[#表紙(表紙.jpg)] 獣人伝説 半村 良 目 次  序 曲  夜の仲間  目覚し時計の秘密  有尾人たち  不遜な挑発  全能の戦士  青十字の男  追われる天使  果てしなき終景 [#改ページ]   序 曲  春かも知れない。  多分春なのだろう。  だが、季節のことは、よく判《わか》らない。  花が咲き乱れている。  花の名もよく判らない。  ただ美しい花だ。  どれもこれも美しい色をして  美しい形をして、かぐわしく咲いている。  樹木も生《は》えている。  お互いがつつしみ深く譲り合い  適当な間隔を置いて  他の樹木の邪魔をせぬように  点々と生え繁《しげ》っている。  どの樹木にも実がなっているが  食べられるのかどうか、よく判らない。  そよ風が吹いている。  爽《さわ》やかでしかも暖かく  優しい風だ。  しかし、それが東風なのか西風なのか  それも判らない。  なだらかな丘が続いている。  道は全くない。  沼が見える。かなり大きな沼だ。  緑の丘と丘のあいだに  澄んだ水をたたえて、静まり返っている。  その丘や沼のある場所が  いったいどこに当たるのか  よく判らない。  恐らく、誰《だれ》も知らないだろう。  なだらかな丘をおりて沼に近付くと  沼のまわりに  丸いフワフワしたものが生えている。  いや、生えているのではない。  風に浮いているのだ。  まるで風船のようだ。  透明な風船の中に  白いガスをつめたらそんな風に見えるだろう。  大きな鶏卵《けいらん》のようだ。  とがったほうを上に向けて  ユラリ、ユラリと風に揺れている。  どれもこれも、その卵形のものは  みなとがったほうを上に向け  フワフワと風に浮いている。  なぜか揺れるだけで  場所を移動はしない。  茎もなく、大地とは全くつながっていないのに  その卵形をした大きなものは  フワフワと風に浮いているくせに  動こうとはしていない。  よく見ると、卵形のものの中に  何かある。  人の形をしているように見える。  いや、人だ。  それは膝《ひざ》を胸に抱くようにして  まるで胎児《たいじ》のように  その風船のようなものの中に  とじ込められているのだ。  空は……。  空はない。  空がない世界など考えられるだろうか。  だが、そこに空はなかった。  ただ、空のかわりに  〈時〉があった。  その世界の上には  空のかわりに〈時〉が掩《おお》いかぶさっている。  もう一度小高い丘の高みにあがって見よう。  沼を中心になだらかな丘が  それをとり囲んでいるのだが  隣接している土地は  ない。  そこに空がないのと同じように  隣接した土地もないのだ。  勿論《もちろん》、海もない、河もない。  町も田畑もあるわけがない。  花の咲き乱れる緑の丘と  人の形をしたものをとじ込めた  卵形のものが  静かな沼のほとりにあって  ほかには何もない。  ためしに、沼と反対側の斜面を  隣接した土地のないほうへおりて見る。  沼へおりる時と同じように  なだらかな丘の斜面を進んで行くと  しだいに濃い霧が生じ  寒くなって行く。  柔らかだった足もとが  いつの間にか草から岩に変る。  霧に濡《ぬ》れた荒々しい岩がつらなり  あちこちの窪《くぼ》みに泥水《どろみず》がたまっている  その岩地を更に下って行けば  もうあの暖かく優しい風が吹いた  緑の丘は見えなくなり  ただ濃い霧が妖《あや》しくうごめく  冷たい岩場になる。  あちこちに泥水の溜《たま》った岩場には  よく見ると  蛇《へび》や  蜥蜴《とかげ》や  蛙《かえる》や  ありとあらゆる両棲類《りようせいるい》、爬虫類《はちゆうるい》  そして  ありとあらゆる醜い小動物たちが  のそのそとうごめいている。  やがて青白い電光があたりを照らすようになり  しだいに雷鳴が聞こえはじめる。  醜い小動物たちがうごめく  岩だらけの土地のあちこちに  筍《たけのこ》のような先のとがった岩が現われる。  更に進めばそれはしだいに丈《たけ》高くなり  雷鳴が耳をつんざき  間断なく青白い電光が明滅するあたりに到《いた》れば  その中の何本かは  途方もない高さでそびえ立ち  その頂きは濃い霧にとざされて  見ることができなくなる。  やがて霧は激しい雨にかわる。  冷たい雨だ。  あたりに硫黄《いおう》の臭気《しゆうき》が立ちこめ  激しい雨の中を  硫黄の蒸気が生きもののように  不気味に地を這《は》う。  地に這った硫黄の蒸気は  醜い小動物たちをその底に沈め  つつみ隠してしまう。  その雨と硫黄の蒸気の中で  ふと前方を見ると  幾千とも知れぬ黒い影が  こちらに向かって挑《いど》みかかっているのが見える。  しかし、その幾千とも知れぬ黒い影は  一定の線からこちら側へはやって来ない。  何か目に見えぬものが境界の壁を作り  彼らはそれに向かって突進し  はね返され  後退してまた突進をやり直すのだ。  何遍打ちかかろうと  彼らはその壁を越えられぬらしく  越えられぬことが判っていても  そのものどもは  繰り返し繰り返し  目に見えぬ境界の壁に向かって  際限もなく挑みかかるのである。  彼らの一人一人がその壁に体を打ちつけるたび  雷鳴がとどろき  電光が走る。  そして彼らははね返る。  彼らが越えようとして越えられぬ壁の向こう側  すなわち彼らの側の大地は  泥濘《でいねい》である。  ごつごつした岩の上で  彼らは何億年もそうした前進と後退を  繰り返しているに違いない。  その果てしない運動で岩は砕け  今は泥濘と化しているのだ。  壁に挑むものたちの更にその先は  毒々しい赤い花の咲く世界だ。  葉という葉が黒ずみ  樹木という樹木は  寄生植物の宿主となっている。  蠍《さそり》と毒蜘蛛《どくぐも》が群れ  寄生植物に覆《おお》われた樹木の幹を  毒蛇が這う。  風はなく太陽もない。  薄暮の明るさしかない世界だ。  時々狂ったような笑い声が聞こえる。  鳥の啼声《なきごえ》などではない。  たしかに狂った人間の笑い声だ。  笑い声がするたびに  どこかしらで樹皮《じゆひ》が裂け  赤い血がしたたる。  狂笑のたびに血のしたたる森を過ぎれば  次は丈余《じようよ》の黒い草に掩《おお》われた草原だ。  黒い草原を何かが走りまわっている。  たしかに生き物がいて  草の中を走りまわっている。  だが  黒い草が動くだけで  そのものたちの姿を見ることはできない。  ここもやはり風はなく  そのものたちが動くときにだけ  黒い草むらがざわめくのだ。  黒い草むらの中はひどく愉《たの》しそうだ。  そのものたちは  ときどき何人もで笑いこけ  それにまじる甘い呻《うめ》きは  男女の交媾《こうこう》のときのもののようだ。  あちこちでその声がする。  するとそのものたちが笑う。  黒い草原の彼方《かなた》に  何か大勢のものがつらなっているのが見える。  草原の彼方は砂漠《さばく》だ。  茶でもなく灰色でもない砂の世界。  そこに砂と同じような色の制服を着た人形が  数え切れないほど並んでいる。  兵士の人形だ。  どれもこれも同じ顔をして  同じ服を着て  同じ武器を持って  砂漠の彼方へ向かい  一列縦隊でえんえんと並んでいる。  彼らが人形にすぎないことはすぐに判る。  動かないのだ。  しかしその無限の数の人形の列は  無限である為《ため》に  生きているのと同じ意味を与えられている。  砂漠の砂丘という砂丘のかげに  半分かくれるようにして  張りぼての太陽が置いてある。  赤く塗り  砂丘のかげに沈もうとしているのを  あらわしているつもりだろうが  どれもこれも同じように幼稚な作り方で  どんな子供でも  それがにせ物の夕陽《ゆうひ》であることは  ひと目で見抜けるだろう。  幾千幾万の砂丘に  幾千幾万のにせ物の夕陽。  そしてここにも空はない。  ただこの世界に掩いかぶさっているものは  〈時〉だけだ。  兵隊の人形が地平の彼方へ向かって  無限に続いているのと同じように  地平の彼方からこちらへ向かって  無限に続いている白い列がある。  白骨の行列だ。  人形の兵隊が動かないのと逆に  その白骨たちは  砂漠をカサコソと這って来る。  砂漠と黒い草原の境目あたりに  巨大な白骨の山がピラミッド形を作り  カサコソと這い寄って来た白骨は  その白骨の山におのれを加えてとまる。  ピラミッド形の白骨の山は  すでに見あげるように高い。  しかし  間断なくやって来る白骨たちが  いくらその山に骨を加えても  その山の高さはいっこうに変らない。  空のかわりにその世界を掩った〈時〉から  ときどき何かが  鋭い音をたてて落下している。  どこへ落ちるのか  まったく予測できないが  その降り落ちるものは大地に突きささって  地の底に呑《の》まれて行くようだ。  黒い草原の中にその白く光るものが落ちると  ときどき  耳を塞《ふさ》ぎたくなるような絶叫《ぜつきよう》が聞こえる。  そして  何者かが絶叫するたび  そのまわりには  底抜けに屈託のない愉しげな笑い声が立つ。  降り落ちて来るものは  ギロチンの刃だ。  ……草むらで声がする。  底抜けに陽気な笑い声の合い間に  尊大な上に  わざとらしく真面目腐《まじめくさ》った様子で  何か語り合っているようだ。 「今度はどこだろう」 「彼らのすることを予測できると思っているのか、ばかばかしい」 「そうだ。気にしてもはじまらん。いずれは来るのだ。その番がいつ自分のところへまわって来るかというだけの問題ではないか」 「ほう、そうかね。気にならんと言うのかね。大したものだ。大した度胸だよ」 「何もそう突っかかって来ることはないだろう」 「突っかかったりしてはいない。ただ感心しているだけさ。何しろ、あいつが来たら儂《わし》らは滅びなければならん」 「大げさなことを言うな。彼らが不滅であるように、儂らもまた不滅なのだ」 「ちょっと待った。彼らは本当に不滅なのかね。本当に」 「そうそう。彼らの不滅性についてはこの儂も以前から疑問があった。不滅だと言うのは、彼らがそう主張しているだけなのじゃないかね」 「議論の好きな連中だな、君らは。彼らが不滅であろうがなかろうが、彼らが儂らを滅ぼす存在であることはたしかではないか」 「君は必要以上に彼らを恐れている」 「すると、儂らは自分が滅びることを恐れてはいけないと言うのかね。滅びることを避けてはいけないと言う気かね」 「そうは言っていない。命は守るべきだ。しかし、仮りに滅びたとして、それは儂とか君とかだけのことで、儂ら全体が滅びたということではない。儂らの種族は、彼らに対して絶対的に不滅なのだ」 「だが彼らは儂らを片はしから滅ぼす。この事実は否定できまい。彼らが襲いかかって来る時、儂らは何の防衛手段も持たないのだぞ」 「たしかに今はその通りだ。しかし、これは永遠の戦いだ。儂らはその長い戦いの中で、きっと彼らを打ち破ることができよう」 「それはいつだ。勝利はいつ来る」 「時にまかせよう。時はその答を知っている」 「ではそうしよう。それで、どうやって勝つ」 「それなら答えるのは簡単だ。我々は彼らにかなわない。戦えば必ず彼らが勝つ。だから我々は負け続けるのだ。そうすれば必ず勝つ」 「負ければ勝つ、か。哲学的な答だ。何かがありそうな答だ。だが本当に何かがその答の中にあるのか」 「よいか。常に勝つ者は、永遠の勝者ではない。儂が言うのはそのことだ。儂らの努力で勝利の価値を変えることができる筈だ」 「勝利の価値を変える……」 「そうだ。方法はある。我々は至るところに散らばっていて、場所によってその為の準備もまちまちだ。準備の整っているところもあれば、まだ整っていないところもある。だが、この瞬間にも、彼らが我々が準備を整えているところへ乗り込んで来てくれさえすれば、儂らは見事にそれをやってのけよう。彼らを勝たせるのだ。彼らを勝たせることは簡単だ。なぜなら儂らは彼らにかなわないからだ。必ず負けるからだ。しかし負けかたがある。負けるには負けかたがあるというものだ」 「何やら頼もしそうだが、それ以上のことは訊《き》いても教えまい。本当のことは何ひとつ明かさないのが儂らの習性だからな。まあ、それはそれでよかろう。しかし、それなら儂も念を押しておきたい。皆も知っていることだが、ここであらためて彼らについて、確認しておこうではないか」 「何の為に……」 「当然のことだろう。負けるが勝ちの戦法の提案者は君らだ。儂ではない。それが失敗したときの、責任の所在を明らかにする為に、儂は共通の確認事項を作っておきたいのさ」 「よかろう、言って見てくれ」 「儂らは彼らのつかわした使者を、決して殺すことはできない。儂らの仲間は、その使者を倒せないのだ。傷つけることもできない。彼らの使者は、儂らに対して圧倒的な力を持っている。儂らが仮りに使者の心臓をえぐり取ったとしても、使者は死なない。これだけはたしかだ」 「それだけか」 「それで充分だ」 「君は充分だと言うが、充分ではない」 「ほう、そうかな」 「なるほど儂らは、彼らの使者の命は奪えないし、肉体を傷つけることもできない。しかし、使者の心を傷つけることはできる。また儂らも代理人を用いれば……すなわち儂ら自身の手によるのでなければ、使者を傷つけることはできる。命を奪うことすら可能だ。また、もうひとつ重要なことは、儂らのもとへ送り込まれた彼らの使者は、使者としての使命をおえるまで、決して死ぬことがない」 「それこそあの使者の最も恐るべき点ではないか」 「今まではたしかにそうだったかも知れん。しかしこれからは違う。使命をおえるまで決して死ぬことのできぬ点こそ、使者の最大の弱点になるのだ」 「どういう意味かよく判らん」 「この次から、あの使者は、心に傷を負い、ズタズタに引き裂かれ、死にたいと思うようになることだろう。だが使者は死ねない。死ねずに儂らを滅ぼし続けるのだ。勿論《もちろん》儂らは逃げるさ。しかし、最善を尽して逃げてなお滅ぼされるならば、よろこんで滅びようではないか。今までも儂らにはその道しかなかったのだからな。しかし、今度は一人一人の滅びが、彼らに償いをさせるのだ。儂ら一人が滅びるたび、彼らの勝利の意味は減じる。一人滅び、意味が減じ、一人滅びてまた意味が減じる。それが積み重なれば、彼らにとって勝利の意味はゼロになる。彼らは勝てば勝つほど、敗北に近づいて行かねばならないだろう。そして人々は、やがて彼を信じなくなるのだ」  花の咲き乱れる  緑の丘にかこまれた沼のほとりに  一人の男がいる。  柔《やわら》かい草の上に仰臥《ぎようが》し  両手両脚を思い切り伸ばして  胸を反《そ》らし  深々と息を吸い込んだ。  そばに薄絹のようなものがひとかたまり  優雅な襞《ひだ》を作って微風になぶられている。  思いきり伸びをした男は  上体を起してあたりを見まわし  その薄絹のようなものに気づく。  男はそれを熟知していた。  長いあいだ  彼はそれにくるまれていたのだから。  沼のほとりに  卵形のものがフワフワと浮いている。  男はそのほうを眺《なが》めた。  保護され  養育され  そしてたくわえられている者たち。  それが風に揺れる卵形のものの正体だ。  内部の白いガスは養分  胎児のように膝《ひざ》をかかえて  その中にいる者は  彼の仲間たち。  ついさっき  卵形をしたもののひとつがはじけ  彼は柔かい草の上に落ちた。  保護膜はその体のそばにひとかたまりになり  白いガスは風に運ばれて消えた。  しなやかでほっそりと  その男は少年のような体つきをしていた。  彼は立ちあがり  沼のほうへ歩いて行った。  生まれ出た彼を祝福するように  あたりに浮く卵形のものが  いっせいにユラユラと揺れた。  沼のほとりで彼は立ちどまり  〈時〉を見あげた。  その世界を掩《おお》う〈時〉は  底知れぬ深さで彼の視線を吸い込む。  彼は〈時〉から目を水面に移すと  ふと思いついたように膝を折り  沼のほとりにひざまずいて  澄んだ水に両手をさしのべた。  彼の手が水を割ると  鏡のような水面が揺れ  緑の丘が  美しい花が樹木が  水面を走るように揺れ出した。  〈時〉も揺れている。  行け……。  目に見えず耳に聞こえぬものが  激しく彼にそう命じた。  彼はうやうやしく両手で沼の水を戴き  頭を濡《ぬ》らした。  その瞬間  あたりの色が変り  ものみなすべてが黄金色《こがねいろ》に輝いた。  彼はその黄金色の輝きの中で  左膝を草の上につけたまま  右足を伸ばして沼の水につけた。  旅立ちの第一歩であった。  水の中の右足に重心を移して  左の足も水の中へ踏み入れる。  もう二度と保護膜の中へは戻《もど》れない。  卵形をした保護膜の中で  彼の仲間が合唱をはじめた。  彼は沼の中心に向かって体を倒し  一気に全身を沼に浸した。  彼がその水をどれほど冷たく感じたか  よく判《わか》らない。  彼は泳ぎはじめた。  合唱に送られて沼の中心に向かう彼が  前途についてどれほどのことを悟っていたか  よく判らない。  彼は泳ぎ  沼の中心に至った。  彼は一度立ち泳ぎにかえ  あたりを眺めようとした。  しかし  緑の丘から見たときとは  沼の大きさが変っていた。  それは大海であった。  首をめぐらせてどの方角を見ても  水ばかりしか見えなかった。  水面線にかこまれた大洋の真《ま》っ只中《ただなか》で  彼は行かねばならぬと思った。  どこへ……。  自問があった。  しかし目的地はよく判らない。  彼は息をいっぱいに吸い込むと  一度水を蹴《け》って伸びあがり  一気に頭から水中に突っ込んだ。  沈む。  彼は水を蹴って沈む。  澄んだ水が  沈むにつれて乳白色に変る。  水が濃くなり  やがて水ではなくなった。  底への旅は果てもないように思えた。  彼はいま灰色に変った世界を進んでいる。  そして沼の波紋はいつのまにか納《おさ》まって  いつも通り  鏡のようにあたりの緑を映している。  緑の丘に風が吹いている。  しかし、それが東風なのか西風なのか  よく判らない。  緑の丘に生えた樹木には実がなっているが  その実が食べられるものかどうか  判らない。  かぐわしく香《かお》り  美しく咲く花の名も  判らない。  季節のこともよく判らない。  多分春なのだろう。  春かも知れない。  神崎は目を覚ました。枕《まくら》もとの時計の音がいやに耳ざわりだった。寝ていたままの姿勢で目をあけ、時計の音以外の音を聞こうと耳をすませた。  静かだったが、かすかに波の音が聞こえていた。神崎は時間をかけてそれがたしかに波の音だと確認すると、また目をとじた。  神崎順一郎。三十歳。住所は……。  判らなかった。朦朧《もうろう》としていて、よく思い出せないのである。  酒を飲んだ。それだけははっきりしていた。目を閉じた中で、突然男の顔が大きく迫って来た。神崎はハッとして目をあける。べッドの頭のほうに薄明るい光があって、海の音はその方向から聞こえている。  男の顔は目をあけても、しばらく消え残っていた。見憶《みおぼ》えのない顔であった。神崎は強い不快感を味わっていた。どこかで見知らぬ男と酔って喚《わめ》き合ったらしい。何か愚にもつかない議論をして喚いた自分を思い出す。その時、男と自分の声のほかに、流行歌が聞こえていたようだった。  いったいあれはどこだったのだろう。なぜ俺《おれ》はこんな所にいるのだ……。  神崎は堪《たま》りかねて上体を起した。胃のあたりの生理的な圧迫感はさておいても、罪を犯したあとのような慚愧《ざんき》に似たものと、何か不吉なものがすぐそこに迫っているような焦《あせ》りにさいなまれているのだ。  上体を起して両足をベッドから出し、床につける。暖かく柔かい感触だった。  波の音。  俺は東京で生活している。東京の人間だ。波の音……いったいここはどこだ。  神崎は両手をべッドにつくと、そっと体重を両足に移し、べッドをおりた。ほの白い明りが見えているほうへ、そろりそろりと進んだ。  厚いカーテンがおりている。窓だ。閉じたカーテンのわずかな隙間《すきま》から白い光が射し込んでいるのだ。  神崎はそっとカーテンを引きあけた。  夜が明けるところだった。夜の闇《やみ》はすでに追い払われており、窓の外はしらじらとした光に満ちていた。  道路が見え、海岸線があり、海があり……。  伊豆《いず》だ。熱海《あたみ》らしい。いや、ここは伊東《いとう》だ。何か彼の頭の中でバラバラに分解されていたものが、フィルムを逆回転させた映像を見ている時のように、奇妙に現実ばなれのした感じでひとつにまとまって行った。  伊東の海岸のホテルにいる。  神崎は自分のいる位置を確認した。するとそこから東京へ至る道筋がはっきりと頭に泛《うか》び、次に日本列島の地図、そのあとに世界の略図が泛んだ。  だが判らない。なぜいまそのホテルにいるのか……。  酔って我を忘れたのだ。以前にも大酔して記憶をなくしたことがある。  神崎はこれをほんのちょっとした失敗に過ぎぬように思い込もうとした。窓から射《さ》し込む暁《あかつき》の光の中で振り返り、部屋《へや》の中を見廻《みまわ》した。  ダブルベッドがあり、その片側に自分が寝ていた跡があった。神崎はまっすぐに歩いて、入口の壁にあるスイッチを押した。灯《あか》りがつき、外の光が弱くなった。  衣裳戸棚《いしようとだな》をあけて見る。戸をあけると同時に小さなランプがともり、白く光るパイプの左端に、服がきちんとハンガーにかけてぶらさがっていた。その真下に靴《くつ》が揃《そろ》えてある。上着をまさぐるとすぐ紙入れの感触があり、内ポケットからそれを取り出して中身をあらためる。  札《さつ》が十何枚か入っている。神崎は眉《まゆ》を寄せてそれを元に戻した。前の晩いくら持っていたのか、よく思い出せないのだ。  紙入れを上着の内ポケットへ戻す時、跣足《はだし》の爪先《つまさき》へポトリと落ちたものがあった。腰をかがめてそれを拾う。  カードだ。クレジット・カードらしい。しかし、神崎には見憶えがなかった。戸棚のランプは薄暗く、彼はそれを入口の天井に埋め込んだ照明の真下へ持って行ってよく眺めた。  CREDIT・CARD。金色の地に黒い文字でそう書いてあり、その横にマークが入っている。  G・O・Dの三文字が、それぞれ縦長の楕円《だえん》の中央に納められて並んでいる。Gは緑、Oは赤、Dは淡い水色だ。  神崎はいっそう顔を顰《しか》めた。  署名欄に自分の署名があったからだ。神崎順一郎。酔って書いたにしては筆跡も乱れていない。  こんな物、いつ書いたのだろう。  判らない。  神崎は一度しまった紙入れをまた取り出して、そのカードを入れ、紙入れをそのまま手に持って戸棚を閉じた。  普段は持ち歩かないが、神崎もクレジット・カードなら二種類持っている。カードには必ずナンバーが打ってある筈《はず》であった。それに片仮名《かたかな》で名前がなければいけないし、有効期限も明示してなければおかしい。  だが、GODというカードには、ナンバーも片仮名の名前もなく、有効期限の欄はあるが、そこは黒く塗り潰《つぶ》されている。  どこかのバーでボトルを買わされたらしい。神崎はそう思った。きっとバーかクラブの会員証なのだろう……。  神崎はべッドの端に腰をおろすと、紙入れをそばの小さなテーブルの上へ抛《ほう》った。大学時代に何度か、前後不覚に大酔したことがあったが、社会へ出てからは一度もそんなことはなかった。  酒には注意しよう。  神崎は首をすくめてそう考えた。きのうは金曜日であった。午後、溝口夕子から電話があって、広島の伯父《おじ》が上京して来たので今日はまっすぐ家に帰らねばならない、と、デートを断わって来た。それでなんとなくはぐらかされた気分でいたところ、同僚の田崎と吉川が飲みに行こうと言い出し、設計主任の菅原を誘って、四人で銀座へ繰り出したのだった。  はじめはいつものボルドーで、菅原のボトルを出させてチビチビやっていた。給料日前だから、みんなつつましくやる気でいたようだ。  それがいつの間にか仕事の話になって、三人が菅原にからむ形になってしまった。議論に熱中してピッチが早くなり、菅原のボトルを空《から》にすると、所長の石川のボトルを持ってこさせた。  オダをあげるというが、ゆうべのは典型的なそれであったようだ。そのあと、クールへ行ってガストロへ行って、キララが満員で入りそこねると、新宿《しんじゆく》へ行こうということになって、近藤書店の前からタクシーに乗って新宿へ向かった。そのタクシーの中で歌を唄《うた》ったのを憶えている。  神崎の記憶はだんだんはっきりして来た。新宿へ着くと、およねで日本酒を飲《や》り、田崎の案内で学問所などという変な名のバーへ入って……。  そこのママのギターで、かわりばんこに歌を唄っている内に、吉川と連れ立ってトイレへ行ったとき、 「主任は田崎へまかしとこうよ」  と吉川が言い出して、トイレが店の外だったのをさいわい、二人でドロンしてしまったのだ。  田崎が案内してくれた学問所は二丁目にあり、二人はそこからまた歌舞伎町《かぶきちよう》へ引っ返そうとしていた。しかし、三光町《さんこうちよう》の交差点で信号が変るのを待っていると、突然吉川がタクシーをとめ、 「俺は西荻《にしおぎ》へ行く」  と勝手に走り出してしまった。吉川が一番酔っていたのだ。  判らなくなったのはそれからだ。ふらふらと、はじめての店へ入ってしまったようだった。店の名も憶えていない。ガランとした感じの店で、入るとすぐにかなり酔った女がなれなれしく近づいて来て、自分でもそこがはじめての店だとは感じないほどであった。  光子。  神崎はその女の名をいやに鮮やかに思い出した。かなりの美人だった。俺の好みだ。理想の女だと言ったような気がする。  その女と意気投合して店の外へ一緒に出たような気がするが、その辺りから記憶は完全にぼやけてしまっている。  神崎はベッドの上を見た。さして寝乱れた様子はなく、一人きりだったことは歴然としていた。テーブルの上の灰皿も汚れていない。  神崎はふと気付いてそのテーブルへ近寄った。灰皿のそばにこのホテルのマッチが置いてあった。  伊東ニュー・シーサイド・ホテル。  一度泊ったことがある。去年の春、さる著名な人物の別荘を建てるので、その下検分の為に所長の石川のお供で来たのだ。建主《たてぬし》とこのホテルで落合い、一泊して翌朝早くにその土地へ行った。  感じのいいホテルで気に入っていた。だから、酔った中でふと思い出したのだろう。それにしてもあの時間、どうやってここまでやって来たのだろう。  神崎はテーブルの前の椅子《いす》に坐《すわ》って考え込んだ。あのガランとしたバーで光子に会った時、すでに十一時近かった筈《はず》である。それまでの間にGODというカードを受取った記憶がないのだから、光子の店のあとも何軒か飲み歩いている筈だ。  すると、どうしても十二時|頃《ごろ》まで新宿にいたことになる。それから伊東へ来るには車しか方法がない。夜中のタクシーなら、運転手によってはよろこんで伊東まで突っ走るだろうが、料金はいったいいくらぐらいになったのだろう。それを払った筈なのに、上着の内ポケットの紙入れには、まだ一万円札が十数枚入っている。吉川や田崎は勿論、主任の菅原も大して持っていなかった筈だから、仲間に借りたということはあり得ない。だがどこかでかなりの金を手に入れたのだ。記憶にないから、酔っている間のことに間違いはない。  ベロベロに酔った自分に、どこの誰がそんな金を貸したのだろう……。神崎は不安の原因を突きとめたように思った。何か、その金についてよくないことがあるようだった。とは言え、いくら正体をなくしても、自分が人から金を奪ったり盗んだりできる人間だとは思えなかった。  最もありそうなことは、落ちていた金を拾ったのかも知れないということだ。そんな大金を拾ったことなど一度もないが、大金と言っても十万か二十万程度のことだ。もしその程度の現金を暗がりで拾ったとして、それを警察に届けるかどうかということになると、神崎には必ず届けると断言し切れなかった。多分|猫《ねこ》ババしてしまうだろう。  しかし、だからと言って、今自分が持っている金が拾ったものであるとも、神崎には断定できない。他にもっと、不吉な、嫌《いや》な可能性がいくらでもある。  いずれにせよ、酔ってその金を手にした時、何か日常の制約が弾《はじ》け飛んで、遠くへ行きたくなったことは容易に推察できる。心の隅《すみ》に伊東ニュー・シーサイド・ホテルの名が残っていて、タクシーに乗るとその名を告げたのだろう。そのタクシーは一も二もなく突っ走り、自分は車の中で睡《ねむ》ってしまった筈である。そしてホテルへ着き、運転手に起され、料金を払い、まだ酔っていてフラフラとフロントへ行ったら、空部屋があってすんなり泊めてくれた。と、そういうことだろうと神崎は思った。  すぐそばにテレビが置いてあり、そのテレビの上に三角形に折った印刷物があった。  ——早朝6時より8時まで、日本茶のルーム・サービスを致します。電話は06番でございます——  ひと晩たてばポットの湯はぬるくなっている筈だ。釣《つ》りやゴルフで早発《はやだ》ちの客が多いこの辺りでは、結構気のきいたサービスである。  もう六時を過ぎていた。神崎は立ちあがって電話のダイアルを廻した。06番はルーム・サービスの係りの番号ではなく、フロアー・ステーションの番号であった。  すぐにドアのチャイムが鳴り、紫色の和服を着た女が現われた。 「お早うございます」 「お早う」  神崎はその女をみつめて言った。 「あの……」 「は……」  女はテーブルの上にお茶のセットを並べ、いぶかしげな目で神崎を見た。 「ゆうべ遅く着いたんだけど」 「ええ」  女は微笑を泛《うか》べた。知っているらしい。 「僕、酔ってただろう」  女は笑いを大きくした。 「あら、そんなにお酔いでしたか」 「よく憶えてないんだ」 「そんな風には少しも見えませんでしたわ」 「へえ、そうか。で、タクシーで来たんだろうなあ」  神崎はつい途方にくれたような言い方になった。 「この階の係りですから」  知らないようだ。 「フロントは八時で交替します。だから、今いる人なら知っている筈ですよ」 「あ、そうか」 「どこからいらしたんです」 「東京」  女はさして意外そうでもない。よく車を飛ばして来る深夜の客があるのだろう。 「連れはなかったろうね」  そう言うと、女はさすがに驚いたようで、 「本当に何もご存知ないんですか」  と、薄気味悪そうな顔になった。 「うん」  神崎は肩をすくめる。 「お一人ですよ」  しっかりしてくれ、というように言い残して出て行った。  神崎は急いでバス・ルームへ入った。意外なことに、ゆうベそれだけ飲んだにしてはさっぱりした顔が鏡に映った。ざっと顔を洗い、バス・ルームを出ると手早く服を着る。注意して見たが、どこにも汚れはついていなかった。  きちんと背広を着ると、鍵《かぎ》を手に廊下へ出る。エレベーターがどこかも憶えていないが、廊下の左らしいと見当をつけて歩いて行った。  案《あん》の定《じよう》角を曲ったところにエレベーター・ホールがあり、ボタンを押すとすぐドアがあいた。Lのボタンを押してロビーへおりる。  ロビーはひっそりとしていた。テープに吹き込んだ小鳥の啼声《なきごえ》がスピーカーから流されているだけだ。神崎は煙草《たばこ》の自動販売機を見付けると、いかにも煙草を切らせてしまったという様子で近寄り、外国煙草を一箱買った。そばに置いてある灰皿のところで封を切り、何気ない足どりでフロントへ近付いて行った。 「お早うございます」  フロントには二十七、八の男が一人だけいて、丁寧に挨拶《あいさつ》した。 「あのね」  相手が年下で与《くみ》しやすかったので、神崎はざっくばらんに頭を掻《か》いてみせながら言った。 「ゆうべからずっとここにいるの……」 「はい」 「僕が来たの、憶えてる……」 「四時ちょっと過ぎにお着きになりました」 「四時……」 「はい」 「酔ってなかった……」  フロントの男は小首を傾《かし》げる。 「そんなでも……」  あいまいに言う。 「だいぶ酔ってたようなんだよ」 「いいえ」  今度はきっぱりと言う。 「タクシーで来ただろう」 「いいえ」  神崎はドキリとした。 「じゃ、どうやって来たんだろう」  フロントの男は急にニヤニヤした。 「本当にそんなにお酔いになってたんですか」 「うん」  呆《あき》れたように首を振る。 「ちっとも気が付きませんでした」 「しっかりしてた……」 「そりゃもう。ハイヤーをお降りになって、しっかりした足どりでフロントへいらっしゃいました」 「ハイヤーか」 「ええ」 「うまく部屋が空《あ》いてたもんだね。助かったよ」  フロントの男は眉を寄せ、カウンターの下で何かを探していたが、大きなカードを取り出してそれを見ながら言った。 「リザーブなさっておりますよ」  たしなめるような言い方だった。 「え……」 「一週間前に」 「間違いじゃないかい」 「神崎様でございましょう」 「うん、神崎」 「神崎順一郎様」  男はたしかめるように言った。 「そうだ」 「間違いございませんよ」  男は笑顔《えがお》になって言った。 「一週間前に予約……変だなあ」 「昨夜も、十二時ごろ東京からお電話がございまして、四時頃になるがよろしくということでした」 「ゆうべ……誰が」 「女性のお声でした」 「女……」 「予約は一日だけ……」 「はい」 「何だか訳が判らないな」 「お着きが四時でしたから、今少しゆっくりお休みになれば……」  男は親切そうに言ってくれた。 「うん、そうだね。だいぶ飲んだからな」  神崎はフロントを離れて、エレベーターへ向かった。  部屋へ戻ると服を脱ぎ、また浴衣《ゆかた》に着替えると、バス・タブの栓《せん》をして湯を出した。湯の音がする部屋の中で、お茶をいれて飲む。  何か妙なことが起っている。  一週間前の予約。十二時の電話連絡。……電話連絡のほうは、ひょっとするとあの光子という女かも知れない。しかしなぜ……。四時に着くと言ったからには、伊東までの時間を計算していた筈だ。新宿十二時、伊東四時。ちょっとむずかしいような気もする。それにハイヤー。それも光子が手配してくれたのだろうか。いや、女の声だったからと言って、光子という女だとは限らない。それにしても、十二時に電話で四時に着くという連絡をして、ピタリとその通りに着いているらしい。  判らない。  神崎はバス・ルームへ行った。  湯が一杯になりかけていた。  湯をとめ、裸になった。  そしてバス・タブへ体を沈めた。  横になり  目をとじた。  ふっと目まいがして  底へ引きずり込まれるように  強く感じた。  彼は水の中にいた。  目をあけると  緑の丘が見えた。  花が咲き乱れ  赤い実をつけた  樹木が繁《しげ》っていた。  そして  卵形のものが  フワフワと風に浮いて  合唱していた。  神崎は目をあけた。なぜそんな幻を見たのか、よく判らなかった。 [#改ページ]   夜の仲間     1  神崎順一郎が渋谷《しぶや》に着いたのは、土曜日の午後三時|頃《ごろ》であった。  伊東のホテルをはやばやと出て、熱海から新幹線で東京へ戻《もど》り、地下鉄で渋谷へ着いたのだから、本当ならもっと早くに帰って来られた筈《はず》である。  しかし、伊東でも熱海でも東京でも、神崎は乗換えのたび無駄な時間を費していた。土曜日で勤めがないせいもあるが、そんなことより、なぜかひどく決断力が鈍っていたのである。  訳が判《わか》らないうちに東京を離れていた。酔った揚句《あげく》の気まぐれとは言え、気付いて見れば自分の取ったその行動はショックであった。理性で律した筈の日常の中へ、突然何か理不尽なものに割り込まれた感じであった。じっくりと自分の心の中を点検して見ると、たしかに伊東ニュー・シーサイド・ホテルという存在が、もう一度行きたい場所として記憶に残されていたし、仕事仲間や家族たちから離れて一人きりの時間を持ちたいという、自己解放の願望があったこともたしかだった。  しかし、それにしても、醒《さ》めて突然自分が伊東にいるのを発見したことは、何か少し得体《えたい》が知れなすぎる感じであった。  酔ってはいたけれど、自発的に行動したことは間違いない。それは酔いの醒めた神崎の理性が強く主張している。仮りにそうでなくて、誰かにおだてられ煽《あお》られてやってしまった行動だとすれば、神崎は自分自身をまったく当てにならぬ人間として眺《なが》め直さねばならなくなるのだ。  自分をそんな風に思うのは嫌《いや》だった。今度の伊東行を酒の上の縮尻《しくじ》りとして認め、今後の自戒の柱とすることにはやぶさかではないが、酔って別人のような行動を取ったとしても、飽くまでそれは自己の内部にひそんでいた願望の自発的な具体化であって、他人に操られ意の儘《まま》に動いた結果であってはならないのだった。  神崎は失敗のあとにやって来る自己嫌悪《じこけんお》の淵《ふち》のぎりぎりのところに踏ん張った感じで、自分をそれ以上追い込むまいとしていた。そして、その踏ん張りはたしかに成功しているようだった。前後不覚に酔いはしたが、その酔いの中でもそれなりに自主的な行動をしたのだという自信は保っていられた。  が、その自信を突き崩そうとするものにまじって、何か妖《あや》しい魅力を持ったものが、伊東のホテルから遠ざかり、いつも通りの世界へ戻ることを逡巡《しゆんじゆん》させたのであった。  酔ったら酔ったなりに自主的な行動をしたのだという自信を突き崩そうとするものとして、いちばん大きな要素は光子という女の記憶であった。光子の顔の記憶がいやに鮮かなのだ。名前くらいは記憶していても顔などろくに憶えていなければ、よくある行きずりの女として安心していられる。だが、銀座のボルドーからはじまって伊東のホテルに至る今回の酔いの筋道で、初対面にもかかわらずそれほど鮮明な女の顔の記憶があるということは、その女が何か大きな鍵《かぎ》を握っているように思えてならないのだ。そしてその通りだとすれば、酔ったなりに自主的に伊東へ行ったという神崎の自分自身に対する主張は崩れてしまいかねない。  光子に行かされた、という可能性が強くなってしまうのだ。  しかし、神崎は自分を信じた。仮りに光子が酔った神崎に対して、伊東へ向かうべき何らかの暗示を与えたとしても、所詮《しよせん》彼女は神崎にとって初対面の女であり、以前伊東のあのホテルへ行ったことがあることなど、知る筈もないのだ。従って、伊東へ足を向けたのは、飽くまでも神崎自身の意志以外ではなく、それに光子が介入していたとしても、手をかした程度のことでしかあり得ない筈であった。  ところが、何とも解決のしようのない事実がひとつある。ホテルの予約がしてあったということだ。しかも神崎順一郎名義で、一週間も前に。  ホテルへハイヤーで着いた件も、どこかでハイヤーを呼んだのだろうから、さして怪しむには足りない。また、持っている筈のない金を持っていた件も、拾うか借りるか、いや最悪の場合人から奪ったとしても、とにかくあり得ぬことではない。  しかし、一週間前の予約ということになると、これはもうどうにも解しかねるのである。一週間前、神崎は伊東のホテルのことなど完全に忘れていたし、伊東へ行って見たいと、ちらりとでも考えた事実はないのだ。すべては一夜の酔いの中で突然起ったことではないか。  自信を突き崩そうとする要素の中に、妖しい魅力を持ったものがまじっているという、その妖しい魅力が、一週間前の予約の件なのであった。  神崎は、誰かが自分のその朝の行動を覗《のぞ》いているような気がしてならなかった。だから、伊東でも熱海でも、うろうろと歩き廻って時間を潰《つぶ》さずにはいられなかったのだ。  誰かに監視されているというような圧迫感はなかったが、覗かれているような気がしていた。悪戯《いたずら》を仕掛けられている感じなのだ。そして、それを仕掛けた者がすぐ身近にいて、忍び笑いをしながら、つきまとっている感じであった。酔余の失敗ときめて、さっさとそこを離れては、そのゲームの相手に悪いような気さえしていた。宿酔《ふつかよい》の、生理的な不快感が去るにつれて、誰かに慕い寄られているような擽《くすぐ》ったさが強まり、深酒をした翌日だというのに、神崎は常になく浮き浮きとした気分を持て余すように感じているのだった。  悪戯を仕掛けられている。  そう思うより仕方ないのだ。それでなかったら、神崎順一郎名義の予約の件は、一種の超常現象とでも解するより仕方なくなってしまう。  酔って伊東ニュー・シーサイド・ホテルのことを誰かに喋《しやべ》ったのだろう。あそこでのんびり過したいと、日頃《ひごろ》の愚痴《ぐち》をまじえて言ったのかも知れない。それを聞いた者が、たまたまそのホテルに顔がきくかどうかして、手のこんだ細工《さいく》をしたに違いない。だから、神崎を伊東へ差し向けたあと、四時頃そちらへ着く筈だとホテルへ通告できたのだ。  それにしても、その何者かは、いったい自分を混乱に陥れて何を楽しんだのだ。神崎にはそれが解《げ》せず、早く相手の楽しさを自分も理解したいと願っていた。     2  渋谷へ着いても、その奇妙に浮き浮きとした気分は去っていなかった。駅前の雑踏の中で、周囲の人々がみなその土曜の午後を楽しんでいるように感じた。  渋谷区鶯谷町。  神崎の家は古びた木造の二階建てで、渋谷からは坂を二度ほど登りおりした場所にあった。幅四メートルほどの道路に面して生垣《いけがき》があり、門の格子戸《こうしど》をあけて入ると、右側が庭で玄関へ向かって並べた敷石が、左へゆるい弧《こ》を画いている。 「只今《ただいま》」  神崎は玄関へ入っていつものように声をかけた。何しろ古い家で、障子や襖《ふすま》がやたらに多かった。 「お帰り」  母のとき江の声がした。それに重なるように咳《せき》ばらいが二つほど聞こえ、 「順一郎」  と祖父の啓吉の声。 「只今」  家へあがった神崎は、茶の間の襖をあけながらもう一度言った。茶の間には母と祖父二人だけで、欅《けやき》のテーブルの上に皮の青い蜜柑《みかん》が積んであった。 「どこへ行っていた」  祖父は老眼鏡ごしに上眼《うわめ》で神崎を睨《にら》んだ。 「伊東」 「伊豆のか」 「うん」  祖父は拍子抜《ひようしぬ》けしたように表情をゆるめた。 