。緊張に耐えられなくなったように、またあたりの景色を眺めまわす。しかし、そこで話題をかえる勇気はないようだ。 「でも、今日はそういうことを忘れて楽しく過そう。そう思って連れ出したんだ。家へは何と言って来たの」 「お友達と海へ行くって」  それでいい、というように小林は頷いて見せた。美代子は小林の会社の社長の姪《めい》に当たっている。父親は名の通った建築家だ。 「まさか君は、結婚について迷っているんじゃないだろうね」 「そんなことないわ」  美代子は自分の愛情を証明するように、小林のほうへ体をもたれかけさせて行った。     2  スポーツバッグ、と英語をプリントした小さな鞄《かばん》をぶらさげた天田徳三が、熱海《あたみ》の新幹線ホームに降り立ったのは、一時二十分前であった。  天田はいったん改札口を出て、熱海の駅をぶらついてから、伊東《いとう》までの切符を買ってまた構内へ入った。伊東線のホームへあがると、ガランとしてひとけがなかった。東京を十一時八分に出た下田行の直通電車が発車した直後だったのだ。  しかし、天田は残念がる様子も示さない。小旅行、と言いかねるこの伊豆での休日を、彼はのんびりと楽しむつもりでいるのだ。  構内をパトロールしているのだろうか、中年の警官が一人、そのホームへ現われて歩きはじめた。ホームのはずれまでぶらぶらと進み、また引き返してくる。  天田はベンチに腰かけていた。客の常川に言われたので、きちんとスーツを着、ネクタイをしめているが、その夏服はひどく物堅い感じで、陽焼けした精悍な顔や、短く刈った髪など、全体的には鋭すぎる雰囲気を漂わせていた。  警官はその天田に注意をひかれたらしい。近付いて来る足どりがことさら遅くなり、天田を観察する時間を稼《かせ》いでいるようだった。が、よく見ると、それは犯罪者に対する警戒ではないようだった。一種の畏敬《いけい》の表情がほの見える。  だが天田のほうはそれに気付いていない。無為な時間そのものを楽しんで、視線も漫然と空に向けられている。  濃紺の夏服、黒い靴、白いワイシャツに青無地のネクタイ。警官はそのひとつひとつに目をやり、何か自分なりに納得《なつとく》したようであった。  警官は天田のすぐ前へ白線にそって歩いて来た。天田がそれに気付き、やっと遠くの雲から警官へ視線を移した。天田の顔を注視していた警官と天田の目が合うと、警官はなぜか、ひょこりと軽く頭をさげ、そのあとで帽子の庇《ひさし》に右手を当てて、かぶり直すような仕草《しぐさ》をしながら通り過ぎて行った。  天田は見知らぬ警官に会釈されたように感じ、意外そうな表情でうしろ姿を見送った。  天田は昌子という女のことを考えていたのである。昌子は悪い女ではなかった。結婚すると言い出せば、みんなが賛成し、祝福してくれる筈《はず》であった。  しかし、天田はゆうべ〈新かわ〉のおかみにも言った通り、家庭を持つことが何か恐ろしかった。家庭を持てばしあわせを感じることも多かろうが、その先に待っているかも知れない別れのいざこざを考えると、どうにもふん切りがつかないのである。二度ほど天田は女に夢中で惚《ほ》れ、惚れすぎて去られたような結果になっている。  ホームに人影が増えはじめたが、ウイークデーのことでもあり、さほど混雑する様子はなかった。やがて伊東どまりの電車が来ると天田はそれに乗り込み、ドアのすぐそばの座席に坐った。  伊東まで二十五、六分である。天候はあまりはっきりせず、沖は曇って水平線が見えなかった。  こんな風に一人きりでいるのが俺の性に合っているのだ。……天田はそう思った。以前北陸から山陰へ、十何日かかけて冬の旅をしたことがあった。行き当たりばったりに適当な駅で降り、宿にころがり込む。気に入ればそこにもう一泊し、町や海岸を歩きまわってまた次の駅に向かう。  東京へ戻ったら、仲間が行方不明になったと言って騒いでいる最中だった。天田の失恋を知っていればそう思うのも無理はなかったが、天田にして見れば滑稽《こつけい》な一幕であった。  面倒だからふらりと生活の場を離れただけだったのだ。現実の生活の中で生じる愛欲は、その場から去れば夢の中の出来事のようになってしまう。毎日料理を作っていること自体、その意味が薄れ、あるものは天地の間に生きている自分の体だけである。それは心細い状態と言えば、この上もなく心細かったが、日がたつにつれてすべてがいや応なしに整理され、すっきりとして来る。  他人との会話……誰にどう思われ、誰をどう扱うかということより、歯をみがいたり、飯を食ったりすることのほうが、自分にとってはるかに重要に思えて来るのだ。  今度も少しはそういう気持になれるだろうか。  天田は汚れた体を風呂《ふろ》の湯につけるような気分で、伊豆へ来ていたのだ。ただ、今度は失恋など、癒《い》やすべき傷は何もない。それだけに、いっそうさっぱりとした時間を過せるのではなかろうかと期待しているのだった。     3  一時四十分頃、伊東市の北、宇佐美《うさみ》の海岸ぞいの道をリンカーン・コンチネンタルが、南へ向かって走っている。4ドア6座のばかでかい車の後部座席にふんぞり返っているのは、木田川作次《きだがわさくじ》である。  もとは小さな印刷会社を経営していたが、十五年ほど前に玩具《がんぐ》の製造に手を出して商売の幅を広げ、その後不動産の売買で巨利を博した。今は都心に貸ビルを七つ持ち、副業としてバーやクラブ、ビアレストランなどを銀座や新宿でやらせているが、本業は金融である。  そのリンカーン・コンチネンタルは、木田川にとって、自分が目的の地位へ辿《たど》りついた証明のようなものである。人によってはその車を乗りまわす木田川に眉をひそめる向きもあるが、木田川は他人の目などいっこうに気にしないたちである。  印刷屋時代に結婚した妻とは、金廻《かねまわ》りがよくなると同時に不仲になり、とうに離別している。その女との間には男の子が二人いたが、たっぷりと養育費を支払って今では会うこともない。上の子はもう大学を受験する年齢になっているが、木田川にとっては赤の他人のようだ。  力さえあれば美しい女は自然に集まって来る。木田川は大いにその力を活用し、次から次へとめどもなく女を漁《あさ》ったが、貴代子《きよこ》という女が気に入って盛大な結婚式をあげた。  しかし実際には、その貴代子もまだ入籍させていない。練馬《ねりま》に構えた豪邸で、奥さまと呼ばれて暮らす貴代子も、なぜかその問題については触れようとしないのだ。木田川にとってはそれがいかにも物判りがよく、いい女を選んだと思っている。 「滝川《たきがわ》頭取がなかなかウンと言わん」  木田川は車の中でそう言う。運転手の新井久雄《あらいひさお》以外に誰もいないから、ひとりごとのようだがそうではなく、木田川はハンドルを握っている新井に語りかけているのだった。 「銀行のかたは、どなたも社長ほど柔軟な考え方はなさらないでしょう」  新井がすかさずそう答える。その口ぶりはただの運転手のものではない。しかし、新井は別に木田川の仕事について深く関与しているわけではないのだった。 「すぐにウンと言わんほうが面白いのさ」  木田川はニヤリとする。新井は愉快そうに笑った。 「社長にかかっては、大銀行の頭取も何かのゲームのお相手のようですね」 「そうだ、その通りさ」  木田川はリンカーン・コンチネンタルに満足している。それに乗る自分をいとしく感じている。女と同じように目まぐるしく運転手を変えた時期があったが、新井久雄が来てそれもとまった。  新井は木田川が車の中で喋《しやべ》ることに、打てば響くように答えてくれる男だった。事情を特に教えて置かなくても、いかにもよく判ったような返事をしてくれるのだ。安全な運転をする腕のいいドライバーであると同時に、クーラーやステレオなどと同様に、その車の装備の一部でもあるのだ。  それまでの運転手は木田川の車内のつぶやきに、いっさい反応しなかった。むしろ、木田川のつぶやきを聞いてはならぬものときめ、記憶に留めぬほうが正しい態度だと思っていたようである。  しかし新井は最初から木田川のつぶやきに反応し、うけこたえをしてくれた。あたらずさわらずで、適当に木田川をおだてるだけなのだが、実は木田川にとってそれが最も好ましいことだったのである。  どんな相手と会ったあとでも、その高級車のリア・シートに納まってしまえば、木田川は一流の実業家になれた。劣等感や挫折感《ざせつかん》は癒やされ、あらたな勇気が湧《わ》いて来るのである。  車内のつぶやきは木田川にとって一種の解毒作用を持っていたが、新井の出現によってその効果はいっそう高められた。木田川はリンカーン・コンチネンタルの中で、劣等感を消去するだけでなく、自己肥大することができるようになった。夜郎自大《やろうじだい》という言葉があるが、まさしくそれである。 「儂《わし》をただの金融業者ぐらいにしか思っとらん連中は、そのうちみな駄目《だめ》になる。そういう連中は、儂が何かせんでもいずれ自滅してしまうのだ。人を見れるか見れんかということは、実に重大なことなのだ」 「そうでしょうねえ。しかし、案外目のないかたがいい地位においでのようで」 「お前も口が悪くなった」  木田川は大声で笑った。 「そうでしょうか」  新井はそう言いながら、窓枠を把《つか》んでいた貴代子の白いヒップを思い出していた。     4 「それはバックスイングで肱《ひじ》を張りすぎるからだよ」  伊東の市内を抜けて山に向かうセドリックの中で、四人の若い男が喋っている。 「そうだ、左肱を張ってはいけないんだ」 「俺、張ってるかな」  一人がクラブを振るつもりで、坐ったまま体を動かす。 「だからスライスしてしまうんだ。要するに肩が入ればいいのさ。君のはときどきバックスイングのトップで左肱が折れてる。トップで左肱が折れるのは、肩をまわさないせいだよ。左肩が入ってないのに、手だけでトップの位置を作ろうとするからなんだ」 「そうかなあ」  前のシートにいる男がからかう。 「いいコーチについてるな。きっとうまくなるぜ」  教えていた男がムキになる。 「俺も以前その癖があったんだ。スライスばかりしてさ……でもだんだん判って来た。結局左肱を張るせいで、ワキがあいちゃうんだな。だからフェースが開いてスライスするんだ」 「そりゃ大切なことだ。よく聞いといたほうがいい。今度もよく見といたほうがいいぞ。彼のスライスは凄いからな。もうちょっと力があれば、ブーメランみたいに戻って来かねない」  教えていたのが苦笑する。 「でも、左腕の始末は大事だよ」  運転しているのが真面目に言った。 「ついこの間まで、俺もフォロースルーで左を伸ばしっぱなしにしとかなければいけないと思い込んでた。ところが、それでひっかけたりするんだな。ワキがあくのはとかく左肱のせいなのさ。どうも、何のスポーツでもワキがあくのはよくないらしい」  話が少し真面目になって、次の言葉が跡切《とぎ》れた。 「スポンサーはもうホテルへ着いているかな」  一人が言うと、あとの三人ははじけたように笑い出す。 「さあ、まだお着きになっていらっしゃらないんじゃないかな」  四人はたのしそうだ。 「でも、誰かに会わないだろうか」  一人が心配そうな声を出す。 「平気平気」 「バレっこないさ。バレたところで、この四人が揃《そろ》っていればどうってことはない」 「しかし俺たちもようやるよなあ」 「金曜じゃないか。サボるのは一日だけだし、第一やることはやってる」 「まったく、一課はいい玉がそろってる」 「一番いい玉は自分のくせに」  また笑い合う。 「でもな、社長が来てたりして」 「来てないよ。あした、家に法事か何かあるそうだ。部長がそう言ってた」 「気にするな。気にするとスライスするぞ」 「そうスライス、スライスって言うなよ。この間みたいなことはもうないから。インドアでたっぷり打ち込んで来たんだから」 「ごついよ、お前は。スポンサーもいない接待ゴルフを企画した上に、毎日仕事をサボってその空《から》接待のゴルフに備えて練習に励んでるんだから」 「これは犯罪だぞ」  また大笑いする。 「たまたまあのホテルがとれたのが運のつきさ」 「会社のな」 「そう、会社も運が悪かった。ホテルがとれなければ今頃は仕事をしてるのに」 「嘘つけ、どこかでコーヒーでも飲んでる癖に」 「いいじゃないか。営業一課はちゃんとノルマを果している。ほかの課を見ろよ、だらしがないっちゃない」 「しかし、うちの社も困ったもんだな。実績が昇給やボーナスにちっとも反映しないんだから」 「悪平等って奴だな。社長のうつわが小さいのさ」 「ここまで来て愚痴を言ったってはじまらないぞ。その分こうやって自主的に慰労してるじゃないか」 「自主的な慰労か。いい文句だ」 「有給休暇をとるより、空《から》接待でゴルフやるほうがずっといい」 「いいにきまってるよ」 「しかし、伝票には五名様とか何とか、細工をしなければな」 「いや、大丈夫だ。俺は伊東の実家へ泊ったことにする」  運転している男がしたり顔で言った。どうやら四人は広告代理店の社員らしかった。     5  天田はタクシーでホテルの正面玄関についた。時間は二時二十分である。伊豆急線の駅を右に見て通過し、やがてタクシーがホテルの玄関へ近づくと、天田の表情が急に曇った。  建物の雰囲気が予想に反したものだったのである。  それは天田の迂闊《うかつ》さであったかも知れないが、とにかく見た瞬間、手に負えないような感じに襲われたのであった。ゴルフ場をかかえたホテル、と聞いたので、もっと高層のモダンな建物を予想していたのだ。  ところがそのホテルは、赤瓦《あかがわら》をのせた屋根のひどく重厚な感じで、建物は高い部分でせいぜい五層、玄関を中心に左右へ長く翼を張っているのだ。  天田はなんとなく、国会議事堂の近くの建物を連想してしまった。あれは……そう、首相官邸。  漫然と時間を費やす気でいた天田は、気が重くなった。仙台《せんだい》市のはずれに生まれ、板前の修業は東北の各都市を転々としながら積んだのだ。或る人物に見込まれて東京へ移り、その後も何軒かの店を渡り歩いたが、板前の分を弁《わきま》えて身の程でない贅沢にはいっさい近付かないで過した。  それでも都心の一流ホテルなどには自然と慣れたし、慰安旅行でリゾート・ホテルのかなりいいところへ泊ったこともある。料理の勉強になるから洋食のマナーも充分に心得、一流のフランス料理店へ出入りもするが、これは少し天田から見ると桁《けた》が外れていた。  天田は自分が萎縮《いしゆく》しはじめるのを感じた。料金を払って車を出ると、タクシーはすぐ戻っていく。小さなバッグをぶらさげて取り残された天田に、制服を着たボーイが叮嚀《ていねい》に頭をさげる。 「いらっしゃいませ」 「フロントは」  天田は尋ねた。 「こちらへどうぞ」  そのボーイが案内する。フロントのカウンターも天田には勝手が違った。都心のホテルのようには長くない。中にいるクラークはまるで自分の上司のような感じであった。  天田の顔から表情が消えていた。 「常川という人の名で予約してあるんだが」  天田はボソボソと言う。 「はい、常川さまでございますね。お待ち致しておりました」 「泊るのはわたしだ」 「お一人でいらっしゃいますか」  クラークはにこやかに言う。 「そう」  クラークは時計を見た。 「ただ今ちょうどお部屋の準備を致しておりますので、恐れ入りますがしばらくお待ち願えませんでしょうか」 「ああ」  天田は頷く。 「こちらへご住所などをいただきたいのですが」  クラークは宿泊カードを天田の前へ出し、ペンをその横へきちんと置いた。天田はゆっくりと丁嚀な字で記入した。そのあいだに別なボーイが近寄る。 「お荷物をお預りいたします」 「これだけだ」  天田は小さなバッグを渡した。 「やあどうも」 「やあどうも」  そのうしろで声がした。派手なシャツを着た四人づれが、ゴルフバッグを引きずるようにしてフロントへ近付く。 「あ、いらっしゃいませ」  天田はフロントを離れ、ボーイに案内されてすぐそばのロビーへ入った。  大きなマントルピースと、天井の太い梁《はり》がまず目についた。革ばりのソファーが、たっぷりとゆとりを持って配置されている。  俺の来るところではなかった。  天田は後悔しはじめている。下足番がお屋敷の客間へ通されたようなものだと、卑小感に食いつかれてしまっていた。  そんな喋りかたをするとお里が知れる……〈新かわ〉のおかみの言葉が強くよみがえった。  天田はことさら無表情で、大きなマントルピースの前を通り、突き当たりのガラス戸のそばへ行った。その外はレンガをあしらった太い柱があり、テラスになっている。よく手入れされた芝生と植込みがその向うにひろがっていて、プールが青い水をたたえていた。  これはどうしようもない。  天田は舌をまく思いで外を眺めていた。ここには本物の贅沢があった。本当の豪華さがあった。けばけばしいものはひとつも見当たらず、富と教養が地面や床や柱など、隅々《すみずみ》にまで深くしみ込んでいる感じであった。     6  天田がロビーのテラス側のソファーに体を沈めるとすぐ、純白のパンタロンに白絹のブラウスを着た美女がロビーへ現われた。ブラウスの裾は前で無造作に結び合わせてあり、腹のあたりの白い肌《はだ》が、それ自体|衣裳《いしよう》の一部のような感じであらわになっていた。  女はいったんマントルピースがある壁の向こうの部屋へ入って、新聞の綴《つづ》りを取ってページを繰っていたが、すぐ所在なげに天田のいるほうへ戻って来て、ぶらぶらと歩きはじめた。玄関のほうを気にしているところを見ると、誰かを待っているらしかった。  こういう場所も見ておくべきだ。  天田は自分を励ますようにそう考えはじめていた。常川が部屋をキャンセルせずに、自分を送り込んでくれた理由がよく判って来た。たしかにこれは勉強になる。常川は本当に自分の為を思ってはからってくれたのだ。……天田はそう思いながら、じっとその大きなソファーに坐っていた。  それにしても、昌子など連れて来なくてよかった。世話女房タイプの昌子をもし連れて来たら、まるで場違いで昌子自身、身が縮む思いをするに違いない。……天田は〈新かわ〉のおかみの顔を思い泛べ、ちょっとおかしくなった。 「貴代子」  太い男の声がしたので目をあげると、女がマントルピースのあるほうへ振り返ったところであった。  男はでっぷりとして、いかにも金持ちといった感じであった。女はすぐそのほうに近寄って行く。 「何か連絡はなかったか」 「いいえ」  女の声はなめらかだった。 「とうとう泊ってしまった。頭取がウンと言わんのだ」  木田川作次はあたりに聞えよがしに言う。 「お仕事のことは……」  貴代子はそう言って微笑する。 「それよりお食事はなさいましたの」  男の仕事には口も出さないし、聞きたくもないといった態度だ。 「朝飯が遅かったのでな」 「じゃあお部屋へ」  貴代子は木田川の腕に軽く手をかけた。 「いや、ちょっと電話をせんならん。すぐにおりて来るから、もうちょっとぶらぶらしていてくれ」 「はい」  木田川は貴代子からキーを受取るとロビーを出て行った。  貴代子はテラスを背にしたソファーに腰をおろし、脚を組んだ。  天田はそういう夫婦のやりとりを、さり気なく、しかし注意深く観察していた。こういうホテルの常連がどういう人物たちなのか、よく知っておこうと考えているのだ。  二分ほどすると、天田同様地味な夏服を着た背の高い男がやって来て女に近付いた。何か言っているが聞きとれない。どうやらさっきの男のことを女に尋ねているようだったが、その男の態度は女に対してかなりへりくだった感じで、使用人のように思えた。  が、それにしては女の表情が妙にあけすけであった。弟に対するようななれなれしさがある。  色っぽい奥さんだ……天田はそう思った。 「あの人は部屋へ行ったわ。電話をするんだと言ってね」  貴代子はそう言っていた。 「今日はもう外へお出になりませんでしょうね」  新井久雄はお抱え運転手の態度を崩していない。 「行けばいいのにね」  貴代子は目にたっぷりと媚《こび》を泛べて言う。 「あれからよく眠れた」 「はい、おかげさまで」 「何がおかげさまよ。あたしはここが痛くて」  貴代子は腿《もも》の辺りへ手をやって言う。新井は立ったままニコリともせず、 「ご無理をなさるからです」  と答えた。 「べッドを使えばバレちゃうわ」  新井は黙って貴代子をみつめる。 「でもすてきだったわよ。時にはああいうのもいいわね」  新井は笑う。 「いたずらがお好きですね」 「あなただって見かけによらず曲者《くせもの》よ」 「恐れ入ります」  二人は視線をからみ合わせて微笑した。     7  常川は四階の海に向いた部屋をとっていた。ツインのべッドが置いてあり、天田はその部屋へ案内されると、ボーイが出て行ったあと、丹念に見てまわり、上着を脱いで窓際のソファーに体を沈めた。  プールが見えている。ロビーで見かけた女が、三つあるプールの一番左にある大きなほうのプールサイドを、ゆっくりと歩いていた。  ああいう女は生涯金の苦労などせずに過すのだろう……天田はそう思った。  伊奈玄一郎の秘書、高梨|勝之《かつゆき》もロビーで同じ女を見ている。高梨はそれが木田川作次の妻であることを知っていた。 「なあ」  高梨は同僚の内田|仁《ひとし》に声をかける。 「何だい」  内田が高梨と肩を並べる。 「いい女じゃないか」 「あの白いパンタロンか」 「そうさ」 「木田川の女房じゃないか」 「うん。あれは以前銀座にいた女だ。知っているか」 「いや。ホステスあがりか」 「木田川の奴、関西にレジャーランドを作りたがって、いろいろと小細工をはじめているよ」 「なんだ、そうだったのか。道理で気前がいいと思った」  木田川が伊奈玄一郎に多額の政治資金を提供したのは、つい先月のことである。受取ったのは内田であった。 「あいつ、鼻がいい。ここへ来ているのは多分先生に会うためだろう」  内田は腕時計を見た。 「もうすぐあがって来るぞ」  伊奈は十時にコースへ出た。彼のブレーンの一人である大学教授とその夫人が一緒だ。 「総理はもう向こうを出ただろうか」 「どうかな。時間はきまっていないからな」  紀尾井英介は、気まぐれを起して不意にこのホテルへ向かうことになっている。すべては紀尾井の側のタイミング次第なのである。 「教授から何を訊いているんだろうな」 「いや、今日はカムフラージュさ。それだけだ」  内田は内ポケットから手帳を出してひろげた。 「これ、自信あるか」  手帳には、伊奈が今朝命じた資金集めのリストが書いてあった。高梨はちらりとそれを見たが、すぐ貴代子のほうに視線を戻した。 「今度は別だ。そう骨を折らんでも、自然に集まるだろう」  かつてこれほど伊奈が総理の椅子に接近したことはなかった。ライバルの湖東進はスキャンダルで自滅しかかっている。財界がそういう伊奈に冷たくする筈はなかった。 「彼も必死だな」  内田はポケットへ手帳をしまい、微笑を泛べて言った。湖東進のことを言っているのだ。 「ああ」  高梨はプールサイドを一周してこちらに顔を向けた貴代子を、舐《な》めるような目で見ながら言った。 「しかし、何をするか判らん男だからな」  内田がそう言ったとき、ロビーへやって来たベル・ボーイが、 「高梨さま、高梨さま」  と呼んだ。 「お……」  高梨が振り向くと、 「お電話でございます」  と言う。高梨は急ぎ足でボーイのほうへ向かった。 「こちらのお電話をどうぞ、おつなぎしてございます」 「有難う」  高梨は受話器を取った。 「はい、高梨です」 「やあ、伏見《ふしみ》です」  声を聞いて高梨は反射的にあたりへ目を配った。 「これはこれは」  態度だけは屈託がない。 「そっちの様子はどんな具合ですか」 「何とか天気はもっていますよ」 「うまく落合えますかな」  伊奈と紀尾井総理のことを言っているのだ。 「ええ、そのようです」 「突然で申しわけないが、邪魔が入りますよ」 「やっぱりそうですか」  伏見というのは、湖東進の秘書の一人であった。情報が洩れて、湖東進がこのホテルへ乗り込んで来るのだ。     8 「誰だった」  内田が訊く。 「内調の後藤《ごとう》からだ」 「ほう……」 「例の埋立の件にも火がついたらしい」  内田は笑った。 「そいつは大変だ」 「船が沈むときはそうしたもんさ」  湖東の別な汚れに検察が動いたのだ。それは決して嘘ではないが、後藤という人物からその連絡を受けたのはきのうのことであった。  高梨は沈みかけた船から金を取りはじめているのだ。沈んだ船は水面から姿を消すが、そのかわり水の下で今までよりもっと活溌《かつぱつ》に何かをはじめると読んだからである。沈んだ船の船長が一番知りたいのは、残った船の動きであろう。  しかし、高梨は今の連絡を多少不愉快に思っていた。何よりもまずカチンと来たのは、湖東の秘書の伏見|直彦《なおひこ》の喋り方であった。伊奈玄一郎の第一秘書として、湖東を助けてやるつもりでいるのに、伏見はまるで上司のような調子で喋ったのだ。言葉づかいは彼らがよく用いる擬態だが、言うに言われぬニュアンスがあって、それが高梨の自尊心を傷つけている。  伊奈が紀尾井総理とこのホテルで落合うことは、今のところこちら側では高梨と内田しか知らない筈だった。そして伏見を通じて湖東にそれを教えてやったのは高梨であった。  それなのに、伏見はまるで別の筋からその情報を得たかのように喋っていたのだ。 「さて、出ていようか」  内田はそう言って歩き出した。ロビーの左側に突き出したサンパーラーの外あたりに、キャディー・ハウスからプレーを終えた一行を送るマイクロバスが着くのだ。  高梨は内田のあとについて、浮かぬ顔で歩いて行った。  プールサイドに、アロハシャツに着がえた木田川作次が姿を現わしている。 「間もなく伊奈さんが戻って見えるぞ」  木田川はそう言って貴代子とプールを離れた。夫婦がのんびりと散歩をはじめたように見えるが、木田川は伊奈をのせたマイクロバスが、その先の大きな松の木のあたりにとまるのとタイミングを合わせるため、歩度を加減しながら歩いているのだった。 「来た来た」  マイクロバスが見えると、木田川はそう言って腕を突き出すようにした。貴代子も心得たもので、艶然《えんぜん》と微笑して木田川の腕に手をかける。 「バスのほうを余り見るな。気付かぬようにしているんだぞ」  貴代子は軽く鼻先で笑う。そんな木田川を内心|軽蔑《けいべつ》し切っているようだ。  しかし言葉は違う。 「本当にあなたってやり手なのねえ」  木田川の腕を強目にかかえて甘い声を出す。 「馬鹿《ばか》では金儲《かねもう》けはできん」  木田川は自信たっぷりに言う。 「伊奈さんて、スマートなかたね」 「絹のハンカチさ。雑巾《ぞうきん》に使えんところが玉に瑕《きず》だな」 「じゃあ、あなたは……」 「儂は絹じゃない。さりとて木綿《もめん》でもないか……いや、そういうたとえかたでは儂を表現はできんさ」  木田川はたのしそうに笑った。 「あなたを欺《だま》す人って、どんな人かしらね。欺せたとしたら大人物だわ」 「そうだな。儂を欺す奴が現われたら、多分儂は欺されたあとでその相手を褒《ほ》めちぎってやるだろう」 「そうね。あなたらしいわ」  貴代子はそう言いながら、うしろを振り返った。どこかの窓から見ているかも知れない新井久雄の姿を探したのである。しかし、それらしい姿を認めることはできず、少し急ぎはじめた木田川の腕に引きずられるようにして、松の木のほうへ進んだ。  バスがその松の木のそばへとまると、内田と高梨がドアの前に立った。 「大谷《おおたに》夫妻にやられてしまったよ」  伊奈は快活に言ってバスから降りた。次におりる大谷教授の夫人に手をさしのべている。 「ご夫婦を相手にゴルフをやるものではないな」  二人の秘書にそう言う。 「おや、伊奈先生じゃありませんか」  こちらも夫婦づれの木田川作次が、素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で言った。貴代子は夫の腕を放し、軽く一礼する。     9  紀尾井総理は白いカバーのかかったシートに体をうずめて沈黙し続けていた。その車の前後に護衛の車がいるが、微行ということで仰々《ぎようぎよう》しい警笛を鳴らしていない。  リア・シートには紀尾井総理だけで、前のシートに運転手をいれて三人の男が坐っている。  運転手のすぐとなりに、肩をすぼめて窮屈そうにしているのは、いつもなら総理のとなりに坐ることもある秘書の浦上洋司《うらがみようじ》であった。