半村 良 夢の底から来た男 目 次  夢の底から来た男  錯覚屋繁昌記《さつかくやはんじようき》  血《けつ》 霊《りよう》  自恋魔  わが青春のE・S・P [#改ページ]   夢の底から来た男     1  道路をはさんだ向こう側のビルの七階と八階の窓ガラスが、夕陽をまともに受けて白く光っていた。こちらのビルの影になった部分は、壁も窓も青味がかって見え、その窓のひとつに、椅子《いす》に坐《すわ》った男がのんびり煙草《たばこ》を吸っているうしろ姿が見えていた。  また一日がおわった。彼はそう思い、椅子の向きをかえて自分のデスクに戻《もど》った。五十枚ほどの振替伝票を揃《そろ》えてゴムバンドをかけながら、向き合った席にいる太田芳江の顔を見た。歳はたしか三十三か四。結婚しているのだそうだが、夫がどういう人物で、どんな暮らしぶりなのか、いっさい喋《しやべ》ったことがなかった。服装はいつも地味で質素で、上司に対しては従順だがきわめて事務的な態度で接し、伝票を持ってこの経理課へ現われる若い社員たちに対しては、少々|棘《とげ》のある言葉づかいをする女であった。  ただ、彼に対してだけは、ときどき気易い同僚としての態度を示すことがある。 「金庫、しめるわね」  太田芳江はそう言うと、椅子の背に背骨を押しつけるようにして体を反《そ》らせた。そのとたん、営業課長の林がユニット式の間仕切りのドアをあけて顔をだした。 「たのむ、仮払いだ」  戸棚《とだな》兼用になったスチール製のカウンターの上へ出金伝票を置いて言う。太田芳江はすぐにはその伝票をとろうとせず、椅子にもたれて首だけ林のほうへまわした。 「いくらですか。あんまりありませんよ」 「大した額じゃないさ。飯代《めしだい》だよ」  太田芳江は伝票に手をのばす。 「こんなに食べるんですか」  林はムッとしたようだった。 「スポンサーの接待なんだ。俺《おれ》たちは外へ引っぱりだすのに何か月も骨を折っているんだぞ」  太田芳江は、はぐらかすように明るく笑って見せる。 「なるべく早く清算してくださいよ。林さんはいつも遅いんだから」 「早くするよ」  林は頷《うなず》く。 「林さんの為を思って言ってるのよ。だって、しまいには自分のお給料で始末することになるんですもの」 「しようがないんだよ。仕事のからみ具合が微妙だから」 「はい」  太田芳江は一度現金を手渡しかけ、すぐ引っこめて銀行の封筒に入れて渡してやった。 「さて……」  林は腕時計を眺《なが》めながら出て行った。 「これでおしまいね」  太田芳江は自分の前の青い手提げ金庫の蓋《ふた》をおろして言った。 「あんまりいじめるなよ」  彼は微笑しながら言う。 「営業の連中は大変なんだぜ」 「そうでしょうけど、お金にルーズすぎるからよ」  芳江の言い方は反論しているのではなく、淡々と感想を述べているといった調子であった。 「さて……」  そう言って、課長の大野が席へ戻って来た。帳簿類をひとかかえ持っていた。 「来週、専務と社長は関西出張だ」  芳江はすぐ大野のデスクへ行って、持ち帰った帳簿類をしまいはじめる。大野は椅子に坐って煙草をとりだした。 「今日も遅くなりそうだ」 「麻雀《マージヤン》ですか」  彼も机の上の整理をはじめながら言った。 「まあな。……君は麻雀もしない。煙草も吸わない。君の奥さんはしあわせだよな」 「芸なしなんです」  彼は目をあげて大野を見た。大野は銀色のライターをとりだして、煙草に火をつけていた。 「いや。理想的な経理マンさ」  火をつけおわった大野は、左手でライターをもてあそびながら言った。彼はじっとその左手をみつめていた。  あいつは経理以外に使い道がない。……かげで大野がそう言っていることを、彼は知っていた。たしかに、ほかのセクションへまわされたら、この会社をやめるより仕方ないと思っていた。やめて、またどこかの経理の仕事を探さねばならないだろう。性《しよう》に合っているというより、ほかに出来る仕事がないと言ったほうが正解なのだ。経理の仕事も、好きで仕方ないというほどではない。生きて行くためには仕事が要るし、彼にできる仕事といったら経理くらいなものだ。でも、それで不満かと言えばそうでもない。性に合わないのを無理して営業の第一線に出て行くよりは、よほど気が楽であったし、縁の下の力持ち的な立場を損だと思うほど、積極的な性格ではないのだ。 「なんだい」  大野は彼の視線に気づいて、左手に持ったライターを見た。 「どうかしたか、これ……」  彼はあわてて机の上の整理に戻った。 「いや、別に」  その小さな経理の部屋に沈黙が流れた。あと十分かそこらで、芳江と彼は会社を出、地下鉄の駅に向かうだろう。課長の大野はとなりのビルの地下にある麻雀屋へ行くはずだ。一日の仕事がおわったとたん、その三人に共通するものは何もなくなってしまう。 「大野さん……」  間仕切りの向こうから声がかかった。 「おう」 「先に行ってますよ」  たしか阿部という若い社員の声であった。 「よし。金庫をしめるぞ」  大野は咥《くわ》え煙草で立ちあがり、壁ぎわの青黒い防火金庫の扉《とびら》をしめ、鍵《かぎ》をかけた。芳江も席を立って部屋を出て行く。手を洗い、化粧を直して戻ると、ハンドバッグを持って退社するのだ。それに少し遅れて、彼もこのビルを出る。毎日ほとんどかわらない手順で、時間も五分と狂ったことはなかった。     2  新大塚スカイハイツ。安マンションだ。彼はその六階でエレベーターを出ると、吹きさらしの通路を歩いて、空色に塗ったドアの横にあるボタンを押した。中でチャイムの音がしている。  すぐにドアがあいて、妻の香子の顔が見えた。 「おかえりなさい」  香子は早口で言い、すぐ奥へ消えた。魚を焼く匂《にお》いと、男の子の泣声がからみ合い、いかにも世帯じみた感じである。  だが、彼はいそいそと靴《くつ》を脱ぎ、狭い入口にしゃがんでそれを作りつけの下駄箱《げたばこ》へ押し込むと、上着を脱ぎながら、 「どうした、健《たけし》」  と陽気な声で言った。 「自分で自動車をこわしちゃったくせに、泣いちゃってるの」  もうすぐ一年生になる娘のみどりが、そう言いながらおしゃまな感じで彼の上着を受け取る。 「なんだ。もうこわしちゃったのか。どれどれ」  彼はキッチンの入口に立って泣いている健をだきあげ、 「まず顔を拭《ふ》いてからだ」  と風呂場へ連れて行く。 「お父さんが直してやるから。どこにあるんだ」  湿ったタオルで顔を拭いてやりながら言う。健はすぐ泣きやみ、彼の手からのがれて風呂場を出て行った。 「どれどれ」  彼はタオルを洗面器の中へ抛《ほう》りこむと、健の姿を探した。 「飛行機よ、これ……」  健は指の先で小さなものをつまんで来た。 「お、グリコのおまけだな」  彼はしゃがみこんで相手になってやる。 「どこへ行く飛行機かなぁ」 「海……」 「そうか、海へ行くのか。誰《だれ》と行くんだ」 「おかあさんとおとうさんと」 「おねえちゃんは」 「ブーン……」  健は部屋の中を走りまわった。 「こわれた自動車はどこにあるんだ。お父さんが直してやるぞ」  だが健はもう忘れてしまったように、小さなプラスチックの飛行機をつまんで走りまわっている。 「静かにしなさい」  香子が健を叱《しか》った。 「健のばか」  床に坐り込んで本をひろげていたみどりが、その本を足でひっかけられて黄色い声をだす。 「ブーン……」 「まて」  彼は通りすがる健をさっとだきあげた。 「速い飛行機だな」 「うん。いちばん速い奴《やつ》」 「そうだな。自動車どこにある」 「あっち」 「よしよし。うまく直るかな」 「自動車、こわれちゃったの」 「お前がこわしたんだろう」  彼は二段ベッドのあるとなりの部屋へ入った。 「タイヤがとれてるな」  健をだいたまま坐り込み、プラスチックのおもちゃをとりあげた。 「タイヤはどうした」 「とれちゃった」 「どこにある。持っておいで」 「こわれちゃったの」 「よし。その飛行機にのせておいで」  健は二段ベッドの横へ行って、おもちゃのタイヤと小さな飛行機を両手に持って戻って来る。 「ほら、よこせ」  健はするりと彼の膝《ひざ》の上にのる。 「大したことないよ。故障しただけだ」 「エンジン……」 「そう。エンジンの故障だ。エンジンて、どこにあるか知ってるか」 「ここ」  健はフロント・フードのあたりを指さす。 「そうだ、えらいな。エンジンはそこにあるんだぞ。自動車はエンジンで走る」 「ちがうよ。自動車はガソリンで走るんだよ。テレビがそう言ったよ」 「こいつ」  彼は笑って健の頭に顎《あご》をのせた。髪の匂いが何やら懐かしかった。健はおとなしく、彼がおもちゃを直す指先をみつめている。  ライターが彼の頭の中に泛《うか》んでいた。課長の大野が持っているライターであった。四角く、細長い感じで、重そうな銀色をしていた。毎日顔をつき合わしているのだし、大野は相当なヘビー・スモーカーだから、今までそのライターを何度も見ているはずであった。  しかし、今までまったく気づかなかった。重そうな感じの、銀色のライター。……どこかに見憶えがあり、しかもそれはたしかに課長の大野とは関係のない記憶であった。  彼はそのライターのことを思い出そうとした。しかし、思い出す前におもちゃの自動車の修理がすんだ。 「わあ……直った直った」  健が彼の手からそれをとりあげ、膝からおりてさっそくころがしはじめた。 「乱暴にするとまたこわれるぞ」 「あなた、着がえて……」  香子が部屋をのぞいて言った。 「いけね。お父さんも叱られちゃった」  夫婦の寝室はとなりである。彼はその部屋へ移って服を着換えはじめた。上着はみどりがちゃんと洋服だんすのハンガーに掛けてくれていた。  窓の外から国電の駅が見えていた。どんよりと濁った夕暮れの空であった。     3 「加藤さん。加藤さん。加藤一郎さん……」  事務的な声で呼ばれ、彼はその何度目かでハッと目がさめた。喉《のど》がひどくかわいていて、彼は大きく唾《つば》をのみこんだ。またあの夢を見ていたのである。いつもよく見る夢であったが、名を呼ばれたのははじめてであった。  その夢をいつごろから見るようになったのか、よく憶えてはいない。しかし、その夢を見るたび、彼はきまって途中で目ざめるのであった。  別に筋のようなものがあるわけではない。はじめはどこか壁のようなところから、一人の男が滲《にじ》み出すような感じで現われるのだ。男の姿はだんだん鮮明となり、やがて彼の正面に突っ立つ。その、滲み出すような最初のころと、目の前に鮮明な姿で仁王《におう》立ちになる間の時間が、夢の中ではとほうもなくゆっくりと流れるのだった。そしてその緩慢な時間のあいだ、彼は得体の知れぬ恐怖を味わい続けているのだ。  だが、夢はあくまで夢で、目覚めてからいくら思い出そうとしても、その恐ろしい男の顔がどうしても思い出せないのだ。ただひとつだけはっきりとしているのは、その男の両手は、いつも血にまみれていた。まるで、たった今まで人間の内臓を素手でかきわけていたかのように、どろどろとした血で汚れている。  彼は暗い寝室の天井を、うんざりしたような気分でみつめていた。  何もかも申し分なかった。ごく平凡なサラリーマンだが、妻も子もあり、彼はそれを心から愛していた。決して豊かではないが、住まいもあり、子供たちにそうみじめな思いもさせないですんでいる。おとなしすぎるほどおとなしい自分のような性格の人間には、これでも充分すぎると満足しているのであった。  だから、ここ何年も家庭に波風はたっていない。ただ唯一の悩みは、その血まみれの手をした男の夢であった。もちろん、そんなことを香子にも言ってはいない。たかが夢のことだし、余分な心配をさせてはつまらないと思っているのだ。  ところが、その悪夢の間隔が、最近になって急にせばまってきている。いったいこれはどうしたことなのだろうかと、彼は不安で仕方がないのである。いずれ、ストレスとか疲労といったものが原因なのだろうと思っていたが、いつもうなされるのが、まったく同一の夢だというのが気になったし、血まみれの手も不吉であった。万一それが脳の障害によるもので、だんだん重症になって発狂などということになったら、香子や子供たちの人生はどうなるのだろう。そう考えると、時にはいても立ってもいられないような気分に陥る。  ただの夢だ……。そう思ってすぐまた睡《ねむ》れることもあるが、気になって朝までまんじりともできないこともある。ましてその夜は名前まで呼ばれた。果してあの血まみれの手をした男が呼んだのかどうか、はっきりしないのだが、とにかくあの夢を見るようになってから一度も変化なく、いつもきまり切った場面であったのに、はじめて変化らしい変化を見せたのである。  近頃《ちかごろ》では、血まみれの手の男が現われると、夢の中でこれは夢だとはっきり自覚するようになっている。何度も同じ夢を見ているのだから、当たり前だと言えば当たり前だが、それにしては血まみれの手の男の人相、風体が、いつになってもいっこうにはっきりしないのがふしぎであった。  彼はそっと寝室をぬけだして居間へ入った。うすぐらい中でソファーに坐り、湧《わ》きあがる不安に耐えていた。  朧《おぼろ》な影が揺れ動いて、やがてそれがかたまるとあの男の姿になる。どこからやって来るのか……。彼はすっかり憶えてしまった夢の中のひとこまひとこまを、ゆっくりと思い返して見た。  その朧な影が湧く場所は、とりたてて風景らしいものがないところであった。うしろに何かつかまえどころのない平たい面があるだけで、影はいつもその特定の部分から湧きだしてくるようであった。  ドアか……。彼はふとそう感じた。平べったい面が壁であるとすれば、影が湧き出してくる特定の場所はドアということになりはしないだろうか。しかし、それならどこのドアだ。ドアがあれば部屋ということにもなる。いったいどこの部屋だ……。  そんな部屋の記憶はまるでなかった。どこであるか考えても無駄なことである。とすると、背景はやはり壁ではなく、抽象化された地平ということであろうか。  むかし、何か恐ろしいものを見たのかも知れない。それは幼かった彼に対して、或《あ》る角度から現われたので、あの夢の中で影が湧きだす特定の場所というのは、その角度なのではあるまいか。  しかし、それ以上いくら考えても、血まみれの手をした男の正体は思いつかなかった。人並み以上に平和で穏やかに暮らしてきたのだから、血まみれの手をした人間など、見る機会もなかったのだ。  何が自分をこれほど不安がらせ、怯《おび》えさせるのだろう。……彼はしだいにいらだちを感じはじめていた。それはちょうど、よく話に聞くいたずら電話のようなものではないか。いつか太田芳江が言っていたが、夜中にいきなり電話が掛かってきて、みだらな会話をしかけたり、もうすぐ放火すると脅かしたり、そういう悪戯《いたずら》をする者がいるそうだ。  脅かされたほうは、何の憶えもなく、根拠もないのに、やはりぶきみに思い、寝つかれなくなってしまう。何日も自分の過去をあれこれ思い返し、あるはずもない心当たりを探すことになるのだそうだ。  彼にとって、その血まみれの手をした男は、ちょうどその悪戯電話のようなもので、夢の底から意味もない脅しと警告を受けて怯えさせられているようなものであった。  奇妙なことに、彼は自分を責める気にはどうしてもなれなかった。夢なのだから、他人が与えられるはずはない。自分の夢で自分が怯えるなど、おかしなことだし、結局その夢も自分が作りだしているはずなのだから、責めるとすれば自分を責めるしかないのだ。であるにもかかわらず、その夢が自分のものだという実感はまるでなかった。夢の中へ誰かが押し入って来たような感じで、それがまたいっそう彼を不安にさせている。 「畜生……」  正体の掴《つか》めぬ焦りと、やり場のない腹立ちで、彼はそうつぶやいた。さっきから、子供たちの寝息がかすかに聞こえていた。その平和な寝息を守るためにも、血まみれの手の男の夢を忘れて、早く睡らねばならなかった。  彼は気をとり直し、立ちあがった。そっと寝室に戻り、また横になった。こんなことで不眠症になったりしてはつまらないと思った。     4 「どうかなさったの」  朝食のとき香子が言った。 「いや、別に」 「顔色が悪いわ。まっさお……」 「オーバーなこと言うなよ」  彼は苦笑して見せた。 「ゆうべ睡りそこなったんだ」  香子は心配そうにみつめている。 「どうしたのかな。心配することはないんだ。睡いだけさ」 「ずっと……」 「いや。ゆうべだけだよ」  笑って見せてその場は誤魔化《ごまか》したが、昨夜の不安が心の底にわだかまったままであった。出がけにさりげなく鏡を見ると、なるほど少し顔色が悪かった。 「行って来ます」  送りに出て来たみどりに、優しくそう言うと、健をだいて香子がそのうしろに立っていた。 「気をつけてね」 「うん」  彼は少し子供っぽい気分で頷《うなず》き、ドアの外へ出た。  家族に心配させているのがくやしかった。香子の態度のせいで、けさは健やみどりまで彼に対して優しかった。いつもなら父親のことなどそっちのけで騒いでいるのに……。  新大塚の駅へ歩く間、彼はなんとか気分をかえようと努めた。たかが夢のことで、なぜこんなに気分が滅入るのか、われながらおかしいと思った。彼は夢以外のことを考え続けた。目立たないだろうが、今の会社での立場もすっかり安定しているはずであった。なるほど太田芳江はベテランでよくやっているが、すでに夫のある身だった。妊娠でもすれば会社をやめなければならない。そのことは専務や社長もよく承知しているし、芳江自身退社する日が近いと自覚しているのだ。課長の大野は本来経理マンではない。以前は営業部にいたこともあり、ありていに言えば、その方面で大した働きができなかったので、経理に、まわってきただけのことである。ただ、大野は社長の甥《おい》にあたっている。経営上の秘密を知ることの多い経理課長には、大野のような身内がいるほうが社長も何かと都合がいいのだろう。つまり、腰かけ的な太田芳江を除くと、今の会社で経理の仕事ができるのは、彼一人になってしまう。そしてみんなが、彼の実直な仕事ぶりとおとなしい性格を知っている。経営面で相当な大波をかぶっても、自分は最後まで生き残れるという自信が彼にはあった。  小さな会社だが、給料は決して悪くない。きちんと昇給もするし、ボーナスもよく出すほうである。だから、不況などという外《そと》のことを別にすれば、経済的な不安材料はほとんどない。妻の香子もそう高望みする女ではなく、今の平穏な暮らしに一応は満足してくれている。子供たちも元気で、知恵も体も世間なみな成長を示しているのだ。  結局、不安など何もないのである。四か月ほど前に社員が交代で人間ドックへ行った。正味二十数時間のドック入りではあったが、彼の体はあらゆる面で健康だった。心配はどこにもない。煙草も喫わず、酒もほとんど飲まない。競馬、競輪はおろか麻雀さえろくに知らないのだから、家庭を破壊するようなおそれは、どこを探してもあるわけがない。  なぜ夢などを気にするのだ。世の中に自分ほど平和な人生を築いている者はそう多くないのだぞ……。彼は会社につくまで自分にそういい聞かせていた。そして、デスクにつき、いつもの仕事がはじまると、それもなんとなく忘れてしまった。  昼休みになると、すっかりいつもの気分に戻っているようであった。静かに落ち着いた気分を自覚して、彼はしみじみ満足であった。そういう静かな毎日こそ、彼が常に求めているものであった。  だが、課長の大野が昼食から戻って、自分の椅子に坐って煙草をとりだしたとき、そのせっかくの気分が一瞬にして崩れた。  大野が銀色のライターをとりだしたのである。彼はみるみる蒼《あお》ざめてそのライターをみつめた。 「なんだい」  大野は彼の視線に気づくと、ライターで火をつけ、煙を吐きだしながら言った。 「これ、どうかしたのか」  彼は答えられなかった。何かとんでもないものに襲いかかられた気分であった。 「おかしいな君は。きのうもこれを見てそんな顔をしたぞ。どこかこのライターに変なところでもあるのかい」  大野は苦笑を泛《うか》べて彼にそのライターをつきつけた。そう悪意のある態度ではなさそうだったが、彼は大きくのけぞってそのライターをさけた。 「どうしたんだ。ただのライターだぞ」  大野は芳江と顔を見合わせて失笑する。彼はやっとの思いでそのライターから目をそらせた。 「い、いや。別に……」 「どうしたというんだ」 「ライターのせいじゃないんです」 「じゃ、なんだい」 「ただ……」  芳江がたすけ舟をだすかたちで言った。 「顔色が悪いわ。どこか悪いのね」 「うん」  彼はあいまいに答える。 「具合いが悪いなら、早く帰ったら。いいわよ、今日は大した用はないし」 「そうだな」  大野も同意した。 「どうもすみません」  彼は二人に詫《わ》びた。 「何だか急に気分が悪くなって」 「昼飯に何食った」 「鰺《あじ》のフライ……」 「そいつかも知れないな」 「胃の薬を持って来てあげるわ」  芳江はさっと席を立ち、ドアの外へ出て行った。 「気をつけろよ。……だが、それにしてもおかしいな。なんでこのライターが気になるんだろう」  大野はしげしげと銀色のライターをみつめた。 「ずっと以前からこれを使っているのに、いつごろだったかな。……そうだ、あれ以来だよ」  とたんに彼は大声で言った。 「違うんです。ライターのせいじゃありません」  大野はびっくりしたように彼をみつめていた。     5  彼は逃げるようにして会社を出た。本当に胸が少しむかつくようであった。  だがそれは昼に食った鰺のフライのせいではなく、体のどの部分が悪いのでもなかった。  気がつくといつの間にか地下鉄の駅へ入っていたが、家へ帰る気はしなかった。香子たちに心配させたくなかったし、理由を説明すれば、あの銀色のライターのことに触れなければならなかった。  轟音《ごうおん》をたてて電車がやって来ると、彼はそれに乗った。昼間の地下鉄はすいていて、プシーッというドアの閉じる音も、耳にひときわよくひびく感じであった。  夕方までどこかで時間を潰《つぶ》さねばならない。……彼はそう思った。家へ戻るのはいつもどおりの時間でなければならない。さもないと妻子が心配する。  銀色のライター……。  空いた電車のドアのそばに倚《よ》りかかって、彼は呪《のろ》うような気持ちでそう思った。  ふたつがつながっている。血まみれの手の男と、その銀色のライターが……。いったいそのふたつはどこでつながっていたのだろう。自分はなぜ突然そのことに気づいたのだろう。  ドアのガラスに彼の顔が写っていた。その外を、ときどき白いものや、ぼんやりとした黄色い光がとび去って行く。  ふたつはたしかにつながっている。密接な関係がある。それはたしかだ。どうしようもない事実なのだ……。彼は無念の表情を泛べてそう思った。  だが、それをなぜあの大野が持っているのだ。大野は夢に出て来る血まみれの手の男と何か関係があるのだろうか。その上、大野はあの銀色のライターを、ずっと以前から使っていたと言った。多分毎日目の前で火をつけていたのだろう。なぜ今まで気づかなかったのだ。なぜ今になって突然気づいたのだ。  彼は混乱していた。必死に答えを掴《つか》もうとする一方で、早くいつもの平静な気分をとり戻そうと焦っていた。平静になるには、夢のことなど忘れるのがいちばんだった。ライターと血まみれの手の男の関係など、ただ自分がそう感じたにすぎないことで、具体的な証拠は何もないのだ。だからなんでもないのだ。とるに足りないことなのだ。忘れてしまえ。……そう思ういっぽうで、ふたつの間の抜きさしならぬ関係を確信しており、なんとかその正体をつきとめたがっている。それはちょうど、睡りたがっている男が、睡りに落ちる寸前、ハッと自分をとり戻してしまう状態に似ていた。  ふたつ目の駅で、彼は電車を降りた。定期券を使って改札を出ると、あてもないまま階段を昇って地上へ出た。  彼は商店の並ぶ都心の道をぶらぶらと歩いた。歩きながら、一心に考えている。  大野は以前からよく知っている。夢に出て来る血まみれの手の男と、何の関係もないことは確信できた。とすると、あの銀色のライターを持っていたことは、単なる偶然なのだろうか。もしそうだとすれば、いったいそのライターはどういう経路で大野の手に渡ったのだろう。  彼は歩きながら、かすかに首を横に振った。偶然すぎると思ったのだ。血まみれの手の男と銀色のライターがつながっていることを否定しないとしても、血まみれの手の男のほうは、どこかひどく遠いところにいる人物なのである。過去か、未来か、それはよく判らないが、何にしても今の会社と少しでもつながりのある存在とは思えない。その遠い人物と関係のあるライターが、偶然大野の手にあるなどとは考えられないことであった。  そうだ、同じ型のラィターはいくらでもあるはずではないか。……彼はそれに気づくと足を早めた。  喫煙具の専門店があった。高価なパイプが飾り窓にずらりと並び、男が二人ほどそれを熱心にのぞき込んでいた。その左に外国煙草を並べたショー・ケースがあり、ケースの上に安物のコーン・パイプをいれた籠《かご》が置いてあった。  彼は飾り窓とショー・ケースの間を通って店の中に入り、ライターを並べてある棚の前に立った。ライターの種類は、無数と言っていいほどあった。だが、突然得体の知れない感じでよみがえった、あの銀色のライターの記憶はいやに鮮明であった。彼はすでにそれがかなりの高級品であることを知っており、迷わず高級品の棚のほうへ移動した。  あった。幾分細長い感じのそのライターは外国製で、同じものが四個ほど置いてあった。が、彼はそこでもまた顔から血が引くのを感じた。  違うのだ。同じ製品だが、それは彼の記憶によみがえった物ではなかった。大野が持っているライターこそ、何かは知らないがあの血まみれの手の男と関係ある品なのだ。同型のライターを大野が持っていたにすぎないという、儚《はかな》い期待はかんたんに裏切られてしまった。  彼はあわててその店を出た。なんとかして落ち着きたかった。裏通りへ入りこみ、小さな喫茶店をみつけてとびこんだ。  注文したコーヒーが来ると、彼はそれをゆっくり掻《か》きまわしながら、深呼吸をした。  せっかく築きあげた平和な生活が、何者かの手で破壊されようとしているのだと思った。破壊されたくなかった。自分は平和な生活でなければうまくやって行けないのだと強く感じた。混乱すればすぐめちゃくちゃをやってしまいそうな気がした。波乱の多いくらしの中で、自分をうまくコントロールして行ける自信はまるでなかった。  いったい、どこから、何がはじまっているのだ。血まみれの手の男は、なぜくり返し夢の中へ現われるのだ。銀色のライターはそれとどう結びつくのだ。そしていったい、自分はなぜこうも怯え、不安に駆られていなければならないのだ……。  彼は腹だたしい思いで、一気にコーヒーを飲んだ。まるで味が判らなかった。ただ、胃のあたりに、いらだちのしこりのようなものが残った。     6  学校をさぼった少年のように、彼はうしろめたい思いでわが家のドアをあけた。時間はいつもどおりであった。 「おかえんなさあい」  みどりと健が大声で迎えてくれた。 「どうでした。大丈夫……」  香子も元気な彼の顔を見て、ほっとしたようであった。 「どうもしやしないさ」  彼はそう言い、いつもどおりまず健をだきあげた。 「どうかしてたまるかい。なあ健……」  冗談めかしていたが、それは心の底からの言葉であった。この平和な世界を失ってたまるものかと思った。  家庭は救いであった。彼は昨夜からの得体の知れない恐れを忘れ、遅くまで子供たちの相手をして騒いでいた。 「そうそう。きょう電話があって……」  子供たちが寝たあと、香子が真顔でそう言ったとき、彼は思わず顔色を変えた。しかし香子はのんびりした声で、 「立石さんよ」  と言った。 「立石さん……」  彼は表情を読まれまいと、ことさららしく夕刊をひろげて香子から顔をかくした。 「ほら……忘れちゃったの。あたしの叔父《おじ》さん」 「そんな叔父さん、いたっけ」  思い出せなかったが、なんとなく安心した。 「叔父って言っても、そう、あなたより幾つか上の……四つかしら、五つかしら」  香子の声の調子や態度からは、不吉なものは読みとれなかった。彼は夕刊をおろし、ため息をついた。自分でも少し神経過敏になっているのがおかしかった。 「どんな人だったかなあ」 「商社マンよ」 「へえ……」 「いろいろなものを扱っているらしいの。それで、何か今度新製品がまわってきたんですって。よくあるでしょう。町の発明家が、台所用品やなんかでうまくひと山当てちゃうのが。それよ。何という品だったか忘れちゃったけど、会えば判るわ」 「会う……」 「そう。その新製品の会社の人に引き合わせたいんですってさ」 「なんで……」 「広告よ」 「広告……」 「やだ。あなたの会社は広告屋さんじゃないの」 「あ、そうか」  彼は自分の迂闊《うかつ》さに苦笑した。 「その立石さんが、自分の社でその新製品を扱うんだな」 「ええ。それで広告をまかせたいんですって。あれで気をきかせてくれているのよ。あなただって、仕事がとれればいいんでしょう」 「そりゃ助かるさ。経理だって売り上げに協力できれば言うことはない」  彼は林の顔を思い泛べながら言った。きっとよろこぶはずである。専務や社長も見直してくれるだろう。 「そうか。そいつはいい話だ。お礼をしなくちゃな」 「いいの」  香子は自信たっぷりに笑った。 「うちの父が散々|面倒《めんどう》みたのよ。若いときちょっとグレていてね。不良だったの」 「不良」 「そう。麻薬なんかやっちゃって、まるで手におえない人だったのよ」 「麻薬と言ったっていろいろある」  彼は眉《まゆ》をひそめた。そういう乱れた人生を送る人間が嫌《きら》いだった。 「もうちゃんと立ち直ってるわよ」  香子は彼の表情が曇ったのを見て、安心させるように言った。 「心配ないわ。R商事に入れたくらいですものね。いいかげんだったら、あんな一流会社へ入れるわけないでしょう」 「それもそうだな」 「あなたの会社の電話番号を教えておいたわよ」 「そうか」 「大きな仕事になるといいわね」  香子は甘えるように彼のとなりに坐って言った。 「そうだな。うまく行けばボーナスが増えるぞ」 「子供たちももう大きくなったでしょう。汚さなくなったらカーペットのいいのをいれようって言ったじゃないの。もしそれでボーナスが増えたら、カーペットを買いましょうよ」 「そうだな」  彼は頷いた。気分が急に明るくなったようであった。 「今度の日曜にどこかへ行くか」 「どこへ」 「道のすいているところを調べて置くよ」  彼はこのマンションの駐車場に、小型車を持っていた。通勤用ではなく、家族とたのしむための車であった。もう一か月以上もそれを使っていない。 「久しぶりね」  香子が体を寄せて来た。湯あがりの肌《はだ》が清潔に匂っていた。     7  何日かたった朝、デスクに落ち着くとすぐ彼に電話があった。 「おい、君にだ」  経理にかかって来る電話はほとんど課長の大野が受ける。大野がいないときは太田芳江だ。いつの間にかそういうことになっていて、そのときもベルが鳴ると大野が受話器を取って彼に渡した。 「はい、加藤です」 「加藤一郎さんですね」  電話の声は落ち着いた感じであった。いつも電話をかけつけているビジネスマン……彼はそう判断した。 「はい、そうです」  確認したあと、相手の声は急に明るくなった。 「実はR商事の立石さんの紹介で、あなたにはじめてお電話申しあげるのですが」  加藤は目をあげ、天井の隅《すみ》を見ながら答えた。 「ああ、聞いております」 「そちらは広告代理店だそうで」 「ええ、そうです」 「立石さんには大変お世話になっておりましてね。今度も新製品のことでいろいろご厄介《やつかい》になっているんですが、立石さんがぜひあなたの会社に広告面をやってもらえと言われるもので、渡りに舟と言うわけなのですが」  その男と香子の叔父の立石とは、言葉の様子からすると、かなり親密な間柄らしかった。 「それはどうも恐れ入ります。ぜひお目にかかりたいと思います」 「何しろできたてのほやほやという奴で、将来性は大いにあるんですが、ネーミングやパッケージデザインからやっていただかねばならないので……」 「こちらといたしましても、そういうところからやらせていただければ、願ったり叶ったりです」 「え……」  男は少し考えてから、 「伺います」  と言った。 「これからすぐでもいいですか」 「はい、どうぞ」 「そうそう、わたしは鈴木。鈴木と申します。そちらの場所を教えてください」  彼は相手が来る方向をたしかめてから、会社のあるビルの名を教え、最後に所番地を言って電話を切った。 「なんだい」  彼にそんな電話が掛かって来るのは珍しいことなので、大野が待ちかねたように尋ねた。芳江も手を休めて彼をみつめている。 「R商事でこれから扱う新製品のことです」 「うちにやらせるというのか」  大野は目を剥《む》いた。 「まだネーミングもなにもしていないらしいんです」 「そりゃ君、制作がよろこぶぞ。それにR商事なら大変だ。たしか林君が一度アタックしてそれ切りになっていたはずだ」 「こっちへ来ると言ってますから」 「それじゃ誰か一緒のほうがいいな」  大野は立ちあがった。 「探して来よう」  中堅の下位くらいの広告代理店だから、R商事が相手となると、自然目の色がかわる。大野はいそいそと出て行った。きっと手柄顔でいいふらす気だろう。 「ご親戚《しんせき》……」  芳江が尋ねた。 「うん。女房の叔父さんなのさ」 「そう。よかったわ」  芳江は親しみをこめた微笑を見せ、仕事に戻った。彼は芳江の言った意味がよく判った。それでなくても陰にまわりがちな経理マンで、その上おとなしすぎるくらいおとなしい。だから営業部や制作部の連中には、いつも軽視され続けてきたのだ。本人はそんなことを気にもしていないが、仲間の芳江から見ればかなり歯がゆかったのだろう。だいいち芳江自身、伝票を持ってやって来る他のセクションの連中にひややかな態度をとるのは、軽視されまいという心理があるからであった。だが、R商事との結びつきをもたらすとなると、小さな会社だけに、一遍で立場がかわってしまうはずであった。芳江はそれをさして、よかった、と言うのであろう。 「ちょっと……」  しばらくすると、大野がドアをあけて手まねきした。彼は芳江に目配せしてから部屋を出た。 「専務と林君が……」  応接室へ行くあいだに、大野がそう言った。応接室へ入ると、専務と林が並んで坐っていた。 「耳よりな話じゃないか」  専務がうれしそうに言った。 「どういう新製品なんだろう」 「まだよく判らないんですが、なんでも雑貨関係とか言ってました」 「R商事とはどういう関係なんだい」  林が尋ねる。 「女房の叔父で……叔父と言っても僕とそうかわらない齢《とし》なんですが」 「なあんだ」  林は左手の指を弾いた。パチンとは鳴らず、こすれる音だけであった。 「こんな近くにコネがあったのか」  くやしそうであった。 「R商事にはそういう部門があるんだよ」  専務が説明した。 「町の小さなメーカーでも、質のいい商品を持っている場合があるからな。それをR商事の力で大きな流通網にのせてやるんだ。販売権を握るわけだな。玩具《がんぐ》、ゲーム類などからはじまって、電気アンマみたいなものまで手広く目を配っている。町の発明家なんていうのは、だからR商事に釣《つ》りあげてもらえば、八分どおり成功だと思っているほどさ。多分予算はそうでかくないと思うが、手なみしだいではそのセクションのレギュラーになれるし、手がけた商品がヒットすれば、次から次へ予算が出てくる。それに、制作の連中もネーミングやパッケージからやれれば張り切るよ。連中はそれがやりたくてこの仕事へ入って来たようなものだからな」 「営業的にも、これ以上の話はありませんよ。パッケージなんかからはじまれば、それは商品の性格設定から、将来のキャンペーン・ポリシーまでおさえるってことでしょう。一度つかまえれば逃げられない。……よく途中で他社に乗りかえられてしまいますからね」 「ま、そういうわけだ。で、何時ごろその方はこちらへお見えになるんだ」 「これからすぐ行くと言っていましたから、間もなくではないですか」  彼は久しぶりにいい気分であった。人のかげにかくれているのも気楽だが、たまには一座の中心人物になるのも悪くなかった。 「電話がかかるといけませんから」  彼はそう言って応接室を出ると、自分のデスクに戻った。     8  ところが、いつまでたっても鈴木という人物は現われなかった。 「どうしたんだろう」  専務と林が二度ほど顔をだして彼に尋ねた。 「さあ……」  彼にはそういう返事しかできなかった。そして、二時、三時、四時。窓の外の通りに夕暮れの気配がたちはじめた。  彼は落ち着かぬ気分で、椅子ごと体をまわし、窓の外を眺めた。向かいのビルの上のほうのガラスがまた白く光っていて、下の階の壁は青味がかって見えている。  また煙草を吸っている……。  彼は心の中でそうつぶやいた。三階の窓の中に、上着を脱いだワイシャツ姿の男が、こちらに背を向けてのんびり煙草を吸っていた。不動産関係の会社だろうか。……彼はふとそんなことを考えていた。あの会社も間もなくきょうの仕事がおわる。どこへ帰るのだろう。どんな家でどんな家族が待っているのだろうか。  向かいのビルの三階の窓の中の男は、急に前かがみになって左腕を前へのばした。一瞬頭が見えなくなり、すぐ受話器を持った姿が戻った。  彼はくるりと椅子をまわし、デスクに戻った。とたんにベルが鳴り、芳江が素早く受話器をとりあげる。 「はい。はいそうです。はい、少々お待ちください」  芳江はデスクごしに彼へ受話器をつきだし、低い声で言った。 「あなたによ」  彼はそれを受取り、耳にあてた。 「はい、加藤です」 「けさ電話をした鈴木です」 「ああ、お待ちしていたんですが」 「困りましたよ。あなた、わたしに正確な所番地を教えてくれたのですか」 「は……」  彼は意表をつかれて戸惑った。 「ずいぶん探したけれど、あなたの言った場所にそんなビルはなかった。いったいあなたの会社はどこにあるのです」 「そんなわけはないですよ」  なぜか彼はムッとして声を荒げかけたが、じっと自分を見ている芳江に気づいて自制した。 「おかしいですね、そんなわけはないんですが……」 「困りますねえ。おかげでこっちは一日|潰《つぶ》してしまった」 「申しわけありません。何かの手ちがいで……」 「間違いは仕方ないが、わたしもいそがしい体なんです。なんとか今日のうちにお目にかかる方法はありませんか」 「どういたしましょう」  相手は電話口で軽く舌打ちしたようであった。 「わたしの判る場所で待ち合わせましょう。それなら間違いないでしょう」 「はい」  すると男は口早やに場所を言った。 「判りますか、そこなら」 「はい。よく知っています」 「すぐに出られますか」 「ええ」 「じゃあ待っています」  電話は切れた。彼は相手がかなりいら立っていたのに少し怯え、あわてて立ちあがった。 「どうしたの」  芳江が尋ねた。 「ここの場所を探したけれど判らなかったそうだ」  芳江は不服そうな顔をする。 「どうしてかしら、判りやすいのに」 「とにかく課長を探して来る」  彼は急いで部屋を出た。  しかし、社内に大野や専務の姿はなかった。たった今までいたらしいのだが、どこかへ出て行ってしまったらしい。 「仕方がない。一人で行ってくるよ」  彼は経理のドアをあけて芳江にそう言い残し、会社を出た。小走りに地下鉄の駅へおり、すぐにやって来た電車に乗った。  指定された場所はよく判っていた。退社時間寸前で、電車はまだガラガラにすいており、降りた駅のホームも閑散としていた。  彼は改札を出ると、階段をかけのぼり、横断歩道を渡ってその場所へ急いだ。  あの喫煙具の専門店が見えてきた。その前にグレーの服を着た男が立っている。ほかに立ちどまっている人間はそのあたりになく、彼はその男に違いないと足を早めた。  相手も察したらしい。近寄って行く彼の顔をじっとみつめている。 「加藤さん……」  先に向こうが声をかけた。 「ええ」  男はホッとしたような笑顔になった。 「はじめからこうすればよかった」 「ここならよく知っているんです」  彼はパイプの並んだ飾り窓を見て言った。 「ほう。あなたもパイプやライターに興味がおありですか」 「いや」  彼はあわてて首を振った。 「僕は煙草を喫わないんです」 「どうして……」  男は眉を寄せた。 「それならどうしてこんな店を」 「それより、本当に今日は失礼しました。どうして判らなかったんですかねえ」 「まあ、こうしてお目にかかれたんだからいいでしょう。さっそく仕事の話をしたいんですが」 「そうですね。ちょうど係りの者たちが席を外しておりましたので、一人でやって来てしまったのですが……」 「とにかく、喫茶店へでも入りましょう」  男は歩きだした。 「わたしは以前この近くにいたことがありましてね」 「そうですか」  彼はそれについて次の細い道を曲がった。 「このあたりはよく知っているんですよ。せまくるしいですが、ちょっと面白い店があるはずなのです。多分まだあると思いますが」  男は勝手知った様子でどんどん進んで行き、裏通りへ入った。 「ここです」  男は小さな店のドアを押した。ドアの上部に真鍮《しんちゆう》の鈴がついていて、チリン、と音をたてた。  彼はなんとなく、その鈴木という男との話合いがうまく行かないような気がした。  特に理由はないが、たとえば彼はドアにつけたその鈴の音が嫌いだったし、入ってすぐ、洋酒のミニチュア瓶《びん》をぎっしりと並べた飾戸棚に突き当たって、奥がよく見えないような店内の構造も気に入らなかった。 「やあ、お久しぶりですね」  店の隅にある小さなカウンターの中から、白いコートを着た蝶《ちよう》タイの男が言った。 「おや、あなたもここをご存知なのですか」  鈴木が彼に言った。彼は強く首を横に振り、 「とんでもない。はじめてですよ」  と言った。 「なんだ。わたしに言ったのか」  鈴木は自分の迂闊《うかつ》さを苦笑し、 「この間はいろいろ……」  と、カウンターの男に言った。 「仕事のことですが」  彼は古めかしい木の椅子に腰をおろしながら言った。 「うちの社に林という営業課長がおりまして。R商事と関係を持とうと苦心していたのです。そういうわけで、今度のお話は専務以下みな大喜びでして……」  鈴木は頷《うなず》いた。 「それはこちらも好都合です。わたしの仕事も、そういうことなら気合いをいれてやってもらえるでしょうからね」  そう言って、いぶかしそうな目で彼をみつめた。 「なんでしょう」  彼はとがめられたように感じた。 「いや、そのR商事のことですが、わたしは以前から立石さんをよく知っていまして、そこへたまたま今度のことが発生したので立石さんにお願いしたわけですが、あなたの会社がR商事にアタックしていたのならば、もっと早くに取引が成立していたんじゃありませんか」 「どうしてです」 「だって、あなたがいらっしゃる。立石さんは広告予算に関しては実力者ですぞ。あの人はあなたの奥さんの叔父さんに当たる方でしょうが」 「ええ、それはまあ……。しかし、僕はよく知らないんです。