半村 良 軍靴の響き 目 次  朝の靴  マーチ風に  東京大停電  青い柿  堤防決潰  クーデター  徴兵復活  朝の靴     1  小さな白いテーブルをはさんで、九谷は陽焼けした顔をあげ、侑子《ゆうこ》の瞳をまともにとらえると、落ちついた声で言った。 「俺と結婚してくれ」  咄嗟《とつさ》には返事のしようもなく、侑子は思わず大きなガラス窓の外へ目をそらせた。窓の外は夜の銀座の裏通りで、五十メートル程むこうにクラブ都の青い看板が光っていた。  ホステスが自分の店の近くの喫茶店で客に求婚されている。よくありそうで案外珍しい光景なのではないだろうか……侑子はひとごとのような気分でそう思うと、視線を戻し、あらためて九谷の顔を見た。  照れもためらいも、その顔には見当らない。勿論うぬ惚れた様子もない。ただ、預けた物を受取りに来たような、自分の主張に対する自信が漲《みなぎ》っている。 「いいの、そんなこと言って。私は新藤を待っている女よ」  九谷と新藤は学生時代からの友人だった。だが新藤は西イリアン石油の現地責任者として、三年ほど前からインドネシアにいる。 「新藤は一度結婚したが、俺はこの歳までずっと独身だ。いつまでも侑子に待っていられると結婚しそこなう」  九谷は笑いながら言った。 「私のせいみたいね」  侑子が苦笑してみせると、九谷は真面目な表情に戻り、 「すぐ返事をしろとは言わん」  と言った。コーヒーが来て、侑子は九谷のカップに砂糖をいれてやる。 「実はジャカルタヘ行って来た」  侑子は驚いて顔をあげた。 「いつ」 「一週間ほど……ゆうべ帰って来た」 「新藤に会ったの……」  侑子は急に不安になって早口で尋ねた。スプーンの先から砂糖が少しこぼれ、白いテーブルの上に細かな粒が踊った。 「いや。着いてすぐ奴のオフィスに電話をしてみたが、イリアンヘ行っていて当分帰らないということだった」 「連絡とれなかったの、せっかく行ったのに」 「莫迦《ばか》言うな」  九谷は不服気にすぼめた侑子の形のいい唇のあたりを、眩《まぶ》しそうにみつめて言う。 「インドネシアというのは一万何千という島が集まってできている国だ。日本のように電話一本でどこへでも通じる所とはわけが違うよ」 「そう、逢えなかったの……」  侑子はほっとしたようにつぶやいた。  九谷が自分に好意を寄せていることは以前から感じていた。その九谷がジャカルタから戻っていきなりプロポーズするということは、現地で新藤が何か言ったせいではないかと思ったのだ。 「新藤から手紙は来るのか」 「たまにね。近い内に帰って来るとは言っているけれど」 「当分奴は戻れんかも知れない」  九谷は冷淡な言い方をした。 「すっかり現地に根をおろしてしまったようだ」 「どういう意味……」 「現地でひどく人望があるらしい。もっとも、むこうへ行っている連中はみなやりすぎているからな。はっきり言って日本人はこのところ余り評判がよくない。できるだけ成績をあげて、一日も早く東京のいいポストヘ戻りたいというサラリーマンばかりだからな。その点昔から新藤は上に逆らって下によい性分だった」 「いいじゃないの。そういう人間がいた方が」 「たしかにそうだ。しかし行ってる場所が場所だ。あれだけ仕事ができて、その上現地の人望が厚いとなると、彼の会社が予定どおり東京へ呼び返すかな。今のインドネシアのことは君だって知ってるだろう」 「新聞に出ているから毎日読んではいるけれど。そんなに大変なの……」  侑子は頼りなさそうな顔になって、ハンドバッグからショートホープの箱をとりだした。 「日本がイリアン湾の油田を開発してから、インドネシアは日本にとって非常に重要な意味をもつようになっている。フィリピン海を経由して東経百四十度の線をそのまま北上すれば、いきなり東京湾に着いてしまうんだ。タンカーのトン数制限があるマラッカ海峡を通らなくてもすむし、中近東よりずっと手近にある低硫黄の大油田だ。だがベトナム戦争が終ってから、インドネシアには新しい民族主義が興って、反政府運動が活発になってきた。北の勢力がもうひとつ南ヘ駒を進めたとも言える。……こんなことははじめから判っていたことなんだ」  九谷は歯がゆそうに言った。侑子は相手の上着の胸ポケットにのぞいている青いハンカチーフをみつめながら、 「それであなたのような人がジャカルタヘ出かけたわけね」 「我々もいそがしくなった」  九谷は精悍な表情を泛《うか》べて言った。 「もしインドシナに動乱が起きれば、日本はイリアンの石油を守るため何かしなければならない」 「何かするってどういうこと……」  九谷の顔に苦っぽい微笑が泛んで消えた。 「アメリカがベトナムでやったみたいなこと……」 「イリアンの石油だけではない。あそこにはすでに厖大《ぼうだい》な投資が行なわれている。自分の財産を守るのは当り前のことだ」  九谷は憤ったように言った。 「そんなことより、本当に新藤は帰ってこられそうもないの」  九谷が示したむずかしい表情を見て、侑子は反射的に話題を変えた。 「あそこへ奴の会社が突っ込んだ厖大な投資額を考えれば、今が新藤の正念場だといえる。約束どおりにはとても帰してもらえまい。俺は男同士だから新藤の気持はよく判る。これ以上君を放って置かねばならないのなら、きっと何らかの結論を出すはずだ」 「とにかく私は待つだけ。今まで待たされたんですものね」 「待つのはいい。さっきも言ったように俺はすぐ返事をくれとは言っていない。だが俺も新藤とこうして同列に並んだ以上、君に対して提案がある」 「提案……」 「もうやめろ」  九谷は顎をしゃくって窓の外に見えているクラブ都の青い看板を示した。 「食べて行けないじゃないの」 「知ってる」  九谷はついぞ見せたことのない表情で言った。哀しそうで、子供っぽくて、ひどく真剣な表情だった。 「新藤が戻るまで、或いは奴が態度をはっきりさせるまで、俺のプロポーズは単なる意思表示にとどめて置く。だがやめてくれれば出来るだけのことはするつもりだ。それは新藤も反対するまい」  侑子は時計を見た。 「もうこんな時間になっちゃって……そろそろお店へ入らなきゃ」  そう言って腰を浮かせた。 「考えて置け」  九谷も立ちあがると、いつもの強気な表情に戻って命令するように言った。 「はいはい、判りました」  侑子はそう答え、九谷とつれだってレジの所まで行くと、彼が伝票をさしだしている横で急にホステスの顔になり、 「今日は寄って行かないの」と尋ねた。 「これからまだ人に逢う約束がある」  九谷はそう言うと侑子の肩を軽く叩いた。店へ行けという意味らしかった。侑子は入口の青い敷物を踏んで自動ドアからひと足先に外へ出たが、ふと思い直して九谷が出るのを待った。 「ねえ、ちょっと教えてもらいたいんだけれど」 「…………」  九谷は無言で侑子をみつめた。太い眉の下の瞳にこまやかな思い入れの色があった。 「あなたたち、何かあったらすぐにインドネシアヘ行く気なの」  九谷は奇妙な戸惑いを示し、しばらく考えてからかすかに顎を引いてみせた。 「男って大変ね」  侑子は長いホステスぐらしの間に身につけた、どうにでもとれるあいまいな言い方をした。九谷はくるりと背を向け、大股に遠ざかって行く。侑子はそれをしばらく見送ってから、クラブ都の入口ヘ歩きはじめた。     2  数日後の昼ちょっと過ぎ、侑子は南青山にあるマンションの部屋で、少しうろたえ気味に中泉|脩一郎《しゆういちろう》を迎える仕度をしていた。  突然中泉から電話があり、立ち寄るという連絡があったのだ。近頃では、全く珍しいことだった。侑子は手早く部屋の中を整頓し、冷蔵庫の扉をあけて中を覗き込んだり、衣裳だんすにつるしっぱなしになっていた中泉の部屋着をハンガーに掛け直したりした。部屋着にはナフタリンの香が強くしみ込んでいて、丹念に香水を吹きつけねばならなかった。  そんなことをしていると、侑子はみるみる自分が甘ったれた若い女に逆戻りして行くのを感じた。演技なのか、習性になっているのか、自分でもよくは判らなかったが、愛情というのとは別の次元で発生する、男に対する期待の感情が、自分をそわそわさせていることだけは判った。そして中泉が見事な銀髪を揺らせて部屋に入って来た時には、ほとんど涙ぐまんばかりにさえなっていた。 「元気そうだな」  中泉はそう言うと、いつもの椅子に深々と身を沈めた。 「なによ、こんなに放りっぱなしにして」  侑子はつかえ気味にゆっくり言い、床にひざまずいて中泉の両膝をだいた。うなじに乾いた指が這うのを感じた。 「そうだな。八か月ぶりだったかな」 「おいそがしいのは承知してるけど、長すぎるわ」 「川奈ではお前はバーディーを二度やった。腕をあげたので驚いたよ」 「もう駄目よ。全然やってないんですもの」 「やればいい。あそこまで行って置きながら勿体ないじゃないか」  侑子は立ちあがり、ミディの白いスカートをひるがえしてキッチンヘ行った。 「パパが連れて行ってくれるんじゃなきゃ、張り合いがないんですもの」  氷の音をさせながらそう言う。 「年寄りの相手ばかりしていてはだめだ。イキのいい若い連中とつき合わなければな。侑子はまだ若いんだから」 「若いって、もう三十二よ」 「若いさ。まだまだだ」  中泉は立ちあがって上着を脱ぎはじめた。侑子がとんで来てそのうしろへまわる。 「ゆっくりしていらっしゃれるのね」 「川崎などという所へ久しぶりで行って来た。少し汗をかいたらしく体がべとついてかなわん」  上着を手に、中泉の背中で侑子は下唇を噛んだ。彼女の胸の辺りに、感動に似た拡がり方をするものがあった。 「お風呂、沸《わ》いてます」はじらうように細い声で言った。 「そうか。入るか」  中泉は背を向けたまま言う。侑子は手早く上着をハンガーにかけると、前へまわってネクタイを外しはじめた。  中泉の脱衣を手伝う間じゅう、侑子は九谷の声を思い出していた。 「考えて置け……」  九谷はこのことを言ったに違いない。もうやめろと言ったのは、このことも含めたホステス暮しを意味しているのだ。たべて行けないと侑子はあの時答えたが、それに対して九谷は、「知ってる」と言った。このことを知っているというのだろう。知られて当然だ。それだけの年月はたっている。しかし、男たちは自分と中泉の関係の重味を、どれ程理解しているのだろうか。恐らく少しも判っていないに違いない。侑子はそう確信していた。  男には判るはずがない。いや女にだって、バーやクラブの暮しを知らない女には、判るわけがない。無数のサラリーマンの上に、ほんのひとにぎりの成功した男たちがいるように、数多くのホステスの中で、中泉のような大物を掴んだ女はほんのひとにぎりの成功者なのだ。ホステスになるのが生活のためだけだというなら、サラリーマンだって暮して行ければそれでいいはずではないか。九谷や新藤たちが仕事で味わう喜びと同じようなものを、侑子は中泉を掴んだことで味わうのだ。それは幸福とか不幸とかいうものとはまるで別な次元のことだ。部長の不幸があり平社員の幸福があるのと同じことだ。そうした自分たちを蔑視する団地夫人の多くは、物事をすりかえ、いわば平社員の幸福でみずからをなぐさめているにすぎない。……侑子は強くそう感じた。新藤を侑子はたしかに愛している。新藤の妻になりたいと思っている。しかしそれとこれとは別なのだ。どこかで矛盾しているようにも思えるが、その食い違いもいずれ誰かが、時がたてば、きっぱりと奇麗に割り切ってみせてくれるに違いない。侑子は中泉を浴室へ送り込みながらそう考えていた。  中泉の脱いだ衣類を整理し、ベッドカバーを外し、カーテンを引いたあと、侑子は中泉が水音をたてている浴室へ入った。そうするのがきまりだった。そういう手順に馴らされた侑子の体にとって、久しぶりの中泉との入浴は、前戯を加えられたに等しかった。浴室の中で侑子はどうしようもなく昂り、紳士的な中泉に焦れて、頬のあたりに胸をこすりつけたりした。一度だけ中泉がお義理のように乳首に唇をつけてくれると、下半身が夏の海につかるような感じになり、ふらついて桃色のタイルに手をついてしまうのだった。  中泉は機嫌よく浴室を出て行った。テーブルの上には冷えたジンジャーエールが用意してあり、彼はそのそばに腰をおろしてオールドスプレンダーをくゆらせているはずだった。侑子はいつもこの状況の中で、言い知れぬゆたかさを味わうのだった。  いつも通り、浴室の中で侑子は深い安堵感に浸っていたが、今日はそのほかに奇妙な焦りのようなものが混っていた。意外すぎた中泉の訪れに、異常なほど体が昂っていた。そっと指でたしかめると、自分でも信じられないほど潤んでいた。中泉がこの炎を鎮めてくれるだろうかという心配があった。いつかのようにまた不能だったら、と思うとそれだけでヒステリーになりそうな気がした。濡れた肌をバスタオルで拭いていると、この所二、三度続けて会っている若い男の体を思い出した。それはこの春大学を出たばかりの新入社員だった。どうやら有力者の倅ででもあるのか、クラブ都の常連である、化粧品メーカーの課長が連れて来た客だった。ひどく酔ってどうしようもなかったのを、侑子はなんとなくホテルヘ送りこみ、朝まで面倒を見てしまった。またその若い男に逢いたくなるのでは困ると思った。困るというより、むしろなさけないという感じだった。  バスルームから出ると、自分でも眼の色が普通でないのが判った。全裸にバスタオルをまきつけて壁にもたれてしまった。 「パパ」  泣き声で言うと、本当に涙が溢れた。 「どうしたんだ、侑子」  中泉が慌てて近寄って来た。 「気分が悪いのか」 「ごめんなさい」  泣きながら言うと、膝の力が抜けて中泉の腕にもたれ込んだ。左腕にさしこんで留めたバスタオルが外れた。 「急にどうしようもなくなっちゃったの」 「どうしたんだ」  もう一度中泉はそう言い、やっと気がついたらしく愉しそうに笑った。 「これは男冥利に尽きるな。ええ侑子ちゃん」 「パパのせい。放って置くから」  演技だと思われたら恥かしくて死んでしまう……侑子はそう思いながらベッドヘ運ばれていた。だが中泉は珍しく侑子を翻弄しはじめた。侑子は何度も息をつまらせ、しまいには中泉の技巧を恐ろしいと思うようになった。  それは中泉が示したはじめての執拗さだった。最初の頃、侑子は中泉の性技が余りにも素っ気ないので意外に思った時期があった。散々遊び尽した人物なのに判らないものだと思ったりした。しかし時がたつにつれ、それは年齢が違いすぎることから来る、中泉の一種の騎士道的な態度らしいと気がついた。恐らく中泉には侑子よりもっとずっと年上の女がいるに違いない。そしてその女になら、中泉はそのキャリアにふさわしいテクニックを駆使するのだろう。だが中泉にとって侑子は可憐な小娘といった所だったのだ。  ところが今日は違っていた。侑子の思いあがりを叩きつぶすように、中泉の指と唇はすさまじい程の執拗さで侑子を責めさいなんだ。無駄のない、心得切った中泉の責めに、侑子は本当に死ぬかと思いはじめていた。そしてゆっくりと、たくましく押し入って来た時には、自分でもびっくりする程の声をあげてのけぞっていた。  終ったとき侑子は枕に顔を埋めていた。そのままの姿勢でけだるい陶酔の余韻を味わいながら、これが中泉との最後なのだということを、なんとなく納得していた。はじめて中泉が対等の女として扱ったことは、彼がこの関係を打ち切ろうとしているということなのだ。  とうとうお店が持てる……侑子はそう思っていた。別れる時は店を持たせる。それは中泉との最初からの約束だった。 「何年になるかな」  案の定中泉がそう言った。 「七年よ。たのしかったわ。とってもしあわせだったわ」  すると中泉はうれしそうに笑った。 「侑子は賢い。判ってくれたのだね」 「判りすぎて死にそうなくらいよ」  侑子は中泉の左腕をかかえ、まだ熱い茂みのあたりへさそって言った。 「白状しよう。歯がいかんのだ」 「歯……」 「総いれ歯になるのだよ」  侑子は唖然とした。その次にはおかしさがこみあげて来た。彼女は笑い、中途半端でその笑いがやみ、声をあげて泣いた。いま一頭の強いけものが老いて群れを去って行く……そう思った。となりに裸で横たわっている老人に、はじめて新藤に対するよりもっと深い愛情を感じた。中泉は泣きじゃくる侑子の背中を、あやすようにゆっくりと撫ぜていた。 「好きよ。尊敬するわ。パパはやっぱり世界一のおしゃれよ」 「そう言ってくれるのは侑子ぐらいなもんだろう」  かすかな自嘲を見せて中泉は答えた。 「だが仕事はまだやめられんぞ。また戦争が近づいているようだ。総いれ歯の歳になったら女は口説けんが、仕事はまだまだ出来る。侑子も頑張るんだな」 「ほんとにまた戦争が起るのかしらねえ」 「判らんな、どうなるか」 「パパに教えようと思ってたんだけど、このあいだお客さんが言ってたわよ」  侑子は裸のまま上体を起し、中泉をのぞきこむようにして言った。 「インドネシアに何か起ったら、すぐに自衛隊が行くんですって」 「誰に聞いた」  中泉は静かに目をとじて言った。 「防衛庁の人」  中泉は急にベッドから降り、部屋着を羽織って煙草に火をつけた。 「防衛庁のどういう人物だ。なぜそんなことをお前に聞かせた」  侑子は中泉の緊張ぶりにうろたえながら答えた。 「もうかなり偉くなってるはずよ。階級はうっかりしてたけど、幕僚監部とか……」 「名は」  訊問されているようだった。 「九谷栄介」 「陸上幕僚監部の九谷か。それなら儂《わし》も知っている。本当なら侑子に礼をせんといかんな」 「間違いないわ」  中泉は九谷がどういう状況で侑子にその話をしたか、くどい程たしかめた。侑子も真面目に答えた。新藤とのこともこの際洗いざらい喋った。隠して置くよりその方が利口だと判断したからだった。 「なる程間違いなさそうだな」  中泉は沈んだ声でそう言った。  ベトナムからアメリカが手を引いたあと、東南アジアの焦点はインドネシアに移っていた。開発途上国に対する援助と投資の形で各国の資本が流れ込んだ国々では、それに反発する民族主義が流入外貨の量に正比例して高まって来る。スカルノ時代以来、深く食い込んだインドネシアにおける日本資本は、民衆の間に根強い政治不信と反日感情を育てていた。一時絶えたかに見えた反政府運動が再び活発化し、地域によっては内乱の様相さえ示しはじめている。  だがベトナムで懲りたアメリカは、すでに厖大なドルをつぎ込んでいたにもかかわらず、その危険な状態を静観している。日本が資源問題からその紛争にまき込まれることを期待しているのは明白だった。そのことによって日中関係を悪化させ、大陸市場における差をひろげようとしているらしい。  東洋重機の取締役として、陸上幕僚監部の九谷栄介の名を知っていた中泉は、侑子からその情報を得ると、慌しく着かえて帰って行った。     3  侑子は翌る日、本所の母を訪ねた。  母の澄江は錦糸町に程近い、小さな鉄筋四階だての建物の二階を借りて住んでいた。通りに面した一階は桝本という酒屋で、その酒屋が数年前に建てかえたものだった。  階段を昇って団地風の青いスチールドアをあけると、糠味噌の匂いが強く鼻についた。 「こんちは。母さんいる……」  右がバス、トイレ、左が台所。細く短い板の間があって、その突き当りのあけ放した襖から澄江の顔がのぞいた。 「おや来たね。珍しいじゃないか」  侑子は大きな音を響かせて鉄のドアをうしろ手で閉め、草履を脱いだ。 「どう、元気……」 「うん。そっちこそどうなんだい。うまく行ってんのかい」 「なんだ、今どきまだ内職みたいなことやってるの……やめちゃいなさいよ」  侑子は山のように積まれた色とりどりのビニール片に、眉をひそめながら言った。 「断われないんだよ。大家の紹介でね」 「桝本さんの」 「幾らにもなりゃしないんだけど、近頃内職やる家なんて珍しいのさ。どうしてもって無理やり置いてっちゃうんだよ。こういうのはこの頃じゃみんな外国で造らせるんだろ。手間が安いから運賃払ってもその方が安上りだって聞いたよ」 「はい、これお土産」  侑子は四角い包み紙を澄江の前に置いた。 「いいねえ、お前は。何しろ中泉さんがついてるんだからねえ。粗末に思っちゃいけないよ」  澄江もかつてはホステスだった。随分昔のことだから、正しくは女給だったと言うべきかも知れない。何しろ彼女が銀座にいたのは、朝鮮事変の頃のことなのだ。 「いい着物じゃないか。高かったろ」  澄江はビニールの切っぱしをどけ、体をのりだして侑子の着物の袖に触れた。 「去年買ったのよ。もう一度水に通ってるわ」 「ものがいいから新品に見えるよ」  澄江は立ちあがり台所へ行く。 「いいのよ、お茶なんて」 「私が飲みたいんだよ。ところで何だい、今日は」 「うん、ちょっとね」 「まさか中泉さんと別れたなんて言うんじゃあるまいね。やだよ、そんな話は」  侑子は先まわりされて鼻を鳴らした。 「なによ、中泉さん中泉さんて……母さんにかかるとまるであの人神様みたい」 「神様に違いないさ」  澄江は部屋へ戻って来ると、そう言って侑子の横に坐った。台所でガスの音がしている。 「もしかすると戦争が始るそうよ」 「またかい……やだねえ」  澄江は無意識のように窓の外を見た。この前の戦争で焼野原になった本所の町が、その窓の外にひろがっていた。 「平気よ、ベトナム戦争みたいな奴だから」 「でも日本がやるんだろ」 「それはそうだけど。でもこれまだ内緒よ。中泉が人に言うなって……」 「あの人がかい。それじゃ本当なんだね。大変だ、またはじまるのかねえ」  中泉と聞いて、澄江は一も二もなく信じ込んだようだった。「私はね、お前をつれてここらを逃げまわったんだよ。海の外でだって日本がやれば同じことさ。この前の戦争だってはじめは外国だったんだ。それがだんだん近くなって……いやだよ、私は」  澄江はしん底おぞましげだった。 「それを教えに来てくれたのかい」  煙草をくわえ、侑子のガスライターで火をつけながら言う。 「それもあるけど」 「何なのさ、気になるじゃないか」 「きのう中泉が来たのよ」 「ふうん」  澄江は胡散臭そうな顔になった。 「当り前じゃないか、あの人がお前の所へ帰って来るのは」 「言いにくいわよ、そんな顔で見ちゃ」  侑子がそう言うと澄江はいきなり高い声で、 「やだ、お前別れたね」  と顔色を変えた。 「ばか、あんないい人を」 「待ってよ」  侑子も不機嫌な顔になった。 「いいかげんにしてよ。それじゃ話にならないじゃない」 「知らないよ、私は。ばか……」 「そうじゃないったら。歯なのよ」 「え……」 「中泉ね、もう歯が駄目になっちゃったんですって」 「歯が」  澄江は妙な表情で侑子をみつめている。 「近い内に総いれ歯になっちゃうんですって」 「まあいやだ。あんな人でもそうかねえ。歳には勝てないねえ」 「だからもうおしまいにするって」 「…………」  澄江は黙っていた。しばらく母子はそうやって向き合っていたが、やがて澄江は立ちあがって茶だんすの抽斗《ひきだし》をかきまわしはじめた。古いブルージンにTシャツを着た澄江のうしろ姿は、とても五十すぎとは思えないすらりとしたプロポーションだった。 「ちゃんと中泉さんの写真をとってあるんだよ」  澄江は雑誌の切抜きらしい写真を手にして戻って来た。 「……そうかい。そうなのかい。いいねえ。色っぽい人なんだねえ、やっぱり。なんで歳とっちゃうんだろう、人間ってのは」  そう言って首をもちあげ、古びた鏡台のほうへ首を伸して自分の顔を映した。 「だから時間切れよ。判ったでしょ」 「じゃあ、お店が持てるんだ、お前も」 「はっきりまだきまっちゃいないけど」 「しっかりおしよ。いよいよこれからだよ。今迄は人さまに頼ってればよかったけど、これからは自分で切りひらいて行かなきゃならないんだからね。中泉さんじゃそんなことはないだろうけど、間違ってももらいはぐるんじゃないよ」 「大丈夫よ、その点なら。あの人は約束を破るような人じゃないわ」 「お前、浮気は……」  澄江は何気ない風に言った。「あるんだろ」  侑子はそう言われて何人かの顔を思い泛べた。しかしその中に新藤は入っていなかった。 「ないと言っても、相手が母さんじゃ通りっこないわね」 「そうだよ。男ってのは相当物判りがよくっても、いよいよになるとつまらないことで気を変えるからね」  侑子は自信たっぷりに微笑した。 「全然……心配なしよ」 「ふうん……」  澄江は侑子の言い方に毒気を抜かれたらしく、侑子の喉もとから膨らんだ胸乳のあたりをみつめていた。 「やあね。何考えてんのよ」  侑子は乱れに乱れたきのうのバスルームからのことを思い出していた。あれでよかった、あれ以上のことは最初から考えていても出来はしなかったろうと思った。 「やっぱり銀座かね。新しいお前の店は」 「そうなるでしょうね」 「やっと銀座に店がでるか……」  澄江はテーブルに肘をつき、口の辺りを圧《おさ》えるようにして言った。侑子にはその気持がよく判るような気がした。澄江は最初向島の小さな料亭の仲居だった。それが亀戸のバーヘ勤めて、すぐに銀座へ移った。幼い侑子をかかえ、それこそ金に追われて少しでも多く収入のある所を選んだからだった。だが彼女がとび込んだのは進駐軍相手のクラブだった。ドリンク制の、小さなセルロイドの札と引き換えになる色つきの水を呑んで、澄江は侑子や祖母の生活を保って来たのだ。パングリッシュと言われた怪しげな英会話をあやつり、時には米兵と寝るようなこともあったらしい。朝鮮事変が終ると次第に米兵の姿が銀座から減り、澄江は立川へ移らねばならなかった。そんな彼女の唯一の夢は、日本人だけを相手にする、いわば高級な店の女になる事だった。何度も日本人の店に戻ろうとし、その都度みじめな思いで立川へ舞い戻った。そして歳月がすぎ、娘の侑子が働きはじめたのだった。侑子はいきなり銀座へ出、中泉のようなパトロンを掴んだ。美貌という点では、澄江の方が少し上だったようだが、時代が悪かったのだ。いま澄江は、近くの精工舎に勤める真面目一点張りの、だがそれだけにしがないサラリーマンの妻に納っている。だから侑子が遂に銀座に店を持つということは、一生をかけた夢が叶ったような気がしているに相違なかった。 「それでね、母さんに後見してもらわなくちゃと思って」  侑子がそう言うと、澄江は驚いたように声を高くした。 「莫迦言っちゃいけない。今更そんなとこへしゃしゃり出た日にゃ、とんだ遣《や》り手婆あじゃないか」 「そんなことないわよ」 「私しゃね、お前と違って進駐軍相手にわたり歩いたパン助同様の女だよ」  澄江は投げ出すような言い方をした。 「そんなことないわよ。奇麗だし、時々顔だしてレジの辺でも坐っててくれればいいのよ。それだけで頼りになるんだから」 「ま、それはその時のことにしましょ……」  澄江はそれでも嬉しそうに笑顔を見せ、 「だけど、戦争の奴がお前のしあわせを潰しちまわないといいんだがねえ」  と言った。     4  侑子が店を持つ話は、いつの間にかクラブ都の中に知れ渡っていた。侑子も知らなかったのだが、中泉が銀座の不動産屋に声をかけたかららしかった。常連の中にもホステスの誰かから教えられ、気の早いお祝いを言ってくれる者がかなりいた。  知らせずに、着々と約束を実行していてくれる中泉に、侑子はあらためて愛情を覚えた。あの見事な銀髪が懐しかった。最後の日のように、もう一度思いきり乱れさせて欲しいと思ったりした。しかし二、三度例の若い男から誘いの電話があっても、それには応じる気はなかった。何もかもさっぱりとかたづいて、生まれたてのような清潔な気分にひたっているのだ。  自分は幸運だった……沁々《しみじみ》そう思い、新しい店のことばかり考えていた。  そんな或る日、クラブ都へ新藤の同僚の一人から電話がかかって来た。 「おい、新藤があした羽田へ着くぞ」  電話の声はそう知らせた。侑子は背筋が痺れるような感動を味わった。幸運が次々に重なって来ている。生きているということはなんとすばらしいことだろう……そう思った。 「何時ですか」  震える声でいうと、相手は便名と到着時刻を読みあげてくれた。受話器を置くと、それが涙に滲んでよく見えなかった。  侑子は小走りにトイレヘ逃げ込み、鏡の前に立ってじっと自分をみつめていた。  だが新藤恒雄は、小さなスーツケースをひとつぶらさげただけで羽田へ着いた。到着ロビーに現われたその軽装を見ると、侑子は暗い気分になった。  侑子の想像どおり、新藤は東京へ打合せに舞い戻っただけらしかった。忙しくとびまわっているらしく、二日程は電話もくれなかった。その間、侑子はマンションの部屋から店へも出ず、ひたすら連絡を待ちわびていた。 「俺だ。遅くなってすまん」  そう言う新藤の声が聞けたのは、三日目の朝だった。 「お帰りなさい、あなた」  あなた、という言葉に侑子は三年間の思いをこめたつもりだった。 「来てくれるんでしょう」 「そこへか」 「ええ。もう中泉とは別れたのよ。もうここは私ひとりの部屋」 「そうか、別れたのか」 「いつ来てくれる」 「そうだな、君には大事な話もあるし、十一時頃には行けるだろう」 「何か召しあがりたいものはない。用意するから」 「そうか。それじゃ熱い味噌汁と鱈子の塩が効いたやつをたのむよ」 「カリカリに焼いとくのね」  侑子は電話口で微笑しながら言った。 「うん」 「きっと来てね。遅れちゃ嫌よ」  もう待たされるのは沢山だった。 「判った」  そう言って電話は切れた。侑子はいそいそと買物籠を持って外へ出かけた。  味噌汁の実は豆腐だった。飯は少しこわめに炊くとよかった。鱈子をこんがりと焼き、茄子《なす》の漬物をたっぷり刻んだ。新藤の好みは変っていない筈だった。  侑子はしあわせだった。自分は幸運な女だと思った。中泉との関係が理想的な形で終ったとたん、新藤が帰って来てくれたのだ。たとえ、一時帰っただけにせよ、これですべてははっきりするはずだった。店を出す話がとんとん拍子に進んでいる最中で、母の澄江にもしあわせのおすそわけをしてやれる状態だった。もし新藤が三年も外地へ行っていなかったら、店のことも中泉との別れ方も、こんなうまい具合に行ったかどうか判らないと思った。また、新藤という男が、たとえ遠くにでもいてくれたからこそ、中泉との関係をうまく保持できたのだし、これが新藤以外の男とだったら、何もかもぶちこわしになっていたかも知れないのだ。世の中のすべてが自分に向ってほほえんでくれているような気分だった。  十一時五分前から、侑子はドアに背をもたれて待っていた。まるで小娘のようではないかと思い、それでもいいと思った。それはまるで新藤を迎えるというよりは、待ち通した三年の歳月にむくわれるための姿勢だったようだ。  そして十一時一分前に、チャイムが鳴った。侑子は膝頭が震えるのを感じながら、ドアをあけた。たくましく陽焼けはしているが、以前よりかなり痩せた男の顔がそこにあった。男はドアの内側に入り、ゆっくりと靴を脱いだ。 「おかえりなさい、あなた」  新藤は白い歯を見せて侑子の手を握った。侑子はスリッパをはいた男にとびつくように、握られていない左手を首にまきつけた。ジャカルタの匂いなのだろうか、新藤の肌からはかなり田舎臭い匂いが漂い出していた。  侑子は唇を求めてしゃにむに顔を寄せて行った。新藤はしばらくためらったあと、侑子の情熱にひきこまれるように、握った手を放すと胴にまわした。唇が重なり、侑子の震える舌がうごめいた。 「飯を食いたい。向うにいる間、ずっと君のたいた飯が食いたかった」  唇をはなして新藤が言った。侑子はこくりとうなずき、二度ほど唾をのみ込みながら彼の手を引いてテーブルヘ誘って行った。 「まずお茶。丁度新茶の季節でよかったわ」  侑子はそう言って、何年か前に二人で冗談のように買った揃いの湯呑みに急須を傾けた。 「東京は平和だ。帰って来て毎日そう思っているんだ。日本は気味が悪いくらい平和だよ」  新藤は眼を細めて茶を啜《すす》ったあと、そう言った。 「あちらは大変なんですって」 「ああ、日本人はみな引揚げを考えはじめてる」 「危険なの」 「そりゃ、向うの反日感情は大変なものだ。何もかも、いっぺんに火がついたようになってしまっているよ」 「どうしてなのかしら」  すると新藤は急に憤ったような表情になった。 「日本人がいけないんだ。向うへ行ってみろ。日本人であることが嫌になるくらいだ。猫もしゃくしも海外投資、海外投資と言ってどかどかと乗り込んで行った。安い労働力を求めて、いろんな産業が向うで工場を持った。だが、短期間で回収することばかり考えて、性急に現地から利益を吸いあげた。まるで日本的だ。いやらしいくらいの性急さだ。森林資源ひとつにしたって、赤はだかの土地をやたらに増やすだけで、一度渡した円をどんどんとり戻してしまった。ええ、あの国の連中が憤るのは無理ないだろう。結局土地をはだかにされるだけなんだからな。君は本所の生れだから、東京の東側の下請地帯のみじめさはよく承知しているはずだ。立派な工場がいくら出来たって、結局は下請でしかない。安い労働力を使って製品を作らせる一方で、かたっぱしから彼らの金を吸いあげるんだから。モーターバイク、トランジスタラジオ、繊維製品、薬、化粧品、プレハブ住宅……。まるで彼らは砂に水をやっているようなもんさ。ところが日本人はそんなことにおかまいなしに、自分たちの間の競争に夢中なんだ。二社も三社も同じ業種がのり込んで、一円でも相手を追い越さなきゃ、すぐに左遷だ。サラリーマンとしてはよその国のことなんかにかまってはいられない。競争で根こそぎやるしかないんだ。ワンウェイ・フリートレードなんていう考え方など、気ちがいの寝言でしかありゃしない。接待だ、リベートだ、腹芸だ……そういうやり方がああいう遅れた体質の国にはまだまだいちばん通用しやすい。それで政治が腐る。腐らせたのは日本人さ。そして不満が起る。そうすると東京は他人の土地にあずけた資産が減るのを恐れて、裏からこっそりテコ入れだ。恐らく日本は現地の動きにまき込まれたふりをして、半分は喜び勇んで海外派兵に踏み切るだろうよ。アメリカは当分の間東南アジアには手をだすまい。日本にやらせて自分たちは中国や朝鮮との関係をうまくやるつもりなんだ。それが同時に経済大国日本の追い落しにもなるんだからな。馬鹿だよ日本人は。資本のメカニズムに追いまわされて、同じことを二度くり返そうとしているんだ。だが誰もとめる奴はいない。金の亡者になりさがってる。俺は九谷にもきのう会って来た。防衛庁の本音が知りたかったからだ。どうだい、九谷たちはやる気だぜ。日本という国の進路の先頭に立ちたくてうずうずしてるんだ。行く先が地獄だって先頭に立てればいいと思ってるらしい。本番もやりたいんだ。長い間日蔭者扱いをされたのも、この日の為とばかり気負いたっているじゃないか。俺はあの国の連中に申しわけなくて仕方ない。もし日本軍が……そうさ日本軍だよ。日本軍がこの上あそこを荒しまわるとしたら、まるで踏んだり蹴ったりだ。