「独り身は気楽でよかろうが、いいかげんに結婚することだな」  神崎は襖をしめ、祖父の横に坐って青い蜜柑に手を出した。 「そう言えばこいつは初物《はつもの》だな」  とうに果物屋《くだものや》の店先に青い蜜柑を見る季節になっていたが、皮を剥《む》くのはそれが最初だった。 「変な言い方をする奴《やつ》だ」  祖父はそう言って笑った。結婚話のすぐあとに初物と言ったのがおかしかったのだろう。 「夕子さんから二度ほど電話があったわよ」  母親が教える。 「いけねえ」  神崎は頭を掻《か》いた。 「デートの筈《はず》だったんですって……」 「うん。でも、すっぽかしたのは向こうさ」 「その言い訳らしかったけど、今日|逢《あ》いたいみたいだったわよ」  神崎は首をすくめて蜜柑を口に入れた。 「伊東へ行ってもどこへ行っても構わないけれど、帰らない時は電話をしてくれなければ」  母親が聞き飽きたことをまた口にした。 「うん」  神崎は生返事《なまへんじ》をする。 「仕事は旨《うま》く行っているか」  祖父が尋ねる。父親は繊維業者になったが、祖父は建築家であったから、孫の順一郎が自分と同じ建築家の道を選んだことを、ひどく満足に思っているのである。 「快調だよ」 「今どんな仕事をしている」  近頃は神崎も仕事がいそがしく、祖父とそんな風に話合う機会も滅多になかったから、祖父は自分の専門分野のことで孫と話したくて仕方ないらしい。 「どんなって、いろいろさ」  神崎はあいまいに答えた。以前はよく祖父とも話合ったが、今では家へ帰ってまで仕事の話ではたまらないと感じている。 「石川という男は、見かけはのっそりした男だが、あれでなかなかやり手だそうじゃないか」 「そうかなあ」  神崎は首を傾《かし》げて見せた。 「評判は悪くない」  神崎が勤めている石川設計事務所の所長は、祖父の大学の後輩に当たっている。隠居した今でも昔の仲間を通じて、業界の噂《うわさ》はいろいろ耳に入って来るのだろう。 「そのうちに、石川という男に会ってお前の勤務評定を聞き出してやる」 「恐ろしい」  神崎はそう言って大げさに首をすくめて見せ、笑った。 「とにかく早く結婚しろ。いいかげんに孫の顔を見せんと承知しないぞ」  それが本音《ほんね》だろう。祖父は笑顔になっていた。 「夕子さんとはどうなの……」  母親が訊《き》く。 「どうって……」 「きまってるじゃないの。結婚のことよ」 「ここまで追いつめられちゃ、逃げるわけにも行かないさ」 「またそんな言い方をする。あちらさんに聞こえたらどうするの。失礼じゃないの」 「男は、いざ結婚となるとそういう気になるものだよ」  祖父はうれしそうに笑って言った。 「何よ、一時は夕子さん夕子さんって追いまわしていたくせに」 「今はこっちが追われる身さ」 「また……」 「そうだもの仕方ない。二のつく内に結婚したいんだとさ」 「二のつく内に……」  神崎はふざけたように指を折って数えた。 「二十七、二十八、二十九」 「ばか」  母親は呆《あき》れ顔でたしなめたが、祖父は体をゆすって笑っていた。 「おじいちゃま、何とか言ってやってくださいよ」 「夕子さんの気持としてはそんなところだろうな。どうせなら三十前に嫁に行ってしまいたいだろうさ」  母親はちょっと居ずまいを正すように体を動かしてから言った。 「そろそろちゃんとした話にしましょう。いいですね、順一郎」  神崎は蜜柑を口に入れたまま、子供のように、 「はあい」  と答えた。 「これは真面目《まじめ》なお話ですよ」 「真面目な話だけど、給料、安いぜ」 「何言ってるの。やって行けますよ」 「時々借りに来ることになりそうだな」 「おどかす気……」  釣り込まれてそう答えてしまってから、母親も笑い出した。 「まったく仕様がないんだから」 「夕子さんならいい奥さんになれる」  祖父がそう言った時、神崎の頭にふと光子の顔が泛《うか》んだ。     3  父の順吉はゴルフ、妹の順子はテニスに出掛けていて、二人とも夕方になると戻って来た。祖父、夫婦、兄妹の五人家族で、めっきり肌寒《はだざむ》く感じるようになった秋の宵《よい》の食事は鍋料理《なべりようり》であった。  茶の間に置いた欅の座卓を中心に、庭に背を向けて神崎、次の間の襖を背に父親の順吉、庭に顔を向けて祖父の啓吉が坐っている。台所に近いほうに母親のとき江と妹の順子が並んでいる。 「この次はふぐだな」  父の順吉が上機嫌《じようきげん》で言った。祖父の啓吉はとき江が持った銚子《ちようし》の口へ盃《さかずき》を押し当てるようにして酌《しやく》を受けていた。 「ゴルフの調子がよかったようだな」  啓吉はからかうように言い、口を突き出して酒を含んだ。 「妙なもので」  順吉は栓抜《せんぬ》きで冷えたビールの栓をあけながら答えた。 「今日は断わろうかと思っていたんですよ。でも断わりそびれて、半分投げた気で付合ったんです。そういう時に限って妙に具合がよくて」 「欲がないからさ」  啓吉は二杯目から手酌になる。父祖三代の男が食卓を囲んでいるのだ。平和で幸福な一家と言わねばなるまい。  神崎は父の手から栓抜きを取ると、自分の前にあるビールをあけた。グラスに注《つ》ぎ、ちらりと妹を見る。順子は兄に悪戯っぽい目配せをして、膝もとからさり気なくグラスを取りあげた。 「おいおい」  啓吉は急いで盃を乾し、それを突き出すようにして言った。 「順子も飲《や》るのかい」  家族の視線が一度に順子に集まった。 「順子ちゃん」  とき江が高調子で叱った。 「いいさ、一杯くらい」  父の順吉は笑っている。 「順子、飲《い》けるのか」  啓吉が尋ねる。 「少しならね」  順子はチョロッと舌を出して答える。 「いけません」  ととき江。 「一杯だけだぞ」  順吉が目を細めて言うと、啓吉があわてて銚子を取りあげた。 「順子、盃をもうひとつ持って来なさい」 「はい」  順子はいやに素早く台所へ行った。 「もうひとつ……」  とき江が怪訝《けげん》な顔をした。 「お前のだよ」  順吉は含み笑いをしている。 「あたしは結構」 「そう言わんでさ。わが神崎家が全員打ち揃って盃をあげるのは、これが初めてのことだろう」  啓吉はうれしそうだった。 「はい、お母さん」  順子が戻って来てとき江に盃を押しつける。 「まあ、順子ったら」  それでもとき江は、案外素直に盃を持って啓吉から酌を受けた。 「乾杯」  順子が勢いよく言った。それに和して、みな乾杯と言い、酒を口へ運んだ。 「記念すべき晩だな」  啓吉が言った。 「こうあるべきなのだよ。いつとはなしに子供たちが大人になって、或《あ》る時偶然のように親子で酒をくみかわす。……わたしもな、順吉とはじめて酒を飲んだ時のことをよく憶えているんだ。お前はもう忘れてしまったろうがな」 「ええ、憶えていませんね。いつでしたかねえ」 「憶えておらんでいい。それはわたしの宝物のようなものだ。わたしだけのな」  啓吉は目をしばたたき、順吉から神崎へ視線を移した。 「順一郎」 「はい」 「お前も今に息子《むすこ》と酒を飲むようになる。はじめて息子と酒を飲む時の気分はまた格別なものなのだぞ」 「どうして……」 「そりゃお前、親父が倅《せがれ》と酒を飲むということはだな、親父が倅を一人前の男として認めたからだよ。オギャアと生まれた赤ん坊が、親父と一緒に酒を飲むまでに育つということは、こりゃ並大抵のことじゃないんだ。親父も息子も無事でそれだけの歳月を過さねばならんからさ」 「どううれしいの」 「肩の荷がおりたということだ。こいつもこれで一人だちかと思えば、よくぞここまで育てて来た、育ってくれたと、胸にジーンと来るものがあるんだ」 「父さんと俺がはじめて一緒に飲んだのはいつだっけ」 「お前とか……」  順吉はふと目を天井に向け、すぐに、 「俺の宝物だ、教えんよ」  と答えた。 「おじいちゃん、父さんは忘れちまったらしいぜ」  神崎がそう言うと、みんな一斉に声を立てて笑った。  湯気の立つ鍋がその笑声の中心にあり、クーラーも要らずストーブにもまだ早い季節の微風が、障子をあけ放した座敷へ、金木犀《きんもくせい》の香《か》と共に忍び込んで来ていた。 「順一郎」 「なに……」  父の順吉は鍋の中の白菜を取りながら言った。 「この家を設計して見ないか」 「この家を……」 「もう古いからな。おじいちゃんと二人でやってくれると有難いんだ。設計料は要らないし」 「改築かい」  すると順子が甲高《かんだか》い声で言った。 「すてき。おじいちゃんとお兄ちゃんが新しいわが家を設計するのね」 「順吉、本気か」  啓吉は盃を置いて言った。 「そろそろいいでしょう」 「しめたぞ」  啓吉は両掌《りようて》をこすり合わせた。 「順一郎、やろう」  祖父と孫はみつめ合い、微笑を交した。     4  神崎家は平和だった。日曜日は誰も外出せず、一日中にぎやかな声が聞こえていた。そうした平穏な時間の中で、神崎はあのおかしな伊東行きのことを、急速に忘れはじめていた。  月曜日、いつも通りに出勤するとすぐ、神崎は所長の命令で二人の同僚と一緒に、新しい施工主《クライアント》の所へ打合せに出掛けた。  打合せはたっぷり二時間かかり、ちょうど正午に解放されたので、神崎たちは出先で昼食をとり、一時近くに目黒《めぐろ》へ戻った。  石川設計事務所は駅からそう遠くない坂の途中にあるマンションの地下一階にあった。地下一階と言っても、坂の途中にある建物だから、正面玄関から入れば地下に当たるというだけで、その実道路から駐車場を通ってじかに出入りできる。 「只今」  そう言って神崎たちが部屋へ入って行くと、 「ご苦労さま」  と同僚が顔をあげた。 「どうでした」 「そう厄介《やつかい》なこともないようだ」  神崎は自分のデスクの上へ紙袋を抛《ほう》り出すように置いて煙草に火をつけた。 「神崎さん」  後輩に当たる所員の一人が、大きな目玉を眼鏡の奥で光らせて近寄って来た。 「何だい」  神崎は煙を吐きながらそのほうへ体を向けた。回転椅子が軋《きし》んだ。 「十一時ごろ、変な男が訪ねて来ましたよ」 「変な男……」 「ええ。感じの悪い奴でした」 「小山がそう言うんじゃ、余程感じが悪かったんだろうな」  神崎はそう言って笑った。小山というのは至って温和な男で、人のことを悪く言うことなど滅多にないのだ。 「神崎さんのことをいろいろ尋ねるんです」 「尋ねるって、どんな……」 「それが非常識なんですよ。名刺も身分証も出さず、ただ興信所の調査マンだと言うだけで。それで、神崎さんの性格はどんなだとか、いきなり」  神崎は笑った。 「適当に言っといてくれればいいさ」 「何も答えてやりませんでした。だって、嫌な感じで」 「いいさ、判ってるよ。誰かが結婚の調査でもはじめたんだろう」 「違います」  小山はいやにはっきりと言い切った。 「ほう」 「僕も溝口さんのことは知っていますから、きっと結婚のことだろうと思ったんですけど、違いました。だって、溝口夕子さんのおうちからの調査だったら、神崎さんの住所を訊いたりはしないですからね」 「へえ、俺の住所を訊いたのか」 「ええ。変でしょう。ちょうどみんな出払ってて僕一人だったんですが、追い払ってやりました」 「何の調査だろう」 「追い払うことは追い払ったんですけど、しつっこくてね。何の調査だか言えないような相手に他人のことを喋《しやべ》るわけには行かないって言うと、クレジット・カードの調査だよ、って、捨て台詞《ぜりふ》を言って帰って行きました」  神崎は無意識に左の胸へ手を当てていた。小山は調査マンの捨て台詞を出まかせだと思っているようだったが、神崎には思い当たるものがあるのだった。 「そうか、すまなかったね」  神崎は小山に礼を言うと、左の内ポケットから紙入れをとり出した。小山が自分の席へ戻ると、そっと中から例のカードを引き出して見た。  金色の地に黒い文字で、CREDIT・CARDと大きく記してあり、その横に楕円を三つ並べたマークがあって、それぞれの楕円の中に、G・O・Dの三文字が入っている。  これのことに違いない。  神崎はそう思い、顔を顰《しか》めた。不安が湧《わ》き起り、急いでそのカードを紙入れに戻してポケットへしまった。  クレジット・カードに似せて作った、バーかクラブの会員証だろうと軽く考えていたが、どうやらおもちゃではないらしい。温和な小山がしきりに嫌な感じの男だと言っていたのが気になって来る。  やはり、あの正体不明の金の始末を早急《さつきゆう》につけてしまう必要がある。神崎はそう思い、今夜にでも新宿へ行って光子という女に会おうと決心した。  それにしても、GODというカードのことなど、聞いたことがなかった。調査に来たのが感じの悪い男だったとすると、闇金融《やみきんゆう》のようなことに関連しているのかも知れない。俗にサラ金と呼ばれる小口金融業の中には、暴力団につながったひどく悪質なものがあると聞いている。酔った時、どこかでそんな連中に引っ掛って、適当に金を押しつけられたとしたら、早く返済してしまわないと酷《ひど》いことになる。  神崎が不吉な方向へ推理を働かせていると、少し離れた席から、小山がちらちらと視線を送って来るのに気付いた。目と目が合い、思わず神崎が苦笑を泛べると、小山がさり気なく席を立ってやって来た。 「どうかしましたか、さっきのことで」  顔色を見られてしまっているので、神崎は隠す気もなく、 「実は俺、こういうカードを持っているんだよ」  と、内ポケットからまた紙入れを取り出し、GODカードを見せた。 「本当にクレジット・カードの調査だったんですか」  小山は呆れたように言った。 「実は金曜の晩、吉川や田崎と一緒に飲みに行ったんだ。それでつい、はめを外《はず》して前後不覚さ。気が付いたらこのカードを持ってた」 「神崎さんの署名がありますね」 「うん。だがよく憶えていない。それに、カードばかりじゃなく、十何万か現金を余分に持っていた」 「それも憶えていない……」 「うん」 「それはまずいですよ」 「まずい。給料前で金がないから菅原氏をとりまいたくらいだ。酔ってたから名刺なんかも平気でバラ撒《ま》いたろうし、身分証も見せたかも知れない。やくざな連中に金を押しつけられた可能性があるな」 「大変だ。このカード、ちょっと貸してくれませんか」 「どうするんだ」 「駅前の銀行に大学時代の友達がいるんです。銀行ならどんな性質のクレジット・カードか判るかも知れません」 「判るかな。いい加減なものだろう」 「でも、こいつはちゃんとこしらえてあるじゃないですか。とにかく訊いて見ますよ」 「そうか、すまないな」  小山はGODカードを持つと、そのままドアへ向かい、外へ出て行った。     5  駅前まで、ゆっくり歩いてもせいぜい往復十五分もかからない距離だったが、小山が戻って来たのは小一時間もしてからであった。 「どうだった」  神崎は小山が帰って来ると待ちかねたように尋ねた。 「それが、変な具合なんですよ」  小山はそれでなくても大きい目玉を一層大きくして答えた。神崎以外に、小山の長い中座を気にしている者はいないようであった。 「変と言うと……」 「友達はこのカードについて何も知識は持っていないようでした」  小山はそう言ってカードを神崎に返した。 「でも、念の為ほかの人に訊いて見てくれと頼んだんです」 「それで……」  神崎はカードを紙入れに戻しながら言った。 「友達はそいつを持って奥のほうへ行きました。銀行ですからカウンターの向こう側の様子は丸見えなわけです」 「うん」 「奥のほうの年配の人の所へ持って行って訊いてましたが、だんだんその席へ人が集まってしまって」 「人が集まるというと……」 「あの支店のおもだった連中が次から次へと。何か大げさな感じなんですよ。そのうち支店長がこっちへやって来て、まあ中へどうぞというわけで、貸付係の横にある応接間へ入れられちゃったんです」 「そいつは迷惑を掛けたな」 「いいえ、下へも置かないもてなしなんですよ。すぐにコーヒーを出してくれて。僕はあそこに預金なんかあるわけはないし、銀行があんなことするなんてはじめてです。で、神崎さんのことをいろいろ訊かれてしまいました」 「俺のことを訊いてた……」 「ええ。支店長じきじきで、それも調べると言うより、何かこう」  小山はちょっと言葉を探すようにしてから、 「恐る恐ると言う感じなんです」  と言った。 「恐る恐る……俺のことをかい」  神崎は苦笑しながら尋ねた。 「ええ」  小山は丸い目で神崎をみつめて頷《うなず》く。 「どうなってるんだ」 「その間に何か上のほうと連絡を取っているみたいでした」 「上のほうって……」 「さあ。本店じゃありませんか」 「で、カードの正体は結局何だったんだ」 「僕の友達みたいな下っ端は知らないようでしたけれど、どうもあの支店長は知っていたようです。よく判らないけれど、とにかくそのカードは安手の暴力団が扱っているような物じゃなさそうです。何か特別なカードじゃありませんかね」 「支店長は何と言ったんだい」 「ああいう人達は要点をそらして話すのが上手《じようず》で、旨《うま》く聞き出せなかったんですけれど、とにかく近い内ご本人にお目に掛りたいから、よろしくお伝えくださいって」 「俺に……銀行の支店長が……」 「ええ。別に悪いことではないようです。とにかく、それを持って行った僕までVIP扱いでしたからね」 「何だか知らないが、どっちにしたって厄介な話だよ」  神崎は要領を得ぬままそうつぶやいた。 「とにかく、心配はないようです」  小山はばかに力をいれてそう言うと、自分の席へ戻って行った。正直な男だから、銀行で訊き出したことを隠している筈はなく、ただ悪いことではないという印象を強く受けたので、その通りに神崎へ伝えたのだろう。 「なあ吉川」  神崎は席を立つと、熱心に図面を引いている同僚のそばへ寄って言った。 「ん……」  吉川は下を向いたまま応じる。 「金曜の晩のことだけどな」  すると吉川は手をとめて振り返った。 「来たな」 「来たなって、どういう意味だ」  吉川は頭を掻《か》いて見せる。 「悪かったよ。でも、あそこまで行ったら、突然|西荻窪《にしおぎくぼ》の店のことを思い出しちゃったんだ。だいぶ酔ってたんだな。勘弁しろよ」 「西荻の店って……」 「学生時代によく行ってた小さな飲み屋さ。すっかり忘れてたのに、あそこでなぜか急に思い出して、君を置いて行ってしまったのさ。そっちはあのあとどうした」 「どうもこうもないよ。何かあっちこっち一人で飲み歩いたようだったけれど、気が付いたら伊東にいたよ」 「伊東って……」 「伊豆の伊東さ」 「まさか」 「本当だ。車を飛ばして伊東まで行っちまったらしい」 「そいつはひでえもんだな」  吉川は呆れ顔で神崎をみつめた。 「何だか知らないけど、あの晩はおかしな調子だった。もう当分酒はよすよ。と言っても、実行できるかどうか判らないけどな」 「金、どうした」 「何とか間に合った」 「持ってたのか」  問い詰められたが、神崎はGODカードのことを説明するのが億劫《おつくう》で、あいまいに濁した。     6  午後六時。  神崎は目黒から新宿へ向かった。光子に会った酒場を探す気なのだが、余り遅くなるつもりはなかった。これ以上、GODカードなどという妙なものに深入りする気にはなれず、早く縁を切ってさっぱりとしたかった。  ところが、三光町の交差点を渡って、たしかこの辺だったと見当をつけて歩きまわっても、それらしい店はいっこうに発見できなかった。  そこは以前都電が角筈《つのはず》から出て右折し、新宿三丁目から四谷《よつや》へ向かっていた道と明治通りにはさまれた一画で、隅《すみ》から隅まで探し廻ってもそう大した広さではなかった。  神崎は念を入れて、どんな細い通りへも入り込んで丁寧に探した。しかし、どうしてもそれらしい店に出食わさないのだ。  あれは夢の中の出来事だったのだろうか。  神崎は、しまいに本気でそう疑い出した。酔って異次元へ入り込んでしまったのでは……。そんな飛躍した考え方になるのも、夜の新宿の錯綜《さくそう》した雰囲気《ふんいき》のせいだったのだろうか。  たしかに、新宿という町は一種の魔力を備えた町である。歩くにつれ明暗の変化は予測しがたく、いま明るく清潔な店構えがあったかと思えば、そのすぐ横に鬼の棲家《すみか》のような得体《えたい》の知れぬ店がドアをとざして静かに誰かを待っているのだ。  七時、七時半、八時。  神崎は歩き疲れ、居心地のよさそうな小さな喫茶店を見つけると、そのドアを押して中へ入った。  椅子もテーブルもまるで玩具《がんぐ》のように小さく、壁は節《ふし》だらけの松の板だった。 「コーヒー」  黒のタイト・スカートに白いブラウスを着た若い女がおしぼりと水を運んで来ると、神崎はそう言ってひと息ついた。 「ホット……」 「うん」  女が去り、それを何気なく見送っていると、ドアがあいて背の低い男がニヤニヤしながら入って来た。 「よう」  女に顎《あご》をしゃくって見せている。常連のように思えた。その男が近寄って来たので神崎が目をそらすと、男は小さなテーブルを両手でひょいと動かして、神崎のとなりに坐った。 「やあ」  と声を掛けて来た。  神崎はその男をまじまじとみつめた。男の顔は意外な近さで神崎をみつめ返している。 「あ……」  神崎は口をあけた。 「憶えてくれていましたね」  男はなれなれしく笑った。それはあの時の記憶の中にあった顔だった。何か愚にもつかない議論を大声でやり合った男の顔である。 「この間はだいぶご機嫌《けげん》でしたね」  そう言われた途端、神崎は得体の知れぬ嫌悪感《けんおかん》にとらわれて思わず男から目をそむけた。 「神崎さんでしたね」  男はおかまいなしになれなれしく続ける。 「あの晩はおかげで僕も愉快でした。気の合う人というのはいるものですなあ」 「よく憶えていないんです」  神崎は今にも反吐《へど》が出そうな激しい嫌悪感の中で、辛うじてそう答えた。いったい何がそんなに嫌《いや》なのか、自分でもよく判らなかった。 「失……失礼しませんでしたか」  神崎は吐気《はきけ》をこらえて尋ねた。どんなに嫌《きら》いな相手に会っても、今まで本当に反吐が出そうな気分に陥ったことは一度もなかった。 「別に」  男は不思議そうに言った。 「とても愉快に過しましたよ」 「どんな話をしました……」 「僕らが、ですか」 「ええ」 「いろいろですよ」  男は笑った。 「そりゃ、いろいろなことを話しましたよ。人生について、女について、豊かさについて、美しさについて」 「どこでそれを……」 「おやおや、これは恐れ入った」  男は大げさに驚いて見せた。女が注文したコーヒーを運んで来て神崎の前の小さなテーブルに置いた。  声も仕草も顔つきも、すべてが気に入らなかった。神崎は不快さを必死にこらえながら、コーヒーに砂糖を入れた。手が震えていて、グラニュー糖の細かい粒がスプーンからこぼれ落ち、テーブルの上で踊った。 「こちら、何も憶えてはいらっしゃらない」  嘲《あざ》けるような調子だった。 「酔っていたんだ」 「怒っちゃ困るな。僕はあんたと気が合うんだ。これからいい友達になれると思って……」  男は尻《しり》をずらせてすり寄って来た。 「よせ」  神崎は大声を出した。 「そんなに嫌わないでよ」  男は妙な品《しな》を作って低声《こごえ》で言った。 「寄るな」  神崎は我を忘れてその男を強く突き離した。男は重心を失い、椅子からころげ落ちそうになって小さなテーブルにしがみついた。テーブルが傾き、上にのせてあった砂糖壺《さとうつぼ》や灰皿が、床に落ちて派手な音をたてた。 「やめてください」  女がとんで来てきつい声で言った。 「やれやれ、また振られたみたい」  男は体裁《ていさい》をつくろいながら起きあがり、倒したテーブルを元に戻すと、床に落ちた灰皿や砂糖壺を拾うために、神崎に背を向けて上体を折った。  神崎は、わざとらしく自分のほうへ突き出されたその小男の尻を見て目を疑った。  尻《し》っ尾《ぽ》が生えている。  まさか……。  だが、何度目をしばたたいて見ても、丸っこいズボンの尻の真ん中から、尻っ尾がとび出しているのだった。  さっきから神崎が味わっていた嫌悪感の源は、そのいやらしい尻っ尾だったのだ。  それは根元のところで、足の拇指《おやゆび》くらいの太さがあった。黒光りして、いかにも強靭《きようじん》な感じだった。太さと強靭さの為に、尻から突き出して一度持ちあがり気味になり、下へたれさがっていた。  一番下では手の小指くらいの太さになり、先端は平たい三角形になっていた。物を拾いあげる為に上体を折って尻を突き出していると、その尻っ尾はまるで地の底を示す矢印のように見えた。 「あっちへ行け」  堪《たま》りかねて神崎はその尻を思い切り靴の底で突きとばした。小男は見事に一回転して狭い通路に倒れた。 「何するのよ」  女が怒って黄色い声をあげた。 「喧嘩《けんか》なら外でやって」  神崎は千円札を一枚テーブルの上へ貼《は》りつけるように置くと立ちあがった。 「そいつはここの常連か」  女に訊いた。 「知らないわ。どっちもはじめてよ。そんなことより、早く出て行って」  女は店を守るのに必死なようだった。しかし神崎は、自分だけが悪く思われるのが心外で、起きあがろうとしている男を指さして言った。 「そいつこそ追い出すべきだ。そのいやらしい尻っ尾を見ろ。誰だって追い払いたくなるぞ」  女は起きあがる小男に目をやり、すぐ神崎に視線を戻した。 「尻っ尾ですって……」 「ああ、君はよく平気でいられるね」 「何言ってるの。人間に尻っ尾なんてある筈がないでしょ。早く出て行ってよ。気違い」 「何だと」  神崎は言い返そうと小男がぶらさげている尻っ尾を眺め、それから女の顔に目を移した。 「あの尻っ尾……」  男を指さして口ごもった。女の表情は真剣で、嘘《うそ》などついてはいなかった。 「見えないのか……」 「何が」 「尻っ尾」 「帰って。帰って頂戴」  女は憤って神崎を押し出した。 「見えないのか、君には」  ドアの外へ押し出されながら神崎は喚《わめ》いた。そのうしろで、小男の笑い声がしていた。  外へ出ても、身震いするほどの嫌悪感は去らなかった。神崎はどうにも抑えようのない怒りに足を竦《すく》ませて店の前に立っていた。  すると、小男も女に追い出されて来た。 「やるなら外でやって」  小男はその声を背に受けて神崎の正面に立った。ニヤリといやらしく笑う。 「誰にも尻っ尾など見えはしないのさ」  挑発《ちようはつ》するように、先のとがった黒い鞭《むち》のような尾を、ひくひくと動かして見せた。 「どういう人間なんだ、お前は」 「そういうお前こそ、自分が何者だか判っているのか」 「糞《くそ》」  神崎は怒りにまかせて小男に掴《つか》みかかろうとした。すると突然うしろからそれを羽交《はが》い締《じ》めにして、 「よしなさい。警官が来るから」  と強くとめた者がいた。小男はその隙《すき》に素早く右のほうへ走って姿を消してしまった。 「よしなさいよ」  背後の男は力をゆるめ、なだめるように言った。 「おかまと喧嘩なんかしちゃ見っともないですよ」  中年の、人の好さそうな男だった。     7 「おかまに尻っ尾が生えていちゃ失業しますよ」  中年の男は歩きながら笑った。  神崎からあの抑えようのなかった怒りが急速に去りはじめていた。 「たしかに生えていたんだ」 「まだそんなこと言って」  中年の男はまた笑った。見るからにうらぶれた男だった。 「でも、気を付けてくださいよ。新宿は変な連中が多いから」 「すみません」  興奮のさめはじめた神崎は素直に頭をさげた。当てもなく歩き出しているのだ。  たしかに、尻っ尾の生えた人間など、考えて見ればいる筈はなかった。 「あんた、マリワナか何かやってるんじゃないですか」 「とんでもない」 「変ですよ、尻っ尾を見たなんて。ベルトか何かがぶらさがっていたんでしょう」  中年男は親切だったが、なぜか駅のほうへ歩く神崎から離れようとしなかった。 「そうですね。尻っ尾があるなんて言い出したら、誰だって気違いだと思いますね」  決して納得《なつとく》したわけではなかったが、神崎はそれが異常すぎる事であったのを悟りはじめていた。 「あのおかまをわたしも見たけれど、尻っ尾なんか」  中年男はまたクスクス笑った。 「あいつがおかまだと、どうして判るんですか」 「そりゃあんた、わたしは新宿に長くいるもの」 「詳しいんですか」 「自慢じゃないけれどね」 「じゃ、知ってたら教えてくれませんか。実は僕、人を探していたんです」 「ほう、尋ね人ね」  中年男は急に尊大な態度を示した。 「女なんです」 「幾つ位い……」 「よく判らないんだけれど、二十四、五よりは上で、三十よりは下という感じです」 「この辺りの人……」 「たしかここらで会った筈なんです」 「いつ……」 「先週の金曜日」 「じゃ、まだ日がたっていないわけだ。で、名前は」 「光子」 「光子ねえ」 「何かこう、ガランとした場所で会ったんですよ」  すると中年男は足をとめた。 「先週の金曜。ガランとした場所ね」 「ええ。ひどく酔ってて、ひょっとすると迷惑をかけたかも知れないんだけれど、場所がよく思い出せないんです。どんな店だったか」  すると中年男はニヤニヤした。 「そいつは探しても見つからないな。だって、店じゃないから」 「店じゃない……」 「そう。多分間違いないでしょうよ。その光子ならよく知ってます。ついていらっしゃい」  男は歩き出し、神崎を映画館の裏の通りへ連れ込んだ。 「あんたが店だと思ったのは、多分この劇場のことでしょうよ」  男はうす暗い場所で立ちどまり、地下へおりる階段を指さして言った。 「ここの芝居が金曜で終ったんです。金曜の夜遅く、劇団の連中がウイスキーを持ち込んで打ちあげをやってましたからね」 「光子という女性は……」 「ええ、劇団の子です。この小屋、今は休んでますが、水曜から次の芝居をはじめるんです。光子なら下で稽古《けいこ》してる筈ですよ」  男は先に立って階段をおりて行った。神崎もそのあとについて行く。文字通り、そこはアングラの劇場だった。  ガランとしていて、やけに明るかった。  そして小さな舞台の中央に、白い寛衣を着た女が一人だけ、正面を向いて立っていた。 「神よ、来たれ」  女の声が、ガランとした客席に響いた。  光子であった。 [#改ページ]   目覚し時計の秘密     1  劇場の名は、ひかり座、と言った。  その舞台の中央にスポット・ライトを浴びて立っている女は、たしかにあの晩の記憶にある光子という女であった。 「キトン。キトンと言うんですよ、あの子が今着ている奴《やつ》は。古代ギリシャの着物なんだそうで」  貧相な中年男が、人のいない客席のまん中に突っ立っている神崎にささやいた。 「神よ、来たれ」  狭くて薄汚れた劇場であったが、光子の声は程よく反響し、荘重な感じをよくあらわしていた。  純白の寛衣を着ている。肩に金色の留《と》め金具がついていて、腰に結んだ赤い紐《ひも》の端が、床《ゆか》に触れんばかりにたれさがっている。  この前の夜の記憶は光子の顔だけだったが、いま神崎は醒《さ》めた頭で、光子の姿全部を頭の中に叩《たた》き込んでいた。  長く伸ばした柔らかそうな髪は、強い光の中で褐色《かつしよく》に見えた。肌《はだ》は白く肌理《きめ》がこまかそうだった。寛衣の外にむきだしになった両腕は、すらりとしなやかで、しかもふっくらと肉付いていた。 「いいよ とってもいい」  突然男の声が空洞《くうどう》のようなその劇場《こや》いっぱいに響き渡ると、スポット・ライトが急に消えた。強い光を浴びた純白の寛衣を見つめていた神崎の網膜に、その残像だけが浮んで、あとは何も見えなくなった。  一瞬の暗黒ののち、客席の灯《あか》りがともった。何もかも黄色っぽく感じられた。  いつの間にか神崎のそばにいた筈《はず》の中年男が舞台のすぐ下に行っていて、 「綺麗《きれい》だよ。その衣裳《いしよう》を着ると、女神のように見える」  と光子に語りかけていた。 「そう。どうも有難う」  光子は軽く答えたが、顔は神崎に向けられていた。  神崎は微笑した。なぜかひどく懐かしい相手であるような気がした。光子も微笑を泛《うか》べて何か言いかけたようだった。  とたんにまた、空洞のような劇場《こや》いっぱいに音楽が響き渡った。三波春夫のチャンチキおけさだった。光子は寛衣の裾《すそ》を左手で把《つま》みあげると、舞台の左端へまわって、そこについている三段ほどの梯子《はしご》を使って客席へおりて来た。  チャンチキおけさが突然|止《や》み、劇場の中はまた静まり返った。 「いらっしゃい」  光子は神崎に言った。 「どうも」  神崎は会釈《えしやく》し、 「会えてよかった」  と言った。 「あら……」  どういう意味かというように、光子は小首を傾《かし》げた。 「随分酔っぱらっていたでしょう」  神崎が言うと、光子はちょっとためらってから、 「そうね」  と微笑を更に大きくした。 「お邪魔じゃない……」 「いいのよ」  光子は裾を把んだ手をちょっとあげて見せ、寛衣を示した。 「衣裳合わせだけだから」  神崎は頷《うなず》き、 「実は、この間の夜のことを訊きに来たんだけど」  と言った。 「やだ、全然記憶なし……」  光子はからかうような様子だった。 「滅多にやらないんだけど、この間の晩は完全に記憶喪失さ。いやになっちゃう」 「お気の毒さま。でも、少なくともここでは何もしなかったわ」  安心しろ、と言うように光子は笑いながら近くの椅子に腰をおろした。舞台衣裳を汚さないように、その裾を両手でひとまとめにし、膝の上あたりでおさえていた。 「あの晩は打ちあげだったの」  光子は客席を見廻し、 「みんなで、ここで飲んだり喋《しやべ》ったりしてたら、あなたがふらふらっと入って来たの。ご機嫌だったわ。やあ、こんなところで飲んでるのか、なんて言っちゃってね。封を切ってない角瓶《かくびん》を一本ぶらさげてたし、みんな誰かの友達が差し入れに来てくれたんだろうと思って……あれは誰だったかしらね。とにかく誰かが、差し入れだ差し入れだと言ってそのウイスキーをいただいちゃって、すぐ紙コップで飲みはじめちゃったのよ。あなたも仲良くやってたわ」 「僕が角瓶を持って来た……」 「ええそうよ」 「なぜだろう」  光子はじっと神崎をみつめた。神崎は光子のひとつ前の席へ行って、体をうしろへねじ曲げて坐った。 「ちゃんと箱に入ってたわよ。家《うち》へ帰って飲むつもりだったんじゃない……」 「どうかな。全然憶えてない」 「それがおかしいのよね。みんなでワアワアやってると、あなたったら、いつの間にか舞台の上へあがって丸くなっちゃってるの」 「丸く……」 「そうよ。舞台のまん中へ腰をおろしちゃって、両手で両方の膝っ小僧をしっかりかかえ込んじゃってね」 「あいつ眠っちゃったんじゃないか、ってみんな笑ったけど、ほんとにそうやって身動きひとつしないの。かなり長いことそうやってたみたい。でも、あたしたちもご機嫌だったし、あんまり気にしなかった」 「眠っちゃったのかな」 「眠ってるんじゃなかったみたい。神崎さんあなたは……」 「ちょっと待ってくれないか」 「え……」 「神崎って……」 「ああ、だって自己紹介したもの。僕、神崎です、って、何度もあたしと握手したのよ」  光子はその時の様子を思い出したらしく、笑った。 「三、四分置きぐらいによ。みんなのところをひと廻りするたび、僕、神崎ですって。今さっき言ったのにすぐ忘れちゃうみたい。だからあたし、ああこの人酔ってるんだなって思った」  光子は神崎の顔から目をそらさずに言った。     2 「大道具が出しっぱなしになってたのよ。いつもはすぐ引っ込めるんだけど、最後《らく》の晩だったからその儘《まま》にしといたの。さあ引上げようか、って、みんなで舞台へあがって片付けはじめても、あなたったらまだそのまんま」  光子は声をあげて笑った。いつの間にか中年男が通路をはさんだすぐそばの椅子に坐っていて、光子の笑いに釣り込まれてニヤニヤした。 「あなたって、子供の頃叱られたりした時、椅子《いす》の下かどこかへもぐり込んであんな風にしてた子じゃないかしらね。そんなみたいだったわよ」  神崎は首に手を当てて苦笑した。 「邪魔をしちゃったわけだな」 「気にしないでいいのよ。あたしだってベロベロになったことくらいあるから知ってるけど、そんな風に訳が判らなくなるほど酔っぱらったあとって、何かしでかしたんじゃないかって不安で堪《たま》らないのよね。でも大丈夫。ちょっとユーモラスだっただけだわ」 「それならいいんだけど」  神崎は伊東の朝を思い出し、光子がなぐさめてくれるほど軽い出来事ではないのだと思った。  だが光子に会ったことは神崎の心に明るさをもたらしていた。光子は美しく、屈託がなかった。 「どんな芝居をやっていたの……」  神崎は伊東の朝からはじまった得体《えたい》の知れないことへの不安を忘れようと話題を変えた。この劇場で光子と会ってからのことを喋りはじめれば、いや応なくあの不安な感情へ沈み込んでしまわなければならなくなると思ったのだ。 「髷《まげ》ものよ」  光子は相変らずにこやかな顔で言った。 「母もの時代劇ってところね」  中年男のほうへちらりと視線を送って言う。 「へえ、そんなのもやるの」 「どうせうちの劇団が演《や》るんだから」  世間一般の母ものと思ってくれるな、と言いたげだった。 「見たかったな」 「赤ん坊を捨てる話よ。駅のコイン・ロッカーなんかでよく起る事件……あれを時代劇にして見せたと思えば間違いないわ。最後に本物の赤ん坊を舞台へ出して泣かせちゃうの。ちょうどいい具合に、一人子持ちがいるのよ。未婚の母だけどね。その子がお婆《ばあ》さん役になって、最後の場で湖へ捨てちゃおうかどうしようか迷うんだけど、その時赤ちゃんを本当にヒイヒイ泣かせちゃうの。赤ちゃんが可哀そうみたいだけど、彼女の子だから平気なもんよ。満一歳で初舞台を踏んだって威張ってるわ」 「湖へ捨てるって……湖が出て来るのかい」  神崎は舞台を見て眉《まゆ》を寄せた。 「そう。小さな湖が緑の丘に囲まれてるの。あなたが膝小僧を抱えて坐り込んじゃったのは、その書き割りの前よ」 「何だって……」  神崎は顔色を変えた。 「どうしたの」 「緑の丘に囲まれた小さな湖と言ったね」 「そう」  神崎は凝然《ぎようぜん》と空《から》っぽの舞台を見ていた。 「それがどうかしたの」 「いや」  神崎は我に返った。 「あの晩そういう夢を見た」  すると光子はまた声をあげて笑った。 「緑の丘に囲まれた湖のそばにいる夢……」 「泳いでたような気もする」 「よく風邪《かぜ》を引かなかったわね」  光子は立ちあがった。 「ちょっと……」  ちょっと、のあと何か続けて言ったのだが、よく聞きとれなかった。  さっきのチャンチキおけさと同じように、唐突にプレスリーのGIブルースが、曲の途中から劇場の壁を震わさんばかりに鳴り響いたのである。  光子は梯子段を登って舞台へあがり、上手《かみて》へ引っ込んだ。 「煙草《たばこ》持ってますか」  中年男がそのGIブルースに負けないように大声で言った。神崎はハイライトの袋をポケットから出し、軽く振って一本飛び出させると、黙って袋を男へ差し出した。  男は卑屈な態度で左手を二度ほど手刀《てがたな》を切るように振ると、煙草を抜き取り、自分が持っていたマッチで火をつけた。  急に音楽がやむ。音が大きいだけに、何か刃物で叩き切ったような感じだった。 「何をやってるんだろう」  神崎はスピーカーを探して天井を眺めた。 「次の公演で使う音でしょう」  中年男がしたり顔で言った。  閑《ひま》そうな様子だった。することがない儘《まま》町をふらつき、自分がかかわり合えることがあれば、何でもいいから飛びついて行くようなタイプに思えた。 「どういう仕事をしているんです」  神崎は男に訊いた。光子がすぐ戻って来るようなのだ。ちょっと待っててね、と言われたような気がしている。 「いろいろです」  男は旨《うま》そうに煙を吐き出し、煙草の先をいとしげにみつめて答えた。煙草を吸うのが久しぶりのような感じだ。  ひょっとしたらルンペンなのではないかと、神崎は改めて警戒気味に男を観察した。上着にシャツにズボンに靴。みな古びているが、そうよれよれというわけでもない。ネクタイはしておらず、濃い青の薄手のスカーフを首に巻いて、それをシャツの下へおし込んでいた。 「職業は、って訊かれたら、新宿業って答えるより仕方ないですね。他に言い方がないから。とにかく、新宿のことなら何だって判るし、まあそれだけにいろいろと人さまに頼られたりするわけです」  男は怪しげなことを言って、結構神崎を煙に巻いた気でいるらしかった。  また突然チャンチキおけさが始まり、一小節ほどでGIブルースに変ってすぐやんだ。 「テープをつないでるんです」  男はそう言って訳知り顔に頷いた。  カッカッと靴の音がして、左側の通路のほうから光子がやって来た。裾の開いたデニムのスカートに白いハイネックのセーターを着て、その上にスカートと同じ生地で作ったベストをつけていた。 「おお、神よ……」  今度の芝居の台詞《せりふ》のひとつだろう。 「この憐《あわ》れな小羊を駅までお送りください」  よく響く声で朗々と言った。  神崎は立ちあがり、笑顔で頷いて見せた。     3  神崎は光子と外へ出た。中年男もついて来る。 「残念だけど今日は早く帰らなければならないの」  神崎に言うというよりは、自分に言い聞かせているような喋《しやべ》り方であった。 「また会いたいな」 「そうね」  肩を並べて歩きながら光子はそう答えた。同時に二人の手が軽く触れて離れた。光子がわざとしたような感じだった。 「独身……」  光子がからかうように訊く。 「当然」 「でしょうね」  はじめから神崎をまだ独り者だと見抜いていたようだ。 「背景のこと、なんで気になるの」 「背景……」 「緑の丘に囲まれた湖のこと」 「ああ。夢に見たような気がしたからさ。夢の中で見たものに、本当に会ってしまったような変な気分なのさ」 「そういうことって、よくあるわね。あたしも、絶対に間違いなく生まれてはじめての場所だって判ってるのに、以前来てよく知ってる場所のように感じてしまうことがあるわ。ごくまれだけど」 「ただ妙な気分だけじゃなくて、とっても不安なんだよ。でも何が不安なのかよく判らない」 「気にすることはないわ。