半村 良 聖母伝説  第一章     1  ドアがあいた時、私は反射的に、 「いらっしゃいませ」  と言っていた。奥に細長いそのバーの中は煙草の煙がこもって、私の頭のすぐ上にあるペンダント灯の光の中でも、青白い煙の筋がゆらゆらと渦《うず》を巻いていた。  顔をあげた私は、カウンターごしにその客を見た。カウンターは黒のデコラ貼《ば》りで、目の前にミキシング・グラスとシェイカーが置いてあった。その向こうには井田さんと中島さんの顔があり、中島さんはハイボールのグラスをいじりながら、黒い花びらを低い声で唄《うた》っていた。  その客の顔に見憶えはなかった。私は嫌《いや》な客だなと感じた。夜の世界に暮らせば、やくざな連中とも自然に付合いができる。いや、いわゆる堅気《かたぎ》の人々から見れば、私自身がやくざな人間なのだ。だからその小柄で貧相な若い男が、組の連中の中でもいちばん危険な、思慮というものを自分から放棄してしまったようなチンピラであることが、一目で判《わか》ったのだった。  髪を短いスポーツ刈《が》りにして、少しだぶつき気味の黒の上着に細身のズボン、白っぽいネクタイをゆるめて、そのチンピラはスツールに腰かけた客のうしろを、ゆっくりと奥へ進んで行った。  カウンターは満席で、一番奥の電話機が置いてある所が一つ空いているだけだった。私はそのチンピラを、そこへ坐《すわ》らせようと考えて、カウンターの中を横歩きに奥へ移動しかけた。 「いらっしゃいませ」  奥のテーブルへ飲物を運びに行っていた谷口が、ピアノのうしろを抜けてカウンターのほうへ出て来たのはその時であった。谷口は愛想よくその客に笑いかけていた。電話機のそばには会計《レジ》の菊江がいたし、谷口が出て来たので私は移動するのをやめ、元の位置に戻るほんのちょっとの間、冷蔵庫の前で立ちどまっていた。その冷蔵庫は氷を入れて冷やす旧式な奴《やつ》だったが、炭酸《ソーダ》のボンべと直結していて、上にソーダ水のコックがついていた。  黒い花びらを唄《うた》いおわった中島さんが突然グラスをあげ、 「アンポ、ハンタイ」  と素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で叫んだ。  その叫びと、チンピラが上着の内側から黒い物をとり出すのが同時だった。私はそのチンピラが、前へ突き出した拳銃《けんじゆう》に左手をそえるのを見ていた。チンピラはちょっと腰を落したようだった。谷口はそれを冗談だと思ったのかも知れない。笑顔のまま、持っていた銀盆《トレー》をさしあげて、胸の辺《あた》りをかばうようにした。  銃声がはじけた。中島さんがグラスを落して前のめりにカウンターにしがみつき、井田さんは体を右に開いて、のけぞりながらうしろを見ようとした。 「何だ……」  井田さんが叫んだ時、チンピラが手にした拳銃《けんじゆう》の銃口から、すうっと気味の悪い感じで紫色の煙が出た。銃声と一緒に鈴木八郎が弾いていたピアノがぴたりとやみ、内部の弦を指で叩《たた》いた時のような鈍い音が、ビーンといつまでも消え残っていた。  よろり、と谷口がよろけた。トレーに穴があいていた。谷口はそのトレーを取り落し、トレーは床の上で回転しながら音をたてていた。 「マネージャー、どうしたのよ」  奥の中二階にいたママが、私に叱《しか》るような声を送って来た。 「待て、こいつ」  井田さんがチンピラの手首を掴《つか》んだ。拳銃は呆気《あつけ》なく井田さんの手に移った。 「何だお前。何をしたんだ」  井田さんは右手で拳銃を握り、銃身でチンピラの胸を小突《こづ》いた。チンピラがあとずさると、威勢のいい井田さんに煽《あお》られたように、カウンターの客たちがいっせいにスツールをおりてドアのところへかたまった。  私はビールを冷やす桶《おけ》に足をかけ、カウンターへとびあがると、谷口のそばへ降りた。谷口は左手で右の胸をおさえ、床にくずおれたところだった。その五本の指が赤く染まっていた。 「救急車」  私は叫んだ。 「何よ、何よ……」  和服を着たママが中二階の階段を駆けおりて来た。カウンターの中の、一番入口寄りにいた志村が、ガタガタと簀《す》の子《こ》に音をさせ電話機へ走った。 「志村、救急車だ」  私はまた叫んだ。おろおろとなすすべもなかったレジの菊江が、志村に突きとばされるようにどかされて、急に甲高《かんだか》い声で泣きはじめた。  私もなすすべを知らなかった。胸から血を流す谷口を、どう扱っていいか判《わか》らず、ただそのそばにしゃがんで顔をのぞき込んでいた。 「大丈夫か」  そう言うと、谷口はかすかに顎《あご》を引いて顔を歪《ゆが》ませた。 「谷口君、どうしたの」  なぜか誰《だれ》も倒れた谷口のほうへ近寄ろうとはせず、ママだけがそばへ来て言った。 「こいつが拳銃《けんじゆう》をぶっ放しやがったんだ」  井田さんはチンピラをまた銃口で小突《こづ》いて言った。その声は、静まり返った店の中にいつものざわめきをとり戻させるきっかけになったようだった。 「なんでこんなことをしたのよ、あんた」  私のうしろを通り抜け、井田さんを押しのけるようにして、百合《ゆり》というホステスがチンピラに食ってかかった。 「ばか、どいてろ」  井田さんは新聞記者だけあって、こういう状況を的確に把握《はあく》しているようだった。 「こいつは人を射ったんだぞ。あの男が死んだら殺人犯なんだからな」  殺人犯、という言葉を聞いて百合は怯《おび》えた。 「やだ、人殺しなの」  悲鳴をあげるように言い、奥のほうへ退いて行く。  そうだ、谷口はチンピラに拳銃《けんじゆう》で射たれたんだ。私の頭の中でも、やっと事件の輪廓《りんかく》がかたまりはじめていた。     2 「一一○番だ。何をやってるんだよ、お前」  奥から出て来た客の一人が焦《じ》れったそうに喚《わめ》いた。志村は慌《あわ》ててまた受話器を取った。 「さあ、みんな静かに」  ママは店の女の子たちに言い、 「何でもありません。お席へお帰りください」  と奥へ向かって両手をひろげ、うわずった声で言った。 「何でもなくないぞ」  井田さんの同僚の中島さんが、酔って体をゆらゆらさせながら喚《わめ》く。 「中島ちゃん、協力してよ」  ママはその声に振り返り、今にも泣き出しそうな顔で言った。 「大丈夫か。まさか死んじまったんじゃないだろうな」  誰かが奥のほうへ戻りながらそう言った。 「大丈夫」  私は店中に聞こえるような声で答えた。 「ここへ当たってるよ」  倒れた谷口の頭のあたりがピアノの左の側面になっていて、その黒い板をピアニストの鈴木八郎が指で撫《な》でながら言った。 「え……」  私は谷口の体を起して背中をたしかめたい衝動に駆られた。たしかにその黒い艶々《つやつや》とした板に、銃弾が深くめり込んだらしい穴があいていた。 「体を突き抜けたのか」  私は谷口に訊《き》いた。谷口の蒼《あお》い顔は答えなかった。射たれた当人に、貫通したかどうか判《わか》るわけもなかろう。 「えらいことになった」  鈴木八郎の顔を見ながら私は低い声で言い、まだ井田さんと向き合って突っ立っているチンピラのほうを見た。  その頃になって、客たちの間にもやっと怯《おび》えがひろがって来たようだった。 「どうするんだ。こいつを」  ドアのところにかたまって、チンピラの退路を断つ形になっていた六人ほどの客たちが、心配そうな顔をしていた。 「ドアに鍵《かぎ》をかけてくれませんか」  私は辛うじてそう頼むだけの知恵を働かせた。 「中島。お前、外へ出てドアに寄りかかってろ」  井田さんが言うと、 「よし来た」  と中島さんがチンピラの横を通り抜けざま、 「こん畜生め」  と言ってチンピラの頭をコツンと撲《なぐ》ったようだった。 「何すんだよ、この野郎」  チンピラがはじめて声を出した。喉《のど》にひっからまったいやらしい声だった。中島さんと一緒に二人ほど外へ出て行ったようだった。 「黙ってそこへ入れ」  体の大きな井田さんは、チンピラを威圧するように大きな声で言い、相手を後退させた。ドアの手前でカウンターが曲がっており、入口の壁との間にスツールが二つ置ける程の隙間《すきま》があった。そこからだとカウンターの内部がまる見えだから、客の中でもごく親しい常連が坐《すわ》る席になっている。  みんなチンピラの体に触れるのが嫌《いや》らしく、大げさにドアや窓ぎわへさがって、そいつの通る場所をあけた。 「てめえら、舐《な》めんなよ」  チンピラはまたいやらしい声で言った。 「黙ってろ」  井田さんが言った。チンピラはカウンターと壁にはさまれた狭い空間におしこまれ、ほとんど表情を動かさずに立っている。 「志村」  私はバーテンを呼んだ。 「はい」  志村はキビキビと答える。 「谷やんの体に何かかけてやらなくちゃ」  血が大量に流れ出していた。 「遅いわねえ。何やってるのかしら」  ママが戻って来て心細そうに言った。志村は毛布を取りに奥の階段へ走って行ったらしい。 「月《つき》さん、これで」  鈴木八郎がピアノの上に楽譜などと一緒に積んであった古新聞を私に渡した。赤いプラスチックのタイルを貼《は》った床に谷口の血が溜《たま》りはじめていたので、私は何の気なしにその血溜《ちだま》りへ古新聞を一枚置いた。すると古新聞はみるみる赤く染まりはじめ、何もしない時より余程|物騒《ぶつそう》な感じになってしまった。 「わあ、ひでえ」  ドアのほうにいた客たちが、谷口の流す血の量に気付いて驚きの声をあげた。私は慌てて体の位置を動かし、ドアのほうから見えないようにして、夢中で血を拭《ふ》き取りはじめた。 「谷やん、死なないでよ」  ママがしゃがみこんで小声で谷口に言った。励ましているのではなく、頼んでいるのだった。 「おい、帰るぞ」  奥の地下になったほうの階段から、三人連れの客がそう言ってあがって来た。 「ママ」  私は目配《めくば》せして首をかすかに横に振った。ママは急いで立ちあがると、 「ちょっと待ってくださらない……」  と客の行手をさえぎった。 「また来るよ」  客は強引に帰ろうとする。 「もうすぐですから。お願いします。もうちょっと下にいてください」  ママは先頭の客の手を掴《つか》んで出口のほうへやるまいとした。 「巻添えになるのはご免だよ」  客は冷たく言う。いつも物判《ものわか》りのよさそうなことを言い、どうやらママを目あてに通って来るらしい信用金庫の理事をしている男であった。 「巻添えになんかなりませんよ」  私はむしゃくしゃして来て、谷口のほうを向いたまま独《ひと》りごとのように言った。 「警察が来る前にお帰りになれば別ですがね」  少し声を大きくしてそうつけ加えると、 「何だ、自分のほうで不始末をしでかして置いて」  と、その客は私を罵《ののし》った。 「まあまあ、もうちょっと下でお待ちになって」  それをママが元の席に押し返して行く。 「もうこんな店へは二度と来んからな」  客は不承不承おりて行った。パトカーだか救急車だかよく判らないが、とにかくサイレンの音が聞こえはじめていた。     3  先に店へ現われたのは警官だった。外の通りへ出て張り番をしてくれていた中島さんたちがまずドアをノックしてあけさせ、ゾロゾロと戻って来た。警官が二人、そのあとから続いた。 「これが犯人だ」  井田さんが拳銃《けんじゆう》を握ったまま言うと、何を勘違いしたのか、警官はいきり立って井田さんに呶鳴《どな》った。 「拳銃を寄越《よこ》せ」  井田さんはむっとしたらしく、 「持ってけ、ほら」  と銃を渡した。 「名前は」 「ばか、射ったのはこいつだ」  井田さんはそう言い、 「あとはまかしたぞ」  とチンピラの前を離れた。もう一人の警官は谷口のそばへ来て私に訊《き》いた。 「この人は……」  白いワイシャツに蝶《ちよう》ネクタイ。横たわっているのがバーの床なのだから、バーテンかボーイであることは一目で判《わか》りそうなものだった。 「あいつが来て、いらっしゃいませと出て行ったら、いきなり射たれちゃったんですよ」  私は口をとがらせて言った。警官が現われたとたん、焦《じ》れったい感じが余計につのった。 「君は……」 「マネージャーです」 「これは店員か」 「きまってるじゃないですか。それより早くしてください」  すると警官は私を睨《にら》んだ。何を早くしろと言う……そんな表情だった。 「救急車ですよ」 「まだ呼んでないのか」 「呼んだけど来ないじゃないですか。早くしてください」  警官は答えずに谷口の胸の辺《あた》りを指でさわって見ている。 「右と左が逆だったら即死だよ、これは」  そう言って立ちあがり、ちらりと一度チンピラのほうを見てから、逆に店の奥へ入って行って中二階や地下をのぞいていた。 「おい、手錠ぐらいかけたほうがいいんじゃないのか」  中島さんが入口の警官に言った。そのチンピラに対して、まるで不審尋問のような調子で、ボソボソと何か訊《き》いていたからだ。 「本当にお前がやったのか」 「あ……」  中島さんはそのそばで額に手を当て、大げさに呆《あき》れて見せた。 「甘《あめ》えなあ。さすが民主警察だ」  チンピラは当然のことながら、否定も肯定もしない。客たちもみないらだっていた。 「そいつがやったんだよ。俺《おれ》たちが証人だ。なあ……」 「うん、そいつが射ったんだ」  警官は舌打ちをすると、チンピラの身体検査をはじめた。 「何だこれは」  チンピラはポケットにナイフをしのばせていたらしい。警官がごついナイフを突きつけるようにして訊《き》く。 「ナイフどころか拳銃《けんじゆう》を持って来てぶっ放したんだぞ。手錠ぐらいかけろよ」  井田さんが叱《しか》るように言った。それを聞いてチンピラは薄笑いを泛《うか》べ、気取った感じで両手を前に揃《そろ》えて出した。警官のほうがかえって不貞腐《ふてくさ》れたような表情になった。 「あんたは……」 「新聞記者だ。目撃したよ」  警官はかすかに鼻を鳴らし、手錠をとり出すと大儀《たいぎ》そうにチンピラの手首にかけた。やっと救急車が近付いて来たようだった。もう一人の警官が外へ出て行く。パトカーの無線で報告するのだろう。  サイレンの音がダブっていると思ったら、救急車のほかにパトカーがもう一台やって来ていた。救急車で来た白衣の男たちのほうは至ってテキパキとしていて、谷口の様子を一目見るなり、ひどく緊張した様子で担架を店の中へ入れた。 「どなたか一人来てくれますか」  谷口を担架にのせながら言うので、私がついて行こうとするとママがとめた。 「あんたは残ってよ」  心細そうだったし、あとの騒ぎが大変なのは目に見えていた。 「志村、頼む」  私はバーテンの志村に言った。志村が頷《うなず》いて出て行こうとすると、泣きべそをかいたレジの菊江が慌てて金を少し握らせたようだった。  谷口は白衣の男たちにあっさりと運ばれて行った。  あとから来た二人の警官は、先に来た二人より少しましな感じだった。私たちの説明を素直に納得してくれて、 「それじゃ、あの男はこの店へ今まで一度も顔を見せたことはないと言うのだね」  と念を押したりした。事実その通りで、私にはそのチンピラが狂っているとしか思えなかった。 「薬か何かでラリってるんじゃないのかな」  井田さんたちもそう言って首を傾《かし》げる。先に来た二人は、チンピラを連れて出て行ってしまった。交番から自転車に乗った警官が現われ、そのあとしばらくすると私服の刑事も二人やって来た。 「あの、これじゃお客さんに迷惑なんで、引取ってもらいたいんですが」  私が刑事に言うと、 「そうだな。これじゃ商売にならねえな」  と頷《うなず》き、 「一応、居合わせた客の名をメモしといてくれるかい」  と耳打ちした。 「はい」  私はカウンターの中へ戻って、レジのところで客に気付かれないようにメモをした。その間にママが客の間を詫《わ》びてまわっていた。  会社の接待などで来ていた客は、あたふたと店を出て行ったが、常連の何人かは居残っていた。私は看板を消し、店の奥の灯《あか》りも半分に減らして薄暗くすると、残った客たちにウイスキーを注いでまわった。みんな興奮していて、言うことも似たりよったりだった。 「ラリってるんだよ」 「ガン・クレージーという奴《やつ》だな」 「谷やんも可哀そうに」  運ばれていった病院から志村が電話を寄越したのは、小一時間もしたあとだった。     4  それでなくても薄暗い店の中がいつもより一層薄暗くされて、ひどく侘《わび》しい感じだった。谷口が倒れていた床の辺《あた》りに、縁起直しの盛《も》り塩が、かなり大きな白い円錐《えんすい》形を作っていた。その塩も、ホステスの一人が近くの酒屋へ買いに走ったもので、別に漬物《つけもの》を自前で作るわけではないから、バーのカウンターには盛り塩にできるような湿った塩はなく、グラニュー糖のようなサラサラの食卓塩だけだったのである。  はやばやと閉店してしまっていた。谷口が危篤《きとく》状態だという報告が入ると、ママはすっかりやる気をなくして居残った常連も追い返し、カウンターの端にレジの菊江と向き合ってしょんぼりと坐《すわ》っていた。 「どこのチンピラだったのかしら」  ホステスたちが小声で言っている。 「谷口さんも災難よねえ」 「でもさ、あの時あの人が出て行かなかったら、誰かほかの人が射たれたかも知れないわよ」 「そうね。案外井田さんあたりがやられてたかも知れない。だってそこのところにいたんでしょう。あいつがちょっとピストルをこっちへ向けてれば、井田さんがやられてたとこよ」 「でも井田さんて、さすがね。頼もしかったわ。すぐピストルをとりあげちゃってさ」 「新聞記者だから慣れてるのよ、きっと」 「あら嫌《いや》だ、井田さんは学芸部の人よ。事件記者じゃないわ」  たしかに井田さんは頼りになった。もし井田さんがいなかったら、あのチンピラは拳銃《けんじゆう》を持ったままだっただろうし、そうなればパトカーが来るまでに逃げ去ってしまっていただろう。  私はそっとママに近付いて言った。 「病院へ行きたいんですけど」  するとママは下を向いたまま答えた。 「いま志村君が帰って来るわよ」  その様子を聞いてから出掛けろと言う意味らしかった。 「ちょっと」  ママはスツールをおりると、そう言って暗い奥のテーブルへ向かった。私はカウンターをくぐってあとについて行った。 「心当たり、ある……」  ソファーに向き合って坐《すわ》ると、ママは私にそう言った。 「いいえ」  私は首を横に振った。 「本当に全然心当たりはないの……」 「ありませんよ。だいたい、あんなチンピラなんか見たこともない」 「そうじゃないのよ。だって、谷やんを連れて来たの、あんたじゃないの」  それはその通りだった。この〈四番地〉という店で谷口を働くようにさせたのは私なのだ。しかし、今夜の事件が谷口のほうに責任があるようには考えもしていなかった。 「あのチンピラが、いきなり拳銃《けんじゆう》をぶっ放したんです。谷口は偶然あいつの前へ出て行っただけですよ」  自然に私の言い方はきつくなっていたようだ。 「そう言い切れる……。それならいいんだけれど」  ママは気弱げな声で言った。 「谷口のほうに、狙《ねら》われるわけがあったと言うんですか」 「わたしはそれが知りたいだけよ。谷やんがあのチンピラと何の関係もなかったのか、それともあったのか……。それだけよ。何も谷やんが悪いなんて言っているんじゃありませんからね」  ママの気持は判《わか》った。判った上でもう一度考えて見ると、私にも確信はなかった。谷口がチンピラに狙撃《そげき》される理由をまったく持っていなかったかどうか、そこまで詳しいことは知らないのである。 「友達、って言ったわね。あんたと谷やんは……」  ママが穏やかな口調で尋ねた。 「ええ」 「古いお友達……」 「子供の頃からの友達です」 「そう。で、その後もずっと付合ってたの」  私は返事につまった。 「どうなの」  ママに詰め寄られて、私は仕方なく答えた。 「久し振りに会ったんです」 「バッタリと……」 「ええ。三光町でバッタリ会ったんです。久し振りだからエルザでコーヒーを飲みながら話し合ったら、失業中だと言うんで」 「親友だったのね」  ママは同情するように小さく頷《うなず》いて見せた。 「ええ」 「でも、こういう店で働いた経験なんて、本当はなかったんでしょう」  私は黙って頭を掻《か》いた。 「ほら見なさい。嘘《うそ》ついちゃだめよ」 「すみません」 「とにかく困ったことになったわね。井田さんたちが余計なことするから」  ママは舌打ちをしそうな顔で言った。井田さんと中島さんが、同じ新聞社の社会部の連中を呼んでしまったのだ。二人は店の常連だし、とりわけ今夜は井田さんの事後処理に救われた形だったから、その取材に協力しないわけには行かなかった。  しかし、夜の新宿の満員のバーで拳銃《けんじゆう》を射ったとなれば、朝刊にかなり大きく扱われることは目に見えていた。 「信用金庫の渡辺さんを怒らせてしまったし」  私が詫《わ》びをかねて言うと、ママは案外あっさりした態度で、 「いいのよ、あんな人は」  と言った。 「ああいう時、人の本性って判《わか》るものね。それにひきかえ、井田さんは立派だったわ。あとでお礼をしなくてはね」 「そうですね」 「でも、谷やんのこと、どうする……。お店としては、そうたいして力になってあげられないわよ。だって、うちに来てからまだ二週間にもなってないんだもの」 「僕がなんとか考えます」  行きがかり上、そう言わざるを得なかった。 「志村君が帰って来たら病院へ行ってあげて。昏睡《こんすい》状態と言うんじゃ、あたしなんかが行っても仕方がないしね。それからドアに臨時休業の札を貼《は》っちゃって頂戴《ちようだい》」  ママはそう言うとホステスたちのほうへ行った。     5  五月のおわりで、生暖かい風の吹く晩だったが、街の空気はなんとなくとげとげしい感じだった。  臨時休業の札を貼《は》ったドアをあけて外へ出ると、私はズボンのポケットに両手を突っ込んで西大久保のほうへ歩きだした。そのあたりには、三メートルか五メートルおきぐらいに女が立っていて、 「今晩は」  と声をかけて来る者もいた。ひと頃多かった街娼《がいしよう》も近頃は影をひそめ、道に立っている女たちはみなキャッチ・ガールと呼ばれる客引きだった。路地の奥の小さな店から出て来て、酔っ払った鴨《かも》をくわえ込むのだ。要所要所に出ているおでんなどの屋台は、そういった連中を取りしきる地元の暴力団のもので、うっかり首を突っこむと、たかが屋台のおでんに法外な金を払わされたりすることもあった。 「ねえねえ。あんたのとこで殺しがあったんだって……」  顔見知りのキャッチ・ガールが私の腕をつかまえて引きとめた。 「殺しじゃないよ」 「でも、ハジキをぶっ放したって」 「うん」 「どこの奴《やつ》……」 「それがよく判《わか》らないんだ」 「ヤクで狂ってたんだね」  その女は自分の頭へ人差指を押しつけて言った。たちまち私のまわりに人垣ができた。 「やられたのは誰なの」 「新米のボーイさ」 「災難だねえ、ほんとに」 「でも、客じゃなくて助かったよ」 「あたしらも、こんな所に突っ立ってるんだから、そんなヤバいのが出て来たら堪《たま》んないね」  女たちは首をすくめた。私はその女たちの名など、一人も知ってはいない。ただ蝶《ちよう》タイをしめてしょっちゅうその道を行ったり来たりするから、お互いに自然に顔を憶《おぼ》えただけだ。そして、その女たちもすぐに新しい顔と入れかわってしまう。 「よう、月《ツキ》さん」  妙なアクセントで呼ばれると、女たちがさっと私のまわりから散った。 「もててるね」  ソフトをかぶった骨ばった感じの男が笑いかけていた。 「もてちゃいないよ」  男は呂という名で、クラブのマスターだった。博奕《ばくち》好きで有名だが、いわゆる台湾|訛《なま》りがひどくて、私らと話していてもすぐに母国語がとび出して来るのだった。 「君の店の男が射たれたそうだね」 「うん。おかげで臨時休業さ」 「久しぶりだ」 「久しぶり……」  ヒサシプリ、と聞こえる発音に私は思わず問い返した。 「ムカシハソナコトメツラシクナカタヨ」  呂の次の台詞《せりふ》は、書くとそうなる。 「へえ、そうかね」 「タカラ気にすることはないの」  呂は私の肩をポンと叩《たた》くと、笑いながら去って行った。 「月ちゃん。月ちゃん」  今度は関西訛りで通りの向こう側から呼ばれた。近頃その通りのはずれに開店した、京風茶漬の〈三条〉のおばさんだった。私は通りを斜めに横切った。 「よかったねえ。あんたが射たれたのか思うて」 「おかげさんで」 「お店、閉《し》めはったの……」 「うん」  おばさんは大きく頷《うなず》き、 「寄って行くか。ん……」  と自分の店のほうへ歩き出した。どこかの店へおにぎりの出前に行った帰りらしく、見慣れた竹籠《たけかご》をぶらさげていた。 「寄れたらあとで寄る。先に病院へ行かなければ」 「そうか」  尻あがりに言い、 「あとで話聞かせて。な……」  と三条の暖簾《のれん》の前で立ちどまった。 「ああ」  私は足を早め、ゆるい坂を登って行った。坂の途中にソープランドの入口があり、そこを過ぎると急に道が暗くなる。上のほうには赤い温泉マークのネオンが幾つも重なり合って見えた。  滝川外科はそのずっと先だったが、バーテンの志村に聞いて来たので、私はまごつかずにその古い病院へ着いた。  受付の窓口には小さな白いカーテンが内側から引かれていて、靴《くつ》を脱いで入口のタイルの上に置いた簀《す》の子《こ》に足をのせると、カターンと、やけに遠くまで音が響いた。  薬臭い病院の暗い廊下をのぞいたが、どこへ声をかけていいか見当がつかなかった。ときどき二階のほうで、ヒタヒタとスリッパの音などが聞こえるけれど、入口の辺《あた》りには人の動く気配もなかった。  結局、私は外から正面の扉《とびら》をあけて入って来た中年の看護婦に尋ねることになった。その看護婦は右手に買物|籠《かご》を持っていて、左手の指に火のついた煙草をはさんでいた。 「あの……」  中から私がそう言うと、看護婦はびっくりした様子で私をみつめた。 「一時間半ほど前に運ばれて来た谷口という者に面会はできないでしょうか」 「ああ、ピストルで射たれた人……」 「そうです」 「だめよ。まだ意識がないから」 「で、どうなんでしょう」 「命……さあ、判《わか》んないわよ。だって、弾丸が右の肺を貫通してるんですからね。もっとも、貫通してくれてよかったそうよ。中でとまってたら大変」  谷口が大変なのか、手術をする自分たちが大変なのかよく判らない言い方だった。 「じゃ、明日でしたら朝何時から……」 「明日だって面会謝絶よ」  きまっている、と言うように看護婦は言い、急に気付いたように、 「身内の人……」  と訊《き》いた。 「いいえ、同僚なんです」 「身内の人に連絡してくれたの……。だってあの人、名前もまだ判《わか》らないんですものね」 「谷口|怜悧男《れりお》です」 「え……れりお……」 「怜悧《れいり》な男と書くんです」  看護婦は肩をすくめてニヤリと笑った。     6  なんてことだ。滝川外科病院を出る時、私は舌打ちをしながらそう思った。人が一人、射たれて死ぬかも知れないというのに、それを大勢の患者の中の一人に過ぎないというようにしか考えない、殺伐《さつばつ》とした世界がすぐ近くにあったのだ。 「タカラ気にすることはないの」  呂の台湾|訛《なま》りが頭に泛《うか》んだ。だが、気にしないですむわけのものでもない。金のことを考えると、その帰り路の足どりは自然に重くなった。マネージャーと言ったって、その日暮らしのバーテンやボーイに毛の生えた程度のもので、他人の面倒を見るゆとりなどはじめからあるわけがない。それに、谷口に身寄りらしい身寄りがないことも判っていた。現に彼が負傷したことを、どこへ報《し》らせていいか見当もついてはいないのだ。病院の費用をどこからひねり出したらいいのだ……。  金のことばかり考えている内に、私は歌舞伎町へ近付いていた。さっき登ったゆるい坂をおりて区役所通りへ入ると、急に疲れたように感じて三条の暖簾《のれん》をくぐり、ガラス戸をあけた。狭い店の隅に志村の姿があった。 「どうでした」  となりへ坐《すわ》ると志村が私に盃《さかずき》を渡して言った。 「会えなかったよ」  志村は酌《しやく》をしてくれてから頷《うなず》いて見せた。 「えらい騒ぎやったなあ」  三条のおばさんがそばへ来て小声で言う。 「まったく」  私は盃をあけ、 「海苔《のり》茶を作って。それに酒を一本」  とおばさんに言った。 「志村さんに聞いたけど、そんなやったらとめる間もあらせんわなあ」  おばさんは小ぶりの銚子《ちようし》をつまんで湯の中へ沈めながら言う。 「まさか射つなんて思わねえもの」 「谷やんもお客がふざけたんだと思ったらしいですね」  志村のいた位置からは、あの時の谷口の表情がよく見えた筈《はず》であった。 「災難さ。こういう場所では、運が悪いと死神にとび込まれる」  私は今夜の出来事をそう思って片付けてしまいたかった。 「でもね、月さん」  志村はことさら声をひそめて言った。 「俺にはどうも、あの男がラリっていたようには思えないんだけど」  私は黙っていた。おばさんが銚子《ちようし》を持って私たちのうしろへまわり、 「ゲン直しにキューッとやって……奢《おご》るわ」  と言った。私は手を伸ばして梁《はり》から吊《つる》した籠《かご》の中のグイ呑みを一つ取り、おばさんが奢ってくれる酒を受けた。 「ほんまに月ちゃんやのうてよかったわ」  三条のおばさんはまたそう言った。 「見ろ、俺は年増《としま》にもてるんだ」  そう言ってくれるおばさんの手前、私は精々元気よく志村に冗談を言い、一気に酒を飲んだ。おばさんはすぐにまた酌をしてくれて、納得したようにカウンターの向こうへ戻って行った。 「お前もそう思うか」  私は早口で志村に言った。夜の新宿には薬《ヤク》の密売人《バイニン》がはびこっていた。薬のためにだめになってしまったバーテンやホステスを、私たちは何人も知っていた。だから、薬でラリっている奴《やつ》なら一目で判《わか》るのだ。 「あれは正気だと思うんだけどな」  志村はそう答え、 「この間のことじゃないんだろうなあ」  と陰気な声でつけ加えた。 「まさか」  私はその言葉へ押しかぶせるように言ったが、そのかぶせかたの早さは私自身の危惧《きぐ》をかえってはっきりとさせてしまったようだった。  四日ほど前のことだ。顔見知りの刑事が、わりと服装のいい二人の男を連れて来て、その二人を店の屋根裏部屋へひそませてくれと言った。刑事はそれ以上詳しいことは言わなかったし、私たちも訊《き》きはしなかったが、目的ははじめから判っていた。たしかに私たちの店の前あたりに、このところ密売人《バイニン》が毎晩のように現われているのだ。薬には用のない私たちでも、同じ夜に棲《す》む者同士だから、そのくらいのことはすぐに判ってしまうのだ。  一晩だけ、その二人に屋根裏部屋を貸してやった。そのことは当然ママも承知している。屋根裏部屋にはこのところ谷口が寝泊りしていて、二人の男は明け方帰って行ったそうだ。  密告《サ》したわけでもないし、積極的に協力したわけでもない。しかし、店の構造が法規に触れているし、毎晩のように時間外営業になってしまうし、刑事の言うことをきかないわけには行かなかった。  その仕返し……。  ママにも私にも、そうして志村にも、そのことが頭にあるのだった。 「そんなわけはない。大げさすぎるよ」  私は首を振って言った。 「いくら何でも銃で射つなんて大げさすぎる。夕方まだ客が来ないくらいの時間に暴れ込んで来て、棚の酒瓶《さかびん》を根こそぎぶち割るくらいが相場だよ」 「そうだろうなあ」  志村はつぶやいた。 「それよりな」  私は不吉な考えを追い払うために話題を変えた。 「困ってるんだ」 「何をですか」 「金だよ」 「ああ」  志村は頷《うなず》いた。 「ママにしたって、全面的に谷口の面倒を見てやれるものじゃない。何しろ入ったばかりだからな。それも俺が強引に入れてしまった人間だ。被害者と言っても、交通事故じゃないからどこからも補償金なんか出やしないし」 「谷やんの家族は……」 「いねえんだよ」 「いない……」 「うん。幼馴染《おさななじみ》だからよく知ってる。あいつは孤児だったんだ」 「参ったな、それは。いい人なのに」 「うん、あいつはいい奴《やつ》だ。でも運の悪い男だよ。お袋さんと二人きりだったんだが、お袋さんは空襲でやられて……ややこしい育ちかたをしてるのさ」  おばさんが私の前へ海苔茶漬の器《うつわ》を運んで来た。     7  三条を出た私は、志村と一緒に店へ戻り、早じまいをした店内を点検してまわってから、鍵《かぎ》をかけて店の前で別れた。時間は十一時を少し過ぎていた。  何はともあれ、谷口の病院の費用を算段しなければ気分が落着かなかった。  また質屋か。……毎度のことで慣れ切っている筈《はず》なのに、やはり気が重かった。それに、質屋では大した金額になるわけもない。だが、私の頭には光子の部屋にある新品のテレビが泛《うか》んで消えなかった。新しいものが好きな光子が無理算段をしてついこの間手に入れた、八インチのカラーテレビだった。  角筈《つのはず》の通りへ出た私は、都電の営業所の入口のところにある公衆電話で、まだ店にいる筈の光子を呼び出した。 「はい、ローズでございます」  張りのある男の声が出た。 「光子さんをお願いします」  客のように思わせるため、幾分ぞんざいな言い方をした。 「はい、少々お待ちください」  声が遠のき、音楽と話し声の入りまじった中で、 「光っちゃんだって」  と言うのが聞こえた。それから三、四十秒で受話器を取りあげる音がした。 「はい光子です」  屈託のない声だったが、少し酔っているようだった。 「俺だよ」  そのとたんに先方の物音が消えた。送話口に掌《て》をあてたらしい。私にはカウンターのかげにしゃがみ込んだ光子の姿が見えるようだった。 「どう……」  光子が訊《き》く。 「何がだい」 「愛してる……」 「酔ってるな」 「そうよ。何着てるか判《わか》る……」 「こないだの黒い奴《やつ》か」 「あ、た、り」  光子は愉《たの》しそうに笑っていた。 「こっちはもう閉《し》めたんだ」 「あら、早いのね」 「ちょっとした事件があってな」 「事件……」 「うん。会えるか」 「何よ、あらたまって。でも、今日はこの分だとちょっと遅くなりそうよ」 「先に行ってるぞ」 「やだ。来るとき窓のとこに洗濯物をとりこんだままよ」 「じゃあな」 「ねえ、何があったのよ。嫌《いや》なこと……」 「あとで言うよ」  私は電話を切った。逃げ場を見つけてほっとしたような、それでいてまたやましい行ないを重ねるような、どちらにしてもカラッとはしない気分だった。  私は道を横切って駅のほうへ向かい、いつもはもっと遅くに行く、二十四時間営業のラーメン専門の店へ寄った。酔ったサラリーマンらしいのが、立食いのカウンターにずらりと並んでラーメンを食べていた。そして、食券を買ってその隙間《すきま》に割り込むと、丸いプラスチックのカードと引換えのように、素早く私の前へ湯気の立つ丼《どんぶり》が突き出された。  箸《はし》を割って何度か麺《めん》をすすり込んでから、一息ついて顔をあげると、突き当たりの壁にトランジスタ・テレビのポスターが貼《は》ってあるのに気付いた。光子の部屋にあるのと同じ、最新型のテレビが大きく印刷されている。  とたんに私はうんざりとした。光子に会うことがひどく億劫《おつくう》になり、立食いのラーメンをすすっている自分が、何か侘《わび》しくて仕方なくなってしまった。  三条で海苔茶漬を食べたばかりなのに、光子の部屋へ行くときまったとたん、またラーメンを腹に入れねば納まらぬ自分を、けだものめいていると自嘲《じちよう》しはじめたのだった。  私は箸を置き、食べ残した丼のそばにあったコップの水を一気に飲みほして、逃げ出すように通りへ出た。それでも足は光子の住むアパートの方向へ向かっている。人々は私の進む方向と直角に、歌舞伎町から駅のほうへ流れている。  大ガードの下に入ったとき、頭の上を轟《ごう》と電車が通りすぎた。埃《ほこり》まみれの四角い柱やコンクリートの壁に、安保反対のビラがベタベタと貼《は》ってあり、その中にストリップ・ショーのポスターや、ホステス募集の貼り紙がまじっていた。  私は少しでも新宿の夜の光から遠ざかろうとするように、無意識に足を早めていた。自分の生活の場である新宿をそんな風に思ったことは今まで一度もなかったが、その時の私には、背後にある世界が汚れて、腐って、毒をたたえているように思えてならなかった。  なぜそんな風に感じたかは、淀橋署の前まで来たら判《わか》った。その警察の建物と今夜の事件が嫌《いや》でも結びつき、射たれた時の谷口の顔が私の頭の中に鮮明に泛《うか》びあがったからである。  笑顔で射たれたのだ。谷口は射たれる時、たしかに相手に笑顔を向けていたのだ。人には感じないように見えたとしても、そのことは私の心の奥深くに、大きな冷たい塊《かたま》りをドスンと投げ込んだようなものだった。  酒場の男は、客にどんな無理を言われても、笑って受け流すのが役目だった。勿論《もちろん》それを自分の仕事とした以上、それほど嫌なわけでもなかったが、毎晩少しずつ魂がどこかへめり込んで行くような気はしていた。  自分に拳銃《けんじゆう》を向けている相手に対してさえ、愛想よくほほえみかけていた谷口が憐《あわ》れだった。いや、谷口のことではない。私だってあの場合ほほえみかけていただろう。  谷口は銀盆《トレー》を両手で持って胸の辺《あた》りへあげた。危険は察知していたのだ。しかしやはり笑顔は消さなかった。そしてトレーに穴があいた。 「嫌だ」  私はあの瞬間を思い出し、つい声に出して言った。自分がみじめで仕方なかった。立場がかわっていたら同じように笑顔で傷つけられた筈《はず》の自分に対して、どうしようもない自己|嫌悪《けんお》を感じてしまうのだった。成子坂《なるこざか》下への道を、私は小走りに急いだ。  本当はその時、引き返したかったのだ。代々木の自分のアパートへ帰るべきだと思っていた。女の部屋へ逃げ込みたがっている自分を、自分で軽蔑《けいべつ》していた。しかしそこへ戻っても、谷口の入院費はとうてい作り出せないのだった。     8  光子の部屋は、成子坂下の木造アパートの二階だった。家具店の横の細い道を、十二社《じゆうにそう》のほうへ少し入った所だった。私はその部屋のドアの鍵《かぎ》を、キーホルダーにつけた三つの鍵から指先で簡単に選《よ》りわけて鍵穴へさし込んだ。  暗い部屋の中へ入ると、私は慣れた匂《にお》いに包まれた。その化粧品の匂いを、私は光子の生まれつきの体臭のように感じてしまっていたのだ。窓の薄いカーテンを通して、外の淡い光が入って来ている。私は用心深く部屋のまん中へ進み、天井からぶらさがっている電灯のシェードの下の紐《ひも》を引っぱった。  光子が電話で言っていた通り、カーテンを引いた窓のそばの畳の上に、洗濯をしたスリップやストッキングやパンティが、無造作にほうり出してあった。私は突っ立ったまま、掌《てのひら》の中の鍵を見た。  去年の夏、光子が少しはしゃぎながら私に渡した鍵だった。角筈《つのはず》の金物《かなもの》屋で作らせてすぐ、近くの喫茶店で待っていた私に、ひょいと抛《ほう》って寄越したのだった。はしゃいでいたのは照れかくしだったのかも知れない。あれから何度この部屋へ来たことだろう。だが光子は代々木の私の部屋へ、二、三度しか泊っていない。こういう関係になるごくはじめの頃のことだった。  そんなことまでが、私の自己|嫌悪《けんお》を掻《か》きたてるようだった。自分の部屋の鍵《かぎ》を光子に渡すことなど、一度も考えたことがなかった。いったい俺《おれ》はどういうつもりなんだ……。その自問をうんざりした気分で頭から追い払い、電灯の真下に置いてある赤いテーブルの上に鍵を置くと、ポケットからいこいの袋を出しながら坐《すわ》った。  光子は綺麗《きれい》好きだった。小まめな性分《しようぶん》で、部屋の中はいつもきちんとしていた。洗濯物が窓の竿《さお》から取り込んだままにしてあるのは、出がけによほど急いだ証拠だった。多分遅刻しかけたのだろう。ローズと言う店は、ホステスの遅刻に十分単位で罰金を取るそうなのだ。光子はホステスにしてはひどく勤勉なほうで、ローズに移ってから今日まで、まだ無遅刻無欠勤の筈《はず》だった。  私はいこいに火をつけて吸いはじめたが、また射たれる時の谷口の顔が泛《うか》びかけたので、赤いテーブルのまん中に置いてあるガラスの灰皿へ煙草を押しつけて消すと、我ながら妙にまめまめしく窓際へにじり寄って洗濯物を畳みはじめた。そうしていると、帰って来た光子の礼を言う顔が想像できて、何となく気が休まるのだった。  が、畳んで部屋の隅へ積んで置くと、今度は滝川外科の暗い受付のあたりを思い出してしまった。カサカサに乾いたような看護婦の顔が目の前に迫った。 「そんなこと言われたって困りますよ」  突然あの看護婦が私に食ってかかるところを想像した。 「誰もお金を払ってくれる人はいないんですか」  私はごろりと横になり、天井を向いて頭の下で手を組んだ。 「俺が払えばいいんだろ」  不貞腐《ふてくさ》れたようにそうつぶやいて見た。 「月岡君、遊ぼうよ」  狭い路地に面した窓の外で、節をつけてそう言っている谷口を私は思い出していた。東京の子供たちが遊び仲間を誘う時にする、あの唄《うた》うような言い方だった。次から次へ直角に曲がっては際限もなく続く細い路地を、私はいつも谷口と一緒に駆けまわっていたのだった。半ズボンにセーター。谷口は寒いさなかも、いいかげん暖かくなってからも、鼠《ねずみ》色の毛糸のセーターを着ていた。半ズボンに菱形《ひしがた》のつぎが当ててあったのを私ははっきりと憶《おぼ》えていた。それがいかにも悪戯《いたずら》小僧という感じで羨《うらや》ましく思っていたからだ。谷口は私の家の近くのガラス工場の敷地内の寮のような所に母親と二人で住んでいて、私たちはその寮のことをたしか工員アパートと呼んでいたはずである。三年生のおわりの頃に転校して来て、それから疎開するまで、ずっと机が隣り同士だった。頭でっかちで痩《や》せていて、よく学校を休んだりしたが、私には気の合う友達だった。  子供の頃の思い出はとりとめもなく、そして少し物哀《ものがな》しかったが、私は甘えるようにそれを手繰《たぐ》っていた。住んでいたあたりの家並や学校への道順などを思い泛《うか》べているうちに、少し眠りかけたようだった。  外の道に足音が聞こえた。ハイヒールの音だと判《わか》ると、私は目をあけて耳をすました。靴《くつ》音は急いでおり、それがアパートの入口で乱れた。光子が帰って来たのだ。すぐに玄関のところで、パタンという軽い音がした。作りつけの下駄《げた》箱へ靴をしまう時の、木の蓋《ふた》の音だった。私は起きあがり、灰皿の中の吸いさしの煙草に手を伸ばした。スリッパの音が階段をあがって来て、トントンと軽く二度ノックしてから光子がドアをあけた。 「今晩は。