だが俺の力じゃ九谷たちをとめさせられることなんか出来やしないんだ。だから俺はまたすぐジャカルタヘ帰る。君には済まないが、万一あそこで死ぬようなことになっても、一人ぐらいはそういう日本人がいたということで、いくらかは判ってもらえると思うんだ」  新藤はそう言うと、厳粛な表情で胸のポケットから一葉の写真をとり出した。そこには白い服を着た現地人の女が、乳のみ児をかかえて写っていた。侑子は虚ろな瞳で新藤を見返した。 「その赤ん坊のこともあって帰って来たんだ。こっちに滞在中に籍のこともちゃんとしようと思ってね」 「滞在中に……」  侑子は鸚鵡《おうむ》がえしに言った。捨てられたと思った。新藤は見事に侑子を捨てたのだ。いや、もしかすると日本という国を……。新藤は黙々と食事をはじめた。その素早い箸の動きが侑子にはまるで外国人のもののように見えていた。     5  半年後、侑子は経営者になっていた。店の名は「泉」と付けられていた。流石《さすが》に素性のいい客筋が集り、結構繁盛していた。  だが澄江は結局店に出ることを承知しなかった。進駐軍相手の頃のことが知れて、侑子の瑕《きず》になることを惧《おそ》れたようだった。  新聞は連日東南アジア情勢を書きたてている。その地域一帯に拡がった排日運動の裏には、米、中、ソなど各国の思惑がうごめいているということだった。  だが日本の在外民間投資は、すでに二百億ドルを超えており、官民ともに抜きさしならぬ泥沼にはまり込んでいた。それらの厖大な金で、日本はみずから難局を買うはめに陥っていたのだった。  中泉はそんな情勢の中で多忙を極めながら、陰に陽に「泉」を強力に支援してくれている。自分の人生の中で最も愛すべき女だったと言いふらしていることが財界人たちの興味をそそるらしく、今をときめく実力者たちがさかんに顔をみせ、新興ながら銀座の超一流という評判さえ立ちはじめていた。  九谷も応援していた。防衛庁関係の客がめっきり増え、それは時代のひとつの曲り角を象徴しているように見えた。戦後はじめて、軍人がそうした高級クラブヘ堂々と出入りしはじめたのだ。  軍人。軍の人……「泉」のホステスたちは、財界の客が多少のニュアンスをこめてそう呼ぶのを受けて、何のためらいもなく彼らをそう呼んだ。海軍、陸軍という呼名も、「泉」の内部では当然復活していた。  そんな或る日、侑子は再び新藤の同僚からの電話を受けた。「新藤がジャカルタで死んだ。暴動にまきこまれ、オフィスにいるところを襲われたんだ。奴は連中の味方だったのにな……」  侑子は呆然と突っ立っていた。なぜかあの写真に写っていた赤ん坊の顔だけが、しつこく泛んで消えなかった。夜の九時すぎにそのしらせを聞いたが、彼女が涙をこぼしはじめたのは、十二時を過ぎ、店が完全に閉ってからだった。  電話が烈しく鳴った。 「誰……なんだ侑子かい」  澄江はねむそうな声で受話器を耳にあて、そう言った。 「死んじゃったわ」 「やだねこの夜ふけに。誰のことさ」 「あの人よ。あいつが死んじゃったの」 「だから誰さ」 「戦争が始るわよ。みんな男は戦争に行けばいいのよ。そして死んじゃえばいいんだわ」 「随分酔ってるわね」 「そう、酔っぱらって……私も死んじゃうわ」 「馬鹿はおよし。せっかくこれからだっていうのに」 「誰が死んだか教えてあげようか」 「うん」 「新藤よ」 「え、何だって」 「新藤のばかやろがジャカルタで殺されたの。赤ん坊がどうなったか、私の知ったこっちゃないわよね」 「それ、本当かい」 「こんな娘でも人の生き死にの冗談は言わないわ」 「気の毒だねえ」 「平気よ。別れた男ですもの」 「とにかくあした行くよ。今はもう電車もないし」 「来て、たすけて。淋しいのよ」 「行くから今晩はおとなしく寝なさいよ」 「うん……」  電話は切れた。誰かが傍にいるようだったが、澄江は心配で寝られなかった。次の朝、はやばやと起き、錦糸町から国電に乗った。何度か乗り換えて侑子のマンションヘついた時も、まだ朝の街は睡っているようだった。  長い間チャイムのボタンを押しつづけ、散々気をもませた挙句、ドアがあいた。  寝乱れ髪の侑子を見て、澄江はほっとしたように中へ入った。侑子はまだ酔っているらしく、ひとことも喋《しやべ》らず、幽霊のようにふらふらと白く長いガウンを引きずりながら、ベッドルームヘ戻って行った。  澄江は靴を脱いであがろうとし、そのまま凍てついたように動きをとめた。入口に立ちつくしたまま、娘の消えたベッドルームのあたりをみつめ、やがておぞましいものを見るように、恐る恐る視線を入口に脱いである男物の頑丈な靴に移した。  澄江の顔からは、母親の色が消えていた。  時代に押し流され、しいたげられた女の一生が、その横顔にふかぶかときざみつけられていた。瞳は、乾き切った色でその靴をみつめている。  それはゆうべ制服のまま、酔った侑子をだきかかえて来た、九谷栄介のものだった。澄江にはその靴をはく男の身分がすぐに判ったのだ。  軍靴だった。ゆうべ寝室で侑子をだいて寝た男は軍靴をはく男なのだ。澄江は何度も何度も頭の中でそのことをくり返し、やがて泣くような表情でドアをあけると、外へ出て行った。うすら寒い朝のことだった。  マーチ風に     1  室井は近頃なんとなく元気がなかった。  周囲の者に元気がないなどと言われることこそなかったが、つい一年程前まではたしかにあったはずの精気のようなものが、急速に自分の体から脱け落ちて、心の中にけだるい静けさがひろがって来たように感じている。  歳は三十五になる。まだそんな年齢ではないとも思うが、中年のはじまりとはこんなものかという気もしないではない。広告代理店の仕事というのは、時計の秒針に追いまわされているようで、おまけにのべつどこかしらでトラブルが発生している。媒体《メデイア》と広告主《クライアント》の間にはさまって、一年中ハラハラしどおしなのだ。  が、室井はそうしたトラブルにも大して気が揉めなくなってしまった。十何年もやって来たのだから、慣れだといえばそれまでだが、かなりの事態にぶつかっても平静でいられるというのは、我ながらさすが年の功と思ったりもする。  しかし、それが物事に没入できなくなったというか、仕事に乗れなくなったというか、燃えあがる情熱のようなものの欠落によることもたしかなのだ。これまで人一倍かっかと燃え、そのことが少しは人に自慢のできる仕事をして来られた原動力にもなっていたのだから、物事に動じない冷静さをかち得たと言っても、そう安心ばかりもしていられないようだった。  青春が去って、その去ったあとを補うべき何かがまだ入りきらず、心の中にポッカリと大きな空洞ができたままになっている……。室井はそんな風にも思ってみる。とにかく毎日が味気ない静けさで過ぎて行き、そんな中で彼は多少焦れていたと言える。  その本当の原因らしいものに思い当ったのは、金曜日の午後にかかって来た電話を受けたすぐあとだった。  電話は女からだった。 「もしもし、室井さん……」 「ええ、室井ですが」 「お久しぶり……何年ぶりだか覚えてる」  女の声はひどく馴々しかった。室井は一瞬絶句し、すぐ大声で言った。 「君か。なんだ君か。びっくりさせるなよ」  大きなケント紙をかかえて室井のデスクの前を通りがかった若いデザイナーが、びっくりしたように顔をみつめた。室井は笑いながら右手を振ってみせる。デザイナーは何のことか判らぬまま、愛想笑いを泛べて自分のデスクヘ去って行く。 「その会社、随分長いのね」  女の声にはからかうような響きがあった。 「ああ、すっかり居ついちまったよ」 「いいかげんに辞めて、デザイン・プロダクションをやるんだって言ってたじゃないの」 「そんな夢をみたこともあった」 「もしやと思って電話してみたんだけど、次長さんですって……」 「まあな」 「懐かしいわ。電話なんかしなきゃよかったわ」 「なぜだい」 「声を聞いたら顔みたくなっちゃった」 「いいじゃないか。久しぶりに会おう」  女の声に媚があるのを感じ、室井は思わず早口でそう言う。 「私、変ったわよ」 「そりゃ幾らか変るだろうさ……。二十九、いや、三十かな」  女は含み笑いを聞かせ、 「そうよ、もうおばあちゃん」  と言った。 「どう変ったのか見せてくれ」  室井は声の調子を変え、低くしんみりした言い方をした。女は夕方六時頃からなら一時間ほど都合がつくのだと言い、Oホテルのバーを待合せ場所に指定して電話を切った。  室井は椅子にもたれて背筋を伸し、「そうか」とひとりごとを言った。  女の名は沢|美子《よしこ》……現在の姓はたしか宗近という筈だった。以前はオリンピア・レコードの専属で、二、三曲のヒットもあり、ひと頃は毎日のようにテレビに顔を出していた流行歌手だが、落目になりかけるとあっさり結婚し、それっきり引退してしまっていた。  室井とは最初のヒット曲をだす前からの仲だった。  そうか……と室井がひとりごとを言ったのは、忘れかけていた女が突然電話をかけて来た理由に対してより、自分が近頃しきりに感じている活気のなさの原因を悟ったからだった。  結婚して、借金をして家を買って、子供が生れて……そういう状況の中でみずからはまりこんだ、保身第一の無気力の罠だったのだ。美子は電話で一時間程なら都合がつくと言っていたが、それは女のポーズにすぎない。Oホテルは美子が人気歌手時代、室井としのび逢うのに用いた想い出の場所なのだ。  美子の声だと知ったとたん、室井には浮気の誘いだということが判った。  それなりの理由がある。  美子は若いくせに何もかも心得たところのある女だった。まだ独身だった室井との恋にいつわりはないようだったが、最初のヒット曲が出そうになったと見ると、それをただの遊びということにきめてしまった。人気にさわるのを警戒し、デートの回数も二か月に一度程度に減らしてしまった。逢う時はOホテルを使って室井に別の一部屋をとらせ、巧妙に立ちまわって決してマスコミに尻っぽをつかまえさせなかった。そしてヒットがとまり、自分の限界だと悟ると、さっさと見込みのありそうな男をつかまえ、結婚してしまったのだ。その間の身の処し方は呆れる程要領がよく、すべてが冷静な計算にもとづいて、感情に溺れるということがなかった。  かと言って、打算ずくめの冷たい女かというとそうではなく、ひとつ部屋に二人きりでいれば、悪戯っぽく、好色で、別れが辛いといって涙を見せるような女なのだ。  つまり、人生の仕切りといったようなものを、先天的にしっかりと持っていて、成り行きひとつで進路をきめてしまうというタイプではなかったのだ。  現に宗近という人物との結婚が決った時も、 「本当はあなたと結婚したかったのに」  と嘘でない涙を流し、 「浮気をするようなことがあれば必ずあなたとする」  そう言って当り前なら冗談になるような約束を本気でしたものだった。  電話を聞いたとたん、室井が浮気の誘いだと思ったのは、そうしたいつのことか、本気かどうかも判らないような約束があったからなのだ。  そして浮気の機会が訪れたと承知したとたん、室井は冒険というものと縁遠くなりかけていた自分を悟り、すべてを傍観者のように眺めるだけで、仕事に没入できなくなっていた理由を理解したのだった。  広告における表現技術者というのは、コピーライターにせよ、イラストレーターにせよ、カメラマンにせよ、いつも時代の流れの尖端に乗って、社会の動きに敏感に反応していかなければいけないのだ。それなのに自分は、単なる管理職に納まってしまうつもりになっていた。流行から遠のき、時代に対する本能的なものを鈍化させようとしていた。心の中に穴があいたような淋しさは、青春が去ったせいでもなく、年齢のせいでもない。郊外の建売り住宅と会社の間を往復し、住宅ローンの返済に汲々としているだけの、言ってみれば人生の終点を自分からきめてしまったようなサラリーマン化が原因なのだ。あの張りのあった頃の自分は、毎日にもっと手応えを感じていたはずだ。明日はどうなるか判らない紛れの中で生きていたのだ。それをとり戻せ。冒険をしろ。  室井はそう思い、あらためて美子の肢体を思い泛べた。白く、しなやかで、滅多に汗をかかない肌をまざまざと思い出していた。     2  ホテルのバーで落ち合って、昔の好みどおりジンライムとブランデーで乾杯し、何かのはずみに、 「部屋取って置いたぜ……」  と笑いながら言えばそれでよかった。もともとポーズにこだわっていつまでも遠まわりな駆け引きをさせるような女ではなかったし、ちょっと、吹き出すような笑い方をしてみせ、 「約束ですものね」  と軽い調子で言っただけだった。昔のように人目をはばかることもなく、キーをぶらさげ腕を組んでエレベーターヘ向っても、それが数年前の人気歌手だと気づく者もいない様子だった。  細おもてがだいぶふっくらとし、長かった髪が思い切ったショートカットに変っている。肥ったせいか、並んで歩くと背丈まで幾らか昔より高いような気がした。  部屋に着いてドアをあけると美子はさきに中へ入り、入口を塞ぐようにして室井が入るのを待った。ドアを閉めると落ちついた態度で顔を寄せて来た。室井はドアに寄りかかってその唇を受けた。 「変ったでしょ、私……」  下のバーで二度程言った言葉をまた言った。 「変ったよ。キスの仕方まで変りやがった」  室井が言うと美子は肩をすくめて体を離した。 「私たちこのホテルでツインの部屋なんてはじめてじゃない」  たのしそうに窓際へ進みながら言う。 「そう言えばそうかな」 「昔は辛かったのよ。あなたのシングルの部屋からこそこそ夜中にぬけ出すの、とってもいやだったわ」 「面白がってたみたいだがな」 「そういう風に見えるのよ、私って」  美子はそう言い、 「泊るわよ、今日は」  と瞳をまともに室井へ向けた。 「旦那さんは……」 「仕事」 「船乗りだったな」 「船長よ」 「そいつは知らなかった。どんな船に乗ってるんだい」 「タンカー……東亜丸よ」 「東亜丸……」  すると美子は不服そうな顔をして、 「知らないの。三十万トン級よ」  と言った。 「そりゃでけえや。でも海の上なら俺も幾らか気が楽だ」 「しょっ中待ってるの。待つのが仕事みたい。たまには謀叛気も起るわ」 「お嫌いなほうではないしね」 「からかわないで」  美子は甘えたように言い、背中を向けた。室井がジッパーをひらく。 「今日、ふっと気がついたの。待つことに慣らされて、ちっとも夫を待っていない自分を……倦怠期なのね。そう思ったからすぐあなたに電話したのよ。でもまだあの会社にいるなんて思わなかったわ」  ドレスがするりと床に落ちた。 「肥ったな」 「前よりセクシーになったでしょう。見て」  美子は床に落ちたドレスの輪の中でくるりと正面を向き、両腕をうしろへまわしてブラジャーを外した。  たしかにふたまわりほどバストが大きくなった感じだった。 「子供をつくらないのか」  室井は柔らかくその双丘に指を伸しながら言った。昔どおり桃色の実がついていた。 「できないのよ。コントロールしてるわけじゃないんだけれど」  美子はそう言い、「いや……」と言って体をくねらせるとバスルームヘ向った。  シャワーを浴びて出て来た美子は、室井の腕に抱かれると急に体を堅くし、それまでの、のうのうとした快活さを失った。 「何度電話しようと思ったか判りゃしない」  そう言って室井の裸の肩を噛みかけ、 「あ、奥さんがいるのね」とあわてて痕がつかなかったか、たしかめた。 「本当のところ、結婚生活はうまく行ってるのかい」  室井の指はまるで知らない家へ迷い込んだ猫のように、自信なくこそこそと美子の肌を這いまわっている。肥って脂がのって、別人のようだった。 「うまく行ってるわよ」  美子は鼻声で言った。 「でも駄目。何だか知らないけど張り合いがなくって」 「どういう具合いに……」 「気持に穴があいちゃったみたいなのよ。時々何かしなくちゃいられない気分になるの。夫は優しいし、お金にも不自由しやしないけど……人間って勝手なものね」  室井は美子をだきしめていた。 「似たようなことがある。無事平穏じゃ爪先から腐っちまうような気がする奴も案外多いのさ」  美子は目をとじ眉を寄せていた。自分から肌を押しつけ、迎える仕草をした。昔の美子にそんな動作はなかった。 「奥さん……」  室井はそう囁いてみた。すると人妻を抱いているという実感が急に湧き出して来た。美子にもその呼び方の意味が伝わったのか、ぽっと火がついたようにうねりかたが変った。 「いまどの辺にいるんだ」  終ってから並んでじっと天井を眺め、室井が静かに言った。 「主人のこと……気になるのね」 「そりゃそうさ」 「きっと向うの港にいるわ。ニューギニアに石油が出てから、ずっとあそこばかりなの」 「イリアン湾か」 「ええ。だから今までよりずっと帰りが早いの」 「でかい船なんだろうなあ」  室井は沁々そう言った。 「でもクルーは四十人足らずだそうよ」 「あっちは今物騒なんだろ。ゲリラなんかが出没するっていうし」 「でもうちは船だし、それに向うには日本のガードマンが沢山行ってるそうよ。みんな自動小銃持ってて、まるで軍隊みたいなんですって」 「ガードマンがか」  なる程と思った。石油の大部分を中近東に頼っていた日本にとって、イリアン湾で大油田を掘り当てたことは僥倖といえた。それだけに権益を守ることにも必死にならざるを得ない。一説によれば、イリアン湾油田の回収可能埋蔵量は、アラスカのノース・スロープやテキサス東部の大油田に匹敵するとも言われ、国際石油資本があの手この手で目の色を変え、割り込もうと画策しているらしい。インドネシアに発生した排日運動や反政府運動の一部には、国際石油資本の黒い影が動いているとも言われ、たびたび小さな襲撃を受ける現地では、日本政府が何らかの防衛措置を取らない限り、明日にでも不測事態が起りかねないとしていた。  だが日本の現状では、いかに重要な権益であっても、自衛隊を出してそれを保護するというわけには行かないのだ。自然自衛隊にかわる民間人が、或る程度の武装をして現地を守らねばならない。それをガードマンの形でやっているのだろう。  そんな情勢の所へ行っている男の留守に、こうしてその妻と乳くり合っている……そう思うと生酸っぱい感情がこみあげてくる。 「これで俺たちの間はまた復活したわけか」  さり気なく尋ねた。美子は敏感に悟り、くるりと向きを変えて片肘をベッドの上に突くと、 「嫌なの」  と真剣な表情で言った。 「いや……」  室井は圧えつけるような低い声で答える。 「嫌なものか。本音を言うと、滅びない程度の悪を持ちたいんだ。それで俺はもう少し生きられる」 「広告の制作者としてでしょう」  美子はずばりと言って室井の鼻の頭を指先で押した。 「よく判るな」 「私だってまだ歌に未練があるのよ。というより、いつまでも元歌手でいたいの。まだそれを清算するには若すぎるわ。あなたは私が元歌手であることのおまじないみたいなものね。だからもし夫が死んでひとりで生きて行かなければならなくなったとしたら、私はきっとまた歌の道に戻るでしょうし、そうなればあなたとはお別れよ」 「相変らず割切ってやがる」  室井は苦笑しながら言った。     3  マンモスタンカー東亜丸撃沈さる。  ——海上ゲリラ魚雷艇で奇襲——  翌朝ロビーヘ煙草を買いに降りた室井は、何気なく売店の脇にある新聞を見てあっと思った。  新聞を買い、あわてて拡げると、第一面に東亜丸の写真がでかでかと載り、船長以下の主だったクルーの顔写真が並んでいた。  室井は自分の顔から血の気が引くのが判った。エレベーターヘ駆け、エレベーターから出てまた駆けた。  じれったい思いでチャイムを押す。閉れば必ず錠がおりてしまうホテルのドアは、中から美子があけるまで開きはしないのだ。 「どうしたの」  まだ全裸で、しどけなくバスタオルを胸にあてがった美子は、異様な室井の表情に気づいて眉をひそめた。 「とに角早く着かえろ」 「どうしたのよ」  勘のいい美子は素早くベッドヘ戻り、下着を手早くつけながら言った。 「東亜丸が沈んだよ」 「まさか……」 「これをみろ」  下着をつけ終ったのをみて室井は新聞をほうり出した。  美子は声もなくむさぼり読んだ。室井はテレビのスイッチを入れた。どこのチャンネルも、土曜の朝のいつもの番組を流しており、ニュースはなかった。室井は絵を出したまま音だけ消し、美子の顔をみた。 「助からないわね、これじゃ」  美子は新聞から顔をあげて頭をふり、力ない声で言った。 「早く帰ったほうがいい。新聞の様子だと、ゆうべ遅くにテレビやラジオではこのニュースが流れたはずだ。今ごろ君の家は記者でとりかこまれてるぜ」 「そうね」  美子は醒めた表情になっていた。 「煙草ちょうだい。少し考えるわ」  室井が買ったばかりの箱の封を切って一本抜きとり、服を着はじめている美子にくわえさせてライターを鳴らした。 「よくゲリラが魚雷艇なんか持ってるわね」  美子にそう言われ、室井はうろたえ気味に答える。 「どうせ米軍のお古さ。それも第二次大戦中の半分腐りかけた奴だろうな。PTボートどころかもっと大きい船が、アメリカのどこかにはずらっと並べてあって、アメリカ国籍のある人間にはどんどん払い下げてるって話をいつか聞いたことがあるな」 「とにかくそいつでドカンと一発やられたわけよ。あの人は」  と乾いた声で言った美子は、 「ごめんなさい。ゆうべ縁起の悪いこと言っちゃって」  と上目づかいで室井をみた。眼尻にうっすらと涙が滲んで来ていた。 「君が謝ることはない。これは偶然のことだよ」  室井が肩に手を置いて励ますと、 「でも、あなたとは一度きりになっちゃうわね」  と言って目を伏せた。涙の粒がめっきり豊かになった頬へころがり落ちた。 「とにかく早く行けよ」 「叔父の所へ行くわ」 「家へは帰らないのか」 「朝帰りでございますと、新聞記者のいる所へ看板さげて行くようなものよ」  美子は涙声だが、しっかりした言い方だった。 「送って行こうか」 「よかったらそうして……」  室井は慌ててネクタイをしめると部屋を出た。美子を連れてロビーヘ出、ホテルの支払いをすませてタクシーに乗ると、彼女は中目黒と運転手に告げ、実は叔父というのはイリアン湾の油田にガードマンを派遣している警備保障会社の社長なのだと告げた。  その中目黒が近づくにつれ、室井は急に自分の家のことが気になりはじめた。無断で家をあけたし、美子と別れてしまえば、そのあと妻への言い訳が残っているだけなのだ。 「よし、俺はここで降りよう」  東横線の駅の近くで室井は車をとめ、外へ出てから開いた車の窓の中へ、 「とにかくあとで一応連絡してくれ」と言った。     4  室井は京橋にあるT石油の本社へ現れた。T石油は室井が籍を置く広告代理店の大手スポンサーの一つだったし、土曜は社が休みで、担当の営業マンが見舞いに来ているかどうか怪しかった。東亜丸の積んでいた原油はT石油のものなのだ。  T石油も週休二日制で、本来は休みの日なのだが、案の定、広報課長はじめ主だった社員は顔を揃えていて、室井の会社の営業部員は誰も姿を見せていなかった。 「どうもこのたびは……」  室井は広報課長に近寄るとそう言って頭をさげた。 「ああ、やっと来たか」  課長は渋い顔で言った。 「とにかく謹告をだす。明日の全紙にだ。すぐ原稿を作ってくれ。いや、コピーは総務が寄越すだろう。版下の手配だ」  室井はほっとした。これで妻への言い訳もできるし、気のきかない営業の先手もとれて幾分は恩に着せられる。それにこうした大事件の場合の臨時広告は、代理店が版下製作をしなくても各媒体側で適当に処理してくれる。  要するに顔さえ出せばなんとかなるのだ。 「万一の用心にコピーを書きましょうか」  それが本職だけに、室井は抜目なく言い、そこらに置いてあるレポート用紙をもらうと、よく広報課が使う応接室へ入りこんだ。休日なので別にことわる必要もなかった。  だが、タンカー事故と言っても、ゲリラの魚雷攻撃ということになると、文案の前例がなかった。だいぶ苦吟していると、ガタンと音がしてとなりの応接室に人が入った様子だった。ボソボソと低い話声が聞え、それが時々高い声になった。 「何だ、横須賀の第一護衛隊群だけか」  聞き覚えのない声だった。 「充分だろう」  相手はむっとしたような声音だった。 「とにかく昨夜の内に艦隊は出てる」 「陸上はいつ行ってくれるのだ」 「それはこっちでもまだ判らん」 「とに角船を一隻沈めているのだ。内調の言うなりに踊ったと、あとでうしろ指さされんようにしてもらいたい」  声はまた低くなり、すぐドアを出る足音がして静かになった。室井はコピーを書きはじめ、それから二十分程して一応の体裁が整うとその応接室を出た。  広報課長にそのコピーを読ませていると、廊下を通りすがりにのぞいてみたという様子で、五十がらみの精悍な顔つきの男が、ニコニコと笑いながら近づいて来た。 「あ、どうも。これはこれは」気がついた広報課長は、さっと立ちあがって丁寧に頭をさげた。室井もさり気なく立ち、社員といった風に続いて一礼した。 「災難だなあ、これは」  男は鷹揚に言い、 「ご苦労だが何とか頑張ってくれ」  と言ってうなずきながら立ち去って行った。 「どなたです」  室井が課長に尋ねると、 「なあに、政治ゴロみたいな先生さ。アジア政経通信という誰も読みもしない新聞を出しているんだ。時々広告をせがまれてね」 「業界紙ですか」 「うん。だがどうも政治臭い。内閣のどこかにつながってるという噂だ。ああいうのは徹底的に持ちあげて置くに限るさ」  そう言って室井の作った文章に眼を戻し、ボールペンで書き込みをした。  昼頃になるとやっと営業部員が二人顔を出し、室井のでない総務課から出たコピーが決って、彼は自由になった。ビルを出て京橋の通りへ出ると、土曜の午後の人出が銀座のほうに派手に動いており、風もなくのどかな日和だった。  電車に一時間ちょっと揺られてわが家に戻ると、案の定顔をみるなり妻の敬子が、 「電話ぐらいして下さいよ。その為に引いたんですからね」  と言った。それを無視して、ああ疲れたと上着を抛り出し、歩行器に坐って指をしゃぶっている娘の礼子の顔をのぞいた。 「お食事は」 「朝から食ってない」 「いいかげんにしてよ、めちゃくちゃも……」  敬子のとがった声が背中で聞える。 「テレビも新聞も見ないのか」 「何かあったの」  妻の声が幾分柔らかくなる。 「東亜丸がやられたじゃないか」 「ああ、あれ……」 「あの船はT石油の油を積んでたんだ。T石油が俺んとこのスポンサーだってのは、お前もよく知ってるだろう」 「だって」  敬子は不服そうだった。 「あんな凄い事件にあんたの出る幕なんかあるの」 「莫迦野郎。あれでT石油はいくら損をすると思ってるんだ。下手すりゃ潰れるぞ」  室井は大げさに言った。 「出る幕はなくても関係あるんだ。あそこがいかれりゃ、こっちも潰れる。おまけに東亜丸の船長は内外警備保障っていうガードマンの会社の社長の親類だ」 「まあ、ガードマンの会社の広告までやってるの」  敬子が驚いたように言ったので、室井は思わず首をすくめた。その会社とは何の関係もない。ただ美子の連想から無意識に言ってしまったことだった。 「とにかく電話を下さい。無断外泊なんて許せないわ」  敬子はそう言い、それで終りになった。幼い娘を中心にしたいつもの土曜の午後が始り、夜になった。  七時半のクイズ番組を見ていた時、室井は突然画面下に流れだしたロールテロップを見て、大急ぎでチャンネルをNHKに変えた。  特別番組をやっているかと思ったのだ。しかしNHKの画面にはテロップも出ていなくて、いつもの番組がのんびりと写っていた。  室井は各局ヘチャンネルをまわす。  ——防衛庁の発表によれば、海上自衛隊の八隻からなる護衛艦隊群が、現在フィリピン海方面へ高速南下中……パラオ島南方のソンソロル諸島附近に待機中のタンカー、光洋丸をイリアン湾に護送する目的である——  コピーライターの室井には、である、という結びの句が異様に思えた。しかし各局とも、であるという結びを言い合せたように使っている。多分防衛庁から出た文章どおりなのだろう。 「お前、これがどういう意味か判るか」  室井は敬子に尋ねてみた。 「戦争……」  妻はのんびりとした声で問い返す。 「戦後はじめて日本の軍艦が外国へ出動したんだ」 「だって、やられたんだから守りに行くのは当り前でしょ」 「もし、またゲリラ魚雷艇が出て来たらどうする」 「やっつけるにきまってるわよ」 「そうだな」  室井はいかにも当然といった敬子の答え方に鼻白んでやめた。だが、急に今日の昼間、T石油の応接室で聞いた話が気になって来ていた。今頃民放が慌ててテロップをだすなんて、少し発表が遅すぎやしないか。あの会話だと、護衛艦はゆうべの内に横須賀を出ているのだ。それとも、こういう場合、T石油は被害者だから当然情報を先に入手する権利があるのだろうか。どうも会話の様子では、一人はT石油の上層部の誰かだったらしい。陸上自衛隊の出動もあてにしていたらしく、その点不満そうだった。相手は……多分あの政治ゴロとかいう五十がらみの男なのだろう。広報課長の言葉だと、内閣のどことかとつながりがあるらしいというではないか。  不審は次第に疑惑となり、床についてからも室井の頭に重苦しい圧迫感を与えていた。  ……とにかく船を一隻沈めている。たしかそう言った。だがあの東亜丸は報道ではL海運の持船ではないか。それに……内調のいうなりに踊ったということにならないようにしろとかなんとか言っていた。内調とは何だ。いうなりに踊るとはどういうことだ。  室井は明け方近くまで、浅いねむりをくり返しては、その合い間にT石油での声をくり返し考えていた。     5  東亜丸事件がマスコミで本式に動きだすのに、二日の空白があった。事件は金曜の午後発生し、大略が入電したのがその夜から土曜の朝にかけて。護衛隊群の発進が防衛庁から正式に発表されたのは、土曜の夜になってからだが、実際には金曜の晩の第一報直後に発進してしまっている。  月曜の各紙は筆を揃えてこの点を衝いた。シビルコントロールが守られていない……。だが一方では、撃沈された東亜丸と同型の光洋丸が、その危険海域に接近中だったという事実があった。何をおいてもそれを守りに発進しなければ自衛隊の意味がない。そういう議論も、人々には素直に受けとれるようだった。攻撃ではない。自衛だ。防衛庁長官はくり返しそれを強調した。  周辺の島々に汚染が拡大しはじめていた。丹念な捜索にもかかわらず、三十万トンという巨船の沈没にまき込まれたクルーの遺体は数体しか発見できず、宗近船長はじめ全乗組員の生存が絶望視された。  だが、無数の島々からなるインドネシア海域において、海上ゲリラのPTボートを発見、捕捉することは不可能に近かった。事件の再発が憂慮され、第一護衛隊群はそのまま光洋丸の護衛につくとともに、一部が同海域に残留することとなった。  海上輸送路確保の声が湧きあがり、第一護衛隊群はまたたく間に国民の間に知れ渡って行く。  また、例によって乗組員の遺族がマスコミに登場し、人々の憤りと涙を誘っていた。  宗近美子は美人歌手として一時期人気を集めていただけに、意外な強さで大衆にアピールした。薄倖の美女……思い切りよく人気スターの座を棄てて幸福な家庭の主婦となった女が、悲嘆にくれて泣きあかしている。……そして美子は、もののみごとにその役をこなし切っていた。またかと思う程テレビのニュースショーに登場し、そのたびに艶やかな顔を憂いにくもらせていた。 「知ってるか、沢……じゃなかった、あの宗近美子の叔父さんてのを」  或る昼休み、またもや登場した美子の顔をテレビで眺めながら、何気なく室井が同僚の一人に言うと、その男は意外なことを知っていた。 「知ってるさ。彼はもと内閣調査室にいた大物さ」 「え、内閣調査室」 「ああ。総理府の中にあるそうだ。出来たのは昭和二十七年ごろで、もう随分古いもんだ。外務省、通産省はじめ各庁から有能な連中が出向していて、丁度CIAに似た調査活動をやってる。もう宗近美子の叔父さんはとっくに辞めて、どこかの社長かなんかに納まってるらしいけど、内調と言えば、いわば日本のスパイの元締めみたいなもんだ」 「内調……」  室井は愕然としていた。迂闊だったと思った。呑気な広告屋ぐらしに慣れて、ついそうした社会の鋭利な側面を忘れていたが、それならあの土曜日に感じた自分の疑惑も、まんざら理由のないことではなかったのだと思った。  室井はその日から、ひそかにアジア政経通信社について調べはじめた。  それとなく尋ねまわると、そうした方面の情報通を自称する者は案外多く、すぐにそれが、れっきとした内調の外郭団体であることが判った。内調二部という海外情勢専門の調査部門で、ベトナム、インドネシアでは特に活発に動いているという噂だった。しかしあくまで自称情報通の噂にすぎず、その実態は判然とする由もなかった。  室井の頭には、次第に東亜丸撃沈事件が、本当に現地のゲリラによるものなのかどうかという疑問が芽ぶいて来た。  その気になって見ると、現地におけるゲリラとか、排日運動とかには、一筋繩では行かぬ複雑な背景があるような気がして来た。  或る考え方をすれば、それは日本の権益、殊に西イリアンで独占に近い形をとりつづけている、石油利権からの追い出し策ということが考えられる。当然背景はイリアン湾石油によって巨大な日本の石油市場の半ばを失いかねない国際石油資本の暗躍である。  また、もっとオーソドックスな見方としては、南下して来た中国大陸の勢力の先端部が、インドネシアで強力な地下運動を展開しようとしているとも考えられる。ソ連が日中の摩擦を煽っているというのも、その考え方の部分にはあてはまる。  現地支配層の中で、親日派が主流を占めた今、その逆転を狙い、主流の位置を奪おうとする勢力のあることも事実だろう。また、それを利用してソ連と同じ狙いをつけるアメリカの力も考えられる。  ひょっとすると、それが入り混り合って、ごたごたと正体不明のもつれ方をしているのが実態かもしれない。  いずれにせよ、民間警備会社だけの手に陸上防衛がゆだねられているイリアン油田は、それを経営する者にとっても日本政府にとっても、不安の種でないことはない。陸上軍をくり出し、半永久的な防衛体制をとらなければ、複雑怪奇な情勢下ではいつ権益が危うくならないともかぎらないのだ。  とすれば、考えにくいことではあっても、日本みずからが貴重な巨船と原油を沈めて国民の眼をこの問題に向け、とりあえず海上軍派遣の既成事実を、それも多くの国民の支持のもとに作ってしまったということも可能性としてはあり得るのだ。  時代が動きはじめた……。  室井は久しぶりにそれを直感した。ファッションが変るとき、室井はいつでもそれを肌で感じたものだった。いま、ファッションどころか、もっと大きなものが変ろうとしている。