あそこへ紛《まぎ》れ込んでるうち、睡《ねむ》くなっちゃって舞台のまん中で坐り込んだだけよ。その時の記憶をあとで夢の中のことのように思い出しただけだわ」 「そうだろうな」 「お互いに、お酒で失敗しないように気を付けねば」  光子はもう随分古い付合いになってしまったような口のきき方をして、それが神崎にはひどくうれしかった。 「神崎順一郎」  神崎は改めて名乗った。 「あら、まだ握手する気」  光子はふざけて言い、右手を出した。歩きながら握手をする。 「松田光子」  光子も正式に名乗った。 「変な名だと思わない……」 「どうして」 「松田光子。マツダは光の神のことよ。アフラ・マツダ。光子は光の子でしょ。栄光に包まれてキラキラ輝いてるの」  光子はそう言って笑い、ふとうしろを見て、 「それにしちゃみすぼらしいお供ね」  とつぶやいた。 「誰なの、あれは」 「サンドイッチマン。名前は知らないの。サンドイッチマンと言ったって、その仕事があればの話よ。随分昔からやってるそうだけど、要するに新宿にへばりついてるチューインガムのかすよ」 「ひどい言い方だな」 「だってそうなんですもの。みんなイッちゃんて呼んでるけど、好いてはいないのよ」 「イッちゃん」 「サンドイッチのイッちゃんよ。本当の名前を言わないの。何かって言うと勿体《もつたい》つけちゃって、自分のことだってさもいわくありげにするわけよ。それでいて、ちょっといい顔を見せると徹底的にへばりついて来るの。気を付けないと損するわよ」 「へえ……」  神崎が振り返ると、光子も振り向いて立ちどまった。 「どこまでついて来る気。帰りなさいよ」  イッちゃんはニヤニヤしている。 「帰りなさいったら」  光子は強い声で言った。 「あんたじゃないよ。神崎さんにくっついてるんだ」  イッちゃんには一種の人徳のようなものがあるらしくて、図々《ずうずう》しい筈なのに少しもそのようには見えず、尾を振って無邪気について来る小犬のような感じだった。 「俺に……」 「そう神崎さんに」  イッちゃんは名前を憶えてしまっていて、それが神崎には少し不快だった。 「用はないよ」 「こっちにある」 「どんなことだい」 「案内料をもらいたいんだ」 「案内料……」 「彼女の居場所を教えたよ。それに喧嘩もとめてやったし」  神崎は内ポケットへ手を入れて紙入れを出そうとした。 「よしなさいよ」  光子はとめたが、神崎は千円札の一枚くらいやってもかまわないと思った。 「ほら」  神崎は紙入れをあけて千円札を一枚出すとイッちゃんに渡した。イッちゃんが素早くそれを受取った時、紙入れの中にしまってあったGODカードが滑って舗道の上に落ちた。  神崎が腰をかがめようとした瞬間、イッちゃんはさっとそれを拾いあげると急に来たほうへ走り去った。 「大変。何か奪《と》られたわよ」  光子があわてて言ったが、神崎は追わなかった。 「どうしたのよ。大切な物じゃなかったの」 「いいんだ、あんな物」  それが本物の効力を持つカードで、イッちゃんに勝手に使われたらと思うと不安だったが、こういう形であの妙なカードと縁が切れるならそれでもいいと思った。 「行こう」  神崎は光子の肩に軽く手を置くと、駅のほうへ歩き出した。 「本当に大丈夫……」 「平気さ」 「それならいいけど」 「どこまで帰るの」 「京王線で」 「送って行きたいな。悪漢に襲われるといけないし」  神崎はふざけたような言い方で、光子の同意を求めた。 「送って。悪漢こわい」  光子は神崎の腕に手を廻して来た。 「心配要らないよ。正義の味方がついているから」  二人は何と言うことなしに笑い合った。     4  新宿からそう遠くない駅だった。  神崎は電車の中で、自分のことをかなり詳しく光子に教えた。家の場所、家族、父の職業、卒業した大学、今の職業。結婚話が持ちあがっていることまで、包みかくさず喋《しやべ》った。  光子がそれを知りたがったようだったからである。 「神崎さんて、どういう人」  電車に乗る少し前、光子がさり気なくそう言ったのだ。神崎は光子が自分に好意を抱いたのを感じていた。  その駅を出ると、二人は商店街を抜けてうす暗い住宅街へ入った。 「石の塀《へい》のコンクールみたいだな」  神崎がその道の途中で言ったように、さまざまに趣向を凝《こ》らした石の塀で囲まれた立派な家々が並ぶ高級住宅街であった。 「建築屋さんだけに気になるのね」  光子が感心したように言う。 「近いうちに自分の家を設計させられるかも知れないんだ」 「どこに……」 「今住んでいる場所さ。親父が改築するって言い出してるのさ」 「すてきじゃない。自分たちの家を自分で設計するなんて」 「でも、大した予算は組めないだろうな。こんな塀は凄《すご》く高くつくんだぜ」  神崎は右側の石塀を示して言いながら、男と女の縁なんてはじめはどういう形を取るのか予測もできないものなのだな、と思った。なんとなく、松田光子と自分は長く付合うことになりそうな気がしているのだ。 「あの教会の角を曲ったところよ」  光子が左前方を指さして言った。大きなヒマラヤ杉が二本あって、十字のしるしを門灯《もんとう》で浮きあがらせた入口が見えていた。 「洒落《しやれ》た教会があるんだな」  木造で、全体を濃い緑色で塗った、小ぢんまりとした教会だった。 「あら、何してるのかしら」  光子がちょっと小走りになってヒマラヤ杉の所まで行き、すぐ立止まって上を見あげた。  教会は二階建てだが、入口の部分が時計台のような感じで三階分ほどの高さに上へ突き出していて、とがった屋根の上に十字架が飾ってあった。  それはかなりの大きさの十字架で、多分金属製なのだろう、しっかりと屋根に固定されているらしかった。  と言うのは、光子が驚いて指さすように、その十字架に一人の男がしがみついていたからである。がっしり作ってなければそんなことはできまい。 「いったいあんな所で何をしているんだ」  神崎も光子と並んで見あげ、呆《あき》れてそう言った。  静かな夜の住宅街の教会のてっぺんにある十字架に、大人《おとな》がよじ登っているのだ。  するとその男が、上から二人へおいでおいでをして、 「ケ、ケ、ケ、ケ……」  と烏《からす》の啼《な》くような笑い声をあげた。 「おりなさい。何してるのよ」  光子が叱った。芝居をやるだけに、しっかりとよくとおる声であった。 「あ、畜生。あいつだ」  神崎が叫んだ。新宿で近寄って来たいやらしい小男であった。夜空を背景に、小男のシルエットが黒々と見えていた。あの尻っ尾がいやらしい程の強靭《きようじん》さを示して、教会の屋根へたれさがっていた。先端が矢切形の三角で、それがゆらゆらと揺れていた。 「誰……知ってる人……」  その尻っ尾がなかったら、神崎にもあの小男だとは判らなかったろう。光子は夜空をすかして見るように、屋根の上の十字架によじ登っている男を見た。 「おりて来い」  来おい……と長く伸ばして神崎は喚いた。 「そんな所へあがっていると承知しないぞ」  光子も一緒になって叫んだ。 「おりなさいよ。神父さあん、大変ですよお……」  教会の入口のドアのガラスが明るくなり、ガタンと戸があいて、黒衣の神父がいやにくっきりと白いカラーを浮きあがらせて出て来た。 「いったい何事です」 「神父さん、ほら」  光子が上を指さして言った。神父は屋根を振り仰いだが近すぎてよく見えないらしく、入口から道路へあとずさって出て来た。 「あ、こら、誰だ。そんなところで何をしている」 「降りろ、こん畜生」  神崎は凶暴な怒りに駆られ、教会の植込みへ駆け込んだ。 「ケ、ケ、ケ、ケ……」  小男はまた笑った。 「神よ、来たれ」  黄色い声で言う。  神崎は小石を拾って道へ戻り、 「悪魔め」  と呶鳴《どな》ると、力まかせにそれを投げた。  カキーンと十字架に当る音がした。 「やめてください。あれに石を投げては困ります」  神父が言った。外人だが流暢《りゆうちよう》な日本語であった。  もう石はなかったが、神崎は持っているふりをして投げる構えをして見せた。すると小男は素早く十字架からおり、二階建ての屋根へ飛び移った。裏のほうへガタガタと音を立てて逃げて行く。 「待て」  神崎は追いはじめた。小男は驚くべき身軽さで、屋根から教会の塀へ飛び移ったかと思うと、すぐ横の道へ飛び降りて走り去る。 「待て」  神崎は疾走《しつそう》した。どうしてもその小男をとっつかまえなければ気がすまなかった。うしろで光子が何か叫んでいたようだが、おかまいなしに小男を追いかけた。  小男はその先の角を曲って姿を消す。懸命に追って神崎も曲ると、出会いがしらにやって来た乗用車が、警笛を鳴らして激しくブレーキの音をたてさせた。  小男は点々と並んだ街灯の列の下を、かなりのスピードで逃げている。神崎はいっそう速度を加えてそれを追いかけた。  なぜそんなに夢中で追うのか、よく判らなかった。     5  光子の劇団は水曜日から、またひかり座で新しい芝居をやることになっているらしい。だから、小男を追いかけたまま光子とはぐれてしまっても、会うのはたやすいようだった。  あのいやらしい小男を結局は見失い、かなり時間がたってから教会の所へ戻ると、もう光子も神父も姿を消していた。神崎もそれは予測していたから、大してがっかりもせず、駅前からタクシーを拾って家へ戻ったのだった。  たしかに尻っ尾が生えていた。  神崎は何度となく自分にそう言い聞かせた。決して錯覚《さつかく》ではない。しかし、光子が同じようにそれを見たかどうか、はっきりしなかった。  作りものの尻っ尾ではない。あれはたしかに生きていた。生きている尻っ尾だ。神崎はそのなまなましさ、いやらしさを思い返すたび、確信を深めるのだった。  だが、確信が深まれば深まる程、有尾の人間が実在することに、あやふやな気持を抱かざるを得なくなった。  有尾人がいたら……それがのこのこと新宿の繁華街を歩き廻っていたりしたら、今まで世間が黙っているわけがない。間違いなく新聞や週刊誌をにぎわし、テレビに引っぱり出されている。  だが誰も新宿の有尾人について、何も言っていない。現にあの小さな喫茶店の女だって、尻っ尾など見えないと主張していたではないか。  自分にだけ見えて、他人には見えないのか。  なぜ自分はあの小男を見ると狂暴になってしまうのか。いくらいやらしくても、あんなに怒る必要がどこにあるというのだ。  まるで病気にかかってしまったようだと、その夜眠りに落ちる前、神崎は自分を嗤《わら》っていた。  そして翌朝出勤すると、神崎がろくに自分のデスクで落ち着きもせぬ内、二人の男が訪ねて来た。 「やあどうもどうも。今日はまたこんなに早くに何のご用ですか」  所長の石川はそう言って二人を出迎えたが、すぐ怪訝《けげん》な表情で振り返り、 「神崎君……」  と言った。神崎にそれが聞こえ、 「はい」  と言って立ちあがる。 「君にご用だそうだ」  石川はそう告げ、 「じゃ、どうぞあちらへ」  と間仕切りのかげの応接室へ二人を連れて行った。 「神崎ですが……」  そう言って応接室の入口に立つと、二人の客のほうがかえって緊張した様子で、 「はじめまして」  と言い、急いで名刺を差し出した。  きのう小山がカードのことを尋ねに行った、駅前の銀行の支店長とその部下だった。 「はあ」  神崎は要領を得ない顔で名刺を眺める。 「実は、けさ一番で本店のほうから連絡がございまして、これをあなたにお渡しするようにと……」  その銀行の名が入った封筒を出した。 「何でしょう」 「クレジット・カードです」 「あ……」  神崎は新宿のイッちゃんの顔を思い泛べながら、封筒の中身を取り出した。するりと封筒から神崎の掌の上へ、GODカードが滑り落ちる。 「やあ、どうもすみません。わざわざ……」  神崎は戻って来たカードを見ながら、憮然《ぶぜん》としていた。 「何だい、それは」  石川が興味を示したので、神崎はカードを渡した。 「大切になさってください」  支店長は揉《も》み手せんばかりの笑顔で言った。 「何しろ大変な力を持ったカードですからね」 「ほう」  石川がカードの裏表をしらべながら尋ねた。 「これはどういうカードなのです。そんな大変なカードなのですか」 「それはもう……」  支店長は待ちかねていたように喋り出した。 「わたくしも長年銀行で働いておりますが、実物を拝見したのは今回がはじめてです」 「ほう。支店長さんでもね」 「ええ」  支店長はそこで声をひそめ、 「クレジット・カードと書いてございますが、それは十八の銀行の本支店で使うことができまして、仮りに現金が急にお入用な場合ですと、その十八の銀行ではお客さまがお入用なだけ、すぐにお整えいたします」 「お整え、と言いますと、これを見せただけで融通してくれるわけですか」 「はい、そうなっております」  石川は神崎を見た。 「呆れたな。君はなぜこんな凄いものを持っているんだい」 「さあ……」  神崎は説明できなかった。石川は支店長のほうへ向き直り、 「いくらでも、とおっしゃいましたね」 「はい」 「無制限という意味ですか」 「そうです。但しどの支店でも、その日すぐお出しできる金額は知れたものです。何億と言われますと、少しお時間をいただかないと……でも、その日の内には何とか」 「何億……」  石川は目を剥《む》いた。 「うちにそんな金の卵を生む鳥がいたとは知らなかったな。でも、用途とか何かがはっきりしてなければいけないんでしょうね。担保なども」 「いいえ」  支店長はなぜか深刻そうに首を振った。 「そのカードはオールマイティです。近代的な銀行が出現した当初から、形こそ時代時代で異りましたが、GODカードのようなものはちゃんと存在しております。今ではオン・ラインでご利用の幅がぐんとひろがりまして、ハイヤーのご用命から有名デパートのお買物や一流ホテルでのお支払いその他、銀行と関係の深いいろいろな業種がサービス網に加わっているのです」 「何てこった」  石川はまた神崎を見た。     6 「わざわざ支店長が来たのは、どうも君にそのカードを使ってもらいたいかららしいぜ」  二人が帰ったあと、石川はそのまま応接室に残って言った。 「そいつでキャッシュを引出すことは、支店の責任でも何でもない。だから相当な金額を引っぱり出させておいて、定期か何かにさせようという魂胆らしい」 「冗談じゃない」  神崎は笑った。 「どうやって返すんです。銀行から貸してもらったら、預けるより利子は高いにきまってますよ」 「そりゃそうだ。でもなんで君がそれを……。おじいさんが何か……」 「おじいさんなんて、金なんか持っちゃいませんし、担保になりそうな物と言ったら、今住んでいる家と土地くらいなもんです。無制限の信用なんて、どだい滅茶苦茶な話でしょう」 「変だな。あの二人、からかいに来たわけでもなさそうだし」 「気味が悪いから捨てたつもりだったのに、すぐ戻って来やがった」  神崎はそう言いながら、カードの端を斜めに指ではさんで、強く息を吹きつけた。カードが風車のようにクルクル廻る。 「君にも何だかよく判らないなら、調べて見ようじゃないか。もし支店長の言う通りだとしたら……」 「判ってますよ。所長は資金繰りの苦労をせずにすみますからね」 「そういうこと。毎度毎度苦労させられてるからな」 「で、どうやって調べます」 「ちょうどいい。これから豪田さんのところへ伺う予定なのだ。一緒に行こう」 「豪田さん……」 「そうさ。どこかへまた別荘をおったてるらしい。製鉄業界の大立者《おおだてもの》なら、こういうことだって知っているに違いない」 「いいですよ。どこへだって行きますよ。そしてこいつが本物のGODカードとやらで、所長の好きなだけキャッシュを引っぱり出して、ぶっ潰《つぶ》れたらみんな僕の借金になればいいんだから」 「そう拗《す》ねるな」  石川は笑いながら立ちあがった。 「行くだろ」 「行きますよ。行けばいいんでしょう」  豪田は設計事務所を経営する石川が、一番頼りにしている客であった。豪田に気に入られていて、今までにも散々仕事をもらっている。 「豪田卯三郎か。雲の上の人の顔でも拝見するとしますよ」  神崎はぼやくように言いながら外へ出ると、石川のステーション・ワゴンに乗り込んだ。石川がハンドルを握り、車をスタートさせる。 「レッツ、ゴ」  石川は機嫌がいい。耳よりな話を聞いたからだ。必ず返済できる金でも、調達するには嫌な思いをしなければならないのだ。その苦労が今、突然解消しかけているというわけである。  だが神崎は、自分が何かにどんどん巻き込まれて行くようで気が重かった。ゆうべカードを拾って逃げたイッちゃんは、図々《ずうずう》しくそれで銀行から金を引き出そうとして一発でつかまっている。と言うことは、どこかでイッちゃんはGODカードのことを聞いていたのではあるまいか。だから親切に光子の居場所を教えもしたし、つきまとって金をせびろうとした。そこへ神崎がカードを落したので、しめたと拾って逃げ出した。カードのことを知らなければ、どこでどうすれば金になるか、判りはすまい。……そう考えると筋が通るではないか。 「所長」 「なんだ」 「尻《し》っ尾《ぽ》のある人間を見たことありますか」 「何をばかなこと言ってる」 「ありますか」 「ないよ。ばかばかしい」 「僕、見ましたよ」 「どこで」 「新宿で。先が三角になってて、黒い矢印みたいだった。凄《すご》くいやらしい」 「気の触れた奴はうちには置いとけないな」  石川はそう言い、 「でも、そのカードがあれば別さ」  と笑った。     7  豪田卯三郎邸。  有名な豪邸である。いくら財界の巨頭だからと言って、そんな大きくて贅沢《ぜいたく》な家に住むのは、少しは世間に恥ずかしいのではないかと思えるほど、臆面もない豪邸なのである。  敷きつめた玉砂利に音をさせて、石川のステーション・ワゴンが母家《おもや》のそばの駐車場にとまった。 「君ははじめてだったね」 「ええ。個人の家の中に駐車場があるなんて、考えても見なかったな」  神崎はそう言いながら車をおりると、石川のあとについて行った。  玄関は一面大理石。 「贅沢すぎるといっそばかみたいだ」 「黙っていろ。マイクがあるかも知れないぞ」  神崎は首をすくめた。  紫色の和服を着た中年の女が、静かに二人を出迎え、旅館の女中さんのように恭々《うやうや》しく石川の鞄《かばん》を持って先に立つ。 「どうぞ」  天井の高い応接室へ通された。 「どうだ、凄《すご》いだろう」 「まったく凄い。応接間というより、これじゃ美術館ですよ」  東西の名画が飾ってあり、そこここに置かれた花瓶《かびん》だって、いくらするか見当もつかない代物《しろもの》なのだろう。 「応接間じゃないよ、ここは」  石川は低い声で教えた。 「違うんですか」 「応接間は別に幾つかある」 「幾つか……」 「一軒に一つと思うのが貧乏人の浅墓さだ」  石川は自嘲《じちよう》するような感じで笑った。 「じゃこの部屋は何です」 「何と言うかな。要するに、そう、待合室だ」 「応接間で待たせればいいのに」 「応接間はもっと上等な客さ。俺たちはここから呼び出されて、豪田さんがいる部屋へ通されるんだ」 「接見室みたいのが別にあるんですか」 「そうだよ」 「呆《あき》れたな。貧乏人がたくさんいるわけだ。金《かね》の奴、こんな所で団子《だんご》になっちゃってるんだもの」  神崎は冗談めかして言ったが、それは本心から出た言葉だった。貧しい人々が常に夢見る、さして豊かではなくとも明日の糧《かて》だけは案ずる必要のないささやかな幸福をもたらすものが、その豪邸に何百人分、何千人分も詰め込まれているのだった。  しばらく二人は沈黙した。  神崎は次第に自分を圧迫して来る巨大な富の力をはね返そうと、部屋の隅々《すみずみ》から趣味の悪さを無理に探し出していた。 「お待たせしました」  昔なら書生とか執事とか言う役に違いない。きちんとした服を着た秘書らしい男が現われて言った。 「神崎」  石川はそう短く言って立ちあがり、秘書のあとについてその部屋を出た。 「ご機嫌はいかがですか」  石川はその秘書と顔馴染《かおなじみ》らしく、気安げに訊いた。 「まあ……よろしいほうです」  秘書はそう言い、 「どうぞお先に」  と途中で廊下を曲って行った。  ガラス張りの外に芝生の庭が見えた。テニスコートが何面もとれる広さだ。赤い絨緞《じゆうたん》を敷いた長い廊下が尽きる頃、芝生の庭が急に日本庭園に変った。  ドアはあけ放されていた。  今度は太い柱や梁《はり》の間に白い壁のある、落着いた感じの部屋だった。  広すぎてどこに主人がいるのか、ちょっと見当がつきかねたが、豪田卯三郎は大きなデスクの向う側の、これまたばかげて大きな回転椅子にちょこんと坐っていた。 「ごぶさた致《いた》しております」  石川が言い、神崎は畏《おそ》れ多いと言うような態度でだいぶ離れた所に立ち、声がかかるのを待っていた。  ふと壁に掛けられた百号ほどの絵に目をやった神崎は、 「あ……」  と思わず高い声を立てた。  石川が振り返る。豪田も眉《まゆ》を寄せてそのほうを見ていた。  神崎はそれを気にするどころではなかった。  有尾人。  暗い色を背景に、一匹の有尾人が描かれていたのだ。 「どうかしたのか」  石川が、豪田を意識していやに優しい声で言った。 「こ、この絵……どうしたんです」 「絵が好きでして」  石川がとりなすように言っている。 「尻っ尾のある人間の絵ですよ。誰がこの絵を描いたんですか」  神崎は絵を見あげた儘《まま》で言った。 「その絵のことか」  豪田の声であった。 「誰が写生したんです」  他人はどう見ようと、神崎にはそれが写生の絵であることが判っていた。実物を見ているのだ。 「写生……」  豪田はそう言って、半ば無意識のように立ちあがり、絵の前にいる神崎のほうへ近寄って来た。 「これは写生したものに違いないんです」  神崎はまたあの不快感に駆られて叫んだ。 「神崎君」  石川がそれを強い声でたしなめた。 「誰が……」  写生したのか、と訊きかけて、神崎は一瞬とびのいた。  すぐそばに有尾人がいたのだ。 「あ、畜生め」  豪田卯三郎には尻っ尾が生えていたのだ。 「な……なんだと」 「こいつめ。尻っ尾をはやしやがって」  神崎が言ったとたん、今度は豪田卯三郎が飛びのき、 「し、尻っ尾だと」  と叫んだ。 「こいつめ」  神崎は豪田に掴《つか》み掛った。 「やめろ、やめろ」  豪田はそう言って辛《かろ》うじて身をかわすと、そばにあった大きな花瓶をのせた台を倒して逃げた。 「待て、こん畜生」  ガシャンと大きな音を立てて台が倒れ高価な花瓶が割れた。 「よせ。よさないか、神崎」  石川が神崎をとめようと走り寄る。 「所長、こいつの尻っ尾が見えないのか」  神崎はそう叫び、豪田を追った。 「誰か……助けてくれ」  豪田は悲鳴をあげて逃げ廻る。ガシャン、ガシャンと壺《つぼ》や花瓶が割れ砕ける。 「助けてくれ。助けてくれ」  豪田は廊下へのがれると、そう叫びながら奥へ逃げ込んで行く。 「待て、こん畜生」  わけの判らない怒りに駆られ、いやらしい尻っ尾をふりたてて逃げる相手を、神崎はどこまでも追った。  女が多く男が少いのだろう。豪田の叫びに飛び出して来るのはたいてい女で、追いすがる神崎の形相《ぎようそう》を見ると、みな、キャッ、と言って部屋へ逃げ込んでしまう。  男たちはずっと遅れて、石川と一緒に神崎を追っていた。  鬼ごっこをしているようだった。広い邸内を、豪田が必死に逃げまわり、ドタドタとそのあとを男たちが追いまわしている。  豪田は戸があいた儘になっている小さな部屋へ飛び込んだ。しかしそこは行きどまりだった。  女中部屋らしい。べッドと若い娘のものらしい品々。 「こいつめ」  豪田は追いつめられ、震えていた。 「観念しろ」  神崎が迫った。  豪田は震える手で、神崎に顔を向けた儘あたりをまさぐり、手当り次第物を投げつけた。  ガシャン、ガシャンと陶器類が割れガラスが砕けた。 「神崎、やめろ」  石川が追いついて来て、豪田邸の男たちと入口にひとかたまりになって中をのぞいた。 「うるさい」  神崎がそう言って豪田に飛びかかろうとした時、豪田の投げた安物の目覚し時計が、神崎の左の肩の辺りに当った。  とたんに神崎は目がくらんで倒れた。  石川たちは、豪田卯三郎がガラス窓へ体当たりして庭へのがれるという、およそあり得べからざる光景を目撃した。  神崎はしばらく失神していた。 [#改ページ]   有尾人たち     1  神崎は誰《だれ》かの革靴《かわぐつ》の中にとじこめられているような気がした。窮屈で男の脂《あぶら》の匂《にお》いがしていた。 「う……」  身動きをしようとすると、左胸に鈍痛を感じて呻《うめ》いた。 「気が付いたのか」  聞きなれた声だった。目をあけると自分が移動しているのが判《わか》った。左の肩と胸をかばいながら体を起した。  車の中だった。石川のステーション・ワゴンである。 「畜生、なんてことをしてくれたんだ」  前のシートでハンドルを握っている石川が、低いが激しい口調《くちよう》で言った。神崎は二度ほど深呼吸し、左肩をゆっくりと動かして見た。 「大丈夫か」  石川が尋ねる。 「ええ」 「気でも違ったのかよ」 「…………」  咄嗟《とつさ》にはその問いに答えられず、神崎は黙っていた。車は住宅街を抜け、すでに幹線道路へ入っていた。豪田邸からまだそう離れてはいないようだった。 「豪田卯三郎に尻《し》っ尾《ぽ》が生えているなんて、いったいそんな突拍子《とつぴようし》もないことをどうやって思い付いたんだか、よく説明してもらいたいもんだな」  神崎はその言葉ですべてをはっきりと思い出した。  豪田卯三郎をとり逃した。  まずその無念さがあり、次に尻っ尾を見た時の言い知れぬ不快感が甦《よみがえ》った。 「あいつ、どうしました」 「豪田さんか」 「ええ」 「どうもこうもない。ガラスに体当たりして逃げて行ったよ。余程恐ろしかったと見えて、あれっきりどこかへ行ってしまった。こっちは豪田さんが戻《もど》る前にお前をあの邸《やしき》から連れ出そうと、夢中だったんだぞ」 「すみません」  神崎がそう言うと、石川は車の中で大声をあげた。 「詫《わ》びるな。こいつは詫びてすむことじゃない」  神崎はもう一度、すみません、と言いかけて口をとじた。たしかに詫びを言うような事態ではなかった。ことに石川にとっては、明日からの生活がかかっているのだ。 「いったいどうする気なんだ、ええ……」  石川はハンドルを握って喚き、バック・ミラーの中で神崎と視線を合わせた。 「このままオフィスへ戻る気にはなれないな。とてもそんな気にはなれないよ」  石川は視線を前に戻すと首を振って急に弱々しく言った。 「オフィスへは豪田邸から核ミサイルがぶち込まれているだろう。帰るにしても少しは覚悟をきめて置きたいよ。……体、大丈夫か」 「ええ」 「大したことのあるわけがないさ。たかが安物の目覚し時計をぶつけられたくらいで、どうしてああ簡単に引っくり返っちまったんだい」  石川はなじるように言った。 「豪田卯三郎に対して、絶対にあんな真似《まね》をしてもらいたくなかった。ああいうことは金輪際《こんりんざい》あってはいけなかったんだ。あの爺《じい》さんを敵に廻したら生きて行けないんだ。日本人ならな。しかし君はやっちまった。あのばかでかい家の中を追い廻し、爺さんは追いつめられて震えてたぞ。でもな……」  石川はそこで言葉を切り、低く笑いはじめた。その笑いははじめのうち自嘲しているようだったが、次第に笑いが大きくなるにつれ、何かがふっ切れたように明るい感じに変って行った。 「あの爺さんが、どんな人間か少しでも知っている奴《やつ》なら、誰でも一度はやって見たいことだ」  石川はそう言って愉快そうに笑ったが、今度はそれがだんだん低く陰気な感じに戻って行く。 「でも、誰も考えるだけでやりはしない。思い切りよくやっちまったのは君だけだ。そうだよ、お前だけさ。この俺《おれ》の部下であるお前だけなんだ。……判ってるのか、神崎」 「何がです」 「何がです、だと……」  石川はまた喚いた。 「よく言うよ。財界の巨頭、政府のご意見番、日本の黒幕……豪田卯三郎についているどのキャッチ・フレーズを見たって、俺たち庶民のかなう相手じゃないことは判り切っている。指をさしたらその指の先から腐っちまうような危険な相手だ。それをお前……つまりお前を使っているこの俺が、震えるほど怯《おび》えさせちまったっていうわけだ。事と次第によっては総理大臣の首だってすげ替えちまうあの爺さんに、お前は宣戦布告をしちまったんだぞ。もう引っ返せない。必ず報復がある筈《はず》だ。仮りにお慈悲を願ってそれがなかったとしても、あの爺さんが関係しているところからは、もう絶対に仕事はもらえない。わが石川設計事務所は、この日本という国の中では、もう割りのいい仕事は何ひとつもらえないということだ」  石川はまくしたて、疲れたように口をとじた。石川がオフィスのある目黒へ向かわず、いいかげんに道を選んで車を走らせていることは、神崎にもよく判った。  自分は大変なことをしでかしたのだ。  その自覚がひしひしと湧《わ》いて来て、神崎は石川に言うべき言葉を思い付けなかった。     2 「俺も男だ」  石川は長い沈黙のあと、きっぱりとそう言ったが、やはり表情には絶望に近いものが窺《うかが》えた。  二人は環状八号線に面した洒落《しやれ》たレストランのテーブルに向き合っていた。 「取り返しがつかなくなったことをあれこれ悔んで言っても仕方がないしな」  石川は自分が窮地に陥ったことを悟って、そこから足を踏んばり、腰をあげようとしているらしかった。 「敵の出方は見当がつく」 「僕は辞表を出します」  神崎は堪《たま》りかねて言った。だが石川は軽く右手を横に振って弱々しく笑った。 「お前を馘《くび》にしてもはじまらない。どうせ同じことさ」 「なぜです。豪田を追いかけたのは僕ですよ。所長はそれをとめようとしていた。それはあの家の誰もが知っている筈です」 「関係ないね。俺がお前を連れて行った。それで充分だ。ましてお前は俺の部下の一人だ。いいか、これは俺たち貧乏人がどこかの銀行にしてやられた時に感じることと同じものなんだ。それは一支店がやったことで、本店とは何の関係もないと言われたって、一文なしになった奴には決してそうは思えないだろう。大銀行にやられたって、そうとしか思えないじゃないか。こっちから見れば強い奴の内情がどうなってるか関係ない。同じように強い奴は、刃向って来る弱い奴の内情なんて知る必要もないのさ。叩《たた》き潰《つぶ》せばいいんだ。ましてお前は豪田に生理的な恐怖を与えてしまった。連中がそういう生理的な不快感を与えられることを、どれ程屈辱に感じるか判らないのか。生意気だ、不遜《ふそん》だ、身の程を知らん……そういう奴はひねり潰すだけだ、と来るにきまっている。連中から見れば俺もお前も取るに足りない生き物だ。それを幾らか可愛がってやって来た。恩を仇《あだ》で返しやがって、さ」 「じゃあ、僕は所長に何をすればいいんです」 「今後無給で働いてもらうか」  石川は冗談を言うゆとりを取り戻していた。 「さて、急いで考えなくてはな」  石川は紅茶のカップを取りあげ、それをじっとみつめた。 「お前、なぜあんなことをしたんだ」  同情するような言い方だった。 「尻っ尾を見たからです」  神崎は素直に答えた。本来なら、避ける筈の答だった。 「俺には見えなかった」 「僕にだけ見えるらしいんです」 「幻覚か」 「かも知れません。でも、僕はそうではないと思っています。もっとも、気が違っているとしたら別ですが」 「そいつがおかしいんだよな」  石川は首を傾《かし》げた。 「たしかにお前のやったことは気違い沙汰《ざた》さ」  そう言って紅茶を飲んだ。 「だがどうもそうは思えない。だいいち、気が狂った奴が、気が違っているとしたら別だ、なんて言うかな」 「なんとも判りかねます」 「お前、本当に尻っ尾が見えるのか」 「見えるんです」  神崎は伊東のホテルで目覚めた時からのことを残らず喋《しやべ》った。石川はしきりに首を振り、その信じかねることを信じ込もうとしているようだった。 「わけが判らん」  石川は匙《さじ》を投げるようにつぶやいた。 「しかし、お前がもし正気だったとしたら、本当に尻っ尾が見えるのかも知れないな。実にどうも……ばかばかしいことではあるけれど、だ」  完全に信じはしないようだった。石川は髪に左手を突っ込み、掻《か》きむしるようにした。 「えらいことに巻き込まれちまったもんだよ、まったく」 「僕は病気なんでしょうか」  神崎が言うと、石川は驚いたように顔をあげた。 「それなら助かる。尻っ尾性幻覚症とか何とか、ちゃんと病名も判ってすべてに筋が通るからな。しかし、クレジット・カードのことはどうなる。あれも病気のせいだと言うつもりか」 「あ……」  神崎はすっかりGODカードのことを忘れてしまっていた。 「あのカードの件があるから俺は悩んでいるんだぞ。いいか、先が三角にとがった黒い尻っ尾と来れば、それは悪魔の絵じゃないか。いっぽうあのカードはGOD、つまりゴッドと来てる。他人には見えない尻っ尾を見ることができるお前が、その神のカードを持って歩いている。そう信じたいわけではないが、なんとなく辻褄《つじつま》が合うからおかしい」  神崎は石川がそう言っている間に、内ポケットから紙入れを出し、カードをテーブルの上へ置いた。 「あの支店長がけさ言っていた通りだとすると、こいつを使って見る手もありますね」 「ん……」  石川は神崎をみつめた。 「報復すると言ったって、暴力団をけしかけて来るわけじゃないでしょう。豪田みたいな奴がやることは、こっちの糧道を絶つことでしょう。どういう仕組か判らないけれど、これで金が引き出せるなら、豪田の横槍《よこやり》が入らない内に引き出して置いたほうがいいんじゃありませんか」 「おい、本気かい」 「ええ。別に今すぐ全部使ってしまうわけじゃないんですからね。金を引き出して、そいつを第三者の……そう、小山君か誰か、第三者の名義で預けて置けば、いくら豪田だって手が出せないでしょう。預ければ利息が付くし、それを担保に金を借りることだってできますからね。いくらタチの悪い借金になったとしても、借金と預金の利息の差額くらいだったら僕らにも何とかできるでしょう」 「いいのか」  石川は乗気だった。 「そうなればあの爺さんの攻撃をいくらかしのげるわけだ」 「僕にできるのは今のところそれくらいなもんですよ」  石川は急いで紅茶を飲みほした。 「行こう。手遅れになるといけない」  二人は席を立った。     3  神崎は石川という男が好きだった。石川のような男が自分の上司であることに満足しているのだった。  平凡と言えば言える。世間一般の建築家なみに、はったりをきかせる面もあるし、適当に社会を泳ぎ廻ることもする。つまり名前も売りたいし金を儲《もう》けたいという、どこにでもいる男の一人ではあるが、反面それは石川が環境に対してかなり高度な順応性に恵まれているからのことで、そうした妥協をする必要のない所では、性根の据《すわ》った男らしい男であるようだった。  豪田邸での出来事にしても、逃げるようにしてそこを立去る車の中で、普通ならもっと神崎を非難し、責め、泣きごとを並べたてても当然だったと言えよう。  しかし石川は素早くその混乱状態から抜け出してしまった。  出来てしまったことは仕様がないという単純極まる理屈を、石川はそれだけ早く自分の心に受入れたのである。そしてそれができたのは、彼に情報を的確に判断する力と、最悪の条件の中でもやれるだけやろうとする平常の覚悟があったからであろう。  とにかく石川の頭の切りかえかたは早かった。神崎の提案を聞くとすぐ車を目黒の銀行に向け、けさカードを届けに来てくれたあの支店長に面会を求めたのだ。 「早速ですが、このカードでとりあえず一千万くらいお貸し願いたいのです」  石川は短兵急に言った。 「所長」  神崎が肱《ひじ》で小突いた。 「何だ」 「少くありませんか」  石川はちょっと肩をすくめた。支店長が愛想笑いを泛《うか》べてそれを見ていた。 「ちょっと失礼」  石川はそう言い、招き入れられた応接室のソファーから立ちあがると、ドアのそばへ神崎を連れて行ってささやいた。 「少いな」 「そうでしょう」 「見ろ、支店長の顔を。こっちの方が早かったようだぞ」  豪田の手が廻っていれば、支店長が愛想笑いを泛べている筈がないのだ。 「三千万」  神崎が言った。 「よし、それで行こう」  石川はニヤリとすると席へ戻った。 「失礼しました。急なことなので打合せもろくにせずに伺ったものですから」 「事業の拡張計画ですかな」  支店長は愛想笑いを消さずに言った。 「いや、実は」  石川は恐縮したような態度を示し、 「そうじゃないんです」  と言って体を乗り出した。 「あれからすぐ、この神崎を連れて豪田邸へ伺ったんです」  支店長は目を丸くした。 「豪田卯三郎さまの……」 「ええ。ご存知でしょうが、うちは豪田さんにずっとお引立てを頂いておりましてね」  支店長は深く頷《うなず》く。 「このカードの利用法についてご相談したんですが、笑われましたよ」 「ほう」 「それじゃ宝の持ち腐れだってね。別に今すぐ使うあてがなくても、借りて定期にでもしておけばいいではないかとおっしゃるんです。先行きのことを考えたら、銀行さんにはどしどし信用を作ることだと教えられましたよ」 「ほう、定期にね」  支店長はうれしそうだった。 「ええ。それで、とりあえず千万単位でいかがでしょう」 「結構ですよ。何しろあのカードでしたら」 「じゃあすぐに五千万。なに、キャッシュの必要はないんです。すぐこちらの定期に入れますから」 「君……」  支店長はとなりに控えていた男に言った。 「カードをお預りしてすぐに手続きを」 「はい」  男は跳《は》ねあがるようにして、テーブルの上のカードを取ると応接室を出て行った。 「ちょっと電話を拝借」  石川はそう言って部屋の隅の電話へ飛びつくと、 「小山君いるか」  と部下の小山を呼び出した。 「自分の印鑑を持ってすぐ銀行へ来てくれ」  そう命じる。 「名義はうちの小山という男のにして欲しいんです。いろいろと都合がありましてね」  と笑顔を支店長に向け、 「そうだよ、駅前のだ。けさ支店長がうちへ見えただろう」  そう早口で小山に言って電話を切った。 「豪田さまのお知恵では、とてもこちらはかないませんな」  支店長はそう言って笑った。  神崎は石川の機敏さに驚いていた。最初一千万と言ったくせに、相手の態度を見て神崎が訂正した額をまるで取り違えたとしか思えない様子で、ぬけぬけと五千万円せしめてしまっている。 「豪田さんは、できるだけ多くの銀行に信用をと言っておられるんですが、うちなどはそれほどあちこちに取引があるわけでもありませんしね」 「いやいや」  支店長はあわてて手を振った。 「そういうご計画でしたら、当行の分をもっと増やして頂きたいものです」 「判ってますよ」  石川はなだめるように笑った。 「しかし、こちらにも一応の尺度と言うものがありますからね。帰っていろいろ計算をして見た上で、全体の枠《わく》の見当がつきましたら、その時はまたおたくにご相談にあがりますから」 「是非そうお願いしたいものです」  神崎は、石川が中一日くらい置いて、もう一度そこへやって来る気らしいと睨《にら》んだ。 「ちょっと失礼します」  支店長はカードの手続きのほうが気になるらしく、そう言って座を外した。 「糧道を絶たれても、これで少しは持ちこたえられるさ」  石川はニヤニヤしていた。 「僕のせいで申しわけありません」  神崎はまたあやまった。     4  当面無用な動揺を招かぬ為に、今回の事件は他の者には知らせぬことにして、神崎はそのまま一応自宅へ引きあげることになった。  相手が相手だから、どんな手段に訴えて報復して来るか判らなかったし、それでなくてもあのあとのほほんと神崎が石川設計事務所に戻っていることが判れば、石川の立場も余計悪くなろうというものだ。何か言って来た場合でも、神崎が自宅に引き籠《こも》っていれば謹慎の態度であると主張できようし、石川が神崎の解雇処分を考えていると言っても通り得るのだ。  銀行の前で石川と別れたあとも、神崎は自分の上司を信頼し続けることができた。疑えば五千万という大金を自分のカードで借り、それを第三者名義の定期預金にして、石川が証書を握っているのであるから、不安を感じる余地はいくらでもあった。  しかし、石川や小山などの仕事仲間と神崎の関係は、言って見れば余りにも庶民的であり、一万、十万の貸借ならとにかく、百万、千万という単位の大金について、欺《だま》したり欺されたりという事態が生じることなど、およそ考えにくいことであった。名もない貧乏人にとって、それは命を奪うより重大な罪であり、もしそのことを疑うなら、彼らに向けた背中を刺されることをまず心配しなくてはならなくなるのだ。  だが。  なぜ自分にあの尻っ尾が見えてしまうのか。なぜそれを見ると前後も弁《わきま》えぬ猛烈な怒りに駆られるのかという疑問が、ますます重く神崎にのしかかって来た。  それはもう、記憶を失ったあの酔った時間のことなどより、ずっと重大になってしまっていた。  神崎は家へ帰り着くまで、ずっと豪田邸における自分の心理を反芻《はんすう》し、点検していた。  どう考えても、異常な心理に陥ったのは、あの有尾人の絵を見てからだった。あの絵を見た瞬間、何かが神崎の中で音をたてて破裂したようだったのだ。  神崎は一度豪田邸での出来事を最後まで辿《たど》り、次にまた絵を見た瞬間へ戻った。  あの時たしかに神崎は、突然|猛《たけ》り狂ったようになった。しかし、よく考えて見ると、その激しい感情の中には、怒りに混ってよろこびに似たものがあったような気がしてならないのだ。  そのよろこびとは、たとえて言えば親の仇にめぐり会えた時のうれしさとでも言おうか……何か隠されていたものを発見したよろこびらしいのである。  猟犬が獲物《えもの》を発見して夢中で吠《ほ》えかかるのは、ああいう感情の中ではなかろうか……。神崎はふと妙な考え方をして見た。  敵を発見した時、獣《けもの》はみな怒るだけなのだろうか。そうではあるまい。おのれの怒りを向け得る相手を発見したことで、或《ある》いは闘争に勝っておのれの餓えを満たせる期待で、獣たちは一面よろこんでいるに違いあるまい。  