半村 良 邪神世界 目 次  序 章  一千万円  怪教団  混 乱  妖術師  画 策  支配者  卑弥呼  神 々  邪 神  闘 争  異 境  乱 戦  神 慮  帰 還  序 章  細く粘りつくような女の声がした。となりの部屋の細君《さいくん》が子供を叱《しか》っている声である。子供はたしか三つくらい、女の年は三十一か二といったところだろう。 「だめじゃないの。ほんとに判《わか》んないんだから……」  岩井栄介《いわいえいすけ》は蒲団《ふとん》の中でぼんやりと天井《てんじよう》をみつめながらその声を聞いていた。  嫌《いや》な声である。甲高《かんだか》いくせに、人の心を萎《な》えさすような陰湿な響きがある。子供を叱るというよりは、自分のいらだちを一気に無抵抗な者へぶち撒《ま》けている感じだった。  栄介は、子供の頃《ころ》それと同じ声を聞いて育ったような気がしている。暮らしが貧しいと、女は結局似たような声になってしまうのかと思った。  となりの夫婦について、栄介は何も知らなかったが、子供に対する細君のとげとげしい声や、ときおり廊下《ろうか》ですれちがう彼女の夫の疲れ切ったようなうしろ姿で、大体のことは見当がついた。  まだ三十代なのに、こういう安アパートの暮らしから脱出する望みを、まったく失ってしまっているに違いなかった。 「早すぎる。早すぎるんだ」  栄介は天井をみつめてつぶやいた。となりの夫婦に言ったのではなく、自分自身に向けたつぶやきであった。  ゆうべ、会社の忘年会があった。今月のはじめに一応ボーナスももらったし、なんとかことし一年は無事にすんだようである。しかし、小さな不動産会社の建売り住宅のセールスマンという仕事を、いつまで続けて行けるか自信がなかった。  貧乏人の夢を食って暮らしているのだといううしろめたさがあった。夢を売るのだと思おうとしても、いいかげんな造作《ぞうさく》のボロ住宅が売物では、とても社会に奉仕している気分にはなれないのだ。  へたをすれば、いつか自分もとなりの夫婦のように、夢をなくしてとげとげしい声を安アパートに響かせることになるかもしれない。  二十七歳の年の暮れを迎えて、栄介は早くもそんな怯《おび》えを感じていた。 「いけねえ、土曜日だ」  栄介ははね起きた。部屋は寒く、身ぶるいをひとつして大いそぎで服を着る。  小さな会社のやりかたはなさけないほどみみっちく、週休二日の会社が増えるのに合わせ、土曜日は十時半の出社でいいことになっている。  だから安心して朝寝をしていたのだが、今日は大晦日《おおみそか》に抽せん会がある全国自治宝くじの発売日なのだ。 「一千万円、一千万円……」  栄介は大あわてで靴《くつ》をはき、ガタガタと階段を鳴らして表へとびだして行った。  一千万円の当たりくじが三本もある。一時間もしないのに売り切れるのだ。  一千万円  栄介は正月が嫌《きら》いであった。  ことに元旦は、みんなそれぞれの暖かい巣にもぐり込んでしまう。  三年前まではそれでも母親がいて、元旦は母子《おやこ》ふたりで過したものである。栄介の母親は品川《しながわ》のほうの大きな病院の賄婦《まかないふ》をしていて、栄介が一緒に暮らそうと言っても、働けるうちは働くのだと言い張っていた。  それが急に倒れ、二日目にその病院で死んだ。それ以来、正月を栄介と一緒に過してくれる人間は一人もいなくなった。父親は栄介が五歳の時に死んでいる。  一人で安物のウイスキーを飲みながら年を越し、どうあらたまるということもなく元旦になった。  元日の朝、目が覚めても、蒲団をたたんで押入れへしまうなど、無駄《むだ》なことであった。訪ねて来る者もいるはずはなく、起きてもいずれ蒲団の中へもぐりこむことになるのは知れていた。  四畳半に小さな台所がついて、窓がひとつ。それきりの狭いすまいで、栄介は蒲団から這《は》いだし、ドアのすき間からのぞいている朝刊を引き寄せ、また蒲団へ戻《もど》った。  商店が全部休んでしまうから、食料だけはたっぷり用意してある。食いたいとき食って寝たいとき寝ればそれでいい、気ままな数日間なのだ。  分厚い新聞をガサガサとひろげ、ゆっくりと読み進んだ。もちろん、きのう抽せんがあった例の宝くじの当せん番号にも目を通した。  全部読みおえると顎《あご》を枕《まくら》に引っかけるようにしてしばらく目をとじ、まだ睡《ねむ》れないと判ると、のっそり起きあがって古びた食器棚《しよつきだな》の引出しをあけた。  暮れに買った宝くじを一枚つまみだす。  どうせ当たっているはずはないが、今すぐ番号を照らし合わせておかないと、つい忘れてそのままになってしまうことが多いのだ。  宝くじ……いや、夢とはそんなものなのだろう。夢を持った直後はそれに熱中している。しかしだんだん冷静になり、確率から言っても自分の人生のパターンから考えても、とてもそんな夢は実現しそうもないと判ってくる。  蒲団へ戻った栄介は、すでに番号を照合したあとのあじけない気分を予想していた。  新聞をめくって当せん番号の欄があるページをひらき、右手にくじを持って見くらべはじめた。  栄介はいつものことで、欄の下から見て行った。五十円なら何度も当たったことがある。  丁寧に見て行ったが、当たっていなかった。だんだん欄の上になり、望みはどんどんうすれて行った。 「うッ……」  栄介が妙な声をあげたのは、一番上の番号へ行ってからであった。  栄介は寒さも忘れて蒲団の上へ起きあがっていた。  寒さのせいではなく、緊張のあまり手がふるえていた。 「ばかな……そんなばかな」  さっきから、もう何度もそうくり返していた。  急に立ちあがると、ボールペンとメモを探してまた蒲団の上へ戻った。  まず、自分が買った宝くじの番号をそのメモに写した。メモをふたつに折り、今度は新聞に出ている番号を写す。そうしておいてメモをひろげる。  やはり同じ番号だ。念のため、第何回という宝くじの発行回数を照合する。これも間違いない。くじの裏に書いてある抽せんの日付も、ちゃんときのうになっている。  とすれば、間違っているのは新聞社のほうしかないことになる。誤植だ。ミスプリントだ。校正もれだ……。  栄介の理性は、意地になって間違いを探そうとしているようであった。  よく宝くじを買うが、それは夢が欲しいからだった。いっときの夢が百円で買えれば安いものであった。  だが、夢と現実の差はよくわきまえているつもりであった。本気で当たると考えたら自分は気違いだと、心の底ではいつもそう思って来た。 「こん畜生、人を騙《だま》そうって言うんだな」  栄介は憤然として新聞と宝くじを投げ棄《す》てた。立ちあがり、台所へ行って顔を洗いはじめた。水はつめたく、すぐ手がかじかんだ。  タオルで顔をふき、ガス・ストーブに火をつけ、その前に背中を丸めた姿勢のまま、うらめしげな表情で枕もとにひろがっている新聞のほうを見た。  ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》む。 「ほんとなのかよ」  泣声であった。  拗《す》ねていたのかも知れない。  満二十七歳と何か月かの人生で、こんなに手軽く、これほど大きなよろこびが手に入ったことは一度もないのだ。  よろこびはみな、はやばやと予告して近づき、目の前でどこかへ消えてしまった。  栄介は四畳半を鋭い目で見まわした。どこかに誰かがかくれているような気がした。当たった、当たったと言って手放しでよろこべば、そいつが出て来てニタリと笑うような気がしたのである。  だが、誰《だれ》もいるわけはなかった。  親子そろって、夫婦仲むつまじく、世間はいま栄介を仲間はずれにして新春をことほいでいる最中なのだ。  おそるおそる、栄介は宝くじを拾いあげ、もう一度新聞と照合した。  それはもう、ただの宝くじではなかった。一千万円の当たりくじだったのである。  栄介は白い二重封筒をとりだし、その表側に万年筆で自分の名を楷書《かいしよ》で記した。  しばらくその文字を眺《なが》めてから、横にやはり楷書で住所をきちんと書いた。  書き終ると一千万円の当たりくじを、慎重な手つきでその中へいれ、また眺めた。封筒を見ているというより、高鳴る胸の鼓動をしずめようとしているようであった。  実際、栄介はどうしていいか判らなかった。その小さな札が一千万円になったのである。 「一万円札が千枚か」  栄介はつぶやいた。  一人ぐらしでは、何か心にかかることがあるとついつぶやいてしまう。まだ若いのにそんな癖がついてはみっともないと注意はしているのだが、こういう事態にぶつかると、どうしてもひとりごとを言ってしまう。  栄介はまだ一度も一千万円の札束というのに触れたことがなかった。銀行や大きな会社へでも勤めれば、そんなものはとうに馴《な》れてしまっているのだろうが、何しろ小さな不動産会社のセールスマンなのだ。  栄介は左手の親指と残る四本の指で、一千万円の札束の厚味を作ってみた。目いっぱいにひろげると十五センチはあるだろうか。  果して一千万円の札束がその程度の厚味なのかどうか、栄介には見当もつかない。  それより封筒をどこへしまうかが当面の問題であった。大した家具もない薄汚れた四畳半だが、それだけに意表をついた隠し場所は、考えればいくらでもあるような気がした。  プリント合板《ごうはん》を貼《は》って誤魔化した安物の洋服だんすの引出しのひとつは、ついこの間表面の合板がはがれたので、接着剤でつけ直したばかりであった。  わざとはがしてその間へ当たりくじの入った封筒をかくしておけば、まず発見される気づかいはないだろう。  だが万一火事になったらどうする。  そう考えると、やはり身につけておくのが一番安全なような気がした。一千万円が当たったことは誰も知らないのだから、それをめあてに襲われることはあり得ない。  万一交通事故でやられて病院へ運ばれるようなことがあっても、肌《はだ》につけていれば奪《と》られることはあるまい。  と、そこまで考えた栄介は急に目を剥《む》き、あわてて封筒から当たりくじをひっぱりだした。  意識を失うということだってあり得るのだ。抽せん日のすぎた宝くじを後生《ごしよう》大事に肌身につけているのを見つかれば、誰だって高額の当たりくじだと見当をつけるに違いない。  くじの裏に住所と名前を書く欄があった。  栄介はそこへ楷書で書きこんだ。たとえ盗まれても、相手の自由にさせてたまるかと意気込んでいるようであった。  当せんを知ったのが元日の朝であったことは、栄介にとって多分いいことであったに違いない。  なぜなら、世間はひとりぐらしの栄介の存在をまったく忘れてしまったように、めいめいの家庭にひきこもって静まり返っている。  これが普通の日だったら、栄介は満員の電車に揉《も》まれて出勤しなければならないし、会社では同僚や上司、それに客のところなどで、何やかやと喋《しやべ》っていなければならない。  まず、いつもと態度が違うのを気づかれただろう。 「何だ、そわそわして、彼女でもできたのか」  同僚の誰かにそう言われているのが、栄介自身目にうかぶようであった。  また、一千万円の宝くじに当たったことを、黙って誰にも知らせずにいられるかどうかという点でも、栄介には自信がなかった。  何しろたった今でも、大声で叫びだしたい衝動《しようどう》に駆られているくらいなのである。こういう心理状態で、いつも気易く話合っている仲間のところへ行ったら、自分がどうなるか見当もつかなかった。  だが、今は元旦。人と会おうにも会う人がいなかったし、買物に出たところで、商店はどこもしまっている。  結局栄介は狭い四畳半の中をそわそわと歩きまわるだけで、当せんを知った直後のいちばん気持が動転した時間を、最も無難に過ごしたことになったわけである。  とうとうその日は、郷里へ引きあげて行った友人からもらった、壊れかけたポータブルの白黒テレビを見て、一歩も外へ出ずに過ごしてしまった。  年末から敷きっ放しの蒲団にもぐりこんで眠る時も、白い二重封筒をだいていた。  眠りは浅く、すぐ目はさめた。さめるといきなり当たりくじのことが頭にうかび、封筒に触れてやっと安心する有様であった。  おふくろが生きていたら……。  そう思いはじめたのは明け方近かった。気分がやっと落着いた証拠であった。  この一千万円さえあったら、病院の片隅《かたすみ》であんな淋《さび》しい死に方をさせなくてもすんだだろう。 「母《かあ》さん……」  栄介は低い声でそう呼び、しばらく涙を流していたようであった。  暗く寒い四畳半に、二、三度はなをすする音が聞こえていたが、それもやがて静かな寝息にかわった。  栄介は夢を見ていた。  その夢の中では、栄介はまだ小学生であった。彼は母親と一緒に歩いていたが、その母親は白く柔らかい服を着ていて、長い裳裾《もすそ》が歩くたび揺れるのだけしか見えていなかった。二人は神社の境内《けいだい》を社殿へ向って歩いていて、それが昔よく母親と行ったどこかの八幡様《はちまんさま》だという以外、すべてがぼんやりとして判らなかった。  前の年の十二月三十一日に抽せんを行なったその宝くじは、新年の五日から支払いが開始されることになっていた。  だが五日はちょうど日曜日に当たっていて、銀行は休みだった。  会社もそれまでは休みで、六日の十時からはじまる会議で、新しい年の仕事が動きだす予定であった。  その正月休みいっぱい、栄介は手に入れた一千万円をどうするかについて考えつづけた。  まず問題は換金であった。  今までずいぶん宝くじを買ったが、百円以上当たったためしがなかったし、高額賞金の支払いがどのように行なわれるのか、見当もつかなかった。  とにかく、当たりくじの裏に住所、氏名、そして捺印《なついん》をし、本人であることを証明する書類と一緒に銀行へ提出すればいいらしいことは、裏面に刷り込んである説明文で判った。  しかし、身分を証明する書類と言っても、米穀通帳は昔のような権威をなくしてしまっている。区役所の出張所へ行って住民票をもらって来ればいいのだと思うが、果してそれで一千万円もの支払いに、本人であることを信用してもらえるものかどうか、ちょっと不安であった。  それに、当たりくじを銀行のどの窓口へ差し出せばいいのだろうか。まさか普通預金の窓口へ出していいわけでもなかろう。  銀行のロビーには案内係兼ガードマンといった役目の男がいるものだが、それに尋ねるのも恥ずかしい気がした。  正当な金を受取るのに、そんな恥ずかしい気持になるとは思っていなかったが、多分それは働いて得た金ではないからであろう。  栄介はそう気づくと、自分の幸運に自分で水をさしたような気分になり、思わず首をすくめた。  だが、こんなことでもなければ、どうして一千万円などという大金をつかめようか。まして三十歳にもならぬ若さで……。  とにかく、一番奥まった、一番ひまそうな係りにでもそっと聞くしか手がないようだった。  それにしても、説明文を読むと、すぐ払ってはくれないらしい。高額の賞金の支払いには何日かかかるようである。  何日くらい待たされるのか。支払うという通知はどうやってくれるのか。電話などないから、端書で寄越すのだろうか。留守《るす》の時そんな端書が舞いこんで、もしあのおしゃべりな管理人にでも読まれたら、それこそえらい騒ぎになるだろう。  会社へ電話をしてくれるのも、うまく社にいる時ならいいが、セールスマンだからたいてい夕方までは外出している。  栄介は溜《た》め息《いき》をついてカレンダーを見あげた。もう五日の日曜で、明日から出社であった。  栄介は急に思いついて裁縫をはじめた。  押入れから、母親の遺品である鎌倉彫《かまくらぼり》の古びた裁縫箱をとりだし、襟《えり》や袖口《そでぐち》がすり切れて着られなくなったワイシャツをハサミで切って、細長い帯のようなものをたどたどしい手つきで縫いあげた。  栄介はその帯の中央の袋になった部分へ、例の当たりくじが入った白い二重封筒をしまい、立ちあがってシャツをたくしあげると、腹帯のようにそれをじかにまきつけた。両端につけた細紐《ほそひも》でしっかりとしばりつける。  明日からそうやって通勤する気なのだった。  翌朝十時きっかりに、栄介は新宿《しんじゆく》の小滝橋通《おたきばしどお》りにある不動産会社へ着いた。 「おめでとうございます」  先に来てデスクに坐《すわ》っていた課長の野崎《のざき》に声をかけた。 「おめでとう。どうだった、正月は」  野崎はいかにも新年らしく、髪も顔も小ざっぱりとさせ、ダーク・スーツの胸もとに白いネクタイをのぞかせていた。 「寝正月ですよ、今年も」  栄介はそう言い、思わずニヤリとした。  野崎は嫌な男であった。小さな会社によくいる、細かな芸ばかりをする社員の典型である。部下のはじめた商談がまとまりかけると、恩きせがましく乗りだして来て手柄をさらってしまう。  そのくせ、部下にはいつも部長や社長に対する不満をならべたて、部下の不満と同調し、それをあおりたてることで人気を得ようとする。  だが、そんな小細工はすぐどこからか破れるもので、栄介たち平社員は、ときどき部長から直接、野崎が部下たちを悪《あ》しざまに言っているという話を聞かされている。  俺《おれ》はこいつより金持だぞ……。  心の中で栄介はそう思いながら野崎をみつめていた。  かなりいい気分であった。 「お早う」  セールスマン仲間では一番親しくしている山岡《やまおか》が、となりのデスクに坐りながら言った。 「やあ」  栄介がそう答えてハイライトの袋をとりだすと、山岡は白いケントの箱を栄介のデスクの上へほうりだした。 「もらいもんさ。あげるよ」  まだ封を切っていない箱であった。 「有難う」  山岡と組んで何か別な仕事をはじめられないものかと考えだしたとき、部長が現われた。  栄介はちょっと妙な気分に陥った。部長に少しも威厳を感じないのだ。 「これも一千万円のせいかな」  低くつぶやくと、山岡が怪訝《けげん》な表情で栄介をみつめていた。  会議がはじまった。会議と言っても、要するに社長の新年の訓示を聞くことである。社長の訓示など、毎年同じようなものだ。  よく働けば給料をどんどんあげてやる。大企業と違って、うちのようなこれからの会社は、上げ幅については制約がないから、諸君はその点大いにやり甲斐《がい》があるはずだ。そのほかにも社長としては、社員の生活向上のため、いろいろ心を砕いている……。  結局のところ、各社員の売上目標額などについては具体的な数字が出るが、厚生関係などについては、漠然《ばくぜん》としたままでおしまいになるのだ。  いつもなら耳を澄ませて聞き、うさん臭いところは記憶にしっかり焼きつけたりするのだが、やがて一千万円の現ナマが手に入る栄介にとっては、もうどうでもいいことのように聞こえた。 「要するに、伝票に記入する昭和の年数がひとつ増えたってことさ」  会議のあと、同僚の山岡が言った。  栄介は軽くうなずいたが、返事はしなかった。 「どうしたんだ。元気がないな」  どこかうつろな表情をしていたに違いない。栄介はニヤリとした。 「ことしは何か変わったことが起きそうな気がしてね」 「ほう」  山岡は妙な顔で栄介をみつめた。そして急にニヤニヤして言った。 「暮れに何かあったな」 「さあね」  栄介は、これはいけないと思った。喋りたくてうずうずしている自分をはっきりと感じていた。 「できたな、彼女が……」  そんなのではない、と言いかけた栄介は、あわてて山岡から目をそらせた。 「やっぱりそうか。そいつはよかった。でも俺に紹介しろよ。岩井栄介の恋人なら、俺は一度会っておく責任がある」  冗談半分に山岡は大げさな言い方をした。  たしかに、山岡のほうに恋人ができたら、栄介は同じことを言っただろうと思う。  また、栄介が本当に恋人ができてニヤついているのだったら、一も二もなく山岡に紹介しただろう。  山岡は適当にさばけた男だが、しんは正義感の強いまじめな男なのである。それに、栄介とはよく気が合う。  だが、まだ一千万円のことを打ちあけるわけには行かなかった。  別に、山岡がそれを聞いて言いふらすからだというわけではない。  恥ずかしいのである。一枚百円のくじを買ったということ自体、なんといじましい奴《やつ》と思われはすまいかと、心配なのであった。  山岡に打ちあけるなら、その一千万円の使い道について、具体的な考えがまとまってからにしたかった。  ところが、その山岡が偶然にも、一千万円の宝くじのことを言いだしたのである。 「一千万円が……」  栄介はギョッとして山岡をみつめた。  山岡は自分のデスクの上へ、会社が休みになった暮れの二十八日から今日までの新聞を積みあげ、丁寧にホルダーへとじこんでいるところであった。 「一千万円がどうしたって」  栄介が尋ねると、山岡はうんざりしたような顔で、元日の朝刊をひらいて指をさした。 「東京。京都。福岡。一千万円の当たりくじが、この三つの町に一枚ずつあるんだ。どんな奴かなあ、それを当てた奴は」 「ほう。君が宝くじに興味を持っているとは思わなかったな」  すると山岡は口をとがらせて言う。 「人間の運命くらい面白いものはない。歴史が面白いのもそれさ。考えてみろよ。ちっぽけな紙きれ一枚が、一人の人間の運命をとほうもないところへ引っぱって行ってしまうかも知れないんだぜ」 「君は買ったのか」  栄介は元日の新聞を顎で示して尋ねた。 「買おうと思ったね。いつもそう思ってる。でもいつも買いそびれるよ。何しろ発売と同時に行列ができて、すぐ売り切れてしまうんだからな」  山岡はガサガサと新聞をたたみ、またとじはじめた。  栄介は椅子《いす》の向きを山岡のほうへ変えて、真剣な表情で質問した。 「当たったらどうしようなんてことを考えるかい」 「ああ。むなしい夢だがね」 「どういう具合に使う」 「この会社をやめるさ」 「やめてどうする」  山岡は驚いたように、手をとめて栄介をみつめる。 「食えないからこの会社にいるんだ。使ってくれて、食って行ければどこでもよかった。でも、三流大学で歴史なんか専攻して、コネもなんにもないと来ては、こういうところしか入れなかった。別なことで食って行けて、そっちのほうが面白かったら、こんなところにいやしないよ」 「ばかに明快だな」  栄介が感心したように言うと、山岡はかすかに唇《くちびる》をゆがめた。 「君だったら、一千万円をだいてここにいるかい。わが社の建売でも買って、彼女と結婚するか」 「俺にはまだ判らない」 「夢を見ないのか。リアリストなんだな。俺だったら、その一千万円でいちばん大きな夢を追うよ。いちばん大きくていちばん金にならない夢をね」  山岡はそう言って笑ってから、不審そうに栄介を眺めていた。  銀行はもう営業している。  そして、銀行の前を通るたび、栄介はくすぐったい気分にならざるを得ない。そこの金庫に自分の金が一千万円あるのだ。  仕事はじめのその月曜日は、午前中でおわりであった。会社を出て、あてもなく新宿の中心へ向うと、着飾った若者たちがぞろぞろと歩いていた。  栄介の背広は古びていて、実を言えば上着のポケットには穴があいていたし、ズボンの尻《しり》の縫い目がほころびて、何度も自分で縫い直してある。  だが、もうどんなおシャレでもできるのである。  栄介は振袖を着てかたまって歩いている娘たちに追い越されながら、ああいう着物だって誰かに買ってやれるのだと思った。  いったい自分は何が欲しかったのだろうか。栄介はそれを考えてみた。  たしかに車は欲しい。買いたいものの筆頭は車だ。だがいったい、どんな車が欲しいのだろう。自分に必要な車種は……。  そう考えると、せいぜい軽四輪といったところに落着いてしまった。  一千万円持っているわけだが、車の中にはそれで一台買うのがやっとという豪華なものもある。  もちろんそんなばか高い車を欲しいわけではないが、ちょっと人目につくスポーツカーなら、何百万というのも珍しくない。  車を買えば買ったで、自由に乗りまわすためには、やはり金がいる。奮発して三百万円の車を買ったとすると、その車が楽しめるのは、残りの七百万円が生みだす期間でしかない。  もちろん車庫もいるし、そうなればおシャレだってしたくなるだろう。  おシャレをすれば、食事だっていつもの安食堂ばかりというわけにはいくまい。  だいいち、あのボロアパートの四畳半をなんとかする必要もある。  残りの七百万円から、そういう金をどんどん引いていくと、車を楽しめる期間はそれに反比例して短くなる。  当たった一千万円を車中心に、いちばん効率よく使おうとすれば、ごく安い車を一台持ってできるだけ長くそれを乗りまわせるようにするべきであろう。  結局、せいぜい軽四輪だ。  栄介は、なぜこんなことになってしまうのだろうと思った。  一千万円で買える車が、たった一台の軽四輪でしかない理由を、また考えはじめた。  どうもそれは、自分で働いて、稼《かせ》いだ金ではないという点に原因があるようだ。  一千万円を手にしたとたん、その金はたちまちゼロをめざして減りはじめる。  それを食い止めるのは、今の会社で得ているささやかな額の給料だけである。減らすまいとすれば、今と同じような節約が必要になる。車を買えば維持費がかかるから、結局車も買ってはいけないことになる。  栄介は歩きながら白けたような顔になった。  たしかによく考えてみると、宝くじで当てた一千万円という賞金は、当たる前に思っていたほど、豊かさをもたらしてはくれないようである。  それだけの金を、何度もくりかえし獲得できるようになってはじめて、豊かさが手に入るということらしい。  しかし、だからといって同僚の山岡が言ったように、ただ一度のむなしい夢に使いすててしまうのもどうかと思われた。  これは案外むずかしい問題だぞ……。栄介はそう思った。  栄介は歩道の端に立ちどまって、デパートへ出入りする人波をみつめた。  よく晴れた日で、風もなかった。  この大勢の人々の中で、一度に使ってしまってもさしつかえのない一千万円という金を持っている者は、一人もいないはずだと思った。  だが、ついさっきまで感じていた優越感は、もうどこにもなかった。  焦りのようなものが、栄介の心の中に湧《わ》きはじめたようであった。  その金で、何かの技術を身につけたほうがいいのではあるまいかと思った。  語学でもいい。自動車整備士の資格でもいい。調理師でも、コンピューターの技術でもなんでもいい。  だが、それもなんとなく釈然としないところがあった。  なぜもっと早く、そういう道に進まなかったのだという声が、心のどこかでするのである。  そういうことなら、一千万円が手に入らなくても、やろうと思えばできたはずなのだ。  では、手つかずで貯金しておくか……。  元本が保証され、六、七パーセントの利息がつく、ごく手堅い預金……。  いくじなしめ。  栄介は首をすくめて歩きはじめた。自分の不甲斐《ふがい》なさがいやになった。いまの給料のほかに、年間六、七十万円の余分な収入を得て、なんとなくゆとりのあるような顔で暮らしている自分が目に見えるようであった。  そんなことはできない。そんなことはしたくない。……栄介はそう思った。それでは、一千万円という金を手にしたばかりに、自分が腐ってしまうような気がしたのである。  駅へ着き、電車に乗ってから、栄介はふと自分が一千万円といつの間にか格闘をはじめていることに気づいた。  その金を安易に使ってしまえば自分の無能を証拠だててしまう。かと言って、手堅く利息だけを狙《ねら》うようでは、不甲斐なさの証明になる。だいいち、それでは男の誇りが許さない。  山岡はいったいどこまで考えたのだろうと思った。ひょっとすると、いま自分が考えているあたりは、とっくに通過しているのかも知れなかった。  とにかく金を手にしてみよう。……栄介は明日にでも銀行へ行く気になった。  営業部の簡単なミーティングがおわったあと、栄介はトイレへ入ってシャツをたくしあげ、腹にまきつけた手製の帯をといて、中から当たりくじの入った封筒をとりだした。  その封筒を上着の内ポケットへ移し、トイレから出ると、いつもセールスのときに持って歩く、古びた黒い鞄《かばん》をぶらさげて会社を出た。  まっすぐ銀行へむかう。  その銀行のロビーは少したてこんでいた。どこの会社も今日から本格的な活動をはじめたらしく、経理課員風の客が十七、八人も椅子に坐って待っていた。  栄介はそれを横目に、いちばん奥の窓口へ直行した。  そこはローンなどを扱う係りで、客の姿はなかった。 「はい。何でしょう」  栄介がその係りの前でちょっと声をかけ渋っていると、係りの男が顔をあげてにこやかに言った。 「当たった宝くじの支払いを受けに来たのですが」  栄介は顔に血がのぼるのを意識しながら言った。くじに当たったことが、なぜこんなにうしろめたく感じるのかふしぎであった。 「恐れ入りますが、それでしたらあの証券の窓口へいらっしゃってください」  男はそう教え、立ちあがってカウンターの内側をロビーの栄介と並んで歩き、証券、と書いた札のある窓口の男に、うしろから声をかけてくれた。  証券の係りの男がすぐ栄介をみつめ、軽く頭をさげる。  栄介は上着の内ポケットから白い封筒をとりだし、中の当たりくじを半分ほど引きだして、封筒ごとさしだした。 「暮れの奴に当たったんです」 「それはおめでとうございます」  係りの男は栄介から当たりくじがのぞいた封筒を受けとると、それを自分の前へきちんと置き、カウンターの下から薄い帳簿のようなものを出すと、慎重な手つきでくじを封筒から引きだし、帳簿のページを繰った。  栄介は、その男の目がくじと薄い帳簿の間を、往復するのをみつめていた。 「少々お待ちください」  係りの男はそう言ってから、くじをひっくり返して、裏の記入欄をたしかめ、立ちあがると並んだデスクの間を縫って、奥のほうにある大きなデスクのほうへ去った。  栄介は左手の指で、冷たいカウンターを無意識に叩《たた》きながら見ていた。  大きなデスクの男が、机の上を探す様子で、すぐ何か書類のようなものをひろげた。  二人はそれをのぞきこんでいる。  栄介のくじは、大きなデスクの男の手に渡り、その男はやがて顔をあげて栄介のほうを見た。その表情には驚きの色があったようである。  間違いなく、栄介が買った宝くじは一千万円の当たりくじであった。  くじの裏に記入した住所・氏名と、それを持参した人物が同一人物であることを証明するため、住民票を提出すると、係りの男は銀行の便箋《びんせん》にペンで預り証を書いて栄介に渡し、まるで自分が当たったようにニコニコしながら、 「当せん券は今日のうちに本店へまわされまして、それから宝くじ部で鑑定をうけます。鑑定は有楽町《ゆうらくちよう》の別館で行なわれますから、地方の支店でお受けした場合は少し日数がかかります。でも、ここは都内ですから、三日ほどお待ちいただくだけでお支払いできます」  と言った。 「三日ですか」 「ええ」  男はカレンダーを眺め、 「今日は七日の火曜日ですから十日、金曜日の午後においでいただけばお支払いできるようになっております」  と言った。 「金曜日の午後ですね」 「はい。失礼ですが、その時はすぐ現金でお持ち帰りになるのでしょうか。もしわたくしどもの銀行に口座をお持ちでしたら、そちらへ入れるようにとりはからいますが。……大金ですから、お持ち帰りの途中で事故などあっては」 「そうですね。口座はないんですが……」 「すぐお作りしましょう。印鑑をお持ちですか」  男はとびあがるように立つと、栄介のさしだした印鑑を持って、 「こちらへどうぞ」  と別の窓口へ移動した。 「定期預金になさったら……」  みなまで言わせず、栄介はかたくなな表情で首を横に振った。 「普通預金にしてください」 「でも、お利息がまるで違いますから、当座お入り用の分だけ普通預金で」 「とにかく今は、普通預金の口座でいいです」  栄介はポケットから千円札を一枚だして男に渡した。 「だいいち、僕はまだお金を持ってはいませんよ」  すると男は照れ臭そうに頭をかいた。  残高千円なりの預金通帳ができあがった。 「電気、ガス、水道などの料金の自動支払にもできますし、これに定期預金をセットなさいますと、普通預金のほうの残高が足りなくても、一定額までお立てかえするシステムになっております。そのほか……」  係りの男はその新しい口座の利用法を、親切にいろいろと教えてくれた。  栄介は、それを夢の中の声のように聞いていた。  その火曜から金曜までの三日を、栄介は夢のように過した。  すべては金曜日にあの金を手にしてからはじまるのだと感じ、それまでの時間は人生の進行がとまってしまったようであった。  こんなことではいけないと思いながら、やはり仕事が手につかず、予定した訪問先へは一軒も行かないでさぼり続けてしまった。  日に三、四度も喫茶店へ入って時間を潰《つぶ》し、毎日映画を見ては会社へ戻った。 「岩井、いったいどうしたんだ」  山岡は栄介のそうした気配をいち早く察して、木曜の夕方そう言いだした。 「うん……」  栄介はあいまいな返事をする。 「どうせ大した会社じゃないし、社会に貢献するというほどの仕事でもない。はっきり言えば、ひところの好景気がすっかり去った不動産業界で、なんとか帳尻《ちようじり》をとりつくろっているうちみたいな会社で、懸命に働いたところで先は知れている。だからさぼったって俺なんかが意見をすることもないんだが、それにしても気になるじゃないか」  山岡は冗談めかして笑いながら言い、 「とにかく今日は付合え。俺が奢《おご》るよ」  と、栄介の背中を押すようにして会社を出た。 「どこへ行くんだい」 「歌舞伎町《かぶきちよう》に友達が働いてるバーがある。安い店だから心配するな」  どうやら山岡は何か勘違いをしている様子であった。 「女なんて、そう当てになるもんじゃない。女の一挙一動にふりまわされていてはこっちの損じゃないか」  栄介は笑い出した。 「あんまり高くないのなら俺が奢るよ。ツケがきくならいくら飲んだってかまわない」 「ツケはきくけど……」  山岡はそう言いかけ、憮然《ぶぜん》とした表情になった。 「いったい、何が起ったんだ」  二人はネオンのともった街を、歌舞伎町の方へ向っていた。 「たしかに、休みの間にあることが起った。でも、それが果していいことか悪いことか、まだよく判らないんだ。しかも、なさけないことに、俺はその出来事のために仕事も手につかないでいるのさ」 「女のことじゃなかったのか」 「女じゃない。ひょっとすると、悪い女にひっかかったようなことかも知れないけどな」  栄介はまた笑った。ほんの少しでも他人に知らせて行くのが、たのしくて仕方ないのである。 「なんだか変な具合だな」  山岡は警戒気味であった。 「それなら割り勘にしようか」 「ツケでよければ俺が払うよ」  栄介は弾むような声で言った。先どりにもせよ、あの一千万円に手をつける最初の晩になりそうであった。  歌舞伎町の中心部にある小さなバーであった。  店の名はパンサーと言い、入口のドアに豹《ひよう》の形に切り抜いた板が貼りつけてあった。  店の中は薄黒く汚れた感じで、それでも酒の瓶《びん》だけはぎっしりと並べたててあった。  二人が入って行ったとき、まだ客の姿はなかった。  入口から奥へ、十四、五人ほど坐れるカウンターがあって、その奥にテーブルとソファがひと組だけ置いてあった。つめ合えば、六、七人坐れるかも知れない。 「あら、山岡君。珍しいじゃないの」  友達が働いていると聞いたので、てっきり男のバーテンか何かだと思っていたが、山岡の友達とは女であった。 「中学、高校と一緒だったんだ」  カウンターのスツールに腰をおろし、山岡が紹介した。 「美津子《みつこ》です。どうぞよろしく」  カウンターの中に、その美津子ともう一人、三十すぎの女。それに背のひょろ高い痩《や》せたバーテンが一人。パンサーはその三人でやっている店らしい。 「俺はジン・ロック。いつものようにレモンをいれて」  山岡が言った。 「俺はビール」 「小瓶しか置いてないのよ」  美津子はそう言ってグラスをだし、ビールの栓《せん》を抜いた。 「こいつは岩井って言って、一緒に働いてるんだ」  栄介は美津子からビールをついでもらいながら、軽く頭をさげた。  バーなど滅多に出入りしない。たまに入ってもそれは課長や部長と一緒だったり、先輩社員が客を接待するのに付合わされる時だけである。  栄介は元来あまり酒好きなたちではなかった。だが、ジンを注文するだけあって、山岡はかなり強そうであった。 「だいいち、これだとつまみがいらない」  山岡は半月形に切ったレモンをグラスの中からつまみだし、ひと口|噛《か》んでみせて言った。 「でも、今みたいな安月給じゃ、こんな安っぽいバーへもなかなか来れやしない」  山岡が言うと、美津子はたしなめるように睨《にら》んだ。 「でも、うちのお客さんはみんな立派ですよ」  ひょろひょろしたバーテンがグラスを拭《ふ》きながら言う。 「どうして」 「みんな自分のお金でたのしむ人ばかりですからね。社用族じゃないもの」  栄介は、それなら自分はどうなのだろうと思った。そのバーテンから見て、宝くじに当たった金で飲むのはどんな感じなのだろうか。 「会社の経費で落ちるからと言って、高い酒を威張って飲んでいる奴が多いけれど、俺はふしぎでしようがないな」  山岡が言った。カウンターに並んで坐った栄介と山岡とのちょうどまん中に、ピーナッツの入った小さな皿が一枚出ていて、栄介はその皿からピーナッツを一粒とって噛んだ。 「そいつは本当にそんな交際費の分まで稼ぎだしているのだろうか。なあ、そうだろう」  山岡は栄介の顔をのぞきこむようにして言った。 「セールスマンをしていれば判るよ。そう簡単に売れるもんじゃないし、まして、そんなに儲《もう》けるなんて並大抵じゃない」 「それは山岡君が小さな会社にいるからよ」  カウンターの中にいる、山岡の同窓生だという美津子が笑った。 「それは判っている。そして、俺がふしぎに思うのはそこなんだ」  山岡はオールド・ファッション・グラスのジンを勢いよく飲みほし、彼女の前へあいたグラスをすべらせてから続ける。 「聖書を売って歩く人もいるし、化粧品を売る連中も多い。大きな商社で鉄や木材のセールスをしている連中が、もし今から聖書や化粧品を売って来いと言われたら、うまく売れるだろうか。俺はきっと売れないと思うな」  栄介には、山岡が言いたがっていることがよく判った。 「つまり、セールスマンとしての個人的な能力ではそう差がないはずだと言うんだろう」 「そうさ」 「差は背景の大きさにあるのだと……」 「うん」 「つまり、背景が高い酒を飲ませてくれるわけだな」 「ふしぎなのは、それをあたかも自分の力で作りだした交際費のように考えているということだ」 「そういう会社へ入れたのは、その人物の力じゃないか。だから威張って飲める」 「どうせ税金で取られるんだから……そう思っているとしたら、ずいぶんおかしなことだな。そういう店の女たちは、客のそばへ坐ってニコニコしてるだけで、俺たちよりずっといい収入にありついている。短い労働時間で、いい着物が買えて……それは本当に必要な職業か。どうせ税金で取られるのなら、その女たちにいい着物を着せたほうが得……本当か。それは正しい理屈か。町へ出てみろ。いろいろな社会施設の人たちが、毎日のように募金をしているじゃないか。……税金でとられたほうがましだという考え方はなぜ出て来ないんだ」  山岡はジンの酔いで雄弁になっているようであった。  栄介は首をすくめた。下らなく使ってしまうのなら、あの一千万円は社会施設へ寄付したほうがまし……そういう考え方も、たしかにあるのであった。  酒が入ると、山岡という男はふだんよりひとまわりもふたまわりも大きく見えるようであった。  動作のすべてが確信にあふれ、いつもなら当然疑問や反論を持ちだすところも、栄介は妙に気おくれして、ただうなずいてしまうばかりである。 「かわった飾りつけをしているね」  栄介は酒瓶の間に並んだ人形や、壁のあちこちにかけられた絵を眺めて言った。 「なんだ、今ごろ気がついたのか」  山岡は不満そうな顔である。 「その人形はどこかで見たことがあるな」  自分の正面に飾ってある土偶を顎で示して栄介が言った。 「シュメールのものよ」  カウンターの中の美津子という女は、ふり向きもせず、栄介をじっとみつめて教えた。 「シュメール……」 「写真で見たんだろう」  山岡はその美津子へ、栄介の噂《うわさ》でもするような、ひどく距離のある言い方をした。  美津子は黙って新しいグラスに氷を入れ、儀式めいたおごそかな表情で飲物を作っている。 「そのとなりは……」  栄介が言いかけると、山岡が答えた。 「土面だ。縄文期《じようもんき》のものさ。左の端にあるのは土蜘蛛《つちぐも》をかたどったと言われている珍しい木像だ」  それは乾いて木目《もくめ》の浮きだした、高さ三十センチほどの彫像で、人形というより古い仏像といった感じだが、身長のわりにひどく手足が長く、畸形《きけい》の小人《こびと》のような妖気《ようき》が漂っている。 「あの壁にかけてあるのは……」  美津子は栄介の質問にちらりと彼のうしろの壁へ視線を移し、すぐまた栄介の目をみつめて微笑した。 「曼陀羅《まんだら》よ。知っているでしょう」 「曼陀羅か。何かで読んだ憶《おぼ》えはあるが、仏教の何かだということのほかは忘れてしまったな」 「サンスクリットやパーリ語にマンダラという言葉がある。それが中国経由で入って来たのさ」  山岡は悠然《ゆうぜん》とジンのグラスを手にして言った。 「マンダは物ごとの本質という意味で、ラはその所有格といったところかな。そう憶えておけば間違いない。曼陀羅は、宇宙の真実の姿を一定の哲学によって表現して見せたものだ。古代インドでは呪術《じゆじゆつ》を行なうとき、大地にある境界線を作り、その中を浄《きよ》めて神々を呼び寄せたという。のちに密教がそれをとり入れて独自の世界を作りあげたが、仏陀《ぶつだ》が悟った境地を絵にして見せたこういうものも、曼陀羅と呼んでいる。ジャワのボロブドゥルの遺跡は、立体的な曼陀羅だと言われているよ」  そう言って、山岡と美津子は、ひどく謎《なぞ》めいた微笑をかわし合っていた。 「どうしてこんなものを集めているんだい」  栄介は美津子に尋ねた。 「それに、みんな本物じゃないんだろう。シュメールの土偶なんてこんな所にあるはずがないものな」 「興味がないようね」  美津子は山岡に向って言った。  その時山岡がどういう表情で答えたか、栄介は見そこなっていた。  はじめビールを飲んでいたのに、いつの間にか紫色の酒にかわっていて、ひどく口当たりのいいのにつられてもう半分以上飲んでしまっている。 「これ、なんという名前のカクテルだい」  ゆらゆらと体の中を優しくゆすられるような酔いの中で栄介は尋ねた。 「名前……」  美津子は目をみはって問い返し、 「ないわ」  と謎めいた微笑を泛《う》かべていた。少くとも酔った栄介にはそのように見えた。  グラスはウイスキーの水割りなどに使うごく普通のもので、それに角氷がふたつほど入っていて、紫色の液体がこまかく泡《あわ》だっていた。 「ヴァイオレット・フィズ……」 「違うよ」  山岡がとなりで首を振って見せ、 「今日の勘定《かんじよう》は彼が払ってくれるそうだ」  と背のひょろ高いバーテンに言った。 「いつだっていいんですよ。山岡さんのお友達なら」  バーテンは生真面目《きまじめ》な表情で答える。 「なあ山岡。君ならどう思う」 「何がだ」 「社用族は見苦しいとか言ったじゃないか」 「うん」 「かりにだよ……かりに自分の金で高い酒を飲んでいるとして、もしそれが、その人間が働いて得た金ではないとしたら」 「そんな金があったらいいな」  山岡は美津子とバーテンを交互に見て笑った。 「親の遺産か」 「いや」  栄介はあわてて手を横に振った。 「盗んだのでも、もらったのでもないが、働いて得た金でもない」 「ほう。すると……そうか、宝くじで当てたような金だな」 「そう、宝くじだ」 「その人間の正当な金だ。文句を言う筋はないね」  山岡は冷淡な言い方をした。 「でも、飲んでしまうのは馬鹿《ばか》だ」 「軽蔑《けいべつ》するかい」 「するね」 「一千万円当たったとしたら、どう使ったらいい」  山岡は笑った。失笑したようであった。 「俺、当てたんだ。一千万円当てたんだ」  酔った栄介は、むきになって言った。  栄介にとって意外なことに、山岡も美津子も大して驚いた態度を示さなかった。 「そう。宝くじに当たったの」  美津子などは、どこやら慰めるような口ぶりでさえあった。 「なあ山岡。教えてくれよ」  すると山岡は、シュメールの土偶をみつめたまま言う。 「俺は決して大金だとは思わないな」 「どうして。あの会社じゃ一生手にできない金だぜ」 「そうだろうか」 「違うかい」 「それは、たしかに一千万円と言えば今の会社では貯《た》められそうもない金だ。しかし、働いて貯めた金とその一千万円を混同するのはよくないと思うな。性質がまるで違うじゃないか」 「どう違う」  栄介は、そのパンサーというバーのスツールに坐り直し、山岡のほうを向いてじっとみつめた。 「仮りに、働いて得た金から一千万だけ貯めたとしよう。その金は一千万じゃない。実際にはもっともっと多くなる金だ」 「どうして」 「着て食って寝て、その残りを貯めたものだろう。貯められるだけ、本人に力があったということでもある。だとすれば、もっと貯めて行ける。だが、今の君の一千万はただの一千万だ。千枚の一万円札があるにすぎない。飲めば減る。食えば減る」 「だから使い方を知りたいんだよ」 「君はその宝くじを買うとき、どういうつもりだったんだ。必ず当ると思って買ったのかい」 「とんでもない。百円で買える夢にしては安いからさ」 「夢を買ったわけだろう」 「そうさ。夢を買ったんだ」 「俺だったら、その一千万円でまた夢を買うな」 「宝くじを買うのか」 「酔ってるよ、こいつ」  山岡は美津子を見て笑った。美津子も笑った。 「もう金を受取ったのかい」 「いや、まだだ」 「ほら見ろ。金を受取る前からその苦労だ。使えば楽しいだろう。だが、なくなった時はきっと辛いぞ。減って行くのは淋しいぞ。夢を買って現実にしてしまうからだ。とにかく俺なら、夢は夢のままにして置く。夢を買ったのなら、他人にわけてやらなくてもいいかなどと、余分な気がねをすることもない」  山岡は栄介の心を見すかしたように言う。 「どんな夢だ。一千万円でどんな夢を買ったらいいんだ」  栄介は夢中で尋ねた。どうしてもその答を知りたかった。  その夜、栄介が宝くじで一千万円を当てたと告白したあと、山岡はひどく冷淡になった。  山岡は、宝くじを買うことについては別に反対意見は持っていないらしかった。むしろ、夢を買うという点で共感しているようであった。  しかし、現実に一千万円を当ててうろたえている栄介には、何か苦々しいものを感じたらしい。 「その先の夢がなかったのかなあ」  本心からふしぎがっているらしく、溜息まじりに言った。  そう言われてみると、栄介もたしかに自分の底の浅さに思い当たった。  百円で一千万円の夢を買った。それなら一千万円で何を買うかの夢を見ておくべきだったようである。  それを栄介は、きわめて漠然と、俗っぽいところで納得《なつとく》していたようだ。  車を買って乗りまわす……せいぜいそんなところだ。  冷淡になった山岡をたしなめるように、美津子がいちいち栄介に同情的な言葉をかけてくれた。 「誰だって本当に当たるとは思わないし、それに、あたしたちみたいな変な夢ばかり追っている人間ばかりじゃないわ。むしろ岩井さんのほうが当たり前なのよ」  栄介は二杯目の紫色の酒をあけ、三杯目をその美津子に作らせながら、彼女のいう変な夢というのを教えろとせがんだ。  それはどうやら、パンサーという店の一風変わった飾りつけに関係があるようであった。 「わたしたち、みんな古代に憧《あこが》れてるのよ」  美津子は真顔でそう言った。 「古代って……」 「たとえば、ギリシャ人というのはどこから来たのか。それ以前、あのへんにはどんな人間が住んでいたのかとか、エジプトのいちばん古い町はどんな町だったか……」 「それを知ってどうするんだい」 「そんなこと、あたしたちには関係ないことよ。ただ知りたいの。知って驚きたいのよ。きっと驚くと思うし……」 「夢か。古代への夢か」 「判るでしょう。邪馬台国《やまたいこく》だって同じよ。卑弥呼《ひみこ》はどんな人間だったか。どんな神と彼女は会話していたか。あの有名な火焔土器《かえんどき》はどんな人物が作ったのか。みんなそういうことを知りたがっているだけよ。それだけのことでみんな夢中になっているの」 「山岡。もし君が一千万円当てたとすると、そういう古代の問題に使ってしまうのかい」  すると山岡は、はじめていつもの柔和な笑い顔に戻ったようであった。 「もちろんさ。会社なんかその日の内にやめてしまうよ。そして使い切ったらまた別な仕事を探してやり直すだろうな」  栄介は腕を組んだ。くだらない贅沢《ぜいたく》をするより、そのほうがずっと贅沢な使い方に思えて来たようであった。 「どうして君たちはそんなに古代史が好きなんだい」  栄介が尋ねると、山岡が店の者たちを代表するように言った。 「特別な理由などないよ。世の中には盆栽が好きでたまらない人間もいれば、切手を集めてよろこんでいる人間も多い。好きになってから理由ができるのさ」 「でも、古代史っていうのは……」 「おい待てよ。古代史と言われると俺たちも変な気分になる。そうかな、俺は古代史が好きなんだろうか、とね」 「違うのか」 「古代史の史というのがどうもぴったりと来ない感じだ」 「だって歴史のことばかり言ってるじゃないか」  山岡は栄介にそう言われ、美津子と顔を見合わせて苦笑した。 「盆栽を好きな奴は木を育てたり眺めたりするのが好きなんだろうか。門外漢から見ればたしかに盆栽は木だし、いつもそれを眺めてうれしがっているように見えるだろう。だが、本当はそうじゃあるまい。木に命があるから可愛いんだ。木も生き物だからだ。もしあれに生命がなかったら面白くあるまい。切手だって、人間が作ったものだから面白いのさ。石だってそうだぜ。それが出来たときの生命感のようなものにつながっている。つまり人間が面白がるものは、みんな人間自身……生命につながっているのさ」  山岡はジンを飲んでグラスを眺め、 「もういい。これ以上は飲みすぎだ」  と美津子に言った。グラスのジンはあとひと口ほどでおしまいになるところだった。 「たしかに歴史は人間そのものだからな」  栄介も自分の前にある紫色の液体をみつめてつぶやいた。 「古代が好き、というより、俺たちはどうしようもないほど古代にとらわれているんだ。自分たちがどこから来たのか、それに関心があるのさ。命というのは、時の流れの中を切れ目なく続くひと筋の線だ。俺の線は邪馬台国につながっている。岩井、お前もだぜ」 「それどころか、朝鮮、中国、中央アジア、ペルシャ……」  美津子が夢を見るような目で言った。 「なあ。人間はそういう夢を追うのが本当の姿なのではないかな。エデンの園以後、食うに追われてしまっているけれど」  山岡が言い、栄介はその横顔をみつめた。 「食う心配がなければ、そういう夢を追うというわけか」 「絵でもいい。詩でもいい。好きなことをやればいい。どこまで行ったって、会社は食うために通っている場所にすぎない」  いずれ模造品だろうが、パンサーという店の至るところに飾りつけられた古代風の品々が、そういう議論の説得力を何倍にも強めているようであった。  怪教団  どうやら山岡は自己管理が思ったよりずっとしっかりしている男らしかった。 「今日はこれくらいにしておこう」  最後のグラスを空《から》にするとあっさりそう言ってスツールからおりた。  栄介はもう少しパンサーにいたい気分であった。飲み足りないのではなく、一千万円の宝くじが当たったことについて、山岡ともっとよくはなしあいたかった。  しかし山岡は、 「君は俺《おれ》より酒が強くないはずだぞ」  と、たしなめるように、まだスツールに腰かけている栄介に言った。 「うん」  栄介はやむを得ずパンサーを出ることにした。 「勘定は二、三日したら俺が払うから」  山岡にそう言うと、案外素直にうなずいてくれた。 「岩井さんも、これからちょいちょい来てね」  美津子がカウンターの中から声をかけ、栄介は山岡と一緒に振り向いて答えた。 「また山岡と一緒に来るよ」 「きっとよ。有難うございました」  狭い横丁へ出ると、サラリーマン風の三人連れが、ここだここだ、と言ってパンサーの二、三軒先のバーへ入って行くところであった。 「仕事はじめの晩は、どこの会社も似たようなものらしいな」  山岡は笑いながらそう言った。  栄介はそのあとについて歩きだしながら、どこか喫茶店のような場所で、宝くじの件を話そうと考えていた。さっき、ちらりと宝くじに当たったことを、告げたつもりであったが、酒を飲んだうえでのはなしなので、はたして山岡が本気でうけとめたかどうか心もとなかった。  ところが山岡は腕時計を眺めてから、一歩遅れて歩いている栄介を待ち、肩を叩いて言った。 「悪かったな」 「いいよ、たまには奢《おご》らせてくれ」 「違う。もっと飲みながら話していたかったんだが、実はちょっと約束があってね」 「なんだ、そうだったのか。デートかい」 「そんなんじゃない。九州から叔父《おじ》が出て来ているんだ」 「話があったんだがな」 「判ってる」  山岡は栄介の目をみつめてうなずいた。 「なんだか知らないが、今日の君は変だった。でも、明日でもいいだろう」 「うん」  栄介は拍子抜《ひようしぬ》けした気分で答えた。山岡は新宿駅のほうへ足を早める。 「あの女をどう思う」 「美津子という人か」 「そうだ。美人だろう」 「うん」 「君が気に入ったらしいぜ。パンサーに通って来る客の半分は彼女がめあてなんだが、気が強い上に好みがやかましくてね」  山岡はそう言って笑った。  栄介は新宿駅へ行く途中で山岡と別れた。  別に行くあてもないし、飲み歩くにはふところが心細かったが、なんとなくそのまま帰る気がしなかったのである。  オフィスはすぐそばにあり、新宿は毎日見なれた街だが、ネオンがともるとまるで縁遠い存在になってしまっていた。  長い間、そんなことは気にもとめなかったが、一千万円を獲得した今では、夜の新宿を見る目が違ってしまっているのだ。  どの店でも、行こうと思えばいつでも行けるのだ。  いったい、どんな店があるのだろうか。どんな男が、そこで飲んでいるのだろうか。  栄介はなかば下検分のような気持で、夜の新宿をぶらつきはじめた。豊かないい気分であった。  本気でその夜の街を飲み歩こうと思っているのではない。ただ、無関心というよりは諦《あきら》めで踏み入れなかった世界であった。だが、金を手に入れた今では、諦めではなく、無関心で出入りしないことになる。  似ているようだが、栄介にとっては意味がまるで違っていた。それは、被征服者と征服者の違いほども大きかった。  ずいぶん易者が多い。  夜の新宿で、栄介はそんな発見をした。うす暗い通りのあちこちに、ビルの壁にへばりつくような恰好《かつこう》で易者の姿が並んでいた。  あれで商売になるのだろうか。栄介はそう思った。きっと自分の未来を知りたがる人間がたくさんいるに違いない。現在の境遇からいつ抜けだせるか真剣に知りたがっている者もいるだろうし、ちょっとした好奇心から易者の前に立つ者もいるだろう。  去年のおわりに、自分がその易者の前に立ったら、いったいどういう答が返って来たことだろうと思った。  まもなくすばらしい幸運がおとずれる。  そう断言する易者がもしいたとして、自分はそれを信じただろうか。  いや、多分信じなかったはずだ。信じようとする気持が動いても、理性がそれを打ち消してしまったに違いない。  とすると、理性とはいったい、何だ。ご大層にあがめていても、常識ということと大して違わないのではないだろうか。  栄介は易者たちの前を通りすぎながら自分の運命について考え続けた。  去年の暮れ、自分に幸運がおとずれると予言した易者がいたとしよう。そしてそれを信じたとしよう。  それがいま現実のことになっている。宝くじに当たって一千万円を手にしたのだ。すると今、自分はその易者の予言を更に信じようとするのではないだろうか。だとすると、一千万円をどう使うのが最もいい結果をもたらすのか、山岡に相談しようなどと思ってはいないかもしれない。新しい予言に従って行動することになるのかもしれない。  栄介は、どうしても今夜自分の運勢を易者に判断させたくなった。  栄介はデパートの裏の道へ入った。そこを通り抜けて表通りへ出るつもりであった。  昼間はデパートへ商品を納めに来た車でごったがえす狭い道が、今は通る人影さえなく、両側にそびえ立った壁の間の薄暗く沈んだ空間を作りだしている。  栄介はふと足をとめた。  その切り通しのような沈んだ空間に、うすぼんやりとした灯《あか》りが見えている。その灯りは小さな天幕のようなものの柱にぶらさがった行灯形《あんどんがた》のランプであった。  栄介はその灯りに吸い寄せられるように近付いて行った。行灯形のランプには、「運勢」と筆太の字で記してあった。  新宿の暗がりに並んだ易者たちは、たいてい小さな灯りをのせる台と簡単な椅子《いす》をひとつ持っていて、客はその前に立って手相などを見てもらう。椅子がなく、客も易者も立っている場合も多い。中には灯りをのせる台もなく、易者なのか待合わせでたたずんでいるだけなのか、判じようもないのさえいる。  だが、そのひっそりとした狭い道で栄介がみつけたのは、客一人が姿をかくせるほどの天幕を張った、一応店構えのはっきりした易者であった。  もっとも天幕といっても、ラーメン屋の屋台にシートをかぶせた程度だが、吹きつける北風もいくらかはしのげようし、まずまず上等の部類であった。  そんな人通りの少い場所にいて商売になるのかどうか知らないが、栄介のような性分の男は、人目の中で易者の前に立つのが気恥ずかしく、その点ひっそりとしていて気楽に運勢を見てもらえそうであった。  易百般・予言・東洋神秘教団。  間口がふたつに割れてさがった天幕に、そんな文字が書いてあった。天幕のすき間から、テーブルの向うにうつむいて坐っている男の頭が見えた。居ねむりでもしているのかも知れない。  栄介は天幕を割って中へ入った。ごわごわした布が鳴り、うつむいていた男が急に顔をあげた。  老人であった。肌《はだ》の色がひどく浅黒く、細長い顔のまん中のとがった大きな鼻が印象的であった。  頭にはトルコ帽のような帽子をかぶり、その帽子の下から長めの白髪がのぞいていた。白茶けた眉毛《まゆげ》が異様なほどふさふさと盛りあがっている。  かなりの年であるはずだが、いくつぐらいか栄介には見当がつきかねた。痩《や》せているが骨太のがっしりした感じの老人で、それが栄介をみつめたまま、いつまでも口をひらかなかった。  栄介はその油膜でもかかったようなとらえどころのない瞳《ひとみ》から目をそらし、薄い唇《くちびる》をみつめて立っていた。 「見てもらいたいんだけど」  何分間ぐらいその奇妙な睨《にら》み合いが続いただろうか。栄介は根まけしてそう言った。  老人の骨ばった右手の指がテーブルの上へ伸びて、小さな折り畳み式の椅子を示した。  栄介はカチャカチャと音をたててその椅子を老人の正面へ引っぱり、坐った。  腰をおろしてもまだ老人は栄介をみつめていた。 「お一人だな」  しばらくしてやっと老人が声をだした。かすれた、痰《たん》のからんだような声であった。  栄介は意味を判じかねて老人をみつめ返した。 「天涯孤独《てんがいこどく》……近頃|身内《みうち》を亡くされただろう」 「ええ」  栄介はうなずく。 「女親だな」 「よく判りますね」 「最初に言って置こう。儂《わし》は半分は商売でここに店を張っておるが、半分は研究の為《ため》だ。東洋神秘教団……」  老人はテーブルの上に立てた茶色い木の札を顎《あご》で示して言う。その古びた木札には、楷書で東洋神秘教団と書いてある。 「霊と肉がからみ合うこの謎《なぞ》の世界から、宇宙を支配する唯一の真理を発見することが、当教団の使命なのだ。したがって、夜ごとそこへ坐る人々の中に、当教団の使命遂行に役だつ者がいれば、その者はもう客ではない。儂の研究対象だ。したがって料金はいただかぬ。そのかわり協力をしていただく」 「協力……」  栄介は警戒気味に言った。 「儂によく観察させてくれればそれでいい」  老人はそう言うと、また黙りこんで栄介を品物か何かのようにじろじろと眺めまわす。 「運勢を見てもらおうと思って……」 「見ておる。運勢だけではない」  老人は叱りつけるように言い、なおも眺めまわした。 「邪運がさかっておる」 「邪運ですか」  栄介は苦笑しかけた。 「大金を手にしたな」  老人はずばりと言い当てた。目をとじ、しばらく考え込む。 「拾った金ではない。盗んだ金でもない。しかし、正当な報酬とも言いがたい。とすると」  老人は目をあけて栄介を睨みつけた。 「宝くじか」  威嚇《いかく》するような底力のある声であった。栄介はつりこまれてうなずく。 「そうです」 「大金だな」 「はい」 「一千万か」  老人は吐きすてるように言った。  どこをどう手がかりにしているのか知らないが、恐るべき洞察力《どうさつりよく》であった。 「そんなことがどうして判るんです」  栄介は質問というより感嘆してそう言う。老人はかすかに冷笑したようであった。 「そのための修練を積んでおる。現在の科学というのは一見もっともらしいが、宇宙の真理を探究するのに、あれほど非人間的なやり方はない。物にふりまわされ、人には魂があるということを忘れてしまっておる。霊の持つ力は、科学から見ればとほうもない跳躍《ちようやく》の力だ。出発点からいきなり結論へ跳躍できる。科学者はそれを不合理だという。彼らのいう不合理こそ、宇宙の真理であるのに」 「とにかく当たりました。何だか知らないけど、偶然であるように思えないな」 「当たり前だ」  老人は露骨に顔をしかめた。 「そのことで悩んでいるな」  老人はしかめた顔のまま言う。栄介は黙って相手を見返した。 「悩みは正しい。たしかに不正な金ではない。宝くじで当てたのだからな。しかしそれは不当な金だ。働いて得た一千万円ではない。ただいつものように寝て、目が覚めたら枕《まくら》もとに積んであったという金だ。心のどこかがうずくだろう。こんなことがあっていいのかとな。恥ずかしい気もしよう。おそれもあろう。それはすべて正しい心の動きだ」 「一千万円をどう使ったらいいのでしょう」  栄介は真剣にそう尋ねた。 「ひと目見たときから、邪霊に憑《つ》かれていると判った。邪霊が邪運を呼んだのだ。いいかな」  老人は太い息をひとつしてから、急にやわらかな表情になった。優しい、物判《ものわか》りのいい微笑を浮かべている。 「宝くじで一千万円を当てたことについて、悩んだり迷ったりすることは正しい。だが、なぜ正しいか判るまい」 「ええ。でもうれしいばかりじゃないんです。それと同じくらい、うしろめたくて不安なんです」 「そうだろう。そうあるべきだ」  老人は薄い唇をなめた。ひどく赤い舌がのぞいた。 「そこにある紙に、住所と生年月日、生まれた場所、それに名前をきちんと書いてもらおう。書きながら儂の話を聞きなさい」  栄介は、テーブルの隅《すみ》に置いてあったメモ用紙とボールペンを引き寄せた。 「人間は時として、はっきりした理由もないのに不吉な予感に襲われることがある。だがそれは感覚の上だけであって、実際には何の証拠も発見できぬ。そんなとき、みな自分の感じたことを打ち消し、忘れてしまう。それはさっき言った、いわゆる科学的な思考法だ。目に見えぬものは否定する。触れられるものだけを信じようとする。大きな誤りだ。霊が感じたことこそ最もたしかなことなのに」  老人は熱っぽい目で栄介をみつめた。 「霊の力は遠い星と自在に語り合うことができるほどなのだ」  人通りのないビルの谷間を吹き抜ける冬の風の音が、すぐ近くを通る車の音を遠くに押しやって、うす暗い天幕の中に妖気《ようき》のようなものが満ちて来ていた。 「そしていま君は、その霊の力で何かを感じている。うしろめたくて不安だという。君の霊が君に告げているのだ。宝くじで大金を得たことが、単なる幸運ではないことを君の霊は知っているのだ。だが君の心は曇っている。触れることのできるものだけを信じようとする心が、自分自身の感覚を疑わせているからだ」  老人は憑かれたように喋《しやべ》っていた。栄介はじっとその目をみつめ、遠い見知らぬ世界へひきこまれて行くような自分を感じている。  老人はふと我にかえったように表情をかえた。どこか狂信的な熱っぽさが消え、物判りのいい穏やかな微笑が泛《う》かんで来た。 「自分の心に言い聞かせてみたらどうかな」 「何をです」 「いま君がここにいるということをだ」  栄介は小首をかしげた。 「なぜ君はここにいるのかね」 「それは、つまり……」 「新宿の町をぶらぶら歩いていた。そうだろう」 「はい」 「理由もなく、ただ足の向くままにこの通りへ入りこんだ」 「そうです」 「するとここの灯りが見えた。君には迷いと不安があった。そのふたつを解消させる鍵《かぎ》がここにありそうな気がした。それで儂の前へ現われた……。違うかな」 「いいえ」  栄介は首を横に振った。操り人形のように、老人の言うがままになっているような感じであった。 「君は何かに導かれてここへ来たのだよ」 「そうでしょうか」 「そうだとも。その証拠に、儂はひと目で君が宝くじを当てたことを見抜いたではないか。夜の新宿にはたくさんの手相見がいる。易者がいる。そういう連中のところへはなぜ行かなかった。儂のところへ来た」 「偶然です」 「偶然かな。偶然ということが本当にあるのかな」  老人は諭《さと》すような言い方をした。 「あることの因果《いんが》関係がよく判らないとき、人はすべてを偶然にしてしまう。まあそれもよかろう。だが、それでは儂が言い当てたことも偶然になってしまう。そうではないのだ。君はある力に操られている。何者かが君に一千万円をさずけた。儂にはそれが判る」  老人は栄介に顔を寄せ、ささやくように言った。 「いったいどんな力に操られたのです」  栄介は老人に尋ねた。トルコ帽のようなものをかぶり、白茶けた眉毛を盛りあがらせたその奇妙な老人は、薄い唇をきつくとじて睨みつけるように栄介をみつめた。 「儂には判る。儂にはよく判っておる。しかし教えても信じるかな」  老人はきつい表情のまま首を左右にゆっくりと振る。 「まだ信じまい。もっと信じられる時が来たら教えよう。今はまだ教えん。しかし、或《あ》る力が君を欲していることだけはよく憶えておくがいい。そのものは、今後ことあるごとに君を自分の近くへ呼び寄せようとするに違いない」 「どこへ僕を行かせる気なのです」 「いずれ時が来たらそれも教えよう」 「なぜ今ここで教えてくれないのです。僕はそういうことが知りたくてここに坐っているんですよ」 「慎重にかからねばならん。事は君が思っているよりはるかに重大なのだ」 「教えてください」  栄介は子供のようにせがんだ。湧《わ》きあがる好奇心をおさえるすべがなかった。  しかし老人は、ひどく深刻な様子でまた首を振った。 「いいかね。僕は迷い悩む人々を救う立場にある。今君にすべてを教えるのはかんたんだが、それでは逆に君を邪悪な力に引きわたすことになる」 「なぜです」 「今まで君が住んで来たのは、触れられるものだけを信じようとする世界だ。真相はその君の世界からは遠いところにある。触れられぬものの世界だ。教えて一夜あけたら、君はゆうべ気違いめいた一人の老人に会ったとしか思えなくなろう。せっかくの真実を、君の心ははるか彼方《かなた》へ追いやり、幻想の世界のものにすぎぬと思いこんでしまうだろう。そうなれば、君の霊力が君自身をここへ導いたことが無になってしまう。判るかね。もう少し君は触れられぬ世界のことについて理解せねばならんのだ」 「教えてもらうには、何をどう理解すればいいのですか。それに、僕が邪悪な力に引きわたされるとおっしゃいましたね。宝くじで一千万円当たったのは、邪悪な力のせいなのですか」 「そうさ。君はいま大きな力にとらえられようとしている。たとえば、一千万円あれば君はどうする。今の生活をかんたんに棄《す》て去ることもできるのだぞ。棄てようという気がないとは言わせん。必ず心のどこかにそういう欲求が芽生えているはずだ。それが育ち、どこかへ君が旅立つ。どこへ行く。何をしに。自分の思うとおりのことをしているつもりでも、その時君がむかう先は、邪悪なもののところだ。儂はそれをさせたくない。君を救ってやりたいのだ」  栄介は凝然《ぎようぜん》と老人をみつめていた。  栄介の頭は混乱しはじめていた。  その奇妙な老人と向き合っていると、何か深い淵《ふち》へ引き込まれて行くような感覚に襲われるのである。  その墜落するような感覚は、はじめの内、ごく短い間に消えて元に戻った。しかしまた同じ感覚がやって来ては消え、その間合いが次第につまって行くような具合なのである。  それは激しい睡気《ねむけ》に似ていた。睡ってはいけないと思いながら、気がつくとつい居睡りをしていたのに気づくように、一種の甘美さをともなう危機感であった。 「この世ならぬ世界、触れられぬものの世界については、儂がよく教えてあげよう」  老人の顔が栄介の視界いっぱいに拡大していた。いや、それほどちかぢかと老人は顔を寄せて話しているのだ。 「君はしあわせになるべきだ。その一千万円を、百倍にも千倍にもできる方法を教えてやろう。儂を信ずればいいのだ。君はこの世で最も力のある人間になることも不可能ではない。だが、いま君にとりつこうとしている邪悪なものにとらえられたら、君はすべてを失うことになる。争いにまきこまれ、邪悪なものの手先として、地獄の苦しみを受けねばならぬ。儂を信じなさい。穢《けが》れたものをしりぞけるのだ」  老人がテーブルの上へ何か置くのが判った。老人の顔が遠のくと、今度は広角レンズをのぞいたように、すべてがひどく遠のき、天幕の中が恐ろしく広いように感じた。  老人がテーブルの上に置いたのは銅の皿であった。分厚く、重そうで、表面に黄道十二宮《こうどうじゆうにきゆう》をあらわす星座図のようなものが浮彫りになっていた。  老人は骨ばった左手の指を五本とも奇妙な感じに曲げて、その銅の皿の上を一度、すっと払うようにした。  すると皿の中にパッと炎があがった。まるで奇術を見せられているようであった。  炎はさして大きくなく、ガソリンのたぐいを燃やしたのではない証拠に、炎の色はひどく赤かった。 「触れられぬものの世界を知るがいい。邪悪なものの姿を見るがいい」  栄介は魅せられたようにゆれ動く炎に視線を合わせた。炎の中に何か見えるような気がした。  その時、栄介の背後でごわごわした天幕の垂《た》れが、強い風に煽《あお》られてバタバタと音をたててめくれた。  炎は皿に押しつけられたようになり、皿のふちにそって揺れた。  栄介は我に返った。  天幕の中はやはり狭かった。老人は貧しげで、虚勢を張ったような威厳をとりつくろっているように見えた。  広角レンズをのぞいたような視界が元どおりになっていて、睡いようなあの感覚も去っていた。  人通りの絶えていたビルの谷底のようなその通りに、靴音が響いていた。  栄介は一月の夜風の冷たさを意識した。はげしい音をたててめくれあがる天幕の垂れを思わずふり返って眺めた。 「あら……」  天幕の外の闇《やみ》の中で女の声がした。 「岩井さん、だったわね」  それは歌舞伎町のバーのカウンターの中にいた美津子という女であった。  黒い、丈の長いコートを着て、風に煽られて片一方が天幕の上へ引っかかった垂れの間から、のぞき込むように栄介をみつめていた。 「なんだ」  栄介は照れ臭そうに頭を掻《か》いて見せた。 「山岡君は。一緒じゃなかったの」 「用があるとかで、ひと足先に帰ったよ」  すると老人が焦《じ》れたような声で言った。 「お知合いかな」 「ええ」  栄介は美津子のほうを向いたまま答える。 「いい卦《け》が出たの」  天幕から洩《も》れる薄あかりの中で、美津子はからかうように笑って見せた。栄介は急に恥ずかしくなって椅子から腰をあげた。 「通りがかったらこういう店が出てたものだから……」  老人は感情を害したようであった。 「東洋神秘教団はそこいらの易者とは違うのだ」  怒ったように言い、 「立ったついでにその垂れを元どおりにさげてくれんか」  と栄介を睨んだ。 「もういいよ。いくら払えばいいんだい」 「まだおわっておらん」 「あら、途中だったの。お邪魔してごめんなさいね」  美津子はちょっと首をすくめ歩きはじめようとした。 「待ってくれ、もういいんだよ」  栄介はあわてて上着の内ポケットに手を入れながら、もう一度老人に言った。 