うすうすは知っていましたが、それほど親しい間柄ではないので」 「立石さんはあなたのことをよく知っていますよ。よく話を聞かされています」 「そんな」 「いや、本当です」 「そんなことはありませんよ。くわしいことを知ったのは、今度のことで立石さんから家内に電話があってからです」 「電話……。おかしいですね。立石さんはあなたの家へおたずねしたと言ってましたよ。わたしのことで、わざわざ……」 「でも、香子は電話だと……。どっちかが僕に嘘をついているわけですね」 「まあまあ。そんなことはどっちでもよろしい。仕事の件です」 「なんだか、不愉快なことになったな」  彼は相手の言いかたがいちいちひっかかるようなので、腹をたてていた。 「不愉快ですか。ではおわびしましょう」  相手はそう言い、頭をさげて見せた。それはうわべだけの、彼を馬鹿にしたような態度であった。 「でもあなたは、もう専務さんなどに、この件を話してしまわれたそうじゃないですか。いいんですか。あなたの一存でこの話をこわしてしまって……」  脅迫めいた言い方だった。 「いや……」  彼はうろたえた。 「そういうわけじゃないんです。ただ、なんとなく気分が落ち着かなくて」  事実彼は汗ばんできていた。 「違う店へ行きましょうか」 「ここがお嫌いですか」 「いや、別にそういうことは……」 「わたしはここが好きなんです。気に入っているんですよ。それに、ここを教えてくれたのは立石さんなんですからね」 「立石……」 「ええそうですよ。あの人は若いとき少し遊んだ人だそうですね。かなり乱暴な暮らしをしていたそうです。酒は飲む、博奕《ばくち》はうつ……何か悪い薬までやっていたそうじゃないですか」 「ええ、ああそうです。香子がそう言っていました」 「香子って、あなたの奥さんですか」 「ええ、女房です」 「お元気ですか」 「おかげさまで。自分で言うのも何ですが、明るくて優しくて、いい女ですよ」 「お子さんは」 「みどりと健。これもいい子たちです」 「その奥さんが立石さんのことを何かおっしゃっていたんですね」 「ええ。彼女の父親が、その立石さんの面倒をよく見たのだそうで」 「なるほど。麻薬のことなども、奥さんからお聞きになったのですか」 「ええ。そう言っていました。でも、立石さんも今は立派になっていらっしゃる」 「そうですね」 「家内の親戚はみんないい人たちばかりで」 「結構ですなあ」 「あなた、奥さんは」 「ええ」  鈴木は悲しそうな顔をした。 「おたくと同じです。妻に子供がふたり。上が女で下が男。でも……」 「どうかなさいましたか」 「三人とも死にました」 「それはお気の毒に」 「火事ですよ、火事。焼け死んだんです」  鈴木はいつの間にか右手に丸い金具を持っていて、それをテーブルの上に置いた。 「形見です。彼女の指環でしてね」  それは無残に焼け焦げた感じであった。指環を飾っていた宝石はとれていて、それを支えていた金属の爪《つめ》がむなしく先をまげていた。  彼は黙ってそれをみつめていた。 「仕事の話をしましょう」  低い声でそうつぶやいた。     9  チャイムを鳴らすと、香子がドアをあけた。 「ただいま」  彼はいつものようにそう言って靴を脱ぎかけた。 「あら、どうなさったの。お顔の色が悪いわ」  香子が白いしなやかな指を揃え、彼の額に手をあてた。 「風邪を引いたのね。熱が少しあるみたい」 「そうかもしれない。それでおかしかったんだな」 「あら、どうして……」 「いや、帰りがけ、例の立石さんが紹介してくれた人に会ったんだが」 「とうとうお見えになったの。よかったわね」 「どうもいらいらしてしまって、妙な具合いだった」 「風邪のせいだわ。で、どうでした」 「もちろんうまく行ったさ」 「それはよかったわね。でも、風邪を治さなくては。早く着がえて、お薬を飲んで」 「うん」 「お父さんおかえりなさい」  みどりが言う。 「はい、ただいま」 「おかえりなさい」 「健、今日は何して遊んだ」  彼は健をだきあげた。 「だめですよ、風邪をうつしちゃ」  香子が優しく睨《にら》んだ。 「うつらないよな」  彼は健に頬《ほお》ずりした。 「気をつけてくださいよ」  香子にそう言われながら、彼は健をおろしてとなりの部屋へ入った。  着がえをしながら、やっと人心地がついた思いになった。 「やっぱり俺は経理がいい。ああいう仕事は苦手なんだ」  彼はそうつぶやいた。香子が入って来て、彼が脱いだ服をかたづけはじめる。 「でも、どんなことがあっても、お前たちを不幸な目には会わせないぞ」  彼は香子を見ながらそう言った。 「俺はこのしあわせな家庭を守り抜いてみせる」 「どうなさったの」  香子が尋ねる。 「いや、今日帰りがけに会った人……鈴木さんというんだが」  着がえおわった彼は、立ったまま目をとじた。 「奥さんと子供たちを一度になくしたそうだ」 「まあ」 「火事で……」 「いやだわ。こわい」 「大丈夫さ。うちには俺がついてる。何があったってそんなことはさせない。させるもんか」  目をあけると、みどりと健がそばへ来て彼の顔をみあげていた。 「おいで、みんな……」  彼は二人の子を右手で、香子の肩を左手で抱き寄せた。 「うちだけは、外で何があっても、仲よくたのしく暮らして行くんだぞ。絶対に……」  彼は心の底から言った。 「お父さん……」 「あなた……」  妻と子は彼の体に倚りかかっていた。甘い感動で彼の心は痺《しび》れたようであった。そのまましばらくじっとしていた。  しかし、その安らいだ時間は思ったよりずっと短かった。いつの間にか、彼の心には指環がひとつ泛んでいた。その指環には、赤い宝石が飾られていた。     10  あくる朝、彼はいつものように満員の地下鉄に乗って会社へ向かっていた。いつものように、通勤客たちは黙りこくって揺られていた。  彼はドアとドアの中間あたりで、吊《つ》り革につかまり、窓ガラスをみつめていた。明るい駅のホームを出て、暗いトンネルの中へ入ると、その窓ガラスに吊り革を掴んだ乗客たちの顔が映った。その自分の顔をみつめているうち、突然彼は大声で叫びだしそうな衝動に駆られ、辛《かろ》うじて自制した。  窓ガラスの向こうの、暗い闇《やみ》の中に、あのおぞましい血まみれの手の男がいたような気がしたのであった。  彼は唾《つば》をのみこみ、気をしずめた。そんなわけはないのだ。血まみれの手の男は夢の中の存在であって、通勤の地下鉄の中へなど、出て来るはずはないのだ。……彼は自分にそう言い聞かせた。  しかし、次の瞬間彼はまた血まみれの手の男を外の闇に感じた。……どうしたというのだ。何を不安がっているのだ。すべてはうまく行っているではないか。彼はまた唾をのみこみ、目を強くしばたたいてそう思った。  だが、そう思うそばから、窓の外の闇にあの血まみれの手の男が現われる予感のようなものを強く感じた。  その予感のような感じは、夢の中とまったく同じであった。夢の中で彼はいつも、まずそういう感覚にとらえられ、間もなく血まみれの手の男に自分がうなされるのを予知するのであった。  そして、夢の中と同じように、電車の中で彼は窓ガラスの外に、影が湧きだすのを見ていた。電車は揺れながら走っており、いやらしい金属音を軋《きし》ませていた。窓の外を、ときどきうすぼんやりとした黄色い灯《あか》りがうしろへ走り去って行く。だが、湧きだした影は、外の闇がまるで不動のものでもあるかのように、彼の正面の窓にぴったりとついて来ていた。  遂にその影はかたまりはじめた。いつも夢で見るのとまったく同じように、それは一人の人間の姿にかたまって行く。いつものように、その両手は血にまみれていた。  だが、夢と決定的な違いが一か所あった。その血まみれの手の男には、はっきりと顔があった。  彼は恐怖のあまり、息を荒く震わせてその顔をみつめた。  電車がブレーキをかけ、乗客が動いた。彼は吊り革を掴んだほうの二の腕と肩の間に顔を埋めるようにして目をとじた。吊り革を掴んだ手にだけ力をいれ、押されるままにとなりの客に体をあずけていた。 「どうかしましたか」  電車が次の駅のホームに入ったとき、となりの乗客が静かに声をかけた。 「失礼しました」  彼はまずそう詫びて、体をまっすぐに起こした。目をあけると、ホームの明るい照明で窓が素通しガラスに戻っていた。 「ちょっと……」  彼はとなりの乗客へあいまいに言い、首をかしげながら苦笑して見せた。 「空気が悪いですから……」  その男は親切そうであった。が、彼は相手の顔を見て体を堅くした。たったいま、はじめて見た血まみれの手の男の顔であった。  叫びをあげてそこから逃げだしたいのを、彼はじっとこらえた。電車が走りだし、いま降りた客を追いこして行った。  暗いトンネルへ入って窓ガラスがまた鏡になったとき、彼はやっと気づいた。目の前のガラスに映ったとなりの男の顔と、闇から湧き出した血まみれの手の男の姿が重なって見えていたのだ。  彼はほっとしてとなりの男のほうへ顔を向けた。 「大丈夫ですか」  その男は微笑して言った。 「どうも、風邪気味でしてね」 「はやっていますからねえ」  男は同情するように言った。  電車が彼のおりる駅へ近づいたので、吊り革をはなし、ドアのほうへ移動しようとすると、となりの男のほうが先に動いた。彼はそのあとについてドアのほうへ行った。  電車がとまり、ドアがあいた。彼はその男と一緒に押しだされてホームへ出た。出口はホームの両端にあって、降りた客は両方へ別れる。男は彼が行こうとするほうへ、足早やに歩いて行った。  幻覚か……。彼は自分をあやしみながら、ゆっくりと歩いた。やはり風邪のせいなのだろうか。熱があるのかも知れない。しかし朝っぱらから、あの血まみれの手の男が出現したのはどういうことだろう。電車の中で睡ってはいなかったはずだ。夢の中のことだったものが、はっきりと目覚めている毎日の生活の中に突然侵入して来た。何かよくないことが起こりそうだ……。  彼は階段を昇り、通いなれた道を会社のほうへ歩きながら考えていた。その前のほうを、あの男がどんどん先へ進んでいた。うしろ姿が、なんとなく見なれた感じであった。  いっそ帰ってしまおうかと彼は思った。風邪で熱が出ているらしい。電車の中で幻覚に襲われるくらいなのだ。帰って香子の手当てをうけ、一日寝ていたほうがいいのではないだろうか……。そう思い立つと、むしょうに帰りたくなった。あの甘い平和な世界へ今すぐ逃げこめたら、どんなに気が安まるだろう。  しかし、もう会社は目の前であった。それに、きのうの件も専務に報告しなければならない。鈴木が電話をしてくる約束なのである。     11  専務が大野の席に坐っていた。太田芳江がすでに手提げ金庫をデスクの上に出し、彼女がいれたらしい茶が、専務の前で湯気をたてている。 「お早うございます」  彼の声は力が抜けていたはずだったが、専務はいっこうに気にせず、 「どうだった。きのうの話は」  と待ちかねたように言った。 「はい。会いました」 「会うのは当たり前だ」  専務はジロリと彼を見る。 「話はどう進んだと言うんだ」 「全面的にまかせるから、大至急はじめてもらいたいそうです。ついては、うちが今までどんな傾向のものをやったか見せてもらいたいし、デザインの感じなども意見を聞いてもらいたいから、もう一度今日こちらへ来るそうです」 「大丈夫だろうな」 「は……」 「ここの場所だよ。君はいったいどういう教えかたをしたんだい。こんな判りやすいところを」 「すみません。判りやすいと思ったので、所番地とビルの名を教えただけだったのです。今度は間違えずに来るでしょう。道順を教えておきましたから。それに、万一迷っても電話をかけてきてくれます。もう顔が判りましたから、こちらから探しに行けます」 「うん、そうか」  専務は頷いて湯気の立つ湯呑《ゆの》みをとりあげた。 「その仕事、なんとしても欲しいんだ。社長に話をしたら、社長も大変に乗り気でね。君は鈴木さんと、きのうどういう場所で話をしたのかね」 「喫茶店のようなスナックのような……小さな店でした」  専務は苦笑した。 「君の親戚の紹介だからいいが、もう少し気のきいたところは思いつかなかったのかね。食事のできる場所とか、酒を飲むとか……」 「鈴木さんに連れられて行ったのです」 「それにしてもだ。R商事に対する突破口なのだからな。わたしらがいたら、銀座へでも赤坂へでもご案内したんだが……。ちょっと外へ出ている隙《すき》に……。まったく惜しいことをした。で、今日は何時ごろ見えるんだ」 「朝いちばんでと言っていましたから」 「いちばんか、あいまいだな。まあいいだろう」  そこへ大野が出勤して来た。専務は立ちあがり、 「あとで向こうへ来てくれ」  と大野に言って部屋を出て行った。 「文句を言われたろう」  大野は彼に言った。 「文句……」 「きのうのことでだよ」  大野は冷笑しているようであった。 「前のビルの地下の喫茶店にいたんだ。ほんの十分か十五分のあいだだ。そのあいだに君はするりと出て行ってしまった」 「探したんですよ」  彼は芳江に証言を求めようとしたが、ちょうど芳江は専務の湯呑みを持って出て行くところであった。 「まあいいさ。君のところへころがり込んだ話だ。誰だって自分の顔は立てたいからな」  不愉快な言い方であった。 「僕はああいう話は得意じゃないんです。縁の下の力持ちが性に合っているんです。課長たちがいれば、のこのこ出て行きはしません。全部おまかせしてますよ」  彼は自分の声がつい荒くなるのを感じていた。 「まあそうおこるなよ」  大野はびっくりして彼をなだめた。彼はその顔を睨みつけ、こんな臆病《おくびよう》な奴に舐《な》められてたまるかと思った。 「さて、俺は呼ばれてるから」  大野はそそくさと席を立ち、逃げ出して行った。  彼は腹をたてていた。何かやり場のない怒りがこみあげてきて、乱暴に椅子をまわした。うしろの窓から外を見ていると、やっと気分が落ち着いてきた。  ガタンとドアが鳴り、芳江が戻って来たのが判った。 「課長とやり合ったでしょう」  芳江が笑い声で言った。 「別に……」 「嘘。課長、びっくりしてたわよ。あなたがあんな顔をできる人だって、はじめて知ったって」 「当たり前だ」  彼は吐きすてるように言った。芳江はそれきり黙り込んでしまう。  彼はいつまでもデスクに背を向け、窓の外を眺めていた。向かいのビルの三階に、こちらに背を向けていつもの男が坐っていた。その男は煙草をとりだして一本抜き、口に咥《くわ》えたらしい。ゆったりと椅子の背にもたれ、煙草の袋をデスクの上に抛り出すと、ポケットからライターをとりだして火をつけるようであった。  彼は何か言いようのない予感にとらえられて、じっとそれを見守っていた。するとその男は、通りをへだてた窓ごしに彼の視線を感じとったように、くるりと体をまわした。椅子の下についた小さな車輪が軋《きし》む音さえ、彼には聞こえたような気がした。  男は向かいの六階にいる彼を見あげていた。二人の顔がもろに向き合った。 「あ……」  彼は声をたてた。けさ、電車でとなり合わせた男であった。彼はそれに気づいたとたん、血まみれの手の男の姿に、偶然あの男の顔が重なったのではないことを悟った。それは血まみれの手の男そのものらしかった。  なんの証拠もない。ただ彼がそう感じただけである。しかし、通りをへだてたふたつのビルの上と下の窓でみつめ合ったその瞬間、彼はぬきさしならぬものを見てしまったのである。  その男は煙草を咥えていた。まだ火はついていないようであった。そして、まさに火をつけようと、ライターを顔の前へかざしていた。まるで彼に見せつけるように。  四角い銀色のライターであった。間違いなく、それはあのライターだった。  彼はいきなり突っ立った。椅子がその勢いでうしろへさがり、ガタンとデスクに当たった。 「どうなさったの」  芳江の黄色い声がした。ふり向くと、芳江は白いブラウスを着て、口を半びらきにし、おぞましいものを見るような目で彼をみつめていた。 「課長はどこだっ」  彼は叫んだ。 「あいつのライターだったはずだぞ」  彼は狂ったように部屋をとびだした。     12  課長の大野は社長室にいた。そばに専務もいた。 「おい、ライターを見せろ」  彼は呶鳴《どな》った。 「なんだ君……」  三人は彼の勢いにおどろいて立ちあがった。 「ライターだ」  彼は大野の前へ進み、上着の襟《えり》を両手で掴んだ。 「見せろっ」 「何をするんだ。気が狂ったのか」  専務がとめようと手をだしたが、彼が大野の体をふりまわしながら体当たりをくらわせると、よくすべるプラスチックの床の上へ、大げさにころがった。  大野はまっ蒼な顔をしていた。 「ラ、ライターだって」 「そうだ。ライターだ」 「手を放してくれ。これじゃ出せない」 「よし」  彼は大野の襟から両手を放した。 「なんだって言うんだ」  大野は負けおしみのように口の中で言い、ポケットからライターをとりだした。黒に金色のふちどりがある、ほぼ正方形の平べったいライターであった。 「これじゃない」 「そんなこと言ったって……」 「違う。細長い銀色の奴だ」 「銀色の。そんなの持っていないよ」 「嘘つけ。いつも使っていたじゃないか。俺はたしかめるために、あの店まで……」  彼の頭に例の喫煙具の専門店が泛んだ。  飾り窓にパイプが並んでおり、左側に外国煙草のスタンドがあった。そして、その前にグレイの服を着た男が立っている……。 「鈴木だ」  彼は唸《うな》った。 「畜生、あいつも関係あるんだな」 「鈴木さんがどうかしたのか」  社長は及び腰で心配そうに尋ねた。 「なぜ気がつかなかったんだ。あいつがあの店の前で待つと言ったときに……」  彼は唇《くちびる》を噛《か》み、じっと考え込んだ。その静まり返った部屋へ女の声が聞こえた。 「お電話です」 「俺か」  彼は問い返した。 「ええ」  彼はさっと身を翻すと自分のデスクへ駆け戻った。 「きのうの方よ」  芳江が受話器を左手に持って待っていた。彼はひったくるようにそれを取って耳にあてた。 「加藤です」 「なんだい君は……」  いきなりとげとげしい声がした。 「鈴木だけどね、君のいう場所はでたらめじゃないか。ここにはそんなビルはないぞ」 「嘘つけ。あるんだ。俺はずっとこの会社に勤めている。ずっと通っているんだ」 「ないものはない。君は自分の会社の場所について、大きな嘘をついてる」 「嘘じゃないっ」  彼は喚《わめ》いた。 「よし。それなら俺と一緒に探してくれ。俺はいま地下鉄の切符売場のそばの売店のところにいる。ここで待っているからな」 「よし、すぐ行く。すぐに行って貴様の化けの皮を剥《は》いでやる。誰だか知らないが、平和な俺のくらしをぶちこわそうと言うんだな。そうはさせるか」  彼は叩《たた》きつけるように受話器を戻した。 「なんだか知らないけど、およしなさいよ。暴れたりするのはあなたらしくないわ。あなたはまじめでおとなしいサラリーマンなんでしょう」  芳江がいさめた。 「うるさい。つきそい看護婦みたいなことを言うな」  彼は無意識に右腕をふりあげていた。芳江はそれを避けようとして、額の前へ左手をかざした。  ドアの外へあらあらしく歩きかけた彼の足が、二歩半ほどでギクリととまった。顔から血が引き、蒼白《そうはく》になっていた。  彼は思い切ってくるりと振り向いた。 「それ……」  彼はおずおずと左手をあげて指さした。 「それをどうした」  芳江はおそろしそうにあとずさって行く。 「その指環だ」  芳江の左手の薬指に、汚ならしい指環がはまっていた。 「その焼け焦げた指環をどうした」  宝石のあるべき場所が、髑髏《どくろ》の眼窩《がんか》のようにうつろであった。そこには赤い宝石がはめこまれていたはずなのだ。 「なぜそれを持ってる。誰にもらった」  芳江は無言で壁に体をぴたりとつけた。壁は白かった。あの血まみれの手の男が出て来る夢の背景のように。  そして、芳江はその壁と同じような、白いブラウスと白いスカートをはいていた。 「てめえ……てめえもか」  彼は細く鋭い声で言った。 「人を馬鹿にしやがって……」  彼は芳江に襲いかかろうとした。 「やめろ。やめて早く鈴木のところへ行かなければダメじゃないか」  誰かが彼をうしろから羽交《はが》い締めにして言った。 「いいか。そいつは鈴木のだ。鈴木の奥さんのだ。鈴木の奥さんは死んだんだ。鈴木の死んだ奥さんの指環だ。俺《おれ》に関係ない。俺には関係ないんだ」  彼はそう言いすてると、羽交い締めにしたのが誰かもたしかめず、一気に部屋をとびだした。     13  売店のそばに鈴木が立っていた。鈴木ははじめから喧嘩腰《けんかごし》であった。 「さあ連れて行け。君の言う場所が本当にあるものかどうか、たしかめて見ようじゃないか」  彼は機先を制されて、不機嫌《ふきげん》に黙りこくったまま、今おりて来た階段を昇りはじめた。 「俺はこの辺りをよく知っている。学生のころ下宿していたんでな。隅から隅まで知っているよ」  鈴木はからかうように言った。 「うるせえっ」  彼は呶鳴った。鈴木の態度は自信に溢《あふ》れていて、それが彼を怯えさせていた。 「おかしいな。君はそういう乱暴な口をいつからきけるようになったんだい。君はおとなしい、善良なサラリーマンなのではなかったのかい」  鈴木はからかっているようだった。 「虫も殺せない善人だ。酒も煙草も博奕もやらない、おとなしい男なんだろう」 「会社へ連れて行きゃあ文句ねえんだろ」 「ほらほら、その言葉づかいさ。まるでやくざだ。愚連隊だよ。まるで今までの君に似つかわしくない。それとも、今まで猫をかぶっていたのかい。おとなしいふりをして、その実人殺しでも放火でも平気でやってのける人間だったんじゃないのか」  彼は反論しなかった。会社のあるビルはそこから一本道のはずであった。そこへ連れて行きさえすれば、すべては彼の思うようになるはずであった。  しかし、道はいつもの道ではなかった。くねくねと曲がり、見知らぬ商店や家々が並んで、いつの間にか方角さえ判らなくなっていた。 「どうしたね。君のいう場所はどこにあるのかね」  鈴木はますます勝ち誇ったようであった。 「畜生。なんで俺をいじめるんだ」  彼の目から涙が溢れ、それが次々に頬をつたわって落ちた。 「ほっといてくれよ。そっとしといてくれよ。俺はただ静かに暮らしたいだけなんだよ」  彼は道のまん中で声をあげて泣いた。 「もう会社なんかやめてもいい。そうだ、やめちまうよ。だからほっといてくれ。お願いだ。いじめないでくれ」  彼は鈴木の前にひざまずき、そのグレイのズボンにすがって泣いた。 「ほら、人に笑われるよ」  鈴木は静かな声で言った。 「泣くのをやめなさい。泣いたって君の会社のあるビルが現われるわけじゃない」  鈴木は優しく彼の肩を叩いた。 「そこへ入ろう。さあ立って……みっともないじゃないか」  彼は鈴木にたすけ起こされて、ゆっくりと歩いた。涙はとめどもなく流れ出していた。 「さあ、階段だ。気をつけて……」  彼は建物の中へ連れ込まれ、鈴木と一緒に階段をあがった。 「さあ、ここだよ」  鈴木が言った。 「どこです、ここは」  彼は鼻をひくつかせて尋ねた。 「歯医者さんさ。君は歯が痛むんだろう」  鈴木はそう言うとドアをあけ、 「さあ、連れて来たよ」  と言った。 「さっきはびっくりしたわよ」  女の声で顔をあげると、芳江が笑っていた。 「君は……」  見るとそこはガランとしたあき部屋のような場所で、窓ぎわにデスクがひとつあった。  男がそこで煙草を吸っていた。 「とうとう来たね」  男はにこやかに言った。それは、けさ地下鉄で一緒だった男であった。 「泣くことはない。お前が泣くことはないんだ」  しみじみとした言い方であった。 「さあ、ここへおいで」  男に言われ、芳江に肩をかかえられて、彼は男のデスクに近寄って行った。 「あ……」  彼は気がついた。走ってデスクのうしろの窓際へ行った。  目の前にビルがあった。こちらの建物との間に通りが一本あり、ふたつは向き合って建っていたのだ。  一、二、三、四、五、六。……彼は向かいのビルの窓を目でかぞえた。その六階の窓に、自分のデスクがあるはずであった。  ひょいと、そこから顔がのぞいた。彼のほうを見おろしている。大野の顔であった。いつも彼はいま大野がしているように、こちら側を眺めていたのである。 「誰だ、てめえは」  また怒りが戻った。 「誰だか判らないのか」 「けさ地下鉄で会ったさ。ああ、たしかに会ったよ。でも、誰なんだ。てめえなんぞ、俺は知らねえ」 「そうかい。お前は俺をよく知ってると思ったんだがなあ」  そのとき、ガラガラと音がして、太田芳江が妙な形の椅子を押して来た。椅子には車がついていた。 「さあさあ、歯が痛むんでしょう。ここは歯医者さんですからね」  芳江の声は優しかった。彼は甘えるような気分でその椅子に坐った。     14 「さて……」  その男は言った。 「ちょっと俺のスタイルを見てくれよ。なかなか似合うとは思わないかい」 「ほんとに誰なんだ。歯医者かい、あんた」 「話をそらすなよ。ここまで来たんじゃないか。ほら、どうだい、このスタイル」  男は椅子に坐った彼の前に立って両手をひろげた。彼は首をかしげ、眉を寄せてそれを見た。 「メッシュだ」  男は片足をあげて靴を見せた。黒のメッシュでまだ新しいようであった。 「いい靴だ」 「俺はこんなのはきらいだ」 「じゃあなぜはいてる」 「お前のだからさ」 「俺の……」  男はハイライトの袋をとりだし、それを振って一本とび出させた。 「まあのんびり行こう」  彼は顔の前へそれを突き出され、反射的に唇に咥えた。 「この服もお前のだぜ」  男はそう言いながらポケットを探り、ライターをとり出した。銀色の、細長いライター。 「吸えよ」  男は火をさしだして言った。彼は顔を火に近づけ、煙草をつけた。 「うまいかい」 「うん」  煙を吐きだしながら頷く。 「このライターもお前のだぜ。憶えてるだろう」 「うん」  彼は無心に煙草を吸っていた。久しぶりで、本当にうまかった。 「服を見ろよ。ここんところだ」  彼は目だけをそのほうへ動かした。 「しみがついてる」 「ああそうさ。誰のだい」 「服か」 「いや、このしみさ。お前じゃなきゃ、このしみは誰のしみだか判らないだろう」  彼はまた首をかしげた。 「会社で何をしてた」 「経理さ」 「面白かったかい」  彼は首を横に振る。 「大して面白かなかった」 「でも、平和だったんだろ」 「まあな。それよか、あんたはいったい誰だい」 「すぐ判るさ」 「教えろよ」  そこへまた芳江がやって来た。 「ちょっと……」 「いいですよ」  男は頷いた。芳江は注射器を持っていて、彼の左腕を掴んだ。 「注射ですよ。歯医者さんですからね」  チクリ、と左腕が痛んだ。 「はいおしまい」  芳江はそう言い、男に向かって、 「今度は効くでしょう。いよいよだわね」  と言った。 「有難う。もう一人でやります」  男はそう早口で答えて軽く頭をさげた。 「下にいますからね」  芳江は去って行った。彼はそのほうを、椅子に坐ったままふりかえった。 「あれ、誰だっけ」 「看護婦さんだよ。いい人だ」  たしかにそれは看護婦であった。白衣を着て白い小さな帽子をかぶっていた。 「さて……」  男は手の中で何かをもてあそびながら、彼をのぞき込んだ。 「俺の名を思い出したかい」 「いいや」 「俺は加藤一郎さ」 「嘘だっ……」  彼は喚いた。 「いくら大声を出してもいいさ。この屋上にはいま俺たち二人きりだ」 「屋上……」 「そうさ。病院の屋上さ」  見まわすと、青い空が見えた。あたりは古ぼけたコンクリートで、高い金網の柵《さく》で囲ってあった。 「加藤一郎は俺だ」 「そうだな。でも、俺がその名前をみつけるのに、どんなに苦労をしたか判るまい」 「俺が加藤一郎さ」 「判ったよ。じゃあもうしばらくそういうことにしておこう」 「俺は加藤一郎だ」  彼の声は力がなくなっていた。 「家族のことを尋ねよう。香子はどうしている。みどりは、健は……」 「みんな元気だよ」  彼はあざけるように言った。 「香子は優しいし、みどりや健は素直ないい子だ」  男は憎しみのこもった目で睨み、右手を彼の目の前でパッとひらいた。 「これは誰の指環だか知ってるな」 「うん。以前香子が紛《な》くした奴さ」 「嘘をつけ。もうお前はほとんど正気に戻っている。いつまで自分を誤魔化《ごまか》せると思うんだ」 「そうだ。うちへ帰ろう」 「ダメだっ」  今度は男が喚いた。 「いいか、よく考えろ。お前は加藤一郎じゃない。お前の本名は井田次郎だ」 「俺は加藤一郎さ。井田次郎なんて知らねえな」 「井田次郎だ」 「どこにそんな証拠があるんだ」 「ここにある。お前の目の前に立っている。俺はお前の兄だ。井田一郎だ」 「兄さん……」  ふっと、彼は気が遠くなりかけたような気がして目をとじ、すぐ相手を見た。風が自分の頬に感じられた。 「俺はいま、お前の服を着、お前の靴をはいてお前の前に立っている。この服のしみをもう一度見ろ。これは誰の血だ。香子のか、みどりのか、健のか」 「香子もみどりも健も、みんな元気だぜ」 「お前の頭の中ではな。だが、みんな死んだ。死んでしまっている」 「みんな生きてるよ」 「香子は俺の妻だ。みどりと健は俺の子供だ。俺とお前は兄弟だ。その血をわけた弟が、なぜ香子やみどりや健を殺した」  男の目から涙がこぼれていた。彼はじっとそれをみつめていた。 「お前は麻薬中毒だった。グレて、やくざの仲間に入って、よく金をせびりに来た」  彼は男の手から指環をそっとつまみあげた。たしかめるように眺めた。 「その指環は香子がしていたものだ。お前は俺の留守に来て、金をことわられると、それをよこせと取りあげたのだろう。きっとそうだ。焼けあとからそいつが出て来たが、とんでもない場所にあったんだ」 「そうだ……これは姉さんのだ。赤い石が入ってた」 「お前は薬で狂ってた。香子は指環をとり返そうとしたんだろう」 「そうだ。そしたらどこかへ飛んでっちまった」 「腹をたてたお前は、俺の家族をあっという間に殺した。そうだな……」 「やめてくれ」  彼は耳をおさえた。 「刺し殺したんだ。大きなナイフで、次々に……。誰が最初だった。誰が最後だった。この服についた血は誰のだったんだ」 「やめてくれえ……」  彼は耳をおさえて悲鳴をあげた。 「卑怯者《ひきようもの》。お前は殺したあと家に火をつけ、燃やしてしまった。だが、その火を見ているうち、自分のしたことに気づいたんだ。お前は両手を血まみれにして、燃えあがる家のそばに立っていた。警官が来て、お前をつかまえた」 「やめろ、やめろ。俺は死んじまう。かんべんしてくれ。兄さん……許して……」 「だが、つかまったとき、お前はもう遠くへ逃げていた。外界のあらゆることから縁を切って、自分ひとりの世界へとじこもってしまっていた。法律は、そういう人間を処刑できないんだ。お前はまんまと、自分の内面へ逃げ込んでしまった」 「許してくれ。俺が悪かった」  彼は号泣していた。 「どうして許せる。妻と二人の子供と財産を一度に奪われたんだぞ。みどりや健がどんなに可愛い子だったか、お前だってよく知っているはずだ。香子が優しい女だったことも……。だから、鈴木先生が、どうやらお前は香子やみどりや健と暮らしているらしいと知ったとき、俺はお前から自分の家族をとり戻す決心をしたんだ。お前は香子や子供たちに、優しい男として生きていたんだろう。ときどき何かぶつぶつ言っているのを、鈴木先生や太田さんたちが、くわしく書きとめて調べてくれたんだ。そして、だんだんにお前の内面での生活が判ってきた。善良で、小心で、虫も殺せない男……平和な家庭……。許せると思うか。俺はお前の中へもぐり込みたかった。鈴木先生や太田さんも、お前の卑劣さに呆《あき》れ、憎み切っていたんだぞ。だから、力をかしてくれた。いろいろと暗示をかけた。そしてとうとう、立石という人間を一人、香子を経由して送り込むことに成功したんだ。……長かった。長かったぞ。そして、とうとうお前を追いつめた。お前の一日は、一か月もかかるときがあった。一年が、何秒間かでおわることもあるらしかった。俺たち三人は、根気よくお前の中へ立石を送りこみ、その嘘の世界をぶちこわさせた。お前は鏡を見ると怯《おび》えるようになった。殺人鬼の自分を見るのがこわくなりはじめたんだ。血まみれの手をした自分を認めるのがいやだったんだ」  あれは俺だったのか。彼は納得した。血まみれの手は見えても、顔が判らないはずであった。 「薬《ヤク》のせいだ。俺は狂ってた」  彼は車椅子からおりてコンクリートの床にひざまずいた。 「そうだろう。人間ならあんなことはできないはずだ。しかし、そのあとで、自分の中へ逃げ込んだのは、どうしても許せない。お前は俺の家族の命を奪ったばかりか、俺の想い出を盗んで自分のものにしていたんだ。香子を、みどりを、健を……。お前は愛したろう。なんてひどい奴だ」  彼はふらふらと立ちあがった。醒《さ》めればそうしなければいけなかった。そうするのが当然だった。はじめから、それはよく判っていたのだ。  彼はまっすぐ金網へ向かい、よじ登りはじめた。兄は、復讐《ふくしゆう》をとげたにしては余りにも虚しい表情で、じっとそれをみつめていた。  彼は金網のてっぺんに登り、向こう側へおりた。病院の屋上のへりに立って、彼はふり向いて兄を見た。 「死んだって足りないだろうけど」  そう言ったが、兄には聞こえなかったようだ。彼は金網から手を離し、跳んだ。チリリンとベルの音を感じた。その店で麻薬を売っていた。彼は胸をそらし、自分から大地を迎えるように落下して行った。 [#改ページ]   錯覚屋繁昌記《さつかくやはんじようき》     パーティー  そこは二流ホテルの宴会場。カーテンも二流、カーペットも二流、料理も、ウェイターたちも二流だが、客たちは結構満足して、それなりに気どっているようであった。  若い男女が六、七十人。二か所の大テーブルに盛り飾られた料理をぱくつく者や、グラス片手にかたまってお喋《しやべ》りをする者や、パーティーはたけなわのようである。  女たちは三分の二が振袖《ふりそで》。残りがパーティー・ドレスで、スーツを着ているのはほんの二、三人しかいない。  男はみな背広。ダブルが何人か見えるほかは、色こそ違え、みな似たような恰好《かつこう》である。  さる三流大学の同窓会であった。  仲間はもっと多いのだが、卒業後大半は地方へ散って、東京在住は只今《ただいま》のところここに集まった連中だけだ。参加できるものはほとんど来ていた。  卒業してまだ二年と何か月か。同窓会としては一番集まりのいいころなのである。  女性側が断然威勢がいい。みな闊達《かつたつ》に振舞っている。  それもその筈《はず》だ。  いわば女ざかり。適齢期のまっ最中。多少顔の造作がおかしくても、肌《はだ》はおのずから内部の成熟をにじみ出させて、つやつやと色っぽい。中年が見れば初々《ういうい》しく、同年輩が見れば手頃《てごろ》で、下が見れば色っぽい。  人間社会の仕組が、彼女たちをいま人生で一番モテる時期に置いている。  勿論《もちろん》例外はどんな場合にもあるから、失恋でしょげているのもいれば、妻子ある人と恋をして苦しい日を送っている女もいよう。  肥る気配に折角の料理を我慢して生唾《なまつば》をのみ込んでいるのもいれば、痔《じ》で悩んでいる哀れな運命もあることはある。  しかし、今が人生の花ざかり。何かいいことありそうで、多少の悩みもすぐ忘れられようという季節なのである。  ところが男性側は、どれもこれも影がうすい。威勢が悪い。  これも当たり前のことだ。  大学出てから二年余り。夢と希望と憧《あこが》れが、その二年と何か月の間に、見るも無残にうち砕かれている。  社会へ出て、先輩相手に聞いた風な能書きを言って、少しは煙たい顔もされ、あいつは見込みがあるかも知れないなどと、かも知れない目付きの期待をされたのもつかの間で、もうとっくに正体がバレ、虚勢もハッタリもまるで通用しなくなって、職場の最下位者としての自分をじっとみつめるより仕方のない時期なのである。  そこから先が長いのだ。夢も希望ももう一度持ち直し、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで再軍備の日までじっと体を低くしていなければならない。  自分の非力をうんざりするほど悟らされ、少々無気力に陥っている季節なのだ。  女は春、男は灰色の冬。  しかし、同じ季節同士が集まると、灰色組だってそう本音をあらわしてはいられない。  みんな自分はうまくやっているというような顔をしている。 「うちはその点何でもやらせてくれるからいいほうだよ」  今も一人の男が声高にそう言っている。 「かけ値なしの実力本位だからな。でも、そのかわりきびしいぜ」  きびしいぜエ、と、尻《しり》あがりに言っている。たしかにその男の会社はきびしくて実力本位で、だから彼などはいつも人の背中にかくれて、給料をもらうのがうしろめたいくらいなものだが、そこは誰《だれ》も同僚のいない気やすさで、社内の誰それという若手ナンバーワンをそっくり自分と置きかえて喋っている。  喋っているうちに、なんだか自信が湧《わ》いて来るらしいから妙である。日ごろの卑小感が嘘《うそ》のように消え、心の中で、明日から本気でやろう、などと考えはじめている。今までだって本気でやってうまく行かなかったのに、とって置きの抽斗《ひきだし》をあければスーパーマン的な力がとび出して来るような気になっているのだ。超能力願望という奴《やつ》だろう。  みんなそれぞれハッタリをきかせている。  俺《おれ》なんか駄目さ、と言っている奴にしても、駄目のレベルをそっと二メートルも持ちあげて、駄目と言っても世間なみ以上という風に思わせる工作をしている。  だが、男たちがそんな態度に出て見せても、この年齢では女が二枚も三枚もうわ手だ。  何しろ、いざとなればホステスという手がある。男は大学出だからまさかラーメン屋の出前持ちにもなれまいが、女は潰《つぶ》しがきく。  いざとなったほうが収入がずっといいくらいなもので、男はいざとなったらどこかへ居候《いそうろう》にころがり込むしかテがない。  自然自信が漲《みなぎ》っている。  勿論、いざとなったらホステスでもと、いくら彼女たちだってみんながみんな意識しているわけではないが、世の中にそういう仕組がある以上、無意識にせよゆとりがある。  それに、課長や部長にからかわれたりして、年上の男と気易くする機会が多いから、しっかりした男というものが判って来ている。 「駄目ねえ、うちの子たち」  会場の隅《すみ》で、呆《あき》れたようにそんなささやきをかわしている女たちさえいる。  精神年齢がずっと上なのだ。人間としての肉体の成熟度が違うのだから仕方がないが、現在のところ明らかに女たちの勝ちである。  みじめな男たちの中でも、とりわけみじめったらしいのが何人かいる。  仲間にハツタリをかまされ信じ込み、自分一人がこの世の屑《くず》と、劣等感を噛《か》みしめているらしい。  その一人が木下一郎だ。  名も平凡だが体つきや顔だちも平凡である。在学当時につけられた仇名《あだな》が忍者。  なぜ忍者かというと、いつまでたっても教授や先輩に顔を憶えられない。五、六人以上集まると、どこへ行ったかすぐ判らなくなる。 「あれ、あいつどうした」  誰かが思いだしてふとそういうと、そいつのすぐ横で、 「何だい」  などと返事をする。ずっとそこにいたのだ。  つまり影が薄い。  これは何も木下一郎のせいではなく、そういう体質に生まれついてしまったのであろうが、それにしても特徴のないことおびただしい。 「あいつを写真に撮ったけど写らなかった」  グループで富士五湖へ遊びに行ったとき、そういう怪談が生まれたほどである。  露出を間違えたに違いないが、誰一人、露出がアンダーだったとは言わず、被写体である木下一郎のせいにしてしまったのだから、やはり影の薄さでは人なみ外れた存在といわねばなるまい。  だが、木下は少しも自分が影のうすい人間だとは思っていない。  五体満足で容貌《ようぼう》だって十人並みだし、試験も平均点より少し上はとれたのだから、異常な程影がうすいとは思えない道理である。  満員電車で不当に押されれば押し返すし、火事でもあればみんなより早く駆けつけるくらいの積極性は充分にある。  それでいいので、はじめから俺は影がうすい駄目な奴だなどと思ったら、とても生きては行かれまい。  だから他人と競争もするし、一人で飲みにも行くし、それに恋だってする。  だが、どうやら他人に軽視される回数が少しばかり平均より多いらしい。  もちろんくやしがる。畜生今に見てろと歯がみもする。だが、それが現実となり、うまく自尊心を回復できることなど滅多にないのだ。いや、全然ないのだ。  時期も悪い。年齢が、男として一番苦しいヘナチョコの年齢である。青二才エイジなのだ。もっとあとになれば、それ相応の実力もついて、不当な軽視や無視には彼なりの反撃もできるようになるのだろうが、今はいけない。誰かが当分あきらめろと言ってやったほうがいいくらいなのだが、木下のまわりにはそういう人間も特にいないようだ。  それが恋をした。  よせばいいのに、花の盛りの同年齢の女に恋をした。  相手はいまこの会場に来ている。  同窓生の待田由子という女だ。  在学中から多少気はあった。それが卒業して一年半ほどしてから、ふとしたことで自分の職場の近くに勤めていることに気がついた。  木下は三流会社の経理課員で、待田由子は近くの信用金庫の支店に配属になって来たのだ。  或《あ》る日その支店へ使いに出されて、バッタリ窓口で顔を合わせた。 「やあ」  というわけで、さりげなくお茶に誘ったりする内、すっかりのぼせてしまった。  由子のほうは昔なじみという以外、とりたてて恋愛感情らしいものなど持ち合わせてはいないのだが、そこはそれ、花ざかりがうれしい年齢で、のぼせてくれる男がいれば悪い気はしないから適当に付合っていた。  ラブレターめいた手紙を何通も出して、木下は結構恋愛気分でいたが……、 「困ってんのよ、あたし。忍者につきまとわれて」  と、パーティーの会場で自慢半分に由子が言っているのを聞いてしまった。 「忍者って、木下君」 「そうなのよ」 「ことわればいいじゃない」 「それがさア、うちの取引先の経理マンでしょう。へたに強くも言えないし」 「あらやだ。案外やるじゃないの。木下君て、そんないやらしいとこがあったの」 「そうよ。立場を利用してるみたい……」  由子がどこまで本気で言っているか、それは判らない。好意的に見れば、モテるのを知らせたかったのだろう。 「あたしがいる支店のすぐそばにいるくせに、手紙くれるのよ」 「ラブレターね」 「今どき古いのねえ」 「無神経よ」  忍者木下一郎は、たまりかねてふり向いた。そのグループのすぐそばに、うしろ向きで立っていたのである。 「あ……」  由子が口に手をあて、急に笑いだした。 「盗み聞きしてたのね」  女たちは白けた顔で、わざとらしく話題を変えてしまった。  木下は蒼《あお》ざめた顔で由子を睨《にら》みつけていた。 「ちょっと失礼」  由子は振袖のたもとをひるがえして去って行った。トイレへ逃げたのだろう。 「ごめんね、木下君」  女の一人が、それでも気の毒そうにあやまった。 「いいんだよ、俺なんか」  木下は唇《くちびる》を噛んだ。しかし、逃げだしはしなかった。ここで逃げたら惨敗になると思ったのだ。  