神崎はそれをたしかな答のように思い、同時にその先に更に大きな問いが待っているのに気付いた。  怒りとよろこび。怒りは不快なものに対して強く向けられていたし、よろこびも不快なものを消去できるといううれしさであった。しかしいずれにせよ、それは闘争に結びついて行かねばならないのだから、本来の自分の性格からすれば、かなりの怯《おび》えがつきまとわねばおかしいのだ。  ところがあの時、遂に怯えはなかった。あるものは、ただかさにかかったような攻撃の姿勢だけであった。怯えを感じたのは、目覚し時計をぶつけられて失神し、豪田卯三郎という有尾人を見失ったあとのことである。猟犬は去り、何ひとつ武器を持たぬ平凡な男が、日本有数の大富豪の報復を惧《おそ》れて怯えていたのである。  いったいこれは何だ。  神崎は見たこともない絵柄のカードを渡された時のように、途方に暮れる思いであった。  実物でなくとも、有尾人の存在を身近に感じたとたん、敗北を全く考えぬ人間に変身してしまったようなのだ。この自分のどこにそんな強い部分が隠されていたと言うのだろうか。  あれは俺じゃない……。  神崎は人々に向かってそう叫びたいのをこらえながら、渋谷駅前の雑踏から離れて行った。 「ただいま」  古びた門を入って玄関の戸をあけると、無意識に声が出た。 「あら、お帰り。今日はばかに早かったじゃないの」  母のとき江の声だったが、常になく若やいで聞こえた。 「ちょっとこっちへいらっしゃいよ」  二階へあがりかけるのへ、とき江がそう声をかけた。  神崎は茶の間の襖《ふすま》をあけた。和服を着た女がとき江と向き合って坐っていた。いかにも、よそ行き、と言った感じの着物である。 「溝口さんのお母さまですよ」  とき江が言った。 「夕子さんの……」  神崎は初対面だった。 「そう。例のおはなしでいらしたの」 「もうか……早いんだな」  神崎はつぶやくようにとき江に言ってから、畳に坐り、初対面の挨拶《あいさつ》をした。 「お噂《うわさ》はもう夕子から朝に晩に」  夕子の母親はからかうように言ってとき江と笑った。 「しあわせな子だねえ。あなたがたのことは、溝口さんでもご賛成くださってるそうよ。だからあたしも大助かり。お式の日取りなんかを決めればいいだけですものね」 「そんなことを言ったって」  神崎はとき江に口をとがらせて言う。 「住む所もあるし、いろいろまだ大事な問題が残ってるよ」 「まあまあ」  夕子の母親は寛大な表情で手を振って見せた。 「今日はそういうあらたまったお話で伺ったんじゃないんですのよ。一応夕子とのことをお進めしましょうと申しあげに来ただけで。すべてはこれからでございますわよねえ」  そうとき江をのぞき込むように言う。 「でも、ひょっとするとあたくしたち、来年かさ来年は、おばあちゃんになってしまいますわね」 「ほんとに」  オホホ……と二人の母親は声を揃《そろ》えて笑った。 「僕、ちょっと調べ物があって戻ったものですから」  神崎はそう言って腰を浮かせた。 「まあ、お仕事……。それじゃお引きとめしては」  夕子の母親がそう言ってくれたので、神崎はいいさいわいと二階へ逃げあがった。  自分の部屋へ入るとごろりとあおむけになり、頭の下で手を組んだ。  天井に光子の顔が泛《うか》ぶ。  光子に会わなければならないと思った。あのあと、教会の神父は何と言っていただろう。  光子はあの十字架によじ登っていた小男の尻っ尾を見ただろうか……。     5 「貴様ら、この儂《わし》を殺そうと企んだな」  豪田卯三郎が呶鳴《どな》った。  どことも知れぬが、静かな部屋であった。十二、三人の男たちが集まっている。  どれもこれもみな金のかかった服を着ていた。微《かす》かな香料と強い葉巻の匂《にお》い。厚い絨緞《じゆうたん》にどっしりとしたソファー。重厚な家具類。高い天井と凝《こ》ったシャンデリア。 「あれが儂の家へやって来ることを、この中の何人かは警告できた筈だぞ」  誰も答えなかった。 「なぜ黙っていた」  豪田は部屋の中の男たちを、一人一人|睨《にら》みつけた。全員大きなソファーに体を沈めている。冷たい沈黙が支配していた。 「この年になって、あんな化け物に追い廻されたのだぞ」  豪田の声から昂《たかぶ》ったものが消え、妙に冷静な響きが強まった。それは大声の時より何倍も凄味《すごみ》を持った声だった。 「わたしは知らなかった」  一人がつぶやいた。 「わたしもだ」  二人、三人とそのつぶやきに同調する。 「あれが現われたことを最初から知っていた者がいる筈だぞ」  豪田は粘っこく言った。 「GODカードの発行を隠していた者は誰なのだ」 「八坂氏以外にはあり得ませんな」  豪田のすぐとなりに坐っている男が淡々と言った。 「GODカードが発行されれば、すぐ何をおいても八坂氏に報告される筈です」 「八坂君は来ておらんようじゃないか」  豪田は改めて仲間の顔を見渡しながら言った。 「雄介さまもです」  遠い席にいる別な男が言った。 「欠席者はその二人だけか」 「この会議に出る資格のある者は、あのお二人を除けば全員出席しております」  豪田のとなりにいる男が言う。 「まあいいだろう。とにかく会議を進行させよう」  豪田は坐り直した。 「とにかくこれで、来るべきものが来たというわけだ」 「そうですな」  全員が頷《うなず》いた。 「長年の研究のおかげで、対応策はすでに出ている。我々はその対応策に従って行動すればいい。しかし、今度のようにのっけからそれを無視されては困る。各人の行動がバラバラになっては、あれの思う儘にされてしまうのだぞ」 「そうですとも。統制を乱すことがあってはならないのです」  豪田はその言葉に頷いて見せる。 「この難局を全員一致協力して乗り越えてもらいたい」  豪田が言うと、男たちのほぼ半数が頷き、残りの半数が天井を向いたり窓の外に目をやったりしていた。豪田はその様子に感付いた筈だったが、それを無視して続ける。 「儂にはこの件のなりゆきがだいたい判っている。こういう場合のことも考えておかねばいけなかったのだからな。だからこの先、どうなって行くかすでに読んでいるつもりだ」 「いったいどうなって行くのでしょう」  一人が訊いた。豪田はその方へ顔を向け、したたかな感じの微笑を泛べた。 「あれが動きだすと世の中の目はいっせいに儂らに向けられる。それは確実なことだ。一般市民にとって、特に中産階級以下の層にとっては、儂らの存在は不快でないわけがない」  豪田がそう言うと、二、三人が異議をとなえた。 「そういう者たちの中にも我々を支持する者がたくさんいます」 「下層民の中にも我々の熱狂的な支持者がいるのです」 「そうです。貧しい者、すなわち我々の敵というのも公式的すぎるようです」  そういう声を豪田の笑い声が抑えた。 「君らそれでも社会の指導者と言えるのかね。中産階級以下の層で我々を積極的に支持する者は、ただ愚かなだけだ。その連中にそれ以上の意味はない。ただ愚かなだけ。それだけだ」  豪田はそこで咳《せき》ばらいをした。 「まさに哀れむべき連中だが、彼らがなぜ我々を積極的に支持するのか、まったく謎《なぞ》めいている。支持する筈のない者が支持してくれるのだからな。彼らは貧しい。収奪されている。この儂らにだ。本来なら我々を支持することが不可能な立場にいる者たちだ。それが我々を支持する。なぜか彼らは、変革を望まない。世の中が変るのを恐れているのだ。まるでこのままいつまでも貧しく暮していたいというような具合ではないか。儂らにはとうてい理解不能だが、それを理解するための答がたった一つだけある」  豪田はそこで言葉を切り、仲間を見渡した。 「愚かなだけ。それが答だ」  すると一人が、したり顔で言った。 「たしかに連中は愚かですよ。気の毒なくらいにね。しかしあの連中の気持をもう少しよく理解することは出来ます。彼らだってなにも貧しいままいたいのではないのです。少しでも豊かになりたいし、そのためには世の中を変える必要があるということも少しは理解しているのです。その証拠に彼らは少しばかりの富を求めて、のべつ貧しい者同士で仲間の足を引っぱりあっています。また、我々のはっきりした落度が見つかれば、どんなおもしろいショーを見るときよりも熱心に拍手喝采《はくしゆかつさい》します。ただ、それでいながら連中は臆病なんです。彼らの愚かさは、彼ら自身の臆病さに原因があるのです。住みなれた街に新しいビルが建つのは嫌《いや》だ。近くに大きな工場が来るのも嫌だ。飛行場も嫌、道路も嫌、鉄道も嫌。変えたいと願うのは古くなって軒の傾きかけた、いまにも崩れ落ちそうな我が家を新しく建て替えることくらいです」  別な一人がその言葉を引きついだ。 「そうなんだな。あの連中はいまのままが好きらしい。変革を望まないわけではないが、世の中が彼らにとって未知の、まったく新しいものにとって替えられることが恐ろしくてたまらないのさ」  すると豪田がおだやかな微笑を泛べて頷いた。 「さすがに諸君はよく判っている。前言を取り消さなくてはならんな。いや、君らはまさに指導者だよ」  豪田はそう言って笑い声をたてた。     6 「支持する筈のないものを連中が支持するのは、まさにその一点にかかっているのだ。彼らは、いついかなる時代でも自分たちが弱いことを知りつくしている。弱いくせにしぶとく生き延びるのは、彼らが自分の弱さを知っているからなのだ。弱いから強いものには手を出さん。強いものには決して逆らわない。だからこそ生き延びられるのだ」  豪田は冷酷な声で続けた。 「彼らは知っているのさ。支配者が誰に変ろうと収奪は行なわれる。強いものが十の力を出すのと、弱いものが十の力を出すのとでは、その結果は決して同じではない。そして彼らはその厳然たる事実を、骨の髄まで身にしみて判っているのだ。十はどこまで行っても十。人間はすべて平等なのだというたわ言は、頭でっかちの、そうした愚かな貧乏人どもほども働いたことのないやからだけのせりふさ。我々はいま困難な局面に行き当っている。何者にも阻止することの出来ない、誰からも捕えられることのない、あの全能の力と顔をつきあわせてしまっている。だが我々には強い味方がいる。その味方というのは、我々が収奪し続けて来た、我々を肥えさせてくれた富の源である、あの愚かで貧しい連中のことだ。彼らは決して新しい世の中を望まない。同じ収奪されるなら、やはりいままで慣れ親しんだ顔ぶれにやられるほうが、よほど安心だと思っているのだ。さっきも言ったように、あれが現われたことを知れば、始めのうちそういう連中は拍手喝采するだろう。しかし、我々が追いつめられたら次はどうなるか、愚かな者にもそのうち判って来る。助けを求めるのは我々ではない。あの連中なのだ。新しくしないでくれ。慣れた古い方々よ、しっかりしてください。そういって我々にすがりついてくるに違いないのだ。それまでに何人かは犠牲者が出るかもしれない、いや、出なければ収まりがつかんだろう。だが結局生きのびるのは我々だ。あれは我々を少しばかり熱病のようにして侵すだけだ。すぐ消えてなくなる」  ギイ、と忍びやかに大きなドアがきしんで二人の男の姿が現われた。 「やあ、遅くなって、どうも」  まっすぐ豪田の方へ進んで行くのは、体格のいい老人だった。豪田の右どなりにソファーがひとつ空《あ》いていて、老人はそこへ腰をおろした。誰もが坐ろうとしなかった椅子だ。あとから来た老人のための席らしかった。  ギイ、とまたドアがきしんで閉じた。そのドアを背にして突っ立ったまま小男が残った。小男は黒く強靭《きようじん》そうな尾をだらりとさげて、突っ立ったまま真正面にいる豪田卯三郎を凝視《ぎようし》していた。 「どうした、雄介」  豪田の言い方は空とぼけた感じであった。 「坐ったらどうかね。みんな坐っているんだ。我々はいつもなぜことさら大きな椅子に好んで坐るか、お前にもそろそろそれくらいのことは判って来た筈だぞ。貧乏人と差をつけるために大きな椅子に坐るのではない。我々の尻に生えたこの尾を見ることが可能な相手に会っても、大きな椅子に坐っていればすぐに気付かれることはない」 「そんなことは判っています」  豪田雄介は頬《ほお》を引きつらせて答えた。 「これは正式な会議の席だ。たとえ儂の長男だろうと、この席では上下の別をわきまえてふるまって欲しいものだ」  豪田はそう言いながらそばに置いた紙袋にごそごそ音をたてさせ、安物の目覚し時計を取り出して自分の前のテーブルの上に置いた。 「儂がここにいるのが意外なのではないのかね」  豪田は慈愛に満ちた表情を作って柔らかい声で言った。 「いえ、そんな……」  豪田雄介はしどろもどろになり、よろめくような足どりで一番末席に空いている椅子へ、身を投げかけるように坐った。 「まだお前は修業が足らんようだな」  豪田は父親の顔で言う。 「みなさい、八坂君の落着いていることを」 「いや、どうも」  豪田の右に坐ったばかりの八坂は、わっはっはと磊落《らいらく》に笑った。 「儂はこれでなかなか運が強いらしい」  豪田は生真面目《きまじめ》な顔になった。 「だいたい儂らのような者には、病気以外に直接肉体を危機にさらすというようなことは滅多にない。だが今回初めてそれを経験した。突然あれが儂の家へ入って来て、儂を殺そうと掴みかかって来たのだ。さすがの儂も驚いたな。必死で逃げたよ。だがあれは……」  豪田はそう言って息子の雄介の方をみつめる。 「なんという名前だったかな」  そう尋ねられて、雄介はしぶしぶ答えた。 「神崎順一郎という名です」  豪田は当然のことを訊くような顔で、 「そうか、神崎順一郎か」  と頷いた。 「その神崎というやつは聞きしにまさる素早い相手だった。なにしろあの男は儂らを滅ぼすために生きているのだからな。儂ら有尾の者を根絶やしにすることが正義だと思い込んでいる。儂らを捕え抹殺《まつさつ》することに何の疑いももってはおらん。儂はあの男の眼を近々と見たが、一瞬のためらいもひとかけらの迷いもなかったぞ」  みんなしんとして聞き耳をたてていた。 「だがあの目は不愉快な目だ。まるで思いあがっている。しかも思いあがっていることにすら気付いていない。もともとはただの貧乏人ではないか。なるほど我々は弱い者から富をしぼり取るかもしれない。そう言われてもいたしかたのない面がたしかにあるのだ。しかし我々はそれと同時に多勢の人間を仕合せにしてやっている。男には仕事を与え、女たちには服や宝石を与えている。地位を欲しがる者には地位を、権力を欲しがる者にはそれにふさわしい権力を、望めば勲章だってくれてやるのだ。だがあの男はなんだ。世の愚かな貧乏人よりよほどぬくぬくと育ち、恵まれた環境の中で、いまの力をさずかったのではないのか。あの男が誰を仕合せにしたというのだ。人を不幸にしなかったというだけで、なにひとつせんではないか。それが他をさばくだと……。神の使いに選ばれたからか、自分のことは棚《たな》にあげおって」  豪田は吐き捨てるように言い、視線を目覚し時計に移した。 「その思いあがった神崎というやつに追いつめられた儂は、思わずこれを投げつけてやったのだ」  豪田はそう言ってテーブルの上の目覚し時計を指さした。全員の視線がそれに集まる。 「するとどうだ、神崎のやつはひっくり返りおったぞ」 「なんですって」  有尾人たちはいっせいに言った。 「この時計であいつを倒したですと……」 「ああそうだ」 「どこへ当てたんです。あいつの肉体に弱点があったのですか」 「残念ながらそれがよく判らん。とにかく我々のいままでの知識にないことがおこったのだ。やつはあと一歩というところで儂を捕まえそこなったばかりか、あとで聞くとしばらくひっくり返ったまま失神していたそうだ」 「いったい何が起ったのでしょう」  豪田は、にんまりとした。 「儂はいろいろなものをやつに投げつけた。その時の感じから言うと、どうも当たりどころが良かったためのものではないらしい。つまり言い伝え通り、あいつの肉体には弱点がないらしいのだ」 「だが神崎は失神したと言うではありませんか」 「そこだ。問題はどうやらこの目覚し時計にあるらしい。よく考えてみたのだが、この前あれが現われたときは、まだ目覚し時計などなかった筈だ。したがって我々の伝承にもそれが残されていないほうがむしろ当然と言えよう。結局|謎《なぞ》はやつが失神する前に、やつの体に当たったこの目覚し時計という物体にあることになる」 「時だ」  末席の豪田雄介が叫んだ。 「それが時を刻むものだからだ。そうに違いありませんよ」 「早まるな」  豪田は雄介に冷酷な目を向けて言った。 「これが時を刻むものであるということは儂も考えた。しかしどうやら関係はないような気がする。なぜならあいつはたしか腕時計をしていたような気がするのだ。時を刻むものがやつにとって有害なら、とても腕時計など身につけてはいられまい」 「そうだな……」  八坂が半眼を閉じて落着いた声で言った。 「至急専門家を集めて研究させよう」 「八坂さん。専門家を集めてとおっしゃいますがいったいどんな専門家を集めるおつもりなんです」  そう尋ねる者がいた。 「すべてだよ。この時計を分析し、いったい何が神崎順一郎に有害なのか、それを発見させるのだ。もちろん神崎の正体はそんな学者どもに明かせはしないが方法はいくらでもある筈だ。こういうことは若い人がいいだろう。新進気鋭の雄介君にまかせてみようではないか」 「いやそれはいかん」  豪田が強く主張した。 「なぜ……」 「儂も自分の身がかわいいからさ。その研究結果をどう利用されるか判ったものではないからな」 「まったくだ」  八坂はそう言い、体を大きく左に傾けて豪田卯三郎の肩を叩いた。豪田もそれを受けて愉快そうに笑った。二人の長老の笑い声につられてその部屋にいたものは、豪田雄介を除いたほか全員が笑った。その笑い声はぬめぬめとして捕えどころがなく、意味もまた不明だった。     7  ひかり座で、神崎と光子が話している。 「あたしには尻っ尾なんか見えなかったわ」  二人はきのうと同じようにがらんとした客席の椅子に並んで坐っていた。舞台は空白で、しらじらとした光が満ちているだけであった。 「なぜあなただけに尻っ尾が見えるのかしら」 「僕に尻っ尾が見えるということを信じてくれるかい」  光子は肩をすくめた。 「信じることにするわ。だって、それでなかったらあの教会の十字架によじ登っていた男を、あんなものすごい勢いで追いかけることはないんですものね。もしあたしがそれを信じないとしたら、あのときのあなたは気が違ってしまったと思うよりしかたがないし、あたしにはあなたが気違いだとは思えないの。つまりあなたを信じる。計算はごく簡単なものよ」  光子はそう言って笑った。 「人に見えないものが僕にだけ見える。いったいこれはどういうことなんだろう」 「なんだか知らないけれど、十字架によじ登って人を挑発《ちようはつ》するなんてどうせろくな人間のやることじゃないわよ。ひょっとすると悪人には尻っ尾が生えているのかも知れないわね。……そうよ、悪魔だわ。悪魔なら尻っ尾が生えている筈よ。普通の人間はみんなだまされて彼らの尻っ尾を見ることが出来ないけれど、あなたは特別なの。悪魔もあなたはだませないのよ」 「すると僕は……」  神崎は皮肉を言われたときのような表情になった。 「そうよ。あなたは天使だわ、きっと。悪魔を退治するために、神様が下界へつかわしになったんだわ」  光子はそう言うと突然たちあがり、両手を高くさし伸べて、 「神よ、来たれ」  と高い声で言った。ちょうどそのとき空白の舞台へ、大道具の係りが銀一色の背景を静かに運び込んで来たので、貼《は》りつめた銀紙の微妙な凹凸《おうとつ》が強いライトを反射して、劇場中《こやじゆう》にキラキラとした輝きをばらまいた。  神崎はその眩《まぶ》しい輝きの中で眉を寄せながら、例のカードを取り出していた。  GOD。それはやはり神を意味するのだろうか。神崎は不安を伴った強い好奇心にとらわれながらそれをみつめていた。 [#改ページ]   不遜な挑発     1  三日間、何事も起らなかった。  しかし神崎は用心して目黒の石川設計事務所へは出勤しなかった。  まったくそれは神崎にとって妙な感じであった。今まで通りの平穏な、と言うより常識的な、当たり前の日々が過ぎて行くのである。その当たり前の世界の中では、豪田卯三郎という超大物の出方を、神崎は怯《おび》えた目で見守っていなければならないのだ。  豪田が報復に出て来たら自分などはひとたまりもないのだ、と神崎は痛いほどそう思う。庶民の一人に対して豪田のような男がたちあがれば、政治家も警察も銀行も暴力団も、みな豪田の側の存在であって、どこからの保護も期待することはできない。一人の庶民が頼れるものは、自分自身の余りにも無名であることだけであろう。彼はそのことにすがって人ごみに紛《まぎ》れ込み、ひたすら逃げるほか方法はない。  神崎が出勤しないのは、そういう強力な敵との戦いに、石川たちを巻き込みたくなかったからである。何と言っても、この間の事件は石川が豪田邸へ神崎を連れて行ったことから起ったのだ。石川は豪田卯三郎に幾らか目をかけられていたから、腹のたてようによっては飼犬に手を噛《か》まれたという風に思うかも知れないし、謹慎、休職、或いは解雇と言うような処分を取らずにいることは、豪田の石川に対する怒りに油をそそぐことになりかねなかった。  だが、それは飽くまでも神崎がこの三十年過して来た、平凡で常識的な世界でのことであった。  どうやら事態はいま、当たり前でないものになりかけているようなのだ。その当たり前でない世界では、尻《し》っ尾《ぽ》の生えた人間がうろついており、彼はその有尾人を見ると抑制不能の怒りに駆りたてられてしまうのである。  光子はそれを、悪魔狩りにつかわされた天使のようだと言う。もしも光子の言う通りだとしたら、怯えなければならないのは豪田卯三郎のほうであろう。  そして現に、神崎が豪田卯三郎の尻っ尾を思い泛《うか》べるとき、毫《ごう》も怯えはないのである。むしろ獲物《えもの》の姿を思い泛べた猟犬のように、次にまみえる時を期待して胸が躍《おど》るほどなのである。またあの豪田邸では、神崎の怒りを受けた豪田卯三郎が、悲鳴をあげながら逃げまわり、遂にはガラス窓に体当たりして庭へ飛び出してしまったのだ。  信じ難いことだが、ひょっとすると光子の言う通りなのかも知れない。  神崎はそう思いはじめている。自分だけにしか見えない有尾人は、実はこの世にはびこる悪魔たちなのではないだろうか。もしそうだとしたら、自分には悪魔狩りにつかわされた天使が乗り移っているのかも知れない。それならあの抑制不能の憤怒《ふんぬ》も納得《なつとく》が行く。 「信じられんなあ」  豪田に知られるのを惧《おそ》れて、ひそかに新宿へやって来た石川は、神崎がそう言うのを聞いて閉口したように首を傾《かし》げた。  そこは光子たちがよく集まる小さな喫茶店で、細長い横丁の突き当たりの建物の二階にあったから、怪しい者が近付いて来れば、彼らが坐っている席の横の小さな窓から、すぐに発見することができた。 「でも、有尾人なんてあり得ないじゃないですか」  光子が口をとがらせる。 「そのあり得ないものを彼だけが見てしまうのよ。あたしだって普通なら気が狂っているんだと言うところよ。でも石川さんは神崎さんを狂っていると思いますか」  石川は渋々首を横に振った。 「それも信じられない」 「でしょう。だったら神崎さんを信じるしかないんじゃないかしら」 「えらいことになった」  石川は実際、少し顔から血の気をなくしているようであった。神崎を信ずれば有尾人の存在を認めねばならない。 「つまり、神を信じれば悪魔の実在も同時に信じなければならないということか」 「私はそんな奇妙なことではないと思うの。だって、この社会にだって正義というものがあって、みんなそれを信じているじゃありませんか。正義があるということは、悪もあるということですよ」 「お前、正義の見方か」  石川は神崎を見て苦笑した。 「いずれにせよ、この三日間平穏だったけれど、その内何か始まらねば納《おさ》まらないような気がするんです」 「おどかしてくれるな」  石川は首をすくめて言った。 「おどかしてるわけじゃありません。僕には判るんです。奴《やつ》らは何か準備しているんです。平穏なのは表面だけですよ」  神崎には確信があった。ただ石川に判らせる方法がないだけなのだ。 「大丈夫かな。あのカードで金を引出してしまったこと……」  石川は目下のところそれが一番気になっているようだ。 「判りませんね」 「そう冷たいことを言うな。もう引き返せない所まで来てしまった気分なんだから」 「僕が本当に天使に憑依《ひようい》されているんだとしたら、きっと何とかしてあげられますし、所長は何と言ったって、正義の味方の味方になるわけですからね」  神崎は笑って見せた。石川もそれで少し元気づけられたらしく、 「じゃ、お前が悪魔狩りに来た天使だってことを認めるとするか」  と微笑を泛べて言った。 「そのほうが気が楽だ。人間、自分の気が安まることを信じるものだからな」 「そうよ、神崎さんを信じてあげて」  光子は真面目《まじめ》な顔で言った。 「判った判った」  石川は腰をあげた。 「いずれにせよ、このまま何事も起らんことを祈るよ。仕事があるからこれで失礼する」 「いそがしいんですか」  神崎は欠勤したままの職場が気になって訊いた。 「いつも通りさ。お前はのんびりしていろ。と言っても、そうのんびりはしていられまいがね」  石川は二人を置いて階段をおりて行った。     2  神崎は石川が去ったあと、光子と小一時間ばかりその小さな喫茶店で喋《しやべ》っていた。  喋りながら、神崎は何度も違和感にとらえられた。光子のような相手と、自分が本気で神について語り合っているのが、ふしぎで仕方なかったのだ。 「そんなにふしぎ……」  神崎がそのことを告白すると、光子は微笑して尋ねた。 「ふしぎさ。だって、僕は今まで誰とだってこんな話をしたことがないもの。……神、だなんて」 「要するに、もうそんな子供じゃない筈だったのにって言いたいわけね」  神崎は少し考えた。 「別に子供とか大人《おとな》とか言うことじゃない」 「そうよ。あなたは自分がもっと俗っぽい人間だった筈なんだけどと言っているのよ」 「そうかな」 「神とか仏とか愛とか人生とか……そういうことに思い悩むには、自分は俗塵《ぞくじん》にまみれすぎてしまっているのだ。……そんな風に考えたがる人って、案外多いのよ。精神的なものを否定はしないけれど、それから遠のいてしまった自分であると確認することで、大人の道を歩んでいるという安堵感《あんどかん》を得るのよ。大人とは要するに俗人。他の人々とおんなじなんだと思いたいのね」 「事実そうだもの。神について考えながら食堂のメニューを見ている奴なんているもんか。食うのが先だよ。生存競争の場で神仏について考えるとしたら、それはご利益《りやく》のことに限る。南無弓矢八幡大菩薩《なむゆみやはちまんだいぼさつ》、あの的をこの矢で射抜かせたまえ、ってね」 「案外古いのね」  光子は笑った。 「そんな自分が、ここであたしと神について語り合っている。ふしぎだなあ、ってわけね」 「そう」  光子は生真面目な表情で言った。 「神というのは、要するにふしぎということよ。ふしぎなものが神なんだわ」 「ふしぎなものが神……」 「ええそう。だから、神のことを考えるのもふしぎなことよ。ふしぎなことについて考えて行くと、神のことになるわけ」  神崎は笑った。 「つまり、ふしぎでも何でもないってわけだね」  光子は店の時計を見あげ、 「あたし、そろそろ行くわ」  と言った。 「送って行くよ」  神崎は伝票を持って先に立った。光子をひかり座まで送って行くつもりだった。  コーヒー代を払ってドアをあけると、そこは二階の踊り場で、狭い階段がまっすぐに出口へ向かっている。下り切ると細長い横丁の突き当たりへ出る。表の通りからその横丁へ入って一気に進むと、その階段へ飛び込んで二階の喫茶店のドアにぶつかることになるのだ。 「毎日、今頃の時間に楽屋入りをするの……」  神崎はそう尋ねた。もう夕方で、夜になる前の盛り場の裏通りには、何となく物哀《ものがな》しいような雰囲気《ふんいき》が漂っていた。 「そうよ」  今日の光子はグレーのスカートに黒いブーツをはき厚手でスカートと同色のセーターを着ていた。 「今度の芝居、結構客が入ってるじゃないか」 「そう。でも、これが終ったら当分公演はなしなの」 「なんで」 「劇場がないのよ。うまく三週続けてひかり座を使わせてもらえたけど、今年はもうこれでおしまいよ」 「そうか」  どうやら光子たちにとっては、新宿のひかり座が檜舞台《ひのきぶたい》らしかった。神崎は光子たちにもっと大きな劇場を与えてやりたいと思った。 「君らも案外大変なんだな」 「案外どころの騒ぎじゃないわ」  光子が笑った。  その時、表の通りから男が二人、その細長い横丁へ入って来た。二人とも背広にネクタイをきちんと締めていて、前の男はその上から黒いコートを袖《そで》を通さずに羽織っていた。  ちょっと柄の悪い感じだったので、神崎は光子をかばうように足をゆるめ、右側へ寄った。すれ違えば肩が触れそうになる道幅であった。  するとなぜか相手も足どりをゆるめた。前のコートを羽織った男は顔を伏せていたが、うしろの男は前の肩ごしに神崎の顔をのぞき込むようにしていた。  神崎は光子が足をとめた気配に、立ちどまって振り返ろうとした。 「神崎さん」  光子がひどく切迫した声で言った。早口で低くて鋭い声であった。  とたんに神崎は、前の男が両腕をさっと左右にひろげたように感じた。全身を痺《しび》れのような緊張感が突っ走り、彼は息をつめて目の前の相手の動きをみつめていた。  男はおどりあがるように一度胸を反《そ》らし、両腕をコートの下から突き出すと、その両腕を外側から内側へ弧を描くように廻しながら、股《また》をひらき、腰を落した。腰を落し切ったとき、男の左手は右の手首を把《つか》んでいて、右手に持った黒光りするものを支えているように見えた。  パチン、と聞き慣れぬ音を神崎は聞いた。その音は乾いて堅い感じだった。  拳銃《けんじゆう》。  音を聞いてから神崎は理解した。その時はすでに左胸に衝撃《しようげき》を受けており、体が強い力で左からうしろへ引っ張られていた。右足が前へ浮きあがり、相手を蹴るような恰好《かつこう》になった。バランスが崩れ、重心が左足の踵《かかと》にかかったのを感じた。横向きになり、右手で何かを把もうとしたが、空《くう》を切るだけだった。左足一本で支えていた体の重心は急速にうしろへ移動し、踏みとどまろうとした踵はむなしく跳《は》ねあがった。両足とも宙に浮き、尻《しり》から落下して行く。落ちるとき、神崎はうしろに突っ立っている光子を見ていた。  左の尻から落ち、顎《あご》の辺にショックがあった。左の肱が強くコンクリートを打ち、反射的にその肱を引いたので、うつ伏せに倒れることになった。その上半身に釣られて、下半身も下向きになる。 「やった」  なぜかその叫びはうしろの男のものだと判った。神崎は右手に力を入れ、自分を射った男を見ようとした。男はまだ股をひらいて両手で拳銃を支えるようにして構えていた。羽織っていた黒いコートが下に落ちるところだった。  神崎は更に上半身を起し、首をうしろへねじってその男を見た。目と目が合うと、相手が強い恐怖にとらえられているのを直感した。 「てめえ」  神崎は罵《ののし》ろうと思い切り体をひねって一気にあおむけになった。とたんに相手は両手をさげ、身を翻《ひるがえ》すとうしろの男を突きとばすようにどかせて、来たほうへ走り出した。 「待て」  神崎が叫んだ。今度はうしろの男と目が合ったが、すぐその男も逃げ出した。  その時になって、神崎は自分の胸から真《ま》っ赤《か》な血が噴き出しているのを知った。     3  神崎は茫然《ぼうぜん》と自分の胸をみつめた。噴き出した自分の血は意外に熱い感じだった。それに綺麗だった。  心臓だ。  そう思うと、無意識に手が傷口へ行った。見る間に左手が赤く染まった。神崎はしばらくじっとそれをみつめていた。 「神崎さん」  光子がやっと呪縛《じゆばく》を解かれたように動いた。 「大丈夫」  駆け寄って言う。 「大丈夫なわけはない」  光子の言い方がおかしくて、神崎は微笑した。 「心臓を射たれたもの」  死ぬのは案外簡単だなと思った。苦痛はなく、ただ転倒した時にコンクリートへ打ちつけた左肱が少し痛む程度だった。  それにしても、次の瞬間プツンと意識が絶えるように感じ、それが来るのを待った。 「背中からも血が出てる」  光子は血に染まって行く神崎の体に触れかねて、両手を胸のあたりにあげていた。  神崎はそう言われ、道に尻をつけたまま、血まみれの左手を背中へ廻して探った。手の甲にあたたかいものがぬるりと触れた。 「貫通したようだな」 「神崎さん」  光子は湿った声になって言った。誰が見ても心臓を射ち抜かれたのははっきりしていた。 「びっくりしたなあ」  そこでこと切れてもよかった。だが、痛くもかゆくもない。 「そうだわ、一一九番へ……」  しゃがんだ光子が腰を浮かしかけると、神崎はとめた。 「よせ」 「どうしてよ、そんな血だらけで」 「心臓をやられたんだ。死ぬならすぐ死ぬよ」  神崎はそう言うと、左手をまた胸へ当てた。 「でも、血がとまりはじめてるようなんだ」 「苦しいでしょう」  光子は神崎の体を支えようと手を伸ばした。 「血で汚れるからよしなよ」  神崎は光子から体を引いて言った。いつも通り動けるようだった。思い切って立ちあがって見る。大丈夫、立てそうだった。 「動いちゃだめ」  光子が叱った。神崎はかまわず立ちあがり、左肩を上下させて見た。 「平気らしいぞ」  そう言うと、急にうれしさがこみあげて来た。 「何てことだい。僕は平気らしい。心臓をやられたって言うのにさ」  思わず陽気な声で言った。それにしても、あの拳銃の音は案外小さく、辺りにはそれと気付いた者もいないようだった。 「ほんとに大丈夫……」 「見なよ。この通りさ」  神崎は両肱を横へ張って、二、三度威勢よく胸を張って見せた。 「呆《あき》れた。どうなってるの」 「とにかく命に別条はないようだ」 「よかった」 「行こう」 「だめよ、血まみれじゃないの」  突き当たりの階段を誰かがおりて来るようだった。 「早くこれを着て」  光子は素早く落ちていた黒いコートを拾いあげた。 「うん」  神崎はあわててそれに手を通した。ボタンをはめおわった時、喫茶店にいた二人連れが彼らの前を通り過ぎて行った。 「どうしよう、あたし」  光子は途方にくれた顔になっていた。 「どうしたの」 「あなたのことよ。どうしたらいいのかしら」 「君は俳優だろ。舞台に穴をあけちゃいけない。送って行くよ」 「だって、そんな体のあなたを……」 「心臓をぶち抜かれたので少し血が出ただけだよ。もう治った」  ありのままを言ったのだが、とたんにおかしくなって自分から笑いはじめた。 「そうさ。心臓をぶち抜かれただけさ」 「奇蹟だわ」  光子が目をうるませて言った。 「あなたにはやっぱり天使が乗り移っているんだわ」 「こうなると、そうとしか考えられないな」  神崎は歩き出した。コートは少しダブダブしていた。  細い横丁を出ると、光子は神崎の腕に手をかけた。二人は腕を組んで歩いた。 「血、本当にもうとまったの……」 「うん」 「痛みは」 「全然」 「ふしぎねえ」 「神とはふしぎなものだって、さっき自分で言ったばかりじゃないか」 「ねえ、楽屋へ来て。その血を何とかしなければ」 「迷惑じゃないかい」 「平気。よく血の出る芝居なんかやるから、何とか誤魔化せると思うわ」  光子の態度が変化していた。彼女は自覚していないようだが、神崎に頼り、甘える風情《ふぜい》であった。     4  意外に光子は世話女房タイプらしく、ひかり座の楽屋へ入ると何本も濡《ぬ》れたタオルを用意して、神崎に裸になって血を拭《ふ》くように言った。衝立《ついたて》のかげで裸になった神崎が体を拭いている内に、古いズボンやシャツを探し集めて来る。 「ねえ、傷口を見せてくれる」 「いいとも」  神崎は着たばかりのシャツのボタンを外して左胸をはだけて見せた。 「赤くなってる」 「うん」 「背中は」  神崎はうしろを向いてシャツのボタンを全部外し、肌脱ぎの形になった。 「背中も丸く赤いあとがついてるわ」 「どんどん赤さが薄くなっている。すぐになくなってしまうよ、きっと」  神崎は他人《ひと》ごとのように言ってシャツを着た。 「見て。服には穴があきっ放し」  血まみれの上着とシャツには、銃弾であいた穴が残っている。 「変だな、少し」  神崎はぼやくように言って、大きな姿見の前に立った。ズボンもシャツもよれよれで、それに体に合っていなかった。 「そうだ。あのカード、今も持ってる……」 「GODカードかい」 「ええ」  神崎は血のりでどうしようもなくなった上着からそれをつまみ出した。 「お金は」 「少しあるよ」 「血がつかなかった……」 「いい具合についていない。……血まみれの札《さつ》を使ったらびっくりするだろうな。うしろ暗い金だってすぐ判っちゃう」  神崎は陽気に笑った。心臓を射ち抜かれてもピンピンしていることが、愉快で仕様がなかったのだ。 「裏口の階段を出たところにサウナ・バスがあるの。そこへ行ってちゃんと体をきよめていらっしゃいよ。そろそろみんな出て来る頃だし」  光子はそう言い、カードを手にして何か口ごもった。 「何だい」 「これ、使ってみていい……」 「どうするんだい」 「大きな銀行ならどこでも通用するって言ったわね」 「ああ。でももう時間が」 「七時までやっている所もあるわ。十万か二十万、引き出して見てもいい……。例の、カードをいれるとお金が出て来る機械でよ」 「かまわないが、うまく使えるかな。それに、何に使うんだい」 「ここへ出入りしている洋服屋さんがいるのよ。その恰好じゃ変だし、こっちの服はもう汚れて穴があいてて着られやしないわ。その人は名人なのよ。どんな人のでも、ちょっと寸法を測っただけで、ピッタリの既製服を持って来てくれるわ。靴《くつ》まで揃《そろ》えてね」  神崎は指を鳴らした。 「そいつはいい。たのむよ」 「多分もうすぐ来ると思うわ。あたし銀行へ行って来るから、その洋服屋さんが来たら寸法を測ってもらっていて。痩《や》せて背の高い五十くらいのおじさんだからすぐ判るわよ。そのあとでサウナへ行ってゆっくりしてれば、多分帰って来る頃には服が届いてる筈」  光子はそう言うと、空の紙袋を引っぱり出して来て汚れた服を突っ込んだ。 「これ、捨てちゃってかまわないでしょう。血が付いてるから焼却炉へ放り込んじゃうわ」 「ああ、まかせるよ」 「はい、このサンダルをはいて頂戴」  光子はテキパキと事を運んで行く。  神崎は、しばらく楽屋の隅の丸い木の椅子に坐っていた。一人、二人と劇団員がやって来て、ちらりと神崎を見たりするが、別に気にしてはいないようだった。  やがて光子の言った通り、痩せて背の高い男がやって来ると、 「神崎さん……」  と近付いて来た。 「外で光子さんに会って聞いたんだけど」  巻尺をとり出しながら言う。 「お願いします」  神崎は立ってその男に寸法を測らせた。 「シャツも、靴も、ネクタイもね」 「ええ。できればハンカチや靴下、それに下着も」 「はいはい」  男は別に意外そうでもなく軽く答えると、そのまま楽屋を出て行った。  すっかり楽屋がにぎやかになっている。神崎は洋服屋が出て行った裏口の階段を、木のサンダルを突っかけて、カタン、カタンとゆっくり登って行った。  裏通りへ出ると、光子が言った通りすぐそばにサウナ・バスの看板が見えていた。神崎は金を払ってバス・タオルなどを受取ると、奥へ入って行った。  熱い木の部屋の中で思い切り汗を流し、丹念に体を洗って浴槽の湯につかり、また木の部屋へ戻って、出ると再び湯につかる。  俺はなぜこんなにのんびりしていられるのだろう。  湯につかりながら神崎はそう思った。ついさっき、拳銃で体をぶち抜かれたばかりなのだ。  そうか、自分が不死身だと判ったからなのだな。  神崎は湯の中でそう納得する。  突然神崎は感じた。  ふっと目まいがして、底へ引きずり込まれるようなその感覚。目をあけると緑の丘に花が咲き乱れ、赤い実をつけた樹木が繁っているのが見えるのだ。そして、卵形のものがフワフワと風に浮いて合唱している……。  きっと自分はそういうものを湯の中で思い出すに違いない。伊東のホテルで目覚めたあともそれを思い出したのだ。  既視感覚《デジヤ・ヴユー》という奴かも知れない。神崎は心の片隅でそう思いながら、いま予感した通りの回想にひたって行った。  が、それは伊東のホテルの時と少し違っていた。既視感覚の中にいるような、あいまいで複雑な心理状態が思ったより長く続き、その奥のほうから、ひとつの別な絵が泛びあがって来た。  麻雀屋《マージヤンや》の中だった。煙草の煙がこもった中で、一人の男が牌《パイ》をいじっている。横丁で銃口を向けた男だった。  その絵がすっと沈んで行くと、今の絵よりずっとあいまいな別な絵が現われた。どこかの大きな部屋に、一人の男が坐っている絵だ。その絵はもやもやと揺れ動いて定着しなかったが、神崎の心から消える一瞬、男の尻にあのいやらしい尾が生えているのが判った。  とたんに神崎は浴槽からとび出した。冷水のシャワーを浴びて体を引き緊めると、すぐに体を拭いて服を着た。  神崎の顔からいっさいの表情が消え失せていた。  ひかり座の楽屋へ戻ると、洋服屋が待っていて、金はもう光子からもらったと言いながら、持って来た服を着るのを手伝ってくれた。  ひょっとすると、楽屋へ出入りするその洋服屋は、神崎が舞台で着る服だと思っていたのかも知れない。黒地に細い白のストライプが入ったスーツで、白っぽいベストをつけた所は、ちょっとギャングじみていた。  神崎は着がえると、礼も言わずにまた裏口へ出た。  池袋へ。  なぜか彼は自分の行先を知っていた。池袋の麻雀屋にあの男がいるのだ。そいつをつかまえれば、有尾人のところへ行き着ける。  神崎は手をあげてタクシーをとめ、池袋へ向かった。     5  一度も足を踏み入れた憶えのない暗い道であった。しかし神崎はためらいもせず、ピカピカの新しい靴を鳴らして進んで行った。  小さなビルの三階の窓に、麻雀、という赤い文字が見えている。