半村 良 平家伝説 本作品は、昭和四十九年八月「別冊小説宝石」(盛夏特別号)に発表の「嘆き鳥」を改題、新たに稿を加えて、長編としたものです。 (著者)  第一章   銭 湯  国電の線路の土手下にある家の古びた板塀の中から、細くひねこびた桜の木が一本突きだしていて、どこかうす汚れた感じの白い花びらが風に散り、四角いコンクリートの踏み石を点々と敷きならべた細い道へ舞い落ちている。  轟《ごう》、とまた電車が通りすぎる。浜田五郎は頭上から落ちてくるその音の中を、爪先で跳ねるように踏み石をつたって歩いていた。  綿のスラックスをはいている。もとはずっと黄色っぽかったのだが、洗いざらしてすっかり白くなり、かえって清潔そうに見える。その上に鼠色でVネックの毛糸のセーターを着て、襟《えり》もとからチェックのオープン・シャツをのぞかせている。  きのう雨が降って、その土手ぞいの細い道に溜った水は、まだ二、三日は乾かないはずであった。とびとびに置いてある四角い石のひとつが、溜った泥水の中に沈んでしまっていて、そのかわり横に幅二十センチほどの古い角材が寝かせてある。ところどころに切り込みがあるところを見ると、かつては建物の柱か梁《はり》だったものらしい。  浜田はサンダルばきの足を用心深くその上にのせ、泥水の上を一歩、二歩と古い角材をつたって次の踏み石へ渡った。角材から足が離れるとき、反対側の端が、ポチャッと泥水の音をたてた。  そこから先は踏み石の間隔が狭くなっていて、十歩ほどで舗装した道へ出る。角は木工所で、国電の土手へ材木をたてかけ、いつも電気鋸の耳ざわりな音を響かせているのだが、今日はもう仕事をしまったのか、ガラス戸をしめ切って静かだった。  浜田はその角を曲って、乾いた道をまっすぐに行く。左手にプラスチックの青い洗面器を持っている。その中には、石鹸箱と安全剃刀、それにシャンプーの容器が入っていて、ガソリンスタンドの名前が入ったタオルがかぶせてある。  風呂屋はその道を二、三分行った右側にあった。時間は四時ちょっと過ぎで、ウィークデーなのにまだ陽があるうち風呂へ行けるのは久しぶりのことなのだ。  浜田は青いのれんをくぐり、サンダルを入口の簀の子のいちばん奥のところへ脱ぎっぱなしにして中へ入った。  番台には二十七、八の、どこと言って特徴のない女がいて、まん中が少し摺り窪んだ板の上へ浜田が金を置いても、すぐには受取ろうともせず、うつむいて小さな鑢《やすり》で爪の手入れをしていた。  高く積みあげた笊《ざる》をひょいと取って、浜田は板の間の左側に並んだ鍵つきの脱衣棚の前にそれを抛るように置くと、手早く着ているものを脱ぎはじめた。  板の間には、はやばやとあがった若い男が、白い小さな尻を浜田のほうに向け、鏡の前で、洗った長髪にドライヤーをかけている。それとほかに老人が一人、これも湯あがりの素っ裸で、番台の女に何か話しかけに行こうとしているようだった。  浜田は青い洗面器を持って板の間から重いガラス戸をあけ、まだあちこちタイルが乾いている流しへ入った。四時が開店時間だから、まだ客は何人もいない。乾いた木の桶をとって蛇口《カラン》を押し、湯を汲んでざっと左肩から流した。桶を置くと、コーン、という音が高い天井に反響する。  浅いほうの湯舟へ入って体を沈め、まだ陽が入っている天井の窓を見あげていると、 「今日は早いんだね」  と、となりの湯舟から声がかかった。 「あれ、おじさんもここで入るのかね」  浜田は相手の顔を見ておかしそうに言った。頭のつるりと禿げあがった、血色のいい丸顔の男だった。歳は五十五か六。 「俺だって湯ぐらいへえるさ」 「それもそうだな」  浜田は軽く笑った。 「でも、見違えるね。いつも番台に坐ってるのとだいぶ違うもの」  風呂屋のおやじは、両手で湯をすくってブルンと顔をなでた。 「ふつか酔いなんだ。きのうは休みで寄り合いがあったのさ。少しやりすぎちゃった」 「ふつか酔いか。でも、もう夕方だよ」 「としだねえ。肝臓が参っちゃってるのかなあ」  おやじは、ざあっと湯を溢れさせて湯舟から体を出すと、タイルのへりに尻をのせて両肩をまわした。 「あんた、もう随分この辺《へん》にいるね」  ガラス戸のほうへ向いたまま言う。 「うん」 「どこら辺《へん》」 「ガードのそばの松田さんというアパート」 「ああ、以前ドブだったガードのとこか。あそこはうるせえだろう」 「慣れちゃったよ」 「そうかい」  おやじは笑って浜田を見た。 「何の仕事してんの」 「俺かい」  浜田は一度ガラス戸の向うの番台へ目をそらし、 「運転手さ」  と自嘲気味に言う。 「車の」 「うん」 「タクシー」 「いいや」 「トラック」 「自家用さ」 「ほう、お抱えかね。いいじゃないか」 「あんまりよくないよ。不規則だしね」 「故郷《くに》、どこ」 「石川県だよ」 「あ、やっぱり」 「判るかい」 「加賀じゃねえな」 「うん、能登だ」 「どの辺《へん》」 「外浦《そとうら》だよ。輪島と狼煙《のろし》の間」 「曾々木《そそぎ》」 「もっと先」 「真浦《まうら》の辺《へん》」 「いや」 「じゃあ……馬緤《まつなぎ》か高屋《たかや》」 「よく知ってるね」 「そりゃ、うちも能登だもん」 「へえ、東京の生え抜きかと思ったよ」 「もっとも、今じゃ向うに親戚があるっ切りだ。俺は東京生まれさ。でもよ、風呂屋ってのは能登が多いんだぜ」 「そうだってね。能登、加賀、越中、越後……。死んだお袋がよくそんなことを言ってたなあ」 「東京は越後が多いけど、関西へ行ったら風呂屋は能登だらけだ」 「関西のことは知らないけど、三助は能登の人が多かったんだってね」 「まあそうだ。三助なんてのも、今じゃもうすっかりなくなっちゃったなあ。でもよ、三助をしてれば、いずれ風呂屋になる奴も出て来るわけだ。うちの先祖もきっと三助だな」  おやじは人の好い笑い方をした。 「なあ、三助してやろうか」 「いいよ」 「なぜ」 「遠慮するよ。何だか気持悪いもの」 「畜生」  おやじはまた笑った。 「そういう世の中になっちまったんだな」 「ごめんよ。でも、本当にいいんだ」 「いいよ、いいよ。でも、それにしちゃ、あんた訛りがないな」 「早くに東京へ出て来ちゃったからね」 「早くにって、子供んときにかい」 「うん」  浜田も湯舟から出て、タイルのへりにおやじと並んで腰かけた。 「先《せん》からあんたに話したいことがあったんだ」 「へえ。なんの話」 「あんたのその痣《あざ》さ」  おやじは浜田の右の肩のうしろにある、かなり大きな痣《あざ》を指で軽くつついた。 「ああ、これ」 「知ってるかい」 「何を」 「知らねえのか。お袋さん、能登の人だろ」 「うん」 「聞いたことないのかい」 「何も」 「そうか。だろうな。ひょっとすると、こいつは能登|出《で》の風呂屋しか知らねえことかも知れねえな」 「こういう痣《あざ》に何かいわれでもあるの」 「うん。そいつは鏡に映すと自分で見えるだろ」 「見えるよ」 「じゃあそう思わねえかい。その痣は鳥が飛んでるような形をしてる」 「ああ、小さい頃からみんなによくそう言われたよ。背中に鳥が飛んでるって」 「鳳凰《ほうおう》なんて鳥の絵は、みんなそんな具合だ」 「そうかね」 「うん。で、そういう痣には昔から俺たちの間で、ちょいと粋な名前が付いてるのさ」 「なんていう名前」 「嘆《なげ》き鳥《どり》」 「嘆き鳥か。いい名前だね。痣なんかには勿体ないや」 「うちのすまいのほうに、それとそっくりの形の鳥の絵が飾ってあるんだよ。何代も前からうちにあるんだ。小さい頃、じいさんからよく言われたもんさ。お前は大きくなったら風呂屋になるんだ。風呂屋は嘆き鳥の形をよく憶えとかなきゃいけねえ、ってな」  おやじは昔を懐しむように目を細めた。 「だから、あんたがはじめてこの風呂へ来た時から、俺はずっと目をつけていたのさ。ああ、また嘆き鳥が来たな、ってね」 「どうして風呂屋さんは嘆き鳥を憶えてなきゃならないんだい」  浜田は自分の右肩をのぞきこむように首をひねって言う。 「言い伝えさ。今じゃ風呂屋仲間でも、その言い伝えを知ってる奴は僅かになっちゃったけど、つまりその、何だ。……ほんのおとぎばなし見てえなもんなんだよ。俺だってかいつまんだとこしか聞き憶えちゃいねえが」 「教えてよ。自分の痣のことだもの、知っとかなけりゃ」 「背中流してやろうか」  おやじは先に立って鏡の前へ行った。  小さなプラスチックの腰掛けをふたつ取って並べ、桶に湯を汲んでその上へ半分ずつかけ流してくれた。 「有難う」 「向こうを向きなよ」 「いいんだよ」 「かまわねえよ。サービスだい」  おやじは勝手に浜田の石鹸を取って自分のタオルにつけ、ついでに両手へもつけて顔に塗った。 「こうしとけば脂が抜ける」  おやじは石鹸だらけの顔で笑うと、浜田の背中を洗いはじめた。 「ほんとによく似てやがるなあ。やっぱりこいつは嘆き鳥だ」 「どういう言い伝えさ」 「時国《ときくに》って知ってるだろ」 「曾々木《そそぎ》を入ったとこの、あの時国|家《け》かい」 「うん。平時忠《たいらのときただ》って人の息子だそうだ」 「随分昔の人だね」 「うん。平安時代のおわりごろさ。源氏と平家が戦って、平家が壇の浦で敗けちゃってよ。平時忠は捕虜になって能登へ流されたのさ。その流されて乗った船が岸へ着いたとき、一羽の鳥が飛んでくのを平時忠が見て、鳥が飛んでったほうへ行って、自分たちが住む場所を見つけたというわけさ」 「それが嘆き鳥か」 「うん。もっとも、こないだ週刊誌を見てたら、能登の旅行案内みたいなとこに、烏《からす》だなんて書いてありやがった。ありゃ本当は烏《からす》じゃなくて、嘆き鳥なんだぜ」 「へえ、そうかい」 「そういうわけで、時国家は能登へ来るそうそう、嘆き鳥と縁ができたわけだな」 「それで……」  浜田はおやじに背中を押されるたび、上体を前後に揺らせていた。 「時忠ってのは、平家じゃえらいほうだった。栄耀栄華をしすぎて源氏にやられちゃったくらいだから、平家の財産てのは大したもんだった。金持っていうのは、いつだって危くなれば、いの一番に財産の心配をするもんさ。源氏といくさになりそうになったとき、時忠もどこか安全な場所へ財産をかくしちゃったんだな」 「そうかも知れないね」 「かくしたんだよ。そいで、能登に落着いてから、こっそりそれをあっちへ運んじまったらしい。源氏の目をかすめてな」 「それで時国家というのは代々大金持だったのか」 「かも知れねえ。でも、宝のほとんどは……」  おやじは浜田の背中を流す手をとめ、うしろから勿体ぶった小声で言う。 「実はまだほとんど手つかずのままかも知れねえのさ」  そう言ってから軽く笑った。 「いまだにかい。どうしてさ」  おやじは蛇口《カラン》を押して湯を汲んだ。 「時忠って言う殿さんが、莫大もねえその宝をどこかへ隠しちまって、あとになると肝心の子孫にさえ場所が判んなくなっちゃったって言うんだ」 「隠しすぎか。馬鹿な話だね」 「うん」  おやじは石鹸をぬりたくった顔がこわばりはじめた様子で、浜田の背中をそのままにして、まず自分の顔をざぶざぶと洗った。 「でも、時忠はその隠し場所を、ちゃんと判るようにしといたらしい。なんとかという家来の背中に、嘆き鳥そっくりの絵を描いて、そいつを痣にして消えないようにしたって言うんだが、この話はそこいら辺《へん》からどうも怪しくなっちまうのさ」 「怪しいって……」 「眉唾さ。その家来の痣は、一代じゃなく、子孫代々うつるって言うんだ。そんな器用なこと、どうやってできたんだかね」  おやじはまた湯を汲んで、浜田の体へざあっとかけ、右のてのひらで背中を叩いた。ポン、とふくらんだ音が響いた。 「サンキュー」  浜田は鏡のほうへ向き直った。 「すると、俺はその家来の子孫かな」  おやじは顎を鏡のほうへ突きだし、髭の伸び具合を調べた。 「そうかもよ。でも、その家来は時忠が死んだあと、何かのいざこざでよそへ逃げちゃったそうだ」 「おやおや。それじゃ宝の地図に逃げられちゃったわけじゃないか」 「そうなんだ。あとをついだ長男の時国がアワを食ったね」 「だろうな」 「家来たちにあとを追わせたが、とうとうわからずじまいさ。それからっていうものは、嘆き鳥を追いかけることが、代々の主《あるじ》の仕事になっちゃった。何しろ平家再興の軍資金だからね。うまい具合に、はじめの家来が死んじゃっても、子供に痣が残って行くんだから、五代、十代あとでも、捜しだしさえすれば宝のあり場所は判るわけなんだ。しまいには、見つけ出すまで帰って来ちゃいけねえ、なんて、無茶なことを言われる家来もいたんだとよ」 「じゃあ、百年あとでもまだ捜してたわけか」 「冗談じゃねえよ。百年どころか、五百年も六百年も捜し続けたんだ」 「驚いたね」 「それくらい莫大な宝物だったって言うわけになるな。でも時国家のほうは、しまいにはあきらめちゃったらしい。ところがその宝の話はいつのまにかひろまっちゃって、能登には時忠の宝さがしをやる奴があとを絶たないようになっちゃった。目じるしは背中の痣……」 「あ、それで三助かい」 「そうなんだ。世の中に風呂屋なんてのがたくさんできるようになると、その痣めあてに風呂屋から風呂屋を流れ歩く奴が出て来たのさ。……と、まあ、これがちいさい時に俺が聞いた、能登の三助の由来だ」 「じゃあ、おじさんはとうとう俺を見つけたわけじゃないか」 「一緒に能登へ行くかい。宝さがしによ」  おやじと浜田は声を揃えて笑った。 「さて、そろそろ商売にとりかからなくちゃな」 「どうも有難う」  おやじはザブンと体に桶の湯をかけ、立ちあがってタオルをしぼりながら、湯舟の横の狭い戸へ去って行った。  浜田は背中をひねって背中の嘆き鳥を鏡に映した。のどかな春の銭湯であった。   自家用車  高村英太郎は物理学の博士号を持ち、いくつもの大学に関係している学者である。すまいは世田谷区の梅丘《うめがおか》にあり、父親の代からそこに住んでいるので、建物こそ古びているが、庭も広く、別棟の物置やガレージもゆったりとした大きさであった。  浜田五郎は三年前、新聞広告を見て高村家のお抱え運転手になった。あとで聞くと、前にいた運転手は何か高村の怒りに触れることがあって追いだされたと言うことで、新聞広告を出した時も、ほかに二、三心当たりがあったらしいが、どれも高村の気に入らず、結局浜田に落着いたのである。  家族は、夫人とその甥でいささか家令めいた安田という中年男、それに夫人と同じ年だというのに夫人よりずっと老いて見える女中が一人。  子供は男一人に女が二人いるが、長男は商事会社の社員で外国ぐらしを続けており、長女は銀行マンと結婚して、今はもう三人の子持ち。三年前、浜田が高村家へ行った当座は月に一度くらい子供たちを連れて遊びに来たが、しばらくすると夫が大阪の支店長になり、これも一家をあげて関西へ移って行った。  一番下の敏子という娘は浜田よりひとつ年上で、一年ほど前縁談が持ちあがり、去年の秋にめでたく華燭の典をあげたが、どういう事情かこの三月、突然実家へ戻って来てそれっきり帰る様子もない。  高村英太郎が昔風のかみなりおやじで、夫人は長年そのワンマンぶりにおさえつけられ、世間のことはまるでうとくなっている。末娘の敏子が出戻って来ても、ただおろおろするばかりで何の役にも立たないようだ。そのかわり、人形づくりにかけては素人ばなれしており、そのほうのコンクールでは毎年賞をとっている。  安田という男は、そういう少し陰気臭い高村家にはうってつけの人物であった。ワンマンの高村も、のべつ安田を呶鳴りつけているようだが、その実結構信頼して、家の中のことから表向きのことまで、概ね一任しているらしい。  五十近いのに、安田はまだ独身である。多分一生妻は持たないのではないだろうか。ひどく生気のない男で、高村家へ来た当座、浜田は病人だと思い込んでいた。とにかく足音も立てぬような静かな男だが、喋ると何事によらず仰々しい言い方をする癖がある。  ひょっとすると、そういう仰々しさが高村の気に入っているのかも知れない。高村は、先生とか博士とか言う呼び方がこの上もなくぴったりとする、いささか尊大な人物なのであった。  そのような、とかくしいんと静まりがちな高村家の中では、敏子ひとりが異彩を放っていた。  現代的、と言うよりも、あのやかましい高村英太郎が、なぜもう少ししとやかに育てられなかったかと思うほど、勝手気儘で行儀がよくない。  もうすぐ道路に面した大谷石の塀いちめんに白と赤の花を咲かせる蔓《つる》バラの手入れを、古い作業服に軍手といったいでたちの安田がはじめ、手のあいている浜田がそれを手つだいかけたとき、敏子がデパートの紙袋をぶらさげて外出から帰って来た。 「浜田君、車あいてる」  浜田は振り向き、微笑しながら首をかしげて見せた。 「ちえっ、判んないの。いいわ、おやじに聞いて見る。オーケーだったらたのむわね」  敏子は大股で家の中へ入った。 「どうもいかんねえ、彼女は」  花鋏《はなばさみ》を持った安田が、そのうしろ姿へ陰気なつぶやきを向けた。 「静かな人ばかりだから余計目立つんでしょう」 「浜田君だなどと、あんたに失礼だ。今はそういう時代ではないのに」 「かまいませんよ」  浜田は笑った。 「僕より年上なんだし。さばさばしてて、いいですよ」 「あんたは来年三十だったな」 「ええ」 「男はいいが、女はそうは行かん。彼女も三十前には嫁に行かせようと、随分骨を折ったものだった。さすがに当人も気が付いたのだろう。二十九になったら簡単に見合してかたがついた」  安田は塀に向かって鋏を動かしはじめた。 「ついたと思ったら半年であれだ。世間に顔向けができんじゃないか。それに三十だ、三十……」 「そんな風には見えませんねえ。どうかするとまだ女子大生か何かに見える」  安田は手をとめてジロリと浜田を見た。 「人間、若く見えればいいと言うことはないのですぞ」 「ええ」  浜田は塀の下を竹箒で掃きはじめた。相手が誰であろうと、議論などする気は毛頭ない男なのだ。  蔓《つる》バラの手入れがおわりかけたとき、門のあたりで、メェェー、という山羊《やぎ》の啼き声のような音が聞えた。 「南川さんだ」  浜田はそう言うと竹箒を塀にたてかけ、植込みの間をくぐり抜けて門のほうへ走った。 「いま寄せますから」  浜田は道路から門へ鼻先きを突っ込んだムスタングへ向かってそう言い、黒いプレジデントのシートにすべり込むと、玄関の前に置いてあったその車を、器用にガレージのほうへ寄せた。  ムスタングが、あいたスペースへ入りこんでとまった。山羊の啼き声のような音をたてたのは、その車のクラクションである。  そんなおどけたものを車につけて喜んでいるだけに、運転して来た男も、高村家の客としてはおよそふさわしくない恰好をしている。  よれよれのジーンズに、米軍の黄色い階級章が目立つジャンパーを着て、長髪を掻きあげながら車から降り立った。 「おす」 「いらっしゃい。先生はご在宅ですよ」 「ご在宅か。浜さんもすっかり安田さん式になっちゃったな」  そう言ってからかうように笑う。SF風のイラストで人気を博した売れっ子の絵描きである。それがいつの頃からか高村と知り合い、ばかに気に入られて、ときどきひょっこり遊びに来る。名前は南川ヒロシ。  反対側のドアからもう一人降りて、 「こんちわ」  と挨拶した。 「やあ小野ちゃん、この間はご馳走さま。うまかったよ」  浜田は気易げに言った。 「なんだ小野。浜ちゃんに奢ったのか」  南川は黒いブレザーに黒のスラックスをはいた、アシスタントの小野に言う。 「例の鰺の小糠《こぬか》漬けですよ」 「お前、あんなものを浜さんにあげたのか。塩っからいだけじゃないか」 「俺、小野ちゃんと同じ能登だから」  浜田はとりなすように言って小野にほほえみかけた。 「そうかそうか。二人は同県人だったな」 「ええ」  玄関へ女中のおたきさんがあらわれた。 「どうぞ。書斎においでです」 「どうも」  南川は靴を脱ぎ、勝手知った様子で奥へ消えた。 「これ、見るかい」  小野は腰をかがめ、ムスタングのシートへ手をいれて、漫画週刊誌を二冊ほど取りだした。 「サンキュー」  浜田は目を細めてそれを受取った。すぐにページをパラパラとめくり、 「ああ、また南川さんの漫画がのってるね」  と言った。 「漫画じゃないったら。イラストだよ」 「あ、そうか」  浜田は大して理解した風もなく頷いた。 「でも、どうしてこういう雑誌に絵を描く人が、先生みたいな学者と気が合うんだろうな」 「南川さんがSFをやってるからさ」 「うん……」  浜田はまた要領を得ない頷き方をした。  小野は浜田より三つか四つ年下だが、ずっと先輩のような言い方をする。 「円盤だの超能力だのということになると、二人とも夢中だからな」 「え……。先生は空飛ぶ円盤や超能力なんかも研究してるのかい」 「いやだな、知らないのか」  小野は呆れたように浜田をみつめ、 「浜ちゃんが知らないなんて」  と苦笑する。 「放送局だの出版社へ、毎日のように高村先生を乗せて行くんだろう」 「そりゃ行くけど」 「先生はこのところ、そっちのほうの中心人物だぜ」 「へえ、うちの先生がねえ」 「学者仲間ではどうのこうの言う連中も多いらしいけど、ああいう人だから一度興味を持っちゃうと、誰がなんと言おうとわが道を往くって奴なんだな。何しろ本物の学者だから、にせ物やにせの情報なんかはコテンコテンにやっつけちゃう。そのかわり、少しでも本物の超能力である可能性があったりすると、ほかの学者が難くせをつける隙など全然ない、本式のやり方で可能性を証明してくれるんだ。そっちのほうの本も何冊か出して、ベストセラーになってるのもあるんだぜ」 「そうか」  浜田は気のない返事をした。  主人の高村英太郎が近頃何かマスコミで活躍しているらしいことは知っていた。しかし浜田はそういうことにはまったく無関心であった。  彼が運転手としてかなり優れているのは、そのあたりに秘密があるのかも知れない。免許を取得して以来、ずっと車の運転で生活していながら、無事故の記録を伸ばしつづけているのだ。  浜田は、車は物を運ぶためのものと、徹底して割り切っている。人間も、高価でこわれ易いものというだけで、結局は物なのである。  それは、彼が他人の所有になる車しか動かしたことがないせいかも知れない。およそ自分の用事で車を走らせるということがないのだ。だから、たとえどんなに時間が切迫していても、所詮は他人のことで、事故や違反の危険をおかしてまで、無理をして急ぐ理由がないのだ。  事故と違反は自分持ち。……浜田はいつもそう肝に銘じている。だから、糞真面目にルールを守っている。他人の物を運ぶのに、自分の物を持ち出しにする必要はないというのが、浜田の基本的な考え方で、から身で走る時は車自体が荷物ということになる。したがって、私用でどこかへ行く時は、きまってバスか電車である。車は便利だが、他人の車では荷物を預ったことに等しい。  そういうわけで、浜田は本質的に自家用車の運転手に向いている。タクシーやトラックもやったが、そういうかたちで交通戦争に加わるのは、いわば代理戦争をやらされているようなもので、彼の性には合わないようであった。 「浜田君」  玄関で敏子の声がした。運転席のドアをあけて外へ足をだし、前かがみになって小野にもらった漫画週刊誌を読んでいた浜田は、それをとじてゆっくり立ちあがった。 「南川さんはゆっくりして行くらしいわ」  外へ出て来て敏子は小野に気づき、 「あら、小野ちゃんも来てたの。彼と一緒にあがればよかったのに」  と言った。 「僕は先生が苦手なんです」 「ごめんなさいね。頑固おやじだから……」 「違うんです。あんまり何も知らない人間がそばにいると、先生はいらいらなさるんですよ」 「うまいこと言っちゃって」  敏子は笑って小野に近づき、肩をポンと叩いた。 「かげじゃ糞じじいなんて言ってるくせに」 「かなわないなあ」  小野は照れ笑いをした。彼はなんとなく敏子に憧れているふしがあった。熟れ切っているくせに、物の言い方やすることがどことなくボーイッシュで、親分肌というか、年下の者の面倒をよく見てやりそうなタイプの敏子は、小野のような年ごろの男から見ると、たまらない魅力があるらしい。 「二、三時間借りたわ。おやじったら、南川さんが来たもんだから機嫌がいいの」  敏子はプレジデントのドアの前に立って言う。浜田は心得てシートへすべり込み、体をのばして反対側のバック・シートのロックを外した。  外で敏子が手を振り、前のドアを指さしている。 「おやじじゃないから、うしろでふんぞり返る気なんてないわよ」  浜田が言われるとおり前のドアをあけると、敏子はそう言ってとなりのシートへすべり込む。ミディのスカートをはいて、太い毛糸で編んだ男物のようなセーターを着ていた。Vネックの襟もとは素肌で、首に青く短いスカーフを結んでいる。  浜田はエンジンをかけ、ギアをいれてゆっくり車を門へ向ける。小野がうらやましそうにそれを見送っていた。  門のところで浜田はいったん車をとめた。窓をあけ、 「あ、すみません」  と言う。安田が塀の下に掃き集めた葉や枝を、大きな木の塵取《ちりとり》で掃き取っているところであった。 「あなたは車の面倒を見るのが仕事です。手のあいたとき、たまに手伝ってくれればそれでよろしい」  安田はにべもない言い方をした。 「すみません」  浜田はもう一度言い、車を道へ出した。 「あなたもやりにくいわね」  敏子がクスクスと笑った。 「どこへ行くんです」 「そうね。とにかく世田谷通りへ出てちょうだい。馬事公苑へでも行きましょうか」  浜田は次の角で車を左折させる。 「道が混んでるかも……」 「混んでるようだったら、どこでもいいからすいてるほうへ走らせて」 「なんだ。またドライブか」 「うちにじっとしてるのがきらいなのよ。だから出戻っちゃったんじゃないの」  敏子はひとごとのように言った。 「用もないのに車を乗りまわすのはいやだな」 「めんどくさいの」 「いや、道を混ませるからね」 「変な人。車を運転するのが商売のくせに」 「こういう道で……」  浜田は静かな住宅街の細い道へ顎をしゃくって言った。 「遊びに行くみたいなドライバーが、歩行者に大きな顔してクラクションを鳴らしているのを見ると、ほんとにおかしいなと思うんだ」 「へえ、どうして」 「何人もの歩行者を、どうして一人の人間がわきへどかせてしまうのかな。仕事ならとにかく、遊びでさ。車の税金を納めてるくらいで、そんな権利があるのかね」 「でも、危ないからどかすんでしょ。ホーンを鳴らして警告するのよ」 「違う」 「どう違うのさ」 「俺なんかはそんな気分になったことないけど、中には、こん畜生邪魔するとふんづけるぞ、って顔してるのがいる」 「警告じゃなくっておどしだって言いたいの」 「そういうのがいる。若い奴に。南川さんの、山羊《やぎ》のホーンはいいな。メェェ……」  浜田は南川がムスタングにつけているホーンの真似をした。 「そっくり」  敏子は笑いだした。 「ねえ、そっくり賞をあげるわ。それに、東京一のジェントル・ドライバー賞」  車に持ちこんだデパートの紙包みを浜田に押しつけるようにした。 「それ、なんだね」 「ネクタイよ。あなたって、いつも野暮ったいものばかりなんですもの」  少し甘え声であった。 「そういうの、わざわざ選んでるの」 「選ぶわけじゃない」  浜田は苦笑した。 「ねえ、どこかでとめてとりかえなさいよ」 「本当にくれるのか」 「さっきわざわざ買って来たんじゃないの」 「どうして俺にネクタイなんか……」 「だから言ったでしょう。野暮ったいのばかりしてるからだって」 「こういうネクタイしてる奴はたくさんいるよ」 「あなたはうちの人だからよ」  敏子はじれったそうに言う。 「ネクタイか」  浜田はちらりと敏子を見た。ダブダブのセーターがシートにもたれているので余計ダブつき、切れこんだVネックの襟もとから、バストのふくらみが見えている。 「俺、派手なものは似合わないんだけどな」 「嘘、似合うのよ」 「似合わないよ」 「あなた、本当はハンサムなのよ」 「俺がかい」  浜田が一笑すると、敏子はくやしそうな顔をした。 「じれったくなっちゃうわ。ヘア・スタイルから服からネクタイまで、全部似合わないもので統一しちゃってるんだから。少しはおしゃれをしなさいよ」 「そうかな」 「もうちょっとなんとかすれば、少しはイカすようになるんだけどなあ。とにかく、手はじめにこのネクタイをしてごらんなさい。あんたに惚れてる女が言うんだから間違いないわよ」 「…………」  浜田は眉を寄せた。 「どう。あたし、うまいでしょ」 「何が」 「さらりと言ったでしょ。なかなかこうは行かないものよ」 「ご主人がいるくせに」 「出戻りよ。気にしないで」 「先生に叱られるぜ」 「あたしは平気。こわがってるのはあなたじゃないの」 「とにかく、からかわないで欲しいな。俺はただの運転手だ」 「からかってなんかいないわよ」  敏子の目はキラキラと光っていた。 「好きなものは好き。あたしは自分に嘘をつかないことにしてるの」 「先生とよく似てる」 「そうよ、あたしも頑固よ。今にきっとあんたをものにして見せるから」 「困ったな」 「どうして」 「こんなのはじめてだ」 「あたしがきらい……」  敏子は煙草を咥えた。 「馬事公苑でいいのかい」 「ええ、あてなんかないんですもの。ねえ、あたしがきらいなの。それならそうと早く言ってくれなきゃ困るわよ。あたしみたいな女はどうしても好きになれないって……」 「そんなことはない」 「じゃあ好きなの」 「弱るなあ」 「おたきさんとあたしとどっちが好き。女としてよ」 「そんな……。くらべようがないよ」  浜田は失笑した。敏子の言い方はまるで遊びめいていた。 「でも二人とも女じゃない。言って見なさいよ。おたきさんのほうが好き……」 「そりゃ、やっぱり……。君のほうさ」 「ありがとう」  敏子は浜田のほうへもたれかかった。 「ご褒美よ」  フィルターつきの煙草を咥えさせた。フィルターに、わざと唾液がたっぷりついていた。 「間接キッス」  敏子は声をあげて笑った。   五月晴れ  心が弾むような五月晴れであった。その上、木曜日だが浜田にとっては休日である。高村英太郎はきのうの午後関西へ講演に出かけて、今週いっぱい帰って来ない。先週の日曜日に出勤させられたから、今日はその分の代休というわけであった。  浜田は十時少し前、朝食をかんたんにすませると、まず靴を磨き、それからゆうべ丁寧にプレスしたズボンをはいた。太腿のあたりの線が二重になっていないかよくたしかめ、古ぼけた整理だんすから白いワイシャツを出して着た。糊が効きすぎていて、ひろげる時バリバリと音がした。ワイシャツのボタンを全部かけ、その裾をズボンの中へたくし込んでしまってから、まだ裸足でいるのに気づき、軽く舌打ちをして灰色の靴下をはいた。はくとき片膝ついてしゃがんだので、せっかくたくしこんだワイシャツが、背中のあたりでまたズボンから出てしまう。だから、立ちあがると妙に背中が膨らんだ感じになった。しかし浜田はいっこうに気にせず、上着の袖に腕を通し、壁にかけた何の飾りもない小さな鏡の前へ行ってネクタイをしめはじめる。  愉しそうであった。ネクタイは高級な絹もので、浜田がいつもしているのよりずっと幅が広く、派手であった。  そのネクタイは、浜田を少しばかり明るい感じにしている。派手だがけばけばしくはなく、敏子の選択はたしかであったようだ。  それにしても、浜田にして見れば思ってもいない贈り物であった。敏子がひどく気さくな態度で接してくるのは判っていたが、それは何も浜田一人に限ったことではなく、女としては少し親分肌の敏子は、南川ヒロシや小野たちにも、同じようなあけすけな喋り方をしていたのだ。  それがはっきりと……、ひとことで言えば、このあいだ車の中で言い寄られた形になったのである。  意外だったし、何か欺されているような感じでもあった。敏子はいわゆる男好きのするタイプである。三十近くなってまだボーイッシュな感じを漂わせ、そのくせよく見ると部分部分は豊満と言っていい体つきをしている。なよなよとしたところがないかわり、高級なスポーツカーと言った感じなのである。  それがいきなり、ネクタイを口実に浜田に倚りかかって来た。あの日、車の中で、浜田さえその気になれば、敏子の腰を引き寄せて、キスくらいかわすのはわけもないことであったようだ。  だが、浜田がそれをしなかったのは、心の底に欺されているような感じがあったからである。その欺されている感じというのは、敏子に対してのものではなく、浜田自身の人生に対してであった。  浜田は今日まで、恋らしい恋の経験もなく過している。何度かは、それらしい想いをもやしたこともあるが、すべて片想いに過ぎず、遠くから憧れていたという程度の、ごくプラトニックなものであった。  いずれ自分も結婚するかも知れないとは思っているが、互いに求め合って華やかにもえあがる恋の日々が来ようとは考えてもいなかった。  よく考えれば奇妙なことであるのかも知れないが、それでも疎外感とか、拗ねとかひがみとか、そういう厄介なものはしょい込まずにいた。その日その日を平凡で無難に送れれば満足で、何かを得る為にやきもきとするのは、ひどく億劫なのであった。  混雑した道路につらなる車の一台として、無理な追い越しや割り込みを決してしないように心がけているのだが、実を言えばそれは運転手の生活を通じて身につけた生き方ではなく、浜田自身が生まれつき持っている性格らしかった。  ところが、突然出戻りとは言え魅力的な女である敏子が言い寄って来た。たとえれば、それは緊急自動車でもない浜田の車に、先行車が次々に進路をゆずってくれたようなものであった。浜田は、この先に何かあるのではないかという疑いを抱きながら、その急にひらけた道をとばしている思いであった。  だが、ネクタイをもらった日から一週間ほどたって、浜田は人生にはこういうことも起り得るのだと考えるようになった。