半村 良 炎の陰画 目 次  白 鳥 の 湖  森 の 妹  箪  笥  ちゃあちゃんの木  炎 の 陰 画  逃 げ る  散歩道の記憶  あとがきにかえて  白 鳥 の 湖  いまは夏。  太陽がギラギラとかがやいて、海べからは若者たちのはなやかな笑い声がきこえてきます。遠くにまっ白な雲がもりあがり、よしずばりの小屋にかけられた、青地に白の「氷」という小旗が、ねむくなるような午後の風に、ゆらり、ひらり、と揺れています。  こんなとき、寒い冬の日のことを思い出すなんて、少しおかしいでしょうか。……でも、ちょっと思い出してみてください。  白鳥のことです。あのまっ白な冬の鳥のことです。まい年秋のおわり、冬のはじめに寒い北の国から、その年生れた若鳥たちをつれて飛んでくるあの白鳥たちは、この夏の日、どこでどうしてすごしているのでしょう。  白鳥のおはなしは、ずいぶんたくさんあります。読んで聞かせてもらったおはなしもありますし、自分で読んだものもあります。  どのおはなしでも、まっ白で美しい姿の白鳥は、やさしくて、どこかたよりなげで、だからこそいっそう心に焼きついて残っています。  でも、その白鳥たちの夏の日の姿は、どのおはなしにも書かれていなかったような気がします。白鳥は私たちにとって、やはり冬の鳥なのでしょうか。  昭和二十三年の冬。  戦争に|敗《ま》け、道も家も人の心もめちゃめちゃになってしまっていた、寒い寒い冬のことです。  食べるものもなく、みんな|痩《や》せて、ギスギスした自分の心を悲しく思いながら、明日はどうなるかわからないまま歩きまわっていました。  そんなとき、夜道にポッとあかりがついたように、人の心をなごませるニュースが、東京のある新聞にのりました。  アメリカの田舎町に住むひとりの少年が、自分で育て、可愛がっていた三羽の白鳥を、日本へプレゼントしようと決心したのです。  無邪気なその善意は、なによりもまず、ついこのあいだまで日本人と殺し合い、傷つけあっていたアメリカの軍人たちの心をうちました。やかましい規則はどこかへほうり出され、いかにもアメリカ人らしいやりかたで、たった三羽の白鳥のために特別機が仕立てられ、日本へ着くと軍楽隊が勢ぞろいしてそれを迎えました。  焼け残った|一張羅《いつちようら》の背広を着こんだ日本のお役人が何度も何度も握手してそれをうけとり、三羽の白鳥は皇居のお堀に放されたのです。  仕事もなく、食べるものもとぼしく、生きる目あてさえ失いかけたたくさんの人々が、お堀に浮ぶ白鳥を見に集って来ました。まっ白な美しい鳥の姿を見て、人々は自分たちが平和な社会へむかっているのだということを、しみじみと味わったのです。  中には、子供たちに食べさせなければならない、大切な大切なパンのはじを、ほんの少しちぎって、白鳥に投げあたえる人さえいたのです。その時代にあって、それはなんとぜいたくな行為だったことでしょう。でも、たったひとかけらのパンを投げることで、その人の心はこの上もなくゆたかになったはずでした。  お堀の白鳥は人々の心にともったあたたかい光でした。日本中の人が、その白鳥を思い浮べるたび、冷えた心に血が戻ってくるのを感じたのです。  でも、あいかわらず街は浮浪者でいっぱいでした。泥棒や人殺しが|闇市《やみいち》の人ごみにまぎれてうろついていました。黒人兵の腕にぶらさがった派手なみなりの女たちは、まるで自分たちが勝ったような顔で、よれよれの軍服を着た男たちを眺めていました。  何もかもがまだ混乱のさいちゅうで、本当のことを言えば、警察だってどうしていいかわからなかったんです。法律どおり闇市を取締ったって、それは形ばかりのことで、闇市がなくなれば警官たちだって食べて行けなくなるのですからね。  でも、泥棒や人殺しや暴力ざたとなるとはなしは別です。警官たちはなんとかして、このめちゃくちゃな社会に、少しでも秩序をとり戻そうと努力していたのです。ことに、白鳥が泳いでいるお堀に近い、桜田門の警視庁は、毎日毎日とてもいそがしそうでした。  人殺しもたくさん起りましたが、それにもまして暴力団がのさばっていたからです。闇市が栄えると、そこを縄張りにする暴力団が力をつけ、やがて暴力団同士の喧嘩になるのです。  おまけに、この時代は在日朝鮮人の人たちが、今では想像もつかないくらい、荒っぽいことをやっていたのです。そして、いちばん大がかりな暴力ざたは、いつもきまってその朝鮮人のグループと、日本の暴力団との間で起ったのです。  警視庁のそういう暴力団の事件をあつかう係りの刑事に、石原忠男という男がいました。としは二十三歳で、戦後のどさくさでもなかったら、まだ街角の交番で先輩にいろいろ教わりながら勤務しているくらいの若さでした。  ある日、石原刑事は新橋のほうの暴力団の情報を集めにでかけ、夜遅くなってから警視庁へ戻りました。進駐軍の兵隊でにぎわう第一ホテルの横丁を抜け、暗い日比谷公園を横切って、いつものように近道をとりました。  おなかがとてもすいていました。おひるすぎ、すいとんをたべただけなのです。はいている靴は右と左が別々の靴を寄せ集めて一足にしたもので、この寒いのにコートもありませんでした。冷たい風がひゅうひゅうと渦をまいて通りすぎ、街灯もない日比谷公園の中は、そこかしこにまっくらな闇がうずくまっていました。  空には意地悪いほど冷たく澄んだ月があって、その光が石原刑事の進む道を青白く照らしていました。  そのとき、どこからかプーンと香ばしい肉の匂いがして来て、石原刑事は思わずゴクリと生つばをのみこみました。  世の中には運のいい奴もいるものだ……石原刑事はとっさにそう思いました。じゃがいも一個、あめ玉ひと粒が手に入らなくてあくせくしている自分にひきくらべ、たとえ浮浪者だろうと乞食だろうと、ほんものの肉をたべられる人間がいるなんて、うらやましいかぎりだったのです。  ああ、肉がたべたい。ステーキ、串焼き、とんかつ、唐揚げ……なんでもいいから、ほんのひと口でもいいから肉がたべたい。  石原刑事は寒い夜道をトボトボと歩きながら、うつむきかげんにそんなことを考えていました。  こんなところで肉を焼く匂いをさせるのですから、いずれ宿なしのルンペンにはちがいありませんが、できれば警官という身分をかくしてでも、その仲間にいれてもらいたい思いでいっぱいだったのです。  と、突然左手の闇の中から、地面にひきずる程すその長いオーバーを着た戦闘帽の男が、ふらりと月の光の中へあらわれました。匂いのもとはその男だったのです。男はむしゃむしゃと大きな肉の塊りにかぶりつきながら、石原刑事とすれ違いました。  我慢するのがとても大変でした。あたりに人目はないのです。その肉を持った男に襲いかかり、ぶちのめして奪いたい衝動にかられたのです。  でも、やはり警察官でした。石原刑事はともすればあともどりをしそうになる自分の脚をひきずるようにして、ゆっくりゆっくりとその場を遠ざかりました。  ところが、あくる朝の新聞を見た石原刑事は、それがお堀の白鳥の肉だったことを知らされたのです。  ゆうべ肉を持った男とすれ違った、丁度そのあたりの木かげに、白い羽根がむざんに散らばっていて、小さな|焚火《たきび》の跡がのこっていたのだそうです。  東京中が、いや日本中が、言いようのない怒りと悲しみに口もきけないような雰囲気につつまれたのです。アメリカの少年に何と言って詫びたらいいのでしょう。特別仕立の飛行機で送ってくれたアメリカの軍人たちにだって、会わせる顔がありません。 「だから敗けちゃったんだよ」  石原刑事といつも一緒に行動する、津山という先輩の刑事が吐きすてるようにそう言いました。ひもじくても、たとえ餓え死んでも、その白鳥だけは、絶対に日本人がたべてはいけなかったのです。それは人の心なのです。どんなおろか者だろうと、気ちがいだろうと、日本人であるかぎりお堀の白鳥だけは大切にするはずだ……みんながそう信じ、なんの疑いもなくそのことを最後の誇りに感じ、これからさきのけわしい道のりを、その誇りにかけてのり切って行くつもりだったのが、まんまと裏切られてしまったのです。  お堀にはまだ二羽の白鳥が残っていましたが、それはもう何のささえにもならない、ただの白鳥で、むしろ人々の重荷にさえなってしまったようでした。  悲しいことに、人間の心にかかわるいくら大きな事件でも、結局一羽の鳥が殺されたというだけのことになってしまうのです。  石原刑事は犯人の顔を知っているただ一人の警官として、ぜがひでもとっつかまえてやりたかったのですが、つかまえたところで大した罪にはなりっこありません。口惜しがるだけで、結局はあいかわらず空きっ腹をかかえ、暴力団同士のいざこざに追いまくられる日が続きました。  やがて春が来ました。去年のおわりからくすぶっている新橋の闇市のもめごとが、いよいよ最後のどんづまりへ来て、今日あすにも日本の暴力団と朝鮮人グループの間で血の雨が降りそうな気配になっていました。噂によると、新橋の古ビルのどこかに、戦争中軍が戦闘機に積んでいたという凄い威力の機関銃がかくされていて、いざという時はそれに物を言わせる気だそうです。自然警察側も必死で、石原刑事の仲間たちは、まるで自分が喧嘩をするような具合に殺気だっていました。  石原刑事と津山刑事が緊張した空気のみなぎる新橋の町をパトロールしている時でした。突然前方の横丁から一人の男が走り出して来て、うしろめがけて闇雲にズドンと一発拳銃を発射しました。ちょっと|間《ま》を置いてから、その男のあとを四、五人のやくざ風の男たちが追いはじめます。  津山刑事は若い石原刑事をちらっと見て、「それっ」  と声をかけました。ふたりの刑事は早手まわしに店を閉め、戸をたてて流れ弾を警戒する商店街を、バタバタとかけ出しました。  細い道が交差していて、いっぽうは都電どおりへ、いっぽうは国電のガードをくぐって闇市のほうへ抜けています。ふたりの刑事はその角で一瞬たちどまり、あたりを見まわしました。男たちが向った方角をたしかめようとしたのです。  石原刑事は道の向う側にいる男に|訊《たず》ねようと思ってその顔をみつめました。男は黙って闇市のほうを指さし、津山刑事はそれを見るとすぐ走り出しました。  でも、石原刑事はしびれたように突っ立ったままでした。その男は、冬の日比谷公園で白鳥の肉を食べていた、あの長いオーバーの男に間違いなかったのです。  突然石原刑事の心に、ふきあげるような悲しみが湧き出して来ました。人間の心を食べてしまった人間がそこにいるのです。そんなとき、人間は怒りよりもまず悲しみを感じるもののようです。そして、悲しみが怒りに変るころ、相手もやっと石原刑事の顔を思い出したようでした。 「あ……」  と痩せた顔をみにくく|歪《ゆが》ませると、とたんに身をひるがえして都電どおりへ逃げ出しました。石原刑事の頭の中で白鳥が一羽飛びたち、バサッバサッという羽音をたててそのほうへむかいます。  気がつくと、石原刑事は夢中でその男のあとを追っていました。はるかうしろのほうで、ダダダダ……という機関銃の音がはじまっていました。  津山刑事はその時殉職しました。撃ち合いをとめようと、双方のまん中に割って入り、どちらのものともわからぬ銃弾に当って路上に倒れたのです。心臓を射ち抜かれ、赤い血が焼け跡の|埃《ほこり》の中に大きな人がたとなってあふれていたそうです。  石原刑事は逃げ出したことにされてしまいました。勇敢に争いをしずめようとした津山刑事はほめたたえられ、途中から逆の方向へ走り去った石原刑事は、ひきょう者、臆病者とののしられたのです。そしてひと月ほどすると、石原刑事は警官をやめさせられることになってしまいました。  死んだ津山刑事には、若い奥さんがいました。ほっそりとした美しい女性でしたが、とかく病気がちで、津山刑事を杖とも柱とも思っていましたから、夫が殺されるとそれはもう非常な嘆きようで、幾日も幾日も泣きくらしたあげく、とうとう気が狂ってしまったようです。石原刑事がおくやみに行くと、 「あの人を殺したのはあなただ。あなたが私の一生をめちゃめちゃにしてしまったのだ」  とつかみかかり、近所の人たちが寄ってたかってだきとめなければなりませんでした。  それからというもの、津山刑事の奥さんは、夜となく昼となく石原刑事のまわりをうろつくようになり、 「ひきょう者」「臆病者」と、静かだが憎しみのこもった声でののしるのでした。それは、石原刑事が警察をやめてからもずっと続き、あたらしい就職先も、そのために次々とくびになる有様だったのです。  半年ほどした或る日、いつものように石原刑事の下宿へ、「ひきょう者」とののしりに来た津山刑事の奥さんは、どうしたことか急に倒れてしまいました。ひどい熱で、お医者様に見てもらうと、肺炎と栄養失調が重なっているということでした。  奥さんの名は千代子といい、とりあえず自分の下宿に寝かせた石原刑事が、津山刑事の家へ行ってみると、売れるものはすべて売りつくした小さな部屋には誰もいませんでした。近所で聞くと、奥さんには身よりがなく、あれからずっとひとりぼっちでくらしていたということでした。  石原刑事は津山刑事の死に責任を感じていましたから、奥さんの千代子さんを手厚く看病しました。でも、日一日と元気になって行く気の狂った千代子さんを、もとの家に帰せば、また栄養失調になるのはわかりきったことです。収入の道がまったくない千代子さんは、それこそ餓え死んでしまうかもしれません。  石原刑事は故郷へ帰る決心をしました。先輩をほうり出し、自分勝手に持場をはなれたつぐないに、気が狂った千代子さんを、これからさき自分の力で面倒をみて行くつもりになったのです。  石原刑事は千代子さんをだますようにして汽車にのせ、故郷へ向いました。それはとても辛い旅でした。いくら親切にしても、千代子さんの瞳に宿る冷たい光は一瞬も消えません。静かだが憎しみのこもった声で、「ひきょう者」「臆病者」というだけなのです。大きな重い荷物を、石原刑事は背負いこんだのでした。  汽車はもの悲しい汽笛を鳴らして東京を離れて行きます。石原刑事の故郷は、新潟県と山形県の県境に近い、風湖という小さな湖の近くなのです。  石原刑事が風湖のほとりにある貧しい農家に戻ってお百姓仕事をはじめてから数カ月後、たったひとりの肉親であるお父さんがなくなりました。  石原刑事は、千代子さんからひがな一日冷たいののしりの言葉を浴びせられながら、本物のお百姓さんになって行きました。夢も理想も、どんどん遠のいて行きますが、石原刑事はじっと風湖のほとりで頑張りつづけます。冬が来て、夏が来て、また冬になりました。  それは昭和二十五年の二月のことです。いつものように朝早く起きていろりに火をたき、あたたかいご飯をたきあげてから千代子さんを呼びました。いつもならすうっと幽霊のように来て、黙ってご飯をたべる千代子さんが、その日に限っていくら呼んでも来ません。ふしぎに思って探しますと、千代子さんは白いもやがけむる風湖の水ぎわに立って、何かに熱中しているようでした。行ってみると、湖のまん中に白いものが動いています。 「白鳥だ……」  一羽、二羽、三羽……全部で八羽もいます。  石原刑事の瞳は、みるみるうちに涙でいっぱいになり、とうとう大粒の涙がころがり落ちました。千代子さんは冷たい表情でその涙をみつめていました。  石原刑事の人生を変えてしまった白鳥が、思いがけず故郷の風湖にあらわれたのです。白鳥たちはそのあと風湖を立ち去る気配をみせず、居心地よさそうにいついてしまいました。  いま昭和四十六年。日本へ渡って来る白鳥の数はおよそ一万二千羽あまりといわれています。十月の末から十一月のはじめにかけて、先発の一群が北海道の湖沼地帯へやって来ます。やがて灰色でうす汚れたように見える若鳥たちをまじえた本隊がやってきて、北海道の湖沼が凍りつくようになるまでそこに落ちついています。やがて湖沼が凍結しはじめると、|尾岱沼《おだいとう》の内海で冬を越すものを除いて、いっせいに津軽海峡をこえ本州へ向います。青森県の大湊、小湊、新潟県の|瓢湖《ひようこ》、宮城県の伊豆沼や松島湾、山形県の最上川川口、そして猪苗代湖、三湖沼……いちばん南は島根県の|中海《なかうみ》まで飛んで行き、そこで冷たい冬を越すのです。  でも、本州で春を待つ白鳥たちは、みな人間の力を頼りにしています。彼らをやしなう自然の水辺は、もうこの日本には残っていないのです。白鳥が越冬する水辺に住む人々は、苦心して餌を調合し、春になって彼らがシベリアへ帰って行くまで養ってやるのです。  もちろん、石原刑事はいの一番に白鳥の越冬をたすけはじめた一人でした。大湊の人たちは食パンの屑、小湊の人たちはトウモロコシの餌を考えだしましたが、風湖の石原さんは、もみがらに茶がらを混ぜ、一日三度ずつ、「ホーイ、ホーイ」という声をあげながら湖にばら撒きます。雪の日も風の日も、嵐の日も、「ホーイ、ホーイ」という石原刑事の声は風湖の水の上を渡って行きました。  まる二十年間です。おかげで風湖には、まい年四百羽から五百羽の白鳥が渡って来るようになりました。  茶ンがらねえちゃ……。なんのことだかわかりますか。それは、いち年じゅう風湖のまわりの村々を、餌にする茶がらをもらって歩く気ちがい女につけられた仇名なのです。大きな袋を肩にかけ、 「お茶がらをください」  と綺麗な標準語で言う中年の女は、いわずと知れた千代子さんです。茶ンがらねえちゃ、はもうこの地方の名物になっていて、どこの家でもちゃんとお茶がらを保存して、茶ンがらねえちゃの来るのを待っているのです。茶ンがらねえちゃはバスもただですし、気ちがいだからといって石をぶつける子供もいません。何ひとつ悪いことはしないのですし、気が狂っているといったところで、それは石のように黙りこくっているだけだからです。近在の人々は、みな茶ンがらねえちゃを石原刑事のお嫁さんだと思いこんでいます。  でも、茶ンがらねえちゃの千代子さんが石原刑事を見る瞳には、まだ冷たい憎しみの光が宿っています。「臆病者」「ひきょう者」……人のいない所で、千代子さんはまだそう言って石原刑事をののしるのです。  でも、それ以外は静かでいたわり合う、仲のよい夫婦に見えていました。  ところが、去年の冬、風湖にちょっとした騒ぎが起りました。白鳥ですっかり有名になった風湖を利用して誰かがひと儲けたくらみ、近くの山の斜面をスキー場にしたからです。どっと若者たちが押しよせ、白鳥だけの静かな世界が破壊されたのです。ひと晩中うたい騒ぐ湖畔の急造のホテルは白鳥たちの眠りをおびやかし、とうとう猟銃で湖の白鳥たちを撃ち殺す事件まで発生したのです。  その銃声を聞いたときの石原刑事の顔は、千代子さんが思わず立ちすくんだほどこわい表情でした。石原さんは物も言わずにとび出して行き、朝まで帰って来ませんでした。  ただのほんのちょっとしたいたずらで、白鳥がいちどに五羽も殺されたのです。石原さんがどんなにそれを悲しみ憎んだか、あのお堀の白鳥のことを知っている人なら、よくわかるはずです。  いたずらは一度では終らない。刑事の勘とでもいうのでしょうか。石原さんは人が変ったように眼を血走らせてそう言い、それから夜になるとこっそり出歩くようになりました。犯人をつかまえる気だったのでしょう。  三日、十日、二十日……何事も起りませんでした。そして石原さんの夜歩きもいつの間にかやんでいました。  一カ月後、また騒ぎが起きました。でも今度は白鳥たちに被害はありませんでした。東の崖の下で、猟銃をもった若い男の死体が発見されたのです。崖からころげ落ち、頭を打ってそのまま死んでしまったらしいのです。人々はみな、その若者が湖の白鳥を撃った犯人で、罰があたったのだと噂しあいました。  雪が降り、雪がとけ、春になって白鳥たちが北へ帰って行くと、風湖はもとの平和な湖に戻りました。  茶ンがらねえちゃの茶がら集めは、その年もいつもと変りなく、冬が近づくころには、石原さんの納屋には茶がらの山が築かれていました。  でも、湖畔のホテルは夏の間じゅう本格的な工事をつづけ、白鳥たちがやって来る頃には盛大な店びらきが行なわれました。石原さんはときどき湖のへりに立って、そのホテルを憎々しげに睨んでいたそうです。  そしてこの冬のことです。 「ホーイ、ホーイ」  という石原さんの声が、朝もやの水面をわたって白鳥たちに呼びかけていたとき、綺麗な花束を手にした紳士が、その声に呼び寄せられるように、降り積もった雪をかきわけて近づいて来ました。 「ご苦労さまですなあ」  その紳士が石原さんに言いました。「餌はなんですか」 「茶がらともみがら……」  石原さんは声に背をむけたまま、ボソリとそう答えます。 「日に何回やるのです」 「三回……」 「ほう、それは大変なことだ。まるで人間なみじゃありませんか」 「子供のようなものです」 「ああ、あなたが有名な茶ンがらねえちゃの……いや失礼、二十年も白鳥の面倒をみつづけておられるという方ですな」  石原さんはそれには答えず、「ホーイ、ホーイ」と白鳥に呼びかけています。 「二十年も可愛がれば子供以上ですな。実は私も十八になる子供がいたのですが、去年このあたりで遭難しましてな。今日はその発見された日なので、こうして花でも供えてやろうと思いまして……暴れ者でしたが、死なれてみるとふびんでなりませんよ」  紳士は淋しげに言いました。  くるり、と石原さんがふりむきました。ふたりの顔と顔が、ほんの一メートル程の距離を置いて向い合いました。 「貴様か」  石原さんが|唸《うな》るように言いました。と同時に、その紳士も花束をとり落してアッと叫びました。  昭和二十三年の冬、日比谷公園で肉をむさぼりくらっていた長いオーバーの浮浪者がその紳士だったのです。  石原さんは、二十何年という長い歳月が、まるで存在していなかったように、新鮮な憎悪をたぎらせて身がまえていました。でも、白鳥の肉を食べた紳士はすぐ落ちつきをとり戻しました。 「奇遇ですなあ、こんな所であなたと再会できるなんて」  紳士は少しきまり悪そうに言いました。「人間が生きて行く間には、いろいろなことがありますよ。私などは特に浮き沈みのはげしいほうでしたからね」  紳士はそう言うと花束をひろいあげ、雪をはらって岩角に腰をおろすと、対岸に見えている新しいホテルを指さしました。 「あれは私のホテルです。関西、関東、東北……ほうぼうの観光地にホテルを持っています。浮浪者から身をおこしたのですから、自分でもよくやったと満足しています」  紳士はそう言って、乞食同然だった昔をいとおしむように眼を細めました。着ているオーバーはとてもあたたかそうな品で、昔よりたけも短く、ずっとスマートに見えます。 「あの時貴様が食っていたのは人間の心だ」 「そうかもしれません。しかし、逆にいうと人の心を食うほどだからこそ、こうして成功できたのですよ」  紳士は笑顔で言いました。 「だがその血は恐ろしい。おまえのせがれは白鳥を殺したんだ。人の心を食いちぎる血が流れていたんだ」  紳士は顔色を変えてたち上りました。 「お前が……そうか、息子を殺したんだな」 「殺した。それも貴様の犯した罪のむくいだ。俺も津山刑事も千代子さんも、みんなお前のために死んだんだ」  その時朝日が昇りました。そして、その朝の光の中で、ふたりの男は死をかけた格闘をはじめたのです。  朝日が昇りきったとき、石原刑事は踏みかためた雪の上に横たわっていました。そして、太い棒きれを|掴《つか》んだ紳士が、その後頭部を何度も打ちすえていました。  もちろん、ホテルの持主であるその男は、警察につかまりました。人々はみんな石原さんの死に同情しました。無口でお人よしで、白鳥だけが生き甲斐だった石原さんのために、近所の人々が集って盛大なお葬式をしました。でも、茶ンがらねえちゃは涙ひとつみせませんでした。それは気が狂っているせいだと、人々はいっそう彼女をあわれに思ったのです。  でも、茶ンがらねえちゃは石原さんが死んだ翌日から、ちゃんと石原さんのかわりをつとめていたのです。  朝、昼、夕方の毎日三回。石原さんがやっていたのとまるでそっくりに、「ホーイ、ホーイ」と白鳥たちに呼びかけて、茶がらともみがらをまぜた餌を、小わきにかかえたざるに入れ、湖の水面へ撒いてやっていたのです。  葬式が終り、茶ンがらねえちゃはひとりぼっちになりました。ずっと以前、夫を失って石原刑事のあとを追い、ろくに食べもしないでいた頃の彼女に、また戻ってしまったようでした。  ただ違うのは、石原さんをののしるかわり、白鳥たちにやさしく呼びかける点です。  その朝も、茶ンがらねえちゃの千代子さんは、ざるを小わきにかかえて湖の餌つけ場へ向いました。 「あなた、白鳥たちに朝ごはんをやってくるわね」  家を出るとき、千代子さんはそうつぶやいていました。それは狂っている人間の声ではありませんでした。 「そうよ、私は狂ってなんかいなかったのよ。津山が死んだ時も、あなたを恨みなんかしなかったのよ。でもね、あの時私は何にすがって生きて行けばよかったのかしら。あなたを恨む以外に、私の悲しみや怒りをぶつける場所はどこにもなかったのよ。あなたはそれをよくわかってくれたんだわ。でもそれがあなたの愛情だと気がついたとき、私はもう引きかえせない茶ンがらねえちゃになってしまっていたの。私はあなたを愛しはじめたのよ。ののしることでそれを表現していたんだけど、結局それは私が弱すぎたということだったんだわね」  千代子さんはその朝、白鳥たちに餌をやったあとも、岸にしゃがみこんでいつまでも動きませんでした。白鳥をみつめながら、長いあいだ誰かとおはなししているようでした。  お昼ごろ、近所の誰かが茶ンがらねえちゃの姿が見えないのに気づきました。そして、湖の岸の近くに茶ンがらねえちゃがはいていたわら|沓《ぐつ》と、首にまいていた毛糸のマフラーがみつかりました。  そして、一羽のとても綺麗な白鳥が、そのまわりをいつまでもぐるぐるとまわっていたということです。  いまは夏。  太陽がギラギラとかがやいて、海べからは若者たちのはなやかな笑い声がきこえてきます。遠くにまっ白な雲がもりあがり、よしずばりの小屋にかけられた、青地に白の「氷」という小旗が、ねむくなるような午後の風に、ゆらり、ひらり、と揺れています。  でも、あのまっ白な冬の鳥たちは、この夏の日、どこでどうしてすごしているのでしょう。  森 の 妹   連れこみ旅館  昭和三十一年から三十二年にかけて、私はプラスチックの成型工をしていた。  勤めた工場のある場所は、大田区の|洗足池《せんぞくいけ》にほど近く、正門の前の道を行って坂を登ったあたりには、学習研究社の建物があった。  毎朝八時までに、私は蒲田駅から東急池上線でその工場へ通った。降りる駅は長原で、線路と直角にまじわる商店街を抜けて長原街道を突っ切り、坂を下って工場の裏門まで、ほとんど一直線の道順だった。  環状七号線のおかげで、長原のあたりも様子がだいぶ変ってしまったが、蒲田駅のあたりの変りようとくらべると、まだその頃の姿がよく残っているほうである。  私が住んでいたのは、蒲田駅西口の改札口から、小走りに行けば一分か一分半といった、ほんの目と鼻の先にあり、町名は女塚だったが、今は西蒲田何丁目とか。闇市の痕跡を留めたバラック風の商店街も、いま行ってみると見憶えのないよそよそしさで、出世した知人の家の前を通りすぎるような気分になるだけである。  以前の西口には、駅前にほんの小さな広場があり、猿を飼っているパチンコ屋、本屋、お茶屋、和菓子屋、喫茶店などがそのまわりをとりかこんで、夜になるとそこに売春婦が何人か出没した。  その売春婦……パンちゃんたちの定宿に、私は住んでいたのである。駅にむかって左手の、ゴミゴミした商店街へ入って行くと、肉屋と薬局の間にちょっとしたすき間があり、しょっちゅうぬかっているそのすき間へ入りこむと、五十メートルくらいの路地になっていたのだ。右側の中程に、貧弱な|柘植《つげ》と|篠竹《しのだけ》を植えた、間口一間半、奥行き二間ほどの、二階家にはさまれたへこみがあり、その奥に「旅館一富士」という古ぼけた看板のかかった入口があった。  四畳半が三つに六畳と八畳の部屋がひとつずつ。合計五部屋の客室を持った横に細長い旅館だった。背中あわせに辰巳荘という立派な旅館があって、それだけに余計貧乏たらしく、うらぶれた感じがしていた。  裏木戸のあたりに、離れというか小屋というか、女中さんなどの寝所にあてる小さな二階だてがあり、私はその二階の三畳に寝起きしていた。  遠縁に当る叔母が経営していたのである。工場から帰ると、私はその旅館の従業員に早がわりし、帳場へ坐ったり風呂番をしたり、時には名入りの|半纏《はんてん》に前掛けをしめ、アベックを部屋へ通したり、番頭がわりの仕事をした。  半纏や前掛けを着けさせられたのは、私がまだ若いので、アベックなどの中には妙にはずかしがる客がいたせいだ。  嫌がられるのも当然で、あんな仕事はもっとふっ切れた年齢にならなければ、したりさせたりするものではない……と、今ではそう思う。なんと言ってもはたち代の、どうかすれば鼻血を噴きそうな|歳《とし》である。|覗《のぞ》き放題だったのだ。  ただ、覗くのは早い時間に来る素人衆や、十二時前に来る飲み屋の|姐《ねえ》さん連の場合で、パンちゃんたちのはとうとう一度も覗かずじまいだった。  仕事でやっているのだから、声は派手に聞えるが、覗くほうでも余り気が入らない。それに、友達づきあいになってしまっていたから、今夜は誰がまだ来ない、アブれている、とか、四回目だからラーメンぐらいおごってもいいんじゃないかとか、そういう心配のほうが先だった。  常連は、テッちゃん、おキヨさん、マーちゃん、それに|口紅《くちべに》……。口紅は帳場の仇名で、ほかの三人は毎晩欠かさず現われるが、彼女はよく休んだ、西口に立つようになったのもわりと新しく、四人の中ではいちばん美人だった。ほかの三人が仲間づきあいをしているのに、彼女は超然としていて、拾ってくる客もまともなのばかりだった。 「亭主が船乗りでね……」  ある晩、帳場へゴムとちり紙を買いに来たとき、彼女は珍しく私にそう言葉をかけた。  それは、好きでやっているのだという意味で、明らかに帳場の私を客にしようとした言い方だった。  口紅と、いう仇名は、その女が帰ったあと、宿の浴衣の、それもきまって男のほうの浴衣のすその裏側に、べっとりと口紅の跡が残っているからだった。 「まるで、忍術|己来也《こらいや》みたいな奴だな」  私はそう言って笑ったことがある。その冗談は叔母にもよく判ったらしく、 「違いない。己来也だよ、あれは」  と言ってふたりで大笑いになった。むかし、映画だか講談本だかに、盗みに入って、われ来る也、と|墨痕《ぼつこん》鮮やかに書き残す主人公がいたものだ。  その口紅は、客を連れてくるたび、帳場に置いてあるコンドームを、必ず二個ずつ買った。私は覗かなくても見当がついていた。彼女は最初、男に舌技を加えるのだ。一個目はその為のものである。浴衣のすその裏側につく口紅は、その時のものだろう。  年輩の客は、それで済むのかもしれない。彼女は消耗せず、かえって大きな悦びを得た客は、そのサービスぶりにチップをはずむ可能性もあった。  だが、それだけでは損をした気になる客もあるはずで、二個目はその時のために必要なのだ。彼女はその商売をばかに慎重にやっていて、コンドームやちり紙を持ち歩かないことにしていたらしい。手入れをくらったときの用心なのだ。だから、時どき未使用の一個が枕の下に残っていたりする。だが、それはまれなことで、ほとんどの場合、二個とも使用されていた。  とすると、省力が目的の口技が、まるで役にたっていないことになる。 「あいつは助平だよオ……」  いちばんベテランのおキヨさんが、何を目撃したのか、あるとき目を丸くして私にささやいたことがあった。ひょっとすると、亭主は船乗り、に近いことがあるのかもしれなかった。  月末の土曜日、などというと、おんぼろ旅館でも結構たてこんだ。夕方から若いアベック、夜ふけは飲み屋の姐さんたち。その間に都合よくパンちゃんたちが回転して、三十分とあき部屋ができないで、結局全室泊り客をかかえて朝になることもある。  だが、そうなるとシーツや枕カバーの回転がきかなくなってくる。帳場にアイロンをつけっぱなして、客が帰ると焼けアイロンを手にすっとんで行く。  まあ、|皺《しわ》のばしはそれでもすむ。だが、かけぶとん、敷きぶとんのぬくみだけはどうにもならない。部屋へ入るや否や、ガラガラと窓をあけ放ち、さっとふとんを手すりにかけて夜気にあてるのが、こうした旅館の番頭の心得である。  時には、それでも間に合わなくて、二人がかりでふとんの両はじを持ち、お祭りごっこよろしく風を|煽《あお》る。そういう時は、もう帳場の横に半分おったてた男と、妙に居直った感じの女が、壁のしみなどを目で追っていたりするのである。  それに、客の三分の一は鏡台を動かしていた。帰るとき位置を元へ戻す客もいただろうから、それを足すとかなりのパーセンテージである。そういう客は、当然|灯《あか》りを消さない。つまり、この番頭の覗きのいいカモなのである。  世の中には、妙な発想法をする人間がいる。後年、星新一さんとのおつき合いを得て、その冗談に笑い死にしそうになったとき、私はあの旅館にときたま発生した、奇妙なふとんの移動を思いだしたものである。  鏡台を動かさずに、ふとんを持って行く。どっちが軽いか、ひとめで判りそうなものを、えっちらおっちら、重いほうを引きずってしまうのだ。  まっすぐに敷いたはずのふとんが、鏡台をすそに、斜めに動かされた情事のあとの部屋へ入るのは、ひどくエロティックなものであった。  私は精々好意的に解釈して、顔を両掌で覆った女の裸身をふとんの上へ横たえたまま、浴衣の男がずるずる引っぱったのだと考えてみるが、裸のふたりがふとんのあとさきを持って、仲よく動かしている場面を、つい想像してしまうのであった。  どちらにせよ、ふとんのほうを動かすというのが、今もって謎である。  また、そういう安宿は、思ってもみない使われかたをする。  アパートぐらしだから、思い切って喧嘩もできない、とまず帳場に断わっておいて、生きるの死ぬのの大喧嘩をされたことがある。 「助けてえ……殺されるう……」 「てめえなんかぶっ殺してやるっ」  と、聞こえて来たって、あらかじめ断わられているからとめに入ることもできない。ハラハラして待っていると、やがてくたびれた顔で亭主がやって来て、 「古い服があったら貸してもらえませんか」  と言う。 「あるけど、どうなさったんです」 「女房に服をやぶかれちゃって……」  で、貸してやると二人揃って出て来る。泣きはらした顔の女が、ネッカチーフを変な恰好にかぶって、服は必ず返しにくると約束して帰ってしまう。  さっそくかたづけに部屋へ入ると、背広の上下が三寸角ほどの、生地見本みたいに丹念に切りきざまれて部屋中にちらばり、紙屑籠に大量の黒髪が押しこまれていた。道理でネッカチーフをかぶっていたはずだと呆れ、あれで喧嘩の結着はついたのだろうかと案じながら部屋をかたづけていると、座卓がぐらりと傾いた。同じ側の脚二本が、ガクガクになってしまっている。  それで事情はのみこめた。  要するにサド、マゾごっこだったのだ。いや、ごっこどころではない。本格的なやつなのだろう。  どっちかが縛られたのだ。座卓の脚が二本壊れてしまったのは、強く縄をかけたからだ。ということは、両足首……。裸に剥かれて……。  パンちゃんの一人に、仏壇を貸してやったこともある。  貸してくれと言いだしたのは、いちばんどうしようもない器量のテッちゃんである。もんぺをはいて、|しょいこ《ヽヽヽヽ》を背中にしていればいちばん似あいそうなテッちゃんが、なぜ夜の蒲田駅西口に立たねばならなくなったか、私は知らない。 「だけど、人んちの仏壇には人んちの仏様しかいねえぜ」  私ははじめ、ごく常識的に言ったように思う。テッちゃんは、いかつい顔を悲しげに歪めた。 「いいから貸しとくれよ。拝んだって減りゃしないもんね」  それはそうだが、なんとなくウンと言いにくく、私はしつっこくわけを尋ねた。 「マーちゃんはね、子供がね、ずうっと病気だったんよ。八時ごろね、ご亭主がね、川崎のウチから呼びに来たんよ。そいでね、あたしにもね、あいさつしてくれてね、よさそうな人なんよ。そのご亭主がね、涙こぼしながらね、子供、死んじゃった、って。暗いとこへマーちゃんつれてっちゃってね、地べたに坐っちゃってね、手えついておじぎ何べんもしたんよ」 「それで、マーちゃんは」 「なんにも言わないで、ずうっと立ってたよ。カラカラな顔してさ。あたし、ほんとにこわかったよ。あんなカラカラな顔、はじめてみたよ。あたし、言ってやったんよ。早く帰んな、って。ご亭主の分と二枚、切符買ってやってさ、手に持たしてやったんよ。手がね、マーちゃんの手ったらね、死んだみたいにつめたかったんよ。それで、もう帰った……」 「何か言ってたかい」 「うん。駅へ入るときね、あたしの顔みてね、無駄になっちゃったよ、って。きついんだね。泣かなかったもん」 「かわいそうに……」 「だからさ、貸してよ」  仏壇は帳場にあり、叔母の夫の位牌が収まっていた。 「いいよ。その子のために祈ってやりな。マーちゃんもきっとよろこぶだろう」  テッちゃんは仏壇の前へ坐って背中を丸め、手をあわせながら言った。 「やだよ。子供なんて、あたし知らないもん。マーちゃんがかわいそうだから拝むんよ」  私はその時、自分がひどく驚いたのを憶えている。生きている人間を、他人の家の仏壇に擬して拝めようとは、考えもできないことであった。  そのあとテッちゃんは、私のいれたお茶をのみながら、しみじみと言った。 「でも、しあわせだね。マーちゃんはいいよ。無駄だったけどさ、あしたっから出なくていいもんね」  テッちゃんの言葉どおり、私はその後二度とマーちゃんの姿をみかけなかった。  売春を禁じた人の心根を、私があさはかなものに感じはじめたのは、その頃からだった。誰かを救うと、平気で口にだせる人間は恐ろしい奴だと、そう思うようになった。