神崎は階段の横のエレベーターのボタンを押して扉《とびら》をあけると、中へ入って3の数字に灯《あか》りをつけた。  エレベーターは登ってすぐとまる。出るとすぐ左に麻雀屋のドアがあった。  ドアを押して中へ入る。十卓ばかり並んでいて、空《あ》いているのは二卓だけだった。湯につかっていた時心に泛んだ通り、煙草の煙がこもった部屋だった。  未知のものを記憶しているのは妙な感じだったが、神崎は無表情のままであった。  みなゲームに夢中だったし、店の者もどこかの卓へ勝手に行くときめ込んでいて、声もかけようとはしなかった。  あの男は入口に背を向けていた。神崎は顔をたしかめる必要もないくらい、めざす相手のいる位置を知っていた。  黙って近寄り、いま牌を一枚場に捨てようとしている男の右肩を左手で把《つか》んだ。 「ん……」  その男は首をねじって神崎を見あげた。とたんに牌が手を離れ、卓の中央に落ちた。他の三人がムッとしたように顔をあげて神崎を睨《にら》む。 「来い」  神崎が無表情で言った。男の顔はもう蒼白《そうはく》になっている。肩を把んだ神崎の手に少し力が加わるのを感じると、男は椅子を尻で押して立ちあがった。横丁でうしろについていたほうの男はいないようだった。  神崎は男の肩を押し、突き放すようにドアへ向かわせた。自分もそのあとから歩く。男は未練がましく二度ほど卓に残した仲間を振り返って見ようとしたが、その都度神崎に背中を小突かれてやめた。  それはごく短い間の出来事であった。残った仲間も堅気《かたぎ》の風体《ふうてい》ではなかったが、口をさしはさむ間もなく二人に出て行かれてしまったようだった。  神崎は階段の上が暗くて静かなのを感じると、その男を小突いて四階へ登らせた。 「い、生きてたのか……」  四階の踊り場で、男はやっと震え声で言った。 「誰に頼まれた」 「い、言えねえよ」  神崎は自分の右腕が大きく動くのを、まるで他人ごとのように感じていた。  パシッと男の左頬が鳴る。 「言えねえよ」  痛みが男をかえって冷静にしたようだった。そういうことには慣れているに違いない。 「言ったほうがいい」  神崎は冷たい声で言った。 「誰が喋《しやべ》るもんか」 「狙《ねら》いを外したと思ってるのか」  男は肩をすくめた。 「外す筈のない近さだったんだがな」 「お前は外さなかった。心臓をぶち抜いていたよ」 「まさか。それなら生きてる筈はない」  男は薄気味悪そうに言った。 「射たれたが生きている。これがどういうことか判るか」 「知るもんか」 「お前は俺を射った。本当なら俺はもう死体になっている筈だ。だからお前は、俺に何をされても文句は言えない立場だ」 「文句も言わねえかわり、ほかのことも喋らねえ」 「それじゃ好きにしていいな」 「糞《くそ》……」  男は逃げようとした。神崎が足を払うと三階へころげ落ちて行った。それでも起きあがって麻雀屋へ逃げ込んでしまう。あとを追って中へ入ると、二、三卓、入口の近くにあるのへ体をぶつけて牌を崩したところだった。 「何しやがんだよ」  喚き声があがり、一瞬部屋の中は静かになった。 「た、助けてくれ」  男は仲間のところへ行って言った。 「何だ、あの野郎」  三人が立ちあがった。神崎が無表情でそのほうへ歩み寄る。 「邪魔をするなよ、兄さん」  一人がそう言って一歩前へ出たが、神崎の手が動くと、うしろの卓の上へあおむけに引っくり返った。 「こいつ」  そう言って掴《つか》みかかったほうも、呆気《あつけ》なく吹っとぶ。 「表へ出よう、表へ。ここじゃ皆さんに迷惑……」  言いかけた奴も壁へはねとばされた。 「誰に頼まれて俺を射った」  神崎は男の襟《えり》を両手で把《つか》んで訊いた。 「射った」  誰かが鸚鵡《おおむ》がえしに言い、部屋中の客が怯えたようだった。 「言えねえんだ。見のがしてくれよ」  男は苦しそうに言った。 「言うなよ」  仲間の一人が起きあがりながら言い、白く光るものをとり出した。 「やめて。外でやって」  店の女が黄色い声で言った。刃物を持った男は、その声に煽《あお》られたように、神崎めがけて突っかけて来た。神崎は男の襟を両手で把んだまま、それをじっと見ていた。  自分の腹の辺りへ両手で短刀を構えた奴が、体ごと一気に神崎へぶつけて来た。神崎はよけもせず、ちょっと息をつめた。  白刃がズブリと体にささり、ひねるように引き抜かれた。  あの横丁の時と違って、今度は承知の上でやられた。勝手にやらせたのだ。  そのせいだろう。今度は血も出なかった。  血も出ないことを、どうやら神崎は知っていたようなのだ。  昂《たかぶ》った顔で短刀を引き抜いたその男は、ひと息入れてから異変に気付いたようだった。 「畜生」  怯えた声で叫ぶと、また刃《やいば》を突きたてて来た。二度、三度、四度。     6  神崎は男の襟をはなした。  どうやらその三人組も夕方の狙撃《そげき》の件を知っているようなのだ。 「何度刺しても俺には通じない」  四度目に相手を突き離し、自分でその短刀を体から引き抜いた神崎が言うと、三人ともへタへタと床に坐り込んでしまった。 「あ、あんたは豪田卯三郎をおどした」  一人が言った。 「誓って言うが、豪田さんがあんたをどうこうしろと命令したわけじゃない。でもよ、それを聞いたら黙ってるわけには行かない人間だっている。豪田さんをおどした奴をどうにかすれば、手柄になるしな。豪田さんのところへ押しかけたのは二人組だったと言う。俺たちだけじゃない。いろんな奴がその二人組を勝手に探しはじめたのさ。こっちは下っ端さ。そういう手柄はさっさといただいて、早いとこ浮かびあがりてえじゃねえか。それでこいつがやったんだよ」  実際に手を下した奴でないほうが、こういう時は口が軽いようだった。 「豪田って、あの財閥の豪田のことか」  どこかで客がささやいているのが聞こえた。  その連中の言うことはたしかなようだった。たしかに世の中はそういうように動くものなのだろう。 「また穴があいた。今日はこれで二着目だ」  相手を許す気になった神崎が、上着を見ながらそう言うと、四人はいっそう凄味《すごみ》を感じたようだった。 「勘弁してくれ」  揃って頭をさげた。 「今、二人組と言ったな」  神崎はふと気になって訊いた。 「そういう噂《うわさ》だ」  石川のことが気になって来た。短刀を床に投げ捨て、ドアへ向かった。 「ばけ物だ……」  一人がそうつぶやいていた。  心配して池袋から石川の家へ電話をすると、案の定石川はまだ帰っていないと言う。  その頃には気が抜けたような感じで、例の既視感覚のようなものが消えてしまっており、神崎はとにかくひかり座へ戻った。  舞台は終幕に近いようだった。  神崎は楽屋で芝居が終るのを待ちながら、石川のことを考えていた。  誰かに連れ去られる危険性は大きかったが、さりとてこの時間にまだ帰宅していないことを、すぐそれにつなげて考えるのもどうかと思われた。どこかで飲んでいるのかも知れない。  と言って、探す当ても今のところないのだ。  俺は不死身だ。  また考えはそのことになる。それは底の知れない解放感を神崎にもたらすのだった。 「神は不滅だ」  舞台から、そんな台詞《せりふ》が流れて来る。  そうだ、俺は不滅なのだ。神崎はそう思った。 「吸血鬼も不滅よ」  光子の声だった。 「吸血鬼も神と同じように不滅なのよ。しかも吸血鬼は伝染性があるわ。でも神にそれがあって……。神にも吸血鬼のように仲間を増やす力があるなら、この世はとうに天国になってしまっているわ」  光子の笑い声が響いた。  ふと神崎は、自分の立場を裏返しにして考えた。  豪田卯三郎たち有尾の者にとって、自分は恐るべき吸血鬼のような存在なのではなかろうか。死を失った者。  神崎はそう考えるとぞっとした。たしかに死を失ってしまったのかも知れないのだ。心臓を射抜かれても、どこを刺されても死ぬことのできない人間になってしまったのだ。不死身になってうれしがっているが、その不死の快感は、ちょうど悪魔の愉悦に相当しているのではあるまいか。  思いあがり。  神崎の頭の隅を、そんな言葉が通り過ぎて行った。  俺は思いあがっているのかも知れない。もともとは平凡な人間の一人なのだ。それが異常な力を与えられて、有頂天になっているそれだけのことだ。操られているに過ぎない。本当の力は自分以外の所にあり、俺はその力をかさに着て、人々を見下そうとしているらしい。  そんな思いも、舞台から聞こえて来る光子の最後の台詞《せりふ》でけし飛んでしまった。 「神よ、来たれ」  すると楽屋に坐っていた神崎に、神がやって来たようだった。     7  神崎は急にまた風呂《ふろ》へ入りたくなって、舞台に幕がおりる前に楽屋を出た。  あのサウナ・バスへ行き、今度は裸になるといきなり浴槽へ体を沈めた。  とたんにあの既視感覚に似たものが襲って来た。もう慣れはじめていて、そのふしぎな感覚の中でも、多少自分なりに考えることができた。  何者かが、湯につかれと命じたらしい。それでそこへ来たのだ。湯につかると、あの伊東のホテルで見た妙な夢を思い出すのだ。その夢の記憶は、直ちに既視感覚のようなものを呼びさまし、そして絵が現われる。  絵には石川が現われていた。石川は十人ほどの男たちに取り囲まれ、椅子《いす》に坐らされて尋問されていた。  尋問の内容は神崎についてであった。男たちは神崎のことを詳しく知ろうと、石川を責めているのだった。  突然、また神崎は浴槽を飛び出した。その男たちのうしろに、あのいやらしい有尾人が見えたからであった。  神崎は急いで服を着ると、また通りでタクシーをつかまえて、 「丸の内」  と行先を告げた。  さっきの無気味なほどの無表情な顔になっていた。  職務の執行。  神崎をそのような顔にさせているのは、与えられた重大な職務をとり行なうように感じているからだった。それは神聖なものであり、不可侵のものにかわって、厳正に執行しなければならないのであった。  彼らは罰せられなければいけない。  神崎はひたすらそう思い続けていた。その者どもを罰することが彼の仕事であった。 「そこでいい」  神崎はひっそりとした夜のオフィス街へ入って車をとめさせた。どこからそのビルに入るべきか、またしてもよく判っていたのである。  タクシーが去り、神崎の靴音が響いた。  カタン、と軽い音を谺《こだま》させて、通用門のくぐり戸が開いた。神崎の姿がビルの裏口へ消える。  裏口の守衛とガードマンが一人ずついて、近付く神崎を見つめていた。  神崎はまず若いガードマンに近寄り、いきなり右の拳《こぶし》を顎《あご》に叩《たた》きつけた。すぐ守衛室の中へ入って、中年の男の腹を蹴る。  二人とも呆気《あつけ》なく悶絶《もんぜつ》した。  神崎は別に靴音を忍ばせるでもなく、階段を登りはじめた。四階、五階、六階……。  七階の廊下へ出ると、そこには絨緞《じゆうたん》が敷いてあった。足音が消える。  だが、廊下の先に男二人立っていた。神崎はさっきと同じように、堂々とそのほうへ近寄って行くと、物も言わずに二人を撲《なぐ》り倒した。用心棒らしいその男たちの、あとから撲られたほうは、さすがにもう拳銃を把んではいた。  倒れた二人をよく見もせず、神崎はドアをあけた。そこは秘書室のような感じの小部屋で、やはり男が二人いた。 「お……」  と言って立ちあがろうとするのを、神崎は素早く椅子ごと突きとばし、一発ずつ深々と靴で蹴った。  今度は物音がしたから、その小部屋の中にあるもうひとつのドアがあいて、 「どうした」  と男の顔がのぞいた。  半びらきに内側へ引かれたそのドアを、神崎は思い切り蹴とばした。  バタン、と大きな音がして、顔をのぞかせた男が吹っとび、ドアの上の蝶番《ちようつがい》が外れてしまった。  湯につかっていて感じたとおり、十人ほどの男が椅子に押しつけられた石川を取り囲んでいた。 「誰だ」  そんな声がした。 「神崎順一郎」  神崎は冷たい声で名乗った。彼らが自分の名を知っていることが判っていたのだ。  げ……と言うような声があがり、男たちが一斉に身構えた。神崎は何の備えもない態度で、まっすぐ石川に近寄って行った。 「怪我《けが》は……」 「おお、神崎」  石川はそう言ってから、 「別にないよ」  と答えた。 「家へ帰ってください。あとは僕が」  神崎は石川の手をとって椅子から立たせた。 「どうする気だ」 「あとはまかせて」  二人のそんなやりとりを見守っていた男たちが、堪《たま》りかねたように言った。 「そうは行かん」 「ちょうどいい所へ来たな」  神崎はちらりと声のほうへ目をやった。怯えたような目があり、それが居直ったように無言で襲いかかって来た。  が、右手首を神崎に両手で把まれて、思い切り振られると窓のほうへ自分から突っ走ってしまう。厚いガラスに頭をぶつけて、鈍い音と共に引っくり返る。  不死身の相手だという知識を、男たちはすでに与えられていたのかも知れない。最初の男の失敗に警戒して、急には襲って来ない。 「早く帰りなさい」 「おう、そうさせてもらう」  石川は案外気丈な声で言うと、素早く部屋を出て行った。あとを追いかけた男も、その方へ半歩動いた神崎に怯えて足をとめてしまった。 「尻っ尾のない者は殺さん」  神崎が言った。  勿論《もちろん》、その男たちには何のことか判らなかった筈だ。  しかし、突き当たりの壁を背にした小男だけには、それで充分に通じた筈だった。  尻っ尾のない者は殺さん。つまり、ある者は殺すということだ。 「守れ。俺《おれ》を守れ」  黄色い声で叫んだ。 「そいつの名を訊こう」  神崎はいちばん前にいる男に言った。 「豪田雄介氏だぞ」  そう言えば神崎が怯《ひる》むと思ったのかも知れない。 「卯三郎の息子か」  神崎が言う。 「守れ。守ってくれ」  それは新宿の喫茶店で近付いて来て、そのあと教会の十字架の上で神崎を挑発したあのいやらしい小男であった。 「お前を殺す」  神崎は冷たい怒りが体一杯に溢《あふ》れて来るのを感じながら言った。 「やれ、やってしまえ」  小男は黄色い声で叫び、 「警察だ。早く警察を呼べ」  とも言った。  神崎は息をつめた。何人かが拳銃を把んだのを見たからだった。  次の瞬間、その部屋に銃声が何発も重なり合って響いた。  だが、予《あらかじ》めそれに備えていた不死身の神崎には、まるで通用しなかった。神崎は軽いショックすら受けることなく、小男のほうへ進んで行った。  銃弾の効果がないと知ると、男たちは声をあげて一度に神崎にとびかかって来た。一瞬神崎の体は男たちの体にかくれて見えなくなったが、数呼吸のちには、その男たちが真ん中から割れるように引っくり返されていた。  神崎は小男に迫った。小男は部屋の隅に追いつめられ、両手で顔を掩《おお》うと、うしろ向きになって膝《ひざ》をついた。 「お父さん、助けて」  つぶやいている。  神崎の両手がその首にかかって輪を作った。うしろから男たちが引き離そうとしたが、とうとう豪田雄介が生きている内には引き離せなかった。  その部屋の中へも、パトカーの近付いて来る音が聞こえはじめていた。 [#改ページ]   全能の戦士     1  神崎は自分で感じていたより、はるかに強力な存在になっていたようである。  豪田雄介を絞め殺して一階へおり、通用門から出ようとした時、七階にいた用心棒たちの何人かが神崎を追って来ていた。  その上、外にはパトロール・カーが四、五台も集まって、薄暗いビルの谷間に赤い光を明滅させていた。 「出て行くぞ」  追って来た男たちがそう叫んでいた。 「豪田さんを殺した犯人がそっちへ行く」 「そいつが殺したんだ」  男たちは神崎の不死身を思い知らされていて、うしろから騒ぎ立てるだけで襲っては来なかった。  通用門の入口には二人の男が昏倒《こんとう》していて、警官たちは既にそれを発見していた。その警官たちに神崎の背後からの声が聞こえた。神崎は大して急ぎもせず、悠然《ゆうぜん》と通用門に近付いていた。  普通なら絶体絶命の窮地に陥った筈《はず》であったが、神崎は前の警官たちが自分の障害にはならないことを直感していた。神崎にとってそれは確実なことだったが、どうやってその場を自分が脱するのか、よく判《わか》らなかった。  うしろで騒ぎたてていた連中の一人が、気をきかせて廻り込むようなコースで神崎を追い抜き、警官たちの所へ走った。  混乱はその時起った。 「捕まえろ。そいつが豪田さんを殺した犯人だ」  神崎の背後でそう叫び続けるのが聞こえていたが、前方の警官たちは何を錯覚したのか、神崎を追い抜いて行った用心棒にいきなり飛びかかって行ったのである。  面喰《めんくら》ったのはその男だ。 「何をする。俺《おれ》じゃない。そいつだ」  警官たちに抗議しながら、たった今追い抜いたばかりの神崎を指さそうと右手をあげた。  しかしその右手の指は、さし示す相手を失って当てもなく自分の仲間たちのほうへ動いただけだった。 「違う。そいつじゃない」  追って来る男たちは口々にそう叫んだ。警官たちに戸惑いの表情が泛《うか》んだ。  神崎は通用門の所にかたまった警官たちの間をすり抜けるようにして門外へ出た。しかしその通りにも警官が三人ほどいて、停《と》まったパトロール・カーの中から、丸の内での事件を知らせる声が聞こえていた。  神崎はニヤリとした。  通用門へ近付いて行く自分が、警官たちには見えなかったのだ。……そう思うと、つぶやいてしまった。 「俺は逮捕できない」  すると近くにいた警官がギクリとしたようにあたりを見廻した。 「どうした」 「今、何か言ったか」 「いや、何も……」 「おかしいな。誰かが、俺は逮捕できないと言ったぞ」 「まさか」  門の外の警官たちはそれでも急に道路に気を配りだした。  神崎は歩きはじめた。しだいにその通用門から遠のきながら、声をあげて笑った。 「俺は決して逮捕されない。お前らにはそういう力はないのだ」  七階から追って来た男たちにとっても、神崎はすでに不可視の存在になっているらしかった。消えたと言って騒いでいたのが、その声を聞くと驚いて外へ飛び出して来た。パトロール・カーがまた一台やって来て、ゆっくりと遠のいて行く神崎とすれ違ったが、気付いた様子もなく、通用門の前まで疾走《しつそう》してブレーキの音を立てた。  ビルの谷間を出て行く神崎の心は、至って爽《さわ》やかであった。豪田雄介を絞め殺したばかりだと言うのに、奇妙なほどカラリとした心境なのだ。  罪悪感のかわりに、義務を果した誇らしさがあった。追われる怯《おび》えのかわりに、次の獲物《えもの》に対する気負いがあった。  そのすがすがしい気分の中で、神崎は今起ったことを考えて見た。  誰にも悪魔の尻《し》っ尾《ぽ》は見えない。悪魔の尻っ尾を見ることができるのは自分だけなのだ。尻っ尾が見えない者は、悪魔を自分たちと同じ人間だと思い込む。悪魔を殺しても人間が殺されたと思ってしまう。  だが悪魔は滅ぼさねばならない。そこで尻っ尾を見ることができる自分が悪魔を滅ぼした。正義を行なったのだ。ところが、尻っ尾の見えない者はそれを殺人だと思ってしまう。その誤解を避けては正義は行なえない。そこで正義を行なう者には特権が与えられる。警官たちの目に見えなくなったことがその特権だ。  常人にとって悪魔の尻っ尾は見えない。それと同じように、悪魔を殺した直後の自分は常人には見ることができない。このルールはバランスがとれている。  神崎はいつの間にか自分が悪魔狩りのハンターであり、刑の執行人であることを自覚しはじめていた。神の代理としてそれを行なうのだ。  神崎は広い通りへ出た。日比谷《ひびや》の交差点が前方に見えていた。そこへ赤い空車のランプをつけたタクシーがひとかたまり走って来た。神崎は反射的に右手をあげた。  するとタクシーが停まった。  神崎はそのタクシーに乗り、 「新宿」  と行先を告げてから、またニヤリとした。もう見えているのだ。不可視である必要がなくなっているのだ。だから手をあげたらタクシーが停まったのだ。 「何かあったようですね」  運転手が気軽に話しかけて来た。 「そうかい」 「パトカーが何台もすっとんで行きましたよ」 「ほう……」 「でもね、夜中の丸の内の出来事じゃ、あたしらには関係ないね」  運転手はそう言って笑った。 「神よ、来たれ、か」 「え、何のことです」 「何でもないよ」  神崎は軽く笑った。     2  光子はまだひかり座の楽屋にいた。神崎が池袋から帰って来た時、舞台は終幕間際だった。神崎はサウナ・バスへ行って啓示を得ると、すぐその足で丸の内へ行ってあのビルの七階へあがり、目的を果して戻って来た。車で丸の内まで往復した程度の時間しかたっていないのだ。  それでも彼女の仲間はみな帰ってしまい、薄暗い楽屋に一人で淋《さび》しそうにしていたが、神崎の姿を見ると待ちかねたように近寄って来た。 「どこへ行ってたの。心配していたのよ」  少し恨みがましく言い、すぐ笑顔になって神崎の姿を満足そうに眺《なが》めた。 「素敵。似合うわ」  たしかにその服は神崎の体にピタリと合っていた。  が、すぐに眉《まゆ》を寄せた。 「あら」  神崎の体にすがりつくようにして服を撫《な》でまわした。 「あら、あら……大変。穴だらけだわ」 「短刀と拳銃でやられたのさ」  神崎は光子の髪に触れながら言った。 「またなの」 「こっちから出向いたんだ。尻っ尾の生えた奴を一人かたづけた」 「でも血が……」 「服が血で汚れていないと言うんだろう。そうさ。僕はだんだん成長しているらしい」 「成長……」 「うん。神の使徒としてね。だから今度は血も流さずにすんだ。やられる時、それを意識していればどうということはない。ショックを感じないんだ」 「すばらしいわ」  光子はうっとりとした表情で神崎をみつめた。 「でも穴だらけよ。これじゃ明るい所へは着て歩けないわ」 「注意して見なければ判らないさ」 「だめ。神さまのお使いがこういう服を着て歩いちゃいけないわよ。ここで待っていてくださる」 「どこへ行くんだ」 「またあのおじさんのところ」 「買ったばかりなのにな」  神崎は自分の服を見て苦笑した。 「お金はあるわ。あのカードはこういう時に役立てるものよ」  光子はそう言って裏口の階段へ行きかけ、ふと足をとめて振り向いた。 「あなたは神さまの召使い。そしてこれからあたしはあなたの召使いになるの」  光子はじっと神崎を見つめ、急に身を翻《ひるがえ》すと階段を駆け登って行った。  それを見送った神崎は、光子という女を以前よりずっと子供っぽく感じている自分に気付いた。神崎自身の変化もさることながら、光子のほうがそれ以上に、神崎に対してへりくだる態度をとりはじめているのだ。 「俺を信じたせいだ」  神崎はそうつぶやくと、木の丸椅子《まるいす》に腰をおろした。  次の獲物はどこにいるだろう。豪田卯三郎は当分あの邸《やしき》へは戻って来る筈はないだろうし……。  神崎は仕事について考えはじめる。自分の新しい仕事……神の仕事。  いったいこの世の中に、どれくらいの数の悪魔が棲《す》んでいるのだろうか。数の見当はつけようもなかったが、獲物のことを考えると胸が躍《おど》った。血が騒ぐようだった。  それにしてもあの小悪魔め……。  神崎は豪田雄介のいやらしい尻っ尾を思い泛《うか》べた。そして、雄介についてまず考えをまとめて置くべきだと思った。  なぜなら、あの悪魔は神崎が神の使徒になった直後から、その事実を知っていたようであるからだ。  伊東のホテルで目覚めた時、すでにその顔が記憶にあったのだ。だから、光子を探しに新宿へやって来た時、あの顔を見てすぐに思い出したのだ。その上、雄介のほうも「憶えてくれていましたね」となれなれしく笑いかけて来たのだ。  前後不覚の状態で伊東のホテルへ行ったのが、神の命令によって不死身の男に変身するための儀式だったとすれば、豪田雄介はすでにその儀式の過程のどこかで顔を出していたことになる。  偶然だろうか……。いや、そうではあるまい。豪田雄介はすでに財界の一部に確固とした地歩を築きあげている人物だった。ところがあの晩神崎が辿《たど》った道筋には、名の知れた財界人が現われてもおかしくない店などありはしなかった筈だ。  と、なると、神の命令が発動されることを知っていなければならない。その情報をキャッチして、いち早く神崎の顔を見に出て来たと考えるのが妥当だろう。  その夜はまだ神崎は不死身の男にはなっていなかったのだろうから、雄介に危険はなかったかも知れない。だが、そのあとのことは大胆不敵と言うほかはない。  あの小さな喫茶店で、雄介はわざとらしく神崎に尻《しり》を向けて床から物を拾いあげて見せたのだった。神崎が尻っ尾を見たのはその時が最初だった。  たしかにあれはわざと尻っ尾を見せたのだ。つまり、まだ神の使徒として自覚がはっきりしない神崎に、悪魔の存在を教えて任務につくことを早めさせたことになるではないか。  いったい何の為にそんなばかげたことをしたのだろう。しかも、そのあとご丁寧に教会の十字架の上へよじ登って挑発《ちようはつ》までしている。  神崎は光子を置き去りにして雄介を追いかけた夜の道を思い出し、それは自然に豪田卯三郎を追いまわした時の記憶へつながって行った。  ひょっとすると、その父子の間に何かの確執《かくしつ》があったのではあるまいか……。神崎はそう思った。  それだと筋が通るのだ。息子の雄介は、父親の持つ力を早く相続したがっていた。それで悪魔の存在をことさら早く神崎に教えたがったのだ。  なぜなら、豪田卯三郎と神崎の上司である石川の関係は予《あらかじ》め判っていたことだし、いずれ自然な形で神崎が豪田卯三郎に会うことも予測できただろう。神の使徒となった神崎が、悪魔である豪田卯三郎に会うのは時間の問題と言えただろうから、もし雄介が父親の死を望んだとすれば、最初の接触で神崎がすでに処刑者としての力を発揮できるようにして置かねばならなかったのだろう。  神崎はいかにも悪魔たちらしいその権力抗争のあり方に気付いて、肌《はだ》を粟立《あわだ》たせていた。     3  また服が新しくなった。今度は濃いグリーンの上着に黒のスラックスで、前よりぐっとスポーティーな感じであった。 「悪魔狩りもいいが、金がかかって仕方がないな。これからは刃物や弾丸をなるべく避けるようにしよう」  着がえた神崎がそう言うと、光子は微笑して首を横に振った。 「心配ないわ。ゴッド・カードがあるじゃないの」  GODカードと言わずに、ゴッド・カードと言いはじめている。 「あのカードは、あなたと同じように全能よ。オールマイティーだわ。あなたが神聖な職務を遂行するのを助けてくれるのよ」 「僕も多分そうだろうとは思う。しかし、あまり好き勝手にカードの力を使うのもどうかと思うんだ。実はもう、五千万円ほど引き出してしまっているからね」 「五千万円……」  光子が目を丸くした。 「うん。所長に迷惑をかけてはいけないと思ってね。……でも、引き出しただけでまだ使ったわけではない。あいつらが石川さんやうちの事務所に経済的な圧迫を加えてこない限り、その金は使わない筈だけれど」 「凄《すご》いわ。今のあなたなら何だって思いのままよ」  光子は冗談のように言った。 「それより、これからどうしよう」  神崎が言うと、光子はすっと一歩前へ出て、真正面からちかぢかと神崎をみつめた。 「あたしはあなたの思い通りになるの」 「僕の……」 「そう」  光子は目をとじて顔を寄せて来た。唇《くちびる》が重なる。 「あなたの女になりたい」  自分から唇を離して光子はささやいた。神崎は光子をみつめた。体に精気が漲《みなぎ》っていて、苦もなく光子をおし包んでしまえるような気分だった。 「いいのかい」  光子は深く頷《うなず》いて見せた。二人はもう一度唇を合わせ、楽屋を出た。 「あたしたち、こんな風になるようにきめられていたんだと思うわ」  たしかに光子が言った通りだった。神崎の変身に光子は最初からかかわっていた。 「食事をしよう。腹が減ったよ」  神崎は近くの中国料理店の個室へ入ると、五品ほど注文した。 「何もかも判らないことだらけだ。少し前ならこんな話を聞かされても、とても信じはしなかっただろう。でも今は違う。理屈ではないんだな。体全体が神の使徒であることを理解しているんだ。でも、どうしても判らないことも残っている」 「なあに」  光子は甘えているようだった。先をせがむように神崎をみつめる。 「どうして僕が選ばれたかということさ。平凡な家庭に育った平凡な男だ。父も母も、宗教には何の関係もない」 「宗教なんて関係ないわよ。どんな宗教も、それは神の理解のしかたのひとつでしょう」 「すると君は神を唯一絶対のものだと思っているのかい」 「そんなこと判らないわ」  光子は事もなげに言った。 「神がどういうものかなんて、あたしに判るわけないでしょう。判っているのは宗教のほう」 「宗教……どう判っているんだい」 「みんななんとなく信じ難いってことね。神さまのことを正確に指さしてくれる宗教なら、神を信ずるようにその宗教に従いたいわ。でも、神さまのことがはっきり判っていて、その上であたしたちにいろいろと教えてくれる宗教なんてあると思う。ないわね。なぜどの宗教も、その組織の中心にいる人はお金持なの。どうして教会やお寺や神社は立派なの。救う救うってふたこと目にはそう言うけど、いったい誰を救うのかしら。あたし、神は信じたい。インチキなものじゃないと思う。でも宗教はインチキ臭くて嫌《いや》」 「なるほどね」 「それより、あなたがどうして神の代理人になったのか、それが知りたいわ」  光子にせがまれ、神崎は今までのことを詳しく説明した。光子は感動したように聞いていたが、やがて興奮に目を輝かせて食事も忘れてしまったようであった。 「その緑の丘に囲まれた湖は天国なのよ、きっと。そして、卵のようなものの中にいたのは天使たちなんだわ。湖の底に下界への通路があるから、あなたが沈むとき卵たちが合唱して送ったのよ。あなたが既視感覚のように感じるのは、あなたに憑《つ》いた天使の感覚なんだわ」 「でも、なぜ伊東へ行かされたのかな」  光子は少し考え込んだ。 「そうね。どこでもよかったんじゃないかしら」 「どこでもいい……」 「そう。伊東のそのホテルはあなたの潜在意識の中にあったんでしょう。行く先はあなたに任されていたんだと思うわ」 「一週間も前の予約は……」 「ふしぎなことは何もないじゃないの。あなたは不死身になったし、追われていよいよになると、追手《おつて》には見えなくなってしまう。ホテルの予約くらいでふしぎがるほうがおかしいんじゃない……」 「神とはふしぎか」  神崎は苦笑した。 「それにしても皮肉ね」  光子はまた食べはじめながらつぶやいた。 「何がだい」 「豪田雄介よ。あなたにお父さんを殺させようとして、逆に一番最初にやられてしまったわ」 「薄汚い奴だった」 「彼らはみなどこかへ隠れるでしょうね」 「さあどうかな。悪魔は今度の僕のような者が現われるのを知っていたようだ。彼らなりの伝承でね。だとすると、僕が啓示を受けることも知っていると思っていいんじゃないかな」 「隠れても無駄だと知っているというの」  光子は目を丸くした。 「だろうと思う」 「危険だわ」 「なぜ」 「何の対抗|措置《そち》も悪魔にはないのかしら、相手は悪魔よ」  神崎はのけぞって笑った。 「何がおかしいの」  光子は不満そうだった。 「逃げても無駄ということは、逃げるよりももっと恐ろしいことを考えて来るんじゃないかしら」 「相手はたしかに悪魔さ。でも、こっちは神だぜ」  神崎は笑いながら言った。     4  二人はその夜遅くまで新宿を歩きまわった。喫茶店やスナックを移り歩いて語り合ったが、最後はあの教会のところまで光子を送って行って別れた。 「つまんないの」  さよならを言ったあと、光子は悪戯《いたずら》っぽく低い声でつぶやいて見せた。たしかにその夜光子は神崎に期待を抱いているようであった。きっと誘えばどこへでもついて行っただろうし、神崎が求めればよろこんで与えたに違いなかった。  しかし、神崎には神の使徒という自覚が生じていた。それほど物堅く考えていなくても、光子を求めるのはもっと時間をかけてからだと思っていたようである。  鶯谷町へ戻るともう皆寝てしまっていたが、深夜の帰宅はそう珍しいことではなく、神崎もすぐ寝てしまった。  夢は見なかった。例の啓示が来るかと幾分期待していたのだが、やはりそれは水の中でしか起らないのかも知れないと思った。 「随分ゆっくりだね」  遅く起きた神崎へ母のとき江が言った。 「うん。かまわないんだ」  神崎はさりげなく答える。出勤していないことはまだ告げてないのである。 「お父さんは何かお仕事のことでいいことがあったらしくて、今朝は張り切って出掛けたよ」  とき江はおかしそうに言った。 「ふうん」  神崎は新聞を取りあげながら軽く答えた。そう言えば父の仕事にも気を配る必要があると感じたが、張り切って出社するような具合ならまだ問題はなかろうと思った。  が、新聞を見て驚いた。  昨夜の事件がでかでかと出ているのだ。豪田雄介が殺されたとなると、紙面も一面が使われていた。しかもそれは豪田家に恨みを持つ者の犯行のように書かれている。雄介の死に対する哀悼《あいとう》の意は一応示されているが、それよりもずっと露骨に、このような事件に至った原因のようなものが、批判的な調子で強く行間に滲み出していた。  神崎は一面を読みおえると、急いで社会面をひらいた。社会面の記事はもっと露骨に豪田家側の旧悪を並べたてていて、殺意を抱く者が出てもやむを得ないと言いたげな調子であった。  青い十字架。  そんな見出しがあり、警戒厳重な豪田雄介のオフィスを単身襲撃し、雄介を扼殺《やくさつ》した犯人は、現場に空色のペンキで大きな十字を描き残して去ったと書かれてあった。  そのようなシンボル・マークに似たものを描き残すからには、今後巨大企業の経営者などに対して、同種の犯行を繰り返す惧《おそ》れがあるとしながらも、あらかじめその青十字の男の出現を予知していたかのような、多数のガードマンを擁した豪田側の警戒ぶりについて新聞は批判の筆を加えており、全体の印象はあたかも青十字の男が収奪に怒る民衆になりかわって、正義を行なったように書かれていた。  青十字の男か。  神崎は苦笑した。そんなマークを残して来た憶えもないが、何と言っても新聞の報道のしかたが悪魔たちに批判的であったことがこころよかった。  豪田雄介をはじめすべての悪魔どもは、やはり民衆に憎まれているのだ。神崎はそう確信した。彼らは諸悪の根源なのだ。一日も早く葬り去らねばならない。  神崎は手早く朝食をすませると、ゆうべの服を着て家を出た。どこへ行くべきかもう判っていた。とにかく水の中へ体を沈めるのだ。  早朝から営業しているサウナ・バスを彼は知っていた。そこへ行って金を払い、すぐ裸になって浴槽にとび込んだ。窓から朝日が射し込んでいて、爽やかな気分だった。  例の感覚は待つほどもなく訪れた。  その有尾人は新幹線のグリーン車にいた。新聞をひろげてあの事件の記事を熱心に読んでいた。でっぷりと肥った威厳のある顔をした悪魔であった。  神崎はあの無表情な顔になった。浴槽を出ると服を着て通りへ出、タクシーをとめると東京駅へ向かった。  その列車が着いた。ドアがあき、人々がホームへ出る。だが神崎はそのホームにはいなかった。  でっぷりと肥った男は、六人の男にとり囲まれて現われた。二人はどうやら秘書のような役目らしかったが、残りの四人はどう見てもボデーガードだった。ダーク・スーツに包んで物堅そうには見えるが、胸の厚さや肩の盛りあがり具合は、いざとなると兇暴さを発揮しそうである。  ホームにも、それと似た男たちが四人待っていた。ほかにまったくタイプの違う連中が七、八人いて、中にはカメラを持っている男も見える。ジャーナリストたちだろう。  男たちは一団となって階段をおりて行く。神崎の姿は彼らが丸の内の地下駐車場へ着くまで現われなかった。昨夜《きのう》の今朝《きよう》である。当然のことのように、要所要所に私服、制服とりまぜた警官たちの姿があった。  神崎は目的の男が駐車場に待たせた高級車に近づくのを狙《ねら》っていたようである。一台の車のかげからすっと現われた姿を目に留めた男が何人かいたという。しかし、その要人の警護に当たっていたガードマンや警察官たちには見ることができなかった。また、のちの証言によると、神崎の姿を見た者も、一瞬目をそらした間に見失ったと言っている。  神崎にとって、その男に近付くことは危険だったのである。そしてその危険から、神の使徒である神崎は完全に守られていたのである。  不可視の体になった。  神崎は相手をとり囲むようにしている男たちの間を巧みにすり抜けて行った。男の背後から近付き、ほとんど無意識に相手の尻っ尾を把《つか》んだ。 「あ、会長」  そのとたん、ジャーナリストの一人が奇妙な声で叫んだ。突然尻っ尾を把まれた会長は、凍りついたように動かなくなった。  みんな足をとめ、いっせいに会長と呼ばれる男を凝視した。 「し、尻っ尾が……」  大勢の男がそれを目撃した。神崎が把んだとたん、常人には不可視だった先のとがった尻っ尾が見えるようになってしまったのだった。  一人のカメラマンが反射的にその異様な光景にレンズを向け、ストロボの閃光《せんこう》を発した。気が付いて、何人かのカメラマンが同じことをした。しかし、神崎は依然として不可視だった。  もし見えたとしたら、それはユーモラスな場面だったに違いない。会長の尻っ尾を、一人の若者が両手で強くうしろへ引っ張っていたのである。     5 「見ろ、悪魔の正体を」  その声がどこから聞こえて来るか、周囲の男たちには見当もつかなかった。  しかし会長の尻っ尾は見え続けている。みなそのいやらしい尻っ尾に恐れをなして会長からあとずさって行った。 「こいつは悪魔なのだ」  神崎はそう叫びながら、人垣のとれた空間へ向かって、会長の尻っ尾を把んで力まかせに走り出した。会長は斜めうしろへ急に引っ張られて転倒し、ずるずるとコンクリートの上を引きずられて行った。 「早く何とかしろ」  会長は警官に向かって叫んだ。 「し、尻っ尾を把んでるんだ。奴《やつ》は儂《わし》の尻っ尾を」  それをかなりの人数のジャーナリストが聞いていた。 「こいつは人間じゃない。悪魔だ。尻っ尾が生えているだろう」  ピンと張られた尻っ尾の角度に、みんな気付いたようだった。見えはしないが、誰かがそれを把んでいなければ、会長がそんな引きずられ方をする筈がなかった。  警官が会長のほうへ突然走り寄って行った。引きずられる会長の体を抱きとめようとしている。 「ばか者。悪魔を助けようと言うのか」  神崎が罵《ののし》ったが、私服の警官が二人、今度は尻っ尾の先のほうへ走り寄って行った。把んでいる者をどけようと考えたらしい。だが二人は次々に神崎の足に蹴られてふっ飛んだ。  神崎は、引っ張るだけでなく、ゆるめては引き、ゆるめては引きした。 「痛い。痛い」  会長が喚《わめ》いた。 「引き抜いてやる」  神崎は尻っ尾を把んで離さなかった。ストロボが次々に光を発し、その奇妙な現場写真をとらえていた。  会長の体を抱きかかえた警官は、今や会長にとって苦痛の原因となった。尻っ尾を引っ張る神崎の力に抵抗して、懸命に逆方向へ引きずって行こうとしているからだ。 「ばか、こいつをどけろ」  会長がまた喚いた。何を勘違いしたか、その声で七、八人の警官が二人の刑事をはねとばした尻っ尾の先の何者かをとらえようと駆け寄って行った。  とたんに尻っ尾が消えた。神崎が手を離したのだ。警官たちは目標を失ってひとかたまりにまごついている。  神崎はその時すでに会長の首に両手をかけていた。 「苦しい……」  会長が呻《うめ》いた。その間にも、カメラマンたちは夢中でシャッターを切り続けている。 「こ、こ……」  殺される、と言いたかったのだろう。しかし会長の巨体は警官の一人にがっしりとかかえられていて身動きもならず、神崎は無防備な首を楽々と絞めあげていた。  会長がぐったりとなった。 「か、会長が」  警官が驚いて手を離すと、会長の体はコンクリートの上へだらしなくころがった。 「救急車を呼べ」  誰かがそう叫んだ。  神崎はすでに会長の死を確認していた。現場を素早く離れ、集まりはじめた野次馬のうしろ側へまわって遠のいて行く。 「何かあったんですか」  駐車係らしい中年の男が神崎に訊《き》いた。もう見えているのだ。 「さあ……」  神崎は小首を傾《かし》げて見せた。そのまま東京駅へ戻り、北口の連絡通路を使って反対側へ出た。  人混みにまぎれてゆっくりと歩いて行くと、若い父親が荷物をひとまとめに置いて、壁際にしゃがんでいた。そばに三、四歳の男の子がいて、父親をじっと見ていた。  その若い父親は、半透明の風船をふくらませている所であった。左手の指に煙草《たばこ》をはさんでいた。  神崎は足をとめ、それを見守った。  父親は煙草の煙を吹き込んでその風船をふくらませているのだ。半透明の風船の中にもやもやと煙が渦《うず》を巻く。  緑の丘に囲まれた沼の水辺にふわふわと浮いていた、あの卵形をしたものを神崎は感じていた。  父親は風船の口をつまんで子供に見せている。白いガスのつまった半透明な卵形のもの……。その中には胎児のような姿勢で人がとじ込められていたのだ。  神崎は急にあの状態に陥った。水につかっていなくとも、天啓《てんけい》は訪れ得るものらしかった。  国会議事堂が見えた。一瞬ののちそれは消えたが、ホテルのロビーを突っ切ってエレベーターのほうへ行く二人の男の姿に変った。二人とも尻っ尾を生やしていた。  神崎はまた底知れない無表情な顔になった。風船をもてあそぶ父子のそばを離れ、タクシー乗場のほうへ歩いて行った。     6  そのホテルに着いた神崎は、ロビーを突っ切ってエレベーターに乗った。外人の男女が同じ箱に乗り合わせて、神崎が行こうとしている階の一階下でおりた。  ドアがしまり、またすぐにあく。上下の移動はほとんど体に感じられなかった。  静かな廊下だった。神崎は迷わず右へ道をとる。広い廊下に男が二人立っていた。警官ではないようだった。  神崎が近付くと壁によりかかっていたのがさっと体を起し、行手を塞《ふさ》ぐように並んだ。 「どなたでしょうか。ここから先はご遠慮願いたいのですが」  言葉遣いは丁寧だったが、結構ドスをきかせていた。神崎はそれを無視した。 「おい」  二人が体を寄せ合って道を塞いだ。 