敏子が一人の女として好意を寄せているのは疑いようがなかったし、自分の人生にはそういう日が決して来ることはないときめてかかるのは、自分に限って事故を起すことなどあり得ないと思いあがるのと同じことだった。  となると、浜田は急に世の中がたのしくなった。アパートの前の道に集まって騒ぐ子供たちの遊びにも、寛大な微笑を送らずにはいられなかったし、手をつないで歩く若い男女の服装にも、それまでのように無関心ではいられなくなった。  心の中に、いつも敏子の笑顔があった。そして何よりも、俺はいま恋をしているという、優越感のようなものに酔っていた。 「ねえ、あしたデートして」  きのうの夕方、車庫の前で黒いプレジデントを洗っていると、庭からサンダルを突っかけて出て来た敏子が傍へ来て、さりげなく言った。 「あした……」  浜田はビニールのホースの先を持って、水をしたたらせながら敏子を見た。 「あした、休みなんだよ」 「あらやだ、何か予定があるの」  敏子の顔が曇った。 「いや、別に」  そう言うと、敏子は急にけたたましく笑いだした。 「ばかねえ。だから誘ったんじゃないの」 「あ、そうか」  浜田は苦笑した。 「やな人」  敏子は笑い続けた。浜田の迂闊さがひどく初心《うぶ》に思えたらしい。ずっと年下の男を見るような目で言った。 「あのネクタイをして来るのよ」 「うん。なん時に来たらいい」 「うちへ来る気でいるの」  納まりかけた敏子の笑いがまた大きくなった。 「違うのか」 「やりにくいわねえ」  浜田は困って頭を掻いた。 「よし、思い切って初級者コースで行きましょうよ。銀座の四丁目って言うのはどうかしら」 「四丁目……」 「時計のある角よ」 「なん時」 「そうね。十時四十五分から十一時の間」 「判った」  その時、安田が外出から帰って来たので、敏子は笑いながら庭へ戻って行った。  その約束の時間が、あと三十分そこそこでやって来るのだ。浜田は靴をはき、廊下へ出てドアの鍵をしめると、軽い足どりでアパートを出た。  行き交う女たちを、浜田はいちいち心の中の敏子とくらべて見ていた。あの女より敏子のほうが上だ。この女とも……。地下鉄の中でも、銀座の地下道の中でも、浜田は通りがかる女をかたはしから敏子とくらべてたのしんでいた。  そうだ、何か買ってやらなければいけない。浜田がそう思ったのは、地下道を出て約束の角へ着いてからであった。ネックレスかブローチか。いや、ネクタイをもらったのだからお返しにはスカーフか何かがいい。敏子はよく首に短いスカーフをまいている。どんな色のスカーフがいいだろう。好みは彼女にまかせればいい……。  時計はきっかり約束の十時四十五分をさしていた。十一時までの十五分の間に、目の前へ敏子が現われるのだ。そして、それから恋の日がはじまるのだ。  浜田はその角の歩道をたえず歩きまわっていた。あたりに彼よりずっと年下の男女が何人もいて、物なれた様子でたたずんでいるのに、浜田はそんなことも意識になく、うろうろと短い距離を二、三度往復しては、腕時計を眺めていた。  あと二、三分で十一時、というころ、行きつ戻りつしている浜田がふと目をあげると、地下鉄の入口のあたりに、敏子が半分かくれるようにして自分のほうを見ているのに気づいた。浜田が思わず手をあげて笑いかけ、大股で近づいて行くと、敏子はくるりと背を向けて逃げるように京橋のほうへ歩きだした。 「時間ぴったりだったな」  追いついてそう言っても、敏子は黙って急ぎ足で進み、ちょうどワン・ブロック先きの信号が青にかわると、右へ曲って向う側の歩道へ行った。 「どうしたんだ」  浜田は少し不愉快になりかけて、低い声で尋ねた。すると敏子はやっと含み笑いをしながら、浜田の顔を見た。  通りから少し引っ込んだ、デパートのタクシー乗り場の前にある喫茶店へ入って席についてから、敏子はまじまじと浜田の顔をみつめなおし、 「それもそうね」  とひとりごとのように言う。 「なんだって言うんだ」 「あのね」  敏子はハンドバッグから小さなシガレット・ケースをとりだし、一本抜いて咥えた。浜田は催促するようにもう一度みつめられて、あわててテーブルの上のマッチを擦った。 「いくらあたしでも、ちょっと気が引けたわよ」  煙を吐いてそう言い、一呼吸間を置いてから男のような笑い方をした。明るいグレーのミディのスカートに、同じ色のニットのシャツブラウスを着て、襟もとのボタンを三つほど外していた。浜田は細い金鎖が豊かなバストの膨みの間へ落ち込んでいるのを見ていた。 「なぜだい」  拗ねたようなふくれつらで言い、浜田もハイライトを出して火をつけた。 「何よ、あの待ちかたは」  敏子の表情に母親めいたものが泛んでいる。 「待ちかた……」 「まわりにいる若い子たちのほうが、余程落着いていたわよ」 「そう言えば、待ち合わせらしいのがずいぶんいたな」 「そわそわ、うろうろ……。時計ばかり眺めちゃってさ」 「見てたのか」  浜田はあの時の自分の態度に気づいた。そう言えば、たしかにこらえ性のない感じであったと思った。 「そりゃ、あそこへ行って、あたしが、あなたお待ちになりましたか、って言ったっていいわよ。でも、少しみっともないじゃないの。いい年して、初恋みたい……」 「そんなにおかしかったかい」  浜田は詫びるように言った。 「そうしょげ返るほどじゃないけど、ジェスチャー・ゲームの演技だって、もう少し判りにくいわよ。行ったり来たり、時計を見たり」 「慣れないんだもの、仕様がないじゃないか」 「あんたって、ほんとにデートしたことないの」 「自慢じゃないけど」 「これから先が思いやられるわ」 「何が」 「そんな風じゃ、うちですぐばれちゃうもの」 「気をつけるよ」  そう言ってしまってから、浜田はハッとして敏子を見た。敏子は艶っぽく笑っていた。 「そうよ。これからあたしたち、そうなるんだわ。たっぷり教えてあげるから」  浜田は鼻白んだように目を伏せた。コーヒーが来て、敏子がシュガー・ポットの蓋をあける。 「いくつ」 「ふたつ」  浜田のカップへシュガーが小さじに二杯落ちた。 「いいお天気ね」 「うん」 「何時ごろアパートを出たの」 「十時十分か十五分」 「じゃ、だいぶ早く着いたでしょう」 「いや。約束の時間ぴったりだった」  二人はコーヒーを飲んだ。 「何よ、黙り込んじゃって。まっすぐそばへ行かなかったんで憤ってるの」 「憤ってなどいない」 「じゃあ機嫌よくしてよ。たのしい日にしなくてはね」 「うん」  浜田は素直に頷いた。 「ひょっとすると、あなたって、あたしにとって理想的な人かも知れないわね」 「どうしてだい」 「たくましいくせに可愛らしくて」 「よせよ」  敏子はテーブルの上へ上体をかぶせるようにして、浜田の顔をのぞき込んだ。 「それに、とってもハンサムで」 「そんなわけはない。からかうなよ」 「からかっていないわ。本気で言ってるのよ。今まで誰もそういうことをあなたに言っていないとすると、あたしが最初の発見者かしらね」 「どうだい。ネクタイ、似合うかい」 「似合うわよ。あたしの睨んだとおりだわ」 「お返しをしようと思うんだ」 「あら……」  敏子は目を丸くして見せる。 「ここを出たらどこかで買おう。君がよく首に巻いているようなのを」 「スカーフを買ってくれるの。すてきだわ」  そう言うと、敏子はコーヒーをひと口飲み、カップを下へ置くとハンドバッグに手をかけた。 「じゃあ早く行きましょう。こういうことは気のかわらない内に」  冗談のように言って立ちあがり、伝票をつまんで浜田に押しつける。 「払ってよ」  浜田は頷いて受取った。  敏子はその喫茶店を出ると、四丁目の交差点へ引き返し、また向う側へ渡って六丁目の裏通りにある婦人洋品の専門店へ入った。店構えが高級な感じで、浜田一人だったら入る気も起さないはずであった。 「俺は判らないから自分で選んでくれよ」  そう言って敏子のあとについて歩くうち、浜田は自分がこういう場所にそぐわない感じであることに気付いた。靴も背広もネクタイも、一応どこと言って見苦しいところはないのだが、身についた雰囲気とか物腰が、いかにも場末の男めいていて、立って歩くのさえ、棒を突っ立てたようで、われながらぎごちなかった。  そばに茶の服を着た三十三、四の男がいて、連れの若い美人の買物にあれこれアドバイスをしていた。浜田は肝心の敏子より、むしろその茶の服の男に興味をそそられた。いかにも馴れ切った様子で、服装にも態度にも一分の隙もないと言った感じであった。 「こんなのどうかしら。ねえ、どう……」  敏子はときどき浜田のほうへ、スカーフを胸もとにあてがって言った。 「君のいい奴がいい」  そのたび浜田は自信なさそうに言ったが、ふとショーケースの上に置いた選びかけのスカーフを手にとって、ドキリとした。小さな値札に、目を剥くような数字が書いてあるのだ。まさか、たかがスカーフではないか、と思うのだが、やはり馬鹿馬鹿しい数字はかわらない。  敏子が浜田の表情に気付いたようであった。 「これにきめたわ。いいでしょう」  店員の前で、わざと甘えるように言った。浜田はズボンのポケットから金をとりだしながら、値札をのぞいた。 「遠慮しなくてもいいんだぜ」  そう小声で言った。敏子が今まで手に持った中では、とび抜けて安い値段であった。 「いいの。ねえ、これちょうだい。包まなくてもいいわ、すぐするから」  敏子は店員に言い、浜田が金を払った。 「それにしても、高いもんなんだなあ」  店員がレジへ去った間に、浜田は嘆息した。 「あたし、とってもいい気分よ」  敏子は謎めいた笑顔になった。店員が釣銭を持って戻って来て、浜田はそれを受取ると、さっさとその店を出ようとする敏子を引きとめた。 「もう少しいろいろ見せてくれよ」 「あら、まだ買う気」  敏子はからかったようであった。 「そうじゃないが、値段を知りたくなった」 「いいわ。じゃあ少し見学して行きましょうか」  そう言うと、敏子はスーツやパンタロンがぶらさがったコーナーへ入って行った。これは少しあらたまった感じの服、これはいまはやりはじめたスタイル、などと、敏子は並んだ商品をいちいち説明しはじめた。どれもこれも、浜田が妥当だと感じる値段より、三倍も高い感じであった。 「どう。女の子はお金がかかるっていうことが、いくらか判って来た……」  からかい半分なのは判っていたが、浜田は率直に心の底から頷いた。 「驚いたよ、こうなったら男の物も少し見て見なくては。俺は田舎者なんだなあ」  敏子は出がけにショーケースの上の鏡の前で、買ったばかりのスカーフを手早く器用に首に結び、さっきの店員にウィンクしてから外へ出た。浜田がふり返ると、店員が好意のこもった笑顔で見送っていた。 「君はああいう所の人に好かれるんだな」 「さあ、それじゃちょっと靴屋をのぞいて見ましょう。靴、背広、シャツ、ライター、サングラス……。男物は女よりもっと大変よ」  敏子は浜田を教育する気になったらしい。 「いい気分だと言ったな」 「え……」  靴屋のあるほうへ歩きながら、敏子が首をかしげた。 「スカーフを買ったときだよ」 「ああ、あれ……」 「どうしていい気分なんだい」 「それはね」  敏子は浜田の左腕に、するりと腕をまきつけて来た。 「あなたが女のことについてなにも知らない人だからよ」 「それがいい気分かい」  浜田は敏子と腕を組んで、かなり照れていた。歩いて来る人々が、みな自分のほうを見ているような気がした。 「いい気分よ。でも、なぜいい気分になるのか、それはいまは教えてあげないの」 「なぜ」 「きっとあなたは憤るわ」 「へえ……。じゃ、いつ教える」  敏子は体を押しつけ、浜田の耳へささやくように言った。 「あ、と、で……」  このあと、どういうコースで半日を過したものか見当もついていない浜田は、すべて敏子にまかせる気になった。 「なんでもいいや、まかせるよ」  すると敏子は例の男っぽい笑い方をして、浜田の腕を胸に押しつけるように抱き直した。二人づれの若い男が、ジロジロと敏子を眺めながら通りすぎた。 「約束してくれる」 「何を」 「今日はなんでもあたしにまかせるって」 「うん」 「言うこと聞くのよ」  二人は靴屋へ入って行った。   ホテル  敏子はその日のデートを初級者コースにすると冗談を言ったが、彼女が浜田を連れ歩いたコースは、実際そのようなものであった。腕を組んで銀座を歩きまわり、小さなレストランで昼食をすると、日比谷へ行ってロ—ドショーの映画を見た。あのスカーフを手はじめに、昼食も映画も、金はみな浜田が払った。そして浜田は大いに満足した。腕を組んで歩いていると、敏子が男たちの関心をそそっているのがよく判った。さりげない服装をしているのだが、銀座を歩く男たちには彼女の魅力がよく判るらしい。腕を組むのにも慣れて、浜田は一瞬も敏子を離したくない気分であった。  しかし、映画館を出ると、敏子は少し快活さを失なったようであった。 「どうしたんだ。くたびれたのか」 「ええ」  敏子は前を向いたまま無表情で言った。 「疲れるわ、初級者コースって」  浜田は少しあわてた。自分が相手だからそういう歩きまわりかたをしたのだと、責任のようなものを感じた。 「喫茶店へでも入ろうか」  浜田はそうつぶやいてあたりを見まわしたが、いざとなると適当な喫茶店がどこにあるのか、見当もつかなかった。 「帰るかい。送って行くよ」 「だめよ。そろそろ電車が混む時間だわ」 「タクシーを拾うさ」  すると敏子は足をとめ、浜田の顔を見た。 「タクシー……。珍しいのね」  仕事以外では、他人の車にも滅多に乗ろうとしないことを知っているのであった。 「特別さ。今日は君と一緒だからね」  すると、敏子は組んでいた浜田の腕をぐっとしめつけるように抱えなおし、ゆっくり歩きはじめた。 「平凡だけど、すてきな言い方ね」 「どうしてだ」  敏子は、ううん、と言って首を振り、 「本当に初級者みたいな気分になって来たわ」  と笑った。その笑顔を見て、浜田はほっとすると同時に、敏子に未知の深い部分があるのを感じた。 「そう初級者、初級者って言うなよ」 「気にさわる……」 「少しはな」 「ごめんなさい。あたし、あなたのプライドを傷つけたかしら」 「別にプライドという程のものなどありはしないよ」  運転手だからな、と言いかけて浜田はその言葉を喉の奥へ押し返した。 「それならいいけど」 「でも、ちょっと気になるよ」 「あら……」 「君が無理に俺に合わせてくれているような気がして」 「そんなことないわ。あたしだってたのしいのよ」 「でも、君がいつもたのしむのは、もっと上級のコースだろ」 「嫌だわ。それ皮肉なの」 「皮肉じゃないが、俺は何も知らないからな。身なりだって野暮ったいし」  敏子は含み笑いをはじめた。浜田がその横顔を見ると、とても彼には理解できそうもない、謎のような微笑が泛んでいた。 「あなたが思ってるようなたのしみ方ではないかも知れないけど、本当にあたしはあなたとこうして歩いていて、たのしいのよ」 「俺じゃ役不足のような気がするな」  浜田は実感をこめて言った。道ばたにタクシー乗り場の標識があり、空車のタクシーが四、五台並んでいた。 「あなた、帰りたいの。……あたしが送って行ってと言ったら、あれに乗ってさっさと帰ってしまう気」  浜田はひくりと肩を動かした。 「ほんとは帰りたくねえんだ。いつまでもこうしていたいんだ」  照れかくしに、荒っぽい言葉で低く言った。 「いい気分」  敏子は浜田の肩へ顔をあずけるようにして言った。 「もう一度言ってくれない」 「いやだよ」  浜田は邪慳に肩をゆすってその頭を払いのけたが、敏子は少しエロチックな感じで笑いつづけていた。 「もうすぐ日が暮れるわ」 「まだだいぶ時間があるよ」 「初級者コースが気になるんだったら、もっと上級のコースに付き合ってよ」 「もっとかい」  反対する気はまるでなかったが、浜田はポケットの中が気になっていた。高い店で酒など飲んだらすぐに足をだしてしまう危険があった。 「嫌なの」 「嫌じゃないけれど」 「それなら言うとおりにしてよ。だいいち、今日はあたしの言うことをなんでも聞いてくれるはずよ」 「そうだったな」  すると敏子は急にしゃっきりした姿勢になり、 「それに、このあたりだと知ってる人に会いそうだわ」  と言った。たしかに、もう退社時間であった。敏子が足を早めたので、浜田も引っぱられるようにそれに従った。敏子は行先がはっきりきまっている様子で、どんどん築地の方角へ進んで行った。  やがて二人は大きなホテルのロビーへ入った。敏子はまっすぐにラウンジへ連れて行き、席につくとコーヒーを注文した。 「ああ疲れた」  敏子はわが家へ戻ったような、くつろいだ笑顔で言った。 「俺、こういうとこでコーヒーを飲むの、はじめてだぜ」 「ばかね。自慢してるみたい」 「そのかわり、地下ならくわしい」 「地下……」 「駐車場さ」  敏子は一瞬浜田を睨み、 「よしなさいよ」  と言った。 「でも本当だ」 「あなた、自分の仕事に劣等感を持っているの」 「いや。少くとも今朝まではね。でも、今日はいい経験をしたよ。世の中で、俺のいる場所がどんなところだったか、いくらか判って来たようだ。もし俺が誰かとデートするなら、もっと場末を歩きまわるほうが分に合っている」 「何を言ってるのよ」  敏子は憤ったように言う。 「銀座なんて、ミーちゃんハーちゃんの町よ。そんな大したところじゃないわ」 「それはそうだろう。いつか日曜日に来たら、歩行者天国で若いのがぞろぞろ歩いていた。大した町じゃないということは判っているんだ。でも、なんて言うか……。とにかく俺の町じゃない」 「町は町よ。誰でも自由に出入りするから町なんだわ。誰の町、かれの町ということはないわよ」 「でも」  浜田はラウンジの客を見まわした。 「ここでコーヒーを飲んでる運転手は俺だけだ」 「本当に憤るわよ」 「ごめんごめん。君を憤らすつもりで言ったんじゃない。なんと言って説明したらいいかな。とにかく俺はたのしいんだ。今日のこのたのしさは君がくれたものだ。だから、それを言いたくてさ。……君はもてるんだな」 「あたしが……」 「うん。一緒に歩いていてよく判ったよ。男たちがちらちら君を見て行く。あの目つきは、いい女だなと言っている目つきだよ」 「困った人ね」  敏子は苦笑した。 「有難う」  突然浜田はそう言って姿勢を正し、頭をさげた。 「どうしたのよ。お礼なんか言われる憶えはないわ」 「あるんだ」  浜田は静かな表情で言った。 「ネクタイをもらったし、誘ってくれて、腕を組んで歩いてくれた。みんなが俺を羨やましがっているようだった。こんなたのしい思いをしたのははじめてなんだ。舞台で一人だけ照らされて歌ってる歌手みたいな気分さ」  敏子は椅子にもたれ、じっと浜田をみつめていた。 「あなたって……」  しばらくみつめたあと、敏子はかすれ声でそう言った。 「まあいいわ。今日はまだおわったわけじゃないんだから」  コーヒーが来て、二人は静かにそれを飲んだ。しっとりとした沈黙が二人の間に流れていた。 「煙草を買って来るわね」  敏子が急に思いついたように立ちあがった。 「煙草ならあるよ」  浜田はハイライトをとりだしてテーブルの上へのせた。 「いいの。待っててね」  敏子は珍しく、女らしいしとやかな態度を見せて言い、ラウンジを出て行った。浜田はハイライトを咥え、火をつけて待った。  やがて敏子は赤い綺麗な箱の外国煙草をひとつ持って帰って来た。椅子には坐らず、立ったままテーブルの上の伝票をとりあげ、 「行きましょう」  と言った。浜田はあわてて煙草を揉み消し、敏子のあとを追った。敏子はラウンジの出口で伝票を出し、手早く勘定をすませてロビーを横切った。 「俺が払うのに」  浜田は出しかけた金をポケットへしまい直しながら言った。 「いいのよ。サインですませちゃった」  敏子は妙に潤んだ目で浜田を見た。ちょうどエレベーターのドアがあいたところで、二人は足を早めて箱の中へ入った。  敏子は十一階でエレベーターを出た。静かなほの暗い廊下を歩いて行く。浜田は耳鳴りがするような気分でそのあとに続いた。敏子はハンドバッグをあけ、チャラチャラとキーを鳴らしていた。やがて、ひとつのドアの前で立ちどまると、そのキーを鍵穴へ差し込んだ。浜田は呆気にとられて眺めているだけであった。  ドアがあき、敏子がその中へ吸い込まれて行った。 「お入りなさいよ」  廊下で突っ立っていると、敏子が顔をだして言った。他人の家を訪問するように、浜田はおずおずと中へ入って、静かにドアをしめた。 「鎖もかけて置くのよ」  敏子はカバーのかかったベッドの上へハンドバッグを抛り投げて命じた。浜田は言われたとおり鎖錠をかけた。 「くたびれたわねえ」  敏子は窓ぎわに立って、ハイヒールを両方とも蹴り脱いだ。ハイヒールはどこか我儘な感じでカーペットの上へころがった。 「この部屋、どうしたんだい」  浜田は部屋の中を見まわしながら尋ねた。 「借りたのよ」 「誰に」  すると、敏子は猫のような足どりで浜田に近づき、両手を彼の胴にまわして胸を合わせた。 「ホテルによ」  浜田は自分の愚問に気付いて苦笑した。 「いつの間にやったんだ。早業だなあ」  敏子は頤《おとがい》をあげて浜田を見あげている。靴を脱いだので顔の位置がだいぶ低くなっており、浜田にはそれが、急に可愛らしくなったように感じられた。敏子は浜田がいつまでも受太刀の姿勢でいるので、爪先だって顔を寄せた。  はじめはごく軽く唇が触れただけだった。二人とも、乾いた唇をしていたようであった。二度目は少し長かった。だが、それも、閉じた唇が重なったにすぎなかった。三度目、敏子は浜田の唇を、小鳥がついばむように何度も短く触れて来た。その都度、敏子のすぼめた唇が浜田の唇をはさみ、濡れて生暖かい感じを伝えた。浜田は酔ったように目をとじ、敏子の両肩を強く抱き寄せた。今度は濡れた唇が深く合わさり、敏子の舌がぬめぬめと浜田の下唇の裏側を這いまわった。  浜田の呼吸が荒くなった。両肩をだいた手が、もどかしげに背中をおりて行く。敏子は両肩をすぼめ、すっぽりと浜田の体につつみこまれるように体を密着させていた。  やがて二人は顔を離し、みつめ合った。長い間、そうやって動かなかった。 「君は人の奥さんだ」  浜田が低くかすれた声で言った。辛うじて喋れたという感じであった。 「関係ないわ、そんなこと」  敏子はゆっくり首を左右に振った。浜田をなだめているようであった。 「あなたが好きなの」  浜田はそう言われ、今度は自分から唇を求めた。そのとたん、敏子の舌が彼にとっては目もくらむほど淫蕩な感じで動きはじめた。歯の間へ押し入り、堅くとがらせた舌端が、まるで生き物のように口の中で踊った。 「愛してね」  次に顔が離れたとき、敏子はひどくさし迫った表情で言った。浜田は当然だと思い、頷いて見せた。言われなくても、もうとうに敏子を愛しはじめており、彼女がそれを口にだして言うのは、甘いたわむれのようなものだと思っていた。  しかし、どうやら敏子の言った意味は、もっと直接的なものらしかった。 「あたし、先にバスを使うわね。あなた、その間にべッドのカバーを外しておいて」  そう言って抱擁を解くと、入口のドアの横にある戸棚をあけてハンガーをだし、服を脱ぎはじめた。浜田が茫然とそれを見ていると、ふとふり返り、細く丸い肩ごしに笑いかけた。 「浴衣をとってよ。そこにあるでしょう」  浜田は操り人形のように、ギクシャクした態度で、糊が効いて板のようになった浴衣をとりあげて渡した。敏子はそれを受取り、四角い板で胸をかくすように、ミディのスカートをはいたままバスルームへ消えた。  浜田は太いため息をついた。一気に終点へ着いてしまった感じであった。しかし、考えて見れば、もう少年のような恋の語らいをつづけていい年齢ではないような気がした。二人のような年齢の組合わせが恋をすれば、今の敏子のように振舞うのが当然であろうと思った。  テーブルの上に、小さなステンレスのポットとグラスが置いてあるのに気づき、浜田はグラスをひっくり返してポットをかたむけた。冷たい水であった。浜田はそれを飲んで気を鎮めようとした。  とうとう女を抱く日が来た。浜田はしみじみとそう思った。女の体を抱くことを夢想した夜はかぞえ切れなかった。しかし、なぜか遂に今日までそういう機会はおとずれなかった。童貞であることが、恥かしい年齢になると、禁欲が自分の一部になり切ってしまい、特に肉欲を封じている気もなくなっていた。しかし、その分だけ、はじめての夜が優しいものでありたいという願望が育っていた。そういう時が来たら、心を通わせ合い、いたわり合いながら、湧き出す泉の中でしみじみと抱き合うことを夢見ていたのだ。  果してそうなるだろうか。浜田はベッドカバーを静かに折りたたみながらそう思った。バスルームではシャワーの音が聞えていて、べッドカバーの下からは、ピンと張った白いシーツと、柔らかでいながらべッドを堅くしめつけている感じの白い毛布があらわれていた。そう言う仕度を見るのははじめてだったが、何か清潔で気分がよかった。  率直に言ってしまおう。浜田はそう決心した。女の体を知らないことで、虚勢を張って見ても仕方がないと思った。彼は自分がそのように正直になれたことに満足したが、それも相手が敏子だったからかも知れなかった。敏子に対して、浜田は心のどこかでかすかに母性を感じているようであった。そしてそれは、この場になって、彼にゆったりとした安心感を与えていた。 「はじまるんだ……」  浜田はべッドカバーをたたみおえると、それを眩しいような白さのべッドの上に置き、椅子にゆったりと体を沈めてそうつぶやいた。  人生の新しい幕があく。そんなように感じていた。浴室では、シャワーの水音がやんでからも、敏子が何か短い物音をたてつづけていた。その敏子が、まだ前の夫と正式に別れておらず、籍も入ったままであることは知っていたが、浜田はもうまったく気にしていなかった。  第二章   しあわせ  高村英太郎がうしろのシートにいて、浜田は渋滞した道路で一寸きざみに車を都心へ進めていた。 「酷いな」  高村が言う。 「月末ですから。それに、こんな天気ですし」  ワイパーが動いていた。外は小雨で、鬱陶しい空模様であった。 「渋谷を抜ければいくらかいいだろう」  高村は気をまぎらすように言った。 「そうですね」  だが、浜田はこの渋滞がどこまでも続いていそうな気がした。六本木も駄目だし、溜池のあたりはもっと酷いはずであった。 「青山通りへ抜けたほうが早そうな気がするんですが」  ためしに言って見た。しかし、高村は案の定首を横に振ったようであった。 「どこも同じだ」  高村は、一度自分がきめた道筋を滅多に変更させなかった。車は自分の意志どおりに動くべきだと思っているらしいし、一度きめた道をその場になって変更するのは、大げさに言えば彼の人生観のようなものに反するらしい。 「それにしても、下の道でまだよかったようだな」  高村は高速道路を眺めて、あざけるように言った。上はぎっしりと車がつまって、さっきから動く気配もない。 「いい勘でしたね」  浜田がなぐさめるように言うと、高村はうしろから首をまげてしげしげと彼の横顔を眺めた。 「君はこのごろ少し感じが変わったようだな」 「そうでしょうか」 「いつもさっぱりしている」 「髪型を変えたせいでしょう」  髪を短くして、スポーツマンのように刈りあげていた。 「そうだな。そのほうが似合う。清潔な感じだ。どうも若い連中の長髪は好かんよ」  敏子が無理やりそうさせたのだ。同時に、襟先きの細長くとがった、ひとまわりサイズの大きいワイシャツをやめさせ、襟もとのぴちっとしたナイロンのワイシャツにかえさせている。たったそれだけのことで、浜田は自分でも驚くほど、精悍で現代的な感じに変わってしまった。  本当は、敏子はカラーシャツを着せたかったようである。しかし、それには高村英太郎が顔をしかめるのが判っていたので、白いシャツにしているのだ。  どういうわけか、高村英太郎は自分の車について、ひどく大時代なイメージを持っているらしい。車に乗っている時の彼の態度は、いささか尊大に過ぎ、保守党の代議士のようなふんぞり返りかたをする。シートカバーは純白でなければ承知せず、ボデーもいつもピカピカでないと機嫌が悪い。運転させる浜田に対しても、必ず白い手袋をさせている。たまに忘れていると、手袋はどうした、と注意する。もちろんネクタイも上着も外すことは許さず、グリーンやブルーの塗装をした車は、乗用車であっても、全部スポーツ・カーだと言う。自家用車はすべからく運転手つきで、黒塗り白シートのおごそかなものだときめてかかっているのである。ひょっとすると高村は、若い頃からそういう車に乗るのが学者なのだという思い込みかたをしてきたのかも知れない。 「君はことしで幾つになるのかな」  その高村英太郎が、ふと思いついたように言った。 「はあ」  浜田はバックミラーへちらりと目をあげ、すぐ視線を前へ戻して答えなかった。 「うちの敏子より少し下だったな」  高村はつぶやくように言う。 「よくあれにからかわれているようだが、気にせんでくれ」 「はい」 「ああいう娘なのだ。まったく、あれにも困ったものだ」  高村は珍しくしみじみとした口調で言う。 「学校にいる頃から好き放題にしおって散々親を手古摺らせた。だが、どういうわけか遊んでいるようでいて、成績は悪くなかった。まったく妙な奴だ」 「頭がいいんです」  浜田は微笑して言った。実際、彼は敏子の頭の回転の早さには、いつも舌をまいていた。そのくせ、いましっとりと女らしかったかと思うと、突然素っ裸で浜田の背中へ馬乗りになってふざけたりする。会うたびに振りまわされている感じで、しかもそれがたのしかった。 「見合などさせても、とても承知する娘ではないと思ってな。儂ははじめからあきらめておったのだよ。あれはあれなりに生きるだろうし、それが一番いいと思ってな」 「はあ」  浜田は擽《くすぐ》ったい思いでハンドルを握っていた。 「何か外ではごちゃごちゃやっているらしかったが、いつになっても結婚する様子がない。三十になる前にと、思い切って見合いさせて見ると、一度で簡単に嫁いでしまった。ところが、これで納まったわいと安心していると、たった半年《はんとし》で出て来てしまう。まったくどういう気なのか。……いったい人生を何だと思っておるのかねえ」  浜田は返事のしようがなく、黙って聞いていた。ただ、この頑固で、梃子でも動かぬ重みを持った人物と、あのとらえにくい蝶のような敏子とが親娘なのだという事実を、不思議に思っていた。 「先方は次男坊なのだ。敏子を迎えるについて、新しく家まで買ったのだよ。今どき家など生易しい金では納まらん。儂の知っている者で、結婚して十五年も二十年もたった夫婦が、いまだに自分の家を持つためにせっせと金を貯めているのがいる。それなのに、大した理由もなくとび出して……。なあ君、儂だって先方に言う言葉がなかろう」  やっと車が少し動きだした。浜田はほっとしてギアを入れかえた。 「君からも言ってやってくれんかねえ」 「僕がですか」  浜田は体を堅くして言った。 「そうだよ。儂らの言うことを素直に聞く娘じゃない。君には何でもズケズケ言っているようだから、案外効果があるかも知れん」 「あちらでは、どうおっしゃっているのですか」  浜田は思い切って尋ねて見た。 「有難いことに、帰ってさえくれればそれでいいと言っているのだ」 「そうですか」  浜田は心の底にチクリとした痛みを感じながら頷いた。 「まあ、そう立派なという程の青年ではないが、真面目だし、家庭も悪くないし、敏子にはまず不足のない相手のはずだったのだが」  浜田は、はじめて敏子とデートしたとき、銀座の洋品店で見かけた、茶の服を着た男を思い出していた。敏子の夫がどんな人物であるか、よく知らなかったが、なんとなく気おされる思いがした。  その日、高村は一時から三時ごろまで、皇居前のホテルで誰かと会い、四時から一ツ橋の学士会館で何かのパーティーに出席していた。車を停めてしまえばあとは何もすることがなく、さりとて車のそばを長く離れていることもできず、自家用車の運転手とは、少し走って長く待つ退屈な仕事であったが、気を長く持ちさえすれば、その分だけ気楽な稼業と言えた。  浜田は停まった車の運転席で、その長い時間を、敏子のことを考えて過していた。  ホテルの部屋で、あの日浜田がバスルームから出ると、敏子はカーテンを引いて暗くしたベッドに横たわって、静かに待っていた。そのベッドへあがると、敏子はほの暗いスタンドの光の中で目をとじ、 「キスして」  と言った。浜田は軽くその唇に触れたあと、 「俺、君がはじめてなんだぜ」  とささやいた。率直になるべきだと心にきめてはいたが、それを口にしたとたん、ひどく恥かしくなった。男と女が逆になったような、みじめな気分に襲われたのである。 「そうは見えないわよ」  その時敏子は、薄く目をあけて浜田をみつめ、まったく動揺のない表情で言った。 「なぜだい」 「落着いているわ。思ったよりずっと……」  あ……、と思った。敏子はすでに浜田がその年でまだ童貞でいたことを見抜いていたらしい。 「どうして判ったんだ」 「不思議」 「うん」 「はじめは気が付かなかったの。でも、今度帰って来て、なんとなくそう感じはじめたのよ」 「結婚したせいか」 「それ、どういう意味」 「つまりその、ご主人と……」 「くらべたかって言いたいのね。おあいにくさま」  敏子は自分の顔をのぞき込む形でいる浜田の首にしなやかな腕をかけ、引き落した。浜田は重なるように倒れ込んだ。 「あたしはあたし自身で感じたの。誰ともくらべやしなかったわ」  首にまいた腕をそのままに、一度きつく唇を吸った。敏子の鼻梁の乾いた冷たさが、ひどく印象的であった。 「不思議だわ。ほんとに不思議よ」 「なにが不思議なんだ。俺のほうが余程不思議に思っている」 「なにを……」 「君のような人が、どうして俺みたいな奴とこんな風になるのか」  敏子はかすかに首を振った。