赤い酒場 半村良 目次 [#ここから2字下げ] 第一部 能登怪異譚 箪笥《たんす》 蛞蝓《なめくじ》 縺《もつ》れ糸 雀 谷 蟹婆《かにばあば》 仁助と甚八 夫婦喧嘩 夢たまご 終《つい》の岩屋 第二部 怪奇SF選 赤い酒場を訪れたまえ フィックス 嘆き鳥 第三部 現代怪談集 衝動買い 黙って坐れば ボール箱 赤い斜線 林 道 ちゃあちゃんの木 夢の底から来た男 初出一覧 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    箪笥《たんす》  おら長男《あんか》や、無愛想《あいそむない》な男やさかい、宴会《よばれ》ども行ったかて、いつまででもあして黙っとるのやわいね。そやけど、あんたさんのことを嫌がっとのやないげさかい、気にせんといてくだしね。  弟達《おじらっち》ゃみな自衛隊へ行っとるがやて。能登いうたら、このごろは東京や大阪から、沢山《ようけ》観光客達《らっち》ゃ来るさかいに、なんや好いとこみたいしに思われとるやもしれんけど、本当《ほんま》は何《なん》も取れんところやがいね。海ゃ近《ちこ》うて定置《おおし》網《き》やある言うたかて、魚獲るのは博奕《ばくち》みたいしなもんやし、夏になれば何《なん》も獲れんがになってもうがいね。  ハイ《おいね》。このあたりの家いうたら、昔はみんなこんながやったわいね。漆《うるし》を沢山《ようけ》使うた板の襖やたら、書院や欄間やたらに手間のかかった……あんたさんら東京の衆《し》には珍らしいやろうけど、今はもうこんながも無《の》うなってもうて、ここでは我家《おらうち》と七郎三郎《しっちょさぶろ》だけになってもうたがいね。夜《よさる》は暗いし、電気灯《とぼ》したかてこのとおりやさかい、部屋の数が多いばかりで、葬式でもなけにゃ、わたしらかて三月《みつき》も半年も入らん部屋かてあるわいね。そんながやさかい、一人で寝とらしたら、何《なん》やらおそろしゅうなるのも道理やわ。  よう寝られんのやったら、御坊《ごぼ》さまみたいしには行かんけど、何や変った話でもしょうかいね。と言うたかて、おら見たいしな老婆《ばあば》には、随分《とんと》昔の話しかよう出来んのやけど、これはまあ、変った話いうたら変っとるのやわいね。  本当《ほんま》言うたら、我家《おらうち》のことやがいね。おら祖母《ばあば》から聞いたのやさかい、いつの何年てなことはよう知らんけど、そのころこの家に、市助《いちすけ》いう亭主《とうと》がおったそうや。  市助亭主《いちすけとうと》が、働きざかりの年頃のことやけど、父親《じいじ》も母親《ばあば》もまだ健在《おらし》て、それに女房《かあか》と十六をかしらに三つの男の子《ぼんち》まで、八人の子供|達《らち》ゃおったのやと。  昔は、というても、ついこの間までのことやけど、どこの家もそないしてみんな子沢山やったわいね。どないしとるのや知らんけど、今はもう子供は沢山《ようけ》作らんと、やれテレビやたら冷蔵庫やたら持って暮らしとるがやねえ。  そやけど、今のほうが好《え》えことは好《え》えわいね。昔言うたら、オデキ《がめ》やたら眼病《やんめ》やたら、子供|達《らっち》ゃみんなそげなもん病《や》んどったし、齢《とし》とったら、すぐ酷《ひど》うに腰ゃ曲ってもうて、きっと市助の父親《じいじ》も母親《ばあば》も、腰が曲っとったのやと思うわね。  市助は毎朝早《はよ》ぅらと浜へ行って、定置網《おおしき》の舟で沖へ出とったのやと。田んぼや畑の山仕事は、そやさかいみんな嫁の仕事で、年寄《とっしょり》や長男達《あんからち》がそれを手伝《てっと》うて、毎日仲よう暮らしとったそうや。  ところがあるとき、三つになる男児《ぼんち》が面妖《もっしょい》なことになってもうたそうながや。  夜《よさる》、寝間で寝んと、毎晩毎晩こんな箪笥の上へあがって、坐ったまま夜の明けるまでそうしてるのやといね。  はじめの内、市助|亭主《とうと》はそれを知らずやったのやと。毎晩そないしとったのを知った時は、そやさかいに、もうだいぶ長いことたっとったそうや。  びっくりしてもうてな。女房《かあか》と喧嘩《いさかい》になったそうな。  「汝《われ》やついとって何《な》してそんな奇態《きけい》なことを黙ってさせとるんや。今夜《こんにゃ》からちゃんと寝間へ入れんと殴打《たたっくら》するぞ」と憤《おこ》ったそうながやけど、またその晩も、女房《かあか》は何《なん》も言わんと男児《ぼんち》が箪笥の上へあがってしまうのを、黙って見とるのやと……。  市助はすっかり腹たててもうてな。男児《ぼんち》を箪笥の上から引きずりおろして打擲《ちょうちゃく》したそうやわいね。  言うとくけど、その男児《ぼんち》も、市助の女房《かあか》も、ほかの子供|達《らち》も、みんなおとなしゅうて、市助亭主《とうと》の言うことを素直に聞く者《もん》ばかりやったそうな。  ところが、その男児《ぼんち》が箪笥の上へあがることだけは、みんな気を合わせたように、どないしても構わんと放って置くのやそうな。言うても言うても駄目《だっちゃかん》がやと。  市助はあきらめてもうてな。もう少《ちょっこ》し大人になれば好《い》い様《が》になるやろ思うて、何《なん》も言わんと勝手にさせておいたんやといね。  ほんで、どのくらいたったあとやろうか。或る時ふと子供|達《らち》の寝間を、市助がのぞいたそうなと。例《いま》の男児《ぼんち》がもうそろそろ箪笥の上へあがらんようになった頃や思うたんやろうな。  先に言うたとおり、子供|達《らっち》ゃ八人おるのやけど、市助がのぞいたら、なんとその中の五人までが、寝間におらんと、箪笥を幾棹《いくさお》も並べてある別な座敷で、最初の男児《ぼんち》と同じように、その箪笥の上へあがって、こうしてちゃんと膝に手ぇ置いて坐っとるのやがいね。  市助がどないにびっくりしたか、判りますやろ。「汝達《わらっち》ゃ何《なん》やてみんなして箪笥の上へあがっとるのやッ」……怒鳴りあげたそうや。  でも、子供|達《らっち》ゃ知らん顔して箪笥の上へ坐っとる。気味《きび》悪《わる》なって、市助は家中のもんを起してまわり、その箪笥の間《ま》に集めたそうや。  そやけど、家のもんはみな早うに知っとったようで、別に驚かずやったと。なんや、そんなことで起したんかいな、言うたもんで、すぐそれぞれの寝間へ戻ってしもうた。……なぜ箪笥の上へあがるか、いつからあがるようになったのか、亭主《とうと》の市助だけが知らんと、あとは家中の者《もん》が判っとるのやなあ。  市助は女房《かあか》をかきくどいたそうな。「なんであないしとるか、知っとったら教えてくれ」言うてな。そやけど、女房《かあか》は|少し《ちょっこり》笑うて見せるだけで、そのことになると何《なん》やよう判らん顔で、じっと市助の顔をみつめるのやと。  市助は心配になったそうや。子供|達《らち》は病気にかかったのやないかと……ひょっとして、その病気が次々にうつっとるのやったら、ひどいことになる思うてな。  市助の心配は半分ほど当っとったそうや。箪笥の上で夜を明かしても、別に病気ではのうて、みんな体は達者ながやけど、家の者《もん》に次から次へとうつるのは、心配どおりやったのやといね。  残る三人の子も、やがて夜《よさる》になると箪笥の上へあがり腰の曲った母親《ばあば》まで、どうやってあがるか知らんけど、ちゃんと高いとこへあがって坐るようになってもうた。  市助は家におるのが恐《おとろ》しゅうなったそうや。昼間はみんな今までどおりの家族やけど、夜《よさる》になったさかいには、化けもんみたいしに、口もきかず顔色もかえんと、みんなして箪笥の上へあがってしまうのやさかいな。  恐しゅうて寝られんがになってもうた。今のあんたさんと同じこっちゃ。  それでも、ねむらんとおれるもんやなし、いつのまにか、うつらうつらしとると、或る晩のことやけど、遠くで、カタン、カタン、カタン、カタンと、何《なん》や聞いたことのあるような音が聞えてきたそうな。  あの音はなんの音やったかいな……そう思うて耳をすまして聞いとると、カタン、カタン、カタン、カタンという音は、だんだん近うなって来る。そこでふと、となりに寝とるはずの女房《かあか》を起そうと思うて見ると……。  おらんのや。そのとたん、市助はぞっとしてはね起きてもうたそうや。恐しゅうてたまらんさかい、わざとドタドタ足をふみならして、音のほうへ家の中を走って行くと、父親《じいじ》も母親《ばあば》も女房《かあか》も子供|達《らち》も、みんなが力を合わせて、浜へ出るこの前の道から、家の中へ古い箪笥を運びこむところやった。  市助は口もきけず、家中の者がその箪笥を奥の間へ運んで行くのを眺めとるだけや。カタン、カタンという音は、箪笥の鐶《かん》が揺れて鳴る音やわいね。  みんなが奥の間へ消えて少《ちょっこ》しすると、そのカタン、カタンもやんで、しいんと静かになってもうた。  市助は恐る恐るのぞきに行ったそうな。  父親《じいじ》に母親《ばあば》に女房《かあか》に八人の子供|達《らち》……一人残らず箪笥の上へあがって、膝に手ぇ置いて坐っとった。身動きもせんと、目ぇあけて、きちんと坐っとるのや。  それからというもの、夜《よさる》に寝間で寝るのは、とうとう市助一人になってもうた。  幾晩市助がそないな家で我慢しとったか、おらも聞いて知らんわいね。とにかく或る晩市助は、親類《いっけ》の家で酒飲んでぐでぐでになって、そのまま着のみ着のままで、海ぞいの道をどこまでもどこまでも逃げて行ってしもうたそうながや。  市助はそのあと水夫《かこ》になったそうや。北前船の水夫《かこ》になって、何年も家へ戻らなんだそうや。  そいでも、仕送りだけはちゃんちゃんとしとった言うさかい、律義なは律義なやったんやなあ。  何年かたって、どういうかげんか、市助の乗った北前船が、このあたりへ来るめぐり合せになってもうたのや。この|少し《ちょっこり》先の岬《はな》の沖に錨を入れ、夜を明かすことになって、そりゃ市助かて生まれ育った土地やさかい、懐しいわいな。夜が更《ふ》けても、胴の間におらんと、ふなべりにもたれて家のほうを眺めとったわけや。  すると、ギーッ、ギーッと舟をこぐ音がきこえ、かすかに、かすかに、カタン、カタン、カタン、カタン……。  あの箪笥の音や。  市助は金縛りにあったように、身動きもできんやった。  カタン、カタン、カタン、カタン。  舟はやがて市助のいるすぐ下へ来たわいね。見ると、一家そろって舟に乗り、市助を見あげとったそうな。「とうと。とうと……」みんなして、小さな声で市助を呼ばっとる。「とうと。帰らしね。帰って来さしね。なんも恐しことないさかいに、帰って来さしね。とうとの箪笥も持って来たさかい、この上に坐って帰らし。みんながしとるように、夜《よさる》になったら箪笥の上へ坐っとったらいいのや。あがって坐れば、どうして家の者《もん》がそうするのか、一遍に判るこっちゃさかい。一緒にくらそ。水夫《かこ》みたいしなことしとったかて、なんも好いことないやないか」大勢してそう市助に呼びかけたそうな。  ハイ《おいね》。その晩市助は船をおり、箪笥の上に坐って、カタン、カタンとみんなに運ばれて家へ戻ったそうなわね。  面妖《もっしょい》なはなしやろうがいね。  なんで夜《よさる》になると箪笥の上へあがって坐っとるのか、おらにはようく判っとる。そやけど、よう言えんわ。かくしとるのやのうて、言葉ではよう言いきかせられんのや。そやけど、あんたさんかて一遍ここへこうしてあがって坐って見さしま。よう判るさかい。箪笥もこない沢山《ようけ》あるし、この家へ泊まるのも何かの縁ですさかいなあ……。 [#改ページ]    蛞蝓《なめくじ》  あんたさん、東京《とうきょ》の人《し》やろがいね。……なあ、東京《とうきょ》の人《し》やろ。  そげに驚かいでもええわいね。恐《おとろ》しいことは何《なん》もないがやさかいに。そら、俺《おら》かて尋常《ただ》の体ではないけど、あんたさんかて其様《そない》に頭から黒い頭巾みたいしな物《もん》をすっぽりかぶって、真っ黒けなゴムの服着とったら、何《なん》やら化け物《もん》みたいしなもんやわ。それが今どき忘れられてしもうたような、手漕《てこぎ》の小《ち》さな舟に乗って、それも此様《こげ》な真夜中に、此様《こない》な沖へ独り切りで出て、よう恐《おとろ》しないもんにゃわい。土地の者《もん》やったら其様《そない》なこと、ようせん。ここらは浜ごとに定置網《おおしき》ゃあるさかいに、魚獲るのは仕事やしね。魚釣りは子供らの悪戯《てんごう》や。そやさかい、大人が本気で釣っとれば、他所《よそ》者《もん》……それも都会の人《し》にきまっとる。  それにしても、あんたさんもだいぶ魚釣りが好きなんやねえ。手つきが違《ちご》わいね。さっきから見とって感心しとったんや。そんなら本職の漁師と一緒や。年季が入っとる。俺《おら》も定置網漁《おおしき》に出とったことがあるし、遠洋船にも乗っとったさかい、見れば判るのがやて。  諾《おいね》、北洋漁業いう奴《やっち》ゃ。昔はようけ儲かったさかいに、家へ金さえ送ったら、漁期が終ったかて遊び呆けとっても、其程《そげに》文句も言われずやったわいね。ここら辺りは半農半漁やさかい、真面目に帰ったしにゃ、山仕事せんといかんね。そやけど俺《おら》、山仕事てが、生まれつき好かんがやて。此様《こない》にして、ぷかぁりぷかり、波にまかせて空の星達《らち》を見とるのが性に合《お》うとるがやて。  そやけど、男も所帯を持ってしもたら、そない気楽にもしとられんがになってまうもんにゃわい。女房《かあか》のことも少《ちょっこ》しかもうてやらんとなあ。俺が此様《こんなが》になってしもうたのも、元はと言えば女房《かあか》を放ったらかいて、かまいつけずやったせいやわいね。  今更身の上ばなし言うのもおかしなこっちゃけど、漁にかこつけて一生の余も好き勝手にほつき歩いて、ふと気が向いたさかい、家へ帰ることにしたんや。土産物《みやげもん》なども言いわけに少《ちょっこ》し奢《おご》って、女房《かあか》のよろこびそうなものを沢山《ぎょうさん》買い込んで……そら、気にはしとったんや。そいで戻って、まあ何とのう亭主づらをしとったんやけど、何や知らん村の衆達《しらち》が蔭でこそこそ言うとるのに気がついてな。おかしいなあと思っとったら、何とこれが俺《おら》の女房《かあか》のことやったんやがいね。  男が出来とったんや。今考えれば、どっちが先に手を出そうと、其様《そない》なことはどうでもいいことなんやけど、俺もこんな気性やし、はらわたが煮えくり返るようになってもうて、しつっこく尋ねてまわったんや。相手は女房《かあか》より、少《ちょっこ》し年下の男でな、まだ独りやったさかい、お茶でも飲みにいらし、とか、御馳走《まいもん》作ったさかいとか何たら言うて、女房《かあか》のほうが先熱をあげとったらしいんや。  それからごちゃごちゃといろいろあったわいね。ああいう揉めごとは嫌なもんや。女房《かあか》も隠し切れんがになると、あんたが家を放ったらかいとるさかいにいかんのや、言うて居直る始末やった。もう毎日諍《いさか》いのし通しやった。  そのうち俺《おら》も、はや別れる気になってな、女房《かあか》が嫁に来た時持って来た物《もん》は返さなならんし、一遍見とこう思って、久しぶりに土蔵の鍵を出して、家の裏の川ぞいに建っとる古い我家《おらいえ》の土蔵へ行ったんや。  我家《おら》の土蔵は村でも一番古うてな、建てたあとで電灯線を入れたさかい、中の灯りをつけたり消したりするのは、蔵の外でやるようになっとるんや。それやったら電灯消し忘れて戸を閉めても、あとで気が付けるさかいにな。  祖父《じいじ》の代から、我家《おら》の土蔵の中だけは、人が感心するくらいきちんと片付いとったもんや。そいで、その土蔵をあけてびっくりしてもうた。  はじめは何《なん》にやら気味《きび》悪いだけでよう判らなんだのやけど、何とあんたさん、土蔵の中が蛞蝓《なめくじ》だらけなんや。恐《おとろ》しい数やったわいね。何千、何万という蛞蝓《なめくじ》が、床と言わず壁と言わず、びっしり貼りついとった。蛞蝓の上に蛞蝓が乗って、その上にまだ這いまわっとるんやさかいもう……気味《きび》が悪いて何《なん》て、足を踏み込むこともできんがや。  腹立ってなあ。間男して家をかまいつけんさかい此様こないになってもうたんや思うたら、女房《かあか》が憎らしゅうて憎らしゅうて。それというのも、我家《おら》の自慢の土蔵やったさかいや。祖父《じいじ》も父《とうと》も、祖母《ばあば》も母《かあか》も、そら大切に面倒見て磨き込んで来た土蔵やないかいね。それを俺の代になって女房《かあか》の不始末で此様《こない》にされてもうたと思うたら、気味《きび》の悪さも手伝《てつど》うて何が何《なん》にやら判らんがになってしもうた。  ちょうど女房《かあか》は使いに出て不在《おらず》や。仕方ないさかい、リヤカーを引っぱって浜の店へ走ったわいね。塩を下《くだ》し、言うて。店の者《もん》も驚いとったわ。そらそやろ、一升二升の塩やない、俵《たわら》で買わにゃ足りんのやさかいになあ。  とにかく俺《おら》、店中の塩をかき集めて売ってもらい、リヤカーに乗せて土蔵へ戻ると、スコップであたりかまわず撒き散らしてやったんや。両手で団子に丸めて壁にも叩きつけてまわった。まるで子供の雪合戦や。おかげで土蔵の中は真っ白けになってもうた。  じゅくじゅく、じゅくじゅく……蛞蝓達《なめくじらち》は融けはじめた。じゅくじゅく、じゅくじゅく融けて行くと、真っ白けやった土蔵の中が、だんだんに黒うなって行くんや。まるで塩が煮えはじめたようやった。あっちでもじゅくじゅく、こっちでもじゅくじゅく。  どろーりとした粘液《ねば》になって、蛞蝓はやっとおらんがになったのやけど、今度はその粘液の始末が大変やった。何せ粘液やさかいに、箒で掃いたかて、じわーっといつの間にか元へ戻って来てまう。スコップですくおう思うたかてどもならん。  そしたら女房《かあか》が帰って来たんや。もう夕方で、薄暗うなっとった。あんた土蔵にスコップ持ち込んで何《なん》しとるんや。阿呆せんとかし……。  少《ちょっこ》し言い方もきつかった。俺《おら》、カッとしてな。女房《かあか》の襟首引っつかむと土蔵へ連れ込んで、汝《われ》や間男してかまいつけんさかい、土蔵の中が蛞蝓《なめくじ》だらけになってもうたやないか、言うて見せたんやけど、そん時ははや、蛞蝓は一匹もおらんがになってもうとる。  嘘こくもんでない。蛞蝓などどこにもおらんやないか。……女房《かあか》はそう言い張る。俺《おら》もうくやしいてな。これが蛞蝓を塩で融かした粘液《ねば》や、言うたかて、あんたが何やこぼしてしもうたんやろと言い返されてまう。  ほなら蛞蝓か蛞蝓でないか自分で調べて見い……言うて女房《かあか》の帯を引っ解くと、着物も襦袢も腰巻も、何もかも剥ぎ取ってしもうて、粘液《ねば》の中へ突っころばいてやった。突っころばいといて、箒で粘液を女房《かあか》のほうへ掃きとばしてやった。塩と蛞蝓の入り混った粘液や。女房はその粘液の中を、素っ裸でころごまわっとったけど、やがてのことに何やぐったりしてもうた。  どや、蛞蝓か蛞蝓でないか判ったか。俺《おら》はそう言うて、箒を杖がわりに息を切らして見とったら、そのうちに素っ裸の女房のまわりの粘液《ねば》が、じゅくじゅく、じゅくじゅく、またはじめたんや。俺は余りのことに、ぼんやりと箒を杖にしてそれを見とるだけやった。  じゅくじゅく、じゅくじゅく、女房は融けはじめとった。床の上に盛りあがって見えた女房《かあか》の白い裸が、じゅくじゅく、じゅくじゅくと平らになって行って、しまいにゃ髪の毛と、あそこの毛と、腋の毛と、毛だけになってもうた。  あんたさん、知らんやろう。間男した女の体は、蛞蝓の粘液で融けるのやわいね。融けて、無うなってまうのや。あとに残るのは、どろーりとした粘液だけ。  殺した、てな風には思えなんだけれど、とにかく俺の女房《かあか》は融けてしもうた。もう生き返らんのや。俺、はっとそのことに気付くと、夢中で粘液を裏の川に捨てにかかった。人に見られたら大変や思うて、夢中で粘液をすくってはブリキ缶に入れ、川へ流してはまた土蔵へ行って粘液をすくったんや。  そいでも朝までには何とか土蔵も元通りになって、俺もほっとしたんやけど、体中にその粘液がついとったらしくて、いくら拭いても洗うても、肌がゴム糊がついた時みたいしに、突っ張ってどもならんかったのや。  女房《かあか》がおらんようになったことは、どうやら言いくるめられたわいね。俺《おら》たちが夫婦別れしそうや言うことは、村で知らん者がなかったさかいに、また諍《いさか》いがはじまって、夜の内に出て行ってしもうた言うたら、みんな納得して怪しまずやったわいね。  五日、十日、半月と、それで女房のことは無事にすんどったのやが、粘液がついて突っぱらがった俺《おら》の手足が変になって来てしもうてな。どんどん硬くなるようなんや。ことに踵からふくらはぎにかけては、はや石のように硬うなってもうてな。痛《いと》うてたまらんのや。  そいでも我慢して、浜へ出て定置網《おおしき》の仕事を手伝《てつど》うたりしとったら、或る日小さな船のスクリューを直さにゃいかんことになって、俺がそういうことに上手やったさかい、海の中へ入ったんや。  そしたらどやね、突っぱらがったところも、硬かったところも、痛かったところも、すうっとしていい気持なんや。こら、あの粘液《ねば》の病気は海の水が効くんやなあと思った。海の水につかっとれば治りそうな気がしたさかい、それからは口実をつけては泳いどった。  ところがや。海の中にいる時はいいのやけど、いったんあがって時間を置くと、それ以前より酷《ひど》うなってまう。そやさかい、日に五度も六度も海へつかることになってしもうたんやが、そうなると村の人《し》もさすがに怪しみはじめてな。陸《おか》にいるときは手でも足でもこちこちになってはれあがるもんやさかい、何か面妖《もっしょい》な病気にとりつかれたんやないかと言い出す始末や。わけの判らん病気となれば、感染《うつ》るんやないかと思うのも人情やさかい、俺《おら》の評判は一遍に悪うなってしもうた。  折りも折、村の川の一番下《しも》の家の近くで、長い女の髪の毛がごっそりひとかたまり、杭にからまっとるのが見つかったんや。もちろんそれは俺の女房《かあか》の髪にきまっとる。女房《かあか》の側の親類《いっけ》が騒ぎ出してしもうて、警察に調べるよう頼んだという噂やった。  体は面妖《もっしょい》なことになってしもうたし、俺《おら》はもうどうでもいいと思うたわいね。人がどう思おうとかまわんさかい、体の楽な海の中に、日がな一日ぷかあり、ぷかりとつかっとった。そのうち警官やら刑事みたいしな人やらが村に来はじめたさかい、夜になっても海からあがらず、村からも離れて、人のよう来んあたりの海の中にかくれとった。  そやけど、いくら体の硬うなる病気やいうても、四六時中海につかっとったら、体もふやけてまうがいね。俺《おら》の体は痛みもせぬかわり、ぶくぶくに脹れて来てしもうた。両手を脇につけることなど、できんようになってもうて、もう陸《おか》へあがろうと思うても、ようあがれん体になったんや。  そいでもまだ、警察に見つかるのが恐《おとろ》しいさかい、だんだん沖へ出ていって、とうとう人間の世界とは縁が切れてしもうた。警察は船を出して岸を探しまわっとったそうながや。でも、人間がそない何十日も沖にかくれるとは思わんものなあ。  そして一年、二年、三年。もうあれから何年たったか憶えとらん。年月《としつき》など憶える必要ものうなったんや。俺《おら》の体は海の水の中でふくらみにふくらみ、爪も融けたし、骨も柔こうなって、もうひとかけらも無うなったようや。体もこの通り透きとおってしもうて、警察の船がそばへ来たかて、逃げることもありはせん。  海月《くらげ》やわいね。俺《おら》、はや海月になってもうた。その大きな海月が、夜の海でいきなりあんたさんに声をかけたんやさかい、びっくりするのももっともやけど、今の話を聞いたら納得してくれたやろ。  もう岸へ帰るがかいね。もう少《ちょっこ》し話をしていかんかいね。  そうか、やっぱり帰りなさるがい。まあ、とめはせんわいね。折角の釣りを邪魔して悪かったなあ。そんでも、よかったら明日の晩また来さしね。今夜《こんにゃ》の埋め合せに、下へもぐって魚達《さかならち》の沢山いる所を教えて供《た》するわ。  またいらしね。待っとっさかいになあ。 [#改ページ]    縺《もつ》れ糸  遠い昔《とんとむかし》、この辺りに翁媼原《じじばばはら》いう場所があったのといね。聞いておらじか……そやろなあ、其様《そない》な話も、もう聞いて知っとる者《よた》は少《すけ》のうなってもうた。私《おら》かて祖母《ばあば》に抱かれて寝る際《しな》に、ぽつり、ぽつりと聞かされたのを、近頃になって何とのう思い出したのやさかいなあ。  翁媼原《じじばばはら》いうのがどこにあったやら、私《おら》も知らんないね。ただ、私《おら》が祖母《ばあば》に聞いたところでは、何やこの村の近所《ちかし》にあったそうなげぞ。でもなあ、昔ばなし言うたら、本当《ほんま》のこっちゃやら、ありもせん夢みたいしなこっちゃやら判らんさかいに、まあそないに理屈ばらんと聞いてくだしね。  遠い昔《とんとむかし》、翁《じいじ》と媼《ばあば》がこの村の近くの山あいの小さな原に住んでおったとい。その原てがは、広うはないけど、それはもう美しい場所でなあ。春、夏、秋と咲く花の絶え間がのうて、原のまん中には泉が湧き出しとって、狐やたら狸やたら、山に棲むけものがみんなその泉の水を飲みに集まって来たそうな。  泉から溢れた水は細い美しい小川になって原のまん中を流れとって、その小川のへりに小さな家が一軒建っとったのやと。それが例《いま》の翁《じいじ》と媼《ばあば》の家やがいね。穏和な《おっちゃい》優しい翁《じいじ》と媼《ばあば》やったのやろう。鶺鴒《せきり》やたら頬白《ほおじろ》やたら花鶏《あとり》やたら鶯《うぐいす》やたら、美しい鳥が毎日仰山《ぎょうさん》その家のまわりへやって来て、日の暮れるまで遊びまわっとったのやそうな。そやさかいに、山にかこまれたその小さな谷あいの原は、まるでもう極楽みたいしなやった。  その翁《じいじ》と媼《ばあば》には子がおらなんだ。子も孫もおらんと其様《そげ》な歳で二人きりやさかい、大方淋しいには違いないのやが、そのかわり狐狸《きつねたぬき》や小鳥達《らち》に優しゅうしとったさかい、其様《そない》な生き物《もん》がようなついて集まって来とったのやろう。それにしても不思議《もっしょい》なことには、翁《じいじ》と媼《ばあば》がいったいいつごろからその原に住んどるのか、誰も知らんがやと。村の年寄《とっしょり》達も、「儂らが子供の頃から、あの翁《じいじ》と媼《ばあば》は彼処《あこ》に住んどらしゃぞね」と言うばかりでなあ。 其様《そ》やさかい、数えたらはや、ひどい年寄《とっしょり》の筈ながやけど、二人共肌の色艶もようて、眉も髪もまっ白な、品のいい顔かたちをしとったったといね。  もひとつ不思議《もっしょい》なことは、翁《じいじ》と媼《ばあば》は田に稲も作らんと、畑も耕さんと、炭も焼かず、魚も獲らず、何《なん》もせんと暮らしとったったがやと。子も孫もおらんさかい、ほかに面倒見る者《もん》が一人おるでなし、どないして食うとるがか、誰も知らずやったそうや。  そやけど、品のいい翁《じいじ》と媼《ばあば》やし、他人《ひと》の邪魔になるわけやなし、村からも少《ちょっこ》し離れとる場所やし、またその原てがが、どこぞへ行く通り道に当っとるわけでもなし、近郷《ちかく》の者《もん》にゃ誰も何も言わんと、悪戯《てんごう》しかけることもなかったそうや。  そんでも長い間しには、少しは《ちょっこり》 翁《じいじ》と媼《ばあば》が噂になることもあったそうな。それは、お代官様がこの辺りを久し振りに見廻りにいらし召《み》して、その原を山の上からごらんになった時やった。お代官様はどうでもその原へ行って見たいと、急な山道を歩いて下りなさって、此様《こない》な美しい原は見たこともない、とすっかりお気に入られたご様子やったそうな。それで、彼処《あこ》はいったい誰の土地や、いうことになったのやけど、これがさて誰の土地やらさっぱり判らんがや。  そいで、其様《そ》やったら彼処《あこ》は殿様の所有《もん》やないがか、ということになってもうて、村の者《もん》は皆、これからあの翁《じいじ》と媼《ばあば》はどないなるんやろか、と案じとったそうや。ところが、代官が殿様にそのことを言いつけたあとも、幾《いく》日《か》たっても何のご沙汰もないがやと。そのうち皆も忘れてもうてな、翁《じいじ》と媼《ばあば》はいつか変らずに静かに暮らしとってやったといね。  ところが、しばらくするとその時の噂でもどこぞで聞いて来たのやろか。流れ者《もん》の盗人が二人、こっそり村の山へ逃げ込んで来たのやと。この辺りの者《もん》は皆、気は小《ち》さいけど言うて見ればまあお人好しばかりやさかい、何も其様《そない》なことは考えずやったけど、田も畑も持たず何《なん》もせんと食うて行けるというのは、少《ちょっこ》しおかしなことやわいね。それも十年二十年という歳月《としつき》やないがやぞ。盗人達《ぬすびとらち》やその翁《じいじ》と媼《ばあば》が何ぞ宝物《たからもん》をかくしとると思うたに違いないがやて。そやなかったら、其様《そない》に長い間何もせんと暮らして行ける筈がない……そやろがいね。  そいで、二人の盗人達や、二日三日山の中に隠れて翁《じいじ》と媼《ばあば》のすることをじっと見張っとったがやと。  ところが、翁《じいじ》と媼《ばあば》は来る日も来る日も、原を一目で見渡す縁先に向き合うて笑って、ゆっくりゆっくり、糸巻きに白い木綿糸を巻いとるだけながやと。時分にゃ来たさかには飯を食うて、日が暮れたら寝てまう。それだけのことや。  そこで盗人達は考えた。この儘幾日《いくか》見張っとっても、あの二人がどこぞから宝を取り出して来るのを見られるもんやない。此様《こない》なことをしとるより、ひと思いに翁《じいじ》と媼《ばあば》を縛りあげて死ぬ程痛い目に遭わせたら、宝の隠し場所を言うてまうやろう、とな。  恐《おっとろ》しこっちゃ。  ところがな、その二人の盗人の相談をこっそり聞いとった者がおったんや。名前は平太《へえた》郎《ろ》言うてな、村一番の怠け者《もん》で、とうに二十《はた》歳《ち》も過ぎたというのに、親の手伝《てったい》もせんと、嫁をもらう気もなしに、毎日ぶらぶら遊んでばかりおった者やわいね。  その平太郎が毎日どこで暇潰ししとったかと言うと、その場所が翁媼原《じじばばはら》やった。平太郎は翁媼原が好きやった。いつでも花が美しゅう咲いとって、鳥も獣もその原におる時だけは人を恐れんと、まるで極楽みたいしな所やさかいな。怠け者が昼寝するには一番の場所やわいね。そやから、働かんと毎日その原におった。というて、翁《じいじ》と媼《ばあば》は先刻《いま》言うたようにごく品のいい人やし、ゆっくりゆっくりやけど、木綿糸を糸巻きに巻き取る仕事を少しもやめんとおるさかい、話しかけて仲良うなることもせんと、ただ遠くから眺めとっただけや。  その平太郎がその盗人の相談を聞いて、これは大変なことになったと吃驚《びっくり》した。その翁《じいじ》と媼《ばあば》も、そして原も、平太郎は大好きながやさかいなあ。  そいで、一人して知恵をしぼった。何とかして翁《じいじ》と媼《ばあば》を、この先も静かにこの原で暮らさせたいと思うたからや。平太郎は盗人に気付かれんよう、こっそりとあたりの山々に鳴子を張りめぐらせて、自分はその鳴子を張った紐の端を持ってあべこべに盗人が家に近付くのを、忍んで待っとったんや。  夜になると盗人達が翁《じいじ》と媼《ばあば》の家へ忍び寄って来た。戸口に手をかけてこじあけようとしたそのとき、隠れていた平太郎が力いっぱい鳴子の紐を引いたのや。するとあっちの山からもこっちの山からも、いっせいに鳴子の音が響きわたり、おまけに平太郎がすぐ近くから、「盗人や、盗人や。盗人がお翁《じじ》とお媼《ばば》の宝物を盗みに来たぞう」と大声で叫んだもんやさかい、二人の盗人はすっかり仰天してもうて、暗い中をどこやら判らんで、頭と尻をさかしまにするみたいしな恰好で逃げて行ってもうたがやと。  翌る日、平太郎はいつものようにその原へやって来ると、はじめて翁媼《じじばば》の家へ寄って「昨夜《ゆんべ》は何事《なっと》もなかったかいね」と声をかけたそうな。翁《じいじ》と媼《ばあば》はにっこりと笑うて、「いつもこの原に来とらしてやね」と口をきいてくれたがやと。平太郎はすっかりうれしゅうなって、「俺《おら》があの二人の盗人を追い払ってやったがやぞ」と威張ったそうな。すると翁《じいじ》は「それは有難いこっちゃ。そやけど、私《わし》らのことなら何も心配は要らんのや。この糸さえ糸巻きに巻いとったら、神様《かみさん》が食う物《もん》も下さるし、代官や殿様《とのさん》がこの原を欲しがっても、ちゃんと守って下さるんや。そやさかいに、あんたさんも私《わし》らのことは心配せんとかし」と言ったそうな。  でも平太郎はその原とその翁《じいじ》と媼《ばあば》が好きでたまらなんだ。そやさかいに、そのあとも毎日毎日、翁《じいじ》と媼《ばあば》の縁先にしゃがみ込んで、遊びに来た狐狸《きつねたぬき》や小鳥達《らち》の相手をしとった。  それで判ったのやけど、翁《じいじ》と媼《ばあば》には宝物など何《なん》もなかった。ただ、神様がその二人に、いつの頃のことか知らんけど、ひと山の木綿糸を下さったのや。その木綿糸はただ一筋の長い長い糸やったけど、どういうわけか縺《もつ》れに縺れ、こんぐわらがってどもならん糸やったのや。  翁《じいじ》と媼《ばあば》はその美しい原のまん中にある一軒家の中で、誰の邪魔もせんと、来る日も来る日もただその糸の縺れを根気よう解きほぐしては、少し《ちょっこり》ずつ|少し《ちょっこり》ずつ、糸巻きに巻き取っとったのやわいね。糸の縺れをひとつずつ根気よう解きほぐすたび、翁《じいじ》と媼《ばあば》には粗末やけれど生きて行くには充分なだけの、食べ物やら薪などが、神様からくだされるのやと。  或る日その原からの帰り道で、平太郎は考えた。俺はあの原が好きやし、翁《じいじ》と媼《ばあば》も好きや。翁《じいじ》と媼《ばあば》も品がようて綺麗なし、原も美しゅうてこの世のものとも思えん。そやけど、もっともっとあの翁《じいじ》と媼《ばあば》がしあわせになってもらえんもんやろうか。原にももっと美しい花が仰山咲いて、もっと美しい小鳥達が集まって来んもんやろうか。俺もあの糸の縺れを解く手伝《てったい》がして見たい。俺が手伝《てっと》うてやったら、糸の縺れはもっと早うに解きほぐせて、そしたらあの翁《じいじ》と媼《ばあば》ももっとしあわせになるに違いない。俺がしあわせになろうとするのとは違《ちご》うのやさかい、こっそり俺が手伝《てっと》うてやっても神様《かみさん》はおこらんやろう。  何と平太郎はその晩糸切り鋏《ばさみ》を持って、翁《じいじ》と媼《ばあば》の家へ忍び込んだのやそうな。そいで、月の明りを頼りに、縺れた木綿糸のこんぐわらかりを、あとさきチョキン、チョキンと切りとってはふところに入れ、縺れと縺れの間のまっすぐな糸をつなぎ合わせはじめたのや。  縺れを解くよりも、切ってつないだほうが早いと思うたんやなあ。糸巻きに巻いた糸が増える程、翁《じいじ》と媼《ばあば》はしあわせになる……浅墓にそう思い込んでもうたのや。  そして朝になった。  平太郎は自分が山の中に坐り込んで、木綿糸の糸屑をチョキン、チョキンと鋏で切り刻んでいたことに気が付いた。翁《じいじ》と媼《ばあば》もおらずやし、あの美しい原もないがになってもうとった。  なあんもないがになってもうとった。  そのあと平太郎は気が違うたみたしに、あの原と翁《じいじ》と媼《ばあば》を探し廻ったけれど、もうどこにも見つからなんだのやと。  そやさかい、この村の辺りには、もう翁媼《じじばば》原《はら》など、どこにもないのや。ただ、遠い昔翁《じいじ》と媼《ばあば》がおったといね、というこの昔話だけが残っとるだけや。 [#改ページ]    雀谷  「小野田の賢吉さんにゃ、達者にしとらすかいね。……ほう、入院……そらいかんこっちゃねえ。もっとも、あの人かてもういい歳《とっし》やさかいなあ。病気ぐらいするわいな。ま、寄る年波いうやっちゃわいな。そやけど若いころは、そらもう丈夫な男でなあ。おらともよう喧嘩したもんにゃわい。のべつやった。この能登あたりでは、ほんまは喧嘩いう言葉は使わんがや。いさかい、言いますのや。まったく今考えても、ようあんだけいさかいの種があったもんにゃわいね。同じ村の軒を並べた一本道の向かいどなり。尋常小学校あがるのから学校おえるまで、顔あわさん日は一日もないがやったさかいねえ。  「喧嘩ともだち……。そやねえ、言うてみればそんなとこやろな。おらはずっとこの村に住み続けて、よその土地のことはなんも知らんとこの村で生きてきてしもうたけど、あの賢吉がこの村から出て行かんかったら、いさかいはしたかも知らんが、今ちっと面白おかしゅうに暮らせた思うんや。実を言うとな、ここんとこ、賢吉のことをよう思い出すんや。おらかてもういい歳《とし》や、あんな賢吉みたいしなずっと昔のともだちのこと、なんにゃ知らん、急になつかしく思い出すなんてことは、あんましいい気分のものではないがや。なあ、あんたさん。判ってもらえるやろか。年寄《とっしょり》のくせに、自分が年寄《とっしょり》になったことに気づかんでいたいのや。賢吉のことをよう思い出すいうのは、過ぎた昔をなつかしんでのこっちゃないか。そないなこっちゃ。そやさかい、賢吉のことはなるべく思わんようにしとったわけや。  「東京の亀戸《かめいど》たらいうとこに住んどるはずやけど、今もそこかいね。……ほう、やっぱり亀戸かいね。賢吉の奴、よほどその亀戸たらに性が合《お》うとったんやなあ。……三十年も住んどるてか。早いもんにゃなあ。そしたら、おらと別れてからもう四十年以上たつわけや。あれが嫁もろた聞いたんは、たしか十年目のことやったもんな。お互い歳《とし》とるわけや。  「あんたさんは、あれの二番目の娘の婿やそうなね。……子供が二人いる。上は高校行って……ほんまかいね、信じられんなあ、まったく。で、賢吉の病気てがはどんなもにゃいね。しばらく養生しとればようなるのやろ。もともと頑丈なやっちゃさかい。なっともないのやろ、な、どうなんや。  「え……癌……癌やて、賢吉が。嘘やろ、賢吉が癌やなんて。……ほんま、癌かいね。え、もうあかん。ほんなら賢吉はもう助からんいうんか。嫌んなるなあ、みんな死んで行くやないかい。あの喧嘩の強かった賢吉までが、あんたさんは知らんにゃろうが、おらの同級生はもう賢吉しか残っとらんのや。竹馬《ちくば》の友たら言う言葉があるそうなけど、こんなちっちゃなころからの遊びともだちいうのは、何年会わずとも、どんなにはなればなれになっていようとも、一生のともだちで格別のもんや。寂しいなあ。歳はとりとうない。同じ年《とし》、同じ仲間がさきに死んで行くのを見送るてがは、おらの残りの命も少のうなって行くのが判るだけに、まったく心細いもんにゃわいな。  「あんたさん、東京からわざわざそれを知らせにやって来てくださったんか。ご苦労やったなあ。いい報らせでもないがに。  「え……違《ち》ごうてか。なら、なんの用でわざわざ能登くんだりまでやって来なすったんかい。賢吉のことでおらに話がある……だったらはようそれを言わんかいね。賢吉は今死にかけとるんやろ。おらかて知りたいわ。あいつ、おらになにをせい言うんや。……あ、ひょっとして、あのことか。雀の……。  「やっぱりそうか。いや、な、あんたさんが賢吉の身寄りのもんにゃ言うておら家においでた時、ちらっとそう思うたんや。これは雀谷のことやないか、とな。そんで、賢吉はどない言うとる。雀谷のことを、や。  「見たい、てか。癌にとりつかれて、あすをも知れん体になってもうたのやさかいに、賢吉のその気持判らんではない。そやけどもう、ここまで旅しては来れんのやろ。見たい言うたかて無理な相談やないか。薄情で言うにゃないぜ。おらかて賢吉に会《お》うて見たいがな。雀谷は賢吉とおらの二人きりの秘密の場所や。あの谷はな、日本中の雀が死にに来る場所なんや。  「ちっこい体して、どの村、どの町、どの山、どの谷……電線にも軒先にも、日本中あいつらのおらんところはどこにもありはせん。朝になればチュンチュン鳴いて、機嫌よう人の邪魔にならんと生きておる。そら、少しばかりはたんぼの稲も荒らすやろうが、あいつらは人間が稲を植える前から生きとるんにゃぞ。そやないか。鳥が草の実をついばんでどこが悪い。雀が稲の害になる言うんは人間の身勝手やわい。雀のことをばかにして、鳥のなかでも一番とるにたりんもののように言いくさって。こないな諺《ことわざ》があるんを知っとるか。雀でさえ雛のために巣を作る……なんと小さな生き物をばかにした言いぐさやないか。ほんながやったら都会のもんは、いったいどんな生きかたをしとる言うんや。雛のためにどんな立派な巣を作っている言うんや。2LDKか。建て売りの一戸だてか。せいぜいそんなもんにゃ。それもあらかたはローンやないかい。  「雀たちに笑われるわ。あの雀たちはな、そのうえ自分の墓場まで大昔から作って持っとるにゃぞ。おらと賢吉は小学生のとき、その雀の墓場をみつけてしまったのよ。……この話をはじめると長くなるさかい、ちょっこしやりかけた仕事をすませて来るわ。待っとってくだし。すぐに戻るさかい。  「やあ、すっかり待たしてもうて。東京の人には今どき珍らしいやろが、薪割りをしとったんや。この家はもうおらひとりだけやし、根が古臭い性分でな、プロパンたら言うもんで煮たきをする気にはようなれん。生火《なまび》が一番にゃわい。  「ところで、あんたさん、賢吉に言われて東京からまっすぐにここへ来なすったんかね。……ああ、仕事の途中でかね。忙しいのに賢吉のためにご苦労なことで。それでお仕事は何かね。やっぱし会社勤めか何かで。おやまあ、それはまた今はやりのお仕事やないかね。カメラマン言うたら、時代の花形や。賢吉もいい婿さんを持ったもんやなあ。  「え……話の続きを。ああ、そうやったな。おらと賢吉が二人して雀の墓場をみつけた、言うところまで話したんやったな。それはこの村の奥にある谷で、昔からなぜか雀谷言う名がついとったとこやわいな。なんもない小さな谷で、村のもんも寄りつきゃせん。おらたちはまだ子供のことやったさかい、その誰も寄りつかん場所いうのが気に入って、賢吉と二人して雀谷へ入りこみ、なんのはずみだったかもう忘れてもうたが、とにかく穴を掘りはじめたんやわ。そしたら出るわ出るわ、ちっちゃな骨が、いくら掘っても次から次に際限もなく出て来はじめて、しまいには恐《おとろ》しうなってもうた。  「それが雀の骨やいうのがなぜ判ったか、言いなさるんか……そら子供でもすぐに判ったわいね。飛んで来て、そこで死んだばかりの雀が、上っつらのほうに積み重なっていたんやもんな。知っとらすかね。世間では、ナニナニと雀の死骸は見たことがない、などとよく言うもんにゃわい。普段よう見かけるものでいながら、その運命の最期の姿はまず見ることがない。これはおらもまた聞きなんやが、都会ではよく、ホステスの老いたのと雀の死んだのは見たことがない、てなことを言うそうやないですか。結局収まるところへ収まるもんや……そんな気楽な意味なんやろうね。ともかく、ひどく恐《おとろ》しかったもんやさかい、家へ帰って父親《とうと》にあの谷の話を聞かせたんや。おら父親《とうと》はもうとうに死んでもうたが、これが怒ろうか怒るまいか。もう打擲《ちょうちゃく》のかぎりや。父親《とうと》にあんだけ叩かれたのは、あとにもさきにもあれがはじめてやった。  「その場所を教えろ言いなさるか。そらそうやろな。日本中の雀が死にに来る場所や。誰しも見たいと思う心に変りはないやろう。あんたさん、賢吉からこのことを聞いて、写真に撮って帰ろう思うとりなさるな。そうやろう。そうにきまっとる。そやけど、ひとつだけ嘘《うっそ》こいとるね。おらにははっきり判っとる。あの賢吉が大事な娘の婿さんに、雀谷の写真を撮って来いなんて言うわけがない。賢吉がいまわのきわに、ひとめ雀谷を見たがっとるなんて、嘘《うそ》のかたまりや。これはたった今家の裏で薪を割っとった斧や。仕方ない、あんたさん、死んでもらわんならん。逃げるな、このあほたれが。こいでどうだ、こいでも死なんか、どたまかち割ったぞ。さあもう死んだろが。首てが胴から切りはなしてくれる。それ、首がころげた。もう生きかえりゃせんやろう。これでしまいや。あの谷のことを知っとるもんは、これで一人ものうなったわい。おら家は先祖代々雀谷を守って生きて来た家なんや。同級生はもう一人も生き残っとらんと言うたはずや。秘密を知っとたさかいな。みんな賢吉が言い触らしたんや。賢吉はそれで恐《おとろ》しゅうなって逃げ出したわけや。さあ、おまえも埋めてやろう。あの雀谷へな。  「ちっぽけな雀の命ひとつ、雀たちの墓場ひとつよう守れんで、何が人間さまじゃい。おら、人間より雀のほうがずっと好っきゃ。賢吉かてすぐに死んでまうやろ。賢吉の墓など誰が暴こうかい。なあ雀たちよ。 [#改ページ]    蟹婆《かにばあば》 巡査  「渡辺……ただ渡辺言われたかて判らんがや。あの村てが、渡辺と田中だらけやさけなあ。おいね、村中《むらじゅう》渡辺と田中やが。ほかの苗字、一軒もなかったはずや。そやさけ、みな家号で呼び合うとる。次郎作《じろさく》……判るやろ、家号言うたらそんながや。ずっと昔に渡辺次郎作言う人がおって、その家は代々次郎作言われることになったんやろ。いや、この辺はみな百姓ばっかしやさかい、渡辺や田中たら言う苗字はあとからのもんで、次郎作の女房《かあか》、次郎作の長男《あんか》、次郎作の次男《おじ》、みたいしに呼ばっとったんやろなあ。そやさけ、次郎作言うたら当主や。当主は代々次郎作いう名で、家を継いだらその名前になるわけや。栄螺《さざえ》の尻《けつ》みたいしな土地やさかい、こっちから出て行くことはあっても、よそ者《もん》の来るわけやなし、それで充分やったんやろ。え……渡辺孫三郎……なんにゃ、それやったら早よ言わんかいね。そら孫三郎《まごさぶろ》や。孫三郎のこっちゃわい。今言う家号や。孫三郎ならあの村でも偉いほうや。今の孫三郎も以前は区長しとった。もうだいぶな歳《とっし》ゃぞ。長男《あんさま》かて四十過ぎとるさいかな。ところで、その孫三郎に何の用事かいね。ほう、雑誌の記者さんかいね。こらまた美しい記者さんやがいね。儂《わし》ら、週刊誌もよう読まんがやけど、仕事で行くがか。あんな村、なんも面白い《もっしょい》ことなどないはずやがなあ。伝説……蟹婆《かにばあば》……知らん。聞いたことないなあ。もっとも儂、この辺の生まれでないさかい、ようは知らんけど、蟹婆《かにばあば》の話など聞いたことないわ。目無し蟹……そんな蟹おるんかいね。それも知らんわ。あっこらに、沢蟹のでかいのみたいしな蟹やったらおることはおるけど、食えるわけやなし、飼って楽しむ奴もおらんしなあ。あんたひょっとして誰ぞにからかわれたんと違うか。気の毒《どっく》ゃけど、そんなん、記事にならんにゃろなあ。 少年  「俺《おら》のことかね……。孫三郎《まごさぶろ》……あんた孫三郎の親類の衆《し》か。孫三郎やったら、あこのでかい杉の木のそばの家《うち》やわいね。寄んなさるか。へえ……バスは行ってもうたし、奇怪《もっしょい》なことになったもんにゃ。 孫三郎  「はい、おらとこが孫三郎で、儂が孫三郎です。ほうほう、お名刺を……こら東京の有名な出版社やがいね。雑誌の編集部員いうたら花形やないですか。偉いもんにゃねえ。別《べっ》嬪《ぴん》な若い娘さんをそんな役にさせるてがは、さすが大出版社や。儂らとは頭の中身がまんで違《ちご》うといなさる。民話伝説特集の担当……そら難儀なねえ。あんたさんみたいしな娘さんが、ひとりきりでそんな仕事して、危いことないんやろか。この村を訪ねること、会社の衆《し》はちゃんと知っとるんやろな。え……金沢で小耳にはさんでふらりと来て見た。ほほほ……そらまた気ままな娘さんやねえ。そしたらここへ来たがは、誰も知らんがかね。親御さんは心配なこっちゃ。まあ、折角訪《たん》ねて来なさったんやさかい、とにかくあがらしね。この老爺《じいじ》が茶なりといれて供《た》するさかいに。  「蟹婆……ようそんな古い話、聞いて知っとってやなあ。そやけどあんた、その話やったら、この土地でできた話と違《ちご》うわいね。そらよその者《もん》がこしらえた話や。儂《わし》らそう思うとる。浜の者にゃ、とかく儂らを田舎《ざいご》、田舎《ざいご》と馬鹿にするがや。こんな山の中やさかいな、田舎《ざいご》いうたら田舎《ざいご》やわいね。蛸、烏賊、海老、蟹をはじめ、浜の者達が目もくれんような魚でさえ、儂らのとこでは美味《まいもん》にゃ。そやさかい、浜の者にゃあっこでは普段何を食うとるんやろか、とふしぎがることもあったやろ。もちろん昔の話やぞ。今はそんなこともないがになったが。そいで、この辺りの川には沢蟹のでかいのがおるんや。でかい言うたかてあんた、片手のひらに楽に乗るようなもんやけどな。浜の者達《もんらっち》ゃ、そやさかい普段はあんな蟹食うとるんやないか……と噂し合《お》うて、かげで笑《わろ》とったんやろ。儂ら若いころは、浜へ出て行くのが好《すっ》きゃなかった。子供達みんなして儂らの尻についてまわり、こげなこと言うてはやすのや。……田舎《ざいご》の者、寝えても起きても芋ばかり。屁こくな……いうてな。おかしいかいね……儂らには辛いことやった。そやけど、そのはやし唄もちょっこし間違《まちご》うとる。寝ても起きても芋ばかりやのうて、煮《にい》ても焼いても芋ばかり、がほんまや。海の物《もん》を食えん者《もん》を、そう言ってからこうたんやな。蟹婆の話も儂らよう聞いて知らん。浜の者が田舎者《ざいごもん》をからこうてこっしゃえた作り話《ばなっし》ゃ。そやさかい、その話やったらここで聞いても駄目《だっちゃかん》やろ。浜の者に聞かし。……と、言うても折角訪《たん》ねて来たんやさかい、そや……彌仁《やんに》衛門《ょも》の亭主《とうと》に聞いて見さしま。彌仁衛門亭主《やんにょもとうと》やったら昔ばなしみたいしなもんはよう知っとってやさかいな。 彌仁衛門《やんにょも》  「ほう、そんながか……。蟹婆の伝説なあ。たしかにそんな昔ばなし、あることはあるわい。そやけど、嘘《うっそ》や。この村に蟹婆にゃ住んどって、通る旅人をつかまえて食《く》てしまう、言うんやろが。嘘や嘘や、大嘘や。だいいちここを旅人みたいな者《もん》が通るか通らんか、考えて見るこっちゃ、栄螺《さざえ》の尻《けつ》のどんづまりやないか。え……嘘でいいがか。変な《もっしょい》娘やな。そやったら聞いた通り、雑誌にでも何にでものせたらいいがや。こんな山奥まで来て実地に調べることもないやろが。昔ばなしはよう知っとるが、嘘は好《すっ》きゃない。嘘でいいなら次郎作《じろさく》に訊かし。嘘のはなしやったら次郎作が得意にしとるさかいな。そやけど、そんなことばっかり追いまわしとったら、しまいに蟹に食われてしまうぞ。若《わこ》うて美しい娘さんやさかいな。ははは……。 次郎作  「大昔、この辺りで行き倒れた旅人がおったんや。道に迷うたんやろな。そのあとに雨が降って、沢の水嵩が増した。旅人の死骸は、その水につかって腐りはじめたらしい。この村の者が旅人の死骸をみつけたときにゃ、そらひっどいもんやったそうや。目無し蟹いう沢蟹のでかい奴《やっ》ちゃけど、それがうじゃうじゃ死骸にたかって、腐った肉をこう両方の鋏使うて啖《くろ》とったそうな。そんなもん、百年に一度も起らんようなこっちゃけど、とにかくみんなびっくりしてもうて、気味《きび》の悪い話いうがは、とんでもないところにまで噂になってひろがって行くもんにゃわい。伝え聞き伝え聞きしとるうち、死骸にたかっとったたくさんの蟹いうのが、蟹婆いう化け物《もん》にされてもうたんやろ。民話やら伝説やら言うもんは、みんなそないしてできあがるんもんや。あ、忘れとった。こらうっかりしたな。蟹婆の伝説やったらそんなとこやけど、目無し蟹のことやったらもっとよう知っとる者《もん》がおるわいね。あんた目無し蟹てがまだ見て知らんのやろ。おらの新宅《しんたく》へ行かし。次郎作新宅言うてな。おらの分家やがいね。 次郎作新宅  「蟹婆のことも目無し蟹のことも、俺《おら》が知っとることはなんでも聞かして供《た》するがやけど、あんたさんこの話聞いたあと、どないして町へ戻るつもりやね。バスやったらもうとうにないがやぞ。最終はまだある思うたてか。駄目《だっちゃかん》ないね。こないな時間やったら、明日の朝一番のバスや来るまで、帰るに帰れんないね。困った、言うたかて、俺《おら》も困るがな。男ならまだしも、こげな若くて美しい娘さんにゃ、俺家《おらうち》泊めるわけにも行かんしなあ。女房《かあか》と相談せにゃ。あ、女房《かあか》が帰って来たわ。おい女房《かあか》、これ、東京の雑誌の人やけどな、この村へなんにゃら調べに来て、最終のバスに乗りそこねてもうたんや。……おおそうか、泊めて供《た》するか。そんならいい。そんならいい。みんな親切ちゃ。ばかに親切ちゃ。まあまあ、礼など言わんとかし。そういうこっちゃったらゆっくり話そ。風呂でも入って、汗落して、御膳よばれて、そいからにしょ。これも何かの縁やないか。まあのんびりしとらし。目無し蟹やったら帰るまでに見せて供するさかい。  「うまいかね……吸物が。そらそや、おら女房《かあか》にゃ評判の料理上手やさかい。嘘、こら嘘や、冗談にゃわいね。そやけどうまいやろ。それが目無し蟹の吸物や。身はちょっこしょりないけどな。ほれ、見さしま。これが目無し蟹や。洗面器の中で動いとる。元気な奴ちゃ。こんながやったら、俺《おら》ほの川になんぼでもおるが。飯の最中や。目無し蟹はこっち置いとこ。……ところでおら家《うち》へ来る前に、どこぞへ寄ったがか。え……孫三郎へ寄ったか。蟹婆の伝説はよそ者の悪口やてか。あの孫三郎亭主も悧巧者《りこうもん》にゃさかいなあ。ほう、その孫三郎亭主《まごさぶろとうと》が、彌仁衛門《やんにょも》へ行けと教えたったがか。さては時間かせぎやな。ははは……悧巧者や。さすがや。そいで彌仁衛門《やんにょも》はどない言うとった。作り話やと言わなんだか……言うたか。蟹婆のことは作り話《ばなっし》ゃさかい相手にせんてか。そいでも親切に、次郎作行けてか。なんや、この前とそっくりや。まんでいっしょや。おお、そいで次郎作行ったか。行き倒れの旅人てがを、目無し蟹が寄ってたかって食ってもうた話をして聞かせたんやな。そらよかったやないか。そういう話を聞きたかったんやろが。  「蟹婆。……本当《ほんま》のところ、そういう婆《ばあば》はおったんやぞ。ずっと昔、このあたりは食うもんもろくにとれん貧しい土地《とっち》ゃさかい、一人旅の旅の者《もん》でも迷い込んで来たかさいにゃ、ひっつかまえて身ぐるみ剥いで、生かしてこの土地は出さなんだもんにゃわい。おいね、山賊ゃわい。そやけど、よその土地まで押しかけて行くようなことはせなんだ。ふらふらと紛れ込んで来た者《もん》だけを殺《や》っとったんやなあ。そやさかい、ここの者が山賊したてやら、人がここでときどき殺されるてやら言うことは、よその者には決して判らなんだ。普段はおとなしく百姓しとるだけやし、はっきり用事を持って来る者には決して手ぇ出さなんだからな。そんなことして見いま。すぐ世間に知れてしまうやないか。そやから大事とってな、どんなか弱そうな相手やっても、親切にしてやって、もう遅いさかい泊まって行かしとすすめて、晩の御膳《ごぜん》を出して供《た》して、その御膳には目無し蟹の吸物をつけて、もてなすのやが。目無し蟹の生きたがを、さっき見せて供《た》したやろ。目はちゃんとついとった。なんで目無し蟹言うか、まだ判らんにゃろ。でもじきに判る。この蟹には毒がある。食《く》たらじきに目が見えんようになるがや。どんな大《だい》力《りき》の男でも、目が見えんやったら、俺《おら》たちにかて殺《や》れる。ほれ、この洗面器の中に目無し蟹ゃ一匹おる。見えるか……まだ見えるか。もう見えんか。そら毒が効いて来たんなやなあ。……これ、暴れたかてどうなるかい。女《かあ》房《か》、御膳かたづけてまえ。畳が汚れるがいや。そないに喚いてもどもならんがやて。村中蟹婆の一族《いっけ》やないか。俺《おら》の仲間や。助けに来る者がおるわけやなし。蟹婆はな、俺たちの先祖や。酷《ひっど》い飢饉《ききん》のときに、村中飢え死にしそうになって、それを蟹婆が救うてくれたんや。あかの他人の肉なら啖《くろ》ても仕方ないと……。そいで味おぼえてな。でもいいことはふたつないわい。人の味おぼえたら、それ以来この村の者にゃ外へ出て行けんがになってもうた。まわりてが、あかの他人ばかりやろ。そんなことで暮らしたら自分が恐《おとろ》しゅうてどもならん。そやさかいこうして、平穏《おっちゃい》と百姓しながら、あかの他人が迷い込んでくるのを待っとるわけや。  「おう、来さしたかね。そしたら孫三郎《まごさぶろ》 亭主《とうと》、彌仁衛門《やんにょも》、次郎作《じろさく》……あがらしま。そろそろはじめようやないか。おうおう、白い肌して。都会者《とかいもん》にゃなあ。ただ啖《くろ》うてまうがは惜しいみたいしながなあ。彌仁衛門、しっかりせんかい。はよ絞めてまえ。はは……死んでもうた。久しぶりやなあ。口に唾湧いて来たわい。こら、子供達《ぼんらち》は帰らし。子供達《ぼんらち》はまだ駄目《だっちゃかん》。もっと大人になってからや。 [#改ページ]    仁助と甚八  「汝《われ》ゃ啖《くら》い酔って寝てまうさかい、見いま、こない夜ふけになってもうたがい。少し《ちょっこり》しか飲めんくせに、酒と見るともう意地きたないがやさかい。まだ 酔うとるがか……。醒めた……ほんまやろな。そうかそうか、判ったがな。そげな恐《おとろ》し声出さんかてええがや。酔うとらん、酔うとらん。仁助は酒飲んだかて、ひと眠りしたさかいにゃすぐ酔いが醒めるがや。判っとるわい。  「それにしても、今夜《こんにゃ》は明るいな。仲秋の名月いう奴《やっち》ゃ。見いま、あのまんまるな月てがを。そやけど、おら村になんでご坊様《ぼさま》ないがやろな。葬《とむら》いかて不便なが。いちいち隣りの村まで棺桶かついで行かなならんがや。次の葬式はまだええわいな。仏てが軽いさかいな。……誰のことて、判っとるやろが。豆腐屋のお婆《ばば》やがな。ことし八十九《はっちゅうく》や。来年九十やぞ、九十。俺《おら》と仁助《にすけ》ともう一人足してもまだ足らん歳《とっし》ゃ。あんなが、軽いもんや。俺が一人でかついで走り廻ったろか。そやけどなあ仁助。ご坊様《ぼさま》てが、俺たちをどう思っとるのやろか。寺を出るとき嫌なこと言うとったやろが。……お前たちは狐狸《きつねたぬき》に化かされやすい性分《たち》やさかい気ぃつけて帰れ、やと。人を馬鹿にしとると思わんか。そやろが。いい若い者《もん》が、狐狸に化かされてたまるかいや。鵜川のご坊様やったら違うこと言わさったそうやぞ。妖怪変化が現われたかて、南無阿弥陀仏《なまんだぶ》と手ぇ合わせたら、たちどころに退散するやと。えらい違いや。ははは……その通り、その通り。あのご坊様、耄碌《もうろく》したったんや。  「え……嫁……。嫌なこと言わんとけ。そら俺《おら》かてそろそろ女房《かあか》の一人くらい欲しいがな。なに……女房《かあか》は一人にきまっとる……しょむないこと言うわ。そんなこと、きまっとるわい。言葉の綾やて。冗談やがな。いちいちとげとげする奴《やっち》ゃなあ。今夜《こんにゃ》どうかしとるぞ。いつもやったら冗談ばかし言うのは仁助のほうやないかいな。そんなもん、あげ足とりにもなるかい。あっ、なんすんねんな。痛いやないか。おお痛……いきなり人の頭《こべ》てが叩《はた》いて。  「お前。今夜《こんにゃ》どうかしとるぞ、ほんま。いちいち機嫌の悪い声出して。やっぱり酒飲みすぎたがか……。ほれ、危いがな、足がふらついとるやないか。ここら暗《くろ》うて道《みっち》ゃ細いさかいな。沢へ落ちたらどむならんが。ほれ、しっかりせえま。危いが……危い……危い……あ、仁助……仁助ぇ。阿呆が。とうとう落ちてもうた。仁助ぇ……大事《だい》ないかぁ。……しょうむない。今おりて行くさかいなぁ。  「そういうわけで、俺は道から沢へおりて行ったがや。仁助の餓鬼、どうもはじめから|少し《ちょっこり》おかしかったがいね。なに、沢言うたかて道の下一間《いっけん》か一間半ほどのもんにゃさかい、俺はそう心配もしとらなんだ。ところが下へおりて見ると、仁助の姿がどこにもないがや。人を流すほどの川やなし、いったいどこへ行ったがやろか、と月明りの中であたりをきょろきょろ見廻しとると、たしかにどこぞで仁助の声がしとる。……俺《おら》や……ここや……言うてな。その仁助の声にまじって、ケロケロ、ケロケロいう蛙《がっと》の声が聞こえたわいね。そいで、ふ、と見ると水の中の岩の上に、蛙《がっと》が一匹俺ほうを向いて喉ふくらましとる。……びっくりしたがな。その蛙《がっと》が俺に向かって人の声で喋っとる。……甚八……俺や……仁助や。俺は気のせいや思うて、じいっとその蛙をみつめとった。するといつの間にか岩の上へでかい蛇が登って来て、あっという間にその蛙《がっと》を呑みこんでもうた。気味《きび》悪いがな。俺はあわてて道へあがろうとした。ところがまた仁助の声で、……行かんとけ甚八……俺や、仁助や……。そいで俺はまた岩のほうへ振り向いたわけや。そしたらなんと、今度はその蛇が鎌首にゅうっと持ちあげて言うやないか。……甚八、俺や、仁助や……。  「さあたまげたのなんの。背中がゾゾーッとして、俺は夢中で道へ這いあがると駆け出した。何がなんにゃらさっぱり判らんのやが、とにかく恐《おとろ》しゅうて恐しゅうてな。そしたら急に道が行きどまりになって、何かにぶつかりそうになってもうた。はっとして立ちどまってよく見ると、墓やった。どこの墓やったかいな、と考えはじめたとたん、墓のうしろからビュッと女が出て来たやないか。蒼白ぉい顔して、両方の手てがこないな具合いに下へたらして……。幽霊の絵そっくりの幽霊やないか。俺《おら》、そいで気がついたがや。化かされとる、とな。