半村 良 亜空間要塞の逆襲 目 次  発 端  展 開  事 件  遡 行  逆 襲  幻 想  壁  城  構 図  破 壊 [#ここから2字下げ] 『亜空間要塞』あらすじ  異様な風体をした記憶喪失の老人が、伊豆に突然出現した。その人物は、SF好きな四人組の一人、山本麟太郎の叔父にあたり、二十数年間も行方不明の浄閑寺公等《じようかんじきみひと》だった。出現の謎を解明しようと現地に向かった彼らに、突如、UFOの怪光線が襲いかかってきた。——気がついてみると、異次元世界の浜辺に漂着しており、そこでは�ジョーカンジー�と呼ばれる革命神がまつられていた……。侵略宇宙人が地球をねらう基地、亜空間要塞と思った彼らは、地球を救うために要塞破壊を目指して行動した。あらゆるSF的怪現象、奇現象——ムーン・プール、鋼鉄都市、サンドウォームなどが雄大に展開し、それらの世界が、宇宙人による、地球人の精神的世界、科学的能力を調査する為の実験場であったと気づいた時には、出口なき塔の暗部に閉じこめられていた。出口を求め、必死の彼らは、やっと元の世界に命からがら逃げだした。 [#ここで字下げ終わり]  発 端     1  銀杏《いちよう》が見事に色づいている。  冬のはじめの銀杏《いちよう》の葉の色ほど好きな色はほかにない。それは陽溜《ひだま》りの色だ。遠くへ去った美しい女のイメージだ。  まっすぐに伸びた銀杏《いちよう》の幹は、背筋をしゃんと伸ばして立った、誇り高い人の姿を想わせる。それが黄金色《こがねいろ》の葉をまとって、豪徳寺の裏の墓地に、二本並んで立っている。  乳母車を押した老女が、その二本の銀杏《いちよう》の下でうつむいていた。近くに枯葉を焼く焚火《たきび》があって、薄青い煙を静かに黄金色《こがねいろ》の銀杏《いちよう》へからみつかせていた。  銀杏《ぎんなん》を探しているのだ。私はその老女を見てすぐ気がついた。私の家のすぐ近くにも銀杏《いちよう》の木が一本あって、姿はここのとよく似ているが、実《み》はつけることがない。男銀杏《おとこいちよう》なのだ。  私は老女の気をそらさぬよう、さりげなく傍《そば》を通りすぎた。通りすぎる私の目の前へ、黄色い葉が一枚、クルクルと回転しながら地に落ちた。 「銀杏《ぎんなん》か」  ひとけのない墓石の間へ入りこんでから、私はそうつぶやく。頭の中に幾つか文字が泛《うか》んだ。  公孫樹《いちよう》と書くのは嫌いだ。銀杏《いちよう》でなければ感じが出ない。公孫樹《いちよう》と書いてあるのを見ると、まだ葉が青々としているところしか想像できない。豪華な黄色に染めあがったのは、やはり銀杏《いちよう》であろう。そして、銀杏《ぎんなん》は平仮名で書きたい。ぎんなん……いい響きではないか。銀杏《いちよう》の実《み》が銀杏《ぎんなん》。字で書けば親子同じ名だ。私の子供は茂《しげる》という名で、私の父親も茂《しげる》という名だ。きっと私の孫は私と同じ名を付けられるに違いない。銀杏《いちよう》の子は銀杏《ぎんなん》。  墓地の行きどまりのところでふり返ると、二本の銀杏《いちよう》が陽を浴びて、眩《まぶ》しいような黄金色《こがねいろ》に見えていた。 「黄金《おうごん》か」  私はまたつぶやく。  なぜなのだろう。私は黄金などとはまったく無縁の人間である。家にある物を思い泛べても、金《きん》というと万年筆のペン先ぐらいなものだ。そうそう、それにお袋の歯……。それなのに、小説の中ではやたらに黄金を使う。  黄金に対する欲求があるのだろうか。いや、多分そうではあるまい。私にとって黄金とは、きっと何かの象徴なのだろう。ひどく遠いもの、とほうもなくはるかなるもの……。  しこたま金《かね》がある人間は、黄金伝説などに魅かれはすまい。金持はどんな夢を見るのだろう。パラダイスの夢か……。  パラダイスの夢なら私だって見る。そうだ、いつか呉服屋の徳さんが言っていた、あの夢の話はおかしかったな。 「どこか知らない山の中にいるんだよ。松林でね……。赤松だったかな。まあいいや、とにかく綺麗《きれい》な松林なのさ。それでね、俺は一生懸命|松茸狩《まつたけが》りしてるの。落ちてる松葉をさ、そおっと手でどけるとね、こんのぐらいの松茸が……そう、まだよく開いてない奴。それがいっくらでも採れるんだな。夢中になってどんどん採ってると、うしろのほうでうちの坊主が、そいつをかたっぱしから踏んづけちゃってるの。だめだよ、って叱るんだけど、てんで言うことを聞きやがらないんだ。俺はなさけなくって、ポロポロ涙をこぼしながら、それでも松茸を掘りつづけてるの。……ねえ、あれはどういう夢なんかねえ……」  徳さんとはもう随分長い付合いだ。静岡の生まれで、五月の連休の頃になると新茶を持って来てくれる。  御前崎《おまえざき》か。広告屋の頃、ロケに行ったことがあるな……。私は徳さんの故郷から連想して、その時代のことを考えはじめた。なかば砂に埋もれた木造船を背景に撮った記念写真が、目に泛んで来る。墓地をひとまわりして、私の足はまたあの銀杏《いちよう》の下を通りすぎていた。  そのロケのとき使ったモデルは、一度華やかに浮んで、そしてもう消えてしまっている。最後にテレビで見たのはいつだっただろう。たしか去年の夏ごろだったような気がする。  私は豪徳寺の門を出てすぐ左へ曲り、塀《へい》ぞいに裏門のほうへ向かった。歩きながら、御前崎の黒っぽい砂浜を頭に泛べていた。その長い砂浜は堅く締っていて、車が波打際《なみうちぎわ》を疾走する場面を作るには、もってこいの場所であった。崖《がけ》の上から車をおろすのに都合のいい道もついていた。  おきまりの散歩コースをとって、私は家へ戻りはじめた。腕時計を見ると一時近かった。一時半には客が来ることになっている。今日最初の客だ。  近頃はだいたい一日平均三組か四組の客がある。したがって、昼間仕事をすることは不可能に近い。電話連絡も十回近くある。よほどのことがない限り、私は来客も仕事の話もお断わりをしない。つくづく貧乏性だと思うが、自分の利益になる仕事をひとつ受注するには、十か所くらいの発注先をまわらなければならないのだという固定観念があって、少しでも仕事の匂いのする相手からお声がかかれば、断わるのは不道徳であるような気がするのだ。  初心、などという勿体《もつたい》ぶったことではなく、職業別の電話帳から客になりそうな相手の名を拾って、一連のセロファンを売るために、なかば無駄と知りつつ東京中を自転車で走りまわった記憶や、広告主を探して銀座の店を一軒ずつとび込んで歩いた記憶が、商売とはそういうものだ、利益を得るにはそうしなくてはいけないのだと、私に思い込ませてしまっているらしい。  とたんに私は一人の友人の顔を思い出した。その友人は私より少し年下だが、鋭い感受性と豊かな教養があって、その髭《ひげ》をはやした顔を見るたび、つい威圧を感じてしまう。  彼はいつも私に言う。 「なぜそんなに仕事を引受けるの。好きな仕事だけしていればいいじゃないか」  私はそのたびなさけなくなる。たしかにそのとおりなのだ。だが私にはどうしても仕事が断われない。たまに断わると、自分の作品のタイトルが小さな活字になっただけで、うっとりとそれを眺めていた、SFコンテストの中間発表の頃を思い出し、ひどく不遜《ふそん》な人間になったような気がして自己嫌悪《じこけんお》を感じるのである。  好きな仕事だけをするということは、それ以外の仕事を断わるということでもある。そして、仕事を持って来てくれるということは、好意があるということでもある。仕事と好意を同時に辞退して、しかも相手を傷つけぬ円満な人格と、好きな仕事だけに打ち込む高貴な精神がなければ、とてもそういう芸当はできないはずである。  それを何の苦もなくやってのけ、人にもすすめる彼と自分を見くらべると、助平根性のかたまりで、八方美人の自分がつくづくうらめしい。  そうだ、あれも去年の夏だった。彼から電話が掛って来て、私は叱られた。当時雑誌に発表中だった或る作品について、すぐ打切るよう忠告されたのだ。 「あんなもの書いちゃ駄目だなあ」  私はその忠告にうろたえ、 「うん、もう今度でおわるから」  とあいまいな返事をした。だがそのときは、四回連載の二回目が発表されていて、三回目はすでに印刷に入っていた。今度というのは、私にとって四回目分のことであった。つまり、すでに手遅れであったのだ。  彼は作家であると同時に、批評家でもあった。私は彼の卓越した批評眼がその作品をそのようにとらえたことを知って、ひたすら怯《おび》えた。しまいには、もうどうにでもなれと思った。  それと同時に、他人の仕事に中止を勧告して来る勇気ある同情心を、心の底から畏《おそ》れた。私には死んでもできないことである。  世の中にはすばらしい魂があるものだ。  私はほとほと感じ入った。そして、そんな高い水準に身を置く人々にまじって、よくまあこれまで生きてこられたものだと、自分の図々《ずうずう》しさに呆《あき》れた。  その時、息子の茂は一歳とちょっとであった。私は昼寝をしている息子の顔をみつめ、言いようのない哀しみを感じたものである。この子供も、ああいう高貴な魂を持った男たちにまじって、図太く無神経に生きて行かねばならないのか。おのれの卑小さに目をとじ、他人の高さに目をそらせ、世の中は平等だ人間はみな同じだと自分勝手に思い込んで、その実死ぬまで底を這《は》いまわる……。  息子の細く柔らかい首を、この手でねじ切ってしまいたいと思ったのは、その時がはじめてであった。自分の厚顔無恥をどこかで悟りながら、それでも夢中で生きている。私の人生はずっとそれであった。倉庫番の職につけばなんとかして事務所へ入りたいと思う。バーテンをやればマネージャーになりたいと思う。字を書けば作家になりたいと思う。恥も身の程も知らず、思い立ったら最後、がむしゃらにはじめてしまう。そしてなんとか手に入れて見れば、それはいつも自分の身の程をこえた大荷物になるのであった。  私にはどうしても判らないことがひとつある。それは裁判官になるために法律を学ぶ青年のことである。世の中に、人を裁きたいと思う人間がいることが、私にはどうしても判らない。人を裁かねばならぬような災難には、死ぬまで会いたくないものだというのが、私の実感である。だが、世の中にはたくさんそういう人がいるのだ。そして、世の中には裁く人が必要であることも判る。裁判官に限らず、裁く人は強い使命感に燃えているのだろう。その使命感が、私にはまったく欠落しているらしい。とにかく理解不能なのだ。そして、それが判らないということが、私の精神を下賤《げせん》なものにしているのではないだろうか。  そんなことを考えているうちに、私は家へ入り、書斎の机の前に坐った。眼鏡《めがね》をかけ、モンブラン149のキャップをとって、書きかけの原稿の続きにとりかかろうとした。だが、あと三十分ほどで客が来ると思うと、ついやる気が失せた。佃島《つくだじま》の祭りの時に買った象牙《ぞうげ》の耳掻《みみか》きをペン立てからとり、ペンのキャップをとじて左の耳をほじりはじめる。正面の鴨居《かもい》の上に、薬師寺で買った白虎の拓本がかけてあり、それを眺めながら、今度はいつ奈良へ行こうかと考えはじめた。     2  電話が鳴り、私は象牙の耳掻きを原稿用紙の上に置いた。 「はい……」 「いま渋谷まで来てんだけどねえ」  女の声であった。いきなりそう言われ、私は思わずニヤリとした。気分がパッと明るくなった。 「早くおいでよ」 「どのバスに乗ればいいのよ」 「バス……。タクシーにしなよ。こっちへ来るバスはたくさんありすぎて、教えたってよく判らないんだ」 「タクシーかい。高いよ……」 「いいじゃないか」 「そうか、そうしようか」  そばにいる者に言ったようであった。 「早くおいで。待ってるんだから」 「よし来た。タクシーにしちゃおう」  電話は急に切れた。私は受話器を置き、原稿用紙をかたづけはじめる。  客はブービーのママである。ブービーは新宿にあるバーだ。ついゆうべのことだが、そのブービーのママが突然電話をして来て、是非紹介したい人物がいるから、明日訪ねていいかと聞く。私は大歓迎だと答えた。  ブービーのママとも、もう随分長い付合いである。私がはじめて新宿でバーテンをやったとき、ブービーのママは同じ店でホステスをしていた。ホステスといっても、そこのママの片腕のような立場で、ふしぎなことに、今もその頃と少しも変らない年恰好《としかつこう》に見える。早くに老けて見えるようになった女には、よくそういう現象が起こるものだ。  私はときどき水商売を背景にした小説を書くが、ブービーは実名でよく使わせてもらっている。ママは文学少女のなれのはてといった趣きがあり、私の小説など目のけがれになるから広告しか見ないのだという。  とにかく、そういう気のおけない相手が訪ねて来るので、私はうれしくてソワソワしはじめた。誰を連れて来るのだろうか。私は期待に胸をふくらませた。きっと、昔一緒に働いた誰かだろう。それがブービーにひょっこり飲みに来て、 「あいつ作家づらしてるんだよ」 「よし、行ってからかってやろう」  とかなんとか、押しかけて来る相談がまとまったに違いない。  いや、昔の客の一人かも知れない。案外今は出版社か何かの社長に納まっていて、これからずっとお前をひいきにしてやる、かなんか景気のいい話が持ちあがるかも知れない。  女かも知れない。どうもその線がいちばん可能性がありそうだ。誰だろう。わざわざ連れて来るというからには、顔を知っているという程度のことではなかろう。  私はニヤニヤしはじめた。何人か思い当たる筋がある。ひょっとすると美沙子かも……。そうだ、ブービーのママが今ごろになって引き合わせ、びっくりさせようというからには、美沙子に違いない。年をとっただろうな。でもいい女だった。どんな恰好をして現われるだろう。美沙子には、特別に染めさせた長襦袢《ながじゆばん》をプレゼントしたことがある。やはり和服だろうか。  図々しいことに、私は昔の恋人を迎えるつもりになっているくせに、階下へおりて行って家内に茶や菓子の仕度を命じていた。が、まあいい。見ぬもの清しということもあるし、充分清くなる時間もたっていることだ。  机に向かってまた耳をほじっていると、玄関のブザーの音が聞こえた。 「来たな」  私は耳掻きをペン立てへ抛《ほう》りこんで立ちあがり、階段をおりて行った。 「ごめんくださいませ」  半分ふざけたような、ブービーのママの声が聞こえた。家内は手に負えそうもない相手が来たというような顔で、玄関のところに膝《ひざ》をついている。 「やあ、来たな」  私は陽気な声で言い、ブービーのママにしか関心のないような顔で、ちらりと外に目をやった。半びらきの戸の外に影が動いている。 「まああがんなよ」 「じゃあお邪魔します。失礼……」  ママは家内にそう言って廊下へあがった。 「古いうちねえ」 「ボロだろ」 「うん」  遠慮とお世辞のないのがブービーのママのきわ立った特徴である。バーのママにして置くより、寿司屋の職人のほうが柄に合うようなタイプだ。 「ほら、あんたもあがんなさいよ」  そう言われて、のっそりと戸のかげから男が現われた。 「どうぞ」  私は内心がっかりしながら言う。 「では」  男客の物腰は丁寧であった。静かに靴《くつ》をぬぎ、廊下をついて来る。 「まあ広いお庭だこと。縁側からひとっとびでおとなりへとび込めるじゃないの」  ブービーのママは笑った。 「ねえ、気をつけなよ。こういう家は地震でかんたんに潰《つぶ》れるからね」  私は慣れているから平気だが、家内は下で目を剥《む》いているに違いない。細い目だが。 「さあどうぞ」  二階へあがって、私は仕事机のある八畳の部屋で二人の客に座蒲団《ざぶとん》をすすめた。ママは坐りながら噴きだしている。 「やだよ、作家の書斎風にしちゃって」 「自然にこうなったんだよ」 「嘘《うそ》……」 「かなわねえなあ」  私は頭を掻いた。 「はじめまして」  連れの男が名刺を差しだした。年は二十六、七。紺の背広にきちんとネクタイをしめている。色白で小肥り、背は低いほうだが、つぶらな瞳《ひとみ》で、どちらかというと甘ったるい童顔である。渡された名剌には飯田敬一と書いてあった。 「あたしはあんたなんかに用はないの。用があるのはこの人よ」  ママはニヤニヤしていた。 「飯田さん……」 「そう。うちへ来るお客の中で一番の秀才。東大よ」  まだ大学へ行っているらしい。 「理科系ですね」  私は飯田の大きな頭を気にしながら言った。 「はい。物理です」  研究室か何か、卒業後もそういうところに残っているのだろうと思った。 「どういうご用でしょう」  自分の本の読者だと直感していた。そういう客はときどきある。ことに、産霊山秘録という作品に関する客が多いのだ。 「僕も以前からヒ一族のことについて少し調べておりましたので」  という客が来てびっくりしたことがある。 「ヒ一族は私が考えついた嘘でして」  と言ってもたじろがない。 「でも、神統拾遺という本は僕も読みましたし。あれは古今の奇書ですね」  古今の奇書のはずで、それも私がこしらえたものなのだ。そういうわけで、どうしても警戒気味にならざるを得ない。  だが、飯田という青年は、ごく落着いた物静かな人物で、そういうおかしなところは少しも感じられなかった。 「じゃ、あたし帰るわね」  ブービーのママはあっさり立ちあがった。まだお茶も出ていない。 「いいじゃないか、ゆっくりしてってくれよ」 「そうもしてらんないのよ」 「どこへ行くんだい」 「世田谷の区役所。あそこに用があって来たのよ。じゃあね……」  トントントン、と階段をおりて行く。私は飯田をそのままにして、あわててあとを追った。 「あら奥さん、すみません。おいとましますわ。……お子さんまだお一人ですの」 「ええ」 「二人はいないと、子供が可哀そうよ。早いとこがんばんないと、男なんて四十すぎるとすぐヘタヘタとなっちゃうから……オホホホ……」  帰ってしまった。 「呆れた女だな」  私は家内の顔を見た。 「変なお友達ばっかり」  家内も機嫌《きげん》よく笑っていた。     3  飯田敬一という客は、きちんと正坐して待っていた。 「どうぞ、お楽にしてください」  私は膝を崩すようすすめた。家内が階段をあがって来て、私に茶の仕度をのせた盆を渡した。 「何しろ椅子《いす》というものがひとつもない家ですから。それでも去年までロッキング・チェアがひとつあったんですが、脚を切って今では子供のブランコになってしまって……」 「はあ……」  飯田は微笑しながらあぐらをかいた。 「で、ご用件というのはどういうことなんでしょう」 「それが実は」  飯田は照れたように頭を掻いた。私はなんとなくその気分が判った。来るまでは、きっと言うべきことをたくさん用意していたに違いない。だが、いざその場になって見ると、そのどれもが大したことではなかったような気がして、なんとなく虚《むな》しい感じがしているのではなかろうか。私がはじめて矢野徹さんの家を訪ねたときがそうであった。小説を書きはじめてしまったあとで、小説がなんだか、SFがどういうものだか、まるで判らなくなり、教えを乞いに矢野さんの家をたずねたのである。そして今の飯田と同じように、私は照れて、用意した言葉を十分の一も使わずに、なんとない世間話に時を過して辞去したのである。  ひょっとすると、この青年もSFを書いているのだろうか。私はそう思った。 「とても奇妙な話で、こうやって喋《しやべ》りはじめると……」  飯田は明るい初冬の陽が入る窓に目をやった。 「太陽も照っているし、なんだか自分が嘘をついているようで、変な気分です」  私は飯田に同情した。 「そうですね。なんとなく判るな、その気分……。で、あなた、SFを書いているんじゃないんですか」  少しは喋り易くなるのではないかと思い、そう水を向けた。 「読むことは読みますが、書くなんて、とても……」  考えたこともない、というように飯田は首を左右に振った。私は茶をいれて、茶碗《ちやわん》を飯田の前へ置いた。 「見間違えたかな。書くタイプだと思ったんだけど……」 「僕、吉永佐一なんです」  飯田は口早に言って私をみつめた。 「吉永……でも名刺には」 「ええ。名前は飯田敬一です。でも吉永佐一なんです。お憶《おぼ》えがありませんか」  その時までに、私は飯田に好感を抱いてしまっていた。その年ごろの男にしては行儀がいいほうであったし、例の神統拾遺を自分も研究しているといったような、狂信的な様子はまったくなかった。好感を持つ前にそのあとの会話がとびだしていたとしたら、私はきっと適当にあしらって追い返しただろう。 「吉永佐一……ですか」  聞き憶えのある名であった。飯田は探るような、いやに疑い深い表情でゆっくりと言った。 「吉永佐一、山本麟太郎、三波伸夫、伊東五郎……」 「ああ、なんだ」  私は笑った。 「聞いた憶えがあると思った。それは私がこしらえた名だ」 「亜空間要塞《あくうかんようさい》です」 「ええ、そうです」 「僕が吉永佐一なんです」  ひどいのがとび込んで来たと思った。私は自分の目がきつくならないように注意しながら、もう一度吉永……いや、飯田敬一を観察した。やはり、どこといっておかしいところはなかった。それだけに余計厄介な気がした。 「それはどういうわけなんですか」  私はできるだけ軽く言った。とがめる調子が出てはいけないと思っていた。だが、飯田は敏感に私の気持を察していたようであった。 「実は、あの亜空間要塞という本を、僕はごく最近になって読んだんです。たしか、あの本が出たのは夏でしたね」 「ええと、あの本の初版の奥付《おくづけ》では七月の十五日だったと思いますよ」  私は相手の出方を待って、慎重に答えた。 「本を読んでびっくりしたんです」  飯田もなぜかひどく慎重な態度を示していた。 「あれは去年の夏から秋にかけて、SFマガジンに四回分載のかたちで書いたんですよ」 「そうだそうですね。知らなかったんです。あまりマメに読むほうじゃないもので……」  飯田はまた軽く頭に手をやった。その態度はいかにも自然で、虚構と現実を混同してしまった様子はどこにも見えなかった。それに、熱狂的なファンではなさそうなので、私は彼に対する警戒心の一部をゆるめはじめていた。 「あれが載ったのは、九、十、十一、十二月号の四冊です。でも、SFマガジンの場合、九月号の発売は七月末だから、実際には八、九、十、十一という感じですね。毎回百枚ずつということで……」  私はなんとなく飯田の興味があの作品の裏話であるような気がして、自分からすらすらと喋りだしていた。しかし、飯田はそれに対して要領を得ない顔で頷《うなず》いている。 「いったい、あの作品の何に驚いたんです」  私は会話の進路を少し修正した。飯田は全然別なことに関心を持っているような気がしたからである。 「立ち入った質問で申しわけないんですが、実際に書かれたのはいつ頃なんですか」 「七月の……」  私はちょっと考え、すぐ思い出した。 「編集部に原稿を渡したのは七日ですね。七夕《たなばた》でしたから」 「七月の七日ですか」 「ええ。はっきりは判りませんが、七日と言えばもうだいぶ締切りに遅れていますし、私の場合ですと、逆算して、書きはじめたのは三日の晩あたりからでしょうか」 「書きあげてすぐお渡しになった……」 「ええ」  飯田は少し血の気の失せた顔で私をみつめている。 「どうしてこういうことが起こったのでしょう。まったくふしぎです」 「気になりますね。何が起こったのです」 「どういう風にご説明しようかと、随分考えました。ブービーは義理の兄がよく行く店でして、僕も連れられて行っているうち、だんだん一人で行くようになったんです。そして、ふとしたことから、あなたがあの店のママとごくお親しいと知ったものですから、いきなり紹介もなしにうかがうよりはと思って、こうして今日、連れて来てもらったのです。でも、やはり説明しにくいんです。困りました」  飯田は本当に困惑しているように見えた。 「言ってごらんなさい。とにかく喋るだけ喋ったらいいじゃないですか」 「すみません」  飯田は礼とも詫《わ》びともつかぬ言い方で頭をさげ、急に熱っぽい口調になった。 「偶然の一致ではすまされないんです。なんとか僕らに協力してください。実は僕ら、今年の夏、あの本に書いてあることとまったく同じ経験をしたんです。いえ……細部はかなり違います。たとえば、亜空間要塞の主人公は四人組ですが、僕らは三人です。本の四人組はSFマニアと言っていいくらいの人たちですが、僕らはそうSFばかりを読んでいたわけではありません。現に、あの作品が本になる前、雑誌に連載されていたことも知りませんでした。でも、ほとんど同じなんです。僕ら三人は亜空間要塞へ行って来たのです」  まさか、という台詞《せりふ》は私の口から出て来なかった。