ボーイッシュな短い髪が、浜田の眉のあたりに触れた。 「あなたを、どうして誰も気付かないのかしら。凄くハンサムよ。たくましいし……」 「まだそんなこと言ってる」 「いいえ、そうじゃないわ。きっとあなたは、世の中の忘れ物みたいな人ね。あなたがあんまり静かに、ひっそりと生きてるから、みんな見落しているのよ。でも、あたしは見つけたわ。だからうれしいの。判ってる。あなたは清潔で、正直で、たのもしい人なのよ」  敏子は潤んだ瞳でそう言い、指で浜田の顔を撫でまわした。浜田はその優しい擽ったさにうっとりとしていた。 「いつかはこうして、女の体を抱く日があると思っていた」  浜田はおずおずと敏子のくびれた胴の下へ手をさしいれ、抱きながら言った。 「そういう時が来たら、優しく、ゆっくりと、静かに愛し合いたいと思っていたんだ」  すると敏子は急に浜田の胸に、匂いをかぐように顔を埋めた。はだけた胸へ、キスがあった。浜田は上になった右手で、その短い髪の頭を優しくかかえた。女の頭は思いがけない程小さかった。  しばらくそうしていると、やがて敏子は鼻声をだし、体をそらせて胸をこすりつけるようにしたかと思うと、 「嫌だわ、あたし……」  と言って、べッドの上へはね起きた。浜田ははずみであお向けになり、驚いて敏子を見あげた。 「どうしたんだ」 「ちきしょう、あたしのほうが熱くなって来ちゃった」  ほの暗い中で、敏子は真剣な表情でそう言い、下唇を噛んだ。 「だめなのよ、あなたのペースじゃ」  そう言い、まさに艶然とした微笑を泛べると、両手の指先きで腰ひもの端を引っ張った。ひとえにしか巻けない、その短い浴衣のひもは、呆気なくはらりと解け、次に敏子が手を動かすと、浴衣は彼女のうしろに落ちて、つやつやとした裸身が彼の視界にあった。  ベッドに両膝をつき、引き締った腿が逆V字に彼女の上体を支えていた。  浜田はじっとそれをみつめた。 「綺麗だ……」 「よく見て、よく憶えてね」  敏子は両手を頭のうしろに組み、胸を突き出すようにしていた。 「これがあなたのはじめての女の体よ」  浜田は夢の中のような思いで体を起し、ベッドに埋まった膝のあたりから、そっとなめらかな肌に触れて行った。両手の指が、左右均等に這いあがった。  たしかに、先に自制心を失なったのは敏子のほうであった。同じ姿勢で抱き合い、次に同じように全裸にさせ、しばらくみつめ合っていると、叫ぶような声をあげて抱きついて来た。どこに唇をあてればいいのか判らぬように、膝で立った浜田の体の至るところにキスし続けた。  倒れ込み、体を押しつけ合うと、敏子は浜田を手にとって自分の中へ導いた。敏子は呻き、唇を噛んで浜田を初登頂させようと努めた。しかし、不器用にのしかかって動かない浜田の体の下では、どうはね動こうともだえようと、感じるものは敏子のほうが多かったようであった。それに、浜田にははじめての解放を恐れるものがあって、敏子のほうが先に震えだしてしまった。  あ、あ、と短く叫び、体をそりかえらせて浜田をきつくしめつけたあと、泣くような声で、 「ごめんなさい」  と言った。 「こんなつもりじゃなかったのに。……いいの、このままにしてて」  敏子は左側から体を起し、交わったまま位置をいれかえた。すぐ豊かなバストが揺れはじめ、浜田はそのたびに底の感覚を持った。今度は浜田のほうへ、どうにもならない熱さが見舞った。浜田は夢中で敏子の腰をだきしめ、敏子がそれにさからって動いた。 「だめ。はなして……」  何度か敏子は叱るように言った。浜田は、それが敏子の腰をだく自分の手のことを言っているのだと気づいた。そして手をはなした瞬間、我にもなく、あっと叫んだ。もう目の前に何もなく、巨大な火球が体の中を上昇して爆発したようであった。敏子はその浜田の両方の二の腕を、爪が食い入るほど強く握りしめ、息を短く吸い込んでいた。やがて、ゆっくりと浜田の真上へ倒れかかり、ぴったりと重なった。  言葉は要らなかった。敏子の熱い肉がうごめくたび、浜田はそれをはね返すように反り、それが二人の会話になっていた。そしてだいぶたってから、敏子はシクシクとすすり泣きをはじめた。 「どうしたんだ」 「しあわせなのよ」 「…………」 「ごめんなさい。でも、あたし、いまとってもしあわせなの」  浜田は敏子の短い髪の間に指をいれ、優しく梳《す》いた。 「君だけでいい」 「え……」 「俺は君だけでいい。このまま君だけでいたい」  敏子は浜田の胸に唇をあて、軽く歯をたてた。 「本当にそうしてくれる」 「君だけを愛して生きていたい」 「すてきだわ。もう一度言って」 「俺はこれから、君だけを愛して生きる。君の為に生きて、君と一緒に死にたい」 「そんなことが言える人なんて、もういないかと思っていたわ」 「まさか、これきりになるんじゃないだろうな」  すると敏子は首を持ちあげ、驚いたようにみつめた。 「本気でそう思うの」 「心配になった。もう君を離したくない」 「つかまえてて。いつまでも……」  二人の愛の言葉にいつわりはないようであった。翌朝まで二人はその部屋でじゃれ合い、むつみ合い、食事も部屋へとり寄せて過した。 「予約しておいたのよ」  翌朝早く、ホテルを出るとき敏子はそう言って笑った。 「あたしって、悪い女でしょう」  何もかも、結局敏子の予定どおりに運んだらしく、ホテルの勘定なども、敏子がいとも気軽に払ってしまった。 「今度だけだぞ」  憮然として浜田は言い、この次から女の敏子が金を払うのは許さないと睨んだ。 「そうね。あたしだってお金持ちじゃないし」  敏子は素直に同意し、これからはあなたのアパートへ行っていいかと尋ねた。 「そのほうがいい。精々綺麗にして置くよ」  そういう約束が出来て、敏子は次の晩から本当にやって来た。浜田が高村英太郎から解放される時間さえ判れば、どこへ寄り道するという気づかいのない男だから、敏子のほうで夕食の材料などを買い込んで、うまく時間を合わせることができる。  いま、二日に一度か三日に一度の割合いで、敏子はしげしげと浜田のアパートへ通って来る。泊って行くこともあるし、遅くに帰ることもある。女物の下着やネグリジェが、安物の箪笥の抽斗に数を増し、浜田の着る物やヘア・スタイルまでがかわって行った。  浜田の肩のうしろにある嘆き鳥については、最初の夜に説明させられた。 「そう言えば鳥が飛んでいる形だわ」  敏子は感心したように言い、その痣へ唇をあてて舌を這わせた。 「ねえ、感じないの」 「別に。ほかのところと同じさ」 「変ねえ、鳥が飛んでるくせに」  敏子は理屈に合わぬことを言って笑った。 「でも、これが宝物の地図だなんて、ちょっとロマンチックね」 「おとぎばなしだよ」 「でも、もし本当だったら大変なことよ。平家が壇の浦で滅んだ時というと、たしか文治元年。西暦で千百何年かだわ」 「よく知っているんだな」 「歴史は好きですもの」  それから浜田はながながと敏子の解説を聞かされた。義経や頼朝や武蔵坊弁慶などが出てくるその時代の物語は、それ自体が浜田にとってはひとつのおとぎばなしのようであった。 「昔だったら、さしずめあなたは嘆き鳥の五郎とかなんとか言う、ふたつ名前のおあにいさんだわね」 「嘆き鳥一家か」 「あたしがあねごってわけ……」  二人は笑い合った。浜田はずっとあとになっても、その時の満ち足りた幸福感を忘れられなかった。   神 鏡  六本木の通りを、敏子が大きな紙袋をぶらさげて、飯倉のほうから歩いて来た。その左側の歩道にそって建ち並んだビルのひとつにあるオフィスで、南川ヒロシが片手をあげて言った。 「じゃあたのんだよ」  そこはインテリア・デザイナーのオフィスで、三十そこそこの男が、今までひろげていた書棚と仕事机の図面を丸い筒にしながら、 「こんなの作って、あとで使いにくいと言って文句言ったって知らないからね」  と笑った。 「余計な心配しないで早くやってくれよ」  南川ヒロシは笑いながらドアをあけ、軽い足どりで階段を降りて行った。そこは三階で、足早に降りて行くと果物屋の店の横についた狭いドアから外の歩道へ出る。 「よう」 「あら……」  南川と敏子は出会いがしらに顔を合わせて、意味もなく笑った。 「仕事……」 「お嬢さまは」 「いやねえ。陰ではあの出戻りだなんて悪口言ってるくせに」 「聞えたかい」  南川はもう一度笑い、 「お茶でも飲むか」  と、自分に言うように言った。 「いいわよ、付き合ってあげる」 「光栄です、お嬢さま」 「うるさい、漫画屋」 「畜生、浜田君の真似だな。彼はおかしいなあ。時々説明するんだけど、どうしても俺を漫画家だと思っている。劇画と漫画とイラストレーションの区別がつかないなんて、今どき珍しいんじゃないか」  二人は狭い歩道を縦に並んで歩きながら、その先の角を左に曲った。近くに洒落た喫茶店がある。 「あの人は自分の世界をきっちりきめてしまって、よそ見をしないのよ」 「へえ……」 「そういう意味では、あなたの言うように今どき珍しい人よ」 「肩を持つんだね」 「じゃあ聞くけど、あなたはその三つをちゃんと定義づけて区別できるの」 「やだな」  南川は肩をすくめて見せ、喫茶店のドアをあけた。店の中へ入って見まわし、隅のあいた席へ行って坐る。 「のっけから堅い話になりそうだ。敏子さんとそんな話をしようとは思わないな」 「女はみんな馬鹿だから、語るに足りないってわけね」 「そうとんがるなよ。なんでこんなになっちゃったのかな」  そう言って笑い、ウェイトレスに冷たい飲物をふたつ注文した。 「先生は相かわらずご活躍だね」 「変なことはじめちゃって……」 「おかげでこっちは千人力さ」 「悪い人。立派な学者をゲテモノの世界へ引きずり込んじゃって」 「俺じゃないよ。先生が自分からしたことだ。冗談じゃなくて、そろそろ超能力だの円盤だのということを、正規の学者が真面目にとりあげてもいい頃だ。ゲテモノ扱いにしてるけど、事実存在するんだから仕方ないじゃないか」 「本当にあるのかしらねえ」  飲物が来ると、敏子はハンドバッグからシガレット・ケースをだした。 「あるんだよ」  南川は自分のライターを差しだして火をつける。 「円盤を見たという報告は、まず疑ってかかるのが正しい。それはたしかだ。でも、調べるとその報告の何パーセントかは否定できなくなる。その何パーセントかが、UFOなんだ。未確認飛行物体なんだな」  敏子は煙を細く吐いて、じっと南川をみつめた。 「また何かいちゃもんをつけようというのかい」  南川は先まわりして言った。 「違う」 「変だな」 「どうして」 「いつもと調子が違うからさ」 「そうかしら」 「そろそろ白状しなよ」 「何を白状するの」 「何かあるんだろう。誰かいるんだ。だから飛びだして来ちゃったんだ」  敏子は肩をすくめた。 「そうだったわね。あなたは円盤だの念力だの、変な歴史だのの専門家だったわね」 「それがどうしたんだい」 「これよ」  敏子はテーブルの下に置いた紙袋を示した。 「なんだい、これは」 「男物よ。今買って来たの」 「かなわねえな、まったく」  南川は頭を掻いた。 「君って人は頭がどうなってるんだい」 「狂ってる……」 「いや、そうじゃない。その反対さ。クルクル、クルクルよく動くんで、ついていけない感じだ」 「誰のだと思う」 「さあねえ。君の番をしてるわけじゃないからな」 「うちに、とってもハンサムな運転手が一人いるの」 「えっ」  南川はギョッとしたように敏子をみつめた。 「君、それは可哀そうだよ」  真顔になって体をのりだした。 「彼は純情な男だ。俺だってあいつは好きだ。清潔で控え目で、世の中の邪魔にならないように生きてる感じだ。ああいう生き方を見てると、人をおしのけかきわけして生きている自分が嫌になる時がある。優雅な生き方だよ。しかし……」 「あたしの相手じゃないって言うのね」 「結論を言えばそうだ」 「でも、可愛いわよ」 「そりゃそうだろう。たしか、ひとつ下だったかな。でも、君から見れば少年みたいなはずだな」 「あたしは年増」  敏子はふざけたように言う。 「よしなよ。あいつが君を愛したらどうなると思う。気を悪くしたらあやまるが、君という女を持つことで、あいつはこの世のたたかいのどまん中へ抛り出されるんだよ」 「大げさねえ」 「大げさじゃない。いったい、君を欲しがる男がどれくらいいると思っているんだ。今にもしかすると、あいつはその全部を向うにまわしてたたかわなければならなくなるんだぞ。静かにひっそりと暮している者を、そっとしといてやるのが本当の……」 「愛情だって言うのね」 「そうだ」 「じゃ、あたしには、ああいう男を愛する権利も資格もないと言うの。もしあたしが、ああいう風にひっそりと暮したがっているとしたら……」 「本当かなあ」  南川は疑わしそうに言った。 「どうして出戻ったか知ってる」 「知るわけがない」 「いいうちの次男坊。勤め先も上の中くらい。結婚するについて、親から小さいながら庭つき一戸建ての建売りを買ってもらって、家つき、カーつき、ばばあ抜きってわけ……」 「結構じゃないか」 「そこへ入って、次男坊氏をわが夫と仰ぎ見てごらんなさいよ」 「…………」 「あなたが今、浜田君について言った言葉をそっくりお返しするわ。あたしは平和な家庭の主婦に納まるわけじゃないのよ。その建売りの家のまわりを落着いてゆっくり見まわすと、もっと立派な、大きな家がたくさんあるじゃないの。亭主の地位だって、どんどんあげてやりたいでしょう。子供が生まれれば、勉強してみんなよりえらくなれ、みんなより強くなれって……」 「なるほどねえ」  南川は感じ入ったように腕組みをした。 「静かに暮していた女が、そうやって突然戦争にぶちこまれるのよ。たしかに、とついだのはあたしの責任。でも、その大きなたたかいに気付いたとき、あたしはさっさと逃げだしたわ。とてもやって行く気になれなかったの。一緒にたたかうほど愛してもいなかったし、そう思えるほどの相手でもなかったのよ」 「相手を傷つけない内に早く別れようとしたんだね」 「相手ばかりじゃないわ。あのままいたら、いやいや二人で戦争をはじめたはずよ。中途半端にね。あたしは妥協を続けながら、だんだん無気力なおばさんになって……」  敏子は男がよくそうするように、両手を目のわきへ立てて見せた。 「これもんで、子供のことだけに没入して。結局ママゴンよ。ありふれた現代の怪獣よ」 「でも、それじゃ彼ならいいというのかい」 「少くとも、たたかう気は起るわ。攻撃じゃなくて守備よ。侵略じゃなくて自衛のたたかいね」 「守ってやるのか」 「あの綺麗な心をよ。もうはたから何を言ってもだめ。あの人、童貞だったのよ」  うへっ、という感じで南川は腕組みを解いた。 「へえ……そうかね」  気をとり直して南川は言った。 「しかし、おかしな話になったな。君はなぜこの僕にいきなりそんな秘密をぶつけるんだ」 「あなたがそのほうの専門家だからよ」 「童貞のかい」 「ばかね」  さすがに敏子は少し顔をあからめたようであった。 「実は、ちょっと聞いてもらいたいことがあるの。それを聞くには、彼のことをバラしてしまわないとおかしいのよ」 「ほう。どういうことだね」 「あの人、ここのところに変な痣があるのよ」  南川は笑いだした。 「なる程ね。聞いて見れば筋が通ってる。そいつを逆の順序で聞かされたら、僕みたいな下司野郎はすぐ勘ぐるよ」 「いいの。時間あるの」  敏子は腕時計を見た。 「たとえ何があっても、その話は聞くよ。で、どんな痣なんだい」 「嘆き鳥……」 「え。なんだって」 「嘆き鳥という名前がついているんですって」 「粋な名だね。誰がつけたの」 「お風呂屋さん」  ヒヒヒヒ……と、南川は妙な笑い方をした。 「またついて行けなくなった」 「その痣は、平時忠《たいらのときただ》の宝に関係があるらしいの」 「平《たいら》……。平家かい」  南川は目を剥いた。敏子は委細かまわず話を進めた。 「ふうん……」  途中から南川は真剣な表情になり、敏子があらすじを語りおえるとため息をついた。 「その風呂屋の伝説だがね」  何か考えをまとめるように眉を寄せて言う。 「平家の宝物というのは、たしかに判り易くていい。いかにも平時忠は大金持だったはずさ。奢る平家が奢っている最中、この一門にあらぬ者は男も女も尼法師も人非人、などと酷いことを言った男だからな」 「清盛の兄さんに当たるわけでしょう」 「うん。清盛の奥さんが時子で、時子は時忠の妹だ。おまけに、もう一人、滋子という妹がいて、それは後白河上皇の女御《にようご》の建春門院になっている。だから平家全盛のころは関白なみの威勢を振ったが、そうかと言って、余り上等な人物ではなかった節もある。たしか二度ほど流されているな」 「後白河院と清盛の対立のまん中にいて、どちらかと言えば後白河寄りだったんじゃなかったかしら。よく憶えていないけど、一度は後白河の子供を立太子させようとして解任されたはずよ。そのあと、天皇を呪詛したとかなんとかで出雲へ流されて……」 「あとでよく調べて見るよ」  南川はじれったそうに言った。 「どうしたのよ。いらいらしてるみたい」 「君はとんでもないことを持ちだしてくれたよ」  南川は苦笑して見せ、一気に喋りだした。 「時忠という人物については以前から関心を持っていた。一般には平家の貴族的な面を、それも悪いほうの面を代表する人物のように言われている。清盛の娘の徳子など……」 「建礼門院ね」 「うん。徳子などは安徳天皇をだいて壇の浦で身投げしてしまったというのに、時忠はなんとか生きのびようと悪あがきしている。一般には義経につかまって京へ送られたことになっているようだが、本当は自分のほうから命乞いに行っている。どうも、最初からかなり高度な条件を持ち出して取引きしたようだ。君は例の三種の神器の内のひとつが壇の浦で海の中へ沈んでなくなってしまったのを知っているだろう」 「剣《つるぎ》でしょう」 「うん。清盛の娘の徳子が、幼い安徳帝といっしょに、ドボンとやっちゃったわけだ。だが時忠は死ななかった。もうひとつの神器である鏡を差しだして、交換条件として助かったらしい」 「そのどこがおかしいの」 「どうも、重大な使命のようなものを持っていた人物じゃないかと思うんだよ。つまり、鎌倉にいた頼朝が、いちばん望んでいたのは、安徳天皇と三種の神器を確保するということらしいんだ。平家と入れ替わって天下を治める場合、まず問題となるのは、京の貴族たちとの関係だ。神器や天皇を海に沈めてしまったら、あとが厄介でしょうがない。ところが義経は勇ましい八艘とびなんかやって、いくさしか頭になかった。おかげで天皇と剣《つるぎ》はドボンさ。義経びいきが多いけれど、見ようによってはひどく幼稚な大将だったと言えなくもない。その点、良い悪いは別にして、時忠は老獪だし、政治の裏を知り抜いている。義経のルートではないところから、ひそかに神器を確保する手が打たれていたかも知れないじゃないか。結局神鏡は知盛が仕たてた御座船にあって無事。神璽である八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》は、二位尼がそれを持って入水したあと、箱ごと浮いて来て無事……」 「それに時忠がからんでいたの」 「推測さ、想像だよ。でも、よく考えて見ると、おかしいのさ。戦争は源氏の一方的な勝利だった。いくら時忠がおとなしく神鏡をさしだしたからと言って、簡単に罪を免じられる情勢ではない。何しろ、平家にあらざれば人にあらずと言った奴だからね。鏡と一緒に京へ送られたとしても、そこで鏡をとりあげられて、首をチョンということだってあり得るし、むしろそのほうが可能性が濃い」 「そうだわね」 「そうなのさ。そういうことをずっと考えて来たら、そこへ君がひょいと嘆き鳥を飛ばして寄越したんだ。ピンと来たね。その厳重すぎるほど厳重にかくした宝物というのは、ひょっとすると神鏡なのかも知れないんだ」 「だって……」 「源氏がとり戻したって言いたいんだろう。しかし、もともと宮中にある三種の神器というのは、摸造品なのさ。勾玉《まがたま》だけは本物らしいが、剣《つるぎ》は熱田神宮、鏡は伊勢神宮のご神体になっていて、両方とも、はじめは天皇と同じ屋根の下に置いたのだが、崇神天皇のとき大和の笠縫邑《かさぬいのむら》 に移されて、それ以来宮中のは摸造品になってしまった」 「ずいぶん古いことだわね」 「だからさ。ひょっとすると、時忠は頼朝の弱味を知り抜いていて、伊勢の神鏡を……つまり本物をかくしていたんじゃないだろうか。そうでないと、摸造の鏡を取りあげられたあとも、命があったのが割り切れなくなる」 「剣じゃいけないの」 「熱田の剣ではないよ。あれは江戸時代にあけて見た記録があるし、壇の浦のあとすぐに新しく摸造の剣が造られているもの。本物はちゃんとあったはずだ」 「なるほどねえ。すると、嘆き鳥はその神鏡のかくし場所を秘めた地図というわけね」 「彼の痣がそうかどうか知らないが、かくしすぎるほどかくさねばならないとすれば、鏡という答が出て来る。それは時忠一門にとって、命を守る鍵なんだからね。それを持っている限り、生命は保証される。表向きは宮中にあった鏡で納まっているが、もし伊勢の神鏡がないということになったら、まだ基礎のやわらかい鎌倉幕府は、根底から揺れ動くことになる。いや、少くとも頼朝たちはそれをおそれた。後になって見れば、そんなことに関係なく、鎌倉は次の世を継いだわけだけれど、当時の頼朝たちにしてみれば、はれものにさわるような思いだったろうさ」 「そうね」 「時忠はそれで能登へ流されるだけで済んだ、鏡のおかげでね。彼らを殺したら永久に鏡は失なわれる」 「能登へとじこめて、そっと生かしたわけね」 「そうだよ。今度、彼氏を口説いてくれないか。是非ともその嘆き鳥を拝見しなくてはな。写真に撮って研究したいんだ」 「うんと言うかしら」 「君が言わせてくれ。そのかわり、君らの味方になろう」  南川は本気で言ったようだった。   雨  梅雨に入ったらしく、もう何日も雨が降り続いている。敏子は窓辺に倚りかかって横坐りになり、ガラス戸を細目にあけて外を見ていた。 「まだ降ってるな」  浜田が言った。入口の横に一畳分の板の間があって、その流し台のわきのガス・コンロに、使い古した薬缶をかけているところであった。窓のすぐ外にある土手の上を国電が通り、流しの上の棚にのせた、歯ブラシをいれたコップが、となりの鍋に触れて、チリチリとこまかく鳴っている。  敏子は窓をしめ、ハイライトの袋をとりあげて一本抜きだすと、薄べったいぺーパーマッチをひらいて火をつける。 「湿っぽいわね、ここは」  煙を吐きだして言う。 「上着のポケットにある奴を吸えばいい。それはここに置きっぱなしにしておいた奴だから」  女はフィルターのところをつまんで、吸っていた煙草を一回転させて見る。 「本当だわ。シケちゃってる」  浜田は壁に吊した上着のポケットを探ろうとする。 「いいわよ、これで」  敏子はものうげに首を振った。 「敏子、嫌になっちゃった」  今日は焦茶色の丸首シャツを着て、スカートはデニムのミディである。薄いが恰好のいい唇に煙草を咥え、特徴のある少し離れ気味の大きな目で浜田を見た。 「どうしてだい」 「またおやじと喧嘩しちゃった」 「先生とか。あまり派手にやるなよ」 「下らないことばかり言うんだもの」  敏子は甘えるように言った。浜田が灰皿を中に、向き合って坐ろうとすると、左手で自分の横の畳をトントンと軽く突いて見せた。浜田は中腰でそこへ移る。 「心配……」  敏子はすぐもたれかかり、ちかぢかと顔を寄せて、からかうような表情でみつめた。 「俺のこと、バレたんじゃなかろうな」 「大丈夫よ。あたしがそんなヘマをするわけがないじゃない」  浜田は敏子の唇から煙草をとりあげ、灰皿で軽く灰を落してから、自分が吸った。 「しょうがないのよ。出戻りですもの」  敏子は左手を窓の下の壁と浜田の腰の間にいれ、甘えるようにもたれかかり直した。 「先生にうしろめたいんじゃないのかな」 「それならあなただって同じよ」  敏子はどうでもいいことのように軽く言った。 「判らないなあ」 「何が」 「どうして六ヶ月くらいで別れちゃうんだろう。それならはじめから結婚しなければいいのに」 「籍まで入れちゃったんですものね。馬鹿みたい……。でも、あなたまで言うことないじゃないの。うんざりだわ。みんなで同じことばかり言うんですもの」  浜田は敏子の短い髪を、煙草をはさんだ左手でそっと撫でた。 「ごめん……」 「また言って来たのよ。向うの親たちや仲人がね」 「うるさいだろうが、仕方ないな」 「つめたいのね」 「だってそうだろう。大したわけもないのに出て来てしまったんだ。たった半年《はんとし》じゃ、説得すれば元のさやに納まると思うだろうし、それじゃもういいですと言えば事が荒立ってしまう」 「言ったって判ってもらえないわ」 「君の気持か」 「ええ。あたしの我儘だ……でおわりにされちゃうわ。でも、彼だってあたしのこと、あんまり好きじゃないはずなんだけどなあ」 「ご主人がもういいと言えば、それでけりがつくな。でも、いまだにそれを言わないところを見ると……」 「まわりよ」 「まわり……」 「そう。兄さんやご両親や、結婚式に呼んだ人たちや……。そういうものを気にしてるの。出て行かれてはみっともないと思っているのよ」 「ご主人にして見ればもっともかも知れないぜ」 「まあいいわ。このお天気みたいなものよ。梅雨は雷が鳴るまではアガらないのよ」 「君は頭がいい。手近なものでうまくたとえる」 「でも、おやじも立場が悪いわね。あたしが出戻りで住みついてるんじゃ」 「そりゃそうさ。先方さんにも返事のしようがないだろう」  浜田は思い出し笑いのように笑った。 「なによ」  敏子が首を動かして浜田を見た。 「えらい先生も君にあってはかたなしだな。頑固で強情っ張りのあの先生が……。いつかも車の中でこぼしてたよ」 「なんだって」 「家のことを言ってた。あちらは君を迎えるんで家まで買ったのに、って」 「建売りよ。それもローンで。家賃払ってるほうが余程気がきいてるわ。あたしたちが入ってすぐ、もう台所でも何でもガタガタ」 「みんな、そのガタガタのマイホームが欲しくてあくせく働いているんだ」  浜田は、吸っている内に湿気で白い巻紙が黄色く変色しはじめた煙草を、灰皿で揉み消した。敏子は浜田の胸に向けて体を倒し、投げ出している脚を枕にする形で、あおむけになった。 「あたし、帰ったほうがいいの」  下から見あげて言う。浜田は黙ってその薄い唇の形を指でなぞった。敏子が急に口を開いてその指先を噛む。浜田が浅く咥えられた指をそのままにしていると、敏子は左手でその手を掴み、指を口から放して男の掌に唇を押しあてた。 「よくねえんだよなあ、こういうのは……」  浜田はつぶやくように言った。 「家出しちゃおうか」  敏子は男の子のような言い方をする。浜田の左手がその首筋のあたりへ這った。 「ご主人の娘さんだからなあ」  敏子は自分の陰気な気分を浜田に感染させてしまったと悟って、機嫌をとりはじめたようであった。 「二人でどこかへ行っちゃおうか」 「そりゃ、運転手なんて、どこへ行ったってわりと簡単に仕事は見つかるさ。二種の免許も持ってるし。でも……」  浜田の指は脇腹から盛りあがった胸へ這い登る。 「あたし、我儘かも知れないけど、そう贅沢な女じゃないのよ。いまいちばんあたしが贅沢してるのは男よ」 「男……」 「あ、な、た」 「俺が贅沢かよ」 「そう。あたしはいま凄く贅沢してるの。あなたみたいな男をひとり占めしてるんですものね」 「二人でどこかへ行ってしまってもいいけど、先生に何と言ったらいいか」 「おやじなんて平気よ」  浜田は掌を大きくひろげ、左の乳房をそっと掴んだ。 「あなたはあたしよりずっと自由だと思うわ」 「自由。どうして」 「あなたがうちのおやじに義理だてすることなんてないのよ。何よ、人使いばかり荒くて。まるで思いやりなんてないんですものね」 「そうでもないさ」 「ねえ、この間家族づれの遠距離トラックを見たわ。若い奥さんと三つぐらいの坊やが一緒なの。いいもんだなあって思っちゃった。ねえ、ああいうのやらない」 「流れ者みたいな暮しだぜ。連中は連中で、一ヶ所に落着きたいと思ってるんだ」  浜田の右手が動いて、デニムのスカートから薄い丸首シャツの裾をたくしあげ、じかに肌へもぐり込んだ。 「短い間でもいいわ。一度やって見たい。あなたの横に坐って、大きなトラックで国道をすっとばすの。ヘッドライトが暗い道を照らすのをじっとみつめてると、反対側の車がブンブンすれ違って行く……。ロマンチックだなあ。人生をあなたに完全にあずけちゃったわけよね。あなたが行こうとしてるところへあたしも行くの。降りられも逃げだしもできない……。そして暗い海岸に停めちゃって、波の音を聞きながらファックしてもらう」 「馬鹿だなあ」  敏子の胴がむきだしになった。シャツは脇の下までめくりあげられ、白いブラジャーにしめつけられて盛りあがったバストの谷間が、浅黒く好色な感じに見えている。浜田の指がブラジャーのカップをずらせ、左の乳首を引っぱりだす。淡い茶色の乳首は、エロチックに歪んで上を向いている。 「倦きたら大阪か東京でタクシーでもなんでもやればいいじゃない。あたしだって働いてもいいのよ」 「働くって……」 「ホステスよ」 「君にできるのかい」  浜田は三本の指で、そっと淡い茶色の突起をつまんでいる。 「あんなの、誰にだってできるわ」  敏子は太い息をついて言い、左膝を立てた。浜田が投げ出していた脚をあぐらに組むと、敏子は高くなった浜田の脚に合わせて体をずりあげた。浜田はうつむいて、そのしこった突起に唇をあてる。いつの間にか敏子は自分で背中のフックを外し、肩紐のないブラジャーは、やんわりと肌から浮きあがった。浜田の手がそれをとり除く。あおむけになっていても、そのバストは平たく崩れなかった。 「運転手なんて、しがないもんさ」  低い声で浜田は言い、今度は唇を吸った。ブラジャーのフックを外した敏子の左手は、そのまま自分の腰のあたりへまわり、あぐらをかいている浜田の股間へ伸びている。浜田はそれに対抗するように、デニムのスカートのフックを外しはじめる。 「もっと自由に生きたいわ」  敏子は唇を離して言った。また電車が通り、窓がこまかく震えた。 「脱げよ」  浜田は体を起し、両手で敏子の薄いシャツを引っぱりあげた。敏子は両腕を伸ばして脱がされる。つるりとした感じで上半身があらわになった。腋窩に薄い毛が見えた。あらためて浜田が膝の上へ倒そうとすると、敏子は掴まれた腕を軽くふりほどき、 「お蒲団敷くわね」  と立ちあがった。立つとデニムのスカートがすっぽり脱げ落ちて、小さな白いパンティーだけになる。敏子はスポーツ選手のような思い切りのいい態度で、裸のまま押入れをあけ、蒲団を敷きはじめた。シーツを伸ばすとき、浜田の目に、うつむいた敏子のバストがひどくエロチックに映った。浜田はさっと立ちあがり、シャツとズボンを脱いだ。敏子はテレビの上からティッシュ・ペーパーの箱をとって枕もとへ置くと、ブリーフひとつになった浜田に体を押しつけて、腰に両手をまわした。 「こんな風にしてると電車から見えるんじゃないの」 「見えないんだ。庇《ひさし》にかくれて」 「見られてもいいわ。あたし、一度人に見られながらしてみたい」  敏子は腰を落し、引きずり込むように浜田と一緒に蒲団へ倒れ込んだ。 「ねえ」 「なんだい」 「ちょっとあっち向いて」  浜田は敏子に押されてうつぶせになる。 「本当に感じないの」  敏子は嘆き鳥に唇をつけて言った。 「まだ言ってる」  浜田はくるりとあおむけになった。今度は浜田の乳首がいたずらのように吸われる。 「先生に言われたんだよ」  浜田は目をとじて言った。 「え……。何を」 「ご主人のところへ帰るように言ってくれってさ」  敏子は蒲団の上へ、ぺたんと裸で坐り、浜田の下腹部を平手で軽く叩いた。 「こういうときにそんな話をどうして持ちだすのよ」  子供をたしなめる母親のようであった。 「それで、いつ言われたの」 「だいぶ前だ」 「気になるの」 「うん。先生を裏切っているんだからな」 「これが裏切りになるのかしら」 「なるさ」 「困った人ね。そんな風じゃ生きて行けないわよ。だったらやめてしまいなさい。そうすれば五分と五分でしょう」 「五分にはなれないさ。恩義があるもの」 「ねえ……」  敏子は浜田をもてあそびながら言った。 「あなた、いつの時代から来た人なの。タイムマシンでやって来たのね」 「からかうなよ」  敏子はため息をついた。横になり、浜田の体の下へもぐりこもうとするように、しがみついた。 「そこがいいんだわ。生意気なこと言ってごめんなさい」 「君はこのごろよく俺にあやまるね」  敏子はギョッとしたように顔をあげ、浜田をまじまじと見た。 「そう言えばそうだわ」 「俺に合わせてくれているようだぜ」  敏子は下唇を噛み、 「あたし、悪い女ね。あなたを駄目にしちゃうかも知れない。……でも、好きよ」  浜田が敏子をまさぐりはじめた。沈黙が続き、二人とも残りの布切れを蹴り脱いでからみ合った。 「あなたって、凄く上手」  敏子がかすれ声で言った。 「それに、とても逞しいの。立派よ。セックスって生まれつきなのね。あの人、とても下手だったわ。体はそう貧弱じゃないんだけど」  半分は本当らしいが、半分は浜田を刺戟するための言葉だったらしい。浜田は敏子の期待どおり反応し、彼女を組みしいた。 「全然よくないの。いつも自分ばかりよ」  浜田が敏子を押し潰すように動いた。 「あたし、あなたに合うの」  細い声で言った。悲鳴を言葉に変えているようであった。 「あなたに合わせているんじゃないわ。合うのよ。合うの……」  浜田は激しく動きだした。その肩のうしろで、嘆き鳥が大きくはばたいている。  やがて敏子は体中の力を抜いて、ぐったりと浜田の横に裸身をさらした。浜田はすぐ起きあがり、衣服をまとって、珍しくきびしい声で言った。 