お邪魔します」  光子はふざけて小声で言い、ドアをしめて錠をかけた。 「ごめんなさい」  左手に持ったハンドバッグを大きく揺らせ、それを追いかけるように小走りで私に抱きついて来た。 「あなたに畳ませちゃったのね、やっぱり」  酒臭い息で言い、光子は私から体を離して洗濯物のほうを見た。 「でも、するだろうと思った」  光子は笑顔で言い、私の手にある吸いさしのいこいを見ると、 「やあねえ、シケモクなんか吸おうとして」  と取りあげてしまった。 「思ったより早かったんだな」 「うん、一斉《いつせい》があるらしかったわ。マネージャーがあわてて追い出したのよ」  光子は吸いさしを二つに折って灰皿へ入れると、いこいの袋から新しいのを一本抜いて自分で火をつけた。営業時間の制限を徹底させるため、このところ警察はのべつ時間外営業の一斉取締をやっているのだ。しかし、どう抜きうちにやったところで、仲間同士の連絡が緊密だから、すぐ新宿中に情報がとび交って、やられるのは運の悪い二、三軒だけでおわってしまうのだ。  光子は一服吸うとその煙草を私に渡して立ちあがった。六畳の部屋に畳一枚分の台所がついていて、光子はそこへ行くとガスのコンロに火をつけた。コンロはひとつだけで、薬缶《やかん》ははじめからのせてあった。 「事件てなあに」  光子はスーツの上着を脱ぎながら尋ねた。     9  谷口が射たれたことを言うと、光子は素早く私のそばへ来てぺたんと坐《すわ》り、 「どうしてすぐに教えてくれなかったのよ」  と、顔を紅くして怒った。 「それどころじゃなかったんだ」 「だって、ちゃんと電話して来たじゃないの。あの時言ってくれれば」 「お前に言ったからって、どうにかなるわけじゃないだろう」  突っかかられて私の言い方もきつくなっていた。 「谷口さんはいい人だわ」  光子は言い負かされたようにそう言って口をつぐんだ。 「病院へ運ばれて、今はまだ意識不明らしい。俺だって会わしてもらえなかったんだ。それに、お前に教えるどころじゃなかったんだよ」  私はちらりとカラーテレビのほうを見ながら言った。 「どうして……」  光子は拗《す》ねたような顔をしていた。私はテレビから目をそらし、 「金のことだよ」  と言った。 「お金……」 「そうさ。谷口も災難だ。通り魔にやられたようなもんだ。弾《たま》が右の肺を貫通してるんだからな。うまく行って助かったとしたって、とにかく大手術じゃないか」  光子は、 「そうね」  と頷《うなず》いた。 「あいつが一人ぼっちだってことは、お前だって知ってるだろ。病院の金をどうするんだい。腹をすかせてフラフラになってるところを俺がみつけて、何とかうちの店へはめ込んでやったくらいだ。金なんかあるわけがないじゃないか」 「困ったわねえ。助かるかしら」 「あした病院へ行って見なくてはどうとも判《わか》らないよ」 「あたしたちが何とかしてあげるよりほかに方法がないわけね」 「そうだよ。と言って、俺にだって急にそんな金のできる当てがあるわけじゃないしな」 「いくらくらい要るのかしら」 「判らないが、だいぶかかるだろうよ。とにかく、取りあえずいくらかでも用意しとかなければな。でも、俺のところにもろくな質草はない」 「また質屋へ行く気……」 「それよりいい手があるかい。もし谷口が死んでしまったりしたら話は別だが」 「ばか」  光子はきつい目で私を睨《にら》み、すぐ笑いながら私の肩にもたれた。 「やあねえ、あんたって」  私は光子の頬《ほお》に軽く顔を押しつけ、 「別に死ねばいいと思ってるわけじゃないさ」  と言った。 「当たり前じゃないの」  光子はそう答えると私の肩に手をかけて立ちあがり、押入れの襖《ふすま》をあけて、その前でうしろ向きにタイトスカートをめくりあげて、ストッキングをガーターから外した。 「病院の支払いだって、あしたすぐというわけじゃないんでしょう……」 「そりゃそうだけど」 「何とかなるわよ。銀行に少しあるし、お店も貸してくれるわ」  私はまじまじと光子のうしろ姿をみつめた。光子はストッキングを脱ぐと、振り向いて私と目を合わせた。 「心配しないで。谷口さんはきっと助かるわ。だっていい人だもの」  私は舌打ちをすると、畳の上へ引っくり返って見せた。 「嫌《いや》になって来た」  光子はブラウスを脱ぎながら訊《き》く。 「どうして……」 「女は強いからさ」 「お金のこと……」 「そうだよ。お前、本当に店から金が借りられるのか」 「うん。マスターが去年の暮れにそう言ったもの」 「俺なんか、まるで金の役には立たねえや。お前、幾つだっけな」 「二十二」 「女はいいなあ。俺より五つも年下だぜ。それに、俺は十九の年からバーテンをやってて、お前はまだ一年にもなっていないじゃないか。それなのに、お前はちゃんとやって行ける。俺なんかまるでだめだ。食って寝るのがかつかつで、今度みたいなことが起ったって、質屋へ持って行けるものもろくにありはしない。本当を言うとな、質草をお前に借りようと思ったんだ」 「あたしに……何を入れるつもりだったのよ」  光子はスリップだけになると、手早く脱いだものを片付けながら言った。 「お前の宝物さ。このテレビだよ」 「嫌《いや》よ」  光子は悲鳴をあげるように言い、あおむけに寝ている私の腰の辺《あた》りを爪先で軽く蹴《け》った。 「そんなことしたら承知しないから。これは世界で最初のトランジスタ・テレビなのよ」 「判《わか》ってるよ。流す気なんかないさ」 「質屋になんか入れられてたまるもんですか。そんなことしたら、世界で一番最初にトランジスタ・テレビを質屋に入れた人間になっちゃうわ。歴史に残っちゃうから」  私は笑った。たしかにそうかも知れなかった。 「お金はなんとかなるし、谷口さんも助かるわ。だから変なこと考えないで、お蒲団《ふとん》をしいてよ」 「よし来た」  私は弾みをつけてはね起き、赤いテーブルの上の灰皿をどけると、テーブルの脚を折っていつもの場所へ置き、押入れの蒲団《ふとん》を引っぱり出した。三幅《みの》の蒲団だが枕はちゃんと二つあった。  廊下の突き当たりにあるトイレへ交代で行ったりして、十分後には二人とも蒲団の中にいた。 「あなたがやられてたら、あたしは今ごろ大変ね」  光子は私の胸に顔を伏せて言い、 「この辺を射たれたのね」  と心臓の上に唇《くちびる》を当てた。 「ばか、そこじゃ即死だよ」  そう言うと、光子の唇はすぐ右の胸へ移って行った。     10 「新宿のクラブで発砲。ボーイが重傷」  翌朝、下の郵便受けから朝刊を取って来た光子が、部屋へ戻りながら見出しをそう読みあげた。  社会面の左端のほうに、思ったよりずっと小さくゆうべの事件が扱われていた。安保《あんぽ》にからんだ事件が続発していて、ことにその日は北海道や三陸海岸を襲った津波のニュースが重なったから、酒場の事件など片隅へ押しやられてしまったのだろう。  それはまずまずよいことであったが、自分のいる店の名が新聞の活字になっているのは、何か擽《くすぐ》ったい気分だった。 「クラブ・四番地、カッコ、経営者山本良子さん、だって」  光子も私と同じように擽ったそうな顔で言った。はじめは四番地に勤めていて、そういう関係になってから私がローズという店へ移させたのだった。 「クラブじゃないじゃないの、ねえ」  光子は記事の誤りを指摘した。看板にもマッチにも、ただ四番地という店の名があるだけで、バーともクラブとも書いていないから、新聞記者が適当にクラブとしてしまったのだろう。だいたい、バーとクラブの違いなど、はっきりとした定義があるわけではないのだが、私たちはなぜかその店が、クラブではなくてバーであると確信していた。 「さあ、病院へ行こう」  私は新聞を読みおえると、そう言ってはね起きた。晴れていて、何か気分のいい朝だった。  手早く朝飯をすませると、私は光子と一緒に滝川外科へ向かった。成子坂下からだと、距離も位置も中途半端で、歩いて行くしかなかった。  病院へ着くと、受付の前に並べた椅子はもう満員で、窓口には人の列ができていた。普段より随分早く起きたつもりだったが、やはり世間よりはずっと朝寝坊をしていたようだった。  窓口の行列の先頭に割り込んで行って、谷口に面会させてくれと言うと、係りの女は面倒臭そうな顔で、横の入口のほうへまわってくれと言った。  廊下の角を曲がって、その事務室のもう一つの出入口へ行くと、入口のすぐそばにさいわいゆうべの看護婦がいた。 「ゆうべはどうも」  私がそう言うと、その中年の女は憶《おぼ》えてくれていて、 「よかったわね。どうやら助かったらしいわよ」  と微笑した。 「会いたいんですが」 「だめよ。面会謝絶よ。まだ当分は絶対安静」 「困ったな。だって、それじゃ誰《だれ》も見てやる者がいなくなっちゃう」  看護婦はそう言う私を怪訝《けげん》な表情でみつめた。 「だって、あいつは身寄りがないんです」 「まあ」  看護婦は呆《あき》れたように言い、 「それじゃしょうがないわ。でも、ちょっと顔を見るだけよ」  と病室を教えてくれた。  二階の廊下の端に小部屋があって、その入口の柱に、「谷口レリオ」と名を片仮名で書いた紙が貼《は》ってあり、ドアには古ぼけた面会謝絶の札がぶらさがっていた。前は学校の水飲場のように蛇口がたくさん並んだ洗面所で、となりは便所だった。  私たちは、恐る恐るそのドアをあけて部屋をのぞいた。ベッドがひとつだけで、ほかには何もない。ガランとした板張りの部屋であった。忍び込むように中へ入ると、眠っている谷口のいやに白っぽい顔が見えた。窓のほうへ頭を向けていて、私は足もとのほうからこわごわ谷口をみつめた。顔色はまるで死人のように赤味を欠いていたが、表情は安らかそうに見えた。  ただ顔を見るだけで、私たちにはそれ以上どうしようもなく、入るときと同じように足音を忍ばせて廊下へ出た。するとあの看護婦がいそがしそうにやって来て、私に住民票によく似た書類を渡した。 「これに書き込んで頂戴《ちようだい》」  本籍地、現住所、生年月日……そんな記入欄が並んでいる。私は光子が素早くハンドバッグから取り出した万年筆のキャップを外しながら窓際へ行き、その壁に紙を押しあててまず谷口怜悧男と書いた。珍しい名だからそれだけは忘れないでいたが、次の生年月日でもう困ってしまった。私と同じ年だから、昭和八年生まれには違いなかろうが、月日のほうは聞いたこともない。仕方がないから八年とだけ記入し、本籍地はとばして現住所の欄に店の所番地を書いた。するとうしろで見ていた看護婦が、 「それ、あなたたちのお店の番地でしょう」  と言った。何しろ歌舞伎町だから、すぐそう見当がついたのだろう。 「ええ」 「あの人、住込みなの」 「まあそうです」 「でも、そこで住民登録なんかしてないんでしょう」 「勤めてまだ二週間足らずなんです」  看護婦はため息をついた。 「本当に身寄りがないの……あの人」 「ええ」 「うちの病院も大変な患者を引受けたものね」  看護婦は苦笑を泛《うか》べて言った。 「でも、それならなおのこと、身もとを引きうけてくれる人が要《い》るわよ」 「俺が」  と私が言ったのと、光子が、 「私たちが」  と言ったのが同時だった。看護婦は案外人の好さそうな微笑を泛べ、 「奥さん……」  と光子に訊《き》いた。 「いえ、まだ」  光子はひどく素直な感じでそう答えた。 「そうなの」  看護婦の微笑はいっそう大きくなり、 「それじゃ、ここにあなたの名前と住所。電話番号もね」  と私に記入する欄を教えた。  住所は代々木のアパートだが、電話番号は店と光子のアパートのを並べて書いた。私のアパートには呼出してくれる電話がなかったのだ。随分いい加減な身元引受人だったが、病院を出る時、私も光子も結構晴ればれとした気分になっていた。  第二章     1  あんな事件があったから、物騒な感じがして当分客足が遠のくのではないかと思っていたが、案に相違して次の晩は宵の口から満席の盛況になった。 「どこで射たれたんだ」  客が一様にそう尋ねるところを見ると、みんな新聞記事を読んだ上で来ているらしい。 「客なんて、こんなものなんですね」  カウンターの中でてんてこまいをさせられながら、志村がそんなことをささやいたりした。  射たれた時の模様は、もっぱらピアニストの鈴木八郎が説明していた。もし弾丸が谷口の体をそれたりしたら、そのうしろでピアノに向かっていた鈴木に当たったかも知れないのだから、説明係りとしては適任と言えた。それに、ピアノの側面にあの時の弾丸がめり込んだままになっている。その弾痕《だんこん》は当分この店の売り物になりそうだった。 「お前な、いっそのこと入口のところを、アメリカの禁酒法時代の店のようにしちまえばいいんだよ。覗《のぞ》き窓をつけて、知ってる顔じゃなきゃ入れないんだ。スピーク・イージーって奴さ。受けるぜ、きっと」  常連の推理作家が、出版社の若手と私の前に陣取って、ハイボールを飲みながら景気よく笑った。  谷口も死なずにすみ、ママも上機嫌だった。 「やあ、今谷《いまたに》さん」  井田さんが入って来るなり、その推理作家を目敏《めざと》くみつけて声をかけた。学芸部の記者だから、作家の今谷先生とも当然親しい仲だった。 「やあ」  先生が手をあげて答えた。 「当然来てると思った」  井田さんは先生のうしろに立ってそう言い、私に向かって、 「ゆうべはどうも」  と挨拶《あいさつ》した。 「どうも大変お世話になりました。おかげさまで谷口も助かったようです」 「そうか、助かったか。そりゃよかった。あいつはよく気のつく、いい男だったからな」  すると今谷先生が目を丸くして、 「あの事件のとき、君はここに居合わせたのか」  と尋ねた。 「先生のとなりに坐《すわ》っていらしたんです」  私が指をさして教えた。 「犯人が射ったのは俺《おれ》のうしろだろ」 「ええ。井田さんがすぐ拳銃《けんじゆう》をとりあげて」 「何だそうだったのか」  先生は感心したように言い、 「おい、ひとつ向こうへ詰められないか」  と、一緒に来た出版社の人に言った。 「こういうのがとなりにいてくれれば、また暴れ込んで来ても安心だからな」  先生はそう言って笑い、私はレジの前の客から、順にひとつずつ席を移ってもらった。ひとしきり、スツールやグラス類を動かす音が騒がしくなった。 「警察は安保騒ぎで手一杯なんじゃないですかね」  井田さんは先生のとなりに坐ると、そう言って煙草に火をつけた。 「そうかね」 「だって、ゆうべの事件にしたってですよ、いまだに犯人の名前さえはっきりしないらしいんです」 「黙秘か」 「ええ。でも、あれはどう見たって暴力団の人間だ。身元を割るくらいお茶の子の筈《はず》じゃないですか」 「そうか、警察もいそがしいか」 「とにかくちょっとスローモーすぎますね。僕は一目であいつが暴力団だと判《わか》った。そしたらついカーッとしてしまいましてね。普通だったらあんな向こう見ずな真似はしませんよ」 「何だ、四月の事件の仕返しのつもりでやったのか」  先生たちはそう言って笑った。この四月、暴力団の男たちが新聞社に暴れ込んで、輪転機に砂をかける騒ぎがあったのだ。 「で、この店で拳銃《けんじゆう》をぶっ放したのはどういう理由だったんだい。新聞には何も書いてなかったぞ」 「どうも、それも少し変ですよね。僕はあいつが薬でラリってたんだと思ったんですがね」 「違うのか」 「はっきりしないんです。薬で錯乱してたんなら、捕まえたあと医者が見ればすぐ判るでしょう。当然そういう発表もあるわけですよね。いくら何でもそこまで手がまわりかねているとは思えませんがね」 「でも、こんな店が暴力団に睨《にら》まれるわけもないだろう。土地のことで立ち退《の》けとか何とかごたついているなら別だがな。そんなことあるのか……」  私は先生に尋ねられ、強く否定した。 「全然ありませんよ」 「そうだろうな。それに、いきなり拳銃《けんじゆう》をぶっ放すというのはどうもな」 「ここの連中もあの犯人とは誰も面識がないそうですし」 「どうも妙な具合だな」 「でも、ここは新宿ですからね。面白いことも危険なことも、いつどこからどういう形でとび出して来るか判《わか》らない。そこがまた新宿のいい所ですよね。銀座みたいに出来あがっていてはもうどうしようもないですよ。現に作家や芸能人などが安心して来れる店と言ったら、この辺《あた》りじゃこの四番地くらいなものでしょう。前の通りを見てくださいよ。危《ヤバ》そうな女で林ができている」 「女の林か」  先生はそう言って愉快そうに笑った。  そんな騒ぎが少し納まった頃、井田さんはふと思い出したようにカウンターの上へ体を乗り出して来て、 「おい、これ」  と茶色い封筒を私に寄越した。私は何気なくそれを受取り、 「何ですか」  と訊《き》いた。 「あの新米のボーイにそれで何か見舞ってやってくれ」 「あ、いいんです」  私が慌てて封筒を返そうとした。 「ちょうど俺がここに坐《すわ》ってたのも何かの縁だ。あいつが気の毒だからさ……恥を掻《か》かせないで早く、しまってくれ」  井田さんは明らかに照れていて、憤《おこ》ったようにそう言った。 「お、そうか。気が付かなかったよ。それじゃ俺も」  今谷先生も上着の内ポケットへ手をいれた。 「今谷さんはいいんですよ」  井田さんがそれをとめた。 「いいじゃないか、ここの連中にはいつも世話になってるんだから」  今谷先生はそう言うと、となりの男がかぶっていたベレー帽をとりあげ、その中へ紙幣を何枚か入れて、 「この帽子を廻したらいい」  と言った。みんな少し酔っていて、そういうことになるとおかしいくらい気が揃《そろ》った。今谷先生の一行だけでなく、関係のないほかの客までが、気前よくその帽子に金を入れてくれた。  ママがとんで来て、そういうカウンターの客たちに礼を言って廻った。     2  閉店間際になって、私に電話がかかって来た。ローズのチーフ・バーテンダーの相沢という男だった。 「終ってからちょっと会えないかい」  相沢はそう言った。実は光子をローズに紹介したのは、相沢がいるからだった。口の堅《かた》い男だし、私のいる店へころがり込んで来た光子はそれがはじめてのバー勤めで、私としても誰も味方のいない店へ放り込むのは心配だったのだ。 「久しぶりだからな。いいよ、どこにする」 「コクテールさ」  相沢は、きまっている、というような調子で落合う店の名を告げ、 「彼女も連れて行く」  と言って電話を切った。  宵の口からいそがしい晩は、えてして時間通り綺麗《きれい》に切りあがることが多く、その日も十一時すぎるとバタバタと客が帰った。ママは最後に残った客と約束したらしく、 「じゃ、頼むわね」  と言い残して、お気に入りのホステスを三人ほど引き連れて出て行った。 「志村、急ぐぞ」  私はドアの鍵《かぎ》をしめるとそう言った。 「月さんもですか」  客と遊びに行く約束をしたのかと言う意味だった。 「違う。ローズの相さんだよ」 「ああ」  志村は納得したらしく、 「いいですよ、あとは俺がやっときますから」  と言った。 「そうは行くか。一人減っているんだ」  私はそう言って店の中を見て廻った。  客を送り出したあと、一応はホステスたちがテーブルの上のものをさげてくれるが、案外それが当てにならない。まったく客というのは何をするか判《わか》らないもので、空《から》のビール瓶《びん》が何本もソファーの下に押し込んであったり、煙草の吸い殻がクッションの間に入っていたりして、ひやりとさせられたりする。時にはマッチ箱の中に紙幣が畳んで入れてあったりもする。ホステスの誰かにやろうとしたのだろうが、もらう方の勘が鈍くてはお話にならない。そういうわけで、あとかたづけをする者が全員酔ってしまうのは危険なのだ。志村はその点よく心得ていて、私が飲んでいる晩は決して酒を飲まない。別に申し合わせをしているわけではないが、それがチームワークというものなのだった。  その晩は志村のほうが少し酔っていて、だから私は先に店を出なかった。それでも志村はテキパキと跡始末を進めていた。 「そうそう、夕方|乞食《こじき》が来ましたよ。あんなの、近頃珍しいな」  志村がカウンターの上を拭きながら言った。私は蝶《ちよう》タイを外し、ワイシャツをオープン・シャツに着がえようとしていた。 「乞食……」 「ええ、汚い二人連れの奴《やつ》です。ドアをあけやがってね」 「危《ヤバ》いな」 「ええ、気をつけないとね」  そうか、と言って私はそのことを記憶に叩《たた》き込んだ。随分いかがわしい人間が出没する通りだが、乞食だけはほとんどやって来ない場所なのだ。何か町の気配が変りはじめているのかな……私はそう思い、警戒することにしたのだ。  通りに立っているキャッチ・ガールにしても、このところどうも変動が激しいようだし、暴力団の連中も、関西弁や名古屋弁で喋《しやべ》るのが増えている。各地の暴力団狩りが活溌《かつぱつ》になり、そういった本来なら土地につく筈《はず》の連中が流動しはじめているようだった。  私たちはそういう動きには敏感にならざるを得ない。暴力団の動きや売春のやりかたの変化が、案外廻り廻って自分たちの商売の変化につながるからだった。いずれにせよ、何か世の中が大きく変りそうな感じがする時代ではあった。 「さて、いいか」  私はそう言って奥の灯《あか》りを消した。志村が先に外へ出て、そのあと私がドアの鍵《かぎ》をかけた。  コクテールは歌舞伎町の西寄りの通りにあり、実はバーテンダー養成所の実習店なのであった。かなり大きな店で、三方の壁と平行に作られたコの字型の長いカウンターの中にいる蝶《ちよう》タイの男たちは、みな養成所の実習生であった。生徒に酒を売らせるのだから人件費がかからず、うまい商法と言えたが、私たちにとってはいい穴場だった。  養成所を出た連中は、結局バーテンとしてどこかへ就職しなければならない。そこへバリバリの現役が客で現われるのだ。就職運動にもなるし、顔を売るいいチャンスだから、それぞれの持味をフルに発揮してサービスにつとめることになる。勿論《もちろん》伝票をごまかして何割かは安くしてくれる。中にはそこでベロベロになったくせに、ハイボール一杯分の勘定で出て来た奴もいるくらいだ。  そのバーテンの卵たちに大もてでコクテールへ足を踏み入れると、相沢たちがコの字型の角のところに陣取って、その前には客の数の三倍くらいの卵たちがむらがっていた。  それもその筈《はず》で、相沢は新宿で一流クラスのローズのチーフだし、三島、植村、近藤などと言う新宿の古参連中が顔を揃《そろ》えているのだった。 「よう」  みんなが笑顔で私を迎えてくれた。女は光子だけだった。     3 「大変だったな」  まずゆうべの騒ぎのことになった。たった一日でもう喋《しやべ》り飽きるほど喋らされたあの事件のことを仲間にもう一度繰り返して聞かせると、今はエックスというバーのマネージャーをしている三島が、声をひそめて私に言った。 「ちょっと変だとは思わないか」 「何がだよ」 「実はな、四番地でその事件が起った頃、花園神社の前の辺りに、パトカーが一台、ずっととまっていたんだ」 「本当かよ」 「ああ、本当さ。俺、タクシーをつかまえに通りへ出て、この目で見たんだぜ」 「志村がすぐに一一〇番したから、無線の指令で一分もしない内に来れた筈《はず》じゃないか」 「それがよ、サイレン鳴らした奴《やつ》が一台、区役所通りへ突っ込んで行ったあとで、やっとのそのそ動き出したんだ」 「故障してたんじゃねえのか……」  植村が口をはさんだ。 「だったらボンネットぐらいあけてそうなもんじゃないか。ライトを消してひっそりしてやがった」 「じゃ、救急車と一緒に来た奴かな」  私が言うと、三島は大きく頷《うなず》いて見せた。 「ああそうだ。二丁目のほうからとんで来た救急車のケツに、Uターンしてついて行ったよ」 「どういうわけだろう」  私たちは顔を見合わせた。 「先に来たパトカーの警官は、客が犯人から拳銃《けんじゆう》を取りあげて持っているのを見てあわを食ったりしてたが、あとから来た二人はばかに物判《ものわか》りがよかったな。前の二人ほど威張らなかったよ」 「月さん、気を付けたほうがいいぜ。何か裏にあるのかも知れないぞ」 「おどかすなよ」|  私は笑った。三島の言う通りに考えれば、ゆうべの事件には警察が一枚|噛《か》んでいることになる。 「四番地にそれほどのことがあるもんか」 「でもな、四番地は客種《きやくだね》がいい。最近の新宿じゃピカ一だぜ。文化人って奴《やつ》が集まるじゃないか。作家とか評論家とかよ」  三島の言うことは、私にとって恐ろしい指摘だった。 「世の中は安保で大騒ぎだ。文化人の中には、相当きついことを言ったり書いたりしてるのがいるんじゃないのか。俺は本なんてあんまり読まねえけどさ。月さんだって、犯人は組の人間だと考えてるんだろう」 「うん」 「そいつは右翼が動かした殺し屋じゃないのかな」  まさか、とは言い切れないものがあった。 「だとしたら、サツだって……」  三島はごく低い声でそう言った。 「じゃ、あのチンピラは誰かほかの人間を射ちに来たことになる」 「そうだよ。その線じゃねえのかい」 「それならなぜ谷口なんかを射っちゃったんだ。どう見たってボーイの恰好《かつこう》だ。右翼に狙われるようなお偉い文化人と見間違える筈《はず》がないじゃないか」 「ブルッてたんだよ、そのチンピラは」  三島は自分が抱いた黒いものを私に押しつけてしまおうとしているようだった。 「そんなことがあり得るかな。だってゆうべはそんな偉い人は来てなかったぜ」  私は事件の時の客の顔ぶれを思い起しながら言った。 「警官に言われて居合わせた客の名前をメモしたからよく憶《おぼ》えてるよ」 「警官に言われた……」  三島は私の隙につけ入るように鋭く言った。 「あとの奴《やつ》らにだろう」 「うん」 「ほらみろ、臭いよ。狙った奴がいたかどうかチェックしたんだ」 「まさか」  今度は私もはっきりまさかと言えた。そういう疑いをひろげて行けば際限もないことになるのだ。 「ま、とにかく今は怪しげなことがいろいろ起ってるようだな」  相沢が光子の肩を叩《たた》きながら、明るい声でそう言って話を打切らせた。みんな急にニヤニヤしはじめた。相沢は私と光子のことをひっかけて言ったのだった。 「でもな、月さんが目をつけただけあって、光ちゃんは使えるぜ」 「そうかい……」  私は思わずうれしそうな顔をしたようだ。 「ちぇっ、手ばなしでやがる」  すかさず植村がからかった。 「本当だ。彼女ならいずれでかい店をまかせられるようになる」  相沢が太鼓判を押した。  私は光子がなぜ新宿のホステスになろうとしたか、詳しくは知らない。ただ、四番地へ来るまでは、どこかの洋品店の店員をしていたと言うことだけは聞いていた。  光子は慣れぬ世界で心細かったのだろう。何かと私を頼りにし、私もまたいい顔で付合っているうちに、あっさり体の関係が出来てしまった。そうなってから、私は慌てて光子をローズに移したのだ。マネージャーの女が同じ店にいては何かと具合が悪い。光子はよくても私が困るのだ。ホステスたちをうまく動かせなくなってしまうのだ。そしてだんだんによく知り合うと、相沢が言ってくれたように、私も光子が水商売に適していると思うようになった。一人前の商売人に育ててやりたいと、自分の若さも忘れて弟子のように思っている面もあるのだった。     4  私はその晩も代々木のアパートへは帰らず、光子のアパートに泊った。相沢たちと二時すぎまでコクテールで飲んでいたし、翌朝はまた滝川外科へ行かねばならなかったから、光子の部屋へ泊ったほうが都合がよかったのだ。  光子は新宿で名の通ったバーテンたちに囲まれて少し興奮したようで、部屋へ帰ってからも、将来自分がやって見たい店の内装とか大きさについて、勝手な夢を並べたてていた。  それでもいつの間にか眠った私は、雨の音でふと目をさました。もう部屋の中はしらじらとしていたが、雨の具合は起きて窓の外を見なくても、かなり激しいらしいのが音で判《わか》った。  滝川外科までこの雨の中を歩いて行くのかとうんざりしたように考えていると、また眠ってしまい、その次は光子に揺さぶられて目がさめた。 「起きてよ、遅くなっちゃうじゃないの。あたしたちは身元引受人なのよ。お見舞いに行かなくちゃ」  光子の声は張り切っていた。目をあけるといい天気になっているらしかった。  明るい朝の陽ざしの中を、光子と二人で歩くのは案外いい気分のものだった。ゆうべも今朝も東京の空気の汚れ具合にそう変りがあろうとは思えなかったが、何となく爽《さわ》やかですがすがしいような気がした。  光子は途中の花屋の前で、 「お花を買って行かない……」  と足をとめたが、 「花はもっと元気になってからでもいいだろう」  そう私が言うと、 「それもそうね」  と素直にまた歩きはじめた。光子の金の使い方は私にとってちょっとした驚異だった。しまるべき所では恐ろしくけちになる。いつか風邪を引いた時も、十円だか二十円だか普通より安い薬局があると言って、かなり遠くまで歩いて行ったりした。だからそういう光子がトランジスタのテレビをいきなり買って来た時には、ほとほと感心してしまった。私にとっては、まるで魔術を見ているようだった。駆け出しのホステスが、六万九千八百円もするテレビをどうしてポンと買ってしまうのか、まるで見当もつかなかった。  滝川外科へ入った私たちは、もう受付へ断わることもせず、さっさと二階へあがって谷口の病室へ行った。ノックもせずにそっとドアをあけると、ちょうど看護婦が検温に来ていて、咎《とが》めるように睨《にら》んだが、目をあけている谷口を見て私たちが歓声をあげると、表情を柔らげて、 「よかったですね」  と言ってくれた。谷口はかすかに唇を動かしたが、まだ声を出して喋《しやべ》るだけの力はないようで、何も言わなかった。 「興奮させるようなことは言わないでください」  看護婦はそう言い、 「せいぜい二、三分ですよ」  と念を押して出て行った。 「酷《ひど》い目に会ったなあ。でも、もう大丈夫だ」  私はそう言って谷口をみつめた。喋れなくても谷口の瞳《め》は雄弁だった。明らかに感謝の色をあらわしていた。それにしても、その瞳は私をうろたえさせるほど、深々と澄んでいた。  谷口の目は昔からそうだった。クラスでも一番貧乏な子だったが、それでも谷口はいつも微笑を絶やさなかったし、邪気のない澄んだ目をした子供だった。 「俺たちが身元引受人になったんだぞ。頼りねえだろう」  私がそう言うと、かすかに笑ったようだった。 「きのうも来たんだ。これから毎日来るからな。早く元気になってくれ」  私がそう言うと、光子は部屋の中を見廻し、 「あした、お花を持って来るわ。花瓶がないわね。いれ物も用意して来なくちゃ。まだ寝たままだから、そこから見える所に置かなくてはね。どこにしようかしら」  と言った。 「まだあまり長く話しちゃいけないって言われてるから、俺たちはもう帰るよ。退屈だろうけどしばらく我慢してくれよな。そのうち本でも持って来るよ。今谷先生の新刊が俺のところにある。この間先生にサインしてもらった奴《やつ》だ。あれを持って来よう」  その時私は、なんとかして自分たちの都合で早く帰ってしまうのでないことを、谷口に判《わか》らせようとしていたようだ。体に障《さわ》るといけないから、とくどいほど言いながら、光子と二人であとずさるように病室を出た。傷つき、行動の自由を失って、力なくベッドに仰臥《ぎようが》しているだけの谷口が、私にはひどく力強い存在のように思えて仕方がなかったのだ。病床の谷口はまるで無力な筈《はず》なのに、堂々として見えた。  病院からの帰り路、私はその印象を光子に言った。 「あいつは病院が似合う奴だな」  すると光子も、 「そうね」  と答えた。 「お前もそう思うか」 「うん。何だか威張ってたみたい」  私たちは顔を見合わせて笑った。 「あたし、ああいう人好きよ」  光子はしみじみとした声で言った。 「なぜだい」 「判《わか》んない。でも、谷口さんてとても正直な人だと思うわ」 「まあ、正直は正直だな」 「ああいう人はきっとみんなに好かれるんでしょうね」 「さあどうかな。あいつが女にモテたって話は聞いたことがない」 「そんな好かれかたじゃないのよ」  光子は少しむきになって言った。 「でも変な奴《やつ》だぜ。幼馴染《おさななじみ》だけど、あいつのことは俺もあまりよく知っちゃいないんだ。今度あいつが元気になったらよく訊いて見よう」  道筋はきのうと同じだった。区役所通りへ抜けて行くのが一番近道だったのだ。  同じ町の同じ通りでも、朝と夜中とではまるで違った町になる。できるだけ光子との仲をかくしている私も、朝の町では安心して腕を組んで歩いた。 「あら、何よあれは」  四番地の看板が見えはじめたとき、光子が指をさして言った。四番地の入口のあたりに、薄汚いのが二人うろついていた。 「あ、畜生」  私は光子の腕をふりほどくと走り出した。汚れ切った乞食《こじき》が……いやルンペンと言うべきだろうか、とにかく着ている物を脱がしてはたいたら確実に虱《しらみ》の山ができそうな奴が二人、四番地のドアの辺《あた》りを離れないのだ。  私はポケットから鍵《かぎ》を取り出しながらその二人に近づき、 「どいてくれよ」  とうしろから声をかけた。店の者が来たことを判《わか》らせれば、あきらめて立去ると思ったのだ。  ルンペンたちは左右にさっと分れた。私は鍵をあけると、店の中へ半分体を入れてから振り返り、そのルンペンたちを睨《にら》みつけてやった。  ところがルンペンたちは両脇から寄って来るではないか。私はびっくりしてドアを閉めようとした。 「ちょっと待って」  一人がしまりのない声で言った。 「え……」  私はそいつの顔を見た。 「ちょっと待って」 「何だよ」 「谷口さん、どうした」 「谷口……」 「そう、谷口さん」  そう言った奴《やつ》は少し言語障害があるようだったが、もう一人は意外にしゃっきりした喋《しやべ》り方で、しかも叮嚀《ていねい》に言った。 「すいません。射たれた谷口さんのことを聞きたいんです」 「谷口を知ってるのか」 「ええ」 「谷口ならどうやら命はとりとめたよ」  ルンペンでも新聞を読むのだろうか、と思いながら私はそう答えた。     5  ルンペンたちは、 「よかった、よかった」  と頷《うなず》き合っている。 「君たち谷口とどういう関係なんだい」  片一方のルンペンの喋《しやべ》りかたが叮嚀だったので、私もついルンペンに君たちと言った。 「大事な人です」  呂律《ろれつ》の怪しいほうが言う。 「大事な人……」 「そうなんです。わたしたちにとっては大切なお方です」  しっかりしたほうがそう答えた。 「谷口が大切なお方だって……いったいそれはどういうことだい」 「尊いお方です」  私は呆気《あつけ》に取られて言葉もなかった。 「あのう……」  しっかりしたほうのルンペンが、ちょっと口ごもりながら汚い服の内側へ、まっ黒に汚れた右手をもぞもぞとさし込み、何か白い物を取り出した。  よく見ると、厚手の和紙らしいのを型通りに畳んだ金包みらしかった。白い紙の上に見事な筆の字で、御見舞、と書いてあった。 「これを谷口さんに」  思わず出した手を中途半端でとめた私は、 「谷口に渡せと言うのかい」  と念を押した。 「そうです。みんなからです」 「みんな……」 「ええ」  あまり汚れているので相手の表情はよく判《わか》らなかった。 「お願いします。谷口さんに渡してください」  私は気《け》おされたようにそれを受取った。  二人のルンペンはペコリと頭をさげ、カパカパとぼろ靴の音を立てて都電の通りのほうへ去って行った。  その金包みはそう厚くもなかったが、薄っぺらでもなかった。 「どうしたの……」  光子が顔をのぞかせて言った。私は、ドアの外へ顔を突き出して、去って行くルンペンを見送った。 「何、それ」 「あいつらが谷口に渡してくれって言うんだよ」 「へえ……」  光子も呆《あき》れていた。 「いったいどういうことなんだろう」  二人のルンペンが区役所を通り過ぎたのを見届けてから、私たちは店の中へ入り、ドアをしめて灯《あか》りをつけ、スツールに並んで腰かけた。 「何だかそれ、痒《かゆ》いみたい」  光子が言ったが、まさにそんな感じであった。ルンペンが汚れた服の内側から取り出したのを見ている私は、今にも白い虫がそこから這《は》い出して来るような気がして、カウンターの上へ置いたまま手も出せずにいた。 「あけて見ていいかしら」  光子が堪《たま》りかねたように言った。 「うん」  光子の華奢《きやしや》な指先が、慎重にその紙を開いた。 「わあ、五万円も入ってる」  たしかに五万円入っていた。しかも全部手の切れるような新しい紙幣で揃《そろ》えてあるのだ。 「どうなってるんだ、これは……」  狐に化かされたよう、と言うのはこのことを言うのだろう。 「谷口はあのルンペンたちと、どういう関係があるんだろう」  私は唸《うな》るようにそうつぶやいた。 「何がなんだかさっぱり判《わか》らない」  光子は推理することを放棄したように言い、急にはしゃぎ出した。 「でもさ、素敵じゃない。乞食《こじき》王子みたいで」 「谷口が乞食の王子さまか」 「ロマンチックだわ」 「ふしぎな奴だなあ」  ゆうべ三島が言っていたあの事件についての暗殺未遂説は、急速に私の頭から薄らいで行くようだった。  何かよく判らないが、あの事件は人違いとか手違いとかによるものではなく、やはりはじめから谷口を中心にして起っているように思えて仕方がなかった。そうでなかったら、こんなふしぎな事は起きるわけがなかろう。 「あいつら、谷口のことを大切な人とか尊いお方とか言ってたぜ」 「ほらみなさい。やっぱり乞食《こじき》王子よ」  乞食王子と言うのはどうも納得しにくかったけれど、私にも少しは思い当たることがあった。 「俺《おれ》はあいつと上野で会ったんだ」  私はカウンターに左|肱《ひじ》をつき、その手に顎《あご》をのせて言った。 「上野……いつよ」 「俺は中学二年だった」 「随分昔のことじゃないの」 「そうさ。昭和二十二年だよ」 「なあんだ」  光子は私の言っている意味が判《わか》らずに、軽く笑った。  焼跡の上野だった。  浮浪者が溢《あふ》れていた。そして谷口は、その浮浪者で溢れるような殺伐とした上野を、ちょろちょろと勝手知った様子で歩きまわっていたのだった。  谷口とそっくりの恰好《かつこう》をした戦災孤児たちがたくさんいて、彼はその仲間だったのだ。     6  たしかに、私が谷口怜悧男と再会したのは、昭和二十二年の上野だった。季節もちょうど今と同じ五月……中旬頃ではなかっただろうか。  私は薄暗い昼間の酒場の中で、棚に並んだ酒瓶を眺めながら子供の頃の記憶を蘇《よみがえ》らせていた。  中野のほうに、戦災をまぬがれた親類が一軒あって、私はそこへ使いにやらされたのだった。終戦とほとんど同時に疎開先から帰って来た私は、葛飾区の中川の近くに住んでいて、中学二年生になったばかりだった。  なぜ谷口に会った日のことを憶《おぼ》えているかと言うと、東京へ戻って来た私が、はじめて単独で中野のほうまで出歩いた日だったからである。  婦人子供専用車。  その日のことを思い出すと、自然にその言葉が泛《うか》びあがって来る。省線の中央線などに、そういう特別な車輛《しやりよう》が連結されたばかりで、小学生の頃から乗物好きだった私は、中野へ行って来いと命じられた時、雀躍《こおど》りしてうれしがったのだ。  婦人子供専用車というのが、とても優しい車輛であるように思い、どうしても一目見たかったのだ。私は今の車好きの子供が、新型のスポーツカーを見たがるように、省線電車のその車輛に憧《あこが》れたのだった。そして自分がもう中学二年にもなって、その車輛に乗れる資格がないことを、どんなに残念に思ったことだったろうか。  ホームの外れのコンクリートの上に、線路と直角に白線が引いてあるのを見た時は、ここに婦人子供専用車がやって来るのだなと、胸を高鳴らせた。  しかし、あのドサクサの時代にはいつもそれがついてまわったのだが、呆気《あつけ》なく失望がやって来た。期待と失望の間隔がせまかったのが、私にとってはあの時代の特徴であるようだ。  次の電車が来たとき私はがっかりした。ほかの車輛《しやりよう》と少しも変ってはいなかったからだ。窓に桟を打ちつけ、牢屋《ろうや》のような感じの薄汚れた車輛を見て、私はまだ走らせたばかりだから数が足りないのだろうと思い込んだ。何輛かは本物の婦人子供専用車が走っている筈《はず》だ。二等車のように青いだろうか。ひょっとするとまっ白に塗ってあるのではなかろうか……。  何回も何回も、私は電車をやり過した。しかし、私が早合点したような優しい電車はやって来ず、仕方なく電車に乗ってしまってからも、もしやと思ってすれ違う電車が来るたび目を皿のようにしていた。  小学四年生頃から、私はよく一人で中野のその親類に行っていた。しかし、焼けなかったとは言え、やはりその家にも戦争のあとがあった。  焼け出されて行き場を失った親戚の連中が、三世帯もそこを頼って住みついていたのだ。ちょっとした庭のある家だったが、そこの防空壕《ぼうくうごう》にも向島の家を焼かれた親子が住んでいた。  婦人子供専用車のロマンチックな夢が呆気《あつけ》なくやぶれたかわりのように、私はそこで、悲惨とも滑稽《こつけい》とも言いようのない言葉を聞いて来た。 「お粥《かゆ》のおにぎり、食べたいよう」  三つくらいの男の子が、防空壕のそばでそう言って泣いていたのである。 「お粥のおにぎり、食べたいよう」  食べる物のない最中に生まれたその子は、それでも一度くらいはおにぎりにありついたことがあるのだろう。しかし、生まれてからお米と言えばお粥だと思い込んでしまっていて、 「お粥のおにぎり、食べたいよう」  と駄々をこねていたのだ。  何の用でその家へ行ったかは、もうとっくに忘れてしまっている。しかし、その日谷口に会う前の、婦人子供専用車とお粥のおにぎりのことは、しっかりと私の頭に焼きついている。  そして記憶は、いきなり上野の西郷さんの下の、京成電車の入口あたりへ飛んでいる。省線から京成電車に乗り換えるのに、私は地下道を通らずに、上の道を歩いて行ったらしい。ひょっとすると、地下道へ入るのが怕《こわ》かったのではあるまいか。何しろ当時の地下道と来たら、そのずっとあとまで浮浪者や戦災孤児たちの巣だったのである。  小便臭い石垣ぞいの歩道で、向こうから走って来た子供が、 「やあ月岡君」  と、まるできのう別れた同級生のように軽く声をかけて来たのだった。 「怜ちゃんじゃないか」  子供同士、そういう出会いかたをするのが珍しくない時代で、私たちはすぐに昔の友情の中にいたようだ。  怜悧男《れりお》、という名を谷口はなぜか嫌っていた。私が疎開で東京を離れるまで、ずっと谷口を怜ちゃんと呼んでいたのだ。  谷口はその名前でいつもみんなにからかわれていた。担任の先生までが、れいりお、と言う風に呼んだりしたせいだ。どことなく外国人のような感じで、戦時中はあまりいい響きとは言えなかったのだ。  私はその怜ちゃんに上野を案内された。久しぶりに友達に会えて、谷口もうれしかったのだろう。