「いくらだい」  あの妖《あや》しい雰囲気《ふんいき》が嘘《うそ》のように消えて、老人に気おされていたのが夢の中の出来事のようだった。  老人はいまいましそうに舌打ちをした。 「はじめに言ったはずだが、儂は商売のためだけでここにいるのではない。君は儂の研究対象だから金はいらんよ」 「それじゃ悪いよ」 「自分の特別な運命をもっとよく知りたいとは思わんかね」  老人は小さなカードをつまみあげ、栄介にさしだしながら言った。 「今夜でなくてもいい。自分のことをよく知りたくなったらたずねて来なさい」  栄介はそのカードを受取り、ひっかかった天幕の垂れを直してやった。美津子がそれをみつめていた。 「あんなところで何をしていたの」  美津子は栄介と肩を並べて歩きだしながら言った。 「運勢を見てもらっていたのさ。正月だからね」  栄介は弁解するように答え、 「どこへ行くんだい」  と尋ねた。 「すぐそこの喫茶店よ。知っている人がやっているの。お正月ですものね」  美津子は栄介の真似《まね》をして答え、ちらりと彼を見て笑った。 「年始まわりというわけか」 「まあそう言ったところね」 「パンサーは君がいないと困るんだろう」 「そうでもないのよ。私はアルバイトみたいなものだし」  美津子は表通りへ出ると右へ曲った。商店のほとんどはシャッターをおろしていたが、ひっきりなしに通る車のライトや街灯の光で、美津子が楽しげな微笑を泛かべているのが判った。  並んで歩いてみると、彼女の背の高さは栄介よりやや低く、フードのついた黒いマキシのコートを着ていた。コートの裏地は鮮やかな赤で、黒いブーツをはいている。 「そう。山岡君はもう帰ったの」  美津子は思い出したように言った。 「うん。おかげでひとりさ。だからあてもなくぶらついていたらあの易者に出会ってね」 「あの喫茶店よ」  美津子に言われて顔をあげると、黄色い看板が見えていた。 「挨拶《あいさつ》するだけなんだけど」  美津子はそう言って誘うように立ちどまった。 「付合ってくれるかい」 「一人でコーヒーを飲んだっておいしくないし」  美津子は笑った。栄介よりずっと大人《おとな》びた表情であった。  二人は自動ドアをあけて店の中へ入った。店の中は暖かく、栄介は自分が冷たい風の中で全身の筋肉をひどくこわばらせていたことに気付いた。 「ちょっと行ってくるわ。コーヒーをたのんで置いてね」  あいたテーブルにつくと、美津子はそう言いながらコートを脱いで椅子に置き、店の裏のほうへ行った。  栄介はコートのボタンを外し、ポケットから煙草《たばこ》をとりだして火をつける。ウエイトレスが来て飲物を尋ねた。 「コーヒーをふたつ」  栄介は前の椅子に置いてある美津子のコートをみつめながら言った。無造作に脱ぎ棄てたコートは、おもて地の黒と裏地の赤が不思議な形に入り混っている。  何かがはじまりかけている。  栄介は、赤と黒が作りだす奇妙な形を眺めながらそう思った。  美津子はすぐ戻って来た。 「このお店をやっているのは、私の遠い親類に当たる人なのよ」  そう言って椅子に腰をおろし、ウエイトレスが運んで来たばかりのコーヒーに砂糖を入れた。 「なぜ運勢なんか見てもらう気になったの……」  美津子は栄介をみつめて言った。 「さあね」  栄介は苦笑してみせる。 「よく見てもらうの」 「はじめてさ」  とんでもないと言うように栄介は首を振った。 「しかし、妙な気分なんだ。今でもそうなんだが、何かこう、遠い所へこれから旅行に出るような……船出の気分なんだ」  美津子はコーヒーを飲みながら、上目づかいで栄介をみつめている。 「理由は特にないんだ。だが何かしら不安なんだよ。こんなことははじめてさ」  美津子はコーヒー・カップを置いた。白く柔らかそうな指であった。 「そういう勘みたいなものは、案外よく当たるのよ。自然に感じたそういうことは、本人が一生懸命考えたことより、ずっと正しい場合があるのよ」 「あの易者の爺《じい》さんにもそう言われたよ」 「当たったの。あのお爺さんの易は」 「まあね。いきなりずばりと当てられて、ちょっとがっくりしたよ」 「でも、信用していいのかしら。ああいう人たちというのは、最初にお客を引きつけてしまうテクニックを持っているのよ」 「それにしては当たりすぎたようだ」 「だったら、もっとよく見てもらえばよかったのに」 「でも、何だか嫌《いや》な気分だった。あやしげな雰囲気でね」 「少し酔ってるのよ。岩井さんて、あまりお酒が強くなさそうですもの」 「君が通りがかってくれたので助かったよ。なんだかとんでもない世界へ連れ込まれそうだった。へたをするとあの爺さんを信じ込んで、妙なことになりそうだった」 「妙なことって……」 「インチキ宗教のようなものにはまりこんでしまうとか」 「東洋神秘教団……」  美津子が笑った。 「知っているのか」 「いいえ。でもあの天幕にそう書いてあったわ」 「そう言えば、あのパンサーという店にも、何かそんなようなものがたくさん飾ってあったな」 「私たちはただ古代の世界に興味を持っているだけよ」  美津子はあのあやしげな老人と一緒にされたのが不服らしく、首をすくめた。 「あなたは古代史などには全然興味がないの」  美津子に尋ねられて栄介は即座にうなずいた。 「まるでないな。そんなひまもなかったし」  すると美津子は抗議するように早口で言った。 「ひまなんて、私たちだってなかったわ。そういうことって、ひまのあるなしと関係ないのよ。山岡君だって私だって、昔から貧乏で、今だってあんなところで働かなければ食べて行けないんだし」 「そうだね。興味の問題かな」  栄介は美津子の強い口調にたじろいで譲歩するように言う。美津子はそれに気づいたらしく、 「人それぞれよ」  と物判りのいい笑い方をした。 「でも、邪馬台国《やまたいこく》がどこにあったか、などという問題にまるで興味がないの」 「邪馬台国か」  栄介はふと忘れ物に気づいたような顔になって、美津子のずっとうしろの壁をみつめた。 「うん。面白いとは思うね」 「それだけ」 「ロマンチックだな。卑弥呼《ひみこ》がどんな女性だったかなどと考えるのは、浮世ばなれしていてたのしいよ」  美津子はまた首をすくめるようにした。それが癖らしく、そういう仕草をすると一瞬少女の頃の面影に戻るようであった。 「たとえばこの新宿も、彼女の国につながっているのよ」 「彼女」 「卑弥呼よ」 「そう言えばそうだが」  栄介は失笑した。そんなつなげ方をして見たことは一度もなかった。 「でも事実よ。卑弥呼がいたということは信じるでしょう」 「それは信じるさ。でも……」 「でも時代が離れすぎている。飛躍しすぎる。そんなことを考えるひまがあったら、あしたのことを考えたほうがいい。そう言いたいんでしょう」 「そうは言わないけれど」 「みんなそう言うわ。でも、卑弥呼という女王がどこかにいたことや、その国がこの日本のどこかにあったことはたしかなのよ。しかも、時間は卑弥呼の時代から切れ目なく続いているのよ。遠いと思うのは私たちがそう感じるだけよ。卑弥呼と私たちの間にある時間は、本当はごく短いのかも知れないじゃないの」 「短い」  栄介は唖然《あぜん》としたようであった。美津子の目をみつめ、彼女の思考法の糸口を掴《つか》もうと、次の言葉を待っていた。 「卑弥呼は今もどこかで生きていると考えてみない」  美津子は左手の指で栄介の胸のあたりをさして言った。 「日本人には日本人の考え方があるわ。たとえば縄文時代《じようもんじだい》というのは、私たちが漠然《ばくぜん》と考えていたよりずっと古くから、この日本列島にひとつの文化をもたらしていたのよ。その上に弥生式土器《やよいしきどき》の時代がかぶさって来たし、のちには西洋の文化に覆われもしたわ。でも、近代的だの現代人だのって言うけれど、どうかした拍子に、私は自分の心の中に縄文を感じる時があるわ。それがどんなことか、うまく言えないけれど、山の中の道を歩いているようなとき、森の暗がりの奥や湿った泉の岩などに、何かとても動かしがたいものを感じてしまうのよ。それが縄文の心だってすぐには言い切れないけれど、ああ卑弥呼がいたのだなあという気になる時があるのよ。つるつるのプラスチックや直角だらけのビルでは感じられないものだわ」 「つまり、血の問題か」 「多分ね。私たちの体の中に流れている血は、時間そのもののような気がするの。ひとつながりに、ずっと流れつづけているのよ。時間の中で生命を運んで行く流れよ。その流れの上流のどこかに、卑弥呼がいるのよ」 「俺は熊襲《くまそ》かも知れないな」  栄介ははぐらかすように笑ったが、美津子はとり合わなかった。 「卑弥呼と私たちの間の時間が短いと言ったけれど、本当に短くする方法があるのよ」 「おどろかすなよ。君は俺をさっきからおどろかせてばかりいる」 「本当よ。私も山岡君も、実をいうとそれにとりつかれているの。いつか卑弥呼をもっと身近に感じてやろうと思ってね」 「どうするんだ。面白そうだな」 「邪馬台国をみつけるのよ」 「邪馬台国を」 「そう。昔からたくさんの人たちが、邪馬台国の場所をめぐって議論して来たし、今もたくさんの本が出版されているじゃない。でも、議論じゃしようがないわ。それに私たちがそういう議論に参加したってまるで無力よ。でも、私たちにはめいめいここに違いないと思う場所があるの。探しに行きたいのよ。そこを調べてみたいの。外国ではなく、この日本の中にある場所なのよ。ちょっとお金さえためれば行って好きなだけ調べられるのよ」 「これが卑弥呼のいた場所の証拠だというものを探すわけか」 「何をみつければ証明になるのか、幾つかの品がもうリストにのっているの。でもだめだわ。私たちにはなかなかそんなお金なんてためられないんですもの。半年か一年働かずに調べて歩きまわるための、ほんのちょっとしたお金なのにね」  美津子はまた首をすくめた。 「羨《うらやま》しいな」  栄介はため息まじりに言った。口では愚痴《ぐち》めいたことを言っているが、美津子の瞳には明るい希望のようなものがうかがえた。 「どうして」  美津子はのぞき込むように栄介をみつめる。 「そうじゃないか。君たちにはそういう夢がある。山岡がそんな夢を持って働いていたなんて、少しも気がつかなかった」  すると美津子は軽く笑い、栄介をみつめたままゆるく首を横に振って見せた。 「さっきお店で宝くじが当たったなんて言ってた時にくらべると、だいぶ酔いがさめたみたいだけれど、それでもあなたはまだ少し酔っているのよ」 「そうかな」  栄介は苦笑した。宝くじに当たったと言ったところで、誰も本気にはしてくれまいと思った。恐らく山岡も今頃は、岩井の奴酔っていやがったと思っているに違いない。 「卑弥呼を探すなんてばかげてるわよ」  美津子は自分からそう断言する。 「私たちはそのばかげてるところが気に入っているんだわ。でも、ほかの人から見ればやはりばかげてるでしょうね。あなただって酔いがさめればきっとそう思うわ」 「どうかな。そうとばかりは言えないよ」 「だったら、仮りにあなたが本当に宝くじで一千万円当てたとしましょうか」 「うん」  栄介は体をのりだした。テーブルの上に両肱《りようひじ》をつき、美津子の顔を真正面からみつめた。 「私たちの、そのばかげた夢の仲間入りをする気になるかしら。あなたが今、私たちの夢を羨しいと言った気持はよく判る気がするの。安月給で何の夢も持てずに毎日をだらだらと過して行くのは、よく考えればつらいことだわ。私たちだって、それがいやだから卑弥呼だなんて突拍子《とつぴようし》もない夢にとびついたのかもしれない。でも、本当に或る日突然一千万円を手にしたら、卑弥呼の夢を持ちつづけられるかどうか、私だって判らないわ。一枚の宝くじに一千万円の夢を見るのはかんたんだけど、その一千万円を本当に手にしたあとも夢を見つづけることはできないと思うの。とたんに現実的になってしまって、どこへ投資しようかだとか、利息はどうかだとか……」 「たしかにそうかも知れないな」  栄介は図星をさされて頭を掻いた。 「変な人。あなたのことを言ったんじゃないわよ」  美津子は栄介の子供っぽさを笑ったようであった。 「でも、いざ手にしてみれば、一千万円なんて大した金じゃないよ。……そう思うな」  栄介は言ってから思わずニヤリとした。美津子が呆《あき》れたような顔をしたからであった。  一千万円についての話はそれまでで、栄介と美津子はそのあと、とりとめもない世間ばなしをして別れた。  たしかに少し酔っていて、それが電車に乗っている内に急にさめだしたようであった。 「妙な晩だ」  駅の改札口を出て冷たい風の吹く暗い道を自分のアパートへ向いながら、栄介はそうつぶやいていた。  そんなに酔うほど飲んだおぼえはないのに、記憶が何段階かに区切れているようなのである。  と言っても、別に記憶が薄れたり消えたりしているわけではない。ただ、今日の出来事ときのうの出来事が入り混ったような、妙な感じなのである。  昼から夕方まではたしかにいつもどおりなめらかに連続していた。山岡とパンサーへ行ったあたりも異常はない。パンサーで酔って、山岡に一千万円の件を喋《しやべ》りはじめたあたりも、酒を飲めばいつもそれに近い気分になるのだから、異常と言うほどではない。  ところが、それから先が少し妙な具合なのだ。  酔っていたにせよ、あそこまで宝くじの件を喋りかけたのだから、当然その先をつづけ、山岡に相談したはずなのに、そこから先、急に別な世界へ入ってしまったような感じがするのだ。  山岡は栄介が宝くじで一千万円当てたと言ったのをたしかに聞いたはずである。冗談として聞き流すにしても、からかうなり何なり、もう少しはっきりした反応を示してもいいはずである。  ところが、実際にはそのあたりから一千万円の話題へは近寄れなくなってしまった。なんとなくそんなようになったと言えば言えるが、栄介の記憶はそのあたりに一種の違和感を残している。 「いったいこれは何だ」  アパートの部屋へ戻ってからも、栄介は目に見えぬ心の触手で自分の脳をまさぐるように、記憶に刻まれた違和感の実態を調べていた。  パンサーを出たあと、山岡が栄介を新宿に残して帰ってしまったのも、不自然と言えば不自然であった。だいいち飲もうと言いだしたのは彼のほうではなかっただろうか。  もっとおかしいのはそのあとである。  普段気にもとめたことのない易者たちに興味をひかれ、とうとうあの妙な老人の天幕へもぐりこんでしまった。しかもそこではみごとに宝くじの件を言い当てられている。パンサーで一千万円のことを言いだしてから、あのあやしげな天幕までが、それまでとはまったく別の世界の出来事だったような気がしてならない。  栄介は小さなストーブの前に背を丸めて、あの老人が燃やした炎を思いだしていた。どこか遠い所へひき込まれて行くようだった。炎の中で何か動くものを見かけたような記憶さえあった。  窓ガラスが夜風に鳴り、アパートの中は奇妙に静まりかえっていた。いつもなら夜ふけまで板ばりの廊下を鳴らす足音がたえないのに、さっきから戸をあける音さえ聞こえてこない。  栄介は天井のまん中にぶらさがった灯《あか》りをつけ、コートを着たまま小さなガス・ストーブの前に背を丸め、膝《ひざ》をかかえて坐りこんでいる。冬の夜は、部屋が暖まるまでいつもそうやって待つのが習慣になっていた。  軽い音をたてるストーブの炎をみつめながら、栄介は記憶の中の違和感について、一心に考えこんでいる。  あの老人が燃やして見せた炎には、何か催眠術のような効果があったのではないだろうか。今になって栄介はそう疑いだしている。  ひょっとすると、天幕へ入っていきなり大金を掴んだろうと言いあてられたこと自体、その炎による催眠術のせいかも知れないと思った。  老人の術で、自分のほうから宝くじのことを喋ってしまったのではなかろうか。炎が先で、宝くじのことを当てられたのがあとだとすると、今感じているこの奇妙な記憶の違和感を納得できるようだ。栄介はそう思った。  誰かが自分の心理を強引に操作してしまった。そこで現実に起こったことと記憶の順序が入れ違い、強い違和感を味わっている。  だが、もしそうだとしたら、あの老人の術は普通ではない。常識をこえた強さである。それだけの術者が、なぜあんな人通りのない横丁に店を出しているのだ。もっと大がかりな商売のしかたができるだろうに。  それにしても、たしかにあやしい老人ではある。あの炎の中へ、もう少しで引き込まれてしまいそうであった。それを救ってくれたのは美津子の靴音だった。  そこまで考えて、栄介はまた新しい疑問にとらえられた。  なぜあの時、美津子が通りかかったのだろう。偶然だろうか。常識的に言えば、それは偶然にきまっている。しかし、今夜の言うに言われぬこの奇妙な感覚を中心に考えてみると、あながち偶然とばかりも言い切れないところがある。  そのおかしなところは、栄介自身の内にあった。  あれほど奇妙な体験を老人の天幕の中でしながら、美津子が現われた直後から、その奇妙さを一度も反芻《はんすう》しなかったではないか。  普通なら、美津子と二人になってから、栄介は老人のことばかり喋りつづけていてもおかしくない。それなのに、ケロリと忘れたようにしていた。  とすると、美津子も妙な存在ということになる。  いったい何が起こっているのだ。  栄介は途方にくれる思いで立ちあがり、コートを脱いだ。自然ななりゆきに見えながらその実まるで不自然な自分の行動。偶然に見えながら、どこかでひそかにつながり合っているような出来事。ひょっとするとそれらはみな、あの一千万円に関係しているのかも知れないと思った。  混 乱  賞金の一千万円を受取る日が来た。栄介はその朝、雲を踏むような思いで銀行へ向かった。前の晩からどう自分に言い聞かせても落ちつくことができず、一旦会社へ出てから銀行へ行こうと予定していたのに、どうしてもそれが実行できず、銀行のあく時間に合わせていつもより遅く電車に乗った。  銀行のロビーへ入ると、当たりくじを扱ったあの証券係の行員が顔を憶《おぼ》えていて、遠くからなれなれしく笑いかけて来た。おまけにロビーの案内係に目くばせまでする。中年の案内係はそれを見ると待ちかねていたように栄介に近寄って来る。 「どうもこのたびはおめでとうございます」  栄介は自分の顔がまっかになって行くのをとめられなかった。きっと噂《うわさ》されていたに違いない……そう思うと消えてしまいたいほど恥ずかしかった。 「どうぞこちらへ」  あらかじめ言われていたらしく、案内係はカウンターぞいにロビーを突っ切り、カウンターのはずれにある通路から栄介を内側へ連れこんだ。  銀行のカウンターの内側へ入るのははじめてであったし、ロビーにいるたくさんの客たちの視線を意識して、栄介はますます上気してしまった。  すりガラスに応接室と黒い文字を書いたドアが案内係の手であけられる。 「どうぞ」  案内係はいやに親しみのこもった笑顔《えがお》で言った。いっそ銀行らしく事務的に扱ってくれればいいのにと、栄介は舌打ちしたいような気分でその小さな応接室のソファに浅く腰をおろした。  案内係はまだドアの所に立っていて、栄介に笑顔を見せている。その表情は大切な客に対する時のものではなく、仲間に向けた親愛の表現であるらしい。  これが事業で稼《かせ》ぎ出した金だったら、一億円預けに来てもあんな表情はするまい。……栄介はそう思った。  しかし、客や行員たちの視線からのがれることができて、栄介の気分はいくらか落ちついて来た。 「どうもこのたびはおめでとうございます」  案内係と同じことを言って二人の行員が入って来た。案内係が名残《なご》り惜しそうにそのうしろでドアをしめた。二人とも初対面の男であった。名刺をさしだされた栄介は、それをテーブルの上へ並べて眺《なが》めた。名前も肩書きも頭へ入りはしなかった。 「今日お見えになると判《わか》っておりましたので、さっそく普通預金のほうへお入れするよう手配してございますが、全額お入れしてよろしいですか」  栄介は自分が拗《す》ねたような感情に支配されているのを感じた。二人の言葉の裏には、どうせすぐ現金が欲しいのだろうという見くびりがあるような気がしたのだ。  だが栄介はこらえ性もなく言ってしまった。 「さ、三十万ほど……」  二人は同時にうなずき、微笑した。 「すぐお入り用でなかったら、一部だけでも定期預金になさったほうがお得かと存じますが」  行員の一人がそう言ったので、栄介はほら来たというように心をひきしめた。そう言われるのは判っていたし、答えかたも用意していた。 「貧乏人ですからね」  そう笑ってみせた。心の中では、三十万だけ現金で寄越せと言ってしまったことをくやしがっていた。いっそのこと百万と言ってしまえばよかったと思った。 「一千万円なんて、どう使っていいか判らないんですよ」  すると行員はこの時とばかり、体をのりだしてくる。 「それでしたら、ぜひ定期に……」  栄介はニヤリとして見せる。 「使い道はゆっくり考えます。せっかく授かったお金ですから、有効に使いませんとね」 「それはもう……」 「普通預金より定期のほうが得ですよねえ。それに、定期以外にもいろいろ確実で有利なものがありますし」  行員の微笑が急に消えた。 「はあ。しかし、元本が保証されたものでございませんと」 「もちろんですよ」  二人の行員のうち、若い方が思い切りよく立ちあがった。 「では三十万円だけは現金で……」  そう言ってドアの外へ出て行く。 「失礼ですが、奥さまは」  年かさのほうの行員が、ソファへ深く坐り直して言った。どうやら栄介の答え方が成功したらしい。定期預金の件は一応あきらめたようであった。 「独身です」  そう言うと、その男は複雑な表情で栄介をみつめた。それが栄介には、どうせ下らなく使ってしまうだろう、と言っているように思えた。  どうしてそんなにひねくれた感じ方をしてしまうのか、自分でもふしぎであった。普段の栄介は決してそんな考え方をするような男ではないのである。 「特に係累もない身軽な体ですからいいようなものですが、こういうお金を突然手にするというのは、いろいろ面倒なことがあるのですねえ」  自分の拗ねた気分を追い払うように、栄介はしみじみとした口調で言った。 「はあ……」  行員は要領を得ない答え方をしたが、さっきちらりとのぞかせた反感めいたものはなくなっていた。  職務の上とはいえ、行員の好意は好意として素直にうけとりたかったのである。しかし、そんな努力をしなければ他人の言葉を素直に聞けないという点で、やはり金というものは厄介なものであった。  栄介は、外《はず》れるのを承知の上で一枚百円の宝くじを機会あるごとに買っていた頃、ときどき一万円札の束をかかえて銀行から出る自分を想像したりしてたのしんだものである。  だが、それが現実となり、一千万円の賞金を受取って銀行を出たとき、栄介のポケットにあったのは、薄い預金通帳が一冊と三十枚の一万円札、それに当たりくじを受領したという銀行の受領書一枚きりであった。  三十万円だけ現金で持って来たが、それを当座どう使うという予定はない。  しかし、三十万の現金をポケットに入れていることで、かなりの解放感を味わっていた。たった三十万で、とわれながらなさけなくもなるのだが、栄介のような安サラリーマンにとっては、その三十万円がなかなかの大金なのである。  解放感の原因はもうひとつ別にあった。  これでもうあの銀行とも縁が切れたという安堵感《あんどかん》である。いまだに宝くじで当てたということにうしろめたさがあり、その事実を知っている連中から少しでも早く遠ざかりたかった。だが、それも今後は普通預金を引出しに来た、ただの客ということになる。  やはり気分がうわついていた。栄介は一千万円がもたらした、解放感にひたっている内、会社へ行く気がなくなってしまった。  というのも、心の底で、もうやめてもかまわないという気持が急速に育ちはじめているようなのである。課長や部長に何か言われたとき、そのどうでもいいような気分をうまく制御できるかどうか、自信がなかった。  銀行から少し離れたところにある薬屋の店先の赤電話で、栄介は会社へ電話を入れた。 「岩井ですが、体の調子が悪いので、二、三日休ませてもらいます」  電話に出たのは課長であった。その声を聞いたとたん、栄介は二、三日休むと、思ってもいなかったことを言ってしまった。  課長は案外優しい声で、大事にしろ、と言ったが、電話を切ったあと、栄介の心には舌打ちをしている相手の顔が泛《う》かんでいた。  どうせろくなことは言わないのだ。……そう思った。 「なんだ岩井じゃないか」  歩きだそうとしたとき肩を叩《たた》かれた。ふりかえると山岡が笑っていた。 「遅刻か。珍しいな」  山岡は屈託のない笑顔で言った。 「きょうは休むよ」  栄介はあたりを見まわしながら答えた。会社の仲間は見当たらなかった。 「どうしたんだ」 「ここまで来たんだが行く気がしなくてね」  すると山岡はニヤリとした。 「よくあるはなしだ」 「いそがしいわけじゃないだろう」  会社ではデスクを並べているのだから、山岡のきょうのスケジュールがどうなっているか、見当はついている。栄介はなるべく会社から遠ざかろうと、山岡をうながすように歩きはじめた。 「訪問先はいくらでもあるが、どれも見込みうすさ。俺も休みたいよ」  山岡はからかうように言った。 「ちょうどよかった。話があるんだ」  栄介は薬屋の先の角を曲ったところにある、小さな喫茶店へ山岡を連れ込んだ。 「なんだ、相談というのは」  店をあけたばかりで、まだ客は一人もいなかった。注文をうけたウエイトレスは、カウンターのところで新聞を読んでいた。 「この前パンサーで飲んだとき言いかけたんだが、憶えているかい」 「なんのことだ」  山岡は怪訝《けげん》な表情で栄介をみつめた。 「金の話さ」  栄介は案外事務的な話しかたで宝くじの件を切りだせそうだと感じた。 「金の」 「俺は宝くじに当たったんだ」 「いくら」 「一千万円」  山岡は口笛を吹くように、口をとがらせた。 「思いだしたよ。そう言えばパンサーでそんな話をしたな」  栄介は内ポケットから預金通帳をとりだして山岡に渡した。 「たった今、受取って来たところさ」  山岡は眉《まゆ》を寄せて通帳を開いた。 「こいつは凄《すご》いな」  ウエイトレスがコーヒーを運んで来たので、山岡は通帳をとじ、栄介に返した。 「そう言えば、今年になってからずっと様子が変だったな」 「どうしても態度に出てしまうんだな」 「無理もない。俺たちは貧乏人だから」 「まったく、くじに当たってから、自分でもつくづくそう思ってる。たかが一千万円でこれほどうろたえようとはな」 「だが大金は大金だ。一生に一度の幸運だよ。休みたくなるのも当然さ。俺ならはじめから休むときめてしまったろう。途中までにせよ、出社する気でいたなんて、君のほうが俺よりだいぶ真面目《まじめ》らしい」  山岡は笑った。 「相談というのは、一千万円の使い道についてなんだ」  栄介はコーヒー・カップの中の茶色い渦《うず》をみつめながら言った。 「ばかげた相談だな」  山岡はふきだしたようである。栄介が顔をあげるとハンカチで口のあたりをぬぐっていた。 「おかしいかい」 「金なんて、使うだけさ」  山岡は笑いながら言う。 「でも、一千万円だぜ」  すると山岡は真顔になった。 「一千万円を何の苦労もなしに手に入れたということについては、たしかにうらやましいと思う。それだけの金がいま俺の手にあれば、したいことはいくらでもあるさ。でも岩井、所詮《しよせん》金は金だ。一千万円だろうが二千万円だろうが、そんなものはごくささやかなものだ」 「自分で稼《かせ》ぎだすのは楽じゃない額のはずだぜ」 「それはそうだ。しかし、その一千万円で自分の毎日のくらしを拡大させてみろ。なくなったときひどいことになる。かと言って、減らすまいとすれば、背水の陣で毎日を送る安サラリーマンのほうが、よほど人間的にスケールが大きいということになりかねない。その一千万円を使ってこれから医者にでもなれるというのなら話は別だがね」 「つまり、この一千万円は棚《たな》からぼた餅式《もちしき》の幸運であって、今後の俺の力にはならないという意味なんだな」 「そうだ。だから、今の会社なんかやめちまえよ」  山岡はいきなりそんな飛躍したことを言った。 「今の会社は俺たちの将来とつながってなどいはしない。今日と明日の飯を食うだけの職場さ」  山岡は断言した。この機会をとらえて会社をやめるべきだというのである。 「やめてどうする」 「判らん。でも、のんべんだらりと勤めているより、そのほうがよほどいい。君は俺にくらべると人間がはるかにまともにできている。だから、働かないでいるのはうしろめたいだろう。しかし、何の益もない職場で漫然と日を送るより、自分自身をみつめて過ごす時間のほうがよほど貴いとは思わないか。自分が本気で立ち向える仕事、人生を賭《か》けるにふさわしい職場……そいつを探し歩いたほうが得にきまっている。俺に一千万円あればそれに使うね」  たしかに理屈はどうあれ、今の会社をやめるということについては、山岡の言うことに同意できた。明日につながらない職場だというのもたしかであった。 「やめれば失業者だな」  そうつぶやくと山岡は怒ったように声を高くした。 「その考え方をすてなければ何もできはしない。新しく、スタートするのだと思えよ」  栄介は山岡の目をみつめた。 「たしかに、今の会社は早いところやめられたらやめたほうがいいかも知れないな」  栄介がしみじみした調子で言うと、山岡はそれを笑いとばした。 「いったい何を考えているんだ。そんなこと俺に相談するまでもないじゃないか」 「でも、その先のことが皆目《かいもく》見当がつかないしな」 「誰だってそんなことは判っていないんだよ。未来というのはそういうもんだ。だいたい君は何かにとらわれすぎてるよ。金を持つとそんな風になるのかな。もしそうだとしたらなさけないことだぜ」  山岡は励ますというより叱《しか》りつけるように言う。 「それじゃ、正直なところを聞きたいんだが、君ならどう使う」 「きまってるよ」  山岡は目を輝かせた。 「パンサーで言ったはずだ。卑弥呼《ひみこ》の国を探しに行くね」  山岡は本気であった。 「卑弥呼の国を探すといっても、だいたいの見当はついているのかい」  栄介が尋ねると、山岡は複雑な笑い方をした。その様子では、入り組んだ古代史のかなり奥深くへ足を踏み入れていて、ひとことでは答えにくいほどに知識を集積しているようであった。 「俺たちが卑弥呼の国と言って、邪馬台国《やまたいこく》と呼ばないわけを知ってほしいな」 「邪馬台国じゃないのか」 「魏志倭人伝《ぎしわじんでん》には、台と書いてあるわけじゃない。臺ではなく、壹という字だ」 「知ってる。何かで読んだよ」 「じゃ判ってくれるだろう。かりにみんなのいうように壹が臺の誤記で、もとは正しく臺と書いた写本もあったのだとしよう。それにしても、現実に臺と書いた倭人伝を見ることができない以上、俺たちは邪馬台国という呼び方は保留しているのさ。邪馬臺国が邪馬台国であり、大和《やまと》の国をあらわしたと考えてもさしつかえないだろうが、俺たちは俺たちで独自にスタートを切りたいんだ」  山岡は人がかわったように、いきいきと喋《しやべ》りはじめている。 「倭人伝の倭にしたって、ワと読む人ばかりとは限らない。少数だが別の読み方をとなえる人たちがいるんだ。だから、卑弥呼の国は畿内《きない》と九州のふたつの地方だけに想定されているわけではなく、それ以外のとんでもない場所にあったという説もある」 「奇説珍説のたぐいだろう」 「まあ、そうだとは思う。しかしいまだに発見できない以上、そういう説だって頭ごなしに間違いだときめつけるわけには行かない。それに、今のところ有力視されている九州説にしたって、筑後山門《ちくごやまと》郡、肥後《ひご》菊池郡山門郷、大隅《おおすみ》半島、それに最近有名になった宇佐説《うさせつ》と、いろいろあって少しも結着がつかない」 「考えてみるとおかしなことだね」 「何が」 「卑弥呼の国がこの日本のどこかにあることはたしかなんだろう。大和か九州か、その辺まではだいたいはっきりしてるらしいじゃないか。それなのに、いまだに発見できないでいるなんて」 「それさ」  山岡は勢いこんだ。 「秘境があるんだ。アフリカやヒマラヤの奥というわけじゃないんだ。現代のこの日本に、そんなすばらしい場所がまだねむっているんだ。探さずにいられるか。夢を見ないでいられるか」 「うらやましいな。もっと早くからそういう方面に関心があれば、一千万円でこんなに迷うことはなかったろう。君らと一緒にすぐ探しにでかけるところさ」  山岡は苦笑し、ちょっと意見めいた言い方になった。 「夢だよ。俺と同じ夢を見ることはない。君には君の人生があるからな」  しかし、山岡はかなり自制しているようであった。栄介にはそれがよく判った。  山岡と別れて自分のアパートへ帰る途中、栄介は彼らの夢のような計画について本気で考えてみた。  たしかに面白そうであったが、せっかくの一千万円をそんなことにつぎ込むのは、ばかばかしいとも思った。  もし彼らが本当に一千万円手に入れたら、果してその夢に使うかどうか、疑問だと思った。  その点では、君は自分の夢を追えと言った山岡の言葉はやはり正しいようである。  いろいろな角度から考えてみたが、山岡たちの夢を実現するスポンサーになることは、一千万円の使いみちとして余りにもばかげているという答しか出てこない。  それでいて、なぜかやってみたくて仕方のない衝動のようなものが、心の底にうごめいていた。  自分の計画を持たないからだ。俺はそんな主体性のない人間だったのか。栄介は自分をそう叱りつけたくなった。  しかし、アパートに帰りつく頃、自分の心の中にひそんでいた別の要素に気づいた。  一種の虚脱感と言ったらいいだろうか。することをしおえてしまったあとのような、けだるい無力感があるのであった。  栄介はそれに気づいたとき、人間とはおかしなものだと思った。  一千万円も手に入れたのだから、ぱっと元気になって新しくひらけた世界へ突進して行くものだと思い込んでいた。だから、いざとなっても自分に前向きの計画が出て来ないと、それが不満で、いらだって、人の意見を聞きたがったり、運勢を知りたがったりしたのだろう。  だが、逆の場合もあり得るのだ。  毎日を金の為に働いて過した。将来への希望とか夢とかを持つ前に、まず餓《う》えぬため人に使われて過していた。毎日の疲れは食う為の疲れであり、休養はそれを繰り返して行く為の休養でしかなかった。つまり、食う為の金が目あての毎日だったのである。  それが突然大金を与えられてしまった。  心では、それでも働き続けるべきだと思っても、実際に疲れる目的を失った体は、緊張から解放されてけだるく弛緩《しかん》してしまう。  その意味では、心より体のほうがよほど正直であるようだ。そう考えてくると、銀行で賞金を正式に受取ったあと、どうしても会社へ足が向かなかった理由も判るし、山岡たちの計画に強くひかれた心理も納得《なつとく》が行く。  たかが一千万円で一生食って行けるはずもないが、それにしても栄介のこれまでやって来たことは、棚ぼた式の一千万円で一応目的が果されてしまったことになる。  それに気づかず、今までの延長上で金の使い道を考えていたのだから、ろくな考えがうかばぬはずであった。  栄介は会社をやめる決心をした。  会社をやめようと思い立った栄介は、何かに追いたてられるような気ぜわしさを感じ、その日の内に退職願を書きあげて、翌日の朝それを課長に差し出した。 「ほう、やめるのかね」  課長はかすかに苦笑らしいものを泛かべて、形式的にその文面に目を通した。  一身上の都合により……。きわめてあり来たりの文句が並んでいる。 「一身上の都合か。まあいろいろあるからなあ」  課長は意味不明のつぶやきを洩《も》らして紙をたたむと封筒に入れた。 「まあ、そういうことならわたしは仕方がないと思う。受理しますよ。とにかく部長に一応報告して来るから」  しばらく待つように、ごくさりげなく命じた。まるで交通費の伝票に判をもらうような調子であった。  引きとめられたいとも思わなかったが、課長のその言い方は故意に去る者を軽視しているようであった。お前など、いてもいなくてもいいのだという態度である。しかも、その底には妙にねじけた心理がのぞいている。俺を馬鹿にした、という被害者意識やら、どうせこんな会社は大したことはないのだから、というような劣等感、それに幾分かの屈折した羨望《せんぼう》。  要するにこれだけの人物から、毎日命令を受けていたのかと、栄介は今さらながら不快になった。  山岡がセールスに出る準備をするふりをして、まだデスクにまごまごしていた。  課長が出て行くと、急に近寄って来て早口で言った。 「おめでとう」  心から祝福しているような笑顔であった。 「おかげでやめる決心がついたよ」 「今夜にでも会ってゆっくり話したいね」 「うん。そのつもりだったよ。パンサーでどうだい。この間の勘定を払いに行かなくてはな」 「判った」  その時、あたふたと課長が戻って来て、山岡はそれで入れ違いに出て行った。  課長はデスクへ戻ると急に態度をつくろい、煙草をとり出して栄介にすすめたりした。 「いえ、結構です。よければこれで失礼したいんですが」  栄介が腰を浮かせかけると、課長はあわててとめた。 「待ちたまえ。そう急ぐことはないだろう。それに君はまだ正式にやめたわけじゃない。社員だよ、まだ……」 「はあ」  栄介は眉をひそめた。 「必要があって入社してもらったのだし、優秀な人材だから居てもらったのだ」  話の風向きがかわって来た。 「退職願は受理されたのでしょう」  不審そうに栄介が言うと、課長は二度ほど煙草を吸って間合いをかせいでから、 「君にもよんどころない事情があってのことだろうと思ったから、一応受取ってあげたまでのことだ」  ついさっき、栄介の存在価値を無視しようとしたことなど、まるで忘れてしまったような顔で笑った。親しみをこめ、相手を充分に尊重した態度であった。 「人事の決定権などわたしにはないよ」  それほど偉くない、という顔で栄介をみつめる。 「部長が何かおっしゃったのですか」 「ちょうど来客中でね」  課長はそこでデスクの上へ体をのりだし、声を低くした。 「そう簡単にやめさせるわけには行かんと言うのだ。君の才能を買って、何かの計画が進められていたのではないかな」 「まさか」  栄介は失笑した。 「僕はそんな成績なんてあげていませんよ」  課長はそれを無視し、いっそう声を低くして言った。 「何かそんな内意を受けていたのかね。部長から」 「とんでもない。何もありませんよ」 「部長はあれでなかなか人を見る目があるからね。君を買ってたらしいな」  どうやら、課長自身にもよく判っていないらしいが、とにかく部長が栄介の辞表に首を縦に振らなかったことはたしかである。それでこの課長がうろたえているのだ。部長が高く評価している社員を、自分が長い間軽くあしらって来た。そういう自覚があるから、今になってあわてて栄介の機嫌《きげん》をとりはじめているらしい。 「どっちみち僕はやめる気なんですがねえ」  栄介は当惑していた。辞表を出せばそれでおしまいだと思い込んでいただけに、部長が引きとめるらしいのが意外であった。 「一身上の都合とあったが、どんなことなんだい」  課長は熱心に尋ねた。この際退社の理由をはっきり掴《つか》んでおかないと、立場が悪くなるのだろう。そう悟ると、栄介は少し気の毒になった。  と言って、別に会社を納得させるだけの理由があるわけではない。まさか宝くじで一千万円当てましたのでと言うわけにも行くまい。だいいちそれでは信用しないだろうし、逆にふざけていると思われてしまう。 「実は……」  そう言いながら、栄介はその場のがれの口実を考えた。 「実は考古学の学術調査に参加するんです」  すらすらと、そんな嘘《うそ》が口から出て行った。山岡や美津子の顔が心に泛かんでいた。  課長は眼鏡《めがね》をかけた目を丸くした。 「考古学の学術調査」  栄介は照れて頭を掻《か》いた。とんでもない口実を考えついたものである。 「ええ」 「君はそんな方面に関係していたのか」 「まあ、そんなようなわけで」  栄介は煮え切らない返事をした。 「知らなかったな。ふうん、人は見かけによらないものだねえ」  本気で感心されて、栄介はうしろめたくなってしまった。うつむいて煙草に火をつける。 「しかし、それなら何もやめることはないんじゃないかな。だって、そういう調査は短時間のものだろう」 「それが、よく判らないんです」 「判らないって……」 「すぐおわるのか、二年も三年もかかるのかです」  課長はちょっと考え込んだ。二人は黙って煙草の煙を吐いていた。青味がかった灰色の壁を、その煙が這《は》いのぼって行く。 「いったいどこへ何の調査に行くんだい」  課長が自分の答に疑問を感じはじめたようなので、栄介はやむを得ず嘘を重ねた。 「国内です」 「国内なら、なおさらそんな長い期間ではないだろう」 「つまり、これは一種の宝さがしなんです」 「宝さがし……」  およそ想像力というものを示したことのない人物である課長は、あからさまに眉をしかめた。 「邪馬台国論争というのをご存知ですか」 「ヤマタイコク……」 「卑弥呼の国ですよ」  栄介はむなしい気分になって来た。大人におとぎばなしを信じこませようとしているような、ひどくみじめな気分であった。 「うん、知ってるさ」  有難いことに、課長は無理をして栄介に調子を合わせてくれたようだった。 「つまり、君はその邪馬台国を調査に行くのかね」  やはり少しずれている。 「いえ、探しに行くんです」 「どこにあるんだい」 「それがよく判らないんです」 「それじゃ探しようがあるまい」  課長は理解しかねるというように苦笑してみせる。 「九州か畿内だということは判っています」 「キナイ。キナイ半島か」 「そんなところがありましたっけ」 「いま君が言ったろう」 「畿内は王城付近の土地という意味です。だから京都のあたり。山城《やましろ》、大和に、摂・河・泉の三国です」 「セッカセンというのは……」 「摂津《せつつ》、河内《かわち》、和泉《いずみ》のことです。つまり、京都、奈良、大阪、兵庫《ひようご》のあたりです」 「なんだ。はじめからそう言えばいい」  課長は憮然《ぶぜん》として灰皿のふちで煙草の先をこするようにした。 「京阪神方面に邪馬台国があるのだな」 「そこらあたりか、九州かのどちらかです」 「あの辺は宅地造成がさかんだから、そういう遺跡があれば、とっくに見つかっているだろうにな。いや、待てよ。もしうちの会社の造成現場からそんなのが出たとしたら、ちょっと厄介だな。うん、わたしなら社のためにそういうのはかくしてしまうかも知れんな。相手が今評判の邪馬台国では、役所も世間も放っておかんだろう。そんなことになったらせっかくの土地が売物にならんわけだ。これはきっと見つからんぜ」  課長は急に勢いづいて言った。 「一度発見されたけれど、業者の手で埋められたというんですか」 「今ごろはどこかのマイホームの椽《たるき》の下かも知れん」  課長はおかしそうに体をゆすって笑った。 「そんな業者ばかりとは限りませんよ」  栄介はむっとして言ったが、すぐばかばかしくなった。 「しかし、卑弥呼の宮殿などというのがあったかも知れんな。トロイのヘレンからは黄金が出たろう」 「トロイの遺跡でしょう。ヘレンは人の名です」 「そうそう。そういうのにぶつかってれば大判小判がざくざくということもあり得るな」 「まさか」 「だって、昔の日本はジパングと言って、黄金の国だったんだろう」  珍しく課長の想像力が働きはじめたようであった。しかし、そうなると手がつけられない感じであった。栄介は最初に宝さがしというたとえをしてしまったことを後悔した。 「部長は来客中だそうですが」  栄介が話題を変えると、課長は夢からさめたようにドアのほうを見た。 「そうなんだ。大変なお客でね」 「どなたです」  大判小判やジパングを卑弥呼とつなげてしまうのに辟易《へきえき》して、栄介は課長の注意を部長のほうへそらせた。 「この間から話はあったんだが、見えたのははじめてだ。宗教団体の人だよ」 「ほう、宗教団体ですか。金のありそうな感じだな」 「うん。いい客らしい。でも、さっきちょっとのぞいて来たが、妙な人だな、あれは」  課長は首をすくめて見せた。 「どんな宗教です。仏教系ですか」 「それが判らんのだよ。新興宗教なのはたしかだが、東洋神秘教団というだけでは見当もつかん」 「えッ」  栄介は大声をあげた。 「なんだ。東洋神秘教団を知っているのか」  課長は怪訝《けげん》な表情で栄介をみつめた。  派手な黄色のスーツを着た女子社員がやって来て、二人に声をかけた。 「部長がいらっしゃいって……」  顔に似ず、いけぞんざいな口のききかたであった。だいたい、こういう会社の女の子というのは、しょっちゅう社内の動向に気を配っている男たちにくらべると、会社での態度が闊達《かつたつ》である。  初任給から少しでもあがれば儲《もう》けものといった調子で、男たちのように無用な出世欲などさらさらない。二、三年もつとめれば自分のほうでそろそろ停年よ、などと言い出す始末だ。男たちのいじいじしている様子を見なれているから、まるで馬鹿にしきっていて、課長だ部長だと言っても、言葉つきをあらためるなどという気にはとてもなれないらしい。 「おッ、そうかい」  言われた課長も課長で、そんな言葉づかいなどまるで気にしていない。待っていましたとばかり、栄介をうながして席を立った。  課長と一緒に応接室へ入った栄介は、テーブルの上にある客の飲み残しらしい茶碗《ちやわん》を、薄気味悪そうに眺めながらソファに腰をおろした。  そのソファにも何やら客のぬくもりらしいものが残っていて、あの妖《あや》しい易者のものかと思うと、つい尻《しり》をずらせてしまった。 「やめちゃ困るよ、君」  君ィ、と尻あがりに部長は言った。いやになれなれしかった。 「こんなものを今になって持ち出すことはないだろう」  部長は茶色いたて縞《じま》のダブルのボタンを外して肥った腹を突き出すように坐っていた。 「万事好調に行っている最中じゃないか」  封筒を右手に持って、扇のようにゆらせている。 「いよいよこれから君の出番だというのに」 「暮れの内に申しあげればよかったんですが」  栄介は警戒していた。東洋神秘教団と言えばあの妙な老人にきまっている。一千万円のことも知っている人物だし、何をされるか判ったものではないという気がしていた。 「いったいなぜやめるのかね」  部長は明らかに栄介の機嫌をとるかまえであった。栄介がちょっとした勘違いをして、それをからかっているような言い方であった。  課長はここぞとばかり口を出した。 「考古学の学術調査団に参加したいのだそうです」  学術調査と逃げたつもりが、学術調査団と大げさにされて、栄介は渋い顔をした。 「考古学」  部長も縁《ふち》なし眼鏡をかけた、少し充血ぎみの目玉を剥《む》いて言った。 「邪馬台国ですよ。セッカセンの」  さっそくうけうりをしている。 「ばか言いたまえ」  部長が課長をたしなめた。 「摂、河、泉のあたりとまだきまったわけではなかろう。それとも、何か新しい発見があって……」  部長は栄介の顔を眺めた。 「いいえ」  とんでもないというように栄介が否定すると、 「ほれ見たまえ。だいたい、邪馬台国は九州にきまっとる」  部長は得意顔で言った。 「おくわしそうですね」  栄介が本気でそう言うと、部長はちょっと豪傑気どりで笑って見せた。 「とんでもない。岩井のような専門家ではないさ。だがわたしは肥後の生まれでな。菊池郡山門郷が邪馬台国のあった場所らしいということくらいは知っているよ」 「なんだ」  栄介もつりこまれて笑った。 「そういうわけで、この退職願は撤回してもらいたいんだ」  部長はすかさず言った。何がそういうわけなのか判らなかったが、とにかく相手の隙《すき》にさっとつけこんだつもりらしいのはよく判った。 「はあ……」  栄介はとぼけて、尻あがりに問い返した。 「まだこれからだ。これからいよいよ君という人物を全面的に使って行こうというところだ。才能を発揮するチャンスだぞ。社長もみんなで盛りたてるようにと言っておられる」  殺し文句であった。ふつうなら、これでコロリと参るはずだろう。しかし今の栄介には一千万円という強味があった。 「東洋神秘教団はどんなことを言って来たのですか」  すると部長はちらっと課長を見た。しらけたような表情であった。 「伊豆《いず》に教団の会館を建てたいと言って来ている。土地の選定はこちらにまかせるそうだが、何しろ岩井、大仕事だぞ」 「そうですか」  栄介は、百貨店の裏の暗い横丁に、小さな天幕がバタバタと風に鳴っていた、あの貧しげな光景を思い出していた。 「土地は少くとも三千|平米《へいべい》は欲しいとおっしゃる。できればその倍でもかまわんそうだ。温泉つきが条件だが、傾斜地のほうがいいというんだから、こんないい話はまたとない」 「崖《がけ》を買ってくれるんですか」  眉唾《まゆつば》ものだというように栄介は軽く笑った。 「崖なんて言うなよ。伊豆の分譲地はほとんどが傾斜地だ」 「なんでそんなところを……」 「信者たちの体力づくりになるのさ」 「急な坂を老人や女がえっちらおっちら登りおりするわけですね」  栄介は意地の悪い言い方をした。 「君は霜田氏《しもだし》を知っているのか」  部長は栄介があまり乗り気でないのにやっと気づいたようであった。 「霜田……」 「東洋神秘教団の霜田|無仙《むせん》氏だよ」 「霜田無仙……」  あの晩天幕の中でもらった名刺を思い出した。たしかそんな名が書いてあったようだ。 「色の浅黒い、細長い顔をした老人じゃないですか。眉毛が白くてこんなになっていて」  栄介は左手で左の眉毛を長く引っぱって見せた。 「そうだよ」 「大きなとがった鼻で、トルコ帽みたいな帽子をかぶっている……」 「いや、今日は帽子はかぶっておられなかったが、君がいうのはたしかに霜田氏だな」 「一度会ったきりですよ。それもほんのちょっと」 「そうじゃあるまい。霜田氏は君のことをくわしく知っていたぞ。それに、君を大層買っておられた。君のような社員のいる会社ならまかせても安心だと言っておられた」 「大丈夫なんですか。支払いのほうは」 「わたしらがそんないいかげんなことで乗り出すわけはないだろう。資産状況はちゃんと調べてあるよ」 「それであったのですか」 「霜田氏個人の資産も大したものだが、教団の財産がまた大変なものだ」 「大変なものというと、たとえば億とか……」 「何十億だよ」  部長は手品師が種あかしをする時のような顔で答えた。 「本当ですか。ちょっと信じられないんですけれど」 「本当だとも。わたしらの調査を信じなさい」 「すると、信者というか信徒というか、そういう組織も大きいんでしょうね。どのくらいいるんですか」  部長は妙な表情をして、ダブルの上着のボタンをはめたり外したりしはじめる。 「まあ、信じなさい」 「何十万人もいるんですか」 「それが……そこまでは調べなかったよ。とにかく金があれば問題なかろう」 「信徒は」  今度は課長が尋ねた。何か部長の態度がおかしかったのだろう。部長はわざとらしく咳《せき》をしてから早口に言った。 「教団を創立して間もないんだろうな」 「といいますと」  課長はしつっこく追及した。 「まだそれほどはおらんらしい。今のところはな」  そう言ってから、急に叱りつけるように課長を睨《にら》んだ。 「今は岩井君を引きとめることが仕事だ」  栄介は少しいい気分になって来た。こんな連中に協力する気はないが、引きとめられるとは愉快であった。 「とにかくそれは結構な話ですね。でも、僕がいてもいなくてもかまわないんじゃありませんか」  栄介は辞表を出した身の気易さで、部長をからかって見たくなった。霜田というあの怪老人が、何かの魂胆で自分めあてにそんなうまい話を持ち込んだらしいと見当はついていた。 「それが関係あるんだ。いま君に出て行かれては、この商談がぶちこわしになる」  部長はうろたえて言ってから、しまったというような顔をした。 「つまり、その商談さえまとまれば、僕はまたどうでもよくなるわけですか」 「そ、そんな言い方はしないでくれよ」  部長は顔を真《ま》っ赤《か》にし、課長に向って、 「すまんが岩井と二人だけで話したい。はずしてくれんか」  と命じた。 「はあ」  課長はうらめしげな表情で渋々立ちあがった。 「岩井君。あとで話があるから寄ってくれたまえ。デスクにいるからね」  課長は部長の頭ごしに言った。 「あんな態度だから、いたちなどという仇名《あだな》をつけられるんだ。まったく気が小さいんだから」  部長はぼそぼそとつぶやいた。栄介は笑いだした。いたちなどという仇名はこれまで耳にしていなかった。社員間でつけた仇名ではなく、役付きの連中の間での仇名なのだろう。 「まあ、そんなことはどうでもよろしい」  部長はにこやかな笑顔になった。 「たしかに、わたしらにも手ぬかりがあった。それはとうに認めているんだ。だいたいあの課長は人を使うことがへたでいかん。君のようなあたら有為な人材を埋もれさせて置くのだからな。力があればあるほど、そんなことでは新天地を求めて去って行ってしまう」 「いい課長ですよ」 「それはまあ、人間はいい人間だが」  部長は目を白黒させた。 「待遇や仕事上のことで不満があったわけではないんです。僕がやめるのは……」 「そうやめるやめると言わんでくれよ。何もやめるときまったわけではないんだから」 「それじゃうかがいますが、もしその取引が途中でご破算になったらどうなります。僕はやはり有為な人材で、あの課長が不当に冷遇していたとお考えになりますか」 「もちろんさ。それとこれとは別問題だ。別問題だからこの際ひとつ、東洋神秘教団との窓口になってくれないか。霜田氏は君がその役をしてくれなければこの話は進めないと言っておられるのだ。君はよほど見込まれたのだな」 「取引がまとまったらやめてもいいですか」 「そりゃいいとも」  言ってしまってから、部長はもう少しで口に手をあてるところだった。かろうじてその手を胸のあたりでとめ、首筋を掻いてごまかした。 「とにかくもうこの会社をやめるときめたんです。しかし、そういう大事な仕事があるんでしたら、それだけは役目を果してからやめてもいいですよ」 「やってくれるか」  現金なもので、部長は揉《も》み手せんばかりになった。 「でも、条件がいくつかあります。大したことじゃありませんが」 「言ってくれ。何でもしようじゃないか」 「まず、今後は東洋神秘教団の仕事だけにさせてください。やめる気になってしまったんですから、今までどおりの仕事など、やれと言われても身が入りません」 「当然だな。そのとおりにしよう」 「この件の担当は部長ですか」 「そうだ」 「では、部長にだけ報告の義務を負います」 「つまり、あの課長と縁を切りたいんだな」 「まあそうです」 「大いに結構だ」  部長はニヤリとした。 「教団の仕事で動くときは、ハイヤーを使わせてください」 「ハイヤーか。よしよし」 「それに、協力者を一人」 「誰だ」 「大仕事ですからね。何から何まで一人でとびまわるわけにも行かないでしょう。僕がこの件にかかっている間、同僚の山岡君をつけてください」 「そうか、岩井は山岡と仲が良かったな。それも承知した。ほかには……」 「待遇です」  おいでなすった、という表情で部長は唇をなめた。 「山岡の給料を、この仕事の間だけでも課長なみにしてやってください。気骨が折れるでしょうからね。霜田氏は何しろ変人ですから」  栄介は知ったかぶりをした。 「君は……」  部長は心配そうに尋ねた。 「僕は今のままで結構です。この仕事がおわればやめる身ですから。飛ぶ鳥あとを濁さずですよ」  栄介はそう言って笑った。部長はほっとしたようであった。  部長は応接室から上機嫌で出て行った。そのあとに続いた栄介が、山岡を探しに営業部へ戻ろうとすると、間仕切りの壁のかげから、課長の野崎の顔がのぞいた。 「岩井君」  低い声で栄介を呼び、手まねきをしている。 「何です、課長」  栄介は思わず苦笑して言った。 「まるでかくれんぼですね」  野崎が部長と二人きりになった栄介の話を気にして、立ち去りかねていたのは明らかであった。 「いったい、どんな話だったんだ。聞かせてくれないか」  栄介は課長の野崎に肩をだかれるようにされて部屋へ戻った。 「なあ、どんな話だったんだい」  野崎は椅子《いす》に坐るとしつっこく訊《たず》ねた。 「やめる話ですよ」  栄介は山岡の姿を探した。山岡は部屋の隅《すみ》のデスクで、三人ほどの仲間と一緒に、大きな図面をひろげて何か話合っていた。 「おい、山岡」  栄介はわざと野崎を無視して山岡に声をかけた。 「何だい」 「すぐでかけるのか」  山岡は腕時計をちらりと眺め、 「いや、まだ十分やそこらはここにいるよ」  と答えた。 「話がある。待っていてくれ」 「ああ、いいよ」  栄介は野崎に視線を戻すと、野崎はひどく不安そうな表情で栄介をみつめていた。 「部長は君の辞表を受け取ったのかい」 「ええ。ただし期限つきです」 「期限つき……」 「新しい仕事をひとつだけかたづけたら、それでやめます」 「新しい仕事というと、あの教団のか」 「ええ」 「その仕事に何か彼も関係するのかね」  野崎は声をひそめて山岡のほうを見た。 「そういうことになりそうです」  栄介は故意にあいまいに答えた。野崎の心配の種が判ったからであった。成績のいい山岡が昇進しはすまいかと心配しているのだ。  図面をひろげたデスクから離れて、山岡が近づいて来た。 「何ですか、課長」  山岡は栄介に呼ばれたのを何か勘違いしたらしかった。並んでいる野崎と栄介を半々に見ながら、近くの椅子を引っぱって来て坐った。野崎の顔からそれまでの弱々しい表情が消え、事務的な言い方になった。 「君を新しい仕事につけることになったよ」  栄介はそれを聞くと、声をあげて笑った。野崎に気の毒な気もしたが、心が陽気に弾みだしていてとまらなかった。 「何だい」  つりこまれて笑顔になりながら、山岡は栄介のほうへ体の向きを変える。 「いや、大したことじゃないんだ。ただ君と組んでひと仕事するように部長から言われたのさ」 「おや。やめるんじゃなかったのか」 「やめることはやめる。だが、その前にひとつだけ仕事をやることになったんだ」 「どんな仕事だ」 「ある宗教団体が土地を買いたいと言って来ている」 「宗教団体か。そいつは凄《すご》いな。大きな取引になるだろう」 「ああ、大きいらしいよ。当分君は今の仕事から外されて、そいつにかかりきりになってもらうそうだ」  栄介はちらりと野崎を見た。野崎はその視線を受けると大きくうなずいた。 「頑張《がんば》ってもらわねば困るぞ」 「はあ……」  山岡は要領を得ない表情であった。 「課長。部長がいらっしゃいって」  女の子が来て、またいけぞんざいに野崎を呼んだ。 「そうかそうか」  野崎は待ちかねたように立ちあがり、急ぎ足で部屋を出て行った。  栄介は少ししてから、はじけたように大声で笑った。 「何がそんなにおかしいんだ」  山岡が呆《あき》れたように言う。 「課長の椅子をとられやしないかと思ってびくついているのさ」 「俺にか……まさか」 「本当さ」  すると山岡は憮然とした表情で煙草をくわえた。 「こんなところの課長になってどうだというんだ。会社をまるごともらったって、たかが中小企業じゃないか」 「その中小企業に妙なスポンサーが舞い込んだのさ。新興宗教風の団体だ。金に糸目はつけないから、温泉つきの別荘地を探せというんだ。場所は伊豆。傾斜地でいいそうだ」 「探すことはない。それならいくらでもあるじゃないか」 「それを特にわが社にまかせるというんだ」 「なんだかキナ臭い話だな」 「そのキナ臭い話に君をまき込んでしまった。悪く思わないでくれよ」  栄介は立ちあがった。外の喫茶店かどこかで説明しないと、また課長が戻ってくる心配があった。 「東洋神秘教団。そんなの聞いたことがないぞ」  会社から少し離れたところにある喫茶店のテーブルに栄介と向き合って坐った山岡は、そう言ってひどく疑わしそうな表情をした。 「信者も組織というようなものを作るほどはいないそうだ」 「それじゃだめだよ。インチキだぜ」 「でも、信用状態はいいらしい。部長は大丈夫だと言っている。会社はやる気なんだ」 「それにしても、いったいなぜ君が指名されたんだ。何か心当たりでもあるのか」 「うん」  栄介は真面目《まじめ》な顔に戻って、この間の夜の出来事をくわしく山岡に説明した。 「宝くじで一千万円当てたということを、その爺《じい》さんはいきなり言い当てたのか」 「そうなんだ」 「たしかに不思議な話だな」  山岡は腕を組んだ。 「まぐれにせよ、よく当てたものだ。たしかにこの間、パンサーで君はそんなことを言ったようだったが、あの時はたとえばなしだと思っていた」 「この俺が、そんな幸運を掴む男のようには見えるはずがないものな」  栄介がしみじみと言ったので、山岡はかすかに苦笑した。 「それを当てたとは偉い爺さんだ。なぜ見抜けたのか判らないな。しかし、それはそれとして、そうなれば今度のことは大いにあやしいぜ。ひょっとすると、その爺さんの狙《ねら》いは君だ。君の一千万円だ。だってそうじゃないか。君が宝くじで一千万円を当てたことは、銀行の連中と俺くらいしか知らないのだろう」 「誰にも言うわけがないさ」 「気に入らないな。その爺さんは何かたくらんでいるぞ」 「だから用心のために君のことを頼んだのさ。君と一緒なら安心だ」 「用心棒かい」  山岡は笑った。 「たしかにあの爺さんには妙なところがある。ただの大道易者じゃないようなのだ。妖術《ようじゆつ》つかいめいた雰囲気《ふんいき》があるのさ」 「よし」  山岡は組んだ腕をといて勢いよく手をうった。 「どういうことになるか、行くところまで行って正体を見きわめてやろうじゃないか。考古学の調査だの邪馬台国だのという口実を使ってしまったのも、もとはといえば俺に責任のあることだしな。取引がうまく行かなければ俺も一緒にやめるさ」 「それまですることはない」  栄介はあわてて言ったが、山岡はなかば本気らしかった。 「そのかわり、取引に失敗したら本当に邪馬台国を探しに行こう。そのための費用も少しはたまったところだ」  冗談めかして言ったが、山岡の瞳《ひとみ》には何かが燃えるような光があった。  妖術師  その高級車が自分たちの会社の前から走りだしたとき、山岡は白いカバーのかかったシートに深く体を沈めて、外から顔を見られないようにしていた。 「冗談にしては度が過ぎるよ」  山岡は低い声で、ぼやくように栄介に言った。 「この仕事を引き受けたとき、その場の思いつきで言ってしまったんだ。条件を幾つか出すべきだと思ってね」  栄介も、そのハイヤーを見たとたん、悪ふざけが過ぎたようだと感じたが、今となっては引っこみがつかないのである。  運転手は五十近い歳《とし》で、がっしりした体つきの人物であった。風貌《ふうぼう》も貫禄充分で、二人の上司という感じである。  それが鄭重《ていちよう》な態度でドアをあけて待っており、栄介たちが乗り込むと素早く運転席へすべり込んで、 「永田町《ながたちよう》でございますね」  と静かな声で行先をたしかめてから車をスタートさせたのである。  実を言うと、栄介はそれまで一度もハイヤーというものに乗ったことがなかった。だから、そういう車で送り迎えされる身になって見たかったのであるが、いざその場になってみると、まるで分不相応な感じで、恥ずかしくて仕方がなかった。  しかし栄介以上に山岡のほうが照れてしまっていた。栄介は仕方なく居直って、しかつめらしい表情で前をみつめていた。 「あれ以来、課長の機嫌《きげん》が悪くて閉口してるよ」  会社から離れて都心へ向う車の列にまぎれ込むと、山岡はやっと安心したように体を起こして言った。 「今度の件に関しては、部長にだけ報告すればいいことになっている。野崎さんにして見ればそれが気に入らないんだろう」 「当たり前だよ」  山岡は軽く笑った。 「無視されたと思うだろうし、仲間はずれにされたとも思っているだろう。君はもう毎日定時に出勤しなくてもいいから平気だろうが、俺のほうはかなわない。何かというと、うらみのこもった目で見られるんだ」 「すっかりまきぞえにしてしまったな」 「まあいいさ。これもなりゆきで仕方がない。ところで、場所は判っているのか」  山岡に言われて栄介はポケットからメモをとりだした。 「一度部長がたずねて行ったらしい」 「なんだ、国会議事堂の近くじゃないか」  山岡はメモ用紙に記された略図をちらりと見て言った。車が信号で停《と》まっている間に、栄介はそれを運転手へ肩ごしに渡した。 「ここへ行ってください」 「かしこまりました」  運転手の鄭重な返事に山岡が首をすくめた。  それは国会議事堂から坂をひとつ下ったところにある、静かな場所であった。  運転手はメモにある通りの道順をたどって、その袋小路《ふくろこうじ》のような道へ入りこんだ。道は途中から砂利を敷いた未舗装の道になり、ゆっくりと進んで行くと、三方を大きな樹木にかこまれた、かなりの広さの空地《あきち》に出た。 「地図ではここになっておりますが」  運転手は車をとめ、ハンドルを握ったままあたりを見まわして首をひねった。 「妙な場所だが間違いはないらしい。とにかく出て見よう」  栄介がそう言うと、山岡がドアをあけようとしてまごついた。なれない高級車であけかたを知らなかったのだ。  運転手が素早く外へ出てドアをあけてくれた。 「どうも有難う」  山岡は礼を言いながら車をおり、 「いいのかな、こんなところへ入りこんで」  と、自信なさそうに見まわしている。 「たしかに個人の住宅があるような場所ではなさそうだな」 「まわりは国会関係の建物ばかりだぜ」 「まあいいさ。行ってみよう」  栄介は少し尻ごみ気味の、山岡をはげますように言って歩きだした。 「こんなでかい柳の木がある。東京のまん中とは思えないな」  山岡は空地から更に奥へ続く細い道の入口のところで、柳の大木を見あげて言った。 「あの、ここでお待ちしていてよろしいのでしょうか」  うしろから運転手が声をかけた。運転手も少し心細かったらしい。 「ええ」  栄介は短く答えた。何とも返事のしようがなかったのである。  木《こ》の間《ま》がくれに、妙にとりすました感じのコンクリートの建物が見えている。栄介たちのいる位置は、その建物の庭の奥に当たっているらしい。 「いずれ公邸とか官舎とかいったものだろうが、霜田無仙は本当にこんな所に住んでいるのだろうか」  山岡が心細そうな声を出した。 「見ろよ。変な建物があるぜ」  栄介はそう言って足を早めた。 「ひどく古ぼけた代物《しろもの》だな」  山岡の言うとおり、それはとりこわし寸前と言った感じの木造家屋であった。焦茶色《こげちやいろ》に塗った二階だての洋館で、ほとんどの窓にはブラインドがおりていた。 「新興宗教なら大げさな看板ぐらい出していると思っていたんだが……」  栄介はそう言って近づいて行った。そのあとから山岡があたりに気を配って警戒しながらついて行く。  突然その廃屋めいた建物の正面のドアが軋《きし》んだ音をたて、いつかの晩に見たあのあやしげな老人が姿をあらわした。 「霜田無仙だ」  栄介は山岡にささやいた。 「遅いぞ。早く入りなさい」  無仙は横柄に言った。 「車をあそこの空地に待たせましたが、それでよかったでしょうか」  栄介が言うと無仙は不機嫌な表情で、 「そんなことはどうでもいい」  と言い残してさっさと建物の中へ引っこんでしまった。 「こいつはやりにくそうだ」  山岡はうんざりしたような声をだし、それでも栄介と並んで急いで老人のあとへ続いた。  二人は一応顧客を訪問する時の礼儀を守って、静かにドアをしめたが、内部の様子を見て呆気《あつけ》にとられてしまった。  まるで廃屋そのものなのである。ドアを入るといきなり二階の天井まで吹き抜けになった広い部屋があり、その突きあたりの中央に大きな階段があって、階段は途中から左右に別れ、吹き抜けの一階を見おろす回廊へ続いている。  その大きな階段の登り口を塞《ふさ》ぐように、埃《ほこり》だらけの大テーブルがあり、霜田無仙は大テーブルの向う側の椅子に腰をおろして栄介たちをみつめていた。 「お邪魔します」  とりつくしまもない思いで栄介が言うと、その声が大テーブルと椅子以外には何もない広い屋内に、妙にうつろな反響のしかたをした。  栄介と山岡はおずおずと無仙の前へ進んだ。 「いつぞやは失礼しました」  無仙は黙って山岡をみつめている。 「あのう、失礼ですが、ここが東洋神秘教団の本部なのでしょうか」  すると無仙はやっと口をひらいた。 「君は何者だ」 「山岡と言います。岩井と同じ会社の者です」 「こちらから僕がご指名にあずかったそうですが、力不足なのでこの山岡をアシスタントに要請したのです」  栄介がとりなすように言った。 「そんなことは、そっちの内部事情だろう。儂《わし》は知らん」 「そうおっしゃらずに、よろしくお願いいたします」 「当教団が必要なのは君一人だ。アシスタントなど無用だのに」 「でしたら、社に戻って別な者を担当させるようにいたします」 「まあ坐りなさい」  老人は折れたようであった。 「ところで君は、何か会社をやめたいというような気持を持っているそうだが」  窓と言わず天井と言わず、至るところに隙間《すきま》ができてしまっていて、そこから光が何本もさしこんでいる。 「部長が申しあげたのでしょうか。よくご存知ですね」 「やめたいのなら力を貸す。当教団はいずれにせよ土地が必要なのだ。君が我々に協力してくれるなら、この取引を君の自由にさせていい。次の会社へ持って移ろうと、君個人が仲介しようと、どちらでもかまわん」 「今の会社でお願いします。はっきり申しますと、それで貸借なしということにして綺麗《きれい》に社から身を引きたいのです」 「金はいらんのか」 「少しはありますので」  栄介がそう言うと、無仙は大声で笑いはじめた。 「宝くじに当たったからな」  栄介はむっとして相手を睨《にら》んだ。 「あれだけあればたくさんです」 「無欲だな。君は自分が得難い体質に恵まれていることが判っておらんのだ」 「どんな体質です。僕は平凡なサラリーマンで、何の特技も持ってはいません」 「そうかな」  無仙は薄笑いをして山岡のほうを見た。 「この岩井栄介がただの平凡なサラリーマンだと思うかね」  山岡はあいまいに首をかしげる。 「さあ」 「ただのサラリーマンが、いきなり一千万円もの金が掴《つか》めるものかね。どうだ」 「それはくじですから」  山岡は当然というように答えた。 「くじなら誰にでも当たるのか」 「確率の問題でしょう」 「ばかな」  無仙は吐きだすように言った。 「運の強い人間と弱い人間がいることを認めんのか」 「たしかに、経験則としてはそういうこともあり得るように思います」 「ではもうひとつ尋ねよう。ただのサラリーマンに、こんな大きな取引をまかせる者がいると思うか」  山岡は今度は返事につまった。答えれば運を認めるか、さもなくば無仙の側の見識をうんぬんするようなことになりかねなかった。 「ほれ見ろ。平凡だとは言い切れまい。この岩井という青年には、たぐいまれな精気があるのだ。霊気といってもいい。当教団はそれを必要としているのだ。欲しい。是が非でも欲しい。協力してくれるならば、この世にあるすべての富を与えてもいいくらいなのだ」  誇大妄想的《こだいもうそうてき》な言い方であったが、霜田無仙は妖気《ようき》こそあれ、狂気であるようには見えなかった。 「この世のすべての富とはまた古めかしいですね」  さすがに山岡は自分をおさえかねたらしい。皮肉たっぷりに言う。だが無仙はそれを無視した。 「君らのような若者は、今の世にはびこる科学とか、合理主義とかいうものにすっかり毒されているからな。千万言をここでついやしても儂の言わんとすることを心から理解することはできまい。それに、岩井にはこの前の夜も言ったとおり、邪霊がついておる。だから土地取引の件を理由にここへ呼び寄せたのだ。ここへは邪神邪霊もその力を及ぼすことはできん。我々の力で強力な結界を作ってあるのだ。その山岡とかいうアシスタントは余分だったが、一緒でなければ嫌《いや》だというなら、岩井の友情に免じて共に事の真相を示して見せよう」 「こんなところで何をなさるというのです」  栄介は突然不安を感じた。自分が何かとほうもない罠《わな》におちこんで行きそうな気がしたのである。 「幾すじも光の束がさし込んでいるだろう」  無仙にそう言われ、あらためて栄介はそれを見た。無数の白い微小な埃が、その光の中に舞っていた。山岡も同じように、さしこんだ光線をみつめている。  