紀尾井はなぜか一人きりにしてくれと言い、本当は運転手のほかにはその車に誰も乗せたくない様子であった。  浦上と並んでドアに体を押しつけているのは、大内太吉《おおうちたきち》という警察官だ。総理の護衛の責任者で、骨太でいかり肩の巨漢である。従ってその分だけ秘書の浦上が小さくなっていなければならない。  大内も浦上も、すでにこのゴルフ場行きを不審に思いはじめていた。紀尾井がそれを言い出したときは、別に怪しむべき点はどこにもなかった。紀尾井は昔からゴルフが好きだったし、このところプレーを楽しむ機会がなかったのもたしかだったからだ。  しかし、紀尾井は軽装で車に乗り込むあたりから、急に気むずかしくなった。一人にしておけとしつっこく大内の同乗を拒否して見たり、一度別の車へ追い払った浦上を途中で自分の車に呼び戻したり、常になく情緒の不安定なところをのぞかせるのだった。  浦上は窮屈な姿勢のまま、そっと上着のポケットをまさぐった。四角く固いものが指先に触れる。秘書として先輩に当たる甲賀順平《こうがじゆんぺい》から三日ほど前に預けられた、小型の通信機であった。 「随行するときは必ずこれを携帯していてくれ。呼出音があったらすぐ青いボタンを押しっぱなしにしながら、こちらはイーグルだと答えてすぐそのボタンをはなし、総理に渡して欲しい。その通信は重要かつ極秘の通信だから、総理をすぐ一人きりにしてさしあげるように」  甲賀は厳しい目付きでそう言った。浦上には幾つか思い当たる節があり、それ以上何も訊かずに命令通りその小さな通信機をポケットにいれていた。  ひょっとすると、来る筈の連絡が来ないので焦《じ》れているのではないか……。  浦上は解しかねる総理の態度をそんな風に推測したりした。が、それならば一度はその通信機を持った自分を遠ざけようとした意味が判らなくなる。  浦上はバックミラーに映る後続車を見た。その車には甲賀順平が乗っているのだ。甲賀は紀尾井の第一秘書ということになっているが、日常のことはいっさい手出しをせず、不意に何日も姿を消すかと思えば、早朝突然戻って来てまだ寝室にいる紀尾井を叩き起したりもするのだ。  浦上はそんな甲賀を、紀尾井の影の役をつとめているのだと言う風に見ていたが、今日はその謎《なぞ》が一段と深まった感じであった。  車は紀尾井のかたくなな沈黙に包まれて伊豆半島へ入っている。浦上は紀尾井が短い間に二度ほど時計を見たのに気付いていた。  ただの気まぐれではない。何か重大なことがあってゴルフ場へ向かっているのだ。  浦上がそう確信したとき、突然彼のポケットの中で、ピッ、ピッ、ピッ、という短い音がしはじめた。浦上は急いで通信機をとり出すと、甲賀に言われた通りに青いボタンを押し、 「こちらイーグル」  と言ってボタンをはなした。 「大内さん、とめていただけませんか」  浦上はそう言ってから、うしろの紀尾井にその通信機を手渡した。それを受取りながら紀尾井は、 「かまわん。このままやってくれ」  と言った。一度減速しかけた車は、すぐに加速して先行車に追いつく。 「わたしだ。どうだ」  紀尾井はそう言い、通信機を耳に押しあてるようにした。浦上は前を向いたまま通信機からの声に神経を集中した。恐らく大内も同じようにその通信を聞こうと耳をすませていたに違いない。  しかし紀尾井は抜目なく窓ガラスを三センチほど引きさげ、クーラーのきいた車内に風音をたてさせた。その為に通信機のスピーカーからの音は殆《ほと》んど聞きとれず、「バンカー・ショット」という言葉だけが辛うじて浦上の耳に残った。  バンカー・ショット。  浦上は咄嗟《とつさ》に紀尾井が自分のまだ関知しない重大なピンチに陥っているらしいと感じていた。     10  富裕な階層の人々が好んで利用する格調高いホテルだけに、伊奈玄一郎もなかなかいそがしい。  ブレーンの一人である大学教授の大谷夫妻とゴルフを楽しんで戻って来ると、それとなく待ち構えていた木田川作次につかまって、メイン・バーのテーブルを共にする羽目になっていた。 「わたしのゴルフは腕力だけですが、これがなかなか筋がいいのです」  木田川は貴代子を見て目を細める。 「ほう、奥さんもおやりになるのですか」  貴代子はどういうわけか、伊奈に対してしとやかに振舞う気などまるでないらしく、艶然と笑っている。 「それは、パワーは主人のようには行きませんが、テクニックは自信がありますのよ。一度おためしになりません……」  伊奈は意表を衝《つ》かれたように貴代子をちらりと見てから苦笑する。 「ほう、折りがありましたら是非」  だが、木田川は貴代子のひどく挑発《ちようはつ》的な言い方に気付いた様子もなく、 「そうだ、是非お相手願いたいですな」  と、渡りに舟とばかり体を乗り出している。いや、ひょっとすると貴代子の媚態《びたい》に気付いているのだが、それならそれで大いに結構だと考えているのかも知れない。 「まあそのうちに」  伊奈は多少|辟易《へきえき》気味であった。木田川は体を乗り出したついでに声をひそめ、 「しかし、総理の座もお近いことですし、お暇がございますかな」  と早口で言った。 「なんの。こうしてのんびりゴルフ三昧《ざんまい》ですよ」  伊奈はテーブルの飲み物には手をつけようともせず、席を立つチャンスを待っているようだった。  そのとき、メイン・バーへ一組の男女が入って来た。男はカメラをぶらさげている。女はその男の腕をしっかりとかかえ込むようにしていた。  伊奈は目敏《めざと》くそれを見て、大きな声で言った。 「やあ、左織君じゃないか」  左織はビクッとしたように男の腕を放し、伊奈をみつめて一呼吸してから、急いで左手を口に当て、頤《あご》を右肩につけるようにして目を伏せた。 「おいおい、逃げるとは卑怯《ひきよう》なり、だぞ」  伊奈と左織はよほど親しいらしい。木田川は出鼻をくじかれたような顔で左織たちを見ていた。 「困りましたわ、先生」  左織はかすかに顔に血をのぼらせて言い、あきらめたように伊奈に近寄った。 「こいつめ」  伊奈は好々爺《こうこうや》然とした表情で左織を睨《にら》む真似をした。左織はいかにも育ちのいい態度で、木田川と貴代子に向かって丁嚀に頭をさげる。木田川はあわててお辞儀を返したが、貴代子は左織に微笑を送っただけであった。 「紹介しましょう。このお嬢さんは麻績部謙次郎《おみべけんじろう》氏の……」  木田川はみなまで聞かず、あっというように口をあけて見せ、 「おお、そうでしたか」  と椅子を立つと、改めて頭をさげた。 「わたし、木田川作次です。これは家内でして」  貴代子も仕様ことなしに立ちあがって頭をさげた。 「まあ、木田川さまでいらっしゃいますか。ちっとも存じませんで失礼申しあげました。お噂《うわさ》は父からよく……」 「いえいえ、お父さまにはいつもお世話になりっぱなしでして」  伊奈は自分の両側に立って挨拶《あいさつ》する三人へ、両手を下へ向けて動かし、 「挨拶は抜きにして」  と言った。木田川と貴代子は椅子に坐り直す。 「なかなかきかん気のお嬢さんでね。父親ゆずりというのか、自分で貴金属の店を持ったりしているんですよ。……で、どうもお安くないところを見てしまったが、お父さんに言いつけてもいいのかね」  伊奈はからかうように左織に言った。 「ちかぢか正式に婚約いたしますの」  左織はそう言って連れの男を見た。 「商業カメラマンの小見安秀《おみやすひで》さんです」  小見は紹介されてやっと伊奈や木田川たちに頭をさげた。 「それは結構。うん、それは結構だ」  伊奈は微笑を泛べて小見を眺めた。  第3章 闇の中の抱擁     1  メイン・バーを出た木田川作次は、エレベーターに乗ると急に仏頂《ぶつちよう》づらになった。 「糞《くそ》、麻績部《おみべ》の野郎」  貴代子は憐《あわ》れむように笑った。 「そんなこと言ったってあなた、麻績部謙次郎が邪魔をしたわけじゃないのよ」 「同じこった。親父《おやじ》といい娘といい、儂《わし》の邪魔ばかりしくさる」  左織の父の麻績部謙次郎は、木田川のような出来星とは違い、キャリアも格も段違いの大物金融業者であった。 「まだチャンスはあるわよ。もう一日このホテルにいる予定だって、内田さんが言ってたでしょう」 「そうさっさと帰られてたまるか」  木田川は何にでも八つ当たりしたいようだった。  二人はエレベーターを出ると足早に廊下を歩いてドアをあける。 「それで、今日はこれからどうなさるの」  部屋へ入ると貴代子はものうげに言った。 「あたしは疲れたわ」 「俺《おれ》もひと眠りするか」  木田川はそう言って好色そうな目で貴代子を見た。貴代子はあからさまに眉《まゆ》を寄せる。 「疲れたって言ったでしょう。それに、八つ当たりみたいに抱かれるのは嫌《いや》よ」 「別に八つ当たりなんかしとらん」  木田川は怒りかけ、思い直したように笑顔を作った。 「お前、伊奈を知ってるな」 「伊奈さんを……どうして……」 「さっきそんな気がしたぞ、儂のそういうことに対する勘はまさに動物的という奴《やつ》だ」  貴代子は鼻の先で笑って見せる。 「冗談じゃないわ」 「でも、ローザンヌは保守党の連中がよく通ってたそうじゃないか」  貴代子はふてくされたようにソファーへ腰を落すと、煙草《たばこ》を咥《くわ》えて火をつけた。しばらく窓の外に目をやって煙草をふかしている。 「あなた、あたしに何をさせたいの……」  木田川の表情に一瞬弱気なかげがさした。 「何をって、どういう意味だ」 「ごまかさないで頂戴《ちようだい》」  貴代子の言い方はとりつく島もない。 「あなた、判《わか》ってないのね。銀座は昔の赤線みたいなとこじゃないのよ。ローザンヌにはたしかに保守党の人たちがよく来てたわ。でも、誰《だれ》にでも見境いなく抱かれる女ばかりだと思ったら大間違いよ」  木田川は不機嫌《ふきげん》に黙り込む。 「お客だって立派な人はそう滅多矢鱈《めつたやたら》に口説きまくりはしないわ。たしかに伊奈さんもローザンヌへは、二、三度見えたわよ。でも、それだけのことよ。あたしが伊奈さんに会って、憶《おぼ》えているかどうかも判らないのに、以前ローザンヌにいた貴代子でございますって言えとおっしゃるの」 「そんなことを言ってやせん」 「じゃ何よ、今の態度は。あたしは傷ついたわ。いいこと、その場合、あたしは伊奈さんの記憶に残っているかどうか判らないから、どちらでもいいような態度をとっていたのよ。昔は銀座の女でも、今はあなたの妻なのよ。籍にこそ入れてもらえないけれど、あたしは妻として精一杯あなたの為《ため》にやってるじゃないの。それなのにあなたは、まかり間違えば伊奈さんにあたしという女をプレゼントしかねないのね」 「貴代子、それは勘ぐりすぎだ」 「いいえ、あたしは物を知らない女だけど、あなたのことなら何だって判るんだから」 「そんなつもりで言ったんじゃない」  木田川は大声で喚いた。 「儂はただ、伊奈を知っているなと言っただけだ。どこに自分の女房を賄賂《わいろ》がわりに使う奴がいる」  貴代子は灰皿の底に煙草をねじり込むように押しつけて消し、そのいきり立った消しかたとは逆に、低く弱い声で言った。 「あたしの立場なんて弱いものよ。なんにもないんですからね。妻とは名ばかり。あなたに何かあれば、保証なんてひとつもないんだから」 「どんな保証をすればいいというんだ」  貴代子は絶望的な表情で宙を睨《にら》んでいる。 「一緒に住んで、奥さんと呼ばれているだけ」 「もうよそう、な、貴代子」 「あたしだってこんな話大嫌いだわ」 「少し冷やしたほうがいい。儂は伊東へおりて来る。その間に機嫌を治しておいてくれ」 「もしかしたらあたしも出かける。景色を眺《なが》めていたくなったわ」  べッドの端に浅く坐《すわ》っていた木田川は、腰を浮かした。 「それじゃ車を置いて行こう。儂はハイヤーを呼ぶ」 「いいわよ、乗って行って」 「いや、そうは行かん」  木田川は物判りのいい夫の顔になってニヤリとした。 「こういう時のお前は何をやらかすか判らんからな」 「監視つきってわけ……」 「そうだ。儂はまだお前を手ばなす気はないぞ」  貴代子の木田川に向けた表情には、かすかに愛情らしいなごやかなものが泛《うか》んでいた。 「今夜はたっぷり可愛がってやるからな」  木田川は男の優越感を露骨に示して部屋を出て行った。  貴代子は立ちあがり、化粧台の鏡の前へ行って、ウフフ……と含み笑いをした。     2 「あ、内田さん」  エレベーターをおりた木田川は、目の前をサンパーラーのほうへ歩いて行く二人の男を見てそう声をかけた。  伊奈玄一郎の秘書の内田が振り返る。 「何ですか、木田川さん」 「ちょっと」  木田川は同じように振り返って自分を見ている高梨に卑屈な感じの会釈をした。内田は迷惑そうな表情で木田川に近寄る。 「本当に先生はもう一泊なさるのでしょうな」  木田川は低い声でたしかめた。 「困るなあ。彼の前で」 「すみません」 「泊りますよ」 「いや、それならいいんです。失礼しました」  木田川はそう言うと、内田にではなく高梨のほうに向かってまたペコリと頭をさげ、フロントのほうへ去って行った。 「何だ」  高梨がそのうしろ姿に目をやって内田に訊《き》く。 「いっぱしの実業家づらしやがって」  内田はいまいましそうに言った。内田はこのあいだ伊奈に対する政治献金を受取った際、木田川と関係ができた。伊奈周辺の情報を得る為に、木田川が相当な額の金を内田に支払ったのである。つまりスパイ料だ。その関係は今後も続き、内田は継続してそのスパイ料を受取れることになっている。  それはそれでいい稼ぎになるのだが、今のように所かまわずなれなれしくされては内田の立場がなくなる。現に高梨はもうピンと来ているに違いなかった。 「田舎芸者はあれだから困るな」  高梨はそう言うとサンパーラーへ入った。伊奈はメイン・バーで左織たちと話し込んでいて、長くなりそうなのである。  高梨は木田川と内田の関係を見抜いてしまったらしいが、別に非難するような態度は示さず、ただ木田川の泥臭《どろくさ》さだけを露骨に嫌悪して見せた。 「あのおやじは麻績部氏のようになりたくて仕方ないらしい。笑わせるよ」  サンパーラーはロビーなどより幾分温度が高いようだったが、それでも天井から冷房の風が吹きつけていて、暑くはなかった。 「先生が今夜もここに泊るのかどうか、しつっこく訊きやがる」  内田も高梨に調子を合わせながら、さりげなく自分に対する疑いを晴らしてしまおうと努めていた。二人は庭に向かって丸く突き出したサンパーラーの一番先へ行って椅子《いす》に坐った。入口の辺りにはコーヒーやジュースを飲んでいる家族づれが二組いて、少しにぎやかだった。 「実はな……」  高梨は急にニヤニヤしはじめた。 「木田川の女房のことだけれど」 「かなりの美人じゃないか」  内田は高梨の顔をみつめて言った。高梨は気を持たせるようにしばらく黙っていた。 「あの女がどうしたんだ」 「銀座にいた頃《ころ》、先生とデキていたのさ」 「まさか」  内田は大げさに疑って見せる。木田川の件から遠ざかれて内心ほっとしているのだ。 「本当さ。君はあの頃はまだいなかったから知らなくて当然だが、その件を知っているのは、俺とローザンヌのマダムぐらいなもんだ。あのマダムは口の堅い女だったな」 「ローザンヌというと、銀座のクラブの……」 「ああ、今でもやっているが、昔よりだいぶ格が落ちたようだ」 「先生とあの女が……信じられんな」 「先生はモテるんだ」 「うん、それは判るけれど」 「昔はだいぶ派手にやったもんだ。赤坂《あかさか》にもいたし京都にもいた」 「それは知っている」 「だが、あの女とはすぐに手を切った。すぐにと言っても、一年半ほどは続いたかな。どちらかと言うと、あの女から持ちかけて、先生が引っかけられたような具合だった。本名かどうか知らんが、あの頃は貴代子と言っていたな」 「それが今は木田川の女房か」 「狐《きつね》と狸《たぬき》みたいなもんだ。いい取組だよ」 「まったくだ」 「しかし器量はおとろえていない。脂が乗って昔よりよくなったようだ」 「関心があるようだね」 「うん。ああいうのを一度抱いてみたい」  高梨は好色な笑いかたをした。     3  プールは一番大きいのが二十五メートルのプールで、そのとなりに水深一メートルの子供用と、円形ですべり台がついた幼児用のプールが並んでいる。その三つのプール群のそばに椰子《やし》の木が植えられていて、点々とビーチパラソルが並んでいた。  子供用のプールに、水着を着た小学生が五人並んでいた。四、五年生といったところで、六人目の子はまだ一年生だろうか、幼児用のプールでバチャバチャやっていたが、倦《あ》きたらしく五人のほうへそっと忍び寄っていた。 「タカシ君は潜ったまま二十五メートル泳いだよ」 「ほんと……嘘《うそ》でしょう」 「ほんとだよ」 「ねえタカシ君、本当なの」 「うん」 「苦しいでしょう」 「平気だよ」 「あたしなら途中で死んじゃう」 「大丈夫だよ。やってみな」 「だって、水飲んじゃうわよ」 「平気だったら。苦しくて潜っていられなくなると、自然に体が浮かんじゃうから」 「練習してみようかな」 「やってみな」 「できるようになったら、学校で威張れるわね」  突然その女の子はうしろから力まかせに突きとばされ、プールの中へドボンと落ちた。背後から忍び寄った男の子は、素早くまた幼児用のプールへ駆け戻って、素知らぬ顔でバチャバチャやりはじめる。 「誰よ、ひどいわ」  四人はニヤニヤしてプールの中の女の子を見ている。 「危いじゃないの。誰よ……」  女の子は本気で憤《おこ》ったようだ。水の中に立って四人をみあげ、とがった声でなじる。 「さあ犯人は誰でしょうか」  一人がクイズの司会者の真似《まね》をした。 「当ててみな」  女の子は四人の顔を睨んだ。 「誰なのよ」 「知ぃらない」  四人は面白がっている。 「ようし、犯人は今みたいに突き落すから憶えてらっしゃい」 「いいよ」 「凄《すご》い意地悪がいるのね」 「知ってても密告なんかしないよ」 「あんたでしょう」 「違うよ」 「じゃ、タカシ君」 「残念でした」 「ほんとに誰なの」 「だから当ててみなよ」 「意地悪」  女の子はプールからあがった。 「足、すりむいちゃったわ」 「あ、血が出てる」 「いいわよ、ほっといて」 「消毒してもらったほうがいいよ。黴菌《ばいきん》が入ると大変だ」 「お母さんに言いつけてあげるから」  女の子は大げさに足をひきずりながら歩きはじめる。 「僕じゃないよ」 「僕でもないからね」 「じゃ誰……白状しなさいよ」  四人は幼児用のプールで一人遊びをしている男をいっせいに指さした。 「そんな嘘言って。ノボルちゃんはずっとあそこにいたわ」  女の子はいっそう腹をたて、今度は足を引きずりもせず、勢いよく走り出した。     4  小林貞夫が美代子をつれてフロントに着いた。 「小林です」 「いらっしゃいませ」  クラークが予約カードへ手をのばす。 「小林貞夫さまですね」 「うん」 「こちらへ」  宿泊者カードを出す。小林はボールペンでそれに記入する。  妻、美代子。  小林の手もとを見ていた美代子は、びっくりしたような顔で目をそらした。 「お部屋へご案内を」  クラークがボーイにキーを渡した。 「こちらへどうぞ」  歩きだす。 「あんな嘘書いていいの」  美代子の顔が少し赤くなっていた。 「もうその気だもの」  小林は美代子の手を握る。歩きながら美代子はその手を振り払うようにしたが、すぐ小林の腕を把《つか》んだ。  ロビーの入口に立ってさり気なくそれを見ていた天田徳三は、二人を新婚の夫婦だと信じて疑わなかった。  きちんとネクタイをしめ、地味なスーツを着た天田はたしかに少し場違いな感じだったし、一人きりというのが余計その感じを強めていた。 「ちょっと、君」  フロントへ近寄って言う。 「は、何でしょうか」 「ちょっと尋ねたいんだがね」  天田は普段の喋《しやべ》り方ではない。このホテル自体に気おされて、ことさら構えているようだった。 「はい、どうぞ」  クラークはにこやかに言う。 「満室になると、客の数はどれくらいになるのかね」 「はい、三百名さまです」 「そう、三百人か。それで、このホテルの従業員の数は……」 「ゴルフ場がございますから、キャディーさんを含めまして、六百名でございます」 「六百人……」  天田は意外そうにクラークをみつめた。 「それじゃ、客一人につき従業員が二人ずつの割合になるね」 「ゴルフ場を含めてでございますから」  クラークはへりくだった微笑を泛べている。 「ゴルフ場は、キャディーさんがマン・ツー・マンでつくことになっておりまして」 「あ、それではあの、車みたいなものは……」 「はい、いっさい使用いたしません……」 「なるほどね、大したもんだな。いや、有難う。また教えてください」 「どうぞ」  天田はフロントを離れた。彼はのんびりと休日を楽しむどころではなく、この古い格調の高いホテルから、できるだけ何かを学び取って帰る気になっていた。それは後日、きっと何かの役に立つ筈《はず》であった。  とは言え、いかにもお上《のぼ》りさんといった恰好《かつこう》でキョロキョロするのも気がきかないから、何かの検査をしに来た人間のように、鹿爪《しかつめ》らしい顔で見てまわっている。  その天田を、ロビーの新聞に目を通すふりをして、さっきからじっと注目している男がいた。 「気になるな」  浅辺宏一は新聞の綴《つづ》りを元へ戻すと、マントルピースのそばの席へ戻って来て、津野田に言った。 「今の男か」 「うん」 「別にどうということもなさそうだったがね」 「いや、変だよ。だいいち、一人らしいじゃないか」 「そのうち連れが来るさ」 「スポーツマン・タイプだな」 「うん。ゴルフをしに来たんだろう」 「それにしては服装がおかしい」 「この作戦に関係があるといいたいのか」 「気になるんだ。作戦が洩《も》れるとしたら防衛庁筋だ。どうかね、あの男は軍人のような感じがしないか」  津野田は体を横にしてソファーの背ごしに、サンパーラーのほうへ歩いて行く天田を眺めた。 「そう言えば兵隊の匂《にお》いがしないでもないな」 「嫌な感じだ」  浅辺はそう言うと、顎《あご》をしゃくって津野田をソファーから立ちあがらせた。     5  庭へ半円形に突き出した天井の高いサンパーラーへ入った天田は、ぶらぶらと歩いて内田と高梨のいる席のうしろで立ちどまった。  ガラスごしに、右手にプールが見えている。真正面は海で、広大な敷地の中にあるゴルフ場は、そのサンパーラーから海へ向かった線で北と南のふたつのコースに仕切られていた。 「その女は、今でもどこかで働いている筈だよ」  高梨が言う。 「ホステスか」 「ほかに何かできる奴じゃない」 「でも、そうだとすればもういいかげんの年じゃないか」 「そうだな、四十になったかな」 「女も結婚しそこなうと気の毒だ」  高梨はそれを聞いて笑う。 「フェミニストだな、ばかに」 「いや、ちょっと考えてみたのさ。どういう店にいるにせよ、酒場なら若いホステスもいるだろう。お姉さんと呼ばれてみたところで、色気が売物のホステス稼業《かぎよう》では、若さにかないっこない。侘《わび》しいだろうと思ってね」 「そりゃそうさ。しかし、身から出た錆《さび》……なまじ少しばかり器量がいいと、その若さをついうかうかと使い切ってしまうんだな」  内田は急に笑った。 「俺たちがそういう女にここで同情してみたって、どこからも礼を言われるわけじゃない」 「君が言い出したんじゃないか」  高梨もそう言って苦笑する。天田はそのうしろで、レンズを海に向けた備えつけの望遠鏡をいじっていた。  浅辺と津野田は階段を使って二階の読書室《ライブラリー》へ入った。一階のロビーと共に、そこはこのホテルの歴史が特に濃く滲《にじ》み出していて、板張りの床に敷いたカーペットも、昭和十二年創業以来の古いものだった。サンパーラーへ楽士たちを並べたくなるような張り出した部分があり、木彫りの手すりごしに天田や高梨たちの姿が見えている。 「まずいな」  浅辺は舌打ちした。勿論《もちろん》高梨と内田の会話は聞えるわけもないが、望遠鏡のところにいる天田には声が届いているように思えた。 「あの秘書たちは全然気付いていない」  津野田も眉を寄せた。 「余計なことを言っていなければいいが」 「そう心配するな。あの二人が作戦を知っているわけでもなし」  津野田は浅辺をなだめるように言った。 「あの二人は知るわけもないが、あいつが知っている可能性はある」 「本当に兵隊だとしたらな」 「どう見たって防衛庁だぜ、あれは」  浅辺の疑念はいっそう強まったらしい。短髪と贅肉《ぜいにく》のない体つき、しゃんと背筋の伸びた姿勢……地味な夏服と無地のネクタイが、浅辺の警戒心を煽《あお》り立てるのだ。 「だとしたら……」  津野田が目で問いかける。 「JCIA」  浅辺は早口で言う。 「二部別班か」  陸上自衛隊幕僚監部第二部別班はJCIAとして、アメリカの陸軍第五〇〇軍事|諜報《ちようほう》部隊と緊密に連携していることが知られている。 「本部を通じてG㈼に照会したほうがよくはないか」  津野田が言う。G㈼は陸幕監部第二部の略だ。 「一応やっては見るが、別班の人間だとするとG㈼でもらちは明かないぞ」  G㈼は反政府分子や在日外交官などの監視、外国スパイ網の摘発とその暗号解読やマスコミ操作など、一応その任務は国防上の正規の行動範囲を守っているが、別班は公的には存在が確認されない私服グループであった。メンバーは陸軍|中野《なかの》学校の再現と言われる小平《こだいら》の陸上自衛隊調査学校出身の精鋭で堅められており、その動きはG㈼も関知しないという。かつて国会で金大中《きんだいちゆう》氏|拉致《らつち》事件に関係したと追及されたグループが、この二部別班であった。 「別班とは限らんな」  津野田はそれとなく天田を見守りながら言う。情報組織を持つ官庁はほかにも多く、総理府の内閣調査室や公安警備警察、法務省の公安調査庁などがその代表的なものだ。 「しかしあれは兵隊だ」  浅辺は断言した。  天田は二階にいるその二人から見られていることを知っていた。場違いな客と嗤《わら》われたくないので、ことさら表情を引きしめ、鋭い目付きになっている。     6  貴代子は小林と美代子がボーイに案内されて部屋へ入るのを見ていた。それは運転手の新井の部屋のとなりであった。  エレベーターに向かう態度でゆっくりと廊下を進み、人目がなくなるとその足を早めて、新井の部屋のドアのノブを素早くまわした。錠はおろしてなく、貴代子はその部屋へすべり込む。  新井は半裸で電話をかけていた。 「ああ、明日の夜は帰れるだろう」  目をあげて貴代子を見ながら言う。 「いいよ。叔母《おば》さんによろしく言っといてくれ。うん……いま奥さまがお呼びだから切るぞ。じゃあな」  受話器を置く。 「奥さんにかけてたのね」  貴代子は艶然と微笑する。 「叔母の家へ泊るらしい」 「大丈夫なの」 「何が……」 「放っておくと浮気されるわよ」 「かまうもんか。いい口実になる」 「何の口実……」 「離婚の」 「嘘。愛してるくせに」 「冗談じゃない、あんな女」  新井はそう言うと、立ちあがってバスルームへ向かう。それを貴代子が腕を組んでとめ、腰に両手をまわす。 「少し汗ばんだのでシャワーを浴びるところだった」  貴代子はキスを求める。新井は小さいがぼってりとした唇《くちびる》に顔を近づけた。 「行ってらっしゃい」  軽いキスのあと、貴代子は新井を押すようにしてバスルームへ送った。 「社長は……」 「伊東へ行ったわ」 「車は」  新井はバスルームから訊く。 「ハイヤーを呼ぶって。単純な男」  貴代子は窓のカーテンを引いた。 「なぜハイヤーなんかを」 「あたしが車を使うかも知れないって言ったの」  シャワーの音がはじまる。 「達者なもんだ」  貴代子は服を脱ぎながら声を高くする。 「え……何て言ったの」  新井は答えない。貴代子はべッドの上に放り出してあったワイシャツをつまんでソファーへ抛《ほう》る。バスルームからの明りで白い女体がべッドに仰臥《ぎようが》するのが見える。  水音がとまり、新井がバスタオルを腰に巻いて姿を現わした。 「あなた、あたしを殺せる……」 「さあね」  新井はニヤリとし、バスルームへ戻るとまたシャワーのコックをひねって来た。 「どうして出しっ放しにするのよ」  新井はバスタオルを外し、床に落した。 「殺せというご命令だからね」  貴代子は目の前に立っている新井の体へ片手をさしのべ、ゆるく弄《いら》う。 