二人ともあの時代に全く順応し切っていて、疎開地でのことや、自分がどうやって空襲の時期を過したかなどを語り合うことはなかったようである。  いきなりその時点での付合いがはじまっていたのだ。私は上野の山や地下道を遊び場にしている谷口のような友達を発見して、うれしくて仕方なかった。  科学博物館に近いところに変な小屋が並んでいて、谷口はそこへ私を連れて行くと、この辺《あた》りで子供をつかまえて自分の名を言えば、いつでもまた会えると教えた。  谷口は学校へは行っていないようだった。  それから一年半ほど、私はちょいちょい上野へ行った。一度谷口に会おうとして浮浪児たちに取り囲まれ、危険な空気になった時も、谷口の名を言ったらあっさり脱出することができた。  あの時代、谷口はいったいどんな生き方をしていたのだろうか。  私は見舞いの金を持って来たあの二人のルンペンと当時の谷口が、たしかにどこかでつながっていると確信していた。 「何を考えてるの……」  光子が言った。 「谷口のことさ」  私は追憶を振り切ってスツールをおりた。 「とにかくもらって置こう」  病院の費用のことは、それで半分以上解決したようだった。     7  梅雨に入ったらしく、朝晩雨の降る日が多くなっていた。  それでも私は、毎日まめに滝川外科へ通っていた。谷口の傷の回復ぶりは順調で、行くたびに礼を言ったが、ルンペンの見舞金については、ただ微笑するだけではっきりしたことは言ってくれなかった。  回復が順調だとは言っても、何せ傷が傷だから私も遠慮して、いずれもっと元気になったら、徹底的に問いつめてやることにきめ、当分はそっとして置くことにした。  光子も私と同じように毎日谷口を見舞いに行くが、代々木のアパートへ戻った私とは時間がかけ違って、うまく会えないことが多かった。  六月に入ったある雨の日、私はアパートを出るとトロリー・バスに乗って伊勢丹のところで降り、去年の春にできたメトロ・プロムナードへ入って二幸の食品売場へ向かっていた。私たちは時々そこで店の仕入れをすませるのだった。  すると、地下鉄の改札口のところに、この間のルンペンがいるのを見つけた。呂律《ろれつ》の怪しいほうの奴《やつ》だった。  何だ、ここに住みついてる奴だったのか。そう思いながら、へたに視線を合わせて声でもかけられては大変だと、そっぽを向いて通りすぎてしばらくすると、私はまた谷口の顔を思い泛《うか》べた。  ひょっとすると谷口は、この地下道にルンペンとして住みつく寸前だったのではあるまいか……。  そんな考えがひらめき、すぐにそれが確かなことに思えて来た。  映画館が並んだ道を、谷口はふらふらと力なく歩いていたのだった。 「やあ、谷口じゃないか」  上野の時から十何年か過ぎていて、今度は私のほうから声をかけた。怜ちゃんという呼び方も、当たり前のように谷口と変っている。 「月岡君か。久し振りだね」  谷口は例の邪気のない微笑を見せて言った。 「縁があるんだな。いつもこんな会い方をする」  私は笑い、何かほっとしたように感じていた。一度も損得の関係が生じたことのない、懐かしいだけの相手だったからだろう。 「そうだね」 「どうだい、コーヒーでも付合わないか」  そう言うと、 「有難う。でも俺、金を持ってないよ」  と答えた。 「何だコーヒーぐらい」  私は笑いとばし、喫茶店へ連れ込んだのだった。  子供の頃と違って、ひさしぶりに会えば、世間並みにまず一別《いちべつ》以来のことを語り合う年齢になっている。私は高校を卒業してから、銀座のボーイをふり出しに、こうして新宿のバーのマネージャーになるまでの道筋を、こと細かに喋《しやべ》りはじめた。  谷口の澄んだ目と綺麗《きれい》な笑顔は相変らずであったが、なぜかひどく元気がない様子で、調子に乗って喋り続けていた私も中途で話をやめ、 「どこか具合が悪いのかい」  と訊《き》いたほどだった。 「いや……」  谷口はあいまいに答えたが、 「ちょっとトイレへ」  と断わって席を立ったとき、ふらりとよろけてテーブルに手をつき、コップの水が私の膝《ひざ》にこぼれたりした。谷口はそのままへなへなと私のほうへ寄りかかって来たので、私は席を入れ替って谷口をそのまま坐《すわ》らせた。 「いったいどうしたんだよ」  答えしぶる谷口に私がしつっこくそう尋ねると、谷口はほんとうに恥かしそうな顔になって、 「実は腹が減っているんだ」  と言った。 「そんな……」  いまどき立ってもいられないほど、腹を空《す》かしている奴《やつ》がいようとは思わなかったから、 「なぜそんなになるまで食わないんだよ」  とばかなことを訊《き》いてしまった。 「失業したうえに金を使い果しちゃってね」 「家は……」 「ないんだ。追い出されてしまって」  要するに、何もかも失って行くあてもなく、空《す》きっ腹をかかえて街をさまよい歩いていたらしいのだ。  とにかく私はその場ですぐにサンドイッチを注文して、谷口がそれを食べ終るまでに対策を考え出していた。 「仕事は何でもいいかい」 「うん」 「バーのウエイターだぜ。ボーイさんだよ。それでもよかったらいますぐにでも世話をしてやれるんだがな」 「何でもするよ」  そう言ったときの谷口の顔は、私にとってちょっと不可解なものだった。卑屈なかげは微塵《みじん》もなかった。あきらめた感じでもなく、新しく野球のチームに参加して来た子供のように、楽し気ですらあった。  その晩谷口は私の部屋に泊った。私が店へ出ている間に、教えたとおり近くの銭湯へも行って、さっぱりした顔で私の帰りを待っていたのだ。  その晩のうちに私はママと話をつけていた。少しは経験があるようにも言い、凄《すご》くよく気のつく奴《やつ》だから絶対に使って損はない、と売り込んでおいた。 「ずいぶん遅いんだね」  アパートへ帰ると、谷口はそう言って私を迎えた。 「これから毎晩こんな具合になるんだぞ」  私はそう言い、いろいろとボーイとしてのコツや、酒場で生活する要領のようなことなどを講義してやった。トレーの持ち方や、グラス類ののせ方、器を客の前に置くときのやり方などまで実演してみせたりしたのだ。  その翌《あく》る日、谷口は私といっしょに四番地へ出勤し、その晩から店の屋根裏部屋へ住み込むことになったのである。  そういうなりゆきで谷口との新しいつき合いがはじまったから、あの映画館の前になぜ谷口がいたかということは、深く考えてもみなかった。  しかし、呂律《ろれつ》の怪しいルンペンがメトロ・プロムナードを棲《す》み家《か》にしているのを知った以上、それと谷口をつなげて考えないわけには行かなくなってしまった。 「あいつはルンペンになるところだったんだ」  私はそうつぶやいていた。     8  二幸で仕入れた野菜やつまみ類を、店へ寄って冷蔵庫へしまった私は、今日こそ詳しいことを訊《き》き出してやろうと意気込みながら滝川外科へ向かった。 「よう、どうだい」 「どんどん良くなっている。もうそろそろ退院してもいいんじゃないのかな」 「ばか言え。いくら良くたってまだ当分退院は無理だよ」 「でも、君や光子さんに頼り切ってしまっているから、心苦しくて」  それが谷口の本音だとは承知していたが私は意地悪く、 「ふうん、そうかい」  と冷たく言った。 「だったら隠さずに何もかも教えてくれたっていいじゃないか」 「隠す……」 「ああ。お前は隠してるよ。自分のことは何も俺たちに教えないじゃないか。俺も光子も不思議がっているんだ、不思議でしようがないんだよ。いったいお前は何者なんだい。どうして人に狙われたりするんだよ。どうでもいい人間なら誰も命なんか狙いはしない。命を狙われる奴《やつ》は大物に決っているさ、だからお前は大物なんだ。でもその大物がなぜぶっ倒れそうになるまで腹を空《す》かして、あの口のよく廻らないルンペンなんかといっしょにメトロ・プロムナードへ棲みつこうとしていたんだ」  谷口は答えず、静かに目を閉じた。私は言葉の調子を変え、なだめるような言い方になった。 「光子の奴なんか、お前のことを乞食《こじき》の世界の王子さまかなんかと思っているらしいぜ」  すると谷口は急に目を開き、私をみつめて人なつっこい笑い方をした。 「乞食王子か」 「笑いごとじゃないよ」  私は叱《しか》るように言った。 「別に隠しているんじゃないよ。そんなことを君らに隠す必要なんかないんだ。でも俺にもよく判《わか》らないんだ。君は俺が命を狙われたと言うけれど本当にそうなのだろうか」  谷口は逆に私に質問して来た。 「そんなこと知るけえ」  私はわざと荒っぽく言った。 「なぜ俺は射たれたのだろうか。あのときの男は正気じゃなかったんじゃないのかい」 「俺も最初は麻薬の中毒患者かと思ったよ。でもどうもそうじゃないらしい。お前、本当に心あたりがないのか……」 「俺も知りたいんだ」  谷口の顔に珍しく悲しそうな表情が泛《うか》びあがった。見ている私までが悲しくなるような深い表情だった。 「俺はどこかで人に憎まれるようなことをしたのだろうか。俺の命は人に狙われるほど値打ちがあるのだろうか。俺はただ、みんなと同じように生きていたいだけだ。特にそれ以上の望みなんか持っていやしない。貧しくたってかまわない。貧乏は生まれつきのようなものさ。子供のときから贅沢《ぜいたく》なことなどしたこともないが、別にそれを不満だと思ってもいない。ただ俺が望むのは、こそこそと逃げ歩くような生活ではなく、一か所に落着いて平和に毎日を過したいだけなんだ」  私は谷口の言葉尻をとらえた。 「こそこそと逃げ歩くって、いままでお前はそんな暮らし方をしてきたのか」 「たとえだよ。貧乏人はなかなか一か所には落着いて暮らせないものさ。いつも何かに追いたてられるように暮らしていかなければならないんだ。終戦後のどさくさに紛《まぎ》れて、とうとう俺はろくに学校へも行かずに過してしまった」  私は頷《うなず》いた。上野の山の小屋に住んで中学へも通っていなかったのは私もよく知っている。 「学校どころか、本当を言うと俺にはもう戸籍もなくなっているらしい」 「どうして……」 「だってあんな暮らしをしていただろう。それに俺は自分の生まれた場所も知らないんだ。谷口という名前がはたして母の方のものか父の方のものかもはっきりとは知らないんだ」 「だってお前はお母さんといっしょにいたじゃないか。お母さんといっしょにガラス工場の工員寮のようなところに住んでいただろう」  すると谷口は悲し気ななかにもなつかしそうな微笑を泛《うか》べた。灰色の毛布の下から左手を出して、 「三年生、四年生……君たちが疎開に行ったのは五年の二学期だったかな」  と指を折って数えた。 「毎日君と遊んでいたあの頃が、俺たち母子にとっては一番平和で安定した時期だったんだよ」 「お前が転校して来たのは三年の二学期さ。そして俺たちが疎開させられたのが、五年の二学期の始めだ。行きも帰りも貨車に乗せられたよ。俺たちは疎開じゃ遅い方だったが、そのかわり長くいないですんだから良かったと思っている」 「俺がなぜみんなといっしょに疎開しなかったか、それがもうよく判《わか》らないのだ。とにかくあの頃お袋の身にまた何か起っていたらしくて、俺は君たちが疎開して行ったすぐあと、埼玉のほうの知らない家へあずけられてしまった。小さな農家ですごく貧乏な家だったから、俺は行ったその日からずっと腹を空《す》かせっぱなしだった」 「また何か、と言ったな。君のお母さんにはそんなにしょっちゅう何か起っていたのかい」 「そうらしい。俺は子供でよく判《わか》らなかったが、物心《ものごころ》ついた頃から俺とお袋はそれこそ何かから逃げ廻っているような生活ばかりだったのだ。いったいどことどこを歩いたんだか見当もつかないが、汽車に乗ったり歩いたり、駅の待合室で寝ることも珍しくなかった。木賃宿のようなところにもよく泊ったよ。二、三か月一か所にいられればいいほうだった。どこへ行っても他所者《よそもの》だから、土地の子供たちにはよくいじめられた。しまいにはどんな態度でどんな顔をしていればいじめられないか、要領を嚥《の》みこんでしまった」  私の顔を冷たいものが覆ったような気がした。谷口の澄んだ瞳《ひとみ》や邪気のない笑顔は、結局そういう自己防衛のためのものだったのだろうか。谷口はそんな私の気持を察したように、かすかに首を左右に振るようにして喋《しやべ》り続けた。 「俺はね、お袋の正確な年齢さえ知らないんだよ。考えてみてくれ、母親の年齢なんて、父親がいたり周囲に親戚がいたりして始めて子供の耳にも入ってくるものだろう。根なし草同然にいろいろな土地を流れ歩いた俺たち母子《おやこ》には、そんな話をする機会などありはしなかった」 「でもお前は俺たちの学校へ来たじゃないか。入学するにはいろいろな手続が必要だった筈《はず》だ。本当は戸籍だってちゃんとあった筈だぞ」 「それがどうも違うらしい。あそこで落着けたのは、俺たち母子を特別にかばってくれる人がいたかららしい。俺はその人があのガラス工場の主人だったように思っているんだよ」 「よぼよぼのおじいさんだった筈《はず》だ」 「うんそうだ。だからあそこに長くいられたのさ。実は俺が怜悧男という名前で呼ばれるのを嫌ったのは、お袋が嘆いているのを聞いたからなのさ。珍しい名前だからすぐに判《わか》ってしまう、とね」  谷口の目が潤《うる》んでいた。     9 「君のお母さんには何か大きな秘密があったらしいな」  私は谷口の目に涙が湧きあがって来そうなのを予感しながら出来るだけ静かな声で言った。谷口は即座に頷《うなず》いて見せる。 「その秘密はいまだに続いているらしい」 「それがお前を追い駆けているのか……」  谷口はまた頷いた。 「もし本当に俺が命を狙われたのだとしたら、それしか考えようがないじゃないか。俺だっていままであきるほどそれについては考えてきたさ。でも何ひとつ判らない。手掛りがまるでないんだ。俺は子供だったからな。それでも三年生ぐらいからのことはなんとかまとまった形で想い出すことが出来る。その想い出すことが出来る部分は、証拠の方が消えてしまっているんだ。かんじんのあのガラス工場は空襲で根こそぎ焼けてしまい、俺たちをかばってくれたらしいあのお爺《じい》さんも焼け死んでしまった。寮に住んでいた人たちもちりぢりになってしまってもうどこにいるのか見当もつかないし、顔を見たってお互いに判《わか》らなくなっているだろう」 「どうして上野にいたんだ」  私は当面一番知りたいことをずばりと尋ねた。谷口の母親のことまではさかのぼれないまでも、上野から新宿のメトロ・プロムナードまでの筋道なら谷口自身がはっきりと説明出来る筈《はず》だった。 「戦争が終るとすぐ埼玉から上野へ出て、そのまま駅のあたりに住みついただけさ」  谷口の返事は私の期待に反して簡単明瞭すぎた。 「それじゃなにか、お前は戦災孤児としてひとりっきりであそこで暮らしていたわけか」 「お袋もガラス工場が空襲でやられたとき死んでしまったから、たしかに俺は戦災孤児というわけだ。でもひとりじゃなかった。女の人といっしょだったんだよ」 「女……」 「若い女の人だ。俺はその人を上野時代ずっとお姉さんと呼んでいた。本当の名前は杉代恵子《すぎしろけいこ》と言うんだ。終戦の時の年が二十三だった。俺があずけられた埼玉の農家の娘さんだよ」 「その娘さんがどうして上野に……」 「そいつがまた新しい謎《なぞ》なんだ。その杉代恵子という人は、あきらかに俺のお袋をよく知っていた。俺が埼玉の杉代家へあずけられたのはそのせいだろう。だがその人は決して俺のお袋のことを口にしなかった。親たちにもだ。戦争が激しくなるまでその人はどこか他所《よそ》で働いていたらしい。それが実家へ戻ってきてまもなく強引にこの俺を呼び入れてしまったらしい。だから埼玉の杉代家で、俺は始めから終りまで邪魔者扱いだった。その人が両親や兄弟と俺のことで争っているのを何回聞いたことか。そのあげくにとうとう居づらくなってまた家をとびだしたわけさ。ちょうど戦争も終ったしね」 「つまりその杉代恵子さんはお前のために家をとびだしたって言うわけだな。なぜだろう。あの時代はそんななまやさしい時代じゃなかったぜ。いまならとにかく日本中が餓《う》えていた時代だ。二十三の若い女が小学校六年の子供を連れてその荒波の中へとびだして行くなんて」 「そうなんだ。あの人は俺のために犠牲になってくれた。そりゃ、俺だって出来るだけ迷惑をかけまいと稼げることなら何でもしたさ。かっぱらいだってやったことがある。みんなやってたからな。あそこに住んでいれば、その程度のことでは罪の意識なんて持ちようがなかった。みんな生きて行くのに夢中だったんだ。そして気がついたときにはあの人はもう夜の女になってしまっていたんだ」  とうとう谷口の目から、つ、と涙が流れ落ちた。  夜の女。闇の女ともパンパンとも言う。ずいぶん久しぶりに聞く言葉であった。  私が高校を卒業して銀座のバーで始めて働いた頃、パンパン・ガールと言う言葉はまだ生きていた。ちょっと物知りぶった顔でパン屋と言えば、ベーカリーのことではなくて娼婦《しようふ》のいる家のことを意味した。上野は男娼で有名になったが、実際にはそれ以上に数多くのパン助たちが群がる街であった。 「その人に育てられたのか」 「そうなんだ。あの人は売春婦になってまで俺の面倒を見てくれた。いったいこの俺にどんな値打ちがあるというのだろう。死んだお袋にどんな借りがあったと言うのだろう。もっとも君と会った頃はもう世間並みに言えば中学二年生で、あれから一、二年後には俺だって少しはものの役には立つようになっていた。だから育てられたと言っても終りの頃は共同生活みたいなものだった」 「と言うと結局その人とは別れ別れになったわけなんだな」  私がそう言うと谷口は急に目を閉じた。閉じた瞼《まぶた》の下からまた涙が流れ出していた。 「違うよ。あの人は死んでしまった。殺されたんだ。美術館の裏のほうで絞め殺されてしまったんだ」  私には言う言葉がなかった。 「夜の女殺しなんて珍しくもない。新聞に出たのかどうかも俺は知らなかった。生まれてこのかた俺が頼ったのはたった二人の人間だけだった。二人とも女だった。お袋とその人だよ。そして二人とも早やばやと死んで行った。それ以来俺はひとりぼっちだ。ひとりぼっちで生きている。でも俺は俺なりに努力しているつもりなんだ。俺にどんな値打ちを感じていたのか知らないが、俺のために売春婦にまでなったあげくに殺されてしまった女性がいるんだ。俺はあの人がしてくれたことを無にしてしまうわけにはいかない。あの人が俺に感じていたほどではないにしても、少しは価値のある人間にならなくては申し訳がないからな」  谷口はそう言って濡《ぬ》れた目を開いた。 「信じてくれるかい」 「何をだ」 「この俺をさ。あの人が死んで以来、俺が一生懸命やってきたことを信じてくれるかい」 「うん、信じるよ」  私がそう言うと谷口は手を差しのべた。私がそれを握ってやると、強く握り返し、 「ありがとう」  と涙声で言った。 「あんなざまで君にめぐり会ったから、だらしのない生活をしていると思われたかと……」  谷口は声をつまらせて途中で言葉を切った。 「案外そうは思わなかったよ」  私は他人事《ひとごと》のような言い方をした。     10 「お前が上にばかが付くほど正直な性分だということは昔からよく知ってるさ。それにどういうわけかひどく運の悪い男だってこともな。でも、俺ばかりでなく、みんなお前のことを良い奴《やつ》だと言ってるよ。それでなかったら井田さんや今谷先生が帽子を廻して金を集めたりしてくれるもんか」  私はそう言って谷口を励ました。 「俺も自分があまり運の強い男じゃないということは自覚している。あの人に報いるためにも何とかして価値のある人間になりたいとは思うが、富や権力を持つようになれるとは決して思っていない。俺には俺の出来ることしかやれないんだ。運も力もない俺が何かの価値を持つとしたら、それは自分を捨ててでもみんなに優しくしてやるだけだろう。いじめられるのはなれている。どん底の暮らしもよく知っている。だから俺はみんなに優しくすることだけを心がけてきたんだ。よけいなおせっかいだと嫌われることもあるし、いまだにしょっちゅう人にだまされてもいる。でも俺の目的は人に好かれることじゃない。ただ人に優しくすることだけなのだ。汚いルンペンが突然あんな金を持ってきたからさぞ面喰《めんくら》っただろうが、あの金はたぶん俺がいままでしてきたことが無駄でなかったという証拠なのだろう。あの汚れた連中は俺を認めてくれていたんだなあ。君にあの金包みをここで渡されたとき、俺は本当にうれしかったよ。これで少しはあの人の恩に報いることが出来たかと思ったら、うれしくて涙がこぼれた。でももらいっぱなしは出来ない。早く元気になって返さなくては。いや金のことじゃないんだ。気持さ。直接金をくれた人たちにではなくても、俺はこの恩を返さなければならない。早く元気になりたい」  私は谷口の顔を長いこと見つめてから言った。 「こんなお前を、どうして射ったりするんだろう」 「いいんだよ。もうすんだことだ。俺は怒ることを捨てたんだ。人に優しくするには腹を立てちゃいけない。怒ったら俺が俺でなくなるんだ」  私は谷口を元気づけようと、わざとにやにやからかうように言った。 「お前、その杉代恵子という人のことも結構だが、大事なことを忘れているんじゃないのか」 「お袋のことか」 「そうさ。恩を受けたのはその人ばかりじゃないだろう。恩ということから言えばお母さんから受けた恩の方がよほど大きいだろう」 「考えてるよ」  谷口は静かな声で答えた。 「妙なことだが、上野時代はそんなにお袋を恋しいとは思わなかった。世の中が混乱していたせいかな。でもだんだんお袋が恋しくなって来た。母親のいる奴《やつ》がうらやましくてしかたがない。俺のお袋はとても優しい女だった。俺が他人を憎んだり怒ったりしないよう心がけるようになったのも、ずいぶんお袋の影響があると思っている。なぜだか判《わか》らないが、よく考えてみるとお袋はずいぶんひどい人生を送ったものだ。こうして俺が生きている以上、どこかに俺の父親がいるにきまっている。しかしその男は一度も俺たち母子の前には現われて来なかった。お袋はその男に捨てられたのだろう。ひょっとするとその男は金持の家の息子だったのかも知れない。俺にはそんな記憶があるんだ。うんと幼い頃……俺が幾つだったのかも判らないが、とにかく俺はきれいに手入れのいきとどいた大きな庭を憶《おぼ》えているんだ。池があって石の橋がかかっていて、その橋の上から見ると、鯉《こい》がたくさん泳いでいるんだ。大きな鯉だ。その庭にいるとき、俺のそばにはいつもお婆さんがついていたような気がする。すぐ近くに大きな山が見えていた。うんと幼い頃の記憶だから確かではなかろうが、なぜか大人はみんな白い着物を着ていた記憶がある。まっ白な着物で、触《さわ》ると冷たかった筈《はず》だから白むくの絹かもしれない。それがどこなのか俺には全然|判《わか》らない。でも確かに俺の記憶の一番奥の方にそんなものがあるんだよ。大きな踏み石からあがると長い長い廊下が続いていたから、きっと大きな家だったんだ。こわいくらい遠くまで長く続いた廊下だ。俺はいまでも風邪をひいて熱が出たりすると、よくその廊下の夢を見るんだ。どこまでも果しのないまっすぐな廊下で、俺は怯《おび》えきって泣き喚《わめ》いているんだ」  谷口はそこでふうっと大きく息を吸い込んだ。 「その記憶が実際にあったことだとすると、お袋は当然その家に関係がある。そこから追い出されたのではないだろうか。俺といっしょにね。とにかくそのことからいろいろのことが想像出来る。何かあらそいのようなことがあったに違いない。お袋は俺を連れて逃げ歩いていたのだろうか、とも思ったりしている」 「まさかそれが今度の事件にまで尾を引いているんじゃあるまいな」  私がそう言ったとき、光子がカーネーションの花束をかかえて、その病室へ入って来た。 「あら来てたの」  私を見てそう言い、いそいそと花瓶の花を取り替えにかかりながら、 「ご気分はいかが天使ちゃん」  と谷口に言った。 「天使ちゃん……」  私は光子に訊《き》いた。 「看護婦さんたちがそういう綽名《あだな》をつけちゃったのよ」  光子は屈託《くつたく》のない笑い方をした。  第三章     1  私の前に井田さんと中島さんが坐《すわ》っていて、中島さんはまた酔っぱらっていた。 「おい、月岡」  中島さんはハイボールのグラスを、カウンターごしに私のほうへ突き出し、目を据《す》えて言った。 「何でしょう」  そんな中島さんの扱い方を、私はもう心得きっていて、意味ありげにニヤリとしながら答えた。へたにまともな受け答えをすると激昂《げつこう》しかねないが、冗談で受け流してさえいれば、機嫌がいいのだ。 「お前、安保に反対か」 「アンポ、ハンタイ」  私はデモ隊がやっているように節をつけて言い、素早《すばや》く中島さんのグラスをとりあげてウイスキーをついだ。 「濃いですよ」  ソーダ水をほんの少し入れて返しながら言う。 「安保に反対か」  グラスを受け取りながら中島さんはきつい声でまた言った。 「ええ、湯たんぽ、三十円……」  私は以前赤線街の夜を流して歩いた湯たんぽ屋の呼び声を真似た。 「お、こいつ変なこと知ってやがる」  中島さんは井田さんのほうを向いて笑った。 「そんなのがいたなあ。本当に三十円だったかな」  井田さんはそう言って首を傾《かし》げる。私は素知《そし》らぬ顔で井田さん達の前を離れ、ほかの客の前を拭《ふ》きはじめたが、内心ほっとしていた。  中島さんはきのうのデモのことで興奮しているのだった。安保反対を叫ぶ全学連のデモ隊が国会へ突入し、死傷者が出ていたのだ。空模様はゆうべと同じように今にも降り出しそうで、町の空気もまた殺気立っているようだった。  政治などとは余り関係のない私だが、今度の安保騒ぎにはすっかり巻き込まれていた。国労や動労のストの日は客足が完全にとまってお茶ひき寸前だったし、そうかと思うとデモの流れの客で突然満員になったりするのだ。 「怕《こわ》くて集金にも行けやしない」  店の女の子はデモを口実にして集金を怠ける者もいた。  が、いずれにせよ、しがないバーのマネージャーである私にとって、安保改定問題などどうでもよく、それに反対するデモやストの影響だけが気になっていた。  経営者はいざ知らず、酒場ぐらしの男たちは、良いほうにも悪いほうにも、余り急激な変化が起るのを好まない。それは、毎日仕込むつまみやオードブルの量の問題からはじまってホステスの動かしかたまで、一定の枠《わく》の中で暮らしているからなのだ。立て込みすぎればサービスが低下するし、自分たちの接客技術をふるう余地もなくなる。また閑《ひま》すぎれば女の子だけにまかせて置くわけには行かなくなって、それこそ客の前で踊って見せるほどの座持ちをあいつとめなければならない。  扱いなれた常連が、いつもの時間に集まって来て、適当なにぎやかさで騒いで帰ってくれるのが、一番たのしいし体も楽なのだ。また、客の動きがそのように平均している時が、店の経営状態も一番いい。  たとえて言えば私たちは船の鼠《ねずみ》だった。それもごく小さな危なっかしい船に乗っている鼠だから、風や波の具合には敏感にならざるを得ない。昔から水商売の世界に棲《す》む者がよく縁起をかつぐのは、そういうことのあらわれらしい。  とにかく私は、世間に吹き荒れる安保反対の風を、わが身にとって良いものだとは感じていなかった。  今に嫌《いや》なことが起るに違いない。  体のどこからともなく、そんな不吉な予感が湧《わ》き出して、酔客の荒れようやツケの回収の具合にまで、なんとなく神経をとがらせていた。 「アンポ、ハンタイ。アンポ、ハンタイ」  ドアがいきなり勢いよくあいて、若い三人連れがそう叫びながら入って来た。 「いらっしゃいませ」  私はそう言ってカウンターの中を奥のほうへ横歩きに移動しはじめながら、心の中ではまたはじまりやがった、と舌打ちしていた。 「アンポ、ハンターイ」  中島さんがその三人に刺激されてまた大声で言った。     2  フランス式のデモというのもはじめて見た。降りはしなかったが相変らず危なっかしい空模様で、道いっぱいに手をつないでひろがって歩いていたのが、しまいには子供の頃よくやった〈いも虫〉の遊びのように、前の者につながってジグザグに動きはじめた。 「これじゃ喧嘩《けんか》になるにきまってらあ」  百合という店の子について集金に行った帰り、日比谷あたりでそれを見た時、私は思わずそう言った。まわりにいる警官たちの目が、そのジグザグ運動で殺気立ってしまっていたからである。主義主張もここまで来れば体と体のぶつかり合いで、警官だって安保よりは自分の身をかばう為に学生を撲《なぐ》りつけるのだな、などと実感した。 「あれは右翼の車でしょう……」  百合がそう言って指さしたのは、NHKの前あたりだった。見るとトラックが四台ほどゆっくりと新橋のほうから曲がって来るところで、昔の陸軍の戦闘服のようなのを着た連中が、荷台にぎっしり乗り込んでいた。 「百合、早く行こう」  私は危険を感じて百合を急がせ、とりあえず表通りからのがれて横道へ行った。 「どこへ行くのよ」  百合は踵《かかと》のとがったハイヒールを鳴らして不服そうに言った。新橋から地下鉄に乗って帰る筈《はず》なのだが、私の向かっているのは虎の門方面だった。 「あっちへ行っちゃ危《ヤバ》いよ」  私は百合にそう言った。デモ隊の列は田村町の交差点をまだ切れぎれに渡っていて、へたをすると信号待ちの間に巻き込まれかねなかった。 「マネージャーについて来てもらってよかったわ」  足早くデモ隊から遠ざかる私に追いすがるように、小走りになりながら百合が言った。 「岸を、倒せ。岸を、倒せ」  デモ隊の合唱が私たちのうしろから追いかけて来るように聞こえた。 「虎の門から乗ろう。そう変りはしないさ」  私は百合になぐさめるように言ったが、南佐久間町の交差点へ出るとまたデモ隊にさえぎられた。 「岸を、倒せ。岸を、倒せ」  田村町で聞いたのと全く同じ合唱で、私は気味が悪くなった。まるで日本中の人間が同じ顔で同じ行列を作っているような気がした。 「さ、急いで」  警官が笛を鳴らし、交差点を渡るデモ隊の列が跡切《とぎ》れた中を、私と百合は手をつないで向こう側へ走って渡った。 「岸を、倒せ」  行手の虎の門の交差点からもその声が聞こえていた。 「やだわ、どうなっちゃったんだろう」  百合は怯《おび》えて泣声を出した。 「とにかく電車に乗ってしまおう。そうすれば大丈夫だ」  私も緊張し切っていた。とほうもないエネルギーの塊《かたま》りが、国会のほうへ向かって幾筋もの川のように流れているのだ。  そしてやっと安全な地下へもぐり込んだ時、私はなぜか悲しくなっていた。 「ああ助かった」  百合は地下鉄のプラットホームに立って、やっと私に笑いかけた。 「うん」  轟《ごう》、と電車が入って来た。電車はいやにすいていた。  次の赤坂見附で乗りかえて、四谷をすぎる頃まで、私は窓ガラスにうつる自分の顔を見てばかりいた。 「これが疎外感という奴《やつ》なんだな」  私は溜息《ためいき》まじりに百合に言った。 「ソガイカン……」  百合には通じないようだった。 「東京中の人間がデモに加わっているみたいじゃないか」 「そうね。うちのお客さんたちもやってるわよ、きっと。怪我《けが》をしなければいいけど」  百合は心優しい女だった。 「俺もやりたくなったよ」  そう言うと百合は声をあげて笑った。ただ笑うだけで何も言わなかった。  その日のデモは夜中まで続いた。翌日新聞を見たら、三十三万人のデモ隊が国会をとり巻いていたそうだった。その数は私が思っていたよりずっと少ない感じだった。  それにしても、三十三万もの人間が強く感じていたことを、自分がさっぱり掴《つか》めなかったというのはショックだった。みんながいっせいに同じ方向へ歩き出したというのに、私には何のことかさっぱり判《わか》らず、ただうろたえていただけだったのだ。  とにかくその晩、新安保条約は自然承認されてしまった。     3  次の日は日曜で、私は成子坂《なるこざか》下の光子のアパートへ行った。いつとはなし、日曜は光子と一緒に過すことにきまってしまっていた。 「そろそろ一か月になるわね」  光子が言った。朝から降ったりやんだりの天気で、もう完全に梅雨《つゆ》の感じだった。 「ん……」  私は畳の上に寝そべって朝刊を読んでおり、顔をあげると流しに向かって食事の仕度をしている光子の、膝《ひざ》小僧のうしろの窪《くぼ》みがまん前に見えていた。 「谷口さんのことよ」 「ああ……そうだな」  光子は味噌《みそ》汁の鍋《なべ》をガス・コンロにかけて点火すると、黄色い格子縞《こうしじま》に大きなポケットのついたエプロンで濡《ぬ》れた手を軽く拭《ぬぐ》いながら、 「あなたにもいいものあげようか」  と言って押入れの襖《ふすま》を細くあけ、何か取り出してテーブルの上へ置いた。 「何だい」  私は起きあがった。 「煙草か」  テーブルの上に、見なれぬ包装の大きな煙草の袋がひとつ置いてあった。 「ハイライトよ」 「へえ……」  私は手にとって見た。 「ロングサイズよ。あしたから発売になる奴《やつ》よ。お客さんからとりあげちゃった」  光子は流しへ戻り、コトン、コトンと庖丁《ほうちよう》の音をさせはじめた。 「もう一個あるから封を切って吸って見ていいわよ。もう一個はあとで病院へ持ってくの」 「谷口にやるのかい。あいつは煙草を吸わないぜ」 「看護婦さんにあげるの。一日だけでも発売前なら珍しいでしょう。あの看護婦さん、よくしてくれるんだもの」  光子は毎日欠かさず滝川外科へ通っていたが、私はこのところ一日おきくらいになっていた。それも光子が毎日行くからで、それでなかったら谷口を見舞うのも三日に一度か四日に一度くらいになっていたかも知れない。 「もともとは俺の友達なのに、お前のほうがずっと熱心に見舞ってくれている」  私は封を切って、そのハイライトという煙草を咥《くわ》えながら言った。マッチを擦《す》る音が聞こえたのだろう。光子は小さな皿に沢庵《たくあん》を十切れほど並べたのを持って私のそばに坐《すわ》り、それをテーブルの上に置くと、 「どう、おいしい……」  と訊《き》いた。  私はハイライトの最初の煙を吐き出しながら、 「軽いよ、やっぱり」  と言った。 「どれ、吸わして見て」  光子が言うので私がそれを渡そうとすると、光子は首を横に振って唇を突き出した。手が濡《ぬ》れているからだろう。私はハイライトを咥《くわ》えさせ、一息吸い込むと唇から取ってやった。  光子は深々と吸い込んで、ゆっくりと吐きだした。 「いけるわね。でも、もう煙草よさなくちゃ」  そう言うと私の腿《もも》の辺りに手をかけてさっと立ちあがってまた流しへ向かった。 「なぜ……別にやめることないさ」 「体に悪いから」  光子は口早に言って水の音をさせはじめた。息をつめたようなその言い方で、私にはピンと来た。  私は煙の立つハイライトをじっとみつめていた。これだったのか……と思いながらみつめていた。  この間から何か予感がしてならなかったが、厄介《やつかい》ごとと言うのはこれだったのである。  光子の妊娠。  やがて光子はいつもの表情でテーブルに食器類を並べはじめ、私もいつも通りの態度で遅い朝食をした。  その食事の跡片付けがおわって谷口を見舞いに出る時、 「レインコートも着たらどうだ。濡《ぬ》れると体に悪いぞ」  私は光子にそう言った。すると光子は私をキラキラと光る目でみつめた。 「うん」  子供がするように力をこめて頷《うなず》き、一度はいた靴を脱いで部屋へ行き、レインコートを着て戻ってきた。その間に私はしとしとと細かい雨の降る道へ出ていた。  心の中は暗かった。光子が妊娠することは当然覚悟していた。しかしそれはただの覚悟だけで、それから先のことは何も考えていなかった。  来るべきものが来て、ただ侘《わび》しかった。まだ時間は少し残っているが、二か月かそこらの残り時間が終ったら、私はひとでなしになるか甲斐性《かいしよう》なしになるか、そのどちらかになることはもうきまっているようなものだ。  妊娠した光子の体が抜きさしならないものになるその短い時間を、せめて精一杯優しく過そうと考えはじめていた。妻子を養えるほどの収入もない自分にとって、その残された短い時間だけが、さも夫らしく父らしく振舞うことを許されている時間なのだ。  レインコートを着て出て来た光子は、自分の傘《かさ》をすぼめて手に持ったまま、私の傘の下にとび込むと腕をしっかりと組んだ。  私たちは体を寄せ合って雨の中を歩きはじめた。光子は私に頼り切っているように思えた。そして私は、その光子をどうしようもない泥沼のほうへ、素知《そし》らぬ顔で連れて行くような感じで歩いていた。 「何か買物をしたい気分」  大ガードをくぐった時、光子が不意に明るい声で言った。私はベビー服か何かのことを言ったのかと思った。 「何を買いたいんだ」  空とぼけて訊《き》くと、光子ははしゃいだ様子で、 「ほんとは指輪」  と答え、笑いながら私の腕をいっそう強くかかえた。 「この薬指にはめてみたいの。安物でいいのよ。でもさ、うまく言えちゃったんだもの。薬指にご褒美《ほうび》をあげたいの」 「帰りに伊勢丹へ寄ろう」  暗い思いを吹き消すように、私は弾《はず》みをつけて言った。 「金ならまだ少し残ってる。給料日まであと五日だって言うのに、俺にしちゃ上出来さ」  光子はそれが冗談ででもあるかのように笑った。 「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」  光子はまだ人通りの多くない角筈《つのはず》の歩道を、デモ隊の合唱と同じ節をつけてそう言いながら、私の体を押したり引いたりしてジグザグに歩きはじめた。  私も、 「赤ちゃん、できた」  と低く言いながら歩いた。そう言っていると、何も喋《しやべ》る必要がなかった。そしてしまいには、二人がこの上もなく深く結ばれた男女であるかのように感じてしまっていた。 〈四番地〉の前を通って区役所通りのはずれの坂の中途あたりまで、私と光子のその低い合唱は続いた。  そして光子は突然沈黙した。二十歩ほど、そのまま黙って歩いただろうか。 「生んじゃってもいいのかよ」  光子が男のような乱暴な言い方をした。私には、光子が複雑な感情の只中《ただなか》にいることが判《わか》った。 「判んねえ」  私も他人事《ひとごと》のように答えた。 「いいのよ、無理しなくても」  次に聞こえた光子の声は、ひどく優しかった。今度は私が光子の腕を強く引きつけた。 「よく考えるよ」 「子供、好き……」 「どうなんだろうなあ」  正直私にははっきり答えかねる問いだった。 「あたしも判《わか》んないの」  光子は笑って見せたが、少し淋《さび》しそうだった。 「でも、指輪は買うぜ」 「うん」  光子の声が少し明るくなった。 「谷口さん、何て言うかな」  どうやら光子は谷口に妊娠のことを告げる気らしかった。     4 「へえ、こんな煙草が出るのか」  谷口はすっかり元気になり、ベッドに腰かけて光子が渡したハイライトの袋を見ていた。 「あした山本さんが来たら、君からだと言って渡すよ」  谷口がそう言うと、光子は甘えた声を出した。 「いやだわ、あしたじゃもう発売になってるもの。珍しくなくなっちゃうじゃないの」  あの中年の看護婦は山本と言う名前らしく、今日は休みだそうだった。 「大丈夫だよ。あの人は朝早くに出勤するから、煙草屋だってまだあいていないさ」  谷口はそう言うと、ハイライトをベッドのそばの小さな戸棚《とだな》へしまった。 「デモで大変だったらしいね」  谷口が私に言った。 「そうさ、凄《すご》かったぜ」 「見たの……」 「うん、百合と集金に行って、もうちょっとで巻き込まれるところだった」 「東大の学長が言ったことを文部大臣が非難してるね。教育者の義務を放棄したって。どう思う」 「よく判《わか》んねえけど、商店なんかはみんな学生に味方したようだ」 「何せ戦争につながるんだからなあ」  谷口は溜息《ためいき》をついた。空襲で母親をなくした谷口ほどではないにしても、世の中が戦争のあるほうへ向きを変えるのは、私にとってもぞっとしないことであった。親類の男たちが何人も兵隊に行って死んでいたし、親しく行き来していた家はほとんど戦災で焼け出されたのだ。 「そんなことよりねえ、あたし今日これから指輪買うのよ」  光子が勢いよく言って話題をそらせた。 「指輪……」  谷口は光子がみつめる左の薬指を眺め、すぐに視線を私に移した。 「そういうことさ」  私は苦笑して見せた。 「結婚するんだね」  谷口の顔がパッと明るくなった。そういう時の谷口は、まるで善意そのもので、こちらが何か気恥かしくなるほどであった。  光子は私の肩に左腕をかけ、体を左右にゆすりながら、 「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」  と言った。 「まだどうするかきめてないんだ」  私は光子の声の中で谷口に言った。 「おめでとう。よかったねえ」  谷口の目が潤《うる》んだ。 「俺と同じ年の奴《やつ》に、もう子供が生まれるんだなあ」  私は少しうろたえ、 「まだどうするかきめてないんだ」  同じことをまた言った。 「そんなこときまってるだろう。早く籍を入れないとおかしいよ。日が合わなくなっちゃう」  谷口はたのしそうに笑った。 「もうすぐ退院できそうだから、結婚式には間に合うな」 「結婚式なんて、そんな金のかかることできないよ」  私は、なあ、と言って光子を見た。光子は微笑を泛《うか》べて谷口を見ていた。 「大丈夫だよ。金のかからない結婚式のやり方なら、俺はよく知ってるんだ。随分やったからね」 「やった、って……」 「仲人《なこうど》をやらされたのさ」  谷口はクスクスと笑う。 「お前が仲人を……」 「うん」  私はあらためて谷口をみつめた。病院お仕着せの青い格子縞の浴衣《ゆかた》を着た谷口の体の奥のほうに、まっ黒に汚れたルンペンの集団が見えるような気がした。 「まさか……」  すると谷口は、私の気持を察したらしく、 「ルンペンの結婚式もやったよ」  と言った。とたんに光子がケタケタと笑いはじめた。 「ルンペンの結婚式……花嫁さんもルンペンなのね」 「そうだよ」  谷口はいやに厳粛な顔で答えた。 「貧しい人たちだって結婚するさ」  私はギクリとした。谷口の考えていることは恐ろしく底が深いように感じたのだ。  ルンペンのことを、貧しい人たち、と言っているのだ。貧しさの程度がまるで違うのだ。私は自分を貧しい者ときめてかかっているが、谷口から見ると私は豊かで恵まれた人間のほうへ入るのかも知れないと思った。 「君らは健康だし、立派な職業もある」  谷口は私の恐れていたことを言い出した。 「そんな君らが二人で力を合わせれば、ちゃんとやって行けるにきまっている。頑張って早くいいお店を持ってくれよ。君らが店を出せば、きっと毎晩満員になるぜ」 「それよりお前、体はどうなんだ」  私は谷口の言葉に押しかぶせるように言った。 「横になっていなくてもいいのかい」  谷口はいつもの気弱そうな微笑を泛《うか》べ、 「もういいんだよ。