口が腐っても、人を救う、などと言ってはいけない。人間が人間を救うなど、できるはずがないのだと思った。  その考え方は、私にとって、ふとんを鏡台の前へ引きずって行く発想法に似ていた。新しい視点を、私に与えたようだった。  とにかく、そういう夜が、蒲田時代の私には続いていた。そして朝になると、弁当箱をかかえて長原の工場へ行くのだった。  プラスチックの成型工になったのは、ごく行きあたりばったりなことで、それで将来どうこうしようという気は、まるでなかった。  ひとことで言えば、|拗《す》ねていたのである。その前、私は銀座のBというバーで、バーテンをしていたのである。  いや、本当を言うと、バーテンをしていたことも事実だが、経営者でもあったのだ。  父の死んだあと、私の家はわずかばかりの元手をたよりに、|雀荘《ジヤンそう》をしたりして、なんとか母子三人が暮していたのだが、或る信頼できる人物が現われて、その元手で銀座に小さなバーを持つことになったのだ。  その人物は水商売には珍しい実直な男で、彼がマネージャーで、私がバーテンという形をとりながら、わが家に何がしかの利益を、きちんきちんともたらしてくれたのである。  私は高校一年の終りごろから、自分が大学へ進学できない立場にいることを承知していた。だったらはじめから商業かどこか、高卒で社会へ出る人間の多い学校へ行けばよかったのだが、受験一本槍の高校へ入ってしまっていたのである。  友達はみな大学へ進み、私はまずセロファン問屋の店員になった。会社づとめをしても、大学へ行った連中が社会へ出てくれば、一生どうしようもない差がつくのは判り切っていたから、商売でも憶えて、小さくとも一城の|主《あるじ》になることを考えたほうがよさそうに思ったからだ。それには一番下の|丁稚《でつち》からはじめるのがいい……と、殊勝な心がけで自転車にのって走りづかいをしていたが、給料は四千五百円。一家のたしになるどころか、その頃でさえ持ち出しになる額だった。  これではとてもしようがない。いっそのこと、住込みで何か手に職をつければと、板前を志して温泉地の特殊な魚屋へ住みこんでみた。今度はまわりが中卒ばかりで、月給はなし。小遣いを千円くれた。  売春防止法以前だから、その千円はもらった日に、文字どおり一発で消えてしまう。時間によるが、泊りで八百円。釣りはいいからとっときな、とそこが東京生れの|莫迦《ばか》な見栄っぱりで、角のとがった、切れのいい|恰好《かつこう》をするから、案外田舎の|妓《こ》にもててしまい、昼間っから魚屋の裏へ顔をのぞかせて、貸してあげるから今晩おいでよ、などということになってやにさがり、あんたやっぱり東京の人だね、と年下の先輩が妙なところで立ててくれたりする。  そうなれば丁稚の夜遊びで、スケールは小さくともあっちこっちへ不義理のかたまり。スケールが小さいだけに、我ながらいやったらしくてみじめったらしくて、盲腸を|患《わずら》ったのをしおに、水が合わねえ、などと勝手な理由をつけて東京へ舞い戻った。  舞い戻ったとき起ったのがバーの話で、わが田へ水を引いた上に親孝行もできるという、結構なバーテンができあがったのである。  ところが、帽子の一件からそれもやめることになり、ふてくされて母とは往来の絶えている、遠縁の叔母を頼っての連れこみ旅館ぐらしというわけだったのだ。  帽子の一件というのは、今でも私は母が無神経だったと思っている。  バーを始めてひと息つき、弟は大学へ行けることになった。真面目な奴で、夢中になって受験勉強をしていた。浪人させる程の力はなし、一度で受からなければ私同様ということがはっきりしているから、奴は本気で頑張った。ただ、数学が苦手で、受かったのは早稲田の仏文だった。そこだと数学が|要《い》らないのだそうである。  で、合格して……私だって祈るような思いだった。よろこんで駆けつけ、一家三人集って、よかった、おめでとうの連発が終ったあと、いち早く買って帰った、あの四角くとんがった帽子を、なんとよせばいいのに母が私の頭へのっけてしまったのである。 「おや、お前も似合うよ。たまにはそれかぶって、かわりに行ったらどうだい」  その時の、突然噴きあげた私の涙の勢いのよかったこと……。わけもなにもない、涙のほうが先だった。  行きたかったのだ。大学へ。行って歴史を勉強したかった。こんなくだらねえことで、友達に差ァつけられてたまるかと、心の中では|地団駄《じだんだ》踏んでいた。芥川龍之介のいた学校にいて、久保田万太郎先輩の話をいちばん前で唾ごとうけとめて、それが問屋の丁稚、魚屋の小僧じゃ中途半端すぎらア。そう思っていたのだ。  本当を言えば、グレてみせたのも|拗《す》ねだし、ことさら好んでいちばん下のほうの仕事を選んだのも、どうせならとことん差をつけさせてから追いあげてやる……みてやがれ畜生め、といういきがりだったのである。  なんにも感じないふりをして、勉強は大嫌いだと自分に思いこませて……ところが、その帽子が頭へのっかったとたん、口惜しくって羨ましくって、そいつがひとかたまりになって、めちゃくちゃに腹が立った。  帽子のつばをつまんでぴっと払いのけると、みごとにとんで花瓶をひっくり返した。新品の帽子が濡れ、畳に水がこぼれた。 「何すんだよ、バカ」  バカはてめえだ、勝手にしやがれ。心の中でそう叫び、靴をつっかけると、涙で|朧《おぼ》ろな夜の道へ走りだしていた。   吃音の親友  銀座のバーをおっぽりだし、連れこみ旅館の番頭兼|居 候《いそうろう》みたいなことになったきっかけは、そういうことだった。  手どりで八千なんぼ。残業を頑張って一万二、三千円という工員ぐらしは、それまで肩にのせていたつもりの家の重味がとれて、無責任で、さっぱりしていて、そのくせどこか手もちぶさたな淋しさがあった。  叔母が旅館に飯つきで置いてくれたのは、私が多少包丁を扱えて、たまに食事つきで泊る客があるとき便利だからだった。本式には程遠くても、見よう見まねで何とか恰好くらいはつけられたのである。  だが、酒と女にかこまれて、それも一流地の銀座で過した私には、何かこう、本気でなじめない工員ぐらしだった。紙問屋や魚屋にいた時と同じ、住む場所をみくだしたようなところがあって、こん畜生いまにみろ、がなくなっただけ程度が悪かった。  まわりはみんなそれで暮し、世帯を支えているのに、貯金するでもなく仲間に|奢《おご》りちらして、パッパと使ってしまっていた。  バーをおっぽりだしたのは人のせい、みたいに言ったが、実はこっちにも別なわけがあった。  新劇の女優の卵とできていて、同棲していたのである。同い年で、向うも高卒。店のホステスの一人と友達で、遊び半分クリスマスに手つだいに来て知り合った。  あっと言う間にできてしまい、気がついたときには田村町のアパートを借りていっしょに暮していた。  ところが、そいつが妙なことから映画会社に引っぱられて、大した作品ではないが、主役の次ぐらいの役にありついてしまった。  私はよろこんだ。スターになればへたな恰好もして歩けまいと、ありったけの金をはたいておしゃれをさせ、ロケだセットだと家をあけるのも、最愛の女が栄光への道を|驀進《ばくしん》しているのだと胸を躍らせて見守っていた。  その役はちょっとした|儲《もう》け|役《やく》で、映画の評判よりも彼女の評判のほうがやかましかったくらいだった。 「私たち、慎重にしなきゃね」  ひとつ夜具の中でそんなことを言われ、 「そりゃそうさ。こうなったら絶対秘密は守んなきゃ」  と、むしろ私のほうがいきごんでいた。  そんなことはあたり前の話で、女に悪意があったにせよなかったにせよ、しがないバーテンさんが|抛《ほう》りだされるのは時間の問題だった。  彼女の物の言い方、考え方がみるみるしゃっきりして来て、私にはみあげるような女に成長して行った。  莫迦ね、と憐れむように言われたり、|実《じつ》のありったけをこめたプレゼントを、気持だけもらっておく、という風に扱われたりしはじめたのである。  その時はもう、とっくのとうに音楽監督の、パリッとした恋人ができていて、そのゴシップを雑誌で読んでも、映画界とはそういうテで売りだすものだと、半可通の知ったかぶりでニヤニヤしていたのだから、まったく我ながら気の毒なものである。  ところが、だんだん女が大きくて高級で、手に負えないことになって来た。しようがないから甘ったれの|我儘《わがまま》をはじめた。男などというのは、おおかたそんな自衛のしかたをするものかもしれない。 「ダメな人ねえ、あんたって」  莫迦ね、がもうひとまわり深刻になり、憐れみが転じて|軽蔑《けいべつ》になった。  変な話だが、その頃になってようやく彼女の社会的背景がはっきりして来た。生家は桐生で何がしという、音に聞えた織物商。親戚に銀行の重役がいて大学教授がいて、兄貴はふたりとも外国へ留学中で……。  彼女の高卒は親不孝の結果で、その気になれば聖心、お茶の水といった格だったのだ。  それが丁稚、小僧と……もののたとえではなかった。問屋の丁稚をやりの、魚屋の小僧をやりの私とできていたのだ。車の|梶棒《かじぼう》をにぎり、馬の手綱をひいたことのある人間は、車夫|馬丁《ばてい》と言われても怒りようがない。  それとおんなじことだった。  これはもう、軽蔑されるより仕方がなく、その青年音楽監督と腕を組んで歩いているのを銀座で見かけても、こっちのほうからこそこそ道を避ける始末だった。  そして、田村町のアパートで、膝っ小僧をかかえて|侘《わび》しい思いを噛みしめているとき起ったのが、例の帽子の一件なのだ。  高校卒業以来、|肚《はら》の中で口ぐせにしていた、“畜生いまにみろ”もどこかへ消えてなくなって、近くに深山幽谷があったら逃げこみたい心境だったのである。  何か心の安らぎが欲しくて仕様がなかった。必要以上に工場の仲間たちに振舞ったのも、ここに友はいないか、ここで調和できないかと、そういう欲求があったせいらしい。  その工場は、電話の交換機の部品や真空管のベースを作る、さる大会社の下請けか孫請けかだった。作業は微妙で、手仕事の熟練を要した。  まず鋳型に、真空管の接点となるクロームメッキをした小さな棒を埋めこむ。棒は型式によって、太いのが三本だったり、細いのを十本近く埋めたりする。ピンセットでつまんで入れるのだ。慣れるまで、丸い棒はピンセットの先からはねて、よくとんでしまった。  その埋込み作業は相当なスピードを要する。なぜなら、鋳型はその前にガスバーナーを組みこんだプレス台で熱せられており、モタモタしていると熱が下ってしまうからだった。  厚い軍手をはめて、細かい棒を鋳型に埋めおわると、|天秤《てんびん》のはかりで正確に計量した。灰色のフェノール樹脂を手早くつめ、雄の鋳型をそっとはめこんで熱いプレス台に移す。  プレスのハンドルをそっとまわして雄型を食いこませ、ほどほどのところでいったん放置する。フェノール樹脂はその間にとけ、鋳型へ流れこんでいる。  手を休めている隙はない。その間に次の計量をしておくのだ。そして、ある勘に頼った時間ののち、一度プレスを僅かに浮かせ、ガス抜きをしてやってから、一気にしめつける。  プレスを完全にしめおわると、砂時計をひっくり返し、もう一台のプレスから同じ鋳型をとりだして、またクロームメッキした棒を埋めはじめる。樹脂をいれ、そっとしめ、次の計量をし、ガス抜きをして一気にしめる。  新米だとその間に砂時計が落ち切ってしまう。  あわててさっきのプレスをあげ、鋳型を叩いて外し、中身をとりだし、掃除をし、油を塗ってまたピンを埋める。その間にもう一方のプレス時間を示す砂時計はどんどん落ちている。  急ぐし油を塗るから、百二、三十度から二百度くらいある鋳型が滑って腹にあたる、軍手の外の手首にさわる。やけどだらけになってしまう。  それに、胃をやられる。ガスの火がふたつ、ちょうど胃の位置を熱しつづけているからだ。夏は汗をかくので備えつけの岩塩の粒をかむ。水をのむ。ふとってる奴でも痩せてガリガリになる。  鼻うたまじりで二台のプレスを動かしつづけるようになるには、ずいぶん時間がかかった。新米ほどピンの太い、大きな鋳型をあてがわれるから、重くて半日でヘトヘトになる。それでもまわりはみな中卒で、なにくそ高卒の俺が、と変に学歴を鼻にかけるから|音《ね》をあげるわけにもいかない。昼やすみには野球のコーチなどしてやって、疲れたそぶりもみせないでいた。  だんだんに、というよりはかなり強制的に人気をもりあげて、半さん半さんと言わせるのに成功したころ、とうとう私に一人の友人ができた。  工場がまだ建てられないで、あたりが野っ原だった頃からそこにいる……そんな感じがする変に土臭い中年男だった。  名前は伊曾平吉。みんなにイソちゃんとか平さんとか呼ばれてた。  小柄で、工員の例にもれず痩せていて、睡ったような眼をした、ごくおとなしい古参工だった。仕事は熟練していて、若い連中がとかく数を上げるのに砂時計を早目に早目にひっくりかえしたがる中で、約束どおりきちんと正確にやっていた。  だから平さんの仕事は寸法の誤差がなく、むずかしい交換器の部品でも特に重要なのばかりをやっていた。  少し吃音だった。  そのせいかひどく口数が少なく、どうかすると、ちょっと頭が足りないように見えた。  当然、若いのが馬鹿にして、何かというと悪いいたずらを仕かける。  小学校もろくに出ていないそうだ……。そういう噂を耳にして、私は平さんの味方になることにきめた。それはたしかに、自分への憐れみを振り替えるような心理であったようだ。 「う、うちへ、こ、来い、よ」  そんな喋り方だった。終りの、よ、に力が入って、よッ、に聞えた。  ある日そう言われて、ついて行った。無表情な平さんに、そんな好意を示されたのがうれしかったのだ。  長原のとなりの旗の台駅からそう遠くない、大井町線の線路ばたの、多分昔は蓮田だったらしいじめじめとした場所にある、それはもうお話にもならないうす汚ないアパートだった。  しかも、一階の共同トイレのとなりの、階段の下の三畳である。  夏で、まだ陽が高いのに、平さんはわが家へ戻ると、私を入口に立たせたまま電灯をつけた。四十ワットだったろう。うすぐらい光だった。 「あが、ん、なよ」  窓がなかった。  それでも三尺の押入れがあり、紙を貼って化粧をする才覚もなかったのか、手あかで茶色い艶が出た机がわりの生地むきだしのみかん箱がひとつ。  嘘にもなんにも、家具らしいものは本当にそれっきりだった。 「なんだ、窓がねえのか。|屁《へ》をしたらこもるだろう」  鬼気迫る、という言葉がぴったりの荒れように思わず気おされ、そんな軽口を叩いた。  平さんは珍しく笑顔をみせ、 「は、半さんは、か、かわって、いる、ね」  ね、が、ねッと聞える言い方をした。 「そうかな」  私はつとめて平然と、タタのぬけたミの上へあぐらをかいた。  押入れの|襖《ふすま》なども、紙が破れたのではなく、乾き切って赤くちぢこまり、木の|枠《わく》から勝手にさよならしようというあんばいだった。 「そ、そうさ。かわって、いるッ」 「どういう風にさ」 「い、いつも、うれしがって、るッ」 「俺がか」  私は顎を|撫《な》でた。電車が通って四十ワットが揺れ、平さんの影も揺れた。 「い、もうと、み、みたい、だよ」 「え……」  判らなくて聞き返した。そんなとき平さんはだいたい黙って答えない。訴えるようにみつめ返すだけである。考える時間を与えられて、たいていこっちが意味に気づく。 「妹かい」  平さんがうなずいた。 「妹がいるのか」  うなずく。 「陽気な子だね」  こくり……。 「美人かなあ」  すると平さんは声をあげて笑った。 「き、きれい。と、ても」 「田舎はどこなの、平さんは」 「う、海」 「そう。海のそばか」 「も、森」  わからなくなった。 「どっちだよ」  すると平さんは両手をあわせた。 「なんだ、海のそばの森か。それは両方たのしめていいじゃないか」 「半さんは」  吐きだすように一気に言った。 「東京だよ」 「東、京は、いいな」 「なぜ……やな所だよ」 「い、いろんな、も、のが、お、おいて、ある」 「そりゃ、品物はあるさ。でも俺は嫌いだね。大嫌いだ」 「か、わってる。や、やっぱ……」 「平さんはあの工場で何年になるんだい」  すると平さんは照れたように首をふり、 「し、しらない」  と答えた。私はちょっとしらけた気分になった。やはりこの男はどこか少し足りないようだと思った。  平さんは敏感にそれを察したらしく、警戒するような目になって、 「ともだち、に、なろう」  としぼり出すような声で言うと、変に熱っぽくにじり寄って私の左手を両手で掴んだ。乾いた、皮の厚い手だった。 「そうさ。だから来たんだ」 「は、半、さんは、さ、酒、のむ、そうだ、なッ」  妙な握手が終ると、平さんは安心したように姿勢を崩して言った。 「ああ。土曜日だから一杯やるか」 「の、のんでも、い、いよ」 「あれ、平さんものむんだっけ」  平さんは首を横にふり、微笑した。 「じゃ、しようがない」 「い、いいから、の、のみなよ」 「だって……」  私は困って三畳を見まわした。一人にせよ、酒盛りをする仕度はどこにもなかった。 「こ、ここで、の、の、のんでも、いいから」  まるでご馳走するように言う。私はどうしていいか判らなくて、黙って坐っていた。平さんはそれを見て悲しそうな顔になり、 「の、の、のま、ないの、かいッ」  と言った。仕方がなくなって、私は覚悟をきめた。 「よし来た。じゃ、待っててくれよ。俺、買ってくるからな」  そう言って立ちあがると、平さんはうれしそうにニヤッとした。子供のような笑顔だった。  かなり歩いて酒屋を探した。探しあてたときはいささか後悔していた。何だか知らないが、伊曾平吉という人物は、だいぶ寸法が違っているらしいのである。畳が腐るほどそこに住んでいながら、はじめての客の私に、酒屋の場所さえ教えてくれないのだ。  私は二級酒の一升瓶を指さしかけて、あわててその指をひっこめ、トリスのポケット瓶とピーナッツをひと袋買った。あんな所で酔っぱらったら損をする、と思ったのである。  帰ると、出て行った時と同じ姿勢で待っていた。 「も、持ってきたね」  さっきと同じ、子供のような笑顔であった。私はあぐらをかき、トリスのキャップを外して、それについだ。 「の、のみなよ」  やけくそ気味だった。 「じゃ、ご|馳《ち》になるよ」  自分の金と自分の足で買って来た酒を、そうことわってチビリと飲んだ。 「酔っぱらいな」  平さんはすすめてくれた。うれしそうに笑ってみつめている。なんだか照れ臭く、|莫迦莫迦《ばかばか》しく、 「ピーナッツの袋をあけなよ。平さんも食ったらいい」  と言った。 「うん」  平さんは袋を破って左手を|器《うつわ》に丸めると、ハンフリー・ボガートが砂金の粒をたのしむように、ピーナッツを大事にてのひらへゆすりだした。口をもって行き、上目づかいで私を見ながら器用に何粒か吸いこんで、口をすぼめてゆっくり前歯で噛みはじめた。  私は急いで何杯かたてつづけに|呷《あお》った。  平さんのその仕草は、どことなく類人猿じみていたからである。  とにかく、そういう具合に事が進んで、そのトリスが、結局は私と平さんの、義兄弟の固めの盃になったのであった。  あくる日から、工場で平さんの示す態度が、はっきり違って来たのだ。何かというと私のプレスのそばへやってきて、誰がこんなことを言ったの、誰がいやがらせをしたのと、いちいちこぼして行くのだ。  それは今まで決してなかったことらしく、現場監督にあたる係長が、 「お前、いったい平さんに何をしたんだい」  と、本気になって尋ねたりした。 「ちょいちょい、っとね」  私は軽薄に指先で頭を撫でる真似をした。 「平さんと友達になるなんて、変ってるな、お前も……」  係長は呆れ顔で言った。  私は平さんにキャッチボールを教えた。平さんは決して運動神経が鈍いほうではなかった。いや、抜群にいいと言えた。ただ、体のバランスのとりかたが独特きわまるもので、それがみんなには危っかしく、しかもうけとめることはみごとにうけとめるのだから、平さんがキャッチボールをはじめると、中庭に社員総出で、キャッキャとはやしたてた。  正直に告白すると、その昼休みのキャッチボールで、私は明らかに平さんを踊らせていた。失策しない範囲で、受けられるギリギリのところへ故意にそらして投げたのである。  私には、そういう人目におもねるところがあり、今でもその傾向は変っていない。  平さんはピョコリ、ピョコリとボールを追い、ひどくぶざまにファインプレーをやってのけていたのである。  ただ、私以外の者とは、決してキャッチボールをしなかった。それに、返球は誠実この上なかった。腰を充分に落し、つまり現代的に見ればひどいへっぴり腰で、腕だけを使って正確に私の胸もとへ投げ返すのだった。 「は、半さんは、あ、あんまり、や、や、野球、うまく、な、ない、なッ」  彼は私がボールで踊らせているのを、へたなせいだと思っているらしく、よくそう言って笑った。からかっているつもりらしかった。  親友がそんなことをするはずがないから、ボールがまっすぐ来ないのは、へたなせいにきまっていると思っていたのだ。そして私は、そのたびに、チクリ、チクリと胸が痛むのであった。  平さんが死ぬまで、そのキャッチボールは毎日のように続けられた。平さんは野球が好きになり、日曜日に多摩川のグラウンドで、下請会社同士の試合があるときなどは、私が行かない日でも、ひとりで欠かさず観戦に行くようになった。  そんな日、私が何をしていたかと言えば、バーテン時代のおしゃれをして、馴れ親しんだ銀座通りを散歩したり、未練がましく田村町のアパートのあたりをうろついたりしていたのである。   ウェルダンの骨 「ち、いずの、ち、いず、あ、あるか」  或る日、平さんは私のプレス台へ来て言った。 「チーズのチーズ……」  平さんは黙って見返している。だが、今度ばかりは判らなくて、私はいろいろなことを口にだしてたしかめた。平さんはそのたびに当惑顔で首を横に振った。  何のことはない、伊豆の地図はあるか、という意味だった。  私は工場の窓から見える、中庭の向うの事務所を眺めて言った。 「地図なら図書室にあるさ。いや、図書室になくても、地図ぐらいどこかにあるよ」  プレスを一気にしめ、砂時計をひっくり返して、次の鋳型をとりだしながら私は平さんを安心させてやった。  なぜか、ひどく思いつめた表情だった。 「お、お昼、や、やすみに、ち、いずを持って、う、う、う、う、裏へきてくれ」 「おい来た。伊豆の地図だね。チーズのチーズじゃないやつね」  こくり。返事をして戻って行った。  そのお昼休み、平さんと私は湯呑みにいれたお茶と弁当を持って、工場の裏手の、一段高くなった風通しのいい日かげへ行った。  夏のことで、油蝉が睡くなるような音をたて、中庭からピンポンとキャッチボールの音がしていた。  青い表紙の、高等地図帳、という古ぼけた本が、うっすらと|苔《こけ》のついた、湿りけのある|大谷石《おおやいし》の上に置いてある。 「は、半さんは、お、おれより若い」  私はクスリと笑った。 「そうさ。平さんはいくつだい」 「し、らない」  すっかり慣れていた。同じ数でも、時間に関する数については、いっさい、し、らない、で通す平さんだった。  判らない、とは決して言わない。知らない、と言うのだ。その、知らない、の中には、不必要である、という意味がこめられていたようであった。 「俺のほうが若いとどうなんだい」  私は空になった弁当箱の蓋をしめ、湯呑みをとりあげながら言った。いつもカルキ臭いお茶だった。 「さ、き、死ぬな」 「え……」  私はお茶を飲む手をとめて平さんを見た。 「お、おれが、さ、き死ぬ」 「きまってるか、そんなこと」 「さ、き死ぬ」  平さんは強くかぶりをふっていた。 「縁起でもないこと、言いっこなしだぜ」 「で、でも、死ぬ」 「そりゃ人間だもの、いつかは死ぬさ」 「死、いんだら、か、かえり、たい」 「死んだら帰りたいって…………どこへ」 「い、いず」 「あ、それで……」  伊豆の地図の意味が判った。私は地図帳をとりあげ、伊豆のあるページを探した。 「でも何だってまた」 「は、半さんと、と、と、とオもだちになれて、よ、よかった」 「俺も平さんが好きだよ」  そんなこと、絶えて久しく言ったことがなかった。そしてなぜか、駅に貼ってある映画のポスターを思いだした。別れた女の、哀切なプロフィルが、ソフトフォーカスでことさら美しく写っていたのである。  もう、遠い遠い、雲の上の女だった。  同棲している間、そんなことはまったく気がつかず、思ってもみなかったが、雑誌の記事によれば、その女は才女だったのだそうである。……やっぱり、最後に物を言うのは氏素姓。とても俺の持ちもんじゃなかった。とあきらめ切って、彼女とむかし関係があったなんて、はずかしくって口にもだせない気持だった。 「死、いんだら、か、かえり、たい。は、半さん、た、た、た、たのむよ」 「死んでどうやって帰るのさ」 「ほ、ほね……」 「お|骨《こつ》を持って帰ってくれっていうのか」  そう言うと、平さんはいともうれしそうにパッと笑った。話が通じた以上、引きうけてもらえるときめてかかっている様子だった。 「よし判った。平さんのお|骨《こつ》持って、行ってやるよ。でもいいか、なま焼けはごめんだぜ。ウェルダンでたのむよ。なま焼けがいいのはステーキと土佐づくりくらいなもんだからな」  何だって承知さえしてもらえればかまわない。平さんはそんな態度で、判ったのか判らないのか知らないが、何度も何度もうなずいている。 「どこなんだい、場所は」 「に、西の、く、くずさき」 「西のくずさき……」  私は探したが、その地図帳には見当らなかった。すると平さんは、じれったそうに伊豆の海岸線を沼津のあたりから指でなぞりはじめ、いったん|妻良《めら》の地名を私にたしかめさせてから、また戻って、|波勝崎《はがちざき》、松崎、堂ガ島、と北上して、とある小さなでっぱりの所で指をとめた。 「そこかい、葛崎は」  平さんはうなずき、 「く、葛崎の、し、下が、い、いそだ」  と言った。 「葛崎の下がいそ……いそって、伊曾平吉の伊曾かい」 「い、伊曾。う、海が、あ、あって、も、森が、あ、ある」  平さんは|昂奮《こうふん》ぎみだった。そうなると、いっそう口の回りが悪くなるのである。 「誰かいるの。そこに」 「み、み、み、み、みんな、い、いる。い、い、いも、うと、も」 「ああ、いつか言ってた、美人の妹だな」 「そ、そう」 「平さんの妹で美人なら、俺も一度会ってみたいや。そうときまったら早いほうがいい。早く持っていかしてよ。お|骨《こつ》を」  あと味の悪い冗談を言ったものだが、平さんは、ハーポ・マルクスのように、目を丸くして顎をつきだし、こまかくうなずいたのであった。  断わっておくが、昭和三十二年の夏のことである。西伊豆へ気軽に行けるようになったのはずっとあとのことで、東京からの旅はせいぜい下田どまり。|石廊崎《いろうざき》から|中木《なかぎ》、|入間《いるま》へまわるのは海のほうが早くて、|陸《おか》からはろくに道もない頃なのである。……今でも中木へは石廊崎の岬のつけ根のトンネルで行く。中木部落は、そこを出た断崖絶壁の下にある。入間へはそこから磯づたいの道を、一時間も歩かねばならないのだ。  こんな余分な説明をするのも、だからいかに私が無責任に、上っ調子で引きうけていたかを言いたいためである。  やがて、その時の無責任で上っ調子な約束が本当になり、振ればカラコロ音のする、平さんのウェルダンのお骨を胸にだいて、行きにくい西伊豆へと、私はでかけるはめになったのであった。  平さんの命日を、薄情なことに私はもう忘れてしまった。ただ、金曜日であったことだけはたしかである。  死んだら遺骨を故郷の葛崎へ埋めてくれ、そう平さんから頼まれたのは夏のさかりで、それが本当に死んでしまったのはその年の秋。  まるで死期を悟っていたようだが、死んだのは病気でもなんでもない。|溝口《みぞのくち》のさきにある親会社へ工場の車で納品の手つだいにかりだされ、若い小生意気な事務所の奴が、その帰り、調子にのってスピードをだしすぎ、静岡のほうへ帰る途中のばかでかい魚会社のトラックに正面衝突したのだ。  運転してた奴は全治三カ月の重傷だが、それでも一命はとりとめた。しかし、助手席にいた平さんは、現場から病院へ運ばれる救急車の中で……つまり即死というわけだった。  平さんがそんな風に死んで、気にくわないことがどっと噴きだしてきた感じだった。  職務遂行中の事故じゃないか。会社をあげた社葬にしたっておかしくはない。いや、これが課長なんかだったら、休みに家族づれで遊んでる時死んだって、社葬にするかもしれない。  一族会社の小さな|町工場《まちこうば》で、社員の数だって多くはないから、どんな大げさなやり方だって自由自在のはずである。  それを、仕事でも、|往《ゆ》きとかえりじゃ違うとぬかしやがった。妻子もなく、身寄りも近くにいなかったけれど、俺がどうなってるんだと夕方仕事のあとで事務所へ問いあわせに行くまで、死ねば死んだっぱなし、誰も手を打とうとはしてやらなかった。  うろたえてたって言えばそれまでだ。非常の処理に能力が欠けていましたと言えば通るかもしれない。でも、運転してた奴のところへは、親兄弟から工場のおもだった仲間まで、仕事を抜けて駆けつけてたじゃないか。平さんには、花も線香も、警察だか病院の手なれた、|情《じよう》のない、形ばかりのおしきせでほったらかしてたじゃないか。 「いいのかよ、それで。そんな差ァつけやがって、それですむと思ってやがんのかよ」  カッとなって、総務部長だかなんだか、一族の中で工員たちの取締役をしてるハゲ頭をとっつかまえ、事務所の中で前後の見境もなく|喚《わめ》きたてた。  なんだかんだ、ムッとしたつらで言い返すから、こっちは蒼ざめるほど昂奮して、胸ぐらをつかんでひきずりまわした。大きな音がしてたから、多分何かを壊しもしたんだろう。  暴れてる、ってんで、事務所の窓は工員の顔がすずなり。係長が四、五人がかりで、ろくにわけも知らないくせに羽がいじめにして、中庭へおっぽりだしやがった。  畜生め、こんな所へ来てまでも……。  寄ってたかって袋だたきに会ってるような、以前からずっとそんな感じを世の中に抱いていた私は、ただもう口惜しくって情けなくって、とっさに目に入った赤い消火器をひっくり返すと、よいしょとばかり持ちあげてバルブをひらいた。  白いのがシューッとふきだして、罪もない見物の工員たちが、ひっかけられて逃げまどう。そのまんま事務所へ駆けこんで、並んだ机の上へ土足でとびあがると、ぐるぐるぐるぐる事務所じゅうを泡だらけ……。  人間、|草臥《くたび》れると冷静になるって原理を、そのとき|体《からだ》で憶えた。  やるだけやると重い消火器がこたえて、妙に冷静になった。ただし心の|芯底《しんそこ》は、ひねくれにひねくれ、|拗《す》ねに拗ね、 「よし判った。平さんのことは万事俺が引きうけた。お前らはなんにもしなくていい。なんにもするなよ」  と、すてぜりふを吐いて蒲田へ帰ってしまった。  帰って風呂へ入って、ひげをそって髪をなでつけて、とっときの黒いドスキンのダブルをひっぱりだして、左袖に黒い喪章をまいて黒タイをしめて、ピカピカの黒靴をはいて遺体のある病院へ行った。  どうだ。俺の正体判ったか……そんな気分だった。まるで、水戸黄門だった。  綿の鼠色のジャンパーに膝の出た作業ズボン。ついさっきまで私も着ていた工場の制服のまんま、例の総務のハゲ茶びんと、羽がいじめにしやがった背の高い係長が来ていた。  私を見て、うしろめたそうな、びっくりしたような、うじうじした態度で二人はもう棺に入れられた平さんの前から身を引いた。  そいつを無視して、銀座の店へよく来た国会議員の秘書みたいに、もったいぶった精いっぱいおごそかな態度で|死貌《しにがお》に接し、手を合わせて|瞑目《めいもく》した。  意地の張り場にされた平さんこそいいつらの皮だった……ということを悟ったのは、もっとずっとあとになってからのことで、当座はそれどころじゃなかった。  ちょうど社長が不在で、帰って来ると少し事情が変った。丁寧な使いが来て私を呼び寄せ、行ってみると関係者が|雁首《がんくび》を揃えて、私の前で叱られた。そんなとき、私という人間はこのおやじがもっと判らずやで、てひどく俺に噛みついてきてくれればいいのに、と残念に思うのであった。  そして約束どおり、ウェルダンのお骨が私の手にゆだねられた。こっちから、そうなるように運んだのだが、いざ言い分が通ってケリがつき、まわりに人がいなくなると、他人さまの骨というのは重味のあるものだった。小さな白い箱が、目にも心にもどさりと場所を占めて、重っくるしいことこの上もない。  かくなる上は伊豆|葛崎《くずさき》へ……と、なんのことはない、お骨から解放されたくて出かけることとなった。  社長が助言した。アパートの始末その他、あとのことは会社でするが、どうせ行くんなら、お骨だけではなく、何か遺品も持って行ってやりなさい……と。  そんなもの、あるわけはないと思ったが、社長の言うほうがもっともらしいので、助言に従い窓のない三畳へ入ってひっかきまわした。  驚いたのなんのって、艶々した重たい土の壺の中に、給料袋の束が入ってて、どの袋にも一万円近い金が入れ残したまんまになっていた。袋の数は、十二、二十四、三十六、四十八、六十と、十二カ月ひと組で五組。合計六十万円近かった。  壺はなかなか重厚で、ちょっと風変りだったが、何しろ重たいので持っては行けず、私が形見にもらうことにして、袋の金を揃えて整理していると、トントン、とドアにノックの音。  根性が汚ないのは、すぐお里がしれる。  思わずドキリとし、あわてて金を押入れにおしこんでからドアをあけた。  妙にうらぶれた感じの、それでいてテコでも動かぬ重味を持った中年男が立っていた。 「あんたが伊曾平吉の遺骨を持って帰ってくれる人かね」  図々しくあがりかまちに腰をおろして煙草を吸いだした。 「ええ。あなたは誰ですか」  すると|億劫《おつくう》そうに上着のポケットから黒い手帳をとりだして、ちらっと私に示した。  警察手帳だった。 「とうとう|奴《やつこ》さんに死なれちまったか」  気落ちしたように言う。 「平さんに何かあったんですか」 「うん」 「悪いことしてたんですか」 「まあな」 「まさか」 「これだよ」  刑事は人差指で|鉤《かぎ》をこしらえた。 「この五年間、このあたりの商店はみんな被害にあってる。だんだん奴さんの行先が遠くなって、蒲田や五反田あたりにも被害がではじめてたんだ」 「嘘だ。だったらなぜつかまえなかったんです」  刑事は軽く失笑した。 「こまけえのさ。シャツ、パンツ、タオル一本、石鹸一個。味噌、醤油、ソース、洗濯ばさみ、とげぬき、釘、電球……」  私は天井の四十ワットをみあげた。 「一度や二度ならかまっちゃいられねえくらいのもんだ。でもな、このあたり、軒なみのべつ、ポッツリ、ポッツリやられてたんだよ。妙な野郎がいると思ってさ。一回つらを見てやろうと、暇を見て張ってるが、どうしてどうして腕はコソ泥じゃねえや。この俺がいくら気を使って張ってみても、影もみせねえんだ。こりゃ、ひょっとすると大物の縁起かつぎかなって……以前そんなのがいたのさ。まあコレの病気もあるんだろうが、本番の前ってえと、きまってちっぽけな盗みで首尾を占ってたんだ。で、少し本気になってきた」 「それが平さん……」 「三年がかりで、やっと目星をつけた。けど、現場がどうしてもつかめない。ありゃ名人だな。それに、ここが少しおかしかったみたいだな。それ以上の仕事なんかしやしない。素人名人さ。ただ日常のものに金を払うって気が、まるでなかったみたいだ。要るもんだから置いてある。置いてあるから持ってくる。そういうことさ。遠くからようく見てたが、それ以外は、まじめなもんだった。何がうれしくて生きてるのか、酒ものまなきゃ煙草も吸わない。朝になると工場へ行って、夕方になると帰ってすぐ寝ちゃう。俺はあんたが友達になったんでびっくりしてたんだぜ。でも、考えてみりゃ俺も惜しい相手をなくしたもんさ。一度とっつかまえて、たとえ割箸一本でも|銭《ぜに》ぃ払わなきゃいけないんだって、とっくり言って聞かせてやる日がたのしみだった。いや、本当だよ。それ以上、あいつを罪におとして何になるって言うんだ。……それにしてもうまかったね、奴さんは」  刑事は|喋《しやべ》るだけ喋ると立ちあがった。 「その気になれば、大したヤマを踏める奴だった。それは俺が太鼓判を押すね。……実を言うと、少し好きになっていたのさ」  被は照れたように笑い、 「それを誰かに言いたくてな。……じゃ」  とドアをしめて出て行った。  私は荒れ放題の、もう平さん以外には二度と住む人もないだろうと思える、その三畳の四十ワットの下で、睡そうな目をした平さんの面影を追っていた。     葛 崎 に て  伊豆へ、行った。  刑事が言った話を信じるか信じないかは、私の勝手だった。平さんはもう、白い箱の中へ入って、私の腕にだかれていた。  仮にあの話を信じるとしても、私は平さんの味方だった。  俺の行くさきざきには、可哀そうな奴ばっかりいる。……そう思い、白い箱の中の平さんに、生きてたとき以上の親しみを感じた。  ぬくぬくとしてる連中は俺の仲間ではない。汗水流して、どじばかり踏んで、いくら頑張ったってそう高いところへは届きっこない。そういうのが|生得《しようとく》の、そのささやかな可能性の中で、なんとか死ぬまで生きて行く……そういう連中が俺の仲間で、そういう仲間のいる場所が俺の世界だ。平さんも死んじまって可哀そうだが、それももう終ったんだから、かえってしあわせかもしれない。  葛崎へ行くみちみち、そんなことを私は考えていたが、ふっ、と気がついた。 「なんだ。こいつはテッちゃんのせりふじゃねえか」  マーちゃんの子供が死んだ晩、帳場へ仏壇を借りに来たテッちゃんのほうが、俺よりずっと先輩だ。