「俺が不死身だと言うことはもう知っている筈だぞ」  神崎がそう言うと、二人は急いであとずさった。 「き、貴様か」 「その部屋にいるのは判っている。俺に手向うな。無駄なことだぞ」 「畜生」  二人は顔を見合せた。 「ついでだ。そのドアをあけろ」  二人は左側のドアに背を押しつけた。 「できない。勘弁してくれ」 「あけろ」  神崎は静かに言った。 「お前らには尻っ尾がない。ただの人間だ、悪魔ではない。俺は悪魔以外は殺さない」  その二人は明らかに神崎について知らされ過ぎていたようだ。どうしようもなく怯えてしまい、一人がそっとノブをまわした。 「どけ。逃げてしまえ」  まるで命令されたように、二人は神崎の言葉通りにエレベーター・ホールのほうへ逃げ去ってしまった。  神崎はゆっくりとドアをあけ、部屋の中へ入るとうしろ手でそれをしめた。  二間続きの部屋で、最初の部屋にはゆったりとしたソファーやテーブルが置いてあった。  一人の有尾人がそのソファーに坐って、テーブルの上に積みあげた札束の山を幾つかに分けている所であった。 「あ……」  神崎を見たとたん、その悪魔は震えあがった。緊張のあまり、ソファーに坐っているのに尻っ尾が背中の上のほうへ、ピンと突っ張って立った。  神崎はさっとその悪魔に飛びつき、一気に首を絞めた。厚い絨緞《じゆうたん》が物音を消していた。  それでも気配を感じたのか、もう一人が次の部屋から出て来ようとした。 「どうした……ええ。まさか不足してるんじゃなかろうな」  ガラガラ声でそう言うのが聞こえた。神崎は壁に身を寄せて出て来るのを待った。 「よせ」  ほかにもう一人いるらしかった。出て行こうとするのを制止したようだった。  神崎は咄嗟《とつさ》にやり方を変え、次の部屋へ飛び込みざま、相手を思い切り両手で突き飛ばした。突きとばす時、右手の掌《てのひら》に痛みを感じたが、見ている暇はなかった。  もう一人いた。突きとばされたほうはダブルのダーク・スーツを着ており、もう一人はべッドの上にいた。二人とも尻っ尾が生えていた。 「き、来たか」  べッドの上の悪魔が言った。禿頭《とくとう》の悪魔だった。大きな目玉、厚い唇。今まで見た悪魔で、神崎が威圧を感じたのはそいつがはじめてだった。 「大物だな」  神崎は低い声で言った。 「先生、逃げてください」  突き飛ばされたのが、勇敢にもそう叫ぶと神崎の脚へしがみついて来た。 「糞」  蹴とばすと一度あおむけに倒れ、またすぐしがみついて来る。  べッドの上の大物はそれをじっと見ていた。見ようによってはすくんで身動きもできないようだったが、意外にも大物は落着いた声で言った。 「お前のことは忘れん。あとのことはまかして置け」  神崎は怒った。その落着きぶりが許せなかったのだ。 「悪魔の分際で、神の使徒に向かって不遜《ふそん》だぞ」  大物はせせら笑った。 「まだお前ごときにつかまる儂ではない」  神崎が怒りに駆られて大物に近寄ろうとした一瞬の油断をついて、もう一人が逆に神崎の首を絞めようと掴《つか》みかかって来た。  それを放っても置けず、神崎はべッドの上の大物を睨《にら》みつけながら、捨て身でむしゃぶりついて来る奴の首を絞めた。  グェ……と言う汚ならしい声がしたが、そいつはまだ頑張《がんば》っていた。  そのうちに、大物の体がべッドの上でジワジワと薄れはじめた。 「逃げるか」  神崎は叫んだ。だが大物の姿は消える速度をまし、神崎がもう一人の悪魔を絞め殺してベッドへ駆け寄った時には、完全に消えてなくなっていた。 「何物だ、あれは」  神崎は残念そうにつぶやいた。大悪魔に違いなかった。  神崎はたった今、自分が殺したばかりの相手のポケットを探って、消えた大悪魔の名を記した物を見付けようとしたが、発見できなかった。そこで次の部屋で死んでいるほうのポケットも探ったが、やはり無駄だった。ただ、札束を積んだテーブルの上に、その配分先を記したメモらしい紙が置いてあって、十人ほどの名が並んでいた。  神崎はそのメモをポケットに突っ込んでから、部屋の中を振り返った。死んだ二人の悪魔は、どちらも金色に輝くバッジを左の胸につけていた。  掌からはまだ血が滲《にじ》み出していた。力まかせに突き飛ばした時、そのバッジで傷つけたものらしかった。  その傷は小さかったが、神崎がホテルを出たあとも血を滲ませ、少し痛んでいた。     7  テレビのニュースが青十字の男の出現を告げていた。  二人の悪魔が神崎の手で処刑された部屋に、今度も青い十字が描き残されていたらしい。そればかりか、丸の内の地下駐車場で殺されたマンモス商社の会長の死体の掌にも、青十字が残されていたという。  いったいその青い十字は何を意味するのか、神崎にもよく判らなかった。しかし、理解を超えたことに慣れてしまった神崎は、もうそんなことに気を留めもしなかった。  ホテルと地下駐車場の三つの死体には、当然のことながら尻っ尾はなかった。悪魔は死んだあとも常人にはその尾を見せないものらしかった。  しかし、地下駐車場の会長の姿を撮《と》った写真は、素早くテレビに流されていた。  その写真には、はっきりと尻っ尾が写っていた。 「いったいこれは何なのでしょうか。写真では会長の体に、はっきりと尻っ尾が生えているのが写されているのです。そしてその写真が撮られた時、現場にはどこからともなく、男の声がこう告げていたそうです。……これは悪魔だ。悪魔には尻っ尾がある……と。皆さん、果たして殺された会長は、この写真に写っている通り、尻っ尾の生えた悪魔だったのでしょうか。単なるいたずら写真ではないのです。何人ものプロのカメラマンが必死で撮った写真なのです。もし会長が悪魔だったとしたら、このように正体を暴《あば》けるお方は、世界にたった一人しかいないことになるのです。……それは、神です。また仮りに、神が悪魔をこの地下駐車場において滅ぼされたのだとすると、青い十字の持つ意味は実に重大です。昨夜の豪田雄介氏殺害の現場を合わせて、すでに三ヵ所の現場に青い十字が記され、計四体の死体が発見されているのです。このことは、悪魔がただ一人ではないという恐るべき事実を、示すことになるのです。ではまずこの事件につきまして、地下駐車場で会長の身辺警護に当たっていた人々などの話を聞いて見ましょう」  テレビのニュース・キャスターの姿が消え、画面はビデオ・テープの画像に変った。 「たしかに僕もその声を聞きました。何というか、とても神々しい声で……」 「誰か近くの人が喋《しやべ》ったのを聞き違えたということはありませんか」 「いいえ、たしかです。その声の主は姿が見えませんでした。会長の尻っ尾を掴みあげて僕らに見せてくれていたようです。あの黒い尻っ尾のいやらしさは、とても言葉では言えません。あれは悪魔にきまっています」  一人の制服警官がカメラに向かってそう喋っていて、それが消えるとまたニュース・キャスターの姿に変った。 「当局はなぜかこのあと、只今の警官の証言を取り消させ、引き続いて行なおうとした他の警官たちに対する我々のインタビューを拒否致しました」  駐車係りの男に変る。 「見たけど、言っていいのかなあ」 「見た通り言ってください。あなたは会長の尻っ尾を見ましたか」 「カメラマンが写真撮ってたからね」 「姿のない声を聞きましたか」 「どうかな。勘弁してくださいよ。そういうことは上の人に訊いてからでないと」  神崎は喫茶店のテレビから目をそらせた。尻っ尾が見えない以上、民衆が悪魔の実在を信ずるのはむずかしいことのようであった。  悪魔の存在について考えるのは、おのれ自身についても考えなければならなくなるのだ。  キリスト教世界においては、悪魔とは人の名付親のことでもあった。悪魔はアダムとイブを創造した者ではなかった。しかし、無邪気だったその二人に知恵を授け、欲望を持つことを教えたのだ。人間はアダムとイブが自分たちの祖先だと思い込んで来た。しかし、人間の真の祖先は、はじめて欲望を持った時のアダムとイブではなかったのか。  ともあれ悪魔は神によって天国を追放された。だが、それ以来、彼は神と人間の魂の占有を争っていると言うではないか。それこそ永遠の争いだ。  悪魔について考えるのは容易なことではなさそうである。神の創《つく》った天国が本当に清浄な世界なら、なぜそこに知恵の実を人間に食べることをそそのかした邪悪な蛇《へび》がいたのだろうか。  蛇もまた神の創造物なのか。だとしたら邪悪も神の創り出したものであることになる。その上神は、自分が創った最初の一組の男女にも背《そむ》かれているのだ。アダムとイブは楽園を追われた……。  人々はきっと、おのれの内部を覗《のぞ》いて悪魔の濃い影があることに気付くだろう。その影を完全に取り除いて神の欲するような人になるのは、白痴になるのと同じことだとは思わないだろうか。  それでもなお、人々は悪魔を悪しき者として疑いはしない。人に正義を求め、わが子に正直であれと教え続けている。  神崎は自分をしあわせな人間だと思った。人々のように迷う必要がないのだ。悪魔を見れば憎悪《ぞうお》に燃えたち、理屈抜きに神の正しさが信じられるのだから。  神崎は光子に会いたくなった。光子は愚かな民衆とは違って、迷ったりしていない筈であった。  まだ楽屋入りの時間でもなく、光子は来ていないかも知れないが、神崎はとにかく新宿へ行くことにした。  街路には至る所に警官の姿が見え、機動隊員を乗せた車が走り廻っていた。いったい誰の命令で出動したのだろうか……。そう思うと自然に微笑が泛んだ。どこかに、相手が悪魔だとも知らずに、それに奉仕している連中がいるのだ。  神崎はまるでこの事件に好奇心をつのらせている野次馬の一人になったような気分で、その物々しい騒ぎを見物しながら新宿へ着いた。  光子はひかり座の裏口で神崎を待ちかねていた。 「やったのね」  期待した通り、光子は無条件に神崎の行為を肯定してくれた。 「うん」 「みんな凄《すご》い連中じゃないの。実力者ばかりよ」  神崎は笑った。 「当たり前さ。人間の中に悪魔がまじっている。実力者以外になりようがあるかい」 「それもそうね。でも、だったらこの次から悪魔を探すのはわけのないことよ。だって、実力者と言われる人たちの間から探し出せばいいんでしょう」 「そうだな」 「あたしも手伝いたいわ」  光子は甘えるように言って体を寄せて来た。 [#改ページ]   青十字の男     1  人間の中に悪魔が紛《まぎ》れ込んでいるとすれば、悪魔が人生で落伍するようなことはまずあり得ない。成功して社会の上層に棲《す》みつき、人々から実力者として敬われている筈だ。  光子にそう教えられて、急に神崎の悪魔狩りは活発になった。  まず大銀行の本店へ行った。そのビルは先日の青十字の男の襲撃を聞いてすっかり警戒を厳重にし、エレベーター・ホールや階段には多数のガードマンや赤外線警報機まで備えつけていた。  が、神崎はいさいかまわず堂々と正面入口へ向かって行った。悪魔狩りが自分に与えられた使命である以上、もしそこに悪魔がいるならば、そんな警戒網など苦もなく突破できる筈だと信じていたのだ。  正面入口の両わきにガードマンが二人ずつ、合計四人立っていた。神崎が近づいていったとき、そのなかの二人が明らかに彼へ視線を送って来た。その二人は神崎の姿を認めたのだ。だが神崎はひるまなかった。平然と四人の真ん中へ歩を進めた。  ガードマンたちは、四人とも素知らぬ顔をしていた。神崎は自分が不可視になったことを悟っていた。  正面ホールの床は大理石が敷きつめられていた。吹き抜けの高い天井から、柔らかい光線が落ちている。神崎はエレベーター・ホールを通りすぎて、やはり大理石を張った大きな階段へ向かった。階段の登り口にはまたガードマンが二人いて、一階と二階の中間の踊り場には、警報装置らしいものが仕掛けてあるようだ。行員たちがゆったりとした足どりで行き交う中を、神崎はとりわけ目立つ急ぎ足でそのガードマンの目の前を通りすぎて階段を登った。  神崎は二階、三階、四階と、階段を登るごとにその階の廊下を歩き廻りそれらしいドアを片端から開けて、尻っ尾のある男の姿をさがし求めた。その建物の中に悪魔がいることははっきり判っていた。なぜならそのような彼の行動が誰にも見とがめられず、どの警報装置も、彼の動きに反応を起さなかったからだ。もし悪魔がいなければ、正面玄関で慇懃《いんぎん》に誰何《すいか》された筈なのだ。六階へ上がったとき、彼の足は無意識に彼の体を廊下の右側へ連れて行った。  この先に悪魔がいる。  彼は緊張した。少し先の右側に一つのドアがあった。彼の目はそのドアのノブに吸いついたようになっていた。彼がノブを凝視《ぎようし》したのではない。彼の目が勝手にノブを見つめて、そこへ入れと命令したのだ。神崎は自分がそういうとき底知れぬような無表情な顔になるのを自覚していなかった。顔つきとは反対に心は軽快そのものなのだ。  ノブに手をかけた。ひねって内側へ押す。神崎の頭の中に非常ベルの音が鳴り響いたがすぐに消えた。実際にはベルなど鳴っていなかった。それはドアに警報装置が仕掛けられていた証拠だ。  頭の禿《は》げ上がった背のひょろ高い男が、髪の黒々とした体格のいい秘書らしい男と大きな帳簿を覗《のぞ》き込んでいた。  神崎はドアを開け放したまま、二人がいる大きなデスクの方へ歩み寄っていった。  秘書には尻っ尾がなかった。 「君はどいていなさい」  神崎はもうすっかりその仕事になれてしまった感じで、おだやかな声で言った。 「…………」  秘書らしい若い男は、驚いて神崎の方へ顔を向け、上体を起すと口を半開きにしたまま壁の方へあとずさった。神崎はその大きなデスクを廻り込み、頭の禿げた男の背後へ行った。  禿げた男はその間悲しそうな顔をして神崎を見つめていた。 「わたしは生まれつき運が強くない男なのだ。子供の頃《ころ》から賭《か》け事には弱かった。あなた、賭け事に弱い悪魔なんて考えられますか。でもいるんですよ、ここに。やっぱりわたしのところへおいでになったのですね。弁解するわけではありませんが、この建物のあちこちにいたガードマンたちや警報装置などは、わたしの命令で配置したものではないのですよ。仲間がやかましく言うものですから、面倒くさくなって人まかせにしただけです。わたしなど、あなたにかなうわけがない。そう判っているからわたしは無駄な抵抗などしません。これがわたしの運命なのでしょうからね」  男はそう言うと、細長い指でペンを静かにペン皿へ戻し、両手を腹のあたりへ組んで背筋を伸ばし、目を閉じたようだった。 「悪魔にしてはいい心懸《こころが》けだ。できるだけ楽に殺してやる」  神崎はそう言うと両腕をあげ、確かに悪魔としては線の細い感じの首を両手で一気に絞めた。 「頭取《とうどり》……」  神崎が絞め殺すとき、秘書が泣き声で言った。頭取の黒い尻っ尾がぴんと立って、先端の三角形が神崎の胸のあたりでぴりぴりと痙攣《けいれん》した。  そして頭取はぐったりとなった。  秘書は壁に寄りかかって手ばなしで泣いていた。 「僕はその人を信頼していた。誰よりも信頼していた。本当にその人が悪魔だったとしても、僕の知っている範囲ではその人は有能で正直で誠実だった。青十字の人。あなたが本当に神の使徒であるとしても、僕はあなたを信じない。あなたを信じるより、いまあなたが悪魔だと言って絞め殺したその頭取を信じます。頭取は何かの犠牲になったのだ。頭取は僕の心の中で永遠に清く正しい人として生き続けるでしょう。たとえ本物の悪魔だったとしても……」  神崎はそれを聞き流して廊下へ出た。     2  神崎が次に向かったのは大商社の本社だった。そこはさっきの銀行より数倍も警戒が厳重だった。そして近づいていった神崎は、その警戒網の第一関門で行き先を尋ねられてしまった。  神が憑依《ひようい》したときの、あの磐石《ばんじやく》の自信が嘘《うそ》のように消え、彼は素のままの神崎順一郎へ戻っていた。 「あれ、何かあったんですか」  相手の質問に答えず、逆に尋ねた。 「いや、ちょっと」  相手はあいまいに答えた。神崎の体を上から下へじろじろと眺《なが》め廻している。 「いやだなあ、爆弾騒ぎか」  神崎は薄気味悪そうに、目の前にそびえ立つ巨大なビルを眺めた。 「やめた、帰りますよ。こんなところで巻きぞえをくっちゃたまらない」  神崎はそう言うとくるりと踵《きびす》をかえし、来た方へさっさと逃げ出してしまった。 「まってください。そうじゃないんですよ」  男は大声で神崎を呼びとめた。出入りするものにいちいち尋問するのはいいが、爆弾を仕掛けられているなどという噂《うわさ》をたてられてはかなわないのだろう。神崎はその声に一度振りかえり、せいいっぱい冷い表情で手を振って見せ、いっそう足を早めてたち去った。  決して失敗ではなかった。あの男に見えたということは、建物の中に目ざす相手が一人もいなかったということである。  神とは不思議。  神崎はその言葉をまた思い出していた。なんという巧妙な仕組みになっているのだろうか。神の使徒は決して人に知られることがなく、決して人に捕えられることがないのだ。頭取の部屋にいたあの秘書にしても、たしかに神崎の顔を見、言葉を交わしはしたが、すでに人相、風体《ふうてい》、年ごろなど、詳しいことは何ひとつ憶えていない筈だった。  神崎はその足で、すこし離れたところにある証券会社の本社へ行った。  意外にも、その建物はまったく警戒をしていなかった。どこへでも自由に出入りできたし、まったくあっけらかんとしたものだった。  神崎は来る場所の選択を誤った自分に気がついた。本性は一介の安サラリーマンにすぎないから、株式の売買など経験もなく、ただテレビや新聞の広告の印象だけで、一流会社と思い込んでいたのだが、実際には重役か、社長に悪魔が就任するほどの会社ではなかったのだ。  神崎は自分の常識のなさに少し腹をたて、事のついでにもう一ヵ所廻ってやろうと思った。  いいかげんにそのビジネス街を歩いていくと、恰好《かつこう》の獲物《えもの》があるのに気づいた。ときどき出張などで利用する航空会社のマークが、少し先のビルの屋上に見えていたのだ。  あそこならいる筈だ。  神崎は舌なめずりするように、そのビルへ近づいて行った。  案《あん》の定《じよう》、そこは警戒厳重だった。本物の警官まで動員している。神崎はしめたと思った。なりふりかまわず、若手社員やガードマンや本物の警官たちをずらりと並べた正面玄関へ行き、大手をふってそこを通り抜けた。 「銀行の頭取がやられたそうだ。次はきっとうちへ来るに違いない」 「おい、よけいなことを言うもんじゃないぞ。それじゃまるで我が社にうしろ暗い行為があると言っているようなものじゃないか」  そういうひそひそ話を耳にして、神崎は奥へ向かいかけた足を止めた。ロビーの隅《すみ》で、中間管理職風の男が二人、体を寄せあうようにして喋《しやべ》っていた。 「誰も聞いてはいないよ」  一人がそう言ってあたりにおびえたような目を配った。 「やってないわけがないじゃないか。賄賂《わいろ》、賄賂、賄賂。うちは贈賄の本家みたいなもんだぜ。金をばらまいて一気にここまで伸びて来たんだ。社長は切れ者と言われるが、そういう事をするのが悪魔だとしたら、うちの社長こそ悪魔に違いないじゃないか」 「何を言ってる。その悪魔のおかげでベースアップもボーナスも急成長だ。念願のマイホームを手に入れたうえ、結構なご婦人と浮気のし放題なのはどなたさんだっけな」  二人は声を忍ばせて笑いあっている。神崎は無表情のまま、また歩き始めた。  社長室へ着くまでに、七つほどの検問所が出来ていて、その一つ一つにほぼ十人の男たちが駆り出されていた。しかし、悪魔狩りの態勢に入った神崎には、そんな警戒網などまるで効果がない。かえって、目ざす獲物の所在が判ってやりやすいほどである。  そのドアの前の廊下に椅子が三つ並んでいた。三人の屈強な男がその椅子に体を押しつけあうようにして坐っており、三人をどかせなければドアを開けることは出来なかった。その三人の前に立つと、廊下の右にも左にも検問所があり、二つの検問所からそのドアは丸見えの位置にあった。  神崎はそこに立ってしばらく考えていた。ちょっと手のつけられない感じだったが、さりとてそう困ってもいなかった。いよいよになれば、うまい考えが泛《うか》ばなくても、自分が正しい行動をとってしまうことを確信していた。  するとはたして、神崎は自分の体が動き出すのを自覚した。向かって一番左の男に近づき、その男の目を見つめて軽く肩を叩《たた》き、顎《あご》を振って左へよけるように命令したのだ。  するとその男は真ん中の男を肱《ひじ》で小突き、自分と同じようにするよう合図を送った。二人は廊下の左右の検問所の連中に気づかれぬよう、キャスターつきの椅子に坐ったまま、そろそろと横へずっていった。二人の動きに気づいた三人目も自発的にそれに合わせた。ひっきりなしにドアの方へ視線を送っていた検問所の連中も、三人の移動する間だけは、誰一人こちらを見ようとはしないようだった。  三人は移動が終ると、いままで通り正面を向いてじっと坐っている。検問所の方から見ると、位置の変化は判らない筈だった。  神崎はろくに左右の動きを確かめようともせず、無造作にドアのノブに手をかけた。内側から錠が下りているようだったが、すこし長めにノブを握っていると、錠はカチリと外れた。とたんに神崎の頭の中で、警報装置の音が激しく鳴り響いた。しかし今度もそれは神崎の頭の中だけで、実際には誰にも聞こえない音だった。  神崎はドアの中へ滑り込んだ。  暴力団風の男たちに囲まれて、尻っ尾を生やした社長が、青白い顔でウイスキーをガブ呑《の》みしていた。 「あ……現われやがった」  顔に傷のある男がそう叫ぶと、皆いっせいに刃物の鞘《さや》を払った。社長も震える手に大型の自動拳銃を握っている。 「尻っ尾のない奴はどいているがいい」  神崎は静かな声で言った。 「俺がどんな力を備えているか、みんなもう新聞、テレビで知っているだろう」 「うるせえ。そんなものに縁はねえや」 「神にも仏にも縁がねえんだよ。神の使徒だか、トイレットペーパーの人だか知らねえが、こちらの社長さんには恩義があるんだ」  口々にそんなことを喚くと、そこは殺し合いのプロぞろいで、順番などお構いなしに、四、五人が気をそろえて一度に斬りつけてきた。  神崎はその男たちのするがままにさせていた。一人、一人が二度三度と、斬ったり突いたりしたが、着ているものがボロボロになっただけで、神崎自身は蚊《か》が刺したほどにも感じなかった。  繰り返し繰り返し斬りつけてみて、男たちはやっと神崎の不気味さを思い知ったようだった。 「嘘だ。こんな人間、いるわけがねえ」  一人が薄気味悪そうにそう言ってあとずさると、二人三人と青ざめて身を引いていった。 「やめるな。斬り続けんと殺すぞ」  社長の握っている拳銃の用途がはっきりした。それは神崎に抵抗することを止めさせないための、督戦用の道具だったのだ。社長の銃口は、身を引いたやくざたちに向けられていた。     3  いやしくも神の使徒である。悪魔が人間を殺すのを見逃すわけにはいかなかった。……たぶんそのせいなのだろう。神崎は自分が異様な力をこめて社長の銃口をにらみつけているのに気づいた。 「そうおっしゃっても、こいつはばけものですぜ」  顔に傷のある男が仲間を代表してそう言った。 「黙らんと殺すぞ」  その男はふてくされて笑った。 「何でもかでも殺されるんだなあ」 「うるさい」  社長の指に力が入るのが判った。顔に傷のある男は、そんな社長に比べると、はるかに肚《はら》が坐っているようだった。 「売った命だ。どうにでもしてくださいよ」  落着いた声でそう言うと目を閉じた。  カチリ。  社長の銃が堅い音をたてた。社長はあわてて二度三度と引き金を引いた。が、そのたびに拳銃はカチリ、カチリと空《むな》しい音をたてるだけだった。 「糞……」  社長はいまやおびえ切っていた。それは黒い尻っ尾の震え方で判った。 「お、俺は死ぬのか。俺は死なねばならないのか。俺はただ、金を政治家どもに取り次いだだけだ。金をやらなければあの連中はライバルの肩ばかり持って、この会社などどうなってもいいと言わんばかりだったんだ。あんた神の使いの悪魔ハンターだろう。なぜいまになって出て来たんだ。たまりかねた俺たちがやむをえず金をばらまき始めたいまになって出て来られたんじゃ、ライバルを喜ばせるだけじゃないか。あいつらがやっている最中に出て来てくれれば、俺たちはそれこそ天地神明に誓って潔白でございますと、胸を張って言えたんじゃないか。それを、こんなタイミングで出て来られたんじゃ……」  社長は拳銃を床に落とし、すすり泣きを始めた。 「不公平だ、不公平だ。悪魔狩りの天使が出て来るなら、一年中出ずっぱりに出ていなければ不公平になるんだ。法は万人平等でなければいけない筈だぞ。米の検査じゃあるまいし、ランダムに抜き取って、その分だけで良い悪いを決められたんじゃ、やられる方は運まかせじゃないか。だいいち、役人がいるから賄賂が必要なんだ。連中はあっちこちから受け取るだけで、知らん顔をしていればそれでいいが、こっちは渡した分だけ元を取らなければ責任を追及される。こっちは商売でやっているんだ。商売に役人がからむからこんなことになるんだ。ましてその上の政治家どもと来たら、年がら年中金を欲しがっている。国会議員が選挙費用の元手を取り返すのはおかしいじゃないか。政治は金儲《かねもう》けなのか。俺は航空会社の社長として、当然のことをしたまでだ。たしかに俺は悪魔だよ。尻っ尾が生えているからな。でも、悪魔だって人間を殺すのは嫌《いや》なんだ。手を抜いて事故を起したことなんか一度もないぞ。起った事故はみな不可抗力だ。せいいっぱいやっているんだ。そのためには、贈賄だってするさ」  神崎は床に落ちた拳銃を拾いあげ、それを顔に傷のある男に渡した。 「なかなか立派だったよ」  するとその男は嬉《うれ》しそうに笑い、 「でも、こんな社長に命を張ったかと思うと」  と詫《わ》びるように言った。 「悪魔にしては確かにだらしのない奴だ」  神崎はそう言ってから社長に向かい、 「命と引き換えなら何でもするか」  と訊《き》いた。 「助けてくれるのか」 「おまえは悪魔だ。悪魔らしく仲間を裏切れば助けてやる」 「裏切ります、裏切ります。どんな裏切り方をしたらよろしいのですか」  社長はもみ手しながら尋ねた。 「おまえがいま憎らし気に言った悪魔たちのリストを作れば助けてやる」 「たったそれだけでいいんですか」 「出来るだけ詳しく、たくさん名前を載せろ」  社長はデスクに飛びつくようにして、抽斗《ひきだし》からレポート用紙とペンを取り出すと、一行一人ずつ、すらすらと名前を書き始めた。 「見ちゃいられねえや」  顔に傷のある男は、床にぺっと唾《つば》を吐くと、 「帰らしてもらっていいですか」  と神崎に尋ねた。 「この悪魔に愛想がつきたんだな」 「ええ。うちの大先生のいいつけで来たんですが、まるでなっちゃいなかった。つき合いが多いから無理もないけれど、大先生もたまには人を見損なうんですね」  神崎の頭の中に、ホテルのべッドの上でじわじわと消えて行ったあの大悪魔の姿が泛んだ。その男たちは、あの大悪魔に使われている人間たちなのだろう。 「これで全部です」  男たちがぞろぞろと部屋を出て行こうとしているとき、社長がリストを神崎に示した。 「署名、捺印《なついん》」  神崎が言うと、社長はいそいそとサインをし、印鑑を押した。神崎はそのリストを持って、男たちといっしょに部屋を出て行った。部屋を出たとたん、その男たちの頭から、神崎の具体的な記憶が消え去ってしまったのは言うまでもないが、神の使徒と交した会話の内容だけは、ひとつ残らず憶えていたようである。     4  なぜか神は、その航空会社の社長の口を封じなかったようである。したがって、神崎が去ったあと、その社長は仲間の悪魔たちに、彼らの名を書いたリストが神崎の手に渡ったことを通報した。神の使徒である神崎の命令には抗し難く、そのリストの名は政界の悪魔たちが中心になっていた。 「根こそぎやられるぞ」  政界の悪魔たちは大恐慌を来たした。 「議事どころではない。これはまさに死活問題だ」  悪魔たちは色めきたっていた。与党の悪魔を中心にして、青十字問題調査委員会が急設された。が、それは表向きの一部分で、その裏側には悪魔たちにとってもっとも重要な、目覚し時計分析班が組み込まれていたのだ。  各国立大学の科学者たちが、それぞれの専門分野における研究調査費等の予算増額を目あてに、続々とその研究班に参加して来ていた。  悪魔政治家たちは、その研究班の活動を促進させる一方、青十字の男への対策が確立する間、彼の攻撃を何とか遅らせようと、あらん限りの知恵をふりしぼっていた。  悪賢い彼らが始めたことは、悪魔リストの件をへたに隠したりせず、一般に公表してしまうことであった。隠せば国民はかえってリストの正しさを信ずるようになるからだ。新聞やテレビへ、国会からのアピールが続いた。  青十字の男に告ぐ。もし実際に多数の悪魔がこの世に存在するとしたら、天使一個人として自らの手で処断する前に、その氏名を公表してもらいたい。そのことなくして一方的に多数の悪魔政治家を処断すれば、国政は一挙に混乱し、国民生活に重大な影響を及ぼすことになる。  また、有尾の悪魔が存在するとしても、一般国民はその尾を実際に自分の目で確かめることは不可能であり、同時に青十字の男が天使であるとしても、その権限行使による悪魔の大量死は、一般人同士の殺人行為とまぎらわしく、社会に一時的な混乱を来たすことが予想される。  それゆえに、青十字の男は悪魔狩りの天使としての本格的な行動を起す以前に、出来うれば国会の青十字問題調査委員会に出席して、万人の前に自らが悪魔狩りの天使である事実を証明することを要求する。その証明の方法については、人智を越えた天使である青十字の男に一任するものである。 「見て、これを」  光子がけたけたと笑ってその決議文が載った新聞を神崎に渡した。もうひかり座の公演はとうに終って、二人は午前中の日比谷公園を、平凡な恋人同士のように、のんびりと歩いていた。 「そのリストならここにあるのに」  光子はハンドバッグを軽く叩いてまた笑った。 「その委員会のメンバーを見てよ。ほとんどがこのリストに入っている名前よ。まったく悪魔ってどこまでずうずうしいのかしら」 「まさに悪魔的だね」  神崎も笑った。 「知らせてやったらどうかしら。悪魔がどんな嘘のつき方をするか徹底的に見てやりたくなったわ」 「そうだなあ。新聞は僕が殺《や》った実業家たちと政治家たちの関係を、根掘り葉掘りあばきたてている。でも、こう顔の皮の厚い連中が相手では、はっきりした証拠を出してやらないとどうにもならないようだな」 「悪魔たちは片っ端から名誉|毀損《きそん》で訴えているわよ」 「バレればどっちみちおしまいなのだから、完全に尻っ尾を掴《つか》まれるまでは何でもやるだろうさ」 「ねえ、これにはあの社長の署名捺印があるわ。コピーして新聞社に送ってやりましょうよ」  光子は甘えるようにそうせがんだ。 「僕はもうそのリストにある名前をすっかり暗記してしまっている。君が送りたいなら送ってもかまわないよ」  すると光子は雀踊《こおど》りした。 「わあ素敵。胸がすうっとするわ」  光子はそう言うと神崎の手を引っぱるようにして公園を出た。  ほんの少し美男美女というだけの、そんな平凡な二人づれが、一挙に政局を揺るがすような重大な材料を、街角の複写機で気軽に複写して行こうとは、誰にも信じられなかったに違いない。  しかし、そのリストのコピーは確実に新聞社のデスクに届いたようだ。もっとも、光子はその大スクープを一社に独占させるようなことはしなかった。例の新宿ルンペンのイッちゃんにもコピーを一通渡して、イッちゃんの売り込むにまかせた。  新聞社はそのリストを信用したらしかったが、事が事だけに、まず人数だけを発表した。それでも大スクープだった。各紙が追いかけて一斉に書きたてる。  ところがイッちゃんは、そのリストを新聞社には持って行かず、週刊誌へ持ち込んだらしい。イッちゃんの金廻りが急によくなった三日後、その週刊誌は人数どころか名前までずらずらっと書き並べてしまった。  国会は大混乱に陥った。無理もない。その悪魔リストには、元首相や与党幹事長、元運輸大臣その他、政界実力者が何人も並んでいたのである。青十字問題調査委員会では、筆跡鑑定の専門家を証人席に招き、雑誌や新聞に載った社長の筆跡を鑑定させることにした。だが、反論が出た。新聞雑誌の誌面のものではなく、元のコピーを提出させなければ真偽を論ずるに足りないのではないかという意見である。  悪魔たちの見えすいた駆け引きではあったが、委員会にそのコピーが提出されるまでに彼らは一週間近くの時間を稼《かせ》いでしまった。コピーが提出されても、与党側が推《お》した鑑定人は、はっきりした結論は出せないと主張する。もう一人の鑑定人は早ばやと航空会社の社長の筆跡に間違いないと断定した。悪魔たちのたくらみは、かなりうまく運んでいるようであった。人々はそのリストがたぶん本物だろうと思いながらも、どこかまだ信じ切れないでいるようだった。     5  神崎は動かない。世間の騒ぎをじっと見つめているようだ。  まったくそれは見るに価する騒ぎだった。しょんぼりする奴《やつ》もいればはしゃぐ奴もいる。無理に威張りかえって、潔白の心証を得ようとする者もいれば、誠実そうな演技で、訥々《とつとつ》と潔白を説いてみせる男もいた。  そのどれもこれもが尻っ尾の生えた悪魔政治家なのである。  とはいえ、真の意味の国民の代表も少なくはない。正直者は馬鹿《ばか》をみるというが、そうした非悪魔派は一様に調査も不充分なら、議論も拙劣で、潔白だけがとり柄の無能政治家に近かった。  が、それでもなんとか、疑惑の中心である元首相及び元運輸大臣らの身体検査が実施されることになった。天使だけにしか見えない尻っ尾であろうと、それが生えているとすれば、現代の最高水準の技術を用いれば、有る無しを判定出来ない筈はなかろう。……と言うのである。  委員会は、医師団の編成にとりかかった。ところが、その編成作業は意外にも野党優勢の形で進み、その人選に関して与党が猛烈に反対することになった。  その混乱に乗じて、元首相及び元大臣の二人の悪魔政治家は、自発的に独自の医師団を作って、それの検査を受けるという狡猾《こうかつ》な手段に出た。  非難を受けると、逆に委員会の審議遅延をなじり、自己の名誉を守るための当然の処置だとうそぶいた。 「いったいそのお医者さんたちはどういうつもりで悪魔に協力するのかしら」  光子はそう言って嘆息した。  そうこうする内に、委員会でやっと正式の医師団が決定した。内容は例によって、足して二で割ったようなものだった。  当然予想されたことだが、身体検査を受けるべき悪魔政治家は、すでに身体検査が完了しているとして、その医師団による検査を拒否して来た。 「有権者の支持によって名誉ある総理の地位に輝いた尾《び》|※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨《ていこつ》を、これ以上国民の注視のもとにさらすことは堪《た》えられない」  マスコミは、その名セリフをはやしたてた。 「何だか知らないけれど、風向きが少しずつ変な方へ行くみたいよ」  光子がそんな動きを心配した。その光子の不安を裏書きするかのように、青十字の男の手で社長や重役を殺された企業の内部から、自分たちはその指導者たちが悪魔であったとは信じていないという声明が、続々と発表され始めた。  悪魔の存在をあばくことに喜びを感じていたようなマスコミにも、その騒ぎを反省するような発言が現われ始めた。そのなかでも一番もっともらしく、また人間心理の弱点をついた説得力あるものはこういう議論だった。 「神とは正義であり、悪魔とは不正義である。正義が不正義を駆逐しようとすることは、まったく正しく異論をはさむ余地がない。しかしながら、正義を完全に行なおうとするとき、しかも正義が不正義を己れの死であがなわせようとするとき、いったい誰が確信を持って自分は生き残れると言い得るだろうか」  ひと口に善良なる市民と言われる人々も、その言葉を聞いて沈黙しがちであった。それはまさに、罪なきもの石をもてこの女を打て、という言葉そのものであった。 「エデンの園になぜ蛇《へび》がいたか」  つい先日まで悪魔政治家たちの名を書き連ねていた週刊誌に、そんな見出しの特集が載るようになった。 「やっぱりあなたが一人でやるしかなかったのね」  光子は神崎にそう言った。 「もっと医学が進んで、悪魔の尻っ尾が完全に見わけられるようになればいいんだが」  神崎も人間たちの弱さに失望し始めていた。 「なぜ完全に神を信じることができないのだろう。人間は公正であろうとするたびに悪魔の方へ引っぱられてしまうのに、なぜ気づけないのだろう。ひょっとしたら、人間には悪魔が裁けないのだろうか。完全な神にも、完全な悪魔にもなれないものを称して、人間と呼んでいるのではないのだろうか」  神崎も光子とそんな議論をするようになっていた。 「だが僕はもう少し様子を見ていたい」 「どうして……」 「それは僕が神の代理人であると同時に、やはりみんなと同じ人間だからだよ。いまの僕の目から見れば、誰に尻っ尾が生えているかはっきりと判る。僕は不死身だし、オールマイティーだ。だから尻っ尾をぶらさげた悪魔を殺すのはわけもないことだ。僕がここにいる以上悪魔はいつでも退治できる。でも、だからこそ僕は人間を信じたい。人間たちの手で悪魔が一人残らずほうむり去られるのをこの目で見たいんだ」 「きっとそうなるわよ。人間だってそんな馬鹿じゃないと思うわ」  光子は神崎をなぐさめるように言った。  ところが、とんでもないことが起った。  偽の青十字の男が現われたのだ。その偽者は、全国民にその尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨を注目されている元首相の家へ、突然電話をかけて来た。 「自分は世間で青十字の男と呼ばれている者である」  その電話の主は、特徴のある元首相の声を聞きわけると、いきなりそう言ったという。元首相はどぎもを抜かれたらしい。しばらくは返事もできなかったそうだ。  相手はその沈黙にかまわず、 「人間たちをどうあざむこうと、神の使徒である自分には、汝《なんじ》がまぎれもない悪魔であることはよく判っている」  と喋《しやべ》り始めた。元首相の側近に機転の効《き》く人物がいて、元首相の表情の変を見るや否や、その通話を録音するテープのスイッチを入れた。それに勇気づけられたのだろう元首相は、手まねでその側近に逆探知を命じたという。  偽者は続けた。 「悪魔狩りの天使である青十字の男は、人間たちが言うほど厳密な使命を帯びて出現したのではない。エデンの園に蛇をおいたのは、神がそれを必要と認めたからである。神は神に等しいものを造り出す必要がない。始めの男女は、神に似て非《あら》ざる者として造り出されたのである。したがって蛇と人は本来神の意志によって共存を許されている。ただ蛇の数が増えすぎて人間を圧迫し始めるとき、神はその淘汰《とうた》のために、悪魔狩りの天使すなわち青十字の男をつかわすのである。自分は神からその使命を託された者として、どの蛇を殺しどの蛇を生かすか、選択する権限を有している。そして自分はまず汝を残すことに決めた。汝は自分によって選ばれた蛇である。蛇もまた神によって造られたものである以上、残されるべき少数の蛇の代表者として、汝はどの蛇を殺し、どの蛇を残すべきか、よろしく汝の考えを述べよ」  その長い通話の間に、偽者はみごと逆探知されてしまった。     6  一人の宗教家が逮捕《たいほ》された。他人の名を偽って長時間の電話をし、相手に迷惑をかけた廉《かど》によってである。 「冗談をいうな。わたしがいつ他人の名をかたったというのだ」  その宗教家は逮捕されたとき激昂《げつこう》してそう喚いたという。 「警察は阿呆《あほう》か。神と人との区別もつかんのか」  たしかにお説の通りである。他人の名を騙《かた》ってはいけないが、神が人間でないことも事実である。 「自分は神であると名乗った相手と、長時間本気で話し合うのは、自分白身気違いか、さもなくば本当に悪魔なのだろう。それを、わたしだけ逮捕するとは何事だ。わたしが神だと名乗る誇大|妄想狂《もうそうきよう》なら、それを神だと信じて応対した元首相も気違いではないか」  その宗教家は、狂信的である反面、冷徹な理論家でもあるらしかった。名を木戸半次郎と言った。  また木戸は、宗教家でありながら神の名を騙るとは道義に反しないかという係官の難詰に対しては、 「宗教家といえども、ユーモアのセンスを持ちあわせて悪いということはありえない。わたしはアラビアの砂漠《さばく》から来た駱駝《らくだ》ですと自己紹介したのに対して、それは遠路はるばるごくろうでしたと答える者がいれば、その会話は明らかに冗談であり、冗談とはおたがいの言葉が本気でないことを了解しあうことによってはじめて成立するものである」  と反論した。 「一国の首相を勤めたほどの人物が、自分は神であるとか、自分は駱駝であるとかいう自己紹介をまともに受けるとは考え得ないから、長時間の会話が成立したとしても、それは冗談にすぎない」  木戸半次郎はそう結論した。  その偽電話の被害者である筈の元首相は、はじめその事件を自分の潔白の証明に役立てようと考え、重大なミスを犯してしまった。  そのミスとは、木戸半次郎との通話をテープに録音していたと記者団に語ってしまったことである。  木戸半次郎はそれを知るやいなや、 「そのテープを公開せよ。そうすれば自分の無実が証明できる筈だ」  と強硬に主張しはじめた。  狂信的な宗教家である木戸半次郎のこんたんは最初から明らかであった。青十字の男の名を騙り、元首相の口から直接悪魔たちの名を聞きだして、元首相もろともそれを証拠に全員ほうむってしまおうと考えたのであろう。  どうやら元首相のほうは、木戸半次郎の電話を、本物だと信じ込んでいたような気配がある。逆探知により、受話器を握って通話中の現場へ駆けつけたのは、元首相の息のかかった現職の警部であり、警察への通報も正式のものではなく、きわめて私的なものであったことが明らかにされた。  