おかげで元気になれた。君らにはすっかりお世話になってしまったなあ」  と頭を掻《か》いた。 「俺のせいで結婚式の予算が狂っちゃったんじゃないかな」 「そんなことないわよ」  光子はムキになって言った。     5  指輪を買った日曜日以来、光子は毎晩九時か十時頃になると電話をかけて来て、今夜も自分のアパートへ泊れと言うようになった。  店でその電話を受けていると、ドアがあいて今谷先生が勢いよくとび込んで来た。 「いらっしゃいませ」  志村が声をかけ、女の子たちが入口のほうへ二、三人小走りに出て行った。 「判《わか》った、行くよ。今谷先生が見えたから切るぞ」  私がそう言うと、光子は機嫌よく、 「チャオ」  と、自分から電話を切った。 「いらっしゃいませ」  受話器を置いてカウンターの中央の自分のポジションに戻り、私は今谷先生に笑顔を向けた。 「新宿へ着いたとたんに降られたよ」  今谷先生はそう言って私のまん前のスツールに腰をおろした。 「お一人ですか」 「うん。いつものをくれ」  今谷先生のは角瓶のウイスキーを使ったハイボールだった。私はいつものように少しウイスキーを強めにして今谷先生の前へグラスを置いた。 「きのう、ムーンライトで帰って来たんだぞ」  今谷先生はひと口飲むとそう言った。 「あら、ムーンライトってなあに」  絹代という女の子が訊《き》いた。 「飛行機だよ」  店はすいていて、手もちぶさたの志村が横から口をだした。 「深夜便だそうですね」  私が言うと今谷先生は頷《うなず》いた。 「割引料金なんだ」  そのときまたドアが勢いよくあいて客がとび込んで来た。 「うへえ、降られたよ」  首をすくめるようにしてその客はハンカチを出すと、ドアの前で服を拭《ふ》きはじめた。おしぼりを志村が手の空《あ》いた子に渡している。 「今谷先生がお見えです」  店の子が肩の辺《あた》りを拭《ふ》いてやりながら言うと、その客は顔をあげ、 「やあ、来てたんですか」  と今谷先生に言った。 「ここへ来て一緒にやりませんか」  今谷先生が言う。 「本降りですよ」  その客は今谷先生のとなりのスツールに腰をのせながら言った。 「一人……」  今谷先生が訊《き》く。 「知り合いの者が交通事故に遭《あ》いましてね」 「どこで……」 「明治通りですよ。まだ二十二なんですが」 「乱暴な運転をする盛りだな」 「普段はおとなしい奴《やつ》なんですが、やってしまいましてね。近くの病院へ運ばれたんで、ちょっと見舞いに行ってその帰りなんです」 「榊《さかき》さんが一人で飲みに来るなんて珍しいと思った」  私は黙ってその榊さんの前へグラスを置いた。榊さんも今谷先生と同じ飲物だった。  榊さんは今谷先生にグラスをあげて見せ、ちょっと唇をつけた程度でそれをカウンターの上へ置いた。 「ママがいないね」 「閑《ひま》なもので、近くの仲間のところへ義理を果しに行ったんですが、降りこめられているんでしょう」  私は榊さんにそう答えた。 「どうです」  榊さんは今谷先生のほうを向いて言う。 「何のことですか」 「この間の件ですよ。推理小説ばかりじゃ惜しいじゃないですか。何か書いて見てくださいよ」  榊さんは雑誌の編集長だった。 「まあそういじめないで」  今谷さんは笑って誤魔化《ごまか》したようだった。  またドアがあいたが、今度は客の姿が現われるまでに少し間があった。 「やあ、今晩は」  今度の客は傘《かさ》を持っていた。二人連れだから、ひとつ傘に入ってやって来たのだろう。  カウンターが少しにぎやかになった。やはり編集の人で光陽社の伊藤さんと、連れの画家の大内さんが今谷先生の右へ顔を並べた。 「俺はブランデー。但し国産のだぞ。ヘネシーなんか飲ましても金払わんからな」  大内さんは志村にそう言った。 「よく傘を持ってたね」  榊さんが伊藤さんに言う。 「メルヘンでバーテンのを一本借りて来たんですよ」 「そうだろうな。用意がよすぎると思った」  仕事の上では競争相手でも、結局は同じ出版界の仲間だから、伊藤さんや榊さんに限らず、こういう店で顔を合わせると、まるで仲のいい同僚のような感じになるのだった。 「何です、今日は……」  今谷先生がカウンターの上へ上体を倒すようにして、一番端にいる大内さんに言った。 「飲むだけ。ほかに用なんかありますか」  大内さんは笑顔で答える。 「肝臓のほうはどうです」 「あんなもの、気にしちゃいけません」  大内さんは他人事のように言った。本当はつい二か月ほど前まで、肝臓を患《わずら》って入院していたのだ。 「大丈夫かなあ、飲んで」 「大丈夫でしょう」  大内さんは平然としてブランデーを飲んだ。 「飲んでるよ、本当に」  今谷先生が伊藤さんに言う。 「僕も散々とめてるんですが、言うことを聞かないんです」 「悪くなったら切り取ればいい。タレをつけて焼いて食っちゃう」 「冗談じゃないですぞ」  今谷先生は本当に心配そうな顔で言った。 「肝臓はどうか知らないけれど、内臓が悪くて切除する時は、どの医者にかかるのかな」  榊さんがのん気そうに言った。 「そりゃ外科でしょう」 「やっぱり。内科から外科へまわされるわけ……」 「だと思いますよ」 「何だ、心細いな。案外そういうことはよく判《わか》っていないものなんだな」  榊さんは感心したように頷《うなず》いていた。     6  新聞の紙面などでは、まだ安保改定問題は尾を引いていたが、町からは急速に影をうすれさせていた。  私には店を閉めてから光子の部屋へ行く日が続いていた。光子はそれをごく当然のように思っているらしく、 「お帰りなさい」  と私を迎えてくれる。店の跡始末をして帰る私とは二時間ほど帰宅時間に差があり、光子のほうが必ず先に帰っていた。そして翌《あく》る日は必ず滝川外科へ谷口を見舞いに行くのだ。光子の部屋に泊る以上、それが私には義務のように思え、一日でも欠かすのは何か不道徳なことのように感じられた。  だが、内心では夜ごと光子の部屋に入り浸《びた》っている自分をさげすみはじめていた。 「代々木のお部屋、勿体《もつたい》無いわね」  或《あ》る晩とうとう光子がそう言った。いずれそのことが二人の間の話に出るだろうと予想していたのだ。 「今のところはな」  私は素知《そし》らぬ顔で答えた。 「そんなこと言ってないで、向こうを引き払ったらどうかしら」 「引き払ってどうするんだ」 「こっちへ来れば……」  言いかけた光子は私の顔色を窺《うか》がったようであった。多分私は気むずかしい表情をしていた筈《はず》である。 「嫌《いや》だよ、女のところへころがり込むなんて」 「そんな」  光子は悲しそうに言った。 「もうそんなことどうだっていいじゃないの。子供だって出来るんだし」 「待てよ」  私は煙草に火をつけた。すでに赤い柄の蒲団《ふとん》がのべられていて、二人とも寝巻姿だった。 「深く話合わないから仕方ないが、谷口の考えは谷口の考えだぜ」  私は煙草を深く吸い込んで気を落着けてから言った。 「あいつは俺たちが子供を作るものときめてかかっている。でも俺たちはまだどうするかきめてはいないんだ」  光子は黙って私をみつめていた。 「本当に生んで大丈夫かな」  私は自問するように言った。 「ルンペンでさえ……」  光子が言いかけるのを、私は押しかぶせるように言ってやめさせた。 「ルンペンはルンペンだ。ルンペンの世界のことは谷口にまかせとけよ」  光子はうらめしそうな表情でうつむいた。 「欲しくないのね」  細い声で言う。 「欲しくないことはない。でもな、今の状態で子供が生まれて、俺たちはちゃんとやって行けるだろうか」 「大丈夫かも知れないわよ、あたしだって働くし」 「女給を続けるのか」  私はその頃まだ生命のあった女給という言葉をわざと使った。 「赤ん坊は誰が見るんだ。お前が酔っ払いの相手をしている間さ」 「そんなひどい言い方をしなくたっていいじゃないのよ」  光子は憤《おこ》ったようだった。 「現実を言ってるんだ。少し谷口に影響されすぎてるんじゃないのか」 「谷口さんはいい人だわ」 「そりゃいい奴《やつ》さ。善人だよ。でもルンペンとくらべて俺たちは恵まれた生活をしているときめつけてもらいたくないな」 「どうして」 「あいつの言うことは綺麗《きれい》ごと過ぎる」  私は断定して見せた。 「たしかに、ルンペンにくらべれば俺たちも少しはましだろうさ。しかし、それでは俺たち以下のルンペンになぜなってしまうのだ。そうだろう。ルンペンははじめからルンペンなのか」  光子は寝巻の紐《ひも》をいじって何も言わなかった。 「世の中には数え切れないくらいの階層がある。目に見えない階段があるんだよ。その階段で今の俺なんかはどちらかと言えばルンペンのほうに近い所で生活しているんだ。子供を生んだためにやり損《そこ》なったらどうする。親子のルンペンができるぞ。お前はルンペンになっても子供を育てたいか。子供だってそれじゃ可哀そうだ」 「ルンペンになるってきまったわけじゃないでしょうに」  光子はそういう議論めいたことになると、まるで喋《しやべ》れなくなるが、それでも必死に言葉を探して言った。 「子供ができたらもっと一生懸命やるかもしれないわ」 「そりゃそうさ」  私は苦笑して光子をなだめにかかった。光子の言いたいことくらい、私にもよく判《わか》っていた。 「何も生んじゃいけないって言ってるんじゃないのさ。俺だって将来の設計くらいしてるよ。でも、今すぐそれができるかどうか、よく考えて見たいんだ。俺もお前もまだ若い。子供にしたって、もう一度やり直すだけの余裕はたっぷりあるからな」 「やり直すって……」 「子供を作ることさ」 「やだあ」  光子は笑い出した。 「何よ真面目な顔して」  私ははぐらかされたように光子の顔を見ていた。 「変な人」 「お前何か勘違いしてるんじゃないのか」 「勘違いって、子供を作り直すこと……」  光子は真顔に戻った。 「最悪の場合は、今度は見送るってことだよ」 「見送る……」  光子は自分の下腹の辺《あた》りを手で押えた。 「堕《おろ》すの……」  私は頷《うなず》いた。 「怕《こわ》い」  光子は私ににじり寄り、ゆっくりと体をもたれかけて来た。 「怕いわ、あたし」 「心配するな。それもまだきめてはいない」 「神様に叱《しか》られちゃう」  光子はいつの間にか泣き出していて、涙が私のはだけた胸を濡《ぬ》らした。 「大丈夫だよ」  私は自分が呆気《あつけ》なく後退したのを感じていた。     7  私はその日から二日ほど、光子の部屋へは行かず、代々木の自分のアパートへ帰った。光子はなぜ急に代々木へ帰るようになったのだと私をなじったが、 「もう一週間も帰っていないから、掃除ぐらいしなければな」  と軽く言い、決して子供の件で光子から逃げ出したくなったわけではないのだと言い聞かせた。  事実、私は光子から逃げる気は毛頭なかった。しかし、尻に火がついた感じで落着けなくなったし、光子のそばにいると何も考えず、ずるずるべったりに日を送って、抜きさしならない所まで行ってしまいそうな気がしていたのだ。  その意味では、光子が煩《わずら》わしくないとは言えなかった。光子のそばにいると、つい甘いことを言ってよろこばせ、それに自分が逆に引きずられてしまうか、さもなくば突き放した言い方をして、二人の関係を破局に近い所までこじらせてしまっただろう。  その二日間、私は滝川外科へも行かず、ごく神妙にしていた。いざとなると自分から何も手出しをせず、気合のようなものがたかまるのをじっと待つのが私の癖であった。  三日目は日曜日で、私は早ばやと起きて電車に乗った。浮浪児の谷口と再会した想い出のある上野から京成電車に乗り、青砥《あおと》で乗り換えて柴又で降りた。  柴又はまだあまり変っていなかった。  高校を出るまで、私はそこに住んでいた。早くに父をなくし、家族は私と母と弟の三人だけであった。生花の古流の免許を持つ母が、お花の先生をして細々と一家を支えていたのだが、私を大学へ送る力は到底《とうてい》なく、高校を卒業するとすぐに私は家を出て住込みで働きはじめたのだ。  沈みかけた舟から荷を三分の一だけ減らしたようなもので、私の家はそれでなんとか一息ついた。すぐに弟が高校へ進み、今は大学へ行っている。母も二人の息子のうち、一人だけは何とかして大学を出したかったらしい。  私は久しぶりの道をゆっくりと歩いて家へ着いた。それだけが唯一の財産で、古い庭つきの家であった。 「只今《ただいま》……」  裏木戸から入って庭へまわり、私はひっそりとした家の中へそう声をかけた。台所のほうからすぐに母が現われて縁側へ立った。 「久しぶりだね」  母は無表情で言った。 「うん」  私はしばらく庭を眺め、それからのんびりした態度で縁側に腰をおろした。真鍮《しんちゆう》のレールも雨戸の溝も昔のままであった。 「また降るかも知れないよ。傘《かさ》、持って来たかい」 「降らないさ」  九か月、いや、十か月ぶりに見る母の顔であった。 「弘志は……」  私は弟のことを尋ねた。 「日本橋の喫茶店でアルバイトをしてるよ」 「へえ……」 「どういうんだろうねえ。うちの血筋には水商売の気《け》なんかない筈《はず》なのに」  母は座敷へ入って長火鉢の前に坐《すわ》りながら舌打ちをするように言った。息子は堅《かた》い勤め人になってもらいたいのだ。 「あと一年だね」  私は庭へ顔を向けたまま言った。弘志はその春大学の三年生になっていた。 「どうなるんだかね」  母の声は元気がなかった。しばらくそのまま沈黙が続いたが、 「すぐ帰るの……」  と母のほうから訊《き》いた。私は靴を脱いであがった。 「派手なシャツを着ちゃって」  母は前に坐る私に、眉《まゆ》を寄せて言う。 「どうだい……」 「何がさ」 「お花のことだよ」 「駄目《だめ》ね」  母はお茶をいれはじめていた。疎開させてうまく戦災にもあわなかった古い茶箪笥《ちやだんす》の戸をあけると、私の使っていた湯呑《ゆの》みが昔のままの場所に置いてあって、母はそれを長火鉢の猫板の上へ置いた。 「あたしのお花はもう古いみたい。派手に盛りあげたのがいいんだってさ。それに近頃の娘さんは、こういう家《うち》で習うより、町なかの学校みたいな所で習いたがるらしいし」  たしかに、各種学校としての生花教室が増えているようだった。 「とうとうお前を待ってるうちに弘志は三年生になっちゃったじゃないか」  母の愚痴だった。  高校を出てすぐ、私は母に啖呵《たんか》を切ったのだった。小資本で開業できる水商売の世界へ入って、一応商売を憶《おぼ》えたら家のことはすべて俺《おれ》が背負う、と言ったのだ。  母にはそれが頼りになる言葉だったらしい。それまでなんとかこの家を維持して時が来たら売り払い、私の商売のもとでにしよう。そう思い込み、ひたすらその日を待っていたようだ。  だが私は、その世界を知れば知るほど自信を失って行った。むずかしさが判《わか》って来たのだ。 「弘志も何か考えているらしいよ」  茶をついでくれてから母は言った。 「考えてる……何をだい」 「このままじゃいいとこへの就職はむずかしそうだってさ」  私は久しぶりの母の茶を味わいながら考え込んだ。 「何かあったのかい。陰気な顔して」  母が尋ねた。 「いや、俺のことじゃない。弘志のことを考えてたのさ。……そうか、あいつもそうかなあ」 「何がそうかなのさ」 「卒業が近づくにつれて、むずかしさが判《わか》って来たんだろう」 「二人ともだらしがないだけだよ」  母は突き放すように言った。 「で、どうするって……」 「学校を変えたいなんて言うんだよ」  今度は訴えるような言い方であった。 「今更学校を変えてどうなるんだ」 「わたしにはよく判らない。会って訊《き》いとくれよ」 「うん」  私は生返事をしてまた茶を啜《すす》った。 「そろそろ俺にまかせる気はないかい」 「今頃になって何言ってるのさ」  母は笑った。 「いい手があるんだ。みんな寄り集まって暮らせるぜ」  それが母の泣きどころだった。弟もアルバイトの連続だったが、アルバイトでも短期間の住込みでやれる口があることに気付いてからは、家へ戻らない日が多くなっていた。  そうなってからの母の口癖は、みんな寄り集まって暮らしたい、という言葉になっていたのだ。 「へえ……」  母は擽《くすぐ》ったそうな顔になった。 「喫茶店、嫌いかい」 「うちがやるの……」 「うん」 「綺麗《きれい》ごとだね」  けなしているようでもあり、乗り気のようでもあり、どちらにも取れる返事だった。     8 「お金はどうするのさ」  母はまず判《わか》り切ったことを私に訊《き》いた。 「この家《うち》、売るんだよ」 「喫茶店なんて原っぱじゃできないよ。人のたくさんいる所じゃなければ」 「判ってる。そりゃ、銀座や新宿で店を出そうと言ったって無理さ。でも、電車の駅のそばならいいだろう」 「駅前……」 「そう」 「どこの駅よ」 「それを探すのさ。弘志だって喫茶店のバイトをやってるじゃないか。俺だってやれるし、レジくらいならお袋が坐《すわ》っててもいい」 「ばかだね、こんな婆さんを」 「郊外の駅だよ。美人喫茶をやろうというんじゃないぜ。バーの女の子たちの中にも、本当は酔っ払いの相手なんか性《しよう》に合わないと思っている連中が多いんだ。俺にも手伝ってくれる仲間くらいいるよ」 「どんな人……」  私は光子のことを切り出すチャンスだと思ったが、自重して言わなかった。 「たくさんいるさ」 「でも、そんな都合のいいお店があるかしら」 「母さんがいいって言えば、探しはじめるぜ」  母は大きな溜息《ためいき》をついて見せた。 「どうとも勝手にしておくれ。お前たちはもう一人前なんだし、あたしはくたびれたよ」 「探して見る」  私はそう言って話を打切った。  それから一時間半ほど、私は母ととりとめのない会話を続けた。喋《しやべ》るのはもっぱら母のほうで、私は聞き役であった。近所のこと親戚のこと、お弟子さんたちのこと。一人きりで過す日々に積った憂さを一気に晴らそうとするように、母は喋りまくった。  そして私が帰ろうとすると、 「お線香くらいあげて行くもんだよ」  と言った。私は座敷へ引き返して仏壇の前に坐《すわ》り、線香に火をつけてから、死んで二十年もたっている父の位牌《いはい》に手を合わせた。  帰りの電車の中で私はそのことを思い返し、母がやる気になってくれたのを悟った。一家の新しい局面へのスタートを、父に報告させたかったのだ。  すると私の気持は急に明るくなった。アイデアを喋っただけなのだが、それが実現可能なことであるように思えて来たのだ。現金なものでそうなると無性に光子に会いたくなり、乗り換えのたびに駅の階段を走ってあがりおりして新宿へ急いだ。  成子坂下へ着いて光子の部屋のドアをあけると、光子は窓を背にちんまりと体を丸めて坐《すわ》っていた。 「どうしたんだ」  入口に立ったままそう言うと、光子は目に涙をいっぱい溜《た》めて、 「ばかぁ」  と私を見た。 「何泣いてるんだよ」  私はテーブルに向き合って坐《すわ》った。 「代々木へ行ったらいないんだもん。行き違いになったかと思って、タクシーで帰って来ちゃったのよ。どこへ行ってたのさあ」  光子はポロポロと涙を流した。 「ばかだな、お袋のとこへ行ってたんだよ」 「お母さんのとこ……」 「そうさ。柴又へ行って来たんだ」  光子は拇指《おやゆび》の関節の辺《あた》りで鼻の下を押え、はなをすすった。 「何しに……」  声が震えていて、すぐしゃくりあげる。 「ちょっと指輪を見せろよ」  私はそう言って光子の左手をテーブルのまん中に置かせた。 「こいつ、本物になりそうだ」  薬指の指輪をいじりながら私は言った。 「本物って……」 「子供、生めそうだ」 「どうしてなの」 「柴又の家を売って喫茶店をやるのさ」 「ほんと……」  光子は呆《あき》れたような顔で私をみつめた。 「でもお母さんはどうするの」 「みんなで一緒に暮らすのさ。お前も手伝うんだぞ」 「ウエイトレスをやるの……」 「バーテンだろうがウエイトレスだろうが、何でもやらなければ。わが家の店なんだからな。弟も手伝わせる。お袋だってレジぐらいやれるだろう」 「あなたはどうするの」 「俺もやるさ」  光子は微笑した。その微笑はすぐ大きくひろがって行った。 「一緒に暮らせば赤ん坊ができてもお袋が面倒見れる」 「あたしとかわりばんこね」  光子は手で頬《ほお》の涙をぬぐいながら言った。 「谷口と俺とは違うんだ。あいつの言ってることは夢みたいなもんさ。俺はもっと現実的だよ。妊娠したら生む。そうには違いないが、ちゃんと育てられるめどがつかないのに生んじゃうのは無責任じゃないか」 「ちゃんと考えててくれたのね」 「当たり前だろう」  すると光子は坐《すわ》り直し、膝《ひざ》に両手をついて、ペコリと頭をさげた。 「ごめんなさい」  そのとたん、私の心にまた不安のかげが舞い戻ったようだった。  光子は私が堕《おろ》せというかも知れないと覚悟していたのだ。その可能性がなくなったと思ったので私に謝ったのであろう。だがそうなると、私は自分が今口にしたことを是が非でも実現させなければならなくなる。その自信はまだとても持ちかねるのだった。 「外へ出ようか。今日は降りそうもないし」  六月ももう終りで、このところ毎日雨が降っていた。 「うん」  光子は鏡台の前へ行って顔をなおしはじめた。私はそれを眺めながら、なんとかしてさっきまでの明るい気分に戻ろうとしていた。 「テレビの下を見てよ」  光子はパフを使いながら言った。 「何だい」 「まだ買ってないんでしょう……」  テレビをのせた小さな棚に、この二月に創刊したSF雑誌の最新号が置いてあった。 「お、そうか。忘れてたよ」 「ちょっと読んで見たけど、むずかしいのね」 「そんなことないさ」  私はその雑誌のページをめくりながら答えた。     9  はずみがついたのか、そうなる時期へさしかかっていたのか、次の週の火曜日、私が店へ出て準備をはじめていると、ママがいつもよりだいぶ早めに姿を見せて、 「誰か喫茶店をやる人いないかしらね」  と言った。私は野菜をきざむ手をとめ、カウンターでちょっと疲れたような顔をしているママをみつめた。  そのママがハンドバッグから煙草をとり出したので、私は無意識に庖丁《ほうちよう》を置き、素早《すばや》く手を拭《ぬぐ》ってマッチを擦《す》った。ママは黙って私が差し出した火で煙草をつけた。 「どこかに店があいてるんですか」 「そうなのよ。誰かいない……」 「どこ……」 「阿佐ケ谷よ」 「大きい店……」 「二階があるから広さで言えばちょっとしたもんだけど、古いお店で床も板張り」 「売るんですか」  私は生唾《なまつば》を嚥《の》み込んで言った。 「貸すの。売ってもいいそうだけど」 「図面なんか、ママが持ってるの……」 「押しつけられちゃったのよ」  ママは大きなハンドバッグを右手で軽く叩《たた》いて見せた。私はカウンターの外へ出ると、ママのとなりへ坐《すわ》った。 「見せてくれますか」 「いいけど」  ママは咥《くわ》え煙草でバッグをあけ、古びた図面を出して私に寄越《よこ》した。 「心当たりでもあるの……」  私は胸を躍《おど》らせて図面をひらいた。決して小さい店ではない。テーブル数にして三十近くは置けるだろう。図面についているメモには、権利金や家賃が書いてあり、私が心づもりしていたより、少し低めの数字であった。 「借り手、いるようだな」  私がつぶやくと、 「誰よ。あたしの知ってる人……」  と、ママは乗り気だった。 「俺」 「あんたが……」 「そう」 「嫌《いや》ねえ」  ママはがっかりしたように言う。 「本気ですよ」 「まさか」 「そろそろ何かはじめなければ、お袋もくたびれたって言ってるし」 「本気なの」 「ええ」 「志村君」  ママは奥の掃除をしていた志村を呼んだ。志村はすぐに来た。 「マネージャーはちょっと留守になるけど、ちゃんとやっといてよ」  志村は、ハイ、と言って私を見た。 「これから行くの……」  私はママに言った。 「こういうことは急いだほうがいいのよ」  ママが行動的な性格なのではなくて、それは長年の経験から来ていることだった。店探しは嫁探しと同じで、縁次第のようなところがある。素早《すばや》く物件にじかに当たっておかないと、その気になってもタッチの差で逃げられて後悔することになるのだ。  私とママはその足で阿佐ケ谷へ行った。  木造の二階だてで、床油のこってり浸《し》み込んだ板張りの古い店だったが、長い間に少しずつ手入れをして、使い勝手もよくなっていたし、何よりも駅のすぐそばだった。  営業しているその店へ入ってコーヒーを注文すると、ママが店の人に断わってくれて、私は念入りに検分してまわった。  椅子もテーブルもそのまま使えた。二階は客をあげて最初のオーダーを聞き、それを届けるとあとは放ったらかしになるが、席ごとに呼鈴《よびりん》のボタンがついていて、旅館の帖場《ちようば》のようにカウンターで呼ばれたテーブル番号が判《わか》る仕掛になっていた。アベック専用と言った具合だ。 「どう……」  ママが訊《き》いた。 「借りたい」  間に不動産業者は入っていず、今の持主とじかに取引きできるそうだった。 「あたしが先方に言っておさえててあげるけど、早くきめてよ」  阿佐ケ谷へ来るまでの間にあらましのことは話してあった。 「善は急げだから、明日一番で柴又へ行ってきます」  ママは応援するように私の肩を叩《たた》き、伝票を持ってカウンターのほうへ行った。  その帰り、ママは電車の中で別な話を持ち出した。 「でも、あんたあの店へかかり切っちゃうのはどうかしらね」 「と言うと……」 「新宿のバーが切りまわせるのに、勿体《もつたい》なくないかしら。あそこは弟さんやお母さんにまかせて、あんたは今までどおりやったほうがいいんじゃないの……」  私はその時まで、まだ光子のことは打明けていなかった。 「実は俺、結婚しようと思ってるんです」 「やだこの人。彼女いたのね」  ママが高い声で言ったので、まわりの学生がニヤニヤと私を見た。 「これなの」  私は腹に手を当てて見せた。 「ばかねえ。どんな人……」 「うちの店にちょっといた光子」 「光子ちゃんと……」  ママは私を睨《にら》んだ。 「判《わか》った。それでローズへ移したんでしょう」 「ええ」  ママは黙り込み、しばらくすると私の肩に手を置いて言った。 「やめないでよ。あたしにも計画があるんだから」 「計画って何です」 「もう一軒やりたいの。あんたは和食もやれるんだし、当てにしてたのよ」  悪くない話であった。阿佐ケ谷の店にさえ心配がなければ、私は外で稼《かせ》いだほうがいいにきまっていた。  翌日から私はいそがしくなり、夢中でとび歩いた。  谷口が退院したのは、そんな騒ぎの最中であった。入院してから一か月と十日あまり。特に深く尋ねはしなかったが、例のルンペンの金や今谷先生のカンパの分のほかに、谷口は自分で工面《くめん》したらしく、治療代の跡始末は私たちがしなくてもすんだようだった。     10 「谷口さんの全快祝いをしなくては」  光子がしきりにそう言ったが、私はそれどころではなかった。店の件が急ピッチで進行していたのだ。柴又の家を売るのは母にまかせ、阿佐ケ谷の店のほうはママが骨を折ってくれたが、私は両方へ要所要所で顔を出さねばならなかった。  それでも、退院して来た日に谷口に会った。谷口は夕方四番地へ現われ、ママや女の子たちが顔を揃《そろ》えたところで、 「いろいろご迷惑をおかけしましたが、おかげさまで元気になりました」  と挨拶《あいさつ》をした。 「これからどうするんだ」  私が二人きりになってから尋ねると、谷口はいつもの邪気のない笑顔を見せ、 「だいたい俺にはこういう世界は向いていないよ。融通《ゆうずう》がきかないからね。病院に入っている内に目当てもついたし、何とかやって行けそうなんだ」  と答えた。  私はうわの空でそれを聞き流した。自分のことで頭が一杯になっていたのだ。 「光子と結婚する。大したことをするわけもないが、もし式みたいなことをやることになったら来てくれよ。光子が谷口さん谷口さんと言ってうるさいんだ」 「うん」  店がはじまる時間だったし、何よりも私は追いたてられるような気分でいたから、谷口との別れはひどく呆気《あつけ》ないものだった。  実はそれでも一応、ママに頼んでは見たのだ。四番地はとにかく、新しい店のほうででも使ってはくれまいかと。しかしママは谷口については強く警戒していた。谷口は大きなトラブルの種をかかえていると思っているらしい。だからとうとう首を縦に振らなかったのである。  谷口はその足でローズへまわり、光子にも挨拶して行ったらしいが、去る者を追わないのが水商売の世界に生きる者のさだめのようなものだった。それは、去る者を追えない、と言ったほうが正しいのかも知れない。何せ私たちは船の鼠《ねずみ》のような存在なのだった。  ママが仲だちをしてくれたから、私としても四番地のほうの手を抜くわけには行かなかった。また、阿佐ケ谷で店をはじめると言っても、居抜きで借りたのだし、伝票やマッチやコースターなども残りがたくさんあって、開店と言ったような騒ぎにはならなかった。  ただ、店の近くに母や弟が住むアパートを探して、そこへ引越して来るだけだった。だから私は四番地を休みもせず、昼の間だけあちこち駆けまわっていた。  光子のことは、すまいの問題からごく自然にけりがついた。 「お前もこっちへ越して来なければだめじゃないか」  母にそう言われ、 「俺だけじゃないんだよ」  と私は答えた。 「女の人だね」  母はもう察していた。ひょっとすると四番地のママから聞いていたのかも知れない。私の言うことはいちいち疑ってかかるが、四番地のママには充分プロとしての敬意を払っていて、私がその店の主力にならず外で働くことも、案外あっさりと納得してくれていた。  その話が出た翌日、光子は母と会った。会ったと言うと改まった感じだが、実際には引越しの手伝いに行ったのだ。私と二人で柴又へ行き、すでに母がまとめてあった荷物をトラックに積み込む手伝いをして、その荷台のすき間に乗って阿佐ケ谷へ向かったのだ。 「勿体ないわねえ」  トラックに積んだ荷物の間で、光子はしみじみとはじめて見た柴又の家のことを言った。 「綺麗《きれい》なお庭があるのに」 「生産性がない家なんて、俺たちには荷物になるだけさ」  そう割り切ったように答えたが、さすがに私も淋《さび》しかった。何と言っても長年住みなれた家なのだ。 「あとにどんな人が住むのかしら」 「よせ」  私はトラックの上にいるのをさいわいに、日頃出したこともない大声で光子の口を封じた。 「ごめんなさい」  光子は私の気持に気付いて、私以上に悲しんだようだった。お互いに少し離れて坐《すわ》っていたが、荷物を縛ったロープにつかまって私のほうへ近寄って来ようとした。  新四ツ木橋に近付いているところだった。トラックがゆるく大きく揺れた。光子はバランスを失い、左手でロープを掴《つか》んであおむけに私の膝《ひざ》の上へ倒れかかった。  私は、危いっ、と叱《しか》り、光子はキャーッと叫んだ。  もう少しで光子は道路へ転落するところだった。しかし危ういところで私はその体をだきとめた。  光子があおむけに私の膝に体を預け、ほっとして微笑を泛《うか》べかけた時、最後にトラックへ積み込んだ、母の昔風の頑丈な裁縫箱が、光子の腹のまん中辺りへドスンところげ落ちてしまった。  あ……と思ったがもう遅かった。光子の顔が私の目のすぐ下で苦しげに歪《ゆが》んだ。 「大丈夫か」  光子はしばらく息もつけなかったようだ。 「失敗した。落ちないと思って安心していたんだ」  裁縫箱はロープで縛った荷物の間にきっちりとはさみ込んだつもりでいたのだ。 「ううん」  光子はやっと息をつくと、苦しげな顔で首を横に振った。 「あたしが悪いの。立っちゃいけないって言われてたのに」  それでも少しずつ気分が治って行くようだった。 「このままにしてていい……」  甘えるように言った。 「いいよ」 「久しぶりだわ。空を眺めるなんて」  光子は私の膝を枕にして、トラックの荷台の狭いすき間に横になっていた。 「きのう、赤ちゃんがお腹の中で動いたみたい」  光子はそう言ってから、なぜか涙を二筋ほど私の膝へ落した。  第四章     1  本当に心配すると、そのことを口に出すのさえためらわれるものだ。トラックの上で光子の腹に裁縫箱が落ちた時、私はすぐに流産するのではないかと思った。  それは光子も同じだったらしい。走るトラックの上で空を眺めて涙を流したのも、おなかの子のことを思ったからに違いなかった。  しかし、二人ともそれを口に出して言えなかった。  阿佐ケ谷につくと、私たちはアパートへ荷物を運び込んだ。そのアパートは細い道が曲がりくねった場所にあり、トラックはアパートの前まで入って来れなかった。  注意が足りなかったと言えばそれまでだが、光子にして見れば初対面の私の母の前で、少しでも甲斐甲斐《かいがい》しいところを見せたかったのかも知れない。七、八十メートルの距離を、トラックからアパートまで私の相棒《あいぼう》になって、鏡台や火鉢を運んだ。  が、トラックが帰って、アパートの中で段ボール箱につめた食器類をとりだしはじめた時、光子は急に蒼《あお》い顔でトイレに駆け込み、長い間出てこなかった。そしてやっと出て来て手を洗っていると思ったら、そのまま洗面所の前へうずくまって呻《うめ》きはじめた。  しきりに疼痛《とうつう》を訴え、下腹部が引きつるようだと言った。  母は私と光子の騒ぎを黙って聞いていたが、突然やって来て光子の体をうしろから抱きかかえ、腰の辺《あた》りを強く押した。 「ここが引っ張られるみたいなのね」  光子はもう遠慮も何もなく、 「そうなの」  と子供のように言った。 「哲郎。流産だよ」  母は冷たい目で私を睨《にら》んだ。 「お医者さんがどこにあるか聞いておいで」  私は外へとび出し、となりの部屋のドアをノックした。 「産婦人科の病院はどこでしょうか」  となりの奥さんはいきなりそう言われてびっくりしたようだったが、すらすらと場所を教えてくれた。 「おぶってお行き」  帰ると母はもう光子を入口まで連れて来ていて、有無《うむ》を言わさず私の背中へ押しつけた。 「弘志。ついてってやりな」  光子をおぶった私は、弟と一緒に病院へ急いだ。その歩くたびトントンと弾むリズムの中で、光子は私の耳に口を寄せ、泣きながら言い続けていた。 「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」  なんと言う短い命なのだ。光子の声を頭の中へ浸み込ませながら、私は自分のはじめての子の運命を思った。  病院へかつぎ込むと、すぐ光子は処置室へ運ばれた。ひどい苦しみようで、叫び声が廊下の外まで聞こえて来た。  その声が静まった時、私と光子の子供は、もうどこにもいなかった。  二階の殺風景な病室へ移された光子は、薬を注射されて深い眠りにおちていた。顔は蝋色《ろういろ》で生気がまったくなかったし、手を握って見たが、カサカサに乾いたような感じだった。  握り返して来ない力の抜けた手の薬指に、安物の指輪があった。それをみつめていたら、不意に涙が溢《あふ》れた。次から次へと自分の幼い日の記憶が脈絡もなく泛《うか》んでは消えるのだ。私はその子が女の子であった場合を想像することができなかった。自分の幼い日々の回想が、生まれ出る筈《はず》だった一人の男の子をしのぶよすがになっているのであった。  母はその次の日の午前中に光子を引取り、阿佐ケ谷のアパートに置いて面倒を見てくれた。  私は次の日から代々木へ戻り、毎晩店へ出ていた。 「いらっしゃいませ」  ドアがあくたびにそう言い、 「有難《ありがと》うございました」  と帰る客に言う。  すべてが今まで通りだった。しかし、私の心の中で、何かが少しずつ変りはじめたようだった。 「よう、元気でやってるかい」  ある晩、榊さんが来てカウンターの向こうに坐《すわ》るなり私に声をかけた。 「元気でしようがないんです。何とかしてください」  私は掌《てのひら》を突き出して言った。 「トルコ風呂というのはいいもんだそうだな」  榊さんは私の掌を軽く叩《たた》いて笑いながら言い、連れの若い紳士に、 「これがここのマネージャーの月岡君ですよ」  と、叮嚀《ていねい》な言い方をした。 「はじめまして」  私はその若い紳士に頭をさげた。身だしなみのいい人だった。 「榊さん、今度は医学の本をお出しになるんですか」  私がそう言うと、榊さんは怪訝《けげん》な顔で、 「なぜだい」  と首を傾《かし》げた。 「判《わか》るかい、やっぱり」  連れの若い人が私に微笑を泛《うか》べて言った。 「ええ」  私は頷《うなず》いた。病院の匂いがその人から漂い出していたのだ。消毒液の匂いだ。 「どちらの先生ですか」  榊さんに尋ねると、榊さんもやっと匂いで判ったらしいと気付いて、 「そうか、君らは敏感なんだな」  と感心して見せてから、 「親戚の子が交通事故を起した時ご厄介になった先生なんだ」  と言った。 「ほう……」 「滝川外科と言ってね」 「ああ、知ってます」  私は頷《うなず》いた。 「谷口君が入院していたね」  若い先生が言った。 「その節は大変お世話になりました」  私はまた頭をさげた。 「何か君に尋ねたいことがおありだそうなので、ご案内して来たのさ。あそこの院長さんは先生のお父さんなんだよ」 「あ、そうでしたか」  私は榊さんと滝川外科の若先生を交互に見ながら言った。 「で、お尋ねって、いったい何でしょう」  すると滝川先生は真剣な目で私をみつめた。 「谷口|怜悧男《れりお》というのは君の何に当たる男かね」 「友達です。小学校からの」 「今どこにいるか知っているかね」 「さあ……あいつは孤児でして、実を言いますとここへ来るまで宿なしだったらしいんですよ」 「連絡はつかないかい」  私は首を横に振った。 「何かあいつがご迷惑をおかけしたんでしょうか」 「いや、そうじゃない。そうじゃないが、あまりふしぎな患者なのでね」  滝川先生はあいまいに言った。 「ふしぎな患者ですか、あいつが……」 「そう。医学的にね」  滝川先生は真面目な顔で言った。     2  榊さんは滝川先生に遠慮したのかも知れない。 「先生、向こうに知り合いの顔が見えるのでちょっと失礼させて頂きます」  と言ってスツールをおりた。 「どうぞどうぞ。わざわざご案内くださって有難《ありがと》うございました」  滝川先生はまだ三十前くらいの年恰好《としかつこう》で、年上の榊さんに叮嚀《ていねい》に礼を言っていた。それ程深い付合いではなかったようだ。  私は志村に中央のポジションを預けて、カウンターの隅のほうの滝川先生の前に居据った。さいわいそう立て込んではおらず、奥のほうの客を志村が適当に捌《さば》いてくれている。 「ヘネシーをもらおうか」  滝川先生が言ったので、私は棚からスリー・スターをおろした。 「いや、V・S・O・Pにしてくれ」  多分、父親の跡を継いで遠からずあの病院の院長になる人なのだろう。高い酒を注文しても気障《きざ》な感じはなく、私はその先生に好感を持った。 「よかったら君も飲んでくれよ」  私はハイと答え、六オンスのタンブラーに自分のを注《つ》いだ。 「なぜブランデー・グラスを使わないんだ」  先生はブランデー・グラスをゆすりながら尋ねた。 「こっち側でそのグラスを持ってたんじゃ、どっちがお客さまだか判《わか》らなくなりますよ」  私は笑って見せた。 「そういうもんかね」  先生は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いた。 「谷口|怜悧男《れりお》というのは変った名だね」 「ええ、ちょっと変ってます」 「本名かい」 「そうです。学校で先生がそう呼んでいましたからね。小学生の時から偽名を使う奴《やつ》なんていないでしょう」  先生は笑った。しかし私は内心逆のことを考えていた。谷口自身も言っていたが、怜悧男という名はとにかく、谷口という姓については疑問の余地がありそうだった。  怜悧男という変った名前を谷口が嫌っていたことは知っていた。そして嫌った理由もこの間谷口に聞いて判った。何者かから隠れて暮らす必要が谷口母子にはあったらしいのだ。怜悧男という変った名が目立って困ったそうなのだから、多分それは生まれてすぐにつけられた本当の名に違いない。  しかし谷口という姓は怪しかった。ガラス工場の主人が何か細工《さいく》をして小学校へも通えるようにしてくれたのなら、姓はその時変えてしまったのかも知れない。  しかしその辺のことは私が軽々しく他人に喋《しやべ》っていいことではなかった。 「小学生の頃からの友達だと言うが、それ以来ずっと付合っているのかね」 「いいえ。間に戦争がありましたからね。ですから一度別れ別れになって、戦後すぐ中学二年の時に再会したんです。でも、その時は住んでいる場所が離れてしまっていたものですから」 「その頃はどこに……」 「僕は葛飾《かつしか》の柴又で、谷口は上野のほうです」 「上野か」 「ええ」  私はさり気ない態度を示している滝川先生が、その実かなり緊張して私の話を聞いているのに気付いた。何か迂闊《うかつ》には喋れないぞという気がした。 「上野のどこ……」 「さあ」  私は首を傾《かし》げて見せた。 「僕らの中学二年と言うと、昭和二十二年ですからね。戦後のドサクサの真っ最中ですよ。上野も今とはだいぶ様子が違っていますし、何と言ってもまだ子供でしたから、現在のどの辺に当たるか、ここですぐには……」  嘘《うそ》をついているわけではなかった。たしかに谷口のいた浮浪者たちの小屋が、上野の山のどこにあったか、正確にさし示すことはできなかったのだ。 「当時彼は何を……」  滝川先生はそう言いかけて苦笑した。 「そうか、中学二年だったな」  私は谷口が浮浪児の一人だったことを言わずにすんでほっとした。 「それで……」  滝川先生は話の先をうながした。 「そうですね、一年半ほどの間、時々会いましたでしょうか」 「君のほうから訪ねて行ったの……」 「ええ。僕もあっちこっち歩いて見たいさかりですし、柴又にいましたから京成電車で上野に出ることが多かったんです」 「なるほど、そうか」  滝川先生は飲《い》ける口らしく、最初のブランデーをあっさり空《あ》けてしまった。 「お注ぎしますか」 「うん。それにチェイサーを……もっと冷たくして」  私はブランデーを注ぎ、シェイカーに氷と水をいれてよく振ってからタンブラーに冷たい水を注いで先生の前へ置くと、レモンの皮をその水の上で曲げて香りをつけた。その頃はそんなやり方がはやっていた。 「そのあとは……」  先生が訊《き》く。 「ええ、高校になると自然に遠ざかりました。お互いに新しい付合いが増えますからね」 「そうだな」 「先生はお幾つですか」 「君と同じらしいよ」 「へえ、そうですか」  私は少し驚いていた。私より年上のような感じがしていたのだ。もっとも、バーテンなどしていると、たいてい自分より年上に思ってしまうものだ。     