「女が殺されるときはでかい声をたてるじゃないか」 「生意気言ってるわ」  貴代子はたちまち怒張した新井の体を満足そうにみつめて笑った。 「殺せるものならやってみなさい」  新井は弄われたまま上体を折って、いきなり貴代子の秘叢に触れる。 「お待ちかねじゃないか」 「あなた、だんだん図々しくなるわね。気をつけなくては」  貴代子はとがめるように言ったが、事実待ちかねてすでに潤んでいる体が、新井を甘やかしてしまう。 「殺してくれる……」 「どの程度にだろう」  新井はゆとりがある。 「とことんまでよ」 「時間が足りるかな」  新井の指が貴代子を動きまわる。 「今行ったばかりよ。時間はあるわ」 「高い声を出したら口を塞《ふさ》ぐぞ」 「指を噛《か》んでやる」 「となりへ客が着いたらしいからな」 「新婚さんよ」 「じゃあ向こうもはじめるかも知れない」 「きつくしないで。もっと優しく」  新井はべッドへ体をのせた。 「ゆうべのが刺激になっちゃったのよ。思い出したら変になっちゃったの」  シングルベッドでも、重なれば不都合はない。新井は貴代子に押し入る。 「とことんまでよ」  貴代子は細く甘い声で言った。     7 「で、商業カメラマンというのは、どういう仕事をするのかな」  メイン・バーで、伊奈玄一郎は左織たちと長ばなしになっている。 「困ったな」  小見安秀は額に手を当てて左織を軽く睨んだ。伊奈は面白そうに二人を眺める。 「彼女が妙な言い方をしてくれるもんですから……」  小見は戸惑《とまどい》気味に伊奈に向かってそう言う。率直で、充分に伊奈に敬意を表していて、老人には好もしい若者に見えるのだ。 「ただカメラマンだけでいいのです。要するに写真を撮って生活しているわけです。広告とか、出版とか、そういう方面からの仕事をこなして……」 「そうかね」  伊奈にとってカメラマンの定義などはどうでもいいのだ。要するに麻績部《おみべ》左織とその婚約者の住む世界に興味があるだけだ。 「美人写真……いやそういうのかどうか知らんが、そうそう、ポートレートだな。そういう写真を撮るのかね」 「はい」 「すると、もう左織君は散々写されたわけか」 「そうでもないんです」  左織は父親に不満を訴えるように、少し甘えた顔で言う。 「ちっとも撮ってくれないんですのよ」 「それはまたどういうわけだ」 「いえ、別に理由はありません。僕は写真を撮るのが商売でして」 「婚約者のを撮っても商売にならん、というわけか。なるほど商業カメラマンだな」  伊奈は声をたてて笑った。 「でも、今日は撮ってくださるのよねえ」  左織はむきになったように言う。小見は照れ臭そうに頷《うなず》く。 「そう言えばひとつ教えてもらえんかね」 「はい何でしょうか」 「近頃《ちかごろ》、よくヌードが雑誌に出とるね」 「はい」 「それが、歌手とか役者とか、どうも専門のモデルばかりではないようなのだが、あれはどうなっとるのかねえ。昔もヌードになるモデルはおったが」  小見は真面目な顔で答える。 「多分それはデッサンなど、画家のためのモデルではありませんか」 「おお、そうだよ。しかし今は若い娘たちがペロペロ裸になるらしい」 「嫌ですわ」  左織が伊奈の表現をおかしがって笑う。 「昔のことは知りませんが、違うでしょうね」  小見が頷く。 「聞きたいのはそこだ。若い娘を今のカメラマンたちはどうやって裸にしてしまうのかね。それとも、もう羞恥心《しゆうちしん》などは日本から消えてしまったのかな。まさか、自分のほうから裸になりたがるわけでもなかろう……」 「はい」  小見は真剣な目で伊奈を見た。 「自分からヌードになる人もいます」 「おやおや、本当かね」 「はい、新人タレントで自分の人気を盛りあげる為に、マネージャーなどが雑誌に売り込んで行くケースも珍しくありません」 「あ、そうか」  伊奈は膝《ひざ》を叩《たた》く。 「新人タレントがそういうことをするか」  すると左織が口をはさんだ。 「事前運動ですわ」  伊奈ははじけたように笑った。 「選挙と同じか。これは痛いことを言われたぞ。なるほど、そう言われるとよく判るな。成功する為にはなりふりなどかまってはいられないというわけだ」 「全然の素人《しろうと》でも、体の綺麗《きれい》なうちに写真を残しておこうという人がいるようです。そういうのは、やはり雑誌に発表されるとなると二の足を踏むようですが、案外多いらしいです」 「なるほど」  伊奈は笑いを秘めて頷く。 「羞恥心というのも時代によって変化するらしいな」 「はい。価値観の問題だと思います」 「しかし、やはり政治家としては考えねばならんことだな」 「そうかも知れませんが、僕はあまり女性の写真には興味がないんです」 「ほう」 「しあわせ、とか、若さ、とかを表現するのは別ですが、やはり僕には先生のような方の写真を撮るほうが興味があるのです」 「どうしてかね」 「風雪に耐えた、と言うんですか、幾星霜をへて、しかも社会に貢献して来た方々のお顔というのは、言うに言えない……味と言うんでしょうか、深みがあります。そこへ行くと若い人は平板で」  伊奈は深く頷いた。 「顔は自分で造るものと言うからな。やはりプロはプロだけのことがあるものだな。そうかね、そう思うかね」 「はい」  そのとき、内田と高梨があわただしくメイン・バーへ駆け込んで来た。 「失礼します」  左織たちに一礼した内田が、伊奈の耳に口を押しつけるようにして何かささやく。 「何……」  伊奈は気色《けしき》ばむ。 「それではわたくしたちはこれで」  左織は小見と立ちあがった。     8 「さすがね」  メイン・バーを出ながら左織はさりげなく言う。 「そうかい」 「あなたと組むのははじめてだけど、ほんとにお見事だわ」  小見は擽《くすぐ》ったそうな顔をしていた。古代の嘘部を現代に再組織させた黒虹会には、その末裔《まつえい》の多彩な人材が集まっていた。  小見安秀は老人キラーと呼ばれている。若いくせに妙に老人を安心させるものを持っているのだ。ことに明治生まれの地位のある老人たちは、小見に接すると現代の青年がまだそれほど見すてたものではないというように感じてしまうらしい。  伊奈玄一郎を標的として、黒虹会はその小見を選んでぶつけているのだ。 「サンドウェッジが届いたらしいな」  小見が言う。 「ええ」  二人はエレベーターの前に立った。戸があいてすぐに乗り込む。ちょうど浅辺と津野田も部屋へ戻るところだった。 「サンドウェッジが届くぞ」  浅辺が言った。 「そうらしいわね。これから連絡するところよ」 「いよいよ始まるか」  津野田がニヤニヤしていた。 「妙なのが一人紛れ込んでる。注意しろよ」 「誰……」 「名前など、これからチェックする」 「どんな男」 「兵隊の匂いがする。紺のスーツに青いタイの短髪の男だ」 「嫌ね」  左織は眉を寄せた。エレベーターがとまり、左織と小見は廊下へ出た。浅辺たちは五階の部屋だ。  左織は部屋へ戻るとすぐ小型の通信機を取り出してボタンを押した。 「はい、イーグルです」  超小型のスピーカーから金属性の響きを持った男の声が流れる。左織はしばらく黙っていた。 「何だ」  スピーカーの声が変る。紀尾井英介の声であった。 「まもなくサンドウェッジが届きます」 「判った」  連絡はそれだけだった。  その頃正面玄関に一台の乗用車が着いた。 「やあ、久しぶりだな」  黒い千鳥《ちどり》格子のスラックスに青く太い縦縞《たてじま》のシャツを着て、ピンクのつばのついた白い帽子をかぶった男が、勢いよくそう言って車から降りたった。 「いらっしゃいませ」  ボーイは落着いた態度で頭をさげる。このホテルでは、どんな要人も特別扱いをしない。常連が富裕な階層の人々だから、そのような扱いかたをして、他の客に不快感を抱かせぬよう配慮しているのだ。たとえそれが大蔵大臣であっても……。  湖東進は弾むような足どりで階段をあがり、フロントに笑顔を向ける。 「やあ、またお世話になるよ」 「あ、いらっしゃいませ」  クラークは意外そうに言った。飛び込みなのである。湖東進の予約は受けていない。しかし湖東は機嫌よくロビーへ入って革張りのソファーにどすんと腰をおろす。秘書の伏見直彦がフロントのカウンターに体を乗り出すようにして、クラークと話しはじめている。部屋の交渉をはじめたのだろう。  突然のことらしく、湖東は伏見と二人だけで来たようだ。ボデーガードらしい男たちの姿は見当たらなかった。     9 「ようよう、どういう風の吹きまわしかね」  ロビーへ伊奈が現われて湖東に言う。 「きのうからですな。聞いていました」  湖東は快活な表情を崩さずに言った。 「大谷教授夫妻とご一緒だそうで」 「相変らず耳がいい」  伊奈は湖東の前に坐った。 「くさくさするようなことばかりでしてな。気晴らしでもせねば」  湖東は大声で笑う。秘書たちはロビーの入口あたりに立って、二人のそばには近寄らない。 「総理の顔を見れば気が晴れるのかな」  湖東が紀尾井総理がこのホテルへやって来ることを知って駆けつけたのを、伊奈はとっくに悟っている。 「総理が来る……」  湖東は図太くとぼけた。 「耳も鼻もますます冴《さ》えているようだ」  伊奈は苦笑する。 「あのほうも快調ですぞ」  湖東はまた声をあげて笑う。 「間もなく着く筈だ。君は間に合ったよ」 「明日は晴れるそうだから、暑くなるでしょうな」  湖東の目の隅《すみ》に鋭い光が走る。 「暑くなるかね。そう、暑さは体にこたえる」 「ホテルの中は冷房がきいているから」  湖東が言い、伊奈と視線がからみ合う。 「そうはいかん」  伊奈が言い、二人は笑った。 「この前やったのは、いつだったかな」 「フロリダが最後でしょう」 「そうか、あれ以来になるか」 「まあ、お手やわらかに願いたいですな」  湖東が言い、ニヤリとした。 「あまり掻《か》きまわさんでもらいたいね」  伊奈は立ちあがった。 「そうそう」  悪戯《いたずら》っぽい目になる。 「ローザンヌへは今も行くかね」 「ローザンヌ……いや」 「貴代子を憶えているかな」 「そりゃ忘れはせんですよ。来てるのか」  湖東はサンパーラーのほうを見る。 「人妻になっている」 「どんな男かな」  湖東は伊奈を見てニヤニヤした。貴代子と伊奈の関係を知っているのだ。 「木田川という金融業者だよ」 「木田川作次……」 「ああ」 「捨てる神あれば拾う神ありか」 「あの男を神になぞらえては、神さまの機嫌を損ねる」 「違いない」  二人は笑いながら別れた。内田と高梨が部屋へ戻る伊奈のあとに従った。高梨と伏見はちらりと目を合わしたが、全く何の反応も示さないでいた。 「いかんな」  部屋へ戻った伊奈は、くやしそうに舌打ちする。 「湖東が来る可能性はあった」  反省するように呟《つぶや》き、唇を噛《か》んで部屋の中を歩きまわる。 「追い返す手を考えましょう」  高梨が意気込んで言った。 「いや、もう放っておいたほうがいい」  伊奈は即座に答えた。 「しかしこのままでは……」  高梨はどこまでも忠義顔である。 「そうですよ。何か手を打たなくては」  内田もそう進言した。高梨が湖東の秘書の伏見とつながっていることは、全く気付いていないらしかった。 「いいから放っておけ」  伊奈は湖東をまじえた三者の話合いのほうが次期政権への問題で手間が省けると思いはじめたようであった。 「風はこっちに吹いている。当分天候は崩れそうもない」  急に晴ればれとした表情になって窓の外を見た。曇っていた空の西のほうに、青い色が見えはじめている。 「何も湖東は引っくり返しにやって来たとは限らん。もっとあとの事を考えているのだろうよ」 「それにしても、あの様子は相当あわてて来たらしいですな」 「まあ、それが彼の身上だからな。あの男は織田信長《おだのぶなが》を尊敬しているそうだ。信長気どりで家来たちを置きざりにしてでも駆けつけたつもりなのだろう」  伊奈は笑った。 「まったくご苦労なことだ」  そう言いながら伊奈はふと、湖東がどうやって護衛の警察官を撒《ま》いたのか不審に思った。     10  シャワーがまだ出しっぱなしになっている。  その水音にまぎれて、貴代子はもう何回叫んだだろうか。新井は貴代子の挑戦《ちようせん》にみごとにこたえ、まだ冷静な動きを続けている。 「まだか」  新井は貴代子の乱れた髪を右手で掻《か》きあげてやり、そう尋ねた。貴代子はとろんとした瞳《ひとみ》で男の顔を見る。 「強いわ、あなた」  なんだまだか、というような顔で新井は体を微妙にずらせる。角度が変ったらしく、貴代子は新鮮な感覚を与えられてまた呻《うめ》いた。  木田川も決して弱い男ではない。しかし木田川のやりかたは執拗《しつよう》なほど丹念で、新井の強さはそれにくらべるとずっと淡白で陽性な感じであった。貴代子にはそういう新井の体のほうに格段と男が感じられるらしい。 「死にそうよ、もう」 「殺せと言ったろう」 「もう駄目《だめ》」 「いくじがないんだな」  貴代子はそれに対して言葉を返すゆとりもなく、また青い奈落をのぞき込んだようだ。 「助けて、お願い」 「いやだ。とことんまでと言ったくせに」 「駄目。また……」  貴代子が下肢《かし》を硬直させ、背を反らせて新井の体を押しあげた。  そのとき、ドアのノブをまわす音がした。新井はそれに気付いてはっとし、動きをとめて自制したようだが、貴代子は気付かずに細く叫んでいた。 「もう本当に駄目」  貴代子はとろけたような顔でやっとそう言った。新井は素早くべッドをおりてしまう。 「何よ、どうしたの」  後戯を欲したのか、貴代子は不服そうに言う。 「誰かがノブをまわした。社長かも知れない」 「まさか」  貴代子が言ったとき、電話のベルが鳴りはじめた。 「やっぱり社長だ」  新井は立ち竦《すく》んでベルの音を聞いている。ベルは五度鳴り、静かになった。 「どうしよう」 「カーテンをあけて」  貴代子が言う。新井は全裸でカーテンを引きあけた。 「あなたはシャワーを浴びていて気付かなかったことにしなさい。外から水の音を聞いたかも知れないわ」 「うん」  新井と貴代子はあわてて服を着る。乱れたべッドが何やらしらじらしい。 「あなたはあわてて服を着たふりで、向こうの部屋へたずねて行って頂戴。奥さま、と言って入るのよ」 「判った」 「あたしは上の展望台へ行くわ。景色が見たいと言っておいたから。でも何でこんな早くに帰って来たんだろう」 「いいか」  新井は身仕度をおえて言う。 「シャワーをとめて」 「あ、そうか」  新井はバスルームへ行って水をとめる。 「先に出て」 「よし」  新井はドアをあけた。 「大丈夫だ」  貴代子は小走りに廊下を去る。新井は木田川の部屋へ向かった。  ノックをして細目にドアをあけ、 「奥さま、ご用でしょうか」 「新井か」  木田川のいらだった声だ。 「あ、お戻りでしたか」  新井はドアをあけて中へ入り、 「ちょうどシャワーを使っておりましたので、ベルは聞えたのですが」  と詫《わ》びた。 「貴代子はどうした」 「はい。景色をごらんになるとおっしゃって、展望台へ行かれたようですが、何かご機嫌ななめで」 「どうでもいい。呼んで来い」 「はい」  新井は叮嚀《ていねい》に一礼すると部屋を出た。  五階に展望台へのドアがある。スペイン風の望楼で、望遠鏡が備えつけてあった。  新井が軽い足どりで駆け登って行くと、貴代子は髪を風になぶらせて一人きりでいた。 「お呼びでございます、奥さま」  貴代子は鷹揚《おうよう》に、 「あ、そう」  と答え、新井と顔を見合せてニヤニヤし、やがて二人とも体をのけぞらせて大声で笑い合った。  第4章 闇の中の謀略     1  新井久雄はドアをあけて木田川に声をかけた。 「社長。奥さまをお連れしました」 「おう」  貴代子が中へ入る。眉《まゆ》を寄せ、咎《とが》めるように木田川を見た。 「どうなさったの」 「どうもこうもない。泡《あわ》を食った」 「何か起ったんですか」  適当に妻の顔に戻っている。 「ご用はございますか」  そのうしろで新井が遠慮がちに尋ねた。 「部屋で待っていてくれ」  木田川は新井にそう言い、 「湖東進がこのホテルに来たんだ」  と、貴代子に自分が急いで戻って来た理由を教えた。 「湖東さんが……」 「そうなんだよ。例の陽明閣《ようめいかく》へ行ったら、門のところで湖東の車が出て行くのとすれ違ってな。訊いたらこのホテルへ向かったらしいと言うじゃないか。どうも妙な具合だな」 「どうして……」  貴代子は木田川のとなりのソファーに浅く腰をおろす。ことさら無知な表情をして見せているのは、甘えの一種である。男としてより金蔓《かねづる》として、まだ当分木田川を手ばなす気はないらしい。 「判らんのか」  木田川は、これだから女は仕様がない、と言った顔で貴代子を見た。髪が乱れているのは展望台で風に吹かれたせいだと、疑ってもいないようだ。 「いまこの状態で湖東が伊奈玄一郎に会うのは何か特別なことが起っている証拠じゃないか」 「偶然じゃないの……湖東さんもゴルフ好きだし」 「笑わせるな」  木田川は微笑した。 「勿論《もちろん》当人たちは偶然のような顔をしているだろう。しかし儂の目は誤魔化《ごまか》せん。いいか、あれ程の実力者たちが、これから行こうとするホテルにどんな人間がいるか知らんですますと思うか」 「じゃあ、伊奈さんは湖東さんに会う為にこのホテルへ来ていらっしゃったわけなの」 「さあな」  木田川は腕を組んだ。 「それはどうかよく判らん。しかし湖東進が伊奈玄一郎に会う為に乗り込んで来たのは確実だ」 「湖東さんは落目なんでしょう」 「だから強引に乗り込んで来て、伊奈と何か話をつける気なのだろうな」 「でも、マスコミが湖東さんのことを書きまくっているじゃないの。袋叩《ふくろだた》きって感じよ。湖東さんはもう駄目なんじゃない……」 「判るもんか。あの連中の力を見くびっちゃいかん。マスコミを黙らせる手はいくらでもあるさ。湖東はやり手だからな。黒い霧で叩かれても、それを逆手に取ることだってできる。そうか」  木田川は大げさに手を打った。 「伊奈を脅しにかかる気かも知れんぞ。伊奈だってそう綺麗ごとばかり言ってはいられない筈だからな」 「まさか。伊奈さんは紳士よ」  貴代子はわざと伊奈の肩を持った。案の定木田川は子供に教えるような顔になる。 「この俺からも現に金を受取っているじゃないか。あの金はレジャーランドの建設にからんでいる。伊奈が手の綺麗な政治家だというのは、一種の迷信だ。あの男が自分でそういうイメージを作りあげているに過ぎない。保守党の実力者と呼ばれる程の政治家になりあがる為には、誰だって綺麗な手のままでいられるわけがない。乾分《こぶん》を養うのが親分だよ。お前も俺の家内なら、いいかげんにそれくらいのことは理解せねば」  貴代子は途端に甘ったるい表情になり、 「家内……」  と、とろけるような目で木田川をみつめた。 「うれしい」  体を木田川のほうへ傾け、腿《もも》の辺りに手を置く。木田川は貴代子の肩を軽く叩き、 「湖東は自分に万一のことがあれば、伊奈を道連れにするぞと言いに来たんだ」  と断定的に言った。口に出してそう言うと、推測が確信にかわったようだ。 「よし、湖東にも食い込んでおこう」  木田川は立ちあがって電話機のところへ行った。 「湖東の秘書は伏見と言うんだ」  木田川は得意そうであった。     2  伏見直彦はそのときまたフロントへ来ていた。当然のことだが、湖東進は宿泊の予約をしていない。すればとうに伊奈は動きを察知していただろう。  作戦通りに運ぶには、ここで伏見がホテル側と交渉を成功させなければならないのだが、客に富豪や要人の多いこのホテルは、そうしたケースが多いので、東京のサービス・センターを通さないと現地では申出に応じられないことになっている。  たとえ首相であっても特別扱いをしない建前になっているホテル側に対して、執拗に割込みを策していた伏見にとって、木田川からの申出はまさに渡りに舟であった。 「ほう、それは申しわけありませんな」  フロントの電話で、伏見はほっとしたように言った。 「こんなことで大臣のお役に立てるのでしたら、わたしらはひと晩くらい外の芝生で寝てもかまいませんよ」  伏見が耳に当てた受話器から、木田川のわざとらしい豪傑笑いが聞えて来る。 「それは有難い。何号室ですか」 「533号です。山側ですが」 「山側だろうと海側だろうとかまいません。何しろ八月の最後の週末を控えているので、予約でいっぱいらしいのです。助かりました。しかし、木田川さんはどうなさるのです」 「わたしらのことは気になさらんでください」 「そうですか。ではフロントにそう言います」  伏見は受話器を置いた。 「533号を譲ってもらったよ」  クラークもほっとしたようだった。 「この際だ。どんな部屋でもかまわん」  伏見はそう呟《つぶや》くと大股《おおまた》でロビーにいる湖東のほうに向かった。  木田川はその五階の部屋の窓から正面玄関の辺りを眺めている。 「何かあるな。あの鼻のきく連中が一人もついて来ていないようだ」 「新聞社のこと……」 「そうだ。いったいどうやって撒いたのだろうな」 「そりゃ湖東さんのことだから、やる気になればどんなことでもするでしょうよ」  貴代子は当然だと言うように笑った。 「でも、お部屋を譲ってあたしたちはどうするの」 「長谷川《はせがわ》たちを追い出すさ」 「悪いわよ、突然そんなことしたら」 「かまわん。陽明閣ならどうにでもなる。陽明閣へ移ってもらうさ」  長谷川というのは、木田川が金の面倒を見ているスーパー・マーケットの社長であった。専務の加納《かのう》と一緒にゴルフを付合いに来ているのだ。 「それなら長谷川さんたちのお部屋を空ければよかったのに」 「馬鹿《ばか》」  木田川は振り返って貴代子を見た。 「儂らが部屋を移らねば貸しにならん。どんなささいなことでも、よく計算してかかるものだ」 「でもあたしたちが長谷川さんたちの所へ移ったら同じでしょうに」 「違うな。相手はそこまで細かく気は使わんよ。部屋を空け渡したのに儂らがまだ泊っていればどう思う。大臣でもおいそれとは部屋の都合がつきかねるのに、儂が右から左へ都合したと思って意外に思うだけだ。小さなことだがこれも後日の為になる。人間はささいなことで相手を見る目を変えてしまうものなのさ」  貴代子は木田川の脂切った顔をみつめて頷いた。 「で、どうする気……」 「様子を見る」  木田川はたのしそうに答える。 「あの連中が何を始めたのか、見きわめてやる」 「判るの。あなたに」  木田川は自尊心を傷つけられたらしく、急に不機嫌になった。 「みくびるな、儂も木田川作次だ。表情や態度でおおよその見当はつくし、それにあの秘書たちの動き方を見ていても何がしかの情報はとれる」 「でも、伊奈さんと湖東さんが手を握るなんて、この際ちょっと考えられないみたい」 「政界では起り得ないことがのべつ起っている。ことに湖東についてはそうだ。政権争いの結着はまだついてはいないのだぞ」 「湖東さんは生きのびるのかしら」 「もしそうだとすると……」  木田川の目がキラリと光った。     3 「湖東が部屋をとった」  浅辺が津野田に言う。 「満室じゃなかったのか。それともやっぱりこのホテルでも大蔵大臣のご威光が物を言ったか」 「そうじゃない。木田川作次が部屋を空けてやったのだ」 「ほう、あの下司野郎《げすやろう》がか」 「あの金貸しなら、湖東が来たことに関心を持つさ」 「邪魔になりはしないか」  津野田が案じ顔で言うと、浅辺は鼻の先で軽く笑った。 「邪魔になれる程奴は大物か」 「それもそうだな」  津野田も簡単に納得したようである。 「総理が着いたら例の男の件、すぐ調べさせよう」 「不便だな」  津野田は浅辺をからかった。 「天下の嘘部《うそべ》の権力はゼロだ。一人の男の身もとすら独力では調べられない」 「ゼロで人を動かすのが嘘部だ。ゲームとしては権力などないほうがずっと面白い」  津野田はじっと浅辺の顔を見た。 「負けおしみではないらしいな」 「ああ、本気でそう思っている。嘘部の仕事としての嘘は芸術に近い。集団催眠のようなテクニックを宗教家たちが使うことがあるそうだが、嘘部はそんなことはしない。相手が醒《さ》めていればこそ嘘が真実に化けるんだよ。嘘とはそれを受留める側が、自分から真実だと思い込んでしまうものなんだ」 「また嘘の美学がはじまったな」  津野田はそう言ったが、その言い方はからかっているのではなく、嘘部の嘘のありかたに充分敬意を払っている様子であった。  ピッ、ピッ、と例の通信機の呼出音が聞えた。浅辺がすぐ上着のポケットからそれを取り出す。 「こちら海岸通り」 「熊谷《くまがい》」  浅辺が答えた。 「イーグルよ」  左織の声だ。 「了解」  浅辺は通信機をポケットへ戻した。 「役者が揃《そろ》ったわけか」  津野田が言った。 「今、このホテルは俺たちにとってひとつの鍋《なべ》のようなものだ。鍋は火にかけられた。もう放って置いても料理はできあがる」 「そうらしいな」 「でも、役目を忘れないでくれよ。君は我々の嘘をチェックしてくれなければ困る。どこかに破れ目はないか、計算外のファクターが働き出しはしないか」 「チェックさせてもらっているよ」 「楽しんで見物しているように見えるぞ」  浅辺は苦笑を泛《うか》べて言った。 「高みの見物か」 「そうだ」 「それで俺はいいと思う。要するに俺は嘘部の嘘を批評する役だ。作戦をひとつの作品としてな。以前雑誌の編集をやっていたが、その時分のことを思い出すよ。作家の原稿に目を通しているような気分だ。載せる載せないを判断しなければならないから読んでいるのだが、同時に読者として楽しんでもいる。つきつめて言えば高みの見物というところさ。そうでなければ冷静な判断はできんよ」 「とにかく油断しないでくれ」 「君はうまくやっているよ。ことに、紀尾井総理に部屋を予約させているところなどは傑作と言えるね。当人は気まぐれをよそおって箱根からやって来たが、来て見るとちゃんと予約がしてある。いかにもああいう連中がやりそうなことじゃないか。側近にしてみれば、とにかく総理にふさわしい部屋を用意しなければ気がすまない筈だ。誰が考えたって伊奈玄一郎と密会の約束があったとしか思えん。それだけに、湖東の強引な割込みかたが目につく」 「下の芝居を拝見したいな」  浅辺は満足そうな顔で言った。 「三人が丁々発止《ちようちようはつし》とやり合うわけだ。芝居を忘れて本気でやるぞ」 「まあそう言ったところだろうな。しかし、本番はあしただ。大工たちはどうしているだろう」 「あの連中のことなら心配要らない。彼らはすぐ上しか見ないように訓練されている。命令通りにやるよ」 「惜しいな。本番が見られるのは左織君たちだけなんだから」  津野田はソファーに体を沈めてそう言い、坐ったまま靴《くつ》を脱いだ。     4  小林貞夫はソファーに坐ってぼんやりと海を見ている美代子のうしろへまわり、不意に体を折ってのしかかるようにキスをした。  美代子がそれにこたえる様子を示すと、小林はふざけただけだというように急にやめた。はぐらかしたのである。部屋へ入ってから二人の唇はもう十回以上も重ねられている。小林はそうやって美代子の心を少しずつ揉《も》みほぐし、夜に備えているようだ。 「水音がやんだな」  小林はそう呟《つぶや》くと、アルミサッシュのガラス戸の錠をまわし、バルコニーへ出た。バルコニーと言っても五十センチほどの出っぱりであるが、手すりがあり、下をのぞくと左のほうに三つのプールが見えた。  美代子も誘われたようにガラス戸の外に出る。 「綺麗。水がまっさおだわ」 「プールの底の色だよ」 「でも綺麗。あたしもこういう所でゴルフをしてみたいわ。習おうかしら」 「教えてやるよ」 「随分広いのね」 「見わたす限り全部このホテルの土地さ。裏側の山も稜線《りようせん》までそうらしい」 「手入れが大変でしょうね」 「ゴルフ場だもの、人手は揃ってるさ」  小林は美代子の肩に手をまわして言う。 「ゴルフ、上手なんですってね」 「誰が言ってた」 「あなたの会社の人」 「会社の誰」 「総務部長さん。鈴木《すずき》さんとおっしゃったかしら」 「ああ、鈴木部長か。で、ほかに俺のこと、何か言っていたかい」  美代子は含み笑いをした。 「どうしたんだ。さては悪口を言われたな」 「ええ」 「どんな悪口だ」 「プレイボーイだって」  小林はがっかりしたような顔で、 「なんだ」  と気のない声を出す。 「悪口なんかじゃありはしない」 「そうかしら」 「いいかい、俺は独身社員だぜ。