ぐっとこらえて素知らぬ顔。……無理をしてその場に踏みとどまり、元のグループのほうへ向き直って仲間の話に加わった。  女たちは、それでけりがついたというように、また陽気なおしゃべりに戻《もど》る。  何人か入れかわり、そのちょっとした事件は忘れられたようであった。  が、忘れられないのは木下であった。  畜生、人の愛情をおもちゃにしやがった。許せない。赤っ恥を掻《か》かしてやる……。  仲間の話を聞いているふりをして、木下はいかに由子が理不尽な女であるかをパーティーの全員にさらけ出して見せる痛快な場面を空想していた。  そうでもしなければやり切れなかった。せめて空想の中ででも、すぐこの場で仕返しをしてやりたかった。  と、突然……。 「キャーッ」  という黄色い悲鳴があがった。パーティーのざわめきが、一度にピタッと静まった。  木下もみんなと同じように、声のほうをふり返って見た。  悲鳴の主は由子だった。いつの間にかトイレから戻って来ていて、ハンドバッグを持った手で、妙に前かがみになって着物の裾前《すそまえ》をおさえていた。  木下と目があった。  由子はキリキリと眉《まゆ》をつりあげ、体を起こすとはしたない金切声で叫んだ。 「何さ。あたしに振られたからって……」  つかつかっと木下へ進み寄り、 「エッチなことしないでッ」  と言うや否や、右手に持ったビーズのハンドバッグで思いきり木下の顔を撲《なぐ》りつけた。  しいんとしている。 「どうしたんだい」  遠くで男の声がその沈黙を破った。 「知らないわ」  由子のそばにいた女たちが、怯《おび》えたように口々に言った。  由子は女たちに知らないと言われ、全員に訴えるように泣声で叫んだ。 「木下君たら、いきなりあたしの着物のすそを、こんなところまでまくりあげるのよ」  男が二、三人笑った。 「やるぅ」  木下は冷静な目で由子をみつめていた。 「あら、いつ……」  由子をまじえて話し合っていたグループの女たちが、いやに籠《こも》った声で言った。 「いまよ。たった今よ。見たでしょう」 「見なかったわ」  散らばっていた男女が木下と由子を中心に集まって来た。 「嘘言わないでよ。それじゃまるであたしが……」 「木下君はさっきからそこにうしろ向きでみんなと話していたじゃない。そんなことすれば、わたしの前を通らなきゃならないじゃないの。ねえみんな、通った」 「いいえ」  由子はヒステリックに泣きだした。 「みんな木下君をかばうのね」 「かばってやしないわよ。変な人ねえ」 「着物をまくられたのよ」 「そんなことされないわよ、あなたは」 「されたのよ」 「されなかったわ。証言するわよ」  木下が加わっていたグループの男たちも言いはじめる。 「ちょっとおかしいんじゃないか。木下はずっとここを動かずにいたぜ。そんなハプニングを俺が見のがすわけないしな」  弥次馬《やじうま》がからかう。 「どの辺までめくられたんだい」  どっと笑い声があがった。 「由子、あんた気はたしかなの」  女たちが二、三人つめ寄っている。 「木下君に悪いじゃないの。いくらなんでも言いがかりがすぎるわよ」 「欲求不満なんじゃねえのかい」  男の声がする。 「そうみたい。だって、ねえ」  木下の何よりも強力な味方は、由子をとりまく女のグループであった。木下の無実は決定的であった。 「そう言えば、さっきから木下君につきまとわれるとか、ラブレターを毎日よこすとか、変なことばかり言ってたわね」  由子はただもう泣きじゃくるばかりであった。 「いいわよ。あんたたち、みんなであたしをいじめるのね。もう来ないわ、こんなパーティーなんか」  由子は小走りに会場を脱出して行った。 「どうなってるんだい、あいつ」  男たちが呆れたように言った。木下の無実を証言した女たちは、自分たちの立場を更にはっきりさせる為、ウェイターに裾めくりが行なわれなかったことを証言させていた。     銀 行  その同窓会のパーティーでいったい何が起こったのか、木下一郎は一人になった帰り路、じっくりと噛みしめるように考えていた。  いきなり結論があった。  だが、それは余りにも突拍子がなくて、自分自身間違いがないと感じつつも、疑って見ずにはいられない性質の結論であった。  木下はパーティーの現場で、待田由子に直ちに報復したのである。  直感、と言って悪ければ、生理的に、皮膚感覚的に、それが判っていた。  待田由子は木下によって赤っ恥を掻かされたのである。  しかも、それを知る者は木下しかいない。やられた由子自身、なぜそんなことになったのか、死んでも気付かない筈《はず》であった。  あの時、木下は由子が更に強烈な非難を、満座の中で自分に加えて来るところを空想していたのだ。  木下は、自分が由子の着物の裾を思いきり高くまくりあげるところをはじめの内空想していた。  それは子供じみていて、口惜《くや》しまぎれの行動としては、非常に単純かつ平凡な手口であったろう。  だが、実際にそんなことが出来るわけはないし、仮りにしたとすれば、木下はそれを最後にして逃げださねばならない。実にみじめな立場になり、由子がますます同情され、優位に立つだけであった。  木下の空想は、そんな子供っぽい仕返しの夢から、突如現実へ向かって反転し、自分が裾まくりなどしないのに、由子が金切声でしたしたと騒ぎたてる場面へ移った。  由子が木下を裾まくりで非難告発し、満座の注視を浴びた中で、突然木下の優位が回復される。  由子は錯覚したのだ。  そうなればみんな寄ってたかって由子の錯覚をとがめ、木下に被害者として同情してくれるはずであった。  被虐的な快感の中で、木下は由子が裾をまくられたと言って自分に食ってかかる場面を空想したのだ。  するとあの本物の金切声がしたのだ。  木下は一瞬空想と現実の区別がつかなくなって混乱した。しかし、次の瞬間、夢が現実のものになっていることを悟ったのだ。  由子は木下が考えたとおりの錯覚を起こしていたのである。  勝った、と思った。  あとはなり行きまかせでよかった。由子のケタ外れな錯覚は、彼女のそれまでの発言をすべて仲間に疑わせることになった。  木下が彼女を何度もデートに誘ったことや、ラブレターの件も、みな由子のヒステリックな発言として葬り去られてしまい、由子は死ぬほど口惜しい思いで家へ泣いて帰ったに違いなかった。  だが一体……。  と、そこで木下は考え込んでしまう。  本当にそんな事があっていいのだろうか。いや、起こってしまったのだが、それは何か偶然が重なったので、自分の空想力がひき起こしたことではないのかも知れない。  とにかくあまり旨《うま》く行きすぎて、空恐しいくらいであった。  が、二度目の事件がその月の二十三日に起こった。  給料日は毎月二十五日で、今月はそれが月曜日に当たっていた。明日は日曜日で、当然のことながら木下は無一文に近かった。  千円でも二千円でもいいから、日曜日の小遣いが欲しかった。それで、土曜の午前中、口実を作って会社をぬけ出し、近くの銀行へ行った。そこに普通預金の口座があり、五千円ばかり残高があった。  行くと混んでいた。仕事で来たと判る人々の間に、明らかに木下と同じような、私用の金を引出しに来ている男女の姿があった。  木下は伝票に三千円と書いて窓口へ出した。番号札をもらって椅子《いす》に坐《すわ》っていると、引出しに来ている人々は、次から次へと一万円札の束を受取って帰って行く。  急に恥ずかしくなった。  五千円足らずの通帳を出して、三千円引出して行く。なんとみじめったらしいことであることか。きっと窓口の男は心の中で嗤《わら》っているに違いない。  若い娘が、一万円札を十五、六枚もおろして帰って行ったとき、木下の敗北感は決定的になってしまった。  混んでいて、仲々木下の番は来ない。窓口に並んだ行員たちは、一万円札を扇形に持って、いとも無雑作に算《かぞ》えて行く。  それが、自分は千円札をたったの三枚……。  木下は帰ってしまいたくなった。だが、通帳をそのままに帰る勇気もなく、じっと椅子に坐ってみじめな思いを噛みしめていた。 「木下さぁん」  呼ばれてビクッと立ちあがった。みんなが自分の受取る金をみつめているような気がした。  気のせいか、窓口の行員が嫌《いや》な目で木下を見た。木下は顔を赤くして番号札を渡した。 「おいくらですか」  それがきまりとは知っていた。確認の為金額を客に言わせるのだ。しかし、なんだって三千円ばかりの相手に……。 「三千円」  木下は早口で言った。  その瞬間、木下はもっとはっきりと行員に軽蔑《けいべつ》される場面を空想してしまった。自分がおろしに来たのは三千円ではなく、ただの三十円で……。 「はい、三十円」  行員がニヤニヤしながら十円玉を三つカウンターの上へ置いた。木下の体を、痺《しび》れるような被虐の快感が走り抜けた。 「三十円じゃないんですけど」  小声で言った。そばでロビーの案内係が怪訝《けげん》な顔でそれを見ている。 「え……」  行員は一度木下に渡しかけた通帳を、さっと開いた。 「あ、三円」  行員はあいた口がふさがらないという顔で、あわてて三枚の十円玉をとり戻し、ごそごそと下で何かやって、今度は一円玉を三枚だした。  憤った目で木下を睨んだ。 「はい、三円ですね」 「あんまりつっけんどんにするなよ」  木下は冷静になっていた。わざと少し声高に言う。  行員は、ブスッとした顔で、 「どうぞ、三円」  と言った。 「何言ってんだい」  木下は更に声を高くし、とがらせた。 「お渡ししました。窓口をおあけ下さい」 「失礼だろ。何だその言い方は」 「週末で混み合っております。どうかお引きとり下さい」 「一円玉を三枚渡してお引とり下さいだとさ」  木下はそばにいる案内係に言った。 「どうなってるんだい、この銀行は」  ロビーで待っている客が一斉《いつせい》に木下のほうを見た。 「あんた失礼だよ。お客さんに」  案内係が言うと、行員はプイと席を立って奥の上役を引っぱって来た。 「例の一円玉のいやがらせです」  小声で上役に言っている。大勢で一円ずつ入れたり出したりして銀行を困らせる事件があった。それと間違えているらしい。 「いつ僕がそんないやがらせをしたんだ。通帳を見てくれ。三円ぼっちおろすわけがないじゃないか」  待っている客の間に笑い声があった。  カウンターの内側へ、えらそうな連中がぞろぞろ集まって来た。  最初に引っぱって来られた上役は、蒼《あお》い顔になっている。  通帳をひらいて、みんなに見せている。 「君、何を錯覚しとるのかね」  一番えらそうなのが事態を収拾すべくわざと待っている人たちにも聞こえるような声で言った。 「失礼しました。とんでもないことで……」 「どうせ大した金額じゃありませんよ。でも、少額だからと言って馬鹿にしてもいいんでしょうか。はじめこの人は三十円と言ったんですよ。僕は違うからよく通帳を見てくれと言った。そうしたら今度は三円だって」 「そいつはひどいや」  お節介なのが椅子から立ってやって来た。 「だいたいこの銀行は人を馬鹿にしてるんだ。大きな商社には買占めの金をふんだんに貸してやるくせに」 「まあまあ、どうかお静かに」  係りの行員は自分の途方もない間違いに気づいて、蒼いのを通りこしてまっ白な顔色になっている。 「君、向こうへ行って休んでいたまえ」  叱《しか》られてすごすごと退場。 「どうかこちらへ」  支店長が出て来て鄭重《ていちよう》に応接室へ案内しようとする。 「いいんです。お金を渡して下さい」 「まあ、そう言わずに」 「いや、僕帰ります。仕事をぬけて来てるもので」  木下は思い切りよく銀行を出てしまった。 「お待ちください。お待ちください」  二人ほどとび出してあとを追いかける。  と、銀行の前を警官が通りかかった。  木下の頭に、もっとひどい場面がひらめいた。すると、警官がいきなり駆け寄って来た。  すぐ目の前に交差点の信号があり、青いランプが点滅をはじめていた。木下は渡ってしまおうと小走りに車道へ出た。その横断歩道のまん中あたりで、木下は警官にうしろから猛然とタックルされて倒れた。倒されながら、木下はうっとりとしていた。 「やめて下さい。やめて下さい」  歩行者専用の信号が赤になった下で、二人の銀行員が大声で喚《わめ》いていた。それをどう聞き違えたか、警官は木下の襟首《えりくび》を掴《つか》んで馬乗りになり、 「抵抗するな」  と一喝《いつかつ》した。向こう側から正義の味方の弥次馬が二、三人、バラバラと走って来て加勢し、木下は警官にうしろ手をとられて引きおこされた。 「何をするんだ」  木下が抗議をすると、 「こっちへ来いッ」  と、その若い警官が銀行のほうへ連れ戻す。 「木下、どうしたんだ」  外出から戻った総務部長が、人ごみをかきわけて近寄って来た。 「何だか知りませんよ。その銀行の人たちが、僕にひどい因縁をつけて」 「いえ、間違いなんです。こちらの手落ちなんです」 「手落ち……」  警官が呆気《あつけ》にとられている。 「あんたたち、この男をつかまえろと叫んだじゃないか」 「いえ、お待ちくださいと言ったんですよ」 「嘘だ。つかまえろと言ったから追いかけたんだ。君らだって追いかけたろう」 「とんでもない。な、なかで、ま、間違いをしたので、このお客様におわびしようと」 「どんな間違いだ」  警官はやっと木下の手を放した。 「き、金額を……」 「引出す金額をこの人たちは」  木下が言いかけると、部長が中に入った。 「いくらなんだ」 「すみません。明日は休みだものですから、私用のお金をおろしに来たんです。そうしたら、 一円玉を三枚渡されて」 「三円……」  部長は銀行の男たちを睨んだ。 「で、ですから係りの間違いで」 「三円とはひどいじゃないか。常識で考えたって、誰がこのいそがしいのに三円ばかり銀行へ引出しに行くかね」  警官は泣きだしそうな顔で木下の服の埃《ほこ》りを払ってくれた。 「怪我《けが》はありませんか」 「その人に撲られました」  目の前の、逮捕に協力した市民を指さして言った。  その男は、怯えたようにあとずさりし、人垣《ひとがき》のうしろへ消えてしまった。 「とにかく支店長に会おうじゃないか。これはうちの社の木下君と言って、至って真面目な青年だ。私はこういう者です」  部長は名刺を渡す。 「君も来てくれ」  警官はそう言われ、しょんぼりとあとにつづく。ぞろぞろと銀行へ入って行くと、今の事件を見物していた人々の間で、一斉に銀行に対する非難の声が挙がった。 「ひどいねえ。近ごろの銀行は思いあがってるよ」 「おまわりもおまわりだ」  騒然とした中を、木下は迷惑そうな顔で銀行の奥にある支店長室へ案内されて行く。  十二時で銀行がシャッターをおろしたあと、木下は総務部長と一緒に裏口から送りだされた。千円札を三枚ポケットに入れた木下は、どんな億万長者よりもうやうやしく、銀行マンたちにお辞儀をされ、警官の護衛つきで会社へ戻ったのである。     閑《ひま》 人《じん》  世の中には閑な人間がいるものだ。  閑な人間だから閑人と言い、何もせずに家の中にぼんやりとしているかというと、案外そうでもなく、本当の閑人というのは、結構いそがしく立ち働いているものらしい。  人並みに毎日会社へ行ったり、商売をしたりしていて、そのくせ閑さえあれば自分の利害とはまるで無関係な、とんでもないことを、夢中になって調べたり、考えたりしている。  木下の友人で塚本高雄と言う男がそのひとりである。  塚本は小さな商事会社に就職して、今は問屋廻りなどさせられているが、例のパーティーの時にも、あの現場に居合わせた木下の同窓生なのであった。  その塚本が、ある日ひょっこり木下をたずねてきた。  勤務時間中に面会だと言われ、めったにないことなので、何か不吉な予感がした木下があわてて出てみると、塚本がのんびりした顔で、入口の階段の所に立っていた。 「なんだ面会ってお前のことか」  木下はがっかりしたような安心したような妙な顔でそう言った。 「コーヒーでも飲もうよ」  塚本はそう言って、どんどん外へ出ようとする。 「待てよ。俺は仕事中だ」 「俺も仕事中だよ」  塚本は平気な顔でそういい返した。 「外へ出るなら課長にことわって来なきゃ」 「面会だって聞いたから出てきたんだろう」 「それはそうだけれど」 「それならいいじゃないか」 「うちはやかましいんだ」  そう言っている間に、いつの間にか木下は塚本と並んで、会社の外へ出てしまっていた。 「コーヒーがうまくて、静かな店はないかい」 「あるけれど」 「課長を気にしているのか」 「うん」 「馬鹿だな。課長が文句をいったら例の手でいけばいい」 「例の手……」 「錯覚だよ」  木下はギョッとして足をとめた。 「待田由子をやっつけたあれさ」 「いつ俺が由子をやっつけたって」  すると塚本は木下の背中を一発どやしつけ、大声でいった。 「かくすな、かくすな。この近くの銀行でもやったろう」  木下はうす気味悪そうに、低い声でいう。 「なぜ知ってる」 「銀行の事件はお前の所の取引先で、噂《うわさ》になっていたよ。まったくうまい能力を身につけたもんだ」 「うまい能力って何のことだ」 「人に錯覚を起こさせる力さ」  木下は毒気を抜かれたような顔で、近くの喫茶店へ塚本をつれ込んだ。  テーブルについてコーヒーを二つ注文し、木下は身をのり出してささやいた。 「錯覚のことがどうしてお前にわかったんだ」  塚本はへへッと笑い、 「俺は閑人だからね」  と言った。 「パーティーで由子が妙な騒ぎを起こしただろう。何かおかしいという感じがしていたんだ。いくら由子がヒステリーでもあんな妙ちきりんな騒ぎを起こすほど、おっちょこちょいではないはずだ。俺はそのわけが知りたくなってね」 「それで」 「調べたさ。彼女がそんなヒステリー状態になる理由が本当にあるのかどうか。男に振られたとか、見合いをことわられたとか……。まるで何も発見できなかったよ」 「本当に調べたのか」 「ああ調べたよ」 「閑人だなあ」 「理由が見つからないので、ますますあやしんでいると、お前の銀行の事件の噂が耳に入った。これだ、と思ったね。こういっちゃ悪いが、お前はずっと屈辱感にまみれて生きている男だった」 「ひどいことを言うなよ」 「いや本当なんだ。俺は人間観察には自信がある」  塚本はおかまいなくと言った表情で、手を振って見せた。 「たしかに言われればそうだけど」  木下はつぶやくように言う。 「あらかじめそれがわかっていたから、パーティーの事件と銀行の事件をつなぎ合わせたらすぐにピンときた」  塚本はそこで坐りなおした。  テーブルの上に肱《ひじ》をついて体をのりだしている木下と、額をつき合わせるように、塚本も体をのりだしてきた。  そこへちょうどコーヒーが二つきた。ウェイトレスが強引に二人の体の間へ盆を割りこませる。二人は体を離し塚本がいった。 「超能力だよ」  するとウェイトレスがコーヒーカップをテーブルに置きながら笑った。 「やだ。この前うちのスプーンをまげちゃったの、あんた達じゃないの」  塚本は不思議そうな顔でウェイトレスを見つめた。ウェイトレスは肩をすくめてもどっていった。 「そいつは超能力なんだぜ。わかっているのかい」  塚本は患者を見る医者のような目でいった。 「こういうのもやっぱり超能力かね」 「そうさ。これと思う相手に自由自在に錯覚を起こさせてしまう。スプーンなんか曲げるよりよっぽどすごい」 「でもあまりいいことじゃないようだ」 「いいことさ。こんないいことはあるもんか」  塚本はそういうと上衣の内ポケットから手帳をとりだした。 「お前の給料はいくらだ」  木下は素直に金額をいった。 「ボーナスは」  塚本は木下の答えをいちいち手帳に書きとめている。 「俺のはこうだ」  塚本は手帳を見せた。  ボーナス二回と十二回の給料をふくめて、年収は木下と似たりよったりであった。 「いつから会社をやめられる」 「会社をやめるって、誰が」 「俺とお前」 「なんで」 「お前こんな金額で満足できるのか」 「それは安月給には違いないけれど」 「天下無敵の超能力があるんだぞ」 「錯覚で金もうけができるのかね」 「できるさ」 「でも俺、人前へでるとアガっちゃうんだ。舞台なんかとても立てないぜ」 「お前舞台へ出たいのか」 「だって今お前が……」  塚本は笑いだした。 「馬鹿だな、芸人にさせられると思ったのか」 「違うのか」 「たとえばお前が銀行へ行くだろう。縁もゆかりもない銀行だぞ。そこへ行って椅子に坐って待ってろ。そうすると窓口の奴が一万円札を勘定して、お前の名前を呼ぶから呼ばれたら、すうっと立って行ってそいつの前で手を出せばいいんだ。金を受取ったら銀行を出てタクシーに乗って俺と帰ろう」 「どこの銀行だい」 「どこでもいい」 「金を渡してくれるかね」  そう言ってから木下は、あ……、と言って目を丸くした。 「それを俺がやるのか」  塚本は頷《うなず》いた。 「それじゃ泥棒だ」 「盗むんじゃない。盗めば泥棒だが向こうがうっかり渡したんならただの間違いだ」 「持って帰れば猫ばばになる」 「拾得物の横領とはわけが違う。向こうが渡してくれたんだ。名前を呼ばれたから行ったら金をすっと渡されて、ああそうかとうっかり持って帰ってしまった。それでいいじゃないか」  塚本はポケットから百円玉をひとつかみ取り出してテーブルの上にならべた。 「やれるかやれないかためしてみよう。ここに百円玉が五枚ある。これでタバコでも何でもいいから百円以下の買物をしてみるんだ。なるべくおつりをたくさんくれるように錯覚させろよ」  塚本はコーヒーに手もつけず伝票をつかんで立ち上がった。 「善は急げだ」  塚本がコーヒー代をはらい二人は外へ出た。 「あそこにタバコ屋がある。ガムを買ってみろ」  木下は銀行で荒らかせぎをする話はべつにして、その実験に興味をそそられた。  木下は百円玉を一枚もってそのタバコ屋へ行き留守番をしている年寄りに、ガムをくれと言った。ガムなど近ごろ買ったことがないから、いくらなのか知りもしなかったが、百円玉を受取った老人はうつむいてしばらく小銭をかぞえ、 「はい、四百十五円」  といってお釣りをくれた。その釣り銭は木下が頭の中ででたらめに考えた金額と同じだった。 「できるじゃないか」  塚本はさすがに興奮ぎみであった。  木下はその次ハイライトを一つ買って六百九十円のお釣りをせしめた。次のタバコ屋ではショートホープで五百円札を一枚、郵便局へ入って二十円切手一枚と釣り銭を九千九百八十円持って出た。 「いくら何でもちょっとやりすぎたな」 「そんなことはない。今晩これで一杯やろう。前祝いだ」 「でも郵便局に悪いや」 「郵便局の金は国家のものだ。国家といえば親も同然、国民といえば子も同然。俺達はりっぱな日本国民じゃないか」  りっぱかどうか知らないが二人が日本国民であることはたしかであった。 「まあ今さら返しに行くのも何だから」  木下もその気になってしまったようであった。 「よし、それじゃ錯覚屋の開業だ」  塚本は威勢よくそう言った。     強 敵  二人組の銀行荒らしがあばれ廻っている。ただしこの銀行荒らし、いたって優雅に、たいして騒がれもしていない。  木下、塚本の二人組の経験によれば銀行員達は、ほとんど自分の犯したミスを自覚していないらしい。伝票も通帳もないのに適当に金を勘定して客に渡してしまうなど、およそ考えられないことなのであろう。  だが、当然あとで現金が不足していることはわかるはずである。その間違いがどこで起こったのか、銀行員達は必死で調べたことであろう。  だが、彼らが調べる手がかりは伝票や台帳である。紙に書かれた記録がまったく存在しない以上、塚本と木下の存在も浮かび上がろうはずがなかった。  彼らは同じ銀行を二度と襲わなかった。錯覚を起こさせて受取る金額も用心して二百万円を限度としていた。  だが銀行の数は都内だけでも廻りきれないほどあった。  会社をやめた木下は塚本と連絡を取り合って、はじめのうち毎日一、二か所の銀行で金を受取っていた。  貧乏になれきっているというか贅沢《ぜいたく》を知らないというか、二人の使う金は一日あたりめったに三万円を越えなかった。それでいて収入のほうは、三日に五店、一店あたり平均百万円として一か月でなんと五千万になったのである。  二人はふた月目に入ると早くも持てあましぎみになった。というよりいささか気味が悪くなりはじめたのである。 「このまま続けると今月中に一億になっちゃうぜ」 「でもずいぶん贅沢してるぜ」 「冗談じゃない、まだ百万も使っちゃいない」  経理マンをやめたばかりの木下がいうと、塚本はくやしそうな顔をした。 「車でも買うか」 「俺免許証ないよ。お前は」 「俺もない」 「じゃしようがないじゃないか」 「マンションでも買って一緒に暮らすか」 「一緒はいやだ」 「なぜ」 「彼女ができたらやりにくい」 「それなら二軒にすればいい」 「ちょっとしたマンションは二、三千万するぜ」 「二人で六千万か。それは高い。高すぎるよ」 「でも来月になればこの調子だと一億になる」 「それでも高い。二、三百万の贅沢はないものかな」 「むりに使うことはない」  結局二人にとって、今のところそうやたらに金を持つ必要はなさそうであった。  それでもなんだかんだと一億ちょっと現金を溜《た》めこんだ。  それまで住んでいた安アパートを引払い、それぞれ2DKのマンションまがいに移り住んで、彼らにしては精いっぱい気のきいた家具やステレオなどを買い揃え、なんとなく毎日ぶらぶら遊んで暮らしていた。 「つまらないな」  閑人《ひまじん》の塚本がまず言いだした。 「何か仕事でもはじめようか」  木下も同意した。 「何をやる」 「何でもいい。もとではあるんだから」 「スナックでもやるか」 「女みたいで嫌だな」 「バーは」 「バーテンやホステスを使うのかい。出来やしないよ」 「それじゃ洋品屋か何か、ファッション関係」 「素人じゃ駄目だろう。経理事務所なんかどうだい。堅くていいぜ」 「馬鹿。それがいやでやめたんじゃないか」  要するに、人に錯覚を起こさせる超能力を使って金儲《かねもう》けがしたかったのであって、根は働き者なのである。  あちこち旅行をして、のらりくらりと過ごしているが、旅へ出たって金の心配などまるで要りはしない。銀行は日本中どこへ行ったってあるのだ。  京都の南禅寺あたりを歩いている時であった。 「おい木下」  塚本が珍しく切迫した声をだした。 「なんだい」 「あれ見ろ。美人だな」  見ると軽装の女二人が向こうからのんびりと歩いて来る。どうやら遊びに来ているらしい。 「どっちだい」 「左にきまっているじゃないか。ああいうの、俺のタイプなんだけどなあ」  なるほど美人であった。清楚《せいそ》という表現がぴったりする娘だ。 「たのむよ」 「何を」 「錯覚さ。錯覚で俺に惚《ほ》れるようしむけてくれ」 「むずかしい注文だな。錯覚で愛情を湧かせるのは」 「愛情は錯覚なりって言うじゃないか」  あまり聞かない名言だが、塚本にたのまれて木下は方法を考えた。  由子のときのようなスカートまくりはこの際問題にならないだろう。と言って、銀行でやっている一時的な錯覚では、すぐ醒《さ》めてしまってなんにもならない。  まごまごしている内にすれ違いそうになった。えいままよ、キッカケさえ与えてやればあとは塚本がなんとかするだろうと……、 「あら、吉田さんじゃありませんの」  その女が足をとめて塚本に言った。 「は……」  塚本は彼女を熱っぽい目でじっとみつめている。 「私は、月村明子よ」  それでまず名前が判った。 「いやねえ、私をお忘れになったの」  月村明子は笑いながら右手をさしだした。塚本は遠慮なくその白い手を握りしめる。 「京都へはお仕事……」 「いいえ、遊びです。友人と一緒に」  その友人は明子が次に言う台詞《せりふ》を一生懸命考えていた。 「何年になるかしら」 「さあ」  塚本は首をかしげている。  木下は月村明子に、塚本と旧知の誰かを勘違いをさせたまでのことで、明子はその誘導に従って、自分から何年も会わないでいる吉田という人物を連想したのである。 「とにかく、君に会えてうれしいよ」  塚本は勝手なことを言っている。ただ、明子が勘違いに気づいたあとの用心だけは充分にしている。  明子は連れの女をちらりと済まなそうに見てから、塚本を少し離れたところへ連れて行った。 「随分お手紙をだしたのに、どうしてご返事を下さらなかったの」  木下の耳に、明子のそんな言葉が聞こえ、あとは低くて判らなくなった。  木下は残った女と向き合った。ぎこちない雰囲気《ふんいき》を、女が肩をすくめて見せて救った。 「あんな明子、はじめて見たわ」 「綺麗《きれい》な方ですね」  木下はその女をみつめて言った。こちらも明子にまけず美人であった。ただ、どっちにせよ上流家庭の子女であることに間違いはなく、木下には扱いにくい相手である。 「何かあのお二人、わけがありそうね」 「そうですね」 「ちょっと気をきかせましょうか」 「ええ」  二人はぶらぶらと歩きはじめた。少し行って立ちどまり、振り返って見ると、月村明子は塚本にとりすがらんばかりにして、綿々と何か訴えている様子だ。 「調子いいな、あん畜生」 「え……」 「いや、いい天気ですね」 「ずっと京都にご滞在」 「そうでもないんです。予定もたてずに気儘《きまま》にやっているもんで」  女はニッコリとした。 「わたしは室町律子」  自己紹介をする。 「僕は木下一郎です。どうぞよろしく」 「お仕事は」 「え……。ああ、ええと」 「あててみましょうか」 「どうぞ」 「ジャーナリストね」 「判るかなあ」  木下は擽《くすぐ》ったそうに頭を掻いた。 「大した記者じゃないんです。フリーの……そう、フリーのルポ・ライターです。仕事があるときだけとびまわるんで、今は閑なんです」  なり行きでそういうことになった。 「あの方も」 「ええ。同じです」  ほかに答えようがなかった。錯覚屋ですとも言えないではないか。  その時、明子が向こうから律子に手をあげて近寄って来た。 「ちょっと失礼」  律子はそう言って自分からも明子のほうへ寄って行く。二人の女は木下と塚本の中間点あたりで何か話し、また二手に分れてそれぞれの相手のもとへ戻った。 「あの人たち、少し話があるそうなの」  律子はそう言い、 「私たち、抛《ほう》り出されちゃったわけね」  と笑った。 「どうしようかな」  木下は塚本のほうを見ながら言った。 「好きなようにさせてやりましょうよ。明子だってもう大人なんだし……。たまにはいいわ」 「明子さんて、どういう方なんですか」 「とても厳しいおうちなのよ。あの人、あんまり自由じゃないの」  律子は同情しているようである。  木下は二人と別れて南禅寺に背を向け、律子と並んで歩きはじめた。塚本たちは反対に南禅寺へ向かっていた。  その日、木下は夕方ホテルへ戻った。塚本のおこぼれにしては、律子という女と歩いたその午後は結構たのしかった。上機嫌で塚本を待っていると、彼は八時ごろになって、木下に輪をかけた機嫌で戻って来た。 「うまくやったじゃないか」 「うん、やったね」 「どうだった」 「どうもこうもないよ。うまく行きすぎちゃった」 「吉田で通したのか」 「いや。いくら俺でもそこまで図々しくはない、ホテルで白状したよ」 「ホテルって、彼女のホテルへ送って行ったのか」 「彼女の泊まっているホテルへも行ったけど」 「おいおい。まさかお前」  塚本は首をすくめた。 「お前の超能力はまったくすばらしいな。あそこまでやれるとは思わなかった」 「別なホテルへも行ったのか」 「京都にも連れこみはあるさ」 「あ、この野郎」 「半分は向こうから言いだしたんだ。吉田って奴と以前そういうことがあったんだな」 「知らないよ、俺」 「吉田って男と大恋愛をしたんだな。でも両親に反対されて、吉田って奴は寄りつかなくなっちゃったらしい。父親がそういう工作をしたんだ。彼女は恨んでいた」 「お前に似てるのか」 「吉田がか。さあ」 「俺はとんでもないことをしちゃったな」 「いいことをしてくれたんだよ」 「いいことをしたのはお前じゃないか」 「東京へ帰ってからまた会うんだ」  ……それが間違いのもとだった。  ふた月ばかり塚本は月村明子といい調子にデートを重ねていたが、或る日突然姿を消してしまった。  連絡してこないし、電話をかけても一向に出る気配がないので、木下は塚本のすまいへ何度も出かけた。お互いに部屋の鍵《かぎ》を持ち合っているので、相手がいなくても出入りに不便はないが、三日も行方不明が続くと木下はすっかり不安になった。  おかしいのは、塚本が全く金を持っていかなかったことである。  錯覚で儲けた金は共有財産だったが、管理は元経理マンの木下がやっている。だから相手がいまいくらくらい持っているか、いつでも判っていた。  塚本が消えたとき、彼は四、五十万は持っていたのだが、二日目に家の中を調べると、彼が近ごろよく着ていた上着の内ポケットにそれがそっくり入っていた。  それで気付いて洋服だんすの中身を調べると、どうも塚本の背広はみなそこにしまわれているようなのだ。そのかわり、寝乱れたベッドにパジャマが見当たらない。  パジャマは洗濯に出したかも知れないし、服は最近余り着ない古い服か、それとも木下がまだ知らない新調の服を着て出たのかも知れない。だが金だけは別だ。塚本が一文なしで何日も外で過ごしていることははっきりしていた。  木下は不安だった。人に錯覚を起こさせる超能力を利用して、銀行から金を持って来ることは、当然犯罪である。その弱味があるから、塚本の行方不明がすぐ不吉なことのほうへ結びついてしまう。  バレたのではなかろうか……。ついそう考えてしまうのだ。  塚本が戻って来れば、いの一番に自分へ連絡をとることは判り切っていた。しかし木下は部屋にじっとしていることができず、日に二度も三度も塚本の部屋へ出かけた。  その塚本のすまいへ行った帰り路。 「木下一郎君だね」  中年の鋭い目付きの男が、歩いている木下に声をかけた。  木下はドキッとした。明らかに警察関係者の言い方であった。 「は、はい」  咄嗟《とつさ》に逃げだそうとあたりを見た。すると、その歩道に二人の男が立ちどまった自分を見ているのに気付いた。 「君にちょっと尋ねたいことがあるんだ。すまんが少しつきあってくれないか」 「あなたはどなたです」 「まあいいじゃないか。それはゆっくり落着いてからにしよう」  男は木下の肩に手をかけ、親しそうに言って、するすると近寄って来た乗用車のほうへ木下を押して行った。ちらりとふり返ると、立ちどまっていた二人の男が大股《おおまた》でやって来るところだった。  あっという間に車に押し込まれた。 「どこへ連れて行くんです」 「友達に会わせてやるよ」 「塚本ですね」  木下はあきらめて肚《はら》を据《す》えた。もうすべてはおわりだと思った。  車は都心に向かって行く。溜池のあたりで横へ入り、とあるパーキング・タワーへ乗りいれると、意外にも車は地下へ降りて行く。下へ着くと地下に細長いコンクリートの通路が伸びていて、木下は三人の男に囲まれてその通路を進んだ。  百メートルほど行くと鉄のドアにぶつかった。先頭の男が釦《ボタン》を押すと、だいぶしてからそのドアがあいた。  内部は殺風景なさっきの通路とは違って、どうやらちゃんとしたビルの一部らしい。  廊下を曲がったり短い階段をあがったりしたあげく、木下は小さな応接室のような部屋へ通された。 「まあ掛けて下さい」  中年の男はそう言って木下をゆったりしたソファーに坐らせると、ついて来た二人の男に手を振って出て行かせた。 「僕をつかまえた理由を教えて下さい」 「つかまえたりしないよ」  男は苦笑して見せ、部屋の隅にあるもうひとつのドアを半分あけて、 「どうぞ」  と外へ声をかけた。  初老の厳しい顔つきの男が入って来た。入れちがいに中年男が出て行く。 「いそがしいので要点だけ言おう」  その男は浅くソファーに腰をおろし、じっと木下をみつめて言った。 「君はどうして逃げ出さなかったのかね。こっちは充分に態勢を整えてかかったんだが、あっさりついて来たので拍子抜けしとるんだよ」  感情のない喋り方だった。 「逃げられませんよ、あれじゃ」 「錯覚を起こさせればよかったんじゃないのか」  あっ、と思った。木下は三人の男に錯覚で対抗することをケロリと忘れ去っていた。 「うろたえてそれもできなかったというわけか」  男は苦々しげに言った。やっと表情らしいものが動いたのだ。 「君の最近の行動を、或ることから徹底的に調べあげた。君はとほうもない能力を持っているんだな」  木下は答えなかった。 「いま、各銀行を調べさせている。まったく驚いたものだ。完全犯罪じゃないか」 「すいません」  木下は抵抗しないことにきめた。とても歯がたつ相手ではなさそうだった。 「でも、どうして判ったんです。絶対安全じゃないかと思ってたんですけど」 「普通では判らんだろうな」  男はそこで急に姿勢を楽に崩し、木下の顔をのぞき込むようにした。 「わたしは月村明子の父親だ」 「えっ……」  木下は相手をみつめた。 「少し娘に厳しすぎたのかも知れん。あれは情熱的なところがあったらしい。今度でそれが一度に爆発してしまった感じだ。だが、これは個人的なことだ。わたしは父親として個人的に塚本という人物を調べさせてもらった。……するとどうだ。仕事もなく毎日ぶらぶら遊んでいる。かと言って息子にそんなことをさせるほど楽な家庭でもないらしい。当然わたしは不審を持った。更によく調べると、いつも一緒の君は幾つもの架空の名前の口座に、かなりの預金を持っている。わたしははじめ、君が前にいた会社の金を横領しているのではないかと思った。だが、もっと尾行を徹底させると、とんでもない事実が判った」 「そうですよ。僕たちは錯覚で稼《かせ》いでいるんです」  男は頷いた。 「わたしも実は困っている」 「どうしてです」 「君らを罪にしにくいのでな」  超能力による犯罪ともなれば、前例のないことだし、いろいろと厄介《やつかい》な問題が起こって来ると言うのだ。だいいち社会問題になる。 「それに、娘の明子はまた恋人との仲をさかれたと言って大騒ぎなのだ。以前わたしはあれの相手を好ましくないと言って遠ざけたことがあるのでな」 「塚本は関係ありませんよ。錯覚の超能力は僕にしかないんですからね」 「判っているよ」  男は底の知れぬ感じで微笑した。 「そこで提案がある。どうだね、ひとつわたしたちに協力してくれないかね」 「協力……。何の協力です」 「その超能力をわたしたちの為に使って欲しいんだ」 「あなたがたは何です。警察じゃないんですか」 「警察……。いや、少し違う。はっきり言おう。ここはJCIAの支局のひとつだ」 「JCIA……」  木下は凝然とした。  悪い相手にぶつかったと思った。選りに選って、塚本はJCIAの幹部の娘に恋をしたのだ。  バレるわけであった。 「塚本は、まさか拷問されて口を割ったわけじゃないんでしょう」  男はゆっくり首を左右に振った。しかし、その否定が本物かどうか判らなかった。木下は男の言うとおりするしかないと思った。     国 会 「ひどい目に会ったな」  釈放された二人は、木下の部屋でぐったりと坐りこんでいる。 「済まない。俺の為に折角の錯覚屋がパアになっちゃって」  塚本は珍しく気弱な顔で言った。 「女はこわいな」 「まったくだ。でも、何も明子が悪いんじゃない」  塚本はかばうような言い方をしてから、急に気がついたように木下の表情を窺《うかが》った。 「いいんだよ。彼女はいい人だ」 「そう思ってくれるかい」 「ああ。月村氏も君らのことは認めると言っているじゃないか」 「あの糞《くそ》おやじがJCIAだからいけなかったんだ」 「運が悪かったのさ。そもそも京都へ行こうと言いだしたのは俺なんだ」 「お前の責任じゃない」  塚本はムキになっている。 「まあ、いいじゃないか。それよりどうする。月村氏に協力するって約束させられちゃったぜ」 「協力するしかないだろう。いやだと言えばブチ込まれちまうんだ」 「罪にするのはむずかしいらしいぜ」 「それにしても大騒ぎになる。お前の超能力もそれでおしまいってわけだ。日本中の人間が知っちまうんだぜ」  塚本はおどかすように言う。 「だから協力しようよ。今迄《いままで》の金もそのまんまでかまわないって言うし」  木下は考え込んだ。 「なあ塚本」 「なんだい」 「こいつは案外ラッキーだったかも知れないな」 「どうしてだ。なぐさめてくれなくてもいいんだぜ」 「なぐさめてるわけじゃない。本当にラッキーだったかもしれないと言ってるんだ。だって俺たちは退屈しはじめてたじゃないか。金はいくらでも入るが、そう要りもしない。銀行荒らしにも倦《あ》きちゃって、俺の超能力の使い道がなくなってた。稼いだ金で商売するにも俺たちはほかに何の能もありはしないだろ。結局、無駄に金をかき集めるしかない。そうなれば、スリルを求めていずれ銀行から持って出る金額だってエスカレートするにきまってる。いつかは本当におまわりにつかまっちまって正体がバレたかも知れないんだ」 「それもそうだな」 「月村氏のところで使ってもらおうよ。JCIAでもなんでもいいや。そのほうが生甲斐《いきがい》があるってもんだぜ」  塚本はパンと手を打った。 「よしきまった。俺もJCIAへ入れてもらう。いい息子になるよ」 「いい息子」  すると塚本は照れて首をすくめた。 「明子と結婚するんだもの。お父さんの言うことを聞かなくっちゃ」 「こいつ……」  やっと不安が去ったようであった。  最初の仕事がはじまるまでに、二人はすっかり気持を入れかえてしまっていた。JCIAの手先きと言えば嫌な感じだが、情報局のエージェントと表現すれば何やらジェームス・ボンドばりで気分がいい。 「暗号だの爆薬の扱い方だのを教えてくれないのかな」  塚本は本気でそんなことを言ったりしていた。  JCIAの仕事はじめは至って簡単なものであった。  二人はエージェントの一人に羽田へ連れて行かれた。 「あの外人が持っている鞄《かばん》をこっちへ奪いたいんだ」  男は到着ロビーの隅で一人の外人を示してささやいた。 「茶色い書類鞄ですね」 「そうだ。できるか」 「簡単ですよ」  木下と塚本のコンビは、するするとその外人に近寄り、塚本が外人のうしろにぴったりとついた。ロビーは混雑していた。  外人が急にロビーの人混みから抜け出て壁際へ行き、足もとに鞄を置いて何やら熱心にポケットを探りはじめた。探すものが見当たらないと気付くと、あわてて元いた場所へ戻って行く。そこにはその外人の仲間が五、六人輪を作って立っていた。  鞄は壁際へ置き忘れられている。それを塚本がさっととりあげて消えた。  仲間のところへ戻った外人は、その一人に何か早口で言っていたが、すぐほかの仲間に鞄のことを注意されたらしく、あわてて壁際へ行く。夢中になって探している。  いつの間にかJCIAの男が木下のそばへ来てささやいた。 「向こうの隅に置いてある。あいつに自分があの隅へ鞄を置いたのだと思い込ましてくれ」  木下は命令どおり、その外人に新しい錯覚を与えた。外人は隅へ行き、ほっとしたように茶色い鞄をとり戻した。 「上出来だ。行こう」  三人はひとかたまりになって足早にロビーを出た。 「中身を抜きやがったぜ」  塚本がそっと教えてくれた。  外へ出ると車が待っていて、三人はすぐそれに乗り込んだ。  空港を出て高速道路へ入るとすぐ、JCIAの男が内ポケットから分厚い封筒を出して木下に渡した。  木下はそれをひろげた。