世論は元首相にそのテープを公表せよと迫った。元首相はそれにこたえ、テープを提出する意志はあるが、現物はすでに秘書の不注意により消去されてしまっていると逃げた。  明らかに、元首相は、そのテープの公表に危険を感じているのだ。彼を悪魔であると信じて疑わない木戸半次郎は、それを猛然と追及し、自分の背後には強大な信者組織が存在するとほのめかしたりした。  木戸半次郎はいちやく時の人になり、たび重なる記者会見やテレビ出演のたびに、神への信仰を説き、自己の所属する宗教団体への寄付を人々に呼びかけた。 「あの人には尻っ尾がないの」  光子は木戸半次郎が出演したテレビ番組を見ながら、真面目《まじめ》な顔で神崎にそう尋ねた。理屈の上からは明らかに元首相が怪しく、木戸半次郎は正義の味方であった。  しかし、執拗《しつよう》に相手を追及する木戸半次郎の姿は、ともすればうさんくさく、偽者じみて、加害者に思えるのだった。  反対に、地位のある身でありながら、偽電話に長々と応対してしまったうかつさを、言葉少なに恥じてみせる元首相の姿は、悪魔の疑いをかけられている人物にしてはあまりにもしおらしく、被害者じみて見えた。  慢性化した悪魔論議に倦きた大衆の興味は、明らかに枝葉の問題であるその偽電話事件の方へ移っていったようだ。  そして、その両者の論争も、ひどく長びいてしまった。  悪魔たちのその問題に対する基本戦術は、結局時間をかせぐことであった。悪魔は人間の飽きっぽい習性を知りぬいていたのだ。そして問題を語りつくし、飽き飽きし、興奮からさめかけたときの人間に、どんな刺激を与えればその視点が変えられるかも、充分知りぬいているようだった。  悪魔と宗教団体。その二つほど相容れぬものはない筈だったのに、悪魔たちは木戸半次郎が所属する団体に対して、見事な工作をほどこしてしまった。  その宗教団体の最高幹部会議の決定により、木戸半次郎は神の名を詐称《さしよう》したと非難され、除名処分にされてしまった。  木戸半次郎は記者会見して、その除名処分を拒んだ。 「わたしは神の名において悪魔とたたかっているのだ。そのたたかいに加わろうともせず、かえってたたかうものを非難するのは、悪魔の側につき従ったものであり、人々に神の教えを説く資格を放棄したと考えるべきである。したがってわたしは彼らを神職者として認めず、その幹部会の決定も認められない」  木戸半次郎はどこまでも孤独なたたかいを続けるつもりのようであった。しかし、その教団員たちは、誰一人として公然とは木戸半次郎には同調し得なかった。もし木戸半次郎に同調すれば、その人物もまた除名されるに違いなかったからである。悪魔狩りは忘れられはじめ、人間同士の争いに戻ったようである。     7 「あなたどうする気なの」  光子がじれったそうに言った。 「国会のことかい」 「そうよ。会期切れが迫ってるわ。終われば議員たちはみな選挙区へ帰ってしまうじゃないの」 「そうだなあ」  神崎は煮えきらない返事をした。 「いくら名前が判っていても、悪魔たちが日本中へ散らばってしまったら面倒なことになるわよ。まして選挙じゃないの。悪魔たちは選挙区を駆け廻って、三十分だって一ヵ所にじっとしてはいないでしょう」 「僕もそのことを考えていたところさ」 「あなたがいつまでも神の代理人でいるのなら、じっと待ってもいっこうにさしつかえないでしょう。あなたが東京でじっと国会議事堂をにらんでいると思えば、また当選してのこのこ国会へ出て来るよりは、田舎《いなか》でじっとしていようと考える悪魔だっているでしょうからね。その分だけまともな人が当選することになるわ。でも本当はどうなの……」 「どうって」 「あなたに任期切れはないの……」 「それが僕にもぜんぜん見当がつかないんだ」  光子は神崎の両肩に手をあて、額を押しつけるようにしてじっと見つめた。 「死ぬまで悪魔狩りを続けるなんて、あたし嫌《いや》よ」 「どうしてだ」  神崎がそう言うと光子の目が潤《うる》んだ。 「あなたを愛しているから」 「愛しているから……」  とうに光子の気持は神崎にも通じていた。彼はもう、婚約の成立している溝口夕子のことも、ほとんど想《おも》い出さなくなっていた。光子以外には考えられないのだ。 「そう、あたしはあなたを愛している。いつだってあたしはあなたに抱かれたがっているのよ。でもいまのあなたでは無理ね。あなたは神の使徒ですもの。それは判っているのよ。あなたが神さまの代理人であるうちは、決して抱いてなんかもらえないでしょう。当然よ。でも、一生あなたがそれを続けるのだとたまらない。それに、そんなことをあなたにさせたくもないの」 「なぜ……」 「悲劇だわ。そうなったらあなたは一生人間ではないのよ。そんなの不幸じゃないの。あたしはあなたから神さまが離れてくれるのを待っている女なのよ。たしかにあなたは尻っ尾の生えた者たちが見えるでしょう。悪魔がいるのよ。でもあたしたちは二人とも悪魔なんかじゃない。人間同士よ。それもあまり豊かじゃない……」  神崎は光子の言おうとしていることを理解した。 「何から何まで神さまが造った筈のエデンの園に蛇がいたということは、この世の中にも悪魔がいるということになる。神がいまごろになって蛇を根絶やしにしたところで、最初の二人が神に背を向けた事実は消えようがないだろう。もしかすると人間が悪魔を憎み切れないの、そのへんのことに関係があるのかもしれない。僕らは悪魔を憎み嫌《きら》っている反面、悪魔に会うとどこかなつかしさを感じてしまうのかもしれない。それが人間の本性なんだろう。ところが僕は悪魔の尻っ尾を見るとがむしゃらに憎らしくなる。われを忘れて怒り狂い、殺さずにはいられない気持になってしまう。僕の体に神が憑《つ》いているからだ。そのために君を抱くこともできない。僕だって君を愛しているんだ。でもいまはどうしようもない」  光子は神崎の両肩から手を離しそれを自分の胸の前で組み合わせた。 「どうかあたしのいとしい人を早く解放してくださいますように」  光子は目を閉じてそうつぶやいた。神の代理人の前で、その代理人のために神に祈っているのだった。 「どうしてだろう」  神崎は急に疑問を持った。 「神はなぜ自分自身の手で悪魔狩りをしないのだろうか。なぜ僕のようなものを代理人に選んでやらせるのだろうか」  当然のことながら、その答は得られなかった。  ある週刊誌が、光子と同じような疑問を提出していた。 「悪魔狩りははたして無期限か」  そういう見出しで、選挙後も悪魔狩りが続くかどうかを語ったあと、悪魔狩りが無期限だとすれば、神は悪魔を永久に狩りつくせないことになり、期限つきの場合でもそれで悪魔が絶滅したと考えていいのかどうか、疑問が残るとしていた。  だが悪魔側では、そんな役にも立たない議論など行なわれていなかった。彼らは目覚し時計分析班のスタッフを増強し続け、豪田卯三郎の投げつけた安物の目覚し時計によって、なぜ神の代理人である神崎順一郎が失神してしまったかを懸命に解明しようとしていた。  人間どもの飽きっぽさに比べると、悪魔たちの忍耐強さは驚異的であった。目覚し時計の分析結果が出て、神の代理人に対する武器が手に入るまで、どんなに攻撃されようと、神崎順一郎の名さえ公表せずに耐え忍んでいたのである。  そして悪魔たちの努力は実った。  いつか神崎がホテルでとり逃がした坊主頭の大悪魔のもとへ、いそいそとやって来た学者の一団があった。 「どうした。答が出たのか」  さすがに大悪魔も期待に顔を紅潮させて訊いた。 「はい。とうとう見つけました」 「間違いないだろうな。儂《わし》はがっかりすると腹が立つたちだぞ」  大悪魔はギョロリと目をむいて学者たちをにらんだ。 「今度は間違いありません」 「その答は何なのだ」 「実に意外なものでした。安価なものです。どこにでもあるものです。しかもそのうえに皆さんの避難所まで、もう完全に出来あがっています」 「儂をじらす気か。早く結論を言え」 「六価クロムです」 「何、六価クロムだと」 「はい、そうです」  大悪魔はしばらく学者たちを見つめていたが、やがてその顔に笑いが泛び、その笑いはしだいに大きくなっていった。 「絶対に間違いないのだろうな」  もう一度念を押したあと、大悪魔はゲタゲタと声をあげて笑いはじめた。 「まさか六価クロムだったとはな」  そう言ってゲタゲタと笑い続ける大悪魔にあわせて、学者たちも声をそろえて笑った。 「クロム鉱さいを投棄した広い土地があるぞ。世間では公害だの何だのとうるさいことを言いおったが、何のことはない、われわれは自分たちの避難所を作っていたことになるではないか。なるほどあれはクロム・メッキの安時計だった」  厄介もの扱いをされ、公共団体の間で押しつけあいになっていた広大な土地が、次々に目まぐるしく売買されはじめていった。  それらの土地はいずれもクロム鉱さいの投棄によって汚染された地域であった。  神崎が例の天啓によってその怪しい動きを知ったときには、すでにその汚染地帯は大企業の手によって買収され、悪魔たちの避難所となるべき豪華な建物の基礎工事が進行していた。 [#改ページ]   追われる天使     1  なぜこんなに不安を感じるのだろう。  神崎はホテルの窓から高速道路の車の列を眺《なが》めおろしながらそう思っていた。光子のすすめで、四、五日前からそのホテルに泊っているのだ。 「GODカードでお金をおろして置いてあげたから、当分心配は要《い》らないわ」  いつの間にかマネージャー役になっている光子は、そう言って下着類や、また射たれたり刺されたりした時の為に、新しい服を三着ばかり買い込んで来ている。  一度失ったGODカードが、銀行を通じて手もとに戻《もど》って来ている以上、神崎の身もとを悪魔側が知り尽していることはたしかであった。連中のことだから、勤め先の石川設計事務所へも出勤せず、自宅へもろくに帰っていないことなども調べがついている筈《はず》であった。  光子がホテル住いをするよう提案したのは、神崎がわけの判《わか》らない不安を感じはじめた直後だった。それは不吉な感じというような生易しいものではなく、例の天啓と同じに遠く深いところから発する感覚だった。  神崎は悪魔たちが自分にとって容易ならぬ対抗手段を用意しはじめていると思った。神がそれを知らせているのだ。しかし、敵の居場所を明確に教えるいつもの天啓と違って、それは正体不明のものだった。 「神よ。いったい何を教えようとしているのだ」  神崎は一人きりの時、何度もそうつぶやいた。しかし、浴槽に身を沈めても、今度ばかりは何の効果もなかった。  悪魔側が逆襲を企んでいる。  そう思わざるを得なかった。それで光子の言葉に従って家を離れ、ホテル暮らしをはじめたのであった。 「俺はもう失業者だよ」  そのホテルのラウンジでコーヒーを飲みながら、神崎は光子にふと淋《さび》しそうな表情になって言った。 「どうして……」  光子は小首を傾《かし》げて訊《き》いた。 「事務所へも顔を出せない。所長たちを巻き添えにしてしまうからな」  神崎はすでに石川たちを巻き添えにしてしまっているのを自覚していた。何と言っても豪田卯三郎の邸《やしき》であんな事件を起してしまったのだ。だからあれ以来、ひたすら近付かぬようにしている。一日も早く、自分と石川たちが無関係であることを、悪魔たちが認識してくれるよう祈っているのだ。 「失業なんかしていないわよ」  光子は陽気な顔で答えた。 「だって、神さまの手伝いをしているじゃないの。世の中にこれほど崇高《すうこう》な任務はない筈よ」 「でも、僕は今働いていないぜ。働かずに食っているんだ。しかもこんな一流ホテルで、服だって高級なのを着ているじゃないか。うしろめたいんだよ」 「変なことを気にしてるのね」  光子は笑った。 「それだけの仕事はしているじゃないの。誰にもできない仕事よ。あたしに言わせれば、まだ足りないくらいだわ」 「おいおい」  神崎は驚いて光子を見た。 「神に与えられた仕事をするのに、金や物を代償に取っていいものなのかい」  すると光子はひどくうろたえたようだった。 「だって」  と言い澱《よど》み、顔を赤くして早口で続けた。 「それじゃ、裁判官は無給なの……。人を裁く人は、その仕事の代償を受取ってはいけないの……。もっと極端に言えば、死刑執行人が無給だったらどうなると思ってるの。死刑執行人が神の代理人、或《ある》いは正義の最終的な実施者として死刑の仕事にたずさわるのだから、お金は要りませんと言ったらどうなると思うの」 「死刑……」  神崎は顔をしかめた。まさに神崎こそは、悪魔に対する死刑執行人だからである。 「そうよ。そういう立場の人がもしその仕事の代償を取らないとしたら、その人はみんなからどう思われる……」 「さあ、判らないな」 「好きだからやっていると思われるわ。仕事の報酬を受取らない死刑執行人は、社会全体の代理として死刑を執行するんじゃなくて、人を殺すのが好きだから死刑執行人になったんだと思われるにきまってるじゃないの」  神崎は唸《うな》った。光子の今言ったようなことは、一度も考えたことがなかった。  光子は続ける。 「ここに一人の裁判官がいるとしましょう。彼は職業として裁判官を選び、その仕事の報酬によって生活しているのよ。ところが、その裁判官が、いくら自分の正義を信じたからと言って、いくら世の中の悪を憎んだからと言って、自分の職務の範囲外にまで手を伸ばして、正規の手続きをへずに、誰かの悪を暴《あば》こうとしたら、その人はもう裁判官じゃなくて、犯罪者に近くなってしまうとは思わない……。自分の職責の範囲をこえていれば、誰もお金はくれないわ。どこからも報酬はでないのよ。一個人として堪《たま》りかねてやったという言い方もできるでしょうよ。でも、裁判官としては絶対にそんなことをしてはいけないの。そうでしょう。もしそれをやったら、彼の正規の仕事だって、任務でやっているのではなくて、好きだからやっているということになるわ。人を裁くことが好きな人間が裁判官になるなんて、恐ろしいことだと思うわ。法廷で死刑を宣告して、家へ帰ってああいい気分だった、なんて言う人が裁判官になったら、誰だって裁判そのものを信用しなくなるでしょう。裁く仕事に報酬を得て、それがそう貧乏な生活をしなくてもいい程度のものだからこそ、みんなは安心してその人たちに法廷のことをまかせていられるんだと思わない……」  神崎は黙り込んでしまった。たしかにそう言われればその通りであるようにも思えた。しかし、GODカードが無制限の力を持っており、それを自由に行使することが、正当なことだとはなかなか思えないのだ。 「元気をだして」  光子は深刻な表情の神崎をあやすように言った。 「攻撃するのよ。少し相手の動きを見すぎていたようだわ。早く叩《たた》き潰《つぶ》すべきものは叩き潰さなければね」  それもまた、たしかなことであった。     2  弱気になるのはするべきことをしていないせいだ。  神崎は自分を励ますようにそう考え、悪魔狩りに出撃した。あのリストにあった政治家の名は完全に記憶していたし、その連中が出入りする場所も調べあげていた。  夜になると、神崎はある料亭の表玄関の前に張り込んだ。夜な夜なそこへ政界の悪魔グループが現われることを知っていたからである。  しかし、青十字の男の騒ぎが大きくなって、悪魔たちも怯《おび》えている筈だから、ひょっとすると現われないこともあり得ると思っていた。  ところが、悪魔たちは図々《ずうずう》しく、一人また一人と高級車を乗りつけて、その料亭へ入って行くのだった。  五人集まったのを確認してから、神崎はおもむろに玄関へ向かった。例によって、誰も神崎の侵入には気付かなかった。  いったいあの不安感は何を意味しているのだろう……。  神崎は、悪魔側の抵抗を予想していただけに、少し拍子抜けした思いで檜《ひのき》の廊下を進んで行った。どの襖《ふすま》をあけても、気付く者はいず、神崎は一番奥まった部屋へ辿《たど》りついた。  あの感覚がやって来て、神崎は無表情になり、襖の引手に手をかけた。 「とにかくそういうことだから、通産のほうには……」  襖をあける時、座敷の中でそんなだみ声がしていた。 「あ……」  襖を引きあけると、五人の悪魔はいっせいに神崎を見た。  が、怯えて隅へひとかたまりになる筈なのに、彼らはそうしなかった。 「それ来たぞ」  元気よくそう言うと、めいめいのそばに置いてあった光るものを取りあげて立てた。  神崎はその男たちの黒い尻《し》っ尾《ぽ》にいきり立っていた。 「殺してやる」  すると悪魔たちは口ぐちに言った。 「やれるものならやって見ろ」 「さあ来い」  神崎は一瞬戸惑った。悪魔たちが少しも自分を恐れていないのが判ったからだ。しかし、それはいやらしい尻っ尾に対する神崎の憎悪をいっそう煽《あお》り立てただけであった。 「生意気を言うな、悪魔のくせに」  そう叫ぶと、一番手近の悪魔にとびかかって行った。  ところがどうだろう。その悪魔はピカピカと光る楯《たて》のかげに体をかくして、逆に神崎の体へ突っかけて来たのだ。  神崎ははねとばされ、畳の上へあおむけに引っくり返った。 「効《き》くぞ効くぞ、今のを見たか。俺は神の使いを引っくり返してやった」  その悪魔は、こおどりするように叫んだ。 「糞《くそ》っ……」  神崎は起きあがると、もう一度その悪魔をつかまえようと突進した。が、今度は三人ひとかたまりに楯を構えて押し返して来た。神崎はさっきの倍も勢いよくはねとばされた。 「さあどうだ。もうお前の手に負える俺たちじゃないんだ。とっとと帰りやがれ」  悪魔たちは勝ち誇ったように言った。  神崎は、楯にぶつけた所があちこち鋭く痛むのに気付いた。怒りで痛みさえすぐには感じなかったのである。  もそもそと起き上りながら、神崎はその楯を見た。デモなどの時によく見る、機動隊員が持っている楯と同じ物であった。 「何か仕掛けを考えたな」  すごすごと引きさがる気はなかった。何としても皆殺しにしてやらねば肚の虫が納まらない。 「そんな物、何の役に立つ。俺は神の代理人なんだ」  悪魔め、と叫んで神崎はその楯を相手から引きはがそうとした。しかし楯は四辺を鋭く刃物のようにとがらせてあって、掴《つか》むとさっと手が切れた。  神崎は棒立ちになり、唖然《あぜん》として横一文字に赤い血が滲《にじ》み出す自分の手をみつめた。 「お前は不死身だそうだな。ためしてやる」  悪魔たちは勢いに乗り、楯のへりで神崎に撲《なぐ》りかかった。神崎はピカピカに光る楯を頭と肩に受けた。  ザクリと鋭い楯のへりが体に食い込むのが判った。血が噴き出し、畳に流れ落ちた。 「殺すなら殺せ」  逆に神の使徒である神崎が叫んだ。やぶれかぶれで体を投げ出すように突進すると、うまく楯と楯の間へ割り込んで、うしろへまわることができた。 「死ね、悪魔」  やっとの思いで一人の悪魔の首に手がかかった。 「助けてくれ。早くそいつをクロムの楯で……」  神崎に首をしめられた悪魔は、背後にいる相手を何とか手にした楯で傷つけようと暴れた。 「頑張《がんば》れ、今こいつを殺してやる」  残った四人の悪魔は、両手の塞《ふさ》がった神崎に、かわるがわる楯のへりで切りつけて来た。  頭も顔も、腕も腹も、滅多切りに切られた。しかし、神崎の両手はその悪魔に食い込んで、相手が息たえるまで遂に離れなかった。 「し、死んだ」  神崎が手を離した時、彼の体を切りさいなんでいた悪魔の一人が、怯えた声で言った。  神崎はその声を聞きながら畳の上へ倒れ、自分の体から流れだした血溜《ちだま》りに頬《ほお》をひたしていた。 「こいつ、こんなにされてもまだ生きていやがる」  悪魔たちは震え声で言った。 「すぐに死ぬさ」 「死ぬだろうか。神の手先だぞ」 「おい、それより、カードを取りあげるんだ。そう通達されているじゃないか」 「お前取れ」 「嫌《いや》だ、気味が悪い」 「とにかくカードを取りあげなければ責任を問われるぞ」 「糞、こういうのはいつも俺の役だ」  一人が震え声の愚痴を言いながら、それでも勇を鼓《こ》して神崎の服をまさぐった。 「あった。GODカードだ」  悪魔たちはうれしそうに言った。しかし神崎はその声を聞くだけで、立ちあがろうとすることさえできなかった。     3  奥座敷での乱闘を知って、本来ならその料亭はすぐに警察を呼ぶはずであったが、さすが政界の裏面に通じた店だけに、客の意向を聞くまでは静観していた。 「どうする。とどめを刺すか」  仲間を一人殺された悪魔たちは、おろおろと相談をはじめた。 「嫌だ。俺は嫌だ」  一人が頑固《がんこ》に言った。 「神の使徒を殺してみろ。俺一人がしつっこくつけ狙《ねら》われることになる」  その悪魔が言うと、他の三人も急に怖気《おじけ》づいたようだった。 「じゃあ四人一度にとどめを刺せばいい」  一人がそう提案したが、積極的な声ではなかった。 「悪魔全体の中では、一人ぼっちになるのと同じことだぞ。四人だけが殺《や》られて、あとは知らん顔だ」 「そうだ。自己犠牲は俺たちの美徳じゃない。自己犠牲といえど、いけにえはいけにえだ」 「見ろ」  一人があとずさりしながら倒れている神崎を指さした。 「もう出血がとまりはじめている」  他の悪魔たちはそれを聞くと、よく見もせずにさっと廊下へ飛び出した。 「靴下が血で汚れてしまった。天使の血じゃないか、気色の悪い」 「俺の手も血に染まった。このあと何事もなければいいが」  四人の声が怯えた沈黙の支配する料亭の中を、玄関のほうへ遠ざかって行く。なかば意識を失っている神崎と、絞め殺された悪魔が、その部屋に八の字型に倒れていた。 「なぜ悪魔に負けなければいけないのだ」  神崎はあり得ぬことが起って、意識を少しはっきりとさせた時まずそうつぶやいた。  たしかに出血はとまったようだった。ピカピカに光る楯が彼の目の前にひとつ落ちていた。死んだ悪魔の分である。神崎はそっとそれに手を触れて見た。すると、どうやらとまりかけていた掌からの出血がまたひどくなった。 「これが毒なのか」  神崎は起きあがった。体中が激しく痛んだが、それでも体力が回復して来ることは判った。襖《ふすま》にとりすがり、廊下へ出た。パトカーのものだろう、緊急自動車の鳴らす警笛の音が、遠くから重なり合って聞こえはじめていた。  神崎は玄関へは出ず、廊下のガラス戸をあけて小さな中庭へ出た。反対側の廊下からこちらを見ていた女たちが、バタバタと逃げ去って行った。  尻っ尾を見た時の怒りはもう去っていたが、またあの感覚がやって来ていた。神崎はふらつきながら、迷わず女たちが逃げたほうへ行った。中庭からその廊下へまたあがり、まっすぐに進んで行くと、右手に暖簾《のれん》のかかった場所があった。そこへ入ると食器棚が並んだ板の間になり、その少し先に調理場があった。 「こん畜生、血で汚しやがって」  若い男がそう叫ぶなり光るものを投げつけて逃げて行った。それは神崎の体に突きささった。見ると柳刃包丁であった。 「人間がこの俺に……」  神崎はみじめな思いでそれを体から引き抜いた。楯の時には流れ出た血が、今度はいつも通り出て来なかった。 「神の力は失われていない」  神崎はそうつぶやきながら包丁を投げすてると、勝手口から裏の道へ出た。切られても突かれても普通の刃物ならまだ平気なのだ。危険なのはあの楯だけだということが判った。  いったい悪魔たちはあの楯にどんな仕掛をしたのだろうか……。  神崎はそう考えながら料亭を遠のいて行った。血まみれで、滅多切りにされた服はボロボロだったが、誰も気付かないようであった。神の加護が続いていて、捕われることから神崎を遠ざけてくれているらしい。  しかし、何と言っても大量の血を流したあとだから、体はふらふらとしていた。異常な回復力で傷口が塞がりはじめているとは言え、ともすれば意識は朧《おぼろ》になりがちだったし、このままホテルへ辿りつけるか心もとなかった。  神崎は通りへ出るとタクシーをとめようとした。  しかし、それは無理なようだった。通行人にも神崎が見えていないのである。とまるものと思い込んで車道に出た神崎は、空車の赤ランプをつけたタクシーにはねとばされた。タクシーの運転手は明らかに衝撃を感じたらしく、甲高い音をさせてブレーキをかけたが、道に何も異常を認められないので、小首を傾《かし》げてまた走り去ってしまった。  右脚が折れたらしかった。神崎は車道と歩道の境いの溝《みぞ》にそって体を横たえ、夜空を睨《にら》んでいた。  これは神の敗北ではないか。  そう思うと無念さがこみあげて来た。猫《ねこ》が一匹やって来て、神崎の顔のあたりをうろうろしはじめた。パトカーがあの料亭のほうへ警笛を鳴らして疾走して行った。猫がザラザラした舌で神崎の涙を舐《な》めた。  光子。  神崎は心の中で叫んだ。  俺はお前を抱きたい……。  何が何でも光子に会いたかった。光子の介抱を受けたかった。神崎は立ちあがり、這《は》うようにして進みはじめた。さいわいすぐそこに電話ボックスがあった。まだ折れた脚は回復せず、神崎は這ったまま電話ボックスのドアをあけ、中に入るとガラスの壁に手をあてて、やっと体を立てた。ポケットから十円玉を出して受話器を外し、コインを入れてダイアルをまわした。  光子は部屋にいてくれた。 「あなたなの……」  光子の声は緊張していた。 「いまテレビにテロップが流れてるわ。一人|殺《や》ったのね」 「困った。助けに来てくれ」 「どこにいるの」 「料亭の裏の通りの電話ボックスだ」 「どうしたの」 「滅多切りにやられた」 「どうして……」 「奴ら、僕に有効な武器を用意していた」 「すぐ行くわ。……ちょっと待って。あたしもただの人間よ。あなたが見えるかしら」 「来てくれれば何とかする」 「タクシーじゃだめね。少し時間がかかるけど、車を都合するわ」 「かまわない。君さえ来てくれればいいんだ」 「だって、そんな体では」 「俺の言う通りにしろ」  神崎は思わず呶鳴ってしまった。光子は怯えたように沈黙し、少ししてから、 「判ったわ。すぐ行きます」  と言って電話を切った。     4  光子が用意して来たコートに体を包んで、神崎はやっとホテルに戻った。光子は夢中で傷の手当をしてくれた。  何と言っても、神の代理人になってる体だから、傷はみるみる回復して行く。 「本当にこれが奇蹟というものなのね」  光子はその回復ぶりに感動したようであった。 「でもあのピカピカ光る楯には参ったな」 「いったいそれは何なの」 「判らない。とにかく連中は僕に対抗できる方法をみつけたんだ」 「困ったわね」 「今度襲えば、連中はもっといろいろな武器を用意しているかも知れない」 「でも大丈夫よ。とにかくあなたは一人やっつけたじゃないの」 「あいつらは、僕にとどめを刺すことを嫌がった。だからこうして助かったけれど、もしとどめを刺されていたら、今頃こうしてべッドの上で君と話しなんかしていられなかったかも知れない」 「たとえそういう手段を見つけても」  光子は自信に溢《あふ》れた表情で言った。 「悪魔は必ず滅ぼされるわよ」 「僕が殺《や》られたらおしまいさ」 「そんなことないわ。あたしは神を信じている。必ず第二、第三の代理人が送り込まれて来るわ」 「…………」  神崎は愕然《がくぜん》とした。光子はたしかに神を信じ切っているのだ。しかし、神崎を信じているのではないのだ。 「どうしたの、変な顔して」 「君は……君は神を信じているんだね」 「そうよ。絶対に」  人間を、いや俺を信じていたのではないのか……そう言いたかったが、神崎にはそれを口にする勇気はなかった。 「糞……」  神崎は低く言うと光子に背を向けた。失望した表情を見られたくなかったのだ。光子はそれには気付かず、優しい声で言った。 「がっかりしないで。何度でもやり直すのよ」 「死ぬまでか……」 「大丈夫よ。あなたには神さまがついているじゃないの」 「僕は神の代理人に過ぎない。君が愛しているのは、もしかすると神そのものなのじゃないかな」  光子は神崎の背中をみつめていたようである。答えなかった。 「すまない。言い過ぎたようだ」 「いいのよ。ショックだったのね。あんな奴らに逆襲されて」  光子の声は沈んでいた。 「連中の逆襲がこのままですむわけはないと思う。図に乗ってもっと仕掛けて来るぞ。君が心配になって来たよ」 「弱気にならないで。悪魔にやられてメソメソしてる天使なんて、滑稽《こつけい》だわ」 「そうに違いないな」  神崎は弱々しく笑った。  そのとき、テレビが番組を変更して、突然青十字の男のことを報道しはじめた。それは明らかに悪魔側の満を持した上での攻撃であった。  ニュース・キャスターは、興奮した声で青十字の男の正体が判ったと告げている。 「大変だわ。どうしよう」  光子はうろたえて言った。  神崎順一郎。  青十字の男の名を、テレビはそう教えているのだ。その神崎順一郎は、神の使徒でも何でもない、ただの平凡な男なのだ。小学校から大学までのことが詳しく写真入りで語られ、勤務先の石川設計事務所の様子までブラウン管に映し出された。  どう調べても、神の使徒であることを証拠だてるものはある筈がない。それは神崎自身一番よく知っていた。何しろ突然神に憑依《ひようい》されただけなのだ。  しかし、事実は事実で仕方がない。いまは神の使徒であっても、過去はただの男なのだ。そして、その事実を人々に突きつければ、神崎が神の使徒であることは誰も信じなくなってしまう。 「この分では、テレビに出演して斬られたり射たれたりして見せなければ、誰もあなたを信じなくなるわね」  光子の言う通りであった。 「しかもこの人物は、神の使徒を名乗るにしては、まったく神への信仰を欠いているようなのであります。彼はどんな宗教団体にも属しておりませんし、彼が神に祈る姿を見たことがある人物も遂に発見することができませんでした。それでも果たして彼は本当に神の使徒なのでありましょうか。当局はこの件に関し、はっきり答え、一連の要人殺害事件は、絞殺という共通の手口からして、この神崎順一郎の犯行にほぼ間違いないとして、当然殺人罪が適用されることを言明しております。また神崎は同時に一流銀行から数千万円の現金を詐取した犯人としても追及されている模様です」 「GODカードのことだ」  神崎はべッドからはね起きて叫んだ。傷がそれほど癒《い》えてしまったことにも気付かなかったのである。 「あれは神が用意したカードではなかったのか……」  光子はおろおろしていた。 「困ったわ。どうしよう」  テレビは次第に神崎の悪の姿を暴露している。五千万円を詐取されたと主張する支店長の談話が報道され、一般には通用しない特殊カードが偽造されたことを告げていた。 「どうすればいいの、あたしたち」  光子は泣声で言った。 「この分じゃ、あたしのことも調べられてしまうわ」  テレビの声は続いていた。 「もし神崎順一郎が特異な能力を備えているとすれば、それは神の使徒として神から授かった能力ではなく、古来伝説の中で語られて来た吸血鬼や狼男《おおかみおとこ》、すなわち獣人としての能力なのではないでしょうか。神は決して人に人を殺せとは命じないでしょう。神崎に殺された人々が悪魔であったなどという証拠はどこにもないのです」 「俺はもう、町を歩くこともできない」  神崎は呻《うめ》いた。     5  そのテレビを見ている最中、ドアのチャイムが鳴った。  光子は怯え切った顔でさっと神崎を見た。チャイムは性急に鳴り続けている。神崎はあきらめて光子にドアをあけろと合図した。  光子がよろめくようにドアに行く。 「ちょっと失礼します」  男の声だ。 「何でしょう」 「お部屋を拝見したいのです」 「どうして……」 「あ、テレビをごらんですね。それならお判りでしょうが、青十字の男がこの部屋へ入るのを見たという者がいるのです。万一お客さまに危険があってはと」  男が二、三人、押し入るように部屋の中へやって来た。黒服|蝶《ちよう》タイの男が一人と、ガードマンが二人であった。光子はそのうしろで蒼《あお》い顔をして立っていた。  男たちはべッドが二つある部屋を見まわし、バス・ルームのドアをあけたり衣裳棚《いしようだな》の中を調べたりした。 「お連れさまは……」  そう尋ねられ、光子は壁ぎわのべッドに腰かけている神崎を見た。 「あたし一人よ」  光子が答えた。光子には見えるが、他の者には神崎が見えなくなっているらしい。 「ずっとお一人で……」 「そう。あたしが殺人犯の仲間だとでも言いたいの」 「いえ、お客さまに万一のことがあってはと思いまして、念の為調べさせていただいたまでです」 「不愉快だわ。帰って頂戴」 「失礼いたしました」  狭い部屋の中である。光子一人だけだと思い込んで、男たちは渋々廊下へ出て行った。 「よかった」  光子はよろけるように神崎の体へすがりついて来た。 「すまない。君を巻き添えにしてしまった。でも、僕にはもう君しかいないんだ」  神崎はそう言って光子を強く抱きしめた。光子は抱きしめられながら、顔をかたくなな感じで伏せていた。 「早くやっつけて。悪魔を退治して。あたしはあなたを信じたいの。あなたが本当に神の使徒であることを。……あたしだって、もう頼るのはあなただけなのよ」  光子はそう言ったが、決して今までのように甘い声ではなかった。神崎はその声を、冷たく厳しいものに感じていた。 「そうだ」  神崎は急に光子の体を離して立ちあがった。 「すぐ警察が来るぞ」  衣裳棚へ飛んで行って、その戸をあけて言った。 「見ろ。今の連中はこいつを見ている」  切り裂かれた時の用意に、神崎の新しい服が二着、ハンガーにかけてあった。 「ひと足先に僕はここを出る。そうだな、ひかり座の楽屋へ行ってるよ」  光子は怯え切っていた。 「早く行って、参考人で連行されるのなんて嫌よ」  神崎は服を着がえると、血まみれでボロボロの服を紙袋にいれた。 「何をしているんだ」  光子はタオルを手に、夢中になって部屋の中を拭きまわっていた。 「指紋よ。あそこまで調べたのなら、警察はあなたの指紋だって、お家《うち》かどこかから採取しているでしょう」 「ばかな」  神崎は苦笑した。 「僕は神に保護されている。捕まりそうな時は姿さえ見えなくなるんだぞ。指紋だって出て来はしないさ」 「判るもんですか。指紋が出て来たら困るのはあたしよ。あなたは捕まらなくても、あたしは連行される。神さまが保護してるのはあなただけじゃないの。あたしまで守ってくれやしないわ」  神崎は背筋がぞくりとした。光子の言い方は吐きすてるようで、神を信じている人間にはとうてい思えなかった。 「じゃ、うまくやってくれ。先に行っている」  神崎は紙袋をかかえてドアの外へ出ると、居残って成り行きをたしかめたい気持を抑えつけながらエレベーター・ホールへ向かった。  ロビーへ降りる。誰にも見えていないようだった。しかし、タクシーに乗るわけにも行かない。神崎は仕方なく歩いてホテルを離れた。パトカーが何台もホテルへ疾走して行くのとすれ違った。  通りすぎる車のへッドライトの光が跡絶《とだ》えると、暗く陰気な道になる。神崎はその道を地下鉄の駅に向かって、トボトボと歩いて行った。  俺はもう永久に人の目に触れぬ人間になってしまったのではなかろうか……。  ふとそんな不安が首をもちあげる。悪魔に追われる天使。悪魔に敗れた神。そんなことがあり得ていいのだろうか。しかし現実に、自分は悪魔に追われて夜の道をのがれて行くのだ。悪魔に勝てぬ神とはいったい何なのだろう。悪魔に敗れる正義とはいったい何なのだろう。 「正義とはただの理想なのではあるまいな」  神崎はそうつぶやいて見た。声に出して言わねば、その疑問は彼の内部で肥大する一方だったのだ。 「神とは夢か。綺麗な夢を神と言っていたのではあるまいか」  しかし、その問いは否定しなければならなかった。現に神崎は神から特別な加護を受けているのだ。 「夢や理念だけのものではない。神は実在している。それは俺のこの体が一番よく知っているんだ。しかも一方には尻っ尾の生えた悪魔がいる。神は悪魔が滅びることを欲しているのだ」  それならばなぜ敗ける。なぜ楯を使った悪魔に手が出せないのだ。 「勝てない正義など何の役に立つ」  神崎は暗い道でそう罵《ののし》った。     6  光子は急場を切り抜けたようであった。警察はその部屋から、神崎がいた証拠を何ひとつ発見できずに引きあげて行った。あのテレビのニュースがおわると同時に、青十字の男に関する情報がいっせいに警察へ集まって、ホテル側の通報もそのひとつに過ぎなくなってしまったらしい。  ひかり座の楽屋へ難を避けた神崎に、光子はホテルへ戻るようにすすめた。 「急に逃げ出すとまた疑われてしまうわ。それより、あなたは姿が見えないんだし、ああいう大きなホテルにいたほうがずっといいと思うの。食事はルーム・サービスを使えばいいし、あたしは外で食べるからホテル側には気付かれやしないわ。それに、空部屋だってたくさんあるしね。いざとなったらかくれんぼよ。掃除《そうじ》のおばさんが持ってる鍵束《かぎたば》をとりあげるくらい、姿の見えないあなたには簡単なことでしょう」  いよいよになって、光子は肚《はら》を据《す》えたようだった。悪戯《いたずら》を楽しむようにそう言った。 「しかし、それでは金が続かないぞ」 「あの五千万円はどうしたの」 「五千万……」 「GODカードで引出したお金よ。テレビで言ってたわ」 「あれは所長の為にしたことだ。僕の金じゃない」 「でもあることはあるんでしょう。あなたが困ればわけてくれる筈よ」 「そうは行かないさ」 「まあいいわ。まだかなり残ってるし、当分はそれでやって行ける。もし一文なしになったら、悪魔の所へ押し入ってごっそりいただいて来るのも面白いじゃないの。あなたならそれくらいのことをしてもいい筈よ」 「そうも行かないが、とにかく君の言う通りにしたほうが便利のようだな」 「レンタカーを借りることにするわね。姿が見えないんじゃタクシーもとまってくれないでしょうから」 「うん。そいつが一番助かるな」  神崎は光子とホテルへ戻った。  それで居場所の問題は一応解決したが、事態は悪化するばかりであった。  例のGODカードは、偽造したのではなく、神崎が殺したあのおとなしい銀行の頭取が、脅迫されて神崎に渡したものだという結論になっていたのだ。  金銭がからみはじめたとたん、物事は生臭《なまぐさ》くなり、神崎の神性を信ずる者は一人もいなくなってしまったようだ。  悪魔騒ぎは完全に消え、元首相たち氏名を公表された政府高官は、いまやそれを材料に攻勢をかけて来た政敵に、手ひどい復讐《ふくしゆう》を加えはじめているようであった。  もっと悪いことは、神崎の父親が、ごく最近になって、死んだ豪田雄介の会社と、かなりまとまった取引を成立させていたことであった。  相手は総合商社だから、繊維業者である神崎の父親がそこと取引をしてもいっこうに不思議はないのだが、その商社の社長である豪田雄介を神崎が絞め殺しているのである。  調べて行くと、豪田雄介はそれ以前にもたびたび神崎順一郎から連絡を受け、脅迫されていた形跡があることが判った……と、報道されるのである。  明らかに悪魔側のねつ造であった。なぜなら、神崎が伊東のホテルへ行くずっと以前から、豪田雄介が神崎に脅迫されていたことになるからである。  しかし、それで神崎の父親の立場も決定的に悪くなったことだろう。  また、石川も苦境に陥っている筈であった。豪田卯三郎に才能を高く買われていた建築家であるのに、神崎順一郎を社員として使っていたばかりか、GODカードによる五千万円の引出しにまで加わっていたのである。  勿論《もちろん》石川はそれをすぐに返してしまったようだ。しかし悪魔側のやり方は細部にまで行き届いていて、石川がその五千万円を返却したことに関しては、どこにも報道されなかった。  獣人。  獣人神崎順一郎。  元首相を悪魔呼ばわりしたマスコミが、今はその獣人という言葉をはやり文句として用いていた。おのれを神の使徒と思い込み、善良な市民を手当りしだいに絞殺する一種の超能力者。……人々が神崎をそのような存在として理解するのに、大した日数は必要でなかった。  すると、妙な所から神崎を弁護する者が現われた。政界に巣食う悪魔の名を書きつらねて渡したあの航空会社の社長の所で会った、顔に傷のある暴力団の男である。その男は、あの事件の時の神崎の態度が立派だったと言い、あれこそ男の中の男だと、大時代な褒《ほ》め方をした。  まるで逆の効果が生じた。暴力団幹部に賞讃された神崎は、道化者《どうけもの》じみてしまった。それを待っていたかのように、顔に傷のある男は、売春強要と麻薬所持で検挙されてしまった。  神崎にとっていいことは何ひとつ起らなくなった。光子にせかされて悪魔たちの所在を探しはじめると、一人残らず広大なクロム汚染地帯に建った豪華なビルに逃げ込んでいることが判ったのだ。  それは彼らにとって快適な施設であり、神崎にとっては立入り不能の場所であった。一、二歩足を踏み入れただけで、体の芯《しん》が痺《しび》れて動けなくなってしまうのだ。  まさに、黄色の安全地帯であった。  攻撃の方法がなくなってしまった。もう神崎はひたすら隠れ、社会の悪罵《あくば》を耐え忍ぶだけであった。     7  それでも神は神崎に命令を下し続けている。  ホテルの部屋でうっかり浴槽に体を沈めようものなら、すぐにあの天啓がやって来た。そうすると神崎は操り人形のように浴槽を出て服を着ると、そのクロム汚染地帯へ出かけようとしてしまうのである。 「行っちゃだめ。しっかりして頂戴」  そのたびに光子が必死に神崎を引き戻し、正気に戻そうと体をゆさぶったり、頬を平手で叩いたりするのである。 「勝てもしないたたかいに行けなんて、神さまも少しひどすぎるわ」  やっとのことで神崎を正気づかせたあと、光子はそう言ってさめざめと泣くのであった。  そういう唯一の味方である光子も、遂にマスコミに書き立てられる日が来た。  獣人神崎の情婦。  光子はそんな風に言われた。しかも、神崎には他に正式の婚約者がいたことまで暴《あば》かれている。  週刊誌には溝口夕子の談話が写真入りで載り、それと並んで、ずっと以前光子が演じた魔女役の扮装《ふんそう》の写真があった。 「ひどいわ、こんなの」  光子は憤慨した。 「よりによって魔女のときの写真を載せるなんて」  神崎は光子の顔を正視できなかった。 「何とかしなければいけないな」  窓の外へ目をやってそうつぶやいた。