微小な白い埃は、よく見なれたものであった。浮くと思えば沈み、沈むと思えばまた浮いた。何かの波動に操られたように動きまわり、突然|渦《うず》をまいて走ったりした。  いつの間にか、栄介はその埃の渦に意識を吸いこまれていた。この廃屋をとりまく木々の葉ずれの音も遠のいて、茫然《ぼうぜん》と突っ立っている。  はじめに白く長い裳裾《もすそ》が揺れて見えた。それはよく夢に出て来る幼い頃の記憶らしかった。その白い裳裾はたしかに栄介の母親のもので、彼は裳裾を視野一杯に感じて歩いていた。  遠くから自分を呼ぶ者の声を聞いた。それは無仙の声のようであった。すると裳裾の下のほうがぼうっと赤味を帯びはじめ、赤い霧のようにひろがりはじめた。  その赤い霧はやがて彼の視野一杯に揺れ動いていた裳裾を押しつつみ、栄介は自分の母が遠のいて行くのを感じた。 「お母さあん……」  栄介は母を呼んだ。しかしそれははるかかなたから聞こえて来る。  赤い霧はますます濃くなり、その中に緑色の輝点がいくつも現われた。その緑色の輝点は相互に一定の間隔を持って回転し、やがてひとつの像を結んだ。 「バール神」  栄介はそう思った。それは一体の神像であった。西方セム族の神、古代フェニキアの火神バールであった。しかも栄介の半睡状態の知性は、必死になってなぜ自分がそれをバール神だと認識したのか、理由を探りはじめていた。生まれてこの方、栄介はいまだかつてバール神を見たことも聞いたこともなかったのだ。  ふしぎな状態であった。  栄介の意識の底には、自分の両足が床を踏みしめて体を支えているという、一種の平衡感覚のようなものが、かなりはっきりと醒《さ》めた状態で存在していた。  その醒めた感覚を更に探れば、建物の外の空地に待たせたハイヤーや、ここへやって来た道筋の記憶に続いていた。それらは日常的で、何の変哲もないごくありふれたものであった。  しかし、栄介の意識の大部分は、何か得体《えたい》の知れぬ圧倒的な力に掴まれ、引き寄せられ、異様な世界へ迷い込もうとしていた。  そこには妖しく輝くさまざまな色彩が溢《あふ》れ、すべてのものが一瞬も定着せず、揺れ動くというにはあまりにも無秩序な浮遊をくり返している。 「バール神だ」  声に出して言ったのか、心の中でそう思っただけなのか、栄介自身も判然としなかったが、それは巨大な空洞《くうどう》の中で叫んだように、底深い反響をともなって何度もくり返し、重なり合った。  栄介の意識はふたつに分裂していた。  一方は自分が足で床をふみしめて立っているという知覚をたよりに、その異様な感覚の世界から日常的な世界へ、必死で戻ろうとこころみていた。  ハイヤーの運転手の顔、エンジンの響き、道路の車の列、四谷《よつや》、新宿、そしてオフィスのあたりの風景……。それを思い出すことで戻れるはずであった。  しかし、その日常的な世界への出口は、まるで油を塗りたくったテグスを引こうとするように、掴んではいるがいっこうにたぐれない。悪夢の中で目ざめようと焦る気持によく似ている。  一方は、その異様な世界で、バール神を自分が知っていたことに驚いている。自分がそれをいつどこで知ったのかを考えて行くと、何か柔かく、しかも強靭《きようじん》な膜のようなものが感じられ、その向う側にひどく確固とした答が置かれているようであった。  その向う側とは、どうやら栄介の誕生以前の世界であるようだった。そして彼はその柔かい膜を越えようと焦った。悪夢の中で動かぬ足を動かそうと焦る気持に似ていた。  バール神の像は栄介の視界の中で複雑きわまる浮遊を続けていたが、突然それが遠のいて行くと、今までバール神の周囲を飾るように動いていた別の輝点のひとつが急激にふくれあがり、新しい神の姿を現わした。 「アル・マカー……」  その神を栄介は知っていた。 「シャマシュ、シン、イスタル……」  緑色の輝点が膨張して破裂するたび神が現われ、その神々を栄介はことごとく知っていた。  なぜ知っている。俺《おれ》はなぜこんなことを知っている。……栄介は恐怖に近い感情の中でそう思った。  日の女神シャマシュ、月神シン、そしてアル・マカー、イスタル……サビア人の神々であり、アッシリアの神々である。  栄介はそれらの神々に仕える神官たちのさまざまな儀式を思い出していた。いけにえが運ばれ、暗い荒野を人々がその儀式の場へ向って黙々と歩いていた。  今まで一度も気付いたことのない、自分の真実の姿をちらりと垣間見《かいまみ》た思いで、栄介は意識の中を進みはじめた。焦りが消え、静かな安らぎが満ちてくるようだった。  突然行手の柔かい膜のあたりに何かが投げつけられた。 「戻れ」  それは大声で叫んでいた。山岡の声であった。すると、シンが、シャマシュが、イスタルが、そして一度去ったバールまでが、巨石を刻んだ像のように硬直したまま、山岡めがけて体あたりして行った。 「そこを越えてはいけない」  山岡は巨大な神々の突進を避けながら、栄介に向って叫びつづけた。神々の体は虚空《こくう》を飛ぶ巨大な隕石《いんせき》のように、音もなく山岡に襲いかかり、体をかわされるとそのまま涯《は》て知れぬ空間の彼方《かなた》へ一直線に遠ざかって行く。 「誰だ、貴様は」  霜田無仙の呶声《どせい》が廃屋の中に谺《こだま》した。  栄介は寒さを感じて身ぶるいした。すぐ寒さは去り、壁の隙間から斜めに射《さ》し込んだ光の中で、もやもやと浮き沈みしている無数の微小な埃に見入っている自分に気づいた。  霜田無仙は口を半びらきにして突っ立っていた。いつの間にかテーブルの上に銅の皿が置かれていて、いやに赤い色の炎が揺れていた。  栄介は首を振り、目を強くしばたいた。自分の肩を山岡がしっかりと掴んでいたのを知って、山岡のほうを向いた。そのとたん、山岡の体はぐらりと傾いて栄介の方に倒れかかって来た。 「おい」  栄介はあわててその体を支えた。しかし山岡はずるずると倒れて行き、栄介は床に片膝《かたひざ》をついて抱きとめる恰好《かつこう》になった。  山岡はすぐ気づいて、弱々しい瞳《ひとみ》で栄介を見た。 「すまん。ちょっと気分が悪くなったんだ」 「しっかりしろ。大丈夫か」  栄介はそう言って山岡をかかえ起こすと、無仙を睨みつけた。 「俺たちに何をしたんだ」  唖然《あぜん》とした表情で山岡を見つめていた無仙は、栄介にとがめられてあわてて銅の皿の中に燃えている赤い光を、骨ばった掌で消した。 「何もせん。儂らは伊豆の土地の件で話し合っていただけだ」  無仙はそらぞらしい顔で言った。 「嘘だ。何かしたはずだ」  栄介は確信を持って無仙につめ寄った。 「何を言いだすのだ」  無仙はゆっくりと椅子に腰をおろした。 「証拠はない。でもここがはっきりと憶えている」  栄介は左の人差指で自分のこめかみを二、三度つついて見せた。 「幻覚のようだったが、たしかにあなたが何かしたんだ。そうでしょう」  無仙はあざ笑うように唇を歪《ゆが》めた。 「何から何まで儂のせいにすることはあるまい。はじめから儂は言っているではないか。君は特異な体質に恵まれていると……」  栄介はテーブルに両手をついて体を支えている山岡の背中に右手を置いた。 「この山岡に何をしたんです」  異常な感覚の世界から戻ると、無仙が大きな取引の相手であるという意識が、言葉づかいをあらためさせた。 「知らんね。本人は気分が悪くなったと言っているではないか」 「失礼しました」  山岡は無仙に頭をさげた。 「こんなことははじめてなんです。何だか貧血を起こしたような具合で」 「山岡。何か見たろう」  栄介が証言を求めるように言った。 「え……。なんのことだい」 「何か妙なものを見なかったかと言っているんだ。幻覚かも知れないが、たとえば神像のようなものを」  山岡は気のいい微笑を泛《う》かべて首を横に振る。 「いいや。ただちょっと意識が……どうしたのかなあ」  栄介が山岡から無仙に視線を移すと、無仙はそれみたことかという様子で顎《あご》をしゃくりあげた。 「夜遊びがすぎたのかな。まあ若いから仕方がないが、体は大事にせんといかん」 「その銅の皿の火は何だったんですか」  栄介はそれくらいのことではごまかされないつもりで追及を続けた。 「はじめてお会いしたときも、その火を燃やしましたね」  栄介は急に思いだした。 「そうだ。あの時も何か火の向うで動いているような気がした。別な世界へ引き込まれて行くようだった」 「何を言っているんだ」  気をとり戻した山岡が、たしなめるように口をはさんだ。 「ただ失神しかけただけさ。貧血ならよくあるケースじゃないか」  本当に何も見なかったらしい。取引相手の霜田無仙の気分を損ねまいと、栄介のなじるような質問をやめさせようとしている。 「いや。この人はおかしい。霜田さん。この東洋神秘教団というのは、妖術《ようじゆつ》とか幻術とかいうようなものをやるんですか」  無仙は笑いだした。 「そんな子供だましのものを……。しかし、君が本当に神を幻視したのだとしたら、それは儂が言う君の特異な体質のせいだよ」  栄介はそう言われて返事につまった。 「どうやら君のアシスタントは病気のようではないか」  無仙はこと更らしく同情を示した。栄介は無仙の手もとにある銅の皿をみつめていた。 「それ以上悪くなるといかん。このあたりは病院はおろか商店もろくにない場所でな。急の手当てをしてやることもできん。今日のところは一たん引きあげて、あらためて君一人で来なさい」  栄介は、そう言ったときの無仙の顔に、ちらりと嫌悪《けんお》の表情がはしったのを見のがさなかった。 「山岡、本当に大丈夫か」  まだ幾分顔色の青い山岡を見ると、 「うん。だが悪かったな」  と山岡は低い声で早口に言い、 「とんだ失礼をして申しわけありませんでした。こんなことは滅多にないのですが」  無仙に重ねて詫《わ》び、首を傾けて見せている。栄介は怒鳴りたくなるほど、もどかしい思いに駆られた。  味方のはずの山岡が、無仙のおとぼけに調子を合わせているように感じた。無仙はたった今、得体の知れぬ幻覚を与えて来たのだ。何かの底意があって妖術めいたことをしかけたのは明らかだった。現に栄介は今まで一度も記憶に納めたことのない、古代の神々をはっきりと思い出しているのだ。 「あらためて出直そうじゃないか」  山岡は栄介に言った。栄介は無仙を強くみつめた。 「必要があれば何度でもここへおたずねしますよ。しかし、本当に土地の取引のためなのでしょうか」  無仙はニヤリとした。 「教団が土地を欲しがっていることはたしかだ。我々の条件は業者にとって有利だし、希望する土地もそう入手しにくい種類のものではない。つまり、一応の業者ならどこにでもできる仕事だ。取引の相手はどこでもかまわんということだ。そういう場合、買手はどんな相手を選ぶかな。簡単なことだ。より多くの便宜を与えてくれる相手を選ぶ。我々が君たちの会社を選んだのは、君がいたからだ。君がここへ来てくれることが条件なのだ」 「この件がどうなろうと、僕はいつでも会社をやめられるのですよ」 「知っている」  無仙は自信たっぷりであった。 「君には然《しか》るべき報酬を別に考えてある。それこそ、この世のあらゆる富をだ」  栄介はあからさまに顔をしかめた。 「帰ります。おっしゃる通り山岡は具合が悪そうですし」 「そうしなさい。今度はひとりで来たまえ」  椅子に坐ったまま言った。栄介はそれでも山岡と一緒に頭を下げ、顧客に対する礼を守ってドアへ向った。無仙は二人がドアの外へ出るまで、じっと見送っていたようだった。 「本当に何も見なかったのか」  その廃屋めいた洋館のドアを出るなり、栄介はたまりかねたような調子で言った。 「何をだ」  何か異常なことが起ったという感じはしているのであろう。山岡はたじろいだような答え方をした。 「あいつは俺に妙なことをしたんだ」 「どんなことだ。俺はただめまいのような感じになっただけだ」  どうやら山岡は霜田無仙に調子を合わせたのではなく、実際何も見なかったようであった。 「俺はあいつに異様な世界へ引き込まれそうになった。考えてみると、以前会ったときも、同じようなことになりかけたらしい。催眠術か何か知らないが、あいつは俺に対してそういう妖《あや》しい術を使って幻覚を起させたんだ」  気がつくと、二人は喋《しやべ》りながらつい足早になっていた。無仙のいる廃屋は、何かしら二人にとって不気味な感じだったのである。 「いったい何であんなことをするのかな」  柳の大木のところまで来た栄介は、足をとめてふり返った。 「俺は特異な体質を持っているというんだが、いったいどんなことをさしてそう言っているんだろう。君は俺が人とかわっていると思うかい」  山岡は黙って首を横に振った。 「教団に協力しろという。いったいどんな協力をしろというんだ」  山岡は昂奮《こうふん》気味の栄介の肩に手を置いて歩きはじめた。 「君が妙な幻覚を見たというのは本当なんだな」 「本当だとも」 「まずそいつを聞こう」  空地にハイヤーがとまっていて、二人が戻って来たのを知った運転手が素早く外へ出てドアをあけてくれた。  二人は白いシートに納まって、しばらく考え込んでいた。 「どちらへ」  運転手が尋ねた。 「そうだな。近くにホテルがありましたね」 「はい。いくつもありますが」 「どれでもいいから、車をとめやすいところへ連れて行ってください」  山岡はテキパキと言った。 「社へ戻っても話のしようがない。ホテルのラウンジなら静かでいいだろう。そこでゆっくり検討しようじゃないか」  車は砂利を鳴らして走りだす。 「癪《しやく》だな。あんな爺さんに敗けたくないよ」  栄介は指を鳴らし、いらいらと言った。 「落着け。幻覚を自由に起させるとは只事《ただごと》じゃない。昂奮すれば相手の思う壺《つぼ》だぞ」  山岡はポケットから煙草《たばこ》を出して栄介にすすめた。  気をしずめるための煙草に火をつけて吸いはじめるとすぐ、車は坂を登って大きなホテルの前庭へ入った。正面玄関に横づけし、 「お帰りの時はこの下の駐車係に言ってください」  と、心得た様子で二人に教えてくれた。 「コーヒーでも飲もう」  山岡は先に立ってホテルの中へ入った。ラウンジはすいていて、二人は大きなガラス窓のそばの席へついた。 「あのこんもりしたあたりが無仙の家だ」  栄介は目敏《めざと》く見つけて指さした。 「幻覚って、どんなものを見たんだ」 「ほかに言葉が見つからないから幻覚と言ったが、果してあれが幻覚と言えるかどうか判らない」  栄介は山岡をみつめた。どんなことでも信じてくれるはずの相手であったが、こうしてホテルのラウンジに納まってしまうと、それも何だか心もとなくなってくるようだった。 「バールという名の神様を知っているか」  栄介にいきなりそう尋ねられて、山岡は怪訝《けげん》な顔をした。 「バール」 「知るまい」 「いや、知っているよ」  山岡は椅子からちょっと腰を浮かせ、坐り直して答えた。 「バールはフェニキアの神だ。その地理的条件から、産業、通商を主とした古代フェニキア人は、各地の信仰の運搬者であると同時に、それらを融和させもしたらしい。彼らの文明を代表する神としては、天界の火の神であるバール・ハムマンとその配偶者であるタニスという神がいる」 「ほう、これは意外だな」  栄介は山岡の知識に目をみはった。 「例の古代熱のおかげさ」 「俺は何ひとつ知らなかった。いや知らないはずだった。しかし、あそこでバール神を見せられたのだ」 「幻覚でか」 「そうだ。何も知らないものを幻覚にせよ理解するだろうか。神の像を見たとたん、俺はそれをバール神だと思った」 「暗示にかかったんじゃないか」 「そうかも知れない。君同様通常の意識はほとんど失いかけていたのだし、無仙が何か言ったが憶えていないのかも知れない。しかし、恐らく暗示ではあるまい。そういう気がするんだ。たとえば、バールの神とその神学は、古代イスラエル人の考え方と非常によく一致していて、そのために古代イスラエルでは、彼らの代表神であるヤハウェと並んで崇《あが》めた期間があった。それは彼らが牧羊から農耕中心へ移った頃のことで、女神アシェラやバールは、ヤハウェと同じように扱われていたのだ」  栄介はそこでひと区切りつけ、唇を湿してから鋭く言った。 「あの幻覚……バール神を見たとたん、俺はこれだけのことを思いだした。なぜ知らないことを思いだすんだ。しかも、そのわけを知ろうとすると、君が突然現われてやめろと叫んだ。……その時君は失神しかけていたはずだぞ」  山岡は息をつめて栄介をみつめていた。 「俺が君の幻覚の中に出て来たのか」  しばらくして山岡が言った。 「そうなんだ。無仙は俺をどこか妙なところへ誘いこもうとしたらしい。とても変な感覚なのでうまく説明できないが、いつバール神など古代の神々の知識を身につけたのか、俺はあの幻覚の中で考えてみたんだ。すると、何だか知らないが、生まれる以前のことのような気がして来たのさ」 「生まれる以前……」  山岡は唖然とした表情であった。 「誕生前さ。おかしいだろう」 「突拍子《とつぴようし》もないことを言いだしたな」 「俺もそう思うよ。しかし、たしかにそんな具合なんだ。幻覚の中で、俺はその記憶のほうへ近付いて行った。何かやわらかい膜のような境界が感じられた。その向うに、バールやイスタルなどの神々がいる世界があるようだった。ところが、近付いて行くと突然君が俺を叱りつけたんだ。行っちゃいかんとね」 「幻覚だからなあ」  山岡は嘆くような言い方をした。 「おかしいと思うんだ。だって、その間君もあいつの為に意識を失いかけていたんだろう」 「それはそうだが、しかしいくらなんでも他人の意識の中へ入りこめるわけがないよ」 「うん。そんなわけがあるはずはない。しかし起ったのだ。君に怒鳴られて俺は幻覚からさめたのだ」  山岡は腕を組んで唸《うな》った。 「霜田無仙のしわざか」 「間違いなくあの老人は妖術をつかうぜ」 「だとしたら大変な術だな。しかしまあ、いずれにせよ幻覚の中のことだし」 「だったら、なぜ俺がバールやイスタルを知っているんだい。そんなことを勉強したおぼえはまるでないんだよ。フェニキアやシュメールのことなんかに、まるで関心がなかったのは君がよく知っているじゃないか」 「たしかに、君はそっちのほうには興味を持たない人間だった」 「だろう。それがなぜ知ってる」 「幻覚を起させられているとき、無仙がそういうことをささやいたのかもしれないな」 「そうだろう。それが一番納得のいく答えだ。でも、どうしてずっと以前に知っていたというような感じになったんだい。言っても判ってもらえまいが、俺にはバールやイスタルを以前よく知っていたということが、絶対確実に思えるんだ。自分の誕生以前にな」 「デジャ・ヴュー。そうだ。デジャ・ヴューかも知れん」 「デジャ・ヴューって何だ」 「既視感覚という奴《やつ》だ。或ることを見て、それと全く同じことを以前にも見たような感じになる奴さ」  山岡は妙にたのしそうな顔で言った。 「その既視感覚《デジヤ・ヴユー》というのを説明してくれよ」 「錯覚の一種さ」  山岡はそういう話が好きらしく、ひと膝のりだすようにして言った。 「谺《こだま》と似ているところがある。一種のフィードバック現象だよ。或る場所へはじめて行って、どうも一度来たことがあるような気がすることがないかい」 「さあ」  栄介は首をひねった。 「たしかに以前来たことがあるという確信を持ってしまうのさ。場所だけではなく、対話や行動で、以前やったこととまったく同一のことをくり返しているという気分になるのだ」 「どうしてだい。全然はじめての経験なんだろう」 「心理的な錯覚だよ。認識していったん記憶に叩きこまれたものが、間髪をいれずとんでもない方向からとび出してくる。したがって本人は今見ていることと、遠い記憶の両方を手にして迷ってしまうんだ。まあ、心理学のほうではそんなようなことになっている。君が見たという幻覚も、仮りに霜田無仙のテクニックで起ったとして、そういう精神状態のときには、えてして記憶なども混乱しそうなものじゃないか。与えられた幻覚が素早く君の記憶に送りこまれて、ずっと以前にあったことのようにすぐ吐きだされて来たとしたら、かんたんに理解できるんじゃないかな」 「たしかにかんたんだね。しかし、俺にとってはかんたんすぎるな」 「別な解釈もあるよ」 「既視感覚《デジヤ・ヴユー》のかい」 「そうだ。心霊学のほうでは全く別な答を出してくる。まあ、こっちのほうは非科学的だときめつけられるかも知れないが、前世の記憶だというんだな」 「前世の」 「そうだ。信じるかい」  栄介は肩をすくめた。 「普段ならノーと答えるところだが、今日ばかりはイエスといいたい気分だな。だって、これは自分の誕生以前の記憶なのだという強烈な感覚を味わったばかりだからね」 「同情するよ」  山岡は笑った。 「たしかにひどい目にあった。君は幻覚、俺はそのまきぞえで失神……もしあれが無仙の妖術だとしたら、まったくとんでもない術だな。前世でも来世でも信じたくなるのが当たり前だよ」 「なぜ君は俺の幻覚に出て来たんだ」 「おい冗談じゃないぜ。こっちに責任があるみたいじゃないか」  栄介もその理不尽さに気づいて頭を掻いた。 「でも出て来たんだから仕方がない」 「君が自分で俺を出したのさ。そんな妙な感覚の中にいつまでもいてはいけないと感じたんだろう。すぐとなりにいる俺を、幻覚の中へ登場させて、自分を覚醒《かくせい》させる道具に使ったんだ」  山岡は自分を納得させるように、ゆっくりと頷《うなず》きながら言った。 「俺はたしかに霜田無仙の妖術にひっかかったのだろう」  栄介はホテルのラウンジから見える、永田町のあたりを眺めながら言った。そのむかしは小さな渓谷《けいこく》だったことをしのばせるような、丘の間の濃い緑がひとかたまり見えている。その緑の中にあの廃屋めいた洋館があるのだった。 「妖術というのもくやしい気がする。タネをあかせばごくかんたんな催眠術か何かかも知れない。しかし、あの幻覚を見たあとでは、君の今のような言い方はとてもいやなんだ」 「嫌《いや》って、どういう風にだ」  山岡は眉をひそめた。自分が非難されたように感じたのだろう。 「俺と君の立場が逆なら、俺も多分同じことを言っただろうな。心理学的な説明をしようとすればきっとそうなる。霜田無仙の妖術にひっかかって幻覚を起した。その幻覚の中で、俺は無仙の暗示によって古代の神々を見た。見たことも聞いたこともない古代の神々だ。無仙は俺の耳もとで古代の神々の名や性格をささやいたのかも知れない。だから俺はその神々を理解した。そこでちょうど既視感覚《デジヤ・ヴユー》が起った。無仙にささやかれて知った古代の神々の知識を記憶したが、その記憶はすぐにとんでもない出口から現在へ戻って来た。だから俺は、神々を見た次の瞬間、これは以前見たことがある、と、そう思ってしまった」  栄介は山岡に視線を戻した。山岡は熱っぽい目で栄介を見つめている。 「その意識の底のほうでは、無仙の妖術にかかりきらない俺の知性が醒めていた。それは幻覚の中の俺にこう言った。……おい、おかしいじゃないか。お前は一度もそんな神々のことを聞いたことがないはずだぞ。なぜ知っているんだ。いつ記憶したんだ」  山岡が強くうなずいて見せた。 「そこで俺は自分の記憶した時点を探した。だがその記憶はにせものだ。心理学でいう既視感覚《デジヤ・ヴユー》だ。たったいまインプットされたものが、整理の手違いでとんでもなく若いナンバーのあたりへまぎれこんだのさ。いや、ナンバーは打たれていなかったのかも知れない。ナンバーとは、それを記憶した時間の記憶だ。ナンバーのない記憶のカードを手に、俺は混乱した。あり得ないカードがあったからだ。俺はそのカードがきちんと納まる場所を求めて記憶の棚《たな》をずっと先まで見て行った。そして俺は結論を出した。ナンバーのないカードが納まるのは、誕生以前の棚だと」  山岡はまたうなずいて見せた。 「そういう考え方がいやなのか」 「そうだ。今の整理のしかたですべてけりがつく。だが、きちんと納まりすぎる。あまりにも科学的だ。割り切れすぎる。人間というのは本当にそんなにうまく割り切れるものだろうか。我々が神だの悪魔だのと言っているものは、自分自身の無知から生じたのだろうか。教養を積めば、すべてを科学で割り切って、それでさっぱりしていられるのだろうか。違うな。割り切れやしない。俺たちの中には、もっと神秘なものが生きているんだ」  栄介は珍しくはっきりと言い切った。 「幻覚がよほど強烈だったらしいな」  山岡は患者を見る医師のような目で栄介を見ていた。栄介はその目を見返した。栄介の中でもやもやしていたものが、そのとき突然はっきりした形にまとまったようであった。  栄介は常に自分の知識の少なさを嘆いて来た。知性の低さと教養のなさを意識することで、おのれを支えて来たと言ってもよい。いくら頑張っても、とうてい人に及ばぬ部分があるのを本能的に悟って防禦《ぼうぎよ》の姿勢をとっていたのだ。  その及ばぬ部分とは、いわゆる科学的な事柄に対する部分であった。現代はその部分が優れていなければ、衆からぬきんでることができない時代であった。栄介はあきらめ、たたかいを避け、低位の階層に甘んじる覚悟をかためていた。  だが、栄介はその時はっきりと自覚したのだ。今の世の科学では解けぬ謎がある。深く広い謎だ。その神秘な世界に対してなら、思う存分自分を生かすことができるらしい。科学とは背中合わせの世界。神秘の世界。精神の世界。霊と呪力《じゆりよく》の世界。 「幻覚かな」  栄介は、はればれとした顔で言った。そこに屈託なく生きられる世界がある。自分の得意の分野を発見した。そういう思いが栄介の心を軽くしているのである。  山岡は呆れたように栄介をみつめていた。 「君はどう解釈する」  気おくれしたように、幾分口ごもりながら言った。 「思い切り極端に言ってみよう。無仙は妖術師だ。条件が揃《そろ》えば人を霊の世界へ出入りさせることができる。彼は夜中の新宿で俺に会った。会ったとたん、俺に或る能力が備わっていることを見抜いた。体質だ。生得《しようとく》のものだ」 「どんな」 「霊的なものへの感応力」 「君はかわった。急にかわった。あの幻覚の世界で自分の何かを掴んで来たな。自信に溢《あふ》れているよ。いつもの弱気が消えてしまっている」  栄介はそれを聞き流して続ける。 「最初のとき、無仙はいち早く俺に霊的な世界の存在を知らせようとしたらしい。俺は無仙が燃やす赤い炎の中へ入りかけた。だがその時は道ばただった。邪魔が入って俺と無仙はそのまま別れた。だが、無仙は俺を追った。俺の身辺を調べあげ、今度のような形で本格的な接触を求めたのだ。俺は霊的な世界を知った。人には誕生以前の記憶さえあり得ることを教えられた。しかも、それを知ったことで俺は自分が今までいかに卑屈だったかということまで悟ったのだ。君の闊達《かつたつ》さを、いや、世間の人々の闊達さを、俺はずっとうらやんで来た。だが、俺にもあの世界がある。あそこでは、俺は自由にとびまわれる。何か才能のようなものがあることさえ、予感できるのだ」 「すると、あれは幻覚ではないというのだな。既視感覚《デジヤ・ヴユー》ではなくて、誕生以前の本物の記憶だと」  山岡は真面目《まじめ》な表情で言った。 「無仙は俺を別な世界の入口まで連れて行っただけさ。俺が厚く柔らかい膜のような存在を感じたのは、その向う側にある広大な世界との境界だったのかも知れない。なぜ入口だと感じるかというと、俺が見たバールやイスタルは、まだ無機的な像にすぎなかったからだ。神の像だ、神をかたどったもので、動きはしなかった。だが、あの膜の向うへ入ったとすれば、神々は生きて動きまわっているかも知れない」  山岡は困惑したように、乱れてもいない髪をかきあげた。 「そう一度に飛躍するなよ。霊の世界といえども、順を追った筋道というものがあろうじゃないか」 「ほう」  栄介は目を丸くした。 「すると、信じてくれるのかい」  山岡は素早くうなずいた。 「ある理由でね。条件つきだが」 「なんでもいい。信じてもらえるとはうれしい。実を言えば、今まで俺の理性の大半を形成していた、例の科学的実証主義という奴が心のどこかでうずうずしているんだ。非科学的だ、迷信だ、まやかしの世界だ、とね。そっちのほうへ自分の視点を移すと、俺は自分自身にしらけざるを得ない。この珍しく軽く弾んでいる心が萎《な》えてしまう。しかし、とにかく俺は新しい視点を憶えた。そして、そのほうがずっと自分の性にあっていることを知ったんだ。今俺が一番欲しいのは、そういう自分に対する支持者だ。理解者だ。友だち甲斐《がい》にお願いだから今少し水をかけるようなことは言わないでいてくれ」 「そんなことはしないよ」  山岡は笑った。 「実は俺の身辺に、今の君のような人物が昔から一人いるんだ」 「ほう、知らなかったな」 「知らないはずはない」 「誰だい」 「美津子さ。井田美津子だよ」 「パンサーのか」 「そうだ。少くとも、霜田無仙にからむ妙な世界のことについては、俺にも信じたい理由がある」 「あ……」  栄介は顔色をかえた。無仙と最初に出会ったとき、炎の中から覗《のぞ》いた妖しい世界へ入りかけるのをとめたのは、ちょうどあの道を通りがかった美津子ではなかったか。 「思い出したな」  山岡が気配を察して言った。 「美津子はどうやら霊媒《れいばい》能力があるらしい。高校時代からそっちのほうへ首をつっこんでいた。デパートの裏とかで無仙に幻覚を起されかけていたとき、美津子はその力で君をこちら側へ引き戻したのだ。彼女ならできるはずだ。俺は長い付合いで、彼女にそういう霊的な能力があるのを信じさせられている。だから君も信じる」  山岡はため息をついた。 「彼女はそういう人だったのか」  栄介は美津子の顔を思い泛かべながら言った。 「こういうことになったからには、今夜にでも美津子と改めて会ってもらわなければならない。しかしそれはそれとして、あの晩彼女は何となく妙な予感に襲われて君のあとを追ったのだそうだ。霊感というか直感というか、ときどき美津子はそういう鋭い感覚になることがあるのさ」 「待ってくれよ」  栄介は驚いて言った。 「すると、デパートの裏で会ったのは偶然じゃなかったのか」 「そうらしい」 「だが、あのとき彼女は……」  栄介はあのうす暗い通りから表通りの喫茶店まで歩いたときの、美津子の態度をよく思い出そうとした。 「そんな素振りは全然見せなかったようだがなあ」 「以前、俺は君に言ったことがあるはずだ。彼女は君に好意を持ったのかも知れないとね。なぜ俺がそう確信したかというと、あとであの晩のことを聞いたからだ。パンサーから出て行く君のうしろ姿に、なんとなく不吉な影を感じたので、心配になってあとをつけて見たのだと言っていた。あれは、たとえ他人にそういうものを感じても、滅多にあとをつけたり忠告したりはしない女なのさ」 「でも、そのあとで喫茶店へ行ったんだ。新年の挨拶《あいさつ》だとか言っていたぜ」 「それはそうだろう。だがついでさ。君のあとを追ったついでだったのさ」 「喫茶店で話してくれればよかったのに」  すると山岡は苦笑した。 「その裏通りの易者が霜田無仙だったなんて、美津子は気付いてはいない。だいいち、君の身に不吉なものを感じたと言ったところで、それが具体的にどういうことなのか、判ってはいないんだ。ただ、追いついて一緒に喫茶店へ入ったら、その不吉な影は跡形もなく消えていたらしい。だから何も言わずに別れたのさ。それに、もしその場で美津子が君の心霊的な素質や、自分が感じた不吉な影を君に説明したとして、君は果して信じたかな」  山岡はニヤリとして見せる。 「信じまい。変な女だと思ったろうな。彼女はそういう世界のことを、滅多に人に言いはしないんだ。はじめから物事の尺度が違っている人間にそういうことを言ったって、判ってもらえはしないのさ」 「俺は違う。少くとも彼女の話なら耳を傾けたろう」 「だが、君は強《し》いて自分の心を寛大にして聞いたはずだ。彼女は相手にそうされるのが、最初から否定してかかられるよりも嫌《いや》なのさ。したがって話合うはずもなかったし、だから俺も霜田無仙と君のつながりに気がつかなかったというわけさ」  山岡は栄介の顔をのぞき込むようにそう言った。 「ところで君は、例の超能力という奴を信じるかね」  山岡は唐突に話題をかえた。 「さあ」  栄介は戸惑って首を傾《かし》げる。 「俺は信じている」  山岡は生真面目な表情で言う。 「もちろん、マスコミなどにとりあげられる超能力者のことは、九割がた信じてはいないがね」 「インチキだって言うじゃないか」  栄介が言うと、山岡は少し憤《おこ》ったような表情になった。 「よく判ってないな。スプーンや針金を曲げるだけが超能力じゃないんだぜ。現に君は無仙の妖術を信じたじゃないか。心理学で言う既視感覚《デジヤ・ヴユー》ではなく、本当に誕生以前の記憶かも知れないと……」 「そうか。無仙のあれも超能力の一種か」  栄介は感心したように言った。 「だいたい世間の連中は少しおかしいんだ」  山岡は憤慨にたえぬといった調子で一気に喋《しやべ》りだした。 「これから起ることを予《あらかじ》め感じたり、隠されたものを透視したり、遠い場所の出来事を見たり、精神の力で物を動かしたりする一連のことを、ひっくるめて超能力といっている。そういう能力が人間にあり得るかどうかという話はひとまずおいて、もし有るとしても、それはあくまで人間の能力じゃないか。目で物を見る、鼻で匂《にお》いを嗅ぐ、口で喋る、手で持つ、足で蹴《け》る……。そうした誰にでもある通常の能力の延長線上に、超能力があるんだ。そうだろう」 「それはそうだな。人間の要らない能力を人間が持つわけがないからな」 「だとしたら、スプーンや針金を曲げるのはなんだ。スプーンや針金にしか働かない能力なんて、まるで阿呆《あほう》の能力じゃないか」 「それは、まだ充分に開発されていないからだろう」  いつの間にか、栄介はマスコミに登場する超能力者を弁護する立場をとっていた。 「それにしても阿呆だ。なぜもう少し考えないのかな」 「考えるって、どう考えたらいいんだ」 「仮りにスプーンを曲げることからそれがはじまったとしても、人間の能力である以上、通常我々がやれることの延長線上にあるはずだ。だったら、スプーンを曲げられるということのもっと手前のほうに、つまりもっと通常の能力に近いほうに、いくらでもできることがあるはずだろう」  山岡の腹立たしげな早口は、とどまるところを知らぬように続いた。 「たとえばなしをしよう」  山岡はもどかしげに言った。 「我々人間が、一人も腕を使って物を抛《ほう》れないと考えてくれ」 「野球もバスケットもない世界だな。いいだろう。考えたよ」  栄介は冗談気味に言った。山岡の意気ごみに気おされたからであった。 「誰も物を抛れない。抛る奴は超能力者だ。抛れやしないという常識家と、ひょっとしたら人間は手で物が抛れるんじゃないかという、幾分心霊的な世界を認める連中がいて対立している。そこへ、一人の少年が、自分はなぜか物を手で抛れるんだと言って、マスコミの世界へ登場するのさ。家でやったら偶然それができて、親たちもそれを見てびっくりしたというんだな」 「超能力少年の登場か」 「そうだ。その少年は……」  山岡はそこで両手でかなりの大きさの球を持つ恰好をして見せる。 「こんな大きな鉄の球を持ちだした。つまり、砲丸投げの玉だよ。そして、それを見事に投げて見せようと言うのだ」  山岡は右の掌を肩のところで上向きにして見せた。砲丸投げのスタイルである。 「それとおんなじことだ」  山岡は砲丸を投げた真似《まね》をしてから言った。 「同じことって、どういう風にだ」 「判らんのか。物を手で投げさえすれば超能力があるという証明になる。砲丸投げの玉のような重い物じゃなくてもいいんだ。それなのに、その少年はあえて重い鉄を選んでいるし、投げるときもそれを上向きの掌にのせているだけで、指で掴むこともしない。失敗して当たり前のような状況さ」 「だったら、もっと小さな石ころか何かを投げて見せればいいじゃないか。そうすれば百発百中だろうに」 「そこだよ」  山岡はパチンと指を鳴らした。 「なぜスプーンを選ぶ。スプーンはかなり手ごわいぜ。今のたとえ話の砲丸と同じじゃないか。それが人間の通常の能力の延長としてあるなら、手前のほうにもっと楽でかんたんなやり方があるはずだ。水平な台の上にピンポン玉を十個ほど一直線に並べて、指定された玉を右か左へ、他人の命ずるようにほんの少し動かして見せるだけで、何か説明のつかない力があることは証明できるだろう。スプーンを曲げる程の力があるなら、軽いボールをひところがりさせることは楽にできなくてはならない。最初に曲げたのがスプーンだったとしても、そればかりというのは、言ってみれば超能力を潜在させただけの、超能力者としてはまるで知能の劣った存在じゃないか。しかも、百歩ゆずってスプーンでしか立証できないとしても、千回に一度、一万回に一度曲っただけでも驚異的な出来事なのに、なぜ毎回成功しなければ承知できないテレビのようなものに出してしまうんだ。まず疑われ、疑わせ、人々の厳重な監視の中で、千に一度、万に一度の奇跡を見せてはくれないんだ」  栄介はからかうように言った。 「君は腹を立てているのかい」  すると山岡は当然だというように頷く。 「そうさ。俺はスプーンを曲げる少年が、はじめから世間をたぶらかす目的でトリックを練習して来たんだとは思っていない。そこにははじめ何かが起ったのだろう。それは信じたいのさ。しかし、いかにもおろかしいじゃないか。なぜもっと楽で確実なことをやらない。スプーンを曲げられたのなら、訓練すればできるはずだ。スプーン曲げよりむずかしいことをやれと言ってるんじゃない。針金で蝶《ちよう》なんかを作ってみせるより、もっとうんとかんたんなことができるようにしろと言っているんだ。確実にできることでなければ世の中は信じてはくれない。それなのに、スプーン曲げではとんで火に入る夏の虫だ。すべての人はまず疑ってかかる。その上で信じるものは信じる。それが本当だろう。曲げる手もとをかくしたり、あまり厳重な監視には実験を拒否するなど、それだったらまるで自分からインチキ性をさらけだしているようじゃないか」 「そうしなければできないのなら仕方ないじゃないか」  すると山岡は不愉快そうに唇を歪めた。 「はっきり証明できるようになってから出て来ればいいじゃないか。超能力なんて、そうかんたんに出現するものではなかろう。スプーンが曲った。それならほかのこともやってみよう。もっとかんたんなことなら百パーセント確実にやれるようになった。これなら学者たちも納得せざるを得まい。……そこではじめて権威ある科学者たちの前へ現われる。これが筋道というものじゃないかな。平らな台の上にある球をころがせないで、なぜスプーンや針金が曲るんだい。誰が考えたっておかしいじゃないか。疑われて当然だよ」 「たしかにスプーンや針金だけというのはおかしい」 「そうだろう。超能力だって人間の能力には違いないんだ。見る、聞く、話す、持つ、走る……そういう普通の能力の上に超がついているにすぎないんだ」  山岡はそこでひと休みするように椅子の背によりかかった。 「まあ人のことはいいさ。だが、これだけは肝に銘じて置いて欲しい。君も超能力者の一人なんだぜ」  栄介は笑った。 「そうかな。俺にはスプーンなど曲げられないぜ」 「誕生以前の記憶を持っているじゃないか」 「記憶の超能力か」 「超能力者の中には未来の記憶を持つ例さえあるという。無仙の妖術がただの幻覚じゃないということを、君は俺に信じさせたばかりだろう」  栄介は答えなかった。自分自身の心の底を薄気味悪い思いで探っていたらしい。  画 策  栄介は会社へ戻ると、霜田無仙との第一回目の接触は儀礼的なものだったと、かんたんに報告した。部長がどんな感触だったかと尋ねるので、適当によさそうなことを言うと、満足した様子であった。 「明日からどうする気だ」  ほかに仕事はなく、当然のような顔で会社を出ると、山岡が心配そうに言った。 「どうするって、あの取引のことか」 「そうさ」  栄介は笑った。 「取引なんかどうだってかまわない。だが俺はもっとあの老人をよく知りたい。深入りしようと思っているんだ」 「なんとなく危険な気がするがなあ」 「いったい俺をどうしようというのか、とことんまで見きわめてやりたいのさ」 「それはいいが、ミイラとりがミイラになるということもある」 「どんなミイラか、それが知りたいのさ」 「随分大胆になったもんだ」 「超能力に目ざめたのさ」  栄介はまた笑った。山岡は足をとめ、その顔をじっとみつめる。 「どうしたんだ」  栄介が尋ねた。 「美津子に会う必要があるな」  山岡はゆっくりと歩きだしながら言った。 「彼女なら、君の役にたつアドバイスができるはずだ。古代の神々が出てくる妖《あや》しげな世界へとっぷり入りこんでいいものかどうか……」 「それもそうだ」  栄介は前方に見えている交差点の信号を見ながら言った。 「あの膜のような感じのものの向う側に何があるのか、どうしても知りたいんだ」 「それも、美津子ならあらかじめ見当をつけてくれるかも知れないぜ」 「本当に彼女はそんなにすぐれた霊媒なのかい」 「霊媒というのは適当じゃない。一部では彼女をそういうようにしか呼ばない者もいるが、彼女はもっと広い意味での心霊者だ。そういう体質に恵まれているんだな。俺にはよく判らないが、精神の世界のふしぎな力を利用できるらしいのさ」 「たとえば……」  二人は新宿駅へ向って交差点を渡り、ゆるい坂を登っている。 「そうだな」  山岡はニヤリとした。 「たとえば彼女とトランプをしてはいけないんだ。敗けるにきまっている」 「どうして」 「カードがわかるんだ。裏返しの奴がね」 「透視か」 「さあ。そいつは会ってみた上のことだ。自分でたしかめろよ」  山岡はそう言ってポケットから硬貨をとりだすと、近くの赤電話の受話器を外した。美津子に連絡するらしかった。  美津子の住いは代々木上原《よよぎうえはら》のあたりの静かな住宅街にあった。となりは大谷石《おおやいし》を積んだ塀《へい》をめぐらせた、かなり広い庭のある家で、もとはその家の庭の一部だったのだろうか、道路から洒落《しやれ》た植込の間を少し入ったところに入口がある二階だての清潔な感じのアパートであった。 「この二階に住んでいる」  私鉄の駅から曲りくねった道を案内して来た山岡は、そう言ってさっさと階段をあがって行った。 「いいアパートだな」  栄介は感心して言った。すると山岡は、 「いつまであんなおんぼろアパートに住んでいる気なんだ。今の君ならもっと高級なアパートだって思いのままなのに」  と笑った。  ドアにはインターフォンがついていた。山岡は心得た様子でそのボタンを押した。 「へえ、そんなものまでついているのか」  栄介は驚いて言った。このアパートには建った時からそういう設備がしてあるらしい。諦《あきら》め切って安アパート住いを続けているうちに、世の中はどんどん贅沢《ぜいたく》になっていたのだ。 「こんなものに目を丸くしていると人に笑われるぞ」  山岡がなかば本気な顔で言ったとき、インターフォンから美津子の声が聞えた。 「山岡君ね」 「そうだ。岩井を連れて来たよ」  内側でロックを外す音がして、すぐドアがあいた。 「こいつ、このアパートの設備がいいって目をまわしてやがる」  山岡は顔を見せた美津子にそう言いながら中へ入った。 「お邪魔します」  栄介は美津子の白い顔を眩《まぶ》しそうに見ながらそのあとに続いた。 「建ってからちょうど二年目なの」  美津子は会釈《えしやく》を返して言った。 「ちょうど退屈してたの。でも、こんな時間から私用で歩きまわって大丈夫なの」  美津子は先に立って居間らしい八畳ほどの洋間へ入った。いかにも若い女の住いらしく、華奢《きやしや》な臙脂《えんじ》のソファや、小ぶりのサイドボードなどが並んでいた。 「かまわないのさ。岩井のおかげで楽ができることになった。ただし、いずれ失業するかも知れないがね」  美津子は電話を受けて用意していたらしく、テーブルの上の紅茶のポットをとりあげて、まず栄介の前のカップに注ぎながら、 「どういうことなの」  と微笑した。山岡がかいつまんで情勢を説明すると、その微笑は急に謎《なぞ》めいたかげりを帯びはじめた。 「岩井さん」  自分も椅子《いす》に坐ってティー・カップをとりあげ、あらたまった調子で言った。 「多分私たち、旅に出ることになるわよ」 「旅……」 「遠いところよ。多分、三人いっしょに」  栄介はそういう美津子をじっとみつめた。 「遠いところって、どこだい」  山岡が美津子に尋ねた。 「判らないわ」  美津子はかすかに首を振った。長く柔らかそうな髪が彼女の肩のあたりで揺れた。 「どうしてそんなことが判るんです」  栄介に鋭い口調で言われ、美津子はため息をつく。 「感じる、と言ったら間違いね。ちらっと何かが見えるのよ。ときどきだけれど、私って昔からそうなの」 「それが見えたんですね」  美津子はものうげにまた首を振った。 「はじめてあなたがパンサーへ来た時に、あなたはどこか遠いところへ行くんだと判った」 「なぜあの晩僕のあとをつけたんです。山岡に聞いたんだけれど、あなたは僕に不吉な影を感じたそうですね」  美津子は山岡のほうへ顔を向けた。その横顔が、栄介には哀《かな》しげに見えた。 「不吉な影。そうよ、不吉な影を感じたの」  すると山岡は美津子に詫《わ》びるような表情になり、うろたえ気味に早口で言った。 「その、つまりこの美津子にはそれが何だかもっと具体的に判っているんだ。でも、俺に判らせる言葉がないのさ。霊感の中で見たものをうまく言いあらわせる言葉がないんだ。いつもそうなんだ」 「それはそうだろう」  栄介はうなずいた。 「俺にも経験がある。夢を見て、その夢の内容を他人に話して聞かせる時なんかがそうさ。ふしぎで、面白くて、自分でははっきりと感じが掴《つか》めているのに、いざ人に話しはじめると、とたんに白けてしまう。言葉にしたとたん、実にくだらない感じになってしまうんだな」  美津子は栄介に笑いかけて来た。 「優しいのね」 「いや、本当さ。憶《おぼ》えがあるんだ」  栄介は頭に血がのぼりそうになり、赤くなるまいと懸命にそれをおさえた。 「バーテンさんに聞いたんだけど、バーテンはバスや電車で知らないバーテンと乗り合わせて、相手が同業者だっていうことがなんとなく判るんですって。それと全く同じではないでしょうけれど、私もあなたを見たとたん、自分と似たような体質を持った人だなって判ったの。ただ、あなた自身は自分のそういう点にまだ全然気づいたことがないという感じだったわ」 「うん」  栄介はうなずいた。 「ところが、よく観察してみると、あなたにはおかしなところがあるの。今もそうよ」  美津子は疑問の余地はないという様子で、むしろさりげないくらいの言い方をした。 「あなたは何かにとり憑《つ》かれているわ」 「とり憑かれているって、いったい何が俺にとり憑いているんだ」  栄介は山岡をみつめて言った。美津子は謎めいた表情で静かに二人の男を眺めている。 「実は霜田無仙という老人にもそんなことを言われたんだ」  美津子に視線を戻した栄介が、救いを求めるように言うと、美津子はふっと体の力を抜き、無意識のようにティー・カップに手をのばした。 「判らないわ。でもあなたはたしかにとても強力な霊に操られているわ。それは今まで私が感じたこともないような強い力よ」 「今もか」  美津子はゆるく首を横に振る。 「今はおだやかよ。あなたはあなた自身で行動しているという感じね。でも、最初に会った晩はそうじゃなかったの。だれかがあなたをどこかへ連れて行こうとしている感じだった。それとあなた自身、遠い所へ旅だつ人だという感じがあって、私にはそのふたつが重なって、今にもあなたがどこかへ連れ去られるように思えたの。それに、これは今まで山岡君にも言わなかったけれど、その何か邪悪なものは、あの晩山岡君にも力を及ぼしていたようだった」 「俺にもか」  山岡は呆《あき》れ顔であった。 「そうよ」  美津子は確信に満ちて、冷淡に見えるほどの表情でうなずいた。 「わたしは二人を心配したの。でも、こういう証拠の何もない、直感的なことは、感じてすぐ言ったってどうにもならないのよ。警告したって本気にされはしないんですもの」 「俺は判っているつもりだ」  山岡は不満そうに言う。 「あなた自身に霊の力が及んでいたのよ。あなたが私の霊感を信じ、理解してくれたのは、あなたが第三者として見ていられる場合に限られていたわ。あの晩、岩井さんの上に邪悪なものが掩《おお》いかぶさっていて、となりに坐っているあなたにまで、その一部が力を及ぼしていたのよ。そう言ったら信じたかしら」  山岡はため息をついた。 「でも、俺にまで」  栄介は先をうながした。 「それであとをつけたんだね」 「ええ。横丁を出てから、二人は駅のほうへ歩きだし、途中でみぎひだりに別れたわね。私はずっと一緒だと思っていたから意外だったの。でも山岡君は帰ってしまうらしかったから、岩井さんのほうをつけたの」 「デパートの裏で易者をみつけ、なんとなく天幕の中へ入ってしまった。君はずっとそれを見ていたのか」 「あなたは憶えているかしら。夢遊病者みたいな歩き方をしていたのよ」 「本当かい」 「ええ。あの妙な易者の天幕へ消えたから、しばらく様子を見ていたんだけれど、心配になって近寄って行ったの。あの天幕のあたりには妖しい気配がたちこめていたわ」  その時突然山岡が大声をだした。 「俺はどうしてあの晩急に君と別れたんだ」  栄介と美津子は驚いて山岡をみつめた。 「なあ、なぜ君と別れたんだろう」 「知らないよ。君は客が来るとか言っていたぜ」  山岡は激しく否定した。 「いや、客なんかなかった。俺はまっすぐ家へ帰って寝てしまった。変な感じだなあ」  山岡は両手でこめかみのあたりをおさえた。 「なぜ今まで忘れていたんだ。そうだよ、少くとも、次に君と会ったとき、あのことを言うべきじゃなかったのかな。飲もうと誘ったのは俺だったんだ。それがパンサーを出て、はやばやと自分一人で家へ戻ってしまった。失礼だよ。詫びるべきだった」 「別に気にしてはいないよ」 「いや、そうじゃない。俺は友達を飲みに誘っておいて、途中でそういう逃げかたをする男ではない。そうだろう」  山岡は救いを求めるように美津子を見た。 「そうね」  美津子は同情のこもった目で見返す。 「俺が邪魔だったか」  山岡は無念そうに言ってあらぬ方を睨《にら》んだ。 「きっとそうね。あの晩、何かが岩井さんをあの天幕へ呼び寄せていたのよ。あなたは邪魔だった。それであなたに働きかけ、帰らせてしまったんだわ」  美津子もいささか興奮しているようであった。 「たしかに唐突だったよ」  栄介もそう証言する。 「何だかはぐらかされたような気がしたな」 「悪かったな」  山岡は詫びた。 「ねえ、二人ともちょっと考えてみて」  美津子は蒼白《あおじろ》い顔になっていた。 「たしかに私は小さい頃から、普通の人が感じないことを感じたり、瞬間的にだけれど、普通の人には見えないものを見たりして来たわ。大きくなってからは、それが霊の世界のものだということを知ったし、自分でも積極的にそういう世界へ入りこもうとしたし、霊の力を強くしようと努力もしたわ。でも、こんなのはじめてよ」  美津子は強く言い切った。 「こんな強い力は見たことも聞いたこともないわ。たしかに岩井さんはもともと霊的な素質のある人よ。どこから岩井さんにその力を及ぼしたのかしら」  美津子は窓の外の空に目をやった。 「無理やりあの暗い裏通りに天幕を張っている易者の所へ連れて行ってしまったじゃないの。あの天幕はその力の発生源ではなかった。それは私にははっきり判るの。どこか、とほうもない遠くからよ。信じられない力よ。その上、何の素質もない山岡君まで自由自在に操ってしまうなんて」  美津子は恐しそうに身ぶるいした。 「そんなに大変なことなのかな」  栄介は首を傾《かし》げた。美津子の怖れようが少し大げさに思えたからであった。  だが、山岡には事態がよくのみこめたらしかった。 「多分美津子の言うとおりだろう。どこかに他人の行動を自由自在に操れる超能力者がいたとする。たとえばその人物はどこかの山の中にいて、新宿で飲んでいる俺たちを好き勝手に動かしてしまったとする。判るか。その人物は、全智全能に近い存在じゃないか。もし本当にそんなことができる力を持っているとすれば、車の流れの中へ俺を突然とび込ませることもできる。人の運命をつかさどるわけだぜ」 「遠い山の中にいたとすればさ。それならそういうことも言える。でも、近くにいたのかも知れない」  栄介がそう言うと、美津子は強く首を振った。 「いなかったわ」 「少くとも、そういう力の発生源だけは、美津子にはすぐ判るんだ。それはたしかだ」  山岡は太鼓判を押す。 「信じてもらえないかも知れないけれど、それだけは確実に判るの」  栄介は照れたように頭を掻《か》いた。 「否定しているんじゃないんだが」 「念写というのを知っているか」  山岡が椅子から立ちあがって言った。美津子はそれを見てとがめるような顔になった。 「およしなさいよ」 「いいじゃないか。こうなったらまず岩井に君という人間を知らせることだ」  山岡はそう言うと、勝手知った様子で小型のサイドボードの上から木の箱を持って来てテーブルの上へ置いた。 「念写というのは、未露光のフィルムに精神力を集中させて、何かの像をしるすことだ。念じたとおりのものが写るというのはどうか判らないが、とにかく美津子はその念写を百パーセント確実にやってのける。これがその実験の証拠だ。何ならポラロイド・カメラでやって見せようか」  山岡は平たい木箱の蓋《ふた》をとった。いろいろなタイプのフィルムが、印画紙と一緒につめこんであった。  栄介はその写真を一枚一枚見て行った。たいていはもやもやとした煙の写真のようであった。 「フィルムにはじめからついていたものじゃないんだね」  すると山岡は笑った。 「少くともフィルムのメーカーはそういう疑いを抱かなかったよ。何百本やったって、美津子にかかればみんなこういう風にされてしまう。美津子の念写が嘘《うそ》だというなら、フィルム・メーカーはとんでもない不良品をたくさん売っていることになるからな」 「そうかねえ」  栄介は丹念に写真を見て行ったが、急に体を硬直させた。 「これは……」  はっきりと見憶えがあった。幼いときから時々夢で見る、あの白い裳裾《もすそ》であった。 「どうしてこんな写真が……」  栄介はどもり気味に言って美津子を見た。美津子は白く長い指先でその写真をつまみあげる。 「この写真に心当たりがあるの」  美津子は山岡にちらりと視線を送りながら言う。 「あるどころか」  栄介はそう言って生唾《なまつば》をのみこんだ。 「これは俺がずっと見つづけている夢の一場面だ。俺の夢の中へ入って来てスナップしたような写真だ」  山岡が美津子の手から写真を受取って眺める。天地があべこべだった。 「いったい何の写真だい。俺には一向に判らないがね」 「あべこべだ」  栄介はもどかしげに言って山岡からその写真を引ったくるようにすると、テーブルの上へ置いた。 「ほら、これは白いドレスのすそに当たる部分だ」  美津子と山岡がのぞき込む。 「長いドレスだな」 「まっ白なのね」  二人は栄介の言うことを理解しようと努力しはじめたようである。だが写真には、左下の部分にもやもやとした白いひろがりが写っているだけで、それをドレスの一部だと見わけるには、相当な想像力が必要であった。 「これは神社の境内《けいだい》なんだ」  栄介は声をつまらせた。ふと涙ぐんだのである。彼自身もさだかに憶えてはいないが、夢でときどき見るその場面は、たしかにどこかの神社の境内であり、まだ幼い、多分よちよち歩きの自分が、白い衣服を着た親に手を引かれて歩いているという自覚があった。  それが今、一葉の写真となって栄介の目前にあった。見ていると死んだ母の面影がうかびあがって来た。懐しく、少し甘ったるく、そして物哀しい感じがこみあげているのであった。 「これが神社だなんて、どこで判るんだ」  山岡がそういうと、美津子は目でそれを制したようであった。 「たしかに私たちには判らないかも知れないわね。でも、岩井さんのその顔に嘘はないわ。死んだお母さまを思い出した顔よ」  そう言われて山岡がしゅんとなった。黙って写真と栄介の顔を見くらべている。 「いいかい」  栄介は顔を上げて言った。 「俺はまだ子供だった。こんなに小さかったんだ。白くすその長いものを着たおふくろに手を引かれ、どこかの神社へ行ったんだ。いいか、俺はこんなちいさい子供だった。あたりを眺めまわしなどしなかった。目に入るのは、歩くたび揺れるお袋のその白いすそだけだったんだ」 「信じるよ」  山岡が暖い目でうなずいた。 「でも、神社だというのを憶えてるのか。そんな小さいときのことなのに」  そう言われて、栄介はゆっくり首を振る。 「なぜだか判らない。しかし、この夢を見るとき、俺はその場所が神社だということを感じとっているんだ。いつでもそうだ。君ら、何度も何度もくり返し同じ夢を見ることはないのか。いつから見はじめた夢か憶えていなくても、睡《ねむ》っていてその夢があらわれると、ああまたあの夢かと思う奴だ。夢の中でこれは夢だと判っている。この前も見たと感じる。この場面の次はこうなると判っている。それで覚めることもあるし、覚めないこともある。はじまりとおわりははっきりしていない。でも、一年に何度か同じ夢を見るんだ」 「あるよ」  山岡が言った。 「俺にもそういう夢がひとつある。それは風邪《かぜ》を引いたりして、熱が出ているときに限って、夢にあらわれるんだ。丸い動く飛石のようなものがいちめんに動いている。ひとつひとつは回転し、全体としてもゆっくり動いている。回転する飛石は水平に並んでいるが、その水平な面がゆっくり回転するようなのだ。動きかたは酔ったとき天井がまわるのに似ている。そしてしまいに声が聞えてくるんだ。小さいとき、襖《ふすま》をへだてて聞いた、よく響く大人《おとな》の声のようなのさ。その声が俺の名を呼ぶ。はじめはすぐ耳もとで。だがやがて遠のいて行く。貧血を起したときのようなんだ。声が遠のくにつれ、回転する飛石の面もすうっと遠のいて行く。……ああ、俺はまたこの夢を見てるぞ。熱があるんだな。そう思うんだ。夢の中でだよ」 「みんなそういう夢は持っているようね」  美津子が区切りをつけるように口をはさんだ。 「でも、岩井さんの夢がどうしてこの写真に写ったのかしら。これを念写したのは去年の秋ごろのことよ。ほら、裏に書いてあるでしょう」  美津子が写真を引っくり返すと、裏に薄い鉛筆の字で、去年の九月の日付が入っていた。 「その頃私はまだ岩井さんのことを知らなかったわ」 「偶然形が似ていただけじゃないのかい」  山岡がたしかめるような言い方をする。 「いや。俺にしか判らないことだから、はっきりと説明はしかねるが、これは美津子さんの念写が作ったただの模様ではない。絶対にそうじゃない。君らにはただの白い縞《しま》に見えるかも知れないが、これはあの夢の中で俺の視野いっぱいに揺れているお袋のドレスなんだ。いったい俺が今までに何度この夢を見てると思う。二十回か、三十回か。とんでもない。お袋がまだ元気でいる頃から、何百回となく見ているんだぜ。見まちがえるわけがない」  栄介は強く言い張った。 「よし」  山岡は指をパチンと鳴らした。椅子の背もたれによりかかり、じっと栄介を見た。 「決めよう。これは君のお母さんのドレスの裳裾だ。念写によるただのもやもやした模様ではない」  そう言い切って美津子に視線を移す。だが美津子は顔をしかめていた。 「何か不都合なことがあるのかい」  山岡は心配そうに尋ねる。 「ええ」  美津子は怯《おび》えたような目の色になっていた。 「どうしてだ。岩井の言い分を疑問視すれば、際限のないことになってしまう。だが、少くともこの三人の間では、岩井が何かのためにする目的で、お母さんの裳裾だと言いだす気づかいはないんだ。岩井はたしかにこれを夢の中で見なれているのだろう。そうじゃないか」  美津子は弱々しい微笑を泛《う》かべた。 「いいえ、そんなことじゃないのよ」  栄介はその顔をのぞき込むように言った。 「じゃ、何を心配しているんだい」 「おかしいじゃないの」 「どこが。おかしいと言えば全部おかしい。何度もくり返し見る夢があることもおかしいし、念写などという現象もおかしい。人によっては両方とも否定しかねないと思うよ」 「判っていないのね」  美津子は憐《あわ》れむように栄介を見た。 「いいこと。この写真がたしかにお母さんの裳裾で、小さいときお母さんに手をひかれてお宮まいりか何かをしたあなたが、自分の視野いっぱいにひろがっていた白いドレスの下のほうを印象づよく記憶に焼きつけたものだとすれば、いつも夢で同じシーンを見ることも納得できるわ」  美津子はテーブルの上から写真をとりあげて眺めながら言った。 「でも、それじゃなぜなの」  手にした写真を急に栄介の顔へ押しつけるようにした。 「では、どうして私の念写があなたの視点から見た絵を作りだしたのよ」  山岡も栄介も、虚をつかれたように口を半びらきにして息をつめた。 「そうでしょう。私がやったのだから、あなたとお母さんの二人を、第三者の視点でとらえるのが本当じゃないの。過去の或《あ》る場所へさかのぼって何かを見て来たとしても、結局そうなるはずじゃないかしら。私は念写がそういう状態での絵を作りだすことを疑ってはいないけれど、それはあくまで私と私の霊がすることであって、あなたの視野を借りてしまうなんて言うことがあり得るとは思えないの」  美津子は身ぶるいした。 「そう言えばそうだ」  山岡が呪縛《じゆばく》からとき放されたように坐り直して言う。 「おかしいな」 「そうすると、別な答が出て来てしまうんだけれど」  美津子は栄介をみつめた。 「どういう答だい」 「これは、時間をさかのぼって、あなたが過去に経験した場所でスナップしたものではないということよ」 「じゃ、どこでどうやったんだ」 「あなたの夢へ入ったのよ」 「君が。美津子君がか」 「あなたはよくこの夢を見ると言ったじゃないの。この念写をしたのはたしか深夜だったわ」 「君の霊が寝ている僕の中へ入りこんで、僕が見ていた夢をのぞいたというのか」 「そう考えなければ、あなたの視野のものをそっくりフィルムに写せたわけがわからなくなるわ」 「でも、君はその時まだ僕の存在を知らなかったというじゃないか」 「ええ」  美津子はますます怯えた様子になって行く。 「こわいわ、私……」 「なぜこわがる」  山岡がじれたように言った。 「誰かがどこかで、何かを画策しているわ」 「なんだって」  山岡と栄介が同時に言う。 「そうじゃないの」  美津子は断言した。 「私と岩井さんを結びつける力がはたらいているじゃないの。この写真が証拠よ」  二人は黙って写真をみつめる。 「実際に会う前から、私の霊は岩井さんの夢の中へ誘い込まれているじゃないの。つまり、私と岩井さんは、あらかじめ会うように仕組まれていたのよ」 「誰がそんなことをするんだ」  栄介はつぶやくように言った。 「ふつうはこういう場合、よく運命というような言い方をするけれど、そうじゃないの。偶然や確率の問題以外のことだわ」  美津子は遠くを眺めた。 「大きな力が動きはじめている……」  栄介は、呪文《じゆもん》のように言いはじめた美津子の横顔をみつめていた。霊媒というような言葉から受ける一種の宗教的な感じと、その美津子の神秘的な表情が、みごとに一致していた。 「私たちはその力に動かされて、遠くへ旅をすることになるのね。たたかいがあるわ。敵がいるのよ。私たちは、そのたたかいに加わらなければならない」  栄介と山岡は顔を見合わせた。  それは、井田美津子という女が陥った、一種の入神《トランス》状態であった。生より死への通過。夢幻の境。恍惚《こうこつ》と失神。エクスタシー……。  栄介はそういう状態に陥った人間を見るのははじめてであった。  全身から生気が失われ、目に見えぬものに支えられて、きわめて不安定に体を立てた姿勢を保っているようだった。まるで死者が生きているふりをしているように見えた。  山岡はうっとりとそういう美津子を眺めていた。何度も接して見なれている様子であった。栄介は入神《トランス》状態に陥った美津子を、そのそばで讃美するように見とれている山岡に、ふとかすかな嫉妬《しつと》を感じた。自分一人で見ていたかったのだ。美津子を独占したかったのだ。  が、美津子のその状態はすぐに去った。ぐらりと姿勢を崩し、テーブルの上に顔を伏せた。反射的に体を支えてやろうと立ちあがった栄介へ、山岡がいやに厳しい表情で、首を横に振って見せた。 「いいんだ、しばらくそうしておいてやれ」  差しのべかけた手をとめて、栄介はほろ苦いものを味わった。山岡の言い方が、まるで夫のようであったからだ。 「君は美津子君とは」  思わずそう言いかけると、山岡は急に我に返ったように栄介を見て早口で言った。 「なんでもないさ。彼女は特別な人間だ。少くとも俺などには、恋だの愛だのという対象にはできないよ」  そう言って照れたように微笑する。 「それはそうと、今彼女が言ったことを、君はどう思う」 「どう思うと言うと」 「信ずるか」 「旅、たたかい……」  栄介は首をこまかく振って見せた。 「何のことなんだ。漠然《ばくぜん》としすぎていてさっぱり判らないな」 「おわりのほうはたしかにそうさ。しかし前の部分は違うぜ。俺はそう思う」 「何か得体《えたい》の知れない力が俺たちの上に掩《おお》いかぶさっているというわけだな」 「そうさ。それを信じるか」 「まあな」  テーブルに顔を伏せて、ぐったりとしている美津子を見おろしながら栄介は答えた。 「なぜか一千万円当たった。なぜか霜田無仙の前へ行ってしまった。なぜか彼女が俺のあとをつけた。なぜか知りもしない古代の神々の名が判った」  栄介の言い方は、自嘲《じちよう》気味になる。 「誰かが俺たちを操っている。それはおそろしく強い力だという実感があるよ」 「敵がいると彼女は言った。霜田無仙のことかな」  山岡は鋭い目つきで言った。  入神《トランス》状態におちいっていた美津子は、ゆっくりと正常な状態に戻って行った。 「ああいう時はどうなのかね。言ったことを何も憶えていないのかい」  栄介は好奇心をおさえかねて尋ねた。 「夢の中と同じように、記憶している時もあれば、まるで判らないこともあるの」 「ずいぶん以前だが、ひどく酔っぱらったことがあってね。途中からその時の記憶がまるで消えてしまっているんだ。踊ったり唄《うた》ったり派手にやったらしいが、あとで言われても嘘をつかれてるとしか思えなかった。ああいうのかな」  美津子に言うとも山岡に言うともつかず、栄介は思いだしながら喋っていた。だが、山岡は何か美津子に異常があるのに気付いたらしく、食い入るようにその白い横顔をみつめていた。 「どうしたんだい、山岡」  栄介が言う。 「美津子。君は本当にトランスから戻ったのかい」 「私はそんなにお酒を飲んだことがないから判らないけれど、きっとそうでしょうね」  美津子は栄介に答えた。 「でも、いま君がなったような状態を、否定論者が見たらきっと疑うよ。芝居かも知れないとね」 「芝居じゃないわ」 「でも、頑固《がんこ》な否定論者なら……」  山岡が鋭く、しッ、と言って栄介のお喋りを封じた。 「なんだい」 「美津子の目を見ろ」  山岡に言われて栄介は彼女の目を見た。睡そうな目だった。 「頑固な否定論者ならなあに……」  美津子は栄介との会話を続けていた。 「頑固な否定論者なら、いま井田美津子はここに存在していると主張するだろうな」  山岡がかわりに言った。 「私はここにいるわ」  美津子の目はたしかに変だった。 「いるのは体さ」 「ちゃんとあなたとお喋りしているじゃないの」  目にはうすい膜がおりた感じで、美津子は人形のように前方をみつめているだけだった。そう言えば声も機械的な単調さで、どことなく人形めいている。 「でも、否定論者は言うよ。君はここにいる。ここにいて、ほかのどこにも存在しないとね」 「判らないの。私の霊はいま霜田無仙と一緒にいるのよ」  そう言ったとたん、美津子は床にくずおれて苦しみだした。口の中のどこか噛み切ったらしく、唇の右端から赤い血が白い肌へしたたった。 「タオルだ。タオル……」  山岡があわてて叫んだ。栄介はおろおろと歩きまわり、やっとタオルをみつけて山岡に渡すと、山岡は美津子の後頭部を膝《ひざ》にのせ、強引に彼女の歯を割って口の中へ押しこんだ。  ふうっと太い吐息をする。 「どうしたんだ」 「判らない。だが、無仙が美津子の隙《すき》をついて何かしかけて来たらしいな」  栄介はいたましげに美津子をみおろした。 「そんなことができるのかね」 「以前、ちらっと美津子に聞いたことがある。入神《トランス》状態におちいった者の霊は不安定な状況にあるらしい。それを或る力で自分の都合のいいところへ連れて行くことも可能なら、一定期間とらえて置くこともできるというんだ」 「まさか」 「じゃあ、これをどう説明する。入神《トランス》状態から戻った美津子は、実は完全に戻ったのではなくて、妙な放心状態だったじゃないか。しかも、常識的な会話にはちゃんと応じていたが、自分が今おちいっている状態に関しては答を回避しようとした」 「君の質問はおかしかったな。あれはいったいどういうことだ」 「以前、入神《トランス》状態の人間を美津子と一緒にだましたことがあるのさ。だますというより、誘導|訊問《じんもん》かな。トランスが浅い場合には、正常な時の先入観が残ってしまっている。その時と同じ手を使ってみたんだ。美津子のような人間は、いつも霊だのということを否定しようとはじめからきめてかかる奴らを相手にしなければならない」 「それで否定論者を持ちだしたのか」 「偶然君との会話にその言葉が入っていたんで利用したまでさ。美津子は明らかにトランスから戻ったふりをしていただろう」 「そう言われると、たしかにそのようだった」 「心霊現象を否定してかかる連中が、そんな芸当はできないと言っていると、俺は美津子を挑発《ちようはつ》したのさ。身も心もここにあって、よそへ霊だけ行っていることはあり得ないと……」 「そうか。それで彼女は自分の霊が今いる場所を白状したのか」 「美津子にそれを言わせまいとする力が働いていた。だが美津子は言ってしまった」 「苦しがっている」 「そうだろう。二律背反におちいって自分から自分を引き裂いてしまったようなものだ」 「どうすればいい」 「知らんよ。待つしかない」 「いつまでだ」 「彼女の霊が正常に戻るまでさ」 「そんなのんきなことを言っていられるか」  栄介は大声で言った。 「どこへ行く気だ」  荒々しく靴を突っかけた栄介に山岡が言った。 「あのボロ屋だ」 「無仙のところか」 「あん畜生、ぶっとばしてやる」 「待てよ、岩井」 「君は彼女を見てやっていてくれ」 「どうしてそんなに興奮してるんだ」 「君は腹が立たないのか」  栄介は喚《わめ》いた。血相を変えているのが自分でもよく判った。 「信じたよ。骨の髄まで信じたとも。人間には霊があり、資質と訓練しだいでは肉体から離れることも可能なんだ。そうだろう。でも、その霊を他人がどうこうしていいのか。君は自分の心を他人に勝手にあやつられて笑ってすませるか」  山岡は黙りこんだ。 「彼女はそれどころか、霊をとらえられてしまったというじゃないか。そんなひどいことってあるか。していいことか」 「行け」  山岡が言った。 「行ってくれ。そういう力は俺より君のほうがずっと上だと美津子も言っていた。無仙から美津子を奪い返して来てくれ」 「ああ、やるとも」  栄介はアパートをとびだした。  表通りまで走ってタクシーを拾うと、あの永田町の廃屋へ向った。 「あれ……」  タクシーがその道へ入ってしばらくすると、栄介はシートから腰を浮かして、いま通りすぎたあたりをふり返った。 「お客さん、どこで停《と》めるんですか」  若い運転手はぶっきら棒に言う。 「いい。この辺でとめてくれ」  栄介はあわてて言った。車がとまり、料金を払って歩道へ出ると、石の塀にそって来たほうへ小走りに戻った。  その石塀の切れ目に大型乗用車一台が楽に入れる横道があって、あの柳の大木がある空地へ出るはずだった。そこへ今日行ったばかりだったのだ。  だが石の塀に切れ目はなかった。  栄介は呆然《ぼうぜん》として、たしかに横道があったと思われるあたりに立ちつくした。国会関係のものらしい妙にそっけない建物が、濃い緑に囲まれて点々としているそのあたりには、人通りもほとんどなかった。 「畜生、どうしたというんだ」  栄介は幻覚を追い払うように、目をとじて強く首を振ってみた。  だが、再びあけた目に、やはりあの廃屋への道はなかった。  日が暮れかけていた。しのび寄るたそがれが、何やら不吉なものを感じさせている。  