それは、静かすぎる、という西部劇の台詞と同じように常套的《じようとうてき》でありすぎた。  私は黙って頷いてみせた。そして心の中で、SFにおける、まさか、と、西部劇における、静かすぎる、が、どちらもドラマの急展開を予告する台詞ではないかなどと、妙に醒《さ》めた感じで考えていた。 「疑っていらっしゃいますね」  飯田に言われ、私は無表情でその目を見返した。ほかに適当な態度が思いつかなかったからである。 「当然です。当然なんです。でも、僕の身になってお考えください。妙な経験をして……ほんとに奇妙な経験でした。人に話すといったって、ばかばかしくてふつうの人は信じてくれやしません。そんな経験をしてしばらくしたら、今度はあなたがそれとそっくりのことを書いていらっしゃる。放っておけません。でも、どうすればいいんです。二重にばかばかしいことになるんです。しかも、僕らにとって困ったことに、あれが書かれたのは僕らがあの本を読む一年も前だというじゃありませんか。つまり、僕らが実際に体験する一年も前に、あの小説が書かれてしまっている……」 「整理して話しましょう」  私は飯田の言葉をさえぎった、このままでは際限もない気がしたのだ。 「僕が亜空間要塞を書いた。それは去年の七月から十月にかけての四か月です。そしてすぐ雑誌に発表された。それをあなたはまったく知らないでいた」 「ええ」 「一年後、あなたは僕が小説に書いたのとよく似た経験をした……」 「亜空間へ入れられてしまったんです」  飯田は詫びるように言う。私は軽く手を振ってそれをとめた。 「内容についてはあとまわしにしましょう。……その経験のあと、私の本を読んでびっくりした。こういうわけですね」 「ええ」  飯田は物足らない様子で頷いた。 「SFでなくて、日常起こりうる事柄を書いた小説であっても、それとそっくりの体験をするというのは、とてもかわったことです。奇妙なことです。あなたが私のところへやっていらっしゃった気持は当然でしょう」 「しかし、体験したのは亜空間なんですよ。信じられますか」  飯田は憤《おこ》ったように言った。     4  その日、私はいつもよりいくらか頭の回転がいいようであった。物事を事務的に考えて行く気分になっていたのだ。  ある人が私を評して、 「あいつと話していると、ぬかるみを歩いているような気分になる」  と言ったそうである。たしかにそのとおりで、自分でも、自分の脳味噌《のうみそ》はとろろ芋《いも》のようになっているといったイメージを持っている。なんでもかでも、ズルズルといっしょくたにくっついていて、どこからどこまでという区別がはっきりしていない。で、話のどこかで区切りをつけようとすると、残った向こう側にまだ大事な部分がたくさんあり、こっち側には不要な部分ばかりが来てしまっている。だが、それだからといって、選《え》りわけるのは不可能なのだ。いったん掻きまぜたとろろ芋と醤油《しようゆ》を別々に選りわけて食うわけには行かないのと同じことである。  そういうことからいえば、その時の私はかなり冴《さ》えていて、ややふつうの人なみに近づいていたと思う。  飯田は自分たちが、私の書いた亜空間要塞という物語どおりの経験をしたというだけで、それ以上詳しく語りたがらなかった。いや詳しく語りたいのを懸命に自制しているようであった。  私は第一印象で彼に好感を持ち、その上彼のそういう自制ぶりを見て、真実を語る者の姿勢としては当然であるように感じた。しかし話そのものはいきなり信じこむわけには行かない。それも当然であろう。  亜空間要塞という作品は、いわば過去に作られたSF作品群のパロディーであり、嘘っぱちもいいところなのだ。嘘っぱちと言って悪ければ、まるっきりのフィクション、と言い直していい。とにかく虚構なのだ。それでなくても、自分の書いた作品とそっくりの体験をしたという人物に名乗り出られて、それをすぐ信じるSF作家は一人もいないはずである。たとえば、ジョン・カーターは僕ですという人間を前にして、E・R・バロウズはどんな顔をするだろう。円盤の存在を信じていたり、あるいは実在を期待していたりしても、自分が小説の中で飛ばす円盤を信じている作家は絶対にないはずである。  そのあたりが、一般の小説とSFの違うところでもある。  あなたが書いた恋愛小説の主人公とほとんど同じ体験をしています、と言って来られたら、ああそうですかと言って疑わないのがふつうだし、あのポルノに出て来る女とそっくりの構造を持った女と寝たことがあると言われれば、ホウどこにいます、とひと膝のりだしもしよう。でもSFは違う。ゴジラの巣をみつけたと言われて一緒にくっついて行くようなことは、冗談か気まぐれでない限りあり得ない。  飯田もそこのところは充分理解して、その上でなお主張せざるを得ない自分の苦衷《くちゆう》をまず訴えていた。私もそのなんとなくいやらしい飯田の立場と気分がよく判った。かといって信じるわけにもいかない。そこで当然証拠を見ようということになった。いや、それも飯田のほうがあらかじめ準備して来た提案であった。  証拠を見に行くか行かないか、それがこの問題のポイントであった。私は行くことにした。飯田に好感を持っていたからでもあったが、この秋から体の調子が悪く、仕事の量が増えるのを回避していたので、日程がだいぶ楽になっていた。それに、飯田が連れて行くという場所が気に入ったのである。  伊豆《いず》であった。  伊豆、白浜。  そこは私が亜空間要塞の導入部で使った土地であり、なんと飯田もその白浜あたりにある別荘のひとつから、亜空間要塞的な事件に捲《ま》き込まれたのだそうである。  同じ土地だから信じてもよいという風には決して思わなかった。飯田がその異常な事態に陥ったのがどこであろうと、私はいっこうにかまわない。むしろ、イントロで使った場所がピタリと一致しているほうが、嘘としては幼稚である。飯田という青年の人柄を見ていると、そんな幼稚な嘘をつくようには思えなかった。飯田が嘘つきなら、もっと手のこんだ嘘をつくように思えた。  とにかく、飯田と私はそうやって、ブービーのママの紹介で面識ができ、三日後に白浜へ行くことになった。  その白浜へ出かけるまでの間、私は何かというとすぐ飯田を思い浮べ、あれこれ嘘の手口を考えてたのしんでいた。  というのも、私には闇《やみ》の中の系図という別な作品があり、その中で嘘部《うそべ》という古代氏族を登場させている。その嘘部が気に入った人が案外多く、私にちょこっとした嘘をついて、そのあとすぐに、実は僕も嘘部の末裔《まつえい》の一人なのだ、とからかわれることが多い。よせばいいのに私はその嘘部の系統として、浅辺だの小見だの服部だのという名を挙げているのである。だから名刺を渡されると、服部さんや小見さんなのだ。  飯田はもしや、嘘部の冗談を仕組んでいるのではあるまいか……。それが私の最大の警戒点であった。亜空間要塞に関することのふりをして、別荘の表札を見たら服部と書いてあったりする可能性が強いと思ったのだ。  いずれにせよ、私は白浜へ行くのをだんだんたのしみにしはじめていた。時間がたつにつれて、初対面の時の飯田の深刻ぶった様子が、かなりの名演技に思えて来た。  これは手のこんだ仕掛を見られそうだ。  私はそう思った。しかしその反面、飯田が闇の中の系図という作品を読んでおらず、嘘部というものも知らないでいるという可能性も考えていた。だとすると、彼に対してそんな疑いを持つことは大変失礼なことになる……。私の頭の調子がいいと言ったのはそのあたりのことで、いつもなら、一も二もなく嘘部ごっこだと思い込み、こっちもどんな嘘をついてやろうかと、いろいろネタを考えるところであった。     5  その日がやって来た。前の晩に飯田は、明朝車でお迎えにあがるがよろしいかと、丁寧に念を押して来た。私はもちろんお待ちしていると答えて電話を切ったが、その電話の様子でも、飯田が礼儀正しい男だという感じが強まった。  翌朝、私ははやばやと目がさめた。すぐ床を離れ、窓をあけると、眩《まぶ》しい光がワッと私を押しつつんだ。空は青く、いい日和《ひより》であった。  広告屋時代、私は伊豆の別荘地の仕事をいくつも手がけた。だから一般の人よりはずっと伊豆にくわしいつもりである。たとえば熱海から山へ入って行くと、軽井沢という土地にぶつかることなど、しょっちゅう熱海へ行く人でもあまり知るまい。  そういうわけで、久しぶりにのんびりと伊豆へ行けるのがうれしく、迎えが着くのを待ちかねていた。  約束の時間きっかりに、飯田がわが家の玄関のブザーを鳴らした。私は綿のスラックスにナイロンのジャンパーを着て、自分でドアをあけた。 「お迎えに来ました」  飯田はちゃんと背広を着てネクタイをしていた。 「やあ、どうもどうも」  私はゴム底の靴をはいてすぐ外へ出た。門のところに黒いセドリックがとまっていた。中に二人乗っていた。私は飯田にドアをあけてもらって、うしろのシートに体をいれた。 「これが大野です」  飯田が運転席にいる青年を紹介した。 「やあ、よろしく」 「こっちが加藤です」  助手席にいる青年がうしろを向いて軽く頭をさげ、車はスタートした。 「いい天気でよかったな」  私は遊び気分まるだしでのんきなことを言った。  が、ふとハンドルを握っている青年の顔に気づいて、妙な気分に襲われた。  四角いのだ。  亜空間要塞では、伊東五郎という四角い顔の人物が登場する。 「四角いでしょう」  私の表情に気づいたのか、飯田が真面目な顔で言った。 「まあね……」  私は笑いながら答えた。 「大野シロウといいます。シロウはこころざすという字にほがらかという字です」  大野志朗は運転しながら言う。 「僕は加藤コキチ、小さい吉と書きます」 「待ってくれよ」  車は瀬田へ向かっていた。東名で御殿場へ出てから伊豆へまわる気らしい。私は彼らの自己紹介をやめさせた。おりるなら今のうちだと思った。 「何か身分証明になるものを見せてもらいたいな。名刺はダメだよ。あんなものはどうにでも刷れるからな」  すると加藤は気易く頷き、大野から運転免許証をとり、自分はJCBのクレジット・カードを出して私に渡した。 「参ったな」  私はつぶやいた。亜空間要塞における四角い顔は伊東五郎で、それが現実では、やはり四角い顔の大野志朗となっている。五郎と志朗……。  それより問題は加藤小吉だ。 「小吉なんて名前は今どき珍しいね」 「ええ。でも本名です」  そうだろう。クレジット・カードでは細工もできまい。 「若いのにこんなカードを持っているなんて、ちょっといいご身分だね」 「そうなんですよ、こいつは」  飯田がとなりで言った。 「すると君は、山本麟太郎の役か」 「役って……ちょっと」  加藤は不服そうな顔をして、私から免許証とカードを受取る。 「勝小吉の倅《せがれ》が麟太郎だろう」 「ええ」  不承不承《ふしようぶしよう》頷く。 「亜空間要塞では、山本麟太郎は若様と言わせてある。もと華族の……」 「それなんですよ」  飯田が説明した。 「だから、三人一緒にはうかがえなかったんです。名前までどことなくつながっちゃってますからね。この二人を連れて行ったら、一緒に伊豆へ行く気にはなってもらえなかったと思います」 「それはそうだな」  今度は私が不承不承頷く番であった。 「で、君はこのあいだ来たとき、吉永佐一だと言ったね」 「これです」  飯田は自分の頭へ手をやった。 「頭でっかちですからね」 「そうか……」  私は苦笑するよりなかった。 「それに、もうひとつ彼が吉永佐一であるという理由があったんです。今はなくなっちゃったけど……」 「ほう」  私は加藤のほうを見た。 「飯田はいつも鼻毛をちらちらさせていたんです。みっともないって言っても、気にしなかったんですが、あの本を読んだらすぐ切っちゃった……」  加藤は飯田をみて笑う。 「いろいろ重なっているわけか」  私は憮然《ぶぜん》として言った。 「おい、それに俺の仕事のこと……」  大野が言った。私はそのガラガラ声に気づいてうんざりした。できすぎている……。 「そうだ、こいつは城西データ・バンクという会社のエレクトロニクス要員なんです」  加藤が熱っぽい調子で言う。 「城西データ・バンク。ほんとうにそういう会社があるのかい」 「ええ、ありますよ。やっぱり知らないで書いたんですか」  ハンドルを握ってた大野が言う。 「知らなかったさ」  亜空間要塞で、私は伊東五郎という人物の職業をそう書いている。 「で、エレクトロニクス要員なの」 「ええ」  困った。本当に困ったことになった。私は市井の一空想家でいたい。なるべく人に顔を知られず、好きなSFやその他の小説を書いて暮していたい。それなのに、この連中は私をとんでもないことに捲《ま》き込んでしまいそうであった。  それに、さっきの大野の言葉つきからすると、私が飯田を疑っていたように、その三人も多少私を疑っているようなのだ。城西データ・バンクという社名などにしても、私が知らずに書いたのかどうか、疑問だったのだろう。もしその社名を知っていて書いたとすれば、そこに大野志朗という、きわだって四角い顔の社員がおり、それがガラガラ声で、加藤小吉という金持らしい友人や、飯田敬一といういつも鼻毛をのぞかせている友人を持っていることなども、調べれば判って来るはずなのである。立場が逆になりはじめている。 「俺は君たちのことは何も知らずに書いた」  私はついそう強調してしまった。 「そうでしょう。そうだと思っていました。それだけに、これが異常なことなんですよ」  飯田は私をなぐさめるように言った。 「いけねえ」  私は思わずそう叫んだ。 「冗談じゃねえぞ。そうするってえと、この俺は三波伸夫かい。そうなっちゃうの……」  三人は愉快そうに笑った。 「俺はそんなにデブかね」 「そうでもないですよ」  飯田がまたなぐさめてくれた。 「やだなあ、参ったなあ」  疑うどころではなかった。私は自分の作品にひとつひとつしっぺ返しをされているようなものではないか。 「山本麟太郎は山本リンダ、吉永佐一は吉永小百合、そして……」 「てんぷくトリオの三波伸介と伊東四郎でしょう、モデルは」 「そうなんだよ。現実とはまるっきり関係のないおふざけのつもりだったんだ」 「とにかく異常事態なんです」  飯田がきっぱりした言い方をした。異常事態宣言という奴だ。 「で、行先は白浜だったな。別荘だって……」 「ええ」  加藤が答える。 「それも、崖っぷちの松林にかこまれていて……」 「名前だ、名前」  私は焦って声を高くした。 「誰の名前です」 「別荘の持主さ」 「加藤進」 「ああ……」  私はほっとしてシートに体を沈みこませた。浄閑寺などという名が出て来たらどうしようかと思ったのだ。 「でも、加藤のうちには外人の親戚《しんせき》が一人いるんです」 「ほう」 「姉さんがインド人の留学生と結婚しましてね。そのご主人がガンジーさん」  私は不機嫌に黙りこんだ。ガンジー……。まさか名前がジョーなんていうはずはあるまい。 「インド人だったら、ジョーとかジョージとかいう名前はないはずだね」 「ええ。でも留学生仲間の綽名《あだな》はジョーです」 「嘘つけ」 「嘘じゃありませんよ」 「ジョー・ガンジー」  私は飯田を睨《にら》みつけた。 「そうつなげて呼びはしません。でも、加藤の姉さんは旦那のことを、ジョーって呼んでます」 「正式の名じゃない」 「それはそうですけど」 「俺は浄閑寺|公等《きみひと》という人物を使った。もののはずみでつけた名だ。遠明寺《おんみようじ》でも深光寺《しんこうじ》でも、もと華族臭くありさえすればそれでよかったんだ。畜生、誰がからかってるのかな」 「からかってる」 「君ら三人の誰かか、それともこの三人をみつけて演出しているどこかの嘘部野郎か」 「嘘部って言いますと……」 「知らないのか」 「ええ」 「本当に知らないんだな。もし知ってたら八つ裂きにして、シャブシャブにして食っちゃうぞ」  これは私のタッチではない。  私は心のどこかでそう思いながら、三人に対して半分冗談めかして喚《わめ》いていた。  だが、三人は私の喚きに対して、しんと静まり返っていた。その表情は、あくまでもこの異常事態が、いよいよ本物であることを信じさせてしまうようであった。 「いいよ、このまま行くよ」  私はあきらめて言った。 「白浜の別荘で亜空間の入口を探そうじゃないか」  すると三人は口を揃えて言った。 「それを見てもらいたいんです」  まさか……。  SFにおける「まさか」は、西部劇における「静かすぎる」と同様、物語の急展開を予告する台詞である。  しかし私は、そのいやらしい「まさか」を、どうしても使わねばならぬはめに陥ってしまっていた。  展 開     1  黒いセドリックに四人が乗っている。運転しているのは四角い顔の大野志朗で、そのとなりに加藤小吉。うしろに私と飯田敬一。  曜日は火曜で天候は快晴。東名で御殿場へ出て、乙女峠を越えて長尾スカイラインから芦ノ湖スカイラインへ入って箱根峠、十国峠。熱海峠から伊豆スカイラインを南下し、伊東の先で海岸へおりて、あとは一気に伊豆白浜へ。ウイーク・デーだからその道筋のほうが小田原まわりより余程早かったようだ。 「亜空間要塞では稲取で一服しましたね」  運転している大野がそう言ったので気付くと、車はすでに今井浜へさしかかっていた。 「今井浜か。あそこが鬼ケ崎……もうすぐ白浜だな」  私はそう言ってから、思わずゾクリとして首をすくめた。はっきり記憶はしていないが、私はあの作品の中で、主人公たちの一人にそんな台詞を言わせていたようだ。  なんということだろう。自分が書いた作品の中へ、一歩一歩入りこんで行くようではないか。こんなばかなことがあっていいものだろうか。  車は私のそんな状態をおかまいなしに、白浜を過ぎて少し行くと道を右にそれ、急な坂をあがって、丁度寝姿山のふもとといった場所へ出た。あたりが平らになって別荘らしい建物が散見できる。目的の加藤小吉の家の別荘は、かなりの敷地を持っていて、松林に囲まれた眺望《ちようぼう》のいい位置にあった。ただ、建物そのものは大して大きくない。車は静かに建物の前でとまった。 「あの小説では別荘番の老夫婦がいましたが、ここにはそんなものはいません」  加藤が言うと、飯田がからかうように、 「それに、あんなでかくもないし」  と、笑いながらドアをあけた。 「でも場所はそっくりだ」  私もそう言って車から出た。それはまったく私のイメージどおりの場所であった。別荘は松林に囲まれ、その松林のはずれは崖になっている。登って来るとき見たのだが、崖の下は何かの畑になっているようだった。その下に民家が二軒ほどあり、すぐ下田への道路へ出られる。その道路を横切ると柿崎と原田の中間あたりの海岸のはずだ。原田のすぐ北が白浜……。広告会社にいた頃、このあたりへよく通ったので土地の様子は呑み込んでいる。それだけに、自分の作品どおりの位置関係であることが判って、空恐ろしい気がした。 「それじゃいよいよ、浄閑寺|公等《きみひと》氏にご対面といくか」  私はその空恐ろしさを追い払うように、冗談めかして言った。しかし、三人の青年は黙っていた。だから加藤が別荘の入口のドアに鍵をさしこむのを、私も同じように黙って見守っているより仕方なかった。  建物はまだ新しかった。私には近頃の建物の値段など、まるで見当もつかないが、とにかく中の上か上の下くらいの感じで、かなり金をかけた建物らしいことだけは判った。 「そこにいてください。しばらく使ってないから、僕らでざっと掃除をします」  飯田は如才ない態度で言い、三人は私を外へ残して中へ入ると、すぐにバタバタとありったけの戸や窓をあけはじめた。言われたとおり車のそばでそれを見ていると、やがて電気掃除機の音がしはじめたので、私は建物の外をまわって海側へ行った。  私はうんざりした気分で芝生の庭を眺めた。芝はだいぶ伸びてしまっていたが、それでもあの作品に書いたのと同じように、崖の手前の松林まで、ずっとひろがっていた。ただし池はない。 「池はどうした。ないじゃないか」  自分の作品どおりでないのをとがめるように、私は家の中へ声をかけた。 「ええ、ないんです」  二階の窓から加藤が顔を出して詫びるように答える。 「畜生……」  私は口の中でそう言い、顔だけは笑いを浮べて加藤に軽く手をあげた。  冗談じゃない。現実がそう完璧《かんぺき》に小説どおりであってたまるか。 「現実そっくりに書こうとしてもどこかに嘘が入って来ちまうんだ。それが小説だよ」 「え……何か言いましたか」  電気掃除機の音の中で、加藤がまた二階から言った。 「なんでもない」  私はつっけんどんに答えて芝生の上を松林へ向かった。 「いったい、小説で人生を学ぼうなんて、誰が言い出したことなんだ。小説で人生を学ばなければならないような奴は、さっさと死んじまうがいいんだ」  私は家に背を向けてつぶやいた。 「小説なんてみんな嘘じゃないか。人物の名前からして嘘だ。作者が勝手に付けるじゃないか。なんだい、それをもっともらしく、真実だの写生だのって……そっくりそのまま写生してみろってんだ。そんなつまらねえものを誰が読んでくれる」 「あんまり歩きまわらないでくださいよ」  加藤の声だった。 「純文学なんて、どこが純なんだかね。判んねえなあ。だいたい、芸術なんてのは人に売るもんじゃねえだろうに。芸術のつもりで小説書くんなら、二十字一行の原稿用紙なんか使ってくれるなってんだよ。二百字づめ四百字づめ……あれは文字をはかる桝《ます》じゃねえか。一枚いくらで売っといて芸術もねえもんだ」  なんだか知らないが、私はやたらに腹が立っていた。 「戻って来てください。そのへんに例の小さな亜空間があるんですから」  私はギクリと足をとめ、あわてて家のそばへ引っ返した。 「本気かい」 「本気……ええ。だって本当に例の楕円形《だえんけい》の妙な空間があるんです」  私はため息をついて庭を振り返った。そよ風が吹いて、松の林がおだやかな陽の光の中にあった。 「やれやれ。とんでもないことになったもんだな」 「まったくです」  大ざっぱな掃除がすんだらしく、三人は私のほうへ集まって来た。     2  私から見ると、三人はいやに落着いて構えていた。 「一応掃除しましたから」  そう言って芝生の庭に張り出したテラスから私を居間へ引っぱりこみ、湯を沸かして紅茶などをいれはじめる。  私はすぐにでもその異常な空間……つまり私が小説の中でいいかげんに亜空間への出入口のように書いたものを検分して、彼らが言う異常な偶然の一致という奴にとりかかりたかったのだが、三人の態度はそんなに性急にはじめたって今さらどうなるものでもなかろうと言っているようであった。  私は庭を気にしながら、居間のソファーで煙草に火をつけた。家の中はいかにも近頃の金持が建てそうな、天然の木目を強調したモダンな造りであった。壁も天井も板ばりで、まったく塗装をしていない。要所要所には松材の、大きな節目のある板を用い、家具類も北欧調の素朴一点ばりの品である。 「俺の小説とは大違いだ」  私はことさら、亜空間要塞に出て来る別荘との相違点を強調して、その家の中を見まわした。 「でも、場所はそっくりでしょう。以前ここへいらっしゃったことがあるそうですね」  飯田が言った。私の嫌な気分に気付いていないらしい。 「広告屋のときにね。でも、あの作品を書くために実地検分をしたわけじゃない」  すると伊東……いや大野志朗がガラガラ声でひと膝のりだす。 「そうなんですか。僕はまた、てっきりここへ見にいらっしゃって、それであれを書いたんだと思ってました」 「そんな手間をかけやしないよ」  私は自慢にもならないことを自信たっぷりに言った。 「土地カンがあるから白浜を使ったまでさ。どこでもいい土地の場合にはいつもそうしている。一定の場所でなければならない場合は行って見るがね」 「でも……」  加藤が口をはさむ。この別荘を持っているお金持のぼんぼんだ。 「そうだとすると、以前この場所から見て記憶にあったんじゃありませんか。だからそっくりに書けた……この建物ができてからまだ一年とちょっとですからね。以前は何もなかったんです。ちょっと広めの平らの場所があるだけだったんですよ。したがって、そこへどんな建物を置いてもかまわないわけです」  畜生め、何がしたがってだ。もっともらしい顔をして、とんでもないことに私を捲き込もうとしているのだ。 「どうだったかな。ひょっとするとこの松林に囲まれた土地を憶えていたのかも知れないね。それを無意識に使ったのかも……」  こういうところが私のいやらしいところである。いらいらしてても腹をたてても、相手の機嫌をそこねないように、なんとか話を合わせてしまう癖があるのだ。水商売をやっているうちに、いつの間にか身についた癖なのであろう。 「ああいう小さい亜空間をごらんになったことは……」  加藤が尋ねた。 