時代の先どりこそ広告マンの生甲斐であり、それ故にこそ一見軽薄な風体で歩きまわっているのだ。  室井は仕事に積極性をとり戻していた。若いスタッフをみちびくべき進路を、確信をもって掴んでいるという思いだった。ポスターのデザインをいきなりミリタリー調に変えることはせぬまでも、微妙にその方向へ近づけていた。  である。すべし。なり。……キャッチフレーズの結びをそのようにすると、意味もなく大うけにうけ、模倣する者が続出した。  室井は自信をつけ、広告主から出される難題を次々に征服して行くのだった。 「おい、聞いたかい。宗近船長の女房がカムバックするんだってよ」  或る日、営業マンの一人が、レコード会社から帰って来てそんな情報を得意げに触れ歩いていた。 「やっぱりやるか……」  それを聞いたとき、室井は思わずそうつぶやいていた。     6 「はい、室井ですが」  受話器を耳にあててそう言うと、クスクスという笑い声がした。 「あ、た、し……」 「やあ、君か」  声は美子だった。 「どう。元気……」 「うん。もう二度と電話では声が聞けないと思ってたよ」 「そうね。テレビばっかりだったでしょ」 「どういう風の吹きまわしだ」 「考え直したの。夫に死なれて歌手にカムバックすることになったのよ」 「そうだってな。おめでとうと言っていいのかどうか判らないけど」 「ねえ、私の考え方、少しおかしかったわね」 「なぜ。どこがだい」 「夫が死んでいなくなって、その上、元の歌い手になったら、以前とまるで同じじゃないの」 「そうかな」 「そうよ。だから私たちの間も以前とおんなじ……」 「なるほど。そういうわけか」  室井は苦笑した。それにそろそろあの白い体がうずきはじめているころでもある。 「逢わない」 「以前通りにか」 「ええ。今夜あいてるの」 「Oホテルか。いいだろう」 「お部屋にいるのよ、もう」  美子はまた含み笑いをした。 「今度はツインというわけには行かんな。また別々だろう」 「もちろんよ」  室井には美子が大きな目で言っているのが見えるような気がした。 「よし……」  室井は言い、相手のルームナンバーをたしかめるとすぐ電話を切って、Oホテルの予約係へ掛け直した。このところ都心のホテルの部屋はずっとだぶついており、かんたんにシングルがとれた。  口実を作って妻に断りの電話を入れて納得させ、室井は久しぶりに勇み立つ思いで退社時間を待った。  自分の部屋へ入ってシャワーを浴びていると、チャイムの音がした。半裸でドアをあけるとさっと美子がとびこんで来て、 「逢いたかったの……」  と唇を吸った。それをむりやりに離し、体を拭いていると、美子はさっさと服を脱ぎ、ひとつきりのベッドヘ音をたててとび乗った。 「ねえ、私の今度の唄、うけると思う……」  美子は毛布の間にもぐりこみながら言う。 「ああ、多分な。でも、俺まだ聞いてねえよ」  そう答えるとハミングで唄いだした。ブルース調のスローな曲だった。 「どお」 「さあな、君という素材はうけるだろうが、曲がズレてるな」 「だって仲根先生の曲よ」 「いくらヒットメーカーでもそいつはミスだ。その曲はなっちゃないな」 「ひどいことを言うのね」 「今曲り角なんだ。仲根先生には悪いが、これからは軍歌だよ」 「軍歌……私が、まさか」 「そこまではっきりしなくても、もっとパリッとしたマーチ風の曲がいいな。多分君があの船長の未亡人だからというんで、仲根さんはそんな曲をはめようとしたんだろうが、当り前すぎるよ。別の曲にできないのかい」 「できないこともないけど」 「マーチ風にいこうよ。マーチ風に」 「そうかしら」  美子はしばらく真剣な表情で考えていた。 「ところで君の叔父さんての凄い人だな」 「あら、どうして」 「日本という国をマーチ風なところへ持ってっちまったじゃないか」  すると美子は薄気味悪いほど無表情になって沈黙した。 「どうしたんだ。急に黙りこんじゃって」 「私、あなたに何か喋った……」 「いや。ただガードマンの会社の社長だって言っただけだよ」  室井はシングルベッドヘすべりこむのに、美子の体を壁際へ押しつけた。美子は体を堅くしてそれを避ける様子を示した。 「もしそのひとことだけであなたが何かに気づいたとしたら、私あなたにお詫びするわ」 「なぜだい」 「知っちゃいけないことを知ったからよ」 「おいおい、おどかすなよ」 「誰にもそのこと喋っていない」 「喋りゃしないさ。第一今言ったんだって八割方あてずっぽうだもの」 「きらい……」  美子はいきなり室井の首に両腕をまわし、のしかかるように唇を寄せた。 「引っかかっちゃったみたい」  唇を離すとそう言った。 「じゃいくらか当ったのか」 「ねえ、私聞かないことにする。だからあなたももうそのことは言わないで」 「君がそう言うんなら」 「そうして。でないとあなた死ぬわよ」  室井は思わず美子の顔をみた。凄んでもいなければ脅してもいず、ごくあたり前の顔で言っていた。 「ふうん」  室井は下から美子のバストに掌をあてがったまま言った。普通の顔だけに真実味があった。  ひょっとするとこの女は、普段こんなことを平気で喋り合う世界にいるのではないかと、そんな恐れのようなものさえ感じた。 「死ぬのこわい……」 「ああ。だから喋らんよ。今の美子の顔をみたら、本当に殺されかねない気分になっちまった」  室井は正直に言った。 「ずっとこうして逢いつづけていたいわ」 「昔どおりにか」 「ええ。だってあなたとが一番長いんですもの」  そう言えば長かった。中途に切れ目があるし、時々しか会わないけれど、室井にしても美子ほど長く続いている女は他になかった。  美子は体をくねらせて合わせ、ゆっくりと自分で室井を迎えた。 「平気よ、戦争なんて起きっこないわ」  なぜか確信ありげにそう言うのだった。  美子はテレビのゴールデンタイムにまた登場するようになった。室井の予言に反して彼女の曲はヒットパレードの上位に食いこんでいる。 「おかしいな」  室井は夕食のあと、茶の間でそうつぶやいた。テレビでは美子が唄っていた。 「なにがおかしいの」 「この曲さ」  室井はテレビを顎で示し、擽ったい快感を覚えた。自分の恋人を女房に見せている……ふとそう思ったからだ。 「いい歌じゃない」 「当らないと思ったのさ」 「勘が外れたのね」  勘が外れちゃ飯の食いあげだ。……いつもこういう場合、それが室井のきまり文句だった。 「マーチ風がいいと思ったんだがな」 「マーチ風って、昔、水前寺清子が唄ってたみたいな」 「そうさ。これからはああいうのがいい」  そうにきまってるんだ……室井はしつっこくそう思った。 「いいじゃないの。流行歌はあなたの守備範囲じゃないでしょ」  反論もできず、室井は沈黙した。  だが数日後、久しぶりで彼の所へCMソングの試作依頼が営業から廻されて来た。  室井はしめたと思った。これは何がなんでもマーチ風に行ってみるチャンスだと思った。 「いいか、絶対マーチ風だぞ。それ以外に作っても無駄なんだ」 「そんなこと言ったって、これ化粧品ですよ」 「かまわん。女のほうがこういうことには敏感なんだ。女性向けマーチ風で行け」  室井はそう頑張り抜き、とうとうスタッフを説得して思い通りの曲を作らせてしまった。併行してコマーシャルフィルムの制作も進み、スポンサー同席の上での試写会となった。  ダビングスタジオに附属した小さな試写室で、やがて作品の披露がはじまろうという寸前、室井は外から駆け込んで来て顔を揃えた一同の前へ立った。 「只今重大ニュースの発表がありました。防衛庁午後二時の発表によれば、わが陸上自衛隊二個大隊が、本日正午イリアン湾油田地帯防衛のため空輸されました」  室井はそう言い、じっと人々の反応を待った。しばらく沈黙があり、急に拍手が起った。その拍手の中で、室井はキューをだした。  絵は出さず、音楽だけが聞えはじめた。 「ほう……これはいい」  スポンサーが言い、ボリュームがあがった。狭い部屋いっぱいにマーチ風のメロディーが溢れ、室井が手拍子をとると、男たちがつられて手を打った。 「どうだい。ざまみやがれ」  最後まで室井の案に反対した男に、彼は低い声で言った。 「とうとう出かけたなあ……暑いぜ、向うは」  男は手拍子をうちながらそう言った。照明が消え、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1と、リードフィルムの数字が明滅した。  スクリーンに女の顔がアップになり、それが室井には似てもいないのに美子に見えて仕方なかった。  東京大停電     1  暑い日だった。  その日の午後一時ごろ、虎の門の交差点にほど近い喫茶店へ、一人の老人が入って来て窓際に空席をみつけると、そこへ坐って、じっと人待ち顔に外の通りを眺めはじめた。  熱帯性低気圧が通りすぎた直後で、午前中いっぱい空は高く青かったが、いつの間にか、またいつもの鈍い色に濁りかけている。  注文したコーヒーが運ばれて来た時、老人は急に店内の冷房が効きすぎるほど効いているのに気づいたらしく、入るとき手に持って来た上着をとりあげて、坐ったまま袖を通した。  小柄で痩せがたの老人だった。テーブルはクリーム色、椅子は鮮やかなコバルトブルーといった若々しい配色の喫茶店の中で、老人は居心地悪そうにコーヒーカップを口に運んだ。  二十分近くもそうしていただろうか。やがて暑そうに額や首筋のあたりを白いハンカチでぬぐいながら、三十六、七の小肥りの男が入って来た。入口に向って坐っていた老人は、教室の生徒のように行儀よく右手を挙げて合図した。 「どうもお待たせしてしまいまして」  男は汗をぬぐいながら老人の前に坐り、大きな声でウェイトレスにクリームソーダを注文した。 「先生もいかがですか」  老人はそう言われ、静かに首を振った。 「元気そうだね」 「はあ、おかげさまで」 「としのせいか、なんとなく君たちがどうしているか知りたくなってね。暇にまかせて近頃あちこち邪魔をして歩いてるんだ。この間T石油の永山君に会った時、君の連絡先を教えてもらったので……」 「それはそれは……永山の奴とは時々会うんですよ。だいぶ景気がいいらしいが、こちらはもう仕事が増えるばかりでどうしようもありません」 「二流のJ大で、しかも国文学などをやっていたにしては、君や永山君などはうまいところへすべりこんだものだな。総理府官房というとどういうことをするんだね」  老人はポケットから古びた名刺入れをとりだし、その中の一枚を丁寧に抜き出すと、老眼特有の透すような眺め方をした。 「国防計画室というのは、ついさきごろ国防計画本部に昇格しているんです」 「参謀本部みたいなものかね、昔の……」 「とんでもない。まあ早い話が、国防省みたいなものを作るためのお膳だてをしているようなわけです」 「防衛庁だけじゃ足りんのかね」 「仮りに日本が昔と同じようになったとしても、陸軍省とか海軍省とかいったようなものは作らんでしょう。今の軍事というのはそういう形ではやって行けんのです。あらゆる部門を有機的に組合せて行かねばならないのです。現に私の所にも、大蔵、通産など各省庁から腕っこきが出向して来ています」 「アメリカの国防省みたいなものを作るんだね」 「まあ、そっくりそのままではありませんが、だいたいそういうことです」 「そんな物騒なものが本当にできるのかね。無駄骨になるのじゃないかな、君たちの」 「そんなことはないんですよ、もう……」  男は快活に笑った。 「現に私の所は国防計画室から国防計画本部に昇格しています。日本の進路にとって、これはもう必要不可欠なものになっているんです」 「僕はだいぶ古いらしい」  老人は苦笑しながら言った。 「戦争放棄、再軍備反対といったような考え方が頭にしみついてしまっているよ」 「何も我々だって戦争をしようと言ってるわけじゃありません」 「それはそうだ」  老人は物判りのいい笑顔になった。 「だが防衛力の限界をきめて置かないと、結局は戦争を呼び込んでしまうことになりはしないのかね」 「それは今迄にもたびたび議論されて来ましたが、無理というものですよ。たとえば三千機の航空兵力があると言ったって、レシプロのポンコツが半分近く混じっているのと、最新鋭機ばかりとではまるで意味が違うでしょう。しかも防衛力という場合、他に必ず攻撃して来る力があってのことで、半永久的に、これだけの防衛力をもって限界とするなどとはきめられるはずがありません。あくまでも外からの力に見合うものがなくてはなりませんし、抑止力として考えた場合には、むしろそれを上回っていた方が有効なのです」 「天井しらずだね、それじゃ」 「それなんですがね。どうも日本人というのは国際感覚が鈍いというのか……たとえば国連憲章にしたって、国連軍は守りに徹するということでしょう。何かが起ればその国連軍が処理し、自衛権もちゃんと認めている。日本の憲法と同じ趣旨ですし、国連軍は日本の自衛隊と同じ考え方を基盤になり立っているんです。ところがひところの反戦思想なり自衛隊批判なりというものは、国連軍は仕様がないが、自衛隊はいかんという……」 「世界に国連軍がひとつだけあるのだっていいじゃないか。その方が理想的だろう」 「違うんですねえ……」  男は歯がゆそうに言った。 「先生にこんな話をしてもはじまりませんが、世界中に牙をもった生き物がいて、この国だけ牙のないおとなしい生き物として繁栄して行こうと言ったって、それは出来ない相談です。日本が経済的な実りをつければつけるほど、それに見合った牙が抑止力として要求されるんです。日本が軍事的に全く無力でいることのほうが、極東の平和にとって、かえって罪深くさえあるんです」 「でも日本が手を出さないという保証をどうやってとりつけるのかね」 「そんな莫迦なことやりはしません。今のやりかた……文民統制で充分限界は守れます。それに東亜丸事件とかジャカルタ暴動とか、海外において実際に日本の権益が侵される事件を体験してからは国民もやっと自衛隊が憲法違反ではなかったと信じてくれるようになっています」 「そう。たしかに国民の支持は増えたようだね。その点ではやりよくなったのだろう」 「おかげさまで、と言いたいところですが、まだまだです。我々の仕事の緊急の度合いについての認識がないんですね。これは各省庁でさえそうなんです。防衛力というのはさっきも言いましたように、或るレベル以上に行っていないと、いくら金をかけてあると言ってもまるで意味がないんです。そりゃたしかに、今どこそこが攻めて来るから鉄砲をくれというのではありませんよ。しかし自衛力を持つ以上は早くそのレベルに達しておかないと、何の為に持っているのだか訳が判らなくなる……我々はそれで急いでいるんです。古い装備のままそれを維持していたのでは、それこそ血税のむだづかいです。国防計画本部は産業界の体制と実際の自衛力……つまり軍ですか……そのふたつの歯車をぴしっと合わせ、運輸、通信から農林、水産、教育と、あらゆる分野を通じた総合力のレベルアップをはかろうとしているのです」 「そういう言い方をされると、どうも僕らには軍国主義が目の前に坐っているような気がして来てしまうのだよ」 「先生などは別ですが、世の中にはまだまだ判らず屋が多くて……でも、国際情勢が今以上に日本にとって厳しくなったら、結局は我々が頼られることになるんです。今じゃ大企業ばかりでなく、中小企業までが東南アジアの各地に工場や商店を持ち、さかんにやってるじゃありませんか。そうした工場が破壊されたり、又は操業がとめられたりしたらどういうことになりますか。みんな日本の財産ですよ。それで生活している国民がたくさんいるんです。本土に敵が上陸して来るという事はあり得ないとしても、海外で日本の資産が奪い取られるというケースは大いにあり得るんです。平和的に、合法的にやっていたものがですよ……」 「まあ、なかなか元気そうで何よりだ。みんなそれぞれうまくやっているんで安心だよ」  老人はそう言ってちらっと外を見た。 「先生はいま何をなさっていらっしゃるんですか。J大へは時々いらっしゃるんでしょう」 「いや。もう随分行っていないな」 「気をつけて新刊案内なんかよく見てるんですが、あれから何かご本を出されましたか」  老人は照れたように顔を撫でた。 「二冊出したきり、すっかり怠けてしまってね。近頃は絵を描いてるよ」 「ほう……先生が絵を」 「それも油絵をね」 「悠々自適ってところですか。私も年をとったらそうなりたいもんです」 「まあ元気でやってくれたまえ。しかし日本人をこの前の戦争と同じような場所へは連れて行かんようにな……今更、師という言葉を持ち出すのは時代錯誤だろうが、これは君の先輩としての忠告であり願いでもある。よろしくたのむ」  老人は真剣な表情で頭を下げた。 「はい。それはもう肝に銘じております」  男は意外そうな顔で坐り直し、そう答えた。冷房の効いた店の中で、老人のカップに冷えたコーヒーが半分以上残っていた。     2  その夜、老人は旧式の小型クーラーが大きな音をたてている閉め切った八畳間で、十人ばかりの男たちを前に説明していた。 「くもの巣のように張りめぐらされた東京の電力供給網も、その源を辿って行くと幾つかの大きな流れになります。まず鹿島から来る鹿島線、次いで例の東海から来る原子力線、猪苗代湖から来る猪苗代新幹線および同旧幹線。次いで上越幹線、群馬幹線、それに信濃川、中津川方面から来る中東京幹線。黒部から千曲川方面の電力を集めて奥秩父を経由する黒部幹線。栃尾、霞沢、安曇などの電力が集まる安曇幹線、そして東京西部へ入って来る甲信幹線。天竜東幹線や東富士幹線などは一たん東富士変電所を経由して東京のいちばん南側から入って来ています。結局鉄道の配置と非常に似た形で東京へ集まって来ますので、そのように覚えて下さって結構です。そしてそれとは別に、横須賀から房総にかけて、東京の外側をぐるりととりかこむ形で、やはり幹線級の超高圧線が走っています」  老人は襖に張った関東地方の略図の前に行き、指で示した。 「横須賀からここまでが東京南線。ここからさっきの中東京幹線の終点までが東京西線。北部は外側が新古河線、内側が東京中線、そして東京北線、東京東線。その外側が新古河につながる房総線という形になっています。以上が東京の電力供給網のあらましですが、このほかに只見川方面から電源開発公社の只見線と佐久間ダムからの佐久間東幹線が入って来ています」  老人は静かな表情で男たちの顔を見まわした。男たちはじっと襖に張り出された送電系統図をみつめている。年齢もまちまちだし、みなりもばらばらだった。きちんとネクタイをしめた銀行員風の堅物そうな男もいれば、工員風の単車が似合いそうな青年もいた。 「全都の電力供給をたち切る今度の行動の場合、忘れてならないのは国鉄が独自に持っている国鉄信濃川線です。これを潰さないと山手線だけは走っているという状態になるのだそうです。この方は別の組織がやってくれます」 「どこの組織です」  商店主らしい五十がらみの丸顔の男が質問した。 「僕も教えられていません。最初に申しあげたとおり、行動本部ではこのような説明さえ歓迎してはおりませんが、僕はこの地区の責任者として、今の段階でそのような秘密主義は必要ないと思うのです。みなさんは僕同様、行動の全体像を把握して置きたいとお考えでしょう」  座敷の中に無言の同意が拡まったようだった。 「僕らはすべてを破壊しようという過激派ではない。ただ帝国主義に引きずって行く一部の勢力に対し、民衆の憤りが存在するのだということを示したいのです。それは同時に無反省に同調してしまっている人々の間に、事態を考え直すきっかけを与えるものだと信ずるからです。恐らくこれによって多くの人々が迷惑を受けるでしょう。僕らはその迷惑……被害の度合いもあらかじめ知っておかねばなりません。その上での行動でなければ、僕らは単なる盲信者になってしまうのです。この図でみれば判りますが、占拠される主な拠点は、西から順に見て行って、京浜、西東京、中東京、北東京、東東京、新京葉の各主要変電所および開閉所。それに大師、南大田、八重洲、江東、新東京など、東京湾火力発電所からの供給を阻止する市街地の変電所でしょう。また東京駅近くにある電力タワーの機能も停止させなければなりません。あの塔は強力な送電指令塔で、東北、北陸、中部など、各電力会社から融通受給をするほか、各主要拠点との無線連絡を受持っているのです」 「すると都心部では相当過激な行動を要求されますね」  銀行マン風の男が臆したように言った。 「一部ではやむを得ないでしょう。しかしほとんどの変電所、開閉所は無防備ですし、内部に入るだけで目的は果せます。占拠すると言っても、修復に少し時間を要する程度の破損を与えればいいので、実際にはすぐ立ち去ることになります。またニューヨークの例でも判るとおり、電力は大もとの幾つかが供給を絶てば、あとは将棋倒しに機能が麻痺してしまいますから、そう丹念にひとつひとつの変電所なり開閉所を占拠する必要もないのです」 「どうしても気になるんですが、僕らがこれをやって、警告の意思表示だということを民衆に理解してもらえるんでしょうか。マスコミが筆を揃えて非難したり、過激派の行動だときめつけられたりしたらどうなるんでしょう」 「そのために僕らは、変電所や開閉所しか占拠しないのです。もっと少数の人間で、安全にしかも効果的にできるのは、人里離れた山中の送電線なり塔なりを破壊すればいいのです。そこまではしないということの意味は、すぐに理解してもらえるはずです」  工員風の青年がひとりごとのように言った。 「何だか手ぬるいな。やるんなら徹底的にやってしまえばいい」 「市民平和同盟というのはそういう性質の団体じゃない」  誰かが憤ったように言った。     3  がらんとした八畳の和室に、老人がふたり向き合っている。大きな木の盆に灰皿やコップが積んであり、七十ぐらいの痩せ枯れた老人が、襖に張ってあった地図を、半ば無意識のように細かく引き裂きながら言った。 「とうとうあすということになった……。島田さんをここまで引きずり込んでしまったのは私だからねえ。今になって申訳ないような気がして仕方がないのですよ」 「そんなことはないですよ」  島田老人はそう答えると、まだうす煙をあげている灰皿のひとつを取って丹念に火を消した。 「大学の先生までやった人を、こんな仲間に引き入れてしまって」 「妙な感じはしますね、たしかに」  島田は軽く笑ってみせた。 「大学紛争がさかんだった頃は、正直いって逃げまわっていましたよ。判らない奴らだと思いましてね……でも、大学をやめてから、飯岡さんのようなおとしの方がこういう運動に加わっておられるのをみて、随分考えさせられました。僕らは日本という国の動き方の裏も表も、いやという程体験で知らされた人間です。僕など若い頃からずっとオポチュニストで通して来てしまったわけです。戦時中は国文学と言えば愛国心高揚とじかに結びついていたのですからね。学徒動員を無条件に認めましたし、特攻隊を賛美もしました。僕には子供はなかったが、飯岡さんのようにその年頃の息子がいたとしたら、戦争に行ってこいと……お国の為に立派に死ねと尻をひっぱたいて送り出してしまったでしょう。無責任なものです。ひと様の子供をそうして送り出していたんですからね」  飯岡老人は何度もうなずいた。 「せがれが生きてればそろそろ五十近くになりますよ。なんだかんだ言っても、終戦からこっち、今日までの日本は、そりゃあなた、いい世の中でしたよ。平和で、物はあり余ってて、言いたいことは言えて……あの時死んでなけりゃ、そのぬくぬくとした世の中で、やれレジャーだ、やれ車だと、たのしい思いで過して来れたんです。私もね、以前は嫁の顔が見れた筈だ、孫が抱ける年頃だと、そんな風に思ってたもんでした。でも、近頃になって、せがれを一人の男として、自分のこと抜きに思えるようになったんですね……申しわけないことですよ。あのあとに、こんな結構な世の中があるんだったら、親の私が片腕叩き落してでも、兵隊にだけはやるんじゃなかったってね。そう思うんです。何で戦争が要るんです。ことに今の日本はこの前の時より、物はある、食っては行ける……工夫次第じゃ相当ひどくなったってなんとかやって行けるんじゃありませんか。何が四次防です。何が五次防です。仮りに共産党の世の中になったからって、それでどうだって言うんです。自分も死に、人さまも殺し……そんなのは真っ平ですよ。若い連中は身に沁みてないんですね。間違ってますよ。つまりは金とどっちが大事だ……金のほうが大事だ……そういうわけでしょう。愛国心って言ったってね、いざふたをあけてみたら昭和二十年この方、日本人はそう潔癖じゃなかったですよ。混血児がよくて、娘は毛まで赤く染めるじゃないですか。天皇だって、そう大事には思ってなかったじゃありませんか。外国のことが判らなきゃ立派なビジネスマンじゃないみたいな風潮で、今の自衛隊だって半分英語でやってるそうじゃありませんか。外国にある日本の財産がどうのこうのと言ったって、はじめからそこは人様の土地じゃないですか。金払ったから当り前だと思ってるんでしょうかね。金だけ出してその土地の人に商売を教え、あとはまかせるくらいの度量はなかったんですかね」  飯岡老人は淡々とした様子で言った。 「とにかく、僕らみたいな年寄りが動かなければならないのは、情けないことだという気もしますがね……でも僕は実はいくらか誇らしいんですよ。生れてはじめて世の中の役に立てる……本当に正しいことをやれる。そんな気がしてるんです。気が若いんでしょうか。法律にそむくわけだし、停電になれば産院の赤ん坊や手術中の人間の命が危険にさらされるんです。決していいことじゃありませんよ。少くとも教育者のやることじゃない……実は今日の昼、総理府の大臣官房にある国防計画本部というところの男と会って来たんです。昔の教え子です。そういう所にいる若い連中が、少しでも戦争とか軍備とかということについて、真剣に考えていてくれているようなら、まだやめるチャンスは残っていると思いましてね。未練がましいんですが、実際最後の祈りのような気分で会ったのです」 「駄目でしょう、そういう所の人は」 「ええ。日本の行く道は自分がつくるみたいに気負いたっていましたがね。抑止力とするなら他国の軍隊より強くなければ意味がないというんです」 「そんなことでしょうな」 「やらねばならんという覚悟が強まっただけでしたよ。人を教える身でいながら、僕はそういう人間ばかりを作り出してしまったような気がします」 「あなたのせいじゃありませんよ。みんなが悪かったんです」  飯岡老人は立ちあがると細かく切りきざんだ地図を新聞紙にくるみ、 「あとで燃やします」  と言った。 「僕もそろそろおいとましなければ」  島田幸造はそう言い、灰皿やコップをのせた木の盆を両手に持って飯岡老人のあとにつづいて部屋を出た。ギシギシと軋む階段を降り、台所の流しのそばへ盆を置くと、 「じゃあ失礼します」  と言って靴をはいた。  スリッパやサンダル、下駄、長靴といった履物類が並んだ店のカーテンを細目にあけ、ガラス戸をあけて素早く通りへ出た。 「ご無事を祈ります」  送って出た飯岡老人が言い、島田幸造がふり向いて笑顔を見せた。  すぐ近くのパチンコ屋からは、まださかんに玉の出る音が聞え、電車の走る響きがつたわって来た。     4 「よく鳴いてるじゃないか」  島田は浴衣に着かえながらそう言った。さっきから縁先に吊るした小さな籠の中で、鈴虫が鳴き続けていた。 「ねえ、どういうわけでしょう。きのうまでまるで鳴かなかったのに」  古めかしい卓袱《ちやぶ》台の前に坐って、妻のまつ江が答える。 「下駄屋の飯岡さんだがな。お子さんが生きていれば五十近いそうだよ」 「うそ……五十ですか」 「そうなるよ。数えてみたんだが、十八、九で戦争に行ったとして、終戦の年からもうそんなにたってしまったんだなあ」 「へえ……」  まつ江はしなびた肌の指を折って勘定し、 「ほんとだわ。こわいみたいですねえ」  と言う。 「戦争で死んだ人というと、どうしても僕らにはまだ若いさかりのような気がしてしまうが、生きていればみんなそんな年頃にさしかかっている」 「変なものですわねえ。戦争中や、戦後すぐの物のなかった時代は、一所懸命頑張ってやってきたって感じがして、時々思い出したりしても、なんだかわが身がいとおしくなるみたいですけど、いつの頃からか豊かになりはじめてからは、ついうかうかと過してしまったようで、なんだかこれでよかったのかしらという気になってしまいますよ」  島田は縁側へ行き、鈴虫の籠を眺めた。 「豊かになってからというのは皮肉に聞えるな。とうとうわが家にはクーラーもなかったじゃないか」 「麦茶がぬるくなりますよ」  まつ江はそう言い、夫のうしろ姿をみた。 「あれは体に毒です。冷蔵庫だってちゃんとあるし、扇風機もあるし、網戸だって入ってます。ひと通りのことはちゃんとしていただいてます」 「ま、そういうことだな」  島田は座敷に戻り、卓袱台の前へあぐらをかいた。 「明日は十五日だよ」 「そうですよ」 「終戦の日も鈴虫が鳴いていたのかなあ」 「変ですねえ、あなた。今夜は妙に戦争のことばかりおっしゃって」  島田は右手でつるりと顔を撫で、 「正木が寄って行ったのか」  と言う。正木はまつ江の甥に当り、大阪でかなり手広くメリヤス商を営んでいる。 「また、そうめんのお土産です。馬鹿のひとつ覚えみたいに、夏になるとそうめんばかり」 「僕が好きなのを知っているからさ。いい男だよ、悪気がなくて」  島田は冷えた麦茶をのんでから答える。 「それから、出版社の新山さんからお電話がありましたよ。今度のご本が来月には出来上るでしょうって……」 「そうか。それはよかった」  島田は嬉しそうに言い、家の中を見まわした。古い家で、あちこちいたみ放題になってはいるが、まつ江が余生を送るにはなんとか間に合うはずだと思った。それに退職金と次に出る本の印税と、大阪にいる生活力のある甥の存在と、それらを合わせるとこの老妻が万一の場合でも路頭に迷うことはないだろう。 「正木は張り切ってましたよ」 「なんでだ」 「今度東南アジアのどこかへ工場を持つんだそうです。向うで作らせて向うで売るんだと言ってました。近頃じゃあの程度のメリヤス屋さんまで、みんな海外へ進出するんですね」  島田はふうんと生返事をし、 「何も正木あたりまで出て行かなくてもよかろうに」  とつぶやいた。 「それで、岸本君にはお会いになれまして」 「ああ……」 「元気だったでしょう。あの岸本君ならどこにいてもうまくやっていけますわよ。いまどんなお仕事ですの」 「総理大臣官房というところで国防省を作る準備をしているよ」 「国防省」 「そうだ。くだらん奴だ。あれはもっと無害な男だと思っていた。どいつもこいつも戦争屋ばかりじゃないか」 「あなたのお弟子さんだって、そうあなたの思い通りの人にはなりませんよ」 「小説家になりたいといった時、とめるんじゃなかった。そうすればあんな所へも行かなかったろうし」  まつ江は黙って立ちあがり、台所へ消えた。しばらく氷を出す音などが聞えている。 「やっぱり変ですよ、今夜のあなたは。神経がたかぶっているみたい」  まつ江はそう言いながら戻って来ると、大きなグラスに清酒をオンザロックにして、島田の前へ置いた。  島田は口をとがらせてグラスをみつめ、しばらくしてから黙って飲みはじめた。 「明日はどうなさるんです。また絵をかきにいらっしゃいますか」  まつ江は遅い夕食をはじめながら尋ねた。チリチリンと氷の音をさせ、島田はグラスを置いた。 「ああ、行くつもりだ。天気もいいらしいし」 「暑いでしょうにねえ……何で今ごろ急に絵なんかおはじめになったのか」  まつ江は白瓜の漬物に箸を伸しながら言う。 「好きにさせてくれ。とにかく明日も行くぞ。必ず行く。いつも通りさ。そう、いつも通りにな」  酒の弱い島田はもう赤い顔になって答えた。鈴虫が鳴いて、狭い庭にのしかかるように建った、ま新しい二階だてのアパートから、威勢のいいマーチ風の歌が聞えていた。     5  八月十五日午前十一時。  島田幸造は金網をめぐらせた変電所のすぐ傍で、キャンバスに向っていた。あまりかぶったこともないベレーをかぶり、よく見ればさまにならない絵筆の持ち方で、しきりに変電所の入口あたりを眺めている。左手首につけた腕時計は、だんだん正午に近づいて行く。  十分前、畑の中の赤土の道に一台の車が入って来て島田の前を少し行きすぎてから停った。男が四人降りて来て、島田と何か声を交した。島田はよろよろとよろけ、男たちがその体を両脇から、だきかかえるようにすると、その中の一人が変電所の入口へ走った。 「通りがかった者なんですが、絵描きさんが病気らしいんです」  青い綿ズボンをはいた職員が顔を出すと、この所何日も通って来ている画家が、車の男たちに抱かれてやってくる所だった。 「どうしたんです」 「さあ……とに角、何とかしてやって下さいよ。お宅の方じゃないんですか」 「いや。しかしそれは大変だな。外じゃ日かげもないし、冷たい物くらいならここにもありますから」  一人が先に立ち、二人が島田をかかえ、もう一人が絵の道具を持って建物の中へはいりこんだ。  島田の役はそこまでだった。このために島田は幾日も絵描きの姿で変電所の前で時を過していたのだ。もう一台別の車がやって来て、道をふさがれた恰好をする手筈だった。あとは若い連中がやってくれる。  だが島田は本当に病気になってしまったような気がしていた。電力供給機構の将棋倒しを狙うには、主要地点をタイミングよく一斉に切るのが効果的だった。時間は判り易く、十二時丁度にきめられている。それに間に合うかどうか。無理をして、抵抗する職員を傷つけはすまいか……。  入口の傍の小さな事務室の椅子を並べた上に横にされ、白い天井を眺めていると、外で手筈どおりクラクションの音が二、三度連続して響いた。 「大丈夫ですか……」  仲間の一人がそれを無視していることを強調するため、ことさら心配そうに島田の顔をのぞき込んだ。かえって職員の方が外を気にして出て行ったようだった。  ドカドカと足音が入乱れ、 「それっ、奥だっ」  と鋭い声がした。 「何するんだ、お前ら……」  甲高い男の声が途中で急にやみ、ドサリと床に倒れる音がした。島田は慌てて起きあがった。 「莫迦、やったのか」 「先生、早くこいつを縛って……」  若い男が細引きの束を島田に抛りつけ、奥へ走り込んで行った。 「抵抗するな。抵抗すれば射殺するぞ」  明らかに脅しだった。しかし島田が思ってもいなかった強引さで事は運ばれているようだった。鈍器で撲られたらしい職員がかすかに呻いて身動きすると、島田はこの場に自分しかいないことに気づき、恐怖に近い感情に襲われた。あわてて細引の束をほぐし、震える手で男の足を縛った。その残りでうしろ手に両腕を縛りはじめた時、はじめて強い罪悪感にとらわれた。  