人間ができてやがった。……私はきっと、弱々しい微笑をしていたに違いない。  あの晩仏壇を借りたあと、テッちゃんはやけにはやった。ひと晩に二回も来れば、大漁なんよ、と言ってよろこぶテッちゃんが、その夜に限って四度も来た。 「大丈夫かい、テッちゃん。ぶっこわれちゃうぞ」  四度目の帰りにそう言うと、テッちゃんはニヤリと笑い、 「友引だね」  と言った。かなりどうしようもない器量のパンちゃんである彼女がそういうと、客が地獄へ引きずりこまれたという実感があっておかしかった。  そんなことを思いだしているうちに、私にだかれてふるさとへ一歩一歩近づいている、白骨になった平さんが、実はこれから故郷へ錦を飾りに行くところなのだ、という風に思えてきた。  ざっと六十万。平さんはうまれ故郷へ持って帰るのである。私にはとても貯められない金額だし、あんな町工場で工員をしていたのでは、誰にしたって大金だ。 「平さんよ、うれしいだろう。どうやらもうすぐらしいぜ」  私は無人の細い道を歩きながら、白い箱にむかって言った。あたりは草っ原になって、行く手は青い空だけだった。 「俺なんかには、とてもできねえや。平さんは偉いなア」  お世辞ではなかった。|芯《しん》からそう思った。 「う、れしい」  平さんが、答えてくれたような気がした。  だが、土地の人に教わって来た葛崎へ着いたとき、 「こいつはいけねえ」  と私はとほうにくれた。  伊豆の地塊がバッサリとそこで海に落ちこんでいる。目の前に、午後の陽を浴びた駿河湾が、つまり太平洋の波がしらが、キラキラと果てしもなくつながっているだけだ。  岬の突端へ、滑りやすい短い草を踏んで、あわてて歩いて行った。人家はおろか、満足な立木も見えない。  実を言うと私は少々高所恐怖症の気味がある。人目のないのをさいわいに、荷物をみんな体から外して身軽になると、四つん|這《ば》いに這いずって、地べたのブッ切れたところから下をのぞいた。  尻の穴から死神がしのびこんで、今にも我から両脚を跳ねあげ、真っ逆さまに|千仞《せんじん》の底へとびおりてしまいそうな気分になった。  |飆 々《ひようひよう》と|風《かぜ》岩を|哭《な》かせ、幽明の|界《さかい》を別する地の|涯《はて》の様相であった。  そして、幾分オーバーハングになった断崖のはるか底に、濃い森が見えていた。 「えれえとこだ、ここは」  這いずってあと戻りをし、骨壺を入れた白い箱の前へ来ると、私は草の上へあぐらをかいてため息をついた。それは、尻の穴がやっとふさがって、とりついた死神が肩先から青空へ蒸発して行くのを感じる、|安堵《あんど》のため息でもあった。  もう一度立ちあがって自分のいる場所をよく見直す。人もけものもそんな所に用はないらしく、短い草が、リーゼントスタイルの横髪のように、山へむかってべったりと寝て生えているだけであった。  私は荷物をとりあげ、引っかえすことにした。そう言えば、踏みかためたひと筋の道があって、それをたどって来たのだが、いつのまにか消えて、草の上を歩いてしまったのである。  来たとおり戻って行くと、うすぼんやりと道があらわれはじめ、やがてはっきりとつらなった。誰かがたまに草を刈りに来る道らしい。|堆肥《たいひ》にでもするのだろう。  岬から、向って左。つまり北の方角へ地形がさがっていて、そっちへ行く道は、かなり使われているようであった。前方に低い木のかたまりが見え、進んで行くとそのかげにわら屋根がみえた。  この道をくだれば、大まわりしてあの絶壁の下の森へ行けるのかもしれない……そう思い、トントントンとはずみをつけて、細い坂道をくだって行った。平さんの骨が音をたてていた。  小さなわら屋根の家の前に、半分白髪の老婆が立って、私が近づくのを待っていた。老婆のくせに、えらく体格がよかった。 「この道を、どこへ行くのかね」  とがめるように言う。私は立ちどまった。 「下の森に、伊曾という家があるそうなんだけど」 「伊曾の森へかね」  私は東京生れで、伊曾の伊にアクセントを置いて姓として怪しまなかったが、老婆は伊曾を|磯《いそ》と発音した。磯之森、という地名に聞えた。なるほど磯之森か、と思った。 「何しにかね」  老婆の表情がやわらぎ、白い箱に目をむけていた。 「こいつは伊曾平吉という人のお骨なんですよ」 「平吉は死んだかね」  老婆は遠くに目を移して言った。 「ええ」 「それはご苦労なことです」  老婆は頭をさげた。 「この道でいいんですか」 「行けないね」 「え……ダメなの」 「|陸《おか》から行く道はないよ」  |裏石廊《うらいろう》の中木と同じだった。 「海から……」 「潮が引けば歩いても行かれるが、今行くのなら、うちの舟をかしてあげよう」 「舟……|漕《こ》げないよ」  私は笑った。だが老婆は平気で、 「ついておいで」  と先に立って歩きはじめた。  急な斜面についたジグザグの|小径《こみち》をどんどんおりて行くと、ごく小さな和船が、岩と岩との間に引きあげられていた。潮臭く、|眩《まぶ》しく、波と風の音につつみこまれて心細かった。 「乗って|竿《さお》で岩を突いて行けばいいのさ」 「やだよ。沖へ流されたらどうするの」 「|櫓《ろ》も使えないのに、どうして岸をはなれられるもんかね。あげ潮の海だよ」  心配ないから行ってみろと、老婆はむりやり舟を水へ引きおとし、私をのせてしまった。骨壺を首にかけ、|濡《ぬ》れた竿を持って私はぐらぐら揺れる舟の上に立っていた。が、舟が岩に当ってこわれそうなので、思い切って舟を動かした。  夢中で竿を使っていると、子供の頃横川や三十間堀でいかだ遊びをした要領を思いだし、ほっとしてふりかえった。岸に立ってみている老婆が船宿のおかみに見えた。こっちはとんだ徳三郎で、さぞや間抜けな姿に見えるだろうと舌打ちをした。  点々と岩が続いて舟の道がはっきりわかるし、それに底が浅い。あっちへ突っ張り、こっちへ突っ張りしているうちに森へ着いた。同じような舟が引きあげてある場所へ寄って降りようと思ったがこれが大変な仕事。桟橋でもあれば別だが、悪戦苦闘を十分以上くり返し、やっととも綱をさきに|陸《おか》へほうりだす知恵にありついた。そうしておいて、なんとかみごとに、足を濡らさず大汗だらけで陸にあがり、ずるずる海へ引っかえして行く舟を、あわててとも綱をひっつかんでとめ、やれやれと額の汗を腕でぬぐった。 「ばァか、へたくそ」  と、背後で女の笑い声がする。  ふり返ると、膝きりの赤い腰巻に、洗いざらしの綿のジャンパーの袖をたかだかとまくりあげ、胸のボタンを上から二つ、いや三つほど外して、みごとなおっぱいのふくらみをのぞかせている。髪の長い、こんがりと陽に焼けた肌の、なんと言っていいか、とにかく表現なんかする気にもなれない大美人が立っていた。美女も美女も……とほうもない美女だ。 「お前だれ」  つきさすような言い方がまるで気にならなかった。 「もしかしたら、あんた伊曾さん」  松下さん、というコマーシャルができる十何年前のことである。 「伊曾……ここはイソだよ、みんな」  やはり磯と言った。私は森を見まわした。つやつやと、葉っぱの広い木ばかりだった。 「平吉さんて、知ってる……」 「平吉」  美女の顔が曇った。白い骨壺の箱を見て、さらに曇った。 「知ってるよ。でもいない」  まさかこの大美人が平さんの妹では、と思った。 「君、平さんの妹かい」 「うん」  私はさきにとめてある舟をみならって、とも綱を不器用に|杭《くい》にしばりつけた。 「兄さんが帰ってきたんだよ」 「死んだんだね」  妹は、無造作に骨壺の箱をとりあげて言った。 「ああ」 「これ、兄さんの|骨《ほね》が入ってるんだろ」 「そうだよ」 「どうして持って来たの」  私は妹の顔をしげしげと見た。平さんもそうだったが、どこか私たちと寸法が違っているようであった。 「平さんにね、俺は頼まれてたんだよ。もし死んだら、お骨をここへ持ってってくれって。だから来たのさ。帰りたかったんだな、平さんは」 「ふうん」  妹は感心したようだった。森を見まわし、 「どうしてこんなとこへ帰りたかったんだろう」  と言う。 「生れ故郷だからだろう」 「おいで……」  彼女は白い箱をかかえ、森の中へ大股で歩きだした。それについて歩きだすと、頭にのしかかるような葛崎の絶壁が、すぐ繁みにかくれて見えなくなった。  船着場へは、森から三、四本の小径が集っているようだったが、森へ踏みいれると左右の様子がまったく判らなかった。そして、森の中は妙に知り合いが多かった。生えている木の種類が、いちいち私に判るのだ。  ツバキがあった。サザンカがあった。竹があり笹があり|棕櫚《しゆろ》があった。柿の木、|椎《しい》の木、桜の木。低い桑の木に似た木などもあり、|柘植《つげ》や|馬酔木《あせび》らしい、いけ垣で見なれた木も生えていた。そのほか大きな木では、|樫《かし》、|楢《なら》、それに不たしかだが、|※[#「木」+「無」]《ぶな》、山桃。私の好きな|木犀《もくせい》の大きな木もあった。  要するに、庭木としてよく知っている木ばかりが揃っている森だった。  今なら、一歩でも踏みいれれば、私でもその森の特殊性に気づくはずである。  そのむかし、この国の平野部を|掩《おお》っていたという、それは多分、あの照葉樹林なのであろう。そして、その森の特殊性が、平さんはじめ伊曾一族に関する、妙な寸法の違いにつながっていることを、見抜けぬまでも予感ぐらいはするはずであった。  だが、その時の私は、まるで気がつかなかった。だから、平さんの妹がトコトコと妙な家の中へ入って行った時は、びっくりしてその前に、すくんだように突っ立っているだけだった。  いま思い返すと、その森の中で過した時の記憶は、何かこう、粘っこい膜をとおしたように|朧《おぼろ》に|滲《にじ》み、高速度撮影の映画のように優雅で現実ばなれして、無重力の、夢の世界の出来事のようによみがえるのである。  屋根が地べたにおっこっている……滑稽なことに、私は平さんの妹の家を見たとき、そう思ってしまった。  |茅葺《かやぶ》き、と見えたが、どうもそれとも少し違う。とにかく植物で葺いた厚味のあるどっしりした屋根が、地面からいきなり、にゅっととびだしていた。  すぐ|傍《そば》に巨木が一本、森の木々を圧して空に伸び、大きな鳥の巣のようなかたまりをぶらさげていた。その鳥の巣のようなかたまりは、よく見るとどうやら寄生植物の葉塊であるらしい。|蔓《つる》が太い幹に複雑にからみついていた。  家のまわりには、芋が並べて乾してあった。見慣れない芋だった。ごつごつして、細長かった。よれよれの、長袖のアンダーシャツを着て綿の作業ズボンをはいた老人が、のっそりと家の中から……というよりは地に|堕《お》ちた屋根の下から現われた。  平さんによく似ていた。  皺だらけの顔で、目をしょぼしょぼさせながら、じっと私をみつめていた。  森の葉ずれと海鳴りと、そして表情を読みとることのできない目が、私をひどく不安にさせた。  睨み合ったかたちで立っていると、妹が無言で平さんの骨壺を、二人の間にしゃがみこんで、白い箱からとりだした。  それを見て、はじめて老人がうなずいた。 「じいちゃんだよ」  妹は私に紹介した。 「みんな、若いもんは、し、なねば、か、か、かえって、こん……」  妹は私を見て笑った。 「よそもんと話をすると、こうなるのさ」 「これ……」  私は平さんの|貯《た》めた五十万なにがしを入れた紙包みをさしだした。  どこかで鳩が、くぐもった声で|啼《な》いていた。  老人はすぐ包みをあけた。 「わあ……お札じゃないか」  妹は陽気な歓声をあげ、老人の手からひとつかみひったくって眺めた。 「こ、これは、ど、どうした……」 「平さんが貯めたんですよ」  私はわがことのように胸を張って答えた。 「平、吉がか」 「ええ。平さんは働き者でした。会社にも信用があって大事にされ、みんなからも好かれてました」  余計なお節介だった。  でも、私はそれを遺族に言いに行ったのだ。偉い奴だった、立派な男だったと、そう遺族に信じこませることが、葛崎くんだりまではるばるやって来た私に対する、報酬だったのである。いや、子供っぽいことに、そんな類型的な美談を、自分の人生にちょいとつけくわえてみたかったのである。  まったく、おもちゃの勲章みたいなことを、当時の私は考えていた。今だって、その点たいして進歩しちゃいないが。  悲しかったのは、それを言ったとたんに見抜かれたことだ。  鼻を鳴らした。 「う、う、嘘は、い、いけない。だ、だが、ほ、ほんとうに、こ、これを、へ、平吉が、た、貯めたのか」 「嘘じゃありませんとも」  私は顔に血をのぼらせて強調した。 「け、警察は、な、何も、へ、平吉にしな、かったか」 「警察……」  私はあのうらぶれた中年の刑事を思いだしながら答えた。 「いえ、何も」 「そ、そ、そうか」  老人はほっとしたように、はじめて札束をよく眺め、妹が持っているのと自分のと、見くらべるようにした。 「へ、平吉の、な、かまか」  泥棒仲間みたいな言いようだったが、仲間には違いない。私はそうだと答えた。  そのとき、背筋が冷たいので手をシャツの下へまわした。何か、うどんのきれっぱしに触れたような気がした。すると妹がさっととんで来て、背中へ手をつっこんだ。 「蛭さ」 「ヒル……」  私は思わず首をすくめた。 「シャツをちゃんとしめときな」 「蛭がいるのか、ここは」  私はこわごわ見あげた。 「いるよ。うんとね。それに蛇も」 「大嫌いなんだよ、蛇は」 「ど、どうするね。と、泊って行く、かね」 「いや、帰ります」 「この人、岬のうちの舟で来たんだよ。でも、漕げない。おかしかったよ」 「そ、それじゃ、お、送って行け」  要件だけの、ひどく|呆気《あつけ》ない訪問だった。その時の私は、家族の歓待を受けてひと晩くらい泊り、平さんの話を、あることないこと並べたてて感心させ、と考えていたし、今の私なら、蛭も蛇も恐れずに、できるだけ長くいて、その森をよく観察すればよかったと思っている。  それはなんと、|縄文《じようもん》の森だったのだ。  だがそれを知ったのはずっとあとのこと。その時は、蛭のいるいやらしい森から一刻も早く脱出したくて、挨拶もそうそうに引き返してしまった。  船のところまで老人が追いかけてきた。 「こ、れを……」  ずしりと重い土の壺をくれた。土産、のつもりだったらしい。それを渡すときの老人の表情に、私へ対する親しみと感謝がかすかに読みとれた。 「それ、いちばん新しい奴だよ。まだ使ってない」  平さんの妹は、あざやかに櫓を使いながら言った。老人が森のはずれでじっとこっちを眺めていた。 「平さんの家族は、君とあのおじいさんと」 「二人。もう誰もいない」 「みんなどうしたの」 「崖の上へ出て行った。あたしも行くよ。ねえ、あんたといっしょに行こうか。行っていいかい、にいちゃんの寝てた場所、あるだろ」 「さあ、もうないだろう」 「誰がとった……」 「判らないけど」 「このお札があれば行けるだろ」 「よしなよ。おじいさん一人になっちゃうじゃないか」 「じいちゃんも、行きたければ出ていくよ」  妹は高い声で笑った。 「でも、行かない。行きたくないんだ。行くと警察につかまると言ってる。でもあたしは行く」  舟は早かった。来る時の数倍のスピードで出発点へ戻っている。ひきあげてあったふたつの岩のすき間が見え、妹は櫓を置いて竿にかえた。寄せる波にのって、ふわりと岩の間へ入れ、竿を突っ張って引く波にさからった。難なく岩の間に舟が残る。次の波でまた前進し、とうとう動かないところまであげてしまった。 「ねえ、いっしょに行くよ」  岸におり立って言った。落着きをとり戻した私は、彼女の美しさに誘惑された。その半分くらいの美貌にだって、私はさからえない。だが、恰好が……膝きりの赤い腰巻、男物のジャンパー。どうも、老人がはいていたズボンと一対になっていたらしい。 「連れて行きたいけど、今日は無理だ」  あやすように言った。が、惜しかった。なぜ惜しいのか、深くは考えなかったが、ひどく惜しかった。 「どこへ行けば会える……」  妹は少し考えてから言った。 「東京の、大田区の蒲田……そうだ、紙にくわしく書いてあげような」  私は岩に腰をおろし、ポケットへ入れて来た文庫本の扉をやぶり取って、そのうらにシャープペンシルでわかりやすく道順を書いた。ご丁寧に旅館の電話番号まで入れて……。 「その旅館に泊ってるのかい」 「いや、夜なら帳場にいる。番頭みたいなもんさ」 「帳場……どこ」  彼女は手にした地図を見た。 「旅館の入口をあけるとすぐガラスの戸がある。その中にいるよ」 「わかった」  ジャンパーの胸ポケットのボタンを外して、地図をねじこんだ。私は、ジャンパーの胸もとで、彼女のふくよかな|膨《ふくら》みが、わずかに動くのをみつめていた。 「でもね、万一来るとしても、ちゃんとした恰好をして来なよ」  すると妹はうつむいて自分のみなりを見まわし、急に顔を赤くした。 「わかってる、そんなこと」  くるり、とふりむくと、身をひるがえしてジャブジャブと海の中へ入って行った。 「行くよ、きっと」  両手をひろげ、水平にふってバランスをとりながら、ふりむいて叫んだ。 「おおい、名前は……」 「ミホ。ミ、ホ……」 「さよなら、ミホ……」  波と風と太陽と、蛭に食われたあとと重い手製の壺。登らねばならぬ急な斜面のジグザグの坂、そして蒲田までの遠い道のりを残して、ミホは海の中をジャブジャブと去って行った。  そのあと、私はあの|妖《あや》しげな森のことばかりを思いだしながら蒲田へ帰った。もちろん、森は美しい平さんの妹を含んでいた。ミホ……どんな字を書くのだろう。美保か、三保か、美穂か。だが、あのエキゾチックな美貌は、ミホと片仮名で書くのがふさわしい。そうだ、ミホだ。私はそうきめた。  平さんの部屋にあったのと葛崎のと、土の壺が、私の三畳にふたつ並んだ。瓜ふたつだった。それとそっくりの壺を、日本考古学大系の一冊にある図版でみつけることになるのは、もっとずっとあとの話。当時はなんとなく飾っていただけだ。   森 の 妹  ミホが、来た。  やって来たミホに会うために、私は京浜急行の蒲田駅近くまで歩かねばならなかった。  蒲田警察の刑事部屋で、ミホは私を待っていた。茶のハイヒールをはいて、茶のタイトスカートをはいて、黒いハーフコートを羽織ってベソをかいていた。  蒲田の東口の商店街をうろついて、ハンドバッグをかっぱらいそこなったそうなのである。 「その洋服どうしたんだ。ええ。それもやったんじゃないのか」  刑事が一人、ミホをしぼっていた。もう一人の刑事が私に茶をすすめ、 「ダメだなあ、こんなの東京へ引っぱりだしちゃ。目がくらんで見境がつかなくなってるじゃないか」  と言った。私は平あやまりにあやまり、なんとかしてミホを助けだそうとした。 「君じゃなあ」  刑事は当惑顔であった。微罪だからどうでもいいが、私では渡せないというのだ。 「なあ、あそこの番頭じゃな」  仲間をふり返って笑った。私の旅館は、その筋ではちょいと睨まれてるパン助宿だからだ。  私は必死で逃げ道を考え、あの平さんの三畳で会った中年刑事に思い当った。 「デカの知り合い……ほんとか、おい」  刑事は電話をかけてくれた。だが、すぐ疑惑のまなざしで私を睨みつけた。 「|嘘《トン》こくなよ。そんなデカはいねえぜ」 「いるよ」  私はムキになった。 「いや、いねえ。しようがねえ野郎だな」  刑事たちが腹をたて、私をこづかんばかりになった。  中にひとりおだやかなのがいて助かった。 「長原と言ったな。本当に長原かい」 「ええ……あ、ちがう。旗の台です」  物事は何によらず正確に言うものだ。長原は東調布署の境界スレスレにあり、旗の台なら|荏原署《えばらしよ》でなければいけない。  二時間も嫌な目に会った挙句、やっとあの刑事が来てくれた。 「しょったれたデカとはよく言ってくれたもんだな」  彼は私を見るなり大笑いをした。 「すいません」 「いや、いいんだよ。ウチの連中がね、そう言われたんですぐ判ったそうだよ」  彼は私の肩を一発笑いながらどやしつけ、ミホを見て言った。 「こいつは驚いた。これがあの伊曾の妹かい」  平さんを知ってれば、誰だってびっくりする。タイトスカートにハイヒールをはいて、大きな目で見あげているところは、ジーナなんとかいうイタリアの女優にそっくりだった。  しょったれ刑事の名前は新藤……新さんと呼ばれているらしかった。  その新さんのおかげで私たちは助かった。やっとの思いで西口へたどりつき、|椰子園《やしえん》という喫茶店へ入って相談した。 「とにかく帰すんだな」  新さんの結論はきまっていた。だが、それ以上にミホの心もきまっていた。 「やだ」  今にも逃げだしそうに言う。私は新さんと顔を見合せ、二人とも唇を|歪《ゆが》めて首を左右に振りあった。 「若僧だから僕は信用されない、と思う」  私はおずおずと切りだした。 「でも、平さんの、たった一人の友達だった。お骨を持ってって、そこで彼女に会ったんだ。縁てものがありますよ。そうでしょう」 「まあ、そう言えばそうだな」 「帰ったって、ひでえところです。墓場みたいな、蛭がおっこってくるじめついた森なんです。そこにじいさんとふたりっきり。戻したってすぐ出てきますよ。たとえいやでも、じいさんが死んじまったら、出るより仕方がないとこなんです」  私は伊曾の森のどうしようもなさを説明した。新さんは唸り、小さな声で私に言った。 「もし、惚れてんなら、まかしてもいい」 「え……」  うろたえて思わずミホを見た。 「君が言うように、たしかに縁だ。このテの女はな、どうあったってひと荒れすまさなきゃ納まらねえ。俺がどんな固いとこへ預けたって、無きずですむもんじゃない。惚れてんなら、君にしょいこませたほうが、俺はうんと気が楽だ。もっとちゃんとした女に仕込め。そのさきは……なり行きさ。どうころぼうと、それこそ縁だ」  ミホを見ながら、まじめな顔でつづける。 「こういう年頃には、重しのついたフタをするのがいちばんだってことよ。判るかい」 「重しのついた蓋……」 「君が蓋さ。どうだい、蓋になってみちゃあ……」  私は新さんが好きになった。尊敬した。だってそうだろう。感化院、女だけの寄宿舎、やかましい家庭……処置のしかたは幾らでもあるが、新さんのは血が通ってた。 「君もそうすりゃあフラフラしなくてすむ」  まるで見抜いていた。  そうだ、俺はこの女とやり直そう。工員でもいい。パン助宿の番頭でもいい。人並みに、一生懸命暮してみよう。  ……どこか、私の思慮はどこか抜けている。世の中を都合よく解釈して、そのとおりに行かないと、今度は袋叩きにあったような気になる。まったく始末が悪く、その時も始末の悪いまんま、|一途《いちず》に思いこんだ。 「はい……」  今考えれば鼻持ちならないが、その時は思い入れたっぷりに深くうなずいて……目と目をあわす人情刑事と美青年……|曲師《きよくし》の掛声が入って、※[#歌記号]のしるしがついたような気分だった。  さあそれからが大変。  自由奔放もいいところ。こっちは惚れてるんだが、さきさまはまるで落ちつかない。  刑事の口ききもあって、私の三畳にいきなり同棲というかたちになった。……何も新さんはそう短兵急なことを言ったわけではないのだが、こっちはすぐに一番おいしいところへかぶりついた。  ミホはそれが当然だという風に受取って、まあ最初の一カ月……いや二十と何日かくらい、言うことを聞いていい子にしていた。  番頭のかみさんで女中頭。くるくるそれはよく働いてくれて、叔母も一時は本気で婚礼の手順などを考えていた。  私は、平さんの一件で暴れてから、急に人気と信用をました長原の工場へ通い、夜はいとむつまじく、満ちたりて過した。  寝物語に故郷の森のことなどを、こまごまと語らせ、こっちはこっちで、事の善悪、なぜ礼儀が必要か、など、わが身に余る高度な問題について、こんこんと、いや、しつっこく言って聞かせた。  だが、ミホはうまい逃げ手をすぐにみつけた。面倒な話になると、私を勃起させるのである。私がまた、実によく勃起した。やはり、堅い話は起きてするに限ると思った。  いま当時のことを回想するとすぐ、私はあのミホの柔らかい掌を思いだす。そして、あの生暖かい夜を、若かったなあ、と羨むのである。  図太い神経と、陽気な心を持っていたミホは、すぐに私より優れた男がいや程いることを知ったようだった。 「あんた、勉強してえらくなんなよ」  いきなりそんなことを言う。 「えばったっておかしいよ。この旅館汚ないじゃないか」  とも言う。 「映画スターって、どのくらいお金をとるの。あんたとどっち」  これには参った。|先《せん》の女に映画スターになられてしまっているのだ。 「どうして日記ばかり書くの。小説書けば|儲《もう》かるのに」 「うるせえな、書けねえんだもん仕様がねえだろ」 「どうして書けないの」 「才能がねえんだよ」 「あんた才能がないのか」  ナオミとか言う女の面倒をみるほうが、よっぽど楽だったんじゃなかろうか。  ズケリ、ズケリと私をきめつけるミホの欠点は、森の暮しで身についたものだった。  とっ拍子もないことなので、信じてもらえないかもしれないが、いまはっきりしていることは、あの森と同じものが、崖の上から、恐らく伊豆一帯、日本一帯にひろがっていただろうということだ。  遠い遠い縄文の昔のことである。  その森の恵みで、人々は暮していた。採集経済の社会である。  森は、焼畑に追われ、稲作に追われ、やがて平地ははじめっからハゲ坊主の平らなところだと、そう思われるような時代になった。  だが、消えてゆく森を追って、南へ、南へとさがった連中の中に、伊豆で行きどまってしまった人々がいたらしい。その最後の楽園が、あの崖の下の森だったのである。  そこに住みついて、稲作以後の文明から隔絶し、採集を続けた最後の一族が、伊曾と呼ばれる人々だったのだ。伊曾の人はやはり磯の人にすぎない。姓はそうして定着した。 「東京はいい。いろんな物が置いてある」  置いてある、と平さんは言った。置いてあるから、持ってくるのだ。それが森の|掟《おきて》だった。 「持って来たね」  ウイスキーを買って帰ると、平さんはそう言った。言うはずではないか。  ミホが最初に着て来た服は、ちゃんと金を払って買ったものだった。その金は、私が森でじいさんに渡したとたん、ミホが引ったくって行った、彼女のわけ前だった。  何年たったか、いま幾つか。農耕を持たぬ人々に、それは必要ないことなのかもしれないではないか。 「し、らない」  平さんはそう答えた。判らないのではなくて、必要ないのだ。  ミホはテがかかった。ただ持ってくるのは悪いこと……そう理解はしてくれても、欲しいと思ったときに、それを抑制するための、長い世代にわたる本能的なブレーキを持っていないのだ。一世代でそれを得ようとすることが、どんな意志の力を要するか。私はミホを見ていて、いじらしいというより、悲しくなったほどである。  ミホは頑張った。言って聞かせると、一生懸命本を読んだ。字を習った。  だが、もっと微妙なこと……たとえば、私から離れて行くこと、などについては、どうにも理解が及ばないようだった。  もっと実の多い、大きな森があるのに、なぜここにいなければいけないのか、である。  歌手や俳優や実業家や政治家や……そういう仕事ならもっとずっと収穫があると知ったとき、彼女はつまらなそうに尋ねた。 「それ、もう誰か持ってるんでしょ」  言葉づかいも急速に成長していた。私が特に口やかましく言ったからだ。 「|莫迦《ばか》、持ちもんじゃないよ、職業は」  言わなければよかった。あそこばかりか目にも耳にもふたをして、私だけのものにしておけばよかった。だがそれは誰に対しても無理なことだ。 「ほんとかい。ごめん……ほんと。あたしがやってもいいの」 「努力しだいだ。まじめにやればな」 「あたし、まじめにやる」 「何をやる」 「なんでもいい。こんな旅館の女中なんてつまらない……わ」  わ、とつけくわえて赤い舌をだした。 「そうだな。お互いにがんばろうな」  それが二十日目あたりだった。  それからすぐ、彼女は、昼間出歩きはじめた。つまり、|橋頭堡《きようとうほ》を出て、索敵をはじめたのであった。  そして、こともあろうに銀座のキャバレーのスカウトに引っかかったのである。 「あたし、キャバレーへ行くわ」 「バカ、こん畜生。何を言いだすんだ」 「服もウチもあるんだって」 「よせ。やめてくれ」  私はほとんど絶叫に近い声で言った。 「どうしてよ」 「お前は俺の嫁さんだ」  ミホは笑った。あの、去って行く寸前に見せる、女の謎の笑いだった。 「あんたを、少し好き」  ミホは私にかじりついて来た。憶えたてのキスをたっぷりと与えてから言った。 「でも、もっと好きな男がいるかもしれないわ」  ギョッとして体を離した。 「いるのか」 「いまによ……。もっと好きで、もっと偉い男。金をいっぱい持ってて、顔がきれいで、背が高くて」  嫌なことばかり言われた。 「バカ。キャバレーなんて、パン助になっちゃうぞ」 「だいじょぶ。あたしはテッちゃんみたいじゃない」  私が買い与えた八百円の姫鏡台をのぞきこんで言った。ミホがその気になれば、すぐにどでかい三面鏡と、それにふさわしい豪華な部屋に住めるだろう。そう思うと、私はだんだん気がめいり、あの田村町のアパートで膝っ小僧といっしょにだいた、小さくてみじめな自分という男の実体をとり戻した。 「ミホ。やめてくれよ」  なさけない。正直に告白すると、私は泣いてたのんだ。  ミホは言うだけで何もまだ起しちゃいない。だが私には判っていたのだ。ミホは私には美人すぎた。この東京で、ミホのような大美女を持ったが最後、私みたいな男は、遅かれ早かれ……。  そいつが判っていた。われとわが身の軽さや不甲斐なさ。それをいやというほど知っていて、なおその上で|分《ぶん》に余る夢を描かずにはいられず、自分の姿を見て見ぬふりでどこかへいっぱし駆けだしている。  ミホはびっくりして私の涙を見ていた。  理解するはずもない。私の涙は、とんでもない先まわりで、いずれは訪れるはずの別れと、その日が来ねば納まりのつかないだらしなさに、我ながら愛想をつかした涙だった。  ミホはその晩優しかった。次の晩も優しかった。その次の晩も……。  そして、消えた。  ミホを追ったわけではない。それは信じてもらいたい。私は二度とミホに近づかなかった。あの奔放な、そしてとほうもない美人にまつわりついて、それ以上自分をくだらない目に会わせたくなかったのである。女優になってどこかへ駆け登っていった前の女でこりていた。だから銀座へ戻った。ミホがその同じ銀座へ行ったことは、まったくの偶然である。  分相応。……工員だって、なんとかなるには大変だ。それを一からやるよりも、なれたじでえ(時代)の|玄冶店《げんやだな》だな……。  幕。  ひとつの時期の幕がおりた。  その後、ひょんなことから小説を書きはじめ、本も二、三冊出してもらって四十になった。  ある人が伊豆へドライブに行ったかえり、私の家へ寄ってくれた。 「あんた、こんなものが好きだから……」  そう言って土産をくれた。  箱に刷りこんであった。  西伊豆・伊曾焼……あけると私にとって三つめの壺がでてきた。 「ね。縄文風でおもしろいだろ」  私は目をとじた。ミホの一族の誰かが伊豆へ帰って、土産物として売りはじめたに違いない。つまりそれは生きている縄文の壺なのだ。  そのだいぶ前、私は何度か葛崎へ行って、かわりようを見ている。  道路が舗装され、広くなり、あの岬のすぐそばを通っている。  草がひれ伏していた場所は、ドライブ・インになっている。下の森は、多分庭木として高く売れたのだろう。チョボチョボとしか残っておらず、釣客相手のしゃれた建物ができ、桟橋が海の中へつきだして、白いモーターボートが揺れていた。両方とも伊豆の鉄道会社の経営になっていた。  そして、ミホは……今でも銀座にいる。立派な店を持って、ホステスをおおぜい使って、作家や編集者たちがよく集ってくるという。  いま、若い女の子を見ると、私はすぐミホを思いだす。似ているのだ。いまの女の子たちが、どんどんミホに……あの伊曾の森そのものの妹のようなミホに、似て来ているように思えて仕方がない。  胎児が人類の歴史をそのままくり返すように、いま私がいるこの社会は、採集の時代、焼畑の時代、稲作時代、商業時代、工業時代……と、世代ごとに平行してそれらの時代をくり返しているのではあるまいか。  若者はもっと広い森へ採集に行きたがる。よい畑を求めて次々に移る。落ちついて稲を作る。力をつけて収穫をより高く売る……いや、こんな理窟っぽいことはよそう。  それより、もう飲みにいこう。ミホの店でなかったら、どこでもいい。  箪  笥  おら|長男《あんか》や、|無愛想《あいそむない》な男やさかい、|宴会《よばれ》ども行ったかて、いつまででもあして黙っとるのやわいね。そやけど、あんたさんのことを嫌がっとのやないげさかい、気にせんといてくだしね。  |弟達《おじら》っちゃみな自衛隊へ行っとるがやて。能登いうたら、このごろは東京や大阪から、|沢山《ようけ》観光客|達《らつち》ゃ来るさかいに、なんや好いとこみたいしに思われとるやもしれんけど、|本当《ほんま》は|何《なん》も取れんところやがいね。海ゃ|近《ちこ》うて|定置網《おおしき》やある言うたかて、魚|獲《と》るのは|博奕《ばくち》みたいしなもんやし、夏になれば|何《なん》も獲れんがになってもうがいね。  |ハイ《おいね》。このあたりの家いうたら、昔はみんなこんながやったわいね。|漆《うるし》を|沢山《ようけ》使うた板の|襖《ふすま》やたら、書院や欄間やたらに手間のかかった……あんたさんら東京の|衆《し》には珍しいやろうけど、今はもうこんながも|無《の》うなってもうて、ここでは|我家《おらうち》と|七郎三郎《しつちよさぶろ》だけになってもうたがいね。|夜《よさる》は暗いし、電気|灯《とぼ》したかてこのとおりやさかい、部屋の数が多いばかりで、葬式でもなけにゃ、わたしらかて|三月《みつき》も半年も入らん部屋かてあるわいね。そんながやさかい、一人で寝とらしたら、|何《なん》やらおそろしうなるのも道理やわ。  よう寝られんのやったら、|御坊《ごぼ》さまみたいしには行かんけど、何や変った話でもしょうかいね。と言うたかて、おら見たいしな|老婆《ばあば》には、|随分《とんと》昔の話しかよう出来んのやけど、これはまあ、変った話いうたら変っとるのやわいね。  |本当《ほんま》言うたら、|我家《おらうち》のことやがいね。おら|祖母《ばあば》から聞いたのやさかい、いつの何年てなことはよう知らんけど、そのころこの家に、|市助《いちすけ》いう|亭主《とうと》がおったそうや。  |市助《いちすけ》|亭主《とうと》が、働きざかりの年頃のことやけど、|父親《じいじ》も|母親《ばあば》もまだ|健在《おらし》て、それに|女房《かあか》と十六をかしらに三つの|男の子《ぼんち》まで、八人の子供|達《らち》ゃおったのやと。  昔は、というても、ついこの間までのことやけど、どこの家もそないしてみんな子沢山やったわいね。どないしとるのや知らんけど、今はもう子供も|沢山《ようけ》作らんと、やれテレビやたら冷蔵庫やたら持って暮しとるがやねえ。  そやけど、今のほうが|好《え》えことは好えわいね。|昔《むかし》言うたら、|オ《が》デ|キ《め》やたら|眼病《やんめ》やたら、子供|達《らつち》ゃみんなそげなもん|病《や》んどったし、|齢《とし》とったら、すぐ|酷《ひど》うに腰ゃ曲ってもうて、きっと市助の|父親《じいじ》や|母親《ばあば》も、腰が曲っとったのやと思うわね。  市助は毎朝|早《はよ》ぅらと浜へ行って、|定置網《おおしき》の舟で沖へ出とったのやと。田んぼや畑の山仕事は、そやさかいみんな嫁の仕事で、|年寄《とつしより》や|長男《あんか》|達《らち》がそれを|手伝《てつとう》て、毎日仲よう暮しとったそうや。  ところがあるとき、三つになる|男児《ぼんち》が|面妖《もつしよい》ことになってもうたそうながや。  |夜《よさる》、寝間で寝んと、毎晩毎晩こんな箪笥の上へあがって、坐ったまま夜の明けるまでそうしてるのやといね。  はじめの内、市助|亭主《とうと》はそれを知らずやったのやと。毎晩そないしとったのを知った時は、そやさかいに、もうだいぶ長いことたっとったそうや。  びっくりしてもうてな。|女房《かあか》と|喧嘩《いさかい》になったそうな。 「|汝《われ》やついとって|何《な》してそんな|奇態《きけい》なことを黙ってさせとるんや。|今夜《こんにや》からちゃんと寝間へ入れんと|殴打《たたつくら》するぞ」と|憤《おこ》ったそうながやけど、またその晩も、|女房《かあか》は|何《なん》も言わんと|男児《ぼんち》が箪笥の上へあがってしまうのを、黙って見とるのやと……。  市助はすっかり腹たててもうてな。|男児《ぼんち》を箪笥の上から引きずりおろして|打擲《ちようちやく》したそうやわいね。  言うとくけど、その|男児《ぼんち》も、市助の|女房《かあか》も、ほかの子供|達《らち》も、みんなおとなしうて、市助|亭主《とうと》の言うことを素直に聞く|者《もん》ばかりやったそうな。  ところが、その|男児《ぼんち》が箪笥の上へあがることだけは、みんな気を合せたように、どないしても|構《かま》わんと放って置くのやそうな。言うても言うても|駄目《だつちやかん》がやと。  市助はあきらめてもうてな。もう|少《ちよつこ》し大人になれば|好《い》い|様《が》になるやろ思うて、|何《なん》も言わんと勝手にさせておいたんやといね。  ほんで、どのくらいたったあとやろうか。或る時ふと子供|達《らち》の寝間を、市助がのぞいたそうなと。|例《いま》の|男児《ぼんち》がもうそろそろ箪笥の上へあがらんようになった頃や思うたんやろうな。  