たしかに、化かされとると気づいたがやけど、恐《おとろ》しことにかわりはないわいな。俺、今度は逃げなんだ。その女幽霊めがけて撲りかかってやった。両手でこないしてポカポカッと……。けど、固いがや、これが。固うてこっちの手ぇが痛《いと》なった。撲るがをやめて一歩さがり、ようく見るとなんのこっちゃ。ただの松のっ木やないか……。ああ、これで俺は化かしから醒めたんやな、とほっとしたわいね。ほっとしたとたん、その松のっ木ゃ、バサーッと音をたてて柳の木に変ってしもた。……俺や、仁助や……柳の木に変ったとき、柳の木がたしかにそう言うた。木《きい》が木《きい》に化ける。こんな恐しいことがあろかいね。走った、走った、走った。膝が浮いてよう力が入らんのやけど、俺はもう精一杯走ったぞ。方角の見当もまんでつかなんだけど、とにかく走り続けたがや。そしたらやっと家が見えて来たがいね。灯りがついとる。……やっとこいで俺も助かった。戸口に体ごとぶつかって行って、助けてくだし、助けてくだし、と大声で戸を叩きながら喚きたてたがや。こうなったらはや、恥も外聞もあるもんでないわいな。そしたらやっと戸をあけてくれてな、婆《ばあば》が一人立っとった。ニコニコ愛想よう笑うてな、その婆《ばあば》がこう言うたんや。……俺や、仁助や。  「ふ……と目の前が暗《くろ》うなって、あとはまんで判らん。気ぃ失なったんやろな。そいでも、そう長い時間やなかったはずや。気がつくと仁助の笑い声がしとる。腹かかえてヒーヒー笑うとる。悪戯《てんご》されたな……俺はくやしかった。はじめの道の下の沢の石ころの上に倒れとったんやものな。仁助の餓鬼に化かされたんや。そやさかい、俺かて仕返ししてやらなどうしょむない。さいわい仁助は俺が気がついたのをまだ知らんから、俺は目ぇつぶって冷《ちべ》とうなって見せた。仁助の奴、気のすむまで笑うと、しゃがみこんで俺をゆさぶったがい。……これ、甚八。起きんかい。目ぇさまさんかい……。仁助の奴、そう言いながら何度ゆさぶっても俺が正気にかえらんさかい、心配になって来たらしい。俺の額《でこ》に手ぇ当てたり、瞼ひっくり返したり、だんだんあわてはじめたがや。俺は辛抱強く身動きもせんと、どんどん冷《ちべ》とうなって見せた。そしたらとうとう仁助の奴、泣き声になってもうた。……堪忍せい甚八……ただの悪戯《てんご》やったんや。友達のお前を死なせるつもりでしたんやないさかい……言うてな。  「今度は俺《おら》の笑う番や。おかしてたまらなんだ。そやけど、ここで笑うたら俺の損やさかい、我慢して死んだふりして、冷とうなっとった。仁助はしょうことなしに、泣きながら俺の体を抱き起し、前へまわって俺を背負うてくれた。俺を背負うて道へ這いあがりはじめたがや。そやさかい、俺は手ぇ貸してやった。道の上から手ぇ出して、……ほれ、つかまれま。引きあげてやっさかい……そう言うたら仁助の奴、黙って俺の手ぇつかんで道へ這いあがったがな。そやから俺、言うたった。……それ誰や。誰を背負うとるがや……とな。仁助はそこでやっと気がついたらしい。うつろな目ぇして俺をみつめとった。……仁助、しっかりせい……俺や、甚八や……。仁助はキャーッと叫んで背中に負うた俺を抛り出そうとしたさかい、俺は仁助にしがみついたった。すると仁助はわけの判らんことを叫びながら勢いよく走り出したがいね。抛り出されてはたまらんさかい、俺も負けずにしっかりとしがみついたった。  「あんた、ほれ、見さしま。仁助の奴、まだ走り廻っとる。今度はどんどんこっちへやって来るがいね。いまちっと悪戯《てんご》してやらにゃ。……おい、仁助。夜ふけにこないなとこでなにしとるがや。……俺《おら》や、甚八や……。  「ははは……とうとう仁助の奴、気ぃ失のうて倒れてもうた。これであいこや。どやね、俺、ちゃんとかたきをうったやろが。  「あ……そしたらあんた……あんた誰や、あんたいったい誰やいね。  「俺や。仁助や」 [#改ページ]    夫婦喧嘩  「ほんならまた断わる気かいね。春吉、いいかげんにせいよ。俺《おら》かてな、好きでこないしとるんやないがやぞ。この雪の降る寒《さぶ》い中を、二里の道歩いて来とるがや。それというのも親類《いっけ》のお前《われ》が女房《かあか》に先立たれて、さいわい子供もおらなんださかいまだましやが、この古い家にたった一人で暮らして、さぞ不自由な思いしとるこちっゃろう思うさかい、なんとかいい後添《のちぞい》を見つけて供《た》さんにゃと、こないな縁談を持って来るがやないか。それも、この女にきめてまえ、言うわけやないがやぞ。一遍見合いしてみさし。そう言うとるんやないか。それをなんにゃいね。ぐずらぐずら煮え切らんことばかし言うて、見合いさえせんのやないか。俺《おら》の身にもなって見いま。こう断わってばかりいたさかいにゃ、しまいには春吉の後添のことでは、誰も相手にしてくれんがになってまうがいや。それにしても寒《さぶ》いな、この家は。火もちゃんと焚いとるがに、なしてこんな寒いんやろか。昔通の寒《さぶ》さやないぜ、これは。なんにゃら、背筋に風が吹きこむみたいしなが。それに陰気ななぁ。電灯ついとっても、なんにゃら暗ぁい……前からこんながやったやろか。いや、違うわ。いつまでぇも一人で暮らしとるさかいやぞ。そやさかい、つまらん噂をされるんや。春吉にゃ幽霊がとりつかれとる、てな。そないなこと俺《おら》は信じんけど、いつまでぇも陰気にしとったさいにゃ、人はえてしてそないなこと言いたがるもんにゃわい。なあ春吉。先《せん》の女房《かあか》にゃ、そないよかったがか。三年たった今も忘れられんがか……」  「そんな……普通の女房《かあか》やったわいね。今はもう、あらかた忘れとるわい」  「それやったらえやないか。もらわし、後添を。な……もう一遍はじめからやり直すのや。とにかく一遍見合いしてみさし。気が変るさかい、な」  「そないに俺家《おらうち》寒いかいね」  「え……ああ、少《ちょっこ》し寒いな。一人暮らしで陰気なさかい、気のせいやろけどな。……あ……なんにゃ、あの声は」  「寒いはずや。また来とる」  「来とる、て、誰が……あ、そうか。そやったんか。春吉お前《われ》、女がおったがか。それやったらいくら見合いせい言うたかて、うんとは言えんはずやなあ。はっきり言わんかいや。言うてくれればその女と一緒にさして供《た》するがに」  「あれは人の女房《かあか》や」  「人の……そらいかん。そら駄目《だっちゃかん》ぞ。春吉、お前《われ》とんでもないことしとるがやなあ。そいで、どこの誰の女房《かあか》やいね」  「権三郎《ごんざぶろ》」  「まさか」  「ほんとや」  「いくらなんでもそんな……」  「ほんとや」  「阿呆らし。そげなこと言うさかい、人に馬鹿にされるんやぞ。死んだ婦人《おなご》がなんで忍んで来るがや。権三郎女房《ごんざぶろかあか》は去年の秋、首くくって死んでもうたやないか」  「そやけど来るもん」  「来るわけない。誰や、今の女の声は」  「権三郎女房《ごんざぶろかあか》……痛ぁ……なして叩《はた》くがや」  「嘘こくさかいや。もう一遍ちゃんと言うてみ。奥の座敷でいま声がしたあの女は誰や……言わんと……あれ、男もいるがか。男の声と女の声。誰達《だれらっち》ゃ、あれは」  「権三郎と権三郎女房《ごんざぶろかあか》」  「二人とも去年の秋に死んでもうとる」  「でも、俺《おら》とこへ来ては喧嘩するがや。今でも」  「春吉、気味《きび》の悪いこと言わんとかし。死んだ者が喧嘩するやなんて」  「あないして、しとるもん」  「嘘やろ。な、嘘やろ……。奥へ行って見て来る」  「やめとかし。死んでも知らんぞ」  「おどすな。なんで俺《おら》が死ぬんや」  「判らん。でも、死んだ者《もん》見たら死ぬかも知れん」  「ほんとや。喧嘩しとるみたいしな。な、春吉。いったいどないなっとんのか言うてみ」  「村の者《もん》にゃ、怪我して動けんようになった権三郎が、池まで這《ほ》うて行って身投げして死んで、女房《かあか》がそのあと追うて首くくって死んだ思うとる」  「そやないのか。あのときはえらい騒ぎやった」  「あの女房《かあか》、間男しとったがや」  「え……ほんまか」  「ほんまや。俺《おら》、知っとった。そやさかい、権三郎は、あの女房《かあか》に殺されてもうた」  「なして知っとる」  「あの日、俺《おら》はいつものように沖へ出とった。舟に乗ってな。一人きりや、いつも。一人きりで網たぐっとったら、いつのまにか権三郎が来て舳《みよし》に坐っとった。どないして沖まで来たがか判らん。あの時はもう権三郎、怪我で両脚動かんがになってもうて、寝たきりやったさかいな」  「奇怪な《もっしょい》話ゃ」  「たった今、女房《かあか》に絞め殺された……権三郎は俺《おら》にそう言うた。舳《みよし》のとこでな。寝たきりになってから女房《かあか》は六助と仲良うなった。生きとればそれも辛いし、女房養えんと寝たきりの身はなお辛い」  「権三郎がそう言うたがか」  「うん。俺とは仲良しやった。それまでは二人して一艘の舟で沖へ出て漁をしとったさかいな」  「そうやったな」  「いずれ、なんとかして自分で死のう思うとったそうや。そやから殺されても決して女《かあ》房《か》を恨まん、て。……楽になったぁ、言うて、心の底からほっとしたような顔やった。そいで、楽にしてもろただけで、たいして苦しまなんだし、恨んでもおらんさかい、そのことを女房《かあか》に言うて欲しい、てな」  「なるほど、そんながやったのか」  「そやさかい、沖から戻って、俺《おら》言うてやったがや。権三郎は殺されたこと恨んでおらん。楽にしてもろうた言うてよろこんどった。六助としあわせにならし、てな」  「ほんま、言うたがか。面と向かって」  「諾《おいね》。権三郎に頼まれたさかいな」  「どないやった。そんときの女房《かあか》」  「蒼ぉい顔して震えとった」  「それから……」  「知らん。この家へ帰って少《ちょっこ》ししたらあの大騒ぎや。池で権三郎は死んどるわ、あの家では女房《かあか》が首くくっとるわでな」  「あの女房《かあか》、こっそり権三郎を殺したがを、春吉に見られた思うたんやろな」  「そんながや。権三郎の言うことを信じとればよかったがにな。楽にしてもろてありがたい言うとるんや。なんで信じんやったやろか。信じたら首くくらんですんだものをな」  「そしたらあれはほんまに権三郎たちの幽霊なんやな」  「ときどきあないして俺《おら》とこへ出て来ては喧嘩しとる。あの女房《かあか》、俺《おら》のこと悪く言うさかい嫌いや。なんで俺《おら》みたいしな阿呆にことづけしたか、言うてな。いつも権三郎にそう食ってかかっとる。俺《おら》でなかったら、あのことづけ信じられたんやろかなぁ。権三郎の言うほうが理屈に適《お》うとる思うな。折角言うてやったのになんで首くくったがや、て。しあわせに暮らさせてやろう思うたのに、亭主の言うことを最後の最後までなぜ信じられなんだか……。あの喧嘩《いさかい》聞いとった日にゃ、もう女房《かあか》など持つ気にならんないね」 [#改ページ]    夢たまご  「一銭玉ひろた、一銭玉ひろた、なに買《こ》うてくれよ。一銭玉ひろた、なに買うてくれよ」  「坊《ぼん》……坊《ぼんち》よ」  「え、誰や。俺《おら》てが呼んだか」  「ここや、ここやがいね」  「あ……そげなとこにおったがか。あんたさん、誰やいね」  「まあ人のおらん村やがい。だあれもおらんがや。みんなどこへ行ったがやろ」  「山仕事やがい。おら父達《とうとらち》も行っとるわ。あんたさん、誰やいね」  「たまご売りや。たまご、売りに来たんやけど、こない誰もおらいでは商売にならん。  「なんにゃ、たまごかいね。どこの家も鶏《とり》飼《こ》うとるさかい、たまごみたいしなもん売れんないね」  「ただのたまごやない。夢たまごや」  「夢たまご……なんにゃ、それ」  「夢たまごいうたら夢たまごや。これ食《く》たら夢みるがやぞ。ほれ」  「ただのたまごみたいしなけど、これ、夢たまごいうがか」  「そや、坊《ぼん》にゃいまなんにゃら唄《うと》うとったな。一銭玉ひろた、いうて」  「おいね、ひろたがやわい。浜で遊んどったら砂の中から出て来たがや」  「どや。その一銭でこの夢たまご買《こ》うてやらんか。ほんまは三銭なんやけど、まんで商売にならんとこ来てもうたさかい、一銭にまけて供《た》する。一個一銭や。安いぞ、夢たまご」  「要《い》らんないね。父《とうと》に見せにゃ」  「あほかいな。親達《らち》に見せたがさいにゃ、その一銭とりあげられてまうわ。拾うたもんはたとえ一銭でも駐在に届けにゃいけん言うてな」  「そやろか」  「そうにきまっとる。それよりこの夢たまご買わし。食《く》てもうたら誰にも判らん。旨《ま》いだけやない。夢見れるがやぞ」  「どんな夢やいね」  「そらいろいろや。買うて食《く》た者《もん》しだいやな。そやなぁ、坊《ぼん》やったらきっと面白い夢見るがと違うか」  「面白い夢か……」  「そや。俺《おら》はこれでほかの村行って見るつもりや。俺がおらんがになれば、拾うた一銭でたまご買うて食てもうたとかて、誰にも知られんがや。安心して夢たまご買うてまえ」  「うん、買うて供《た》する」  「えらそうに言うな。三銭をただの一銭にまけるがや。ほれ、一銭出せま」  「うん。このたまご、生《なま》か……」  「いや、ゆでてある」  「ほんまに夢てが見れるがか。なあ、夢たまごの人《し》、ほんまにこのたまご食たら夢見れるがか……。行ってもうた。なんや、ただのゆでたまごみたいしななあ」  「なんにゃら淋しい村へ来てしもうたなあ。誰もおらんがやないか。山仕事へでも行っとるのやろうか。そやけど腹へったな。腹ぺこぺこや。と言うて、軒に乾してある大根とって食うのも好かんこっちゃし。え、……夢たまご……夢たまごてなもん、ほんまにあったがかいや。そや、思い出した。子供のころ浜で一銭拾うたら、夢たまご売りの男に会うて売りつけられたことあったなあ。あのたまご、俺《おら》食たんやろか。どんな味やったかよう思い出せん。ただのゆでたまごやったんやろな。それをあの男にだまされて、夢たまごや言うて買わされたんや。そうにきまっとる。ひょっとするとこの札かけとる家、あんときのたまご売りの家と違《ちご》うかな。夢たまごやなんて、あんとき以来よう聞かんもんな。一個三銭か。ただのたまごと同じ値段みたいしなな。二個しか残っとらん。……もし、おってかね。おってかね。……おらんがやったらたまごもろて行くわいね。ここへ六銭置くさかいな。ここへ六銭置いてたまごもろて行くぞ。ああ腹へった。このたまご生か……あ、ゆでてある。子供のとき買うたがとおんなじや。食お……やっぱりただのたまごや。あんときとおなじ、ただの夢たまごや。そや……俺《おら》はあんときたしかに夢たまご食うたな。この味で思い出したわ。これはあんときと同じ夢たまごの味やわ」  「あ……なんや、夢やったか。また夢見とったんやなあ。そやけどなんの夢やったんやろか。たったいま夢からさめたがに、まんで憶えとらん。歳《とっし》ゃなあ俺《おら》も。こげな寝たきりになってもうて、俺《おら》ももう駄目《だっちゃかん》ないね。そやけどなんや知らん、一生夢見とったみたいしな気持やなあ。子供のころのことも、若いころのことも、なんもよう憶えとらん。人生夢のごとし言うが、まったくや。夢まぼろしや。いろいろ好き放題にして来たような気もするが、よう考えて見ると、ずうっと夢の中にいたようなもんやないか。女房《かあか》も子供達《ぼんらち》も、どこへ行ってもうたか判らんがになってもうて、こげな淋しい病院で死ぬのを待つ身の上やけど、別にくやしゅうもないし、悲しゅうもない。夢や。飲んで唄って酔うて惚れて、にぎやかにしとったことも、こうして一人きりで寝とる老いの身も、みんな夢や。夢なんや。夢たまご、か。ふふふ……子供のとき夢たまご買うて食《く》たむくいかな。そや、若いころにも一度淋しい村で食たことがあったなあ。なんしてこないに夢たまごのことだけは、よく憶えとるんやろか」  「どないやね、具合いは……」  「は……どなたさんで」  「見舞いの者《もん》やがいね。見舞いに来て供《た》したがや」  「あんたさん、誰やったかなあ」  「忘れてもうたがか。この顔、一遍見とるはずや」  「あ……あんたさん、夢たまごの人《し》」  「諾《おいね》。俺《おら》や、夢たまご売りや」  「面妖《もっしょい》なこっちゃ。あんな子供のころに会うただけながやのに、なしてあんたさんの顔をこないにはっきり憶えとるんやろ」  「だから言うたやないか。夢たまご食たら夢見るて」  「夢……」  「そんながや。あのとき一銭出して俺《おら》の夢たまご買こうて食てから、ずうっと夢見とったんや。歳いって死にかけたさかい、たったいま夢からさめたがや」  「そんなあほな……そんな長い夢てが、聞いて知らんわ」  「そらそうや。そやけど、途中でさめかけたら、そのまま夢の中におりとうて、また二個買うて食たやないか。そやから死ぬまぎわまで夢てが見つづけてもうたんや。それにしてもよくよく夢の好きな奴《やっち》ゃなあ。よう俺家《おらうち》を夢の中で探し当てたもんにゃわい。夢たまご食た者はようけおるけど、お前みたいしながははじめてや」  「そしたら全部夢か……」  「夢や」  「やっぱりそうか」  「どないしたがや。がっかりしたがか」  「がっかりなどせん。これ、夢やと思うたわ。いまのこれも夢か」  「いや、夢やない。ほんまや。お前の一生は、生まれたことと、夢たまご食たことと、ここでじきに死ぬことと、それだけがほんまで、あとはみんな夢や。みんな夢や」  「なんにゃい……おんなじこっちゃないかい。おんなじこっちゃ……ない……かい」  「死んでもうた」 [#改ページ]    終《つい》の岩屋  「はいはい、ようおいでなさいました。諾《おいね》、この家が岩屋いう宿ながやて。泊まりなさるのやろ、あんたさんも。そらそやわなあ、日も暮れかけてもうたさかい、ここへ泊まらなどもならんがや。この先きは道も行きどまりでな、なんもないとこやがいね。部屋やったらまだいくらもあいとるさかい、ま、あがってのんびり体をやすめたらいいわいね。小《ちょんこ》いがやけど裏に温泉も出とるしな。……これ、お客さまやがい、案内して供《た》せま。  「失礼いたします。ようお越しなさいました。さっそくで申しわけありませんが、ひとつこの宿帳をお願いします。いえ、お一人のお客さまかて珍らしことはないがです。二人づれ、親子づれ、いろいろなかたに泊まっていただいとりますがや。みなさんそれぞれ事情がおありやさかいねえ。あ、こら駄目《だっちゃかん》ないね。生年月日、現住所、本籍、くわしゅうにほんまのことを書いていただかんことには、あとで警察がうるそうてかなわんのですわ。この岩屋まで来たったんやさかい、もう隠したり見栄はったりすることはないがやないですか。そうそう、ここへ来たらのんびりするこっちゃわいね。そいで、ここのことはどこのどなたに聞きなさったがや、一番下に紹介者いう欄があっさかい、その人の名をそこへ書いとってくだし。……ほう、東京の鈴木豊一さんかいね。おいね、憶えとるわいね。ここへ来なすったのはおととしやったわい。たしかまだ暑いころやったなあ。今日行くか、明日行くか、言うて一週間も迷うたったさかい、よう憶えとるがや。いえ、そないな人も珍らしいことはないがやて。人間誰しも一生に二度や三度は……いや、人によったら十遍も二十遍も、もうこの世におるのは嫌や、消えてのうなってしまいたい思うことはあるもんにゃわいね。そやけどなかなかふんぎりがつかん、未練もあるし、消えてまうことにこわさもある。でもな、あんたさん。死ぬのは駄目《だっちゃかん》ぜ。死んだらあとの者《もん》に迷惑かかるがよ。首吊ったり毒服んだりしたかさいにゃ、警察の世話にならんやないですか。おらとこへ来なさる人にはみなそれを言うて聞かしますのや。おらとこは自殺の手伝いしとるのとは違うんや。その証拠にこの岩屋いう宿に泊まったかて、長いあいだ一遍たりと死んだ者はおらんがや。ま、のんびりして行かし。酒も極上、料理かて極上。欲しいもんあったらなんでも遠慮のう言うてくだし。近ごろのお客さんはハイカラになってもうて、なんにゃら面倒な名のワインを注文する者《もん》もおってやけど、それかてたいがいのことなら都合つけて供《た》するわいね。ま、おらとこへわざわざ来なさる人たちやから、代金のことは多少高《たこ》うついても文句言う者はおらずやわいね。おかげでわしらも幾分楽な商売さしてもろとるけど、まあ、持ちつ持たれつ言うとこやがいね。そんなら風呂でも行って来なさるかね。ゆかたはそこに出とっさかい、のんびり入ってらし。そのあいさに晩の仕度しとくさかい。  「おらとこの料理、どんながやった。結構うまいやろが。建物はもうだいぶ古しいがやけど、料理だけは自慢ながや。そうか、うまかったかいね。そらよかった。料理褒められるがが一番うれしいがやて。おら長男《あんか》は大阪で十年の余も料理を修業して来たがや。この岩屋みたいしな宿は、何というたかて料理が命やさかいな。結局人間、最後は食う楽しみや。風呂は小《ちょんこ》いがやったろ。でも、あれかて温泉やがいね。ここらは温泉のよう出ん土地やさかい、珍らしいがや。おらとこだけや。  「若いアベックがいた……おいね、二日前から泊まっとってや。そら仲のいい二人や。気が向いたら昼間からでも部屋へこもって抱き合うとるようや。いいもんや、おらたちはこうして毎日、人間の一番いいとこ見とるのかも知れん。あしたがないときめた人間は、みな正直なもんや。嘘もつかん、見栄も張らん。時計の針のひときざみひときざみを、大事に大事に生きとってや。死ぬんやったらこうは行かんやろなあ。そいで、あんたさんはどないするつもりなんや。着いたばかりやさかい、急かせるつもりはないけど、だいたいの予定は最初に聞かせてもらうきまりになっとるんや。え……あすにでもてかね。そらまた気の早いことやないか。今ちっとゆっくりしたらどうやね。面倒臭い……ほう、そらまたよほど辛い目におうて来なさったがやなあ。あんたさんにここのことを教えなさった東京の鈴木豊一さんやったら、一週間の余も迷うたすえ、とうとうやめて帰ってもうたがやけど、きっとあんたさんはそんな風に迷うのが嫌なんやろなあ。ま、人それぞれや。いちいち、ああしたほうがいい、こうしたらつまらんと、わてらがお客さんに説教みたいしなことしとったさかいにゃ、商売にならがになってまうがや。ほんまはもっと派手に宣伝でもしたら、この岩屋も毎日満員で客を断わらないけん程になるのは判っとるがやけど、売りもんが売りもんやさかい、宣伝するわけにも行かんしな。そんなら気が向いたとき、いつでも帳場に言うてくだし。すぐ案内して供するさかい。ごゆっくりおやすみ。  「ああ、お客さん、はようから散歩かいね。よう眠れなんだ……そら気の毒ななあ。決心がつかんがかいね。決心はついとる……そやったらぐっすり眠れるはずやけどな。子供《ぼん》らちのことが気になるて……いかんいかん。わてら宿の者に消えてまう事情を聞かせんといてくだし。聞いてどうなるもんでもなし、わてらも聞くのは好かんがや。あ、ちょっと待っとってくだし。あの二人、今から出かけるそうながや。  「どないです。あのアベック、これから終《つい》の岩屋へ行くところやがいね。この坂を谷川のほうへ半丁ほどさがったところに終の岩屋の入口があるがや。いったんあっこへ入った者《もん》は二度と出て来ん。別に深い穴やない。どこまでも奥深く続いとって、入りこんだら中で迷ってもうて二度と出られんという洞窟なら、あちこちにようあるわいね。でも終の岩屋はそんながやない。奥行きは二間かそこらで、すぐ行きどまりなのは外から見てもはっきりしとる。そやけど人が入ったらもうおらんがになってまうがや。着るもん持ちもん、いっさいがっさい消えてあとかたものうなるんよ。昔は神かくしの穴言うて、誰も近寄らなんだがや。ところが口づてにあの穴のことを知った者が、ときどきあの穴へかけこんで姿を消してまうことが多うなったんや。それがおらとこの地所のうちでな。先々代がここにこげな宿屋みたいしな家を建ててな、穴へ入る者が最後の幾日かをのんびり過ごせるようにして供《た》したというわけや。そしたらあの穴へ入りに来る者によろこばれてな。なにしろあの終の岩屋へ入ったさかいにゃ、この世から跡かたものう消えてまうんやさかい、ようしてもろた礼にあり金残らず置いて行くわ、身につけとった宝石もなんもかもくれて行くわで、来る者はぽつりぽつりながやけど、これで結構いい商売になるがや。死んだらあとが面倒やけど、ただ消えてしまうんやったらさっぱりしたもんや、そやけど、この岩屋いう宿を出た者は、行方不明になるにきまっとるさかい、そいで宿帳だけはしっかり書いてもらうことにしとるんや。警察……そんなもんこわいことなんもあるかいね。わてらただの宿屋や。終の岩屋へ入ろうが入るまいが、そんなもんわてらよう知らんこっちゃ。それに、終の岩屋へ入って姿が見えんようになるてなこと、どんなえらい学者かて説明しきらんやろが。わてらちいとも悪いことしとらん。それよりもよう考えてほしいんは、この世の中に誰にも知られんと消えてしまいたい思うとる人間が仰山おることや。せっかく生まれて来たがになんで消えてしまいたがるんや。そんな人間をなんで世の中がこしらえてまうんや。そやろ。あの終の岩屋の仕掛けなどよう判らんけど、なんもかも嫌になって消えてしまいとうなる人間の気持やったらよう判るわ。坊《ぼん》さんやったら、死んだらつまらん言うてうじうじと寿命が来るまで生かしてまうやろが、終の岩屋はそれにくらべたらなんぼかすっきりしとる。ただこの世からおらんがにしてまうだけや。苦しみもせんしあとくされもない。あんたさんかて、何も無理してあの終の岩屋へ入ることはないがやぞ。もっと生きていたいんやったら、すぐ帰るこっちゃ。わてらちいともすすめとりはせん。  「え、やっぱり行って見るてか。そんなら行かし。とめはせんさかい。ほんま言うたらそのほうが楽かも知れん。いったん帰ったかて、また訪ねて来ることになりかねんのやさかいな。終の岩屋はこの坂をおりたら突き当りや。消えたあとどうなるかやて……知るかいな、そんなこと。 [#改ページ] 第二部 怪奇SF選    赤い酒場を訪れたまえ  十年ぶりでAとめぐり逢った時、私は自転車に乗っていた。その中古自転車は奈良市内で買ったもので、逢った場所は山ノ辺の道だった。  〈大和志料〉に、古へ奈良ヨリ布留ヲ過ギ長谷ニ達スル道路ヲ上津道ト言フ。即チ山辺道ナリ、とあるその山ノ辺の道は、私が一度徹底的に歩き回りたいと思っていた憧れの道だった。奈良、天理、桜井の三市に基地となる安宿を見つけ、沿道に顔馴染みができるほどほっつき回ったが、一番気に入ったのは金《かな》屋《や》だった。飛鳥から来る山田の道と磐余《いわれ》の道、東から来る初瀬の道、そして私が訪ね回る山ノ辺の道という、上古の主要道路が集り、卑弥呼ではないかといわれる倭迹々日百襲《やまととひももそ》姫の墓や、神武帝の后である伊須気余理比売《いすけよりひめ》の実家である三輪一族の三輪山や、その大神《おおみわ》神社、そして磯城瑞籬宮《しきしまのみつかきのみや》などが指呼の間に点在するこの金屋の村は、私を明日の命などどうでもよい、遠い遠い歴史の奥へ誘い込んでくれる何かがあった。  葦原の しけしき小屋《をや》に菅畳《すがたたみ》    いや清《さや》敷きて 我が二人寝し  新婚の神武帝がそう詠んだという茅原まで足をのばして、私は大物主命の磐座《いわくら》がある三輪山を飽かずに眺めたりした。この神浅茅原《かむあさじはら》で崇神帝のために卜問《うらと》を行った巫女の倭迹々日百襲姫は、夜にしか姿を見せぬ大物主命の秘密を知り、箸で陰《ほど》を突いて自殺したことになっている。その箸墓もほど近い。  奈良から南下して、最後の基地である桜井市の安宿には、私と同じ山ノ辺の道ファンが数多く泊ったと見えて、床の間に達筆な色紙が飾ってあったりした。  紫は灰指すものそ海石榴市《つばいち》の    八十《やそ》のちまたに逢える児や誰  宿の老女中も心得ていて、海石榴市《つばいち》とは椿市、つまり今の金屋《かなや》のことだなどと、親切顔で教えてくれたりする。重要文化財になっている金屋の石仏は、二体の等身大石像だというが、この辺りに住んでいても近くで拝める機会は一度もないなどと、世辞半分の愚痴を聞かせ、毎日気楽に好きな事をしているお客さんの身分が羨ましいと、これはかなり本気の愚痴をこぼす。だが、私は人に羨まれる覚えなど一向にない。正直言って、一日も早くこの身がどうかなってくれと願っていたし、人知れず野垂れ死にできたらそれが一番よいと思っていたのだ。  十代の終りから二十代《はたち》の半ばまで、私は新宿や銀座や神田や、そうした繁華街で夜の生活をしていた。酒場《バー》、クラブ、割烹……いろんな事をやった。水商売の足を洗ってから十年ばかりは広告屋をしていた。どちらも不規則な生活で、上《うわ》ッ調子のその日暮しを続けているうちに、長年の不摂生と呑み過ぎが祟り、この数年は胃が重い、肝臓がおかしいなどと言い続け、気がついたらあまり癒る見込みのない病いにとりつかれていた。闘病生活に入って運よく全快しても四十を過ぎてしまい、やり直すのも大変だ。第一それまでどう食いつなぐ。ただでさえ金のかかる病いだ。あれこれ思い悩んでいるうちに、絶望というよりはむしろ何もかも面倒臭くなって、イチニノサンで勤めもやめてしまい、女房とも別れてうしろ指さされながらのひとりぼっちになった。有り難いことに十年の間に広告屋仲間に顔も売れ、どうやら食えるカツカツの仕事をして、金のある間は長年憧れていた山ノ辺の道あるきというわけなのだ。体のことは誰にも言わないから、女房は女ができたと思っているし、家族の者は気でも違ったと思っているだろう。そんな身にとって、山ノ辺の道は全く心の安まる道だった。今さら新しい発見をしようなどという気はないし、長い間に好きで詰め込んだこのあたりの資料を思い出し思い出し、自転車をころがしていたのだ。  その山ノ辺でAに逢った。残念ながら場所をはっきりとは言えないが、Aのほうから声をかけてきた。彼は十年以上前、私が芝でナイトクラブをやっていた頃勤めていたバーテンダーだった。十年の間にずいぶん肥ったが、病気してからめっきり痩せ、Aが識っている昔の貌に戻っていたからすぐ判ったらしい。  小さな川が流れていて、山ノ辺の道はひどく折れ曲っていた。北へ向って右手が山、左には奈良盆地南域が見はらせた。椿のどす黒いまでに濃い緑と、絵に描いたような竹藪が道に蔽いかぶさっていて、蜻蛉の他に生き物の姿は何もない静かな昼さがりだった。相手の姿が見えはじめてすぐ、お互いにオヤという具合だった。そのまま通り過ぎてしまえば遅くも二、三年後には痩せ細り、どこかの山中で首でも縊っていただろうに、世の中なんて判らないものだ。社長……Aはそう言って私を呼びとめた。私は今まで一度も社長になったことはない。マスターと呼ばれるのを嫌がったら、店の者達がいつの間にかそう私を呼ぶようになったので、社長と声を掛けるからには、以前の水商売仲間にきまっている。  あとで考えると、なぜAが知らぬ顔で通り過ぎなかったか、不思議で仕様がない。酒と女の番をして、派手な生活をしていた当時のAと、まさかこんな所で逢おうとは思ってもいなかったし、似てるとは思っても白ばっくれればそれで済んだのだ。咄嗟のことだから私がどんな状態にいるか見極めることもできなかったろうに。  さやさやと葉擦れの音絶えぬ竹藪の下で、私たちは二時間余りも話し込んだ。一別以来どうしたこうした、山ノ辺の道を訪ね歩いている、そんな趣味が社長にあろうとは、あそこを見たかここへ行ったか……驚いたことに、Aはかなり詰めこんだと自信を持っていた山ノ辺の道に関する私の知識など、とうてい及ばぬほど、大和の古代に詳しかった。話しているうちにAが奥行きの深い人間であるのを感じた。クラブ当時は気づきもしなかったが、十年の歳月は幾らか私に人を観察する眼を与えたようだ。Aは私より幾つかとし下だが、とてもとても、私のような軽薄者は恥かしいくらいだ。その時点で互いに何の関り合いもなかったので、私は問われるままに山ノ辺の道あるきの理由……つまり病いのことを喋った。  するとAは非常に同情してくれて、急がぬなら自分の家へ泊って行けと言い出した。その時の妙に寛大で、それでいて何となく悪魔的な微笑のしかたを、私は今でもはっきり思い浮べることができる。そしてくどいほど私が生への執着を断ってしまった過程を訊ねた時の、まるで警官か何かのような鋭い口調も。  連れて行かれたAの生家というのがまた、大変な場所だった。おそらく附近の住人にも余り知られていないのだろう。そう思わせるに充分なほど複雑な道を行き、山襞に隠れるように濃い緑に囲まれて、着く寸前までそこに家があろうとは思わなかった。ずっしりと土から生えたようにあたりの風物に溶け込んだ建物で、古くそして大きかった。平屋《ひらや》で重そうな草葺き屋根を冠った姿を、私は最初に神社かと思った。いや、どう見ても神社そっくりだった。現に、玄関とおぼしきあたりに雨風に丸くなった石像があり、お稲荷さんの狐かと思ったが、近寄って見ると尾が細く犬の像だった。  住人は祖父だという老爺に甥夫婦とその子供たち。こんな家なら訪ねる人も稀だろうに、学齢前の子供たちまで変に動じない様子で、私は大した挨拶もなしに奥の一室に通された。泊ることがはじめから決っていたせいか、茶と灰皿がひとつ出たきりで、森閑とした谷あいの家の暗い奥座敷に、私はいつまでも放って置かれた。家族の声も聞えない。……普通なら薄気味悪くもなろうが、何もかもどうでもよくなっている私には、その扱いも静けさもこころよく、  倭《やまと》は国のまほろば たたなづく 青垣《あおがき》 山隠《こも》れる 倭《やまと》しうるはし……  などと、ひたすら外の景色を楽しんでいた。生きる望みを絶ったつもりで、専ら清浄な神域に近づいて欲を越えた心境を保ちたいと考えていたが、明日への希いをねじ伏せると、そこは凡夫で異常、正常の見わけさえつかないような、偏った心理状態だったのだろう。食事時になって、Aが三宝のような膳に私の分だけを運んで来た時も、私はそういうものだと何も考えず御馳走になった。Aは私が酒が呑めなくなったので可哀そうだと、からかうように言い、傍らで給仕をしてくれながら  味酒《うまさけ》を 三輪の祝《はふり》がいはふ杉    手触れし罪か 君に逢ひかたき  と万葉を口ずさみ、古代大和の最高神である大物主命の土地である三輪の枕詞が味酒《うまさけ》だと説明した。神前に奉納する神酒《みき》は、古くは神酒《みわ》と読み、大神《おおみわ》神社の主は酒の神である一面を持っているから、ギリシャのバッカスと共通点があるなどと言った。  その頃はめっきり食欲もなくなり、殊に脂っこい物を欲しなかったから、質素な山菜料理を結構有難く頂戴し終えると、頃合いを見計らったように老爺が現われた。Aは日本人ばなれのした彫りの深い美男子だが、その老爺も見ようによってはサンタクロースのような、白髯をたくわえた外人めいた貌の持主だった。老爺はずしりと持ち重りする湯呑みを私に渡し、熱いうちに無理をしても呑んでしまえと言い、暫く私を見つめてからAにむかい、お前の言う通りこれは死にたがっている顔だと、ひどく低い声で言いすてて戻って行った。湯呑みの中はとろりとした液体で、野生の植物の芳香が強く鼻をうつ。Aの説明にれば、ある種の百合の球根と花汁を混ぜたもので、強壮の役と同時に睡気を散じ精神集中の力も与えてくれるのだという。今夜は長い話になるから、是非それを呑んで置け、決して為にならない話ではないし、古代に興味を持つほどの人間なら必ず乗ってくるはずだからと、何やら思わせぶりに云う。  やがてAは、さて、と言って立ち上り、私を促してその部屋を出た。東北や北陸によく見かける仏教的陰湿さのある旧家と異り、恐ろしく古いこの家は、何となく開放的ですがすがしい感じが漂っていた。私はそれを道場のようだと思った。家は山側から谷間へ向けて建て増しされたようで、二、三段の階段を昇るたびにいっそう古くなり、いっそう神社めいてくる。そして遂に明らかに拝殿の形式を見せる一番奥の建物に辿りついた。板敷きの広間の突き当りに一段と高くなった高座のようなものがあり、注連縄《しめなわ》が下っていた。Aはためらいもせずそこへ昇って行く。私は神棚の大きめのものの中へ乗り込んで行くような気がした。  驚いたことに、神棚の扉の奥からゆらゆらと灯りが現われた。暮れきった夏の夜の、どこからともなくひいやりと肌につめたい風が流れ、やがて手燭をかざしたさっきの老爺が私たちとすれ違った。黙礼を送るとほんの微かな表情の変化でそれに答え、静かに去って行く。それはまるで能の動きだった。扉から奥は、老爺が手燭の火を移して行ったのだろう、そこ此処に細い灯火が揺れていて、私たちを導いてくれる。そしてその奥で私が見たものは黒々としたひと塊の岩だった。近づいてよく見ると、その岩は幅一メートル弱、高さ二メートル強で、上下二つの部分から成っていた。基部は一メートル半ほどの黒灰色の岩で、その上に厚さほぼ五十センチ、横一メートル半くらいの赤褐色の平たい岩がのっていた。T字状だ。Aが足許を見ろと言ったので気づくと、私はいつの間にか板敷の上ではなく、石畳の上に立っていた。  少くとも千六、七百年前から此処にたてられており、大昔はこの屋根もなかったはずだとAが語った時、私の背筋に戦慄に似た感動が走った。少し口ごもりながら、イースター島の石人像も赤岩の帽子を冠っていたはずだというと、Aは深くうなずき、T字は十字と同じく宗教に関係があるとつけ加えた。そして、私に言うというよりは、遠く古代に想いを馳せる様子で、巨石遺構《メガリス》こそ人類の最も大きな秘密を解く鍵であるのに……と、惜しむような誇るような口吻で言うのだった。  巨石遺構《メガリス》については、私も三輪山神域の磐《いわ》座《くら》などの関連で少しばかりかじっていた。北欧に特に多く分布する巨石構築物で、原始的な祭祠と関係があるとされるが、詳細は今なお諸説があって定まっていない。恐ろしく広範囲に分布しており、メンヒル(立石)アリニュマン(列石)ストーンサークル(環状列石)ドルメン(机石)羨道墳、石甕からイースター島の石人像まで世界各地に点在し、著名なのは南イングランドの〈エーヴベリーの寺院〉と呼ばれるストーンサークルや、ブルターニュのカルナックにある二千基をこすメンヒル群だ。日本にも秋田県大湯の万座と中野堂や、忍路《おしよろ》、音江、神居古潭《かむいこたん》など北海道のものが知られている。  私がそう言うと、Aは軽く笑った。失笑した様子だった。笑いながら神武帝の名を知っているかと問うので、始馭天下之天皇《はつくにしらすすめらみこと》だというといっそう声高く笑い、それは帝王になってからの尊称、以前は神倭伊波礼毘古命《かんやまといわれひこのみこと》だと言った。伊波礼毘古は磐余彦とも書き、山ノ辺の道を南に下る磐余道《いわれのみち》の磐余と同じだ。笑いが納まるとAは呟くように、古代は世界中が岩だらけなのだと言い、T字形の岩のうしろに揃えてあった履物を履いた。それは茅で編んだ一種の靴で、私はなんと言う理由もなく、つい靴下を脱ぎポケットへ突っ込んでから素足になってその茅の靴に足を入れた。今思えば、靴下という現代が神道の清浄さを害するように感じられたのだろう。  T字形の神石の奥は両開きの扉になっていて、夜風はそこから吹き込んでいた。石畳が少し下り勾配で続き、その両側はこの地方に多い山百合が密生して揺れていた。山百合と言っても関東で言うのとは違う種類の、少し小型のものだ。頭の上には山がのしかかるように黒々と夜空を区切っていて、大した風も吹いていないのに、時折り腹に響くようなドウーという音をたて、そのたび百合がざわざわと揺れた。暗くて確かではないが、柏を櫟のびっくりするような巨木がつらなっているらしい。  この先きに横穴がある、とAは言った。私はそう不思議に思わなかった。近くの竜王山には横穴古墳群がある。三輪山の磐座が巨石《メガ》遺構《リス》の一種だとすれば、その隣りの竜王山に横穴古墳があるのだから、T字形の神石と横穴が石畳でつながっていてもおかしくない。  その横穴は衝立てのような一枚岩が入口にあって、私とAはそれを左へ回り込んで中に入った。竜王山の古墳が庶民の物だとしたら、これは明らかに王族の物である。側壁と床の中央部は平らな岩でしかれ、所々に厚さ三十センチほどの石積みがあって、部屋の区分をされている。私は奇妙なことに気づいた。その石積みで区切られた部屋は、大小さまざまだが、どれも不思議な親しみの持てる広さだ。これは六帖間、これは十帖間……などと言いながら歩くと、Aは振り返り、そうだ、大基《おおもと》のことは昔から何ひとつ変ってはいないのだと、私を褒めるように言った。横穴古墳と団地の3DKが、大して変らない寸法で作られていると思うと、私はひどく愉快になった。そこ此処に点るか細い光が揺れ、二人の影が不気味が岩壁に映って太古の舞いを舞っているが、私はこのまま夜が明けなくても一向に構わないと思った。  かさかさと、ほどよく乾燥した土の上に立った時、私の古代への旅は終点に来ていた。突き当りに再びT字状の神石があり、その背後は岩の壁になっていたのだ。イースター島の巨人を連想させた上部の横岩は、Aの家のよりいっそう赫く、四つほどの灯火の中で朱色に輝いて見えた。その神石の両側から、最終室の四面にずらりと緋色の布で掩った何かが並んでいた。  日本列島は巨石文明の終着駅だった……Aは低い声でそう言った。その喋り方は四壁に反響するこの岩室の中では、実に適切な喋り方だった。湯呑みを運んで来た時の老爺の喋り方を思い出し、私はなるほどと思った。Aは語り続ける。……君はソロモンの神殿についてどれほど知っているか。私は物好きに聖書考古学などに興味を持っていたので、うろ覚えながら答えた。神殿の内部は三ツの部屋に分れていたと思う……そうだ。最初は入口の間ウラム、次いで聖所であるヘカル。列王紀略にそう書いてある。ヘカルには多くの窓があり糸杉の床に香柏の線条が入っていた。屋根は陸屋根、壁や戸は棕櫚の木で花や鎖の他にケルビムの彫刻がしてあった。第三の部屋は至聖所と呼ばれ、窓はなく、二つのケルビムが安置されていた。しかし、それがどんなものか誰にも言えない、とヨセフが言っている。ケルビムについては以来人々が想像をめぐらせ、翼あるスフィンクスなどと考えられたりし、サムエル書やエゼキエル書にもそのように記されているが、実の所は全く判らない。そのケルビムとは、おそらくこれのことだろうと、Aは緋の布で掩われた十数個の物体を見回した。私は堪りかね、バイブルと日本の古代がそれほど密接につながっているとは思えないと言うと、Aは憤ったように私を睨み、すべての宗教はこれから発達したのだ、と緋の布のひとつを指さした。  現在残っている宗教は、その発生期に原始宗教をすべて邪道外道《アージーヴィカ》としてしまい、その本質を闇の彼方へ押しやってしまった。ミトラ神はローマ支配下におけるキリスト教最大の仇だった。そのミトラ神の礼拝はこのような洞窟内で行なわれている。しかし、特にアーリア系の宗教は闇と光の二元論をその祖に持っている。また生命の再生も同じだ。古代フリギアの女神を崇拝したコリュバントは暗夜松明を持って山々を駆けめぐり、手足を傷つけ合って別の人格を得ようとした。バイブルにあるカナン地方の邪教バールも、ギリシャのマルスを崇めるサリアンも同じだ。瑜伽《ヨガ》も同根だし、キリストの復活もその要約にほかならない。ヒンズー、ジャイナ、仏教などの涅槃《ニルヴァーナ》もその再生への願いの昇華したものだ。エジプトのミイラも再生を期して行なわれた秘儀のひとつだ。いったい古代人達はどうして生命が再生されることを信じたのか。  私はAに反論した。それは農耕社会の大地信仰が……と。するとAは強く首を振り、物事を抽象化して考え過ぎると私を叱った。生命の再生、死者の蘇りを事実として知っていたと考えないのか。古代人が我々より抽象化作業に優れていたとは思えない。死者崇祀《マニズム》は世界の至る所にあるじゃないか。Aは確信ありげに言った。  私はたじろいで、ではそれと巨石遺構《メガリス》に何の関りがあるのだと方向を転じた。Aはほとんど北叟《ほくそ》笑んで答えた。世界中に死者崇祀《マニズム》がある。世界中に巨石遺構《メガリス》かその類縁がある。ほとんどの宗教が生命の再生を含んでいる。この三つをありのままつき合わすと、ソロモンの神殿にあったケルビムになるのだ。死者を祖霊として崇めるだけでなく、安置し祀《まつ》ったのは死者が再生することのあるのを知っていたからだ。そして石を崇めたのは、石に崇めるだけの秘密があったからだ。つまりこれだ。  Aは右手の一番端にある緋の布に掩われた物体に近寄り、それだけが他の物と違って真新らしい緋の布を、一気にパッとめくり落した。私は息をのみ、声も出なかった。  世にも精緻を極めた一体の男性像がそこにあった。顔の小皺、毛髪、四肢、陰茎から恥毛の一本一本までが、恐ろしいほどリアルに仕上っていた。Aは私に手で触れて見るよう促した。そっと触れると、それはまぎれもない石の感触であった。  顔をよく見ろ。Aにそう注意され、しげしげと石の男性像の顔を眺めた私は、数瞬後自分でも異様だったと判る悲鳴をあげてしまった。「スーさん……」  私が怯えたのは、この半ば形而上学的やりとりの中に、突然なまなましい自分の人生の一断片がとび込んで来たからだった。スーさんは私が芝でクラブを経営していた頃の客の一人だったのだ。Aは私の驚愕を確認できてさも嬉しいというふうに、何度も何度もうなずいた。  これは一番新しくできた神だ。遥かな未来に不死の生命をもって蘇る石化した人間なのだ……Aは私に諭すように言った。他の緋色の布の下には、それ以前の神々が蘇生を待って長い眠りを貪っている。中央左側が大国主命、別名大物主命。右側は磐余彦、その隣りは影媛《かげひめ》……。Aは十幾つの名をそらんじた。知る名もあるし知らぬ名もあった。私の顔見知りの客、スーさんは隅田賢也と呼ばれた。隅田賢也の名に、私は何度か集金に行ったことのある赤坂溜池の大会社、夏木建設の本社ビルを思い起した。私が逃げ出した、あの人間の溢れる大都会のド真ン中に暮していた人物が、三輪山の主や神武帝とこうして並んでいる。そのどうしても噛み合わぬ歯車《ギヤ》の軋みに、私の体は全身から悲鳴を発していた。か細い灯火の揺れに従って、石化したスーさんが動き出し、ひどくゆっくりと耳鳴りに似た轟きを伴って私にのしかかってきた。悲恋に沈む影媛の裸身がそのうしろを横切り、大物主命と磐余彦が緋の布をはいでとび掛って来た時、私の精神は古代と現代にまたがる二千年の時間に引き裂かれ、昏《くら》い奈落へ引きずり込まれてしまった。  気づいた時、私は元の座敷に寝かされていた。最初に見えたのは、視野いっぱいに私をのぞき込んでいる、サンタクロースのような老爺の顔だった。  熱もあるようだ……すぐ耳もとで、それでいてひどく遠くから老爺の声が聞えた。かなり病気が進行しているようだ、とAの声がそれに答えた。こんな体では行かせてやれそうもない、とAは冷たく言ったようだった。老爺はそれに、いやそうでない、自分たちの条件をこの男は充分満たしているし、病気は行けば癒ってしまう、と反論していた。私は油の尽きかけた灯火のように、ジリジリッと音をたてている自分の内部を意識すると、うわごとのように、行かせてくれ、と二人に言った。見栄も気取りもなく、生きることへの願いが体の底の方から湧き出してきて、それは幾粒もの泪となって滴り流れた。  行かせてくれ。俺を未来に送り届けてくれ。不死の来世を与えてくれ……。  再び失神から覚めた時、私はすぐ近くにAの笑顔があるのを認めた。Aは私の胸の上に優しく手を置いて、大丈夫行かせてあげる、と言った。そして三日後私が再び自転車に乗れるようになるまで、長い物語を語り継ぎ語り継ぎ私に聞かせてくれた。  人類が遠い過去に置き去りにして、忘れてしまった病気がある。医学の進歩で、やがてはそうなるかも知れないのが黒死病だが、Aが私に教えたのはその類《たぐ》いのものではなかった。人間が石化し、数千年の眠りから覚めると、その内部機構が変質していて不死の生命となる奇病だ。Aも医学の深奥をきわめたわけではないから、彼が書物を漁って調べた範囲を出ないが、おそらく人種が幾つかの異根として発生したことによる人類の宿命的な疾病と言えはしないだろうか。異根の二人種が混血したとき、稀れにこの怪病が発生した。  近代病理学は体液病理、器官病理、細胞病理とその分野を拡げてきたが、最も新しいのは細胞間質病理学である。細胞間を埋める物質に異常が生じて起る疾病は、その細胞間質の呼称から膠原病とも呼ばれ、病変は類繊維素病変と血管組合組織病変に二分されるようだ。どれも完全に解明されていないものばかりで、人為的に発病させるのが可能なのは血清病だけだという。  Aは石人病……彼の呼び方だが、その石人病は膠原病か、おそらくそれに非常に近い病気の一種だと考えているらしい。全身性播種《エリ》状紅斑性狼瘡《テマトーデス》や全身鞏皮《きょうひ》症、結節性多発動脈炎、リウマチ熱、慢性関節リウマチ、皮膚筋炎がその仲間で、治療法は副腎皮質ステロイドホルモンが対症的に効くだけだ。これらは一時平癒に向っても時を置いて再発し、その都度進行の度を深めるという厄介な疾患なのだが、その中の全身鞏皮症が石人病によく似ているという。  色素が増し黒光りしてくるのだ。その後小色素脱出斑が密生して白っぽく変る。同時に皮膚は萎縮し厚味も減って細かな皺が出る。脳の淡蒼球などの錐体外路障害に似て、筋緊張昂進、仮面性顔貌、運動減少、手指振顫などを伴う。パーキンソン病、ウィルソン病に見られる症状と同じだ。  石人病もまず体の末端が固くなりはじめる。指、掌、腕とどんどん進み、顔はまるで仮面で最後に毛髪までが白っぽいかたまりとなり、曲げればポロリと折れてしまう。だが本来人体は水分が大部分だ。放置すれば萎縮して死んでしまう。誰が最初にそうしたか、時の彼方に霞んで判るはずもないが、古代人たちはこれに多量の人血を与えてきた。副腎皮質が効果を顕わすことと言い、原始宗教に見る犠《いけ》牲《にえ》の真意が此処に隠されている。キリスト教には塗油儀法が残っているし、バイブルでパウロも、人は自らのうちに変身し第二の生誕を行なう。イエスの神秘な血を飲んで自らを神性に依って満すべしと述べている。  しかしこれは石人病の第三期に入ってからのことである。第三期が終ると、私がAの家の横穴で見た隅田賢也のように石化して、二千年ないし六千年の眠りに就く。人間本来の組織構造は石の皮膚の下でゆっくり変化を続け、やがて不死の超人として再生する。  しかし蘇生するとき、介添する人間が必要である。ごく微量だが人血を必要とするのだそうだ。舌端に異常発達した細胞が残っていて、それを脱落させねばならない。石人から接吻を受ける相手が必要なのだ。しかもその細胞が脱落する時、石人から病原が染《うつ》される。数千年の空白ののち、次代の石人病がこうして拡まるのだ。  昭和三十年代のある時期、女流カメラマンで巨石遺構《メガリス》研究家でもある椎葉香織という人物が偶然のことからヨーロッパにおける石人の謎を知り、アルバニアのゲグ族の土地で石人の蘇生に立ち会った。世界には日本も含めすでに蘇生した超人の支配下に、この秘密を保ち石人を探究して安全に保存する組織が存在し、椎葉香織という美女はこの組織に保護され、やがて日本に石人病を持ち帰った。  現代日本での病祖香織は、この時体の一部が変化していた。人間の舌には舌乳頭という細かい突起が無数にあるが、特に大きなのは有郭乳頭で直径一ミリ以上もある。味覚をつかさどる味蕾はその個々の乳頭をとりまく溝の壁に発達しているが、香織のそれは一種の刺細胞に変っていたのだ。イソギンチャクの仲間にアコンシアという腔腸動物がいるが、それが刺細胞類の代表的なものだ。外胚葉の一部が中膠内に陥入していて、刺戟に会うと刺糸が裏返しとなって表面にとび出し、毒液を分泌して敵の行動力を奪う。香織の舌にはこの毒針が内蔵され、性感の高潮時に作動してエクスタシーとほとんど同時に微量の病液を分泌、相手の体内に注入する。この時、射出する側にもそれを受ける側にも、筆舌に尽し難い快感がある。正常な性と異常な疾病による二重の快美感だ。その愉悦の誘惑に克った人間は絶無だそうだ。  つまり、石人病の伝播は一種の性病として行なわれる。舌からの病液授受は精神の乱れさえ伴う、実にすさまじいばかりの悦楽であって、特に子患者は親患者を身も世もなく恋い慕うようになってしまうのだ。強烈な中毒症状と言ってもよく、病液注入の自覚などあり得ないから、それを愛情と思い込む。十歩譲っても得難い性愛の対象と感じる。このセックスを伴う交渉が重なるにつれ、体の異常が進行する。まず昼は何とも言えぬ焦燥と罪悪感に似た情緒にさいなまれ、怠惰で逃避的となる。ちょうど宿酔の朝の気分に似ている。食欲がなく理由のない後悔に捉われ、いらいらして音に敏感となり、特に水気を欲する。脱水症状なのだ。石化の第一歩である。  ところが夜になると嘘のように気分がよくなり、ひたすら相手を恋い慕う。この辺りが第一期で、その終り頃にぼつぼつ味蕾の変化が始まり、何かの理由で〈恋人〉からの病液の供給がとまると、精神錯乱に陥り四肢に痙攣を起して死んでしまう。石人病の秘密が保たれたのはこの辺の症状が原因で、患者は親患者を愛人とするとともに、事実保護者として親子又は主従の関係に入ってしまうのだ。Aは軽度の従命自動症ではないかと言っている。精神異常の一種で拒絶症の逆例だ。  私は正常な人間にも、あなたなしでは死んでしまう、という感情に支配される場合があるのを思い起し、石人病の人類に対する根深さを知らされた。味蕾が変化すると当然味覚が損われて、酷く辛いものでないと感じなくなる。香辛料や大蒜《にんにく》が好まれる。  症状の一期と二期は判然としている。色盲になるのだ。色盲には部分色盲と全色盲があるが、この石人病では百パーセント部分色盲になる。眼球の視細胞は色を感ずる杆状体と明暗を判ずる錐状体があり、どうやら杆状体の機能が損われるらしい。部分色盲は理論上赤緑色盲と青黄色盲があり、赤緑色盲は男子の約四・五パーセント、女子はその十分の一程度だが、青黄色盲は理論上の可能性だけで実例は絶無だ。  その青黄色盲になる。赤緑青黄は主観的四原色と呼ばれるが、このうち青と黄を失ったら自然緑も失われ、赤一色の世界になる。赤以外は明度で判別するより仕方がない。そう言えば中石器のアジール文化は赤色顔料を用いた彩礫を特徴とするし、ウィルトン文化は赤色単彩の岩壁絵画を持つ。カプサ文化も同じものがあるし、日本の神社は赤以外の色彩をあまり用いない。赤い鳥居の例を引合いに出すまでもないことだ。アーリア人種の祖と見られ、化石的民族と言われるヒンズークシ山中の白い蕃族カフィールは、その着衣によって二分される。赤一色の赤カフィールと黒一色の黒カフィールだ。またバイブルのイザイアス書には、エドムより来り赤き服着てボラスより来る者は誰ぞ、としごく訳の判らないことを言っているし、我が眼は傷つき我は泣き、とも言っている。  色盲の時期になると陽光に身を曝すことは避けねばならない。熱中症にかかってしまう。熱中症とはつまり日射病で、その死亡率は常人で約四十パーセントにものぼる。高熱を発して発汗さえ止る突発的な病気だが、石人患者はほとんど百パーセント頓死する。  これが石人病に関するあらましだが、ヒンズーのヴェーダーには、ダルマ、アルタ、カーマの三大目的があり、それを通じて解脱《モークシャ》に至ろうとする。カーマは性愛である。また、この最古の聖典に残る深窓《バルダ》の教えとは、熱中症への警告ではないだろうか。庚申待ちの庚申信仰は中国の三尸《さんし》信仰から来ていて、上尸は青姑といい妄想を起させ眼を病ませる虫、中尸は白姑といい美食と悪行を好ませ、下尸は血姑で色欲を増し殺を好ませ、手足を震わせる虫とある。  ゴルゴダでロンギノスの槍に突かれたキリストの傷口から流れた血はアリアタマのヨセフに引継がれ、やがて聖なるエメラルド盃を探し求める十二人の円卓の騎士が生まれ、聖堂騎士団に発展し、殿堂設計の予言者マーリンと結びついてフリーメーソンになる。秘密は世界史のそこかしこに散在しているのだ。  フリードリッヒ大王に死ぬことができぬ男と呼ばせ、自身二千年の歴史を見て来たと豪語しバビロン宮廷のゴシップなどを語ったサン・ジェルマン伯爵はどう言う人物だったのだろうか。マリー・アントワネットの腹心アデマル夫人は、彼が死んだと言われてのちのマルセーユで逢って話しているし、作曲家ラモーもその博識に驚いている。マルコポーロの東方見聞録にも現われる、イスラム系の怪教暗殺教団の開祖ハサン・ビン・サバーは、険阻なアラムートの山砦に身をひそめたまま、遂に一歩も陽光の下へ現われなかった。大物主命も一切昼行をしない伝説を持っている。ストーカー夫人はドラキュラを全くの想像で書いたのだろうか。ジャン・ジャック・ルソーはこう言っている。  もしこの世に是認され証明された歴史があるとしたら、それは吸血鬼の歴史であると。そして飽くまで吸血鬼は迷妄と断じ難いことを終生言い続けた。裁判官の身で鬼神崇拝論《デモノラトリア》を残したニコライ・レミギウスは、魔女裁判《ヘクセンプロツェス》の真っ只中に生きた勇気ある証人ではなかったろうか。ヤーコプ・シュプレンガーなどの魔女糾問官は、必要不可欠の防疫班ではないだろうか。  Aは私の枕頭でそんな話を続け、最後に東京へ戻ってから逢うべき人の名と場所を私に教えた。いま、東京には非常に発達した石人病患者の組織が存在する。石人病は病祖からある範囲……親、子、孫の患者世代の限られた範囲を超えると次第に軽症になり、遂には消滅してしまうのだと言った。だからAが指定する患者を親に持たないと石人にはなれないと注意し、早く帰京するよう奨めた。  三日後、私は自転車で桜井市へ戻るため、山ノ辺の道までAに送ってもらう途中、なぜそこまで秘密を知りながら、自分自身は超然としているのかと訊ねた。Aは少し淋しげな表情になり、駄目なのだと答えた。  来た時のようによく晴れた日で、振り返ると神社のような家も古墳もあった山も、もう少しも判らず、遠くで鳥が啼いていた。Aはややためらいながら、自分の家系は長い間石人病に免疫となっていると答えた。〈犬神筋《いぬがみすじ》〉なのだという。  犬神は日本に広く分布する憑物《つきもの》の一種で、狐憑はその亜流だ。犬は古代社会で御犬と尊称された狼のことで、真神《まがみ》とも大口《おおぐち》とも言う。大和国風土記逸文に、  昔、明日香ノ地ニ老狼アリテ多ク人ヲ喰フ。土民恐レテ大口神ト言フ。某所ヲ名付ケテ大口真神原ト号《との》フ……  という文章がある。Aはその犬神憑きの家系の頂点に立つ〈犬上御田鍬《いぬがみのみたすき》〉の子孫だったのだ。石人病のちょっとした変種が、本流から分離して石人とはなり得ない人々を生んだのだ。〈犬神筋〉の家には時折り膠原病の全身性エリテマトーデス……狼蒼を発する子が生まれ、周期的に平癒、憎悪を繰り返しながら狂暴な錯乱の発作を起すという。  〈犬上御田鋤〉は、石と化す人に仕え、その身を扶ける犬神族の最高神に当り、推古、舒明の二帝に仕え、遣隋使、遣唐使として二度も海外へ渡航している。……はじめは石人病の仲間だったのが、いつの頃か近親相姦があって病質に異変を来したのだ。このような病液授受上の失敗は世界中に例があるそうで、狼人間と吸血鬼が不即不離なのも当然のことなのだ。  あの急に折れ曲った山ノ辺の道へ出たとき、Aはもう二度と逢うこともあるまいと言って堅く私の手を握った。あんたが石人として蘇る頃には、今の人間社会はなくなっているかも知れない。大物主命や磐余彦や影媛などは先きに蘇り、サン・ジェルマン伯爵たちと新しい社会を築いているだろう。保存は東京の連中がやってくれるだろうが、何なら隅田賢也のようにあの横穴へ引取っても良い、などと親切に言ってくれたりした。  列車が東京へ近づくに従って、私はAの家での出来事が、どこまで現実でどこまで妄想の産物なのか、次第に判らなくなってきた。神社のようなAの家を訪ねたのは確かだが、石になった隅田賢也や古代の神々と逢ったのは、私が高熱を発して昏倒してしまった間の幻想ではないのだろうか。Aは本当に犬上御田鍬の子孫なのだろうか。吸血鬼や狼人間などという伝説の世界へ入り込んで行こうとしているこの自分は、果して正気なのだろうか。  東海道を走る列車の中は、揺れる灯影もなく、闇に轟く樹々の風鳴りも、ましてや大物主命や磐余彦の影など何処を探してもありはしない。静岡を過ぎ箱根をこえて小田原に着いた頃には、不死の生命に至る石人病の存在など、まるで馬鹿げたお伽噺に思えていた。  しかし、Aの家での数日が、私に生きる望みをとり戻させたのも確かだった。何とか病気と闘って見よう。もう一度やり直して見よう……いろいろ理窟をつけて山ノ辺の道などで自分を甘やかして見たが、結局人間は生まれてきたからには生きねばならないのだ。他人の世話にならず野垂れ死にできたらなどど、愚にもつかぬことを考えていたが、山中で縊れ死んでも結局誰かに迷惑が及ぶのだ。やはりもう一度出直すべきだ。  東京に着くとすぐ、私は二、三社の広告代理店に電話をして、雇ってくれないかと口をかけた。仕事の上での実績には多少自信があったし、以前来て働かないかと言ってくれた所ばかりなので楽観していた。しかし、タイミングが悪いというのか、どこも人を補充したばかりで椅子が空いていないと断って来た。われながらあさましい限りだが、それからの私は就職運動に明け暮れる始末となった。  家族は私が抛り出してしまったので腹を立てており、苦労して新しい生活方式に踏み出したばかりだから、失職の身を良い顔で迎えるはずもなく、別れた女房は原宿に間借りをして働きに出ているそうだが、これも連絡のつけようがない。仲間のあっちこっち駈けまわり、おこぼれの仕事を恵んでもらっては、ドヤ暮しに近い毎日が続いた。  そんな私を見かねたのか、青山にあるプロダクションが来いと言ってくれた。しかしそれは極端に言えば文案《コピー》の清書をするような、ごくつまらない仕事だった。それでもないよりはマシで、引受けはしたものの心中穏やかでなく、でれでれと勤めた最初の給料日、十年のキャリアが泣くような金額に堪りかね、焼鳥屋でつい禁じていた酒を呷った。  