島田は吐いて戻したいような気分で建物の外へよろめき出た。殺風景なコンクリートと粗い砂利をしきつめたその辺りの様子が、いっそう島田の不安をかきたてた。 「なんということだ」  島田は青い空に吐きつけるようにつぶやいた。国文学者。大学教授。善良な市民……人生をつらぬいていた穏健なものが、あっさりと、けしとんでしまい、おどおどと場慣れのしない犯罪者が一人ここに立っているのだ。  はじめから覚悟していたはずだ……そう思い直そうとすると、今度は自分のだらしなさ、うろたえぶりに腹が立って来る。  やらなければいかん。しなければならぬことをしているのだ……そう何度も何度も心の中でくり返し、そのくせ心のどこかでは次に出版される書物の出来ばえなぞを思っていたりした。 「まるで俺は役に立たん」  最後に吐きすてるように言った時、ドーンと低くこもった爆発音が聞えた。若い連中が島田の理想的、紳士的にすぎる方針を、はじめから無視していたのは明らかのようだった。老人をたててくれていたのだ。彼らはもっと実際的な方法を用意していたのだ。 「やったやった。先生やりましたぜ」  デニムのよれよれのズボンをはいた青年が長髪を揺らせてとび出して来ると、瞳をうるませて島田の両手を握りしめた。 「先生、早く車へ……」  続いて出て来た男がそうせきたてた。島田は雲を踏むような思いで車へ駆け戻った。バラバラと男たちが走り出て、二、三分すると全員が揃った。先の車が砂埃りをまきあげて畑の中の道を走り出し、島田の乗った車もそのあとにつづいた。 「ちっとやそっとじゃ復旧せんでしょうな」  銀行マン風の男が眼鏡を光らせながら落ちついた態度で言った。島田は変電所をふり返り、息をつめて眺めた。気のせいか、うすい煙が窓から立ちのぼっているように思えた。 「君らにはかなわん。はじめから僕のような人間がリーダーになるなど、無理なことだったんだ。たしかに、今のやり方でなければうまく行かなかったろうな。悠長にやっていれば向うも手向って来るだろうし、犠牲者が出たかも知れん。諸君にいさぎよく謝ろう。君らのやり方が正しい」 「先生……」  銀行マン風が感激したように声をつまらせ、島田の肩に腕をまわした。 「有難うございます。判っていただいて」  島田は意外そうにその顔をのぞきこんだ。 「そう何度も僕を驚かさんでくれ。事に臨んで僕は役に立たない存在だったんだから」 「叱られるのを覚悟でああやったんです。先生に褒められるとは思いませんでした。だから嬉しいんです」  運転している商店主が前を向いたまま言った。 「先生や下駄屋の飯岡さんのようなご老人が、我々のグループにいるということは、我々みんなの心の支えになっているんですよ。我々だってこんなことをおっぱじめて、間違ってるんじゃないかという不安につきまとわれているんです。でも、もと大学教授の、それもおとなしいんで有名な先生が立ち上ったり、七十幾つの飯岡さんが立ち上ったりするんだから、絶対に間違ってはいないんだという信念が湧くんです。先生はどこまでも我々のリーダーですよ」  車は畑を抜け、家並の続いた簡易舗装の道へ入った。 「みろ、ほら……」  誰かが叫んだ。 「信号が消えてるぞ」  駅前から東京へ向う通りの交差点の信号が消えていた。車はためらいがちに、それでもなんとかまだその交差点を越えている。前の車がそこを左折し、東京へ向った。商工会議所の前に警察があり、白い腕章をまいた交通課の警官が六、七人、ひとかたまりになってとびだして行くところだった。 「ラジオをつけてみなさい」  島田はそう命令し、ふと変電所へ絵の道具を置いて来てしまったことに気がついた。     6  最初に国電が停った。そして数分後に都内の全私鉄が、地下鉄全線を含め完全に停止した。  どうやら鉄道関係、特に国鉄に対しては、電源が独立しているだけに、最も有力な組織が動いて徹底的に電力の供給を絶ったらしい。  地下鉄内では閉じこめられた乗客たちが、予備灯のうすあかりの中でいらいらと復旧を待っていた。都の交通局は直ちに他の変電所へ連絡して送電を求めたが、どこも送電不能に陥っていた。  そればかりか、約二十分後には電話までが沈黙してしまった。各駅とも連絡が絶え、その頃になるととじ込められた乗客は恐慌状態に陥っていた。  それを知らぬ人々が停電した地下鉄の駅へ次々に降り、不安気な表情でまた地上へ戻って行く。  中央、山手、京浜などの各線路上は、あきらめて歩き出す人々で溢れた。高い土手をすべり降りて怪我をする者もいたし、いつまでも車内に残って泣き喚く幼児をあやしつづける若い母親もいた。  交通信号は全く死にたえてしまった。  警察はこれが異常な大停電であることに気づくと、警官を動員して各主要交差点にくり出し、手信号による整理を試みたが、全信号が消えてしまっては焼石に水で、電話が途絶するころには自動車はすべて路上に釘づけにされてしまった。  車の人々は、この状態をそれぞれの行先に連絡しようにも、連絡のしようがなく、いらいらと炎天下の路上をうろつくばかりだった。  西から東から、北から、東京めざして流れ込んでくる各街道の車も次々につまりはじめ、千葉、埼玉、神奈川など、周辺各県の道路もあおりを食って機能が麻痺しはじめていた。  都水道局の送水ポンプも完全に停止した。人々は突然の断水に問い合せる手段もなく、主婦たちは水の手を断たれた台所で、クーラーも扇風機も動かぬ暑さにうだりながら、ひたすら蛇口をあけて待ちつづけていた。  ことに団地やマンションの住人にとって、この停電は最もこたえたようだった。どのビルでもエレベーターの前に人だかりがし、とじこめられた人々の救出に必死だった。とじこめられなかった人々も、大停電の情報を得ようと階段を昇り降りし、汗まみれになっている。冷蔵庫の氷がとけ、魚や肉が腐りはじめていた。数時間後には汗にまみれた人々に涼をもたらすものは、東京中探してもどこにもないことになった。  エレベーターにとじこめられた人々の生命が問題になって来た。非常停止ボタンを使えばドアはあくが、階段の途中では無情な石の壁がのぞくだけなのだ。電気が通じるまで脱出不可能に近い。  デパートや劇場は約一時間後にどこもあっさりかぶとをぬいだ。冷房もなく照明もないのでは、客を待たせるにも限度があるのだ。  しかしそうした建物から吐き出された人々がどうやって帰るかとなると、答えは歩くよりなかった。八月中旬のむし暑い街路を、人々はぞろぞろと歩きはじめている。水もなく、情報もないまま……。  トランジスタラジオだけが都民の唯一の情報源だった。二、三のラジオ局だけが電波を辛うじて送り出している。しかし、そこから流れ出す情報は至って不確実で、赤軍派の一斉蜂起とか、大規模なサボタージュとかといった刺激的な言葉が、終始「らしい」ということで語られている。  行動した組織の指導者たちは、すべてが納まって、市民が冷静になってから大停電の理由を説明するつもりでいるらしく、現在のところ全く沈黙を守っている。  金融機関の機能も、コンピュータのオンラインシステムに頼っていたので、ほとんど麻痺している。各銀行の計算センターは、コンピュータに無停電装置があり、停電と同時に内蔵された蓄電池が作動するから影響を受けはしなかったが、各支店の端末器は一発で死んでしまった。  都内の工場も勿論ほとんどが操業をとめ、増加して行く不良品を前に工場長たちが呻き声をあげつづけている。  自家発電装置を持たない多くの病院は、それこそ必死で深刻化する事態を喰いとめていた。最も深刻な被害を蒙ったのは、手術中だったり手術寸前だったりした患者たちと、保育器に入っていた未熟児たちだった。未熟児の何人かは保育器の中で酸素供給が止ったまま、処置が遅れて死んで行った。  ボーリング場も、映画館も、遊園地も、ありとあらゆる施設が機能を失い、パチンコ屋さえもが客を帰して入口を閉じた。  夕やみが近づくにつれ、東京は死んだ都市の様相を呈しはじめた。政府は機動隊や自衛隊の治安出動を決定し、夕方六時にはそれが各方面へ伝達されたが、車輛による移動は絶望的だった。ただ、首相官邸と国会周辺には、ヘリコプターによってかなりの陸上自衛隊員が送り込まれ、やがて彼らの手によって点じられた強力な投光器のあかりが、都心にとじこめられた人々の心にいっそうの不安を煽りたてるのだった。  主婦たちは足を奪われて帰りつけぬ夫の身を案じながら、暗い家にこもって風に揺れる小さな赤い灯火のまわりに子供たちと身を寄せ合っていた。  あちこちで火災が発生し、消防車が出動せぬまま無情に燃えひろがっていた。消すに水もなく、人々は有毒ガスの渦をさけてにげまどった。  暑く長い終戦記念日の夜は、こうしてはじまった。多くの人々はいや応なしに、その日が終戦記念日であることを思い出し、母は子に、灯火管制の闇を物語り、火に追われた人々はあの年の春の大空襲を連想していた。 「昔はよかったよなあ」  街角の闇の中で、年輩らしい声がやけくそ気味に響いた。 「なんたって、町内のあっちこっちに井戸があったもんな」  その声の主は、錆びた音をたてる手動ポンプの便利さを、心の底から思い出し羨んでいるようだった。 「たよりねえ町に住んじゃってるんだな、俺たちは」別な声がぼやいていた。 「一旦電気が停りゃこのとおりのざまだ。マンションの六階なんかに入っていい気になってたけど、もうあそこへ昇って行くのもいやだぜ。これで何回昇ったり降りたりしてると思う……ずっと電気が来なけりゃ、さしずめ疎開するしか手はねえな」 「疎開か……」  うつろな声がそう言った。     7  戦前からの古く小さな平屋だてである島田家の前に、ちょっとした行列ができていた。ポリバケツをぶらさげた男女が、その勝手口にある赤錆びたポンプを押す順番を待っているのだ。 「のめませんよ、この水は」  まつ江は井戸のそばで、いちいちそう断わっていた。 「こんな所に井戸を持ってるおうちがあったんですねえ。毎日通っていてちっとも気がつきませんでしたわ」  暗がりの中で、もらい水に来た主婦がお世辞まじりに言った。 「以前はおとなりにもあったし、おむかいにもあったんですよ」  まつ江はそう答える。だがその隣は三階だての堂々たる鉄筋の邸宅に変り、島田家の日照時間を三分の一以下に減らしてしまっている。お向いさんはとうに引っ越してアパートをそのあとに建て、それもつい最近新しく建てかえて各戸浴室つきになっている。勿論、井戸など、とうの昔になくなっていた。 「以前は飲めたんでしょ」 「ええ、昔この辺だって水道が来てませんでしたからねえ」  ギイコ、ギイコと人々は水を汲んで去り、まつ江はいつまでも井戸の傍で「のめませんよ」と注意をくり返していた。  やがてそのもらい水の列もとだえると、まつ江は家の中へ入った。注意深く、大きな西洋皿を出してそのまん中へ蝋燭をたて、お茶漬をかきこむと、いつも通り盛大な水音をたてて食器を洗った。  汲み置きにしてだいぶたった水だが、やはり井戸の水は冷たくて気持がよかった。 「どこかでおなかをこわす人が出なけりゃいいけど……」  もらい水をして行った人々のことがまだ気になる様子で、まつ江はそうひとりごとを言った。  そのあと、まつ江は押入れをあけ、半ば手さぐりで赤い十字のマークがついた古い木の箱をとり出して卓袱台の上に置いた。  包帯が幾巻かと、マーキュロ、赤チン、メンソレターム、それとオキシフル……ガーゼ。  まつ江は丹念にそれを調べ、やがて納得が行ったようにうなずくと箱へ戻した。 「今晩は……」  男の声が縁側でした。懐中電灯の光りの輪が狭い庭を流れ、下駄屋の飯岡老人が網戸をあけた。 「あら、飯岡さんですね。おはいり下さい」 「いや、そうしてもいられないんですがね」 「主人はまだですよ。お入りになってお待ちくださいな。お茶でもいれましょう」  まつ江はにこやかに言った。飯岡老人は下駄を脱いで上りこんだ。 「まっ暗ですねえ」  まつ江は言い、オホホ……と声に出して笑った。 「何がおかしいんです」 「まっ暗ですもの。電車も電話もテレビも……電気で動くものはみんな止っちゃいましたよ。東京中まっ暗なんですって」 「そうだそうですな」  さっき縁の下から出した七輪で火をおこし、それでわかしてポットに入れてあった湯で、まつ江は老人のために濃い番茶をいれてやった。 「男の方って、幾つになっても子供みたいな所があるんですね」 「幾つになってもって……この私もですか」 「ええ。七十幾つのおじいさんになっても」 「どういうわけです」 「電気のことですよ。私はずっと前から気がついていたんですよ」  飯岡老人は慌てて湯のみを置いた。 「気がついていたですと……」 「何かとんでもないことをあなたがたがたくらんでいるのは判っていたんです」 「まさか島田先生が」 「言いやしません。でも、あの人が絵をかくなんて、見えすいてますよ」 「じゃあ停電のことも」 「いいえ、それはわかりませんでした。でも今日の停電が東京中だって聞いてから、ははあ、これだなって、すぐピンと来たんです」 「…………」 「おめでとうございます。うまく行って」  まつ江はからかうようにそう言って頭をさげてみせた。 「なるほど、さすが島田先生だ。いい奥さんを持っていらっしゃる」 「万一怪我でもして帰ってはと思って、こうしてこんなものを用意しました」 「ほほう、野戦看護婦ですな。奥さんがそれなら私などが心配することはない。それじゃ私は帰らせてもらいます」 「あら、いいじゃありませんか、主人が帰るまで」 「いや、実は私の所が連絡所になってましてな。本部から何か言って来るといけませんので」 「あ、それは大変……早くお戻りになっていなければ」  まつ江はそう言い、飯岡老人を庭の外まで送って出た。 「おとなしい先生をとんでもないことに引きこんでしまって、全く申しわけもありません」  飯岡老人は低い声でまつ江に詫びた。 「とんでもない。主人だってしなければいけないことをやっているだけなんでしょうから」  まつ江はそう言って闇の中へ消えて行く老人を見送り、すぐ家に戻ると、島田の蔵書が並ぶ書斎へ入って、夫の椅子に腰をおろした。  かすかに揺れ動く蝋燭の光りの中で、まつ江は古びた硯箱をとり出し、蓋を払って墨をすりはじめた。ゆっくりと、背筋を伸し、硯の上に輪をかくように、作法どおりすっている。  国文学者の島田幸造が帰って来れば、当然一首詠むものときめてかかっているようだった。ひょっとすると、まつ江はそれが辞世かも知れないなどと考えている。  島田はその頃、自分たちが光りを奪った夜の東京を、疲れ切った足どりで家に向って歩きつづけていた。  青い柿     1  吉村晃一はコンクリートの低い仕切りの上に腰かけて、眼の下を一直線に流れて行く車の列を眺めていた。車は六、七百メートルほど離れた或る一点で、西側にそそりたつビルとビルのすき間からさしこむ鈍い太陽の光を反射し、断続的にキラリ、キラリと目ざわりな輝きを発している。  都心を走る高速道路のこの部分は、もともと川だった。したがって水のかわりに車が流れるようになっても、その上にところどころ橋がかけられている。吉村のいる位置は丁度その橋のたもとに当り、ベージュ色の石だたみを敷いた小さな公園のかたちになっていた。  朝晩はまだ肌寒い日があって、春先の一日は、すでに東の空に夜の色をみせはじめている。なんとなく気ぜわしいその夕暮れの街角で、吉村は退社する恋人でも待っているかのように、さっきからしきりに煙草をふかしつづけていた。  吉村はことしの八月で二十六になる。しかし大学卒業以来、これといった職についたことはない。半月、ひと月といった短期間のアルバイトならもう数え切れぬほど経験しているが、それも最近ではほとんどする機会もない状態だった。  先輩の尻うまにのってとびまわるだけだった……吉村は車の列を見おろしながらふと学生時代をふり返っていた。若く敏感な吉村の眼の前で、時代はたしかに逆流をはじめ、日本は軍事国家の方向に押し流されようとしていた。それをおしとどめようと夢中になって駆けまわっている内に、なんとなく大学時代が終ってしまい、気がついた時には抵抗運動の渦中に首までつかっていた。  似たような事件が何度となくくり返された。そのたびに仲間は捕えられ、あるいは脱落して行った。  俺は要領が悪いのかもしれない……吉村はそう考えている。どこかに平凡なサラリーマンになる別れ道が用意されていたはずだ。しかし彼はその別れ道に気づかず、夢中になって非合法活動への道を突っ走って来た。我にかえってあたりを見まわした時、吉村は半ばプロフェッショナルな破壊活動家の一群の中に身を置いていた。  吉村は何本目かの煙草を投げすてて腕時計を見た。袖口にのぞいたワイシャツの白さが、彼にはいかにも変装めいた感じで落着けなかった。  警官が二人、高速道路の上にかかった橋をゆっくりと歩いて行った。彼らがこの時間にパトロールするコースは調べあげていた。次のビルの角を左に折れ、もうワンブロックほど行ってから昭和通りへ出るはずだった。  吉村が警官の姿を見送っていると、そのずっと向うから一人の男が自転車をころがして橋のほうへ向って来た。近づいてくる男はかなりの年輩で、醤油会社のマークが入った青い前掛けにカーキ色の作業帽をかぶり、自転車の荷台につけた籠の中に一升瓶を七、八本つめこんで、ひっきりなしにガラスの触れ合う音をさせている。  吉村はそれを見るとさっと腰をあげ、あたりを見まわした。時々車が通りすぎるほかに、これと言って目立った人影は見当らない。  どう見ても近くの酒屋の親爺といった風体の自転車を引いた男は、橋のまん中あたりへ来るとひと息いれ、自転車をとめてスタンドを立てた。ガシャンとまた瓶の音がした。男はそのまま橋の側壁によりかかって下の高速道路を眺めた。側壁の外には幅一メートルほどの植込みがあり、その端に人間の背丈くらいの高さで金網が張りめぐらしてある。  吉村はさりげない様子で橋の上を横切り、コンクリートの側壁をとびこえて植込みの中へ入った。男は帽子と前掛けを外し、荷台の籠の中に入れてあった黒い皮カバンをとり出すとその中へいれた。 「気をつけろよ」  男はそう言い、籠を荷台から外すと、ウッと気合を入れて持ちあげた。吉村は外壁ごしにそれを受取り、頭の上へさしあげながら金網の上から高速道路へ籠ごとぶちまけた。ぶちまける時、左手の親指と人差指の間にひやっとしたものが走り、すぐにそれは焼けつくような激痛に変った。  醤油の瓶につめてあった濃硫酸が、はずみでひとしずく手にかかったのだ。  バシャンと盛大に瓶の割れる音が下でしたかと思うと、甲高いブレーキの音がそれにつづき、瓶が割れるのに似た音が聞えた。外廻りの車線で追突事故が起ったはずだった。  吉村は側壁をとびこえて橋の上の歩道に戻った。自転車はそのままで、薄茶色のカーディガンを着た老人が、黒いカバンを持ってひょこひょこと高速道路ぞいの道へ消えるところだった。  ビルの窓から誰かが見ていると思え……出掛ける前、幹部からそういう注意があった。吉村は足早に老人とは反対の方向へ歩きはじめ、さっきの警官のパトロールコースと同じ道筋へ進んだ。途中にあるビルの裏口ヘとびこめば、何の苦もなく昭和通りへ出られるはずだった。歩道橋を渡り、デパートの前から地下鉄へもぐりこむ。もし尾行者があっても利用者の少ない歩道橋の上で発見できる……吉村は予め教えられたコースを頭の中でくり返しながら、夕暮れの迫った道に靴音を響かせていた。  その頃、さっきまで吉村がいた場所に四十二、三歳の男がひとり、体をのばして下の高速道路をのぞき込んでいた。急ブレーキをかけたところを追突され、橋を通り技けて暴走したトラックが、車線いっぱいに斜め横を向いて停っていた。橋の下からそこまで、ブレーキをかけたタイヤの跡がくろぐろと濡れ光っていた。 「硫酸……」  日やけした顔のその男は、複雑な表情でつぶやきながら体を起した。靴の爪先きが吉村のすてた吸殻を踏んでいる。  男はほんの一呼吸ほどそこに立ってあたりに物慣れた視線を走らせ、すぐに落着いた足どりで立去りはじめた。 「こんなことをして何になるというのだ」  しばらく行ってから男はそうつぶやいていた。     2  それから約一時間後、京成押上駅のホームで薄茶色のカーディガンを着た老人が背の高い男と立話をしていた。 「どうでした」  背の高い男が言った。 「別に。予定どおりですよ。ただ吉村がちょっと火傷をしてしまいましてね」  老人はそう言うと、少し離れたベンチに腰掛けている吉村晃一の方をちらと見ながら答えた。吉村は二人とはまるで関係のないそぶりで、しきりに左手に巻きつけたハンカチをいじっていた。 「まだ正確なことは判りませんが、どの班もぶじに散ったようです。視察団が車を並べて高速道路へ入ったのが四時四十五、六分ごろでしたから、一時間近く立往生する計算です」 「いつもながら今村さんの情報は正確ですな。感服しますよ」  電車が入って来たが老人たちはホームの端に身を寄せて見送った。 「ところで、こんな所で落合ったのはほかでもないんですが、島田さんは今のところ本当に安全なんでしょうな」 「と言いますと……」 「いや、ひょっとすると島田さんが本田署にマークされているんじゃないかと思いましてね」 「そんな情報でもあるんですか」  島田と呼ばれた老人はきっとなって問い返した。今村は眉を寄せてその瞳をみつめ、 「兆候はありませんね……」  とたしかめるように言った。面長の、どこか大会社の企画部長と言った感じの今村がそんな風に念を押すと、繊細な印象とはうらはらに、ひどく図太い威圧感のようなものが漂い出す。 「まったくありませんな」  島田老人も外見はひよわだが、今日のようなことをくり返している内に居直ったふてぶてしさが身について、今村の威圧をはね返す気力があらわれている。 「それなら結構ですが……」  今村の表情から強さが消え、柔和で知的な笑顔になった。 「先生は我々の組織の長老ですし、できればもう少し安全な部署についていただきたいと思っているんです。執行部でもみんな心配してるんですよ」 「足手まといになるばかりで……」  老人は照れたように苦笑してみせた。 「でもこうなったら死ぬまで使ってもらいたいもんです。今夜発つ産業視察団だって、結局は兵器産業の実態調査でしょう。国民のほとんどは民間のあの視察団が今後の日本にどんなものをもたらすか気づきはしないんです。しかし高速道路にとじ込められた車の中で、カーラジオのスイッチを入れれば、我々の行動の意味はあの連中には痛いほど判るはずでしょう。それで満足してるわけじゃない……僕はあんな程度のことしかできないのが残念でならないんです。出来ればもっとちゃんとしたことをやりたい。でも出来んじゃないですか。今の僕にはあれが精いっぱいです。そして何でもいいからやらねばならんのですよ。もう僕には選挙権もないんだ」  老人は淋しそうな顔であたりをみまわした。ホームにまた人影が増え、そろそろ次の電車がやって来るころだった。 「とにかく充分に用心してください。ほかの者と違い、先生はもと大学の教授をなさっていらっしゃったわけですし、この東京に先生の顔を知っている目は多いんですからね……そろそろ奥さんのご命日も近いはずですが、墓参なども充分お気をつけになってくださいよ」 「墓参りですか」  老人は突き放すような言い方をした。 「墓参りはしません。この歳になって警察に追いまわされているんです。とてもそこまで手がまわらないのは、あれだって判ってくれるはずです」  電車が来て、老人の声が聞きとりにくくなった。 「じゃ私はこれで」  今村は急に無表情になって軽く頭をさげ、さっさと歩きはじめた。老人はホームの白線に近づき、ベンチに腰掛けていた吉村も立ちあがった。  ドアが閉り、老人はいちばん隅の席に腰をおろした。次の車輛の連結器のそばにもたれて、ガラス越しに吉村が老人をみつめていた。すっかり暮れた早春の夜景の中を、電車は時々大きく揺れながら走って行く。白いハンカチを巻きつけた左手を胸のあたりに置いた吉村は、すがるような眼つきで老人をみつめつづける。  線路脇の家々から、平和な窓あかりが洩れている。老人はふとその窓の中に、自分と吉村が屈託のない夕餉の膳に向っている場面を想像した。吉村は老人の孫にふさわしかった。そして老人は、抵抗運動の泥沼にはまりこんだ吉村をいたましいと思った。  ガラス越しに片頬で笑ってみせた。なんとなく、そうせずにはいられない想いだった。すると吉村の瞳がぱっと明るくなり、顔いっぱいに笑みを泛べてこたえた。  この若者は親も兄弟も棄ててしまっている。老人はそう思いながら、恐らく生れてはじめてするウインクを送った。吉村は嬉しそうにまた笑顔を返し、老人よりはるかに慣れた様子で片眼をつぶってみせた。二人の間に電車と共に揺れる春の闇があり、お互いの顔のほかに、ガラスにうつる自分の顔がぼんやりと見えていた。  やかましく荒川を渡った電車は、やがて下り気味の直線から立石の町へ入った。老人は席を立ち、吉村も連結器の傍を離れた。  もとJ大教授の島田老人と吉村は、次第に刈り減らされて行く抵抗運動組織の中の一単位だった。弾圧が厳しく、二人ひと組の単位で、めいめいが潜伏先を探さねばならなかった。島田老人は京成立石駅の近くに吉村のための安アパートを借り、自分も古い友人の家にかくまわれていた。  電車を降りて改札口を出る時、老人はわざと吉村のすぐうしろにつき、先を急ぐようにして軽く吉村の肩に手を置いた。吉村はその手が島田のものであると承知して、心持ち肩をそびやかすようにしてこたえ、そのままふり向きもせずアパートの方へ去って行った。そのように注意深く仕込んだのは島田だった。抵抗運動はもう若さと度胸だけではすまない段階へ来ていたのだ。  公安調査庁、内閣調査室、一般の各警察、その上小平市の調査学校で特訓を受けた陸幕第二部管轄下の調査隊員までが、ほんの数年前ならまさかとしか思いようのない密度で、市民生活の中に網を張りめぐらせている。  だが今夜の島田はなぜかそういう警戒をいっさい棄てて、吉村といやという程うまいものを食ってみたかった。あの青年に酒をのませ、したたかに酔わせて介抱してみたかった。橋の上で硫酸の入った瓶を籠ごと持ちあげた時のあのひたむきな表情。憂鬱そうに煙草をふかしていたあの時の姿……教育者として無数の若者を社会に送り出して来た島田にとって、ひょっとすると吉村は最後の教え子になるのかもしれないのだ。酒をのみながら、万葉の何首かを講義してやりたかった。古今を、新古今を、そして芭蕉から山頭火に至る日本の詩心を、じっくりと語りたかった。しかし、最後の門下生に島田が教えたのは、官憲の目をかすめる技術でしかないのだ。  島田は去って行く吉村の、はずむように若々しいうしろ姿を見送りながら、やり切れない憤りを感じていた。  日本人とは、なんと従うことに馴れた人間だろうと思った。鬼畜米英と叫んだその口でマッカーサーの兵隊にチョコレートをねだり、原水禁のデモにつらなったその足で高度国防国家への道を歩んでいるのだ。権力が体制がと批判した学生たちも、ほとんどは従順なサラリーマンと化し、景気上昇の為には産軍共同体の一翼をになうことも辞さない心境になっている。それどころか、権力や体制を批判することでつちかった理論構成力を駆使し、積極的に新国家体制を口にする者さえ少なくないのだ。  島田は中川にかかる奥戸橋の坂をのぼりながら、学園紛争華やかなりし頃、自分を無能、無気力と笑殺した若者たちの顔を思い泛べていた。 「召集令状なんて、そんなもの一枚でなぜ戦争へ行ったんです」 「俺なら平和になる迄逃げまわってるな」  ……果して彼らは今もそう思っていてくれるだろうか。万一徴兵制が復活した時、彼らは逃げ遂せるだろうか。それまで、戦争をする国家など自分たちには関係ないと思いつづけていてくれるだろうか。  何割かはきっと立ちあがってくれる。  ……島田は祈るようにそう思った。だが、去って行く吉村のうしろ姿を思い出すと、なぜあの青年が孤独なのか、誰が孤独にさせているのかとも思わずにはいられなかった。     3  奥戸橋を渡った中川ぞいに、暗い家なみがつづいている。  島田は黒い簡易舗装の道を何度か曲り、やがて鉄パイプの両びらきの門のわきにあるぐるり戸の前で立ちどまると、人気のない道をちらっとふり返ってからその中へ入った。  門柱のプレートには、山崎計測器工業株式会社と記してある。  白いスピッツが二匹、やかましく吠えながらとんで来た。島田はしゃがみこんで二匹の頭を撫でてやり、ゆっくりと立ちあがった。急に疲労の色が滲みだし、ひどく老人めいた足どりになった。  右手に細長く工場の建物がかたまっていて、突き当りはオフィス……そのオフィスはひっそりと闇に沈んでいて、左手の植込みの間から灯りがもれている。  島田は工場の裏手に当る中川の堤防ぞいの工員寮の一室を借りている。その方角からはかすかに下手糞なギターの音が聞えていて、老人はそこへ向いかけ、急に思い直して左の植込みへ続く道を進んだ。  そこは経営者の山崎一家の私邸になっている。要するに小さな町工場で、地方から連れて来た若い工員たちを寮にすまわせ、自分たちも同じ敷地の中に住んでいるのだ。  スピッツの声を聞いたのか、庭に面したアルミサッシのガラス戸があき、若い女の声が、 「お父さん、島田先生よ」  といった。島田は玄関への道をそれて庭へ入った。  明るい蛍光灯の光の中で、島田と同年輩の老人と四十近い男が顔を庭へ向けていた。 「今晩は」  島田はそう言いながら近づいて行った。 「やあ、おあがんなさい」  家の中の老人が言った。 「どうぞどうぞ」  若いほうの男はそう言うと新聞をテーブルの上に置いてたちあがり、愛想のいい笑顔を見せながら部屋を出て行った。 「いいですかな」  島田はガラス戸に手をかけて立っている若い女に言う。 「遠慮することはない」  老人は山崎雄一郎といい、島田の旧友だった。今は社長の座を長男の雄策に譲り、釣りの話さえしていれば機嫌がいいという、典型的な楽隠居だ。 「邪魔だったかな」  ひとりごとのように言って居間へ入ると、 「兄さんなら気にしないでください。お父さんたちの昔ばなしが苦手なだけですから」  娘はそう言った。島田は部屋を出て行った雄策の椅子のとなりに腰を落ちつけると、思わず唸りながら背筋を伸ばした。 「先生、お疲れのようね」 「リエ、揉んであげたらどうだ」  山崎はからかい気味に言う。リエと呼ばれた娘は、そうね、と気軽に島田のうしろへまわって肩を揉みはじめた。 「これは楽だ」  島田は眼を細めて山崎を見ながら言った。 「どこへ行った……」  山崎は煙草をくわえながら尋ねた。 「銀座のほうに用事があって」 「毎日忙しそうだな。うらやましいよ」 「楽隠居が何を言うか」 「する事のある奴はしあわせだ。俺をみろ。釣りしか用がなくなってしまった。……で、どうだった、今日は」 「何が」 「また過激派が動いたそうじゃないか。テレビのニュースでみたが、まだ高速道路は車がつまってるそうだよ」 「車が多すぎるのさ」 「それにしても巻き込まれないで帰ってこれてよかったな」 「有難う」  島田は肩を揉まれるまま、軽く目をとじてそう答えた。 「いやねえ、ふたりとも探り合いしてるみたいで」  リエは島田の肩を揉みながらずけずけと言った。  しばらく沈黙が続いたあと、島田はポツリと言った。 「その時間、産業視察団が高速道路で羽田へ向っていたんだ」 「ほう……」  山崎はテーブルの上に体をのり出してその先をうながした。 「欧米の軍需産業を見てまわるんだが、フランスかスイスで何かかなり重要な取引をするらしい。どっちにしても死の商人だ」 「なる程、そういうわけか……しかし君たちの、いや、あの連中の情報網も仲々大したもんじゃないか。そこヘピタリと狙いを合せるなんてな」 「直接行動には参加しなくても、まだまだ日本には本物の平和主義者が残っているのさ。このあたりにもいるらしい」 「どうかなそれは。平和主義者でも釣りばかりしていてははじまらんだろう」 「リエさん、もう結構。すっかり楽になりましたよ」 「じゃお茶をいれましょう」  リエはそう言うとサイドボードのガラス戸をあけ、紅茶のセットをテーブルの上に置いた。 「都民がそのたびに迷惑を蒙るのはたしかに困る。よくない一面もある。例の大停電だって、直接間接に何十人かの命が失われてしまった。しかし、明らかに軍事国家体制へ向って走り出した自分の国を、内心悪いと知りつつ何の手も打たずに見過しているほうも責められるべきだ。俺はそう思う。自分も含めて恥かしい奴らだと思う。みんなが声を揃えれば一部の人間だけ過激派だとかそしられるようなこともなくて済むんだ」 「しかし過激派は過激派だ。明日の新聞じゃまた容赦なく叩かれるだろう。どうやら今回は一人の逮捕者も出なかったらしいから、余計やられそうだな。大新聞もいいかげんなもんさ。そっちは叩きたい放題でも、いつの間にか軍国主義復活反対の論評は消えてしまっている。東南アジアをはじめ、海外問題を大きく扱えば扱うほど、国民の間に国防意識が育って行くことは百も承知のうえでな」 「そう、過激派はみんな無事だったのね」 「ひとりだけ手に怪我をした奴がいるがね」  島田は笑いながら言った。紅茶をいれていたリエの顔色がさっと曇り、すぐ無表情になった。 「輸出は伸びてくれなければ困る。資源も確保してもらわにゃ困る。だが戦争もいやだ。軍事予算がでかくなるのもいやだ。自衛隊などない方がいい……。われながら困ったもんだ。しかしその困ったもんだが庶民の実感だよ。困ったもんだ、困ったもんだ……そう言っている内に軍がでかくなる。制服に政治がふりまわされる。そういうことだ。どこかでふん切りをつけるべきなんだ。貧乏しても軍隊は嫌だってな。困ったもんだと言うだけじゃどうにもならんのだ」  リエが席を立って部屋を出て行った。島田は紅茶の湯気をみつめながら、年甲斐もなく胸が騒いだようだった。  急いで行ってやってくれ。吉村も今夜はこの春の闇の中で、きっとうらがなしい思いをしているに違いない。怪我をしたと聞かせれば、きっとリエは吉村の所へ飛んで行ってくれるに違いない。あの若者に今夜自分がしてやれることは、この部屋へ来てひとことそれをリエに告げることだけだったのだ……。     4  リエはついさっき島田が歩いた道を逆にたどっていた。吉村は青砥駅寄りにある古いアパートの四畳半にいる。駅へ向う道の途中から右に折れ、ごみごみした裏通りを彼女は小走りに急いだ。  途中で小さな薬局に寄り、包帯と消毒液と傷薬を買った。薬屋がくれたサービス券を左手にくしゃくしゃに握りしめ、右手に小さな紙袋を持ってリエは一心に歩いた。ことし二十七歳のリエは、今まで何人もの男と恋をして来た。セックスも世間なみよりやや多く知っているつもりでいる。しかし、島田老人のパートナーである吉村晃一ほど、さしせまった状況に置かれた男は一人もいなかった。