プレイボーイだと言うのは褒《ほ》め言葉さ。品行方正の堅物だとでも言われたのなら腹が立つけれど」 「あら、どうして」 「バイタリティーの問題だよ。よく考えてごらん。独身のくせに毎日会社がおわると家へ直行する奴なんて、ちょっと気持が悪いじゃないか」 「真面目でいいわ」 「君はまだその程度にしか世間を見てないんだな」  小林はいとしそうに美代子の肩にまわした手に力をいれた。 「男は生涯《しようがい》たくさんの男の中で競争し続けて生きるものなんだ。戦うのが男さ。独身時代プレイボーイだと人に言われるくらいじゃなければ、女性から見て頼りないんじゃないかな。プレイボーイと言われるのは、生命力……生活していく上で、最も重要なバイタリティーがそれだけ人より大きいという証拠じゃないか。君だって今に子供が何人かできて見れば、夫の生存競争に対する力が、よそのご主人より強いことを願うようになるにきまっている。たとえば、君のような綺麗で可愛い女性を手に入れるには、実際には男の間で猛烈な競争があるんだ。一見真面目風だがその実独身の身軽な時代から事なかれ主義のひからびたような男には、君のような女性はとうてい獲得できっこないさ」 「それじゃあたしは不真面目な男性に好かれるタイプなの」 「判らないんだなあ」  小林は大げさに当惑して見せる。 「君のような素敵な子は、競争に勝ち抜かなければ妻にできないと言っているんだよ」 「まあ……」  美代子は悪戯《いたずら》っぽく笑った。 「あたし、そんな風にたくさんの男性にとりまかれて、競争されてみたいわ」 「こいつ、からかっているんだな」  小林は美代子の体を押して部屋の中へ戻り、わざとカバーのかかったべッドの上へ手荒に押し倒した。 「あなたが調子よく自己弁護してるからよ」  美代子は笑いながら言った。 「嘘ついても駄目。ちゃんと判ってるんですからね」  小林は何も言わず、キスで誤魔化《ごまか》した。     5  麻雀《マージヤン》室のテーブルが半分ほどふさがっている。それはホテルの北側に新築された部分の地下にあり、麻雀室の外は家族連れの客の為に、幼児向けの木馬や遊戯具などが置いてあって、全体としてはゲーム・コーナーの体をなしている。  四人連れの若い広告マンは、勿論ゴルフが目的でこのホテルへやって来たのだが、そのゴルフは明朝スタートということで、到着するとすぐ麻雀室へ入って卓を囲んでいた。  牌《パイ》の打ちかたは恐ろしく早い。上家《シヤンチヤ》が打牌《ターパイ》する前に自摸《ツモ》って来る。いわゆる早自摸が本来のルールであるかのように錯覚してしまうほど、全員が気を揃えて早自摸の連続である。息をつめ、かさにかかったようにトン、トン、トンと勢いよく牌を打ちまくるところは、どこやら関東の餅《もち》つきのような趣きさえある。 「白《シロ》」 「八萬《パーワン》」 「一索《イーソー》」 「七筒《チーピン》」 「当たり」  で、全員の手がとまる。 「五・二」  五千二百点のやりとりがあっという間にすみ、放銃《ホーチヤン》したほうも和《あが》ったほうも別にそのことで表情を変えるわけではない。すぐにガラガラと牌をかきまぜる。 「岡野《おかの》繊維のCFに使ったモデルがね」 「あ、あれは美人だ」 「常務と夜中に歩いてた」 「常務って、岡野社長の息子だろ」 「そう。二代目」 「どこで見たの」 「飯倉《いいくら》さ。タクシーを拾ってどこかへ行ったよ。あれはホテルへしけ込んだな」 「お前、黙って見てたのか」 「うん。声かけちゃ悪いだろう」 「適当だな、こいつ」 「どうして」 「知らなかったのか。あのモデル、こいつとデキてたんだ」 「まさか」 「本当さ」 「二代目に奪《と》られたわけか」 「違うよ」  ダイスを振りながらその男が言う。 「ちょうどいいタイミングだった」 「あの常務、いい面《つら》の皮だな」 「幾つだ」 「まだ三十そこそこ」 「いいな、御曹子《おんぞうし》は」 「北《ペー》」  摸打がはじまる。五巡目で東家《トンチヤ》が九筒《チユートン》を振ったとき、西家《シーチヤ》がポンをして、早自摸の北家《ペーチヤ》が牌を戻したが、その牌はドラの四萬《スーワン》から不要牌の一索《イーソー》にすりかわっていた。  結局その不正がきいて、北家は四萬を暗刻《アンコウ》に満貫《マンガン》を自摸和《ツモあが》りした。 「逆転だな」  北家は牌を倒して言った。ゲームセットである。得点をカードに書き入れながら相談がはじまる。 「飯にするか」 「ダイニング・ルームは六時からだぞ」 「グリルでいいよ」 「グリルは五時半からだ」 「どっちにしろ、まだ早いぜ」 「休憩、休憩」 「こいつ、ツキを変えたがってる」 「じゃあ一服するか」  四人がいっせいに煙草をつける。 「それはそうと、例のリベートのけりをつけとこうじゃないか」 「持って来てるよ、キャッシュだぞ」 「一人あたま幾らになるんだ」 「七万五千」 「いい稼ぎだ」  四人は笑い合い、幹事役が卓の上へ置いた茶封筒を、めいめい手がたなを切って取る。 「飯の前に一杯やろう」 「オーケー」  全員立ちあがり、麻雀室を出る。 「大台に乗せたいな」 「無理しちゃ危いよ」 「そうそう。こういうことは地味に控え目にだ」  また笑っている。彼らはその広告代理店の中堅どころであった。めいめいスポンサーをがっちり握っていて、会社へは先方の課長なり係長に対する毎月のリベートを支払わせているのだが、実はその金はスポンサーの課長や係長には渡っていないのだ。四人組がそれを公平に分配してしまう。仕事は順調に入って来てるし、自社の社長、部長といえども、先方の人物にそれを確認するすべはない。つまりバレる心配はないのだ。四人は階段をあがり、本館のほうへにぎやかに戻って行く。     6 「おいおい、ちょっと待てよ」  四人組が小声でそう言い合い、足をとめた。メイン・バーへ行く途中であった。 「あれは紀尾井英介じゃないのか」 「あ、そうだよ。紀尾井総理だ」 「嫌だな。ロビーにいるのは伊奈玄一郎と湖東進だ」 「巨頭会談か、穏やかじゃないぞ」 「何がはじまるんだ」 「ゴルフじゃないかな。そうだよ、ただのゴルフさ。だって、湖東の恰好《かつこう》を見ろよ」 「案外|野暮《やぼ》ったいスタイルだな」 「あの汚職野郎、でかいつらをしやがって」 「湖東はそのうちつかまるぜ」 「政治家なんて、みんな汚ねえことをやってやがるんだ。湖東ばっかりじゃないさ」 「三人でこれから口裏を合わせる相談をする気かもよ」 「政治家はいいよなあ。袖《そで》の下の取り放題だもの」 「あの三人が集まったんじゃ、サービスが低下しねえかな」 「それは大丈夫。このホテルは特別扱いしないんで有名だから」 「ホテルだけ本物か」 「おい、そんなこと言うなよ。俺たちまでまがいものみたいな感じだ」 「違うか」 「あんな汚れた連中と一緒にされてたまるかい」 「行こうぜ。何億もらったか知らないけど、顔を見てたってこっちは一文にもならない」 「行こう行こう」  四人組は大内太吉のそばをすり抜けてメイン・バーへ向かった。 「なんだ、君たちも来ていたのか」  ロビーへ入った紀尾井英介は、意外そうに言った。その表情は演技を超《こ》えている。 「湖東君が強引に割り込んで来たんですよ」  伊奈は皮肉たっぷりに言う。紀尾井はニヤニヤしながらそれを聞き、 「来る者は拒《こば》まずさ」  と、いとも鷹揚《おうよう》に言う。 「スポーツマンシップにのっとり、と選手宣誓でもしますかな」  湖東はそう言ってはじけたように笑う。 「やむを得ませんかな」  伊奈は紀尾井総理をみつめて言った。明日のゴルフに湖東を除くか、三人ひと組になるかは紀尾井の気分次第なのだ。 「箱根におったんだが、空を眺めていたら急にここへ来たくなってね」 「ほんのひと走りですからな」  湖東は同意を求めるように伊奈を見て言う。 「お孫さんたちは……」 「ああ、夏休みもそろそろおわりで、おととい箱根をおりて行ったよ」 「白田《しろた》家の結婚式には出られましたか」  湖東が訊く。 「あれは失礼したよ。かわりに郡上《ぐじよう》君に行ってもらった」 「わたしも欠席しました」 「いろいろ喧《やか》ましい折りだし、それでよかっただろう」  紀尾井はそう言うと、 「うん、ひと休みするか」  と坐ったばかりのソファーの肱《ひじ》をひとつ叩いて立ちあがった。 「じゃあ後刻」  何時にどこでというのではなく、ごく漠然《ばくぜん》とそう言い、ロビーを出る。秘書の浦上洋司がそのうしろへぴったりとつき従ってエレベーター・ホールへ向かう。  エレベーター・ホールの先のカード室のほうから、小学生が三人ほどふざけて走り出して来た。 「おう、おう……」  紀尾井は好々爺然とその子供たちに道をあけて目を細める。子供たちのあとからついて来た母親らしい女が二人、総理大臣と顔を突きあわせて、びっくりしたような顔で足をとめ頭をさげる。 「いやどうも」  紀尾井は気軽に挨拶《あいさつ》を返した。母親たちは肩をすぼめるように足早に去った。 「思ったより空《す》いているようだな」  紀尾井はそう言い、ドアがあいたエレベーターに乗り、三階へあがった。  紀尾井の第一秘書である甲賀順平は、正面玄関の外に停《と》めてあるこのホテルのマイクロバスのそばにいた。そのバスはキャディーなどゴルフ場関係者の送迎用に使われているらしい。浅辺宏一がバスのかげから現われた。 「一人妙なのがいるんですが、すぐ調べさせてください」  浅辺は早口で甲賀に言った。短髪の兵隊臭い男が気になって仕方ないのだ。     7  ひとけのなくなったプールの前の道を、小林貞夫と美代子がそぞろ歩きしている。暮れかけた相模灘《さがみなだ》がその先にひろがっていた。 「昭和三年……」  美代子が信じられないと言うような顔で小林の顔を見た。 「鍬入《くわい》れは昭和二年とかだそうだ」 「そんな頃に、もうこういう立派なゴルフ場ができていたの……」 「あっちの北のコースはもっとあとだよ」  小林はうしろを振り返って言う。 「その頃はゴルフなんてする人は少なかったでしょうに」 「そうなんだ。当時はここへ来るのに、馬で来たそうだよ」 「馬に乗ってゴルフをしに……」  美代子は笑った。砂利道のわきに、矢印のついたNO10という案内板と、OUTと書いた札が並べて立ててあった。砂利道を外れて小径《こみち》が一本あり、その右側の練習用のグリーンに、明日のプレーに備えてパターを持った男が二人、背を丸めてホールを狙《ねら》っていた。 「そこから見るとよく判るけれど、何しろここのゴルフ場は古いから、ブルドーザーなどを使って整地した最近のコースとは、まるで出来が違うんだ。その昔、畚《もつこ》を使って作ったコースだからね」 「畚ってなあに」 「掘った土を運ぶ奴さ。土をいれてかつぐんだ」 「じゃあ、手づくりのゴルフ場……」  美代子はまた笑う。 「そうだよ」  二人は1番ティーに着いて立ちどまった。 「平らに思えるけれど、こまかく波うっている。ブルを使ったんじゃこうは行かないさ」 「それじゃあ、まっすぐにころがらないじゃないの。そのほうがいいの……」 「ボーリングじゃないんだ。まったいらより微妙な起伏があったほうが面白いさ」 「へえ、そうなの」  小林は振り返った。 「ホテルが建ったのはゴルフ場よりずっとあとで、昭和十二年に営業をはじめてる」  美代子は前を向いたまま、 「ほんとに綺麗。向こうは海までずっとゴルフ場なの」  と訊く。 「ああそうだ。こっちは北のコースより短いけど、むずかしいんで有名なんだよ。ホールごとにいろいろと面白いニックネームがついているんだ」 「ニックネームが……教えて」 「ここが一番で、熊谷の冒険」 「それどういう意味なの」 「さあ、よく知らないけれど、コースが作られた当時この辺に熊谷という名の家が建っていたらしい」 「なんだ、あまり面白くないニックネームね」  美代子は打ちおろしのコースを眺めて言った。 「3番は海岸通りだよ」 「海岸通り……ちょっといいわ。すてきなブティックか何かがあるみたい」 「ゴルフ場さ。そんなものあるわけがない」 「4番は……」 「グッド・バイ」 「いい名前だけど、なんで……」 「打ちそこなうとボールが崖《がけ》の下へさよならさ。同じように6番も崖で、ニック・ネームがS・O・S」 「判るわ。とてもむずかしいからね」 「うん。海から入江が切れ込んでいて、二十五メートルもある深い谷越えにグリーンがあるんだ。吊り橋を渡ってグリーンへ行くから、高所恐怖症の人なんかは渡り切れないんだな」 「そういう時はどうするの」 「ペナルティを払って渡らずにすます」 「可哀《かわい》そう」  美代子はこのゴルフ場が気に入ったようである。 「4番のグッド・バイや、6番のS・O・Sは本当に有名なんだ。ゴルフをやる者ならたいてい知っている。そのほかにも、ノース・コルとか地獄谷とか、いろいろ洒落《しやれ》た名が付いている」 「ゴルフって、全部で十八ホールなんでしょう」  美代子がそう言ったので、説明していた小林は鼻白んだ。 「そうだよ」 「どうして十八にきまっているの」 「知らないね」  小林は仕様ことなしに苦笑した。 「でも、ここには19番目のホールがある。ホテルのロビーの下にあるバーのことだよ。ゴルフをおわってスパイクのままで入れる」  小林はそう言って小径《こみち》を引き返した。     8 「おい見ろよ」  一階のメイン・バーから、四人組がひとかたまりになって外をのぞいていた。 「あれは建築家の溝口《みぞぐち》先生の……」 「あ、そうだ。美代子だ」 「あれは新婚旅行みたいだぞ」 「今どき、溝口さんのお嬢さんあたりが新婚旅行を伊豆辺りですますかな」 「だって、俺たちとは違うぜ。嫁入り前に男と堂々とあんな風に手をつないで……」 「判るもんか。現にお前の彼女だったじゃないか」 「だから判るんだよ。美代子はそんないけ図々しい女じゃない」  するとあとの三人が大笑いする。 「散々ホテルへ連れ込んでたくせに」 「いろいろと教えてさしあげたんだろう」 「まずいよ。ひょっとすると溝口さんが来てるかも知れない」 「娘を誘惑してお出入り禁止をくらったんだからな。会ったら呶鳴《どな》りつけられるぞ」 「うん。でも、結婚したらしいな」 「感慨無量てな顔をしてやがる。よせよせ、センチメンタルになる柄《がら》かよ」 「まあいいや。しあわせになればそれに越したことはない」 「困った奴だな、お前も。手当たり次第にいただいちゃう癖にフェミニストなんだから」 「別れた女がふしあわせになっているのは、いい気分のものじゃないぜ」 「みなさんおしあわせに、か。ひどい野郎だよ」 「でも、いい男だな」 「遊び人らしいぜ。お前といい勝負じゃないか」 「ああいう堅い家《うち》の子ってのは、引っかけやすいからなあ」 「心配してやがる。世話はないね」  四人は席へ戻ってめいめいにグラスをとりあげる。 「そろそろ結婚したほうがよくはないか」 「俺のこと……」 「きまってるじゃないか。このメンバーの中ではお前が一番女にだらしがない」 「手が早いとかなんとか言って欲しいね。だらしがないと言うと、欺《だま》されてばかりいるみたいだ」 「欺したつもりでいるかも知れないが、女のほうでは適当に遊んだつもりかも判らない。近頃の娘ってのは結構したたかだぜ」 「欺されたことはないよ」 「お前はちょっと古いみたいだぞ」 「どうして……」 「どうもセックスは男のほうが金を払わなくてはいけない、みたいに思い込んでるようだ。でも、今はもう少し進んじゃってるぞ」 「割り勘か」 「ラブホテルをやってる奴に聞いたんだが、ああいう所へ入って金を払うとき、女が払うケースが多くなってるんだって」 「ほんとかよ」 「ああ本当らしい。女だってセックスをたのしんで悪いことはないし、本来女のほうが余計にたのしめるような体にできてる」 「男が出した金を女が払ってるだけじゃないのかな」 「さあ、そこまでは判らんけど、お前は引っかけて遊んだつもりでも、向こうはタダでたのしんだと思ってるかも知れない。俺たちがあと腐れのないように気を使うように、女もお前のようなあと腐れの心配のない男なら、ホイホイついて来るのかも知れない」 「冗談じゃねえぞ。気味が悪くなって来た」 「女に奢《おご》るのが男の当然な役目などと思い込んでると、かげであの甘い男かなんか言われかねない」 「俺、いろいろ買ってやったりするもんな」 「じゃあ言われてるよ」  三人が一人を肴《さかな》にしてゲラゲラ笑う。 「あの美代子もそうだったんだろうか」 「いただいたとき、処女だったかい」 「いや」 「ほら見ろ。あんな清純派でも、今の男で最低三人というわけじゃないか」 「三人……」 「鈍い奴だな。今の彼と、お前と、その前の男とで三人だろう。最低だよ、それで」 「そうかなあ」 「考え込んでやがる。お前のとき処女じゃないなら、当然そういう計算になる」 「そりゃ判ってるよ。でも、いまだにそんな気がしない。美代子は初心《うぶ》な娘だったような気がするがなあ」 「女の嘘《うそ》は体から出るのさ。男は口先からだけど」 「まあいいさ。もうあかの他人だ」 「だからそろそろ結婚しちまえ。生涯一人に欺されてろ」     9 「長谷川さん、本当に申しわけございません」  正面玄関で、貴代子がリンカーンに乗り込んだ二人づれに丁嚀に頭をさげている。 「ちょっとくわしくは申しあげかねるのですが、湖東さんはわたしにも用がおありで突然に駆けつけていらっしゃったのです。大蔵大臣が相手では、一介《いつかい》の金融業者であるわたしごときに、さからえるわけには参りませんでな」  貴代子と肩を並べて、木田川がそう言う。その二人を伊東の宿へ追い出すところなのである。 「どうぞどうぞ、お気になさらずに」  車の中の二人は、かえって恐縮したような顔で言う。二流のスーパー・チェーンの経営者であった。 「じゃあ、気をつけてお送りして」  貴代子が運転席の新井に言う。 「かしこまりました」  新井はごくゆっくりと車をスタートさせた。木田川たちの見送りに調子を合わせているらしい。木田川と貴代子は何度も頭をさげて車を送った。 「やれやれ」  木田川が言った。 「湖東さんに紹介してもらいたかったみたいね」  貴代子が笑う。 「まだ十年早いよ」  木田川は吐きすてるように言った。 「いや、十年たっても無理だろうな。今のところは何とかやっているが、あれ以上でかくなるうつわではない」  二人は建物の中へ戻った。 「それにしても、あなたも嘘つきねえ」 「なぜだ」 「大蔵大臣があなたに会う為にやって来たなんて、よく言えるわよ」 「これも商売のうちだ」  二人の声はごく低い。 「長谷川たちにそんなことを言っても何の得《とく》もないが、あいつらが人に喋《しやべ》れば充分に効果があがる。世間とはそういうものさ。じかに本人の口から聞いたことは眉に唾《つば》しても、ワンクッションおけばとかく信じ込んでしまう。儂がよくその場にいない人間について、それとなく褒めるのに気付いているか」 「ええ」 「あれは俗に十日ゴマと言ってな」 「十日ゴマ……」 「ゴマすりのゴマのことだ。儂の田舎ではそういうのだ。そのときすったゴマが、十日あとくらいにきいて来る。直接面と向かってゴマをすられれば、こいつめ油断がならんと警戒するが、陰で尊敬していると聞けば、誰しも悪い気はせん。田舎は狭いから十日できくが、世間が広くなると一か月、いや、半年も一年も先にきいて来たりする」 「一年ゴマ、というのかしら」 「それでも十日ゴマは十日ゴマだ」 「あたしもやってみようかしらね」 「ああ、いいことはどんどん実行しろ」 「新井もなかなか役に立つじゃないの」 「うん、そうだな」 「口は堅いし、ちょっと手ばなせないわね」 「そうだな」  貴代子はクスクスと笑った。 「何日くらいかかるかしら」 「何がだ」 「今の新井のことよ」 「あ、こいつめ」  木田川はたのしそうに笑った。 「早速十日ゴマを用いたか」 「そう」 「お前は回転が早い。ときどきしてやられるな」  木田川は愉快そうに言い、貴代子の背中に手を当ててエレベーターへ入った。 「気を付けてよ。今に恋人を作ってあなたを欺すかも知れないから」  木田川は笑った。 「おお、やれるならやってみなさい。まだまだお前などに欺されはせんさ。お前に欺されるようでは人に金を貸してなどいられんさ」 「言ったわね。あたしのことを馬鹿にしてるんだから」 「別に馬鹿にしとりゃせん。可愛がっているだけだ」 「あたしが欺されてるのね。きっとそうだわ。どこかにいい人を囲って」 「おいおい……女はすぐそれだからな。お前を裏切りはせんよ」 「本当かしら」 「信じなさい」  木田川はまるで大政治家のような態度でエレベーターを出た。     10  修理中で閉鎖してある筈の520号室へ、左織と小見がすべり込んだ。中には浅辺と津野田がいて、浅辺は電話中であった。 「メンバーが揃いました。ええ、イーグルもたった今」  その電話は東京の都心のホテルへつながっている。東京では大きなデスクを前に、痩《や》せぎすな鋭い目付きの男が受話器を持っている。 「不審な男が一人いるそうだな」 「はい。宿泊カードには天田徳三としてあるそうです」 「天田徳三か」  男はメモする。 「たった今判ったのですが、その天田は一人でツインの部屋へ入っていて、最初その部屋を予約して来たのは、常川という人物なのです」 「常川……」 「気になりませんか」 「まさか、あの常川じゃあるまいな」 「その可能性もあります」 「ミリオン通信の常川|晃次《こうじ》だとすると、ちょっと厄介《やつかい》だな」 「もしミリオン通信の常川だったらどうしましょうか」 「作戦を中止する必要はない。あの常川だとしてもかまわん。とにかくこちらで至急調べるが、ちょっと妙だな」 「妙、と言いますと……」 「ミリオン通信の常川なら、そこの部屋をとるのに自分の名など出すだろうか。別人じゃないのかな」 「判りませんよ。第一に、この件が洩《も》れるとすれば防衛庁筋だろうということは、初期のミーティングで散々言いつくされていましたしね。それに、あそこはサンドウェッジがあったほうがいいわけです。関心を持たざるを得ないでしょう。だからわざと常川の名を出したんじゃありませんかね。天田徳三を我々がマークすれば、当然その名が浮かびあがるわけですし」 「こっちに一本|釘《くぎ》をさしたというわけかな」 「ええ。知っているぞ、と言っているんじゃありませんか」 「そういうこともあり得るな。しかし、邪魔はせん筈だ。サンドウェッジに有利なことだからな」 「しかし、こっちでは余りいい気分じゃありませんよ。我々の手口を知られてしまうんですからね。今後何かとやりにくくなる筈です」 「あとのことを心配してもはじまらん。とにかくうまくやってくれ」 「天田の件、急いでお願いします」 「判った」 「では……」  浅辺は電話を切った。 「ミリオン通信が動いているの……」  左織は眉をひそめて浅辺の向かい側のソファーに腰をおろした。 「ミリオン通信と言えば、金大中事件に関係したと騒がれた、ミリオン資料サービスの分身じゃないか」  小見が左織の坐ったソファーの肱《ひじ》かけに尻《しり》をのせて言う。 「G㈼の別班は座間基地の七〇四軍事諜報部隊と緊密に連携している。その七〇四部隊は、ハワイの米陸軍第五〇〇軍事諜報部隊の下部機構で、五〇〇M㈵は陸軍省の直轄だ。その上へさかのぼって行くとUSIB、つまり合衆国諜報活動委員会やCIAと合流して、NSC……国家安全保障会議に辿《たど》りつく。つまり、あしたこのホテルで起る事件は、G㈼別班としてはNSCに報告しなければならない情報のひとつということになっているわけだな」 「だから困るのさ」  浅辺はソファーの背にもたれて腕を組んだ。 「日本の嘘部のやり方がCIAなどに筒抜《つつぬ》けになったのでは、このあと何をやっても連中は眉に唾をつけてかかって来るようになる」  すると沈黙していた津野田が、学生のように発言を求めて手を挙げた。三人がそのほうを見る。 「嘘部のやりくちがバレてもかまわない」 「ほう……」 「次にやる時は、そいつを利用したらいいさ。何しろこっちには律令《りつりよう》が制定された頃からの長い歴史と伝統がある。アメリカ人はそれにこだわるだろう。伝統的なやり方を墨守《ぼくしゆ》する古臭い奴らだとね。君らはそのほうがやりいいんじゃないのかい。少なくとも、今回のことを材料に、新手で一杯食わせることはできるだろう」 「なる程ね」  浅辺はニヤリとした。 「チェッカーとしてはいいところをついている」  嘘部の末裔《まつえい》たちが頷いた。  第5章 闇の中の約束     1  零時を過ぎたところだった。メイン・バーは十一時までで、まだ麻雀室では客が卓を囲んでいるかも知れないが、廊下は静かだった。 「変だぜ、早く風呂へ入れよ」  浴衣《ゆかた》姿になった小林が、髪をタオルで拭《ふ》きながら言った。 「そんなテレビ、いつまで見てる気だい」  美代子はホテルの浴衣に着がえるのを臆《おく》しているようで、まだ着いた時の服のままだった。  小林は焦《じ》れたらしく、タオルを首にかけると、美代子のうしろにまわって、両脇に手をいれ、引き抜くように立たせた。 「ほら」  美代子は振り返り、右肩を寄せるようにしてちょっとかたくなな表情になった。 「だって……」 「ばかだなあ」  小林は笑って見せ、 「行った行った」  と美代子をバスルームのほうへ押しやった。 「ちょっと待ってよ」  美代子は表情を柔《やわ》らげて言い、赤いボストン・バッグをあけて何かこまごまと取り出しはじめる。  小林は美代子が坐っていたソファーに腰をおろして、テレビを見はじめた。  素知らぬ顔でいると、美代子はふんぎりをつけたらしく、バスルームへ消える。 「はじめてじゃあるまいし」  小林は低くつぶやいた。手数をかけるなと言いたげである。しかし、美代子と結婚する気ではいる。結婚しても、篠子のような女と付合うことはできるのだし、そろそろ将来のことも考えているのだ。  小林が美代子に関心を持ったのは、実を言うと或《あ》る噂《うわさ》を耳にしてからであった。 「社長の姪《めい》がくだらない男に熱をあげて、父親が嘆いている」  そういう噂であった。とたんに小林はその美代子と結婚しようかと思いたったのである。彼の見通しでは、早晩美代子という娘はその男と別れることになる筈だった。くだらない男、というのは、その男の実質を指した表現ではなく、溝口家とくらべた上での言葉の筈であった。  建築家の溝口は口やかましい先生で通っていた。そういう父親のいる家庭では、娘の自由恋愛など余程深間になり過ぎぬ限り、たいてい潰《つぶ》されてしまう。  別れた直後に隙《すき》がある。美代子なら軽いものだと小林は思った。しかし、社長の姪であり有名な溝口先生の娘だから、建設会社の若手社員としては、狙《ねら》いが余りにも見えすいている。変に筋を通して行くと、逆に肚《はら》を見すかされる惧《おそ》れがあった。  美代子という女に惚《ほ》れたのであって、経営者の閨閥《けいばつ》につながろうというのではない、ということを示す必要があった。それには手っとり早く美代子と体の関係をつけてしまい、美代子には結婚の約束を与えながら、自分から親のほうには切り出さないでいるほうがいいと判断したのだ。そしてすでに、小林は美代子に対して、来週にでも父親に打明けると言いはじめている。  実行しなければ美代子がすぐに焦りはじめるのは目に見えていた。いよいよになったら、美代子が有名な建築家の娘で、自分の会社の社長の姪に当たることを持ち出す気なのである。だから言い辛い、切り出しにくい……美代子を妻にしたいだけだから、誤解を避ける為に退社も考慮中だ、とやるのだ。実際に、友人の父親がやっている小さな設計事務所があり、そこへころがり込むポーズをとるよう心の準備もしてある。  やがて美代子が浴衣姿で部屋へ戻って来ると、小林はテレビに向かったまま、ニヤニヤしながら言った。 「さっき下で挨拶してた人は誰なんだい」 「言ったじゃないの。父のところへときどき来る人よ。広告の会社の人だわ」  声にちょっととげがあった。 「なかなか君も顔が広いんだな」 「そんなことないわ」  美代子は明らかに動揺を示していた。例の噂になった男に違いないと小林は確信している。 「彼もなかなかハンサムだったじゃないか」 「ばかね。妬《や》いてるの」  美代子は度胸を据《す》えたらしく、一人前に小林を甘やかすような表情で言った。  女の台詞《せりふ》はみんな同じだな……小林はそう思いながらテレビのスイッチを切った。美代子は小林の疑いを晴らすつもりか、胸もとのはだけるのもかまわず、膝《ひざ》の上へ乗って来た。     