久し振りのアルコールで好い機嫌になったのはほんの僅かの間で、私の体に酒が毒でないはずはなく、胃の辺りにコンクリートブロックを一個つめ込んだような気分になって、吐き気が襲ってきた。勘定もそこそこに外へとび出し、酔いと体の変調が一緒になってふらふらと青山通りを歩いていたが、とうとう街路樹につかまってへたり込みそうになった。  その時、私すれすれに黄色いタクシーが走りすぎ、少し先きで停ると白っぽい和服の女が降りた。うつむいた私は女の着物の裾が私に向って近づいて来るのを感じていたが、聞き覚えのある声に驚いて顔をあげた。  別れた女房だった。何をやってるの、こんな処で見っともない、と私の腕をとり、どこにいたの、ずいぶん探したのにと恨みがましく言った。知るけえ、てめえなんか……酔ってるのね、死んじゃうわよ。死にてえのさ、放っといてくれ……好きなようにさせてあげるけど、とにかく今は来てよ。  私はそう遠くない原宿まで、女房に連れられて歩いた。間借りと聞いたのでせいぜい二間の安アパートだろうと思っていたら、どうして豪勢なマンションの七階だった。室内の調度も私と暮していた頃の数倍も贅沢で、赤いカーペットを敷きつめた寝室には、どでんとピンクのダブルベッドが置いてあった。  別れてから生活の途もなく、友人のすすめで西銀座の茜というクラブへ勤めたという。久し振りに逢えたのだから今日は休業、などとと幾分燥いで、グロンサンを飲ませたり風呂に入れたり、すっかり世話女房の昔に戻っている。汚れっぱなしの下着やよれよれのワイシャツまで、女のいない証拠だと喜んでいる。髪を短く切ったせいか、だいぶ若返ったように見え、二十八歳が二十三、四に見えないこともない。やがて、逢いたかった逢いたかったと涙声で抱きついてきて、私をベッドへ押し倒し、のしかかってきた。それはひどく新鮮な一夜で、けだものじみた女房の嬌態にいつしか私も捲き込まれ、かつて味わったことのない悦楽に、あさましいまでの欲情を吐き出し続けた。  醒めると十一時を少し廻っていた。彼女はまだ睡っていて、私は裸のままバスルームへ入った。冷たいシャワーを浴び、冷蔵庫をあけてグレープジュースを一瓶飲んだが、胃の辺りがまだ不快だ。昨夜焼鳥を四、五本食っただけで空腹のはずなのに、あまり食欲もなかった。プロダクションへ出かけなければと服を探したが肝心のワイシャツがない。寝室へ戻って彼女を揺り起すと、薄目をあけて私を認め、すぐくるりとうつぶせになって、顔を枕にあてたままの籠り声で、出掛けなくてもいいじゃないの、と言った。ワイシャツは洗い物の中に一緒にしてしまったから、あとで買ってきてあげると言う。  女房も変った、と思った。以前は人一倍早起きで、日がな一日こまごまと動いていたのが、まるで怠惰になっている。このままよりを戻してもいいものだろうか。この豪勢な暮しぶりは、男でもいなければできないはずだし、彼女の将来を自分は今ぶちこわしているのではなかろうか。言葉に甘えて勤めも休んで、いったいどうなるのだ。  宿酔の不快さの中で、私はあれやこれや、しきりに自分を責めていた。居間のカーテンをあけると明るい陽射しがさっと流れ込み、くらくらと目まいがした。……やはり今日は無理しない方が良いかな。自分にそう言き聞かせ、私はベッドへ戻った。四時頃、女房はいやいや起きあがり、やがてとげとげしい声でカーテンをあけ放して置くと、カーペットや家具が陽に焼けるのにと苦情を言った。しかし、その不機嫌も出勤の支度をはじめる頃になるとすっかり納まり、着つけの間中、今日はどうしようかと迷っていたが、着終るとやっぱり今日も休むわ、と言ってクラブ茜に電話をし、何よ、そのオンボロは、と私の服をけなした。外で食事をして私の服を二着ほどあつらえて、まるで私の保護者のように彼女は振舞い続けた。そしてマンションへ戻ると、再び前夜の激しい肉のからみ合いが始まった。  昨夜よりも私の陶酔はずっと深かった。彼女は夫の私の知らなかった淫蕩さで、私をさまざまに攻めたてた。以前とは立場がまるで逆になり、私は彼女の言うがままに翻弄された。  翌る日も、その翌る日も同じことが続いた。四日目になって、ようやく私は自分を駆りたてるように職場へ出たが、離れると今さらながら彼女が恋しく、一日中その白い肉を想い続けた。前後の弁えもなく、まるで新婚当時のような、いや、それ以上に粘っこい蜜月が続いたある日、仕事で渋谷に出た私はハチ公の前の交差点で思わず叫んでしまった。  向う側のシグナルに、赤い色しかなくなっていたからだ。ぐるぐると何度も体を回転させてあたりを見廻したが、その瞬間から世界は赤のモノトーンになっていた。いや、モノクロ写真に赤の部分だけが着色されていたと言ったら良いだろうか。カラー印刷の赤版だけがモノクロ写真の上にのっている感じだ。Aの家の横穴の岩室で聞いた、あの四壁にこだまする声が私の耳の底でフィードバックし続けた。石人病だ、石人病だ、磐余彦《いわれびこ》だ。  マンションに駆け戻った私は、狂ったように喚いた。なぜ黙っていた、なぜ教えなかった……と。彼女はそれを懶気《ものうげ》に聞き流し、もう遅いわ、外へも出ちゃ駄目よ、と言って私を冷やかに眺めた。  私は十年前の水商売に戻った。クラブ茜は患者組織の一端で、ホステスたちは皆石人病に侵されていた。柘榴、紅、ドルメン、赤い館、ローズルーム、ロック、岩屋、明日香、スカーレット、オルフェ、ピンキー……夜の銀座、新宿、池袋には、一々挙げたら切りのないほど、組織の店があった。組織は未来へ渡る船として、患者になるべき者を厳選していた。不死の世界に残すべき者は、まず美しくなければいけないのだ。店は患者の生理的要求によって、すべて赤一色のインテリアで統一され、そこには常人にない妖しく光る瞳を持った濃艶な美女たちが生活していた。男たちはその店で働くか、または組織を守るための要員として配置され、時には残虐な暴力行為も発生した。  また、組織は政財界の奥深くにも根を張り、世界組織の長、おそらくは蘇った超人であろう伯爵と呼ばれる人物の支配下にあった。伯爵は過去に石化して再生を待っている、数多くの石人像を発見し、疾病の源を絶やさぬことに努めるとともに、蘇生に伴って生まれるその時代の病祖を保護して、新たに石人を生み出すことを目的としていた。  患者たちは私も含め、組織の支配下にある不動産業者が持つ一連のマンションに住居を与えられ、石化開始まで淫蕩な日々を送っている。必要な血液は、これも組織が経営する血液銀行から供給を受け、多分設計家隅田賢也らの働きにより、北多摩郡守屋の地に作られた地下の巨大な安置所で、その患者としての最終段階を迎えることになっている。  現代の病祖椎葉香織はすでに石化して守屋の安置所に入ったが、患者世代はまだ十代余りで、あと数代は完全な石人病として存続するという。Aのすすめに乗らなかった私は、結局自分の妻によって石人病にされ、組織に加わることになったが、もう悔んではいない。数千年だろうと眠れば一瞬である。醒めた時、不死の私に何が待っているのだろう。こんなせせこましい世界に生まれ、そして死んで行くのは実に愚かしく、徒労であると思える。私は組織の条件さえ満たしてくれるなら、いくらでも石人志願者が増えてくれればいいと思っている。私や女房の子患者なら、まだ充分未来への旅に間に合うのだ。  さあ、赤い酒場を訪れたまえ。ご婦人ならこの私が、男性なら私の女房が、この世のものとも思えぬ悦楽境にご案内しよう。その涯は、遥か彼方の不死の世界だ。そこがユートピアであろうとなかろうと、こんな下らない世の中でこせこせと終るよりは、よほどすばらしいことではないだろうか。 [#改ページ]    フィックス 饒舌な男  その男と何処で会ったかは、此の際大した問題ではない。ただ、私はその時、薄暗い店で酒を飲んでいたとだけ言って置こう。  薄暗い場所で酒を飲むのは、私の唯一と言って良い愉しみである。学生の頃から文学を志したと言う訳ではなく、同人誌などに参加したこともなく、至って低俗な社会に棲んで誰もがその儘そこで生涯を送るに違いないと思っていた者が、或日突然我流の小説を書き始め、今はこうして筆一本で生活するようになっているのであるから、心の奥底には常に不正者のうしろめたさが蟠《わだかま》り、日頃はやむを得ず楽天的に振舞ってみせてはいても、独りの酒でおのれの本性と面《つら》つき合わせねばならぬ時には、どうしても一定の薄暗さと言う物が必要になるのである。  明るい場所で飲めばかえって陰気になり、必ずと言って良い程悪酔いするが、薄暗い場所では酒という鏡に写るおのれの醜い貌《かお》がしかとは見定め難く、小説を書いて暮らすにつけて支払わねばならぬ、おのが知識の浅さ字の汚なさ、臆面もない厚かましさなど、恥の数々を思い起こさずに済み、活字になって人の目に触れる晴れがましさや、原稿料の旨味だけを反芻して、はた目には薄暗い中で背を丸め、何やら物侘しげに見えようと、内心は結構陽気で、我世の春とにんまりしているのである。  その男は、私がそんな気で飲んでいる時にやって来た。席は薄暗い店の隅角で、私の左腕は汚れた飴色の板壁に触れており、顔をあげれば目の前も空いた椅子ひとつ置いて同じ飴色の板壁であった。  ——いわし塩焼——  その板壁には、多分毛筆練習用の、例の帳面式になった短冊を使ったのだろうが、下手糞な字でそんな品書きが一枚、斜めに貼りつけてあった。そこから右へひろがった飴色の壁面には、同じような品書きの短冊が、洒落たつもりでさまざまな角度に斜め貼りしてあり、その最後の一枚が私の目の前にあったのである。  酔客のざわめきと、セーターを着た乱暴な女店員の奥へ注文を通す声は、主に私の背後で渦巻いており、右どなりにも四人連れの客がいて、三人が一人を寄ってたかって何やら慰めている。会話の端々から想像するに、それは勤め先の上司に対する不平不満らしく、一人が明日にも辞表を叩きつけてやると息巻いていた。  私はそんな場所でひっそりと徳利を傾ける自分が気に入っていた。巨大な社会の今日という流れの中で、肌にその流れを感じつつ、実は超然として流れ全体を見渡しているような、そんな根拠のない思いあがりを愉しんでいたようである。  その男がどの辺りの席から立って来たのか、私は知らない。七、八十糎四方の、壁と同じ飴色をしたテービルの横に立って、彼は私の名を呼んだ。その位置は、女店員が酒を運んで来た時とそっくりだったので、俯いていた私はてっきり店の者だろうと思っていた。  名を呼ばれて顔をあげると、濃い鼠色のコートの下に濃紺の背広を着、白いワイシャツに毛糸の空色のネクタイをしめた男が、左手で徳利の首をつまみ、右手にこの店のおきまりの益子焼のグイ呑みを持って見おろしていた。  「前からあなたのファンなんです。最初の頃からずっと読んでいるんですよ」  男はそう言うと左手の徳利を突き出した。私は徳利で目の前を塞がれ、少しのけぞって相手の顔を見つめた。  ちょっと年齢が掴めない感じであった。どちらかと言えば面長で、眉は濃く、目は切れ長で鼻筋が通り、唇は薄いが酒の為か紅く、頤の先に短い縦の肉溝があって、髪はきちんと撫でつけてあった。  美男といえよう。清潔な感じだし、若々しい機敏さに溢れていた。しかし、なんとなくのっぺりとしたとらえどころのない印象があり、私は好感を持つべきかどうか戸惑っていた。  どちらともきめかねるまま、私は自分のグイ呑みの酒を飲みほして、男の差し出している徳利に合わせた。男は屈託のない笑顔になって注いでくれた。  「いいですか、ちょっと此処へ坐って」  向かいの、壁を背にした椅子を顎でしゃくってそう言った。  「あ、鞄を……」  私は曖昧に答えた。空いた椅子に、本を買い漁る時専用にしている、黒いショルダー・バッグが置いてあった。男はテーブルの上に徳利とグイ呑みを置くと、ショルダー・バッグの肩紐を椅子の背に掛け、ついでに鼠色のコートを脱いで同じように椅子の背にかけると、するりと体を拈って狭いテーブルと椅子の間へ入った。  「最初の頃の、良かったですよ。僕は好きだったなあ」  では今のはどうなんだ、と言うような疑念をさしはさむ余地のない、カラリとした言い方であった。初めは幾分照れ臭く、急に気づいたように振り向いて店の中を見まわしたりしたが、顔を戻すと相手がまだ見つめているので、男が注いでくれた酒をぐいと飲んだ。  男は徳利をとりあげ、すぐまた注いだ。  「いつもこういう店でお一人で飲むんですか」  私は自分の徳利をとりあげ、相手のグイ呑みに注いでやった。徳利は背の高い二合入りで、テーブルの上には突き出しの小皿と別に、牡蠣酢の鉢がひとつあり、すでに幾粒か食べ減って紅葉《もみじ》おろしが散っていた。  男は軽く目で礼を言い、グイ呑みを持ちあげたが、背の高い二合入りの徳利は丁度空になる所で、八分目ほど注ぐと逆さになってしまった。  「これは失礼。丁度終わった所だ」  私が詫びると男はグイ呑みを置き、性急に二つ三つ手を鳴らした。  「ハアイ」  女店員の憤ったような返事が聞こえた。男は自分の徳利を高く掲げて見せ、もう一方の手で指を二本突き出した。  「お銚子二本……」  節をつけた声が遠くで聞こえる。この店では私だとそんな早く事が運ぶことは滅多にない。女店員にこちらを気づかせるのがひと仕事で、気づいても忙しいから仲々廻って来てはくれないのである。  あらかじめ燗をつけていると見え、かわりの酒はすぐに来た。  「早いのがとり柄だな」  男は運んで来た女店員にそう言った。  「そうよ」  女店員は笑いながら答え、すぐ去って行った。ひょっとすると、私がこの店の女店員のそんな柔和な顔を見たのは、それがはじめてではなかっただろうか。いつもは最前線の女兵士のように、自分の任務にとじこもって微塵も感情らしいものなどのぞかせることがないのである。  私は男に好感を持とうと決めた。  「いつもこの店ですか」  すると男は曖昧に、  「ええ、まあ」  と答える。  「あなたの最初の頃からの読者として、ぜひ聞いてみたいことがあるんですがね」  「なんです」  「要するにあなたは、あり得ないことをいかにもありそうに書くのが楽しいんじゃありませんか」  私は笑った。  「そのとおりですよ。真実を書くなんて大それた望みは持っていませんよ」  「とんでもない嘘を、自分で嘘と承知しながら、いかにももっともらしく書いて行くのは、きっと楽しい作業でしょうね」  「そりゃ楽しいですよ」  「百人の内の何人かだけでも、その嘘をもしやと思わせることができたら、うれしいでしょうね」  「それをあてにして書いているんですからね」  「いい商売だなあ」  「あなたのお仕事は」  「スパイです」  男は淡々とした言い方で答えた。  「ほう。調査か何か、そういったお仕事ですか」  「そういうのもやります」  「競争が激しいですからねえ、今は。で、業種は……」  そこまで言って、私は自分の質問がいささか立ち入りすぎたかと思った。  「いや、これは余分な質問だったかな」  すると男はニヤリとした。  「かまいませんよ。当ててみますか」  「繊維」  「いや」  「重工」  「違います」  「製薬」  「いいえ」  「商社」  「当たりそうもないな」  「じゃ石油関係」  「国ですよ」  「どこの」  「きまっているじゃありませんか。日本のですよ」  「ふうん」  私はちょっと鼻白んだ。からかわれたらしいと感じたのである。  「JCIAですよ」  「まさか」  私はガッカリした。KCIAにひっかけるなどは、幼稚すぎると思った。  「JCIAが気易く名のり出るわけがないと思うでしょうね」  「まあね」  私は酒を飲み、箸をとって牡蠣をひと粒口へ入れた。  「JCIAなど、あり得ないと思うでしょう」  「あるかも知れないけれど」  「まずない。たいていJCIAと言われたらそんなように思うでしょうね。でもあるんです。現に僕はそこに所属していますから」  「正規のJCIA局員なのですか」  私は調子を合わせてやる程度に、軽い言い方をした。  「ええ。と言っても、勿論身分証を定期入れに入れて持ち歩いてるわけじゃありませんが」  「そうでしょうな」  私は苦笑した。  「僕は、あなたのような人は非常に特殊だと思うんです」  「JCIA局員と同じようにね」  「それよりもっとでしょう」  男には私の皮肉が通じないようであった。いや、JCIAと言った以上、もっと露骨な反応があっても当然と思い込んでいるのかもしれなかった。  「僕がそんなに特殊ですかね」  男は愉しそうな含み笑いをした。  「だって、あなたの口から出たら、何だって嘘になります」  「酷い言い方だな」  腹を立てたわけではない。その種の言われ方には慣れていた。しかし、いくらかは不満を表明するのが社交的な儀礼というものであろう。  相手も儀礼的に訂正した。  「いや、これには但し書きが要ります。あり得ないような真実を告げるには、あなたは最適の人物だと言いたいのです。スパイが何から何まで肚にしまって、絶対に口外しないというのは伝説にすぎないんです。スパイだって、たまには言ってはいけないことを、洗いざらいぶち撒けてみたくなるもんですよ。でもそうしたら明日から生活できなくなる。それどころか、生きていることさえできないかもしれない。でも、人間はみな誰かに聞かせたいことを持っているんですよ。そうでしょう。僕にだってあります。以前は自分がどんな人間だったか。そして今はどんな人間になってしまったか。なぜそんなように変わったのか。誰が変えたのか。……でも、普通では喋れません。今日偶然僕は町であなたを見かけました。その時すぐ思ったのです。あなたは何を聞かせても大丈夫な人だとね。なぜなら、あなたは常日頃、あり得ない嘘をいかにもありそうに語っておられる。私があなたに嘘のような真実を語っても、別にあなたに口どめをする必要はないのです。あなたからまた聞きした人々は、いつもの奴だと思うでしょうからね。実際に、私があなたに喋ってしまいたい真実は、あなたのいつもの奴にひどく似ているのですよ。JCIAが存在すると思うか。多分ないと答えるだろう。だがKCIAがあることは誰ももう疑わない。KCIAの母体と日本の現体制が癒着してしまっていることも知っている。そしてアメリカには本家のCIAがある。この三つは頭がひとつにくっついてしまっている。CIAがあってKCIAがあって、日本だけがJCIAを持たずに過ごせるのか。そういう主体性が許されているのか。安保条約と無関係なのか。……僕の語る話をあなたが信じた時、あなたはほかの人に多分そういう言い方をするでしょうね。そして、そういう言い方は、これまでいつもあなたがとんでもない嘘を人に信じ込ませようとするとき使って来た言い方なのです。聞き手はまた面白がるかも知れませんね。でも信じるでしょうか。信じたとしても、ああまたとんでもない嘘を信じ込まされたと、人々はそれを嚥みくだしながら笑うのです。聞いてくださいよ、私の話を。あなたは安全なのです。あなたは無害なのです。すべての真実を、いかにも嘘らしくしてしまう特殊な人なのです」  男は饒舌であった。  「いいでしょう」  と私は言った。  「聞かせてもらいましょう。だがひとつ条件がある。何かひとつ、他愛のないことでいいから、非合法な芸当をして見せてくれませんか。嘘をつくのが商売だけに、私自身はこれで仲々疑り深いのです」  「いいですよ。それに今日は時間もない。あさっての晩、おひまですか」  「そんな面白い話が聞けるなら、いつだってお会いしますよ」  「じゃ、あさっての七時。あなたのお好きな所で落ち合いましょう」  「で、非合法なことはいつして見せてくれるのです」  私は多分底意地の悪い目付きをしていたと思う。それで厄介払いをするつもりでいたのだ。  「今すぐやりましょう」  「ほう」  「あなたがいつも小説を書く場所はどこですか」  「自宅の二階ですよ」  「机の上に原稿用紙が置いてありますか」  「ええ。たくさん……」  「じゃあ、そのいちばん上にJCIAと書いておきましょう。それに、あさってお会いする時の為に或る名前をひとつと。これからまっすぐお宅へお帰りですか」  「そうですね」  私は少し考えた。今朝六時迄原稿を書き、七時に床へ入って十一時半に起きた。一時に渋谷で人と会い、三時に神田の出版社へ寄って、そのあと少し本屋をまわり、夕方からここで飲んでいる。寝不足だし疲れてもいる。これから銀座や新宿を飲みまわるにしては、コンディションがよくなかった。  「車を拾ってまっすぐ帰りますよ」  男は立ちあがり、ちょっと気障っぽく肩をすくめ両手を開いて見せた。  「僕はあなたの住所も電話番号もまだ知りません」  「教えましょうか」  「いや、結構です」  そう言って、男はレジの脇にあるピンク色の電話へ歩いて行った。受話器をとり、ダイアルをまわしている。私は向き直って手酌で飲みはじめた。  男はすぐ戻って来ると、椅子には坐らず、コートをとり、私の前の伝票をとりあげた。  「行きましょう」  奢るつもりらしかった。つられて私も席を立ち、ショルダー・バッグを肩にかけて店を出た。  外には冷たい風が吹いていた。男は歩道の端へ行って大きく手をあげた。黄色いタクシー来て停った。  「お宅まで何分ぐらいかかりますか」  私が乗り込む時、男は尋ねた。  「三、四十分もあれば……」  ドアが閉り、外で男は笑っていた。車が走りだし、私は行先を告げた。ふり返ると、男は背を向けて北風の吹く夜の中へ消えて行くところであった。 午後の迷走  その夜私が家へ帰ってからのことを、此処で説明しない訳には行かない。でないと、なぜ私があの男の言うことを信じて、二日後のこのこと町へ出て行ったかが判らなくなるからである。  私の家はL字型の私道の角で、Lの縦棒がおりた突き当たりになっている。四角い石の門柱の間に、両びらきで胸くらいの高さの木の扉があり、てっぺんの内側に簡単な掛け金があって、外からそれを外し、把手《ノブ》を廻してあけることになっている。  私はいつものようにそうして門の中へ入り、腕時計をちらりと見て、もう客の来る時間ではないのをたしかめてから、把手の下に差しっ放しにしてある鍵を廻して錠をしめた。そうするのが習慣であった。  扉から玄関のドアまでは二、三歩で、ドアの中へ入り、ドアにも錠をかけた。靴を脱いでコートを帽子掛けに掛け、ショルダー・バッグをぶらさげて廊下をまっすぐに行き、突き当たりの茶の間の襖をあけた。  「おかえり」  炬燵で老母が蜜柑をむきながらテレビを見ていた。  「誰か来なかったかい」  「誰も。誰か見えることになっていたの」  「いや」  私はそういうと家内のうしろを通って、老母の右隣に坐った。家内が熱い茶をいれながら言った。  「お電話がありました」  「誰から」  「中村さんからです」  原稿の催促にきまっていた。テレビはつまらないホーム・ドラマであった。いつもの通り生ぬるい平穏さが茶の間を支配しており、私はその中で自分の感覚が、ブラウン管の中で演じられているホーム・ドラマそっくりの、恐しく根深い日常性へ降下して行くのを感じていた。茶の間の自分の席とは、そういう効き目を持っているものらしい。  茶を飲んで、鞄の中から買って来た本を何冊かとりだして頁を繰り、納得して二階へあがったのは、家へ入ってから二十分ばかりあとのことである。あの男の前でタクシーに乗ってから二階へあがる迄に、だから小一時間たっていた計算になる。  二階へあがって電灯をつけ、本を棚にのせて石油ストーブをつけてから、私は床の間を背にした赤い座椅子に腰をおろそうとした。  私の仕事机は欅《けやき》の座卓で、その上には電気スタンドと大きな瀬戸の灰皿、パイプや鋏などを突っ込んだ革のペン立て、漆塗りの筆函、清水焼の湯呑み、太いモンブランが二本入ったケース、二匹対《つい》になった蛙の文鎮、透明なプラスチックの予定表立て、新潮国語辞典……そして中央手前は原稿用紙、その先に欅の、書いた原稿を一枚ずつ入れて行く平たい函とも盆ともつかぬ物がひとつ。ライターとセブンスター、パイプ莨の缶とカセット・ナイフが置いてある。  座卓のヘリに両手を突いて、まさに坐ろうとした私の目の下に原稿用紙があり、ふと気づくと、二十字二十行のその枡目の一番右端の上から六つ目……つまり五字分あかした六字目に、几帳面な字で、  ——JCIA——  と書いてあった。そして二行目の下部には、  ——杉原明夫——  と、最後の夫の字が一番下の枡目へ納まるように、きちんと書いてあるではないか。  無論私の筆跡ではない。しかし、インクは明らかに私が常用しているパーカーのブルー・ブラックであるし、ペン跡の太さからすると、ケースに入った二本のモンブランの内の、太いほうであることも間違いなさそうであった。  私は思わずその儘の姿勢で部屋の中を見廻した。左は東に面したガラス戸で、正面は障子。右は壁とクーラーをとりつけた小さな高窓である。背後は床の間と違い棚と三尺の押入れ、それに階段へおりる出入口の襖。八畳の部屋に人のかくれる場所はなさそうであった。  私は急に立ってふり向くと、一気に押入れの襖をあけた。来客用の座蒲団が積んであるだけで、内部の天井板も、ついこの間の風の日に、耳ざわりな風音をたてるので私が和紙で目貼りをしたままであった。  私は襖をしめ、部屋を横切って障子をあけ放った。部屋の横幅を次の三畳間の押入れの奥行きが三尺だけ食って、障子は一間半に四枚立ててある。  その三畳には仮眠用のベッドが置いてあり、やはり、人の気配はなかった。私は三畳の灯りもつけ、一間の押入れの襖をあけた。  襖の中は書庫がわりに使っていて、下段は原稿用紙や資料類が詰め込んであり、上段はぎっしり書物が並んでいる。私は念の為、その押入れの中の電灯にもスイッチを入れた。  勿論誰もかくれてはいなかった。  突き当たりは障子と同じ幅のガラス戸で、その外に雨戸が引いてあった。ガラス戸の錠は二カ所ともちゃんと掛かっており、東の窓も同じように錠がしまっている。  私は八畳へ戻り、二間の長さで引かれたカーテンをあけ、ガラス戸をたしかめたが、そこもちゃんと内側から錠がかかっていた。  階段の下は茶の間で、そこにはテレビ番組ふたつ分、つまり一時間半ほど前から、老母と家内が腰を据えていたことが判っていた。  とすれば、私の仕事場はその間密室であったわけだ。  なぜそんなに私が気味悪がったかと言うと、問題は原稿用紙の二行の文字の位置にあった。  一行目五字をあけてタイトル。二行目最下部に私の名前。……いつも小説を書きはじめる時私がやる通りに書いてあったからである。  しかし、それは小学生の作文でも同じように使われるだろう。偶然と言えば偶然に過ぎぬが、字の太さもインクの色も、そっくり同じということが、私にとっては効果絶大であった。  私は東側のガラス戸の錠をあけ、外をのぞいた。そこには三畳の窓まで手すりがあり、人が立っていられるはずであったからだ。  だがやはり人影はなく、冷たい北風が私の頬を固くさせるだけであった。ガラス戸をしめ、カーテンを元どおり引いたあとも、私は二階を無人にする気が起こらず、大声で家内を呼んだ。  「留守中誰も来なかったと言ったな」  「昼間呉服屋の安田さんが来ました」  「昼間じゃない。夜になってからだ」  「いいえ、誰も」  「何か変わったことはなかったか」  「何か変なんですか」  地震が来ると膝が震え、サイレンの音が近づくと子供をかかえて顔色を変える女である。すでに怯えた瞳をしていた。  「いや、別に。何でもない」  家内は納得しかねる風情で下へおり、老母に告げていた。  「何か変らしいですよ」  「やだねえ。泥棒かい」  老母の声が聞こえ、立ちあがったらしかった。  「何かあったのかい」  二階へキンキンする声を放って来た。  「何でもない」  私は怒鳴った。面倒な事になったと思った。しかし老母と家内は勝手に警戒行動に移り、二階の真下の老母の六畳間や、その隣の子供部屋、玄関のほうの台所、風呂場から、玄関わきの洋間、四畳半、便所まで戸をあけてまわり、はては懐中電灯を持って庭まで出て歩いた。  「あ、ありましたよ、こんな所に」  家内が庭で呑気な声をあげた。子供が何かを持ち出して外に置き放したらしい。  「おお寒い。莫迦見ちゃったねえ」  女二人は縁側から戻って来て戸をしめ、  「相変わらず大げさなんだから」  と二階へ聞こえよがしに言って炬燵へ戻ったらしかった。  「てめえらのが大げさなくせに」  私はそうつぶやき、やっと座椅子に腰をおちつけた。実は女達が家中を見て廻っている間、私はいかにも責任ある家長らしく、何か異変があったらとび出そうと、階段の所で立った儘聞き耳をたてていたのである。  ——JCIA。杉原明夫——  いったい誰がこんな芸当をしたのであろう。あの男だろうか。いや、それは不可能だ。もしあの男なら、私の乗ったタクシーと同じスピードで来なければならない。たとえそれが出来たとしても、それなら家へ入るとき私の影のように、私と一緒に入らねばならなかったろう。  彼ではない。それは確実に思えた。  あの店の中で、非合法なことをして見せると言ってから、彼は電話をかけていた。きっとその時、誰かに命令したのだろう。  「僕はまだあなたの住所も電話番号も知らないのです」  あの男はその時そう言っていた。タクシーに乗ってから家へ着いて門の錠を掛ける迄に四十分程かかっていたから、彼が電話をした時から計算すると、精々四十五分。その四十五分の間に私の住所が判り、誰かがとび出して私の家へ向かい、どんな方法でか知らないが二階へしのび込んで指示通り原稿用紙に字を書き、脱出したことになる。  「これは余程の組織だぜ……」  私は原稿用紙の字に向かってそう言った。不安は去り、相手に対する好感が湧きあがった。文字は気持ちの良い楷書だし、書かれた位置も気が利いていた。  「畜生、好いセンスをしてやがる」  私はあの男に電話でもしてやりたくなった。JCIAがあることを認めると言ってやりたかった。しかもそれは、ちっぽけなオフィスを持つみみっちいものではなく、腕達者をごまんとかかえた大組織らしいではないか。  私はふとKCIAが起こした事件を思い泛べた。よその国でさえあれだけの芸当をやってのける。もし同じような組織が日本にもあり、自分たちの土地で何かをしようとするなら、もっともっと鮮かにやってのけるに違いない。  「あさっての七時か」  私はまたつぶやき、パイプに莨をつめはじめた。  私の好きな所で待てと言った。そう言われた時、私はその前に電話で打ち合わせでもするのだろうと軽く考えていたが、この分ではどうやらそうではないようであった。  あの男はもう一度手品を見せてくれる気らしい。私は黙って、勝手に好きな場所へ行けばいいのだ。尾行などお手のものだろう。黙って勝手な所で坐っていると、定刻にぬっと姿を現わすという寸法だ。  私はニヤリとした。あの男は私を相手にひと遊びする気でいるらしい。これは一種の挑戦なのだ。撒《ま》いて見ろ。俺を七時にお前の待つ所へ行けなくして見ろ。あの男は私にそう言っているようであった。  これを信じなければ私のセンスを疑われる。尾行を撒く知恵を絞らなければ洒落にならない。私はそう思い、考えはじめた。あさっての晩がたのしみになった。  そういうわけで、私はJCIAの存在を信じたのであった。そして私は、JCIAの組織の規模、力量を秤《はか》るつもりで、二日後の昼ごろから、都内を迷走した。鼻をあかしてやりたい気持ちが半分と、それでもぬっと目の前へ現われるのを見て驚きたい気分が半分とで、私はそのゲームに熱中した。  その日の午後の迷走経路を言って見てもはじまるまい。結果は、赤坂の懐石料理店の一室へ、あの男が見事に定刻きっかりに現われたのである。  「手古摺りましたよ」  男は女中に案内されて部屋へ入るなり、そう言って私に敬意を表してくれた。  「でも君は来た」  私も相手を褒めた。  「無理は言わない。ふたつだけ種明しをして欲しいんだ」  「何です」  「まず第一は、あの二階へどうやって入ったんだ」  「僕じゃありませんよ」  「それは見当がついていた。君の部下にせよ誰にせよ、戸という戸はお粗末ながらみな錠がおりていて密室状態だったじゃないか」  すると男は首を左右に振った。  「高窓があいていたそうです」  「だって君、あそこの半分にはクーラーをはめこんで、引き戸を二枚片側へ寄せてあるから、手首まで入るかどうかと言った隙間しかないぜ」  「二枚とも外したそうです。今後ご心配でしたら、鼠錠でも使うんですな」  「なあんだ。戸を外してまたはめただけか」  「で、ふたつ目は……」  「名前だ。杉原明夫という名をなぜあそこに書かせたんだ」  「ご記憶でしたか、その名前……」  男はじっと私を見つめた。妙に訴えるようなまなざしであった。  前の日、一日がかりで私はその名を思い出し、ざっと調べておいたのである。  杉原明夫は以前科学雑誌やSF専門誌にちょっと署名入りで寄稿した人物であった。J大の物理学研究室に籍のある若い学者で、重力理論を専門にしていたようである。  実は私も、或る会合で一度だけ杉原明夫に会った事があるのだ。それはたしかSF関係の研究会のような集まりで、杉原は地質学や孝古学の若手と一緒に、その席へ講師のような形で招かれていた。  グラヴィトロン粒子論。  杉原明夫はそれについて話をしてくれたのである。私はすっかり忘れていたが、SF専門誌の編集部に問い合わせて、彼が寄稿した号のナンバーを知り、昔の雑誌を引っぱり出して記事を読んでから、その集まりで会った杉原明夫の顔を思い出したのであった。  学者にしてはくだけた男で、空手をやるとか言うのが意外だった記憶がある。  私がそう言うと、男は嬉しそうに笑い、  「実は今夜あなたに聞かせたいというのは、杉原明夫の話なのですよ」  と言った。  「だって君は、君自身のことを話したがっていたじゃないか」  私はその男がすっかり気に入って、杉原などのことより、彼自身について知りたいと思っていたのだ。  するとその男は、私の目の前へ両手を突き出して見せた。顔に似合わずごつい手であった。  「ほう。君も空手をやるのか。いや、JCIA局員なら、そのくらい当たり前だろうな」  「空手のほかにも特技を持っています」  「銃の名手かい。通称メカニックとかなんとか……」  「今では銃も扱えますが、僕の特技は物理学です。ことにグラヴィトロン粒子論については第一人者でしょう」  そう言って妙な笑い方をした。自嘲するようであった。  酒が来て、料理が来た。この懐石料理店は予約がたてまえであるが、私はちょっと店主と関係があり、我儘が通るのであった。長話には持って来いだし、予約制の店へ予約なしでとびこんだのが、私の迷走プランの最後のミソだったのである。  盃のやりとりがひと区切りついた所で私は言った。  「すると君は杉原明夫と何か関係がある人なんだね」  男はまだ私にとって名無しの権兵衛であった。  「ええ」  男は頷き、顔を俯けて手酌をしながら、  「僕が杉原なんですよ」  と言った。  「まさか……」  「今夜はそのまさかはないことにしましょう」  男はきつい顔で私を睨んだ。  「だって、僕は一度杉原明夫に逢っているんだぜ。君じゃない。うろ憶えだが、君じゃないことはたしかだ」  「まあいいや……」  男はつぶやくように言った。  「あなたの知っている杉原が、なぜこんな顔でここにいるのか、それを説明することになるんですからね」  「本当か、おい」  深刻な様子に、私は自信をなくした。  「とにかく、仮りに私は杉原だとして置いてください。いいですね」  男は念を押した。私は黙ってその男……杉原明夫の顔を見返し、頷いた。 新科学研究財団  私は日本SF作家クラブに籍を持っている。つまりSF作家の一人だ。次元移動だの時間旅行などという事柄には、とうの昔に慣れていて、地下鉄や国電と同じように、その利用法を苦もなく頭に泛べることができる。  だが、かつて杉原明夫がSF専門誌や科学雑誌などで盛んに紹介した、グラヴィトロン粒子論となると、人に言う時ちょっと照れ臭いような顔にならざるを得ない。  グラヴィトロン粒子論というのは、重力は未知のグラヴィトロン粒子なるものの振動に依るとするもので、断っておくが、この新理論に関する限り、決して与太ではなく、ソ連のれっきとした科学者が、正規の場で提唱していることなのである。  重力現象は、その新理論を用いると、すべて解明できるというのであるが、私の知っているのはその辺りまでで、実際にその説を唱えたソ連の科学者の論文に触れたわけもないし、従って理論の詳細を理解している筈もない。  ただ、SFのほうには、グラヴィウムとか言う反重力物質の存在が、かなり以前から設定されていて、それを用いた宇宙船は、宇宙の各天体の重力を利用して、苦もなく宇宙空間を航行できることになっている。  そう言った架空の反重力物質は、スペース・オペラという宇宙活劇ものには至って重宝な存在で、私がグラヴィトロン粒子論について人に語るとき、なんとなく照れ臭くなるのは、あの気宇壮大なスペース・オペラの世界を思い出すからである。……何しろ、敵は秒速約五〇〇光年のスピード、こちらは一〇〇〇光年のスピードで宇宙戦がはじまり、両者がすれ違う時、双方の宇宙船の司令塔にいる相手の顔が見えたというような、小事にこだわらぬ闊達な小説世界なのである。  勿論私はその世界の愉しみ方をよく知っている。しかし、世の常識人に……想像力をみずから減衰させることで精神の安定と、周囲との調和を得ている種類の穏かな人々に言う時は、どうしても相手の反応に先まわりし、素直な表情では語りにくいのである。  とにかく、杉原明夫という幾分茶目っ気のある若い科学者が、ソ連のグラヴィトロン粒子論をいち早くSF界に紹介したのは、そういう背景があったからである。  荒唐無稽と思われていたSFの世界の事柄が、またひとつ事実となりそうだぞ……杉原明夫の紹介文は、SFファンの間でそういう意味を有していた。だから歓迎され、SFの研究会のような会合に、講師として招かれたりもしたのである。  荒唐無稽の虚構と異り、西側学界の一部にも波紋を呼んだソ連科学者の新説であるから、杉原明夫はSF専門誌ばかりではなく、科学誌にも紹介文をのせ、やがて正規の学界機関誌にも筆を執ることになった。その点、杉原は物理学の重力部門の専門家であり、紹介者としての資格に不足はなかった。  杉原が学界の機関誌に、ソ連のグラヴィトロン粒子論を紹介したことを、私は知らなかったが、聞いて見ると、丁度その頃彼はようやく親密になったSF専門誌の編集者らにすすめられて、彼自身の見解を加えた、一層大胆な仮説をSF雑誌に載せることになったのである。  SF界というのは、SFに理解のある科学者を発見すると、百万の味方を得たように狂喜する癖がある。彼は気楽で居心地のいい世界を見つけて、グラヴィトロン粒子論に彼自身の想像を加味し、大いに愉しんだもののようであった。  それは私もよく憶えている。  新重力理論は、SF世界で既に架空の物質として盛んに活用されている反重力物質を、現実そのものとする途をひらいたばかりでなく、物質の分解や移動にも役立てることができるのだ、というのである。  物質は分子や原子、電子などで構成されており、その極微の世界にも重力現象が存在している。物質が或る構成を保っているのは、それら極微宇宙の重力関係に依るのである。従ってグラヴィトロン粒子論が重力現象を解明すれば、各原子間の結びつきを解き放つことも出来れば、新たに構成し直すことも可能なわけである。その技術では、石を金に変えることも可能になり、また、電波のようにして物質を任意の地点へ送りつけることも不可能ではなくなる。連続したグラヴィトロン粒子論の波が、一定の方向へ送られ、受けとめられたとき、物質瞬送が実現するわけである。  杉原明夫は、グラヴィトロン粒子論がもたらすこれらの輝かしい新技術を予言すると同時に、それが誤用された場合についても警告していた。  たとえば、その物質瞬送装置を用いれば、大規模な兵力を任意の地点へ突然送り込むことが可能である。単なる輸送技術として用いられれば人類の宝となるべき知恵が、そこでは悪魔の道具と化してしまう。  「僕はソ連で発表されたあのグラヴィトロン粒子論を信じていました。大学の研究室でかすかに芽生えていた僕の頭の中の何かに、一遍に光が当てられ、具体的な景色となって隅々まで見通せたように思ったのです。僕は熱中しました。ソ連の新理論を基にして、次次にいろいろな可能性が発見できたのです」  杉原はそう言い、ふと苦そうに盃をほして目をしばたいた。  「SF界を軽視するつもりはありませんよ。しかし、あの新理論を最初にSF雑誌に紹介しなければならなかったということは……」  実に情無かったと言った。  新理論は何も杉原が最初に知ったものでもなければ、杉原が知ってすぐ世間に紹介したものでもなかった。  日本の学界はそれを黙殺したのだ。いや、笑殺したと言っても良い。アカデミックな学者たちは、誰一人とり合わなかった。  「例に依って例の如しか……」  私もそれを聞いて腹立たしかった。学界とはいつもそういう反応をする。お山の大将われ一人で、あとから来た者突き落とせということである。  「残念でしたが、僕にはどうしようもありませんでした。三流学者ですからね。うっかりその新説にとびつけば、一生学界の塀の外で立ちんぼすることになりかねないんですから」  「それでSF雑誌というわけか」  「ええ。一応黙殺ですか笑殺ですか、そういうほとぼりがさめかけたので、こっちは惜しくて仕様がないわけです。まあSF関係にならと思って、せめてもの供養といったつもりで寄稿して見たんです。……それまで僕はSFなんてまるでつき合いがありませんでしたしね。SFファンがあんなに喜んでくれるなんて、思ってもいませんでした」  「そりゃ、私らは嬉しがるさ。スミスやバロウズなんて連中が、昔から使って来たいわばSFの必需品なんだからね。それが本物になるというのなら、ザマ見ろと胸を張りたい気持ちさ」  「僕も嬉しかったんです。学界の態度には虫が納まらなかったものですからね」  「随分書きまくったじゃないか。だんだん思い出して来たよ」  「SFの読者って、若い人が多いのでしょう。僕は次の時代へ望みをかけたつもりでいたんです。次の時代には、たとえ学界といえども今度みたいな反応はして欲しくないってね。それでどんどん書いたんです。正直いうと、自分でも首を傾げるような部分もありました。でも、SF雑誌ですからね。しまいには、ソ連の新理論を紹介してるんだか、自分の新説を発表しているんだか、いや、もっと言えば、重力ネタのフィクションを書いているんだかよく判らないような状態だったんですよ」  杉原は首をすくめて見せた。  「私らには楽しかったな。専門の科学者がSFにどっぷりつかって見せてくれるんだから、頼もしいっちゃなかった。それに、君自身も楽しんでたよな。私らにはそれがよく伝わってくるから余計嬉しくなったのさ」  「充分楽しみましたよ。で、そうこうする内に、科学雑誌からも依頼が来るようになったんです。最初は少年科学という児童向けの雑誌でした。それがうけたらしくて、次の月の号には科学現代です。科学現代という雑誌は、少年科学と同じ出版社でしてね」  私は頷いた。  「あそこはよく知ってる。科学現代は一応権威ある科学誌ということになっている」  「科学現代に出たあとが凄かったんです。どの雑誌からも来るし、大新聞の学芸欄や経済誌、国防関係の団体が出している機関誌や防衛産業の業界誌からまで注文が来て、僕は科学者だか文筆業者だか判らないことになってしまったんです。その間に、SF雑誌で書いたフィクションに近い部分に尾鰭《おひれ》がついて、私なりにひとつの重力理論を展開してしまっていたんです」  「マスコミというのはそういうもんさ。来る時は一度にわっと来るんだ」  すると杉原は、心底恐ろしそうな表情をして見せた。  「ところが、とうとう学界の機関誌からまでお声がかかったんです。僕は慎重に書きました。ソ連の新理論をハミ出さぬよう注意して、どこから文句を言われても大丈夫なのを書いたんです。するとどうです、突っ返されちゃったんです」  「ほう」  私は意外で、目を剥いて杉原を見つめた。いや、正確に言えば、杉原だと言う男をだ。  「これじゃ駄目だって言うんです。君の新理論を書け……そう言うんです。僕はビビリましたよ。下手をすれば塀の外で立ちん坊ですからね。で、正直にそう言うと、先方は大丈夫だと太鼓判を押すんです。お前が最近あちこちに書いている新理論は、立川清幸博士が支持しておられると言うんですよ」  「立川博士が……」  私は今更ながら驚いた。  「そうなんです。ノーベル賞の立川博士と言えば、僕らには神様みたいな人です。それが僕の……もとはと言えば遊び半分みたいな重力理論を支持してくれるなんて。瓢箪から駒というか狐に化かされたというか」  「そうだろうな。で、機関誌のほうはどうなったんだ」  「書きましたよ。何しろ立川清幸博士があいつに書かせろと言ったそうなんですからね。肚を据えてありったけ書いてやりました。恥も外聞もない気分でしたね」  杉原は気弱な笑顔になっていた。品数の多い懐石料理をかたづけている間に、無名の科学者が学界の泰斗《たいと》に認められ、スターダムにのしあがりかけていた。だが、その過ぎた栄光の日々を語る杉原の、なんと侘しげな表情であったことか。それは、去った女への未練を語る男の表情にどこか似通っていた。  「機関誌は年四回の刊行で、僕のものが載った号が出る前に、学界の集まりがありました。僕はそこへ招かれ、錚々たる大家たちの前で、立川博士に恥ずかしくなるほど持ちあげられてしまったのです」  天にも昇る心地だったと言う。立川博士は杉原がソ連のグラヴィトロン粒子論に半歩遅れをとった不運を惜しみ、だが現在の杉原の研究は、ソ連の新理論からの展開ではなく、充分に独自性のあるものであり、今後についてはグラヴィトロン粒子論より二歩も三歩も先んじるであろうと予言した。  その時から、杉原明夫は新重力理論の第一人者ということになった。大学は彼の研究室を独立させる計画を進め、立川博士の他にも、彼の名を口にする大家が何人も現われた。  そのあと、アメリカの著名な軍事研究誌に新重力理論の可能性について触れた記事が現われたが、それにはソ連のグラヴィトロン粒子論としてより、むしろアキオ・スギハラの理論として大きく扱われていた。  「だが問題は、理論より実際です。僕は是が非でも、そのグラヴィトロン粒子の実在を証明しなければなりませんでした。金と時間さえかければ必ず証明できる筈でした。原子や電子、中性子などが発見できたと同じように、グラヴィトロン粒子も補捉できなければいけなかったのです。ソ連のどこかに、巨大な装置が建設され、グラヴィトロン粒子の追求をしはじめるのではないかと思うと、居ても立ってもいられない思いだったのです」  だが、知ってのとおり、日本という国は、そういう基礎研究においそれと金を出すような国ではなかった。必要な金も組織も動かず、大学研究室新設と言っても、安あがりに済む理論面でのことであって、理論上は存在する筈のグラヴィトロン粒子を実際に捕捉するとなると、どうにも望み薄であった。  そこに現われたのが、あの新科学研究財団なのであった。  「何だ、君は新科学研究財団へ行ったのか」  私は呆れて言ったが、すぐにさもあろうと納得した。  「悪名高き新科学研究財団か」  JCIAとはその辺りでつながったのだと思い、私は杉原を見つめた。新科学研究財団は、防衛産業、つまり軍需関係を背景にした戦略、戦術及び兵器開発の専門研究機関としての全貌が明らかにされかけて、今度の臨時国会で与野党の争点になっていた。  「アメリカのランド研究所と同じ物ですよ」  杉原は野党が必死に追及している問題を、こともなげに言い切って見せた。  「いいのかい、JCIA局員がそんなことをぬけぬけと口にして」  杉原はやっと気弱な表情を棄てて明るく笑った。  「相手があなただから」  「そうだろうが……」  「野党は政府の弱点を衝いたつもりで頑張ってようですが、もう手遅れです」  「どう……」  「新科学研究財団の正体を秘匿して置く段階は、とっくに過ぎたということですよ」  「じゃ政府は居直るっていうのか」  「ええ。防衛技術の研究ですからね。実際の軍拡とは一応切り離して扱えるでしょう。それに、新兵器開発にしたって、それで旧財閥系の重工業に恩恵があったという証明はしにくいはずです。第一、自国の防衛用新兵器を、たとえ野党であろうと、明るみに出して良い筈はないというのが一般の常識ですよ。設計図をふりかざし、このような新兵器を実用化したではないかと喚きたてるんですか。そんなことをしたら、お前はどこの国の味方なんだと逆襲され、民族主義を煽りたてる結果になりますよ」  「なる程。政府は逆にそれを待っているのだな」  「新科学研究財団のような組織の内容が、あの口ばかり達者な野党に、そう簡単にほじくれると思いますか。野党は体《てい》のいい政府の宣伝屋です。少なくともこの件に関してはね」  「とうとう完全な右まわりの世の中になるか」  私はつぶやいた。そして、これがこの国の本性だったのではないかと思った。基礎研究に金を出し惜しむ社会で、一カ所だけふんだんに出してくれる所がある。それは軍需関係だ。死の商人たちだ。国が優先し、個人はその末につく。そうしたメカニズムを支えるものは、個人が国の末につくことを、ともすれば美徳と謳いたがる国民性だ。  「君は新科学研究財団でグラヴィトロン粒子の研究をはじめたのだね」  「さあ」  杉原は謎めいた微笑を泛べ、首を傾げた。  「あれが研究だったのでしょうか」  杉原は料理のあとの茶を飲み、煙草に火をつけた。私はテーブルの上の器をさげに来た女中に、もう暫らく席を借りると断わった。  「とにかく財団から誘いがかかり、僕は大学の籍をその儘にするという条件で承諾しました。今考えるととても恥ずかしいのですが、すっかりスター気どりでした。世の中は俺を必要としている。とうとう俺に番が廻って来たんだ……そんな風に思って、財団の連中が引きまわす赤坂の料亭を我物顔で飲み歩きました。産業界の者だという連中とも、銀座の高級クラブで飲んだりして」  杉原は本気で悔んでいる様子であった。私はその間、彼の空手で鍛えたごつい手を眺めていた。 悪夢のはじまり  「その頃、僕には恋人がいました。名前は野口由美子と言い、東日本化工の秘書課に勤めていました」  「それならきっと相当な美人だったんだろうな」  私は丸の内にある東日本化工本社の瀟洒なビルを思い泛べてそう言った。東日本化工の社長は財界のベスト・ドレッサーとして有名だし、料理に関する随筆集も仲々気が効いていて面白かった。その会社の秘書課ならまず美人と考えて間違いなかった。  「ええ、美人でした」  杉原は照れもせずはっきりと言った。ということは、すでに縁も未練も切れ尽し、遠い人になっているに違いないと私は推量した。  「新科学研究財団では、君にどのくらいの報酬を約束したんだい」  そう尋ねると、杉原は顎を前へ突き出して見せ、思い出すのもいまいましいと言うような表情をした。  「当時の僕にとっては夢のような高給でしたよ。大学の研究室にいたのでは薄給もいいところですからね。だから僕は当然結婚を考えました。財団へ行けば経済的にも不安はないし、前途洋々だと思っていましたから……由美子も秘書の仕事には未練がないようでした。で、僕は財団の連中に、何かの話のついでにそう言ったのです。これを機会に結婚しようと思っていると……。あの時の妙な雰囲気は今でも憶えています。相手は三人でしたが、急に口をつぐんでしまって、お互いに意味ありげな目配せをしているんです」  杉原は短くなった莨《たばこ》を灰皿に押しつけた。女中が来てとりかえて行ったばかりの灰皿の底に少し水が溜まっていて、ジュッと音をたてた。  「それは目出度い。……不思議な間を置いてから、一人がそう言いました。そして、仲人は決まっているのかと尋ねるんです。まだそこ迄は考えていないと言うと、三人は勝手に相談をはじめ、立川清幸博士に頼もうではないかと言う事になりました。そうできればお前の将来の為にも良いと言うんです。……それはそうです。ノーベル賞受賞者の立川博士が媒酌人になってくれれば、僕の立場はぐんと楽になります。それで、頼んで見ることにしました。財団の理事の一人で、西島という男が同行してくれることになったのです。西島は、何というか、こう、もやもやっとしてとらえどころのない人で、それだけに世間知らずの当時の僕には、現事の中でも大物に感じられました。西島と会って話していると、世の中には僕などの知らない面がいろいろあるのだということを、ひしひしと感じさせられました。僕などは彼がその気になれば、ほんのひとひねりで潰されてしまうと言った感じでしてね。さいわいそれが味方になってくれているんです。心丈夫なことは心丈夫でした」  そう言う杉原の声は、それまでの話の時よりずっと低くなっていた。その声のひそめ方が私の勘を刺激し、この男は西島という人物と現在も密接につながっているらしいと思った。  「それで、立川博士に会ったわけか」  「ええ」  「どうだった」  「反対されました。お前は今が一番大切な時期だ。新婚の甘い夢に酔うひまがあったら仕事をするべきだ。そう言われてしまいました」  杉原はニヤリとした。自嘲するようでもあり、何かに反抗するようでもあった。  「今考えれば、西島たちが立川博士の名を持ちだした時、すでに博士が反対することは決まっていたんですよ。西島たちは僕の結婚問題に介入する理由がないもんだから、立川博士を引っぱり出して、意見する形で僕の結婚を阻止したんです。ところが僕はそんなことには少しも気づかず、なる程栄光というものは無料ではないのだ、それ相応の支払いを強いられるものなのだなと……呑気なもんでした。いや、思いあがっていい気なもんでしたよ。立川博士さえそう言っているんだから、当然由美子も笑って待ってくれるものだと信じて、詫びるどころか、意気揚々と言った感じで高圧的に説き伏せました。俺のことを思うならもう少し時機を待ってくれと……」  「その美人秘書さんはどう言った」  「待つと……そう言ってくれました。別に欺すつもりではありませんし、他に女がいるわけでもないんですからね。ただ、なるべく早く結婚するように努力しようと、そう言っただけでした」  「君に惚れてたんだよ、それは」  「愛し合っていました。平凡な恋愛かも知れませんが、僕の人生にたった一度キラリと光った真実の愛でした。気障《きざ》な言い方で照れますがね」  と言いながら、案外杉原は照れていず、堂堂と言ってのけた。多分その恋愛ついては、今でも純粋だったと誇りにしているのだろう。そんな顔をしていた。  「でも、なぜ財団はそんな風に君の結婚を嫌ったんだい。あの頃でも、君と同年輩で結婚している男は珍しくなかったし、子供を持ってたっておかしくない年齢じゃないか。立川博士にしても、この際ついでに身を堅めて、後顧の憂いなく仕事に打ち込めと、そう言うのが本当だったような気がするがなあ」  「そうでしょう。人生論なんて、口先ひとつでどうにでもなるもんなんですよ。でも判ってください。相手が立川清幸ですからね。絶対意見です。あの人にそう言われたら、逆らうすべもありません。とんだ真砂町の先生ですよ」  杉原は笑った。  「財団の研究所というのをはじめて訪ねたのは、二月のはじめでした。埼玉の自衛隊駐屯地のすぐとなりで、空っ風に土埃りが舞いあがって、ひどく寒い日でした」  金の掛かった立派な施設だったという。落成したばかりのその純白の建物に、となりの特車部隊が駐屯している自衛隊の敷地から土埃りが吹きつけて来て、ロビーや廊下にはうっすらと砂が積っていた。  「研究が本格的になったら、此の部屋を自宅がわりに使ってもいいですよ。泊まり込みになることも多いでしょうからね」  案内した理事の西島は、一階の南に面した贅沢な部屋のドアをあけてそう言った。一流ホテルのスイート・ルームほどの広さで、ベッドこそシングルだが、浴室も二つの部屋も居心地よさそうに整えられ、小さいながら簡単な夜食が作れるキッチンまでついていた。  肝心の研究施設はその本館に隣接した平たい感じの建物で、高さ二階半くらいの、体育館のような所が主研究室にあてられていた。内部はまだガラン洞で、機材の搬入はこれからであった。  「先生においでいただけたのですから、その機械についても点検していただきます」  西島たちは杉原を先生と呼んだ。みな言葉つきは丁寧で、若い杉原には擽《くすぐ》ったい程であったという。  「どちらにしても、相当大型の実験装置を作らねばならぬでしょうな」  「それが問題です」  杉原は笑って答えた。西島は簡単に言うが、グラヴィトロン粒子検出のための実験装置など、そうおいそれと設計できるものではなかった。それを作るために、これから研究をはじめようと言うのである。  「金に糸目はつけません」  西島は特に気張る風もなく言った。  「とにかく、おかげで容れ物だけは獲得できました。あとは人材ですね」  気負っているのは杉原のほうであった。この新設の研究所のリーダーになったのだから、当然所員の人選にも当たらねばならないと思っていたのだ。だが西島は、ベッドやソファのクッションの調子を、まるでホテルの支配人のような態度でたしかめてまわりながら、例のとらえどころのない喋り方で、  「機密保持ということがありますから、身許調査は私のほうでやります。一応顔ぶれが揃ったらリストを見ていただいて……」  と言った。  杉原は何やら釈然としなかった。各大学や民間企業を駆けまわり、この研究に参加してくれそうな連中を探さねばならぬと思っていたのである。そうでもしなければ、重力理論に理解のある人間など、おいそれと集まるわけがなかったし、仲間うちを誘いあるく作業が、杉原自身の地位を仲間に対して確認させることにもなるのであった。その晴れがましい役を、西島は封じているらしかった。  「そちらで集められるんですか」  杉原は抗議するように言った。  「人集めはおまかせください。何も先生をわずらわさずとも、財団にはそういうことの専門家がいるのです」  そういうものか、と思った。何しろ今迄杉原がいた世界とは、万事スケールが違っていた。どちらにせよ、集められた連中は杉原の顔見知りに違いなかった。物理学の、それも重力関係となれば、そう数が多いわけはない。杉原なら今ここでたちどころに、誘うべき名前を全部数えあげられる程なのであった。  その日は研究所を見ただけで、杉原は解放された。夕方彼は銀座で野口由美子と落ち合い、見て来た施設の贅沢さなどを語り、食事をしてから成城にある由美子の自宅まで、タクシーで送り届けた。  「あなたがそんな立派な研究所のリーダーになるなんて、何だか夢みたいだわ」  車の中で由美子はそう言って笑った。東日本化工の専務のフランス土産だとかいう香水の匂いが、そのタクシーの中にたちこめていたという。  「夢みたいだわ……」  杉原は瞑目して言った。  「あの時由美子はそう言いました。そして、その言葉は正しかったのです。まさに夢でした。きっと由美子は僕の能力を正しく評価していたのでしょう。だから意外だったのです。夢のようだと思ったのです」  杉原は回想の中で言っているようであった。言ったあと目をあけ、かすかに顔を歪めた。  「その晩僕の家が焼けちゃったんです。考えて見ると、ひどく象徴的ですね。由美子に夢だと言われた晩、その夢がはじまったんです。もっとも由美子の言った意味とはまるで違ってました。はじまったのは悪夢だったんですよ」  杉原は椎名町にある二間のアパートに住んでいた。その夜、それが全焼してしまったのだ。しかも放火らしかったそうである。 許されざるドア  杉原は椎名町のアパートの部屋で、幸福な睡りに就こうとしていた。昼間の北風が夜になっても吹きやまず、窓の外で冬の音が続いていたが、野口由美子を抱くようにして成城へ送った温かい記憶に、満ち足りていたという。  「うとうととしかけていたんですが、直感というのは恐ろしいもんですね。急に誰かが訪ねて来たような気分になって、はっきり目をさましました。暫く蒲団の中で首を持ちあげ、入口の気配をたしかめていると、何か細いものをはじくような音がしているんです。はてな、今頃誰だろうと、パジャマ姿で起きだして、入口の所へ行くと、ドアの下のすき間から光が見えています。しかも赤くて生き物のようにたえず動いているじゃありませんか。まさか火事だとは思いませんでしたが、ハッとしてノブについている鍵をまわし、ドアをあけました。あけたとたん火の匂いがして、鼻の先を炎がかすめました」  杉原はその火事の時の思い出を、なぜか楽しそうに語っていた。  彼の部屋は二十世帯ばかり入った木造アパートの二階で、火は彼の部屋のすぐ前の廊下の天井からのぞいており、咄嗟にとびだした時、目のはしに階段を音もなく駆けおりて行く男の姿が映ったという。  天井裏から噴きだした炎は、思いがけぬ速さで燃えひろがり、杉原は大声で火事だと喚きながら、二階の連中を起こしてまわった。  おかげで死者も怪我人も出ずにすんだが、消防車が集まって来てから気づくと、パジャマ一枚で履物もなく、はだしであった。  火事とは妙なものである。火を発して騒ぎたてる最初の間、その火はたしかに住人たちのものである。しかし燃えひろがって手がつけられず、逃げだして遠まきにしていると、やがてそれは集まって来た弥次馬と消防夫たちの所有物となり、火が納まったあとには、住人たちの所有物は何もなくなっている。  杉原は僅かの間に、着ているパジャマ一枚だけの無一物になってしまった。  「どこかへ電話するにも、十円玉一枚ないんですからね。泥だらけのはだしで、寒さはひどいし、どうしようもなくなってしまいました」  「で、どうしたの」  私は火事の話に身を入れて、目の前の杉原の服をじろじろ眺めながら言った。  「翌朝財団へ電話して助けてもらいました。すぐに迎えの車がとんで来て、あの新しい研究所の部屋に落ち着いたんです。服も靴もすぐ買い揃え、以前より風采があがりましたよ」  だが、出火の時、逃げて行く正体不明の男を見たと、警察や消防にいくら言っても、放火の線にはならず、原因は漏電ということで落着してしまった。  その儘椎名町に住めばもっと頑張ったのだろうが、何しろ住む所がなくなってしまい、遠い研究所の部屋へ移ってしまったのだから、自然しつこく言い張る機会もうすれてしまった。  