「もう俺にあやまるのはよせ」  敏子は目をとじたまま、頼りない声をだした。 「はい」 「ほかの男のセックスのことを言うのもだ」  すると敏子は目をあけ、ゆっくり上体を起した。 「はい、ご主人さま」  そう言ってから、四つん這いになって蒲団のすそのほうにあったパンティーをとり、はきはじめた。 「ひどい目に会ったわ」  浜田がそれを見おろしながら、心配そうな顔になった。 「どうかしたかい」  敏子は頭を振った。 「すてきだったけど、こてこてにやられたってかんじ……。女って、駄目ね」 「どうしてだい」  浜田は窓際にあった敏子の服を、彼女のほうへ抛ってやった。 「あなたに教えたのが嘘みたい」  敏子は立ちあがってまずデニムのスカートをはき、上半身裸のまま、ふらりとよろけるように浜田にとりすがって畳に膝を突いた。 「知ってる。女って、こういうとき、男を憎たらしいと思うものなのよ」 「俺が憎いのかい」  敏子はため息をついた。 「そう。憎ったらしくて、可愛くって、泣きたくなっちゃう」 「複雑なんだな」 「ほかの人のこと言うと、嫉《や》ける……」 「失礼だよ」 「あなたに……」 「その人にだ。俺だって言われるのは嫌だ」  敏子はシャツを取り、ひろげて頭をくぐらせた。ブラジャーは省略してしまう気らしい。 「おやじに似てるわ」 「俺がかい」 「そう。おやじは両手を前へ出して、来る人を突っ張り返すの。あなたは腕組みして受け流す人。……それだけの違いみたい。頑固で古臭くて」 「新しいことは苦手だ。でも、新しいものがみんないいとは限らない」 「お風呂へ行かない」 「へえ、銭湯へ行くかい」  浜田はうれしそうに言った。 「一緒に入れないのが残念だけど、早く出たら外で待ってるのよ」 「いいとも」  浜田は嬉々として風呂の仕度をはじめた。  やがて二人は相合傘で暗い国電の土手の下の道を通り、一緒にあの風呂屋へ行った。浜田は満足であった。敏子を妻にして、毎日このように過したいと思った。彼が考えている家庭とは、夫婦が連れ立って銭湯へ行くようなことであった。  先に出た浜田を風呂屋の前に十五分も待たせて、敏子が湯あがりの艶めいた姿で現われたとき、浜田は傘をさしかけてやりながら、低い声で言った。 「ほら、あそこに立っている奴」 「どれ……」 「一人いるだろう、男が」 「ええ」 「女湯から出て来るのを待っているんだぜ」 「あたしたちみたいね」  敏子は微笑した。 「ついさっき一緒に帰っちゃったのもいたよ。いいもんだろ」 「そうかしら」  二人は並んで歩きだした。 「うちにお風呂があれば、あんな風にすることもないじゃない」 「判らないのか」  浜田は失望したように敏子を見た。  こまかい雨が降っていて、暗い道のあちこちに水たまりができていた。突きあたりの国電の土手の上を、電車が通りすぎた。  浜田はふと世田谷の高村家を想った。そこには同じ雨が降っているだろうにと感じた。   仕事場  南川ヒロシが自分の仕事机に向ってもう四時間あまりたつ。机の上には、三、四十本ものペンをいれた大きなペン立てに、絵筆をいれた筆立て、ポスター・カラー、定規類、使い古した製図用のディバイダーや烏口《からすぐち》、墨汁の壺、黒インクの瓶、セットになった十何色かのカラーインク、それに鉛筆や消しゴムや鳥の羽根……右に置いた袖机の上には、小さなドライヤーが、机の裏にあるコンセントへコードをだらりと伸ばしている。  左となりのデスクに、アシスタントの小野がいて、似たような姿勢で何かケント紙に描いている。  小野のうしろ側の壁にそって、スチール製の本棚が三つ並べてあり、南川の絵の資料になる雑多な種類の本が、ぎっしりとつまっているが、本棚は入口のドアの脇にもうひとつあって、そのほうには漫画雑誌や映画雑誌、それにファッション関係の外国雑誌が、棚ごとに積みあげてある。  その雑誌を積んだ本棚の横に、どっしりとしたサイドボードがあって、ガラス戸の中には洋酒の瓶がずらりと並び、上にステレオのアンプやテープデッキ、レコード・プレイヤーなどが置いてあった。スピーカーは小型で、仕事をしている南川の背中を頂点とした三角形を作るように、ドアのある側の壁の上のほうにとりつけてある。そのスピーカーからは、もう二時間もバッハが流れ続けていた。  南川や小野の机にくらべると、いやに物の少ない感じでよく整頓された机がもうひとつある。いまその椅子は無人で、となりの応接セットを置いた和室に二人の女が低い声で喋りながら、うず高く積んだ雑誌を切り抜いて、スクラップ・ブックに貼りつけている。 「ああ、腹が減ったな」  南川が突然顔をあげて大声で言い、ペンを置くと椅子の上に反って背伸びをした。 「そばを食おうか」  となりの小野に言う。 「ええ」  小野も手を休めて答えた。 「ミー子、そばをたのんでくれ。俺はざるを二枚」 「俺も」  二十四、五の、脚が長く胸の平べったい女が和室の青いソファーから腰をあげ、 「あたしはスパゲッチ」  と、ふざけたように言った。 「またスパゲッティかよ」  小野が人ごとながらうんざりしたように言う。 「ミー子、あたしも」  襖のかげでもう一人の女の声がした。南川は煙草に火をつけて椅子をまわし、机を背中にした。ミー子は自分の机へ行って電話をかけはじめる。 「なあ小野」 「え……」 「高村先生のとこの浜さんだけどさ」  南川はそこまで言って煙草を吸い、黙りこんだ。 「浜さんがどうかしましたか」 「いや、別に。……どう思う、彼を」 「どうって、ちょっと頼りないみたいだけど、おとなしくていい人だな」 「うん……。なあ、敏子さんとどうだろう」 「どうって」 「一緒に並べたらさ」 「また変なことを考えてる」  小野は笑った。 「変なことじゃないさ」 「変なことじゃないって……それじゃ、あの二人に何かあるというんですか」 「うん」 「嘘だ」  小野はまた笑った。 「そんな……あるわけないですよ」 「お前、敏子さんに惚れてたっけな」  南川はニヤリと小野を見た。 「手おくれだよ。あきらめな」 「本当ですか。まさか……」 「この間、彼女と六本木で会った。自分で言ってた」 「嘘ですよ、きっと」 「さんざん惚気られたよ」 「ちえっ」  ミー子が小野の前へ立って指を折りはじめた。 「あれでしょ、あれでしょ……」  そのたびに指を折り、片手で足りなくて両手をだした。 「大変ねえ、失恋ばっかりで」 「うるせえ」 「やだ、おこってる」  ミー子は笑いながら和室へ行った。 「でも、本当ですか」 「本当さ。それはいいんだけれど、浜さんについて妙なことを聞いた」 「どうして浜さんなんかとデキちゃうんだろう。いやだなあ、女って……」 「浜さんは君よりずっといい男だよ」 「そうですかねえ」  小野は疑わしげに南川を見た。南川が冗談で言ったのではないと知ると、肩をすくめて椅子をまわし、南川のほうを向くと左膝に右足をのせて机に片肱をついた。 「小野は石川県の生まれだったな」 「ええ」 「どこだっけ」 「穴水の少し先です」 「能登か」 「中居というところですよ」 「浜さんも能登だそうだな」 「ええ。でも、子供の頃にいただけだそうですよ。だいぶ苦労したそうで、お袋さんと二人であっちこっち流れ歩いたって言ってました」 「うん。それにしては、どこかおっとりしたところがある人だなあ」 「のんびりした性分なんでしょう。苦労が足の裏からみんな抜けて行ってしまって、ちっとも体に溜らない……」 「聞いた風なことを言うなよ。君より年上じゃないか」 「それはまあそうですけれど」  小野はどことなく、浜田に対して優越感を持っているようであった。 「どの辺《へん》の生まれだか知っているか」 「浜さんですか」 「うん。外浦《そとうら》じゃないかと思うんだが」 「多分そうでしょう。でも、能登はやはり内側がいいですよ。富山湾側のほうがね」 「お国自慢はどうでもいいけど、時国家というのがあるだろう」 「ああ、あれは輪島のほうです。だいぶ前から能登も観光客が行くようになって、時国家も見学料をとっていますよ。たしか二百円だったかな」 「俺はまだ行ったことがないんだが、どうなんだい。いいところかね」 「さあ、好きずきですよ。僕はやっぱり内側のほうが」 「君は能登生まれだ。別だよ」  南川はうるさそうに言った。 「輪島の朝市《あさいち》ってよく言いますけど、大したことないですよ。でも、外浦の曾々木《そそぎ》や真浦《まうら》のあたりは、やはりいいことはいいです」 「宿なんかはどうだい」 「行くんですか。そうですねえ、だいたい木造かモルタルの二階だてかな。いや、鉄筋モルタルっていうのもあるか」  南川は軽く笑った。小野は少しむきになって言う。 「輪島には鉄筋七階のホテルだってありますよ。でも、あんまり大きいのはないな。大きくて、せいぜい五十室どまりぐらいかな」 「高洲山《こうしゆうざん》なんて山があるね」 「自衛隊のレーダー基地です。上へ登ると能登の内浦、外浦の両方が見わたせますけど、車じゃ行けません」 「舳倉島《へくらじま》まではどのくらいかかる」 「輪島から船で二時間ちょっと。……行く気なんですね」 「うん、いずれな」 「案内しますよ」 「そのつもりさ」 「久しぶりに帰れるな。いつ行くんです」  南川は窓の外を見た。まだ梅雨空で、いつ降りだしてもおかしくない空模様であった。 「まだきめていない。仕事のスケジュールしだいだが」 「取材があるんですか。そんな仕事、ありましたっけ」 「ないよ」  南川はニヤリとした。 「浜さんに関係してるんだ。おかしな話だぜ」 「なんです。教えてくださいよ」  すると南川は机の上の灰皿で煙草を消し、のっそりと立ちあがって、資料のつまった本棚から、すっと一冊抜き取って椅子へ戻った。 「そばはまだかな」  ミー子が答える。 「時間がかかりますって」  南川が持って来た本のページをめくろうとすると、とたんに入口のドアがあいて、 「お待ちどうさまッ」  と男が入って来た。 「ちえっ。スパゲッティが先かい」  小野が見て言う。ミー子が出て来て皿をうけとり、 「だからよ。おそばじゃのびちゃうわ」  と笑う。 「そばがのびる前にこっちがのびちゃう」  小野はニコリともせずに言って、南川がひろげたページをのぞいた。 「こいつだ」 「鳳凰でしょう」  そこには中国の古い鳳凰の絵が、原色版で印刷してあった。 「君は能登で嘆き鳥というのを聞いたことがあるかい」 「嘆き鳥……知りませんねえ」 「そうだろうな、内浦では」  南川はからかい気味に言ったが、小野にはその皮肉が通じないようであった。 「なんです、その嘆き鳥というのは」 「浜さんの右の肩のうしろのところに、多分こういう形だと思うんだが、大きな痣があるそうなんだ」 「え……」  小野はギョッとしたように南川を見た。 「それ、敏子さんから……」 「そうだよ」  南川はニヤニヤした。 「やだなあ。もうそういうことになってるんですか」  南川は笑いだした。 「本当に失恋しやがったな」 「畜生……浜さんてのはのそのそしてるくせに」 「違う。敏子さんのほうから惚れたらしい」 「やなこと聞かせないでくださいよ。残酷だなあ」 「滑稽だよ、小野なんか」 「まあいいです。それで、嘆き鳥ってどういう鳥のことです」 「浜さんの痣さ」 「痣……」  小野はキョトンとした。 「そう。鳳凰が飛んでいる形をした痣のことを、能登では嘆き鳥というんだ」 「聞いたことないな」 「君は風呂屋じゃないもの」 「ああ、いやになった」  小野は立ちあがって両手を腰にあてた。 「どうしたんです、今日は」 「なぜ」 「おかしいですよ。話が次から次へとんじゃって、ついて行けないや」  南川は含み笑いをする。 「俺もこの話を最初に聞いたときはそうだった。バラバラで、突拍子もなくて……でも、よく考えると筋が通ってる」 「通ってやしませんよ」 「まあすわれ。こいつは、銭湯の経営者なんかの一部に伝わってる、かくされた伝説なんだ」 「銭湯か……」  小野は椅子に戻った。 「俺は敏子さんからこの話を教わって、自分で少し調べて見た」 「嘆き鳥のことをですか」 「いや。風呂屋のことだ」 「ちえっ」  小野は失笑して首を振った。 「いいから聞け。東京都内に風呂屋はどのくらいの数があると思う」 「さあ」 「当ててみろ」 「そうですねえ。五百か……いや、もっと多いな」  小野は天井を向いて考えた。暗算をしているらしい。 「千じゃきかないでしょう。千二百」  南川は首を横に振った。 「じゃあ、千五百」 「約二千五百軒さ」 「うへ……そんなに」 「うん。その中で、半分の千二、三百ほどが新潟県の出身者だ」 「へえ、そうですか」 「富山、石川が約三割で、七、八百軒」 「ふうん……」 「ほかの府県の出身者は二割程度しかいないそうだ。こいつは東京都の公衆浴場組合へ電話をして直接たしかめたんだから、まず確実な数字さ」 「能登、加賀、越中、越後……北陸ばっかりですね」 「そうなんだが、これが大阪へ行くと、約六割が石川県の出身者になってしまう。もっとも、この出身地別の数字というのは、過去何代かにわたってのもので、近頃持主がかわったりしたのがあるから、今日現在では違う答が出てしまうだろうけど、とにかく昔の風呂屋というのは北陸の出身者たちが独占していたと言っていいだろうな」 「そうですねえ。なぜだろう」 「なぜだか知らない。でも、ひょっとすると嘆き鳥のせいかも知れないぜ」 「どうして」 「嘆き鳥というのは、実は宝の地図なんだ」  小野はふきだした。 「やれやれ、ひっかかっちゃった」 「俺は真面目だよ」  南川は小野を睨んだ。 「いいか、まず、能登の外浦、輪島のあたりにその嘆き鳥の噂の発生地があるとしよう」  南川は蛇の頭のような能登の地図を、机の上に敷いた大きなケント紙の端に鉛筆で描いた。右に鎌首を持ちあげた蛇の、ちょうど目に当たる部分が輪島になる。 「むかしむかし、時国家の先祖がこのあたりへ来て、どこかへ宝物をかくした」 「あ、時国家ですか。あれは、平家の落人《おちうど》ですよ。すると、それは平家の宝物なんですか」  小野は真面目な顔になって言った。 「そうさ。これは隠れた平家伝説さ。いろいろな本を当たって見たが、各地の平家伝説を書いたものの中にも、この話だけはのっていない。平家伝説は、ずいぶんいろんなところにある。落人村として有名なところでは、西から言うと、熊本の五箇庄《ごかのしよう》、宮崎の椎葉村と米良荘《めらのしよう》、四国では徳島の祖谷谷《いやだに》、飛騨《ひだ》へ来て白川郷、長野と新潟の県境で秋山《あきやま》郷、福島では只見《ただみ》川の谷、それに石川県では白山の麓とこの時国家だ。そのほか薩南諸島に安徳天皇の子孫だという長浜天皇があり、対馬藩主の宗《そう》氏も安徳天皇と関係があると言われているらしい」 「安徳天皇って……」 「第八十一代の天皇で、お父さんはその前の高倉天皇、お母さんはそのお妃で、清盛の娘の徳子だ。建礼門院という」 「あ、昔のポルノ・スターだ」 「変なことばかり知ってやがる」  南川は笑った。 「でも、それなら話が早いな。徳子はまだ幼い安徳天皇をだいて、壇の浦で海へ身を投げたことくらいは判っているだろうからな」 「そこからはじまるんですよ、あれは」  南川は閉口したように、 「とにかく、平家の伝説は数が多いんだ」  と話を進めた。 「その平家伝説をいろいろ調べたが、嘆き鳥だけはどの本にも全然出て来ない」 「どうしてでしょうね」 「俺は当然だと思う。だって、宝のかくし場所にまつわることなんだぜ。その話がもしでたらめだったりすれば、もっと有名になっているはずだ。いくらかでも本物なら、そうペラペラと人に言いはしないさ」 「で、お風呂屋との関係は」 「これから説明するよ」  南川の指先がまたケント紙の上の、能登半島の略図へ移った。 「時国家の先祖が壇の浦で敗けて、ここへ流されて来て、宝をどこかへかくした。かくし場所は地図に書いて残すのがふつうだが、この場合はその地図が人間の肌へ写された」 「いれずみ……」 「いや、違うようだ。伝説では、殿様が家来の一人の肌へその地図を書き、その家来一代だけではなく、代々子孫にまで残るようにしたという」 「できませんよ、そんなこと」 「まるでおとぎばなしだな。そこで発想を少し変えてみると、能登へついて来た家来の一人に、そういう遺伝性の痣がはじめからあったとしたらどうだい」 「そんな、地図そっくりにですか。都合よすぎますね」 「発想を変えるというのはそこさ。その痣の形が、地図ではなくて、ある独特の形をしていて、その形が宝をかくした場所のヒントになるような、つまりキーワードになっていたとしたらどうだい。その家来の家に代々そういう痣が伝わることが判っていて」 「嘆き鳥の形ですね」 「うん。そして、その嘆き鳥が宝のかくし場所のキーワードになるんだ」 「まあ、それならあり得ますね」 「だが、これは俺の推理だ。その話を洩れ聞いた者は、地図だと思い込んでいたらしいね。ところが、時国の先祖で能登へ流されて来た殿様が死ぬと」 「その殿様の名前は時忠《ときただ》っていうんでしょう。平時忠《たいらのときただ》……」 「うん」 「そのくらいは知ってるんです。時国家のアレでね」 「時忠が死んだあと、その家来はトラブルがあってどこかへ行ってしまった」 「宝の地図の持ちにげだな」 「そういうわけさ。で、みんなで探しはじめた。何代もたって、とうとう見つからず、時国家はそれでも栄えて、嘆き鳥を追いかけることなどしなくなった」 「平時忠なのに、どうして時国っていうんです。時国って、苗字ですよ」 「敗けた平家だから、世間をはばかって、二代目の平時国のときに、名前を姓にしてしまい、平という姓を棄てたのさ」 「なんだ、そうか」 「その時国家は、奥能登の名家として、今日まで二十四代続いている。時忠がはじめ住んでいた所は別な場所で、時国の代になってから、町野川という川ぞいにある、その当時は大力《だいりき》、晦目《ひずめ》、と言っていた二つの村のあたりをよく整備して、新しい家を建てたのさ」 「それが今の時国家ですね」 「いや、もう少し川上だったらしい。その頃の時国家というのは、家というよりも、やはり平家の一門にふさわしい、城か館といった豪壮なものだったらしいね。建坪だけで二百四十坪もあったそうだから」 「じゃあ落人といったって、そう遠慮してちぢこまってたわけじゃないんですね」 「そうらしいな。それで、今の建物は江戸のおわりごろ、少し川下に昔の家をこわして建て直したものだそうだ。それでも、建ててからもう百五十年たっている。多分古い家の柱などを移したのだろう。移しおえるまでに、二十八年もかかったそうだよ」 「今だって、でかいですよ」 「百八十九坪……。茅葺きで、棟の高さなんか、九間半もあるそうだ」 「県の重要文化財になっていますよ。でも、お風呂屋はまだですか」  小野がからかうように言ったとき、そば屋の出前持ちがドアをあけた。   平《たいらの》 時忠《ときただ》  そばを食べおわって、ミー子がいれてくれたお茶を飲みながら、南川は和室にある応接セットのソファでまた喋りはじめた。ミー子は自分のデスクへ戻ってスクラップの整理を続け、アルバイトの娘は出版社へ使いに出て行った。 「その嘆き鳥伝説は、どうやら当の時国家ではとうに消えてしまっているらしい」 「じゃ、誰が伝えているんですか」 「風呂屋さ」 「え……やっと出て来ましたか。でも、風呂屋っていうのは少し飛躍してますね」 「してないよ」 「どうして」 「その嘆き鳥は人間の肌に残るんだぜ」 「あ、そうか」  小野は頭に手をあてた。 「すると、ずっと探しつづけた連中がいたんですね。時国家があきらめてしまったあとも」 「そうなんだな。一攫千金の夢って奴だ。時国家の周辺に、いつとはなく嘆き鳥のことが洩れて、その宝の地図を手に入れようと探しまわる連中があらわれたということだろう。もちろん、その中には事情をよく知っている、時忠について来た人々の子孫もいたろうよ」 「そうでしょうね。でも、平家が滅亡してからっていうと、随分長いはなしですね」 「宝というのは、えてしてそういうものさ。あとになればなるほど、貧乏人の夢が加わって大きくなり、いっそう人間の欲望を刺激する……。まあ、どちらにしても、問題は時国家から離れてしまったわけだな。そして人々は去ったその家来の行方を探しつづけ、追いまわしたのさ」 「先祖代々同じ形の痣か……。すると、浜さんはその痣の持主だから、その家来の子孫というわけじゃないですか。みんなで散々探しまわったのに、それじゃ求める相手はお膝もとにいたわけですね」 「どうか判らない。だって、浜さんのお袋さんは、能登の人じゃないんだろう。だから、嫁に来て、ご亭主に死なれたかどうかして、あっちこっちを流れ歩いたわけさ」 「そうか。でも、その家来の子孫である浜さんのお袋さんが、ずっとあとになってまた能登へ嫁に来るなんて、世の中は妙な風につながってるんですねえ」 「そうだな。……とにかく、そうして嘆き鳥はえんえんと、しかもひそかに探しつづけられた。宝さがしに凝りかたまって、何代も探しまわった一家もあったことだろう。そしてとうとう、世の中に風呂屋などというものがたくさん出来る時代になった。みんながそこへ来て裸になる。これこそ絶好の探し場所じゃないか」 「ああ、それでまず、関西の風呂屋へどっと能登の人間が流れ込んだわけですね。向うは六割くらいが石川県の出なんでしょう」 「そうだ。そしていまも、浜さんの背中の痣を見て、それは嘆き鳥というんだよと教えてくれるような能登|出《で》の風呂屋のおやじが残っている……と、こういうわけなのさ」 「浜さんは知らなかったんですか」 「彼のアパートの近くの風呂屋で、そこのおやじに言われるまではな」 「そのおやじは、浜さんの嘆き鳥を見てどうしたんです」 「どうもしやしないさ。かすかに東京の古い風呂屋に残る言い伝えで、信じていやしないだろう」 「探しに行こうかな。浜さんを連れて」 「いずれ俺が行くよ」  南川は笑った。 「その宝を探すんですか」  小野はなかば本気であった。 「君は俺が歴史好きなのを知っている。ずいぶん前から、三種の神器などのことをコツコツ調べていただろう」 「ええ」 「六本木で敏子さんに偶然会ってその話を聞いたとき、俺は本当に宝物がころがり込んで来たと思ったよ」 「三種の神器と……」 「関係ありそうなんだ」 「さあ、また判らなくなったぞ」 「三種の神器って、何と何だか知っているかい」 「剣と鏡と玉《たま》」 「剣は草《くさ》 薙《なぎの》 剣《つるぎ》 、別に天《あまの》 叢《むら》 雲《くもの》 剣《つるぎ》とも言う。鏡は八咫鏡《やたのかがみ》、玉は八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》と言い、これは一個のかなり大きな勾玉《まがたま》を指した言葉らしい。いろいろ調べてみると、どうも大昔はネックレスのようなもので、管玉《くだたま》、丸玉《まるたま》、切子玉《きりこだま》、棗玉《なつめだま》などという、いろいろな種類の玉をつなげて、全体を|八尺瓊勾玉之五百津之美須麻流之珠《やさかにのまがたまのいおつのみすまるのたま》と呼んでいたようだ。でも、玉はとにかく、それをつないだ紐は、時代がたつと切れてしまうし、そのネックレスの中で特に大きな勾玉だけが、神器としていつまでも残ったのではないだろうか。どちらにせよ、いまそのうちの鏡は伊勢神宮に、剣《つるぎ》は熱田神宮に、それぞれご神体としてまつられている。そして、天皇のそばには、それを摸造した剣と鏡と、それから玉の三つが置いてあるわけだ」 「あれ、すると壇の浦でなくなっちゃったんじゃないんですか」 「君が言うのは剣のことだろう。壇の浦で、剣は徳子が安徳天皇と一緒に抱いて、海の中へとび込んでしまった。もちろんそれは宮中にあった摸造の剣で、それから二十年くらいは代用の剣を使っていたらしいが、あとでまた熱田の本物をコピーして元に戻したらしい。江戸時代になって、熱田の神官たちが、ひそかにご神体をあけて見たと言う記録が、玉籤集《ぎよくせんしゆう》という書物に残っているそうだ。何重にもなった木や石の箱に入っていたというから、熱田の剣は今も残っているのだろう」 「鏡と玉は……」 「玉は二位尼というのが、やはりそれを持って海へ飛び込んだんだが、木の箱に入っていて、箱ごとうかんだところを拾いあげられたそうだ。で、鏡だが、鏡は平知盛《たいらのとももり》が仕立てた御座船に飾られていて、それを時忠が源氏側へ無瑕《むきず》で差しだして降伏し、命乞いをしたのさ」 「それで嘆き鳥とつながって来るんですか」 「うん。だって、壇の浦のときのことは、筋が通っているようで、どこかおかしいだろう」 「時忠のことですか」 「そうだよ。なるほど神鏡を差し出して命乞いをしたのなら、能登へ流されたくらいで助かったのも当然というような感じもする。しかし、あとで義経や範頼までが頼朝の手にかかって死んでいることを思うと、どうもおかしな気もするだろう。頼朝は単に源氏を再興しようとしただけではないんだ。武家政権をなんとかして確立しようとした男だし、その為に義経なども殺さねばならなかったはずだ。平家にあらざれば人にあらずなどと、不遜なことばを吐き、武家というよりは朝廷貴族の一員だったような奢れる時忠を、その程度のことでどうして許したんだろうか。差しだした鏡をとりあげて首をチョンでも、あとで困ることはなんにもないんだぜ」 「どうしてだろう」  小野は首をかしげた。 「これは記録があってはっきりしているんだそうだが、鎌倉にいた頼朝が、壇の浦というか、西日本における平家殲滅戦で一番心配していたのが、安徳天皇と三種神器の行方だ。それがないと、あとの政権確立がむずかしくなると思っていたんだな。実際には、あそこがひとつの時代の転換点で、そういうことはどうでも、結局鎌倉幕府は成立してしまうんだが、当時の頼朝にとっては、ひょっとすると、天皇と神器さえ奪い返せば、あんなパーフェクト・ゲームじゃなくてもいいと考えていたかも知れない。ところが、義経なんてのは、喧嘩に勝つことばかり考えていて、あとのことにはちっとも頭がまわらない。建礼門院の徳子なんかをたすけて、君の好きな本によると、イチャイチャしたりするけれど、彼女がだいて沈んだ肝心の剣や天皇はとうとうたすけそこなったわけだ。何が八艘とびだ、って言うんで、義経に対する世間の評判なんか、ばかばかしくて仕方なかったかも知れない」 「なるほどなあ」 「まあ、そういったわけだから、仮りに時忠が鏡を差しだしたほかに、何か条件をつけたとすれば、ああいう風な助かりかたをする理由も、もう少しはっきりするんだ。つまり、頼朝の構想実現のたしになることとか……」 「たしか、徳子で思い出したけど、清盛は天皇の叔父さんか何かじゃなかったですか」 「うん。彼の奥さんの妹は、滋子と言って後白河の後宮に入った人だ。その滋子が生んだ子が高倉天皇で、娘の徳子がまたそのお后になって安徳天皇を生む……」 「その辺のツテで、後白河あたりと何か」 「俺はどうも違うように思う。嘆き鳥の話を聞いたとき、いきなりピンと来たのがそれさ。時忠は源氏にゴマをすったんじゃなくて、おどしたんだ。おどして助かったんだ」 「へえ……」 「いいか、頼朝は天皇や神器のことで頭がいっぱいになってる。剣と天皇を失なわせてしまって困りはててると思いなよ」 「はい」 「そこへもし、もうひとつ難題を吹っかけたらどうなる」 「さあ……」 「ここでちょっと気になるのは、時忠が差しだして無事だったという神鏡のことだが、これが少し怪しいと言えば怪しいんだ」 「へえ……違うんですか」 「義経が京都へ持って帰れたのは、勾玉だけだったという説が流布されている」 「じゃあ、ふたあつドボンですか」 「いや、鏡は誰か平家の者が持ち去ったというのさ。たとえば、壇の浦から部将の一人が鏡を持って落ちのび、美作《みまさか》の山奥へかくしたという説がある」 「美作というと岡山県ですね」 「いつだったか、地元の郷土史家で熱心な人が、その部将の系図を研究して本当に鏡を掘りあててしまったんだ」 「出て来たんですか」 「うん。それが問題の神鏡かどうかはいろいろ議論が出てはっきりしないが、とにかくうんと古い時代の鏡であることはたしかだったそうだ。その鏡は今でも赤間神宮にあるはずだよ」 「それが本物だって判ると面白いですね」 「ところでどうだい。平家でもトップクラスの時忠が、本物の神鏡をかくしてしまったとしたら」 「だって、差し出したんでしょう」 「言ったろう。宮中の剣や鏡は摸造品だって」 「あ、本物をですか」 「そうさ。伊勢のご神体だ」 「まさか」 「仮りにそうしたとしたら、能登流しくらいで助かって、お城のような家をおったててのうのうとしていたわけがわかるじゃないか」 「誘拐とかハイジャックとおんなじですね。乗っ取ってかくしちゃって、俺を殺したら永久にわかんなくなるぞ……」  ふざけ半分にそう言ったあと、小野はアッと叫んだ。 「そうか。嘆き鳥かあ」 「時忠の秘宝は伊勢の本物の鏡……」 「財宝じゃないんですか」 「財宝も一緒かも知れない。でも、かくしすぎるほどかくさなければならなかったのは、それが自分たちの命の綱だったからだよ」  南川はニヤリとして言った。 「いつも宮中に置かれていて、まだ子供の安徳天皇といっしょに壇の浦まで持ちだされて行ったのが摸造の鏡や剣で、それさえももしなくなればあとが厄介なことになると、頼朝は気をもんでいたわけですね」 「そうだよ」 「だったら、熱田の剣や伊勢の鏡がひそかに持ち出されていた場合、それどころではなくなってしまいますね」 「あくまでも仮定のことだが、どうも時忠という人物は、そのくらいの細工をやってもおかしくないような気がしている。ただしこれは俺の感じだけだけれど」 「僕は鏡なんかどうでもいい」  小野は欠伸をするように背筋をのばし、両腕をあげて言った。 「金銀財宝がいいな。だったら今すぐにでも探しに行きますよ。何しろ地元なんだから」 「まあ、そういうわけで俺は壇の浦のときの三種神器の行方について、以前から気にしていたのさ。時忠のことなんかも、自分なりに調べている内、だんだん怪しく思えて来たんだ。そこへ、敏子さんが風呂屋につたわる嘆き鳥の話を持ちこんだというわけさ」 「パッと火がついた……」 「そうなんだ」 「宝さがしか。いいなあ」 「そりゃ、平家は大した金持さ。たとえば、平家一門が住んでいた六波羅あたりは、屋敷の数が百七十、一族の郎党眷属のすまいが五千以上と言うんだからな」 「奢る平家か。でも、今の京都の六波羅あたりは大したことありませんね」 「そりゃ八百年もたってる。でも、平家全盛時の勢いというのは、たしかに時忠が平家にあらざれば人にあらずと言ったのも当然だと思えるくらい、大したものだったらしい。何しろ、日本の半分くらいを握ってしまったんだからな。六十余州と言うだろう。その内三十ばかりを自分たちの知行国にしてしまったんだ。たしか、荘園の数が五百以上、かな。当時中国は宋の時代で、その宋との貿易でも大儲けをしたらしいし」 「そんな大財閥のトップじゃ、さんざんいい思いをしてるし、いまさら戦争なんかで死にたくはないですよねえ。まして後白河さんの奥さんの兄さんじゃ、まだまだ未練があるでしょうしね。そこでいろんな手を使って、金銀財宝をざくざく持って能登へ行ったわけでしょう」 「勘違いしちゃ困る。能登へ着いたときは、さすがの時忠も主従あわせて十六人さ」 「へえ。じゃ、あとでとり寄せたんだ……」 「金銀財宝をか。どこまでも金にこだわる奴だな」 「そりゃそうですよ」  小野は当然だと言うように笑った。自分の故郷のあの山かこの谷に、ひょっとしたら時忠の宝が眠っているのではないかという夢に酔ってしまったらしい。 「大谷というところを知っているか」 「聞いた憶えがありますね。そうか、たしか時国家に関係がありましたね」 「曾々木海岸からだいぶ半島の先のほうへ行ったあたりの海辺だ。時忠の一行はその大谷へ舟で着いたんだよ。場所は江《え》の澗《ま》と言うそうだ。要するに、小さな川の川口だろうな。壇の浦の合戦が文治元年の三月で、時忠たちの流刑が行なわれたのは、平家物語によると同じ年の九月二十三日だ。ところが、玉葉という本には五月二十一日となっている。また、吾妻鏡では五月二十日のこととしてある」 「ずいぶんこまかいこと言いますね。どうだっていいじゃありませんか、八百年も昔のことを」 「いや、これは時忠の刑の執行が遅れた証拠なんだ。何かの事情で能登へ流すことがきまってからも、なかなか行かなかったということなんだ。そして結局、九月二十三日に出発したらしい。山槐記という本には、時忠たちが能登へ向ったから、多分今日は東坂本泊りだろうと言うことが書いてある。これがいちばんたしかな記録だろう」 「何をしてたんです、その間は」 「さあ、よく判らない。ただ、例の徳子がそのころ吉田にいて……」 「建礼門院ですね」 「うん。その建礼門院のところへ行ったりしていたらしい。わりと自由にしていたような感じだな。子供の時家にも会ったりして、別れを惜しんでいるよ」  南川はそう言って、時忠の歌を暗誦した。 「帰りこん、事は堅田《かただ》に引く網の、目にもたまらぬわが涙かな……」 「あれ、時家ですか。時国じゃないの」 「時忠の子供は、時実《ときざね》が長男で、これはもう讃岐《さぬきの》中将になっていて、上総《かずさ》へ流されている。時家は次男で十四歳の少年だ。その下にまだ時宗、時定といて、時忠は次男の時家に近江のあたりまで送られたらしい」 「じゃ、時国は……」 「あれは能登へ行ってからの子供だよ」 「あれ、時忠ってのは老人でしょう」 「能登へ行って文治五年に六十歳で死んだそうだから、当時五十五歳ということだな」 「それでまだ子供を作ったんですか」 「時国と時康という二人の子を能登で作っているよ」 「元気なもんだ。その前の子たちとは生き別れになったんですね」 「うん。でも、子供たちについてはよく判らないことだらけだ。