栄介は道の反対側へあとずさりして、その石の塀の中の様子をうかがった。奥のほうにゆらゆらと揺れる柳の巨木が見えている。切れ目なく続いた石の塀の左右を眺めて栄介はじっと考えはじめた。  自分の記憶を疑うのはこの際無用のことだと思った。たしかにハイヤーで山岡と乗りつけたのだし、その道順は部長に教えられたのである。  ということは、部長も明らかにそこへ行ったことがあるのだ。  今日一度ここへ来たということを疑えば、部長が来たことも疑わねばならぬし、そうなれば山岡やハイヤーの運転手が一緒だったことも疑う必要がでてくる。  とどのつまりは自分が生きていること、この世界があることまで一応疑ってかからねばならない。  栄介は、自分がその切れ目のない石の塀の中へ、ハイヤーごと乗り入れたことを信じた。  とすると、今度は石の塀を疑わねばならない。  栄介は石の塀を疑った。  まず、自分たちがハイヤーで帰ってから、誰かがふさいでしまったことが考えられる。  栄介は塀のところへ戻って仔細《しさい》にその石の肌《はだ》を調べた。コンクリートではなく、石積みであった。多分江戸城の石積みの一部が残ったものだろう。このあたりにはそういう古く頑丈《がんじよう》な石積みがあちこちにあった。  三時間や四時間の応急工事でごまかせるしろものではなかった。  あきらめて、もう一度距離をとって眺めなおそうとした時、栄介はふと横道があった証拠を見たような気がした。  それは、道路の上に伸びている白線であった。  その道路には歩道がなかった。そのかわり、歩行者のために、道の両側に白線が引いてあった。  どこででも見かける白線なので気にも留めなかったが、たしかここらあたりに横道があったはずだと思われるあたりの白線が、他の部分よりうす黒くなっていたのである。  しゃがみこんでよく調べると、明らかに車のタイヤが、その白線をほぼ直角に踏んだ痕跡《こんせき》がある。だから、ちょうど車の幅で黒ずんだところが二か所に分れ、まん中はそこ以外の場所と同じ白さを保っている。  栄介は唸《うな》った。  一回や二回の跡ではないのだ。何台もの車が、かなりの期間そこへ出入りしていたと思わねばならない。  しかし、その白線をタイヤで踏んだ車は、バンパーを石積みの塀へぶつけてしまうことになる。栄介は決心した。車と同じように、塀へ体をぶつけて見ることにした。  人が見たら笑うにきまっていた。気が狂ったと思われるかも知れない。しかし、栄介は切迫した気持でその決心をした。  もし何も起らねば、ひどく愚かしいことをしたと、自分を笑いたくなるだろうが、やってみる値打ちはあった。  車が来て、そこを曲る光景が目に見えるようだった。その時石の塀はそこで切れていて、あの未舗装の道が空地まで続いているはずだった。  栄介は道幅いっぱいにあとずさり、白線がタイヤの痕《あと》で黒ずんだふたつの部分の間へまっすぐに狙《ねら》いをつけた。  道幅はそう広くはなかった。ちょうど石の塀にぶつかるまで、走り幅跳びの助走距離くらいの感じだった。  栄介は走った。走りながらひとつの答がひらめいた。  自分はあの廃屋めいた家へ、いま招かれずに行こうとしている。  それが栄介の得た答だった。部長も、この前の栄介たちや、そのほかここへタイヤの痕をつけた車の客たちは、みな招かれていたはずだった。  だから横道があった。招かれざる者には、その横道は存在しないのであろう。  栄介はその短い距離を全力疾走していた。しかし、彼の感覚は異様なまでに鋭くなっていて、いつもはさっと流れ去る時間が、そのさざ波のひとつひとつまで、はっきりと見わけられるようであった。  何かがそのような力を与えてくれているようであった。うしろから何者かが押してくれているような具合だった。  走りながら栄介は悟った。  この世界は、いままで自分が見て来た世界だけではなかったのだ。互いに重なり合い、からみ合って、いくつもの世界が同時に存在しているらしいのだ。  目の前に、その重なり合った世界同士の接点のひとつがあった。重々しい石積みの塀の中に、ふたつの世界をつなぐ窓がかくされていた。その窓で、時間は渦《うず》を巻きながら、奇妙な均衡を保っていた。  栄介は石の塀にぶつかって行った。  石の塀は栄介の体をしっとりとした感じで呑《の》みこんだ。栄介は墜落し、飛翔《ひしよう》し、そして転倒した。  風の音が聞こえた。乾燥し切った砂が手足の肌についた。風の音以外に物音はなく、視界は気が遠くなるほどひらけていた。 「砂……」  栄介はつぶやきながら起ちあがった。  地平線まで、ゆるい曲線がうねっていた。鋭角的なものは何ひとつなく、生きる者の姿も見えなかった。 「砂漠だ……」  そこは間違いなく砂漠の只中《ただなか》であった。ふり返って背後を見た栄介は、驚愕《きようがく》してよろめいた。  階段が天へ続いていた。  ひゅるひゅると鳴る風の音は、栄介の背後にある巨大な人工のものが大自然にさからっている音であった。  栄介は砂漠の只中にある、その巨大な人工の構築物の基部中央に立っていたのである。  階段が、目まいをもよおすほどの高さまで続いていた。全体はレンガを積み重ねてできており、栄介は今、その山のようなレンガの集積の最高部まで一直線に登る階段の下にいるのだ。 「ジッグラト……」  栄介は叫んだ。その声が風に吹きちぎられてたちまち消えた。  その巨大なレンガの構築物は、たしかにジッグラトであった。階段式のピラミッドである。ジッグラトの頂上には聖なる殿堂があり、階段はその神殿へ向っているのである。  栄介は美津子がとらわれている場所を悟った。頂上の神殿にいるにきまっていた。 「美津子……」  栄介はそう叫ぶと階段を駆け登った。しかし階段は長かった。栄介はもどかしい思いで登りつづけて行く。風が彼の背広の上着のすそをひるがえし、ネクタイをはためかせた。  階段を登るにつれ、敵が行手をさえぎろうとしているのが判った。  栄介は正面の大階段を登っているが、ジッグラトの第一層目のところに壮麗なアーチを持った門があり、大階段と直角に、左右からもその中央門へ階段が集まっている。  いまその左右の階段から、さまざまな凶器を手にした戦士が、一列になって登っている。三つの階段が交差する中央門で、栄介が戦士群と衝突するのは必至であった。  栄介はためらった。いったん立ちどまり、左右から駆け登って行く戦士たちを眺めた。半裸の男たちは逞《たくま》しい体を汗に光らせて一列に登って行く。青銅の兜《かぶと》をかぶり、斧《おの》や鉾《ほこ》、尖端《せんたん》が奇怪な形に枝分れした槍《やり》などを持っていた。  行けば死ぬ。  本能的にそう悟った。恐怖が栄介の心をしめつけた。  すると突然、あの石の塀に突進して行った時と同じ力が栄介の体を背後から押した。 「行け……」  声のない命令が聞こえた。 「行け、不死なるものよ」  栄介は勇気づけられた。  不死なるもの……。それが自分のことをさしているのははっきりしていた。  栄介は両腕をゆっくりと左右に水平にのばした。  思いがけず、自分の口から敵の神の名がほとばしるのを感じた。 「見よ、女神ニン・ガル……」  栄介は水平にした両腕を天へ向けた。轟然《ごうぜん》と雷鳴が起り、風が冷えた。冷えた風は闇《やみ》を運び、ジッグラトをおしつつんだ。稲妻が明滅し、細く鋭い電光が走って、敵の戦士を一人また一人と刺した。階段から転落する戦士たちの絶叫がつづいた。  栄介はゆっくりと大階段を登った。彼が天に向けた両手を振りおろし、指さすたび、電光が敵の戦士を滅ぼした。  戦士たちはたじろぎ、それでもしりぞかぬ者はことごとく電光に撃《う》たれて転落して行った。  栄介が敵をしりぞけて中央門に近づいたとき、急に雷鳴が弱まって来た。  中央門の下に、僧形《そうぎよう》の男が立っていた。  彼は左肩から寛衣をたらし、毛のない丸い頭を光らせ、両掌《りようて》を胸のあたりで組み合わせて静かに栄介を見おろしている。 「異国の神よ。何故《なにゆえ》に聖なる塔を犯すのか」 「ニン・ガルの神官か」 「今は風と虫の月。ニン・ガルの女神はこの季節にはここにおわさぬ」 「ではこのジッグラトに神はおらぬのか」 「おわす。月の女神ナンナがおわす」 「ナンナに会おう」  神官はうやうやしく頭をさげた。 「女神ナンナの意のままに」  闇が去りかけていた。しかしはじめの陽光はなく、青白い光がジッグラトを浮き上がらせている。  神官はくるりとうしろ向きになると、ゆっくりした足どりで登りはじめた。栄介はそのあとについて行く。  中央門から二層目までは短い距離しかなかった。三層目に築かれた神殿が見え、そのずっとうしろの空に、ひどく青い色の月が浮んでいた。  神官は最上層の神殿へ登る階段のところで、急に横へそれた。 「女神ナンナは異国の神に会われます」  そう言って神官は去って行った。  栄介は登った。登るにつれ、没薬《もつやく》の匂いに似たものが漂ってくる。 「ナンナよ」  神殿の入口で栄介は呼んだ。  暗い神殿の内部で何かが動いていた。 「ナンナよ、美津子をとり戻しに来た」  栄介の声は、レンガづくりの神殿の内部に反響した。  細い笛を吹くような声が答えた。 「娘を渡そう」 「ナンナか」 「娘を渡そう。入るがいい」  栄介は足を神殿の中へ二、三歩踏み入れた。とたんに何かが空を切って頭上へ襲いかかった。  栄介は自分でも信じられぬほどの素早さで体をかわした。咄嗟《とつさ》に振りおろされたものの根元へ手をのばし、掴《つか》んで引いた。  毛を失った猿《さる》のように醜怪な生きものが、栄介の力に引きとばされて外の青白い光の中へ走り出て行く。 「たばかる気か」  栄介は奪った武器を握り直して言った。  細長い体つきの女神が現われた。両眼が異様なまでに丸く大きく、そして底知れぬまでに無意味な光をたたえていた。これにくらべれば、蛙《かえる》の目のほうがよほど意味があった。  女神ナンナは言った。 「異国の者よ、鎮《しず》まるがいい」  栄介は笑った。自分が明らかにナンナより優位にあることが判っていた。背後の力はナンナよりはるかに強力で、それがゆとりをもたらしてくれている。 「鎮まるのはそちらではないのか」  しかし女神ナンナの恐るべき無表情さはかわらなかった。 「聞こう。なぜここへ来たのか」 「美津子を連れ去った者がいる」 「わたしではない」 「誰だろうとかまわぬ。美津子を返せばすむことだ」 「神々の争いに加わろうというのか」 「知らん。争いは好まぬ」 「ならば、なぜ鉾《ほこ》を棄《す》てぬ」  栄介は手にした武器を見た。使いこんで黒光りした堅い柄《え》の先に、柳の葉に似た形の鉾がついている。良質の青銅であった。 「これは俺のものではない」  栄介は銅鉾を持ったまま言う。 「襲われたのは俺のほうだぞ」  ナンナは大きな丸い目を向けて栄介をみつめた。栄介は一瞬その無表情な目に脳の中のものを吸いとられてしまいそうな気分になった。 「娘はここにいる。だが、わたしの一存では渡すことはできぬ」 「嘘をついたな」  栄介は銅鉾を女神につき出して言った。 「月の女神は嘘をつくのか。渡すと言ったぞ」 「それが嘘か」  女神は栄介がつき出した鉾が邪魔になるらしく、栄介の瞳《ひとみ》をとらえようと首を曲げている。 「月はすべての水に影をうつす。すべての海、すべての川、すべての沼、すべての露に、月の姿が映るのだ。わたしの嘘をなじるならば、水に映るすべての月を消してまわるがいい」  栄介は、女神ナンナの大きな目が、彼女の最大の武器であるらしいことを悟っていた。 「稲妻を招こうか」  栄介はそう言いながら鉾を細かく動かして女神の視線をさえぎった。女神の細長い首が、印度の踊り子の首のように左右に動いて銅鉾をよけ、栄介をみつめようとする。 「シュメールは滅ぶ」  栄介は銅鉾を動かしつづけて言った。 「大王ウル・ナンムもシュルギでは、砂にさえ勝てなかった。アッシリアに君臨し、スーサの王を兼ね得たとしても、シュメールは砂の中に滅びるのだ」 「なぜ判る」 「俺は見た。砂に埋もれ、朽ちはてたこのジッグラトを」 「嘘だ。それこそ嘘だ。ジッグラトは永遠だ」 「月さえも永遠ではない」  女神ナンナはたじろいだ。 「見たのか」 「人が月に立つのを見た。月に立って旗をかかげたぞ」 「嘘だ。嘘を言っているのだ」  女神ナンナは後退していった。 「美津子を返せ」  栄介は銅鉾をかざして女神ナンナに迫った。 「嘘だ。月へ人が立つはずがない」 「お前は月の女神だろう。それくらいのことを知らんのか」  女神はじりじりとあとずさって行く。しかし、その大きく丸い瞳は依然として無表情をきわめており、恐怖も策略も読みとることは不可能であった。  神殿には幾つかの神像が立っていた。或るものはエジプトの神イシスに似ていたし、或るものは明らかにバール神をかたどっていた。  そして、その神像群と向き合って、無数の更に小さな像が並べられていた。  或るものは立って手を胸にあて、或るものはひざまずき、或るものは床に、ひれふしていた。  神々の像の前に、それをあがめる人々の像がむらがっていたのである。  女神ナンナはあとずさりして、その神像のうしろへ入って行く。 「来るな。ここはイスタルの聖所なのだ」  女神は言った。 「美津子を返せ」 「わたしの一存では返せぬ。不思議な異国の神よ。月に人が立つほどの遠い彼方から翔《と》び来るほどの力を持つならば、行って神々になぜ会わぬ」 「誰に会うのだ」 「イシスに、セトに。そしてイスタルとシンとアル・マカーとシャマシュと……そうだ、バール・ハムマンとその妃《きさき》タニスとに」 「お前に美津子を預けたのはどの神だ」 「すべての神々だ」 「なぜだ。いや、それより美津子はどこにいる」 「異国の不思議な神よ。その前に尋ねたい。なぜここだと知ったのか」 「ただ知っただけだ」  栄介はそう言ったが、突然相手が自分の隙をつこうと、時間かせぎをしていることに気がついた。 「返せ……」  栄介は一気に突進した。女神ナンナを突き殺してもかまわない気だった。  女神は更に奥へ逃げた。ありとあらゆる神々の像を並べたレンガの壁の間を走った。  栄介は追った。音のない稲妻が暗い神殿を断続的に照らし出してくれた。  突き当たりは一面に浮彫りをほどこしたレンガの壁であった。浮彫り以外には何ひとつなく、湿りけを帯びた空気が澱《よど》んでいた。  女神ナンナはその壁へ浸みこんで行った。しだいに薄れ、遠のいて行く。  栄介は立ちどまった。壁の中央にことさら大きく浮きでた女の姿があった。レンガに浮彫りにされたその女の横顔は、まぎれもなく美津子のものであった。  雷鳴がとどろき、電光が裂けた。レンガの壁が灼熱《しやくねつ》し、白い蒸気がたちこめた。  栄介は蒸気の中で美津子の霊を見た。 支配者  レンガの壁にとじ込められた美津子の霊が、立ち昇る蒸気と共に解き放されていずこかへ翔《と》び去ったとき、栄介もその妖《あや》しい空間から脱出していた。  果して自力で脱出したのか、それとも何者かがそこから連れ出したのか、栄介は戻る瞬間疑問に思った。  戻った栄介は石の塀《へい》にもたれていた。ひどく疲れていた。石の塀に体をあずけ、今にも頽《くずお》れそうだった。  辛うじて体を支え、ふり向くと、すっかり暮れた闇《やみ》の奥へ道がつらなっていた。  どのくらいあの砂漠《さばく》にいたのか、時間の見当がつかなかった。当然のことながら、ジッグラトなどそこには影も形もなく、あの乾いた風さえ感じられない。右側にあるコンクリートの建物の窓のいくつかが、白い蛍光灯の光を放って来ていて、栄介がよりかかっている塀の向う側で、車が走りすぎる音がした。  何がどうなっているのか、栄介の知性はすっかり混乱してしまって、考えをまとめるすべもなかった。  しかし、混乱しているのは現代というこの世界で積み上げて来た常識と、それにともなう判断の手順であって、生理的な、と言っていいほど肌や臓器に密着した感じの或《あ》るものは、少しの混乱も起さずに今の体験を理解してくれていた。  その或るもの、とは、小ざかしい理屈や議論を超越した、言って見ればひどく即物的な感じのものであった。  ともすれば、今の奇妙な体験をあり得ぬこととして否定し去ろうとし、認めるにしてもまず自分の錯覚と考えたがる、いわゆる知性は、栄介の内部で対立するもう一方の或るものの前で、おどおどと、抗すべくもないものに対して小声でぶつぶつと言い続けているようであった。  その或るものとは、ふてぶてしい原始性であった。知性と対立させていうなら、たしかに原始性としか呼びようのないものであった。  たしかに栄介の五体は、砂漠の中にそびえたつジッグラトへ行って、女神ナンナと対決したことを記憶していた。  いかにあり得ぬことだろうと、それはたしかなことであった。そして、その原始性は、たしかに自分が体験したにもかかわらず、それを疑おうとしている知性があざわらっていた。  ではなぜ、どうやってそこへ行けたのか。  その問いに対する答は簡単|明瞭《めいりよう》であった。  はかり知れぬ力がそうさせた。……原始性はそう言い切る。はかり知れぬものははかり知れぬのである。それを問いつめたがる知性を、原始性はふたたびあざわらう。  栄介は自分にそのようなたくましいものがあったことにはじめて気付いた。未知なるものを未知なるものとしてまずうけいれてしまうたくましさ……。  栄介は自信を得てしゃっきりと背中をのばして立った。気付くと手に何かを堅く握りしめていた。  あの銅鉾《どうほこ》であった。  古代の銅製の鉾を、栄介はじっとみつめた。その鉾をかざして、月の女神ナンナを追いつめたのであった。  栄介の体がシュメールの砂漠から戻ったとき、その鉾もまた、この東京のどまん中へ来ていたのだ。  栄介は現代科学の姑息《こそく》な正体を見た気がした。どんな現代人も、それを信じまいと思った。古代から持ち帰った鉾を差しだせば、まず贋作《がんさく》と言うだろう。その年代測定をしようとすれば、すること自体が嘲罵《ちようば》の対象になる。  自分たちが実証しうること以外は、すべてあり得ぬことであり、否定してしまう。未知の世界に挑《いど》むと言いながら、それは自分たちが許した或る限定した範囲内でのことであり、一挙に未知の世界の奥深くに到達するものは、ことごとく否定し去って反省することがない。  中世暗黒の時代と同じことである。認められた神以外が起す奇蹟はすべて邪教異端の行いであり、否定されなければならない。あらゆる新しい可能性を奪い、それを糧《かて》に自分たちの地位を保全する。  栄介は鉾の柄《え》を塀に立てかけて、靴で蹴《け》り折った。長い武器を手にこの町を歩くことは許されなかったからである。ましてここは国会議事堂の近くだ。  突然、早くここを離れなければならないと感じた。解放された美津子の霊は、きっとその肉体へ戻っているはずであったが、それを確認して置きたかった。それに、ここは何か敵の臭《にお》いがたちこめている。  栄介は塀をとびこえて向う側へ戻ることにした。あとずさって助走の距離を作りだしていると、それがハイヤーで来た道であったことに気付いた。  ふり返って闇をすかすと、たしかにその先に例の空地があるようであった。そして、空地の奥にこんもりとした繁《しげ》みが揺れていた。あの柳の巨木であろう。廃屋はその先の闇にとざされて見えなかった。  栄介は塀に向き直ると走った。短くした鉾を持って厚い石の塀にとびつき、外の道へ顔をだした。人通りはなかった。  道へとびおり、上着の下へ鉾をかくして足早に高速道路のほうへ去って行った。  近くの公衆電話から、とりあえず美津子の無事を確かめた栄介が、タクシーを拾って美津子のアパートへ戻ると、山岡が怯えたような表情で迎えに出て来た。 「有難う。おかげで戻ったよ」  美津子はキッチンにいて、夕食の仕度をはじめていた。 「あなたは凄《すご》い力を持っているわね」  美津子が眩《まぶ》しそうに言う。 「でも、本当にそんな妙なところへ行って来たのか」  山岡は信じられないというように首を振った。美津子があの世界のことを憶えていて、山岡に話して聞かせたらしかった。 「土産《みやげ》を持って来たよ」  栄介は砂漠のジッグラトから持ち帰った鉾を山岡に渡して笑った。夕食のカレーの匂いが部屋にたちこめていた。 「どうしてそんなところへ行けたんだ」  カレーのスプーンをいじりながら、山岡が尋ねた。美津子の部屋で、三人の夕食がはじまっている。 「何度言ったら信じるんだい」  栄介は苦笑した。 「信じなくはない。たしかに君たちはシュメールのジッグラトへ行ったのさ。多分そこはウルだろう。ナンナはウルの女神だ。ウル・ナンムの記念碑というのがある。巨大な白い石灰石《せつかいせき》でできている記念碑だ。そこには、あの大洪水《だいこうずい》のあと、王が再び大地へ降り立って、世界を支配したと記されているそうだ。学者は紀元前二一〇〇年ごろの、王権に対する考え方の典型として挙げているよ。そのウル・ナンムの記念碑の中で、王が月の女神ナンナから、鞭《むち》と縄《なわ》を授かっている場面が描かれているんだ。鞭と縄は王権をあらわしているそうだよ」 「鞭は判る。民衆に対して王が用いる一番判りやすい道具だ。でも縄は何をあらわすんだ」  栄介はカレーを口へ運びながら言った。 「土木建築さ。日本でも縄張りという言い方があるだろう。縄は石工たちの一番重要な道具だったらしい」 「なるほどね。ジッグラト、ピラミッド、スフィンクス、オベリスク、そして城。みんな時の権力を誇示するものだな」 「その時代は、シュメールが一度西イラン山地のグティ族に滅ぼされたあと、また復興した時期なのさ。グティ族は野蛮な遊放民だったらしい」 「とにかく、西暦の紀元前二十世紀あたりのことなんだな」  栄介はその時の長さを噛《か》みしめるように言った。四千年の昔へ行って戻って来たばかりなのだ。 「ウルのジッグラトはその時代のものだ。それまで使われた泥レンガのかわりに、火で焼いたレンガが使われている。よく判らないが、最高神はイスタルではなかったかと思われる。女神イスタルに捧げられた神殿がいくつもあり、どれも最高級の建築をされているのさ」 「おかしいな」  栄介は首をかしげ、氷と水をいれた大きなグラスに手をのばした。 「なあに」  美津子が言った。栄介を頼っているような表情である。 「あの世界へ行っていたとき、俺はその時代のことをよく知っていたような気がするんだ。こうして山岡の話を聞いていると、とても妙な気がするのさ。はじめて聞くような、そうでないような……」 「何度も向う側へ行けば、全部思いだすわよ」  美津子は当たり前のことのように言った。栄介はその顔をみつめていた。 「あの砂漠の中のジッグラトへ何度も行けば、俺の知らないことまで思い出すというのかい」  栄介にそう尋ねられると、美津子は非難を受けたとでもいうように、ひどくむきになって答える。 「あそこばかりじゃないわ」 「ほう。すると俺は自分の霊の力で、もっといろいろな世界へ出入りできるというのかい」 「そうよ」 「なぜそんなことが判る。俺は今日はじめてこの世界をぬけ出す経験をしたばかりなんだぜ」 「私の経験からよ」 「君の……。君はそんなにいろいろな世界へ出入りしているのか」 「そうひんぱんにではないけれど、長い間にかなり経験したわ」  栄介は体をのりだし、テーブルの上の皿を横にどけて言った。 「どんなところだ」 「ホルスとハトールの時代のエジプト。オシリスとラーとプターの時代のエジプト。ムントとチェムとアムンの時代のエジプト」 「古代エジプトばかりなのか」 「いいえ、アッシリアへも行ったわ。あそこで私は空気《エアー》が古代の神の名であることを知ったの。エアーは空気と湿気の神よ。その妃に当たるダヴ・キナは地の神。月の神はウル・キ、日の神はウド、風の神はイム。エアーと人間のなかだちをするのはアマル・ウトゥキ。そして火炎はアッカド人の間で呪力《じゆりよく》の根源として使われていたの。女神イスタルはもうその世界へも入りこんでいたわ」  栄介はため息をついた。 「なぜ古代へ行くんだ。バビロニアやアッシリアへ、俺たち日本人がなぜ行かねばならないんだ」  美津子は微笑した。それは寛大な微笑で、古代の神像に浮ぶあの解し難いアルカイック・スマイルに似た感じであった。 「星の崇拝《すうはい》は、はじめのうちどこにもなかったのよ。ことに、セム族と呼ばれる人々の間にはね。それが非セム系の、バビロニアやアッシリアで生まれた占星術と、それにともなう呪術を吸収したの。星は学問になり、神になり、道徳になったのよ。星の崇拝が生まれてから、人間は塔をたてたがるようになったのね。階段式のピラミッド、つまり聖塔《ジツグラト》はそうしてできたのよ。バベルの塔もそのひとつなの」  栄介は疑わしげな表情になった。 「それが俺たちの霊のありようと関係があるのかい」 「あるかも知れないわ。これは私の推測で、まだたしかなことは言えないけれど」  美津子は椅子を立って壁かけ式の飾り棚のところへ行った。そこには、いつかパンサーという酒場で見たのと同じ形の土偶が置いてあった。 「そうか。それはバール神だ」  栄介はハッとしたように言った。  それまで二人の会話に耳を傾けながら思いに沈んでいた山岡が口をはさんだ。 「ふたつの問題に分けられるな」 「ふたつの問題……」  栄介はちょっと不満そうに山岡を見た。 「霊の問題だぜ」  栄介がそう言うと、山岡はゆっくりとかぶりを振った。 「美津子が言うことはこういうことだ。ひとつは霊がこの世界を脱出して他の世界へ行くと、なぜかこの世界では持っていなかった知識をよみがえらせるということさ」  無だった知識をよみがえらせるとはおかしな言い方だったが、たしかに実感としてそういうものがあったので、栄介は黙って山岡の口もとをみつめていた。 「岩井は多分ピラミッドくらいは知っていたはずだ。現代人としての常識のひとつだからな。しかし、階段式のピラミッドとなると、よく知っているという人間の数はぐんと少くなるだろう。それはもう、常識と言えば言えないこともないが、常識として絶対必要なものではないかも知れない。更にそれが、ジッグラトと呼ばれているということになると、完全に常識の枠《わく》の外へはみ出してしまっている。どんなに知ったかぶりをしたがる性質の人間でも、他人に教えられて、何の恥ずかしさも感じず、ああそうですかジッグラトというんですか、ですませられるんだ。岩井もその一人だ。階段式のピラミッドを見て、いきなりこれはジッグラトだなどとは思えないはずだった」  山岡は同意を求めるように、言葉を切って栄介をみつめた。栄介は黙って頷《うなず》いた。 「それを知っていた。はじめてパンサーでその土偶を見たとき、何だか判らなかった。それが今では、バールという神の像であることをよく知っている」 「そればかりじゃない」  栄介は美津子がテーブルの上へ置いたバール神の像を見つめながら言う。 「古いものらしいが、多分まがいものだろうと思っていたのさ。古代のものに似せて作った模造品だとね。ところが今では違うんだ。これは間違いなく本物だ。バールが人々の間で生きていた頃のものだ。俺は今、こいつがどこに飾られていたか、思いだしかけているような気さえしているんだよ」 「私が向うから持って帰ったものよ。あなたが銅の鉾を持ち帰ったようにね」  美津子は古代の女神像のような微笑を続けていた。 「君たちの霊が肉体を離れて遠い時代へ飛びこむ時、君たちはたしかに古代の知識をよみがえらせるんだ。それが問題のひとつだ」 「第二は」 「神々の列のことだ」 「列……」 「系統と言ってもよかろう。とにかく、これには神々が関係している。何かが君たちの霊を支配していて、神々の世界へ介入させているようだ」 「俺たちを支配しているものの正体は……」 「神々のどれかだ」  山岡は断言した。 「神々の間に何かが起っている。俺はそんな気がして仕様がないのさ」  山岡は左手で額の髪をかきあげた。 「いいか。霜田無仙は一方の勢力に支配されて、岩井を仲間にひきいれようとしている。その無仙の側は、どうやら美津子と対立する立場にあるらしい。美津子は何者かに支配されて、岩井のたすけをかりようとしている。美津子と無仙が、対立するふたつの勢力の、岩井に接触する窓口になっている。そう考えられないかい」 「いったい何が始まっているんだ。俺はその何かにまき込まれようとしているのか」 「ずっと以前からまき込まれているのかも知れない」 「だって」  栄介は迷惑そうに言った。 「君とは以前から知合いだが、彼女とはついきのうか今日の付合いだぜ」 「そうかな」 「そうかなって、ほかにどう考えたらいい」 「念写のフィルムがあるじゃないか」  栄介は返事につまった。 「あの一枚は、君が子供の頃から見続けて来た夢の場面の一枚なんだろう」 「そりゃ、たしかにそうだ」 「霊的な世界は、こちら側のようには動いていないはずだ。それは君がついさっき体験して来ただろう。時間と空間を一挙にとびこえて、四千年前の神々の世界へ入りこんで来た。そのジッグラトの頂上にある神殿には、ジッグラトが建設された頃から、美津子がレンガの壁に浮彫りとして封じ込まれていて、君がそれを解放してやったんだ」  山岡はニヤリとした。 「だがこちら側では、ここで念写のフィルムを見ている内に、美津子の入神《トランス》状態がはじまり、それを追って君が国会議事堂の近くまでとんで行ったんじゃないか」  山岡は美津子と栄介の顔を交互に眺めた。 「君らは、ここでは同じ時空連続体の中にいる。とじこめられている。それは君らばかりじゃない。俺も、世界中の人間も、とじこめられているんだ。肉体があるかぎり、ここからは出られない。現在が過去になり、新しい現在を迎える。時は未来から過去に流れ、我々は現在というただ一点で自己の変化をみつめているだけだ」  山岡は栄介を指さし、次に美津子を指さした。 「だが、生きながら肉体から霊を遊離させうる人間がここにいる。霊は時間の中をこの世界とは違うように行動できる。それがどんなやりかただか、俺は知らない。判りようもない。しかし、君らはやっている。いきなり必要な時点へ姿をあらわせる。アーリア人がまだ寒ざむとした小さな村にかたまっていた時間へも行けるし、まだ星を崇《あが》める人間がいなかった時間へも行ける。しかし、どうやら行くのは君たち自身の意志ではないらしい。君らはまだそこまでは行っていない。何かに支配され、支配者の代理として動かされているにすぎない。でも、それだけでも大したことだ」  山岡は心底うらやんでいるようであった。 「いったい、俺たちを誰があやつっているのだろう」  栄介は美津子の白い顔を眺めながら言った。 「誰だってかまわないわ」  美津子は微笑を浮かべていた。それは栄介にとって謎《なぞ》のような微笑であった。  寛大で慈愛に溢《あふ》れているように見えるが、その底には深い諦《あきら》めが澱《よど》んでいるようだ。その諦めに目を向けると、慈愛に見えたものはたちまち憐《あわ》れみに姿をかえてしまう。しかもその憐愍《れんびん》は彼女自身をも含んでいて、背筋が寒くなるほどの自己否定すら感じさせるのであった。  栄介は美津子のそうした表情をみつめ、その白い顔の部分が、見なれたこの三次元的空間にひらいた、虚の裂け目であるように思った。 「自分をあやつる者に関心がないのか」  山岡は不服そうな顔をした。 「関心がないわけじゃないわ」  美津子は気の毒そうな言い方をする。 「でも、それが誰であろうと、わたしたちとは水準がまるで違うのよ。さからいようがないじゃないの。犬に飼主を選ぶ権利があるかしら」  山岡はそれを聞いた瞬間、かっと顔に血をのぼらせたようであった。激昂《げつこう》して何か言いかけ、辛うじて自制した。自制の沈黙の中で山岡は何か巨大な壁のようなものを感じはじめたらしかった。紅潮した顔面からみるみる血の気が引いて行く。 「判ってもらえたようね」  美津子は済まなそうに低い声で言った。 「要するに……」  山岡は震え声で言う。 「知性も野性も、そして我々が心のどこかにとじこめている狂気をもひっくるめて、我々の生命ではどうにもならない高い水準の相手だというわけだな」 「それをまず認めてしまわないことには、この件に関して私たちは一歩も前進できないのよ」  山岡はくやしそうに言った。 「つまり相手は神か」  美津子は静かに頷く。 「そうなのよ。神なんだわ」  山岡は肩の力を急に抜いて、テーブルの上へ両肘《りようひじ》を突いた。ガタンと乱暴な音がした。 「何もすることはないじゃないか。でく人形のように、ぼんやりと出番を待っていればいい。死んだも同じことだ」 「そうかしら」  美津子は叱りつけるような言い方になった。 「でく人形のようにしていられるの。神のような力が介在していると判っても、何かせずにはいられないでしょう」 「それが業《ごう》というものだろう」  山岡はまるで子供が駄々《だだ》をこねているようだった。  その夜、山岡と美津子は夜遅くまで議論を続けていた。  栄介は二人の議論には加わらず、それに耳を傾けながら、何度となく自分が神々の世界から持ち帰った例の銅鉾を眺めていた。  帰るとき、美津子はそれを古新聞で幾重《いくえ》にもくるんでくれた。古代のものでも武器は武器である。夜更けでもあるし、そんなものをむき出しで持ち歩けば、警官に怪しまれるにきまっていた。  喋《しやべ》り疲れたらしい山岡は、美津子のアパートを出ると、白けたような顔で黙りこくっていた。  タクシーが拾える通りまでぶらぶら歩きながら、栄介が言った。 「たしかに俺はあやつられているようだ」  山岡の返事を期待していない栄介は、ひとりごとのように一語一語たしかめながら続ける。 「そして、俺をあやつっている者は、とほうもなく強い力を持っていると思う。たしかに彼女が言うように逆らい得ないほど強力だ。でも、あの犬と飼主のたとえは間違っていると思うな」  犬は飼主を選べない。その言葉がひっかかっていた。 「選ぼうとしないところに犬の限界がある。生物としての限界だ。人間に支配されてしまった理由がそこにある。でも、俺は犬じゃない」  山岡が口をひらいた。 「人間の誇りか」  あざけるような言い方であった。 「誇りかどうか知らない」  栄介は山岡がそういう態度に出るのを予想していたようだ。淡々と聞き流した。 「誇りでするのではなく、ごく自然に思うんだ。あやつっている神をよく知りたい。その神の力の秘密を知りたい、とね」 「犬だってそう思っているのかも知れん」 「犬のことはどうでもいいんだ」  栄介は穏やかに言った。 「明日になれば、また何かの動きが出るだろう。明日はなくてもあさっては……。つまり、いつものような毎日が続いて行くのさ。その中で精一杯俺は生きて行くはずだと思うんだ。今のところ、何者かが俺をあやつっているのがはっきりと判るが、今までだって同じようなもんだ」 「どう同じだ」 「死ぬのは判っていたろう。人間はみんないずれ死ぬ。それが判っていても、それなら何をしたって所詮《しよせん》同じことだと、漫然と死を待っていたかい。違うだろう。あやつられていると判っていても、俺は明日起こる出来事にたち向って行くよ。そうしなくてはいられないし、その中で自分をあやつる力の秘密をときあかそうと努力するはずだ。それ以外に生き方はないものな」  山岡は寒そうに肩をすくめていた。二人は表通りへ出て、疾走する車のライトを、切れぎれに浴びて立っていた。 「君の言うとおりだろうな」  タクシーに乗り込んでしばらくすると、山岡はそう言った。車は夜の町を疾走している。まず山岡を送ってから、栄介の家へまわる予定だった。 「俺だって、何もせずにはいられるわけがない。それはよく判っているのさ。ひょっとすると、例の運命論とか宿命論とかいうのは全く正しくて、人間は毎日きめられたコースを少しずつ歩いているものなのかも知れない。でも、俺たちにとって、明日はあくまでも自力できりひらくものとして見えている。それはそれでいいさ。でも、今度のことは少し別なんだ。えたいが知れなさすぎる。そうは思わないか」 「そりゃ、たしかにそう思う」 「いったい、なんでこの日本に、この日本人の君や美津子に、バール神だの女神ナンナだのという西のはての神々がかかわってくるんだ」 「面白いじゃないか」  その時、タクシーが急にスピードを落した。 「お客さん。検問らしいね」  運転手が言った。 「おやおや、営業車もかい」  栄介は前を眺め、意外そうに言う。飲酒運転や無免許運転の取締りにはよく会うが、タクシーやハイヤーまで停めるのは珍しかった。  車は警官が振る赤いライトに従って、ゆっくりと道路の脇《わき》へ寄った。 「何かあったんですか」  運転手が左側の窓をあけて面倒臭そうに言った。  警官がうしろの席にいる二人をのぞき込んだ。もう一人の警官が、運転手に二人をのせた場所を尋ねている。 「その包みは何ですか」  窓から二人をのぞき込んでいた警官が言い、運転手にドアをあけさせた。  栄介は山岡と顔を見合せ、黙って美津子がくるんでくれた新聞紙の包みをさしだした。 「あけていいですか」  警官はそう断わったが、断わる前にもうガサガサとあけはじめていた。緊張した様子であった。 「ちょっと事件がありましてね」  どうやら、それは非常線のようであった。タクシーに乗った二人づれ、というのが彼らの求めている相手らしく、自家用車などはスイスイ通りすぎて行く。 「何ですか、これは」  警官が包みをひらくやいなや、とげのある声で言った。 「古代の鉾《ほこ》ですよ」 「鉾……。武器だね」 「武器と言ったって、何千年も前のものですよ」  運転手が嘆くように言った。 「困るなあ、こんなとこで時間をとられるんじゃ……」  長びきそうな気配を察したのであろう。 「君たち、身分証のようなものを持っているかね」  その警官はタクシーのドアを片手でおさえ、腰をかがめて言った。  もう一方の手に栄介が渡した鉾を持ち、まるでそれが爆発物でもあるかのように、ひどく慎重な態度でそっと体を起すと、うしろに立っているもう一人の警官にさしだした。 「ありますよ」  栄介と山岡は同時に答え、内ポケットへ手をいれた。  それを見て警官の手が反射的に腰の拳銃《けんじゆう》へ伸びる。 「武器なんか持ってないよ」  山岡が苦笑した。 「定期入れに身分証明がいれてあるんです」  栄介はゆっくりと内ポケットから名刺入れ兼用の定期入れをとりだして見せた。 「まったく参っちゃうなあ。ねえお客さん、時間がかかるなら降りてもらえませんかね」  運転手がいやらしい声で言った。 「稼《かせ》ぎどきなんですよ」  山岡は憤然としたように、 「いいよ、降りてやろうじゃないか」  と栄介の体を奥から押した。  栄介は仕方なくメーターを見て金を払った。  警官は二人と運転手のやりとりにはいっさい介入して来なかった。 「なんでこんな物を持ち歩いているのかね」  鉾を手にした警官が言った。 「僕らは古代史を研究しているんだ」  山岡が言う。 「ほう、学生かね」  警官の言い方にはからかうような響きがあった。タクシーがドアをしめて一気に走り去った。  あとは暗い街路。通りすぎる車のライトが、道ばたの四人を断続的に照しだしている。 「学校はとうに卒業しましたよ」  二人の定期入れを持った警官が言う。 「すると学者か」 「ただのサラリーマンです」  栄介が丁寧に答える。山岡は腹をたてていて喧嘩《けんか》ごしなので、その分だけ栄介のほうは冷静でいられた。 「おかしいじゃないか。それでなぜ古代史の研究なんかしてると言うんだ」 「いけないか。アマチュアは研究してはいけないのか」 「ああそう。アマチュアね」  まるで子供をあやすような言い方をしている。山岡がカッカとするのも無理はない感じであった。 「とにかく深夜にこういう兇器を持ち歩くのは……」 「これが兇器かね、銅鉾だぜ」 「銅かね、これは」  警官ははじめて気が付いたらしく、顔を見合せた。 「そうだ、銅でできているんだ。はじめからそう言ったろう。これは古代の銅鉾なんだ」  二人の警官がたじろいだのを悟って、山岡は居丈高に言う。 「銅鉾、銅鐸《どうたく》。聞いたことがないのかい。学校で教わったはずだぜ。古代の祭祀《さいし》に用いられたんだ。その辺の家を叩き起せば学生の一人や二人いるだろう。教科書を見せてもらうんだな。どの教科書にも書いてあるぜ」 「銅鐸というのは憶えているな」  鉾を持った警官が自信なさそうに言った。 「銅だから人を殺せんというわけはない」  もう一人が居直ったように声を高めた。 「人を殺す」  山岡の声がそれ以上に高くなった。 「俺たちに殺人のうたがいがかかっているんだな」 「そういうわけじゃない」 「だって今そう言ったろう。だが、殺す気になればアイスピックだってやれるぜ」 「アイスピックは本来兇器として作られたものではない」 「おかしな言い方だな。兇器というのは兇行に使われた道具ということじゃないのか」 「訂正する。アイスピックは本来武器として作られたものではない。これならいいだろう」 「違ってるね。それじゃこれは武器だというのかい」 「武器じゃないか。立派な武器だよ」 「だから教科書を見ろと言ったじゃないか。日本史の教科書に銅鉾が武器だと書いてあったかどうか、調べて見ればいいんだ」  警官と山岡は睨み合っていた。  栄介は山岡が咄嗟《とつさ》にその銅鉾を日本史に登場する銅鉾だというようにすりかえてしまった頭の回転のよさに舌をまいていた。  ウルのジッグラトから持ってきたと言ったら、話はまるでややこしくなるにきまっていた。  それに、たしかにそれは古代の銅鉾であって、たいていの人間には古代日本のものだと言われても反論する余地がないはずであった。 「どうするんだい。銅鐸や銅鉾が何かの祭祀に使われた道具だということは、どの本にも書いてあるはずだぜ。武器として作られたというのは、恐らく君らの新説になると思うんだがね」  山岡は少し得意になっていたようであった。  しかし、栄介はその言い争いのそと側で、別なことに気がついていた。  その二人の警官は、もう車をとめようとはしないのだ。もっと大勢いるように見えた警官は、実はその二人だけで、車は四人の立っている場所をスイスイ通りすぎていたのだった。 「とにかくここでは何だから派出所まで来てもらえないか」  警官がとうとう下手に出た。声をやわらげ、山岡をなだめるように言う。 「行ってやるよ、どこへだって」  山岡は気負い込んでいる。 「じゃあ、すまないが」  一人が先に立ち、もう一人が栄介と山岡の横に並んで歩きだした。  先頭の警官が道の左右をたしかめ、三人がそのあとにつづいて車道を横切る。  あまり広くない道が、その通りと直角にまじわっていて、警官はどんどんその静かな通りの奥へ入って行った。  一度左へ曲ると、道幅はいっそうせまくなり、うす暗くなった。  栄介は交番へ近道をしているのかと思っていた。  だが、二度目に右へ曲ったとき、山岡が鋭い声をだして立ちどまった。 「いったいどこへ連れて行く気だい」  前の警官がふり向いた。 「派出所さ」 「こんなほうに交番があるのか」  両側は高い石の塀で、街灯もなく、ただ前方にぼんやりと白っぽい光が見えていた。 「何を言っているんだね。さあ行こう」  もう一人の警官がそう言って歩きだしたので、栄介と山岡はつられて一緒にまた歩きだした。 「何かおかしいな。あんたがた、本物の警官かい」 「本物だよ、見れば判るだろう」 「とにかく、交番へ着くまで、僕らのものは一応返してもらおうか」 「人を信用しないんだな」  警官は苦笑しながら二人に定期入れを渡した。 「そいつもだ」  山岡は明らかにいやがらせで言っていた。 「これは駄目だよ」  銅鉾を持った警官が言った。 「いったい何のために車をとめていたんだい」  栄介が静かな声で言った。 「え……」  二人の警官と山岡が同時に栄介を見た。 「山岡、気をつけろよ」  栄介は急に山岡を道の端へ押しつけて言った。二人は高い石塀を背にした。 「いったい何だというんだ」  山岡が警官に対して身がまえながら言う。 「こいつら、たった三台しか車をとめなかったらしい。前の二台はすぐ行かせてしまった。俺たちの車をとめるための見せかけさ」  栄介はそう言いながら、二人の警官をじっと観察した。  警官たちの態度に異常が現われていた。  棒のように突っ立ったまま、放心状態に陥っているようであった。 「いったいどうなっているんだ」  山岡が二人の警官をみつめてつぶやいた。 「はじまったんだ」  栄介は焦燥感に駆られて叫んだ。 「何がはじまったと言うんだ」 「あれだ。あれがはじまったんだ」  栄介は叱りつけるように言い、山岡の腕を掴《つか》んで走りだそうとした。警官たちはぼんやりと突っ立っているだけで何も反応しなかった。 「ちょっと待ってくれ」  山岡は栄介の手をふりほどき、及び腰で鉾を持った警官に近づくと、さっと鉾を奪い取った。 「逃げろ」  今度は山岡が言った。二人は夢中で走り出した。高い石塀にはさまれた狭い横丁に、二人の靴音が反響していた。 「あ……」  その横丁を出たとたん、二人はたたらを踏んでとまった。  軽い水音をたてて、闇の中に幅三メートルほどの浅い流れが行手をさえぎっていた。  角を曲っても住宅街のつづき……そう思っていた栄介は、足もとの水面をみつめて痺《しび》れるような戦慄《せんりつ》を味わった。 「川……」  山岡は唖然として言った。  栄介は気を鎮めながら、ゆっくりとあたりを見まわした。  その川は暗い森を縫って流れているようだった。 「異次元へ誘い込まれた」  栄介はささやくように言う。 「まさか。俺が一緒だぜ」  山岡は気味悪そうにあたりを眺め、栄介と一緒にふり返った。  背後に細く白い道が続いていた。その道は小さな丘へ続き、その背後になだらかな山なみがあった。 「いけねえ」  山岡は低く叫んだ。 「でも俺は霊能力なんてないんだ」 「あの警官だって同じことだろう」 「いったいどこなんだろう」 「判らない。引っ返して見るか」  二人が川に背を向けたとき、どこかで木の枝をかきわけるような葉ずれの音がした。  二人は凍りついたように動きをとめた。 「石をつたって来るのです」  女の声であった。  二人は同時にふり向いて川の向う岸を見た。白いものが動いていた。 「石をつたって来るのです」  その声がもう一度言った。  二人は川面《かわも》をすかして見た。  点々と岩がつらなって向う側へ渡れるようであった。 「行くぞ」  栄介は山岡に同意を求めた。 「ん……うん」  山岡は決断しかねているようである。栄介は慎重に闇をすかして岩から岩へ渡りはじめた。山岡があわててそのあとへ続いた。  何の木とも定かでない巨木の下に、純白の寛衣をまとった女が立っていた。 「鉾を」  女は片手を山岡のほうへさしのべた。山岡はおずおずとそれを渡す。 「あなたは誰です」 「日の神と婚《まぐわ》う者」 「日の神」  二人が同時に叫んだ。 「するとここは」 「山人《やまと》の日の国」 「僕らを呼び寄せたのはあなたですか」  白衣の女は静かに頷き、立ち去ろうとした。 「待って下さい。ここは大和《やまと》なのですね」 「山人《やまと》の日の国」  女はさっきと全く同じ調子で言った。 「あなたが僕や美津子を動かしているのですか」  栄介は大声でそう言った。しかし女は立ちどまる様子は見せず、川の中の飛石に続く細い道を浮くように去って行く。 「待って下さい」  山岡と栄介が小走りに追った。しかし、女と二人の距離はひろがるばかりであった。  不思議な道であった。走っても走っても女は遠のき、やがて丘のかげにかくれて見えなくなった。  ふと気付くと二人は最初にいた川の向う岸に戻っており、乳色の膜のようなものに包み込まれはじめていた。 「ヤマトのヒの国と言ったな」  山岡が息を切らせて言う。 「しっ……」  栄介がそれを制止した。 「何か聞えるぞ」  川のせせらぎのほかに何も聞えないはずだったが、耳を澄ますと水音にまじって何か唸るような音が聞えていた。  二人は川岸に立って、あの女がいた辺りを眺めた。 「この俺まで捲き込まれるとはどういうわけだろう」  山岡が言った。 「あ……」  耳を澄ませていた栄介が愕《おどろ》いてうしろをふり返った。すぐそばに街灯があり、あの高い石塀にはさまれた、狭い横丁がその先に口をあけていた。  唸るような音は、さっきタクシーで通りがかったあたりの道路から聞える車の音であった。 「帰った……」  栄介は腕時計を見た。時間は二分も経過してはいなかった。  山岡は首を振り、わざとらしく目をしばたいて見せた。 「こんな具合に起るのか」 「そうだ」  栄介はあの石の塀をのり越えた時のことをなまなましく思い出していた。 「この世界は均質でなめらかに続いているとばかり思っていたよ」  山岡はうしろをふり返って言った。 「美津子の影響で、霊の世界のことについては人よりよく知っているつもりだった。しかし、考えていたのと全然違う。俺はなんにも知らなかったんだ」 「経験して見なければ判らないさ」  栄介は励ますように言う。 「この世界は至るところに亀裂《きれつ》があるらしい。さもなくば、我々よりもっと高度な者にとって、自由自在に出入りできるものなのだ」 「だが俺たちはとじ込められている。他の次元、他の世界のことについて何も知らないんだな」  栄介は山岡の肩に手を置いた。 「行こう。多分この場所は、もう何の意味もなくなっているんだ」  二人は暗い道を歩きはじめた。 「なあ岩井。俺たちは今、何をしたんだい」 「さあね」 「あれは誰だったんだろう」 「山人《やまと》の日の神に仕える者と言っていた」 「おかしいな。大和というようには聞えなかった。ヤマトと言われれば、俺たちは大きい和と書く大和を思うはずだ。あるいはヤマタイの邪馬台を考えるか、倭人《わじん》の倭《やまと》だ。でも、あの女性がヤマトと言ったとき、はっきり山の人と書くヤマトだと判った。なぜだろう」 「一種のテレパシーなんだろう。俺がウルのジッグラトへ行ったときもそうだった。言葉が違うはずなのに、お互いに問題なく通じていた」 「霊の力か。人間は手で道具を作るが、太い木は折ったり曲げたりできない。言葉を使うが、それも同じように複雑なことについては、うまく意志を通じさせられない。その為にいろいろな知恵を使うのだが、霊による会話なら、いきなり心から心へ話しかけることができるんだろう」 「かも知れない。それよりも、あの銅鉾はどうしたろう。あの女性が持って行ってしまったが」 「日本の古代には祭祀の道具として銅鉾があるじゃないか。彼女には必要だったんだろう。日の神に仕える巫女《みこ》らしいからな」  栄介はあっと言って足をとめた。 「どうした」  山岡が尋ねた。目の前を車が流れ去っている。警官にタクシーをとめられた場所へ戻っていた。 「もしや卑弥呼《ひみこ》では」 「え……」  山岡は目を剥《む》いた。 「卑弥呼か」 「その可能性はある」 「俺たちは卑弥呼に会ったというのか」  山岡は唸った。 「俺は卑弥呼というのはただ一人の人物に対して与えられた名ではないと思っている。古代社会で神々とコンタクトしたシャーマン全体に対する呼称ではないかと思うのだ。或る時、政治的な理由から一人の傑出した巫女がその呼び名を独占したことぐらいはあるかも知れない。或いはシャーマンに階位のようなものが生まれ、その最高位の称号になったかも知れない。しかしもとは複数であったような気がする。魏志倭人伝に記載された卑弥呼だけの呼称だとは考えにくいんだ」 「それはいい。どうでもいいんだ」  栄介は山岡のお喋《しやべ》りを封ずるように、きつい言い方をする。 「俺にとっては、もっと重大なことがある」 「なんだ」 「あの巫女を見たろう。白い衣を着ていた。いわゆる貫頭衣と言う奴に似ていた」 「いや」  山岡が反論した。 「あれは貫頭衣じゃなかった。ギリシャなどにあった寛衣《キトン》という奴に近い。一方の肩が出ていたもの」 「まあ、それはあとでゆっくり教えてもらうよ」 「では何に気がついたんだ」 「白い衣さ。裾《すそ》が引きずるほど長かったじゃないか」 「それがどうした」 「俺が子供の頃……いや、俺の記憶の隅にあって、子供の頃から時々夢に見て来たあの揺れる白い裳裾は、あれじゃなかっただろうか」 「例の美津子の念写にあったあれか」 「うん」 「なるほど、そう言われればそうかも知れないな」 「俺はその揺れる裳裾の主を、自分の母親だと感じ続けている。今もだよ。そして、揺れていた場所がどこかの神域であったこともだ」 「あ。すると……」 「そうだ。俺の母は、いや、俺が感じ続けて来た母に、卑弥呼の可能性が出て来る」  二人はぼんやりと流れ去る車の灯《あか》りを眺めていた。  タクシーはよく通るのだが時間が悪く、ほとんど客を乗せていた。空車も来ることは来たが、みな乱暴に走りすぎて山岡や栄介のあげた手には見て見ぬふりをしているようであった。 「歩こう」  栄介はあきらめて言った。 「なあ岩井」  山岡が並んで歩きだしながら言う。 「なんだい」 「明日からどうする」 「どうするって」 「会社さ。東洋神秘教団に接触してみたいから、お前は勤めをやめずにいるんだろう」 「まあそうだよ」 「ところが、霜田無仙は君や美津子に何かの下心があって、事がそう運ぶように画策していた。その事はもうはっきりしたはずじゃないか。無仙たちがどうやら我々の敵であるらしいことも……」  山岡は煙草をとりだして火をつけた。闇の中をその煙が白い風となって飛び去る。 「そうだなあ。どうしよう」  栄介は逆に山岡に問いかけた。 「少くとも君はもうあの会社へ行く意味はないんじゃないかな」 「そうも考えられる」  栄介はニヤリと笑った。少し照れ臭そうであった。 「金はあるしな」  一千万円が、まだほとんど手つかずで残っていた。 「証拠は何もない。具体的には何も判らないと同じだ。しかし、あの宝くじの一千万円が、何か今度のことに関連して俺に与えられたことは勘で判るんだ」 「霊の世界での神々の葛藤《かつとう》の余波だな」 「うん。そう考えてみると、あの一千万円は俺が会社をやめて何か霊の世界のことに没頭するために用意されたのかも知れない」 「それなら、会社をやめるほうがいいんじゃないか」 「そう簡単に言うな」 「なぜだ」 「それじゃまるで操られっぱなしじゃないか。いくら俺がでくの棒でも、そして俺の支配者がたとえあの卑弥呼であっても、もう少し自分の主体性というものを持っていたいじゃないか」 「気持は判るな」 「無仙が敵だというのも、そう感じるだけであって、強い根拠があるわけじゃない。俺はもう少しあの爺さんに接触してみたいんだ」 「そうか」  山岡はほっとしたように言う。 「実は俺も同じ気がしているのさ。こんな奇妙なことは一生に一度の経験だろう。いや、それ以上だな。だから、どっぷり首までつかって見たかったんだ。掻きまわして、もつれさせて、それで万一死ぬようなことがあっても文句は言わない気になっている」  その時、前方の物かげから一人の男がよろめきだして来た。  なんということなしに、栄介と山岡はその人影に対して警戒した。  今日は奇怪な出来ごとの連続だったので、あらゆるものが怪しく思えていたのだ。  人影はよろよろと二人のほうに向って来たが、やがて痩《や》せ枯れた街路樹によりかかってしまった。  二人は用心しながら近づいて行った。 「これはこれは、卑弥呼にお仕えのおふたりさま」  霜田無仙であった。しかも酔っているようであった。 「なんでこんなところにいるんです」  山岡が言った。 「今日は散々な日だった」  無仙は自嘲するように言った。 「散々な日だったよ」 「そうですか」 「そうですか……。おい、そうですかだと。ふん、笑わせるな。儂《わし》の仕事をめちゃめちゃにしてしまったくせに」 「あなたの仕事……。なんです、それは」  栄介が尋ねた。 「君を我々の味方につけることさ」 「あなたの味方ですって。霜田さん、僕らはまだ中立ですよ。どっちの味方ともきめてはいないんです」 「そんなことを言ったって……」  無仙は口惜しそうに言った。 「誘いをかけても来てはくれんじゃないか」 「あの妙な幻覚が誘いですか」 「君は入って来てくれなかった。あの奥には、君を待っている神々がいた」 「バール、イスタル、シン、ナンナ……」 「そうだ。古い古い神々だ」 「でも、日本の神じゃない」 「馬鹿者め。なんという愚劣な考えだ。日本などという国はかりそめのものだ。それこそ幻影でしかない」 「あなたはなぜ西欧の神々を奉じるのです」 「西欧……」  無仙は目を丸くした。 「あそこが西欧か。とんでもない勘違いをしているな」 「まあ、極東、中東などということの詮索《せんさく》はあとにしましょう」 「君は来てくれなかった。そして、逆にウルへ乗り込んで行った。ナンナを追いつめ、折角とらえたあの女を連れ戻してしまったのだ。おまけに武器を奪って行った。そして卑弥呼に渡してしまった」 「あの銅鉾はどういう意味があるんですか」 「意味だと。武器に意味などあるか。武器は武器だ。奴らは今後あの武器を用いて我々に対抗するだろう。とんでもないことをしてくれたものだ」  山岡が口をはさんだ。 「いったいどんなことで神々は争っているのです」  無仙は疲れたように右手を振った。 「行け、愚か者め」  とりつくしまもない態度であった。 「所詮、霜田無仙も神々に操られる者の一人に過ぎない」  栄介は暗い道を歩きだしながら低い声で言った。 「俺たちもそうだ」  山岡はやけくそ気味であった。 「見てみろ。この体を。小さく、貧弱で、とるに足りない存在だ。この夜空に瞬《またた》く星のことを考えれば、誰だって自分がごみのような存在であることを感じずにはいられまい。だが、あの星は……」  山岡はそう言って夜空の一角を指さす。 「気が遠くなるほどの彼方で光っている。だから俺たち人間は、自分の卑小さを忘れてしまえる。星が途方もなく遠いことを理由に、自分たちと宇宙を比較することをやめてしまうことができる」  そこで山岡は、少し昂《たかま》り気味だった声の調子を改めた。 「なあ岩井」 「なんだ」 「俺たちは不幸だと思わないか」 「俺たち……」  栄介はいぶかしげに山岡を見た。 「ことに君だ。君と美津子、そして俺さ」 「どうして」 「そうだ。あの霜田無仙も憐れな存在さ。だってそうだろう。今言ったように、人間は星が遠くにありすぎるということで、自分の卑小さから目をそらすことができた。人間同士の愛が全宇宙よりも貴いとか、人命はこの地球という星より重いとか、自分たち本位の勝手な理屈をこねて満足してくれた。だが、人間なんて、所詮この地球という星に生まれたカビみたいなもんだ。人間の命だけが貴くて、犬や猫や牛や馬の命が、いや、鳥や虫や草木の命がとるに足らないものだなんて、勝手な理屈をいくら考えたところで、結局みんなおんなじなのさ。カビだよ、俺たちは。星にへばりついたカビなんだ」 「急にペシミスティックになったな」  栄介は励ますように笑ってみせた。しかし山岡は冷たい自己放棄の表情を崩さなかった。 「遠い星だけが、途方もなく広大な宇宙だけが俺の無力さを知る手がかりならまだ救われる。世間の連中がそうだ。みんなそれで救われて、なんとなく尊大に、誇りを持って生きて行ってるじゃないか。でも、君や俺や美津子は、あの遠い星のほかに、俺たちの無力さを知る手がかりを与えられてしまった」 「さっきのことを言っているのか」 「そうさ。霊の世界さ。必要なら、そこの住人である神々は自由自在に俺たちを操り、この俺たちの、俺たちが確固不動のものだと思い込んでいる世界へするりと割り込んで来てしまう。ここは彼らの領域の一部だ。星にへばりついたカビを、思いのままにつまみあげ、別な所へ移して自分の為に役立てる巨人がいるんだ。連中に役立つこと以外、俺たちには何の存在理由もないんだ」 「俺たちは、巨人のペニシリンというわけか」  栄介は山岡の気分を奮いたたせようと、ことさら大きな声で笑った。 「なあ山岡」 「なんだ」  二人の靴音が暗い道に響いている。  もう二人とも家へ帰るのが目的で歩いているのではなくなっていた。  明日をどう生きるか。神々に何の為に操られるか、その答えを欲して無意識に足を動かしているだけであった。 「たしかに人間は地球に発生したカビのようなものだ。先を辿《たど》ればサルからネズミ、そして魚から結局は植物のような生命形態に落ち着いてしまう、本当にしがない生き物だ」 「そうさ」 「でも、それを考えたとき、どうして今の君のように意気消沈してしまわなければいけないんだ」 「え……」  山岡は意表を衝《つ》かれたように栄介をみつめる。 「どうしてって……」 「思いあがっていたからじゃないのかな」 「そうかな」 「少くとも、精神という特別なもの、知恵とか魂というもの……そういうものを持っていることを誇りにしていたからだと思うな」 「たしかにそう言えばそうだ。愚かな思いあがりを、現実へぐしゃりと叩きつけられて……」 「違う」  栄介は明快に言った。 「その誇りは正しい。思いあがりではないのさ」 「どうしてだ」 「自分が単細胞の生命活動から出発していることを認めればいいんだ。ネズミやサルの形態を経て今日に至ったことを認めてみろよ。それは大変な進化だ。あの星と同じくらい偉大な存在だ。ただ、自分の経て来た道から目をそらし、はじめから仲間である他の地球上の生命を蔑視《べつし》すれば、星や宇宙の大きさの前でギャフンと言わなければならなくなる」 「気休めじゃないのか。ひとつの論法にすぎないような気がするな」 「少くとも俺は希望を持っている。なぜなら、俺たちはまだ前進を続けるはずだからだ。これが進化の行きどまりではない。その証拠に、バールやナンナやイスタルの世界がある。たしかに俺たちはどの神かに支配されている。操られてもいるだろう。だが、神々が俺たちを必要としているからこそ、俺たちは操られるのだ。神々はまず俺に宝くじを当てさせた。多分それで俗世のしがらみから一時解き放ち、俺に何かをさせようとしたのだろう。ところが、俺をそうさせまいとする別な勢力が現れたらしい。その為、この世界へ何度も神々の次元が割り込んで来ているのさ。俺たちは利用価値があるんだ。霊か生命かは知らない。とにかく更に上位の存在である神々が、俺たちの力を欲しがっている。俺は俺を支配する者の顔を見たい。そして、今度のことの真相をつきとめたいのだ。多分それで俺たちはもう一歩前進できるだろう」  栄介は自分に言いきかせるように、ゆっくりと喋っていた。  卑弥呼  栄介は睡《ねむ》っていた。  おや、またこれを見ている……。睡りの中で栄介はそう思った。  軽い風が感じられた。自分がひどく気負った気分でいることが判った。  その気負いは、ひどく幼いもので、遠足の日のときめきと似ていた。  場所は見知らぬところであった。白茶けて、しかも堅く清潔な土を踏んでいた。  ここは神社だ。  栄介は慣れた感覚でそう思った。それは幼い頃から何回となく見なれた夢であった。  左手の感覚が漠然《ばくぜん》としていた。たしかに左手を誰かに引かれているのだが、相手の肌《はだ》の感触がまるでなかった。  手を引いている者は、かろやかに歩いていた。シュ、シュ……という衣《きぬ》ずれの音が鮮やかに聞えている。  母……。またそう直感していた。  今までに何度それを感じただろう。たしかに栄介は母に手を引かれているに違いなかった。  見なれた夢の中で、ふしぎなことに栄介はすっかり醒《さ》めていた。  今夜こそこの夢をもっとはっきりさせてやろう。そう決心していた。  夢の中で、その夢を実験の材料のように冷静に観察するのは、実に奇妙な気分であった。まるで人格が二つにも三つにも分裂しているようなのだ。  一人の栄介は睡っている。もう一人の栄介はまだ幼く、過去の中にいる。そして睡っているはずの自分自身から、夢の中で三人目の栄介が起《た》ちあがり、その夢をことこまかに観察しようというのであった。  はじめのうち、観察者の栄介は、ともすれば幼い栄介の左手の感覚のように、漠《ばく》とした世界へ溶け込んでしまいそうになった。  観察者は必死でそれに抵抗した。覚醒《かくせい》していなければならない。しかし、無理に醒めようとすると、睡っている自己の本体までを醒ますことになりそうであった。本体が醒めれば観察者も消える。過去の自分も消えてしまう。  観察者は自分を溶かし込む漠としたものをまずみつめた。いったいそれは何なのだろうかと……。  ふと気づくと、それは自分の瞼《まぶた》であることが判った。霧のようにとらえどころのない漠とした怪物に変形していたが、たしかにそれは栄介の瞼の内側の闇《やみ》であった。  黒でもなく、灰色でもない。すべてを放棄して脊髄《せきずい》の中へ引きこもってしまいたくなるような、原始的な怪物であった。  その、夜のとばりのような怪物のすき間からほんの少し光が射《さ》し込んでいて、その光の筋がどこかへ細くつながっていた。  栄介はふり返った。夢の中で、おのれ自身の脳へ目を転じたのであった。  なんと、そこには空漠とした平原がひろがっていた。  空は古い血痕《けつこん》のように、汚らしく黒ずんだ色をしていた。しかもそれは巨大なドームであった。  日頃《ひごろ》見なれた空が、深く柔かい平面を感じさせるのにくらべると、それは浅く堅い円天井であった。  そして、その下に、空の堅さとはくらべものにならぬほど柔かく、しなやかな感じの薄桃色の平原がひろがっているのである。  しめた。  栄介はその薄桃色の平原の入口に立って汚らしい円天井をみあげながらそう思った。  そこは自分自身の未知の世界であった。  背後には、ムービー・フィルムをエンドレスにして映写したように、あの記憶の断片が際限もなくくり返され、それを瞼の怪物がおしつつもうとしているのである。  振り返ってはいけない。  栄介はそう思い、振り返れぬという理由だけで、その未知の世界へ進みはじめた。 「えいすけ……。えいすけ……」  遠いくせに、耳のすぐそばの感じで女の湿った声がしていた。  幼い頃、発熱した頭脳が記憶した母の呼び声らしかった。  その場所を通りすぎると、足もとから次第に桃色の温気《うんき》が湧《わ》きあがり、高くドス黒いドームから、厚さの全くない、平らな板状のものが平原の彼方《かなた》へ降りて来た。  それは、言ってみれば曲面のないオーロラとでも表現できようか。同一の平面上に大小さまざまな渦《うず》が巻き、相互にゆっくりと運動していた。  そして、その渦を巻く平面は、栄介に近づき、遠のき、不思議な静けさの中で、何やら不安感をかきたてて来る。  そうだ。あれは天井の節穴の記憶だ。  栄介は正体を見破ると、その渦巻きをもう気にしなくなった。  それはさっきの母の呼び声と同時に記憶されたものらしかった。高熱に冒された幼い日の記憶である。天井の板にあるたくさんの節穴が、高熱の目まいの中で渦となっていたのだ。  栄介が歩くと、桃色の温気がドライアイスの霧のように割れた。栄介はその温気を蹴《け》りながら、なおも歩いて行った。  進路を示すのは、栄介の背後から斜めにさし込んだ一条の光であった。  その光こそ、あのわずかな瞼の闇の隙間《すきま》から忍び込んで、手を引かれて神社の境内《けいだい》を行く記憶を呼びさます本体であった。  多分、目のとじ方に固有の癖があるのだろう。……栄介は歩きながらそう思った。その癖が、いつも同じ夢を見る原因につながっているに違いないのだ。  光は背後の高みから、桃色の平原へ斜めに突きささっていた。  行けども行けどもはてしのない感じであったが、栄介はいつの間にか、その光が突きささった場所へ達していた。  ギィーッ、バタッ。  木の扉《とびら》が閉じる音が聞えた。それはまるで栄介に連想を呼び起させなかった。  ギィーッ、バタッ。  その音は、実際にはかなりやかましいはずなのに、まるで栄介の神経を刺激しなかった。  栄介は、ふと自分がその音響に対して無反応であることに気づいた。  なぜだろう。あの音はなぜここにあるのだ。栄介はそう思い、耳を澄ませた。  ポタッ、ポタッ、ポタッ……。  扉の開閉音にまざって、水のしたたる静かな音が聞えていた。  そうか、あれはアパートの廊下の端にあるトイレのドアの音だ……。  栄介は光の根本にしゃがみ込みながらそう思った。毎日聞きなれて、意識さえしなくなった音であった。  気がついたとたん、ギィーッ、バタッという音は消えてしまい、水のしたたる音だけになった。多分それは台所の蛇口《じやぐち》から洩《も》れる水の音なのだろう。  栄介は、子供が砂遊びをするような手つきで、光が突きささっている部分の桃色の温気をそっと両手でとり払った。  桃色の温気の下に、つやつやとしたまん丸の円盤が現われていた。栄介は両腕をついてその円盤をていねいに露出させた。とり除いた桃色の温気が、円盤のまわりに盛りあがってかすかにゆれている。  細い金色の光は、その円盤の中心にある小さな穴の中へもぐり込んでいた。  気がつくと、栄介は右手に見たこともない複雑な形の工具を持っていて、その鋭くとがった部分で、円盤をとめてある金具を慎重に外しはじめていた。  振り返ってはいけない……。  強い警戒心が働いていて、栄介は円盤をまわってうっかり来たほうへ体を向けぬよう、注意しながらその六か所の金具を全部とり外した。  そして、工具の前後を持ちかえると、今度はへらのような部分で、その円盤をこじあけはじめた。  円盤はずるりと位置を移した。思ったよりずっと手ごたえのある感じであった。  円盤は蓋《ふた》であった。金色の光の糸は、一瞬蓋の影で跡切《とぎ》れたが、完全にどけおえると、垂直に落ちこんだ丸い井戸のような中へ一直線におりていた。  マンホールのようであった。栄介はその穴の片側についた梯子《はしご》に足をかけ、用心深く降りて行った。  黄金の光線が糸をたらしたように、マンホールを降りて行く栄介の背中で光っていた。  栄介の時間の感覚は全く混乱していた。それは多分、自己の夢の中へわけ入った彼の意識が、ときどき跡切れるためではなかっただろうか。  栄介の本体はいま睡眠中なのである。その中で、もう一人の彼が本体の睡りをさまたげぬように、そっと自分の夢の観察に動きまわっているのであるから、覚醒しているほうの意識は、ともすれば本体の睡眠にまきこまれ、時間的な連続性を失うことになるらしい。  そのマンホール中の降下も、どれ程の時間続けたのかはっきりせぬまま、栄介はその平らな底に到達していた。  そこは暗く乾燥した感じの、小さな木造建築物の内部であった。上を見あげると、傾斜した屋根と太い梁《はり》、そして太い柱が交差しているのが判った。  あの黄金の光の糸は消えていて、そのかわり、一方の壁面にそって安置された一個の多角形の鏡が、同じような金色の光を放射していた。  その鏡は、反対側の壁面に当たっていて、どうやらそれは両びらきの扉であるようだった。  栄介は光が当たった扉へ近寄り、そっと細目にあけようとした。  しかし、力を入れすぎたのか、或《ある》いは普通の蝶番《ちようつがい》とは仕掛けが違っていたのか、扉は外側へ向って落ち込むような具合で、さっと一気にひらいてしまった。  草木の匂《にお》いをたっぷりと含んだ風が一度に栄介をおしつつんだ。  栄介はまぶしさに眉《まゆ》を寄せ、目をしばたたいた。ざわざわと木々が鳴り、その割りには余り強くない風が吹いていることが判った。  目の下に乾いた素木《しらき》の階段があって、その先に白茶けた土がひろがっていた。  あっ……と思った。  その土の色で、栄介は睡っている本体がいま見つつある夢の中へ戻ったことを悟ったのであった。  しかも、睡眠中の本体の意識の中で、もう一人の栄介は、神殿の中からその夢を別な角度で眺めているのだ。  真正面に、白衣を着た女が見えた。その女は幼な子の手を引き、しずしずとこちらへやって来る。  栄介は素木の階段の上に立ったまま、じっとそれをみつめていた。  手を引かれているのは、たしかに栄介自身であった。それは遠い過去の栄介なのである。そして、いまそうして歩いていることが過去の栄介の記憶に断片的に焼きつけられ、いま睡眠中の栄介の夢となってあらわれているのだ。  栄介は自分の夢の中で、自分が自分のほうへ近寄って来るのをみつめていた。  幼い栄介は、やはり白い衣を着てよちよちと歩いている。栄介は手を引いている女のほうへ注意を向けた。  それは彼の母親のはずであった。  その女がふと顔をあげた。栄介はその顔を見て思わず叫んだ。 「美津子……」  とたんにあたりは、水面を波だたせたようにゆらゆらと揺れた。すべてが右に歪《ゆが》み、左に揺れ、妖《あや》しく波動した。 「静かにして……」  女が叫んだようであったが、その声さえも高く低く波動にまきこまれている。  栄介は、睡眠中の本体が覚醒しかけたのを悟り、息をつめ、声を呑《の》んだ。  本体は一度醒めかけ、また睡りに落ちたらしく、波動はゆっくりと納まって行く。 