「ところが、すぐそれどころではない騒ぎが始まったのです。それは所員たちが集められる作業と平行して起こりました」  研究所の贅沢な部屋へ、そんなわけでどうしようもなく転がり込み、行き場のないまま住みつくと、まるでそれを待っていたかのように、財団側が駆り集めた研究所員たちが出入りをはじめた。  予想に反して、杉原の顔見知りは一人もいなかった。リーダーである筈の杉原に関係なく、勝手にどんどん部署につき、トラックがさかんに機材を運び込む。しかもその機材たるや、やたらにおどろおどろしいだけで、杉原にはまるで見当のつかない代物であった。  所員のリストも与えられず、機材の内容の説明もない儘、杉原は贅沢な二間続きの部屋で、客か居候のように暮らした。  それでも多少は相談を受けた。西島は杉原に、所内の機密保持について、あれこれ相談を持ちかけるのであった。  「なぜそんなに機密保持に気を使うのです」  たまりかねて杉原は尋ねた。すると西島は意外そうに驚いて見せ、  「この研究は武器兵員の瞬間移送に関係して来るのではないですか。その軍事的意味を考えてください。これは大変なことなのです。現に……」  と言って声をひそめ、  「そうだ。先生にも具体的に状況を把握して置いてもらわねばなりませんな」  深刻な表情で西島は杉原を見つめた。  「政府としても、これ程の国際的問題になるとは思っていなかったようです。これからすぐ、関係者を呼んで説明させましょう」  西島はその場でどこかへ電話をした。  「そしてやって来たのが、JCIAだったのです」  杉原の手品の種明しをするような表情であった。  四人のきちんとした黒服の男が物々しく研究所へ現われ、杉原の部屋へ入ると窓のブラインドをおろし、二人が廊下へ出てドアを見張ったという。  「まるでスパイ映画そっくりですよ。部屋の灯りを消し、まっ暗にしておいて八ミリ・フィルムを映しはじめたんですからね」  映画は羽田空港や都内のホテルなどの実写であった。映し出されるのは外人ばかりで、望遠レンズや隠しカメラを使い、ひどく迫力があった。  「それもその筈で、映画に写されたのは、すべて真実だったのです。イギリス、フランス、ドイツ、ソ連、中国……各国のスパイの大物が、続々と日本へ集まって来ていたのです」  「君の研究のためにか」  「ええ、僕の研究を盗むためにね」  杉原はそう答えて笑った。  「そりゃ、物質瞬送技術ということになれば事は重大だ。スパイも集まろうさ。でも少し変じゃないか。研究と言ったって、これからABCにとりかかろうという段階だろう」  「そのABCが重大だと言うんです。どこの国にも専門家はいますからね。スタートのしかたを見ただけで、おおよその見当はつくというんです。僕らが初動段階で何を掴むか、それが知りたいそうなんです」  「誰がそう言ったんだい」  「西島が説明してくれました。僕はそんなものかと思い込みましたよ。何しろ実際に国が介入して大金を動かしているんですし、JCIAの連中もたしかに本物でした。それに、何よりも立川清幸博士がからんでいるんですから、僕にとっては信じるより仕方のないことだったんです」  その映写が終わる迄に、杉原は事の重大さを完全に認識させられていた。これは遊びではないのだ。各国政府や軍関係が、しのぎを削る深刻な暗闘の場なのだと……。  その日から、研究所にかなりの人数のJCIA局員が入りこんだ。所員たちの身分証が渡され、それぞれの任務に応じて、出入りできる範囲が限定された。所内の廊下のあちこちに、検問所が設けられ、そこには夜中でもJCIA局員が交代で目を光らせることとなった。  杉原の身分証は、西島と同じオールマイティに近い力を持ち、あらゆる場所へ自由に出入りできた。彼があけられないドアは、二カ所だけであった。ひとつは別館にある主研究室の地下室のドアで、そこは万一の事態に備えた、施設全体を爆破できる、自爆装置のある部屋であった。  「先生は研究の責任者ですが、自爆装置に触れる権限は与えられていません。研究成果を消去していいかどうかの判断は、首相だけにゆだねられていて、私はその決定に従って行動するのです」  西島はおごそかに言った。考えて見れば当然なことで、杉原に不服はなかった。そしてもう一カ所の許されざるドア……女便所についても別に不快ではなかったのである。 スパイの才能  保安態勢も整い、所内への出入りが厳重にチェックされて、電話に盗聴防止装置がつけられた頃、杉原は西島に連れられて久しぶりに都心へ出た。行先は霞ガ関方面で、杉原をのせた車は首相官邸へすべりこんだ。  たっぷり待たされた挙句、杉原は首相に会った。西島に紹介され、首相はごくありきたりの、物理学についての質問をした。それは高校生級の質問でしかなく、重力については何も触れずに終わった。会見は緊急を要するものではなく、単なる儀礼であるようだった。それから二人は芝の高級レストランへ行って贅沢な料理を楽しみ、日が暮れてから研究所へ帰った。  帰って見ると、主研究室に何やら大きな装置が、なかば組立をおえていた。杉原はそれについて、西島に抗議した。装置の用途も仕組も、彼にはまったく見当がつかなかったからである。  問いつめられた西島は、のらりくらりと言い抜けていたが、突然大声で笑いはじめた。  「ただの鉄とプラスチックのかたまりですよ。あんなもの、何の役にも立ちはしません」  杉原は愕然とした。  「じゃ、なぜ……」  「それは先生が一番良くご承知でしょう。我々はまだ、机上の理論以外何も掴んではおらんでしょう。違いますか。何か具体的な研究成果を得ましたか」  杉原は首を横に振った。  「世界中のスパイが、先生の一挙手一投足を知ろうと集まっているのですぞ。そのスパイたちに、真実を知らせますか」  西島はそう言って、廊下の検問所と、そこに張り番しているJCIA局員を顎で示した。  「我々は真実を知らさない為に、これだけの態勢をとりました。だから何も知らせてはいかんのです。我々の手にまだ何もなければ、何もないということが真実です。真実を知らせるわけには行きません。この研究所では、いまゼロが国家機密になっているわけです。国防上ゼロが秘匿されたのです。我々はゼロと言ってはいけません。スパイたちは、たちどころに我々がゼロだと本国へ報告するからです。主研究室の新装置は、ゼロを隠すためのものです。諜報用語でいうフィックスなのです。フィックス。F・I・X……据えつけるのです。固定されるのです。相手の注意を引きつけるのです。責任を負わせ、ここへ縛りつけてしまうのです。機械を調整し、お膳だてするのです。うまく始末し、やっつけてしまうのです」  西島は笑い続けた。  「僕は何をするんです」  「先生は研究してください。グラヴィトロン粒子を発見してください。先生には学者としての栄光が待っています。財団の、つまり国家の金で新粒子を発見し、ノーベル賞でもなんでもお取りください」  西島の言葉に、杉原はその時はじめて自分に対する棘があるのを感じた。  その日から、杉原の研究所に対する考え方が変わって来た。たしかに保安態勢は外からの侵入に備えているに違いない。しかし、同時に杉原をとじこめたことになっている。盗聴防止装置のついた電話機は、同時に部内のあらゆる通話をどこかで傍受しているのかもしれない。  ゼロが国家機密……そうであるなら、ゼロの持ち主は杉原自身であった。研究成果のまったくないことが重大な機密にされている。  「つまり、僕が無能な三流科学者で、グラヴィトロン粒子に爪も立てられないことが重要なのだ。僕の無能が秘密の中心なのだ。と、そう判るのに手間ひまは要りませんでした」  杉原は自嘲した。  「なんと、世界中が僕の無能さを知ろうと躍起になっていたんですよ。光栄なことじゃありませんか。西島は、いえ、この際はっきり言いましょう。JCIAは、僕の無能を匿すために全機能を集中していたのです。あの立川清幸博士までが、そういうJCIAの動きに一役買っていたんです」  「まさか。どうしてだい」  「由美子との結婚に反対したじゃありませんか。それはJCIAのプログラムにないことでした。結婚すれば新婚旅行にも行くでしょうし、新しい家にも入るでしょう。何よりも、僕を研究所へとじこめることができなくなるのです」  私はあっと思った。  「火事か。火事は君を……」  「ええ。研究所へ入れてしまうための謀略だったんです。やはり僕が思ったとおり、あれは放火だったんです。……いくら言っても警察が動かなかったわけですよ」  「驚いたな。そこまでやるのか」  「そのくらい朝飯前です。現にその件ではもっと酷いことをしました。しかしそれはまだあとのことです。僕は研究所にとじこめられ、そういったことに気づいてから、ひそかに所内を調べはじめました。するとどうです。主研究室の怪しげな装置に関係している連中はじめ、所員の誰一人、本物の物理学者なんていなかったのです。たしかに、電子工学や冶金などの関係者はいましたが、重力理論など匂いも嗅いだことのない連中でした」  「何でまた、そんな嘘に大金をかけたんだろうな」  「説明しましょう。詳しいことは、それこそまだ国家機密で言えませんが、その頃丁度或る外交上の事態が発生していたのです。大きな国際上の動きの中で、日本は将来の軍事力を示威しなければならなかったのです。だが核兵器や通常兵器の拡大では、どこの国にも予測がつけられます。日本はひそかに各国の対日観を調査しました。日本の将来について、何を一番危惧しているかということをです。すると一定の答えが出て来ました。各国とも、日本が異常な新技術を開発し、自分たちをそれで支配する可能性があると考えていたのです。今迄日本は海外の新技術を貪欲にとり入れ、消化して来ましたが、もうとり入れるべき新技術は海外になくなり、同じテンポで発展して行くには、みずから新技術を創り出す以外になくなっていたからです。石油にかわる合成エネルギー源か、新しい輸送機関か、核兵器以上の新兵器か……海外の日本に対する危惧は、だいたいその三点にしぼられるのが常識のようでした。そこで西島たちはとほうもないことを思いついたのです。一時的に、彼らの危惧を適中させてやろうと考えたのです。外交上の問題の進展に合わせ、見せかけの新技術を芽ばえさせるのです。新エネルギー源と新しい輸送手段、そして恐るべき新兵器の三つをこね合わせ、西島たちは見事な筋書を組み立てました」  「それがグラヴィトロン粒子論か」  「ええ。僕の空想的な新重力理論紹介記事が……SF専門誌にのせた奴です。あれが西島たちの最後のキメ手になったのです。僕は主役に抜擢されました。アパートに放火してそこを追い出し、研究所へとじこめたのです。首相と会ったのだって、きっと何も会う必要はなかったのです。必要だったのは、僕が首相に会いに行くこと自体です。その行動です。世界中のスパイが、僕のあとを追ったことでしょう。僕は首相官邸へ入った。たしかに首相と話をした。スパイなら、その事実から何でも好きなものを嗅ぎとれるはずです。まさにフィックスですよ。役に立たぬ機械を据えつけ、スパイたちの注意を引きつけたのです。僕に責任を負わせ、研究所へ縛りつけました。それで外交上のメカニズムを調整し、日本に有利になるようお膳だてをしたのです。難問題をそれで始末し、世界中をやっつけたのです」  「成功したのか。そのフィックスが」  「しましたとも。外交上の大きな危機が、国民に知られぬ儘、未然に回避されました。大げさな言い方をすれば、日本が今こうして平和でいられるのは、あのフィックスのおかげなんです。でも、かなりの犠牲者が出ました。僕もその一人です」  自分のみじめな役割りに気づくと、杉原はやみくもに脱出をはかった。何よりも由美子に会いたかった。円満に大学へ戻れる間に、元の三流学者に戻ってやり直したかった。  だが、そうなると西島たちは明らかに牙を見せた。部外との連絡を一切させず、外出も西島同行でなければ許さなかった。しかもたまに西島とつれ立って、いかにもそれらしい大企業へ、何か打ち合わせめいた芝居をしに行く時も、JCIAが厳重に監視の目を光らせていた。各国のスパイたちにとっては、それでいっそう杉原が大物に見えることになった。  だが、一度だけ杉原は脱出した。建物の一階に部屋があったことが幸いした。外にもガードマンが巡回していたが、或る夜窓から脱け出し、成城の野口由美子の家へ奔った。どうしても会いたかった。会って連絡しない理由を説明したかったのだ。  「その途中が大活劇だったんです」  杉原は愉快そうに声を高くした。  「学者としては超三流でも、運動神経……ことに格闘技となったら、恐らく僕は日本の物理学界のナンバー・ワンでしょうからね」  「そうか、君は空手二段だったな」  私はやっと心の底から、その男を杉原明夫だと認めた。顔はまるで変わっているが、ごつい手だけは変わっていなかった。  「どこからともなく、いろんな連中が出て来やがって、僕を誘拐しようとするんです。スパイ同士でとりっこになる有様です。僕はそれ迄のたまりにたまっていた忿懣を、連中に思い切り叩きつけてやりましたよ。第一、途中で何かが出て来ることは、脱け出すときから覚悟していましたからね。不意をつかれることなんてありません。この自慢の手刀でかたっぱしから骨を砕き、蹴りで内臓を破裂させてやりましたよ」  東京生まれの東京育ちで、道は知り尽している。いくら一流のスパイたちでも、その夜の杉原にはとうていかなわなかったろう。  「あとでJCIAに聞いたんですが、僕の通ったあとは怪我人だらけ。死者累々と言った所だったそうです」  杉原は白い歯をむいて笑った。その顔にはすでに物理学者の繊細さはなく、どこか闇に凄むけものの風情が見えていた。  「そうです。僕は物理学よりスパイの才能に恵まれていたんです。あの晩僕はそれを発見しました。暗闘の快感を知ったんです。恐怖はなく、ただ闘志だけが燃えあがっていました。実際、人間て奴は判りませんねえ」  杉原はひとごとのように感心していた。 Fデー  杉原は脱出に成功し、むらがり寄る各国のスパイをしりぞけて、成城の野口由美子の家へ辿りついた。  しかし、さすがに時間がかかった。邪魔が入り放題だったからである。西島らはその間に脱出に気づき、杉原が着いた時には先まわりして待っていたという。身の上も性癖も知り尽くされて、その夜の杉原の行先はそれ以外にないことが判っていたらしい。  野口由美子の家は、古いながら三十坪ばかりの庭も持つ。落ち着いた構えであった。茶の間のあたりにも由美子の部屋にも、平和な灯りがともっていて、生垣の外に忍び立つ杉原の胸を、その平凡な穏やかさが締めつけて来るようだった。  そういう部屋の灯りこそ、本来自分が求めていた筈のものであった。それが今では夜の野獣のように敵と噛み合い、ひょっとすると何人か殺してしまっているかも知れないのだ。  杉原は、自分だけが幸福な窓あかりから見はなされたような気分になりながら、横の道から用心深く玄関へまわろうとした。  「遅かったな」  言葉つきを変えた西島が、その角の闇に立っていた。  なぜか杉原は、それがひどく当然のことのように思えた。  「いろんな奴に邪魔されましてね」  「君は大した奴だよ。ソ連もフランスも西ドイツも、みなこっぴどい目に会わされたらしい。我々はどうやら君の能力を過小評価していたらしいな」  西島は心から褒めそやすようであった。  「だが、あなたからは逃げられそうもない」  「うん。それさえ判ってくれればいいのだ。今夜の君の活躍はすばらしかった。これでわたしはずっと楽になるよ」  西島は部下をいたわる上司のように、杉原の肩に手をかけて歩きだした。黒いシボレーがその先の道端でライトをつけ、しのびやかに近寄って来た。そのずっと先に、パトカーの赤い灯が回転しており、ふり返ると、反対側にも赤い灯が動いていた。  シボレーに乗りこむと、車はゆっくりと、見せつけるように由美子の家の前を通りすぎた。  「今夜のことで君が手剛いのを敵も知ったわけだ。だが連中は決して諦めん。本気でかかって来るぞ。幸い君には人質にされて困るような近親者はいない。我々の眼がねに叶ったのも、その点があったからだ。しかし、野口由美子君という弱点があるのを知られてしまったな。連中は彼女を狙うぞ」  西島はおどすように言った。杉原もその通りだと思った。  「なんとかしてください」  「そうだな。君さえよければ、我々で彼女の身柄を預かろう」  「保護してくれますか」  「誘拐してやるよ」  西島は冷笑したようであった。  「誘拐……」  「我々が彼女を誘拐の形でかくしてやる。いいアイデアだろう。連中は自分たちの誰かが抜け駆けでやったと思うだろう。誰がエースを握ったか、疑いあうわけだ」  「それはいい。で、僕は会わせてもらえるんでしょうね」  「君に……誘拐して人質にした女だよ。君に会わせてどうなる。君が積極的に協力しないなら、もしくは裏切るなら、人質は人質らしい運命を辿るだけだ」  杉原は由美子をJCIAが保護することの、二重の意味に気づいた。  「完全に捲き込まれましたよ。もう逃げ道はありませんでした」  杉原はサバサバした調子で言った。  「協力しましたね。JCIAも僕の才能を買ったらしく、研究所で暇を持て余す僕に、いろいろなことを教えてくれました」  「いろいろなこと……」  「スパイの基礎ですよ。尾行、毒薬、爆薬、暗号、連絡法……僕の部屋はスパイ学校の分教場に早がわりです」  その間、杉原はいかにも研究を指揮しているように、主研究室へ出入りし、それらしく見えるいろいろな手を考え出した。調達する品物も、いかにも重力や磁力、原子力などを暗示させるような物にした。  「物質瞬送の場合、どんな送受信装置になると思うか」  西島は杉原の忠誠をやっと信じたらしく、そんな問題を提起した。それに対し、杉原が専門の立場からいろいろな考え方を出し、それを若い画家がスケッチにした。  画家と言っても、それは漫画家であった。将来はSF漫画か劇画で立とうという、長髪でニキビづらの青年であった。  スケッチが増えて行き、それがどこかへ送られて行った。その届け先には、どうやら立川清幸博士がいるようであった。  ノーベル物理学賞受賞者が、SF漫画家の卵が描いた空想画を調べていると思うと、世の中の不思議な動きが沁々《しみじみ》と感じられるのであった。そんなようにして操作されている社会の中でしかつめらしい道徳観や常識論をふりまわす学界の連中を思い出すのは、杉原にとって愉快なことであった。  それと関連して、物質瞬送実験が行なわれた場合、どんな副次的現象が起こるかということも考えさせられた。杉原はSF雑誌の関係者と交際した頃の知識を活かし、さまざまな答えを並べたてた。  どうやら、JCIAのフィックス作戦は、世界中をペテンにかけるつもりらしかった。最初の実験が一応成功したように見せかける為の準備が、着々と進行していた。  本館の屋上に、司令塔のようなものがつけ加えられた。それと同時に、土埃りの立つ自衛隊駐屯地の原っぱのまん中に、急ごしらえのブロックを使った小屋が建てられた。通信線や動力線がごちゃごちゃとからみ合って、本館の塔と別館の主研究室、それに自衛隊の原っぱに建った小屋をつないだ。  主研究室で組立てられた受信装置……いや、正確には受像、或いは受物装置と言うべきものが、建物の側壁にあけられた大きな扉から運び出され、小屋の上へ据えつけられた。  その時、ちらりとでも、禁断の主研究室の中がのぞけたはずである。どこかで、性能のいいカメラが、シャッター音を連続させていたことであろう。世界中のスパイが、食い入るように扉の中を覗いていただろう。  やがてその日が来た。  その日はFデーと名付けられていた。Fデーは朝九時丁度から時間読みが始った。杉原は凝った作業服に、黒地に金糸の縫いとりのある作業帽をかぶり、何度となく塔と研究室、受信小屋の間を往復した。所員たちは役目に応じて色分けされた帽子をかぶり、とびまわっていた。  やがて、自衛隊の駐屯地から、けばけばしい赤色に塗った戦車が一台、ゆっくりと別館へ近付いて来た。赤一色の戦車の砲塔には、急に撲り書きしたらしい字で、F1、と白ペンキで書いてあった。ペンキは折角綺麗に赤く塗装したボデーへ、白い泪のあとをつけていた。  再び主研究室の大扉があけられ、戦車はゆっくりとその中へ入って扉がしまった。しばらくすると、同じように赤く塗った戦車が、原っぱの向こう端に来て停止した。砲塔へ作業員の一人が大急ぎでかけのぼり、白ペンキで、荒っぽく、F2、と書いた。F1が不調な時のスペアーらしかった。  赤い戦車をのみこんだ主研究室には、いっそう緊張が昂まったようであった。  銃を持った自衛隊の一部隊がそのあたりへ散り、警戒網をしいた。  昼近くなると、近くの国道にパトカーが集まりはじめた。交通規制が行なわれ、通常三車線であるのが、二車線にされ、やがて中央一車線になった。  化学消防車が七、八台も研究所の中庭で待機している。空中には陸上自衛隊の大型ヘリコプターが二機、ゆっくりととびまわっている。  正午から分読みに入り、四十三分後にゼロ・アワーがマイナス30と訂正された。そして十三分後にふたたび分読みに入り、遂に秒読みに入った。  11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1。  「ゼロ……」  機械的な、全く情感を欠いた男の声がスピーカーから流れた。  杉原は、本物の実験のように、その声を感激して聞いていた。不思議なことに、この実験を成功させたいと、本気で祈った。  物理学者として、それが杉原には最後の舞台であることが判っていた。もう生涯、学者として人前に出ることはできないのだ。嘘でもいい。芝居でもいい。この大がかりな実験を成功させて引退したかったのである。  実験はひとつひとつ、予定通り進行して行った。  周辺二、三キロの半径で、送電が停止した。一車線に規制された研究所前の国道を通過中の、あらゆる車輌のエンジンが停止してしまった。  上空にいたヘリまで、不気味な不調音をくり返したのち、エンジンをとめた。腕時計が狂い、小屋の近くにいた男たちがバタバタと失神して倒れた。  ヘリは辛うじて駐屯地の原っぱへ着陸したが、一台はローターを大地に叩きつけて転覆し、乗員が這い出したあと、火を噴いた。  化学消防車が行こうとしたが、むなしくスターターを空転させるだけで、発車できなかった。自衛隊員たちが消火器を手にバラバラと駆けつけ、やっと火を消しとめた。  失神した男たちを、衛生班の担架が連れ去ろうとした時、突然あの大扉がいっぱいに押しひろげられ、色とりどりの帽子をうち振って、所員の群れがとび出して来た。  「バンザーイ。バンザーイ」  男たちは狂喜してとびはね、小屋へどっと走り寄った。  ブロックの撤去作業をするはずの車が動かないので、所員たちが壁の一面を手で壊しはじめた。壁が崩れ、赤いものがのぞいた。  自衛隊の制服を着た男が二人走り寄り、こわれた壁の中へとび込んだ。すぐエンジン音が空気を震わせ、赤い戦車がゆっくりと小屋の中から出て来た。  万歳の声はいっそう広まった。何のことか知らされていなかった警備の自衛隊員さえ、この奇蹟に万歳の声を揃えた。  赤い戦車の砲塔には、急いで撲り書きした、F1、という白ペンキの文字があった。濡れこぼれて、白い泪の跡を赤いボデーに何本もたらしていた。  司令塔の中で、西島が杉原に握手を求めていた。  「やったぞ。おめでとう」  杉原はその手を握り返した。充実感があった。やりとげた満足感に目をうるませていた。車のエンジンが生き返り、すべての車輌が動きはじめていた。  「どういう仕掛けなんだ」  私は人の気配が薄れた懐石料理店の一室で目を剥いた。  「簡単なことですよ。原っぱのまん中には、あらかじめ赤い戦車がかくしてあったんです。だが、その時期が早すぎたので、スパイたちには何もない所へ小屋をたてたとしか見えなかったのです」  「すると、もう一台の送信のほうのは……」  「地下に格納庫が作ってありました」  「F1の文字は」  「隠すほうには、その場で実際に書きました。泪のたれ具合などは、ポラロイド・カメラでとって、すぐ小屋の戦車にそっくりのを書いたんです」  「失神も芝居か」  「ええ」  「ヘリも……」  「そうです」  「国道の車は。みんなエンジンが停ったろう」  「全部芝居です。その為、一車線に規制して、関係者だけがその時研究所の前にいるように調整したんです」  「停電は、そうするといちばん簡単な作業だったわけか」  「ええ」  「でも時計は……」  「あちこちに磁気発生器を置いたのです」  「畜生、それを全部君が考えたのか」  「はやばやと戦車を埋めたり、格納庫を作ったりしたのは西島の知恵ですが、赤く塗らせたり、白ペンキの文字を書いて見せたりしたのは、僕の演出です」  杉原は得意そうであった。  「観客は世界中のスパイたちか」  私はため息をついた。  「成功でした。外交面で、日本は有利な立場を獲得しました。僕は役に立ったわけです」  「犠牲を出したというけど……」  「ええ。所員が十七人死にました」  「その時か」  「いいえ。あのあと、どこかの国が研究成果の破壊と、僕の殺害を指令したらしいのですよ」  「君の」  「ええ。日本のスピードが早すぎるので、待ったをかけたのですね」  「で……」  「強力な爆薬が主研究室に仕掛けられました。我々が成功に酔って、警備態勢を緩めたのです。それが失敗でした」  杉原は笑っていた。  「僕が主研究室にいる所を見すまして、連中は爆発させました。所員十七名と、リーダーの僕は即死です」  「………」  私は睨んだ。むしょうに腹が立って来た。  「どうしたんです」  「それも芝居か。そうなんだろう」  杉原は首をすくめ、ニヤリとした。それはすでに私から遠い人物であった。  「そうですよ。僕はこの通りピンピンしています。整形手術をうけ、別人に生まれ変わったのです」  「でも死者は出た」  「十七名です」  「味方の爆発でだ」  私は怒鳴った。しかし杉原は平然としていた。  「でも国益を守り通しました。十七名の死は無駄ではありません。幸い僕はスパイとしての適性と企画力を認められ、本格的なスパイとして残る人生をすごすことになったわけです」  「由美子さんは」  「僕のだという死骸にとりすがって泣いていました。僕はかくれてそれを見ていました。そりゃ悲しかったですよ。何もかも棄てたわけですからね。でも、それがスパイとしての宿命じゃないでしょうか」  「よしやがれ」  私は立ちあがった。  「そんな甘ったるい自己欺瞞で足りているなんて、憐れな奴だ。てめえなんぞ、スパイにしたって三流じゃねえか」  「憤らないでくださいよ」  杉原は意外そうに下手に出て言ったが、私にはその甘ったれた顔がおぞましかった。  ここにも国の末に立って美しがっている奴がいた。私は襖をあけて廊下へ出ると、店の主人に礼を言って靴を履き、さっさと外へ出ると、すぐタクシーを拾って新宿へ向かった。  飲み直したかった。  で、その夜。酔った私は力なくつぶやいていたのである。  「俺はもうやめた。世の中に逆らわねえぞ。お上の方針どおりだ。もうすぐあの血盟とかをした、青なんとかが俺たちに右へならえをさせるんだ。言うことを聞かなくては小説も書かせてもらえなくなる。そうさ、天皇陛下万歳だ。だってそうじゃねえか。もうJCIAが動きまわってるんだぞ。どこへ逃げてもかくれても、必要な時には目の前へヌッと現われるんだ。家の中へしのびこんで、何から何まで調べられちまう。どんな本を読み、日記に何を書いているかさえだ……」  私は千鳥足で夜の街をさまよい、喚いていたようである。  「やめたぞォ。もうやめたぞォ……」  それを、どこかで杉原が見ていたかもしれない。 [#改ページ] 嘆き鳥 1  春である。  国電の線路の土手下にある家の古びた板塀の中から、細くひねこびた桜の木が一本突きだしていて、どこかうす汚れた白さの花びらが風に散り、四角いコンクリートの踏み石を点々と敷き並べた細い道へ舞い落ちている。  轟《ごう》、とまた電車が通りすぎる。浜田五郎は頭上から落ちてくるその音の中を、跳ねるように踏み石をつたいながら歩いていた。  綿のスラックスをはいている。元はずっと黄色っぽかったのだが、洗いざらしてすっかり白くなり、かえって清潔そうに見える。その上に鼠色でVネックの毛糸のセーターを着て、襟もとからチェックのオープンシャツをのぞかせていた。  きのう雨が降って、その土手ぞいの細い道に溜った水は、まだ二、三日は乾かないはずであった。とびとびに置いた敷石のひとつが溜った泥水の中に沈んでいて、その横に幅二十センチほどの古い角材が寝かせてある。ところどころに切り込みがある所を見ると、かつては建物の柱か梁《はり》だったものらしい。  浜田はサンダルばきの足を用心深くその上にのせ、石から一歩、二歩と古い角材をつたって次の踏み石へ渡った。角材から足が離れるとき、角材の向うの端が、ポチャッと泥水に音をたてさせる。  そこから先は踏み石の間隔が狭くなっていて、十歩ほどで舗装した道へ出る。角は木工所で、国電の土手へ材木をたてかけ、よく電気鋸の耳ざわりな音をたてさせているのだが、今日はもう仕事をしまったと見えて静かになっていた。  浜田はその角を曲って乾いた道をまっすぐに行く。プラスチックの青い洗面器を持っている。その中には石鹸箱に安全剃刀にシャンプーの容器が入っていて、ガソリンスタンドの名前が入ったタオルを上にのせていた。  風呂屋はその道を二、三分行った右側にあった。時間は四時ちょっとすぎ。ウイークデーなのに、まだ陽があるうち風呂へ行けるのは久しぶりのことなのだ。浜田は青いのれんをくぐり、サンダルを入口の簀の子の一番奥のところへ脱ぎっぱなしにして中へ入った。  番台には二十七、八の、どこと言って特徴のない女がいて、まん中が少しすり窪んだ板の上へ浜田が金を置いても、すぐには受取りもせず、小さな鑢《やすり》で爪を磨いていた。  高く重ねあげた笊《ざる》をひょいと取って、浜田は板の間の左側に並んだ鍵つきの脱衣棚の前に、それを抛るように置くと手早く服を脱ぎはじめた。  板の間には、はやばやとあがった若い男が、白い小さな尻を浜田のほうに向けて、鏡の前で洗った長髪にドライヤーをかけている。それとほかには老人が一人。これも湯あがりの素っ裸で、番台の女に何か話しかけようとしているようだった。  浜田は青い洗面器を持って板の間からガラス戸をあけ、湯気の籠る流しへ入った。四時が開店時間だから、まだ客は何人もいない。乾いた木の桶を取って蛇口《カラン》を押し、湯を汲んでざっと左肩から流した。桶を置くと、コーン、という音が高い天井に反響する。  浅いほうの湯舟へ入って体を沈め、まだ陽が入っている天井の窓を見あげていると、  「今日は早いんだね」  と、となりの湯舟から声がかかった。  「あれ、おじさんもここで入るのかね」  浜田は相手の顔を見ておかしそうに言った。頭のつるりと禿げあがった、血色のいい丸顔の男だった。歳は五十五か六。  「俺だって湯ぐらいへえるさ」  「それもそうだな」  浜田は軽く笑った。  「でも、見違えるね。いつも番台に坐ってるのと、だいぶ感じが違うもの」  風呂屋のおやじは、両手で湯をすくって、ブルンと顔をなでた。  「ふつか酔いさ。きのう休みで寄り合いがあったのさ。少しやりすぎちゃった」  「夕方だよ、もう」  「歳だねえ。肝臓が参っちゃってるのかも知れねえな」  おやじは、ざあっと湯を溢れさせて湯舟から体を出すと、タイルのへりに尻をのせて両肩をまわした。  「あんた、もう随分この辺にいるね」  「うん」  「どこら辺」  「ガードのそばの松田さんというアパート」  「ああ、以前ドブだったガードのとこか。あそこはうるせえだろ、電車が通るたんび」  「慣れちゃった」  「そうかい」  おやじは笑って浜田を見た。  「何の仕事してんの」  「俺かい」  浜田は一度番台のほうへ目をそらし、  「運転手さ」  と自嘲気味に言う。  「車の」  「うん」  「タクシー」  「いいや」  「トラック」  「自家用さ」  「ほう。お抱えかね」  「あんまりよくないよ。不規則だしね」  「故郷《くに》、どこ」  「石川県だよ」  「あ、やっぱり」  「判るかい」  「加賀じゃねえな」  「うん。能登だ」  「どの辺」  「外浦《そとうら》だよ。輪島と狼煙《のろし》の間」  「曾々木《そそぎ》」  「もっと先」  「真浦《まうら》の辺」  「いや」  「じゃあ……馬緤《まつなぎ》か高屋《たかや》」  「よく知ってるね」  「そりゃ、うちも能登だもん」  「へえ。東京の生え抜きかと思ったよ」  「もっとも、向うに親戚があるっ切りだ。俺は東京生まれさ。でもよ、風呂屋ってのは能登の出が多いんだぜ」  「そうだってね。加賀、能登、越中……。でもさ、能登ってのは三助だって聞いてたよ。死んだお袋がよくそう言ってた」  「まあそうだ。もともとは越中の人間が多かったらしい。でも、三助をしていればいずれ風呂屋になる奴も出て来るわけさ。うちの先祖も三助だな」  おやじは人の好い笑い方をした。  「なあ、三助してやろうか」  「いいよ」  「なぜ」  「遠慮するよ。トルコのお化けみたいで気持悪いもの」  「畜生」  おやじはまた笑った。  「そういう世の中になっちまったんだな」  「ごめんよ。でも、本当にいいんだ」  「いいよ、いいよ。でも、それにしちゃ、あんた訛りがないな」  「早く東京へ出て来ちゃったからね」  「早くにって、子供んときかい」  「うん」  浜田も湯舟から出てタイルのへりにおやじと並んで腰かけた。  「先《せん》からあんたに話したいことがあったんだ」  「へえ。何の話」  「あんたのその痣《あざ》さ」  おやじは浜田の右の肩のうしろにある、かなり大きな痣を指で軽くつついた。  「ああ、これ」  「あんた知ってるかい」  「何を」  「知らねえのか。お袋さんか誰かに聞いたことはないのかい」  「何も」  「だろうな。ひょっとすると、こいつは能登出の風呂屋しか知らねえことかも知れねえな」  「こういう痣に何かいわれでもあるの」  「うん。そいつは鏡に映すと自分で見えるだろう」  「見えるよ」  「じゃあそう思うだろう。その痣は、鳥がとんでいるような形をしてる」  「ああ、小さい頃からみんなにそう言われたよ。背中に鳥が飛んでるって」  「鳳凰なんて鳥の絵は、みんなそんな具合だ」  「そうかね」  「うん。で、そういう痣には昔から俺たちの間でちょいと粋な名前が付いてるのさ」  「なんていう名前」  「嘆き鳥」  「嘆き鳥か、いい名前だね。痣なんかには勿体ないや」  「すまいのほうに、それとそっくりの形の鳥を描いた絵が飾ってあるんだよ。何代も前からうちにあるんだ。小さい頃、じいさんからよく言われたもんさ。お前は大きくなったら風呂屋になるんだ。風呂屋は嘆き鳥の形をようく憶えとかなきゃいけねえ、ってな」  おやじは昔を懐しむように目を細めた。  「だから、あんたがはじめてこの風呂へ来た時から、俺はずっと目を付けてたのさ。ああ、また嘆き鳥が来たな、ってね」  「どうして風呂屋さんは嘆き鳥を憶えなきゃいけないんだい」  浜田は自分の背中をのぞきこむように首をひねって言う。  「言い伝えさ。今じゃ風呂屋仲間でも知ってる奴は僅かになっちゃったけど、つまりその、何だ。……ほんのおとぎばなしみてえなもんだよ。俺だって、かいつまんだとこしか聞き憶えちゃいないが」  「教えてよ。自分の痣のことだもん、憶えとかなくちゃ」  「背中流してやろうか」  おやじは先に立って鏡の前へ行った。  小さなプラスチックの腰掛けをふたつ取って並べ、桶に湯を汲んでその上へ半分ずつかけ流してくれた。  「有難う」  「向うを向きなよ」  「いいんだよ」  「かまわねえよ。サービスだい」  おやじは勝手に浜田の石鹸をとって自分のタオルにつけ、ついでに両手へ石鹸をつけて顔にこすりつけた。  「こうしとけば脂が抜ける」  おやじは石鹸だらけの顔で笑うと、浜田の背中を洗いはじめた。  「ほんとによく似てやがるなあ。やっぱりこいつは嘆き鳥だ」  「どういう言い伝えさ」  「時国《ときくに》って知ってるだろ」  「曾々木を入ったとこの、あの時国家かい」  「うん。 平《たいらの》 時忠《ときただ》って人の息子だそうだ」  「平安時代だね」  「そう。壇の浦で源氏に敗けちゃってよ。捕虜になって能登へ流されたのさ。その流されて乗った舟が岸へ着いたとき、一羽の鳥が飛んでくのを平時忠が見て、その鳥が飛んでったほうへ行って自分たちが住む場所を見っけたというわけさ」  「それが嘆き鳥か」  「うん。もっとも、こないだ週刊誌見てたら、能登の旅行案内みたいとこに、鴉《からす》だなんて書いてありゃがった。ありゃ本当は鴉じゃなくて、嘆き鳥なんだぜ」  「へえ、そうかい」  「そういうわけで、時国家は能登へ来るそうそう嘆き鳥と縁ができたわけだな」  「それで……」  浜田はおやじに背中を押されるたび、体を前後に揺らせていた。  「時忠ってのは平家じゃえらいほうだった。栄耀栄華をしすぎて源氏にやられちゃったくらいだから、平家の財産てのは大したもんだった。金持って言うのは、いつだって危くなれば、いの一番に財産の心配をするもんだ。源氏といくさになりそうになったとき、時忠もどっか安全なとこへ財産をかくしちゃったんだな」  「そうかも知れないな」  「かくしたんだよ。そいで、能登に落着いてから、こっそりそれをあっちへ運んじまったらしい。源氏の連中を誤魔化してな」  「それで時国家っていうのは、代々大金持だったのか」  「かも知れないな。でも、宝のほとんどは、時忠って言う最初の殿さんがどこかへ隠しちまって、あとになると肝心の子孫にさえ場所が判んなくなっちゃったんだ」  「馬鹿な話だな。隠しすぎか」  「うん。でも、時忠はその隠し場所を、ちゃんと判るようにはしといたらしいのさ。なんとかという家来の背中に、嘆き鳥そっくりの絵を描いて、そいつを痣にして消えないようにしたってんだが、この話はそこいら辺からどうも怪しくなっちゃうのさ」  「怪しいって……」  「眉唾さ。その痣は、その家来一代じゃなく、子孫代々にうつるって言うんだ。そんな器用なこと、どうやってできたんだかね」  おやじは湯を汲んで浜田の背にざあっとかけ、右掌で洗った背中を叩いた。ポン、とふくらんだ音が響いた。  「サンキュー」  「浜田は鏡のほうへ向き直った。  「すると、俺はその家来の子孫かな」  おやじは顎を鏡のほうへ突き出して、髭の伸び具合を調べた。  「そうかもよ」  蛇口《カラン》を押して湯を汲み、顔につけっぱなしにしてあった石鹸を、ザブザブ洗い流す。  「その家来は、時忠が死んだあと、何かのいざこざでよそへ逃げちゃったそうだ」  「おやおや。それじゃ、宝の地図に逃げられちゃったわけじゃないか」  「そうなんだ。あとをついだ長男の時国がアワを食ったね」  「だろうな」  「家来にあとを追わせたけど、とうとうわからずじまいさ。それからって言うものは、代々捜すことが当主の仕事になっちゃった。何しろ平家再興の軍資金だからな。うまいことに、はじめの家来が死んじゃっても、子供に痣が残るんだから、五代、十代あとでも捜しだせば宝のあり場所は判るわけなんだ。しまいには、見つけ出すまで帰って来ちゃいけねえ、なんて無茶なことを言われる家来も出る始末でな」  「じゃあ、百年あとでもまだ捜したわけか」  「冗談じゃねえよ。百年どころか、五百年も六百年も捜し続けたんだ」  「驚いたね」  「それくらい莫大もねえ宝物だったってわけになるな。でも、しまいにはあきらめちまったかも知れない。ところが、その宝の話がいつの間にかひろまっちゃって、能登には時忠の宝さがしをやる奴があとを絶たないようになった。目じるしは背中の痣……」  「あ、それで三助かい」  「そうなんだ。世の中に風呂屋なんてのができるようになると、その痣めあてに風呂屋から風呂屋を流れ歩く奴が出て来たのさ。……と、まあ、これがちいさい時に俺が聞いた能登の三助の由来さ」  「じゃあ、おじさんは俺をみつけたんだ」  「一緒に能登へ行くかい。宝さがしによ……」  おやじと浜田は声を揃えて笑った。  「さて、そろそろ商売にとりかからなくちゃな」  「どうも有難う」  おやじはザブンと体に桶の湯をかけ、立ちあがってタオルをしぼりながら、湯舟の横のせまい戸へ去って行った。  浜田は体をひねって背中の嘆き鳥を鏡に映した。のどかな春の銭湯であった。 2  何日も雨が降り続いている。  窓辺によりかかった女は、横坐りになったままガラス戸をそっと細目にあけて外を見た。  「まだ降ってるよ」  浜田が言った。入口の横に一畳分の板の間がついていて、その流し台のわきのガス・コンロに、使い古した薬缶をかけているところであった。  窓のすぐ外にある土手の上を国電が通り、流しの上の棚にのせた、歯ブラシをいれたコップがとなりの鍋に触れて、チリチリとこまかく鳴っている。  女は窓を閉め、チェリーの袋をとりあげて一本抜きだすと、薄べったいペーパーマッチをひらいて火をつける。  「湿っぽいわね、ここは」  煙を吐きだして言う。  「上着のポケットにある奴を吸えばいい。それはここに置きっ放しにしといた奴だから」  女はフィルターのところをつまんで、吸っていた煙草を一回転させて見る。  「本当だわ。シケちゃってる」  浜田は壁に吊した上着のポケットを探ろうとする。  「いいわよ」  女がものうげに首を振った。髪は短く、鼠色の丸首シャツを着て、長めのデニムのスカートをはいている。少しそばかすのある顔はそう美人とは言えないが、どことなく男好きのする顔で、薄い唇のあたりと少し離れ気味の大きな目に特徴がある。薄い長袖の丸首シャツの胸が、これ見よがしに突き出ている。  「敏子やんなっちゃった」  歳は浜田よりひとつ上なのである。  「どうしてだい」  「またおやじと喧嘩しちゃった」  「先生とか。あんまり派手にやるなよ」  「下らないことばかり言うんだもの」  浜田は灰皿を中に、敏子と向き合って坐ろうとする。敏子は煙草をはさんだ左手で、自分の横の畳の上をトントンと軽く突いて見せた。浜田は中腰でそこへ移って腰をおろす。  「心配……」  敏子はすぐ浜田にもたれかかり、ちかぢかと顔を寄せてからかうような表情でみつめた。  「俺のこと、バレたんじゃないだろうな」  すると敏子は軽く笑った。  「大丈夫よ。……馬鹿ね。あたしがそんなヘマするわけないじゃない」  ないじゃない、が早口に詰まって、ないじゃん、に聞える。  浜田は敏子の指から煙草をとりあげ、自分が吸う。  「しようがないのよ。出戻りだもの」  敏子は左手を窓の下の壁と浜田の腰の間にまわし、甘えるようにもたれかかり直した。  「ひがんでるんじゃないのか」  「かもね」  敏子はどうでもいいことのような表情で答えている。  「判んねえな。どうして三カ月ぐらいで別れちゃうんだい。だったらはじめっから結婚なんてしなきゃいいのに」  「籍まで入れちゃったんですものね。馬鹿みたい」  「籍、どうしたんだ」  「まだそのままよ。向うの親たちや仲人してくれた人が、戻れ戻れってうるさいのよ。おやじ、だから機嫌が悪いのよ」  「君が帰らないからさ」  「いやよ。それに、彼だってあたしのこと、あんまり好きじゃないんじゃない」  ひとごとのように言う。  「でも、おやじも立場が悪いわね。あたしが出戻りで住みついてるんじゃ」  「そりゃそうさ。先方さんにも返事のしようがないだろう」  「どうしたらいい……」  「ご主人のとこへ戻るのが一番いいだろうな。家だって買っちゃったそうだし」  「建売りよ。それもローンで。家賃払ってるほうがよっぽど気がきいてるわ。あたしたちが入ってすぐに、もう台所でもなんでもガタガタ」  「みんな、そのガタガタのマイホームが欲しくてあくせく働いてるんだぞ」  浜田は、吸っていると湿気が白い巻紙を黄色に変えてしまう煙草を灰皿で揉み消した。  敏子は浜田の胸に向けて体を倒し、投げだした彼の脚を枕にする形で、あお向けになった。  「それならあたし、帰ったほうがいいのね」  下から見あげて言う。  浜田は黙ってその薄い唇のあたりを指でなぞった。  敏子が急に口をひらいてその指先を噛んだ。  浜田が浅く咥《くわ》えられた指をそのままにしていると、敏子は左手でその手を掴み、指を離して彼の掌に唇を押しつけた。  「よくねえんだよなあ、こういうのは……」  浜田は左手で敏子の短い髪をいじり、つぶやくように言った。  「家出しちゃおうかしら」  敏子は浜田の掌から唇を離して言った。浜田の指が軽く首筋へさがっていく。  「まずいよな、先生のお嬢さんだから。ご主人の娘さんだもの」  「二人でどこかへ行っちゃう……」  「そりゃ、運転手なんて、どこへ行ったってわりと簡単に仕事は見つかるさ。二種の免許も持ってるし。でも……」  浜田の指は脇腹から盛りあがった胸へいく。  「あたし、我儘だけどそんなに贅沢な女じゃないのよ」  「先生に何と言ったらいいか……」  「おやじなんか平気よ」  浜田は指を大きくひろげ、左の乳房をそっと掴んだ。ブラジャーの形がシャツの上から見えた。  「あなたはあたしよりずっと自由だと思うわ」  「どうして」  「うちのおやじなんかに義理だてすることはないのよ。なによ、人使いばかり荒くて、まるで思いやりなんてないんだから。旅行で朝六時の新幹線に乗るのに、あなたの車を使うんですもの。タクシーで行けばいいじゃない。何も朝早く出て来させなくたってさ……」  「でも、そのあとはまるまる休みみたいなもんさ」  「付合いかなんか知らないけど、一時二時まで飲んで、あなたを待たせるんでしょう」  「自家用の運転手なんて、みんなそんなものさ」  「元気ないのね、あなたって」  「そういちいち君みたいに突っかかっていられないさ。使われてるんだから」  「こないだ、家族づれの遠距離トラックを見たわ。若い奥さんと三つぐらいの子供が一緒なの。いいもんだなあって思っちゃった。ねえ、ああいうのやらない」  「流れもんみたいなくらしだぜ。連中は連中で、一カ所に落着きたいと思ってるのさ」  浜田の右手はデニムのスカートから丸首シャツの裾をたくしあげて、じかに肌へもぐりこんでいる。  「短い間でもいいわ。一度やってみたい。あなたの横に坐って、大きなトラックで国道をすっとばすの……。ロマンチックだなあ。夜中に海っぱたなんかに停めちゃって、波の音聞きながらファックして……」  「馬鹿だなあ」  敏子の胴がむきだしになっている。鼠色のシャツは脇の下までたくしあげられて、白いブラジャーにしめつけられて盛りあがったバストの谷間が、好色な感じで浅黒く見えている。浜田の指がブラジャーのカップをずらせ、左の乳首を引っぱりだす。淡い茶色の乳首が、エロチックに歪んで上を向く。  「飽きたら大阪か東京でタクシーでもなんでもやればいいじゃない。あたしだって働いてもいいのよ」  「働くって……」  「ホステスよ」  「君にできるのかい」  浜田は三本の指でそっと淡い茶色の突起をつまんでいる。  「あんなの、誰にだってできるわ」  敏子は太い息をついて言い、左膝を立てた。  浜田が投げ出していた脚をあぐらに組むと、敏子は高くなった浜田の脚に合わせて体をずりあげた。浜田はうつむいてそのしこった突起に唇をあてる。いつの間にか敏子が左手で背中のフックを外し、肩紐のないブラジャーは、やんわりと肌から浮きあがった。浜田の手がそれをとり除く。あお向きになっていても、そのバストは平たく崩れないでいた。  「運転手なんて、しがないもんだ」  低い声で浜田が言い、今度は唇を吸った。ブラジャーを外した敏子の左手は、そのまま自分の首のうしろへまわり、あぐらをかいている浜田の股間をまさぐりはじめた。  浜田の手はそれに対抗するように、敏子のデニムのスカートのフックを外しはじめる。  「もっと自由に生きたいわ」  敏子は唇を離して言った。  また電車が通り、窓がこまかく震えた。  「脱げよ」  浜田は体を起し、両手で薄い丸首シャツを引っぱりあげた。敏子は両腕を伸ばして脱がされる。  つるり、とした感じで上半身があらわになった。腋窩に薄い毛が見えた。  あらためて膝の上へ寝かせようとすると、敏子は掴まれた腕を軽くふりほどき、  「お蒲団敷くわね」  と立ちあがった。立つと、デニムのスカートがすっぽりと脱げ落ちて、白いパンティーだけになる。  敏子はどこかスポーツ選手のような、思い切りのいい態度で、裸のまま押入れをあけ、浜田の蒲団を敷きはじめる。  シーツを伸ばすとき、浜田の目にうつむいた敏子のバストがひどく好色そうに映った。浜田はさっと立ちあがり、手早くシャツとズボンを脱いだ。  敏子はテレビの上からティッシュ・ペーパーの箱をとって枕もとに置くと、ブリーフひとつになった浜田に体を押しつけて腰に両手をまわした。  「こんな風にしてると、電車から見えるんじゃない……」  「見えないんだ。庇《ひさし》にかくれて……」  「見られてもいいわ。あたし、一度人に見られながらしてみたい」  敏子は腰をおとし、引きずりおろすように浜田と一緒に蒲団へ倒れ込んだ。  「ねえ」  「なんだい」  「ちょっとあっち向いて」  浜田は敏子に押されてうつぶせになる。  「ここ、感じないの」  敏子は浜田の右肩のうしろにある、あの嘆き鳥を舌で擽《くすぐ》った。  「ほかんとこと一緒さ」  「どうしてかしらねえ。鳥の形してるのに」  敏子は不満そうに顔を離し、浜田がくるりと上を向く。今度は浜田の乳首がいたずらのように吸われる。  その薄い唇は、ひどく好色に浜田の体を這いまわった。敏子の手がブリーフにかかり、脱がせてしまう。  「ああ……」  敏子は息苦しそうに眉を寄せ、屹立したものを唇ではさんだ。  「風呂へ行ってない」  浜田は言った。  「綺麗にしてあげる。待ってて」  敏子は台所へ立とうとした。  「いいよ」  その腰をつかまえて引き戻すと、  「せっかち……」  と笑って敏子は自分からパンティーをとった。膝を突いて上体を起こしている。浜田が両手でバストを下から揉みあげ、両方の頂きにキスをしてから、唇を這いおろしていった。敏子は上体をそらせ、両手を頭のうしろにまわして、薄い下唇を噛んでいる。  「ごめんなさいね」  喘ぎながら言った。  「あたし、悪い女ね。……あなたを駄目にしちゃうかも知れないわ。……でも好きよ」  浜田の顔がまたあがっていく。右手の先が敏子の太腿の間にかくれていた。  「あなたって、凄く上手」  かすれ声で言い続ける。  「それに、とても逞しいの。立派よ」  うっとりとした表情であった。  「セックスって、生まれつきなのね。あの人とっても下手だったわ。体はそう貧弱じゃないんだけど……」  二人は倒れた。  「全然よくないの。いつも自分ばっかりよ」  浜田は脚のほうへさがっていった。  「あたし、あなたに合うのよ」  敏子は声を細くしていた。悲鳴を言葉に変えているようであった。  敏子は浜田に何度も注文をつけた。そしてそのことで自分をいっそう昂らせるようであった。  やがて浜田は敏子に掩いかぶさり、彼の肩のうしろで、嘆き鳥が大きくはばたいていた。 3  夏になった。  灼けつくような高速道路を、浜田の運転する車が都心へ向っている。窓をしめ切った車内には、循環するクーラーの冷気が、かすかな風を感じさせている。  「君はことしで幾つになるのかな」  うしろのシートで高村英太郎が言った。浜田は、  「はあ」  と言ってバックミラーへちらりと目をあげたが、すぐ視線を前へ戻して答えなかった。  「うちの敏子よりひとつ下のはずだったな」  高村はつぶやくように言った。  都心に近付くと、やはり高速道路は渋滞気味であった。  「あれにも困ったもんだ」  浜田はハンドルを無意識にきつく握り直した。白い手袋は高村の命令でしている。ネクタイも上着も、外すことは許されていない。  「学校にいる頃から好き放題にしおって散散親を手古摺らせた。見合などさせてもとても承知すまいと思ってあきらめていたが、思い切ってさせてみると一度で簡単に嫁に行ってしまった。これでひと安心と思っていると、たった三月《みつき》で出て来てしまう。まったくどういう気なのだか……。いったい人生を何だと思っとるのかねえ」  先がつまって車はほとんど動かなくなった。浜田は珍しくいらいらした。  「先方は次男坊なんだ。家まで買って敏子を迎えてくれた。今どき家など生易しい金では納まらんのだよ。結婚して十五年も二十年もたった夫婦が、いまだに自分の家を持つためにせっせと金を貯めているのだって珍しくないというのにな。それを、大した理由もなしにとびだして……。なあ君、わたしだって先方に言う言葉がなかろう」  やっと車が動きだした。浜田はほっとしたように車を進める。  「君からも言ってやってくれんかねえ。先方では、帰ってさえくれればそれでいいと言っているのだ」  「一ツ橋ですね」  浜田は判り切っている行先に、わざと念を押した。  「うん」  高村はあきらめたようにシートにもたれた。車はトンネルへ入った。  高村英太郎は学者である。物理学の博士号を持ち、いくつかの大学に関係している。近頃は何かマスコミで活躍しているらしいが、浜田はそういうことにはまったく無関心であった。  浜田が運転手としてかなり優れているのは、そのあたりに秘密があるのかも知れない。免許を取得して以来、無事故の記録を伸ばしつづけている。  車は物を運ぶためのものと、徹底して割り切っているのである。人間も、高価で壊れ易いというだけで、結局は物なのであった。  それは、他人の所有になる車しか動かしたことがないせいかも知れない。およそ、自分の用事で車を走らせたことがないのだ。だから、どんなに時間が切迫していても、結局は他人のことで、無理をして急ぐ理由がないのである。  事故と違反は自分持ち……。浜田はいつもそう思っている。だから糞真面目なくらいルールを守っている。他人のものを運ぶのに、自分のものを持ち出しにする必要はないというのが浜田の基本的な考えだ。から身で走る時は車自体が荷物になる。浜田が私用でどこかへ行く時は、だからきまってバスか電車である。車は便利かも知れないが、他人の車では荷物を預かったことに等しい。  そういうわけで、浜田は本質的に自家用の運転手に向いている。タクシーやトラックもやったが、他人の車で交通戦争に加わるのは、いわば代理戦争をやらされているようなもので、彼の性には合わないようであった。  高村をある出版社の前でおろし、横の駐車場へまわって空いたスペースに車を入れると、浜田は外へ出て体を伸ばした。  少し走って長く待つ。いささか退屈ではあるが、気を長く持てば気楽な稼業と言えた。  浜田はその駐車場で、おや、というように一台の車に目をとめた。四、五年前のムスタングで、ドアに見憶えのある小さな絵が描いてあった。  近寄って中をのぞく。ラジエーターのあたりに軽く触れてみる。駐めてから時間がたっているようだ。浜田は出版社のビルのほうを眺めた。なんとなく持主がすぐ出て来るような気がした。  勘がピタリと当たった。  よれよれのジーンズに赤いアロハ・シャツを着た男が、大きな紙袋をぶらさげてビルから出て来た。サングラスをかけてシャツを着た男が、箱型の鞄を持ってついて来る。  「やあ」  珍しく浜田のほうから声をかけている。  「おや。先生来てるの」  アロハ・シャツの男が浜田の傍へ寄って来た。  「ええ。たった今」  「そうか。会いたいな」  男はビルのほうを振り返って言った。  「時間、かかりそうかい」  「さあ」  「おい、ちょっとこれ……」  サングラスの男に紙袋を渡し、  「車へ置いてドアをあけといてくれ。中がむれちまってるからな」  そう言うと浜田の肩を叩いた。  「知ってるぞ」  「何をですか」  「クーラーを入れろよ」  勝手にドアをあけて浜田の車へすべり込んだ。  その男は漫画家であった。いや、漫画家というのは、浜田がそう思い込んでいるのであって、出版社などではイラストレーターと呼んでいる。SF風のイラストで人気がある。名前は北川タカシ。雑誌でよく見かける名前だ。  「敏子さんのことだよ」  北川はクーラーが動きはじめた車の中で、浜田を見つめて笑った。  「出来ちゃったらしいな」  浜田はゆっくり頭を掻く。どことなく擽ったそうな顔で微笑しているのは、浜田が北川タカシに好感を感じているからである。高村家へ出入りする人々の間で、浜田が自分から声をかけるのはこの北川タカシだけなのであった。  だが、なぜ漫画家……いや、イラストレーターが足繁く物理学者の家へ出入りしているのか、その辺の事情を浜田はまったく知らない。  連れの男がやって来て、うしろのシートへ坐った。  「小野、そこいら汚すなよ。先生に叱られるぞ」  北川が言った。どういうわけか、高村英太郎は自分の車について、ひどく大げさなイメージを持っているらしい。車に納まっている時の彼は、いささか尊大にすぎ、保守党の代議士風のふんぞり返りかたをする。いつもシート・カバーは純白でなければ承知せず、ボディーもピカピカにみがきたてさせる。  ひょっとすると、幼い頃からそういう車に乗るのが大学者であるというような思い込みかたをしてきたのかも知れない。  「こないだ敏子さんと六本木で会ったんだ。すっかりのろけられちゃったぜ」  北川がニヤニヤして言う。  「気を付けなよ」  小野という男が言った。能登の穴水あたりの出身で、北川のアシスタントをしている。絵はなかなかうまいらしい。北川についてよく高村家をおとずれるうちに、同郷人だと判って親密になった。浜田が北川という男を好きになったのも、間に小野がいたせいかも知れない。  「日曜は休みだろ」  北川が尋ねた。  「今度の……」  「うん」  「さあ……」  浜田は首をかしげた。  「なんだ、休めないのか」  「土曜にならないと判らないんですよ」  「そうか、先生のスケジュールしだいというわけだな」  「ええ」  「休めるようなら俺に連絡してくれないか」  「用があるんですか」  「海へ行くんだ。一緒に行こう」  「へえ、海ですか」  「敏子さんも誘ってある」  浜田は目を丸くしてみせる。  「車二台で八人。一台は君が運転してくれ」  「車は」  「こいつと同じ。プレジデントさ」  「海か。いいなあ」  浜田は楽しそうな顔になった。  「実はちょっと見たいものがあるのさ、それで君を誘ったんだ」  北川は意味ありげに小野を見た。  「何です、見たいって」  「嘆き鳥さ」  小野がそう言って笑う。  「あ……」  浜田は困ったような表情になった。  「敏子さんに聞いたんだ。いいネタじゃないか。俺が嘆き鳥を見のがすテはないよな」  小野に同意を求める。  「時国《ときくに》にそんな伝説があるなんて、ちっとも知らなかったよ」  「怪しい話ですよ」  浜田は尻込みしているようだ。  「怪しくてもなんでもいい。君の嘆き鳥を見せてもらった上で、その話をよく聞きたいのさ」  「風呂屋のおやじから聞かされたんです。そのおやじも眉唾だって自分で言ってるんですよ」  「いいよ。その風呂屋にもいずれ紹介してもらうことになるかも知れない」  「困ったな」  「迷惑がかかることじゃないよ。それに、君が知らないことも少しあるんだ」  「ほう……」  「俺は君も知ってるとおり、SFをやっている」  そう言われても浜田にはよく判らなかったが、なんとなく頷いてみせた。  「円盤だの超能力だので高村さんのような物理学者のとこへ出入りするわけだけど、歴史にもいくらか首を突っ込んでるのさ。邪馬台国だの北方騎馬民族だのというのも、結構SFの種になるんでね」  「そうですか。先生は空飛ぶ円盤や超能力も研究してるんですか」  「え……知らないの。驚いたな、君が知らないなんて」  北川は小野と顔を見合わせた。  「先生はこのところ、そっちのほうの中心人物だぜ。学者仲間ではどうのこうの言う連中もいるけど、ああいう人だから一度興味を持ったら誰が何を言おうとわが道を往くって調子でガンガンやる。何しろ本物の学者だから、にせ物やにせの情報なんかはコテンコテンにやっつけちゃう。そのかわり、少しでも本物の超能力くさいとなると、学者にとやかく言われる隙のないやり方で可能性を証明してくれるんだ。そっちのほうの本を何冊も出して、ベストセラーになってるのもあるんだぜ」  「そうか……」  浜田は気のない返事をした。  「嘆き鳥と平家の宝物と聞いてピンときたことがあるんだ」  北川は話を戻した。  「こいつは満更冗談じゃなく、何か匂うものがあるのさ。もし俺が思ってるとおりなら、ちょっと大変なことになるのさ。だから……」  「いいですよ。なるべく行けるようにします。天気がいいといいですね」  浜田は遠くを見る目付きになり、  「海水パンツを買わなきゃ」と言った。  レジャー。よく聞く言葉であったが、自分のものとしての実感はまるでなかった。それが突然降って湧いたように身近に迫ったのである。  酒も少しは飲み、煙草も吸う。しかし、長い間、仕事以外に自分のたのしみというものを持ったことがなかった。それで不満を感じなかったし、よく若い連中が言う、何のために生きてるんだか、というような考え方も持ったことはなかった。  働いて食って、食って働いて、それで毎日がおわる。無事におわればしあわせで、明日に何かなくてはいられないということはないのであった。  だが、敏子のことができてから、何か浜田の人生は少しずつ動きはじめているようであった。  二、三度、敏子と一緒に町を歩いたことがあった。敏子は浜田にとって驚異であった。呆れるほど多くのたのしみを持っていた。  おしゃれがそのひとつ。服、靴、鞄、帽子、髪型、指輪やブローチ、化粧品……。町に並んだ商店の、一軒ごとに生きるたのしみがあるようだった。  映画、食べ物、書物、そして歩く道筋にさえ良い悪いがあって、いちいち、批評の対象になる。  「君と歩くと目がまわりそうだ」  浜田は本気で言った。  「あたしはあなたと歩くと何だかとても安心なの。あなたっておかしな人ね。今日という日がぴったりあたしを守ってくれているみたいなのよ」  ふだんは蓮っ葉な態度を示す敏子が、その時ばかりは沁々とした感じで言った。  「今日という日……。どういうことなんだろうな」  「あたしみたいなのはあさってのほうばかり向いてるから、心の底ではいつも不安なのよ。今日という日とうまくいっていないような……。