これ以上光子と一緒にいては、自分ばかりか光子まで破滅してしまいかねなかった。 「何とかしなければって、どうするつもりなの」  光子はヒステリックに叫んだ。 「今のあなたは、あたしなしではやって行けないのよ。姿が見えないんだから、ろくに食事をすることもできやしないじゃない。それともあたしから離れて盗み食いでもして歩く気……。見えない体ならどこへだって出入り自由ですものね。悪魔たちがいる所以外は」  光子はそう言うと、狂ったように笑い出した。 「そうよ。あたしは獣人の情婦なんだわ。これからは、あなたに貢《みつ》いでもらおうかしら。あなたは銀行へ入って、札束を鷲《わし》づかみにして来ればいいの。あたしは外で待っていてそれを袋にいれ、車に乗って帰って来るのよ。ミンクもダイヤも思いのままだわ。贅沢《ぜいたく》なマンションに住んで、好き放題にやるのよ」  神崎は呶鳴った。 「よせ」  光子は今度はシクシクと泣きはじめた。気まずい沈黙の中で、神崎はやけくそな気分になって行った。 「よし。もうやめた。何が神の使徒だ。何が悪魔狩りだ。悪魔に勝てない神なんて、何の値打がある。えらそうな顔をして好き勝手に人間を裁き、悪魔を殺させる。自分はいったい、それでどんな責任を負っているんだ。姿も見せず声もなく、ただどこかにひっそりかくれているだけじゃないか。獣人結構。どうせ俺は人殺しの烙印《らくいん》を押されてしまったんだ。光子の言う通り、好き勝手に人生を楽しんでやる。もしそれが神への裏切りだと言うんなら、どうとでも裁きを下すがいい。俺ははじめから神の使徒ではなかったんだ。ただの平凡な男だ。それをこんな立場に追い込んだ責任を取って見ろ」  光子がそれに合わせた。 「そうよ。たまには自分でも責任を取って見るがいいんだわ。自分も裁かれてみなさい。遠い昔に人々の罪を一度背負ったくらいで、未来永劫《みらいえいごう》特別な権利を持ち続けるなんて不公平じゃないの」  光子の考える神と、神崎が思っている神とは、どうやら少し違っているようだったが、結論は同じことだった。 「よし光子、行って来る」  神崎はそう言いすてると、荒々しくドアへ向かった。 「盗んで来る。もし誰かが邪魔をするなら絞め殺すまでだ。いいか光子。盗みおえて、俺が本物の獣人として帰って来たら、お前は俺に抱かれるんだぞ」 「待ってるわ、あなた」  二人はみつめ合い、神崎はくるりと身を翻《ひるがえ》してドアの外へ出た。  神崎の心は猛《たけ》り狂っていた。裏切られたのは自分で、はじめから神など信ずべき相手ではないように思った。  エレベーターで地下の駐車場へ降り、光子が借りたレンタカーのドアをあけると、エンジンをふかせた。車は危険な音をたててその駐車場を飛び出して行った。  ホテルの前庭の道を突っ走って、外の一般道路に出ようとした時だった。  三つくらいの女の子が、チョロチョロッと行手を横切ろうとした。  思わずブレーキを踏んだが、勢のついた車はスリップして横向きになり、街路樹の幹に右側面をぶつけてやっととまった。  母親が蒼白《そうはく》な顔で女の子を抱きあげた。神崎はその母親としばらく睨《にら》み合う恰好《かつこう》になった。 「あら……」  母親はあたりを見まわしている。神崎の姿が見えないからだ。無人車が暴走して来たのだと思ったことであろう。  神崎はそれに気付くとあわてて車をスタートさせた。  しかし、心の中でほっとしていた。 「よかった」  神崎はそうつぶやいていた。すると何かが張りつめた心から一気に抜け落ちて行くのが判った。  神崎はいつの間にか泣いていた。 「これが神か……」  部屋を出る時には、獣人になり切ったように感じていた。盗み、殺し、悪の限りを尽してやろうと思っていたのだ。  しかし、女の子を見たとたん、悪鬼のような心はどこかへけし飛んで、必死にブレーキを踏んでいたのだ。 「神なんかいやしない。でも、俺の心の中にはいる」  神崎は非行への意欲をなくしていた。車のスピードを落し、行くあてもなく走らせていた。  さいわい、無人車がいるというように感じる者はいなかったようだ。いつの間にか車は渋谷へ向かっており、神崎は自分が家へ帰ろうとしているのに気付いた。  懐かしい道だった。しかし、行手には大きな不安があった。自分の為にズタズタにされている家庭が待っている筈であった。  神崎は適当な所で車を乗りすて、家へ向かった。無人車と思われる状態をそう長く続けているわけにもいかないだろう。光子があとで回収に来ればいいし、もし紛《な》くなっていても、盗難届を出せばそれで済む。  神崎は、わが家の門を入った。その家は、喪に服した家のようにひっそりとしていた。 [#改ページ]   果てしなき終景     1  玄関の戸をあけたがこたえる声はなかった。神崎は自分がまだ人に気付かれぬ存在のままなのではないかと思ったが、かまわず靴《くつ》を脱いだ。  平凡なただの男だった頃《ころ》の自分に戻《もど》ったような気がした。どこからどこまで、思い出で塗りたくられたような家なのだ。 「かあさん」  小さな声で呼んで見た。すると階段の上から懐かしい母親の声がした。 「どなた」  聞き慣れた尻上《しりあが》りの言い方だった。 「俺《おれ》」  無意識に昔通りの返事をした。声に出してそう答えて見ると、現在の騒ぎがまるで嘘《うそ》のような気がした。このまま、以前の平凡で穏やかな生活に戻れてしまうのではないかと思った程である。  しかし、それも一瞬のことだった。 「誰《だれ》……」  今度は甲高《かんだか》い声であった。 「順一郎。お前かい」  二階がただならぬ気配になった。ドタドタと足を踏み鳴らし、母親のとき江が階段をころげ落ちるように降りて来た。 「順一郎」  神崎には返事の声も出しようがない、何とも悲痛なとき江の言い方であった。そして、階段を降り切ってしばらく突っ立った儘《まま》神崎をみつめていたが、急にわっと泣き出して玄関をあがったとっつきの三畳の畳の上へ、くずおれるように体を伏せてしまった。  その背後の階段の途中に、父親の順吉の姿が見えた。順吉は蒼白《そうはく》な顔で階段を降りようとしたが、降り口をとき江に塞《ふさ》がれて、無気力な様子で階段に腰をおろしてしまった。 「迷惑を掛けちゃって……」  神崎は自分がひどく他人行儀な言い方をしているのに気付いた。しかし、そのほかに何と言えばよかったのか、見当もつかないのだ。  そのあとどのくらい親子は言葉もなく向き合っていただろうか。  右手の襖《ふすま》が突然荒々しく引きあけられ、順子の乾いた声がした。 「いつまでそうやっている気。こっちへ入ったらどうなの」  順子はそう言ったが、顔を見せなかった。  とき江はのろのろと起きあがり、涙に濡《ぬ》れた頬《ほお》を拭《ぬぐ》おうともせず、つぶやくように言って順子があけた茶の間へ入って行った。 「あれ以来、順子は外へも出ん」  そのあとに続いた順吉は、神崎の顔を正視せず、前を通り過ぎる時、低い声でつぶやいた。  あれ以来、というのがいつからの事なのか神崎にはよく判らなかったが、順子がどういう状況に置かれているかそれで見当がついた。  順子は獣人の妹なのである。ボーイ・フレンドも怯《おび》えて近寄るまい。  茶の間で、順吉ととき江はいつもの位置に坐った。神崎はのっそりとその座敷へ入った。 「滅茶苦茶よ、もう」  とき江は言った。泣き尽したあとの、感情の消えた声であった。 「おじいちゃんは」  神崎は茶の間の中心である祖父の啓吉の席を見て言った。 「上で寝てるわよ」  とき江の声には憎悪《ぞうお》が籠《こも》っているように思えた。 「病気……」 「お前のせいよ」  とき江は一気に怒りをぶつけはじめたようであった。 「あたしは何て言う子を生んだの……。あたしは獣人なんか生んだ憶えはない。そんなように育てた憶えもないのよ」 「俺は獣人じゃない」  神崎は力なく否定した。すると、となりの部屋から順子の鋭い声が飛んで来た。 「じゃ神の使徒なの。嘘だわ。誰よりもあたしたちが一番よく知っているわ。この家から泥棒や人殺しが生まれることはあっても、神の使徒なんか、生まれるわけがないじゃないの。神の使徒って、いったい何なの……エリートのことよ。うちはエリートなんかじゃない。お兄ちゃんだって、エリートと呼ばれるような人たちを嫌《きら》っていたじゃない。それが何よ。神の使徒というのはエリートそのものじゃないの。人間を見下して、自分だけ正義の味方ぶっちゃって。気が違ってるんだわ」 「仕方ないんだ。俺の意志じゃない」 「へえそう。そうなの。じゃお兄ちゃんは、神さまとじかに会ったのね。それだけでも気違いだわ。神なんて、悪魔同様、いるわけがないじゃないの」 「順子」 「何よ」 「それじゃお前は、俺が一人《ひとり》相撲《ずもう》を取っていたと言いたいのかい」 「そんなこと、あたし知らない。判《わか》ってるのは、お兄ちゃんが有名な人ばかりを選んで殺しまわって、それを悪魔だなんて言いふらしたことよ。なんでそんな嘘つくの。人殺しは人殺しでいいじゃないの。あたしは人殺しの妹と言われたって、お兄ちゃんのことなんだから我慢するわ。でも、神の使徒だなんて言うんじゃ我慢のしようもない。そうでしょう。あたしやお母さんたちとは何の縁もないんですものね」  するととき江が口をはさんだ。 「そうだよ。あたしの子が人殺しならあたしやお父さんも責任が取れる。でも、神様の子供じゃ責任の取りようがない。ところがどう……お前がいくら神さまの言いつけで悪魔をこらしめてるだなんて言ったって、神さまは何の責任も取ってくれやしないじゃないか。世間にうしろ指さされ、爪《つま》はじきにされるのはあたしたちなんだよ。おじいちゃんはお前のことを心配して病気になっちゃった。そうしたら、いつも来てくれる市田先生に診察を断わられちゃったんだよ。あの人はクリスチャンなの。神の名をかたる人の家族とはもうお付合いしかねるって。順子も一歩だって外へ出られないし、お父さんの会社も潰《つぶ》れそうなのよ。銀行はみな手を引いてしまった。お父さんが仕事で会わなければならない人は、お前のことをこわがってみんな逃げてしまうそうよ」 「お前は間違ってる」  順吉は吐き出すように言うと立ちあがり、部屋の隅《すみ》の電話台のところへ行って、受話器を取りあげた。 「お前はもうたくさんの人を殺した。わたしには救いたくとも救いようがない。でも、ほかの家族は何とかしなければならん。お前が来たら連絡しろと言われている。可哀そうだがこれからそこへ電話をする。それでこの一家は助かるかも知れない」  順吉はダイアルをまわしはじめた。 「毎日脅迫電話がかかって来るんだよ。何とかいう宗教団体だよ。獣人を生み出したこの神崎の家こそ、この世から滅ぼしてしまわなければならないんだ、って」 「畜生……」  神崎は低く言った。もう手がつけられぬほど、一家は破滅の淵《ふち》に近付いているようだった。 「わたしら一家は、お前のことを信じるわけには行かん。神の子などでないことは、われわれが一番よく知っているのだからな」  息子が家へ戻ったことを簡潔な言葉でどこかへ通報した順吉が、受話器を置きながら判決を下すように言った。     2  長くいられる家ではなかった。家族は怯え切っていた。しかし、長くいればとき江にも順吉にも親子の情が戻って来る筈だった。神崎はこれ以上家族に迷惑を及ぼすことだけは避けなければならなかった。  逃げ出すようにその門を出る時、神崎はふと神を心の中で罵《ののし》った。  自分に悪魔狩りの使命を与えるなら、自分の家族も守るべきだと思った。だが神は、道具となるべき神崎の体だけを守って、そのほかのことには何の手も打ってはくれないのだ。 「何が万能だ」  神崎は思わず声に出して言った。善と悪を片手落ちなく裁けるなら、万能の神と呼んで崇《あが》めもしよう。しかし現実には、その神に選ばれた使徒が、悪魔狩りの天使が、あっさり悪魔にひねられてしまっているではないか。神の命令に従ったばかりに、家族の幸福まで失ってしまったのだ。  だからと言って、家族の為にこれ以上たたかえば、家族はいっそう不幸になってしまう。ここのところは順吉にまかせるより仕方がないと思った。  坂をおりた所に、乗って来た車がちゃんと停っていた。  神崎はそれを見てギョッとした。  順吉は息子《むすこ》が家へ帰ったことをどこかへ通報していた。本来なら当然もう家は取り囲まれている筈ではないか。それが、敵の姿が一人もいないということは……。 「卑怯《ひきよう》な」  神崎は突っ走った。姿が見えるらしく、何人か通行人が道を避けた。  神崎は車のドアをあけ、がむしゃらに走り出した。  光子が危いのだ。連中があのホテルのことを知らない筈がなかった。順吉の通報で敵が向かったのは、あのホテルの部屋に違いなかった。  神崎は自分の姿が人に見えていることもすでに意識しなくなっていた。可視であろうと不可視であろうと、もう構ってはいられない状態であった。  むしろ、姿が消えないで欲しいと思っていた。危険な可視の状態でいたほうが、安全な不可視の状態であるよりよほど気が楽だと感じていた。もう神の加護など欲しくなくなっていたのだ。  死ねるなら早く死んでしまいたい。……ひょっとすると、神崎は死後の世界に興味を持ちはじめていたのかも知れない。死後の世界で神のことをはっきりと知りたかったようである。  がむしゃらに車を突っ走らせながら、神崎は自分の命をもう不要なものと感じていた。勿論《もちろん》、光子は救わねばならない。しかし、自分が神の命令を受けたことによって、愛する人々の不幸の源になってしまったことは疑うべくもない。  その状態を脱するには、おのれの命を終らせるより方法がないのだ。  神崎は光子を救うべく焦りながらも、その途中で事故死してしまいたいと心のどこかで願っていたようだ。  しかし彼は死ななかった。無暴な運転も誰一人傷つけることはなく、彼はホテルへ着いた。  ところが、神崎が望みもせぬのに、彼の体は再び不可視の状態になっていた。  つまり、ホテルは彼にとって危険な場所であった。  光子が襲われている。  神崎は自分のいた部屋へ急ぎながらそれを確認していた。光子はいま襲われているのだ。敵がいなければ不可視である筈がないのだ。  ロビーでもエレベーターでも、神崎がそこに存在していることに気付く者はいなかった。  神崎はエレベーターをとび出すと、廊下を突っ走った。廊下は奇妙に静かであった。 「光子……」  叫びながらドアを蹴《け》った。ドアは内側から鎖錠《さじよう》がかけられていたが、神の力を与えられている神崎の一蹴《いつしゆう》で苦もなく鎖はちぎれ飛んだ。  バタンとドアがあいた。  男が三人いた。尻っ尾はなかった。彼らはただ傭われた無頼漢に過ぎなかったらしい。しかし、神崎はその内の二人に迷わず手刀を振った。二人とも抵抗するいとまもなく、頸《くび》の骨を折って息絶えた。もう一人は光子の体に重なっていた。多分それが光子を犯した三人目の男だったのであろう。  ズボンを脱ぎ、男の浅黒い尻が白い光子の裸身の上で動いていた。神崎はその男の両肩に手をかけ、鷲掴《わしづか》みに強く掴んだ。  男の上体がのけぞり、光子が神崎の顔を見た。その時の光子の顔には、明らかに喜悦の表情があった。それは救いに来た神崎に対するものではなく、犯している男の肉に対するものであった。 「死ね」  神崎はごく低い声で言った。ペキッと嫌《いや》な音がして男の肩の骨が砕けたようであった。彼は男の体をそのまま持ちあげた。男は性器を萎《な》えさせるいとまもなく、光子の甘い蜜《みつ》に陶酔した状態のまま死んだ。  光子が鋭く泣いた。喜悦の表情を見られたことに耐えられなかったのだろう。その激烈な感情の変化の中では、自己の死を求めることもかなり容易であったらしい。  神崎は光子が自分の舌を噛《か》むのを見た。唇《くちびる》から血が溢《あふ》れ出し、噛み切った舌が光子の気管を塞いだようだ。光子は苦悶《くもん》し、神崎の目の前で窒息死《ちつそくし》した。  神の加護を受けた神崎は、おのれの愛する女の死をただ見守るだけであった。 「なぜ光子には俺が見えてしまうのだ……」  神崎は神を呪《のろ》った。  光子を犯した三人の男は、神崎の姿も見ることなく死んで行ったのに、光子は神崎を見た為に自分の命を絶ったのである。     3  神崎はバス・タブに水を入れた。湯が出ることは判っていたが、なぜか冷たい水を選んだ。適温の湯のこころよさが嫌《いや》だったのだろう。  冷水を出しっ放しにして服を脱ぎ、その水に体を沈めた。光子を犯させた相手の所在が知りたかったのだ。  水につかると、あの感覚がやって来た。  光子を犯すよう命令したのはあの大悪魔であった。  神崎は無表情な顔になってバス・タブを出た。水が溢れ出ていたがもうそんなことに頓着《とんちやく》してはいなかった。服を着て、操り人形のようにぎごちない足どりでエレベーター・ホールへ向かった。  光子が生きていたら、きっとそんな神崎を制止しただろう。しかしもう、どんな危地に神崎がおもむこうと、止めてくれる者はいないのだ。  神崎は神のそういう画一性を感謝していたようである。神は使徒の危険など考慮しはしないのだ。一定の保護を与えれば、相手がそれ以上の対策を持っていようとどうしようと、命令を下すだけなのである。  神は万能であるとみずからを規定しているらしい。悪魔は常に神に敗れなければならないと独りぎめしているのだ。  神崎はそれを有難いことだと思っている。神の言いなりになれば、悪魔に敗れて死ねるのだ。そして神は、それをあり得ないことだと思っているらしい。  多分神は、神崎が敗れても悔いたりはしないだろう。あり得ないことはあり得ないのだ。神は神崎の死を忘れるに違いなかった。認めないに違いなかった。  坊主頭の大悪魔の棲家《すみか》は、高級住宅街にあった。高く厚い塀《へい》をめぐらしたその邸内には、神の使徒の襲撃を待っている男たちがいた。彼らはクロム・メッキをほどこした弾丸をこめたマシンガンをかかえていた。  しかし、その男たちは神崎が邸内へ入り込むのに気付けなかった。神崎は相変らず危険の中では不可視であった。  坊主頭の大悪魔はベッドにいた。ベッドは彼にとって安全地帯であったのだ。  神崎は、いや、神は、べッドの上の大悪魔には手が出せぬことを、以前一度経験していた筈である。しかし最強不敗であるとみずからを規定している為か、神はその経験を生かそうとはしないようであった。神は神崎を、べッドのある部屋へ導いた。 「来たか」  坊主頭の大悪魔は言った。釦《ボタン》を押してどこかへ合図を送ったようであった。  神崎の両手が肩の高さにあがり、指が相手の頸を掴む形になった。 「何度やっても同じことなのにな」  大悪魔は憐《あわ》れむように言った。 「儂《わし》が神ならお前をここへは送り込まぬ筈だ」  大悪魔は含み笑いしながらそう言い、次第に姿を薄れさせた。神崎は機械的な動作でそれに近付いて行く。  大悪魔の尻《し》っ尾《ぽ》はだらりとしたままであった。緊張すらしていないのだ。大悪魔は逃げられることを知り尽している。  ホテルで神崎がやったように、マシンガンをかかえた男たちが、ドアを蹴りあけた。 「奴《やつ》は儂のべッドのそばにいる。お前たちには見えぬかも知れんが、儂にはよく見えている」  大悪魔は落着いた声で言った。 「よしと言ったら撃て」  神崎はべッドの上の大悪魔の首に手をかけようとしていた。しかし、相手は際限もなく遠のき薄れ、やがて見えなくなってしまった。 「よし」  大悪魔の声がした。男たちは姿を消した主《あるじ》の声に忠実に従った。  無人のべッドに向かって、五つの銃口が火を噴いた。クロム・メッキの銃弾が不可視の相手めがけて飛んだ。  額にも頬にも喉《のど》にも胸にも、その銃弾が食い込んだ。  神崎は全身から血を噴き出させ、穴だらけになる自分の体を見ていた。どの弾丸も神崎の体から抜け落ちなかった。それは体深く食い込み、神崎に灼熱《しやくねつ》の傷《いた》みをもたらした。  数十発の弾丸を浴びて、神崎は絶叫した。不可視だった体が、その銃創のあたりから徐々に見えはじめた。  更に発射される弾丸の中を、神崎は進んだ。男たちはその異様な姿に驚いて射撃をやめると、いっせいに逃げ散って行った。  弾丸に砕かれ、それはもはや顔とは言えなかった。血まみれの肉塊であった。烈しい苦痛で神崎は叫び続けていた。 「お前の家がどうなったか、見に行くがいい。門の前にお前が乗る車を用意してある」  大悪魔が言った。  神崎は振り向き、その姿を求めたが見えなかった。ベッドの上に作り出した不可触の空間へ逃げ込んでいるのだ。  神崎は神の使命が果せないと判ると、今度は大悪魔の命令に従った。  その邸の門前にある車に血まみれの体をのせ、苦痛を訴える獣のような叫びをあげながら、ついさっきあとにして来た自分の家へ向かった。  クロム・メッキの銃弾の為に、もはや不可視でいるわけには行かなかった。  無数の人々が血まみれの肉塊が運転する異様な車を目撃した。  獣人がいる。  獣人を見た。  人々は神崎を獣人と信じた。パトカーが何台もその車のあとを追った。  神崎の家は火を放たれて炎上していた。神崎が悪魔を滅ぼそうとしたように、獣人の一族をこの世から抹殺《まつさつ》しようとする男たちが存在したのだ。彼らは神を熱狂的に信じており、獣人を滅ぼすことを正義だと考えていた。  啓吉も、順吉も、とき江も、順子も、ことごとく絞殺され、火を放たれた家の中で焼かれた。  神崎が着いた時、その狂信者の一団は燃えさかる家のまわりで踊っていた。     4  一家が全滅したことを悟った神崎は、自分が向かうべき最後の場所を知った。  クロム鉱さいに汚染されたあの土地であった。悪魔たちが逃げ集《つど》っているその土地なら、この激甚な苦痛を伴う生を終らせてくれる筈であった。  再び疾走をはじめた神崎の車を、何十台ものパトカーが追尾して行った。子供を跳《は》ね、老人を轢《ひ》き、神崎の車は狂ったように汚染地帯へ突っ走った。  そこには高い塀がめぐらしてあった。勿論何重にも警報装置が仕掛けてあり、塀にそった内側の土地には、新たに搬入したクロム鉱さいが敷きつめてあった。  門もクロム・メッキをほどこしてあった。有尾の悪魔たちが居住する建物のまわりにもクロム鉱さいが敷きつめられ、壁面も二階の高さまでクロム・メッキの金属板で埋めつくされていた。一階の床という床、柱という柱もクロム・メッキの金属板で輝いていた。  まるで鏡を張りめぐらしたようだった。  神崎の車は、その門へ突進した。全速力で門を突き破り、塀の内側へ飛び込んだ。一直線に驀進《ばくしん》し、正面玄関の太い柱に激突した。  神崎はその衝撃で車から放り出された。彼の体はいや応なく建物の中へころがり込んだ。  体の中へ食いこんだままの銃弾による痛みが、クロムだらけの壁や床に触れたことで、逆に消え去ったようであった。激痛に激痛が加わって、とうとう知覚が麻痺してしまったらしい。  男たちが思い思いの武器を手に集まって来た。まずマシンガンが火を吐き、クロム弾を神崎の体にぶち込んだ。  しかし神崎は死ねなかった。それだけ被弾すれば、腕も脚もちぎれ飛んでしまう筈であったが、彼の体はまだその衝撃をやわらげるだけの力を与えられていた。  ズブリ、ズブリとクロム弾が食い込むだけなのだ。  恐らく、彼の体重はその無数の銃弾の為に、ひどく増加していたに違いない。それでもなお、彼は死ねなかった。  神崎はよろよろと前進し、一人の男のマシンガンを奪った。  激しい一斉射撃を浴びながら、彼は射ち返した。男たちはバタバタと倒れ、或いは血まみれの肉塊と化した神崎の姿に恐れをなして逃げ去り、やがてロビーは静かになった。  麻痺《まひ》した体を動かしたのは、明らかに神に与えられた力ではなかった。神の力は悪魔が発見したクロムの力で削《そ》がれ、神崎はほとんど常人と変らぬ状態に引き戻されていたのだ。  動いたのは、神崎自身の死への欲求による力であった。ころげ、這《は》い、クロムの床を際限もなく血で染めながら、神崎はエレベーターに辿《たど》りついた。  念の入ったことに、エレベーターの釦までがクロムで光らせてあった。彼が体を押しつけるようにしてそれを押すと、すぐにエレベーターのドアはあいた。  それは鏡の箱であった。壁、床、天井の六面が、メッキをほどこした金属板で鏡のように神崎の無残な姿を写していた。しかし、今は死こそ神崎の救いであった。 「悪魔たちよ」  神崎は叫びながらその鏡の箱へ入った。 「救いたまえ」  ドアが閉じた。  鏡の箱の中で神崎は祈りの言葉を口にした。 「全能の悪魔よ。我に死を与えたまえ」  するとエレベーターの壁面に作りつけられたスピーカーから、狂ったような笑い声が聞こえて来た。  神崎はそのスピーカーに向かって、必死に叫んだ。 「全能の悪魔よ。この生きる力を奪いたまえ」  すると、その声はスピーカーの下部にあるマイクロフォンを通じて、悪魔たちに聞こえたようだった。  悪魔の狂笑がピタリとやんだ。 「汝《なんじ》、裁く者よ、裁かれてあれ」 「死を……」 「裁かれてあれ」 「早く死を」  スピーカーからの声に、ふと憐れみの色が混ったようであった。 「神崎順一郎」 「はい」 「お前は呪《のろ》われたのだ」 「お助けください。わたしは神の非を悟りました」 「他を裁くこと自体、不正義なのだと判ったのか」 「はい」 「神は有尾の者をいかに虐《しいた》げていたか、判ったのか」 「はい」 「有尾の者は、全能を自称する神に追われ続け、遂に尾を人に見せぬまでになった」 「はい」 「なぜ有尾の者はいやしいのだ。なぜけがらわしいのだ」 「いいえ。悪いのはそれを裁こうとする者です。早くこの悔いあらためた者に死を」 「気の毒に。わしらにはお前を殺せんのだ」 「ああ、そんな」  神崎は悲鳴をあげた。 「どうしたら死ねるのです」 「お前は神の使徒だ。神にすがれ」 「神は何もしてくれません」 「そうだ。神は時に気まぐれに裁くだけだ。何もしてくれはしない」 「わたしはどうしたらいいのです」 「鏡を見よ」  スピーカーの声は消えた。  エレベーターは動いていない。神崎は体を動かしてまた釦を押した。  エレベーターが昇りはじめた。神崎はそれがとまるのを待って、じっと鏡をみつめた。鏡の箱にとじ込められ、神崎は無限に続く自分の姿を見た。無限に続くおのれの姿の、最も遠い場所を見ようと瞳《ひとみ》を凝《こ》らした。  血の塊りであった。ズタズタになった肉塊であった。  その醜怪なものの続くはるか彼方《かなた》に、何やら自分と異るものが動いたような気がした。  そのものは言った。 「不甲斐《ふがい》ない奴め」  神崎は問いかけた。 「誰だ。神か……」 「そうだ。神だ」 「このわたしを責める気か」 「悪魔との戦いに敗れた。任を解く」 「何を言う。敗れたのは俺ではない。お前だ」 「神は不敗。神は不可侵」 「そして全能か」 「そうだ」 「笑わせるな」  神崎は怒りに声を震わせた。 「全能の者の使徒がなぜ悪魔に敗れる。この姿を見ろ」 「敗者は常に醜い」 「お前の責任だ」 「わたしに責任などない。わたしは法だ。わたしは掟《おきて》だ。敗れるのはその使徒だ。敗れたのはお前だ」  神の声に感情はないようであった。     5 「神崎順一郎」  スピーカーからの声だった。 「神を見たか」 「見た。今も見えている」 「神がなぜ我々を苦しめるか判るか」 「なぜだ」 「エデンの園になぜ蛇がいたか考えて見るがいい」 「なぜだ。判らない」 「神は蛇を作らなかった」  神が言った。 「黙れ悪魔め」  スピーカーの声は動じなかった。 「神は我々が作った」 「何だって……」 「エデンの園に蛇がいたわけだ。神はその蛇によって作られた」 「悪魔が神を生んだのか」 「神とは法だ。我々は我々を律する法を作った。その法がいつしか形となり、神になったのだ。神は我々を律し得るが故に思いあがり、自らを全能の存在と化して、万物を造った」 「そして最後に人を作ったのか」 「そうだ。神はなぜ人を作ることを欲したか判るか」 「なぜだ」 「支配する為だ。より多くを支配する為だ。従う者のない法や掟は無と化す。神は存在しなければならなかった。おのれを存在させなければならなかったのだ。その為に人を作り、増やそうとした。我々はそのようにして生み出され、無気力に生きる人を憐れんだ。それで知恵を授けた。神は人に叛《そむ》かれたと思った。造り出した最初の男女がすでに神以外のもののあることを知ったからだ。神は人を追放し、しかも君臨した。人の掟として存在し続けて来たのだ」 「悪魔と人は同じ掟に縛られていたのか」 「そうだ。神は我々を手本にして人を作った。ただ尾がないだけだった。人は知恵を得て成長し、次第に悪魔に近づいて来た。神はそれを悪ときめつけ、裁き続けているのだ」 「神はただ裁くだけの者か」 「そうだ。罪以外、何も与えてはくれん。掟そのものだ。法そのものだ。だから、法を行なう為に働いたお前でさえ、失敗すれば法に裁かれねばならない。そして、愚かな者が次々に選ばれては、同胞である人を裁いている。神は人に人を裁かせ、おのれは何もしようとしなくなった。ただ、裁く者を裁けばいいのだ。そして時には気まぐれを起し、今度のような悪魔狩りをする」 「俺がしたことは神の気まぐれだったのか」 「そうだ。男の遊戯だ。退屈しのぎなのだ」  すると神が言った。 「神は裁く者だ。悪魔は裁かれねばならない」 「神よ」  神崎は言った。 「ならばなぜ敗ける。裁けぬ悪魔がいることを認めないのか」 「悪魔は必ず裁かれる」 「裁けないではないか」 「それはお前の失敗のせいだ。法はすべてを裁く故に法である」 「法は万人に平等に加圧されねば意味がない。裁けぬ悪魔と裁ける悪魔があってはならないだろう」  スピーカーの声が言った。 「神崎順一郎」 「はい」 「厳密に法を行なえば、皆裁かれねばなるまい。そうなればやがて、悪魔も人も死に絶えるのが判らんか」 「すると……」 「そうだ。神は法として、裁く者の立場にありながら、同時に裁かぬこともせねば存在し得なくなるのだ」  神が鋭く言った。 「神崎順一郎。任務の失敗により解任する」  体中に食い込んでいた弾丸は、神の力でそのエネルギーを凍結させていたようだ。  解任の宣告と同時に、そのエネルギーが解放された。  神崎の肉体に食い込んでいたすべての銃弾が、射ち込まれた時のエネルギーで一度に動いた。  無数のクロム弾が、神崎の体の中を縦横に走り、切り裂き、突き抜けた。  鏡面に貫通した弾丸が当たって、体中から弾丸を噴き出させた神崎の死にざまを歪《ゆが》ませた。  神崎はバラバラの肉片になって死んだ。     6  彼はいま灰色の世界を進んでいる。その灰色の世界の旅は果てもないように思えた。しかし、やがて灰色の世界は少しずつ濡《ぬ》れはじめ、濃い水に変って行った。  水は澄みはじめ、彼はその水を蹴って上昇する。浮く。浮く。浮く。  やがてしばらくするとその水の上層に、緑がかった色彩が見えはじめた。彼の水を蹴る足に力がこもる。  帰った。彼はそう思った。水が割れ彼の頭が水面に出た。  緑の丘にかこまれた沼であった。彼は立ち泳ぎをはじめ、あたりの景色《けしき》をよく眺めた。合唱に送られて沼の底深く沈んでから、もうどれほどの時間が経っていることか。  よく判らない。  旅立ちのときと違って、彼の帰還を迎える歌声はどこにもなかった。沼辺の風に揺れる卵形のものの中には、やがて彼と同じ運命をたどるであろう仲間たちが、白いガスに包まれて静かに眠っていた。  彼はゆっくりと泳ぎ、岸にたどりついた。はい上がり、疲れきった体を緑の草の上に横たえた。  彼を迎える合唱がなくとも、彼はべつだん失望しなかった。なぜならもうそこに彼のいる場所がないことを知っていたからである。沼の畔《ほとり》にふわふわと浮いている卵形のものを、彼はむしろ哀れむように眺めた。その薄い保護膜の中で、白いガス状の養分によって育てられているのは、やがて神の使徒となるべき筈のものであった。  彼らはぬくぬくとそこで育ち、人々を裁きに旅立つ日を待っているのである。彼らは神の恩寵《おんちよう》を得た者たちであった。選ばれた者であった。  かつては彼もそれを誇りに思い、実際に世に出て裁く日を待ちこがれたものであった。しかしいまはもう、その立場になんの未練もなかった。  彼は思い切り伸びをし、立ちあがった。沼の畔を離れ、緑の丘の斜面をゆっくりと登っていった。そこは神の使徒のための場所にふさわしく美しい花が咲き乱れていた。  だが空はない。ただ空のかわりに〈時〉があった。その世界の上には、空のかわりに〈時〉が掩《おお》いかぶさっており、彼はその〈時〉の下を、ゆっくりと歩いて行った。  彼は緑の丘の斜面を登りきると、沼と反対側へおりて行った。しだいに濃い霧が生じ寒くなっていく。  柔らかだった足元が、いつのまにか草から岩に変り、霧に濡れた荒々しい岩が連なって、あちこちの窪《くぼ》みに泥水《どろみず》がたまっていた。  その岩地をさらに下って行けば、もうあの暖かくそして優し気な風の吹いた緑の丘は見えなくなり、ただ濃い霧が妖《あや》しくうごめく、冷たい岩場になってしまう。  あちこちに泥水のたまった岩場には、蛇《へび》や、蜥蜴《とかげ》や、カエルや、ありとあらゆる両棲類《りようせいるい》、爬虫類《はちゆうるい》、そしてありとあらゆる醜い小動物たちが、のそのそとうごめいている。やがて青白い電光があたりを照らすようになり、しだいに雷鳴が聞こえはじめた。  醜い小動物たちがうごめく、岩だらけの土地のあちこちに、筍《たけのこ》のような先の尖《とが》った岩があらわれる。さらに進めばそれは丈高《たけたか》くなり、雷鳴が耳をつんざき、間断なく青白い雷光が明滅するあたりに到《いた》れば、その中の何本かは途方もない高さでそびえ立ち、その頂は濃い霧にとざされて見ることができなくなる。  やがて霧は激しい雨に変った。冷たい雨だ。  あたりに硫黄《いおう》の臭気がたちこめ、激しい雨の中を、硫黄の蒸気が生きもののように、不気味に地を這《は》う。  地に這った硫黄の蒸気は、醜い小動物たちをその底に沈め、つつみ隠してしまう。その雨と硫黄の蒸気の中で、何やら無数に動くものがあった。  彼はその方をちらと見ただけで、別な方角へ進んで行く。  やがてあたりは、毒々しい赤い花の咲く世界に変った。葉という葉が黒ずみ、樹木という樹木は寄生植物の宿主になっている。蠍《さそり》と毒蜘蛛《どくぐも》が群れ、寄生植物におおわれた樹木の幹を毒蛇が這う。  風はなく太陽もない。薄暮の明るさしかない世界だ。  時々狂ったような笑い声が聞こえる。鳥の啼声《なきごえ》などではない。たしかに狂った人間の笑い声だ。  笑い声がするたびにどこかしらで樹皮が裂け、赤い血がしたたる。  狂笑のたびに血のしたたる森を過ぎれば、そこには丈余《じようよ》の黒い草に掩《おお》われた草原がある。  黒い草原を走り廻っているのは悪魔の子らだろう。黒い草むらの中は、ひどく愉《たの》しそうだった。  黒い草原の彼方には砂漠があり、大勢のものが連なっていた。  それは神の兵士たちであったが、同じ顔をし、同じ服を着て、同じ武器を持たされたでく人形たちにすぎなかった。  彼らは悪魔の子らが遊ぶ黒の草原へ攻めよせているように見えた。しかし実際にはただ人形が砂漠の果てから黒い草原へ向かって、一列縦隊でえんえんと並んでいるだけなのだ。  神は悪魔を裁く姿勢をそれで示しているつもりだろう。  砂漠の砂丘という砂丘のかげに、半分隠れるようにして、張りぼての太陽が置いてある。その幼稚なつくり方は、ひと目で張りぼてと判るほどであった。  神はそれで、悪魔たちから太陽を奪う姿勢を示しているつもりらしい。張りぼての夕陽《ゆうひ》は罰のシンボルなのであろう。  幾千幾万の砂丘に、幾千幾万のにせ物の夕陽。  そしてここにも空はない。ただこの世界に掩いかぶさっているものは〈時〉だけだ。  兵士の人形が無限に続いているのと同じように、白骨の行列がこちらに向かって無限に続いてくる。  兵士の人形の列は動かぬが、白骨の列は、砂漠をカサコソと這ってくる。砂漠と黒い草原の境目あたりに、巨大な白骨の山がピラミッド型をつくり、カサコソと這い寄って来た白骨は、その山におのれを加えてとまる。  その白骨は、悪魔ほどの力もなく、神のほしいままに裁かれた人々である。  空のかわりにその世界を掩った〈時〉から、ときどき鋭い音をたててギロチンの刃が落下して来る。その刃は、一見どこへ落下してくるか予測できぬように思えるが、黒い草むらの中の悪魔の子らは、際限もない落下の繰り返しのなかで、すっかりその法則をのみこみ、次はどこへ来るか熟知しているようであった。  そして彼らは刃が落下するたびに、誰かしら耳をふさぎたくなるような叫びをあげてみせる。  神は草むらの中の悪魔の子らを、見ることすらできないようである。その絶叫が神をごまかすつくりものの叫びであることは、そのたびにおこる屈託のない、愉しげな笑いで判る。  彼はそのありさまを満足げに眺め、狂笑のたびに血のしたたる森へ戻って行った。  森を過ぎ、雨と硫黄の蒸気のなかでうごめく影のほうへ近寄って行った。近寄るにしたがって彼の姿は、そのうごめくものたちと同じ姿に変ってゆくのだ。  彼らは有尾であり、尖《とが》ったくちばしがあり、同じように尖った両耳と、尖ったとさかのようなものを生やしていた。  獣人。  その無数のものこそは、正真正銘の獣人なのであった。彼らはかつて神の使徒として世に送り出され、そのつど悪魔のさまざまな対抗手段によって、無残にうち亡ぼされた神の使徒のなれの果てなのであった。  彼らは世に送り出されて、彼らが護るべき神、すなわち法のむなしさを知らされたものたちである。  彼らはあの緑の丘にかこまれた沼に向かって立っている。神の世界と彼らの間には目に見えぬ壁があり、彼らは思い思いの間合で、その壁に向かって突進する。彼らがその境界の壁にぶち当たると、雷鳴が轟《とどろ》き電光が走る。獣人ははね返され、後退してまた突進をやりなおすのだ。  彼らが何べんうちかかろうとその壁は小ゆるぎもしないようだ。しかし彼らは際限もなく繰り返し続ける。もう何億年もそれを繰り返しているらしい。  その無限の繰り返しのなかで、彼らの足元の岩は、彼らの爪《つめ》によってけずられ、くずされ、いまは泥濘《でいねい》と化している。  彼らは壁がまだ当分はくずれないことを知っている。それでもしゃにむにうちかかって行くのは、いつの日かその無限の繰り返しのなかで神の壁がくずれるかもしれないことを期待しているからだ。  足元の岩を泥濘と化してしまうほどの、壁にたいする体当りの繰り返しこそは、神の正体を知ったもののやむにやまれぬ抗議らしい。  だが、壁の向こう側でその抗議の声を聞こうとするものがいない。  裁くものは、おのれを永遠に裁くものとして、抗議の声に耳をとざしているのだろう。  彼もまた、獣人としてその無限に続く体当りの繰り返しに加わっていった。     7 「只今《ただいま》」  神崎は玄関へ入っていつものように声をかけた。なにしろ古い家で障子や襖《ふすま》がやたらに多かった。 「お帰り」  母のとき江の声がした。それに重なるように咳《せき》ばらいが二つほど聞こえ、 「順一郎」  と祖父の啓吉の声。 「只今」  家へあがった神崎は、茶の間の襖をあけながらもう一度言った。茶の間には母と祖父二人だけで、欅《けやき》のテーブルの上に皮の青い蜜柑《みかん》が積んであった。 「どこへ行っていた」  祖父は老眼鏡ごしに上眼《うわめ》で神崎を睨《にら》んだ。 「伊東」 「伊豆のか」 「うん」  祖父は拍子抜《ひようしぬ》けしたように表情をゆるめた。 「独り身は気楽でよかろうが、いいかげんに結婚することだな」  神崎は襖をしめ、祖父の横に坐って青い蜜柑に手を出した。 「そう言えばこいつは初物《はつもの》だな」  とうに果物屋《くだものや》の店先に青い蜜柑を見る季節になっていたが、皮を剥《む》くのはそれが最初だった。 「変な言い方をする奴《やつ》だ」  祖父はそう言って笑った。結婚話のすぐあとに初物と言ったのがおかしかったのだろう。 「夕子さんから二度ほど電話があったわよ」  母親が教える。 「いけねえ」  神崎は頭を掻《か》いた。 「デートの筈《はず》だったんですって……」 「うん。でも、すっぽかしたのは向こうさ」 「その言い訳らしかったけど、今日|逢《あ》いたいみたいだったわよ」  神崎は首をすくめて蜜柑を口に入れた。 「伊東へ行ってもどこへ行っても構わないけれど、帰らない時は電話をしてくれなければ」  母親が聞き飽きたことをまた口にした。 「うん」  神崎は生返事《なまへんじ》をする。 「仕事は旨《うま》く行っているか」  祖父が尋ねる。父親は繊維業者になったが、祖父は建築家であったから、孫の順一郎が自分と同じ建築家の道を選んだことを、ひどく満足に思っているのである。 「快調だよ」 「今どんな仕事をしている」  近頃は神崎も仕事がいそがしく、祖父とそんな風に話合う機会も滅多になかったから、祖父は自分の専門分野のことで孫と話したくて仕方ないらしい。 「どんなって、いろいろさ」  神崎はあいまいに答えた。以前はよく祖父とも話合ったが、今では家へ帰ってまで仕事の話ではたまらないと感じている。 「石川という男は、見かけはのっそりした男だが、あれでなかなかやり手だそうじゃないか」 「そうかなあ」  神崎は首を傾《かし》げて見せた。 「評判は悪くない」  神崎が勤めている石川設計事務所の所長は、祖父の大学の後輩に当たっている。隠居した今でも昔の仲間を通じて、業界の噂《うわさ》はいろいろ耳に入って来るのだろう。 「そのうちに、石川という男に会ってお前の勤務評定を聞き出してやる」 「恐ろしい」  神崎はそう言って大げさに首をすくめて見せ、笑った。 「とにかく早く結婚しろ。いいかげんに孫の顔を見せんと承知しないぞ」  神は〈時〉をつくろいなおした。もうその作業は数え切れないほどやっているので、すっかり慣れてしまい、手つきも鮮《あざや》かなものだった。  不都合な部分を取りのぞき、きれいに〈時〉をぬい合わせる。  人々はひっきりなしにおこっている悪魔騒ぎをそれで忘れてしまう。  神は正義であり、法は万人のうえに平等である。……それはまだ当分続きそうであった。 角川文庫『獣人伝説』昭和53年10月30日初版発行           昭和54年11月20日6版発行