3 「谷口怜悧男について、何か変ったことはなかったかね」 「変ったこと……」  私はまた首を傾《かし》げた。 「たとえば学校の成績はどうだったね。勉強がずば抜けてよく出来るとか、暗算が得意だとか……」 「いいえ」  私は笑った。 「ごく並の生徒でしたね」  谷口は中の下くらいの成績だった筈《はず》である。 「絵が上手じゃなかったかい」 「どっちかと言うとへたですね」 「手先は器用じゃなかった……」 「いいえ」 「運動は……」 「大したことありませんよ」  谷口は私より走るのがずっと遅かった。 「おかしいなあ」  今度は先生が首を傾《かし》げて言った。 「いったい谷口の何をお知りになりたいんですか」 「すべてだよ」  先生は謎《なぞ》めいた表情を泛《うか》べた。 「今度会ったのは、それじゃ久しぶりだったんだね」 「ええ。あいつ失業してましてね。職探しでもしてたんでしょう。新宿をぶらぶらしている時、バッタリ僕と会ったんです」 「それでこの店へ入れたわけか」 「ええ」 「入れてどうだった」 「何せ素人《しろうと》ですからね。でもみんなに好かれてはいました。悪気《わるぎ》のない奴《やつ》ですから」 「二週間ほどしかいなかったわけだね」 「ええ」 「それじゃ大したことは判《わか》らないな」  先生は小さく舌打ちをした。 「ねえ先生、教えてくださいよ」  私は滝川先生の酔い具合をたしかめながら尋ねた。目のふちに少し赤味がさして来ていた。 「何をだね」 「谷口のことです」  すると先生は大声で笑った。 「訊《き》きに来たのはこっちだよ」  酒は強くても気分を開放するのが早い人がいる。先生はどうやらそのタイプらしく、最初から見ると言葉がずっと軽くなっていた。 「でも、僕もあいつの幼馴染《おさななじみ》として知りたいんです。射たれたのはあいつのせいなんですか」 「俺《おれ》は刑事じゃないよ」  先生は肩をすくめて見せた。 「ただの医者さ。やたらに人の体を切りたがる医者さ」 「あいつの体はどこかおかしいんですか」 「おかしいよ」 「どこがです」 「それを知りたいんだよ。だからこうして君に協力してもらっているのさ」 「何がおかしいんです。おかしいことははっきりしているんでしょう」 「君は気が付いていないのかい」 「谷口の体がおかしいってことですか」 「そうさ」 「いいえ、気が付きませんでしたね」  すると先生はグラスを置き、それを横へどかしてカウンターの上へ両肱《ひじ》をついた。 「谷口怜悧男はこの店で仕事中に射たれた」 「ええ」 「誰がなぜ射ったかを知ることは俺の領域じゃない。だが、どこを何で傷つけられたかは俺の領分さ」 「そうですね」  滝川先生はカウンターの上に置いたプラスチック製らしい洒落《しやれ》たシガレット・ケースをあけてフィルターつきの煙草を一本指にはさんだ。私はマッチに火をつけようとしたが、吸うのではなくて、その煙草を自分の胸に当てて見せた。 「ここをやられたんだ。右の胸をな。弾丸は肺を突き抜けて背中からとび出して行った」 「ええ。あのピアノにまだ痕《あと》が残っています」  先生はピアノのほうを見て頷《うなず》いた。 「ちょっとやそっとの傷ではない。命にかかわる傷だ。重傷だよ。あれだけの傷を受けたら、死んでもふしぎはない。癒《なお》るとしても時間がかかるよ」 「そうでしょうね」 「谷口はうちの病院にどれくらい入院していた」 「一か月とちょっとです」 「そう、四十日足らずだ」  滝川先生はそう言って私をみつめ、煙草を咥《くわ》えた。私はすでに指にはさんでいたマッチですぐに火をつけた。 「判《わか》らないかなあ……」  先生は煙を吐き出して嘆くように言った。 「判らないんですよねえ」  私も同じ調子でおどけた。 「普通で二か月以上、もともと体力のない者なら三か月はたっぷりかかるだろうな」 「え……」  私は目を剥《む》いて見せた。 「そんなにかかるんですか」 「そうさ。それを谷口はたったの四十日そこそこで出て行ってしまった」 「大丈夫でしょうか」 「大丈夫なんだよ、それが。谷口はうちから出る時、完全な健康体だった」 「丈夫な奴《やつ》だ」  私は笑った。 「笑いごとじゃないんだ」  先生は厳しい表情で言った。 「これは異常な出来事なんだ。例がないと言っていいんじゃないかな」 「そうなんですか……」 「そうだ。右肺貫通銃創《みぎはいかんつうじゆうそう》で全治一か月。まあ玉の当たり所にもよるから一概に言うことはできないだろうが、あの傷の状態では全く異常な回復力さ。君らに言ってもよく理解してもらえないだろうが、谷口怜悧男は何千万人、何億人に一人というような特異な体質を持っていると俺は考える」 「SF的だな」  私がつぶやいたのを滝川先生は聞きのがさなかった。 「おや、君もSFファンかね」 「そうなんです」  SFという呼び方さえろくに知られていなかった頃である。私と滝川先生はたちまち意気投合した。     4 「おやじは古くてね」  滝川先生はぼやいた。もうだいぶ酔っていて、連れて来た榊さんも先に帰ってしまっていた。 「谷口のことだって、俺が異常だと騒ぐと怒る始末さ。体質よりは傷の程度のせいにしてしまうんだ。おやじ達が異常だと言うのは、実際には異常でも何でもなくて、一般的ではないという程度のことなんだ。何億人に一人とか、何千年に一度とかいうような異常は、冷静な科学者のとりあげるべきことではないと考えてやがる。U・F・Oの話なんか本気でしてみろ、勘当《かんどう》されちゃうよ」 「で、谷口はどうしてそんな異常な体質を持ったんでしょう」 「そこさ。俺は家系を調べたいんだ。谷口怜悧男をとっつかまえて来て、徹底的に研究して見たい。だいたい俺は外科に向いてなかったんだ。それをむりやり外科にさせられてしまった」  贅沢《ぜいたく》を言う人もいるものだと私は感心した。あれだけの病院を持ちながら、まだ不服そうにしている……私にはよく理解できないことであった。 「たのむよ。谷口のことで何か判《わか》ったら俺に知らせてくれないか」 「ええ」 「きっとだぞ」 「約束します」  口の堅《かた》いのがバーテンの基本だと言っても、数少ないSFファンにめぐり会えたのだから別だった。それに、私も少しブランデーを飲みすぎていたようだ。 「たとえば、超男性というのがあるのを知っているかい」  先生はもう医者というよりSFファンになり切って私に言った。 「いいえ。超男性ですか」 「SFはスーパーマンのようなものをよく出して来るし、ミュータントもよく使う」 「そうですね」 「ところが、どういうミュータントなのかという点になると、医学的に、いや生物学的に少しもはっきりさせていない」 「お医者さんから見たら物足りないでしょうね」 「そうなんだ。超男性と言うのは性染色体がX・Y・Y……性染色体というのは、判り易《やす》く言えばセックスを決定する要素さ」 「遺伝子……」 「そう。女はX・X。男はX・Yだ。正確にくわしく言えば少し違うが、まあ大ざっぱにそう憶《おぼ》えて置いてもらおう」 「それじゃ、X・Y・YというとYがひとつ多いじゃないですか」 「うん。だから超男性なんだよ」 「Yは男性なんですね」 「そう。男は猥褻《わいせつ》なもんさ」  先生もSFファンらしく冗談好きのようであった。 「現在では、ヒトの性染色体を大きさの順に並べそれを七群に分ける」  先生はカウンターの上にマッチ棒を並べて私に説明していた。 「A・B・C・D・E・F・Gさ。XはこのC群。Yは最後のG群に入る」 「Yの染色体はいちばん小さいんですね」 「うん」  先生はマッチ棒を足して、ずらずらと横にたくさん並べた。 「A群」  先生の指が三本のマッチを別にした。 「B群」  今度は二本。 「C群はこれが七本に性染色体のXが一本で合計八本」  八本並べる。 「Dは三本。E群も三本。F群が二本でと」  言う通りに並べて行き、 「G群は三本でそのうち性染色体のYが一本ある」  と並べおわった。 「実はこれがみな対《つい》をなしているから……」  先生は並べおえたマッチ棒の一本ごとに、一本ずつ添えて行った。 「性染色体は全部で二十二の倍、つまり四十四になる。そして性染色体のXとYを加えると、四十六だ」 「XとYは対じゃないんですね」 「そうだ。ヒトの染色体の基本数は、あらゆる人種を通じて四十六なんだ」 「聖なる数ですね」 「そういうことになるな。  ところがこの染色体が、一つ多かったり少なかったり、また対になっている一方が正常なものより長かったり短かったりすると、異常があらわれる」 「突然変異ですか」 「いや、そうとは言えない。染色体異常と言う奴《やつ》さ。たとえばこのG群といういちばん小さな染色体の、全体で言うと二十一番目の奴が一つ余分にあると、目尻がつりあがって目頭に特殊な襞《ひだ》ができて、体も知恵も発育が遅れて、いわゆる低能者と呼ばれるヒトが生まれて来る」 「蒙古症《モンゴリズム》ですね」 「よく知ってるな。でも今はその呼び方はしない。ダウン症候群というんだ。そういうわけで、性染色体の異常は当然性の異常になってあらわれる。クラインフェルター症候群というのがあってね、性染色体がX・X・Yだと、見た目には男なんだけれど精巣がごく小さくて精子を作る力がないし、Xが三つになっている女性も不妊、Xが三つにYがひとつくっついているのも不妊の男性なんだ。それに、こうした場合はたいてい精神薄弱を伴いがちなんだ」 「で、X・Y・Yは……」 「超男性はX・Y・Yで染色体が一個多い。これもクラインフェルター症候群に入るんだが、外見は普通人と少しも変らない。だがここが違う」  先生は胸を叩《たた》いて見せた。 「心臓ですか」 「いや、心だよ。常識では考えられないくらい冷酷無残で、生まれつきどうしようもなく狂暴なんだ。外国に最近あった例だが、十人くらいの女性を理由もなく次々に虐殺した男がつかまって裁判にかけられたのさ。ところがその弁護士が有能な奴《やつ》で、被告の染色体を調べて証拠に持ち出したんだ。精神異常だというわけさ。染色体を持ち出さなければ助ける手がない程絶望的な被告だったわけだな」 「そんなのになりたくはないですね」  私は先生と顔を見合わせて笑った。     5 「超男性を持ち出した理由は、男性の性染色体が一個多いと、男の特性が異常に強くあらわれて来るという点なんだよ」 「男はもともと女より粗暴なんですね」 「恐らくそれが性の根本的な問題にまでつながっているんだろうね」  私は冗談で言ったつもりだったが、先生は真面目だった。 「君がSFファンだと知らないものだから、さっき少し正しくないことを言ってしまった」  先生は声をひそめ、詫びるように言った。 「右肺貫通銃創で全治一か月は何千万人に一人という異常なことだって言っただろう」 「ええ」 「あれは嘘《うそ》だ」 「嘘……」  私は眉をひそめた。 「君なら判《わか》ってくれそうだから打ち明けてしまうよ。俺はおやじを口説《くど》いて谷口を必要以上に長く入院させていたんだ」 「え……」 「すまないと思っている。悪く受取れば医者の入院費稼ぎだからな。でも、君が身もと引受人になっているくらいだから、書類を見ただけでも、治りしだい働きに出なければやって行けない人だと言うことは判《わか》っていたんだ。だから常識的な期間まで、当人には何も言わずに引き留めていたんだ。そのかわり個室に入れて料金は十日目ごろからほとんど無料《タダ》同然だった筈《はず》だ。おやじは文句ばかり言ってたよ。外科の医者はそんなことに興味を持つ必要はないんだってね。でも俺《おれ》は、遺伝学や発生学のほうに興味があった。我儘《わがまま》を承知で押し通したんだよ。だから君たちがよく見舞いに来てることも知ってたが、用心して会わないようにしていたのさ」 「本当にあいつは異常だったんですか」 「そうだ。さっきの説明を訂正する為《ため》にくわしく言うと、臓器とか筋肉とか皮膚とかが傷ついた場合は、その傷口が癒《なお》る、……つまりくっつくのは三日か四日が勝負だ」 「そんなに早いんですか」 「うん、軟組織は早いんだ。ことに、血管がたくさん通っている所ほど治りが早い。だから、肺などは傷口がすぐにくっつこうとしはじめる。しかしそれでも三日目あたりが治るヤマで、軟組織を手術した場合、今の医者はたいてい一週間で糸を抜いてしまう。早いと五日目さ。しかし、骨となると別さ。骨折が治るのは子供で一か月、大人で二か月はかかる。胸から肺に入って背中へ抜けたのが谷口の傷だが、もし弾丸が骨の間をすり抜けたとすれば、彼は非常に運のいい男と言えるだろう」 「どうだったんです」 「骨をやられていたよ。その為に肺の傷も少しひどかった。俺はおやじに手伝って、一緒に彼の手術をしたんだ。びっくりしたよ。手術しているうちに、もう傷口が強くふさがろうとしているんだ。俺は気味が悪くなった。で、おやじに言ったんだけれど、おやじは平然としていた。傷を見てこわがるのかって……冗談じゃない。俺だって外科医だよ。詳しいことを君に言っても判《わか》るまいが、谷口の体は不死身のようなもんだった。あれじゃどんなひどい傷だって治るだろう。医者の常識という奴《やつ》をとり除いて、傷の状態だけで判断すれば、実は二日目にもう糸を抜ける状態だったんだ。骨のほうは一週間目さ」 「あいつ、原始的なのかな」 「それから俺は夢中になってしまったんだ。だから、谷口の両親、祖父母がどうだったか、兄弟がどんな体だったか、そして彼の子供はどうなるか、俺はそれを知りたくてたまらないのさ」 「兄弟はないようでした。お袋さんは戦災で死んでしまったし」 「生まれはどこなんだい」 「さあ、よく判りません」 「どうだろう。谷口という男は、自分の体がそんなだと知ったら……」 「どうでしょうかね。でも、先生のなさったことを知っても、憤《おこ》るような奴じゃありません。それははっきりと言えますね」 「それだと助かるんだよ。何しろ自分の勝手な興味で、すぐに退院出来るところを長く引き留めちゃったんだからな。で、君は今度彼に会ったら、今のことを打ち明けるかい」 「そうですね……」  私は考え込んだ。 「どっちとも言えませんね。その時の状況しだいでしょう。自分が不死身だったら、それを知って置いて損はないでしょうから、教えてやったほうがいいような気もします」  私は確答を避けた。先生と遺伝子などの話をしている内に、流産した子のことを思い出したからであった。そういう生命の根源にかかわるようなことは他人のことにせよ、気軽に扱ってはいけないような気がしたからである。  しかしとにかく私はその夜、滅多《めつた》にお目にかかれぬSFファンの一人にめぐり会えたのであった。 「誰……あの人」  比較的早くから来て看板まで粘っていたので、ママは不審そうに尋ねた。 「滝川外科の息子さんです」  そう答えるとママは、 「あら抜け目ないのね」  と私を褒《ほ》めるように笑った。谷口をよく見舞いに行っていたことを知っていて、私がついでに客を一人つかまえて来たのだと思ったらしかった。  だが、店を閉め仕事がおわると、そんなことも今日の客あしらいのひとつとして、簡単に私の頭から離れて行った。次の朝はいよいよわが家が阿佐ケ谷の店を引継ぐ第一日目なのであった。  店の名はイボンヌと言った。  店名もそのままなら内部の改装もいっさいなしだから、常連でないと代がわりしたことも気付かない筈《はず》であった。  私も朝の十時から店に出た。私がカウンターの中へ入ってコーヒーやココアやそのほかの飲み物を作り、弟がウエイター、まだ体調の完全でない光子がレジの役をした。  一軒おいたとなりに花屋があり、母はそこで買った花を店の中の何か所かに活《い》けてくれた。  ちょっきり一坪ほどのカウンターの中は、なかなか仕事がし易《やす》くできていて、何代もかかって少しずつ手を加えた苦心のほどが窺《うかが》えた。  あんなことがあった直後なのに光子は案外張り切っていて、レコードの整理をしたり古伝票の束を棚から引っぱり出して捨てたり、こまめに働いてくれた。     6  イボンヌは素早く軌道に乗った。 「これじゃ、手ばなした人が惜しがるなあ」  すぐ向かいにある小さなバーのマスターがそう言うのだからたしかであった。  私にはその理由がよく判《わか》った。前の経営者たちはいずれも年配の人たちで、それもイボンヌを副業としてやってたらしいのだ。  私たちから見ればいかにも山の手らしく、会社の役員とか画家とか言った人達が、ごく素人《しろうと》っぽく人まかせで物静かにやっていた店なのだ。最初にはじめた人は画家で、イボンヌという店名もそんな人がつけた名らしかった。  どうやらはじめは当時最盛期にあった名曲喫茶だったらしい。コーヒーを味わいながらクラシック音楽に陶酔する……ひと昔前のスタイルだが、品がいいから素人の副業としては持って来いだったのだろう。  しかしそれをずっと踏襲して来てしまったのだから、ジリ貧になるのもやむを得まい。だが私たちは若かった。私と弟は仲間や友人の間を駆けまわってレコードを掻《か》き集めた。ラテン音楽とモダンジャズが中心になって夜はトリオ・ロス・パンチョスやキング・コールなどの歌を聞きに、近くに下宿している大学生たちが集まって来た。昼間はモダンジャズをかけっぱなしで、新宿のキーヨや木馬といったモダンジャズ専門の店に似た雰囲気になったのだ。  四番地で働いている女の子が、自分の妹をイボンヌに送り込んでくれた。これがスタイルのいい美人で、若い客の人気を集めるようになった。私は新宿にいるままだから、弟が若い客たちからマスターと呼ばれはじめ、光子はお姉さんで、母はいつの間にかママと呼ばれて返事をするようになっていた。  四番地でも変化が起っていて、志村がマネージャーに格あげになり、その下に二人のバーテンが補充された。そして私は、四番地のママがはじめる神田の店の準備に忙殺されはじめていたのである。  が、何もかもがうまく行っていたわけではなかった。  光子が宙ぶらりんになってしまっていたのだ。  流産のときが母と初対面だった。そして母のアパートで何日か養生している内に、すっかり母のお気に入りになり、開店騒ぎもあってそのままずるずるべったりに一か月ほどを阿佐ケ谷のアパートで過してしまった。  ローズへ戻ればずっといい収入になる。一人できちんと生活して行けるのだ。しかし私の嫁になるという前提があったから、酒場の女に戻りますというのも何だか妙な具合で、ついローズを休んだままになっているのだった。  光子が成子坂《なるこざか》下へ久しぶりに戻った晩、私はそのことについて話合った。  すると、 「一度松江へ帰って区切りをつけるわ」  光子はすでに考えをきめていたと見え、そう言った。 「あなただって、神田へ移れば当分は向こうに寝泊りしたほうが都合がいいんでしょう」  それはそうだった。今度の神田の店は和風の店で、二階にちゃんとした部屋もついていた。 「どっちみち代々木のお部屋は要らなくなるんだし、早いとこ引き払ってここにいてくれないかしら。そうすれば私も安心して行けるから」  光子の提案は筋が通っていたし、私に異存はなかった。その週の内に神田の店の引渡しがあるから、私は代々木を出て荷物を神田へ移してしまえばそれでいいのだ。 「神田で一緒にやらないか。ママに言えば承知してくれると思う。そうなれば形だけでも式もあげて、夫婦としてやって行けるよ」 「そんなこと……」  光子は不満そうに言った。すでに自分たちは夫婦になってしまっているではないか、と言いたかったらしい。 「でも、イボンヌを二人でやるのは来年まで見合わせるぞ」 「そうね」  光子も一か月ほど阿佐ケ谷にいて、軌道に乗ったとは言いながら、その店のあげる収益が大したものではないことが判《わか》っていたのだ。母と弟がやって行くには不足はないが、それに私たちまでが加わっては、夢も希望もなくなってしまう。 「弘志さんはホテル学校へ行くんですってね」  光子は私と一緒に蒲団《ふとん》の中へもぐり込みながら言った。そうやって寝るのは久しぶりのことだった。 「ああそうらしい。あのまま大学を卒業するより、ホテル学校へ一年横すべりしておいたほうが、就職がし易《やす》いらしいんだ」 「航空会社に的もしぼっているんですって」 「うん」  私は灯《あか》りを消した。 「スチュワーデスになるの……」 「いや、スチュワードと言うんだ」 「男だから……」  光子は私の胸をはだけさせていた。 「そうだよ。その上はパーサーだ」 「パーサーって、お船の人でしょう。飛行機にもいるの……」 「いるらしいな」 「すてきね。世界中を飛びまわるのね」 「もうすぐジェット旅客機になるそうだ」 「凄《すご》いの」 「いいのか、そんなことして」 「もう大丈夫よ。それにほら」  光子はもぞもぞと体を動かして何かを私に手渡した。四角い手触りでコンドームの袋だと判《わか》った。 「そっちの体のことだよ」 「だから、もう平気よ」  光子は下のほうへもぐっていった。 「よせよ」  私は体をよじった。すると光子のくぐもった声が聞こえた。 「あの子のパパのお顔を見たいの。電気つけて」  とたんに私は萎《な》えた。光子はケタケタと笑いながら上に戻って来た。 「ばかね、びっくりしちゃったの……」  私は返事ができなかった。 「いやだ、憤《おこ》ったの」  光子は下腹部を押しつけ、指で私の顔を探って訊《き》いた。 「憤りはしないよ」 「じゃ、どうして小さくなっちゃったのよ」  光子はまたクスクスと笑った。 「女のほうが図太いのかなあ」 「そんなことないわよ。苦しかったわ、とても」 「やめろよもう……その話は」  私はきつい声で言った。二人はそのまま長い間じっと抱き合っていたが、いつの間にか光子は微妙な挑発をはじめ、私もそれに巻き込まれて行った。  その夜の光子は貪欲《どんよく》だった。まるで人が変ったように乱れ、乱れることで更に乱れた。だが私は慣れぬものを装着したせいか、いっこうに果てなかった。頭の芯《しん》が妙に冷えていて、光子の乱れようを遠くから見ているような具合だった。  光子は高い声をあげはじめた。私が果てないので、その声は随分長い間続いた。口に手を当てても、それを必死で外して声をあげた。  廊下にパタンパタンとわざとらしいスリッパの音が聞こえたかと思うと、となりの部屋に住んでいるバーテンの声が、 「み、つ、こ、ちゃん」  とからかい、アハハ……と笑いながら階段をおりて行くのが判《わか》った。     7  光子は故郷の松江へ発《た》ち、私は成子坂下のアパートから神田の店の準備に駆けまわることになった。  いそがしい時期であった。それまでにも開店の準備に駆けまわったことは何度もあったが、今度は和風の店で、板前さんも有名な老舗《しにせ》の板場から引退した人がやってくれることになっていた。  何しろ、しもた屋を料理店に改装してかかるのである。その点では、私が今まで一度もやったことのない全く新規の開店であった。  食器類を調《ととの》えるだけでもひと騒動だし、漆《うるし》塗りの膳《ぜん》やら盆などから座蒲団《ざぶとん》、そして暖簾《のれん》のことまで、次々に知らぬことにぶつかって四苦八苦した。勿論、先輩に当たる人々の助力はあったけれど、主になって動くのは私である。  そこへ持って来て阿佐ケ谷のイボンヌへも顔を出さねばならず、志村にまかせた四番地へも、新しいスタッフが完全に引継げるまで行かねばならなかった。  ママも痩《や》せたが、私は過労に陥っていたらしい。或《あ》る晩車に乗っていたら、対向車のライトが突然目に劇痛をもたらした。眼科医を叩《たた》き起して見てもらったら、軽い角膜炎だと言うことであった。医学的には軽くても、強い光源を見た時の痛みは甚《はなは》だしかった。  それでも仕事は勝手に進みはじめている。役所を廻って営業許可をとり、ママが近所に挨拶《あいさつ》をする手配をし、従業員の募集広告を出し……まったく息つくひまもなかった。  光子からは連絡がなかった。私は当然気になったが、それどころではないという気分も強かった。乗りかかった舟で、こうなれば何でもかでも店をスタートさせなければ男が立たないというように思い込んでいたのだ。  あと、二、三日で開店、というところまで来た時、その店にとりつけたばかりの電話が鳴って、出て見ると光子の声が聞こえた。 「あさってかしあさってくらいに帰るわ」  イボンヌに電話して新しい店の電話番号を知ったようだった。  私はほっとした。 「それじゃ、俺《おれ》は今日からここで寝泊りしはじめるぞ。不便でしようがないんだ」  そう言ったとき、光子がどんな声でどう答えたのか、もうよく憶《おぼ》えてはいない。とにかく私は仕事に夢中になってしまっていて、とにかく光子のことは光子が東京に帰ってからと、相手の気持をおしはかることも一時棚あげにしていたのであった。  開店二日前、新しい店の前に女の行列ができて近所の人の目をひいた。  ママは料亭などで働いた経験のある、比較的年のいった女性を募集したのだった。若い子なら今までのルートでいくらでも補充できるが、和服を着て座敷の仕事ができる女性は、新聞広告に頼るしか手がなかったのだ。  ところが案に相違して、仕事にあぶれた仲居《なかい》さんのような女性は多かったのだ。それに、今はどうか知らないが、当時は仲居さんたちの給料というのが意外に安かったようで、私たちの常識的な線に沿って提示した給料のラインが、彼女たちにはかなり高給だったらしい。  それで応募者の行列ができてしまった。私は昼日中、そんな行列に加わって顔を人目にさらすのは気の毒だからと、面接時間をできるだけ短くしようとしたが、実際に資本を出したママにして見ればここが勝負どころだから、念には念を入れてやっていた。  三味線のうまいのがいて小唄《こうた》や清元《きよもと》が唄えるのがいて、現役で客をごそっと持っているのがいて……面接がおわり採用の決定した顔ぶれを見て、私はその頼もしさに呆然《ぼうぜん》としてしまった程だ。しかも板さんはどこのなにがしという名の通った人だ。  私は疲れを忘れた。  板さんの手伝い兼番頭、兼仕入係。そのほか、兼、兼、兼と何でも兼ねて、一日中動きまわっていた。  店は当たった。場所は神保町でまわりにオフィスが多いから、昼食どきになると一階だけあけてお茶漬を出す。夜はお座敷バーとでも言う感じで、料亭とも何ともつかないにぎやかな店になった。  それに、神保町は少年時代の憧《あこが》れの町であった。本を読むことの好きな私は、小学校の頃、神保町だのすずらん通りだのという名を聞くと、まるでお噺《はなし》の国のように思っていたのだ。  もっと小さかった頃、絵本でお菓子の国の絵を見た。木も花も家も、すべり台やブランコや遊動円木《ゆうどうえんぼく》も、すべてお菓子でできている世界の絵だ。私にとって神保町はそのお菓子の国に似ていたのだ。  本屋ばかりが並んでいる道を、私はひまさえあれば歩きまわった。そして、ろくに読むひまもないくせに板場の隅の棚に書物を積みあげて悦《えつ》に入っていたのだ。  もう少しひまがあったら、光子の所へも通っただろう。しかし朝早く魚河岸へ買出しに行くのも仕事のひとつで、帳簿から店の掃除まで引受けていては、光子のこともろくに思い出すひまがなかった。  ちょうど従業員のことが問題になっている最中、光子が東京をあけていたので、私と一緒に働くという話もお流れになってしまっていた。  光子は帰って来た当座、毎日私に電話をして来たし、一、二度店へも見に来たが、仕事に夢中だった私は、なんとなくガールフレンドが訪ねて来たような扱いかたをして帰してしまった。  光子も働かねばやって行けないからローズへ戻ったが、その時私たちはひとつの転換期にいたようで、光子にもすぐに新しい仕事の話が持ちあがっていた。  それは、銀座に開店するクラブで働かないかという誘いであった。給料もぐんとはねあがるのだ。 「やれよ。二人とも今の内に稼ぎまくろうじゃないか」  仕事に乗っている私は自信たっぷりでそうけしかけた。私はその道を突進する以外、何も考えなくなっていたのだ。  仕事でそれほどの責任を負ったのもはじめてだったし、自分の努力で物事がそれほどうまく運んだこともはじめてだった。  これで一人前になれる。  私はイボンヌを売った金をもとに、自分の店を持って大繁昌《はんじよう》させている夢を見るようになった。ママをはじめ周囲の人々も私の努力を認めてくれて、なかなかのやり手だと噂《うわさ》されはじめているのも、それとなく耳に入っていた。     8  その女の名は亜津子と言い、私より三つ年上だった。  はたちになる前、東京のどこかで芸者になりかけたことがあるそうで、向こう気の強いわりには、並外れてこまかいところに気のつく、一風変った女だった。  どういう経緯《いきさつ》があったのか、その亜津子が応募した女たちの中に紛《まぎ》れ込んでいて、すぐに十人ほどの店の女たちの中のリーダー格に納まってしまった。  そういう花柳界出の女たちの中で、私はいっぱしの男ぶっていたようだ。バーの女の子をかなり自由に扱えたから、その分気負って背伸びしていたらしい。  その亜津子は、庭先からお茶を飲みに来たような馴《な》れなれしさで私に接近して来た。 「ねえ月ちゃん」  ママは私をマネージャーと呼ばせず、支配人と呼ぶようにさせていたが、ほんの三日ほどで亜津子は私を月ちゃんと呼びはじめていた。 「こないだの人、だあれ……」 「光子って言うんだ」  板場をのぞいた亜津子に私はそう答えた。 「恋人……」 「うん」 「生返事ね。はっきりしなさいよ」 「彼女だよ」 「張り合っちゃおうかな」 「何を」 「きまってるじゃない。月ちゃんをよ」 「よせやい、おそろしい」  冗談のようにしてそれははじまった。  店の中で亜津子は海千山千のおばさんたちから、何かと私を庇《かば》い、顔を立ててくれた。おかげで店の運営はうまく行ったが、その分亜津子に対する私の依存度が高くなった。  そして或る晩店を閉めてから浅草へ誘われて、散々飲み歩いた揚句《あげく》、呆気《あつけ》なくデキてしまった。  そんな関係になっても、どこまでも冗談がついてまわり、私はあくまでも粋な情事を楽しんでいる気分であった。  相手が年上という気安さもあったが、それにしても、同じ店の女とそんな関係を続けるのははじめてのことであった。  亜津子はどうかすると客の前でも私をきわどい冗談の種にして、私から見ると自分たちの関係を誇示したがっているようにも思えたが、実はそれが巧みな隠蔽《いんぺい》術である証拠に、私のほうから調子を合わせたりすることをひどく嫌うのだった。 「あんたっておかしな人ね」 「どうして」 「板場へ入って白いのを着てると板前に見えるし、角帯しめて帳面つけをしてると番頭さん。それが浴衣に三尺しめさせるとまるでヤーさまよ。何にでもなっちゃう人なのね」  そんなことも言われた。  亜津子はどうやら浅草に縁があるらしく、しょっちゅう私を浅草へ連れて行った。浅草ではなかなか顔が広くて、姐《ねえ》さんとか亜津ちゃんとか言われて、肩で風を切るような具合であった。  亭主はやくざで府中に入っており、私はその留守の間の心張《しんば》り棒《ぼう》がわり。  そう聞かされた時はもう引っ返すことのできない所へ来ていて、私も大して驚かなかった。 「出て来る少し前に教えろよ。そしたら綺麗《きれい》に返してやるよ」  そんな生意気な口をきいたりした。  また、亜津子はとほうもない衣裳持ちであった。休みの日を引いて一か月二十五日、一度も同じ着物を着ない。和服好きの私はその一事だけ取っても、のぼせあがっていた。だが、いざ買ってやろうかという段になると、亜津子の着る着物など、高くてとうてい手が出せなかった。だから亜津子の足袋《たび》ばかり買っていた。勿論足袋だって誂《あつら》えで、安くはなかった。  情事なれした亜津子のおかげで噂《うわさ》にもならずに、なんとか年の瀬まで来た。 「クリスマスはやっぱり洋風のものだから、神田は休んじゃってよ」  その年の十二月二十四日はちょうど土曜日で、ママはそう言って来た。 「そのかわり、女の人たちは七時半か八時までに全員四番地のほうへ集めてちょうだい」  神田側の慰労を兼ね、新宿の店の景気づけにしようというのだ。根が遊び好きの連中だから、女たちは大よろこびでみな精一杯着飾って四番地へ繰り込んだ。  それはもう、大変な騒ぎだった。四番地ではあらかじめ常連に宣伝していたから、客はあとからあとから押しかけて、半分くらいは立って飲んでいた。  神田の女たちは海千山千ぞろいだから、気に入った客をつかまえては飲み放題。ピアノの音に三味線が重なって、乱痴気パーティーになった。 「おい、久しぶりだな」  その混乱のさ中で、私は今谷先生に手を掴《つか》まれた。今谷先生もベロベロであった。 「踊ろう」  何を思ったか先生は私をかかえてピアノのそばでダンスをしはじめた。するとピアノの鈴木八郎が曲を芸者ワルツに変え、みんな踊りはじめた。 「おや、お前よく見ると小説書きそうな顔をしてるなあ」  踊りながら今谷先生がいった。そばで榊さんと亜津子が踊っていた。 「だめよ、先生。それはあたしの彼氏なんだから」  亜津子は相変らずそんなことを言っていた。  そして、ふわふわと揺れるような気分の中で年があけた。  光子はときどきイボンヌへ……と言うより、私の母の顔を見に阿佐ケ谷へ行っているようだったが、かけ違って私とは一度も顔を合わせず、神田へも電話をして来なくなった。  弟の弘志はホテル学校へ転入する準備をする一方、堅実にイボンヌのカウンターを守っていた。  もう谷口のことどころか、光子さえあまり思い出さなくなっていた私は、その春も亜津子に振りまわされ、うわついた日々を送った。  それでも有難《ありがた》いことに、勢いのついた神田の店は毎晩にぎわい、人気力士やプロ野球の選手などが集まって、雑誌に紹介されたりした。  亜津子は浅草に飽きたらしく、私に銀座へ案内させることが多くなった。なぜか亜津子は銀座をよく知らなかったのだ。そしてとうとう、銀座で光子と顔をあわせてしまった。     9  私は光子がそのクラブへ移ったことを知らなかった。新宿から引抜かれて行った最初の店よりずっと高級なクラブで、私の先輩に当たるそこの支配人に入口のところで亜津子を紹介していると、光子がひょっこりと奥から現われたのだった。 「あらお久しぶり」  亜津子が私より先に気付いて光子に言った。光子は見憶《おぼ》えがないといった顔でいたが、 「神田で二度ほどお目にかかったわよ、ほら……」  と言われて気が付いたようだった。 「お休みなの……」  光子は私にそう訊《き》いた。亜津子に慣れてしまった私には、その言い方がいかにもぶっきら棒で、稚《おさな》く思えた。 「ちょいサボッたのさ」 「だめじゃないの」  光子は悲しそうな目で、しかし顔だけは笑って言った。 「いいわ。この人を指名しちゃう」  亜津子は遠慮も何もあればこそ、陽気にそう言った。 「いいえ、あたしは……」  光子は当惑したようだったが、亜津子のちょっと只者《ただもの》でない感じに支配人が敬意を示しているので、仕方なく私たちをテーブルへ案内して行った。  そういうことが、光子にとってどれほどの屈辱であったか、今ではよく判《わか》る。しかしその時は、別れた女と偶然会ったくらいに軽く考え、亜津子が意地悪くわざと私にしなだれかかっても、それを当たり前のような顔で、光子と母や弟の噂《うわさ》をしていた。  ちょうどその頃を境にして、亜津子がよく店を休むようになった。稲荷町《いなりちよう》にある亜津子の家へ電話をしても応答がなく、はじめのうちは気にも留めなかったが、しだいに私は焼餅《やきもち》をやくようになった。  だが、そうなると亜津子はまるで格の違った相手で、私が精一杯からんでいっても軽くひっぱずされてしまい、喧嘩《けんか》にも何もならなかった。そんな時の亜津子の見事さは、いっさい弁解もしなければ説明もしないのだ。しまいには、 「ほんとのことが判ったら気が晴れるの」  と、子供を諭《さと》すように言う始末だった。すると私はその言葉が、地獄への扉のような気がして、逆に自分から話題を変えてしまうことが多かった。もし勇気を出して聞けば、亜津子は包み隠さず何もかも話してしまうような気配だったからである。  亜津子は私から離れていった。 「そろそろ出てくるわよ」  最後に顔を合わせた時、亜津子は私を脅すような表情でそう言った。  私がただの遊び相手であったことは間違いない。しかし今考えてみると、亜津子も私に対して幾分か思いやりを示していたようだ。だいぶあとのことになるが、浅草の方から本当に亜津子の夫が出所して来たという噂《うわさ》が私の耳にとどいた。はやばやと私を自分から切り離して、大きなもめごとに巻き込まなかったのは、非力な私をいたわってのことだったのだろう。  仕事にも女にもすぐにのぼせあがって、逆にその燃焼時間を短くしてしまうのが、私の持って生まれた性分だった。  情事と仕事が一度に燃え尽きた感じだった。開店以来の疲れが気力を失ったその時になって出てきたらしく、私はある日突然高熱を発して寝込んでしまった。二日ほど店の二階の自分の部屋で横になっていたが、いっこうに良くなる気配がないので、ママの車で送ってもらい、阿佐ケ谷の母のアパートに逃げ込んだ。  病気は風邪をこじらせたらしく、医者は半分肺炎になりかけていると言った。 「そんなことしてたってちっとも身にならないじゃないの」  寝ている私の枕元へ来て母はそう言った。 「弘志もホテルの学校へ通いはじめたことだし、イボンヌはそろそろお前がやってくれたっていい頃じゃないか。だいいち、一緒に暮らせるからやろうと言ったのはお前なんだよ」  なぜか母のその時の言い分は、亜津子の言い方にそっくりであるように思えた。  私という人間を、それこそ足の裏まで見抜いている女が、頃合いを見はからって私に言うべきことを言い渡していたのだ。  ちょうどその頃、神田の店では建物の権利のことで何かひともめありそうな気配が起っていた。  永年世話になったママにはすまなかったが、実のところ私は亜津子のことで腑《ふ》抜け同然になっており、病気を口実に足を抜けたらさぞさっぱりするだろうなあ、などと無責任なことを考えはじめていたのである。  そして、幸か不幸か事態は珍しく私の望む方向へ進んでいった。こじらせた風邪が治っても、私はそのままイボンヌのカウンターへ入って神田へ戻ろうとはしなかった。二、三度ママから連絡があったが、どうも身体の具合が思わしくないと言い逃れて日を送るうち、神田の店のトラブルが急に大きくなって、ママとしてもそれどころではなくなってしまったようだった。  やがて私はごく自然ななりゆきで、神田からわずかばかりの荷物を引きあげ、弟に代わってイボンヌのマスターの座についた。  光子は相変らず母を訪ねてやって来た。しかしそれはもう母の若い友達としてであって、私の恋人でもなければ婚約者でもなくなっていた。  そしてある時、母は私に言った。 「光子さんは結婚するかもしれないって」  母は残念そうな顔をしていた。 「光子さんにみんな聞いたよ。子供まで出来たのに、お前って薄情な男なんだね。もっとも男が薄情なのは、たいてい意気地《いくじ》がないからなんだろうけどね」  私は憮然《ぶぜん》とした思いでそれを聞いていた。  自分がたてた計画だったが、イボンヌのカウンターの中におさまってコーヒーを淹《い》れたり、ココアをかき回したりしてみると、今まで自分が積み重ねてきた修業のようなものが、まったく何の意味も持たない無駄なことのように思えてならなかった。  銀座や新宿の仲間からも遠のき、亜津子や光子も失って、つぎに指《さ》す手が何もないように思った。  その憂さから逃れる唯一の道は、SFを読み耽《ふけ》ることだった。前の年の二月に創刊されたSF雑誌がコンテストをやっていて、その第一回の入選作を読んだのもその頃のことである。     10  イボンヌは年中無休であったが、週に一度弘志が代わってくれることになっていて、私は曜日こそ定まらなかったが週に一度休みをとれた。  そんな時、私はよく滝川外科へ遊びに行った。あのSFファンの若先生に会って、SFについて語り合うのが楽しみになっていたのである。 「医学とか生物学の分野では、まったく判《わか》っていないことがいくらでもあるんだ」  先生のほうも私とそんなことをしゃべるのがひどく楽しいらしく、訪ねて行くと仕事をほうりだしてでも出てきて、何時間でも話し相手になってくれた。 「たとえば目だ。われわれの目が色を感じるしくみなんて、本当はまだまるで判っていない。鳥や魚は色を見分けるらしいが、けだものはたいてい色盲だよ。物を明暗で見分けるだけなんだ。おなじ人間同士だって、赤なら赤という色をどこまで同じように感じているか判ったもんじゃない。俺《おれ》が見ている赤と君が見ている赤が違うんじゃないかと思うと恐ろしくなりはしないかね」  先生の話は医学方面に片寄っていたが、SFのアイデアのもとになるものがたくさんつまっているように思えた。 「SF雑誌でコンテストをやっていますよ」 「そうだね。どのくらい応募しているんだろうか」 「ずいぶん多いんじゃないんでしょうか」  作家や編集者はお客としてたくさん知っていたが、水商売の仕事を離れると私にとってそういう世界ははるか彼方の存在で、編集部というものがどんな仕事をし、その部屋がどんな様子なのか皆目見当もつかなかった。 「いろいろな知識があるんだから、先生も書いてみたらどうです」  そう言うと先生は照れたようでうっすらと頬《ほお》のあたりを紅《あか》くした。 「俺なんかだめさ」 「嘘《うそ》……」 「ほんとだよ」 「隠したってだめですよ。応募作を書いてる最中だって顔に書いてある」  先生は笑った。 「君こそ書けばいいのに」 「そうですね、いっぱつやってみましょうか」  私はそれを冗談として言った。先生をお客として見るバーテン時代の気持が強く残っていたからだった。  だがその気持のどこかに、去年のクリスマスの晩、今谷先生に言われたことがすこしひっかかっていたようだ。  お前は小説を書きそうな顔をしている……。 「とにかくSFはおもしろいよ」  滝川外科の若先生は熱っぽい口調で言った。 「なにしろ制約がないからな。どんなストーリーだって自由自在にこしらえられる。人間を石にさせてしまうことだって不可能じゃないんだから」 「そんなことできるんですか」 「ああできるとも。石化する病気をこしらえてしまえばいい。その病気にかかると体内のカルシウム分が爆発的にふえて、しまいには生きている人間が本物の石像になってしまうんだよ」 「まさか……」 「だめだなあ、その程度でまさかなんて言っていては」  先生は私をたしなめた。 「特殊な細菌が原爆の影響で突然変異を起したことにしてもいいし、宇宙空間から未知の微生物が地球の大気圏へ侵入したことにしてもかまわない。ポイントはそういう架空の病原菌ではなくて、現実のこの社会がその場合どんな防疫対策を講じるかということを書けばいいんだ。それで立派なSFになる」 「なるほどね」 「そういう事件が起って気がついてみたら、ギリシャ時代の写実的な彫刻だと思われていた石像が、実は昔その病気にかかって石になった本物の人間だったということが判《わか》ったりして」  ひょっとすると先生はその話を書いてコンテストに応募する気なのかもしれない……。