うわついてるからなのは判ってるんだけど、どうしても今日という日と自分のあいだにすき間があるみたいで」  「考えすぎさ。車の運転なんて、今走ってるとこに穴ぼこがないか、そればかり気にしているんだ。あんまり先ばかり気にしてると、前の車のブレーキ・ランプを見おとしちゃう。追突だよ」  ……笑った。  笑ったが、先を見る人生があったことも浜田は思い出していた。敏子と結婚できたら……。そんな思いが頭をかすめ、ふと流行の服を着ている敏子のそばにいる自分の身なりが気になったりした。  その次からはいくらかおしゃれに気を使うようになった。敏子はそういう変化に敏感に反応を示して、  「あなたって、とってもハンサムなのよ」  などと、浜田自身が気づいていない一面を教え込もうとするようであった。  敏子がアパートへ来る回数が多くなり、女物の下着やネグリジェが、浜田の安物の箪笥の抽斗で数をましていった。  土曜日の昼ごろ、浜田はあしたは休ませてくれと高村に申し入れた。高村は意表をつかれたようであったが、珍しく何か期待に目を輝かせている浜田を見ると、物判りのいい笑顔になって休みをくれた。  敏子は用心深い。そういう計算には鋭いところがあって、前の日から静岡の友達のところへ泊りに行っていることにしてあった。  土曜の晩浜田がアパートへ戻ると、ゆうべから来ている敏子が、折り畳みの小さなテーブルに食事の用意をして待っていた。  浜田は満足であった。敏子を妻にして、毎日このように過したいと思った。明日もたのしみだったが、そのずっと先にも希望のようなものが湧いていた。  二人でビールを二本飲み、暗い国電の土手の下の道を通って一緒にあの風呂屋へ行った。  先に出た浜田を風呂屋の前に十五分も待たせて、敏子が湯あがりの艶っぽい姿で現われたとき、浜田は目を丸くして自分が発見したことを敏子に告げた。  「ほら、あそこに立っている奴」  「どれ……」  「二人いるだろ、男が」  「ええ」  「女湯から出て来るのを待ってるんだぜ、俺みたいに。一緒に帰っちゃったのもひと組いたし……。多いんだなあ、仲がいい夫婦って」  「馬鹿ね」  二人は並んで歩きはじめていた。  「珍しくないのよ」  「そうかい。俺、今まで全然気がつかなかったよ」  「土曜の晩だから、アパートはあっちでもこっちでもガタガタ揺れるわよ」  「君は平気でそんなことを言う」  「女にしては少しエッチなのね」  敏子は笑い、腕を組んで柔い胸のふくらみを押しつけるように歩いた。  その夜、浜田の嘆き鳥は何度もはばたいた。 4  潮風がゆるく吹き抜ける松林のそばに、車が二台とめてある。  松林の中に洒落たロッジが建っている。小径が車のところからそのロッジの前を通り、更に先へ伸びている。  その松林は余り大きくないが、私有地らしい台地の上にあって、小径をまっすぐに行くと崖になっている。崖に出ると海がすぐ下に迫っていた。  小径は崖を下る石の階段につらなっている。階段は四度折れ曲り、海辺の岩場へ着いておわる。岩場は海へ突き出して磯釣に恰好の小さな岬を作り、崖ぞいに岬の左側の道を辿ると、六、七十メートルの長さの砂浜へ出る。砂浜の向う側のはずれも、こちら側と似たような岩場と崖で、崖の上は私有林になっている。やはりロッジが建っている。  したがって、その小さな砂浜は両方の崖の上のロッジのプライベート・ビーチになっていて、派手なビーチ・パラソルがふたつひらいている。  浜田は手前のパラソルが作る日かげの中にいた。  「なるほど鳥のかたちをしているな」  イラストレーターの北川が言った。さっき散々ロッジで写真に撮ったりスケッチをしたりしたのだが、見れば見るほどそれは鳥が羽をひろげて飛んでいる形に似ているのだ。  「その風呂屋の伝説だがね」  北川は何か考えをまとめるように、眉を寄せて言った。  「平家の宝物というのは、いかにも判り易くていい。たしかに、 平《たいらの》 時忠《ときただ》は大金持だったはずだよ。奢る平家が奢っている最中、この一門にあらぬ者は男も女も尼法師も人非人、などと思い切ったことを言ってのけたのは、その時忠なんだからな」  「平家にあらぬ者は人にあらずという、あの本家本元なのね」  敏子が言った。ほかに北川と小野のガールフレンド、それに小野と同じアシスタントらしい若者が二人いて総勢八人だが、若者二人は岩場へ釣りに行っていてそこにはいない。  「時国の父親の平時忠は、清盛の兄にあたる男なんだ。平清盛の奥さんの時子は、時忠の妹なのさ。おまけに、もう一人の滋子という妹は、後白河上皇の女御の建春門院なんだから、平家の景気がよかった時は、関白なみの権威をふるったらしい。しかし、どうも余り上等な人物ではなかったみたいで、いろいろ勝手なことをやりすぎ、二度も出雲へ流されたりしている」  北川は半ば無意識のように、砂を嘆き鳥の形に盛りあげようとしていた。  「あの壇の浦で平家がやられた時なども、いさぎよく死んでいった者が多い中で、なんとか助かろうと悪あがきをしている」  「あら、敗けてつかまったんじゃないの」  北川のガールフレンドが言う。  「清盛の娘の徳子なんか、安徳天皇を抱いて壇の浦で身投げをしたっていうのに……」  「建礼門院ね。ポルノ・スターじゃないの」  敏子がすかさず言ったので、北川が苦笑する。  「とにかく、つかまったんじゃなくて、自分のほうから命乞いに出て行ったのさ、だが、このあとのことを考え合わせると、本当は案外汚い奴じゃなくて、ほかにもっと重大な使命みたいなのを持っていた人物かも知れないんだな」  「ほう……」  腹ばいになった浜田が首をあげて北川を見た。  「一般には義経にとらえられて京に送られたと言われているが、どうもはじめからかなり高度な条件を持ち出して取引きしたようだ。君は例の三種の神器の内のひとつが、壇の浦で海の中へ沈んでなくなってしまったのを知っているかい」  浜田は首を傾げた。  「剣《つるぎ》でしょ」  敏子がかわりに言った。  「そうだ。清盛の娘の徳子が幼い安徳天皇と一緒に、ドボンとやっちゃったんだ」  「それじゃ、今は三つ揃ってはいないの」  浜田は敏子を見て言う。  「どうなの」  敏子は答えを北川にまかせた。 「八咫鏡《やたのかがみ》、天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》、八坂瓊勾玉《やさかにのまがたま》。これが三種の神器だ。天叢雲剣は草薙剣《くさなぎのつるぎ》とも言われ、スサノオノミコトが八岐大蛇《やまたのおろち》をやっつけたとき、そのしっぽからとりだしたという奴だ。勾玉《まがたま》はアマテラスがかくれちゃった時、岩戸の前でアメノウズメがストリップをやったろう。あの時に岩戸の前の真榊《まさかき》にかけた、イオツノミスマルノタマという奴を、そのあとでアマテラスがニニギノミコトにやって、それが今に伝わっているとされているんだ。あとになると、その三つは分散して保管されるようになり、鏡は伊勢神宮のご神体、剣は熱田神宮のご神体ということになる。そして別に模造の剣と鏡を宮中に置いたわけだけど、鏡は何度も火事でやられるし、剣は壇の浦だし……」  「でも、伊勢や熱田にあるのは本物なんでしょう」  「だといいな。俺は本物であって欲しい気がするけど、どうもよく判らない。なぜかというと、たとえば清盛以上にマークされていたかも知れない時忠が、助命の条件に持ち出したのだがその鏡だったりするからなんだ。平家以外は人非人なんて言ってのさばった奴は、敗ければ戦犯もいいところだろう。それが助かるについては、ただごとでない仕掛けがあったような気がするのさ。どっちにしても、平時忠が神鏡を握っていたことはたしかなんだ。宮中にあった模造の鏡を差しだして命乞いをしたことになってるが、それだったら没収されて首をチョンでもかまわないだろう。でも能登へ流されて血脈は今日まで伝えられちゃってる。そこで、熱田にあるはずの本物もおさえていたと考えたくなるんだ」  北川の盛りあげていた砂が、さすが絵描きだけに、みごとに嘆き鳥の形になった。  「そういう想像をしていたら、そこへ突然敏子さんが、君ののろけ半分に嘆き鳥を飛ばして寄越したってわけだ。ピンときたね。その、厳重すぎるほど厳重にかくした宝物っていうのが、もし本物の神鏡だとすると、すべてがうまく説明できてしまう。そうだろう。神鏡こそは時忠一門が生きのびる鍵だったんだ。殺したらは永久に神鏡は失われる。だから源氏は能登へとじこめこそすれ、生かしておかなくてはならなかったんだ。また、時忠のほうにしたって、はいここにありますと出して飾っておくわけにはいかない。そんなことをすれば、ワッとやって来て取りあげられちゃう。取りあげられたらそれで一巻のおわりだ。持っているけど隠し場所は教えない。それで保険をかけたことにるのさ」  「それが嘆き鳥の地図って言うわけね」  敏子が言うと、北川は首をゆっくり横に振った。  「嘆き鳥が鍵だとは言うが、地図だとは誰も言っていない。そうだろう。風呂屋のおやじも鍵だと言ったんだろう」  浜田は頷いてみせる。  「地図だと思えないことはないが、ここでもうひとつ別な見方をすることができる」  「どんな見方……」  「時忠たちが住みついた場所さ。言い伝えでは、一羽の鴉が飛ぶのを見た時忠が、これは平家に伝わる名刀烏丸《からすまる》の導きであると、そのあとを追って川をさかのぼり、居を定めたとなっている。どうだい、何か感じないか」  北川は敏子をみつめた。  「さあ、どういうことかしら」  「鴉に案内されている。風呂屋のおやじはそれを本当は嘆き鳥だと言ったそうだ。つまり、鳥であればいい。ほかの鳥で考えてもいいことになる」  「あ……」  敏子が浜田の肩をゆすった。  「とんび。とんびよ」  「とびかい」  「金色の鵄《とび》だわ」  「そうだ、金鵄《きんし》勲章の金の鵄《し》だよ」  北川はたのしそうに笑った。  「日本神話が能登では時忠一門の私的な伝説に縮小されているが、明らかに関連性がある。そこで古代のことを考えてみると、能登半島は今とは較べものにならないくらい重要な土地だった。たとえば、能登がひとつの国として公認されたのは養老二年、八世紀のはじめだが、加賀が国に扱われるのは一世紀もあとのことだ。今とは能登、加賀の地位があべこべになっているわけさ。そして能登の縄文や弥生の遺跡分布は、圧倒的に外浦側が多い。これは日本海を西から渡って来る波があったと考えていいだろう。現に、能登には出雲系文化に属するものがたくさんあるし、かなり大規模な海上交通があったと考えてさしつかえないだろうな。それに、日露戦争のとき、例の日本海々戦直後に、ロシア兵をのせたボートが能登へ流れついたりした事実があるから、大陸から自然の潮流に乗って来る場合は、能登が列島の入口になっていた時代も考えられないことはない。操船技術が進むにつれ、それが西へ移動して行く。つまり、海をだんだんまっすぐに進めるようになるわけだな。それで、入口が出雲になり北九州になりしていくわけさ。継体天皇が越前から南加賀をバックにしていたのは有名なことだし、天智天皇も北加賀に関係がある。八世紀ごろ能登は渤海《ぼっかい》との外交で重要な位置を占めていたし、片山津には大和朝廷形成期に活動していたらしい玉造遺跡がある。邪馬台国は能登だなどと言いはしないが、能登の羽咋《はくい》にある気多《けた》大社が少くともある時期伊勢や宗像《むなかた》や筥《はこ》崎《ざき》と同じような地位にあったことはたしかだろうと思う。今の一級国道に相当する官道が能登に設けられたのは、奈良に都が移されてすぐなんだ。半島のとっさきの禄剛岬《ろっこうさき》を今でも狼煙《のろし》と言うが、それは大和や北九州のような大事な場所だけに作られる国家レベルでの監視哨があった名残りなんだぜ。つまり、日向や出雲や大和と同じように、三種の神器の発生に直接つながるだけの地位を持った土地と言えるんだ。そこへ金鵄伝説の匂いをプンプンさせながら、神鏡をかくし持った可能性のある平時忠が腰を据えてしまった。……どうだい。俺が嘆き鳥に目をつけるわけだろう」  「でも、どうして謎の鍵が嘆き鳥なの」  「嘆き鳥というのは、没落した平家にまつわるセンチメンタルなイメージではなかったんだろうか。同じように、金の鵄《とび》というのも、いささか攻撃的なイメージを持たせようとしたんではなかろうかね」  「じゃ、あなたはどんな鳥だと思っているの」  敏子は抗議するように言った。  「判らない」  「なあんだ」  「絶滅種の渡り鳥かも知れないな。北方騎馬民族説と重ねると、海上の道案内をした者と太陽信仰がうまく重なるし、能登の土地柄と考え合わせると朱鷺《とき》のような鳥でもいいことになる。でも俺は……」  北川は砂の鳥を指さした。  「こいつだと思う。時忠の時代に、この鳥の絵をひと目見れば、すぐ連想できる何かがあったんじゃないかな。一種の絵文字だ。いや絵ことばさ」  「地図じゃなくて、これがキー・ワードだっていうの」  「時忠はやがてその土地で死んだ。長男の時国があとを継ぎ、世をはばかって平《たいら》の姓を棄て、時国姓に変えて以来時忠の系統は時国家となった。今では地名にさえなってしまっているが、その時国はなんという名の場所にある」  「能登……いいえ、石川県だわ」  「加賀と二国が一緒になって石川県だろ。違うよ」  すると小野が言った。  「時国のあたりは輪島市だ」  「馬鹿。昔から市のわけはないだろう。輪島が町になったのは明治二十二年。町村合併で市になったのは昭和二十九年。三十一年に町野町を編入して今の面積になっているんだ」  浜田がおずおずと言った。  「昔は鳳至《ふげし》郡輪島町だったと思うよ」  「そうだ」  「ふげし、って……」敏子が浜田に尋ねる。  「こういう字を書くんだ」  指で砂の上に書いて見せる。  「あらッ」  敏子はその字を見て鋭い声をあげた。  「いやだ。鳳凰が至るって書くのね」  「そのとおり。嘆き鳥の正体が判ったろう」  北川は得意そうに言った。  「鳳凰そのものか、鳳凰だといわれていた鳥か、あるいは架空の鳥である鳳凰を書いた絵などによく似た鳥か、いずれにせよそういう鳥が渡って来ていた所さ。それで鳳至と書かれた。だからその鳥が渡ってきていた時分なら、その鳥の絵を示すだけで何かがすぐに判ったのかも知れないじゃないか」  「でも、それだけでは、いくら当時の人でも宝のかくし場所まで判ったかしらね」  「いまそういう鳥を能登で見かけることはできない。しかし、鳳至と至の字を使ってあるところを見ると、まず渡り鳥だという想像は許されていいだろう。そんな昔でもすでに珍しく、よく文字で記録される時代に入るとすぐいなくなってしまったとすると、当時でももう数は少なかったのかも知れない。渡り鳥が毎年一定の沼や池に来るのは珍しいことではない。数がすっかり減って、滅びる日を待っているような美しい鳥を見て、人々が嘆き鳥という綽名をつけたのかも知れない。その嘆き鳥は、毎年同じところに来る。……となれば、鳥のマークで人はすぐその場所を思いだすわけだ」  「なるほどね。で、それはどこなの」  「はじめ時忠が住んだ所は、今の時国家よりずっと先の大谷という所だ。曾々木から真浦、仁江と半島を進んで揚浜《あげはま》の塩田のあたりを入ったところだ。鳥川という川にそっている。でも、鳥川はどうも違うようだ」  「なぜ」  「ただの財宝ならそこに可能性もないではない。しかし、時忠が神鏡をかくしたとなると、そうはいかなくなるんだよ。ことは神鏡だ。能登へ流されたというが、時忠のほうから能登へ行けるよう工作したのかも知れん。さっき言ったとおり、古代の能登は今と違ってずっと重要な土地だし、文化もひらけていた。神鏡ははじめから能登とからんでいたと考えてもいいくらいじゃないか。とすると、中央に縁がなければならない」  「あのあたりで中央に縁のあるところか」  小野が考え込んだ。  「いま大谷には時忠とその家来たちの墓があるだけだ。五輪塔が九つあって、それを則《のり》貞《さだ》という農家が守っている。則貞家には配流当時の遺品があり、代々その墓を守ってきたと伝えられている。時忠が死んだあと、長男の時国はその大谷を出て、今の町野川ぞいに移って時国家を興したんだが、その町野川付近には、久安元年にひとつの荘園が成立していたんだ」  「町野庄……」  「そうだよ。時忠の時代までに庄園の立券《りゅうけん》状を得ているのは、鳳至郡では町野荘と志津《しず》良《ら》荘しかない。ただし、この町野庄の当時の領有関係は、今では何も判らなくなってしまっている。同じ時代までにあった他の能登の荘園の領有者は、東大寺、西大寺、大伴氏、醍醐寺、後白河院、八条院、皇嘉門院などだから、似たようなところが持っていたのだろうな」  「すると、町野川ぞいのどこか、というわけね」  北川は笑った。  「俺は一応そう考えてみている。しかしはっきりこうだと断定できる証拠は何もないんだ。いずれ閑を見て現地へ行って来なくてはな。な、行くだろ」  北川は浜田の肩をピシャリと叩いた。浜田は眩しそうな顔で笑い返した。  宝さがしに行って宝を見つける。そして敏子と結婚する。……そんな空想をたのしんでいたのだ。  空はカラリと晴れあがり、海水浴には絶好の日和であった。  「泳ごうか」  浜田は敏子を誘った。二人は渚へ向って駆けだし、北川たちがそれを大声でひやかしていた。 5  秋のはじめに強い台風が関東を襲った。  町の商店は昼間からしっかりと戸をとざし、人も車もみなどこかへ逃げ込んでひっそりとしていた。  その三、四日前から、浜田はずっとアパートにこもりきりであった。窓を鳴らす風の音を聞きながら、高村英太郎の声を思いだしていた。  「君にいてもらっては、わたしの立場がなくなるんだ。済まんが今すぐやめて出て行ってくれ……」  敏子と浜田の関係が、敏子の婚家へ聞えてしまったらしい。どうやら高村は少し前から気付いていて、見て見ぬふりをしていたようであった。  嵐の中で、浜田はなすすべもなく坐っていた。生まれてはじめてのことのように、明日への不安が渦を巻いていた。  暮らしてはいける。食ってはいける。しかし、この先、愛する敏子とうまく生活していけるのであろうか。敏子に対する自分の愛情に疑いはなく、敏子に愛されていることにも疑問の余地はなかった。だが、それがどんな状況のもとでも不変でいられるだろうか。より大きな苦難に直面したとき、二人の愛が不変でいられるのであろうか……。  浜田は自信がなかった。  何年か共に暮らして、お互いに若さを失いかけたとき、敏子のような女が自分のような男に満足していてくれようとは、とても思えないのであった。  しがない運転手風情の将来は、もとよりたかが知れていた。財産もない。教養もない。十年たとうが、二十年たとうが、依然として車のハンドルを握って暮らしていることのほうが、マイホームに納まって職場で何人もの部下を持つ身になるよりは、余程確実なのである。  今まではそれでよかった。老いて働けなくなる日のことを除けば、ずっと運転手を続けるほうが安全で気楽な人生であるように思っていたのだ。  だが、今は違う。理想的な女を得て、その女の幸福のために、明日の満足のために、人生をきりひらいて行く必要が生じたのだ。  そして、生まれてはじめて浜田がみつめた明日は、強い不安しかもたらさないようなのである。  ひときわ風が強まった。  風は臨終の人の息のように、不規則に強まったり弱まったりしていた。弱まったときには雨がひどくなった。  いよいよ暴風雨の中心圏が近づいたらしい……。そう感じたとき、ドアがバタンとあいて敏子がころがり込むように入って来た。傘もなく、レインコートもなく、頭からずぶぬれになっていた。  浜田は愕いて敏子に駆け寄った。  「とうとう出て来ちゃった」  敏子は濡れて子供のように小さい感じになった頭を振り、しずくをはねとばして笑った。  「タオルかして」  浜田はあわてて手近にかけてあったタオルを渡す。  「足が泥んこだわ」  急いで雑巾をとってひざまずき、足を拭いてやった。敏子は濡れた髪を拭きながら片足をあげて浜田にあずけていた。  「もっと、タオル……」  浜田は雑巾を置き、二、三本タオルをだして来た。どれも使い古しであった。  「湯あがりタオル、ないの」  敏子は不服そうに言った。浜田はびっくりしたように押入れをあけて、一枚だけある湯あがりタオルを持ち出した。  「ドア、ちゃんとしめて」  立ってドアの錠をおろした。  「脱がせて」  背中を向けて言う。袖のないブラウスの背中のフックを外し、ファスナーをおろす。  敏子は着ていたものを次々に脱いだ。濡れた着衣が入口の板の上に、みじめな感じで積み上げられた。  「あなたのためにもと思って、できるだけ我慢してたのよ」  敏子はパンティーだけになると、体をバスタオルで拭きながら笑った。いつもの敏子にも似ず、弱々しい笑い方であった。  「俺のため……」  浜田は背中を拭いてやりながら言った。  「そうよ。あなたをクビにしたって聞いたとたん、あたしはとび出そうと思ったの。でも我慢したわ」  「どうして」  敏子の背中の肌は熱い感じであった。浜田は彼女の首筋に、そんなにうぶ毛が生えていたことをはじめて知ったようであった。  「負担になるからよ」  「俺のかい」  「そうよ。これでも、自分のことはよく判ってるつもりよ。あたしって、毎日一緒にいるとうるさい女なのよ。ふつうの意味でうるさいんじゃないのよ。なんていうか……きっといつもあなたに気を使わせちゃうわ」  「気を使ったっていいよ。一緒にいられれば満足だ」  浜田がそう言うと、敏子はピタリと動きをとめた。前を向いているので表情は判らない。  「先生には悪いが、もうあの家とも縁は切れてしまった。よく考えてみると、先生は出て行けとは言ったが、別れろとは言わなかった。案外心の底では判ってくれているのかも知れない。一緒にやっていこう。そうしてくれ。しあわせにするよ」  敏子は裸の体をうしろへ倒し気味に押しのけて来た。  「その気で出て来たのはたしかよ。でも……」  「でも、なんだ」  「あたし、自信がない」  「何の自信」  「あなたが好きだわ。愛してるのよ。独りで寝てるとき、あなたのことを思いだすと、いつだってここがキュッとなってくるの」  敏子は浜田の手をとって、自分の頂きへ導いた。  「ジーンとして、体が濡れてくるのが判るのよ。今だって、抱いてもらいたくて仕方がないの。あなたにかかると、あたしの体はすぐ自分のものじゃなくなっちゃうみたい。……本当よ。でも、それは男と女のこと。人間と人間ではどうかしら」  「俺が馬鹿だからか」  「いや。そんな言い方をしちゃ」  敏子はくるりと体をまわし、浜田の腰に腕をまわした。  「馬鹿とか利口とか、そんなんじゃないわ。でも、あたしって、いつもあさってのほうを向いている女なの。あなたは今日という日を確実に歩く人だわ。だから好きなんだし、一緒にいるととても安心なの。でも、毎日一緒だとどうなるか心配なのよ。あなたの歩調について行けるかしら」  「俺が君に合わせる」  「それよ。それがいけないんだわ。あたしって、そうさせちゃうかも知れないの。そして、あなたがそうなったら、あたしきっとこの前と同じことをしちゃうかも知れない」  「同じことって……」  「よそへ行っちゃうことよ」  浜田は笑った。  「行かせるもんか」  そう言うと裸の体をかかえあげ、胸に顔を押しあてた。  敏子は浜田の首をかかえるようにして、泣声で言った。  「つかまえてて。しっかりつかまえてて。離しちゃいやよ」  浜田はそっと畳の上へ敏子をおろした。  「蒲団を敷くよ」  「いいの」  敏子は目を据えたようにして言った。  「このまま突きさして。めちゃめちゃにしちゃって。お願い」  浜田は荒れ狂う風の音を聞きながら裸になると、敏子にのしかかっていった。  本当に敏子は潤み切っていた。一切の手続きを省いて、浜田は彼女の体の中へ躍り込んだ。敏子は悲鳴をあげ、浜田の下で背骨を反らせた。  嵐の中を、一羽の嘆き鳥が飛びはじめた。敏子はその翼の下で狂い、何度も硬直した。浜田はしっかりととらえられ、彼女の熱い肉の蠢きの中で往復した。  「翔ぶ。翔ぶわ。……翔んで行く……」  最後に敏子はそう喚いた。 6  冬が過ぎ、春になった。  あの国電の土手下の家の貧弱な桜の木に、ことしも花が咲いている。  風呂屋の主人は、近頃嘆き鳥が姿を見せないので、なんとなく気になっていた。  その頃、浜田は北川タカシたちと一緒に能登の山中にいた。もう何度もそのあたりへ通って、地形も附近の人々の顔もすっかり憶えてしまっていた。  「まったく、人がかわったみたいだな」  先を行く浜田のうしろ姿を見ながら北川が言った。  「悪いことに巻き込んじゃった気がする」  「彼は本気なんですよ。金が欲しいんだ」  小野は不快そうに言った。彼らは純粋な好奇心で時忠の宝さがしをしているのだが、浜田にとってそれは遊びなどではなかった。  敏子をよろこばすために、どうしても金が欲しかった。敏子自身は決してそんなに贅沢をする女ではないのだが、浜田にして見れば自分の貧しさが歯がゆかった。時折り見せる敏子の退屈した表情が笞となって、彼を一攫千金の夢へ走らせたのである。……その宝は、浜田自身の肌に刻み込まれた秘密なのだ。彼の心の中で、一羽の嘆き鳥が成長し、あらあらしくとびまわっている。  「でもあの、なんし岩というのは、本物かも知れないぜ」  その道は、町野川ぞいに半島の中央部にある柳田村へ達している。そして、岩のずっと手前の道をそれたところに、一部の古老が、なんし岩という名で呼んでいる巨岩があった。  「なんし岩がどうして本物らしいんです」  小野が尋ねた。  「なんしというのは、どうして、とか、なぜ、とかいうときにこのあたりで使う方言ですよ。なんして、とか、なんしにとか……」  「なんしてや、おらもよう知らん」  北川は土地の人々の喋り方を真似て笑った。  「あくまで時忠の宝が神鏡だという前提で考えているんだが、この町野川ぞいで、神鏡のようなものに関連する地名というと、あのなんし岩しかないのさ。嘆き鳥が町野川のどこかに渡って来ていたので、宝のかくし場所は嘆き鳥の絵を見ればおおよその見当はついたと考えてみるんだ。すると、その程度の暗号なら、町野川と判ったとたん、当時の人が更にくわしい位置まですぐ判らなければおかしい」  「それが、なんし岩だというんですか」  「そうだ。なんし、はなぜの意味ではなく、ないし、のつまったものかも知れない」  「ないし……」  「宮中で、天照大神の御霊代《みたましろ》を安置する場所を賢所《かしこどころ》というんだ。知ってるだろう」  「聞いたことはあります」  「アマテラスの御霊代というのが、問題の神鏡なのさ。はじめのうち三種の神器は天皇と同じ屋根の下に飾ってあったんだが、崇神《すじん》の時に剣と鏡は大和の笠縫邑《かさぬいのむら》へ移されたとされている。そして、模造の剣と鏡を宮中に移し、あとになって鏡だけ別の建物へ安置されることになったそうだ。それが賢所さ。おそれかしこむ場所だよ。鏡は三つの神器の絵でも一番大切にされて、今でも内掌典《ないしょうてん》という役名の、未婚の女性がそれを取扱う係になっているんだ。その係の役名は、古くは内侍《ないし》と言われ、内侍所《ないしどころ》というのは賢所の別名なんだ」  「内侍《ないし》……なんし。ないし岩がなんし岩になったんですかねえ」  「だといいが」  北川ははぐらかすように笑う。枯れ草の間から、まだらに緑の芽がのぞいていた。そして、なんし岩はすぐそこであった。  「平時忠の妹の滋子は、後白河上皇の女御になり、建春門院となったわけだけど、その建春門というのは内裏の東の宣陽門の外にあって、賢所のすぐそばなのさ」  すでに浜田はなんし岩に着き、きのうの作業のつづきをはじめようとしている。  「悪くないかな、その彼氏に」  男はからかうようにそう言い、馴れた手つきで敏子のバストを揉みはじめていた。  「嫌よ、いわないで。帰るわよ、あたし」  「ごめんごめん」  男は笑って誤魔化し、頂きに唇をあてた。  「噛んで。ひどくして……」  敏子は胸を突き出すようにして言った。都心のホテルの部屋の窓に、能登と同じ春の陽射しがある。  「この岩、おかしいよ」  浜田と北川は岩の下を掘り返していて、遊び半分巨岩によじ登った小野が、興奮した声で二人に言った。  「なんだ。どうしたんだ」  二人は小野を見あげる。  「ほら、この岩は全部同じじゃないんだ」  小野は岩の上部に危なっかしく足をかけ、風化して剥離したらしい岩片を、ごろごろと払い落とした。下の二人がとびつく。  「何かあるのか」  「岩の中のほうは鉄かなんかみたい……つるつるしてます」  「何だって」  北川がシャベルを抛りだして岩によじ登りだした。  「鏡みたいだ。どうしてこんなことができたんだろう。ステンレスをコンクリートでかためたみたいに、つるつるの金属が岩の中にとじこめられている」  北川は夢中で登って行った。  「どけ」  小野が岩から金属がのぞいている部分の足場から移動して下へおり、かわって北川がそこへ行った。  「まさに鏡だ。鏡が岩にとじこめられている」  北川は叫んだ。  「見つけたぞ。時忠の宝を捜しあてたんだ」  小野が、その下でとびあがって叫んだ。  「やった。やったぞ」  浜田が目の色をかえて喚いた。  「畜生、憶えてろ。あんな奴に奪《と》られてたまるか。俺はとり返してやる」  浜田は口に両手をあてて山へ叫んだ。  「敏子ォ……」  声に愕いたのか、あたりの木から小鳥が一斉にとびたった。  「おい、鏡のように反射するけど、こいつはどうも神鏡のようなものじゃなさそうだ」  浜田はギョッとしたようにふり向いた。  「まさか。宝の場所に違いないでしょうね」  「何かがあることはたしかだ」  北川は岩をおりはじめ、  「君も見ろよ」  と言った。急いで浜田が登る。  「なんだろう、これは。やっぱり鏡じゃないのかな」  岩角につかまった浜田が、左の掌でその反射する面を二、三度拭い、何気なく、ついでにその掌をかざして鏡面に映して見た。  とたんに岩が裂けた。浜田がつかまっていた岩が、ゆっくりと割れ、下の二人が必死で逃げはじめた。  「あ、あ……」  浜田は前へ倒れる巨岩にしがみついたままだった。  厚い壁が倒れるように、岩は浜田をのせて前へ崩れ、濛々と土煙をたてた。  「浜田ッ……」  北川が立ちどまって叫んだ。  浜田は巨岩の下になって落ち、土煙の中に消えてしまった。  土煙の中に、四角くすべすべした金属のかたまりが輝いていた。その不思議な直方体は、しばらく光をキラキラと反射させていたが、やがて頂上部から橙色の光を発しはじめ、その光はすぐ青から鋭い銀色にかわって、直方体と同じ光の角柱になって虚空へ伸びていった。  光は決して消えることがなく、どこまでもどこまでも、宇宙へ向って伸びていった。  高村英太郎がその現場へ来ている。科学調査団の団長の資格で来ているのだ。  科学者が、一人一人交替に、謎の直方体に対して組まれた木のやぐらへ登って行き、何かを聞くようにそのてっぺんの足場でしばらくじっとしている。  そのつるつるの面に、写真の陰画のような感じで、はっきりと人間の手形がしるされていた。そして、その前で何かを聞くようにじっとしていた人々は、降りてくると高村に向って、黙って頷くのであった。  「あれは宇宙のある知性体へ向けられた信号なんだ」  北川が、そばのテントのところで、駆けつけて来た雑誌社の男に言っている。  「彼らは、この地球の人類が、いずれ滅亡してしまうことを予測していたんだ。そして、ここにその監視装置とういか、測定装置というか、そういうものを据えつけたんだ。まさに人智をこえた仕掛けさ。宇宙人は地球の人類を、多分救ってくれるつもりなのではないだろうか。とにかく、彼らは人類が破滅ギリギリへ近づいたとき、あの装置が信号を発するようにしたのさ。そして、その時期を知る仕掛けというのが、なんと人類自身の中にかくされていたんだ。嘆き鳥の痣を持った浜田五郎がそれだ。彼らは日本人の血の中にそれをセットしたんだ。いや、運命の中にと言うほうが正しいのかな。知るべもない高度なメカニズムで自分たちの破滅の時をこの装置に告げて作動させる人間が生まれるよう仕組まれていたのさ。浜田は何も知らずに生まれ、生き、恋をし、そして必然的にここへ追いやられて死んだんだ。彼が辿った人生は、すべて宇宙人のセットしたこの装置へつながっていた。  平凡で、ただおのれの生命をその日まで慎重にながらえさせ、ここへ来て人類の滅亡を告げて死んだのだ。  遺体とあそこの手形を照合したら、まさしくあれは浜田のものだった。  調査団がいま、一人一人あそこへあがっているだろう。あそこへ行くと、宇宙人の我々に対する事情説明が聞けるのさ。いや、聞けるというのは間違いだ。いきなり理解させられるんだ。この件に関するすべてがね」  「本当だとしたら、恐しいことだな」  記者は言った。  「滅亡はいい。仕方ないし、我々もうすうす感じていたことだ。しかし、ある家系の中に、何千年か何万年か知らないが、そんなような時限装置が仕掛けられるなんてな。宿命論は正しかったんじゃないか」  「そういうことになるな」  北川も頷いていた。  「あの人は死んでしまった……」  高村家へ戻った敏子が、そう言ってまた泣いていた。  あの、自分でも抑制し切れなかった烈しい衝動のようなものが、すっかり影をひそめていた。  「あたしはあの人のために生まれた女だったんだわ。あの人を、あそこへ追いやるための……」  泣きじゃくっていた。  傍に高村英太郎が立って、それを悲しげに見おろしていた。  「自分を責めるのはよしなさい」  高村は言った。  「みんな、あの装置のせいだったんだ」  離婚も恋愛も、そして最後の浮気も、すべてが、嘆き鳥という一羽の鳥のなせるわざだったのである。  しかし、その嘆き鳥が果してきた、今日までの役割は、人々にどんな運命を与えていたのだろう。  「一人の浜田五郎を生むために、各時代の何人かの男女が、自分ではどうにもならない力にあやつられていたのだ。そして、お前はその最後の一人だったのだ」  すると、敏子は顔をあげて言った。  「違うわ。それだけじゃないわ」  「どうしてだ」  「風呂屋のおじさん、北川さんたち、そしてお父さん……。みんな彼をあそこへ追いやるために働いていたのよ」  「………」  高村はギョッとしたように敏子をみつめた。  「そうか。そうだったな。でも、もうおわった。いったい宇宙人は、人類をたすけてくれるのだろうか。たすけるとすれば、いったい誰と誰を……。みんなではあるまい。こんなに増えてしまったのだからな」  U・F・Oは、すでに未確認の物体ではなかった。それは、人類に対してさしむけられた、他の知性体のものであることがはっきりしていた。  あれこそ、人類すべての嘆きの象徴なのではないだろうか。 [#改ページ]    衝動買い  世間でよく衝動買いなんてことを言う。発作的に大した理由もなく何かを買ってしまうことをさす言葉なんだけど、なぜか衝動買いと言い、決して発作買いとは言わない。  おおむね悪い意味に使われるんだが、悪いと言ったって大して根の深い悪さではないようだ。あとでしまったと思い、なぜあのときこんな物を買う気になったんだろうと首をひねるのが関の山で、実害としてはそのあとで少しばかり節約を余儀なくされる程度のことだろう。  私の知っている女性で、ついこのあいだ昼間のテレビを見て、実にくだらない衝動買いをしてしまったのがいる。  自分の部屋より大きな敷物を買ってしまったのだ。  「もうすぐまた夏がやって来ますが、夏はお部屋にこういうのを敷いて、見た目にも涼しげに過したいものですね」  テレビ・ショッピング・コーナーというそのプログラムの司会者が言うのに釣られ、六畳間用一万何千円とか二万何千円とか言うのを、すぐ電話で申込んでしまったそうなのだ。  「この商品は二十しかありませんので、お申込み先着順二十名様に限ります。本日のお申込み優先権は、電話番号末尾6のかた……」  たまたま彼女の番号が末尾6だったものだから、それっとばかりにすぐ電話をしたというのだ。  「ところがさあ、届いた品物を喜び勇んでひろげて見たら、お部屋へ入り切らないのよ。あたしって、ダメねえ……」  と彼女はため息をつくのだ。  たしかに敷物は六畳用で、彼女のいる部屋も六畳なのだが、くやしいことに安アパートの六畳だからひどく寸づまりで、一方テレビで買わされたのは本式の六畳用。  「大は小を兼ねるって言うだろう。多少大きくたっていいじゃないか」  私がそう言うと、彼女はますますしょげ返る。  「それがねえ、細い竹を並べて編んだ奴なのよ。ひろげると板みたいに突っぱらがっちゃってどうしようもないの。端っこを少し切り落せばいいんだけど、そんなの面倒臭いし、第一バラバラになりかねないでしょう」  そういうわけで、配達して来たときのように丸く巻いてしまおうとしたのだが、そうやるとひとかかえもある太さになるばかりか、天井につかえたり壁を傷つけたりで大騒ぎ。  「で、どうした」  「勿体ないけど大家さんにあげちゃった」  「衝動買いするからだ」  私はそう言って笑ったが、その実私だってちょいちょい衝動買いをやっている。  以前は靴だのシャツだのネクタイだのが多かった。それがパイプやライターにかわり、ひと頃は辞典や古本にもなったが、今は主として玩具《がんぐ》である。  おとなのおもちゃではない。こどものおもちゃだ。どっちにしても、こどものおもちゃと特に断わるとなんとなくいやらしい感じがするから妙だ。小学生用電動こけし、なんて感じだ。  で、玩具と書くことにする。  子供が生れてもう四歳と何か月かになる。夕方の茶の間は大騒ぎだ。  「あれ買って。ねえ、あれ買って……」  と、テレビ漫画の合い間のコマーシャルが出るたびに、倅《せがれ》は目の色を変えて喚く。  「あ、こっちのがいい。ねえ、これ買って」  ブラウン管を指さして黄色い声のあげっぱなし。その手に乗るもんかと、次のコマーシャルのとき、先手を打って年甲斐《としがい》もなくおやじのほうが大声を張りあげ、倅に向かってブラウン管を指さし、  「ねえ、これ買ってえ……」  と言うと、倅めまんまと引っかかって、  「だめ。この次ね」  と、いつもおやじが言う通りのことを、もっともらしい顔で言ったりするから可愛くて困る。  それで、所用で外出した折りなど、ふとデパートへ立ち寄るとつい足は玩具売場へ向かっていて、  「このヘリコプターは、ローターが強くまわりすぎやしないかね」  と電池で動く奴をとりあげて店員に聞いたりしている。  「決して危くはございません。子供の指でもすぐに回転がとまるようにできていますから」  「じゃ、それをくれ」  と、三千いくらか四千いくらを弾んでしまう。家へ持って帰って倅を呼び、  「あけてごらん」  とニヤニヤしていると、  「また高い物を買って来たんでしょう」  と女房どのの嫌な顔。  「わあ、ヘリコプターだ」  それでもわが子のうれしがるさまを見て満足していると、三十分もしないうちにとなりの部屋でバッタン、バッタンと変な音がする。不安になってのぞいて見ると、大枚をかけたヘリコプターがローターを一本へし折られ、  「お父ちゃん、ほら、独楽《こま》みたいだろ」  と逆立ちさせられている。これならおとなのおもちゃを買ったほうが余程よかったと思ってみてももう遅い。翌る朝にはもうヘリコプターは見すてられ、一台二百円かそこらの、半分こわれたミニカーで倅めは至極ご機嫌に遊んでいる。  「親子二代の貧乏性か」  とつぶやきながらトボトボと家を出て仕事場へ行き、また下らない買物のためにせっせと原稿を書く毎日なのだ。  外出していて一番禁物なのが、空腹のときデパートの地下へ入ること。何でもかんでも食ってみたくなって、薩摩揚げを買いの、鱈《たら》子《こ》を買いの、すっぽんのスープの缶詰に昔懐かしい大学芋まで買って、そうだ家へ帰ったら冷たいマーティニを一杯引っかけてやろうかと、オリーブの瓶詰《びんづめ》を買ったところで急に飲みたくなり、家までの我慢ができなくて居酒屋みたいなところへ飛び込んで、鰺《あじ》のたたきで何本か空けるうちに腹の減ったのはどこかへけしとんでしまい、出るとあたりは暗くなっていて、そのまま馴染《なじみ》の店を梯子《はしご》してまわる。午前さまでご帰宅あそばしたときには、デパートの地下の食品売場から持って出た紙袋など、どこへ置いたか記憶もさだかでない有様となる。  ひょっとすると、衝動買いの最たるものは酒ではないだろうか。会社勤めをしていた頃は、退社間際に近くのそば屋で無理にもカツ丼を一丁詰め込んで、満腹のため今夕飲酒お断わりの状態にしてようやく家へ直行したりもしたものだ。  一日がいそがしかった日ほど、まっすぐ家には帰れなかった。ことに春先の宵《よい》など、一歩会社の外へ出れば生暖い風は吹くし、町のネオンは濡れたように見えるし、  「寄るか……」  てなもんで、一軒が二軒、二軒が四軒。蝦《が》蟇《ま》の油売りじゃないけれど、揚句の果ては落花の舞い。翌日は二日酔で尻の穴から小便が出るほど前夜の酒と水を溜め、おまけに勘定も溜めて月末は我身の愚かさをうらむばかりだった。  今でも同じことをしている。一軒が二軒、二軒が四軒……。ビルの一階のバーから出て同じビルの階段を登って二階のバーへこんばんは。これがほんとの梯子酒《はしござけ》って言う奴。新宿のゴールデン街なんてところへ行ったら、元旦の朝の郵便配達みたいになっちまう。ドアからドアへ軒なみで、そうなればもう一軒だって手が抜けない職人かたぎ。畜生、煙草屋の通りからはじめて一番奥の通りから出て、オトリ様の境内を突っ切って要通《かなめどお》りのほうまで行ってやる……まるで大陸横断でもするような決意を堅めちまう。  でも、そんなときは酒ばっかりで、あまり衝動買いなんてしないものだ。ゴールデン街の入口の八百屋の、十二指腸を患《わずら》って痩せちゃったのが昔馴染で、彼の店に栗とかサクランボが並んでる季節なら、ひょいと買って〈まえだ〉のお土産《みやげ》にもしちまうんだけど、そうでもなければ何も買いはしない。  ところがゆうべのことだ。ゴールデン街軒なみをやって、恒例によりオトリ様の境内を突っ切ろうとすると、うす暗いとこにパーッと灯りがついていて、何やら屋台が出ている様子。  へえ、珍しいな、と声に出してつぶやいて、ひょろひょろとそのほうへ行って見ると、痩せこけて貧相な爺《じい》さんが、  「インク、買わないかい」  と言う。  「何だ、インクか」  「いいインクだよ」  「パイロット……セーラー……」  「いや」  「パーカー……」  「いや」  「ペリカン……」  「いや」  「モンブラン……」  「そんな普通のじゃない」  「へえ、特別なのかい」  「そう、特別なの」  「いくら」  「ひと瓶千円ポッキリ」  「面白え。高くて面白え。買った」  ポケットからさっきの店のお釣りの千円札を一枚出してひと瓶買い、ポケットへ突っ込んで最終目的地の要通りへ。  〈ドム〉で飲んで〈壺《つぼ》〉で飲んで〈欅《けやき》〉で飲んで〈馬酔木《あしび》〉でゲロ吐いてママに叱られて、タクシーで仕事場へ辿りついたのが午前三時。なぜ仕事場へ帰ったかと言えば、答はかんたん家へ帰りにくかったから。  で、今朝の八時に目がさめた。どうして深酒した翌日はこう早くに目がさめるんだろう。起きるとすぐ、かねて買い置きの二日酔用のドリンク剤を飲み、オレンジ・ジュースを飲み、牛乳を飲み、それでもしゃっきりしないので缶入りのそばつゆをお湯で薄めて飲み、顔を洗って歯を磨いて、なんとか酔いを醒まして原稿にとりかかろうと努力した。  で、ひょいと机の上を見ると、見憶えのないインク瓶がひとつ置いてある。  「そうか、ゆうべ買ったんだな」  ひと瓶千円は高すぎると、今頃になってくやしがり、それでもなんとか気を取り直して椅子に坐ったが、とても原稿など書けたもんじゃない。  書けぬまま机の上をあれこれいじりまわし、ふと気が付いてゆうべのインク瓶の蓋《ふた》をあけ、どんなしろ物を掴まされたかと思いながら、もう使わなくなった古ペンをひたして、原稿用紙に一字いたずら書きをして見て驚いた。酔いが一瞬の間に晴れて、すらすらっと書けるのだ。あの暗がりにいた爺さんが特別のインクだと言ったのは、もしやこのことではなかったかと拾い物をしたように思ったのもつかの間、書いたものを読み返すと、なんとこれが一分の隙もない立派な文章で、おまけに遺書。  何でこんなものを書いたんだろうと破り棄て、また書くとまた遺書。縁起でもない、と少し気味悪くなり、また破いて気を落ち着けまた書くとまた遺書になる。何度書き直してもそのインクでは遺書しか書けないのだ。  ならば書かなければよさそうなのだが、前のを破り棄てるとどうしてもまた書いてみたくなる。とうとう根まけして最後の遺書は破らずに置き、インクとペンをいつものに変えて、締切りの迫ったこの原稿を書いたというわけなのだ。で、こうして書きおえてみると、なぜか生きているのがばかばかしくて仕様がない。この先いつまで小説書いて暮すのか。いったい小説なんて何になろう。家の者にしたって、俺が小説書いて稼いだ金を待ってるだけのことで、ほかに何のつながりもありはしない。書くことも飲むことも、もうすっかりくたびれた。折角いい遺書も書いたことだし、この辺で世の中におさらばしたっていいじゃないか。  それにしても、酔っ払ったときおかしな物を衝動買いするもんじゃありせんよ。               さよなら [#改ページ]    黙って坐れば  「そこへお坐りください。なるべく私の真正面に……はい、そこで結構です。ずいぶんお悩みのようですね。いえ、今のは世間なみのことです。ずいぶんお窶れになっていらっしゃるようにお見受けしたものですから。  「ひと目見て大きな悩みごとがあると当てたなんて、あなた、それはご自分でもう暗示にかかっていらっしゃるのですよ。だってそうでしょう。私は易相学の看板をあげて、ここにこうしているのです。易相のご説明はあとにするとしまして、そういう私の所へありありと顔に窶れをお表わしになった方が入っていらっしゃれば、これはもう大きな悩みごとをかかえ、迷っていらっしゃる方だと言うことはすぐ判りますよ。ええ、他愛もないことです。商売本位の易者でしたら、あなたがそんな風におっしゃれば、待っていましたとばかりに、あなたのそういう感じ方につけ入って、いろいろなことを喋りはじめるはずです。迷って、ご自分ではもう判断がつけにくい。そういうのが、一番のカモと言うわけです。  「ひょっとしたら、あなたは今までにあちこちの易者に運勢を見てもらったりなさったのではありませんか……。そうでしょうね、やはり。で、いかがでした。どの人もたいてい似たようなことを言ったはずですよ。ひんぱんに見てもらえばもらうほど、易者が言うことはだいたいみな同じだということが判るはずです。  「それは当然ですよ。大道の易者だって、それ程いい加減にやってるわけではないのです。易とか占いとか言いましても、これでなかなか種類が多いのです。そうですね、ざっと五十くらいでしょうか……おなじみの手相、人相、家相、それに姓名判断、九星術、天文術、四柱推命学、そのほかに墨色判断とか、いろいろあります。でも、そういうものの根源を辿って行くと、みな似たような原理に基いていることが判るのです。大ざっぱな言いかたをすれば、みんな同じ学校で勉強して来たようなものですからね。ところが、面白いのは手相や人相にしろ、易にしろ、見る側の人がいる位置によって少しずつ表現法が変化するのです。人通りの多い、いかにも立地条件のいい場所にいる人に見てもらったことがおありでしょう。そういう人はだいたい言うことがテキパキしていて、短い間に結論を言ってくれます。それに余り悪いことは言いませんね。それはつまり、営業的に考えているからなのです。必要なことを素早く並べたて、なるべく早く相手を納得させると、さっと結論を出して相手の質問の余地をなくそうとするわけです。嫌なことを言えばつい時間が長引きますからね。その間に次のお客が通りすぎて行ってしまうかも知れないでしょう。でも、でたらめを言っているわけではありません。ちゃんと勉強した通りにやっているのですが、やはり通りいっぺんと言う感じはありますね。  「そうでしょう……。で、それよりもうちょっと暗くて、余り人通りの多くない場所にいる易者さんは、明るい所の人のように立板に水ではありません。ちょっとブスッとした感じで、少し勿体をつけるように見えます。でも、相手を自分のペースにまき込むと、少しずつ能弁になり、やはり立板に水式の状態になりますけれど、少しはお客さんにとって良くないことも言います。人間、いいことずくめであるわけがないんですからね。ちゃんと悪いことも出ているわけで、それを言ってくれるのです。人通りも大して多くないし、うす暗いし、そういう所の人は机か椅子を持って来ていますから、少しは質問があって見る時間が長くなってもかまわないわけです。  「で、その次は建物の中にいて看板だけを出してお客を待っている人たちです。こういう人はすでに一部の人々に名を知られ、かなり実力があるとされています。そういう所へ行きますと、手相や人相のほかに、姓名判断の技術やら、筮竹《ぜいちく》を用いたいわゆる易占い、場合によっては文字を書かせてその筆勢などから性格や運勢を考えたり、いろいろ複合したかたちでやってくれるのです。こういう所では悪いこと、嫌なことをズバズバ言われます。お客は履物を脱いであがって来ていますからね。先に嫌な部分を並べても、逃げられるおそれはないわけです。そうしておいて、おもむろにあなたの性格上の長所とか、悪いことが起らぬようにする方法とかを教えてくれるのです。将来に危険が待っていて、それを指摘されるのですから、お客はついその先生を頼る心理になります。そして後日それがズバリ当たったとすると、嫌なことを避けられた人も、避けられなかった人も、同じようにその先生を信頼し、また見てもらいに行くようになるのです。  「結局、商売と言ってしまえばそうなります。でも、みんなインチキをやっているわけではないのです。だから、今言ったことをよく頭に入れていただければ、どんな状態の時は、どういう場所にいる人に見てもらえばいいか、自然に判るはずです。たとえば、ほんの遊びのつもりなら、なるべく明るく人通りの多い場所にいる人に見てもらうほうがいいでしょう。悪いことは言わないのですからね。でも、この頃どうもツイていない……麻雀は敗けてばかりだし、上役にも睨まれるようなことをしてしまう……などと言うときは、うす暗く人通りの少い場所にいる人の前の椅子に坐って、少しじっくり聞いて見るのです。何月ごろまでは万事自重したほうがいいとか、こういう年輩の人には注意しろとか、いろいろ教えてくれるはずです。  「でも、遊びだったり、そう大したことでもないのに、建物の中へ引っ込んでいる、いわゆる名人上手と言ったような人に見てもらうのは余りおすすめできませんね。万事大げさになってしまいます。誰しも持っている将来のかげりを、強く指摘されるわけですからね。気になってしまいます。自重しすぎて、かえってかげりを大きくしてしまうことだってあるのです。  「実はこの易相学と言うのは、そういうことを取扱うのですよ。私も当然観相や易断をいたしますけれど、それよりも各種の占いについて助言をさせていただくのが本筋の仕事なのです。だから、遊びの時は明るい場所の人に見てもらいなさい、などということも言うわけです。でも、それはほんの初歩的なことでして、あなたのようにあちこち見てもらった揚句、かえって判らなくなってしまったとか、運勢を見てもらった結果の対策をどうするかと言う場合にお役に立つのです。  「ではちょっと拝見……  「お名前と生年月日をこの紙に……  「ご主人のお名前も……  「はいそれで結構……  「ご主人に浮気をされましたね。今までずいぶんあちこちでお聞きになったでしょうから、相性とか卦《け》のこととかのご説明は省きます。問題はこの場合、あなたの性格です。あなたは比較的素直な性格ですから、今まで易者たちに注意されたことを信じて、当分の間なるべくご主人に強く出ないようにとか、相手の女性に表立った抗議をするとかえってご主人が離れて行ってしまうとか、そういうように言われたことをよく守っていらっしゃったわけです。……そうでしょう。そうして耐え忍んでいるうちに、急に悩みの種が自分のほうから遠ざかり、あなたはご主人の浮気について苦しまなくてもいいことになる……どの人もそう結論を出してくれたのでしょう。その通りなのですよ。  「あなたは専門家たちの言うことを信じ、その通りにやって来た……。でも耐え忍ぶのは苦しいから、もうそろそろ運勢が好転しはじめはしないか、とか、人が違えば全然別なことを言うのではないか、とか、いろいろ思い悩んで、それこそしょっ中運勢をあちこちで見てもらっていたのですね。  「ここでひとつよく考えて見てください。あなたの将来に対する予言はみな当たっていました。十人が十人とも同じことを言うのですからね。あなたの運勢は非常にはっきりと出ていたわけですよ。そこで私の易相学が必要になるわけですが、あなたに関するすべての予言が正しく、あなたがその対応策をきちんと採っていらっしゃったということは、新しい人に見てもらうたび、あなたの未来はあなたに向かって、その分だけ近づいていたということです。なぜと言って、あなたはご自分の未来を正確に知って……つまり悩みの種が自分のほうから解消してしまうということを予知して、必ずそうなるような態度を採り続けていたわけなのです。それがどういうことを意味するとお思いですか……。介入ですよ。ご自分の未来に対する介入なのです。ご自分の未来へご自分が手をかけ、手もとへ引き寄せ続けていたことになるのです。いろいろな人が同じことを言ったというのは、あなたが正しい態度で未来を引き寄せ続けていらっしゃったからなのです。そして、全くの他人があなたの未来を見たと言うことは、遠い未来ならばあいまいで主観的でしかないものが、より確実な、客観的な事柄に変化して来たということです。易相学とはこういうことです。易は多少未来に介入する性質を持っています。第一と第二の二人の人に見てもらって、どちらが正しいかと言うことになれば、これは第二の人のほうに決まっています。第一の人が見た未来は、第二の人がまた未来を見るという要素が抜けているのですからね。私たち易相学を学んだ者は、その未来に介入する度合や、介入の重なり具合などを考え、万一未来が思わしくない方向へ変化していたら、次にはどの方角にいる、どんなタイプの人に、どういう未来を予測してもらったらいいかということを教えてさしあげるのですよ。  「ええ、そうです。ですから、運が良いほうへ向かっているときなどは、あまりしばしば見てもらわないほうがいいですね。へたをすると今のあなたの逆で、折角の好運が悪いほうへ変化してしまうことになりかねません。未来と言うのは大変に変わりやすいもので、ちらっと見ただけでも変化してしまうのですから。たとえば競馬で、あなたが明日のこれこれのレースで、この数字の組合せの馬券に十万円の配当がつくということを知ったとしましょう。あなたが黙って誰にも言わず、ご自分もお買いにならなければその通りの結果が得られますが、百円が十万円になると知ったらそうはしていられませんね。あり金叩いてその馬券を買った上に、これはと思う人にも教えてしまうでしょう。そうすれば当然配当は減ってしまいます。減るだけならいいのですが、ひょっとしたら別の馬が勝つような未来に変わってしまうかも知れません。つまりそれと同じことで、易者に同じことばかり見てもらっていると、未来がとんでもない形に変化してしまうのです。  「さて、それであなたがこの先、未来を見てもらっていい人はどこにいるか、調べてさしあげましょう。  「ええと……。おや……あらいやだわ。これは私ですわ。偶然ですわねえ。あなたの悩みをもっと早く解消してさしあげられるのは、この私だそうですよ。  「では、易相学による答どおりに私が今一度、あなたの運勢を占ってさしあげましょう……。まずこの筮竹を……。  「何でしょう今の音。きっと事故だわ。車の事故よ。ちょっと失礼……近頃はよく事故が起きますからねえ。私、多少弥次馬《やじうま》なんですの。そう、この窓から外の通りが見えるんです。そうそう、その掛け金を外してください。  「あら、やっぱり事故だわ。まあ、道が血だらけ……。あの車があの人を轢《ひ》いたんですわね。気の毒に、あれじゃもう死んでしまっていますわ……。  「あら、どうなさったの……。え……あの血まみれで倒れているのがあなたのご主人……。まあ……。  「でも、やっぱり当たったじゃありませんか。あなたの悩みの種は、自分のほうから遠のいたのですよ。ご主人が死ねば、もうあなたはご主人の浮気で悩むことなんか……。  「ちょっと待って。あなた、どこへ……。あなた、待ちなさい。見料がまだですよ。あなた、料金を……」 [#改ページ]    ボール箱  突然、私は自分を意識した。  それが誕生というものだとしたら、ひどく呆気《あっけ》ないものであった。平べったく折り畳まれていた体が手早くおしひろげられ、次の瞬間くるりとうつぶせにされた私は、重ね合わされ、閉じられる尻の感覚にうっとりとしていた。  正直言って、何が何だか判らない間に、私はこの世に生まれ出ていたのである。  ただ、幅の広い、ピッチリと肌に吸いつくテープが尻に交差したとき、自分をとても強くたのもしいものに感じたことはよく憶えている。  だが、それもごく短い時間のことであった。私はまたクルリと一回転させられ、尻を下にした。いま思うと、そのときはもうベルト・コンベアに乗せられていたのだ。  だが、そのときの私は、あたりを満たした白い蛍光灯の光を感じるのに夢中で、自分が揺れながら移動していることにさえ気づかずにいた。  仲間……いや、兄弟と言ったほうが正しいのだろうか。とにかく、自分と彼らが別々な存在なのだと気づいたのは、そのベルト・コンベアに乗っているときであった。私の前後で彼らは揺れており、それで私は自分も同じように揺れているのだなと思った。彼らの体には私のと同じ模様がついていて、大きさもまったく同じであった。そんな模様が自分の体につけられていることも、そのときはじめて自覚した。  少し心細かった。生まれたばかりでたしかなことは判らないが、私は彼らと密着していないことが気になって仕方なかった。  私は生まれ、兄弟たちとバラバラに分れて存在しはじめたのだ。心細いのは、単独で存在することに慣れないためであったようだ。  私はその心細さを追いはらうために、すぐそばにいる仲間に話しかけた。  「なぜ揺れているんだろうな」  仲間は行儀よく一列に並んで揺れていた。私が話しかけたのは、その列の私のすぐ前にいる仲間だった。  「知るもんか」  彼はそう答えた。  「俺たちは動いているんだ。どこかへ運ばれているんだよ」  私のうしろの仲間が言った。  「どこへ行くんだろう」  「知るもんか」  その言いかたは、前の仲間とまったく同じ調子だった。  「いずれにせよ、俺たちは満たされるのさ。結構なことじゃないか」  うしろの仲間は急にうれしそうな様子になった。  「満たされるんだ。おいみんな、これから満たされるんだぞ」  彼がそう叫ぶと、一列に並んだ仲間たち全部に、よろこびの感情が伝わりひろまって行った。  「満たされる。満たされる。みんな満たされる」  仲間たちの間に合唱が起った。私もいつの間にかその合唱に加わっていた。  生まれてよかったと思った。もうすぐ満たされるのだ。この体いっぱいに満たされるのだ。それこそ生きるあかしなのだ。生きる目的なのだ。  ベルト・コンベアの震動のせいばかりではなく、私は歓喜に体を震わせていた。間もなく満たされるという期待が、私を有頂天にさせていた。  しかし、ヒューという細い音がしたかと思うと、ガタッと私たちは一度大きく体を揺すられた。前へつんのめる感覚が生じ、私は危うくそのベルト・コンベアからころげ落ちるところだった。  「どうしたんだ。進まないぞ」  うしろのほうで心配そうな声が聞えた。  「まさか俺たちにこのままでいろというんじゃあるまいな」  「冗談じゃない。早く満たしてくれ」  ベルト・コンベアが停止したとたん、不安がいっせいにひろがって行った。もちろん私もジリジリと移動の再開を待っていた。もしこのまま一生うつろな体でいたら……そう思うと矢も楯もたまらくなって、私も喚いた。  「進めてくれ。このままにしないでくれ」  その停止は、私たちに苦痛をもたらした。まだ一度も満たされたことがないどころか、何ひとつ体の中へいれていないのだ。  その不安な時間はどのくらいつづいたのだろうか。随分長かったような気がする。そして再びガタンという衝撃とともに、ベルト・コンベアが動きだしたときは、もう何でもいいし、完全に満たしてくれなくてもいいから、とにかく体の中へ何かをいれてもらいたいという、切羽詰まった状態に陥っていた。  何でもいい、早くこのうつろな体にいれて欲しい。あさましい欲望に身もだえているうちに、いつの間にか私はベルト・コンベアの終点へ運ばれていた。  よろこびは突然やって来た。  四角い私の体の隅に、丸くしなやかなものがひとつ、サッと入って来た。  あ……。私は生まれてはじめて体に迎えいれた快感に痺《しび》れた。丸くしなやかなものは、素早く、しかも正確に私の体を満たしはじめた。満たしたものの重みが増すにつれ、私の快感も登りつめて行った。  そのときの、息つくひまもなく次々にこみあげて来る歓びを、私は忘れられない。底がすき間なく埋められ、ジワジワと上へ登って来るのだった。そして遂に私は一杯にされた。完全に満たされたのだ。  そのあいだも、私の体は移動させられていた。そして完全に満たされ、歓喜に震えていると、またしても唐突に、バタバタと体の上端が折り畳まれ、あの体にピッタリと吸いついて来るテープが、私の体を密封したのである。  私は最初に感じたたのもしさの何十倍もの強さで、自分を逞《たくま》しいと思った。充分に満たされた私は、斜面をすべりおり、引きずられ、抛《ほう》られ、積みあげられたが、そうした乱暴さも、どこかに優しい思いやりがあるようで、苦にはならなかった。  私は静止した。