欧文でどうやら暗号臭いが、意味はまるで判らなかった。 「おい、いつ盗ったんだ」  男があわててそれを引ったくった。 「あんたが渡してくれたんですよ」  木下が言うと、塚本がケタケタと笑った。 「あ……」  男は唖然《あぜん》として木下をみつめている。 「冗談ですよ。仲間うちの……」 「もう二度とやるな」  男はうす気味悪そうに言った。  そんな簡単な仕事が続いた。木下は自分が月村たちに次第に重要視されて行くのが判った。月村の命令で二人は都内に三か所の隠れ家を作った。万一、二人の活躍が外部へ洩《も》れたときの用心らしかった。  だが、給料はおろか、隠れ家の費用も全部木下たちが持たされた。塚本がそのことで文句を言うと、月村はとり合わず、 「君らはいくらでも稼げるじゃないか」  と笑っただけであった。  要するに、銀行での荒稼ぎは黙認されるらしい。  塚本はあとで首をひねった。 「嫌なおやじだな、あれは」 「どうしてだい」 「判らないのか。俺たちが銀行で稼げば稼ぐほど、おやじさんの思いの儘にされるんだぜ」 「あ、そうか」  木下は非情な仕組の中に自分たちが置かれていることを実感した。 「銀行は当分中止だ」 「そうしよう」  二人はいましめ合った。  やがて大仕事らしいのがまわって来た。  衆議院予算委員会。  テレビ中継が行なわれていて、木下が役人たちの間へ紛れこんでいる。そばに月村がつきそっていて、塚本の姿はない。  野党委員の一人が起《た》って、さかんに大手業者の土地買占めについて追及している。 「あなたがたはこれを偶然だとおっしゃるのですか。新幹線が南北どのコースをとおるかで問題が紛糾したのは衆知の事実です。当時の新聞報道の記録がここにありますが、いちいちこれを読みあげなくても、あなたがたが一番よく知っているんではありませんか。……ところがですよ。ところが、その二年も前に、大手三商社のダミーと見られる業者が、その南まわり線の用地を大量に買収してしまっていた。なんと一坪三百円で二十万坪もおさえたはずです。その証拠もちゃんとあります。地元では、だから新幹線は南のコースをとるにきまっているという噂が信じられていました。するとどうです。ちゃんと南まわりにきまったじゃありませんか。その地区は、町のまん中でさえ坪七、八千円の価格だったのです。それが今では十万から二十万もするようになっています。住む人もない原野でさえ、二、三万はしているんですよ。いったい誰がつりあげてしまったんです。そして、その高い土地を買わなければ新幹線は走らないことになってしまった。さっき申しあげたとおり、買い占めた業者が大商社のダミーであることは証明されています。あなたがたはこれを元の状態に戻し、買ったときの価格で国民に返す気持ちはないのですか」  参考人として呼ばれている社長たちの中から、一人が代表として立ちあがった。 「たしかに、その中のひとつはわたしどもの系列会社です。別に隠そうとしたわけではなく、失念しておったのです」  社長はハンカチで額の汗をぬぐった。 「何せわたしどもの関連企業は多数ですので……」  社長は仲間をちらりと振り返って続ける。 「どうも、数々の疑惑を招いて困惑しておりますが、わたしどもが自由競争の原理に立って正当な活動をした結果であることを、よくご理解願いたいものだと思います。経営には情報が必要です。情報は企業の存続にとって不可欠のものになっているのです。わたしどもは、必要な情報には金と労力を惜しみません。それは、野党の委員の方々も同じであると思います。そして、その為には、どうしても政治的な情報をも握らなければならんのです。わたしどもはご承知のように、非常に巨額の政治献金を醵出《きよしゆつ》しておりますが、その献金の目的の一部は、必要な情報を入手することであります。野党委員はまるでわたくしどもが国民の血税をピンハネするようにおっしゃるが、わたしどもはあなたがたの党の一部の方にも、ちゃんと政治資金をお渡ししているのです。党レベルでもう一度よくお話合い願いたいですな。現に昨日も……」  と、社長は野党議員の名をすらすらと何人かあげ、渡した金額もはっきりと言った。 「わたしどもは利益を得るために活動している集団です。たしかに当初坪三百円の土地でした。しかし、そのままにしていたら、三百円は三百円。いつまでたっても値はあがらんし、買う者もおりますまい。そんな愚かなことを誰がしますか。北か南か、二者択一のところまで問題は煮つまっているのです。是が非でも南まわりに決定していただいて、われわれの利益を確保しなければならんのです。その為に、わたし共は関係当局及び国会議員のみなさんに、できる限りの利益を提供したのです。原価を公表せよとおっしゃるなら、いつでも公表する用意があります。この問題に関連して、どなたに幾らお渡ししたか、ここに詳細な記録があるのです。しかも、この新幹線問題をはじめにわたしどもに持って来られたのは、総理大臣です。一国の首相に親しく相談をされて、否というお答えができるものかできないものか、常識で考えてもその答ははっきりしております。わたしどもは、そんなに儲けてはおりません。三百円の土地をただ寝かしていたら二万円に値上がりしたのではないのです。それにはそれなりの資金が投下されているのです。ボロ儲けをするのは、わたしどもの活動で何もせずに値上がりした付近住民の方々なのです。われわれは、地元に繁栄をもたらし、しかもこのように国会で苦しい立場に立たされている。こんな馬鹿なことがありますでしょうか。ピンハネを言うなら、それは失礼だが国会議員の皆さんです。わたしどもは、企業活動の原理に基いて、正当な行動をしたまでであると、この際はっきりと申しあげておきます……」  木下を月村が肱で小突いた。 「凄《すご》いぞ。君の超能力は一段と高度に成長したらしい」  二人は騒然となったその部屋を抜けだした。 「旨く行った。これであの総理もおしまいだな」 「月村さんは野党側なんですか」 「いいや」  月村は珍しくにこやかだった。 「今の総理大臣では国が滅びる。出世しようと努力する貧乏人にはふたつのタイプがあるんだ。もと自分がいた庶民の立場で死ぬまで物を考える者と、劣等感が抜けずに生まれつきの金持ちや権力者以上に、札束をふりまわし権力を使いまくる奴さ。そういう奴は結局自分のことしか考えていない。かわいた土が水を吸うように、いくらでも利権をあさり、金持ちのうす汚なさばかりを身につけてしまうんだ。かえって生まれながらの貴族のほうがましなくらいだ」 「で、やっつけるわけですか」 「そうだよ。君にはもっともっと働いてもらわねばならんな」  木下は満足であった。  しかし、実況中継をした公共放送局は、定時のニュースには問題の部分を放送しなかった。いつものことなので怒るにも当たらなかったが、自分が関係しているだけに、木下には公共放送局の偏向ぶりがあらためてよく判った。     錯 覚  それから二年。  世の中はひどく混乱していた。月村がいった、例の出世しようと努力した貧乏人のせいであった。  手あたり次第とり放題に政治資金をかき集めたおかげで、政権は一時安定したかに見えた。だが、それはお菓子をバラ撒《ま》いて餓鬼大将にしてもらったひ弱な子供と同じことで、実際には金の縁が切れたとたん、すぐバラバラになる性質のものであった。  おまけに、金を出したほうが、勝手気儘をやりだした。建前など糞くらえで本音むきだしの悪どい商法が横行し、政治家はそれを糾弾するどころか、かばうのに躍起となっていた。  更に、その政権は経済援助を悪用して、他国から大量の資金を得ていたらしく、それに利用された第三国が、平気で日本国内で政治的な活動をはじめた。だが、主権を侵害されても、その政権は抗議するどころか、相手国の行為を弁護する姿勢しかとれないでいた。日本の政権のうしろぐらい弱味を、第三国に握らせてしまっていたのだ。  野党にはチャンスのはずであった。しかし無気力な在野第一党をはじめ、長く政権から離れている野党は遂に結束できず、月村たち与党の異端派閥につながる者だけが、その腐れ切った政治を正す可能性に恵まれていた。  木下の活躍は、ひそかだが確実でしかも強力であった。  なりあがり政権の汚濁の決定的な証拠が、月村たちの手もとに着々と積みあげられて行った。彼らはそれを武器に、相手方の退陣を迫った。  重大な機密がどんどん洩れていることに気付いた相手方は、すべての情報機関を動員してその漏洩《ろうえい》ルートを調べさせ、遂にJCIAの一部がその元凶であったことを知った。  苛烈《かれつ》な暗闘がはじまり、多くの命が闇《やみ》から闇へ消えて行った。木下は最も重要な人物となり、月村たちが必死にその命を守った。木下自身、何度もみずからの超能力で刺客の手から脱け出さねばならなかった。  塚本は、その過程で月村側の正規のエージェントとして教育され、成長して行った。明子と結婚して月村を義父とした塚本は、月村の片腕として、その徹底した調査癖を生かしていた。  そして遂に腐敗の極に達した政権は、内部から瓦解《がかい》した。同穴のむじなだったはずの実力者が、一人、また一人と首相から離れて行った。  政治家は常に大局から情勢を判断している。その大局の中心は常に彼自身であって、決して国家とか国民大衆ではない。  大局から見て、政権は腐りすぎていた。リンゴ樽《だる》のまん中のリンゴが完全に腐っていた。腐ったリンゴはとり除かれるかわり、その樽にとり残された。利口なリンゴはみな樽から逃げ出して、月村たちの樽に移って行った。  月村たちの樽はすぐ一杯になり、新鮮さを売り物に市場へ出された。成りあがりの腐れリンゴは、樽ごと忘れ去られた。 「もう安心だ。君も大手を振って歩ける世の中になったよ」  塚本が木下の隠れ家へ来てそう言ったのは、秋のはじめの月の明るい晩であった。 「やり甲斐があったな」  二人は苦難をのりこえてたくましく成長していた。 「高志は二歳になった」  塚本はしみじみと言った。 「俺たちは、どうやら本当の居場所を持てたようだな」  木下もはればれと言った。 「この仕事を続けるよ。錯覚の超能力なんて、ほかにまともな使い道があるわけないからな」 「でも、はじめのうち、随分世間に迷惑をかけてしまった」 「よそう、その話は。でも、相手が銀行だけでよかったぜ。銀行は少し儲けすぎていた。人の金を集めておいて、目減り分より低い利息しか出さないなんて、あんなボロい商売はありはしない」 「タバコ屋なんかを欺したぜ」 「この間、それとなく返して置いたよ。お釣りを忘れたふりをしてね」 「そうか。それはいいことをしてくれたな」 「ところでどうなんだ」 「何が……」 「本当にいい政治をやってくれるんだろうな」  すると塚本は警戒するような表情になった。 「余りストイックになりすぎないでくれよ」 「どうしてだ」 「お前はまだよく判っていないんだ。現場ばかりだからな。でも、政治なんて、本質的にはそう綺麗ごとばかりじゃすまないんだぜ。選挙には相変わらず金が掛かる」 「冗談じゃない。また資金集めか」 「ある程度はやむを得ないさ。もちろん以前のように派手にやるはずはないが、政権を維持するには、それなりに金が要る」 「やめてくれよ」 「まあ聞け。綺麗ごとにしたいさ。そりゃ綺麗ごとにしておきたいよ。でも、敗けた連中が盛り返して来たら元も子もないじゃないか。俺たちは守らなければならない。いいか、政治が腐っているというが、政界の金はいったいどこへ消えちまうんだ。議員の金庫か。違うね。いったんそこへも入るだろうが、またすぐ出て行くんだ。金は結局選挙民のところへ戻っちまう。選挙のビラ貼《は》りのバイト代から、結婚式のお祝い、葬式の花輪……。選挙のたびに公明選挙という理想論が出る。まるで政治家だけが悪人で、選挙こそ諸悪の根源みたいに言われる。しかしな、五億あれば当選で、三億じゃ落選だなどと本気で取沙汰《とりざた》されて……まあその通りには違いないけど、その金は空へ消えるんじゃないんだぜ。金のかかる選挙がいかんというなら、五億使って当選した奴に投票した者にこそ本当の責任があるんじゃないのかい。……つまり、ある程度の資金集めはやむを得んということさ。お前だから特にこのことを判ってもらいたい。お前がまたバラシ役にまわったんじゃ、何の為に苦労したんだか判らないことになる」  木下は黙って頷いた。塚本は一応安心したらしく帰って行った。  だが、木下は納得できなかった。まさかとは思うが、万一新政権が逆戻りを演ずるようなら、ただの派閥抗争に捲《ま》き込まれただけになってしまうのだ。  木下は独自の活動をはじめた。  それらしい所へ接近して、それとなく内情を掘り返しはじめたのだ。  一応前政権時代の腐敗は納まっているようであった。しかし、更に調べて行くと、国防産業関係に、以前にもました癒着《ゆちやく》ぶりが見えた。それに、月村の支配するJCIAは、超大国の情報機関と完全に連携していて、遠からず右傾姿勢を強化する予定であることが判った。  木下は、いつの間にか新しいグループに加わっていた。それは、月村たちを敵とする組織であった。  今度は月村たちに追われる身になった。木下一郎がどれほど恐るべき存在か身に沁《し》みて知っている月村たちは、はじめから復帰の説得をあきらめ、いきなり殺《け》そうとしていた。  今度の組織は防御力が弱かった。木下は自力で逃げまわらねばならなかった。冬が来て、霙《みぞれ》が降った。  木下は濡《ぬ》れて歩いた。凍え、かじかみ、腹を空かせ、とうとう山小屋へ追いつめられた。  粉雪が吹き込む山小屋で、木下は退路がないことを覚った。床板をはぎ、天井の梁《はり》を外し、辛《かろ》うじて小さな焚火《たきび》を維持しているが、それとても、あと何日も保たないようであった。  木下は、自分の超能力を、はじめて自分自身に使って見た。  彼は暖かい部屋で、ジュージューと音をたてる厚いステーキを切っていた。ワインがあり、サラダがあり、スープが湯気をたてていた。  すべては錯覚であった。自己暗示であった。木下はステーキを食い、ワインを飲んで腹一杯になり、うとうとと睡《ねむ》った。睡ったことだけは錯覚でなかった。 「起きろ」  木下は腹を蹴《け》とばされて目をさました。吹雪が山小屋の入口から烈しく吹き込んでいた。  男が五、六人、彼をみおろしていた。 「とうとう来たかい」  木下は言った。 「俺たちに妙なテを使っても無駄だぞ。外に何十人も来ている。俺たちが失敗するようだったら、小屋ごと爆破してしまう手はずだ」 「決死隊か、殺し屋の」  木下は嗤《わら》った。 「塚本は来ているのか」 「いるよ。ここへは来ないだろうが」 「そうだろうな」  男たちは拳銃《けんじゆう》をとりだした。 「なんだ……」  木下は笑いだした。 「そうか、錯覚だったんだな」  そう言って笑いこけた。久しぶりに出た心の底からの笑いであった。  すべては錯覚だったのだ。木下が超能力を使って作りだす錯覚など、その前ではみじめなものであった。  みんな、自分の為に生きている。  自分の為に生きるしかほかに方法がないのだ。それ以外に生きる方法はあり得ないのだ。  人の為に生きるという錯覚があった。人々の為に政治を行なうという錯覚があった。自分たちの為に政治をしてくれるという錯覚で、人々は候補者に一票を投じていた。  だが、その一票一票こそは、投票者個人が、自分の為に投じる一票なのであった。  当選した政治家は、自分の為に行動した。自分の為に法案を作り、自分の為に予算を練った。自分の次の選挙の為に道を作り橋を架け、自分の為に外交方針をたてた。  巨大な錯覚であった。この世を掩《おお》いつくす錯覚であった。  その錯覚のはてに、塚本の顔が泛《うか》んでいた。塚本も自分の為に生きている……。  友情も、愛も、所詮《しよせん》は自分たちが生きるためのことでしかない。  友情や愛の絶対値があるという錯覚にとらわれていたのである。  木下は銃声を聞いた。体がうしろへ叩《たた》きつけられた。  木下の錯覚はその時、完全に醒めた。自分の命が去って行くその瞬間、木下は最後の気力をふりしぼって言った。 「今度生まれたら、俺は、成りあがりの、腐れリンゴに、投票するよ。あいつは、正直者だ。今までで、いちばん正直なリンゴだったんだぜ……」  男たちが外で穴を掘りはじめていた。凍った大地の雪を払い、深く深く掘っていた。あと五分もすれば、木下はそこに葬られることであろう。 [#改ページ]   血《けつ》 霊《りよう》     1  額田《ぬかだ》敏雄がワインの味見《あじみ》をする間、北川宏志はなんとなく照れたように店の中を見まわしていた。  そういう造りがフランスの田舎《いなか》風というのだろうか。太い柱や梁《はり》は濃い焦茶色で、要所要所に黒くいぶしたごつい金具が打ちつけてある。椅子《いす》もテーブルもどっしりとした感じで、たしかに居心地は悪くない。そんな中に、真鍮《しんちゆう》の燭台などがピカピカに磨《みが》きたててあると、まるで黄金のかたまりのように思えてしまうのだった。  額田は大ぶりのワイングラスを唇《くちびる》にあて、しばらく前方を凝視して息を吸っていたが、おもむろにグラスの尻《しり》をもちあげた。顔を動かさず、グラスだけを動かして、赤い葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲んだ。グラスを持った左手の小指がはねあがっていて、それと自分の心臓の音でも聞くような、妙に敬虔《けいけん》な感じの額田の表情が、北川をいっそう照れ臭い気分にさせている。  額田はワインを飲みおえてグラスを置いた。傍に黒っぽいボトルを持って立っている四十がらみのウェイターに、顎《あご》を引いて頷《うなず》いて見せる。ウェイターは会釈してから、あらためて額田と北川のグラスにワインを満たして去った。テーブルの上に残されたボトルのラベルは、ひどくひからびた感じで、それに少し汚れていた。 「そう古いものじゃないんですが、この年のものは割りと旨《うま》いのです」  額田はグラスをあげ、北川にすすめるような仕草をした。 「シャトー……マルゴ、ですか」  北川はわざとラベルをのぞき込むようにして尋ねた。 「ええ」  額田は悠然《ゆうぜん》とワインを飲む。 「おや、まだとりかえてくれないのか」  額田はテーブルの右側を見て言った。 「この店は、ほかに言うことはないんです。料理も旨いしワインも揃《そろ》えている。ごらんになったように、ウェイターの供進のしかたも理想的でしょう」  北川は、供進と言われてすぐには意味が判らず、ちょっと額田をみつめていたが、それがサービスという意味であったのに気づくと、あわてて二度ほど頷いて見せた。 「ただひとつ、このスープのスプーンがいけません。肉厚《にくあつ》で歯に当たります。何度も言っているんですが……。これほど旨く食わせてくれるなら、こういうものにも気を使わなければいけません。スープのスプーンは、もう少しヒラヒラした感じでなければいけないんですよ」  たしかにそのスプーンは肉厚だった。しかし、北川にはどうでもいいことに思えた。それよりも、気に入っている料理屋の、そんな些細《ささい》な瑕《きず》をとりあげてことさららしく言う客の通ぶった態度のほうが、よほど料理を不味《まず》くするように思える。 「今度のことではすっかり先生のご厄介《やつかい》になってしまって本当に感謝しているんですが、とにかくこれではあべこべで……。編集長もいずれ何かでお返しをさせていただかなければ申しわけないと言っています」  北川はグラスを手に持って言った。 「いや、ちょうどそういうまわりあわせになっただけですよ。あなたのほうの仕事が、わたしのスケジュールにピタリとはまり込んで来た感じでしてね。いつでもこういうように行くといいんですが」  額田は寛大な微笑を泛《うか》べていた。 「自分のほうから企画を持ち出しておいて申しわけないんですが、実は僕はその岩津《いわづ》という辺りへ行くのははじめてなんです」  額田はさもあろうと言う風に物判りのいい顔で頷いた。 「辺鄙《へんぴ》なところですからねえ」 「もう今頃《いまごろ》は肌寒《はだざむ》いんでしょうか」  額田は北川から視線をそらし、思い泛べるような表情になった。 「そうですね。日本海というのは、どうしてあんなに陰鬱《いんうつ》な表情を持っているのでしょうか。それにひきかえ、太平洋は華やかだ。陸中海岸とは裏と表の関係になっているのですね。岩津海岸は夏でも荒涼とした感じです。波はいつも重々しい感じで、夏の暑いさかりでも、かろやかさというものがまったく欠けています。岩のごつごつした海岸ですが、本当を言えばいくらか砂浜もあるんです。湘南《しようなん》あたりだったら、きっと恰好《かつこう》の海水浴場としてにぎわうことでしょう」 「先生はいつごろそこにいらっしゃったのですか」 「戦争中ですよ」 「すると疎開ですか」 「いや似たようなものですが少し違います。わたしが疎開していたのは、山形の祖父の家なんです。縁故疎開という奴《やつ》でしてね。ですから、ほかの疎開児童たちと較べると余程のんびりしていたようです。岩津へはその祖父につれられて行ったのです。夏休みの間でしたが、終戦の年にもちょうどひと夏あそこで過しましたよ」 「ご親戚《しんせき》がいらっしゃるとか伺いましたが」 「今あそこにいるのは、菊山善五郎という爺《じい》さんです。代々善五郎を名乗る家でしてね。祖父の弟が菊山家へ養子に行ったわけです。今の善五郎氏は私の祖父の弟の長男に当たります。縁が薄くなって、もうほとんど行き来はしていないのですが」 「すると、随分久しぶりにそこへいらっしゃるわけですね」 「ええ。北海道へはよく行きますが、いつも飛行機ですし、秋田の日本海側ではついでに寄るという機会もない土地ですからね」  エスカルゴの皿《さら》が来た。殻《から》つきで、額田はすぐに鋏《はさみ》のような道具でそれを食べはじめた。その道具に手をのばすのが素早い感じだったところからすると、どうやら北川に使い方をそれとなく教える気があったらしい。  事実、北川はそんな道具を使ってかたつむりを食うのははじめてだった。北川は額田の思いやりに感謝しながらも、どこかで強い抵抗感を味わっていたようだった。     2  北川がそのレストランを出たのは八時近かった。額田はその店の前の歩道で腕時計をちらりと眺《なが》め、ちょうどいい時間だというように軽く頷いて見せた。 「放送局へまわりますので、これで失礼します」  北川はあわてて頭をさげた。 「簡単な打合せのつもりでしたのに、すっかりご馳走《ちそう》になってしまって……」 「それじゃ、たのしみにしていますよ。何か予定の変更があったら、事務所のほうへ連絡してください」 「は、どうも……」  北川がもう一度頭をさげたとき、額田はくるりと体をまわし、足早に去って行った。北川はしばらくそのうしろ姿を見送っていた。  額田は多分どこか近くに車を待たせていたのだろう。しかし、彼が歩いて行ったのは地下鉄の駅がある方角で、北川もこれからそっちへ歩いて行かねばならなかったのである。  遠のいて行く額田から目をそらせた北川は、二、三軒先きの薬局の店先きにある赤電話へ近寄って行った。  まず自分の会社へ電話をした。直通の番号をまわしたので、いきなり編集長が出た。 「北川です」 「おう、どうした」 「いま額田さんと別れたところです。撮影の件は全部オーケーです。あべこべに晩飯をご馳走になっちゃって……」 「お前、金なかったのか」 「少しは持ってましたけど」 「まあいいさ。俺はもう帰るぞ」 「僕も今日はこのまま帰らせてもらいます」 「額田さんは食通だと言うからな。旨かったか」 「いい線いってました」  編集長はアハハ……と笑って電話を切った。北川は受話器を離さず、すぐ斎木晶子《さいきあきこ》のアパートへ電話をかける。呼出音を四回聞いたところで受話器を置き、戻《もど》った十円玉をポケットへ入れながら駅へ歩きはじめた。  晶子はもう家を出たらしい。北川は六本木で彼女と会う約束をしていた。  その店の名はカルバドスと言い、六本木の表通りから少し入ったビルの地下にあった。  約束は九時ということで、北川は自分のほうがひと足先きにその店へ入ったつもりであったが、入口に立ってうす暗い店内を見まわしていると、一番奥の隅《すみ》にあるテーブルで晶子が手をあげていた。 「早かったのね」  晶子は大きなブランデー・グラスを左手に持って北川を見あげた。その席にはほかに三人の男たちがいて、どの男とも北川は顔見知りであった。 「今晩は」  北川が男たちに挨拶《あいさつ》をすると、その中の一人が晶子の横から椅子をひとつ移って、北川の席をあけた。 「いいんですよ、どうぞ……」  北川が遠慮すると男たちが笑った。 「北さん、あんたそれでとぼけてる気かね」 「とぼけるわけじゃないけど。……それじゃまあ、遠慮なく」  北川はあけられた場所へ坐《すわ》る。 「しかし、斎木晶子が北川君とねえ……」  テーブルをまん中に壁を背にして北川と晶子、それに向き合って三人の男が並んだ恰好になり、北川から見て一番右端に坐っている角ばった顔の男が言った。 「嫌《いや》だわ。本間さん、さっきからあんなことばかり言って」  晶子が閉口したように言う。だが本間はかまわずに続けた。 「北川君は知らんだろうけれど、この女性がどんな男を恋人にするかということについては、昔から問題だったんだぞ」 「へえ、知りませんでしたね」  北川は笑ってうけ流し、傍へ来た若いウェイターに飲物の名を言った。その程度で閉口するような柄ではないし、だいいち本間というその五十男は欧米文学の翻訳家で、斎木晶子の師匠筋に当たる人物なのである。いずれ結婚ということにでもなれば、仲人になってもらうべき存在だった。 「斎木君にさっき聞いたんだが、作曲家の額田敏雄に会うそうだね」  本間のとなりに坐っている男が尋ねた。編集関係では北川のずっと先輩に当たる人物で、本間とは若いころからの友人だということであった。 「ええ、いま会って来たところです」 「彼のところでいま音楽史を企画しているんだよ」  本間が言った。 「むずかしい人だと言うが、どうだい」  本間の友人はどうやら近い内に額田と接触しなければならない様子であった。 「そう気むずかしい人じゃありませんよ。仕事の話で会いに行ったのに、あべこべに晩飯を奢《おご》ってもらっちゃって……」  北川は晶子を見て肩をすくめた。一緒に食事をする約束だったのだ。 「北さんは額田氏とははじめてなのかい」  席をあけてくれた男が言った。北川と同じ年で、ライバル誌の編集部員である。やはり本間と一緒にこの店へ来たのだろう。その雑誌が近頃はじめた海外ミステリー・シリーズは、ほとんど本間が翻訳している。 「うん、はじめてだ」 「別に珍しいことじゃないが、額田氏はうまく使いわけをするんだよ」 「使いわけ……」 「君らなんかには丁寧なはずだ。でも、放送関係なんかには凄《すご》く手きびしいらしいぜ。種をまいて置いたほうがいいところには、至って物柔らかによくするが、自分のものにしちまったところでは俄然《がぜん》ワンマンになるという噂《うわさ》だ」  北川は煙草《たばこ》に火をつけながら、レストランの前で別れを告げ、地下鉄の駅のほうへ歩いて行った額田のうしろ姿を思い出していた。 「とにかく旨い飯だった」  北川は気を変えるように、背筋を伸して言った。晶子がそっと目立たぬように気をつかいながら、灰皿を北川の前へ動かしていた。 「でも、額田さんて素敵じゃないの」 「ほう、斎木晶子はあんなのが好きか」  本間が言った。 「テレビや写真でしか見たことないけど、とても品のいい紳士だわねえ、何をご馳走になったの」 「フランス料理さ」 「そうだろう。あれはそういう感じだな。額田敏雄が寿司をつまんでいるところなんて、ちょっと想像しにくいよ」  本間が言うと男たちが軽く笑った。 「毛なみがよくて才能があって世渡りがうまいと来ちゃ、まるで俺たちとは別世界の人間だ」  ウェイターがジン・ロックを北川の前へ置いて行った。 「彼は東日本重工と何か関係がある人なんだそうだね」  ライバル誌の編集部員が、ジンを飲みはじめる北川の口もとを眩《まぶ》しそうな表情でみつめながら言った。まるで酒が飲めない男なのだ。 「今度の仕事はそれでうまく行ったんだ。東日本重工が秋田県に大きな工場を作るって話……」 「うん。でも工場なんてものじゃないそうだぜ。コンビナートだそうだ」 「何かそこへ行くらしいんだ。うちのグラビアのシリーズをやっているカメラマンの日比木《ひびき》健が、額田さんだったらどうしても日本海側の絵で行きたいというのさ。どういうイメージだか僕にはよく判らないんだけど、日比木健あたりの目には、額田さんという人間にひどく日本的なものが感じられるらしいんだな」  するとそれまで黙って聞いていた本間の友人が口をひらいた。 「さすがカメラマンだな」 「そうですか」 「そうさ。たしかに額田敏雄は日本人の典型みたいなところがある。彼の音楽なんかはまるで日本的だ。それを売り物にしすぎてるほどだ。ただ、われわれがいま言っている、いわゆる日本的なものとはかなり違うがね」 「そんなもんですかね」 「われわれがこれは日本的だという場合、どういうわけかひどく庶民的なほうへかたよっている。たとえばわらぶきの農家と柿《かき》の木とか、朝顔の鉢植《はちう》えを置いた格子戸とか、浴衣《ゆかた》にうちわ、あるいは鎧武者《よろいむしや》に梅とか桜……。そうだろう」  本間は同意を求められて声を高くした。 「そう言えばそうだな。上のほうのイメージが精々鎧武者だよ。衣冠束帯《いかんそくたい》のお公家《くげ》さんとなると、なんというか、バタ臭いというかキムチ臭いというか、今のわれわれの感覚からすると外国めいた感じがするものな」 「そうなのさ。ところがどうも今の日本的という奴は、室町以降のものらしいじゃないか。それも、ぐっと下って徳川中期以後のものをわれわれは日本的と言ってる。でも、あの額田という男にはそれ以前の日本の感じがあるんだな。日本に統一国家を作りあげた人々……」 「大和朝廷風だって言うんですか」  北川は思わず笑った。 「日本のエリートの典型さ」 「エリートであることはたしかですね」 「外国の文物をとりいれて、大衆の間へ根づかせる。日本のエリートたちがやって来た主な仕事はずっとそれだよ。額田は今もそれをやっている。西洋音楽を日本に完全に定着させようとしているんだ。もちろん、そっくりそのままではない。日本の風土に根づきやすいよう、大衆が面白おかしく吸収してしまうよう、あの手この手を考えてやっている。しかも、明治の先覚者たちも同じことだが、その底にはかなり強烈なナショナリズムがあるんだ。まずとりいれ、追いついてから対抗してやろうという……。幕末の開国論と同じさ。だからもしも額田に西洋かぶれなんて言ったら、きっと青筋たてて怒るだろう。俺は日本人だ、ってね」 「スマートだわ、あの人」  晶子が話をまるで聞いていなかったかのように言った。四人の男がはぐらかされたように晶子をみつめた。 「あの人の髪、まっくろだけど、とても柔らかそう」  北川は額田の黒々とした髪を思いだした。 「俺のはどうだ」  本間がおどけてテーブルの上へ顔を伏せ、頭をつきだして見せた。 「本間さんの髪も複雑で素敵」 「複雑……」  本間は顔をあげた。 「白いのと黒いののまじり具合が」 「こいつ」  男たちは笑い、話題が柔らかくなって行った。北川はさりげなく晶子と目を合わせた。晶子の上瞼《うわまぶた》が、ひどく睡《ねむ》そうに、ゆっくりと一度下へおりた。早く二人きりになりたいという意味であった。     3  北へ向うその急行列車は、午後八時ちょっと過ぎに発車した。乗換駅の東能代《ひがしのしろ》へは、翌朝の八時ごろ着く予定である。  旅なれたカメラマンの日比木健とその助手は、走りだすやいなや睡る態勢に入って、額田敏雄と北川の会話に加わって来ようとはしなかった。 「さすがにこの人たちはプロだね」  額田は苦笑するように言った。 「カメラマンというのは、かなりの肉体労働ですからね」 「日比木君は幾つになるんだね」 「三十二でしたか」 「今の日本で、こういう寝かたのできる若い人はしあわせだな」 「どうしてです」 「だってそうじゃないか。今の若い連中はみんな不眠症みたいなもんだ。日本人の生活時間というのは、就寝がどんどん遅くなってしまっている。考えて見給え。深夜放送なんて、昔の考え方をしたらまるで滅茶苦茶な存在だよ。子供は早く寝る。早寝早起き……それが鉄則だった」 「でも、こう受験の競争率が高くなっては仕方ないでしょう。昔と今とでは……」 「深夜放送を聞いている若者が全部受験生とは限らない。それに、本来伸びざかり育ちざかりの年齢だよ。人一倍睡たがって当たり前だ。昼間は昼間で高校や予備校へ通っているんだろう。それが深夜放送を聞きながら勉強している。……まあ、勉強しているとしてだ。いったい、いつ寝るのかね。遅くとも朝の九時ごろには出かけなければならないんだろう。十代の若者が毎日そんな短い睡眠時間で、よく平気でいられるもんだね」  額田はそう言い、あらためて前の座席にいるカメラマンとその助手を眺《なが》めた。 「体を使わないんだ。不健康だなあ」 「気の毒な面もありますよ。特にお金を出さない限り、体を使う場所や機会があまりないんですからね」 「この人たちを見なさい。体を使って金を稼《かせ》いでいる。しかもかなりクリエイティヴな内容じゃないか。そして、明日に備えてこうしてさっさと寝てしまう。だが、大多数の若者は、まだテレビを見たり、うろうろと町を歩きまわったりしている。穴倉のような店の濁った空気の中で、官能だけしか刺激しないような低級な音楽に膝《ひざ》をゆすり、なまけ者同士の議論をくり返している。ぞっとするね。平和だからそれでもなんとかなる。しかし、それは彼らが築いた平和じゃないんだ。その上、他人がくれた平和の中に甘ったれて暮しているくせに、自分たちが力を合わせてその平和を維持しようなんて気は、これっぱかりもない。緊急事態になったら手も足もでないはずだよ。朝起きたら牛乳が来ていない……参った参った。そう言うに違いない。シャンプーがなければ髪も洗えん奴らだ」 「若い人がおきらいですか」 「好きだよ。どんな宝よりも若さのほうが価値がある。だからわたしは怒っているんだ。せっかくの若さを、なんという無駄な使い方をしてしまうのかねえ。ひとつには、大人たちにも責任がある。たとえば、深夜放送を聞きながら受験勉強ができるという……。本当にそうなのかね。精神を一点に集中して、なおかつディスク・ジョッキーがたのしめるのは、天才のすることじゃないのかね。まあ、若い当人たちはそれでも出来るとしよう。だが、親がやはりそれでも勉強できると思い込むのはおかしいじゃないか。親たちは、本当はラジオを聞きながらの勉強など、身が入るものではないと思っているに違いないんだ。ところが、息子の部屋へ行ってラジオのスイッチを切ることができない。いくじのない親だ。いくじがないのを隠すために、ながら族を認めてしまう、理解したふりをする。一事が万事、なんでもそのとおり。放送、出版、衣料、食品……どの分野でも、ヤングを狙《ねら》えと合言葉のようにしている。考えてみればおかしなことだ。十代の子供がなんでそんなに購買力があるのかね。彼らは金を稼がないじゃないか。親がやっているんだ」  額田はドイツ煙草の蓋《ふた》をあけて北川にすすめた。二人とも煙草を咥《くわ》え、北川がライターを鳴らして額田にさしだした。 「まあ、ここまで来てしまっては仕方がないけれど、これはなんとかしなければいけませんよ」 「そうですねえ」  北川は合槌《あいづち》を打った。額田の喋《しやべ》り方はいつも断定的で、うっかり反対すると猛反論に会いそうな気がするのである。  とは言え、北川は額田の若者論にとりたてて異論をとなえる気もなかった。もっともなことだし、なんとかなるものなら、早くなんとかしたらいいとさえ思うのである。  だが、どこかに胡散臭《うさんくさ》いものが感じられもする。北川自身、額田が攻撃する若者の領域にいる気がしている。年齢はもう三十四で、ヤングと言われたら照れずにはいられないが、かと言って、変に老成した顔で、額田と同じ側からヤングを批判する気にもなれないのであった。 「湊町《みなとまち》に着くのは十時ごろでしたね」  北川は話題を変えた。 「そうだね」 「僕ら、最初は先生を出雲あたりへお連れしようと思っていたんです」 「出雲もいいねえ。山陰は好きですよ」 「日比木君以外にも、先生をとても日本的だという人たちがいるんです」 「ほう」  額田は微笑した。 「僕はこの通り日本人にしては背が高いほうだし。……でも僕は日本人だよ。自分でもときどき嫌《いや》になるくらい日本的なものを背負い込んでしまっている」 「その人たちが言うには、先生はわれわれが現在|漠然《ばくぜん》と言っている日本的なものではなく、それよりずっと前の、出雲や大和の時代の日本人という感じなんだそうです」 「光栄だねえ」  額田はたのしそうに笑った。  時間はもう零時近く、うしろへ飛び去るあかりのほか、車窓からは何も見えなかった。 「間もなく福島だね」  額田は腕時計を見て言った。車内は妙に黄色っぽく見えている。ものうくなるような震動の中で、乗客たちは睡るともなくじっと坐っていた。 「湊町というのは、以前はそれこそ何の変哲もない漁港だった。舗装された道路は一本もなく、穴ぼこだらけの道を、魚臭いオート三輪がバタバタと通り抜けていた。例の町村合併で、その湊町と付近の三つの村が一緒になり、岩津町という名にかわってしまったんだよ」  額田はのんびりとした声になっていた。 「真上《まがみ》村、菊山村、知川《ちかわ》村の三つだ」 「菊山村ですね、先生が昔いらっしゃったことがあるのは」 「なぜ知っているんだ」 「おっしゃったでしょう。ご親戚《しんせき》に菊山という名の方がおいでとか……」 「ああ、そうだったね。菊山善五郎。その家の当主は代々善五郎というんだ。屋号でね。静かな村だったが、東日本重工があんな大きなものを計画したんで、やはりだいぶかわってしまったろうな」 「なんでそこへおいでになるんですか」 「東日本重工の新しい社歌をたのまれているんだよ」 「社歌。会社の歌ですか」 「そうだ。社歌だの校歌だのはどれも古臭くてね。もっと今の人が親しめるものにしなくてはいけないよ」 「それで先生がお手本をというわけですか」 「東日本重工の主力工場は、いずれあそこになる。一度見ておきたかったのさ。だから君が日本海の風景でと言って来たとき、これはいいきっかけだと思ったんだ」  その新しい社歌に、きっとかなりの金が支払われるのだろう。北川はそう思うと、額田の商売に利用された気がして白けた気分になった。  雑誌のグラビアに出て、額田はわざわざ現地へ行ったことを発注者側に証明して見せるわけである。その上旅費、滞在費は出版社持ちで、自分では切符の手配ひとつせずにすむ。  額田ほどの男になると、要領がいいとかこすいとか言う者はどこにもいない。東日本重工側は、かえってマスコミに対する額田の力に感心するはずであった。     4  東能代でその列車を降りたのは、上野を出てから丁度《ちようど》十二時間目であった。小一時間も待って五能線にのり込み、日本海の朝景色を眺めながら一時間ほど揺られていると、列車はちょっとした長さの鉄橋を渡った。 「今のが知川だ」  額田はそう言って立ちあがった。日比木と助手の三浦が網棚《あみだな》から機材の入った重いジュラルミンのケースをおろし、四人は学生や勤め人が立っている通路をデッキへ向った。 「みなと、まちい……」  スピーカーを使わず、ホームに立った駅員がひどく郷愁をそそる声で駅名を呼称していた。  駅舎は山側を向いており、木造の渡線橋が古びた趣きを漂わせている。下りホームの海側は貨物駅になっていて、その向うには黒ペンキを塗った魚市場らしい大きな屋根があり、その先は港で、漁船の群れが鈍い色の空と、もうひんやりとした感じになった海の間で揺れていた。  潮風と魚の匂《にお》いにとりまかれて、四人はガタガタと靴音《くつおと》を響かせる橋を渡って上り線のホームから改札口を出た。  東京では初秋だが、このあたりではすでに秋がおわろうとしていた。  鋭い警笛を鳴らして、乗って来た列車がゆっくりと北へ向って行った。そういう時間帯なのだろうか。湊町で降りたのは中年の女がひとかたまりと、ゴム長《なが》をはいた男が二、三人。それに北川たちの四人だけであった。 「これはひどいな」  左側に木のベンチを四つほど並べた待合室、右が出札口という、典型的な田舎駅の真正面に、山なみへ向って一直線に太く殺風景な道が伸びていた。そこを泥《どろ》だらけのダンプカーが、はらはらするようなスピードで往《ゆ》き交《か》っている。  鄙《ひな》びた駅とその開発のエネルギーは、すさまじいほどの対比を示していた。 「なんてこったい」  長髪で痩《や》せぎすな日比木が、綿のジャンパーの肩先をそびやかして言った。 「この町は心臓をえぐられちまってる」  たしかにそんな感じであった。古くからある民家の群れは、その太い道路で真っぷたつに分断され、埃《ほこり》まみれで低い軒を寄せ合っている。  すでに、町としての活気は完全に失《う》せていた。酒屋や薬局や衣料品店は店をひらいている。だが、疾駆するダンプカーのエネルギーにくらべると、それはまるで息もたえだえな病人のようであった。人通りはほとんどなく、列車から降りた人々も、背を丸め、何かに追われるように、すぐどこかへ消え散ってしまった。 「いきなり近代化って奴に見舞われたんだ」  日比木は怒りを示していた。 「かわいそうだよ、こんなちっちゃな町に……」 「たしかに今のところはそんな感じだね」  額田はなだめるように言った。 「でも、そのうちここも立派に生まれかわるさ。岩津市になるだろう」 「東日本重工みたいなマンモス企業が本腰をいれてるんですから、きっとそうなるでしょう。でも、僕はいやだな。かわいそうで……」  額田はそれにアーティスト同士の理解を泛《うか》べて言う。 「君はいい人だねえ」  その時、小ざっぱりとした作業服姿の中年男が四人に近づいて来た。 「東京からお見えになった額田様でいらっしゃいますか」  鄭重《ていちよう》な物腰であった。 「ええ」  額田が答える。 「お迎えにあがりました」  男はそう言うとふりむいて左手をあげた。駅の南側のかげから黒い乗用車が出て来て駅の正面にとまった。わりと新しい型のクライスラーであった。シートには白いカバーがついている。 「どうぞお乗りください」  作業服の男がドアをあけて言った。同じ作業服姿の運転手が素早くうしろへまわってトランクをあけ、ジュラルミンのケースや北川たちの鞄をしまってくれる。  うしろに三人、前に三人乗って、車は静かに走りだした。バンパーの右端に、東日本重工の社旗がつけてある。  クライスラーはいったん駅前の太い道に入り、すぐ左折した。太い道はアスファルトをしいた簡易舗装だったが、その道は綺麗に本格舗装されていて、三メートルくらいの若い木が両側に植えられていた。ちょうど町の家なみの裏を通る感じで、道の右側は田圃《たんぼ》が続いている。一直線のその道の突き当たりは、警察のような感じのする鉄筋三階建ての建物になっていて、その建物の右側に、大きな駐車場のような広場が田圃の中へ突出していた。  車はその建物の正面へ横づけにされた。  東日本重工岩津地区整備本部。  