「おい君たち」  私は我慢しきれずに立ちあがった。咥《くわ》えた煙草の灰が床に落ち、飯田がスリッパでそれをテーブルの下へそっと押しやっていた。 「いいかげんにそいつを見せてくれよ。俺はたしかにあの小説の中で小さい異常な空間を芝生の庭の、池のそばに作ったけれど、そんなものが実際に存在するとは思わなかったし、あっていいものだとも思っていないんだ。だから正直に言うと、いまかなりいらいらしている。そいつがあるのかないのか、早くこの目でたしかめさせてくれよ」  すると加藤がケタケタと笑いだした。 「何がおかしい」  私は加藤を睨みつけた。外の緑が陽に映えて、家の中へ反射して来ているようであった。私は一点を凝視しようとすると、よく焦点を合わせそこなって、クラクラと目まいに似た感覚に襲われることがある。その時も一瞬クラッと来て、加藤の体が緑色がかって見えた。もともと遠視気味で、原稿をたくさん書くようになってからそれに乱視が加わっている。今では執筆時には必ず眼鏡をかけているのだ。と言っても、星さんのような本格的な老眼ではない。遠視だから、原稿用紙との短い距離を補正するだけだ。でも、その眼鏡をかけている時間がどんどん長くなってしまったので、外すと焦点調節がときどきうまく行かなくなるのである。まっ白な壁などを急に見ると、卒倒するのではないかと不安になるくらい、眼の感じがおかしくなる。 「おかしいですよ」  目の焦点を合わせている間に、加藤はそう答えていた。緑の感覚はすぐに去った。 「だって、僕ら三人の名前や、この別荘の状況を考えたら、あなたの小説と現実がピタリと重なっていることはもう事実としか言いようがないじゃありませんか。そんなにいらいらすることはないでしょう」 「まだ判らん。まだ判らんさ。このくらいの一致はいくらでもありそうだ。その亜空間とやらを拝見しない内はなんとも言えんよ」 「じゃ見ますか」  加藤は挑《いど》むような言い方をした。 「一秒も早くな」  大野と飯田は顔を見合わせていた。 「どうした」  私は二人に言った。 「いえ……」  大野は言い澱《よど》み、飯田がさっと立ちあがって玄関へ行った。 「まだあるだろうな」  心配そうに言って靴をはく。そのあとを大野が追った。 「あれはなくなりっこない」  加藤は虚勢を張ったように、出て行く二人に強く言った。どうもこの加藤小吉というのは、ほかの二人にくらべると少し生意気なようだ。 「あれはなくなりっこありませんよ」  今度は私に言う。 「どうしてなくならないと判る」 「亜空間要塞がなくならない限り、あれもあそこにあるはずです」 「亜空間要塞……ばかな」  私は吐きすてるように言い、靴をはいてテラスから庭へ出た。玄関からまわった二人が、芝生の上を腰をかがめて歩いていた。 「あるのか」 「このへんのはずなんです」 「何しろ小さいもので」  二人は自信なさそうであった。私は風にとばされて来た松の落葉を芝生の上から拾いあげ、もしあった場合はその小さな亜空間に松葉をさしこんでたしかめる気になっていた。 「消えちまってればいい」  私はそう言った。 「君らはたしかに俺の小説どおり亜空間要塞へ行って来た。でも、もうそれを証明するものは何もないんだ。俺はそれでも信じるよ。君らはたしかに亜空間へ行って来たんだってな。証明できなくて残念だった。俺も亜空間を見そこなって惜しいことをした。もし本当にあったら、すぐ森優に電報を打って見せてやるんだったのに……彼は奇現象に憧れているからな。あんなに円盤が好きなのに、まだ一度も見たことがないそうだ。横尾忠則氏なんかは十遍も見たし、一度などは呼んだら来たっていうのに」 「あ、これだ」 「ありましたよ、やっぱり」  私は右手に枯松葉をつまんで憮然《ぶぜん》として立っていた。すぐ前に二人の青年の尻が突きだしていて、その二人は地上四、五十センチの高さのところをみつめていた。 「ほんとにあったの……」  私はおっかなびっくりに言った。 「ええ、ほら」  二人はうれしそうだった。 「まさか、まさか、まさか、まさか……」  私は低い声でつぶやきつづけた。 「ごらんなさい。ここですよ」 「静かすぎるぜ」 「え……」 「静かすぎるって言うんだよ。インデアンが待ち伏せしていそうだ」  二人は私の言う意味が判らずに、キョトンとしている。  私は芝生にひざまずきながら、ふしぎな精神状態になっていた。つい今しがたまでのいらいらは嘘のように消え、ばかばかしいほど陽気な躁状態《そうじようたい》に陥っていたのだ。でも私は自分のそういう心理に慣れていた。十七、八からずっと背水の陣ばかりで、ちょっとでも事が狂えばすぐ棄身《すてみ》にならなければ生きて来れなかった。水を背にして敵に対している時の不安を、そうなった時まで持ち越していたら、助かるものも助からなくなる。せっぱつまったら陽気にはしゃいじまうしか方法はないのだ。 「どれどれ、拝ませてくれ」  私は子供が縁日の夜店へ割り込んで行くように、二人の間へしゃがみこんだ。 「どうだ、用意がいいだろう」  枯松葉をつまんで二人に見せる。 「SF作家だもんな。亜空間くらいでいちいち驚いてたら、光速なんてとても超えられるもんじゃない」  たしかに、何か小さな部分がズレているようだった。 「ズレてるね。ここんとこに水が溜ってるみたいだぜ。こいつが亜空間なんだな」  私は松葉をその変な空間にさしこんだ。枯れた茶色い松葉は、とたんに途中から二、三ミリ食い違った。引きだすとつながっているが、さしこむと二、三ミリ段差ができる。実体は一直線のくせにその部分へ入った分がズレて二、三ミリ離れてしまうのだ。 「ヘッ……なぜだか判らない奴は前篇をご参照くださいと来やがったか」 「ね、あるでしょう」 「間違いない。こいつは俺が書いたとおりの小亜空間だよ。俺が太鼓判を押す。持って帰って森優に売りつけよう」 「森優って……」 「南山宏さ。知らないかい」 「ええ。でも、これは持ち運びなんかできませんよ」 「できねえだろうな。判ってるよ、そんなこと」  二人は私の態度の急変に驚いているらしかった。     3  その別荘からさして遠くないところに、整地中の一画があった。そこにもやがて別荘が建つのだろう。だが今は整地をやりかけたまま、工事の人影もなかった。  私は大野たちを使って、そこから工事用の砂を運んで来た。砂をその小さな亜空間の下に盛りあげ、亜空間を砂の中へ埋めてみようというのであった。そうすれば、中ぶらりんの状態よりずっとよく観察できるはずであった。  私たちはせっせと砂を運び、盛りあげた。砂は少し湿っていて盛りあげるには都合がよかった。 「どうだ、これくらいでよかろう」  砂は亜空間の上まで盛りあがり、亜空間は砂の中にかくれていた。 「上からそっと砂をどけて行くんだ」  まるで子供の砂遊びであった。私たちはそっと、少しずつ砂の頂を削って行った。 「ここだ」  大野が言った。亜空間が砂の山のてっぺんのあたりへ来て、頂きがそこから少しとびだしていた。その小さな円錐形《えんすいけい》の頂きは、ほんの少しだが下とズレて見えている。 「砂をもう少し濡《ぬ》らそう。亜空間の形を正確につかむんだ」  私の提案で砂に水が撒《ま》かれ、もう一度やりなおした。いろいろな角度からすかして眺め、砂を使った棒倒しのゲームのように少しずつ砂を取り除いて行くと、やがて地に向かって伏せたお椀《わん》のような形ができた。楕円《だえん》のお椀だ。 「これで半分だろう。だとすると、やはりこいつはラグビーのボールみたいな形なんだな」  それ以上砂をとり除くことは不可能であった。 「われわれ人類はまだ、亜空間の中に砂をつめて宙に浮かす技術を持っていない」  その冗談が気に入ったらしく、大野と飯田は声をあげて笑った。どういうわけか、加藤の奴は拗《す》ねたように家の中から出て来ようとはしなかった。 「おい、俺は亜空間を確認したよ」  私は家の中の加藤に向かって言った。なんとか反応させて見たかったのだ。だが加藤は冷淡な表情で、お義理にほんの少しニコッとして見せた。 「あいつどうしたんだ」 「さあ……」  二人は私に詫びるように首をひねって見せた。 「変な奴だ」  私はそう言いながら、作業の終了を示すつもりで、砂のてっぺんに指を突っ込んだ。亜空間の上半分を示している伏せたお椀の形が、私の左手で崩れた。 「さあ、これで亜空間の実在は判った。これからどうしよう」  私は立ちあがり、腰をのばして両手を叩《たた》いて砂を落とした。 「あ……」  突然私は体から血が引くような恐怖を感じた。 「ない……」  パンパンとはたいた左手の、その薬指の第一関節から先が、何の痛みもないのになくなってしまっていた。 「どうしたんです」 「ない。指がない」  二人は私がひろげた左手をのぞき込み、黙って顔を見合わせた。 「ないよ。どうしたんだろう」  私は夢中になってしゃがみなおし、たったいま指を突っ込んだ砂をかきまわした。 「指が……どこへ行ったんだ。どうしたんだろう」  二人は茫然《ぼうぜん》と突っ立って私を見おろしていた。 「切った憶えがないんだ。切れば痛むだろう、でも全然痛まなかったんだよ。いったいどうしちゃったんだ」  私が直感したのは、やはり亜空間のことであった。指を突っ込むと、融けたりするのではないだろうか……と。 「君ら、この中へ手をいれたことがあるんだろう」 「ええ」 「なんともなかったのか」 「ええ」 「砂と一緒だったからかな」  私はまるで犬のように砂を掻《か》きわけながら言った。 「手をもう一度見せてください」  大野が言ったので私は犬の真似をやめた。 「ほら」  砂だらけの左手をひろげて見せた。薬指の先が、プツンと切れてしまっている。となりの小指とほぼ同じ長さなのだ。 「血も出ないんですか」  大野の言い方は少し妙だった。 「俺だって切れば血ぐらい出るさ。切れば赤い血が出る西瓜野郎《すいかやろう》ってんだ、畜生め」 「亜空間の中へおっことして来ちゃったんですよ、きっと」 「ふざけてるのか、君たち」  私は砂のそばに膝をついて二人を見あげ、睨みつけた。するとまた焦点を合わせそこなった感じがして、一瞬その二人が緑色に見えた。 「ふざけてはいません。でもおかしいじゃないですか。傷口をよく見せてください」  飯田が私の左手を取った。私はされるがままになっていた。 「別に異常はないようですね」 「ばか言え。指の先がなくなってるんだ」 「いえ、綺麗にふさがってるというんですよ、傷口が」  まったくおかしなことであった。 「ふつうじゃありませんね。たしかに切れば血が出るはずです。それがこんな風にプッツリなくなって、しかもなんでもないということは……」 「やっぱり亜空間か」 「そうとしか思えませんね。ほかに何か説明のしかたがありますか」  すると大野が口をはさんだ。 「本当にいま指を切ったんですか」 「どういう意味だ、それは」 「いや、以前からなかったんじゃないかと思って……」 「ばか言うな、ちゃんと五本揃ってたんだ」 「でも、あなたの指をよく注意して見てはいなかったんです。薬指の関節がひとつなくっても、そう気になりませんからね。以前からないのを、急になくなったなんて……」 「俺が君らをからかうというのか」  大野はあいまいな表情をした。どうやら疑っているらしい。 「冗談言うな。それこそ冗談言うなだぞ。俺は今まで指なんか切ったことはない」 「でも、板前だのコックだのをやっていらしたんでしょう」 「それはそうだが、指なんか切らなかった」  私はうろたえた。大野の疑念にももっともなところがある。薬指の第一関節から先がなくても、ちょっと他人は気付かないかも知れないのだ。板前やコックをやっていれば、そういうように指を落とす機会も他人よりは多いはずであろう。 「おかしいなあ」  その点飯田は他の二人より世なれた感じで、どうにでも解釈のできる首のかしげかたをした。 「お願いだ。この砂をひろげてくれ。たった今、砂の中から手を出したら指がなくなっていたんだ。あればこの砂の中にしかない」 「指を探すんですか」  二人は気味悪そうにした。 「うん、たのむ」  二人はまた腰をおろし、砂をひろげはじめた。 「もしあったら嫌だな」  大野がぼやくように言う。 「小さいから気をつけてくれ。ほんの指先くらいなものだから」  私は空元気《からげんき》を出して言った。 「それにしても参ったな」 「でも、小指じゃなくてよかったですよ」  飯田がなぐさめ顔で言う。 「どうして」 「指をつめたみたいでしょう。やくざがやるじゃないですか、仲間の女に手を出したり、約束を守らなかったりしたときに」 「嫌なこと言いやがる」 「すいません」 「別にあやまることもないが」  私はだんだん落着いて来た。きっと砂の中にはないだろうという確信が生じ、原因は亜空間にあると思いはじめた。 「ないな」 「ええ」 「よし、もういいや」  私は立ちあがった。 「いいんですか」  二人は気の毒そうに私を見る。 「仕方ないよ」 「すみません、大事なものを」  私は笑った。 「そう、大事なものに違いはないけど」  痛くもかゆくもないのだが、やはりちょっとあきらめ切れない感じではあった。しかし、以前ダンヒルの銀のオイルライターをなくした時とどっちだと言われると、さあと首を傾げねばなるまい。薬指の先っぽなんて、メンソレを塗るときに使うくらいなものだ。     4  指の先をなくしたのを、そのように軽く考えたのは、多分私の神経が躁の状態にあったせいだろう。しかし、そんな風に不意に薬指の先がなくなってしまった場合、涙腺《るいせん》のしまりがゆるい女の子ならとにかく、私くらいの年齢の男が、ほかにいったいどんな態度をとれるだろうか。  気にはなる。不安でしかたがない。だが痛みもなく、原因も常識では判断するのが不可能なのだ。勝手にしやがれ、なくなっちゃったい……それ以上どうしようもないではないか。  もっとも、とるべき態度はほかにもあることはあった。病院へ駆けつける一方、110番あたりに異変を報らせてもいい。いや、ごく常識的な人物だったらそうしたかも知れない。そうすれば多分110番でパトカーがやってきて、あの亜空間に警官が首をかしげ、まわりに立入禁止の白いロープぐらい張ったかも知れない。何しろ善良な一市民が指をなくしたのである。また病院の医者は、私の指を診て何か処置をしてくれたかも知れない。  だが、それでいったいどうなっただろう。その危険な小さな空間によって生じた私の肉体の損失は、どうやって評価されるのだろうか。全治三週間……ばか言っちゃいけない。指は次々に芽を出して生えてくるものじゃない。全治などしないのだ。では、軽傷……たしかに軽いと言えば軽いが、軽傷と言われると不服になるだろう。指を一本失ったのだぞ。生まれもつかない……いや、差別語になるからよそう。とにかく、片手に合計十四パートある指の部分のひとつがなくなったのだ。重傷であろう。また、医者だってはっきりしたことが判るわけはなかろう。何しろ相手は亜空間なのだ。亜空間医学が研究されているという話などまだ聞いていない。せいぜい無意味な消毒をしておしまいだ。  白浜のあたりを受持つ新聞記者がそのニュースを知ったとして、駆けつけてくるか来ないかは五分五分だろう。もしその記者が志賀直哉の愛読者だったとしたら、多分来ないだろう。たとえ日本沈没を読んでいたとしても来ないだろう。世間とはそういうものだ。これが仮りに世界各地で発見され、東京にも出現して週刊誌をにぎわしているとしたら、何をおいても駆けつけて来るだろうが、ほんのちょっとした空間のひずみ……いや、凍りついた鎌《かま》いたちみたいなものにすぎないのだから、本社に打電したって記事に採用されっこないと思うはずである。ことに朝日新聞の記者だったら、お前超能力みたいなものを信じるのかって、お叱言《こごと》を頂戴《ちようだい》しかねない。  だが私はSF作家だ。SF作家クラブに入っているのだから、たしかにSF作家だ。指をなくしておろおろはしていたけれど、心の中にはこの奇現象を独占したい気持でいっぱいであった。理解のない連中に報《し》らせてしまう気持は毛ほどもなかった。  私はかねがね、SF作品の一部に、前代未聞の奇現象にまき込まれて、ひとことそれを世間に報らせれば災難をまぬがれるのに、まさか、まさか、そんなばかな、の一点ばりで、結局誰にも判らずじまいでおわってしまう物語があるのが気になっていた。あたかもそれはターザン映画に出て来る善良な白人たちのようなものである。猛獣がウロウロしているのに夜、キャンプ・ファイヤーのそばを離れるし、ワニのいる川へ入って泳ぐし、ライオンの巣へ行ってライオンの赤ん坊をかわいがるし、敵の土人がすぐそばへ来るまで気がついたためしがないし……。  あれとおんなじことだ。だから、人喰いサボテンが歩きまわっているというのに、 「こんなことを誰が信じてくれるというのだ」  とかなんとか、ストーリーに都合のいいことを言ってすましているのが気になって仕方なかったのである。  だが実際にそういう立場になったとき、私はそうしたいわゆる白痴ストーリーの主人公と同じように、自分一人でかかえこんでしまうよりなかったのである。  いみじくも私ははじめに大野と飯田の二人に言っている。二人が亜空間があったと言い、私がそこへ近寄って行ったときである。 「静かすぎる……」  そう、まさに静かすぎる場面は、一転して展開部へさしかかったのである。インデアンが待ち伏せているかわりに、小さな亜空間が出現し、私は左手の十四分の一を失った。ちなみに、十四というのは五本の指の関節で区切られた部分の合計である。嘘だと思ったらかぞえてみるがいい。十五あったらお化けだ。十四以下だったら差別語を使わねばならなくなる。  結局私は左手に五つあるツメの生えた部分のひとつを失うかわり、亜空間を得たのであった。ただ問題は、亜空間がそのままおとなしくしていてくれるかどうかであった。単にそれが一《いち》白浜地区の空間における珍奇な現象にすぎないのならば、私はやがて森優こと南山宏や平井和正や、その他SF作家クラブの面々を呼び集めて、そのまわりで夜っぴて酒を飲んだりするに違いなかった。  だが、飯田たち三人組の申したてによれば、どうもそれはもっと大きな空間に通じているらしい。そこにはさまざまな世界が設定されていて、人類をテストしているらしい。三人はそこへ招き寄せられ、異常な体験をして命からがら脱出して来たのだという。しかもこれは、彼らが体験する前に私によって書かれてしまっているらしい。だとすれば、今後のんきに亜空間を見物しながら一杯というわけには行かないかも知れない。  危険だ。何かが起こるぞ……。  お前は呪《のろ》われている……。  そんな文句が私の脳裡《のうり》を去来した。しかし私は依然としてこの奇異な現象を他人に報らせる気にはならないでいた。 「君らはどうやって亜空間へ入ったんだい」  私は居間へ腰を据えて三人に尋ねた。 「やはり俺が書いたとおり、あの小さな空間の爆発で呑みこまれたのかね」 「ええ、突然夜中に円盤がやって来て、緑色の光を放ったんです」 「俺が書いたとおりだな」 「そうなんですよ」 「で、ロスボとかワイナンとかいう世界へ入ったのか」 「名前まで同じじゃありませんがね」  答えるのはさっきから大野と飯田の二人だけで、加藤はいやらしい目でちらりと私を見るだけであった。 「どうしたんだね。ご機嫌斜めじゃないか」  私は加藤にそう言った。 「別に……」  加藤はそらぞらしく答えた。もう夕方になっていた。 「僕はあんたがどうしてあれを書いたか知りたいだけですよ」 「あれを……亜空間要塞をか」 「もちろんです。あんた、とぼけてるみたいだ」 「いったい俺が何をとぼけるんだ」 「いいですか」  加藤は開き直った。 「この三人が亜空間にまぎれ込んだのは事実です。他人はどうあれ、僕ら三人はたしかにあそこへ行って散々な目にあって来たんです。亜空間は宇宙人の前進基地のようなものですよ。彼らは地球に対していずれ侵略をはじめるでしょう。でなかったら、あんな風にして人間を徹底的に研究しやしません」 「まあそうだろうな」 「でも、そんなことを他人に言えますか。気違い扱いされちゃいます。だから僕らは黙っていた。するとどうです、一年も前にあなたが真実を暴露しちゃってるじゃありませんか。ええ……いったいどういうわけです。僕らは嘘だと思われるから、あんたのところへ行って丁寧に来てくれるようたのんだ。それは偶然の一致だろうと思ったからだし、あんたがその偶然の一致から、僕らの唯一の味方になってくれると思ったからです」 「味方だよ。亜空間の存在も確認したことだし」  私は短くなった左の薬指を眺めて言った。 「そうかな」 「味方じゃないというのかい」 「あんた、何か知っているんじゃありませんか」 「冗談じゃない」 「いや、知ってるんだ」  加藤は言い張った。 「僕は最初から、偶然の一致にすることに疑問を持ってたんです。そうじゃないですか、偶然というのは、もっとあやふやなものだ。ピタリ適中しても、全部というわけには行かないんです。だが一致しすぎてる。あなたが書いたあの小説は、ほとんどノン・フィクションだ。事実を知っていて、わざと細部を変えたにすぎない」 「かりにそうだとしたらどうなるのかね」 「敵だ」 「敵……」  私は目を剥《む》いた。 「なぜ」 「あんたは敵に内通してる。いや、宇宙人と何らかの関係がある。でなければ、あれだけの材料は仕込めるはずがない」 「光栄の至りだね」  私は微笑して見せた。 「あれだけの材料を仕込めるはずがないというのは、大変なほめ言葉だ。まさに仕込めるはずがないだろうね。それを俺はここから引っぱりだしたわけだ」  私は自分の頭を指さした。 「すばらしい想像力だね。われながら見直したよ。事実をそのとおり想像するなんて」 「はぐらかすな」  加藤はいきり立った。 「お前は何かをかくしているんだろう」 「やれやれ。とうとうお前になったか」 「お前でたくさんだ」 「子供の喧嘩《けんか》だよ、それじゃ」  私は冷笑してやった。ずいぶんやっていないが喧嘩なら少しは自信がある。実戦になって、下駄を掴《つか》んだりビール瓶《びん》をふりまわしたりする段になれば、眉村卓とだって渡り合えるかも知れない。 「お前は天皇賞を当てたろう」  加藤の鉾先《ほこさき》はとんでもないところへとんだ。 「天皇賞……競馬か」 「その前の二レースを、一本買いで続けて取ったあげく、天皇賞を三着まで当てたっていうじゃないか」 「こんなところで競馬の話をしようとは思わなかったな」  私は大野と飯田を見て笑った。だが二人はなぜか蒼白《あおじろ》い顔をして黙っている。 「寒くなった。戸をしめろよ」  私は飯田に言った。飯田はのっそりと立って戸をしめた。ついでに部屋の灯りをつける。 「たしかに秋の天皇賞ではツイてた。石川喬司先生もびっくりというくらいだった。山野先生なんかくやしそうだった。……競馬って、ふしぎだなあ」  私は山口瞳さんのコマーシャルの口まねをした。 「お前は怪しい。ふつうじゃない。実を言えば、ここへこうして来てもらったのは、お前を調べるつもりだったんだ」 「ほんとか、おい」  私は黙然と坐っている二人のほうを見た。そのとたん、また例の焦点ボケが起こった。     5  急に焦点をかえたようなとき、一瞬めまいに似た感覚に襲われることには、もうすっかり慣れていた。近くから遠くへ焦点を移してもそれは起こらない。遠くから近くへ……そう、厳密に言うと二、三メートル以内へ目の焦点を移したとき、よくそうなるのであった。  前にも言ったが、それは明らかに私が小説を書くようになってからのことである。資料のこまかい文字を余計読むようになり、一日五時間から十時間、多いときは二十時間近く原稿用紙に文字を書き続けているのが原因だろう。しかも私は若いときから遠視である。最近は乱視が加わったのでそうでもなくなったが、以前は国電のホームに立って、となりのホームの時刻表をおおむね読みとることができたくらいである。だから今でも道を歩いていて向こうから知った人が来ると、必ず相手より先に発見する。そのかわり、狭い場所で長時間話し込んだりすると、頭がボーッとしてくるし、相手を見ないで窓の外ばかり見てしまう。遠くを見ているほうが楽なのだ。夜の街をさまよっていて……つまり梯子酒《はしござけ》をして歩いていて、急に狭い店へとび込んだりすると、酔っているのでなおさら近くへ焦点を移すのが面倒になり、すぐそばの席に知人がいてもまるで気づかなかったりするのだ。  そういうとき、急に近くを見たりすると、きまってクラクラッと来る。ことに壁が白かったりすると、どこへピントを合わせていいか、目のほうが判らないらしく、そのクラクラがいっそうひどくなる。  外がうす暗くなったそのとき、私は白浜の別荘の中で急に近くへ焦点を移した。当然目まいがした。