静止するとすぐ、私の体の上に仲間の重味が加わって来た。私自身、仲間の上に乗せられていたのだ。やがて前後左右が満たされて歓喜に震える仲間の体と密着した。  「すばらしい。俺はもういっぱいだ」  積みあげられた仲間のどこからか、そういう叫びが聞えて来た。私もその叫びの主と同じように幸福だった。この歓びのためにこそ生まれ出たのだと思った。  積みあげられたまま、私はまた移動しているようであった。だが今度は暗いままだった。切れ目のないこまかな震動と、ときどきやって来るゆっくりした揺れの中で、私は満足し切っていた。  ところが、どこか遠くのほう……積みあげられた私たちの仲間のはずれのあたりで、皮肉たっぷりな声がしはじめた。  「みんなご機嫌な様子じゃないか」  その声は疲れたように嗄れていた。  「さぞかし満足なことだろうさ。でも、そう長く続きはしないんだぞ」  「誰だい、そんな嫌なことを言う奴は」  仲間の誰かが陽気な声で尋ねた。  「ふん……」  皮肉な嗄れ声が言い返した。  「俺たちはいま、トラックで町へ運ばれているんだ。町へ着いたら、お前らはみんな封を切られ、体の中のものを吐きださなけりゃならないんだぜ」  「嘘つけ。せっかくいっぱいにされたのに、すぐからっぽにするなんて……」  「子供だよ、お前らは」  嗄れ声はあざわらった。  「だいいち、お前らは自分の体の中につめこんだのが何だか知らないのだろう」  「知らないんだ」  奥のほうから別な声がした。  「このまあるいものは何なのだ、教えてくれ」  「ああ教えてやるとも」  嗄れ声が言った。  「蜜柑《みかん》さ。お前らが体につめこんでるのは、蜜柑なんだよ。蜜柑は町に着くと店先へバラバラにして積んで売られるんだ。だからお前たちは、封を切られ、からっぽにされちまうんだ」  トラックの積荷である私たちは、シーンと静まり返った。  「いいさ、それも仕方のないことかも知れない」  嗄れ声のすぐそばにいるらしい仲間が、あきらめたように言った。  「僕らは蜜柑をつめこんでいる。たしかにその通りだろうな。そして、蜜柑は町へ運ばれて店で売られる。それもたしかなことだろうよ。そのために僕らは蜜柑をつめこまれ、町へ運ばれているんだ。そして多分、町へ着けば封を切られ、中の蜜柑を吐きだすことになるんだ……」  悲鳴とも嘆息ともつかない声が、走るトラックの中に溢れた。  「だが、それでおしまいじゃなかろうね。僕らは体を満たすために生まれて来た種族だ」  「空気以外のものをな」  嗄れ声はあいかわらず意地の悪い言い方をしていた。  「そうさ」  その声は嗄れ声の挑発にも乗らず、我慢強く続けた。  「僕らは箱だ。ボール箱だ。蜜柑を入れるだけが能じゃない。体につめた蜜柑を出してしまったあとだって、まだいろんな物を入れることができる」  「そりゃそうだ」  嗄れ声が笑った。  「俺の体にはいま、綿のジャンパーと汚れたタオルと弁当箱と古靴が入っている。このトラックの運転手の持ちものだ。だが、以前はそうじゃなかった。俺は文房具をつめる箱だった。子供が学校で使う文房具だ。ひとつひとつきちんと包装した奴が、ギッシリつめこんであった。俺は満たされていたんだ。俺だってはじめからこんなじゃなかったんだ」  嗄れ声はなぜか怒りはじめていた。  「箱はなんだって入れられる。だがなお前たち……世の中なんてそんなもんだぜ。お前らは蜜柑をいれるために作られた。蜜柑をお前らの体につめ、それをひとつ残らずとり出したら、そのあとお前らがどうなるかなんて、誰も考えていちゃくれないんだ」  「まさか」  「ほんとさ。こいつは間違いのないことだ。蜜柑を吐きだしたあとのお前らは、ただのあき箱さ。邪魔っけなからっぽのボール箱なんだ。作った奴でさえ、そこから先のことは考えちゃいないんだ」  「そんなひどいことって……」  誰かが泣声をだした。  「この蜜柑が目的地へ着いたら、俺たちはそれでおしまいなのかい」  すると嗄れ声は狂ったように笑いだした。  「ああそうだ。お前たちはお払い箱さ」  「それでどうなるんだい」  「運が悪けりゃ、すぐに燃やされて灰になる。ごく普通に行ったとして、尻のテープをひっぺがされ、平たく畳まれてどこかに積んでおかれるんだ。そのうちに、まとめてどこかへ運ばれておわりだな」  「この蜜柑を出してしまったら、もう二度とこの体は満たされないのかい」  「そのあとは運さ。運次第よ。運がよければ何か別な物をいれてくれるかも知れない。俺みたいに、油じみた綿のジャンパーとか、汚れたタオルや古靴とか……」  「なんだっていい。満たされたいよ。生きていたいよ」  「でも、あきらめたほうがいい。蜜柑を入れる箱は蜜柑箱だ。蜜柑を出した蜜柑箱は、ただのゴミなのさ。そしてお前らは、体に蜜柑箱だと書かれちまっている。お前らがたとえその体に札束をギュウギュウ詰めにしたところで、やっぱり蜜柑箱は蜜柑箱なんだ」  「そういうあんたの体には……」  嗄れ声のすぐそばにいる仲間が、相手の体を眺めなおしたようだった。  「筆箱と書いてあるね。あんたは筆を入れる箱だったのかい」  嗄れ声はまた気違いじみた笑いかたをした。  「俺は筆箱を入れる箱だよ。運と不運があると言ったろう。ツイてねえのさ、俺は。何と俺は、箱をいれる箱に生まれついちまったんだ。俺というボール箱の中には、小学生が使う筆箱が……いいか、筆箱だって箱なんだぞ」  嗄れ声は泣きはじめているようだった。  「箱を入れる箱。俺は箱を入れる箱だったんだ。人に売られる前の筆箱は、なんにも入っちゃいないんだ。から箱なんだ。そいつを俺はギッシリつめこんで……どんな気持だか判るかよ。形ばかりギッシリだって、決して満たされやしないんだ。ギッシリなのはから箱でなんだからな。お前ら、町に着いて蜜柑を吐き出したあとのことなんか心配しやがって、贅沢なもんだ。何はともあれ、いまこの瞬間はしあわせだろうが。満たされて、身震いするくらいしあわせなんだろう」  「筆箱さんよ。そう泣くなよ」  「筆箱じゃない。筆箱の箱だ、俺は」  「中身を出したあとも、そうやって長生きしてるじゃないか。元気をだせよ」  仲間はみんなそう言って嗄れ声の古いボール箱をなぐさめてやった。しかし、その間にも私たちは終点である町へ近づいていた。  トラックからおろされた私たちは、陽《ひ》の光の下でちりぢりに別れさせられた。その青果市場は大そうにぎやかだったが、私はそこでぞっとする光景を見せつけられねばならなかった。  私がほかの二、三の仲間とひとかたまりに置かれた場所のすぐそばに、大きな焚火《たきび》が燃えていたのだ。人間たちは寒そうに手をこすり合わせてその焚火のそばへ集まり、ときどき板きれや……そして私の仲間であるからのボール箱を火にくべていたのだ。  私は自分たちの行く末がどうなるかを、じっとそこでみつめていなければならなかった。絶望感がこみあげて来たが、唯一の救いはまだ体の中にギッシリと蜜柑をつめ込んでいることであった。  しかし、私は仲間が次々に燃え尽きて行くさまを眺めているうちに、自分が決して完全には満たされていないことを悟った。  丸い蜜柑と蜜柑との間には、かなりの隙間があったのだ。暗い前途を思うたび、完全には満たされていない現在を不足に思う心がつのった。  もっと満たされたい。まったく隙間なくこの体を埋め尽してもらいたい。……そういう欲望に我を忘れた。  「もっといれて。もっといっぱいに……」  テープできっちりと封をされているくせに、私はそう喚いていた。  「おい、取り乱すなよ」  見かねて仲間がそうたしなめたが、私は喚きつづけた。  「もっといれて、もっといっぱいに……」  蜜柑を入れたボール箱としては、私は最高に幸運だった。青果市場から町の果物屋へ運ばれてすぐ、他の二箱はあけられ、中の蜜柑は店員の手で店先へ積みあげられてしまった。だが、私はそのまま店の奥に置かれていた。  二日、三日とたったが、私はコンクリートの床にじっとしていた。二日目までは、私のそばに仲間のふたつのから箱がいたが、三日目に店員が荒っぽく折り畳んでどこかへ持って行ってしまった。  畳まれる直前、仲間が私に向かって叫んだ。  「さよなら。つまらない一生だったよ」  私も何か言い返そうとしたが、そのときはもう彼らは箱としての存在ではなくなってしまっていた。  箱は物をいれるためのものだ。物をいれられてこそ生きるよろこびがある。ギッシリと詰め込まれれば、この上もない快感に体が震えさえするのだ。  だが、人間は蜜柑を入れるためだけに箱を作りだし、その役目がおわると、まだ充分使えるのに、あっさり見捨ててしまうのだ。  そうやって見捨てられた仲間がどうなったか、私にはまるで判らない。だが多分みな箱としての一生を閉じさせられたことだろう。  幸運にも、私はひと箱まるごと蜜柑を買う客にめぐり合い、果物屋の店員にその家まで運ばれた。そして台所の湿った暗い棚に押し込まれ、少しずつ中の蜜柑を減らされて行った。  そのときばかりは、うつろだなどとか、満たされないなどとか言ってはいられなかった。最後の一個がとり出されるまで、少しでも時間が稼げればそれでよいと、必死に念じていた。  しかし、それも長い間のことではなかった。からにされた私は、明るい場所へ引きだされ、放っておかれた。その間に、人間は少しずつまた私を満たしはじめた。  ビールの王冠や厚いビニールの袋、つめ物にした発泡スチロールなど、さまざまの燃えにくいゴミが私の体の中へ投げ与えられたのだ。  それでも私は満足だった。何でもいいからこの身を満たしてくれさえすれば、箱は満足なのだった。  そして遂にいっぱいにされた。私の人生の第二の頂点であった。その頂点はかなり持続した。燃えないゴミで満たされたまま、半年あまりも放って置かれたのだ。  私の幸運は二度続いた。或る日、燃えないゴミたちが私の体から急に去った。本来なら私の生命もそこでおわるはずだったのだろうが、どういうわけか中身だけが捨てられ、私は家の外の道にとり残された。そこへ子供たちがやって来て、一人が私の体の中へ入りこみ、二人がそれを押したり引いたりした。私はコンクリートの道で、すり切れ、へこみ、破れかけたが、人間の子供で満たされたことに、うっとりとしていた。  子供たちはその遊びが気に入ったと見え、近くの池のある公園へ私を運んで行って、それから毎日同じ遊びをくり返した。  私は日ならずしてヨレヨレになったが、まだ生きていた。下がコンクリートではなく、公園の土だったから生きながらえたのだろう。しかし、何か物を詰めてもらうという点では、もう絶望するしかなかった。私の四隅は裂けて口があき、二度と箱としての役目を果すことはできなくなってしまったのだ。  そして、子供たちも私との遊びに倦《あ》きた。風の吹く夜、私はその強い風にころがされ、池へ近寄って行った。  水はボール箱にとって恐怖の対象であった。風は底意地悪く私をその水辺へ押して行った。  もうこれまでか……。  私は観念した。風が吹きつのり、私は遂に吹きころがされて水の上へ落ちた。落ちたがまだ浮いていた。私は帆船のように風に吹かれて池の中央へ動いて行った。  ボール箱は水を恐れる。その水が私の体にどんどん浸み込んで来た。私は沈みはじめ、風に吹かれてもそれ以上は動かなくなった。水が浸みこみ、私はばかばかしいほど重い体になった。  沈む。沈んで行く……。  子供たちと遊んで過した公園が見えなくなった。空も、風も、私の意識から消えた。  これで私の一生はおわったのだ。そう思い、あきらめた。池の底へ、私はゆっくり、ゆっくりと沈んで行く。  ああ……なんという快感……。  私はうっとりとしていた。なんと、私は満たされていたのだ。生まれてはじめて、完全に満たされていたのだ。私の体の中に、完璧な密度で水がつめこまれていた。  融けそうな快楽であった。いや、体はいずれ水に融けてしまうことだろう。しかし、それは体を満たされたことによる快楽によって融け崩れたのと同じことではないか。  静かに沈下しながら、私は自分の体を水で埋めつくされ、愉悦に痺れていた。  「もう死んだっていい」  私はつぶやいた。これほど完璧に満たされたボール箱がほかにあっただろうか。これほどの快感の中で一生をおわった者がほかにいるだろうか……。  もう時の観念も必要なかった。満ち足りた私は、ジワジワと融けながら、今も愉悦の中にいるのだ。 [#改ページ]    赤い斜線  煙草《たばこ》……。結構です。いえ本当に。もう煙草なんて、とっくにやめちまってるんです。遠慮なんかしやしませんよ。そんなもの、したってはじまりませんものね。何しろ乞食《こじき》なんですから。  ルンペン。宿なし。おもらい。……どう言ったっておんなじこってすよ。乞食には違いないんだ。あたしはね、まぎれもない乞食ですよ。もう街を歩いてたって、恥ずかしくもなんともありませんね。ええ、そりゃほんとです。こんな身になって、強がりを言ったって仕方ありませんからね。  それに、こいつは乞食になってみなけりゃ判らないんですけど、みんな乞食の顔ってのは、よく見ないもんなんです。いえ、あんたみたいな人は別だけどさ。  でも、なんだってまた、乞食の写真ばっかり撮って歩くんです。写真なんてのは、綺麗なものを撮って楽しむんじゃないんですか。こんな汚い姿をパチパチ撮りまくって、いったいどこが面白いんですかねえ。あたしには判らないな。  ええ、撮ったことはありますよ。……冗談じゃないですよ。生れたときから乞食だったわけじゃあるまいし。まだこう見えたって五十ですぜ。そう、五十。誕生日なんかどうだっていいじゃないですか。そんなものにはもう縁がないんです。ただ、齢を憶えてるだけ。自分の齢だからね。  そう、カメラに凝ったことだってあるんだ。ありますともさ。もっとも、あんたのみたい、そんないいのじゃなかったかも知れないけど、とにかく次から次、いろんなカメラで撮りましたよ。たいていは人間だけど、旅先なんかでは、海とか山とか、それに自分が乗った乗り物とかね。こう見えたって、飛行場で飛行機撮ったこともある……自分が乗る奴をね。北海道へ行ったんですよ。なんという飛行場だったかな。  乞食の顔を見ない……ええ、ほんとですよ。なぜだかは知らないけど、みんな見てるようでその実《じつ》見てませんよ。遠くからね、あそこにいるなって気がつくでしょう。そうすると、目玉がこっちへ来ないんだ。遠くからよけて来やがる。あれはきっと、当人も意識しちゃいないね。  意識がどうしたの……乞食がそんな言葉を使っちゃおかしいって言うのかね。笑いなさんなよ。意識ぐらい、そうしちめんど臭い言葉じゃないだろうに。行くよ。俺。別に写真撮られてうれしいわけじゃないんだからね。そんなカメラマンなんて、珍しいから撮らせてやってるんだ。冗談じゃねえや。  まあいいさ。おこったってはじまらないからね。あんたいくつ。……そう、まだ若いんだね。元気があっていいや。でもね、さっきも言ったように、はじめっから乞食やってる奴なんていないぜ。そりゃそうさ。みんなはじめはふつうなんだ。曲りなりにもね。それがだんだん乞食になるんだよ。だんだんに、だんだんに、だ。  おかしいね。あんただってそのうちだんだんに乞食になって来るかも知れない。笑うけどさ、こいつばっかりは判らないぜ。まあ、乞食になっちまう奴なんて、滅多にいないけど、ならないときまったもんでもないよ。その証拠にさ、みんな乞食のことを見ないじゃないか。気の毒がってるんじゃないね。あれはこわいんだよ。今に自分もこうなるんじゃないかってね。いくら自信があったって、みんな誰でも心のどこかでこわがっているんじゃないかな。  いいこと言うね。そうさ、乞食だって人間だ。ただおちぶれちまった、どうにもならないって、それだけのことさ。落ちるとこまで落ちはしたけど、猿になっちまったわけでもない。ふつうの人とおんなじだよ。でもね、乞食になってみれば判るけど、ほんとはふつうの人とちょっと違うんだ。どこがって……それはいろいろさ。  教えてやろうか。でも、あんたきっと笑うな。いや、笑っちゃいけないと言ってんじゃないよ。笑ったってかまわねえさ。たしかにおかしいんだもんね。いいかい、乞食はね、走らないの。そう、走らないんだよ。  笑ったね、やっぱり。あやまることはないさ。でも、乞食は決して走らないんだ。乞食が走ってるとこ、見たことあるかい。ないだろう。乞食がもし走ってたとしたら、そいつはにせものだよ。でなければ、あんたが乞食と見間違えたんだな。あんまりひどい恰好してるんでね。  なぜ乞食は走らないかって言ったって、そうすっきりとは答えられないね。まあ、言ってみれば走る必要がないってことか……。そうじゃないか。雨に降られたって濡れて困るようなものを着てるわけがないし、だいいちちょっとでも降りそうな天気に、のこのこ歩いてる奴もいないさ。いったいどこへ行こうというのかね。行くとこがないから乞食になったんじゃないか。用事があるくらいなら乞食になんぞなりはしないよ。ばかだねえ。  乞食になるとね。お天気には凄く敏感になるのさ。なぜかって……外にばかりいるからよ。うちのある乞食なんているもんか。だから、空が相手さ。毎日毎日、空を相手にしてるんだ。降るかな、晴れるかな。暑いかな、寒いかな、って。天気っていうのはあんた、面白いぜ。コロコロしょっちゅうかわるからな。当てようとするだけでも結構時間つぶしになるし、たのしめるもんだ。ああ、やっぱり降りだしたな、なんてね。雨のあたらないとこで、予想が当るかどうか、じっと待ってるんだ。のッて来るとね、雨の予想をして待ってて、だんだん思ったように雲行きが怪しくなると、なんだかワクワクして来るのさ。人間、どんなところにもたのしみってものはあるんだね。  うん。乞食になる前は天気当てなんか、そうやらなかったし、たのしみもしなかった。何しろ、オゼゼがなくなると時間が余るからね。  おかしいかい、そんなに。でも、あたり前のことなんだぜ。俺だってはじめから乞食だったわけじゃないし、そう言っちゃなんだけど、金だってあり余るくらいの時分もあったんだ。  こういうこと言うの、いやなんだよ。乞食はみんな言うだろうからな。昔はよかったこともあるってさ。でも本当なんだ。時計屋やっててさ。ちっぽけな店だし、そりゃ大したことはなかったが、とにかく自分の店で土地も建物も自分のもんだった。  親の代からさ。ちゃんとしたおやじでね、戦災で一度焼けちまったが、世の中が元どおりになりかけると、すぐに建て直したよ。俺は兵隊に行ってたんだけど、大した戦争もしないで無事に帰って来ちゃったんだ。ちゃんと昔の中学を出てるんだぜ、こう見えても。  嫌だな、若いくせにあんた人に喋らせるのがうまいね。ついはじめちゃったよ。……まあいいや、久しぶりに喋りはじめたら、なんだかいい気分だ。でも、そのパッパカ、パッパカ光らせるの、やめてくれないか。光るたびになんだかいじめられてるみたいな気分になっちまう。これでも劣等感くらいあるんだからね。  時計屋さ。終戦後、いくらか世間が落ちついて来たころ、おやじが時計屋の店を立て直してくれてね。ずっと一緒にやってたんだ。はじめのうちは売る品もなかったけれど、時代があんなだったろう。だから修理だけでも結構やって行けたんだ。みんな、おんぼろ時計を後生大事にしててさ。俺なんか、軍隊からして帰った革のバンドを切って、時計バンドに仕立て直して売ったんだぜ。金具の細工ぐらいお手のもんだった。  で、おやじがそのうち死んで、俺の代になった。はじめはおやじみたいにうまくやって行けるかどうか心配で、そろそろところばないようにしてたんだけど、やってみれば商売なんてどうにかなるもんでね。結構おやじの頃より派手なくらいになったんだ。写真に凝ってみたりしたのはその頃さ。商売仲間や町内会、商店街なんていうとこの連中と旅行したりして……。  世話してくれる人があって、女房ももらったよ。大した器量じゃなかったけど、結構うまく行ってた。友達にすばしっこいのが一人いて、それが卸《おろし》をやらないかって言いだしたんだ。協同でね。そりゃ、小売りより卸のほうが面白いや、出すものが出せればやったほうがとくだよ。金の工面をつけて、めでたくやりはじめたというわけだ。  身の上ばなしになりそうだな。……面白い。嘘つけ、こんなの面白くなんかあるもんか。ほんとに面白がってるんなら、それはあんたが、いつ乞食になるだろうかって、期待して聞いてるからだよ。  教えてやろう。別に喋っちゃいけない法律があるわけでもないからな。それに、このことはもう知ってる人だって多いはずだし。  人間が乞食になるわけさ。なぜ乞食になっちまうかってことだよ。知りたいだろう。さっき言ったと思うけど、乞食になる奴はだんだんに、だんだんに、乞食に落ちて行くんだ。でもさ、そいつをとめようと思ってもだめだぜ。どうしようもないんだ。或るときピタッときめられちまう。きめられちまったら最後、だんだんに、だんだんに乞食になって行くのを、ひとごとみたいに見てるより仕方ないんだ。働いたってだめ。一生懸命やったってだめ。きめられたらさからえない。  時計の卸をはじめて少したった頃だよ。かなり儲かって来てね、この分じゃ俺もなんとかなりそうだって思ってる時だった。集金した金の中に、赤インクで右の肩から左の端へこう、斜めに線が引いてある一万円札がまじってたんだ。おもてがわさ。左側を向いたあの聖徳太子の帽子の……あれはてっぺんが前のほうへ袋みたいに突きだしてるだろ。その帽子の前へ向いた袋のまん中を突きぬけて、札のまん中にある夢殿《ゆめどの》のすかしが入った丸のまん中あたりを通って、左の角のところへ斜めにまっすぐ赤い線が引いてあったんだよ。  おもてがわだしな、ちょっと気になったもんだ。でも別に、赤い線を引いたら使えなくなるわけじゃないし、そのまんまほかの札と一緒に金庫へしまったんだ。で、その金庫から出したりいれたり出したりいれたり……金なんて奴は出入りのいそがしい奴だからね、計算が合いさえすれば、どの札が出てってどの札が入って来たかなんてことは、まるで関係がない。あたりまえだな。  ところがさ、月末になって自分の取り分を受取ったら、その赤い線が入った札の奴が、ちゃんと俺の分の中へ入ってるんだよ。まあ、大して珍しいことでもないし、ちょっとした偶然くらいには思ったけれど、女房に渡してそれっきり忘れちゃってた。  問題は実はその札なんだよ。赤い斜めの線が入った……。金なんて使うもんだろ。女房がどこでどう使ったか知らないけど、半月ほどすると、そいつがひょいと俺のとこへ戻って来やがった。別な友達に貸してやってたのが返して寄越したんだが、そのとき、あれっ、と思ったね。ポッキリ一万円だったから、赤い線が入ってるのがすぐ判ったし、見たとたん、このあいだの奴だって、そう思ったのさ。  おかしなことになったのはそれからだよ。その一万円は俺の小遣だから、すぐ使っちまったんだけど、手ばなすとまた、とんでもないほうから戻って来やがる。使うと戻る、使うと戻るってあんばいだ。あんまり度重なるんで気味が悪くなっちゃった。毎度おなじみになったから、その札の番号もいつとはなしに暗記しちまって、たしかにおんなじ札が戻って来るのかはっきり判るんだ。  銀行へ預けてもだめ、旅先で使ってもだめ。すぐ戻って来るんだ。……それはいい。それはいいさ。使えるわけだから別にこれと言って不自由はない。  でもよ……。  だんだんに、だんだんに、景気が悪くなりはじめたんだ。商売がうまく行かなくなって来た。入る金が減って来たのさ。  考えてみると、なぜだかよく判る。今となったら、ようく判るんだ。  その一万円札が出てって、戻って来るたびに、俺のとこへ入るはずのほかの一万円が減ってたんだよ。十回出入りすれば十万円だ。  減ったら決して増えない。減りっぱなしさ。いいかげんたってから、俺もなんとなくそれに気がついたんだ。でも、そのときはもう商売はガタガタ、火の車なんだ。  こいつは大変なものにとりつかれた。この赤い線の入った一万円札をこれ以上使ったら大変なことになるぞ、って思ってな。それでなるべく使わないようにしてたんだ。  でも、火の車だ。月末になれば一万円だって置いとけるもんじゃない。責められてつい出して払っちまう。そうすると、次の月やっとかすかすで入金して来た分に、ちゃんとそいつが入ってるじゃないか。  この札だけは勘弁してくれ。そう言って拝んでたのんだって、相手は何のことか判らないし、おこる奴だっている。たまに、ああそうかい、ってとりかえてくれても、別なとこから必ず入って来ちまう。  その一万円札にとりつかれちゃったわけだ。俺はもうやけになっちゃってね。どうせ放っといても、まるっきり金が入って来なくなっちゃうに違いない。だったら今のうち、どんどん使っちまえというわけで、相棒の金も支払いの金も見境なく、パッパと使って遊んじゃった。  揉めたさ。揉めに揉めたよ。何度かはとりなしてもらったけど、そのうち女房も愛想をつかして出て行っちまう。あたり前のはなしでね。家へまるで金を入れなかったんだから。  そんなことをしてるあいだも、赤い斜めの線が入った一万円札は、俺のふところを出たり入ったり出たり入ったり……。もちろん出入りはどんどん間遠にはなったけど、それはもう、俺の金の運がおしまいになりかけてたんだな。  とうとうおやじの建てた店つきの家も売っ払っちまって、それも大半は遊びに使ったわけだけど、そうなればもうかまってくれる人間だって誰一人いなくなっちまう。ひとりぼっちさ。  そうやって、だんだんに、だんだんに落ちて行ったんだ。  でもよ、おかしなことに、無一文にはならなかったんだ。……その一万円札だけは、どうしても俺から離れないのさ。もうとうにほかの一万円札は俺のとこへ入って来なくなっちまってたのに、そいつだけがいつまでも、俺のふところを、出たり入ったり、出たり入ったり。  一万円を一度に使う身分じゃなくなってたから、ちょびっと買物をして九千なにがしおつりをもらい、ちびちびそれで食いつないで、それがなくなる頃になると、どこからともなくまたあの一万円札が戻って来やがるのさ。道を歩いてて拾ったり、通行人がひょいと恵んでくれたりだよ。  そんなわけで、なんとか食って生きては行けるんだ。一文なしになりかけると、あいつが帰って来やがる。もう慣れっこになっちまったから、要領は判ってるんだ。必ず帰って来るからと言って、ポカッと一度に使うと長いことすきっ腹をかかえてなきゃならない。あいつは俺に、分相応にくらすように仕向けてやがるのさ。ちびちび、ちびちび使ってなきゃいけないんだ。  まあ、そんなわけでさ、おれはこうやってなんとか生きのびてるんだ。考えてみれば、これはこれで気楽なもんだよ。生きて行けるだけは、乞食をしてても最低生きて行けるだけは、あいつが保証してくれているわけだからね。でも、心配なのは、あいつがだんだんすり切れて来ることだな。今に本当になくなっちまうんじゃないだろうか……。  それは俺だけの特別なことだろうと言うのかい。とんでもないよ。そいつはあんた、世の中の本当のことを知らなすぎるぜ。世の中には、ふつうに考えていてはとても判らないことがたくさんあるのさ。だっていいかい。世間には乞食はたくさんいるんだぜ。みんな人さまのお恵みで食っていると思ってるのかよ。それこそ冗談じゃない、だ。そんなに世間さまはお恵みくださるかね。見てみなよ、乞食がいると見ないようにする人ばかりじゃないか。乞食がみんななんとか食って行けるだけ、世間が恵んでいると思うんなら、それは大きな思い違いだぜ。いや、うぬぼれなさんなと言いたいね。あんたにしてからが、一度でも乞食に恵んでやったことがあるかい。たまにカンカラに金をいれてくれたとしても、それで乞食が生きて行けるとでも思ってるのかよ。笑わせるない。  乞食はね、本当のところ、みんな俺とおんなじなんだ。めいめい一枚ずつ、赤い斜めの線が入った一万円札にとりつかれてるんだ。だからこそ乞食になったんだし、乞食になっても生きて行けるんだ。  気をつけなよ。赤い線の入った一万円札が来たら、あんたもおしまいだぜ。  だんだんに、だんだんに乞食になって行くんだ。……気になるなら財布の中を見てみるんだね。  あ、そいつだよ。その赤い斜めの線の入った札さ。なんだ、あんたのとこへも、もう行ってるんじゃないか。気の毒にな。  なるよ、そのうち乞食に。そう、だんだんに、だんだんに……。 [#改ページ]    林道  土煙りを舞いあげて走ってきたタクシーが急にとまった。男がひとり降り、タクシーはUターンして、来たときと同じように未舗装の砂利道に土煙りを舞いあげて去る。  道幅はかなり広く、両側には歩道もついているが、舗装がおわっているのはずっと後方までで、そのあたりの工事は多分来年になることだろう。  左側は高台になっており、まあたらしいコンクリートの擁壁《ようへき》が続いている。その上は工業高校の敷地になっているはずだった。右側には家が並んでいるが、どれも似たり寄ったりの建売風で、犬の吠える声ひとつ聞こえずに静まり返っていた。  男は革のハンチングをかぶり、厚手の生地のオーバーコートを着ている。コートの襟から黒いマフラーをのぞかせ、手袋をした手には黄色っぽい布製の袋をさげている。空港で売っている大型の土産袋で、HOKKAIDOという文字が刷り込んである。  男はその袋を持ってゆっくり歩きだした。見たところ、町はずれのその住宅地の一軒をたずねてきた旅行者といった感じだ。しかし彼は右側に並んだ家々のほうへは顔も向けず、まっすぐ未完成の歩道の土を踏んで歩いて行く。  その先はすぐ突き当たってT字路になる。畑があり、奥に農家らしい家の屋根が見えている。男はT字路に近づくと少し足早になり、ためらわずに左へ曲がった。地理が判っているらしい。しかしそこを左へ曲がるとすると、かなりの距離を歩くつもりだろう。  町らしい家並みはそこまでで、男が選んだ道は山へわけ入ることになる。奥に大学の演習林があり、それを管理する人々の家が十戸ばかりかたまっているが、辿りつくまでには二キロほどの距離がある。旅行者がそこへ行くならタクシーで行けばいいのだ。演習林の管理事務所までは、簡易舗装だが立派な道がついている。  男はその簡易舗装の道に入る境い目の、短かい石の橋を渡るとき、ちょっと振り返ってあたりを眺めていた。人影はなく、鴉の啼声《なきごえ》だけが聞こえている。男はそそくさと短い橋を渡ると、簡易舗装の黒い道から左へそれ、妙な道へ入った。  太い杭が等間隔に三本立っており、演習林二・五キロと書いた木札が立ててある道だ。  遊歩道なのである。車の乗り入れを禁じるため、入口に杭を三本立ててあるわけだ。しかしこの季節、その遊歩道へわけ入って行く物好きはいない。夏ならよく子供たちが自転車で走り抜けるし、演習林までのんびりと散歩をする老人たちもいる。演習林の管理事務所がある一帯は手入れの行き届いた森林公園になっており、バードウォッチングを楽しむこともできる。  しかし今はもうそんな季節ではない。その遊歩道を奥へ進んで行く男が吐く息もはっきりと白い。  それでも両側の林の中では、チチ……と小鳥の声がしている。道ばたの木は大半が落葉樹で、紅葉もとうにおわり、ほとんどが葉を落としおえ、細く入りくんだ枝々が観念し切って雪を待つ風情だ。  簡易舗装の黒い道なら二キロ。遊歩道ならそれと合流するまでに二キロ半。ということは、遊歩道のほうがそれだけ曲がりくねっているということになる。遊歩道の左側はすぐ山が迫り、右側には小川が流れている。簡易舗装の道はその小川の向こうにあり、トドマツ、エゾマツ、アカエゾマツをはじめとする針葉樹の巨木が、その岸辺に生え並んで視界をさえぎっている。  進むにつれ、鴉の啼声は男の後方へ遠ざかって行く。深い森があり、その森が切れたところに突然町がひろがっている形だから、残飯、生ゴミをあさる鴉たちには恰好のすみかなのだ。だから今ではすっかり数が増えて、異常繁殖といっていいほどだ。しかも寒気が厳しくなると彼らは深い森から出て、森の周辺部に住みつく。冬の朝、それもゴミ収集日など、町の空は鴉でまっ黒になるほどだ。  男の吐く息はだいぶ太くなっている。歩調をゆるめようとはしないからだ。空は曇って陰鬱な灰色に塗りこめられており、まだ十一時を少し過ぎたところだというのに、左側の山腹に重なり合った針葉樹の下生《したば》えのあたりには、夕暮れのような色がかたまっている。  小川はその遊歩道に近づいたり遠のいたりしているが、それでも絶えずせせらぎの音が聞こえていた。演習林の奥は町の水道をまかなう水源のひとつで、浄水施設がある。小川の水はそこから流れだしているのだ。  遊歩道の道幅はじりじりと狭くなって行く。奥へ行くに従って、伐《き》らずに保存した巨木が増え、道はそれを避けて曲がりくねるから、どうしても細くなってしまうのだ。  男はそうした道をさえぎる巨木のひとつのそばへ来て、ようやく足をとめた。左手にぶらさげた布製の土産袋を地面におろし、腕の時計を見る。  あたりに人の気配はまったくない。だが男はそれでも周囲の様子をうかがうそぶりを見せ、ようやく得心したのかその木の根元に腰をおろした。  「エゾエノキか」  目の前に落ちていた枯葉をつまんでからそうつぶやいて上をみあげる。幹がわりと低い位置から逞しい感じで枝分かれしており、その上方でさらに幾つかに分かれている。ニレ科の落葉樹だ。  男は七、八分もそこで休んでいただろうか。視線を道の奥にくろぐろとかたまる森の梢《こずえ》のあたりに向け、身じろぎもせずにいた。  突然思いがけぬ近さで、鴉がひと声啼いた。飛びたつ羽音さえはっきりと聞こえる。  「畜生」  男は心の平衡を破られたのか、低くそう罵《ののし》ると急に立ちあがり、今度は土産袋のさげ紐を右手でひっ掴むように持つと、また足早に歩きはじめた。  やや長めのオーバーコートの裾が男のひと足ごとにひるがえる。コートの色はグレーで、靴は裏毛のついたスノー・ブーツである。靴底は厚めのゴムで、すべりどめの深い溝が刻まれている。  つまりもう、完全な冬仕度なのだ。東京あたりからの旅行者にしては、よほど用心がいい。男は歩きながらときどき空をみあげる。きのうからの天気予報はそのあたりでの降水確率を七〇パーセントと告げていた。きのうも今日のように寒くて、午後二時の気温がマイナス二度だった。今はおそらくマイナスの二度から四度のあいだだろう。とすれば、降るなら雪にきまっている。  足音と息。男がいま聞いているのは自分のたてるその二つの音だけだ。唇が乾くのか、しきりに上下の唇を口の中へまきこんで湿しはじめる。  「この分なら必ず降る」  男は自分に言いきかせるようにそうつぶやいた。しばらく聞こえてこなかったせせらぎの音が、また近づいてきた。  自分の足音と呼吸の音、せせらぎ、小鳥の短い啼声。それにまじってかすかに別の音を男は聞いた。足をとめてその音の正体を聞きわけようとする。  車の音だった。小川の向こうの簡易舗装の道を、演習林のほうから町に向かって出て行く車だ。男は近くの木の幹に身を寄せ、じっと音のするほうをみつめていた。車の音は男の正面を過ぎ、右のほうへ遠ざかって行く。  「冗談じゃねえや」  見咎《みとが》められてたまるか、という意味だろう。男は低くそう言いすてて隠れていた木から離れ、歩きだした。男のほうからは今の車の色さえ判然とはしなかったくらいだから、向こうから男が見える気づかいはないはずなのに、よほど人目を忍んでいるらしい。  「みつかってたまりますかって。俺はしたいようにするんだから」  はたして男は自分がつぶやいていることを意識しているのだろうか。またしても歩きながらそうつぶやいたが、あたりにそれを聞く者があるわけでなし、当人が意識しようがすまいが、そんなことはどうでもいいわけだ。  男はそれからさらにだいぶ歩いた。すると左側に遊歩道の三倍ほどもある幅で、下生えの熊笹を奇麗に刈りこんだ道らしいものが、一直線に山腹を上へ向かってのびている場所へ出た。  「ここから先が演習林か」  男はまたつぶやくと、立ちどまりもせず袋を左手に持ちかえて、その境界線を登りはじめた。熊笹を刈りとった斜面は柔らかいらしく、登るのにだいぶ苦労している。  が、やがて右側に踏みかためた小径がついているのをみつけ、すぐその小径へ入った。立ちどまって少し息を整えている。右前方に演習林の管理棟や、小さな住宅の屋根が点々と見えていた。  「犬を飼ってやがる」  こんな森の中で犬を飼うなら、鎖でつないだりはしないはずだ。森林公園へ遊びに来る者が多い季節ならとにかく、今は冬籠《ふゆごも》り寸前の熊が人里近くへ出没することが多く、犬も用心のため放し飼いにされているに違いない。  「面倒なことにならなきゃいいが」  男は右手の人差指を口にいれて唾で湿らし、それを立てかざして風向きを調べた。この季節、これだけしっかり冷え込むなら、風は山から吹きおろしているにきまっている。  「風下《かざしも》か」  男の言う通りまだ犬のいる場所からは風下に当たっている。小径は人家の西側の山の中腹あたりをまっすぐ北へ向かっていた。  「音さえ立てなきゃ大丈夫」  どうやら男は徹底的に人目を避けようとしているらしい。木《こ》の間《ま》隠れにちらちら見える右下の人家を気にしながら、用心深くそこを通過して行った。犬に気づかれもしなかった。  「問題は浄水場か」  そうつぶやく調子では、もうひとつ奥にある浄水場の管理者の目も避けようとしているらしい。だがその地点を過ぎればまったく無人の森林地帯である。棲んでいるのはキタキツネと熊とリス。鹿もまだいくらか生き残っているというが、とにかく人間はいない。  男がその小ぶりな森林公園を抜けて水源地の浄水場に達したとき、四角いコンクリートの管理施設には人のいる気配もなかった。  多分さっき町へ向かった車が、そこの管理者たちのものだったのだろう。車を使わなければ生活がなりたたない場所である。男は注意して車を探したが、付近には一台も見当たらなかったのだ。  充分に用心はしたようだが、男は難なくそこも通り過ぎた。浄水場のあたりは樹木も伐り払われ、ひどく眺望のいい平坦な地形をつくり出していたから、もし車があったり人の姿が見えたりしていれば、とんでもない遠まわりをしなければならなかっただろう。  しかもその先は大学演習林の広大な苗圃《びょうほ》であり、まだ一メートルそこそこの背丈の細い苗木がびっしりと並んでいて、さらに遠まわりをしなければ、男がまっすぐに森の奥へ向かうことはできなかったに違いない。  その苗圃を通り過ぎるとすぐ、道はいきなり急な下り坂になった。ペンケなんとかというアイヌ語そのままの名の川が沢を作っており、その坂が急でありすぎるため車輌の通行は不可能で、細い坂路の下には徒歩で渡るためだけの、小さな鉄の橋が架けられている。  急流の音を聞きながら男はその鉄の橋を渡った。渡ればすぐ目の前に幅の広い道がよこたわっている。男はその道を右へ向かったことはない。ただそれはゆるく下って、いずれは町はずれのどこかに出てしまうことだけは知っていた。しかし下の一般道路との出入口には頑丈な鉄の柵があり、今は厳重にとざされているはずだ。  林道なのである。初夏から秋にかけて、林道の出入口の大半は開放されている。だから付近の人々は山菜とりや茸とりのために車で乗り入れる。しかしもういつ雪が降りはじめてもおかしくない時期になっており、営林署ははやばやとすべての出入口を封鎖してしまっている。もちろん付近の住民たちもその季節に森へわけ入ることの危険性はよく承知していて、森はまったく人間とは縁の切れた場所になるのだった。  「さて、と」  男はその林道のまん中で立ちどまると、おもむろに土産袋を地面におろし、ファスナーをひらいた。そして中から妙なものを引っぱりだした。  どうやら二輪の買物カートのようである。折りたたみ式になっており、ジュラルミンのパイプを引きのばすと華奢な手押車の形になった。キッチンの吊り棚のような細い荷台へ土産袋をのせ、さらに布でくるんだ物を出す。北海道の土産物店ならどこにでも置いてある飾り物のカウベルだ。男はそのカウベルの紐を手押車のハンドルにくくりつけ、ぶらさがったベルを軽く揺らしてみる。革のベルトについている木魚のような形の八個のベルが、カラカラカランと場所に不釣合な子供っぽい音をたてた。  「これでいいだろう」  男はそう言い、手袋の端を交互に引っぱってしっかりとはめなおすと、手押車のハンドルを把んで歩きはじめた。その手袋も裏毛つきで、手押車は火山灰のかたまったなめらかな林道の上を、カラカラカランとカウベルの音を響かせながら進んで行く。  男はこの季節に森の奥では熊の動きが活溌になるということを聞いている。カウベルを用意してきたのは、そういう熊たちと突然出会わないように用心したためだ。熊の出現をかなり恐れているようだ。  「熊なんかにやられたら元も子もないからな」  現に男はそうつぶやいた。  その林道はところどころでふたまたに分かれたりしているが、男はどうやら事前に調べてきたらしく、分岐点ごとにメモとコンパスを出して慎重に方角をたしかめながら、おおむね東寄りに道を選んで進む。  それでもしばらくは不安そうな様子だったが、やがて左右に曲がっていた道がおわり、ちょっとあたりの木々が減ってひらけた地点へ来ると、  「やった。正解だ」  とあたりはばからぬ大声で叫んだ。  そこから先、幅六メートルほどの林道が一直線に北へ向かっている。その林道はおよそ二十キロのあいだ、一直線なのだ。二十キロのあいだ、僅かな起伏を示してゆるく山へ登って行く。  右も左も深い森である、落葉樹もあれば針葉樹もある。植林の具合で針葉樹ばかりの区間はことさら陰鬱な色が濃く漂い出し、落葉樹の区間は葉を落としつくした巨木たちが、あっけらかんと複雑な枝組みだけを灰色の空にさらけ出している。  その下生えは笹のかたまり。ごつい熊笹が密生してとうてい足を踏み入れることはできそうもない。  その裸の枝ばかりの落葉樹の区間は、高い枝が両側から道の上へ張りだしていて、葉の繁っている季節にはみごとな緑のトンネルになることを容易にしのばせる。葉が落ちた今でさえ、裸の枝組みがまっすぐにどこまでも続いているので、行く手は半円形のあかるいトンネルに見える。  それが針葉樹の区間になると、両側にどす黒い壁がそそり立っているような圧迫感を示す。  「この前ここを通ったのは夏だったよな。あのときは杉や松のほうが涼しそうに見えたもんだが、冬になるとずいぶん陰気くさいもんだなあ」  カラカラカラン、カラカラカラン、とカウベルの音を響かせながら、男はそばに人がいるような調子で言った。少くとも周囲五キロの半径内には人間がいるはずもないのだから、それはもうつぶやきというようなはんぱな喋りかたではなくなっている。  「あのとき案内してくれたおやじは、俺に石を売りつけたがっていたんだっけ。日高石なんてのがどれほどいいもんか知らねえけど、東京からじかに庭石を探しに来るほどの閑人《ひまじん》かどうか、見りゃあ判りそうなもんだのに。骨折り損のくたびれ儲けか。いなかもんの人のよさまるだしでやがる」  男はこの前そこを通ったときのことを思い出しているようだ。  カラカラカラン、カラカラカラン、と、カウベルが静かな森に響いて行く。無邪気で少しにぎやかで、よく言えばかなり澄んだ音色と言える。  「あのときはまだ紀久子とできたばかりだった。お前はあんな女、くだらないからよせと言ったが、結構あれはいい女だぞ。今ごろは血相変えてお前のとこへ行ってるんじゃないかな。お前らとゴルフに行くと言って宅急便で名古屋のゴルフ場へ道具を送り、新幹線に乗ってたしかに名古屋へ向かったまでははっきりしているが、それっきり消えちまったわけだ。お前は疑われるさ」  男はたのしそうに声をあげて笑った。……カラカラカラン、カラカラカラン。  「お前のアリバイが成立するといいな。でないとえらいことになるぜ。間違っても紀久子なんかに手を出すなよな。もっともお前はやりかねねえけどさ」  男は横田という名の友人を思いうかべているのだった。横田はすばしこいわりに臆病な人物で、男にとっては扱いやすい友だちだった。背は高いほうだが骨が細く、いざ喧嘩という段になっても男には楽に勝てそうな相手なのだ。有名な料亭のあととりで、東京といわず京都や大阪の花柳界にも顔がきいたから、遊び友だちとしては重宝な存在だ。  男はまたクスクスと笑いはじめる。  「俺には保険がかかっている。万一のときの受取人は紀久子だぜ。その紀久子とできてみろ。万一のときにはお前が疑われるんだぜ。万一のときには」  カラカラカラン、カラカラカラン。カウベルの音が林道を進んで行く。  「てめえみてえな野郎がなんで元気に生きのびるんだろう。篠塚みたいないい奴があんなに早く死んじまうなんて、やっぱり世の中どうかしてるぜ」  横田という料亭の息子の姿が男の心から遠のき、黒い詰襟の学生服を着た篠塚という友人の顔が大きくうかんで来た  「篠塚が生きてりゃなあ。そうすりゃあ、俺の人生も少しは変わってたかもしれないのに」  篠塚は男の親友だったが、高校を卒業するとすぐ死んでしまった。男は高校生のころから多少グレ気味だったが、篠塚と一緒に大学へ進むつもりで受験勉強に励んでいたのだった。  それが急な篠塚の死でショックを受け、二浪、三浪と重ねたあげくが、結局この林道へつながる人生だった。  「汚れちまった悲しみに、か。奇麗な思い出はお前のところでプッツリだな。おい篠塚、なんであんなに早く死んじまったんだい。修学旅行の途中でさえ、英単語の覚えくらべをしてたのに。お前が生きてたら、俺だってもっとまともになってたさ。おふくろにだってあれほど嫌われずにすんだものを……」  男は肩を落とす。カラカラカラン、カラカラカラン。  「かあさん。結局俺はこういうことになっちまったよ。あんなに邪慳《じゃけん》にしなければ、俺にだってちっとは孝行する気はあったんだぜ。まあもう死んじまったから気は楽だけどさ。もう俺はひとりっきりだ。だあれもいやしねえ。なあかあさん、俺、これから死ぬんだ。だあれもいないとこで、誰にも知られずにね。もうすぐ雪が降りはじめるだろう。俺は毒のんで死んじゃう。死んだら俺の上に雪がつもって、俺は半年先までその雪の下さ。誰だって俺がこんなところへ来てるなんて思いはしない。絶対にな。雪が融けても俺はすぐみつかるかどうか判らない。ハンチングから靴下まで、東京で買って身につけてたものなんてひとつもないんだ。身もとなんてそう簡単に判ってたまるかってんだよ。融けて腐って骨だけになってやるんだ。そうなりゃ指紋だって調べようがないさ。俺は人生をやりそこなったんだよ。誰にも迷惑をかけずに死んじまうんだ。失敗の連続だった。挫折ばかりだった。このさき生きてたって、いいことはひとつもないさ。紀久子を保険の受取人にしてある。あいつが俺の最後の女だ。運がよければ金を受取れるだろう。かあさん、もうすぐそっちへ着くぜ」  カラカラカラン、カラカラカラン。  「あ、やっと降りだしたみたいだな。今のを聞いてかあさんが降らせてくれたのかい。やっぱり親だよな。それにしてもずいぶん急に降りだしたじゃないか。そろそろ場所を探さなきゃな」  林道にはところどころに脇道がある。男はそのひとつへ入りこんで行く。幅がせまく、路面もでこぼこだ。……カラカラカラン、カラカラカラン。  脇道には更に細い脇道が分かれている。  「父さん、そろそろ終点らしいぜ」  男の父親は母親の死のだいぶあとに死んでいる。タクシーの運転手をしていて、事故死だった。息子に対してあまり口やかましいほうではなく、寡黙な働き者だった。  「どのへんがいいかな、父さん。いい場所を探すから熊なんかに出くわさないよう守っていてくれよな」  雪の降り方がみるまに激しくなって行く。一週間ほど前にちょっと降った雪が、そのあたりにはあちこちに融け残っていて、それがすぐ新しい雪に隠れてしまう。  「ああ、ここがいいや」  男が足をとめたのは、カバノキ科の落葉喬《きょう》木《ぼく》ダケカンバと、胸高直径が一メートルもあるアカエゾマツの間にある小さな窪地であった。  あたりの様子からみて、そこにも巨木が根を張っていた形跡がある。何かの理由でそれが根こそぎ倒れ、ずっと以前に営林署の手で処分されたようだ。小さいが深さはたっぷりとある窪地は、その巨木の根の跡に違いない。  「きっとここへは雪どけの水が流れ込んでたまるだろう。まる半年冷凍したあとで、今度はじわじわと解凍か。腐っちまうな、俺は」  腐るという冗談がわれながらおかしかったらしく、男はその窪みをのぞいて笑った。  「そろそろ宴会をはじめるか」  男はカラカラカランとカウベルの音をさせながら、手押車にのせた袋をあけ、中からバレンタインの瓶を二本とりだした。二本とも三十年ものだ。それにタオルで大事そうに包んだクリスタルのグラス。瓶入りのマカデミアン・ナッツ。それに継ぎ柄のついたスコップ。  「かあさんも父さんも、俺の覚悟のいいとこをよく見といてくれよな。篠塚、俺だってこのくらいのことはできるんだぜ」  男はそう言いながら、雪の中でスコップに柄をねじ込み、少し離れた場所へ行って穴を掘りはじめた。かなり深く掘っている。  掘りおえるとそこへ手押車を分解して投げ込み、近くから枯枝を拾い集めて穴の中へ積んだ。そして土産袋から固型燃料を三つと小さなドリンク剤の瓶を出し、両膝をついて固型燃料をていねいに底へ置くと、ドリンク剤の栓を外して中の液体を穴の中へ撒いた。  ポケットからマッチを出して火をつけ、それを放り込む。ドリンク剤の瓶にいれてあったのはガソリンらしく、穴の中からすぐ炎が勢いよくあがった。  「もう三時半か。ずいぶん歩いたもんだな」  もうあたりはうす暗く、炎のゆらめきが鮮やかだ。下の町でも四時には暗くなってしまう季節である。まして雪。  男はその穴のそばにどっかと尻を据えて坐りこみ、黒く長いマフラーを顎が埋もれるほど高巻きに巻つけると、バレンタインの栓をあけてグラスについだ。  「誰に乾杯してやろうかな。やっぱり伸子、お前にだろうな」  男はそう言い、グラスを炎の前にたかだかとかかげた。  「伸子に乾杯」  叫ぶように言い、一気に呷《あお》った。  「酒を冷たく感じるようじゃいけねえよな、伸子。さあ、お前も遠慮なくやりな。一緒に酔っぱらおうじゃないか。ここまで来ちゃ、もうあと戻りはできないんだしよ。最後の酒だい。あのときも乾杯してにぎやかにやったじゃないか」  男は威勢よくそう言い、またなみなみとついだ。  「どうせ酔う気ならチビチビやるなって、そう言ったろ、伸子」  男はまた一気に飲み、そのあとナッツを口にいれた。  「から元気だ……。冗談言うな。俺は死ぬことなんぞこわがってやしねえぞ。熊なんぞにやられるのは嫌だけどよ、てめえでてめえの始末をつけるんだ。誰に遠慮がいるものかてんだ。さあ、グイグイやれ、グイグイ。まったく伸子は強かったよな。いろんな女を知ってるが、酒じゃお前が一番だった。ははは……火も燃えてやがる。景気よく燃えるじゃねえか。もっと燃えろ、もっと燃えろ」  男はグイグイ飲み続け、一本目がすぐからになった。  「ほら、二本目だぜ。伸子が手伝ってくれるからはかが行くよ。かあさん、伸子の奴をみてくれ。しゃらっとしてやがるだろ。うん、かあさんにはまだ引きあわせちゃいなかったが、こいつは酒が強いんだよ。ははは……もっとも伸子と結婚したときには、もうかあさんは死んじまってた。引きあわせるったって、引きあわせらんなかったよな。おい父さん。父さんもこっちへ来て飲まないか。まったく父さんはいい男だったよな。かあさんとはくらべものになりゃしない。かあさんは俺をまるで鬼みたいに扱いやがったけど、父さんは優しかった。俺、父さん大好きだぜ。おかげで楽をさせてもらったもんな、あんときは」  男の飲むピッチがだいぶ遅くなっている。酔いはじめたのだ。  「なんのこれくらい。平気だってば。まだ酔っちゃいねえよ。よしんば酔ったって、最後にこれ服《の》めばいいんだろ、これを」  男は上体をやや右に向け、左手にグラスを持って右手で自分の胸のあたりを叩いてみせた。そこには自殺用の毒薬が入った小箱が忍ばせてある。  「飲めばいいんだよ、父さんだって。あはは……もう車を運転するわけはないんだしさ。……なんだ、おこったのかい。父さんがおこるなんて珍しいな。ああ、そりゃ感謝してるよ。父さんのおかげで会社が作れたんだものな。保険金だって遺産には違いないもの。俺は父さんの遺産で社長になれたんだ」  「でもな、康夫。あの保険を受取るのはお前一人じゃなかったはずだぞ」  「判ってるよ。父さんは俺たち兄妹のことをちゃんと考えてくてれた。でも京子はあのときもう結婚して生活も安定してたじゃないか。玉の輿だよ、玉の輿。ところが俺は素寒《すかん》貧《ぴん》でよ。金なんてものは十のものを半分に分けちゃったら、半分以下の力しかなくなっちゃうんだぜ。妹の京子に半分やったって、玉の輿に乗ったあいつにはでかいダイヤを買うくらいの使いみちしかなかったわけだよ。十のものを十にしとけば、俺がちゃんとやって行けることになるわけだ。そこんとこを判ってくれなきゃな。俺は父さんの金を百パーセント活用したんだぜ」  まだ穴の中の火は燃えつきない。固型燃料のせいだろう。男は飲み続け、父親に語りかける。  「どうしてそんな嫌な顔するんだ。かあさんそっくりじゃねえか」  「死んだおかげで、なぜかあさんがあんなに康夫を嫌ったか、そのわけが判ったんだ」  「なんだ、おふくろの奴、そんなつげ口をしやがったのか」  「お前、わたしの保険金のことで京子をおどしたそうだな」  「おどしゃしねえよ。ただ頼んだだけだい」  「自分の取り分をあきらめないと、木下さんに何か言うぞとおどしただろう」  「そうそう、京子の旦那は木下って奴だっけな。すっかり忘れてた」  「なにを木下さんにバラすと言っておどしたんだ」  「そんな過ぎたこと、もうどうだっていいじゃないか。もっと景気よく飲もう。俺はこれを飲んじゃったら機嫌よく死ぬんだからさ」  「機嫌よく死ぬ奴がどこにある。だいいちそんなことを親の前でよく言えるもんだ。お前に命を授けたのはこのわたしなんだぞ」  「古臭い言い分だが、誰が生んでくれって頼んだよ。生まれたおかげでこの通り森の中で野たれ死にじゃねえか」  「かあさん、こういう奴だ。ちっとも変わっちゃいない」  「なんだいかあさん、ひっこんでろよ」  「いまだにお前の顔を見るとむしずがはしるよ。父さんの保険金のことで、お前が京子に何か言えた義理かい。この人でなしめ」  「まだそんなこと言ってやがる。若いときの間違いは誰にだってあらあ」  「やっと死んでくれる気になったそうだね。あたしはほっとしてるんだよ。これで京子も安心だわ」  「あいつの肩ばかり持ちやがって。京子がそんなに可愛いのに、なんで同じ子供の俺が憎いんだ」  「当たり前だろ。京子にいたずらしたのは誰だよ。実の兄が妹にしていいことかどうか、いくら若くたってもう判ってたはずじゃないか。あたしは恥ずかしくて父さんにだって死ぬまで打ちあけられなかったんだよ」  「わたしもあとで知らされて驚いた。かあさんがお前をあれほど嫌い抜いたわけだ。そうとも知らずにわたしはできるだけお前に優しくしてやっていたが、まったく恥ずかしい子供を持ったものさ。その上わたしの保険金を一人占めしようとして、そのことを木下さんにバラしてもいいかと京子をおどした。自分で死ぬ気にならなければ、わたしとかあさんでとり殺してやるところだったんだ」  「俺ばっかり責めるな。京子だって悪いんだ。娘のくせに白いけつを出して寝てやがるからさ。色気のつきはじめの若いもんには毒だぜ。親の躾《しつけ》がわるいんだよ、親の躾が」  「そうじゃない。お前の性根がはじめから腐ってたんだわ。あたしのせいでも父さんのせいでもありゃしない。お前には自制心ってものがはじめからなかったのよ」  「違うぜ。京子のことが起こる前の俺はどうだったんだ。俺はあれから曲がっちゃったかも知れねえが、その前は普通の子供だった。篠塚に聞いてみな。なあ篠塚」  「ぼくは君が好きだったよ。いい奴だった。でも、君がうちへ遊びにくると、よくうちの母がおこってた。お金がなくなったってね。はじめはぼくが疑われたけど、注意して見てたら君がくすねて行ったということが判ったんだ。母はもう君とは付き合うなと厳しく言ってたんだよ。でもそのうちぼくは病院に入れられたから、母もなんにも言わなくなったんだ。死なずにいたら、君とずっと友だちでいたかどうか判らないよ」  「たいした金額じゃないじゃないか。俺は篠塚のうちに甘えてたんだよ。自分の本当の家族みたいな気がしてさ。親の財布から小遣いをくすねたことのない息子なんているもんか」  「ぼくは親からだって盗みはしなかった」  「そりゃお前が早くに死んじまったからさ」  「長生きしてれば君に盗まされたかも知れないね」  「それは皮肉か。それが親友に言うことばかよ」  「友だちは友だちから盗まないと思うよ」  「畜生め、みんな勝手なことばかり言いやがって。なんで俺一人を悪者にしなきゃ気がすまないんだ。俺はそれほど悪い人間か」  「ああ悪いね。お前は生まれつきの悪人だよ」  「かあさんの言う通りだ。康夫は大悪人だ。伸子さんを殺したじゃないか。奥さんだよ、お前の」  「そうよ。妹を犯した上に奥さんである伸子さんを殺しちゃった」  「おまけにわたしの保険金で作った会社の倉庫にも火をつけた」  「ぼくは早く死んでよかった。君の友だちでいたらどんなことになったか判ったもんじゃない」  「さあ、伸子さん、思い切り言っておあげ」  「あなたが自分の会社の倉庫に放火したんじゃないかという噂は、結婚する前から聞いていました。でもまさかそんな人じゃないと思ったんです」  「伸子……」  「でもあたしはあなたに殺されました。信じてはいけない人を信じてしまったからです」  「消えてくれ。みんな消えてくれ」  「あなたは臆病な人です。そんなに酔っぱらわなければ死ぬこともできないのでしょう」  「死ぬさ。立派に死んでみせる」  「いいえ、あなたは自分で死んでやろうと思ったかも知れないけれど、それは間違いです。あなたがここへ来たのはあたしやおかあさんやお父さんのせいなんです」  「そんなばかなことがあるか。俺はなにもかもうまく行かなくて、ここへ自殺しに来たんだ。奇麗にこの世から消えてやる。あとかたも残さずにだ。もしそれがうまく行かないとしても、ここに身もと不明の死骸がひとつころがるだけさ。もう誰も追っては来れない。ここで俺が死んだことを知る者は一人もいないんだ」  「うまく行くでしょうか。あたしを海外旅行に連れ出して殺したときのように」  「うまく行くさ。俺はいつだってうまくやって来た。俺は世間に同情されながら、お前の保険金で会社をたてなおしたじゃないか」  「その前は自分の倉庫に放火したし、もうひとつ前はお父さんの保険金」  「おやじを殺したりはしてない」  「でも京子さんをおどして全額自分のものにしたじゃないの。そのおどしは妹の京子さんを犯したこと。鬼よ。臆病な鬼よ、あなたは」  「俺のどこが臆病だい。おやじの保険金で俺は楽々と社長になった。青年実業家だ。その事業がうまく行かなくなったから、また保険で稼いでやった。会社は立ちなおり、取引先が増えた。資金があればもっと会社はでかくできる。だから次にはお前ででかく稼いだ。誰にも尻っぽをつかまれず、大胆緻密をモットーにしてやって来た俺のどこが臆病なんだ」  「嘘おっしゃい。あたしを殺したことはバレかけていたじゃないの、その前の放火さえ、警察は疑いはじめていたのよ。あなたはいい気になって事業の手をひろげ過ぎ、資金ぐりに苦しんで今度は紀久子さんを狙ったんじゃない。そうしたら紀久子さんにも怪しまれ、遊び仲間の横田さんからさえ疑われちゃったのよ。もちろん警察も今度は本気で乗りだして来たわ。にっちもさっちも行かなくなったのは、あなたの事業じゃなくて放火や殺人の事実よ。このままだと自分の犯行が証明されてしまう。あなたは自分の犯罪の証拠を消すために、自分自身を抹殺しようとしているんだわ。誘拐されてどこかで殺されてしまったようにみせかけるために、こんな北海道の森の奥へやって来て自殺しようとしてるんじゃないの。うすぎたない犯罪者だと言われないために自殺しようだなんて、あなたはとびきりの見栄っぱりだわ。見栄っぱりだから努力もしないで社長になりたがったのだし、青年実業家と呼ばれていたいから、放火したりあたしを殺したり。見栄よ、自殺も。あなたは自分の痕跡を完全に消すんだなんて言ってるけど、それも見栄。自分自身に対する見栄じゃないの」  「そんな証拠がどこにある」  「あるわよ。あなたがしているご自慢のブレスレットの裏には、紀久子さんの名前と婚約した日の日付が刻んであるわ。それまで土に埋めてから死ぬ気じゃないことは、ここにいるみんなが知っているわ。生きてる人は欺《だま》せても、あたしたちまで欺すわけには行かないのよ」  「よく言ってくださいました。康夫……伸子さんの言う通りじゃないか」  「そうよ。かあさんは以前よりずっと深くお前を嫌っているんだからね。たしかにお前はここで死ぬ気でいるけれど、あわよくば来年の春発見されて、たったひとつの小さな手がかりから、お前だということが判るように望んでいるんだわ。そして保険金を受取った紀久子さんや横田さんが疑われるように仕組んでいるのよ。お前は気の毒な被害者になりたいんだね。子供のころから手癖が悪く、妹を犯し、放火し、妻殺しまでした極悪人にはなりたくないんだろ。この見栄っぱり。命がけで見栄をはる大ばか者」  「好きに言うがいいや。死人がどう喚いたってもう手遅れだよ」  「死んだ者をばかにおしでないよ。なま身の人たちがいるからこそ、死んだ者はなにもしないが、ここは山奥の森のまん中だよ。こういう場所ならあたしたちはなんだってできるんだ。生きてる人たちに申しわけないから、お前にはここで本当に奇麗に死んでもらうわ」  「どうするんだ。おい、やめてくれ」  「さあ死にな。死にたいんだろ」  「ブレスレットを外すな」  「もう誰にも迷惑がかからないようにしてあげるよ」  「篠塚、お前は親友だ。助けてくれ」  「ご両親や伸子さんのほうが正しいみたいだね」  「伸子、悪かった。俺の好きなように死なせてくれ。どうせ死ぬ気なんだ。本当だ」  「だめよ。紀久子さんに迷惑をかけちゃいけないわ」  「なぜ裸にする。寒いよ」  「どうせ死ぬのに寒いがあるか。このばか者め」  「死ぬんだよ。自分で死ぬんだからさ、そんなことしないでくれ」  雪の降りしきる森の奥に、五度、六度と男の絶叫が響きわたった。