さっき言った時宗や時定は、時家の子供だという風になっている本もあるし、ほかに娘が一人いて、これが義経の恋人だったと言われているんだ」 「知らないなあ」 「大谷から、もう少し先へ行ったところに、馬緤《まつなぎ》という所があるんだが……」 「ああ、馬緤追分《まつなぎおいわけ》という唄の本場ですよ。砂取節なんていうのもありましたっけ」 「その馬緤という地名は、奥州へ逃げる義経がそこで馬をつないだからだと言うんだが、何しに奥能登くんだりまで来たかと言うと、時忠の娘の蕨《わらび》姫に会うためなんだな」 「そうそう。地元にはそういう言い伝えがよくあるんです。たとえば、もっと南の能登|金剛《こんごう》のあたりには、弁慶が餅を作るときそこの水を使ったという滝があったり、義経たちがかくれていたという洞窟があったり……」 「吾妻鏡には、文治五年の二月二十四日に時忠が能登で死んだと書いてある。三月五日に頼朝のところへその報告が届いて、いろいろ話題になったとき、時忠の年齢がよく判らなくて、あれは今年幾つだったかと尋ねたら、六十二だろうと答えた者がいたそうだ。ひょっとすると、異説のある時宗と時定、それに蕨姫の三人は連れて行ったのではないかな」 「まあとにかく、それが時国家のはじまりなんでしょう」  小野は大ざっぱに結論を出した。  第三章   雷 鳴  高村英太郎を乗せた車が、急に暗くなった道を世田谷へ向かっている。空は低くどす黒くたれこめ、まだ午後の四時半だというのに、ライトをつけた車さえいる。 「もうどこかで降りだしているはずだな」  高村は窓から空を見あげて言った。その暗い空のどこかが、ときどきピカリと光る。 「雷か。一気にどっと降って雷が鳴れば、それでこの梅雨もあける。夏が来るな」  高村はむしろ降り出すのを待っているような言い方をした。道路は渋滞していて、とりわけ世田谷通りへ入るとぎっしりとつまっていた。 「先生」 「なんだ」  高村は珍しく浜田のほうから声をかけて来たので、かすかに微笑を泛べた。 「あの……ちょっと聞いていいですか」 「どういうことだ」 「空飛ぶ円盤というのは、本当にいるんですか」  高村は声をあげて笑った。 「どうしてまた急にそんなことを言いだすんだ」 「このあいだ南川さんがくれた雑誌に、先生が空飛ぶ円盤のことを書いていらっしゃいましたので……。テレビでもよくそういうことをお話しになるんだそうですね」 「ゆうべも放送があったろう」 「あんまりテレビは見ないものですから」  高村はまた笑う。 「なんだ、儂をあちこちのテレビ局へ連れて行っているくせに」 「すみません」 「君はそういうことには余り関心がないらしいな」 「能なしですから」 「南川のくれた雑誌というと、どんな雑誌だ」 「漫画がたくさん載っている奴です」  高村は舌打ちをした。 「どうせ儂の書いたものを研究するのなら、もっとちゃんとした本から入ったらいい」 「研究だなんて……」  浜田は失笑したようである。 「そんな大それたこと、できっこありません。でも、本当にいるんですか」 「円盤か」 「ええ」 「なぜ急にそんなことを尋ねる」 「雷が光りましたから。円盤というのは、こういうお天気でも飛べるんですか」  高村は前へのりだし気味だった姿勢をうしろへ倒し、シートにもたれこんでまた空を見た。 「そういうことか」  失望したようにつぶやいた。 「どうやって飛ぶんです」 「判らんよ。しかし、磁気を利用しているというのは、多分間違いだろう。もしそういうものがあるとすれば、この地球専用に考え出した小型のもので、母船から低空用に放出されていると考えたほうが正しそうだな」 「磁気って、マグネットのような力を使うんですか」 「そう考えていい。しかし、まだ想像上の問題にすぎん」 「でも、あっちこっちへずいぶんたくさん現われているのだそうですね。読んでびっくりしました」  高村は閉口したように顔をしかめた。 「やれやれ、ここにも一人円盤気違いが生まれそうだな」 「違うんですか」 「見たというたいていの報告は、みな嘘か間違いだ」 「でも、先生のようなちゃんとした学者のかたが研究していらっしゃるんだから……」 「円盤は実在する。しかし、本物は世間で言われているものの何パーセントかにすぎん」 「そうなんですか。でも、何パーセントかにしても、やっぱり本当にいるんですね」  浜田はたのしそうに言った。 「まったく君はこのごろ少しおかしいな」 「は……どうしてです」 「以前はもっと落着いていたぞ。なんだか知らんが、このごろ月並みな男になって来た」 「そうでしょうか」 「さっきも、高速道路で花屋のトラックに意地の悪い運転をしていたろう」 「ああ、あれですか。向うが変な運転ばかりしていたからですよ」 「それにしても、以前は決してあんなことはしなかった」 「すみません。気をつけます」 「君の運転は信用しているよ。まあ若いから時には仕方ないが、情緒不安定というのはいかん。特に運転者はな」 「はい」 「君がいつもうしろに乗せて動いているのは、日本の宝なんだぞ」 「は……」 「儂のことだ」 「なんだ」 「こいつ、なんだと言うことはなかろう」  高村は笑いだした。 「万が一、いま世界のどこかへ……特にこの日本へ、地球以外の知性体からコンタクトして来たら、それにきちんと応じられる力のある人間は、今のところ儂ぐらいなものだ。ほかの学者連中は、円盤実在を心の底では否定し切れぬくせに、見て見ぬふりだ。勇気がない者ばかりだよ」 「ほかの先生がたは、円盤なんか嘘だと言うんですか」 「そうだ。しかし、一概にそれが悪いということはない。南川たちはむきになってそういう学者に食ってかかるが、それは科学というものを知らんからだ。たとえば超能力の問題にしても……」 「スプーンを曲げる奴ですね」 「もう少し勉強しなさい」  高村は大学で学生を叱るように言った。 「スプーン曲げと超能力か……俗だな。まったくどうしようもない」 「でも、本当に曲がるんだそうですよ」 「儂はその研究家だ」  高村は自尊心を傷つけられたらしかった。 「たしかに、かすかだがその徴候がある。しかし、あんなサーカスの奇術みたいなものではいけない。もしも本当にその人間にスプーンを曲げられる超能力があるなら、なにもテレビのディレクターのところへ駆け込まんでもよかろう。テレビというのは、そもそもが視聴率を相手にしている。大衆におもねる。百発百中に曲がらねば、なあんだということになる。そうだろう。五分の放送時間のあいだ、何度やっても曲がらなければ、それで失敗ということにされてしまう。六分目に曲がっても、彼ら放送関係者にとっては何の価値もないのだ。だが、本当の超能力というのは、一万回ためして一回か二回成功するだけでも、大変な価値のあるものだ。人類全体の大問題だ。科学だ文明だという以前の、生き物としての大問題だ。それはショーなどではなく、もっと厳粛なものなのだぞ。曲がる曲がらないは、一人の人間の名誉の問題ではなく、人類全体の可能性の問題としてとらえなければならない。一人が手を使わずにスプーンを曲げたということは、全人類が精神の力で物を動かしたり作ったりできるという可能性をさし示すのだ」 「そうなったら凄いですね」 「そうだ。いま君は、ごく平凡な答をだした。しかし、それは決して無知とか単純な好奇心ではない。人類はかつて水中で生活していた時代を持っている。そのとき、最初の一匹が陸へあがって見せた。水の外でも自由にくらせる。水の中でみんながそう思い、もしそれが本当なら、すばらしいことだと考えたに違いない。それと同じことだ。だが、はじめからそんなことはできっこないときめてかかり、水の外にいるのは何かのトリックを使っているのだと考えるのも、必然な知性のひとつだ。そうやって疑い、トリックをバラしている内に、ひとつの確固たる事実がうかびあがって来れば、それもまた、最初から水の外で暮せるのだと主張する者たちと、同じ結論へ到達するわけだ。今の段階では、円盤にせよ超能力にせよ、本気で否定し、ひとつひとつ嘘のデータを踏みにじって行くことのほうが、より科学的な姿勢であるとさえ言えよう。しかし儂は、そうやって行くと、必ず現代科学では否定し切れない何かが残されるということを知っているのだ。その残されたものに、科学者はみな本気でとりくまねばならんと言っているのだよ。だから儂は、円盤が現われたと言えば、それを徹底的に究明する。超能力があると言う者が現われれば、どこまでもその嘘をあばきたてる。しかしそれは、本物を探すためだ。現代科学が否定し切れないものが残ることを信じているためだ。わかるかね」 「はい」  浜田の返事は頼りなかった。 「ごく最近、儂は円盤についてひとつの面白い考えかたに気がついた」 「どんなことです」 「地球以外の知性体が、地球の知性に対してコンタクトしようとすると、彼らはいったい、どこへ連絡したらいいだろう。地球上にはたくさんの人間がいる。円盤を所有するもの……判りやすく宇宙人と言ってもいいが、その宇宙人から見て、どの地域の人間が最も進んでおり、どれが地球全体を代表する者かをきめるのは、なかなかむずかしい問題ではないだろうか」 「そうですかね。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、日本……科学が発達した先進国は、上から見てもすぐ判るんじゃありませんか」 「いや、そうとは言い切れんぞ。果して、我々の考える先進国が、彼らの考えに一致しているかどうかだ。ノストラダムスの予言ではないが、ここは進化の方向を誤り、行きどまりの社会を作ってしまっていると考えるかも知れんじゃないか。人類の次の主役は、まったく別なところにいるかも知れない。また、我々が宇宙人とコンタクトできるまでに、充分成熟しているとも言い切れん。彼らにして見れば、まだまだ子供の社会をときどき観察しているだけかも知れん。そうだろう、我々は、まだこの星の単一の政治機構すら持っていない。各部族ごとに、地方地方でまとまっているだけの、星としてはごく未開な状態とも言えるじゃないか。これは面白い。面白い考えかただろうが」  高村は自分で言って自分で何度も頷き、もう話相手に浜田を必要としないようであった。  ポツリ、と浜田の目の前のフロント・グラスに小さな雨の跡がついた。車は世田谷通りから右折してそれたところであった。 「降って来ます」  浜田が言う。 「そうか」  高村が何気ない様子でそう答えたとき、ピカリと烈しく光が裂け、ほとんど間を置かずに、バリバリッという雷鳴が響いた。 「来おったな」  続いてもうひとつパッと光り、今度の音は二人の頭の真上から、尾を引いてどこか遠くまで続いて行った。  ポツン、と大粒の雨がフロント・グラスに当たり、すぐ車の屋根でバラバラという音がはじまった。 「これはただの雨か……」  高村が窓の外をみつめて言った。屋根の音はそれほど強かった。 「雹《ひよう》か何かまざっているのですかね」  浜田が答えたとき、ワイパーが動きだした。雨はすぐどしゃ降りになり、浜田はあわててライトをつけた。 「これで梅雨もあがる」  降る雨の圧倒的な勢いに対して、高村はまけ惜しみのように言った。稲妻がたてつづけにうす暗い雨の道に光り、雷鳴が頭上から落ちた。 「停電したようですね」  浜田は声を高くして言う。どの商店からも光が洩れていなかった。 「帰って仕事があるというのに……。夜までになおればいいが」  雨のしぶきがあがる道を、浜田は注意深く車を進めた。ビニールの風呂敷のようなものを頭上にかざした若い女が、けもののように車の行手を左から右へ、さっと横切って消える。 「結局のところ、人間はまだ天候さえコントロールしとりゃせん」  一度右折し、住宅街の一方通行の道へ入って次に左折すると、高村家の門が見えて来た。浜田は前かがみの姿勢になって、ライトを高い位置に向けた対向車を見た。 「なんだってあんな……」  珍しく浜田がその車に対して文句を言いかけた。この暗さとこの雨の中では、近づいて行く車の視界を奪うに等しかった。  浜田がその非常識な車に腹をたてかけたとき、その光が突然左側へそれた。浜田はブレーキを踏み、徐行していた車をとめて相手の動きを見た。  あまり見なれぬ車であった。ツー・ドアで全体としてはフェアレディZに似ているが、国産車ではなさそうだった。  その車が高村家の門の中へ鼻先きを突っ込んでとまっている。道を塞ぐ恰好だ。浜田は右の掌でクラクションを短く三度鳴らした。すると相手はいきなり門の中へ入って行ってしまった。 「お客さんのようです」  浜田は車をとめてうしろの座席にいる高村をふり返って見た。高村の表情は不機嫌になっている。 「あれは南川の車か」 「いいえ、南川さんのはムスタングです」 「かまわん。入れなさい」  浜田はすぐ車を道の右側へまわし、いつものように大きく左へハンドルを切って門の中へ持って行った。入りかけたとき、赤いテールランプが見えていたが、入ったとたんその半分が消えた。浜田は相手が後退する気なのを知って、あわてて長くクラクションを鳴らした。  玄関の前の車がまたブレーキのライトをつけ、しばらくして甲高いホーンを鳴らし返して来た。短く三度、長く一度。 「なんだ、あいつは」  高村が腹立たしげに言う。浜田はゆっくりと門の外へ車を戻す。するとツー・ドアの外車はあらあらしい勢いでさがって来て、どしゃ降りの雨の中を、門の前で派手にハンドルを切り、泥水をはねあげながら走り去った。  高村はむっつりと黙り込んでいる。浜田はいつものように優しく車を玄関の前へ着けた。 「いい……」  ふだんは浜田がおりてドアをあけるまでじっと待っている高村が、この雨ではさすがにそれをさせず、自分でドアをあけて玄関の中へとびこんだ。それでも一応浜田は車をおり、雨に叩かれながら自分も玄関の庇の下へ行った。 「なんだ、お前だったのか」  高村はまだ家の中へあがらず、濡れた髪や服をハンカチで拭いている敏子を睨みつけていた。 「送ってもらったのよ。この雨ですもの」 「誰なんだ、あの失敬な奴は」 「久松さんと言って、あたしのお友達」  敏子はやり返すように言う。 「男か」 「そうよ」 「馬鹿者っ」  高村は靴を脱いで家の中へあがり、 「どんな立場だと思っている。少しは考えろっ」  と振り返って言い、奥へ消えた。 「乱暴だよ、あの運転は。あんなことをすれば誰だっておこる」 「勝手におこらせときなさいよ」  敏子がふてくされたように言い、浜田は淋しそうな顔になった。 「俺だってムカッと来た」  力のない言い方であった。敏子は靴をぬぎかけてやめ、その顔をみつめた。 「あら」  笑いだした。 「そうだったわね。ごめんなさい」  敏子は屈託のない笑いかたで、靴をぬぎはじめた。 「あなたもおこるってこと、ころっと忘れてたわ。あたしって変ねえ」 「見かけない車だけど、あれはなんという車なんだい」 「ジネッタよ。イギリスの車ですって」  敏子も家の中へ消えた。浜田は庇の下でしばらく誰もいない玄関の中を眺めていたが、やがてそっと戸をしめた。 「ジネッタか……」  稲妻が光り、雷鳴がとどろく。浜田は車へ戻り、いつものように静かに車庫の中へいれた。 「ジネッタか……」  エンジンを切り、ハンドルに胸をもたれかけて外の雨を見る。もう今日は仕事はないはずであった。この雨があがったら帰ろうと思った。しばらくそのまま雨をみつめていた浜田は、やがて煙草をとりだして火をつけた。どこか虚しい顔をしていた。 「世の中なんて、おかしなもんだ……」  かすかに唇を動かしていた。 「運転手の俺が知らない車を、運転できない彼女が知っている」  自嘲のように頬が動いた。彼はそのとき、ジネッタという車を一度運転してみたいと思っていた。そして、その欲求は急速にふくれあがり、ひとつの夢になった。ジネッタを自分の車にしたかった。しかし、それは浜田にとって、遠い遠い夢であった。   夏 雲  次の日曜日は快晴だった。高村が言ったとおり綺麗さっぱりと梅雨があがったようであった。しかし、なんと言っても長梅雨のあとで、おまけに風がないからひどく蒸し暑い。 「暑いな」  浜田はハンカチを出して首筋をぬぐった。地下道から階段をあがって、表通りへ出るところだった。 「デパートへ入れば涼しいわ」  敏子は浜田の手を引っぱって足早に階段を登って行く。まだ歩行者天国の時間ではなく、人通りは思っていたより多くなかった。  二人はデパートへ入った。 「本当はデパートじゃないほうがいいんだけど、暑いから外を歩きまわるのはいやだし」  敏子が残念そうに言う。 「なあ」 「なに……」 「あの、水着を買うんだろう」 「タオルやビーチウェアーなんかをひとそろいよ。向うのうちへ置いて来ちゃったのよ。まさか要るとは思わなかったし、さすがのあたしもそこまで頭がまわらなかったって言うわけ」  敏子は軽く笑い、浜田と並んでエスカレーターに乗った。 「水着って、体に合わせるんだろ」 「ええそうよ。あたしは本当に泳ぐんだから、少しきつめのを探すの。水着は水の中へ入るとゆるむのよ」 「そうかねえ」  浜田は眩しそうな顔をする。 「男物だってそうでしょ。伸びちゃうでしょう」 「どうだったか、忘れた」 「あらやだ、まさか泳げないんじゃないでしょうね」 「泳げるさ」  浜田は少しむきになって言う。敏子はその少年のような表情を見て、彼の腕を強くかかえた。 「でも、本当に俺も行っていいのかい」 「あんたが行かなくちゃ意味ないじゃない」 「悪いんじゃないかと思ってさ。南川さんのところの社員旅行だろ」  敏子は馬鹿にしたように笑う。 「会社じゃないわよ、あんなの。稼ぐのは南川さんだけで、あとは女の子が二人と小野ちゃん。みんなお手つだいよ」 「筆一本でそれだけ養えるんだなあ」 「そりゃ、かなりかせいでるみたいだけど」 「海水浴と言ったって一泊するんだし」 「何を遠慮してるの。おやじだって夏休みをくれたし、問題ないじゃないの」 「なんとなく気が重いのさ。ホテルへ泊まるんだって言うし、悪いよ」 「そのかわり、あなたにもう一台のほうを運転してもらうんですもの」 「ガソリン代くらい俺も出さなければ……」 「いいのよ、そんな心配しなくったって」  敏子はじれったそうに言い、三階の売場へ出た。 「あたしの水着、一緒に見てくれるでしょう」 「みっともないよ、男が」 「かまわないじゃないの」 「ちょっと聞きたいんだけどな」 「何よ」 「水着を体に合わせるって、あのカーテンの中へ入って、着てみちゃうのかい」  敏子がジロリと浜田を見ると、浜田はたじろいだように目をそらせた。敏子は笑い出し、 「いいわ、自分のを探してらっしゃい」  と、突き放すように肩を押した。  敏子の買物は案外早くて、浜田がぶらぶらと婦人服売場を歩きまわって帰って来ると、紙袋をぶらさげて店員から釣銭を受取っているところであった。 「どんなのを買った」  浜田は敏子に近づき、心配そうに尋ねた。 「黒よ」  敏子は何気なく答える。 「地味なのを選んだね」  浜田は安心したようにほほえんだ。 「へへ……」  敏子は悪戯っぽく笑う。 「さあ、こんどはあなたの海水パンツよ」 「海水浴か。久しぶりだなあ」  浜田はたのしそうに言った。 「ホテルをとるのが大変だったらしいのよ」  二人はまたエスカレーターに乗る。 「俺が運転するのって、どんな車だい」 「カルマン・ギアだって」 「へえ、いい車だな。レンタカーかい」 「お友達のらしいわ」 「俺、一度ジネッタを運転してみたいんだ」  敏子は上を向いていた。 「あんな車があるなんて知らなかったよ」 「タオルはあなたの分もあたしが持ってってあげる」  敏子はせっかちにエスカレーターの上を歩きはじめた。 「伊豆のどこへ行くんだい」 「下田よ」  ふうん、と浜田は感心したように言った。 「お昼はあたしが奢るわ」 「いいよ」 「いやっ。あたしの好きなものを食べるの」  敏子は甘えるというより、ひどく我儘な言いかたをした。そのあと敏子は一方的にデパートの中を歩きまわり、浜田は次々に増えて行く買物包みをかかえてそのあとについてまわった。そして、買物をおえると敏子はさっさとデパートを出て、裏通りにある和風の店の凝った格子戸をあけた。 「いらっしゃいませ」  中年の痩せた和服の女が、静かに二人を迎え、敏子の顔を見るとにっこりした。 「おやまあ、お珍しい」 「こんにちは。奥、あいてる」 「どうぞどうぞ。ごらんのとおり日曜日はひまですから」 「休んでるかと思ったわ」 「来週から、日曜日だけお休みになるんです」 「そうね。もう夏休みでみんなどこかへ行っちゃうから」  その店は柱もテーブルも素木ずくめの天婦羅屋であった。二人は靴を脱いで突き当たりの廊下へあがり、四畳半の部屋へ通された。冷房がききすぎるほどきいていた。 「ビール飲むでしょう」 「昼間っからかい」 「いいじゃないの」  敏子が言い、女もすすめた。 「お暑いのですし、一本くらいはねえ」 「じゃ、おビールを二本と、それから天婦羅でごはん」 「はい、かしこまりました」  女は廊下へ去った。客が来たらしく、店でまた声がしている。 「いろんなところを知っているんだな」  浜田はじろじろと眺めまわして言う。 「大して高くないのよ。今の人がここのおかあさんで、息子さんが板前さん」 「いいなあ、二人でやってるのか」 「ほかにも何人か使ってるけど、母子《おやこ》ですものね。それにここも自分たちの持物らしいし」 「凄いもんだ。それじゃ、大変な財産家だ」  敏子はうらむような瞳になった。 「あなたって、このごろすぐそういう言い方をするのね」 「だってそうじゃないか。俺なんか一生働いたってこんな銀座なんかに店は持てないよ。それどころか、自分の家だってさ……」 「変ねえ。どうしてあなたって焦るの」 「俺が焦ってるかい」 「前はそんなじゃなかったわ」 「そうかなあ。俺だって、世の中の競争に嫌でも応でも加わっているんだぜ。うまくやっている人を見ればうらやましいさ」  敏子は悲しげに首を振った。 「あなたはそんな風に思っちゃだめ。お願いだから、もっと涼しい顔しててよ」 「涼しい顔……」 「そう。ゆったりと、のんびりと……」  浜田は居ずまいを正し、何か言いかけた。その時襖があいてさっきの女が、ビールとおしぼりを運んで来た。 「どうぞ」  そう言ってまっ白いおしぼりを浜田の前に置く。 「はい……」  浜田は頭を軽くさげ、おしぼりをひろげた。グラスが置かれ、女はビールの栓を抜いた。 「どうぞ」 「いいわ、あたしがするから」  敏子は女からビール瓶をうけとった。 「じゃ、お願いします」  女は外へ出て襖をしめた。 「はい、どうぞ……」  敏子はビール瓶を浜田のほうへ差しのべた。浜田がグラスを出して受ける。交代に今度は浜田が注いでやる。二人はなんとなく視線を合わせ、黙ってグラスに唇をつけた。 「なあに……」  しばらくして敏子が言った。 「なんだい」 「何か言おうとしたじゃないの」 「ああ、もういいんだ」 「よくないわ。言ってよ」 「君が無理なことを言うからさ。ゆったりしろだののんびりしろだのって」 「別にあなたに無理をさせようと思ってやしないわ。その反対よ」 「反対が無理なんだよ。じっと今までどおりにしてろって言うほうが無理さ。だってそうだろう。俺は君を……」  浜田は言い澱んだ。 「あたしを……」  敏子は優しく寛大な微笑を泛べていた。 「本気で愛してる。嘘じゃない」 「嘘だなんて言いはしないわ」 「判ってるだろ」 「ええ。あたしのほうも判って欲しいのよ。あたしも本気よ」  二人はじっとみつめ合った。 「だったらなおさら、俺は今までどおりじゃいられないんだ。君をしあわせにしなければならない」 「たとえばそれは、あなたが自分の家を持ったり、自分の車を持ったりすることかしら」 「車……」 「ジネッタみたいな、よ」  浜田は答えずビールを飲んだ。 「雷の日に見たジネッタでしょう。久松さんのことが気になってるのね」 「そんな奴、会ったこともない」 「やっぱり気にしてるの。おばかさんねえ。降られたから送ってもらっただけよ」 「あんな運転をする奴は嫌いだ。他人のことなんかどうでもいい奴だ」 「そうかも知れないわね」 「あんな運転をする奴は君をしあわせにはしない」  浜田は断言した。 「多分そうでしょうね。でも、あたしとは関係ないわ」 「関係あってたまるか」  敏子はふきだした。 「やだわ、やきもちをやいてるの」  すると浜田はもどかしそうに言った。 「俺は人の邪魔をしたくない。人の邪魔になりたくない。だから車に乗っていても、決して急がないようにしている。もちろん、人の邪魔になるほど遅くも走らない。みんなと一緒に流れてればいいと思っていた。駐車するときも、決して人の迷惑にならないところへとめるように心がけて来た。でも、このごろ焦るんだ。焦るのが俺の柄じゃないことはよく知っている。あのジネッタの奴みたいに、とめたいときとまり、人をどかしたいときどかすような真似をすれば、俺ならきっと人と喧嘩になってしまう。文句を言われて引きさがってしまうだろうよ。それなんだよ、俺が困っているのは。そんなことで、君をしあわせにできっこないじゃないか。このまんまじゃ、木造アパートを、あっちへ二年、こっちへ四年と、一生うつり住みつづけておしまいだ。君は庭のあるうちからとびだして来た。そして俺と……。俺はそういう運命に感謝してる。有難いと思ってるんだ。だからなおさら、君のとびだし甲斐のあった……」 「やめて」  敏子は両手で耳をふさいだ。浜田はびっくりしてそれをみつめていた。 「ごめんね」  敏子は羞じたように笑った。両手を耳から離し、頬をおさえた。 「気持は判るわ。とってもうれしい。でもあたし、あなたをそんな風に変えてしまうのが辛いのよ」 「変えるって、君が俺をかい」 「ええ」 「そんなことはない。ただ俺は、自分で自分をもどかしがってるだけだ。今までのほほんと、たくさんの男が、いや、全部の男がやっている競争に加わらなかったことが、くやまれてならない。そりゃ、俺はお袋と二人であちこち転々として、時には食うや食わずでいたこともあるくらいだから、学校もろくに行っていない。でも、競争に加わる気があれば、自分で勉強できたんだ。俺はそれをしなかった。授からないものは欲しがらない。それが俺の生き方だった。君は俺にとって最初の女だけど、それは何も君のような女が現われるのを待っていたからじゃない。いい顔をしてくれる女がいなかったから、自分からは手をださなかっただけなんだ。授からないものを欲しがっちゃいけないと思ってな」  敏子は気を呑まれたように黙っていた。 「でも、君が現われて、俺は自分の考え方や生き方が間違っていたと判った」 「ほらごらんなさい。やっぱりあたしのせいじゃないの」 「違う」  浜田は叱りつけるように言った。 「俺はやる気をだしたんだ。自分一人なら一生運転手でもかまわないが、君がいたのでは話がまるで違って来るのさ。俺は頑張らなくてはいけない。君を長屋のおかみさんにしてしまうわけにはいかない。愛すれば愛するほどそう思う。これはどうにもとめようがないことだ。男とはそういうものさ。女を愛したら、愛する女ができたら、みんなこうなるのさ」  浜田は確信のある言い方をした。 「でも……」  敏子は打ちのめされたような表情になっていた。 「あたしはあなたの中に平和を見てたのよ」 「うん。俺も君をそうさせてやりたいと思う。君をしあわせに、平和に……」  浜田は瞳をうるませていた。 「そうじゃないのよ」 「違うのか」 「あなたと同じように生きたいと思ったのよ。いままでのあなたと同じようにね」  襖があいた。 「おまちどおさまでした」  天婦羅や茶碗などを盆にのせて、女がテーブルのそばへ膝をついた。 「いいわ、この話はもうよしましょう。それより、ここの息子さんは腕がいいのよ。おいしいんだから」  敏子がそう言うと、女はうれしそうに笑い、 「お茶はあとでお持ちします」  と戻って行く。 「どう、おいしいでしょう」  敏子はさっそく食べだした浜田を見た。 「うん」  浜田はニコリとした。 「あたしも少し習おうかしら。あなたにおいしいものを食べさせられるように」 「見ろ、自分だって俺と同じじゃないか。相手によくしてやりたいという欲が出るんだよ。愛するとな……」 「しょってるわ」  敏子も快活に言い返した。 「見てらっしゃい。そんなこと言うと、毎日魚の干物かコロッケよ。知らないから」 「それでもいいよ」  浜田はそう答えてから、ふと箸を休め、 「そうか。いずれあそこも引っ越さなきゃいけないんだなあ」  と夢見るような目になった。 「いいじゃないの、あそこだって」 「電車が来るたびうるさいしな」 「そのほうが好都合」 「どうして」 「思いきりできるわ。電車のせいにして」 「馬鹿だなあ」  浜田は閉口したように天婦羅をつまんだ。 「なんだこれは。紫蘇の葉っぱだけじゃないか」 「そうよ。あら、はじめてなの」 「うん。洒落たつもりかねえ」 「おいしいでしょ」 「かわってるだけだ。腹のたしにならない」  敏子は首をすくめる。 「これからどうしようか」  浜田は敏子がそういう男っぽい言い方をすると、ひどくよろこぶようであった。 「うちへ帰ろう」 「暑いわ、あそこは」 「二人っきりでいたいんだよ」 「ほら、人のことばかり言って、あなただって好きじゃない」 「そういう意味じゃない」 「あら、どういう意味……」 「もっと、その……」  プラトニックな、と言いたかったのを、敏子はよく承知しているようであったが、 「なによ、言ってごらんなさい」  と、からかった。 「天婦羅を食いな」  浜田は話をそらせる。 「海水浴のことだけど」 「うん」 「裸になったら嘆き鳥が出ちゃうわよ」 「嫌かい」 「ぜんぜん。でも、みんなに見られるわね」 「平気さ。なれてるもの」 「ああよかった」 「どうして」 「実は、彼らがあれを見たいんですってさ」 「俺の背中の痣なんか見てどうするんだい」 「平家の宝物だからよ」 「何だ、喋っちゃったのか」 「ええ、何気なくね。そしたら、是非見たいんですって」 「それで俺を呼んだのか」 「半分はそうよ」 「なあんだ。話がおかしいと思った」 「おこった……」 「いや。痣を見たくて俺を海水浴へ連れて行くのなら、別に遠慮することもなかった」 「そうよ。だから遠慮なんかする必要はないって言ったじゃないの」  二人は微笑し合った。   鳳 凰  次の木曜日の昼ごろ、南川の運転するムスタングと、浜田の運転するカルマン・ギアが二台並んで伊豆の海岸を走っていた。 「今のが今井浜ね」  ムスタングには南川のオフィスの四人が乗り、カルマン・ギアには浜田と敏子の二人だけであった。 「まったくいい天気だな。この間までの雨はどこへ行ったかって感じだ」 「よかったわ、雨でも降ったら台なしだったわね」 「うん」 「白浜というと、この先だな」 「もうすぐのはずよ。ウィークデーだから、そんなに道も混んでいないし。きっと海岸もすいているわね」  まったく快適なドライブであった。伊豆へ入ってから、二台はよく整備された道を気持よくとばしてここまで来た。白浜で車をとめて、夕方までのんびりと遊ぶ予定である。  やがて、左手に白い砂浜がひらけたところへ来ると、前を行くムスタングが減速し、有料の駐車場へゆっくりと乗り入れて行った。カルマン・ギアもあとに続く。 「おじさん、着換えをするとこはどこ……」  車がとまるかとまらない内に、敏子はタオルなどをつめこんだビニールの袋を持って、さっとドアをあけ、駐車場にいるむぎわら帽子の男に尋ねた。 「ほら」  男はそう言って面倒臭そうに指をさす。 「有難う」  浜田がエンジンを切り、敏子は水着に着換えにそこへ行くものとばかり思って、ドアのロックをしようとすると、 「だめよ、まだ……」  と言ってドアをあけ放しにさせ、あっという間にブラウスとスカートを脱いで抛り込んだ。もうとっくにゴムのビーチ・サンダルにはきかえていた。  浜田は目を丸くしてその姿を眺めていた。黒いビキニであった。 「それ、この間買った奴か」 「そうよ」  敏子はニヤリとして見せた。 「黒いから地味でしょう」  とんでもない話だった。その上下にわかれたちっぽけな布きれは、黒いからよけいにエロチックであった。 「おい、行くぞ」  ムスタングの四人も、もう水着姿であった。 「先行ってるわよ」  敏子はその四人とひとかたまりになって海岸のほうへ歩きだした。浜田には、家を出るときから水着をつけて来るという考えが泛ばなかったようだ。ぼんやりとみんなのうしろ姿を見送っている。  やがて浜田は車の中へ入って、もぞもぞと体をくねらせて海水パンツにはきかえ、はだしになって外へ出た。駐車場は粗い砂利で足のうらが痛く、砂の上へ出ると熱かった。  それでも、波うちぎわへ近づいて行くと、幼い日に感じた、あの突き抜けたような解放感が戻って来た。彼には子供のころ、広い無人の浜辺でひと夏中母親の帰りを待ちくらした記憶があって、その酸っぱいような哀しみが、解放感の上にうっすらと重なってよみがえっていたようだ。  どうやら浜田は砂浜を斜めに横切ってしまったらしい。南川や敏子の姿が見当たらず、彼は歩きやすい渚の濡れた砂の上を、駐車場の正面のほうへ歩いて行った。  南川たちは砂浜のずっと北側に陣どっていた。敏子が海に向いて横坐りになっていて、そのまわりを四人の男女が思い思いの姿勢でかこんでいる。  浜田が近づいて行くと、南川の車で来た若い二人の女が驚いたように言った。 「わあ、かっこいい」 「だめ……」  敏子は、はしゃいでいた。 「さわらせてあげないわよ」  すると女たちは黄色い叫び声をあげて敏子に砂をぶつけた。小野だけが、つまらなそうな顔でそれを見ている。  浜田はそのかたまりから少し離れたところへ腰をおろした。 「ほんとにいいからだをしてるね」  南川が声をかけた。 「大したことないです」  浜田は一座のはしゃいだ雰囲気に馴染めない感じで、口ごもりながら答えた。すぐ海のほうへ顔を向ける。 「それが嘆き鳥かい」  南川は背中を向けた浜田に言った。すると小野が素っ頓狂な声をたて、 「あっ、いけねえ、カメラを忘れちゃった」  と砂を蹴って立ちあがった。 