それまで私は向き合って立った加藤と少しばかり険悪なやりとりをつづけていたが、目は彼のうしろにある、あけ放した戸の外の松林や、そのずっと向こうの海の上にうかんだ雲を見ていたりしたのであった。  だから私は目まいがしてもそう驚かなかった。目まいは一瞬のことで、いつもすぐ治るのである。しかし今度ばかりは違っていた。クラクラッと目まいがして、すぐおさまると思っていたのに、いやに長いあいだそれがつづくのだ。変だな、と思ったとたん、私の網膜が緑色で満たされてしまった。それはありきたりの緑ではなく、いやに化《バケ》学的な緑であった。非常に濃い蛍光色《けいこうしよく》というか、コンピューターからのデータを映し出すブラウン管の色というか、そんな感じの光る緑色であった。  そして私は、最初の瞬間その緑色にも驚かないでいた。なぜなら、それは今日二度ほど感じた色だったからである。芝生の緑と入り混って、短い目まいのあいだに大野たちの姿がそんな色に見えたのであった。  しかし、すぐ私はいつものように自分の目の焦点が定まっていることに気づいた。目まいは去っているのだ。それなのに、視界全部が緑の光で明滅しており、ことに大野と飯田の二人の体は、白と緑でネガフィルムを見るような感じであった。  私はあわてて二人から視線を外し、あたりを眺めまわした。 「どうしたんだ……」  私は大声でそう言ったようだった。すると坐っていた二人が立ちあがった。それが私には見あげるような大男たちに感じられた。緑の光の明滅はまだつづいていて、私の前に立ちはだかった三人が、ネガフィルムの像のように見えている。  私は怯《おび》えた。体の異常かと思ったし、またとほうもない天変地異かとも思った。  静かだった。私は怯えながら三人を見ていた。すると、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と、自分の心臓の鼓動とも思える規則正しい低い音がしているのに気付いた。低いが太く威圧するような音であった。音源がどこか、見当もつかなかった。自分の体内から聞こえるようでもあり、地のはて、宇宙のかなたから響いて来る音のようでもあった。いずれにせよ、それはひどく根源的な感じの音で、何か生きていることがいやしいことであるように思わせる力を持っていた。  私は唾《つば》をのみ込もうとした。耳鳴りをおさえるようにすれば、その恐ろしい音も消えるような気がしたのだ。つまりそれほど生理的な感じのする音でもあったわけだ。  だが私の喉はカラカラに乾いていて、しばらくは唾も充分には出て来てくれない。私は必死になって唾を湧《わ》きださせていた。  私が唾をためて喉に送り込んだのと同時に、パッと緑色が去った。だから私は一瞬やはり体の異常だったのかと思い込むところであった。  だが違っていた。私より十幾つも年下のはずの三人が、今や私には理解の及びかねる、強力な相手に変化してしまっていた。どう見てもそれはたった今までそこにいた三人とは、まるで違う人間であった。それでいながら、外見は何ひとつ変わっていない。  それでも異常な緑色が去ったので、私はいくらか落着きはじめていたようである。 「これはどうなっているんだ」  罵《ののし》るように私は言った。 「だから言ったろう」  加藤はおごそかな調子で答える。 「お前を取り調べると」  さっきの加藤は、年相応に激昂《げつこう》しかけていたが、緑の光以後はまるで違ってしまっていた。無力な老人をいたぶるゲシュタポのような感じであった。  そのとたん、私はやっとひとつの答に行き当たった。それでも、ターザン映画に登場する善良な白人よりはいくらかましだったかも知れない。 「宇宙人……」  そう言って二、三歩あとずさった……と言いたいが、足がすくんでいたし、膝のうしろにソファーが置いてあった。私はどすんとそのソファーに尻を落とした。 「そう」  飯田は素っ気なく言う。もう彼も味方ではなかった。 「お前はなぜ亜空間要塞の存在に気付いたのだ」 「なぜって……偶然さ」  私は震え声で答えた。 「そうは思えん。亜空間要塞の一部が地球人の能力試験場に使われていることまで知っていたではないか」 「偶然だよ」 「しかもそれを人々に警告した」 「小説を書いただけじゃないか」 「偶然があれほど重なってたまるか」  三人はテーブルごしに、私の顔を交互にのぞき込んで言う。 「どうしろというんだ」 「素直に白状しろ。そうすれば命は助けてやる」  そう言ったのは四角い顔の大野であった。大野志朗。それは私の小説で伊東五郎に該当するはずの人物であった。  コロリ、と私の心理状態が変化した。例の、せっぱつまったときに起こる、ケツまくり状態であった。  一拍置いてから私は軽く笑った。自分でも笑えたことが意外だったが、気がつくと胃のあたりがムズムズするように落着かず、胸は何かを期待したときのようにワクワクしはじめている。明らかに躁状態である。 「おい伊東五郎、いやさ大野志朗。お前はとうてい小説なんか書けねえ奴だな」  意表をつかれて大野はたじろいだらしい。私はここぞとばかりに喋《しやべ》りまくった。 「素直に白状しろ、そうすれば命は助けてやる……なんでえ、その台詞は。月なみもいいとこだ。今どきどんな雑誌をめくったって、そんな台詞は出て来ねえよ。同じ言うんでも、せめて命まで取ろうとは言わねえ、かなんか言ってみろってんだ。とにかくそのひとことで判ったさ。おめえら三人はあの変てこな光のあと、亜空間にいる宇宙人にコントロールされちまったんだろう。だらしがねえっちゃありゃしねえ。でもまあそれもしかたがねえさ。やい宇宙人。てめえらの技術もそうほめたもんじゃねえな」 「どうしてだ」  加藤が言った。 「地球へおでましになるんなら、もうちっと勉強して来いよ。お前らこの大野の体をかりてるんだろうが、脳味噌はぼんくらの大野のまんまじゃねえか」 「なぜそれが判るのだ」 「今の台詞さ。あいつは大野の脳味噌から出た言葉に違いない。そうじゃねえか、少し物事を勉強してれば、あんな臭い台詞が出て来るわけがねえものな」  三人は顔を見合わせ、ゆっくりとソファーに坐った。 「どういうように言わせればよかったんだ」  当の大野が訊《き》いたので、私は少し変な気分になったが、委細かまわずつづけた。 「教えてもらいたい。そうすれば生命は保証する……まあこれでも大したことはないが、少しはましになるだろうな。だいたいカギかっこの中は特に大事なんだ。少くとも俺にとって、カギかっこの中は地の文とは違ってなきゃならない。そうだろうが。日常俺たちが喋っているのは、たとえば、早い話がと言ったって、ちっとも早くなんぞなっちゃいねえのさ。ひと息に言うべきことを全部言い切っちゃうのは、その人間が泣いてるときか怒ってるときだけだ。あとはたいてい三割以上言い残して、次のカギかっこへつながっちゃう」 「小説の話をしてるんじゃない」  飯田は気をそがれたような顔をした。 「とにかくお前らはまだ地球のことを知り尽しちゃいない。ざまみろ」  事 件     1  その宇宙人たちがどういう思考法をするのか見当もつかないが、とにかく私は大野の吐いた台詞ひとつで活路をひらくことに成功した。  彼らは勉強不足を指摘されてひるんだか、あるいは私に対する考え方を変えたようであった。 「よし、われわれは君に対して高圧的な態度をとるのをやめよう」  加藤が言った。 「当たり前だ。おどせばおどすほど、俺って人間は扱いにくくなるぜ。恐れ入ったふりをして、もっともらしいにせの情報を渡すかも知れない。だいたい俺は人をおどすより、おどされるのが得意な人間なんだ。威張ってみやがれ。どこまでもへこんじまうぞ。へいこらして、恐れかしこんで、引きさがった分だけ相手を肚《はら》の中でばかにしようというのが俺さまの十八番なんだ。世の中には利口な奴とばかな奴がいて、利口な奴はこっちがへりくだると、余計に頭をさげてくる。ところがばかな奴は反対にそっくり反っちゃうんだ。よくいるよ、そういうのが。へい新米《しんまい》で何も存じませんから、よろしくお引きまわし願いますなんて言うと、まるでその気になっちゃって、見ねえ面倒まで見てるように言いふらしたりする。たとえばこの俺が作家になるとすらあ。そうすると、あいつを育ててやったって言う恩人が五人も六人も出て来ちまう。だから世の中ふんぞり反って見せたほうがトクかなとも思うけど、やっぱり俺にはヘイコラするのが性に合ってる。俺なんざ自慢じゃねえが、すぐ四つん這《ば》いに這いつくばるぜ。俺を這いつくばらせていい気分になる奴を、俺は下から見くだしてやるのさ」  何がどうなるのか見当もつかなかったが、とにかくこの際喋りまくることだと見当をつけて、私は夢中でまくしたてた。 「あらためて協力してもらいたい」 「そうそう、その調子だ。そう来なきゃ本筋じゃない」 「なんで亜空間要塞のことが判ったのかね」 「またそれか、いやになるな。亜空間要塞のことは俺のここから自然にハミ出して来やがっただけなんだよ。いくら言ったって無い袖《そで》は振れねえよ」 「それではすまないのだ」 「すまなきゃすむようにするがいいさ。俺は自分で考えてあれを書いたんだ。参考資料も何もありはしない」 「偶然だと言い張るのか」 「張るも張らねえも、根っきり葉っきりこれっきり、千円ポッキリサービスタイムだ」 「何のことだ」 「キャバレーだよ」 「キャバレーの話などしていない」 「けッ、とんちきめ」 「やはりわれわれは、まだ地球のことにくわしくないようだな」 「くわしくないとも。どうせお前らはなんでもかでも数字にしちまうんだろう。判ってるよ。だからいけねえんだ。あそこに人間が三人いる……それじゃいけねえんだよ。誰と誰と誰がいるって考えなければな。たとえば平井和正と田中光二と豊田有恒がいたら、それは三人じゃなくて四人未満という数えかたをしなくちゃならない。あと五分もしてみろ、豊田有恒がどこかへ電話をかけるから。そうするとすぐ四人になる。でもその四人は四人と呼んではいけないんだ」 「なんと呼べばいい」 「一卓さ」 「一卓……」 「麻雀だよ」 「あ、そうか。麻雀なら知っている。ついこのあいだデータをとった」 「ルールを知っているかい」 「それも一応解明した」 「じゃやるかい。ちょうど四人だ」 「卓も牌《パイ》もない」 「なければしょうがないな」 「亜空間要塞の件はどうなる」 「知るもんか。とにかく俺はあれを自分の想像力で書いただけだ。本当にあったらしいんで困ってるとこだ。お前らにとっつかまっちゃったからな」 「どうも君の話は要点がボケていけないな」 「そうだろうさ。俺と話をしてるとぬかるみを歩いているような気分になるそうだ」 「誰かにそう言われたのか」 「ああ。もっともだと思ったよ」 「なるほど。少し判って来たな」 「何がだい」 「君は屈辱感で生きている」 「いいこと言うね。……それは言える」 「下から見おろすというのは、君のそういう性癖から来ているんだな」 「当たり。否定はしないよ」 「気に入らないことを言われても、その当座は平気な顔をしているが、その実執念深く憶えている」 「しょうがないな、そのとおりだから」 「それで、この次その人物に会ったとき、わざともう一度指摘されたとおりのことを、それとなくやって見せるのだろう」 「まあそういうこともある」 「それで相手が君に対して、以前自分がした評価を決定的にかためてしまうと、君は必ずしもそうでない部分をひそかに眺めて、相手の失点とするわけだ」 「よく判ってらっしゃる」 「つまりひねくれている」 「ああひねくれてるよ。拗ねてるんだ。拗ねて拗ねて拗ねまくってやる。まともな道ばかり歩いた奴にこの気持は判るまい」 「厄介な男だ」 「俺自身そう思うさ。でもこういう人間になっちまったもの、しょうがあるか」 「そういう性格だと、その場では自分でも意識せずに、いろいろなデータを記憶の中へしみ込ませている可能性があるな。そうは思わないか」 「うん、いくらかその傾向はあるようだ」 「たとえば、君は何かの本を読んでも、その本に書かれていたことをよく憶えていないのではないか」 「物憶えは悪いほうだね。数学の公式なんかはことに忘れっぷりがいいよ。あんなもの、滅多に必要じゃないからな。もし要るときは、参考書を持ってくればどれにだって書いてある」 「それだ。その本に全体としてどういうことが記されているかだけを、君は記憶するのだろう。知識が必要なときは、本の内容を思い出さずに、その本自体がどこにあるかを思い出す……君はそういうタイプらしい」 「そうですかね。勝手にきめてくれ」 「糸口がみつかったようだな」 「なんの糸口」 「われわれは君の過去を追跡する必要がある」 「待ってくれ。俺は未来にしか行けないよ。そういうときは過去へさかのぼるとか、過去を追求すると言ってもらいたいな」 「いや、追跡させてもらう」 「どうやって」 「まあいい。それはわれわれの仕事だ。とにかく協力を感謝する」 「おっと待った。俺は仕方なしに協力させられたんだぜ。そこんとこを間違えないで欲しいな。だって、お前らはこの地球をどうにかしに来たんだろう。仲間を裏切ったと言われたんじゃ立つ瀬がない」 「地球をどうにかするとは……」 「侵略。そうだろう。そうにきまってるよ」 「さあ、それはどうかな」  三人はゆっくり光りはじめた。さっきよりだいぶ弱い光りかただったが、とにかく緑色に光ったのである。 「おい、行っちゃうのかい」  私はソファーに坐った三人に声をかけた。しかし三人は答えず、姿勢を崩しはじめるのであった。 「おい、待てよ。待てったら……」  緑の光の明滅が早くなり、ドッ、ドッ、という鼓動のような低い音が遠のいて行った。  そして去った。なぜか去ったと判った。  私は立ちあがり、テラスに面した戸をあけた。外には伊豆の夜がひろがっていた。夜の底は芝生だった。そしてその芝生のずっと先のほうに、緑色の小さなラグビーボールがうっすらと光っていた。 「あん畜生めら」  私は口の中で言い、胴ぶるいして戸をしめた。すっかり寒くなっていた。加藤、大野、飯田の三人は、ぐったりとソファーに埋もれていた。     2 「おい。目をさませ」  私はまず加藤の体に手をかけてゆすった。何よりもまず腹が減っていた。三人は食料を車に積んで来ている。ちょっといけそうなワインの瓶《びん》もあったようだ。こういう別荘へ若い連中が持って来るのだから、多分手間のかからない焼肉か何かだろう。早くそれをワインと一緒にご馳走《ちそう》になりたかった。  加藤は睡《ねむ》そうに首を振りながら目をさました。私はそれを放っておいて大野と飯田を起こした。 「あれ、僕ら寝ちゃってたんですか」 「とぼけるなよ。散々人をおどかしやがって」  そうは言ったが、彼らが今の出来事を知らないでいることは判っていた。宇宙人に借用されていたのだ。 「あ、もうこんな時間……」  加藤は腕時計を見てからすまなそうに私に言った。その表情で、彼がいちばん早くから宇宙人に使われていたことが判った。着くそうそうから私に対して不機嫌だったのはそのせいなのだろう。多分監視の役をしていたのだ。 「なんだか頭が痛い」  大野と飯田がしきりにこめかみをおさえている。 「そうだろうとも。なぜか判るかい」 「いいえ」 「君たちは三人とも、今まで亜空間の宇宙人に占拠されていたんだよ」 「占拠……どこをです」 「ここをさ」  私は自分のこめかみを左手で指さした。そしてそれをおろそうとして、 「いけねえ」  と言った。薬指の第一関節から先がないのだ。宇宙人たちがいるあいだに、そのことを訊いておくべきだったのだ。 「宇宙人が僕らをコントロールしていたというんですか」 「ああそうだよ。三人がかりで俺をいじめやがった」 「驚いたなあ。でも、怪我《けが》はないようですね」 「そういういじめかたじゃないさ」 「じゃあどういう」 「亜空間要塞の秘密をどうやって知ったかって……素直に白状すれば命だけは助けてやるだなんて」  私は大野を見てニヤリとした。 「そんなこと、僕が言ったんですか」 「そうだよ」 「白状したんですか」 「できるわけないだろう。陳腐《ちんぷ》な台詞を使うなと言ってやったよ」 「本当にそんなことを言ったんですか。大胆だなあ」 「大胆なんじゃない。やけくそだったのさ」  私は少しいい気分になった。なんとかそれで危機を切り抜けたのだ。以前池袋でチンピラに襲われたときのことを思いだした。あれは女性自身のアンカーをやっている時だった。午前四時ごろ歩いていると、いきなり若い奴が突っかかって来た。刃物を持っていたようだった。私は咄嗟《とつさ》に呶鳴《どな》った。 「誰にたのまれたっ……」  若い奴は多分それで誤魔化《ごまか》されたのだろう。くるりとうしろを向いて走り去ってしまった。あの時の気分と似ていた。 「とにかく飯にしてくれないか。連中は当分やって来ないだろう」  私はガラスごしに芝生を見た。もう緑色の光は見えなかった。 「そう言えば腹が減ったな」  三人はそう言い合い、食事の仕度をはじめた。私はソファーに坐って煙草に火をつけ、ちらちらとそれを眺めていた。案の定、プロパン・ガスの栓《せん》にゴムホースがつながれ、テーブルの上にコンロと鉄板が出て来た。ワインは二本らしい。四人で二本……まあまあだろう。 「ウイスキーもありますよ。飲みますか」  加藤が訊いた。 「当然……」  私は威張って答えた。肉とピーマンと平貝。パンにバターにインスタントのコンソメ。飯田はコトコトと野菜をきざんでいる。サラダを作っているらしい。 「サウンド・ステーキ用の肉か。気がきいているな。肉の厚味と同じくらいの幅に切れよ。そうやって焼いたほうがうまいんだ」 「そうか、コックの経験もあるんでしたね。全部やってもらえばよかった」  大野がコンロの火をつけながら言った。 「宇宙人に乗っとられていたにしては元気がいいな」 「いやだな、乗っとられたなんて言わないでくださいよ」 「だってそのとおりだろ。ボデー・ジャックさ」  私はカティー・サークのキャップを外しながら言った。何はともあれ、まず一杯というところだ。 「ところでつかぬことをお尋ねするが」  三人は手をとめて私のほうを見た。 「君らは本当に亜空間要塞へ行って来たのかね」  飯田が口をとがらせた。 「今さら何を言うんです。だからここへ来たんじゃありませんか」 「そうだろうとは思う。しかし、君らに宇宙人がのりうつられて見ると、果して本当に行ったのかどうか疑問になったんだよ」 「どうしてです」 「俺の立場で考えて見てくれ。君ら三人は宇宙人にあやつられ、亜空間要塞へ行ったと思い込んでるだけじゃないのか」 「どうしてそんなことを……」 「俺をここへ呼び寄せるためさ。彼らは単に俺の書いた小説を問題にしているのであって、君らは道具にすぎない。あの小説と全く同じ経験をしたと思い込まされて……」 「絶対そんなことはありません」  大野が言った。しかし飯田は、 「そうか、むずかしい問題だな」  と考え込んだ。 「おい飯田。お前、あれを信じられないのか。俺たちはたしかに亜空間要塞へ行ったぜ」  大野がなじるように言う。 「そうあせるな。飯田だってあれを幻覚だったなんて思ってやしないさ。でも、たしかにむずかしい問題がある」 「何がむずかしいんだ」  大野は加藤を見た。 「俺たちは自力で脱出したと思っていたけれど、そうじゃないかも知れないということさ。だって、現に宇宙人が俺たちの体に乗りうつったそうじゃないか。だとすると、奴らは俺たちが今日ここにいることを知っていたわけだろう。しかも、あの小説の作者を連れて来ていることも知っていたんだ」  飯田も加藤に同意した。 「そうだよ。俺たちはまだ連中とつながっているらしい。とすると、連中は俺たちをわざと逃がしたことになる」 「なんのために」 「知らないよ」  飯田は肩をすくめた。 「多分、君らから直接地球の情報を収集するためだろうな」  私が口をはさむと、大野は顔を赤くした。 「スパイですか」 「まあそんなところだ」 「冗談じゃない」 「でもそれなら話の筋が合う。君らは地球に送り帰され、知らないうちに連中へ情報を送っていた。ところがそのうち、俺の小説を知った。それは君らの経験に酷似したストーリーだった。その情報も連中へ送られた。連中は俺を調べる必要を感じて、君らをもう一度使うことにした。どうだい、筋が通るだろう」  大野は憮然とした顔になった。 「で、連中はあなたに何をしたんです」  ほかの二人もテーブルへ集まり、焼けた鉄板に肉や貝が並んで音をたてはじめた。 「ワインをあけろよ」  私は催促し、ウイスキーの残りを呷《あお》った。グラスと皿《さら》と箸《はし》が配られる。 「わけのわからないことを言いやがった」  三人は私をみつめた。 「なぜ俺が亜空間要塞の実態を、自分のオリジナルなイメージとしてひねり出し、小説に書いてしまったか、そこのところをはっきりさせるために、俺の過去を追跡するんだとぬかしやがった」 「過去を追跡……おかしな表現ですね」  飯田は判りがよかった。 「タイムマシンでも使うつもりですかね」  加藤が言う。 「さあね。何しろ相手は宇宙人だ。判るもんか」 「焼けはじめたぜ」  私は箸を取った。 「うん。タレの味はまあまあだな」  腹が減っていたし、肉は上等だった。ワインを飲み、肉を食い、パンをちぎって、四人はさかんに食べはじめた。 「こうなったら、もうどうにでもなれさ。人生のコツはそれだよ」  私は先輩ぶってそんなことを喋ったようであった。  しかし、まんざら判ったふりのお説教ではないつもりであった。どうにでもなれと肚をきめる以外、どんな手だてがあるというのだ。だいいち、警戒のしようもないではないか。それに、私について言えば、なぜ自分が亜空間要塞の秘密を暴《あば》けたのか、まるで見当もつかないのである。     3  私たちは東京へ戻った。  例の小さな亜空間をそのままにしておいて、のんびり帰ってしまったことになるが、実際は翌日四人でさんざん議論をしたのだ。私は真剣に森優を呼ぶことを考えていた。しかし、昼近くなって事情がかわった。フットボール型をしたあの小さな亜空間が体積を縮小しはじめていたことに飯田が気付いたのである。そのために私たちは二時近くまで白浜で粘《ねば》った。たしかに亜空間は縮小しはじめていた。それもかなり急速に……。  私たちは四人とも、はじめからこの問題を世間へ持ちだすことに悲観的な見方をしていた。当然だろう。恐らく誰も信じてはくれまい。いや信じにくいだろう。その上もし見に来てくれたとしても、その時にはあるかなきかの大きさになってしまう。ひょっとすると消滅してしまっているかも知れない。  私たちはそこで誰にも報らせずに帰ることにした。その決定でとりわけほっとしたのがこの私である。理由はまず第一番に、私がそれを自分の秘密にして置きたかったからである。亜空間の存在を確認した当初から、そういう気分が根強かった。この亜空間が奇現象の一種だとして、誰がわがいとしの奇現象を他人に手ばなすことができようか。SF好きならこの理屈抜きの気分を理解してくれるだろう。  しかしそれは第一にあげたけれど、あくまで気分のことであって、人に報らせたくない具体的理由はほかにあった。何しろ都合の悪いことに私はSF作家なのである。植物学者が山奥から出て来て、新しい植物をみつけたと呶鳴《どな》れば誰でもああそうかと思うし、天皇陛下がゴム長をはいて、新しいウニの仲間をみつけたと海岸でのたまえば、ああ畏《かしこ》いきわみと感心するだろう。でも、SF作家が伊豆旅行から帰って来て、亜空間みーつけた、などと言ったところで誰が当たり前に思ってくれるものか。しかもちょっと調べれば、それは私が小説で書いたのと同じ場所である。どんな冗談だろうと期待されるのが精一杯のところだ。  ——某SF作家が伊豆で亜空間を発見したそうである。そもそも亜空間なるものがいかなるものか、筆者はよく知らないが、ともかくそれが事実ならビッグ・ニュースである。地球における自然現象の新発見であるばかりでなく、物理学にも大きな影響を与えずにはおくまい。またもしそれが今後拡大するとしたら、われわれ人類にとって由々《ゆゆ》しい一大事である。しかし発見者は過去に今回の発見地と同一の場所を舞台に亜空間のフィクションを発表している人だ。彼の作品にはそのような現象がよく扱われている。果して今回の報道をどこまで信じていいのであろうか。面白半分に現場へかけつけるのも、レジャーの過しかたのひとつではあろうが、このようなやりかたで衆目を集めるのはどんなものだろう。売名行為ときめつけるわけではないが、だいたいこういうことをする人物に限って、本業のほうで首をかたむけざるをえないような仕事しかしていないのが常である。この作家も構想雄大のキャッチフレーズのもとで、いかがわしい物語をだらだらと書きつらねている。それは構想ではなく妄想《もうそう》に近く、雄大どころか現実|把握力《はあくりよく》の貧困さを露呈している。