ベッドでの会話も、愛についての甘ったるいものか、遊びや趣味についてのものだった。  だが吉村はまるで違っていた。今日の命を永らえることに全精力を傾けている男だった。組織についての詳しいこともほとんど語らず、理想や目的についても口は重かった。ジャングルの中で生きることが精いっぱいの原始人のように、たえずあたりに気を配り、女の入りこむすき間など全くないようだった。  そんな吉村にリエという女が介入できるのは、一匹の雌として体をひらくときでしかなかった。吉村は餓えたけもののようにリエの体をむさぼり、明日の分も、あさっての分も、体力の続くかぎりリエを求め続けるのだった。  そこには、愛の技巧など吹きとばしてしまうような、強烈な生命のいとなみそのものがあった。リエは吉村に与え、そのことでたとえようもない女の喜びにひたるのだった。  はじめリエはそれを被虐的な快楽ではないのかと疑った。そう思うほど吉村は荒々しく、一切の虚飾をとり去った簡潔さでリエにのしかかり、つかみあげ、そして注ぎこむのだった。しかし今ではそれが真実の愛であると信じてしまっている。男としての責任がどうの、結婚の意志がどうの……それはひとつの儀礼にすぎないのだ。明日死ぬかもしれない。あさってはいないかもしれない。そんな中で、一組の男女が愛を感じたら、言葉も儀礼も要りはしないのだ。  リエは吉村のアパートに近づくにつれ、自分の体が潤いはじめているのを感じていた。そしてその野性的な雌の発情ぶりを、むしろ爽快だとさえ思っていた。  ガラスの割れた入口のドアを引き、リエは板張りの廊下へ入った。床油が厚くこびりついた廊下を、ほとんど忍び足のような歩き方で進み、階段のすぐ横のドアを二回ノックした。中で人の寄る気配もなく、かすかにドアが引かれた。 「君か……」  吉村はそうささやいた。リエはドアに体を押しつけ、開いたすき間へすべりこんだ。男の匂いが鼻をつき、リエは閉ったドアの横で吉村の腕にすっぽりとだかれていた。  男たちにたまらなく肉感的だと言わせた白くなめらかな頤《おとがい》をあげ、夢中で唇を求めた。舌が吸いこまれ、男の舌が固くとがってリエの味蕾《みらい》をこすった。薬局の紙袋が茶色の畳の上に落ち、無意識に握りしめていたサービス券が、いっそう左手の中で小さくなった。 「何かやる時くらい、先に教えといてもらいたいわ」  唇をはなした時、リエはそう言った。 「知ってどうなる」  吉村は不機嫌に答え、小さな窓のそばへ行って坐り込んだ。何もない部屋に、きちんとした背広とワイシャツがぶらさがっていた。 「これ着たの、今日」 「ああ」  リエはGパンにセーターをひっかぶったいつもどおりの吉村と、その妙に晴れがましい背広を交互に眺め、微笑しかけた。しかしその微笑は途中から泣き顔に変り、ぺたりと吉村の前へ坐りこんだ。フリルのついたスカートがリエの体を中心に派手な円になった。 「これを着てるあなたを見たかったわ」  吉村は怪訝な表情でそういうリエをみつめ、その視線をうけとめている内にリエの瞳に泪《なみだ》が湧きだしていた。  きちんとした背広とワイシャツにネクタイ……色も柄も、ついていさえすれば言うことはなかった。それを着た吉村は、今日一日平和なくらしをする人物に見えたに違いない。  麻雀が上手でボーリングのアベが二百くらいで、週に一度は必ずゴルフの練習場へ行って、メカにうるさいドライバー、バーヘ行けばジンの銘柄に注文をつける男……。そういう男がリエの好みだというのではない。しかし、この男に一度でもいいから、そうした愚にもつかない平和な思いをさせてやりたいと思ったのだ。  主義主張をぶちまけ合って、勇敢さを子供っぽく誇り合う仲間たちを奪われ、祖父のような老人と組んでこそこそとかくれ歩いている男……それが今の吉村なのだ。破壊活動以外に生きる目あてを失い、地獄への道を突っ走っているようなのだ。 「なにを泣く。リエが泣くことはない」  吉村は憤ったように言った。 「同情なんかしやがるとひっぱたいて追い出すぞ」  冗談で言っているのではない。沈んだ言い方だが充分本気そうだった。 「怪我したんでしょ。手当してあげる」  リエはそう言い、落ちていた紙袋を拾って中の品物をとり出した。 「島田先生が教えたのか」 「それとなくよ」  リエはそう答え、吉村の左手をとった。  ハンカチは薄汚れ、焦茶色のシミがついていた。 「まあ、どうしたの、これ……」  親指と人差指の間から手首にまでひろがる無残な傷を見てリエが低く叫んだ。 「火傷さ。硫酸をこぼしたんだ」  吉村も唇をとがらせて自分の傷に見入っている。 「やだ。私、切り傷の薬買って来ちゃった。火傷のを買い直してくるわ」  リエが立ちあがろうとすると、吉村は掴まれていた手を逆に掴み返し、 「いい切り傷の薬で」  とリエをおしとどめた。 「だって」 「消毒してしまえば何の薬だって大差あるもんか。第一勿体ない」  そう言ってリエの瞳をのぞきこむ。男の情欲が、吉村の瞳の中に青白い火花を散らしたようだった。  時間が惜しい……吉村に言われ、リエは体の芯がかっと燃えあがるのを感じた。唇が渇き、彼女は短く舌を伸ばして舐めた。包帯をちぎってガーゼがわりに消毒液にひたし、男の傷跡をおさえ、なぞった。ちぢれた皮膚をむしりとり、ペロリとむけた赤い肌へ、ポトリポトリと消毒液をたらした。液は傷口の端で白い泡をたて、吉村は眉を強く寄せて痛みに耐えていた。リエはふとその顔に目をやり、射精の瞬間の顔と同じだと思った。すると奇妙に男がねたましくなり、拗ねたような気分になって、わざと手荒に傷薬を塗りはじめた。  油性のその薬は思うように傷口にのらず、リエはフライパンの上のバターを追うように傷口の上をなぜまわした。 「畜生、わざと痛くしやがる」  吉村が呻いたあとでそう言った。リエは鮮やかな淡紅色の傷口をそうやっていじっている内に、倒錯した思いに駆られ、包帯をまきはじめる時には腰をくねらせていた。 「よこせ。俺が自分で巻く」  吉村は叱りつけるように言い、器用に自分で包帯を巻きはじめた。 「ほら、縛って」  そう言われ、リエは包帯の端をさいて手首で結びとめた。 「どうしたんだ、今夜は」  吉村はあざけるような言い方をした。リエは意味もなく首をふり、薬を袋の中へしまいはじめた。Gパンの膝が見えたと思ったとき、リエは袋を放りだして吉村の体に引き寄せられていた。咄嗟にスカートのファスナーを引いたリエは、片手を吉村の太腿に当てがって救いを求めるように顔をあげた。吉村は両膝を畳につけて体を伸すと天井からぶらさがった電燈のひもを二度引いた。灯りは一旦うす暗くなり、すぐに消えた。小さな窓からわずかに光が入ってくる。  リエはその姿勢のまま、もぞもぞと動いてスカートを外した。そんなやり方は、吉村以外では絶対にしなかった。ぶざまで、動物的で、恥かしい動作だった。  吉村は素早くズボンを脱ぎ棄てていた。 「久しぶりに風呂へ行って来たんだ」  ほの暗い部屋の中で男の影が動きながらそう言った。リエはそれを要求だと思った。 「生きて……うんと生きてて」  かすれた声で言い、彼女は吉村の裸の腰をだいた。目をとじると淡紅色の傷口が泛んで来た。リエはその幻影を口に含み、まつわりつく時間の流れをふりはらうように、髪を揺らせはじめた。遠くで吉村の呻きが聞えはじめ、リエの髪はいっそう烈しく揺れた。いつの間にか吉村は逆転していて、リエの股をザラザラとした男の顎がかすめた。充血した部分が強く引きあげられたように感じた時、リエは思いがけぬ呆気なさで自分が落ちこむのを覚った。息がつまり、リエはのけぞって吉村の体から唇を離した。その途端、吉村の下肢がリエの掌の中で硬直し、解き放たれたしるしがリエの細い眉から頬のあたりを熱く襲うのだった。  自分はいま戦士の血を浴びている……リエはぼんやりとなった意識の底でそう思い、手の甲を噛んですすり泣いていた。  吉村は最初の激情が納まるとすぐに体を移し、リエをさしつらぬいた。二人ははてもなく動き合い、耐えることを競い、叫びを殺し合った。  ……アパートの外に夕方橋の上にいた男がたたずんでいて、となりの家とのせまいすき間をのぞきこんで、吉村の部屋の灯りがまだつかないのをたしかめると、かすかに照れたような表情を泛べて立去って行く。白い自転車に乗った警官が彼にすれちがい、あいまいに頭をさげて通りすぎて行った。     5 「たしかに風水害の被害が、この数年異常なほど増加している。多分原因は無茶苦茶な開発による自然破壊にあるのだろう。それはそれで別のことだ。各地に災害自衛団を作るのが流行しているのをどう思うね」  島田は旧友の山崎と二人きりになった居間でそう言った。 「特に考えたことはないが……」 「災害自衛団は自衛隊の協力団体に変身しやすいんだ。ためしにそういった自衛団で作っている非常災害応援規則という奴を読んでみるがいい。必ずその一項目に暴徒の鎮圧とか潜入の発見、捜索というのが入っているんだ。以前の赤軍派事件のようなケースには、こいつがモロに発効してくるわけだよ」 「反政府ゲリラの予防策か」  山崎は笑いながら言った。 「地震の予知技術が進んだという。そいつは大いに結構なことだ。だが災害出動のためと称して、この東京で大々的に行なわれている陸上幕僚監部の地震災害研究……あれはいったい何だ。国防研究の一環なんだよ。防空避難研究となぜ言わない。狙いははっきりしてる。しかも動かしがたい名分を立ててな」 「そこまで軍体制が進んでしまっているのかなあ」  山崎は半信半疑の様子だった。 「もしそこまで行ってるとすれば、君らのやってることも無理はないと思えてくるな」 「信じろよ。僕がこの件で君に嘘を言ってもはじまらんだろう。たとえばいま、県によっては高校の定期検診資料が、そっくりコピーされてその地区の自衛隊へ廻されるようになっているんだ。一般からの突きあげが激しい免税措置その他、医者の特権を保全してやる代償に国が持ちかけたのさ。やがて日本中の高校生は、知らぬ間に健康状態や体力を自衛隊に握られてしまうんだ。学校のスポーツクラブもそう……運動部員名簿も自衛隊の資料として保管されるんだ」 「どういうことだい、そいつは」 「莫迦だな。まだボケたわけじゃあるまい。徴兵適格者名簿になるのさ」 「まさか」  山崎雄一郎は大声で叫んだ。 「終戦前は徴兵適令届というのがあった」 「あった、あった」 「戸籍から職業、特技、学歴……そして、右徴兵適令に達し候につき届出候なりという結びの文句だ。市町村役場には兵事係があって、満二十歳の倅を持った親は徴兵適令届を出す義務を負わされていた。兵事係はその届をもとに兵籍簿を作っていたんだ。今の自衛隊員募集係は、住民登録台帳や税金台帳をもとに適格者名簿を作り、その上学校を通じて特技や体力、健康状態まで把握してしまうんだ。長い間、日本人は徴兵制など二度と復活しないとたかをくくっていた。しかし若い連中はみんな一度自衛隊の入隊適格者名簿に載せられていたんだ。体験入隊というんだって、徴兵検査をパスして入営して来た時の、受入れ体制研究の材料なんだ。笑い事じゃすまない。各地にある自衛隊協力会というのは、新規入隊者を呼んで新入隊壮行会をやっている。歓呼の声に送られてという、例の入営者壮行会とちっとも違いはしない。それどころか、今の若者がどうやったら、いまぞいでたつ父母の国、という感激にひたるか、そのやり方を開発しているとも言える」 「そりゃひどい。なぜみんなはそのことを知らないんだ」 「不思議だな、全く。どこかで誰かが口をとじるんだろうな。言論の自由といったって、それは建て前でしかなかったようだ。町のメッキ工場のたれ流しはでかでかとニュースにできても、大企業の毒となるとつい慎重にならざるを得ない。それとおんなじで、汚職ゴシップのたぐいならいくらでも取りあげるが、深く静かに進んで行く徴兵体制は、思いだしたようなシリーズの枠の中で、一見こわもての読物風に扱うしかない」 「そうやって徐々に進んできてしまったわけか」 「本当のところ、もう勝手にしろと言いたい程進んでしまっているよ」 「たとえば雄策の長男の健一だが」  山崎はサイドボードの上の写真を眺めた。サッカーのボールをかかえた彼の孫が写っている。 「もう中学生だよ。あれが兵隊にとられてしまうのかなあ」 「危いな」 「ふうん」  山崎はため息をつき、考え込んだ。 「もし俺たちが力を揃えて反対に立ち上ったとしたら、どういうことになる。とめられるか、まだ……」  島田は首を振った。 「無理だろう。第一今更そう沢山の人間が急に立ち上るとも思えない」 「仮にやったとしてだ」 「僕たちのしたことが邪魔になるだろうな」  島田は悲しそうに言った。 「なぜだ。先頭に立てないのか」 「あの八・一五大停電以来、僕らはなんとか国民を覚醒させようと、手段を選ばずやって来た。だが期待した連鎖反応は起らなかった。抵抗運動は尻すぼみにすぼんでしまったよ。それに逆比例して僕らの活動はエスカレートした。今じゃ、まるで僕らは鬼か蛇だ。過激派と呼んでくれるのは、おだやかな方で、暴力狂とか暗殺組織とか言われる程になってしまっている。たしかに僕らはからまわりしてるようだ。そして体制側はそこにうまくつけこんでいる。破壊活動対策を強化し、治安警備体制や調査網を戦前以上のレベルに引きあげはじめている。いまやったら、連中はそれこそもみ手をしてとんでくるだろう。お客さまだよ、こっちは。大っぴらに暴徒鎮圧訓練をはじめた自衛隊は、装甲車から戦車まで揃えて本番をはじめるだろう。戦後……二十七年の血のメーデーの時、すでに練馬部隊の一部が麻布あたりへ出て来ていたんだ。それ以来、本番こそやらなかったが、自衛隊はことあるごとに騒ぎのまぢかで待機していたんだ。今度は正面切って顔を見せるだろうな。そうしてもいいという口実を与えてしまったのは僕らだ。その点何とも申しひらきのできない立場だ。なぜついて来てくれなかった……かえすがえすもそれを言いたい。残念だよ」  その時居間のドアがあいて、山崎雄策が顔をのぞかせた。 「お父さん、リエの奴どこへ行ったんですか」 「さあ、知らんな」  山崎雄一郎はソファーの上でそりかえるように首をねじまげて言った。雄策は大きな舌打ちをし、 「しようがない奴だ」  と言ってドアをしめた。  島田は吉村がいる薄汚いアパートを思い泛べ、うしろめたい気分になった。 「若い内が花だな。僕も君も夜遊びとは縁のない歳になってしまった」 「いや、島田は近ごろ若がえったよ。男はそういう立場になると野性に戻るのかな。たくましくなって、何となく気迫のようなものを感じる」 「学生時代から有名な青びょうたんで、気迫があるなんていうことははじめて言われた」  島田は自嘲気味に笑った。     6  五月も終りに近い日の夜だった。  背の高い今村の前に、ずんぐりとした精悍な感じの男が椅子にかけている。 「例の教授はどうした」  そう言われて今村はニヤリとした。 「はい。葛飾の町工場にかくまわれています。中学時代からの友人が経営しているのだそうで」 「それもそろそろ始末するんだな。君の組織はもう必要ない」 「はい……」  男は椅子をくるりと回転させ、国会議事堂のとがった屋根が見える窓を眺めた。 「大変有効だった。あの組織はよくやったよ。素人の集団だけにやることが熱っぽかった。我々がコントロールしていなかったら、本物の市民運動に発展して行ったかもしれん」 「かなりきわどい局面もありましたから」 「うん。君の功績は大きい。おかげでもっと危険な専門家どもを根だやしにすることができた。これは実はソ連がポーランドで使った手だったのだ。コントロールされた組織をつくりあげ、実績をあげさせて他のもっととらえにくい組織と連携させる……潜行中の連中も信用できる味方が出来たと、いずれこいつにも手をさしのべてくる。それをじっくりとつぶして行くんだ。逮捕された連中もまさかその組織と連絡を持ったせいだとは思ってもみないだろう。現に彼らは派手に活動しているんだからな。ソ連というのはこういうことはうまい……おかげでこっちもだいぶ楽になった」 「それで、組織はいつ潰しましょう」 「もういつでもいい。ただ最後の一人がかたづくまで、君は連中をしっかり握っていなければいかん」 「はい」 「特にそのもと大学教授という老人は、名物男になっているらしいからな。地下組織の間では仲々人気があるらしい。その老人が追い込まれれば、多分どこからか救いの手が伸びるだろう。うまく使えば別な連中がそれで泛んで来るかもしれん」 「判りました。そのようにとりはからいます」今村は生真面目に答えている。  その頃、山崎雄策が父親につめ寄っていた。 「島田さんの影響だよ、それは。かぶれてるんだ、お父さんは」 「うちは当り前のメーターを作ってればそれでいい。魚雷の部品などに手をだすことはない」 「山崎計測器という会社は永久にこのまま葛飾の町工場でいればいいんですか。これは企業ですよ、お父さん。僕はその社長だ。いま目の前に億という数字の仕事がぶらさがっているんです。しかも設備はほとんど今のままでいいんですよ」 「莫迦言え。軍需産業に手を出して何になる。健一が兵隊にとられるんだぞ」 「いいじゃないですか、みんながそうなるんなら。時の流れには逆えませんよ」 「いかん」  老人が息子に怒鳴った。 「俺は許さん。島田がどんな苦労をしているか……もしそんなことをしたら俺はあいつに会わす顔がない」 「そうでしょうかね。お父さんはリエが妊娠してるのを知らないんでしょう」 「なに……」山崎はぎょっとしたように声をつまらせた。 「相手も判ってます」 「誰だ」 「吉村という男です」 「リエもとうに結婚していい年頃だ。そういうことがあっても仕方がなかろう」 「吉村というのは島田さんの乾分みたいな奴ですよ。手に職もなく、爆弾投げるのだけが仕事のお尋ね者なんですよ」 「…………」山崎は青い顔で唇をかんでいる。 「島田さんにそこまで義理を立てることなんかありません。まるで明日というものをすててしまった男とうちのリエが出来るのをむしろ取り持ってやってたんですからね。あの人は結果的にこの山崎家を破壊しに来たんです。もしあの人がいまつかまってごらんなさい。リエ一人じゃすみませんよ。僕もお父さんも破滅じゃないですか。前から言いたかったことだから、かためて言っちまいます。あれは厄病神です。僕はあいつをわが家から追い払います。かくまっていた罪をのがれるには、警察に届けるしかないんですよ」 「ま、待てよ雄策」山崎は息子の語気に押され、うろたえて手を振った。 「これだけは健一の将来のためにも聞いていただきますからね。お父さんはあの人がうちへ来るのを最初から断わるべきだったんだ。そうすれば友人を裏切らなくてもすんだんです。娘に父なし児を産ませなくてもすんだんです。……僕はいま会社が大きく飛躍するチャンスをつかみかけているんです。邪魔されたくありません。たとえお父さんでも」  雄策は激しく言い、言うだけ言うと、くるりと踵を返して、庭から事務所の方へ戻って行った。山崎はがっくりと肩をおとし、孫の写真をぼんやりとみあげていた。  二週間後、月がかわって六月に入った或る日、島田は立石駅のホームで突然本田署員に逮捕された。むろん吉村も、ほとんど同時刻にアパートの部屋で逮捕状をつきつけられていた。しょぼしょぼと降る雨の中を、島田は連行され、取調室へ押しこまれた。 「もとJ大教授の島田幸造だね」  取調べに当った係長は、なぜかそう言って島田から目をそらせた。それは高速道路にかかった橋の上でのことや、吉村のアパートへリエがしのび込むのを監視していたあの男だった。  刑事は気の進まない様子で最初の尋問を終え、夜になると逃げだすように署を出て行った。そして馴染の屋台へ首をつっこむと、苦しそうにコップ酒を呷った。 「どうせ俺は泥刑事さ」  泥棒専門の下っ端刑事、泥臭い田舎刑事。そういう自嘲をこめて、酔ったあとその男はつぶやいた。 「でもあの人の本はみんな読んだんだ。古い日本の歌を、俺みたいな泥刑事にも判るように説明してくれてた……つかまえたくなかった。つかまってもらいたくなかった。畜生め、密告《サシ》たりなんぞしやがって。莫迦野郎、大莫迦野郎。刑事《デカ》でなきゃ俺だってあの先生の仲間に入りたかったんだぞ。ええ、おやじよ、そうだろうが。若い奴らを兵隊にしたいかよ。戦争に駆り出してえかよ。俺だって……畜生、俺だってやりてえんだぞ」  刑事は酔って、近くの暗い塀ぎわへ行ってしたたかに吐いた。  しょぼしょぼと雨の降る夜、留置場の固い床にすわった島田と吉村は、時折り窓の外に聞える、ポトリ、ポトリという音を気にしていた。  朝になって、高い窓から外を眺めたふたりは、それが留置場の外に生えた細い柿の木の枝から落ちる、青く小さな実の音だったらしいと覚った。事実青い柿はコンクリートの上に落ち、無残に割れ欠けていた。しかし二人がのぞいた高く小さな窓から、落ちて割れた青い柿を見ることはできなかった。  堤防|決潰《けつかい》     1  ウイークデーの午後七時すぎなのに、銀座のクラブ「泉」は客を迎える準備をしていなかった。常連の誰かがいまこの店へふらっと入って来たとしたら、余り明るいのでびっくりするに違いない。  開店前と閉店したあと、この店の照明は極端に明るくされる。長いホステス生活のあと、念願が叶って自分の店を持ったマダムの侑子は、うす暗い照明が客席の手入れや掃除に悪い影響があるのを知り抜いていた。それに夕方の準備中、照明を煌々《こうこう》とつけて置き、開店時間が来るとさっと明るさを落すのは、丁度芝居の開幕時の雰囲気に似たものがあり、ホステス達の心理に、さあ始るぞという区切りをつけさせるのにも役立っている。同じように、だらだらと粘る客が明るい照明に変ると、とたんに浮足だち、閉店のキリをよくさせるのにも都合がいい。  その明るい照明の中で、侑子はさっきから電話の前を離れないでいる。やや和風がかった調度で統一したかなりの広さの店の中に、ホステスが五、六人、落ちつかなそうにひとかたまりになって侑子の方を眺めていた。  また電話のベルが鳴り、侑子が素早く受話器をとりあげた。 「ああよかった、マサちゃんね。どう、そっちは……そう、それならいいけど、今日はいいわ。うん、欠勤扱いにはしない。この降り方は普通じゃないものね」  侑子はちらっとホステスたちをふり返り、 「六人ほど来てるの。どうしても連絡がとれなくてね。そうそう、あんた雪江ちゃんの新しい電話番号知ってるでしょ。すぐ連絡しといて。来ちゃうと可哀そうだから……うん、じゃあ、お願いね」  侑子は電話を切った。黒いズボンにゴム長をはいたマネージャーの柴野が侑子のとなりのスツールに軽く尻をのせ、黒い表紙の従業員名簿をカウンターの上に置いた。 「今のマサ子ですね。彼女から雪江に連絡がつけばこれで全部です」 「看板は消えてるわね」 「ええ」 「ここはビルの二階だし、そう心配はないけど、看板ぐらいはやられるかも知れないわね」  柴野はそれには答えず、 「どうしますか、あの子たち」  と出勤して来てしまったホステスたちを顎で示した。 「六人……あんたを入れて七人ね。無線車を二台呼んで、あんたも一緒に帰っちゃっていいわ」 「ママはどうします。タクシーはとても拾えそうもないし、下手をすれば電車もとまりますよ」 「何とかするわ。こういう時に限って面白半分に顔を出すお客がいるものよ。喜ばすつもりで来るんだろうけど、そうしたら適当に喜んでから送ってもらう」  侑子は悪戯っぽい笑顔で言った。 「なるほどね。そういうお客は当分逃げませんな」  柴野はニヤリとし、ホステスたちの方を向いて、 「さあ、送って行くぞ。東と西、車は二台だ」  と言った。侑子はまた電話をとりあげ、タクシー会社のダイヤルを廻しはじめた。  クラブ泉はそのタクシー会社では無理が通った。社長が常連だし、親会社の重役たちも侑子の後援会みたいなことになっている。すぐに配車の都合がついて、ホステスたちはマネージャーの柴野と豪雨の街へ出て行った。  ほとんど入れ違いにがっしりした体つきの男が、ガランとした店の中へ入って来た。 「あら、どうしたの」  白い背広の肩やすその辺りに黒っぽい濡れ跡を作っている男の体を見まわしながら、侑子は素早くカウンターの中へ入って乾いたタオルを差し出した。 「異常気象か……こいつは大ごとになりそうだな」  男は九谷栄介といい、陸上自衛隊の幹部将校だった。 「なんで……珍しいじゃないの、私服だなんて」  近頃では九谷たちはこの店へ来る時も堂々と制服姿で出入りしていた。九谷は黙って煙草をとりだす。侑子はカウンターの外へまわって形のいい指でマッチを擦る。 「お前こそなんだ。中国の女挺身隊みたいな恰好をしやがって」  侑子は紺のスラックスに雨靴をはき、男物のような長袖のブラウスを着ている。 「いくらなんでもこのお天気じゃお客なんか来るわけがないし、お店の子たちだっていつも通りに集ったら、帰すに帰せなくなっちゃうじゃないの……お休みよ、今日は」 「なんだ、今朝お前はそんなこと何も言わなかったから……」 「あら、誰かとここで待ち合せなの」 「ああ」 「なんだつまらない」 「どうして」 「この降りだから心配して迎えに来てくれたのかと思ったのよ。いいとこあると思ったのに、損したわ」  侑子は拗ねたように九谷の唇から煙草を奪り、カウンターに両肘をついて吸いこむと、棚の洋酒瓶に向けて細い煙を吹きつけた。 「こっちはそれどころじゃない」  九谷はつぶやくように言う。 「何かあったの」侑子は前を向いたままさり気なく訊ねた。  九谷とは同棲している。近い内正式に籍も入れる予定になっている。しかし、クラブ泉のマダムとしては、侑子は九谷を重要な情報源のひとつとして商売に役だてている。  侑子は以前、財界の大物、中泉脩一郎に囲われていた女である。その為に店を持てたし、有力な客筋にも事欠かないでいられる。……見返りとして、というわけでもないが、侑子は別れたあとも中泉にいろいろな情報を送りつづけていた。殊に防衛予算の拡大にともなう自衛隊情報は、中泉にとってもかなり貴重であるらしかった。  だがいくら夫婦同然の仲とは言え、九谷があからさまに喋ってくれる筈もなく、自衛隊内部の機密に関してだけは、客とマダムの駆けひきで聞き出すよりない。  だが九谷は黙って考え込んでいる。横顔をうかがうとかなり深刻そうだった。 「誰が来るの」  侑子は話題を変えた。 「西村だ」  九谷はカウンターの木目をみつめながら答える。 「なんだ。それならうちへ帰ってお飲みになってもいいんじゃない」 「そうもいかないのさ」 「莫迦みたわ。誰か物好きなお客が来て送ってくれると思ったのに」  侑子は本気でがっかりしていた。 「一杯くれ、呑めば客になる」 「冗談言わないで、あなたと西村さんじゃお勘定なんか取れっこないでしょ」  西村というのは九谷の同僚で、同じ陸上幕僚監部にいる。青山にある侑子のマンションヘも、のべつ出入りしている間柄だ。  侑子はそれでも愉しそうな表情になってスツールをおり、カウンターヘまわりかけた。すると九谷が考え込んだ表情のまま左腕で侑子をかかえ寄せ、男物のワイシャツのようなブラウスの膨みに右掌をすっぽりとかぶせた。侑子はふと、ひとけのない休日の教室を歩きまわっているセーラー服姿の自分を思い出していた。見慣れた店の中がひどく新鮮に映り、うきうきするような解放感があった。……で、唇を寄せる。九谷が吸い、侑子は眼をとじる。ごつい掌が左の乳房をシャツの上から押しあげ、ブラジャーをしていない乳首が、布の上からかなり強めに指でつまみあげられる。 「莫迦ね。西村さんが来るわよ」  侑子は邪慳に九谷の手を払った。カウンターヘ入りながら、一度この自分の店の中で抱かれてみたいと思った。 「何だ、休みか」  九谷にねっとりとした視線を送りながら、カティーサークのオンザロックをさしだした時、やはり珍しく私服を着た西村が入って来た。 「丁度いい。こっちへ来いよ。……侑子もう入口を閉めてもいいんじゃないか」  侑子は「そうね」と答え、同じものを西村の前へ置いてからドアを閉めに向った。ついでに階段を降りてビルの出口ヘ行ってみると、外は相かわらずのどしゃ降りで、通りの店々もほとんど看板をつけていなかった。もう三日もこの調子なのだ。  本所の母親の所へ電話をかけて様子を聞いてみよう……そう思い付きながら店に入り、ドアを内側からロックしてフロアーヘ戻ると、二人が深刻な顔でウイスキーをなめていた。 「とにかくもう少し情勢が決まるまでここにいよう」 「護桜会の連中は思い上っているんだ。それでなければこんな行動には出られんさ」 「実務家がいない。みんな夢想家ばかりだ。理想家というには間が抜けすぎているよ」  ……護桜会。侑子には耳慣れない言葉だった。九谷と西村はその護桜会を徹底的にけなし合っている。そのくせひどく深刻な表情だ。……これはかなりのことに違いない。侑子はそう思いながら近付いて行った。     2  この数年来、日本のジャーナリズムには、異常気象という言葉が定着していた。  暖冬異変で各地のスキー場が悲鳴をあげるのは例年のことになっていた。そのくせ西日本、九州などに時折りかなりの降雪があり、去年は大阪、名古屋に気象庁はじまって以来という大雪が降って、数日間都市機能がマヒした。  春あらしによる遭難も年中行事化している。救助隊の二重、三重遭難が度重なり、春山登山はまるで犯罪でもあるかのように批判されている。  そして冷夏、大旱ばつ、集中豪雨……。この傾向は昭和四十六、七年ころから顕著になりはじめていた。  学者たちは異常気象の原因を、地球が変動期に入ったことに求めている。地球は一九四〇年代から冷えはじめたらしく、世界各地のデータがそれを裏付けていた。  第四小氷河期。……昭和四十七年ごろ、学者たちはすでにその言葉をマスコミに発表していたが、毎年の異常気象にそれが一気にひろまったのは、この二、三年のことだ。  氷河期、氷河時代という言葉が流行し、この冬も氷河スタイルという新しい流行が、各デパートを中心に押しだされ、受けていた。  事実、異常気象は世界的な傾向だった。  中近東、インドなどの猛暑は各地で毎年千人以上の犠牲者を出し、爽やかなヨーロッパの五、六月は、異常な肌寒さに襲われるようになった。  そのくせモスクワなどでは六月に三十度を越す日があり、地球の大気循環のリズムは完全に狂いはじめたらしい。極辺の冷気と赤道附近の暖気が入りまじる今迄の大気大循環では、暖気北上の道と冷気南下の道がかなり安定していたが、どういうわけか、この数年寒暖交流の道筋が逆転しがちなのだ。  そのように第四小氷河期へ入りかけている地球の自然の中で、極東地域も一九六〇年ごろから寒冷化をはじめ、連鎖反応的に随所で従来の常識にない危険な気象現象を見せはじめている。  明治期には東京でもマイナス八、九度という寒い日が珍しくなかったという。その気候に戻ろうとし、そのために異常が頻発しているのだ。  寒冷化の原因はまだ解明されていない。  大気汚染による日射減少説も有力ではないし、太陽黒点説もまたかといった調子で、強い説得力に欠けている。  だがどちらにしても、この異常気象、とくに気ちがいじみた豪雨の被害は深刻だった。四十七年七月に高知県下で記録された七四二ミリは、豪雨による災害のベストテンの四位にランクされたが、それ以来似たような被害が続出して、今ではもう史上第何位という言い方すら、マスコミはしなくなってしまっている。それほど次々に悲惨な新記録が出ているのだ。  東京という都市がきわめて水に弱いことは以前から指摘されていた。冬は四、五十日も降らずに貯水池がひあがり、いったん降りだすと下町方面はすぐ水びたしになる。だがいつもギリギリの所で雨雲が動き、なんとか救われて来た。  関東の各河川の堤防が危いという噂は、そうした異常気象の中でだんだん強まっていた。特に北関東の開発が進み、山を削り木を倒し続けている状態は、下流の東京その他の市街地にとって、致命的な結果になると警告されている。考えようによっては、人口の都市集中は大自然の営みの一部であったのかも知れない。そのため人間一人当りの自然破壊量は最低に押えられ過疎地では自然が復活して下流保護に役立っていた。人口の平均化は一人当りの自然破壊量を一挙に増大させてしまう。人口をとり戻した過疎地では自然が大きく後退し、それだけ下流海岸部の都市が危険にさらされることになる。  いま、日本の太平洋岸には三つの有力な熱帯性低気圧が居すわっていて、大陸側の高気圧と複雑な運動をくり返している。東京の豪雨は三日目に入っていて、人々は不安な表情で降りやまぬ空をみあげていた。  環状七号などの立体交差部分は、地下に掘りさげられた道路に水が流れ込んで、すでに分断状態にある。地下鉄の排水機能もフル回転で限界に近づいている。  しかも雨は降りつづけ、山ぞいでは千ミリを超えてまだやむ気配すら見せていない。銀座もまるで人通りが減り、長い地下道のあちこちで漏水や溢水がはじまっている。車は水しぶきをあげて走り抜け、デパートのショーウインドーだけがうつろな華やかさで水溜りに光を反射させていた。  今も自衛隊の車輛が不気味に明るいライトをつらねて、その銀座通りを一列に走り抜けて行く。  どの河川も、濁流が渦を巻いて堤防を噛んでいた。水位は刻々と上りつづけ、人々は橋脚にぶち当る木材の音に怯えていた。  ことに利根川と江戸川が分岐する栗橋附近では、終戦直後に起った危機が再現されようとしていた。たしかに堤防は充分に補強されていた。記録にあるどんな雨量に達しても充分支え切れるだけの工事が施されていた。  しかし地球的な規模の異常気象による豪雨だった。山々は削られ、伐られて、まるでざるのように水をたくわえなかった。予想もしない勢いで水嵩がまし、消防団員たちが必死で土のうを運んでいた。  暗い堤防をサーチライトの光の輪がなめ、声も聞きとりかねる雨音の中で、男たちは夢中で働いていた。  黒いゴムの雨合羽を着た男が、土のうをかかえて堤防の途中で足をすべらせた。男はただ転んだにしては異様に大きな叫び声をあげ、黒いかたまりとなって堤防の下へすべって行った。まわりの男たちがそれに気づいてふり返った時、男は白い水しぶきの中をどこまでも転りながらもがいていた。  流されている……すべり落ちたのではなく押し流されているのだと気づいた時、男たちの足もとからゴオッという唸りが湧きあがった。さっきの男と似たような形で男たちが水しぶきの中に消え、サーチライトがその地点に戻った時は、激流が堤防の内側へ向って叩きつけてくるところだった。  白いさけめが黒い堤防にひろがり、人影が白いさけめに追われて必死に走っていた。全く同じことが始った。かつて物資の少ない餓えた町を襲った水が、今度はもののあり余る家々めがけてつき進んで行く。  雨は依然として横なぐりに降りつづけ、暗い空にも雨雲が渦を巻いて流れていた。