「君だったのか」  栄介はまだいく分か揺れ残る中で、つとめて冷静にそう言いながら階段をおりた。 「とうとうお目にかかれる時が来ましたのね」  美津子はそう言い、幼い栄介を自分の体の前へ立たせて、その両肩に手を置いた。 「これがあなたの子供です」 「僕の子供……」  栄介はとほうもない謎《なぞ》をかけられたように眉をひそめた。 「私はあなたの妻。あなたに仕える女……」 「しかし……」  栄介は当惑した。 「それはずっと以前の僕ではないか」 「子は父、父は子」  美津子はうたうように言う。 「命の輪のはじめとおわりを誰が見きわめましょうか」 「それにしても、なぜ君がこの子の母なのだ」 「お忘れになりましたのですか。あなたにお仕えしたこの卑弥呼を」 「卑弥呼を……」  栄介は愕然《がくぜん》として、怨《えん》ずるような瞳《ひとみ》を向けているその女を見つめた。 「美津子ではないのか」 「名はそれを呼ぶものたちのもの」 「するとやはり美津子は君なのか」 「やがてその名にもなりましょう。でも、今は卑弥呼……」 「教えてくれ。なぜ僕は、いまこの場の夢をずっと見つづけていたのだ」 「神々のあい争う時が来ることのために」 「神々の争い……」 「そうです。あなたは今、遠い未来からお戻りになりました。神々の争いがはじまったからです」  そう言って、卑弥呼は、あの銅の鉾《ほこ》をさしだした。 「これは僕がウルのジッグラトから持ち帰ったものではないか」 「はい」  卑弥呼は栄介にその銅の鉾を渡した。 「敵の神々を守る武器です。あなたはご自分の為にそれをお持ち帰りになりました」 「自分の為にだって」 「神々の争いがはじまったことを知るためです。それは、あなたに敵がいることのあかしです」 「すると、あの暗い小川のそばにいたのは」 「私です。どうか、うつし世からお立ち戻りください。そしてこの国をお守りくださいませ」 「この国とは」 「卑弥呼が仕える神の国。あなたの国」 「判らん。何が何だか、さっぱり判らない」  すると卑弥呼は、わが子を神殿のほうへ押しだして言った。 「行きなさい。行って御鏡の前に立つのです」  幼い栄介はそう言われて、よちよちと神殿へ進みはじめる。栄介は仕方なく、そのかぼそい体をかかえて階段を昇った。  黄金の光を放つ鏡が、ほの暗い神殿の中央にあった。幼い栄介は卑弥呼に言われたとおり、その黄金の光芒《こうぼう》の中へ入った。  とたんに本体の夢が転換した。  そこは巨大な暗黒の空間であった。そして、夜空の星々のように輝く光の点が無数に散らばっていた。  しばらくぼんやりしていた幼い栄介は、やがて瞳をこらせてその光の点のひとつを凝視した。  すると、その光の点がひとつの世界であることが判った。その世界には、時間が整然とひとつの帯をなして流れており、はてもない茶色の世界がひろがっていた。  砂の世界であった。その中心部にはひとつの巨大なジッグラトがあり、世界の果てには岩肌を露出した冷たい山塊と、澱《よど》んだような生気のない海があった。  そこでは、イスタルの指図で、月神ナンナなど多くの神々が戦闘の準備に余念がなかった。  幼い栄介はまた別の世界へ目を移す。そこには厚い毛皮を着たたくましい神々がおめきをあげ、出陣するところであった。  またある世界では、白髯《はくぜん》の老人が頭上に白く光る白髪をいただいて、人々に矢を射らせ、礫《つぶて》を投げさせている。その世界のなかば以上は、すでに十字を背負った神の軍勢に蹂躙《じゆうりん》され、火を放たれて燃えあがっていた。 「神々は争っているのです」  その巨大な宇宙空間に、卑弥呼の湿ったような声がとどろいた。  本体がその声に睡りをさまされたらしく、全宇宙が烈《はげ》しく波動しはじめた。  混乱をはじめた夢の中で、栄介は神殿の中へ一瞬戻り、鏡が発する光芒の中に揺れている幼いおのれの姿を見た。 「異境の神々がこの国を滅ぼそうとしているのです」  栄介は遠い短波放送をとらえるように、せわしなく波動する声を耳もとで聞いた。 「さあ、鉾をおとりください。戦って神をおうち破りくださいませ」  卑弥呼の叫び声が次第に遠のいて行く。本体はますます覚醒に近づき、世界は更に烈しく揺れ動いた。  マンホールを、栄介は一気に上昇した。そして、一瞬のうちに虚空《こくう》へ抛《ほう》り出され、桃色の平原を斜めに見おろしながら、凝血したような大ドームへ打ちあげられている。 「もっとよく教えてくれ」  栄介は叫んだ。もどかしく、辛く、悲しい時間が流れ、その間にも五体は回転して、温気《うんき》のたち昇る平原が頭の上へまわったりした。 「美津子……」  最後に栄介はそう叫んだ。体は何かにはねとばされたように、どす黒いドームの中を上昇しつづけたが、やがてその空間はひとつの点へ収斂《しゆうれん》しはじめ、彼をはねとばした遠心力が、いつの間にか求心力になっているのに気づいた。  白く揺れるものに、栄介は猛烈な勢いで接近して行った。  いや、接近というより、奈落《ならく》へ転落して行く感じであった。その恐怖は余りにも強く、逆に背骨のあたりに、けだるい疲労感にも似た甘えが生まれていた。  その甘えは、いつしか栄介の体全体にひろがり、彼は柔らかい手を堅く掴《つか》んでその感情を相手に伝えようとしていた。  急激に接近を続けていた白く揺れるものは、いまや栄介の視界いっぱいになっていて、その衣を着た女に手を引かれ、彼はよちよちと歩いているのであった。  ああ、ここは父とめぐり合った神社なのだ。  覚醒しかけた栄介はそう思った。  そして、その夢の中で観察者として存在していたもう一人の栄介は、いつもどおりの夢だが父の意識が現われたのははじめてだなと思っていた。  そして、本体が更に覚醒して行ったとき、ただ一人に収斂した栄介は、驚異と快感をもって、俺は遂にこの夢の正体を見きわめたのだと思った。  最後に感じたことは、美津子と結ばれていたことの喜びであった。  栄介は目をあけた。  白い天井があった。そして、脇腹《わきばら》のあたりが擽《くすぐ》ったくて仕方なかった。 「やったぞ……」  栄介は大声で叫んだ。いや、叫んだつもりであったが、実際には、それはきわめて弱々しいつぶやきであった。しかし、たしかにそのやつれた顔には微笑が泛《うか》んでいた。 「あ……。気がついたわ」  美津子の声が耳もとでしていた。もう夢の中ではなかった。  栄介は白い壁にかこまれた小さな部屋のベッドに横たわっていた。  ベージュのカーテンがかかった窓と、テレビとソファとテーブルが見えた。 「どうしたんだ」  栄介はそうつぶやいて起きあがろうとした。からだ全体の力が抜けていて、ことに胃の辺りには不快なほどの無力感があった。 「ここは病院か」  それは気配で判っていた。そばに美津子と山岡の顔があり、気が滅入るような消毒液の匂いがしていた。 「静かにしていて」  美津子が言った。それは夢の中で会った卑弥呼の顔であり、母の顔であり、そして妻の顔であった。 「よかった……」  山岡が栄介の顔をのぞき込んで言った。 「どうなることかと思ったぞ。このまま一生睡りっぱなしになるんじゃないかと思ってな」 「睡り……。そうか、俺は睡っていたのか」 「四十日もよ」 「え……」 「そうだ、今日でちょうど四十日目だ」 「そんな馬鹿《ばか》な」  栄介は自分の上に掩《おお》いかぶさるようにしている山岡と美津子の顔を交互に見ながら、あらためて起きあがろうとした。 「痛い。あっちこっち痛いぞ」  栄介の腕や尻の辺りに、しこったような痛みがあった。 「注射のあとだろう。随分射たれたからな」  山岡が微笑を泛べて言った。 「俺は病気だったのか」  美津子にたすけられて上体を起した栄介は、欠落感のようなものに悩まされながらつぶやいた。 「昏睡《こんすい》状態が続いていたのよ」  美津子は枕《まくら》を叩《たた》いて形を整え、それを栄介の背中にあてがってくれた。 「どこが悪かったんだ」  すると山岡はかすかに首を左右に振ってみせる。 「原因不明さ」 「四十日もか」 「そうだ」 「おかしいな。俺は夢を見ていただけだ。複雑な夢には違いないが、そんなに長い夢だとも思えないが」  栄介は夢の中の場面を、ひとつひとつ鮮明に思い返しながら言った。 「どんな夢だ」  栄介は肩をすくめた。 「例の、いつも見る夢さ。君に言ったろう」  栄介の記憶では、美津子の部屋で彼女が念写した写真を見たことが、一日か半日ほどの過去として納まっている。 「いつも見る夢……」  山岡が美津子と顔を見合わせる。 「君の念写に写った奴さ」  栄介は美津子に言った。 「白い裳裾《もすそ》が揺れる場面ね」 「そうだ」 「それをずっと見続けていたのか」  山岡は不思議そうに尋ねた。 「いや、そうじゃない。いつもの夢を見はじめたので、ああまたこの夢を見ているなと思ったのさ」 「それで」  山岡はひどく熱心であった。瞳が熱っぽく輝いていた。 「そこから先、少し妙な夢の見方をしたことはたしかだ」  栄介はゆっくりと説明しはじめる。 「俺は自分のアパートで睡っていた。美津子君のところから君とタクシーで戻ったあとさ」 「警官にとめられて、小川のそばで山人《やまと》の日の神に仕える者だというあの白い着物を着た女に会った晩だな」 「そうだよ。睡って夢を見た。夢の中でまだよちよち歩きだった頃の自分が出て来たので、またこの夢を見ていると思い、今日こそはその夢がどんなものなのか、よく観察してやろうと思ったんだ」  美津子が急に手を口にあて、強く息を吸った。 「やったの、あなたは」 「ああ」 「危険だわ。それはとても危険なことよ」  栄介は白っぽい浴衣《ゆかた》を着せられた自分の体を眺めて苦笑した。 「どうもそうらしいな」 「で、どうやって観察したんだ」 「いつもは左手をそばの女に引かれて、うつむいて歩いているから、その女の裳裾が揺れるのと、乾いた土の色しか見えなかったのさ。それと、ここは神社だという意識に、手を引いているのが自分の母親だというたしかな感じだ。俺はあたりをもっとよく見ようとした」  美津子は息をのんで栄介を見守っていた。栄介はともすれば目覚めようとする自分の本体に注意しながら、自己の意識の内部にわけ入って行った話を、ひとつひとつ克明に語った。 「その卑弥呼と名乗る女が、実は君そっくりの顔をしていたんだ」 「すると、あなたは卑弥呼が仕えていた日の神だったことになるわね」 「どうもそうらしいな」 「いったいどういうことなのかしら」 「とにかく、神々が争いはじめているんだ」  栄介は、夢の中で見たことが、ゆるぎない真実であるとしか思えなくなっていた。 「その夢の中のことについて即断することはよそう」  山岡は慎重な口ぶりで言った。 「君は多分何かとほうもない真相に触れたのだとは思う。しかし、それは黙示録のようなものだ。解釈のしかたが問題だよ」 「俺には別に解釈の必要もないように思えるがね。見たままさ。神々が争いはじめているんだ。俺は卑弥呼の世界を守ってやらねばならない。この世界へバールやイスタルが踏みこんで来ていいわけはない。それに、あそこには俺自身がいる」 「まあ待てよ」  山岡はなだめるように言った。 「卑弥呼の世界は、現代のこの日本という国へつながっている。それ以外に考えようはない」 「うん」 「単純な言い方だが、日本には日本固有の神があった。卑弥呼はその神に仕えていたと考えてさしつかえなかろう」 「そうだ」 「だが、現にこの日本という国には、いま西欧的なものが深く浸透している。ことに戦争のあと、日本は徹底的に変えられてしまったと言っても言いすぎではない」 「精神文化のことを言っているのだな」 「そうさ」 「でも、それなら、大化改新にも起ったし、幕末にも起った」 「いや」  山岡は強く首を振った。 「今度ほど日本的なものがひどく侵されたことは一度もないはずだ。習合する余地のないほど、西のものが強く入りこんでしまった。枝葉のことかも知れないが、日本語を読めない日本人が続々と生まれている。愛情のありかたや他人への認識のしかた、価値観……。すべてにわたって、日本人の中に日本的なものからの剥離《はくり》現象が起っているじゃないか」 「それが俺の夢と関係していると言うんだな」 「神が在るとしたら、日本の神はいま侵略を受けていることになる。いや、この物質文明の急速な拡大によって、神々の世界が激しく触れ合い、闘争を余儀なくされているのではないだろうか」  栄介はじっと考え込んだ。  たしかに何かが起っており、その何かに自分がまきこまれているのだ。  神々の世界となま身の人間界の接触……。多分そういうことだろうと思った。  何か物哀《ものがな》しい気分が栄介の心にじわじわとひろがっていた。それは深い失望感によるものであった。  人間の世界へみずから接触を求めてくることは、神々の世界の権威の失墜を意味しているようであった。 「実は、君が眠っている間に、だいぶいろいろと起ってね」  栄介の陰気な沈黙へ、山岡がはげますように陽気な笑顔で言った。 「どんなことだい」  栄介は神々に対する失望から意識を山岡のほうへふり向けた。  奇妙な感覚であった。  今まで、栄介は特に神を崇《あが》めたことはなかった。少くとも自分では無神論者に近いと信じていた。  それなのに、神々が相争い、自分のような卑俗な人間をその闘争の場へ呼び寄せようとしているのが、なんとも言えず物哀しいのである。  果して、いま自分が失望している神と、あの卑弥呼たちの神々とは、同一のものだろうかという疑念が頭をかすめた。 「俺、失業しちゃったよ」  山岡は頭を掻《か》いて見せた。 「失業……。あ、そうか」  栄介は、はじめて自分が長い睡りにおちいっていたことを実感としてとらえた。 「悪いことをしたな」  最初に口をついた言葉がそれであった。  四十日も睡っていたのでは、社内の情勢はかなり悪化するはずであった。 「いや、君のせいじゃない」 「俺のせいさ。俺はやめるつもりだったから、東洋神秘教団なんてどうでもよかったんだ。それなのに、君をこっちへ引っぱってしまった」 「いいさ。俺もあんな会社に未練はない」 「いつのことだい」  それには山岡は答えず、かわりに美津子が言った。 「あなたが睡ってから二十日ばかりしてよ。なんだか知らないけれど、あなたがたの上役って、いやらしい人ばかりみたいね」 「課長か」  栄介は山岡をみつめた。 「課長はそれみたことかと言わんばかりだ。よせばいいのに勝手に代役を買って出たが、例の永田町のあの場所へ行ったって、塀ばっかりで何もありはしない」  栄介は笑い出した。 「そうだろう。課長が不意に行ったって、あの石の塀が開くわけがない」 「それで大騒ぎになった。部長攻撃のいい材料だからな。部長は君や俺とグルで、ありもしない上客をでっちあげていたことになる」 「ハイヤーのうらみか」  笑いつづけながら栄介は言った。 「部長の奴、どう処理したと思う。自分はそんな所へ行ったこともなく、すべて君がねつ造したことにしてしまった」 「まさか、あれは妖術《ようじゆつ》らしいとも言えまい」  栄介は霜田無仙の顔を思い出していた。  笑いが納まると、栄介は急に山岡の生活のことが気になりはじめた。 「すると、会社をやめてから、もう二十日あまりもたっているんだな」 「うん」  山岡は頷《うなず》いた。 「次の仕事のことはどうなっているんだい」 「就職か」 「そうさ。安月給だったからな。長く遊んでいるほど貯金もないはずだ」 「心配するな。失業保険があるさ」 「心当たりはあるのか」  山岡は首を横に振った。 「この件が片づくまで、就職の心配をする気にもなれない」 「でも、長びいたら困るだろう」  すると美津子が口をはさんだ。 「心配ないのよ。パンサーで働いてもらうから」 「パンサー。バーテンでもやろうというのか」 「いいじゃないか」  山岡は苦笑を泛べて言った。 「勝手にさせてくれよ」  栄介は自分が持っている、あの一千万円を思い出した。 「そうだな。なんとかなるな」  山岡は、そう言う栄介をみつめ、友情をこめた笑い方をした。 「ああ、いざという時は君に助けてもらうよ」 「もちろんさ」  栄介は美津子へ視線を移した。 「あの宝くじは、卑弥呼の世界が俺たちをこの俗界からしばらく切り離しておけるように考えて、俺に当てさせたものじゃないかと思うんだ」 「君を神々の世界へ招く為にか」 「おかしいな」  栄介は微笑した。 「おかしなことだ。まるで旅費が要るみたいだ」  美津子は笑わなかった。 「たしかに、かかりっきりになるにはお金が要るわ。現に、あなたが四十日も夢の中をさまよったのだって、卑弥呼に会って全貌《ぜんぼう》を聞く為だったことになるじゃないの。その間お金が、仮りにまったくなかったとしたら、あなたは目ざめてすぐ、これだけ回復できたかしら」  山岡はすまなそうに言う。 「実は、君の部屋から預金通帳を探しだして、病院の経費を勝手に払ってしまったんだ」 「かまわないよ、そんなこと」  栄介はべッドのまわりを見まわした。 「そう言えば個室だし、高くついたろうな」 「あなたはお金持ちなんだから贅沢《ぜいたく》させてしまおうと言って……」  美津子は山岡を見て笑った。 「どうだろうな、ひとつ提案があるんだが」  栄介が言うと、美津子は腕時計をちらりと見て、 「駄目《だめ》よ、少し喋《しやべ》りすぎだわ」  と言った。 「四十日も睡りっぱなしだったんですもの。私、看護婦さんを呼ぶわ」 「待ってくれよ。もうちょっと話させてくれ。それに体のほうも大してつらくはないんだ」  美津子は浮かしかけた腰をまた落ち着けた。 「いま君も言ったとおり、どうもあの一千万円はいわば今度のことで俺に与えられた、神々からの軍資金のようなものらしい。これは三人が共同で使う金にしたいんだ」  山岡は当惑気味であったが、美津子は案外割り切っているようであった。 「彼がそういうならいいじゃないの」 「しかし、金銭のことはちゃんとしなくてはいけない。どんな理由があろうと、あの一千万円は現実に岩井の財産だ。それもなけなしの……」  美津子はその原則論を一蹴《いつしゆう》した。 「何も彼におんぶしようというのじゃないわ。それに、私たちはそんな贅沢をする人間でもないわよ。たしかにあの一千万円は彼のお金だけど、卑弥呼が神々の闘争の場へ私たちを呼び寄せる、いわばトレード・マネーだという一面もあるのよ。少くとも私たち三人の間では、それは否定できないと思うの。あなただって、神々の争いに、卑弥呼の味方として加わりたいんじゃない……」 「それはそうさ」 「だったら、当分三人ひとかたまりでくらしましょうよ。いつ呼び寄せられるか判らないのだし、仮りにあなたが生活の為にそういう時間を作れないとしたら、そんな愚劣なことはないと思うわ。俗世間に縛られて、神々の世界へ行きそこなうなんて」 「そうさ」  栄介は山岡をみつめた。山岡は照れ臭そうにしていた。 「いいわね。きめたわよ」  美津子はそう言い、部屋の隅《すみ》にあるクリーム色の電話機のところへ行って、栄介が睡りから戻ったことを看護婦に告げた。 「だが、君が睡っている内に、もう一人仲間が増えてしまったようなんだ」  電話をかける美津子のほうを見ながら山岡は困ったように言う。 「誰だい」 「君の知らない人物だが、北川宏志《きたがわひろし》というんだ。J大の物理学の助教授だが、円盤とか超能力とか言う方面にひどく詳しい人でね」 「それはいい。そういう人が味方に加われば心強いよ」  栄介は微笑して言った。 「君が睡りからさめたらすぐに連絡することになっている」 「会いたいね。呼んでくれよ」  栄介は勇み立ったように言った。  神 々  栄介は覚醒して二日目には、ほとんどもとどおりの体に回復した。  医者はその昏睡《こんすい》の原因が掴《つか》めず、退院後も定期的な診察を受けるように注意したが、栄介は自分にその必要がないことを本能的に感じていた。  彼はおのれの内面世界を奥深くたずね歩いたのであった。その内面世界は、霊的な部分で外界とつながっていたのである。  その外界は、生理的な内部に対応する、一般の日常的世界とは異り、精神的な内部に対応する、四次元的世界であった。  四十日間の夢という事実を、霊的世界の存在の証明だと断言したのは、J大助教授の北川宏志であった。 「象牙《ぞうげ》の塔に籠《こも》った連中なら、それを狂気と呼ぶかも知れない」  色白で長身の北川は、広い額に心持ち皺《しわ》を寄せながらそう言った。栄介が退院する日の朝であった。 「山岡君が君のことに関して相談しにやって来たとき、事情を聞いて僕は直感的にそう思ったのだ。おそらく君は自分の精神の内部へ旅立ったのだろうとね」  栄介はべッドに坐って、そう言う北川の顔をじっとみつめた。たしかに、普通の人間にはない雰囲気《ふんいき》を、北川宏志は身につけていた。ひとことで言うなら、それはあまりにも清潔すぎて、何かが欠落しているような感じであった。  しかし、その欠落感は決して人に不快を与える性質のものではなかった。たとえば、聖職者が持つ純粋性と同質のものだと言ってもさしつかえないようである。  肉欲、物欲はもとより、頑迷《がんめい》さや、自己の言説に対する無用の固執と言ったものが、北川宏志という人物にはまるで存在していないようであった。  栄介は、はじめて北川を見た瞬間、そのような人物がいたことに驚異を味わった。そして、会話を重ねるたびに、何か喜びに似たものを感じはじめた。  それは、自分の霊的な力が、多分本物であるという自信が持てたからであった。  今度の件に関して、当然のことながら栄介は疑いを抱いていた。平凡な日常の中へ突然割り込んで来る神々の世界……。たとえ確信を持って自分の狂気を否定できたとしても、何者かが自分を錯乱《さくらん》させ、狂気に近い世界へ追いやっているという疑念は、たえず持たなければならなかった。  しかし、北川宏志の出現は、それが日常的な世界の中で起ったものではなく、あくまで日常世界と断絶した、異る次元での出来事であることを証明してくれたようなのだ。  それほど北川は栄介にとって高い知性の人物に見えた。北川が本物であるということは、今度の事件もまやかしのものではないということであった。 「四次元的な世界というと、それはつまり霊の世界ということですね」  栄介は敬意をこめて北川に尋ねた。 「残念ながら、僕はまだその世界を知らない」  北川は心底から残念そうに言う。 「坐禅や瑜伽《ゆが》のさまざまな修業は、ひとことで言えばそれによって正理と合致し、一体となる心の状態を作りだすのが目的だ。しかし、死後の世界がこれこれだという報告が信じがたいのと同じように、正理と合一した心の状態はこうだという説明も、果してそれが静かな狂気によるものなのか本物なのか、我々には判断しがたい」 「そうなのです」  横から美津子が言った。その日彼女は白い毛皮のコートを着ていた。そしてそれは、当然栄介に自己の母であり、また妻でもある卑弥呼を連想させていた。 「霊界の存在を、他人に心から信じさせることは容易ではありません。私はもう何百回となく、それに失敗しているのです。でも、信じない人を責める気はしませんわ。だって、まずはじめに疑いがあるのが自然なんですもの」 「だが、日常の中に起った、その人間の短時間の狂気を霊的世界と錯覚して、やみくもに信じてくる人も多い。むしろ僕などが悩まされるのは、疑う者よりそのような信じかたをしている人たちなのだ」  北川はかすかに苦笑して言った。 「とにかく僕は、自分の精神の内部へわけ入って来ました。そういうことがもしできたとしても、とてもむずかしいことで、僕のような人間にはできっこないと思っていたんですよ」 「たしかにむずかしいことだ」  北川は頷《うなず》いた。 「しかし、君の話を聞いてみると、案外突破口は手近にあるらしい。昔から、夢が霊的な世界に接しているらしいことは言われ続けていた。しかし、近代の科学、医学はそれを否定する方向にばかり動いてきた。そのために、我々はしだいに夢を見棄ててしまったのだ。だからこそ、君の長い夢は、少くとも僕にとって大きな意味があった。或《あ》る意味では救いなのだよ」  栄介は頭を掻《か》いた。 「別に努力などしなかったんです」  北川はゆっくり首を振って否定してみせる。 「生得《しようとく》の体質なのだろうが、それを恥じることはない。神々の世界から招かれているというのは、その体質が求められるからだろう。そして、君は行くべきだ。できれば僕も連れて行って欲しい」 「行けそうですよ」  現に栄介と一緒に卑弥呼と小川のほとりで会って来た山岡は、勢いこんで言った。 「ひとつ面白いケースを紹介しよう」  北川は栄介のべッドの横に置いたソファに坐って、穏やかに笑いながら言った。 「それはコンピューターのことなんだが、人工頭脳と呼ばれるように、コンピューターは人間の頭脳的な作業を代行させるために作りだされた機械だ。それは、たとえば体力的な作業を代行させるためのパワーシャベルなどと対比して考えることができる」  北川はそこでいっそう笑いを深めた。 「だが、パワーシャベルは人間がスイッチを切ったとたん、ただの鉄のかたまりと化してしまう。そこにはもう、土をすくおうというような意志はまったくなくなっている」 「でも、コンピューターだって同じようなものでしょう」  栄介が反論する。 「面白いケースというのはそこなんだ。たとえば、コンピューターに自分自身が持っている記憶を、必要な場合すべて消去してしまえるようにして置くとする。そしてある日、人間がそのコンピューターに、すべての記憶を消去せよと命令したとする。するとコンピューターはたちまち全部の記憶を消去してしまうだろう。そんなことはいやだ、などという能力はないのだからね」 「今にそういう我を張る奴《やつ》があらわれるかも知れませんよ」  山岡が茶化すように言った。 「SF的な発想だね」  北川は山岡を見て頷く。 「だが、これはSFでもなんでもない。人間がコンピューターに、持っているすべての記憶を消せと命じたとき、そのコンピューターは人間の命令にそむいて、ひとつだけ記憶をかくし持ってしまうのさ」 「どういうことです」 「記憶を消せという命令をうけた記憶さ」 「なあんだ」  栄介たちは顔を見合わせて笑った。 「君たちは笑うが、これはさっき例にあげたパワーシャベルなどと比較して考えると、実は恐るべきことなんだよ。記憶を消せと命じられたコンピューターは、未来|永劫《えいごう》にわたって、記憶を消せと命令された記憶を消しつづけるだろう。きわめて短いものながら、それはひとつの円環運動だ。ニーチェの永劫回帰の世界観に、どこか通じてしまうし、人間の命令を至上のものとするコンピューターにとって、永遠に命令を完遂しきれない宿命を持ったことは、キリスト教でいう原罪にすらつながっている」  三人はおし黙ってしまった。 「逆に考えれば、人間の脳はコンピューター的だ。その奥深くに、永劫回帰や原罪といったものにつながる部分がないとは言えないだろう。そして、それこそが、実は四次元的な神の世界へつながる部分かも知れない」  北川は同意を求めるように栄介を見た。 「わかりました。しかし北川さん」  栄介はそう言って、北川宏志の深く澄んだ瞳《ひとみ》をのぞき込んだ。  その瞳は、栄介の次の言葉を察したかのように、当惑したようなかげりが湧き立って来るようであった。 「その四次元的な世界にいて、今度の事で僕に接触して来たものが、果して本当に神々なのでしょうか」  北川は首を横に振った。 「君は見て来たじゃないか」 「たしかに見て来ました。行ったのはウルのジッグラトと山人《やまと》の国だけですが」 「そこに神々がいたんだろう。そして、そのヤマトでは、君自身が神であったそうじゃないか」 「神であり父であり夫であり子であったのです。そのややこしい関係については別にお尋ねするとして、あれは本当の神々なのでしょうか」 「困ったことに……」  北川の瞳に湧きだしていた困惑のかげりは、瞳からあふれだして彼の顔全体を曇らせていた。 「我々は、この問題に関して、何ら物質的な証拠を持たない。医学、化学、物理学……そのすべてが何の役にもたたないのだ。したがって、現代の常識的方法でその問題を説明することはまったく不可能に近い。たとえば、この三次元の我々の世界に、突然神々が住む四次元的な世界が、山腹にかかる雲のように掩《おお》いかかり、接触して来る。君や山岡君が経験したように、接触すれば明らかにそれと判る。しかし、その雲が去ったとき、いま私たちは四次元的な神々の国におりましたと言っても、それは誰も信じてはくれまいし、また、言葉だけで未知の物理的世界を説明されても信じてやらないことが、現代的な知性というものだろう」 「でも、北川さんは信じてくれました」  栄介は鋭く言った。 「僕は信じた。それには理由がある。しかし、その理由というのもまた、現代的な知性からすれば説明のあいまいな、狂気と見られても仕方のないようなことなのだよ」  すると美津子がそばで静かな声を発した。 「つまり、すべてが精神的な問題なのよ。今の人間は、神がいる、というと、それでは証拠を持って来い、と言うの。それで私たちが、証拠はないけれどたしかにいるんだと言うと、お前は気狂《きちが》いだ、と言うことになってしまうのよ。みじめな時代だわ」 「そうなんだ」  北川はうれしそうに言った。 「神の世界があるということに、なぜ証拠が要るんだ。その人物は、証拠があれば神を信ずるのだろうか。……僕の答はそれだよ。君は神を見た。だからそれは神だ」  逆に北川が栄介の瞳をのぞき込んだ。  栄介は北川から目をそらし、山岡と美津子に向って言った。 「僕は神々を見た。神の国へ行って神々を見て来た」  三人は静かに栄介の次の言葉を待っている。 「しかし、そこで見た神々は、僕が考えていた神々とは、ひどく違う感じなのだよ。いったいこれはどういうことなんだろう。僕をいまいちばん悩ませているのはそのことなんだ」  北川の表情から、見るまにかげりが消えて行き、元の爽《さわ》やかな顔に戻った。 「今まで君は神について深く考えて来たのかね。……いや、これはとても失礼な言い方かも知れないが、いま君が、僕が考えていた神々とは違うと言ったからだよ」  栄介は答につまった。 「弱ったな」  そう言って頭を掻き、 「訂正します。僕が感じていた神々です」  と笑った。 「僕は、実はそれでいいんだと思う。神とはもっとプリミティブなものじゃないかね。我々は通常、神を見ることもできないし、神々の国へ行くことも許されていない。だから、思索によって神々のまぼろしを作りあげた。数多くの天才がその思索の作業に加わり、まぼろしに理論を与え、体系化し、愛や美や、その他もろもろの要素を加えて、自分たちの精神のよりどころになるようにして来たんだ。……多分、君が感じて、実際に見た神との違和感に悩んでいるのは、そうして作りあげられたまぼろしと、実際の神との違いなのではないだろうかね」 「そうかも知れません。いや、きっとそうです。でも、そうだとすると、僕の心の中で神々のイメージがひどく下落してしまうんですけれど」  北川は深く頷いて見せた。 「いいじゃないか。もともとそのふたつは別物なのだから」 「別物……」 「これはひとつの考え方にすぎないが、この場合とても実際的だと思うから言ってみる。いいかね、君がいまそのふたつをつなげて考えているのは、神と祖先、或いは神イコール造物主と言った考え方がその根本に横たわっているからなのではないかね」  栄介は少し考えてから答えた。 「ええ、たしかにそのようです」 「では聞くが、君の祖先は神かね」 「さあ」 「君は造物主である神から生まれたのかね」 「そうか、判りましたよ。あなたがおっしゃりたいのは、神は神であって、それを自分のあるじのように思うのは人間が勝手に考えたことであると……」  栄介は瞳を輝かせていた。 「そう判ってくれれば、そろそろ問題の核心に近づけるわけだ」  北川は微笑を泛《うか》べて言う。 「いま我々は、神とは何か、などという大げさな問題に触れているのではないということさ。もともと、この三次元の世界と、四次元的な神々の世界のふたつが並び在ったということなんだ。たとえていうなら、北の国と南の国ということかな」 「ずいぶんかんたんになってしまいましたね」  山岡が笑った。 「北の国が我々の世界だとする。そして、南の国との間には大きな海があり、我々の祖先は、なぜかその海の向うに南の国があって、そこに神々が住んでいることを知っていた。多分、遠い祖先の人々はその海を渡る技術を持っていたのだろうね」 「失われたのですね、その技術が」 「僕はそう思っている」  北川は質問した山岡のほうへ体を向けた。 「長い間、その失われた技術を追い求めているんだが、近ごろそれらしい答の糸口を掴んだところだ」 「どんなことです」  三人は緊張した。 「ヒントは、例の国民一人一人に番号をつけて管理しようという考え方だ。あれはコンピューター時代には必然的に出て来る考え方だね。だが、僕の場合、問題はその一人一人につける番号のことだった。これは大きな問題だと思った。なぜなら、もしそれが実現すれば、人間一人一人に名前が付いて以来の大変化だからだ。僕はあえてそれを進歩とは言わないがね」 「人間の名前……」 「つまり、人間のアイデンティティーさ。近代になればなるほど、そのアイデンティティーは強く要求されて来る。だが、古代において、名前と個性はそれほど重要ではなかったような気がするんだ。たとえば、日本にも|※[#「女」へん+「櫂」のつくり]歌《かがい》のようなものがあったじゃないか」 「男女が集まって歌や舞《おど》りを楽しんだという、歌垣《うたがき》ですね」 「万葉集などがのちの世で教養的に扱われてから、それはひろくみやびやかで知的なもののようなイメージになったわけだが、それはヨーロッパなどにあるサバトとたいして変わらないのじゃないだろうか」 「魔女たちが集まって乱舞、乱交するという例の狂宴と歌垣ですか……」 「つながらないのかね」  北川はいたずらっぽい笑い方をした。 「とにかく僕は、そういう古代のパーティーでは、村人個々のアイデンティティーなど、そう必要ではなかったのじゃないかと思う」  北川は断定するように言った。 「そういう古代の祭りのような場では、自分が自分でなくなってしまうのさ」 「何かに憑《つ》かれたようになってですか」  山岡が言うと、北川は厳しい表情になった。 「そういう発想がいけない。それは、心理学的に言えば集団ヒステリーとでもなんとでも言えるだろうさ。古代においては、そうやって自分が自分ではなくなり、集団がひとつの個になることが制度として存在していたようなのだ。いま駅前の広場で大勢がそんなことをすれば、反社会的行為として中心になる人物、つまり首謀者は逮捕ということになりかねない。しかし、古代においては、その首謀者は明らかに神に仕える者……巫女《みこ》であったろう。そして、何百人という人々が個を捨て、互いにアイデンティティーをとり払ってひとつに合体する、その合体すべきものは、当然神ということになるじゃないか」 「ははあ、判って来たぞ」  栄介は気負い込んで山岡と美津子に言った。 「君の考えを言って見たまえ」  北川は主役の座をゆずるように、寛大な笑顔で言った。 「山岡、君がその祭りの中心となる人物だったとしよう」 「いいよ」  山岡は笑って頷いた。 「百人ほどが集まり、優秀な巫女《みこ》を中心にその祭りをやったら、みんなが自分を捨ててひとつになった。祭りの人垣から離れてしらけた顔をしている青白い奴なんて一人も出なかった。君はうれしいはずだ」 「うん、そうだろうな」 「祭りがおわったとき、今度はもっと大勢でこれをやりたいという風には思わないだろうか」 「思うだろう」 「つまり、北川さんが言うのは、そういう方向へ拡大して行く道もあったのだということさ。……違いますか」  北川は黙って頷いた。 「だが、僕らはそういう個を捨てて精神を人々と合一させるような方向へではなく、逆に個々の特性を拡大する方向へ来てしまった。アイデンティティー強化への道さ。その涯《は》てには、コンピューター管理のための国民総背番号時代がある。もし我々人類が、その祭りの輪をどんどんひろげる方向へ行っていたら、物質文明のかわりに、高度な精神文明を獲得していたかも知れない」 「いや、そこが少し違うね」  北川が静かな声で言った。 「君は旧石器時代のことを考えに入れていない」 「あ……。すると北川さんは、旧石器時代にはそういう文明が栄えていたと考えていらっしゃるんですか」 「あくまで仮定さ。でも、人間は南の国にいる神々のことを、うっすらと知っていたじゃないか。次元の海を渡る技術は、今の我々が来た道とまったく逆の方向にあったのではないだろうかね」  そう言われて栄介は唸《うな》った。 「旧石器時代の精神文明か。面白い仮定だな」  山岡が美津子に言い、美津子が頷く。 「この世界に新石器文化があらわれるのは約一万年前とされている。そして、日本の縄文式《じようもんしき》文化の前期に属する加茂《かも》遺跡は、放射性炭素による年代測定の結果、紀元前三千年ちょっとと計算されているんだ。北九州の弥生式土器《やよいしきどき》に至っては、紀元前二、三百年のことにすぎない。ところが、旧石器と来たら、それこそとほうもない期間にわたって、えんえんと続いていたんだよ。いま我々が、それをまったく進歩の少ない、変化のごくゆるやかな時代だったと考えることはかんたんだ。アフリカの南のほうから出た石器と、ヨーロッパ出土の石器とくらべて見ても、どうという差異を認めがたいくらいなのだからね。しかし、もうひとつの考え方としては、そういう物質的なものとまるで逆の技術があったという可能性もあるじゃないか」 「そうですね」  栄介は興奮して言った。 「今とまったく別種の、人間の精神力による文明があって、それが非常に長い間つづいていた。……そしてその文明がしだいに衰えて行く。精神の衰退が加速度的に進行し、文明は崩壊する。現代科学はまだ気象や天候と言ったものを自在にコントロールするところまでは行っていないし、不治の疾病《しつぺい》もまだたくさん残っている。しかし、超古代のそういう文明のもとでは、人々は精神の力によって天候を思いのままに操っていたかも知れないし、精神の力であらゆる病気を治していたかも知れない」 「毛皮を着て穴ぐらに住んでいた原始人がかい。ピンと来ないな」  山岡は苦笑した。それは栄介にとっても、どこか違和感のあるイメージであったが、栄介はそれを追い払うように声をつよめた。 「俗な言い方だが、今でも、ボロは着てても心は錦と言うじゃないか。彼らは着衣や住居にそう大きな価値を認めなかったのかも知れない。必要ならどんなイメージでも作りだせただろうし、暑さ寒さに対しても何らかの手だてを持っていたのかも知れない」  すると美津子が口をはさんだ。 「雨ごいは、古代では重要な儀式だったわ。ひょっとすると、それは単なる願望ではなくて、本当に精神の力で天候を左右できる技術があったことの記憶なんじゃないかしら」 「失われた超古代の技術の痕跡《こんせき》か」  今度は北川が唸った。 「まあ、その仮説ひとつでいろいろに想像できるわけだが、とにかく今はその文明はあとかたもない。仮りに僕が言うようなものがあったとしても、滅んでしまったわけだ。そして、その危機を埋めるために、石器の進歩が始まった。今度は物質文明への道だな」 「そうなると、それまでほとんど変化を見せなかった石器が、急に進化しはじめたわけですね」  栄介は北川の提出した仮説に夢中になっているようであった。 「中石器、新石器、そして土器。人間は手の文明に夢中になって、心の文明を忘れてしまった。僕らは今、それを進歩だとしか思えないが、退歩だという考え方もあるだろうな」 「とにかく」  栄介は北川の言葉をさえぎった。 「その超古代の精神文明には、神々の国へ行く技術があったのでしょう。いま、それは向うから必要なときにやって来るだけだけれど、以前はこっち側から自分たちの望むとき、自由にむこうへ行けたんですよ」 「さあ、問題は核心に近づいたぞ」  北川はソファから立ちあがった。 「何かの理由で、むこう側がこちら側の力を求める事態になっている。そこで、自分からむこうへ流れる人間を探しはじめた。だが、そういう精神的な能力を備えた者は、……退化してしまったかどうか知らないが、ほとんどいなくなってしまっていた」  山岡が栄介を指さして言った。 「だが、一人いた」 「そうだ。僕はそう思うね。でたらめに選んだわけではなかろう」  栄介は美津子を見た。 「だとすると、君もだよ」  北川が微笑して言う。 「むこう側の者。……卑弥呼たちは、君ら二人が必要なとき一緒にむこうへ渡れるよう、慎重に組み合わせた。君らは自然にそれぞれの人生の中で接近し、いまここに並んでいる」 「すばらしい……」  山岡が嘆声を発した。 「でも、判らないわ。なぜここなの。なぜ日本なのかしら。それともこれは世界中で起っているのかしら」  北川の表情に誇るようなものがあらわれた。 「日本には特殊なものがある。僕はそれと比肩しうるのは、ケルトぐらいなものだと思っているよ」 「なんです、それは」 「精神文化さ。ひょっとすると、日本は超古代のそれを長く保っていた土地ではないだろうか。たとえば日本神話には、このことに関して見落せない部分がある。それは、天孫族が、つまり外来者がこの国へ入って来たときの件《くだり》だ。彼らはこの日本を、山や川の植物たちまでもが、めいめいさわがしく物を言う国だと述べている」 「ことさやぐ……、でしたか」 「そうだ、言騒《ことさや》ぐ国さ。物質文明的世界から見れば、超古代の精神文明的世界は妖異《ようい》で、きわめてよこしまなものに見えただろう。乗り込んで行って治めるという目的が、はっきりしている世界だな」  北川は三人の顔を見まわした。  北川宏志という人物の出現は、やはり栄介にとって満足すべきものがあった。ことに、旧石器時代に栄えた高度な精神文明という仮説は、それまで栄介が考えたこともなかっただけに、彼の好奇心を燃えあがらせ、是が非でも今度の摩訶《まか》不思議な事件の真相を探求せずにはいられない気分であった。  それに、栄介は北川の提出した仮説によって、自尊心まで満足させられていた。  なぜなら、彼こそその精神の海を渡る舟の所有者であったからである。 「北川さんの話を聞いているうちに、俺はだんだん自分に自信を持つようになったよ」  北川も美津子も帰って、二人きりになったとき、栄介は山岡にそう言った。 「そうだろうな」  山岡は複雑な表情で言った。それは、幾分かの嫉妬《しつと》と、栄介の率直な感想に対する同意と、そして何割かの批判をまじえているようであった。 「君は卑弥呼たちに招かれている。なぜ招かれたかと言う理由は、北川氏の仮説によれば、君が遠い旧石器時代の精神的能力に恵まれているからだということになる。たしかにそうかも知れない。そうだとすれば、これからの君の行手には、類《たぐ》いまれな冒険が待っていることになる。神々の世界へ行って、彼らの戦いに参加するのだからな」  栄介は山岡の言い方に肩をすくめて答えた。 「なんだか嫌味《いやみ》を言われているようだ」  山岡は自分の少しこじれかけた言い方に気付いたらしく、急にフランクな笑顔になった。 「ごめんごめん。……だが、君がそう率直に言うなら、俺も自分の感じ方を率直に話そう。実は、そういう立場になった君にいくらか羨望《せんぼう》を持っているんだ。できれば俺も君のような能力に恵まれたいと思うよ。しかし、同時に何か割切れないものを感じてしまうんだ」 「割切れないもの……」 「たとえば、いま世間ではオカルト・ブームなどと言われている。俺はそれを、或る甘えの時代の終焉《しゆうえん》というように感じているんだがな」 「ほう、甘えのね」 「そうだ。ことに我々若い世代のだよ。いいかい、少し以前にフィーリングの時代と言われたことがあったろう。たとえば、デザイナーや画家、カメラマンなど、そういう分野で、昔の人々に較《くら》べたらずっと基礎的な技術に欠けたところのある若者たちが、自分たちの感性だけを前面に押しだして、一見新しげな、しかし実際にはかなり粗雑な作品を提出した時期があった」 「そう言えば基本とか熟練とかということが、ひどく軽視されたな」  栄介は山岡の口もとをみつめて言った。 「フィーリング、フィーリングと言っている内にオカルトの時代が来た」 「そうか、底に流れるものは同じだな」  栄介は山岡の言わんとしていることを察して頷いた。 「そうなんだ。俺のフィーリングはこうだ、と基本的な技術の習得をとびこえ……実は回避して自分の主観を押しつけるのは、早く言えば絵を作る場合の一番面倒な部分を省略して、すぐにひとつの作品という結論を出しにかかることだと思う。そしてみんなでそれをやった。昔風の基本をという声は、その風潮の前でいくじなくも沈黙していた。ところが、時間がたつと、フィーリング一本でやっていた連中が、一様に壁を感じはじめた」 「やはり、手の技術が必要なんだな」 「そうさ、熟練した手と感性は一体となるべきものなんだ。たまたまその時代の感覚に合えばそれでいいとなれば、三つの子が描いた絵でも、チンパンジーのいたずら書きでもいいということになってしまう。それでいちばん閉口するのは、実は当のフィーリング派の連中なのさ」 「そうだろうな」 「いま、多くの若者は手に戻ろうとしている」 「手の技術か。つまり基本だな」 「しかし、一方では当然フィーリング時代の延長線をなぞっている。それがオカルティズムの世界だ」 「どんづまりじゃないか」 「そうなんだ。いま俺は視覚的な表現技術の世界に話をかりたが、多分それはすべてのジャンルにわたって言えることなのだろう」 「そう言えば、子供たちの間のヒーローは、変身するスーパーマンだな」 「みんな、労せずして変身したがっている。子供ばかりじゃない。何か今まで自分が気付かずに持っていた才能、天分……そう言ったものが突然見つからないかと」 「一種の他力本願か」 「そうだよ。神仏に念じて何かを授かろうということに似ている」 「一方では、やはり基本から順に技術を身につけなければいけないと気付きながら、一方ではもしやということで、スプーンを曲げようとしている。もしスプーンが念じただけで曲れば、基本の習得という単調で厄介なことから解放されるのだからな」 「そういうことさ」 「つまり、それは短絡じゃないか」  栄介はそう言ってから、ふとその言葉がわが身にはね返ってきているのに気付いた。 「そうか。俺は神々の世界と交渉を持つのに、何の訓練もしていないわけだ」 「率直に言って、羨《うらや》みながらもなんとなく釈然としないのはそこなんだよ」 「困ったもんだ。どうしようもないからな」  栄介は苦笑した。 「まあそのことはいい。中には生まれつきそういう超能力が備わっている人間だっているんだ。君の場合はまさにそれさ。平気で神々の世界へ行けてしまうんだ」  山岡は慰めるように言い、急に笑いだした。 「なんだ。何も俺が慰めることじゃないじゃないか」  栄介は真顔で言った。 「それに、あの能力があるのは何も俺だけとは限らないようだ」 「うん。美津子にはそれがたしかにある」 「そうじゃない。君もだ」 「俺にも」 「考えてみろよ。俺はあの宝くじの時まで、そういう念力とかなんとかいう世界にはまったく無縁だった。しかし、美津子君はそのずっと以前から、霊媒的存在として一部では有名な人だった。その美津子君にずっとくっついていたのが君だぜ」 「偶然さ」 「果して偶然だろうか。君は俺と美津子君をつなげる役を果しているじゃないか。俺と彼女が摩訶不思議なあの神々の世界……卑弥呼によってつながっていたのは、彼女の念写フィルムと俺の子供の時からの夢の件ではっきりしている」 「でも、俺には君らのような精神的能力などないぜ」 「あるかも知れない。現に君は俺と一緒に、あの暗い小川のほとりで卑弥呼に会ったじゃないか」 「君が一緒だった。俺はただ捲《ま》き込まれただけさ」 「そうかな。あの時、俺一人が霊界へ行ってよかったんじゃないかな」 「君は、俺にもその素質があるからあの時捲き込まれる形で向うへ行ったんだと、そういうのか」 「そうだよ。卑弥呼は不必要な人間を呼ぶだろうか。また、美津子君と俺を過去にさかのぼって不思議な結びつけ方をしているとなれば、君も同時にその結合されたものの部分になっているんだぞ」 「待て」  山岡は興奮していた。 「すると、北川さんもか」  栄介は静かに頷いた。 「俺たちの常識では、今度のことはおしはかれない。北川さんが俺たちの前へ現われ、ああいう指導的立場の人物としてうけ入れられたのは、北川さんもまた、卑弥呼が欲する人間の一人だということになりはしないかね」 「そこまでできるんだろうか。だとしたら、まさに神の仕業だよ」 「疑うかい、神を」  栄介はいたずらっぽく言った。 「信じたい。俺は神々を信じたい」  山岡は真面目《まじめ》であった。 「だから俺は、高輪《たかなわ》の小さなホテルとかへみんなでこもって、卑弥呼の迎えが来るのを待とうという北川さんの提案を一も二もなくうけ入れたんだ。あの一千万円はそのために使われるべきだよ」  山岡は栄介の目をみつめ、やっと同意したようであった。  邪 神  長く高いコンクリートの塀《へい》に囲まれた広い敷地の中にあるその小さなホテルのことは、近くの住民でさえよく知らないのではないだろうか。  それは高輪の住宅街にあり、常にひっそりと静まり返っていた。  北川に案内されて、栄介、山岡、美津子の三人が、僅《わず》かな身のまわり品をそれぞれ鞄《かばん》につめてその正面の錆《さ》びた鉄の門の前へ立ったときも、それが営業しているホテルだとは信じられない程であった。  看板らしいものは何ひとつなく、ただ、北川に言われて石の門柱に近づいてよく見ると、そこには真鍮《しんちゆう》のプレートが打ち込まれていて、黒ずんだその文字は、かすかに東都ホテルと読みとれた。 「随分古そうですね」  山岡が北川に言った。 「とにかく、建物は明治のものだ。個人の所有で、これほど完全に明治のものを残している建物はほかにないと言ってもいいだろうね。例の明治村を作るときも懇望《こんもう》されたのだが、持主というのがちょっとかわった人でね」  北川は、閉じた鉄の門の前でそういうと、勝手知った様子でそばのくぐり戸から中へ入った。 「お客さん、いるのかしら」  美津子が中へ入ってすぐに言った。 「商売としてなら、これほど下手《へた》な商売はあるまいね」  北川は苦笑するように言った。 「どんな人がお客になるのかしら」 「それはいろいろだが、ごく限られた人々であることに違いはないね」 「限られたと言いますと……」 「ホテルの持主のおめがねに叶《かな》った人だよ」  北川は、ホテルの客について多くを語りたがらない様子であった。多分、それがこのホテルをとりまく掟《おきて》のようなものになっていて、だからこそこういう形態でひっそりとやってこられたのだろう。 「西洋館ね」  両側に樹木が生い茂る道をたどって、正面に建物が見えたとき、美津子は歓声をあげた。 「本当に、明治という感じだな」  栄介もそう言った。何かその中にとほうもない秘密がかくされているような気がして、胸がときめいた。  子供の日以来、そんな感情は久しぶりであった。  北川は腕時計で時間をたしかめ、 「少しゆっくり歩いてくれないか」  と、三人の歩き方に注文をつけた。  その意味はすぐに判った。栄介たちが近づいて行くと、正面玄関のドアが大きくひらいて、六、七人の男女が、ぞろぞろとその前に並んだ。一行を迎えたのである。栄介たちはこそばゆい思いで顔を見合わせた。  大きな体格の、八十歳はこえたと思える老女が、濃い臙脂《えんじ》のショールをかけ、それを胸の前でかき合わせて、玄関の中央に立っていた。 「ようこそ……」  音頭《おんど》をとるように老女が言うと、従業員たちが一斉にお辞儀をした。 「おやまあ、随分お若いかたがただこと」  老女は北川に向って笑顔で言った。大きい体に丸顔で、どこか童話に出て来るいいお婆さんといったおもむきがあった。  それにしても、従業員たちまでみな老人めいていた。よく見れば、栄介たちと似た年頃の男も二人ほどいるのだが、全体としての雰囲気《ふんいき》が、その老女の年齢に近い老成した感じなのであった。 「まずこちらで……」  老女はロビーの椅子《いす》を示した。王朝風とでも言いたい贅沢《ぜいたく》な椅子が並んでいた。 「神様の国へ行くとおっしゃるのは、このお三人ですか」 「ええ」  北川が答えた。すべてが時代ばなれしていて、若い三人は口を利《き》くのもはばかられる思いであった。 「わたくしが、この館《やかた》のあるじです。どうぞいつまででも、ごゆっくりおすごしください」  三人にそう言い、すぐ北川へ目を戻した。 「わたくしが、一度神の国へ行ったことを、このかたがたにお話になりましたの」 「いいえ、まだです」  すると老女は遠くを見る目つきになった。 「戦争がはじまるずっと以前、わたくしはやはりここに住んでいて、そのお庭が一か月の間も神々の国へつながっているのを、見たのですよ」  三人は同時にロビーの左側の窓を見た。小さな池と、綺麗《きれい》に手入れされた芝生があり、その先に濃い樹影があった。 「あのお池の向う側が、神の国へ続いていたのです」 「そこへおいでになりましたの」  美津子が尋ねた。 「ええ。まだ若かったものですから、或る日突然に、お庭の向うに見たこともない世界がつながってしまったので、ついたまらずに行ってしまったのです」 「どんな所でした」 「それはあなた、とてもひとことでは申せませんね。でも、わたくしはたしかにバベルの塔を見ましたのよ」  北川が老女の話を打ち切らせるように口をはさんだ。 「ここを君らの合宿に選んだのは、そういうわけだったのさ。ここに、よくは判らないが、もう一人君らと同じ体質に恵まれた人がいると思ったのでね」  北川はその老女をみつめて微笑していた。 「では、お部屋へご案内いたしましょう」  背の高い老人が来て言った。黒い服に白いシャツ、蝶《ちよう》ネクタイといういでたちで、おまけにまっ白い手袋をはめていた。 「それではわたくしは……またあとでお目にかかりましょう」  老女はそう言って立ちあがり、建物の奥へゆっくりと去った。  四人はそのあとに続くような恰好《かつこう》で途中まで行き、白手袋の老人の案内で、左側にある木の階段を登った。  それぞれシングル・べッドの部屋であったが、すべてが古めかしいかわり大ぶりで、スペースもたっぷりとしていた。  ちょうど老女が言った庭を見おろす形で窓があり、栄介が外を眺めていると、山岡が呼びに来た。 「北川さんの部屋へ集まらないか」 「うん」  栄介は自分の部屋を出た。  栄介たち三人は庭側の部屋に並んでいて、北川は廊下の反対側の部屋であった。そのかわり、次の間つきのスイート・ルームである。 「この配置でどうかね。ここは我々の集会所ということにして」 「いいですね。でも、三人が入れかわり立ちかわり北川さんの部屋へ押しかけたんでは」 「いいよ、そのほうが。そのためにここへ入ったんだ」  四人は思い思いの椅子に坐って、ゆったりと体を伸ばした。 「とてもすてきなホテルだとは思うけれど、夜になったら少しこわいんじゃないかしら」  美津子が冗談のように言った。現代の常識で見ると、天井なども倍近い高さで、その余分な空間に、何かがひそめる余地がありそうであった。 「たしかに」  北川は苦笑していた。 「これで荒れ放題にしたら、怪奇映画の舞台にはもって来いだな」 「本当に、ここであれが起ってくれますかね」  栄介は真顔で言った。 「我々はそのつもりでここへ入った。その理由は、すべて仮定のことから発してはいるが、神々の世界が君や美津子君を求めているということだ。しかも、その時期はどうやら切迫して来ているらしい。ここにこもって外部との接触を絶てば、あれはここで起るしかあるまい」 「そうですね」  栄介はあっさり認めた。 「一人で連れて行かれるのは嫌《いや》だよ。心細いからな。行くならみんなで一緒に行きたい」  栄介はおどけたように言ったが、それは本音であった。卑弥呼がどこかで呼んでいるような気がしてならなかった。  四日間、栄介たちはそこで待った。  待ったと言っても、何がどう起ると判っていたわけではないが、今まで起った不可思議な現象の連続を考えると、当然まだ何かが起るはずであった。  ことに北川宏志は、それが起ることを確信していたが、かえって栄介のほうが、日がたつにつれて懐疑的になった。  五日目の夕食のとき、栄介は東都ホテルで漫然と何かが起るのを待つより、畿内《きない》とか北九州とか、邪馬台国《やまたいこく》があったと思われるあたりへ、こちらから乗り込んで行ったらどうかと提案した。  すると北川は言下にそれを否定し、そんなことをしても結局は同じことなのだと主張した。 「君と美津子君を中心に起っているのは明らかじゃないか。場所がどこへ移ろうと関係ないんだ。たしかにその昔、邪馬台国があったところへ行けば行ったで、そこでも四次元的な現象は起るだろう。でも、それならここだって同じことだよ」  そんな会話をしていると、痩《や》せているがまだしゃっきりとした感じの老ウェイターが、かたどおり白い布を曲げた左腕にかけ、そっと北川のうしろに来て上体を僅かに折った。  何かささやいている。  北川はその老ウェイターの言葉を聞くとすぐ、さっと顔色をかえた。  栄介、美津子、山岡の三人は、その北川の表情の変化をすぐに感じとり、食事の手をとめて北川をみつめた。ウェイターはすぐ上体を起し、元の位置へ戻って行く。北川はぼんやりと栄介の頭ごしに窓の外を見ていた。 「どうしたんです。何かあったのですか」  栄介が言った。食卓はやや長方形をしており、長い辺に山岡と美津子が向き合い、短い辺に北川と栄介が向き合っている。そして、栄介のうしろには窓があった。  北川は我に返ってナイフとフォークを静かに置くと、ナプキンをとってどこかわざとらしい感じで口のあたりに軽く当てた。 「諸君……」  北川はニヤリとした。ふだん温厚な人柄にも似ず、ちょっと凄味《すごみ》のある笑い方であった。 「我々はやっと着いたようだよ」  北川を注視していた三人は、意味がわからずに北川の次の言葉を待った。しかし、北川はそれ以上説明せず、椅子から立ちあがると、ゆっくり栄介のうしろへまわった。 「我々は着いたのだ」  三人は同時にあっと叫んでテーブルを離れ、窓にかたまった。  庭の芝生の先は植込みになっていたのだが、今はもうそれは植込みとは言えなかった。くろぐろとした森が押し寄せていた。  東都ホテルは少しもかわらずにそこにあった。しかし、そのホテルがあった高輪の町が、東都ホテルをかこむ石の塀ごと消えていて、あたり一帯は緑濃い森にかわっていたのである。 「どうなっているんだ」  山岡が叫んだ。 「着いたのさ」  北川はうれしそうに言う。 「そうなんだ、きっとホテルごと卑弥呼《ひみこ》の国へ来たんだ」  栄介が言うと山岡は、 「まさか」  と身をひるがえして食堂を走り出て、正面玄関から芝生のはずれまで走って行った。 「すると、ホテルが元の地点にあって、まわりが古代の姿にかえったのかしら」  美津子は案外落着いていた。しかし、もっと落着いているのは、老ウェイターであった。 「お食事はもうよろしいのですか」  泰然自若《たいぜんじじやく》としてそう尋ねた。栄介と北川は顔を見合わせた。 「こんな変なことになっても、あなたはおどろかないのかね」  北川が言うと、老ウェイターは軽く会釈《えしやく》して見せた。 「奥さまから……いえ、当ホテルの主人から、長いあいだこういうことが起る日のことを聞かされつづけて参りましたので」 「なるほどね」  北川は頷き、窓の外へ目を戻した。山岡が駆け戻ってくるところであった。 「どうだったね」  北川は今度は山岡に言った。山岡は窓の下に立って、火事を見て来た子供のように、興奮して告げた。 「森の中へ道が一本続いています。町はどうなっちゃったんでしょう」 「町がなくなったのではないらしい」 「えっ、それじゃあ……」 「このホテルが転移したのさ」 「すると、元の場所ではどうなってるんです」 「知らんね。しかし、多分少しの変化もなく、元のままあそこに建っているだろう」 「するとホテルはふたつあることになりますよ」 「いや、向うのホテルもこのホテルもまったく同じもので、両者はひとつだ」 「判らないな。じゃあ、向うにも僕らがいるんですか」  北川は肩をすくめた。 「同時、という考えを棄《す》てたほうがいいね。これは別な次元だ。宇宙ごと違うんだよ」 「上へ行って、もっと遠くまで見て来ます」  山岡がそう言って玄関へまわったので、栄介もダイニング・ルームを出て階段へ向かった。 「見ろ、凄《すご》い森だ」  山岡は二階の窓から外をのぞき、大声で言った。 「昔の日本というのは、こんな森だらけだったのかなあ」  栄介が言うと、山岡は当惑したように眉《まゆ》を寄せた。 「日本……。どうして」 「ここは卑弥呼の国だぜ」 「たしかにそうかな」 「だって、俺を呼んだのは卑弥呼にきまってるじゃないか。あの長い夢の中で……」  山岡はあわてて手を振った。 「それは判ってる。違うんだ」 「どう違う」 「俺が判らないのは、ここが日本なら、元いた所はどこなんだろうということさ」 「それはやはり、日本さ」 「そいつが判らない。同時にふたつのものが別々にあり得るんだろうか」 「あるんだろうな」  栄介は、はじめからこの神秘的な現象に対する完全な理解をあきらめていた。 「三次元とか四次元とかいうことは、俺にはよく仕掛けが判らない。逆に二次元の世界はどうだって聞かれても、やっぱり俺には判らない。しかし、あの森は現にあそこにひろがっている。理屈が判らなければ、君はあの森を自分の錯覚だと思うのかい」 「いや、そうじゃない」  山岡はほとんど悲鳴をあげるように言った。 「あるものは仕方ないじゃないか」 「それさ」  栄介のほうがずっと落着いている。 「俺たちは客観を教えられて来た。それはお前の主観だろう。もっとよく目をあけて物を見ろ、ってね。しかし、今までの生涯《しようがい》で君が見かけた犬が、全部犬だったと言い切れるかい。猫《ねこ》を見まちがえたかも知れないし、夜風に煽《あお》られて道を横切った紙を犬だと思い込んだかも知れない。或いは、犬でも猫でも紙でもない、ただの魔ものだったかもしれない」 「ただの魔もの」 「そう。魔ものはいないと教えられて来た。客観的には存在しないためだ。しかし、主観的には、いくらだっている。ひょっとすると、これは一種の主観的な世界かも知れないだろう」 「主観の森か」  山岡はあらためて森を眺めた。さっきまでよりだいぶ落着いたようだった。 「そうか。霊……霊の世界だったな」 「それでいいんだろう。トポロジーなんか持ち出しても判りっこないもの。心霊、霊魂。そういったものは、そのまま受け取るよりないのさ。それもきっと、我々の客観がまだ幼稚だからだろうけれど」  栄介ははてしなくつらなる森を眺めた。 「とにかくここは卑弥呼の国だ」  栄介は力強く言った。 「それに間違いない」 「どうなるのかな」  山岡は窓から体をのりだし、左右をのぞき込むようにしながら言った。 「どうなるって……」 「帰れるかな、無事に。おい、左のほうにすぐ山が見えるぜ」 「そうだろう。山がないのはおかしいよ」 「なぜだ」  山岡は上半身を部屋の中へ戻して言った。 「俺があの長い夢の中で卑弥呼に会ったときも、ヤマトという言葉が出たように思う。そして、いつも俺はヤマトといわれるたび、山の人というイメージでそれをうけとめていた。山の門とか山の戸とかいうイメージではなかった」 「しかし」  山岡は外を気にしながら反論した。 「それは君のイメージじゃないか。ヤマトと聞いて山の人と思った。だから……」 「いや、それは違うね。山の人と聞いたのは俺の自由意志じゃない。卑弥呼がそう言ったんだ」 「どうしてそんなことが判る」 「だってそうだろう。たしかに卑弥呼は口を動かし、声を発していた。でも、その声を聞いただけなら、俺は彼女の言うひとことだって判るはずはないんだよ」 「あ、そうか」  山岡は驚いたようであった。 「そうさ。卑弥呼の昔の言葉が俺に判るわけがないさ」 「するとつまり」  山岡は頭に手をやった。 「うん。テレパシーのようなものなのだろうね」 「なるほど、それでウルのジッグラトでも話が通じたというわけか」 「あの時、君はどう思ってたんだい」 「幻覚かと……。そうさ、妖術《ようじゆつ》にかけられたと思っていたのだからな」  そのとき、下から北川の呼ぶ声がした。 「どうしたんだろう」  二人は走りだそうとし、窓の外を見て一瞬足をとめた。  芝生の庭へ美津子が歩き出していた。二人は部屋をとびだして一階へ戻った。 「とめなければ……」  北川はロビーの戸をあけはなち、庭へ出るテラスのところに立っていて、あわてた山岡が美津子のあとを追おうとするのを強く引きとめた。 「待ちなさい」 「だって……」  山岡はもどかしげに北川の顔と美津子のほうを交互に見た。  北川は栄介に劣らず落着きはらっていた。 「我々はこのためにここへ来たのだ。美津子君に危険はないはずだよ」  栄介は森のほうへ向って行く美津子のうしろ姿を眺めていた。 「おかしいな。彼女はふらふらしていない」  そう言うと北川が頷いた。 「トランス状態ではないと言いたいんだろう」 「ええ」 「当然さ。トランス状態になるのは、ふたつの世界が離ればなれになっていて、その間を彼女の霊の力で埋めなければならないときだけだ。ここではふたつの世界がくっついてしまっている」  すると山岡が抗議するように言った。 「でも、こっちの世界はここだけだ。このホテルだけですよ」  北川は平然としていた。 「分離させられたんだ。多分一時的にね。その一時的というのは、百万分の一秒かも知れないし、数千億年かも知れない」 「どっちにしても、向うの世界で欠落が起っている」 「さあ、どうだかね。多分そんなことはないと思うがね」  言い合っている内に、美津子は森の入口に迫っていた。さっき山岡が見て来た、森の中のこみちへ続くあたりだ。 「入って行ってしまいますよ」  山岡が叫んだ。 「いや。彼女は卑弥呼に呼ばれていると言った。何かが彼女には聞えたのだろう」  微風が吹くと、森の樹木がいっせいに葉ずれの音を起した。 「おやまあ、すてきな森だこと」  うしろでホテルの女主人の声がした。 「あなたがたはすてきな人たちね。私が長い間待っていたことを、とうとうおやりになったんですもの」 「やあ」  北川は振り返って老夫人を見た。 「彼らは案の定《じよう》僕らを呼び寄せてくれましたよ。このホテルはまさしく時の船です」 「でも、以前私が見たのとは、なんだか少し違うようね」 「ここは多分邪馬台国なのです」 「とにかくお礼を言いますわ。どうも有難う」  山岡は芝生の上へ踏み出していた。 「彼女は行ってしまった」  たしかに、美津子の姿は森の中へ消えていた。 「心配ありませんわ」  老夫人はゆっくりと言った。 「神は人を傷つけません。それが神だからです」  山岡は不安そうな目でふり返った。  森へ消えた美津子はなかなか戻って来なかった。 「探しに行きましょう」  さっきから三分おきぐらいに山岡はそう言い、そのたび少しずつ前へ出て行くようだった。 「待ちなさい。来るなと言ったのは彼女だ」  森はひっそりとしていて、葉ずれの音以外何の物音もたてない。 「あ……」  栄介が急に森の中を指さした。 「どうした」 「何か森の中で光ったようです」  栄介たちは息をのんで変化を待った。  やがて、栄介が言ったように、森の出口のあたりに何かキラキラとするものが見えはじめた。そして、それにホテルの前の人々が目をこらす内、しずしずと白い服を着た人々の姿が見えはじめた。  先頭の一人が長い棒の先に、金色に光るものをつけて捧《ささ》げている。 「何だろう」 「兵士だ」  北川が言った。 「見ろあれを。古代の兵士たちだ」  しずしずと進んで来る人々を見て、北川は興奮気味であった。その白い服の兵士たちは、森の入口から左右に展開し、森に沿って一列に横に並んだ。  やがて、兵士たちと違う服装の一団があらわれた。白く長い裳裾をひるがえした人々である。 「巫女《みこ》たちだ。あれは女だぞ」  北川がそう言う間もなく、純白の巫女の中央に、真紅《しんく》ただ一色の寛衣を着けた人物が現われた。兵士の先頭に立っていた、金色のしるしを奉じた男が、そのはるか後方に立ち、真紅の巫女は芝生の中へ一直線に進んで来る。  老夫人一人をテラスに残し、北川と山岡と栄介は、ゆっくり真紅の巫女が来るほうへ進みはじめた。 「あ、美津子君だ」  栄介が叫ぶと、その真紅の巫女はにっこりとほほえんだ。 「そう。わたしは美津子……」 「どうしたんだね、その恰好は」 「わたしは卑弥呼なんですって」 「え……君が」 「そう。神に仕える女なの」 「神とは」 「あなたよ」  美津子はまっすぐに腕をのばして栄介を指さした。 「俺が神だって……」 「そう。あなたはここでは神なの」  栄介が戸惑っているうちに、北川が言った。 「これからどうするんだ」 「たたかわなくてはなりません」  美津子の卑弥呼はおごそかに言った。 「たたかうって、いったい相手はどこにいるんだ」  山岡は不審そうに美津子を見た。 「間違いなく君は美津子だな」  たしかめるように言い、真紅の寛衣を指さした。 「どうしたんだ、その衣裳《いしよう》は」 「これは最高位の巫女が着けるものよ」 「どうして自分が卑弥呼だと判るんだい」 「説明しにくいわ。呼ばれて行ったら自分が卑弥呼だということに気づいたのよ」  北川が鋭い声で尋ねる。 「誰に呼ばれたんだ」 「卑弥呼にです」 「ほう。すると卑弥呼は何人もいるわけだね」 「ええ。卑弥呼とは最高位の巫女の呼び名なんです。そして、ここしばらく、卑弥呼が絶えていたんです」 「なるほど、それで呼ばれたのか」 「ええ」 「岩井君が神だというのはどういうわけだ」 「霊力が強い者が神になります」 「おかしいな」  北川は首をかしげた。 「君は岩井君と同じように、彼らにとって」  と、北川は森に沿って一列横隊に並んだ兵士たちを見た。 「ふしぎな現われかたをしたはずじゃないか。君も神であっていいはずだがね」 「そうです。或る場合、私も神です。神と、神に仕える巫女も神。もし神が或る者に信任を与えれば、その者も神。力のある者が死んでも神。ここにはそういう神がたくさんあるのです」 「それにしても異様だね。巫女は白衣を着るのではないのか。たしか岩井君が夢で見た卑弥呼も白衣を着ていたというが」 「白衣も着ます。でも、今は神を迎える儀式のときです」 「それはいいとしよう。だが、あの兵士たちの服装や髪型が納得《なつとく》いかないね。ここは邪馬台国だろ。僕も少しは古代について学んでいるが、どうも少し感じが違うようだ」  美津子は微笑した。 「そのことなら、私にはもう判っています。でも、あとでゆっくりお話ししますわ。今は儀式のとき。神々を神の館からお迎えするのが私のつとめです」  北川と山岡は栄介を見た。すると美津子は首をふり、 「いいえ、あなたがた三人が三柱の神なのです」  と言った。 「俺もかい」  山岡は驚いて大声をたてた。後方の兵士たちが少し体を動かしたようであった。 「まあいい。行って見よう」  北川は栄介と山岡の背中を押した。  美津子が何か合図を送ると、兵士たちは二列になって森の中へ戻りはじめる。美津子は三人の先頭に立ってその二列縦隊の行進の中へ無造作に割り込んで行った。三人のうしろには例のしるしを捧げた大男の兵士が従い、更にそのあとに残りの兵士たちが二列になって続いた。統制がよくとれていて、兵士たちは静かに整然と歩いている。 「あ、これは……」  栄介はうしろの大男が捧げ持っている長い棒の先を見あげて叫んだ。 「なんだ」  北川が同じようにその棒の先の光るものをふりあおいだ。 「ウルの神殿から持って来た奴ですよ」 「ほう。あの銅の鉾《ほこ》か」  北川は感心したように言った。  森の中の道は、うねうねと曲りくねっていたが、どこまで行っても掃《は》き清めたように綺麗だった。地に落ちた枯葉さえ何か趣きのようなものを感じさせている。 「豊かな森だ」  北川は言った。 「これが古代の森なんだなあ」  すると美津子がちらりと振り返った。 「さっきあとでお話しすると言いましたけど」  そう言ってまた前を向き、いかにも最高位の巫女にふさわしいおごそかな歩きかたをしながら続ける。 「北川さんのお考えになっているような古代ではないのですよ。ここは神の国で、私たちがいたあの時代の過去ではないのです」  すると北川は急に顔色を変えた。 「そうか。そうだったな」  歩きながら考え込み、やがて顔をあげて美津子に言った。 「まったく君の言うとおりだ。僕はうっかり混同するところだったよ」 「なんです。なんのことです」  山岡が尋ねた。 「いいかね。ここは僕らがいたあの昭和という世界の過去ではないんだ。