正面のドアの横にそう書いた厚い板がかけてあった。 「大場泰造さんがいるそうだね」  額田が車をおりながら言った。 「はい。どうぞこちらへ」  中年男がドアをあけて答える。内部は何もかもまだ新しく、落ちつかぬ感じであった。 「では、ちょっと君たちは待っていてくれないか」  奥へ行きかけた額田が言った。建物の中には十五、六人の男女がいて、みな静かにデスクに向っていたが、四人の客に対する好奇心はありありとしていた。 「おい、あれ見ろよ」  日比木が田圃の見える窓へ近付いて言った。そのそばに応接セットが置いてあり、灰皿をのせたテーブルセンターが、妙にひからびた感じであった。 「どれよ。なんのこと……」  助手が低い声で窓ぎわに日比木と並んだ。 「あの丸い白線さ。なんだと思う」 「さあ」  助手が首をひねった。 「北さん、見なよ」  日比木が言う。 「どれ」  北川が日比木の指さすほうを見ると、コンクリートの広い駐車場のようなスペースの中央に、かなり大きな円が白線で描かれていた。 「ヘリポートだよ、あれは」 「あ、そうか」 「大したもんだね」  北川と日比木は顔を見合わせながらソファーに坐った。 「見てよ、これ」  三浦というその若い助手は、壁に飾ってある大きな地図を見あげて言った。  岩津地区整備計画図。……それは東日本重工がこのあたりに建設する、とほうもない大工場のプランであった。湊町、真上村、菊山村、知川村の四つの地域を、それはまるごと呑《の》み込んでしまっていた。 「へえ……港もこんなにでっかくするんだって」  三浦は呆《あき》れたように言った。 「引込線だって、ほら」  湊町駅と、もうひとつ南の駅のあたりから、線路がその地域へ何本も伸びている。 「大変な工事だな、こいつは」  日比木が言った。コロコロと堅肥《かたぶと》りに肥った娘が、いやにかしこまった様子で三人にお茶を運んで来た。 「あれ、この建物は湊町の役場になるんだってさ」  三浦が地図を指さして言う。 「地元じゃ有難がってるだろうな」  日比木がお茶をとりあげながら言った。 「そのかわり、ここは東日本重工藩になってしまう」 「まあそうだな」 「じゃんじゃんぶちこわしてるところを撮ってやろうか」 「カメラマンは君だ。好きなようにやりなよ」  北川は微笑を泛べて言った。 「でも、とにかく第一印象は悪かったな。随分あちこちまわったけれど、こんな所ははじめてだ。何だか死んでひからびてしまった人間を解剖してるような感じだよ」 「曇りだし、陰気だからだろう」 「違うね。陰気な土地ならいくらでも知ってるが、ここはそれとも違う。鄙びた、自然そのままの土地へいきなり鉄の爪《つめ》をたてた悪魔がいるんだ」 「でかい声で言うなよ」  北川がたしなめた。 「この土地はそうだ。悪魔に売り渡されたって感じさ。緑をひんむかれてどこもここも赤はだかだ。奥へ行けばもっと凄いことになっているだろう」 「そいつを撮ればいいじゃないか。そこから生まれるものに対して、額田さんが新しい歌を贈ろうというんだからな」  すると日比木はニヤリとした。 「皮肉な絵になるぜ」 「いいよ。うちは面白ければそれでいい」 「煽《あお》るね、北さん。あの先生を好きじゃないな」 「俺は中立さ」  北川は笑って見せた。どうやら当初の企画からだいぶズレた写真になりそうであった。     5  結局、整備本部で昼飯になった。 「こんな所へ来てまで寿司でやがる」  応接室風に仕切られた場所に移されて、低いテーブルの上に茶と寿司が並んでいるのを見た日比木がぼやいた。 「でもネタはいいだろう。何しろすぐそこが漁港だからな」  北川がとりなすように言った。 「まったく、日本中どこへ行っても寿司屋があるようになってしまったね」  額田《ぬかだ》も苦笑し、 「男鹿《おが》には旨い磯料理《いそりようり》があるのだがね」  と言った。 「ああ、桶《おけ》に水と魚をいれといて、熱い石をほうりこむ奴でしょう。煮たってから味噌《みそ》で味をつける……」  日比木はそう言って、握り寿司を口へ運んだ。 「石焼料理というんだよ」  額田も寿司をつまみ、しばらく四人は黙ってそのいささか大ぶりすぎる握り寿司を食べていた。 「ところで、どこで撮るかね」  額田が日比木に尋ねた。 「港でもいいし、海岸でもいいし」 「いいえ」  日比木はきっぱりと言った。 「奥へ入りましょう。出雲のようによく知られた場所が背景なら別ですが、ただの裏日本風景なら何もここまで来る必要はありません」 「それもそうだな」 「これだけ大規模な開発が行なわれているのですから、それをバックにしない手はありませんよ。額田さんは東日本重工の社歌を作曲なさるんでここへいらっしゃったんでしょう」 「うん。まあそんなところだ」 「だったらなおいいじゃありませんか」  日比木の言い方はかなり挑発《ちようはつ》的であった。 「歌のPRになってしまうよ」  額田は寛大な微笑を見せていた。北川は彼が反対しないわけを悟った。額田の眼目は東日本重工であって、雑誌のグラビアなどどうでもいいのだ。しかし、それが東日本重工に対して何かの効果を発揮するとなれば、雑誌のグラビアでも積極的に利用してやろうというのだろう。だいたい今度の撮影をふたつ返事で引受けたのも、もともとこの岩津地区へ来れるからだったのだし、その意味では日比木の提案はまさに彼の思う壺《つぼ》なのである。 「実は、菊山村というのは、本当に菊ばかりの山があるんだよ。いや、山というほどじゃない。丘だがね」 「へえ、菊ならシーズンじゃないですか」 「君は男鹿半島を知っているらしいが、それならあそこの西海岸に、野生の椿《つばき》でおおわれた丘があるのを知っているだろう」 「ああ、そうでしたね。地名も椿というんでしたね。船川港から遊覧船で行きましたよ。自生の椿の北限とかで、天然記念物か何かに……」 「そうだ。ちょうどあんなような丘だよ」 「それで菊山村なんですか。するとずいぶん古くからあるんですね」 「そうらしい。知川の川口一帯から少し中へ入ったところまでが知川村で、菊山村はそこから先きだ」 「道路の突き当たりに見えている山は何ですか」 「白髪《しらがみ》山地だよ。知川の上流は白髪山地までが真上《まがみ》村というんだ」 「じゃあ、その菊山というのへ行きましょう」 「どうやら、われわれは幸運だったらしい。その菊ばかりの丘は削られてしまうらしい。写真に残すのは君が最後になるかも知れない」 「こわしちゃうんですか」  北川が尋ねた。 「何しろ開発のどまん中に当たるからね」 「勿体《もつたい》ないですね。然るべきところにあれば、大した観光資源なのに」 「そういうことだね」  額田は頷いてお茶を飲んだ。 「外のヘリポートみたいな所に、大型のジープが置いてあったようですけど、あれを借りられませんかね」  日比木が言った。 「ジープをかい」  北川が怪訝《けげん》な表情をすると、日比木は不服そうに、 「だって、道のいいのはこの辺りだけだろう。造成中の土地なんて、みんなそんなもんさ。さっきのクライスラーで案内されたんじゃ、思ったところへ行けやしないさ」 「なるほど、餅《もち》は餅屋だね。そうだな、あのジープを借りられるかどうか聞いて見よう」  額田はそう言って立ちあがり、規格品の間仕切りで仕切られたその応接室を出て行った。日比木は北川と顔を見合わせ、なんとなく肩をすくめて見せる。  額田はすぐ戻って来た。 「かまわないそうだ、ガスを満タンにするから少し待ってくれということだ」 「あいつなら泥んこの中でも突っ走れますよ」  三浦が気負い込んで言う。 「ただし、対向車に気をつけてくれと言っていたぞ」  額田はニヤニヤしている。 「なんでです」 「どうやらこの辺りはもう東日本重工の工場の構内扱いになっているらしい。ライセンスを持っていない奴が平気ですっとばしているようだ」 「危《やば》いなあ」  三浦が笑った。 「いろいろ面白い所らしい」  額田は意味ありげに北川を見た。 「まだほかにも何かあるんですか」 「何しろ辺鄙なところだ。菊山村のあたりにちょっとした飯場《はんば》の団地のようなものがあるそうなのだが、だいぶ妙な連中が紛れ込んでいるらしい」 「妙な連中と言いますと」 「学生運動家だよ。過激派という奴だな。警察や反対派に追われたのが、ここを恰好のかくれ場にしているらしい」 「東日本重工はそれを黙認しているんですか」 「おいおい、まだ建設中だよ。彼らがもぐり込んでいるのは、工事を請負った会社の飯場だ」 「知ってる奴がいるかも知れませんね」  北川は首を傾げた。彼は以前、長い間その方面の取材を担当していたのだ。 「ここんとこしばらく姿を見せない奴がだいぶいるんですよ」  北川はつぶやくように言った。     6  整備本部の建物の前に、米軍のものだったらしい大型ジープが引きだされていた。うす汚くなっているが、それだけに逞《たくま》しい感じであった。 「寒いな」  額田が肩をすくめた。空は灰色で低く、風は湿ってしかも冷たかった。 「おい、君たちも一枚出して着たらどうだ」  額田は車に積もうとしていたボストン・バッグから、紺のジャンパーを引っぱりだして言った。  そのジャンパーを着おえた額田が、腰をかがめてバッグのチャックをしめている時、急に強い風が吹いた。額田の柔らかい髪が風に煽られて逆毛をたてたようになった。 「もう冬の風だな、これは」  額田はバッグをジープへ抛りあげ、両手で髪をなでつけながら海のほうを見た。風は海側から吹いていた。 「急に降りだすことがありますので」  駅へ迎えに来てくれた中年男が、防水コートをひとかかえ持って来て言った。 「ぬかった所へおいでになるのでしたら、長靴もたくさんありますが」 「貸してください」  日比木がすかさず言った。 「どうも妙な絵になりそうだね」  スタイリストの額田は苦笑している。  その時、遠くで空《から》のドラム罐《かん》をコンクリートの床へ投げ出したような音が響いた。 「なんだ、雷か」  四人が音のした海のほうの空を眺めた。 「秋田名物八森ハタハタ、男鹿では男鹿ぶりこ、と言います」  ゴム長を運んで来た若い男がおどけて秋田|訛《なま》りで言った。 「そうか、はたた神か」  額田が大声で言った。 「はたた神……」  北川が尋ねた。 「忘れてたよ。ここはハタハタ漁の本場だった」 「ハタハタって、あの、魚の……」 「そうだ。ハタハタは冬が近づくと岸に寄って来る。海草に卵を産みつける為だ。それがハタハタの漁期なのさ。そして、ハタハタの漁期が近づくと、まるで漁の合図のように、きまって雷が鳴るんだ。その雷を、この辺りでは、はたた神と呼んでいる。だから、ハタハタは一名かみなり魚とも言うんだ」 「へえ、そうなんですか」  三浦はジープの運転席にあがって言った。 「新宿に塩汁鍋《しよつつるなべ》の店があるんです。そこでハタハタを食べたことがあります」  三浦はエンジンをかけた。調子を見るために四、五回激しくふかせた。その音に重なってまた雷鳴がとどろいた。  日比木が三浦の横、北川と額田はうしろの堅いシートに乗りこんだ。北川はすぐ靴をぬいでゴム長を引き寄せた。ジープが急に走りだし、北川はうしろへ倒れそうになる。むきだしのジープの上に冷たく湿った風が吹きつけ、鉛色の空の奥で、何かが激しく揺れ動いているようであった。  黒いアスファルトの道路へ出たジープは、真正面に見える白髪山地へ向けて走りはじめた。そう大したスピードを出してはいないのだが、北川の耳もとでヒュウヒュウと風が鳴っていた。  道のアスファルトが黒く見えていたのは最初のうちだけであった。やがてそれはダンプカーが撒きちらした土くれで、いちめん泥の色にかわって行く。 「へたにブレーキを使うとスリップしちゃう」  三浦が大声で叫んだ。空《から》のダンプが二台、いきり立ったようなスピードですれ違った。  田圃が無残な様子で造成の残土に侵されていた。山林も農地も見境いなくつぶされていることがひと目で判った。  道の両側はしだいに荒涼として来て、どこもここも掘り返された跡ばかりになった。そんな中に、ポツンと緑のかたまりが残されている。まるで、腫物《はれもの》の部分を刈り残した丸刈りの頭のように、無残に掘り返されたところより、その昔の緑を残したところのほうが汚ならしい感じであった。 「あの墓はどうなるんですかねえ」  とり残された緑の部分には、灰色の墓石が並んで見えていた。 「いずれよそへ移されるのだろう」  額田が北川に答えた。北川は額田の耳へ口を寄せ、 「いい歌ができそうですか。僕には滅びの歌が聞えるようですよ」  と言った。  額田は笑って空を指さし、 「天気のせいさ」  と答える。  掘り返した土のまん中に、大きな道らしいものが伸びている。だが、それとても道路の予定線を示したにすぎないらしく、車が乗り入れれば、たちまち車輪をめりこませてしまうだろう。  所どころに鉄の塔が建てかけてある。どうも送電線ではないようだ。送電線は木の柱で別にあった。 「あれは何かな」  日比木が北川に言った。北川は見当がつかず額田の顔を見たが、額田にもその鉄塔の用途は判らないようであった。  ブルドーザーやショベルカーが、とんでもないところに、ポツン、ポツンと置き去られている。戦争映画でよく見かける、擱坐《かくざ》して置き去りにされた戦車のようであった。  排水に使う白く大きなコンクリートの円筒が、馬鹿馬鹿しくなるほど大量に並んでいたりする。コンクリート・ブロック、土どめ用の砕石の山、砂利、そして生コンクリートのミキシング・タワー、ドラム罐の山、巨大な電源車、黄色く塗った工事用の防柵《ぼうさく》、三角で灼熱《しやくねつ》した鉄のような色の標識。そういうものが、まるで暖か味というものの欠けた泥ばかりの大地の上に、点々とちらばっているのであった。 「変に静かでやがる」  日比木が言った。 「人がいないもの」  三浦が答えている。  額田は沈痛な表情で前をみつめていた。やはり旧知の土地の荒廃ぶりがショックだったらしい。 「あ……」  その額田が急に叫んで左側を指さした。まだ鉄の爪が加えられていない茂みがあってその茂みの中を踏みかためられた道がひと筋続いていた。 「とめてくれ」  額田は三浦の肩を小突いた。ジープが急にとまった。 「あの道だ。あの道だよ」  額田は少し昂奮《こうふん》気味であった。三浦はギアをいれかえて車をバックさせる。四人ともうしろを見ていた。  アスファルトの道はその先で大きく右にカーブしていて、右にそれた道の左側一帯は、昔のままの自然の姿をとどめていた。  額田が言ったのは、掻《か》きむしり、引き剥《は》がし、掘り起すその凄《すさ》まじい開発の暴力が、これから更に奥へ伸びて行こうとする最前線の部分であった。  開発の怒濤《どとう》が、残された自然へ今にも掩《おお》いかぶさろうとするギリギリのところに、昔ながらの道が奇蹟《きせき》のように生きのびていたのであった。 「ここだよ、善五郎の家は」  額田が悲痛な声で言った。北川はその顔をちらりと横目で見た。  額田にしては珍しいナマな表情であった。 「間に合ったんだ。わたしは善五郎の家に間に合ったんだよ」  額田はうれしそうに北川の肩を叩《たた》いた。 「この道をあがって行こう」  北川はそうしたナマな歓喜を示す額田が気の毒で、彼のほうを見ずに三浦に命じた。  ジープはもう一度少しバックし、左へハンドルを切ってその道へ入りこんだ。ゆるい登りで、すぐ右へ曲がっていた。腰の高いジープに乗った四人は、道に掩いかかる木の枝をときどきはらいのけながら進んで行った。     7  大きなわら屋根の家があった。トタンぶきの納屋《なや》が横にあり、緑色に塗ったポンプがついた井戸があった。泥だらけのライトバンがとめてあり、錆《さ》びついた耕耘機《こううんき》がスクラップのようにころがっていた。  ジープが入って行くと、鶏がやかましく逃げ散る。  額田は車がとまる前にとびおりた。 「なつかしいなあ……」  感無量、と言った面持ちでわら屋根を見あげている。若い三浦は無遠慮にジープの金属的なクラクションの音をたてさせた。  黒っぽい背広に皺《しわ》くちゃのワイシャツを着た男が戸口から現われた。  怪訝な表情でジープの三人を眺める。 「菊山さん。善五郎さんでしょう」  車をおりていた額田がそう言って近付いた。 「おお、額田の敏雄さんかね」  善五郎はごつい顔を綻《ほころ》ばせた。 「やあ、ほんとにごぶさたして……」  額田は握手を求めた。  善五郎はぎごちなくその手を握り返した。 「明日にもこの家はとり潰《つぶ》されるので、もうふた月も前から家の者たちは知川のほうへ移っているのですよ」 「それでは、運がよかったわけですな、ここでお逢いできて」 「わしは潰されるまでここにいて、先祖代々のこの家を看取《みと》ってやるつもりでいます」  善五郎はジープのところまで出て来て、あらためて家を眺めていた。  額田はその横に並び、二人はごく自然に昔の想い出ばなしに入っていった。善五郎のほうが、ひとまわりかそれよりもう少し年上のようであった。 「撮影には最悪だな」  北川は空を見あげて言った。山が近くなって、風向きも少しかわったようである。 「降らなきゃめっけものさ」  日比木は当然のように言った。若手ではトップクラスのカメラマンで、北川は日比木の技術には疑いを持っていなかった。 「菊山村だというから、早いとこその菊だらけの丘というのを撮って置こうじゃないか」 「残っているかな」  日比木と北川は黙って耳を澄ませた。どこかでブルドーザーの音らしいものが聞えている。 「フィルム、いれますか」  三浦が尋ねた。 「うん」  日比木が答えたとき、額田がさっきまで見せていた感傷的な表情を消し、事務的に言った。 「菊山はまだ残っているそうだ。行こう」 「しめた。花は咲いてるでしょうね」  日比木が言うと、善五郎が額田の足もとを見ながら、 「敏雄さん、その短靴じゃ行けないな」  と注意した。 「長靴を持って来てあるんです」  額田はジープにとび乗って靴をはきかえた。入れかわりに三人が車からおりる。 「花は咲いてますか」  北川が善五郎に言った。 「菊の花かね」 「ええ」 「菊山も今は半分削られてしまって、西側が残っているだけですよ。それに、菊の花と言ったってあんた、この辺りのは小さくて白くて美しくはないよ」 「とにかく行って見ます」  長靴をはいた額田がとびおりて言った。 「よいしょ」  三浦がジュラルミンのケースから必要な機材を黒いショルダー・バッグへ移して掛声をかけた。 「どっちへ行くんですか」 「こっちだ」  額田は先頭に立って家の裏手へ進んで行った。 「敏雄さん。ひと晩この家に泊りなさい。もう最後なのだから」  善五郎が大声で言った。  家の裏手は林であった。その中を細い道がまっすぐ続いている。 「これがあの泥の海のようにされるのかなあ」  ショルダー・バッグをさげた三浦が、信じられないというように言った。しかし、しばらく進むとその林は突然切れ、土がなまなましくむきだしになった崖《がけ》になっていた。そのすぐ下で、運転席の横に排気管を細い煙突のように立てたブルドーザーが唸《うな》っている。 「こっちだ」  道が切れてしまっているので、額田は崖ぞいに右へ曲がった。林の中へ踏み込んで行く。  三台のブルドーザーやパワーシャベルが、その崖のあたりから弧状に古い土地をきりひらいていた。平らにされた土を海水に見立てれば、入江のような形に陸が侵蝕《しんしよく》されていて、かなり離れた沖に当たるところに、引き抜いた立木が乱暴に積みあげてある。  そして、入江の向う側に、丸い餅を半分に切ったような突出部があった。 「あれが菊山だ」  額田が歩きながら左手で示した。 「もう半分削られちゃってますね」  三浦が言う。 「でもまだ花はある」  日比木が焦り気味に足を早めた。ブルドーザーやパワーシャベルが噛《か》みつく崖ぞいに、その入江のような部分をまわって四人は菊山へ辿《たど》りついた。 「なるほど綺麗じゃないな」  三浦はがっかりしたように言い、それでも白く小さな花の間へ踏み込んで、頂上へ駆け登った。 「バッサリやられてらあ」  上から大声で言う。 「削られたほうの下には菊山家の墓があったんだ」  額田が北川に教えた。 「おい」  日比木が手まねきをして三浦を菊山からおろした。 「まあるくって、何だか土饅頭《どまんじゆう》みたいですね」  三浦がカメラをだしながら言った。露出計をとりだして菊の中へまた入ろうとすると、日比木は憤ったような厳しい声で、 「いい」  と言った。 「先生……」  北川は憮然《ぶぜん》とした表情で半分削られた菊山を見ている額田に声をかけた。空がさっきよりずっと黒っぽくなっている。 「三浦、ストロボだ」  日比木が命じた。 「わたしはどの辺にいたらいい」  すると日比木は、三浦と額を合わせるようにカメラのセットをしなおしながら、 「ただ歩きまわってください。昔このあたりを歩いたことがおありなんでしょう」  と言う。 「ああ。子供時分だがね」 「その頃《ころ》、こんな風になるとは思いもしなかったでしょう」 「そうだなあ」  額田はしみじみとした調子で言い、菊山へ足を踏み入れた。 「菊山にはおばけがでると言われて、はじめはびくびくしていたものさ。でも、ここはいい遊び場だった。あの林の中の道が、家からまっすぐここへ続いていたんだよ」  日比木は忍び寄るようにカメラをかまえ、低い位置からシャッターを切った。ストロボが閃光を発した。  額田はたしかに最初日比木の言葉にのせられて菊山の昔の姿をなつかしんだのだろう。しかし、最初のストロボが光ってからは、それが日比木の被写体へのテクニックだったと悟り、自分からみごとに感情を移入して行った。彼は菊山を、ある時は首うなだれ、ある時は腕を組んで、表情たっぷりに歩きまわりはじめた。日比木は物も言わず、ファインダーをのぞいたままそのまわりで閃光を発しつづける。  ほんのちょっとした高さの菊山の頂きが、重くたれこめた空を背景にすると、すでに天へ届いているようにさえ見えた。  菊山の向うは、はてもなく掘り返された土であった。そして、ストロボのかよわい閃光に和するように、あの�はたた神�がとどろいた。  雷鳴が続き、風が鋭さを増していた。いつの間にかその中に、ポツリ、ポツリと雨滴が混りはじめている。暗くなり、背後で生き残りの樹木がザワザワと妖《あや》しげな音をたてていた。泥の荒野がはてる海の方角の空が、いやに白っぽく光って見えた。  小さく白い、汚れたようなみじめな菊の花が一斉に揺れ、額田の黒い髪も、日比木の上着の裾《すそ》も、風下へちぎれるように流れている。 「こいつは凄い絵になる」  三浦が低い声で言った。     8  撮影はそれまでであった。  雨は強い風に吹き乗せられて来たものらしく、それ以上降りはしなかったが、空が急激に低くなり、降りはじめれば土砂降りになるおそれがあった。  幌《ほろ》のないジープに乗って来たこともあって、四人は菊山での撮影をおえると急いで善五郎家へ戻った。  額田はその家に泊ることになり、三人はジープで元の道へ出た。 「この先を曲がると飯場に出るらしい」  三浦はハンドルを握って言った。日比木は風が冷たくてかなわないと、ごわごわした雨《あま》合羽《がつぱ》を着こんでいた。  菊山からだいぶ南へ寄った知川のほとりに、プレハブの飯場が三、四十もたち並んでいた。 「なんだか米軍のキャンプみたいだ」  日比木はひと目見るなりそう言って笑った。 「違うな。捕虜収容所だ」  三浦がそう訂正したが、いずれにせよ、それは軍隊の施設のようであった。  しかも、川ぞいにだだっぴろいコンクリートの広場があって、そこには黄色いぺンキで幾何学的な線が整然と引かれていた。  広場というよりは、巨大なプラットホームと言ったほうがいいかも知れない。見方を変えれば滑走路だ。 「エンタープライズだよ、これは」  三浦はそんなように表現した。  まさしく、泥の海に浮かんだ航空母艦といったおもむきである。さまざまな建設機器、特殊|車輛群《しやりようぐん》が、黄色いラインに従って整然と並んでいる。シートをかぶせたヘリコプターもあった。  黄色と黒の斜め縞《じま》の入った作業服を着てヘルメットをかぶった男が、ジープを見ると両手を上にあげて警笛を吹いた。 「けさ本部へ寄った人たちかね」  男は関西訛りで言った。 「ええ」 「それなら向うだ。あの白い奴」  男が指さす方角に、一戸だけ白く塗ったプレハブの小屋が見えていた。 「サンキュー」  三浦は滑走路を横切ってそのほうへ車を進めた。 「こんなところにまでコーラの看板がある」  三浦は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で言った。 「食堂か娯楽所だろう」  日比木が言うと、北川はニヤリと笑って、 「慰安所じゃないかな」  と日比木の肩を小突いた。 「案外そうだったりして……」  日比木が笑った。 「慰安所って何です」 「女がいるのさ」 「キャバレーみたいな……」 「ばか」  日比木がケタケタと笑う。  掘り返した土に、大小さまざまの樹木がひとかたまりに植えられていた。そこを緑地化しようというのではなく、どうも一時預けのように植え生かしてあるらしい。  白い小屋はそのそばにあった。 「外来者宿泊所、か」  北川はその入口の札を読んだ。  ガラガラとすりガラスのはまった引戸をあけて、六十位の爺さんが頭をだした。 「額田先生のご一行かね」  三浦がふきだしたが、北川は丁寧に答える。 「先生は菊山さんの家へ泊るそうです」 「そうだろう、そうだろう。あの家ももう今生《こんじよう》の見納めだからなあ」  三浦はふざけて念仏をとなえていた。そんな冗談がぴったり来る、何やら抹香臭《まつこうくさ》い調子であった。  三人は荷物を持って小屋の中へ入った。他の建物と全く同じ形で、縦長の兵舎じみた小屋だった。  入口にひと坪ほどのスペースがあり、そこに折たたみ式の椅子が少しと、小さな丸テーブルがあった。  その先は、川に向った窓寄りに、まっすぐ廊下。突き当たりに洗面所らしいものが見えていて、右側はドアが並んでいる。 「一番大きい部屋をとって置いたから」  爺さんはまん中あたりのドアをあけた。 「ちぇっ。四号室でやがる」  三浦が悪戯《いたずら》っぽく言った。 「縁起をかつぎなさるかね」  爺さんは笑った。 「コーラの看板が出ていたホームを見たはずだが」 「ええ」  北川が言った。 「なるべくなら、五時までにあそこへ行って晩飯にしたほうがいい。八時まで飯は出すが、何せ時分どきは混むのでな」 「やっぱり食堂ですか、あれは」 「三号食堂だよ。酒もつまみも、なんでも揃《そろ》っているよ」 「判りました。なるべく早く行きます」 「寝《ね》道具は揃えてあるが、一人分余計なら持って帰ろう」  爺さんはそう言って部屋へ入り、シーツと枕《まくら》と毛布と、赤いプリント柄の掛蒲団《かけぶとん》をかかえて出て行った。 「ハウスだってさ」  三浦が天井を見まわして言った。鉄のボルトがむきだしになって並んでいた。 「まさにこれは収容所だな」  北川は苦笑した。 「おい、例のポラを出しとけ」  日比木が言った。三浦はジュラルミンのケースをあけ、平べったい革ケースのようなものをとりだした。 「それがポラロイドの新しいカメラか」  北川が珍しそうに言うと、日比木がパチンと音をさせて、折りたたんであったカメラを立てた。 「食堂や、ここで働いている人たちを撮って見よう。フラッシュ・アレーをつけて置けば、このほうがかえって便利だし、まだ珍しいから知らない所へ来たら人気とりになる」  日比木はカメラを北川の顔に向け、シャッターを切った。ビーッという音がして、カメラの下から印画紙がとび出して来た。 「ほう」  北川がそれを受取って眺めている内に、青緑の面に自分の顔らしい輪郭がうかびあがり、どんどん色彩をまして、鮮明なカラー写真になった。 「貸してくれ」  北川は面白がってカメラを日比木からとりあげ、窓の外に見える、仮り植えの林に向けてピントを合わせた。  シャッターを押すと同時に印画紙がとび出す。 「こいつは簡単でいいや」  笑いながら、シャッターを押した位置のまま印画紙を抜きとる。 「フィルム・パックのほうに電源があるんだな」 「そうだよ」  日比木と三浦が出来を拝見とのぞき込んだ。 「あれ……」  三人は同時に言った。 「何だこれは」  三人は同時に窓の外を見た。  浮きあがった写真には、一人の兵士が写っているのだ。  だが、仮り植えの林のあたりには誰もいはしない。  三人はまた写真に目を戻した。  仮り植えの林を背に、よれよれの戦闘帽にゲートル、軍靴《ぐんか》といったスタイルの、旧陸軍の制服姿で、小柄な男が銃を立てて直立不動の姿勢をしているではないか。彼の視線は、窓から眺め直すと、どうやら食堂のほうへ向けられていた。 「やなかんじ……」  三浦が軽く笑った。 「どうしたんだろう」  日比木は写真をすかして見た。 「ひどいもんだな」  北川が笑いだした。 「いたずらされたんだよ。こいつはジャングルから出て来たときの小野田さんそっくりだぜ」  北川はベッドに倒れ込んで笑いこけた。 「新製品の話題づくりには持って来いだ。メーカーもやるもんじゃないか」 「だって……」 「それじゃ、幽霊でも写ってたというのかい」  日比木もつり込まれて笑った。 「そうじゃないけどさ」 「うまくできてやがる」  三浦が感心したように言った。 「一杯食ったか、畜生」  日比木は三浦の顔へ向けてシャッターを押した。 「一枚だけだ。全部いたずらしてあったら金を返してもらうところだ。これ、十枚ワンパックで三千円以上するんだからな」 「メーカーへ持って行けよ。案外ひと箱ぐらいただでもらえるのかも知れないぜ」 「そうだな」  三浦は部屋の隅にある小さなテーブルにそれをのせて、しきりに眺めていた。     9  三人は廊下の突き当たりにある洗面所で手や顔を洗い、五時半ごろそのハウスを出て、コーラの大きな看板を入口の上にとりつけた食堂へ行った。 「自動販売機だらけだ」  長細い木のテーブルのまわりに折り畳み式の椅子を雑然と並べた食堂へ入るとすぐ、日比木が呆《あき》れたように言った。  清酒やつまみのたぐいから、コーヒー、コーラ、はてはうどんやカップヌードルまで、街なかでよく見かける自動販売機が残らず壁際に並んでいて、そのはずれにはゲーム・マシンさえ何台か置いてあった。  チン、ジジーッという音が聞えていて、一人の作業員がその一台にメダルを入れつづけている。  突き当たりにセルフサービス式のハッチがあり、その窓口の上にずらりと食べ物の名を書いたビラが貼《は》りつけてあった。 「カツ・カレー。おい、みんなあれにしよう」  北川が言った。 「カツ・カレーですか」  三浦は不服そうだ。 「こういうところでは、いちばんポヒュラーなのを食うもんだ。一番平凡で一番多く作る奴が一番無難なんだ。カレーやカツなら間違いない」  北川は、この食堂の料理をはじめから警戒していた。  果して、ハッチのところへ注文に行くと、およそ料理とは無縁な感じのごつい作業服姿のおっさんが顔を見せた。その仕切りの内側は本式のキッチンではなく、ショーケースのような保温器の中に、すでに皿に盛りつけられた料理が並んでいる。タオルの鉢巻《はちま》きをしたおっさんは、それを金と引換えに渡すだけであった。  三人がびっくりするような大盛りのカレーライスの上にころものぼってりしたカツをのせた皿を持って木のテーブルに落着くと、近くで将棋をさしていた二人の男が、 「白《しろ》ハウスのお客さんかね」  と声をかけて来た。 「ええ」 「幾晩泊りなさる」 「ひと晩だけです」  北川が答えた。 「お茶はタダだよ」  壁際にあるうす緑色の機械を指さして教えてくれた。自動給茶機と書いてあった。  三人はカツ・カレーを食べはじめた。 「何しに来なすった。会社の人でもなさそうだが」 「写真を撮りに」  日比木が食いながら言う。 「写真か。どんな写真かね。この天気じゃ塩梅《あんばい》悪かろう」  地元の訛りではないようだった。 「うん。まだ菊山を撮っただけさ」  日比木が何気ない様子で答えると、将棋を指していた二人も、ゲーム・マシンにとりついていた男も、妙な顔で三人を見つめた。 「菊ばかりの丘だと聞いたけど、大して綺麗じゃないね」 「まあな」  二人は将棋に戻り、ゲーム・マシンの男は機械の前から離れた。  なんとなく気まずい雰囲気の中で、三人は黙ってカツ・カレーを食べおわった。皿は三浦がまとめてハッチの向う側へ戻した。  あたりはもうすっかり夜であった。  日比木は持って来たポラロイド・カメラにフラッシュアレーをセットした。将棋を指している二人に狙《ねら》いをつける。 「何だね、そいつは」 「カメラさ」  日比木はそう言ってシャッターを押した。  ジーッ、と音がして印画紙がとび出して来る。将棋盤に向かい合っている二人は、じっとそれを見つめていた。 「はい」  日比木は印画紙を外して二人のそばへ置いた。まだ絵は浮きあがっていない。 「何も写っていないじゃ……。あれ、おい、出てくるぞ、写真が」  二人は素っ頓狂な声で言った。  北川はニヤニヤしながらそれを眺めていた。素朴な人の素直な驚きの表情は、見ていても気分がよかった。  が、急に二人は顔色をかえた。  将棋を指しかけたまま、ガタガタと床を鳴らして出て行ってしまう。 「どうしたんだい」  北川と日比木が顔を見合わせて言った。 「変だね」  三浦が写真をひょいとつまんで見た。 「あれ……まただ」  叫んだ。北川と日比木が驚いてその写真に顔を寄せる。  兵士がいた。星のついた戦闘帽をかぶり、小銃の台尻《だいじり》を床に立てて左手で軽く支え、将棋盤に向き合って坐ってこちらを見ている二人の横で、首をのばして将棋盤をのぞいていた。 「これは……」  日比木が蒼《あお》い顔で言った。 「トリックじゃないぜ、何かがいるんだ」  北川も背筋が冷たくなった。  二人がいた将棋盤のあたりには誰もいない。しかし、写真ではそこに旧陸軍の服装をした、小柄で日焼けした兵士の姿があるのだった。椅子やテーブルや将棋盤のかげになった部分は、その兵士の姿がちゃんとかげになって切れているから、あらかじめ印画紙にいたずらしてあったという可能性はゼロである。うしろの壁や窓枠も、その兵士の体のかげになったところは切れて見えない。 「畜生、なんで早くこいつに気が付かなかったんだ」  日比木は唇を噛んだ。 「トリックじゃない。いたずらじゃないんだ」  あたりを見まわした。 「やだぜ、俺……」  三浦が怯《おび》えて立ちあがった。 「出ようよ、ここを」 「待て。幽霊かなんかならこんなチャンスはない」  日比木はカメラをとりあげ、ファインダーをのぞいてやたらにシャッターを切りはじめた。  カシャッ、ジーッ。カシャッ、ジーッという音が続き、日比木は椅子に坐ってほぼ体を一回転させた。  六枚の印画紙がカメラから吐きだされた。北川が素早くそれをテーブルに並べる。  食堂の内部のスナップが六枚。三人は絵が浮きだす短い時間を、もどかしく待った。 「いたッ……」  三浦が叫んだ。食堂の入口を写した一枚に、銃を持った兵士のうしろ姿があった。 「出て行ってしまったんだ」  北川が入口のほうを見ながら言った。  その時、ドヤドヤと長靴をはいた男たちが入って来た。にぎやかに喋ったり笑ったりしながら、まず清酒の販売機の前へかたまってコインをいれている。 「これはもう冬だぜ」 「はたた神はいつもの年より二十日《はつか》も早いとよ」  威勢よくそんなことを言い合い、つまみの販売機を鳴らして袋を取ると、テーブルについてさっそく一杯はじめている。 「争議中か」  三浦は人が増えたのでほっとしたように男たちを見ながら言った。七、八人の男たちの内、半分ほどは赤い布を持っていた。  最初の一団に続いて、ぞろぞろと作業員たちが食堂へ入って来た。どのグループも、何人かは赤旗を持っていて、それがどういうわけか、みな棒のついていない赤い布なのであった。中には背中にかけて端を首のところでしばり、マントのようにしている者もいる。 「出よう」  日比木がカメラをたたんで立ちあがった。三人は男たちの間をすり抜けて食堂を出た。  外は暗く、風が音をたてていた。あちこちの灯りが、雨の日のように濡《ぬ》れた色で光っている。  三人はなんということなしに走りだした。カメラがとらえた兵士の映像が不安であった。  白いハウスへ駆け込むと、三人があてがわれた部屋のドアをあけて、管理人の爺さんが入口のほうを見ていた。  三人が行くと、爺さんは先に部屋の中へ入った。 「茶の用意をしに入ったのだが」  弁解するように言った。テーブルの上にポットと湯呑《ゆの》みが三つあった。  爺さんはあの写真を手にしていた。 「あんたがた、真上《まがみ》の家《いえ》の親類かね」 「真上……。いや知らないね」  すると爺さんは憤ったように言う。 「だって、ここに写っているのは真上健助だぞ」 「真上健助……」 「陸軍伍長だ。北支で戦死した男だ。ずいぶん昔のことになる」 「北支……。すると太平洋戦争がはじまる前か」 「この近在じゃ、最初の英霊だった。あとになったらやたら戦死して帰って来たがね」 「実はその写真は……」  三浦が窓を指さしかけるのを日比木がとめた。 「その陸軍伍長について、ちょっと教えてもらいたいんだが」  爺さんは蒼い顔で頷いた。 「いいともよ」  ドアをしめ、爺さんは着ぶくれた上着の下から、胴巻きを引きだすように、ずるずると赤い布を引っぱりだしてひろげると、部屋の中を見まわし、丹念な手つきで、窓枠《まどわく》にその赤い布を掛けた。     10 「真上健助は、この上《かみ》の真上村の村長をやっていた家の分家で、菊山のそばの善五郎の家とは、菊山を中にした隣り同士の家の長男だった」  爺さんは、窓際に椅子を置いて、赤い布を背に喋りはじめた。 「金鵄《きんし》勲章をもらって、死んでしまったあとも、家の者たちは自慢の種にしていたものだ」  爺さんの昔ばなしはとりとめもなかった。どうやら、その故陸軍伍長は、戦死して以来どういうこともなく、今日までごく自然のなり行きで忘れ去られていたらしい。 「それが菊山を掘り返しはじめると出て来たのだよ」 「その伍長がかい」 「そうだ。あそこは古い墓でな。何せ評判の英霊だったから、菊山はとうに墓として忘れられていたが、家の者は近くに墓を置きたかったのだろう。昔の墓のあとだという言い伝えを思いだして、菊山のごく下のところに墓を作って骨を埋めたのだ。それを掘り返したから祟《たた》ったのだろうさ」  掘り返した作業員が何人も妙なことになった。 「気が違うとか、熱にうなされるとか、そんなのではない。ただ、しょぼんとおとなしくなってしまって、上役をひどくこわがるようになったのさ。乱暴で手をつけられないような奴が、会社の言うなりになんでもハイハイ言うことを聞いてよく働くようになったのさ。まあ、それだけならいいが」  爺さんは声をひそめた。 「夜寝てると、となりの男に抱きつくんだよ。ごつい大の男が……」 「ホモかね」 「ホモかなんか知らないが」  爺さんは肩をすくめた。 「抱きついて、女にするように可愛がるのだ」 「ホモじゃないか、やっぱり」 「おかまさ」  吐きすてるように言う。 「次から次へはやってしまった。今じゃここの作業員は半ばくらいおかまさ」 「ほんとかね」 「ほんとさ。おかまにされた奴に聞いたが、相手にここんところを」  爺さんは左手の人差指で自分の皺《しわ》だらけの首を示した。頸動脈《けいどうみやく》のあたりである。 「いい気持なんだそうだ。すうっと世の中が遠くなって行くようで」  日比木が北川をみつめた。 「判るかい」 「何が」 「あれだよ」 「あれって……」  日比木は上の歯をむきだして見せた。 「吸血鬼」  風が吹き、窓がガタガタと鳴って、赤い布が揺れた。はたた神と呼ばれるあの雷鳴がとどろいている。 「菊山を見たかね」 「ああ。半分削られていた」 「それきり誰も手をつけないのさ」 「会社に言えばいいだろう」 「言ったさ。みんなで調べに来た。現場がやかましく言ったんでな」 「で、どうしたね」 「整備本部の連中もおかまになってしまったらしいよ」 「まさか」 「本当だ。今では湊町のほうでもおかまがはやっている。でも会社は何もしない。しないわけさ。おかまになった奴は言うことをよく聞いて仕事がはかどるからな」 「じや、ストライキかなんかやってるのはどうしてだい」 「ストライキ……」 「みんな、そういう赤旗を持ってたぜ」  爺さんは笑いだした。 「赤旗ではない。これは魔除けだよ」 「魔除け……」 「腰巻が赤いのと同じことだ。赤は魔除けだよ。おかまにされるのが嫌《いや》な者は、みんなこの赤い布を身につけている。日暮れからあとは、こいつを身につけていないと危いのさ」 「おかまにされるとどうなる。上の言うことに素直になるほかに……」 「よほど精を使わされるんだろうな。最初のひと晩でみんな一度に白髪《しらが》をだしてしまうよ」 「白髪……」 「ああ、白髪になるね。若い奴も胡麻塩頭《ごましおあたま》になる」 「ほかには。たとえば、陽に当たるのをきらうとか」 「いいや、そんなことはない」 「じゃあ、十文字のものを見ると逃げだすとか」 「何を言ってるのかね。みんな平気なもんだ。緑十字のマークはそこら中にあるよ。いちいち逃げ出してたらいる所がないくらいなもんだ」 「菊山は古い墓のあとだと言ったね」 「ああ」 「何か言いつたえがあるんじゃないのか」 「それはある。おとぎばなしみたいなもんで、誰も本気にしてはいなかったが、大昔、このあたりに魔ものが棲《す》んでいたのだそうだ。人を苦しめてばかりいたので、あるときえらい坊さんがあの菊山へとじこめてしまったというのだが……。わしらも子供の頃ちらっと聞いただけで、よくは憶えていない」 「危《やば》いな。その赤い布、俺たちに貨してくれないか。その写真は、夕方この窓から撮ったものなんだ。誰もいないのに、写真には伍長が写ってた」 「それはいかん。と言って、赤い布はほかにないし」  三浦がジュラルミンのケースをあけた。|4・5《シのゴ》判のカメラに使う黒い布を引っぱりだしていた。裏が真紅であった。 「ここにあるよ」 「一人が交替で起きて、蠅《はえ》や蚊を追うように寝ている者の体を払ってやっていればいい」  爺さんが教えてくれた。 「そうだ、刑事さんたちにも何とかしてやらなければ」  爺さんはあわてて立ちあがった。 「刑事……」 「二日前からここで泊っているのさ。学生をつかまえるとか言っていた。飯場にはいろんな奴がもぐり込むのでな」  爺さんは窓の赤い布を外すと、これを肩にかけて外へ出て行った。 「吸血鬼だ。日本産の吸血鬼だぜ」  北川が言った。  爺さんの足音が廊下の奥へ行き、幾つか先のドアを叩く音が聞えた。 「おおい。おおい……」  三人はギョッとして立ちあがった。爺さんが叫んでいる。三人は部屋をとびだした。 「やられちまった」  その部屋で、爺さんが赤い布を頭からかぶって震えていた。 「誰もいないじゃないか」  ふたつのベッドには、寝乱れた跡だけで人影はなかった。  だが爺さんは震える手でベッドを指さした。 「おかまにされたしるしなんだ」  ベッドの枕のところに、小さな白い菊の花がひとつずつ、ポツンと落ちていた。  ガシャン、と三人の部屋のほうで音がした。窓ガラスが割れる音だった。  三人はあわてふためいてまた自分たちの部屋へ駆け戻った。  