先に言うたとおり、子供|達《らつち》ゃ八人おるのやけど、市助がのぞいたら、なんとその中の五人までが、寝間におらんと、箪笥を|幾棹《いくさお》も並べてある別な座敷で、最初の|男児《ぼんち》と同じように、その箪笥の上へあがって、こうしてちゃんと膝に手ぇ置いて坐っとるのやがいね。  市助がどないにびっくりしたか、判りますやろ。「|汝達《わらつち》ゃ|何《なん》やてみんなして箪笥の上へあがっとるのやッ」……怒鳴りあげたそうや。  でも、子供|達《らつち》ゃ知らん顔して箪笥の上へ坐っとる。|気味悪《きびわる》なって、市助は家中のもんを起してまわり、その箪笥の|間《ま》に集めたそうや。  そやけど、家のもんはみな早うに知っとったようで、別に驚かずやったと。なんや、そんなことで起したんかいな、言うたもんで、すぐそれぞれの寝間へ戻ってしもうた。……なぜ箪笥の上へあがるか、いつからあがるようになったのか、|亭主《とうと》の市助だけが知らんと、あとは家中の者が判っとるのやなあ。  市助は|女房《かあか》をかきくどいたそうな。「なんであないしとるか、知っとったら教えてくれ」言うてな。そやけど、|女房《かあか》は|少し《ちよつこり》笑うて見せるだけで、そのことになると|何《なん》やよう判らん顔で、じっと市助の顔をみつめるのやと。  市助は心配になったそうや。子供|達《らち》は病気にかかったのやないかと……ひょっとして、その病気が次々にうつっとるのやったら、ひどいことになる思うてな。  市助の心配は半分ほど当っとったそうや。箪笥の上で夜を明しても、別に病気ではのうて、みんな体は達者ながやけど、家の|者《もん》に次から次へとうつるのは、心配どおりやったのやといね。  残る三人の子も、やがて|夜《よさる》になると箪笥の上へあがり腰の曲った|母親《ばあば》まで、どうやってあがるか知らんけど、ちゃんと高いとこへあがって坐るようになってもうた。  市助は家におるのが恐しうなったそうや。昼間はみんな今までどおりの家族やけど、|夜《よさる》になったさかいには、化けもんみたいしに、口もきかず顔色もかえんと、みんなして箪笥の上へあがってしまうのやさかいな。  恐しうて寝られんがになってもうた。今のあんたさんと同じこっちゃ。  それでも、ねむらんとおれるもんやなし、いつのまにか、うつらうつらしとると、或る晩のことやけど、遠くで、カタン、カタン、カタン、カタンと、|何《なん》や聞いたことのあるような音が聞えてきたそうな。  あの音はなんの音やったかいな……そう思うて耳をすまして聞いとると、カタン、カタン、カタン、カタンという音は、だんだん近うなって来る。そこでふと、となりに寝とるはずの|女房《かあか》を起そうと思うて見ると……。  おらんのや。そのとたん、市助はぞっとしてはね起きてもうたそうや。恐しうてたまらんさかい、わざとドタドタ足をふみならして、音のほうへ家の中を走って行くと、|父親《じいじ》も|母親《ばあば》も|女房《かあか》も子供|達《らち》も、みんなが力を合わせて、浜へ出るこの前の道から、家の中へ古い箪笥を運びこむところやった。  市助は口もきけず、家中の者がその箪笥を奥の間へ運んで行くのを眺めとるだけや。カタン、カタンという音は、箪笥の|鐶《かん》が揺れて鳴る音やわいね。  みんなが奥の間へ消えて|少《ちよつこ》しすると、そのカタン、カタンもやんで、しいんと静かになってもうた。  市助は恐る恐るのぞきに行ったそうな。  |父親《じいじ》に|母親《ばあば》に|女房《かあか》に八人の子供|達《らち》……一人残らず箪笥の上へあがって、膝に手ぇ置いて坐っとった。身動きもせんと、目ぇあけて、きちんと坐っとるのや。  それからというもの、|夜《よさる》に寝間で寝るのは、とうとう市助一人になってもうた。  幾晩市助がそないな家で我慢しとったか、おらも聞いて知らんわいね。とにかく或る晩市助は、|親類《いつけ》の家で酒飲んでぐでぐでになって、そのまま着のみ着のままで、海ぞいの道をどこまでもどこまでも逃げて行ってしもうたそうながや。  市助はそのあと|水夫《かこ》になったそうや。北前船の|水夫《かこ》になって、何年も家へ戻らなんだそうや。  そいでも、仕送りだけはちゃんちゃんとしとった言うさかい、律義なは律義なやったんやなあ。  何年かたって、どういうかげんか、市助の乗った北前船が、このあたりへ来るめぐり合せになってもうたのや。この|少し《ちよつこり》先の|岬《はな》の沖に錨を入れ、夜を明かすことになって、そりゃ市助かて生れ育った土地やさかい、懐しいわいな。夜が|更《ふ》けても、胴の間におらんと、ふなべりにもたれて家のほうを眺めとったわけや。  すると、ギーッ、ギーッと舟をこぐ音がきこえ、かすかに、かすかに、カタン、カタン、力夕ン、カタン……。  あの箪笥の音や。  市助は金縛りにあったように、身動きもできんやった。  カタン、カタン、カタン、カタン。  舟はやがて市助のいるすぐ下へ来たわいね。見ると、一家そろって舟に乗り、市助を見あげとったそうな。「とうと。とうと……」みんなして、小さな声で市助を呼ばっとる。「とうと。帰らしね。帰って|来《き》さしね。なんも恐しことないさかいに、帰って|来《き》さしね。とうとの箪笥も持って来たさかい、この上に坐って帰らし。みんながしとるように、|夜《よさる》になったら箪笥の上へ坐っとったらいいのや。あがって坐れば、どうして家の|者《もん》がそうするのか、一遍に判るこっちゃさかい。一緒にくらそ。|水夫《かこ》みたいしなことしとったかて、なんも好いことないやないか」大勢してそう市助に呼びかけたそうな。  |ハイ《おいね》。その晩市助は船をおり、箪笥の上に坐って、カタン、カタンとみんなに運ばれて家へ戻ったそうなわね。  |面妖《もつしよい》はなしやろうがいね。  なんで|夜《よさる》になると箪笥の上へあがって坐っとるのか、おらにはようく判っとる。そやけど、よう言えんわ。かくしとるのやのうて、言葉ではよう言いきかせられんのや。そやけど、あんたさんかて一遍ここへこうしてあがって坐って見さしま。よう判るさかい。箪笥もこない|沢山《ようけ》あるし、この家へ泊るのも何かの縁ですさかいなあ……。  ちゃあちゃんの木     1  その四階だてのビルは戦前に建てられたもので、ひょっとするとこの室町界隈では、いちばん古いビルになっているのかも知れなかった。室町の表通りから昭和通りへ抜ける道へ入って二本目の裏通りにあり、まあたらしいビルにはさまれて、ただでさえ薄汚れているのが、余計貧乏臭く見える。  |真鍮《しんちゆう》の|把手《とつて》がついた両開きのドアが一階の中央にあり、そのドアへ達するには道から石段を六段ほど登らねばならない。だから両どなりの新しいビルと比較すると、ひどく腰高に見える。窓は小さく、壁の色は黒い。  黒い壁面は、建てられた当初は充分に重厚さを発揮したことだろう。だが、周囲がどんどん新しい様式の建物に建てかえられた今では、|桁違《けたちが》いの古さを証明しているようで、どことなく滑稽ですらある。  平田は、自分の職場があるその黒いビルを眺めるたび、|行火《あんか》を連想するのだった。艶々と黒光りする行火は、炭火が入っている時は、脛が火傷するくらい熱く、火が絶えれば蒲団の中で底意地悪く冷えていたものである。  そのビルは、或る繊維会社の本社だったという。軍や鉄道で使う防水シートを扱っていたそうだが、もうとうに倒産して、今では地下一階から四階まで、雑多な職種の会社が入っている。  タイプ印刷屋と写植屋と青写真屋が地下を占領し、一階が小さなダイカストのメーカー。二階は法律事務所と興信所で、三階は内装工事専門の会社とビル清掃業者のオフィス。そして四階が平田の勤めている北岡プラスチック工業である。  北岡プラスチック工業という会社がそのビルに入っていることを、平田は面白いめぐりあわせだと思っている。かつて、車輛や兵器のカバーに使われた防水シートは、ほとんどが、ビニールなどのプラスチック加工品にとってかわられているからである。  現に、北岡プラスチック工業は、防衛庁に何種類ものカバーを納入しているし、それらは以前なら当然防水シートが用いられていたはずのものなのである。  新しい顧客に提出する社歴書の、取引先の項のトップに防衛庁が出ているのも、平田には昔のシート屋の生れかわりを証明しているように思えるのだった。それを見せると、相手はたいてい、 「ほう、防衛庁とも……」  と、なんとなく信用した目つきになるのである。  大小無数の業者が乱立しているプラスチック業界は、すでに|淘汰期《とうたき》に突入している。ゴミ公害だ過剰包装だと、一般の消費を減衰させる動きも強い。しかし、有望な防衛庁との取引がある以上、なんとしても生き抜いて、戦前この黒いビルを建てたシート業者のように、わが世の春を謳歌しなくてはならないのだ。  平田はその会社の、五人いる営業課長の一人である。席次はいちばん低く、年齢的には二番目に若い課長である。防衛庁には、老練な二人の課長が専門で当っており、平田は何の関係もない。彼の課は小品課と言って、玩具を含む雑貨を扱っている。  怪獣のおもちゃだの、風呂場の|簀子《すのこ》だの、新案の煙草ケースだの、ライフ・サイクルの短い、殆どきわ物と言ってもいいその分野には、呆れるほどの種類があり、新しい商品がうんざりするほど次々に生みだされて来るのだった。  プラスチックの蝿叩きの尻に、潰した蝿をつまむピンセットを仕込む。石鹸函の蓋に爪掃除用のブラシをつける。……どれもこれも、たしかに一理あるアイデアだ。しかし、要らないと言えば全部要らないものばかりなのである。なぜそんなものまで、材料と人手をかけて作らねばならないのか。  平田は、一見天下泰平なそうした商品が、防衛庁へ納められる品物と同じ手で扱われていることに、何とも言えぬおぞましさを感じる時がある。 「今の平和なんて、こんなものだ……」  新しく持ちこまれたサンプルを手にして、彼は時どきそんなつぶやきを洩らしたりする。罪深い平和の|澱《よど》みが、破滅というはけ口へじりじりと近づいているように思えて仕方がないのである。     2  昼少し前、平田はデスクを離れた。営業部員は殆ど出払っており、背後の窓にとりつけた旧式のクーラーが、睡くなるような音をたてていた。  黄ばんだ壁にかこまれた部屋のドアの所に黒板が掛けてあり、平田はそこへ行って自分の名前を記した欄の中へ、食、と一字だけ白墨で書いた。ドアをあけて入って来た男がそれを見て、 「もう飯か……」  と言った。 「昼になると混むし」  平田はボソボソとした言い方で答える。 「楽じゃねえな。朝飯なんかどうしてるんだ」  その男は立ちどまって平田の顔をみつめた。平田は|拇指《おやゆび》と人差指をこすり合わせて白い粉を落しながら、 「仕方ないさ。自分でやってるよ」  と微笑した。  みち子が生きていた頃は、たいてい朝食抜きで出勤していた。ところが今では毎日きちんと朝食をとっている。パンとミルクの時が多いが、飯をたき、味噌汁を作ることもある。その合い間に息子の伸一を起し、顔を洗わせ、服を着換えさせる。  父子二人の朝食がおわると、汚れた食器を洗い、戸締りをして伸一を近くに住む義妹夫婦の家へ預けに行くのが平田の日課になっている。  おかしなもので、朝食抜きの頃には滅多に空腹を感じなかったのが、近頃では昼近くなるとやたら腹が滅るようなのだ。以前より早起きをしているせいだろう。  平田は近くのビルの地下にある食堂へ入って、焼魚の定食を注文した。たて混みはじめる寸前の時間なので、定食は注文するとすぐに来た。茶をひと口|啜《すす》り、箸を割って味噌汁の椀をとりあげる。  そのとたん、息子の伸一の顔が|泛《うか》んだのは、味噌汁の香りのせいだったかもしれない。平田は、味噌汁と一緒に、鼻の奥から|喉《のど》のあたりに湧き上った熱い塊りを呑み込んでいた。それでも、やり切れない涙が両方の目頭に残ったようだった。 「伸ちゃんはおりこうよ。お天気のいい日は、ちゃんとおうちのお庭で、一人で遊んでるんですものね……」  義妹のよし江がそう言っていた。  朝、いったん平田が八百メートルほど離れた義妹夫婦の家に預けてから、伸一はまたトコトコと一人で自分の家へ帰って行くのだそうだ。最初の内はよし江がついて行ったそうだが、今では慣れて、伸一の自由にさせているらしい。  伸一は自分の家の庭へもぐりこみ、よし江が呼びに行くまで、庭で一人遊びをしているのだという。  このまま帰って、不意にその庭へ現われてやったら、伸一はどんな喜び方をするのだろうか……。 「平田さん……」  耳もとで柔らかく呼ばれ、平田は椀の中に動く茶色い模様から目をあげた。 「どうしたの……何か入ってた」  この食堂の女主人だった。板前の着る白衣を着て、髪を頭の形なりにひっつめた、見るからに働き者と言う感じの女だった。 「いや……別に」  平田は我に返って箸を動かしはじめる。 「判ってるわよ」  女の歳は三十五か六。平田のとなりの椅子に、浅く、はすっかいに腰をおろして低い声で言った。 「坊やのお昼ごはんは何だろうな……でしょ」 「知ったかぶりするな」  平田は|憤《おこ》ったように焼魚をむしった。 「知ったかぶりなもんですか。ちゃんと顔に出てたわよ。パパの顔してたわ」 「よせよ。うまくもない飯が余計まずくなる。|伜《せがれ》はちゃんと妹に預かってもらってるさ」 「亡くなった奥さんの妹さんでしょ」 「よく知ってるな」 「月二万円ですって……薄情なもんね、お金とるなんて」  平田は食事の手をとめて、呆れたように言った。 「誰だい、そんな……うちの会社には余程おしゃべりがいると見える」 「中川さんたちに聞いたのよ。以前はうちでもよく飲んでくれた平田さんが、ばったり来てくれなくなっちゃったから聞いてみたの」 「そうだな……ユキさんのお酌とも、随分ごぶさただな」  この店は、昼二時まで付近のサラリーマン相手に食事を出し、夜は酒蔵風の飲み屋に変る。酒のほうが本業である。 「とにかくやめて……」  平田たちにユキさんと呼ばれている女主人は、白木のカウンターに片手を突いて立ちあがり、冗談とも本気ともつかない表情で言った。 「見ちゃいられないもの」  客が四、五人つながって入って来た。     3  平田はことしで丁度四十である。たしかにもう若くはないが、さりとて老け込む年でもない。だから自分でも時々ふしぎになるのだが、半年ほど前、妻のみち子に死なれてから、めっきり気が弱くなって、どう誤魔化してみても気が晴れず、何かというと想いは二歳と四カ月の伸一のことになってしまうのである。  |不憫《ふびん》でならないのだ。そして、自分が息子の伸一をそんなに不憫に思うこと自体、何かから、手ひどいしっぺがえしを受けているような気がしている。  夜、伸一のあどけない寝顔を見ていると、その寝顔から今日の北岡プラスチック工業小品課長に至る、ひと筋の道を否応なしに思い起させられてしまうのである。  母親の財布から小銭をくすねて買い食いをした小学生。カンニング常習犯の中学生。自慰に耽った高校生……。このあどけない寝顔がその筋道を|辿《たど》らねばならないのかと思うと、過ぎた日々に対する悔恨がとめどなく湧きあがって、まだ骨の柔らかな伸一をだきしめ、だき殺してしまいたい気分に陥るのだった。  三十八の時の子供だ。みち子が妊娠したと知った時、平田は思わず指を折って数えたものである。子供がはたちになる時、自分は五十八になっている計算だった。そんな簡単な計算を指でたしかめるほど、平田は狼狽していたし、昂奮していた。  今が最後のチャンスだ。今ならなんとか間に合う……平田はその時そう思った。子供に対する欲が出て、せり出して行くみち子の腹を、祈るように見守っていたものである。  みち子とは、その前の年に結婚した。みち子は初婚で、平田より十歳下だった。平田はそれが三度目の結婚だった。  最初の結婚は二十六の時。二度目は三十一の時である。二度とも恋愛結婚で、三度目のみち子の場合だけが、純然たる見合結婚であった。  そのほかにも何回かの女出入があって、そうした愚行にも厭気がさしていたところだったから、すすめられるまま、そろそろこの辺が終着駅、というような気分で、至って淡々とみち子の夫に納まったのである。  ところが、伸一という自分そっくりな子供が出来てから、平田はみち子に深い愛情を感ずるようになった。みち子が病床につくと、我ながら度を外れたいたわりようで、あちらの病院、こちらの医者と駆けまわった。  それが|呆気《あつけ》なく死んだ。その時も、平田は何かから手ひどい仕返しを受けたような気分になったものだった。 「お前なんか死んじゃえ。お前なんか死んじゃえ……」  平田の子をみごもって七カ月まで来てしまった女が、産科の病院の赤茶けた畳の上で、そう|喚《わめ》きながら処置を受けていたことがあった。七カ月の胎児は尋常なことでは母体を離れず、彼女の股間からは胎児を引き出すための白い紐が伸びていた。  八歳年上のホステスと同棲していた時は、自分の子とも誰の子ともはっきりせぬまま、その女を病院へ連れて行ってやり、どのくらい待たされたか時間の記憶はうすらいでしまったが、待合室へ出て来た時には僅かにふらついている程度で、 「これじゃ今晩はお店休むわ……」  と舌打ちするのをタクシーへのせたものだった。  ひとりずまいのOLだった大柄な女は、裏通りの人目につかない診療所で粗雑な処置を受け、二日後もう一度|掻爬《そうは》のやり直しをされねばならなかった。  俺という男は、いったい幾つの命を……。しみひとつないなめらかな肌をした、自分そっくりの伸一をいとしいと思うたび、平田は過去の愚行を数えあげ、どうすることもできない不吉な予感に|怯《おび》えるのだった。  無邪気な伸一は、平田にとってかけがえのない愛の対象であると同時に、底知れぬ|怯《おび》えの源でもあるのだ。     4  一時少しすぎ、平田はオフィスへ戻った。 「また伸ちゃんにおみやげですか」  小品課の若い部下の一人が、平田の上着のポケットにのぞいている三越の包装紙を|目敏《めざと》くみつけ、お世辞のように言った。 「ん……」  平田はあいまいに答え、デスクの|抽斗《ひきだし》にそれをしまった。 「発泡スチロールの伸びがとまっているそうですよ」 「そうか」  平田は椅子に腰をおろした。 「まったく、あいつの始末は厄介だからな」 「こうゴミ公害が騒がれたんでは、パッケージ部門の需要は落ちる一方でしょう」 「そうでもないだろう」  平田はデスクの上の灰皿をみつめながら言った。灰皿は、けさ女子社員が出したままで、吸殻はおろか、灰の汚れさえついていない。平田はこのところずっと禁煙を続けている。 「いまもちょっと三越を覗いて来たが、中元用商品のパッケージは少しも変っていないよ。以前のままだ」 「自分で売ってるのにそんなこと言っちゃ悪いですけど、どうなるんですかねえ。プラスチックのゴミってのは、どうしようもないですよ。今に世界中プラスチックで埋まっちゃう……」  平田はそれを聞いて失笑した。 「みんな同じことを言いやがる。売手も買手も、どうしようもない、どうしようもない、だ。それでいて結構買ってるし、どんどん売れてる。それもいいだろう。どっちにしたって、行きつく所まで行けばおしまいになるんだから」 「おしまいって……どうなるんです」 「知るかよ、俺が」  平田はなげやりな言い方をした。 「とにかく近い内におしまいになる。何もかも……そんな気がするよ」 「大地震があるって言いますし、それに天候異変でしょう。米はとれないわ、魚を食えば死んじゃうわ……ろくなことはなさそうですね」 「プラスチックを合成樹脂と言ってた昔が懐かしいよ。あの頃は結構な発明で、科学の勝利だなんて思ってたんだからな」 「課長がそんな風に言うと、みんな戦意を喪失しちまいますよ」 「うちはまだいいほうだ。防衛庁を持ってるからな。パッケージ専門のプラスチック屋なんか、お先まっ暗だって言うぜ」 「ま、悲観してても仕方ありませんね。とにかくひとまわりして来ますよ」  平田の部下は、そう言って煙草を揉み消すと立ちあがった。  部屋が静かになると、平田はまた伸一のことを考えはじめた。  みち子が死んで、二歳の伸一がとり残された。伸一は母親の死をまだ悲しめなかった。平田はその伸一を家に残して、毎日出社して来る。近くに住むみち子の妹が預かってくれるとはいうものの、実の母親のように一日中注意してやっているわけではない。  夢中で道にとび出して車に跳ねられてしまうかも知れず、近くの溝に落ちて這いあがれぬまま泥にうもれてしまうかも知れなかった。つまり、伸一は伸一なりに生きのびて行かねばならないのだ。  平田は、田や畑で暮す農夫になりたいと思った。身近に伸一を遊ばせながら働けたら、どんなに張り合いが出るだろうと思うのである。  義妹のよし江に、平田は毎月二万円支払っている。伸一の預り賃として、それは充分な金額ではなかった。しかし、よし江はそれでいいと言ってくれているし、平田のふところにとっても、そのくらいの金額がいちばん適当だった。だが、他人だったらそうは行くまい。よし江の事情が変って伸一を預けられなくなったら、その何倍もの金を支払わなければならないだろう。  よし江の家は化粧品屋をやっていて、今のところ暮し向きも安定しているようだ。しかし、それがいつまでも続くという保証は何もない。家が火事で焼けるかもしれず、彼女か彼女の夫が急に病いで倒れるかもしれない。人間は誰しもそういう不安定なものの上にのって暮しているのだが、伸一はその不安定な社会が偶然のように支え合った、ほんのかすかな平衡の上にのせられている。父親の自分にした所で、日に何度かはタクシーにのって都内をかけまわっている。車のひしめく道路で自分だけは、と思ってみても、事故に遭う確率は変えようもない。  平田が禁煙しはじめたのは、伸一の未来を考えてのことである。|迂闊《うかつ》には病気になれないと思うし、伸一の為にできるだけ金を残して置いてやりたかった。煙草代を節約してどれ程のことになるわけではないが、禁煙でもおのれに課さないことには、いても立ってもいられない気分であった。  今日も退社時間が待ち遠しかった。早く帰って伸一の顔が見たかった。庭の|※[#「木」+「歳」]《とし》の木のあたりで遊んでいる伸一の小さな姿が目に浮んで、平田はため息をついた。     5  四時少しすぎ、平田はユキさんと近くの喫茶店で向き合っていた。 「こんなこと、あかの他人の私なんかが言うのは失礼なんだけど……」  とりとめのない雑談のあと、ユキさんは照れ臭そうな微笑を浮べながら言いだした。 「家は、平田さんのおうちのことを聞いちゃったもんだから」 「家のこと……」  平田はユキという女の真意が掴めずに、思わず眉を寄せて問い返した。 「亡くなった奥さんのほうの持物なんですってね」 「うん」  平田はうなずいて見せた。 「あれの家は、柴又のあたりに古くから続いている家でね。昔はあのあたりの百姓だったらしいんだよ。そんなわけで、かなり土地も持ってる。今俺が住んでいる所は、あれが生れ育った家で、建坪は二十坪そこそこだが、百坪ほどの土地がついている。女房のおやじは庭いじりが好きだったらしくて、築山だの池だの、小さいながら今どきにしては贅沢なもんだ」 「そういう庭のあるおうちにずっと住めたら、坊やのためにもいいでしょうにね」 「そりゃ夢さ。俺みたいな|素寒貧《すかんぴん》には無理なはなしだ。ユキさんがそこまで知っているんなら言うが、別に俺たちは追いだされるわけじゃないんだよ。女房の里の持物の、あの庭つきの家に、伜と二人でいつまでも居すわるわけには行かないさ。女房の家の者たちは、俺が再婚するのがいちばんいいと思っている。子供の為にもそれがいちばんいい方法だからな。女房の親たちはもういい歳で、孫を引きとってみたってどうしようもない。爺さんは脳溢血をやって、これだし」  平田は左手を胸の辺りへあげて、軽くゆすってみせた。 「あの土地を売って、その金のいくらかは孫の為にどうにかしてやろうという気なのさ。自分たちの生活資金と、孫の面倒と、化粧品屋をやってるもう一人の娘と……、土地の代金を三等分する気らしい。だから有難いはなしで、別に追いたてられるわけじゃない」 「それはそうでしょうけど」  ユキという女は不服そうな顔をした。 「そうなったら、どこに住むの。坊やがいるんですもの、どこでもというわけには行かないでしょう」 「もう少し話が煮つまったら考えるよ。あの家で新しい女房と住む、なんて虫のいいこともできんだろうよ」 「やっぱり、再婚なさるの」 「さあね……」  平田は失笑した。考えるべきことではあろうが、まるでその気がなかった。 「うちの庭はね、|※[#「木」+「歳」]《とし》の木があるんだよ」  話題を変えた。 「※[#「木」+「歳」]の木……」 「うん。本当はクリの木の仲間なんだそうだが、ちょっと見るとサルスベリの木に似ている。知ってるかい」 「知らないわ、そんな木」 「寺や神社や墓地のまわりなんかで時々みかけるよ」 「そうかしら」 「俺が生れた家にも生えてた。大きな|瘤《こぶ》ができてて、その木に登っては叱られたもんだ。親父の年と同じなんだそうだ、その木がな。※[#「木」+「歳」]の木ってのは、そういういわれがあるんだな。その家の家族の誰かが生れたのと同じ頃生えて、その誰かが死ぬと※[#「木」+「歳」]の木も枯れてしまうんだそうだ。だから、うっかり切ったり枯らしたりできないわけさ。そんなことをしたら、木と同じ年の家族が死んでしまう。※[#「木」+「歳」]の木って名も、多分そういう言いつたえから来てるんだろう。これは誰それの年の木だ……そういうことなんだろうな。いま俺がいる家の庭に生えてる※[#「木」+「歳」]の木は、死んだ女房の年の木なんだそうだ」 「あらやだ。で……」  ユキさんは、すくいあげるような上眼づかいで言った。平田は笑った。 「生えてるよ。枯れる気配もなく葉を繁らせている」 「みんなそんなものね、言いつたえなんて」 「まあな」  平田はコーヒーを呑んだ。 「私のごく親しくしてる人が、幾つかマンションを持ってるのよ」 「ほう。金持の知り合がいるんだな」 「もし、そんなんでよかったら、お世話できるんだけど……」 「マンションを俺が買うのかい。そんな金ないさ……」 「借りるのよ。いい借り手がいないか、ってこの間言われたもんだから」 「家賃が高いだろう」 「でも、その時になれば、木造の|二間《ふたま》のアパートってわけにもいかないわよ。だって、坊やがいるんですもの」 「いや、君の親切は感謝するよ。有難いと思う」  平田はあらたまって頭をさげた。 「よしてよ、そんな……私、亭主と子供を一遍に交通事故でなくしちゃったでしょ。だから身近にそんな人がいると、ひとごととは思えなくなっちゃうのよ」 「世話好きなんだな。そうか、下町っ子だって言ったな」 「人形町の生れ。だから※[#「木」+「歳」]の木はおろか、栗の木でさえろくに見たことないの」 「いつになるかまだ判らないが、柴又の家を出ることがはっきりしたら、こっちからお願いに行くかも判らない」 「来てよ。待ってるわ」  ユキさんは、気が晴れたように急に明るい顔になり、左手首のプラチナの時計を眺め、 「あら大変。もうこんな時間なのね」  と伝票をつかんで立ちあがった。     6  京成柴又駅で電車を降りると、金町のほうへ少し寄った線路の左側に神社があり、その前を道路が線路と交差して高砂駅のほうへ伸びている。  神社の横から斜めに、もう一本の道が分れていて、その道をずっと行くと、先は水戸街道にぶつかっている。平田の住んでいる家はその道の左側にあった。  平田は駅から神社の前へ出ると、斜めの道へは入らず、高砂にむかう道路を、義妹夫婦がやっている化粧品屋のほうへ歩いて行った。五時になるとすぐ退社したので、あたりはまだ陽がさしている。  化粧品の店にはよし江がいて、平田が近づいて行くと店の外へ小走りに出て来た。 「まだお庭にいるわ。今日は早かったのね。これから連れに行こうと思ってたんだけど、うちの人が出掛けちゃってるもんだから」  よし江は弁解するように言った。 「どうもすみません」  平田は頭をさげ、 「じゃあ、驚かせてやりますか」  と言って店の横から自分の家へ続く裏道へ入った。  伸一は、その道をトコトコと毎日通っているはずであった。  平田はふと、道にしゃがみこんでみたくなった。伸一の目の高さで、その折れ曲った裏通りを眺めてみたいと思った。何を見て歩いていることだろうか……。  だが、平田の足はとまらずに、かえって早くなった。年甲斐もなく、胸が躍るようであった。何をして遊んでいるのか、一度見たいと思っていたのだ。ドブにかかった小さな橋を渡り、家のある横丁へ入った。見慣れた生垣が見えていた。  平田は|柾《まさき》の垣根をかきわけて、横の道からそっと庭の中を覗いた。伸一が遊びまわっている気配はなかった。  平田は急いで表へまわり、裏木戸の錠を外して勝手口へまわった。暑い夏の西陽を、|楓《かえで》の葉が程よくさえぎっている。平田は庭へ出て見まわした。  伸一はやはり庭にいた。庭のほぼ中央にある|※[#「木」+「歳」]《とし》の木の、日影になった側に尻をつき、幹に|倚《よ》りかかって、※[#「木」+「歳」]の葉を一枚持って、おだやかな表情で独りごとを言っていた。  平田は靴音をしのばせて※[#「木」+「歳」]の木に近づいて行った。  ところどころに茶色い|斑《ぶち》が入った、直径六十センチほどの白いつるりとした幹に倚りかかって、伸一は無心につぶやいている。小さなぷっくりとした指で細長い※[#「木」+「歳」]の葉のへりを、ゆっくりとなぞっていた。  その伸一が、不意に顔をあげた。不審そうに平田をみつめ、やがてその大きな|眸《ひとみ》に涙が湧きだしてくるのが判った。口をあけ、息苦しそうに胸を上下させはじめた。声もでないほど烈しく泣きだしたのであった。せわしなく息を吸いこみ、そのたびに涙がポロポロと|稚《おさな》い頬をころげ落ちた。ゆっくりと両手をさしのべ、平田を仰ぎ見ている。 「そうだな。淋しかったんだよな」  平田はそう言って伸一をだきあげた。声が喉でひっかかり、熱くくぐもっていた。伸一はしゃくりあげて泣き、だいぶたってから低い泣声をたてた。その泣き方に、平田は伸一に与えられた孤独の深さを思い知った。 「お父ちゃんだって、会社へなんか行きたくはないんだ」  平田は伸一を庭の土の上におろすと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 「いつもここに坐って遊んでるのか。どうやって遊んでるんだか、お父ちゃんに教えてくれよ」  平田は上着を脱いで物干竿にひっかけると、伸一がしていたように※[#「木」+「歳」]の木の下へ坐りこんだ。 「でも、一人じゃ淋しいだろう。どうしておばちゃんの家にいないんだ」 「ちゃあちゃんの木がいいの」  伸一は泣きやんで言った。伸一は、お母さんと完全に発音できる前に母を失ってしまった。かあちゃんの|訛《なま》った、ちゃあちゃんのまま、伸一の母親に対する呼び方は進歩をとめてしまっている。 「そうだよな。これは、ちゃあちゃんの木だものな」 「お話ししてんだよ」 「ちゃあちゃんの木とか」 「うん。葉っぱなんか、おっことしてくれるよ。ちゃあちゃんの木、ちゃあちゃんとおんなじ」  伸一は白いすべすべした幹に顔をおしつけてみせた。 「そうか。ちゃあちゃんの匂いがするか」  平田は首をねじまげて、伸一がしてみせたように木の肌の匂いを嗅いだ。  少し甘いような、清潔な樹脂の匂いがしていた。 「瘤にさわりたいの」  伸一が甘えて言った。※[#「木」+「歳」]の木の幹の、平田の背より三〇センチ程上のところに、かなり大きな瘤が生じていた。瘤のところだけは、木の肌が焦茶色に変色し、ごつごつした感じでとび出している。 「昔、お父ちゃんがいた家にも※[#「木」+「歳」]の木があったんだよ。やっぱり、こんな瘤があったんだ」 「瘤、どうしちゃった…………」 「知らないんだ。引っ越しちゃったからな」 「ねえ、これ僕の木だよ」  伸一はすぐ傍へしゃがみこんで言った。 「おばあちゃんが言ったよ」  たしかに、それは伸一が生れた前後に芽ぶいた、※[#「木」+「歳」]の木の若木であった。もう、しゃがんだ伸一の頭より高くなっている。  ※[#「木」+「歳」]の木は年の木……だが、伸一は自分同様、生家の※[#「木」+「歳」]の木とはやがて離れなければならない。平田はそれが伸一の年の木であるとは思いたくなかった。ユキという女が言っていたように、多分マンションか……そういった土のない家に住むことになるはずである。年の木を持つことは許されない贅沢だった。     7  あけ放した縁側から庭先へ部屋の灯りがさし、|金※[#「文」の下に「虫」]《かなぶん》が一匹、勢いよくとび込んで来て障子に音をたてて当った。 「あ……」  伸一は目を丸くして畳の上に落ちた青銅色の虫を眺め、すぐその目を平田に移した。 「金※[#「文」の下に「虫」]と言うんだぞ、これは」  平田は虫をつまむために腰を浮かせながら言った。 「虫……」 「そうだ。こがね虫って言うの知ってるか」 「知らない」 「こがね虫の親類さ」 「悪い奴……」 「ん……」  平田は金※[#「文」の下に「虫」]を右手の指でつまんで伸一の顔をみた。伸一はデパートの玩具売場で買って来た人形を手に、眸を輝かせていた。 「そうか。こいつは怪獣だな」  平田は金※[#「文」の下に「虫」]を伸一の前につきだして言った。そう言えば、青銅色に光るその虫は、伸一の好きなテレビ番組に出て来る、悪の権化に似ているようであった。 「へんしーん……」  伸一はそう叫ぶと、大急ぎで人形に赤い衣裳を着けはじめた。昔からあった着せかえ人形と同じだが、現代の子供の夢は、昔とまるで違っている。透明なプラスチックのボデーの中に、銀色の、何やらエレクトロニクスめいた臓器が埋めこんであり、何通りもの衣裳を着せかえて、子供の変身願望をみたさせるのであった。 「ギャオ、ギャオ……」  変身した超人が、青銅色の怪獣に立ちむかった。平田は虫をつまんで四つん這いになり、伸一の超人とたたかいはじめる。  平田は遊んでやりながら、ふと思った。  或る日、伸一が突然とほうもない才能を発揮しはじめる。この錯綜した時代をとびまわり、高く高く舞いあがる。自分は、息子の|逞《たくま》しい飛翔ぶりをうっとりとみあげながら老いて行く。そこには静穏で|痺《しび》れるように幸福な老後がある……。 「なあ、伸一」 「なあに……」 「大きくなったら何になりたいんだ」  平田の質問に、伸一は超人をとばす手を休めて答えた。 「かしゅ」 「え……」 「かしゅ。テレビで唄うの」  平田は唇を噛んだ。子供の夢だ。プロレスラーの次の日には電車の運転士……とりとめもなく、気にしてもはじまらないことは判っている。だが、流行歌手という伸一の答が、平田にははぐらかされた以上に手痛かった。 「もうやらないの……」  伸一は金※[#「文」の下に「虫」]の動きがとまって不満そうだった。平田は思い直してその遊びを続けてやった。坐ったままのがエスカレートして、四十の父親と二歳半の息子が、家中を駆けまわった。台所から四畳半、縁側と走りまわり、平田は次第にうつろな気分になるのだった。 「いいかげんにしなさいよ」  そう言ってたしなめる女の姿が、駆け抜ける部屋のどれかにあっていいはずであった。  うしろを追って来るはずの伸一が、うまく逆まわりして平田の正面へぶつかって来た。人形を持ったまま平田の脚にだきつき、平田をよろけさせた。二人は畳の上にころがり、伸一が烈しく笑った。笑いこける伸一を、平田は長い間、無表情にだきしめていた。金※[#「文」の下に「虫」]が庭へ飛び去る羽音が聞えた。  床をのべ、枕を並べて横になった時、伸一はすがりつくような眸で言った。 「あしたの晩もやる……」 「うん、やろう。また金※[#「文」の下に「虫」]が来るといいな」 「昼間、お庭で探す。つかまえて、箱にいれとく。蚊取線香の箱でいいよね」 「ああ。でも、金※[#「文」の下に「虫」]はつかまらないかも知れないな」 「かぶと虫、見たことあるよ。よそのお兄ちゃんが持ってた。黒くて、こんな大きかったよ」 「かぶと虫もいないかも判らないなあ」  虫も魚も、都会の子はもうろくに見ることもできない。PCBだ水銀だと、子供らの未来を暗くする話ばかりがやかましい。  平田が売り続けているプラスチックが、伸一の前途にうず高く積みあげられている気がした。痩せおとろえ、或はぶくぶくに肥満した青年が、それをシャベルで力なくすくいとっては、おのれの道をひらこうとしている。青ぶくれの青年は伸一であった。もう老い呆けた平田は、そのずっとうしろの道ばたにしゃがみこんで、のろくさい息子の作業をみつめているだけであった。息子はよろけ、プラスチックの山の中へ倒れ込んだ。積みあげられたプラスチックがその体の上へ、音もなく崩れ落ちて行く。透明なボデーに銀色の臓器を埋めこんだ変身人形が、最後にその上へころげ落ちた。平田は息子の名を呼んだ。叫ぼうとした。だが、声も出ぬほど老いていた。     8  平田は烈しい不安感の中で目ざめた。心臓の位置が、はっきりと自覚できた。心臓はふたしかに脈うち、ときどき動きをとめるようであった。  平田はうす暗い電灯の光の中で、そっと上体を起した。体の奥深くから湧きだして来る不安感で、寝ていることができなかった。手ひとつ動かすにも、ゆっくりと注意深くやった。不用意な動きが、自分の生命の破壊につながるような気がしている。  心臓神経症だということは知っていた。だいぶ前にその症状を覚え、同病の仲間とも話合って、そう危険なものでないらしいことはよく承知していた。だが、それに見舞われるとやはり不安になった。  平田はおのれを励ますために、そっと首をひねって伸一の寝顔を見た。伸一は寝ついた時と同じ姿勢で、平田のほうに顔を向けていた。  母親のみち子と同じように、この家で、庭の|※[#「木」+「歳」]《とし》の木と共に成長させてやりたかった。