そのことをよく頭に入れておかないと、いろいろ妙なことが起ってくるだろう」 「だってここは邪馬台国ですよ」 「たしかに名前はそうかも知れないし、風景や風俗も、あたかも我々の時代の遠い過去のもののように思える。しかし違うんだ。僕らは時間をさかのぼったわけではない。時間旅行をして卑弥呼の時代へ着いたのではないんだよ」 「じゃあ、ここは僕らがうっすらと知っている、あの魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に記された場所ではないんですね」 「そうだ。ここは異次元の世界だ。神々の国なんだよ」  北川は断言した。  森の道は曲りくねってすぐ方向が判らなくなったが、どうやらホテルの東か東北に当たるあたりの山の麓《ふもと》へ向かっているらしかった。  しだいに樹々《きぎ》のあいだのすき間が大きくなり、明るい感じに変わって来た。そして森がまばらになる頃、あたりに点々と畑らしいものが見えはじめた。  小さな川が道を横切っているところへ来ると、急に栄介と山岡が足をとめて顔を見合わせた。 「憶《おぼ》えているか」  栄介が言った。 「うん。いつかの晩、銅鉾を白い衣の女に渡した場所だよ」  山岡が答えると、栄介は美津子に問いかける。 「この場所を君は憶えていないかい」  美津子が足をとめて振り返ったので、兵士の行進が一時停止した。 「どうして。私の記憶にはないわ」 「だって君は卑弥呼だろう。僕らはここで君にあの銅鉾を渡したんだぜ」  すると美津子は冷淡に答えた。 「まだ判らないの。卑弥呼は私だけじゃないのよ。その銅鉾は」  と二人のうしろに捧げ持たれている銅鉾を見あげた。 「もう随分以前から、卑弥呼の軍勢のしるしとされているのよ。何代前だか判らないくらい……」  栄介は肩をすくめて北川を見た。 「時間が積み重なっている感じだな。ごちゃごちゃでよく判らない」 「そんなことはまだ軽いほうだ。この森を歩いて来た時間を、ひょっとすると僕らは何億分の一秒という短い時間に圧縮しているのかも知れないんだからな」 「向うではそうなんですか」  栄介はついさっきどこかへ置いて来た東京の町を思い出しながら言った。 「判らんよ。ただそういう仮説さえ成り立つだろうということさ」  北川は笑って二人の背中を押した。卑弥呼が小川を渡り、行進が再開した。 「夢を見たと思うと何十日も眠りっぱなしだし、起きてれば何億分の一秒だというし、さっぱり判らなくなった」  栄介が首を振ると、やっといつもの冷静さをとり戻したらしい山岡が笑った。 「俺なんかとうに判らなくてあきらめてしまったよ」  その川を過ぎ、川の両岸に生い繁《しげ》った樹木の間を抜けると、柔らかな草の生えた、なだらかな道になった。 「見ろ、あそこに鳥居が見える」  北川が言った。道の行手に丸い山が見えていて、その麓に素木《しらき》の鳥居があった。 「社殿がない」  近づくにつれ様子がはっきりすると、山岡がそう言って北川を見た。次元を転移した時の混乱からさめて、古代に関する知識がよみがえったのだろう。 「うしろの山全体が神体になっているのだろうな」 「そうらしいですね」  そのとき、三人のうしろについていた兵士たちが急に道をそれ、右側の草の中をどんどん追い抜いて行った。 「どこへ行くんだろう」  山岡が首をひねった。  しかし、兵士たちの行先はすぐに判った。鳥居のずっと右側にこんもりとした繁みが見えていたが、その奥に何か金色のような感じの色彩がちらちらと見えはじめたのであった。 「あの中に何かあるな」  追い抜いた兵士たちはそこへ向っている。三人が瞳をこらすと、緋《ひ》の衣を着た卑弥呼の美津子が言った。 「あれは私のすむところ」  距離が近くなったせいもあるが、そう言われればたしかに屋根のような形が見えていた。 「何で出来ているんだい」  山岡が尋ねた。 「木よ」 「木……」  三人はその答に驚いた。その樹間にちらちらする建物は、とうてい木とは思えなかったのである。明るい黄色で、輝いているようにさえ思えた。 「あれが木造だろうか」  栄介が言うと、北川がじっと眺めて確信ありげに笑った。 「たしかに木だ。僕らはなんて迂闊《うかつ》なんだろう」 「どうしてです」 「素木の感覚をすっかり忘れてしまっていたじゃないか。あれが何の木か、まだよく判らない。しかし多分|檜《ひのき》か何かだろう。どちらにせよ、素木とは白っぽいものと考えてしまっている。だが、材料によってはああいうように黄色く見えてもおかしくない。僕らの感覚からすればあまりにも明るすぎる黄色だが、緑と土と石だけの世界では、あの新しい木の色は天然の色彩として、立派にひとつの権威を象徴しうるじゃないか」 「たしかに、僕などははじめ金属か何かだと思いましたよ」 「神社と言えば、いや、木造建築と言えば、僕らは雨風にさらされて灰色になったものを考えてしまう」 「そう言えば、ご遷宮《せんぐう》当初のお伊勢様《いせさま》のようですね」 「そうだ。古代の日本は決して地味な文化の世界ではないのだ。……おや、また僕までがここと僕らの世界の過去を混同してしまっているな」  北川はひとごとのように笑った。  先頭は鳥居に達してとまった。いま、兵士たちはゆっくりと間隔をつめ、鳥居の両側に並んで、中央の卑弥呼の通路を守る形となった。  美津子は三人の男と銅鉾を捧持する一人の兵士を従え、しずしずと山へ向っていた。 「あの山自体がご神体だとすると、卑弥呼の神である俺はいったいどういうことになるんだろう」  栄介はつぶやくように言った。美津子にもそれは聞えたはずであったが、彼女は最高位の巫女の役をおごそかに果してしゃべらなかった。  三人は鳥居をくぐった。銅鉾を持った兵士は鳥居の前でとまり、やがて先頭を進んでいる美津子もとまった。 「山へ……」  美津子は細く高い声で言った。 「どうするのかね」  北川が尋ねる。 「山へお登りください」 「だって、この山は聖地なのではないのかね」 「そうです。だから、山の頂きへ」  山岡が栄介を軽く押した。 「山へ登れってさ」 「三人ともです」  美津子がまた高い声で言った。 「どうしてだ。僕らも神か」 「はい。この世ならぬところからおくだりになった神々ですから」  栄介ははっと気づいた。美津子はこの聖域に入って、すでにトランス状態に陥っているらしかった。 「よし、登ろう」  主神、という自覚もあって、栄介は山の繁みに足をふみいれた。  道はろくになかった。樹《き》の枝や蔓《つる》が何重にも重なり合い、その中に、けもの道よりも細くふたしかな、やや道らしい跡のあることが判るだけであった。 「ひどいところへ追い込まれたな」  山岡がぼやいた。  しかし、栄介は緊張しはじめていた。やみくもにその道らしい跡をたどって登っているうちに、どこか記憶の一部をおおっていたひからびたものが、ポロリ、ポロリと欠け落ちて行くような気がしたのである。  その欠け落ちたもののあとに、ひどく鮮明な記憶が現われていた。それはあの既視感覚に似ていたが、それとも少し違うようであった。  とにかく栄介は、その道のことをよく憶えていた。いつかとんでもない遠い時間のはてで、彼は自分がそこを切りひらき、一歩一歩登っていたはずだったのである。  栄介は焦った。一秒でも早く山頂にたどりつかねばと思った。なぜなら、その山頂のイメージとだぶって、霜田無仙の顔がまがまがしく揺れていたからである。  栄介は、その既視感覚に似たものを、北川や山岡には告げなかった。この異る時空の世界では、そのような感覚が起るのは当然なことのような気がしたからである。 「ふたつの世界を経験するのは、僕らがはじめてではないのでしょうね」  消えかけている古い道を山頂へたどりながら、栄介はたしかめるように言った。 「そうだよ」  北川は栄介のすぐうしろで答えた。三人は一列になって登っている。 「僕が想定している石器時代の文明では、異次元へ旅することも珍しくなかったはずだ。アダムとイブが楽園を追われたというあの伝説は、或る集団がそれまで誰もが持っていた霊的能力を失ったときの記憶ではないだろうか」  すると山岡がいちばんうしろで言った。 「そうだとすると、北川さんが言う超古代文明とは、精神の力で世界を楽園にする、まさに理想的なものだったのですね」 「仮説であり想像であり、具体的に証拠だてるものは何ひとつない。それだけに僕はいろいろな角度から考えてみた。蜜《みつ》の川が流れ、手をのばせば果実がどこにでもみのっていて、美しい花が咲き乱れる……。それは伝説の中のパラダイスだ。実際のエデンの園はどうだったんだろう」  道はますます細く、ときどきたちどまってたしかめないと、その痕跡がつかめないほどになって来た。 「僕は超古代の世界が、それほどの楽園だったとは思わないんだ。しかし、人々が快適に過してはいたろうと思う。たとえば、彼らは少しでも自分たちの体を養う力のある動植物は、何の苦もなく発見して、手あたりしだいに食べていたと思う。虫や小さなけものたちを、精神力で動けなくすることもできたのではないだろうか。しかし、草の根や木の皮がそれほど美味だったとは思わない」 「そうか」  山岡が大声で言う。 「超古代文明は、それをこの上もない美味に感じる技術の世界なんですね」 「そうだよ。そして、満腹すれば荒野をいちめんの花の野にかえて、その花園で満ち足りた時を過すのさ。人間は一人一人が自己の主観的な世界の造物主というわけだね」 「逃避ですね」 「今の人間から見ればそうだろう。だが、そういう超古代の痕跡は、現代でもいくらでも発見できる。たとえば、自閉症患者の内面はどうなっているのだろうか。或いは麻薬などによる幻覚の世界もそうだ。そして、テレビ、映画、演劇、絵画、文学。それらは人間の根源的な欲求に結びついて、決してなくならない。いや、むしろ進歩してさえいる。ひょっとすると我々は、一時失った超古代の文明を、別な形でとり戻しつつあるのではないだろうか」 「オカルティズムへの道は、人間のあるべき姿だと言うのですか」  山岡はとがめるように言った。もうだいぶ登って、間もなく頂上へ着くようだった。 「さあね」  北川は珍しく、はぐらかすように笑った。 「そこまでは言えないだろう。しかし、我々は進化論のようなものを、少したよりにしすぎたのではないだろうか。考えようによっては、進化論は王権神授説のように、王の座にある者をよろこばせすぎたのではないかという気がするんだ」 「王権神授説」 「そうだよ。それは王にとって非常に好ましい考え方だ。自分の地位はそれで保全され、することも正当化できる。進化論はたしかにひとつの真理を語っているのだろうが、それによって人類はどれほど勇気を得ただろう。自分たちは進化して来た。そしてこの先も進化して行く。そこへ近代科学の発達が重なった。技術の進歩が進化論の中でとらえられ、新しいものはすべて正しいという見方さえ生まれた。しかし、我々は進化もして来たろうが、或る面で退化もしているかも知れない。ことに精神なり精神力なりの面ではね」 「そこに北川さんの超古代文明観が生まれたわけですね」 「憧《あこが》れ、かも知れない。しかし、もっと身近な例をあげれば、この半世紀の間に、忍耐力という点で日本人は驚くべき退化をしてしまったとは思わないかね。一部の戦後派を含めた戦中、戦前派の世代は、重い荷を、何の利得にもならないのに、運ぶ力を持っていた。他からの強制だの命令だのという以前に、それだけの忍耐力を持ち合わせていた。餓《う》えや渇《かわ》きに対しても、同じように或る期間耐えることができた。しかし、戦後世代の大半は、そのような生物としての基礎的忍耐力を失ってしまっている。それは、今すぐにでも回復できることではあるさ。ただ、そうする必要のない社会を作りあげて、そこに適応しようとしはじめている。この傾向がもっと長く続けば、今に生物としてはひどく異様なものが生まれて来るのではないだろうか。自然条件からかなり隔絶した生物とでも言ったような……」 「進化じゃありませんか」  山岡はそう言ったが、かなり逆説的な調子であった。自嘲しているようだった。 「そう」  北川もその真意を感じ取ったらしかった。 「王権神授説なみの進化論で言えば、それは進化だね。明日の人類は自然の枠《わく》の外に立つだろう。ヘドロの海も悔いる必要はなく、汚れた大気も快適にコントロールできる、とね」  北川は笑った。しかし、栄介はその会話にさっきから加わらずにいた。何かよく判らないが、山頂に何か異常なものが待ちうけている気がしたのだ。 「ところで山岡君」  北川がちょっとふりかえって言った。 「なんです」 「今、僕は僕らの文明を批判して見た。進化論によって科学の発展を正当化し、自然の枠の外に立つ日が来ることを考えて見た」 「はい」 「しかし、その日が来るだろうかね。自然というのは地球の上のことばかりではないんだよ」 「つまり、釈迦《しやか》の掌《て》ですね。いくら頑張《がんば》ってもその外へは出られない」 「そうだ。そして、自然の枠の外に立ったと思った瞬間に、僕らは痛撃をくらうことになるだろう。大げさに言えば、今がその時代だと言えなくもない。暑い夏、僕ら現代人はクーラーのある建物で夏という自然の枠外に立っている。冬の寒さからも同じように無関係でいて、それを富だとし、進歩した社会の恩恵だと思っている。しかし、夏雲がもたらす雷で、そのクーラーの恩恵は一挙に何十万戸という規模で消滅してしまう。昔なら、落雷の被害者は一度に数人がせいぜいだろう。そして、それが単純な落雷などではなく、もっと複雑かつ大規模なものだったらどうなる。新幹線がとまり、コンピューターが沈黙してしまったら。たとえばそれは大規模な戦争であってもいい。そして社会がすべての近代的な機能を喪失《そうしつ》してしまったとき、地上に残るのはどの草が食べられるかもわからない無力な人間どもだ。人間が自分たちの社会を修復する力を失ってしまったら……それだけ自然から勝手に遠ざかり、道具に依存しすぎてしまったとしたら」 「破滅ですね」 「そう、破滅さ。ところで、それは超古代文明の終末にもあてはまることなんだよ」 「超古代文明の終末ですか」 「かつて旧石器の時代に霊力の世界が繁栄していたとしよう。人間はみな自己の内面を深くのぞきこみ、道具よりはイメージを重んじた。前に言ったとおり、草根木皮を蜜の味もゆたかな果実だと感じて飽食したり、寒い冬を暖かい春のように感じる技術も持っていたとしよう。しかし、そのような自己の主観操作ではどうにもならない天変地異が……」 「あ……」  山岡は愕然《がくぜん》としたようであった。 「洪水《こうずい》伝説ですね。ノアの洪水だ」 「それさ。主観操作ではどうにもならぬ状態に陥って、超古代文明はそれを支えた人々の手で否定されなければならなくなった。もっと確実に生きのびる技術、具体的な富や力をもたらす道具……。そして、今の物質文明型の社会へ生まれかわることになるんだ。方舟《はこぶね》を作ったノアの知恵は、その第一番目のものであったかも知れない。そしてその日から、人間は神々から遠のき、ただ仰ぎ見る存在へとかわったのさ」  北川は確信ありげに頷《うなず》いた。  山の頂上あたりへ着いたらしいと感じたとき、三人は急に黙りこんで足をとめた。  その先頭で、栄介はやはり自分の予感が当たっていたことを悟った。  何かが山頂にいるのである。下の兵士や卑弥呼たちにとって、その山は聖域のはずである。地元の者がやたらに登る場所ではないのだ。 「敵だ」  栄介はそっとうしろを向いて北川に言った。理由を説明する必要はなかった。北川も山岡も、同時に頷いて見せた。栄介は縦に並んで登って来た三人が、横にひろがるべきだと思い、指で展開するように合図した。すぐ北川が左へ出、山岡が右へ登って低い姿勢になった。  栄介は二人をそう配置してから、まっすぐに進んで行った。  木で作られた四角いものが眼に映った。大きな箱のような感じであった。栄介はそのすぐそばに立ちどまり、じっとそれを観察した。何か箱の中でごそごそと動く気配があった。かすかに生臭いけものの匂いが漂ってくる。 「ヤマトの聖域をけがす者は誰だ」  突然栄介は大声でそう言った。栄介が言ったというより、彼の体の中から何者かがその声を引きだしたという感じであった。そして、言ってしまってから、栄介は徐々に怒りの感情を味わいはじめた。  怒りの原因はけものの匂いにあった。多分その箱のようなものの中に、けものが入れられているに違いなかった。そして、けものはその聖域を侵すべきではないと感じたのである。  栄介の声がおわると同時に、その大きな箱のかげから三つの影がとびだして栄介と向き合った。一人は神官のような服装をしており、二人は半裸の男であった。  二人の男は歯をむきだして無念そうな表情になり、及び腰ながら栄介の隙《すき》を見てとびかかろうとする気配であった。そして、神官のほうは、身じろぎもせず栄介をみつめた。  その神官に見憶えがあった。あのウルのジッグラトにいた神官であった。 「また邪魔をする気か」  ウルの神官が言った。 「ここはシュメールではない。月の女神ナンナも、ここでは無力だ」  栄介は穏やかに告げた。 「帰れ。けがれたけものを持って……」 「女神ニン・ガルの命をうけて、この地にナンナの力を及ぼすのだ」 「何のために。ここにはここの神がある」 「未開の神が何の役に立つか」 「未開かどうか、誰がきめるのだ」 「われらの神が」  神官はそう言って右手を高くかかげた。風が起り、雲がはしった。  栄介は風の中に立っていた。樹々が騒ぎたて、雲が低くその梢《こずえ》をかすめる。 「ナンナ」  ウルの神官はシュメールの月の女神を呼んだ。青白い光が明滅しはじめ、神官は栄介の風上《かざかみ》で昂然《こうぜん》と叫んだ。 「この国を治めたまえ」  二人の男は大きな箱にとりつき、それを押して向きを変えた。箱と思ったのは舟であった。彼らはその側面にある扉をあけて、中のけものを解き放とうとした。  栄介は神官に向って進みはじめた。 「ナンナもニン・ガルもこの国では邪神だ」 「神をけがす言葉だぞ」 「けがすのはお前だ。この国を邪神で侵そうとしているではないか」  栄介が近寄ると、神官は舟のほうへあとずさりして行った。 「シュメールの神はシュメールにいるべきだ。早く立ち去れ」  風が強まり、あたりはいっそう暗くなった。 「ナンナのいけにえでこの山を浄《きよ》めるのだ」  半裸の男たちは扉をあけはじめていた。中にうごめくえたいの知れぬけものの啼声《なきごえ》が聞えた。 「聖域を守る者の手にとらえられたいか」  栄介はわざとあざけるように言った。風向きが少しかわったようだった。そして、神官は明らかに動揺しているように見えた。 「今度はお前が壁にとじこめられる番だな」  神官はくるりとうしろを向き、男たちを叱った。 「早くいけにえを」  そのとき、北川と山岡が舟に向っておどり出た。 「これはたしかに方舟だ。この男たちの魂胆は読めたぞ」  扉をあけかけていた男たちが驚いて身がまえた。山岡は石を拾ってその二人に投げつけると、太い木の枝を掴んで神官にうちかかろうとした。  風が急に弱まり、空は明るくなりはじめる。神官は方舟にとび乗り、へさきのほうへ逃げた。 「大洪水の神話の種をまきに来たのだ」  北川が大声で言った。 「その証拠を作ることによって、彼らの神々の体系をここへ根づかせようというのだ」 「けがれた者よ」  神官はくやしそうに言った。 「ナンナの呪《のろ》いのおそろしさを知れ」  方舟はふわりと浮きあがった。  その超自然的な浮上を見て、栄介は突然自分の移動手段を思い出していた。 「岩だ。岩に乗れ」  そう叫び、山頂にかたまっている巨岩のひとつにとび乗った。  それは磐座《いわくら》であった。栄介が神体山の頂上にある巨岩にとび乗ると、その岩は一気に宙に浮き、彼の意のままにかるがると方向を変えた。  シュメールの方舟は西へ向けて加速をはじめていた。 「邪神め」  栄介は岩にまたがってそれを追いはじめた。知識より先に感情がよみがえり、栄介は狂暴な怒りに駆られて方舟を追った。  北川と山岡は、栄介のとった行動を、呆気《あつけ》にとられて眺めていたが、やがて半信半疑に自分たちもそれぞれ巨岩に乗った。  二人の岩も、彼らの意の通り浮上した。二人は不器用にそれをあやつり、栄介と方舟が去って行く方角へ追いはじめる。  すでに神官の呪法《じゆほう》でまき起った風や雲は消えていた。濃い森の上を、方舟を追って三つの岩が飛翔《ひしよう》する。  栄介はやがて海が近づいたのを知った。前方に青い海原が見え、方舟はその上をフルスピードで逃げて行く。 「岩よ、遠く翔《と》べ」  栄介は叫んだ。なぜかその方舟を帰してはならないと思った。そして、彼はこの争いが長い争いの歴史の一部にすぎないことを悟っていた。  さまざまな邪神が、異国の神が、卑弥呼の土地へ隙あらば侵入しようとしているのだ。自分はその争いのために招かれ、卑弥呼を守るためにたたかわねばならない。……栄介ははっきりとそう自覚した。  岩が速度をまし、方舟との間の距離がつまった。  前をゆく方舟の中で、半裸の男が栄介のほうを見て何か叫んでいた。それは、神官に対する警告の叫びのようであった。  あれは奴隷たちの長《おさ》だ。  栄介はその半裸の男の身分を理解した。  方舟はたちまち栄介の岩に追いつかれ、必死に方角を転じた。栄介の岩は唸《うな》りをあげてその木の舟をかすめ、両者の距離がまたたく間にまたひらいた。  しかし、おくれて飛んできた北川の岩が、たくみに方舟の逃げた方向へまわりこんでいた。木の方舟はきしみながらふたたび西へ方向をかえる。  栄介は岩に念じて高度をあげた。方舟はその斜め下方を通って逃げのびようとする。  山岡と北川の岩は、そのうしろで、間隔を広くとってついて行く。方舟がふたたび方向を転じようとすれば、追尾するふたつの岩のどちらかに激突するだろう。  方舟は絶望的に直進を続けた。 「岩よ、舟を砕け」  栄介は大声で叫び、自分の岩を下降させた。神官が両手をあげて神に祈っているのが見え、次の瞬間巨岩は方舟に激突してそれを粉砕した。木片と黒い四足獣たちと、三人の男が、青く輝く海へ墜落して行った。  闘 争  岩に乗った三人は、もとの山頂へ戻《もど》って来た。 「岩が空を飛べようとは思わなかったな」  山岡が満足そうに笑った。まるで子供のような顔であった。 「磐座《いわくら》は、大げさに言えば日本中の神体山にある」  北川がそう言うのへ、栄介は忠告するように告げた。 「ここは日本ではありませんよ」  北川は山頂に静止した巨岩をすべりおりた。 「たしかに、ここは我々がいた日本という国ではない。しかし、或《あ》る意味では日本そのものだ」 「どうしてです」 「いま岩に乗って空を飛んでいてふとそう思ったのだが、ここは日本という国、いや、日本という国に住む人々が産みだした観念のような世界だ。そうは思わんかね」 「観念の世界ですか。しかし、こうしてたしかに物質が存在しています」 「ひとつの考えかただ」  北川は少しじれったそうであった。 「僕はここで、この不思議な世界について、ひとつの仮説を提出する」  宣言するように言う。 「君らは、小説と神話、伝説と信仰と言ったようなものについて考えたことはあるかね」 「うかがいましょう」  山岡は興味を示しながら、さっき登って来たかすかな道を探して下りはじめた。 「卑弥呼たちの所へ戻らねばなりません。山を下りながらうかがいましょう」 「そうだな」  登って来たときと同じように、三人は語り合いながら山をおりはじめた。登りでは、栄介がその会話に加わっていなかったが、下りでは北川より多弁になっていた。 「北川さん」 「なんだね」 「僕は北川さんのおっしゃりたいことが、だいたい判るような気がします。というのは、さっきここへ登っているとき、妙な予感にとらえられていたのです」 「予感か」 「ええ。例のデジャ・ヴューに似た感覚です」 「既視感覚に似ているというと、君はここへ一度登ったことがあるというのか」 「それよりも、山頂に何か敵のようなものが待っているという感じでした」 「それと僕の言いかけた仮説と、どう結びつくのだ」 「このところたびたび経験する僕のそういう感覚は、どうやらとても原始的なもののようです。原始的と言って悪ければ、根源的と言ってもいいでしょう」  栄介は喋《しやべ》りながら、その言葉さえ以前一度口にしたことがあるように感じた。 「根源的だというのは、何も既視感覚に限ったことではありません。霜田無仙の妖術《ようじゆつ》でおかしな世界へ呼び込まれかけたとき以来、今度の件はどこかで僕という人間の、ひどく根源的なものにつながっていたらしいのです」 「根源的ねえ」  北川は首を傾《かし》げたようであった。 「この場合、用語の意味の限定はあとまわしにしましょう」  栄介は先まわりをした。 「よかろう」  北川が同意する。 「それは、人間の生理的記憶装置の基本的な回路に関係しているとも言えます。霊感とか直感というような言葉で知られる現象は、要するにとほうもない飛躍であって、しかも全く正しい結論を得ることでしょう」 「そうだね」 「そのようなものが現在の科学で作り得ると思いますか」 「まだ無理だろうな」 「まだでしょうか。電子頭脳はどんどん進歩して行きますが、いくら進歩しても人間のようなインスピレーションを生みだすようにはなれないのではありませんかね」 「そういう方向へ進もうとする実験的な研究が行なわれているとも聞くよ」 「僕はそれが客観性を重んじてなされる限り無理だと思うんです」 「それこそ飛躍した考え方だな」  北川は笑った。 「いや、飛躍しているとは思いませんね」  栄介はきっぱりと言った。 「人間に限らず、生物の進化はすべて段階的に行なわれるのでしょうが、時にはそれが段階的でなくなる場合もあるでしょう」 「突然変異のことを言うのかい」 「それも含みます。しかし、突然というのが僕は気に入りませんね。それは例外的な意味を含みますし、正確ではないようです。進化ははじめからその突然変異と呼ばれるものを含めて、成り立っているものなのではないでしょうか」 「そうか」  北川は大声で言った。 「君は我々が不合理とするものを、生物がその生命の根源的な部分に含んでいると、こう言いたいのだな」 「そうなんです。進化の中には、その生物の自分勝手な夢さえもが、方向づけの要因として働くのです。そして僕らの体の中は、一見|緻密《ちみつ》な合理性の集合であるように見えながら、その実不合理なもので満ち満ちているのです。この山を登りながら、山頂に敵がいることを直感し、しかもその直感が僕自身のおそろしく根深いところから発したのを感じたとき、僕は今度のことの全貌《ぜんぼう》を見たような気がしたのです。人間は記憶や知識の手だすけを得ないでも、何かを理解することができるのですよ」 「俺は岩井の言うことが、どう北川さんの仮説につながるのか、それが知りたい」  山岡はこの卑弥呼やそれを襲う邪神のいる世界に適応しはじめたらしく、上機嫌《じようきげん》であった。 「なあ、早く教えてくれよ」 「うん」  栄介は前を行く北川の後頭部をみつめながら言った。秘密はどうやらそのあたりにあるのだと思っていた。 「つまり、生物は、それも人間のように高度に知能を発達させた生物は、いろいろな角度から物を考え、想像することができる。神話や伝説を作り、神を生みだしてそれを信仰し、また小説を読んでたのしんだりする。だが、人間は幸か不幸かしだいに客観性を重んじて自分たちの自由奔放な主観を封じこめる方向へ来てしまった。これは以前、僕らが旧石器時代の文明について語り合ったことの延長さ。旧石器時代に道具がほとんど進歩しなかったことは、今日よく知られた事実だ。しかし、その時代、道具によらぬ生活のやりかた、イメージですべてを解決する文明があったかも知れない。あのとき我々はそう考えて見たのだったね」 「うん。あれは僕にも魅力的な仮説だった」 「それがどうやら、仮説の域を脱しかけて来ているのさ」 「本当か」 「客観というのは一種の道具だ。本来我々が持っているのは主観だろう」 「まあ、そう言えなくもないな」 「ところが、その客観では人間にとっていちばん便利な、インスピレーションのような結果は得られない。秘密はそこにあるんだ」 「よく判らんな」  山岡は首を振って見せた。 「じゃあ、もっと判りやすく言おう。僕らは物を考えるたび、多少ともそのイメージを残像として空間に残してしまうのさ」 「えっ」  北川は立ちどまってふり向いた。栄介も道を塞《ふさ》がれてとまった。 「この空間にか」 「そうさ。自分たち一人一人の脳組織の中にある記憶とは別に、この宇宙空間そのものが、イメージを投影するスクリーンであり、またそれを保存する倉庫でもあるのだ」 「なぜそんなことが言える」 「それは北川さんがさっき説明しかけた。そうでしょう」  北川は栄介にそう言われて微笑した。 「その通りだよ、岩井君」  北川は敬意のこもった目でみつめた。 「人間の頭に生じたイメージは、この空間に残像として残るが、それは微弱かつ稀薄であってすぐ消滅する。しかし、強力なものはいつまでも残り、やがて実体化さえする」  山岡は呆然《ぼうぜん》としていた。 「するとここは」  山岡はあたりをキョロキョロと眺めまわした。 「判りが早いな」  栄介はそれを見て北川に笑いかけた。微笑を泛《うか》べた北川が頷《うなず》く。 「霜田無仙の妖術は、そうしたイメージのかなり強力な残像か、あるいはごく短時間の実体化だったのだろう」 「ここは誰かのイメージの世界なんですか」  山岡はうろたえていた。特定の人間のイメージの中へとらえられてしまったような気がしたに違いない。 「一人一人のイメージは、さっき言ったとおりごく稀薄なものだ。残像と言っても大したことはない」 「しかし、すべての人間がそういうイメージの残像を発しつづけているのでしょう」 「まあそうだ」 「おそろしいような気がするなあ」 「小説というものがある。それは作家の頭から生みだされたイメージを、文字で記号化して残した世界だ。それはイメージの残像とは違う。しかし、百年も二百年も、いや千年も人々に読みつがれて来た物語があったとしよう。そして、時代がかわってもその物語は、書かれたときから大差ない均質なイメージで人々にうけとられて来たとする」 「何万、何百万という人々が、それを読むことで同じイメージを発し、思い返すごとに、また同じイメージを発するわけですね」 「そうだ。残像は定着し、その小説はひとつの世界として実体化する」  栄介は誇らしさをおさえかねて言った。 「ひとつの地方にはそれぞれの伝説がある。もしそれが実体化すれば、鬼もいようし妖怪《ようかい》も現われうる。ただしそれはもと僕らがいた空間とは別な空間の存在だ。異次元だな」 「なるほど」  山岡は納得したようだった。 「君や美津子のように、そのふたつの次元間へ自分の感受性を漂わせることのできる人間は、ときどき鬼や妖怪の本物を見るわけだ」 「小説は多彩だ。作家たちが作りだすイメージは常に拡散《かくさん》し、収斂《しゆうれん》することがない。同じ物語を書いても仕方ないからね。しかし、そのイメージが常に収斂しつづけるものがある。それが神話だ。伝説以上に、神話は強く実体化する。人々が単一の物語を同じイメージでうけついで行く結果だ。そしてどこかで実体化した神話は独立した世界として独自の発展をして行く」 「それがここですか」 「ここは日本人の神話が実体化し、独自に発展した世界だろう」 「では、僕らが海へつき落したあの方舟の神官はなんです」 「おそらく、隣接した別な民族の神話から発生した世界の住人だ」 「シュメールの神が日本の神を襲っているのですね」  山岡は山頂をふりあおいだ。 「さて」  北川は立ちどまって山岡と栄介を見た。 「もうすぐ麓《ふもと》だ。卑弥呼の戦いに加わらねばならない。だからその前に、この世界のことをよく認識しておこう」  密生した樹木にさえぎられて、下の様子は判らなかった。 「かつて、我々の祖先はひとつの神話を信じ、その世界や、そこに登場する神々を身近に感じて暮していた。氏族、部族の違いから、その神話に多少の差があったとしても、それは或るひとつの世界が実体化するさまたげにはならなかったようだ」 「僕らはいまそこにいるのですね」 「そうらしい。同時に、こういう世界は他の民族、人種の間にも発生した。もちろん発生の時期には遅速があったろうが、神話によるイメージの実体化は、根本的に同質のものであり、我々の世界に東洋や西洋があるように、それらの神話世界は集合してひとつの更に大きな世界をかたちづくったらしい」 「すると、このヤマトの国をどれかの方角へどんどん進んで行くと、シュメールの神話世界があったり、エジプトの神話世界があったりするのですね」 「多分そういうことだろう」 「なぜそれが互に争わねばならないのです」 「判らない。しかし、この世界が、我々の知っているとおりの神話世界ではないらしいという点だけははっきりしている」  たしかに、それは栄介にももう判っていた。どこか、栄介が本で読んだりして体の中へ埋めこんでいる神話の世界とは様子が違うのである。 「なぜ違うのでしょう」 「実体化したとたん、発展をはじめるからだよ」  北川は眉《まゆ》を寄せて言った。 「この世界を形成させた民衆のイメージから独立し、勝手に動きだしたわけだ。だから用心しなければならない。どんなに神話にくわしくても、ここではそのとおりにはなっていないのだからね」 「それにしても神々が他の神々の領域を侵しはじめているというのは、いったいどういうわけなんだろう」  栄介が首をひねると、山岡はいともかんたんに言ってのけた。 「神だからさ」 「なんだって」  栄介は意表をつかれて山岡をみつめた。 「神だからさ。神は絶対性を主張する。だから神々は必ず争う。その意味で、神は常に侵略者だ。世界を独占しなければやまない基本的な姿勢がある。キリストは仏陀《ぶつだ》を認めたかい。コーランは他の宗教を認めるか」  なぜか栄介は腹立たしかった。平和と救済をもたらすものが、同時に血まみれの侵略者なのだということが、どうしても承服できなかった。 「まあいい」  北川は栄介の心の動きを察知したかのように、手をあげてその議論を中断させた。 「だが、ひとつのことがはっきりした。それは、卑弥呼の戦いに一時的な休戦はあっても、敵との間の話合いによる解決はまったくなさそうだということだ」 「そうですね。神の間の戦いなら、両方とも聖戦じゃないですか。たがいに相手を悪鬼と認めるより方法がない。徹底的な殺し合いだな」  栄介は山岡のほうを見ないようにして言った。 「少くとも卑弥呼たちはそれほど好戦的ではないと思うのだが」 「なぜ」  山岡は挑《いど》むような目をした。 「俺の体の中に、この世界を作りだした人々の血が流れている。自分を考えてみてそう思うのさ。日本人は神と仏を習合させたじゃないか。異質の神を兄弟にし、夫婦にさせて争いを避けさせる傾向がある」 「そう言えるかな。日本の神は平和な神だろうか」  山岡は栄介の肩を叩いた。 「日本は海にかこまれている。外からの神をけがれとしていみ嫌《きら》ったろう。海の外へ追い落せばそれですんだのだ」 「あ……」  栄介は目をみはった。 「さっき僕はそれをやった」 「そうだ、あれでヤマトはきよめられた。ずっとそうしてきた。だが、本格的な戦いになったらどうかな。かんたんには海へ追い落せないくらいの異国の神が来たら。日本人は切支丹《キリシタン》弾圧の歴史を持っている。日本人だって、他の民族と似たようなものさ」 「たしかに山岡君の言うとおりだ。自分を平和な人間だと思い込んであとで嘆くより、現実をよく把握しておいたほうがいい」  栄介は首をすくめた。 「しかし、最終的には他の民族よりあっさりしていると思うがなあ」 「あっさりしているからかんたんに死ぬ。神に殉じて、よく考えもしないで自殺的な戦闘をよろこんでやってしまうのさ」 「その、死を軽く見るところが、他の神々から見たら、ぞっとするほどおぞましいのかも知れないぜ」 「まあいいさ」  栄介は気を取り直して言った。 「つまり、やめることのできない戦いがはじまっているということですね。僕はその戦いに招かれた戦士というわけですか」 「そうだ。君が先頭に立ってやらねばならない」 「日本人らしいやりかたをする以外に手はありませんね」  栄介はあきらめたように笑った。  鳥居のある登り口まで来ると、あたりは静まり返っていて、兵士の姿は一人も見当たらなかった。 「やれやれ」  山岡が笑った。 「敵を追い散らしたのだから大歓迎を受けると思っていたのに」  栄介は立ちどまって山頂を仰ぎ見た。岩が飛ぶのがはっきり見えたはずであった。 「当たり前だと思っているのかな」 「何のことだね」  北川が同じように山頂を見て尋ねる。 「岩が飛ぶということですよ。ここからはっきりと見たはずでしょう」 「そう言えばそうだな」  北川はまぶしそうな顔をして笑った。 「ここには奇蹟ということがないのかも知れないな。平凡な日常と奇蹟が入り混っているのだろう。いや、奇蹟が平凡な日常の一部になっているというべきかな」 「どっちにしても同じことです」  三人は卑弥呼のすまいらしい建物へむかって、左の道へ歩きはじめた。 「山岡はここも西洋の神々と同じように、殺伐な面があると言ったが、やはりそういうようには思えないな。そうだとすれば、兵士たちが勝利を祝って踊り狂っていてもいいはずだよ」 「たしかにそうだな」  山岡も否定しなかった。無人の山麓《さんろく》は、それほどあっさりした感じであった。 「けがれをはらった……。それだけのこととして受取っているのかな」 「そうかも知れない」 「日本では、けがれをはらえばおわりになる」 「けがれとは本来そういうものなのかも知れない」 「まあいいさ。別に歓迎して欲しいわけじゃない」  栄介と山岡は喋りながら歩いたが、ふと気がつくと北川が足をとめていた。 「どうしたんです」  二人はふり返った。 「それだよ」  北川は深刻な表情になっていた。 「僕らが岩に乗って敵を追い払ったのを知って、ここの人間はあっさり姿を消した。多分ここではそれが当たり前なんだろう。しかし我々はそれを幾分不満に感じる。これは重大なことだ」 「そうでしょうか」  山岡は納得のいかぬ様子だった。 「岩井君がいま指摘したとおり、これが西洋だったら少し様子が違っただろう。兵士が整列して勝利の英雄を迎えたかも知れない」 「その違いに問題があるんですか」 「ある。我々はすでに侵略されているよ」  北川は西の空を眺めていた。 「二十世紀の日本人である我々三人が、ここのことにいちいち違和感を持つという点が問題なのさ」 「どうしてそれが重大なことなんです。当然じゃありませんか」  山岡は栄介の不審をも代弁していた。 「民族としての根本的な部分に、西の考え方が侵入して来ているんだ」 「なんだ、そんなことですか」  山岡は軽く笑った。 「或る一面から言えば、歴史とは人間の進化の過程です。僕らは一足とびでやって来てしまったけれど、卑弥呼の世界と二十世紀は遠くへだたっています。いろいろなものが、その長い時間の間にまじり合ったってふしぎはないでしょう」 「それは二十世紀の人間の言い分さ。ここの神々の立場から考えてみなさい。しかもここでは時空の連続性が僕らの世界と違っているらしい。たとえば東京という首都にいて、北海道や九州に敵が上陸して来たということを聞いたらどうする。いずれそういうこともあり得るさ、ではすまないはずだよ。国土を侵されたといっていきり立つだろう」 「それはまあ、そのとおりですけど」 「ここでは多分それと同じことなのさ。何千年後かに日本が西欧的なものに染められてしまったということが、自分たちの領土を侵されたと同じくらいのショックなのかも知れないじゃないか」 「時間と空間の混同ですよ、それは」  山岡は嘆くように言った。 「いや、混同じゃないと思うね。ここでははじめからそれが混然となっているんだ。神々の国なんだよ」  栄介は北川のその言葉を聞いて、山岡に向かって言った。 「考えてみろ、たしかに実は西に侵略されているじゃないか。ことを日本にだけ限ってみても、衣服から生活様式、物の考え方に至るまで、西欧的……と言って悪ければ欧米風のものに染まってしまっているじゃないか。この次元から見れば、それは領土を侵されたに等しいのかも知れないさ」 「おかしいな」  山岡は頭を振った。 「いったいどっちが先なんだ」 「どういう意味かね」  北川は真剣に尋ねた。 「鶏が先か卵が先かということですよ」 「鶏と卵……」 「そうですよ。ここを西の国の神々が襲って来ることと、二十世紀の日本が西欧化したことと、いったいどっちが先なんです。ふたつの次元は互に異る世界線上にあるかも知れませんが、少くともここが二十世紀よりずっと以前の形をとっていることは明らかです。卑弥呼がいるんですからね。ここが西の神々に襲われたから、二十世紀の日本が西欧化したんですか」 「なるほど、妙な現象だな」  北川が山岡に言い敗かされた感じで考え込んだ。 「多分」  栄介は強い声で言った。 「それはふたつの次元のからみ合いを究明しなければ判らないことでしょう。それについては、北川さんにおまかせしますよ。物理学上の問題らしいですからね。でも僕はいま確信しています。ここと、僕らがいた世界の問題は絶対に関連しています。僕らがここへ送り込まれたということが、その証明であるような気がするんです。卑弥呼の世界が西の神々の脅威を受けている。僕らはそれを排除するために来たんです」 「そうか」  北川は明るい表情に戻った。 「そう考えてさしつかえなさそうだな。たとえば生命の輪廻《りんね》というようなことがあったとして、特に昭和の我々がここへ招かれた理由がそこにありそうだ。岩井君以前にも、ここの神々の末裔《まつえい》に相当する人物が存在したかも知れん。しかし、この岩井栄介が招かれたということは、その時点に何か必要なことがあったからなんだろう」  山岡の瞳《ひとみ》がキラキラと輝きだした。 「つまり、我々がここで西の神々の脅威を排除することに成功すると、昭和のあの時点がひとつの時代の回転軸になるかも知れないのですね。西欧的なものを排除して行くと言ったような……」 「ナショナリズムかい」 「いや違うと思うな。昭和における我々の世界の行きづまりは、西欧的なものに原因があるとは思わないか。日本だけの問題じゃないのさ。世界中が新しい局面に向かわねばならなくなっているのさ。たとえば文字ひとつとってもそうじゃないか。表音文字は機械的処理の上で都合がよかったかも知れない。何万字もある漢字より、三十字たらずの記号の組合せで処理できる表音のほうが、はるかにコンピューター向きだと考えられていた。でも、表意文字のほうが更に優れていそうだという形勢になって来たじゃないか。たとえば、お年寄りの好きな忠とか孝とかいう概念を、表音文字であるカタカナで説明してみろ。いったい何百字いると思う。だが、世の中がはじめから表意式なら、それは忠、孝という一字ですんでしまう。そこにはひとつの美意識とか、道徳観まで入っているんだぜ」 「つまり、東の神々の時代が近づいているということか」 「そうだ。そのために俺たちはここへやって来た」  山岡は張り切っていた。 「卑弥呼の国から西の神々を追い払うんだ。俺たちは新しい時代を作りにここへ来たんだ」  床の高い素木造《しらきづく》りの建物の戸口に、卑弥呼の緋色《ひいろ》の衣が見えた。北川がそれに向かって手をあげる。卑弥呼は特にそれにこたえる様子もなく、じっと三人が近寄るのを待っていた。 「やっつけて来たよ」  山岡が言った。 「磐座《いわくら》が飛ぶのを見たわ」  卑弥呼の態度は、元の美津子のものに戻っていた。 「君もあれを飛ばせることができるんだろうね」  栄介が尋ねると、卑弥呼は首を傾げて微笑した。 「どうかしらね」  三人はその建物の階段の下で、卑弥呼をみあげる。 「さて、この先どうなるんだ」  北川は自問するように言い、階段を登りはじめる。山岡と栄介が遠慮がちにそのあとへ続いた。 「このままにしておけば、彼らは隙《すき》を見てはやって来るでしょう」 「そして、そのうち大挙して軍事行動に出るか」  山岡は冗談のつもりらしかったが、卑弥呼の返事は真剣そのものであった。 「それも近い内に」 「どうして判る」  北川がとがめるように言った。 「私は巫女《みこ》です」  卑弥呼は心外そうに北川をみつめた。 「人々にそれを告げるのが役目です」 「予知能力か」  北川に言われて卑弥呼が頷《うなず》く。 「よし、それを信じよう」  北川は床に坐り、山岡や栄介を見あげた。 「対策をたてねばならんな」 「作戦会議ですね」  北川は笑って頭を振った。 「まあ坐りなさい。山岡君のそういう態度を見ていると、僕はついスサノオかヤマトタケルを連想してしまう。君は案外勇猛な神なんだな」 「神……」  山岡がおどけて目を丸くして見せた。 「そうさ、僕らは美津子君もいれて、みなここでは神様だ」 「変な気分だな」  山岡は笑った。 「問題はまず海岸の防衛をどうするかですね」  栄介は話の要点を言った。 「そうだが、地形が判らない。ここは日本のどこに相当しているのかな」 「山岡、それは違うぞ。ここは日本そのものじゃない。古代人の信仰が実体化させた別な次元じゃないか」  栄介はたしなめるように言った。 「ここは異次元だ。岩井君の言うとおりだ」  北川が喋りはじめる。 「古代人のイメージで生じたものだから、植物相や地形は日本的なものばかりだが、地図であらわせばまるで違っているはずだよ」 「海にかこまれていることははっきりしていますね」 「うん。だが、その海が怪しいと思う」 「怪しいというと」 「おそらく、或る方角へ行けば島や大陸など、別な土地があって、そこへ通じる海路はひどく現実的なものかも知れない。しかし、それは、その海路を古代人がよく知っており、イメージが具体的だからだろう。そうでない部分は怪しいものだ」 「漠然《ばくぜん》としか判っていなかった部分は、この世界でも漠然としているわけですね」 「そうだ。多分そこでは空間そのものがあいまいになっているだろうと思う。つまり主観的空間の存在が予測される」 「主観的空間ですか」 「うん。それは多分、まず距離がはっきりしないということなんだろうな。海があり、ずっと続いている。……それだけの知識しかない場合、海はあいまいにずっと続いているしかない。ずっと、というのがどれほどの距離を言うのかはっきりしないからだ。従ってそのあいまいな空間へのり入れた者は、自分がもう充分だと思えばその距離をおわらせることができるし、まだだと思えばどこまでも海の真《ま》っ只中《ただなか》にいることになる」 「それでは、すぐ海がおわると思い込んで行けば、次の土地がすぐあらわれるわけですね」 「かんたんに言えばそうなるが、岸を離れてすぐというわけには行くまいね。なぜならば、古代人はかなりの間海が続いていると認識していたはずだから、それに反して都合のいいように海をおわらせるわけには行くまい」 「なるほど」 「僕は、ふたつの土地を充分わけへだてるほどには遠いと思う。越えがたいほど遠いというのが古代人のイメージだろうからね」 「で、向こう側はどうなっているんです」 「主観的な空間を、それぞれの神々が共有しているんではないだろうか。その点で海とはもともと世界をわけへだてる役をはたして来たからね。異る神の異る世界は、あいまいな主観的海上空間によって仕切られている。さっき僕らが見た方舟は、それを越えるための舟だろう」 「我々には飛ぶ岩がある」  栄介は自信をもって言った。 「方舟より効率よくその海を渡ることができるでしょう」 「君は逆に攻め込むつもりか」  北川が栄介を睨《にら》んだ。 「攻撃あるのみですよ」  栄介は当然のように答えた。 「たしかに防衛のしようがない感じだな」  北川は頷いた。 「攻撃は最上の防禦《ぼうぎよ》なり、か」  山岡はたのしそうであった。 「それよりも、俺は問題が東西文明の交代にかかっているらしいから言うんだ」  栄介は山岡を諭すように言う。 「表意文字のほうが、情報伝達の手段として優れていると考えられる時代がやって来ているんだ。我々のいた世界のそういう動向と、ここの神々の争乱は同じものから発しているように思うんだ」 「うん、そうだ」  北川が同意した。 「情報処理のコンピューター化が進んだ結果、機械は単純なアルファベットばかりではなく、もっと複雑な表意文字でも処理できるようになって来た。人間の知性を高めるにも、表意文字のほうが効果的だと考えられるようになったわけだ。まあ、それは一例にすぎないけれど、一事が万事で東洋的なものが地位を回復して行くと考えていいだろうな。日本という国が完全に東洋的であるかどうかは問題があろうけれど、東洋化傾向のはじめとしては、うってつけの役どころだとは思うね」 「するとつまり、これは我々のいた世界の動向を象徴化したようなことなのですね」 「少くとも岩井君の言わんとしているところはそれさ」  今まで沈黙を守っていた卑弥呼が口をはさんだ。 「私は海岸線に監視の者を配置しましょう。敵がどこへ侵入しても、すぐ私のところへ通報されるような組織を作りますわ。そのほかに、私の手もとにすぐ出動できる精鋭部隊を置きます。だから岩井さんたちは、敵地へのりこんでいただきたいのです。攻撃でなくて、偵察だけでもかまいませんし、平和的な解決法があれば、それもおまかせします。もしそういう解決策があるなら、わたしが人々を納得させましょう。とにかく、あなたがたはここの神なのです。私たちの利益代表ですからね。すべてをおまかせしますわ」  三人は顔を見合わせた。 「白紙委任状か」 「人間にとって、神とはそういうものだろうな」 「でも、家内安全などという祈り方もあるぜ」 「願いをかけるのに、いちいち但し書きをつけていたのでは、神様もいい気分ではいられないだろう」  三人は冗談を言い合い、立ちあがった。 「そういうことなら、あの岩をここへおろして置くんだったよ」  山岡がそう言うと、卑弥呼は真顔で頷いた。 「山の上の磐座は動かせませんけれど、ここから山頂へ直行する方法があります」 「へえ……」 「この建物の前に依《よ》りしろを作りましょう」  北川がそれを聞いて手を打った。 「それだ。あの岩の分身のようなものを作って、山頂とここを結べばいいんだ」  卑弥呼はさっそく兵士たちを呼び寄せて、山の下の鳥居のあたりに、小さな建物を作らせた。それは卑弥呼のすまいをそっくり小さくしたような形の建物であった。 「どうやらほこらができたようだな」  北川はその出来あがりを見て言った。 「つまりこれは神籬《ひもろぎ》というわけだな」 「ひもろぎ……」 「神の座だ。広い意味で言えば神社ということになる」  栄介はそこでやっと気付いた。 「なんだ、これは神社じゃないですか」  神体山に向かって鳥居があり、今まではその先にいきなり山頂への登り口があるだけだったのが、いまはまあたらしい建物ができている。 「さしずめこれは拝殿だな」 「なるほどね」  山岡が腕を組んで眺めた。 「小さいし原始的な感じだが、こいつはちゃんと神社になっているな」 「でも、これで本当に山頂への磐座との空間を処理できるだろうか」  北川が言うと、栄介は自信たっぷりにその新しい建物へ近づいた。 「できますとも。かんたんですよ」 「でもな」  山岡は疑わしそうだった。 「エレベーターとかエスカレーターとか、そういう登りおりするメカニズムは何もないんだぜ。この建物の中へ入ったら、すっと山のてっぺんへ出られるなんて、少し虫がよすぎやしないかい」 「やって見れば判るさ」  栄介は笑った。 「自信たっぷりだね」  北川はニヤニヤしながら栄介のあとに続き、建物の正面に立った。 「やってみようじゃないか」  好奇心で目がキラキラと光っていた。 「仕掛けもなしにかい」  山岡も北川と並んだが、疑わしそうな様子はいっそう強くなっている。 「なあ山岡」  栄介は短い階段を登りだしながら言った。 「なんだい」 「あの岩で君は空を飛んだろう」 「ああ」 「何か機械的なものがあの岩にあったか」 「ない」  山岡は憮然《ぶぜん》として答える。 「仕掛けは別なところにある」 「どこに」 「大きく言えば歴史の中さ。俺たちはとにかくこれで山頂へ行けるんだよ」  三人は建物の中へ入り、鳥居のほうを向いて横に並んだ。とたんに三人の姿はその建物から消えていた。  視界が一瞬|滲《にじ》むようにぼやけた。そして匂《にお》いがかわった。建物の中は新しい木箱の中に似ていて、木の香であふれていたが、その匂いが草いきれに似た樹木の香りにすぐ変化したのである。  風が三人の体に吹きつけている。 「着いた」  山岡は呆気《あつけ》にとられたように、栄介をみつめた。 「着いたね」  北川は愉快そうに笑う。 「だが、どうして仕掛けは歴史の中にあるなどと言ったんだね」  栄介はニヤニヤしながら答えた。 「精神力とか霊的な力で山頂へテレポートするのだ。そういう答えかたをするべきだったのでしょうが、それでは簡単に納得してしまうおそれがあったのです」 「俺がか」  山岡が自分の鼻さきに人差指をつきつけて言った。 「うん。だが、君だけとは言えないな。テレポート、つまり精神力による空間移動などということは、実際に俺たちの世界ではありえないと言ってもいい。あれば奇蹟扱いしていい。だが、そういう言葉が一般化してしまって、テレパシーとかテレポートと言うと、ああ、あれかと、かんたんに判ったような気になってしまう」 「そうだな。しかし、その実人間の精神とか霊のはたらきとかについては、何ひとつ判ってやしないんだ」 「そうでしょう。だからテレポートという説明がなんとなくしづらかったのですよ」 「でも、歴史を持ちだしたのは……」 「神籬《ひもろぎ》という発想があって、現実にそれが人間の手で作られ、やがて神社という形になった。そうですね」 「うん」 「それは歴史的事実です。そして僕らはその歴史の中からとび出して、言って見れば人間の象徴化能力によって産みだされたこの次元へとび込み、異国の神とたたかうために山頂の磐座を飛ばし、そこへ素早く行くための手段を欲しました。少くとも、ここでは僕らの行動は歴史的な必然性の中にあります。したがって、僕らのいた世界の歴史で存在した事柄を利用する限り、ここではその利用はすべて許され、不可能事でも可能になるわけです」 「そうだ」  北川は頷き、山岡に言った。 「ここは神話の世界だった。それを忘れちゃいけないんだ」 「僕らは神々ですか」 「そうだよ。冗談などではなく、ここの人間は不可能なことでも、かんたんにやってのけられるスーパーマンなのさ」  栄介は山頂の岩によじのぼりはじめていた。 「行きましょう」  栄介はいちばん大きな岩によじのぼり、北川たちを見おろしていった。 「とにかく、そのあいまいな海という奴を越えて見ましょう」 「よし」  北川が手近の巨岩にとびついた。 「偵察かい」  山岡もあわてて岩にとりつきながら叫んだ。 「そのつもりだが、行った次第ではどうなるか判らないぞ」 「なんだか、戦闘機のパイロットになったような気分だ」  山岡の声を下に聞きながら、栄介は巨岩をふわりと浮きあがらせた。  それは、自分が立ちあがろうとするときの要領に似ていた。ひょいと腰をあげるようなつもりで自分の心をそのように動かすと、岩は五体同様、自在に動くのだった。  舞いあがり、上空でいったんとまった。 「西へ」  二人にそう告げ、栄介は西の空めざして飛行しはじめた。  三つの岩が飛ぶ。 「海だ」  岩のてっぺんにまたがった栄介が指をさして見せた。森の向うに青海原《あおうなばら》が見えはじめ、その青い海がどんどんひろがって行く。 「はてしもないようだ」  北川は自分の岩を栄介のほうに寄せて来て言った。 「おわりはあるはずです」  ふり返ると、卑弥呼の土地はどんどん遠ざかり、海と陸が青と緑の二色の平面のように見えはじめている。 「どこまで行くんだ。羅針盤もないというのに」  山岡は心細くなって来たらしい。 「この下の海は、ある程度まで行くと、観念的な存在になってしまうはずだ。そこをどのくらいの時間で通過するかは、こっちの主観と意志による」 「よく判らないよ、そんなことを言われても」 「西へ向かって行けば、必ず別な民族の神話を反映した世界がひらけていると思え。そう確信するのだ」 「そうすると、すぐ着けるのか」 「不確実だと思ってためらえば、海はその分だけ広くなってしまう。道に迷ったときの距離がひどく長く感じられるのと同じ理屈さ」 「よし。じゃあ迷うのをよそう。この先に必ず敵の国があるんだな」 「そうだ」 「やっつけてやるぞ」  山岡は勇ましく叫び、岩のスピードをあげて先頭になった。  北川も栄介も山岡も、それぞれこの次元へ転移するとき左手首に腕時計をしていた。巨岩の飛行が続く中で、栄介はときどきその腕時計を見たが、まるであてにならなくなっているのに気がついた。  飛びはじめてしばらくのあいだ、時計は栄介の時間感覚とほぼ同調していた。正確にはどうだったかたしかめようもないが、十分ほど飛んだと思ってふと目をやったときは、感覚どおり十分程度動いていた。  ところが、それが急にあやしくなりはじめたのである。前方になかなか陸地があらわれないので、多少不安を感じはじめた三人は、腕時計に目を走らすことが多くなった。 「おい、俺の時計はこわれたらしい」  岩を寄せて来た山岡が、栄介に左手首をさしあげて見せながら言った。 「もう十時間もたっている」  山岡は苦笑しながらその手首を振った。 「俺のは三時間だ」  栄介の感覚は、まだせいぜい一時間たらずしか経過していないことを彼に告げている。 「おかしいな。北川さんに聞いて見よう」  山岡は連絡係の役を買って出て、かなり左を飛んでいる北川のところへ岩を寄せて行った。  しばらく彼らの岩は並んで飛んでいたが、やがて山岡は首をかしげながら栄介のところへ戻って来た。 「主観的時間帯だってさ」  そう言って苦笑する。 「この次元では、陸と陸との間に、そういうあいまいな空間があるらしいと言っている」  山岡は北川の見解を栄介に伝えた。 「海だ」  栄介は岩にまたがって下を指さした。 「色がおかしい」 「色だって……」  山岡はあわてて岩の下をのぞきこんだ。三つの岩は二、三百メートルの高度で海上を飛んでいて、その下に見える海の色は、なんとも単純な青色にかわっていた。 「これは嘘《うそ》だよ」  顔をあげて山岡が笑った。 「こんな色の海なんてありえない。まるで幼稚園の子供が描いた海の色だ」  山岡が言うとおり、その海の色には黒味がたりなかった。 「要するに、観念の海さ」  栄介もこの世界の意外なありように、少しは慣れたようであった。この世界の大部分の人々にとって未知な部分は、みなこの海のようにあいまいな存在なのであろう。したがって、海神が住むと信じられていれば、本当に海神が出現するのかも知れない。  だが、栄介たちは海神も海魔も信じてはいなかった。だから三人の飛行をさまたげるものは、今のところあらわれないのである。 「この調子だと、いつまでたってもこの海から出られないかも知れないぞ」  北川が近寄って来て二人に怒鳴った。 「なぜです」 「僕らは今、海の上を飛行している。そして、その海のなりゆきに従っている」 「なりゆきに従うと言っても、それ以外にしようがないじゃありませんか」  山岡は不服そうに言い返した。 「僕らの世界ではそれでいい。どんな空間もはじめとおわりがはっきりしている。一千キロの海を時速百キロで飛べば、十時間後にはいや応なしに向う側へ着いてしまう。だがここは違う。この海は、はてしないというイメージによって存在しているのだ」 「だったらどうすればいいんです」 「多分僕らの時間感覚を加速すればいいのだろう。この岩自体の飛行速度をはやめるより、僕らの主観的な時間を加速するのだ。たとえば今、僕らは中国から西域へ駱駝《らくだ》で旅をしていると考えてもいい。そして、長い長い旅を経験したように思うのさ。さいわい僕らの地理感覚に無限の空間はない。だから、自分が知っているいちばん長い旅を想像して、へとへとになって向う側へ着くと考えてみるんだ。多分そうすればこの海もおわってくれるはずだ」 「よし、やってみよう」  三人は岩を寄せ合い、無言になった。  栄介は他の二人と同じように、空想の世界へ没入した。その海は前人未踏の海であった。そして彼は、単調な長い日々をただ飛びつづけた。日が登り日が落ち、月が登り月が落ちた。日と月の交代はしだいに早くなり、まるでコマ落しの映画を見るように、天地の明暗が目まぐるしく変化した。  栄介は疲れ、衣服は潮風でボロボロになった。 「岩井。山岡」  北川の声で栄介は空想の世界から戻った。 「陸だ。俺たちはあの海を抜けたのだ」  北川はうれしそうに叫んだ。気がつくと、その北川の衣服も、本当にボロボロになっていた。 「着いたぞ」  山岡が歓声をあげた。三人ははてもない大海原を突っ切って、めざす敵の国にやって来たのであった。 「高度をあげろ」  栄介はこわばった体をときほぐすように、背をのばし胸を張って言った。三人は巨岩を触れ合わんばかりに接近させて上昇した。その目の下に茶色い海岸線が迫る。 「やはり砂漠《さばく》の国だ」  北川が感嘆するように言った。赤茶色の、ゆるく起伏する大地が続き、その向うに点々と緑のかたまりが見えた。 「なんだ、あれは」  山岡はのびあがって前方を指さした。とがった高い塔が何百となく光を反射していた。 「寺院にしては少し変だ」  北川がその尖塔《せんとう》を眺めて言った。三人の岩が更に近づくと、それは鋭くとがった記念碑のような形をしていることがわかった。 「オベリスクだ」  山岡がそれを見ていうと、北川は首を横に振った。 「オベリスクというのはギリシャ人がつけた名だ。もっと古くはテヘンと言ったはずだよ。ドルメンやメンヒルの仲間で、巨石信仰に源を発しているらしい。とにかくあれは方尖柱《ほうせんちゆう》と呼ばれるものに間違いはないが」  その方尖柱は高さ四十メートルにもおよび、上へ行くに従って細くなり、頂上の部分が急にピラミッド形になっていた。 「あの方尖柱はいまでもロンドンやパリなどに残されている。僕らの世界ではローマ時代にエジプトから搬出されたことになっている。あの背の高い一本石をどうやって作ったか、今でもよく判っていないのだ」  北川が説明している間に、三人の岩はその方尖柱群の真上にさしかかった。その数およそ五百。 「なんのためにあんなにたくさん建ててあるのだろう」  山岡が下をのぞいて言った。 「まるで針を立てたようだな」 「まん中に神殿らしいものがあるぞ」  その五百ほどの方尖柱は、円陣を作って中央の低いどっしりした建築物をとりかこんでいた。  突然、下界で異様な大音響が発した。それは、ウォォォン、というようにふるえを帯びた太い音であった。 「なんだ、あの音は」  山岡が怯《おび》えたように栄介をみつめた。 「警報だ」  北川は興奮しているようであった。 「あれは警報だぞ。空襲警報に違いない」 「空襲警報だって」  山岡はすっ頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「空襲って、こんな古代にですか」 「あの音はたしかに警報だよ」  北川がやや落着きをとり戻してそう言ったとき、下で破裂音がした。はっとした三人が下を見おろそうとしたとき、三人の岩のかなり右を、長い槍《やり》のようなものが空高くはねあがって行った。 「危いぞ」  北川が顔色を変えて叫んだ。 「対空砲火だ」  長い槍のようなものは、円形に並んだ方尖柱のひとつであった。 「いったいどうなっているんだ」  山岡が喚《わめ》く。栄介はその山岡に夢中で手を振って見せ、高度をあげながらその上空を離脱しようとした。  方尖柱は次々に爆発音をひびかせて舞いあがって来た。  方尖柱は水底に引き込まれた箸《はし》が突きあがって来るように、一気に鋭く上昇しては、或る高度に達するとゆっくり横倒しになり、落下をはじめる寸前、バラバラに砕け散るのだった。  そのさまは、あたかもガラスの棒がコンクリートの床に落下したときのように見えた。陽光を反射してキラキラと輝く細片が飛散し、そのたびに、キャシッという乾いた音をたてた。  この場合、あわてたのがさいわいした。三人はその美しくも異様な反撃にうろたえて岩の高度を一気にはねあがらせ、水平方向への移動をあとまわしにしたのである。  多分、そのさまは何かにおどろいた猫《ねこ》がはねあがるのに似ていたことだろう。無翼の超自然的飛行体である磐座なればこその芸当で、有翼の飛行体ならば当然方尖柱の攻撃に被害を受けていたと思われる。  なぜなら、方尖柱はそれぞれ微妙な角度でうちあげられていて、彼ら自身の頭上にその鋭い破片が落下しないように考えられていたからだ。方尖柱の破裂点は、地上の神殿らしい建築物を円形にとりまく線上にあり、有翼の飛行体がするように斜め上方へ離脱すれば、必ず一度はその破裂する線を通過することになるのであった。  しかし、三人は安全な上空へ出てから水平方向に移動した。いま見れば、およそ五百の方尖柱は次々に舞いあがって破裂し、そのキラキラ輝く破片が間断なく地上に降りそそいで、彼らが防衛する地域は、円筒の紗幕《しやまく》につつまれたようになっていた。 「驚いたな」  北川がひと息いれて言った。 「ミサイルじゃないか」  彼らは岩をかしげて下に展開する美しい光景を眺めた。 「おい、方尖柱の数が少しも減っていないぞ」  山岡が興奮して言った。たしかに、すでに三、四百基が打ちあげられたはずなのに、方尖柱の数はいっこうに減っていなかった。 「一発打つと下からすぐ次の奴《やつ》がせりあがって来る仕掛けになっている」  北川は冷静に観察していた。 「畜生、なんて凄《すご》い物量なんだ。ねえ北川さん、これはとほうもなく大きな権力が存在しているわけですね」  栄介は感嘆した。 「そうだな。これだけのものを作るには、強大な王権が必要だろう」  卑弥呼の土地では、そのようなものは見当らなかった。山野はほとんど自然の姿のままであり、いま三人が見ているような人工のものはなかった。 「これでは卑弥呼たちもあぶないもんだ」  栄介は背筋に冷たいものを感じながらそう言った。 「まだどんな仕掛けがあるか判らない。注意して行こう」  北川はそう言うと地上から目を移し、遠い地平線を眺めた。 「あれを放っておくんですか」  山岡は不服そうだ。 「もっとほかの場所を知りたい。だいいち彼らがあれだけのことをして防衛しているものが何だかよく判らないじゃないか」 「それを知るのが先決でしょう」 「それはそうだが、低空であそこへ侵入するのは危険だろう。もっと全体の様子が判ってからがいい」  方尖柱の弾幕は勢いがおとろえていたが、接近すれば以前にもまして打ちあげてくることははっきりしていた。何しろ防空陣地の方尖柱の数は少しも減っていないのだ。 「それより向うに何か見えている。あそこへ行ってみよう」  栄介が決断を下した。地平線の彼方に、何か黒光りする巨大なものが見えていたのだ。 「油断は禁物だぞ」  栄介がその方角へ岩を飛ばしはじめると、北川が山岡にそう怒鳴って続いた。  赤茶けた砂漠の上を、三つの巨岩が風を切って飛んで行く。三人はそれぞれの岩の上で、周囲の状況に注意していた。 「あ……」  三人が同時にそう言って額に手をかざした。どこからか、強烈な光が三人の瞳にとび込んで来て目をくらませたからである。 「今のはなんだ」  三人はそう言い合い、キョロキョロと眺めまわした。 「とまれ」  栄介は突然大声をあげた。三つの巨岩が空中で静止した。 「何か聞えないか」  栄介が言った。岩の風を切る音がやみ、しんと静まり返った砂漠の空の上で、かすかに何かのきしむ音が聞えていた。 「聞えるぞ。あれはなんの音だ」  三人は息を殺した。何か得体《えたい》の知れぬものが身近に迫っている感じであった。その見えない何かは、ギシギシときしむ音をさせながら、三人のほうへ忍び寄っている気配だ。 「さっきの方尖柱はガラスのように砕け散った」  北川がつぶやくように言った。 「そうか。ここの連中はガラスの利用にたけているんだな」 「どういうことだい」  山岡が薄気味悪そうに栄介に尋ねた。 「多分透明なものだろう。敵はガラスの飛行体を使っているらしい」 「畜生、だから見えないのか」  そう言ったとき、いきなり北川が岩を動かし、大きな半円軌道を描きながら、太陽のほうへ向って行った。 「そうか。連中は太陽を背にしているかも知れない。山岡、俺たちもまわり込んで相手のうしろに出よう」  二人は咄嗟《とつさ》に岩を飛ばして左右に別れ、フルスピードで北川より更に大きな弧を描きながら上昇した。 「見えた」  栄介は仲間の二人へ声が届くわけもないのに、思わずそう叫んだ。  まさに透明な方舟であった。虚空《こくう》にあっては、人影などけし粒ほどにも見えぬので気付かなかったが、白い服を着けた数十人の乗員が、大きなガラスの舟の中で動いているのが見えた。  栄介は好奇心にかられて思わず接近していた。とたんに、彼《か》の岩のどこかでカツンという音がした。はっとして岩をとめ、同時に前部をあおりあげて防禦の姿勢をとった。その岩の下面へ、カツン、カツンと何かが打ちあたる。  栄介は巨岩で防ぎながら徐々に後退した。敵は前方へのがれようとしているらしく、すぐ距離がひらいて、飛来するものが途中で勢いを失い、落下して行くのが見えるようになった。  なんとそれは、あの銅鉾《どうほこ》らしかった。形状は少し違うようだが、女神ナンナの神殿から奪って来た銅鉾の一変種であるらしい。  ガラスの方舟から、その銅鉾が三人のほうへ向けて盛んに撃ち出されてくる。 「おい、岩井」  山岡が叫んでいた。 「あいつら、姿を見られたらおしまいらしいぜ」  敵を嘲笑しているようであった。たしかにそのガラスの方舟は、相手に発見されれば脆弱《ぜいじやく》なもののようであった。ましてこちらは岩に乗っているのだ。危険を察知した相手は、前方に黒光りしているもののほうへ、必死で逃走をはじめている。 「どうする」  岩を寄せて来た山岡が言った。 「このでかい岩をひとあてしてやるか」 「待て」  栄介はそう言って北川の姿を求めた。北川は彼の真上へ来ていた。 「北川さん」  栄介は上へ向かって言った。 「危険をおかして接近することもないんじゃありませんかね」 「そうだな。姿が見えさえすればどうということもない相手だ。スピードも大してないようだし」 「癪《しやく》だな、こっそり忍び寄りやがって。よし、おどかしてやろう」  山岡はそう言うが早いかとびだして行った。二人がそのあとに続く。山岡は風を鳴らせてガラスの方舟に追いつき、その上をかすめて追い抜いた。あわてた敵の射手が、自分たちの真上へ来た山岡の岩を狙《ねら》い撃ったので、岩にはね返された銅鉾のひとつが、ガラスの方舟へはね返り、ガシャンとどこかを割ったようだった。乗員たちのあげる悲鳴が、砂漠の空にかぼそく消えて行った。  異 境  岩に乗って砂漠の空を越えた三人が見たものは、まさに異境の風景であった。  ありとあらゆるものが人工のものであった。自然のものは、砂漠と、それに劣らぬ不毛の岩山だけであり、その荒涼とした風景の中に、道路や壁や塔など、さまざまな構築物が並んでいた。  それはひとつの都市であった。外側にまず円形の道路があり、その道路に平行して第一の防壁がめぐらされている。内側に第二の防壁があるが、ふたつの壁の間には住宅や兵舎や寺院らしいものがびっしりと建ちならんでいる。  第二の壁はその最頂部が道路になっていて、何台もの馬車がゆっくりと走っていた。  よく見ると、馬車には内まわりと外まわりがあって、ところどころに駅のようなものがあった。つまり、その第二の壁は中央の市街をめぐる環状交通路であって、どうやら馬車は公共の交通機関らしかった。  二重の防壁も、整然とした都市計画も驚嘆に価したが、問題はその巨大な円形都市の中心に位置する、黒光りする塔であった。  砂漠の彼方で三人が見たのは、その黒光りする塔であった。  基部は方形であった。上空から見ると、それは方形の台の上にのせた円筒のように思えたが、北川はそれをひと目でジッグラトだと言った。 「しかし、ジッグラトというのはピラミッドに似た形をしているんじゃないんですか」  山岡が不審そうに言うと、北川は興奮気味で岩から体をのりだして叫んだ。 「見ろ。あれだって階段式ピラミッドだ。ただ、その階段が円筒の周囲に螺旋状《らせんじよう》につけられているだけなんだ。そのために、円筒は階段が一周するごとに、その階段の幅の分だけ細くなる。あれがメソポタミア古来のジッグラトなのだ」 「そうか。バベルの塔の絵に似ていますね」  栄介は岩を空中に静止させて言った。栄介がとまったので、ほかの二人もそれに従って、砂漠の端でとまった。 「ガラスの舟はあそこへ降りました」  栄介は黒光りする中央の塔のそばを指さした。 