私はそう思った。 「一卵性双生児が、二人の人間として生まれないで一人の人間として誕生してしまった、などというのもおもしろいストーリーになるかもしれない」 「双児《ふたご》が一人で生まれてくるんですか」  次から次へと繰り出すアイデアに圧倒されながら、私は先生の端整な顔を見つめた。遺伝学や発生学をやりたかったのに、家庭のつごうで無理やり外科医にさせられてしまった不満が、先生をその広い額の内側にある空想の世界へ追いたてているのかもしれなかった。 「その一人の双生児は、双生児であるために実はふつうの人間の倍の脳細胞を持っているんだ。それがどういうことになるかわかるかい」 「さあ……」 「ごく単純な言い方をすれば能力は倍にならなくて二乗《じじよう》になる。たとえば十秒間に百メートル走れるのがふつうの人間だとすると、そいつは十秒間に一万メートル走ってしまう」 「一秒千メートル……」  私は目を剥《む》いた。 「時速三千六百キロ。それはめちゃくちゃだ」  そんな話が楽しくてしかたなかった。そして先生と別れたあと、私はかならず本屋に寄り、ようやく出版点数を増してきた海外のSF作品を買い込み、阿佐ケ谷へ帰るのだった。     11  イボンヌでの平穏な生活がしばらくつづいた。  だが仕事にせよ女のことにせよ、いつもいきり立ったような状態でいないと生きているような気がしない私にとって、その平穏さは自分を爪先《つまさき》から腐らせてくる毒液のような気がしていた。  だが今度ばかりは動きがとれなかった。そんな状態になった時は、いつも気軽に職場を変えていたのだが、母に柴又の家を売らせてしまったし、弘志は航空会社への就職を狙って熱心にホテル学校へ通っていたし、今さら私が商売がえをすることは絶対に許されなかった。  一緒に暮らすようになったので弘志とはよく話し合った。弘志の説明では航空会社への就職はかなり可能性が高い様子であった。  私はそこにまたひとつの夢を描きはじめた。 「どうだろうな。もしお前が本当に航空会社に就職できたとしたら、また俺を外で生活させてくれないか」  弘志は胡散《うさん》臭そうな顔になった。 「どうするの。またバーテンをやるのかい」 「そうじゃない。水商売の足を洗うんだ。だってお前がその会社へ入れれば、もう俺が水商売をしていく必要もなくなるわけじゃないか。お前はまだ当分結婚する気はないんだろう」 「うん」 「お前、ひとりで暮らす気か。それならそれでよかろうが、飛行機で世界中を飛び回って、日本へ帰ってきたら洗濯ばかりするような生活になってしまうぞ。飛ぶ奴《やつ》にはやっぱり整備士がついていなくてはな」 「それもそうだな。俺、そこまで考えていなかったよ」 「俺にもサラリーマンをやらせろよ。もう水商売は懲りた。俺が酒と女の番をするんじゃ、まるで猫にかつおぶしだ。じじいになって油っ気が脱けるまで、ごたごたばかり起してなけりゃならない」  弘志は失笑した。 「そりゃ、たしかにあの会社へ入れれば給料も悪くないし、飛ぶようになれば飛行手当もつくようになるそうだ。おふくろと一緒でも楽にやっていけるだろうな」 「だったらそうしてくれないか。警官がそばにいるのに他人のものに手を出す泥棒はいなかろう。あのおふくろは警官みたいなもんさ。お前の人生は順調に行ってるんだ。おふくろという番人付きのほうが間違いがなくていい」  弘志は笑った。 「勝手なことを言って警官を俺《おれ》に押しつけやがった」  たしかに私の言い分は身勝手だったが、血を分けた兄弟というのはありがたいもので、それで何となく話がついたようだった。  夏になった。  もし弘志が航空会社に就職できたら、自分は来年の今ごろどうしているだろうか……そんなことを考える日が多くなった。  イボンヌの商売はごく地道で、そう急に落ち込む危険性もないかわりに、コツコツとつづけていくよりほかに道のない商売でもあった。その点私はアイデア勝負の店ばかりを経験していたから、イボンヌがどうにもものたりなくてしかたがなかった。  それでひそかにイボンヌを売り払うための下調べをはじめてみた。するとどうだろう。阿佐ケ谷駅が大きくなるという話が耳に入ってきた。中央線が複々線になるというのだ。それとなくあたってみると手に入れた時より有利に手放せそうだった。  私はしめたと思った。その金で弘志は母と暮らす住まいを買うか借りるかすればいい。イボンヌを手放す理由としては、複々線で周囲の土地や地上権などが値上がりしていることを挙げればいい。私自身は身一つで出て行くことに慣れきっている。  すべては弘志の運しだい。  そう肚《はら》を決めると、今度は急に自分の行く手が不安になってきた。水商売の足を洗ってサラリーマンになるといっても、いったいどんな職種を選べばいいのか見当がつかなかった。  会社といえば経理課の窓口ぐらいしか知らないのである。それに、ものを売って歩くようなことはまるで苦手だった。だいいち学歴が足りない。  あれこれ考えていると、自分という男が本当は何の値打ちもない薄っぺらな人間であったことに気がついてしまった。  やっぱりバーテンしかないか……。いくら考えても結論はそこに戻ってしまう。ルンペンたちにまで付きあいのあった谷口のことを思い出すと、自分には谷口ほどの生活力もないのだと感じた。  そんな自己|嫌悪《けんお》の逃避先は、本を買ってきてSFの世界にひたり込むことであったが、その時私は他人の創った世界を読むことよりも、自分の空想を文字にする作業を選んだ。あのSF雑誌がまた新人の作品を募集していたのである。  私は近くの文房具屋へ行って、四百字詰の原稿用紙を三冊買ってきた。一冊が五十枚|綴《つづ》りだから百五十枚分であった。そのコンテストの枚数制限は百枚であったから、書き直し分を一冊とみて三冊買ったのである。  滝川先生と話し合ったりした時に得たアイデアがいろいろとあったが、いざ書く段になるとどれもこれも自信がなく、物語を進めるにあたって肝心の部分の知識が欠けていたりするから、まるで手がつけられないことになってしまった。  やっぱり俺《おれ》には小説なんて書けないんだ。  その冷厳な事実にぶち当たり、自己嫌悪や自分の価値観の喪失はいっそうはなはだしくなった。やっぱり大学へ行っておけばよかった。中学、高校時代の友達の顔がつぎつぎに泛《うか》んでは消えた。みんな大学を卒業し、今ではしかるべき職場で安定した生活をおくっている。  その時私が味わった疎外感はかなり強烈なものであった。自分だけが社会からとり残され、弘志も光子も、亜津子までもがどんどん先へ行ってしまうような気がしてならなかった。 「もうじき三十になろうっていうのになあ」  私は人のいない所で何度もそう言い、溜息《ためいき》をついた。  強い台風が東京を襲ったのはそんな頃であった。テレビやラジオで念の入った情報を流していたからその台風がやって来るのは前の日から判《わか》っていて、店の女の子達も午前中で帰してしまい、私は閉店の札を掛けたイボンヌに、用心のため一人でがんばっていた。  まったくひどい台風だった。雨台風というやつで、イボンヌの窓という窓の隙間から水が流れ込んだ。  夜になるとその雨が少し小降りになり、そのかわり風がいっそう強くなった。その風の中を、八時ちょっと過ぎに弘志がやって来て、私と交替した。寿司屋も中華そば屋もみな店じまいをしていて、私は昼からずっと何も食べていなかったのだ。  弘志はレポートを書くのにつごうがいいからと言って、イボンヌで徹夜をする仕度をして来ていた。  入れ違いに私はズブ濡《ぬ》れになってアパートに戻った。風の音が嫌いな母は、はやばやと蒲団《ふとん》をかぶって寝ており、浴衣《ゆかた》に着がえた私はすることもなく、眠られぬままとなりの部屋の壁に寄りかかってぼんやりと風の音を聞いていた。  台風の夜の緊迫した雰囲気が私に何かを連想させていた。 「アンポ、ハンタイ。アンポ、ハンタイ」  去年の六月に聞いたあのデモ隊の合唱が私の耳に蘇《よみがえ》ってきた。  列を作って際限もなく一定の方向につづく人々の姿が私の目に泛《うか》んだ。 「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」  光子のそういう声が重なった。光子の声は妊娠を私に告げた時の喜びと、私に背負われて病院へ向かう時の悲しみが入り混って、どちらのものとも判然としなかった。  そして、列をなしてどこかに向かって行く人々を見ている私自身の姿もあらわれてきた。私は疎外され、一人ぼっちだった。  いつの間にか私は机の前に坐《すわ》って原稿用紙をひろげていた。地球は宇宙人の農場だった。そこに生命の種が播《ま》かれ、それが成長して人類となった。核兵器を造り出すまでにその人類が成長したところで、宇宙人は農場の収穫をはじめた。人々は列をなして宇宙人の船に乗り込み、他の星へ連れ去られて行く。だが私は出来そこないで、その人々の列に加われないでいる。  やがてこの東京は無人になり、ありとあらゆる物資がつめ込まれたこの大都会で、私はロビンソン・クルーソーの反対の立場に置かれてしまうのだ。  私は書きはじめた。まったく何かに取り憑《つ》かれたとしか言いようのない心理状態であった。  夢中で書いて気がついたら窓から明るい陽が射していた。二冊の原稿用紙がきれいになくなっていて、一枚ごとに番号をふっていくとちょうど一〇〇で終っていた。 「寝なかったの……」  母が起きだしてそう言った時、私はその原稿をつめた封筒の上書きをしているところだった。  朝食を済ませ、イボンヌへ行く途中、私はその封筒を投函《とうかん》した。  第五章     1  私は就職がきまった日、滝川外科を訪ねた。いつもの喫茶店で電話を借り、滝川先生を呼び出すと、すぐに白衣を着たままの姿でとんで来てくれた。 「どうだった」  先生は私を見るなりそう言った。私は左の拇指《おやゆび》と人差指で輪を作って見せた。 「採用か、そいつはおめでとう」  先生は私の前の椅子に腰をおろし、ウエイトレスにコーヒーを注文してから煙草に火をつけた。 「それにしても、早いな」  先生は苦笑しながら言った。 「早い……」  私は首を傾《かし》げて先生を見た。 「そうだよ。履歴書を持って行ってその日に採用決定とはね。ちょっとびっくりした」 「そうかなあ」  私は先生の言う意味がよく判《わか》らなかった。 「そば屋の出前持ちだって、採用をきめるにはもうちょっと時間をかけそうなもんじゃないか」  先生はそう言うと急に心配そうな表情になった。 「その広告代理店をすすめてよかったのかなあ」 「嫌《いや》だな、今になって」  今度は私のほうが苦笑した。  その年の三月もぎりぎりになってから、弟の弘志が航空会社へ入社することにきまった。職種はスチュワードであった。私は早速イボンヌを売りに出し、自分の職探しをはじめたのだ。  滝川先生は私の方向転換に賛成してくれたが、同時に履歴書の学歴に大学へ行ったようにつけ加えることをすすめた。 「今どき、大学を出てなければどこも使ってはくれないよ」  先生はそう断言した。しかし、大学を出たことにすると職歴のほうの辻褄《つじつま》が合わなくなる。私は文房具屋で用紙を一束買って来て、先生と履歴書をでっちあげることになった。 「そうだ、厨房《ちゆうぼう》器具の会社にいたことにすればいい」  先生は笑いながら言い、私が早稲田を卒業してから、阿佐ケ谷にある小さな厨房器具の会社に勤めていたことにさせてしまった。グラス類をはじめ、厨房器具なら私にも値段や種類の知識が充分にあったから、少しぐらい突つかれてもボロを出さずにすむからであった。  そして、その小さな会社が倒産したので新しい職場を探している、というわけだ。 「でかい会社は身もとを調べたりするからだめだよ。小さい会社を狙《ねら》うんだね」  そんなアドバイスまでしてくれた。  その履歴書ができてから一週間ほど、私は毎日のように新聞の求人欄に目を光らせていた。そして今日、麹町《こうじまち》のほうにある広告代理店へ行って見たのだ。  広告に出ていた面接時間ぴったりに行ったのだが、何ともう三十人近い列ができていて、私はよほど途中で帰ってしまおうかと思った。失業者の長い列のうしろにくっついているのかと思うと、なさけなくて仕方なかったのだ。  それは本当に小さな会社だった。隼町《はやぶさちよう》の通りから少し引っ込んだ所の、四階だてのビルの二階にあり、非常階段のような鉄の階段をあがって行くと入口がある。  そんな小さな会社の求人にも、こんな長い列が出来るのかと思うと、私は前途の容易でないことを感じて、体がすくむようであった。  しかし、いよいよ私の面接の番になると、案に相違して簡単に採用がきまってしまった。来週の月曜から出社せよと言うのだ。 「運がいいんだか悪いんだかはっきりしないけど、ま、とにかくおめでとう」  先生は笑顔で言って私に握手を求めた。それでも私は私なりになんとなく希望に燃えていて、先生の手を強く握り返した。 「それで、広告代理店というのは、どういうことをするんでしょう」  握手がおわってすぐそう尋ねると、先生はのけぞって笑った。 「しょうがない奴《やつ》だなあ」  私は代理店というから、広告をする必要のある会社の広告業務を代行する会社だと思い込んでいた。それはたしかにその通りなのだが、先生の説明によると私の理解は現実と微妙に食い違っていた。 「要するに、広告の仕事をまかせてくれるスポンサーを探すのさ」  先生もそう詳しくはないようだったが、広告代理店の仕事について私にいろいろと教えてくれた。しかし、私にはあまりピンと来なかった。 「とにかく、もぐり込んだのだからあとは何とかなるでしょう」  前途が多難であることは判《わか》っていたが、私は割合気楽であった。架空の学歴や職歴を並べたおかげで、自分が別な人間になったような気分だったのである。 「で、コンテストのほうは何か言って来たかい」  先生はそんな私を見て話題を変えた。 「とんでもない」  今度は私が笑った。 「何か言って来たら大変じゃありませんか」  生まれてはじめて小説というものを書いて、それをSF雑誌のコンテストの応募作品として発送したのは去年の秋のはじめであった。それからもう半年もたっていて、私にはあわよくばと言う欲さえなくなっていた。 「遅いなあ。何をのんびりしてるんだろう」  先生はじれったそうに言った。同じコンテストに、先生も作品を二つほど送っているのだ。  私は数えるように言った。 「募集したのが去年の九月で、応募の締切りが今年の一月でしょう。届いた作品の数だって五百や千はあるでしょうから、読むのだって時間がかかりますよ」 「それにしたって、中間発表ぐらいすればいいのに」 「先生は入選したらお医者さんをやめるんですか」 「冗談言うな」  先生は憤《おこ》ったように私を睨《にら》んだ。 「親父の具合が悪いんだ。もう医者はやめられないよ」  しかしその顔は、作家になりたいと書いてあるような感じだった。     2  私は広告《アド》マンになった。はじめのうち、広告をすべてピー・アールでかたづけていて、 「アドバタイジングというんだよ」  などと先輩に苦々《にがにが》しげに注意されたりもしたが、何とか適当に誤魔化《ごまか》してそういう先輩のあとにくっついてまわった。 「何か君はフワフワした感じだな。厨房器具の会社にいて、水商売の人たちの相手をしていたのだから仕方ないが、もう少しピリッとした感じになれんのかね」  或《あ》る日社長にそう言われてびっくりし、その晩床屋へ行って髪を短いスポーツ刈りにしてしまった。  翌日会社へ行くと、社長は私の頭を見て何度も頷《うなず》いてくれたが、あとで聞くと、 「今度はやけに物騒《ぶつそう》な感じになってしまった」  と笑ったそうであった。  それでも私は張り切っていた。ちゃんとしたサラリーマンになれたことがうれしくて仕方なかった。やっている間は気付かなかったが、バーテンダーの生活にはどこか野良犬じみた感じがつきまとっていたらしく、それがなくなっただけでもすがすがしかった。  そのうちにイボンヌが売れた。弟は羽田空港へ通うのに便利のいい場所に家を借りて母と暮らすことになり、私は千駄ケ谷に四畳半の部屋を見つけてそこへ移った。  朝八時にはそのアパートを出て、夜七時にはその部屋へ戻る。三食とも外食で、部屋ではせいぜいお湯を沸かして茶を飲むぐらいしかせず、テレビもラジオもなかったが、私は結構充実した日々だと思っていた。  髪を短くしたと同時に急に体重が増え出したのは、生活が規則正しくなったからであろう。それにしても、近くの銭湯へ行って体重をはかるたび、確実に一キロか二キロ増えているようだった。おかげで夏までにはとがった感じだった顔が丸くなり、母はそれをいい傾向だと言ってよろこんでくれたが、服が全部着られなくなって、新調する金のやりくりに苦労させられた。  或《あ》る日、スポンサーのひとつである八重洲口の既製服メーカーのオフィスへ連れて行かれた。私にとってははじめての会社なので、キョロキョロしながら先輩のあとについて行くと、宣伝の責任者である総務部の次長さんが、大きな声でその先輩を叱《しか》った。 「君のとこはプロなんだろう。こんな古臭い文句じゃ困るんだよ」  次長さんはそう言うと、私の社の名前を刷り込んだ原稿用紙をデスクの上へ抛《ほう》り出し、仏頂《ぶつちよう》づらで煙草を咥《くわ》えた。  呶鳴《どな》られて緊張していた私は、無意識にライターをとり出して次長さんの煙草に火をつけていた。すると次長さんは、おや……というように私を見た。  とたんに私はしめたと思った。私の火のつけかたが、世間一般のサラリーマンと、やはりどこか違う感じがしたのだろう。私に向けられた次長さんの目は、いぶかしんではいても怒ってはおらず、そして私はそういう目をする人の扱いに自信があった。 「ちょっとこれを拝見してもいいですか」  私はまだ紹介もされていないのに、なれなれしくそう言って、次長さんの前に置いてある原稿用紙を引き寄せた。  私の会社ではその既製服メーカーのラジオを受持っていて、毎朝会社で提供番組を聴かされていた。だから私なりに、新しいコマーシャル・メッセージの文案《コピー》ができあがっていたのだ。  次長さんのデスクの端で、中腰になってそれを一気に書いた。一分間の語数がほぼ四百字に相当するということも教えられていたのだ。  書いている途中で次長さんは、うん、うん、と頷《うなず》きはじめた。そして私が書きおえると同時に先輩の顔を見て、 「うん、これでいい」  と言った。先輩は当惑したように私をみつめた。 「お茶を飲みに行くか」  次長さんは立ちあがり、となりのビルの地下にある喫茶店でコーヒーを奢《おご》ってくれた。私は堅《かた》い話は先輩にまかせ、冗談ばかり言って次長さんのご機嫌《きげん》をとり結んだ。 「今度からうちのコピーは彼にまかせる」  別れぎわ、次長さんは先輩にそう言ったらしい。  だが私は営業部員であった。会社へ帰ってからそのことで少し制作部と揉《も》め、結局私は本社から分室へ移されることになった。  分室は本社から三百メートルほど離れた場所にあり、六、七人のスタッフが独自に活動をするプロジェクト・チームのようなものであった。あの次長さんの会社の仕事に限って文案《コピー》を担当すると同時に、新規スポンサー開拓班と言ったチームに籍を移されたわけである。古くからのスポンサーのお守り役になるはずが、急に第一線へ送り出されたのであった。  分室での生活はいっそう楽しかった。課長はひどく行動的な人物で、コネさえあれば無駄を承知でどこへでも乗り込んで行く。そして帰って来ると、スタッフを集めて真夜中までそのスポンサーにぶつける新しい広告計画を練らせた。  本当を言えば、毎日夢を組み立てているようなものだった。しかし例によって私は一途《いちず》にその仕事に熱をあげた。アパートへ帰ってもSF雑誌など見向きもせず、アドバタイジングやマーケッティングの本ばかりを読み漁《あさ》った。  私は蝶《ちよう》ネクタイではなく、普通の長いネクタイをひらひらさせて歩く自分を恰好《かつこう》がいいと感じていた。だから小遣いがあるとネクタイばかり買い漁《あさ》っていた。肥ったので新調した服は、前身が前身だからどうしても派手めになってしまったが、広告業界にはもっと派手な連中がたくさんいたから、別に咎《とが》められることもなかった。 「君は年寄りに強いからなあ」  分室の仲間たちは、その点で私に一目《いちもく》置くようになった。私は銀座や新宿で比較的値段の高い店ばかりを渡り歩いたから、部長クラス以上の人の扱いには慣れていて、物怯《ものお》じせずにすむのであった。  その分室の建物があるすぐとなりに、柵《さく》で囲ったかなり広い空地があった。毎日窓から何気なくその空地を眺めていたが、或《あ》る時それが出版社の本社を建てるための用地だと知った。  榊さんたちの会社がここへ移って来るのか……。私はそう思ったが、もう夜の世界で知った人々は遠い存在になりかけていた。     3  無我夢中の内に日がたって夏になった。土曜日で給料日……会社の仲間と一緒にまごまごしていると、どんな波瀾《はらん》が起って次の一か月の予算が狂わないとも限らない感じだったので、私は要領よく早めに分室をぬけ出し、はやばやと新宿へ足を向けた。  それでも昔の仲間の店を二軒ほどまわって僅《わず》かなツケを払い、ついでに少し飲んでから夕食をする気で南口の陸橋のほうへ歩きはじめた。びっくりするくらい安い値段で商売をしている中華料理店が、その辺《あた》りにあったのだ。  伊勢丹の前から千駄ケ谷のほうへ向かい、陸橋へ右に曲がったとっつきの所に、小さな本屋があって、その前をぶらぶら通りすぎかけると、SF雑誌の表紙が目に入った。  そうだ、今日は二十五日だな。  私は心の中でそうつぶやきながら、久しぶりにその雑誌を買って小脇《こわき》にはさんだ。安直な中華料理店へ入って椅子に坐《すわ》り、食べ物を注文してからそのSF雑誌のページを繰《く》って行くと、不意に私の名がとび出して来た。  コンテストの中間発表に、まん中ごろの一ページがさいてあって、私の名はそのほぼ中央に印刷されていた。  うれしさを感じたのはしばらくあとであった。最初は恥かしい姿勢を人に見られてしまったような感じで、ただドキドキと胸が鳴るばかりであった。  が、それも去ると、私はうっとりと活字になった自分の名に眺め入った。まるで私は、生まれてから一度も満足したことのない人間のようであった。次から次へ、心の奥底から強烈な満足感が、波のうねりのようにとめどもなく押しよせて来るのである。その満足感と来たらもう、甘くて甘くて、体がとろけてしまいそうであった。 「やった。やったぞ……」  たまらなくなって、つい声に出してそう言うと、ちょうど私の注文した料理を運んで来た中国人のおばさんが、 「競《けい》パあてたか。よかたねえ」  と笑った。  その安い料理を食べながら、私はときどき涙ぐんだ。  これで生きて行ける。学歴詐称だろうが何だろうが、俺《おれ》は威張って生きて行っていいんだ……。体が自分自身に対する信頼感でふくれあがったようだった。  中間発表で残った作品は全部で十三あった。横一列に並んだその十三行の七番目、つまり中央に私の名があったのだが、残念なことに滝川先生の名は見当たらなかった。  それでもとにかく私には充分すぎる結果であった。  これはもう入選したも同じことなんだぞ。  私はその帰り道、用心深く自分にそう言い聞かせていた。百枚の小説を書き通せただけで水商売の足を洗うふんぎりがついた。その上中間発表に残って自信までつけてもらった。せっかくいいことずくめなのに、この上欲をかいて入選まで望むようになれば、結局失望落胆して、へたをすればまた自信を喪失しかねないのだ。作品数は十三点だが、作者名は十二人しかなかった。一人で二点も選に残っている豪の者がいるのだし、すでにその雑誌で名を見かけるセミプロ級の作品もあった。  私は気を鎮《しず》め、それ以上の欲を起さないようにしながらアパートへ戻った。  銭湯へ行って汗を流し、酒屋へ寄って冷えたビールを二本買って、あらためて一人だけの祝杯をあげたのは十一時近かった。滝川先生や弟の弘志に何度電話をしようとしたか、数え切れないくらいだった。  だが実際にはまだ中間発表の段階で、そう大騒ぎするのもためらわれた。なかなか寝つかれず、やっと眠ると久しぶりに光子の夢を見た。  たしかに私にとってそのコンテストの効果は絶大であった。次の週から私は自分でも呆《あき》れるほど猛然と動きまわった。勢いに乗っている時というのは恐ろしいもので、くらいついていたスポンサーを次の週の内にひとつものにしてしまい、三週後にはもう一つのスポンサーも陥落させた。  勿論《もちろん》、どちらもそう大きな会社ではなかったが、分室の気勢は大いにあがり、本社のスタッフに新しいスポンサーを引き継がせると、次の攻撃目標を探しはじめた。  ちょうどガスライターの普及期にさしかかっていた。長い会議の末、課長の主張をいれて主目標をガスライターのメーカーにすることに決定したが、私はこれと並行して清涼飲料のメーカーをアタックするように命令された。  会議でしつっこく私がそれを提案したからだった。  その頃まで、清涼飲料は冬期になると宣伝活動を休止していた。ところが私はバーテン時代の体験でよく知っていたのだ。店の中に限って言えば、コーラ類はどうも冬場のほうが注文が多いようなのだった。暖房のきいた中に長くいるとどうしても喉《のど》が渇く。酒の弱い女の子は、少し寒くなるときまってコーラ類をくれと言い出すのだ。反対に夏は冷房がきいているから、ひと晩中その冷気の中にいる者はあまり冷たいものを欲しがらない。 「冬も売れるようにしなければ、あの業界は一年が半分の長さしかないことになってしまうじゃないか」  それが私の主張だった。そして、曲がりなりにもそれが通って、私はガスライターとコーラのふたつをやることになったのだが、やはり私には相手が大きすぎて、どこから押して行っていいか見当もつかなかった。  自然、ライターのほうにウエイトがかかることになり、私は課長の腰巾着《こしぎんちやく》で毎日のように神田へ通った。  神田にはガスライターのメーカーの宣伝部が、本社とは別にオフィスを構えていたのだ。  それは十月のはじめ頃であった。  私は課長と一緒にそのオフィスへ行った帰り、いま先方の担当者から聞き出したことを整理するため、駅の近くにある洋菓子店の二階へあがった。二階はだだっぴろい喫茶店になっていた。  時間は昼休みのころであった。  課長と仕事の話をしていてふとそばを見ると、SF雑誌の編集長が一人きりでコーヒーを飲みながら何か原稿を書いていた。いつか滝川先生に誘われてSFファンの大会のような集まりに出席した時、そのベレー帽をかぶった編集長を見たことがあって、よく顔を憶《おぼ》えていたのだ。 「ちょっと失礼」  私は課長にそう言って断わると、のこのことそのベレー帽をかぶった人のそばへ行った。     4 「あの……」  声をかけると、その人は原稿用紙に太いペンを走らす姿勢のまま、目だけをあげて私を見た。 「は……」  ちょっととりつく島もない感じだったが、私はいっぱし広告《アド》マンぶった毎日を送っていたから、 「SF雑誌の加藤さんですね」  と言って笑いかけた。 「ええ、そうですが……」  加藤さんは気の乗らない返事をした。 「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」 「何です」  加藤さんは諦《あきら》めたように万年筆をテーブルの上に置き、コーヒーのカップを持って一口飲んだ。 「SFのコンテストの結果はどうなりましたか」 「ああ……」  加藤さんの浅黒い顔に苦笑が泛《うか》んだ。 「きまりましたよ。やっとね」  私がファンの一人だと見当がついて、少しほっとしたような感じであった。髪を短くして目をギョロつかせた私は、何となく物騒《ぶつそう》な雰囲気《ふんいき》を漂わせていたらしい。 「誰ですか」  私は畳《たた》みかけて訊《き》いた。 「一人は大阪の人で、大杉実という人です」 「ああ……」  私は頷《うなず》いた。その名ならもう知っていたのだ。 「で、入選は二人だったんですか」 「ええ」 「もう一人は……」  私は加藤さんをみつめた。加藤さんは閉口したように、 「もう一人は東京の人だけど、多分あなたはご存知ないでしょう」  と言った。 「何と言う名の人ですか」 「月岡哲郎」 「あ、それ僕です」  加藤さんは半分笑い、半分|憤《おこ》ったように私をみつめた。 「あなたが……」 「そうです」  私は会社の名刺をとり出した。 「さあ大変だぞ」  加藤さんは急にはしゃぎ出した。 「あなた、引越したでしょう」 「ええ」 「通知がみんな返って来ちゃうんだ。困ってたところなんだ」 「すいません」  私は頭をさげたが、なぜかおかしくて仕方なかった。  幸運にぶつかるそのぶつかりようが、あまりと言えば簡単すぎる感じであった。 「よかった、ここでつかまえて」  加藤さんは自分から私をみつけたように言った。 「もう逃がさないぞ。これからすぐ社へ来てください」  そう言いながら原稿用紙を紙袋にしまいはじめている。私はあわてて課長のところへ戻った。 「大変な用ができちゃったんです。午後から休ませてください」  課長は私たちのやりとりをずっと見ていたので、内容は判《わか》らぬながら、只事《ただごと》ではなさそうだと察してくれたらしかった。 「仕方がない。いいよ」 「ついでにお金を少し貸してください」  何に使うか判らなかったが、ふところがひどく淋《さび》しかったのだ。課長は無表情で千円札を二枚渡してくれた。  その課長を残し、加藤さんについて喫茶店を出ると、 「忘れていたよ」  と加藤さんは交番の前で足をとめ、 「おめでとう」  と私の手を握った。私はその手を強く握り返し、ついでに交番の警官のほうへも笑顔をサービスした。  その出版社は木造だった。田舎《いなか》町の病院の入口のような感じのドアをあけて入ると、左側に木の階段があって、その踏み板はまん中辺りが少し擦《す》り窪《くぼ》んでいた。  ここが出版社の編集室か。  私は宝の山へ招かれたような気分で、その二階の板張りの部屋へ入った。 「まあそこへ坐《すわ》ってください」  加藤さんは自分のデスクにつくと、私にそう言って椅子をすすめ、やおら横に並んだ編集者のほうを向いて、アハハ……と笑い出した。 「何だい」  となりの痩《や》せぎすな人が怪訝《けげん》な表情で加藤さんを見た。 「これ、誰だと思う」  加藤さんは私を指さして笑い続けた。 「誰……」 「月岡さんだよ」 「え、いたのか」 「駅前の喫茶店でつかまえたんだ」  加藤さんはその人に事情を説明した。 「そういうことが起るのかねえ」  その人はしきりに感心したが、しまいに悪戯《いたずら》っぽい目になって、 「あんた、本物かい」  と念を押した。 「シノプシスを喋《しやべ》りましょうか」  私も笑って言った。 「いいよ、いいよ」  その人は手を振って見せた。 「これはミステリー雑誌の編集長で大泉さんだ」  加藤さんが紹介してくれた。大泉さんなら私も名前くらい知っていた。  俺は今有名な雑誌の編集部で、編集長たちに会っている。  そう思ったとたん、本物のうれしさがこみあげて来た。 「まず、二百字か三百字でいいから、入選のことばという奴《やつ》を書いてもらいますよ」 「ここでですか」  私はその場で書けと言われたら、恥かしくて死んでしまうと思った。 「あとでいいですよ。それより写真が先だ」  加藤さんはカメラをとり出して、私を壁際へ連れて行った。編集部の人たちが、みんな私を見ていた。恥かしかったが、うれしさのほうがまさっていた。 「一月号には大杉さんの入選作が載るけれど、君は住所不明だったからあとまわしになってしまったよ」  加藤さんはそう言ってシャッターを切った。     5  課長に午後から休ませてくれと頼んだが、実際にその編集部にいたのは一時間ほどであった。最後に肥った社長に紹介され、挨拶《あいさつ》をしおえると私は意気揚々とその木造の建物を出た。  私はすぐ近くの公衆電話へとんで行って、滝川先生を呼び出した。 「先生、入選しちゃいました」  そう言うと先生は、 「そうか、やったか」  と高い声で言った。 「五時ごろ来てくれ。とにかくお祝いをしなくては」  先生の弾《はず》むような声を聞いている内に、私は体が痺《しび》れたようになってしまった。先生はわがことのようによろこんでくれているのだ。小説などについて語り合う友達というのは、私にとって先生がはじめてであった。自分は落選したのにそんなことは気にもとめず、ただ私の入選を祝ってくれている。友達というのはこういうものかと、しみじみ有難《ありがた》く思った。  時間はあり余っているし、先生に会う五時までは行く当てもないまま、私はぼんやりと歩きはじめた。自分の体を何かこころよい靄《もや》のようなものがおし包んでいるようで、電車などに乗ればその幸福の被膜が剥《は》げ落ちてしまいそうな気分だったのである。  私の足は皇居前広場のほうへ向かっていた。入選した作品のラスト・シーンがその広場に設定してあったせいだ。かなり距離のあるそのコースをゆっくりと歩いていると、生まれてから今日までのこまごまとしたことを、なぞるように思い返しはじめた。そしてその回想は、光子と谷口のところまで来てとまった。  自分はあの二人に今日のことを報告する義務があると思った。しかし私は二人が今どこにいるのか知らなかった。最後に光子と会った銀座のクラブなら、電話番号も判《わか》っていたが、なぜか光子はもうそこに勤めてはいないような気がした。  俺はなぜ光子と結婚しなかったのだ……。  よろこびすぎたせいだろうか。私の心は一転して暗くなりはじめた。光子に対してしたことをひとつひとつ思い返すと、自分がいかに無神経で薄情で、一片の思いやりもない人間であったかを悟り、痛むような自己|嫌悪《けんお》にかられた。  報告などより詫《わ》びるほうが先だ。私はそう思った。素直で陽気で屈託《くつたく》がなく、いじらしいまでに自分の現在の生活に忠実だった光子を、私はその時になってやっと素晴らしい女だったと認識した。  光子と結婚し、あの時の子供と三人で暮らしていて今日の結果を報告できたら、どんなに幸せだっただろうかと悔《く》いた。  私はいつの間にか皇居前広場へ来ていた。そして広場のベンチにいつまでも坐《すわ》っていた。一度は遠くなっていた光子との距離が、坐っている内に元の近さに戻っていた。  五時きっかりにいつもの喫茶店へ行くと、滝川先生が先に来て待っていた。 「おめでとう」  先生は立ちあがって私を迎えた。 「すみません、僕だけ……」  私は口ごもりながら言った。 「何言ってるんだ。俺なんか駄目だと思っていたよ。それに、俺は仮りに入選できたとしたって医者をやめられはしないんだし」  滝川先生は淡々としていた。 「これからは国産のSFが要るんだ。一人でも多く日本人作家が出て来なければいけないんだからな。頑張ってくれよ」 「頑張ってくれと言われたって……」  私は頭を掻《か》いた。 「作家になれるときまったわけじゃありませんよ」 「なったんだよ、もう」  先生は憤《おこ》ったように言った。 「そのためのコンテストじゃないか。国産のSFを一番必要としているのはあの雑誌なんだ」 「僕にはやれそうもないな」 「裏切りだぞ、そんなの」  先生は本当に腹を立てたようだった。 「新しい作家を必要としたからコンテストをやった。それにこたえようとしてみんなが書いた。入選した君がそんないいかげんな態度じゃ、選に洩《も》れた奴《やつ》はどうなるんだ。君は日本のSFのためにも、すべてをなげうってSF作家にならなければいけないんだ」 「大げさだな。まるであの出版社の社長みたいなことを言ってる」  私が笑うとさすがに先生も自分の気負いすぎに気付いたらしく、 「それほどでかい賞でもないか」  と頭に手を当てて苦笑した。 「そうですよ。プロの作家になれるような保証はどこにもないんです。先生の言う通りに煽《あお》られていたら、ルンペンになりかねない」  私たちは顔を合わせて笑った。 「俺、少し興奮しているんだ。うちはみんな理科系の人間ばかりで、小説なんか読んだり書いたりするのは俺一人なのさ。だから、君が入選したって聞いたら、もううれしくてね」 「大杉さんならどんどん書いてくれますよ。もともと今度のコンテストは、大杉さんあたりが本命で、僕なんか紛《まぎ》れ込んだって感じですからね」 「ま、何でもいいや。とにかく祝杯をあげなくてはな。いいかい、今夜は俺が奢《おご》るから、君は黙ってついて来ればいいんだぞ」  先生は念を押すと、それからしばらく自分の応募作品のことなどを喋《しやべ》り、やがてその喫茶店を出て新宿へ向かった。 「どこへ行く気なんです」  区役所通りへの坂を下りながら私は先生に尋ねた。 「四番地さ」  先生は当然だろうというように答えた。 「うへ、四番地か」 「嫌《いや》かい」 「別に不義理はしていないからいいですけれど」  私はそう言ったが、妙にこそばゆい感じであった。  昔の職場へ客として飲みに行く。いったいどんな顔をしていればいいのだ。 「コンテストのことなんか喋《しやべ》らないでくださいよ」 「どうしてだ」 「だってあそこは、出版社の人たちの巣みたいなもんですからね」 「それもそうだな」  先生は素直に納得してくれた。     6  その晩、私は先生と別れてから、あの銀座のクラブへ電話をして見た。私の先輩に当たるマネージャーもやめていたし、光子の名を言っても、電話に出た男は全然心当たりがないようだった。どうやら経営者が替ったらしかった。  翌日出社すると、朝のミーティングの席で課長がきのうのことを尋ねた。私は別に隠す必要もなかったので、入選したことを言った。 「そりゃいいぞ」  課長は目を輝かした。 「SFなんて俺は知らんが、そのコンテストに入選したというのは俺達の戦力になる」  私は課長の発想が意外で、黙って相手をみつめていた。 「宣伝部だの広報課だのというセクションに配属されている連中は、たいていその会社の中でも文章の力があるということで選ばれているんだ。中には映画や芝居に詳しいとか、楽器が扱えるとかいう特技を買われた連中もいるが、まあたいていは文章力だ。だいたい宣伝関係のセクションは、もとをただせば総務部の文書課のようなものが多い。自分でも書けると自負している奴《やつ》がそこのデスクに坐《すわ》っているわけだから、代理店が持ち込む文案《コピー》を何かというといじりまわす。絵の手直しは面倒だが、文章の手直しは簡単だからな。全然問題のない文案《コピー》でも、語尾を少し直すとか何とかしては、自分もそれに参加したつもりでいるんだ。だが、こっちのコピーライターに作家のような肩書きがあれば話は別だ。はじめから敬意を持って見てくれるからな。いいか、課長命令だ。その肩書きを手ばなすなよ。チャンスがあったらできるだけ小説を書いて雑誌に載せてもらえ。君が作家になるためじゃなくて、俺たちの商売のためだ」 「でも、それでだんだん有名になったら本物の作家になってしまいますよ。俺、会社をやめなければならない」 「なればいい。でもこの先十年は大丈夫だ。君はまだ当分サラリーマンさ」  課長は事もなげに言って笑った。私もたしかにその通りだと思った。 「デザイナーでもカメラマンでもみんなそうだ」  課長は真面目な顔で諭《さと》すように言った。 「絵や文章など、何かを創り出す仕事にたずさわる人間というのは、俺たち営業マンと違って、世間に利用してもらうことで身を立てるんだぞ。だから、広告代理店のような所で給料をもらって、その見返りに会社の仕事をしている絵描《えか》きは三流の絵描きだ。会社の仕事のほかに、よそから注文が来てアルバイトをするのが二流半、そのアルバイトのほうがいそがしくなって、フリーになるのが二流だよ。一流になると自分で仕事を選べる。気ままに描いた絵が順番を待つようにして売れて行くのが超一流さ」  課長の言い方は乱暴だったが、私にはよく理解できた。小さなコンテストに入選したからと言って、すぐにプロの作家になろうなどという気を起したら、それこそ折角《せつかく》の幸運が裏目に出てしまうことになるだろうと思った。  それでも分室の仲間は私の文案《コピー》に対して、その日から一目おいてくれた。スポンサーのところへ持って行っても、今までより強く自分たちの狙うポイントを主張できるらしかった。私にとってコンテストの入選は、意外な方面で役立ちはじめていたのだ。  翌年の三月号には私の入選作が掲載された。ちゃんと挿絵《さしえ》もついたその作品を、仲間たちは次々にまわし読みして批評してくれた。実を言うと、その分室は社内でも孤立した状態におかれていた。課長は以前本社の営業部長だったが、仕事のことで何かと幹部連中と対立し、やがてその社内抗争に敗れて分室の責任者にされたということであった。  たしかに課長は新規のスポンサーに対しては積極的で、次から次へと奇手奇策を仕掛けるが、ひとつのスポンサーをじっくりと守り続ける守りの能力には大いに欠けているようだった。  しかしそれは私にとって好都合だった。実際に広告の仕事をやってみると、私にもそういう性格があって、のべつ夢を追いかけているような分室の雰囲気がしっくりと合うのだった。  それに、冷や飯を食わされているという意識があるから、分室のチーム・ワークは非常によかった。私はその小さな組織の一員になり切って、コンテストに入選したことも課長のいうように商売の種として考えるようになり、作家になりたいなどという欲求は感じなくなって行った。  仲間のあと押しで、清涼飲料の会社へも出入りしはじめ、私は執拗《しつよう》に冬期のキャンペーン計画を提出しつづけた。  課長の積極的なスポンサー攻撃も、ようやく効果を見せはじめ、分室はあげ汐《しお》に乗ったように、次から次へと新しいスポンサーを獲得していた。  サラリーマンの社会も案外|姑息《こそく》なものだと知ったのはその頃のことであった。  分室の成績があがると、本社の幹部は露骨な牽制《けんせい》をしはじめた。自分たちの制作スタッフを使わせないのである。デザイナーやカメラマンの中には分室の仕事に意欲を示す者も多かったが、もともと分室は独立採算制を原則としていたから、それを楯《たて》に自分たちの仕事を優先させ、課長に社外への発注を強《し》いていたようである。  だが私にはそれも好都合だった。分室ただ一人のコピーライターとして、私は外部の優秀なクリエーターたちと、発注者として接触することができた。  面白くて面白くて、一日一日を惜しむように過していた。同じ仕事が十日と続かないのも私にとっては楽しいことであった。 「毎日開店してるみたいだ」  私はバーテン時代の表現でそう言ったりした。毎日が翔《と》ぶように過ぎて行き、加藤編集長からお声がかかると、大慌てで二、三十枚の短篇を書いたりしながら、私は三十歳の誕生日を迎えた。  その頃、私は独自で或《あ》る紡績会社の本社に出入りをしはじめていた。四番地時代の客の一人が、その会社の実力者だということを知ったからである。  