風が吹き込んでいた。割れた窓の間から、長い棒が突きだしていて、その先に片面が黒、片面が赤のラシャの布がひっかかり、外へ持ち出されようとしていた。 「待て」  北川がそれにとびついた。だが一瞬早く、棒と布は外の闇に消えた。 「畜生」  北川が窓の外を眺めた。すると闇の中でワッという喚声《かんせい》があがった。ぬかるみを歩きまわる足音が入り乱れた。闇をすかすと、ヘルメットをかぶったり、タオルで鉢巻きをしたりしたたくましい男たちが、とりあげた布に泥を投げつけて騒いでいた。 「出てこい。出てこい」  窓を向いてそう叫んでいる連中もいる。  何を思ったか、日比木は急いでポラロイド・カメラへフィルム・パックをセットして、新しいフラッシュアレーを差し込んだ。  窓からやつぎばやにシャッターを押す。フラッシュが五度きらめき、印画紙を抜くとまた五発光らせた。外の男たちはたじろいで少し退いたようであった。 「見ろ」  印画紙に、一斉《いつせい》に絵が浮きあがった。大鎧《おおよろい》を着た武者がいた。髷《まげ》を結った学者風の男がいた。百姓がいた、子供がいた。それが作業員たちの間にまじって、何か喚きたてているようだ。 「菊山にとじ込められた、いろいろな時代の吸血鬼たちだ。東日本重工がそれを掘り返してしまった。真上伍長だけじゃないんだ。連中がみんなを煽《あお》っている」 「逃げよう。なんとかジープへたどりつくんだ」  三人は血相をかえて廊下へとびだした。     11  秋晴れの東京。 「馬鹿野郎ッ」  編集長が会議室のテーブルを力いっぱい叩いて呶鳴《どな》った。  黒板のある小さな会議室で、そこに北川と日比木と三浦のうす汚れた顔が並んでいた。 「そんな馬鹿な話があってたまるかッ」 「本当なんです。僕ら、ひと晩中泥んこの造成地を逃げまわったんです」 「額田さんも仕事も抛り出してか」 「だって、逃げるよりテがなかったんです」 「写真はどうするんだ。グラビアはどうなるんだよ」 「なんとかします。それより、調べましょう、あそこを、徹底的にやりましょうよ」  編集長は呆れ顔で椅子の背もたれにもたれかかった。 「俺まで捲き込む気か。ええおい。気はたしかかい」 「でも、事実なんです」 「ようし。事実だとしよう。で、どうなる。いいか、北川。東日本重工がどんなものか判っているんだろうな。東日本重工……東日本銀行、東日本信託銀行、東日本商事、東日本電機、東日本海運、東日本生命、東日本海上火災、東日本金属、東日本レイヨン、東日本不動産。まだいくらでもある。きりがないほどだ。どれひとつをとっても大変な会社だ。そいつらを向うにまわして、いったい何をしようというんだ。何が俺たちにできるんだ。お前の言う通りにすれば、それがみんな敵になるんだぜ。たしかなことがひとつだけある。俺もクビ、お前もクビ。広告がとれなくなって、雑誌は潰《つぶ》れる。ええ、おい」 「でも、あれが日本中にひろがったら」 「おかまか」 「おかまになるというのは、あの爺さんのひとつの表現ですよ。吸血鬼がほかの者へ接する現場が、そんなように見えるんでしょう。あの地域は男ばかりですからね。でも、こっちへ来れば女も男もないでしょう。ことは重大です。なんとかして下さい」 「証拠がないだろう。その写真でもあれば別だが」 「だからもう一度」 「赤い布を体にまいた取材班か」  編集長は嗤った。 「それこそおだやかじゃない。お前ら少しおかしいよ。まあ、ひと晩ゆっくり休んで冷静になれ。今日はもう帰っていい。それより、額田さんになんて詫《わ》びるんだ。気むずかしい人だって言うじゃないか」 「先生が東京へ戻ったら、僕が自分でお詫びに行きます」 「とにかく休め。きたねえ恰好だぞ」  編集長は、どうやら三人の報告に何かを嗅《か》ぎ取っているらしかった。しかし、明るい東京の空の下では、一度に信じてもらおうというほうが無理な相談かも知れない。 「時間をかけよう。そう簡単に信じてもらえる話じゃない」  北川は疲れ切った顔でうつむいている日比木と三浦を励ますように言った。 「そう、そうしたほうがいい。俺だって何も全部嘘だと言いやしない」  編集長はそう言って立ちあがった。 「俺も少し考えてみる。だからお前らももう少し筋の通った話ができるようにしてくれ」  編集長が出て行くと、三人はぐったりとテーブルに顔を伏せた。 「どうなるんだ、この先……」 「いずれこの東京へもやって来るさ」 「額田さんはどうしたろう」 「あの人のことだ。なんとかスマートに切り抜けて来るだろうさ」 「額田さんさえ来てくれればな」 「そうだ、額田さんを待つしかないよ」  三人はそう言い合った。  やがて北川は自分のアパートへ戻った。風呂へ行って体を洗うと、あちこちに泥がこびりついていた。食事をしてひと睡りすると夜になっていた。東京の夜は、静かな住宅地でも別に妖気《ようき》は感じられなかった。  だが、北川は人恋しかった。起きだした北川はなんとなく靴をはいて外へ出た。そういう時、足は自然に女の家へ向ってしまう。  斎木晶子の住んでいるアパートは、彼のところから三十分ほど離れた私鉄の駅のそばにあった。  その私鉄の駅を出て商店街を抜けると、北川はうす暗い道を晶子のアパートへ向った。目的のアパートのすぐ近くで、北川は背の高い男とすれ違い、おや、というように立ちどまって振り返った。額田敏雄によく似ていたからだった。  だが、次の街灯の光の下へ入ったそのうしろ姿を見て、北川は安心したようにまた歩きだした。  やはり別人だったようだ。額田はまだあの岩津地区か、さもなくば帰りの列車の中にいるはずだった。  晶子の部屋の窓に灯りが見えていた。  北川は階段を登ってそのドアをノックした。返事がなかった。上着の内ポケットからキーをとりだして鍵穴《かぎあな》へ差し込んだ。もうそういう仲になっているのだった。  だが、鍵はかかっていなかった。いつもは中にいても必ず鍵をかけている晶子だったのに……。  北川は靴をぬいであがった。キッチンの灯りもついていた。六畳ほどの広さの次が晶子の寝室兼仕事部屋であった。彼女はそこで翻訳の仕事をしている。  襖《ふすま》をそっとあけた。  仕事机の横に蒲団が敷いてあり、晶子が向うに顔を向けて寝ているのが見えた。  北川は足音を忍ばせてその傍へ行った。天井の蛍光灯《けいこうとう》は消してあり、スモール・ランプだけが赤っぽい光を投げている。  北川は晶子の枕もとに立って見おろした。急に起しては可哀《かわい》そうだと思った。  しかし、すぐに北川は顔色を変えた。目をまん丸に見ひらいて、晶子の枕の端に落ちている小さな白い菊の花をみつめていた。  すれ違った男のうしろ姿を思い出していた。背が高く、額田敏雄そっくりであった。しかし、街灯の光の下へ行ったとき、北川は別人だと思った。額田はふさふさとした黒い髪、その頭は半ば白くまだらになった髪であった。 「よほど精を使わされるんだろうな。最初のひと晩でみんな一度に白髪を出してしまうよ」  ……あの爺さんの声が耳によみがえって来た。北川は腰をかがめ、その白い菊の花をつまみあげながら、晶子の長い髪をみつめた。  つむじの辺りに一本、白い毛が見えた。鬢《びん》のあたりにも二、三本混っていた。  北川が逃げだそうと腰を伸ばしかけたとき、晶子がくるりと寝返りをうった。  大きな瞳《ひとみ》で北川をさかさまに見あげていた。白い顔だった。 「大丈夫よ、あなた」  晶子がほほえんだ。 「彼は何もしなかったわ。私はあなたのもの……。ただ……」  晶子は白い腕を伸ばして北川の首に両手をかけた。 「ただ、どうした」  北川は中腰になった体を首から引きおとされ、晶子の顔へ顔を重ねて倒れた。 「いいの、すぐ判るわ」  唇を吸われた。北川は恍惚《こうこつ》となった。悶《もだ》えるように体をずらせ、いつの間にか晶子の体を同じ向きでだきしめていた。唇が耳朶《みみたぶ》へ行き、熱い息を吹きかけたあと、ゆっくり首筋へさがって行った。  北川は目をとじた。晶子があお向けになった北川の体の上へのしかかり、左の鎖骨の上あたりを吸っていた。北川は左手の中に菊の花をいれて握りしめていた。その枕もとに、もう一輪、白い菊の花が落ちていた。 [#改ページ]   自恋魔     1  柿田五郎は上着の内ポケットから黒革の名刺入れをとりだし、薄青色のプラスチックの箱に入った自分の名刺を十二、三枚ほど、それに補充した。  ポケットへ名刺入れをしまい、箱のふたをしめてスチール・デスクの抽斗《ひきだし》へ戻《もど》す。デスクの上のセブン・スターの袋をとりあげ、一本抜いて咥《くわ》えてから、袋を上着の左のポケットへしまいながら、右手でライターをとって火をつけた。  咥《くわ》えたばこでデスクを離れ、六畳ほどのその部屋を出て、次のデザイナーたちがいる部屋へ行った。  両側の壁に向って、大型のスチール・デスクがふたつずつ並び、四人のデザイナーが椅子《いす》に坐《すわ》って思い思いに仕事を進めていた。  ただし、その中の一人はデスクに外国の古雑誌を積みあげてその一冊をひろげ、うつらうつらと居ねむりをしている。 「なあ、高沢啓一って知ってるだろう」  柿田は部屋のまん中にある小さな丸テーブルの上の灰皿《はいざら》のふちで、セブン・スターの灰を叩《たた》きながら言った。その丸テーブルは以前撮影の小道具に使ったもので、写真に撮れば結構大理石に見えるのだが、その実安物のプラスチックで、物好きなデザイナーもそればかりは引取ろうとはしないのだ。 「知ってますよ。歌手でしょう」  左側の窓ぎわにいるデザイナーが言った。 「にやけてる」 「でも若い女の子なんかには人気があるんだぜ」 「ミーハーにもてたって仕方ねえや」 「ミーハーばかりじゃない」 「カマっけのある奴《やつ》だろ、あんなのが好きなのは」 「ホモだち……」  デザイナーたちはデスクに向ったまま喋《しやべ》りはじめた。 「やっぱりそうか」  柿田はつぶやくように言う。 「柿田さんもあんな趣味ですか」 「冗談言うな」  柿田は苦笑した。 「でも、その高沢啓一の仕事が来るぞ」  そう言うと、居ねむりをしているのを除いた三人が、同時に顔をあげて笑った。 「俺《おれ》、嫌《いや》ですよ」 「俺もその仕事、おろしてもらう」 「おい、眠ってる場合じゃないぞ」  居ねむりしていた男が、長い鉄の物差しで小突かれて上体を起した。 「高沢啓一って、お人形みたいな歌い手だろ。いつも変な情ない歌ばかり唄《うた》ってる……」 「起きてたのか」 「寝ちゃいないよ。考えてたんだ」 「ねむってるみたいだったぞ」 「よく言うだろ、へたな考え休むに似たりって」 「勝手なこと言ってやがら」 「謙遜《けんそん》してるのさ」  柿田はそれを聞きながら笑顔で言う。 「じゃあ高沢の仕事が来たら君にやってもらおう」 「いいですよ。浄化槽《じようかそう》の撮影よりはよほど楽だもの」 「それもそうだ。あいつは重たいからなあ」 「スタジオへ運んで撮ろうとしたら、事務所の奴がとんで来て、そんなきたないもの入れないでくれって言われちゃった」 「ああ、あの肥《ふと》った新米だろう」 「ええ。山形だか秋田から出て来たばかりだって言う……」 「俺もこの間単車の撮影の時言われたよ。単車をスタジオへころがしてったら、そんなところへ駐《と》めちゃいけないってさ。スタジオのまん中へ駐車する馬鹿がどこにいるのかね」 「高沢啓一の仕事って何です。どこのスポンサーですか」 「スポンサーのある仕事じゃないんだ。あいつのポスターだよ」 「歌手の」 「そうだ。あいつ、最近プロダクションを変えたらしいんだ。今度は深見さんのところへ移ったって……」 「深見プロって、柿田さんの奥さんの叔父《おじ》さんがやってる会社でしょう」 「そうだよ」 「高沢啓一のポスターか。絵にはなるだろうな。女みたいだから。でも、もう年増だなあ。やっぱり俺もおろしてもらおうかな」 「駄目だよ。君にきめたんだ」  柿田はたばこを灰皿の底で揉《も》み消して言った。 「ちぇっ。寝てるとろくなことないな」 「ほら見ろ、やっぱり寝てたんじゃないか」  柿田は棄て台詞《ぜりふ》のように言い、その部屋を出た。スリッパを脱いで靴《くつ》をはき、ドアをあけて廊下へ出る。それは柿田がやっている小さなデザイン会社で、古いマンションの3DKを借りてオフィスにしているのだ。     2  柿田は自分のボロ車を駆って赤坂の深見プロへ向った。深見プロの社長深見大介は、柿田の妻リエ子の叔父に当たるが、リエ子の実家では余り評判がかんばしくない。  若い頃《ころ》は散々道楽をしたというが、柿田に対して、リエ子の母などはそれ以上深見大介について語りたがらない。どうやら少しグレていたらしい。  しかし今は曲りなりにも株式会社の社長である。これまでに柿田は五、六度その叔父に会ったことがあるが、柿田の感覚ではそう悪い人間のようには思えなかった。  ただ、額がてらてらと禿《は》げあがっていて、ずんぐりむっくりした体つきは、プロポーションのいいリエ子とは似ても似つかぬ感じであった。  柿田は路上駐車をはじめからあきらめて、有料駐車場へ車を入れると、二分ほど歩いて深見プロのあるビルへ向った。  エレベーターで四階へあがると、廊下の壁にテレビでよく見るタレントの大きなカラー写真が十数枚、ずらりと並べて飾ってあった。その雰囲気《ふんいき》は、映画会社の宣伝部などとよく似ている。 「今日は」  深見プロダクションと金文字で書かれたドアを押してそう言うと、髪の毛を赤く脱色した、ちょっと鰓《えら》の張った感じの背の高い女が、マキシのスカートを揺らせて近寄って来た。 「深見さんはおいでですか」  柿田は丁寧に言う。 「いるけどいまお客さんよ」  柿田はそのいけぞんざいな返事に毒気を抜かれて、なんとなく困ったように腕時計を見た。約束の時間ぴったりであった。 「それじゃ……」  たせてもらう、と言いかけて目をあげると、女は柿田の横をすり抜けて廊下へ出て行く所だった。  間《ま》を外されて、柿田はそこに立ったまま部屋の中を眺《なが》めまわした。  もちろん受付などありはしない。入ると右に傘立《かさた》てがあり、その先に青い色をした、柿田のオフィスにもあるスチール製の本棚《ほんだな》が壁にそって並んでいる。本棚に並んでいるのは、女性週刊誌や少女雑誌が主力で、その他の雑誌を入れ九割がた雑誌ばかり。  左側は安物の応接三点セットとサイドボードで、サイドボードの中はどういうわけか人形ばかりである。三点セットのテーブルの上には、コーラのあき瓶《びん》が三本と漫画雑誌の山。  その先にスチール・デスクがひとつあり、デスクの上には何もなくて、クリーム色の電話が三つ並んでいる。そしてその先に、また応接の三点セット。そっちのほうは入口のところのよりだいぶ高級で、茶色の革ばりであった。  壁には廊下と同じようなタレントのポートレートや各種のポスターが貼《は》り並べてあって、「頑張《がんば》れミッチー、レコード大賞」という下手糞《へたくそ》な手書きのビラが混っていたりする。  柿田が気になったのは、突き当たりの間仕切りにかけた大きな黒板の横に貼り出してある細長い紙で、そこには墨で「貴重品はロッカーへ」という文句が書いてあった。  文字がきちんとしているだけに、このオフィスとはまるでそぐわず、ひどく古めかしい感じがしている。「貴重品は番台へ」とか、「貴重品は帳場へ」と言った感じと同じような気がした。  背後で、 「おはいんなさいよ」  と、さっきの女が戻って来て声をかけた。どうやらトイレへ行って来たらしい。しかし、どこへ坐れというわけではなく、むしろ入口に立っていた柿田が邪魔だからどかせたような具合だった。  柿田は仕方なく、左側のソファーへ浅く腰をおろした。  電話のベルが鳴った。スチール・デスクの上にある三台のうちのどれかである。髪を赤くした女は、奥のドアへ入ろうとして引き返し、無表情で受話器をとった。 「はい。はいそうです。……社長。いますわよ。……ああ、でもいま来客中なんです。それでもいいですか」  来客中でもいいかと念を押してから、どうやら彼女は社長を呼びに行くらしい。相手とどういう関係か判らないから、それが失礼な態度かどうか一概には言えないが、とにかくかなりラフであることはたしかだ。  女は受話器を置いて三つあるドアのまん中のドアへ消えた。入れちがいに深見大介が出て来た。 「やあ、来たな」  威勢よく言う。  まっすぐ柿田のところへ来て前のソファーに腰をおろしたので、柿田のほうがあわててしまった。 「電話ですよ」 「電話……」  柿田がデスクを指さすと、 「若いもんがみんな出払っててね」  と弁解するように言って立ちあがった。 「みんなどこへ行きやがったんだろう」  舌打ちをしながら受話器を取った。     3  奥にいた客が帰ると、かわりに柿田が社長室へ招き入れられた。さっきの赤い髪の女はやはり深見プロの社員らしく、深見大介に言いつけられて、テーブルの上のコーヒー・カップをかたづけて行った。 「コーヒー飲むかね。俺はもうごめんだけど」  深見はそう言った。 「結構です」  柿田は、そう答えた。 「何しろ、コーヒー飲むのが仕事みたいなもんだからな」  深見は声をあげて笑う。 「大きいオフィスですね」 「そりゃそうさ。このビルのワン・フロアーを借り切っているんだ。今日は馬鹿に静かだが、これでタレントが二、三人かち合った日には騒々しくてね」 「大変なお仕事のようですね」 「そりゃそうさ。こわれ物を扱うんだから」 「ところで、高沢啓一さんの件ですが……」 「そうそう」  深見はやっと用件を思い出したという様子で、ドアの外へ向って、オーイ、と大声で呼んだ。また赤毛が顔を出す。 「高沢の資料を出してくれ」  深見がそう言うと、赤毛は黙って引っ込み、すぐ戻って来てテーブルの上へ「資料」を積んだ。「資料」は写真ばかりであった。 「B2の縦《たて》位置とB3の縦位置でたのむよ」  深見は柿田が勝手に写真をとりあげるのを眺めながらそう言う。 「はい。……ええ」  柿田は写真から目を移して深見を見た。 「B2の縦と言いますと」 「こんな奴さ」  深見は両手で大ざっぱに大きさを示した。 「B2判の長いほうを天地にしたポスターですね」 「そう。だから、幅はこんなものかな」  深見は、今度は両手でポスターの幅を示す。 「そんな細いんですか」 「B2の縦位置なら、このくらいだろう」  プロのくせに何を言うか、といった表情で深見は柿田をねめつける。だがそれはB2の半分のサイズを示しているらしい。 「B2を縦半分に切った、細長いポスターのことじゃないんですか」 「そうだよ」  当然だという顔であった。深見は何か憶え違いをしているらしい。 「じゃあB3のほうも」 「同じだ」 「判りました」 「あいつは美貌《びぼう》が売り物だからな」 「で、そのポスターの使い道は」 「高沢を売り込むのさ」 「それはいいんですが……」  柿田はうんざりしてきた。 「どんなところへ貼るんです」 「壁とか……」  言いかけて、深見は柿田をみつめた。 「ポスターは壁か電柱に貼るもんだろう。しっかりしてくれよ」 「違うんです。何か特別のキャンペーンでもあるのかと思って」 「ああ、そういうことかい。こういうポスターは、地方なんかへ行った時の用意だよ。それに、ファンにやったりもする。キャンペーンがある時はレコード会社なんかで刷ってくれるのさ」 「なるほど」  柿田は納得して頷《うなず》いた。ポスターがふつうの縦半分のサイズなのは、全身をいれろということだろうし、特に文字を入れる余地がなくていいのは、要するに作り置きのポスターだからであろう。  それにしても、まったく少女雑誌のさし絵にぴったりの美青年であった。  おもながで眉《まゆ》が濃く、瞳《ひとみ》は女のように大きく潤んでいて、長いまつげが憂いを漂わせている。鼻は細く高く、そしてやや長めで、唇《くちびる》は小さく薄く、小粒でまっ白な歯ならびと、細い華奢《きやしや》な顎《あご》。それに柿田にとってはいやらしく思えるほど女性的にふっくらとした頤《おとがい》から喉《のど》のあたりの線……。 耳朶《みみたぶ》は少し貧弱で、それさえもが薄倖《はつこう》な乙女の清潔さを漂わす。そして丹念に波うたせた長髪。  どの写真を見ても、逞《たくま》しさなどかけらも見えなかった。 「おや、これは……」  柿田はまん中あたりにあった一葉の写真を手につぶやいた。五十がらみの田舎《いなか》臭い女と、むぎわら帽をかぶったがっちりした体つきの男、それに浴衣《ゆかた》を着た老人が高沢啓一をかこんで記念撮影風に立っている。 「なんだい」  深見がのぞき込んだ。 「あ、畜生。だめじゃねえか、ここへこんな写真を入れといちゃ」  深見は吐きだすように言い、その写真を柿田からとりあげた。     4 「実は、この写真は……」  深見は渋々説明をはじめた。 「高沢啓一の家族の写真さ」 「へえ、驚きましたね。あんな美男子の家族なら、みんな綺麗《きれい》な人ばかりだと思っていましたよ」 「そうはっきり言うな」  深見は苦笑する。 「でも、そんなひどいご面相でもないぜ」 「そうですけれど、高沢啓一とくらべると……」 「そうなんだよな。家族はみんなごく普通の器量なんだ。どうして、こんな一族に高沢みたいなお人形が生まれちまったのかなあ」  深見もふしぎそうだった。 「だいいち、似てませんね」 「うん、似てない。むぎわら帽をかぶっているのは奴の兄さんだし、浴衣を着てるのは叔父らしい。母親と言い、この男たちと言い、まるで高沢と似ていない」 「兄さんと言うと、高沢は芸名ですか」 「啓一というのが芸名さ。本名は高沢誠。本人が早くから啓一と自分で名乗っていたらしい」 「レコード会社が付けたんじゃないんですか」 「うん。それも、中学生のころ、もう勝手に高沢啓一と言っていたらしいんだ。誠より恰好《かつこう》がいいと思ったんだな」 「中学生のころ、もう芸能界へ入ってたんですか」 「いいや。奴がこの世界へ入ったのは高二のときだ。スカウトされてね」 「変な人だな」 「少しな。二葉《ふたば》より芳《かんば》し、って奴さ」  深見は笑った。 「とにかく、あいつはもう自分の器量がいいことに頼り切ってる。あの器量なら、何をしても食って行けると思ってやがるんだな」  深見は声をひそめていた。 「俺なんか、若いころから散々苦労して、やっとこここまで来たんだが、あいつは子供のころにもう自分が人なみ外れた器量よしだってことを意識してたらしい。父親は早くに死んじまったから、お袋さんは子供二人を貧乏の中で育てたらしい。ところが、奴は着る物なんかにひどく注文が多くて、散々苦労をかけたらしいよ」 「綺麗に生まれすぎたんですかね」 「どうもそうらしい。たしかに、女なら絶世の美女と言うところさ。自分でも、どっちかと言えば女に生まれたかったんじゃないかな。今でもそう思っている節がある。高校三年の時スカウトの目にとまって、デビュー曲であっという間にスターになった。唄のほうはまあまあだが、何しろこのテレビ時代だ。あの顔をアップにすれば、うき世ばなれのした甘ったるいムードが一発で出るんだから、歌番組には欠かせねえ存在になっちまった。でも、世の中には、物の判らねえ人間が少し多すぎるような気がするな。あんなウエハスみてえな男を、十や十一の子供ならとにかく、家庭の主婦なんかにも結構すてきって言う連中がいるんだからいやになっちまう。おまけに、この事務所の先にある多賀見なんていうゲイバーのママなんか、俺んとこからでかい写真を持ってって自分の部屋に飾り、それを眺めてうっとりとため息ついてるってんだからどうしようもない」 「高沢啓一は今年いくつになるんです」 「いくつだと思う」 「さあ……」 「当ててみな」 「二十五か六」  柿田は精一杯多く言って見た。 「二十九だよ。来年三十になる」 「本当ですか」 「世間じゃ二十四で通してるがね」  柿田は思わず笑った。 「よく通りますね」 「どうでもいいのさ、この世界は。でも、あれで三十男だと思うと、俺でさえげんなりする」 「ファンの女の子だってそう思うでしょう。すると年のことは絶対秘密ですね」 「うん。だから、新聞記事にならないように気をつけてるのさ。刑事事件なんかにまきこまれると、高沢啓一こと本名高沢誠、カッコ三十歳カッコとじる、なんてことになっちまうからな」  深見は首をすくめた。もしそうなれば、結局自分の商売にさしつかえるからだろう。 「それで、撮影はいつしますか」  柿田は仕事の話に戻った。 「そう急ぐこともないんだが……」  深見は予定表を出して眺めた。     5  案ずるより生むが易しで、高沢啓一の撮影は思ったより円滑に行った。  どうやら高沢は写真を撮られることが好きらしい。自分のほうから勝手に大量の衣裳《いしよう》を持ち込み、 「ねえ、この服の分はもういいでしょう」  などと言って、次々に衣裳をかえてしまう。そのたびに化粧直しの時間を食うので、予定したスタジオの時間を二時間もオーバーしてしまったほどであった。 「今日はもうお仕事ないんです」  柿田のほうが時間を気にすると、高沢は、艶然《えんぜん》、という表現がぴったりする言い方で答えた。 「ゲーッだ」  カメラマンの助手が、柿田のそばへ来て吐く真似《まね》をして見せた。 「あいつのヌードを撮りたくなっちゃった。きっとパンティーをはいてますよ」 「悪いこと言うな。彼だってれっきとした男じゃないか。あそこにいるのが彼女らしいぞ」  神田はスタジオの隅《すみ》で、高沢の付人と並んで立っている女を示した。 「へえ、彼女がいるんですか。それじゃきっとレスビアン……」 「馬鹿」  たしなめはしたものの、柿田自身、高沢の性生活を想像すると、どうにもヌメヌメとしたイメージしか出て来なくて閉口した。  とにかく、相当なナルシシズムにひたりこんでいる人物であることはたしかであった。  その晩、家へ帰って高沢のことを柿田が妻のリエ子に言うと、リエ子は真面目な顔で、 「あのくらい顔が綺麗なら、当たり前じゃないかしら」  と言った。 「どうしてだい」 「だって、どう見たって女性的美貌でしょう。今でもそうなんだから、小さいときはもっと女の子みたいだったに違いないわ。人間の気持って、いれものでかなり変化するものよ。たとえば女だって、髪を内巻きにするか外巻きにするかなんていうかんたんなことで、かなり気分が違っちゃうのよ」 「そんなものかね」 「内巻きにすると、なんだかおしとやかになるし、外巻きにすると、浮気のひとつもしてやろうかしらなんて……」 「おだやかじゃないな」  そう言えば、リエ子は近ごろ外巻きにかえている。 「だからさ、女の子みたいな顔だちの子供が、男っぽくなるわけがないのよ。そうやって、だんだん女性的なものを身につけちゃうんだわ。そうなれば、私たち女のナルシシズムだって、いつの間にか身につくわよ」 「へえ、女にはみんなナルシシズムがあるのかい」 「あるわ」  当然、という顔でリエ子は言い切った。 「そんなもんかねえ」 「鏡に向ってお化粧してる時、顔に何か塗る為だけに自分の顔を見てるんじゃないのよ。以前は気がつかなかったけど、このごろよくそう思うの。ああまた自分に見とれてるな、これがナルシシズムなんだわ、ってね。……私も年かしらね」 「年かしらねえって、年になってもそうなのかい」 「だと思うわ。でも、それを客観的に感じ取れるようになっただけ、やっぱり年なのよ」  リエ子はそう言って苦笑する。 「男にもあるのかな」 「ふつうの男にも、っていうことでしょ。私、あると思うわ。女だからそこのところはよく判らないけど、たとえばチャンバラなんかしてて、強い侍が相手をズバッて斬《き》っちゃうでしょ。その時よく、斬ったまんまでしばらくじっとしてるじゃないの。あれ、うっとりしてるのと違うかしら」 「それは血の陶酔って奴だろう」 「でも、えらくなった政治家が、たとえば大臣……それも総理大臣なんかになっちゃうと、それまでしなかったような口の曲げかたなんかしちゃって」 「馬鹿、あれは顔面神経痛だ」 「違うのよ。口をこう、とっても意志が強そうにきつく結んじゃって、顎の先に力を入れてるのが写真を見てもよく判るじゃない。あれなんかも、どこかにナルシシズムのようなものがひそんでるからだわ」 「そうだとしても、高沢のとはわけが違うさ。あいつのは、気に入った服を着て、まつ毛をそり返らせて、大きな姿見の前でポーズをとっちまうほうだ」  そう言うと、リエ子はさすがに苦笑した。 「あたしも、そんな風にナルシシズムにどっぷりとひたるほど綺麗になってみたいわ」 「でも、高沢も来年三十になるんだぜ」 「ええっ」  リエ子は悲鳴をあげるように言い、次の瞬間体を折って笑いだした。 「お前は心身ともに健康だよ」  それを見て柿田は満足そうに言った。     6  だが、ポスターが出来あがると、柿田は高沢からすぐ抗議の電話を受けた。 「ひどいじゃありませんか」  高沢ははじめから涙声であった。 「どうしたんです」 「ポスターですよ。どの写真を使うか、僕に言ってくれなかったんですね。どうしてなんです」 「…………」  柿田は返事につまった。  芸能プロの仕事などしたことがなかったので、その世界の慣習がどうなっているか判らなかったのだ。 「今まで、どんな小さなポスターだって、みんなちゃんと僕に自分で写真を選ばせてくれたんですよ。それなのに、あなたはあんなひどい顔のを黙って刷ったりして……。どうしてそんな意地悪を僕にしなければならないんですか。僕は許しませんからね」  何しろ相手は泣いているのだ。その場は仕方なく平あやまりにあやまって電話を切り、すぐ深見プロへ連絡した。 「高沢啓一が泣いて抗議……。どうしてなんだ」 「よく判りませんが、自分に写真を選ばせなかったと言って」 「俺がマネージャーと一緒に選んだじゃないか。君もそばにいたろう。それじゃいけなかったというのか」  深見は怒りはじめたようで、声がどんどん高くなって行く。 「ひょっとすると、そちらの社会では、本人が写真を選ぶ習慣になっているのじゃないかと思いましてね。もしそうなら、僕は彼に文句を言われても仕方ないんですが」 「冗談じゃないぜ。俺は三十何年もこの世界で飯を食ってるんだ。そりゃ、本人が選ぶこともあるだろうが、そんなきまりなんてありゃしないぜ。もしどうしてもそうしたいんだったら、あらかじめこっちに言ってくれなきゃしょうがない」 「とにかく泣かれて困っちゃったんですよ」 「君が悪いことはなんにもない。そっちの落度じゃないんだ。畜生、あのマネージャーの奴、そうならそうと言やあいいんだ。きっと前の事務所ではいつもそうしてたんだろうな。……とにかくこれは俺が引受ける。まかしといてくれよ」 「お願いします」  柿田はほっとして電話を切った。  その電話がおわったあと、すぐに柿田はすでに納品してしまったポスターを、保存用のキャビネットから取り出してよく眺めた。  魅惑の歌い星、高沢啓一。  文字はそれだけで、あとは右を向いた高沢の全身が写っている。ウエストをきつくしぼった女性的な舞台衣裳を着て、半逆光気味のライティングが、ゆるくウェーブした髪と、女のようにきめのこまかな肌《はだ》を柔らかくうかびあがらせている。 「これのどこが気に入らないんだろう」  柿田は首をひねった。 「あんなひどい写真だなんて言いやがって」  まったく理由が判らなかった。 「あれ、文句がついたんですか」  カメラマンが聞きつけて寄って来た。 「そうなんだよ」 「深見プロからですか」 「いや、本人からさ。泣いて怒ってる」 「どうして……」  今度はカメラマンが腹を立てたようであった。 「どこがいけないんです。ええ……」  カメラマンはポスターに顔をつけるようにして調べた。 「エム・ボタンが外れてるわけでもなし」  実は以前、ある選挙対策用のパンフレットを作らされたとき、そういうミスがあったのである。  柿田は失笑した。 「魅惑の歌い星のエム・ボタンが外れてちゃな」 「今のはファスナーですよ。あれは爺《じい》さん代議士だから、ボタンつきだったんです」 「それにしても、こいつはちょっとしたクイズだな。どこが悪かったか見つけたら賞金をだすよ」 「本当ですか」 「ああ、昼めしを奢《おご》ろう」 「よし来た」  カメラマンは機嫌《きげん》を直してルーペを持ち出し、ポスターを丹念に調べはじめた。     7  そのポスターが町田市や小平市など、東京近郊の住宅地に貼られはじめた。  むずかる高沢啓一をどう納めたか、その辺のことはよく判らなかったが、移籍直後のことでもあり、深見大介はかなり苦労したらしい。  ただ、柿田のところのカメラマンは、とうとう昼めしを奢られそこなった。高沢啓一が泣いてクレームをつけて来た理由というのが、遂に発見できなかったからである。  それは、カメラに向けた右顔の目尻《めじり》にある、ほんのかすかな小皺《こじわ》であった。 「なんだい、馬鹿にしやがって」  それを聞いたとき、カメラマンはそう叫んだ。 「こんな小皺、ルーペで見なけりゃ判りっこないじゃないか。それに、小皺が出てるのはカメラマンのせいじゃねえや。てめえの年が年だからだい」  カメラマンはそう言ってくやしがる。 「それに、男じゃないか。俺だって目尻ならこんなに皺が寄ってる」  担当したデザイナーがそう言ったので、カメラマンの憤慨はあっけなく消えてしまう。 「いくらなんでも、高沢啓一と自分をくらべるのは、ちいっと家賃が高すぎやしないか」  ケタケタと笑われても、そのデザイナーはとぼけた真面目さで言い続けた。 「これ、笑い皺って言うんだぜ。からすのあしあとだなんて言うけど、子供にだってある奴がいる」 「そうだな」  柿田が言った。 「二十五でお肌の曲がり角か。するとあいつはとっくに曲がっちゃってるわけだ。こんな小皺なんて、泣いて騒ぐ年じゃないじゃないか」 「あいつ、って、高沢啓一のことですか」 「そうだよ」 「あいつ、もう曲がっちゃってるの」 「馬鹿だな、来年はもう三十……」  言いかけて口をつぐんだが手おくれだった。 「さんじゅう……」  会社中が……と言っても七、八人しかいないのだが、とにかく柿田の会社の全社員が声を揃《そろ》えて言った。 「人に言うなよ。深見さんに口どめされてるんだ」  社員たちは物も言えないほど呆《あき》れたらしく、妙にしらけてしいんとしていた。  が、その極秘事項の三十歳が、日ならずして世間に堂々と報じられてしまった。  そのニュースはまず夜九時ごろのテレビで流された。  ……人気歌手高沢啓一さんが交通事故で重傷を負い入院。  一時間ものの連続時代劇の最初のほうでそんなロール・テロップが流れた。十時からは歌手たちが集まるなま番組があって、そこでも司会者やゲストの歌手たちの間で高沢の交通事故が話題になった。  柿田は家でそれを見ていて、リエ子に言った。 「まずいことになったな。朝刊にのればきっと本名や年齢がのるぜ」 「気の毒ねえ」  リエ子の言い方は、事故に遇《あ》った高沢の傷のことを言っているのか、年齢のことを言っているのかよく判らなかった。  そして、翌朝、柿田が取っているふたつの新聞は、どちらも人気歌手高沢啓一の事故にかなりのスペースをさいていた。  年齢は三十一歳。 「あれ、本当はまだ上だったんだな」  柿田は呆れながら深見大介の顔を思い浮かべた。 「君の叔父さんは、やっぱり少しかわっているな。プロダクションの社長なら、自分のところのタレントの実年齢をよく知っているはずだろう。本人が二十四、五の顔をしたがってるのに、俺には二十九で来年三十になるなんて教えたんだ。そこまで値上げしたくせに、まだひとつふたつ高沢をかばっていたらしい。あんまり意味ないのにな」 「中途半端に義理堅いのよ」  リエ子はそう言って笑った。  しかし、高沢の身になって考えれば、当然笑いごとではない。万一顔に怪我《けが》などしていれば、美貌が売り物だけにとり返しがつかないのだ。  柿田は仕事のついでに深見プロに寄った。 「いやあ、参ったよ」  深見は赤い目をしょぼしょぼさせて言った。昨夜は病院につめっ切りだったらしい。 「容態はどうなんです」 「頭を打ったんでな。意識不明のままさ」 「傷は……」 「あればいいんだが、それがないだけに始末が悪いそうだ」 「でも、顔なんかに傷がつくより、やはりそのほうが幸運だったでしょう」 「顔も器量も命あってのことさ」 「そんなに悪いんですか」 「ああ」  深見はため息をついた。 「だからこういう商売は水商売だっていうんだ。まったく何が起るか判りゃしねえ」 「意識不明じゃ、僕らが見舞いに行ってもしょうがありませんね」 「行くことはないさ。病院は娘ッ子でいっぱいだよ」 「そうですか……」  柿田は病院に押し寄せたファンを想像して、何か急に高沢があわれになった。その若い、というより、いささか稚いはずのファンたちも、今はもう彼が三十一歳であることを知ってしまっているのだ。     8  異変は徐々に起った。  はじめは深見プロからの電話であった。高沢が事故に遇ってから一週間ほどしたあとのことである。 「ちょっと君に尋ねるが、こないだのポスターはどんな紙を使ったんだね」  深見はあらたまった言い方であった。 「ちょっと待ってください」  柿田は自分のデスクの抽斗からファイルをとりだし、印刷会社から来た見積書を読みあげた。 「紙の名前なんか言われたって判らないんだが、それはふつうポスターなんかに使う紙かい」 「ええそうですよ」 「本当かな」 「どうかしましたか」 「いや、町に貼った奴が、どれもこれもみんな破れちまってるんだ。いくら叔父|甥《おい》の間柄でも、あんまりつまらない商売をするとケリをつけるぞ」  凄《すご》んでいる。そんなわけはないと柿田は必死に弁解し、印刷会社の人間とたしかめて見ると言ってやっと納めてもらった。  すぐキャビネットから保存用の高沢のポスターを引っぱりだすと、大小それぞれ三枚ずつあったのが、乾いて割れてしまったように、ボロボロに破れて持ちあがった。 「あ、畜生」  てっきり製紙上のミスだと思って印刷会社に抗議すると、それと同じ紙は現にキャンペーン中の化粧品会社のポスターにも使われていて、全然なんともないという。  それでも柿田はあのポスターを扱った印刷会社の営業マンを二人つれて、町田市や小平市へ現場検証にとんで行った。  なるほど、町に貼ったポスターが一枚のこらずボロボロになっている。営業マンたちも呆れて、とにかくお詫《わ》びにということで深見プロへまわると、深見はカンカンになっていて、残りのポスターを引取れと感情的に言う。仕方なく柿田と三人の営業マンが、梱包《こんぽう》したポスターを車に積み、最後の開封した分を持ちあげると、そのポスターは四百枚ほど重なったまま、グザッと崩れてしまった。 「なんだ、こりゃ……」  柿田は余りのことに気味悪くなって顔を蒼《あお》くした。  あり得ないことであった。  印刷会社の営業マンが嘘《うそ》をついている様子はまるでない。ちょうど縦半截《たてはんさい》のポスターが化粧品会社から出たので、柿田の注文したポスターとつけ合わせて、一枚の紙に同時に刷ったのだという。  それが高沢のだけ腐ったようになっている。柿田には、その原因について、直感的に思い当たることがあった。 「……それなのに、あなたはあんなひどい顔のを黙って刷っちゃったりして……。どうしてそんな意地悪を僕にしなければならないんですか。僕は許しませんからね」  高沢のそういう涙声の抗議が、柿田の耳によみがえって来た。  その高沢は、頭部を強打し、今もって意識不明のままで病院にいる。いったい、彼の脳の深奥部で、どんな異常が起っているか、誰《だれ》もうかがい知ることはできないのだ。  ポスターの写真に写った小皺を、泣くほど気にしていた。  そのこと自体はナンセンスであるかも知れなかったが、高沢には高沢独特の美意識があり、一人の人間がおのれのそういう美意識に従って物事を感じていることは、誰にもとめられることではないし、またどんな力もそれに介入することは不可能であろう。  高沢が外界との接触を絶ち、すでに一週間もたつ。ひょっとして、その間彼は自分の内面をさまよい歩いているのではないだろうか。しかも、その内面を形成する彼の脳は、強い衝撃を受け、異常を生じさせているらしい。その異常が、徐々に元どおりの状態に戻っているとは言い切れない。むしろ、内出血その他の原因で、常識を超えたものを育ててしまっているかも知れないのである。  柿田は、本能的に危険を感じた。  それはまったく飛躍しすぎたことであるかも知れなかったが、念力、超能力、などと言ったもので説明しない限り、ポスターがボロボロになってしまった理由は、うまく説明することができないようである。  柿田は印刷会社の連中と別れると、逃げるようにオフィスへ戻った。  自分は高沢にうらまれているという自覚があって、それが恐怖につながっていた。 「どうしたんです。まっさおな顔して」 「なんでもないッ」  理由もなく社員を呶鳴《どな》りつけて、柿田は自分のデスクへ行き、たばこに火をつけた。手はふるえているし、味もよく判らなかった。  そんな恐怖心が起ったのははじめてであった。柿田は他人からも図太いと言われ、自分でも子供のころから度胸だけは人並み以上だと信じて来た。しかし、怨念《おんねん》にとりつかれると思うと、日頃の大胆さなど影もなくなっていた。冷たい霧のようなものが心の中にしのび込んできて、自分の体を内側からしめつけるようであった。  柿田は自分でもだらしないと思いながら、リエ子を電話で呼んだ。リエ子は急病と勘違いしてすぐやって来て、柿田の説明を聞くと、その余りのおびえように、冗談にしてしまうこともできない様子だった。 「あなたが悪いんじゃないじゃないの」 「でも俺はあいつにうらまれてる」 「でもおかしいわ」  リエ子は夫を勇気づけようと、あれこれ理窟《りくつ》を考えはじめた。 「それなら、どうしてあの日の新聞がボロボロにならないのかしら。年のことを素《す》っ破《ぱ》ぬいちゃってるわよ」 「そうだッ」  柿田はあわてて新聞のファイルを調べた。新聞紙はどうにもなっていない。 「そうか、奴は新聞記事を知らないはずだものな。記事が出たときは意識不明になっていたんだ」  リエ子は考え考え言った。 「彼は年齢をかくしていたのよ。問題はそこだわ。自分の美貌に自分でうっとりしてたような人だし、当然女のように若さを気にしてたはずじゃないの。ポスターのことだって、若さが失なわれて行くのをいやがったからこそ、小皺が写ってるなんて泣いたのよ」 「それはそうだ」 「ねえ、考えてみて。それだとしたら、彼の怨念みたいなものは、あなたのほうには向けられていないわ」 「どうして」 「今、彼は自分の内側にとじこめられて、一番気にしている年のことを、なんとか世間からかくそうと焦っているんじゃないかしら。私たちにすればほんとにつまらないことだけど、きっとそうだと思うわ。それでまず気に入らないポスターを全部ダメにしちゃったのよ」 「まず……まずと言ったな。それだと、彼の年をバラすおそれのある人間が次にやられるんじゃないのか」 「かも知れないけど、それならあなたは安全じゃないの。彼はあなたが深見の叔父から聞いたことなんて知らないでしょう」 「そうだ……」  柿田に希望が戻った。リエ子のいうとおりだったし、聞くには聞いたが、実年齢ではなく、深見は二つほどサバを読んでいたはずだ。 「でも、そうなると深見さんが心配だな」 「なんでもないわよ。さっきから言いそびれてたんだけど、あなたの思いすごしなのよ」  リエ子はそう言ってはじめて笑顔を見せたが、柿田の不安はまだ去らなかった。  