堤防|決潰《けつかい》の報せが揺れ動く電線を走り、二、三分後には非常態勢をしいているラジオ局のスタジオヘとび込んで行く。 「ラジオが聞けるのはこれだけか」  クラブ泉のカウンターの中へ入りこんだ九谷は、ダイヤルをまわしながら侑子にそう言った。いつもなら専属歌手のセクシーな唄声が聞えてくるスピーカーから、空電音とアナウンサーの声がかわるがわる聞えている。 「レコードだって滅多にかけないんですもの」  侑子はカウンターに坐って眉をひそめた。 「車に一台トランジスタラジオを持って来ている。取ってこよう」  西村はそう言い、大股で出て行った。ドアのロックを外す音がした。 「ねえ、今夜何があるの……変だわ、あなたたちの様子」 「莫迦な奴らがいるのさ。憲法改正のクーデターを仕かけるつもりでいやがる」 「クーデター……」  侑子は低い声で言った。 「成功しっこない。どこにもおっちょこちょいがいるんだ。情況判断が甘いんだ」 「それが護桜会……」 「うん。中にはいい奴もいる。真面目だし、本気で掛っている。だが今やって何になるというんだ。俺たちのやり方とはまるで違うんだ。迷惑するのはこっちだ」  西村が戻って来たらしく、ラジオの音が近づいてくる。  ……十二分ごろ、国鉄栗橋駅近くの利根川にかかる鉄橋附近の堤防が決潰し……。 「おい、ひどいことになったぞ。利根川が切れた」 「うん、聞いた。こいつは例の……何だっけな。キティ台風か。あれと同じじゃないのか」 「キャスリン台風だろう。たしか昭和二十二年だ。俺はあの頃東京にいた。疎開から帰ったばかりで中学一年生だったな」  西村がそう言い、ラジオをカウンターの上へ置いた。九谷もカウンターの外へ出てスツールに戻る。二台のラジオが別々に洪水のニュースを読みあげている。 「どの車持って来たんだ」  九谷がそれを聞きながら訊ねた。 「CACの例の奴さ」  すると九谷は侑子の肩に手をのせ、 「どうだ侑子、おかげでお前を凄い車に乗せてやれるぞ」 「どんな車なの」 「ふつうのシボレーだ、外見はな」  西村も得意そうに侑子をのぞきこんだ。 「要人護送用の特別車だ。防弾ガラスに鋼鉄ボデー……装甲車なみだよ」 「アル・カポネね、まるで」  男たちは声をあげて笑った。 「しっ……」  侑子が手をあげ、男たちが凍りついたように動きをとめた。  ……首相官邸へ陸上自衛隊の一部隊が乱入した模様です……。  アナウンサーが甲高い声で言った。     3  都庁。都知事室。 「何だって、本当かい、それは」  知事は大声で言い、立ちあがった。 「どうしましょう」  しらせにとび込んで来た男は頼りない声で言った。 「どうしましょうと言ったって君……」  都知事は絶句し、窓の外を見た。叩きつける雨に外の灯りが、複雑に歪んで見えるだけだった。 「クーデターだよ。それで規模はどうなんだ、規模は。閣僚はどうなんだ。首相はどうしてる」 「何しろこの天候ですから」 「クーデターだよ、クーデター。雨がなんだ。しっかりしてくれよ」  電話が鳴った。男は救われたようにそれにとびつく。 「はい知事室です。……はい」 「誰からだ」 「今川先生からです」 「貸しなさい」 「もう切れました」  知事は一瞬肩を怒らせて唇を噛んだ。 「それで」 「おたくが襲われたとか……そのひとことだけです」  知事はさっとデスクを離れドアヘ大股で歩きだした。 「どちらへ」 「今川さんは、僕の自宅へ連中がやって来たと言っているんだよ」  そう言って知事はドアの前で立どまり、ふり返って急に気の毒そうな表情を泛べて男を見た。 「僕の自宅が襲われたということは、各閣僚の所にも行っているということだろう。たまたま今日は出先からここへ戻って来たので助かったらしい……昭和史を勉強するんだね、もう少し」  知事はそう言い、さっとドアから消えた。 「水害対策はどうなるんです。対策は……」  男は走りながらそう叫んだ。 「知事室を臨時によそへ移すよ。こんな騒ぎの中で莫迦どもにかまっちゃいられない。まったくあのロクでなしどもが。とうとうはじめたんだ。決潰したんだ。はじめから平和憲法という土手を切ってしまう気だったんだ。自衛隊なんかはじめから作らせなければよかったんだ。何度同じことをやったら気がすむんだろう」  知事は廊下を小走りに進みながら、呪いのことばをつぶやいている。  侑子はレインコートを羽織ってクラブ泉のドアに鍵をかけていた。九谷と西村が階段の途中でそれを待っている。 「さて、お手並拝見と行くか」  侑子が階段を降りはじめると西村がそう言った。 「やあねえ、男って」 「どうしてだ」 「喧嘩っていうと嬉しがるの……いくつになっても子供みたい。アル・カポネみたいな車に乗って得意がるし」  西村は笑いながらひと足さきにビルの出口ヘ行き、雨が叩きつけている暗い道へ体をのり出して合図した。 「心配する程のことはないんだ。護桜会というのはほんの少数のはねあがりグループで、クーデターってほどのことはできやしないのさ」 「じゃなぜとめないのよ。知ってたくせに」 「そこが男の義理ってもんさ」  西村が大声で言った。雨音がその声さえかき消そうとする。 「義挙でございますよ、奥様」  バックして来る車を待ちながら西村は侑子の顔を近々とのぞきこんで言った。  黒いシボレーが停まり、九谷がドアをあけるとさっととびこんで、侑子に手をさしのべた。手を引かれて侑子も雨の中をひとくぐりし、車の中へ入った。西村がそれに続き、バタンとドアが閉った。 「いや……」  侑子は両方の耳へ指をつっこんで叫んだ。 「ごめんごめん。窓を少しあけとかなくちゃな」  西村が運転席の若い男の肩を叩きながら言った。 「失礼しました。雨がひどいのでつい……」 「完全な気密室になっているんだ。有毒なガスの中でもしばらくの間なら平気で走れるのさ。こんな車に乗るなんて、滅多にできないことだ。耳が少しくらいどうかなったって我慢しろよ。そうだ、もっと唾をのみこんで」  九谷はなぜか上機嫌になっていて、侑子にいやに優しかった。 「余りスピードは出せませんが、よろしいですか」 「いいよいいよ、ゆっくりやってくれ。重要人物をおのせしているんだからな」  西村も幾分おどけ気味だった。侑子には男たちの真意が掴めなかった。 「永田町へ行くなんて、危くないの……」 「女連れだ、検問があっても黙って通すさ。でなけりゃ引っ返せと言われる程度だ」 「何だか知らないけど、あんたたちなれ合いで何かしてるみたい。ほんとにクーデターなの」  侑子は九谷の方へ体を寄せて低い声で言った。 「気にするな、そんなこと」  九谷は左手で侑子の腿の辺りを叩いた。位置が意外に高く、侑子の膝がスラックスの中でひくりと動いた。手はそのままの位置に置かれている。 「ラジオ……」  西村が命じた。車は銀座の裏通りを抜け出し、広い道を土橋に向っている。  カーラジオがついた。しかしそれは通常の放送を受信しているのではなかった。半分は英語だ。それも暗号のような略語が多い。侑子にはさっぱり意味が通じなかった。しかし、それが自衛隊の専用波長を受けていることだけは察しがついた。 「まるで駄目だな、これじゃ」  西村は失笑したようだった。 「命がけのクーデターごっこだ」 「義挙のたぐいはいつだってそうさ。観念的な意味だけだ。護桜会の連中は結局無駄に散るだろう。だが意味は大きい。すて石だ。大きなすて石だ」 「どういうことなの、それは」  侑子は中泉脩一郎の為にぜひともそれを聞き出したかった。甘えて、ブラジャーをしないバストを思いきり九谷の腕に押しつけ、脚を組んだ。九谷の手が柔らかい太腿にはさまれ、しかも西村の目から隠れてしまう。 「さっきも言ったろう。自衛隊はいつまでも自衛隊でいてはいかんのだ。はっきり軍と呼ばれるようにならなければいけないのだ。日本の将来がそれを必要としている。俺だって西村だってその点では焦りを感じて来た。しかし、もっと気の短い連中がいる。連中は待ち切れなくなったんだ。かつて、沖縄が戻らなければ戦後は終らないといわれた。しかしあれは間違いだ。憲法改正が行なわれなければ戦後は終ったことにならない。敗戦国憲法からぬけ出さぬ限り、新しい日本はあり得ない。今度の防衛予算にからんで、そうしたことに火がついたのさ。護桜会は待ち切れなくて蹶起したんだ。しかし残念ながら俺たちはそれに同調するわけにはいかんのさ。俺たちはもっとしっかりしたスケジュールに従って動いている。まだ時期は来ていないんだ」 「警察を入れてみろ」  西村が言い、ラジオの音が変った。今度は侑子にもよく判る警察無線だった。 「今度のは失敗だけど、あなたたちがいずれ立ち上る時の為にはなるというわけね」  侑子がそう言うと、九谷の指がかすかに動いて、男の微妙な心理を伝えて来た。  いとしい奴……指はそう語っているようだった。装甲を施した乗用車に乗って警察や自衛隊の電波を思いどおり捉えている。あたりが不気味な吹き降りだけに、九谷の頼もしさが侑子の心に沁みわたった。 「睡くなったわ」  侑子はうずきはじめた女の官能を守り育てるように、そしておしかくすように、あからさまに九谷にすがりついて顔を埋めた。 「女ってのは図太いもんだな」  西村が大声で笑った。 「嵐で堤防が切れる、クーデターが起る……そんな中で睡くなったと来た。いやもう全く」  車は右折して国会議事堂へ一直線の道に入っている。 「丁度いい。しばらくこうしていろ。これならどう見たって銀座の帰りだ」  九谷は半分は西村に言いわけをしているようだった。運転をしている若い男が、ハンドルから片手を離して、白いカバーのついた帽子をかぶった。 「お前のその帽子似合うよ。海上自衛隊へ行けばよかったんだ」  西村は侑子と九谷に遠慮したらしく、前のシートに上体をあずけ、ハイヤーの運転手然とした白い帽子をみながらそう言った。侑子は右手で九谷の腕を抱き、左手を白いスーツの襟のあたりに動かしていた。 「あ……」  九谷にだけ聞える声で、侑子は左手の動きをとめた。侑子の手の下に重く堅い物があった。 「なに、これ」  そう言ったとたん、拳銃だと気づいた。 「やだ、西村さんも持ってるの」  侑子はさっと体を起し、前のシートによりかかっている西村の上着の裏へ手をさしこんだ。ひんやりとつめたいものに触れた。二人とも要するに兵隊なのだと思った。     4  侑子を乗せた車は、その夜都心の主要な場所をぐるぐると走りまわった。九谷たちは車のラジオで状況を知るばかりでなく、あとになると時々送信するようになった。二人があらかじめ銀座あたりに待機していて、護桜会とやらの行動開始のあと、その動きを観察しに出たことは明らかだった。途中から装甲乗用車は移動指令車に似たものに変り、護桜会の跡始末をはじめたらしい。  この男たちは何もかも計算しつくしていたのだ。……侑子がそう覚《さと》ったのは、車が丸の内のビル街へ入った時だった。巨大化する防衛予算を吸収し、兵器産業の中心となっている企業グループのメッカともいえるその一角のビルには、すでに深夜近いというのに煌々と灯りがともり、完全武装の兵士たちが豪雨を避けて待機していた。戦車がビルの谷間の道に並び、幌をかぶった軍用トラックが列を作っていた。  九谷たちはそのまん中に乗り入れ、ビルのひとつに駆け込んでしばらく出て来なかった。車にとり残された侑子のすぐ傍に、雨に濡れ光る戦車が停まっていた。  侑子は戦車というものをそれほどまぢかに見たのははじめてだった。そして、そのとほうもない逞しさにうっとりとした。げんこつのように先にこぶのついた砲身を、言いようもなくエロティックなものに感じた。九谷の匂いがこもる閉め切った車の中で、侑子は九谷に抱かれたさまざまな夜を思い出していた。この圧倒的な強さに善悪をこえて身をまかし切る……それこそが女の本当のしあわせではないかと、侑子は戦車を凝視しながら考えていた。ずっと昔、若い男の操るオートバイのうしろに乗せられ、その腰にしがみつきながら味わったのと同じ、あの一種棄て身な陶酔が湧きあがって、侑子の体は浅ましいほど潤っていた。  最近の若い男たちの間に、制服や兵器に対する人気が爆発的に高まっている理由が、なんとなく判るような気がしていた。セクシーなのだ。平和に飽きた人間の心をわき立たせる何かがあるのだ。絶対服従という軍隊のルールさえもが、禁欲的なかっこよさにつながっている。……戦車の横で、侑子はいつの間にか異常な豪雨を恐れなくなっていた。  しかし、現実にはそのとき雨量がいっそう増していた。江戸川と荒川放水路の間の土地へ押し寄せた濁流は、刻一刻と東京へ近づいていた。そして悪魔的な気象条件が、その洪水の上へ更に記録的な雨量を叩きつけている。  九谷と西村がビルの入口に現われた。二、三人の将校がそれを見送りに出て、さっと挙手の礼をした。敬礼を軽く受けて車に向う二人は、私服姿だけに一層えらく見えた。西村も九谷も、雨の中を走ろうともせず悠然と近づいて来た。侑子は中からドアをあけてやった。 「何よ、貫禄つけちゃって……ずぶぬれになっちゃったじゃないの」  侑子はそう言いながらも、自分の男に満足し切っていた。以前のパトロンである中泉脩一郎では、絶対に味わえなかった充実感だった。侑子は九谷を鋭利な刀のように感じ、自分をその鞘だと思った。なんとかして西村を帰し、今夜は自分のベッドで九谷のその刀を心ゆくまで鞘に納めてしまいたかった。……中泉の時は自分が暖かく柔らかなポケットヘしまわれる感じだったのに。  その頃、クラブ泉のマネージャーの柴野は、総武線新小岩駅の近くの温泉マークで、ホステスの君枝を抱いていた。 「莫迦野郎。そんな下らねえ男と別れちまえよ」  二度目だった。君枝は煌々と蛍光灯のともる部屋の中で、細いがバネのきいた柴野の体に釘づけにされて喘いでいた。 「好きよ。好きなの」  君枝はうわごとのように言った。 「こんな田舎の店にいるコックの見習いのどこがいいんだ」  両手首を男に押えられ、君枝は白いシーツの上に貼りついたようになって下半身をうごめかせている。 「めちゃくちゃにしちゃって……」 「聞いた風なことを言うじゃねえか。そいつはどんなことをする。いつもやるのを言ってみろ」  柴野は動きをとめ、焦らすようにさしつらぬいたまま押えつけて言った。顔をあげ、安っぽい室内に眉をひそめるだけのゆとりがあった。君枝は完全に男の体に酔っていて、目をとじたまま生つばをのみこんでいる。 「言わねえかよ。同じようにしてやるからさ。そんな野郎とどっちがいいか判らせてやる」 「こ……こ、し」  君枝はかすれ声で言い、押えつけられた手をさげはじめる。 「なんだ、これか」  柴野は莫迦にしたように鼻を鳴らして君枝と胸を合わせた。体重がモロに女にかかり、男の両掌が柔らかいうしろの肉を歪ませる。 「ああ……」  女はこもった声で叫んだ。 「こうだろう」  男の体が烈しく動きはじめた。 「別れちまえ、俺が責任をもつ」  柴野は動きながらささやきかけ、女はすすり泣きをはじめた。 「おとうさん、逃げてくださいよ」  中川の土手で男が叫んでいた。その男は土手のすぐ下にある山崎計測器工業の社長だった。土手の下の闇の中に懐中電灯のあかりが動き、やがて老人が一人あがって来るのが見えた。 「駄目か、どうしても……」  老人は土手の上へ這いあがってそう言った。どしゃぶりの雨の中で、川の水が規則的に堤防の上を越えはじめていた。 「運です。こうなったら……この分じゃどこかが切れずにはいられないでしょう。向う側が切れればこっちが助かるし」 「俺は二十二年の時のことをよく覚えている。栗橋の水は明日になるとこの辺まで来るんだ」 「ここだっていつ切れるか判らないんです。早く避難して下さい」 「なに、ここは大丈夫さ。下に俺の工場がある。ここがやられれば工場は全滅じゃないか。そんなことはあり得ない。そんなことはあり得ないさ」 「駄目ですったら、早く行ってくださいよ」 「いや、俺はここにいる。俺の築きあげたものがあるんだ。やられるなら最後を見届けてやる。畜生め、やれるもんならやってみろ」  老人は土手の上に仁王立ちになって川を睨んだ。しかし目の前の堤防を越える水の間隔はみるみるつまり、すぐ滝のように間断なく土手下へ流れはじめた。男は老人に組みついて叫んだ。 「駄目です。土が流されています。お父さん、逃げましょう」  堤防の上の土が、男の言うようにそぎ取られて下へ流れ落ちた。二人はもつれ合うようにして奥戸橋のほうへしりぞいて行く。 「畜生、莫迦野郎。何だって今頃こんな目に会わなきゃならんのだ」  土手が揺れ、川が流れを変えたように見えた。濁流がひと息、ふた息、息をつくように休み奥戸の町に流れ込み、三度目からは一気に工場めがけて崩れ落ちて行った。  橋のほうで、ウオーッというどよめきがした。土手の上の人々は両側を黒い流れにはさまれて、あわてて対岸へ橋の上を走って行った。  都心は制服で溢れていた。自衛隊と機動隊が至る所にかたまっていて、ずぶぬれの隊員たちが時々走り抜けるジープや軍用トラックのはねあげる泥水を浴びている。風が強まり、あちこちで看板が音をたてて割れた。  そんな中で空が白みはじめ、やがて四日目の朝を迎えてやっと雨が小降りになって来たようだった。 「どうしよう。ねえ……どうしよう」  モルタル二階だての温泉マークの物干台の上で、ホステスの君枝はマネージャーの柴野が持っている傘の中へ身を寄せながら、また同じことを言った。  どういうわけかすぐ目の前の「旅荘」という看板の電気がつきっぱなしになっていて、二人の姿がそのあかりの中に浮き出している。 「お前がドジな所に住んでやがるからさ」 「でも助かったわ。私たち平屋のウチに間借りしてたのよ。きっと今ごろは屋根まで水につかってるわ」 「どうでもいいけど、みっともねえっちゃありゃしねえや」  柴野がボヤいた。昨晩情事これあり候、と札をつけたような男女が、さかさくらげの屋根にとり残され、看板の光に照らし出されているのだ。 「平気よ。もうこれ以上は来ないでしょ」 「どうやって帰るんだい。水が引くまでここで傘さして立ちんぼか……糞っ」 「自衛隊かなんかが舟で助けにくるわよ。みんな屋根へあがってるんですもの」 「全くこの辺にはビルもねえんだからな」 「財産みんな水につかっちゃったわ。ねえ、助かったらあなたのウチヘ泊めてくれるわね」 「そうもいかねえよ」 「やだ……そんなのないわよ」 「なんとかするけどウチはまずいよ」 「誰かいるの、高円寺のアパートに」 「そんなことはないけど……参ったな、この雨じゃ」  柴野は空をみあげて憮然とした。     5  都知事室。 「いえ、僕は無事でした。丁度出先で決潰を知ったものですから、都庁へとんで帰ったところだったんです。自宅のほうを襲われましてね。……ハイ、大蔵大臣と首相が最後まで監禁されていたらしいんですが、他には大したことがなかったらしいんです。余り規模の大きいものではなく、ごく一部の急進派が動いただけのようです。向うの部内でも反対がかなりあって、結局自衛隊同士でけりをつけてしまいました。……さあ、護桜会、桜を護る会と書くんだそうですが、それについてはどうなったのですか、テレビやラジオのニュース以上には知らされていませんので……一部には自決したという噂もあるようですが、よく判りません」  知事はそう言って額の汗をハンカチでぬぐった。雨はやんだが湿気を含んだ風がかなり強く吹いていて、部屋の中はひどくむし暑い。 「そういうわけでして、一時ここから避難したもので連絡をおとりになりにくかったと思いますが……そうですか。それではそのままで、ちょっとお待ちください。神奈川県知事を呼出してみますから」  都知事はそう言って傍の男たちに目くばせをした。淡いブルーの電話機のダイヤルがまわされ、電話がスピーカーに切り換えられた。 「神奈川県知事がお出になりました」  職員の一人がそう言い、デスクの上のマイクを外して都知事に渡した。 「いま埼玉県知事から電話が入っていますので、一緒にご相談いたしたいのですが」  二本の電話が都知事の前に集って、三人の革新系知事が協議をはじめた。  本田署の刑事が京成立石駅から署へ行こうとはだしになって歩いていた。靴を透明なビニールの袋にいれ、下水からじわじわと湧きあがってくる泥水の中へ思い切って足をふみ入れた。 「こんちは。ひどいことになったもんだね」  顔見知りの商店主らしい男が自転車を押して行くのと一緒になると、ざぶざぶと水をかきわけながら言った。 「思い出すねえ、昔を……」 「昭和二十二年の九月だっけなあ」 「あのくらい来るかね」  商店主は左手で胸の辺へ線を引きながら言う。 「今度のほうがひどいって話だよ」 「参っちゃうな、全く」 「今の若い連中はこの辺の低い高いがのみこめてないだろうから、まごついてるんじゃないかなあ」 「そう言えばそうだな。俺たちは昔のを知ってるから、どの辺がいちばん深くなるかだいたいの見当はついてるな」 「小学校のあたりから急に深くなるんだ。あの辺がいちばん低いんだよ」 「それにしても昔はこんなに油がひどくなかった……」 「そりゃそうさ。ガソリンもろくになかった時代だ」  二人は油膜の張った水の中を、すでに膝の辺りまでつかりながら進んで行く。 「奥戸側で切れてくれたんでこっちは幾分たすかったよ」 「綾瀬川がやられたんじゃどっちにしたって同じこった」 「奥戸のは山崎というメーター工場の裏で切れたんだってね」 「ああ……」  刑事はぶすっとした顔でうなずいた。 「気の毒に、あそこのじいさんは釣りクラブの会長だっていうけど、てめえが水ン中へ入っちまっちゃったんじゃ、まるで魚に仇うちされたみたいなもんだ」  二人は膝頭をかすめる水を天災とあきらめ、被災者のわりにはのんきな会話を交していた。だがその頃、荒川放水路の西岸、堀切の辺りの堤防に危険な一団がうごめいていた。  都庁の一室。 「何だって……」 「冗談じゃないぜ」  男たちが仕事もそっちのけで激昂した大声を交していた。 「自衛隊の出動要請だなんて、うちの知事がそんな莫迦な」  穏健な平和運動の拠点をもって自任し、革新系知事を先頭に機会あるたび、反戦、反軍国主義運動を展開して来た男たちは、蒼白な顔で知事の決定にうろたえていた。 「皆さん、これは全くやむを得ない処置なのです。いま荒川以東の都内に、数十万の都民が救援の手を待っているのです。各区長からも自衛隊の出動を強く要請して来ています。都が要請しないなら独自に呼ばねばならぬと言って来ています。昨夜のクーデターは幸い自衛隊自身の手によって無事回避され、未遂に終っています。埼玉、神奈川の各知事もすでにこの決定に従い、自衛隊の救援活動を要請している頃です。主義はどうあれ、まず都民の生命と財産を守ることが我々に与えられた義務です。この私の苦衷をお汲みいただき、この非常事態に全員一致して対処してくださることを望みます……」  スピーカーから流れ出る庁内放送の知事の声は、ひどく歯切れが悪かった。 「ああ……」  誰かが大きな声でわざとらしいため息をもらした。 「これで終りだよ。何もかも」 「自衛隊さまさまだ、新国防軍誕生か。俺も防衛庁へ行ってりゃよかった」  庁内のあちこちにそんな失望の声が聞えた。  大量のダイナマイトが点火され、轟音とともに荒川の濁流が、それでなくてもゼロメートル地帯と呼ばれる江東地区へ流れ込んでいた。堤防を破壊した若者たちの姿は、すでに家なみへまぎれ込んで影もない。  水はあっという間に墨田区北部から江東区へ向ってひろがって行く。寺島、向島、本所、亀戸、菊川、猿江、大島……。あの絶望的な時代にも冠水をまぬがれた町々が、繁栄を世界に誇る今日、みるみる泥水に呑まれて行くのだ。横川、竪川、十間川と、十文字に交差した下町の掘割りがあっという間に膨れあがり、ゼロメートル地帯をのみこんでしまう。 「瓶なんかいいの、瓶なんか。濡れてダメになる物をさきにちょうだい」  錦糸町にほど近い小さな酒屋の奥で、侑子の母親の澄江がヒステリックに叫んでいた。彼女はこの酒屋の持家の昔からの店子で、酒屋がその土地を、一階が店舗の下駄ばき鉄筋ビルに建て替えてからは、その二階を借りて住んでいた。つき合いが古いから家族同様で、酒屋の二人の息子を叱りつけて必死に荷物を運びあげている。その間にも水は前の道路の側溝からしのび出し、今は歩道をひたしかけている。  青山のマンションで、侑子が脂の乗り切った素肌を惜し気もなく九谷の目にさらしながら、甘えていた。 「ねえ、行かなくていいの……ほんとに」 「いいか侑子。俺はこんな事でとんで行かなきゃならん程安っぽい軍人じゃないんだ。こんなことぐらいほかの若い連中が始末するさ」 「だって荒川が爆破されたんでしょ」 「もう水はひろがってしまってる。それにしても莫迦なことをする連中がいるもんだ。なんとお礼を言っていいか見当もつかんよ」 九谷はまた天井を向いて大笑いをした。 「護桜会といい、異常気象といい、そしてさっきの愚かな過激派といい……まったく天はみずから助くるものをたすくとはこのことじゃないか。ええ侑子、考えてもみろ。反戦知事が我々に助けを求めた上、何十万、何百万という日本人が水の中で反戦主義者を今ごろは心の底から呪っているんだ。俺たちはやるぜ。大手を振って先頭を歩いてやる。日の丸の旗を持った連中に見送られてみせる」 「それでどこへ行くの」  九谷はギョッとしたようにベッドの上に腹ばいになった侑子の裸の背中を眺めた。 「もののたとえだよ」  侑子はだるそうに枕に顔を押しつけたまま、九谷が出かけたら中泉脩一郎に電話をしようと思っていた。……パパはきっとまた、この情報を喜んでくれる、侑子はそう思い、愉しそうな顔で寝返りをうった。  酒屋のビルの屋上で、侑子の母の澄江は、みごとに、地表をおおいかくした泥水の色を眺めていた。薄日がさし、風もやんでいた。 「ここにいてもしようがないよ。侑子の家へでも置いてもらおうじゃないか」  年下の夫に言われ、澄江は素っ気なく答えた。 「嫌だね、私は」 「なぜだい。お前だけでも行けばいい」 「兵隊の舟にのって兵隊の亭主がいるウチヘかい。いやなこった」 「そんな好き嫌い言ってるときかよ」 「嫌なもんは嫌。私はね、そんな忘れっぽい女じゃないんだよ。兵隊はこりごりさ。顔を見るのも傍へ寄るもいやだよ」  年下の夫は肩をすくめ、澄江と並んで泥水の町を眺めはじめた。 「お前はよっぽど兵隊に嫌な思い出があるんだな」 「あたり前さ。あいつら人殺しが商売だもの」  明日は晴れという予報が出ていた。  クーデター     1  空の青く澄んだ、風の爽やかな日だった。 「日本晴れっていうのはこういう天気のことを言うんだ」  ゴルフ場へ向う、よく整備された道を行く車の中で、白い上着を着た中年の男が言った。  となりで運転しているのは二十四、五の若い男で、やはり白い上着を着ている。 「外国にはこんな天気はないんですかねぇ」 「どうして……どこの国にだって雨の日もあれば晴れの日もある。こういういい天気だってたまにはあるだろうさ」  中年の男が言うと若いほうは前を向いたままニヤリとした。 「じゃ、世界中に日本晴れがあるんだ」 「…………」 「大したもんですねえ、日本ていう国は。世界中のいい天気はみんな日本晴れ」 「うるさいよ。人のあげ足ばかりとりやがって」  行く手にゴルフ場のクラブハウスの屋根が見えはじめ、その右に富士山がくっきりと姿をみせていた。  ゴルフ場の入口にはずらりと高級車が並んでいた。若い男はその前で急にスピードを落すと、 「何だか知らないけど、今日は凄いお客が集ってるらしいですよ」  と並んだ車を見ながら言った。 「なる程な。道理で注文がやかましかったわけだ」  中年の男はうなずきながら言い、ポケットから伝票をとりだすと、あらためてその符牒のような品名と数字に目を通した。  車はクラブハウスの裏へまわる。車をとめると二入はうしろへまわって、ジュラルミン製の両びらきのドアをあけた。冷えた脂の匂いがあたりにひろがって行く。  調理場のドアがあいて、きつい目付きのコックが車のほうへ近寄って来た。二人はそれに気付いて丁寧に挨拶した。コックは若い男がかかえた大きな肉のかたまりを指でつつき、 「大丈夫だろうな」  と言った。 「まかしといてくださいよ。東京の一流どこだって、急に言われてこれ程の肉をすぐ届けるなんて、そう簡単にできるもんですか。ウチは伊豆じゃあ一といって二とさがらない……」 「わかった、わかった。早く持ってってやってくれ」  コックはそう言い、若い男は肉のかたまりを両手にかかえて、調理場のドアヘ、小走りに向った。 「何だか凄いお客様のようですね」 「こっちもたまげてるのさ。どういうわけか財界のおえら方が全部集っちゃったんだ。可哀そうなのはマネージャーさ。今日、明日のお客さんを全部断わらなきゃならないんで、電話にしがみついて泣声だしてる」 「へえ……そんな急に」 「そうなのさ。どういうんだかねえ」 「それにしてもえらいもんですね。お金持が遊ぶ時は天気までこのとおりだ」  肉屋のおやじは肥った腹をつき出して、抜けるような青空を眺めた。  コースにはすでに色とりどりのシャツが動きはじめている。家族づれで来た客もかなりいるらしく、クラブハウスの辺りからは女の笑い声も聞えていた。  同じ頃、東京渋谷に程近い玉川通りに面した牛乳屋の店先で、配達から帰って来た店主が、店番をしている妻に向って言っていた。 「お前、今朝の新聞読んだか」 「まだですよ。そんなひまなんかあるもんですか」 「そうだろうな」  牛乳屋はつぶやくように言い、靴をはいたまま、店から座敷の中へ両膝をついて体をのばし、新聞を引き寄せた。 「何ですねえ、子供みたいに」 「おかしいんだよ。また大きなデモでもあるのかなあ」 「機動隊……」 「ああ、そうだよ。ここんところ、機動隊の出番も余りないようだったけど」  牛乳屋は新聞をひろげ、バサバサと気ぜわしく音をたてながらページをめくる。 「書いてないな」 「夕刊でしょ、何かあるなら。……でも久しぶりねえ、そう言えば」 「そうさ。久しぶりだな、大橋の第三機動隊が出かけるのは」  その牛乳屋には長年の経験で機動隊が出動準備をはじめるとすぐ判るのだった。まず第一に牛乳の需要が急に増える。いつもの量の倍近くを運ぶことになるのだ。それに剣道や柔道などの稽古の声が急にしなくなる。独身隊員は全員寮に合宿しているが、出動の前には近所をぶらつく隊員の姿が一斉に消える。  機動隊には突発的にとび出して行くということが余りない。たいていかなり前から出動の気配があり、ラジオを入れるとデモのための交通規制などの情報があるので、それでなのか……と納得できるのだ。  牛乳屋は朝刊を部屋の中に投げこみ、「判らねえ」と言って仕事に戻った。  何の為の出動準備か判らないのは、その態勢に入ってからすでに十六時間以上を経過した隊員たちも同じことだった。平隊員はもちろんのこと、巡査部長の分隊長も、警部補である小隊長も目的を知らされていなかった。ひょっとすると、警部も警備部長もまだ知らされていないのかも知れない。  その日の昼近く、原宿のNHK放送センターでディレクターの一人が、技術部の黒板を見ながら首をひねっていた。 「どこへ行っちゃったんだろう」  その黒板には部員の行先が記入されているはずだった。しかし名前の下の記入欄はブランクで、「会議」と書いた札が誰のともつかぬ様子で、黒板の下のほうに斜めに貼りつけてあるだけだった。 「これじゃ打合せもできやしない」  ディレクターは口をとがらせて言い、部屋を見まわしてそのセクションのチーフの姿を探した。だがチーフも見当らなかった。 「朝たしかに来てたの見たんだけどなあ」  ディレクターはぼやきながら廊下へ出た。 「どうした、不景気な顔して」  エレベーターヘ向って歩きはじめると、向うから仲間の一人がやって来て言った。 「技術に逃げられちゃったんだよ。どこ探しても居ないんだ」  すると相手は足をとめ、 「へえ、お前もやられたのか」  と言った。 「お前もって……似たような目に会ってるのか」 「いや、俺んところはなんでもないが、美術が消えたり、アナウンサーが消えたり、ほうぼうで朝っから蒸発がはやってるんだ。何だか知らないが、そっちばかりじゃないんだから、安心して穴のあくのを眺めてたほうがいいぜ」  そう言って無責任に高笑いされ、ディレクターはいっそう、うんざりとした表情になった。秒を追う仕事をしていると妙に縁起をかつぎたくなるものだ。本番の時のアナウンサーのちょっとしたトチリ、キューのタイミングのズレ、大道具が立てる物音……ささいなキッカケで連鎖反応が起り、思わぬ失敗に結びついて行く。だから現場の責任者としては、事前の手配や手順の中にあらわれる不吉な匂いに敏感にならざるを得ない。  だが彼がデスクヘ戻ると、もっと嫌なことが待ち構えていた。 「大変だよ。スタジオ変更だ」 「まさか」  ディレクターは蒼くなった。それでなくても技術部員の行方不明でもたついているのに、いつものスタジオを外されて、急に不慣れなスタジオに変えられるというのは、決定的な凶兆だった。 「本当だよ。すぐ文句言ったが駄目さ。副調整室にトラブルがあるから直るまで閉鎖だとさ」 「見てくる」  ディレクターは部屋をとび出してスタジオヘ駆けつけた。準備したセットが運び出されるところだった。 「どうしても駄目なんですか」  ガランとしたスタジオのまん中に突っ立っていた部長に言うと、彼は不機嫌な顔で返事もせずに出て行ってしまった。 「冗談じゃないよ。これじゃ、うまく行くわけがない」  ディレクターがつぶやきながら、そのあとについてスタジオを出ると、扉が二人のガードマンの手で閉められた。  おかしい……そう思ったのは、ガードマンがスタジオの閉った扉の前に立ったからだった。副調整室の故障なら、そんなことをする必要は全くないはずだった。……何かとんでもないことが局内に起りはじめている。ディレクターはそう感じ、センターのあちこちを走りまわった。  ほうぼうのセクションから姿を消したスタッフは、優に番組を二つまかなえるだけの内容を持っていた。おまけに、彼がそれを夢中で調べている間に、機材が閉鎖された筈のスタジオヘ運び込まれていた。     2  寺本、という表札の出た豪壮な邸の門を、若い男が入って行く。この家の四男の寺本克雄だった。  克雄はいま大学の四年。父親は政府閣僚の一人として大臣の椅子についている。 「何だ、おやじまだいるのか」  車を磨いている運転手に声をかけた。 「ええ、朝からずっと……」  三村というその男は気弱に目を伏せて答えた。出かけりゃいいのに……と喉まで出かかったのを呑みこんで、克雄はポーチのついた古い母屋の玄関へ入った。 「お帰りなさい」  お手つだいの若い娘が頭をさげたが、出迎えたのではなく、丁度廊下を通りがかっただけだった。克雄は階段を登りながら、この時間父親がいるのは珍しいことだと思った。  寺本雄造はもう何度も大臣になっている。たしか今度で四回目だった。彼がいると新聞記者がつめかけ、陳情やら何やらの面会者がひきもきらなかった。