裸に剥かれた男の肉がそのたびに裂け、血が飛び散り、手足がもがれ、頭蓋が潰されて目玉が遠くへ投げられた。  男の持物は布といわず金属といわず、高熱を発して燃えあがり、またたくまに灰になり土に溶け、粉々になった骨が血まみれの肉塊と共に、二本の巨木の間にある窪地の底へ捨てられた。  「これでやっとけりがついたな」  父親が言う。  「せいせいしたわ」  母親も言う。  「死者に殺された死者はどうなるんですか」  篠塚が尋ねる。  「再生しないんですって。同じような人間がまた生まれ出ることはないそうよ」  妻が答える。  「でもそれは康夫の分だけだ。まだほかにもあいつのような人間はたくさん生きているはずだ。残念なことさ、康夫一人しか始末できないというのは」  「でもほかの死者がそういう奴を始末してくれるんでしょう」  「どうかな。わたしらのようにうまくやれるかどうか」  その小さな窪地をとりかこんだ死者たちの足もとで、土がじわじわと崩れ落ちはじめている。  間もなく男の残骸は土に埋もれ、その上に雪がつもり、凍てつき、春になってそれが融けても、男の痕跡はまったく残らないはずである。 [#改ページ]    ちゃあちゃんの木 1  その四階だてのビルは戦前に建てられたもので、ひょっとするとこの室町界隈では、いちばん古いビルになっているのかも知れなかった。室町の表通りから昭和通りへ抜ける道へ入って二本目の裏通りにあり、まあたらしいビルにはさまれて、ただでさえ薄汚れているのが、余計貧乏臭く見える。  真鍮《しんちゅう》の把手《とって》がついた両開きのドアが一階の中央にあり、そのドアへ達するには道から石段を六段ほど登らねばならない。だから両どなりの新しいビルと比較すると、ひどく腰高に見える。窓は小さく、壁の色は黒い。  黒い壁面は、建てられた当初は充分に重厚さを発揮したことだろう。だが、周囲がどんどん新しい様式の建物に建てかえられた今では、桁違いの古さを証明しているようで、どことなく滑稽ですらある。  平田は、自分の職場があるその黒いビルを眺めるたび、行火《あんか》を連想するのだった。艶々と黒光りする行火は、炭火が入っている時は、脛が火傷するくらい熱く、火が絶えれば蒲団の中で底意地悪く冷えていたものである。  そのビルは、或る繊維会社の本社だったという。軍や鉄道で使う防水シートを扱っていたそうだが、もうとうに倒産して、今では地下一階から四階まで、雑多な職種の会社が入っている。  タイプ印刷屋と写植屋と青写真屋が地下を占領し、一階が小さなダイカストのメーカー。二階は法律事務所と興信所で、三階は内装工事専門の会社とビル清掃業者のオフィス。そして四階が平田の勤めている北岡プラスチック工業である。  北岡プラスチック工業という会社がそのビルに入っていることを、平田は面白いめぐりあわせだと思っている。かつて、車輌や兵器のカバーに使われた防水シートは、ほとんどが、ビニールなどのプラスチック加工品にとってかわられているからである。  現に、北岡プラスチック工業は、防衛庁に何種類ものカバーを納入しているし、それらは以前なら当然防水シートが用いられていたはずのものなのである。  新しい顧客に提出する社歴書の、取引先の項のトップに防衛庁が出ているのも、平田には昔のシート屋の生れかわりを証明しているように思えるのだった。それを見せると、相手はたいてい、  「ほう、防衛庁とも……」  と、なんとなく信用した目つきになるのである。  大小無数の業者が乱立しているプラスチック業界は、すでに淘汰期《とうたき》に突入している。ゴミ公害だ過剰包装だと、一般の消費を減衰させる動きも強い。しかし、有望な防衛庁との取引がある以上、なんとしても生き抜いて、戦前この黒いビルを建てたシート業者のように、わが世の春を謳歌しなくてはならないのだ。  平田はその会社の、五人いる営業課長の一人である。席次はいちばん低く、年齢的には二番目に若い課長である。防衛庁には、老練な二人の課長が専門で当っており、平田は何の関係もない。彼の課は小品課と言って、玩具を含む雑貨を扱っている。  怪獣のおもちゃだの、風呂場の簀子《すのこ》だの、新案の煙草ケースだの、ライフ・サイクルの短い、殆どきわ物と言ってもいいその分野には、呆れるほどの種類があり、新しい商品がうんざりするほど次々に生みだされて来るのだった。  プラスチックの蠅叩きの尻に、潰した蠅をつまむピンセットを仕込む。石鹸函の蓋に爪掃除用のブラシをつける。……どれもこれも、たしかに一理あるアイデアだ。しかし、要らないと言えば全部要らないものばかりなのである。なぜそんなものまで、材料と人手をかけて作らねばならないのか。  平田は、一見天下泰平なそうした商品が、防衛庁へ納められる品物と同じ手で扱われていることに、何とも言えぬおぞましさを感じる時がある。  「今の平和なんて、こんなものだ……」  新しく持ちこまれたサンプルを手にして、彼は時どきそんなつぶやきを洩らしたりする。罪深い平和の澱《よど》みが、破滅というはけ口へじりじりと近づいているように思えて仕方がないのである。 2  昼少し前、平田はデスクを離れた。営業部員は殆ど出払っており、背後の窓にとりつけた旧式のクーラーが、睡くなるような音をたてていた。  黄ばんだ壁にかこまれた部屋のドアの所に黒板が掛けてあり、平田はそこへ行って自分の名前を記した欄の中へ、食、と一字だけ白墨で書いた。ドアをあけて入って来た男がそれを見て、  「もう飯か……」  と言った。  「昼になると混むし」  平田はボソボソとした言い方で答える。  「楽じゃねえな。朝飯なんかどうしてるんだ」  その男は立ちどまって平田の顔をみつめた。平田は拇指と人差指をこすり合わせて白い粉を落しながら、  「仕方ないさ。自分でやってるよ」  と微笑した。  みち子が生きていた頃は、たいてい朝食抜きで出勤していた。ところが今では毎日きちんと朝食をとっている。パンとミルクの時が多いが、飯をたき、味噌汁を作ることもある。その合い間に息子の伸一を起し、顔を洗わせ、服を着換えさせる。  父子二人の朝食がおわると、汚れた食器を洗い、戸締りをして伸一を近くに住む義妹夫婦の家へ預けに行くのが平田の日課になっている。  おかしなもので、朝食抜きの頃には滅多に空腹を感じなかったのが、近頃では昼近くなるとやたら腹が減るようなのだ。以前より早起きをしているせいだろう。  平田は近くのビルの地下にある食堂へ入って、焼魚の定食を注文した。たて混みはじめる寸前の時間なので、定食は注文するとすぐに来た。茶をひと口啜り、箸を割って味噌汁の椀をとりあげる。  そのとたん、息子の伸一の顔が泛《うか》んだのは、味噌汁の香りのせいだったかもしれない。平田は、味噌汁と一緒に、鼻の奥から喉のあたりに湧き上った熱い塊りを呑み込んでいた。それでも、やり切れない涙が両方の目頭に残ったようだった。  「伸ちゃんはおりこうよ。お天気のいい日は、ちゃんとおうちのお庭で、一人で遊んでるんですものね……」  義妹のよし江がそう言っていた。  朝、いったん平田が八百メートルほど離れた義妹夫婦の家に預けてから、伸一はまたトコトコと一人で自分の家に帰って行くのだそうだ。最初の内はよし江がついて行ったそうだが、今では慣れて、伸一の自由にさせているらしい。  伸一は自分の家の庭へもぐりこみ、よし江が呼びに行くまで、庭で一人遊びをしているのだという。  このまま帰って、不意にその庭へ現われてやったら、伸一はどんな喜び方をするのだろうか……。  「平田さん……」  耳もとで柔らかく呼ばれ、平田は椀の中に動く茶色い模様から目をあげた。  「どうしたの……何か入ってた」  この食堂の女主人だった。板前の着る白衣を着て、髪を頭の形なりにひっつめた、見るからに働き者という感じの女だった。  「いや……別に」  平田は我に返って箸を動かしはじめる。  「判ってるわよ」  女の歳は三十五か六。平田のとなりの椅子に、浅く、はすっかいに腰をおろして低い声で言った。  「坊やのお昼ごはんは何だろうな……でしょ」  「知ったかぶりするな」  平田は憤ったように焼魚をむしった。  「知ったかぶりなもんですか。ちゃんと顔に出てたわよ。パパの顔してたわ」  「よせよ。うまくもない飯が余計まずくなる。伜《せがれ》はちゃんと妹に預かってもらってるさ」  「亡くなった奥さんの妹さんでしょ」  「よく知ってるな」  「月二万円ですって……薄情なもんね、お金とるなんて」  平田は食事の手をとめて、呆れたように言った。  「誰だい、そんな……うちの会社には余程おしゃべりがいると見える」  「中川さんたちに聞いたのよ。以前はうちでもよく飲んでくれた平田さんが、ばったり来てくれなくなっちゃったから聞いてみたの」  「そうだな……ユキさんのお酌とも、随分ごぶさただな」  この店は、昼二時まで付近のサラリーマン相手に食事を出し、夜は酒蔵風の飲み屋に変る。酒のほうが本業である。  「とにかくやめて……」  平田たちにユキさんと呼ばれている女主人は、白木のカウンターに片手を突いて立ちあがり、冗談とも本気ともつかない表情で言った。  「見ちゃいられないもの」  客が四、五人つながって入って来た。 3  平田はことしで丁度四十である。たしかにもう若くはないが、さりとて老け込む年でもない。だから自分でも時々ふしぎになるのだが、半年ほど前、妻のみち子に死なれてから、めっきり気が弱くなって、どう誤魔化してみても気が晴れず、何かというと想いは二歳と四カ月の伸一のことになってしまうのである。  不憫《ふびん》でならないのだ。そして、自分が息子の伸一をそんなに不憫に思うこと自体、何かから、手ひどいしっぺがえしを受けているような気がしている。  夜、伸一のあどけない寝顔を見ていると、その寝顔から今日の北岡プラスチック工業小品課長に至る、ひと筋の道を否応なしに思い起させられてしまうのである。  母親の財布から小銭をくすねて買い食いをした小学生。カンニング常習犯の中学生。自慰に耽った高校生……。このあどけない寝顔がその筋道を辿らねばならないのかと思うと、過ぎた日々に対する悔恨がとめどなく湧きあがって、まだ骨の柔らかな伸一をだきしめ、だき殺してしまいたい気分に陥るのだった。  三十八の時の子供だ。みち子が妊娠したと知った時、平田は思わず指を折って数えたものである。子供がはたちになる時、自分は五十八になっている計算だった。そんな簡単な計算を指でたしかめるほど、平田は狼狽していたし、昂奮していた。  今が最後のチャンスだ。今ならなんとか間に合う……平田はその時そう思った。子供に対する欲が出て、せり出して行くみち子の腹を、祈るように見守っていたものである。  みち子とは、その前の年に結婚した。みち子は初婚で、平田より十歳下だった。平田はそれが三度目の結婚だった。  最初の結婚は二十六の時。二度目は三十一の時である。二度とも恋愛結婚で、三度目のみち子の場合だけが、純然たる見合結婚であった。  そのほかにも何回かの女出入があって、そうした愚行にも厭気がさしていたところだったから、すすめられるまま、そろそろこの辺が終着駅、というような気分で、至って淡々とみち子の夫に納まったのである。  ところが、伸一という自分そっくりな子供が出来てから、平田はみち子に深い愛情を感ずるようになった。みち子が病床につくと、我ながら度を外れたいたわりようで、あちらの病院、こちらの医者と駆けまわった。  それが呆気《あっけ》なく死んだ。その時も、平田は何かから手ひどい仕返しを受けたような気分になったものだった。  「お前なんか死んじゃえ。お前なんか死んじゃえ……」  平田の子をみごもって七カ月まで来てしまった女が、産科の病院の赤茶けた畳の上で、そう喚《わめ》きながら処置を受けていたことがあった。七カ月の胎児は尋常なことでは母体を離れず、彼女の股間からは胎児を引き出すための白い紐が伸びていた。  八歳年上のホステスと同棲していた時は、自分の子とも誰の子ともはっきりせぬまま、その女を病院へ連れて行ってやり、どのくらい待たされたか時間の記憶はうすらいでしまったが、待合室へ出て来た時には僅かにふらついている程度で、  「これじゃ今晩はお店休むわ……」  と舌打ちするのをタクシーへのせたものだった。  ひとりずまいのOLだった大柄な女は、裏通りの人目につかない診療所で粗雑な処置を受け、二日後もう一度掻爬《そうは》のやり直しをされねばならなかった。  俺という男は、いったい幾つの命を……。しみひとつないなめらかな肌をした、自分そっくりの伸一をいとしいと思うたび、平田は過去の愚行を数えあげ、どうすることもできない不吉な予感に怯えるのだった。  無邪気な伸一は、平田にとってかけがえのない愛の対象であると同時に、底知れぬ怯えの源でもあるのだ。 4  一時少しすぎ、平田はオフィスへ戻った。  「また伸ちゃんにおみやげですか」  小品課の若い部下の一人が、平田の上着のポケットにのぞいている三越の包装紙を目敏《めざと》くみつけ、お世辞のように言った。  「ん……」  平田はあいまいに答え、デスクの抽斗《ひきだし》にそれをしまった。  「発泡スチロールの伸びがとまっているそうですよ」  「そうか」  平田は椅子に腰をおろした。  「まったく、あいつの始末は厄介だからな」  「こうゴミ公害が騒がれたんでは、パッケージ部門の需要は落ちる一方でしょう」  「そうでもないだろう」  平田はデスクの上の灰皿をみつめながら言った。灰皿は、けさ女子社員が出したままで、吸殻はおろか、灰の汚れさえついていない。平田はこのところずっと禁煙を続けている。  「いまもちょっと三越を覗いて来たが、中元用商品のパッケージは少しも変っていないよ。以前のままだ」  「自分で売ってるのにそんなこと言っちゃ悪いですけど、どうなるんですかねえ。プラスチックのゴミってのは、どうしようもないですよ。今に世界中プラスチックで埋まっちゃう……」  平田はそれを聞いて失笑した。  「みんな同じことを言いやがる。売手も買手も、どうしようもない、どうしようもない、だ。それでいて結構買ってるし、どんどん売れてる。それもいいだろう。どっちにしたって、行きつく所まで行けばおしまいになるんだから」  「おしまいって……どうなるんです」  「知るかよ、俺が」  平田はなげやりな言い方をした。  「とにかく近い内におしまいになる。何もかも……そんな気がするよ」  「大地震があるって言いますし、それに天候異変でしょう。米はとれないわ、魚を食えば死んじゃうわ……ろくなことはなさそうですね」  「プラスチックを合成樹脂と言ってた昔が懐かしいよ。あの頃は結構な発明で、科学の勝利だなんて思ってたんだからな」  「課長がそんな風に言うと、みんな戦意を喪失しちまいますよ」  「うちはまだいいほうだ。防衛庁を持ってるからな。パッケージ専門のプラスチック屋なんか、お先まっ暗だって言うぜ」  「ま、悲観してても仕方ありませんね。とにかくひとまわりして来ますよ」  平田の部下は、そう言って煙草を揉み消すと立ちあがった。  部屋が静かになると、平田はまた伸一のことを考えはじめた。  みち子が死んで、二歳の伸一がとり残された。伸一は母親の死をまだ悲しめなかった。平田はその伸一を家に残して、毎日出社して来る。近くに住むみち子の妹が預かってくれるとはいうものの、実の母親のように一日中注意してやっているわけではない。  夢中で道にとび出して車に跳ねられてしまうかも知れず、近くの溝に落ちて這いあがれぬまま泥にうもれてしまうかも知れなかった。つまり、伸一は伸一なりに生きのびて行かねばならないのだ。  平田は、田や畑で暮す農夫になりたいと思った。身近に伸一を遊ばせながら働けたら、どんなに張り合いが出るだろうと思うのである。  義妹のよし江に、平田は毎月二万円支払っている。伸一の預り賃として、それは充分な金額ではなかった。しかし、よし江はそれでいいと言ってくれているし、平田のふところにとっても、そのくらいの金額がいちばん適当だった。だが、他人だったらそうは行くまい。よし江の事情が変って伸一を預けられなくなったら、その何倍もの金を支払わなければならないだろう。  よし江の家は化粧品屋をやっていて、今のところ暮し向きも安定しているようだ。しかし、それがいつまでも続くという保証は何もない。家が火事で焼けるかもしれず、彼女か彼女の夫が急に病いで倒れるかもしれない。人間は誰しもそういう不安定なものの上にのって暮しているのだが、伸一はその不安定な社会が偶然のように支え合った、ほんのかすかな平衡の上にのせられている。父親の自分にした所で、日に何度かはタクシーにのって都内をかけまわっている。車のひしめく道路では自分だけは、と思ってみても、事故に遭う確率は変えようもない。  平田が禁煙しはじめたのは、伸一の未来を考えてのことである。迂闊《うかつ》には病気になれないと思うし、伸一の為にできるだけ金を残して置いてやりたかった。煙草代を節約してどれ程のことになるわけではないが、禁煙でもおのれに課さないことには、いても立ってもいられない気分であった。  今日も退社時間が待ち遠しかった。早く帰って伸一の顔が見たかった。庭のトシの木のあたりで遊んでいる伸一の小さな姿が目に浮んで、平田はため息をついた。 5  四時少しすぎ、平田はユキさんと近くの喫茶店で向き合っていた。  「こんなこと、あかの他人の私なんかが言うのは失礼なんだけど……」  とりとめのない雑談のあと、ユキさんは照れ臭そうな微笑を浮べながら言いだした。  「実は、平田さんのおうちのことを聞いちゃったもんだから」  「家のこと……」  平田はユキという女の真意が掴めずに、思わず眉を寄せて問い返した。  「亡くなった奥さんのほうの持物なんですってね」  「うん」  平田はうなずいて見せた。  「あれの家は、柴又のあたりに古くから続いている家でね。昔はあのあたりの百姓だったらしいんだよ。そんなわけで、かなり土地も持ってる。今俺が住んでいる所は、あれが生れ育った家で、建坪は二十坪そこそこだが、百坪ほどの土地がついている。女房のおやじは庭いじりが好きだったらしくて、築山だの池だの、小さいながら今どきにしては贅沢なもんだ」  「そういう庭のあるおうちにずっと住めたら、坊やのためにもいいでしょうにね」  「そりゃ夢さ。俺みたいな素寒貧《すかんぴん》には無理なはなしだ。ユキさんがそこまで知っているんなら言うが、別に俺たちは追いだされるわけじゃないんだよ。女房の里の持物の、あの庭つきの家に、伜と二人でいつまでも居すわるわけには行かないさ。女房の家の者たちは、俺が再婚するのがいちばんいいと思っている。子供の為にもそれがいちばんいい方法だからな。女房の親たちはもういい歳で、孫を引きとってみたってどうしようもない。爺さんは脳溢血をやって、これだし」  平田は左手を胸の辺りへあげて、軽くゆすってみせた。  「あの土地を売って、その金のいくらかは孫の為にどうにかしてやろうという気なのさ。自分たちの生活資金と、孫の面倒と、化粧品屋をやってるもう一人の娘と……、土地の代金を三等分する気らしい。だから有難いはなしで、別に追いたてられるわけじゃない」  「それはそうでしょうけど」  ユキという女は不服そうな顔をした。  「そうなったら、どこに住むの。坊やがいるんですもの、どこでもというわけには行かないでしょう」  「もう少し話が煮つまったら考えるよ。あの家で新しい女房と住む、なんて虫のいいこともできんだろうよ」  「やっぱり、再婚なさるの」  「さあね……」  平田は失笑した。考えるべきことではあろうが、まるでその気がなかった。  「うちの庭はね、トシの木があるんだよ」  話題を変えた。  「トシの木……」  「うん。本当はクリの木の仲間なんだそうだが、ちょっと見るとサルスベリの木に似ている。知ってるかい」  「知らないわ、そんな木」  「寺や神社や墓地のまわりなんかで時々みかけるよ」  「そうかしら」  「俺が生れた家にも生えてた。大きな瘤ができてて、その木に登っては叱られたもんだ。親父の年と同じなんだそうだ、その木がな。トシの木ってのは、そういういわれがあるんだな。その家の家族の誰かが生れたのと同じ頃生えて、その誰かが死ぬとトシの木も枯れてしまうんだそうだ。だから、うっかり切ったり枯らしたりできないわけさ。そんなことをしたら、木と同じ年の家族が死んでしまう。トシの木って名も、多分そういう言いつたえから来てるんだろう。これは誰それの年の木だ……そういうことなんだろうな。いま俺がいる家の庭に生えてるトシの木は、死んだ女房の年の木なんだそうだ」  「あらやだ。で……」  ユキさんは、すくいあげるような上眼づかいで言った。平田は笑った。  「生えてるよ。枯れる気配もなく葉を繁らせている」  「みんなそんなものね、言いつたえなんて」  「まあな」  平田はコーヒーを呑んだ。  「私のごく親しくしてる人が、幾つかマンションを持ってるのよ」  「ほう。金持の知り合がいるんだな」  「もし、そんなんでよかったら、お世話できるんだけど……」  「マンションを俺が買うのかい。そんな金ないさ……」  「借りるのよ。いい借り手がいないか、ってこの間言われたもんだから」  「家賃が高いだろう」  「でも、その時になれば、木造の二間のアパートってわけにもいかないわよ。だって、坊やがいるんですもの」  「いや、君の親切は感謝するよ。有難いと思う」  平田はあらたまって頭をさげた。  「よしてよ、そんな……私、亭主と子供を一遍に交通事故でなくしちゃったでしょ。だから身近にそんな人がいると、ひとごととは思えなくなっちゃうのよ」  「世話好きなんだな。そうか、下町っ子だって言ったな」  「人形町の生れ。だからトシの木はおろか、栗の木でさえろくに見たことないの」  「いつになるかまだ判らないが、柴又の家を出ることがはっきりしたら、こっちからお願いに行くかも判らない」  「来てよ。待ってるわ」  ユキさんは、気が晴れたように急に明るい顔になり、左手首のプラチナの時計を眺め、  「あら大変。もうこんな時間なのね」  と伝票をつかんで立ちあがった。 6  京成柴又駅で電車を降りると、金町のほうへ少し寄った線路の左側に神社があり、その前を道路が線路と交差して高砂駅のほうへ伸びている。  神社の横から斜めに、もう一本の道が分れていて、その道をずっと行くと、先は水戸街道にぶつかっている。平田の住んでいる家はその道の左側にあった。  平田は駅から神社の前へ出ると、斜めの道へは入らず、高砂にむかう道路を、義妹夫婦がやっている化粧品屋のほうへ歩いて行った。五時になるとすぐ退社したので、あたりはまだ陽がさしている。  化粧品の店にはよし江がいて、平田が近づいて行くと店の外へ小走りに出て来た。  「まだお庭にいるわ。今日は早かったのね。これから連れに行こうと思ってたんだけど、うちの人が出掛けちゃってるもんだから」  よし江は弁解するように言った。  「どうもすみません」  平田は頭をさげ、  「じゃあ、驚かせてやりますか」  と言って店の横から自分の家へ続く裏道へ入った。  伸一は、その道をトコトコと毎日通っているはずであった。  平田はふと、道にしゃがみこんでみたくなった。伸一の目の高さで、その折れ曲った裏通りを眺めてみたいと思った。何を見て歩いていることだろうか……。  だが、平田の足はとまらずに、かえって早くなった。年甲斐もなく、胸が躍るようであった。何をして遊んでいるのか、一度見たいと思っていたのだ。ドブにかかった小さな橋を渡り、家のある横丁へ入った。見慣れた生垣が見えていた。  平田は柾《まさき》の垣根をかきわけて、横の道からそっと庭の中を覗いた。伸一が遊びまわっている気配はなかった。  平田は急いで表へまわり、裏木戸の錠を外して勝手口へまわった。暑い夏の西陽を、楓の葉が程よくさえぎっている。平田は庭へ出て見まわした。  伸一はやはり庭にいた。庭のほぼ中央にあるトシの木の、日影になった側に尻をつき、幹に倚りかかって、トシの葉を一枚持って、おだやかな表情で独りごとを言っていた。  平田は靴音をしのばせてトシの木に近づいて行った。  ところどころに茶色い斑《ぶち》が入った、直径六十センチほどの白いつるりとした幹に倚りかかって、伸一は無心につぶやいている。小さなぷっくりとした指で細長いトシの葉のへりを、ゆっくりとなぞっていた。  その伸一が、不意に顔をあげた。不審そうに平田をみつめ、やがてその大きな眸《ひとみ》に涙が湧きだしてくるのが判った。口をあけ、息苦しそうに胸を上下させはじめた。声もでないほど烈しく泣きだしたのであった。せわしなく息を吸いこみ、そのたびに涙がポロポロと稚い頬をころげ落ちた。ゆっくりと両手をさしのべ、平田を仰ぎ見ている。  「そうだな。淋しかったんだよな」  平田はそう言って伸一をだきあげた。声が喉でひっかかり、熱くくぐもっていた。伸一はしゃくりあげて泣き、だいぶたってから低い泣声をたてた。その泣き方に、平田は伸一に与えられた孤独の深さを思い知った。  「お父ちゃんだって、会社へなんか行きたくはないんだ」  平田は伸一を庭の土の上におろすと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。  「いつもここに坐って遊んでるのか。どうやって遊んでるんだか、お父ちゃんに教えてくれよ」  平田は上着を脱いで物干竿にひっかけると、伸一がしていたようにトシの木の下へ坐りこんだ。  「でも、一人じゃ淋しいだろう。どうしておばちゃんの家にいないんだ」  「ちゃあちゃんの木がいいの」  伸一は泣きやんで言った。伸一は、お母さんと完全に発音できる前に母を失ってしまった。かあちゃんの訛《なま》った、ちゃあちゃんのまま、伸一の母親に対する呼び方は進歩をとめてしまっている。  「そうだよな。これは、ちゃあちゃんの木だものな」  「お話ししてんだよ」  「ちゃあちゃんの木とか」  「うん。葉っぱなんか、おっことしてくれるよ。ちゃあちゃんの木、ちゃあちゃんとおんなじ」  伸一は白いすべすべした幹に顔をおしつけてみせた。  「そうか。ちゃあちゃんの匂いがするか」  平田は首をねじまげて、伸一がしてみせたように木の肌の匂いを嗅いだ。  少し甘いような、清潔な樹脂の匂いがしていた。  「瘤にさわりたいの」  伸一が甘えて言った。トシの木の幹の、平田の背より三〇センチ程上のところに、かなり大きな瘤が生じていた。瘤のところだけは、木の肌が焦茶色に変色し、ごつごつした感じでとび出している。  「昔、お父ちゃんがいた家にもトシの木があったんだよ。やっぱり、こんな瘤があったんだ」  「瘤、どうしちゃった………」  「知らないんだ。引っ越しちゃったからな」  「ねえ、これ僕の木だよ」  伸一はすぐ傍へしゃがみこんで言った。  「おばあちゃんが言ったよ」  たしかに、それは伸一が生れた前後に芽ぶいた、トシの木の若木であった。もう、しゃがんだ伸一の頭より高くなっている。  トシの木は年の木……だが、伸一は自分同様、生家のトシの木とはやがて離れなければならない。平田はそれが伸一の年の木であるとは思いたくなかった。ユキという女が言っていたように、多分マンションか……そういった土のない家に住むことになるはずである。年の木を持つことは許されない贅沢だった。 7  あけ放した縁側から庭先へ部屋の灯りがさし、金蚊《かなぶん》が一匹、勢いよくとび込んで来て障子に音をたてて当った。  「あ……」  伸一は目を丸くして畳の上に落ちた青銅色の虫を眺め、すぐその目を平田に移した。  「金蚊と言うんだぞ、これは」  平田は虫をつまむために腰を浮かせながら言った。  「虫……」  「そうだ。こがね虫って言うの知ってるか」  「知らない」  「こがね虫の親類さ」  「悪い奴……」  「ん……」  平田は金蚊を右手の指でつまんで伸一の顔をみた。伸一はデパートの玩具売場で買って来た人形を手に、眸を輝かせていた。  「そうか。こいつは怪獣だな」  平田は金蚊を伸一の前につきだして言った。そう言えば、青銅色に光るその虫は、伸一の好きなテレビ番組に出て来る、悪の権化に似ているようであった。  「へんしーん……」  伸一はそう叫ぶと、大急ぎで人形に赤い衣裳を着けはじめた。昔からあった着せかえ人形と同じだが、現代の子供の夢は、昔とまるで違っている。透明なプラスチックのボデーの中に、銀色の、何やらエレクトロニクスめいた臓器が埋めこんであり、何通りもの衣裳を着せかえて、子供の変身願望をみたさせるのであった。  「ギャオ、ギャオ……」  変身した超人が、青銅色の怪獣に立ちむかった。平田は虫をつまんで四つん這いになり、伸一の超人とたたかいはじめる。  平田は遊んでやりながら、ふと思った。  或る日、伸一が突然とほうもない才能を発揮しはじめる。この錯綜した時代をとびまわり、高く高く舞いあがる。自分は、息子の逞しい飛翔ぶりをうっとりとみあげながら老いて行く。そこには静穏で痺れるように幸福な老後がある……。  「なあ、伸一」  「なあに……」  「大きくなったら何になりたいんだ」  平田の質問に、伸一は超人をとばす手を休めて答えた。  「かしゅ」  「え……」  「かしゅ。テレビで唄うの」  平田は唇を噛んだ。子供の夢だ。プロレスラーの次の日には電車の運転士……とりとめもなく、気にしてもはじまらないことは判っている。だが、流行歌手という伸一の答が、平田にははぐらかされた以上に手痛かった。  「もうやらないの……」  伸一は金蚊の動きがとまって不満そうだった。平田は思い直してその遊びを続けてやった。坐ったままのがエスカレートして、四十の父親と二歳半の息子が、家中を駆けまわった。台所から四畳半、縁側と走りまわり、平田は次第にうつろな気分になるのだった。  「いいかげんにしなさいよ」  そう言ってたしなめる女の姿が、駆け抜ける部屋のどれかにあっていいはずであった。  うしろを追って来るはずの伸一が、うまく逆まわりして平田の正面へぶつかって来た。人形を持ったまま平田の脚にだきつき、平田をよろけさせた。二人は畳の上にころがり、伸一が烈しく笑った。笑いこける伸一を、平田は長い間、無表情にだきしめていた。金蚊が庭へ飛び去る羽音が聞えた。  床をのべ、枕を並べて横になった時、伸一はすがりつくような眸で言った。  「あしたの晩もやる……」  「うん、やろう。また金蚊が来るといいな」  「昼間、お庭で探す。つかまえて、箱にいれとく。蚊取線香の箱でいいよね」  「ああ。でも、金蚊はつかまらないかも知れないな」  「かぶと虫、見たことあるよ。よそのお兄ちゃんが持ってた。黒くて、こんな大きかったよ」  「かぶと虫もいないかも判らないなあ」  虫も魚も、都会の子はもうろくに見ることもできない。PCBだ水銀だと、子供らの未来を暗くする話ばかりがやかましい。  平田が売り続けているプラスチックが、伸一の前途にうず高く積みあげられている気がした。痩せおとろえ、或はぶくぶくに肥満した青年が、それをシャベルで力なくすくいとっては、おのれの道をひらこうとしている。青ぶくれの青年は伸一であった。もう老い呆けた平田は、そのずっとうしろの道ばたにしゃがみこんで、のろくさい息子の作業をみつめているだけであった。息子はよろけ、プラスチックの山の中へ倒れ込んだ。積みあげられたプラスチックがその体の上へ、音もなく崩れ落ちて行く。透明なボデーに銀色の臓器を埋めこんだ変身人形が、最後にその上へころげ落ちた。平田は息子の名を呼んだ。叫ぼうとした。だが、声も出ぬほど老いていた。 8  平田は烈しい不安感の中で目ざめた。心臓の位置が、はっきりと自覚できた。心臓はふたしかに脈うち、ときどき動きをとめるようであった。  平田はうす暗い電灯の光の中で、そっと上体を起した。体の奥深くから湧きだして来る不安感で、寝ていることができなかった。手ひとつ動かすにも、ゆっくりと注意深くやった。不用意な動きが、自分の生命の破壊につながるような気がしている。  心臓神経症だということは知っていた。だいぶ前にその症状を覚え、同病の仲間とも話合って、そう危険なものでないらしいことはよく承知していた。だが、それに見舞われるとやはり不安になった。  平田はおのれを励ますために、そっと首をひねって伸一の寝顔を見た。伸一は寝ついた時と同じ姿勢で、平田のほうに顔を向けていた。  母親のみち子と同じように、この家で、庭のトシの木と共に成長させてやりたかった。人間は、プラスチックや自動車などとではなく、樹木や昆虫たちと育って行くのが本当であるような気がした。  トシの木は年の木……庭の、みち子のトシの木のそばに芽ぶいたのは、たしかに伸一の年の木なのだろう。はたちになったら、何メートルの高さになるだろうか。  平田はだいぶ以前から、トシの木の言いつたえを信ずるようになっていた。平田の生家に、父親の年の木だというトシの木があったせいでもある。父親の命の象徴とされ、木に登りなどしたら、ひどい叱られようであった。  二十六歳の時結婚した最初の妻と別れたのは、結婚も離婚も若気の至りとしか言いようがなく、愚かしいことであったようだ。身の上のことなどもろくに話合った記憶がなく、別れたあと思い返してみると、彼女の身について驚くほど何も知らなかった。  だが、二度目の妻となった女とは、お互いの過去などよく話合った。彼女は博多の近くの生れで、トシの木のことをよく知っていた。  「うちの父も、自分のトシの木を持ってたし、私も持ってるのよ」  彼女はそう言った。或る夏、平田はその妻と一緒に博多を訪ね、彼女のトシの木に実際に触れた。それは今庭に生えているみち子のトシの木とほとんど同じような恰好をしていた。  やがてその妻とも別れ、みち子と結婚した時、この家にあるトシの木を見て、平田は自分の人生にまつわる、ひとつの因縁を感じないわけにはいかなかった。  トシの木というのが、そう多い木ではないことを、平田はその時までになんとなく学んでいた。  そうした古い言いつたえに詳しい老人に聞くと、トシの木というのは元来陰木とされ、庭木には不向きであるらしかった。神社や寺によく植えられる木で、恐らくはよく瘤《こぶ》が生じるから、それを奇瑞と考えた時代があるのかも知れない。しかし、殊に寺の墓所の近くで見かけるということから、陰性のイメージが発生し、庭木には不向きとされるようになったのであろう。  とにかく、トシの木のある家に育った女と二度までも結婚するのは、よくよくのことだと感じるようになったのである。  平田は仕事でよく出張する。或る時長野市の近くへ出かけ、最初の妻の生家がその近くだったことを思い出した。  もしや、という興味に駆られて、平田はその家へ行ってみた。トシの木があるかないか、いささか子供じみた興味であった。  そして、その家の庭にトシの木を発見した時は、しばらく凝然としていたものである。  人間は、ただ偶然に巡り合っているのではない。……そんな確信が湧き上ったのであった。自分の場合には、それがトシの木という共通項で結ばれている。平田はそう思い、過去に縁のあった女たちの生家を、おりをみてたしかめるよう心がけた。  かつて同棲した八つ年上の女の生家は房州にあり、やはりトシの木が生えていた。神奈川生れの女の生家にもトシの木があった。数多くはないトシの木と自分が、そのように幾重にもつながっていたことを知ると、最後に結ばれたみち子をいとおしむ気持がつのった。トシの木を持つ女とめぐり合うのは、これが最後だろう……。そう平田は確信した。 9  次の土曜日、平田は一時半ごろ柴又駅へ着いた。まっすぐ家へ戻ってもよかったが、伸一は化粧品屋のほうにいるかも知れなかったし、庭で遊んでいればいたで、義妹のところへ挨拶に行かねばならない。平田は結局いつもどおり高砂へ通じる道を歩いて行った。  伸一は珍しく化粧品屋の裏で泣きじゃくっていた。  「伸ちゃん、泣いちゃって大変だったのよ」  義妹のよし江は平田の顔をみるなり、ほっとしたように訴えた。  「どうしたんです。何か悪さでもしましたか」  平田は詫びるような目で言った。  「それがねえ……」  よし江は手まねきをするように右手を振った。  「不動産屋が入ってったのよ。伸ちゃんが遊んでるとこへ」  「不動産屋……」  「いえ、ちゃんとおじいちゃんたちには断わってあったんだそうだけど……ほら、よくやってるでしょう。棒を立てて測量するの」  「ああ、あれね」  平田は自分の脚に顔を押しつけて泣いている伸一をみおろした。いよいよ話はそこまで進んだか、と思った。  「不動産屋が若い人を使って仕事をはじめようとしたら、伸ちゃんが猛烈に泣きながらむかって行ったんですってよ」  平田は苦笑した。  「さすがは男の子だな。泥棒かなんかだと思ったのか」  伸一は平田に頭を撫でられながら、まだ泣き続けていた。  「不動産屋が困っちゃったらしくて、うちへ何とかしてくれって言って来たの」  「ご迷惑でしたね。まったく、いつもお世話になりっ放しで……」  「不動産屋はだいぶ前に帰ったようよ」  よし江はそう言い、しゃがみこんで伸一の泣き濡れた顔を拭ってやった。  「そら、おんぶしてやる」  平田は腰をかがめ、伸一に背を向けた。伸一はとびつくように平田の肩につかまった。  「悪い奴らが来たのかと思ったのかい」  すると伸一は平田の背中でせきこんだ様子で言った。  「もしかしたら、もうすぐ僕らのおうちじゃなくなっちゃうんじゃないの。あのおじさんたち、それだから来たんだよ。攻めて来たんだよ」  平田は真顔になった。伸一がそれを知っているのが意外だった。  「ちゃあちゃんのいないとこなんて、僕いかないからね」  伸一はトシの木のことを言っているようであった。平田は厄介だと思った。今の内によく言って聞かせて置かないと、いざ転居という段になって面倒なことになりそうだった。  「でも、もしかしたら引っ越すんだぞ。マンションかも知れないな。エレベーターであがるんだぞ。七階も八階もある高いところだ。遠くまで見えるんだぞ」  「やだ。あいつらが来たら、今度はお父ちゃんがやっつけてね」  「喧嘩はいけないんだよ。今日来たおじさんたちは悪い奴じゃない」  「嘘だよ。攻めて来たんだよ。おうちをとりに来たんだよ。やっつけて。ねえ、やっつけちゃってよ」  「おとなしくしてなきゃだめだよ」  「お父ちゃんはいいの……ちゃあちゃんの木、とられちゃうんだよ。よその人が来て、僕らはどっか行っちゃうんだよ」  平田はつぶやいた。伸一に答えるというより、自分自身に言っていた。  「それもやむを得んさ」  突然平田の背中で伸一が暴れはじめた。泣き喚き、両手で平田の頭をつづけざまに叩いた。  「お父ちゃんのいくじなし。いくじなし。いくじなし……」  平田は息子に打たれながら黙って歩きつづけた。歩いている内に、奇妙な快感が湧いて来ていた。弱いおのれを、自分自身で打ちすえているようであった。  「お父ちゃんだって、ちゃあちゃんの木と一緒にいたいよ」  思わずそう言ってしまった。言ってしまってから、結局それが自分の本音だったと気がついた。  父親の本音に物哀しい響きを感じたのか、怒り狂っていた伸一は急に泣声を変え、平田の背に顔をおしつけて来た。どうにもならない力に押し流され、みち子のトシの木から遠のいて行く……背中に感じる伸一の涙は、平田の心の中の涙とよく似ているようであった。  裏木戸の錠を外し、平田は伸一をおぶったまま庭のトシの木の前に立った。  「みち子。伸一が泣いて仕様がないよ」  平田はトシの木に言った。伸一はその背中で右手をのばし、瘤のあたりを指さした。  「ちゃあちゃんも泣いてんだよ」  見ると、人間の頭ほどもある瘤のあたりから、白くすべすべした幹に飴色の樹液がしたたっていた。  「瘤にひびわれが入ったな」  「ちゃあちゃんも泣いてんだよ。ちゃあちゃんかわいそう。ずっといてやろうよ」  伸一は懸命に平田を説得しようとしているようであった。 10  夏がおわり、秋が来て、伸一がその秋風のためか風邪を引いた。  みち子が死んで以来、風邪ひとつ引かなかったのが、急にそうやって寝込まれてみると、無事だった何カ月かがどんなに幸運な日々だったのか、平田はつくづく思い知らされた。  まる二日、熱が続き、平田は会社を休んだ。三日目、熱がさがりはじめ、あけ方空腹を訴えて平田をほっとさせたが、結局その日も出社は無理だった。  「どうでした、ゆうべは……」  よし江が朝八時ごろ見舞いに来てくれた。  「おかげさまで、だいぶよくなったようです」  「ほんとにねえ。お店さえなければついててあげられるのに……。おばあちゃんも、おじいちゃんがあのとおりだし。困っちゃうわねえ、こういうときは」  よし江はそう言って伸一の枕もとに坐り、額に手をあてた。  「ほんと、熱はさがったみたいね」  「風邪だけですんで助かりましたよ」  「二カ月ですって……」  よし江は覗きこむような目で平田をみつめた。  「正確には、あとひと月と二十日ばかりです」  「この次のおすまい、きまりましたの」  「心当りもありますし、なんとかなるでしょう」  「ずっといてもらいたいんだけどねえ……だいいち、伸ちゃんがかわいそうで」  「言って聞かせます。さいわい物判りのいい子だから」  「平田さんがこの土地を買えればいちばんいいんだけどねえ」  よし江がため息まじりに言う。  「とてもとても……」  平田は笑いながら首を振った。  「だいぶじたばたと、してみるだけはしてみたんです。僕が買うのなら、おじいちゃんのほうも考えてくれるでしょうし、と思いましてね」  「聞いたわ。ごめんなさいね。父も物判りはいいほうなんですけど、ここを売ったお金を伸ちゃんの将来のたしにするって……それにこりかたまっちゃってるのよ。平田さんが買うんじゃなんにもならない……そう言って頑張るのよ。伸ちゃんにあげる分だけ安くしてあげればいいのに。おんなじことでしょ、それで。だのに、それが判んないのよ」  「いや、結局移ったほうがいいんです。仮に土地の値段を三分の二にさげてもらっても、今の僕にはとても買う力はない。銀行にも当りましたが、うまくいきませんでした。それに、病気だ何だと、まだまだ今度みたいなことが起るでしょうし、もっと職場に近い所のほうがいいようです」  「うちの子供たちともうまくいってたんだし……淋しくなるわね」  「慣れますよ。子供なんて、その辺は心配ないもんだそうですから」  よし江は立ちあがった。  「今日はどうなさるの。何日もお休みしてるわけにはいかないでしょう」  「いや、もう一日休みます」  「そう。……何かご用あります」  「別にお願いすることもないようです」  「じゃ、また手があいたら来ますけど」  よし江はそう言って勝手口から帰って行った。  「お父ちゃん」  伸一は、よし江が帰ったのをたしかめるように、寝たまま部屋の中をみまわした。  「なんだい」  「やだよ、僕」  「何が」  「ちゃあちゃんを置いて行くの」  「ちゃあちゃんの木のことか」  「うん」  「あれがちゃあちゃんの木だと言うのは迷信なんだよ。判るだろう。人間と木は違うんだよ」  「違うくない……」  まだいくらか熱の気を残した伸一は、力なく首を左右に振った。  「だって、ちゃあちゃん、いっぱい泣いてるよ」  「あれはね、木のしるなんだよ。瘤のところから流れだしてるんだ。それだけさ」  「ちゃあちゃん、僕らが行っちゃうの嫌だって。だから泣いちゃってるの。ちゃあちゃん、言ったもの」  「何だって」  「僕は金色なんだって。いつも僕を見てんだって。行かないでって言ったよ」  「お話ししたのか、ちゃあちゃんの木と」  「うん。いつもお話ししてたよ。だから、おばちゃんのうちよりお庭のほうがよかったの。ちゃあちゃんの木は、ほんとはもう死んじゃったんだって。でも、僕がお庭にいるから生きてるんだって」  「そうか。そんなこと、ちゃあちゃんの木が言ったのか」  「いつも言ったよ。ねえ、ちゃあちゃんの木、みてきて。いっぱい泣いてんだもの」  伸一はもう三日も庭へ出ていなかった。  「よし。じゃ寝てろよ。見て来てやるからな」  平田は縁側の戸をあけ、サンダルをつっかけてトシの木の下へ行った。瘤のひびわれがひどくなり、樹脂ののぞいた裂け目が何本も交錯していた。  伸一は健康な子だ。頭脳も正常だ。どこと言って欠陥のない愛くるしい子供だ。しかし、その伸一たちの世代の行手が、明るいものだとはどうしても思えなかった。防衛庁との取引が、一期ごとに増大している。愚にもつかないプラスチック製品が、際限もなく売れて行く。平田の知らないいろいろな業界でも、似たようなことが進行しているに違いなかった。自分たちの世代の罪を、あの子たちが背負いこんで行く……。  「みち子。どうすればいい」  平田は心の中でトシの木に問いかけていた。  「俺はあいつに、あいつのトシの木さえやれないんだ」  平田はすべっこい幹に手をあてた。樹脂の甘い香がした。  「ちゃあちゃん……いやだよう……」  突然足もとで伸一の叫び声がした。はだしで庭へおりた伸一が、腫れぼったい顔で平田の足もとに立ち、トシの木にしがみついて泣いた。  「ちゃあちゃん……いやだよう……」  小さな体に力をこめ、トシの木をゆすった。その時、白くすべっこい目の前の幹の肌に、飴色のどろりとしたものがすべり落ちて行った。ねばねばと、柔らかく、それは流れおちて行った。  「伸一……」  平田は叫んだ。飴色の樹液が、伸一の柔らかい髪をつたい、小さな頭にべっとりと流れ落ちた。みあげると、瘤が割れていた。ざっくりと割れた瘤のあとから、飴色の樹液がねろねろと流れだしていた。  「危ない……」  平田は思わずそう言い、伸一を木から引き離そうとした。だが、樹液は思いがけぬ勢いで噴きだし、伸一の体をみるまにおしつつんで行く。  「ちゃあちゃん……」  伸一の声がくぐもって聞えた。平田は伸一の体と幹をつたわる樹液の間に体をさし入れて、伸一をひきはなそうとした。平田の肩に、耳に、頭に、とめどもなくトシの木の粘っこい樹液がこびりついて来た。樹液は空気にふれ、すぐに硬化して行くようであった。伸一は左手を平田の左脚に、右手をトシの木の幹にあてがって、すでに樹脂の中にとざされようとしていた。平田は背を幹にあて、左半身をトシの木にとらえられていた。  樹液はまだ溢れだしてくる。首が、胸が頭が、トシの樹脂にとじこめられはじめていた。  平田はふともがくのをやめた。これでいいのだという気がした。甘い香の樹液が顔にかかり、厚く掩った。住みなれた部屋が、金色に見えた。庭も空も、すべてが金色の世界であった。  トシの木の葉が風に舞い散っている。瘤が裂けて溜った樹脂がしたたり、凝固して幹を異様にふくらませている。  もうその家に、誰もいなかった。 [#改ページ]    夢の底から来た男 1  道路をはさんだ向こう側のビルの七階と八階の窓ガラスが、夕陽をまともに受けて白く光っていた。こちらのビルの影になった部分は、壁も窓も青味がかって見え、その窓のひとつに、椅子に坐った男がのんびり煙草を扱っているうしろ姿が見えていた。  また一日がおわった。彼はそう思い、椅子の向きをかえて自分のデスクに戻った。五十枚ほどの振替伝票を揃えてゴムバンドをかけながら、向き合った席にいる太田芳江の顔を見た。歳はたしか三十三か四。結婚しているのだそうだが、夫がどういう人物で、どんな暮らしぶりなのか、いっさい喋ったことがなかった。服装はいつも地味で質素で、上司に対しては従順だがきわめて事務的な態度で接し、伝票を持ってこの経理課へ現われる若い社員たちに対しては、少々棘のある言葉づかいをする女であった。  ただ、彼に対してだけは、ときどき気易い同僚としての態度を示すことがある。  「金庫、しめるわね」  太田芳江はそう言うと、椅子の背に背骨を押しつけるようにして体を反らせた。そのとたん、営業課長の林がユニット式の間仕切りのドアをあけて顔をだした。  「たのむ、仮払いだ」  戸棚兼用になったスチール製のカウンターの上へ出金伝票を置いて言う。太田芳江はすぐにはその伝票をとろうとせず、椅子にもたれて首だけ林のほうへまわした。  「いくらですか。あんまりありませんよ」  「大した額じゃないさ。飯代だよ」  太田芳江は伝票に手をのばす。  「こんなに食べるんですか」  林はムッとしたようだった。  「スポンサーの接待なんだ。俺たちは外へ引っぱりだすのに何か月も骨を折っているんだぞ」  太田芳江は、はぐらかすように明るく笑って見せる。  「なるべく早く清算してくださいよ。林さんはいつも遅いんだから」  「早くするよ」  林は頷く。  「林さんの為を思って言ってるのよ。だって、しまいには自分のお給料で始末することになるんですもの」  「しようがないんだよ。仕事のからみ具合が微妙だから」  「はい」  太田芳江は一度現金を手渡しかけ、すぐ引っこめて銀行の封筒に入れて渡してやった。  「さて……」  林は腕時計を眺めながら出て行った。  「これでおしまいね」  太田芳江は自分の前の青い手提げ金庫の蓋をおろして言った。  「あんまりいじめるなよ」  彼は微笑しながら言う。  「営業の連中は大変なんだぜ」  「そうでしょうけど、お金にルーズすぎるからよ」  芳江の言い方は反論しているのではなく、淡々と感想を述べているといった調子であった。  「さて……」  そう言って、課長の大野が席へ戻って来た。帳簿類をひとかかえ持っていた。  「来週、専務と社長は関西出張だ」  芳江はすぐ大野のデスクへ行って、持ち帰った帳簿類をしまいはじめる。大野は椅子に坐って煙草をとりだした。  「今日も遅くなりそうだ」  「麻雀ですか」  彼も机の上の整理をはじめながら言った。  「まあな。……君は麻雀もしない。煙草も吸わない。君の奥さんはしあわせだよな」  「芸なしなんです」  彼は目をあげて大野を見た。大野は銀色のライターをとりだして、煙草に火をつけていた。  「いや。理想的な経理マンさ」  火をつけおわった大野は、左手でライターをもてあそびながら言った。彼はじっとその左手をみつめていた。  あいつは経理以外に使い道がない。……かげで大野がそう言っていることを、彼は知っていた。たしかに、ほかのセクションへまわされたら、この会社をやめるより仕方ないと思っていた。やめて、またどこかの経理の仕事を探さねばならないだろう。性に合っているというより、ほかに出来る仕事がないと言ったほうが正確なのだ。経理の仕事も、好きで仕方ないというほどではない。生きて行くためには仕事が要るし、彼にできる仕事といったら経理くらいなものだ。でも、それで不満かと言えばそうでもない。性に合わないのを無理して営業の第一線に出て行くよりは、よほど気が楽であったし、縁の下の力持ち的な立場を損だと思うほど、積極的な性格ではないのだ。  「なんだい」  大野は彼の視線に気づいて、左手に持ったライターを見た。  「どうかしたか、これ……」  彼はあわてて机の上の整理に戻った。  「いや、別に」  その小さな経理の部屋に沈黙が流れた。あと十分かそこらで、芳江と彼は会社を出、地下鉄の駅に向かうだろう。課長の大野はとなりのビルの地下にある麻雀屋へ行くはずだ。一日の仕事がおわったとたん、その三人に共通するものは何もなくなってしまう。  「大野さん……」  間仕切りの向こうから声がかかった。  「おう」  「先に行ってますよ」  たしか阿部という若い社員の声であった。  「よし。金庫をしめるぞ」  大野は咥え煙草で立ちあがり、壁ぎわの青黒い防火金庫の扉をしめ、鍵をかけた。芳江も席を立って部屋を出て行く。手を洗い、化粧を直して戻ると、ハンドバッグを持って退社するのだ。それに少し遅れて、彼もこのビルを出る。毎日ほとんどかわらない手順で、時間も五分と狂ったことはなかった。 2  新大塚スカイハイツ。安マンションだ。彼はその六階でエレベーターを出ると、吹きさらしの通路を歩いて、空色に塗ったドアの横にあるボタンを押した。中でチャイムの音がしている。  すぐにドアがあいて、妻の香子の顔が見えた。  「おかえりなさい」  香子は早口で言い、すぐ奥へ消えた。魚を焼く匂いと、男の子の泣声がからみ合い、いかにも世帯じみた感じである。  だが、彼はいそいそと靴を脱ぎ、狭い入口にしゃがんでそれを作りつけの下駄箱へ押し込むと、上着を脱ぎながら、  「どうした、健《たけし》」  と陽気な声で言った。  「自分で自動車をこわしちゃったくせに、泣いちゃってるの」  もうすぐ一年生になる娘のみどりが、そう言いながらおしゃまな感じで彼の上着を受け取る。  「なんだ。もうこわしちゃったのか。どれどれ」  彼はキッチンの入口に立って泣いている健をだきあげ、  「まず顔を拭いてからだ」  と風呂場へ連れて行く。  「お父さんが直してやるから。どこにあるんだ」  湿ったタオルで顔を拭いてやりながら言う。健はすぐ泣きやみ、彼の手からのがれて風呂場を出て行った。  「どれどれ」  彼はタオルを洗面器の中へ抛りこむと、健の姿を探した。  「飛行機よ、これ……」  健は指の先で小さなものをつまんで来た。  「お、グリコのおまけだな」  彼はしゃがみこんで相手になってやる。  「どこへ行く飛行機かなぁ」  「海……」  「そうか、海へ行くのか。誰と行くんだ」  「おかあさんとおとうさんと」  「おねえちゃんは」  「ブーン……」  健は部屋の中を走りまわった。  「こわれた自動車はどこにあるんだ。お父さんが直してやるぞ」  だが健はもう忘れてしまったように、小さなプラスチックの飛行機をつまんで走りまわっている。  「静かにしなさい」  香子が健を叱った。  「健のばか」  床に坐り込んで本をひろげていたみどりが、その本を足でひっかけられて黄色い声をだす。  「ブーン……」  「まて」  彼は通りすがる健をさっとだきあげた。  「速い飛行機だな」  「うん。いちばん速い奴」  「そうだな。自動車どこにある」  「あっち」  「よしよし。うまく直るかな」  「自動車、こわれちゃったの」  「お前がこわしたんだろう」  彼は二段ベッドのあるとなりの部屋へ入った。  「タイヤがとれてるな」  健をだいたまま坐り込み、プラスチックのおもちゃをとりあげた。  「タイヤはどうした」  「とれちゃった」  「どこにある。持っておいで」  「こわれちゃったの」  「よし。その飛行機にのせておいで」  健は二段ベッドの横へ行って、おもちゃのタイヤと小さな飛行機を両手に持って戻って来る。  「ほら、よこせ」  健はするりと彼の膝の上にのる。  「大したことないよ。故障しただけだ」  「エンジン……」  「そう。エンジンの故障だ。エンジンて、どこにあるか知ってるか」  「ここ」  健はフロント・フードのあたりを指さす。  「そうだ、えらいな。エンジンはそこにあるんだぞ。自動車はエンジンで走る」  「ちがうよ。自動車はガソリンで走るんだよ。テレビがそう言ったよ」  「こいつ」  彼は笑って健の頭に顎をのせた。髪の匂いが何やら懐かしかった。健はおとなしく、彼がおもちゃを直す指先をみつめている。  ライターが彼の頭の中に泛んでいた。課長の大野が持っているライターであった。四角く、細長い感じで、重そうな銀色をしていた。毎日顔をつき合わしているのだし、大野は相当なヘビー・スモーカーだから、今までそのライターを何度も見ているはずであった。  しかし、今までまったく気づかなかった。重そうな感じの、銀色のライター。……どこかに見憶えがあり、しかもそれはたしかに課長の大野とは関係のない記憶であった。  彼はそのライターのことを思い出そうとした。しかし、思い出す前におもちゃの自動車の修理がすんだ。  「わあ……直った直った」  健が彼の手からそれをとりあげ、膝からおりてさっそくころがしはじめた。  「乱暴にするとまたこわれるぞ」  「あなた、着がえて……」  香子が部屋をのぞいて言った。  「いけね。お父さんも叱られちゃった」  夫婦の寝室はとなりである。彼はその部屋へ移って服を着換えはじめた。上着はみどりがちゃんと洋服だんすのハンガーに掛けてくれていた。  窓の外から国電の駅が見えていた。どんよりと濁った夕暮れの空であった。 3  「加藤さん。加藤さん。加藤一郎さん……」事務的な声で呼ばれ、彼はその何度目かでハッと目がさめた。喉がひどくかわいていて、彼は大きく唾をのみこんだ。またあの夢を見ていたのである。いつもよく見る夢であったが、名を呼ばれたのははじめてであった。  その夢をいつごろから見るようになったのか、よく憶えてはいない。しかし、その夢を見るたび、彼はきまって途中で目ざめるのであった。  別に筋のようなものがあるわけではない。はじめはどこか壁のようなところから、一人の男が滲み出すような感じで現われるのだ。男の姿はだんだん鮮明となり、やがて彼の正面に突っ立つ。その、滲み出すような最初のころと、目の前に鮮明な姿で仁王立ちになる間の時間が、夢の中ではとほうもなくゆっくりと流れるのだった。そしてその緩慢な時間のあいだ、彼は得体の知れぬ恐怖を味わい続けているのだ。  だが、夢はあくまで夢で、目覚めてからいくら思い出そうとしても、その恐ろしい男の顔がどうしても思い出せないのだ。ただひとつだけはっきりとしているのは、その男の両手は、いつも血にまみれていた。まるで、たった今まで人間の内臓を素手でかきわけていたかのように、どろどろとした血で汚れている。  彼は暗い寝室の天井を、うんざりしたような気分でみつめていた。  何もかも申し分なかった。ごく平凡なサラリーマンだが、妻も子もあり、彼はそれを心から愛していた。決して豊かではないが、住まいもあり、子供たちにそうみじめな思いもさせないですんでいる。おとなしすぎるほどおとなしい自分のような性格の人間には、これでも充分すぎると満足しているのであった。  だから、ここ何年も家庭に波風はたっていない。ただ唯一の悩みは、その血まみれの手をした男の夢であった。もちろん、そんなことを香子にも言ってはいない。たかが夢のことだし、余分な心配をさせてはつまらないと思っているのだ。  ところが、その悪夢の間隔が、最近になって急にせばまってきている。いったいこれはどうしたことなのだろうかと、彼は不安で仕方がないのである。いずれ、ストレスとか疲労といったものが原因なのだろうと思っていたが、いつもうなされるのが、まったく同一の夢だというのが気になったし、血まみれの手も不吉であった。万一それが脳の障害によるもので、だんだん重症になって発狂などということになったら、香子や子供たちの人生はどうなるのだろう。そう考えると、時にはいても立ってもいられないような気分に陥る。  ただの夢だ……。そう思ってすぐまた睡れることもあるが、気になって朝までまんじりともできないこともある。ましてその夜は名前まで呼ばれた。果してあの血まみれの手をした男が呼んだのかどうか、はっきりしないのだが、とにかくあの夢を見るようになってから一度も変化なく、いつもきまり切った場面であったのに、はじめて変化らしい変化を見せたのである。  近頃では、血まみれの手の男が現われると、夢の中でこれは夢だとはっきり自覚するようになっている。何度も同じ夢を見ているのだから、当たり前だと言えば当たり前だが、それにしては血まみれの手の男の人相、風体が、いつになってもいっこうにはっきりしないのがふしぎであった。  彼はそっと寝室をぬけだして居間へ入った。うすぐらい中でソファーに坐り、湧きあがる不安に耐えていた。  朧な影が揺れ動いて、やがてそれがかたまるとあの男の姿になる。どこからやって来るのか……。彼はすっかり憶えてしまった夢の中のひとこまひとこまを、ゆっくりと思い返して見た。  その朧な影が湧く場所は、とりたてて風景らしいものがないところであった。うしろに何かつかまえどころのない平たい面があるだけで、影はいつもその特定の部分から湧きだしてくるようであった。  ドアか……。彼はふとそう感じた。平べったい面が壁であるとすれば、影が湧き出してくる特定の場所はドアということになりはしないだろうか。しかし、それならどこのドアだ。ドアがあれば部屋ということにもなる。いったいどこの部屋だ……。  そんな部屋の記憶はまるでなかった。どこであるか考えても無駄なことである。とすると、背景はやはり壁ではなく、抽象化された地平ということであろうか。  むかし、何か恐ろしいものを見たのかも知れない。それは幼かった彼に対して、或る角度から現われたので、あの夢の中で影が湧きだす特定の場所というのは、その角度なのではあるまいか。  しかし、それ以上いくら考えても、血まみれの手をした男の正体は思いつかなかった。人並み以上に平和で穏やかに暮らしてきたのだから、血まみれの手をした人間など、見る機会もなかったのだ。  何が自分をこれぼど不安がらせ、怯えさせるのだろう。……彼はしだいにいらだちを感じはじめていた。それはちょうど、よく話に聞くいたずら電話のようなものではないか。いつか太田芳江が言っていたが、夜中にいきなり電話が掛かってきて、みだらな会話をしかけたり、もうすぐ放火すると脅かしたり、そういう悪戯をする者がいるそうだ。  脅かされたほうは、何の憶えもなく、根拠もないのに、やはりぶきみに思い、寝つかれなくなってしまう。何日も自分の過去をあれこれ思い返し、あるはずもない心当たりを探すことになるのだそうだ。  彼にとって、その血まみれの手をした男は、ちょうどその悪戯電話のようなもので、夢の底から意味もない脅しと警告を受けて怯えさせられているようなものであった。  奇妙なことに、彼は自分を責める気にはどうしてもなれなかった。夢なのだから、他人が与えられるはずはない。自分の夢で自分が怯えるなど、おかしなことだし、結局その夢も自分が作りだしているはずなのだから、責めるとすれば自分を責めるしかないのだ。であるにもかかわらず、その夢が自分のものだという実感はまるでなかった。夢の中へ誰かが押し入って来たような感じで、それがまたいっそう彼を不安にさせている。  「畜生……」  正体の掴めぬ焦りと、やり場のない腹立ちで、彼はそうつぶやいた。さっきから、子供たちの寝息がかすかに聞こえていた。その平和な寝息を守るためにも、血まみれの手の男の夢を忘れて、早く睡らねばならなかった。  彼は気をとり直し、立ちあがった。そっと寝室に戻り、また横になった。こんなことで不眠症になったりしてはつまらないと思った。 4  「どうかなさったの」  朝食のとき香子が言った。  「いや、別に」  「顔色が悪いわ。まっさお……」  「オーバーなこと言うなよ」  彼は苦笑して見せた。  