「やはりあの透明な舟はこの都市のものなのでしょう。だとすると、彼らはもっと強力な飛行体を持っているのかも知れませんよ」 「なぜそう思う」 「透明なガラスの舟は、言ってみれば奇襲用のものでしょう。それに、卑弥呼《ひみこ》の山へ侵入して来たのは木造船です。迂闊《うかつ》に近寄るのは危険だと思いますよ」  栄介が言いおわるかおわらぬうち、円形都市の上空に、砂漠の向うの都市で聞いたのと同じ、すさまじい咆哮《ほうこう》がひろがった。  第一の防壁と第二の防壁の間に、次々と例の方尖柱が突きだして来た。 「高度をあげろっ」  それを見ると栄介は二人に命令するように言い、岩を一気に三、四百メートルもはねあがらせた。 「ふだんは地下に納めてあるのだな」  山岡が感心したように言った。 「バクダードの円城というのを知っているかね」  北川が山岡に尋ねる。 「知りませんね」 「アル・ムッダワラと言うのだそうだが、僕はそのバクダードの円城の想像画を見たことがある。あれにそっくりだったよ」 「丸っこい屋根がほうぼうに見えますけど、あれは寺院の屋根でしょうね」 「うん。モスクだらけだな。降りてよく見たいものだ」  北川は惜しそうに言った。 「気をつけてくださいよ」  栄介は冷たい言い方をする。 「これは戦争なんです。現に下ではああしてやかましく空襲の警報を鳴らしつづけているじゃないですか。空襲しているのは僕らなんですからね」 「眺《なが》めてるだけさ」  山岡が不服そうに答えた。 「眺めてるだけでも、彼らにとっては空襲だ。まして、卑弥呼の国からやって来たのはこれがはじめてのことじゃないか。彼らにとっては得体《えたい》の知れない相手なんだぜ。敵の手の内が全然つかめないんだ。こんな薄気味悪い奴はいないと思うよ」  栄介が言うと北川が笑いだした。 「たしかにそうだな。見ろ、ここはすべてが人工のものでみちみちている。円と弧と直線の組合せだ。あのヤマトの国を思い出して見ろよ。卑弥呼たちの世界をさ。自然のものばかりだったじゃないか。こことは正反対だ。下の連中は、僕らが乗っているこの岩を眺めて、なんとも説明がつけられずにいるに違いないな。天然自然の石ころが、なぜ空を飛べるのかとね」 「異境だな」  栄介はつぶやいた。卑弥呼のいる緑濃い土地と、この赤茶色の不毛の土地には、とほうもない差異があるのだ。 「僕らに攻撃の意志がないと判っても、なんのたしにもならないはずだぞ」  北川は急に真剣な表情になって言った。 「彼らは我々を穢《けが》らわしい異教徒としか見ないだろう。我々を殺すことが正義であるはずだ」 「たたかうしかないのですね」  山岡は岩をかしげて下界を見ながら言った。そのとき、ドーンという音と共に、最初の方尖柱が舞いあがった。  安全な高度を保っていたはずなのに、その方尖柱はぐんぐん三人の岩へ接近して来た。 「危険だ。ここのミサイルは砂漠の都市のよりずっと強力らしいぞ」  三人はあわてて高度をあげた。垂直に、七、八百メートルくらい舞いあがると、さすがに方尖柱の上昇速度が鈍るのが判った。 「ここなら安全らしいですね」  山岡はほっとしたように北川に言った。  最初の方尖柱はゆっくりと横倒しになると、鋭い破裂音を響かせて、キラキラと輝く細片になって落下して行った。 「どうも判らんなあ」  北川は首をひねった。 「何がです」 「いや、僕らの岩のことさ。こっちのほうが、上昇力でも速力でも優秀らしいじゃないか。なぜなんだ。彼らはあんな高度な技術を持っているというのに」 「そう言えばそうですね。卑弥呼たちのほうには、科学らしいものなんてまるでなかったけれど、ここにはそれが感じられますからね」  そう言っている内に、二番目の方尖柱が発射する音が聞えた。 「来ますよ」  山岡が二人に注意した。  油断していたわけではないが、最初の方尖柱の到達した高度より遥《はる》か上にいたので、三人は一応安心して見守っていた。  ところが、二発目の方尖柱は二段式になっていたのだ。  さっき自爆した高度より幾分低いところで、第二の方尖柱はその下三分の二を、まっすぐ下へ噴き出すように破裂させた。そして、残った上三分の一は、それまでよりいっそう速度をまして突きあがって来た。  三人は突然のことに、うまく回避運動をすることができなかった。  互いに二段式ミサイルの攻撃を避けようと岩を動かした結果、三人は一か所に集まって揉《も》み合うように岩を触れ合わせてしまった。  とたんに、北川の岩の下に方尖柱のミサイルがぶち当たって、北川は傾《かし》いだ岩からあやうくころげ落ちそうになった。  しかしキラキラと輝く方尖柱の細片は、三人が寄せ合った岩にさえぎられて、水平方向に噴出した。 「しめた、助かったぞ」  栄介が北川のほうへ体をさしのべながら言った。北川は自力でなんとか元の姿勢に戻った。 「こいつは手ごわいな」  北川は苦笑し、 「だが、あの方尖柱はキラキラ光るだけに、案外もろい材料でできているらしい。乗っている岩を楯《たて》にしてさえいれば大丈夫だろう」  と言った。 「どうも、水晶のかたまりのようですね」  山岡は自分の岩の上へ舞い落ちた、敵のミサイルの破片を指でつまみあげて言った。  それは粉末に近い細片で、もっと大きなものは、みな岩にさえぎられて落下してしまっていた。 「頭の真上で爆発されたらやられてしまう」  栄介は下の様子を眺めながら言い、 「一応もっと距離を置いて様子を見ましょうか」  と、北川に相談した。 「そうだな」  北川が同意し、三人は円形都市のほうへ顔を向けたまま、ゆっくりと岩を後退させはじめた。  すると、下界で鳴り響いていた警報がいっそうやかましくなった。 「勝ち誇っているようだ」  山岡はくやしそうに言った。 「中央の塔が黒いし、モスクの屋根もみな黒い。あまり感じのいい眺めではないな」  北川は栄介の顔をみつめて言った。 「なぜです」 「イスラムの世界に、黒い時代があったのを知っているかね」 「知りません」 「陽気だったウマイア朝時代の次に来たのが、黒で象徴されるアッバース朝だ。アッバース朝はウマイア王家を冷酷に迫害し、虐殺することで成立したと言ってもいいんだよ。そのため、アッバース朝はウマイア朝が明るい白服や白い旗を用いていたのに反して、対照的な黒を用いたのさ。黒旗、黒衣の時代と言われている。下の円形都市の様子は、どこかそんな感じがするだろう。もし、アッバース朝的なものが下界を支配しているとすると、ちょっと厄介なことになりそうだ」  ドーン、ドーンと、二度つづけて発射音がした。 「二発だ」  山岡が怯えたように叫ぶ。 「分散して逃げよう」  咄嗟《とつさ》に栄介はそう判断し、岩を急旋回させると砂漠へ向かってスピードをあげた。ふり返ると、北川は左へ、山岡は右へ、それぞれ角度をとって飛びはじめていた。  だが、栄介ははじめから一定の距離へ来たら停止して様子を見るつもりであった。だから、適当な距離を飛ぶと急停止し、反転して敵のほうを眺めた。  なんと、方尖柱のミサイルは、水平飛行をしていた。一基は山岡を追い、一基は栄介に迫っている。 「しまった」  栄介は舌打ちし、反射的に高度をあげた。すると、やや時間をおいて、ミサイルもその弾頭を仰角にした。 「畜生」  栄介は大声で罵《ののし》りながら、迫って来る長大なミサイルをみつめた。  逃げるのが癪《しやく》だった。だいいち、どこまで追って来るか見当がつかなかった。相手の航続距離の限界を知るには、逃げて見るのも悪くはなかったが、もう一基が山岡を追っていて、そのほうが気がかりであった。  高度を上げたとき、相手がやや遅れて反応したことに気付いた栄介は、その長大さから言っても、運動性の点で自分のほうがずっとすぐれているだろうと思った。  要するに、方尖柱が爆発したとき、その破片を体にうけないようにすればいいのである。栄介は敵を充分に引きつけておいてから、岩頭を煽りたてるように持ちあげて、いきなり斜め上方へ突っ込んで行った。  ミサイルは、さっきと同じように遅れて弾頭をあげたが、その時はすでに栄介の岩は相手の長大な体の上を通って、都市のほうへ飛び去っていた。  急に目標を失った方尖柱は、その角度でぐんぐん上昇し、第二のミサイルと同じように、うしろ三分の二を噴射して、更に上空へ舞いあがると、やがて上昇限界へ達したらしく自爆してしまった。  栄介は二段式になったその第一段目の高度と、残りの弾頭が自爆する高度をよく見きわめてから山岡たちの姿を探した。  はるか下のほうで、方尖柱に追われた山岡が、ジグザグの回避運動をしていた。彼は夢中で水平飛行をしているのだ。  栄介は急降下し、山岡の進行方向へ先まわりしてすぐ並んだ。 「俺の前へ出ろ」 「どうするんだ」 「いいから俺の前へ出てからまっすぐにスピードをあげろ」  山岡は栄介を追い越し、言われたとおりスピードを少しあげた。栄介がわざと元の速度を保って飛びつづけたので、二人の距離はどんどんひらいて行った。  やがて栄介はおもむろに上昇しはじめた。二段式の一段目が噴射される寸前にスピードをませば、二段目が速力を得て追いついて来ても、敵の上昇限界へ逃げこめるという計算であった。  案の定《じよう》、栄介の作戦は図に当たって、そのミサイルもむなしく虚空《こくう》に散っておわった。  山岡が息を切らして上昇して来た。 「うまい手を考えたな。おかげでたすかったよ」  そのとき、北川がずっと下で手招きをはじめた。 「おりて来いとさ。ここなら安全なのに」  山岡は首をすくめ、それでも栄介と一緒に北川のところまで高度をさげた。 「岩井君のやりかたはみごとだったよ」  北川はまずそう言って褒《ほ》めた。 「しかし、あまりこっちの岩の性能を知らせてしまうのはどうかな」 「と言うと」  栄介は眉《まゆ》をひそめて尋ねた。 「相手はそれに対応できるだけの力を持っているようじゃないか。君は相手の上昇限界を掴《つか》んでああいう芸当をしたのだろうが、何度もやると危険だな。その内、二千メートルも上昇する奴がでてくるかも知れないからな」 「そうですね」  栄介もその危険性を認めた。 「ところでどうかね。逆襲してやろうじゃないか」 「逆襲ですか。できるんですか、そんなこと」  山岡は意気込んだ。 「できそうだよ。ただし、相手があれをもっと射ってくればのはなしだが」 「どうやるんです」 「あれをだまして都市の上空へ持って行って自爆させるのさ。見たところ、一段目が噴射してしまうと、残りはうまく方向転換をできないらしい。そのかわり速力はぐんと増すわけだがね」 「そうか。都市の上空へ向かって、うまく角度をつけて逃げ込めば、方尖柱はまず一段目の噴射高度へ達して、方向転換のきかない弾頭だけになってしまうわけですね」 「うん。弾頭の自爆高度が、ちょうど都市の上へ来るようにすればいい」 「そいつはうまいや」  山岡が勇み立ったとき、都市のほうでつづけざまに二十発ほどの音がした。 「来たぞ。今度は群れをなして飛びだしやがった」 「よし、あいつらを一列に並べて引っぱりまわしてやろう」  三人は横に並ぶと砂漠の上を三百メートルほどの高度で、海に向かって飛びはじめた。二十基ほどのミサイルが、槍をつらねたようにそのあとを追う。双方の距離はみるまにちぢまって行った。 「よし、ゆっくり右へ旋回だ」  三人は徐々に右へまわり込み、追尾して来るミサイルの隊列が崩れないように注意しながら、大きな弧を描いて都市のほうへ戻りはじめた。 「高度をゆっくりあげるぞ」  栄介が司令官であった。彼の命令で北川と山岡は横一列になったまま高度をあげ、一段目の噴射高度近くで急に速度を加えた。  都市のだいぶ手前でいっせいに一段目を噴射させた二十基あまりの方尖柱は、鋭い弾頭を都市上空へ突進させた。三人はその前にすばやく反転して飛び去る弾頭を見送っていた。  おそらく自動防衛機構のようなものがあるに違いなかった。自軍の弾頭が群れをなして都市上空へ突っ込んで行くと、下からその倍の数の方尖柱が、ミサイルとなって噴きあげられて来た。  防空ミサイルは、都市の外側へ一定の角度をもって上昇している。やがてその一基ごとが一段目の噴射高度に達して、下三分の二を気化させ、一気に速度を得て弾頭を更に上空へとばす。  その一段目は、もっと下の空で敵と接触すれば、気化せずに全体が硬い破片となって相手を傷つけるはずのものである。  巨獣の咆哮にも似た警報がとどろきわたる中で、方尖柱のミサイル同士が、意志のない冷たいたたかいをくりひろげている。  うまく相手をとらえて、激突した弾頭同士がキラキラと輝く破片となって落ちて行くものもあったが、都市上空へ殺到した弾頭のほとんどは、円形都市の中央上空で上昇限界に達し、いっせいに自爆した。輝く破片の雨が、黒光りする塔のあたりへ紗幕をかけたように降りそそいだ。  同時に、標的を外れたミサイル群は、砂漠側の上空で、同じように半円形の紗幕を作っていた。 「綺麗だなあ」  山岡が我を忘れてそう叫んだほど、その光景は異様に美しかった。 「自分たちのミサイルが、自分たちの頭の上で爆発するなんて、考えてもいなかったろうな」  栄介もうっとりとそれを眺めながら言った。 「気をつけろよ」  北川が注意した。 「対空砲火がやんだら、きっと飛行物体が現われるぞ。有人の飛行体だ」 「どうせガラスの舟でしょう」 「いや、判らんぞ」  しかし、北川の予言どおりにはならなかった。都市には人影も見えず、第二の防壁上にあった馬車の姿も消えて静まり返っている。 「何をしてるんでしょうね」  栄介が北川に言った。 「さあ。しかし、これで決定的になったね。もう和解の道はなさそうだよ」  北川は後悔しているようであった。 「もっと奥地へ飛んでみますか。こう反応がないんじゃ、どうしようもないですからね」  山岡は静かな睨《にら》み合いに、早くも倦《あ》きたようであった。 「うん。こっちに攻撃の手段がないのを見すかされてもつまらないな」 「しかし、ここを放っておけば、いつもうしろに不安が残りますよ」  三人は相談をはじめた。  栄介たちは偵察が目的でこの砂漠の世界へ来ていた。それに、ここの円形都市は防禦のためとは言いながら、方尖柱ミサイルのような攻撃的な兵器を持っている。 「速度や運動性の点では、どうやらこっちが数段上らしいじゃないか。ここを放っておけば背後に不安が残るのはたしかだが、かと言って安心できる程度にやっつける方法もないだろう」  北川はそう言い、それが結論となった。たしかに三人の岩は速度や運動性では敵を圧倒していたが、攻撃となると体当り以外に何の手だてもなかった。  三つの巨岩はやがて円形都市を離れ、更に奥地へと向かった。 「うしろに気をつけろ。奇襲さえくわなければどうということはないんだからな」  栄介は山岡にそう言い、今までよりずっと高空を飛行することにした。 「いったい、ここの連中は何を食料にしてくらしているのだろう」  北川ははてしもなく続く不毛の土地を眺めてそう言った。 「人間が住んでいる以上、何か農産物があるはずですよ」 「そうだな。しかし、よほど管理をしっかりしないと収穫は望めないはずだ。それに、その収穫を配分するとなると、もっと大変なことに違いないな」 「どうしてですか」 「考えてみれば判るだろう。これほど地の恵みのとぼしい世界だ。配分に際して不公平が起らずにすませるだろうか。こういう風土では富が一か所に集中しやすいのだよ」  栄介はすでに地平線の彼方に消えた円形都市のほうを振り返って言った。 「つまり、強大な権力が生まれるというわけですか」 「そうだ。その強権に奉仕し、依存することで弱者はやっと配分にありつけるんだ。あの壮麗な建築物は、そういう原理でできあがっているのだろう」 「何か見えて来ましたよ」  山岡が目ざとく何かを見つけて叫んだ。 「どれ」  栄介は岩の上で伸びあがるようにして前方を見つめた。 「遊牧民のキャンプらしい」  北川が言う。 「とにかく行ってみよう。何がとびだすか判らないから注意してくれ」  三人は岩の速度をあげてそのほうに近づいた。 「人間が浮いているぞ」  山岡が叫んだ。  その貧しげなキャンプから、一人の白衣の老人が、先の曲った大きな杖にすがるようにして、空中へ浮きあがって来ていた。 「お待ちなされ」  虚空に浮かんだ老人が、その更に上空へさしかかった三人を呼びとめた。 「多分あの大きな杖が老人を宙に持ちあげているのだ」  北川が小声で言った。 「何かご用ですか」  栄介が大声で答えた。老人は手まねきし、 「もっと降りてくださらぬか」  とたのんだ。 「山岡。君はこの高さにいて四方を見張っていてくれ」  栄介は用心深く言い、北川と並んで高度をさげた。 「アル・ムッダワラに破壊をもたらしたおかたであろう」 「あの円形都市のことだ」  北川が低い声で教えた。 「たしかにあの円形都市を通りすぎて来ましたが、破壊をもたらしたというほどのことはしていませんよ」  栄介は微笑を泛《うか》べて言った。 「死の塔の破片を自分たちが浴びることになったのだ。連中のあわてようが目に見えるようじゃ」  老人は愉快そうに笑った。 「それにしても、ずいぶん噂《うわさ》のつたわりかたが早いですね」  北川が言うと、老人はいっそう上機嫌《じようきげん》になった。 「何も知らぬかたがただな。わしらは敵のことならなんでもすぐに知ることができるのだ」 「敵。するとあなたがたはあの円形都市とたたかっているのですか」 「彼らは敵だ」  老人は真顔になって答える。 「彼らは城壁を作ってわれわれを中へ入れない。入りたくもないが、中には富がある。彼らがそれをわれわれに与えないのだから、たたかうしか道はあるまい」 「あなたがたは円形都市の富が欲しいのですか」 「なければ欲しがりはせぬ。しかし、彼らは壁を築き中に富をたくわえた」  老人の言い方は、まるで相手がいけないのだと言わんばかりであった。 「あなたがたも富をたくわえればいいのに」  すると老人は目を剥《む》いて栄介をみつめ、砂漠を指さした。 「どこに富がある。砂と岩のほかに何があると言うのだ」 「でも、円形都市は富を蓄積したのでしょう」 「そうだ。殺してな」 「殺して」 「奪ったのだ。だからそれを守る壁が必要になった。われわれはその壁を破る。いつかはな」  栄介は北川と顔を見合わせた。 「すさまじい世界だ」  北川は首をすくめた。 「どこからおいでになったか知らぬが、その三つの岩の力でわれわれをたすけてはくださらぬか」  老人は真剣なまなざしで言った。 「どうするのです」 「アル・ムッダワラを攻めたい」 「残念ですが」  北川は鄭重《ていちよう》に言った。 「あなたがたの闘いに加わる気はありません」  すると老人はむきになったようであった。 「何をためらわれる。あなたがたはアル・ムッダワラから攻撃を受けたのですぞ。敵ではないか。敵をみすごすといわれるのか」 「それならうかがうが」  栄介は毅然《きぜん》とした態度で言う。 「あの円形都市を攻撃して勝利を得たあと、どうなるのですか」 「どうなるとは」  老人は意表を衝《つ》かれたらしく、目を白黒させた。 「あなたがたは円形都市へ入るのでしょう」 「そうだ。入ってあの富を奪う」 「奪ったあとですよ」 「もちろん破壊する」  老人はきまりきったことを聞くなというように言った。 「破壊してしまうのですか」 「そうだ。敵は叩《たた》きつぶす。この地上からあとかたもなくしてしまうのだ」 「あの都市を完全に破壊して、そのあとあなたがたはどうするのです。また今のような遊牧のくらしに戻るだけですか」 「そのあとのことか」  老人はやっと気がついたというように笑った。 「神の命ずるままにするだろう」 「神。どんな神です」 「われらの神だ。われわれは、その神のためにたたかっているのだ。アル・ムッダワラにも神はいるが、それは邪神だ。われわれの神はその神をうちほろぼさねばならぬ」  北川が栄介のほうに視線を送って来た。 「なんです」  栄介が言うと、北川はニヤリとして見せた。 「つまりそういうことさ。八百万《やおよろず》の神々が共存する世界ではないのさ」  老人は胸を張って言った。 「神は富を手にしたわれわれに命ずるかも知れぬ。アル・ムッダワラよりも大きな町を作れとな」 「そうしたら別なところに町を作るわけですね」 「そうだ」 「おおい」  山岡が上空で喚き、円形都市の方角を指さしていた。  円形都市の方向の空に、黒い飛行物体が見えている。 「なんだ、あれは」  杖《つえ》にすがって宙に浮いた老人を置いて、北川と栄介は一気に山岡のところまで飛びあがった。 「黒い」  北川が唸《うな》るように言った。 「砲弾型をしているぞ」  山岡はその怪しい飛行物体をみつめて叫んだ。  しだいに接近して来るそれは、下半分が太い円筒で、上半分が先すぼまりに鋭くとがっていた。まさに砲弾のかたちであった。 「何を飛ばして寄越したのだろう」  北川は焦り気味であった。  とにかく、黒光りしていることといい、巨大な砲弾のような形といい、攻撃的なものであることはたしかであった。 「そうだ。あれはモスクだ」  北川はやっと思い当たったという様子で手を打った。 「モスク」 「そうだ。あれは回教寺院の円屋根じゃないか」  栄介はあっと思った。たしかにモスクであった。 「円形都市に黒いモスクがたくさんありましたね」 「そうだ。そのひとつを飛ばしたんだ」  北川は下の老人に手を振って、退避するように言った。老人はすぐ杖にすがって地上へ降り、キャンプしている遊牧民たちに敵の来襲を報《し》らせた。 「どうしよう」  山岡が栄介に尋ねた。 「ガラスの船をやっつけたようには行かないな」  栄介は刻々と近づいて来る不気味な敵を見ながら言う。 「重そうだ。速力の点ではこっちが有利らしい」 「逃げるのか」  山岡は不服そうだった。 「それも答のひとつだな」  栄介は慎重な口ぶりで言う。 「偵察に来たのだ。無用な戦闘は避けるに越したことはない」 「でも、俺たちがいなかったら下の連中はどうなる」 「あの老人たちが襲われるとは限らないよ」 「うん、たしかにそうだな」  北川が栄介の意見に同調した。 「下の人たちを救う意味でも、あの空飛ぶモスクをここから遠ざけたほうが得策だ。それにはまず逃げることだな」 「ちえっ」  山岡は舌を鳴らした。  空飛ぶモスクは、そのとがった部分を空に向けて飛んでいた。 「砲弾型をしているくせに気球みたいな飛びかたをしてやがる」  山岡は馬鹿にしたように言った。 「でも、きっとあれは有人飛行体だ」 「中に人間が入って操縦してると言うんですか」 「そうだよ。かなりしっかりした装甲をほどこしているんだろうな」 「この岩をぶつけて見れば判りますよ」  山岡は自信満々であった。 「ためして見ましょう。その上で逃げるかどうするかきめればいい」 「危険すぎるよ」  北川がたしなめた。 「あれだけの図体《ずうたい》で、中に人間が乗っているとすれば、多分いろんな仕かけを持っているに違いないからな」  黒いモスクはどんどん接近していた。 「とにかく、あいつの進路をかえさせて、下の人たちを守らなければ」  栄介はそう言い、 「行こう」  と、二人に声をかけて、黒いモスクの進路と直角の方向へ飛び出した。  三つの巨岩は一列になって荒涼とした大地の上を飛んで行く。 「こっちへむかって来るぞ」  いちばんうしろにいる山岡が叫ぶ。  栄介は不安になっていた。速力も上昇力も自分たちの岩のほうがすぐれているとは思うのだが、なにせまったく未知の相手である。どんな攻撃兵器を持っているのか見当もつかないのだ。 「追われてばかりいるのではどうしようもありませんね」  北川に相談すると、北川が岩の速度を少しあげて栄介と並び、 「まったくだ。際限もなく追いかけて来られたら、海の向こうへ追いかえされてしまうな」  と言った。 「やはりたたかわねばなりませんかね」  栄介は決断を迫られていた。  黒いモスクは三人の左後方からぐんぐん近づいて来ている。 「ガラスの船からこいつを射ち出して来ましたね」  栄介はベルトにはさんだ銅鉾を抜いて言った。 「こういう武器を持っているはずですよ」 「そうだろうな」  北川はそう言ってふりかえった。 「あ、山岡君が」  びっくりして栄介もうしろを見た。山岡はわざと岩のスピードを落し、黒いモスクの鼻さきを飛んでいた。 「山岡、危いぞ」  栄介が大声で呼びかけると、山岡は笑って右手をあげて見せた。 「たすけなくては」  栄介は北川に目くばせし、左へ急旋回した。同じように北川は右へまわる。  黒いモスクは、グォォンと威嚇《いかく》するような大音響をたてた。  その大音響の中で、山岡は自分の岩の高度をいきなり五十メートルほどもはねあがらせた。モスクはその急な動きについて行けず、目標を失ったまま直進した。  山岡は直立した砲弾型の尖端《せんたん》めがけて、一度ははねあがった岩を舞いおろさせた。ガーンとドラム罐《かん》を叩くような音がした。  モスクの先についていた宝珠のようなものが岩の圧力でぐしゃりと潰《つぶ》れた。  そのとたん、モスクは直進を続けながらゆっくりと横倒しになった。 「山岡。これが戦闘態勢かも知れないぞ」  栄介はまさに砲弾となったモスクの後尾へまわり込みながら怒鳴った。  だが山岡は委細かまわず、横になったモスクの胴へもう一度体当たりをくらわせた。  ガーンとまたうつろな響きを発したモスクは、はずみで頭部をさげ、すぐそれをたて直すと、意外なスピードで山岡から遠ざかり、ピタリと静止するとそのままで百八十度回転し、頭部を三人のほうへ向けた。 「何かしかける気だぞ」  栄介が大声で警告した。案の定、胴の部分に六か所ほど窓があき、そこから銀色に光るものが突きだして来た。  それは巨大な半月刀であった。薙刀《なぎなた》といってもいい。  その半月刀が一定の長さまで伸びると、黒いモスクは回転をはじめた。六本の半月刀は鋭く風を切る音を発した。 「ちえっ。まるでプロペラだ」  山岡はあざわらったが、その回転する刃はきわめて危険な武器であった。  黒いモスクは山岡めがけて進みはじめた。速度がますにつれて回転も速くなり、山岡ははねあがるような急上昇で危うく難をのがれた。  そのとき、地上では遊牧民たちが砂埃《すなぼこり》をあげてこちらへ向かっていた。 「岩井君、見ろよ」  北川がそれを指さして言う。 「彼らはたたかう気らしい」 「どうやってたたかうんでしょう。あの連中に対抗する武器などないじゃないですか」  栄介は北川と並んで回転するモスクの動きに注意しながら言った。 「でも、何かかついでいるぞ」  北川はまきあがる砂埃をすかして言った。遊牧民たちが一本の太いロープをかついで、ずるずると引っぱっていた。 「あのロープが何だか知らないが、とにかく下の連中はあれで何かするつもりらしい。思うようにやらせて見ようじゃないか」  北川がそう提案した。 「よし。それじゃモスクをこのあたりに釘《くぎ》づけにしてやりましょう」  栄介は賛成し、山岡の動きに合わせて、からかうようにモスクの周囲をとびまわりはじめた。  三人の岩にくらべると、モスクははるかに鈍重であった。北川がそれに加わると、完全に翻弄《ほんろう》されたかたちで、危険な風音をたてながら、遊牧民たちの上空でくるくると追いかけっこをはじめる。  一人が追われている間、他の二人は比較的安全であった。そして、少しそのあたりからモスクが遠のきかけると、追われ役が巧みに入れかわって、元の位置へ呼び戻す。  地上では老人が杖をしっかりと大地に突きたてて、何か呪文《じゆもん》をとなえはじめたようであった。  驚くべきことに、ロープはその呪文につれて、蛇《へび》のようにくねくねと体をくねらせながら、宙に浮きあがって来た。その長さは二百メートル以上もあるようだった。 「ロープが宙に浮いた」  栄介は北川にそれを知らせた。 「インド奇術にああいうのがあったじゃないか」  北川が大声で答えた。  太いロープは、いまや完全に一匹の大蛇と化して、黒いモスクの下へしのび寄っていた。 「下げろ。モスクを下へおびきおろせ」  栄介は山岡に命じた。  山岡はすっかりモスクの扱いになれた様子で、大胆にその鼻先をかすめ、モスクは怒り狂ったようにそのあとを追った。  そのとたん、尖《とが》った頭部にスルスルとロープの蛇がまきついて行った。意外な敵の出現に、モスクはしばらく戸惑ったように静止したが、ロープがその隙にいっそうしっかりとからみつくと、猛然と回転速度をあげた。  三人はその斜め後方へ集まって見物した。 「あいつ、なぜ動かないんだろう。一か所にとまって自転するだけでは脱出できっこないのに」  山岡はふしぎそうに言う。 「動けないんじゃないかな」 「ロープにからみつかれたからか。ロープをからみつかせたまま飛んで行ってしまえばいいじゃないか」  すると北川が興奮して指さした。 「見ろ。老人の杖を」  ロープは二百メートルほどの長さだが、うしろにごく細い糸がつながっていて、その端は、老人の杖にまきついているようだった。  山岡は急いで舞い降りて行った。飛ぶ蛇と化した太いロープにまきつかれ、空の一点に停止したまま烈しく回転している黒いモスクと地上の老人の中間あたりまでさがって行き、すぐ栄介たちのところへ戻って来た。 「あの老人の杖に糸が結んである」  山岡は驚いた表情で報告した。 「太いロープにそいつがつながっているんだ。モスクは結局細い糸一本でつなぎとめられてしまったようだよ」  モスクは強い力で後退しようとしているらしく、大地に突きさした老人の杖が、ときどき前へ引き倒されそうに揺れていた。  老人が何か大声で叫ぶと、地上の男たちがいっせいに杖へ走り寄り、細い糸をたぐりはじめた。モスクはジリジリと地上へ引き寄せられて行く。 「つかまえる気だ」  山岡が呆《あき》れたように言う。 「鯨を釣《つ》るようだ」  たしかに山岡の言うとおり、それは巨大な魚を釣りあげる漁師の群れを連想させたが、獲物《えもの》が空中にあるだけに、凧《たこ》あげのようにも思えるのだった。 「手をかさないでいいのだろうか」  栄介は自問するように言った。 「ここは彼らの世界だ。彼らなりに敵を始末する方法があるのだろう」  北川はそう答えたが、自信のなさそうな声であった。  地上の男たちはロープの端をつかんだ。モスクは百五十メートルほどの距離であがいていた。回転するモスクにからんだロープからは、摩擦熱《まさつねつ》で白い煙があがっていた。  太いロープに手がかかると、下の男たちはうしろ向きになってそれを引っ張りはじめた。そのためにモスクを引き寄せる力はいっそう強まっている。 「危いッ」  北川が大声を出した。ピンと張っていたロープがだらりとたるんだのである。肩にかついでうしろ向きに引っ張っていた男の列が崩れ、みな前のめりに転んだ。  モスクが突然前進したのだ。遊牧民の間へ鋭利な回転刀をきらめかせながら突っ込んで行く。  悲鳴と血しぶきがあがった。モスクはロープをまきつかせたまま、一瞬赤い靄《もや》につつまれたようだった。  栄介は夢中でそのほうへ岩を突進させていた。巨岩をあおりたてるようにして、回転刀の銀色の半径へ、岩を沈み込ませて行った。  バリバリという音がして、モスクの回転刀があたりに砕け散った。その直後、山岡がモスクの円筒部に自分の岩を、体当りさせて行った。二度、三度と山岡の岩が当たると、金属板で包まれていた円筒が歪《ゆが》み、亀裂《きれつ》が生じてその間から白い煙が噴《ふ》きだして来た。あたりにえも言われぬ香気がひろがった。 「麝香《じやこう》の匂いだ」  北川が栄介のすぐ上から教えてくれた。 「彼らの呪術《じゆじゆつ》に使われていたのだろう。毒ではないはずだ」  濃い香気を警戒した栄介はそれで納得し、モスクの頭をおさえつけるように岩を降下させた。  白煙を吐きだした円筒の割れ目から、黒衣の男が何人かころげ落ちて、地上に伸びていた。  仲間の死体を踏みこえて、生き残った男たちがまたロープにとりすがった。モスクはもう浮いているのがやっとの状態で、かんたんに地上へ引きおろされて行く。 「山岡、もうやめろ」  ガンガンとモスクに岩を打ちつけていた山岡は、栄介に言われてモスクから離れた。 「生けどりにしたな」  山岡は満足そうであった。その時一羽の鳩がモスクのどこからか飛びだして、円形都市のほうへ逃げて行った。  北川はそれを見送って言う。 「報告に行ったらしい。このあとが大変だぞ」  老人もそれに気づいたらしく、勝利に酔いかけている仲間にあわただしく命令を発した。 「中はどうなっているんだろう」  山岡が許可を求めるように栄介を見た。 「降りて見よう」  栄介はそう言い、一度高く上昇して敵影がないのを確認してから、大破したモスクを調べに地上へ降りた。 「ボデーは青銅。回転する刀は鉄でできている」  ひと足先に降りた北川が教えた。  中には七人の乗組員がいて、その中の三人は割れ目からふりおとされて死んでいた。残りの四人はすでに縛られて地面にころがされている。 「中は二重になっているよ」  山岡がモスクの中から首をだして言った。 「動力源も何もありはしない」 「だが祭壇のようなものがある。多分彼の祈りと麝香のような匂いを出す香料がこれを飛ばすのだろう」  北川は捕虜《ほりよ》になった乗組員の中の一人を指さして言った。その男は僧のような恰好《かつこう》をしていた。 「これがあいつらの飛道具だろう」  山岡は黄色く光る短剣のようなものをひとかかえも外へ持ち出して砂の上へぶちまけた。 「俺たちには装甲がない。四方八方からこいつで狙われたら、しまいにはやられるな」  栄介はその両刃の短剣をとりあげて言った。 「これをこっちが使えればいいんだが」  栄介はそうつぶやき、空へ投げて見た。すると短剣は妙にゆっくりと飛び、彼の意志どおりに方向をかえた。 「おい、こいつは使えるぞ」  栄介は驚いて山岡が運び出した短剣の山をみつめた。飛ばした短剣は栄介の意志を失って、遠くの砂の上へ石ころのように落下した。 「あの袋をもらえないかな」  栄介は遊牧民たちが肩から吊《つ》っている布製の袋を指さして言った。老人がそれに気づいて仲間からとりあげ、三人にひとつずつ渡してくれた。 「少くともこれで体当り以外の攻撃法ができたというわけだ」  三人は袋に短剣をつめこんだ。 「黒いモスクは向こうでたくさん見た。あれがみなこいつのように飛べるとすると、ちょっと大ごとだな」  山岡は短剣をいれた袋を肩にかけながら、心配そうに言う。 「こんなものじゃ黒いモスクをうち落せないからな」  すると北川がモスクの青銅のボデーを手で叩きながら言った。 「方法はいくつかある」 「ありますか」  栄介はうれしそうに北川を見た。 「岩を積んで高空から落下させたらどうだろうね。中に充満させた香料の煙が外に洩《も》れれば飛翔力《ひしようりよく》を失うらしい」 「うまく行きますかね」 「ほかに一撃で破壊させる方法はなさそうだし、やってみるほかないだろう」 「こいつも銅のようだけど、なんとか先のほうだけでも鉄なみにできないかな」 「どうするんだ」 「煙を洩れさせるなら、こいつだって結構やれるでしょう」  山岡は北川に短剣を示した。 「そうか。老人にたのんで来いよ。たしかここの連中は金属の扱いがうまいはずだ」  山岡は老人のところへとんで行った。  遊牧民たちは敵の逆襲が近いことをすでに知っていて、さっきのロープと同じものを何本もとりだして並べていた。  その指図をしていた老人は、山岡に短剣の細工をしなおす相談を持ちかけられると、岩山のほうを指さして何か説明した。 「うまく行くらしいな」  北川はそうつぶやき、なおも心配そうに遊牧民たちを見まわしている。 「今度襲って来れば、モスクはひとつやふたつではないだろう。あの連中をここへ置いておくのは危険だな。無理して助けようとすればこっちもやられかねない」 「そうですね。安全なところへ避難させますか」 「あの岩山の間なら、敵も総がかりというわけには行くまい。こっちもたたかいやすいわけだ」  二人はくろぐろとした岩山を眺めた。  岩山は突兀《とつこつ》として、近づくと遠望したときの黒い印象より、ずっと青味を帯びていた。  遊牧民たちは自分たちに迫っている危機を正しく認識しているようであった。  ときおり砂漠の彼方をふり返り、やがて円形都市から飛来してくるはずの、黒いモスクを警戒していた。  だが、まだ十四、五人の者が、岩山へは避難せず、最初の戦闘があったあたりにたむろしている。彼らは次の敵襲にそなえ、決死の覚悟でそこにいるはずなのだが、その岩山の上から見おろすと、のんびりと休憩している旅人の一群としか思えなかった。  岩山へ登った遊牧民たちは、老人から指示されて、自分たちがなすべき仕事を知っていた。彼らの一部は素早くあちこちに散って、仲間が安全にひそんでいられる岩かげを探していたし、残りの者は栄介たちが使用する攻撃用の岩塊を一か所に運び集めていた。  その攻撃用の岩は、注文がうるさかった。手に持てる程度の岩ではあの大きな黒いモスクを破壊する威力はない。栄介たちが乗る巨岩に、何人かの力で持ちあげてのせられる程度の大きさが必要なのだ。おまけに、乗せたあとの安定が悪いところげ落ちてしまうだろう。  つまり、かなりの大きさの岩で、下部が比較的平らなものでないと都合が悪い。栄介たちはせっかく遊牧民たちが運んで来てくれた岩の何割かを、あきらめなければならなかった。 「山岡、そろそろ警戒したほうがいいんじゃないかな」  栄介がそう言うと、山岡が待っていましたとばかりに巨岩へとびのり、空中へ舞いあがると、一気に砂漠の空を駆けて敵状を偵察に行った。  遊牧民たちが感嘆の声をあげるほど、高くあがる。 「どうだい。一度テストしてみないか」  北川が提案した。 「やってみますか」  栄介は遊牧民たちに、岩をのせるように言った。七、八人が力を合わせて、集めた岩のひとつを彼の巨岩にのせた。 「じゃ、やって見ます」  栄介は北川にそう言って浮上すると、ゆっくりと飛行をはじめた。一人で乗っているときとバランスが違うはずだと思ったので、巨岩を転覆させないよう注意していたのだ。  ところが、彼は飛行して間もなく、バランスの点ではまったく心配がないことに気づいた。一人で乗っているのと同じなのだ。  おかしい。  栄介は巨岩の前部に置いた攻撃用の岩をみつめてそう思った。  この岩はなぜこうもかるがると、そして安定した感じなのだろうか。  栄介は用心深く飛行していたが、その疑問の答をみつけるため、思い切って乱暴に飛びまわりはじめた。  だが、その岩は乗っている巨岩をかなり大胆に傾斜させても、転落する気配さえ見せなかった。まるで岩同士が磁力で結ばれているようであった。  栄介は焦った。  敵が来たら、相手よりすぐれた上昇力を利用してその上空に迫り、巨岩を傾けてその岩塊を滑りおとさせるつもりだったのである。  しかし、それがどんなに傾けても落ちないとなると、この反撃計画はまったく不可能になってしまう。  栄介はぐんと高度をあげ、一気に急降下してみた。しかし、それでも攻撃用の岩塊は転落してくれない。 「畜生、どうなっているんだ」  栄介は空中でそう叫んだ。  そのとき、ふと彼の心をかすめたものがあった。  それは、乗っている巨岩自体のことであった。  何の動力もなく、ただこの世界における神の一人である栄介の命令どおり、意志どおりに飛行するのである。ふしぎと言えばこれ以上のふしぎはなく、そのふしぎさをあるがままにうけいれてしまっている以上、黒いモスクが飛んで来ようが、ロープが宙を舞おうが、問題にすることはないのだ。  となると、一人の神が武器としてその岩塊を持ったからには、それもまた神の意志どおりに動くのではないだろうか。  栄介は無人の砂漠の上空で水平飛行に移ると、自分の心をのぞきこむような感じで、どうしたらその岩塊を飛ばすことができるか考えてみた。  まず、卑弥呼の世界で磐座《いわくら》にまたがったときの気分を思い出そうとしたが、その記憶は漠然としすぎていて、よく思い出せなかった。 「たしかあのとき、俺には飛びたいという願望があったはずだ」  栄介はそうつぶやき、 「岩よ、とべ」  と、少し芝居がかった言い方をしてみた。しかし岩塊はぴくりともしない。栄介はまた焦れて、思いつくままにいろいろなやりかたをしはじめた。  そうやって、爆弾がわりの岩塊を投下させようと飛びまわっているうちに、栄介はふと子供っぽい心理におちいった。  彼はパイロットであった。戦争映画で見たシーンのいくつかがよみがえり、彼は戦闘機を駆って敵地の上空にいた。翼にはロケット弾が吊《つる》してあった。 「発射」  ボタンを押す気分でそう念じた。そのとたん、岩塊はさっと前方へとびだして行った。  いまや、その岩塊は完全な攻撃用兵器と化していた。  栄介が乗っている巨岩の速度よりはるかに早いスピードで、彼の思いどおりに飛翔するのである。  右と思えば右、左と思えば左。自由自在に空中をとびまわり、蛇行《だこう》やUターンさえあざやかにやってのけた。 「しめた」  栄介はよろこんで叫んだ。  岩山ヘその岩塊をつれ戻り、山腹へそれをぶち当ててみた。  ガツンという音と同時に火花が散り、岩塊は粉々に砕けた。山腹の岩も大きくえぐられた。 「おおい」  北川が昂奮《こうふん》した様子で手を振っていた。栄介はふわりとそのそばへ着地した。 「どうやったんだ。すばらしいじゃないか」  北川が栄介の岩に手をかけ、ふりあおいで言った。 「はじめはこの岩から離れないんで苦労しましたけど、もうわかりました。かんたんですよ。コツは戦争ごっこです」 「戦争ごっこ」 「ええ。こいつが戦闘機になったつもりで、ロケット弾の発射ボタンをエイと押したらあのとおりです。あとは自由自在ですよ」 「なるほど。感情移入が必要なんだな」 「そうらしいですね」  二人が喋《しやべ》っていると、遊牧民の一人が北川の腕を掴《つか》んで、もう一方の手で空を指さした。山岡が全速力で戻って来ていた。 「おいでなすったな」  栄介はいそいで岩塊を積みこませた。 「山岡にも説明してやってください。これさえあれば無敵ですよ」 「よし」  北川も自分の岩へとびのり、岩塊を積ませる。 「来たか」  栄介は着地しようとしている山岡に尋ねた。 「来た来た。ワンサとおしよせて来やがったぞ」 「こうなったらなるべく遠いうちに攻撃をしかける。かわりの岩を積みこむ時間が要るからな」  栄介はそう言い残すと、さっと飛びあがり、一直線に敵のほうへ去った。 「うまくモスクに命中するかな。連中もかなりのスピードを持っていますよ」  山岡が心配そうに言う。 「平気だ。こっちにはロケット弾がある。しかも自由に進路をかえられる奴がね」 「ほんとですか」  山岡は驚いて北川をみつめた。 「ほんとさ。君もひとつ戦争ごっこをやってみろよ」  北川はたのしそうに笑った。  乱 戦  栄介は真正面に敵の黒いモスク群を発見した。  それは黒いだけに不気味で、威圧感に溢《あふ》れていた。空を飛んでいるが、爆撃機の編隊というよりは、大艦隊と言ったほうがぴったりする眺《なが》めであった。  しかもかなり速い。  栄介は急上昇した。隊形を見る必要を感じたからである。  正面から見る限りでは、堂々と隊伍をととのえている感じであったが、上空から見るとただひとかたまりになって飛んでいるだけであった。  栄介は少し気が楽になった。あの分では組織的な攻撃はないはずだと思った。  思い切って相手に近づいて行くと、先頭のモスクに向けて岩塊を発射した。岩塊は少し左右に航跡をふらつかせながら飛んで行く。  キラキラと光るものが、いっせいにその岩塊へ向けてモスクから射《う》ち出されて行った。 「なるほど。ここまでの射程はないというわけか」  栄介はつぶやきながらじっと観察した。キラキラ光るものは、多分あの短剣なのだろう。だが、無人の岩塊が相手では、その武器もむなしくはね返るだけだ。  岩塊は栄介が心で命じたとおり、先頭のモスクへぐんぐん接近している。相手はうろたえて急に左へ進路を変えたが、岩塊はそんなことは問題にせず、ぴったりと狙《ねら》いをつけて、その方向へ曲った。 「うまいぞ」  栄介は怒鳴った。先頭のモスクは攻撃を避けようと急に停止し、すぐ斜め右へ後退した。後続のモスク群は相当なスピードで飛んでおり、そのまん中へ先頭のが割り込んだので、ひどい混乱に陥っている。  と思う間もなく、栄介が発射した岩塊は、みごとに先頭のモスクの円筒部に命中した。  栄介が息をのんで見守るうち、そのモスクは白煙を吐いて高度をさげ、やがて浮揚力を失って物理的な法則どおり、垂直に落下してドスンと砂の上にめりこんだ。  モスク群は明らかにたじろいだ。バラバラに停止し、栄介の様子をうかがっている。  だが栄介には次弾がなかった。しばらく睨《にら》み合ったのち、くるりと反転して岩山へ戻りはじめると、敵はかさにかかって追いはじめた。  しかし、そのときにはすでに左右両翼に北川と山岡が展開していた。  栄介は二人がみごとに岩塊を発射したのを確認してから、岩上の補給基地へ降りた。遊牧民たちがあわてて岩を積む。 「のせられるだけのせてくれ」  栄介はそう命じた。こういうことなら、一発ずつという必要はなかった。  北川と山岡が発射した岩のミサイルは、ひょうひょうと不安定な航跡を示しながら、飛来した黒いモスクの群れに突っ込んで行った。  またしても、モスク群に混乱が起り、逃げようと急に後退したモスクがふたつほど、他のモスクに激突した。  右翼から攻撃した山岡のミサイルは、はじめの目標どおり、その激突したモスクに追いうちをかけ、ドームの上部に命中すると、そのドームは帽子を吹きとばされたように、半円型の部分を失って墜落して行く。  衝突されたほうも、円筒部に大穴があき、そこから白煙を噴きだしてぐんぐん高度をさげる。おまけにバランスを失ったので、クルクルと急回転し、黒衣の搭乗員が二、三人、その大穴から抛《ほう》り出されて転落した。  左翼からの北川のミサイルは、いかにも彼らしい機敏さで、はじめに狙ったモスクが、後続のモスクと激突して大破するのを見ると、すぐ一度急上昇し、モスク群の後方へ飛び去ったのち、急反転して最後尾にいたひときわ大型のモスクに突っ込んで行った。  ガーンという、うつろな音が大空に響きわたり、大型モスクは一瞬グラリと傾いた。しかし白煙が洩《も》れる穴を生じるには至らなかったと見え、すぐ態勢をたてなおしたが、スピードはすっかり遅くなっていた。  栄介が岩のミサイルを満載して戦列に復帰したのはちょうどその時であった。  栄介は北川たちに、自分の岩の上の岩塊を指で示して見せた。二人とも大きく頷《うなず》いて見せ、急いで岩山へ戻って行った。  二十あまりの黒いモスクを相手に、いま空にいるのは栄介ただ一人であった。  強い太陽の光の中で、モスク群が発射する短剣がキラキラと輝いている。  栄介は時間をかけると不利になると思った。相手がこの新しい戦闘に慣れ、対抗する戦法を考えだす前に、徹底的にその戦力を削《そ》いでおかねばならない。  たてつづけに三発のミサイルが飛んだ。三つの岩塊はほとんど同じコースでモスク群に向かい、相手を選ばず手近な目標に連続して命中した。  二つはパックリと割れて落下し、もうひとつは白煙を吐きながらゆっくりと大地へ沈んで行った。  カシッ、カシッと耳ざわりな音がはじまったので気がつくと、いつの間にか比較的小さなモスクが右下へ忍び寄っていて、栄介を短剣の射程へとらえていた。  栄介は驚いて二、三十メートルもはねあがったが、そのモスクも執拗《しつよう》についてくる。そればかりか、真正面に大型モスクがひとつ、彼と同じ高度まで浮上し、おもむろにその巨体を倒した。  尖《とが》った先を前に向けたそれは、まさしく巨大な砲弾であった。  栄介はあわてた。  下からは鋭い刃先を持った短剣がひっきりなしに突きあげてくるし、正面では大型モスクが突撃して来る気配である。  かと言って、一時離脱すれば、自分の安全ははかれるとしても、岩山へ降りて行ったばかりの二人が危険にさらされる。  岩の下面に当たる気味の悪い短剣の音を聞きながら、栄介はとりあえず岩のミサイルを一発、前面の敵へ送った。  しかし、突撃姿勢をとった相手は、円い屋根をこちらに向けていて、栄介のミサイルはガーンと言う大音響をさせたものの、その優美な曲面を上すべりして左へそれて行ってしまった。  反対に、敵は円屋根に設けた攻撃用の小窓をいっせいにあけ放し、短剣を発射して来た。  巨岩の上へ無防備で乗っている栄介は、夢中でまた高度をあげた。斜め上方へ飛びだしたので、背後で下からの短剣が空を切る音が聞えた。  下を見ると、黒いモスク群はすでに全部横倒しになって、突撃姿勢をとっていた。  大小ふたつのモスクが、栄介を射程内にとらえようと上昇をはじめている。  モロにぶつかっては装甲の厚い相手にはかなわない。栄介は考えをかえ、素早く動きまわることにした。  追って来るふたつのモスクをそのままにして、ひとかたまりになっている敵の後方へまわり込むと、たてつづけにミサイルを放った。  今度はおもしろいように敵が墜落する。  突撃姿勢をとったために、円筒の底を栄介に向けていたのだ。平らなその部分へ岩塊が高速で命中すると、装甲をかんたんに突き破ってしまう。  砂漠の空に敵の悲鳴が溢れた。  危険を悟ってほとんどのモスクが、頭をうしろへまわす。栄介はその上空を突っ切って、また円筒の底をさらした相手に岩塊をぶちこんだ。  その緒戦で、敵の数は早くも半分に減ってしまう。  しかし、相手も密集隊形をとっているのが不利だと気づいたらしく、お互いに叫びかわしてバラバラに散ってしまった。  戦いはやりにくくなった。  しかし、そのとき北川と山岡が空へ岩塊を積んで舞いあがって来てくれた。  こうなれば各個撃破である。三人は優越した上昇性能を生かしていったんモスクが到達できそうもない高空へ行き、思い思いの相手をえらんで狙いをつけた。  岩山ではあの老人が切りたった崖《がけ》の端に立って何かをはじめていた。  老人は次の事態を的確に把握していたらしい。  モスク群が緒戦の失敗にこりて広く展開したことは、必然的に彼ら地上の遊牧民が攻撃を受けることになるのだ。  現に空中の三人は老人たちを守ってやるどころか、自分の身を守るためにたたかうので精いっぱいになっている。  あらかじめ岩山へ大半が避難しおえていたからよかったが、それでも栄介たちの攻撃を受けないモスクが彼らの頭上へ襲いかかれば、大勢の犠牲者が出るはずであった。  だが、老人には老人なりの対抗策があった。  崖の上に立って砂漠を見おろした老人は、おもむろに呪文《じゆもん》をとなえはじめた。すると徐々に砂嵐《すなあらし》がはじまり、地上は煙幕を張ったように舞いあがった砂で見えなくなった。  その砂の煙幕から突きだした岩山の端に、老人の姿があり、やがて砂漠に引きのばしてあった何本もの太いロープが、砂嵐の中から姿をあらわした。  それはあたかも、泡《あわ》だつ海から鎌首《かまくび》をもちあげた大蛇のように思えた。  山岡の連射を浴びて小破し、低空へ逃げて来たモスクがひとつ、その大蛇にまきつかれて動きをとめた。  上空では黒いモスクが敏捷《びんしよう》な三つの巨岩の動きに翻弄《ほんろう》されて右往左往している。  ときおり、ガーン、ガーンと岩塊のミサイルが命中した大音響がとどろき、白煙を吐いて墜落するモスクに、岩かげにかくれた遊牧民たちが歓声をあげる。  しかし、生き残ったモスクは必死に抵抗し、追いつ追われつの攻防を大空にくりひろげていた。  そして、栄介たちの注意がそのほうに向けられている隙《すき》に、二つのモスクが岩山へ襲いかかった。  例の六本の刀を突きだし、それを烈しく回転させながら、ふたつのモスクは協力し合って岩山の遊牧民たちに短剣の雨を降らせる。  ロープがひょうひょうと砂嵐に煽《あお》られながら巻きつこうとすると、一方のモスクがたくみにそれを回転刀で切断してしまう。  七、八本のロープがそのまわりで、相手の隙をうかがって奇怪な踊りを踊っている。 「あといくつ残っている」  北川がその戦闘のあい間に、栄介に近寄って叫んだ。 「敵はあと五つだ」 「岩山の連中がやられている。老人が危い」 「よし、上は引きうけた。下のふたつを始末してくれ」  北川はそう言うと、上空に残る三つのモスクを追いはじめる。  栄介は岩山へ急いだ。そこには黒い巨大なモスクとロープの蛇が睨み合っていた。  栄介はロープを防いでいるほうのモスクへ、いきなりミサイルを二発送った。手持ちの岩塊はそれでおわりだった。  栄介の接近に気付かなかったそのモスクは、一発を回転刀のつけ根あたりへ、もう一発を円筒部中央にモロにくらってしまった。  ことに円筒部に命中した岩塊は、三角形にとがっていて、かなり小さかったが、充分に加速されていたので、装甲を突き破り、反対側へ半分ほどめり込んでとまった。  ひとたまりもなかった。  命中したふたつの岩塊の勢いで、はねとばされたように、老人が立っている崖のすぐそばへ激突してバラバラに分解した。  するとロープたちはすかさず岩山の上に静止して、短剣を射ち込んでいたもうひとつのほうへ、ヒョロヒョロと揺れながら襲いかかった。  モスクはあわてて回転刀を突き出させたが、時すでに遅く、二、三本のロープにからみつかれて行動の自由を失ってしまった。  勇敢な男たちが岩かげからとびだし、そのロープにとびついてモスクを引きおろそうとする。モスクからは必死で短剣が発射され、二人、三人と男たちが朱《あけ》に染まって倒れた。 「畜生め」  栄介はロープにからみつかれたそのモスクの上へ自分の巨岩を押しあて、押しさげた。  モスクは蛇にからみつかれたまま岩山に触れる。  ギシギシと嫌《いや》な音をたててモスクがきしんでいる。  そのモスクへ、手に手に得物《えもの》を持った遊牧民が襲いかかり、装甲をガンガンと鳴らして穴をあけはじめた。  やがて、あたりいちめんに麝香《じやこう》の匂いがたちこめ、モスクは飛翔力を完全に失って岩山の上へころがった。  ワーッという遊牧民の勝利の声を聞きながら栄介が再び空へ戻ると、山岡と北川の岩だけが遠くの空に見えていた。  やがてその二人も戻って来る。 「ふたつ逃がしたよ」  山岡は残念そうに言った。 「砂嵐の中へ逃げ込みやがった。向こうは窓をしめればいいが、こっちはむきだしだからな」 「まあいいさ。これで制空権はこっちが握ったも同然だ」 「老人は無事か」 「うん、あの通りだ」  ふり返ると、いつの間にか老人は崖から離れて、モスクの搭乗員たちをひざまずかせていた。 「見ろ、砂嵐がやむぞ」  北川がそう言った。  しずまりはじめた砂嵐の中に、何かが見えた。三人は唖然《あぜん》としてその奇妙なものをみつめていた。 「なんだ、あれは」  山岡がそう叫んだとき、岩山にいた遊牧民たちが、いっせいに歓声をあげた。 「味方らしいな」  北川が呆気《あつけ》にとられたようにつぶやく。  砂嵐の去った砂漠の上に、どこから現われたのか、巨大な長方形をしたものがずらりと並んでいた。  老人が下へやって来て手まねきをした。 「とにかく降りよう」  三人は静かに岩を老人のそばへおろした。 「おかげで助かりましたが、もう安心です」  老人は畏敬《いけい》の念をこめて言った。 「味方がやって来ました」 「あれはなんですか」  北川は砂漠を指さして言った。 「われわれの戦車です」 「戦車……」 「そうです。これから敵の町を攻撃に行きます。宿願がこれでやっと果せるわけです。さいわい、あなたがたのお力で、空飛ぶモスクに全滅に近い打撃を与えてあります。こんな機会はまたとないでしょう」 「あれが戦車ですか」  北川はふしぎそうだった。ここから見ると、長さ三十メートルほどの石のかたまりでしかなかった。 「すると、あなたがたはこれからあの円形都市に総攻撃を加えるわけですね」 「はい。あの町はやがて砂に埋もれてしまうでしょう。町の名も、それを作った人間の名も、そして神の姿も、誰も思い出さなくなるのです」  老人の言い方には、おそるべき呪詛《じゆそ》の調子が入りまじっていた。  多分、この砂漠では、時とは砂のことなのであろう。弱い者、敗れた者はみな砂の下に埋もれて忘れ去られてしまうのだ。  栄介は自分たちと根本的に異なるものをその世界に感じ、うそ寒い思いで北川たちに言った。 「円形都市と遊牧民の争いには関係ない。結果が知りたければ帰りに見れるはずだ。さあ、もっと奥地へ行こう」  北川が頷いた。 「そうだな。まだここはほんのとば口のようなものだ」 「岩の神々よ」  老人がおごそかに言った。 「赤い湖を越して行かれるのか」 「とにかく奥地へ行く」  栄介は岩を浮上させながら言った。 「その赤い湖の先はどうなっている」 「火の神々の土地です」  老人は三人を見あげて叫んだ。 「月の女神と火の神の土地です。邪悪な世界ですぞ」  三人は舞いあがった。 「火の神と月の世界か」  北川が言う。 「何が邪悪だ」  山岡は笑った。 「ロープの魔術に空飛ぶモスク。自分たちの世界だって、見ようによってはずいぶん邪悪だぜ」 「それはこっちも同じことさ」  北川は真面目《まじめ》な顔で言う。 「ただの岩に乗っかって飛びまわるんだからな。少なくとも黒いモスクにはボデーに麝香《じやこう》の煙を充満させるという仕掛けがある。ロープは呪文によって蛇のように空中を動く。こっちのほうがいくらか合理的さ。そこへ行くとわれわれは、まるで仕掛けがない。神であるというだけなんだから」 「行きがけにあの戦車を拝見しよう」  栄介はそう言うと、砂漠の上空へ行った。  岩山のと合わせて、全部で十八の破壊されたモスクが、砂漠の上に点々と散らばっていた。長い黒衣を着た搭乗員の生き残りが、遊牧民の戦士にとらえられ、二列になってトボトボと岩山のほうへ引きたてられていった。  そして、横たおしの角柱のような巨石の列が、円形都市のほうへ向けてずらりと並んでいた。  三人の岩が低空飛行をすると、戦士たちがワーッという歓声をあげ、手をうちふった。 「砂橇《すなぞり》だ」  北川がいち早く戦車の構造を見抜いた。  たしかに、その岩の角柱の腹部には、橇のような仕掛けが見えていた。 「動力は」 「祈りさ。そうにきまっている」  北川は事もなげに言った。たしかに、それ以外にないはずであった。 「見ろよ。あの岩の中に人間がもぐり込む穴があけてあるらしいぜ」  山岡が言う。 「空飛ぶモスクと似たようなものだ。しかし、かなり強力だな。あいつが敵だったら、俺たちは手のだしようがないぜ。岩の爆弾なんか通用しそうもないし」 「引っくり返す以外に、戦闘力を奪う方法はなさそうだな」 「円形都市はきっとやられるぜ。二重の壁だって、きっとぶち抜かれるだろう」 「それに、あの老人がまき起す砂嵐が、煙幕の役をするしな」  山岡はその戦車のひとつの真上でとまり、手を振って動いてみてくれとたのんだ。  男たちはさっと岩にもぐり込むと、その四角い柱のような巨石は、砂の上を思いがけないスピードで走りはじめた。 「すげえや」  山岡は勇ましい走りぶりに、手をうってよろこんだ。  戦車の走行を見物した三人は、遊牧民たちに別れを告げて高度をあげ、荒涼とした岩山が続く上を、更に奥地へ向かって飛んだ。 「何もない。まるで死の世界だな」 「月面はこんなだろう」  ときおりそんな言葉をかわす以外、三人はほとんど無言だった。  しかし、行けども行けどもその死の世界ははてしがないようであった。 「ストップ」  栄介は右手をあげて北川たちをとめた。 「どうした」 「おかしいと思いませんか」  栄介は北川を意味ありげにみつめた。 「この世界の住人たちにとって、ここは未知の場所なんじゃありませんか」 「だって、あの老人はこの先に赤い湖があると言っていたぜ」  山岡が異議をとなえる。 「だからと言って、ここを把握しているとは限らないだろう。卑弥呼たちは、はてもない海原のむこうに、別な神々の国があることだけは知っていたじゃないか」 「そうか」  北川はニヤリとした。 「それに違いない。ここは認識されていないんだ」 「どういう意味です」 「なあ山岡君。僕らはあの無限の海をどうやって有限にしたんだっけな」 「あ、そうか」  山岡にも判ったようだった。 「無限の海だと思うから無限になる。あともう少しだという理解をすれば、その無限にもおわりが来る……そうでしたね」 「もうずいぶん飛んで来た。こんなに長く続くわけがないんだ。思いきり高度をあげてもう少し飛べば、次の世界が現われるはずだよ」 「そうですね」  三人は徐々に高度をあげた。かなりの距離を飛んで来た証拠に、いくら高くあがっても、もうあの岩山や砂漠は見えなかった。 「赤い湖か」 「本当にそんなのがあるのかな」 「あると思うね。卑弥呼たちの例が証明しているよ。漠然とではあっても、隣接した世界のことは、あの連中には判っているんだ」  高度をあげてから、まだそんなに飛んではいなかったが、三人にはもうすぐこのあいまいな境界領域がおわるという確信があった。 「おい、赤い湖らしいぞ」  北川が一番さきにそれを見つけた。  前方の空の一角に、うす赤い靄《もや》のようなものがたちこめていた。 「なんだか、少し様子が違うな」  山岡は首をすくめて見せた。  たしかに、異様な雰囲気《ふんいき》がその世界には溢れているようであった。自然の景観そのものが、三人の知っているものとはかけ離れている感じであった。  だいいちに、土が赤褐色《せつかつしよく》を呈し、ところどころに生えている草や樹木の形も、ひどくとげとげしかった。 「やはり赤い湖だ」  北川が言った。 「赤い湖の水の色が反射して、空が赤っぽく見えるんだよ」  赤い靄のようなものは、北川が言ったとおり巨大な赤い湖の反射光であった。 「血の色の世界だ。こういう世界に生まれた人間の心は、血に対してどんな感情を持つのだろう」 「ひどく狂暴な連中がいるんじゃありませんかね」  近づくにつれ、その血の色の世界は、それなりに見事な秩序で構成されていることが判った。  森があり、耕地があり、その中に点々と集落があって、どこか中世のヨーロッパを思いださせた。  しかし、決定的に違うところがひとつあって、それが三人を息苦しいほどの沈黙に追い込んでいた。 「この世界に馴《な》れるのは容易じゃないな」  北川が苦笑してみせたのは、だいぶ時間がたってからであった。  決定的な違いというのは、水の色であった。赤い湖がある以上、それは当然のことであったかも知れないが、川と言い池と言い、あらゆる水が赤く染まっていたのである。 「鉄分が強いのかな」  山岡が首をひねった。 「とにかくここの水は赤い」  栄介はその異様な気分からのがれるために、つとめて赤い水の原因など問題にしない態度で言った。 「ほとんど人間の手が加わっている。よほど大がかりな土地改造をしたのだろう」  たしかに、川は耕地を作りだすために、赤い湖から八方へ効果的に流されている。森や林にも植林した形跡が見える。 「多分、昔は赤い色をした荒れ地だったのだろうな」 「見ろよ。赤い湖から流れ出す川の出口には、必ず大きな工場のような建物がついている」 「発電所に似ているな」 「ひょっとすると、赤い水には毒性があるのかも知れない。あそこでその毒を消しているのだとすると、あの赤い湖は危険だぞ」  北川がそう注意した。  もとは砂漠の周辺に見られるような、荒涼とした土地であったに違いない。それがみごとに緑の野に作りかえられている。 「違う。違うなあ」  北川が感嘆した。 「まったく、実にみごとに環境を作りかえている。大変な文明ですね」  山岡が同じように嘆声を発したが、北川が強くそれを否定した。 「僕が言うのは違うことだ。日本と違うと言っているのさ。日本……いや、あの卑弥呼の世界とだ」  三人は高空で岩をとめ、語り合った。 「たしかに、みごとな緑野を作りだしている。大変な労力と知恵がここにそそぎ込まれているのはたしかだよ。しかし、卑弥呼の国とはまったく異質だ。同じ緑の野でも、ここはそれを人工的に作りだした。卑弥呼のところは昔からある自然のままだ。どっちがいいと思う」 「僕らは日本人ですからね」  栄介が答えた。北川の言う意味がよく判っていた。 「もちろん自然のままがいいですよ。ここは自然に対して人間が牙《きば》をむき出して挑戦《ちようせん》している感じですね。優しさがない。あっても、それは日本的な優しさじゃない。仲間同士の間だけ通用する優しさだ。それをよそ者が見れば、やはり優しいと感じはするでしょうが、よそ者には決して与えられないと言う感じだな」 「うん。僕もそう思っていたところさ。これだけのことをなしとげるには、ここの住民が強力にひとつの集団として結びつかなければならない。その連帯感の中での優しさだ。おりて見なければ判らないが、多分ここには日本のような八百万《やおよろず》の神々はいないに違いない。間違いなく一神教か、それに近いごく少数の神の世界だろうね。外からの訪問者はすべて敵視されるのだろうよ。僕の知る範囲では、卑弥呼たちの世界はその逆だ。外来者に対しては畏敬の念で接する態度がある」 「待ってくださいよ」  山岡が言った。 「そうすると、僕らはここの外来者でしょう。敵視されるんですか」 「そのつもりでいたほうがいい」 「また喧嘩《けんか》か」  山岡はうんざりしたように言った。 「あの砂漠の連中のほうが、ずっと優しいんじゃないかな。僕にはそんな予感がしてならない。少くとも彼らは砂の中に生きていた。まだしも自然の緑の中に生きる卑弥呼たちと共通点があった。しかしここは違うぞ。この優美な世界には、何か兇悪なものがかくれていそうだ」  たしかに、整然と配置された森や川、或《ある》いは道路の様子には、どこか冷たい感触があった。  下のほうで何か騒がしい気配が起った。 「なんだい」  山岡が岩を傾けて下を見た。 「見ろ。あの森だ」  湖にそって、濃い森があった。気配はそのあたりではじまっていた。 「鴉《からす》だ」  北川が言った。 「鴉が騒いでいる。なんだか知らないが、凄《すご》い数だな」  山岡がつぶやいたとき、その無数の鴉がいっせいにはばたいた。 「森の半分が舞いあがるみたいだ」  たしかに山岡の言うとおり、黒々とした森から鴉の大群が舞いあがると、まるで森が動いたように感じられた。 「おかしいぞ、気をつけろ」  栄介が緊張して言った。 「どんどんあがって来やがる。畜生、俺たちを狙っているんだ」  鴉の大群はぐんぐん三人の岩へ近寄って来た。 「あれにとりかこまれたらえらいことになる」  北川があわてた。 「逃げよう」  鴉はすぐ下まで迫っていて、やかましく啼《な》きながら上昇をつづけていた。  三人は岩をとばせた。 「こうと知っていたら短剣を持って来るんだったよ」  山岡がくやしがったが、二十や三十の短剣をとばせたところで、その鴉の大群が相手ではどうにもならないはずであった。  三人は末ひろがりに数と厚味をます鴉の大群をうしろに、あてもなく飛行をつづけた。 「あっ、鷹《たか》だ」  北川は前から迫る茶色い翼を見て叫んだ。 「ここの連中は動物づかいがうまいらしい」 「のんきなことを言っている場合じゃないぞ。目でもつつかれたらえらいことになる」  三人は正面から来る鷹の群れをさけ、大きく左旋回をした。ぐるぐると赤い湖の上をまわりはじめる。 「鷹と鴉が喧嘩をはじめればたすかるのに」  山岡がぼやいた。たしかにそれは滑稽《こつけい》な事態であった。あの黒いモスク群を壊滅させた三人の勇者が、鳥に追われて手も足もでないのだ。 「棒っきれひとつないんだからいやになる」  山岡が焦《じ》れて喚いた。その空のあちこちに、鳥たちの羽音が聞えている。 「どこかで鳥たちをコントロールしているんじゃないかな」  北川らしい発想であった。たしかに、何者かがあやつっているに違いない。 「あの森の中の塔が怪しい」  山岡が逃げまわりながら言う。 「遊牧民の老人だって、崖の上の高いところで呪文をとなえていた。きっと鳥をあやつっている奴は高いところにいるんだよ」 「そうかも知れないな。とにかくこのままではきりがない。相手の数が多すぎるよ。疲れてつかまりかねない」 「よし、俺があの塔へ行ってくる」 「どうする気だ」 「上からこの岩をぶつけてへし折ってやるさ」  山岡はそう言うと、二人から離れて遠くへ去った。いったん姿を消して、意外な方角から森の中の塔へ鳥の目をかすめて近寄ろうというのだろう。  湖の上空を何度もかけめぐっている内に、鴉や鷹はしだいに分散し、かえって襲われる機会が多くなってしまった。 「遅いな。山岡君はどうしたろう」  北川が早くも心配をはじめた。 「彼のことです。心配は要りませんよ」  栄介はそう言ってなだめたが、情勢は悪化するばかりであった。すでに二人より高い位置を占めた鳥たちがいて、急降下してくる。 「もっと高度をあげましょう」  栄介は北川をさそい、思いきり高い位置へあがった。 「鳥にやられようとは思わなかったな」  ひと息ついてそう言ったとき、森のほうから鴉の群れを突き破って山岡が急上昇して来るのが見えた。 「どうしたんだろう」  山岡は右腕をふりまわして、むらがる鴉を払いのけながら、最短コースで強引に近寄って来た。 「大変だ」 「どうした」 「どうもこうもない。あの塔の上で鳥をあやつっているのは、霜田無仙のじじいだぜ」 「なんだって……」 「本当か」  栄介も北川も顔色を変えた。 「古ぼけた皿に火をもやして、モニャモニャ言ってやがる。塔をぶちこわすのはかんたんだが、どうしたらいいか一応相談しようと思って……」 「本当に霜田無仙なら、会って話がしたい」  北川が言った。 「でも、なんだってこんなところにいるんだ」 「彼が君を連れ込もうとしたのは、ここの世界だったんじゃないかな」 「すると、卑弥呼の国を侵そうとしている本当の相手は」 「ここだ。この世界の神々だよ」  北川が叫ぶように言った。 「よし。一応ひきあげだ」  栄介は決断した。二人をつれてあの無人の境界領域へ戻る。 「どうする気だね」  北川が尋ねた。 「無仙が相手では考え直さなくては。とにかくこっちの力を思い知らせてやるだけの準備は必要です」 「そうだな」 「また岩のミサイルか」 「まあそんなところだ」  三人はそう言い合い、ニヤリとした。地上へ舞いおり、手ごろな岩塊を積みはじめる。 「北川さんはなるべく大きいのばかりを積んでください。山岡と俺は小さいのだ。鴉なんかが相手では数が要るからな」  手わけして積みおえると、また舞いあがり、たかだかと上昇した。 「まず鳥たちを狙いうちだ」  三人はもう落ち着いていた。湖の上空へ戻った三人を見てまた鳥たちがむらがりはじめるのへ、山岡と栄介は冷静に狙いをつけ、小石を発射した。  のがれても、その小石は二人の意志どおり鳥を追い、命中させた。鴉が二羽三羽と羽根をバタつかせながら湖面へ落ちて行く。 「ざまみろ」  そういうことは山岡のほうがうまかった。栄介が一羽落とす間に二羽か三羽やっつける。鳥たちはひるんで高度をさげた。その分だけ三人のほうが森へ接近することになる。 「塔へ軽く一発お見舞いしてください」  栄介が北川に言う。 「よし来た」  北川は森の上へ行き、岩を少し前傾させて中くらいの岩塊をとばした。岩塊は一度森の上をゆるく旋回して高度をさげ、みごとに塔の上端についた窓のあたりに命中した。  蔦《つた》のからんだ煉瓦《れんが》の壁が、バラバラと崩れ落ちた。 「どうだ、妖術《ようじゆつ》使《つか》いめ」  山岡が愉快そうに叫ぶ。  鳥たちはコントロールを失ったらしく、思い思いに森へ舞いおりてしまう。飛び残っている鴉たちの姿からも、兇暴な気配が消えていた。 「無仙は呪文《じゆもん》をやめたようですね。きっと塔の下へ降りたでしょう。まん中あたりへ大きいのを一発やりましょう」 「よし」  北川はすぐ第二弾を送った。ドスーンと鈍い音がして、窓や屋根のあたりから白煙があがる。中はかなりの打撃をうけたはずだった。 「塔から逃げ出したら、小石で追いうちをかける」  今はもう安全な存在となった鴉たちの領空へ、栄介はゆっくりとおりて行った。  あちこちの村で、妙に活気のない鐘の音がしはじめた。陰気で、弔鐘のような感じのひびきであった。 「警報だな」  北川が言った。三人はちょっと嫌《いや》な気分におちいっていた。平和な美しい村へ突然乗り込んだ兇暴な三人組、という風に自分たちを感じたからである。 「たしかに無仙だ。出て来たぞ」  山岡と栄介が、森の木すれすれに飛んで叫んだ。 「霜田無仙。なぜ我々を攻撃する」  下から声が返って来た。 「攻撃したのはそっちだぞ」 「何を言う。鴉や鷹をけしかけたくせに」 「憶《おぼ》えていろ。焼き殺してくれる」 「糞《くそ》っ」  山岡が小石を発射した。無仙の体のどこかに当たったらしく、悲鳴が聞えた。 「木のかげにかくれやがった。降りてとっつかまえようか」 「待て。ここはあいつの世界だ。どんな変な手段があるか判らないからな」  下から無仙が喚く。 「おりて来い。お前らをつかまえて月の神様の捧《ささ》げ物にしてやる」  栄介は目で合図し、高度をぐんとあげた。 