受話器をとりあげ、深見プロの番号をまわした。 「もしもし、社長はいらっしゃいますか。柿田ですが……」  しばらく間があった。 「えっ、なんですって」  ガタンと椅子を鳴らして立ちあがった。 「いつです。……たった今。……高沢啓一のマネージャーと一緒に……」 「どうしたの」  リエ子が尋ねると、柿田は受話器をとり落した。 「深見さんと奴のマネージャーが、一緒に窓からとびおりて死んじまったそうだ」 「まさか……」  リエ子は口の中でそう言い、凍りついたように夫の顔を見あげていた。     9  深見プロの社長とマネージャーのほか、その日死んだ高沢啓一の関係者は、故郷にいる母親と兄と叔父、それに、二流のモデルだった彼の恋人……。  新聞や週刊誌は、あとになってその因果話めいたニュースをいろいろ書きたてたが、柿田とリエ子はその背後にもっと大勢が、高沢啓一の怨念の犠牲になっているらしいと悟っていた。  たとえば高沢のクラスを受持った教師たちや、数多くの同級生などである。それらの人々は、なぜ自分が死ぬのか自覚もないまま、一人、また一人、高沢の脳に刻まれた名簿に従って、丹念に消されて行ったのであろう。  いずれにせよ、柿田はうまく生きのびることができた。  なぜなら、それから数日後には、高沢自身が病院で意識不明のまま息を引きとったからである。 「もしかすると、彼は最後に自分も殺してしまったのかも知れないわね」  高沢の死を知った直後、リエ子は恐ろしそうにそう言った。 [#改ページ]  わが青春のE・S・P     1  平野清太郎は、息子の浩一の手を引いて、ときどき家の近くを散歩する。浩一は満二歳になったばかりで、いくらかまとまった言葉を喋《しやべ》るようになっている。どこからどこまで父親そっくりで、母親に似たところはまるで見当たらない。平野は心の中で、今にきっと母親に似たところがあらわれるはずだと、裏切りを待つような複雑な心理で浩一の成長を見守っている。  といっても、別に母親に似てもらっては困ると思っているわけではない。むしろ自分に似ないことを期待しているくらいなのだ。 「これから俺《おれ》と同じ人生を歩くのでは可哀《かわい》そうだ」  ついこの間も、平野は浩一の寝顔を眺《なが》めてそうつぶやいていた。  平野は四十を越えた年齢になっている。満四十歳の誕生日が近づいてきたとき、平野は自分でも意外なほど冷静にその時間経過を眺めていた。とうとう四十になったかという感慨が、きっとどこかの時点で湧《わ》くはずだと思っていたが、結局そんな感慨は湧かずじまいで、逆に何か若返ったような感じがした。  つい先だって、親類が子供づれで訪ねて来たとき、平野はその親類の子供に対する浩一の反応に、ふと自分を見たような気がした。  その子供は平野の姪《めい》に当たる女の長男で、浩一より半年ほどあとに生まれたはずであった。したがって、歩きかたも喋りかたも浩一よりだいぶまだたどたどしいのだが、浩一はその子をいきなり、お兄ちゃんと呼びはじめた。プラスチックでできた四|輛《りよう》連結の汽車のおもちゃがお気に入りで、 「お兄ちゃん、電車《でんちや》ポッポ」  と、すぐにそれを持ち出して友情を示していた。汽車ポッポと教えても、いつの間にか電車ポッポになってしまうところは、いかにも今の子供らしい。  汽車のおもちゃだから当然連結器がついていて、それをつなぎ合わせる作業は、まだ浩一にはむずかしいようである。  浩一はそれを自分より半年あとに生まれた子に、つないでくれとたのむのであった。 「お兄ちゃん、電車《でんちや》ポッポ」  貨車を両手にひとつずつ持って、本気でつないでもらいたがった。 「やだ。浩ちゃんのほうがお兄ちゃんでしょう」  姪はそう言って平野の妻と笑い合った。 「妙なところまで似る」  平野も苦笑した。平野にも、他人の年齢についてひどくうといところがあるのだ。かたはしから、自分より年上だと思い込んでしまう。よく考えてみると、どうも相手の年齢を七ツか八ツほど上に見る癖があるようだ。それも、ごく無意識のうちにである。  その気になって観察すれば、かなり正確に相手の年齢を当てることはできる。しかし、普段は相手の年のことなどまるで考えず、ただ漠然《ばくぜん》と威圧されているのだ。その威圧を受ける感じが、平均して七歳から八歳ほど、実年齢の上に加算されてくるらしい。  四十歳になったとき、逆に若くなったような気がしたのは、そのあたりのことに関係があるようだ。  平野は四十という年齢に精神の円熟という意味を感じつづけてきた。実際はどうであれ、それは十代のおわり頃《ごろ》から持ちつづけた固定観念であった。  そして、とうとうその四十歳に到達したとき、平野は一種の落伍《らくご》者的感覚で、自分にはまだ四十歳の資格などそなわっていないのだと感じたのである。他人を七ツか八ツ実年齢より上に見てしまう癖が、この場合は逆に働いて、俺は本当はまだ三十三、四なのだと感じたのである。  平野は若い時分からずっと老けたがってきた。青春という時期が、いったい何歳までなのか、そんなことは考えてみたこともなかったが、とにかく平野は自分の若さがおぞましく、青春期を抜けた年長者を、心の中でたえず羨《うらや》みつづけていた。だから、少しでも肉体のおとろえを感じると、よろこんだほどなのである。  平野は青春という言葉が大嫌《だいきら》いだったし、自分がその青春期にいるということもいやでたまらなかった。やみくもに突っ走らねばいられない衝動をかかえ、ろくにそれを制御することもできず、突っ走れば必ず転倒し、ぶち当たれば必ずはね返された。どこへ行って何をしようと傷つかぬということはなく、自分に力がないのは百も承知しながら、気がつくとまた何かに挑《いど》みかかっている。それでいて、世の中には青春がたのしいだの美しいだのという言葉が溢《あふ》れていた。そういう言葉が、まだ牙《きば》の生え揃《そろ》わぬ若い牡《おす》を傷つけるのだ。たのしく美しいはずの青春を、平野は泣きとおし、血を流しつづけて歩いた。自分の旺盛《おうせい》な体力をうらみ、渦動《かどう》してやまない感情が沈潜する日に憧《あこが》れた。俺が主人なのかお前が主人なのかと、絶えず補給されてくるおのれの精液を、憎しみをこめて掌で解き放ちつづけた時期もあった。  満三十歳の誕生日を迎えるとき、平野は期待に胸を躍らせて待った。これで青春がおわってくれるのではないか、と。  だがおわりはしなかった。相変わらずおのれの若さに追いたてられ、卑屈な姿勢でせかせかと歩きまわる日がつづいた。ハイエナやコヨーテの、尾をさげたあの歩き方を映画などで見ると、おのれを見せられたようで思わず目をそらせた。  だから、自分が持っていない落ち着きを相手に感じると、それだけでもう威圧された。言葉や態度では相手によっていろいろ接し方を変えたけれど、ほとんどの相手からそういう威圧を感じた。ひとつの世界に安定した足場を作っているように見える相手は、みな畏敬《いけい》の対象であった。そういう相手がやたらに多かったということは、ひょっとすると平野が自分自身を実年齢より七ツ八ツ下に感じていたということなのかも知れない。  三十七歳のある夏の日、平野は街を歩いていて、ふと今まで味わったことのない感覚に襲われた。  それは、はじめの内ひどく物哀《ものがな》しいものであった。心の中に空洞《くうどう》ができたような、何か今まであったものが突然消えてしまったような欠落感であった。そして、その空洞になった部分は、涙の蒸気のような悲しみの靄《もや》で満ちているようであった。  なぜこんなに淋《さび》しいのだろう。  平野は自問した。しかしすぐには答えがみつからなかった。だが、しばらくして、淋しさと同時に、何かから解放されたような軽快さがあることに気づいたとたん、平野は思わず歩道に立ちどまり、 「去《い》った。やっとおわりやがった」  と涙ぐんだ。その空洞の部分にあったものは、平野を苦しめつづけたがむしゃらの若さであった。  あの身もだえさせるようにうわずった野心が消え、理不尽な不満や憤りも納まっていた。平野の感じでは、それは普通なら二十代のおわりか三十代のはじめに訪れるもののはずであった。  やはり俺はみんなより七ツほど遅れているんだ。そう思いながらも、平野は満足であった。あのねばねばした、どうにも制御することのできない若さが去ってくれれば、これからは人なみに物事を判断することもできようし、一歩ずつ、一段ずつ、人生を踏みしめて歩くこともできるだろう……。  平野が結婚したのは、その年の内であった。平凡な見合結婚であったが、平野はそれで充分満足した。今までは、家庭を持って落着くどころではなかったのだから。     2  平野の父親は東京の向島で写真館を経営していた。写真館といえば昔はモダンな職業で、そんな職業を選んだ彼の父親も、時代の尖端《せんたん》を行くようなモダンボーイであったらしい。  と言えば聞こえはいいが、実際にはセンスだけが先ばしって地に足のつかない、かなり軽薄な面があったようだ。祖父の代までは日本橋で名の通った鰹節《かつおぶし》問屋をしていたが、そういう古臭い家業を嫌《きら》った父が現われて、結局|潰《つぶ》してしまったのである。  内福だったので、代々つづいたしにせは潰れても、向島で写真館をはじめるくらいのことは、何の苦もなかったらしい。だから知らぬ人々の目には転業というように見えたことだろう。  たしかに、鉄筋三階だてのその写真館は、当時としてはスタジオも大きく、設備もよく整っていて、向島あたりではひときわ目立つ立派な建物であった。弟子と称する住み込みの青年が何人かいて、平野は坊ちゃんと呼ばれて育った。  ところが、平野が八歳になったとき母親が死んで、一年半ほどすると父は新しい妻を迎えることになった。その女は大した美人で、どうやら花柳界にいた人間らしかった。  戦前のことで、その女が花柳界の人間だったことを、一家は懸命に伏せていたし、彼女も堅気《かたぎ》の家の主婦になり切ろうと努力していた。  平野に対しても、最初の母よりはるかに優しく、物分りのいい態度で接してくれたが、こと教育に関してはひどく厳しかった。  あとになって考えてみると、それは彼女の見栄であったらしい。実の母以上に子供を可愛がるという評判を得たかったのだし、自分の子供はいつでも学校で一番の成績にして置きたかったのであろう。  さいわい平野の成績は悪くなかった。ほかの子が苦労して憶える九九なども、なんの苦もなくいつの間にかそらんじたし、書き取りも学年相応のことはほぼ間違いなくできた。  苦手なのは図画だけであった。絵を描くことは好きなのだが、どういうわけか色の感覚が少しおかしくて、クラスの平均点を上まわることができなかったのである。 「お前は色盲だろう」  教師にも家族にもそう言われつづけ、とうとう医者に連れて行かれたりした。しかし、医者は色盲ではないと診断した。 「空は青いのよ。おてんとさまは赤にきまってるじゃないの」  二度目の母がじれて、平野が学校から持ち帰った図画の作品を前に、この時ばかりは甲高《かんだか》い声で叱《しか》った。  だが、その頃の平野には、晴れた空が青一色とはどうしても思えなかった。どんな色が平野の感じている空の色かと言えば、それは青と桃色を混ぜたような色であった。そして、太陽に至っては、あざやかな青にしか見えなかったのである。  小学生の図画は屋外の写生が多い。したがって、青い太陽を描く平野の図画の点は、よくなりようがなかった。柿《かき》も林檎《りんご》も赤く描けるのに、どうして太陽だけ青く描いてしまったのか理由はよく判らない。しかし、少し大きくなると青い太陽を描く癖はなくなった。  実を言うと、青い太陽を描くと叱られるから、赤く描いて叱られずにすませることを憶えただけである。その頃の平野にとって、実際に太陽は青く感じられていたのだ。  やがて戦争になり、平野は千葉県へ疎開した。義理の母でも子供の身には恋しくて、よく泣いたものである。しかし、東京の空襲が本格化して、疎開した子供たちの間にも切迫した空気が生まれ、いつとはなしに泣く子はいなくなった。  疎開から帰った日を、平野は今でもまざまざと思い出すことができる。とんでもない遠くから、自分の生まれ育った鉄筋三階だての写真館が見えたのである。その建物以外、町には何もなかった。  父親は終戦ぎりぎりにどこかへ召集されて、まだ復員していなかった。焼けてしまったが曲がりなりにも壁と天井のある写真館には、義母の親戚《しんせき》はじめ、見知らぬ家族が何組も入って暮らしていた。父親の仕事場であるスタジオにさえ、三組の家族が折り重なるようにして寝ていた。  何もかもが一変した中で、平野にとって最大の変化は、義母の態度であった。ことあるごとに平野を呶鳴《どな》りつけ、下男のようにこき使った。彼女にとってもう世間体をとりつくろう必要もなく、またとりつくろっていられるような世の中でもなかったのだ。  焼跡の空は青く澄んで、夕陽は深く沈み切るまで、建物にさえぎられることもなく東京を赤く染めつづけた。太陽を青く感じることは本当になくなっていて、平野は毎日のようにその赤い夕陽を眺めながら父の帰還を祈った。  餓えと虱《しらみ》に悩まされる日がつづく中で、写真館の人々の間に新しい秩序が生まれた。義母の親戚の本間という一家の長男が、はやばやと復員して来て、写真館の人々の餓えを満たしはじめたのである。本間は体の大きな男で、いろいろな物資のありかに通じているらしかった。いつもリュックサックをしょって、軍用の大きな水筒をぶらさげて歩いていた。平野は水筒の中身を水だとばかり思っていたが、実は上等の清酒がつまっていたらしい。彼が主に動かしていた物資が何であったか遂に判らなかったが、それを食料と交換する取り引きの際、水筒の清酒が大いに物を言ったようである。  平野はある日突然、自分の母親が本間をあなたと呼んでいることに気づいた。別にかくれてそう呼んでいるのではなく、みんなの前で堂々と呼ぶようになっていたのだ。  あなた。……それがどんな関係を示しているのか、急に気づいたのである。平野は父が敗けたように思い、くやしくて何日も人目のないところで泣いた。  だが、本間は平野に優しかった。写真館を乗っとったような形の人々の間で、平野は本間から特別扱いをされつづけた。義母が邪慳《じやけん》にすると、本間は本気で彼女を叱った。義母は本間をおそれて平野を優しく扱いはじめ、それがなさぬ仲の二人の間をいっそう遠いものにした。  あたりにバラックが建ちはじめても、写真館の人数は一向に減らなかったが、ある日突然父が帰って来ると、写真館の空気は急に陰気になり、ひと組、またひと組と減っていった。  そしてとうとう、平野と父の二人きりになってしまった。義母は本間の一家と一緒に出て行ってしまったのである。  それでも本間は足繁く写真館を訪れた。来るたびに食料などを置いて行き、父子はそれでなんとか食いつないで行けたのである。 「日本は敗けたんだから、これくらいのことは起こってあたり前なんだ」  父は本間がくれた清酒を飲んでは、平野にそう言い聞かせた。  たくましい本間にくらべると、復員した父はまるで敗残兵そのもののように見えた。本間は上等兵で父は少尉だというのに、実際はまるであべこべのように思えた。本間が来ると父は気おされたようにペコペコと頭ばかりさげ、本間はそれをはげますように陽気な大声で喋った。 「すまないがこれからはお前たち子供になんとかしてもらうしかない。お父さんたちはやりそこなったんだ。戦争を起こして敗けちまった。しっかり生きてくれよな」  父はときどきつぶやくようにそう言った。肋骨《ろつこつ》にひびが入っているとかで、雨雲が近づいたりすると必ず痛み出すようであった。その傷は、どうやら戦いによるものではなく、訓練中に上官たちから何かされた傷だということであった。  窓という窓のガラスが割れて、そのかわりに板やトタンで窓をふさいだ写真館は、秋のおわりから冬にかけて、まるで獄舎のように陰気であった。コンクリートの壁に囲まれた中で、父子はよく焚火《たきび》をして暖をとった。  いちばん隙間風《すきまかぜ》が入らないのは、二階の北側にある小部屋で、父子はそこに板を敷き、脂臭い蒲団《ふとん》にくるまって寝た。昔は平野が寝起きしていた子供部屋である。  本間の足が遠のきはじめると、父はしょうことなしに毎日出かけるようになった。闇市《やみいち》で古着の商売をはじめたのだ。それさえも本間が手配してくれた仕事で、なんとか父子二人が食うだけは食っていけた。  しかし、平野は中学へ通うようになっていて、父はその先のことについてはまるで自信がなかったらしい。学制が切りかわって、中学三年の次が高校一年ということになった。その中学三年の冬、父は平野に詫《わ》びるように言った。 「お前は勉強のできる子だが、こんな時代じゃ学校へ行っても仕方あるまい。俺がどうかなっても食いっぱぐれのないように、食い物の商売を憶えたほうがいい」  平野はやがて上野へ連れて行かれ、妙な外国人の店へ住み込むことになった。そこはガード下の、一年中陽のさすことがない、じめついた店であった。  しかし、米から肉、油、砂糖に至るまで、食料はおそろしく豊富にあって、平野は荒っぽいが栄養満点の食事を出す店のコック見習いということになった。  平野がはじめて例のねばねばした衝動を感じたのは、その店にいた頃であった。     3  店主が外国人であろうと何であろうと、平野はまったく気にならなかった。しかし、ガード下の汚い店で働くことに我慢ができなかった。  その点に関して、たしかに平野は父親ゆずりの性格を持っていた。恰好《かつこう》のいい職業に憧れ、実質を問題にするような心境には決してなれなかったのである。  その店のある界隈《かいわい》では、誰それが何でどのくらい儲《もう》けたとか、何がどのくらいで売れるとか、そういうぼろ儲けの話題が多かった。平野の耳にも当然それが毎日のように聞こえて来て、いつしか彼は一攫千金《いつかくせんきん》を夢見る人間になっていた。  生まれつき投機的な傾向を持っていたというより、そういう時代のさなかであったし、上野は闇ブローカーの集まる土地でもあった。  それに、何と言っても本間の影響が大きかった。男は何よりもまずたくましい生活力を持つべきだという手本が本間であったし、その本間をなんとか見返してやりたいと思う気持ちが強かった。  別に本間を憎んではいなかった。憎んだのは本間と去った義母であり、本間自身にはむしろ親愛の情があった。しかし、本間が平野の目標であったことは間違いない。父のかわりに自分が本間を見返してやらねばという責任感のようなものがあった。  しかし、その闇食堂を出る機会はなかなか訪れなかった。平野は欲求不満から陰気になり、おし黙ったまま汚い調理場で日を送っていた。  そういう精神状態のせいか、平野の目にあの青い太陽が戻ってしまっていた。たまに外へ出ると、桃色と青を混ぜたような色調の空に、青い太陽がギラギラと輝いて見えた。  一攫千金の夢にとりつかれた平野の前に、ギャンブルの世界がひらけたのは丁度《ちようど》その頃であった。  それまで平野は賭博《とばく》というものを知らなかった。メンコもベーごまもビー玉も、しつけのいい写真館の子としてはいっさいご法度であったから、知りようもなかったのである。  だから、となり近所の店員たちが集まって花札を並べていてもまるで関心がなく見すごしていた。ところが、毎晩のように見せられている内に、いつとはなしにその簡単で荒っぽいゲームのルールを憶えてしまうと、自分なら絶対に敗けないような気がして仕方なくなったのである。  オイチョカブであった。 「ほう、清ちゃんがやるとさ」  ある晩平野が店員たちの間へ割り込んで行くと、みんなそう言って笑った。おとなしい平野をカモと見たのだろう。  ところが平野は敗けなかった。盲滅法に張っているようだが、必ずと言っていいほどカブになるのである。 「やれやれ。素人《しろうと》に裸にされちまったぜ」  店員たちは呆気《あつけ》なく捲《ま》きあげられてそうぼやいた。 「まったくだ。素人ほどこわいものはねえや」  ぼやきはしたがみな気のいい連中で、怒りはしなかった。だが、半月もたたない内に平野はその店員たちから敬遠されるようになった。 「清ちゃんとオイチョをやったって敗けるだけだもんな」 「勘弁してくれよ。勝てねえのが判ってるのにやる馬鹿はいねえもの」  平野がやろうと言ってもみんな尻込《しりご》みするのである。 「コイコイなら別だけどさ」  そう言われて平野は別なゲームを憶えた。どんなゲームでも、平野は敗けなかった。 「清ちゃんは生まれつき博才《ばくさい》があるんだよ。本気で修業したら大した博奕《ばくち》うちになるぜ」  仲間にそう言われ、自分でもそのようだと感じはじめた。  ガード下に集まる闇商人たちの鉄火場へ顔をだすようになって、平野の博才に一層みがきがかかった。余程の不調でない限り敗けを知らず、しかもあぶく銭でポケットをふくらませた連中は、店員仲間と違って、敗けても敗けても挑んできた。  自分でも頼りないくらい簡単に、当時の金で二、三百万円手に入れてしまった。その金を持って向島へとんで帰り、父に渡すと、 「二度と博奕なんかに手を出しちゃいけない。こんなことは一生に一度あるかなしなんだからな」  と言いながらも、父は元気をとり戻した様子で写真館の修理を手配した。 「ここで地道にやるんだ。どうやらまた平和な世の中に戻るらしいな」  父が言い、平野もそう思った。ようやく国産のカメラも出まわりはじめ、平野は写真屋の若旦那《わかだんな》に戻った。父子が隙間風からのがれて冬籠《ふゆごも》りした昔の子供部屋は倉庫になり、平野は三階の陽の当たる大きな部屋で暮らしはじめた。  ガード下で鬱々《うつうつ》と暮らした間に感じたあの青い太陽は消え、赤い太陽が幸福な日々を照らしてくれていた。  だが、暮らしがそうして落着いてくると、一度憶えた博奕の味がしきりに思い出された。あんな連戦連勝は奇蹟《きせき》に近いことなのだと自分に言い聞かせながらも、一方では自己の賭博の才能を否定しきれない。しまいには勝負ではなく才能を確かめるためだと思い込み、こっそり上野へ通いだすのであった。  今度は勝ったり敗けたりだった。丁半でも花札でも麻雀《マージヤン》でも、以前のようには行かず、ごく人並みの勝ち敗けがつづいた。  不敗時代に賭《か》け金の水準が一挙に玄人《くろうと》なみにあがってしまっていたし、相手もプロ級の連中ばかりであった。そんな中で運不運の波が人並みなら、技術の差が大きくあらわれる。勝てば官軍でどうとも言えるが、そうなるとやはり平野は年季不足であった。  勝ちは小さく敗けは大きい。こんなはずではなかったと勝負を追う内に、かすり傷が骨折になり、いつの間にか命とりの深傷《ふかで》になっていた。 「お前、博奕だけはやめてくれないか」  そういう父の説教も遅すぎた。たちの悪すぎる借金に追いまくられて、今さら足を抜くこともできない。じっと家に籠っていると、三日もしない内に人相のよくない男たちが押しかけて来るありさまだ。 「しょうがない。もとはと言えばお前が博奕で稼《かせ》いだ金だからな」  父にも負い目があって、最後には無理算段で平野の借金を返すことになる。  だが、そのての借金は簡単にすむことではなかった。追いかけて来るのは当座火がついた分であって、まだ燃えあがらない分がかくされている。なまじ父親にすまないと思うから、それを未然に消しとめようとのこのこ出て行って余計傷を大きくする。つい消せると思ってしまうのも博奕なら、そういう時に限って敗けてしまうのも博奕である。  せっかく何とか家を建て直したのに、平野の行跡は絵に描いたような道楽息子のそれになってしまった。 「やっぱり俺は運がおわってたんだなあ」  一時元気をとり戻しはしたが、敗戦で肚《はら》の筋金を抜かれたようになっている父は、三度四度五度と重なる博奕の借りの取り立てにゆさぶられて、天も地も見はなしたような言い方をするようになった。  その父に一度はいい思いをさせてやれただけに、平野は焦りすぎ、逆に自暴自棄に陥ってしまった。 「俺の博奕はもう一生やまないだろう。こうなったらいっそのこと……」  と、若気の至りの結論は、しつっこい取り立てで向島の写真館をそっくりいただいてしまおうという魂胆のやくざを一人、暗がりへ連れだして九寸五分でざっくりえぐってしまったのである。  その上野の暗がりから、サイレンを鳴らした車でまっすぐ豚箱入り。起訴されて一週間ちょっとで小菅へ移され、公判があって懲役二年、執行猶予四年で向島へ戻った。 「人さまに怪我をさせなくてよかったというのは、あれはまだしあわせな親のいう台詞《せりふ》だな。今度という今度は、人間なんて勝手なものだとつくづく思い知らされたよ。お前が無事でよかったと、心底そう思ったぜ」  出所した平野を迎えた父は、弱々しい声でそう言った。  親ひとり子ひとりの、がらんとした三階だての家の中に、救いようのないほど陰気で、それでいて何もかもすんでしまったような、しいんと平和な夜の闇があった。     4  再出発。それは平野にとって心の重い事態であった。もうこうなったら、何をやってもうまく行くはずがないのは判り切っていて、しかも新しい人生に立ち向かわなければならない。……そんな感じであった。だから心がふるいたつという状態にはなれるはずもなく、かと言って父の心を考えれば厭世《えんせい》的な態度をあからさまに示すわけにも行かず、どことなく油気の抜けた、しのび足で歩くような日々がつづいた。  そういういじけた姿勢に平野を追いこんだ理由として、第三者は彼が罪を犯してしまったことをあげたであろうが、実際にはそんなことよりもっと大きい、別な理由があった。  それは例の青い太陽のことであった。平野の感覚は、また太陽を青く感じるようになっていたのである。  出所して向島へ戻って以来、その太陽に対する感覚の異常は、かなり長くつづいた。そして過去の経験から、平野は青い太陽を不吉な前兆として考えざるをえなかった。  太陽を青く感じると、ろくなことは起こらない。現に博奕狂いをはじめたのは、太陽が青く見えていた時期だったし、少年時代にも、青い太陽を見ながら、こそこそとよくないことをしていた記憶があった。  周囲よりは多少裕福な家の一人息子として、父や母から優等生的な生活を強いられ、自分もそのしつけに順応はしていたが、ときどきどうしようもない欲求から、ひそかに悪童どもの仲間入りをした憶えがあるのだ。  もちろんそうした少年時代のことは、非行とまでも行かない、ごくささいなわるさであったけれど、家の者に対してひどくうしろめたかったのはたしかであるし、今度の傷害事件と考え合わせると、青い太陽という抜きさしならぬ共通項があるだけに、得体の知れぬまがまがしさを感じずにはいられないのであった。  いったい、この青い太陽とはどういうことなのだろうか。……平野は時どき晴れた空を見あげて考えた。  それが自分の感覚の異常であることはたしかであった。太陽が青く見えるなどという人間が、ほかにいるはずはない。それに、青く見えるのは一時期のことであって、いつの間にか一般の人々と同じように赤い色に戻ってしまうのだ。  平野は自分の異常な部分を冷静にみつめようと努力した。  太陽を青いと感じるが、それがどんな種類の青かというと、どうも表現がしにくかった。だいいち青なら普通人より明度が低くなりそうなものだが、物の見え方にはいっこうに不便なところがない。他人の目の感覚を知るわけには行かないが、どうやら明るさについては普通の人と変わりないようなのである。太陽をじっとみつめようとしても、すぐ目が痛くなり、まぶしくてとても正視できない点でも、平野はごく普通であると言えた。  だが、晴れた空の一点に太陽があって、その中心ほど青が濃く、太陽の近くの空間がそれよりずっと薄い青になって感じられるのだ。そして、太陽から遠ざかるにつれて青は淡くなり、そのかわり空の色は桃色がかってくる。  その時期が去りさえすれば、正常な感覚で空の色を見ることができるのだから、平野にも異常時と正常時で色感が妙な具合に入れかわってしまうことは判る。  普通の目には、青空に太陽があって、それは白熱した光のかたまりに見え、そのまわりの青空が、太陽のために白っぽく感じられる。その青と白熱光……つまり一般に太陽は赤いと言われている感覚……を逆転すると平野の異常な時期の感覚になるのだ。しかもそれは本物の空と太陽に関してだけ起こるのであって、テレビや映画、印刷物などでは、その奇妙な逆転現象は絶対に起こらないのだ。  したがって、本物の太陽光線ならば、それを反射させる夜空の月や水面に反射する陽光は、みな幾分なりと青味を帯びている。  そこまでは判るのだが、ではなぜということになると、そこから先は平野の脳の中の出来事であって、いくら自己の心理を分析してもはっきりした答えは出てこなかった。  ただ、青く見える時期、自分の心の中に、もやもやとした衝動のようなものが常に渦巻《うずま》いていることはたしかであった。親の目をぬすんで悪童たちの仲間入りをしたのも、突然博奕狂いをしたのも、そのねばねばした衝動のせいであった。  理性ではなんともおさえ切れない、その強い衝動のようなものは、平野の体の恐ろしく奥深いところから湧きだしてくるようであった。  太陽に対する視覚が正常な時の平野は、持って生まれた自分の能力の限界を常に意識した、つまり分《ぶん》を心得た控え目な性格の男である。  ところが、いったん太陽が青く見えだすと、何にでも手を出したくなり、未知の仕事や遊びに対して、自分がひどく天分に恵まれていそうな気になってしまうのである。この間の博奕の時がまさにそれであった。  ふしぎなもので、そういう思い込みかたをしている時は、一種の気迫のようなものがあって、本当にうまく行ってしまうのであった。しかしそれは僅《わず》かな間で、博奕にしたところで結局は散々な目にあってしまった。  更に深く考えてみると、その異常な感覚は、平野が強い欲求不満にとりつかれた時、きまって起こるようであった。遠い子供時代の記憶なので、正確に重ね合わせることはできないが、母の死があった頃、青い太陽を見ていたようであるし、二番目の母が家へ来てから、やはり青い太陽を見ている。  義母と青い太陽については、はっきりした記憶があった。学校の図画の時間に、青い太陽を描いて教師に注意され、はじめて周囲の者が平野の色感の異常に気づいて眼科や神経科へ連れて行かれたことがあるのだ。  戦後になって、中学をおえるとすぐ働きに出されたが、多分それも欲求不満の原因になったのであろう。しかも行った先が上野のガード下の汚い食堂であった。欲求不満を青い太陽と結びつけて考えるなら、当然太陽は青く見えはじめるはずで、現にそのとおり平野は上野の街の上に青い太陽があるのを感じて暮らした。  そして今度は、未決とはいえ鉄格子の中である。当然太陽は青く見え、平野は自分自身に対して警戒を厳重にしなければならなかった。  もう二度とあの衝動に身をまかせて失敗することはごめんだ。なんとしてもあのねばねばした奴をおさえつけてやる。……堅い決意で平野は毎日を慎重に過ごした。  仕事の口は今度も父が探してきてくれた。 「あんなことでコックにはなりそこなったけれど、やはり手に職をつけなければ損だ」  そう言い、本所にある小さな自動車の整備工場へ連れて行った。  その工場は一応株式会社になってはいるが、社長というよりは大将と呼んだほうがぴったりする三十がらみの男がやっていた。戦車兵だったとかいうことで、工場の主《おも》だった連中はみな兵隊時代の仲間らしかった。 「どうってことはねえさ。相手がやくざじゃねえか。これがもし、振られた女の顔を切ったっていうならごめんこうむるけど……」  父が事情を打ちあけると、その社長は磊落《らいらく》に笑いとばし、陰気な表情の平野を励ますように、大きなごつい手で肩を叩《たた》いた。  軍隊出身でないのは平野ともうひとり、水島克雄という痩《や》せた青年だけであった。 「あんた、やくざを刺してくらいこんでたんだってね」  水島は初対面でいきなりそう言った。錆《さ》びたトタン板で囲った工場の敷地いっぱいに、ポンコツ自動車の部品が雨ざらしのまま積みあげてあって、その間に大小さまざまな中古車が置いてあった。  水島はやくざを刺したということで、のっけから平野に一目置き、何かにつけ兄貴分のように扱ってくれた。ほかの兵隊あがりたちも、自分たちのよき後継者といった目で平野を見ているらしく、 「俺だってアメ公を何人も殺してるんだぜ」  などと、荒っぽい昔ばなしをしてくれたし、平野がどんな格闘技も学んだことがないと知ると、昼休みなどに寄ってたかって喧嘩《けんか》のやり方をコーチした。  そんな中で、平野はしだいに生気をとり戻し、いつしか青い太陽のことも忘れるようになって行った。 「どうだい。いい天気じゃねえか」  総勢九人の社員がうち揃って箱根から伊豆へ一泊旅行に出たのは、それから半年ほどあとのことであった。お手のものの中古車三台に分乗して箱根の芦《あし》の湖《こ》でひと休みした時、湖畔の草の上に大の字に寝た社長が言った。 「ほんとですねえ」  細かく陽光を反射する水面を眺めながら平野が答えた。その光は白かった。深く澄んだ青空に、白っぽく光る真昼の太陽があった。 「元気そうになったぜ。その意気だ。くよくよしたってはじまらねえからな。俺たちはどいつもこいつも、みんな一度や二度は死にはぐってる。お前もそうしな。自分を一度死んだものと思えば、いやなことをいつまでも抱いてる気がしなくなる。生きてる一秒一秒を大事にたのしまなきゃ損だと思うようになるよ」 「ええ」  平野は明るい声で言った。出世もしたくないし余分な金も欲しくない。このざっくばらんな男たちと、死ぬまでこのまま仲よく暮らして行ければいいと思った。  社長はむっくり起きあがってあぐらをかいた。 「俺の見たところ、お前は世の中のことにいい勘をしていそうだ。工場《こうば》も工場でやってもらいたいが、事務所のほうも少し手つだってもらえねえだろうかな。銀行だの税務署だの、俺たちはみんなそういうことは苦手なんだ」 「やれればいいけど」 「やれるさ。必要なら帳簿だって算盤《そろばん》だってどんどん勉強してくれ。それで会社をもっとでかくするんだ。終戦からこっち、とにかく力を寄せ合って食って行ければよかったが、そろそろそういう時代もおわりさ。みんな女房を持ちはじめたし、そうなれば子供ができる。あんまりぞっとしたことじゃねえが、まあ人間なんだからそれも仕方のねえことさ」  そう言って社長は無精ひげの伸びた顎《あご》を撫《な》でた。 「昔の兵隊仲間七人とお前に水島。少なくてもこの九人は、ちゃんとした庭のある家《うち》へ納まらなくてはいけねえ。そうだろうが。戦争はなくなったかも知れねえが、それならそれで陣地のとりっこはつづくもんさ」 「家というのは陣地ですか」 「そうさ。これからは陣地のとりっこだよ。だとしたら、儲けなくっちゃ。戦争は勝たなきゃ意味がない。なあおい……」  平野は頷《うなず》いた。その社長が好きだった。兵隊あがりの社員たちが好きだった。彼らが行くところなら、どこでもついて行くつもりであった。     5  平野の父が死んだのは、その年の暮れであった。雪が降って工場の敷地いっぱいに積みあげた醜いポンコツ自動車の残骸《ざんがい》を綺麗《きれい》に掩《おお》いかくしていたが、そのかわりひどいぬかるみになっていて、みんなゴム長をはいている日であった。  報らせは警察から入った。 「そちらに平野清太郎という人がいるはずなんだけどねえ」  受話器の声は警察だと名乗ったあと、一般市民が電話をかけるとき無意識に示す、あの間隔をとった喋り方ではなく、礼儀も遠慮も全く欠いた粗雑な言い方をした。 「平野は僕ですが」 「ああそう。君のおやじさんが死んだよ。死んでるんだよ」 「…………」  平野は凍《い》てついたように受話器を握っていた。 「聞こえてんのかい。おやじさんが死んじゃってるんだよ」  相手の冷たい怒りがつたわってきて、平野をうろたえさせた。 「父が……」  やっとそれだけ言えた。 「そうだよ。今なあ、医者が体を調べてるよ。幾日前に息を引きとったもんだかな。この番号は本所だろ。そこから向島までどのくらい遠いか知らねえけどさ、そんな長い間ほったらかしといていいもんかね。解剖の所見しだいじゃ、調べさせてもらうからな」  工場に住み込んで、みんなと一緒に寝起きしていた。その集団生活が楽しかった。週に一度向島へ戻っていたのが、二、三週に一度になり、近頃では全然父のところへ帰らない月もあるほどだった。  警官の声は、遺体を運んだ場所と発見者の名を告げて受話器から消えた。消えたあとも、平野は指が白くなるほど受話器をかたく握りしめて、そのままの姿勢でいた。動きたくなかった。そのままかたまって死んでしまいたかった。  本所の工場と向島の写真館は、つい目と鼻の先であった。自転車でゆっくり行っても二十分かそこらである。品川の鮫洲《さめず》へ通って自動車の免許を取っていた。車でとばせば五分で行ける。  あの警察官は義憤を感じたのだろう。そう思うと、平野は今まで感じたことのなかった神の存在を感じた。何か巨大な裁くものが頭の上へ重くのしかかっているような気がした。 「どうしたい」  板ばりの事務所のガラス戸をあけ、入り口で長靴の泥《どろ》を蹴《け》り落としながら社長が言った。 「おやじが……」  声がつまって言えなかった。 「え」  社長はぎょっとしたように動きをとめて平野をみつめた。 「死んだのか」  平野は頷いてやっと受話器を元に戻した。涙が溢《あふ》れてきた。 「家で死んでいるのを、向かいの下駄屋のおばさんが、裏の戸をこじあけて入って見つけたんです」 「いつのことだ」 「見つかったのはけさだそうです。今警察で解剖してるそうです。いつ死んだんだか……」 「最後に会ったのはいつだ」  しばらく黙って社長の目をみつめていた。 「ひと月半ほど……」  二人は睨《にら》み合うようにしていたが、やがて社長がつかつかと平野のほうへ近寄った。  いきなり平手で頬《ほお》を撲《なぐ》った。  ひとつ、ふたつ、みっつ……。唇《くちびる》から血が流れたが、平野は昔の新兵のように、両足をふんばって耐えた。 「もういいか」  七発目あたりで社長が訊《たず》ねた。優しい声であった。平野は黙りこくったまま、深々と頭をさげた。 「待て」  平野が事務所を出かかると、社長は太い声で言い、手提金庫の蓋《ふた》をあけて、ろくに勘定もせず中の紙幣をひとつかみポケットへねじ込み、 「送って行こう」  と一緒にぬかるみへ出た。  すぐ中古のハドソンが泥水をはねあげて工場から道路へ出た。その助手席で平野が身じろぎもせず前をみつめていると、社長は車の道具入れを片手で探って、大きなぼろきれを平野に渡した。  それを受け取った平野が、なかば無意識にフロント・グラスの曇りを拭《ふ》こうとすると、 「ばか」  と軽く笑い、バックミラーをいじって平野の顔が写るようにした。  横長の小さな鏡の中に、平野の蒼《あお》い顔が写っていた。唇の左端から顎にかけて、血がひと筋流れていた。 「サツの連中がいるところへ行くんだ。加害者扱いされちゃかなわんからな」  汚れたぼろきれで血を拭きはじめると、社長は冗談のように言い、 「それでよし。証拠|湮滅《いんめつ》だ」  と、ふた声ほど笑って見せた。  医者も警官も看護婦やオフィスの連中も、平野を冷たい目で眺めた。底冷えのする雪の日の午後、平野はそういう状況の中で父の死顔を見た。  その雪は、幾日も降りつづいた。霙《みぞれ》になり雨になり、雪になりまた霙になって、平野の父が白い骨壺《こつつぼ》に入って谷中《やなか》の寺の墓の下へ納まるまで、しつっこく降りつづいた。  その間、平野は工場を休んで写真館で寝起きした。ひえびえとした鉄筋三階だての建物の中から窓の外を見ると、いつでも雨か雪が降っていた。  一階のショーケースには、二十台ばかりのカメラとストロボや三脚などの商品がパラパラと並び、その裏にある街の写真屋にしては贅沢《ぜいたく》な広さのラボには、まだ焼付けをしていないらしいフィルムや、未現像のマガジンが幾つかあった。  夜中に、平野は眠れぬままラボへ入り、父の仕事ぶりを思い起こしながら、なんとかそのフィルムを仕あげた。  近くに住む客から預かったのであろう。どれもこれも素人っぽいスナップであった。  子供たちに母親、キョトンとした表情で真正面を向いている老人たちの顔。顔、顔、顔……。  いったい父は何のために生きたのだろうか。平野は見知らぬ他人の顔が写ったその写真を倦《あ》きもせず眺めながら、夜のあけるまでそれを考えつづけた。  古い鰹節問屋に生まれ、何不自由なく育ったはずであった。だがモダンでハイカラなものに憧れたのは、生まれた家の古さへの反動であったはずである。  若さがそのしにせを潰して悔いさせなかった。しかし、父のハイカラ趣味には限界があった。もともとそんなものの気配すらない古い家に育ったから、そこから逃げ出しても街の写真家になるのが精一杯であったのだろう。  それでも、鉄筋三階だてのスタジオを持った商店兼住宅を造ったことは、父の若い日の意気込みを物語っている。その頃としては破天荒なことだったに違いない。おそらく、しばらくの間は写真家仲間の話題になっただろうし、一目置かれてもいただろう。  しかし、時代は写真などを無用の遊びにさせた。物資はなくなり、そして空襲がはじまった。たしか、出征兵士の記念写真を撮りに駆けまわったのが、街の写真家としての最後のひと花だったのだろう。  やがてその父も兵隊にとられ、肋骨にひびが入るほどぶちのめされた挙句、焼けただれた写真館へ戻った。  そこで父を待っていたのは、暖かい歓迎ではなく、あの本間と義母のおぞましい関係であった。  結局、父は一人の典型的な市井人であった。大部分の人々と同じように、父もそうした人生を生きて、死んだ。よろこびはどこにあったのだろう。いま、その父の人生を思い返す平野に、父のよろこびを知る手がかりはほんの少ししかなく、重く冷たい悲しみの証拠ばかりが去来するのであった。  妻の死、応召、戦災、飢餓、二度目の妻の背信、息子の犯罪……。いったい、何のために生きたのだろうか。  ラボを出た平野は、ガランとした家の中を、一階から三階まで、くまなく歩きまわった。どの壁にもどの隅にも、思い出がいっぱいにつまっていた。そして古い思い出のほとんどは、焼けただれ、歪《ゆが》んで感じられた。 「なぜ生まれちまったんだ」  父の死の床があった二階の和室で、平野は低く、しかし激しい響きをこめてそうつぶやいた。父に言っているのか自分自身に言っているのか、平野にもよく判らなかった。 「なぜだ。なぜ生まれちまったんだ……」  激しい怒りに駆《か》られ、平野がそう喚《わめ》いた時、明け白んだ窓に朝の光がさした。いつの間にか雪も雨もやんでいたらしい。  それに気づくと、平野は突然身を翻して階段をかけ昇り、長年あけたことのない、屋上へ出る小さな鉄のドアの錆びたノブを、ねじ切るような力でまわした。  ギイーッと軋《きし》んでドアがあいた。東を流れる荒川のほうの空が、久しぶりに朝日で赤く染まっていた。  青い空、赤い太陽……。 「来い。来やがれ」  家々の屋根ごしに、三階だての屋上から朝日に向かって平野は叫んだ。 「青くなれ。