それにしてもこのような人の作品が大手を振ってまかりとおるところに、今の文学の堕落を読みとるのは筆者だけであろうか—— 「冗談言うな。俺は文学なんかやってない」 「え……どうしたんです」  飯田が言った。車の中であった。私はうつらうつらしていて、半睡状態の中でそういう活字を読んだ気分になっていたのだ。だいたいが、少し被害妄想タイプなのである。頭のどこかに妄想ダケが生えているらしい。  三人組はすべて私に責任を負わせた気で、さっぱりした感じになっていた。年上は損だ。お前らだってまだこの先どうなるか判らないのだぞ、などとおどかしてやることもはばかられる。  私は家まで送ってもらい、彼らと別れた。 「おかえりなさい」  家内は私の外泊に慣れているから、いつものように和服を出して着がえを手つだっている。こう見えても家では殿様なのだ。 「電話は」 「早川書房から一回と、文藝春秋から一回、それに文春から二回」 「ああそう」  文藝春秋とブンシュンは別な会社だと思い込んでいる。紀尾井町のニュー・オータニ・ホテルへかんづめになっても、代々木のニュー・オリエント・ホテルへ泊まっても、その違いがよく判らない。初まいりにセンソウジへ行こうと言ったら、毎年浅草の観音さまへ行くことにきめているんだから嫌だとことわられたことがある。しかたがないから浅草の観音さまへ行って来た。  二階へあがって郵便物の封を切りはじめる。地方紙が四つばかりと、リーダーズ・ダイジェストのダイレクト・メール……またデゴイチの模型を買えか。もう持ってるのに。小学館の振込通知と眉の請求書。渋谷のボルドーからボトルの期限切れ通知。推理作家協会からどこかで見学会があるという端書《はがき》。小説クラブから校正刷り。古書の目録。ファンレターなんて来たこともない。平井和正の家へは毎日ドサッと来るというのに。彼はもっと雑誌のグラビアに出るべきだ。そうすればファンレターの数も減るだろうに。こすい奴だ。 「おおい、お茶」  わが家で働いてるのは俺一人だ。だから威張ってお茶を持って来させる。 「おとうちゃん、でんぐりかえり……」  お茶と一緒に息子が二階へあがって来て、でんぐりかえりをやって見せる。 「おりてなさい。お父さんはお仕事なんだから」  家内が叱《しか》る。二人ともおりて行く。私は耳掻《みみか》きをとりだして耳をほじる。何が仕事なもんか。  と、まあ、無事平穏ないつものくらしに戻ったわけである。  とたんに電話が鳴る。 「はい半村です。なんだ君か」  中央公論の横山である。ふしぎなことに彼と私は高校時代の同級生。横山と呼びすてにしては悪い。部長殿だ。 「判ってるよ。今月だろ。うん、きめたよ」  彼の雑誌に書かせてもらうことにきまっている。その催促……というか、だいたいどこでも注文をくれたあと、締切りのだいぶ前にそういう確認の電話をいれて来る。書く内容はきまったかというおたずねである。 「飲みに行こうか」  私は眉の請求書を横目で見ながら言う。彼は仕事でいそがしいらしい。 「それじゃまたにしよう」  私は電話を切る。締切りに半月も間があって、編集者とそういう電話をするときがいちばんたのしい。これがあと十日もしたら、借金の取りたてをくらっているような気分になるのだ。 「さて……」  私は机の上をかたづけて、前の箱から原稿用紙を取り、箱の手前へ置いた。その箱は多分重役室の書類入れに使う奴だろう。既決、未決の書類をいれるあの蓋《ふた》のない平べったい箱だ。材質はローズウッド。いつか銀座の伊東屋でみつけて、いいなと思った。私の原稿用紙の大きさにピッタリなのだ。値札を見ると4000とある。しめたと思って、 「これください」  と言うと、 「贈り物ですか」  と訊かれた。 「いや、自分で使います」 「では」  と言って手早く包んでくれたから、千円札を四枚だすと変な顔してる。しまった、と思って値札をもう一度見なおすと、14000だった。それなら買わなかったのに……。  そのローズウッドの箱へ書いた原稿を一枚ずつ入れて行く。書きおわるとコトコトゆすってやる。そうすると原稿がすぐ綺麗に揃う。机から立つときは、原稿用紙をいれておく。とても便利である。  その箱から原稿用紙を出して手前へ置いたのだから、これはもう戦闘開始の合図のようなものだ。おもむろに箱の右にある木のペン皿から万年筆をとる。ペン皿もローズウッドだ。箱に合わせてある。ただしこれは贈り物。万年筆のキャップを外し、インクの量をすかして見る。モンブランの149だ。私はとても図々しいところがあって、五年ほど前、プロの小説書きになってやろうと決心したとき、いちばん最初に原稿用紙の紙質と万年筆の組合わせを研究した。たくさん書くのだから楽に書けるペンと原稿用紙を持とうと思ったのだ。その研究の結果、紙は中質、ペンはこれときめた。中質紙の原稿用紙など、今どきどこにも売っていなかった。みんなもっといい紙を使っている。でも、太めのペンでインクの吸いがいい紙に書くのが一番楽だった。それで紙を買い、印刷屋に刷らせた。原稿用紙の隅に名前を入れるのは気がひけたから、「苺山人」と入れた。イチ、ゴ、サン。みな賽《さい》の目の半である。以前から俳句を作るときその名を使っていた。そう言えば、俳人眉村卓はどんな名を使っているのだろう。今度訊いてみよう。最初の原稿用紙はおととしの暮れになくなった。すぐ手配して二連ほど刷らせにかかったとたん、オイルショックで紙の値があがった。でも紙はすでに買ってしまっていた。だから印刷屋がひどくくやしがっていた。その印刷屋は私の家の近くの本屋でもある。渋谷の飲み屋でよく一緒になる仲だった。 「あんたの本、売れないねえ」  そう言われたことがある。むろん酔っていた。 「知ってる人のだから悪いと思って棚《たな》に置いとくんだけど、インスタントラーメンなら交換しなくちゃな、そろそろ……」  本屋は本気のようだった。 「お前の店の場所が悪いんだよ」 「いい場所だぜ。ほかの人のはどんどん売れてるもの」  あの時は癪《しやく》にさわったなあ。  と、ペンを持ってくだらないことばかりを頭に泛べ、気をとり直してなんとなく字を書く。……亜空間要塞の逆襲。今度のを小説にしてやろうかな。     4  結局のところ、仕事など何もしなかった。机に向かうと原稿用紙をひろげ、万年筆のキャップを外すのは習慣にすぎない。それから本式に仕事にとりかかるまでが長いのである。そしてあんな異常な体験をしたあとである。久しぶりの人と会っただけでなかなか仕事にかかれなくなるのが、なんですぐ仕事にとりかかれるものか。  実を言うと、私もそうたやすく仕事の状態に入れるとは思っていなかった。しかし、無駄と知りつつ一応とりついて見るのが私の唯一の取《と》り柄《え》である。だから万年筆のキャップを外し、何か書いて見たまでのことだ。「亜空間要塞の逆襲」……悪くないタイトルだ。ターザンの逆襲という映画があったっけ。まして今度は大して考える必要もなさそうだ。あの亜空間と宇宙人のことをそのまま書けばSFになる。  これでいいのだろうか……。もし仮りに私が円盤に乗せられて、どこかの星を見て来たとする。それをそのまま書いてもSFだろうか。正確に言うとそれはSFではあるまい。しかし、ノン・フィクションと銘うっても洒落《しやれ》か冗談だと思われるだろう。やっぱり世間はSFと思うはずだ。とすれば、今度の件もSFとして発表してしまっていいではないか。そうだ、SFマガジンの次回作は「亜空間要塞の逆襲」にしてやろう。二月号からはじめるとちょうどいい。二月号は毎年日本人作家の特集だ。  考えてみると、その二月号にすら作品をのせなかった時期がある。広告の仕事に夢中になっていた時代だ。あの頃はあの頃なりに楽しかったし、それにやたらといそがしかった。それでいてよく遊んでいる。三十三、四。威勢がよかったんだなあ。日記を引っぱり出して見ると、われながら驚いてしまう。月に三十日は飲んでいる。それでいて二十五日は麻雀をしている。会社のある日は毎晩仲間と麻雀して、その帰りに飲んでいたんだな。そして休みの日は家で飲む。パーフェクト・ゲームだ。肝臓もバテるわけだ。  まったくよく酒を飲んで来た。はじめて友人の福島武郎と共謀して、こっそり酒盛りをしたのは十六の年だったかな。合成酒を一升買って来て、二人で六合飲んだのを憶えている。それがはじまりで、以来酒っ気の切れたためしがない。  若い頃は量を飲むことが問題だった。ゆうべ誰とどこで飲んだかということより、何をどのくらい飲んだかが話題になった。今でもうまい鍋料理《なべりようり》で、気の合う奴とチンタラ飲めば、わりと気楽に徳利が十本は並ぶ。たいてい二、三人一緒に飲むから、なかなか正確な分量は判らないが、一度だけ完全にはかれたことがある。広告屋時代、仲間と例のエックというセット旅行をして、旅館で飲もうとしたら、ガラスの一合瓶に入った奴をそのままお燗《かん》して持って来た。ちょうど仲間はみなビール党で、日本酒は私だけだった。おかわり、追加の連続で、翌朝かぞえたら十五本空になっていた。  ビールはまだ痩《や》せている頃よく飲んだ。なんとかして五十キロになりたいと思っていた時代だ。その頃二時間で一ケースというレコードを作った。一ケースは二ダース入りだ。  新宿のバーのカウンターの中にいた頃、ちょっとアル中ぎみになった。夕方オードブルの準備をしようと、ペティナイフを持つと手がブルブルふるえているのだ。うしろへ手をまわすと、ずらりと酒瓶が並んでいるんだから始末が悪い。それを取ってダブルで二杯ほどひっかけると、手のふるえがピタリととまる。 「アル中じゃない、あんた」  早く出て来た絹代が言った。古株のホステスだ。声が甲高くて、見えすいた甘ったれをやるが、それが結構客によろこばれる。 「お前らが飲まないからだよ。少しは売上のこと考えろ」 「何言ってんの、好きだから飲むくせに。知ってるわよ。お店がおわると毎晩ドレスデンへ行って飲んでるんでしょう」 「大きなお世話だ」 「いつも彼女がいっしょだって、ドレスデンでそう言ってたわ」 「余計なこと言うな」 「お水ちょうだい」  私はコップに水道の水をいれてカウンターの上へ置いた。 「氷いれてよ」 「客じゃねえんだぞ」 「ケチ」  アイストングで氷をひとかけらつまみ、そのグラスへほうり込む。 「大きすぎるわ」 「グルグルまわしてろ。小さくなる」 「自分の彼女じゃないとこうも薄情なのかしらね」 「おい、あとはまかせるよ」  私はバーテンの又《また》さんに言ってカウンターを出る。 「飯食って来らあ」  パタンと戸をあけて表の通りへ出た。となりは区役所。 「お早う」  ゴールデン街の八百屋が通りがかって挨拶《あいさつ》をする。 「おす」  私は区役所と反対方向に歩きだす。店の次は板塀《いたべい》で囲った空地で、それが切れると左へ入る横丁がある。その横丁は区役所の裏の道へ通じていて、こっちから行くと突き当たりに、「いないいないバー」という変な名前のバーがある。私は区役所どおりをまっすぐに行く。その先の左はごちゃごちゃと入り組んだ細い路地の両側に小さな棟割《むねわ》りの飲み屋がかたまっている。そのとばくちの一軒が、名もない……本当に名前のない飯屋だ。近所に住込んでいる水商売の連中を相手にする、純粋のご飯屋なのだ。ぜんまいの煮つけやはんぺん、味噌汁、たら子に塩鮭、焼のり、納豆、卵。いや卵は卵と書いてはいけない。こういう店では玉子なのだ。 「おばさん、飯……」 「はいよ」  白い割烹着《かつぽうぎ》を着たおばさんは、私の命の綱である。金がないと何日でもつづけて貸してくれる。また、ここのご飯がうまい。炭火を使って、大きな壺の中へおかまをいれてたくのだ。至って安直な店だが、飯だけはとび切り凝っている。若いホステスたちはそう感じていないらしいが、少しは板場の経験がある私には、こんなところでそういう炊きかたの飯にありつけるのは、ひどく有難い。  飯がでるあいだ、私はガラス戸をすかして、道の向こう側にある薬局を見ていた。店の中に細長い色黒の顔が見える。中江さんだ。中江さんというその薬局の主人は台湾の人だが、私にとてもよくしてくれる。帰りに寄って話込んで行こうかなと思った。新宿のこの道の先輩でもある。国際というキャバレーのマネージャーをやっているのだ。えらいから出勤は遅い。それでまだ店にいる。  私は飯を食べはじめる。のりと味噌汁。漬物はおまけ、玉子をかけてかき込む。 「ごち」  食べおわって金を払い外へ出ると、わが店の看板に灯りが入ったところであった。平仮名で二字、「とと」……以前は「かまとと」と言った。そのかまがとれてととだけになった。知らない人がよく「ととや」と間違える。「ととや」は駅前の高野の裏のほうだ。「馬上盃」の下にある。 「ととや」は文士、詩人がよく集まる店だが、「とと」も近頃は作家や俳優がよく顔を見せている。ゆうべも柴田錬三郎さんと水上勉さんが来た。それに現代の編集部の若手がカウンターにずらりと並んでいた。今夜もまた来るだろう。名田屋さん川鍋さんあたりはこのところ毎晩だ。それに角川の山本容朗さん。容朗さんはサッちゃんがお気に入りだ。あの子のざっくばらんなところがいいのだろう。容朗さんらしくていいや。カッパの伊賀さんもそろそろ顔を見せるころだ。  私は二階をみあげながら店へ戻った。二階は洋裁店と設計事務所になっている。 「お早う」  入ると突き当たりのピアノの椅子に坐って、鈴木八郎が手をあげた。私と八ちゃんはこの店へ来る前、要通りの「馬酔木」で一緒だった。八ちゃんが先に「とと」へ来て、私を引っぱった。 「半ちゃん。ちょっと」  いけねえ、ママが出て来てた。小肥り、丸顔、きかん坊、人はいいんだが少しおっちょこちょいなところがある。煽《あお》るとわりとかんたんにその気になる女性だ。 「ゆうべ誠子ちゃんをあんなに酔わせちゃって、ダメじゃないの。あの子、預かりものよ」 「いそがしくて誠ちゃんどころじゃなかったもの」 「気をつけてよ」 「うん」 「愛ちゃん遅いわねえ。どうしたのかしら」 「来るよ、もうすぐ」  するとドアがバタンとあいて、長身の客が入って来た。 「いらっしゃい。どうしたの、こんな早く」  吉行淳之介さんはニヤニヤしながらスツールへ坐る。ママがそのとなりへ。 「新宿で会があったんだ。もうすぐみんな来るだろう」 「あら、ちっとも知らなかったわ」  ママは不服そうに口をとがらせ、私はこの分では安岡さんも来るな、と思いながらカウンターの中へ入った。     5  酒と女の番人……。それは私にとって物哀しくもあり、また甘い蜜《みつ》の日々でもあったようだ。毎晩飲んで仕事をして、明け方近くまで遊んで、ろくに二日酔もせず元気に過していた。いつだってそうなのだが、とにかくひとことで言えば無我夢中の日々であった。「とと」へは梶山季之さんも見えたし、丸谷才一さんも見えたし、北杜夫さんもいらっしゃった。来ないのは、わがSF作家クラブおよび早川書房編集部であった。  もっとも、生島治郎さんに会ったら、俺も行ったんだぞ、と言っていたが、何しろえらい人ばかりだったから、まるで気がつかなかった。  実を言うと、この「とと」時代のことを書け書けと人に言われる。でも、どちらさまもまだご存命中で、もう少し時間がたたないとうっかりしたことは書けやしない。  ふしぎでしょうがないのは、そういう作家や編集者ばかり来る店にいながら、私にまるで書く気がなかったことである。今になってみれば、あの頃その気でいたら、ずいぶんいろいろと得るところがあっただろうに、とそう思う。  忘れもしない。それは例の六〇年安保のデモさわぎがあった年の暮れである。 「アンポ、ハンタイ、アンポ、ハンタイ」  騒ぎを見物して来た常連の一人が、そう言って店の中をなぜかバケツをぶらさげて歩きまわっていた。ゲロを吐く用意だったらしい。  そのとき私の前のカウンターに、だいぶ酔った様子の水上勉さんがいた。 「お前は物を書くような顔をしとるな」  酔ってご本人は憶えておられなかろうが、水上さんは私にそう言った。そのあと、クリスマス・イヴの十二時に、ふざけて私とダンスを踊りながらまた言われた。  なんとその言葉が、のちに私に小説を書く気を起こさせたのであった……。水上さんがあんなことを言っていたし、いっちょやってみるか。それで百枚書いて早川のコンテストに応募したのであった。  だがそれはこの場合余談。私はとんでもないことにまき込まれていたのである。  連中のやりかたがあまりなめらかだったので、私もそれを判ってもらおうと前節で小細工をしたが、なんと私は自分の家の書斎の机に向かって坐ったまま、いつの間にか自分の過去へ連れ去られていたのである。  私は十数年をとび戻って、新宿の「とと」時代へ戻っていた。  あの連中はこのことを言っていたのだ。そう気付いたのは、長い回想のような状態から醒《さ》め、机に倚《よ》りかかって坐っている自分を意識したあとであった。  回想にしては異様であった。私はたしかに過去の世界にいたのだ。仲間の女の子たち……絹ちゃんや愛ちゃんや誠ちゃんや弥生ちゃん、そして睦ちゃん、涼子ママ、バーテンの又さん、ピアノの八ちゃん……それが記憶がよみがえったにしてはあざやかすぎる状態で、はっきりと私の目に泛んでいた。  私は懐かしくて涙をこぼした。私はまだ二十代であった。こんなに肥ってはいず、規則正しい生活をすれば、五十キロにはなるはずだと、ゴールデン街の奥の銭湯へ行くたび、目方をはかっていた。背だって今よりずっと……いや、同じだった。みんな若くて、はつらつとしていた。たとえばあの愛ちゃんだって、すらりとした美人で……それが今では落ち目の歌手みたいに中年ぶとりしている。人のことは言えない。モテてモテて仕方のなかったこの私も、もうときどき機能不全におちいったりするのだ。機能不全でゆうべも不全……冗談言って誤魔化してはいるけれど、ほんとはやっぱり去りかけた若さが惜しい。宇宙人の奴、私の過去を調査して亜空間要塞の秘密|漏洩《ろうえい》ルートを調べようとしているらしい。おかげで私は流さなくてもいい涙を流してしまったのだ。  やって来た。奴らは本気なのだ。私を過去へつれ戻し、周囲の環境をチェックしているのだろう。漏洩ルートがあるとして、どこの誰が私に吹きこんだのか、自分でも見当がつかない。私もそれを知りたい。  よし、たたかってやる。過去へつれ戻されたら、連中の思うとおりになっているふりをして、こっそり自分で調べて、奴らより先にそれをみつけてやるのだ。それがどんな役にたつか判らないが、ひょっとするとそれで奴らの地球侵略が防げるかも知れない。  私はじっと何も書いてない原稿用紙をみつめた。ただ一行だけ、「亜空間要塞の逆襲」という文字が並んでいた。  遡《そ》 行《こう》     1  思いあがっている、宇宙人め。  私はそう思った。人間誰しもうぬ惚《ぼ》れというものがある。人間というのは地球人という意味だ。亜空間要塞をこしらえた宇宙人が、地球人とどう違うのか知らないが、やはり思いあがることはあるだろう。  たとえばわが畏友小松左京ダンナだ。いや、早まってもらっては困る。別に小松左京が宇宙人だなどとは言っていない。……少し怪しいふしはあるが。  とにかく、小松左京ダンナくらい頭のいい人間はいないと思っている。頭がいいということは、どこか片一方がばかに利口だということではない。全体にバランスがとれて利口だということである。知識人で常識家で早口で大食いで、人情味があって礼儀正しく冗談や洒落が判っておまけにときどき沈没もする。そういう福徳円満な人物だから、まかり間違ったって人前で迂闊なうぬ惚れや思いあがりなど、決して演ずるような人間ではない……と私の日記には書いてあったのに、やはりそこは人間地球人で、つい先だって遂に私はダンナの物凄《ものすご》いうぬ惚れの現場を見てしまった。  或るパーテーがあって、SF作家クラブがゾロリと集まった。例によって例のごとき駄洒落悪洒落のひと幕があっておひらきになり、麻雀をすべえ、という話になった。  私はダンナに言った。 「およしよ。あんなコミック・マージャンをやったってつまらない」  するとダンナは素直にそれもそうだと頷《うなず》き、私と飲んで歩くことになった。飲み歩くときまって、二時、三時になるわけで、やはりその時も夜中をすぎた。するとダンナはふと思い出したように、 「ねえ半ちゃん」 「なんだい」 「コミック・マージャンて、どういうルールだい」  って……。自分のはコミック・マージャンじゃないと思ってたってんだからどうもおかしい。  あの小松左京先生にしてからがそうなんだから、宇宙人だって思いあがりくらいする。  現に、私を過去へ遡《さかのぼ》らせて、亜空間要塞に関する秘密漏洩ルートを探ろうというのだが、それがこっちのつけ目になる。逆用すればウォーターゲートを開いた鉛管工くらいのことにはなる。  よし、それならこっちは連中の思う壺にはまったような顔をしてやれ。と、それとなく隙を見せているのだが、皮肉なものでそうなると相手はなかなか仕掛けて来ない。  仕掛けて来てくれないと分《ぶ》が悪いのはこちらのほうだ。なんと言っても質をとられてしまっている。左手の指の十四分の一をとられているのだ。  その十四分の一についてはいささか奇妙であった。こっちは気にしているんだが、誰も気がつかない。家内でさえ気がつかないのである。  おかしいではないか。文字通り日常茶飯の事で恐れ入るが、妻というのは概《おおむ》ね家の中でさし向かいになる相手だ。それに、妻の最も重要な機能として、食事のとき飯をよそってくれる。私が失ったのは左手の薬指の第一関節から先で、左というと茶椀を持つほうの側である。茶椀の持ちかたにもいろいろあろうが、どう持ったにせよ拇指《おやゆび》が自分のほうへ来ている。つまり問題の薬指は、おかわり、と言って茶椀をさし出すとき、常に妻のほうへ向いていることになる。どう考えたって気がつくはずではないか。 「あら、足りないわよ。どうなさったの。またどこか女の子のところへ置いて来ちゃったんでしょ。くやしい……」  とはならないまでも、何か怪しいと気づくはずではないか。  それがいっこうに気づいた気配もない。そうなると人間おかしなもので、気づいてもらいたくて仕方がなくなる。 「ねえ、ジャンケンしようか」  パーばかり出していればきっと気づくに違いない。でも、いい歳をして子供を寝かせたあとの女房とジャンケンポンをして遊んでいるのもいい図じゃない。知らない人が見たら何をしているのかと思う。先攻後攻をきめているとでも思われたら恥ずかしい。  で、何かというと顎《あご》へ左手をあてたり、頬《ほお》を撫《な》でてみたり。しかしいっこうに効果がない。心配してくれないのだ。  そのくせ外出すると一生懸命かくしている。それでなくても柄が悪いのだ。あいつ、指つめてやがる……。他人の女に手を出してつめたくらいに思われるならいいけれど、トップでオーラスまで来て国士無双をふり込んだとき、くやしがって噛《か》み切っちゃったんだと思われてはかなわない。去年の夏、字一色《ツーイーソー》を振り込んだけど、マイナス3だった。誰かさんのコミック・マージャンとはわけが違うのだ。私の麻雀の教え子に、中央大学の先生をしている人がいる。中学のときの英語の先生だった人だ。 「ねえ先生、給料日だろう」 「うん」 「麻雀しようよ。教えてあげるから」  今考えてみると、あんまりいい生徒じゃなかったようだ。でも先生のほうは私にとっていい生徒だった。ちゃんと給料日に私と麻雀やって、小遣いをくれていた。  このあいだ当時の同級生が集まったら、驚いたことに、その英語の先生から麻雀を教わった奴がいた。下には下がある。     2  鉄筋三階だての校舎だった。はじめのうち、まわりは焼野が原で、夏になると草ぼうぼう。本所深川は橋が多い。その橋のたもとには、公衆便所や交番があって、やはり焼けてしまってはいたが、コンクリートでできているから、壁もあれば屋根もある。そこに人が住みついて、窓に板をはり、入口に戸をつけて表札まで出していたりする。  電車のガードの下なども、雨露をしのぐという点では絶好の住居となる。その小さなガードの下にも小屋らしい囲いがあった。 「おおい、中島」  私は走りながら遠くから呼んだ。あたりにはひとけもないから、その声はよく聞こえる。 「なあに」  小屋から浮浪児が出て来た。本物の浮浪児。汚れたボロボロの服を着て、顔もまっ黒けだった。その浮浪児は、浮浪児のくせにばかに甘ったるい喋りかたをする。 「俺、三中へ入ってさ、本校舎へ移って来たんだ」  私の焼け跡学校は、はじめのうち危険で生徒を入れられなかった。すぐ近くの小学校を仮りの校舎にしていた。 「じゃあ近くなったね」  浮浪児の友達がいたわけではない。友達が浮浪児になってしまっていたのだ。同じ小学校へ通った仲よしだった。空襲で家を焼かれ、母や妹とはぐれてしまった。いくら探しても見つからなかった。 