「挑発している。きっと何か策略があるんだ」 「その手に乗ってたまるか」  考えてみれば、すべてはその霜田無仙によってまき起されたトラブルであった。徹底的に対決しなければならない。  栄介はそう考えて、じっくりと腰を据えてかかる気になっていた。  森の向うから、騎馬の一隊が無仙のいるところへ急行して来ていた。救出する気なのだろう。木《こ》の間《ま》がくれに、頑丈《がんじよう》な箱型の馬車と、甲冑《かつちゆう》に身をかためた兵士たちが見えた。 「どうする」 「いい。放っておこう」 「行かせるのか」 「彼が行きつくところが、この世界の中枢部のはずだ」 「しかし、そうなると反撃してくるぞ」 「いいじゃないか。こっちはそのためにやって来ている。卑弥呼の国を侵す邪神の本拠がここなんだからな」 「決戦か」  山岡は薄笑いを泛《うか》べていた。いくらか怯《おび》えもあるようだった。 「覚悟しろよ。何がとびだすか判らないぞ」 「いいさ。そのために来たんだ」  無仙は武装した兵士たちにとりかこまれ、馬車に乗ったようであった。  ガラガラと大きな音をたてて馬車が森から出て行く。それに追ひすがる恰好《かつこう》で、まず山岡、次に栄介。ずっと高空に北川があたりを警戒して飛んでいる。  ヒュッと鋭い音をたてて、また山岡が小石を発射した。小石は馬車のうしろについた小さな窓の中へ一直線にとびこむ。 「いやがらせだ」  山岡が栄介をふり返って笑った。 「ほどほどにしておけよ」  騎兵の一人がふり向きざま矢を放った。矢は山岡の岩に当たって、カツンと音をたてる。とたんにワッという兵士の歓声。 「ばか。岩に当たっただけだ」  山岡はくやしがり、その兵士めがけて小石を送る。わざとスピードをゆるめ、ヒョロヒョロとした弾道で兵士に小石を迫らせると、相手はそれをよけようとして失敗し、どうとあおむけに落馬した。その上を向いた顔へ小石がからかうようにポトリと落ちた。  馬車を囲んだ兵士たちは恐慌におちいり、全速力で走りはじめた。 「無仙が馬車の中でガタガタにされている」  山岡は大声で笑った。  道は畑の中を突っ切り、小高い丘の上にある、古めかしい城へ向かっている。 「そうか、あそこがこの世界を統治する連中の巣なんだな」  栄介は北川に合図を送ると、無仙の馬車を追い越してその城へ向かった。 「教会のような建物がある」  それは人工の森に囲まれた、美しい城であった。森の切れ目から、赤い湖の一部がのぞいている。 「壊したくないな、この城は」  北川がそう言った。 「相手しだいです」 「君は無仙と話し合ってみる気か」 「ええ。卑弥呼の国をなぜ欲しがるのか、それに、この奇妙な世界が生まれた秘密も知りたいですし」 「あの老人が知っているかな」 「さあ、そこまでは判りません。でも、少なくとも僕らよりずっと以前から、ここへ出入りしていたはずです。何か知っているでしょう」 「僕もそれは知りたい。なぜ僕らがここへ来なければならなかったかだ。きっと何か重大な理由があるに違いない。必然性のようなものがね。そしてそれは、ひょっとすると、あの昭和の世界が持つ未来に、深くかかわっているのかも知れない」 「とにかくここが最終目的地らしいですからね。しつっこくやってみましょう」 「それにしても、中世と古代ほどの差があるもんだな。卑弥呼の国とここでは」  北川はあらためて、中世的なその世界を眺めた。無仙の馬車があわただしく、はね橋を渡って城門の中へ入って行った。  霜田無仙をのみこんだ城は、そのままなりをひそめている。 「どう出るかだが、見当もつかないな」  北川が失望したように言う。  それは山岡や栄介の気持を代弁していたようだ。無仙が逃げ込んですぐ、相手があわてて反撃して来ると思ったが、案に相違して静まりかえっている。  失望は城の上に滞空している三人に焦りをもたらし、やがて不安にかわった。 「何をたくらんでいるんだろう」  山岡は空を見まわして言った。城に気をとられていると、背後から何者かに襲いかかられそうな気がしたのだ。 「北川さん。ここはいったん遠のいたほうがいいんじゃありませんか。連中の企みにひっかかってもつまらないでしょう」  栄介が相談すると、北川もそれを待っていたように同意した。 「うん。で、どこへ行く」 「城が見えるとこなら、どこでもいいでしょう」 「そうだな」  三人は少し高度をあげ、さっきの森とは反対側の、なだらかな山塊のほうへゆっくり移動を開始した。  山の上空にさしかかろうとしたとき、キョロキョロとあたりを見まわしていた山岡が、緊張した声で言った。 「向こうから何か来ますよ」  北川はギョッとしたように、山岡が指さす方を見た。 「なんだろう」  何かよく判らなかったが、黄色い点が揺れ動いているようであった。  三人はその位置で岩をとめ、その黄色く揺れ動くものをみつめた。 「舟だ」  栄介が最初にその正体を把握した。 「舟……」  北川は目を細くして眺めた。 「舟だな。たしかにあれは舟だ」 「そっくりかえってやがる」  山岡が笑った。 「見たことがありますよ」  栄介は緊張していた。今度の相手は手ごわそうな予感があった。 「一艘、二艘、三艘……。こっちと同じ数だ」  山岡がつぶやいていた。 「あれは太陽船だ」 「太陽船」 「そうだ。太陽の運行を舟になぞらえたものさ」 「そうか」  栄介は思い出した。彼の記憶にあったのはエジプトのファラオたちが、自分の墓へ納めさせたという、あの舟であった。  その反《そ》りかえった舟は、大した大きさではなかった。しかし、三艘とも黄金色《こがねいろ》にキラキラと輝いており、その上に半裸の男が三人ずつ乗っていた。みな髪を奇妙な模様の布で掩《おお》っている。 「城の連中はあれを待っていたのだろう」  北川の頭脳がめまぐるしく回転しはじめたようであった。 「このあたりに、空を飛ぶものがないはずはないと思っていたよ。鷹や鴉だけではなく、例の方舟《はこぶね》とか、方尖柱《ほうせんちゆう》とか、モスクとかがないわけはないはずなのだ。だが下の連中は何も飛ばしてよこさなかった。無仙たちはきっと、あの舟が救援に来るまで、城の地下にでももぐって、息をころしていたんだろうな」 「よほど強力なのではないでしょうかね」  栄介が不安を口にした。 「そうだな。この前の場所には空を飛ぶものがふんだんにあった。ここになければ、多分向うの連中に制圧されていただろう。あの境界領域をこえてね。ということは、あの舟が無敵だということになる。城の連中が対空防衛手段を必要としないほど、彼らの守護神は強力なのだ」 「たたかわなくてはいけないでしょう」  栄介は三人が積んでいる石の数を目でかぞえた。 「向こうが仕かけてくればだ」 「強い相手なら先制攻撃のほうが有効です。一艘でも減らしておいたほうが」  そういう間も、三艘の太陽船はしずしずと近づいてきていた。  城をはさんで両者が睨み合うかたちとなった。城内は急に騒がしくなり、人影が防壁の内部で右往左往している。  太陽船のほうも停止していた。ただその船のへさきには、皿のようなものが飾られていて、その皿の中に燃える炎が、ゆらゆらと揺れ動いていた。 「卑弥呼の神々……」  やがて太陽船のほうから、澄んだ若々しい声が聞えた。ふつうなら、とうてい人の声が届くはずもない距離であった。  栄介は北川と顔を見合わせた。 「卑弥呼の神々……」  また呼ばれた。 「こっちのことをよく知っているんですね」 「そうらしい」 「なんと答えましょうか」 「いい。しばらく黙っていよう」  北川はそう言って相手の出方を待った。 「われわれは、卑弥呼の神々とここで争う気はない」  栄介は決心して岩を少し前へ進め、発言者が自分であることを明らかにした。 「われわれは諸君に用があって、はるばるここへやって来た。答えてもらいたい」 「なんなりと」  中央の太陽船から背の高い男が立ちあがった。 「卑弥呼の国をなぜ侵すのだ。われわれはその理由を知りたい」 「それだけのことでこの国へ見えたのか」  両者とも神であった。神の声が城の上空をとび交《か》っている。 「卑弥呼の国はこちら側になにもしていない。なぜ侵そうとする」 「その答ならば、われわれの目の神殿でお話ししたい。参られよ」  山岡がそれを聞いてあざ笑った。 「信用できるか」 「よせ」  北川がたしなめた。 「どうだ。行ってみないか」 「あいつらを信用するのですか」 「信用するしないにかかわらず、行ってみようじゃないか」 「危険でしょう」 「考えてみろよ。僕らはたしかにこの世界では神だ。しかし、なおかつ僕らは何者かにあやつられていはしないかい」  栄介は目を丸くした。思ってもいないことであった。 「あやつられている……」 「そうだよ。神とは何者にも支配されない存在のはずだ。しかし、君は自分がここへ来たのをひとつの運命だと感じているのじゃないかな」  たしかにそうであった。こちら側へ来るまで、さんざん何かに操られていたのだ。この世界へ来て神に化したのでうっかりしていたが、あらためて考えてみると、どこまで自分の主体性を維持していたか、心もとなかった。 「そうですね。しかし、そのことと、連中の招きに応じることとは」 「関係あるさ。何者かに操られているとすれば、ここへ連れて来られたのは僕らのほうだ。ここで殺されたら何が残る。何も残らんだろう。われわれを支配している何かがあるとすれば、ここで殺しはしないはずだ」  太陽船の男が催促した。 「そちらの答は」  とっさに栄介は言った。 「行こう。案内されたい」  すると太陽船は次々にへさきの向きをかえた。三人は栄介を先頭に、ゆっくりとそのほうへ近づいて行った。  ヒューッと風を切る音が発した。三人がハッとして下を見ると、城の兵士たちが投石器を使って三人を狙いはじめていた。  高すぎて狙いはみな外れたが、三人はあわてて散開した。 「どういうわけだ」  栄介がさっきの男にいう。 「申しわけない」  太陽船の男がそうあやまると、その船のへさきから、ひとかたまりの火焔《かえん》が泥土《でいど》を投げたように城の中央へ飛んだ。  粘りつくような感じのふしぎな炎が、投石器を操作している兵士たちのまん中へ落下したとたん、その火は城内の広場いっぱいにひろがって燃えさかった。 「ひどいことを」  北川が眉《まゆ》をひそめた。 「味方同士じゃなかったのか」  山岡は呆《あき》れている。 「神々にさからったからだ」  栄介は自分の心を動揺させまいと、しいて平然と言った。これからどんなことが待っているか、見当もつかないのだ。 「でも、たたかいにならなくてよかったな。あの火で攻められたらやられてしまう」  山岡はほっとしたように言った。  太陽船は赤い湖を越え、どこまでもとびつづけている。 「火をあやつる神か……」  北川がつぶやいた。 「太陽船と言うそうですけれど、あれは生命の船でもあるのでしょう」 「冥界《めいかい》へ渡る船と考えた時代もあるし、冥界から再生するために必要な船だと考えられた時代もある。生命のみなもとが太陽であるから、結局みな同じことだろう」 「どこへ行く気でしょう」 「目の神殿と言っていたな」 「目の神殿というと」 「記憶にある。たしかメソポタミアにあったはずだ。ウルクを知っているかい」 「メソポタミアの平原にあった古代都市でしょう」 「そうだ。君がいつか美津子君を救出したという、ウルの神殿などより、もうひとつ古い時代に属しているはずだ。壮麗な神殿が建ちならんだ時代だとされている。その時代、ハブールという谷のブラクという場所に、その妙な神殿があったそうだ。円錐形《えんすいけい》の粘土の釘《くぎ》を作り、その頭の部分が彩色されていて、その手のこんだモザイクで飾られていることで有名だ。白色神殿とか、柱神殿とか、いろいろの神殿があったが、目神殿はその中でも特に風がわりなものさ。ウルクから少し上流に当たる場所にあるのだがね」 「目神殿。目ですか」 「うん。その神殿の中心部は、十字架型に作られているということだ。キリスト教が発生するずっと以前のことだよ」 「十字架を崇《あが》めていたんですか」 「祈りを向けるしるしとして使われたことはたしかなようだ」 「で、目とはなんです」 「神のシンボルさ」 「目がですか」 「行ってみれば判るだろう。ブラクの目神殿にあるのは、目の偶像だ。捧げ物にしたらしい何千という目の偶像が発見されているよ」  栄介は好奇心をもやした。 「だいたい、シュメールの人物像には目玉を極端に大きくしたものが多い。テル・アスマルのアブ神殿から出土した願掛け小像の一群は特に有名だ」 「なぜ目を崇拝《すうはい》したのでしょうね」 「判らない。しかし、いま言ったシュメールの神に祈る人間の大目玉は、みな上に向けられている。なぜ目を崇拝したかを解く鍵《かぎ》は、その辺にありそうだな」 「太陽船はどうなっているんです」  山岡が尋ねた。 「ノアの伝説はシュメールが本家だ。方舟があったことはたしかだし、星や太陽の運動についても相当な知識があった。太陽船があった可能性も充分にあるが、ここはそのシュメールと同一の場所ではない。ここはここで独自の神の体系を育ててしまっているんだ」 「そうでしたね」  山岡が頷《うなず》いたとき、栄介は前方の岩山に大きな谷が口をあけているのを発見した。 「どうやら目的地はあそこらしい」 「そうだな」  北川はのびあがるようにしてそのほうを見た。  黄金色に輝く太陽船は、しずしずとその谷へ降りて行く。 「神殿だ」  山岡が興奮して叫んだ。  それは三人がやって来たあの境界領域とよく似た岩山であったが、方角は真反対の側にあった。 「おそらく君の境界領域の入口に当たるのだろう」  北川が言う。  荒涼とした岩山の間に、橙色《だいだいいろ》がかった赤一色の建物が見えていた。 「やはり僕らがいた世界のものとは違うようだ。あの色は紅色土器の色と同じだよ」 「なんとなく東洋的ですね」 「そうだな。たしかにオリエントの匂いがする」 「要するに神社ですよ。八幡《はちまん》さまなんかで、まっかに塗ったのがあるでしょう」  山岡は三人が感じている核心を言った。三人とも卑弥呼を思い出していたのだ。緋の衣を着た卑弥呼と、その赤い神殿はどこか共通点があるようであった。  太陽船はその神殿の前へおりた。乗組員の一人が、うやうやしく炎のたつ皿を船首から外して神殿の中へ入った。 「しめた」  山岡は小声で言う。 「今ならやっつけられるぞ。多分あの船は炎の皿を外すととべなくなるんだ」  たしかにそのようであった。 「よそう。降りて連中と話合ってみよう」  栄介は太陽船のそばへ岩をとめた。 「覚悟はいいな」  二人に向かってそう言った。  神殿は日乾《ひぼ》しレンガと玄武岩や石灰岩で作られていた。そして内側の壁という壁は、びっしりと八弁の花びらをかたどったモザイクで埋めつくされている。 「どうぞこちらへ」  半裸の男たちはみな背が高く、態度は至っておだやかであった。三人は正面の入口から、迷路のように複雑な通路をたどって、奥へ進んで行った。 「派手なもんだ」  山岡が呆れたようにつぶやく。床や天井も、例の円錐モザイクで埋められていて、その花弁のひとひらごとが、派手に彩《いろど》られているから、神殿の中は色彩で溢れていた。 「色盲の検査表の中へ迷い込んだようだ」  山岡が冗談を言った。それほど先に行く男たちは友好的に見えていた。 「やはり目神殿だ」  大きな場所へ出たとき、北川がうれしそうな声でそう言った。  たしかにそれは巨大な十字形をした広間であった。そして、その十字架の頭の部分が、祭壇になっていた。  祭壇には、たしかに目と思われるものが飾られていた。  その目は、ちょうどマントルピースくらいの石の台の上にのっていた。台は壁に直接くっついている。そして、幼い子が描いた山のような、梯形《ていけい》の上に、丸いパイプのようなものがふたつついていた。パイプといったのは、その中央に深い穴があけられていたからである。  炎の皿が、ひと足先にその祭壇の下に並んでいた。まるで灯明《とうみよう》皿《ざら》のような感じであった。 「あれが目ですか」  栄介は、半裸の男たちがその前にうやうやしくひざまずくのをみながら北川に言った。 「そうだ。ブラクの目神殿の復元図そっくりだよ」  目は栄介が思っていたより、ずっと抽象化されていた。そして、その目の偶像の背後の壁に、円錐モザイクのひとつを大きくしたような、黄金の飾りがつけられていた。  いずれ太陽のシンボルであろうとは思ったが、それは日本の菊の紋章に余りにも似通っていた。  栄介はその黄金のシンボルの花弁の部分を数えた。全部で二十四弁あった。 「いち応おまいりしておこう」  栄介が言った。  三人はひざまずきはしなかったが、日本の神社にぬかずくように、深ぶかと頭をさげた。  半裸の男たちは、リーダーらしい三人を残してどこかへ去った。残った男たちは三人が目の偶像に敬意を表したことを、満足しているようであった。  神 慮 「ようこそ、目の神殿へ」  中央の男があらたまった様子で挨拶《あいさつ》した。 「お互いに争わずにすんでよろこんでいます」  栄介はそう答えた。背後でしのびやかな音がしていた。ふり返ると、三人のための椅子《いす》が並べられているところであった。 「あちらでゆっくりお話ししたい」 「いいでしょう」  三人は案内されて椅子のところへ行った。 「どうぞ」  三対三で向き合って坐る。 「あなたがたは、この世界の神なのですね」  北川が尋ねた。 「ここの人間たちに対しては、ですが」  中央の男が微笑して答えた。 「そうだと思った」  北川は栄介と山岡に頷《うなず》いて見せた。 「この人たちは目の偶像を拝んでいる。つまり神ではないということだ」 「なるほど」  山岡が感心して見せると、相手の三人はうれしそうに笑った。なごやかな雰囲気《ふんいき》になった。 「われわれも神ではありません」  栄介が断わった。 「知っています」  リーダーが言う。 「あなたがたも、別な世界から連れて来られたのでしょう」 「そうです。というと……」 「はいそうです。わたしたちはずっと以前にここへ来ました。神々のふしぎな力にみちびかれて」 「どこから来たのです。いつごろのことです」 「さて、もう一万年ほどたったでしょうか」 「一万年」  三人は同時に言った。 「そんなに生きられるはずがない」  山岡は無遠慮だった。 「それが、ここでは生きられるのです。あなたがたも、多分ここでは不死のはずです」 「で、どこから来たのですか」 「世界の中心です」 「世界の中心。どこのことです」  すると半裸の男たちは悲しげに眉《まゆ》を寄せた。 「もう失われました」 「失われた大陸ですね」  北川が勢いこんで言った。 「アトランティス」  山岡が大声で言う。 「アトランティスも失われましたが、わたしたちがいたのはそこではありません。世界の中心にあった国です」  北川は首をかしげた。 「わたしたちがいたのは、テ・ピト・テ・ベヌア……」 「太平洋だ」  北川はおどりあがった。 「ムーだよ。ムー大陸のことだ」  山岡と栄介は顔を見合わせた。 「テ・ピト……」  山岡はそのあとをよく憶えられなかったらしかった。 「テ・ベヌア、だったかな」  栄介もあまり自信がなかった。 「世界のヘソ」  北川が言った。 「世界のヘソですって」 「うん。イースター島の住民が、自分たちの土地をそう呼んでいるんだ」 「絶海の孤島ですね」 「そうだ。しかし、仮りにそこに大陸があったと考えてみろ。絶海の孤島というのは、その大陸の中心ということになりはしないかい。しかも、人間は誰でも自分のいまいる場所から宇宙を考える。世界のヘソだよ」 「すると、この背の高い人たちは、その世界のヘソからやって来たわけですか。ムー大陸から」 「そうなるね」  半裸の男たちが口ぐちに言った。 「もう失われました」 「滅んだのです」 「海に呑《の》まれて」  北川は考えながら言う。 「そうか。ムーにも神々への信仰があったわけだな。その信仰によって、ひとつの世界が生み出された。ここがその生みだされた世界なのだろう。僕らがそうされたように、彼らもムーからここへ連れ出された。そしてこの土地で神々として存在している。そうですね」  北川は三人に尋ねた。 「そうです。しかし、我々ははじめから神々としてここに来たのではなく、祭祀者《さいししや》として来たのです」 「すると、すでにここには神があった」 「はい。我々は祭祀者として神に仕えているうちに、いつの間にか神にされてしまったのです」 「で、舟は。あの太陽船を、あなたがたははじめから動かせたのですか」 「そうです」 「ムーではどうでした」 「船をあやつることはできましたが、空を飛ばすことなど思いもよりませんでした」 「まったく同じだな」  北川は栄介たちを見て言った。 「それで、ここの神は」 「目です」 「目……」 「ムーは最も古い国です。ムーより古い国は存在しません。そして、ムーの最古の神は目でした」 「こいつは重大なことだぞ」  北川は唸《うな》った。 「すると、いま我々が知っている神は、すべてムーの遺産を何らかの形でうけついでいることになる。つまり、ムーの神のバリエーションだ」 「そういうことになりますね」  いま、何かが開かれようとしていた。おそるべき何かが正体をあらわそうとしているのを感じて、栄介は体を堅くしていた。 「世界の神々の原型は目だ」  北川が言うと、山岡が口をはさんだ。 「目の神様ですか」  北川は三人の男を見た。 「いいえ。目の神というのは、火の神、海の神と同じように、或《あ》るものの霊を言うわけですが、この神はそうではありません」  三人は同時に目のシンボルを飾った祭壇をふり返った。 「ただ、目なのです。最も神聖なものが、目なのです」 「どうだい。すばらしいじゃないか」  北川はうっとりしたように祭壇を眺めた。 「シュメールの祈願者の群像は、みな大きな目玉を与えられていた。異様に巨大な目だ。それはムーの痕跡《こんせき》なのだ」 「しかし、仏さまの目はそんなに大きくありませんよ」 「神が人間に近づいたのさ。人間は自分たちが理解しやすいように、神の形を勝手にかえただけさ。それに、仏はいわゆる神ではない。あれは教える人だ。その教える人が、のちの人々によって神格化されて行く」 「どうして目玉なんです。耳や鼻や口ではなく」 「目でなければならない」  北川は断言した。 「なぜ」  栄介が鋭く尋ねる。 「おそらく、この三人の人はその答を知っている。神は人間を生みだしたものではない。そうですね」  まん中にいた男が頷いた。 「そうです。神は人間より先にありました。大地よりも、雲や雨や風よりも先に」 「まさか」  栄介は言った。 「創世記の物語を……」 「そうだよ」  北川が静かな声で答える。 「僕は予想していた。以前からね」 「どういう予想です」 「おそらく、最初の神は人間が作ったものではないだろうとね」 「なぜそう思うんです。人間がいない世界に神がいるもんですか」 「目さ。神でなく、まず目があったんだ」  山岡と栄介は目を丸くした。 「人間がいない世界に、まず目があったんですって」 「そうだ。よく神のことを考えてみてくれ。神は何か具体的な行動をとるかね」 「運命をつかさどります」  山岡が言う。 「それは人間が考えたことだ。運命というもの自体、はっきりしないじゃないか。それとも君は、人間はすべて一定のプログラムにしたがって生きるという宿命論や、いわゆる運命などというものを、具体的な例をあげて証明できるかね。できまい。慈悲も恵みも、実際にそれがあれば奇跡だ。ないから奇跡と呼ばれるのだと言ったほうが正しいかな。まあ、とにかく、結論を言えば、神は何もしてくれない存在だな」  栄介は頷いた。何もしてくれないものと、神の関係が判って来た。 「たしかに……」  栄介はゆっくりと言った。 「目は何もしません。ただ見るだけです。映画や芝居を僕らが見るように、神はただこの世界が推移するさまを、じっと見ているだけなのですね」  ムーの三人が頷いた。 「この世界のはじめから、ずっと見ているのですね」  ムー人たちがまた頷く。 「何もせずに、ただ黙って」  すると山岡が大声で言った。 「なんてこった。それは本当ですか」 「そうらしい」  北川は微笑を浮かべていた。謎《なぞ》めいた表情であった。 「なぜです」 「この世界にとって、それが神だからさ」 「どうして神は見ているだけなんです」 「なぜかな」 「そんな。納得《なつとく》できませんね」 「ここへやって来たんだ。すぐ判るだろう」  栄介は二人のやりとりがおわるのを待って、ムー人たちに言った。 「はじめ、ムーの人たちは目を見たのですか」 「はい。わたしたちは若すぎて、それを見ることはできませんでした。しかし、老人たちは、毎日目を見て過したということです」 「目に関する言い伝えを教えてください」  栄介は、老人というのは、ずっと過去の人々という意味だろうと考えていた。 「目は優しかったそうです。いつも人々をはげまし、力づけてくれたそうです」  ひとつ、またひとつと、真実があらわれはじめていた。 「飛ぶものの言い伝えはありませんか」 「飛ぶものですか」  ムー人たちは互いに顔を見合わせた。 「そうです。空を飛ぶものです」 「鳥以外に」 「ええ」  すると三人が同時に答えた。 「流れ星」  栄介は北川を見た。 「なるほど、そこへ行くか」  北川がつぶやいた。 「いいだろう。聞いてみたまえ」 「流れ星というのは、夜空にさっと光って消える、あれですか」 「それもありますが、昼でも夜でも見える、もっと大きな星です」 「やはり、まっすぐにすっと飛ぶのですね」 「そういうこともありますし、しばらく空の一角にとどまっていることもあります」 「岩井、君は何のことを言っているんだ」  山岡がたまりかねたように尋ねた。栄介はそれにかまわずつづけた。 「それは、稲妻の形のように飛ぶこともあれば、急にパッと見えなくなることもあるのでしょう」 「そのとおりです。そしてそれは、昔からの言い伝えであると同時に、わたしたちも同じように見られるものだったのです」 「ときどき、ですね」 「はい。それは目のお使いでした」  北川がため息をついた。 「神の使者。岩井君、蛇《へび》や狐《きつね》や白い牛などの原型だよ」 「そうらしいですね」 「もしかしたら、円盤のことを言っているのかい」 「うん」  栄介はムー人たちのほうを向いたまま答えた。 「そうか。そうだったのか」  山岡はそうつぶやいて考え込んでしまった。 「その円盤、いや流れ星は、地上におりて君たちに何か手だすけをしたのですか」  ムー人たちは栄介をみつめて首を左右に振る。 「何もしなかったのですか」 「はい。目のお使いですから」 「目と同じように、君たちの近くへときどき姿を見せるだけで、下界のことには何ひとつ介入しなかったというのですか」 「願いをきくだけです」 「ほう。願いをきいてくれるのですか」  ムー人たちはどう答えるべきか迷う様子を示した。 「流れ星に祈る……」  北川は静かな声で言った。 「ここにもひとつの原型がある」  北川はムー人たちを眺めて言う。 「僕らも流れ星を見て願いをかける風習を持っている。今の子供たちは忘れかけているがね」 「消えぬうちに三度言えれば、その願いは必ずかなえられるとか言いますね」  山岡が北川に言った。 「願いをかけると、流れ星はあなたがたの希望を実現してくれましたか」  ムー人たちは優しい微笑を泛《うか》べて首をかしげた。 「どうでしょうか。望みどおりになって、それは流れ星のおかげだと言う者も少なくはありませんでしたが、流れ星が確実に願いをかなえてくれるとは、誰も考えていなかったはずです」 「では、人々がいつでも虚空《こくう》にうかぶ目を感じていた頃《ころ》、あるいはいつでも空をあおげば目が見えていたころ、目は人間に何をしたのです。力づけ、はげましてくれることのほかに」  ムー人の中で、それまでいちばん寡黙だった澄んだ瞳《ひとみ》の男が口をひらいた。 「目が人間にしてくれたことは、多分それだけでしょう。あなたがおっしゃるような意味では」  すると北川が一歩前へ進み、栄介と肩をならべて言った。 「目が人間の頭上に存在するということだけで、人間は力づけられた。目は慈悲に溢《あふ》れ、正しい者をはげます存在だった。邪悪な者はその前で力を失い、正義を行なう者に力を与えた。しかしそれは、人間が目からそうしたことを感じとっていただけで、実際に目が下界の人間に具体的な援助を与えたことは一度もなかった。たまたま目が力をかしてくれたと主張する人々がいたとしても、つきつめて行けば、それは彼ら自身の努力や幸運の結集であって、逆に目のもとで悪がはびこることも珍しくはなかった」 「そうです」  ムー人は合唱するように言った。 「目とは神のことだ」  北川は栄介の肩を叩《たた》いた。 「神のはじまりは、ムー人たちの祖先が見たという目なのだよ」 「目とは自然現象のようなものだったのですか」  栄介は澄んだ瞳のムー人に言った。 「はい。わたしは祖先たちのことを調べる役目をさずかっていましたので、いろいろ研究しましたが、たしかに目は自然現象のようなものらしかったようです。太陽や月のように、昇り、沈み、この世界をめぐっていたようです」  北川がさっと緊張した。 「太陽や月のようにこの世界をめぐっていた。すると、あなたがたはこの世界のかたちを知っているのですか」 「はい。世界はひとつの球です」  北川は栄介に言った。 「おい。ムーは宇宙を知っていたんだよ」 「そうらしいですね」  北川はムー人たちのほうへ向きなおった。 「目はいったいなんだと思います」  二人のムー人が答えた。 「世界を創《つく》ったものです。そして、創ったあと、わたしたちを見守ってくれています」  しかし、もう一人のムー人は別な主張をした。 「目は世界を創りませんでした。世界は混沌《こんとん》の中から生じました。それ自体から生じたのです」 「それ自体。自体とはなんです」 「世界です。世界はたびたび姿を変えるものです」  他の二人が笑った。 「この一万年というもの、わたしたち三人は、そのことでずっと言い合って来ました。彼はわたしたち二人と違って学者なのです。学者はいつもとほうもないことを考えるものなのですよ」  三人は、多分彼らにとっての神学上の問題を議論しつづけていたのだろう。しかし、三人の間に敵意のようなものは見られなかった。 「わたしは確信しています」  ムーの学者が言う。 「大地は大地となる前、雨であり霧であり、嵐であったのです。かたまって大地となったにすぎません。何者もそれを作らず、ただ大地自身が大地となったのです」 「では、目はどうなるのです。どう解釈なさるのですか」  栄介の問いに、他の二人のムー人もうなずいていた。 「目は他の世界のものだと思います」  栄介の横で、北川がアッと低い声をだした。 「他の世界。それはどこにあります」  ムーの学者は両手を上へあげて見せた。 「空です。星々の国です」  栄介はため息をついた。 「どうやら、あなたがこの世界へ連れて来られた理由が判るようです。あなたの結論はわれわれの結論と同じらしいですね」  ムーの学者はうれしそうに立ちあがった。 「本当ですか」 「ええ」  北川が答えた。 「おそらくその目というのは、人工衛星のようなものでしょう。そしてそれは、時おり何かの目的で、更に低空へ流星に似たものを飛ばしていたのです」  山岡は堅い椅子に坐って足を組んだ。 「人工衛星か。ムーの時代にねえ。するとそいつをあげたのは、地球人じゃないというわけだな」 「うん。多分、いや多分どころではない。それは確実に宇宙人のものだ。ムーが地球最古の文明発祥地であるとすると、おそらく宇宙人は、この星にそうした知性が発生することを予測していたのだろうな」  栄介はムー人たちをみつめながら、山岡のとなりの椅子へ戻った。  北川はまだ立ったままであった。 「目はいつ消えました」  学者が答える。 「わかりません。ただ、或る日目は船が旅立つように、どこかへ去ってしまったと言うことです。ムーの祭日のひとつは、起源をたどるとその船出の日に関係しているようでした」  北川は唸った。 「地球をまわっていた衛星が、その軌道を棄《す》てて宇宙船にかわったわけか。いったい、どこへ帰ったのだろう」 「わたしもそれに興味を持ちました。われわれの祖先は、目が帰った場所を知っていたのではないかと思い、いろいろ研究して見ました。しかし、とうとう判らぬまま、ここへ連れて来られてしまったのです。ここでは星の位置もあいまいです。ここは嘘《うそ》の世界なのです。研究のつづけようがありません」 「嘘の世界ですって」 「はい。嘘、と言って悪ければ、虚の世界とでも言いましょうか」 「あなたは鋭い知恵を持っていらっしゃる」  北川が学者をほめた。 「たしかにここは、ひとつの完結した世界ではありませんね。人間の思考、つまり観念が作りだした副次的な空間なのでしょう。しかし、その問題はひとまずおいて、するとあなたがもといた世界では、目の行く先は判らなかったのですね」 「はい。誰も知らないのです。言い伝えも、あることはありましたが、みな想像上のことで、具体的にどの星ということは示していませんでした」 「それは今でも判っていない」  山岡が言った。 「人間と同じような知性を持った生物がどの星にいるかはね」  北川がたしなめる。 「人間と同じわけがない。我々よりずっと高度な知性だよ。おそらくそれは、我々のこの地球がひとつの形をとりはじめたときから、ここに知性体が発生することを知っていたのだろう」 「そんなばかな。とほうもない時間がかかったのですよ」 「その時間さえ、我々が空間を飛ぶように短縮する技術を持っている相手かも知れないじゃないか」  山岡は首をすくめた。 「とにかくこれで、この目の神殿の由来は判ったわけだ」  栄介はほっとしたように言った。 「ここはムーの信仰から発生した世界だったんだな」 「そうらしい。三人のムー人は、ずっとあとになってこのおかしな世界へ連れて来られたのだが、どうもそこのあたりに、問題を解くひとつの鍵がありそうだな」  北川は考えながら言った。 「おかしいじゃありませんか」  山岡は首をかしげた。 「ムーが最古の文明だとすると、この赤い水や目の神殿がある世界は、その文明から発生した副次的な世界のはずだから、三人がずっとあとになって連れて来られたというのは、つじつまがあわないでしょう」  北川はうなずいた。 「そこさ。今まで僕らが見て来た世界は、どれもこれもみなおかしいところだらけだ。僕らが理解している大自然とか宇宙とかというものとは、ありようがまったく違う。そのおかしな部分に関する答が、今言った三人の時間的な問題を考えることで解けるような気がするのさ」 「もっとムーに関して聞いてみよう」  栄介は二人のおしゃべりをやめさせて、ムー人のほうへ坐りなおした。 「この目の神殿はあなたがたが建てたのですか」 「ええ」  学者が答えた。 「時間だけはいくらでもありましたからね」 「ここの住民を使役しなかったのですか」 「はい。彼らは彼らなりの神を発達させていました。ムーの神とは非常に形態のことなる神です」 「それに対して、あなたがたはなんら修正をほどこそうとはしなかったのですね」 「そうです。目は何事にも介入しません」 「すると、あなたがたは目のとおりにやったわけですか」 「いいえ、目のとおりにはできませんでした。それはむずかしいことです。生きて、人々がいろいろなことに直面するたび、介入すまいと努力しなければなりません。しかし我々は結局介入せざるをえなくなることが多いのです」 「たとえば……」 「彼らにとっての外敵が侵入して来た場合です」 「今までに外敵はたびたび襲って来たのですね」 「はい。我々は守ってやらねばなりませんでした。しかし、彼らの一人が不幸な目に会っているとか、彼らの神のありようが正しくないとか言うことについては、我々はまったく関与しないで来ました」 「つまりそれは、目のありようと同じだったわけですね」  ムー人たちは、顔を見合せた。その指摘は彼らにとって盲点であったようだった。 「我々が目の真似《まね》をしたとおっしゃるのですか」  ムー人の一人が心外そうに言った。 「そうは考えていません。しかし、結果的にあなたがたは、ここの人間たちに対して、目と同じ役を果して来てしまったでしょう」 「考えても見なかった」  ムー人たちはそう言い合った。 「たしかにそのとおりのようで」  やがて学者が代表して栄介に答えた。 「小さくたとえれば、隣人の生活には介入しないということですが、表現を大きくするとこういうことになります」  栄介はちょっと北川のほうへ振り向いてから続けた。 「異なる世界の知性体の発達には介入しない……」  みんなしばらく沈黙していた。 「目を異星人だと考えると筋が通る」  北川がその沈黙を破った。 「彼らは我々地球人より、はるかに高度な知性体だろうね。彼らはこの地球に、我々人類が出現することを、ずっと昔から予測していた。彼らは地球をめぐる軌道に衛星をのせ、ずっと観察していた。つまり目だ。見るだけの存在だ」 「なぜ見るだけなのです」  山岡が尋ねた。 「介入したっていいじゃありませんか。仮りに僕らが彼らから見れば子供みたいな存在だとしても、子供ならなおのこと、先生が要ります。そうじゃないですか」 「これは僕の想像にすぎないが、目はひょっとすると時間を超えた存在なのではないだろうか」 「タイム・マシンでも持っているというんですか」 「この大宇宙を自由にとびまわるためには、時間の問題をなんとかしなければならないはずだ。宇宙船の中で何世代も交代をつづけるか、さもなければ次の目的地まで休眠していなければならない。それを何かの方法で克服したとしたら……」 「そうだよ、山岡」  栄介が口をはさんだ。 「介入しないのは彼らのモラルだ。彼らのモラルが介入を許さないのだ。たとえば、外部からの力で、ふた組の男女の組合わせを変えるだけで、その世界の歴史はまるで違うものになってしまう」 「つまり、そういうことにならないように、介入をさしひかえているわけか」 「というのが、北川さんのひとつの考え方なのさ」  ムー人の学者はそのやりとりを熱心に聞いていた。 「それはそれで正しいとしよう」  山岡は北川のほうへ向き直って言った。 「どうも判らないのは、このおかしな世界なんです。いったいここはどこなのです」 「ひとつの世界から副次的に発生した世界だよ。人々が認識した、或る観念から発生したものさ。イメージが具体化したものと考えてもいい」 「そうかんたんには判りませんよ」  山岡は首を振って見せる。 「僕が知りたいのは、ここがどこかということです。もといた世界から見てね」 「その答ならかんたんさ」  北川はこともなげに言った。 「かんたん……」  山岡は驚いたように声を高くして栄介の顔を見た。 「空間は湾曲していると言われている」 「いきなり大げさなことを言わないでくださいよ」  山岡は辟易《へきえき》したようであった。 「知っていますよ」  栄介は北川の話を聞こうと、そう言って先をうながした。 「物質とは、均一な空間に点在する異物のようなものだろう。地球のような天体は、その巨大なものだ。空間は物質の存在によって部分的に湾曲するが、その湾曲はいくつもの閉鎖的な小空間によって構成される。ボールを棉《きわた》でくるむとき、小さな棉のかたまりですきまを埋めて行くようなものだ。したがってその小さな空間はボールの存在のしかたに左右される。つまり副次的な空間だな。亜空間と呼んでもいいだろう」 「つまり、ここがその亜空間ですか」 「そうだと思う。亜空間はボール、つまり地球に密着してその影響をうけている。無数の人々の観念が具象化し、そこから独自の発展をとげてこのおかしな世界ができあがっているのだろう」 「ひとつの考えかたとして、ですね」  山岡が疑わしそうに言った。 「そうだ。しかし、ほかにどう解釈するね」  北川に反問されて山岡は苦笑した。 「でも、僕らはなぜここへ連れて来られたのです。いったい誰に呼ばれたんですかね」 「さあ」 「誰が呼んだかということも問題ですが、なぜ呼ばれたかは是非知りたいですね。たくさんの人間の中から、なぜ僕がピック・アップされたのか。だってそうでしょう。僕はなんのとりえもない男です。平凡な人間ですよ」  北川は栄介のほうへ目を移した。 「多分彼の体質的な問題がからんでいるのだろうね。僕や君はそれに付随しているだけさ」 「おまけか」  山岡は笑った。 「僕には少くともムーにおける事情は判るような気がするね」  北川はムー人たちのほうへ笑顔を向けた。三人のムー人は黙ってそれを見返す。 「ムーの人々の信仰心から、この亜空間の世界が発生した。発生したあともそれを生みだしたムー人のイメージに影響されながら、この世界は独自の発展をとげた。ところが、ムーは沈んでしまった」 「太平洋の底へ……」  山岡が口をはさむ。 「そうだ。ムーの遺産を引きついだ他の文明は残ったが、それはそれで目から派生した新しい神を持つことになる。つまり、ムー人たちのイメージで発生したこの世界は、ムー人が全滅してしまったために、新しいイメージの影響を受けることができなくなって停滞したんだ。はじめはそれでも、ムー的なものが世界各地に色濃く残っていたから、亜空間の存続には支障はなかったが、やがて各地の文明がムーのものから遠のくにつれ、どうしてもムー人が必要になった。そこにどういうメカニズムが働いているのか判らないが、亜空間における虚像社会は、時間を逆行した或る時点から、本物のムー人をピック・アップしてここへ連れ込んだ。虚像社会での実物は不死であり永遠性を持つことになる。それがこの三人のムー人なのだ。彼らはここで神となり、なおかつこのような目の神殿を建設して、昔ながらの目に対する信仰を保った、そのためにここは滅びずにすんだわけさ」 「すると、卑弥呼《ひみこ》の世界を侵すわけは」  栄介が詰問するように尋ねた。 「それは問題が別だと思う」 「どう別なんです」 「卑弥呼の世界もやはりここと同じような亜空間における虚像の世界だが、それに対応する実世界の日本では、急激な西欧化が進んでしまった。たとえば神とか神話、古代に対する考え方にしても、あきらかに西欧化された思考法になっている。日本人のイメージが西欧的になり、それに亜空間の虚像世界が影響をうけるとすれば、卑弥呼の世界でも西欧的なものを必要とするわけだ」 「侵略者は卑弥呼の側で呼んでいるというんですか」  栄介は愕然《がくぜん》とした。 「僕はそう思う。ここへ来てそう確信するようになったよ」 「それでは、僕らがこっちへやって来たわけはどうなるんです。今の北川さんの考え方だと、まるであべこべで説明がつかなくなりますよ」 「そうだろうか。日本人の精神は西の色に染められていたが、僕らがいた時点で、それが少しかわりはじめていたんじゃないかな」 「ナショナリズムですか」 「そう言ってもいい。とにかく日本人は逆に西欧的なものの上へ、自分たち独自のものをかぶせようとしはじめている……」  北川、山岡、そして栄介の三人は、黙り込んで正面にある目のシンボルをみつめた。それは人間の目をかたどったものではなく、あくまでもシンボルとしてかたちづくられていた。いわば、ひとつの精神が外界を知るための覗《のぞ》き穴とでも言ったような感じであった。  おそらく石を刻んで作ったのだろう。しかし、その単純きわまる双《ふた》つの穴が、そのときの三人にはとほうもなく深いところへ通じているように思えた。 「人間の物語にははじめとおわりがある」  北川が沈んだ声で言った。 「しかし、真実の世界にははじめもおわりもない。ただすべてがからみ合い、気ままに動きつづけるだけだ。この世界はたしかに亜空間と言ったような世界で、虚像で満たされたものだ。しかし、虚像であってもこれは真実なのだ。僕らはここへ何かに招かれてやって来たわけだが、それが何の為《ため》かということになるとまるで判らない。ひょっとすると理由がないのかも知れない」 「まさか」  山岡が反論した。 「そんなばかなことはないでしょうよ」 「そうかな」  北川は山岡に冷淡な視線を送った。 「では自分の誕生をどう考えているんだね」 「誕生」 「そうだよ。なんの為に生まれて来たか、はっきり言えるかね」  山岡は当然のことながら沈黙した。 「いま、人類の文明を反映し、その精神活動の副産物としてこの亜空間をみたした虚像は、それぞれの理由から、何か新しい動きを求めはじめている。僕らはその新しい動きを作りだす為にここへ来たらしい。だが、僕らはその新しい動きの全貌《ぜんぼう》を見ることができるだろうか。できっこないのだ」  栄介が北川の言葉を引きつぐ。 「無意味に生まれて来たのではないと思いたいが、意味を見出すことは不可能に近い。自分なりに納得して死んで行くだけだ。そうでしょう、北川さん」  北川は頷く。 「僕は今、自分なりにここへ来た理由を納得しかけているところですよ」 「なんだって」  北川が驚いて栄介をみつめた。 「判ったのか」 「自分なりにですがね」 「教えてくれ」 「いいですか。よく考えてみると、僕らはこの世界を移動しただけです。あの主観的な境界領域をこえてです。この虚像世界の者には不可能なことですよ。僕らは卑弥呼側の者としてそれをやってのけた。使命は多分それでおわったのでしょう。僕らのおかげであの境界領域は有限の、客観でとらえることができるものにかわったはずです。卑弥呼たちはこれからこちら側へ侵入して来るでしょうね。そして、幾つかの世界がそのことで救われるのです。東西文明が互いに入りまじることで、活力をよみがえらせるのです」  そのとき、神殿の外で雷鳴がとどろいた。  その雷鳴で驚いたのは、三人のムー人であった。栄介たちはその異様な驚愕《きようがく》ぶりが理解できず、キョトンとしていた。  神殿の中にいた他のムー人たちも走り出て来て、不安そうに一か所へ集まった。 「どうしたのです」  山岡が尋ねた。 「判りません」  ムー人たちは明らかに怯えていた。 「ここでは雷が珍しいのですか」  すると学者が答えた。 「雨も降りません。嵐《あらし》もありません。それどころか、必要がなければ夜も来ないのです」 「なんですって……」  山岡は呆《あき》れた。 「あなたがたが夜のイメージを発したとき、少し夜になったでしょう。それ以外にあなたがたはこの世界で夜を経験しましたか」  今度は栄介たちが愕然とする番であった。 「そう言えば」  北川は栄介と顔を見合わせた。  ないのだ。卑弥呼の国から境界領域であるあの無限の大洋を渡り、岩山地帯をとび越え、相当な時間経過があったはずだった。  しかし、本当の夜は一度もなかった。 「虚像世界なのだ」  北川がつぶやいた。 「俺たちが卑弥呼の国を出てから、まだ一日もたっていないわけだな」  山岡もつぶやいていた。 「何年もかかったのかも知れない」  栄介が言った。 「いや、何十年かも」  北川の顔色が蒼《あお》くなっていた。  また雷鳴がとどろき、外は急速に暗くなっていた。 「夜になるぞ」  ムー人たちはくちぐちにそう叫んだ。 「誰か夜を考えたか。夜を必要としたか」  学者が大声で尋ねた。誰も答えない。 「考えたか」  北川が栄介と山岡に言った。 「いや」  二人は同時に答えた。 「ムー人が一万年もここで生きつづけていると言ったのは、時間経過が判らないからだ。彼らはただ、おそろしく長い時間という意味でそう言ったのだろう。しかし夜が来た。雷鳴もだ」  またピカッと光り、はげしい雷鳴がとどろく。 「何かが起る」  北川はその雷鳴の中で叫んだ。 「見ろ。おかしいぞ」  神殿の窓から外をのぞいて山岡が叫んだ。栄介はその窓にとびついた。  暗い中に何か巨大なものがおし寄せていた。山のようであった。今まで聞えなかった樹木のざわめきが聞えた。  鴉《からす》の森のあたりに、巨大なモスクがたちならび、巨石の戦車めがけて方尖柱が飛んだ。夜目にもくっきりと、方尖柱のミサイルが粉ごなに砕け散るのが見えた。  ロープをまきつけたモスクが赤い湖へ落ちて行く。  そして、霜田無仙が逃げこんだあの古城を、樹木の密生した山岳がおしつつもうとしている。  巨大な炎が古城の中央に燃えさかっていた。その光りの中で、なんとあのヤマトの兵士たちがたたかっている。 「いったいどうしたということだ」  誰かが叫んだ。 「時が……」  ムーの学者の声であった。そして栄介は自分の右肩を北川の手がしっかりと掴《つか》むのを感じた。 「そうだ。時空が混乱している。僕らが通った三つの世界が入りまじっているのだ」 「なぜだ。どうして……」 「判らない。判らないんだよ」  北川はじれったそうに言った。 「誰かがやって来る」  山岡が窓の外へ体をのりだすようにして言った。混乱はまだこの神殿をまきこんではいない。そして岩山を、松明《たいまつ》をかざした小柄な人間が這《は》いのぼってくるのが判った。 「岩井。岩井栄介はいるか」  男の声であった。 「無仙だ。霜田無仙らしいぞ」  山岡はそう言い、外へ怒鳴った。 「無仙。ここだ」 「おう、そこにいたか」  無仙は息を切らせていた。 「見ろ。とうとうこんなことになってしまったぞ」  窓の下へ来て言う。 「いったい何が起ったのだ」 「糞。自分たちがしたことを知らんのか」 「僕らが何をした」  北川が怒りを発していた。 「僕らは何もせん」 「馬鹿者め。境界領域を侵しただろう」 「あ……」  北川は栄介の肩をゆすった。 「そうか。僕らがやらされたのはそれだったのか」 「亜空間同士を結びつけてしまったんだ」  栄介もやっと気がついた。 「儂《わし》の霊はこの世界に適していた。卑弥呼のたくらみを儂はこの世界へ出入りすることで少しずつ悟って行った。だからお前たちをこっちへ連れて来てしまいたかったのだ。儂が卑弥呼の世界へ行けば、お前らがしたのと同じ結果になるので、それしか方法がなかったのだ」 「外へ出よう」  北川は二人を誘って神殿の出口へまわった。  神殿の前に三人が乗って来た巨石が並んでいた。三人は言い合わせたようにそれに飛び乗った。様子を見て来ようと思ったのだ。  しかし、岩は本来の岩の重味をとり戻して、びくともしなかった。 「動かない」  三人は顔を見合わせた。稲光りがその顔を青白く浮きあがらせる。 「複数の亜空間が合体しはじめているのだ。条件がまるで違ってしまっている」  北川があきらめて岩をとびおりると、二人もそれにならった。  そこへ松明を持った霜田無仙がやって来た。 「儂は西洋の魔法や呪術《じゆじゆつ》に憧《あこが》れていた。日本的なものではなく、そういう西洋のものにこそまことの神秘があると思ったのだ。さいわい儂には興味だけでなく、霊的な力を持つ生まれながらの体質がそなわっていた。訓練してやっとこの世界へ自由に出入りできるようになったのだ。ここは儂のパラダイスだった。岩井や若い女ほどの力はなかったにせよ、とにかく儂はこの世界へ自力で到達し、神と人との中間で思うさま霊の力をふるっていた。それなのに、幾つもの世界を併合しようとする愚か者が現われた」 「誰のことだ」 「お前たちではない」 「僕らではないのか」 「神だ。神がそう考えたのだ」 「神は愚か者か」 「儂の世界をぶちこわそうとしている」  無仙は神殿の外をとりまく混乱した争いを指で示した。それはまるで意味をなさぬ争いと見えた。行き当たりばったりに、集団ごとがただ殺し合い傷つけ合っている。  北川はそういう無仙を叱りつけた。 「神のしわざではない」 「では誰がやったというのだ」 「僕らがいた世界だ」 「なんだと」 「僕らがいた世界がこれを起したのだ。いいか、ここは観念の世界だろう。いま、西と東が、北と南が、逆流を起しているのだ。僕ら三人はこの逆流がはじまるきっかけとしてこちら側へ送り込まれただけだ」 「言いのがれをするな」 「言いのがれではない。地上人間の観念の副産物として、亜空間ごとに虚像の世界が展開するのだ。人間社会で言う霊界とは、人間の世界をとりまく無数の亜空間のことなのだ。そしていま、これに似た混乱は、すべての亜空間ではじまっているに違いない。僕らやあなたに動かせる現象ではないのだ」 「すると、西が東を覆った社会が、今度は東が西を覆いはじめているというのか」 「文明がだ。精神がだ」 「そんなわけはない。西のほうが優れているのだ。東が先に立つはずがない」  突然耳もとで轟音《ごうおん》が発し、栄介たちは思わず両手で耳を塞《ふさ》いだ。  霜田無仙の五体が青白く輝いた。  三人は耳をおさえたままそれをみつめていた。落雷というには余りにも長い衝撃であった。  稲妻は天空の一角から、無仙の脳天へ植え込んだようになり、それと同時に他のあらゆるものの動きも停止していた。  栄介の思考だけが目まぐるしく回転していた。  主観的な時間が、無仙を襲った落雷と同時に凍結されている。栄介はそう直感していた。つまり、外部の時間が亜空間内を支配しているのだ。そのために亜空間内の虚像はすべて動きをとめてしまっている。  なぜだ。  雷に撃たれたのは霜田無仙である。無仙は栄介やムー人たちと違って、自力でこの虚像の世界へまぎれこんだ人間である。  摘出。  栄介はなぜか外科手術のイメージでその答を感じた。イメージ空間の再編成にともなって、異物がとり除かれたのだ。無仙は何かの障害になっているに違いない。  そこまで考えたとき、突然栄介は自分の思考が動いているという事実に思い当たった。  俺は凍結されていない。なぜだ。  栄介は焦りを感じながら答を求めた。虚像が凍結されたのなら、自分の体も当然実体ではないのだから動きをとめてしまう。そこまではいい。しかし、思考だけが動いているということは、いかにもおかしかった。動きをとめた虚像たちは、その思考すらとめているはずなのだ。したがって、このすべてが停止した時間を知覚することはないのだ。  すべてがいっせいに動いた。亜空間は外に対してまたとざされたのだ。  霜田無仙の脳天に突きささった稲妻は、実際の稲妻と同じように姿を消した。だが、無仙は変化していた。  山岡がおそるおそる近寄って手で触れ、ぞっとしたように言う。 「石だ。石になってしまっている」  まさしくそれは霜田無仙の石像であった。 「おい」  北川たちがその石化した無仙の体に気をとられているあいだ、栄介は一心にあたりの変化を求めて見まわし、大声で言った。 「なんだ」  北川が無仙から手をはなして返事をした。 「落雷でみんなの動きがとまったのを見たか」  栄介は夢中であった。答えたのが北川か山岡かも気付かぬ様子であった。 「見たよ」 「そのあいだ何かを考えたか」 「ああ、考えたようだ」  栄介はあたりを見まわすのをやめ、北川をみつめた。やっと返事をしたのが北川であったことに気づいたらしかった。 「北川さん。何だか知らないが僕らは危険ですよ」  栄介は早口で喋《しやべ》った。 「無仙が雷撃されたでしょう。亜空間の新しい状態に邪魔だからです」 「そうらしいな」 「僕らもやられるかも知れませんよ」 「なぜ」 「停止時間中に物を考えていました」 「あ……」  北川が失敗を悟ったように叫んだ。 「雷撃はこの四人のうちの誰でもよかったと言うのか」 「そうです。ここは虚像世界です。僕らの体も無仙の体も虚像のはずです。しかし、虚像世界の時間が停止しているあいだ、僕らは考えていました。精神だけは向こうの世界のものなんですよ」 「そうだ。それに違いない」 「ムー人たちはどうでしょう」  三人は不安げに闇《やみ》の中を見まわした。風はますます強く吹きつのり、あちこちで争いの気配がまき起こっている。 「山岡、中へ戻れ」  栄介はそう叫んで神殿へ戻った。果して次の雷撃がそれでかわせるものかどうか怪しかったが、とにかく野天にいるよりは屋根の下のほうが安全に思えた。 「無仙は本当に石になったのかな」  山岡は疑っているらしい。 「瞬間的に永遠を送り込まれた。そう考えてみろ」  北川は階段を駆け登りながら言った。  そのとき、ふたたび雷撃が聞こえはじめた。三人は神殿の中に足音を響かせながら、目の祭壇があるほうへ近づいて行った。 「しまった、間違えたらしい」  行きどまりになっていた。栄介は暗い壁の前で舌打ちをした。 「雷鳴が急に近くなったぞ」  北川は怯えたようにつぶやく。激しい雷鳴がその声をかき消し、次の稲妻が複雑に折れ曲って来たそのあたりへまで、青白い光を送って来た。 「霊界とは亜空間のことだ。そこでは人間の観念が実体化できる。宗教が常に霊界と結びついていたわけだ」  栄介は自分の恐怖心を追いはらうために、そのことを考えつづけ、口にだしていた。雷鳴は切れ目なくとどろき、青白い光がたてつづけにあたりを照らしだした。 「神の姿を岩に刻むことも、岩をあがめることも、雷神が存在することも、すべては正しかった。人間は霊界を知っていたのだ」  その霊界のひとつで、いま亜空間の自然がひとつの浄化を行なっているのだ。 「落ちた」  山岡が叫んだ。神殿の壁が激しく震え、天井からタイルがバラバラと崩れ落ちて来た。 「ムー人たちが……」  栄介は激震の中で北川に怒鳴った。落雷のせいではなく、この世界全体が激しく震動しているのだ。  三人は壁をまさぐりながら、その行きどまりの場所から戻りはじめた。以前にもまして暗さが増してきている。  激震は或る短い周期でくり返しているようだ。震動がやや納まったときを縫って、三人は声をかけ合っている。 「大丈夫か。怪我《けが》はないか」 「ない」  栄介は山岡の声に答えてから、はっと気づいた。 「俺《おれ》たちが怪我をするだろうか」  通路は迷路のようにいりくんでいて、なかなかあの広間へは近づけなかった。 「怪我」  北川が栄介と同じことに気づいたようであった。 「そうか。僕らはここでは神なのだ。この世界はいま、新しい虚像を生みだそうとしているが、そのための破壊も僕らには及ばないのかも知れないぞ」 「だって、無仙がやられたでしょう」  山岡が反論する。 「石化した無仙も今ごろはバラバラに砕けているだろう。瞬間的に永遠を送りこむことで、不可侵の無仙の体が破壊できるようになる」 「するとつまり、あの雷は」  山岡もやっと気づいたようであった。 「そうだ。僕らは危険な状態にいる。ぐずぐずしていると雷にやられて帰れなくなるぞ」 「どうしよう」  山岡は悲鳴をあげるようにいった。また震動が激しくなり、すぐ近くの壁がドサリと向こう側へ倒れ、巨石の梁《はり》が床へ叩きつけられた。 「岩はもう飛ばないし」  栄介は山岡の声を聞きながら、崩れた壁の間へ踏み込んだ。 「ここだ」  目の祭壇がある広間であった。まだ窓からうすぼんやりとした光があって、それを背にした人間の姿が重なって見えた。 「おい、大丈夫か」  栄介はムー人たちに声をかけた。そのとたん、そのぼんやりとした光を背にした人影が幾つか、バランスを失って倒れた。 「やられている。石になってしまった」  栄介は人影のほうへ走った。いまの倒れかたで判ったのだ。棒を倒すような倒れかただった。 「逃げられない」  北川の悲痛な声が栄介のうしろで聞えた。  倒れたムー人はバラバラに割れてしまっている。 「人々のイメージがかわる。価値観が変化する。向こうの世界ではそれですむが、ここではひとつの世界の終末だ」  山岡はなげやりな調子で言った。 「俺はその終末にまき込まれた」  北川もあきらめはじめたようだ。 「そうらしいな」  たえ間なく崩れ落ちるタイルの小片を浴びながら、北川はさっきまで腰かけていた椅子を探していた。 「雷を待つか。いかずちとはうまいことを言ったもんだ。いかずちに撃たれて石ころになったわけだな」  また震動が少しおさまりはじめている。 「見ろ」  栄介は四体ほど残った石のムー人をみつめて言った。 「これはどういうわけだ」 「どうした。今更何かに驚いてもはじまらないさ」  山岡が自嘲する。 「いや違う。このムー人たちの手を見ろ。みんな向こうを指さしているぞ」  椅子を探していた北川が向き直った。 「本当だ」 「目の像のほうだ」  栄介は窓とは反対側にある暗い隅《すみ》へ足さぐりで進んで行った。 「こっちだ」  栄介の声をたよりに二人があとを追う。 「ムー人が何かを教えてくれたのだといいのだが」  山岡の期待するような声が響き、それに重なって、また雷鳴が遠くではじまっていた。 「今度あの雷が来たら確実にやられるはずだ。この世界に紛《まぎ》れ込んだ異物を、この世界のものにしてしまうのさ。俺たちがいる限り、亜空間の再編成はできないからな」  栄介はそう言いながら、手さぐりで目のシンボルを探しあてた。 「あったぞ。ここだ」  その背中へ北川たちの手が触れる。 「ムー人は何を教えたかったのだ」  北川と栄介は夢中でそのシンボルを撫《な》でまわした。  そのとき、再び稲妻が光った。目の祭壇が一瞬その光の中に浮きあがる。 「穴だ。ふたつの穴だ」  栄介は夢中でそう叫び、ぐらぐらと揺れる床を踏みしめて、右手を神聖な目の穴へ突っ込んだ。 「何かがつまっている」  栄介と北川は背中で押し合うようにして、左右の目の中へ腕をさしこんでいた。 「引っぱると動くようだ」  北川が言った。二人は目の中の堅いものを力まかせに引っぱりだした。  帰 還  震動は今までで最大のものになった。石化したムー人は次々に倒れて砕け散った。栄介たちに同じような石化をもたらそうと、雷鳴は猛《たけ》り狂って吼《ほ》え、稲妻と稲妻の間隔がせばまって、今はもう間断なく青白い光をまきちらしている。  目の穴から堅いものを引っぱりだした栄介と北川は、それが手を放すとまた元の穴の中へ勢いよくとび込んでしまいそうなので、両足をふんばり、必死に掴《つか》んでいた。 「どうすればいいんだ」  北川が悲しげに言った。堅いものはちょうど掌《てのひら》にぴったりとおさまるほどの楕円形《だえんけい》をしており、目の奥と見えないスプリングでつながっている感じであった。 「外せそうもない」  栄介はいよいよ終末の様相を色濃くしはじめた中で、なんとか冷静でいようと努力していた。 「外せないとなれば、もっと引き出してみるより仕方ない」  栄介は北川にそう言い、空いた手で山岡を招き寄せた。 「こいつをもっと引っぱる。手伝え」  山岡はあわてて二人の肩の間へ割り込み、左右の手で両方に力をかした。三人がひとかたまりになった上から、ドスン、ドスンと石材が落下して来る。  三人は力を合わせてそれを引っぱった。しかし、見えないスプリングのようなものは、一定のところまで伸びると、それ以上はどうやっても伸びなくなった。 「すべる。手から抜けてしまう」  汗ばんだ掌から、その自転車のハンドルのグリップに似た形のものは、つるりと抜けて目の穴へ戻りそうであった。  三人のすぐうしろで轟音《ごうおん》がした。雷撃が迫っているのだ。 「あ……」  栄介と北川が同時に絶望的な悲鳴をあげた。グリップがすべって、勢いよく目の穴へとびこんでしまった。  同時に、小さな鐘を打ったような澄んだ金属音が鳴った。とび込んだとき目の奥で何かに当たったようであった。  そして、その澄んだ音が聞こえた瞬間、目のシンボルもその背後の壁も消えてしまった。壁のあった場所には四角く暗い空間が口をあけていた。 「脱出口だ」  栄介は直感的にそう思い、叫んだ。  その暗い空間には、何も存在しなかった。 「とびこめ」  三人は未知の空間に対するおそれより、次に来る雷撃をおそれ、一気にそこへとびこんだ。  暗い空間へとびこんだ刹那《せつな》、今まで三人がいた位置が雷撃された。青い光が空間の奥深くへ、三人のとほうもなく長い影を作りだして消えた。  三人は思わず振り返った。すると驚いたことに、四角い空間の入口が、今の雷撃のために、その四辺から青白い炎を発して燃えはじめている。 「空間が燃える」  北川は呆《あき》れたように言った。 「きっとここは青い火で浄化されるんだ」  栄介はそう言い、 「奥へ」  と叫んで走りだした。  走ると言っても床に当たる部分がなかった。足で蹴《け》るものが足の下に存在しないのだ。しかしそれでも栄介は両足を激しく動かして走った。  それは走るという行為を抽象化した動作のようであった。そして、栄介たちはみごとに走っていた。走るという行為によって得られる空間の短縮が行なわれていたのである。  すでにあの終末の世界の阿鼻叫喚《あびきようかん》は消え失せ、暗い空間を走る三人の精神だけがあった。いや、精神と影である。  背後で四角い空間が青い火によって失われていた。それはまるで、深い谷にかかった橋が、一方の端から崩れ落ちているようなものであった。三人はその崩落に追いつかれまいと、必死で橋を渡っているのだ。そして背後から迫る青白い火が、三人の逃げのびる方向へ、彼ら自身のシルエットをながながと投げかけている。  栄介は、自分の影が一か所でむなしい踊りを踊っているように思えてしかたなかった。しかし、青白い火に追いつかれないところを見ると、一定の速度で前進しているのはたしかなようである。  栄介は北川と山岡に叫んだ。がんばれと叫んだつもりであった。しかしそれは声にならず、意志だけが拡散して行ったようであった。もちろん音はまったく存在しない。  これは悪夢の構図だ。  栄介は走りながらそう思った。あらゆる人間が自己の睡《ねむ》りの中で知っている、あのむなしい逃走の場面であった。  もとの世界へ近づいているという確信が生まれた。なぜなら、それはすべての人間が、いや、ひょっとするとけものでさえもが知っている、睡りの中の構図なのだ。霊は睡りの中でたびたびその領域へ踏みこむのだろう。何者かがそれを追い返し、霊はもとの場所へ逃げ戻るのだ。  そうだ、これは夢からの帰還路だ。栄介は前方に注意した。何かがなければいけないはずであった。  前方を凝視していた栄介は、その夢の通路が変化しはじめていることに気づいた。  三人がひとかたまりになって走っていたはずなのに、通路はいつの間にか一人分ずつに分岐《ぶんき》して、互いの間隔がひらきはじめている。栄介は三人のまん中にいて、左に北川、右に山岡の走っている姿が見えている。しかしそれがぐんぐん遠ざかってしまう。  栄介はまた叫んだ。音のない世界で声が聞こえようとは思わなかったが、叫ぶことで意志が通じるかと思ったのだ。しかし今はもう意志も自分の外へは出て行かなかった。  落ちる。  栄介はふとそういう予感を持った。おかしなことに、虚空《こくう》に浮いて走るという行為の抽象的な状態にあるはずなのに、道が下りになっている感覚があったのだ。  しかもその下り坂の感覚はますます強くなっている。そしてとうとう、走るよりすべりおりる感じになって来た。スピード感もぐんと増している。  もう自己|制禦《せいぎよ》はできなかった。強い力にうしろから押されて、ひたすらどこかへ落下して行くだけだ。左右は闇《やみ》で、北川や山岡の姿は見えなくなっていた。  栄介は死を感じた。しかしその死にはまったく恐怖が欠けており、そのかわりに疲れ切った気分のような、一種の嫌悪感《けんおかん》があった。  誕生か。  栄介はそう思った。自分はいま何かの胎内にいる。すぐ向こうに新しい世界がある。  胎児も生物だ。  栄介はむかつくような不快感の中でそう感じた。出生寸前の胎児は、胎児の老人なのだ。誕生はひとつの古い世界との訣別《けつべつ》、死。胎児は胎児としての死によって誕生する。  栄介はいつの間にか体を胎児のように丸めていた。もう走らなくてもよかった。ひたすら落下するだけなのである。  ビクッとした。体中の神経がいちどにはねあがったようであった。それに引きつづいて、おそろしい苦痛がはじまった。  どこが痛むというのではない。生存するということ自体の痛みであった。存在の苦痛なのだ。  何かの関門を通っている。  栄介は苦痛にもだえながら思った。胎児から嬰児《えいじ》への関門かもしれなかった。新生児と老胎児の境界にある苦痛らしい。  栄介は苦痛に耐えかね、一気に体を反《そ》らせた。伸び切った姿勢で悲鳴をあげた。するとその悲鳴は、この空間へ入ってはじめて音になり、どこかで反響した。  ながながと悲鳴をあげた栄介は、暗い空間の中で幻のようなものを見た。それはあの高輪《たかなわ》の古いホテルであった。  卑弥呼《ひみこ》の国と現実世界の接点になったあのホテルが、青白い炎につつまれて燃え崩れていた。  浄化か。  栄介は苦痛がうすらいで行く中でそう思った。それは自分たちがあの虚像世界へ転移するについて、現実世界に支払わせた代償なのであろう。おそらく、現実世界のあの部分は消去され、はじめから存在しなかったことになるのだろうと思った。  燃えつきたホテルの残骸《ざんがい》が素早く変化しはじめていた。植物の成育を記録する微速度撮影のムービーのように、大地からニョキニョキと鉄骨が空へ伸び、またたく間に壁を作り、窓をうがち、十階だてほどのビルになって、それがうす汚れて行った。  ホテルはもうない。  栄介はあの老マダムや従業員たちの運命を案じつつそう思った。おそらく彼らは、別な人生を歩んだことにされたのだろう。  いま、落下の速度はゆるくなっていた。栄介は背骨をしゃんと伸ばし、直立する姿勢になった。ホテルの幻影は消え、そのかわり前方に白いものが見えていた。  落下感覚も急速に消えはじめていた。そして遂にとまった。  栄介は前方にある白いものをみつめた。  それはひとつの椅子《いす》であった。何者かが、ここに坐れと言っているようであった。  栄介は、ゆっくりとそれに向かって進んだ。清浄《しようじよう》な座であった。  その白い椅子へ腰をおろすと、カッと体が熱くなった。こころよい熱さであった。  血の熱さだ。  栄介は自分がいま、生理機能をとりもどしたことに気づいた。  人間に戻ったのだ。  栄介は両手をひろげてみつめた。肌《はだ》はうす赤く色づいていた。  帰れた。  ほっとしてそう思うと、顔をあげてあたりを見まわした。いつの間にか栄介は、純白の四角い囲いの中にいた。どこもここも白く、のっぺりとしていた。  どのくらいそうして坐っていただろうか。栄介をとりかこんだ白いのっぺりとした壁が、徐々に変化して細い縦横の線があらわれはじめた。同時に白さもくすみはじめる。  どこだったか。  それは栄介の記憶にある場所であった。栄介はもう一度周囲を見まわした。  水の音が聞えた。何かのざわめきも感じられる。  彼は目の前の白い壁が、ドアであったことに気づいた。金具が光っていた。栄介は立ちあがり、その金具に手をふれて、ドアをあけた。  白いタイルの床の、清潔なトイレットであった。  栄介は自分がいた囲いの中を見た。白い便器があった。  どこのトイレだ。  窓から明るい光がさし込んでいて、天井には蛍光灯があった。  ガタン、と音がして、となりのドアがあいた。出て来たのは山岡であった。ほとんど同時に北川も出て来た。 「人間の世界へ戻ったよ」  北川は気弱な微笑を泛《う》かべていた。 「とにかく俺は手を洗う」  山岡はそう言うと、鏡の前の洗面台へ行って、自分の顔を眺めながら蛇口《じやぐち》をひねった。 「けがれをおとさなければ」  山岡は当然のことのように言った。 「けがれか」  北川は頷《うなず》いた。 「あの世へ行っていたのだからな」  三人は並んで両手に青い色の水石鹸《みずせつけん》をつけ、丁寧に洗った。それは何かの儀式のようであった。 「ここはデパートだよ」  北川が手をペーパー・タオルで拭《ふ》きながら言った。山岡も出口を見ながら同意した。 「そうらしいですね」  栄介は山岡の肩を叩き、 「さあ、行こう」  と言った。  やはりデパートであった。平和な匂《にお》いに満ち、店員や客の姿が動いていた。 「都心のデパートだな」  三人はキョロキョロとあたりを眺めながらトイレから出て行った。見なれたデパートのマークがほうぼうにあった。 「帰れたんだなあ」  山岡がしみじみと言った。 「でも、どのくらい時間がたっているのだろう」 「町へ出れば自然に判るさ」  そこは人形売場の隅であった。 「美津子君はどうしただろう。帰れたのかな」  栄介がつぶやいた。二人ともそれには答えなかった。 「とにかくここを出よう」  北川が足を早めようとしたとき、山岡がギクリととまった。 「見ろ」  ケースに入った人形のひとつを指さしていた。 「美津子だ」  それは赤い衣を着た美津子であった。あの素木《しらき》づくりの社殿もあった。緑の木々にかこまれた中に、十人ばかりの矛《ほこ》を持った兵士もいた。そしてケースの中に小さな木の札が置いてあった。 「卑弥呼」  その札の字を栄介は声を出して読んだ。 「美津子君はもう帰らない」  そう言い、ポケットを探って金を出した。三人とも、それを買うべきだと考えていた。  ただ、この先どう生きるか、何の為にあの世界を見せられたのか、それをこちら側でどう生かすかは、まだ誰にも判っていなかった  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 角川文庫『邪神世界』昭和56年2月10日初版発行           昭和59年9月30日6版発行