2  ホテルの一番北の端の地下にある麻雀室は、午後十一時まで飲物などのサービスをするが、それ以降は火の用心の為の係を残して客がゲームを続けたければそのまま放置するし、いなくなれば閉鎖してしまう。  その麻雀室は別として、ドアの並んだ廊下は零時を過ぎると時折り水音が立つくらいで、一時をまわればしんと静まってしまう。  フット・ランプだけにした部屋のべッドで、美代子が小林の顔をみおろすように、稚拙な動きを繰り返している。 「だめ」  美代子はまたしても体を前に倒しそうにするが、小林が手で支えてそうさせない。すると美代子は逆に背を反らし、しばらく動かなくなる。小林の両手は美代子の腰から脇腹の辺りを優しく動きまわった。 「意地わる」  美代子は鼻にかかった声で言い、またぎこちなく腰を揺らす。 「だんだん上手になる」  小林はささやいた。 「こんなこと……させて」  美代子は非難するように言うが、動きはとめない。 「嫌《いや》よ。結婚して」  欺《だま》されるのは嫌だ、という意味だ。 「するさ」  小林の両手は美代子の腰骨のあたりをきつめに把《つか》んでいた。相手に動きかたを教えているのだ。  そうされると美代子のほうが強く刺激されるらしく、たちまち細い声をあげる。 「赤ちゃんが……赤ちゃんが」  美代子は錯乱したように髪を振り、そう言う。受胎する、と言いたいのだろう。妊娠を恐れる気持がそう言わせているらしい。小林は一層激しく美代子をゆさぶる。 「もう……」  美代子は小林の不意を衝《つ》くように前へ倒れた。  やはり若いな。  小林は美代子を抱きとめながらそう思う。まだ経験の浅い華奢《きやしや》な体が、意外にタフなのである。小林の心得た扱いで何度も登りつめながら、誘えばすぐについて来て、またすぐに登りつめる。 「どうした」  顔を両手ではさみつけて言う。 「死んじゃう」  小林はその顔を自分の肩口に当てさせ、天井に向かってニヤリとする。  二度目が一番厄介なのだ。三度目はこの先も関係を続ける気でいるし、最初は自分が許したという自己陶酔がある。しかし、二度目は惰性がつくことを惧《おそ》れ、相手をたしかめる気が強い。危険ならこれきりにしようと身構えてもいるのだ。だから小林は、いつも二度目には特に情熱的に振舞い、執拗で入念な抱き方をする。二度目を三度目と同じ状態にしてしまうつもりなのだ。  しかし、美代子の場合にはもうその必要もない。上にさせられ、小林の求める動きに応じたことで、美代子は全体験をさらけ出してしまったと思っている。手のうちをさらした以上、もう小林を絶対に手離せないと思い込んだのだ。  美代子は、小林の女性遍歴を厚い雲のように意識している。正体不明だが、数多い女たちの中へ、たった今自分を割り込ませたように感じ、その女の争いに敗れることを惧れているのだ。見えない敵から自分を守り、勝利を獲得する為には、ひたすら小林に融《と》け込み、その心にもぐり込むしかない。  未知の、しかしたくさんの男たちと並べて考えていた小林が、突然たった一人の男に変わった。大勢の男の中からどんな優れた男を選ぶかということが、大勢の女からいかに一人の男を奪い取るかということに変わり、いまこの瞬間、美代子には小林貞夫という男しか存在しなくなっていた。  それを、愛だと思っている。一人の男にきめてしまったことが、すなわち愛だと。  体をいれかえた小林は、そういう美代子を好きなように引きずりまわしている。もうそうなれば小林にとって美代子は自由自在に操れるおもちゃに過ぎず、美代子は陥《お》ちかかっては浮きあがり、浮きあがってはまた突きおとされている。  そうした男の蹂躙《じゆうりん》が、美代子には愛のあかしに思え、さまざまにいたぶられることが、一層陶酔を深くする。  ただ、美代子には自分の官能を制禦《せいぎよ》することがまだできない。陶酔することを覚えたばかりなのである。 「愛して……」  美代子は本当に泣き、世界を青く感じた。     3  ホテルの建物がある土地は南が高くなっていて、一番南の部分は昭和四十年に完成した新館だが、これは二層の建物である。ただし、二層だが北の古い部分との接続の関係で、下のルームナンバーは200台、上が300台である。その北は新本館と呼ばれ、地上五階地下一階。建物の断面図を書けば、新本館の北端に階段室とエレベーターが一基あり、その先がスペイン風の望楼……ホテル側では塔屋と呼ぶ、てっぺんが展望台になっている部分である。  その展望台へは、五階のエレベーター・ホールの横にあるドアからあがることにされているが、実は塔屋の内部は地階から階段が続いており、もし必要があるなら、どの階へも人目に触れず忽然《こつぜん》と現われることができる。  正面玄関やロビー、フロントなどのある本館は、その塔屋から北の部分で、地階と地上三階の建物だが、北の端では地形の関係で地階が地上へ姿を現わしており、地階のグリルの前のドアを通って何段か階段をおりると庭園の道へ出てしまうという奇妙なことになる。  その塔屋の階段を登って、五階のエレベーター・ホールに忍び出たのは、紀尾井英介の第一秘書、甲賀順平であった。  ひとけのないのをたしかめて素早く廊下の一番手前の520号室のドアを、トン、とひとつだけノックする。すぐドアがあき、甲賀は部屋の中へ入った。  520号と522号は続き部屋で、520のほうは居間になっていてべッドがない。 「お望み通り、ホテル側と話をつけて来た」  甲賀順平はそう言って、作業衣を二組、空いたソファーへ置く。 「君らは総理の護衛ということにしてある。これはコース課員が着るものだ」 「コース課員……」  津野田が訊いた。 「ゴルフ・コースの管理をする係だよ。朝早くに本物のコース課員があの辺りのグリーンを手入れするが、本番のときにはいなくなるように手配しておいた。ホテル側は総理の警備上当然だと思って、疑ってもいない」 「そうだろうな」  浅辺は作業衣を体に当てて見ている。 「芝刈機は適当な所に置いてくれるそうだ。君らはそいつのモーターを始動させて、好きな所で芝を刈るふりをしてくれればいい。ただし、あまりキョロキョロすると大内太吉に怪しまれるぞ。あのおっさんは融通がきかんからな。もっとも、嘘部のあんたがたにはそんな心配は無用だろうがね」  浅辺は帽子をかぶり、左織を見て笑った。 「似合うかい」 「似合うわ。浅辺君て、サラリーマンの恰好をすると、どうよく見ても中小企業の課長ほどにも見えないけれど、そういう恰好をするとほんとにサマになっちゃうのね」  津野田がクスクスと笑った。 「おいおい、はっきり言ってくれるなよ」  浅辺は苦笑して帽子を脱ぐ。 「しかし、甲賀さんもえらいことに巻き込まれたものだ」  津野田が言う。 「黒虹会の秘密を知らされた以上、もう一生足を抜けませんよ」 「何を言ってる」  甲賀は津野田や浅辺たちを見まわした。 「勝手に引きずり込んでおいて」 「同情します」  浅辺が詫びるように頭をさげた。 「冗談だよ」  甲賀は柔和な笑顔になり、ソファーに腰をおろして煙草を咥《くわ》える。左織がデュポンのライターで火をつけてやった。 「いっそ有難いくらいだ」 「ほう……」 「紀尾井英介もそろそろリタイアの時期に来ているからね。あの人は総理の座をしりぞいたあとも睨みをきかすというタイプではない」  浅辺が黙って頷いて見せた。 「そこへ持って来て、わたしは隠密活動に生甲斐《いきがい》を感じるようになってしまっている。はじめはそうでもなかったが、長年あの人の秘書として裏通りを走りまわっているうちに、いつの間にかそうなってしまったんだ。嘘部にかかわれば、紀尾井総理から離れても、裏の仕事でやって行けそうだから」 「たしかに才能がありますよ」  浅辺が太鼓判を押した。 「君にそう言われるとうれしいが、よく考えるとお前は嘘つきだと言われているようなものだ。妙な気分だよ」  甲賀順平は自嘲《じちよう》するように笑った。     4 「もう一度チェックしよう」  津野田がポケットからメモをとり出して言った。 「このホテルがきめているゴルフのスタート時間は八時だ。ゴルフ客は多いときで二百名程度だが」  そう言って津野田は腕時計を見る。 「今日、二十五日は金曜で、あすとくらべるとそう多くない」 「組数にすると……」  浅辺が訊く。 「二十一組。八十人足らずさ」 「ちょうどいいくらいね」  左織が安心したように言った。 「総理は南のコースがお気に入りだ。これはもう有名になっているから、誰も疑いはしないだろう」 「北はチャンピオン・コースなんでしょう」 「ああ。ここのゴルフ客は、たいてい北のコースを希望する。ツー・ラウンド目は南になるが、午前中にスタートするのはほとんど北だよ」 「つまり、総理は午前中に空《す》いている南のコースへ出るわけか」 「そうだ。総理の前に何組か南をまわりはじめるが、前後があくようにホテル側ではからってくれる」 「一度ゴルフ・ロッカーへ行くのかな」 「いや、グリルの前の37番ホールで靴をはかせる」  37番ホールとは、本館地階のグリルの前にあるバーのことだった。正式にはグリル・バーと呼ぶが、南北ふたつの十八ホール・コースを持つこのホテルでは、37番ホールという愛称で親しまれている。 「スタート時刻は」 「十一時に設定してある。グリルがあくのが十一時だからだ。昼食に一度戻るようなセッティングは避けたんだ。スタートの前に軽く腹ごしらえをさせておく」 「実際にひとまわりすれば、あがりは三時ごろかな」 「爺《じい》さん連中だし、のんびりやるから四時間はかかるだろう」 「南のコースは短いんでしょう……」 「うん。ヤーデージは五七一一だ。パー70」 「北は六七〇〇くらいか。だいぶ短いな」 「勝負は4番に確定している」  すると甲賀が笑い出した。 「まさにグッド・バイだな」 「はじめ、北のコースの11番を考えたんだ」 「岬《みさき》の灯台のところか。あそこは10番じゃなかったかな」 「いま北のは8番を休ませている。本来は11番だが、現在は一時的に10番に繰りあがってるのさ。とにかくあそこは見通しがききすぎる」 「南の4番ならいいさ。崖に草が伸びていて下が見えにくいしな」 「湖東がアカを使うなんて言い出さんだろうね」 「レディス・ティーか」 「湖東はときどきそれをやる。いいスコアを欲しがるんだ」 「好きになれない男だ」 「まあいい。総理がうまく捌《さば》くさ」  浅辺が言うと、甲賀が手をあげて制した。 「その総理がブルってる」 「今になって……」 「肉体的な危険には凄《すご》くこわがる人なんだ。ブヨに刺されても大騒ぎをする」 「もうあきらめるしかないのに。ここまで来たらどうしようもないじゃないか」 「それはそうだが、怕《こわ》いものは怕いさ」 「そんなことで、よくこの法案には命を賭けるなんて言えるもんだ」 「総理大臣も一皮|剥《む》けばただの男だ。たしかにどこか度外れたところはあるがね」 「体が傷つくことに異常な恐怖心を持っているとか、か」 「一種の執着心さ。安全でいることを極端に欲するんだな」 「それで総理になれたわけか」 「平衡感覚だよ」 「要するに、人並み外れて出世する奴は、卑怯《ひきよう》と言われても身の安全を第一に考えるわけか。人生意気に感ず、などと惚れた相手と心中するようでは出世なんかできない……」 「その通りさ」 「しかし、これには国家の安全がかかっている。一生に一度くらい、本気で国の為に死ぬ気になってもらわなければ、国民に顔向けができないだろう」 「実は当人もさっきそれと同じことを言っていたよ」  甲賀がそう言ったので、嘘部の末裔たちは大笑いした。 「キャディーの手配もすんでいる。婦人警官だと言ったら、ゴルフ・ロッカーのフロントが目を丸くしていたよ」  まだ外は暗く、プールサイドの椅子がふたつ、照明の真下でいやにくっきりと浮びあがっていた。     5  貴代子はつくづく女の体を嘘つきだと思った。  新井の若く引き緊《しま》った体にさしつらぬかれ、よろこびにうち震えているときは、木田川のぶよぶよした体などおぞましいだけだと思うくせに、こうして木田川の粘っこい愛撫《あいぶ》を受けていると、やはり新井では味わうことのないよろこびを与えてくれる男だと思ってしまう。  本当なら、ただ演技として木田川に応えてやるつもりでいたのに、いつの間にか本気で悶《もだ》え狂っている。木田川がこの上もなく頼もしい男に思え、新井といたずらを重ねる自分をうしろめたく感じてしまう。そして、そのうしろめたさが、いっそう木田川に対する心の傾斜を作り出すのだ。 「あなた、愛してるのよ」  貴代子はうわごとのように言う。それでいて、頭のどこかでは自分がまた嘘を重ねていると意識するのだ。  愛している……一番単純な嘘だわ。 「もうお前は儂《わし》なしではおられんのだ」  木田川はその昔、北陸の年増《としま》芸者から教わった手を用いはじめながら言った。 「ああ、そんな……」  貴代子もその手はとうに知っている。別な男が得意業にしていたのだ。しかし、ごく自然にはじめての目に遭っているような態度になれる。 「どうだ」  木田川は勝ち誇る。 「助けて、あなた」  貴代子はついさっき同じことを新井にも言ったような気がした。木田川は律動に入る。  すうっ、と何かが貴代子から脱けて行く。貴代子はそのしらじらしい隙間《すきま》を埋めようと、呻《うめ》き声を高くする。とたんに新井の体を思い出し、隙間が埋まる。 「あなた、あなた」  木田川の背中に爪《つめ》を立てながら、貴代子は新井を想っている。新井の果てるときの表情が目に泛《うか》ぶと、どっと溢《あふ》れて来る。 「もっとして、滅茶滅茶《めちやめちや》にして」  貴代子の言葉つきは稚《おさ》なくなった。体を塞いでいるのは木田川だが、感覚を煽《あお》っているのは新井なのである。その埋合わせに木田川に自分の敗北をことさら告げ、告げることで一層愉悦にひたって行く。 「ダイヤを買ってやろう。うんとでかい奴をな」  木田川もうわごとのように言いはじめた。癖なのである。 「要らない。あなたが……」  あなたがいてくれさえすれば、と貴代子は言うつもりだったが、言いかけたとたんに醒めそうになったので、ここから先はもう自分勝手に行きついてしまおうと体を反らせ、肥《ふと》った木田川の体を押しあげるようにして自分の位置へ持って行く。  もう貴代子は喋《しやべ》らない。目をとじ眉を寄せ、自分だけの感覚に沈み込んで行く。木田川はすでに、貴代子にとって律動を送る機械でしかない。  新井も木田川も、そのほかの男たちも、もう遠い。貴代子は貴代子自身であった。貴代子は自力で登頂した。細く叫び、硬直する。やや遅れて木田川も着いた。 「死にそう」  しばらくして、添い寝の形に戻った木田川の胸に顔を押しつけた貴代子は、もとの演技者になっている。 「明日は何か起るぞ」  木田川はすでにセックスから解放され、貴代子から心を離していた。 「きっと何か起る」  天井をみつめてそうつぶやいた。 「何が起るの」 「判らん。しかし必ず何か起る」  貴代子は起きあがり、バスルームへ入る。シャワーの音がはじまった。     6  くすんだ茶色の中に栗色《くりいろ》のまだらがある、うずらより少し大きめの野鳥が、ゴルフ場の木の間を低くとびはじめた。水平線の少し手前に、赤味をさした帯が陸に向かって伸びている。  その野鳥が啼《な》く。……チョットコイ、チョットコイ、と聞える。小綬鶏《こじゆけい》だ。呵呀《かあ》、と鴉《からす》がひと声啼き、ホテルの新館の前のよく手入れされた芝生の上に舞いおりた。三羽がひと組になって、ヒョコヒョコと朝の散歩をしている。  風はない。漁船の白い航跡が三本、松の梢《こずえ》ごしに見える。ゴルフ場ぞいに相模灘を南下して行くのだ。  ホテルの正面玄関に小型のトラックがとまり、若い男が朝刊をひとかかえ持って中へ小走りに入る。右側にクロークがあり、青年はまだ無人のクロークのカウンターにそれを置くと、すぐ引き返して行った。  新館の前の芝生を散歩していた鴉が、急に羽音をたてて舞いあがり、その中の一羽は1番のレギュラー・ティーの横にある小舎《こや》の屋根にとまった。  小型のモーターを始動させる音が朝の静けさを破って響く。コース課の係員が使い込んだ芝刈機を押して、鴉のいたあたりを往復しはじめた。カーペットに掃除機を這《は》わせた時そっくりの柔らかい縞《しま》が、芝生の上に残る。  朝日をさえぎっていた雲が動いて、ホテルの赤瓦《あかがわら》の屋根が鮮やかに光る。風はない。やがて赤い色に塗ったジープが、芝刈機を引っぱって、テニスコートの辺りをぐるぐるとまわりはじめた。カタカタとかなり高い音を出すが、建物の中の廊下はまだしんとして人の動く気配もない。  七時。フロントの蛍光灯《けいこうとう》がついて、きちんと黒い服を着た係の男が一人、カウンターの中へ入った。クロークにも白い上着の青年が現われて、積みあげた朝刊の見出しを、首を斜めに傾けて読みはじめる。  ホテルの一日がはじまったのである。 「いい天気だ」  湖東進はホテルの浴衣を着て窓をひらく。冷房のきいた部屋に、まだそう暑くない朝の空気がどっと流れ込む。  湖東は窓際に手をついて、裏の山を仰いだ。朝日を浴びた木々の緑が眩《まぶ》しい。 「幸先《さいさき》がいいですな」  もうネクタイをしめた伏見直彦が、おもねるように湖東に言った。 「ちょっとそのベッドにあがれ」  湖東は全裸の貴代子が体を支えて両手を突っぱっていたのと同じ場所に手をついて、伏見に命じた。 「は……」 「いいからべッドにあがって立て」 「はい」  伏見は靴を脱いでべッドの上に立った。湖東が窓から離れて一緒にべッドの上へあがる。 「………」  伏見は怪訝《けげん》な顔で湖東をみつめていた。 「それ」  湖東は鋭い気合でその伏見を突きとばした。 「あ……」  伏見はあおむけにべッドから落ち、辛うじてとなりのべッドへ背中をあずけて転倒をまぬがれた。 「練習だ」  湖東はケタケタと笑いながらべッドをおりた。 「人を突きおとすことは慣れているよ」  伏見も床にずりさがり、尻をついて笑い出した。 「びっくりしましたよ」 「もう一度ためすか」 「いや、結構です」  二人は顔を見合せて笑い続けた。 「いい朝だ。こんな朝は久しぶりだな」  湖東は張り切っているようだ。 「もうグリルがあいています。朝食は九時までですが」 「朝はいい。どうせ十一時に飯を食わされる」 「ではそういたしましょう」 「何と言ったかな、あれは」 「は……」 「伊奈の秘書だ」 「ああ、高梨勝之です」 「何か言って来んか」 「いいえ、何も」 「そうか。それならいい」  伏見は湖東の質問の意味を察した。 「イーグル作戦は伊奈側へは絶対洩れませんから安心してください」 「イーグル作戦か。このホテルのシンボル・マークは鷲《わし》を使っているな」 「そう言えばそうですね」 「誰が考えたかしらんが、俺のコードネームがサンドウェッジだと。うまい名を付けるじゃないか、ええ……」  伏見は答えようがなくて苦笑する。 「たしかにこっちはバンカーにとっつかまっている。今の俺がクラブを選ぶなら、サンドウェッジしかないじゃないか」 「あちらのコードネームはたしかメロン」 「いや違う。伊奈のはプリンス・メロンというのだ。皮肉が好きな連中だよ、まったく。プリンスもメロンも上等だが、両方合わせると安物になる」  伏見はふきだした。 「なるほど」  湖東にとってはたしかにいい朝らしかった。     7  伊奈玄一郎は部屋でコーヒーを飲んでいる。その部屋からは海が見えていた。 「ここで結着をつけよう」  静かな声でつぶやき、ミルクを少しつぎたした。コーヒーが濃かったようだ。 「あれのゴルフは汚い」  湖東のことを言っているのだ。湖東はよく二メートル以上残したパットを、勝手にオーケーときめてしまうことがあるのだ。  その点伊奈は、何事によらず紳士的で、マナーのいい人物として通っていた。 「綺麗にしなければならん」  ベランダの手すりごしに、赤いジープがゆっくりと走りまわっているのを眺めてまたつぶやいた。  常に身辺から黒いものを漂わせる湖東のような男が政権の座につけば、その政権をもたらした保守党全体が深く傷つくと信じているのだ。湖東だけは総理の椅子につけてはならないというのが、伊奈の信念になっている。もしそんなことになれば、次の選挙では大敗するだろう。保守党内部からも離反する者が現われるのは目に見えていた。  その場合、伊奈は離反組に盟主としてかつぎあげられるかも知れない。今までのいきさつからしても、そうなる公算が大きかったが、伊奈の本心は保守本流にとどまることであった。  だが、国民は伊奈に保守体制への批判を求めて来るだろう。革新からの批判がいかに無力か知ってしまった有権者は、党を割ってでも英雄的態度に出ることを伊奈に期待してしまうのだ。  それは損だ。  伊奈の頭脳はとうにそう結論している。新党結成は権力の座から遠のくことになる。革新の一部と手を握れば、そう悲観したものでもないが、連立政権が短命であることもまた、動かし難い事実なのである。それに、本来伊奈はとことんまでの保守政治家なのだ。その輝かしい過去から考えても、自分の手で党を割る気にはとうていなれない。  伊奈は連合する可能性を持つ党首の顔を思い泛べた。何かの市民運動が起るたび、デモの先頭に立って見せるその男のうらぶれたような陽焼けぶりが、嫌悪感を煽った。 「嫌だ」  伊奈は吐きすてるように言い、コーヒーを含んだ。  何としても、今日このゴルフ場のどこかで、紀尾井英介に明確な言葉を吐かさせなければならなかった。  湖東を切りすてる、と。  紀尾井総理のそのひとことで、政界は浄化され、国民は納得してまた保守に票をいれるのだ。それで政局の安定がもたらされ、日本の将来も明るくなる。その上、自分の長年の野望も果せる。  伊奈は立ちあがり、ベランダに立って南のコースを眺めた。沖に大島が見えている。1番はその大島へ向かってまっすぐ打ち出すことになる。 「4か6か……」  コースのことを言っているのだ。湖東のドライバーはラフで有名なのだ。4番のグッド・バイでは第一打に当然ドライバーを持つだろう。ちょっとでも左へそれれば、ボールは崖の下へ落ちる。湖東の気持が動揺するなら、まずそのあたりだと思っているらしい。  伊奈は4番でオナーを握りたかった。先にフェアウェイのど真ん中へ落して見せれば、湖東にプレッシャーがかかる。  6番のS・O・Sは自信があった。深い谷の向こうに、両側をバンカーに守られたグリーンだけがある。しかし、5番アイアンで伊奈はいつもその谷を正確に越えていた。湖東はそういう小わざも得意ではない。へたをすれば二、三個谷へ落してしまうだろう。 「総理がうまく越えてくれれば……」  焦る湖東のそばで、二人がのんびりと喋っているところを伊奈は想像し、ニヤリとした。  君はだめだよ。  紀尾井英介の湖東に対する台詞《せりふ》としては、それ以上のものはなかろう。ゴルフにかこつけて引導を渡すのだ。  あの男のことだから、途中で引きあげてしまうかも知れない。  朝の陽光を浴びて、伊奈の胸は急速にふくらんでいる。  須賀沢健《すがさわたけし》、八見村昌樹《やみむらまさき》……。  伊奈の想《おも》いはすでに人事に飛んでいる。自分が政権をとった場合の閣僚の顔ぶれを、伊奈はもう倦《あ》きるほど何度も組み立てては崩していた。  今度こそ……。伊奈にとっても、その朝は希望に満ちた朝であった。     8  何時だろう……。  貴代子は目を閉じたままそう思った。朝は苦手で、家にいればどんなに早くとも十時以前には起きたことがない女だ。  しかしやはりホテルではつい早くに目がさめてしまう。貴代子は舌打ちするような気分で目をあけた。カーテンの隙間から射し込む細い光が、あけたばかりの目に鋭く感じられる。  貴代子は寝返りをうち、うつぶせになると顔を横にして枕《まくら》に埋め込むようにした。となりのべッドに木田川の体が盛りあがっていた。貴代子に背を向けて、まだ眠りこけている。つけっぱなしのフット・ランプは、もうその薄い光をカーテンの隙間からの光に制圧されて、消えたも同然になっている。細く鋭い光は部屋の中に拡散し、背を向けた木田川の、シーツからはみだした裸の尻までがよく見えている。  貴代子はそのぶよぶよした尻に気付くと、眉をしかめて顔の向きを変えた。うつぶせになった為に伸びた背骨のあたりに、鬱陶《うつとう》しい疲労感がある。  マッサージを呼んだら来てくれるかしら。  貴代子はぼんやりとそんなことを思った。しかし本当に電話をして見る気はない。疲労感がいつの間にか木田川に対する嫌悪感を誘い出していた。それはまだ、嫌悪感であって、憎悪にまでは育っていないようだ。  はじめようかな……。  貴代子は東京の夜景を思い泛べながら心の中で呟《つぶや》く。運転手の新井程度で満足していなければならない自分を、憐れみはじめているのだ。どうせやるなら、自分にはもっといい相手がいくらでもいるという自信があった。しかもすでにその気になり、新井相手に一歩も二歩も踏み出しているではないか。  貴代子は華やかな夜を思い描いた。どこかのクラブで、憧《あこが》れの目でみつめられている……みつめる相手は若くてハンサムでセンスがよくて、世帯じみたところなど毛ほども見せない粋《いき》な男だ。その男と二人で別な店へ行くと、これはもう絵に描いたようなカップルである。  新井なんか三流以下じゃないの。  貴代子は自分自身を非難する。大した給料を取っているわけではない。彼の月収は貴代子が一番よく知っていた。一緒に恋人として連れて歩くわけには行かない三流以下の男だ。高級なクラブなどへ連れて行けば自分の恥になってしまう。  木田川くらい適当にあしらえるのだし、何だって運転手風情に手をつけてしまったんだろう。もし、新井とのことがバレたら、木田川は復讐《ふくしゆう》の意味でもあたりかまわずそのことを言い散らして歩くだろう。木田川は傲岸《ごうがん》なくせに、相手によっては平気で自分を三枚目にするところがある。寝とられ亭主《ていしゆ》の立場を面白おかしく喋ることで、逆に自分の度量を人に印象づけようとするだろう。そしてそれは、 「あの美人の奥さんが運転手とねえ……」  と人々に首を傾《かし》げさせることになるのだ。しかもその運転手に女房がいると来ては、やくざなボーイと関係して一流クラブのあるじの座を追われた美人ママのケースと同じことになる。  嫌だわ。  貴代子は姿勢を変え、顔を天井に向けた。三本の腕の先に品のいいシェードのついたルーム・ライトがあった。  新井はだめ。もうやめよう。  貴代子はそう決心した自分に満足する。早く気が付いてよかったのだ。木田川が強欲で品がなく、無教養なくせに威張りくさるだけの男だということは、世間が先刻承知の事実であった。  木田川から離れて行くのが当然……もしバレて、世間の噂になっても、そう思われるような相手を厳選するべきだと思った。  とは言え、木田川と別れる気はまだ当分ない。木田川にはとにかく金がある。たとえ成りあがりと嘲《あざ》けられようと、金がある内は世間も無視しない。木田川夫人の座は案外居心地がいいのだ。その華麗なる木田川夫人として、アバンチュールを楽しんでいたいのだ。  そうだ、新井は危険よ。  貴代子はびっくりしたように目を見ひらいた。すでに関係のできた新井をこのまま放置すれば、新しい男をみつけたとき邪魔になるにきまっている。自分は木田川と新井の二人の目をかすめなければならなくなるのだ。  新井を追い出してしまわなければならない。そして、できればそのあとへ、徹底的に自分の味方をしてくれる運転手を据えるのが好ましい。木田川を誤魔化してデートに向かうとき、自分を車で運んでくれて秘密が保たれるような運転手が欲しい……。     9  天田はきちんと背広を着て、エレベーター・ホールからロビーのほうへ歩いて行った。  里心がついてしまっているのだ。まる一日たたない内に、早くこのホテルを出たいと思いはじめてしまった。  何よりもまず、天田のような男にとって、このホテルは居場所がない感じなのだ。どこへ行っても彼の日常からは桁違《けたちが》いの高級な雰囲気があって、息がつまりそうになる。ゆうべはとうとうダイニング・ルームへは足を踏み入れず、グリルのメニューで適当に夕食をすませてしまった。  ゴルフをしなければここはどうしようもないのだな……天田は舌打ちするようにそう思った。立派なプールがあるが、水着の用意はして来なかったし、地下の売店に男物の水着を売っているようだったが、そこで買ってまで泳ぐ気もしなかった。  