「本貸してやるよ」  私は少年物の単行本を何冊か差しだした。 「有難う」 「つかまるなよ」 「うん」  浮浪児狩りがあった。収容所のようなところへ連れて行くのだ。 「学校、おもしろいかい」 「つまんねえの……」  私はつまらないと言った。中島は勉強のできる子だった。家は洋服の仕立屋で、父親はわりと早くに出征して行った。 「上野のほうに、おいしい闇《やみ》の飯屋が店だしてるんだよ。今度一緒に行かないか」 「闇の飯屋」  私は恐れをなした。子供には関係のないところだと思った。 「肉が煮てあるんだ」 「え……肉が」 「そうだよ」  私は生唾《なまつば》を呑み込んだ。 「犬の肉だろうって言うけど、おいしいよ」 「お金、どうするの。君、持ってるかい」  中島は悲しそうな顔でそっぽを向いた。  当時は気にもとめなかった。だが中島は掻《か》っ払いをやって生きていたのだ。それ以外に生きる道なんかあるわけがない。昭和二十一年夏……。後年、私は、そのガード下の中島という友達をイメージに置いて、産霊山秘録という作品を書いた。その作品は私に第一回泉鏡花文学賞をもたらした。しかし、実際の中島は、その秋のはじめ、本所のガード下から姿を消してしまった。私は狩り込みにあったのだろうと思っていたが、あとで死んだと判った。多分、日本脳炎だったのではないかと思う。空襲は戦争がおわってからも、人を殺しつづけた。  中島が一人きりで住んでいたガードのあたりにも、バラックがたちはじめ、中島という少年も存在していたことを証明するガード下の大ざっぱな板囲いも、二年ほどすると取りかたづけられてなくなった。でも、多分とがった石ころの先で力いっぱいこすった痕《あと》だろう、平仮名で、かあちゃん、という稚《おさな》い文字が、いつまでもそのガードのコンクリートに消えずに残っていた。中島が書いたのだという証拠はない。しかし、私はその、かあちゃん、という文字を生涯忘れないだろう。  いつの間にか、私はそこへ戻っていた。昔の同級生たちに会ってその頃を思い出していたのだろう。 「中島ァ」  あたりに家はなかった。草ぼうぼうである。 「おおい」  遠くで返事がした。浮浪児の中島が、おんぼろの自転車に乗って近づいて来た。私はしめたと思った。宇宙人を騙《だま》す手はじめとしては上出来だと思った。なぜなら、中島は本当は自転車など持っていなかったのだ。しかし、産霊山秘録という作品の中で、私はその現場に盗んだ自転車を登場させている。つまり現実と虚構が、同じ記憶の中に入りまじってしまっているのだ。 「いいもの掻っ払って来たな」  私は中島を褒《ほ》めた。 「すごいだろう。これならどんな遠くへだって行けるぞ」  その中島は実際の中島よりもずっと元気そうであった。 「二人乗り、できるかい」 「ああ乗りなよ」  私はうしろの荷台にまたがった。 「行こうぜ」  中島はペダルを踏みはじめる。はじめよろよろと、しかしすぐまっすぐに走りはじめる。 「どこへ行こう」 「俺んちへこいよ」  私はうしろで言った。 「行ってもいいかい」 「食べるものもあるし、それに何か着るものをとりかえなくちゃ」 「君んちはいいな。おばさんもちゃんといるんだろ」 「いるよ」  中島はよく私の家へ遊びに来ていたのだ。実を言えば、私はずっと気にかけていた。あの時、なぜ中島を見つけたら、自分の家へ連れて行かなかったのだろうと。そうすれば、あるいは中島は死なずにすんだかも知れない。栄養失調に日本脳炎が重なって、呆気《あつけ》なく死んで行った幼馴染《おさななじみ》に、だんだんすまないと思いはじめ、しまいにはそれが罪悪感になって固定してしまった。  だから私はその回想の中で、是が非でも中島を自分の家に連れて行かねばならなかったのだ。  ギイ、ギイと、錆《さ》びた音をたてて自転車は走って行く。私は荷台にまたがって、左手を中島の腰から放し、たしかめて見た。  うまく行っている。薬指の先がなかった。 「うちで暮せないか、お母さんに聞いて見る」  私はそう言った。 「お前んちのおばさん、おっかないからな」 「平気だよ」 「おじさんはいなかったよね」 「うん、ずっと前に死んじゃった」 「俺、かあちゃんは死んじゃったらしいけど、とうちゃんはいるんだ」 「でも、まだ復員して来ないんだろう」 「もうじき来るよ」 「そう。また洋服屋さんをやるのかな」 「判んない。でも、うちをたてるだろうね」 「もうせんのとこにかい」 「あたり前じゃないか」  ギイ、ギイ、ギイ。自転車が音をたてている。 「かわってやろうか。くたびれるだろ」 「うん。油が切れちゃってるからね」  私たちは自転車をとめて、位置をかわった。今度は私がハンドルを掴んでいる。 「スピードを出すぞ」  私はサドルから尻を浮かせ、全速力でこいだ。  ギイギイギイギイ。 「道が違うよ」  中島がうしろで叫んだ。私は急に道をそれ、ひとけのない、焼け跡の細い道へ入って行った。 「どうしたの」 「変な奴らがいたんだ」 「変な奴って」 「悪い奴さ」  私は行手に敵を認め、あわてて逃げだしたのである。 「おい、待てッ」  うしろから呶鳴って追って来た。 「おとなが追っかけて来た」  中島は怯《おび》えていた。自転車を盗んでいるからだ。 「四角い顔した奴だよ。いい服を着てる」  中島はうしろを見て私に教えてくれる。だが追手の姿ならとうに私は知っていた。伊豆の白浜まで一緒の車で往復して、いやというほど顔を見ている。そのガラガラ声もよく承知している。伊東……いや、大野志朗なのである。こっちは中学一年生になっているのに、敵は私が指をなくした世界のままで出現している。いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう。 「しまった、先まわりされちゃった」  細い道の前方で、頭でっかちの飯田敬一が両手をひろげて立ちはだかっている。私の作品、亜空間要塞における、吉永佐一に対応する人物である。 「つかまるよぉ」  中島が悲鳴をあげた。私はハンドルを切って左に曲った。  本所は道が碁盤の目のように整然としている。焼け跡でもそれは同じことだ。私たちは、家も何もない草ぼうぼうの中の、互いに直角に交差した道で、鬼ごっこをはじめていた。 「自転車、惜しいかい」  私は中島に訊いた。 「うん」 「でもつかまっちゃう。バラバラに逃げよう。俺、走って逃げる。君は自転車で反対へ行っちゃえ」 「よし」 「いち、にの……」  さん、で私と中島は左側へ傾けた自転車から体を離した。うまく行かなくて二人ともころんだ。  私はすぐ立ちあがり、草ぼうぼうの中へ足を踏みこんだ。以前は家が建っていた部分である。中島もすぐ自転車をたて直し、それに乗って走りだしたようだった。 「待て、小僧」 「畜生、あの餓鬼」  飯田敬一と大野志朗が罵りながら私を追う。私は草の中を夢中で逃げまわった。だが私は子供、向こうは青年。脚力が段違いだ。とうとう二人にはさまれ、追いつめられてとっつかまってしまった。 「こいつめ」  ポカリと大野志朗に撲《なぐ》られた。 「何すんだよお」 「文句あるか」  また撲られた。 「放せよ、放せってばあ。人殺しぃ、おまわりさあん」 「こん畜生、さわぐな」  くやしいけれど仕方がない。脚力では大人にかないっこない。それに、ほとんど無人の焼け跡に、警官がいるわけもなかった。  大野と飯田に体をおさえつけられているところへ、自転車を引っぱって中島が歩いて来た。横に加藤小吉がつきそっている。 「つかまっちゃったよ」  中島はベソを掻いている。 「怪しい奴らだ。ちょっと来い」  ちょっと来いとは古臭い台詞《せりふ》だ。私は自分の計画が失敗しかけているのに気づいていた。自分勝手なイメージで宇宙人を混乱させてやろうとたくらんだのに、亜空間要塞の三人組が逆襲して来た。人のイメージの中へ乗り込んで来て、ちょっと来い、などと、私なら絶対に使わないはずの台詞までとび出させている。 「どこへ行くんだよ」 「うるさい」  三人組は私たちをつかまえて歩きだした。トボトボと引きたてられて行く内に、場所がどこだか判らなくなってしまった。敵のこしらえた世界へ入ってしまったらしい。でなければ、そのあたりに知らないところはないのだ。  何の廃墟《はいきよ》か、天井の抜けた今にも崩れそうな二階だてのコンクリートの建物があった。中島はくずれかけたコンクリートの壁にかこまれた中へ入って自転車のスタンドを立てた。 「ここが終点らしいね」  中島は私よりずっと落着いているように見えた。気がつくと壁に囲まれた中に地下へ降りる階段があった。まず加藤が先に降りていった。 「さあ、降りるんだ」  飯田が私を小突いた。こいつ、相手によって扱い方を変えやがる。私はもとの世界の礼儀正しく気の弱そうな飯田を思い泛べ、本性を見たような気がした。  中島と私は二人の青年の先に立って階段を降りていった。降りるにしたがってかびくさく空気が湿ってきた。その階段は意外にも一直線にどこまでも続いているようだった。まるで底なしだった。ところどころに薄ぼんやりとした裸電球がぶらさがっていて、その光をたよりに一歩一歩降りていった。もし足をふみ外したら地の底までころがりおちて行きそうな感じであった。 「おい、こっちだ」  どうやら私達は、すこし行きすぎたらしい。ふりかえると大野志朗が四角い顔に意地の悪い微笑を泛べていた。それで気がつくと、左側へ、脇道が延びていた。私と中島は降りた階段を二、三段引き返し、また二人に小突かれながら、その廊下のような脇道へ入った。 「どこへ連れていくんだ」 「どこでも良い。さっさと歩けばいいんだ」  大野のガラガラ声がうしろで聞こえた。やがてその通路の足ざわりが変わった。見るとふかふかのカーペットが敷いてあった。 「おなかがすいたよ」  中島がなさけない声を出した。 「取り調べがすんだら、何か食わせてやる。そのかわり、訊かれたことは何でも素直に白状するんだぞ」  私はたまりかねて笑った。 「何がおかしい」 「月並みなせりふだね。いつかも宇宙人はそんなきまり文句を使ったっけ」 「子供のくせに、生意気なことを言うな」 「子供……人を見くびるんじゃない。子供だと思って馬鹿にしていると、そのうち恥をかくぞ、こう見えても俺なんか、大きくなったらSF作家になっちゃうんだからな。それでもし直木賞なんかもらっちゃったとしたら、お兄さんたちどうする」 「どうもしやしない。お前の書いた本なんか誰が買うもんか」 「言ったな。もしそうなって祝電なんか打ってきてもお前のだけ突き返してやるぞ」  大野は呆れたようだった。 「こいつ正気か」  そうこうするうちに、通路はいよいよ廊下らしくなって、最後に緑色に塗ったドアが並び始めた。そのドアをいくつか通り過ぎて行くと、ドアの上に横に細長い黒い板が突きだしていて、そこに白い文字で取調室と書いてあるところへ来た。 「止まれ」  うしろから飯田が手を伸ばしてそのドアを開いた。先におりた加藤がその中のテーブルの向こうに背筋をのばして坐っていた。 「いれろ」  加藤は鋭い眼で私をにらみつけながらうしろの二人に命令した。  小突かれるまでもなく、私は取調室に入った。奇妙なことに加藤は米軍の制服を着ていた。 「進駐軍の服を着てやがら」  中島がからかうように言った。 「気をつけ」  大野が号令をかけた。 「こちらは、ヴォネガット少佐である」  飯田が言った。 「嘘だい、こいつは加藤小吉じゃないか」  するとヴォネガット少佐はびっくりしたように、ドアのところに立っている二人の仲間を見た。 「こいつ、なぜわたしの暗号名を知っている」  私はまた言った。 「嘘つけ、それが本名じゃないか」  ヴォネガット少佐は大げさに肩をすくめ、両手を拡げた。 「まあいい、時間はたっぷりある」  そう言って手まねで私達に坐るよう合図した。くたびれていたから私達は喜んで椅子に坐った。 「国籍は」 「ニッポンジン」  私と中島は声をそろえて言った。するとヴォネガット少佐はかち誇ったような顔になった。 「国籍を訊いているんだ。日本なら日本だけでよろしい。人は余計だ」  私はわざと優等生のような言い方をした。 「言い直します。僕らは地球人です」  その返事は明らかに少佐の気分を害したようであった。 「生意気を言うと、承知せんぞ」  とたんに私は劣等生の態度に早変わりした。横を向いて、中島に、 「ほらね、怒ったろ。こいつら、本当は宇宙人の手先なんだ」  と言った。  中島はいたって無邪気に問い直した。 「宇宙人てなあに」 「そうか、知らないんだな。よその星からやってきたやつらのことさ」 「火星から……」 「わからない」 「頭でっかちで、足が何本もあって、たこみたいなやつだろ。知ってるよ。いつか絵で見た」 「だまっていろ」  うしろのドアのところで飯田が叱った。頭でっかちというのが気にさわったのだろう。 「その浮浪児は何者だ」  少佐はうしろの二人に訊いた。 「わかりません。二人いっしょにいたのです」  少佐は私に質問した。 「その少年は誰かね」  猫撫《ねこな》で声であった。 「友達です」  相手がやさしく出るならこちらもちゃんと答えてやろうと思った。  少佐は片手に鉛筆を持っていた。鉛筆の先でトントンとテーブルの上をかるくたたきながら、 「情報によると、君は過去をかってに改変していたそうじゃないか」 「冗談じゃありません。僕はただ、勝手に想像して楽しんでいただけです。もしそれを改変というのなら、それはあなたがたが勝手に思い込んだまでのことです」 「勝手に思い込んだ……」 「僕が本当の過去へ戻ったのかどうか、一体だれが判断するのです」  少佐は飯田に言った。 「ファイルを」  飯田がきびきびした動作で、ドアの色と同じあざやかなグリーンの表紙のファイルを少佐に渡した。少佐はそれを拡げ、 「調査によれば……うん、なるほど。この汚い少年はたしかに君の友人らしいな。中島健一。そういう名前だね」 「はい、そうです」  中島は素直にうなずいた。 「本来あるべき正統な過去においては……」  少佐はじろじろと中島を観察した。 「この少年は現在栄養失調におちいっていて、こんな元気ではないはずだ。君は何故この少年をこんな元気にしてやったのかね」 「言ったでしょう。友達だって」 「それだけかね」  少佐は底意地の悪い眼付きになった。 「君はこの少年に精神的な借りがあるらしい。ちがったかね」  人間本当のことにふれると腹が立つ。私は腹が立った。 「借りなんてない。なあ中島」 「ないよ、そんなもの」  だが少佐の追求はきびしかった。 「君はこの少年を見殺しにした。この少年は実際には飢《う》えて死んでしまったのだ。すべてが焼けて廃墟となった何もない町に、この少年はたった一人生き残って、保護してくれる者もなく、飢えに飢えてやっと生き延びていたのだ。父親はまだ戦地から戻ってはこず、母と妹は火にまかれて焼け死んでしまった。ところがどうだ、君は母親が闇物資を扱っていたおかげで丸々と肥えふとり、おまけに中学にまで入れてもらった。そして国電のガード下にかろうじて生き延びているこの少年にめぐり会ったのだ。少年とはいえ、君はすでに中学一年生だった。物事の判断は十分に出来るはずだ。仲の良かったこの少年を、何が何でも救ってやるのが友情というものだろう。だが何故か、君はそれをしなかった。君は学校へ弁当を持っていったはずだ。持っていかなかったとは言わせん。一度でもいいからこの少年にその弁当を、たとえ半分でもくれてやるべきだった。だが君は、その弁当を食べてしまったあとで、国電のガード下へ行きこの少年と会って楽しんだ。問題はそこにある」 「気がつかなかったんだ。全然そんな事を考えもしなかった」  私の声は、ふるえていたようだ。中島はそのとなりで黙ってうつむいていた。 「君は、この少年が日本脳炎で死んだと思いたがっている。多分それ以来日本脳炎で死んだと思い込んでいただろう。だが、ここに事実を調べた報告がある。この少年は飢死した。飢死がどんなものか、知っているか。一説によればあらゆる死の中で最も苦痛のないのが餓死であるという。空腹を感じている期間は、思ったより短いらしい。そのあとに長い無気力の期間がおとずれる。飢えすぎて生きる意欲さえ喪失してしまうのだ。そうなったとき死は恐ろしいものでなくなるという。日が落ち、夜が来るように、飢えた者は自然に死んでゆく。だが、本当は、それが一番恐ろしい死に様だ。生きている内に、呼吸をしている内に、血がめぐっている内に早々と死が訪れる。君はこの少年のそういう死を止めることが出来た唯一の人間なのだ。この少年が国電のガード下にいたことを知っているのは君一人だったのだ……。中学時代の友人達に会ったことから、君は必然的に時間を遡ってその最も負担を感じている時点へ戻っていった。君は、そこで我々に動機を押し付けた。あいつらを混乱させてやれ……どこかに間違いがあったかな」  私は答えなかった。答えられなかった。  少佐は続ける。 「戻って来て、やっと君はするべきことを始めた。砂糖、メリケン粉、米、食用油、干した魚類、君の家には闇物資の対象としてそういう食物がたくさんあった。そこへつれて行こうとした。四十を過ぎ、作家となった後でも君はその手落ちについて後悔していた。心の底に友人を殺したという自責の念があった。それをなんとか打ち消したかったのだ。ガードのコンクリートに刻まれた、かあちゃん、という文字を自分と関係のないものにしてしまいたかったのだ。見ろ」  少佐はテーブルの上にまっすぐに右手を突きだし、人差し指を私のとなりの椅子に向けた。私はとなりにいる中島を見た。  やせおとろえ、肌はどす黒く、骨と皮ばかりになった少年が、そこにすわっていた。 「なぜこんなことをする……」  私は叫んだ。悲鳴をあげた。取調室の灯りが明滅し、遠くから鈍い音が聞こえてくるようだった。 「仕方なかった。仕方なかったんだ」  私は泣き喚いていた。     3 「おい半公、どうした」  私は体をゆすぶられた。やかましい音がしていて、床や天井がこまかく揺れているようであった。 「もう駄目だ、俺」 「何言ってやがる」  その声は笑っていた。私はおそるおそる目をあけた。肉の焦げる匂いと、香ばしいタレの匂いが入りまじっていた。 「どこだ、ここは」  轟音《ごうおん》は急速に遠ざかって行った。 「しっかりしてくれよ。睡っちまいやがって」  ヴォネガット少佐はいなかった。そのかわり、うす汚れた白衣を着た男が目の前にいた。 「弱くなったな、お前」  私をゆり起こしたのは、工業大学の教授の石川だった。中学の同級生なのだ。だがもうだいぶ髪がうすくなっている。 「畜生め」  私は唸《うな》った。 「夢みてたのか。いい気なもんだな」 「みんなは」 「バラバラになっちゃったよ」  クラス会の流れで、あちこち飲みまわった揚句《あげく》なのだった。 「なんてこった」 「飲むか」 「もういいよ」 「よし、それじゃおじさん、勘定してくれ」 「だいぶ飲んだか、俺は」 「あんなこと言ってやがる」  石川は焼鳥屋のおやじを見て笑った。 「ここへ来るなりグースカ寝込んじまいやがって。おじさんに詫びをしろ」 「ごめん。水一杯くれ」 「こういう奴だ」  石川は金を払って外へ出た。私も水をのんでから、よろよろとあとに続いた。 「楽しかったなあ、今日は」 「うん」 「またいつかやろう。子供のときからの友達は、理屈抜きだから気が楽だ」 「そうだな」  私は相槌《あいづち》を打ったが、実はここがどこだかよく判らなかった。 「お前どうする」  石川に訊いた。 「もう帰るよ」 「じゃ、俺も帰るとするか」 「一人で帰れるだろうな。送って行こうか」 「もう遅い。大丈夫だよ、一人で帰れるさ」 「じゃタクシーを拾おう。さっきの終電だ」  二人はタクシーをつかまえに表通りらしい方角へ歩いて行った。暗くなった駅の入口のところに、タクシーが一台とまっていた。 「さき乗れ」  石川が言う。 「お前、さき乗れ」  二人はゆずり合い、結局余計酔っている私のほうがしつっこくゆずり勝って、石川はそのタクシーで去ってしまった。  余りいい気分ではなかった。焼鳥屋で見た夢がひっかかって仕方なかった。あざやかすぎるのだ。まるで夢とは思えない。それに、夢の中でヴォネガット少佐に指摘されたことは、みな正しかったのだ。 「畜生、あいつらがやって来やがったかな」  酔っていて、まだよく判断がつかない。だが、どうも只事《ただごと》ではなかったような気がしていた。 「逆襲されたかな」  ひとりごとを言いながら次のタクシーを待つが、いっこうに来る気配がない。 「何やってるんだ、怠慢だぞ」  私はひと声喚いて歩きはじめた。 「糞《くそ》ったれ、宇宙人のばかやろう」  感じでは、浜松町あたりのようであった。私はそう思い込み、第一京浜へ出ればタクシーが通るだろうと歩いて行ったのだ。  ところが、その道はえんえんとまっすぐに続いていて、いっこうに他の道と交差しない。しまいにゆるく登りはじめるではないか。 「ちぇっ、勘違いしたかな」  少し歩いたので、酔いがさめはじめていた。  どうやら陸橋になっているらしい。大きな陸橋であった。私はその陸橋を登っていった。登りながら警戒心を強めた。何故なら、さっきからもう大分歩いているのに、その幅の広い大きな道路に行きかう車がまったくないのである。夜ふけによくそんなことがある。私はよく夜ふけに歩くほうだから、昼間一日中渋滞しているような通りが、突然何分間も車影を絶ってしまうことがあるのを知っていた。したがって、その程度車の姿を見かけなくてもまだ異常だときめつける訳にはいかなかった。だが異常でないとも言いきれない。私は酔っていて隙の多い心理状態になっている。さっきの続きで敵に新しい局面へさそい込まれないとも限らない。私は異常な事態に導かれていくことを予測して歩くことに決めた。何もなければそれで良いではないか。  一度、陸橋の一番盛り上った中央部で私は立ち止まり下を覗《のぞ》いた。下は水だった。黒くゆったりと流れているようであった。やはりおかしい。私はそう思った。  東京の、その夜私が動きまわりそうな半径の中に、そんな大きな橋が、いや川があるわけはなかった。ためしに私は無念無想になり大きく息を吸い込み、口を開け、舌の先を下の歯の内側へ付けるようにして深く息を吸い込んだ。これをいつ覚えたのか私は良く覚えていない。だが、匂いをよく知りたいとき、こうすると良いのだ。  国電が走っていたのだから、まず山手線のどこかだろう。そのあたりに川の水面が口を開けていれば、いずれにせよ川風は汐《しお》の匂いを含んでいなければならない。海の匂いはなかった。  私がそう覚ったとたん汐風が吹きつけてきた。 「馬鹿め」  私は吐き捨てるように言った。 「またなにか始めやがったな」  すると、道が平らになった。私は小さな池にかかったコンクリートの橋を渡っているところであった。見回すと、すぐ近くに大きな輪が半分夜空にかかって見えていた。その近くに飛行機が何機もぶら下っていた。ずんぐりむっくりしていて、風防がなく、それでも二、三人は乗せて飛ぶことができるやつだ。ただし上からワイヤーで吊《つ》ってある。 「遊園地でやがる」  私はつぶやいた。今度はこっちに気持のゆとりがあった。連中がどんなことをしてくるかちょっと楽しみだった。そこで、私は待った。すると暗かった夜がかなりの速さで白み始めた。どんどん明るくなって昼になった。昼といっても午前中の感じである。 「半ちゃん、こっちよ」  若い女の声だった。ふり返ると四人程の派手な身なりをした若い女たちが、ジェット・コースターの切符売り場のところで私に向かって手を挙げていた。私は思わず笑い出した。 「おう、そんなとこにいたのか」  私は女たちの方へ歩き出した。私のことを彼女たちは、半ちゃんと気やすげに呼んだ。しかし、実際のところ、私はどの女も全く見覚えがなかった。  化かしそこないやがったな。  私はおかしかった。宇宙人が初めからこんなへまをしたのは初めてであった。  おそらく、彼らは私をまた新宿の酒場時代へ呼び戻したのだろう。確かに、私は同じ店に働いていた若い女たちとウイークデイの午前中、電車に乗ってたびたび後楽園の遊園地へ遊びに行ったことがある。それは事実だ。やつらはその事実を使って私を過去へ遡らせたのだ。  ところが、今度は私の方から回想を始めたのではなかった。何か私にわからない理由によって自分たちがおぜんだてを整えてくれたのであろう。したがってデテールにおいてめちゃくちゃな間違いを犯している。あらわれいでた四人の妙齢のホステスはどれも私にとって初めて見る顔ばかりであった。私はにやにやしながら彼女たちのそばへ行き、 「英子ちゃん、俺の分も払っといてくれ」  と言った。 「あたしが払うわ」  一番小柄で短い髪をしたキュートな感じの子がそう言って金を出した。  敵もさるものだな。私はそう思って苦笑した。