人間は、プラスチックや自動車などとではなく、樹木や昆虫たちと育って行くのが本当であるような気がした。  ※[#「木」+「歳」]の木は年の木……庭の、みち子の※[#「木」+「歳」]の木のそばに芽ぶいたのは、たしかに伸一の年の木なのだろう。はたちになったら、何メートルの高さになるだろうか。  平田はだいぶ以前から、※[#「木」+「歳」]の木の言いつたえを信ずるようになっていた。平田の生家に、父親の年の木だという※[#「木」+「歳」]の木があったせいでもある。父親の命の象徴とされ、木に登りなどしたら、ひどい叱られようであった。  二十六歳の時結婚した最初の妻と別れたのは、結婚も離婚も若気の至りとしか言いようがなく、愚かしいことであったようだ。身の上のことなどもろくに話合った記憶がなく、別れたあと思い返してみると、彼女の身について驚くほど何も知らなかった。  だが、二度目の妻になった女とは、お互いの過去などよく話合った。彼女は博多の近くの生れで、※[#「木」+「歳」]の木のことをよく知っていた。 「うちの父も、自分の※[#「木」+「歳」]の木を持ってたし、私も持ってるのよ」  彼女はそう言った。或る夏、平田はその妻と一緒に博多を訪ね、彼女の※[#「木」+「歳」]の木に実際に触れた。それは今庭に生えているみち子の※[#「木」+「歳」]の木とほとんど同じような恰好をしていた。  やがてその妻とも別れ、みち子と結婚した時、この家にある※[#「木」+「歳」]の木を見て、平田は自分の人生にまつわる、ひとつの因縁を感じないわけにはいかなかった。  ※[#「木」+「歳」]の木というのが、そう多い木ではないことを、平田はその時までになんとなく学んでいた。  そうした古い言いつたえに|詳《くわ》しい老人に聞くと、※[#「木」+「歳」]の木というのは元来陰木とされ、庭木には不向きであるらしかった。神社や寺によく植えられる木で、恐らくはよく|瘤《こぶ》が生じるから、それを奇瑞と考えた時代があるのかも知れない。しかし、殊に寺の墓所の近くで見かけるということから、陰性のイメージが発生し、庭木には不向きとされるようになったのであろう。  とにかく、※[#「木」+「歳」]の木のある家に育った女と二度までも結婚するのは、よくよくのことだと感じるようになったのである。  平田は仕事でよく出張する。或る時長野市の近くへ出かけ、最初の妻の生家がその近くだったことを思い出した。  もしや、という興味に駆られて、平田はその家へ行ってみた。※[#「木」+「歳」]の木があるかないか、いささか子供じみた興味であった。  そして、その家の庭に※[#「木」+「歳」]の木を発見した時は、しばらく凝然としていたものである。  人間は、ただ偶然に巡り合っているのではない。……そんな確信が湧き上ったのであった。自分の場合には、それが※[#「木」+「歳」]の木という共通項で結ばれている。平田はそう思い、過去に縁のあった女たちの生家を、おりをみてたしかめるよう心がけた。  かつて同棲した八つ年上の女の生家は房州にあり、やはり※[#「木」+「歳」]の木が生えていた。神奈川生れの女の生家にも※[#「木」+「歳」]の木があった。数多くはない※[#「木」+「歳」]の木と自分が、そのように幾重にもつながっていたことを知ると、最後に結ばれたみち子をいとおしむ気持がつのった。※[#「木」+「歳」]の木を持つ女とめぐり合うのは、これが最後だろう……。そう平田は確信した。     9  次の土曜日、平田は一時半ごろ柴又駅へ着いた。まっすぐ家へ戻ってもよかったが、伸一は化粧品屋のほうにいるかも知れなかったし、庭で遊んでいればいたで、義妹のところへ挨拶に行かねばならない。平田は結局いつもどおり高砂へ通じる道を歩いて行った。  伸一は珍しく化粧品屋の裏で泣きじゃくっていた。 「伸ちゃん、泣いちゃって大変だったのよ」  義妹のよし江は平田の顔をみるなり、ほっとしたように訴えた。 「どうしたんです。何か悪さでもしましたか」  平田は詫びるような目で言った。 「それがねえ……」  よし江は手まねきをするように右手を振った。 「不動産屋が入ってったのよ。伸ちゃんが遊んでるとこへ」 「不動産屋……」 「いえ、ちゃんとおじいちゃんたちには断わってあったんだそうだけど……ほら、よくやってるでしょう。棒を立てて測量するの」 「ああ、あれね」  平田は自分の脚に顔を押しつけて泣いている伸一をみおろした。いよいよ話はそこまで進んだか、と思った。 「不動産屋が若い人を使って仕事をはじめようとしたら、伸ちゃんが猛烈に泣きながらむかって行ったんですってよ」  平田は苦笑した。 「さすがは男の子だな。泥棒かなんかだと思ったのか」  伸一は平田に頭を|撫《な》でられながら、まだ泣き続けていた。 「不動産屋が困っちゃったらしくて、うちへ何とかしてくれって言って来たの」 「ご迷惑でしたね。まったく、いつもお世話になりっ放しで……」 「不動産屋はだいぶ前に帰ったようよ」  よし江はそう言い、しゃがみこんで伸一の泣き濡れた顔を拭ってやった。 「そら、おんぶしてやる」  平田は腰をかがめ、伸一に背を向けた。伸一はとびつくように平田の肩につかまった。 「悪い奴らが来たのかと思ったのかい」  すると伸一は平田の背中でせきこんだ様子で言った。 「もしかしたら、もうすぐ僕らのおうちじゃなくなっちゃうんじゃないの。あのおじさんたち、それだから来たんだよ。攻めて来たんだよ」  平田は真顔になった。伸一がそれを知っているのが意外だった。 「ちゃあちゃんのいないとこなんて、僕いかないからね」  伸一は|※[#「木」+「歳」]《とし》の木のことを言っているようであった。平田は厄介だと思った。今の内によく言って聞かせて置かないと、いざ転居という段になって面倒なことになりそうだった。 「でも、もしかしたら引っ越すんだぞ。マンションかも知れないな。エレベーターであがるんだぞ。七階も八階もある高いところだ。遠くまで見えるんだぞ」 「やだ。あいつらが来たら、今度はお父ちゃんがやっつけてね」 「喧嘩はいけないんだよ。今日来たおじさんたちは悪い奴じゃない」 「嘘だよ。攻めて来たんだよ。おうちをとりに来たんだよ。やっつけて。ねえ、やっつけちゃってよ」 「おとなしくしてなきゃだめだよ」 「お父ちゃんはいいの……ちゃあちゃんの木、とられちゃうんだよ。よその人が来て、僕らはどっか行っちゃうんだよ」  平田はつぶやいた。伸一に答えるというより、自分自身に言っていた。 「それもやむを得んさ」  突然平田の背中で伸一が暴れはじめた。泣き|喚《わめ》き、両手で平田の頭をつづけざまに叩いた。 「お父ちゃんのいくじなし。いくじなし。いくじなし……」  平田は息子に打たれながら黙って歩きつづけた。歩いている内に、奇妙な快感が湧いて来ていた。弱いおのれを、自分自身で打ちすえているようであった。 「お父ちゃんだって、ちゃあちゃんの木と一緒にいたいよ」  思わずそう言ってしまった。言ってしまってから、結局それが自分の本音だったと気がついた。  父親の本音に物哀しい響きを感じたのか、怒り狂っていた伸一は急に泣声を変え、平田の背に顔をおしつけて来た。どうにもならない力に押し流され、みち子の※[#「木」+「歳」]の木から遠のいて行く……背中に感じる伸一の涙は、平田の心の中の涙とよく似ているようであった。  裏木戸の錠を外し、平田は伸一をおぶったまま庭の※[#「木」+「歳」]の木の前に立った。 「みち子。伸一が泣いて仕様がないよ」  平田は※[#「木」+「歳」]の木に言った。伸一はその背中で右手をのばし、瘤のあたりを指さした。 「ちゃあちゃんも泣いてんだよ」  見ると、人間の頭ほどもある瘤のあたりから、白くすべすべした幹に飴色の樹液がしたたっていた。 「瘤にひびわれが入ったな」 「ちゃあちゃんも泣いてんだよ。ちゃあちゃんかわいそう。ずっといてやろうよ」  伸一は懸命に平田を説得しようとしているようであった。     10  夏がおわり、秋が来て、伸一がその秋風のためか風邪を引いた。  みち子が死んで以来、風邪ひとつ引かなかったのが、急にそうやって寝込まれてみると、無事だった何カ月かがどんなに幸運な日々だったのか、平田はつくづく思い知らされた。  まる二日、熱が続き、平田は会社を休んだ。三日目、熱がさがりはじめ、あけ方空腹を訴えて平田をほっとさせたが、結局その日も出社は無理だった。 「どうでした、ゆうべは……」  よし江が朝八時ごろ見舞いに来てくれた。 「おかげさまで、だいぶよくなったようです」 「ほんとにねえ。お店さえなければついててあげられるのに……。おばあちゃんも、おじいちゃんがあのとおりだし。困っちゃうわねえ、こういうときは」  よし江はそう言って伸一の枕もとに坐り、額に手をあてた。 「ほんと、熱はさがったみたいね」 「風邪だけですんで助かりましたよ」 「二カ月ですって……」  よし江は|覗《のぞ》きこむような目で平田をみつめた。 「正確には、あとひと月と二十日ばかりです」 「この次のおすまい、きまりましたの」 「心当りもありますし、なんとかなるでしょう」 「ずっといてもらいたいんだけどねえ……だいいち、伸ちゃんがかわいそうで」 「言って聞かせます。さいわい物判りのいい子だから」 「平田さんがこの土地を買えればいちばんいいんだけどねえ」  よし江がため息まじりに言う。 「とてもとても……」  平田は笑いながら首を振った。 「だいぶじたばたと、してみるだけはしてみたんです。僕が買うのなら、おじいちゃんのほうも考えてくれるでしょうし、と思いましてね」 「聞いたわ。ごめんなさいね。父も物判りはいいほうなんですけど、ここを売ったお金を伸ちゃんの将来のたしにするって……それにこりかたまっちゃってるのよ。平田さんが買うんじゃなんにもならない……そう言って頑張るのよ。伸ちゃんにあげる分だけ安くしてあげればいいのに。おんなじことでしょ、それで。だのに、それが判んないのよ」 「いや、結局移ったほうがいいんです。仮に土地の値段を三分の二にさげてもらっても、今の僕にはとても買う力はない。銀行にも当りましたが、うまくいきませんでした。それに、病気だ何だと、まだまだ今度みたいなことが起るでしょうし、もっと職場に近い所のほうがいいようです」 「うちの子供たちともうまくいってたんだし……淋しくなるわね」 「慣れますよ。子供なんて、その辺は心配ないもんだそうですから」  よし江は立ちあがった。 「今日はどうなさるの。何日もお休みしてるわけにはいかないでしょう」 「いや、もう一日休みます」 「そう。……何かご用あります」 「別にお願いすることもないようです」 「じゃ、また手があいたら来ますけど」  よし江はそう言って勝手口から帰って行った。 「お父ちゃん」  伸一は、よし江が帰ったのをたしかめるように、寝たまま部屋の中をみまわした。 「なんだい」 「やだよ、僕」 「何が」 「ちゃあちゃんを置いて行くの」 「ちゃあちゃんの木のことか」 「うん」 「あれがちゃあちゃんの木だと言うのは迷信なんだよ。判るだろう。人間と木は違うんだよ」 「違うくない……」  まだいくらか熱の気を残した伸一は、力なく首を左右に振った。 「だって、ちゃあちゃん、いっぱい泣いてるよ」 「あれはね、木のしるなんだよ。瘤のところから流れだしてるんだ。それだけさ」 「ちゃあちゃん、僕らが行っちゃうの嫌だって。だから泣いちゃってるの。ちゃあちゃん、言ったもの」 「何だって」 「僕は金色なんだって。いつも僕を見てんだって。行かないでって言ったよ」 「お話ししたのか、ちゃあちゃんの木と」 「うん。いつもお話ししてたよ。だから、おばちゃんのうちよりお庭のほうがよかったの。ちゃあちゃんの木は、ほんとはもう死んじゃったんだって。でも、僕がお庭にいるから生きてるんだって」 「そうか。そんなこと、ちゃあちゃんの木が言ったのか」 「いつも言ったよ。ねえ、ちゃあちゃんの木、みてきて。いっぱい泣いてんだもの」  伸一はもう三日も庭へ出ていなかった。 「よし。じゃ寝てろよ。見て来てやるからな」  平田は縁側の戸をあけ、サンダルをつっかけて※[#「木」+「歳」]の木の下へ行った。瘤のひびわれがひどくなり、樹脂ののぞいた裂け目が何本も交錯していた。  伸一は健康な子だ。頭脳も正常だ。どこと言って欠陥のない愛くるしい子供だ。しかし、その伸一たちの世代の行手が、明るいものだとはどうしても思えなかった。防衛庁との取引が、一期ごとに増大している。愚にもつかないプラスチック製品が、際限もなく売れて行く。平田の知らないいろいろな業界でも、似たようなことが進行しているに違いなかった。自分たちの世代の罪を、あの子たちが背負いこんで行く……。 「みち子。どうすればいい」  平田は心の中で※[#「木」+「歳」]の木に問いかけていた。 「俺はあいつに、あいつの※[#「木」+「歳」]の木さえやれないんだ」  平田はすべっこい幹に手をあてた。樹脂の甘い香がした。 「ちゃあちゃん……いやだよう……」  突然足もとで伸一の叫び声がした。はだしで庭へおりた伸一が、|腫《は》れぼったい顔で平田の足もとに立ち、※[#「木」+「歳」]の木にしがみついて泣いた。 「ちゃあちゃん……いやだよう……」  小さな体に力をこめ、※[#「木」+「歳」]の木をゆすった。その時、白くすべっこい目の前の幹の肌に、|飴色《あめいろ》のどろりとしたものがすべり落ちて行った。ねばねばと、柔らかく、それは流れおちて行った。 「伸一……」  平田は叫んだ。飴色の樹液が、伸一の柔らかい髪をつたい、小さな頭にべっとりと流れ落ちた。みあげると、瘤が割れていた。ざっくりと割れた瘤のあとから、飴色の樹液がねろねろと流れだしていた。 「危ない……」  平田は思わずそう言い、伸一を木から引き離そうとした。だが、樹液は思いがけぬ勢いで噴きだし、伸一の体をみるまにおしつつんで行く。 「ちゃあちゃん……」  伸一の声がくぐもって聞えた。平田は伸一の体と幹をつたわる樹液の間に体をさし入れて、伸一をひきはなそうとした。平田の肩に、耳に、頭に、とめどもなく※[#「木」+「歳」]の木の粘っこい樹液がこびりついて来た。樹液は空気にふれ、すぐに硬化して行くようであった。伸一は左手を平田の左脚に、右手を※[#「木」+「歳」]の木の幹にあてがって、すでに樹脂の中にとざされようとしていた。平田は背を幹にあて、左半身を※[#「木」+「歳」]の木にとらえられていた。  樹液はまだ溢れだしてくる。首が、胸が頭が、※[#「木」+「歳」]の樹脂にとじこめられはじめていた。  平田はふともがくのをやめた。これでいいのだという気がした。甘い香の樹液が顔にかかり、厚く|掩《おお》った。住みなれた部屋が、金色に見えた。庭も空も、すべてが金色の世界であった。  ※[#「木」+「歳」]の木の葉が風に舞い散っている。瘤が裂けて溜った樹脂がしたたり、凝固して幹を異様にふくらませている。  もうその家に、誰もいなかった。  炎 の 陰 画     1  どういうわけか、まったく不思議なことだが、昭和二十年三月十日の空襲で焼野ガ原になった東京の本所、深川あたりは、夏になると雑草が勢いよく伸びだして、八月の末には、その雑草の中に赤いものがちらちら見えはじめていた。  |酸漿《ほおずき》だった。  あんな焼跡に、どうして酸漿などがたくさん実をつけたのだろうか。あの丸い実をくるむさやが|橙 色《だいだいいろ》に色づいて、あちこちに生えていたのだ。  酸漿市のせいだろうか。  どの家でも、焼ける前は一度くらい酸漿を買って帰ったことがあるからだろうか。  縦に何本も筋の入った橙色のさやを四つに割って、両手の|拇指《おやゆび》と人差指で赤い実を丹念に揉んでやる。すると実の中がだんだん柔らかくなって、しまいには芯の手ごたえが全然なくなってしまう。  四つに割ったさやを、裏返しに束ねた酸漿は、赤いてるてる坊主だった。  実を揉んで充分柔らかくなったところで、てるてる坊主の頭をそっとまわす。まわし方にコツがあって、急ぐと肝心の赤い実に裂け目が入ってしまう。  左手でてるてる坊主の胴をつかみ、ぐにゃぐにゃに柔らかくなった赤い実を、右手の指でそっとつまんで、静かに静かに右、左へまわすのだが、その時の一種の緊張感には、どうやらかなりエロチックなものが忍びこんでいたようだ。  赤い実が外れると、中の|種子《たね》と一緒に酸っぱい汁が出る。  酸漿の種子というのは、どんな形をしているのだろう。たしか、幾分白っぽく、そしてかなり平べったい種子だったような気がするのだが……。|茄子《なす》の仲間だそうだから、多分そんな形だったのだろう。  中をからっぽにすると、それを口に入れ、舌の上にのせて鳴らす。  グチュッ、プチッ……。  最初の内はあまりいい音がしない。でも、だんだんに使いこなして行くと、次第に音から湿り気が抜けて来る。  ピチピチ……というような、なんとも悪げのない音だった。  たとえば夏の昼さがり、日かげになった路地裏の羽目板に|倚《よ》りかかって、十二、三から五つ、六つくらいの子供たちがひとかたまり、グチュッ、プチッと酸漿を鳴らしている。  踏みかためた黒い土の上に|蝋石《ろうせき》で輪をかいて、その輪の中をかわりばんこにピョンピョン跳ねながら、行ったり来たりしている。  石蹴りだ。  |年嵩《としかさ》の女の子は石蹴りも上手だし、酸漿を鳴らすのもうまい。いちばん小さいのが何かされてワアワア泣きだしても、酸漿を鳴らしながら、羽目板に倚りかかってじっとみつめているだけだ。  意地悪なのではない。そういう路地のあるあたりで育ったからには、泣くのも喚くのも一日の暮しの内、ということが、その年になればもうよく判っている。泣いたり喚いたりしながら、結構仲よくやっていた。  だがもう、そんな路地も焼けてしまっていた。  戦争が終った夏の下町は、ずいぶん暑かった。夏だから暑いのは当然だが、その春に焼かれた土地が、焼かれた時の熱を大量にしまいこみ、平和が戻った夏の陽ざしに|安堵《あんど》して、一度にそれを吐きだして来たようだった。  ひょっとすると、あの焼かれた町なみの下にあった大地は、本当にそうしたのではないだろうか。たくさんの人間が焼け死んだが、生きのびた人間もたくさんいた。大地が人々のために、できるだけ多くの熱をかかえこんでくれたのではなかっただろうか。  どちらにせよ、焼けて、戦争が終った八月下旬、強い陽の光をさえぎるものは、そのあたりに何も残っていなかった。屋根も木も、何もなかった。  今でもそうだが、本所のあたりは舗装した道路が直角に交わっていて、町は碁盤の目のように仕切られている。そのひと|桝《ます》ごとが草ぼうぼうで、舗装道路もあちこち穴があいていた。歩道の敷石は戦争中にあらかた引きはがされ、草がそのむきだしの土へ張り出して来ていた。  焼跡は静かだった。  夏の空の青さは、春のように鈍くもなく、秋のように鋭くもなく、ずっしりと重々しい青さだ。そして、その重々しい青さの中に入道雲がたくましく育っていて、誰もいない焼跡の雑草の中から、ことし十三になった少年が、さっきから空をみあげていた。  汚れた半ズボンに、すっかり小さくなってしまった上着。半ズボンは右の尻のところがすり切れて、うすぎたないパンツがのぞいている。  上着も半ズボンも、よく見ればお揃いで、もとの色は緑がかった、例の国防色という奴だったらしい。襟や袖口は汚れ切って黒光りしているし、上着の五つのボタンも、ふたつ|紛《な》くなって三つしか残っていない。  胸に縫いつけた名札には、学校の名と一緒に、渡部健、と書いてある。  本当をいうと、少年はもうその名札をつけている必要はなかったのだ。この三月で小学校を卒業したはずだったからだ。  上着のポケットには、酸漿が十幾つもつめこまれていた。少年はそれでもまだ酸漿を探しまわっているところだった。     2  少年は草の中にしゃがみこんで、青いかたまりを拾いあげた。ガラスの瓶がとけてかたまったものだった。少年はそれを太陽にかざしてみた。下半分に土がこびりついていて、ひどく不潔な感じがした。  |魂《たましい》のようだ………少年はそう思った。みんな焼けてなくなってしまった。日かげの路地も、|悪戯《いたずら》書きをした羽目板も、塀の下に生えていたどくだみも、人間の体も魂も、みんな焼けただれて草にうもれてしまったのだ。  少年は溶けたガラスのかたまりを|抛《ほう》り出すと、草の中を駆けだした。草の中に細い道がかくれていて、少年はその道をよく憶えていた。  まっすぐ行って左へ曲り、すぐ右へ曲ってもう一度左へ曲ると大通りへ出る。  焼ける前は家が並んでいた。祭りの|御輿《みこし》が入って来たし、葬式の黒い列が並んだこともあった。  今は家のかわりに草が生えていて、大通りへ出た角にあるポストが、すぐそこに見えていた。  |酸漿《ほおずき》は人間のかわりだ。……少年は走りながらそう思った。  昔どおりの道順でポストの所まで行き、ふり返ってわが家のほうを眺めた。近所では|八軒《はつけん》長屋で通っていた。|平屋《ひらや》で、入口の二畳と四畳半と六畳。突き当りが台所と便所。  だが今は、見わたすかぎりの草っ原で、以前住んでいた人々のかわりに、酸漿が色づいている。  大通りを、女が一人歩いて行った。もんぺをはいてズックの袋をぶらさげていた。少年はそれをじっと見送った。  女はトボトボと、まっすぐな広い道を去って行く。少年は焼けたポストのそばにしゃがみこんで、二十分あまりもその姿を見送っていた。  戦争が終った年の夏、子供はそんなに多くなかった。見かけるのが珍しいくらいだった。子供たちはみな疎開させられていた。  しかし、いることはいた。中学は疎開しなかったから、家によってはどうしても東京の中学へ入れるといって、六年生のおわりに連れ戻したりした。運悪く、それで三月十日の空襲を体験した子供もいた。  みんなに|虱《しらみ》がたかっていた。セーターの横糸に、まるまると肥って卵を持った白い虫が、ずらりとぶらさがっていたりした。慣れるとさして|掻《か》ゆくもないようだった。  バラックなどが建ちはじめたのは、だいぶあとになってからだった。あの八月ごろ、そのあたりには、ポツリ、ポツリとしか人がいなかった。  焼けて|埃《ほこり》っぽかった。|強靭《きようじん》な命をもつ雑草たちが、懸命にその埃をおさえていてくれたようなものだった。  焼けた家のあたりをいつまでもうろついているその少年……渡部健の心に、感傷のようなものはかけらも|泛《うか》ばないようだった。  父親は足が悪く、そのため兵隊にもとられず、近くの工場で働いていた。  それが、作業中の事故で死んだ。千葉に疎開していた健が、本所の八軒長屋へ戻ったのは、三月九日の昼だった。  その夜中、火に追われた。母親と健は着のみ着のままで逃げた。はじめひとかたまりになっていた近所の人々とも、いつの間にかはぐれ、母親は途中で持病の|喘息《ぜんそく》の発作を起した。遅れがちな母親の手を引いていたはずなのに、いつの間にかひとりきりになっていた。それからのことは、健自身よく憶えていない。  ただ、健は焼けただれた無数の死体を見た。黒焦げの死体が、どれもこれも母親に見えた。  健はひとりっ子だった。  或る時、母親が健を置いて、一人で浅草の松屋へ買物に行ってしまったことがあった。  それを近所の主婦がからかい半分に教えたとき、健は世の中の隠された部分が、ひょっこり顔をみせたような気がした。 「母ちゃんだって|得《とく》したいんだい」  そう言い返した。  その母親は、火に焼かれて死んだにきまっていた。火の中であの発作を起しては、逃げ切れるはずもなかった。  健は母親の死を、一人で買物に行ってしまった時と同じようにみつめた。  死んでしまえば病気で苦しむこともないし、腹をすかすこともない。健は焼けただれた死体を、一度だって汚ないとは思わなかった。焼け跡に生き残った人々のほうが、よほど死体めいていた。  健を追った火は綺麗だった。火の粉は豪華だった。骨の見えるほど焼かれて硬化した死骸は、何か途方もない愉しみを味わったあとの姿に思えた。もっと粉々に焼ければ、もっと愉しめたのではないかという気がした。  火に焼かれるのは恐ろしかったが、恐ろしければ恐ろしいほど、ひと思いに炎に身をまかせたあとの愉しみはどんなだろうと思うのだった。  健はポケットから|酸漿《ほおずき》をとりだし、さやを剥いて赤い実を揉みはじめた。  赤は火の色、酸漿はてるてる坊主。  健はまだ芯の堅い酸漿をみつめ、急に赤い実を|※[#「てへん」+「宛」]《も》ぎとった。中の汁が汚れた指の腹をつたわった。指に力をいれると、ぐしゃりとつぶれ、種子が出て来た。  健はそれを棄て、新しい酸漿を剥いて、今度は揉みもせず、いきなり|潰《つぶ》した。  健は空をみあげ、大声で笑った。今日声をだしたのは、それがはじめてだった。両国のほうの空が夕焼けで赤くなっていた。  いろんな死にかたがあるんだ……。健は次々に酸漿を潰しながらそう思った。でも火がいちばんいい。健は歩きはじめた。     3  地面から水道の鉛管が、蛇のようににょっきりと鎌首をもたげ、チョロチョロと流れっぱなしになっていた。蛇口などついていない。鉛管の切れた口から、土の上へじかに水が落ちているのだ。だからそのあたりは泥んこで、どこからか引きずって来た一メートルたらずの大谷石が、そのぬかるみの中に置いてあった。大谷石はいずれどこかの家の塀か何かに使われていたものだろう。  埃で白っぽくなった髪に手をやりながら、バケツをぶらさげた女が流れっぱなしの水道に向っていた。板きれや焼け焦げた柱を並べて、ぬかるみの中に道がつけてある。女はその上を歩いて大谷石に両足をのせると、鉛管から流れる水の下へバケツを置いた。バタバタとバケツを鳴らす水の音が、溜るにつれ低くなって行く。女は両足をそろえ、大谷石の上にうずくまって水が溜るのを見ていた。バケツには、防火砂、と書いてあった。  そのあたりは|吾嬬《あずま》町と言い、近くの中川を渡れば、向う側は江戸川区になっている。焼けた工場が|錆《さ》びたむくろをさらし、やたらに油じみたドブが多かった。  バケツに水が溜ると、女は用心深くそれを遠くに置き、モンペを膝までまくりあげて足を洗った。手も顔も洗い、掌に水をつけて髪をなでつけると、最後に薄くすり減った下駄を洗った。濡れた手足や顔を、腰にはさんで来た手拭いでふき、水の入ったバケツをぶらさげて、危なっかしいぬかるみの道を、しなやかな身のこなしで戻って行った。  女の行手に、突然地の底から白髪まじりの頭が湧いて出た。胸、腰、脚……すぐに乞食じみた老人の姿が地面の上に現われる。  左手に火のくすぶる棒切れを持っていた。 「蚊いぶしをしたよ」  老人は棒切れを投げすて、足で踏みつけて火を消した。 「早いわよ、まだ……」  女は無表情で言い、老人が湧きだしたあたりへバケツを置いた。  真っ赤な夕焼けが二人の体を染めていた。 「防空壕で蚊に食われながら寝るなんて……」  女は腹だたしげにいった。 「|工場《こうば》の防空壕だから、しっかりしたもんだ。有難いと思え」 「有難いが聞いて呆れるわ。あたし、なんでこんなとこにいなきゃいけないのよ」 「そう言うな。俺たちばかりじゃねえんだから。マッカーサーが来るって言うじゃねえか。天皇陛下だって今頃おめえ……」 「何言ってんのよ」  女はヒステリックな声をだした。 「あたしら女はどうなるか知ってんの。黒人の兵隊にやられちゃうのよ。お|上《かみ》はね、あっちこっちに玉の井みたいなのを作るんだって……日本人相手じゃないのよ。父さんだって噂ぐらい聞いたでしょ」 「噂さぁ」 「お人好し。戦争に敗けるかもしれないって言って、一年もブタ箱へ放りこまれたのは誰なの。ずっとブタ箱にいればよかったのよ。さんざ肩身の狭い思いをさせてさ……焼かれて敗けて、住むとこも食べる物もなくなったら、ひょっこり帰ってくるなんて……いくら親だって荷物がすぎるわよ」  老人は右肩をひくりと動かし、何かをおさえつけるようにしばらく黙りこんでから、ゆっくりとバケツのそばへ腰をおろした。 「おめえ、貞さんのことを|憤《おこ》ってんだろう」 「……」 「無理もねえ、俺ァお荷物さ。とんでもねえお荷物だよな。でもよ、ずいぶんひでえことをしやがったもんだよなあ。おめえは俺の娘だ。ことさら言いふらして歩いたわけじゃねえけど、俺ァ敗けそうだと思ったから敗けそうだといったんだ。そう思ってたのは俺だけじゃねえぜ。|工場《こうば》のおえらがただって、みんなそう言ってたって言うじゃねえか……陰じゃな。みんな薄々勘づいていたのさ。スパイなんぞと難くせつけやがったんだって、言ってみれば、連中はみせしめのつもりなんだ。でもよ、娘のおめえをどうこうするんなら筋も通るが、貞さんを兵隊に引っぱるこたあねえ。あれはやりすぎだ。娘の亭主まで、懲罰みてえに引っ張るなんて……貞さんは熟練工で、工場だって手ばなせない男だったのに」 「あれ健ちゃんかしら」  女はそう言って夕陽に手をかざした。  何もかも焼け尽して平べったくなった工場の廃墟の中を、少年が|瓦礫《がれき》の山に登ったり、溝をとびこえたりしながら近づいて来る。 「もうひとつのお荷物が帰って来たわ」 「そう言うな。あれは貞さんの姉さんの子供じゃねえか」 「あの人なんか、きっと死んじゃってるわよ」  女は吐き棄てるように言った。 「帰ってくるさ。心配するなよ」 「来るもんですか。スパイの身内なんてね、いちばんあぶない所へ駆りだされるんだから」 「米や毛布なんかを、しこたまかついで帰ってくるさ」 「だからお人好しって言うのよ。うまいことやって、すぐ帰って来ちゃった人もいるでしょうけど、そんなのはたまよ。世の中の仕組がどんなだか、この防空壕をみればすぐ判るでしょ。戦争が終るまで、工場のおえらがたがこんな立派な防空壕を使ってたなんてこと、誰も知らなかったじゃない。軍の秘密だとかなんとか言って、職工なんかは近づけもしなかったじゃないの」 「腹が減ったよ」  老人は無気力にうつむいて言った。 「お芋が二本ずつよ」  女は鋭い目で父親をみつめた。健と老人の命は、まだ二十二のその女が握っていた。     4  秋の終りごろ、健は焼け残った京成|曳舟《ひきふね》駅の近くの民家から、男の下駄を一足と、子供の運動靴を一足掻っ払った。  どちらもだいぶ履き古したもので、盗みはそれがはじめてだった。下駄は老人が喜んで履き、運動靴は健の足にぴったりだった。  悪いことをしたという自覚はまるでなかった。それよりも、自分だってやればやれるのだという自信が生れ、嬉しかった。  冬に入ると、老人は病気になった。  健は母親の|喘息《ぜんそく》をよく見ていたから、老人の病気も、そう可哀そうだとは思えなかった。何かというと、人間はすぐ病気になるものだと思い込んでいた。  老人は、ひどい神経痛と栄養失調と、|痔《じ》と、そして多分肺結核か何かだったらしい。戦争末期、警察で痛めつけられたのが最大の原因だったようだ。  湿気の強い防空壕の中は、朝起きてみると、隅のほうが白く光っていたりした。触ってみると、それは薄い氷だった。  焼け跡の土に毎日霜柱が立ち、昼はどろどろにぬかった。  その霜柱が一日中立ちっぱなしになった。健は|焚火《たきび》の番をした。毎日焚火をした。焚火の材料には不自由しなかったが、近くにいる人々がみな焚火をするので、焼け跡から手頃な板きれや木材がだんだん減って行った。それで気がつくと、焼けトタン板も、いつの間にか大きいのはなくなっていた。  バラックの数がだいぶ多くなっていた。あの八軒長屋があった本所の平川橋、横川橋、太平町といったほうへ行くと、焼けた交番や公衆便所などに、人が住みついていた。  寒い日が続き、大晦日がきた。  女はどこからか、進駐軍の携帯口糧をふた箱もらって来た。 「お正月だものね」  その夕方、女はそう言って箱の蓋をあけ、四角いビスケットを健にもくれた。  その箱をあける時、女はなぜかポロポロと大粒の涙をこぼしていた。  健は防空壕の外で焚火の番をしながら、そのビスケットをひと口噛み、女とは違った泣顔になった。甘さに感動したのだった。  昭和二十一年になった日の朝、老人は死んだ。健は女と一緒に、老人の死骸を防空壕の外へかつぎだした。汚れた|莚《むしろ》をかけ、いつもより焚火を大きめにした。 「やな時に死ぬねえ」  女は健にほほえんで見せた。 「元旦に死ぬなんてさ」  そしてため息をつき、健のとなりへ体を寄せて坐り、肩に手をかけた。 「何でもかんでも、やなことはみんなあたしにかぶさって来るんだよ。どうして生れちゃったのかしらねえ」 「でっかい焚火をして、じいちゃんを燃やしてやろうか」 「いいんだよ。それよかさ、あたしたち、どうなっちゃうかねえ」 「どうなっちゃうって……」 「父さんはさ、刺身が大好きだった。昔はね、何かあるたんびにお寿司を食べてたんだよ」 「お寿司って、ご飯の……」  健は|生唾《なまつば》を呑んだ。 「|莫迦《ばか》」  女は軽く笑った。 「ちっちゃい時、俺、おばさんて言ってたろ」  健は女を指さして言った。 「ああ」 「なんて呼べばいいの」 「あたしをかい。おばさんでいいだろ」 「変だ。父ちゃんとおんなじでいいかい。父ちゃんは、|おしの《ヽヽヽ》ちゃんて言ってたよ」 「なんでもいいよ。それよかさ、面倒みれないよ、もう……」  女と健がそんな長い会話をしたのははじめてだった。水道の鉛管から水が流れっ放しになっていて、ぬかるみに|薄氷《うすごおり》が張っていた。  老人の死骸を、おしのちゃんがどう始末したか、健は知らない。一月三日の朝、体格のいい男がリアカーを引っぱって来て、おしのちゃんと二人でどこかへ運んで行った。  防空壕には進駐軍の食べ物が半箱ほど置いてあり、三日の晩も四日の晩も、おしのちゃんは戻って来なかった。  健は最初の一日、それを横目で睨んで我慢した。だが、二日目にとうとう我慢できずに食べはじめた。  よその家の玄関から履物を掻っ払う時とは較べ物にならない程、強い罪悪感にとらわれた。途方もなく高価なものを|盗《や》ってしまった感じだった。  だが|旨《うま》かった。半日後に出た糞までが、ほかほかと豊かそうに思えた。  おしのちゃんは五日の朝遅く帰って来た。食べ物がなくなっていても、何も言わなかった。それどころか、白米のおむすびをふたつ持って来てくれた。 「よく噛んでゆっくりおたべ」  おしのちゃんは、びっくりするほど柔らかい声で言った。 「それ、毛糸の手袋だろ」 「うん。赤すぎるね」  健はおにぎりを頬張って首を横に振った。  手袋は|臙脂色《えんじいろ》をしていた。健が赤いと思うのは、もっと明るい赤だった。 「俺、平気だったよ」  健は言った。毛糸の手袋と白い飯が意味するものを、|朧気《おぼろげ》ながら悟っていた。おしのちゃんは、どこかへ行ってしまうに違いない。自分がその邪魔になっては悪いと思った。 「焼けないお風呂屋があるの知ってる……」 「うん」 「健ちゃん、あのお風呂屋へ行きな。話をつけたからね。よく働くんだよ。追い出されたら大変だからね」  健はうなずいた。 「じいちゃんが死んで、おしのちゃんよかったね」  おしのちゃんは憤ったように健をみつめた。     5  おしのちゃんがどういう縁でその風呂屋に健を預けたか、よく判らない。  多分、おしのちゃんと風呂屋の間に、直接のつながりは何もなかったのだろう。誰かが仲介したのだ。そしてその誰かというのが、果して老人の死骸をリアカーにのせて行ったあの男なのかどうかも、健には結局判らなかった。  焼け残った風呂屋には、生きのびた人々が毎日殺到していた。長い行列を作って、順番に風呂へ入った。毎晩何人もの客が衣類を盗まれた。風呂屋はまるで戦場だった。裸の肌と肌をすり合わせ、汚れた湯に浸って、人々は結構満ち足りた顔で帰って行った。  風呂屋の主人は、気骨のある人物らしかった。だが健にとってそんなことはどうでもよく、暇さえあれば焚き口に坐っていた。 「お前ぐらい火の好きな奴はいねえな」  裏側で働く男たちがみなそう言って呆れた。  昼間は、大きな荷車のあと押しをして、燃やす物を集めてまわった。  落着いた時代なら、屑屋と似たような扱いをうけるだろうに、混乱を極めた時代では、その大きな荷車を見ると、人々はほっとしたように微笑し、坂などで登り渋っていると、親しげに力を貸してくれるのだった。  みんな、それが風呂屋の車だと知っていたのだ。配給でも闇でもない。昔ながらの自由で公平な世界が、風呂屋には奇蹟のように残されていたのだ。  毎日やってる銭湯がある。昔どおりに、焼け残った風呂屋が商売をしてる。そんな噂がひろまって、遠くからやって来る人々が増えた。  その三月、物価統制令が公布され、新円に切換えられた。  銀行に長い行列ができたその日が、丁度雛まつりの日に当っていたことを、誰も思い出さないようだった。  五日には選挙があり、女たちがおどおどと投票所へ行った。戦犯の裁判がはじまり、警官がサーベルを外した。  その昭和二十一年いっぱい、健は風呂屋の火をみつめて暮した。火の番をさせると、大人顔まけの細かい神経を使ってみせた。 「|罐焚《かまた》きの名人になるぜ、こいつは」  健はみんなにそう言われた。  火をみつめている時がいちばん楽しかった。炎は清潔で美しかった。ごうごうと音をたて燃えると、体の中から濁ったガスのようなものが蒸発して行くような気がして嬉しかった。  だから、客には何の興味もなかったし、まして湯の沸きかげんなど、わずらわしいだけだった。  十一月のおわり頃、肝心の|罐《かま》の具合がおかしくなった。風呂屋の主人は十日間の休業を宣言し、入口に貼紙をして戸をとざした。  屋根や羽目板なども、ついでに直しはじめ、健は朝早くから手伝わされた。だが、二日、三日とたつ内に、健は手伝いをサボるようになった。炎のない生活に気力をなくしたようだった。  することがない健の足は、自然と本所の八軒長屋へ向った。八軒長屋のあった近所に、ぼつぼつとバラックが建ち並びはじめていた。  