「ゆうべ睡りそこなったんだ」  香子は心配そうにみつめている。  「どうしたのかな。心配することはないんだ。睡いだけさ」  「ずっと……」  「いや。ゆうべだけだよ」  笑って見せてその場は誤魔化したが、昨夜の不安が心の底にわだかまったままであった。出がけにさりげなく鏡を見ると、なるほど少し顔色が悪かった。  「行って来ます」  送りに出て来たみどりに、優しくそう言うと、健をだいて香子がそのうしろに立っていた。  「気をつけてね」  「うん」  彼は少し子供っぽい気分で頷き、ドアの外へ出た。  家族に心配させているのがくやしかった。香子の態度のせいで、けさは健やみどりまで彼に対して優しかった。いつもなら父親のことなどそっちのけで騒いでいるのに……。  新大塚の駅へ歩く間、彼はなんとか気分をかえようと努めた。たかが夢のことで、なぜこんなに気分が滅入るのか、われながらおかしいと思った。彼は夢以外のことを考え続けた。目立たないだろうが、今の会社での立場もすっかり安定しているはずであった。なるほど太田芳江はベテランでよくやっているが、すでに夫のある身だった。妊娠でもすれば会社をやめなければならない。そのことは専務や社長もよく承知しているし、芳江自身退社する日が近いと自覚しているのだ。課長の大野は本来経理マンではない。以前は営業部にいたこともあり、ありていに言えば、その方面で大した働きができなかったので、経理にまわってきただけのことである。ただ、大野は社長の甥にあたっている。経営上の秘密を知ることの多い経理課長には、大野のような身内がいるほうが社長も何かと都合がいいのだろう。つまり、腰かけ的な太田芳江を除くと、今の会社で経理の仕事ができるのは、彼一人になってしまう。そしてみんなが、彼の実直な仕事ぶりとおとなしい性格を知っている。経営面で相当な大波をかぶっても、自分は最後まで生き残れるという自信が彼にはあった。  小さな会社だが、給料は決して悪くない。きちんと昇給もするし、ボーナスもよく出すほうである。だから、不況などという外《そと》のことを別にすれば、経済的な不安材料はほとんどない。妻の香子もそう高望みする女ではなく、今の平穏な暮らしに一応は満足してくれている。子供たちも元気で、知恵も体も世間なみな成長を示しているのだ。  結局、不安など何もないのである。四か月ほど前に社員が交代で人間ドックへ行った。正味二十数時間のドック入りではあったが、彼の体はあらゆる面で健康だった。心配はどこにもない。煙草も喫わず、酒もほとんど飲まない。競馬、競輪はおろか麻雀さえろくに知らないのだから、家庭を破壊するようなおそれは、どこを探してもあるわけがない。  なぜ夢などを気にするのだ。世の中に自分ほど平和な人生を築いている者はそう多くないのだぞ……。彼は会社につくまで自分にそういい聞かせていた。そして、デスクにつき、いつもの仕事がはじまると、それもなんとなく忘れてしまった。  昼休みになると、すっかりいつもの気分に戻っているようであった。静かに落ち着いた気分を自覚して、彼はしみじみ満足であった。そういう静かな毎日こそ、彼が常に求めているものであった。  だが、課長の大野が昼食から戻って、自分の椅子に坐って煙草をとりだしたとき、そのせっかくの気分が一瞬にして崩れた。  大野が銀色のライターをとりだしたのである。彼はみるみる蒼ざめてそのライターをみつめた。  「なんだい」  大野は彼の視線に気づくと、ライターで火をつけ、煙を吐きだしながら言った。  「これ、どうかしたのか」  彼は答えられなかった。何かとんでもないものに襲いかかられた気分であった。  「おかしいな君は。きのうもこれを見てそんな顔をしたぞ。どこかこのライターに変なところでもあるのかい」  大野は苦笑を泛べて彼にそのライターをつきつけた。そう悪意のある態度ではなさそうだったが、彼は大きくのけぞってそのライターをさけた。  「どうしたんだ。ただのライターだぞ」  大野は芳江と顔を見合わせて失笑する。彼はやっとの思いでそのライターから目をそらせた。  「い、いや。別に……」  「どうしたというんだ」  「ライターのせいじゃないんです」  「じゃ、なんだい」  「ただ……」  芳江がたすけ舟をだすかたちで言った。  「顔色が悪いわ。どこか悪いのね」  「うん」  彼はあいまいに答える。  「具合いが悪いなら、早く帰ったら。いいわよ、今日は大した用はないし」  「そうだな」  大野も同意した。  「どうもすみません」  彼は二人に詫びた。  「何だか急に気分が悪くなって」  「昼飯に何食った」  「鰺のフライ……」  「そいつかも知れないな」  「胃の薬を持って来てあげるわ」  芳江はさっと席を立ち、ドアの外へ出て行った。  「気をつけろよ。……だが、それにしてもおかしいな。なんでこのライターが気になるんだろう」  大野はしげしげと銀色のライターをみつめた。  「ずっと以前からこれを使っているのに。いつごろだったかな。……そうだ、あれ以来だよ」  とたんに彼は大声で言った。  「違うんです。ライターのせいじゃありません」  大野はびっくりしたように彼をみつめていた。 5  彼は逃げるようにして会社を出た。本当に胸が少しむかつくようであった。  だがそれは昼に食った鰺のフライのせいではなく、体のどの部分が悪いのでもなかった。  気がつくといつの間にか地下鉄の駅へ入っていたが、家へ帰る気はしなかった。香子たちに心配させたくなかったし、理由を説明すれば、あの銀色のライターのことに触れなければならなかった。  轟音をたてて電車がやって来ると、彼はそれに乗った。昼間の地下鉄はすいていて、プシーッというドアの閉じる音も、耳にひときわよくひびく感じであった。  夕方までどこかで時間を潰さねばならない。……彼はそう思った。家へ戻るのはいつもどおりの時間でなければならない。さもないと妻子が心配する。  銀色のライター……。  空いた電車のドアのそばに倚《よ》りかかって、彼は呪うような気持ちでそう思った。  ふたつがつながっている。血まみれの手の男と、その銀色のライターが……。いったいそのふたつはどこでつながっていたのだろう。自分はなぜ突然そのことに気づいたのだろう。  ドアのガラスに彼の顔が写っていた。その外を、ときどき白いものや、ぼんやりとした黄色い光がとび去って行く。  ふたつはたしかにつながっている。密接な関係がある。それはたしかだ。どうしようもない事実なのだ……。彼は無念の表情を泛べてそう思った。  だが、それをなぜあの大野が持っているのだ。大野は夢に出て来る血まみれの手の男と何か関係があるのだろうか。その上、大野はあの銀色のライターを、ずっと以前から使っていたと言った。多分毎日目の前で火をつけていたのだろう。なぜ今まで気づかなかったのだ。なぜ今になって突然気づいたのだ。  彼は混乱していた。必死に答えを掴もうとする一方で、早くいつもの平静な気分をとり戻そうと焦っていた。平静になるには、夢のことなど忘れるのがいちばんだった。ライターと血まみれの手の男の関係など、ただ自分がそう感じたにすぎないことで、具体的な証拠は何もないのだ。だからなんでもないのだ。とるに足りないことなのだ。忘れてしまえ。……そう思ういっぽうで、ふたつの間の抜きさしならぬ関係を確信しており、なんとかその正体をつきとめたがっている。それはちょうど、睡りたがっている男が、睡りに落ちる寸前、ハッと自分をとり戻してしまう状態に似ていた。  ふたつ目の駅で、彼は電車を降りた。定期券を使って改札を出ると、あてもないまま階段を昇って地上へ出た。  彼は商店の並ぶ都心の道をぶらぶらと歩いた。歩きながら、一心に考えている。  大野は以前からよく知っている。夢に出て来る血まみれの手の男と、何の関係もないことは確信できた。とすると、あの銀色のライターを持っていたことは、単なる偶然なのだろうか。もしそうだとすれば、いったいそのライターはどういう経路で大野の手に渡ったのだろう。  彼は歩きながら、かすかに首を横に振った。偶然すぎると思ったのだ。血まみれの手の男と銀色のライターがつながっていることを否定しないとしても、血まみれの手の男のほうは、どこかひどく遠いところにいる人物なのである。過去か、未来か、それはよく判らないが、何にしても今の会社と少しでもつながりのある存在とは思えない。その遠い人物と関係のあるライターが、偶然大野の手にあるなどとは考えられないことであった。  そうだ、同じ型のライターはいくらでもあるはずではないか。……彼はそれに気づくと足を早めた。  喫煙具の専門店があった。高価なパイプが飾り窓にずらりと並び、男が二人ほどそれを熱心にのぞき込んでいた。その左に外国煙草を並べたショー・ケースがあり、ケースの上に安物のコーン・パイプをいれた籠が置いてあった。  彼は飾り窓とショー・ケースの間を通って店の中に入り、ライターを並べてある棚の前に立った。ライターの種類は、無数と言っていいほどあった。だが、突然得体の知れない感じでよみがえった、あの銀色のライターの記憶はいやに鮮明であった。彼はすでにそれがかなりの高級品であることを知っており、迷わず高級品の棚のほうへ移動した。  あった。幾分細長い感じのそのライターは外国製で、同じものが四個ほど置いてあった。が、彼はそこでもまた顔から血が引くのを感じた。  違うのだ。同じ製品だが、それは彼の記憶によみがえった物ではなかった。大野が持っているライターこそ、何かは知らないがあの血まみれの手の男と関係ある品なのだ。同型のライターを大野が持っていたにすぎないという、儚い期待はかんたんに裏切られてしまった。  彼はあわててその店を出た。なんとかして落ち着きたかった。裏通りへ入りこみ、小さな喫茶店をみつけてとびこんだ。  注文したコーヒーが来ると、彼はそれをゆっくり掻きまわしながら、深呼吸をした。  せっかく築きあげた平和な生活が、何者かの手で破壊されようとしているのだと思った。破壊されたくなかった。自分は平和な生活でなければうまくやって行けないのだと強く感じた。混乱すればすぐめちゃくちゃをやってしまいそうな気がした。波乱の多いくらしの中で、自分をうまくコントロールして行ける自信はまるでなかった。  いったい、どこから、何がはじまっているのだ。血まみれの手の男は、なぜくり返し夢の中へ現われるのだ。銀色のライターはそれとどう結びつくのだ。そしていったい、自分はなぜこうも怯え、不安に駆られていなければならないのだ……。  彼は腹だたしい思いで、一気にコーヒーを飲んだ。まるで味が判らなかった。ただ、胃のあたりに、いらだちのしこりのようなものが残った。 6  学校をさぼった少年のように、彼はうしろめたい思いでわが家のドアをあけた。時間はいつもどおりであった。  「おかえんなさあい」  みどりと健が大声で迎えてくれた。  「どうでした。大丈夫……」  香子も元気な彼の顔を見て、ほっとしたようであった。  「どうもしやしないさ」  彼はそう言い、いつもどおりまず健をだきあげた。  「どうかしてたまるかい。なあ健……」  冗談めかしていたが、それは心の底からの言葉であった。この平和な世界を失ってたまるものかと思った。  家庭は救いであった。彼は昨夜からの得体の知れない恐れを忘れ、遅くまで子供たちの相手をして騒いでいた。  「そうそう。きょう電話があって……」  子供たちが寝たあと、香子が真顔でそう言ったとき、彼は思わず顔色を変えた。しかし香子はのんびりした声で、  「立石さんよ」  と言った。  「立石さん……」  彼は表情を読まれまいと、ことさららしく夕刊をひろげて香子から顔をかくした。  「ほら……忘れちゃったの。あたしの叔父さん」  「そんな叔父さん、いたっけ」  思い出せなかったが、なんとなく安心した。  「叔父って言っても、そう、あなたより幾つか上の……四つかしら、五つかしら」  香子の声の調子や態度からは、不吉なものは読みとれなかった。彼は夕刊をおろし、ため息をついた。自分でも少し神経過敏になっているのがおかしかった。  「どんな人だったかなあ」  「商社マンよ」  「へえ……」  「いろいろなものを扱っているらしいの。それで、何か今度新製品がまわってきたんですって。よくあるでしょう。町の発明家が、台所用品やなんかでうまくひと山当てちゃうのが。それよ。何という品だったか忘れちゃったけど、会えば判るわ」  「会う……」  「そう。その新製品の会社の人に引き合わせたいんですってさ」  「なんで……」  「広告よ」  「広告……」  「やだ。あなたの会社は広告屋さんじゃないの」  「あ、そうか」  彼は自分の迂闊さに苦笑した。  「その立石さんが、自分の社でその新製品を扱うんだな」  「ええ。それで広告をまかせたいんですって。あれで気をきかせてくれているのよ。あなただって、仕事がとれればいいんでしょう」  「そりゃ助かるさ。経理だって売り上げに協力できれば言うことはない」  彼は林の顔を思い泛べながら言った。きっとよろこぶはずである。専務や社長も見直してくれるだろう。  「そうか。そいつはいい話だ。お礼をしなくちゃな」  「いいの」  香子は自信たっぷりに笑った。  「うちの父が散々面倒みたのよ。若いときちょっとグレていてね。不良だったの」  「不良」  「そう。麻薬なんかやっちゃって、まるで手におえない人だったのよ」  「麻薬と言ったっていろいろある」  彼は眉をひそめた。そういう乱れた人生を送る人間が嫌いだった。  「もうちゃんと立ち直ってるわよ」  香子は彼の表情が曇ったのを見て、安心させるように言った。  「心配ないわ。R商事に入れたくらいですものね。いいかげんだったら、あんな一流会社へ入れるわけないでしょう」  「それもそうだな」  「あなたの会社の電話番号を教えておいたわよ」  「そうか」  「大きな仕事になるといいわね」  香子は甘えるように彼のとなりに坐って言った。  「そうだな。うまく行けばボーナスが増えるぞ」  「子供たちももう大きくなったでしょう。汚さなくなったらカーペットのいいのをいれようって言ったじゃないの。もしそれでボーナスが増えたら、カーペットを買いましょうよ」  「そうだな」  彼は頷いた。気分が急に明るくなったようであった。  「今度の日曜にどこかへ行くか」  「どこへ」  「道のすいているところを調べて置くよ」  彼はこのマンションの駐車場に、小型車を持っていた。通勤用ではなく、家族とたのしむための車であった。もう一か月以上もそれを使っていない。  「久しぶりね」  香子が体を寄せて来た。湯あがりの肌が清潔に匂っていた。 7  何日かたった朝、デスクに落ち着くとすぐ彼に電話があった。  「おい、君にだ」  経理にかかって来る電話はほとんど課長の大野が受ける。大野がいないときは太田芳江だ。いつの間にかそういうことになっていて、そのときもベルが鳴ると大野が受話器を取って彼に渡した。  「はい、加藤です」  「加藤一郎さんですね」  電話の声は落ち着いた感じであった。いつも電話をかけつけているビジネスマン……彼はそう判断した。  「はい、そうです」  確認したあと、相手の声は急に明るくなった。  「実はR商事の立石さんの紹介で、あなたにはじめてお電話申しあげるのですが」  加藤は目をあげ、天井の隅を見ながら答えた。  「ああ、聞いております」  「そちらは広告代理店だそうで」  「ええ、そうです」  「立石さんには大変お世話になっておりましてね。今度も新製品のことでいろいろご厄介になっているんですが、立石さんがぜひあなたの会社に広告面をやってもらえと言われるもので、渡りに舟と言うわけなのですが」  その男と香子の叔父の立石とは、言葉の様子からすると、かなり親密な間柄らしかった。  「それはどうも恐れ入ります。ぜひお目にかかりたいと思います」  「何しろできたてのほやほやという奴で、将来性は大いにあるんですが、ネーミングやパッケージデザインからやっていただかねばならないので……」  「こちらといたしましても、そういうところからやらせていただければ、願ったり叶ったりです」  「え……」  男は少し考えてから、  「伺います」  と言った。  「これからすぐでもいいですか」  「はい、どうぞ」  「そうそう、わたしは鈴木。鈴木と申します。そちらの場所を教えてください」  彼は相手が来る方向をたしかめてから、会社のあるビルの位置を教え、最後に所番地を言って電話を切った。  「なんだい」  彼にそんな電話が掛かって来るのは珍しいことなので、大野が待ちかねたように尋ねた。芳江も手を休めて彼をみつめている。  「R商事でこれから扱う新製品のことです」  「うちにやらせるというのか」  大野は目を剥いた。  「まだネーミングもなにもしていないらしいんです」  「そりゃ君、制作がよろこぶぞ。それにR商事なら大変だ。たしか林君が一度アタックしてそれ切りになっていたはずだ」  「こっちへ来ると言ってますから」  「それじゃ誰か一緒のほうがいいな」  大野は立ちあがった。  「探して来よう」  中堅の下位くらいの広告代理店だから、R商事が相手となると、自然目の色がかわる。大野はいそいそと出て行った。きっと手柄顔でいいふらす気だろう。  「ご親戚……」  芳江が尋ねた。  「うん。女房の叔父さんなのさ」  「そう。よかったわ」  芳江は親しみをこめた微笑を見せ、仕事に戻った。彼は芳江の言った意味がよく判った。それでなくても陰にまわりがちな経理マンで、その上おとなしすぎるくらいおとなしい。だから営業部や制作部の連中には、いつも軽視され続けてきたのだ。本人はそんなことを気にもしていないが、仲間の芳江から見ればかなり歯がゆかったのだろう。だいいち芳江自身、伝票を持ってやって来る他のセクションの連中にひややかな態度をとるのは、軽視されまいという心理があるからであった。だが、R商事との結びつきをもたらすとなると、小さな会社だけに、一遍で立場がかわってしまうはずであった。芳江はそれをさして、よかった、と言うのであろう。  「ちょっと……」  しばらくすると、大野がドアをあけて手まねきした。彼は芳江に目配せしてから部屋を出た。  「専務と林君が……」  応接室へ行くあいだに、大野がそう言った。応接室へ入ると、専務と林が並んで坐っていた。  「耳よりな話じゃないか」  専務がうれしそうに言った。  「どういう新製品なんだろう」  「まだよく判らないんですが、なんでも雑貨関係とか言ってました」  「R商事とはどういう関係なんだい」  林が尋ねる。  「女房の叔父で……叔父と言っても僕とそうかわらない齢なんですが」  「なあんだ」  林は左手の指を弾いた。パチンとは鳴らず、こすれる音だけであった。  「こんな近くにコネがあったのか」  くやしそうであった。  「R商事にはそういう部門があるんだよ」  専務が説明した。  「町の小さなメーカーでも、質のいい商品を持っている場合があるからな。それをR商事の力で大きな流通網にのせてやるんだ。販売権を握るわけだな。玩具、ゲール類などからはじまって、電気アンマみたいなものまで手広く目を配っている。町の発明家なんていうのは、だからR商事に釣りあげてもらえば、八分どおり成功だと思っているほどさ。多分予算はそうでかくないと思うが、手なみしだいではそのセクションのレギュラーになれるし、手がけた商品がヒットすれば、次から次へ予算が出てくる。それに、制作の連中もネーミングやパッケージからやれれば張り切るよ。連中はそれがやりたくてこの仕事へ入って来たようなものだからな」  「営業的にも、これ以上の話はありませんよ。パッケージなんかからはじまれば、それは商品の性格設定から、将来のキャンペーン・ポリシーまでおさえるってことでしょう。一度つかまえれば逃げられない。……よく途中で他社に乗りかえられてしまいますからね」  「ま、そういうわけだ。で、何時ごろその方はこちらへお見えになるんだ」  「これからすぐ行くと言っていましたから、間もなくではないですか」  彼は久しぶりにいい気分であった。人のかげにかくれているのも気楽だが、たまには一座の中心人物になるのも悪くなかった。  「電話がかかるといけませんから」  彼はそう言って応接室を出ると、自分のデスクに戻った。 8  ところが、いつまでたっても鈴木という人物は現われなかった。  「どうしたんだろう」  専務と林が二度ほど顔をだして彼に尋ねた。  「さあ……」  彼にはそういう返事しかできなかった。そして、二時、三時、四時。窓の外の通りに夕暮れの気配がたちはじめた。  彼は落ち着かぬ気分で、椅子ごと体をまわし、窓の外を眺めた。向かいのビルの上のほうのガラスがまた白く光っていて、下の階の壁は青味がかって見えている。  また煙草を吸っている……。  彼は心の中でそうつぶやいた。三階の窓の中に、上着を脱いだワイシャツ姿の男が、こちらに背を向けてのんびり煙草を吸っていた。不動産関係の会社だろうか。……彼はふとそんなことを考えていた。あの会社も間もなくきょうの仕事がおわる。どこへ帰るのだろう。どんな家でどんな家族が待っているのだろうか。  向かいのビルの三階の窓の中の男は、急に前かがみになって左腕を前へのばした。一瞬頭が見えなくなり、すぐ受話器を持った姿が戻った。  彼はくるりと椅子をまわし、デスクに戻った。とたんにベルが鳴り、芳江が素早く受話器をとりあげる。  「はい。はいそうです。はい、少々お待ちください」  芳江はデスクごしに彼へ受話器をつきだし、低い声で言った。  「あなたによ」  彼はそれを受取り、耳にあてた。  「はい、加藤です」  「けさ電話をした鈴木です」  「ああ、お待ちしていたんですが」  「困りましたよ。あなた、わたしに正確な所番地を教えてくれたのですか」  「は……」  彼は意表をつかれて戸惑った。  「ずいぶん探したけれど、あなたの言った場所にそんなビルはなかった。いったいあなたの会社はどこにあるのです」  「そんなわけはないですよ」  なぜか彼はムッとして声を荒げかけたが、じっと自分を見ている芳江に気づいて自制した。  「おかしいですね、そんなわけはないんですが……」  「困りますねえ。おかげでこっちは一日潰してしまった」  「申しわけありません。何かの手ちがいで……」  「間違いは仕方ないが、わたしもいそがしい体なんです。なんとか今日のうちにお目にかかる方法はありませんか」  「どういたしましょう」  相手は電話口で軽く舌打ちしたようであった。  「わたしの判る場所で待ち合わせましょう。それなら間違いないでしょう」  「はい」  すると男は口早やに場所を言った。  「判りますか、そこなら」  「はい。よく知っています」  「すぐに出られますか」  「ええ」  「じゃあ待っています」  電話は切れた。彼は相手がかなりいら立っていたのに少し怯え、あわてて立ちあがった。  「どうしたの」  芳江が尋ねた。  「ここの場所を探したけれど判らなかったそうだ」  芳江は不服そうな顔をする。  「どうしてかしら、判りやすいのに」  「とにかく課長を探して来る」  彼は急いで部屋を出た。  しかし、社内に大野や専務の姿はなかった。たった今までいたらしいのだが、どこかへ出て行ってしまったらしい。  「仕方がない。一人で行ってくるよ」  彼は経理のドアをあけて芳江にそう言い残し、会社を出た。小走りに地下鉄の駅へおり、すぐにやって来た電車に乗った。  指定された場所はよく判っていた。退社時間寸前で、電車はまだガラガラにすいており、降りた駅のホームも閑散としていた。  彼は改札を出ると、階段をかけのぼり、横断歩道を渡ってその場所へ急いだ。  あの煙草具の専門店が見えてきた。その前にグレーの服を着た男が立っている。ほかに立ちどまっている人間はそのあたりになく、彼はその男に違いないと足を早めた。  相手も察したらしい。近寄って行く彼の顔をじっとみつめている。  「加藤さん……」  先に向こうが声をかけた。  「ええ」  男はホッとしたような笑顔になった。  「はじめからこうすればよかった」  「ここならよく知っているんです」  彼はパイプの並んだ飾り窓を見て言った。  「ほう。あなたもパイプやライターに興味がおありですか」  「いや」  彼はあわてて首を振った。  「僕は煙草を喫わないんです」  「どうして……」  男は眉を寄せた。  「それならどうしてこんな店を」  「それより、本当に今日は失礼しました。どうして判らなかったんですかねえ」  「まあ、こうしてお目にかかれたんだからいいでしょう。さっそく仕事の話をしたいんですが」  「そうですね。ちょうど係りの者たちが席を外しておりましたので、一人でやって来てしまったのですが……」  「とにかく、喫茶店へでも入りましょう」  男は歩きだした。  「わたしは以前この近くにいたことがありましてね」  「そうですか」  彼はそれについて次の細い道を曲がった。  「このあたりはよく知っているんですよ。せまくるしいですが、ちょっと面白い店があるはずなのです。多分まだあると思いますが」  男は勝手知った様子でどんどん進んで行き、裏通りへ入った。  「ここです」  男は小さな店のドアを押した。ドアの上部に真鍮の鈴がついていて、チリン、と音をたてた。  彼はなんとなく、その鈴木という男との話合いがうまく行かないような気がした。  特に理由はないが、たとえば彼はドアにつけたその鈴の音が嫌いだったし、入ってすぐ、洋酒のミニチュア瓶をぎっしりと並べた飾戸棚に突き当たって、奥がよく見えないような店内の構造も気に入らなかった。  「やあ、お久しぶりですね」  店の隅にある小さなカウンターの中から、白いコートを着た蝶タイの男が言った。  「おや、あなたもここをご存知なのですか」  鈴木が彼に言った。彼は強く首を横に振り、  「とんでもない。はじめてですよ」  と言った。  「なんだ。わたしに言ったのか」  鈴木は自分の迂闊さを苦笑し、  「この間はいろいろ……」  と、カウンターの男に言った。  「仕事のことですが」  彼は古めかしい木の椅子に腰をおろしながら言った。  「うちの社に林という営業課長がおりまして。R商事と関係を持とうと苦心していたのです。そういうわけで、今度のお話は専務以下みな大喜びでして……」  鈴木は頷いた。  「それはこちらも好都合です。わたしの仕事も、そういうことなら気合いをいれてやってもらえるでしょうからね」  そう言って、いぶかしそうな目で彼をみつめた。  「なんでしょう」  彼はとがめられたように感じた。  「いや、そのR商事のことですが、わたしは以前から立石さんをよく知っていまして、そこへたまたま今度のことが発生したので立石さんにお願いしたわけですが、あなたの会社がR商事にアタックしていたのならば、もっと早くに取引が成立していたんじゃありませんか」  「どうしてです」  「だって、あなたがいらっしゃる。立石さんは広告予算に関しては実力者ですぞ。あの人はあなたの奥さんの叔父さんに当たる方でしょうが」  「ええ、それはまあ……。しかし、僕はよく知らないんです。うすうすは知っていましたが、それほど親しい間柄ではないので」  「立石さんはあなたのことをよく知っていますよ。よく話を聞かされています」  「そんな」  「いや、本当です」  「そんなことはありませんよ。くわしいことを知ったのは、今度のことで立石さんから家内に電話があってからです」  「電話……。おかしいですね。立石さんはあなたの家へおたずねしたと言ってましたよ。わたしのことで、わざわざ……」  「でも、香子は電話だと……。どっちかが僕に嘘をついているわけですね」  「まあまあ。そんなことはどっちでもよろしい。仕事の件です」  「なんだか、不愉快なことになったな」  彼は相手の言いかたがいちいちひっかかるようなので、腹をたてていた。  「不愉快ですか。ではおわびしましょう」  相手はそう言い、頭をさげて見せた。それはうわべだけの、彼を馬鹿にしたような態度であった。  「でもあなたは、もう専務さんなどに、この件を話してしまわれたそうじゃないですか。いいんですか。あなたの一存でこの話をこわしてしまって……」  脅迫めいた言い方だった。  「いや……」  彼はうろたえた。  「そういうわけじゃないんです。ただ、なんとなく気分が落ち着かなくて」  事実彼は汗ばんできていた。  「違う店へ行きましょうか」  「ここがお嫌いですか」  「いや、別にそういうことは……」  「わたしはここが好きなんです。気に入っているんですよ。それに、ここを教えてくれたのは立石さんなんですからね」  「立石……」  「ええそうですよ。あの人は若いとき少し遊んだ人だそうですね。かなり乱暴な暮らしをしていたそうです。酒は飲む、博奕はうつ……何か悪い薬までやっていたそうじゃないですか」  「ええ、ああそうです。香子がそう言っていました」  「香子って、あなたの奥さんですか」  「ええ、女房です」  「お元気ですか」  「おかげさまで。自分で言うのも何ですが、明るくて優しくて、いい女ですよ」  「お子さんは」  「みどりと健。これもいい子たちです」  「その奥さんが立石さんのことを何かおっしゃっていたんですね」  「ええ。彼女の父親が、その立石さんの面倒をよく見たのだそうで」  「なるほど。麻薬のことなども、奥さんからお聞きになったのですか」  「ええ。そう言っていました。でも、立石さんも今は立派になっていらっしゃる」  「そうですね」  「家内の親戚はみんないい人たちばかりで」  「結構ですなあ」  「あなた、奥さんは」  「ええ」  鈴木は悲しそうな顔をした。  「おたくと同じです。妻に子供がふたり。上が女で下が男。でも……」  「どうかなさいましたか」  「三人とも死にました」  「それはお気の毒に」  「火事ですよ、火事。焼け死んだんです」  鈴木はいつの間にか右手に丸い金具を持っていて、それをテーブルの上に置いた。  「形見です。彼女の指輪でしてね」  それは無残に焼け焦げた感じであった。指輪を飾っていた宝石はとれていて、それを支えていた金属の爪がむなしく先をまげていた。  彼は黙ってそれをみつめていた。  「仕事の話をしましょう」  低い声でそうつぶやいた。 9  チャイムを鳴らすと、香子がドアをあけた。  「ただいま」  彼はいつものようにそう言って靴を脱ぎかけた。  「あら、どうなさったの。お顔の色が悪いわ」  香子が白いしなやかな指を揃え、彼の額に手をあてた。  「風邪を引いたのね。熱が少しあるみたい」  「そうかもしれない。それでおかしかったんだな」  「あら、どうして……」  「いや、帰りがけ、例の立石さんが紹介してくれた人に会ったんだが」  「とうとうお見えになったの。よかったわね」  「どうもいらいらしてしまって、妙な具合いだった」  「風邪のせいだわ。で、どうでした」  「もちろんうまく行ったさ」  「それはよかったわね。でも、風邪を治さなくては。早く着がえて、お薬を飲んで」  「うん」  「お父さんおかえりなさい」  みどりが言う。  「はい、ただいま」  「おかえりなさい」  「健、今日は何して遊んだ」  彼は健をだきあげた。  「だめですよ、風邪をうつしちゃ」  香子が優しく睨んだ。  「うつらないよな」  彼は健に頬ずりした。  「気をつけてくださいよ」  香子にそう言われながら、彼は健をおろしてとなりの部屋へ入った。  着がえをしながら、やっと人心地がついた思いになった。  「やっぱり俺は経理がいい。ああいう仕事は苦手なんだ」  彼はそうつぶやいた。香子が入って来て、彼が脱いだ服をかたづけはじめる。  「でも、どんなことがあっても、お前たちを不幸な目には会わせないぞ」  彼は香子を見ながらそう言った。  「俺はこのしあわせな家庭を守り抜いてみせる」  「どうなさったの」  香子が尋ねる。  「いや、今日帰りがけに会った人……鈴木さんというんだが」  着がえおわった彼は、立ったまま目をとじた。  「奥さんと子供たちを一度になくしたそうだ」  「まあ」  「火事で……」  「いやだわ。こわい」  「大丈夫さ。うちには俺がついてる。何があったってそんなことはさせない。させるもんか」  目をあけると、みどりと健がそばへ来て彼の顔をみあげていた。  「おいで、みんな……」  彼は二人の子を右手で、香子の肩を左手で抱き寄せた。  「うちだけは、外で何があっても、仲よくたのしく暮らして行くんだぞ。絶対に……」  彼は心の底から言った。  「お父さん……」  「あなた……」  妻と子は彼の体に倚りかかっていた。甘い感動で彼の心は痺れたようであった。そのまましばらくじっとしていた。  しかし、その安らいだ時間は思ったよりずっと短かった。いつの間にか、彼の心には指輪がひとつ泛んでいた。その指輪には、赤い宝石が飾られていた。 10  あくる朝、彼はいつものように満員の地下鉄に乗って会社へ向かっていた。いつものように、通勤客たちは黙りこくって揺られていた。  彼はドアとドアの中間あたりで、吊り革につかまり、窓ガラスをみつめていた。明るい駅のホームを出て、暗いトンネルの中へ入ると、その窓ガラスに吊り革を掴んだ乗客たちの顔が映った。その自分の顔をみつめているうち、突然彼は大声で叫びだしそうな衝動に駆られ、辛うじて自制した。  窓ガラスの向こうの、暗い闇の中に、あのおぞましい血まみれの手の男がいたような気がしたのであった。  彼は唾をのみこみ、気をしずめた。そんなわけはないのだ。血まみれの手の男は夢の中の存在であって、通勤の地下鉄の中へなど、出て来るはずはないのだ。……彼は自分にそう言い聞かせた。  しかし、次の瞬間彼はまた血まみれの手の男を外の闇に感じた。……どうしたというのだ。何を不安がっているのだ。すべてはうまく行っているではないか。彼はまた唾をのみこみ、目を強くしばたたいてそう思った。  だが、そう思うそばから、窓の外の闇にあの血まみれの手の男が現われる予感のようなものを強く感じた。  その予感のような感じは、夢の中とまったく同じであった。夢の中で彼はいつも、まずそういう感覚にとらえられ、間もなく血まみれの手の男に自分がうなされるのを予知するのであった。  そして、夢の中と同じように、電車の中で彼は窓ガラスの外に、影が湧きだすのを見ていた。電車は揺れながら走っており、いやらしい金属音を軋ませていた。窓の外を、ときどきうすぼんやりとした黄色い灯りがうしろへ走り去って行く。だが、湧きだした影は、外の闇がまるで不動のものでもあるかのように、彼の正面の窓にぴったりとついて来ていた。  遂にその影はかたまりはじめた。いつも夢で見るのとまったく同じように、それは一人の人間の姿にかたまって行く。いつものように、その両手は血にまみれていた。  だが、夢と決定的な違いが一か所あった。その血まみれの手の男には、はっきりと顔があった。  彼は恐怖のあまり、息を荒く震わせてその顔をみつめた。  電車がブレーキをかけ、乗客が動いた。彼は吊り革を掴んだほうの二の腕と肩の間に顔を埋めるようにして目をとじた。吊り革を掴んだ手にだけ力をいれ、押されるままにとなりの客に体をあずけていた。  「どうかしましたか」  電車が次の駅のホームに入ったとき、となりの乗客が静かに声をかけた。  「失礼しました」  彼はまずそう詫びて、体をまっすぐに起こした。目をあけると、ホームの明るい照明で窓が素通しガラスに戻っていた。  「ちょっと……」  彼はとなりの乗客へあいまいに言い、首をかしげながら苦笑して見せた。  「空気が悪いですから……」  その男は親切そうであった。が、彼は相手の顔を見て体を堅くした。たったいま、はじめて見た血まみれの手の男の顔であった。  叫びをあげてそこから逃げだしたいのを、彼はじっとこらえた。電車が走りだし、いま降りた客を追いこして行った。  暗いトンネルへ入って窓ガラスがまた鏡になったとき、彼はやっと気づいた。目の前のガラスに映ったとなりの男の顔と、闇から湧き出した血まみれの手の男の姿が重なって見えていたのだ。  彼はほっとしてとなりの男のほうへ顔を向けた。  「大丈夫ですか」  その男は微笑して言った。  「どうも。風邪気味でしてね」  「はやっていますからねえ」  男は同情するように言った。  電車が彼のおりる駅へ近づいたので、吊り革をはなし、ドアのほうへ移動しようとすると、となりの男のほうが先に動いた。彼はそのあとについてドアのほうへ行った。  電車がとまり、ドアがあいた。彼はその男と一緒に押しだされてホームへ出た。出口はホームの両端にあって、降りた客は両方へ別れる。男は彼が行こうとするほうへ、足早やに歩いて行った。  幻覚か……。彼は自分をあやしみながら、ゆっくりと歩いた。やはり風邪のせいなのだろうか。熱があるのかも知れない。しかし朝っぱらから、あの血まみれの手の男が出現したのはどういうことだろう。電車の中で睡ってはいなかったはずだ。夢の中のことだったものが、はっきりと目覚めている毎日の生活の中に突然侵入して来た。何かよくないことが起こりそうだ……。  彼は階段を昇り、通いなれた道を会社のほうへ歩きながら考えていた。その前のほうを、あの男がどんどん先へ進んでいた。うしろ姿が、なんとなく見なれた感じであった。  いっそ帰ってしまおうかと彼は思った。風邪で熱が出ているらしい。電車の中で幻覚に襲われるくらいなのだ。帰って香子の手当てをうけ、一日寝ていたほうがいいのではないだろうか……。そう思い立つと、むしょうに帰りたくなった。あの甘い平和な世界へ今すぐ逃げこめたら、どんなに気が安まるだろう。  しかし、もう会社は目の前であった。それに、きのうの件も専務に報告しなければならない。鈴木が電話をしてくる約束なのである。 11  専務が大野の席に坐っていた。太田芳江がすでに手提げ金庫をデスクの上に出し、彼女がいれたらしい茶が、専務の前で湯気をたてている。  「お早うございます」  彼の声は力が抜けていたはずだったが、専務はいっこうに気にせず、  「どうだった。きのうの話は」  と待ちかねたように言った。  「はい。会いました」  「会うのは当たり前だ」  専務はジロリと彼を見る。  「話はどう進んだと言うんだ」  「全面的にまかせるから、大至急はじめてもらいたいそうです。ついては、うちが今までどんな傾向のものをやったか見せてもらいたいし、デザインの感じなども意見を聞いてもらいたいから、もう一度今日こちらへ来るそうです」  「大丈夫だろうな」  「は……」  「ここの場所だよ。君はいったいどういう教えかたをしたんだい。こんな判りやすいところを」  「すみません。判りやすいと思ったので、所番地とビルの名を教えただけだったのです。今度は間違えずに来るでしょう。道順を教えておきましたから。それに、万一迷っても電話をかけてきてくれます。もう顔が判りましたから、こちらから探しに行けます」  「うん、そうか」  専務は頷いて湯気の立つ湯呑みをとりあげた。  「その仕事、なんとしても欲しいんだ。社長に話をしたら、社長も大変に乗り気でね。君は鈴木さんと、きのうどういう場所で話しをしたのかね」  「喫茶店のようなスナックのような……小さな店でした」  専務は苦笑した。  「君の親戚の紹介だからいいが、もう少し気のきいたところは思いつかなかったのかね。食事のできる場所とか、酒を飲むとか……」  「鈴木さんに連れられて行ったのです」  「それにしてもだ。R商事に対する突破口なのだからな。わたしらがいたら、銀座へでも赤坂へでもご案内したんだが……。ちょっと外へ出ている隙に……。まったく惜しいことをした。で、今日は何時ごろ見えるんだ」  「朝いちばんでと言っていましたから」  「いちばんか、あいまいだな。まあいいだろう」  そこへ大野が出勤して来た。専務は立ちあがり、  「あとで向こうへ来てくれ」  と大野に言って部屋を出て行った。  「文句を言われたろう」  大野は彼に言った。  「文句……」  「きのうのことでだよ」  大野は冷笑しているようであった。  「前のビルの地下の喫茶店にいたんだ。ほんの十分か十五分のあいだだ。そのあいだに君はするりと出て行ってしまった」  「探したんですよ」  彼は芳江に証言を求めようとしたが、ちょうど芳江は専務の湯呑みを持って出て行くところであった。  「まあいいさ。君のところへころがり込んだ話だ。誰だって自分の顔は立てたいからな」  不愉快な言い方であった。  「僕はああいう話は得意じゃないんです。縁の下の力持ちが性に合っているんです。課長たちがいれば、のこのこ出て行きはしません。全部おまかせしてますよ」  彼は自分の声がつい荒くなるのを感じていた。  「まあそうおこるなよ」  大野はびっくりして彼をなだめた。彼はその顔を睨みつけ、こんな臆病な奴に舐められてたまるかと思った。  「さて、俺は呼ばれてるから」  大野はそそくさと席を立ち、逃げ出して行った。  彼は腹をたてていた。何かやり場のない怒りがこみあげてきて、乱暴に椅子をまわした。うしろの窓から外を見ていると、やっと気分が落ち着いてきた。  ガタンとドアが鳴り、芳江が戻って来たのが判った。  「課長とやり合ったでしょう」  芳江が笑い声で言った。  「別に……」  「嘘。課長、びっくりしてたわよ。あなたがあんな顔をできる人だって、はじめて知ったって」  「当たり前だ」  彼は吐きすてるように言った。芳江はそれきり黙り込んでしまう。  彼はいつまでもデスクに背を向け、窓の外を眺めていた。向かいのビルの三階に、こちらに背を向けていつもの男が坐っていた。その男は煙草をとりだして一本抜き、口に咥えたらしい。ゆったりと椅子の背にもたれ、煙草の袋をデスクの上に抛り出すと、ポケットからライターをとりだして火をつけるようであった。  彼は何か言いようのない予感にとらえられて、じっとそれを見守っていた。するとその男は、通りをへだてた窓ごしに彼の視線を感じとったように、くるりと体をまわした。椅子の下についた小さな車輪が軋む音さえ、彼には聞こえたような気がした。  男は向かいの六階にいる彼を見あげていた。二人の顔がもろに向き合った。  「あ……」  彼は声をたてた。けさ、電車でとなり合わせた男であった。彼はそれに気づいたとたん、血まみれの手の男の姿に、偶然あの男の顔が重なったのではないことを悟った。それは血まみれの手の男そのものらしかった。  なんの証拠もない。ただ彼がそう感じただけである。しかし、通りをへだてたふたつのビルの上と下の窓でみつめ合ったその瞬間、彼はぬきさしならぬものを見てしまったのである。  その男は煙草を咥えていた。まだ火はついていないようであった。そして、まさに火をつけようと、ライターを顔の前へかざしていた。まるで彼に見せつけるように。  四角い銀色のライターであった。間違いなく、それはあのライターだった。  彼はいきなり突っ立った。椅子がその勢いでうしろへさがり、ガタンとデスクに当たった。  「どうなさったの」  芳江の黄色い声がした。ふり向くと、芳江は白いブラウスを着て、口を半びらきにし、おぞましいものを見るような目で彼をみつめていた。  「課長はどこだっ」  彼は叫んだ。  「あいつのライターだったはずだぞ」  彼は狂ったように部屋をとびだした。 12  課長の大野は社長室にいた。そばに専務もいた。  「おい、ライターを見せろ」  彼は呶鳴った。  「なんだ君……」  三人は彼の勢いにおどろいて立ちあがった。  「ライターだ」  彼は大野の前へ進み、上着の襟を両手で掴んだ。  「見せろっ」  「何をするんだ。気が狂ったのか」  専務がとめようと手をだしたが、彼が大野の体をふりまわしながら体当たりをくらわせると、よくすべるプラスチックの床の上へ、大げさにころがった。  大野はまっ蒼な顔をしていた。  「ラ、ライターだって」  「そうだ。ライターだ」  「手を放してくれ。これじゃ出せない」  「よし」  彼は大野の襟から両手を放した。  「なんだって言うんだ」  大野は負けおしみのように口の中で言い、ポケットからライターをとりだした。黒に金色のふちどりがある、ほぼ正方形の平べったいライターであった。  「これじゃない」  「そんなこと言ったって……」  「違う。細長い銀色の奴だ」  「銀色の。そんなの持っていないよ」  「嘘つけ。いつも使っていたじゃないか。俺はたしかめるために、あの店まで」  彼の頭に例の喫煙具の専門店が泛んだ。  飾り窓にパイプが並んでおり、左側に外国煙草のスタンドがあった。そして、その前にグレイの服を着た男が立っている……。  「鈴木だ」  彼は唸った。  「畜生、あいつも関係あるんだな」  「鈴木さんがどうかしたのか」  社長は及び腰で心配そうに尋ねた。  「なぜ気がつかなかったんだ。あいつがあの店の前で待つと言ったときに……」  彼は唇を噛み、じっと考え込んだ。その静まり返った部屋へ女の声が聞こえた。  「お電話です」  「俺か」  彼は問い返した。  「ええ」  彼はさっと身を翻えすと自分のデスクへ駆け戻った。  「きのうの方よ」  芳江が受話器を左手に持って待っていた。彼はひったくるようにそれを取って耳にあてた。  「加藤です」  「なんだい君は……」  いきなりとげとげしい声がした。  「鈴木だけどね、君のいう場所はでたらめじゃないか。ここにはそんなビルはないぞ」  「嘘つけ。あるんだ。俺はずっとこの会社に勤めている。ずっと通っているんだ」  「ないものはない。君は自分の会社の場所について、大きな嘘をついてる」  「嘘じゃないっ」  彼は喚いた。  「よし。それなら俺と一緒に探してくれ。俺はいま地下鉄の切符売場のそばの売店のところにいる。ここで待っているからな」  「よし、すぐ行く。すぐに行って貴様の化けの皮を剥いでやる。誰だか知らないが、平和な俺のくらしをぶちこわそうと言うんだな。そうはさせるか」  彼は叩きつけるように受話器を戻した。  「なんだか知らないけど、およしなさいよ。暴れたりするのはあなたらしくないわ。あなたはまじめでおとなしいサラリーマンなんでしょう」  芳江がいさめた。  「うるさい。つきそい看護婦みたいなことを言うな」  彼は無意識に右腕をふりあげていた。芳江はそれを避けようとして、額の前へ左手をかざした。  ドアの外へあらあらしく歩きかけた彼の足が、二歩半ほどでギクリととまった。顔から血が引き、蒼白になっていた。  彼は思い切ってくるりと振り向いた。  「それ……」  彼はおずおずと左手をあげて指さした。  「それをどうした」  芳江はおそろしそうにあとずさって行く。  「その指環だ」  芳江の左手の薬指に、汚ならしい指環がはまっていた。  「その焼け焦げた指環をどうした」  宝石のあるべき場所が、髑髏の眼窩のようにうつろであった。そこには赤い宝石がはめこまれていたはずなのだ。  「なぜそれを持ってる。誰にもらった」  芳江は無言で壁に体をぴたりとつけた。壁は白かった。あの血まみれの手の男が出て来る夢の背景のように。  そして、芳江はその壁と同じような、白いブラウスと白いスカートをはいていた。  「てめえ……てめえもか」  彼は細く鋭い声で言った。  「人を馬鹿にしやがって……」  彼は芳江に襲いかかろうとした。  「やめろ。やめて早く鈴木のところへ行かなければダメじゃないか」  誰かが彼をうしろから羽交い締めにして言った。  「いいか。そいつは鈴木のだ。鈴木の奥さんのだ。鈴木の奥さんは死んだんだ。鈴木の死んだ奥さんの指環だ。俺に関係ない。俺には関係ないんだ」  彼はそう言いすてると、羽交い締めにしたのが誰かもたしかめず、一気に部屋をとびだした。 13  売店のそばに鈴木が立っていた。鈴木ははじめから喧嘩腰であった。  「さあ連れて行け。君の言う場所が本当にあるものかどうか、たしかめて見ようじゃないか」  彼は機先を制されて、不機嫌に黙りこくったまま、今おりて来た階段を昇りはじめた。  「俺はこの辺りをよく知っている。学生のころ下宿していたんでな。隅から隅まで知っているよ」  鈴木はからかうように言った。  「うるせえっ」  彼は呶鳴った。鈴木の態度は自信に溢れていて、それが彼を怯えさせていた。  「おかしいな。君はそういう乱暴な口をいつからきけるようになったんだい。君はおとなしい、善良なサラリーマンなのではなかったのかい」  鈴木はからかっているようだった。  「虫も殺せない善人だ。酒も煙草も博奕もやらない、おとなしい男なんだろう」  「会社へ連れて行きゃあ文句ねえんだろ」  「ほらほら、その言葉づかいさ。まるでやくざだ。愚連隊だよ。まるで今までの君に似つかわしくない。それとも、今まで猫をかぶっていたのかい。おとなしいふりをして、その実人殺しでも放火でも平気でやってのける人間だったんじゃないのか」  彼は反論しなかった。会社のあるビルはそこから一本道のはずであった。そこへ連れて行きさえすれば、すべては彼の思うようになるはずであった。  しかし、道はいつもの道ではなかった。くねくねと曲がり、見知らぬ商店や家々が並んで、いつの間にか方角さえ判らなくなっていた。  「どうしたね。君のいう場所はどこにあるのかね」  鈴木はますます勝ち誇ったようであった。  「畜生。なんで俺をいじめるんだ」  彼の目から涙が溢れ、それが次々に頬をつたわって落ちた。  「ほっといてくれよ。そっとしといてくれよ。俺はただ静かに暮らしたいだけなんだよ」  彼は道のまん中で声をあげて泣いた。  「もう会社なんかやめてもいい。そうだ、やめちまうよ。だからほっといてくれ。お願いだ。いじめないでくれ」  彼は鈴木の前にひざまずき、そのグレイのズボンにすがって泣いた。  「ほら、人に笑われるよ」  鈴木は静かな声で言った。  「泣くのをやめなさい。泣いたって君の会社のあるビルが現われるわけじゃない」  鈴木は優しく彼の肩を叩いた。  「そこへ入ろう。さあ立って……みっともないじゃないか」  彼は鈴木にたすけ起こされて、ゆっくりと歩いた。涙はとめどもなく流れ出していた。  「さあ、階段だ。気をつけて……」  彼は建物の中へ連れ込まれ、鈴木と一緒に階段をあがった。  「さあ、ここだよ」  鈴木が言った。  「どこです、ここは」  彼は鼻をひくつかせて尋ねた。  「歯医者さんさ。君は歯が痛むんだろう」  鈴木はそう言うとドアをあけ、  「さあ、連れて来たよ」  と言った。  「さっきはびっくりしたわよ」  女の声で顔をあげると、芳江が笑っていた。  「君は……」  見るとそこはガランとしたあき部屋のような場所で、窓ぎわにデスクがひとつあった。  男がそこで煙草を吸っていた。  「とうとう来たね」  男はにこやかに言った。それは、けさ地下鉄で一緒だった男であった。  「泣くことはない。お前が泣くことはないんだ」  しみじみとした言い方であった。  「さあ、ここへおいで」  男に言われ、芳江に肩をかかえられて、彼は男のデスクに近寄って行った。  「あ……」  彼は気がついた。走ってデスクのうしろの窓際へ行った。  目の前にビルがあった。こちらの建物との間に通りが一本あり、ふたつは向き合って建っていたのだ。  一、二、三、四、五、六。……彼は向かいのビルの窓を目でかぞえた。その六階の窓に、自分のデスクがあるはずであった。  ひょいと、そこから顔がのぞいた。彼のほうを見おろしている。大野の顔であった。いつも彼はいま大野がしているように、こちら側を眺めていたのである。  「誰だ、てめえは」  又怒りが戻った。  「誰だか判らないのか」  「けさ地下鉄で会ったさ。ああ、たしかに会ったよ。でも、誰なんだ。てめえなんぞ、俺は知らねえ」  「そうかい。お前は俺をよく知ってると思ったんだがなあ」  そのとき、ガラガラと音がして、太田芳江が妙な形の椅子を押して来た。椅子には車がついていた。  「さあさあ、歯が痛むんでしょう。ここは歯医者さんですからね」  芳江の声は優しかった。彼は甘えるような気分でその椅子に坐った。 14  「さて……」  その男は言った。  「ちょっと俺のスタイルを見てくれよ。なかなか似合うと思わないかい」  「ほんとに誰なんだ。歯医者かい、あんた」  「話をそらすなよ。ここまで来たんじゃないか。ほら、どうだい、このスタイル」  男は椅子に坐った彼の前に立って両手をひろげた。彼は首をかしげ、眉を寄せてそれを見た。  「メッシュだ」  男は片足をあげて靴を見せた。黒のメッシュでまだ新しいようであった。  「いい靴だ」  「俺はこんなのはきらいだ」  「じゃあなぜはいてる」  「お前のだからさ」  「俺の……」  男はハイライトの袋をとりだし、それを振って一本とび出させた。  「まあのんびり行こう」  彼は顔の前へそれを突き出され、反射的に唇に咥えた。  「この服もお前のだぜ」  男はそう言いながらポケットを探り、ライターをとり出した。銀色の、細長いライター。  「吸えよ」  男は火をさしだして言った。彼は顔を火に近づけ、煙草をつけた。  「うまいかい」  「うん」  煙を吐きだしながら頷く。  「このライターもお前のだぜ。憶えてるだろう」  「うん」  彼は無心に煙草を吸っていた。久しぶりで、本当にうまかった。  「服を見ろよ。ここんところだ」  彼は目だけをそのほうへ動かした。  「しみがついてる」  「ああそうさ。誰のだい」  「服か」  「いや、このしみさ。お前じゃなきゃ、このしみは誰のしみだか判らないだろう」  彼はまた首をかしげた。  「会社で何をしてた」  「経理さ」  「面白かったかい」  彼は首を横に振る。  「大して面白かなかった」  「でも、平和だったんだろ」  「まあな。それよか、あんたはいったい誰だい」  「すぐ判るさ」  「教えろよ」  そこへまた芳江がやって来た。  「ちょっと……」  「いいですよ」  男は頷いた。芳江は注射器を持っていて、彼の左腕を掴んだ。  「注射ですよ。歯医者さんですからね」  チクリ、と左腕が痛んだ。  「はいおしまい」  芳江はそう言い、男に向かって、  「今度は効くでしょう。いよいよだわね」  と言った。  「有難う。もう一人でやります」  男はそう早口で答えて軽く頭をさげた。  「下にいますからね」  芳江は去って行った。彼はそのほうを、椅子に坐ったままふりかえった。  「あれ、誰だっけ」  「看護婦さんだよ。いい人だ」  たしかにそれは看護婦であった。白衣を着て白い小さな帽子をかぶっていた。  「さて……」  男は手の中で何かをもてあそびながら、彼をのぞき込んだ。  「俺の名を思い出したかい」  「いいや」  「俺は加藤一郎さ」  「嘘だっ……」  彼は喚いた。  「いくら大声を出してもいいさ。この屋上にはいま俺たち二人きりだ」  「屋上……」  「そうさ。病院の屋上さ」  見まわすと、青い空が見えた。あたりは古ぼけたコンクリートで、高い金網の柵で囲ってあった。  「加藤一郎は俺だ」  「そうだな。でも、俺がその名前をみつけるのに、どんなに苦労をしたか判るまい」  「俺が加藤一郎さ」  「判ったよ。じゃあもうしばらくそういうことにしておこう」  「俺は加藤一郎だ」  彼の声は力がなくなっていた。  「家族のことを尋ねよう。香子はどうしている。みどりは、健は……」  「みんな元気だよ」  彼はあざけるように言った。  「香子は優しいし、みどりや健は素直ないい子だ」  男は憎しみのこもった目で睨み、右手を彼の目の前でパッとひらいた。  「これは誰の指環だか知ってるな」  「うん。以前香子が紛くした奴さ」  「嘘をつけ。もうお前はほとんど正気に戻っている。いつまで自分を誤魔化せると思うんだ」  「そうだ。うちへ帰ろう」  「ダメだっ」  今度は男が喚いた。  「いいか、よく考えろ。お前は加藤一郎じゃない。お前の本名は井田次郎だ」  「俺は加藤一郎さ。井田次郎なんて知らねえな」  「井田次郎だ」  「どこにそんな証拠があるんだ」  「ここにある。お前の目の前に立っている。俺はお前の兄だ。井田一郎だ」  「兄さん……」  ふっと、彼は気が遠くなりかけたような気がして目をとじ、すぐ相手を見た。風が自分の頬に感じられた。  「俺はいま、お前の服を着、お前の靴をはいてお前の前に立っている。この服のしみをもう一度見ろ。これは誰の血だ。香子のか、みどりのか、健のか」  「香子もみどりも健も、みんな元気だぜ」  「お前の頭の中ではな。だが、みんな死んだ。死んでしまっている」  「みんな生きてるよ」  「香子は俺の妻だ。みどりと健は俺の子供だ。俺とお前は兄弟だ。その血をわけた弟が、なぜ香子やみどりや健を殺した」  男の目から涙がこぼれていた。彼はじっとそれをみつめていた。  「お前は麻薬中毒だった。グレて、やくざの仲間に入って、よく金をせびりに来た」  彼は男の手から指環をそっとつまみあげた。たしかめるように眺めた。  「その指環は香子がしていたものだ。お前は俺の留守に来て、金をことわられると、それをよこせと取りあげたのだろう。きっとそうだ。焼けあとからそいつが出て来たが、とんでもない場所にあったんだ」  「そうだ……これは姉さんのだ。赤い石が入ってた」  「お前は薬で狂ってた。香子は指環をとり返そうとしたんだろう」  「そうだ。そしたらどこかへ飛んでっちまった」  「腹をたてたお前は、俺の家族をあっという間に殺した。そうだな……」  「やめてくれ」  彼は耳をおさえた。  「刺し殺したんだ。大きなナイフで、次々に……。誰が最初だった。誰が最後だった。この服についた血は誰のだったんだ」  「やめてくれえ……」  彼は耳をおさえて悲鳴をあげた。  「卑怯者。お前は殺したあと家に火をつけ、燃やしてしまった。だが、その火を見ているうち、自分のしたことに気づいたんだ。お前は両手を血まみれにして、燃えあがる家のそばに立っていた。警官が来て、お前をつかまえた」  「やめろ、やめろ。俺は死んじまう。かんべんしてくれ。兄さん……許して……」  「だが、つかまったとき、お前はもう遠くへ逃げていた。外界のあらゆることから縁を切って、自分ひとりの世界へとじこもってしまっていた。法律は、そういう人間を処刑できないんだ。お前はまんまと、自分の内面へ逃げ込んでしまった」  「許してくれ。俺が悪かった」  彼は号泣していた。  「どうして許せる。妻と二人の子供と財産を一度に奪われたんだぞ。みどりや健がどんなに可愛い子だったか、お前だってよく知っているはずだ。香子が優しい女だったことも……。だから、鈴木先生が、どうやらお前は香子やみどりや健と暮らしているらしいと知ったとき、俺はお前から自分の家族をとり戻す決心をしたんだ。お前は香子や子供たちに、優しい男として生きていたんだろう。ときどき何かぶつぶつ言っているのを、鈴木先生や太田さんたちが、くわしく書きとめて調べてくれたんだ。そして、だんだんにお前の内面での生活が判ってきた。善良で、小心で、虫も殺せない男……平和な家庭……。許せると思うか。俺はお前の中へもぐり込みたかった。鈴木先生や太田さんも、お前の卑劣さに呆れ、憎み切っていたんだぞ。だから、力をかしてくれた。いろいろと暗示をかけた。そしてとうとう、立石という人間を一人、香子を経由して送り込むことに成功したんだ。……長かった。長かったぞ。そして、とうとうお前を追いつめた。お前の一日は、一か月もかかるときがあった。一年が、何秒間かでおわることもあるらしかった。俺たち三人は、根気よくお前の中へ立石を送りこみ、その嘘の世界をぶちこわさせた。お前は鏡を見ると怯えるようになった。殺人鬼の自分を見るのがこわくなりはじめたんだ。血まみれの手をした自分を認めるのがいやだったんだ」  あれは俺だったのか。彼は納得した。血まみれの手は見えても、顔が判らないはずであった。  「薬《ヤク》のせいだ。俺は狂ってた」  彼は車椅子からおりてコンクリートの床にひざまずいた。  「そうだろう。人間ならあんなことはできないはずだ。しかし、そのあとで、自分の中へ逃げ込んだのは、どうしても許せない。お前は俺の家族の命を奪ったばかりか、俺の想い出を盗んで自分のものにしていたんだ。香子を、みどりを、健を……。お前は愛したろう。なんてひどい奴だ」  彼はふらふらと立ちあがった。醒めればそうしなければいけなかった。そうするのが当然だった。はじめから、それはよく判っていたのだ。  彼はまっすぐ金網へ向かい、よじ登りはじめた。兄は、復讐をとげたにしては余りにも虚しい表情で、じっとそれをみつめていた。  彼は金網のてっぺんに登り、向こう側へおりた。病院の屋上のへりに立って、彼はふり向いて兄を見た。  「死んだって足りないだろうけど」  そう言ったが、兄には聞こえなかったようだ。彼は金網から手を離し、跳んだ。チリリンとベルの音を感じた。その店で麻薬を売っていた。彼は胸をそらし、自分から大地を迎えるように落下して行った。 [#改ページ]    初出一覧  箪笥「幻想と怪奇」6号(74年1月)  蛞蝓「野性時代」78年8月  縺れ糸「SFアドベンチャー」79年5月創刊号  雀谷「月刊カドカワ」84年5月  蟹婆「月刊カドカワ」84年10月  仁助と甚八「小説新潮」84年10月  夫婦喧嘩「月刊カドカワ」85年1月  夢たまご「別冊文藝春秋」170号(85年1月)  終の岩屋「月刊カドカワ」85年5月  赤い酒場を訪れたまえ「SFマガジン」70年2月  フィックス「小説CLUB」74年1月増刊  嘆き鳥「別冊小説宝石」74年7月  衝動買い「問題小説」76年6月  黙って坐れば「問題小説」76年8月  ボール箱「オール読物」75年7月  赤い斜線「小説新潮」75年8月  林道「小説新潮」87年1月  ちゃあちゃんの木「問題小説」73年10月  夢の底から来た男「野性時代」75年1月 著者紹介  半村 良(はんむら りょう)  昭和8年(1933年)東京生まれ。両国高校を卒業後、紙問屋の店員を皮切りに、バーテン、クラブの支配人、マージャン屋、板前の見習い等々、30近い多彩な職業を遍歴した。昭和38年に短篇「収穫」が第2回SFマガジン・コンテストに入選。71年に発表された『石の血脈』で作家としての地位を確立する。下町の人情話から伝奇SF・本格SFまで、守備範囲はきわめて広い。  『産霊山秘録』(昭和48年)で第1回泉鏡花賞、『雨やどり』(昭和49年)で直木賞、87年『岬一郎の抵抗』で日本SF大賞、93年『かかし長屋』で柴田錬三郎賞をそれぞれ受賞。