しかし、ホテルのチェックアウト・タイムは午後四時になっていた。ゴルフ客が多いのでそういう時間の設定になっているらしいが、律気《りちぎ》な天田にして見れば、午前中にはやばやと引きあげてしまうのは、客の常川に申しわけないような気がするのであった。  フロントを通りすぎようとしたとき、折りよくカウンターの中の男と目が合い、天田は目礼を送った。 「お早うございます」  あたりはまだ人影がなく、フロントの男は愛想よく天田に声をかけてくれた。天田はその男のほうに近寄り、 「お早う」  と挨拶を返した。 「少し散歩をしてもかまわないかね」  天田はまた喋りなれない堅い口調で尋ねた。 「はい、ゴルフのほうはスタートが八時になっておりますから」  邪魔にならない時間だから、コースを歩いてもいいという意味らしかった。 「これだけの敷地があるんだから、遊歩道でも作ってくれればいいのに」  天田が微笑を泛べて言うと、そのフロントの男は、 「はい、計画はございますのですが」  と微笑を返した。  天田はそれだけのやりとりでも満ち足りた気分になれた。きのうから、ろくに人と喋っていないのだ。ツインの部屋に一人きりというのも味気なかったし、物なれた様子でホテルの中を動きまわる客たちにも気おされていた。  あと半日の辛抱か。  天田はそう思いながら、サンパーラーの手前の階段をおり、地下の売店を抜けて外へ出た。  よく晴れた朝だが、まだそう暑くはなかった。天田はホテルの敷地内をまわるバス停の文字を読みながら道へ出ると、右へ曲がってプールのほうへ歩いた。  空は青、芝生は緑。ごみごみした裏通りばかり歩いている目には、なんとも贅沢な自然の使いように思えた。  チャンチキおけさでも聞えて来るようなところが自分の場所なのだな。  別に卑下するというのではなく、天田はごく自然にそう感じていた。これでは勉強も何もあったものではなく、一歩部屋の外へ出たら最後、のべつ突っぱらがった気分でいなければならない。浴衣がけでぶらぶらとこんな景色の中を歩きまわれたら、どんなにのんびりするだろうかと、残念がっているのであった。  OUT。白ペンキを塗った矢印形の標識を見ると、天田の足はそれにつられたように道をそれ、植込みの間の小径へ入った。  右手に小屋があり、その前に1番のレギュラー・ティーがあった。真正面に海が光っており、その向こうに大島がある。 「ここから打つのか」  天田にも、テレビ番組のせいでゴルフのルールがいくらか判っていた。すぐに崖と言ってさしつかえないほどの急な斜面になり、ずっと向こうのフェアウェイの右寄りに、松の木が一本生えていて、その左前方にグリーンがある。  打ちおろしの1番から小屋の横に、木のかげになった涼しげな山道の趣きがある下り坂があった。  天田はその道をおりて行こうとして一瞬ためらった。プレーヤー以外の者の立入りを禁止するという標識があったからだ。しかし、天田はすぐに坂をおりはじめた。八時まではコースは空いているらしいし、フロントの男に断わった形になっていたからだ。天田の足音で、小鳥が五、六羽舞いあがった。     10 「おい」  津野田が緊張した声で言った。ゆうべ遅く自分たちの部屋へ引きあげたが、はやばやと起き出して520号室へ入っているのだ。 「どうした」  浅辺が朝刊をテーブルの上に置いて立ちあがる。 「あいつだ」  津野田が指さす方向に、天田の姿があった。 「まずいな」  浅辺の顔が曇った。 「まさか、何から何まで知っているんじゃあるまいな」 「まさか」  津野田が首を傾げる。 「広瀬《ひろせ》さんは何をしているんだ。早くあいつの正体を教えてくれればいいのに」  浅辺は焦っている。天田は1番のレギュラー・ティーのところに立ってコースを眺めていたが、急に右へ歩いて姿を消してしまった。 「上へ行こう」  浅辺は上着を脱ぐと、ネクタイを外しながら言った。 「よし」  津野田も鋭い声で答えると上着をソファーの背にかけ、520号室を出た。すぐとなりのドアをあけて中に入ると、それは展望台へ通じる塔屋の階段であった。 「あいつ、コースへ出て何をする気だ」  二人は急いで階段を駆けあがる。途中にドアがあり、そこからは外気が直接吹きつける吹きさらしの部分であった。 「気づかれないようにしよう」  浅辺は念を押すように言い、展望台へ出た。遠目では高い塔屋のてっぺんにいる者が誰かよく判らない筈だ。上着を脱いだのは、その上にも更に用心したからであった。  浅辺はすぐ展望台に備えつけた望遠鏡にとりつき、目をあてる。粘るような重さを感じさせる大口径の望遠鏡を動かして、1番のフェアウェイの辺りを視界におさめる。 「いた」  浅辺が言った。長い階段を登っているうちに、天田は坂をおり切り、フェアウェイの右端を歩きはじめていたのである。 「何をしている」 「別に……散歩しているような感じだ」 「どれ」  津野田がかわる。 「あの松の木を丹念に見てやがる」 「ひょっとすると、あの三人の会話を盗み聞きする装置があると疑っているんじゃないかな」 「そうかも知れん。立ちどまってまだ見てるぞ……右手をズボンのポケットに突っ込んでる。何かの検知器を持っている可能性がある」 「疑うなら疑え」  浅辺は居直ったように言った。 「嘘部とJCIAの腕くらべだ」 「お、歩き出した」  その動きは浅辺にも見えていた。天田はのんびりと松の木のそばを離れてグリーンに近寄って行く。 「見ろ、おかしなことをはじめやがった」  津野田が望遠鏡をかわる。 「どれどれ」  浅辺はレンズに目をあて、 「バンカーをチェックしているな」  とつぶやいた。たしかに天田はグリーンの左にあるバンカーのそばにしゃがみ込んで、その中に手をさしのべていた。 「ご苦労なことだ、まさか地雷など埋めやしないさ」  浅辺は笑った。 「あの分ではこっちの作戦のくわしいことは判っていないな」  津野田が安心したように言った。 「グリーンへ入った。あのばか、ホールをのぞいているよ」 「念には念を入れという奴だろう。好きなようにさせておくさ」 「2番ティーへ移って行く」 「畜生、全コースをチェックする気か」 「目がはなせんぞ。4番は一部しか見えない」 「どうする」 「大内太吉に知らせるしかないな。コース課のジープであとを追わせるか」 「俺たちが行ったらどうだ。あの作業服を着てさ」 「そうだな。右のほうを突っ切れば、近道ができる」 「左織君に連絡だ」  津野田が言い、浅辺が通信機をとりだした。その二人にとっては、静かな朝ではなかった。  第6章 闇の中の断崖《だんがい》     1  天田は為朝《ためとも》の散歩道と呼ばれる2番のショート・ホールをゆっくりと通過し、グリーン左手の断崖《だんがい》ぞいの樹木の間を大まわりに歩いて、3番ティーの左へ出た。  少し暑くなって、上着を肩にかけている。樹木の間から相模灘《さがみなだ》が見え、断崖に近寄って下を覗《のぞ》いたが、夏草が生い繁《しげ》り樹木がからみ合って、真下にある筈《はず》の水面は見ることができなかった。  汐風《しおかぜ》が少し肌《はだ》にベトつき、天田はハンカチを出して首筋のあたりを拭《ぬぐ》った。  気が付くと、行手が塞《ふさ》がれていて、3番ティーの前面へ出なければならないことが判《わか》った。海へ向かって狭いが深い沢が落ち込んでおり、ホテルのほうからフェアウェイを横切って南へ行く道路にいったん出なければならないのだった。  天田はまだプレーヤーの気配さえない芝の上を、遠慮がちに足を早めて歩いた。  その沢はどうやら以前はゴルフ場のずっと奥まで続いていたようで、ホテルのほうからおりてくる道のあたりが、妙に湿った感じでへこんでいた。ゴルフ場にしてから川を埋めてしまったのかも知れない。  道へ出てから振り返ると、繁みのかげになっていた、赤い半球をふたつ置いたレディス・ティーが見えた。グリーンまでは直線で、右手は登り斜面になっており、こちら側へかぶさるように松の林が続いていた。  道はフェアウェイの左側を通り、その先の松林の中へ消えていた。道の左側はまたしても断崖である。 「子供は危いな」  果して幼い子供づれでゴルフに来る客があるものかどうか、天田にはよく判らない。しかし、ろくに柵《さく》もない崖《がけ》ぎわを見て、彼はついそうつぶやくのだった。ゴルフに夢中になって子供を放っておくと、ほとんど垂直に近いその断崖へ転落しかねない。下生えの夏草と、崖に生え繁った樹木のために、どこまで歩いたら足場を失って転落するか、子供には見きわめにくいのだ。  しかし、天田はガードフェンスのないことが気に入っていた。そんなものを使って自然の美観をそこねたくないホテル側の気持がよく判った。だいいちここは頑是《がんぜ》ない子供を連れて来るところではないと思った。  たしかにそれは大人の遊び場であった。丹念に刈り込んだ芝にも、その贅沢《ぜいたく》さを感じてしまうのだ。 「桜があると言ったな」  ロビーで夫婦づれが喋《しやべ》っているのを聞いたのだ。広大なこのホテルの敷地内に、何十万本とかの桜の木があり、花の咲く季節には、満開の桜の中を、花見がてらにのんびりとゴルフを楽しむのだという。  たしかに、そこここに桜の木が見えたが、今は夏で桜の木も影がうすく、見事な松の枝ぶりばかりが目立った。  風景をたのしみながら歩いているうちに、グリーンのそばまで来てしまっていた。今まで来た道と直角に交差する細い道があって、それを左へ行くと4番ティーへ出るようだ。  そろそろ引き返すか……。  天田はそう思ったが、ひときわ濃い緑の中の小径《こみち》に魅《ひ》かれて左へ足を向けた。白い半球をふたつ置いたレギュラー・ティーのそばに、天田にも読める英文の標識が立ててあった。  Good-bye 「グッド・バイ、か」  天田はニヤリとした。ゴルフを知らない天田にも、その意味はよく判った。さっきの崖の切れ込みが沢だとすれば、それは入江であった。ティーは真北、グリーンは真南に位置しているが、そこは海に突き出した岬《みさき》で、その岬のつけ根がひび割れしたように深い入江になっているのだ。勿論《もちろん》その入江にも樹木が生い繁っているが、海がボールの飛ぶコースへ左側からぐいと押し寄せた形になっていて、ほんの少しでも左へボールが寄れば、ニックネーム通りに、ボールは断崖絶壁の下へグッド・バイというわけである。さっきまで歩いて来た道路はフェアウェイの左側になっており、グリーンの後方もまた断崖であった。 「こいつはむずかしそうだ」  天田はそうつぶやき、崖となってコースへ切れ込んだ入江を避け、道路のほうへ足を向けた。入江を越したところにレディス・ティーがあり、そのすぐ前方の松の木のかげに、バンカーがふたつ並んでいるのが見えた。  ボールをグッド・バイさせぬよう、右へ寄せて打つと、多分そのバンカーにつかまってしまうのだろうし、右へ狙《ねら》いすぎれば松の生えた山の中へ飛び込むことになりそうだ。  グリーンの前面にも、かなり大きなバンカーがある。天田はそのむずかしそうな様子に好奇心を起し、すでに旗を立ててあるグリーンのほうへ向かって急ぎかけた。     2  天田が急に足をとめたのは、右の松林のあたりにコースの手入れをはじめた係員がいるのに気付いたからである。  八時スタートと聞いて来た。反射的に腕時計を見ると、七時五十分になろうとしていた。  ゴルフをやらない天田は、自分がプレーをする人々の邪魔になることを惧《おそ》れた。グリーンのそばにももう一人係員が出て来て、芝刈機のモーターの音を立てはじめた。  天田はくるりと踵《きびす》を返すと、ラフを越えて道路に入り、足早に今来た方角へ戻りはじめた。  グリーンのそばで芝刈機を押している男は少し右足を引きずっていた。  津野田である。  津野田は急に背を向けて立ち去る天田のうしろ姿をじっと見送った。その左前方で浅辺も天田を見守っていた。  天田の姿はすぐに松のかげにかくれて見えなくなった。津野田は芝刈機のモーターをとめ、浅辺のほうへ手をあげると、右足を引きずりながら、となりの15番のフェアウェイへ芝の生えた坂を登って行った。 「あん畜生、やっぱりそうだ」  津野田が言うと、浅辺は大きく頷《うなず》いた。 「これでもう間違いない」  浅辺も確信を持ったようだった。 「どうする……」 「広瀬さんの指示待ちだな」 「しかし、邪魔をされてはかなわないな」  津野田が言うと、浅辺はまたあの通信機をとり出した。 「熊谷より海岸通り。海岸通りどうぞ」 「こちら海岸通り」 「兵隊が現場をチェックして戻った。プリンス・メロンを食いたがるかも知れない」 「了解。まかせておいて」  左織は簡単に答えて通信をおえた。 「奴《やつ》と伊奈が接触するようなら即座に中止だぞ」  浅辺は自分に言い聞かせているようだった。 「別班なら邪魔はすまいよ」  津野田は他人事のように軽く言う。 「湖東を必要とするからか」 「そうだ。次期防衛計画を湖東は全面的に支持している。その湖東を防衛庁筋が好んで失脚するほうへ持って行きはしないさ」 「そう簡単な話ならいいんだがな。たしかにG㈼ならそういう考え方で通るだろう。しかしG㈼別班となると話は別だ。アメリカは全然別なことを考えているかも知れない」 「湖東を切ったほうがいいと……」 「その可能性もなきにしもあらずさ。油断はできない」 「この作戦を阻止する気なら、あんな男を一人だけしか送り込まないというのはおかしい」 「一人だけかどうか」 「まだいるというのか」 「疑えばいくらでも疑える。例のテレビ局の連中だ。三十何人かのコンペだぜ」 「あれが全部兵隊だというのか……まさか。俺《おれ》にはそうは思えない」 「たとえばの話さ。広告代理店の四人づれもいる。年恰好《かつこう》から言っても、テレビ局の連中よりはずっとぴったり来るじゃないか」  津野田が笑った。 「よせよ。俺だって少しは人を見る目があるつもりだ。いやしくもJCIAとか人に言われるG㈼の関係者が、あんなフワフワした目をしてるものか。もしあれが演技だとしたら、俺は日本の情報機関を世界一だといいたいね」 「たしかにそうかも知れない」  浅辺は苦笑して頷いた。が、その苦笑もすぐに消える。 「だが、もっと恐ろしいこともある」 「恐ろしい……」 「うん」  浅辺は崖のほうを見た。 「G㈼は言うまでもなく陸幕の指揮下にある。その陸幕がもし、俺たちと全然別な結果を望んで今度のことに手をかしているとしたらどうなると思う」 「陸幕が……」 「そう。陸幕の誰《だれ》かさんがだよ」 「判らんな。君はいったい何を疑っているんだい」 「俺がたった今疑いはじめたのは、大工が注文通りの仕事をしてくれなかった場合のことさ」 「大工が注文通りの仕事をしないって……」  津野田は愕然《がくぜん》としたように浅辺をみつめた。     3 「まさか、まさか、まさか……」  津野田はたて続けに言い、不自由な右足で草を蹴《け》った。 「冗談じゃないぞ」 「いや、俺は本気だ」 「嘘《うそ》つきほど人を疑うんだ」  津野田は高い声で言った。浅辺はせせら笑い、 「嘘つきの嘘を見破るのが君の役目じゃないか」  と言った。 「今になってそんなことまで疑うなら、この作戦はやめにしたほうがいい」  津野田は硬い表情できっぱりと言った。 「それがチェッカーとしての発言なら、俺はすぐ中止させるよ」  津野田は腕時計を見た。 「八時十分。スタートまでに三時間しかない。すぐ本部に連絡しよう」  二人はホテルへ向かって急ぎはじめた。 「まったく恐ろしいことを言い出しやがる」  コースを横切りながら津野田は非難するように言う。 「大工がこっちの注文通りに動かなかったら、紀尾井総理はどうなると思うんだ」 「死ぬしかないさ」  浅辺は沈んだ声で答えた。 「肉体的な危険に対して異常なくらい恐怖心が強いというが、それが今度の件を嫌《いや》がっているというのは、何か予感しているせいかも知れないな」  津野田はそれをおぞましげに聞いた。 「冗談じゃない。あの崖から落ちたらまず命はない。仮に命をとりとめても、政治家としてはもうやって行けんだろう」 「ああ。長い病院ぐらしがおわった頃《ころ》には、完全に過去の人になっている。しかしそれも余程の好運に恵まれての上さ。まず間違いなく死ぬね」 「湖東はどうなる。突き落すのはあいつだぜ」 「殺人罪だな」 「G㈼はそこまで湖東を追い込むか……」  すると浅辺は失笑した。 「それこそまさかさ。湖東が総理大臣を崖から突き落して殺した、なんてことが世間に知れてみろ。保守党に投票する奴は立候補した者とその家族くらいしかいなくなってしまうよ。百パーセントの保革逆転さ。防衛庁がそんなことを望むわけがない。あそこは人民が大嫌《だいきら》いなんだ。国民……いや、臣民《しんみん》が好きなんだぜ」 「でも、湖東もいなくなることは確実だな」 「ああ、伊奈が目撃者だからな。湖東にとっては、黒い霧を洗いざらい明るみに持ち出し、そのことで収監される以外に、総理殺しの罪をのがれる道は何ひとつないことになる」 「残るのは伊奈玄一郎か」 「そうだ。大工が俺たちの計画と逆のことをすれば、伊奈にとって総理の椅子《いす》は空くわ、ライバルは自滅するわで、盆と正月が一遍《いつぺん》に来たようなもんだ」 「と言うことは、G㈼の狙いは……」 「判らないね」 「考えてみよう」  津野田はすべり易《やす》い芝生の坂を登りながら言う。 「伊奈に無競争の状態を与えることで、いったいG㈼の側にどんな利益が生じるんだ」 「だから判らないと言っているんだよ。誰にでも考えつくのは、政界の浄化さ。ことに保守党のね。伊奈は理想主義者だからな。しかし、あっちにそれがどう役立つか、よく判らない」 「本気で日本の政治を綺麗《きれい》にしようというのかな」 「まさか、ともう一度言いたいね」  浅辺は底意地の悪そうな笑い方をした。 「すると軍事的な面かな」  津野田は真剣だった。 「安全保障の問題、第三国との協力関係……」 「もしそういうことだとすると、俺たちの作戦はアメリカの軍部の存在を全く無視しているのだから、根本的に練り直さねばならなくなる。津野田さん……」  浅辺は強い声で言った。 「何だい」 「俺は絶対に嫌なんだ。嘘部が今どきのスパイみたいな連中に負けるのが」  津野田は答えなかったが、浅辺の気持はよく判ったようであった。古代から連綿とつらなる日本の伝統ある嘘部集団が、一介《いつかい》の兵士づれにその裏をかかれることは、断じて許せないことに違いなかった。     4 「オレンジ・ジュースに、バター・トーストとスクランブルド・エッグ」  天田がダイニング・ルームのテーブルについて朝食を注文している。 「スクランブルド・エッグはハムをおつけしますか、ベーコンにいたしますか」  ウェイターが訊《き》く。 「ベーコン。それにコーヒーを」 「かしこまりました」  ウェイターが去ると、天田はほっとしたようにダイニング・ルームの中を見まわした。彼のすぐ右のテーブルに若い四人づれがいて、そのもうひとつ先の席に天田も顔くらいは知っている政治家が、二人の男と一緒にやはりスクランブルド・エッグを食べているところだった。  ルームサービスでコーヒーを飲んだが、部屋にとじこもっている気がせず、ダイニング・ルームへ出て来たのであった。  伊奈玄一郎という保守党の大物だな。  天田はそう思い、連れの二人も政治家だろうと大ざっぱにきめて視線を入口のほうに移した。  美人が入って来て、天田のテーブルのうしろの空席をめざしていた。カメラをぶらさげた男が少し遅れてそのあとに続く。  高そうな女だ。  天田はそう思った。いずれ名ある家の令嬢なのだろうが、どこからどこまで高価なもので統一してあって、手がつけられないと言った感じだった。それに、令嬢と言っても清楚《せいそ》な印象はなく、華やかに熟《う》れた艶《つや》っぽさが溢《あふ》れている。  俺には昌子のような女が合っている。  天田はあきらめるのではなく、確信をもってそう納得《なつとく》した。あんなタイプの女を女房にしたら、一度や二度は浮気されるのを覚悟しなければならないだろう。そういう女は浮気がバレても詫《わ》びたりしないかも知れない。自己主張が強くて、いろいろとむずかしい理屈を並べたて、どこまでも対等の話合いで和解なら和解、離別なら離別ときめることだろう……。  それは天田にとって、まるで異質な世界であった。昌子ならそんなとき、ただひたすら泣いて詫びるか、悪かったという書置きをして、その相手と行方をくらましてしまうに違いない。ぶたれても蹴られても苦情を言えた立場ではございませんという奴だ。  いや、浮気などしないにきまっている。貧乏人には小さな嘘はつけても、大きな嘘はつけっこない。大きな嘘がつけないからこそ、貧乏人でいるのだ。そして昌子は生涯《しようがい》貧乏人……。  天田は自分の顔が笑み崩れそうになるのを辛うじてこらえた。こういう桁違《けたちが》いに高級な場所で一日泊って見て、自分のいるべき場所がはっきりと判ったように思ったのだ。  帰ったら昌子に会って見ようか……。  天田は間もなくその肩の凝るホテルから出られるので気が軽くなり、そんなことを考えはじめていた。昌子は築地にある〈新かわ〉の本店で女中をしているのだ。天田もその本店で少し働いたことがあり、そのとき以来二人はモヤモヤとした関係にある。  昌子とデートか。  天田は自分の前に運ばれたオレンジ・ジュースのグラスを取りあげながらかすかに頬《ほお》をゆるませた。  あいつ、世帯を持とうと言ったらどんな顔をするだろう。少し泣くかも知れないな。  そう思っていたとき、伊奈玄一郎が席を立って、天田のすぐそばへ来た。天田はそれが現在の副総理だということを知っていたが、そんなえらすぎる人が身近に来ても、別にどうということはなかった。  しょっ中テレビに出る人気歌手がいたというのなら土産話にもなるが。天田はそう思いながらオレンジ・ジュースを飲んだ。 「よろしくやっとるな」  ワッハッハ……と笑って伊奈はダイニング・ルームを出て行く。  昌子と結婚しよう。  天田はそう決心した。あの場所でいい。腕のいい板前《いたまえ》だと言ってくれる人が何人かいれば、俺はそれで充分だ。生涯アパートぐらしだって、どうということはない。腕だ、技術だ。昌子のような女ならそういう生き方を理屈抜きに判ってくれるに違いない。昌子なら、どんなぼろアパートだろうと、小綺麗にしてくれる筈だ。  天田はその朝、新しい人生に踏み出すような、新鮮な気分になっていた。多分、ゴルフ場の美しい芝生の上を歩くのも、これきりになるであろうが、彼にとってそういう世界は、遠い存在でいっこうにさしつかえなかった。     5  作業衣を着たまま地下から息を切らせて塔屋の階段を駆けあがった浅辺と津野田は、五階のドアをあけて廊下やエレベーター・ホールに人影がないのをたしかめると、身を翻《ひるが》えして520号室へ飛び込んだ。あらかじめその修理の為に閉鎖中の部屋を使わせてくれるように頼んであるから、電話は切られていない。  浅辺がすぐ受話器を把《つか》み、東京の番号をまわす。電話がつながる短い間、浅辺は二度ほど深く息を吸い込んで激しい息づかいをしずめようとした。 「はい」  浅辺にとって聞き慣れた男の声がした。 「浅辺、です」 「何だ、息を切らせているのか」  先方の男の声が少しけわしくなる。 「いえ、階段を駆けあがって来たものですから」 「何があったんだ」 「例の男がグッド・バイへ行ったんです」 「4番へか」 「はい」 「何かしたか」 「先まわりをして見張っていたら、我々に気付いて急にホテルへ戻りました」 「何もしないでか」 「そうです」 「それなら別にあわてることはなかろう」 「しかし、その動きで奴がG㈼の関係者だということははっきりしたと思うんです。あの男の身もとは判りましたか」 「ああ、こっちもゆうべは全力をあげて調べあげた」 「で、常川というのは……」 「それがいまだに判らん」 「それは困りますよ、広瀬さん」  浅辺の声が大きくなる。 「ミリオン通信の常川晃次が背後にいるんですよ」 「そうかも知れんが、何も把めていないんだ」  浅辺は津野田のほうを見て舌打ちした。 「で、あの男のことは……」 「天田徳三は、渋谷の料理屋の板前ということになっている」 「そんなばかな」 「調べるとそういうことになるんだ」 「畜生、うまく糸をもつれさせてやがるな」 「別班も近頃はなかなかやるよ」 「のん気なことを言ってる場合じゃありません。へたをすると、とんでもないことになりますよ」 「とんでもないこと……」 「ええ。潜水艦で崖の下に送り込んであるレインジャーたちが、こっちの作戦を無視して勝手なことをしたらどうなると思うんですか」 「勝手なこととはどういう意味だ」  広瀬は明らかに緊張しているようであった。 「受けとめてくれなかったらですよ」 「なぜそんな風に考える」 「軍には軍の思惑があるかも知れないということですよ。我々は今度の作戦でアメリカの意向を全然考慮していません。それでいながら陸上自衛隊の一部に協力を要請したんです。向こうが待っていましたとばかりにそれを利用したら、イーグルは死に、サンドウェッジは質屋に入ってしまいます。そうじゃありませんか」  広瀬はしばらく無言だった。 「天田徳三が常川という人物の予約でこのホテルへ送り込まれて来たのは事実なんです。その常川の正体が、あのミリオン通信の常川だとしたら、この作戦は中止すべきじゃありませんか。こっちではそう考えはじめてるんです。それなのに、天田は板前だなんて」 「コースに出るのは十一時だったな」 「ええ」 「グッド・バイまでに、1、2、3番で四十分から五十分かかるだろう」 「のんびりまわって四時間、二百四十分。十八ホールで割ると単純計算で一ホール十三、四分というところですか」 「十二時少し前だな」 「ええ、作戦通りならサンドウェッジでショットするのはそのあたりです」 「常川に直接当たろう」 「広瀬さんがですか」 「ああそうだ」 「あの狸《たぬき》も、その時間を承知しているかも知れませんよ。天田は妙にのんびりと歩いてましたから、時間をはかっていたのかも知れません」 「天田はどうしている」 「海岸通りがマークしています」 「杞憂《きゆう》だとは思うが、万一そっちの言う通りなら考えねばならない。ありったけの筋を使って防衛庁のほうをたしかめてみる」 「そうしてください」 「当分そこを動くなよ」 「判ってます」  広瀬は念を押して電話を切った。浅辺は深い溜息《ためいき》をつき、受話器を戻した。 「広瀬さんが本気でやってくれれば何とか間に合うだろうな」 「天田は板前だって……」 「調べたらそんなことになってしまったそうだ」 「小見に言って奴の顔写真を撮らせよう。どういうことになるにせよ、顔写真は必要だ」 「たのむ」  浅辺は服を着がえはじめた津野田にそう言った。     6  津野田はダイニング・ルームの前で左織と顔をつき合わせた。 「どうした」  表面のん気そうに笑顔で言う。左織は人前で接触しない筈の津野田が声をかけて来たので、敏感に異常を察知したようだ。 「小見君がつけて行ったわ」 「奴の顔写真が要る」 「それならさっき、彼がダイニング・ルームで撮っていたわ」  津野田はほっとしたように肩の力を抜いた。 「天田は板前だって言うんだよ」 「東京で……」 「そう」 「そんなわけないわよ。板前がどうして一人きりでこんなホテルに泊ってるの。伊東の温泉旅館ならとにかく。それに、あれは兵隊よ。見れば判るわ」 「君も同意見か。いよいよ相手は別班ときまったな」 「笑わせないで。JCIAなんかにだし抜かれてたまりますか」 「浅辺もそう言った」 「でも、何をうろたえてるのよ」 「イーグルを連中が受けとめないかも知れないんだ」 「まさか」  左織は唇《くちびる》を噛《か》んだ。二人は喋りながら、サンパーラーの望遠鏡のところまで来ていた。 「しかし、そういう可能性もありそうだ」 「そうなったら、サンドウェッジもだめになるわ」 「残るのは……」 「プリンス・メロンだけ。無競争よ。みんな気を揃《そろ》えて彼をかつぐでしょうね」  左織は望遠鏡をのぞくふりをして言った。サンパーラーに人影はない。 「政治家なんてそんなものよ。保守党は久しぶりにすっきりした感じになるわね。国民も案外綺麗好きだし」 「実は、俺もだんだん落着いて来たようなんだよ」 「どういう風に落着いたの……」 「それもいいんじゃないかと思ってね」 「ばか言わないでよ」  左織は憤然として望遠鏡のそばを離れた。 「プリンス・メロンじゃどうしようもないわよ。サンドウェッジの汚れは、あの党全体の汚れじゃないの。