糸田さんというその客は、バーテンの私を可愛がってくれた人で、訪ねて行くとすぐに広報課長を紹介してくれた。 「こいつにチャンスをやってくれよ」  糸田さんと広報課長は入社が同期だとかで、ひどく仲が良いようだったが、そこでは前身がバレてしまっているから、私は仲間を連れては行けなかったのだ。     7  業界全体が長い低迷期にいたとはいえ、その紡績会社は大物であった。化繊《かせん》部門で他社に遅れをとっていたので、その巻き返しに懸命であった。  広報課長に紹介されて間もなく、私は突然その会社から呼出しを受けた。 「糸田に頼まれているから、君にチャンスをやろう」  新しい化学繊維の発売キャンペーンの企画を提出しろと言うのである。従来その会社では、そうした場合三つの広告代理店に企画競争をさせていたのだが、今回特に私の会社を割り込ませてくれるのだ。  私は分室へとんで帰った。そしてまず課長に私の前身を打明けた。 「そういうわけで、あの紡績会社に食い込めたのは、あそこにバーテン時代のひいきがいたからなんですよ。いよいよ仕事となったら、それがばれるにきまっているし……」  そう言うと課長はニヤリとした。 「学校がどうだろうと、俺には関係ないね。一緒に戦争をしてくれて、役に立ってくれれば誰だっていいんだ。しかし本社の連中はそう行かないぞ。君が正直に高卒という学歴を言ったら、決して採用しなかっただろう。だが心配するな。あの紡績会社なら、持って出るのにちょうどいい」 「え……」  私は課長をみつめた。 「持って出る……」 「全力をあげてその企画競争に勝とう。そして、勝っても本社には渡さないんだ」  私は胸が高鳴った。課長は謀叛《むほん》を企んでいるのだった。 「俺たちの会社を作るんですね」 「そうだよ」  よし、やってやる。私は決意した。生まれてはじめて、形のはっきりとした男の戦いに加わったのである。  課長や分室の先輩たちと違って、私には本社に対するうらみつらみなどなかった。しかし、セールスの第一線に立つこともなく、社長をとりまいて姑息《こそく》なことばかり考えている幹部連中には、全く魅力を感じなかった。欠点だらけでも常に前傾姿勢で目標に突っ込んで行く課長のほうが、男として数段上だと思っていたのだ。  謀叛の成否は私が持ち込んだ紡績会社の企画競争にかかった。その日から分室の仲間は同志に変り、私たちはその仕事に熱中した。  先方の広報課長は、酒好きで麻雀《マージヤン》狂だった。次の日、早くも課長はその広報課長と飲み歩き、その週末には麻雀をしたらしい。 「企画は最終的に常務会へ持ち出される。決定するのはその常務会のメンバーだが、老人が多いから気をつけろ」  折りにふれ、課長からそんな注意がとんだ。新しすぎてはいけないし、くだけすぎてもよくないというのだ。  商品名の書体からはじまって、パンフレット、ポスター、新聞雑誌の広告、CMフィルム、そしてテレビ広告の時間帯分布まで、私たちのやることはほとんど広告のすべての分野にわたっていた。お互いの情報の探り合いもはじまる。よく注意していると、競争相手の企画がだんだん判《わか》って来るのだ。 「敵は一社だ。あとは恐るるに足らん」  課長がそう断言して見せたのは、企画提出の命令を受けてから二か月ほどたった日であった。その間、私たちはほとんど不眠不休の状態に近かった。ことに本社にさえ秘匿《ひとく》した作業であったから、デザインなどを依頼した外部のアーティストたちもほとんどが今まで付合いがなく、その分何かと苦労が多かった。  課長のやり方も手がこんでいた。当て馬に軽自動車のメーカーを持ち出し、そこと取引をはじめるための企画だと称して、紡績会社への企画費をどんどん落してしまっていた。勿論《もちろん》軽自動車メーカーのことも嘘《うそ》ではなかったが、そのほうの経費を三倍くらいにふくらませて本社に支払わせていたらしい。  本社側は、軽自動車メーカーに対する売込みを有望視していて、費用を惜しまなかったが、現場で実情を把握している課長は、 「十年早いよ」  とかげでうそぶいていた。大手の代理店ががっちり食い込んでいて、私らが取引できたとしても、その扱い高は微々たるものらしかった。  足繁く紡績会社の広報課へ出入りする私にとっても、敵が三社の内の一社だけであることが明白になって来た。 「一騎うちらしいな」  広報課長もしまいにははっきりそう言うほどであった。  いよいよ常務会に四社の提出した企画をかける日が近づくと、私は不安に陥った。何と言ってもキャッチ・フレーズが最大の争点になるのだ。  敵のキャッチ・フレーズを知りたい。  寝ている間もそう思うようになった。何としても勝ちたかったのだ。SFのコンテストでも、一度勝利を味わったが、それは運のようなもので、原稿を書いて投函したらあとは自分の力ではどうにもならなかった。しかし今度は違う。お互いに生活がかかっている。大げさに言えば命がけで、戦争のようなものではないか。勝つためには手段を選ばないという姿勢こそが正しいのだ。  そう思った私は、敵のキャッチ・フレーズを確実に知る方法を考えついた。  どの社も、キャッチ・フレーズは三点くらいが限度のはずであった。一つごとにすべての絵柄を展開して見せなければならないから、五通りも六通りも出せるわけがないのだ。たとえば私たちの場合、一つのキャッチ・フレーズについて展開する制作物は、大小とりまぜて四十点ほどになる。それを三通りやるので手一杯なのだから、五通りもやれば二百点となって、全く不可能なのである。  恐らく敵も三本。そう私は踏んだ。  それが今、ダミー制作の追い込みで、次から次へと写真植字にされている。私は敵の会社が使っている写植屋を探り当て、まんまと三本のキャッチ・フレーズを読んでしまった。勿論《もちろん》、写植屋の若い人に金を握らせた。 「君も汚い手を知ってるな」  課長は私の報告を聞いてうれしそうに言った。  あと知恵、ということがあるが、キャッチ・フレーズなどは、他人の考えたものにあとで手を入れるほうが余程すっきり仕上る。私たちは大急ぎで、放っておいたら危険と思われる敵のキャッチ・フレーズの一本に対抗する案を突っ込んで、何とか常務会にすべり込ませることに成功した。     8  勝った。 「おい、お前たちのが通ったぞ」  広報課長からの電話を取ったのは、偶然私自身であった。私は泣くのをはばからなかった。 「なんだお前、泣いてるのか」  広報課長は、受話器の向こうでびっくりしていたようだが、私は正々堂々と受話器に向かって泣いていた。泣きながら、これもスポンサーにうち込むくさびのひとつ、などと思っていたのだから、もう私も広告《アド》マンになり切っていたようである。  その夜、先方の広報課員たちと、私たちは銀座の高級クラブを飲みまわった。 「竹内が可哀そうだな」  広報課長はしつっこくそう言った。竹内というのは私たちが徹頭徹尾マークした競争相手の営業課長であった。 「あいつ、自信満々だったんだ。ところが、ふたをあけて見たら、あいつが本命だと思っていたアイデアそっくりの、しかももう一枚上のが君たちの所から出て来てしまったんだ。今頃はやけ酒だぞ」  勝利に酔った私たちには、それさえもが笑いの種であった。  何軒目だっただろうか。もう私たちだけになっていて、地下一階にある侯爵《こうしやく》というクラブから出て来た時だった。 「おい」  暗がりから、額に深い傷痕《きずあと》のある男がぬっと姿を現わして言った。 「え、何だい」  課長が答えた。 「月岡って野郎はそいつだな」  男は私を顎《あご》でしゃくって見せた。一人、もう一人……暴力団風の男が三人、私を睨《にら》んでいた。  私ははじめ大して気にしていなかった。やくざにからまれるとしたら、亜津子のことぐらいしか思い当たらないのだ。それも昔のことになってしまっているし……。  ところが、ふと目をそらせると、その先の横丁の角に、こちらの様子を窺《うかが》っている小柄な男がいるのに気付いた。とたんに新宿で物騒《ぶつそう》な連中にとり囲まれて暮らしていた頃の勘が働いた。 「いけねえ」  私は課長の背中を突きとばして追手の障害にすると、大声で叫びながら走り出した。 「待て、竹内」  私に名を叫ばれて、様子を窺っていた小柄な男が逃げ出した。敗《ま》けた代理店の営業課長だったのである。  酔っていたとは言え、銀座のまん中で珍妙な追いかけっこがはじまった。  竹内が私にやくざをけしかけて来たのは明白だった。写植屋の件がバレたに違いなかった。 「卑怯者《ひきようもの》」  私が叫ぶと竹内も逃げながら叫び返した。 「卑怯なのはてめえだあ」 「待て、逃げるな。話をつけてやる」 「卑怯者」  竹内は、卑怯者、卑怯者と言いながら、私の二十歩ほど先を逃げまわり、追う私のあとから、やくざの足音が迫って来た。  私にすれば、竹内をつかまえる以外、その荒っぽい男たちから逃げる道はなかった。竹内は小柄で、私の力でどうにでもなりそうなくらい骨の細いやさ男であった。  私を追うやくざたちも妙な気分だっただろう。ドジなやとい主が標的の私に追いかけられてしまっているのだ。かなりごちゃごちゃと走りまわっている内に、うしろの足音は消えてしまった。堅気《かたぎ》なら夜の銀座を走りまわっても大したことはないが、一見してやくざと判《わか》る連中が三人もつながって走ったのでは、気の早いのが一一〇のダイアルをまわしかねない。  竹内も疲れたらしい。私が追いつきはじめると、切羽つまったように、一軒の店のドアを体当たりであけてとび込んで行った。私も調子に乗ってそのあとに続いた。  地下へ降りる幅の広い階段に赤い絨緞《じゆうたん》が敷いてある大きなクラブだった。 「いらっしゃいませ」  下で竹内がボーイたちに迎えられている。竹内は勝手知った様子で、すぐ奥へ消えてしまった。 「いらっしゃいませ」  竹内に無視された形のボーイたちが、二人続いて息せき切った客が来たので、目を丸くしていた。  私はボーイたちの前で呼吸を整えた。 「ご指名でしょうか」  一番若いボーイが訊《き》いた。 「光子」  私はいいかげんに言った。 「こちらへどうぞ」  そのボーイは先に立って私を奥へ案内した。ちょうどショー・タイムで、ヌード・ダンサーが小さなステージで踊っていた。 「あら」  案内されたテーブルへつく前に、本当に光子が現われた。 「やっぱりいたのか」  飲んだ上に走って、すっかり酔いがまわっていた。 「よくここが判《わか》ったわね」  光子はそう言って私と一緒にソファーへ坐《すわ》った。 「どうしたの、そんなに息を切らせて」 「お前に会いたくてさ」 「調子いい」  光子は笑った。少し肥って、その分艶《つや》っぽくなっていた。 「一人……」 「うん」  光子がひろげてくれたおしぼりを受取りながら、私は店の中を見まわした。うす暗くて竹内の姿は見当たらなかった。 「何飲むの」 「ビール」  光子がそばに立っているボーイに注文した。 「久しぶりね」  余り上手でないバンドの音の中で光子は言った。 「元気だったかい」  私はおしぼりを返しながら言った。 「うん。あなた、変ったわ」 「足を洗ったんだ。堅気《かたぎ》だよ」 「へえ……」 「今、一人なんだろうな」 「どうしてそんなこと訊《き》くの」 「プロポーズしに来た」  私は自分をいいかげんだとは思わなかった。     9  光子と暮らすようになるには、一週間もかからなかった。  千駄ケ谷から代々木のもう少し広いアパートに移り、光子も五反田から移って来た。  引越しがおわってほっと一息ついた晩、私が窓を背に、テーブルの上のビールの栓《せん》を抜こうとしていると、光子がいやに真面目腐った顔でにじり寄って来た。 「それで乾杯するんでしょう……」 「うん」 「ちょっと待って。その前にすることがあるの」  光子はそう言うと前のテーブルを隅へ寄せ、私の正面に正坐《せいざ》した。 「何をするんだ」 「目をつぶって頂戴《ちようだい》」  私は言われた通りに目を閉じた。三秒ほど間があって、突然私は左の頬《ほお》を思い切りひっぱたかれた。 「痛え」  目をあけると、光子が今私を平手うちした右の掌《てのひら》をみつめていた。 「力があるんだな、お前」  私は左の頬をさすりながら言った。 「言っとくわ。あれから一人いるのよ」  男のことを言っているのだ。私と別れてから、一人できたと言う意味だった。 「仕方ないさ。俺が悪かったんだ」  私は頭をさげ、 「ごめん」  と言った。 「おかげでね、あたし強くなったわよ。泣かないんだから、もう」  私は光子をみつめた。光子の目から涙がふくらんでポトリと下に落ちた。 「なるほど」 「ばか」  光子は笑って見せた。それはおかしな笑い方であった。たしかに涙をこぼしているのに、目も口も陽気に笑っているのだ。 「指輪、どうした」 「あれ……あれは縁起が悪いから、江の島の弁天さまにあげて来ちゃった」 「なんで弁天さまに」 「なんとなくよ。彼と行ったとき」 「江の島なんかへ連れてったのか、そいつ」 「悪く言わないで」 「判《わか》った」 「さあ、乾杯しましょう」  テーブルが元の場所に戻り、私たちはビールをお互いのグラスに注ぎ合ってから乾杯した。 「ねえ、もう嫌《いや》よ、あんなの」  光子は私にきつい声で言った。 「うん。反省したよ。たっぷりとな」 「これ買って来たの」  光子はデパートの包み紙を引き寄せた。 「何だい」 「原稿用紙に万年筆にインクに吸取紙に文鎮に辞書」  こんないい女になぜ冷たくしたか、自分でも見当がつかない思いであった。 「私に小説を書いて」 「お前に」 「そう。そばにくっついてて、全部書くまで見ていたいの」 「そうすらすらとは書けないよ」 「そばにいては邪魔になるの……」 「そうじゃないが」  私はそれから、コンテストに入選した小説のことを話して聞かせた。書いた嵐の晩のことや、加藤さんとのおかしな出会いのことなどをだ。  ときどき小田急のロマンスカーが、にぎやかな音をたてて通り過ぎるほかは、本当に静かで平和な夜であった。  次の日、私は分室へ光子を呼んで課長に引き合わせた。 「こいつと結婚します。仲人をやってくれますね」  課長は苦笑を泛《うか》べ、 「もっといい人がいるだろう。仲人のことはよく考えたほうがいい」  と言った。分室はその時、すでに本社に独立を通告していて、明日にでも新しいオフィスへ移る状況であった。  私は課長に暇《ひま》をもらい、その足で目黒の母親の家へ行った。  弟の弘志はヨーロッパへ行っていて、母一人きりだった。 「お母さん……」  母の姿を見るや否や、光子は親をみつけた迷子のように、手ばなしで泣きながらとびついて行った。 「そうかい、結婚するのかい」  よかった、とも何とも言わなかったが、母の目が潤《うる》んでいるので、満足しているのが判《わか》った。 「ちゃらんぽらんな子だから気をつけてよ」  私が光子を置いてひと足先にその家を出る時、母はわざとらしく光子にそう言い、私のほうを見てニヤリとしていた。  課長は赤坂に小さなオフィスを借りて、私たちをそこへ移した。テレビ局や出版社など、媒体側に対して本社の妨害工作があって多少|揉《も》めたが、小柄なわりに質のいいスポンサーを確保した新しい会社は、そんな妨害など気にするいとまもなく、毎日の仕事に追われて行った。  光子との仲人は、加藤編集長が引受けてくれ、ようやく組織の整った日本SFクラブの面々が、ささやかなパーティーに顔を揃《そろ》えてくれた。  新会社の業績がいいおかげで、京都へ新婚旅行に行くこともできた。  その新婚旅行から戻った翌日、私は土産の八つ橋を持って糸田さんと広報課長のところへ行った。  銀座で竹内にやくざをけしかけられ、その竹内を追いまわした話はもう有名になっていて、糸田さんと広報課長は、一階のロビーのソファーで散々に私をからかった。 「竹内が逃げ込んだ店にその彼女がいたんだよな」 「そうなんです」 「それで竹内をほっぽりだしといてプロポーズか。お前の神経はいったいどうなってるんだ」  笑い合っていると、突き当たりのエレベーターの戸があき、重役連中がぞろぞろと出て来た。誰かを送るところらしい。糸田さんも広報課長も神妙な顔で口をつぐんだ。  しかし私は反射的に立ちあがってしまった。重役連中にうやうやしく送り出されて来るのは、紛《まぎ》れもない谷口怜悧男であった。 「谷口」  私は声をかけた。重役連中がギョッとしたように私を睨《にら》んだ。     10 「やあ」  谷口は足をとめ、のんびりとした声で答えた。重役連中はどういう態度をとったものか迷っているようであった。  私の上着の裾《すそ》を広報課長がそっと引っ張っている。 「久しぶりだね」  重役連中はあきらめたように、私のほうを向いた谷口のうしろへ並んで待った。  私はその様子で、谷口にあまりなれなれしくしてはいけないと直感した。 「体の具合はその後……」  語尾を濁して誤魔化《ごまか》したが、谷口は以前どおりの友達口調で、 「世話になりっぱなしですまない。ゆっくり話したいな」  と言った。 「あの、僕らの用事でしたらもうすんでおりますので」  糸田さんが重役の一人にそう言った。 「この会社に出入りしているのかい」  その間に谷口が私に言う。私は黙って頷《うなず》いた。 「よかったらご一緒に」  私が広告代理店の平社員であることを知っている重役の一人が、谷口にそう言った。 「いいのかい」  私はまた頷いた。 「ではご一緒に」  重役たちはぞろぞろと歩きだした。 「お前、谷口さんを知っているのか」  糸田さんが早口でささやいた。私は、以前四番地に……と言いかけてやめた。あの狙撃《そげき》事件があった頃、そう言えば糸田さんはアメリカへ出張していた筈《はず》だった。十日そこそこしか四番地にいなかった谷口を、知っているわけがなかった。 「親友ですよ」  私が糸田さんに言うと、糸田さんは広報課長と顔を見合わせ、互いに首をすくめ合った。 「じゃあ、あとで」  私は早口にそう言い残すと、谷口のあとを追った。  何と谷口は、胴のばかに長い立派な車で来ていた。ベンツだが、普通のよりずっと大きく、バック・シートがひとつ分多かった。  私が乗り込むと、重役の一人がドアをしめてくれた。谷口は車の中で、見送る重役たちに、まるで皇族がするような頭のさげかたをしていた。 「お前、どうなってるんだ」  私は待ちかねて言った。 「どうって……」 「とぼけるな、こん畜生。ルンペンの王子さまだと思ってたら、今度は財界の大立者《おおだてもの》みたいなふりしやがって」 「運命だよ」  谷口は微笑した。 「運命……そんな運命があるのか」 「君だって変った」 「俺はバーテンが嫌《いや》になったから、サラリーマンに化けただけだ。広告会社の平社員だぞ、これでも」  谷口は笑った。 「俺は今、宗教団体の役員をしている」 「宗教団体……」 「そう。あれからすぐその宗教団体へ入ったんだ」 「何と言うんだ」 「日本聖母教団と言う名称だよ」 「そこの役員か」  車は新橋方面へ向かっていた。運転席との間に厚いガラスの仕切りがあり、こちらの話は前に聞こえないらしかった。そして私は、その仕切りのガラスを背に、谷口と向き合って坐《すわ》っているのだ。 「これ、ベンツだろ」 「そうらしいな」 「ベンツの何という車なんだ」 「知らない」  谷口は鷹揚《おうよう》だった。 「凄《すげ》え車だ。聞いたこともない」  私はキョロキョロと車の中を見廻した。どう見ても王様か貴族でなければ似合わないようだった。 「でも、その聖母教団の役員が、なぜあそこのえらいさんたちにペコペコされてたんだ」 「俺は使いに行っただけさ。うちの教団は資金が豊富でね」 「あ、あそこへ金を貸すのか」  私は呆《あき》れた。資本金が百億を超す大会社なのだ。 「そのほかにもいろいろある」 「糞《くそ》ったれが」  私は罵《ののし》った。 「そうと知ってたら苦労はなかったのに」 「なぜ……」 「夜中に銀座のまん中で追いかけっこなんかしなくてすんだということだよ」 「俺で役に立つことがあったら言ってくれないか。随分お世話になったからね」 「そうだ。そんなに力があるなら、スポンサーを世話してくれよ。俺は光子と結婚したんだぜ。礼をしてもらうんなら二人前だぞ」  谷口はたのしそうに笑った。 「それはおめでとう。何でもするよ。スポンサーというと……」 「広告をしている会社に紹介してくれというんだ。俺は今、広告代理店の社員だ。宣伝予算をたっぷり持ってる会社から仕事をもらいたいんだ。欲しくて欲しくて仕方がないんだよ」 「それで今の会社にいたのか」 「うん。あそこの予算は何とか握れた。ほかにどこか知ってるか」 「テレビの番組を提供している会社だね」 「うん」  私は祈るように谷口の返事を待った。  しかし、谷口の口から次々にとび出した企業名は、私の期待をはるかに越えていた。  銀行、生保、損保、鉄鋼、石油、重工業。超一流の銘柄ばかりだった。 「それ、全部お前のとこの顔がきくのか」 「よく知らないが、宣伝の予算くらいのことなら、どうにでもなると思うよ」 「この化け物め」  私は呆《あき》れてそう言ったが、そのとたんに滝川先生の顔を思い出していた。  遺伝子の異常な配列。複合した性染色体。不死身のスーパーマン……。 「なあ、あの傷、もう治ったかい」  私は恐る恐る尋ねた。 「うん。傷痕《きずあと》もはっきりしないくらいだよ。本当に有難《ありがと》う」  私の背中を得体の知れない戦慄《せんりつ》が走った。  第六章     1  私ははじめ、その建物をどこかの国の大使館かと思った。谷口怜悧男《れりお》を乗せたベンツは、それ程豪壮な邸へ入って行ったのであった。  青い洋瓦《ようがわら》をのせた塀《へい》に囲まれた敷地は、いったいどれくらいの坪数があるのか、見当もつかなかった。場所は第一京浜を南に向かって泉岳寺の辺《あた》りで右折し、両側に高い石の塀がつらなるやや細い道へ左折した突き当たりであった。門を入るとよく手入れをされた芝生の庭がひろがっていて、背後の崖《がけ》にへばりつくような形で、敷地の割りには小さめの建物がある。二階だてで、古びてはいるがどっしりとした石造りの家だった。そして背後の崖には、手すりのある石段が幾重《いくえ》にも折れ曲がって上へ伸びていた。 「ここが日本聖母教団の本部なのかい」  運転手に恭々《うやうや》しくドアをあけられ、谷口と一緒に車を降りてポーチに立った私は、キョロキョロとあたりを見まわしながら言った。 「本部……」  谷口はそういう言い方に慣れないらしく、私の顔をちらりと見た。 「まあそう言うところだな」  谷口はあいまいに答え、正面の大きなドアをあけた。内部は大理石ずくめだった。敷物のない石の床に、靴音がばかに大きく響いた。 「おかえり遊ばせ」  黒いスーツを着た初老の女が、待ち構えていたように谷口の前へ現われてお辞儀をした。 「僕の友人だ。出先で偶然会ってね」  谷口がそう言うと、女は無言で私にも深々と頭をさげた。 「上の部屋へ案内してやってください」  谷口は鷹揚《おうよう》な態度で女に言い、 「ちょっと報告をして来るから」  と左側のドアへ歩み寄って行った。 「こちらへどうぞ」  黒いスーツの女は私の先に立って奥へ進んで行った。一度右へ曲がり、更に左へ曲がるとその女は立ちどまり、壁のボタンを押した。  私は呆気《あつけ》にとられていた。何とそれはエレベーターだったのである。喪服のような黒いスーツを着た女のあとからエレベーターに乗ると、その小さな函《はこ》は思いがけぬ勢いで上昇をはじめた。崖にへばりつくように見えた二階だての建物は、事実|崖《がけ》の中へ一部が食い込んでいて、エレベーターがその崖の内側を貫通しているのである。谷口が上の部屋と言ったから、二階へ連れて行かれるとばかり思っていたが、崖の上へ運ばれているのだった。 「どうぞ」  エレベーターがとまり、ドアがあくと、女は叮嚀《ていねい》な物腰でそう言い、私を先に外へ出した。  すぐ左に大きなガラス窓があり、東京港が見えていた。一気に高輪《たかなわ》の台地の上へ出てしまっているのだ。 「こちらへ」  あとから出た女が、また先に立って歩きはじめた。下の建物の内部は古びて重厚な感じであったが、そこはま新しいホテルのようだった。女は焦茶《こげちや》色のカーペットを敷いた短い階段を登ると、大きなソファーの並んだ応接室のような部屋へ入った。 「こちらでお待ちください」  女はそう言い残すと、外へ出てドアをしめた。ソファーの坐《すわ》り心地は体を吸いとられそうな感じで、私はなかなか落着けなかった。  十分間ほど一人きりでその部屋にいると、いきなりドアがあいて谷口が現われた。 「やあ、待たせてしまったね」  例の澄んだ瞳《ひとみ》と邪気のない笑顔だった。 「いったいどうなってるんだ」  私はなじるように言った。 「何のことだい」  谷口はちょっとおどけたように尋ね返して来た。 「ルンペンの王子さまがいつの間にかこんなどえらい所でわが物顔に振舞ってる。いったいあれからどんなことがあったんだ」  谷口はすぐには答えず、部屋の隅《すみ》の電話で紅茶を持って来るように命じた。 「ふしぎに思うだろうな」  受話器を置くと、私の向かい側に坐《すわ》ってそう言った。 「思うさ。これをふしぎに思わない奴《やつ》なんていないだろう。説明しろよ」  谷口は、うん、と頷《うなず》いたが、しばらく考え込んでいた。その谷口が坐っているソファーのうしろにドアがもうひとつあって、やがてノックの音がした。 「どうぞ」  谷口が答えるとドアがあき、花模様のワンピースを着た大柄な少女が、銀色に輝く紅茶のセットを盆にのせて入って来た。少女は物慣れた手つきで私たちに紅茶をついでくれると、黙って一礼し、静かにドアをしめて出て行った。 「日本聖母教団というのは戦前からある宗教団体だよ」  谷口は薄手の高価そうなカップに角砂糖を落しながら喋《しやべ》りはじめた。 「教義については興味がないだろうな」 「いや」  私は強く首を横に振った。 「事と次第によってはそういうことにも興味を持つさ」  谷口は持ち前の穏やかな微笑を泛《うか》べ、 「聞きたいと言うならいつでも教えてやるよ」  と言った。 「だがその前になぜお前がこんな金持の団体に関係するようになったかを教えてもらいたいな」 「とても簡単なことさ」  谷口は紅茶をひと口飲んでから答えた。 「実は、新宿で君にめぐり会う少し前から、この教団に誘われていたんだ」 「誘われるって……」 「教団の仕事を手伝わないかと言われていたんだよ」 「それじゃ、腹ペコで三光町あたりをふらついていたとき、お前はもうこの教団のことを知っていたのか」 「うん」 「呆《あき》れた奴《やつ》だな。それならさっさと就職しちまえばよかったんだ。そうすれば、射たれなくてもすんだじゃないか」 「いや」  谷口はゆっくり首を左右に動かした。 「そのときはまだ決心がついていなかったんだ」 「どうしてだ。ルンペン寸前だったじゃないか。こんな金持団体を知っているなら迷うこともなかったはずだぞ」 「彼らと別れる決心がつかなかったのさ」 「彼らと言うと……」  谷口は答えず、じっと私の目を見ていた。 「あのルンペンたちか」  私はそれをみつめ返しながら、つぶやくように言った。谷口はかすかに顎《あご》を引いて見せる。 「あの病院にいるあいだ、よく考えて見た。その結果がこうなったわけさ」 「よかったじゃないか」 「どうかな」  谷口の顔に、珍しく皮肉っぽい表情が泛《うか》んでいた。     2  小学生時代からの友達ではあったが、その豪勢な建物の中で見る谷口は、私にとって今までよりずっとへだたりのある存在になっていた。  実を言うと、私は谷口に体のことを尋ねたくてうずうずしていたのである。滝川先生の言うように、谷口が異常な配列の遺伝子でも持っているとすれば、何か自覚症状のようなものがあるのではないかと思ったのだ。しかし、その質問は谷口の生命の根源に関《かか》わるものであり、今では私よりずっと大きな権限を持っているらしい相手に、ずけずけとそういうことを言い出すのは気が引けた。  そこで私はまず、谷口の今の状態から尋ねることにした。 「教団の役員と言うと、いったいどういう仕事をするんだい」 「いろいろさ」  谷口はまた例の微笑に戻って言った。  それは何かを隠そうとするような表情ではなかった。 「信者たちの集会に出席することもあれば、幹部の会議に加わることもある。また、今日のように外部の企業に接触するのも役目のうちだしね」 「どこに住んでいるんだ」 「ここだよ。この建物の中に僕の部屋がある」 「大した建物じゃないか。エレベーターで崖《がけ》の中をあがって来たときには、本当に度肝《どぎも》を抜かれた」 「戦前は石段を登りおりしていたらしい」 「崖の上と下の土地がひと続きになっているなんて、聞いたこともなかったよ」  谷口は私を優しい目でみつめていた。 「宗教団体の中には大変な財力を持つものがあると聞いていたが、この教団などもそれだな。で、信者はどのくらいいるんだ」 「大して多くないね」  谷口は微笑を消して言った。 「宗教団体としては小粒なほうだよ」 「聖母教団と言うからには、信仰の中心にマリアさまを据《す》えているんだろうな」 「そう思ってもらってかまわない」  谷口はどうも教団の教義などについては語るのを避けたがっているような気配であった。 「俺《おれ》の仕事のことだけれど……」  私は話の方向を変えた。好奇心よりも仕事のほうが大切だと思ったのだ。 「本当にスポンサーを世話してもらえるかい」  谷口は気軽に頷《うなず》いた。 「うん」 「是非たのむよ、この通りだ」  私はソファーに浅く坐《すわ》り直し、膝《ひざ》に手を当てて頭をさげた。 「変ったね、君も」  谷口はそれを見て苦笑したようであった。 「変ったさ」  私はここぞとばかりに言った。 「いろんなことがあって、水商売から足を洗っちまったのさ。でも、知っての通り俺は高校までしか行ってないし、バーテンなんかをやっていたから、広告の世界じゃまるで赤ん坊なんだ。コネクションなんかもないしな。助けてもらえれば一生恩に着るよ」 「いや」  谷口はあわてて手を横に振った。 「世話になったのはこっちさ。そういうことでよければ、いくらだって恩返しをさせてもらう」  谷口はそう言うと立ちあがり、また電話機のところへ行った。 「伊藤さんを呼んでくれないか。そう、僕の応接室だよ」  谷口は受話器を耳に当てたまま私のほうに向き直った。 「伊藤さんと言う人は教団の総務局長でね」  どうやらその人に紹介してくれるらしかった。私はその声を聞きながら、あらためて部屋の中を見まわしていた。和風に言えば二十畳敷きほどの広さである。そこにふかふかのカーペットと革ばりのソファーが十ほど並べてあった。谷口はその豪勢な部屋の隅に立って、相手にここへ来るように命じていた。谷口のことだから、その言い方はあくまでも叮嚀《ていねい》だったが、要するに総務局長を呼びつけているのだ。 「これはお前専用の応接室なのか」  電話をおえた谷口に、私は呆《あき》れ顔で尋ねた。 「そうだよ」  谷口は、ちょっとすまなそうな表情になって答えた。 「役員をしていると言ったが、いったいどんな役についているんだ」 「導師と言うんだよ」 「ドウシ……」 「そう。導くと言う字に師匠の師を書く」 「それはたしか坊さんの……」 「うん」 「法事などで主役をつとめるお坊さんのことを導師と言わなかったかな」 「そうだよ。死者に引導《いんどう》をわたす僧のことも導師というが、聖母教団もその名称を使っている」  そう聞いたとき、はじめて私の心の隅に聖母教団への疑念が湧《わ》いて来た。キリスト教のことなど詳しい知識もないままに、何となく正統派の教団だと思い込んでいたが、組織の上層に導師などと呼ばれるものがあるところを見ると、新興宗教かも知れなかった。 「導師というのはどういうことをするんだい」  私はさりげなく尋ねた。 「信者の中の先生格の人間だと思ってくれればいい」 「さしずめ、神父さんと言ったところか」 「うん、そうだ」 「教団の中心になっている人はどう呼ぶんだい。教祖さまなんて言う人がいるのか……」  私が冗談めかして訊《き》くと、谷口は真面目な顔で否定した。 「そういうのはいないんだ。ただ、戦前にはそれに相当する存在があったそうだよ」  その言い方が妙に持ってまわった感じだったので、更に尋ねようとしたとき、ドアにノックの音が響いた。 「どうぞ」  谷口が少し高い声で答えると、ドアがあいて、五十四か五といった感じの角ばった顔の男が入って来た。 「総務局長の伊藤さんだよ」  谷口はまず私にそう言い、 「こちらは月岡君と言って、昔から僕が大変世話になっている人です」  と私を伊藤に紹介した。私が立ちあがって広告代理店の名刺を差し出すと、伊藤も私に名刺をくれた。 「新宿で射たれたとき、病院にかつぎ込んでくれたのが彼なんです」  谷口が言うと、伊藤はすでにその話を聞いていたらしく、 「あ、それはそれは」  と態度を改めた。 「その節は導師さまが大変お世話になりましたそうで」  私は返事に困った。谷口がいやにえらくなってしまったようで、なぜか自分までが照れ臭かったのである。 「彼はいま広告代理店に勤めているんですよ。うちの総務局の力でスポンサーを紹介して欲しいのだけれどね」 「ああ」  伊藤はお安いご用だと言うように頷《うなず》いた。     3  伊藤は私に仕事のことを二、三質問してからその部屋を引きあげて行った。短くて簡単な質問だったが、要を得ていてその方面にもかなり知識があるように思えた。  当然、私の胸は期待にふくれあがった。作ったばかりの自分たちの会社を大きくして行くことが、その時の私の最大の夢だったのである。伊藤の応対のしかたで脈がありそうだと感じたとたん、私は谷口に対しても機嫌を損《そこ》ねないよう神経を使いはじめていた。 「そうそう、言い忘れていたが、実は俺、SFのコンテストに入選してね」  私は伊藤が来る前の話題に戻らぬよう、そんな風に喋《しやべ》りはじめた。 「プロ作家への登龍門《とうりゆうもん》とまでは行かないが、それでも一応書ける人間として認められたことになるんだよ」  だが、谷口の反応は鈍かった。 「エスエフ……」 「知らないのか」 「うん。俺はあまり小説類は読まないんでね」 「空想科学小説のことさ」 「ほう……そんなものを書いていたのか」 「知らなかっただろう」 「うん」 「実は入選して俺も驚いているくらいなんだ。何しろ生まれてはじめて書いた作品だったんだからな」  谷口は、なあんだ、と笑ったが、急に真顔《まがお》になって尋ねた。 「空想科学小説が君の言うSFだとすると、スーパーマンなんていうのを扱うのかい」 「うん」  谷口はしばらく黙り込んでいた。 「スーパーマンがどうかしたのかい」 「いや、別に大したことじゃない。ただ……」  私はまた沈黙しそうになる谷口をじっとみつめた。 「ただ……」  促すように私が言うと、谷口はその話題を打ち切るように笑いながら、 「ただ生物学に興味を持っているだけさ。面白いからね、生命の謎《なぞ》というのは」  と言った。その言葉以外に証拠は何もなかった。しかし私には谷口が自分自身について、何か生物学的な問題を感じているらしいことが判《わか》った。 「生命の謎か」  私がそう言って話題をそちらへ向けようとすると、谷口はそれをさえぎるように声をたてて笑った。 「とにかくそれはおめでとう。お祝いをしなくてはいけないな」  谷口はそういうこまかな駆け引きができるような男ではなかったが、その時は偶然巧みな駆け引きと同じことになってしまった。 「是非とも大きなスポンサーを紹介しよう。仕事のほうが楽になれば、もっと小説を書くゆとりもできるんだろう……」  そう言ったのである。 「そうしてもらえると、本当に有難《ありがた》いんだ」  私は広告《アド》マン……いや、商売人になり切っていた。何よりもまずスポンサーが欲しくて、それさえ獲得できるならほかのことはどうでもいいという心境であった。 「プロの作家になれるといいね」  谷口はまじまじと私をみつめて言った。 「今まで考えもしなかったけれど、そう言われて見ると、君は小説を書いて暮らすのが一番|性《しよう》に合っているように思えるよ」 「頑張って見る」  私は媚《こ》びるように答えた。 「あれでうちの総務局長はなかなかの実力者だからね。近い内に広告の仕事のほうでも、きっといい知らせが届くと思う」  そのとき電話のベルが鳴り、谷口は立ちあがって受話器をとりあげた。どうやら仕事の話らしく、ときどき政党の名が出たりしていた。  私は帰る汐時《しおどき》だと思った。その電話がおわるとソファーから腰をあげ、 「会えてよかった。俺たちはやはり縁が深いんだな」  と握手を求めた。 「また今度ゆっくり会おう。光子さんにも是非会いたいんだ」  谷口はそう言って私の手を強く握り返した。 「話を聞けば光子もきっと会いたがるだろう。そうだ、よかったら光子をここへ訪ねさせてもいいかい」 「いいとも」  谷口はうれしそうに言った。 「俺はたいていここにいるが、今日のように何時間か外出することもあるし、地方へ出張することもある。だから、来るときはあらかじめ電話をしてくれ」 「判《わか》った」 「そうだ、名刺を渡してなかったな」  谷口はそう言うと、内ポケットから黒革の名刺入れをとり出して、私に一枚|寄越《よこ》した。 「送って行こう」  谷口は先に立ってドアをあけると、広い廊下を足早に案内して行った。  階段があって、そこをおりるとロビーのようなところへ出た。階段のすぐ脇に受付があり、お揃いの黒いスーツを着た若い女が三人、行儀よく並んで坐《すわ》っていたが、谷口の姿を見ると緊張した様子でさっと立ちあがった。 「車はあいているね」  谷口が訊《き》いた。 「はい」  右端の女が答えた。 「このお客さまを送らせて欲しい」 「はい、かしこまりました」  三人はうやうやしく頭をさげた。 「用事ができたので、これで失礼するよ」  私は頷《うなず》いた。 「仕事の件、くれぐれもよろしくな」 「安心してくれ。きっとうまく行くよ」  黒いスーツの女が受付のカウンターから出て来て正面のドアをあけた。手をあげて黒塗りの自家用車を呼んでいる。 「また来てくれ」  谷口は去りかける私にそう言うと、足早に階段を登って行った。外に出て振り返ると、その建物は八階だてのビルであった。  車が静かに近寄って来て、黒いスーツの女がドアをあけてくれた。崖の下の建物にいた初老の女が着ていたのと同じものだった。多分それが制服なのであろう。 「赤坂へお願いします」  私は白いカバーのかかったシートに坐《すわ》ると運転手にそう言った。 「かしこまりました」  がっしりした体つきの中年の運転手は、前を向いたまま軽く頭をさげて言い、車をスタートさせた。黒いスーツの女も、去る車に向かって頭をさげている。  戦果あり。  私は胸を弾《はず》ませてそう思った。分室の課長は今や新会社の社長というわけで、私はその社長にこのことを報告するのが楽しみであった。吉報を得た時に社長が示す子供っぽい笑い顔を思い泛《うか》べると、ついニヤニヤしてしまいそうだった。  だが、オフィスのある赤坂へ近づくにつれ、報告するにはまだ時期が早いように思えて来た。日本聖母教団の正体もはっきりとは知らないのだし、本当にあの総務局長がスポンサーを紹介してくれるかどうかも、まだ口約束の段階にすぎないのであった。     4  サラリーマンの生活に慣れて、私はその世界の人間になり切っていたようだ。谷口に会ったあと、すぐにスポンサー紹介の件を会社に報告しなかったのは、勿論《もちろん》慎重に事を運びたかったためでもあるが、それ以上に手柄を独占しようという気持が働いていた。  新しい会社は順調に業績を伸ばしていて、かつての分室の仲間たちはめいめい長と名の付く肩書きを得ていた。それぞれの立場で成績を競い合っていたのだ。  もしも私がその日すぐに事のあらましを社長に報告していれば、社長は必ずその件に誰かを加えるよう指示したはずである。私はそれを予想したからこそ、報告をさし控えたのである。できれば紹介してもらった会社へ単身乗り込んで、仕事の話を本ぎまりに近い所まで運んでしまってから報告したかったのだ。  そのかわり、社へ戻るとすぐ滝川先生に連絡をとった。 「先生、谷口怜悧男に会いましたよ」  そう言うと、先生は受話器を通して弾んだ声で答えた。 「そうか、会ったのか。それで彼は今、どういう生活をしているんだ」 「宗教団体の役員になっていました」 「宗教団体……」 「ええ。日本聖母教団というんです」 「え……」  先生の声が跡切《とぎ》れた。どうやら日本聖母教団を知っているような気配であった。 「会えないか」  先生が言った。 「いいですよ。連絡をとって見ます。何しろお世話になった先生のことだし」 「違うよ」  先生はじれったそうに早口で言った。 「君とだよ。今夜どうだ」 「なんだ、それなら今夜でもかまいませんよ」 「よし、それじゃ、君のほうの仕事がすんだら連絡してくれ。新宿で会おう」 「判《わか》りました」  私は電話を切ってから、自分のデスクに坐《すわ》ってしばらく考え込んだ。  たしかに不可解なことが多かった。ルンペン同様だった谷口が短い間にあれほどの地位に登っているのがまずふしぎである。私自身、同じような短い期間にバーテンから広告《アド》マンに変身していたが、谷口の変りようはその比ではない。とてつもない高級車を乗りまわし、行くさきざきで最敬礼をされているようなのだ。しかも谷口という男には、要領のよさなど微塵《みじん》もないのだ。谷口はあの教団から誘いを受けたという風に言っていたが、だとしたらいったいどんな人物が、どんな理由で谷口に誘いの手を伸ばしたのだろうか。  第二は滝川先生が早くから指摘している谷口の異常な体質のことである。私自身にはその異常というのをたしかめるすべはないが、若くはあっても正式の医学者である滝川先生が言うのだから、谷口の体が並外れた回復力を持っていることはたしかなのであろう。滝川先生はそれを遺伝子に関連づけて説明しようとしていた。そして谷口も、珍しく謎《なぞ》めいた言い方で、自分が生物学に関心を持っていることを告げていたのだ。その時の私の直感では、たしかに谷口は滝川先生と同じことを自分の体に関して考えているようであった。  私はそう考え進んで来て、急に頭を強く振った。余分な考えを振り払おうとしたのである。その先を考えて行けば、あの狙撃事件に行きついてしまう。不死身のスーパーマンとか、超男性とか言う考えは、今の私に百害あって一利もないことなのだ。サラリーマンとして社会の階層の更に上のほうへ登って行くためには、どうしても谷口が必要なのである。その谷口に向かって、お前が持って生まれた肉体には常人にない秘密があるのではないか、などとどうして言えよう。私は広告《アド》マンなのだ。SFは趣味でしかない。空想の世界と現実の生活をごっちゃにして、万一谷口の機嫌を損じでもしたら、折角掴《せつかくつか》んだコネクションが消えてしまうのである。  そうだ、本当に光子を谷口のところへ訪ねさせよう。  なかば外交辞令で谷口に言ったことを、私は実行に移す気になった。