健は堀割りぞいに建った、二十ばかりのバラックの集団に興味を持った。どういうわけか、ほかのバラックよりましなのばかりで、遠目にも一応家屋の体裁が整っていた。どこをどう工面したのか、窓ガラスなどもはまっていて、焼け跡の冬のはじめの物淋しい夕暮れ時になると、鈍い電灯の光がその窓から洩れた。  電灯の光は、うす暗いかわり、その鈍さが暖かみを思わせた。肩を寄せ合うようにして、二十戸ばかりが何もない焼け跡に集っていると、ひどく満ち足りた、仲のいいくらしがそこにあるような気がした。  健は、自分がそれを嫉妬しているとは思わなかった。|羨《うらや》んでいるとも感じなかった。  けれど、どうしてもバラックの並んだ夕暮れの風景から目をそらすことができなかった。  本当は嫉妬し、羨んでいたのかも知れない。空っ風が吹く焼け跡に身をかくして、いつまでも眺めていた。  こんなに早く、あんな立派な新しい家が建ち並んではいけないような気がした。インチキだと思った。  やっと小屋らしい体裁が整った程度のバラックだが、それでも健には立派な家に見えたのだ。焼ける前住んでいた八軒長屋よりずっとモダンで、高級な家だと思い込んでいた。  あの三月十日の美しい火に反抗する者が現われた……健の心にはそんな怒りに似たものが湧いていた。  金持の家も貧乏な家も、平等に焼き尽した大火の記憶が、ひょっとすると健の心の中で神に似たものに育っていたのかもしれない。  健のポケットには、その頃の貴重品であるマッチがひと箱入っていた。何本も無駄にしなければ火のつかない、お粗末のマッチだったが、健はほとんど一発で、上手に火をつけることができた。  |凩《こがらし》が吹きつのり、窓の灯りがひとつ、またひとつと消えて行った。  健は枯草や棒きれなどを掻き集め、小脇にかかえてそのバラック集団の中へしのびこんだ。バラックに火をつけるのはかんたんなことだった。ぱっと燃えあがり、またたく内に全部のバラックを炎がおしつつんだ。     6  健の立場は変な具合だった。  風呂屋の主人夫婦にはたくさんの男の子がいて、それが一人また一人と帰って来た。そのたびに主人は無事を祝ってご馳走を作った。  だが健は、風呂屋の伜が一人戻るたび、隅のほうへ押しやられた。はじめは身内同然の扱いをうけたのに、日がたつにつれて他人行儀になって行った。  立場というより、それは年齢といったほうがいいのかもしれない。  昭和二十二年四月一日。国民学校が小学校という昔の呼び方に戻り、学制があらたまって六、三、三制になった。  中学の三年間が義務教育になったけれど、健に学校へ行けとは誰も言わなかった。本当なら、健はその四月、中学三年になっている勘定だった。  自分の米穀通帳がないことに気づいたのは、その学制改革のおかげだった。区役所が焼けたから、戸籍もどうなっているか判らなかった。 「誰かに頼んで何とかしてもらいな」  裏方の一人がそう言ってくれた。復活手続きをしないと、健の戸籍はないことになるらしかった。 「学校なんて……」  健はそんな忠告を気にも留めなかった。親がないのだから、学校なんてとんでもないことだと思っていた。唯一の身寄りであるおしのちゃんの行方さえ、皆目見当がつかない状態だった。  その頃おしのちゃんがどこでどうしていたか、ずっとあとになっても、健には謎だった。  健がおしのちゃんに会ったのは、昭和二十四年の秋だった。その頃、健は居場所のなくなった風呂屋を出て、向島の運送屋に住みこんでいた。  健の体はめざましく成長して、もうすっかり一人前に見えた。休みの日はギャバジンのズボンをはいて、髪をリーゼントスタイルになでつけ、浅草や錦糸町をぶらついた。  おしのちゃんをみつけたのは、錦糸町の映画館の前だった。映画館は通りに面してふたつ並んでおり、右側の映画館では洋画の『哀愁』左側では日本映画の『野良犬』をやっていた。  どっちへ入るともきめず、ぶらぶらとその入口あたりを歩いていると、『哀愁』の立看板の前でおしのちゃんと顔をつき合わせた。 「あれ……」  健がそう言って立ちどまると、おしのちゃんは健を品定めするようにジロジロとみつめた。 「健……ちゃん」 「うん。びっくりしたなあ」 「大きくなったわねえ。見違えちゃった」  おしのちゃんは、裾のひろがった派手なスカートに、サンダル風のハイヒールをはいて、たて縞の、いやにバタ臭いブラウスを着ていた。レインコートのようなものを、ハンドバッグと一緒に左腕にぶらさげていた。 「どこにいるの、いま」 「悪いけど、あの風呂屋やめちゃったよ」  するとおしのちゃんはケタケタと笑った。 「当り前よ。いつまでも風呂屋にいるなんて思ってなかったわ」 「おしのちゃんはどうしてるの」 「あたし……あたしは自由よ。とっても自由に暮してるわ」 「景気がよさそうだな」 「あんただって、うまくやってるみたいじゃない」 「シケてんだよ」  おしのちゃんは得意そうに笑った。 「コーヒーのむ……」 「うん」 「映画館の裏にコーヒー飲ませる新しいお店ができたの。知ってる人がやってんの」  おしのちゃんは歩きはじめた。学生たちが派手な女と連れだって行く健を、ジロジロと見ていた。健はそれを意識すると、とって置きの洋モクをとりだして、ことさらやくざっぽくくわえた。 「よしなさいよ、チンピラみたいだから」  そう言うおしのちゃんも、かなりパンパンじみていた。  その店は、コーヒーを飲ませるにしては贅沢すぎるように思えた。濃紺のソファーがテーブルを間に向き合っていて、洒落た半円形のカウンターの中に、蝶ネクタイをしめた|気障《きざ》な男がいた。 「よう……」  男は顎をしゃくっておしのちゃんを迎えた。 「この子にコーヒーやってよ」 「親戚かい」 「まあね」  おしのちゃんはそう言い、なれなれしく健の上着のポケットに手を突っ込んで、ラッキー・ストライクの袋をつまみだした。さっきしまったのを見ていたらしい。  蝶ネクタイの男が、カウンターの中からマッチをつけてやる。 「ママは」  おしのちゃんは煙を吐きだしながら言った。 「ふて寝してやがる」 「二日酔でしょ」 「なんだか……」  男は唇を歪めて笑った。 「あんな奴、死んじまえばいい」 「揉めてんのね」  おしのちゃんはなぜか艶っぽく笑った。  健にはそれがひどく|淫《みだ》らに見えた。外国製らしいブラウスのバストが、むっちりと盛りあがって見え、健は自分の|臍《へそ》のあたりから、何かが一直線に駆けおりて行くのを感じた。  コーヒーは苦かった。健は角砂糖をふたつ入れ足した。それも進駐軍のものらしかった。     7  運送屋の暮しは、そう悪くなかった。移動させる物資の何割かは闇市に関係していて、運転手たちはかなり要領よくやっていた。助手の健にも、口留め料のかたちで、ちょっとした小遣いが入った。その額は、年齢にしては多すぎるくらいで、気性の荒い運転手たちは、面白がって健を飲みに連れて行ったりした。  運送屋の主人も大まかな性格の男で、半分闇ブローカーのようなことをしていた。その妻はキンキン声の、人使いの荒い女で、車庫の屋根裏に住み込んでいる健を、女中がわりに追い使った。  健はもう八軒長屋の跡へは近寄らなくなっていた。近くの道を通っても、ろくに思い出しさえしなかった。  聖徳太子の千円札が出たのは、錦糸町でおしのちゃんにめぐり合った翌る年で、その二月、健は運転手の一人に誘われて、はじめて女の体を知った。  場所は吉原だった。  その運転手は、ヒロポン中毒だったようだ。日頃から生活が荒れて、仲間からも嫌われていた。健は或る日その男が運転するトラックで、草加の近くまで電線を運んだ。  その帰り、男は横道へそれてひとけのない工場へ入りこみ、染料らしいものを大量に積みこんだ。工場の倉庫には、貧相な中年男が一人待っていて、その中年男が倉庫の扉の鍵をあけてくれた。  東京へ戻ると、トラックは国電亀有駅の近くで停まった。金融、と看板をだした小さな木造二階だての事務所の裏手で、妙に小ざっぱりとした背広を着た男たちが、荷物を二階へ運び込んだ。健はそこでトラックの荷台を綺麗に掃除させられた。  出たばかりの、聖徳太子の千円札を手にしたのは、その直後だった。  ハンドルを片手に、ヒロポン中毒の運転手は、千円札を黙ってとなりにいる健に押しつけた。 「ただの仕事はさせねえよ。俺はやることはちゃんとやるんだ」  運転手は凄味のある横顔でそう言った。  もともと健は無口だった。千円札を受取って、しばらく相手の顔をみつめてから、黙って数えはじめた。 「十枚ある」  数えおわらない内に運転手が言った。  まとめて一万円手にするのは、それがはじめてだった。健はポケットにねじこみ、 「|凄《すげ》えや……」  とつぶやいた。 「今晩|奢《おご》るよ。いいだろ、つき合えよ」  ……それが吉原だった。  浅草の国際劇場の近くで、モツ焼きで一杯やった。健はもう十八だった。ポケットの一万円が健をいっそう大人びた気分にさせていた。  ガブ飲みをして、足もとが危ないくらい酔った。歩いて吉原まで行くと、運転手はさっさと|馴染《なじみ》の家へ引っぱりこんだ 「絹がいいや。こいつに絹をつけてやってくれ」  運転手は入口の小さな部屋に通され、壁に|倚《よ》りかかってぐらついている健の体を押えながら、しなびた婆さんに言った。 「絹代ちゃあん」  婆さんが廊下へ顔をつきだして呼んだ。健は面白がって、何度もそれを大声で真似た。  絹代という女と肩を組んで二階へあがった。廊下で一度引っくり返ったし、便所へ行ってしたたかに吐いた。女は服を脱がせてくれた。 「絹代ちゃんか……」  蒲団の中へ入ってから、健は女の顔をみつめて言った。そんな近くで、そんなにまじまじと女の顔を見るのははじめてだった。 「そう、あんたは」 「健。いくつ……」  |歳《とし》を尋ねると女は片頬で笑った。自分だけの笑い方だった。健は女が急に遠のいたような気がした。  酔いのせいもあったが、欲望は湧かなかった。眠気が襲って来た。  頭のほうで車のギアを入れかえる時の、耳ざわりな金属音が聞えた。健はその音で目が覚めた。健は目をとじたまま、車の音を追った。国産の乗用車の音だと判った。  蒲団が柔らかかった。目をあけると、壁の高い所にある小さな窓から、白い光が入って来ていた。  丁度その時、入口の襖が静かにあいて、タオルの寝巻に|半纏《はんてん》を羽織った女が、そろりと部屋へ入って来た。女は蒲団の横に坐ると、マッチを擦って煙草に火をつけた。一瞬白っぽく見えていた部屋の中が赤くなり、健は小さな炎をみつめた。  女はマッチを灰皿に投げ入れ、煙草をくわえてじっと坐っていた。  酔いざめの、何やら|侘《わび》しい気分の中で、健はゆうべの自分の行動を追っていた。 「絹代ちゃん……か」  ささやくようにつぶやいた。その名前に、何か重大な意味があるような気がした。 「あら」  絹代は煙草をもみ消し、半纏を脱いで健の横へすべりこんで来た。 「寝ちゃうんだもん」  すべりこむ時寝巻の裾がめくれて、健の太腿に女の乾いた肌が触れた。暖かくて気持がよかった。女はすぐ健に手を伸ばした。健は自分がみるみる膨れあがるのを感じた。  女は途中で悟ったようだった。 「あんた、はじめてなのね」  そういうと体を入れかえてのしかかり、一気に乱れた。健は乳房の柔らかさを知ったが、はじめての射精にはひどく時間が要った。     8  錦糸町でおしのちゃんに会ってから丁度一年目。健はあの映画館の裏の喫茶店をたずねた。  蝶ネクタイの気障な男はいず、肥った年増女がカウンターの中にいた。 「おしのさん……」  女はコーヒーをいれながら少し考えた。 「ああ、デビーのことね。それなら銀座にいるわ。あの子、お店持ったのよ」  気のない言い方だった。 「何て言う店……」  女は健をみつめた。 「デビーとなんかあったの、あんた」 「いや。ただ探してるんだよ」 「|街《まち》。街ってバーよ。二丁目の……」 「でかい店かい」 「知らないわ。でも、結構はやってるらしいわ。調子がいいからね、デビーは」  とげのある言い方だった。  健はその晩銀座へ行った。『街』という名のバーはなかなか見つからなかった。西側か東側かも聞かなかったので、健は都電の通りを何度も渡らなければならなかった。 『街』はコの字形の細い路地の中にあった。すぐ近くに豆腐屋があり、健は銀座に豆腐屋があったことに驚いた。  夜の銀座のバー街を歩いているのは、半分以上がアメリカ兵だった。その六月、朝鮮で戦争が始まっていた。  その夜、健は三万円ほどの金を持っていた。運送屋で稼いだ全財産だった。いくら銀座でもそれだけあれば充分で、だから健は気おくれせずに『街』のドアをあけた。  右側に木のカウンターがあって、左側にボックス席が並んでいた。床は板ばりで油臭かった。  カウンターにアメリカ兵が四人ばかり、いちばん奥のボックスに日本人の客がひと組いた。カウンターにいた女たちがふり向き、健を見て意外そうな顔をした。  カウンターの中の男が、どうも客ではなさそうだ、というような顔で入口のほうへやって来て、それでも微笑しながら、 「いらっしゃいませ」  といった。健はいちばんとっつきのスツールに腰をのせ、 「ハイボール」  という。何かぎくしゃくしたやりとりだった。だが、カウンターの奥にもう一人男がいて、それが例の気障な男だったので健はほっとした。 「ちょっとあの人と話したいんだけど」  するとバーテンは、 「マスター……」  と呼んだ。気障な男が健のほうを見たのと、健がうしろから肩を叩かれたのと、ほとんど同時だった。 「どうしたの、健ちゃん。ここ、よく判ったわね」  おしのちゃんだった。去年会った時よりいっそう化粧が濃くなっていた。  その夜、健は客として看板まで『街』で飲んでいた。ママの親戚と判って、女たちがチヤホヤしてくれた。ボックスへ移り、かなり飲んだ。ママのおしのちゃんは、客の間を行ったり来たりして、中々健のテーブルで落着いてはくれなかった。 「運送屋をやめてどうするつもりなの……」  おしのちゃんが尋ねたのは、客が一人もいなくなってからだった。 「まだきめてない。ただ運送屋とびだしたら急に顔が見たくなっちゃって」 「泣かせること言うじゃない……」  おしのちゃんはそう言って笑った。  本当は、健はクビになったのだった。あの吉原の晩以来、ヒロポン中毒の運転手は、健に片棒かつがせて、何度か悪事を働いていた。そしてきのう、警察が来て運転手を連れて行った。主人夫婦はうすうす勘づいていたらしく、健を詰問した。お前もつかまる、と放言した、だから朝になると、健は一張羅を着込んで逃げだして来たのだ。 「今晩、うちへ泊ったら……。行くとこないんでしょ」  おしのちゃんはそういってくれた。くらしにゆとりがあるらしかった。 「どこに住んでるの」 「麻布よ。いいでしょ、泊って行きなさい」  健はうなずいた。遠慮しようと思ったが、おしのちゃんの生活に対する好奇心のほうが強かった。  おしのちゃんのすまいが麻布のどの辺になるのか、その夜タクシーに乗せられた健には、まるで見当がつかなかった。ただ、あの気障な男が、おやすみといって別な方角へ帰って行ったので、健はひどくほっとした。  おしのちゃんが住んでいるのは、二階だてのアパートだった。上下四つずつドアが並んで、木の茂った崖の下にあった。ペンキで青く塗った建物で、進駐軍のバスのような、感じだった。  中はだだっぴろいワンルームで、古ぼけた薄茶の敷物を敷きつめた床に、ベッドや三面鏡や、揺り椅子などが置いてあった。 「凄えや……」  健は感嘆した。そんなバタ臭い家に住むおしのちゃんと、あの防空壕にいたおしのちゃんが、同じ人物のような気がしなかった。 「顔洗いなさい」  おしのちゃんは、たきたての白米のようにつやつや白く光る、大きなタオルを投げてよこした。  流しで顔を洗いはじめると、おしのちゃんはガスに火をつけて湯を沸かしはじめた。 「シャワーがあるんだけど、お湯が出ないから」  おしのちゃんの声がうしろでした。顔を洗い、タオルで拭きながらふり向いて、そのタオルを外すと、目の前におしのちゃんの顔があった。健が体をどけようとすると、おしのちゃんは流しに押しつけるようにして邪魔した。 「わりとハンサムね」  健は困って目を伏せた。 「女の子みたいなまつ毛……」  おしのちゃんの指が、健の頬を|這《は》った。 「あたしみたいな女、きらい……」  健は首を左右に振った。 「あたしね、不妊症なんだって。一度お医者さんに見てもらったことがあるの。簡単な手術で産めるようになるらしいけど」  健は目をあげてうなずいた。ひどく恥ずかしく、真っ赤になっているのが自分でも判った。 「莫迦ね。真っ赤よ」  おしのちゃんは両手で健の頬をはさみ、顔を近寄せた。健のほうが背が高く、おしのちゃんは|爪先《つまさき》だっていた。健は思わず顔を上へそらしてしまった。おしのちゃんの唇が、健の下唇だけに触れた。 「彼女いるの」  健は首を横に振った。おしのちゃんは笑っていた。 「女の体、もう知ってるんでしょ」  健はまた首を横に振った。嘘をつく気はなかった。吉原の絹代は、本当の女ではなかったような気がしたのだ。  健は流しに腰をおしつけながら、自分の下腹部に気をとられていた。堅くなっているのを知られたくなかった。  そのくせ、胸の中いっぱいに、とろけるような甘い感動があった。或る時はむし暑く、そして或る時は凍るように寒い防空壕の中を思い出していた。  それをきっかけに、過ぎた日がきれぎれに|泛《うか》んでは消えた。黙りこくった健をみつめるおしのちゃんの|眸《ひとみ》に、女の優しさが溢れて来たようだった。  その夜、健はおしのちゃんに抱かれ、優しくもてあそばれた。健は目をとじて炎を見ていた。     9  もしかすると、男を知って熟れ切った二十七歳の女と、精気のあり余る十八歳の男とは、肉体の組み合わせとしては理想的なのかもしれなかった。  あの日から三カ月ばかりの間、健とおしのちゃんはお互いに|貪《むさぼ》り合って|倦《あ》くことをしらなかった。  ただし、おしのちゃんは週に一度ほど、必ず外泊をした。外泊する時の相手が、岡野という名で、何かの会社の社長であることを、健はいつとはなしに知った。 「ねえ、お店手伝ってくれない……」  三カ月ほどした頃、おしのちゃんがそう言いだした。 「毎日遊んでるのもいやでしょ。バーテンがやめちゃったのよ」 「俺にできるかな」 「簡単よ」 「それならやるよ」 「助かるわ」  おしのちゃんは元気のない笑顔を見せた。  健は蝶ネクタイをしめ、店に出るようになった。いとこ、ということになっていたが、マスターと呼ばれるあの気障な男は、健とおしのちゃんの関係を見抜いているようだった。 「あいつの弱いとこは、耳の裏っかわと背骨のここんとこだぜ」  マスターは、ひょいとそんなことをささやいて、健をからかったりした。名前は飯田と言い、以前おしのちゃんと関係があったのは明らかだった。  おしのちゃんがヘロインの常習者だったことを、健は店へ出るようになってから知った。 「あたしなんかまだ軽いのよ。その内やめるわ」  健が心配すると、おしのちゃんは大儀そうに答えた。  おしのちゃんのスポンサーである岡野という社長は、両国あたりの鉄屋の社長だった。  金ヘン景気にのって、大層な羽ぶりだったが、下品で卑屈な性格だった。  驚いたことに、おしのちゃんの本当の恋人は、常連のアメリカ兵の中にいた。いつも一人でやってくる、清潔な細い顔をした|軍曹《ぐんそう》だった。  その軍曹が来ると、おしのちゃんは健の前でも平気で長いキスをした。それで判ったのだが、健はその軍曹が何カ月も戦場へ行っている間の代用品だったらしい。 「おいこら、健……水ちょうだいよ。ふん、何よあんたなんか。浮気封じのおまじないじゃないか」  酔うと店の女たちの前で、大声でそんなことを言うようになった。軍曹はダンと呼ばれていた。物柔らかな紳士だが、所詮は進駐軍で、健を道具か飾り物を見るような目で見た。  ダンが麻布のアパートへよく泊るので、健は店の奥に寝泊りするようになった。奥の便所のとなりに、女たちが更衣室がわりに使う二畳ほどの畳敷きがあった。  健が哀しみを知ったのは、その二畳で暮しはじめてからだった。|悶《もだ》え泣く夜がはじまっていた。おしのちゃんを愛してしまっていたのだ。 “水色のワルツ”がはやり、イタリア映画が話題になって、日本映画の『羅生門』が、外国で賞をとったりした。夜になると銀座通りをにぎわせていた露店が姿を消し、世の中はだんだん落着いて来たようだった。  その落着きや、よみがえった秩序が、健の居場所を奪ったようだ。  大空襲の火をくぐった経験が、健の人生をその頃まで緊張させていた。すべて非常事態で、人はめいめいに生きるしかないのだと思っていた。だから悲哀を感じないで来たし、そう淋しいとも思わなかった。  だが、東京の町から火の記憶が消えはじめていた。人はそれぞれかたまりはじめ、自分たちだけの会話をたのしんでいるようだった。健が孤独を感じはじめたのは、みんながあの火と無縁だったような顔をしはじめたからにほかならない。  おしのちゃんへの思いが、いっそう健を孤独にさせた。ダンに抱かれ、岡野に抱かれ、飯田にさえ抱かれていたことを考えると、健はひとりぼっちの酒場の中で、つい泣き|喚《わめ》いてしまうのだった。  だが、そのおしのちゃんにしても、健と似たり寄ったりに、時代の境い目でもがいているらしかった。  ヘロインの味を憶えたのは、あの防空壕を出て間もなくだったのだろう。二十二の若妻がパンパンのようになるには、きっとそれが必要だったのだ。ヘロイン中毒は、非常事態を切り抜けた時の、|尻《し》っぽのようなものなのだ。そして、非常事態が通りすぎても、おしのちゃんはまだその尻っぽをひきずって歩いている。  鉄屋の岡野は、マスターの飯田に店の経営をまかせていて、おしのちゃんはやとわれマダムだった。金儲けに徹したそんな岡野に|操《あやつ》られ、飯田にも利用されながら、おしのちゃんはよたよたと生きているのだ。  うまく行けば、ダンと結婚できるかもしれないが、それで幸せになるとも思えない。ダンは兵隊で、いつ死ぬとも判らない身なのだ。  健はこの『街』というバーを、本当におしのちゃんのものにしてやりたかった。  表通りでは、デパートや商店が、クリスマスの飾りつけをしていた。健はサンタクロースになりたいと思った。『街』という店を、赤いリボンで飾って、おしのちゃんにプレゼントできたら、どんなに幸せだろうと夢想した。あの綺麗な金髪のダンが、デコレーション・ケーキのまん中の人形のように、『街』の入口にちょこんと置いてあったら……。  健はそんな夢を描くようになった。     10  昭和二十七年三月のはじめ。まだうすら寒い夜だった。  健は暗い公園の中にいた。そう遠くないところを、消防自動車が気の抜けたような鐘を鳴らして走って行った。  おしのちゃんは死んでしまった。  麻布のあの青いアパートの部屋で、ヘロインを射ちすぎて……。  去年のクリスマス前後から、おしのちゃんは荒れに荒れた。毎晩ウィスキーをがぶ飲みし、誰かれの見境いなくからんだ。 「このペイ患め」  飯田は酔ったおしのちゃんを、そう|罵《ののし》った。  ダンがまた戦場へ戻って、すぐ戦死してしまったのだと知ったのは、だいぶあとになってからだった。  酔うと岡野にも|糞爺《くそじじ》い呼ばわりをした。岡野はそんな時、苦笑してこそこそ帰ってしまった。  そんなマダムの首をすげかえる工作をしたのは飯田だった。 「あいつの客なんて、いくらもいやしねえのさ」  飯田はそう言い、新しいマダムを物色しはじめたらしかった。  健のあずかり知らぬところで、おしのちゃんと岡野の間が揉めつづけていたが、やがておしのちゃんは店を休みはじめた。そんなことを長く続ける根気をなくしていたのだろう。  時々、おしのちゃんから健に電話がかかって来た。さみしいよう……ダンが死んじゃったんだよう……と、|台詞《せりふ》はいつもきまっていた。挙句のはてに健にありったけの悪口を浴せかけ、言うだけ言って気がすむと、弱々しい声で、ごめんね、といって電話を切るのだった。  昼間たずねて行っても、中に入れてくれなかった。ダンが生きていたから健とも浮気をしたのだ。死んでしまったのでは、その必要もない……そう言って泣きながら健をしめだしてしまうのだった。  自分をしめだすおしのちゃんの気持が、健にはよく判るような気がした。健をうけいれないことだけが、おしのちゃんの心の支えになっていたのだろう。  だが、逃避は必要だった。|薬《ヤク》がそれだった。あとがまのマダムが店に来て、健もあと二、三日で『街』をやめるつもりでいたが、丁度明日やめると言い出そうときめた日の夕方、店の掃除をしている健に、飯田がおしのちゃんの死を告げた。 「あん畜生、自殺みてえなもんさ」  何気ない様子で飯田がそうつぶやいた時、健は目がくらむほどの怒りを感じた。ビールの空瓶で飯田の頭を撲りつけていた。飯田は床に倒れ、しばらくしてからぼんやりした目で、睨みつけている健をみあげた。もぞもぞと起きあがり、流れだす頭の血を手で押えながら裏口から逃げだして行った。  飯田がおしのちゃんの収入の道を絶った。ヘロインの値段は恐ろしく高いそうだった。薬の感覚に逃げこむしか方法のないおしのちゃんは、遠からず金に困るはずだった。  ヘロインを射ちすぎた……いや、そうではあるまい。死ぬ気で一度に射ったのだろう。  飯田が自殺みたいなものだといったとき、健は突然絵のすべてを見た気がした。あの火から七年。とうに火は消えて世の中はそれを忘れようとしているが、おしのちゃんは結局火に焼かれて死んだのと同じことだった。火から逃げ続け、七年目に追いつかれた……。  母の死の時と同じように、死んだおしのちゃんが|羨《うらや》ましかった。だが、生きているおしのちゃんをそこへ追い込んだ飯田は憎かった。  飯田ばかりが憎かったのではない。あの誰もかもを平等に追った美しい炎を、そんなに遠くへやってしまった世間が憎かった。  飯田が去ったあと、健はひどく炎を欲した。炎に|餓《う》えた。大きな炎だけが、自分をなぐさめてくれると思った。  その夜更け、健はビール瓶と一升瓶をぶらさげて錦糸町に現われた。瓶にはガソリンがつめてあった。飯田のすまいを知らない健は、彼の妻がやっている映画館の裏の喫茶店を焼くつもりだった。  それは、ビール瓶のガソリンで充分だった。安直な板ばりの建物は、あっという間に燃えあがり、近くの食堂やそば屋にも火が移った。健は弥次馬に混って、うっとりとそれを見物した。  だが、消防自動車のホースが並んで、水柱が火に向うと、火勢はじりじりとおとろえて、黒い焼け跡になってしまった。健の心にはみじめな敗北感が残った。  ゆるく鐘を鳴らして最初の消防自動車が現場を離れる頃、健も映画館の裏を去った。ガードをくぐり、貨物線の踏切りを渡って、錦糸公園へ向った。かつて、たくさんの焼死体がそこへ仮埋葬されていた。健の母も、その中のひとつだったかもしれない。  暗い公園の隅で、健は一升瓶の蓋をあけた。持ちあげて、ポコポコという音を聞きながら、頭からガソリンをかぶった。自由型の泳者のように、右腕を頭の上に曲げ、顔を横向きにして口をあけ……そんな恰好で黒焦げに焼け死にたかった。  その時、すぐ近くの闇でマッチの火がともった。 「焼身自殺かい」  沈んだ声だった。 「匂うから、ガソリンだってすぐ判った」 「お願いだから放っといてくれ」 「とめやしないさ。綺麗だろうな。でも、火葬場の炉の火ほどじゃあるまい」  健は冷たいガソリンを浴びたまま、闇の中へ問い返した。煙草の火が、ポツンと浮いていた。 「見たことがあるのかい」 「ああ」  赤い火が大きくなり、すぐ元の点に戻った。 「俺の親父が死体焼却炉専門の工場をやっている」 「そんなに綺麗か」 「みつめていると、吸いこまれそうだよ。見たいかい」 「うん。できれば、それで人を焼くとこを見たいな」 「仕事は……」 「ない」  すると闇の声が笑った。 「だろうと思った。世話してやろうか。親父の工場だからどうにでもなる。死にたければあらためて焼却炉の中で焼け死ねばいい」  健の気が変った。 「じゃ、やめる。その火をみせてくれ」 「うん」  闇の中から、背の高い痩せた男が近寄って来た。 「その前に聞きたい。君とさっきの火事と関係があるのか」  男は大学生らしかった。黒い詰襟を着ていた。健は素直に答えた。 「ある」 「判った。じゃあ、ついて来い。歩いていればすぐ乾くだろう。少し遠いぞ」 「どこ……」 「柳島のほうだ」  健は大学生の少しあとから、暗い公園の中をついて行った。     11  その青年の名は穂村恵太郎といい、大学の四年生だった。  額の広い神経質な顔だちで、どこかしら、世の中を別な所から眺めているような、すとんと沈んだ落着きを持っていた。  住所不定で身もともふたしかな健を、あっさり父親の会社へ就職させたのは、親たちが彼の|我儘《わがまま》にひどく寛大だったためだ。  会社は日本火焔工業と言い、昔の八軒長屋と、あの防空壕の丁度中間あたりにあった。  日本火焔工業は、一般にはまるで知られていない会社だが、火葬場で使われる遺体処理用の焼却炉の設計、製造、修理が専門で、地味だが内容のいい会社だった。  火葬技術では、日本は世界一流の先進国で、当時はまだ海外の企業と技術提携をしたり、外資を導入したりすることは非常に例外的なことだったが、社長にかなりの政治力があったらしく、アメリカでもトップ・クラスの葬儀会社と手を組んで、製品を盛んに輸出していた。  工場の敷地のはずれに独身寮のようなアパート風の建物があり、健はそこにひと部屋あてがわれた。  健は検査係の見習いになった。いくら就職難でも、火葬場の炉を造ったり直したりする仕事では、そう志望者も多くなく、工場は人手が不足気味だったから、息子の我儘とは言うものの、健はむしろ重宝がられた。  健は就職してすぐ、やっと自分の|居所《いどころ》をみつけたような気になった。  点火装置や消火装置の検査は、普通の電気関係と同じで、健にはやたらむずかしく思えるだけだったが、炉内温度の調節や、火焔調節器の操作テストは、時間の過ぎるのが惜しい程だった。  穂村もそのテストには興味を持っていて、ゴーッという火焔の音を聞きつけると、いつの間にか工場のとなりにあるすまいからやってきて、健のそばでじっと炎の色をのぞき込んでいた。  白でもなく、赤でもなく、勿論青い色でもない。普段は絶対に手で掴むことのできない気体が、ひとつの確固とした形になって、手を伸ばせば今にも掴めそうな状態に思えるのだ。  色は高熱の色としか言いようがなく、健はやがて、それを命の色だと思うようになった。肉色というには余りにも淡いピンクが、ひっきりなしに目もくらむ白い輝きに変化するのだ。  そして、烈しく渦巻くその生命の色の中に、時折り紫がかった緑の稲妻が走る。  よく調整された炉は、ゴーッと一律な音響を発し、大型炉の音はやや低く、小型炉はかなり甲高い。  健が好きになったのは輸出用の大型炉で、その一瞬の高低もなく|唸《うな》りつづける火焔の音を聞いていると、宇宙の淵に立って時の流れをのぞきこんでいるような気分になるのだった。  まして、その中で肉体が焦げ、燃えあがり焼きつき、そして灰になるのかと思えば、温度の点検や火焔の調節は、健に戦慄的な喜びを味わせてくれるのだった。  そんな気分を穂村に言うと、 「これが神々の娯楽というもんさ」  などと、じっと炎をみつめながら答えるのだった。  だが、二基に一基は必ずどこかが不調で、そのため音響が断続的になったり、たえず高低が生じたりした。  そのような炉の内部は、必ずといっていいほど炎の色彩が豊かで、赤はあくまでも鮮やかに、青はどこまでも底深く、そして白はねっとりとした膜のようになめらかだった。  しかも、その極彩色の火焔の中で、炉が不調であればあるほど、黒い部分が不定形の影となってはばをきかせはじめる。  健は、その黒い影が、ひょっとすると無そのものではないかと疑った。それほど底深い黒だった。もしかすると、不調炉はそのような黒さの虚熱を持っていて、肉体は熱のうつろにさいなまれ、いつまでもはてしなく|却火《ごうか》に|舐《な》められ続けなければならないのではないだろうか。 「この遺体焼却炉って奴は、それ自体が、或る何者かの命令を受領した世界なんだ」  穂村は健にそんな説明をした。健にはその深い意味は判らなかった。たしかに、人間が作ったくせに、炉の中は人間の世界とはまるで別な、意味も目的もまったく異質な世界であるような気がした。  炎に魅せられ、夢中で仕事に打ちこむ健の耳もとに、時折りわずらわしい人間関係が聞えていたようだったが、そんなことはまるで気にならなかった。  穂村は酒好きで、仕事が終った健を、よく亀戸や綿糸町へ連れだした。いつかの放火のことなど、健はまるで心配しなくなっていた。炎以外に健の注意を引くものは何もなかった。     12  飲んだ時、穂村の話題はいつも死に関することになった。穂村は女がサービスするバーなどは嫌いだったからいいようなものの、余り死の話ばかりしていると、板前やバーテンでも露骨にいやな顔をした。  或る飲屋で、穂村が手洗いに立ったすきに、健は板前から注意された。 「あんた、あの人とどういう関係だか知らないけど、あんまり|煽《あお》るもんじゃないぜ」 「どうして」 「あの人は長生きしそうもないって……いやこいつは人の噂だよ。でも、ここがいかれちゃってんだろ」  そう言って胸の辺りを叩いて見せた。 「そうかい。知らなかったな」 「柳島の穂村さんの|伜《せがれ》さんだろ」 「うん」 「変なものを作ってる会社だから、死ぬ話ばかりしたって当り前みたいなもんだけど、こっちは水商売だからねえ。縁起かつぐんだよ、うちあたりは。おまけにこれだろ……」  板前はまた胸に手をあてた。  穂村は手洗いから戻るとすぐ、飲み残したまま勘定を払って店を出た。 「あの店はつまらない。河岸を替えよう」  板前の話が聞えたわけはなかった、しかし穂村には何か察するところがあったのだろう。そういう、異常に鋭い感覚を持った男だった。 「何といったって、高熱による火葬こそ、最高の遺体処理法だ。土葬の鈍感さはやりきれないな。それに、葬法の儀式ってのも、嘘ばっかりでいやになる。臨終、通夜、焼香……葬儀屋のワンセットいくらの飾りつけ。野蛮人みたいだ。不潔で、不純で、不正直で、不合理で……臨終をみとった医者に、したり顔で頭をさげられちゃかなわないよ。それだったら行き倒れで行政解剖かなにかにされたほうが、よほど手厚くしてもらった気がするだろう。死をとめるために呼ばれたくせに、患者が死んでしまったとたん、生物学者かなんかに早替りして、これは死体になりました、なんて顔をするんだからな。それをまた遺族が有難うございましたって、礼なんか言うんだ。嘘もいいかげんにしたほうがいい」  そして酔いがまわってくると、きまって健がやりかけた、あの焼身自殺をこきおろすのだった。 「あんなものは、遺体焼却炉の中の豪華な炎の饗宴にくらべると、同じ炎による死でも、まるで別物だ。最高級レストランで、ウェイターにかしずかれながらするフルコースのディナーと、橋の下の乞食の昼めしくらいの差がある。だいたい、焼身自殺なんて、終ったあとに|滓《かす》が残らずにはいられない。意味だって残る。残すのが目的であるんだろうが、それだったらどんな死に方だって同じことだ。本当の自殺というのは、純粋におのれを死へ送りこむだけの行為だ。|面《つら》あてや当てつけで死ぬなんて、くだらないよ。それなら腐って死んだほうがいい。すべての意味の|残滓《ざんし》さえ生じさせてはいけない、できるなら、灰も残したくない。とにかく、今のところは、それ専用に考案された高熱炉が最高なんだ……」  健にとって、それは酔った穂村があげる、単なるオダではなかった。いちいち思いあたり、共感できることばだった。 「君はなぜ死のうとした」  或る夜、穂村が尋ねた。健は穂村に心酔し何もかも喋る気になった。健は長い話をはじめ、穂村は黙って盃を重ねた。 「俺は駄目だなあ……」  聞きおえると、穂村は嘆息した。瞳に深い絶望があらわれていたようだった。 「君は豊かだ。豊かな財産を持っている。そこへ行くと、俺なんかまるで頭だけの出来そこないだ」  穂村は健にとって意外なほど、健の身上話にショックをうけたようだった。 「俺は君を嫉妬する。炎の愛し方が本物だ」 「そんなことない。だいいち、豊かでなんかない。そんな人間じゃない」 「いや、豊かだ。君の自殺をとめてよかった。お願いだから、もっとすばらしい炎で死んでくれ。君がそれを見つけるんだ。君がそれを作るんだ。君は女に死なれたくらいで死んじゃいけない。意味も灰も残さず、死んだ事実すら残さない炎で死んでくれ。戸籍がないなんて、実にすばらしいじゃないか。もう誰かを愛したりしないで欲しいな。誰からも愛されちゃいけないよ……俺にできなかったことが、君にはやれそうだ」 「あんたがやれないことを、俺にできるわけがない」 「いやできる。だが、俺はもう死ぬ。我慢できない。君と同じように、女のこともある。父と母の間の古い出来事もある。まごまごしていると、病気で死なねばならない。俺はそれが恐ろしい。病気で、もし炎の中へ入る気力さえ失せたらと思うと……」 「炎の中へ入る……あんたが……」 「ああ。手伝ってくれよ。焼却炉の中へ入って死ぬんだ。君は灰をドブに棄て、何も知らないと言ってくれ。お願いする。どうせ死ぬんだから、それ以外の死に方はしたくない」     13  梅雨に入ってから、どこかの火葬場で使っていた一基の炉が、大修理の必要があって工場へ持ち込まれて来た。  健は、その炉の内壁の匂いを嗅ぎ、しっかりとこびりついた、白いカサカサの燃え|滓《かす》に手で触れた。  そのとたん、母親のおもかげがダブって、幾百幾千の黒焦げの死骸がまぶたに|泛《うか》び、背筋をエクスタシーに似た感覚が突っ走った。  炉の修理は三日も四日も続いた。仕事が終って工員たちが引きあげたあと、健はその中古の炉の中へ頭を突っ込んで、長い間じっとしていた。