そのサンドウェッジを切りすてて、汚れをさらけ出したら逆転間違いなしという答えが出たからこそ、あたしらがこうして動いているんじゃないの。甘っちょろいことを言わないでよ」  津野田は左織のあとに従いながら頭を掻《か》いた。 「本気で言ったんじゃない。ただ、君らに関係のない、一人の有権者としては、少しはクリーンな政治を見るのも悪くないなと思ったまでさ」 「汚れは根っこからてっぺんまでよ。一度それが倒れたら、次から次へとめどなく汚いことがさらけ出されて行くわ。サンドウェッジがやりすぎたってことは誰だって認めるけれど、そのサンドウェッジの瑕《きず》は、政界ばかりでなく、財界にまでひろがってしまうじゃないの」 「判った、判ったよ。君らの使命は古代からただひとつだ。朝廷を守るんだろう」 「日本という国をよ」  左織は確信に満ちた顔で言った。 「JCIAなんて、所詮《しよせん》は幕府を作りたがっているだけよ。征夷《せいい》大将軍のもとにね」  津野田は黙ってそばのソファーに腰をおろした。左織は足早にサンパーラーから出て行った。     7 「見ろ」  紀尾井英介がベランダに出て秘書の浦上洋司に言った。 「何でしょう」  浦上がそばへ近寄る。 「パットの練習をはじめたぞ」  伊奈玄一郎が、練習用のグリーンに出て背を丸めていた。 「ほう、張り切っておいでですな」 「わたしもやろう」  紀尾井はニヤニヤしながら言う。 「総理も、ですか」 「少し気を揉《も》ませてやりたい者がいる」  紀尾井はそう言うと部屋を出ようとした。すでにゴルフ・ウェアーに着がえていた。 「じゃ、お仕度を」  浦上は紀尾井の脇《わき》をすり抜けるように先にドアをあけて廊下へ出た。  貴代子はその頃、一階のエレベーター・ホールで、ロビーのほうからやって来た新井とすれ違っている。 「やあ」  新井は口の中で低く言い、微笑して見せた。 「おはよう」  貴代子は無表情で言ったが、急に女主人の態度になって、 「主人はまだ寝ているけれど、今日は帰りますから準備をしておいて」  と新井に命じ、そのままダイニング・ルームへ向かった。新井は登って行くエレベーターの標示ランプを見ながらニヤニヤしていた。貴代子が朝の内機嫌の悪いことはよく承知していた。それに、ゆうべは木田川に抱かれたにきまっている。貴代子にしてみれば気まずいに違いない。  気にすることはないのに。  新井はことさらツンツンして見せる貴代子を、やはり女だな、と思っている。それだけ彼を気にしていることであるし、悪い気はしなかった。  朝食の時間はおわりかけている。貴代子はギリギリで間に合ったようだった。  小林貞夫と美代子の二人が席を立った。 「ねえ、伊豆をひとまわりして行かない……」  美代子は小林の右腕をしっかりとかかえて言った。 「伊豆をひとまわり……本気かよ」 「嫌……」 「疲れるよ。運転するのは俺だからな」 「ねえ」  美代子は甘え声でしつっこくせがむ。 「西伊豆へ行ってみたいの」 「この次にしようよ」 「だめ、今日行くの」  小林は内心|眉《まゆ》をひそめる思いだった。何の権利があって俺にそんなにへばりつくのだと、できれば声高《こわだか》に言ってやりたい気分だ。 「判ってるだろう。ここへ来るんだって仕事を残して来たんだよ」  しかし小林の声は甘い。いつまでも一緒にいたいがやむを得ないのだという表情である。 「だってえ」  美代子はいっそう甘える。何もドライブをしたいのではないのかも知れない。思い切り甘えたいのだし、それに、小林に無理を言うこと自体を楽しんでいるようだ。  美代子にすれば、今朝は二人の仲が決定的にかたまった記念すべき朝だと思っている。小林の部屋を訪ねたときははずみでそうなったが、このホテルで愛し合ったのは完全な合意にもとづいているし、結婚の約束もしたのである。今日一日、二人は同じ場所から世界を眺め、同じ風を肌に受けているべきだと思っているのであった。  すぐに女房づらをしやがる。  小林にも美代子のその朝の気分はよく判っている。明け方まで徹底的に美代子を悦《よろこ》びに浸らせ、甘やかし、自分も甘い言葉をささやき続けたのだから。  しかし、そのツケがはやばやとまわって来た、という風に小林は感じているのだ。朝、彼にとって美代子が貴重な存在であるのは、社長の姪《めい》だという一事である。やがては建築界の大御所とも呼ばれるはずの溝口先生を父と呼べることは、小林の将来にとって限りない豊かなものをはらんでいる。  小林は自分をまだ未熟だと反省しながら、優しく美代子の腰に手をまわした。組んでいた右腕をといて腰にまわされた美代子は、小林にすっぽりと包み込まれるような感じで歩いている。  もう誰に見られたってかまわない。  美代子は小林を独占したように感じ、満足していた。 「でも、無理だったらいいのよ」  美代子は小林の顔をみあげて言った。     8  広告代理店の四人組は、北のコースのキャディー・ハウスの辺りで、ばったりとテレビ局の連中と顔を合わせてしまった。 「やや、不届者」  テレビ局の営業部員が、四人組を指さして大声で言った。 「いけねえ」 「いけねえじゃないでしょう。主力選手に四人まとめてサボられたんじゃ、社長もお気の毒だ」 「そう言わないでよ」 「いや、言いますよ」  そのやりとりに、五、六人の顔見知りが一度に現われてからかう。 「懲戒免職」 「そりゃ気の毒だよ。みんな多かれ少なかれやってることだもの。いいところ減俸かな」 「そりゃないよ。悪いとこを見られちゃったな」 「反省するか」 「はい。反省しております」  みんなゲラゲラと笑う。 「よくやった」  テレビ局の一人が四人組に握手を求めて来る。 「まさに貴殿らの行動は英雄的である」  四人組は気を揃えて照れて見せている。 「からかうなよ、これでも気が引けてるんだから」 「別に悪いことしてるわけじゃない。なあみんな」  テレビ局の一同は大げさに同意する。 「そうだよ。気のきいたサラリーマンならみんなやってることだ」 「どうだい、こっちのコンペへ入らないか。今からならまだ都合をつけられるぜ」 「入れてくれるかい」 「入れ入れ」 「でも、スポンサーと一緒に来てることになってる」 「よし、それじゃ俺がそのスポンサーになってやろう。カードの名前を変えればすむことだ」 「有難い、証拠ができた」 「そのかわり、こっちで今度何かあったら面倒見てくれるか」 「見るとも」 「それはいいけど、あまり稼《かせ》いでくれるなよ。いい賞品が出てるんだから」 「運悪く賞品をもらったらお返しするよ」 「いい気なもんだ。取る気でいるよ」 「だから、運悪くと言っただろう」 「よしきまった。手続きをやり直して来る」 「持つべきものは友達だね」 「悪友だよ」 「お互いに使われる身だ。せいぜい堅いことを言わずに行きましょうや」 「結構だな。こう来なくちゃ」 「見てくれよ、あの顔ぶれを。君らが狙ってるスポンサーがたくさんいるぜ」 「あ、茶山《さやま》製菓さんと組ませてもらえないかな」 「そりゃ図々しいよ。割り込んだ上に商売もしようというのかい」  また大笑いになる。  そのころ、ホテルの前の練習用のグリーンにも、高い笑い声が響いていた。 「バンカーか、それはいい」  笑っているのは伊奈玄一郎だ。紀尾井が湖東のことを話題にしたのだ。 「彼はもっとバンカー・ショットを勉強すべきなんだ」 「同感ですな」  伊奈はまだ笑っている。 「よくバンカーにつかまりますからな」  どうやらゴルフのバンカーと銀行マンの両方にひっかけているつもりらしい。湖東に関する今度のスキャンダルの中には、某一流銀行の名があげられていた。  伊奈は紀尾井のその言葉を、自分に有利なものと感じていた。今日これから示される紀尾井の決断は、どう考えても湖東に有利なものではあり得ないと確信した。  恐らく湖東はこれを見てヤキモキしているに違いない。  伊奈はどこかの窓にある筈の湖東の目を意識しながら、ことさらに紀尾井のそばへ寄った。 「この間有名なプロにコーチしてもらったんですが、球足《タマアシ》の長いパッティングの場合には、左の踵をボールとこういう位置にして……」  伊奈は紀尾井に体をすりつけるようにして教えはじめた。 「プリンス・メロンめ。いい気になっている」  湖東がロビーでそう言っていた。     9 「やっとるやっとる」  ホテルの浴衣《ゆかた》をだらしなく着た木田川作次は、ようやく目をさましてカーテンをあけ、伊奈と紀尾井総理の姿を見つけると、うれしそうに言った。  重要会談がはじまっているのだ、と信じている。 「湖東進も早く出て行けばいいものを」  部屋を空けてやったことで、何かそういう大物たちの談合に一役買ったつもりでいるらしい。 「山側だから知らんのかな」  急いでべッドのほうへ戻り、きのう泊った333号へ電話をする。受話器からは呼出音が空しく続くだけだ。  木田川は舌打ちしたが、そのまま受話器を離さず、別なダイアルをまわしはじめる。 「陽明楼かね。ああ、木田川だが長谷川社長の部屋につないでくれんか」  べッドの端に腰をおろして傲然《ごうぜん》としている。もっとも観客は一人もいない。 「おお、木田川です。きのうはすまんかったですな。いや、おかげで大助かりでね。総理と伊奈さんがいま、パターの練習を仲よくやっているところだがね」  ワッハッハ……と豪快に笑って見せる。 「湖東さんもいま仕度をして部屋を出て行かれたとこだが、急に思い出したので、少し時間が早いか思うたんだが……いやいや、こちらこそ。それできのうの件ですが、あれは一応お引受けするということに……その話はあとでまたゆっくりするとして、とにかくそういうことですので一応早目にご連絡をと思いまして。儂《わし》もこれからひとまわりお付合いせんならんもんだから……はい、それでは」  木田川は受話器を置いた。スーパー・チェーンの長谷川から申込まれた融資をどうするか、たった今まで何も考えてはいなかったのである。しかし、大物への階段をめざす木田川にとって、いまホテルの前にころがっている材料をそのままに放置する気にはなれなかったのである。  長谷川はずっと下のほうにいる男だ。伊奈や湖東、そして紀尾井総理などと自分がいくらかでもかかわりを持っていると思い込ませるには、恰好の相手なのだった。  そのために融資を承知してしまった。しかし木田川は少しも惜しいとは思っていない。貸した金は返させればいい。自分をふくらませて見せたことで充分に満足していた。 「貴代子め」  木田川はニヤニヤしながらもうひとつのべッドを見る。ゆうべは完全に屈服させた。あの驕慢《きようまん》な女が、泣いて一方的に愛を誓ったのだ。  俺もいそがしいことだ。  木田川はそう思いながら着がえをはじめた。新橋《しんばし》の女のことを考えているのだ。長谷川に接待させる気になっていて、そのあと女のマンションへ行かなければならないときめていた。やはり芸者のほうがこまかい所に気が付くようだな……木田川は乱雑なべッドや化粧台のあたりを見ながらそう思った。  新橋の女はすべてに几帳面《きちようめん》で、いまだに木田川には脱ぎ散らした着物など見せたこともない。  部屋を出ると、エレベーター・ホールで所在なげに外を見ていた新井が、待っていたらしく木田川に近寄る。 「何時にお帰りになりますか」 「まだ判らん」  木田川は道ばたの石を見るような目で答えた。 「奥さまにお帰りの用意をして置くよう言われたものですから」  新井はエレベーターのボタンを押しながら言う。 「あれはどこだ」 「多分お食事ではないかと」  木田川は開いたエレベーターのドアの中へ入る。新井が外で叮嚀《ていねい》に頭をさげた。 「では部屋でお待ち致します」  ドアがしまると新井は肩をすくめ、ズボンのポケットに両手を突っ込んで自分の部屋へ戻りはじめる。  ひょっとすると木田川がコースに出るのではないかと期待している。そうなれば、貴代子は暑いからとか何とか口実を設けて、自分の部屋へ忍んで来るだろうと考えているのだ。  ただであんないい女が抱けて、その上給料がもらえる。こんないい仕事は当分手ばなしたくない。もう少し貴代子にサービスすれば、そろそろ小遣いくらい寄越したくなる頃なのだが……。  新井は部屋へ入った。窓をあけ、空気をいれかえる。貴代子を迎える準備だった。     10 「遅い」  浅辺が焦《じ》れている。 「広瀬さんにしてはやることが遅すぎる」  津野田が慰めるように言った。 「問題はでかい。危険なら放っておくわけがないよ」  浅辺は焦れている自分を恥じるような表情になったが、 「くやしいじゃないか」  と、無理をして自分自身をソファーへ押し込むように坐《すわ》った。 「あんな連中にしてやられるなんて」 「してやられたときまったわけでもないのに」  津野田は笑って見せた。 「君らの気持は勿論判っているがね」 「たしかに、いよいよとなってまだ天田の正体がはっきりしなければ、本部は中止命令を出して来るだろう。しかし、やはり連中に邪魔されたことに変わりはない。嘘つきというのはね、自分が嘘をついているということを見破られたら、死ぬほど恥ずかしがるもんなんだよ。事実、見破られた嘘を真実にしてしまうため、自分から死んで行った嘘つきさえいるんだ。或《あ》る意味で、嘘つきとは理想主義者なんだ。完全主義者と言ってもいい。何ひとつ遅滞なくその嘘が他人に呑《の》み込まれなければ承知できないんだ。天田は僕の嘘に突きささったピンだ。棘《とげ》なんだよ。あん畜生、消してしまいたい」 「物騒なことを」  津野田は真顔で言った。 「これはもう君の責任を超えている。すべてもう何もかも本部の責任なんだよ」 「そうは行かない」  浅辺はむきになっていたようだ。 「俺の美意識の問題さ。たしかに俺は焦っている。しかしそれは、JCIAであるG㈼別班を欺せないから焦っているんだ。彼らが我々と逆のことを企んでいるとしたら、今度の嘘はその真の意図を露出させてしまうことに用いられるべきだった」 「与えられたテーマが違うんだから仕様がないじゃないか」 「何とか連中を嘘に巻き込んでしまいたい」  浅辺は歯がみするように言った。 「もうすぐ十時だ」  津野田は腕時計を見た。浅辺はたまりかねたように一気に立ちあがり、窓際へ行った。 「嫌だ。嘘を見破られたくない」  津野田はその焦燥に巻き込まれまいとするかのように、目をとじた。 「正倉院に対する禁忌を作り出すために、盗人のふりをして死んでいった嘘部がいる。そのような嘘が積み重なって、正倉院は現代まで守り抜かれた。嘘部の末裔《まつえい》である君の誇りと、それ故の焦りはよく判る。しかし、嘘のテーマを正確に与えられていなかった場合、それは嘘部の失敗とは言えんよ」 「判っている。判っているがどうしようもないんだ。俺は嘘つきだ。嘘に生きる人間だ。嘘の為に生まれ、嘘の為になら死んでもいいと思っている。普通の人間とは違うんだ」 「ちょっと待てよ。これは皮肉で言うんじゃない」  津野田は目をあけ、浅辺を睨《にら》むようにみつめた。 「今日このホテルに三百人近い人間が泊っている。今朝、ゆうべ、そしてきのう、その三百人がどれほどの嘘をついたか考えて見たか」  浅辺は窓の外に体を向けたまま、ギクリとしたように動きをとめた。 「…………」 「嘘は嘘部のものだけじゃないんだぞ。たしかに君らは嘘のプロフェッショナルとして千年以上の歴史を持っている。しかし、人間はそのずっと以前から、絶え間なしに嘘をつき続けているじゃないか。最近になって日本史の深部にかくされていた嘘部を再発見し、それを現代に活用しようとして黒虹会が作られた。その為に、現代の嘘部は自分たちの特殊性をことさら強く意識させられてしまっているようだ。日本という国の秩序を支えて来た嘘つきのエリート集団だ。嘘のプロフェッショナルだとね。しかし果して昔の嘘部も君らと同じプライドに生きていたかな。誰でもがつく嘘を、何人かが集団的に一定の方向にむけてついただけだったんじゃないのか。人間はみな嘘をつく……そういう認識の中での嘘だったんじゃないだろうか。俺はそう思うよ、ゆうべここに泊った三百人の客のうち、何人が嘘をつかなかっただろうか、とね。そういう認識の上にたてば、嘘部の嘘が見破られるかもしれないということで、それほど激しくプライドを傷つけられるはずはないと思うがね」  浅辺は身じろぎもせずに外をみつめていた。  第7章 闇の中の殺人     1  37番ホール、つまりプレーをおえた客がまだスパイクをはいたまま一杯やれるグリルの前のバーのあたりに、ちょっとした人だかりができている。  湖東進、伊奈玄一郎、そして総理大臣の紀尾井英介の三人が、明るい色彩のゴルフ・ウェアーを着て、これから南のコースへ出ようとしているのだ。  本来ならそのずっと先のゴルフ・ロッカーのフロントで手続きやら準備やらをすませて出発するのだが、やはり現閣僚ともなると、こまごまとしたことは秘書たちがすませて、当人たちはそのバーのそばのドアから外へ出てしまうらしい。 「どうだね、一杯やってからコースへ出ては」  紀尾井が湖東に言う。 「いやいや」  湖東は真顔で手を横に振る。 「少し入ったほうが調子がいいんじゃないかな」  ホテルの従業員が何人かと、泊り合わせたゴルファーの一団が物珍しげに三人を遠巻きにしており、冗談とも言えないその程度の紀尾井の軽口に、大げさに反応して笑い声をあげる。 「湖東君はこのところめっきり腕をあげたそうだからな。高度成長だ」  伊奈もからかう。 「大蔵省としては堅実に行きたいところですが、わたしのフォームはどうも農林タイプだそうでね」  湖東がクラブを振る真似《まね》をしながらいうと、紀尾井も伊奈もギャラリーたちもいっせいに笑った。 「わたしも三度ほど農林大臣をやったな」  紀尾井が言った。 「総理はいいフォームだ」  伊奈が言うと湖東は問題にならないというように首を振った。 「そりゃキャリアが違う」  紀尾井は悪戯《いたずら》っぽい目で、 「年月でなく回数の点では君のほうが上じゃないかな」  と笑う。 「君はやりだすと何でもとことんまでやるたちだからな」 「つまり、情熱ですかな」  湖東はさらりとかわした。伊奈が攻撃的になっているのを、とうに悟っているのだ。 「何にでもわたしはすぐにカッカとしますからな。それでだいぶ損をしている」  政治資金集めの問題に、両方ともあと僅《わず》かで触れそうなところまで行っては、相手の反応を見ている。 「さて、外へ出て見るか」  紀尾井は濃い緑に赤い線の入ったバスが近付いて来るのを見ると、そう言ってバーの横の椅子《いす》から立ちあがった。バスにはキャディーが三人と、秘書たちの姿が見える。  人垣《ひとがき》が割れてドアがあき、三人は外へ出た。するとその左手の和食堂になっている一戸建ての田舎家のほうから、素早く左織と小見が現われた。  小見は35ミリ・カメラを構えて三人を撮る。 「報道陣はシャット・アウトしてある筈《はず》だが」  紀尾井が不満気に呟《つぶや》くと、 「いや、ジャーナリストではありません」  と伊奈が足を早めた。 「お早うございます」  左織が快活に言い、紀尾井と湖東へ眩《まぶ》しげな目を向ける。 「麻績部《おみべ》謙次郎氏の娘さんですよ」  伊奈は振り向いてその二人をかばうように言った。 「おお、いつか会いましたな」  湖東が太い声で言い、左織に握手を求めた。 「こういう人が好きなんでしてな、わたしは」  ふざけたように伊奈に言う。 「そうか、麻績部氏の……」  紀尾井も表情を柔《やわ》らげている。 「このカメラマン君と婚約したのだそうで」 「それはおめでとう」  湖東が言い、さっさと歩き出す。 「この二人だけ、ギャラリーということで」  伊奈は昨夜左織にねだられているので、約束通り紀尾井に言った。 「ああ、かまわんよ」  紀尾井はさり気なく答えたが、黒虹会の工作の最後の幕が切って落されたのを肌で感じたようであった。     2 「出た」  またコース課の作業衣姿になった津野田が、520号室から双眼鏡をのぞいて言った。 「もう1番へ向かってしまいました。どうする気なんです」  津野田は双眼鏡を胸の辺りへさげて振り返った。 「奴が板前のはずがありません」  浅辺は喚《わめ》くが、相手はとり合わないようだ。 「いいでしょう。こちらはやるだけのことをやったのです。警告もしました。もう何も言いません」  乱暴に受話器を置く。 「作戦続行……」  津野田がたずねる。 「ああ」  浅辺はふてくされている。 「天田はただの板前だ。調査結果がそう出ているのだから、この件にG㈼別班は介入していない筈だ。……デスクの前に坐って、俺たちの目よりコピーされた報告書のほうを信じてやがる。もう勝手にするがいいや」 「たしかに天田は兵隊に見える。しかし報告書のほうが正しいのかも知れない」  浅辺は上目づかいに津野田を見た。 「本気かい」 「天田がG㈼だという確証はこっちにも何ひとつないんだ。ただし、俺も怪しいと思っている。今でもだよ。しかし本部でそう決定したんだ。仕方がないじゃないか。これはひとつの組織なんだ。上があって下がある」  浅辺はふんぎりをつけるように両膝《りようひざ》をパンと叩《たた》き、そのはずみで腰をあげる。 「中止の電話が入ったら彼女に連絡してくれ。彼女が一番連中に近いんだ」 「行くか……」  津野田は浅辺から通信機を受取りながらたしかめるように言った。 「うん。とにかく見ておくよ」 「よし、こっちは引受けた。泣いても笑ってもあと一時間足らずさ」  浅辺は津野田のそばを離れると、ドアを細目にあけて外の様子を窺《うかが》い、さっと出て行った。  塔屋の階段を下りながら、浅辺は自分に言い聞かせている。  もう俺の出番はおわったのだ。役目はすんだのだ。その昔、嘘部を指揮したと思われる名がある。伊余部馬養《いよべのうまかい》がそれだ。問題はすでに伊余部の判断力にかかってしまっている。俺はただの嘘部で、嘘をつきおわってしまったのだ。もしこれが失敗すれば、また新しい嘘が必要になる。その時まで、嘘部は傍観者でいなければならないのだ。  浅辺は地階へおりると、プールの出入口から外へ出た。外は明るく、子供たちが水の中で叫び合っているのが聞えた。  彼はプールを左に見て芝生を突っ切り、緑に満ちたゴルフ場へ向かう。問題の4番ホールの近くへ先まわりして、事の成り行きを見届けるつもりであった。  左織も小見も、津野田も浅辺も、そして大物政治家の秘書たちも、みなゴルフ場に気をとられている間に、天田徳三はボストンバッグに身のまわりの僅かな品を投げ込み、部屋を出た。  もう二度とこういう高級なホテルへ来ることはあるまいと思いながら、エレベーターに乗ってフロントへ向かう。チェック・アウトは四時となっているが、気付かずに十一時だと思ってホテルを出てしまったことにする気であった。  そうだ、常川に土産を買って行かなければならない。  天田はそう気が付き、伊東の市内で小鯵《こあじ》の乾物《ひもの》を買うことにきめた。〈新かわ〉のおかみにも同僚たちにも、そして昌子にも……。  天田は大理石のカウンターに丸い札のついたキーを置いた。フロントの男はにこやかに頭をさげて計算書を取る為にうしろを向きかけたが、 「お車ですか……」  と尋ねた。 「そうだ、タクシーを呼んでもらわなければ」 「あちらでうけたまわっております。二十分ほどかかりますが」 「有難う」  天田はバッグをぶらさげたまま、制服を着たボーイのそばへ行った。 「伊東の駅までタクシーを呼んでもらいたいんですが」 「はい」  ボーイは伝票のようなものにボールペンをあて、 「お名前は……」  と訊く。 「天田す」 「お一人でいらっしゃいますか」 「うん、一人す」 「二十分ほどかかりますので、ロビーでお待ちください」  ボーイはそう教えたが、天田は頷《うなず》いて見せ、フロントへ戻った。     3  1番ティーのところに人影がかたまっている。全部で十二人だ。プレーヤーが三人にキャディーが三人、左織と小見、そして四人の秘書。大内太吉が率いる数名のボデーガードはどこかへ消えてしまっていた。  木田川作次は気抜けしたような顔で遠くからそれを眺《なが》めていた。何か虚《むな》しいのである。しかし彼は、その虚しさが長谷川に対してついた嘘のせいであるとは意識していない。  その三巨頭にまじってクラブをふるっている筈の木田川は、声ひとつかけられずに遠いところに立っているのだ。卑小感が身にしみる。俺は小物だ。成りあがりと人はそしるが、まだ成りあがってもいないのだ。これで事足れりなどとする気はない。まだこの先、あの1番ティーへ辿《たど》りつくまで、あらゆる手段を尽くして頑張《がんば》らねばならない。  木田川は自分にそう言い聞かせている。よく見ていたのだが、気付かぬ間に三人ともティー・ショットをおえたらしく、キャディーたちが動きだして右の坂へ姿を消した。四人の秘書は引き返して来る。  金だ。力だ。  木田川は歯がみする思いでそれを見ていた。知らぬ間に両手をきつく握りしめ、その握りしめた手が汗でびっしょり濡《ぬ》れていた。  遊んでばかりはいられないぞ……。  木田川の頭の隅《すみ》にそんな思いが湧《わ》いたとたん、彼は猛然と仕事への意欲に駆りたてられた。長谷川への嘘を真実にしてやらなければならない……そう決意しながら、彼はくるりと踵《きびす》を返すと大股《おおまた》で歩き出した。  いつもの悠然《ゆうぜん》とした歩きかたは演技らしい。木田川は意外に若々しい身ごなしでエレベーターへ向かう。  当面の目標は麻績部謙次郎であったが、場合によっては政界へうって出るのも悪くないと思っている。とにかく、この世の階段はまだ際限もなく上へ続いている。  駆けあがれ。這《は》いあがれ。  木田川は自分の中に煽《あお》り立てる声を聞いて我ながら頼もしいと思った。その声が聞える限り自分は登り続けるだろう……。  貴代子は化粧台に向かって化粧を直していた。新井が自分を待っていることは、殆《ほと》んど肌に感じるほどの強さで感じている。しかし、なぜかもう行く気は綺麗に消えていた。  まだ若いし、充分に美しい。  貴代子は鏡の中の自分をみつめてそう思う。やはりあたしは木田川に満足してはいないんだわ。  木田川の財力はたしかに貴代子にとって魅力的であった。何を買うにも、残りの金額を考えずに手が出せるのである。しかし、それで身を飾り、人に敬意を払われたとしても、やがて木田川の妻になり切って、世間と没交渉になるのでは、札束の檻《おり》にとじ込められたのと同じなのだ。  木田川の籍に入っていないで奥さまと呼ばれている。その状態はいかにも宙ぶらりんで不安定に見えるが、反面貴代子が木田川のそばを離れないのは、妻なみの待遇を受けているだけ、というなかば自由な状態にいるせいでもあった。  いつでも切れてやるわ。  貴代子は自分に心の中で言う。きっと自分にぴったりの男性をみつけてやる。そして今度こそ、正式に結婚するのだ。まだ若さは残っているが、その残りは少ない。新井の遊び相手になっているひまはないのだ。貴代子はそう思いながら化粧台を離れた。  木田川がやって来て、その部屋のドアをあけようとし、急に思いついて新井の部屋へ足を向けた。  トントン、とノックする。  新井は、来た、と思った。素早く立ってノブに手をかけ、貴代子がすべり込み易いように、ドアをさっと引きあけて片側の壁へ背中をつけた。  その前を、貴代子が奥へ通りすぎる筈であった。 「何だ」  外で木田川が唖然《あぜん》としたように新井をみつめていた。新井がまるで隠れん坊でもする子供のようにドアを引きあけたからである。 「ええ……はい。あの……ご用でしょうか」 「帰る」  木田川は憤《おこ》ったように言った。     4  左へ落すと木立に沿ってO・Bラインがある。崖の上からの打ちおろしで、紀尾井はうまくフェアウェイの中央にボールを落した。伊奈はそれに続いて慎重に打ち、紀尾井より一〇メートルほど先にボールをとめた。  湖東は右へかなり曲げてしまい距離も出なかった。 「さて、出発、出発」  紀尾井はそう言って坂をおりて行った。 「こりゃ、今日はいかんようだな」  湖東が首をひねった。 「悪い予感がするかね」  伊奈はそれを笑いとばすようにして紀尾井のあとに続いた。湖東の予感は当たるだろうと思っている。  第二打で、湖東は紀尾井たちと離れた。伊奈は湖東を刺激する狙いもあって、はやばやと切り出した。 「狙いは早くにつけておくべきです」 「いまつけているよ」  紀尾井は5番アイアンを握って言った。 「グリーンの右前を狙う」  そのとき湖東のボールが飛んだ。