その為に新しく離れをたて増し、克雄は滅多に父親と顔をあわすことがなくなった。  それが今日はずっと家にいる。いつもならとっくに車をつらねて出掛けている頃なのだ。克維はちょっと好奇心を起し、自分の部屋で上着を脱ぐと、カーディガンを羽織って離れをのぞいてみることにした。  離れにも湯殿と台所がついている。古い母屋から新しい廊下が、その台所の前を通って伸びていて、秘書の事務室のようになっている洋間に一度突き当ってから、離れの玄関へ出る。  その秘書の部屋の前で克雄は立ちどまった。 「……そういうわけで先生は、今日ご出席になれませんので、皆様にはあしからずおつたえください。……はあ、それはもう重々承知しておりまして……まあ、とにかくお待ちになっていらっしゃる皆様も、一両日後にはなぜ先生が欠席せねばならなかったか、充分にご了解いただけることと思いますので、ここのところはひとつ、主催者であるそちらからお詫びをいただいてお引きとり願うと、そのように取りはからっていただきたいのです」  秘書は何やら懸命に断わっているようだった。奥のほうから新聞記者たちの笑い声が聞えてくる。 「克雄、何してるんです、そこで……」  嗄れた声がして、克雄は首をすくめた。母親の夏江がすぐうしろに立っていた。 「珍しいからおやじの顔でも拝ませてもらおうと思ったんだ。でもあれじゃちょっとね」  克雄は言いわけがましく新聞記者たちの声がした方を顎でしゃくってみせた。 「そう……」  夏江は機嫌のいい笑顔になった。 「丁度いいわ。あなたは今日はもう外出しないで頂戴」 「どうして」 「なんでもいいから。訳はあとで……いいわね」 「別に出る予定もないさ」  克雄が答えると夏江は息子の肩を軽く押して母屋へ帰らせ、まっ白な足袋の裏を見せながら奥へ向った。 「へえ……お袋のおでましか。これも珍しいんじゃないかな」  克雄はそうつぶやきながら部屋へ戻った。  部屋へ入るとすぐドアがあいて、焦茶色のワンピースを着た女がやって来た。 「なんだ、今日はどうしたって言うんだ。旦那はあそこにいるぜ」  克雄は薄笑いを泛べながら言う。窓の外に大きな楓の木があって、その枝の間から車の手入れに余念がない運転手の三村が見えていた。 「見えてれば安心……」  女は三十を少し越えたくらいで、よくくびれたウエストをねじるようにしながら、三村のいる門のほうを眺めた。 「いい度胸だな。昼間っから」  克雄はからかい気味だった。 「そうじゃないのよ」 「じゃ何で来たんだ」  克雄は窓の外を見ている女のうしろへまわり、腰に両手をまわして、うなじに唇をあてた。 「今日はウチにいなさいって言いに来たの」 「お袋とおんなじ事を言いやがる」  克雄の手が女の胸へ這いのぼって行く。 「奥様もそう言ったの……」 「ああ。どこへも行きゃしないが、なぜなんだい」  女はバストを揉まれ、首をねじ曲げて克雄の唇を求めた。唇が重なり、女はくるりと克雄の腕の中で一回転すると、窓に背を向けて右手の指を相手の髪に埋めた。 「うまいよ、あんたは。キスの名人だ」  克雄は息苦しそうに顔を離してから言った。女は克雄の爪先へ自分の足をのせ、下半身を押しつけながら言う。 「この窓、向うからは楓の葉っぱで絶対に見えないのよ」 「おやおや、催促か」  克雄はそう言い、歪んだ笑い方をしてから女の体を放すと、そっとドアの錠をかけた。 「念の為だよ」  弁解するように言う。女は黙って微笑しながら、窓際の揺り椅子の背をちょんと押した。椅子はゆらゆらと動きだす。克雄は怪訝な表情で謎めいた女の微笑をみつめている。 「莫迦ね、ここへ坐るの……」  子供をあやすように言われた克雄は、目を丸くしながら揺り椅子に坐った。 「驚いたな、亭主の動きを監視しながらかい」 「変ってて面白いじゃない」  女は克雄の膝に腰かけ、忍び笑いをした。克雄の手が前にまわる。 「へえ、スリルがあるとこういうもんかね」  女はまさぐられて首をのけぞらせ、柔らかい髪が克雄の顔にかかった。 「なぜ外出しちゃいけないんだ」  焦茶色のワンピースのすそがまくれあがり、白い膝が窓に向ってひらいた。 「三村に聞いたのよ」 「なんだって言ってた」 「何か大変なことが起るんですって……車の中だとあなたのお父さんて、大事なことを何でも喋っちゃうらしいの」 「大変なことって何だ」  女は息をつめた声で一度低く呻き、腰を克雄の膝へ深く落した。 「言わないのよ。三村って、私にもそういうこと喋らないのよ」 「堅物だからなあ」 「いくら喋らせようとしても駄目……」 「喋らせようとする時はどうするんだ。あんたのテクニックなら、三村みたいな堅物はいちころだろうに」  椅子が揺れはじめ、女は窓枠に両手をついた。 「あそこに三村がいるわ」  克雄はギョッとしたように、一瞬動きをとめ、それが女の自分を燃やす言葉だと気がついて、急にいきり立ったように動きを荒くした。女は克雄にしか聞えないように、喉の奥深いところで細い叫びをあげはじめる。 「大変なのよ、大変なのよ。凄く大変なことなのよ」  外出のことでなく、女は全く別な意味にその言葉を使っているらしい。  秋晴れの街路に、横須賀の商店主たちが五、六人集まっていた。 「どういうんだね、こいつは」 「兵隊が一人も出て来やしないじゃないか」 「こんなことは一度もなかった……」  商店主たちは口ぐちにそう言っている。  事実アメリカ兵の姿は一人も見当らなかった。昨夜から今日にかけ、バッタリと米兵の姿が途絶えてしまっているのだ。 「キャンプヘ行ってみたけど、のんびりキャッチボールなんかしてるんだ。どうして出て来ないのかな」  自転車を片手で支えた男が言った。 「とにかく外出禁止になっちゃってるんだ」 「外出禁止だとしたら、こいつはいつまで続くんだろう」 「新聞社に問い合せてみようか。中国とソ連の雲行きが怪しいってことだからな」 「中国とソ連でどうしてアメリカが……」 「そいつをきいてみるんだよ。ひょっとするとこれは大ごとかも知れないぜ」  商店主たちはそう言われて、薄気味悪そうに顔を見合せた。とにかく、遊びに出る兵隊はおろか、トラックやジープまでが、なりをひそめて基地の外へは姿をあらわさないのだ。  東京タワーの下では、観光バスのガイドが駆けまわっていた。 「なんとかならないんですか。ここはきまったコースになっているんですし、お客さまも一度この展望台へあがらなければ気が済まない方ばかりなんですから」  タワーのオフィスでそうかけ合っても、 「とにかく今日はごらんのようにエレベーターの故障ですから仕方ないんです。あなたの会社の方へはこちらからお詫びの電話を入れましたから、お客さんのほうはなんとかしてくださいよ」 「だって……」  バスガイドは泣きそうな顔でまわりをとり囲んだ仲間たちに、「どうするの、みんな」  と言った。 「しようがないじゃないの、私たちのせいじゃないんだもの」 「ああやんなっちゃうわ。みんなきちんと行列して待ってるのよ」  バスガイドたちは口ぐちに言い、それでも諦めたように散って行った。だがタワー内部のテレビ電波を送り出す部室には、制服の男たちがとじこもっていたのだ。     3  L新聞の社会部記者、千葉達郎が異常に気づいたのは、ほんのちょっとした路上の情景からだった。  朝から仕事の都合で有楽町界隈を歩きまわっていた千葉は、工事用の黄色い木の標識のためにひどく歩きにくくなっている日劇横の通りで、なんという無計画なやり方だと、その工事の仕方に腹を立てていた。それでなくても通りにくいこの道を、朝っぱらから柵で塞いでしまってどうする気なのだろうか……そう思い思い歩いていると、全く同じま新しい黄色い柵が行くさきざきで道の半分をふさいでいた。  何か相当大がかりな工事が始るらしい……、その時は軽くそう感じただけだったが、昼近くなって日比谷にある自分の社へ戻ったとき、その正面入口の前の道路に、有楽町と全く同じ新品の黄色い木柵が並んでいるのを見て、なぜか急に不安になった。  第六感という奴だった。  なぜ選りに選って新聞社の前ばかりに……無意識にそう思い、すぐ有楽町の木柵が、朝日新聞社のぐるりだけにしかなかったことに気づいた。黄色い木の柵の中には、幌を深々とおろした黄色い大型トラックがとまっていた。工事を始める気配もなく……。  別に千葉にたしかな結論があったわけではない。ただ自分が見た一連の工事用の囲いの木柵が、どれもまっさらな新品ばかりだったというそのことだけが、異様な事実に思えたのだった。  千葉は正面のホールヘ入ってから、思い直して外へ出ると、ぶらぶらと社の横の道を歩きはじめた。すると次の角を曲ったところに、また同じような工事用の囲いと、黄色い大型トラックがとまっていた。そこは彼の社の裏玄関に当り、地下からの車輛出口にもなっている。千葉の足は急に早くなった。そして次の角にまた同じものがあるのを発見すると、怯えたような表情でその横を駆け抜け、ぐるりと建物をひとまわりして正面玄関からデスクのある三階へ、エレベーターも待たずに階段をかけ登った。 「何だ血相変えて……」  すれちがった同僚の一人が、そう言った。 「おい、何かデカい事は起ってないか」 「いいや、知らんね」 「それならいい」  千葉は叫ぶように言い残して部屋へとびこんだ。 「何かデカいことは起ってないか」  部屋でまた言った。出払って閑散とした部屋に残っていた四、五人が驚いて千葉のほうを眺めた。 「どうしたんだ、千葉」 「キャップ、こいつはおかしい」  千葉は手みじかに工事用の囲いのことを説明した。 「莫迦、それっぱかりのことで蒼くなる奴がいるか」 「いや、考えてみてくださいよ。中ソ関係は一触即発の事態になっています。そいつは俺が言うまでもないことでしょう。だがはじまればどうなります。この国は高みの見物ですか。……それができるとしてもです、そしてはじまるのがまだずっとさきのこととしてもです。こういう情勢になるたんびにいらいらしてる連中がいるんですよ。明日から臨時国会です。この前の通常国会では国防省の指揮系統再編成問題が野党に叩かれて後退してます。国防中央統制機構案も時期尚早ということで、政府に握りつぶされたでしょう。噂にすぎないかもしれませんが、国家総動員法に相当する法案の草稿が、ゼロ号法案の暗号名で国防省内部ではとっくに出来上っているというじゃありませんか。日本海が太平洋以上に重要な意味を持ちはじめた今、日本が中ソ紛争に無関係でいられるものじゃなし、制服組としては手かせ足かせを外したくていらいらしているはずです」 「すると千葉は新聞社のまわりの工事用の囲いは、クーデターの前触れだと言いたいんだな」 「勘です。信じてください」  千葉はヒステリックに言った。喋っている内に自分の直感が絶対間違っていないという信念を持ちはじめていた。男たちは冗談半分に窓際へ集まり、 「本当だ、あるよ……」  と言い合っている。 「よし、T新聞へ電話を入れてみる。ビルのまわりに黄色い工事用の囲いがあるかどうか聞いてやろう」  キャップはそう言い、悪戯をしはじめた子供のようにいきいきと目を輝かせた。 「……よう、俺だ」  キャップはのんびりとした声で言った。 「つかぬ事を聞くけどな、ちょっと席を立って窓の下をのぞいてみてくれないか。……ええ、違うよ。とにかく見てくれないか」  キャップは電話口を手で押え、千葉のほうを見てニヤリとした。 「あったら俺も考える。だが敵に知られたくはない」  そう言い、すぐ手を離した。 「どうだい、何が見えるかね……人が歩いてる……莫迦言うな。いつもと変ったものという意味だ。……テレパシーの実験をしてるんだ。千里眼ていう奴か。そうだよ。T新聞の前に黄色いものが見えるって言うんだが、どうだい、当ってるか」  キャップが鋭い目つきで千葉を睨んだ。声だけはのんびりと、 「へえ……驚いたな、工事用の黄色い柵に黄色いトラックだって」  と笑ってみせている。 「サンキュー。これで五千円がとこスッたことになる。つまんないことの片棒かつがせて悪かったな。賭けにまけた上、奢るわけにもいかないが、そのうちなんとかする……」  電話を切り、千葉と二人並んでもう一度窓へ近寄った。 「そう言えば、さっき横須賀支局から妙なのが入ってたぜ。町に米兵の姿が一人も見えないんだとさ」  誰かがうしろで言った。 「何だって……」  千葉は大声で言い、ふり向いた。  警官たちはいそがしかった。  全都の主要道路の駐車違反一斉取締りがはじまっていた。交通課ばかりでなく、あらゆるセクションの警官がそのために動員されていた。 「冗談じゃねえや、どこへ行っても気ちがいみたいに追いたてやがって……」  ライトバンのハンドルを握った靴屋のセールスマンがぼやいた。 「車は走るためだけにあるんじゃなくって、走って停るためのものなんだぞ」  行けども行けども、駐車をチェックする警官の姿がたえない道を、セールスマンは車の中で大声でののしりながら走って行く。 「なんだってんだ。商売になりゃしねえじゃねえか」 「それでもよ、車の流れはだいぶいいぜ」  となりに坐った若いのが言った。 「莫迦野郎……みんな走ってるだけよ。どこまで行ったって停れやしねえんだ」 「帰ろうよ。今日は駄目だよ、こりゃ」  主要な交差点ではいつもより警官の姿が多いようだった。 「それにしても、今日のお巡りたちは強引だな。荷物の積みおろしも満足にさせねえつもりだぜ」 「また誰か偉え奴が通るんじゃねえかな。みろよ、高速のランプも閉鎖しはじめてる」 「畜生、やめだ今日は」  ライトバンはふてくされたように、急に左折して脇道へそれた。     4  狛江の公団住宅に住む評論家高宮清二が、ベランダに吊るした鳥籠の中のインコの動きをぼんやりみつめていた時、居間で電話のベルが鳴った。  高宮は去年ひとまわり年下の静子と再婚し、この夏のはじめからは暮れに出版する予定の著作に耽って、以前のように外出もしなくなっていた。 「あなた、L新聞からお電話です」  静子がしっとりした声で言った。激しい生き方をして来た半生が、ようやく落ち着きをみせはじめ、このまま穏やかな著作三昧の後半生に入るのではあるまいかなどと思いながら、高宮は居間へ入って受話器をとりあげた。  しかし、高宮の表情はみるみる暗くなって行った。何度も相手に念を押し、珍しく乱暴に受話器を戻してから、 「そんな莫迦な」  と、つぶやいてまたベランダヘ戻った。だがもう目は小鳥を追ってはいない。 「どうかなさったのですか」  静子がうしろへ来てたずねた。ふり返ると白い卵形の顔が、頼り切った表情で自分をみつめていた。 「貯金はいくらあったかな」 「知りません、そんなこと」  静子は笑った。 「いくらかあると思いますけど……何かおいり用なの」 「いや」  高宮は決断がつきかねて、また外の景色に顔を向けた。クーデターが起る……L新聞からそう言われるまで、考えてもみなかったことだ。以前からたびたび雑誌などにも書き、座談会などでも喋って来たことだが、あくまでもそれはひとつの可能性としてであって、社会に警鐘をうち鳴らすつもりでした事だった。このうららかに晴れ渡った秋の日、突然それが現実になるとしたら、自分は何も予想せず、予言しなかったのと同じことだと思った。  防禦策、対抗策などまるで用意していないのだ。クーデターが巨大な時の流れとしても、新聞の情報を耳にしたとたん、命を投げ出して何かしなければならない。多分、自分はもうすぐ、いやでも動き出してしまうだろう。だが、もう少し平和なこの時間を噛みしめていたい。  高宮は左手で長髪を掻きあげ、うなじを掴んだ。来るものが来たという実感のようなものが、掌で押し揉む首筋の辺りから、じんわりとひろがって行くようだった。  静子はどうなる……。うまく元の雑誌の編集部へ戻れるだろうか。慣れない仕事で苦労をさせたくなかった。多分、高宮は地下へ潜ることになるだろう。そうなった時、静子には監視の目が光りつづけることになるのだ。 「何があったんです」  静子はまだうしろにいた。高宮の背中に何か静子の胸に響くものが、滲み出ていたらしい。 「しばらくいなくなるかも知れん」  ふりむいた高宮は低い声で言った。静子は小さく二、三度顔を横に振った。何も言わなかった。 「どうやらクーデターが起ったらしい」  静子の表情がさっと変った。高宮の経歴は知り抜いている。反戦運動の中心としてマスコミで活躍し、国防省新設に反対する大集会では、全労働者にゼネストを呼びかけたりした。 「結婚記念日には旅行につれて行ってもらう約束でした」  静子は唾をのみこみ、壁のカレンダーを見ながら言った。冷静になろうと努力しているらしい。高宮もカレンダーを眺めたが、彼には無意味な数字の行列にしか見えなかった。その中に二人にとって意味のある日付があったはずだと、懸命に記憶をたどるのだが、すぐに意識はそれて、なぜか芝居や映画に登場した旧陸軍の憲兵の姿が泛んで来てしまう。  高宮自身は特高や憲兵の実物に接した記憶はまるでない。ただ軍隊という観念の中にその絵姿がしみついている。 「とにかく平和な一年だった」  そうつぶやくと、静子の体が丸くなって胸にとびこんで来た。 「いや……」  泣いている。 「仕方がない。はじまってしまったのだ」 「どこかへ行ってしまうんでしょう」 「僕はマークされている」 「連れて行って。何でもしますから」 「そうは行かんよ」  高宮は静子の肩に手を置き、顔をあげさせた。急に仲間のことが気になりはじめた。静子との穏やかな暮しを惜しんで、数分間でも無為にいたことが怠慢に思えた。 「とにかく外出の用意をしてくれ。まだ急にどうこうされるということもないだろう。みんなで集まってよく対策を考えてみる」  静子はくるりと背を向けると、高宮の服を出しに居間へ小走りに入って行った。高宮はそのあとにつづき、サイドボードの上の電話をとりあげた。 「高宮と言いますが、執行委員の野口さんをお願いします」  高宮は埃っぽい古ビルの二階にあるその労組本部を想像しながら相手の出るのを待った。何をしているのか、呼出した相手は仲々電話口ヘ出て来なかった。ひどく素っ気ない今の応対が気になりはじめ、ひょっとしたら向うはすでに……などと心配になってきた。  公安関係から見れば札つきの左翼団体だった。政府要人と同時に彼らも狙われる可能性は充分にあった。 「はい野口です」  太い聞き慣れた声がしたので高宮はほっとした。 「どうだ、そっちの様子は」 「え……何のことだ」  まだ先方は知らないらしかった。クーデターが……と言いかけた高宮は息をのんだ。  盗聴。今までにその組合本部では何度も盗聴さわぎがあった。この電話はたしかに盗聴されている……高宮はそう感じ、 「天候のことだ」  と話をそらせた。 「散歩をしていたら赤トンボをみかけた。十年ぶり以上の珍事さ」 「それで電話を……変だな」 「ああ、少し変だな。われながらそう思う」 「はっきり言え、何か起ったのか」  相手は敏感に高宮の異常を感じ取って、せきこんでたずねて来た。高宮は覚悟した。声の調子を変え、早口に、 「クーデターが起きたらしい。早くなんとか身の始末を考えたほうが……」  と言いかけたとたん、突然電話がチン……と鳴って切れてしまった。 「やられた」  高宮は叫んだ。中間に誰かがいたのは確実だった。盗聴し、問題が核心に触れかけると切ってしまったのだ。高宮は慌てて電話機のボタンをつづけざまに押してみた。何度やっても電話は生き返らなかった。 「早く。着かえるぞ」  そう言って静子をせかせ、背広に着かえながら、 「旅行の仕度も」  と命じた。自分の電話が切られていたのだ。のんびりかまえてはいられなかった。クーデターを企んだ側は、すでに高宮のような人物までとりかこんでいるらしい。彼は頭の中で素早く脱出路を考えていた。  ワイシャツを着、上着の袖に手を通しおわった時、入口のチャイムが鳴った。静子は靴下をはかせていた手をとめ、顔をあげて高宮を見た。高宮は眉をひそめてそれを見返し、唇を歪めて言った。 「いい、俺が出てみる」 「あなた……」  かすれ声で静子が言った。高宮は入口ヘゆっくりと歩き、ノブをまわした。思ったとおりの人相の男が二人立っていた。 「類型的すぎるよ、君たちの顔は」  高宮は冗談のように言った。 「高宮清二だね」 「あなた……」  静子がキッチンの玉のれんの内側でまた言った。まるで鉄格子の向うとこっちのように思えた。 「外へ出てくれないか」  二人は靴を脱いで上りこみながら言った。うしろにもう二人待っていた。高宮が靴をはき、小さな旅行用の洗面ケースを手にドアの外へ出かかると、中へ入った一人が思い出したように声をかけた。 「部屋を調べさせてもらう。勿論令状などないがね」 「勝手にやるがいい」  高宮はそう答えた。 「非常事態が発生したので君を保護する」  外の男が切り口上で言った。 「過保護は困るね」  高宮はわざと他人事のように言い、 「それにしても手廻しがいい」  と苦笑した。 「君の電話をキープしていてよかった。我々の行動開始はもう少しあとになる予定なのでね」 「ほう、盗聴の英語はキープというのかね」  高宮はついからかうような口調になっていた。  組合本部で突然切れた電話の受話器を置いた野口は、高宮よりずっと手荒く扱われていた。 「壁へ向って並べ」 「手を頭の上へ置け」  七、八人の男たちが小突かれながら集まって来て、これはもうはっきりと自衛隊の制服を着た男たちの銃口の前に並んだ。 「何が起ったんです」 「クーデターだよ」  野口はとなりで両手を頭のてっぺんに置いている男に教えてやった。 「喋るな」  野口は銃口で背骨をいやというほど突かれ、壁に額をぶっつけて呻いた。  その古ビルのすぐ近くにあり、以前から反政府運動の拠点と見なされていた巨大な印刷工場が、急に操業を中止した。民家がそう多くないその一画に黄色く塗った大型トラックが入りこみ、幌をはねのけて武装した兵士がとび降りた直後のことだった。  電源を切られてモーターが停り、薄暗くなった建物の中に、若い男の狂ったような叫びがこだましていた。 「自衛隊のクーデターだぞ……」  若い工員はそう叫ぶと身をひるがえして外へとび出し、次の建物へ走って行く。 「自衛隊のクーデター……」  囁きが口から口ヘ伝えられ、印刷工たちはぞろぞろと工場の正門にむらがり寄りはじめている。しかしその向うには着剣した銃を手に、兵士たちが傲然と横隊を作り、その中央に早くも機関銃が置かれていた。 「止れっ」  容赦のない軍隊口調がジープのラウンドスピーカーから聞えた。 「非常事態が発生したので我々がこの工場を保護する。諸君は過激分子に乗ぜられぬよう、我々の指示どおり慎重に行動されたい。我々は不穏な行動に対しては銃火をもって阻止するよう命令されている」  タ、タ……と乾いた機銃の音が四、五秒続き、正門へつめ寄る工員たちの足がすくんだ。 「只今のは空砲である。しかしこのあとはすべて実弾射撃であるから行動に注意されたい。まず全員その位置をさがり、第二工場横の広場へ集合されたい」  銃をかまえた制服の横隊がゆっくり前進をはじめ、工員たちは声もなく退いて行った。都内の各新聞社も、似たりよったりの状況に陥っていた。     5  その日夕方五時ジャストから、ラジオ、テレビを問わず、すべての民間放送は沈黙した。平常通り電波を送り出しているのはNHKのテレビとラジオだけだった。両方とも、午後七時に重大発表があるというスポットを流しながら、予定どおりのプログラムを進行させている。  その中で、都心には一万人近い男たちが集結し、整然としたデモを開始した。例によってその行進はパトカーが先導し、機動隊がはさみつけるようにその両側につき従って行く。 「日本を破滅から救え」 「屈辱憲法改正」 「新軍備を促進せよ」 「腐敗保守党、財界貴族粛清」  デモ隊はそう合唱しながら歩調を揃えて進んで行く。その靴音はまさに軍隊のものだった。 「なにが愛国デモだ。右翼の勢揃いじゃねえか」  沿道の見物人に混っていた学生たちがそう叫び、一人、二人と投石をはじめた。だが石は機動隊の楯にさえぎられて列を乱すには至らない。それどころか、通行人に紛れ込んでいた私服の男たちに腕をつかまれ、逃げ出した学生もすぐ追いつめられて逮捕されてしまった。日章旗の波の中に菊水の幟をまじえたそのデモ隊は、機動隊に守られて国会議事堂へ登って行く。  NHKの放送センターでは、一日中やきもきしていたあのディレクターが、本番寸前に番組のキャンセルを申し渡されて、副調整室の椅子にぐったりと、もたれ込んでいた。 「助かった……どうなることかと思った」 「第一こんな状況でやる気なんか起るもんか。キャンセルがなくったって途中でスイッチを切ってやろうかと思ってたんだ」  ミキサーの一人がふてくされたように言った。ガラス窓の下ではスタッフやタレントたちが、放心したように突っ立っている。 「どんな番組が始るんだい」  誰かが言ったとき、モニターテレビにタイトルが出た。  新しい国際情勢と日本の防衛力……。 「提供国防省か」  ディレクターがつぶやいた。 「あ、あん畜生め、あんなとこにいやがった」  また誰かが叫んだ。行方不明のアナウンサーが、心もちこわばった表情で写っていた。 「NHKの放送は、ただいま非常事態に対処して、全面的に陸上自衛隊東部方面総監部の管理下に置かれました。今後の放送はすべて予告にない特別番組となりますので、ご了承ください……」  事実、放送センターは午後から次第に兵士の数が増えはじめ、タレントたちも物騒な緑色の服にかこまれて外へ出る自由を失ったまま局にとどまっていた。 「どうなるんですか」  タレントの一人がフロアーディレクターのマイクを通してたずねて来た。 「知りませんねえ。兵隊さんに聞いてください」  副調整室からの返事は、スピーカーを通じてスタジオいっぱいに響きわたった。  その放送を日本中の人間がくい入るように見ていた。六時からの番組が物やわらかに中ソ間の緊張を説明したのち、日本には中ソそれぞれの側に立って、戦略上の便宜を与えたがっている勢力が、いかに根深く存在するかを解説し、その動きによって起りうる国内情勢を、幾通りものアニーメーションフィルムを使って示した。そのフィルムが存在したということは、軍部のこの行動が、充分な準備期間をへて、決行されたことを物語っていた。  七時になると、時報のあと、いきなり力強いリズムで、著名な作曲家による、新日本国防軍の歌が紹介され、新国防軍司令官という、聞き慣れない肩書きで、自衛隊のこの行動の指導者がアップになった。 「首都ならびに各地方主要都市を一時的に掌握下に置いた我々の今回の行動は、決してクーデターなどという過激なものでないことをご了解願う次第です。これは一部の売国的過激分子が、外国軍隊の本土上陸を企図し、国内に破壊活動を多発させて、その目的を遂げようとすることを未然に防止する唯一の穏健な手段なのです。同時に我々は、その極左勢力の動きに憤激して実力行使を計画中の、一部右翼過激団体、及び数多くの愛国者集団に対しても自重を求め、かつ信頼に価する中庸堅実な大勢力がここに存在することを認識していただくため、今回のこのような状況を展開したのであります。我々は日本をみずから守るための自衛隊員であります……」  番組は急ごしらえにしては、ばかに調子よく、しかも、えんえんと続いていた。その故意に冗漫にしたような放送の中で、人々は次第に彼らが、合計五十以上の新しい法案……今までなくてはならなかったのに、どうしても作ってもらえなかった国防上重要な法案を、緊急に国会の審議にかけ、可決、成立させることを要求しているのを覚った。彼らの要求は、結局運輸、通信、農林、水産をはじめ、全官庁の分野にまたがっていた。 「これで議会制民主主義は、ただの飾り物になってしまうな」  上野駅へ集められた男たちに混って、テレビをみあげていた高宮清二がそう言った。 「なる程、うまいタイミングだ。放って置いても明日からは臨時国会という日じゃないか。議員連中は一人一人首に縄をつけて引き出され、彼らの要求する法案を可決するために、議事堂ヘ押し込まれるんだ。恐らく特別委員会もなし、審議もなしだろう」  その夜、伊豆のゴルフ場では名コック長が腕をふるった料理で、財界首脳の夕食会がはじまっていた。  一小隊ほどの陸上自衛隊がゴルフ場の入口を車輛で封鎖し、クラブハウスのまわりを所在なさそうに歩きまわっていた。 「おかげさまで、予定どおり何事もなく運びそうです」  宴席に陸上自衛隊の制服を着たいかにも精悍な面がまえの男が混っていて、白ワインのグラスを挙げて財界人たちに挨拶した。彼の制服には筋が二本と星形が三つついていた。 「お手やわらかに願いますよ。何しろ我々はここに軟禁されているんですからな」  長老らしい白髪の男がひやかすように言って笑った。どうやら彼らと制服はなれあいでここにとじこもっている様子だった。黒い海には、多分海上自衛隊の艦艇だろう、いかにも、もっともらしく、サーチライトをゴルフ場の下の崖へ当てて、財界首脳の脱出を警戒していた。  戦車が都内へ入る橋の両側に一台ずついて、兵士が車を検問していた。河原の野球場には黒々と車輛群がかたまっていて、いつでもとび出せる態勢になっていた。  その辺り一帯の堤防はたえず完全武装の兵士がパトロールし、道路と平行して河を渡る鉄道の鉄橋のたもとにも歩哨が立っていた。  いま、列車がその鉄橋を渡って東京を出て行く。車窓の灯りが水面に映り、やがて最後尾の赤い灯が闇の中へ消えて行った。  評論家の高宮清二は、手錠のはまった両手をきちんと膝の上に置き、その臨時列車の中で遠ざかる東京の灯をみつめていた。 「いや、きっとこれは始りなんだ」  彼はそうつぶやいた。列車の座席は北海道のどこかへ連れ去られる政治犯で満員だった。  つい今日の昼まで、しとやかな静子の気配を背に感じながら、机に向っていた平穏な暮しがあったのだ。だが明日は、日本中のすべての家庭に戦時法が重苦しくのしかかって行くに違いない。交通、通信、運輸、報道そして経済……国防中心の統制の中で、人々は新しく、そして古い時代を過さなければなるまい。  逃げてやる。この鎖をきっとぬけ出してやる。街にはまだ鎖をはめられない自由の戦士たちが数多く残っているはずだ。いまこの瞬間も、都内ではそうした人間が力を合せ、軍事国家反対の火の手をあげていることだろう。その火が決して消えるものか。……高宮はそう思い、唇を噛んだ。  だがそれにしても、静子と約束した結婚記念日の旅行は、いつ果せるのだろうか。 「待っていてくれ」  高宮は目をとじて、またつぶやいた。  だがその夜、都内にこれと言った抵抗の火の手は挙がらなかった。奇妙なほど静かで、ほっとしたような無気力さが家々を支配していた。  人々のその不可解な従順さを知って高宮が思い悩みはじめるのは、まだ一か月以上さきのことだった。クーデターは、ほとんどそれらしい様相も示さず、周到な事前の根廻し作業によって、その夜完全に成功したようだった。  徴兵復活     1  五月の日曜の午後、村越貞治はぼんやりと庭を眺めていた。  あけ放った居間のガラス戸の外に煉瓦を敷いたベランダがあり、そのさきには狭いながらも芝の密生した庭があった。  あれから十年たった……。村越はそう思い、虚《むな》しい疲れを味わっている。  この家へ引越して来た日のことが、ありありと目に泛んで来る。庭の芝はなく、赤い土がまあたらしい家のまわりにむき出しになっていた。ベランダの煉瓦が匂いたつように鮮やかな色をしていた。トラックからおろした家具の一方を持ち、向き合ってあとずさる父親の自分に大きな声で足もとの注意をしていた長男の康一。手伝いを嫌ってさっそく附近の探訪に出かけてしまった次男の昌夫。  いったい何の為の歳月だったのだろうか。子供たちの為に、家庭の為に……そう思い、疑いもせず夢中で働いて来た。土地も買った、家も建てた。子供たちを大学にやり、社会へ送り出した。  だが、ローンを払いおえた今、子供たちの姿は家にない。妻の陽子と二人だけの暮しになっている。 「何を考えてるの」  朝食の跡かたづけを終えた陽子が、所在なげにソファーに腰をおろして言った。 「損したよ」 「何が……」 「子供たちは寄りつきもしない」 「来ますよ、そのうち」 「子供を作らずにこの歳になっていたら、もっとのうのうとしていたろうな」 「何言ってるの。淋しくてしようがないわよ、きっと」 「本当にそうだろうか。子供を育てるのにどれくらいかかると思う」 「お金のこと……」 「そうだ。幼稚園、小学校、中学、高校、大学……いくらかかったと思う。正確に計算したら、きっとよく稼げたもんだと、われながら驚いてしまうほどの額だろうな」 「それはそうでしょうね」 「俺とお前だけで使っていたら、さぞかし楽しい人生が送れたことだろう」  陽子は笑いだした。 「変なパパ……そんなこと言ってないで、これからは、もう、かからないんだから、精々いろんな所へ連れて行ってくれればいいじゃないの」 「そういうことじゃない。結局いてもいなくても同じことになるのなら、子供なんかはじめっから作らなければよかったんじゃないかと言ってるんだ」 「今に孫がだけますよ」 「孫か」  村越は妻の顔を見た。始末の悪いほど若々しい顔だった。ことし四十六になるのだが、とても孫をだく顔ではなかった。 「康一はまだ四谷に住んでいるんだろうな」 「ええ」 「例の喜代子さんとかいうのと一緒か」 「そうよ」 「結婚する気はあるんだろうな」 「もちろんよ」  庭の外の道を小さな車が通り、角を曲って玄関の前でとまった。陽子は、酒屋さんだわ、と言って居間を出て行った。  四谷のどこかに二十三歳の男と女が小さな部屋を借りて暮している。  貧しくても楽しい日々であることは村越にもよく判る。だがなぜこの家を訪ねようとはしないのだ……それが不満だった。  結婚に反対するわけでもない。同棲を非難するほど古くもない。離婚するようなことになったとしても、今の風潮では二度や三度の離婚はありがちだし、それをとやかく言う気もないのだ。  こっちから訪ねてみようか……庭を眺めながら村越はそう思った。 「こんちは……」  不意に背後で声がした。村越はなぜか聞き慣れたその声にドキリとしてふり向いた。陽焼けした顔が笑っていた。 「なんだ昌夫か」  われにもなく胸がときめき、村越はことさら無表情を装って言った。 「酒屋の車に便乗して来たんだよ。松井の奴、結構まじめに働いてやがる……日曜だっていうのにさ」  昌夫はどすんとソファーに沈み、部屋を見まわしながら言った。 「自分の家へ帰って来て、こんちははないだろう。なぜただいまといわん」 「あれ、俺そう言ったっけ」 「言った」 「でもな、何となくこんちはって感じだよ。ただいまって言うのは相当意識してないと出て来そうもないな」 「莫迦だね、昌夫」  陽子が入って来て言う。 「パパは昌夫たちが寄りつかないんで淋しがってたんだよ。