炉の中で、健はポタポタと涙を流していた。ここへ火が入り、炎が轟然と体に食いこむ……そう考えただけで、健は泣くほど感動していた。  病身の穂村の気持がよく判った。たとえ病身でなくても、あれほど繊細な人間が、この世間に生きながらえば、毎日ズタズタに傷ついて、魂が血で染まるに違いないと思った。  それは、昭和二十七年六月二十二日の夕方のことだった。  降り続く梅雨に、それでなくてもじめついた江東一帯は、すでに数十カ所で出水騒ぎがあり、工員たちもみなゴム長をはいていた。  工場の外に見える鉛色の家なみに濃い青味がさし、やがてうす汚れた紫色の夕暮れに変る頃、ズボンのすそをまくりあげて、穂村がはだしでやってきた。 「たのむな」  弱い咳をふたつほどしてから健にささやいた。いつものことなので、穂村が姿をみせても工員たちは気にしない様子だった。 「何を……」 「きまってるさ。灰の始末だよ」  健は|愕《おどろ》いて穂村をみつめた。 「もう死ぬ。いたくないんだ」  哀願するような瞳だった。 「早く。今日最後のテストだろ」  穂村は新しい大型炉を顎で示して言った。 「だけど……」 「早く。たのむ」  穂村はさし迫った様子で両手を合わせた。そして、腰をかがめると呆気ないほどの素早さで、炉の中へすべりこんだ。  ……母ちゃんだって|得《とく》したいんだい。  健の頭のどこかで、そんな自分の声がした。健はガシッと炉を閉じた。覗き穴の中はまっ暗で、穂村の姿は見えなかった。 「おい、はじめるぞ」  検査係が大声で健を呼んだ。健は何か言いかけた。だが、防空壕の中でこごえていた時のように、声が出て来なかった。  ボワッ、と柔らかい音が聞え、すぐ、ゴーッという音に変った。  健の左手が、無意識に自分の|喉《のど》をつかんでいた。自分が炎にまかれているような恍惚感に襲われた。恍惚感は、くり返し、くり返し波のように襲って来た。  波の中に、絹代の顔がちらっと見え、すぐおしのちゃんの顔にかわった。  健は覗き穴の前にしゃがみこんだ。欲情した女のように、立っていられなかった。  炉の中に、丸い物が見えた。炎はその丸いものから発しているようだった。丸い物は穂村の体に違いなかった。  炉の横で、検査係が音を聞いていた。 「まあまあだな」  そう言って離れて行った。  穂村は何度か寝返りをうつようにみえた。丸い物が見えなくなり、不調炉に見られるような、赤や青や白や、そして黒い無の影が見えたが、音はよく調整のきいた音だった。  健は、それをみつめながら思った。……自分に新しい炎が与えられたのだ、と。  健はその夜、こっそり炉の中を掃除した。骨と灰を袋につめ、ふらりと工場を出た。なんとなく錦糸町の方角へ歩きだし、橋を渡るとき、汚れて|澱《よど》んだ横十間川へ、紙袋を|抛《ほう》り込んだ。そのドブ川の底には、戦災の炎に追われた骨が、まだたくさん沈んでいるはずだった。  袋を棄てたら工場へ帰るつもりだった。  だが、棄ててみると帰る気はなくなっていた。おしのちゃんの骨も、どこかへ棄ててやらなければいけないと思った。  おしのちゃんの骨がどこにあるかは判らなかった。だが探さねばならないと思った。体の中に、幼い頃燃えつづけていた、あの綺麗な炎が戻っていた。  もう俺は二度と泣かないだろう……。健はそう思った。  ビショビショと降る中を、健は麻布の、あの進駐軍のバスのような色をしたアパートにむかって、傘もささずに歩いて行った。  逃 げ る  読んでいる本は『後南朝新史』だった。もう何度も読み返した本で、頁のあちこちに朱筆が加えてあった。|堅牢《けんろう》な造本で、頁数は百五十頁ばかり。巻末に年表、後南朝及び熊沢家、それに新田氏の系譜が附いている。表紙はビニール・コーティングをした厚表紙で、紫地に銀で菊紋瓦が四つ、麻雀牌の|四筒《スーピン》のような形で配してある。その瓦は、時之島の八幡社創建当時に用いられたものであることを、俺は知っている。時之島は後南朝|終焉《しゆうえん》の地だ。今の愛知県一宮市時之島にあり、尾張一ノ宮の、関家、兼松家、佐分家、伴野家の四家が、信雅親王にその島を安住の地として|斡旋《あつせん》したのだ。島には後醍醐天皇の勅願寺である|曼陀羅寺《まんだらじ》があり、その上島全体が醍醐三宝院の庄園として、南朝とは殊に関係が濃い。また、関家は武州宮方の|裔《すえ》、兼松家は楠木の党、伴野家は信濃小笠原氏の流れで、すべて南朝ゆかりの家だ。信雅親王は、南朝第七代興福天皇の皇子で、第八代の天皇に当り、時之島に至って僧籍に入り、現覚と称された。同時に御母堂の方の実家にちなみ、はじめて熊沢姓を用いられた。北朝の明応年間のことで、今からざっと五百年前のことになる。  テーブルの上には、後南朝新史の箱がのっている。うす鼠色の紙を上張りにした、しっかりした箱で、その横に丸い赤鉛筆が一本ころがっている。芯は今朝削ったばかりでよくとがらせてあり、尻のほうには歯で噛んだあとがついている。それと、白く小さな大理石の灰皿。カラチの怪しげな店に並べてあったのを手真似を頼りに買ったのだ。気に入ったから買ったのではなく、何か買ってみたかったから買ったのだ。その上に吸いさしのハイライトが煙っている。 「そんなに煙草を吸っては体に毒だぞ」と誰かが耳もとで、いやに低い声で注意したようだったが、その時、俺はもうハイライトをつまみあげていた。吸って唇から離し、見ると、べっとりと濡れていた。指さきが汗で濡れていたのだ。カラチで灰皿を買った時も、たしか指が汗で濡れていたはずだ。焦げたような風の匂いと、ねばりつくような空気の感触は、今日のこの暑さとそっくりだった。 「なぜこんなに暑いんだ」と俺は言った。「おかしいよ、こんなに暑いはずはないんだ」俺は立ちあがった。ねばつく空気をかきわけたような感じだった。何か得体の知れない不吉なものが、この世界に重くたれこめているようだった。 「何かあるわ。何か起るのよ、きっと……」と、その女の声は俺をとがめているように聞えた。俺はその声が嫌でたまらなかった。俺の人生にずっとまといつき、無用に傷つけ、とがめだて続けて来た声だからだ。 「うるせえ、|糞《くそ》ばばあ。てめえなんか死んじまえばいいんだ」とののしってから、俺はさっぱりするどころか、居ても立ってもいられない自責の念に駆られて、思わず走りだした。「どこへ行くのよ。ねえ、どこへ行くのよ……」と、それは訊ねるというより、俺がそうするだろうということをとっくに見抜いていて、それ始まったと言わんばかりの、勝ち誇った、そして俺に対しては又とない軽侮の響きを含んだ女の声だった。 「よせよせ、あいつは逃げだしたんだ。逃げだしたくて仕様がなかったんだ。逃げる逃げる。ほら、どんどん逃げる」男の声がそう言った。そしてその言葉が終ると同時に、友人たちの烈しい笑い声が、俺の背中ではじけたようだった。彼らはとても愉しそうに笑っており、愉しそうであるが故に、俺が足をとめて仲間に加わり直す余地は全くなかった。  俺は走った。愉しそうな笑い声に追われ、とげのある女の声を避けようとして、すぐに横道にそれ、またその横道でも、横道をみつけるとすぐに曲った。気がつくと誰かが一緒に走っていた。その男は俺の右肩のうしろあたりにぴたりと顔を寄せて走っていて、全速力で走る俺にはふり返ってその顔を見るゆとりはなかった。 「これは只事じゃありませんねえ」その男は妙に真面目腐った言い方をした。俺と一緒に全速力で走っている男にしては、息も切らず、ひどくゆったりとした喋り方だった。だがその声で俺はちょっとほっとした。友人の一人だったからだ。「こういう時はねえ、何か起るんですよ。いや、僕は余りよく知りませんよ。でも、こういうのはハインラインやなんかでは余り起りませんね」と男はそこで幾分女性的な笑い声をたて、「マーカス・ジュニアとかゲインズボローとかではよく起るんですよ。この暑さはきっとこの世の終りじゃないでしょうかねえ」と言い、また例の笑い声を短く俺に聞かせた。  ゴールまぢかになって、俺は焦りはじめた。あと少しなのに、足が思うように早く動いてはくれないのだ。ひと足ごとに堅い大地を踏む衝撃が体を脳天までつき抜け、そのたびに頬の肉が震えていた。  それでもやっと大きな通りが見えて来た。ひっきりなしに車が通っていて、しかもそれは大型のトラックばかりだった。遠くでサイレンの音が重なって聞えていた。俺は歩道に立ち止まって、その音を聞き数えようとした。一台、二台、三台、四台、五台、六台、七台、八台、九台、十台、十一台。 「十一台来た」と俺は言った。「こりゃ大ごとだ」俺のまわりには、通りの向うをみつめる弥次馬がたくさんいて、彼らは昂奮した様子で口ぐちにそう言った。「大きな火事ですぞ、これは」一人の老人が言い、俺の前で背中を見せている子供が、「仮面ライダーが火をつけたんだ。仮面ライダーは本当は悪い奴だったんだ」と、神経をいらだたせるような細く高い声で叫んで泣きはじめた。老人はその子の頭に手をやり、通りの向うをみつめたまま、暗く沈んだ、そして重々しい声でさとしていた。「そう言うことを言っちゃいけない。子供は言うべきじゃない。みんな知ってるんだよ。知ってても口に出しては言わないんだ。世の中とはそういうものだ。大きくなれば判るが、それをみんながめいめい言いだしたら、いったいどういうことになると思うんだね。そうだろう。みんな不幸なんだよ」老人はそう言うと、突然とほうもない大声で朗々と、「チンオモフニ、ワカクワウソクワウソウ……」とうたいあげた。するとニッカーボッカーをはいた品の悪い男が、「ばかやろ、マッカーサーはもう死んじまったんだぞ」と怒鳴った。きちんと背広を着てネクタイをしめた紳士たちが、いっせいにその方を見て笑いだした。ニッカーボッカーの男は酔っているらしく、よろよろと電柱につかまると、「金太郎アメは十円だ。だのになぜバッチの軍靴が三百円もするんだ。ええおい」と喚いた。 「そんなことを言われても、僕困ります。だって関係ないんですから」俺はからまれると困るので丁寧にそう言い、するりと人ごみから脱け出した。通りは相かわらず大型トラックがひっきりなしに行きかっていて、中には昼間だというのにヘッドライトをつけっぱなしにしているのもあった。  しまった、と俺は思った。消し忘れたのではなく、緊急輸送のしるしにヘッドライトをつけて走っているのだ。それに気づくと五体に|痺《しび》れたような感覚が走った。一種の感動と言ってもいい。いま、たったいま、世の中は非常事態に陥ったのだ。やはりこの暑さはただごとではなかったのだ。秩序を保ってくれるものは、いまこの瞬間からいっさい消え失せたのだ。身ひとつで逃げるしかない。もっとひどいことになる……。  俺は全神経を集中し、自分の体の中のどこかにある筈の、赤い不吉な非常ボタンを、力をこめて押した。切りかえろ、油断するな、他人の動きにまきこまれて逃げそこなうな、いつでも逃げ道の先きざきを読んで置かなければだめだぞ……。  どっと喚声が挙った。我にかえって向う側を見ると、家並みの間からめらめらと赤い火が姿をあらわしていた。「そら来た」と俺は叫んだ。走っている時あいつが言っていた。たしか、ハインラインにはないが、なんとかにはよく起ったのだと……。俺は燃えひろがって行く火事をみつめながら、懸命にそれを思い出そうとした。あれはいったい何だったのだろう。それさえ思い出せば、このあとの事態に対処することはかんたんなのだ。  ところが、記憶をたどればたどるほど、その答は遠のいて行くようだった。いったい誰が俺と一緒に走っていたのかさえ、思い出せなかった。風が吹きはじめ、人々はいつの間にか逃げ散っていて、目の前をひっきりなしに通りすぎる大型トラックの作る一瞬の視界から、向う側の火がまたたくまに拡大して行くのを眺めていた。が、火勢を恐れてか、急にそのトラックの流れもとだえた。騒音が去り、風の音だけが、ひゅうひゅうと聞えていた。真向いの大きな木造アパートに火がつき、窓という窓から、いっせいに焔が噴き出していた。窓にほしてあった洗濯物に火が移り、強い風に|煽《あお》られてひらひらと舞い上った。  キナ臭い。サウナバスの匂いだ。乾き切った大気、強い風、異様な暑さ……。火のついたシーツがどこかへ飛び去るとすぐ、木造アパートの屋根がふわりと浮きあがり、屋根瓦がガラガラと崩れ落ちた。一度浮きあがりかけた屋根は、いったん元へ戻り、すべての瓦をふるい落したあと、今度はいとも軽々と宙に浮いた。  それは火のついた翼だった。風に煽られて両翼をはばたかせ、通りを渡ってこっちへやって来る。ゴウ、ゴウ……とそのたびに火音をとどろかせ、俺の頭の上を通って、背後の住宅街へ飛び去って行った。銀色の服を着た消防夫たちが、喚きながらそのあとを追って家のたてこんだ方向へ駆け出して行く。  俺の見た最初の奴がそれだった。火のついた屋根は、そのあと際限もなく舞い上りはじめた。「大工たちが手を抜いていたんだ。きちんと屋根のてっぺんを組み合わせて置かないから、火がついて風に煽られると、あんな具合に羽ばたいてしまうんだ」と一人の消防夫がしょんぼりと引き返して来て俺に言い、去って行った。「もうだめだ。自分たちの手にはおえないのです」泣きながら消防夫がそう言っているのが聞えた。みんなはっきりと喋っている。この非常事態でも、物を言う時はみな語尾をしっかりと発言している。それなのに俺は、ぐずぐずと語尾の崩れた喋り方しかできない。こんなことではいけない。こんなことでは生き抜いていけっこない。俺はそう思うと猛烈な自己嫌悪に駆られた。  畜生、逃げとおしてやるぞ。この火の海を逃げ切って、あとで生きのびた友人たちの所へ戻ったら、一人前に思い出ばなしをしてやるんだ。この火からさえ逃げのびれば、仲間から一人前として扱ってもらえるんだ。逃げろ、逃げろ。栄光は逃げ切ったところにある。俺はそう思い、また走りだした。  ゴウ、ゴウ、と背中で音がしていた。ゴウ、ゴウ、とその音は近づいて来て、もうすぐ頭の上に|掩《おお》いかぶさりそうになった。俺は前のめりに突っ走り、勢いよくころがると、ごろごろと体を回転させて、歩道の端へのがれた。ゴウ、ゴウという音は通りすぎて行ったが、次の音がまた近づいて来るようだった。俺が転がった場所は中古車展示場の金網の塀の根もとで、体を平たくしてくぐれば、なんとかその金網の向う側へ入れそうだった。俺は夢中で僅かな隙間へ這いこもうとした。  だが入れそうに見えて、なかなか入れなかった。金網のワイヤーの端が、とがった|鉤《かぎ》のようになっていて、服のあちこちが引っかかってしまったのだ。俺は金網のま下にあおむけになり、額にも鼻にも胸にも腹にも、そのとがった尖端をつきつけられて、身動きができない状態に陥ってしまった。  歩道の上を、火のついた屋根が一列に並んで、ゴウ、ゴウ、と飛び去って行く。ゆったりと羽ばたき、羽ばたくたびに火の音が、ゴウ、ゴウ、と鳴った。俺は身動きもならぬまま、それを数えた。「ひとおつ、ふたあつ、みいっつ、よおつ、いつつ、むうつ、ななあつ、やあつ、ここのおつ、とお」とお、と言ったとき、俺を押えつけていた金網の塀が急に上へあがった。とお、と短く勢いをつけて言ったのがよかったのかも知れないと思い、「とお」と同じ調子で言って中古車展示場の粗い砂利へ転がると、急いで立ちあがった。立ちあがった俺のまん前に、右の後輪のタイヤがない、オンボロの乗用車があって、その運転席に一人の男が坐っているのに気づいた。男は窓から首をつきだし、「とお、のせいじゃないよ。飛んで行った屋根たちの火で、このあたりの空気が熱せられたせいなのさ」と説明してくれた。説明しおわると、その男は車の中から、物判りのよさそうな、おだやかな表情で、左手を二度、軽く横に振ってみせた。俺は自分が彼の車のまん前に立っているのに気づき、あわてて金網の傍へよけた。車は砂利をきしませてゆっくり動きだし、俺の前でまた停まった。男はシートの上へ体を倒すようにして、今度は左の窓から、「歩道を歩け、このばかやろうッ」と罵った。俺はたった今もぐったばかりの金網の下を通って歩道へ戻った。  そこは下り坂のはじまりで、下り切った所に電車のガードがあり、そこからまた上り坂になっている。七、八十メートルもある幅の広い道路が、下り、そして上り、一直線につづいていた。車がびっしりとつまり、動こうともしなかった。そして歩道の上を、さっき俺を追い越して行った火のついた屋根が、一列に並んでどんどん遠ざかっていた。  ふり向くと、背後の家々が燃えさかっていた。左右に燃え拡がりながら、こっちへじりじりと押し出してくる。「この勢いでは飛火するに違いないな」そう俺が声に出して言ったとたん、すぐ傍の家からどっと火の手が挙り、その火は二、三軒置いた先きへ、あっと言う間に飛火した。  俺は下り坂を走りはじめた。我ながらすばらしいスピードだと思った。ガードをくぐる時、頭の上でゴーッと電車の通る音がした。 「何だ、まだ電車は通ってくるのか」と俺はつぶやき、そんなことなら電車に乗ればよかったと思ったが、金を一銭も持っていないのに気づいた。すると前方の公衆電話のボックスのかげから、不意に中学一年くらいの、制服制帽をきちんとつけた、清潔そうな少年がとび出して来て、俺の前に立ちふさがった。「共同募金をお願いします」と少年は丁寧に言った。「共同募金……いったい何のための」俺は訊ねた。すると少年は泣き顔になり、くやしそうに目を伏せて唇を噛んだ。「共同募金をお願いします」と、それでもか細い声で言い続ける。俺はポケットに右手をつっこみ、金を探すふりをしながらまた訊ねた。「だから何の為の共同募金かって聞いてるじゃないか」そう言うと少年はキッと顔をあげ、清潔な瞳で俺を見返した。「ごらんになればお判りでしょう。こんなひどいことになってしまったのです。きっと可哀そうな人が大勢出来てしまうのです。僕たちはそういう人たちの為に一生懸命やっているのです」俺はポケットにつっこんだ指が、一枚の小銭にも触れないのをもどかしく思いながら、「少しならないこともないよ」と嘘をついてしまった。「でも、共同募金なら箱があるはずじゃないか。君は箱を持っていないのかい。君たちの先生は箱なしの募金を許可しているのかい」すると少年は澄んだ瞳に涙を溢れさせ、「そんな暇はないじゃないですか。燃えはじめたのはついさっきなんです。あなただってそれはご存知でしょう。それなのにどうして僕をいじめるんです。お父さんやお母さんは一緒に逃げようと言ったんだけど、僕はみんなと相談して、こうするのが人間として正しいと思ったからがんばっているんです。お金がないならないと、はじめからそう言えばいいじゃありませんか。それなのにあなたはお金のあるふりをして、さも僕が悪いから払わないようなことを言うんじゃないですか。いいですよ、このとおり領収書も持って来たんですけど、もう要りません」そう言って少年は縦にふたつ折りにした白い紙を、ピリピリと真っぷたつに引き裂いてしまった。「あ……やめろッ」と俺は言ったが間に合わなかった。「悪かった、俺が悪かった。勘弁してくれ。いったい幾らなんだ。どこかで借りて今日中になんとかするよ」「今日中だなんて、本当ですか」少年はさげすんだように言った。「いや、あしたか……そうだ、あさっての朝には必ず……本当はあしたまでって言いたいんだが、こうなったら下手な駆け引きをしてそっちに迷惑をかけるようなことはしない。あしたの晩ひと晩あれば必ず出来るんだ。だからあさっての朝には必ず渡す。いいね、きみ。締切りはあさっての朝だよ」少年は仕方なさそうにうなずいた。「じゃあ急ぐから……」俺はそう言い残すと全速力で坂を駆けあがった。坂の上まで来てひょいとふり返ると、電話ボックスの前で、少年が二、三人の警官にかこまれてこっちを指さしている所だった。警官たちは坂の上の俺に気づくと、右手で腰の拳銃を押え、一斉にスタートした。俺はあわてて逃げだし、追手の視界の外へ出ると、ぎっしりと並んでいる車の間をややこしくすり抜けて、向う側へ渡りはじめた。今度は車が一斉に警笛を鳴らしはじめた。  向う側へ渡りつくと、火消しの|頭《かしら》が歩道のまん中に|纏《まとい》を持って立っていて、「おう、よくやったじゃねえか」と|褒《ほ》めてくれた。「あいつらァ、道路交通法違反がこわくって、こっちがしへ渡っちゃあこれねえのさ。|大《てえ》したもんだぜ、道路交通法ってえのは」俺はぺこりと頭をさげてその爺さんに言った。「でも、きっとこれで指名手配になるでしょう」すると爺さんは大きくうなずいて、「そりゃそうだ。気の毒だが仕方ねえさ。精々頑張って逃げおおせるこったな」と言ってくれた。  俺はその爺さんが黙って指で示してくれた道路ぞいの崖を下りはじめた。五、六十メートルもある急な崖で、つるつる滑る|茅《かや》の密生した間に、雑多な種類の小さな木が繁っていた。「頑張れよォ」と爺さんは上から声をかけてくれた。「頑張れよォ」「しっかりして」「頑張れよォ」「しっかりして」ふたつの声が重なって、|谺《こだま》のように響いた。急斜面にしがみついている俺の体は、その間も、ずるり、ずるりとすべり落ち、やがて一気に十メートル程も落ちて急に停まった。左上膊部が斜面に生えた木の枝にはさまって、やっと止まったのだ。そのかわり全体重がそこにかかって抜くも引くもできなかった。左腕の、はさまった所から先きが急に冷たくなりはじめ、感覚が鈍くなって行った。 「血庄もだいぶ高いようですな」  不意に耳もとで、男の声がはっきりと聞えた。木の枝に左腕をはさまれたまま、観念して目を堅く閉じていた俺は、何か重大なことに突然気がついて、はっと目を開いた。それは、にこやかに談笑していた筈の相手の言葉の端に、冷たい敵意のこもった皮肉が秘められているのに気づいた時と似ていた。|真《ま》に受けていた今までの言葉が全部裏返しになり、一瞬の内にあらゆる意味が逆転してしまう時の、ぞっとするような緊張の瞬間だった。 「気が付きましたね」  上から俺をのぞき込んだのは、茶色の服を着た、五十年輩の穏和な顔だちの男だった。  彼から発する匂いで、俺はそれが医者だと判った。俺は大きく息をついて視線を移した。見なれた天井と、本のつまった棚が見えた。 「しっかりして、あなた」  妻が医者に遠慮しながら、おずおずと顔を寄せて言った。しっかりして……そうか、火消しの爺さんの声とダブっていたのは彼女の声だったのだな。俺はそう気がつくと、何かひどく安らかな気分になって目を閉じた。  胃の辺りを中心に、全身をくまなく支配していた不快な緊張感……焦燥と不安の入り混った、いわれのない危機意識が急速に溶解し、四肢から各爪先きへ、じいんとおだやかな血流が拡散して行くのが判った。 「いずれ近い内に心電図をとってみなければ、はっきりしたことは言えませんが、なに心臓のほうは神経のせいでしょう。最近はそういう方が急に増えているんですよ。一度心臓の不安にとらわれると、きりもなく心配になるものなのです」 「じゃ、心臓の方は心配ないですね」  妻の安心したような声が聞えた。 「ええ、多分心配ありません。しかし、血圧はかなり高いですから注意してあげてください。肉とか脂物、それに刺戟の強いものは当分避けることですね」 「お酒を飲むんですけど……」 「少しなら構いませんよ」  医者は案外簡単に言った。俺は目をあけて医者の顔を見た。 「酒はいいんですか」  体の芯に不快感が残っていて、われながら声に力がなかった。 「少しならね。でも、飲まないに越したことはありません。働きすぎのようですな。神経的な疲労ですよ。人間の体は案外うまくできているものなのです」  医者は俺の左上膊部をしめつけていた黒いゴム管を外しながら言った。外されたあとも、俺の左手には鈍く冷たい感じが残っていた。 「あなたは……」  と言って、医者は腕時計を見た。 「四十分ばかり失神していたんですよ。机の前に坐って本を読んでいたそうですね」  俺は思い出した。そう、俺は後南朝新史を読んでいたのだ。 「神経科の医者にも、よくなったら見てもらうんですな。脳波も調べてもらうといいでしょう。私は専門じゃないんで、はっきりしたことは申せませんが、仕事への圧迫感がおありになるんじゃありませんか。それにだいたいあなたは血圧が高かったし……あなたの体が自然に病気になって、いや、病気の形をとって、あなたの体を守ろうとしているんです。いまあなたは三十八度五分あります。でも、そういうわけで、この熱はすぐ下るでしょう。風邪でもなんでもないし、内臓にもこれと言って悪い所はありませんからね。だからと言って無理は禁物ですよ。このまま安静にして、しばらくのんびり神経を休めてください」 「どのくらい寝てたらいいんです」 「二、三日でいいでしょう。鎮静剤を差しあげますから、あとでとりに来てください」  医者は妻にそう言うと、器具を鞄に入れて立ちあがった。 「ただし、そのあとでも当分原稿書きなんかしてはいけませんよ。無理をしたらとり返しのつかないことになります。様子を見なければ判りませんし、専門医に診てもらってのことになりますが、多分半年か一年は仕事のことを忘れて、のんびりしていただかないと……ではお大事に」  妻は医者を送りに立ちあがり、立つ拍子に、ひょいと俺の胸へ軽く手をあてて行った。それが、夫婦にだけ通じる情愛をあらわしていて、俺の心に|沁々《しみじみ》とした感情が拡がって行った。  誰もいなくなって、俺はじっと天井を睨んでいた。  俺は本を手にしたまま失神したのだという。だが、俺の意識には一瞬の切れ目もなかった。あの火事の街は夢だったのだ。そしてその夢の世界へ、俺は現実の世界から、実になめらかに移行して行ったのだ。それにしても、どこからどこまで、実に見事に構成された世界だった。あれは俺の内面の世界だったのか……。  そうだ、あれは俺の内宇宙なのだ。|醒《さ》めてこの世界から見れば、実に不条理な事柄の積み重ねではある。しかし、隅から隅まで鮮明に記憶しているさっきの夢の中で、俺は一瞬たりとも不条理を感じなかった。俺の内宇宙では、あれは不条理でも何でもなく、その中で俺は一生を過している筈なのだ。あのあと、火や警官に追われた俺の人生はどうなって行くのだろう。ああやって一生逃げつづけるのか。それとも大火の納まったあと、望みどおり逃げのびて友人たちにめぐり合い、体験談に花を咲かせるのだろうか。  垣間見た俺自身の内宇宙に、俺は次第に憧れるようになった。妻にかしずかれた寝たきりの数日間は、ほかにすることとてなく、俺の内宇宙への想いはいやが上にもつのって行った。何やらまがまがしく、しかも俺にぴったりの世界が、そこにはあるのだ。  日が経って、往診してくれた例の医者のいる病院へ、妻につきそわれて行った。それは芝生を植えた前庭のある、かなり大きな病院で、小児科、内科、外科、神経科などがあった。  あの医者の言ったとおり、神経科で俺は向う一年間、原稿を書くことをとめられた。散歩と病院がよいだけが仕事になり、のらくらと毎日遊んで暮した。  それでも、長年の習性でペンを持たないことが淋しく、日記だけは妻の目を盗んでこっそりとつけつづけた。  俺が使っている日記帳は、博文館の三年連用当用日記だった。もう十数年もそれを愛用しており、今使っているのはおととしの暮れに買った奴だから、二年目、三段になった二段目をつけていることになる。  ところが、俺は或る夜とんでもないことに気づいた。毎日つけている筈の日記帳が、二年も使っている筈の日記帳が、どの頁もまっ白だったのだ。  愕然とした。いったいこれはどういうことだ。俺はいったい……。  目の前がまっくらになると同時に、俺は恐ろしいひとつの真相に思い当った。  俺はまだインナー・ワールドにいる。  内宇宙は現実世界のように、時系列に従った連続などしてはいないのだ。あの火事の世界で俺が不条理を重ねすぎた時、俺のどこかに睡っていた現実世界的な理性が覚醒して、それを打消そうとしたのだ。そこでもっと辻つまの合う、医者が登場したのだ。今度は世界を長つづきさせる為に、俺を仕事なしの、のらくら男に仕たて、極力辻つまを合わせようとしたのだ。たしかに俺は日記をつけつづけていた。だが、現実の行為のない日記が、その記事を残存させられるだろうか。  ここはまだ俺の内宇宙なのだ……。  俺はキッとなって部屋の中を見まわした。巧妙にできている。実に精密に構成されている。これとそっくりの現実世界に俺は住んでいたのだ。だが日記帳のことがあるように、どこかに食い違いがなくてはならない。いや、きっとあるはずだ。俺は必死に考えた。記憶を|辿《たど》り、照合した。  あった。妻だ。あれは別れた前の妻じゃないか。俺はあの女と別れたあと再婚した。あの女と俺は同いどしだが、今の妻はずっと歳下のはずだ。そして子供も生れたのだ。男の子で、年齢は満一歳。俺の死んだおやじと同じ名前をつけてやったのだ。だが、あの子もいない。俺はどうかしている。こんな所に長居をしてはいけない。逃げ出さなくては。逃げろ、逃げるんだ。子供のところへ帰らねばならない。  俺は家をとび出すと病院へ走った。人通りのたえた深夜の街路を、夢中になって走った。最初の火事の世界から、こっち側へ呼び込んだのはあの医者だ。あいつがすべての鍵だ。そう思い、全速力で走った。  病院の入口だけが、|煌々《こうこう》と明りをつけ、巨大な建物はすべて闇に溶けこんでいた。俺は大きな両びらきのガラス扉の前で呼吸を整えた。すると白衣白帽の若い看護婦が、「いらっしゃい。今日はずいぶん遅いのですね」と愛想よく言ってドアを中からあけてくれた。釣り込まれて入ると、若い看護婦は素早く錠をかけ、白いカーテンを引いてしまった。「院長先生、院長先生」看護婦は金切声で叫んだ。すると薬局のドアから、ぞろぞろと医師たちが現われた。「わたしたちの不正に、君はとうとう気がついたのだな」と院長が言った。「そうだ。お前らは俺を誤魔化そうとした。だが俺はそういつまでも欺されはしないぞ」そう怒鳴り返すと、院長は冷たい声で医師たちの中に混っていた、茶色の服を着た五十がらみの男をふり返って言った。「キジ岡君、これは君の患者だ。君が責任をとりたまえ」キジ岡は蒼い顔でうなずき、俺に向って機嫌をとるような笑顔を見せた。「ねえ君、注射を一本させてくれないか。注射をすれば癒るんだから」「嫌だ。帰してくれ。出口を教えてくれ」「馬鹿言うもんじゃない。向うは火事のまっ最中だよ。そんな所へ行ってどうする気だ」キジ岡は注射器をとり出すと、|拇指《おやゆび》でポンプを押して、針の先きから液体を細くふきあげさせた。他の医師たちは、院長のあとに続いて、長くまっすぐな廊下を、一列に並んで去って行った。  俺は注射器を手に近寄って来るキジ岡の隙を|窺《うかが》いながら、外見はさもおとなしそうに、左腕をまくりあげるふりをした。そして、充分に引き寄せておいてから、思い切りキジ岡の|利腕《ききうで》を|撲《なぐ》った。  注射器がふっとんで、コンクリートの床に落ちて割れた。「馬鹿、何をするっ。一本十六万円もする貴重な薬だぞ。お前に払えるのか」キジ岡は割れた注射器をみつめ、身じろぎもせずにそういった。「金がなんだ。幾らでも払ってやるさ」俺はせせら笑った。キジ岡はまっすぐに俺をみつめ、さげすみのこもった表情で、唇を|歪《ゆが》めて言った。「お前に金などありはしない、嘘つきめ。仮病でのらくらしている間、お前の生活の面倒はずっとこの病院が見ていたのだぞ。一枚の原稿も書かないお前が、どうしてこんな長い間、遊んで食っていけたと思う」「そっちの勝手だ」と俺は言い返した。キジ岡はますます唇を歪め、「じゃあ聞くが、お前の女房は本当の女房か」と訊ねた。「女房……あれか。あれは前の女房だ。あいつとは別れたんだ」「だったらなぜ一緒に暮してる」「この世界は俺の本当の世界じゃない。よく似せてはあるが、ほうぼうに決定的な差違があるんだ。その違っているポイントのひとつが女房だ。ついさっき俺はそれに気づいたんだ」「いいか、よく聞けよ。お前がどんな不幸の種になっているか、よく教えてやる。お前と別れたあと、あの人はどうなったと思う。知るまいが。あの人はお前と暮していた時より、ずっとしあわせになったんだ。ここの院長夫人になったんだぞ」「本当か、それは」俺はうろたえた。「そうさ、本当さ。それなのにお前は舞い戻って来た。夢うつつの世界をさまよう重病人のふりをしてな。院長だってお前に返すのが辛くないはずはない。あの人だって嫌だったろう。しかしこの世界で、一度だってお前は本当の今の女房を思い出したか。子供のことを考えたか。考えまい。考えまい。考えないからこそ、あの人はお前の所で暮さなければならなくなったんだ。お前くらい薄情な男を、わたしは見たことも聞いたこともない。ひとでなし……」キジ岡は吐きすてるように言った。「判らなかったんだ。だがもう思い出した。だから俺は帰る。帰してくれ。ここから逃がしてくれ。逃げだしたいんだ」だがキジ岡は唇を歪めたまま笑いだした。「また逃げるのか。どこからでもよく逃げだしたくなる奴だなあ。そんなに何もかもから逃げていて、よく今日までひとつの世界で生きていられたもんだ。お前は向うから逃げて来たんだぞ。木の枝に腕をひっかけた時、どうして自分の力でそれを外そうとしなかったんだ。お前はあの時、自分からこっちへ逃げて来てしまったんだぞ」その時、ガラスの扉の外で、ガチャガチャと鍵をいじる音がした。やがて扉があき、白いカーテンが人がたにふくらんでうごめいた。  カーテンの裏側から女の姿が現われた。前の妻……いや、今の妻か。とにかく現実世界では別れた前の妻だった女だ。「キジ岡さん、わたし帰って来たわ。うちの人に知らせて来て……」彼女はキジ岡にそう命じた。キジ岡は暗いまっすぐな廊下の奥へ、ガタガタと駆け込んで行った。板ばりの廊下にキジ岡の木のサンダルの音が、いつまでも続いていた。「帰りなさい。うちの人が来ない間に」と彼女は言った。「火事の町を通って、あのうちへ帰るのよ。奥さんや坊やが待っているんでしょ」「うん」と俺は素直にうなずいた。「帰りたいんだ。でも出口が判らない」「相変らずねえ」彼女はさげすむでもなく、仕様がない、と言った仕草で首を振ってみせた。「もう二度と逃げだしちゃダメよ」そう言って待合室の先きにある大きな階段を指さした。俺は足音をしのばせて階段へ向った。「それから、二度とわたしの所へも来ないで。迷惑だわ」それは、ぞっとする程冷たい言い方だった。  今までに、彼女だけに限らず、何十人、何百人の人間に、俺はそういう言われ方をしたことだろう。そのたびに、返す言葉もなく、そっと背を向け、打ちすえはしないという相手の最後の好意だけを味わいながら、あてのない歩みをはじめたものだった。それを今もやっている。みんな俺に我慢をしてくれた。我慢に我慢を重ね、もうこれ以上どうにも我慢がならないという所まで我慢してくれた挙句、「二度と来ないで」と、最後の我慢をふりしぼって、感情を押し殺した声でいうのだった。相手が間違っていたことはただの一度もない。いつも悪いのは俺の方だった。そして、住みなれはじめた世界を逃げだし、新しい世界へ入ってまた人に我慢をさせるのだった。  だが今度は逃げるんじゃない。生れてはじめて帰るのだ。息子のいる世界へ。その母のいる世界へ。  俺は手さぐりで長い階段を昇り切り、上の廊下へ出た。何度もこの病院へ来たが、その二階ははじめてだった。いつも用は一階で済んでいたのだ。俺は一階の記憶をたよりに、廊下を歩きはじめた。だが、二階と一階とではまるで勝手が違っていた。暗い中を手さぐりで進みながら、俺は運転教習所の道を連想していた。廊下は、まるで曲るためについているようだった。方向も何もあったものではなく、俺はその消毒液臭い迷路を何度もぐるぐるとまわっていた。  消毒液……その匂いがする。俺は闇の中に立ちどまって考え込んだ。俺はやはり病気なのだ。書斎で本を読みながらどうかしてしまったことだけは、火事の世界にも、この世界にも共通している。とすれば、俺は現実世界で今、やはり消毒液の匂いを嗅いでいるに違いない。これは大変だ。俺は病気をしているんだ。早く帰らねば、このまま死んでしまうかも知れない。そう|焦《あせ》り、俺は壁を手でさぐって、ドアを探した。  ノブがあった。真鍮の丸いノブだ。手ざわりでそれが判った。ノブをまわしてドアを押しあけた。すると赤い光が溢れ、右側にカウンター、左側にボックス席が並んでいて、グレン・ミラーの真珠の首飾りが聞えて来た。「あら、今日は休みだと思ってたわ」ミニスカートをはいた女が俺に気づいて近寄って来た。女の顔に覚えがなかった。「ちょっと通りがかったんでね。すぐ帰らなきゃならないんだ」「いいじゃないの、一杯ぐらい」女は強引に俺の手を引っぱってカウンターへつれていった。「ハイお待ち……」向うはちまきをした若い板前が、カクテル・グラスをそう言って俺の前へ置いた。「あと何にします。イカ……ウニ……」「いいよ、俺はすぐ帰らなきゃならないから」俺はそう言って、大急ぎでカクテルをのみほした。喉を熱いものが通りぬけ、俺はむせて|咳《せき》こみながら、よろよろと入って来たドアへ引き返した。「|通《つう》ぶるんじゃねえよ、馬鹿野郎」うしろでそんな|罵声《ばせい》が聞えていた。  廊下へ出ると、またツケを増やしてしまったという悔いが湧きあがった。酒のせいか体が熱く、吐く息さえ熱く乾いていた。「暑いよこりゃ、とても暑い」そうつぶやいたとたん、俺は出口が近いのに気づいた。火事の世界がすぐそこにあるのだ。それでなかったらこんなに暑いはずがない。俺は必死に壁をさぐった。  突然ドアが外からバタンと吹きあけられた。病院は高い崖の上に建っていて、そこから谷底のような場所にびっしりと建てこんだ住宅街が見えた。真正面に雑木と茅の生えた崖が見え、その上に大型トラックの列があった。谷底の住宅街の上には、火のついた屋根がとび交い、そこここに火の手が挙っていた。  俺は懸命に、風にさからってドアを閉めた。外側へ出て、両びらきのドアを、力をふりしぼって引っぱった。熱風がモロに吹きつけるので、ドアは仲々しまらなかったが、それでもなんとか閉めることができた。  俺のいる場所は、物干台のような、木造の非常階段の踊り場だった。俺はガタガタと板を踏み鳴らして、降りて行った。