コースの右端からだと、途中の松とバンカーが気になったらしく、今度はやけに左へ寄って、グリーンへは左のバンカーごえの位置へころがって行った。 「むずかしい位置につけたな」  紀尾井がそれを見て言う。伊奈にとっては渡りに船であった。 「湖東にはっきりそう言っていただきたいですな」 「うん」  紀尾井は呆気《あつけ》ないほど素直に頷くと、打つ構えに入った。 「力まずにまっすぐ飛ばすことだけを考えよう」  それは、オーソドックスなやり方をするという意味にとれた。  紀尾井がクラブを振った。ボールは思ったより高くにあがり、グリーンの手前一〇ヤードほどのところに落ちた。 「まあまあだ」  伊奈も5番アイアンを取った。 「わたしはのせますよ」 「君は上手だからな」  今度は紀尾井が見守っている。伊奈は自信満々で打った。ボールはエッジに落ち、グリーンを少し走ってとまった。 「やはり君が一番だ。それはやる前から判っているんだ」  紀尾井は言った。深刻な表情は、プレーのことを語っているのではないようだ。 「まあ、フェアにやるつもりです」  湖東が肩を左右にゆすりながら近付いて来た。 「うまいもんですな」  伊奈に言う。 「ここはアップ・ヒルでピンが見えない」  湖東はぼやいていた。三人は歩きはじめる。 「伊奈君はのせたよ」 「そうらしいですな」 「君はむずかしいぞ」 「そうきめんでくださいよ。何とか巻き返すつもりですから」  話は急だった。思ったよりずっと早いテンポで、伊奈の望む方向へ進んでいた。  グリーンの手前で、また湖東が二人とはなればなれになる。湖東は左、紀尾井は右だ。  伊奈のところからは、湖東がどのクラブを持ったかよく判らない。とにかく、アイアンである。  湖東は第三打を無造作に振り、一度はグリーンにのせたが、ボールはそのまま走ってピンの右へ出て行った。  紀尾井も簡単に打った。ボールはうまく芝にころがり込んで、ピンの奥二メートルでとまる。 「ナイス・アプローチ」  伊奈が褒《ほ》めた。 「今のはまぐれだな」  紀尾井は満更でもない顔で言った。  左織が紀尾井に拍手を送っていた。紀尾井は、ヤア、と手をあげてこたえた。 「行きますぞ」  湖東はグリーンの上にいる二人に声をかけ、またしても無造作に打った。今度はグリーンの上にとまったが、ピンを通りすぎて左のバンカーへ落ちそうになった。 「右往左往か」  湖東はつぶやいて二人の前を通る。紀尾井はたっぷりと時間をかけて狙い、カップに音を立てさせた。 「すてき」  左織がグリーンの外で小娘のように手をうってはしゃいでいた。     5  2番はショート・ホールだ。ピンまで二〇〇ヤードたらずだから、うまければウッドの3番でワン・オンできる。ゆるいダウン・ヒルでグリーンはその坂の下にある。ただし背後は断崖だからグリーン・オーバーは危険だ。エプロンは右に傾いていて、左から流し込むように仕向けているが、実はその左には大きなバンカーが待っている。  それにしても、比較的やさしいホールには違いない。 「今度は一発で乗せますぞ」  飛ばし屋の湖東が張り切った。伊奈はニヤリとして、ワン・オンを狙わずに確実に行くことにきめた。すでに1番で湖東とは2ストロークの差がついていた。  紀尾井はもともと距離の出ないほうだから、加減して打った伊奈とまた似たような位置にボールが並んだ。 「よし」  湖東は何度かクラブで風音をたてたあと、思い切りよく振った。振った瞬間、伊奈にもナイス・ショットだと判った。偶然かも知れないが、湖東にしては理想的なスイングであった。 「ようよう」  紀尾井が褒めた。 「ナイス・ショット」  伊奈も持ちあげる。ボールはまっすぐ飛んでピンの手前に落ち、右へ勢いよくころがってグリーンのエッジでとまった。  最後に打った湖東が一番先に歩きだす。好打に気をよくしたらしく、せかせかと二人を置いて行ってしまった。 「どんな面倒なことをかかえているときでも、何かはじめるとそれを忘れ切ったように熱中できる男だ。少し見習わんといかんな」  紀尾井は湖東のうしろ姿を眺めてそう言った。伊奈はわざと歩度をゆるめ、湖東を先に行かせようとしていた。 「同感ですな。いずれ彼も立直るでしょう。タフな男ですよ」 「しかし、タフも場合による」  紀尾井の表情に、はじめてはっきりとした湖東への批判があらわれた。 「ゴルフは政治より人生そのものに通じているようだが、政治は玉突きのほうがピッタリ来るな」 「玉突き……ビリヤードですな」 「うん。突いたあとのことを考えねばならん。わたしも若い頃はゴルフのように、いい位置につけることばかりを考えておったが、今は玉突きの心境だな」 「あのボールは一人でトットと先へ行ってしまった」  伊奈は遠のいた湖東を見て笑った。その言葉のどこが気に入ったのか、紀尾井は伊奈が意外に思うほどの大声で笑った。湖東にもその声が聞えて振り返り、手をあげて見せるとまたせかせかと歩いて行く。 「君は力を加減したね」  紀尾井は自分たちのボールのそばへ来るとそう言った。 「彼とは違う」 「まあ、そうですな」 「今日、どうも湖東君は二対一でやっている気らしい」  紀尾井はクラブを選びながら言った。 「そうでしょうかな」 「まあいいじゃないか。彼がその気なのだから」  伊奈はなるほどと思った。湖東は自分ばかりではなく、紀尾井にも闘志を向けているらしい。紀尾井には下手に出て話をうまく運ぼうとしている、と思い込んでいたが、それは性格の差であって、自分ならそうするに違いないが、湖東は最初から紀尾井をも敵視し、力ずくで自分の立場を有利な方向へ持って行こうとしているのかも知れない。伊奈はそう思うと、逆境に置かれている湖東の凄まじいファイトを感じてゾクリとした。  紀尾井はなぜか易《やさ》しいショットをミスして、左のバンカーにいれてしまった。 「やれやれ、これは縮尻《しくじ》ったわい」  伊奈はやすやすとオンした。  紀尾井はバンカーへ向かいながら、心の中で舌打ちしていた。何から何まで黒虹会のお膳《ぜん》だて通りに運ばねばならないのが、癪《しやく》にさわっているのだ。今の台詞《せりふ》にしたところで、黒虹会の広瀬が、 「3番ホールまでにこれは必ず伊奈さんに言ってくださるように」  としつっこく言っていたものなのだ。  湖東も筋書通りに打っている。器用なものだ。  紀尾井は感心しながらバンカーへ入った。     6  3番はアップ・ヒル。ことに途中からかなりの上りになるから、第一打は打ちあげ気味にしないと土手の中腹でとまってしまう。右は土手の裾《すそ》で松林がかぶさっており、左へ少し寄せたほうが有利だ。  しかし、湖東はグリーン左のバンカーを嫌《きら》ってか、その土手の裾《すそ》のほうへ持って行った。コースをよく呑み込んでいる伊奈と紀尾井は、きちんと左寄りに打った。  が、今度は湖東も二人について来た。伊奈はそろそろ湖東が焦って来た証拠だと思った。1番、2番と偶然の結果ながら湖東は一人きりにされている。伊奈と紀尾井にいい調子に語り合られては立つ瀬がなかろう。 「率直に言って」  湖東は紀尾井の左側へ出るといきなりそう言った。すでに6番アイアンを手にしている。 「何かね」  紀尾井は伊奈と湖東にはさまれて言う。 「この際だから、その率直な言葉というのを聞きたいな」 「わたしだってバンカーへ入れたくはない」  湖東は言葉を変えた。 「そういう役をやる為に生まれて来たのではないですからな」 「そうかね」 「どうするつもりです」 「何を……」  伊奈は紀尾井と湖東のやりとりを、息をのんで見守っていた。いまこの瞬間、結着がつくのだと悟っている。 「めめしくて言うのではない。わたしを切れば、わたし以上にあんたがたのほうが汚いことになる」  伊奈は湖東に睨《にら》みつけられて思わず目をそらせた。  逃げるが勝ち。伊奈の心にふとそんな言葉が泛《うか》んで消えた。湖東はこの瞬間引き返せない泥沼《どろぬま》へ足を踏み込んだと確信している。 「わたしが集めたものをあんたがたは血相変えて分けた。分け前を持って行った」 「そりゃ少し違う」 「どう……」 「わたしらの所へ来るまでに、君は一番多くのものを自分の為に使っとった。今の君の力はそのおかげで作られたものじゃないか。不足があるのかね。わたしの前のテーブルに乗せられたものは、分配すべく乗せられたものだよ」 「そのテーブルに、わたしは今までの誰よりも多くのものを運んで行った。その為に、面白くない状況が生まれた」 「何か君は思い違いをしとる。これは男の仕事だ。自分で播《ま》いた種は、自分で刈らねばならん」 「背負って行け、と言うんですな」 「望んでその役についた。地位と力を得る為に好んで人より多く働いた。怪我《けが》は自分持ちだ。怪我をせんように注意するのが長命の秘訣《ひけつ》じゃないか」 「オナーは伊奈玄一郎ときめているのか」 「たった今まできめておらんかった。だが、もうきまったよ。君のボールは向こうだ」  伊奈は6番アイアンを握る湖東の手に、力が入ったのを見た。 「プレー中ですぞ、総理」  湖東と紀尾井の中へ割って入った。 「こっちがわたしのボールでしたな」 「知りませんぞ」  湖東は憎々しげに伊奈を見てから、紀尾井に言った。 「わたしは滅びない。伊奈内閣は短命でしょうな」 「待ちたまえ。我々には我々のルールがある。道連れなどということを考えたら、それこそ滅びてしまうぞ」 「わたしはわたしのボールを打つ」  湖東は怒りをありありと示して去って行った。 「もういかんな、彼は」  待っていた言葉が紀尾井の口から出た。 「おさえる方法はあるでしょう」 「できるかね、君に」  伊奈は笑った。 「見ていてもらいたいですな」  腕には自信があった。グリーンまで一五〇ヤードくらいなものだった。伊奈は全神経を集中してスイングした。ピタッときまったのが判った。 「ほう、ピンそばのようだ」 「わたしにまかせますか」 「よし、約束しよう」  伊奈は紀尾井をみつめた。 「ナイス・ショット」  紀尾井が握手を求めて来た。ほんの軽い握手だったが、それで伊奈が次の政権を握ることは確実になった。小見が少し離れたところから長いレンズをつけたカメラで、その瞬間をスナップしていた。伊奈はそれに気付くと、小見に向かって思わず手をあげた。無意識に指がVサインを作っていた。小見がまたシャッターを切った。     7  4番で、伊奈は思い切り飛ばした。ドライバーで二二〇ヤードは行っただろう。陸に食い込んだ深い入江を越え、高く、正確に、気持よくボールが弧を描いてフェアウェイのまん中に落ちた。  次の湖東は、仏頂づらではじめから右へ体を向け、入江を完全に越すことだけを心がけたようだった。左へ行けばこのホールのニックネーム通りに、グッド・バイとなる惧《おそ》れがあった。 「何度やってもこわいホールだな」  紀尾井はぼやくように言って、湖東そっくりに打った。ボールは弱々しく舞いあがって、レディス・ティーの少し前方へ行った。 「安全第一ですな」  三人は歩きはじめたが、伊奈は紀尾井が自分の脇腹を軽く肱《ひじ》で突いたのを感じた。  湖東をなだめる気らしい。  伊奈はそう直感した。それはいかにも紀尾井らしいやり方に思えた。どんなにもつれた相手とも、徹底的に膝《ひざ》づめで話合って、何とか形を作ってしまうのが紀尾井の得意|業《わざ》であった。 「おかげでわたしはグッド・バイをせずにすんだようですな。今度もツー・オンしてパーを狙いますか」  伊奈はそう言うと、自分のキャディーを連れてどんどん先へ行った。そばにいては紀尾井がやりにくかろうが、それにしても一本|釘《くぎ》をさしておいたつもりであった。  すると湖東が、歯を剥《む》き出すような形相《ぎようそう》で伊奈に大声を浴びせた。 「わたしのおかげだぞ」  キャディーは冗談だと思ったらしく、クスクスと笑った。 「元気なもんだろう」  伊奈はそのキャディーに言った。キャディーは黙ってかすかに頷いたようであった。  ボールのそばへ来て振り返ると、二人は何かやり合っていた。紀尾井は悠然と構え、湖東が声高に迫っている。  伊奈の心を、ふと不安がかすめた。いくら窮地に追い込まれたにせよ、湖東の露骨な足掻《あが》きぶりは、少し異常であった。  ここは人にまかせるのが一番いい。  伊奈は長年そうして来たように、その瞬間も危険には近寄らぬことにきめた。しかし荒れかける湖東を何とか紀尾井がなだめたらしく、また湖東もぐっと自分を見守っている伊奈に気付いたようで、プレーに戻った。  二人とも、打球はチョロに近かった。伊奈のボールのすぐ前をころがって、グリーン左手前の松の木の間へ消えて行った。  O・Bしたかな。  伊奈はその松の木のすぐうしろが三〇メートルはあろうかという断崖絶壁で、ギリギリのところに白く塗ったO・Bラインを示す杭《くい》が打ち込んであるのを知っていた。  トコトコと紀尾井が足早に来て、伊奈の前でちょっと立ちどまり、 「あいつは自制心を失っている。寄らんほうがいい、何とかするから」  と早口で言って崖のほうへボールを追って行った。そのあとから、ぶらぶらと湖東がやって来ると、 「臭い飯を食うか」  と、すて台詞のように言って通りすぎた。  あいつは……。  紀尾井が湖東のことを、たしかにそう言った。伊奈の耳にそれだけが繰り返し聞えていた。湖東が総理に、あいつ、と呼ばれた。  完勝だ。湖東の失脚は確定した。  伊奈は待ち望んだ地位を手に入れたよろこびで、年甲斐《としがい》もなく胸が高鳴った。しかし、さすがにすぐそれを鎮《しず》め、第二打に入った。しかしやはり動揺したせいか、ショートしてグリーンのすぐ手前のバンカーに入れてしまった。  歩きだす伊奈に、キャディーがついて行く。左織はその左手、海側の松のそばで二人のキャディーと並んで、小見に記念撮影をしてもらっているようだった。  湖東と紀尾井は崖っぷちへ寄って、ボールを探しているようだった。  適当にやってくれ。もう勝負は俺のものだ……そう思いながらバンカーのそばへ着いて振り返ったとき、伊奈は目撃した。  湖東が紀尾井の背中を、右手で力まかせに突いたのだ。 「…………」  紀尾井はひとたまりもなく崖へ姿を消した。伊奈は反射的に顔をそむけた。見なかったことにしようと考えたわけではない。しかし、本能的にそうしたのは、多分長年積み重ねて来た、危険から極力遠のく生き方のせいであろう。しかし、同時にあたりをキョロキョロと見まわしていた。自分のキャディーは目の前にこちらを向いて立っている。湖東たちのキャディーも、現場へは背を向けていて、小見とカメラのレンズだけが、まともに湖東のほうへ向けられていた。  右の道路の向こうに、芝を手入れしている作業衣の男が一人いるだけで、その男もこちらを見てはいなかった。ホテルの展望台からも死角に入っている。  伊奈は必死に空とぼけ、バンカーの中のボールとピンを見くらべるポーズを取っていた。  近寄って来る足音がする。走っているようだ。  伊奈はたまりかねて振り向いた。カメラマンの小見が、蒼《あお》い顔で伊奈をみつめていた。     8 「大変なものを……」  小見が小声で言う。左織たちはまだ気付かないようで、キャディーとお喋《しやべ》りしていた。 「見たか」 「は、はい」  小見はおぞましげにカメラを持ちあげて見せた。 「撮ったのだな」 「入った筈です。ぼ……僕だってプロですから」  それくらいは確信があるというのだ。 「フィルムをくれ」  伊奈は手を出した。キャディーは穏やかな表情でそれをみつめている。  だが小見の手は顫《ふる》えていた。顫えながらフィルムを巻き戻し、裏蓋《うらぶた》をあけてマガジンを渡した。 「国の為だ。喋るな」 「は……はい」 「あとで連絡するよ」  伊奈は急にいつもの声で、何事もなかったように言った。 「左織君にもこちらから言うから」 「はい」  小見は大きく頷き、爆弾からのがれ去るように左織のほうへ戻りかけた。  そのときになって、湖東が大声で叫んだ。 「総理……総理……」  伊奈はギョッとしたように現場へ顔を向け、 「何かあったかな」  と、故意にのそのそとバンカーを離れた。 「大変だ、総理が足をすべらせて」  湖東は真に迫った様子で伊奈に向かって言った。  証拠はある。  伊奈は心の中でそう繰り返しながら、近寄って行った。 「どうした」  湖東は急に我に戻った様子で小声になり、 「総理が落ちた」  と言った。 「この高さでは助からんかも知れん。しかし騒ぎ立ててはまずいぞ」  湖東は頷いた。 「いま、総理が足をすべらせて下へ落ちてしまった」  集まって来たキャディーや左織たちに伊奈が言った。 「騒いではならん。たのむからしばらく人に言わんでくれ」 「早く助けなくては」  左織がこわごわと下をのぞいて言った。草で真下は見えない。 「俺が行く」  小見がカメラを地面に置いて言った。 「あそこからよく釣《つ》りをする人が岩場へおりるときに使う道がついています」  キャディーの一人が昂奮《こうふん》した声でグリーンの先を指さした。 「よし、行ってくれ」  伊奈が言う。 「あたしも行きます」  二人のキャディーは、健気《けなげ》にバッグをおろし、小見のあとについて走り去った。 「怪我だぞ、怪我。判ってるな」  伊奈は湖東を睨みつけて言った。湖東は無表情で頷くだけだ。 「秘密を守れ。わたしがいいというまで、できるだけ守れ。わたしはすぐに帰る。ここから落ちれば命はとりとめても、生やさしい傷ではすまん」 「ここはいい。まかせてくれ」  湖東が言った。 「よし」  伊奈はそこを離れると、無意識にスラックスのポケットに手を当てながらホテルへ戻りはじめた。ポケットには、重大な犯罪の瞬間を写したフィルムが入っているのだった。     9  レインジャー隊員に体を支えられて、紀尾井が吐いている。穏やかな波が、岩に当たっては白く崩れていた。 「大丈夫だ」  紀尾井が言った。左織がその背中を優しくさすってやった。 「作戦完了ですね」  キャディーの一人が笑顔で小見に言った。 「うまく行ったよ」  キャディーたちは顔を見合せて笑う。  そのすぐ上で、作業衣姿の浅辺が、下へおりるときに左織から受取った通信機に向かって喋っていた。 「海岸通りより熊谷へ」 「こちら熊谷」 「大工は注文通りにやった。グッド・バイだ」 「よかったな」 「プリンス・メロンは計算通り帰った。そちらは本部に連絡後、プリンス・メロンをチェックしてくれ」 「了解」  浅辺が通信機をポケットへ入れると、湖東が待ちかねたように言った。 「きわどいことをやる連中だな。半信半疑だったのだぞ」  浅辺はきっとなってその汚れた政治家に言った。 「あなたを救うんじゃない。保守政権を守る為なんだ。あんたがたが綺麗なら、こんなことをする必要はなかったんだ。卑怯だがその分汚れていない政治家が一人、これで姿を消す。あんたの汚れの犠牲にされたってことを忘れないで欲しいな」  湖東は、貧相で年も若い浅辺に圧倒されたように、沈黙していた。 「なまじクリーンな人物がいると、逆に力を失ってしまう今の保守党の姿を反省してもらいたいな。あなたは保守党の汚れのシンボルなんだ」  すると湖東はニヤリと笑った。 「つまり俺は日本のシンボルということかな」  逆に浅辺が言葉をつまらせた。 「汚れた金はどこへ行く。最終的な受取人は国民さまだよ。若いね、君は。一人で意気込んだってどうにもなるもんか。第一、君だって嘘つき中の嘘つき、嘘のプロフェッショナルじゃないか。その嘘部が日本の朝廷を陰から支えて来たという。つまり、日本全体が嘘のかたまりだ。いや、どこの国だってみんなそうだぞ。世界中が嘘つきなんだ。しかし、とにかく君らには恩になった。今後は黒虹会に最大の協力を惜しまない。金のことなら安心してくれと、広瀬氏にそう伝えてくれ」  浅辺はぼんやりと、そう言う湖東をみつめていた。  その頃、秘書たちはグリルに顔を揃《そろ》えていた。 「あれは先生じゃないかな」  湖東の秘書の伏見直彦が言った。 「あ、そうだ」  高梨と内田が腰を浮かせる。伊奈が急ぎ足でホテルへ戻って来るのだ。 「どうしたんだろう。腹痛かな」  浦上洋司が言うと、甲賀順平が黙っていろと目で合図した。 「会計はまかせてくれ。早く行かんと……」  甲賀にそう言われて伊奈の二人の秘書はテーブルを離れた。グリルを出ると伊奈がドアのすぐ前へ来ていた。 「どうなさいました」  内田が尋ねる。 「わけはいい。すぐ帰るから急いで荷物をまとめろ。わたしはこのまま車に乗るから、ゴルフ・ロッカーのほうへ車をまわしてくれ」 「はい」  二人の秘書はキビキビと奥の階段へ走り、伊奈はその足でラウンジの外を通ってゴルフ・ロッカーへ向かった。  津野田はそのやりとりをすぐそばに立って聞いていた。 「やりましたな」  渋い声が津野田の耳もとでした。甲賀順平であった。 「伊奈さんは動き出した。総理が無事で現われるまでに、どこまで突っ走っているかだ。それによっては離党、新党結成というところで救われるが、あのフィルムが替玉を使ったにせ物だとバレるところまで行ってしまうと、気違い扱いされて一巻のおわりでしょう」 「いつものことですが、あと味はよくありません」 「いや、お見事ですよ。どれ、わたしは警備陣のシフトを変えるように言って来ます」  甲賀はそう言うと、大内太吉のいる田舎家へ向かった。大内はわけも判らぬまま、部下を南コースの閉鎖に用いていたのだ。     10 「ねえ」  コロナの中で美代子が小林に尋ねている。二人は海岸ぞいに熱海へ向かっていた。 「何だい」 「そのネクタイ、あなたが自分で買ったの……」 「ああ。嫌《きら》いかい」 「柄はいいわ。いいセンスよ。でも嫌い」 「なぜ」 「女の人の匂《にお》いがするわ」  小林はちょっと戸惑った。 「なぜ。匂いなんかしていないよ」 「女の人が買ったネクタイよ。そんなのしてちゃ嫌《いや》だわ」 「俺が買ったんだよ、ばかだなあ」 「嘘つき、ちゃんと判るのよ」  小林は閉口した。たしかにそれは篠子が買ってくれたものだった。 「嘘なんかつかないよ」 「今してるペンダントも嫌い」 「おいおい、まさかこれまで女がくれたって言う気じゃないだろうな」 「そうよ。あたしには、ピンピン来るのよ。きっとそれも誰かさんとペアだわね」 「怒るぞ、しまいに」  しかし、それも正解であった。篠子が同じペンダントをしている。 「今までは仕方がないけど、もうだめ。ネクタイもペンダントも、そのほかもよ」 「参ったね。美代子はそんなに嫉妬《しつと》深かったのか」 「やきもちじゃないわ。ただ、あなたの嘘はなぜかみんな判っちゃうの」 「よし、それなら俺も言うぞ」 「あたしは何も隠してなんかいないわ」 「ホテルで挨拶《あいさつ》した男がいたろう」  美代子はギョッとしたが、平気な顔をし続けた。 「あの人がどうかした……」 「美代子が今はいているパンティーは、あいつに買ってもらったもんだ。そうに違いない」  さすがに小林のほうが、一枚も二枚もうわてであった。 「やあねえ」  美代子はほっとして笑った。 「間違いない。そんなのをはいていないで、すぐに脱いでしまってくれ」 「ばか」  ばかンン、と語尾が甘くなっている。小林に至近弾をうち込まれ、ギクリとしたことが彼への追及を忘れさせてしまっている。 「帰る前にどこかのモーテルへ寄ろうか」 「からだばっかりみたい。そんなこと嫌よ。それに……」 「それにどうした」 「もうたくさん」  美代子は運転の邪魔をせぬよう気を付けながら、小林に倚《よ》りかかって行った。 「ねえ、今度はいつ……」  コロナはリンカーン・コンチネンタルを追い抜いた。 「儂《わし》はやるぞ」  木田川が言う。新井は追い抜いて行ったコロナのテール・ランプを見ていた。 「まだまだだ」 「いくらお金を増やしたら気がすむのよ」  貴代子がからかうように言った。 「金じゃない」 「お金じゃないの。それじゃ何……」 「力だ……」 「結局お金じゃない」 「女には判らんさ」 「あら、そうかしら」 「力が欲しいのだ」 「力を持ってどうするの」 「力を握れば何でも思いのままだ。金ではできんこともある」 「まさか、愛情はお金では買えない、なんて甘いことを言おうとしてるんじゃないでしょうね」 「儂はお前を買ったぞ」  ズケリ、と言われて貴代子は鼻白む。 「あらそう。結構ね」 「力があれば嘘をつくこともない」 「おやおや、正直者になる気なの」 「それも望みのひとつと言っているのだ。嘘は弱い者の武器だ。嘘をつくあいだは本物の男ではない」 「じゃ、女はどうなの」 「女は弱いから嘘をついても仕方がない」 「まあ、寛大だこと」 「しかし、儂に嘘をついてもすぐにバレてしまうぞ。なあ新井」 「それはそうですとも」  新井は例によって調子を合わせた。  第8章 闇の中の哄笑《こうしよう》  麻績部《おみべ》左織、浅辺宏一、そして津野田の三人が、渋谷の道玄坂二丁目にある店で酒を汲《く》みかわしている。  店は〈新かわ〉である。 「急転直下ね、まさに」  左織が言った。もう少し頬《ほお》が赤い。 「あのフィルムを最後の最後まで切り札としてかくそうとしたから助かったのさ」  津野田が銚子《ちようし》を持ちあげて言う。清水焼《きよみずやき》の網目模様の銚子だ。 「でも、あれだけやってしまったんだから、クーデターと思い込まれるのは当然さ」 「クーデター未遂……」 「そういうところだな。紀尾井総理が予定よりずっと早く動いたのは、伊奈に対する同情があったからだろうな」 「そうね。あたしもそう思う」 「とにかく伊奈は僅かな手勢を引きつれて、新党結成に踏み切ったわけだ。案外そのほうが伊奈にとってはよかったのかも知れないぞ」 「当人はその気じゃなかったわ」 「そりゃそうさ。湖東の失脚を信じてたもの」 「気の毒ね」  黙っていた浅辺が急に言った。 「湖東に言われたよ。世界中嘘つきだらけだって」 「あん畜生、勝手なことを言いやがる」 「いや、真実じゃないかな。嘘部を俺は少し買いかぶりすぎてた気がするんだ」 「あら……」 「みんな嘘をついて生きてる。俺たちだけが特別嘘つきなわけじゃない」 「そう悲観しないでよ」  左織がなぐさめた。 「悲観してやしないさ。ただ、事実が判って来たということかな」  浅辺はそう言うと、盃《さかずき》を一気にほした。左織がついでやる。 「しかし、本当に奴はここにいるんだろうか」  津野田が首をひねる。天田徳三がただの板前だとは、いまだに信じかねるらしい。それで三人はさっそくここへたしかめに来たのだが、まだ調理場の中はのぞけないでいる。 「本ものだとしたら、この刺身も彼の手にかかっている」 「そうね。変な気分だわ」  そのとき、 「いらっしゃいませ」  と迎えられた一人の客が、隅のテーブルに坐った。 「酒と、何か適当に」  客がすぐおかみに言う。 「はいはい」  常連らしく、おかみは軽く言って調理場の中へ消えた。 「G㈼関係だとしたら……」  浅辺はそう言いかけ、急に言葉を切って顔を伏せた。  白いうわっぱりを着た天田が、ニコニコしながら店へ出て来たのである。 「常川さん、どうも有難うございました」 「よう、どうだったい、一流ホテルの味は」 「冗談じゃないすよ。こっちは肩が凝っちまって……何しろ気をつかって一んち中突っぱらがってたんすからね……。あの、これつまらないもんすけど」 「土産かい。そんなことしなくてもいいのに。何ね、予約してたけど急に行けなくなっただろ。なかなか泊れないホテルだしよ。で、そうだ、徳さんを行かしてやろうって、そう思ったのさ。でも、かえって悪かったかなあ。窮屈な思いをさせて」 「いいえ、勉強になりました。でも、こっちは根っからの田舎もんで貧乏人すからね」 「まあいいや。今度はのんきな宿へでも行こう。勘定は払わなかったろうね」 「はい。払おうとしたら、向こうでいいって言うんすよ。常川さんはいろんなとこに顔がきくんすね」 「それはよかった。こっちへ請求するように厳重に言っといたんだが、ちゃんと係へ伝わってるかどうか心配してたんだ」 「いろいろとお世話になります」 「まあいいや」  おかみが酒を運んで来た。 「さあ、一杯やんなよ」 「有難うございます」 「今どき徳さんみたいないい職人さんは、もうどこにもいないぜ。おかみ、大事にしなよ」 「はいはい。亭主《ていしゆ》より大事にしますよ」 「そいつは困るな」  三人は笑い合っていた。  浅辺たちは黙って立ちあがり、津野田がレジで勘定を払った。  左織と浅辺が先に格子戸をあけて外へ出ると、津野田がそのあとに続き、格子戸が閉った。  すぐに、高い笑い声が聞えた。姿の見えないその三人の哄笑《こうしよう》は、だんだん遠のいて行った。 角川文庫『闇の中の哄笑』昭和54年10月30日初版発行