そのチビが、返事を横取りしたので、相手がどの女を私の知っている英子に仕立てたのかわからなくなってしまった。 「さあさあ、乗ろう乗ろう」  私は一番後ろから女たちをせきたてる。遊園地はまだ開いたばかりで人影がまばらであった。ジェット・コースターはプラットフォームにとまっていて、切符を切るオレンジ色の上着を着た青年がその先頭の座席から順に私たちを乗りこませてくれた。  すぐジェット・コースターはレールの上をガラガラと引き上げられていった。ジェット・コースターの客は私たちだけであった。  てっぺんまで引き上げられ、放された。とたんに勢いよく走り始めた。 「キャーッ」  女たちの派手な悲鳴が上った。くだり、のぼり、くだり、のぼる。女たちは間断なく黄色い叫びをあげ続けている。顔に感じる風圧はまぎれもなく本物のジェット・コースターで感じるものであった。  私のとなりに私のおチビちゃんが坐っていて、私の体にしっかりとしがみついていた。やわらかく、華奢《きやしや》で、いい抱きごこちであった。ジェット・コースターがスピードをゆるめ、やっと止まった。 「あら、もう終っちゃったの」  だれかがそう言った。 「何よ、とめてぇって叫んでいたくせに」  女たちは他愛もないことを言いあいながらジェット・コースターから降りた。 「次は何に乗りましょうか」  女たちは楽しそうに言って、プラットフォームからせまい階段を降りていった。  チビは私のうしろから、みんなと少し遅れてその階段を降りた。降り始めるとき、つ、と手を伸ばして私の右手をとった。私は彼女の手を引く形になって階段を降りた。  前を行く三人の女のうち、ちょっと小太りな女が、なにげなく振り向いて私たちが手をつないでいるのを目ざとく見つけた。 「ずるい、牧ちゃんたら」  小太りの女は嬌声《きようせい》を挙げると、空いた方の私の腕に飛びついてきて、しっかりと自分の胸にかかえこんだ。  ふざけ半分だった。いや丸々ふざけていたのかも知れない。とにかく私は両腕に女をかかえる形になった。すると、残る二人も振り向いて鼻にかかった声をあげた。 「いゃーん」  一番スタイルが良く、顔もきれいな方が、ばかみたいに率直に私の首っ玉へ真正面から飛びついてきた。 「私も……」  最後の一人は、うしろへ廻って背中から私の胴を両腕でだきしめた。  私はまるで女の成る木のようであった。食べ頃の実が前後左右に四つついていた。それにしても割に丈の高くない木だと、我ながらそう思った。でも果樹園の木はみなそう高くないではないか。高さをもって尊しとせず。私はニヤニヤしながらそう思った。  どの乗り物の係員たちか知らないが、オレンジ色の上着を着た三人の若い男たちが、女の成る木のすぐそばに立ち止って、あっけにとられたようにこちらを見つめていた。  私は照れくさかったが、もてるんだからしようがない。と心の中でつぶやいて、四つの実をぶらさげていた。 「重たいよぉ」  私は大声をあげた。 「せめて二人にしてくれ。重くてしょうがない」  そう言うと、一番先に私から離れたのはさっき牧子と呼ばれたチビであった。 「だめよ、くっついちゃ」  そう言って三人の女たちを順番に私から引き離そうとした。すると、首っ玉にかじりついていた女が、 「いやよ、あたしのせんの彼氏ですからね」  と言う。 「一番最初は私だったのよ」 左腕にしがみついていた女がそう言った。牧子が黄色い声で言う。 「今の彼女は私よ」  すると、おんぶしていた方が、 「牧ちゃんの次はあたし」  ときた。  三人の男たちは面白がってはやしたてた。 「それ全部、お前のかい」 「がんばるじゃないの」 「いよう、色男」  だが、私の顔の前に女の頭があって、声の主たちの姿は見えなかった。さすがに私は照れて、 「よせよ、もう」  と女たちを振りほどいた。  前が見えるようになった。加藤と飯田と大野の三人がそこに並んで立っていた。 「嘘つけ、そんなにもてたわけがないじゃないか」  逆 襲     1  逆襲されているのは私のほうであった。過去へ遡るたび、亜空間要塞側は私の虚をついてからかっている。  いや、もっと真実を直視しよう。彼らは私をからかっているのではないだろう。彼らは私の真実の姿を暴《あば》きたてているのだ。私を裸にひん剥《む》き、醜いその内側から何かの真相を探り出そうとしているのだ。  冗談にして誤魔化そうというのは、長い間に抜き難くしみついてしまった、私の悪い癖なのである。現実を直視する勇気がないから、洒落《しやれ》のめした恰好《かつこう》で生きるしかないのだ。相手が焦《じ》れて露骨に現実を突きつけて来ると、そんなことは百も承知といった顔で、相手の洒落っけのなさを責めたてる。  いわく、粋じゃない。いわく、田舎っぺ……。ところがそれは実は逃げ口上で、突きつけられればオドオドするよりない。オドオドするところを人に見せたくないから、洒落のめして笑ってしまう。  なんということはない。年がら年じゅう逃げている。真実と顔を突き合わすことを避けている。実にくだらない生き方だ。  小説を書いてそれで生活しているのであれば、同業の作家はもとより、編集者、批評家、読者……誰とでも小説について語るがいいのだ。青臭い文学論、などと言って顔をしかめることは少しもない。文学論結構。どしどし他人と意見を交換して、おのれの専門領域を大いに肥やすべきなのだ。  ところがそれをしない。しないばかりか、そういう議論を馬鹿にした顔でいる。  われながらおかしいと思う。私的な場で作品を叩かれるのは、薬にこそなれ毒にはならぬはずだ。それで肥えるのは書き手自身だ。また、常に議論に勝って相手に気まずい思いをさせるから、というならば、それはそれでいいかも知れないが、事実はろくな議論もできないくせに、それが露見しないよう、とりつくろっているだけなのである。  だが私にはよくわからなかった。彼らが私の偽善や虚栄や嘘を追及して、真実の姿を暴露したとして、いったいどんな収穫があるというのだろう。これは私と彼らの個人的な確執ではない。彼らはわれわれと異なる星に生まれた生物であり、いわば異星人《エーリアン》なのだ。もっと俗な言葉で言えば宇宙人である。  それがわれわれの科学技術にはまだ知られていない方法で、この地球に不可思議な空間の状態をつくり出し、そこを拠点として何かをわれわれにしかけようとしているらしい。その不思議な空間の状態に対して、私は亜空間というあいまいな言葉を用いている。  飯田敬一、加藤小吉、大野志朗の三人は、その不可思議な空間の状態が存在していたと証言している。  つまり、これは地球対彼らの母星……あるいは、地球人対宇宙人の問題なのである。個人的ないびりやおどしやいやがらせなどは、この巨大きわまる状況の中にあっては、まったくとるに足らない問題ではないか。  私が宇宙人とたたかう気になったのは、そのように問題が巨大だったからである。問題が大きすぎるだけに、私の存在は極めて卑小で、だからこそ亜空間を造出するというような、桁《けた》はずれな敵に立ち向かい、見事ひと泡ふかせてやろうという功名心に燃えたのである。  つまり私は逆襲を試みたのである。それなのに逆襲されてしまった。問題が巨大すぎるから、かえって意欲を燃やし、負けてもともとの意気ごみで果敢にうって出ようとしたのに、はぐらかされ、個人的な問題をつきつけられてがっかりしてしまった。  考えてみれば、私の人生はいつだってそうなのだ。期待したことは何ひとつ実現しない。奇現象に一度でいいから遭遇しようと待ちかまえているようなときは、天地がひっくり返ったって奇現象など起こってはくれない。それでいて、本当に天地がひっくり返るとそれが奇現象だとは少しも気付かず、この世の終りかとただうろたえるばかりなのである。  結婚|披露宴《ひろうえん》などでもいつもそういう思いをしている。ただし断わっておくがこの場合の結婚披露宴というのは私のではなくひと様のことなのである。いくら私だってそうのべつ結婚ばかりしているわけはない。……いつの間にか話がそれた。  テーブルスピーチで満足なことを言えたためしがない。肝心なときにはごく月並なことしか頭に浮かばないのである。順番の廻ってくる三人ぐらい前から胸がドキドキして、考えることといったら、小便をすればいくらか落ち着くのだが、あと二人の間にトイレへ行って帰ってこれるだろうか、などと愚にもつかない心配ばかりをしている。口べたですからかわりにお祝の歌を一曲、などと言えれば上出来だが、私の歌ときたらメロディと歌詞が一度だってうまく合ったことがない。人が歌っているのを聞くと、左手で円を描き右手で同時に四角を描き分けてみせる人をみるときと同じような驚異を感じる。歌詞を間違えずに言えて、そのうえメロディまでちゃんと口から出るとは何という運動神経の持ち主なのであろうか。だって、歌詞もメロディも同時に口から出さなければ歌をうたうことは不可能なのである。それを同時にやってのけ、そのうえ顔でニコニコ笑いながら、両手で拍子などとられたりしたら、見物の一人として自己嫌悪《じこけんお》におちいるばかりである。早い話が、私は原稿を書くときいつもひとことも発することができない。……咳《せき》やクシャミならできるが、原稿用紙に書くのは言葉である。そのとき、まったく別な言葉を口にするなど、奇術か曲芸に近いと思う。私の親しい人で、いつも旅行しながら小説を書く人がいるが、彼なども私にとって驚異と羨望《せんぼう》の的である。もっとも、ギターとハーモニカをいっしょに演奏する人を、そう尊敬はしていない。うまくできたとしても、あまり上等の芸ではないようだ。とにかくそういうわけで私は不器用だ。私の伯父は若い頃いっしょに銭湯へ行くと、くわえ煙草《たばこ》で髪を洗ってみせた。伯母は、男、女、男女と七人の子供を見事に生み分けた。実の母は、お袋のくせに女房きどりである。そういう器用な一族のなかで、なぜ私のような不器用な人間が産まれたのか、よくわからないが、そういうわけで、亜空間要塞と戦いながら小説を締切りに間に合わせるなどということは出来ようはずもなく、また、収入の道を断つまで冒険に乗り出す勇気もなかったから、亜空間は亜空間、締切りは締切りと、生活をはっきり区切っていた。  遊園地の回想で、宇宙人にいやな思いをさせられてから数日後、私は締切りに迫られやむをえずカバンに資料をつめ込んで、書斎から都心のホテルへ移動した。フロントで鍵を受け取り、エレベーターで上の階に上がって、部屋のドアを開けて中へ踏み込むと、私の原稿を催促している出版社の建物が窓の真正面に見えていた。 「なんてこった」  私はぼやいた。  自分の体をホテルの部屋に閉じ込めてみたところで、そう急に筆が進むものではない。時計の秒を刻む音が耳につき、寝られず書けず、外へも出られない状態で、悶々《もんもん》としていた。  SFマガジンにポツリ、ポツリと書いていたころは、締切りにおわれるなど一度もなかった。君の作品の一番いいところは、原稿が早くとどくことだとおほめの言葉をいただいたくらいである。それが今では、毎日集稿マンを悩ませている。何と思い上がったことだろう……。ベッドの上で悶々としながら、私はしきりに反省していた。  締切りにおくれるのを、思い上がっていると反省するところなどは、私の長所であろう。本当はだんだん書くことが無くなって、それで遅れるのだけれど、そこがそれ真実と鼻つき合わすことを避ける性格なのである。それでいて何とか原稿が間に合ってしまうのは、書くことが無くなってきたのを、見破られたくない一心からである。ようするに、見栄っぱりなのだ。そのときも、何とか間に合わせ引き続き次の仕事にとりかかろうとした。  ホテルへ入ってから、三日目であった。夕食のとき軽くやった酒の酔いもすでに醒め、窓の外に街の灯が点々と輝いていた。もう深夜である。  すると、ベッドの脇の電話がポロポロと低い音で鳴った。  こんな時間にいったい誰だろう。私はそう思いながら受話器をとり上げた。     2 「もしもし」  受話器の底から女の声が聞こえて来た。私は反射的に眉《まゆ》を寄せた。声に聞き覚えがあった。いや聞き覚えどころではない。最初の一声で相手がわかったのである。  不安のようなものが、胸の中に湧き出していた。それでも私は空とぼけて、ハイ、と言い自分の名を言った。すると、女の声は含み笑いになり、 「わかる……」  と言った。それ以上とぼけることは私には不可能であった。 「なんだ……。それもこんな時間に。おそれいったな」  受話器の奥で音楽が聞こえていた。曲の名まではよくわからない。 「おそれいったはないでしょう」  女はからかい気味であった。ひょっとすると、いやたぶん、少し酔っているのだろう。 「どうしてここがわかった」  私が訊くと、その女は出版社の名を言う。ホテルへ入ってから書いた最初の原稿がその会社のものであった。 「それなら知っているはずだ。だが少しけしからんな。人がカンヅメになっている場所を簡単に教えるなんて」 「違うのよ」  女はその出版社の人物を弁護するような調子で答えた。 「あたしがしつっこく訊いたの。あたし少し飲んでるのよ。こういう気分のときでもなければ、あなたに連絡するはずないでしょ」 「それもそうだ」  私は笑った。 「いまどこなんだ」 「六本木よ」 「気になるな」 「気を廻すのはよして。お店の子たちといっしょなの」 「やっぱりそうか」  私が気になったのは、彼女がまた勤めに出ているらしかったからである。結婚してバー勤めから足を洗った女なのだ。 「まさかわかれたんじゃないだろうな」 「わかれちゃいけなかったの……。ええ、わかれたわ」 「ばかな……」  私は呟《つぶや》くようにそう言った。古傷がうずき出していた。  女は私の気分を敏感に察したようであった。急に声の調子を明るくし、ちょっと挑《いど》みかかるような言い方をする。 「いくら小説が商売だといっても、あんまりつまんないことを書かないでよ」  私はそれには答えずに軽く笑った。 「なによ、あの小説。あれ、あたしじゃないの。あたしの恋人はやくざで宝石泥棒で、刑務所へ入れられていたんですってね。あたしちっとも知らなかったわ」  からんで来た。本気でないことはわかっていたが、ひょっとしてわかれた原因が私の小説のせいではないかと心配になった。 「いつから勤めてるんだい」  ずるい質問である。その答が作品の発表時点より前であれば、私は責任を感じる必要がなくなる。 「昨年の夏からよ」  女は私の質問の真意に気付かずにケロリと答えた。それならば、問題の小説が人目に触れる前であった。 「安心したよ」 「それどういう意味」 「あの小説のせいかと思った」 「しょってるわね。あんたの小説なんかで、夫婦別れをする人間なんていやしないわ」 「それは言える……」  私は笑った。 「いまどんな顔してるの」 「そんなこと自分で判るか」 「ホテルの部屋なら目の前に鏡があるはずよ。見てごらんなさい」 「いつもとおんなじさ」  女はまた含み笑いをした。 「見てみたい……」 「はっきり言え。俺の方はいつだって会うぞ」 「うん。会ってみたいわ。でも、あなたと会うとまた降られるわね」 「さあどうだかな。いまとなれば、雨など降らないかもしれない」 「このお店、あんまりおもしろくないの。これからそっちへ顔を出してもいいかしら。あら、お仕事中だったわね」 「ぼんやり起きていただけだよ。今夜は書けそうもない」  私は半信半疑であった。だが彼女は案外本気で、 「行くわよ」  と驚かすように言った。 「この時間にフロントの前を平気で通り抜ける度胸があればな」 「平気よ。慣れてるわ」  女は軽く笑って言い、一方的に電話を切ってしまった。  案外本当にやって来るかもしれない。私はそう思った。  その女の名は、邦子と言った。もう随分昔のことのような気がする。どういうわけか、私たちが会うと、いつも雨が降った。私は広告《アド》マンで、彼女は中野坂上のバーのホステスであった。広告《アド》マンというといささか恰好が良すぎるかもしれない。中小企業とも言えない、零細広告代理店の社員だったのである。テレビで何千万という人々の目に触れるような広告は、一度も手がけたことがなかった。夢は大きかったが、やることはいたって小さかった。生活の糧を得るには、がむしゃらに体を動かさねばならないという固定観念は、その頃私の身にしみついたものであった。マッチのデザインの仕事まで拾って歩いた。新宿を中心にしたそういう落穂拾いのような、営業活動も半径が広まって、邦子のいた中野坂上の小さな安酒場まで私の足は延びたのである。  ほんのひと足で新宿、という場所に邦子のような女がくすぶっていることが、私には初めから不思議に思えた。和服が似合い、その上いつもかなり高価なものをまとっていた。  はっきりは憶えていないが、私は初めて邦子に会ったとき、そのことを指摘し、銀座を食いつめたのだろうとからかったはずである。  それが図星で、邦子はかえって私に好感をいだいたようであった。 「俺なんか銀座新宿どころか、水商売そのものを食いつめちまったよ」  そういう言い方も、邦子の気に入ったようであった。つまり、邦子は理解されたと感じ、理解しあえる相手が現われたと思ったのである。  それから先の道は坦々としていた。男と女がなるようになり、そして会うたびに雨が降った。その雨はじとじとと陰気で、いままで生きていた場所を追われた二人には、いかにもふさわしい降りようであった。  行きどまり。  私もそう感じたし、邦子もそう思っていたに違いない。私がにぎやかに暮していれば、もう少し派手やかな女をつれて歩いただろうし、邦子の人生がうまくいっていれば、私よりもう少し頼りがいのある男にすがっていただろう。会うたびに降られる二人は、すぐに語り合う事柄をなくし、男と、女……ただそれだけの、薄ら寒いような関係に陥っていった。  行きどまり……  二人ともそう感じていたのだから、ほかにどうするすべもなかった。おたがいにさみしくて、虚しくて、一人で立っていられる限界へ来てしまっていたようだ。  なにかをじっと待っている。ただじっと待って、次の変化を期待している。男にも女にもそういう状態があるものだ。そういう同じ状態に陥っていた二人が、何の抵抗感もなく手をとり合ったのは、なりゆきとして自然なのであったろう。雨に降られながら、私も邦子も心の底でおたがいを同情しあっていた。 「このままじゃ止まないわね」  あるとき邦子は私にそう言った。そのときも雨が降っていた。だが邦子は雨のことを言っているのではなかった。うちひしがれた二人が、うちひしがれたということで結ばれて人生がそのままになってしまうのではたまらないという意味であった。  私たちはどちらも同じ予感を持っていた。どちらかの人生が好転すれば、好転した方が相手から去ってゆく……ひょっとすると二人は本当に愛しあっていたのかもしれない。だがその状態では愛さえ語れなかった。ひたすら雨のやむのを待ちこがれ、降り込められて肌を寄せあい、雨やどりをしていたものである。  そしてある日、突然雨が晴れた。邦子は私のそばから消えてしまった。しかし私の方はまだ降り続いており、予感はしても、理屈ではわかっていても、去った邦子がうらめしく、そのことが心の傷になった。その後の邦子がどういう道筋をたどったか、どこからともなく聞こえてくる噂《うわさ》でだいたいのことは知っている。  相手は頼りがいのある立派な男らしかった。男が邦子との新しい生活のために、郊外に庭つきの家を買ったという話も聞いた。私は行きどまりの安アパートであい変わらずくすぶっており、千、二千という数のマッチの注文を必死になって集め廻っていた。  邦子の思い出がつまった安アパートの部屋から脱出したのは、それから二年もしたあとのことである。おかしなことに、引越しの日も雨に降られた。  ポロン、とチャイムの音がした。私はベッドからおり素足のままドアを開けに行った。  赤いワンピースを着た邦子が廊下に立っていた。邦子はちょっと照れたように唇《くちびる》を歪《ゆが》め、黙ってしのびやかな足どりでドアのノブを掴んでいる私の前を通りすぎていった。私はドアを閉めた。 「そっちも結構派手にやってるようじゃないの……」  邦子はそう言って部屋のなかを見廻し、もって来た紙包みをテーブルの上に置いた。 「これにお水を入れてちょうだい」  紙包みから現われたのは、白いプラスチックで出来たゴブレット型の小さな花瓶《かびん》で、赤いカトレアの花が一輪、挿してあった。 「ほう、無理をしたね」  すると邦子は首を横に振り、 「もらいものよ」  と言って椅子に腰をおろし足を組んだ。 「どう……」  立っている私を見上げて笑う。 「変わったようでもあり、そう変わっていないようにも見える」 「相変わらずね」  あの頃、私はよく邦子に優柔不断と言われた。  歳月が一度に逆戻りしたような感じであった。 「しょうがねえよ」  私は憮然《ぶぜん》とした表情になる。 「しょうがない、しょうがない……いつもそれだわ。ほかに言葉はないのかしら」  声の調子も表情も、中野坂上で降り込められていた頃の邦子に戻っている。 「馬鹿だなあ」  私は思わずそう言った。そう言ってしまった。まるで昔と同じであった。邦子の行きどまりを感じるたび私はいつもそう言った。自虐と同情の入り混った言葉であった。 「そんなに酔ってないわよ」  私もソファーに腰をおろし、煙草に火をつけた。つり込まれたように邦子も私の煙草を取ってくわえた。二人のはく煙が立ちのぼってからみ合い私たちは黙ってその煙を目で追っていた。  そんなに酔っていない。……その意味がわかって来た。わかったといっても複雑すぎてひとことでは説明できない。酔った勢いで気紛れを起こしたとばかりはいえない。そういう意味もあるし、酔っていないからいまさら焼棒杭《やけぼつくい》に火がつくわけはないと釘《くぎ》をさしてもいる。酔っていないから、ぐちを言って泣いたりしないという意味でもあるし、酔っていないから、真面目に話を聞いてくれという意味も含まれている。そのどれをとるかは、おそらく邦子自身もまだ決めてはいないはずである。  こういう場合の女は、いつもそういうものだ。たとえば、賽《さい》は六つの目を持っている。そのことはどんな馬鹿でも知っている。だが、次の目がその六つのうちのどれかは、どんなりこうな人間にも、賽自身にすらわからないのである。  夜ふけに男の部屋をたずねた女は、賽のようなものである。次の目が一か六か、偶数か奇数か女自身にもよくわかってはいない。  私は黙り続けた。これでも多少はわかっているつもりである。ひとこと喋れば、それで女の目が決まる。しんみりと、「会いたかったよ」と言えば、賽の目は冗談めかした「さようなら」と出るだろう。「そうかやり損ったのか」と言えば、話はきっと長くなる。黙って手を伸ばせば、泊っていくことになるかもしれない。  沈黙が続き、邦子のほうが沈黙に負けた。  たしかに沈黙に負けはしたが、そこから先の局面は、普通の賽には無いものであった。 「あらやだ」  邦子は窓を見て言った。 「また降ってる」  まったく冗談ではなかった。邦子が部屋へ入ったら、窓の外にいつのまにか煙るような細い雨が降り始めていたのだ。 「これは驚いた」  私はそう言って立ち上がり、窓際へ行った。左手に煙草をはさみ無意識にその手を軽く窓ガラスへ当てていた。 「あら、その指どうしたの」  邦子はとがめるように言って、自分も椅子から離れ、私の左の薬指を見た。     3  雨にも驚いたが、私の薬指に気がついた邦子には心の底から驚かされた。 「なぜだ。この指がどうかしているというのか」 「なに言ってるの、薬指の第一関節から先がないじゃないの」  事故か何かで本当の薬指の先をなくしてたのなら、私は彼女の表情を、軽い驚きと見たことであろう。事実そのような表情をしていた。だが私にはとてもそうは思えなかった。妖《あや》しげなたくらみがその顔の下にうごめいており、軽い驚きの表情は演技であるとしか思えなかった。  背筋に戦慄《せんりつ》が走った。 「薬指の先がないのが君には見えるのか」 「見えるわよ。わたしはちゃんと目が見えるのよ」 「飯田敬一という男に会ったことがあるか」 「飯田さん……」  邦子はけげんな表情になった。 「それじゃ加藤小吉は。大野志朗は……」 「知らないわ、そんな人たち。いったい誰なの」  窓際で私は邦子の方へ向き直った。 「宇宙人め」  邦子は私の勢いに怯えたのかもしれない。あるいは私の錯覚だったのかも……。  邦子の体が、その姿勢のまますうっと遠のいていった。しかもその遠のき方は、例えば長廊下を一直線に遠のいていったときのようではなく、角度のゆるい階段をうしろ向きに登っていったような感じであった。おまけに、その小さくなり具合の速いことといったらなかった。普通の状態だったら千メートル離れなければ、そんなに小さくはならないはずである。 