一階、二階、三階……病院は、裏手では四階だてになっている。正面の玄関は、だから三階に当っていたのだ。それは、小学校の裏手によく似ていた。ゴミ焼場があり、運動会の玉入れに使った紅白の竹籠が積んであったりした。湿っぽい、よく滑る斜面を、俺はスケートでもはいたようなフォームで、両手をひろげ、すべり降りて行った。するとそこに、泥まみれになった火消しの|頭《かしら》が倒れていた。「どうしたんです、頭」俺は爺さんをだき起した。「どうもこうもねえや。この火はとても消せたもんじゃねえ。ごらんのとおり煙にまかれて命からがらさ。病院へさえ|辿《たど》りつけりゃあ何とか助かると思ってここまで来たんだが、このつるつるの坂じゃあな。いいところへ来てくれたよ。病院へ運んでってくれ」俺は困ったことになったと思った。たった今、やっとの思いで逃げだしたばかりなのだ。「あすこは|危《ヤバ》いんだよ。俺。勘弁してくれないか」「畜生、てめえ俺を見殺しにする気か」爺さんはいきりたった。「こんなちっちぇえガキの頃から可愛がってやったのに、この|期《ご》に及んで見棄てようっていうんだな。ああそうかい。おめえはそういう奴だったのかい。世間さまじゃなんと言おうと、俺ァおめえだけは信じて来たんだ。いいさ、ここで死んじまおうじゃねえか。喜んで死ぬよ。おめえが助かりさえすりゃあ、この俺なんざ、どこでのたれ死のうとかまやしねえんだ」「そんな、さあ殺せみたいなこと言わないでくれよ」「さあ殺せだと……てめえいつから俺にそんな口をきけるようになったんだ。この寝しょんべんたれが」俺は逃げだした。「許してくれ、頭。勘弁してくれ、おやじさん」そう叫びながら走るうち、目から涙が溢れ、道もろくに判らなくなってしまった。  なんて情けない奴なんだ。俺って奴は、なんていくじなしなんだ。世話になった誰一人にだって恩を返せたことはないんだ。いつだって逃げてる。いつだって逃げまくってる。見るがいい、そして笑うがいいんだ。俺の人生は、誰に対してだってとおりすがりでしかないんだ。それはなぜだ。いつも逃げているからだ。いつも走っているからだ。みんなと心を通わせたことなど、一度もありはしないんだ。女たちにだって、惚れたことなどないんだ。惚れるということなど判っていないんだ。走って、通りすぎて、通り抜けるだけなんだ。  帰ろう。帰ってやり直そう。せめて、あの今度の妻と子供にだけは、心を通い合わせよう。それでなければ、なぜ生きてるのかわけがわからない。あいつらをだきしめて、ゆっくりでもいいから、一緒に死ぬまで歩きとおそう。 「あら、今おかえり……」買物籠をぶらさげた女がそう言って通りすぎた。「ええ。急いで帰るんですよ」俺ははればれとした気分で言った。「おじさん、あとでおたくへ共同募金をいただきにうかがいますからね」中学生がやって来てそう言い、元気よく火事のほうへ駆け戻って行った。「あんまり火のそばへ行くんじゃないよ」俺はそう注意してやった。ゴウ、ゴウ、と火の屋根の音が頭の上でした。見あげると、|梁《はり》に三つか四つくらいの男の子がしがみついて、今にもふり落されそうになっていた。「よし、助けてやるぞ」俺は叫び、羽ばたく屋根を追って走った。俺は路地から路地を走り抜け、屋根をみあげながら叫びつづけた。「子供が落ちるぞ。子供が落ちるぞ……」屋根は羽ばたくたびに火熱をまし、今はもう全体が火につつまれていた。そのために高度が落ち、スピードも遅くなった。「がんばれ、もう少しだ」俺は火だるまの屋根の下へもぐりこみ、梁につかまった子供をとびあがって掴んだ。屋根が崩れ落ち、やっとの思いで抱きしめた子供と俺の頭上へ、火の粉がわらわらとかぶさって来た。俺は右手にその子を抱きしめ、左手で必死に火の粉をふりはらった。指先きが焦げたらしく、熱いというよりは、ひどい痛みを感じた。 「そんなに煙草ばかり吸っては体に毒ですよ」  妻がそう言ったので我に返った。左の指先きを見ると、拇指と人差指でつまんだハイライトが、フィルターの所まで灰になっていて、指の腹が焼けるように熱かった。 「あち……」  俺は|慌《あわ》てて大理石の灰皿にその吸いさしを抛り込んだ。 「やあねえ、居ねむりしてたんですか」  妻はおかしそうに笑った。ガラス戸から、春の陽がいっぱいに射し込んでいて、俺は少し汗ばんでいるようだった。その陽だまりの中で、妻は着物を拡げ、ベンジンで襟をふいていた。 「なんだ、その匂いか」  俺はほっとして言った。それにしても、あのふたつの内宇宙への旅が、わずか数瞬の内のこととは、全く信じられない思いだった。 「子供はどうしてる」 「お昼寝してますよ、さっきっから」  妻は、寝ぼけているのか、というような笑いを含んだ目で俺を見返した。 「そうか、済まない」  俺はついそう謝ってしまった。俺自身の内宇宙に、彼女は存在していなかった。それは俺の責任なのだ。 「今度、近い内に子供をつれて遊園地へでも行くか。もう春だものな」 「いつにします」  妻は嬉しそうに言った。 「天気次第だ。明日は晴れるかな」  俺は立ちあがり、ガラス戸の外を見た。かなり広い芝生の庭があって、そのさきに広々とした田園風景がひろがっていた。  俺は笑いだした。笑って笑って笑い抜いた。 「どうしたんです。何がそんなにおかしいんです」  妻がつり込まれて笑いながら訊ねたが、俺には答えられなかった。笑いがとまらなかったせいもあるが……。  俺の本当の家は、狭い庭の鼻っ先きに、隣りの二階家の羽目板が見えるだけで、こんな広い庭や、まして青々とした田園風景など見えるはずはないのだ。 「こりゃいいとこだ。気に入ったよ」俺は笑いこけながら、やっとそう言った。 「何ですねえ、八年も住んでるのに」  妻は不思議そうに俺を見あげた。卵形の顔をした、色白の、すばらしい美人だった。全く、見たこともない、色っぽい美人だった。  もう逃げねえぞ。こここそ俺の|竟《つい》の|栖《すみか》だ。俺はそう心にきめた。ふり向くと立派な書棚があり、そこに全集が並んでいた。背表紙には、俺のペンネームが金文字で記してあった。もう逃げねえぞ。ここを逃げだしたら俺は大馬鹿野郎だ。ふたたびそう思った時、妻が優雅な身ごなしで立ちあがった。 「植木屋さんにお茶をいれる時間ですわ」 「そうか……あ、そうだったな」  俺は書棚からまた首をめぐらして庭を見た。見事な枝ぶりの松の下に、|半纏《はんてん》を羽織った老植木職がいて、こっちへ歩み寄ってくるところだった。  植木屋はガラス戸の傍へ来ると、指の先きでトントンと軽くガラス戸を叩いて笑った。 「あ、|頭《かしら》……」  俺は思わずそう言った。 「てめえ、俺を見殺しにしやがって」  俺はため息をついた。また逃げるのかと……。  散歩道の記憶  日曜日の昼少し前、私はすることがなくなって散歩に出た。家は|鉤《かぎ》の手に曲った私道の角にあって、道は綺麗に舗装されている。十時ごろからそこへ近所の子供達が集って、ローラースケートの音を響かせていたが、両びらきの木の門を通って外へ出てみると、どこかへ遊び場所を変えたらしく、朝の間じゅう聞えていた甲高い歓声の|主《ぬし》たちの姿は見えなかった。私は門の脇に停まっている医者の車のうしろを抜けて、春の気配がする静かな道を商店街の方へ向った。  枝の高い所に辛抱強い枯葉を二、三枚残した柿の木に、尾長らしい鳥がとまっていて、私が気づいた時は、さっと低く舞い降りたところであった。何を|啄《ついば》みに地面へ降りたのかは、柿の木のある家の石塀にかくれて見えなかった。  私道を出た左角は眼科医で、その入口に二人の主婦らしい女が立話をしていた。診療を受けに来たという様子ではなく、細い道を通り抜ける車を避け、その陽溜りで話し込んでいる風であった。見覚えはないが、多分近所の奥さんなのであろう。  私の家から玉電の松陰神社前という駅まで、ゆっくり歩いても二分ほどしかかからない。今は世田谷線と呼ぶのが正しいのだが、緑色に塗った小さな電車は、やはり玉電、玉川電車としか呼ぶ気がしない。世田谷線などと呼ぶと、ジュラルミンのボデーの地下鉄で、味気ないコンクリートの階段を昇り降りさせられそうな感じである。  松陰神社前へ引越して来たのは、六年ほど前のことである。下町育ちにとって三軒茶屋と言えば、それはもう東京の西のはずれであって、女学校の先生をしているこわい叔母さんが住んでいる所、と言った印象が強かった。  それが三軒茶屋からもう一歩足を踏みこんだ先の松陰神社前へ移って来たのは、転変常ならぬ私の前半生の総仕上げだったらしく、樹木が多く石塀のつらなった世田谷という土地柄が、それまでの放浪性をおしなだめてくれたようであった。  もう一度角を曲って商店街の入口が見えるあたりへさしかかると、七、八人の子供達が道幅いっぱいに手をつなぎ合い、ローラースケートでやって来る所であった。私は丁度内科の病院の前でその子供達の間をすり抜け、駅前に出た。左へ折れれば世田谷通り、右に曲れば踏切りを越えて松陰神社に向う道であるが、私はまっすぐいつもの散歩コースをとり、駅の裏の道を進んだ。  駅と言ったところで改札口があるわけではなく、駅員もいないしホームへあがる階段があるわけでもない。要するに市電の停留所に屋根がついているといった程度のもので、その裏手には青いポリバケツやダンボールの箱に入ったゴミが、回収の車を待って穏やかな陽射しの中に積まれていた。  ぶらぶらと進む私にも、その穏やかな陽射しは同じようにそそいでいて、普段は見すごしてしまう小さなゴミの山に、何かひどくなれなれしいものを感じるのであった。そして私は、すぐにそのなれなれしさが、ゴミの山の間にころがっている古い女靴から来るものであることに気づいた。  履き棄てられたゴミの山に片一方だけ、わびしく転がっているそのハイヒールは、多分もとは鮮やかな赤色をしていたのであろう。今は黒か茶に見えるほど汚れ、ひび割れて硬く朽ちてしまっていたが、私にはなぜかその靴の華やかだった過去が思い|泛《うか》んで来るのであった。  その靴に似た赤いハイヒールが、私の靴と並んで銀座を歩きまわったことがあった。喫茶店のテーブルの下で、その爪先が私の足をつつき、|悪戯《いたずら》っぽい表情を示していた。その靴の主は、よくそうやって陽気な笑い声をあげ、私をたのしませてくれたものであった。私と同じような早さで酒をのみ、私と同じように何軒も|梯子《はしご》をすることが好きであった。あれは春の終りの暗い晩のことで、私は部屋に坐って長い間彼女を待っていた。外に車の停まる音がして、寝静まった界隈にしばらく男女の声が聞えていた。やがてハイヒールの音が近づき、待っていたドアがあいた。その女はだいぶ酔っていて足もともあぶなげであったが、家の中に入ると急に酔いを醒ましたらしく、しっかりした声で「ただいま」と言った。もうだいぶ記憶はうすれたが、とげとげしいやりとりがしばらくあったはずで、そのあと女は水をのみに立った。酔い醒めの水をうまそうに飲みほしたあと、彼女は私にとってひどく不可解な微笑を見せて言った。「しっかりつかまえてなきゃ駄目じゃないの……」  それは留守の間に飼犬を逃してしまった時のような言い方であった。もうほとんど忘れかけていたが、ゴミの山の間にころがったハイヒールを見て、私は急にその女のことを思い出したのである。あの次の朝、しらじらとした光の中で、私は脱ぎ散らしてあった赤いハイヒールを、きちんと揃えてからその玄関を出た。  脱ぎ散らした靴の記憶はもうひとつあって、それも同じ赤い靴だったような気がする。明け方の酒場の出来事で、若いホステスが二人ほど、床にうつぶせに倒れている女の名を大声で呼んでいた。ハイヒールが片一方、とんでもない遠くへ飛んでいて、私はそれを拾って手に持ったまま、電話の一一九番をまわしていた。二日ほどしたあと、隙間風の吹きこむ殺風景な板張りの病院に見舞うと、自殺をしそこなった女は、すさみ切った薄笑いを泛べながら私に言った。「最初の彼と田舎から駆け落ちした記念日だったのよ……」  それは私に対する欠勤の言いわけのようでもあり、疲れ切った者が気をとり直して立ちあがる時の声のようでもあった。私はそのあと彼女に恋をしてしまった。なぜそんな気持になったのか、今では判るような気がしているが、とにかくその恋はひめやかで苦いものであった。一度も口には出さなかったし、相手もそれに気づいた風はなかった。それ以後一年半ほどの間に、彼女は男を何人か変え、そして私の前から姿を消した。  そうした過去の出来事が、とんでもない早さで私の内部によみがえり、自分の過して来た人生の分量を、私は次第に意識しはじめたようであった。踏切りを渡り、世田谷区役所の方へ近づいて行くと、急に若い男の姿が増えはじめ、互いにすれ違うたび、オッス、オッスと怒鳴り合っていた。国士館の学生達であろう。これは歩き慣れた私の散歩コースで、そうした学生達の様子にも馴れてしまっていたが、さっきの赤い靴のせいか、彼らの未来がどういう風に使われるのか妙に気になっていた。彼らのこれからの人生の中に、脱ぎ散らされた深夜のハイヒールがあるのだろうか。それはあったほうがいいものなのだろうか。ないほうが幸福なのだろうか。  結局のところ、それは人それぞれということでしめくくられてしまう事柄なのであろう。私自身について言えば、脱ぎ散らされた女靴のある夜更けは、いやおうなしにくくりつけられた人生の一場面で、避けようもない必然的な夜であったような気がする。  小説を書こうなどと、夢にも思っていなかったのが、はたち代前半の私である。それが小説を書いて暮すような身になっている。そのような、急速にきしみ曲ったコースを経験するについては、きっと曲り角でいろいろなものが投げ出され、入り混らねばならなかったのだろう。女が、友人が、信頼が、憎しみが、その曲り角で荷崩れのようなことになり、靴はそこで脱ぎ散らされたのだ。  そのようなごたごたの挙句、まだ揺れ残しながら松陰神社前へたどりついた気がする。だから、SFなどという新しいジャンルの物語を作り出そうとしているくせに、ひどく古めかしいものと雑居して、現に原稿を書くのも和風の道具だてでないと筆が進まない性分なのである。座椅子に座蒲団を置き、障子にかこまれた部屋で文机に対している。家では一年中和服だし、番頭然とした黒の前掛けも、たまに外すと何やら落ちつかない。椅子に机という洋風のほうが作業が楽なのは判り切っているが、それではまるで仕事にならなくて、十二、三時間も筆をとり続けると、すぐに腹筋などが|痙攣《けいれん》して来るような無理な姿勢で文章を綴って来た。散歩道が必要だったのも、そういう姿勢のためであった。  その散歩道は区役所の前の道を横切り、更に世田谷の奥へ向って進んでいる。なぜそういう道順にきめたのか、いつきめたのか、もう覚えてはいない。このように、すっかり忘れてしまっていることもある。赤いハイヒールのように、思い泛べればとめどもなく出て来る記憶もある。しかし、奇妙なことに、よく憶えていることでも、例えば女達の顔のような部分になると、どう思いを凝らしても明確には泛んでこないものもある。  なぜ記憶はある程度しか人間に許されていないのだろう。もし人間がコンピューターなみの記憶力を備えていたら、胎児の頃のことも憶えているのではなかろうか。  私はSFを書きはじめてから、そのようなことも考えてみるようになっていた。胎児というのは、魚の時代には魚の意識で生きているのではないだろうか。猿に近づけば猿に近い思考をしているのではないだろうか。胎児はそうやって成長し、成熟し、やがて老化した胎児として死ぬ。主観だけの世界では、記憶を失うことは死と同じなのではないだろうか。誕生は胎児の死であり、胎児がすべての記憶を喪失する瞬間である。でなければ、人間は胎児の頃の記憶を持っていてもよさそうに思えるのである。胎児の時代の二次元の意識は誕生によって三次元に変る。とすれば、三次元の意識を持つ人間は、老化によって次の誕生に向い、人間時代の記憶のすべてを失って四次元の意識に生きるようになりはしないだろうか。|蜻蛉《とんぼ》や蝉は幼虫時代の記憶を持っているのだろうか。私にはそんなことを考えつづけていた記憶がある。だが、春めいた静かな散歩道をたどりながら、そのことで私には新たな疑問が湧いて来るのであった。私はなぜ、いまだにこんなたくさんの記憶を持っているのだろうか。忘れてしまっても不思議でないようなこと、記憶しなくてもいいようなことを、私は体いっぱいにぶらさげ、引きずりながらこの散歩道にいるのだ。  道は下り坂になっている。細い横道へ入ると、多分以前はこの辺りの広大な畑の主のものであった筈の、古びた広い農家風の家の傍へ出る。大きな|椎《しい》の木がそびえていて、その根方を通る道ぞいが、黄色い竹の垣根になっている。赤や青の瓦をのせた安っぽい家並みが跡切れたこの細い道は、昔の世田谷の匂いをまだかすかに残しているようで、私はここへさしかかるたび、ことさら歩みをゆるめるのであった。散歩道はそこで小石まじりの土の道になり、急に下りになっていた。  下り坂の真正面に豪徳寺の森が見えている。その左は世田谷城趾の森だ。ふたつの森はこんもりとひとつに重なって見え、遠望するとその中に深い安らぎの場所を秘めているように思えるのであった。この世田谷らしい登り下りは、舗装された幅広い道をたどっては決して判らない。何度も何度もたずね歩き、一本、また一本と、それらしい趣のある小道をつなぎ合わせた道順でなければ得られない感じであった。私は歩き慣れた道を、ほとんど無意識に曲りながら、あの森の中へこのまま消えてしまえればいいのに、と思った。  坂を下り切ると、左右に細いが車の通行のはげしい道が伸びていて、最近ではそれが一方通行にきめられている。次の気に入った細道へ入るまでの間、私はどうしてもその道を歩かねばならず、この散歩道の欠点になっていた。日曜日だというのに、車が次々にやって来て、ぶらぶらと進む私の背後から通り抜けていった。  やがてこんもりとした生垣が両側につらなった細道へ入りこみ、車の音も次第に遠のいて行く。その細道のおわりは小さな石の橋で、鎖から逃げ出した犬が一匹、ま新しい革の首輪をつけた首をのばして、さも幸福そうにその短い石の橋の上に寝そべっていた。私はその犬を通り抜け、豪徳寺の長い塀が見えるあたりに出てから、急に立ちどまった。  考えてみればおかしなことであった。いったい私はなぜきまった道順で歩いて来たのだろう。いや、道なりに歩いていることすら、不思議である。今まで、私は人々の行くような道に乗れず、脇道にばかりそれていたのに、することがなくなったこの日曜日、なぜ道にばかりこだわっているのだろう。  道というものにこだわりすぎている自分がおかしく、私は思い切って道からそれてみることにした。そこは家を建て残した小川ぞいの冬枯れの畑で、赤い土が|錆《さ》びた有刺鉄線に囲まれ、中央にドラム罐が一本あって、その傍に大きな焚火の跡があった。  私はドラム罐と焚火の跡に立って、またひとつの、遠い記憶にとらえられていた。昭和二十三、四年ごろの、敗戦の混乱が濃く残っている、物資のない頃のことであった。  私はその頃読書好きな中学生であった。活字ならなんでも読んだ。意味のよくとらえ難いものほど読後感は充実していて、年齢にふさわしくない読物ほど魅力的に感じられるのだった。いつの間にか雑誌の山ができ、蔵書が増えるのだった。  しかし、小説など読むとロクな人間にならない、というのが、当時の私をとりまいていた考え方であった。ちょっとした口ごたえとか、きっかけを見つけては、周囲の者が私から書物をとりあげ、火に投じてしまった。まさに|焚書《ふんしよ》である。物資の少ない頃のことで、焚書はたいてい台所の裏にあるドラム罐の野天風呂の下で行なわれた。長男の私はいの一番にその風呂へ入ることを強要され、ドラム罐の湯につかりながら、目の前にたちのぼるわが蔵書の煙に顔を歪めたものであった。  随分遠い思い出であった。しかしその思い出と今畑の中にいる自分との間には、何もなかったような感じであった。生れ、生きた。ただそれだけのことであって、焚書の煙がどこで立ち昇ったか、火に投じたのは誰かなどということは、まるでささいなことのように思えた。現に、数分間焚書を誰がしたか思い出そうと努めてみたが、どうしてもその人間が頭に|泛《うか》んで来なかった。  だが、焚火の跡をみつめてぼんやりと立っていると、思いがけぬ強さである不安がひろがって来た。今日、私の書斎へは多分何人かの友人が来るはずなのである。私は他人に蔵書を見られるのが嫌だった。書架には必ずカーテンを引き、小説を書く仕事に関係あろうとあるまいと、来客には一切蔵書を見せずに通して来た。それを見られるかも知れないという不安であった。そして、この|期《ご》になってまだそんな気分が残っていることにわれながら驚いていた。  さっき渡った小さな石の橋が右側に見えていて、両岸をコンクリートでかためられながらも、まだ世田谷の小川といった風情を残している深い流れが、よく晴れた冬の空の下で、小気味よい音をたてていた。流れの幅は三メートル近くあり、向う岸もやはり赤い土の露出した畑であった。こちら側と同じように有刺鉄線を張りめぐらし、野菜を育てるというよりは家が押し寄せて来るのを待っているといった風情であった。そして現に家はその畑のすぐ近くにまでびっしりと立ち並んでいて、もう半年もこの散歩道を歩きまわっていれば、そこに新しい家を見ることができるのは間違いないことのように思えた。  遠い|鴉《からす》の|啼声《なきごえ》が聞えた。多分豪徳寺の森からであろう。冬の日の鴉の啼声は、私の好きなもののひとつであった。それは時の川に流れて行く人の想いを送る歌のようであった。冬の日の鴉の啼声は、明日に向って届く声では決してなく、きのうに届く別れの歌声である。そしていま鴉は、ほどよい遠さでくり返しくり返し啼いている。私はすべてを忘れその別れの歌声に聞き入っていた。  私は自分を待っているものの気配を感じてふと我にかえった。とうに鴉は啼きやんでいたらしく、ずっと左側にある橋のかかった道を、トラックが乾いた砂塵をまきあげて突っ走って行った。それを見送っていると、なぜ自分がこんな畑の中に立っているのか判って来た。道を歩く自分に疑問を感じたからである。それこそ習慣というものだろう。私はそう思い三段に張りめぐらした畑の有刺鉄線を通って小川の上を越え、向う側の畑に渡った。これでいいのだ……強くそう感じた。長い間道を捜し、道にそって歩いていた。私の人生で、それは決してうまく行ったとは言い切れない。むしろ多くの人々が行く道からはとかくはぐれがちで、遠まわりで厄介な細道ばかりを選んでしまっていたようであった。しかし、それも今になってみれば、人並みに道を歩いたことには変りなく、私は私なりに充分に生きて来たのだという実感があった。もうこの散歩も終りにするべきだ……なぜかその時、少しさし迫った感じでそう思った。直角に曲り続けてここまで道を歩いて来たが、それは無意識にやった遊びのようなもので、戻る必要を感じたあとは、道なりに行くことなど考えもしなかった。来た方角の見当をつけると、私はその方へ一直線に進みはじめた。  それでも、最初の家を通り抜ける時、ちょっとした違和感があった。自分がひどくぶしつけなことを他人に対してしているという、奇妙なうしろめたさがあったのである。つけ放しのカラーテレビの前で、赤ん坊が機嫌よく指をしゃぶっているところであった。襖をあけたとなりの部屋では、夫婦が昼めしを食べていた。私は赤ん坊と食事中の夫婦の間を通り、ステンレスの流し台を突っ切って外へ出た。出るとすぐにまた目の前にモルタルの壁があり、中に入るとそこは若い兄弟の寝室であった。書物や衣類が雑然と積まれたその部屋で、兄弟は日曜の朝寝をたのしんでいるらしかった。兄は煙草をふかし、弟はコーラの|瓶《びん》を枕許に立てて雑誌を読んでいた。次の部屋はきちんとかたづいていて無人であった。そうやって斜めに家々を横切っていくと、すぐにさっきの一方通行の道へ出た。小さな車が私の体を突き抜けて去って行く。その先は登り坂になっているので、私は二階の高さまで浮きあがった。その時、世田谷通りの方向からこちらへ向って私と同じような高さで一方通行の道の上を浮いてくる男が見えた。私は立ち止まってその男を眺めた。男は妙に陽気な表情であたりを見まわしながらやって来た。高さを変えたり、道ぞいの家の二階へ入りこんだりしながら進む様子はかなり楽しんでいるようであった。しかしその男は、私がじっと観察しているのに気がつくと、ひどく照れ臭そうな薄笑いをみせ、急に豪徳寺の方へ曲ってしまった。同じ状況に置かれても、人それぞれで反応のしかたが違うのだろう。反応のし方は、そのもの自身の内部の問題で、私とは全く関係がないのだということが判った。私には私の世界があり、もしそれが彼の世界と重なったとしても、交わることはあり得ないのである。私はふたたび進みはじめた。何かが遠い所で烈しく光っていて、その光が私のところへも束になって届いていたが、光の源が何であったか、目的地へ着いても思い出せなかった。  目的地は直角に曲った道の角のところにあって、黒い四輪車が木の門の前に停まっていた。黒い車は走り去ろうとしており、二人の女が家の外へ出てそれにお辞儀をしていた。私は二人の女の前へ立ってその顔をじっと見た。すると薄れていた記憶がやっとよみがえって来た。一人は母で一人は妻であった。二人とも蒼ざめた顔で、家へ入るとき母が妻の肩に手を置いて何か言っていた。しかし、私がその言葉の意味を思い出す前に会話は跡切れてしまい、妻は玄関のすぐ脇にある部屋へ駆けこんでしまった。母のあとについて家の中へ入ると母は妻が音をたてて閉め切ったドアの前にたたずんで、しばらく中の様子をうかがっているようであった。玄関に四角い透明な水槽があって、その中に赤い色の魚が数匹泳いでいた。なぜそんな所に生命がとじこめてあるのか、私には理解できなかった。  私は肥った母の体を通り抜け、奥へ向った。何の為に急いでここへ戻って来たのかもはっきり判らなくなっていて、奥へ行けばその答がみつかりそうな気がしたのである。  奥には男たちがいて、その中の一人が急に立ちあがると、出会いがしらに私を突き抜けて玄関の方へ去って行く。どうも私の弟であるような気がした。  部屋には五人の生きている男と、生命のない体がひとつあった。生命のない体の顔の部分には白い布がかけてあり、五人の生きている男はその前で低い声の会話を交していた。  これは私だ。私はそう直感した。こんもりと盛りあがっているその横になった体は、私にとってうるさいほどなれなれしい感じであった。……そうだ、私はついさっき死んだのだ。私はそう思いながら私をみおろしていた。この肉体が、私の生の一段階を養っていた……そう思い、そうに違いなかったけれど、今の私にとって、それはまるで別の生物のように縁遠い醜怪さを備えていた。これが我々の胎児なのか……そう感じた時、何か不条理なものが私の内部に湧きあがっていた。それは遠い遠い前世の記憶とでも言ったもので、胎児を見たことで触発され、泛びあがって来たものであった。  以前これと似たような感覚を持ったことがあった。胎児……それは胎児に関する何かである。胎児が記憶を失う。たしかそんなようなことであったらしい。しかし胎児とはいったい何だ。これは何なのだ。私はいまどこにいるのだ。いや、私とは何だ。どこにいるのだ。誰なのだ。誰とはどういう意味だ。 「なるほどそれは悪夢ですな」  精神科医はそう言って笑った。その笑いには好意ばかりではないものが混っていた。 「昔から風邪で熱を出したようなとき、きまって今のような夢をみるんです」  私は少しむきになって主張した。 「いつも細部まで同じなのですね」  医者は私の申立てを懸命になって信じこもうとしている様子である。 「勿論です。風景や見る角度ばかりでなく、その時自分が感じること、頭の中の言葉など、何度見ても寸分の違いもないんです」  すると医者は詳細に書き込んだメモを見ながら、一語一語読みあげるようにたずねた。 「今の悪夢を、あなたは何歳ごろから見はじめたと記憶しているのですか」 「小学校五年か六年のころからです。しかし先生、最初の内はあの夢がどんな意味を持っているかよく判らなかったんです」 「おかしいですよ、あなた」  医者は私を|諭《さと》すような言い方になっていた。 「あなたはどこかでとり違えているんです。いいですか。まず第一にその焚書の記憶です。あなたは実際に焚書された経験があるのでしょう」 「ええ、ありますとも。しかも夢のとおり、ドラム罐の野天風呂で燃やされたんです」 「それは中学生の頃のことでしょう」 「そうです。だが五年生の頃、もうあの夢を見はじめていたんです」 「それじゃ予知したことになりますよ」 「しかし見たんです。たしかに何度も……」 「第二……」  医者はそう言うとメモを眺め、すぐ上目遣いで私を睨んだ。「赤い靴の記憶も夢の中に入っていますよ。それも小学生の頃すでに見たというんですか」 「仕様がないでしょう。見たものは」 「その夢の中の記憶どおりのことが、あなたの人生に実際に起っているのは二十歳をこえてからですよ」 「だから不思議でしょうがないんです」 「SFを書きはじめたのは三十になってからでしょう」 「ええ」 「もうよしましょう、あなた。少しお疲れなんじゃありませんか」 「たしかに疲れ気味です。だから仕事をしばらく断わって、こうしてのんびり休養しているんです。暇が出来たので、長い間疑問に思っていたあの夢のことを知ろうと思ってうかがっているんです」  医者はつまらなそうに、自分の掌の皮を爪の先でむきながら言った。 「想像のしすぎとでも言うより他にお答のしようがありませんね」 「そうでしょうか」 「でなければ錯覚です。ごく最近見はじめた夢を、ずっと以前から見続けていると信じこんだのでしょうね」 「たしかに理窟に合いません。でも、合わないからこうして……」  医者は陽気な笑顔になって、私の瞳をのぞきこむようにした。 「健全なんですよ、あなたは。自分で思っているよりずっと健全なんです。ただご商売がご商売ですからね。以前あなたと同じ、小説を書く方を診たことがあります。夢の中で次の場面をどんどんご自分で作り出してしまうのだそうです。その夢の中の創作が調子のいい時はかまわないが、調子が悪いと夢がひとつの場面に|膠着《こうちやく》したきり、どうしても次へ移らなくなってしまうのだそうです。そうなると、なんとか筋を運ばせようと思って、とても苦しくなって目が覚めてしまうのだそうです。私たちから見れば少しユーモラスな状態にも思えるのですが、ご本人はとても気にしていらっしゃいましてね。あなたの場合は丁度それと同じようなものだと思いますよ」  医者はなだめるように言い、私を追い返そうとしているようであった。  しかし、私が長年あの悪夢を見続けているのは、断じて錯覚などではないのである。私は悪夢について打明けるべき相手の選び方を誤ったと思った。  あれは胎児の記憶に違いないのだ。しかもその胎児というのは、長い長い|輪廻《りんね》の環をへた|涯《は》ての、偶然いま私がいる世界での存在なのであろう。あの悪夢のあと、私は次の世界での生命として存在したに違いないのだ。あれは死の直後の状態に違いないのだ。人間は死に、そのあとほんのしばらくの間、どっちつかずの状態に陥ったあとで、急速に記憶を失い、この世界から去って行くのだ。  精神科の医者に別れを告げた私は、通りへ出るとタクシーをとめ、世田谷の家へ向った。私はたしかに世田谷に住んでいて、母もまだ存命している。この条件の中で私は死ぬに違いない。しかし、やがて来る死を恐れ悲しむより、巨大な輪廻の環をつらぬいて、生命がひと筋ひと筋涯てもなく生き続けているということを知った喜びにひたっていた。  東京の二月には珍しい、春めいた穏やかな日が続いている。  あとがきにかえて  小説など読む奴はろくな人間にならない。  子弟の教育について、心の底からそう信じている家庭に、私は生れ、育った。  ところが不幸なことに、どうやら私は文字を憶えるのが早い子供だったらしい。学齢以前のことなど、そう記憶しているわけはないが、どこかへ行く汽車の旅で、停車するごとに駅名を読んでいた自分を憶えている。  あとから考えると、親たちは駅名を大声で読みあげる私が自慢だったらしい。周囲の乗客が文字を読む私に好奇の目をむけるほど、私は幼かったということだ。文字を読むという点に関する限り、親たちは私を利発だと思ってくれていた。  多分、列車の中だけでなく、家に来た客にも、近所の者たちにも、幼い私に文字を読ませて楽しんだはずである。|褒《ほ》められれば面白いし、私はどんどん文字を憶えて行ったのだろう。新聞にもルビが振ってあった時代のことだ。平仮名頼りに漢字を憶え、やがて昼寝の枕にもなるほど分厚い講談本に目を通すことになる。  まったくおかしな家だが、講談本は置いてあった。小説とは厳然と区別していたらしい。講談本も総ルビである。私はいっそう文字を憶えた。文字を読む快感が先で、内容は二の次であった。  近くの親類が二階に下宿人を置いていて、それがどうも文学青年だったらしい。私はのちに、その下宿人の部屋で、ルビのない、漢字は漢字だけの本があることを発見した。私は夢中になって読んだ。その頃はもう小学生で、家へ持ち帰って読んでいると、母親に見つかっていきなりぶたれた。  忘れもしない、それは葛西善蔵の本であった。そして私の長いかくれ読みの歴史がはじまったのである。お宮の裏や横丁の塀によりかかって、私はルビのない本を読みふけった。それが私小説という分野の作品であることも知らず、ただ文字を追い、ぼんやりと物語の筋を理解した。今でも貧乏人というと、よれよれの伊勢崎銘仙の尻をからげ……という文句を反射的に思いうかべてしまうのは、その頃の教養の然らしむるところである。  友達のない、内向的な子供になったのは、小説を読んだからではなく、読むことを禁じられ、かくれ読みした影響であろう。読みかけの本を、家の裏のヒミツの場所に隠したり、便所で読んで、出る時は落し紙の箱の下へ置いて何食わぬ顔で手を洗い、あとで外からまわって掃き出し口から回収したりする知恵は、犯罪者の知恵と同じで、だから私は非行少年と同質の|怯《おび》えがつきまとって離れなかった。  山中峯太郎、海野十三、南洋一郎、野村胡堂などの少年向きの本に触れる前に、葛西善蔵や島崎藤村などを読んでしまったことが、のちの私にどんな影響を及ぼしたのか、そのうち分析してみようと思っている。  年相応の本にめぐり会えたのは、小学四年になってからである。その頃になると、上級生がそういう本を読んでいて、私の接触半径に入ってくる。私は年上の子としかつき合わなくなった。  読む要領を憶えてしまったから、海野十三や南洋一郎のものなどは、一日に二冊借りないと翌日まで持たなかった。  上級生の、そのまた兄さんから借りた、江戸川乱歩の蜘蛛男かなんだったか、とにかくそういうギトギトした本を発見され、狂乱状態の母親に引き裂かれてしまったときは、川へ身を投げて死んでやろうと思い、本当に夜遅くまで橋の上にいた。  それ以来、私の読書にたいする親たちの警戒が厳重になり、雨の日は読めなくなった。いつもふた町内ほど離れた神社の裏で、夕暮れまで読みふけっていたのだ。豆腐屋のラッパが読むのをやめて家へ帰る合図になった。今でもあのラッパを聞くと、家へ帰らねばと感じるときがある。  |譚海《たんかい》という雑誌があって、家ではその雑誌が特に禁じられていた。何が面白いと言って、禁書を読むほど面白いものはない。いつかオール讀物の書評欄でズバリ言われ脱帽したことがあるが、「黄金伝説」という作品は、譚海を私なりに復刻するつもりで書いたものである。あれを書いたとき、私は本当に幸福だった。少年時代の禁書碑を建立したつもりだったのだから……。  戦後も禁書は続いた。母親は読みもしないくせに、田村泰次郎や横光利一をエロ本だと言って焼いた。物のない焼け跡時代で、私のかくしていた本たちは、家の裏のドラム罐の風呂の下で赤い炎になった。父はとうに死んで、長男の私がまっ先にその風呂へ入れられた。湯気の中で泣いたことを忘れない。そのとき私をあたためてくれていたのは、私の本たちであったのだ。大人になったら本を大切にするよと、私は私をあたためた本たちに誓った。だから今でも、雑誌が溜ると処分に困ってしまうし、短篇集を出すので雑誌をバラさなければならぬ時など、虐殺するように思えて仕方がない。  バラック建ての本屋でアメージング・ストーリズにぶつかった時は、こんな世界があったかと、息のつまる思いだった。一冊買って帰り、読んだあと夢遊病者のようにまた同じ本屋へ行って、七冊ほど残っていたのをみな買ってしまった。ほかの奴に読ませたくなかったのである。  その頃かどうか、ギュセッペ・ベルトゥという人の「空は赤い」という翻訳ものを読んだ。共感の涙でよく読めぬほど感動した。一生手ばなすまいと思ったが、その後の乱れた人生でどこかへ行ってしまった。今でも古本屋の棚で、私はあの本を探している。  手に入りさえすれば、何でも滅茶苦茶に読んだが、常に手もとには一冊も置けなかったから、その中の何冊かをあげて語ることはしにくい。ただ、私が現在幸福の絶頂にいることを申しあげて置く。自由に読めるどころか、なんと私は本を書いているのである。本を一冊刊行するたびに、私は心の中で叫んでいる。  ざまあみろ、クソババア。   昭和四十八年十二月  初出誌一覧 白鳥の湖     ミステリマガジン/昭和四十六年十月号 森 の 妹     別冊小説宝石/昭和四十八年六月号 箪 笥     幻想と怪奇/昭和四十九年一月号 ちゃあちゃんの木     問題小説/昭和四十八年十月号 炎の陰画     日本の宗教/昭和四十九年創刊号 逃 げ る     S・Fマガジン/昭和四十八年五月号 散歩道の記憶     S・Fマガジン/昭和四十七年二月号  単行本 昭和四十九年八月 河出書房刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十一月二十五日刊