青くなりやがれ」  あの身をほろぼす粘っこい衝動に、この先の人生をまかせてしまいたかった。母もない、父もない。こんなものが人生なら、いっそ滅んだほうがしあわせだ。平野はそう思った。しかし、太陽は赤く、空は青一色であった。     6  写真館をどう処分するかという問題は簡単に解決した。義母が登場したからであった。意外なことに、父は義母の籍を抜いていなかったのである。 「ほんとにいい人だったのにねえ」  訪ねてきた義母はしらじらしい顔で平野にそう言った。それがどんなにしらじらしいか、百も承知のようであった。 「本間さんは」  思わず平野は言った。なりゆきによっては、父への仕打ちをとことん問いつめてやろうと思った。 「本間さん」  義母はわざとらしく、さんづけで呼び、かすかに鼻でわらった。 「とっくよ。とっくに岩手へ帰ったわ」 「ふうん。そう」 「そうよ。あたり前じゃない。あんなにたくさん面倒《めんどう》みなきゃならない家族を持っている人と、いつまで一緒にいられると思ってたの」  義母は平野の幼稚さをわらうように言った。  その義母は、いまは松戸のあたりで小さな飲食店をやっているという。着る物、身のこなし、口のききかたまで、場末の安っぽい小料理屋の女将《おかみ》になり切っていた。 「とにかく私はまだここのうちに籍があるんだわ」  そう言って建物の中を見まわした。別に何の感慨も湧かぬ様子で、値ぶみしているような醒《さ》めた表情であった。 「おい」  ちょうど居合わせた社長が、あぐらをかいた体をはすっかいにして言った。 「あんた、このうちを出た女だろ」  義母はそれをわざと無視した。 「お客さんらしいから、またあとで来てもいいけど……」 「たしかに、お前さんにもいくらかの権利はあるのかも知れねえ。でもよ、人の道は人の道で別にあらあ。そうじゃねえかい」 「これはねえ……」  義母は小憎らしい居直り方をした。 「あたしとこの子の間のこと。アカの他人は口ださないでちょうだい」 「そうは行くか。俺は平野の後見人だ」  義母はそう言われて疑わしそうに平野を見た。平野は頷いて見せた。 「おやまあ、ご大層なうしろだてだこと。でも私、とるものはとるわよ」  物欲がまるでかたまりのように義母の表情にあらわれていた。くたびれた肌《はだ》、赤く塗った唇、整ってはいるが貧しげな鼻のあたり。  平野は黙ってそれをみつめていたが、ふと立ちあがると、買いたての小さな仏壇の扉《とびら》をしめてしまった。  義母の正面へ戻って、社長に似たあぐらのかき方で坐った。 「あんたの話は、おやじに聞かせていい話じゃないね」 「なによ、その言い方」  義母が顔を赤くして喚いた。 「かりそめにも、私はあんたの母親だよ」  つづけてそう喚いてから、急に両手を顔にあてた。 「清太郎にそんな言われかたをしようなんて、思ってもいなかった……」  泣きはじめていた。 「私だって、来ないですむんなら来やしないわよ。お父さんにどんな思いをさせたかぐらい、よく判ってるわ。でも、今じゃないのよ。食べる物もろくになかったのよ。あんたはまだ判らないだろうけど、女なんて弱いのよ。まして私は買い出しにさえ行けない女よ。あんただって、本間のおかげで食べられたじゃない。私が出て行ってからも、本間はここへ食べる物を持って来たでしょう。そりゃ、ろくな食べ物じゃなかったかも知れないけど、私や本間にしてみれば……いえ、あの頃の日本中の人間にとって、あれは宝物だったのよ。人間、いいときには頭をさげて詫びられるものよ。あの頃、私はたしかにあんたがたよりよかった。あれが私と本間のお詫びだったって、どうして判ってくれないの。それじゃすまないあんたの気持ちは判る。でも今の私も判ってちょうだい。松戸からここまで、鬼になったつもりで来てるのよ。人間味なんかないと思われたってかまわない。どんなにあざけられてもかまわない。なんとしてでも、もらえるものはもらって帰らなければ、このさき生きて行けないんですもの。でも、かなしい。こんなことしてまで生きていかなきゃならないなんて」  義母は涙で濡《ぬ》れた顔をあげ、平野をみつめた。物欲は消えていた。ただ、生きるもののかなしみが顔を掩っていた。 「清太郎。お母さんはかなしいんだよ」  そう言うと、ハンカチでがむしゃらに顔をぬぐった。荒い息をして、時どき下唇を噛《か》んでいた。 「社長」  平野は体の向きをかえて言った。 「お願いします。少しでも早く、このうちを売っ払っちゃってください」  みんなろくな生き方はしていないのだ。そう思いながら喋っていた。 「このおふくろにもわけてやってください。俺には金の配分のことなんか、とてもさわる気になれません。何から何までおまかせします」  社長は憮然《ぶぜん》とした表情で頷いた。 「わかった。それは引き受けた。しかし、お前はこの先どうするんだ」 「今までどおりです。工場へ置いてください」 「そうか」  社長はうつむいて、畳の目を爪《つめ》で鳴らした。 「でもよ、どうしてみんなこんな馬鹿なんだろうな。世の中は、馬鹿ばっかりが集まって出来てやがる。おふくろさんよ……いま男がいるんだろ」  義母は答えなかった。 「もう落着いて欲しいもんだな。その年でよ……いいかげんにしあわせにおなりよ」  ため息をひとつして背を伸ばした。 「でも平野はこれからだ。なあ平野。馬鹿ばっかりじゃねえってことを俺に見せてくれるだろ」  のそりと立ちあがり、腰をかがめて平野の背中をひとつどやしつけると、 「さて……」  と、いつもの太い声で言い、出て行った。  それから約一か月後、三階だての写真館は人手に渡り、税金を含む諸経費を引いた残りの金の三分の一が、松戸の義母に渡された。しかし義母からは、礼状一通、電話一本来ずに、それで縁が切れたようであった。  平野が本気になって働きはじめたのはそれからであった。骨身を惜しまないことではきわめつきのような九人の男たちは、小さな整備工場を大工場に育てるために、それこそ滅茶苦茶に働いた。日本の自動車の台数がうなぎのぼりにのぼって行く時代であった。車検、中古車売買、ガソリンスタンド、部品の卸し……およそ車に関することならなんでもやった。そして、そのことごとくがかなりの成績を納めた。  社員が増えて、二か所ほど支店のような形で整備工場を作った。似たような規模の同業者と中古車展示場を作り、単車やモーターボートにも手を伸ばした。バス会社やタクシー会社とも提携し、大手の自動車メーカーから新車販売の子会社を作らないかという話も持ちあがった。  七階か八階だてのビルを造ろうというところまで、平野たちの会社は成長した。  平野がそのビル建設の計画に夢中になったのは、考えてみると当然なことのようであった。  父の写真館をそのことに重ね合わせて考えていたのだ。時代の差がビルの大きさや高さにそのまま投影しているとはいえ、鉄筋コンクリートの建築物を自分の手で建てることでは、似たようなものであった。  平野は熱に浮かされたように、その計画の実現に駆けまわった。失われた向島の写真館をとり戻すような気概であった。     7  両びらきのドアがいっぱいに開かれていて、道路から建物の奥へ、古い防水シートが敷きつめてあった。外の歩道には規格品のスチール・デスクや書類キャビネットが積みあげてあり、道路わきの中型トラックの荷台から、若い男たちが来客用のソファーを建物の中へ運び込もうとしていた。 「ほらほら、壁にこするじゃないか」  ワイシャツの袖《そで》をまくってネクタイをゆるめた平野は、ソファーの背がま新しいビルの壁に触れかかると大声で呶鳴った。  派手な水色のスポーツカーが中型トラックの前へ停まって、その窓から水島が顔をつきだした。 「おい、平野」  大声で呼ばれてふり返った平野は、笑顔になって近寄って行く。 「立派になったもんだ」  水島が新しい社屋を見あげて言った。 「きっかり予定どおりの日に入れたよ」  とかく遅延しがちな工事日程を、予定どおりにおさえるについては、平野の気違いじみた督励が功を奏したのであった。 「これが本社か。ちっとは肩身が広くなるな」 「まだまださ。そっちのほうはどうだい」  水島は深川にできた整備工場をまかされていた。以前一緒に暮らした工場よりはよほどましだが、屑鉄《くずてつ》置場めいた乱雑さは似たようなものであった。 「なんとかやってるが、あのぼろビルだけはなんとかならないもんかね。湿っぽくて、経理の爺《じい》さんなんか、しょっちゅう神経痛で休んでる」 「そのうち建て直すさ」  平野は新社屋を見あげて言った。会社を育て、次々に新しいビルを建ててやる気であった。 「張り切ってるな」  水島は平野を車の窓から見あげて言った。 「そうでもないさ」  平野は照れ臭そうにちらりと水島を見た。 「頑張ってくれよ。いろいろという奴もいることだし」 「ああ」  移転さわぎの最中で何気なく聞き流したが、あとになって考えると、その時水島はどうやらそれを言いに来たようであった。  いろいろ言う奴もいる……平野はそれを当然だと思っていた。会社はぐんぐん伸びて行く。伸びて行けば敵もできよう。だが、そんなものは結果次第ではあとかたもなく消えてしまうのだ。今の調子でやって行けばいい。みんなで調子を落とさずにやって行けば、まだどこまで伸びるか見当もつかない。……そんな風に思っていた。  とにかく万事好調であった。父の死以来、働くことより他に何も考えず、ひたすら地道に努力を重ねてきた。 「一生懸命やれば世の中は放って置かないんだ」  まだそれ程の年でもないのに、そんなひねた言葉を本気で言ったりしたが、たしかにそのとおりだと思い込んでいた。  新社屋の建設で工場の敷地を整理したのをきっかけに、みんなそれぞれ新しい住居を持った。社長は東陽町のすまいを改築したし、社長の戦友たちも客間や車庫のついた家を持つようになっていた。 「会社をでかくするために働いてるんじゃねえぞ。俺たちが豊かになるために会社をでかくするんだ」  だから、新社屋建設の前に、まず最初の九人がちゃんとした家を持たねばならない。……それが社長の主張であった。それまでにも何人かは新居へ移っていたが、社屋建設に先だって、なかば命令のようにみんな家を持たされた。  平野は両国の小さなマンション……というより、鉄筋アパートと呼んだほうがふさわしい程度のものだが、とにかくそこで写真館以来はじめて自分の住まいを持った。  満足だった。充実感もあった。だが、ビルが落成し、オフィスがそこへ移って一段落すると、緊張がとけ、疲れを感じた。  力み返ったままではくたびれてしまう。生活には波のような周期が必要だと、勝手に自分で理屈をつけ、ほんの少しばかり気を抜くつもりになっていた。  遊びはじめていた。ビル建設はただ新しい社屋ができればいいのではなく、事業の拡大をともなっていた。資本金も増やしたし、借入金も一挙に増えた。融資には幾つかの銀行が力になってくれたが、その交渉はオフィスの中ばかりでは進まなかった。接待の席が重なり、銀座をはじめ、ほうぼうの盛り場で顔をきかすようになっていた。  ひと息つく気で自分のための遊びをはじめた平野は、結果としてその社用接待のつづきをやっていたことになる。億という数字を扱いつけて、消費の感覚も大まかになっていた。  それでも、両国の部屋と新しい本社の間を毎日きちんと通ってはいた。両国の安マンションは一番遅れて入居したので、ほとんど陽の当たらない部屋であったが、家族もなく、夜までほとんど無人になるのだから、いっこうに苦にならなかった。  新しい本社の三階が経理の部屋で、南側の窓ぞいに応接室をとったから、部長の平野のデスクは北側の隅に壁を背負う恰好で置かれた。一階は新車のショールーム、二階は営業の一部と部品の陳列室にあてられている。  昼間デスクで仕事をしているとき、平野はよく不意に立ちあがって、新しい建物の中をひとまわり歩いて来るようになった。別に用事はなかった。しかし、じっとしていられない気分になり、ショールームから社長室まで順にのぞいて、、あれこれ手直しのいる場所を探したりした。 「まるで庭いじりの隠居のようだな」  社長はそんな平野をからかったが、平野は気にしなかった。自分で建てたという実感があり、新しいビルが子供のように可愛かった。  欲しかったおもちゃをもらって嬉《うれ》しくて寝つかれない子供のようだ。……自分でもそう思い、階段を昇り降りするようなとき、ひとりでニヤニヤしたりした。  だが、実際はそんなかんたんなものではなかったらしい。胃から腸にかけてのあたりに、何かがうごめきはじめていた。それはおさえようもない底力を持っていて、もやもやとした得体の知れぬ欲求のかたまりを衝《つ》きあげてくるのであった。  ビルを建てたという充足感が、はじめの内みごとにその妖《あや》しい衝動をおしつつみ、かくしていた。退社したあと、平野はそのもやもやとしたものに操られて、ネオンの巷《ちまた》へさまよい出た。  加代子とはそんなとき知り合った。  はじめ加代子は日本橋の小さな鳥料理屋にいた。看板娘といった感じの立場で、六十すぎの女将の代理のような恰好であったが、気安く冗談を言い合うようになると、何かその店とややこしい関係にあるのが判った。 「こんなところにいたって何にもならないのよ。どこかへ行っちゃいたいわ」  平野の席へ来て、よくそうこぼした。はじめはきちんとしていたのが、宵《よい》の口から酔っぱらうようになり、みるみるすさんで行くようであった。  年は平野よりわずかに下という感じで、一度結婚の経験があるらしい。和服の似合う細おもての美人だった。  そんな美女から内輪の愚痴を聞かされるのが嬉しくて、つい親身に聞いている内に、加代子のほうでも平野を頼りにする風情になった。  見かけは楚々《そそ》としているが、案外気性の激しいところがあって、二人とも酔った晩、 「何よ、いくじなし」  と、加代子のほうからきっかけを作った。 「こんなうち、出ちまえ。先のことはどうにだってならあ」  威勢よく言って、露骨に嫌《いや》な顔をする因業《いんごう》女将の前から加代子を引きさらうように連れ出した。  二、三軒まわって深川のある待合へころがりこんだ。戦中派の社長たちに引きまわされて、平野の遊びは少しひねていたようである。  そこで加代子を抱いた。酔いがさめかかると、暗い部屋の中で左腕を枕《まくら》にされながら、とうとう俺にも女ができた、と感じた。  それまでにも一応の女遊びはしていたが、みな金でけりのつく女たちであった。初心な初恋はしそこなったが、加代子とはまぎれもない初恋であるように思った。  朝になってそれを言うと、加代子は信じられないという顔で聞いた。 「ほんとさ。そんなひまはなかった」  焼跡の写真館での出来ごとから、博奕のこじれで人を刺した前科があることまで、残らず加代子にうちあけた。 「夢中で働いて、やっとひと息ついたところだ。あのビルは、俺が計画し、俺が金を借りに駆けまわって建てたビルだ」 「向島の建物はどうなったの」 「とりこわされて、今はそのあとに銀行が建ってる。おやじの人生の記念碑は消えたが、俺は立派に建て直したつもりだ」  加代子は長襦袢《ながじゆばん》姿で鏡台に向かっていた。髪を束ねるのに熱中するふりで、さりげなく、ひどく古めかしい台詞を口にした。 「ねえ」 「ん……」 「棄てないでね」  甘い痺《しび》れのようなものが平野の胸を走った。擽《くすぐ》ったくて思わず立ちあがり、部屋のガラス戸を一枚あけて外を眺めた。  そのとき平野は気がついた。青と桃色が入り混じった空に、雲が浮いていた。青が濃くなる方角へ目を移すと、そこに朝の太陽があった。  太陽は青く輝いていた。  平野の背中に、加代子の柔らかい胸が押しつけられた。立ちあがった彼女が、うしろから抱きついていたのである。 「返事してくれないの……」 「愛してる。加代は俺の初恋の女だ」  平野は青い太陽のある空をみつめて言った。不吉なものがその空いっぱいにひろがっているようであった。 「俺は加代を愛しつづける。何がどうなってもだ」  青い太陽に向かって、平野は挑みかかるように言った。     8  青い太陽に向かって、どんな事態になっても加代子を愛し抜いてみせると宣言したつもりでいたが、人の世の組み合わせを操るふしぎな力は、思ってもいない方法で平野の志を挫折《ざせつ》させてしまった。  それでも、はじめのうちはよかった。あの朝から、加代子の心は急速に平野へ傾いたようであった。  昼に夜に、電話で連絡をとり合い、夜ふけて平野が睡《ねむ》ってからも電話のベルが鳴り、綿々と恋情を訴える加代子の声が聞かれた。  三日にあげず、いやほとんど一日おきに、平野と加代子は抱き合って睡った。  鳥料理屋と加代子の関係は、案外加代子のほうにも無理な点があるのが判ったけれど、もうそんなことは問題外で、会ってさえいれば二人はしあわせであった。  加代子は鳥料理屋の次男と結婚し、新橋に支店をだすような形になって、そのほうの経営をまかされた。だが夫婦仲が悪くなり、亭主は別に女を作って店を潰してしまったという。  ところがよく聞いてみると、どうやら客の一人と加代子の仲を夫が嫉妬《しつと》したらしい。坊ちゃん育ちで幾分甘いところのある男だったのだろうか。見返してやると言ってとびだし、今は関西にいるという。母親は次男が加代子に未練たっぷりなのを見抜いていて、籍を抜かず日本橋の店に置いていたのだ。  次男は関西へ奔《はし》って引っ込みのつかない形になったが、それがかえって綺麗な処し方になり、料理の修業をしているという。一度店を潰したのだから、再出発にはそのくらいの精進があってしかるべきだろう。  だから加代子は夫を待つ形でいたわけである。ところが母親と折合いがよくない。若くて美しいから日本橋の店の客は二代目扱いでちやほやするだろうし、自分の客がつけば態度も居候《いそうろう》のままではいられない。  おまけに、前の店を潰したことについて、その裏に加代子の浮気があるらしいことは判っていても、証拠も証言もありはせず、ただそれの反動で店を放りだした亭主の責任だけが表面化している。  つまり加代子にしてみれば、喧嘩の途中で凍結されてしまった、千日手じみた情況にあるわけだ。何の具体的結着もつかぬまま、夫の母親との感情的なもつれだけが生い茂っている。  そこへガサガサとわけ入ったのが平野であった。もともと鳥料理屋の次男坊には、たいして魅力を感じていなかったらしく、周囲の圧力で入籍のままになっている鬱陶《うつとう》しさが、平野に吐け口を求めて一気に噴きあげたという感じであった。  戸籍という難関があるから、一挙に事を運んで結婚へ持っていってしまうわけにもいかない。社長に相談すればいいのだろうが、何しろ相手は人妻で、そう軽々に持ちかけるわけにもいかない。  出たい、出たい、とそればかり加代子は言いつのった。 「泥棒猫みたいにお母さんの目を盗んで会うのなんていやッ……」  拗《す》ねてそんな駄々をこねた。  なかば堰《せ》かれた情況にあるだけに、加代子の燃えかたは激しく、身も心も投げだして、うつけたような感じがあった。  が、それはどうやら、生来情熱的な性質の女の、第一の噴火にすぎないようであった。  たしかに加代子は新橋の店で浮気をしたらしい。それが店を潰す騒ぎにまで拡大して、一応身を鎮めなければならないことになっていた。だが、時がたつとまたぞろ虫が起こって、平野がその引金になったのである。  生活が荒れ、毎晩のように、男の体に胸から突き当たって行くような酔い方をしはじめると、美人だけに言い寄る男はいくらでもいた。  悪いことに、平野はその店へ出入り差しとめのような形になっていた。息子の嫁の番をしている女将にとっては、当然の処置であったろう。  あの嫁は今夜も平野さんのところで……と女将がため息をついている夜、加代子は平野をもその女将をも裏切って、別な二枚目に抱かれていたのである。  つまり、加代子は破滅的なやり方で自由を回復していたらしい。 「いや。あんたって亭主とおなじなんですもの。優柔不断よ」  ひと思いにかっさらってくれればいいのに。……そう言って加代子は平野をなじった。だが、平野にしてみれば、加代子と新しい人生を設計するつもりであったし、できるだけ角の立たぬやり方で結婚する気だった。  無理をすれば青い太陽の思う壺にはまる。その頃平野は、青く見える太陽を擬人化して考えるようになっていた。  あいつの計算どおりに行ってたまるか。……自分にそう言い聞かせて、じっと事態が好転するきっかけを待っていたのだが、それがまるで裏目に出た。 「あんたのためを思って言うんだから、悪くとらないでくれよ」  ある日の夕方、水島がやって来て錦糸町の飲み屋へ平野を誘いだし、酒をさしながらそう言った。 「なんだい、物々しげに」 「加代ちゃんのことさ」 「加代の……」 「うまく行ってるのかい」 「うん」  うん、と生返事をして平野は盃に口をつけた。 「普通なら見て見ぬふりをするんだが、あんた本気らしいからな」  社長はじめ、古い仲間には一切打ちあけていなかったが、水島にだけは加代子を引き合わせたし、のろけ半分にいきさつを全部教えてあった。 「実は、ちょいと朝帰りをしてね」 「どこで」 「まあ、そんなことはどうでもいいや。それで、間《ま》の悪いことに、ばったり加代ちゃんと顔を合わせちまったんだ」 「いつのことだ」  平野はつとめて平静な顔で訊ねた。水島は頭をかき、 「それが、今朝……」  と苦笑した。自分の朝帰りを恥じているふりをしたのであろう。  きのう平野は加代子に来るように言った。両国の安マンションへ、誘えばいつでもとんで来たのだ。しかし、きのうに限って加代子は来られないと言った。 「鬼が風邪ひいてるのよ。こんなとき、少しは点をあげなくてはね」  冗談めかして言い、平野もそれをよろこんだ。何と言っても、女将と加代子の仲がおさまってくれるのは、平野にとっても一番都合のいいことだったのである。 「俺が言おうとしているのは、もっと嫌なことさ。かたき役だぜ、俺は」  水島はおかまいなしに話をつづけた。言いかけたからにはやめられないという勢いが感じられた。 「男と一緒だ。そうさ、一緒のとこを見ちまったんだ。植え込みのある、洒落《しやれ》た玄関から出て来やがった。屋号を書いた門灯がぶらさがった玄関さ。判ってるだろ。朝の十時半だ」  平野は黙って盃を乾した。水島がすかさず注ぐと、それも一気に乾してまた水島の酌《しやく》を受けた。 「しょうがねえや。敗けいくさだな」  と、平野はつとめて淡々と言った。 「なあ、平野。俺たちもぼちぼち結婚したほうがいいのかもよ」 「この話は内緒だぜ。加代のことは社長にも誰にも言ってないんだ」 「判ってる。でもよ、みっともねえからさ……」  水島は席を立ちかけた。 「もう帰るのか」 「まあな。今日は置いて行くよ」 「変な奴だな。みっともないから何だというんだ」 「あんまり荒れてくれるなよな」 「ばかやろ」  水島は、へへ……と笑いながら帰ってしまった。平野は自嘲《じちよう》ぎみな笑い方でそれを見送り、やがて肩を落として飲みはじめた。熱燗《あつかん》の酒がやけにつんつんと鼻についた。  水島が言ったとおり、平野はその晩酔い荒れた。何度か電話のダイアルをまわしかけて、そのたび思いとどまった。加代子をなじってみたところで、気の晴れる問題ではなかった。加代子に電話をしかけて思いとどまるたび、酔いは深くなって行った。次から次へと知っている限りの店を梯子《はしご》してまわり、 「あん畜生の顔を見てやるんだ。あん畜生め、どんなつらして出て来やがるか……」  と喚いた。  まさかその、あん畜生、が次の朝空に昇る太陽のことだとは、誰も考えなかったであろう。  そして、次の朝青い太陽が昇るのを、平野は東京港の埋立地のとっさきで眺めていた。桃色のまじった空に青い大きな太陽が昇ってきた。 「ばかやろ……ばかやろ」  平野は大きな青い塊りに向かって叫んだ。腐った海の臭いが、ごみを埋めた腐った陸の臭いに混じり、それが風となってひとけのない埋立地を駆け抜けていった。     9  それからの出鱈目《でたらめ》は、もう我ながら手に負えなかった。妖しい青色をした太陽にひきずりまわされ、やけ酒を飲みまわった。  新しい情事を知られたと判ったとたん、加代子は思い切りよく連絡を絶った。それでもしばらくは日本橋にいたらしいが、やがてどこかへ消えてしまった。  男と一緒にきまっていた。……ひょっとすると、加代子は平野にとってそれが初恋であったことを、本気ではうけとめていなかったのかも知れない。もしそれが平野の初恋であることをよく理解していれば、そんな素気《そつけ》ない別れかたはしなかったであろう。  平野の魂はざっくりと斬りつけられて、大きな傷口から血をしたたらせているようであった。自虐、卑小感、自暴自棄……。そうした傷口から発する膿《うみ》が、平野の生活を一層ひどいものにさせた。次から次へと女を替え、乱れた生活がつづいた。  何度も自制しようとした。立ち直らねばひどいことになると惧《おそ》れた。しかし、あのねばねばした衝動が日ましにつのって、彼を元の勤勉な暮らしから遠ざけた。  悪いことは重なる。  新社屋建設以来、業績が次第に下降線を辿《たど》っていた。新しい事業計画のひとつとして手をだしたレンタカー部門も、強力なライバルが登場して伸び悩んでいた。負債が増えたので、利子が他の部門の純益を食い潰した。 「だから言ったろう。みんなが平野を批判しはじめてるから気をつけろって……」  水島がくやしそうに言った。たしかに、そんな警告を遠まわしにされたようであったが、平野は気にもとめないでいた。  あとから来た社員はとにかく、最初の九人は一心同体なのだと信じ切っていた。だから仲間の一人をこそこそ批判しようなどとは思ってもいなかったし、ましてそれが自分の身に起ころうとは……。  不満だった。業績が下がったことと、社屋を建てたことは別問題だと思った。 「いつでも勝ちいくさとは限らない。あいつら、敗けることもあるのを知らなかったのかね。一度は敗残兵になった身じゃないか。敗けいくさならば盛り返せばいいんだ。それを俺ひとりのせいみたいに言いやがって……」  二、三度そんなことを言うと、それがすぐ相手に伝わって、元兵隊の古株連中が腹をたてた。平野の言い方が彼ら旧軍人のプライドを傷つけたらしい。  対立した。みな一国一城のあるじ風になっていて、社長も迂闊《うかつ》に手をだせなかったようだ。  そこへ、水島の事件が起こった。  博奕である。競馬競輪に手をだして、深川の工場の経理に大穴をあけてしまった。どうやら加代子の朝帰りにぶつかったのも、どこかで行なわれた丁半賭博の帰りであったらしい。 「世の中、馬鹿ばかりいやがる」  それを知ったとき、平野は思わずそうつぶやいた。そして、父が死んだとき社長が言った言葉を思いだしていた。  世の中が馬鹿ばかりではないことを見せてくれ……。 「馬鹿でいいじゃないか。馬鹿だから生きていられるんだ」  加代子の顔が去来した。 「俺たちは馬鹿だから生きていられるんだ」  加代子も水島も、そして自分自身も、いとしくてたまらない気分になった。 「馬鹿はみんな俺の仲間だ」  平野はそうつぶやいて立ちあがった。水島を何としても救ってやる決意であった。  水島は深川の工場の中にある、古いビルの最上階に住んでいた。それは工場の敷地の通りに面した側に建っていて、昔羽ぶりのよかった部品業者が建てたものであった。のちに平野たちがそれを買いとり、支店のような形で水島に預けたのであった。  一階は事務所、二階と三階は倉庫、そして四階を水島が住まいに使っている。すぐとなりに新しいビルが建って、昼でもうす暗かった。  水島はそこでしょんぼりとしていた。ひえびえとして、いかにも侘《わび》しい住まいであった。 「よう」  うすぐらい光を放つ電灯の下でそう言うと、水島はびくっとしたようにふり返った。放心状態だったらしい。  唇を歪めて言った。 「なんだ。本社の経理さまのおでましか」  平野は黙ってコンクリートがむきだしの床に靴音を響かせ、丸い木のテーブルの上へ、持ってきた鞄《かばん》を置いた。  留金を外し、鞄に手を突っ込んで、水島を見つめたまま、バサリと一万円札の束をテーブルの上へ投げだした。 「百万」  また鞄へ手を入れて、 「二百万」  とふたつめの札束を積む。 「三百万」  ……水島の顔色がかわった。 「よせ、無駄だよ」 「四百万」 「やめてくれ。やめてくれったら」 「五百万」  水島の目に涙が溢れだし、声をあげてそのテーブルへ泣き伏した。 「駄目なんだ、俺は。今救われてもまたやっちまうだろう。自分でもどうにもならねえんだよ」  平野は静かに言った。 「先のことは誰にだって判りはしない。今のことを言ってくれ。いくらの穴なんだい」 「会社は千ちょっと。連中に二千五百」 「いけねえ、千しか持って来なかった。あと二千五百……何とかしよう」 「ばか言っちゃいけねえ。あんたにそんな金、できるわけがねえよ」 「俺だって、死んだ気になればできるさ。ま、とにかくこれで、こっちの帳簿は埋めといてくれ」  平野は空の鞄をかかえて部屋を出た。 「どうする気なんだ」  水島が階段のところまで追って来て呶鳴《どな》った。 「俺たちは戦友だ。みんなそう言い合ってここまで来たのさ」  かまわず階段を降りつづけながら言った。靴音と声が反響していた。 「駄目なんだよ、俺は……」 「うるせえ。やり直すんだ」 「普通じゃねえんだ」 「自分でそう思ってるだけさ。一年もすれば忘れちまうよ」 「そうじゃねえんだったら。病気なんだ」 「笑わせるな。博奕と手を切ればいいんだ」 「違う。聞いてくれ」  四階の踊り場から、水島は一階へ降りてしまった平野に叫んだ。 「おてんとさまが青くなっちゃってるんだよ」  ギクリ、と平野の足がとまった。残響が消え、しいんと静かになった。 「もう一遍言ってくれ」  ゆっくりと、噛みしめるように平野は言った。 「太陽さ。俺には太陽が青く見えるんだ」  踵《かかと》を鳴らして身をひるがえすと、平野はいま降りて来た階段を一気に駆け昇った。 「なんだって。青い太陽だと……」  四階へ着くと、平野の剣幕に驚いて、水島はあとずさりながら言った。 「嘘《うそ》じゃない。今はまた赤く戻ったけど、最初のうち、青く見えてたんだ」 「太陽は青。空は青と桃色か」 「え……」  水島はポカンと口をあけていた。 「青く見える間、勝ちまくったんだろう」  何かが平野の頭ではじけていた。 「カードをだせ。花札でもいい」  水島は怯《おび》えたようにうろたえて、手ずれのした黒地の花札を出した。 「切れ」  水島はおずおずとテーブルの上で札をまぜ、よく切ってからまん中に置いた。 「カブだ。配れ」  場に四枚、親が伏せて一枚。平野はさっきの札束をひとつ取って、右から二番目の札へ賭けて見せる。 「どうするつもりだい」 「いいから勝負してみろ」  あいた札のところへ型どおりに札を置いて行く。平野の札は最初が藤、伏せた二枚目が萩《はぎ》で、もう一枚あけた札が坊主であった。 「お前はオイチョさ。俺の勝だ」  水島が自分の札をあけぬうちに、平野は薄笑いを泛《うか》べて言った。真似ごとにせよ、封じていた博奕をしてしまった。しかし悔いはなかった。  水島は桜に菖蒲《あやめ》。 「なんてこった」 「もう青くは見えないのか」 「うん。そしたらツキが去《い》っちまって……」 「違うな、そいつは」 「え……」 「そいつはツキじゃない」  平野には確信があった。水島が青い太陽と言ったとたん、自分の体にかくされていた真相のようなものが、一度にぱっと明るみにころがり出たのであった。 「じゃ何だい」 「よく考えてみろよ。青い太陽が見えてる間は、賽《さい》の目も思っただけで自由にできるし、伏せた札もようく見えるんだ。それどころか、競馬や競輪の結果さえ、前もって知ることができるのさ。太陽が青く見えるのは、その副作用みたいなもんさ」 「まさか」  まさかと言いながら、水島は賽ころをひとつ、押しつけるように平野の手へ握らせた。 「一」  そう言って平野は賽を振った。 「六」  拾ってまた振った。何度振っても、平野の言ったとおりにしか賽の目は出なかった。     10 「俺はもうやらねえ。死んでもやらねえ。だからお願いだ。この借りを返すだけ、博奕をしてくれ。ふんだくるんじゃねえよ。とられた分をとり返すだけなんだ」  平野が青い太陽を見ている最中だと知ると、水島はコンクリートの床に両手をついてたのんだ。  実を言えば、持ってきた一千万は会社の金であった。それで足りるかと思っていた。一千万なら社長との間の肚芸《はらげい》でどうにでもなると思っていたのである。  しかし、そのほかにまだ二千五百万もあるのでは、何らかの非常手段をとらねばなるまいと思った。階段を降りながら、それでも水島を救おうと覚悟をきめていた。一人の馬鹿が死んで一人の馬鹿が助かる。それでいい。  抑え切れない衝動にわが身を操られて、いっそ死んだらと思う夜もあった平野は、水島を救うことで自分をも愚行の毎日から救いだしたかったのである。たとえそれが死につながろうとも……。  が、道は博奕で呆気なくひらけた。少しの間水島と競輪へ通いつめたら、会社の金に手をつけるどころか、水島の借金を払ってまだ二、三百万残りが出るほどであった。  借りを完済した日、水島はくどくどと礼を言ったあと、平野の目玉をうらやましそうにのぞき込んだ。それは水島の恋人の家で、四室に風呂場がついた小綺麗な木造建築であった。 「まだ青く見えるのかい」  女に聞こえぬよう、声をひそめて言う。 「うん」 「ツキじゃなくて、太陽が青く見える間は超能力があるんだって知ってれば、今度みたいなヘマはしなかったのになあ」 「また青く見えだしたらやるかい」 「うん……いや……さあ、わかんねえな」  水島は頭を掻《か》いて笑った。女がビールを運んできた。どこかでホステスをしているというが、案外家庭的でいい女房になりそうであった。 「結婚しちゃえよ」  平野が言うと、水島はまた目玉をのぞきこんだ。 「本気かい」 「ああ」 「それじゃきめた。先の見える目玉でそう見るんなら、一も二もねえや」  そう言って家の中を見まわし、 「ああよかった。こいつにやったものだけは騒ぎにまき込むまいと必死だったんだ。勝ちまくってる最中に買ったんだよ。苦しまぎれに金にかえてれば、こう落着いてはいられなかったものな。あの汚ねえ四階で暮らすとこだ……なあおい」  女に向かってしみじみと言った。  水島は本当にその女と結婚した。あやういところを助かって、しんそこ懲《こ》りたようであった。  だが、あのねばねばした衝動は平野の心から去らず、太陽は依然として青かった。相変わらずの夜遊びに金がなくなると、矢も楯《たて》もたまらずに競輪場へ行った。しかも、そこで得たあぶく銭を元手に、株式相場に手を出しはじめる。暮らしが派手になり、仕事がおろそかになった。  水島と競輪へ通ったことも、一時だが会社の金を一千万も流用しようとしたことなどが、いつの間にか仲間の耳に入っていた。もちろん酒場通いも女遊びも……。  社長でさえ、かげでは見はなしたようなことを言っているらしい。腹立たしく感じている最中、株屋の一人がさる企業からの話を持ってきた。  子会社をまかせたいという。 「人に使われている柄じゃないですよ。ひとつ思い切ってやってくださいよ」  株屋がけしかけた。  その時はそれですんだが、二、三度古い連中と言葉の行き違いでやり合ってから、平野は急にいやけがさし、そうなると例の衝動が一度にやめる方角へ彼を押しやって、喧嘩わかれのように茅場町《かやばちよう》の新しい会社の社長に納まってしまった。  独立した商事会社ということになっているが、実はさる大企業のダミーで、情報次第で何にでも手をだす投機専門の会社であった。  平野はまたたく内に大儲けをして見せた。ダミーのつもりで自由にコントロールしようとしていた親会社の連中が、薄気味悪がって近寄らなくなったほど、平野の商売は水際だっていた。いや、常識をこえたすさまじさであった。  銅も綿も鋼材も、平野が買えばたちまち上がった。売れば下がり、また買えばまた上がる。手がつけられない。  いくらだだら遊びをつづけても、もう誰も文句を言わなかった。目黒にばかでかい邸《やしき》を買い込み、ろくに会社へも出ず、商売といえば電話で売り買いの指示をするだけであった。  太陽が昔どおりの赤い色に戻ったのは、ゴルフ場へ向かう途中であった。 「停めろ」  自分より十歳も上のお抱え運転手にそう言って車を降り、箱根の山なみを眺めた。風の強い朝であった。  こんなことをしていてはいけない。ゴルフどころではないのだ。戦線を縮小し、会社の派手な動きをとめなければ……。  あのおさえようのない衝動が去って、心の中にひんやりとした風が吹き込んでいた。  それから平野がやったことは、はた目にはまさに気ちがいじみていた。懸命に帳簿を整え、未払いの金を残らず払い、税金を完納し、投機で買い込んだ土地を次々に売却した。  そればかりか、目黒の豪邸も売り払って、二流ホテルの部屋を借りて入った……会社をやめるつもりだったのである。どうせダミーだから、手を引くと言えばかわりの社長に不自由はないはずであった。青い太陽がなくなれば、人の上に立つような分際ではないと確信していた。  さいわいなことに、思いどおりすんなりとやめることができた。 「あの人は癌《がん》らしい」  誰いうとなく、そんなもっともらしい噂《うわさ》が流れた。何かで死期を悟った……噂の渦中《かちゆう》にいただけに、そんな話が信じられたのだろう。  会社をやめた平野は、一人では少し大きめのマンションを買った。街を歩いていて、ふと自分の心に空洞《くうどう》のようなものができているのに気づいたからであった。  その空洞は、以前あの衝動がつまっていた場所のようであった。とり返しのつかないものに消えられたような、深い淋しさがあった。 「去《い》った。やっとおわりやがった」  しばらくしてから、平野は太陽を見あげてそうつぶやいた。あの超能力は自分の若さそのものであったのだ。  もう二度と青い太陽は見えまいと思った。  平野はその足で、本所へ向かった。昔の仲間にひとこと詫びたかったのである。  ところが、そこで平野は本当に青い太陽を見る前の自分に戻ることになった。自動車産業の伸びがとまり、過当競争のしわ寄せが、まず末端を襲いはじめていたのである。 「俺たちにしてはでかくなりすぎたようだよ」  社長がしおれた顔で言った。もうだいぶ前から、資金ぐりが苦しくなっていたのである。労組ができて、ショールームのガラスに赤いビラがベタベタと貼《は》りつけてあった。 「いくらあればいいんです」  平野は苦笑しながら訊ねた。昔の恩を返し、ここで社長たちの役に立つことができるのは判り切っていた。それにしても、青い太陽は結局自分に経験しかもたらさなかった。若さというものは、そうしたものであったのかも知れない。 「億という金が要る」  社長はあきらめ切った表情で言った。 「何億です」 「そうさなあ。とりあえず」  と言って社長は指を二本立てた。 「なんだ」  平野は笑った。その場で、自分の取引銀行に電話をかけた。 「いいのか、おい」  社長は顔を赤くして叫んだ。 「条件があります」 「なんだ。何でも言ってくれ」 「昔のように仲間に入れてください」 「ああ。それから……」 「それだけですよ」 「こん畜生……」  社長は平野を見つめ、目をうるませた。 「あと二億ほど持っています。どうせ要るんでしょう」 「馬鹿。裸になる気か」 「以前馬鹿じゃないところを見せてくれと言われましたけど、とうとう馬鹿のまんまのようです」  平野は笑った。久しぶりにさっぱりとした気分であった。     11  金のせいばかりではなく、みんなこころよく平野の復帰を祝ってくれた。 「組合なんか作ってごちゃごちゃしたってはじまらねえよ。やっぱり昔の仲間みたいなのがいいや」  そういう者もいた。  仲間の一人が親戚の娘を嫁にどうだと言いだして、その年の内に平野はあっさり結婚した。貧乏をたいして苦にしない、気のいい女であった。  平野は時どき水島とあの青い太陽のことを話し合っているうち、見えたり見えなかったりしたことの原因について、およその見当をつけた。  住んだ場所と関係あるらしい。青い太陽が見えはじめるのは、陽の当たらない……つまり直射日光の入らない北側の部屋で、しかもそれが鉄筋のビルの中である時期に限られていた。  太陽を青く塗って叱られた小学生時代は、写真館の子供部屋にいた。鉄筋コンクリートで、北向きの部屋であった。  疎開へ行ったら青い太陽が消え、戦争が終わって帰ったら、また青くなった。上野のガード下時代がピークで、そこも鉄筋コンクリート。警察の留置場から小菅の拘置所……それも青い太陽を誘いだす鉄筋コンクリートであった。だから、焼跡のバラックそのままの工場に移ると、青い太陽は消えてしまった。それが長くつづいて、また両国の安マンションで青くなった。丁度新社屋ができて経理部は北側の壁際に陣取ったから、青い太陽の条件は揃いすぎるほど揃ったのである。  水島も深川の古ビルの四階で、同じ条件にあった。だが彼はそこで金を稼いで恋人に買った木造家屋に移り、かつて平野が金を手に入れて写真館の陽当たりのいい部屋へ移ってしまった時と同様、超能力を失ったのである。  そこらでこのことに気づけば別な人生を進んだのだろうが、一向に気づかず、平野は目黒の豪邸に移って青い太陽を消してしまった。  そして、あの街を歩いている時突然強く感じた心の空洞……若さ、青春、そういったものが去ると同時に、青い太陽も二度と戻らなくなったのだ。  平野をひきずりまわしたあのねばりつくような衝動は、超能力に恵まれながら用いるすべを知らない者が陥る、どうしようもない欲求不満らしかった。それは言ってみれば、体力のあり余った若者を一室にとじこめて置くようなものであろう。  他人にそれが起こらないのは、恐らく生まれつきの体質によるのだろう。しかし、平野の身近に水島という似たような体質の持主がいるくらいであるから、全人口との割合は、そう低くもないかも知れない。だとすると、鉄筋コンクリートの壁にかこまれた、陽の当たらぬ住宅はひどく増えてしまっているから、青い太陽を見る人間はかなり多くなっただろう。  では、いったい太陽と鉄筋コンクリートの壁との関係は、どういうことなのであろう。  平野はそれについても、ちょっとしたヒントで自分なりの答えを発見している。  テレビのゴーストがそのヒントである。あれと似たような事が、太陽から発する何かを微妙に変化させ、ある種の人間に影響を及ぼすのではないだろうか。  その太陽から発する何かについては、平野にも皆目見当がついていない。ただ、今は太陽の黒点が極端に増大している時期で、NHKの海外放送なども、数年後にはもっと出力を大きくしないと、電波障害で聴取困難になることが予測されているという。  いずれにせよ、超能力《エスパー》の時代なのであろう。  平野はそう思いながら、なかばおそれ、なかば期待して、二歳をすぎたばかりのわが子の寝顔に見入るのであった。彼はまだ喋りはじめたばかりで絵は描けない。しかし、高いところに置いた物が、ときどき理由もなく落下するのである。すると平野の息子は、すぐその落下した物を持って遊びはじめるのだ。  彼が落とした……いや、手の届かぬところからおろしたのかどうか、もうすぐはっきりとするはずである。そろそろ赤や黄や青などの色を見わけて喋ってくれるはずだから……。 角川文庫『夢の底から来た男』昭和54年11月15日初版発行