「何やってるんだ」  南川がとがめるように言うのを聞き流して、小野は駐車場のほうへ駆け戻って行く。  背中の痣のことだな、と感じた浜田は、急に立つと、 「誰かここにいる人は」  と四人に尋ねた。 「なあに」  敏子が甘えたように問い返す。 「車のキーをあずけたいんだ。俺、泳いで来る」  敏子が坐ったまま黙って手をさしのべ、浜田はその手へキーを抛った。  久しぶりの海の水だった。浜田は膝くらいのところまで歩いて行き、一度とまって胸と後頭部に水をかけた。昔から、海へ入るときはそうするのが浜田のきまりであった。波はかなり大きく、すぐ彼の胸のあたりへ当たりはじめた。やがて足が底の砂を離れ、体が浮いた。  浜田の胸に自信が漲って来た。海の中で、彼は自分の力で悠々と動きまわっていた。実際に、浜田はいくらでも泳いでいられるのであった。自分がどのくらい遠くまで泳いで行けるのか、彼自身にもよく判っていないほどであった。  なぜ俺はおどおどと生きているのか……。泳ぎながら、ふと自分がふしぎになった。いつでも他人に気おされていて、自分のことははじめからあきらめてしまっている。だが、こうして泳ぐように、自分の力でどこまでも生きて行くだけではないか。南川ヒロシや高村英太郎とどう違うのだ……。浜田はしだいに自信が大きくなるにつれ、腹立たしいものを感じて泳ぎの速度を加えた。安定した平泳ぎで、ひとかき、ひと蹴り、力をこめて行った。すぐ右前方にボートが見えるだけで、視界は空と水と雲だけになった。……敏子と一緒にどこまでも行ってやる。まっすぐにだ。貧乏しようと一生運転手のままだろうと、敏子は俺の女なのだ。文句はあるまい。俺は男だ。俺は男だ……。  静かだった。平和だった。ゆるくうねる海と、確実に水をわけて進む自分だけになっていた。……そうだ、俺は一人で立派に生きているのだ。世間がなんだ。世界がなんだ。こんなものは、俺が死んでしまえばなくなってしまうのではないか。俺は俺の中心だ。世界の中心は俺なんだ。俺が生きているから世界はあるんだ。  浜田は大声で叫びたくなっていた。もうどんな大声をだしても、誰にも聞えないくらい沖へ出ていた。浜田は体の動きをとめ、くるりと体を空に向けて胸をふくらませた。青い空が動いていた。浜田はうねりのままに漂い、そして急に足を底に向けると、烈しくたち泳ぎをして上体をせりあがらせ、両手を口にあてがって叫んだ。 「かあさあん……」  長く力いっぱいに叫び、叫びおえたとき体が沈んで水の中へもぐった。青黒い水が見えていた。久しぶりに思い切り大声を出して、じいんと痺れるような充実感があった。体が浮き、顔が水面に出た。砂浜が見え、人間たちが小さく動いていた。安全水域の境界を示す赤い浮標が、ずっと向うに浮き沈みしていた。浜田は水を蹴り、顔を水に埋めた。クロールで二呼吸ほどすると、うまくうねりに乗った。浜田はその波に乗りながら、ゆったりと楽に岸へ向かった。赤い浮標をすぎ、ボートが増え、泳ぐ人々の中へ戻った。  砂に足をつけたとき、真正面に敏子たちがいた。左手で顔のしずくを撫で、頭を振って髪の水をとばした。 「駄目よ、あんな遠くへ行っちゃ……」  敏子が真顔で叱った。 「泳ぎ、うまいんだね」  南川が感心していた。 「俺にできるのは体を使うことだけだ」  つぶやくように言ったが、それはいつものように卑下しているのではなかった。自信があったのだ。 「ねえ、その嘆き鳥を写真に撮りたいんですって」  敏子は多分浜田が泳いでいる内に、南川たちからそう言うように頼まれたのであろう。全員を代表するような感じで言った。 「いいよ。はいどうぞ」  浜田は敏子との関係を隠す気もなくなって、ぞんざいな言い方でくるりと背を見せて砂の上に坐った。うしろで小野がカメラのピントを合わせている。 「向うを向いてくれないか」  南川は海岸の北の端にある岩場を指さして言った。その間にも浜田のうしろで小野がシャッターを切る音が続いていた。 「ほんとに鳥が飛んでるみたいね」  南川のオフィスのミー子が言った。鮮やかなブルーの、バックレスの水着を着ていた。 「なんの鳥かしらねえ」  ミー子がもう一人の女に言うと、南川は得意そうな表情で、 「鳳凰だよ」  と言った。 「鳳凰って、伝説の鳥でしょう。本当はいないのよ」 「でもそこにいる」  南川はふざけて言った。 「おめでたい鳥なんでしょう」 「うん。瑞鳥と言ってね、中国では随分古くから言われていた伝説上の鳥なんだ。麒麟《きりん》、亀、竜、そして鳳凰の四つが四霊と言って生き物の中で最高にたっとばれたそうだ」  南川はにこやかにそこまで言い、カメラを手に話に加わろうと砂の上へ坐りかけた小野を見ると、急に厳しい声になった。 「車へ戻してこい。カメラがいたむぞ」  小野はハイと言って舌をだし、あわててまた駐車場へ走って行った。浜田は体の向きをかえて海に背を向けると、砂の上に腹這いになって南川を見あげた。 「敏子さんには言ってあるんだが、浜さんの背中にある嘆き鳥の痣は、どうもただの言い伝えではないような気がするんだ」  浜田は黙って南川をみつめる。 「平家の宝物というのはさて置いても、嘆き鳥の形がよく絵に描かれる鳳凰に似ているという点がまずひっかかるのさ」 「へえ、それが平家の宝物に関係あるの」  アルバイトの娘が目を丸くした。 「嘘よ。南川さんたち、いつもそんな夢みたいなことばかり言ってうれしがってるの。歴史マニアね。今にきっと古事記だとかなんだとかってはじまるわよ」  ミー子はてんで相手にしていない様子だ。南川は苦笑して続ける。 「中国のものだから、当然日本にも早くに伝わって来ている。たとえば、日本書紀の中で……」 「ほらはじまった」  ミー子は立ちあがり、もう一人の娘の手をとって、 「つまんないわよ。泳いで来ましょう。せっかく来たんだから、海へ入らないと損しちゃう」  と言った。二人の女は逃げ出すように海へ駆け込んで行く。 「七世紀の中ごろ、白い雉が発見されて天皇に献上され、白雉《はくち》という年号がつけられた事実があるんだが、そのときの 詔《みことのり》 にこんなのがある。……鳳凰や麒麟、白い雉《きじ》、白い烏《からす》など、珍しい生き物や草や木などは、天地がよいことのあるしるしとしてこの世に送ったものである」  南川は敏子を見た。 「これを君はどう思う」 「どうって……」 「現代風の解釈だよ」 「判んないわ、そんなこと」 「つまり、鳳凰というのはたしかに架空の鳥だが、その鳳凰というイメージの中には、白い雉とか白い烏なども含まれるらしいということさ」 「考えようによってはそうなるでしょうね」 「十世紀ごろの本には、鳳凰というのは、鳳が雄で凰が雌だなんて書いてある。雄を鳳と言い雌を凰と言う、これ羽虫の長なり、だとさ。ところが、延喜式の第二十一巻には、もっとずっとくわしく書いてあって、形は鶴のようで、頭は蛇に似てとさかがあり、全体が五色にいろどられていると記されている」 「似た鳥はいるの」 「いないさ。極楽鳥なんて言うのがずっとあとで西洋人に見つかっているが、あれは全然別物だろうな。それより問題は、ここにひとつの偶然のような重なり合いがあるということなんだ」 「なんですか、偶然って」  浜田は面白そうに尋ねた。もともと自分の体にある痣のことだから興味はあったが、今のひと泳ぎで南川に対する遠慮のようなものがとれているのも事実であった。いつもなら、いくら好奇心が湧いても、南川と自分の教養の差のようなことを意識して、黙って傍観者でいるはずだった。 「偶然のような……僕は今そう言った。一見偶然のようだが、偶然とは言い切れないんで困ってるのさ」  南川はわざと困ったような顔をして見せたが、それは聞き手たちに対する説得技術のようなものらしかった。 「浜さんは能登の生まれだ」 「ごく子供のころちょっといただけです」 「でも本籍地というか、生まれたのは奥能登なんだろう」 「ええ。鳳至《ふげし》郡ですけど」  南川はパチンと指を鳴らして見せた。 「それさ。平時忠の子孫である時国家はどこにある」 「輪島市ですよ」 「違うね。輪島市は明治二十二年に町になり、町村合併で昭和二十九年に市になったんだ。今の面積になったのは三十一年に近くの町野町を編入してからさ」  そのとき小野が駆け戻って来て、ペタンと砂の上へ坐った。 「昔は鳳至郡輪島町……」  近寄って来たとき南川と浜田のやりとりが耳に入ったらしい。 「あれ、女の子たちは」  敏子が黙って海を指さす。 「そう、問題は鳳至郡さ」  南川は砂を手で平らにならし、指で字を書いた。 「ふ、げし」 「あら、そうだったの。それじゃ、鳳凰が至ると書くんじゃない」 「平家伝説にまつわる浜さんの嘆き鳥が、鳳凰の至る土地から現われている」  南川は得意そうに言う。 「嘆き鳥の正体は何かと考えて行ったら、鳳至郡という地名に行き当たった。つまり、嘆き鳥は、鳳凰そのものか、鳳凰だと言われていた鳥か、或いはその架空の鳥を描いた絵に似た鳥か、さもなくば鳳凰というイメージの中に含まれてしまうような種類の鳥かだ。そして、至《いた》る、という字が用いられていることや、能登の地理的なことを考えると、どうしてもそいつは渡り鳥ということになる」 「鳳凰が至る……そうね」  敏子は同意した。 「そうなるとだな、時忠が嘆き鳥を宝のかくし場所を示すものとして使った意味が俄然はっきりして来るとは思わないか。時忠の時代に、その珍しい渡り鳥が渡って来た場所を示すと考えたら……」 「漠然としてますね。それだけじゃわからないでしょう。だって相手は鳥だし、しょっ中動きまわっているんですよ」 「もう少し考えてみてくれ。いま能登にそういう鳥は来ていない。ということは、何かの理由で昔は土地の名になるほど来ていたものが、だんだん数が減って、今では記録にも残っていなくなってしまったと考えていいんじゃないかね。つまり、時忠の時代にすでに絶滅しかかっていた渡り鳥さ。だから当時でも数はごく僅かで、その最後の一群が或る特定の場所へやって来るわけだ。渡り鳥が毎年一定の沼や池へ来ることはよく知られている。その、数がすっかり減って、滅びる日を待っているような美しい鳥を見て、人々が嘆き鳥という綽名をつけたのかも知れない。或いはその綽名は土地の人々がつけたのではなく、流されて来た平家の人々がつけたのかも知れない。滅んだ平家と滅びゆく鳥……いかにも都風のイメージじゃないか」 「すると、この人の痣は宝の地図ではなくて、毎年一定の場所へ来る渡り鳥のマークというわけね」 「そうだ。それで宝をかくした場所がだいたい判る仕かけだ」 「どこかしら」  敏子は浜田を見て微笑した。 「時国家の伝説は、能登の観光案内書などにもこう記されている。流された十六人の時忠主従が最初に着いたのは大谷という所で、その地名は今も残っている。もっとくわしく言うと、大谷の江の澗《ま》というところだそうだ。地図で見ると、そのあたりに烏《からす》川という小さな川があるようだから、多分その川の川口を言うんだろうな。伝説では、時忠はそのとき一羽の烏《からす》が飛ぶのを見て、これは平家に伝わる名刀|烏《からす》丸の導きであると言って、そのあとを追いかけて川をさかのぼり、最初のすまいを定めたということになっている」 「烏《からす》……それ、白い烏《からす》じゃないかしら。だって、そうならおめでたい鳥で鳳凰のイメージにも入るでしょう」 「そうなんだ」  南川はわが意を得たりとばかり勢いこんだ。 「白い烏《からす》じゃなくてもいいんだが、とにかく中央の教養人のイメージにある瑞鳥と同じような鳥を見てよろこんだということじゃないかな。土地の人は見なれていても、都会人には珍しいし、なんと言っても落目の連中だ。そういうのを見たらうれしがるよ」 「それはそうね」  敏子が言うと、小野がニヤリとした。 「敏子さんも探しに行くんですか」 「え、何を」 「宝ですよ。南川さんは行く気ですよ。時忠の宝を探しにね」 「ほんとなの」  敏子は呆れたように南川をみつめた。 「行くよ。俺は本気さ」  南川は照れたように言い、小野を睨んだ。 「よかったら、浜さんも一緒にどうだい」  すると浜田はウフフ……と含み笑いをした。肯定とも否定ともつかなかったが、とにかくたのしそうな笑い方であった。   能登の狼煙  浜田は何度も海へ入った。敏子はあまり泳ぎに自信がないらしく、ミー子たちと浅瀬でバシャバシャやったり、背の立つところで岸と平行に泳いだりしていた。 「教えてやろうか。そのくらい泳げるならすぐうまくなるぜ」  浜田がそばへ行って言うと、 「長く泳げなくてもいいのよ」  と敏子は笑った。 「あたしが泳ぐ時はたいていプールですもの。短い距離でも恰好よく泳げればそれでいいの」 「おやおや」  浜田は少し失望した。 「恰好なんかどうでもいい。できるだけ長い時間浮いていられればいいんだ。恰好ばかり気にしてると、いざというとき困るぞ」 「平気よ。そんなことになりっこないもの。あたしは一生ホテルかどこかのプールで泳ぐだけよ」  浜田は水に潜り、砂底に立っている敏子の両脚をすくった。敏子はひとたまりもなく頭を沈め、本当に溺れかけたように必死でもがいて姿勢をたて直した。 「こいつ。水の中だと思って」  敏子は、今度は自分から沈むつもりで浜田にとびついて来た。よく慣れている肌を、よく慣れている抱き方で抱いた浜田は、そのまま水の中へ引き込んで唇を押しつけた。敏子はすぐ苦しがって水の上へ顔をあげた。 「憶えてらっしゃい、べッドの上じゃ敗けないから」  大胆な声で言った。短い髪がつるりとした感じで頭の形なりにへばりついているのが、浜田にはうれしくなるほど可愛らしかった。 「ねえ、さっきの話どう思う……」  浜田の肩に両手をかけ、水の中でピョンピョンとはねあがるようにしながら言った。 「どう思うって」 「宝よ。宝物よ。欲しくないの」 「そりゃ、あれば欲しいさ。本当にあればね」 「仮りに、本当にあったとしたら、多分あなたにも幾らか権利があるはずよ」 「痣があるからかい」 「そう。他人にとられちゃつまらないわ」  浜田はじっと敏子の顔を見た。みつめられて、敏子は急に舌をだして岸へ逃げだした。 「からかうな、馬鹿」  浜田はその背中へ大声で呶鳴り、逆に沖へ向かって泳ぎはじめた。追って来ると思い込んでいたらしい敏子が、泳ぎ去る浜田に向かって呼びかける声が聞えたようであった。  浜田は力いっぱいに水を掻いた。何か腹立たしかった。やがて赤い浮標が見えたのでそれにつかまり、ぼんやりと空をみあげた。陽が落ちはじめているのが、空の感じで判った。  敏子は一生ホテルかどこかのプールで泳ぐ……。浜田の頭の中に泛んでいるのは、そのことだけであった。たしかにそんな感じがぴたりと敏子のイメージにはあてはまっていた。しかし、問題はその敏子のそばにいる男の姿であった。夏ごとに、そうして俺は敏子の得意なホテルのプールにつき合えるだろうか。……そう思うと、今日の午後生じた自信が、ひとときの思いあがりでしかないような気がして来た。浜田は頭をめぐらせて浜辺を見た。色とりどりの水着が動いていた。年ごとの流行の水着さえ、買ってやれるかどうか疑問であった。そして、大勢の海水浴客と一緒に暑い電車で汚れた海岸へ行き、板ばりの更衣室で古い水着に着換える敏子を想像すると、自分の腹立たしさの源泉が何であったかすぐに気づくのであった。 「そんなこと、させられるもんか」  浜田は吐きすてるように言った。敏子のような女を、その程度の生活に押しこめ、いたずらに老いさせてしまうような男は、自分自身であっても許せないと思った。  浜田は急に敏子のそばにいたくなった。海の水を冷たいと感じ、一分でもこの貴重な休日の時間を、敏子の傍から離れるべきでないと感じた。  敏子……敏子……。  浜田は全速力で岸へ泳ぎ戻りながらその名を呪文のように念じていた。力が欲しい。人並み以上の力が欲しい。せめてこの海の中を動きまわれる程度に、南川や小野たちに優越する力が欲しい……。  浜田は岸へ戻った。水をしたたらせて砂の上を歩いて行くと、敏子が大きなタオルを両手にひろげて近寄って来た。 「ホテルへ行くのよ。さあ、頭をだしなさい」  浜田は頭をさげ、敏子がタオルで拭いてくれるままにしていた。 「ほら、うしろを向いて」  敏子は優しく、母親のようであった。 「ちぇっ、南川さん見てよ」  小野がくやしそうに叫んだ。 「あきらめろ、あきらめろ」  南川は笑っていた。 「このままホテルへ行っちゃっていいのかい」 「平気よ」  敏子はビーチウェアを羽織っていた。 「着いたらすぐプールへとび込んじゃうから。塩を落してからお部屋へ入ってお風呂に入ればいいのよ」 「荷物は」 「ホテルの人がお部屋へ運んでおいてくれるわ」 「俺、なんにも知らねえからなあ」  浜田はぼやくように言いながら歩きだした。 「あたしはここでシャワーを浴びて着換えるわ」  タオルをかかえた敏子が、浜田と並んで駐車場のほうへむかいながら言った。 「どうして。ホテルまでこのままでいいと言ったじゃないか」 「女は別。塩水で髪を濡らしちゃったでしょう。早く洗ってかわかさなければ……。少し要領を呑み込みなさいよ。海へ来たら女は一時間ぐらい先に引きあげさせないと、食事の時間にうまくタイミングが合わなくなっちゃうのよ」 「君は慣れているからな」  浜田は憤ったように言った。 「でも俺は知らない。泳いであがったら水をかぶって体を拭いて、お茶漬け食って寝るだけさ」  敏子はケタケタと笑い出した。 「それでいいのよ、男の人は」 「ちっともよくはない」  浜田は憮然としてつぶやいた。  車に戻り、有料の更衣所へ行った敏子を待つ間も、浜田は憮然としていた。ムスタングのほうの娘たちも同じように体を洗って着換えたが、南川も小野も当然のような顔をしていた。  ささいなことであった。とるにたらないことであった。しかし、浜田はもどかしかった。腹が立ち、くやしく、そしてなんとなく侘びしかった。それは異国へ入った旅人の侘びしさに少し似ていた。浜田にとって、行楽地でのそういう知恵は、異国の言葉を聞くような感じであった。たしかに合理的で、それが生活の知恵というものであるのだろう。しかし、そういう知恵を生みだす生活そのものが、浜田にとっては異境であったのだ。  敏子が逃げて行くような気がした。笑顔は彼の目の前にあり、手をのばせば柔かい乳房も掴めるが、その両足は、ずっと遠くの見知らぬ場所に立っている……。  ムスタングが動きだし、そのあとについて道を更に南へとりながら、浜田は自分が不機嫌になるのをじっとおさえつづけていた。 「どうしたの。くたびれた……」  敏子が優しく言ってくれた。体を寄せて来て、濡れた頭を彼の肩にあてた。 「あなたって……」  敏子は含み笑いをした。 「なんだい」 「すてきよ。海へ来て裸になったとたん、南川さんなんて、まるでかすんじゃったもの。均整がとれてて、たくましくって。ホテルへ着いたらみんなに見せびらかしてやるわ」 「みんなって……」 「みんなよ」 「あの連中かい」 「ホテルに泊まってる人たちよ。これはあたしの男ですって、札をぶらさげてあげたい気持ち」 「裸なら運転手だなんて判らないからな」 「何言ってるの。ばかね」  敏子は悪気のない笑い方をした。 「南川さんて、どうしてあんなことをたくさん知ってるんだい」 「嘆き鳥のこと……」 「昔のことさ。鳳凰だとか平家のことだとか」 「趣味なのよ。道楽でやってるんだわ」 「でも、よく勉強してるなあ」 「勉強じゃないのよ、ああいうのは。遊びでやってるだけ」  浜田はふんと鼻を鳴らした。 「ぞっとするよ」 「あら、どうして」 「遊びであんな勉強をする人がいる。俺なんかとてもだめだな」 「あんなこと、いくら知ってたってなんにもならないわよ」  敏子は励ますように言う。 「そうでもないさ。人間はいろんなことを知っていたほうがいい。現に君だって面白がっていたじゃないか。俺も君にああいう目の色をさせるような話ができるようになりたいよ」 「南川さんは南川さんよ。どうしてあなたは近頃そう人のことばかり気にするようになっちゃったの」  浜田は大きく息を吸った。お前という女のせいだ……そう言いかけてやめたのだ。 「自分のできることだけをして、そのほかはじっと他人をみつめてるのがあなたのいいところなのよ。そういうあなたって、とってもすてきなのよ。あたしたちを相手に、南川さんは得意になって喋ってたけど、考えようによってはみっともないことだわ」 「どうして」 「ああいうことについて、もっとよく知っている人はいくらでもいるわ。南川さんの本職は絵でしょ。絵のことならいくら喋ったっておかしくないけど、専門外のああいうなまはんかな知識をふりまわしてるところを、ちゃんとした人が見たらとってもみっともないと思うでしょうね。もっとも、そばにそういう人がいたら、南川さんだってあなたのように黙って聞き手にまわるでしょうけどね」 「それにしても、俺よりずっとよく知っている」 「知ってることだけを喋ってるのよ」  敏子は叱るように言い、煙草をだして火をつけた。 「さあ、そろそろホテルだわ」  車は下田の町に入り、駅前を通り抜けてトンネルをくぐった。 「下田ははじめてなの」 「遊び場のホテルなんて、どこへ行ったってはじめてさ」  敏子はひくりと肩をすくめた。車は狭い道へ入り、やがて急な坂を登った。 「さあついたわ。あたしたちの部屋はダブルベッドよ」  浜田はギョッとしたように敏子を見る。 「いいのかい、みんなに」 「平気よ。かくすことなんか、もうないじゃないの」  南川は勝手知った様子でホテルの前の駐車スペースにムスタングを突っ込んだ。浜田も真似てそのとなりにとめる。敏子はドアをあけ、降りがけに念を押すように言った。 「あたしはあなたを自慢してるのよ。判った……」  エンジンを切った浜田は、なんということなしに頷いた。敏子は荷物をひとまとめにし、 「さあ、そのタオルを持って南川さんたちとまっすぐプールへ行ってて」  と言い残すと、二人の娘たちを連れてさっさとホテルの自動ドアの中へ消えた。 「浜さん、こっちだよ」  南川が建物のはずれへむかいながら手をあげた。ついて行くと、その道はホテルの海側の芝生の庭へ続いていて、南川はその庭から崖の下へ通じる石段をおりはじめた。崖の途中が平らになっていて、そこにプールがありプールのむこうに海が見えた。石段の途中から小野が駆けだし、プールサイドにタオルを抛りだすと、そのまま一気にとびこんだ。  小さなプールだったが、さっきの砂浜とは感じがまるで違って、浜田にはとりつきにくい雰囲気であった。 「浅いんですね」  浜田は南川に言った。心細くて救いを求めるような気分であった。 「家族づれが多いからね」  そう言えば、若い男女の姿は多くなく、子供づれの夫婦が目立った。小野はクロールで一気に向う側へ着いた。 「とにかくここで塩を落しちゃおう」  南川は無雑作にボトンと水の中へ落ちて両手で水をすくい、顔へかけた。 「女連中の髪がかわくまでに一時間はかかるさ」  のんびりした声で言い、小野のほうへ泳いで行った。浜田はタオルをプールサイドの狭い芝生の上に置き、あたりを観察した。女たちの中に、敏子ほどの美人はいないようであった。だが、男たちはみなゆったりと落着いて自信のある顔つきに見えた。  敏子は一生こういう場所で夏を過すのだろうか、そのかたわらに自分がいられるのだろうか……浜田はまたそんなことを考えていた。夏ばかりではない。冬にはスキー場へ行くかも知れない。春には静かな庭の茶会に加わるかも知れない。  やらねばならないと思った。敏子をそれ以下の女にしたくなかった。浜田は自信をとり戻したくて、大股でプールに近寄った。ちょうど人々がプールからあがって、水の中は無人になっていた。 「行くぞ……」  向う側にいる南川たちに大声で言い、競泳のときのようにスタートを切った。ひょっとすると、ことしそのプールへ来た客の中で、浜田の泳ぎが一番速く、堂々としていたかも知れなかった。 「ねえ南川さん」  浜田は向う側へ着くと水から顔をあげてそう声をかけた。 「なんだい」 「いったい能登ってどういうところなんですか」  とびあがってプールのへりに南川と並んで腰をおろした浜田が尋ねると、南川はうれしそうな笑顔になった。 「歴史的には面白いところだよ」  浜田は誘いかけて南川に話をさせたくなったのである。知識に気おされてばかりいてはどうにもならないように思ったのだ。浜田は練習のつもりでそういう話題に自分からたちむかっている。 「でも、今だって能登は田舎ですからね。昔はもっとひどかったんでしょう。罪人を流すくらいだから」 「ところがそうじゃないから面白いのさ」 「というと、昔は今よりひらけていたんですか。おかしいな」  浜田はそういう話に立ち向って行く自分を幾分うしろめたいように感じながら、それでも喋りつづけた。 「よく言うんですが、能登なんて、さざえのけつみたいなとこですよ」 「それがね、君……」  南川は真剣な表情になった。 「陸路で考えると判らないんだが、その昔は海の道のほうがずっと移動しやすかったらしいんだ」 「船だって昔の船は貧弱でしょう。考えられないな」  小野は人がかわったように積極的に喋る浜田を、驚いたようにみつめている。 「たしかに船は今のほうがずっと立派だが、そのかわり個人レベルでの航海技術はずっと低下しているとは思わないかね。今は誰でも船をあやつれるわけじゃない。しかし、その昔の海の民というか、沿岸民は一人一人がちゃんとした船頭だった」 「まあ、それはそうですね」  浜田はいい気分になって来た。引っ込んでばかりいず、やればやれそうだと言う気がしていた。 「たとえば、うんと古い話をすると、能登半島の縄文や弥生の遺跡分布は、日本海岸、つまり外浦のほうがずっと多いくらいなのさ」 「富山湾側が少いんですか。海は外浦のほうがずっと危険でしょうにね」 「そうなんだ。これはつまり、日本列島というか日本海と言うか、その西のほうから海の道を通ってやって来た文化の波があると考えてもいいんじゃないかね。その証拠になるかどうか僕も判らないけれど、日本の歴史の中で能登と加賀をくらべると、能登のほうが先進国だと言えなくもないのさ」 「まさか」 「本当だよ。能登がひとつの国として認められたのは養老二年、つまり八世紀のはじめで、加賀という国が認められる一世紀も前のことになる。八世紀ごろの能登というのは、大陸との交渉で重要な拠点になっているんだ。高句麗とか、満州のあたりに興った渤海の使節が、しょっ中能登へ着いていた時期があるのさ。言って見れば、日本海は横に広い海だろう。そこに強い海流が流れている。それを直線的に突っ切る技術というのは、だいぶあとになってからだとも考えられるじゃないか。たとえば朝鮮半島のどこかから出発したとして、古い時代にはかなり鈍い角度で日本海を渡らねばならなかったはずだぜ。その鈍角の時代が能登だと考えてもいい。そうすると、やがて若狭、出雲、北九州と、しだいに直線コースに近くなって行ったことだって考えられるじゃないか。能登は銅鐸の北限とされているが、逆にそこから南へ行ったと考えることだってできる」 「まさか……」  浜田は知ったかぶりをした。銅鐸も何も見当はつかなかったが、そういう合の手をいれるタイミングであることだけは判った。 「そう、まさかさ」  南川は頭を掻いた。 「俺は素人だからね。勝手なことを言ってよろこんでるだけだよ」  浜田は強く息を吸った。満足したのである。 「でも、素人なりに考えても、日露戦争のとき、例の日本海々戦の直後、ロシア兵をのせた鉄舟が富山湾へ漂着したという記録がある。だから、満更でたらめでもないんじゃないかな。どっちにしても、継体天皇が越前から加賀あたりをバックにしていたのは有名だし、天智天皇も北加賀に関係がある。その天智天皇につらなって、桓武朝の平安京がはじまるんだぜ。また、片山津には大和朝廷形成期に活動していたらしい玉造遺跡がある。邪馬台国は能登だなんて言いはしないが、能登の羽咋《はくい》にある気多大社などは、古代では相当大きな勢力の拠点だったようだ。北陸では越前の気比《けひ》神宮、越後の弥彦《やひこ》神社とならんで、ずばぬけて高い地位に置かれている。初期の大和朝廷が重要視しなければならなかったことに間違いはない。少くとも、ある時期には伊勢や宗像《むなかた》や筥崎《はこざき》と同じような地位にあったのだろう。気多の今の祭神が大《おお》己貴《なむち》であることは問題外さ。そういう祭神はすぐ前のものと交代するからね。それより、後白河院の勢力を背景にした加賀守を追い払ってしまった白山衆徒や、戦国時代に一種の自治体を作りあげた門徒衆などを、北陸一帯に根ざす一種の伝統的な傾向として見ることのほうが重要だ。中央の権力に対して一歩も引かない気概というのは、その歴史的な背景の中に何かが秘められているからだと思うよ」 「天皇はもともと自分たちの土地から出た人なんだ、とか言う誇りのようなものですか」 「そうさ。ことに平安京というのは桓武天皇を経由して天智天皇につながっている。しかも桓武と言えば平家のはじまりだ。時忠は自分の勢力圏内へ流されたということにもなる。僕が時忠の能登流刑に疑問を持ったのは、そのあたりにまず第一の原因があるのさ。それに、君は能登半島のとっさきにある、狼煙《のろし》という場所を知っているだろう」 「ええ」  浜田が頷くと小野が口をはさんだ。 「禄剛岬《ろつこうさき》のことですよ。僕らのとこでも、あそこを狼煙《のろし》と言ってすぐ通じます」 「あれは大和朝廷の監視哨なんだぜ。能登半島を縦断する官道が作られたのは、奈良に都ができてすぐのことさ。早いだろう。今の一級国道に相当するんだぜ。あそこへそういう強力な監視哨を作らねばならぬほど、能登は重要な土地だったんだ」 「外国船を発見すると、あそこで狼煙《のろし》をあげて知らせたんですね」 「そうだ。時忠が住みついた場所は、言ってみればそういう重要な土地のすぐそばさ」 「狼煙《のろし》か……」  浜田は北海の荒波が吠える岬の突端を思い泛べていた。 「狼煙には今でも灯台がありますよ。すぐそばに山伏山というのがあって、昔はそこの山に出る狼たちの糞を集めて狼煙の燃料にしたんだそうです」  小野が言うと、南川は半信半疑の顔になった。 「へえ。それで狼の煙と書くのかい」 「どうですかね」  陽がかげりはじめていた。沖からホテルのほうへ一直線に、小さなモーター・ボートが凪いだ海の上を近寄って来ていた。  第四章   荒れ模様  もう秋になったはずなのに、いっこうに涼風が立たず、夏のさかりのように、朝からひどく蒸し暑い日であった。  高村英太郎はずっと書斎にこもりきりで、相かわらず安田が庭へ出て何かごそごそと植込みの間を歩きまわっていたが、その日に限ってぶらぶらしている浜田を見ても声をかけなかった。  浜田は所在なくなって、ズボンを膝までまくりあげ、車の掃除をはじめてすぐ、珍しく夫人が玄関から出て来て、 「浜田さん。先生がお呼びですよ」  と声をかけた。  浜田の胸を不吉なものがよぎった。この二日、敏子はどこかへ行って留守だった。浜田に連絡もせず、不意に姿を消した感じだったのだ。そしてきのうは、さる銀行の大阪支店長の妻になっている敏子の姉が、子供もつれずひょっこりと姿を見せ、高村夫妻とながながと話しこんで行った。  呼ばれて気がつくと、家の中の空気がひどくよそよそしい感じであった。いよいよ来るべきものが来たかという思いと、その反対にまさか敏子との関係がバレるはずはないという自信のようなものが、浜田の胸のうちで烈しく交錯した。  上着をつけ、ネクタイをしめなおした浜田は、玄関から足音をしのばせるようにして高村の書斎にむかった。  高村の書斎は床の間と違い棚のついた和室で、北に面した薄暗い部屋であった。東側の廊下に面した障子をしめ切ってあるのは、クーラーが動いている証拠だった。浜田はその障子の外で声をかけた。 「浜田です」 「あ、入りなさい」  いつもよりおだやかな声であった。 「失礼します」  厚く古めかしい模様の絨緞を敷きつめたその部屋には、凝った木の机と回転椅子があり、くすんだ茶色のソファーが置いてあった。床の間には金庫がでんと据えられ、あちこちに古風なシェードのついた電気スタンドが配置してある。 「少しクーラーがききすぎているかな」 「いいえ」  高村は回転椅子に坐っていて、浜田にソファーへ腰をおろすよう手で示した。 「手っとりばやく言おう」  高村はパイプに煙草をつめながら言った。 「娘のことだ」  浜田は、とうとう、と思った。 「どうやらあれは君に迷惑をかけているらしい」  浜田は黙っていた。 「しかし、君もあれとひとつしか違わん年だ。あれの立場も考えてやって欲しい」 「はい」  高村が返事を待つ様子なので、浜田は仕方なく頭をさげた。 「君を気に入っていたんだよ。控え目で、慎重で……。だから、敏子とのことを人が知らせて来たとき、本当に意外だった。残念な気がした。しかし、儂は別に君に対しては腹が立たなかった。敏子のほうからしたことははっきりしているからな。我儘に育ててしまった儂らにも責任があることだ」 「いえ、僕が……」 「まあ待ちなさい。君くらいの年では、こういう場合責任をとりたがるものだ。よく判るよ、そういう気持は。しかしな、考えてみたまえ。別に君を軽視して言うわけではないから、誤解せんようにしてもらいたいが、敏子は君がそれほど深くつき合える女ではない。それは人生の経験を積んだ者なら、誰にでもひと目で判ることだ。人生のパターンがまるで違う。どちらがいい悪いと言う問題ではなく、人それぞれの生き方の問題だ。君には君をしあわせにしてくれる、きちんとした女性がいるはずだ。急がずとも、きっと君は今にそういう女性にめぐり会うはずだ。それにひきかえ、あの敏子という娘は、どちらかと言えば、アフリカへ行って猛獣狩りをしているほうがしあわせなような女だ。まあ、一時はそういう正反対な者同士が、おたがいに魅かれ合うこともあるだろう。