約束どおり大きな広告主《クライアント》を次々に紹介してくれるなら、光子だろうが誰だろうがどしどし投入して行くべきだと思ったのである。  そう決心すると、急に滝川先生に会うのが億劫《おつくう》になって来た。先生は人並み外れた空想家で、現実と虚構の見境がつかないのではないかと思ったりした。  しかしもう会う約束をしてしまっていた。私は夕方になると、あまり気の進まぬままに先生と連絡をとり、新宿へ向かった。  その頃には私も先生も、もう四番地へは出入りをしなくなっていて、落合《おちあ》ったのは角筈《つのはず》の通りに面した酒屋の地下にある、ちょっとクラシックな感じのバーであった。 「よう」  先生は先に来て、カウンターでウイスキーのオン・ザ・ロックをちびちびやっていた。 「俺にも同じのを」  私はバーテンにそう言い、先生の表情を窺《うかが》った。先生は谷口のことを聞きたくてうずうずしているようであった。 「おかげさまで、会社はこのところ順調に伸びています」  私ははぐらかすようにそう言った。 「それはよかったな。で、谷口怜悧男はどうだった」  先生は私のはぐらかしには乗って来ず、いらいらしたように谷口の件を切り出して来た。 「立派なもんですよ」  私はことさら呆《あき》れたように言いながら、谷口にもらった名刺を先生に渡した。 「日本聖母教団……」  先生は唸《うな》るように言った。 「ご存知のようですね、その教団を」  先生は頷《うなず》いた。 「医学界にも聖母教団から金が出ているんだ」 「ほう」  つとめて現実的であろうとしていた私だが、やはり好奇心がうずいた。 「慈善行為ですか」 「いや」  先生は強く否定した。 「そうじゃないんだ。聖母教団はやけに現実的でね。幹部に政治好きが多いことで有名なんだ。老人とか子供たちの施設などには金なんか出さないよ」 「じゃあその医学界への金というのは……」 「聖母教団という名を電話で聞いたときは、本当に驚いてしまった」  先生は今更《いまさら》のように首をすくめて見せた。 「なるほど谷口があの教団に入り込んだのかと感心をした」 「なぜ……」 「聖母教団は多額の研究費を出しているんだ」 「何の研究費です」 「発生学関係のさ」 「発生学……」 「すべての動物は卵から生ずる。これはイギリスのウイリアム・ハーヴェーの言葉だが、発生学というのは、動物の発生に関する学問なんだよ」 「なぜそんなものに聖母教団が……」 「きまっているじゃないか」  先生は私を睨《にら》むようにして言った。 「聖母マリアはキリストの母だろう」  処女懐胎……私の頭にその四字が泛んだ。     5  現実の生活で私は広告《アド》マンとしての道を拓《ひら》きたかった。しかし持って生まれた性格の一部が、それを放棄してでも谷口怜悧男の謎《なぞ》に挑《いど》めとけしかけているようであった。 「聖母教団が処女懐胎の研究をやらせているんですか」  恐る恐るそう言うと、先生は当たり前だというような顔で私を見た。 「俺は最初から言ってるじゃないか。谷口の体は異常だって」  私は仕方なく頷《うなず》いた。 「谷口が聖母教団に入れられたのは、あいつの体が異常だからだと言いたいんですか」 「だって現に谷口は聖母教団に入っているんだろう」 「ええ。でも、そうだとしたら聖母教団はどうやって谷口の体のことを知ったんでしょうか。あいつは新宿へ来る前から聖母教団の誘いを受けていたようなことを言っていましたよ」 「そこだな、問題は」  先生はグラスから手をはなして腕を組んだ。 「俺もあの教団のことについてはあまりよく知らない。少し調べて見ようじゃないか」 「ええ」  聖母教団のことについて調べるのは私にも異存がなかった。むしろその必要を感じた矢先なのである。私はその日のことを、順を追ってくわしく先生に話した。 「導師か」  先生はそれを聞きおわると、谷口の名刺をあらためて眺め、そうつぶやいた。 「本来は仏教で使う言葉でしょう」 「そうだな。仏教とキリスト教がごちゃまぜになっているような感じだ」 「やはり、聖母教団というのは新興宗教のひとつなんでしょうね」 「厳密に行こう、厳密にな」  先生は苦笑して言った。 「新興宗教と言うと、我々はなんとなくインチキ宗教と並べて考えてしまう。しかし、どんな宗教だって最初は新興だ。だから、現在新興宗教と呼ばれるものにも、おのずから二通りあって、古くからの正統派よりもっと正統的なものもあれば、いわゆるインチキ宗教もあるということだ。聖母教団の場合はどうもそうインチキな匂いはして来ない。それに、戦前からある教団なのだしな。この導師という名称だって、戦争中の圧力を避ける目的で使われたのかも知れないじゃないか」 「野球が、ストライクやボールを、よし、とか、だめ、とか言いかえて生きのびたようにですか」 「そうだよ。何しろ鬼畜米英と言ってお互いを励まし合った時代だ。少しでも欧米風の感じから遠ざからなければいけなかったのだろう」  先生はそこでちょっと言葉を切り、私をじっとみつめた。 「何です……」 「俺の考えていることが判《わか》るかい」  先生の表情は、SFのアイデアを語り合うときのものになっていた。 「また何かいいアイデアがうかびましたか」  すると先生はたのしそうに笑った。 「谷口のことさ」 「なんだ」  私は拍子抜けしてウイスキーを飲んだ。先生はその私の肩に手を置いて顔を寄せると、低い声で言った。 「SFと日常生活との接点を求める……君はいつもそう言っていたね」 「ええ、SFを書いて行くならそれをやりたいと思っています」 「それが現実に起っているとしたらどうだい」 「谷口のことですか」 「うん。谷口のおふくろさんという人は、いったいどういう女性だったのかな」 「優しい、いかにも母親らしい……」  そう言ったとたん、私はギョッとした。 「谷口のお母さんが聖母マリアだと……」  先生は深く頷《うなず》いて見せた。 「谷口の母親が聖母教団に関係していたとしたら話は面白くなるぜ」 「お母さんが聖母……」 「そうだ。谷口は処女懐胎で生まれた子供ということになるじゃないか」 「谷口がイエス・キリスト……」 「そうだよ」  私は谷口という男の著しい特徴である、あの澄んだ瞳《ひとみ》と邪気のない笑顔を思い泛《うか》べていた。 「突然変異のように、何千万人、何千億人に一人というような比率で処女懐胎が起るとしたらどうだい。二千年前にそれで一人生まれた。そして今、谷口がいる」 「面白すぎますよ」 「でも、それなら谷口が聖母教団に招かれた理由の説明がつくじゃないか」 「あいつがキリストだなんて」 「何も俺は生まれかわりのことを言っているんじゃないぜ。ただ処女懐胎のことを言っているだけだ。処女懐胎で生まれた子供が、みなキリストのような存在になるとは限らない。だから谷口は平凡な男として一生をおえるかも知れない。現に谷口には父親がいなかったそうじゃないか」 「待ってくださいよ」  私はなぜかうろたえていた。 「父親がいないと言ったって、それは小学校の頃、もういなかったというだけです。はじめからいなかったというわけじゃない。俺だって一年生のときに親父に死なれていますからね」 「それはそうだ」  先生は笑いながら元の姿勢に戻った。 「父《てて》なし子というのが全部処女懐胎だったらえらいことになってしまう」 「世間はキリストだらけ」  私たちは笑い合った。それがきっかけで、話題は久しぶりにSFのほうへ移って行った。先生は相変らずSFに情熱を燃やしていて、私にいろいろなアイデアを提供してくれた。  しかし私のほうは、もうすっかり広告《アド》マンになり切っていて、そういう話にも昔のようには夢中になれず、適当にあしらう、という感じであった。  そのバーを出て先生と別れると、私は代々木のアパートへ帰った。 「早かったのね」  部屋へ入ると光子は笑顔で言った。いつものことながら、私はそういう光子の迎え方が好きだった。広告《アド》マンの仕事はとかく帰宅時間が不規則になりがちだったし、スポンサーに対する接待も多かったので、飲んで帰ることも多いのだが、光子はどんなときでも、外で戦って来た男を迎えるという態度を崩さなかった。私はそういう光子を好ましく思うというよりは、内心尊敬しているほどであった。 「谷口に会ったよ」  そう言うと、光子の顔によろこびの表情が溢《あふ》れた。 「どこで……何をしているの……」  私は服を脱ぎながら、新宿で滝川先生に言った説明をもう一度くり返した。 「ちゃんと暮らしているのね」 「ちゃんとどころか、大した生活だよ、あれは」 「会いたいわ」 「いいとも。明日にでも訪ねてやってくれ」  私はけしかけるように言った。     6  磯島忠義の秘書と称する人物から連絡が入ったのは、私が谷口に会ってから四日後のことであった。 「磯島忠義……どうしてそんな大物を知っているんだ」  オフィスで社長が目を剥《む》いて見せた。 「とにかく行って来ます」  私は上着の袖に手を通しながら言った。今すぐにサファイア・ホテルのロビーへ来いという電話だったのである。 「おいおい、一人で大丈夫かよ」  社長はどうやら一緒に行きたそうだったが、私は一人でオフィスをとび出した。保守党の大物で現職の通産大臣を、聖母教団が紹介してくれるというのだ。私は無我夢中でそのホテルへ駆けつけた。  ベル・ボーイに室町というその秘書の名を告げると、すぐに案内してくれた。痩《や》せて鋭い目をした四十男であった。 「君ですか……」  テーブルのそばに立って、坐《すわ》っている室町に挨拶《あいさつ》をすると、室町はソファーに坐ったまま私をじろりと見て怪訝《けげん》そうに言った。 「はい」  私は名刺を渡した。制作部課長、というのがその時の私の肩書きだが、磯島忠義の秘書が相手ともなれば、そんな肩書きなどいっそないほうがましなくらいであった。 「で、聖母教団とはどういうご関係……」  まるで入社試験のような感じだった。 「はあ……」  私はどう言ったものかと一瞬考えたが、すぐに谷口の名を告げた。 「導師の谷口怜悧男とは古くからの友人でして」  すると室町の態度が急にあらたまった。 「ま、どうぞおかけください」  前のソファーを示して言い、逆に自分が腰を浮かせた。名刺を出して私に渡す。 「大臣は今、きのう来日したEECの代表と会議中ですので」  私は谷口の名のききめに驚きながら、自分は自分なりにやるしかないと決心していた。 「僕などがあまり偉い方にお目にかかっても仕方がありません。僕が今所属しているのは、できたばかりの小さな広告代理店です。要するに僕は谷口に、その会社へ仕事を世話してもらえまいかと頼んだだけでしてね」  率直に言うと、室町はニヤリとして見せた。どうやら私の言い方が気に入ったらしかった。 「安心していいですよ。大臣は世話好きですから」  私はよろこびを隠さなかった。 「あの谷口が通産大臣なんかを紹介してくれるなんて思ってもいませんでした」 「わたしもこういうことは嫌いじゃないほうです」  室町はそう言うと、体を前に乗り出して来た。 「その、あなたの会社を大きくしようじゃありませんか。どんどんスポンサーを送り込みますよ。すでに一流になっているところからこういうことを依頼されるのは、またかという具合であまり気が乗らないんですが、あなたのような若い人が、元気いっぱいやっておられるのは、見ていても気分がいいですしね。こちらもお世話するのに張り合いがあるんですよ」  室町は私や私の会社について、まだ何も知らないくせに、いやになれなれしく言った。 「よろしくお願いします」  私は室町や磯島忠義が、谷口の顔を立てることで何か相当大きな利益を受けるのだな、と思いながら頭をさげた。 「わたしたちが力をおかしするからには、独立なさってもいいんですよ」  室町はそんなことを言い出した。 「は……」  私は考えてもいなかったことを言われたので、思わず室町をみつめた。 「欲を出しなさいと言っているんですよ」  室町は物判《ものわか》りのよさそうな笑顔を私に向けている。 「これからあなたのところへ入る広告の仕事は、恐らくちょっとしたものになるでしょう。あなたが社長になってもいいんですよ」 「僕が会社を……」  私は目を丸くした。 「そうです。何なら会社を作るお手伝いをしてもいいんですよ」 「困ったな」  私は頭を掻《か》いて見せた。 「そんなこと、考えても見ませんでしたから」  室町は声をあげて笑った。 「欲のないかただ」  笑いながら室町はロビーの向こうに目をやり、 「あ、大臣が戻って参りました」  と立ちあがった。私は室町のあとについて、磯島忠義の来る方向へ行った。 「先生、例の聖母教団から依頼のありました……」  室町がそう言うと、磯島は足をとめてちらりと私を見た。 「いやあ、これはこれは」  どこかうわの空のような調子で私に声をかけた。 「谷口さんによろしくお伝えください」  磯島のような立場の男には、何を頼まれたかというようなこまかなことはないらしく、それだけ言うと、 「じゃ、あとはよろしく」  と室町に言い残し、私に目礼して見せてロビーの外へ向かった。秘書らしい男が二人、その両側に従っていた。 「このあとの連絡は私の名でします。では頑張ってください」  あとはよろしく、と言われたくせに、室町は早口でそう言うと私をロビーに残し、急いで磯島たちのあとを追っていってしまった。  私はぼんやりとそれを見送った。  とにかく、谷口は強力なコネクションを私に与えてくれたのだ。私は重すぎる宝物を受取ったような感じで、ロビーのあいたソファーのひとつに坐《すわ》り込んでしまった。  自分で広告代理店を……。室町に言われたその言葉が気になって仕方なかったが、やがて朧気《おぼろげ》ながら室町の真意が掴《つか》めたような気がした。  ひょっとすると室町は、今の件で自分もおこぼれにあずかろうと考えたのではないだろうか。会社を作る手伝いをしてもよいと言ったのは、私に出資をする用意があるということではあるまいか。つまり、室町がそんな計算をめぐらせるに足るほどの仕事が、私を通じて今の会社に流れ込むということである。  これは大変なことになるぞ。私はそう思ったが、独立する気などまったくなかった。自分に人の上に立つ力などないのは判《わか》り切っていたし、第一そんなことは仲間を裏切るようで嫌《いや》だった。  それよりも、もし仕事が大量に流れ込んで来たら、あの室町という男に相応の礼をしなければなるまいと思った。私に独立しろとそそのかすくらいなのだから、この件に関して何か利権のようなことを考えているに違いなかった。  私は立ちあがるとロビーの隅にある公衆電話で、聖母教団を呼び出し、谷口はいるかと尋ねた。交換手は私の名を訊《き》き、すぐに谷口へつないでくれた。 「有難《ありがと》う。通産大臣に紹介してもらえたよ」  そう言うと谷口は、 「ほう、それはよかったな。いまこっちに光子さんが来ているんだ」  とうれしそうに言った。     7  光子は足繁《あししげ》く聖母教団に出入りするようになったが、そのことについて私に異議はまったくなかった。磯島忠義に会った日から、会社は次から次へ新しい広告主《クライアント》を獲得し続けていて、谷口はそれを生み出す金の卵に等しかった。  本来なら、私の社は事あるごとに谷口を接待し、大いにご機嫌をとり結ぶところなのだが、谷口という男が私からそんな饗応《きようおう》を受けるはずもなく、こちらから訪ねて行かぬ限り、しんと静まり返った聖母教団の建物から出て来ようとはしなかった。  だから、私や会社にとって、光子だけが谷口との間をつなぐパイプ役であった。  あり余るほどの仕事に追われて、翔《と》ぶように日が過ぎて行った。東京オリンピックがはじまる頃になると、私の会社は最初四階だけを借りていた小さなビルを、一階と七階だけ残して全部借り切ってしまい、そのほか近くに四つの分室を持たねば仕事の処理がしかねるほどになっていた。  朝令暮改という言葉があるが、会社の人事についてはまさにそれで、営業部員からカメラマンに至るまで、のべつ社員が増え続け、そのたびに新しい課が生まれたり、所属の異動が行なわれたりした。  派手好きな社長は社内の組織に局の名称を持ち込んで、制作局長などというポストができたりした。麹町《こうじまち》の分室からの同志は、それぞれ重要な役職につき、自社株を均等に持ち合って、前途洋々という顔つきであった。  例の紡績会社の糸田さんが部長に昇進したのはそんな頃であった。 「世の中というのはおかしなものだな」  私を日本橋の立派な料亭に招いてくれて、同席した広報課長にそんなことを言ってしきりに感心した。 「行きつけの店のバーテンが宣伝屋に化けやがって、その上俺を部長にしてくれた」  たしかに縁というのはふしぎなもので、糸田さんに、いらっしゃいませ、と声をかけていた頃の私も、いずれ自分が広告《アド》マンになろうとは思ってもいなかったのである。 「僕が糸田さんを部長にしたわけじゃありませんよ」 「いや、お前のせいだ」  糸田さんは私が悪いことをしたような顔で言った。 「お前が室町氏に紹介してくれたおかげだ。それは間違いない」  磯島忠義の秘書の室町は、知れば知るほど凄《すご》い遣《や》り手であった。何人もいる磯島の秘書の中でも別格扱いで、政治資金の操作なども磯島抜きでやってしまうらしかった。私はせめてもの恩返しにと思って、その室町と糸田さんを引き合わせたのである。その直後、糸田さんはあわただしく中近東やアフリカ方面へ飛び、大量の綿布を輸出する契約をして戻ったのだった。私が所属する制作局にテキスタイル部門ができたのは、糸田さんの仕事に協力するためであった。私の社から何人かのデザイナーがその地域へ送り込まれ、現地好みのプリント・パターンが開発された。その効果があがって、売れ行きは上々《じようじよう》らしく、糸田さんは斜陽化した紡績会社の救世主のようなことになっている。 「みんな谷口怜悧男のおかげなんです」  私はしみじみと言った。 「僕の社が大きくなったのも、糸田さんのお役に立てたのも、あいつのおかげなんですよ」  糸田さんと課長は大きく頷《うなず》いた。 「いい友達を持ったものだな」 「ええ」  私は糸田さんの言葉を否定はしなかった。しかし、その頃すでに、私の心には不安の芽ばえがあったようである。  谷口に対する依存度が大きすぎる。それが私の不安であった。自分の社が、それこそ日ましに大きく育って行くのを見ると、ときどき空恐ろしくなるのだった。  仮りに突然谷口という背景が失われたとしたらどうなるだろうか。かつて分室に肩を寄せ合っていた十人足らずの仲間は、その給料を稼ぎ出すのがやっとという状態だったのである。それが今では、一人あたり十人以上の社員を部下に使っているのだ。谷口がいなくなっても、広告主《クライアント》たちは私の社に仕事を出し続けるだろうか。私の社に奪われた仕事を奪回《だつかい》しようと躍起《やつき》になっている他社の攻撃から、広告主を守り通せるだろうか。そんな目で見ると、私にはとても前途洋々などという楽天的な顔はできず、隆盛の一途《いつと》を辿《たど》っているかに見える会社も、砂上の楼閣《ろうかく》に思えて仕方がなかった。  もっと地に足のついた仕事はできないかと、私は折りあるごとに社長に言った。 「勝てる時には勝っておくものだ。今は俺たちにツキがまわっているんだぞ。かさにかかって勝ちまくらなければ、ツキなんていつ消えてしまうか判《わか》ったものじゃない」  しかし社長はそんな風に反論し、しまいには私の麻雀《マージヤン》の打ちかたまでけなす始末だった。 「お前のは二位麻雀というんだ。浮きもせず、へこみもせずさ。商売は麻雀と同じだ。いや人間だってそうだ。折角《せつかく》ツイて来たところで、妙な慎重論を言わないでくれ」  結局、私はまた室町のもとへ走り、次のスポンサーを引っぱって来ることになるだけだった。  世間もその時期、奇妙に景気がよくなっていた。オリンピックの年の実質経済成長率は13・9パーセント……私の社の成長率はそんな生易《なまやさ》しいものではなかっただろう。  光子は聖母教団の職員になると言いはじめていた。もう完全な信者の一人で、何がなんでも教団に奉仕するのだと言ってきかなかった。  私にはそれに反対する気などなかった。 「谷口さんの秘書にしていただけるんですって」  年もあらたまった或《あ》る日、光子は帰宅した私に向かって、おどりあがらんばかりに報告した。  谷口さん、という呼び方に微妙な変化を感じたのはそのときであった。以前から谷口さんと、さんづけにしてはいたが、いつの間にか、さま、と言いたげな風情《ふぜい》で、さんの語尾が丸くなっていた。 「よかったな、イエスさまの家来になれて」  私はかすかな嫉妬《しつと》をまじえてそうからかった。 「そうよ。あたしはイエスさまの家来になるのよ」  意外に素直に光子は私の冗談を受けとめてしまった。 「何しろ聖母マリアの子供だからな、あいつは」  もうひと押し押して見ると、 「やっぱり知ってたのね、あなたも」  と、光子は夫を見るというより、同志を見る目で言った。 「あいつ、教団の中ではどう呼ばれているんだい。肩書きは導師ということらしいが……」 「御子《みこ》さまよ」  光子は邪気のない顔で淡々と言った。 「御子《みこ》さま……」  私は目を丸くして光子をみつめた。 「処女懐胎で生まれたからかい」 「ええそう」  光子は平然としていたが、私は頭に血をのぼらせていた。 「やはりそうか」  これは滝川先生に会わなくては、と思った。     8  谷口のことで滝川先生に会う必要を感じはしたが、私は何か億劫《おつくう》なものを感じてなかなか先生に連絡をとろうとはしなかった。  谷口に対する私の人生の依存度が、ますます高まって行くからであった。代々木の木造アパートを出て、マンションに移ったこともそのひとつである。港区の広尾にあるそのマンションは、私が赤坂の会社へ通うのにも、光子が高輪の聖母教団へ通うのにも、代々木よりずっと都合がよかった。  赤坂のオフィスでは、私の外出する回数がどんどん減って来ていた。制作局の次長という肩書きをもらっているくせに、ひところはまるで営業マンのような働き方をしていたが、谷口・室町ラインで私がらみに入って来る仕事があまりにも多いため、逆に席をあけにくくなってしまったのである。私は自分が導入した広告主《クライアント》との接触を、次々に他の者にゆだねて行った。  それでも会社は順調な発展を続けていた。分室からの仲間たちは、幹部として結束しており、時には赤坂へ移ってからの社員たちに、俺たちは外様《とざま》だから、というような嘆き方をさせないでもなかったが、とにかく呼吸の合った仕事ぶりであった。  時間がたつにつれて、私もそうした環境に慣れて行った。仲間はみな、思い思いの車を買い込んで得意げに乗りまわしていたが、遂に運転免許というものを取りそびれた私は、今さら教習所へ通う気もなく、社長が手配してくれたハイヤーで送り迎えされ、別にそのことでも照れ臭さなど感じないようになっていた。  SF雑誌の加藤編集長からは、半年に一度くらい、思い出したように連絡があった。 「そろそろ書かないかね」  加藤さんは会うとそう言った。 「二月号ですね」  その雑誌は、このところ毎年二月号に日本人作家の特集を組んでいて、その号には日本SFクラブのメンバーがずらりと顔を揃《そろ》えることになっていた。  加藤さんに会ってその号に書けと言われると、私は宿題を出された生徒のように、重い義務感を味わうのだった。しかし、義務感に駆られてではあっても、一度《ひとたび》夜中に原稿用紙をひろげれば、そこには昼間とはまったく異なる世界があって、私をたのしませてくれた。  原稿枚数の指定は、たいてい三十枚か五十枚のどちらかだった。会社の仕事の合い間にも、SFのアイデアはひょこりひょこりと浮かんで来るので、書く材料には不自由はなかったが、選んだ題材をどう書き進めるかではいつも苦心した。  登場する人物の誰に視点を据えるかとか、主な事件の発生を全体のどのあたりに設定するかとかいうことが、私の場合にはいつも大きな問題になるようだった。それは、最初からSFをごく平凡な日常生活の場で語って行こうとする、私の癖のようなことに関係しているようだった。日常性を強調したがるから、出だしの部分が長くなっていっこうにSFらしいものが現われず、自分で魔の十四枚目と名付けたように、十四枚あたりまで書き進むときまって迷いはじめ、また最初から書き直すことが多かった。  また視点をいくつかに分散させると、たいてい失敗し、手がつけられなくなると最後には一人称で書くやり方になった。どういうわけか一人称だとたいていうまくまとまるのである。  原稿を書きあげると、一時間でも早く編集部に届けてしまうのも私の癖だった。手もとに置いていったん冷やし、あらためて読み返してチェックすればいいのは判《わか》っていたが、そんなことをすれば自己|嫌悪《けんお》に陥るし、最初から全く新しく書き直すか、全然別の作品を書いて提出したくなるのが判《わか》り切っていたので、すぐに手ばなしたがったのである。  コンテストの入選を知ったあの日以来、原稿を届けたあと、乗物に乗らずぶらぶらと疲れるまで歩きまわるのも習慣のようになっていて、たいてい神田から銀座まで歩いた。  そんなとき、私は広告《アド》マンではなかった。私は文学青年の一人で、あれほど熱中していた会社の仕事を、ひどく虚《むな》しいものに感じたりした。夜、新宿を飲み歩くのは、きまってそういうときであった。昼間のビジネスマンと、夜のSF作家が私の内部で葛藤《かつとう》をしはじめ、私はよく一人きりで明け方近くまで新宿にいた。  そのような繰り返しの中で、一年また一年と過ぎて行った。私の手もとから、何人かのグラフィック・デザイナーやカメラマンが、アーティストとしてマスコミに登場して行った。彼らはみな、チャンスを掴《つか》むとあっという間に独立し、自分の地位を不動のものにしていた。  やっぱりサラリーマンは俺《おれ》の性《しよう》に合わない。そんな風に思いはじめた私は、本格的に作家を夢みるようになった。  が、実はそれも現実逃避の一種かも知れなかった。  社内に軋轢《あつれき》が生じはじめていたのだ。それはひょっとすると、男の世界での自然|淘汰《とうた》のようなものかも知れなかったが、とにかく分室以来の仲間が、何かというと衝突をくり返し、一種の権力抗争をはじめたのである。  室町はとうに社長とじかにパイプをつなげ、私なしでもうまくやって行ける状態だったが、業績があがるだけあがり、新会社としての攻撃的な時期を通りすぎて、備えを堅《かた》める時期にさしかかると、俄然《がぜん》社長の守備べたが目立ちはじめて来たのだ。  どうやら室町が社長をけしかけて、広告以外の分野に手をひろげさせようとしている。  そんな噂《うさわ》が耳に入り、やがてその新しい仕事というのが、不動産関係であることがはっきりして来た。 「造成したり分譲したりするんじゃない」  社長はその新しい事業計画に熱中しているようだった。 「うちは右から左へ土地をころがすだけだ」  明らかに、それは政治がらみの商売であった。社長もそれを公言してはばからず、かえって私たちの政治的な無知を嗤《わら》ったりした。 「金|儲《もう》けもしたいが、広告の仕事からも離れたくない」  そういう者もいたし、 「広告の仕事が好きだからやっているんだ。ほかの仕事をするくらいなら会社を移る」  とまで言う仲間もいた。 「社長は別に広告代理業をよそうと言ってるんじゃない」  私は社長と仲間のあいだに立ってそう言ったが、肝心の社長は室町を通じてのぞいた政治の舞台裏にすっかり魅せられているらしく、広告の仕事を児戯《じぎ》に等しいもののように言いはじめていて、それが仲間の感情を逆なでするのだった。  もともと、室町を社長に引き合わせたのは私だし、それは結局谷口や聖母教団につながっているから、私はどうしても社長側に立つことになった。制作の仕事は営業部と対立しながらやって行くようなところがあり、広告主《クライアント》とのつながりの根本的なところはほとんど私と谷口の関係でおさえられていたから、社長に対する反感が生じると、ほとんど自動的にそれは私にも及んだ。  社内で、それぞれ一国一城の主になっている仲間が、みるみる友情を冷えさせて行った。めいめいの部下に対する処遇問題や、交際費、調査費の配分などがいちいちそれにからみ、毎日毎日が針の筵《むしろ》にいるような具合になってしまった。     9 「君は俺《おれ》を避けていたね」  前の院長だった父親を亡くし、そのあとを継いですっかり院長らしい貫禄をつけはじめた滝川先生が言った。 「たしかにそうかも知れません」  私は素直に認めた。日本中が万国博に浮かれていて、新宿にも到《いた》るところにエクスポのシンボル・マークがあった。  避けていた、と指摘はしたが、先生は別に私をとがめる様子もなく、寛大な微笑を泛《うか》べていた。 「無理もないさ。俺が君の立場でもそうしただろう。君の会社は谷口怜悧男に大変な恩恵を蒙《こうむ》っているそうだからな」  先生はどこからかそういうことも聞き込んでいるようだった。 「ええ」 「俺に会えば、話は当然谷口の異常な体質のことになる。君はそれが怕《こわ》かったのだ」  私は答えず自分の盃に銚子を傾けた。近ごろ出来た天ぷら屋の小さな座敷の中だった。 「今ではすべて判《わか》っている。俺は谷口の件を調べ続けていたのだよ」  先生は淡々と言った。 「日本聖母教団の創始者は、長野県出身の小学校の先生で、名前を杉代俊明《すぎしろとしあき》と言う」 「杉代……」  私は盃をとりあげようとした手をとめた。 「谷口と親しい君だから、名前に聞き憶えがあってもふしぎはない」 「杉代……」  思い出せなかったが、たしかに聞いたことのある姓だった。 「教団創始者のその男の娘が、谷口怜悧男の母親さ」  先生のその言葉も、私の記憶を呼び戻すヒントにはならなかった。 「杉代俊明がなぜ聖母教団などというのを作ろうとこころざしたかは、あまりはっきりしない。しかし、彼が自分の娘に聖母の貌《かお》を見たということは、教団の正式な文書にはっきりと残されている。つまり、杉代は自分が教祖になるかわりに、自分の娘を神にまつりあげたわけだ」 「やはり谷口のお母さんが聖母……」 「そうだ。清純で、本当に神々《こうごう》しいほどの娘さんだったらしい。だから、予言とか奇蹟《きせき》とかいう新興宗教にありがちな、インチキ臭いことに走らなくても、ご本尊とも言えるその娘さんの存在だけで、どんどん信者が増えて行った。戦前、戦中を通じて活躍した長野県出身の政治家、実業家、それに軍人などが信者になったり支援したりしたおかげで、聖母教団は実力をつけ、正統派宗教団体の仲間入りをし、戦後はアメリカ軍の内部に入り込んで、政界や財界に大きな影響力を持つほどになったのさ」 「でも、谷口母子は……」 「そう。日本中をさまよい歩き、かつて聖母として崇《あが》められた娘さんは、とうとう東京で空襲にあい、死んでしまった」 「なぜです。なぜ谷口のお母さんは聖母教団から逃げ出したのです」 「逃げ出したというより、父親に放り出されたのだな」 「どうして……」 「谷口が生まれたからさ」  先生は皮肉な笑いを泛べた。 「自分の娘を聖母に仕立てあげた杉代俊明こそ、教団の中で最もそれを信じない人間だった。それは当然だろう。ただの娘であることを一番よく知っているのだからな。ところが、その聖母が妊娠のきざしを見せた。やっと教団の基礎がかたまりかけた折りも折りだ。杉代がどんなに激怒したか、目に見えるようだ。だんだんに娘の腹はせり出して来るし、堕胎は罪になる時代だし、恐らく信頼のおける医者もいなかったのだろう。杉代は親類の娘と、自分自身の母親に妊娠した聖母の面倒を見させ、ひた隠しに隠して教団の仕事を続けて行った。そして谷口が生まれた」 「思い出した」  私は叫んだ。 「杉代恵子。埼玉の農家の出で、孤児になった谷口を養うため上野で売春婦になり、絞殺されてしまった人ですよ」 「多分、それが親類の娘という人物だろう」  先生は憐《あわ》れむような目で言った。 「杉代は聖母の生んだ子を、どこかへやってしまうつもりでいたのだろう。だが、これも当然なことで、聖母は聖母としてでなく、ただの母親としてわが子と暮らしたかった。そして、これも推測だが、祖母に当たる人や君が今言った杉代恵子の手引きで、教団から脱出してしまったんだ」 「で、谷口を生ませた男は……」 「いや」  先生はおごそかな顔で首を横に振った。 「いくら杉代が手を尽しても発見できなかった。杉代は奇蹟《きせき》を信じない男だったのだな」 「と言うと……」 「処女懐胎さ。そう考えればすべてがはっきりする。昭和八年のはじめ頃、この日本で二千年ぶりかも知れない処女懐胎が発生したんだ」 「そんな……だって、もし処女懐胎があったとしても、それなら女しか生まれないはずじゃないですか。性染色体は女性がXX、男性がXYでしょう。Yのない女性だけで妊娠したとしたら、男が生まれるわけがありませんよ」  先生はまた首を横に振った。 「あの教団がその方面の研究費を出しはじめたおかげで、処女懐胎について少しは判《わか》りかけて来ている。受精をともなわない発生は、とかく単性発生と思われがちだが、そうでもないらしい。通常の性交によらなくても、女性が妊娠することはよく起っている。一番簡単に言えば、精液を女性の性器に押しこんでやれば、性交なしでも受精するわけじゃないか。仮りに、家の中のどこかに精液があって、女性が知らずにそれに触れ、更に自分の性器に触れたとすれば、やはり妊娠する可能性は大きい」 「すると、谷口のお母さんはそういう経路で……」 「いや、ちょっと考えられない。何しろ教団の生き神さまに仕立てられていたんだ。家の中で男性を近づけるような仕組みにはなっていなかっただろう」 「じゃ、どうして受胎したんです。精子が風に乗って飛んで来たとでも言うんですか」 「それさ」  先生はニヤリとした。 「そういう可能性もあり得るというわけだ。これは冗談で言ってるんじゃない。教団の研究費のおかげで、一流の学者の中にもそういう可能性を本気で論じる者が出はじめているんだよ。ただし、これは確率として、非常に小さな数値になるのは当然だがね。つまり、どこかで男性の性器から精液が放出される。それが水分を失っても、まだ生き続けている精虫が、通りがかった者の衣服に附着するとか、または本当に風に飛ばされるとかして、処女の皮膚に付き、呼吸器とか汗腺《かんせん》とか、そういうところから体内に入ってしまう。勿論《もちろん》そこでも精虫を殺すはたらきを持った相手に出くわすことになるが、逃げ切って所定の部分へ侵入してしまう可能性もゼロとは言えない。そこには卵子が待っており両者が結合して受精した状態となる」  私は溜息《ためいき》をついた。 「SF以上だ。確率として低すぎますよ」 「そう。だから二千年に一回くらいしか起らないのだろう」  先生は真剣な顔で言った。 「むちゃくちゃな議論だと思うかも知れないが、実はここから先に問題が残っている。というのは、そういう困難な状況下で生きのびる精虫というのは、驚異的な生命力を持ったものということになるじゃないか。もしも、そんな風にして生まれた子供がいたとしたら……」 「あ……」  私は呆然《ぼうぜん》とした。狙撃された谷口の体を手術した滝川先生は、最初から彼の体の異常な回復力に疑問を抱いていたではないか。 「いいかね」  先生は念を押すように言った。 「教団から研究を依頼された学者たちは、教団側がキリスト復活の件を、単なる伝説ではなく、実際にあったこととして科学的に立証させようとしているのだと思い込んでいるんだよ。そして俺は実際に谷口のケースに立ち合っている。キリストはゴルゴダの丘で処刑されたが、死んではいなかった。常人をはるかに超えた回復力で立ち直り、どこかへ行ってしまった。……そう考えてもいい理由は、彼が聖母マリアによる処女懐胎の子であったという点にある。つまり、キリストにおける処女懐胎の奇蹟《きせき》は、実は同じひとつの事柄のはじめとおわりにすぎなかったというわけだ。しかもあの谷口を見ると、いかにも宗教家にふさわしい、澄んだ瞳《ひとみ》と邪気のない顔を持っているじゃないか。彼がルンペンたちの間で敬われていたわけが判《わか》るような気にはならないかね。そして、教団創始者であり同時に谷口の祖父でもある杉代俊明は、何よりも谷口のそうした成長ぶりを恐れたのではないだろうか。聖母を信じず、実の娘でもある彼女を迫害した事実が、谷口によって暴露されたら大変なことになるだろうからな。杉代は自分の目の黒い内にその禍根《かこん》をとり除こうとはかったのかも知れない。あの時、君らが働いていた店で起った事件の背後には、そんな事情が隠されていたに違いないと思うんだ。事件直後の警察の動きに少しおかしなところがあったというが、杉代ならそういう芸当も不可能ではない。谷口を射ったチンピラの背後には、きっと谷口の祖父がいたのだよ。しかし、教団の内部にはその事情を知って、逆に谷口を聖母の子として迎え入れようとする勢力も育っていた。谷口があの事件の前、すでに教団の一部と接触があったと言ったのは多分本当だろう。だが谷口という男の性格から考えて、祖父と好んで対立する気にはなれなかったのではないかな。だから一時あの店へ身を隠したつもりでいたのさ。しかし発見され、射たれた。天罰というものがあるかどうか俺には判《わか》らないが、杉代は事件の直後に死んだよ。七十七歳だったそうだ。そして杉代がいなくなったことで、谷口は教団に迎えられる決心をしたのだと思う。聖母|失踪《しつそう》の事情を知っている人々にとって、谷口はそれこそかけがえのない尊いお方だったのさ。教団から医学界に研究費が出るようになったのは、杉代の死んだすぐあとからだ。俺は谷口のあの事件と、杉代俊明の死んだ日付と、研究費が出されるようになった時期の三つをつなぎ合わせて考えてみて、これは単なる推測などではないと確信しているんだ」  先生の熱っぽい言葉を、私はうわの空で聞いていた。  光子はいま、私から去って生涯を谷口に仕えることにきめている。もし先生の言う通りなら、光子を奪われても仕方がないと思った。     10  滝川先生に久しぶりに会った第一の目的は、光子のことを聞いてもらいたかったからである。しかし、谷口がキリストの再来であるなら、私にも納得のしようがあった。  実を言うと嫉妬《しつと》していたのである。 「一生をあのかたの為に捧《ささ》げようと決心したの」  いきなり光子にそう言い出された時、私はてっきり谷口に恋をしてしまったのだと思っていた。しかし、一方では谷口や光子を信じる気持も強く、そんなわけはない、と自分に言い聞かせもしたのだった。  光子は修道院に入るのだ。そんな風に考えると、これから先も私と一緒に騒がしくわずらわしい浮世《うきよ》を渡って行くより、そのほうが光子にとってずっとしあわせなことかも知れないと思うようになった。  しかし、やはり光子を失う淋《さび》しさはあった。  俺も……私はそう思った。修道院に入るわけには行かないが、冷たい競争の続くビジネスの世界から、ひと思いに脱出できたら、どんなにせいせいするだろうと思った。  やむなく光子を聖母教団に送り込んだ私は、一人きりになった広尾のマンションで、毎晩原稿用紙をひろげるようになった。  生まれてはじめての長編にとりかかったのである。少なくとも千枚の作品には仕あげるつもりでいた。それはあの夏の嵐の夜、夢中で百枚の短編を書きあげた時の気分に似ていた。  これが書ければ新しい人生がひらける。そう思い込み、新しい天地めざして駆けに駆けているようなものであった。  そんな私を激励するように、ときどきひょっこりと滝川先生が訪ねて来て、私の原稿を読んでは批評してくれた。  会社は四分五裂の状態に陥っていたが、私はもうそこに情熱を失っていて、どうやら原稿が千枚に近づくと、こっそり辞表を用意した。  そして千枚の作品を書きあげると、すぐその日のうちに会社へ行って辞表を提出してしまった。 「先生、書けましたよ」  最後に自分のデスクからかけた電話がそれだった。 「おう、おめでとう」  先生はコンテストの時と同じように、手ばなしでよろこんでくれた。 「乾杯しよう。五時になったら病院へ来てくれ」  何もかも、最初のときと同じだった。私はあの時を思い出して、赤坂から皇居前広場まで歩いて行った。  そしてその夜、先生と四番地へ行った。ママは引退し、私を知っている人間はほとんどいなかったが、ピアノは昔のままで、そこに谷口の体を貫通した弾丸の痕《あと》が残っていた。 「とうとう君は作家としてこの店へ来てしまったんだな」  滝川先生はしみじみとそう言った。中間に東京オリンピックをはさんで、安保から万博まで、私の人生はあの谷口に引きずりまわされていたようであった。 「書くぞ。書きまくってやる。書きまくって谷口を振り切るんだ」  私は酔ってそんなことを喚《わめ》いたようだ。  幸運にも、その作品は人々の目にとまり、〈四番地〉時代のお客さんである出版社の人が、それと知らずに私に書きおろしを依頼に来たりした。  それからの時間の早さは、広告《アド》マン時代の比ではなかった。毎月の雑誌の締切りに追われて、曜日もろくに判《わか》らない日が続いた。  が、総理大臣になった磯島忠義の身辺に、突然スキャンダルが巻き起り、あっという間に磯島は退陣する羽目《はめ》になった。マスコミはいっせいに磯島の周辺を洗いたて、その中に聖母教団の名がしきりに登場した。 「谷口は教団から追放されるそうだぞ」  滝川先生がそんな情報をくれたりしたが、私にはどうしようもなかった。光子のことだから、とことんまで谷口について行くに違いないという確信があるだけだった。  私のいた会社は、あっさり倒産してしまった。社長は磯島から離れた室町と共同で、業界誌のようなものをはじめたということだったが、それも締切りに追われる私には遠い世界になってしまっていた。  或《あ》るパーティーの会場で、昔なじみの井田さんにめぐり会った。そのパーティーには、今谷先生や榊さん、大泉さん、加藤さん、そして酔っぱらいの中島さんなどの姿もあった。 「おい、あの谷口の奴が、ルンペンを集めて教会のようなものを作ってるぜ」  今は学芸部長になっている井田さんは、私の肩を叩《たた》いてそう教えてくれた。 「どこで……」 「上野さ。行ってみろよ」  井田さんは手帳に地図を書き、それを切りとって渡してくれた。  そこに光子がいることは明白であった。できることなら、谷口と結ばれて欲しい……私はその大ざっぱな地図を見ながら、突然そう感じた。 「私に小説書いて」  代々木のアパートでの最初の晩に光子が言った言葉を思い出した。  よし、書いてやるよ……私はパーティーの人ごみの中でそうつぶやいていた。光子と谷口と、そして私自身のことを、一編の小説にまとめてやろう。  題名は思いたったとたんにもう決まっていた。聖母伝説である。 単行本『聖母伝説』は昭和五十二年七月文藝春秋社より刊行された。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 角川文庫『聖母伝説』昭和61年7月25日初版発行