ただいまって言えばご機嫌がよかったのに」 「そうかア」  昌夫は大げさに失敗を認めて頭に手をやった。 「なら胡麻すっとけばよかった」 「康一には会うのか」 「会うよ。きのうも兄貴のところへ行って姉さんの手料理をご馳走になった」 「姉さん……」 「いけね。まずいこと言ったかな」 「そうか。姉さんの手料理か……どんな料理だ」 「チキンカツにスパゲッティーさ。案外うまかったよ。美人だしな。あれはいい嫁さんだぜ」 「生意気言うな」  村越は苦笑し、チキンカツとスパゲッティーの皿を想像していた。 「でもさ、ナイフもフォークもみんなふた組ずつしかないんだ。俺がさきに一人で食って、そのあと二人一緒に食うんだ」  陽子が吹き出した。 「それで昌夫はどうしてたの。二人がたべるとき」 「見てたよ。コーヒー呑みながら」 「妙な奴らだ」  村越はそう言い、立ちあがるとサンダルをはいて庭へ出た。腰に手をあててそり返ると、丁度頭の真上あたりに白い小さな雲があった。……やはり損得の問題ではないだろう。子供たちは子供たちで人生を歩きはじめている。ふた組だけのナイフとフォーク。俺にもそんな時代があったはずだが……彼はそう思い、記憶をたどってみた。 「へえ、案外柔らかいんだな、まだ」  昌夫も庭へ出て、うしろから村越の肩をおさえた。精いっぱい反り身になったところをおさえられ、村越は危うく倒れそうになった。 「おっとっとっと……」  昌夫はよろける父親を胸でささえた。大学で剣道をやっている昌夫の体からは、村越を威圧するような逞しさが漂い出している。 「何だ、そのバッジは」  村越は昌夫の上着の襟についている黄色い星形のバッジを見て言った。 「あれ、言わなかったっけ」  昌夫は黄色い星を手でおさえ、拇指で磨くようにこすりながら言った。 「登録章だよ」  村越は、あ……と思った。 「それが登録章か」 「遅れてるな。はじめて見るのかい」 「どれどれ、よく見せてみろ」  手で触れると、かなり厚味のある鉄でできていた。 「剣道部員じゃ、いやも応もないさ。ことし成人式をやった者は全員登録したんだ」 「そうだな、剣道部じゃしようがないな」  村越は物判りのいい顔になってうなずいた。 「でも反対する学生もいるだろう」 「いやしないよ。そりゃ、かげじゃこそこそ言ってる奴もいるらしいけど」 「しかし今度の法律じゃ、登録したらいつ呼び出されても文句は言えないんだぞ」 「その為に登録するんじゃないか。文句言うはずもないさ」 「お前はどうなんだ。予備登録なんかして、いざ戦争となったら、お前みたいな奴はまっさきに最前線行きだぞ」  昌夫は大学剣道界では名の知れた選手だった。 「反戦世代だからな、お父さんたちは」  予防線を張るように言い、昌夫は議論を避けるような表情で笑った。 「戦争なんか当分起りっこないよ」 「お前らは反戦世代というのを妙な意味に使う。戦争なんかないほうがいいにきまっているだろう」 「ないほうがいいさ。でもさ、戦争はないほうがいいって言うのと、軍備を持たないほうがいいっていうのはまるで違うぜ。そこんとこがおかしいんだよ」 「軍備がなければ……」 「軍備がなければ戦争はないの……違うよ。戦争できないっていうだけのことさ。相手がやるって意思表示をしただけで、こっちは敗けさ。お父さんたちには悪いけど、そんなの滅茶苦茶だよ。軍備を持ってて戦争しなけりゃいいじゃないか」 「しないわけに行くか」  村越の語尾は弱々しかった。 「少なくとも侵略戦争なんてしやしないさ」  昌夫は笑いながら言い、拳を重ねて竹刀《しない》をふりおろす真似《まね》をした。 「攻められれば守る。当然じゃないか。誰だって火事になったら消そうとするだろ」     2  同じ頃、国電錦糸町駅に程近い桝本という酒屋でひと騒動持ちあがっていた。原因はその家の親類で、神奈川の新興住宅地に同じ酒屋をやっている松井家からかかった電話だった。 「あんた……ねえ、あんたったら」  受話器を置いたかな子が大声で店の主人の良策を呼んだ。 「なんだよ、ギャアギャア喚きたてやがって」  良策は顔をしかめながら店へ出て来るとそう言った。 「困っちゃったよ。いま神奈川の松井から電話があったんだけどさ」 「何だ、松井がどうかしたか」 「松井の一人息子さ、健太郎って言う……」 「健ちゃんか、健ちゃんがどうかしたか」 「あの子、うちの洋介と仲いいだろ……学校も一緒だし」 「そうらしいな」  良策は煙草をくわえて言う。 「だから心配なんだよ」 「この野郎はっきり言え、莫迦。ちっとも判りゃしねえ。お前はいつだってそうなんだよ。廻りっくどくおしまいのほうから喋りやがって」 「健ちゃんが兵隊検査受けちゃったんだってよ」 「兵隊検査ァ……莫迦、そいつは予備登録って言うんだ」 「どうしよう」 「受かったのか、それで」 「受かっちゃったんだってさ。松井のとこじゃ、はじめっから反対だったんだけど、健ちゃんの友達、みんな受けてるんだって。莫迦だねほんとに……あの子内緒で受けて登録すましちゃったんだって」 「ふうん。若えってのは仕様がねえもんだな。そんなことして万一どうにかなった日にゃあ兵隊に持って行かれても文句は言えねえんだぜ」 「だからさあ……やだねえこの人は」 「何がだよ」 「洋介さ。あの子まさか」 「冗談言うない。うちの子に限ってそんな間尺《ましやく》に合わねえことするかよ。あいつはこの店の立派な経営者になるんだ。算盤《そろばん》に合わないことはしねえようにしつけてあらあ」 「だって、はやりみたいなんだってよ、その予備登録っていうのをすることが」  良策は眉をひそめ、煙草をふかしている。煙を吐き出す間合いが次第につまり、妻のかな子はその煙をみつめて膨れつらをしていた。 「あれは要領のいい奴だよ。心配するな」  良策は煙草をもみ消して言った。 「そうだろうか。受けてないかねえ」 「今まで……そうさ。こんなちっちゃい時分から」  と良策は腿《もも》の辺りへ掌をさげてみせ、 「何だってしたいことは思いどおりにさせてやって来た。随分危っかしいこともあったが、子供のことは信じようって、お前とだって何度もそう言い合って来たじゃないか。だからあんなしっかりした息子に育ったんだ。もう、はたち……その俺たちのいやがることぐらい、あいつはもうすっかりのみこんでるよ。どう転んだって軍隊へ行くような真似は」 「しっこないよねえ」  かな子はすがるような眸《め》で良策をみつめた。良策はその眸を受けとめ、何か言いかけてやめた。眼をそらし、急に自信をなくしたように顔を撫でた。 「でも念の為だ。奴の部屋へ行って、あの黄色いバッジがねえか調べてみろ」 「黄色いバッジ……」 「星形のだよ。近頃若い奴らが変に気取って胸につけてるの、お前見たことねえのか」  かな子はあわてて店の横のドアをあけ、コンクリートの階段へ向った。 「黄色い星のバッジだね」  この酒屋は以前木造二階だてだった。裏に、アパートがひと棟あり、両方を潰して鉄筋四階だてに建てかえてから、もうだいぶたつ。二階の一部と三階、四階は人に貸し、もとのアパートの住人が何世帯かそこに入っている。 「どうしたの」  かな子がけたたましい足音をたてて二階へ駆け登ると、階段の傍のあけ放したドアから顔を出して、五十がらみの小柄な女がそう言った。木造アパート時代からのいちばん古い店子《たなこ》で、酒屋一家とは家族同様になってしまっている。 「来てよ。洋介が大変なのよ」  すると女はさっと顔色を変え、サンダルを突っかけてとび出して来た。 「どうしたの。交通事故……」 「ならいいけど、洋介ったらとんでもないことを……」  かな子はドアをあけて子供たちの部屋へ入った。 「どうしたのよ」 「なんでもいいから黄色いバッジを探して。星形の奴よ」  かな子は洋服だんすの扉を乱暴にあけ放って言った。 「星形の黄色いバッジって……まさか洋ちゃんたら」 「そうなのよ。兵隊になっちゃうのよ」 「そんな莫迦な……あの洋ちゃんが」 「探して……どこだってあけちゃっていいわよ」  かな子はその女と一緒になって夢中であたりを引っかきまわす。 「ないわよ、どこにも」  しばらくして女が言った。 「それにしても、よくかたづけてあるわねえ。男の子の部屋じゃないみたい」 「洋介は几帳面なのよ。増夫はそうでもないけど」  かな子は陽に焼けて赤茶けた畳の上にぺたんと坐り、気が抜けたように言った。 「見つかんないけど、どうする」  女が言った。 「なきゃいいのよ、なきゃ」 「え……」 「ほっとしたわ、あたし」 「何よ、洋ちゃん予備登録したんじゃなかったの」 「したんじゃないかと思って驚いたのよ。だってあの子と仲のいい親戚の子が……」 「神奈川の健ちゃんね」 「そう。あの子やっちゃったんですって。悪い友達に誘われたらしいの。あのうちじゃ大騒動らしいわ。で、うちは大丈夫かって電話かけて来たの」 「ああびっくりした。あんたの言い方、てっきり洋ちゃんが登録して来ちゃったみたいなんだもの」 「ごめんなさいね、心配かけちゃって」  かな子はほっとしたのか、ふざけたように頭をさげた。  二人は立ちあがり、取り散らした抽斗《ひきだし》やたんすの扉を閉めはじめた。 「なんだよオ、変なとこひっかきまわさないでくれよ」  洋介の弟の増夫が帰って来て、ドアの中をのぞくなりそう言った。 「ごめんごめん。急な探し物があったから」 「ちえっ、やなかんじ」  増夫は靴を脱いで部屋へ入った。 「何よ、めかしこんじゃって。デートだったの」 「ちょっとね」  女に言われ、増夫は照れ笑いをした。ラフな背広に薄い色の替えズボンをはいていた。 「似合うじゃないの」 「そうかい」  増夫はうれしそうに言った。  が、とたんに女がキャッと悲鳴をあげた。 「どうしたの」  かな子が驚いてたずねる。 「あ……あれ」  女はおぞましげに増夫の服の襟を指さした。 「莫迦、莫迦、増夫の莫迦」  かな子がヒステリックに叫んだ。 「まだ高校生のくせにこんなものつけて」  黄色い星形のバッジだった。増夫は目を丸くしてあとずさった。 「なんだよ、なんだよ。気持悪いな、ふたりとも」 「お前登録したのかい」 「かな子さん、落ちつきなさいよ。この子まだ高校生じゃない。登録なんかしたくも出来ないわ」 「あ……」  かな子は絶句し、まじまじと増夫の顔をみつめた。 「どうしたのさ、そのバッジ」 「あ、ごめん。でもかっこいいんだよ、これ。兄貴に黙っててね……」 「なんですって……」  女がまた叫んだ。かな子もその意味に気づいた。しばらくは体を堅くして突っ立っていたが、やがて女の肩に手をかけて大声で泣きはじめた。 「嫌だ嫌だ嫌だ。あたし嫌だ」  肩をゆすって泣きじゃくった。 「なんでだよ、おばさん」  増夫は膨れつらで女に言った。 「最高にかっこいいじゃないか。予備登録しちゃ悪いのかよ。健康で頭がよくて、民族のために尽す意志のある証拠なんだぜ。泣くことないと思うな」 「判んないのよ、あんたたちには。この前の戦争の時、この辺りは爆撃で焼野原になったんだよ。本所深川一軒残らずだよ。みんな火に追いまくられて命からがらだったんだよ。長崎や広島だって原爆でやられてさ……」 「原爆なんて古いよ。B29からおっことしたんだろう。今のはミサイルだ。それに原爆じゃなくて水爆だ。やられないようにしなくちゃ、この前の二の舞じゃん。だから兄貴は予備登録したんじゃないか。泣くなよ母さん。兄貴立派だぜ。俺だって、はたちになったらちゃんと登録するよ。このバッジ持ってれば映画館だってどこだって割引きなんだ。世の中がそういうようにちゃんと認めてるんじゃないか。今どきそんなこと言って泣いたりするの、母さんたちだけだよ。ズレすぎちゃってるんだ」  かな子は顔をあげ、涙に濡れた眸で同世代の女の顔をみつめた。そしてまた、ひと息すると泣きはじめた。 「あんなことを言う……どうしようっ」  増夫はうんざりした顔で上着を脱ぎ、畳にすわりこんで兄のバッジを外しはじめた。     3  四谷の小さなアパートの部屋。  若い男女のすまいにしては、家具もひと通りは揃っていて、小綺麗にかたづいている。  アルミサッシのガラス窓をとおして、街灯のあかりが部屋の中へさしこんでいる。そう安物でもなさそうな木のデスクに向って、パジャマを着た村越康一がプラスチックの定規を使って一心に何か書いている。そのデスクの横に大きな三面鏡が並べてあり、六畳間の残りほとんどはダブルベッドで占められている。  ベッドの上には腹ばいになった喜代子が週刊誌を読んでいた。もう飽きてしまっているらしく、あちこちページをめくり返しては、読み残しの記事を探しているようだった。 「ねえ康一君。もうやめない」  喜代子は首をねじ曲げてデスクに向っている康一の背中に声をかけた。 「ああ、もうよすよ」 「何か持って来てあげようか。オレンジジュースか何か」 「そうだな」 「よしっと……」  喜代子はベッドを降り、次の部屋を通ってキッチンヘ行った。六畳、六畳、台所、シャワーつき。それが二人の愛の巣だった。  冷蔵庫をあける音が聞え、喜代子はしばらく戻って来なかった。康一はデスクにひろげていた書類を整理し、茶色い鞄に丁寧にしまった。  コップの触れ合う音をさせながら喜代子が部屋へ戻って来た。ほとんど裸同然の、おそろしくよく透けるネグリジェを着ている。デスクの上へ花模様をプリントした派手なトレーをのせ、三面鏡の椅子を引き寄せて坐った。 「乾杯」  何の意味もない乾杯を、ふたりはほほえみ合いながらした。 「あれ……」  一気にかなりの分量を飲んでしまってから康一が目を剥いた。 「何か入れたな」 「そうよ、ジンよ。だからテキサスフィズ」 「知らないぞ。俺酔っぱらっちゃうぞ」  康一は下戸だった。 「介抱してあげる。みんな呑んじゃって。そんなにたくさんは入れてないから」 「喜代のも入ってるのか」  康一は喜代子のグラスをのぞきこむようにして言う。彼女はかなりいける口だ。 「もちろん。たっぷり入ってるわ」 「自分が呑みたかったんだな」 「ほんとにもっとお酒呑めるといいのにね。呑めたほうが面白いわよ」 「おやじは、かなり呑むんだがなあ」 「人事部長って、そんなにお酒のつき合いする必要がないポストなんでしょ」 「そうでもないようなこと言ってたな。彼の会社じゃまだ人間関係で処理する面がだいぶ残っているらしいよ」 「大企業でも案外古いのね」 「もうすぐ停年だ。彼も頑張らなくちゃな、これから」 「でも人事関係ってつまんないわね」 「うん。俺の電子工学だって今になっちゃ、もう古いけど、とにかく熟練すれば食いっぱぐれはない。昔の熟練した旋盤工みたいなもんだ。今だって給料はそう悪くないし」 「昌夫さんはどうする気かしら」 「あいつは全然判んない。防衛大へ行くとばかり思ってたのにな」 「でも登録したんでしょ」 「そりゃ、これからは予備登録しなけりゃ気のきいた会社へは入れないよ。どこの会社だって未登録の人間をそうやたらに採用してくれやしない」 「康一君の勘が当ったわね。予備登録制度がはじまるとすぐやったんですものね。私、あんなことしてどうなるのかって、内心ふしぎがってたのよ。でも、そのおかげで今の職場も一発で受かったし……」 「どう考えたってこうなるのさ。防衛予算というのは国防省へ入ってそれっ切りじゃない。そこから出て行くもんだ。防衛予算が今みたいに大きくなれば、多かれ少なかれ企業はその恩恵を受けるだろ……依存度が高くなれば国防省の方針に協力しないわけには行かないんだ。俺だってあの時登録しとかなきゃ、第二志望の会社に就職せざるを得なかっただろうさ。俺の場合には運よく第一回目に当っていたし、登録した奴はそう多くなかったから、うんと効き目があったんだ」 「ねえ、徴兵令状が来たらどうなるの。外国行ける……」 「どうかな。技術屋だからな、こっちは。海上へ行ければいいけど」 「それは海上防衛軍にきまってるわよ。護衛艦て、エレクトロニクス要員がいくらいても足りないくらいなんですってね」 「まあ、あとはその時の運次第さ。徴兵されないかも判らないし」 「一度早い内に行っといたほうが得よ。キャリアだってつくし、一応二年なんでしょ。戻っても今の職場へは必ず戻れるんだし」  康一はグラスを置いて喜代子をからかうようにみつめた。もうほんのりと目のふちを染めている。 「行かせたがってるんだな。浮気したいのか」 「やあねえ。変な風に取らないで」  喜代子もグラスを置いて笑った。 「ほかの奴には渡さないよ」 「そんな気もないわ。私、康一君に満足してるもの」  喜代子は立ちあがり、康一のほうへ両手をさしだした。裸同然のネグリジェの下は何もなく、康一は眩しそうな顔で喜代子の体を眺めた。 「見て。ようく見て私を覚えといて……もしかしたら徴兵されるんだもの」  康一は立ちあがり喜代子の体を宝物にでも触れるような手つきで撫ではじめた。喜代子は頤をあげ、両手をだらりとさげて天井を向いていた。  薄い布が感触を更に微妙にさせているらしい。康一の両手の指が左右対象の軌跡を作って下にさがると、喜代子は豊かに突き出したバストを大きく一、二度上下させ、顔を康一の顔に向き合わせて目をあけた。大きな眸が怯えた時のような色を泛べている。  かすかに首を左右に振った。下唇を噛み、舌でちょろりと舐めた。眉を寄せ、唇を半びらきにして、また首をかすかに振った。 「頑張っちゃう」  低い声で言った。いつもならとっくに喜代子は康一の腕にもたれこみ、膝の力が抜けてしまっているはずだった。 「康一君を味わうの。思いっきり……もしかしたら居なくなっちゃうんだもの」  康一は黙って唾をのみこんだ。 「あ……」  と喜代子は言い、膝を一度折りそうにした。康一は左手で肩からたれさがっている黒い紐を引いた。透明なネグリジェがふわりと下へずり落ち、バストに引っかかって止った。康一の左手がそのひっかかりを外し、ネグリジェはなくなった。康一はひざまずき、喜代子は両手をあげておのれの胸をかかえた。舌をのぞかせて熱い息を吐きだす喜代子の口から、歯に当った呼吸の音が、ヒ……というように聞えている。そしてそれが震える。 「頑張るじゃないか、喜代」 「もう駄目よ、きっと……」  康一の右手が太腿の間からうしろへ伸びた。 「嫌……敗けない」  喜代子は手を胸から外し、自分の頭をもちあげるように髪の間へ指をつっこんだ。 「莫迦、無理するな」  康一はそう言って手をとめた。喜代子は喘ぎながらデスクに両腕をついて頭をたれた。指がトレーのヘリをつかみ、グラスが揺れた。康一は喜代子の体の下から這い出るように立ちあがると、白くぬめぬめとした背中をいとしげに愛撫した。 「喜代と別れるなんて想像できない」  喜代子は長い髪をゆすって答えてみせ、足をひらいた。 「何でもする。何でもしたいの……康一君の為なら」  康一はくびれた胴に手を置いていた。 「喜代と俺は夫婦だ。誰も俺たちを別れさせることなんてできない」  喜代子は康一に押されてのめった。木のデスクに両肘をつき、グラスが倒れた。アパートの住人たちの間に知れ渡った喜代子の細い泣声が始まったようだった。倒れたグラスがころがって何度も音をたてた。揺れる乳房がデスクのヘリに当っていた。 「行かないで。軍隊なんていや……」  喜代子は白い肩をひくつかせながら言った。     4  村越貞治が長男の康一が住む四谷のアパートを訪ねたのは、夏もすぎ、秋もだいぶ深まってからだった。 「いらっしゃいませ」  村越が部屋に入ると、ドアをあけて出迎えた時にした挨拶を、あらためてもう一度言い、喜代子は深々とお辞儀をした。村越は型にはまったいかにも主婦らしい挨拶に戸惑って、 「いや……こちらこそ。康一がお世話になりまして」  と歯切れの悪い挨拶を返すのだった。 「どう、いいうちでしょう」  康一は喜代子のうしろで、にこやかな笑顔を見せていた。 「うん。それに綺麗にしている」 「お父さんが来るからって、特に綺麗にしたわけじゃないんだよ。小さくても家庭は家庭だからね。僕らは家庭は大切にすることにしてるんだ」  それなら、なぜ正式に結婚しない……村越はそう思ったが、物判りのよさそうな微笑をしただけだった。 「お父さま、コーヒーがよろしいですか。それとも紅茶」  喜代子は幾分緊張しているようだった。 「紅茶がいいですな」  村越はそう答え、少し丁寧すぎたかなと思った。 「母さん元気……」康一が訊ねた。 「ああ、元気だよ。しかしお前もたまには帰って顔を見せてやったらどうだ。淋しがってるぞ」  喜代子はキッチンヘ行っていた。康一のうしろの襖が半分あいて、ベッドの端がのぞいていた。ベッドカバーを持っていないらしく、赤い洋風の掛け蒲団が、村越にはひどく気になっている。想像していたより喜代子がずっと大人びて、成熟したなまめかしさを漂わせていたのと、その洋ぶとんの赤い色が重なると、得体の知れぬ焦立たしさが湧いて来るのだ。 「その内行くさ。ここんとこずっと忙しくてね」 「何言ってるんだ。俺は毎日丸の内へ通勤してるんだぞ」 「そりゃそうだけど、僕には僕の生活があるし」  喜代子が紅茶を運んで来た。 「どうぞ」 「有難う。……あなたもずっとご両親のところへは帰っていないのかね」 「ええ」  喜代子はあいまいに微笑した。 「喜代の家は九州なんだ。こっちのことは手紙でちゃんと言ってやってあるし、諒解はとってあるんだよ」 「先だって父も上京してきましたし」  村越は口ヘ運びかけた紅茶のカップをテーブルに戻した。 「お父さんが……」 「うん。寄って行ったよ。何しろこの状態だから、お泊めできなかったけど」 「なんでうちへ知らせん」  村越は思わずけわしい表情になっていた。 「え……」  康一は意味が通じなかったのか、喜代子と顔を見合せた。 「こちらのお父さんが出て見えたのなら、俺か母さんか、できれば両方でご挨拶せねばならなかったじゃないか」 「あの、父は仕事で上京したついでに寄っただけだったんです」 「それにしても知らせて欲しかったな」  喜代子は困惑した様子で左の人差指を噛んだ。 「いずれ正式に結婚式もやるつもりだし、その時でいいじゃないか」 「まあ済んでしまったのだから仕方ないが」 「やっぱり古いとこがあるんだな、お父さんたちって」 「そりゃそうだ、古い人間さ。しかし結婚というのは家と家との問題でもあるんだ」 「判るよ、それ。親戚になるんだからな。でも今の状況じゃまだ僕と喜代の間のことだろ」 「まあいい。結婚式はいつ頃やるつもりなんだね」  村越は紅茶を呑んだ。彼にはレモンの香が強すぎるようだった。 「事情が少し変ってね。もう少しのんびりしてるつもりだったんだけど、今年中にはやることにしたよ。その節はよろしくお願いします」  康一はそう言ってペコリと頭をさげた。 「喜んで、すねを齧《かじ》らせるよ」  村越はいくらか機嫌を直して笑いながら言った。 「でも事情が変ったというのは何だい。ひょっとして……」 「やだわ、違いますよ」  喜代子は左手で口をおさえて笑った。 「子供はまだ作れないさ、経済力がないものな」  康一も照れながら言う。 「じゃ何だ」 「実はね……」  康一はあらたまった様子で椅子に坐り直した。 「喜代、あれを」  目くばせされて、喜代子はハイと答え、次の部屋へ行った。村越はそのうしろ姿を羨望に近い思いで見守っていた。 「これです」  喜代子はすぐ戻って来て、村越の前ヘコトリと小さな音をたてて何か置いた。村越はそれに目を落し、ギョッとしたように康一を見た。 「お前……」  それは黄色い星形のバッジだった。 「そうなんだよ」 「いつ予備登録したんだ」 「ずっと以前さ。予備登録制度が始まってすぐだから、第一期生ってとこかな」 「莫迦なことをする……」  村越は思わず声をあらげた。裏切りに会ったような口惜しさがこみあげて、無意識に握った拳がふるえだしている。 「でたらめもいいかげんにしろ。それは俺はお前を、お前の好きなようにさせていた。お父さんとお前じゃ世代が違う。物の考え方もうんと違う。だから好きなようにさせていたんだ。だがな、最終的にはお前という人間の人格を信じていた。だから自由にさせても平気だった。この部屋のことだって、喜代子さんとの問題だって、口を出したいことはいくらもあった。しかしお前を親として信じていたから黙って見ていたんだ。最後は俺や母さんを安心させてくれる奴だ。とり返しのつかないことはしやしないと……」  喜代子はうなだれて聞いているが、村越を見返す康一の眸にはとらえどころのない冷たい膜がおりてしまっているようだった。 「待ってください、お父さん」  果して切り口上だった。 「僕をエレクトロニクスのエンジニアにさせたのは父さんですよ。その選択を僕は喜んでうけ入れた。生きて行くにはそれが一番たしかな道だと信じたからです。だがこの道へ入ったら入ったで、更に一番いい道を選ばなきゃならない。社会人レースのスタートからいい位置についとかなきゃ損ですからね。だが、その時徴兵制が復活したんだ。予備登録をし、合格した者が徴兵予定者名簿に載るんです。国防省はその名簿に載った人間はいつでも好きな時に召集できるんです。エレクトロニクスの技術で生きる最善の道は国防関係にしかあり得なかった。その入社試験をパスするには、僕の場合予備登録を利用するのが一番確実だったんだ。言えば反対するのは判ってたから、僕は父さんたちに黙ってこっそり予備登録をした。高度なエレクトロニクスの技術を使う国防関連企業は、国防省の方針に迎合するにきまってますからね。合格した時、父さんは喜んでくれたじゃないですか。祝ってくれたでしょう」 「知らなかったからだ。そういうお前の、親の心情を無視した処世術と、父さんや母さんは関係がない」 「だろうか……」  康一はそう言っていっそう冷たい表情になった。 「ずるいよ、父さんたちは」 「どこがずるい」 「父さんは人事部長だ。父さんの会社で新入社員の採用規準に、その黄色い星のことを問題にしてないはずがない。そうだろ」  その通りだった。この春から予備登録者を優先させることがきまっていた。村越は口をへの字に結んで康一の顔をみつめた。このさき何を言われるか、おおよその見当がついて来た。  父の眸に物哀しいものを読んだに違いない。康一は急に少年の頃の表情になった。 「俺だって困っちゃったんだよ。たしかに処世術さ。予備登録を利用したよ。急に召集が掛るなんて思わなかったんだ。でも最近あちこちで徴兵令状を受取った奴が出はじめたんだ。国防省は凄い勢いで兵隊を増やしてる。だが僕には家庭がある。妻もいる。子供だって欲しいと思う時がある」  康一の眸が潤みはじめているようだった。父子は睨み合い、父が言った。 「入籍しろ。すぐにだ。喜代子さん、九州へ電話をしてご両親に康一と結婚すると伝えなさい」 「ハイ」  喜代子は慌てて立ちあがり、電話のある奥の部屋へ行った。 「ずるいと言ったな」  村越は自虐気味に言った。 「自衛隊の最初の海外派兵の時、父さんたちは反対もしなかった。防衛庁の国防省昇格の時、デモもかけなかった。反戦グループの活動を過激ときめつけ、彼らがまき起す騒動の市民生活に対する迷惑だけを数えあげて、結局彼らを潰してしまった。何が起ってもしらん顔だ。戦争の悲惨さと戦後の貧乏を知っている世代のくせに、長いものにまかれ、流されるにまかせて何ひとつ、してくれなかった。なる程父さんたちは日本を経済大国に仕たてあげたよ。働き者さ。でもそれは何だったい。アメリカが辿った道と同じ道を歩いただけじゃないか。専守防衛と言ったって、国が富めばいずれは外に出て行くんだ。その時の歯どめを作ろうとしたかい。富めば守るものも増えるんだ。そこで自衛力増強以外の知恵を働かせてくれたかい。僕らが一人前になったとたんにクーデターだ、高度国防国家だ……徴兵制復活だ。今更親の気持を察しろだの、戦争のこわさを知ってるかだの、そんなこと言ったって手おくれさ。幸いまだ戦争は起ってない。だが昌夫たちの世代は判らんぜ。僕の子供たちの世代は……ずるいよ。明治以来いちばん長く続いた平和と、歴史はじまって以来のゆたかな社会にどっぷりつかって、あとは野となれ山となれだ。あとの世代に何も残しちゃくれないんだ。公害と銃……渡してくれたのはそれだけじゃないか」  村越は窓の外をみつめていた。となりのアパートの青白いモルタルの壁以外、何も見えない窓だった。     5  錦糸町の酒屋で母親のかな子が眼を泣きはらしていた。 「母さん、泣くことはねえぜ」  次男の増夫がなぐさめている。 「なあ、父さん」  父親の良策もがっくりと首うなだれていた。 「なんだ、みんなお通夜みたいな顔して」  増夫は呆れたように言った。 「すぐ戦争に行くわけじゃねえぜ。よせよ不景気な顔は。兄貴が可哀そうじゃねえか」  酒屋は閉っていて、座敷で若い声の合唱が聞えていた。 「おい、お前知らねえか」  良策が顔をあげて言った。 「なんだい、父さん」 「あいつ、これいたのか」  左手の小指をたてて見せた。 「彼女か……」  増夫は考え込み、渋い顔になった。 「いねぇみてぇ」 「あっちへ行って呑んでろ」 「いいのかい」  良策は増夫の顔を驚いたようにみつめ、 「そうか、未成年者はだめだぞ」  と言った。 「どうかしてるぜ」  増夫は鼻の先で笑い、座敷へ行った。 「なあお前、洋介は女を知らねえんじゃねえかな」 「そうかも知れないよ」  すると良策は、はなをすすり、ごつい掌を顔に当てた。 「やだよ、あんたまで泣いたりしちゃ」 「あん畜生め、女も知らずに兵隊にとられるのか」 「変なこと言わないでよ。いいじゃない、その方が」 「莫迦、女と男は違わあ。……赤線があったらなぁ」  良策は南の方を向いてそう言った。 「いやらしい、洲崎なんて」 「どこだっていいんだ、莫迦。赤線があったら蹴っとばして中へ抛りこんでやる」 「病気になるよ、この人は……」 「あれば、の話じゃねえか。どっかにあるはずなんだよ。畜生、堅くなっちゃってからもう二十年もたつ。もうどこにそんなのがあるか見当もつきやしねえ。おい、二十年も俺はお前にしかさわらねえんだぜ」 「どうだっていいよ、そんなことは」  カシャン、とビールの空瓶をつめた箱が音をたてた。 「何て話をしてんのさ、夫婦でだらしのない」  二階の住人の妙にボーイッシュな感じのする五十がらみの女が、シャッターをおろしたうす暗い店の中でニヤニヤしていた。 「何だい、澄ちゃん聞いてたのか」 「そうかねえ、洋ちゃん童貞かねえ」 「そうにきまってるよ。あの子は」  かな子は言い、「座敷見てくるわ」と涙をふきながら立ち去った。良策は戦前からの隣人である澄江を憮然とみつめていた。 「実はね、娘の侑子の亭主ってのが、国防省の顔なんだよ」 「へえ、役人……」 「ちがうの、これさ」  澄江は帽子の鍔《つば》を引きさげる身ぶりをしてみせた。 「洋ちゃん、明日の昼だろ、行くのは」 「うん」 「今夜あの子のうちへ挨拶に行かせたらどうだろう。亭主はいる筈だし、何か役に立つんじゃないかねえ」  良策は手を叩いた。 「早く言ってくれりゃいいんだよ。そうだよ。軍隊ってのはそういうコネでどうにでもなるんだから」 「役に立つかどうか判んないけどさ」 「よし、善は急げだ。壮行会なんて知っちゃいねえ。あんまり酔わねえ内に引っぱって連れてっちゃお」 「およしよ。相手は兵隊に行こうって男だよ。親のつきそいじゃ顔が潰れるよ」 「それもそうだな」 「私があの子のうちの前まで、タクシーで案内してってやるよ」 「そうかい、済まねえな。……おい、かな子。かな子」  良策はきおいたって妻の名を呼んだ。  青山のマンション。  澄江の一人娘の侑子はとび切りの美人だった。かつて澄江は戦争で夫を失い、生れたばかりの侑子をかかえ、銀座から立川にかけてのバーを、進駐軍相手に渡り歩いた女だった。娘の侑子も女学校を出るとやがて銀座のホステスになり、今では一流と言われる店のマダムに納まっている。ホステス暮しの間に知り合った男と同棲し、その男が国防省の幕僚だった。 「あの……ご主人は」  洋介は上気した顔で侑子に言った。十歳以上年上だが、美貌の侑子は洋介にとって昔から憧れの的だった。 「まあ飲んでよ。丁度ひとりで淋しかったのよ」  侑子は恰好のいい脚を組んでブランデーグラスを揺らせながら言った。 「私の母さんもおかしいわね。耄碌する年でもないのに。うちのは、ずっと外地へ行って留守なのにねえ」 「いいんです。おやじが安心すれば……行ってこいってきかないもんですから」 「昔っからのお友だちだけど、これでしばらくはお別れなんだから、ゆっくりして行ってよ。うちのに会って話込んだと思えばいいでしょう」 「ええ」  洋介は擽ったそうな声でブランデーをのんだ。 「さあ、もう少し景気よくおやんなさいよ」  侑子は謎めいた笑顔ですすめた。妖しい年増女の匂いがぷんぷん漂う豪華な部屋で、洋介は憧れの女の前に他愛もなかった。 「洋ちゃん、彼女にお別れして来た」 「そんなの、いないんです」 「まあ驚いた。うそでしょう、洋ちゃんみたいハンサムが」 「いないんですよ。ぶきっちょで……」 「あなた、女の体知らないで兵隊に行っちゃう気」 「別にどうってことない……」  洋介は憤ったような顔で言った。  侑子は本気でいじらしくなっていた。何よりも幼馴染の安心感があった。それに、考えてみれば彼女は童貞を知らなかった。女ざかりの身を半年以上男から遠ざかって、そろそろ浮気の虫も起りかけていた。母の澄江にそれとなく言われた時、自分自身まさかと思い、冗談半分会ってみたのだが、洋介が兵隊にとられるというのが、なんとなく自分の男のせいであるような気にもなりかけていた。 「キスは」  洋介は気弱に首を横に振った。 「今どき貴重品ね、あなたって」  侑子は本気でつぶやき、けだるげに、だが内心は洋介を捲き込む計算で緊張しながら、そろりと立ちあがり、洋介の前へひざまずくと近々と顔を寄せた。 「キスぐらいならしてもいいわ。入隊のお祝いよ。……莫迦ね、ほっぺたじゃないの」  侑子は洋介の唇を頬に受けたあと、自信たっぷりに腕を男の首にまいた。もうこの男は自分のものだと思い、そう思うとできるだけ悶え狂わせてやりたい気分になった。  澄江は洋介を送り込んだあと、十五分ほどマンションの前にたたずんでいた。 「ふん」  やがて澄江は鼻を鳴らして歩きはじめた。彼女は軍人が大嫌いだった。終戦寸前に夫をとりあげ、殺してしまったのも軍人だ。食うために青春をすりへらした相手もアメリカの兵士だった。自衛隊員を見るとぞっとした。だから娘の侑子が国防省の幹部と出来たのを知った時、幾晩も泣いて悲しんだものだった。どうせ兵隊に呉れてやるなら、大家の倅の洋介のほうが余程可愛気がある。長年世話になった礼もできようというものだ。  澄江は乾いた気分で地下鉄の階段を降りはじめた。女物にしてはごつい靴の踵が鳴って、ひとけのない地下道にこだました。澄江はそれを軍靴の響きのように聞いていた。 角川文庫『軍靴の響き』昭和49年6月10日初版発行            昭和52年2月20日5版発行