しかし、それは長つづきはせん。現にあれは、おとなしいサラリーマンの家が嫌で、わけもなしにああしてとびだして来てしまった。その辺のことをよく考えて欲しい」 「たしかに、僕には敏子さんは高級すぎるかも知れません」  浜田は詫びるとも反省するとも、またその言葉を抗弁の先ぶれにするともつかぬ言い方で言い、それっきりまた沈黙した。だが、その心の中では、ひとつの決断に踏み切っていた。自分がそういうおとなしい人間だときまったわけではない。敏子という存在を手がかりに、自分の人生の新しい扉をあけてやる……。そんな気持であった。  高村が、敏子を高級すぎると言った浜田の言葉をどう受けとめ、どう呑み込んだかは判らなかった。 「困ったことに、あれはまだ婚家と縁が切れておらん。公式には夫のある身だ。儂も教育者だしなあ。この家に君がいては、立場がなくなるんだ」 「それでしたら、すぐおいとまします。先生にご迷惑をかける気はないのですから」 「すまんがそうしてもらいたい」 「運転手ですから、どこへ行っても……」 「惜しいと思っているよ」  高村は左手にパイプを持ち、右手で白い封筒をつまんで立ちあがった。 「返してもらっては困る。受取ってくれ」  浜田に差しだした。浜田は封筒をちらりと見てから、顔をあげて高村をみつめた。高村の瞳は静かであった。 「いただきます」  浜田は立ちあがって受取り、深く頭をさげた。 「長いあいだお世話になりました」 「すまん。傷ついたのは君のほうらしいな」 「ではこれで失礼します」 「うん」  うん、と高村ははっきり言った。浜田は障子をあけ、廊下へ出ると、そっとしめた。安田が庭で浜田のほうを見ていた。浜田はそれを無視し、玄関へ行って靴をはくと、車庫にちらばっていた掃除道具を手早くかたづけ、そのまま門の外へ出た。身軽なものであった。何ひとつ、持ち帰る荷物はなかった。  浜田は駅へ歩いた。道を吹く風はべっとりと粘るような感じで、すぐ汗を吹きださせた。浜田は上着を脱ぎ、手に持ってうつむきかげんに歩いた。車がその浜田を次々に追い抜いて行く。  とにかく、次の仕事を探さなくてはと思った。あてはあった。以前一緒に働いたことのある男が、或る大手の運送会社にいた。もういい年で、その男はすでに車から降り、何とか係りとかいう役についているそうだった。昔からよく気が合って、浜田がおやじさんと呼んで相談相手にしていた人物である。  多分、そこの仕事は長距離便のトラックを運転することになるだろう。体はきついが高村家の給料よりだいぶいいはずであった。仕事はそれでいいとして、問題は敏子とどうなるかであった。  浜田はアパートをすぐにでもかわりたいと思った。せめて風呂のあるすまいでなければ、敏子と暮すわけにはいかなかった。それは敏子への思いやりというようなものではなく、浜田が自分に課した、最低の生活水準であった。  浜田はその時、敏子との新生活を考えていた。主人の娘に手をだして追いだされたなどというみじめなことを考えるより、そのほうがずっと建設的だったし、だいいち楽しかった。夢想の中にひたりこんで、なかば無意識に駅へ向かって足を運んでいた。だから、商店街がはじまる少し手前の小さな交差点で、明るい色の見なれぬ形の車が彼をやりすごしたのに、まったく気付かなかった。その車はイギリス製で、ごく少数しか生産されないことで知られていた。そのかわり、レーシングカーなみのハンドリングやフィーリングを持ち、熱烈なマニアの支持を受けている車である。  ジネッタであった。  ジネッタのシートにうずもれるような姿勢で、敏子が駅のほうへ去って行く浜田を見ていた。ひとあれしそうな曇り空なのに、濃いサングラスをかけていた。  ふふ……と男が笑った。 「運転手が歩いてやがる」  敏子は黙ってその声を聞き流した。 「お前も罪な女さ」 「うるさいわね。黙っててよ」  浜田が通りすぎると敏子は体を起し、坐りなおして言った。 「追い越してやろうか。ゆっくりとな」  男はギアを入れかえて言った。体つきは大きいほうで、程よく肉がつき、短く刈り込んだ髪と陽に焼けた肌が、どことなく贅沢な感じを漂わせている。 「そんなことをしたら承知しないわよ。とび降りてやるから」 「おおこわ……」  男はふざけて言い、 「そんじゃ、ま、左折だな」  と車をスタートさせた。 「静かにやって」  敏子は鋭い声で言った。 「ちえっ、これじゃまるで間男だ。こそこそしちゃってよ」  それでも男は言われたとおり、静かにゆっくりと車を進めた。浜田が来たほうへ行く。 「このまま、まっすぐにやって頂戴」 「なんだ、気がかわったのかい」  男はもう頃合いと見たのか、いきなり荒々しくエンジンをふかすと、一気に加速した。 「よしてよ、彼は車のプロよ。音ですぐ判るのよ」  敏子が憤った。 「判るもんか。このジネッタの音が、あんな貧乏運転手に判ってたまるかよ」  男はどこまでも機嫌がよさそうであった。別に悪気がある風でもなく、軽口を叩きながら、それでもかなり巧みに車を捌いている。 「どうした、うちへ帰らないのか」 「よすわ」 「なぜ。それじゃこのまま渋谷のほうへ行くぜ」 「いいわよ」 「変な奴だな、相かわらず。うちへ帰るって言うから送って来てやったのに」 「バレたらしいわ」 「え……、何がバレたんだい」 「なんでもいいでしょう」 「ははあ、あの運転手のことだな。そう言えば歩いてやがった。さてはクビになったかな。お前のうちの先生はこわいからなあ」  敏子は不機嫌に黙り込んだ。男が口笛を吹きはじめる。ウエディング・マーチだった。 「うるさいっ」  敏子が癇癪を起した。 「申しわけない」  男は笑った。 「でもよ、お前ももう少し物を考えたほうがいいぜ」 「考える……」 「そうさ。だいたい、あんなチンケなサラリーマンのとこへ嫁に行こうってのが、そもそもおかしいんだ。はじめから判ってるじゃないか。お前のタイプじゃねえよ」 「余計なこと言わないで。あたしの人生なんだから」 「そりゃそうだけどさ。運転手なんて……お前らしくもない」  敏子はいらだたしそうに煙草をだして火をつける。 「あのなあ」  男の声の調子がかわって、しっとりと優しい感じになった。敏子はシートにもたれた。 「なあに」 「お前はもっと大物食いのはずじゃないか。ずいぶん前のことになるけど、あのプロ野球の選手をつまんであっさりポイしたときは、俺だってお前に一目置いたんだ。あんときのあいつの騒ぎったらなかったじゃないか。女房と別れるだの、チームを移るだのって」 「女は年をとるわ」  敏子は頼りない声で言う。 「しっかりしてくれよ。俺はお前を愛してる。凄いお前をだ。可愛いだけじゃ男と女なんて長く続くもんじゃない。俺みたいな男がそんなこと言っちゃおかしいかも知れないが、相手に人間として一目置けなきゃ、いずれ浮気しちゃう。そんなもんさ。ことに俺やお前みたいな性格の人間は、相手が自分の思いどおりになっちゃうんじゃ、すぐ嫌になる。手ごわいから愛しもするし、本気にもなるんだ。別に妬いて言ってるんじゃないぞ。嫁入り先からとび出して来たんで、ほっとしてるんだ。敏子はやっぱり敏子だったってな」 「女は年をとるわ」  今度は少しきつい声になっていた。 「誰だって年はとるさ。そんなもの、気にしたって仕様があるか。年をとるんなら、自分のやり方で年をとれ。辛気臭い奴は辛気臭い人生……お前にそんなのが我慢できるわけないだろう」 「お金持のお坊ちゃんはお金持のお坊ちゃんなりに、人生論みたいなものが身につくってわけね。……たくさんだわ」 「じゃあ帰るかい。おやじさんはあいつをクビにしたかも知れねえぞ」 「帰ってもいいけど、まだそんな気分じゃないだけよ」 「強がるな、って……」  ジネッタは狭い近道を選んで強引に走り抜け、どんどん高村家から遠ざかって行く。 「いいんだよ、少しはうしろめたくったって。どうせあの運転手じゃお前を持《も》ち切れやしない。あいつもお前に逃げられたほうがしあわせってもんだ」 「そうかも知れないわね」  敏子は自嘲するように言った。 「その気分、俺が徹底的に治してやる」  男は万事心得たという様子で頷いた。同時に烈しくホーンを鳴らし、 「あん畜生、いやらしい運転をしやがる」  と、前を行く車に強引な追越しをかけた。 「ざまみろ、馬鹿」  ジネッタは玉川通りへ入り、すぐ高速道路へ乗り入れる。 「どこへ行くの」 「まかしとけ、って。お前のそのウジウジした気分がこっちにまで感染しちゃかなわねえからな。派手に行こうぜ、派手に」 「いいわよ」  敏子はあきらめたように首を振り、 「ほんとにあたしの気分が変えられるの」  と陽気な声で言った。 「変えてやるとも。そのかわり、お前泣くかも知れねえぞ」 「ふん、泣かせてごらん」 「ようし、畜生」  たしか男は久松と言ったはずである。二人は似たような年で、そうやって並んでいると、よく似合ったカップルであった。 「降るわね、この調子じゃ」  敏子は空を見て言った。朝から蒸し暑かったが、とうとう晴れ間はでずに日が暮れるのかも知れない。西の方に台風が近づいていた。   嵐  夜。風が少し強まっていた。宵の口から降りだした雨は、まださほどではないが、時どき急に吹く強風のたび、マンションのガラス戸に雨音をたてている。  純白のバスローブをまとった久松が、陰気な顔でそのガラス戸の外をみつめていた。左手のブランデーのグラスを、今にもとり落さんばかりに軽く持って、吸口つきの軽い葉巻を咥えている。 「庸介《ようすけ》……」  敏子の声がする。久松は我にかえったように上体をのばし、バスルームのほうをふり返った。 「なんだよ」 「あたしのバスローブ……」 「そんなもの要るか」  小馬鹿にしたように呶鳴り返し、ニヤリとした。スタンドの光をうけてキラキラと光っている大きなガラスの灰皿に葉巻を抛り込み、ブランデーを呷る。 「やだあ、持って来て……」  敏子の甘え声を、久松はかまう気がないらしく聞き流す。二人で散々都内を遊びまわったあとであった。  敏子がバスルームから出て来た。一糸もまとっていない。 「あたしも飲む」  久松は豪華なホームバーを顎でしゃくって見せた。 「めんどくさい……」  敏子は久松の手からブランデー・グラスをとりあげて唇にあてた。久松は肩をすくめて立ちあがり、バーの棚からグラスと瓶をとってついだ。今度のは大きなタンブラーで、その中へたっぷりすぎるほどブランデーが入る。それを左手に、右手の指で瓶の蓋をしめながら言う。 「帰らないんでたすかったぜ」 「どうして」  敏子は全裸でガラス戸のカーテンを引きはじめていた。 「屈辱だからな」  すると敏子は妖艶な笑い方をした。 「ゆうべまで散々人を運転手とくらべ物にしやがって」 「いいじゃない。あんた憤ったの……」 「憤りはしないが、いい気分じゃないよ。帰したらチャンスをのがすところさ」 「チャンスって」 「思い知らせてやるのさ、お前に」 「何を」  敏子は言葉でじゃれ合っていた。 「俺をさ。きまってるじゃねえか。お前のことは俺がこの世で一番よく知ってるんだ。どこからどこまでな。お前が気分よさそうに俺を運転手とくらべて悦に入ってやがるから、黙ってたのしませてやったんだよ」 「かっこいいこと言っちゃって」  敏子はからかうように言った。二人ともみつめ合ってブランデーを飲む。 「これからお前、もうちっと髪を長くしろ」 「あたしの勝手よ。人のおしゃれに口をだす男なんて嫌だわ」  久松は黙ってグラスを置き、ゆっくり敏子に近づいてグラスをとりあげた。顔を寄せ、軽く唇に触れる。 「結婚なんかする必要はねえや。でも、俺とお前はいいコンビだ。工員とお手伝いならいい家庭ができたろうな」 「そんな言い方するとろくなことないわよ」 「俺は仕事は仕事でちゃんとやってる。人なみ以上に税金も納めてる」  敏子は肩をすくめて見せた。むきだしのバストが少し揺れる。 「今までしたことはないが、一度お前にしてやりたいことがあった」 「なあに」  敏子の瞳が甘えた。両手を尻のあたりで組み、胸を突き出して久松を押すようにした。 「世界中で一番よくお前のことが判ってるのは俺さ」  久松はブランデー・グラスをテーブルの上に置き、もう一度軽くキスをした。が、次の瞬間敏子の頬に久松の平手が鳴っていた。さして力もいれないようであったが、敏子は不意をつかれてよろよろと倒れかけた。夢中でさしのべた片手を掴んだ久松は、それをぐいと引き寄せると、今度は髪の毛を掴んでねじり倒した。 「何すんのよっ」  敏子が悲鳴をあげる。 「運転手の女になんかさせねえぞ」  腕のつけ根をつかんで起きあがらせようとする。 「気でも狂ったの……痛いっ」 「狂っちゃいない」  久松は薄笑いを泛べ、敏子の腕を背中で逆手にねじあげると、べッドルームのほうへ押して行き、ドアのところで片足をあげ、敏子を部屋の中へ蹴込んだ。 「この馬鹿野郎ッ」  罵声と悲鳴が重なり、パシッと肌を打つ音が聞える。 「ごめんなさい。許して……」 「うるせえっ」  しばらく揉み合う様子で、そのうち敏子が泣きだした。 「許して。もうしないから」  すると一瞬騒ぎが静まり、久松の妙にしんみりした声が聞える。 「お前はこうされるのが好きな女なんだよ。強い男に引きずりまわされたいんだ。お前が蹴ったり撲ったりするような男に憧れてるのは、前から判ってた」 「あたし、変態じゃないわ」  すすり泣きながら言う。しかしその声にはたっぷり蜜が含まれていた。 「判ってる。お前は女としてはきついほうだ。だから時には優しい男に魅かれもするが、本当は自分よりうんと強い男に、弱い女として扱われたいのさ」  敏子が細い声をあげた。それはまさに、強い男に一方的に扱われている、かよわい女の声であった。 「だが、みんなお前をそういう風に扱おうとはしない。気位の高い女王様として、好き勝手にさせたがるのさ。その点じゃ、お前のおやじさんだって似たようなもんさ」  敏子の細い声は、甘い呻きにかわって来たようだ。 「見ろ、手荒にしたらこんなになってる。いいんだろ、ええ、こういうのがさ……」  ガラス戸にあたる雨音がまた烈しくなって、その中で敏子が意味もなく許しを乞う。 「許して、許して……もういや……」  ベランダで、何かが風に煽られる音がしはじめている。 「庸介……庸介……」  暗い空を雨雲がかなりの速度で流れていた。車のライトが滲んで見え、電車の長い窓灯りの列だけが、いやにたしかな感じで動いている。  その電車が短いガードにさしかかると、ガタガタと雨戸のない窓がふるえ、台所の棚に置いてある鍋に、歯ブラシを二本入れた安物のグラスが触れて、チリリリリ……と軽い音をたてている。その歯ブラシの白いほうは浜田ので、赤いのは敏子のものだった。  浜田は窓のそばに立って、国電の土手をみつめていた。その急な斜面を、電車の灯りがチラチラと照らしだし、やがて消えた。  ボーン、ボーン、と下の部屋の柱時計が十二時を打つのが聞えた。浜田は薄い座蒲団の上に戻り、煙草に火をつけてあおむけに寝た。  敏子は来ないらしい……。  浜田はあきらめをつけた。この雨では来られないだろうと思った。ひょっとすると、東京にはいないのかも知れないと思いながら脚を組んだ。しみだらけの天井だった。  そうか、敏子はいつもこのしみを眺めていたのだな。……急に浜田は詫びたいような気分になった。 「いくらなんでも……」  つぶやいた。いくらなんでもここでは少しひどすぎると思ったのだ。苦笑している。だがたのしそうであった。高村家をやめたことで気持がはっきりした。よく考えると、高村英太郎は、いざというときなかなか物判りのいい人物になるようだった。決して敏子と別れてくれとは言わなかった。ただ、浜田が不幸になると忠告しただけだ。それについては、詫びてさえいた。やめさせられたのではなく、やめるのが当然だったのだ。高村家には高村家の立場がある。しかし、これからは違う。父親でさえ判らないかも知れないが、敏子は案外平凡な家庭生活を夢見ている女なのだ。その夢をみたし、その上で自分も一人前の男としてやって行ければ、どこからも文句の来る気づかいはない。敏子にきちんと離婚してもらおう。そして、正式に結婚しよう。体の限り働いて、敏子をしあわせな女にしてやろう……。  浜田はそっと体を起し、長くなった煙草の灰を灰皿へ落とすと、あらためてその煙草を底に押しつけて揉み消した。立ちあがって押入の襖をあけ、蒲団を敷いた。安物だが敏子の分もとうに買い揃えてあった。今まで敷きそびれていたのは、敏子が来るのではないかと思ったからだった。もし自分のだけ敷いていて、そこへ敏子が来たりすると、また散々からまれてしまうにきまっているのだ。まったく口ではとうていかなわない相手だった。  浜田は小さなテーブルをどけて蒲団をしいた。服を脱ぎ、青い夏物のパジャマに着がえ、台所で顔を洗って部屋のまん中へ戻ると、じろじろと敷いたばかりの蒲団を見た。なんとなく寝にくかった。と言って、本もテレビもあるにはあるが、まるで見る気は起きなかった。思いついてまた台所へ行き、小型の冷蔵庫をあけて、ウイスキーの瓶をとりだした。立ったままグラスにつぎ、瓶を冷蔵庫へ戻してテーブルのそばへ坐った。  また電車が通って家が揺れた。 「そろそろお別れだな」  浜田はひとりごとを言い、壁や台所に向けてグラスをあげた。 「乾杯だ……」  ボソリと言い、飲んだ。電車の音と揺れがおさまると、窓を鳴らす風の音だけが残った。 「敏子、おやすみ」  飲みおえるころは少し酔っていて、浜田はそう言って蒲団に入った。だが彼は部屋の灯りを消さなかった。消し忘れたのではなく、夜更けに来るかも知れない敏子のために、わざとつけはなして睡ったのであった。  やがて朝になり、しらじらとした光の中で、その灯りはうすらいで行った。しかし、雨は前夜よりいっそう強く、風も本格的になって来たようであった。  その朝、浜田は新しい仕事のことで、深川の運送会社をたずねようと考えていた。しかし、目覚めたときの空模様は、とてもそれどころではなかった。浜田はのんびりと時間をかけて部屋を掃除し、食事の仕度をした。台風情報を知りたくて珍しくテレビをつけっぱなしにし、ゆっくり朝飯を食べた。  台風はしだいに接近して来ていた。もう方向を変えてくれる望みもなくなり、テレビが報ずる街の様子は、人も車もみなどこかへ逃げ込んでしまったらしく、がらんとしていた。  ……いったい誰が高村家へ報らせたのだろう。  昼ごろになって浜田はそれを考えはじめた。敏子の姉があたふたとやって来たとき、それはもうはじまっていたに違いない。いや、その段階ではすでにおわりだったのかも知れないのだ。その姉か……。いや違うだろう。  浜田は自問自答した。南川たちが告げ口するはずはなく、可能性としてはよく二人連れで歩いたから、そのとき誰かに見られたということもあり得た。しかし、敏子がとび出して来た家のことを考えたとき、すべてははっきりしたようであった。  嫁いで六ヶ月目に、さしたるわけもなくとびだして来たのだから、先方では当然わけを知りたがったに違いない。実家は社会的な地位もある裕福な家庭らしいから、興信所の調査にかけるのは当然のような気がしたのだ。  このアパートではもう誰知らぬ者はないと言っていい仲であった。どんなにラフによそおっても、この辺りでは敏子のようなタイプの女は珍しかった。 「きょうは彼女は来ないの」  アパートのおかみさんたちは、からかい気味にそんな声をかけたりしているのである。しかも、夫の家のほうが行なった調査でバレたとすると、当然高村家との間でひともめ起らねばなるまい。  浜田は高村英太郎にあらためて詫びを言いたくなった。そして、さすがは一流の学者だと思った。耐えるところは耐え、許せる分は許した上で、必要な処置をとったということなのであろう。  午後三時ごろからいっそう風が強まり、そのかわり雨は小降りになった。浜田は窓の鍵をしっかりとしめなおし、敷居と戸のすき間へ、古雑巾をぴっちりと押しこんだ。今にまたどしゃ降りになるにきまっていた。  はやばやと暮れた。風は臨終の人の息のように、不規則に強まったり弱まったりしていた。弱くなったときは雨音が強くなった。もうアパートの横の道は水が溢れていた。そのあたりは以前ドブ川があっただけに、近くの雨水を一手にひきうけてしまっているようであった。  いよいよ暴風雨の中心に近づいたらしい。……そう浜田が感じたとき、いきなりドアがあいて敏子がころがり込むように入って来た。傘もなく、レインコートもなく、頭からずぶ濡れになっていた。  浜田は驚いて敏子に駆け寄った。 「とうとう出て来ちゃったわよ」  敏子は濡れて子供のように小さい感じになった頭を振り、しずくをはねとばして笑った。 「タオルかして」  浜田はあわてて手近にあったタオルを渡した。 「足が泥んこだわ」  急いで雑巾をとってひざまずき、足を拭いてやった。敏子は濡れた髪を拭きながら片足をあげて浜田にあずけていた。 「もっと、タオル……」  浜田は雑巾を置き、タオルを二、三本出して来た。どれも使い古しであった。 「湯あがりタオルよ。ないの……」  敏子は不服そうに言った。浜田はうろたえて押入れをあけ、一枚だけあった湯あがりタオルを引っぱり出した。 「ドア、ちゃんとしめて」  敏子が部屋へあがり、浜田はドアの錠をかけた。 「脱がせて」  背中を向けて言う。浜田の指が袖のないブラウスの背中のフックを外し、ファスナーをおろす。敏子は着ているものを次々に脱いだ。濡れた着衣が入口の板の上に、みじめな感じで積まれた。 「あなたにも迷惑かけちゃったわね」  敏子はなぜか憤ったようにぶっきら棒な言い方をした。しかし、パンティーだけになって体を拭いているその顔は、弱々しい微笑を泛べている。 「あなたのためにもと思って、できるだけ我慢したのよ」  浜田は背中を拭いてやりながら言った。 「俺のため……」 「そうよ。あなたをクビにしたって聞いたとたん、あたしもとび出そうと思ったの。でも我慢したわ」 「どうして」  敏子の背中は熱い感じであった。 「負担になるからよ」 「俺のかい」 「そうよ。これでも自分のことはよく判ってるつもりよ。あたしって、毎日一緒にいるとうるさい女なの。ふつうの意味でじゃないわよ。なんて言うか、……きっといつもあなたに気をつかわせちゃうわ」 「気を使ったっていいさ。一緒にいられればそれで満足だ」  浜田がそう言うと、敏子は彼に背を向けて一瞬強く目をとじた。 「先生には悪いが、もうあの家と縁は切れた。よく考えてみると、先生は出て行けとは言っても別れろとは言っていない。案外判っているのかも知れないぜ」 「うそ、あんな判らず屋……」 「とにかく一緒にやって行こう。なんとかしあわせにするようやって見る」  敏子は裸の体をうしろへ倒し、浜田によりかかった。 「その気で出て来たのはたしかよ。でも……」 「でも、なんだい」 「あたし、自信がないの」 「何の自信」 「あなたが好きだわ。愛してるのよ。でも、この嵐みたいに、あなたを散々な目にあわせて、すぐどこかへ行っちゃうかも知れない」 「君は嵐じゃない」  浜田は抱きしめ、唇を合わせた。目をとじたのは浜田で、敏子は大きな目をあけていた。どこやら怯えたような色があった。   運転手  浜田は長距離トラック便の運転手になった。経験は充分にあり、最初の往復ですぐ勘をとり戻した。帰って来るとアパートで敏子が待っていて、以前よりずっと張りのある毎日になったようであった。  しかし、敏子がかなりなげやりな感じでその生活に入っていたことに、浜田は気づいていなかった。ただ、彼女がアパートに住む女たちとしっくり行かず、周囲の女たちからもよく言われていないことだけはすぐ判った。  浜田はそれを当然なこととして受取っていた。敏子がこんなボロアパートの住人たちとうまく行くはずはないと思い、ときどき彼女がそのことで愚痴を言うと、ひたすら自分の責任だと感じて敏子をなだめるのであった。  浜田にとって、その問題の解決策ははっきりとしていた。アパートを移ればよいのである。その程度の金の用意はあったし、適当なすまいさえ見つかれば、すぐにでも引っ越す気であった。  しかし、敏子が余り乗り気ではないようだった。敏子のために引っ越すのに、当の敏子をくどくどと説得しなければならないという、妙な事態になっていた。敏子は浜田になぜ転居したくないのかと尋ねられると、きまって、金がもったいないからだと答えた。  その答は或る程度浜田を満足させた。自分のことを思ってのことだと感じ、敏子が一転してこのつつましやかな生活に入って、それなりに努力しているのだと、いじらしく思ったりした。  だが実際には、敏子はそういう考え方で転居に反対していたのではないようである。お金がもったいないわ、と言う時の敏子の表情を、浜田はもっとよく観察し、分析して見るべきであった。投げやりで、どこか傍観者的なところがのぞいていたのだ。  敏子はどうやら本気で転居の費用を、もったいないと思っていたらしい。敏子にして見れば、浜田と一緒なら、どこへ移り住んでも五十歩百歩であることが判り切っていたのだ。浜田は夢中になって新しいすまいのことを考えていたが、それはせいぜいふた部屋に小さな浴室がついた程度のことで、それもいま住んでいる場所とそうかわらない地域の、木造アパートなのであった。  浜田が敏子との新居の候補に高級マンションまでを考えに入れなかったことは、迂闊と言えば迂闊だったし、当然と言えば当然でもあった。ただ、たとえ考えに入れたとしても、それはとうてい浜田にとって実現不可能な夢であったろうし、敏子もそんな無理を彼に強いる気はまるでなかった。  敏子にして見れば、浜田のそうした配慮がわずらわしかったに違いない。かりに浜田の最高の処置を彼女がうけいれても、彼女がなれ親しんで来たすまいの水準には遠く及ばないのだし、それならいっそ今までどおり国電の土手にそった、以前ドブ川があったガードのそばの安アパートでも同じことなのであった。そんなすまいのことなどより、浜田が昔どおり寡黙で淡々として、窓から吹き込んだ風のように敏子を迎え入れてくれれば、彼女は浜田をただ一人の男として尊重したはずであった。そういう浜田なら貧しくて当然だし、敏子もその貧しさに誇りを持って生きて行くことができたかも知れない。本来敏子はそういう浜田に魅かれ、それを愛することで自分も何かから救われようとしていたのである。  ところが、敏子が浜田を愛した瞬間から、浜田は別な男にかわってしまった。野心を持ち、富に憧れるようになってしまったのだ。それが自分のせいだと判っているだけに、敏子はいっそうやり切れないのである。浜田のような男にそんな毒を与えてしまったことがくやまれ、簡単にかわってしまった浜田に不甲斐なさを感じてしまうのだ。浜田はもとのままであることがいちばん美しい。それなのに、欲を持ってしまった。欲を持つにはもう遅すぎるのだ。そんなことなら、昔なじみの久松庸介のほうが、余程立派な男であった。欲のある男としてなら、浜田五郎は未熟で頼りなくて、とてもお話にならない存在であった。  それでも敏子はしばらく耐えた。浜田をそんな風にしてしまったのは彼女の責任であったし、彼が一時の迷いから醒めて、本来の姿をとり戻してくれる望みが残っていないわけでもないと思ったからである。  だが、浜田の今度の仕事は家を留守にしがちであった。疲れ切って帰ると、まず必要なのは熟睡することであった。そして、体力をとり戻すとまた重いトラックを運転して遠くへ突っ走って行く。ろくに語り合う機会もなかったし、いかにも生活に追われていると言ったみじめさを感じずにはいられなかった。敏子はしだいに陽気な笑顔を失ない、冗談や得意の悪ふざけなども、気力が失せてする気がなくなってしまった。  そういう生活がひと月かひと月半もつづくと、浜田の留守中、敏子の足は自然に久松庸介のもとへむかってしまうのであった。辛気臭い浜田との生活から久松の世界へ戻って見ると、そこは相変らず活気に溢れてまばゆいほどであった。何度かこっそり久松に会っている内に、敏子はアパートへ戻るのが億劫になって来た。酔ってつい帰りそびれた晩をきっかけに、浜田が帰ると判っている時でも、久松に抱かれて睡ってしまうことが多くなった。  浜田はそういうことに対しても慣れていなかった。どう考えても浮気の外泊と判り切っていそうなものを、自分を欺し欺しなんとか敏子を信じようと努めるのだ。敏子が高村家へ戻っていたと言えば、そうか良かったなと簡単によろこんで見せるし、友達と遊んでいたと言えば、そうか楽しかったろうと微笑して見せるのである。そして、そういう見えすいた嘘をつくたび、敏子はいっそう苦しまねばならなかった。  自分に対する浜田の不信が手にとるように判っているのである。いかに苦しみながら浜田がそれをおさえつけているか、自分のことのように感じ取れるのである。そして、浜田のそういう忍耐が、結局は自分をいっそう苦しめるのだと感じはじめたとき、敏子は遂に浜田のアパートから逃げだした。久松庸介という男は、そんなとき最も効果的な解毒剤であり、麻酔薬であった。夜の高速道路をジネッタが唸りをあげて突っ走り、敏子を知り抜いた久松の体の下で、彼女は蜜をしたたらせて泣いた。  そして浜田は、敏子の戻らぬ日々を、じっと耐えるしかすべがなかった。しかし、或る日仕事から戻って、車を仲間のトラックの列の中へ入れようとバックさせていて、彼はとなりの車に強くこすりつけてしまった。それはありがちなミスであったし、特に問題にされるほどのことでもなかった。しかし、浜田にして見れば、われとわが身を疑うような大ミスであった。  愕然とした。自分がいかにみじめな状態につきおとされていたか、心の底から思い知ったのである。いかに疲れていても、以前の浜田には決してありえない運転ミスであった。 「おやじさん。俺、やっぱりやめるよ」  事務所へ入ってミスを詫びたあと、浜田はそう言った。 「なんかあると思ってたよ」  おやじさんは同情するように言い、強いて引きとめなかった。その男にも、浜田のひどい精神状態が判っていたらしかった。 「調子が戻ったら、またいつでも来いよ」  おやじさんはそんな言い方で浜田を励ましてくれた。そして、長距離トラックの運転手をやめた浜田がすることはただひとつ、もう一度敏子に会うことであった。  それはもう秋のおわり、というより、冬がはじまった頃であった。  敏子が高村家へ戻ってなどいないことは、浜田にもとっくに判っていた。ほかに男がいたことも、どうという証拠がなくとも判っていた。  あのジネッタの男だ。  浜田はそう直感していた。一度きり、しかも車を見ただけだったが、彼は確信を持っていた。そして、敏子のうしろにひろがる未知の社会に、自分でも空おそろしくなるほどの烈しい怒りを感じた。そこにはプールサイドの夏があり、ジネッタをはじめとするスマートな車の一群があり、贅沢なマンションの部屋と粋な着こなしがあり、そしてなんとも理不尽な富者の笑い声があった。  なぜだ。なぜ貧しい者から女まで奪うのだ。なぜ女は貧しい者から逃げ出すのだ。……浜田は、心の中で絶叫しているようであった。彼はその絶叫をくり返しながら、敏子がいそうな夜の街を歩きまわった。敏子にめぐり会うまで、歩いて歩いて歩き抜くつもりであった。  そして会った。  それは六本木にある小さな喫茶店であった。歩き疲れた浜田がその店へ入ってコーヒーを注文し、ぼんやりと入口のほうを眺めていたとき、薄手のコートを袖を通さずに羽織った敏子が、ほどよく肉のついた大きな男と一緒に、さりげなく入って来て浜田のすぐ前のテーブルについたのであった。  男は浜田に背を向けて坐った。敏子はそれに向き合い、浜田のほうへ顔を見せて坐った。かなり長い間、敏子は浜田に気づかずにいた。浜田は動悸がおさまるまで、じっと体を堅くして待っていた。  敏子の顔には、ときどき浜田に見せたことのない、すがりつくような表情が泛ぶようであった。そして浜田は、その表情を失った宝石でも見るようにみつめていた。  ふと、目が合った。  そのとき示した敏子の反応は、浜田にとって、敏子にもあるまじきうろたえぶりに思えた。顔色を変え、目をそらし、うつむき、また顔をあげて、怯えたように浜田を見たのであった。あら……と言って微笑し、図太いほど平然としていて欲しかった。それでこそ、貧しい男を棄てた女であろう。しかしそうではなかった。ごくありきたりの、五分と五分の立場でつき合えそうな女の態度であった。  敏子の表情の変化に気づいて、男が振り返った。無礼にも、なめまわすように浜田を眺めたのである。やがて男は目を細め、ニヤリとした。 「ほう、運転手がいるな」  浜田はそれを無視して立ちあがった。 「敏子、話がある。ずっと探していたんだ」  敏子は詫びるような目で浜田をみつめた。 「とにかく一緒に来てくれ」  敏子は腰を浮かしかけた。浜田が一、二歩近寄ったとき、男が腕をさし出して道を塞いだ。 「失礼だろう。俺にことわりもなしに」 「君に関係ない」 「ある。俺はあんたに言って聞かせることがあるんだ」  浜田は男を見た。贅沢な腕時計をしていた。 「いいか、人にはそれぞれ持ち分というものがある。どう考えたって、敏子は運転手には無理だ」 「何が無理だ」 「庸介、よしなさいよ」  敏子がとめた。 「俺も自分で車を運転するが、会社には運転手を二人やとってある。世間なみの給料は払っているつもりだから、君の給料と似たようなもんさ」 「それがどうした」 「世の中、金ばかりじゃないことは知っているが、苦労の八割は金でカタがついてしまうことも事実だ」 「何を言いたいんだ」 「俺はその八割をかたづけられるってことさ。あんたじゃ敏子はしあわせになれないね。冷静によく考えてみるんだな。こいつを知ってるんだから、そのくらいのことは判るだろう」 「金がすべてじゃない」 「困った人だね。そんな子供じみたこと言ってないで、敏子を楽にしといてやれよ」 「君たちは結婚するのか」 「おいでなすったね。どこからどこまで紋切りがたでやがる。するかしないかはこっちの勝手だ。運転手に相談することもないだろう」 「運転手で悪いか」  浜田はたまりかねて呶鳴った。すると男は同じような大声で答えた。 「悪いね」 「なぜだ。親の金で楽をしている奴がそんなにえらいのか」 「どんな金だろうと金は金だ。こいつは運転手には無理なのがどうして判らないんだ」 「なぜ無理なんだ。誰がそんなことをきめた」  突然はじまった男二人の呶鳴り合いに、店の中はしいんと静まり返っている。 「うるせえっ」  久松は立ちあがった。 「それなら言ってやろう。電車が来るたび揺れるアパートで、敏子をどうできるって言うんだよ。たかがのろまな運転手のくせしやがって。分に過ぎた女をお粗末な人生のまきぞえにしようったって、そうは行かねえや」  浜田の右肩がさがり、またあがったとき、彼の拳が久松の顎につきささっていた。久松は丸く小さなテーブルの上へ倒れ、テーブルが横に倒れたはずみに、そばの洋菓子のショー・ケースに当たってガラスが砕け、白いクリームをのせたケーキの上に破片が突きささった。敏子は素早くとびのいて、レジのほうへ身を寄せていた。 「お客さん、いいかげんにしてください」  ショー・ケースの内側で中年の男が喚いた。 「どうしてくれるんです。警察を呼びますからね」  すると久松がふてぶてしく笑いながら立ちあがり、 「いいよいいよ。金を払えばいいんだろう。そう怒らないで丸く納めてくれよ」  と言った。  浜田はこわれたショー・ケースの前を通って、レジのところにいる敏子のところへ行った。内側にいる男がまた大声で言う。 「そっちの人、出てってください。乱暴する人は困るんです。帰ってください」  浜田は敏子をみつめた。 「どうなんだ……」  敏子の目に涙が溜っていた。 「なさけない……」  早口でそう言い、くるりとうしろを向いてしまった。 「何してるんです。早く出てってください」  浜田はその声に押し出されるように店を出た。暗い道に冷たい風が吹いていた。彼は方角もきめず、体を前に倒すようにして足早にその場を離れた。  浜田は泣いていた。   地 図  石油ストーブが燃えている。南川ヒロシはそのそばへスチール・デスクから椅子をふたつ引っぱって来て言った。 「ここは北向きで寒いんだよ。ちょうど小野たちも使いに行って留守だし……」  浜田が入口で鼠色のコートを脱いでいるところであった。 「待っててくれよ。とにかくお茶でもいれるから……」 「いいんですよ。おかまいなく」  南川は仕事部屋から消え、すぐにポットと急須などをのせた丸い木の盆を持って戻って来た。 「ミー子の仕度がいいから……。あれでなかなか気がきくんだ。まあ坐りなよ。久し振りだね」 「ごぶさたしちゃって……」 「聞いたよ」  そばのデスクの上でお茶をいれはじめながら、南川は柔らかい調子で言った。 「何をです」 「高村先生のとこを出たんだってね」 「ああ。だいぶ以前のことです」 「今、何をしてるの」 「今ですか」  浜田は言い澱み、 「別に」  と答えて力なく微笑する。 「でも、その気になればいくらでも仕事はあるんだろう」 「ええ、それはまあ」 「はい、どうぞ」  南川は茶碗を浜田に渡した。 「茎《くき》茶とか言って、わりとうまいお茶だよ。ミー子の実家からもらったんだ。あれは京都の子でね」 「ほう、そうですか」  二人はしばらく黙ってお茶をのんだ。 「君はいい人だ」  南川がしんみりした声で言った。 「敏子さんと別れたほうがよかったかも知れないね」 「運転手ですから……」 「職業や地位など関係ないさ。もし関係あるんだったら、いい女は上から順番になっちゃう」 「南川さんは結婚しないんですか」 「するよ。実はミー子をもらうことにしたんだ。年貢の納めどきって奴さ」 「それはおめでとうございます。いい人ですからね、ミー子さんは」  実を言えば浜田はそのミー子の本名すらまだ知らないでいる。だが、南川はどうやらどこかで敏子とつながりがあるらしく、浜田のことについてはかなりくわしくいきさつを知っているようであった。  浜田は茶碗をそばに置くと、あらたまった様子で言う。 「あの、能登のことを少し聞きたくて……」 「能登のこと……」  南川は浜田をみつめた。 「君のほうがくわしいはずじゃないか。俺はまだろくに行ったこともない」 「時国のことです」 「時国。ああ、嘆き鳥の件か」 「ええ。ざっくばらんに言いますと、敏子と……敏子さんとあんな風になっちゃって、仕事する気にもなれないんです」 「いけないねえ。しっかりしてくれなきゃ……」 「すいません。それで、しばらく能登へ行って頭を冷やそうと思うんです」 「ああ、そいつはいいや。賛成だな。早く元気をとり戻さなくてはな」 「それで、ついでだから嘆き鳥のことも少し教わって行こうと思ったんです」 「どうする気だい。まさか宝さがしじゃないだろうね」  南川は笑った。 「来年の春になったら俺も行ってみるつもりなんだ。宝さがしにね。やっとスケジュールの目安もついて……ずいぶんのびのびになっちゃったが、仕事が忙がしくてね」 「とにかく、自分の体にある痣のことですし」 「それはそうだ。君が本家本もとみたいなもんだからね」  そこまで言って、南川は急に眉をひそめた。 「ひょっとして……」  調べるような目付きで浜田を見てから、太いため息をついた。 「ひどい人だな、敏子さんも」 「は……」 「そうか。君がそこまで深く傷つけられてしまったとは思わなかったよ」 「なんのことです」 「君は本気なんだね。本気で嘆き鳥を探すつもりなんだろう」  浜田はうつむいて黙っていた。 「なんとかしてあげたいよ。実は俺もあの久松庸介という男を少しは知っているんだ」 「久松庸介……」  鸚鵡返しに浜田は言った。あの晩庸介と言う名を敏子が口にしていた。 「にぎやかな奴で、人の面倒を見るのが好きらしいが、徹底した道楽息子でもある。人の面倒を見るんだって、まわりをにぎやかにして置きたいからなんだ。思いやりとか同情心はどこかへ置いて来ちまってるような奴さ。がむしゃらに人と争うが、いざとなると……なんというかな、自分のまわりにめぐらせた金の壁の中へ逃げ込んじゃうような奴だ。君とは正反対の男だよ。俺もああいうのはあんまり好きじゃないんだ。でも、ちょっと特殊なタイプだね。君がああいうのを相手にしてムキになることはないさ」  浜田は首を振った。 「違うんです。もう彼女やその久松とかという人のことは関係ないんです。でも、僕は僕なりにやり直したいんです」 「それで嘆き鳥かい。いけないね。それは反対だ」 「一生に一度、夢を追って見たいんです」 「埋蔵金にとりつかれて一生穴を掘りつづけてる人もいるよ」 「いいえ、しばらくの間だけですよ。それも、自分の体についていることなんです。持って生まれたことなんですよ。人間はみんな、持って生まれたものの中で生きて行くんでしょう。敏子、さんは僕が持って生まれた分以上の人でした。でも、嘆き鳥なら生まれたときから僕の肌についている……」 「誰かにそんなことを言われたのかい」 「いいえ」 「まあ、だいぶ思い込んでいるようだけど、それなら来年になってから俺たちと一緒に行かないか。もちろん遊び半分だけど、小野も行くよ。そのほうがいい。平家の宝物なんてのにとりつかれたら一生が台なしになる」  浜田は微笑した。 「みなさんが行く頃には東京へ戻っていますよ。僕にはいま能登へ行くことが必要なんです。行って、僕が持って生まれた分というのをよく考えて見ます」 「やっぱり言われたんだな。久松の奴だろう、そんな汚いことを言うのは」 「万一僕が宝にとりつかれたとしても、春には南川さんたちも同じ所へ行くんでしょう。僕がとりつかれていたら連れ戻してください」  浜田は笑いながら言った。南川は返事に困ってその笑顔に合わせた。 「なるほど、そう言えばそうだな。それに君のような人が、夢のような話にいつまでもこだわりつづけているわけもなかろうしね」  南川は立ちあがり、デスクの抽斗をあけて四角く畳んだ紙をとりだした。 「おいでよ、ずいぶん研究したんだけど、君に宝のありかを先に教えちゃおう」 「すいません」  浜田は南川のデスクへ近寄った。それは五万分の一の地図で、輪島の少し手前を西の端、能登飯田のあたりを東の端にして、能登半島を南北にまっすぐ割った形になっていた。 「俺がどんな考え方でこれから言う場所を時国家の宝が埋まっている場所だときめたか、そいつは君に説明してもしようがない。だから結論を言おう。例の嘆き鳥が渡って来た場所というのは、このあたりだと思う」  南川は地図の左上の四分の一を斜めに切っている日本海の上に指を置き、それをずらせて曾々木海岸のあたりを示した。 「ここだよ。町野川の流域だ」  その川口は大川浜と言い、そこからほぼ真南の角度で、一本の川が両岸にかなりの面積の平地を作って蛇行しながら、半島の中央部へ這いのぼっている。その川口を少し山へ入ったところに、今は観光名所となったふたつの時国家があり、地名も西時国、南時国と呼ばれている。 「時忠の時代までに、能登で荘園の立券《りゆうけん》状を得ているところというと、鳳至郡では町野庄と志津良《しづら》庄のふたつしかない。ただし、この町野庄の当時の領有関係については、今では何も判らなくなってしまっているんだ。しかし、同じころ能登にあった他の荘園の持主は、東大寺、西大寺、大伴氏、醍醐寺、後白河院、八条院、皇嘉門院などだから、似たようなところが持っていたと考えてさしつかえない。俺は後白河院だろうと思う。時忠とは深い関係があるからね。それで、二代目の時国がこっちのほうに移り、町野川の治水か何かをしてこのあたりを自分の領地のようにしたはずなんだ。これは俺が時国家の秘宝というのを、神鏡だと仮定したから出て来た答なんで……。いや、説明してもはじまらなかったんだな」  南川は苦笑した。 「とにかく、探すならこの辺りを探すんだね。ここは、はじめ時忠が住んだ大谷のあたりの角間川や名ヶ谷川よりずっと大きな川だし、伝説の烏川に至ってはお話にならない小さな流れだ。俺はその渡り鳥を水鳥ではないかと睨んでいるんだが、どっちにしろ、このあたりは妙に平家風というか京都風というか、そんな感じのする地名が多いんだ。とにかく、君が行ってまずマークしなければならないのは、この町野川からすぐ西へ分れる支流の先きにある金蔵という場所だ。五郎左衛門とか弥十郎とかという地名の多いところだから、金蔵だって人の名かも知れないが、その南には金山《かんやま》という場所もある。それからここだ」  南川の指は更に川をさかのぼった。 「鴨川があって鴨《かもん》 平《だいら》がある。更にその先、川は柳田村へ入って河内川と呼ばれるようになる。この辺りは過疎現象が起っているらしいから、脇道などは荒れてしまっているかも知れないが、その川を西へ向えば上《かみ》、下《しも》、北《きた》などにわかれた河内という土地へ入る。そのあたりや極楽寺というあたりも、是非調べて見る必要があるし、町野川を西へ入らずに南へ直進すると、その道は内浦側の宇出津《うしつ》へ続いている。宇出津にはキリコ祭りで有名な八坂神社があって、これも調べなければならない。チェックする要点は、鳥とか鏡とかに関係するものだ。名前でも形でもなんでもいい。また、どうしても町野川ぞいに歩いて何もピンと来るものがなければ、下流の川西というところから真東へ分れている支流をさかのぼって、宝立山《ほうりゆうざん》などへも行けたら行って見るといい」 「有難うございます」 「この地図を持って行くといい。ひまさえあればこいつと睨めっこをしていたんで、あちこち書き込みで汚れてしまっているが、かえってこれが役に立つかも知れない」  浜田は何度も礼を言ってその地図を畳み、大事そうにコートの内ポケットへいれて南川のオフィスを出て行った。  浜田が帰ると、南川は太い溜め息をついた。窓の外は、雪でも降りそうな曇り空であった。   再 会  その冬は全国的に降雪が少く、各地のスキー場の中には、人工雪で急場をしのぐところもあった。南川は冬の間中、浜田からの連絡を心待ちにしていたが、冬がおわり、春がはじまっても、浜田はいっこうに連絡して来なかった。  国電の線路の土手下にある家の古びた板塀の中から突きだした、あのひねこびた桜の木にまた花が咲き、どこかうす汚れた白さの花びらが風に散っても、そのあたりにもう浜田の姿は見えないのであった。風呂屋の主人は嘆き鳥が姿を見せなくなった当座、一、二度浜田のことを思い出したが、今ではもうすっかり忘れてしまっている。  そして、そんな春の或る夜、敏子の姿が上野駅にあった。 「君も来ればいいのに」  登山仕度のようないでたちで、南川が敏子に言った。 「よしてよ。もうたくさんだわ」  そばに同じような身仕度の小野が立っていた。 「俺、浜さんが可哀そうでしょうがないよ」  小野は敏子を睨んで言った。 「あたしが悪いのよ」  敏子はその目をじっとみつめ返した。 「でも、今行ってあの人に会えたって、もうどうにもならないわ」  南川がとりなすように小野の肩を叩く。 「厄介なもんさ、人生って奴は」 「でも、浜さんは誰にも毒を与えない人だった。馬鹿じゃないかと思うくらい、そっと生きていた。みんなの邪魔にならないようにね」 「小野ちゃん、そう責めないでよ」  敏子は力なく笑った。 「それより、彼を見つけてね。お願いするわ」  南川が頷いて見せる。 「嘆き鳥調査団が浜さんの捜索隊になっちまったな」  小野がボヤいた。 「まあいいじゃないか。ああいう人はいったんこうと思い込むと、とことんやるのかも知れない。案外夢中でしらみつぶしに歩きまわっているかも知れない」 「そうであることを祈るわ」 「君はそれでどうするんだい。また久松と喧嘩したって言うじゃないか」 「何が何だか判んなくなっちゃった。あたしって、下らない女ねえ。庸介と長つづきしっこないのは、ずっと昔に判ってたはずなのに」 「言っちゃ悪いがあいつは駄目さ。誠実さってものがまるでない。頭がよくて教養があるだけに余計始末が悪いのさ」 「来たわよ」  列車が入線して来た。ホームの人々がいっせいに動く。 「きっと浜さんを連れて帰る。嘆き鳥の件では俺にも責任があるからな。宝さがしなんて、遊びならともかく……」 「休みがとれたからと言って、彼を見つけても一緒に宝さがしなんかしないでね。そんなことはただの夢なんだって、よく判らせてくれなければ困るわよ」 「判ってるさ。それに、いくら浜さんだってそう子供じゃない。俺たちが連れ戻しに来たと判ればすぐ帰るさ」 「じゃ、あたし帰るわ。小野ちゃん、彼をお願いね」  敏子に肩へ手を置かれて、小野は眩しそうな顔をした。 「ねえ、南川さん」  敏子のうしろ姿を見送って小野が言う。 「なんだ」 「彼女、どうなっちゃうんですかね」  南川は肩をすくめた。 「まるで将来なんて頭にない女性だな。やってくる日々に体をあずけていれば、結構なるようになってしまうという感じだ。ああいう風になって見たいよ」 「美人はとくだなあ。生まれつきなんだからどうしようもないけど」  南川は荷物を持ちあげながら小野を見た。 「生まれつきか」 「そうでしょう、だって……」 「君はそんなことを考えないほうがいい」  おしかぶせるような言い方であった。 「たとえ誰かに言われたって、そんなことを気にするな。君の人生は君のものだ。みんな自分なりに生きるしかない。人とくらべてどうなると言うんだ」  南川はグリーン車のほうへ歩きだした。 「でもいいや。南川さんにくっついていれば、俺はグリーン車に乗れるんだから」 「こいつ……」  二人笑った。  浜田はまるで乞食か気違いのように思われていた。能登生まれと言っても、すでに知人などは一人もいなかった。したがって、一般民家に長期の宿を借りることは不可能で、町野川ぞいにはそういう長期の客を泊めるような旅館もなかった。  仕方なく彼はその冬のあいだ、海岸ぞいにある民宿のひとつに泊り込んでいた。毎日昼の弁当を作ってもらい、中古の自転車を買って川ぞいの道を通勤するように上流へ向かうのである。  はじめ、浜田はたしかに富を追い求めていた。敏子をそれで買い戻せると思ったわけではないが、自分が生まれながらに社会の下層にしか住めない人間だという考えを、その富で追い払おうとしていたようである。もちろん、それとても本気で心の底から考えていたのではなく、とにかくそうやっているうちに心の傷が癒えて、以前の平穏な生活に戻れるのではないかと期待していたのだ。  いくらかのたくわえはあって、それを全部持ち出して来たから、民宿程度ならまだ当分そうやって能登にいられるはずであった。しかし、その夢を追うような宝さがしの日々の内に、浜田はたった一人で山や川を相手にしている生活が、この上もなく自分の性に合っていることを発見した。山へ登り谷へおり、それこそ草の根をわけるような孤独な探索が、彼の心に静かな幸福感をもたらしはじめたのだった。 「浜さんは人間嫌いながやねえ」  人の好い民宿のおかみさんが、ときどきそんなことを言った。 「そうなんだよ。俺はたくさんの人の中ではうまく生きて行けないらしいんだ」  自嘲は能登へ来てから消えてしまっていた。それは浜田の率直な感慨であった。なぜか浜田は、自分がこうして生涯嘆き鳥を追うために生まれて来た人間であるような気がして仕方なかった。家も金も仕事も女も、この能登という土地へ来てから、まるで関心がなくなってしまっていた。すべての欲が嘘のように消え去り、ただ山や谷を歩きまわれる毎日がうれしかった。  あくまでも、歩きまわる目的は嘆き鳥であるから、浜田は村ごとに里ごとに、鳥とか鏡とかという地形や地名について尋ねまわってはいた。しかし、鏡池とか鳥山とかいう地名などは、どこにでもありそうでいて、その地方にはまるでないようであった。それでも浜田は失望しなかった。金のつづく限りその地にとどまって、平穏で満ちたりた山歩きを続けていたかったのである。  その平和な日々を破ったのは、小野であった。 「おーい、浜さあん」  或る日、下時国家のあたりの道で、浜田はうしろからそう呼びとめられた。反射的に自転車のブレーキをかけてふり返ると、リュック・サックを背負った小野が両手を烈しく振って合図をしていた。  予期しないことではなかった。春になれば南川たちがやって来ることは判っていたし、来れば必ずこの町野川ぞいのどこかでめぐり会うはずだと思っていた。あとひと月、あとひと月と能登を去る日をのばしたのも、心の底で春になれば南川たちに会えるという心づもりがあったからであった。しかし、それが現実になって見ると、何やらわずらわしいだけであった。 「やあ、元気かい」  下時国家から出て来たらしい南川が現われて、大声で言った。浜田はニコリとして見せ、軽く頭をさげた。 「心配したんだぞ。敏子さんだって……」  小野が言いかけ、 「とにかく約束どおりやって来たよ」  と南川がその言葉をさえぎった。浜田はボロボロになってしまったあの地図をとりだして南川に渡した。 「有難うございました」  南川は黙って受取り、しばらく浜田を観察していた。 「よかったね」  ポツンと言って手をさしのべる。 「ええ」  浜田は軽くその手を握った。 「見ろ、心配することはなかったじゃないか。浜さんは見事にもとの浜さんにかえっている」  小野がなるほどというように、南川へ目で頷いて見せていた。 「どうだい、嘆き鳥の調子は」 「いやあ……」  浜田は照れたように笑った。 「駄目か」  頷く。 「駄目でいいのさ。俺もあれを探す気はなくなったよ。君を探しに来たんだ」 「久田《きゆうでん》の先に、なんし岩というのがあるそうなんです」  南川が言うとおり、すっかり以前の寡黙な男に戻っている浜田がボソボソと言った。 「久田《きゆうでん》」  すると浜田は渡したばかりの地図を南川からとりあげ、さっと指で示した。もう知り尽しているといった感じであった。 「辺鄙《へんぴ》なところらしいな」  浜田はこくりと頷く。 「もうよせよ。堪能したろう。山の中のほうが君の性に合ってるかも知れないが、いつまでいてもきりがないさ」  浜田は黙って笑った。 「なんし岩……一緒に行きましょう」 「おやおや」  南川は小野と顔を見合わせて笑いだした。 「浜さん、一緒に俺たちと帰るだろ」 「うん」 「仕事も探してあるんだ。マイクロ・バスだけどさ。いい仕事だぜ。歌手や俳優なんかを乗せてまわるんだ」 「有難う」  浜田の笑顔にはかげりがなかった。 「よし」  南川は手を打った。 「そのなんし岩という奴を、宝さがしのうちどめにしようじゃないか。今日一日そこへ行って、それでおしまいだ。いいね」 「はい」 「ジープを借りてあるんだよ。それで行こう」  南川は浜田の肩に手をあてて、川下のほうへ歩きだした。   巨 岩  ジープに三人が乗っている。浜田が久しぶりにハンドルを握っていた。道は曲りくねった川にそって、山の奥へ伸びていた。 「なんし岩か」  南川がのんびりと言った。 「それが最後だけれど、その最後で一発当てると愉快だな」 「そうは問屋が卸すもんですか」  小野がからかった。 「そう馬鹿にしたものでもない。なんし岩、なんし岩と……。案外本物かも知れないぜ」 「またはじまった。南川さんのはこじつけばかりなんだから」 「なんし岩というのはどういう岩なんだ」  南川は浜田に尋ねた。 「今日はじめて行くんです」 「大きい岩かね」 「そうらしいです。四角いんだそうで……」 「四角い大きな岩か。面白そうだな」 「面白がってちゃいけないんでしょう」  小野が注意した。 「なんし、とはどういう意味だ」 「さあ」  小野は首をひねり、 「どうして、とか、なぜ、とかいう言葉じゃないですかね。なんして、とか、なんしに行く、とか使いますよ」 「なんしに行くがか、おらもよう判らん」  南川は土地の人の喋りかたを真似て笑った。 「そうだ」  突然南川が大声をあげた。 「時忠の宝が神鏡だとすると、なんし岩というのはいい線行ってるぜ」 「浜さん、本気にしないほうがいいぜ」  小野が忠告した。 「いいか、嘆き鳥が特殊な鴨の仲間だったとしようか。それが町野川上流の、鴨《かもん》 平《だいら》とか鴨川と呼ばれる所に渡って来ていて、そういう地名の元にもなった。そうだ、鴨だよ。嘆き鳥というのはしゃれすぎてる。やはり平家の人間がつけた綽名に違いないな。そして、嘆き鳥がどんな形の鳥かは一般の人間には判らない。形を知るには浜さんのような痣を見なければならない。そして痣の形を見たら、なんだ鴨《かもん》 平《だいら》へ来る鴨のことじゃないかと判るんだ。そして、かくし場所がそのあたりだとなると、当時の人はごく自然にその近くのなんし岩に神鏡がかくされていると判る」 「なぜ、なんし岩なんですか」  浜田が尋ねた。 「なんし、は、ないし、の訛ったものじゃあるまいか」 「ないし……」 「そうだ。宮中では、天照大神の御霊代を安置する場所を、賢《かしこ》 所《どころ》と言うんだ。知ってるだろう」 「賢《かしこ》 所《どころ》……聞いたことあります」 「アマテラスの御霊代というのが、問題の神鏡なのさ。はじめのうち三種の神器は天皇が住むところに一緒にまつられていたが、崇神天皇の時に大和の笠縫邑《かさぬいのむら》へ移され、摸造の剣と鏡を宮中へ置くようになったんだ。そしてあとになって、鏡だけ別の建物に安置されるようになり、そこを賢《かしこ》 所《どころ》と呼びはじめた。おそれかしこむ場所さ。鏡は一番大事にされていて、今でも内掌典《ないしようてん》という役名の、未婚の女性がそれを取扱う係りになっている。その係りの役名を、古くは内侍《ないし》と呼び、内侍所《ないしどころ》と言うと、賢所の別名になるんだ」 「それでなんし岩か……」  小野が感心したように言うと、南川はニヤリとして、 「だといいがね」  と言った。 「なんだ、またこじつけですか」  小野が口をとがらせた。 「でも、平時忠の妹の滋子は後白河上皇の女御になって、建春門院と呼ばれたんだが、その建春門と言うのは内裏の東の宣陽門の外にあって、賢所とはすぐ近くの位置をしめている。まんざらこじつけでもなかろう」  ジープはガタガタと揺れながら脇道へ入りこんでとまった。すぐ近くにひとかたまりの家が見えている。 「あれが久田《きゆうでん》です」  浜田はその屋根を指さして言った。 「なんし岩はこっちのはずです」  まるでその土地に昔からいる人間のように、浜田は心得たようすでジープをおり、二人の先になって歩きはじめた。ところどころに細長い沢がえぐれている山の中を、まっすぐに進んで行く。 「久田から来ている道です」  浜田は道のない山の中から、細い一本の道へ出るとそう言った。 「少し行くとふたまたにわかれていて、湧き水のあるほうへ行けと言われました」 「誰に聞いたんだ」 「久田の老人です」  しばらく行くと、道は左右に分岐していて、その右側に石で囲った小さな水飲場のような湧き水があった。 「もうすぐだね」 「ええ」  三人の足が早くなった。その一行の前が急に明るくなり、くろずんだごつごつの岩場がひらけた。 「あれだ」  浜田が指さした。南川はそれを見て唖然とした。高さは八メートル以上あって、一辺は優に二メートルもある四角い墓石のような巨岩であった。 「おい、こいつはおかしな岩だぞ」  南川はそう叫んだ。 「人工のものみたいだ」  小野がみあげて言った。 「でも、ごつごつしてる」  浜田が反論するように小野を見た。 「人工のものならもっとつるりとしてるんじゃないかな」 「でもまっ四角だ」 「まっ四角かどうかは測って見なければ判らないさ」  南川が口をはさんだ。 「どちらにせよ、ちょっとおかしい。いや、わけは判らないが、ただの岩じゃないような気がする」 「掘って見ましょうか」  浜田は自転車から外して来たズックの袋をあけ、小さなシャベルを出して折り畳み式の柄を伸ばした。 「よし、俺がやる」  南川はそのシャベルをとりあげ、岩の根もとを探りまわった。 「登れそうだな」  小野はリュックサックをおろし、手に唾をふきかけて岩にとりついた。でこぼこがあり、うまく登れそうであった。  浜田と南川が岩の下を熱心に掘り出そうとしていた。基部を見れば人工のものかどうか判るはずであった。 「この岩、おかしいよ」  遊び半分に岩へよじ登った小野が突然叫んだ。 「なにかあったのか」  南川が上を見て言った。 「ほら、ちょっとどいていてください。この岩は全部同じかたまりじゃないんですよ」  小野は岩のてっぺんに危っかしく左手をかけ、右手で岩をめくるようにした。すると風化して剥離したらしい岩くずが、バラバラと落ちて来た。岩くずばかりではなく、かなり大きなかたまりまで剥け落ちて来る。 「何かあるのか」 「岩の中のほうは鉄か何かみたい……つるつるしてます」 「何だって」  南川はシャベルを投げ捨てた。 「おりてこい。俺が登って見る」  小野は片足を外して下のでっぱりを探り、苦労しておりはじめた。小野がおり切るのを待ちかねたように南川が登る。 「小野ちゃん、どうしたんだ」  浜田がへたりこんだように尻をついた小野を心配した。 「変なんだよ。なんか妙なことを考えちゃうんだ」  小野は左の掌で、故障した機械でも叩くように、自分の側頭部を叩いた。 「岩がおちて来る。もう少し離れていよう」  浜田はそう言ってあとずさりし、南川を見あげた。 「まるで鏡だぜ、こいつは」  南川が最上部へ登りついて言った。 「どうしてこんなことができたんだろう。浜さん、こいつは人工のものらしいよ。まるでステンレスをコンクリートでかためたみたいだ。つるつるの金属が岩の中にとじこめられているんだ」 「僕にも見せてください」 「すぐおりるよ」  なぜか南川はあわてておりはじめた。 「いてえ。頭がいてえや。あそこへあがったとたんだ……変だな」 「俺もです。何かおかしなことを考えはじめて、自分でもどうにもならないんですよ」 「小野もか」  南川はそう言い、登りはじめた浜田に声をかけた。 「気をつけろよ。何か変だぞ……」 「はい」  浜田はよじ登った。 「ほんとだ、まるで鏡だ。これは時忠の宝ですよ。間違いない」  浜田はホラ、と言って剥離した部分を更に強く引きむしるようにした。 「あっ……」  下の二人が同時に叫んでとびのいた。浜田の手がその部分の岩を引きはがすと、岩片が南川たちのすぐ近くへころがり落ち、その欠け落ちて内部のつるつるの金属面があらわれた部分は、完全な円型で輝いていた。 「鏡だ。浜さん、まん丸の鏡だよ」  浜田は無言だった。ゆっくりとそのほうへ胸をのばし、岩の下からあらわれた真円の鏡面へ右手をあてがってたしかめようとしていた。  浜田五郎の右手がその真円の鏡面の中央にびたりと当てられた。  そのとたん、何かがピカッと光り輝いたようであった。 「と、し、こ……」  浜田が絶叫した。 「あ、あ……」  下の二人は必死で岩から逃げた。浜田のよじ登っている岩が、ゆっくりと前へ倒れはじめたからであった。浜田は岩にしがみついたまま、大地に背を向けはじめていた。岩はゆっくりと倒れ、ズズーンという地ひびきとともに土けむりをあげて粉々に砕けたようであった。 「浜……」  二人とも声をのんだ。倒れたのは巨岩の全体ではなかった。それは巨岩の外皮だけであった。しかし、それだけでも何トンという重さであったに違いない。  そして、土けむりの中に、四角くすべすべした金属のかたまりが輝いていた。その不思議な金属の柱は、しばらく光をキラキラと反射させていたが、やがて頂上部から橙色の光を発しはじめ、その光はすぐ青から鋭い銀色にかわって、金属全体がその色に染まると、すぐに真上へ向かって伸びはじめて行った。  それは、岩にかくされていたつるつるの金属の柱を基部にする、四角い光の柱であった。光は決して消えることなく、どこまでも、どこまでも、宇宙に向かって伸びて行くのであった。  終 章  高村英太郎がその現場へ来ている。科学調査団の団長の資格で来ているのだ。科学者が、一人一人交替に、謎の直方体に対して組まれた木のやぐらへ登って行き、何かを聞くようにそのてっぺんの足場でしばらくじっとしている。  そのつるつるの面に、写真の陰画のような感じで、はっきりと人間の手形がしるされていた。そして、その前で何かを聞くようにじっとしていた人々は、降りてくると高村に向かって、黙って頷くのであった。 「あれは宇宙のある知性体へ向けられた信号なんだ」  南川が、そばのテントのところで、駆けつけて来た雑誌社の男に言っている。 「彼らは、この地球の人類が、いずれ滅亡してしまうことを予測していたんだ。そして、ここにその監視装置というか、測定装置というか、そういうものを据えつけたんだ。まさに人智をこえた仕掛けさ。宇宙人は地球の人類を、多分救ってくれるつもりなのではないだろうか。とにかく、彼らは人類が破滅ギリギリへ近づいたとき、あの装置が信号を発するようにしたのさ。そして、その時期を知る仕掛けというのが、なんと人類自身の中にかくされていたんだ。嘆き鳥の痣を持った浜田五郎がそれだ。彼らは日本人の血の中にそれをセットしたんだ。いや、運命の中にと言うほうが正しいのかな。知るべもない高度なメカニズムで自分たちの破滅の時をこの装置に告げて作動させる人間が生まれるよう仕組まれていたのさ。浜田は何も知らずに生まれ、生き、恋をし、そして必然的にここへ追いやられて死んだんだ。彼が辿った人生は、すべて宇宙人のセットしたこの装置へつながっていたのさ。平凡で、ただおのれの生命をその日まで慎重にながらえさせ、ここへ来て人類の滅亡を告げて死んだのだ。遺体とあそこの手形を照合したら、まさしくあれは浜田のものだったよ。調査団がいま、一人一人あそこへあがっているだろう。あそこへ行くと、宇宙人の我々に対する事情説明が聞けるのさ。いや、聞けるというのは間違いだ。いきなり理解させられるんだ。この件に関するすべてがね」 「本当だとしたら、恐しいことだな」  記者は言った。 「滅亡はいい。仕方ないし、我々もうすうす感じていたことだ。しかし、ある血統の中に、何千年か何万年か知らないが、そんなような時限装置が仕掛けられるなんてな。宿命論は正しかったんじゃないか」 「そういうことになるな」  南川も頷いていた。 「あの人は死んでしまった……」  高村家へ戻った敏子が、そう言ってまた泣いている。あの、自分でも抑制し切れなかった烈しい衝動のようなものが、すっかり影をひそめていた。 「あたしはあの人のために生まれた女だったんだわ。あの人を、あそこへ追いやるための……」  泣きじゃくっていた。  傍に高村英太郎が立って、それを悲しげに見おろしていた。 「自分を責めるのはよしなさい」  高村は言った。 「みんな、あの装置のせいだったんだ」  離婚も恋愛も、そして最後の浮気も、すべてが、嘆き鳥という一羽の鳥のなせるわざだったのである。しかし、その嘆き鳥が果してきた、今日までの役割は、人々にどんな運命を与えていたのだろう。 「一人の浜田五郎を生むために、各時代の何人かの男女が、自分ではどうにもならない力にあやつられていたのだ。そして、お前はその最後の一人だったのだ」  すると、敏子は顔をあげて言った。 「違うわ。それだけじゃないわ」 「どうしてだ」 「風呂屋のおじさん、南川さんたち、そしてお父さん……。みんな彼をあそこへ追いやるために働いていたのよ」 「…………」  高村はギョッとしたように敏子をみつめた。 「そうか。そうだったな。でも、もうおわった。いったい宇宙人は、人類をたすけてくれるのだろうか。たすけるとすれば、いったい誰と誰を……。みんなではあるまい。こんなに増えてしまったのだからな」  U・F・Oは、すでに未確認の物体ではなかった。それは、人類に対してさしむけられた、他の知性体のものであることがはっきりしていた。  それこそ、人類すべての嘆きの象徴なのではないだろうか。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 角川文庫『平家伝説』昭和49年9月30日初版発行           昭和58年11月30日21版発行