「来たな、ちくしょうめ」  場所はホテルの部屋である。時間は夜中の三時に近い。大声を出していい時間でも、場所でもなかった。だが私はわめいた。 「いいかげんにしてくれ。来るなら来てもいい。つれていくならつれていってもかまわない。だがこっちにもスケジュールというものがある。せめて、一週間ぐらい前に予告してくれなければ……。いまやられたんじゃ締切りにまにあわない」  すると、邦子は遠いところから、異様に反響する笑い声を送って来た。声はたしかに遠いのだが、すぐ耳元で笑っているように大きくはっきりと聞こえた。 「邦子。いったいおまえはいつから宇宙人の手先になったのだ」  邦子は笑いつづけた。そして突然緑色に光り始めた。緑色の光は邦子の笑い声の抑揚につれ強まったり弱まったり躍動しているようであった。  その緑色の邦子の体はやがてひとつの円い点になり、窓の方へつまりホテルの壁の外側へゆっくりと移動を始めた。  あり得ないことがおこっていた。邦子は奇妙な遠ざかり方をしたばかりか、窓の外の夜空へゆっくりと飛び出していったのである。彼女のところから私のいる窓へ緑色の平べったい帯のような光の束が送りつけられている。  うかつにも私は気付かなかった。それはかつて私が亜空間要塞という小説の中で書いたのと同じ状態だったのである。もとは邦子の姿だった緑色の円い光源は、いまやUFOとして知られるあの空飛ぶ円盤に変わっていた。  円盤から送りつけられる緑の光の板は、円盤の縁から噴き出して、私を吸い寄せようとしているのだ。私が書いた亜空間要塞では、山本麟太郎、吉永佐一、三波伸夫、伊東五郎の四人組が、その光の板に吸い込まれまいとして地面に低く伏せ、そのために光の板が楕円形《だえんけい》の小さな亜空間にぶつかって、爆発を起こしているのである。  そのとき吸い込まれたのは、私が創り出した浄閑寺|公等《きみひと》という老人であったが、今度はどうやらその作者である私自身がやられてしまったようであった。  厚みのない光の板は窓ガラス越しに私の体をとらえ、とらえるやいなや私の体は光の板と平行に頭を先にして宙に浮いた。私は円盤に向かって引きずられて行く。ホテルの窓の厚い板ガラスも、問題にはならなかった。  私はいささか高所恐怖症の気味がある。その私が顔を下に向け、ほぼ水平になって三十一階のビルの窓から虚空へはみ出していったのである。これぞまさしく虚空の男だ。  いまにも、墜落をはじめるかと恐怖に戦《おのの》いたが、緑色の光の板はしっかりと私をとらえて放さなかった。私はたぐり寄せられるように、空間を斜め上方に移動して行く。 「助けてくれ」  私は叫んだ。しかし声にはならなかったようだ。引き寄せられながら助けてくれと頭の中で念じつづけた、しかも今年三つになる息子のことを考えていた。  私は息子に冗談半分で助けてくれという言葉を教え込んだ。公園へつれていって、その息子がいつまでもブランコを離れないので、私が横抱きに抱きかかえて無理矢理家へ連れ帰ろうとしたとき、息子は甲高い声で「タスケテクレェー」と叫びだした。近くにいた人たちが私を変な目で眺めていた。 「助けてくれ」  光の板に抱き込まれ、私は何とかしてそう叫ぼうと努力した。できるならあの時息子が発したような甲高い声で……。だがやはり声にはならなかった。円盤の縁が近づいてくる。あんな薄っぺらなところへこの体が入るものか。私はそう思った。めっきりおとろえてはいるがそれでもまだ、胸囲は一メートルを越す。ウエストは八十四、あまりいいプロポーションではないが……。     4  暗かった。それに何となくかな臭かった。 「ここはどこだ」  あてのないまま大声を出すと、ガーンと声が反響した。匂いと反響から私は巨大な鉄管のなかに閉じ込められているような気がした。 「ごめんね……」  意外な近さで邦子の声がした。 「邦子か。冗談じゃねえぞ。亜空間要塞へつれ込みやがったんだろ」  そう言ったとき、パッと光が満ちた。私は自分のいる場所をすぐに理解した。そこは巨大な死の塔の内部であった。約五十メートルと百メートルの底部をもち、ほぼ二百メートルの高さがある巨大な鋼鉄の檻《おり》であった。 「畜生め、俺の亜空間要塞では、ここは一番最後に来るところだぞ」 「あたしあなたのその本をまだ読んでいないの」 「ああそうだろうさ。俺はおまえに捨てられた男だ。俺なんかの書いた小説なぞ、読むわけがねえさ」 「そんな……いじめないで」 「いじめる? いじめられてんのはこっちの方さ、宇宙人の手先め」 「あたしだって好きこのんでこんなところへ来たわけじゃないわ。気がついたらここに閉じ込められていたのよ」 「いつから」 「知らないわ。わからないのよ」  邦子の言うことを信用すべきだったのだろう。彼女は確かに本当のことを言っているようだった。第一SF作家の私ならとにかく、普通の小説しか読む筈のない、SF音痴の邦子に、宇宙人の知り合いなどいるわけもないのだ。  だが私の心の底には、彼女に対するうらみつらみがわだかまっており、それがつい口をついて出た。 「わかれたなんて嘘だろう。おまえの亭主は宇宙人だったんだ」  別な風俗小説で、私は彼女の恋人をやくざで宝石泥棒で刑務所に入れられている男として書いている。まったくの話が、小説家をそでにしたりすると、どんなことを言われるかわかったものじゃない。  だがそのときの私は破れかぶれで、そんな自分勝手に気がつきもしなかった。 「いいか。俺はここを出る方法を知っているんだ」 「本当……」 「ああ知っているとも」 「どうするの。どうやったら出られるのよ」  邦子は興奮して私の体にとりすがり、ゆさぶった。 「馬鹿、手を放せ」  助かりたい一心の邦子は、あわてて私の体から手を放した。 「奇想天外なドンデン返しだぞ。この壁が動くんだ」 「まさか……」  邦子がとても信じられないというように首を左右にふった。 「こんな大きな壁が動くわけないじゃないの。馬鹿ねえ」 「よし見てろ。動くか動かないか証拠を見せてやる」  私は自分が小説に書いたとおり、根気よく壁を押し始めた。だが壁は動かない。 「ほらみなさい。こんな壁が動くわけないわよ」 「動くんだよ」 「強情ね。疲れるだけ無駄だからおよしなさい」  そう言われたからではないが、私はあきらめて壁をなでた。 「あのときは四人だったからなあ」  まるで自分が書いた小説を、現実のことのように思い始めていた。そして、そういえばこちら側へ来るとき未来がどうなっているか全然感じなかったなと思っていた。通常の空間と亜空間の間には、どうかすると時空の乱れた部分があってそこを通過するとき自分の未来を断片的に覗《のぞ》くことができるのだ。  そのとき厚い璧を通して何かずしんずしんという音が聞こえた。その音はいままで私がとりついていた壁とは反対側の壁から聞こえてくるようだった。 「なんだ。外で何かが起こっている」  私はあわてて反対側の壁へ走った。邦子もついて来た。 「何かが爆発しているような感じだなあ」  走りながら私は邦子にそう言った。そして向こう側へ走り着くと同時に壁へ身を押しつけた。  走ってきたから勢いがついていた。私と邦子は同時に壁へ耳をつけたのだ。とたんに私は体のバランスを失って前へつんのめった。もちろん邦子もいっしょであった。私たちはもつれ合うようにして暖かい光の中へころげ出た。  つんのめって地面へ転がったが痛くはなかった。下は砂だった。私たちは砂の上に倒れてうしろを振り返った。小さなくぐり戸のようなドアがギイッと軋《きし》んでひとりでに閉っていくところだった。 「何てこった」  私はあまりの馬鹿馬鹿しさに思わず笑った。 「あん畜生ら味なことをしやがる。俺が書いたドンデン返しの裏をかきやがったな」  邦子は笑っていなかった。あっけにとられていた。 「どうなってるの。ここはどこなのよ。砂漠じゃないの」 「そう、砂漠さ。死の塔は砂漠のなかに立っていることにしてあるんだ」  そのときまた、ドカーンという爆音がした。私は砂をはらって立ち上がり音の方を見た。 「何だかしらないけど戦争をしているようだ」  どう見ても戦争のようであった。大砲をうち合っている。遠くで動いているのは戦車らしい。 「やれやれ書いた通りはここまでか。まるで中東戦争みたいじゃないか。俺はこんなの書かなかったぞ」 「なによ、書く書くって。作家になれたのを喜ぶのは勝手だけど、あんまりそんなふうに言うと人に嫌《いや》がられるわよ」 「大きなおせわだ。宇宙人やおまえの彼氏に嫌われたってどうっていうことはない」 「まだ言ってる。ほんとうよ。もうわかれたのよ」 「宇宙人とか」 「違うわ、彼とよ」 「何で」 「浮気されちゃったの」 「のん気なこと言ってる場合か」 「だってあなたが訊いたんですもの」 「とにかく戦争なんかにまき込まれてはたまらない」  私はそう言い、それでも無意識に邦子の手をひいて塔の反対側へ廻り込んでいった。反対側の砂漠は思ったよりずっとせまく、その向こうに街が見えていた。大きな街だった。 「しめた、あっちへ行こう」 「あたしのどが渇いたわ」  うふ、と私は笑った。 「ここじゃ雨も降るまい」 「あそこへ行けばコーラぐらい飲めるわね」  砂の上を歩きながら私は邦子の顔を見た。SF音痴に幸いあれだ。 「ここは亜空間だぜ。コカコーラ・ボトラーズなんてあるかどうかわかったもんじゃない」 「でも、冷たいものくらいあるんじゃないかしら」 「それよりもあと戻りの壁がないようにしてほしいもんだ」 「あと戻りの壁ってなによ」 「俺の小説によれば、この亜空間はいくつかに仕切られていて現地人はその見えない壁を越えることはできなくなっているんだ」 「ちょっとまって」  邦子はたちどまった。 「どうしたんだ。のどが渇いているんだろう。早く向こうへ行こう」  だが邦子は動かずに自分の右手で私の左手を持ち上げた。 「ほらはえちゃってる」 「何がだよ」 「指よ。あなたの指がちゃんとそろってるわ」 「えっ」  私は邦子の手をふりほどき自分の左手を眺めた。なるほど、五本の指が完全にそろっていた。 「行こう」  私は邦子の手をとり直し街へ向かった。指など五本そろっていれば、それでいい。欠けたのなら心配しなければならないが、五本そろってしまえば心配することは何もない。一本ふえていたら心配しなければならないが……。  砂の上は歩きにくかった。さくさくと歩くたび音がした。その音を聞きながら進んでいるうちに私はなんとなくロマンチックな気分になってきた。いつかこんな映画を見たような気がしたのだ。あれは何だろう。「情婦マノン」だったかなあ。いや違う。あの映画なら死んだ女を引きずっていたはずである。だが私が引っぱっているのは、死ぬほどコカコーラを飲みたがっている、生きている女だ。何の映画だったろう……。     5  突然私は、主人公が砂の上を歩く映画ではなく、汚れた雪の上を転がる映画を思い出した。その連想はかなり強烈であった。そして背後ではまだ爆発音が聞こえていた。 「いけねえ」  私は立ちどまった。今度は邦子が訊いた。 「どうしたのよ」  私は耳をすませた。爆音を聞いたような気がしたのである。  空を眺め、視線をまた前方の都市に移した。 「見ろ。あっちも戦争らしい」 「ほんと、やだわ。建物が壊れている」 「わかるか。あれは空襲でやられたんだ。俺はわかるんだ。あそこにはきっとあいつがいる」 「あいつって誰よ」 「言ってもわかるまい」  私はあたりをあらためて見廻した。その都市のほかには行き場がなかった。 「だめだ、こりゃ。行くしかねえな」  邦子もそれに同意した。 「そうよ、あすこしかわたしたちの行く場所はないじゃないの」  二人はまた歩きはじめた。私にはその町の名がはっきりとわかっていた。  ドレスデンだ。  きっとあいつがいるに違いない。米軍の制服を着たヴォネガット少佐の奴だ。……私はそう思いながら街へ入っていった。  その街は、廃墟というほどではなかった。しかし薄汚れた感じで、どこか陰気であった。ところどころにくずれた壁石が積み上げてあり、それが戦火で無残に痛めつけられた町のように見せているのであった。私は街の標識をさがした。静まり返った道に人影はなかった。灯火のもれる窓もさがしたが、おかしなことにあることはあるのだが、近づくといつのまにか逃げ水のように遠ざかってしまう。道幅は細くしかもうねうねと曲って、どこにいるのか自分の位置がすぐわからなくなる感じであった。そして私が期待したドレスデンという街の名を書いた標識はどこにもなかった。  建物はみな石づくりで、たいてい三階か四階だて。一軒一軒はそう大きくない。道がうねうねと曲っているので、建物の方も至るところに変形の構造をもつものが出来てしまっているようだ。Y字形の分かれ道の角にある三角の建物、あるいはゆるく弧を描いて曲る道のために出来た扇形の建物、あるいはV字形に急にその部分だけ曲った道のために出来た、船のへさきのような尖《とが》った前面をもつ建物とその向かい側のV字形にへこんだ前面をもつ建物……。  まったくここは変形建築物の見本市のようなぐあいであった。しかし全体は重厚である。  ことにその曲った道の辻々《つじつじ》にある街路灯は濃い青に塗った八角の鉄の柱で支えられ、ところどころに真鍮《しんちゆう》の金具が重い光を放っていた。 「ヨーロッパの街だな」  私がそう言うと、邦子は、 「そんなことないわ。だってあれ見てよ」  と曲った道の先を指さした。気がつくといつのまにか陽が落ちて、夜の闇がしのび寄り街路灯に火がともっていた。 「どれ……」  私は邦子が指さす方をすかして見た。いつも細かい文字を読んだり、悪い姿勢で長時間字を書きつづけている私より、邦子の方が目がいいらしく、そこからではまだ私にはよく見えなかった。 「行ってみよう」  私たちは並んで道を歩いていた。  と、そこで私はまた奇妙なことに気がついた。小説ではいつもそういう奇妙なことばかり書き並べているのに、いざ実際に起こってみると腹立たしいほどの理不尽さを感じるのだ。 「こんな馬鹿なことがあるか」  私は口のなかでそう罵った。たぶん、私の小説を読んだ人のなかに同じような呟きをもらし本を投げ出した人々がいるに違いない。私は亜空間に入って、いや入ったらしい時点から一度失った薬指の第一関節を回復した。だがそのとき私はホテルの部屋にいてベッドの上に横になっていたのだ。そこへ邦子がやって来て、私を亜空間へ連れ込んだ。  着ていたのはパジャマだ。ホテルに入って仕事をするときはいつも濃いブルーの半袖のパジャマを持ってゆく。それは寝てもしわになりにくいきじでできており、室に来客があってもそのまま面会できる重宝なパジャマであった。  だがルームシューズまでは持っていない。まして私は夜ふけにチャイムを鳴らした邦子を迎えるのに、ベッドからドアまで素足で歩いていった。  窓の外に浮いた円盤が緑色の光の板を私に放射したとき、だから私は素足でいたのだ。それがなんと、いまこの街を歩くとコツコツと靴が響くのだ。  私はぴったりと足に合った立派な靴をはいていた。歩くときの感触と、街灯の光を受けた色つやで、その靴の皮はコードバンだとわかった。おまけに濃紺で杉あや織りのスーツを着こんでいる。どこといってとりたてて派手なところはないが、こういう石畳の重厚な街を歩くにはいかにもふさわしい服装であった。ワイシャツは白。ネクタイはやや幅の広めの青色に近いものだった。  邦子は私の左腕を右手でかかえ込んで歩いている。彼女はワインレッドのシックなワンピースを着ており、靴の色も同じ赤だがドレスよりはやや暗い赤色であった。  着せ替え人形にされちまったぜ、と言おうとしたが結局私は言わなかった。不可解なことが起こるたびにいちいち口に出していては始まらない状況であった。  舗道はぬれたように黒く光り、私の好みにぴったりの素敵な街路灯がそれにやや赤っぽい光を投げかけている。 「ドレスデン……。やっぱりそうか」  前方に見えていたものは、街の標識ではなく店の看板のようであった。一階ののきの高さに舗道の上に張り出してつるしてあった。たしかにそれは欧文で書かれている。そしてその程度の横文字なら私も間違いなく読めるのである。  私たちは街路灯の光に泛《う》いたその看板の店へ入って行くつもりだった。しかしその店の手前で私は足をとめた。  こんどはその先に、何と日本語で、しかもカタカナでドレスデンという名の別な看板が見えていたのである。 「何だって……」  私は言葉を聞き違えたときのように声に出して言った。 「カタカナがあるなんて、ここが日本の街なのか」  私は目標を見失ったような思いで道の両側を改めて見廻した。  そのときの私の感覚を説明することはとてもむずかしい。ずいぶん人に馬鹿にされてきたが、そして馬鹿にされることになれているが、あたりを見廻したとき私が感じたのは道の両側の戸口という戸口から、窓という窓から、屋根という屋根から、人々のあざけり笑う声が私に向かって突然降りそそいで来たような感じであった。実際には物音ひとつ聞こえなかったのに。  あたり一面看板だらけだった。その看板という看板に書かれている文字はすべてドレスデンであった。欧文あり、ひらがなあり、もちろん大部分はカタカナで、中には土烈殿などという漢字を当てたものさえあった。  王様であった父が死んで若い王子がその位を継いだとき、初めて後宮《ハレム》へ足を踏み入れてなすすべがなかったという話を聞いたことがある。王子がわからなかったのは、どうすればいいかということではなく、どれから始めたらいいかという選択の問題であったのだ。  私の立場がそれであった。人間追いつめられるととんでもない反応を示す。 「出てこい、ヴォネガット」  私は突然大声でそう呶鳴った。  その呶鳴り声は迷路のように入り組んだ石の街の壁にこだまして繰り返し繰り返し聞こえていた。その声に刺激されたのか、どこかの建物の裏の方で犬のなき声が聞こえた。物哀しげに、長く尾をひいてないた。  それにまじってかすかにギターをつまびく音が聞こえはじめた。ギターの音はゆっくり近づいてくるようだった。私と邦子はその音がもっと近づくのを待ってドレスデンという看板の下にたたずんでいた。  曲は「第三の男」らしかった。まったくチターでないのが残念なくらいの雰囲気《ふんいき》だった。ギターの響きは大きくなり、やがて次の角を曲って、斜めにギターをかかえた、白とブルーの派手な格子の上衣《うわぎ》を着た男の姿が現われた。  私はその男が適当な距離に近づいたら声をかけ、いろいろ質問しようと待ちかまえていた。ところが、ギターひきの方が先に愛想よく、笑顔で言った。 「ええこんばんは。お客さん一曲いかがですか」  屈託のない声であった。 「宇宙人の間では、どんな歌がはやっているんだ」  するとギターひきはまた嬉《うれ》しそうな笑顔をみせ、曲目を変えた。それは都はるみの歌だった。それを歌わせてしまってから、私は服のポケットをあちこちさぐった。面倒なことになりそうだった。金はどこにもなかった。  幻 想     1  濡れ光った街路を、ひとかたまりの霧が低く這《は》い寄《よ》って来た。まずギター弾きの足がその霧にかくれ、やがて私と邦子の膝《ひざ》のあたりまでおしつつんだ。 「もう一曲いかがです」  ギター弾きは愛想笑いを泛《うか》べて言った。ドレスデン、という赤いネオンサインが地を這う霧を桃色に染めて美しかった。 「いや……」  私はあわてて首を横に振った。 「この土地の方じゃありませんね」  ギター弾きの声は柔らかだったが、愛想笑いを泛べている顔には、油断のならない狡猾《こうかつ》さが潜んでいるようであった。 「迷い込んだのだよ」  私はできるだけ率直に言った。それを聞いてギター弾きは肩をすくめる。 「砂漠から来たんだ」 「砂漠……」  ギター弾きはまた肩をすくめて見せた。 「砂漠って、どこの砂漠です」 「この町の外側にある、あの砂漠さ」 「旦那、冗談でしょうね」  愛想笑いが消え、鋭い目付きになった。 「冗談ではないさ。本当に僕らは砂漠のまん中からやって来たんだ。高い鋼鉄の塔があるところだ。知ってるだろう」  知ってるだろう、と言いながら、私は心の中には、多分知らないだろうという予測が生まれていた。そして、その予測は的中した。 「知りませんね。聞いたこともねえや」  あざけるようにギター弾きは唇を歪めた。歯が汚れていていやしげであった。 「塔の向こう側では戦争をしてたわ」  邦子が見たとおりに言った。私はよせばいいのにと思った。 「やれやれ、お二人さんともどうかしてなさるようだな」  案の定、ギター弾きは皮肉たっぷりに言い、 「とにかくオゼゼをいただきましょうか。一曲ご注文に応じたんだからね」  と手を出して来た。  今度は私が肩をすくめた。 「済まない。そういうわけで、ここの通貨の持ち合わせがないんだよ」 「ちぇっ、そんなこったろうと思ったよ」  ギター弾きは舌打ちし、私たちの体をわざとらしく眺めまわした。 「そんななりで砂漠を歩いて来たわけがねえものな」  濃紺のスーツを着ている私は、なぜか少し恥かしかった。いつそんな服を着たのか、まったく憶えがないのだ。だから自分が嘘をついているようで、うしろめたかったのかも知れない。 「実は、僕らは困ったことに捲《ま》き込まれているんだ」  私はありの儘《まま》に窮状を訴えて、このギター弾きの協力を得ようと思った。 「ここがどこなのかもよく判らない有様なんだよ」  するとギター弾きは無表情な顔で答えた。 「自分が誰で、何の為にここにいるかも判らねえって言うんだろ」 「そう、そうなんだ。もっとも、自分が誰かくらいは判っているがね」 「ほう、そうかい」  ギター弾きは底意のありそうな目でじっと私を睨《にら》み、ジャラン、と弦をひと掻きした。 「俺だって自分の名前くらいは知ってるぜ。でもよ、旦那は自分が何者なのかということが、本当に判っていると言うんですかい」 「何者……」 「そう。どこから来てどこへ行くのか……ここで何をする為に生まれたのか……そういうことをさ。判ってるって言うのかい。世界にとってどんな役割を果す人間なのか、そいつが判ってるって言うんなら、俺はいま大したお方の前にいるわけだ」  ギター弾きは嘲笑《ちようしよう》しているようであった。 「そんな哲学的な意味で言ったんじゃないさ」 「だろうと思ったよ。言っちゃ悪いが、それ程のお方には見えねえもんな」  邦子は焦れったそうに口をはさむ。 「ねえ、いったいここはどこなの。何て言う名前の町なの」 「町……」  ギター弾きはあたりをわざとらしく見まわす。 「町なんて知らねえな。ここは世界だよ。俺たちの世界……生まれて生きて死んで行くところさ」  邦子はあちこちに見える看板を指さした。 「ドレスデン、ドレスデン、ドレスデン。……町中の看板がみんなドレスデンだわ。いったいどうなっているの。ここはドレスデンと言う町なの」 「看板はドレスデンさ。それ以外に何と書けばいい」 「ロンドンでも北京でもいいじゃないの。なぜみんなドレスデンなの」  霧がいったん薄くなり、ギター弾きがやって来たほうから、また一段と濃い霧がしのび寄っていた。 「そう言えばそうだな」  ギター弾きは考え込んだ。 「あんた、不思議な女だね。なぜそんなことに気が付けたんだい。そうだよな、ロンドンでも北京でもかまわねえんだよな……。本当だ、なぜ看板にはドレスデンと書かなくちゃいけねえんだろう」  ギター弾きはからかったり冗談を言ったりしているのではなかった。本気で不思議がっていた。  私はここが亜空間であることを切り出そうかどうかとためらった。私の作品「亜空間要塞」では、亜空間内部の住人たちは外に別な世界があるなどとは考えないことになっている。その作品が現実のものとなって、こうして次々に奇妙な状況が発生し、私自身を亜空間内部に招き寄せたのであるから、そのギター弾きだって、亜空間の存在をたやすくは認めてくれないだろう。それに、亜空間について言いはじめると、ことは必然的に宇宙人や空飛ぶ円盤などに及んでしまう。私はそれが嫌だった。宇宙人だの空飛ぶ円盤だのということを、真面目な顔で喋ることになぜか強い抵抗感があるのだ。それは多分、小説の中でいつもそういう問題を扱っているせいだろう。フィクションとしてならいくら論じてもかまわないが、現実の社会の中で真剣にそれを口にすると、人に笑われるのではないかと気になるのだ。いつも人目を気にし、他人にへつらっている私の弱い性格のたまものだろう。  だからその時も私は結局その話を避けてしまった。 「君の名前をうかがいたい」  私はおもねるような微笑を泛べて言った。 「一曲だから三クレでいい」  ギター弾きはごく自然な態度で片手をだした。 「三クレ……」 「そう。たったの三クレジット」  ギター弾きはニヤニヤしている。私は邦子と顔を見合わせた。 「ここの金の単位はクレジットと言うらしいな」 「じゃあ日本じゃないってことね」  邦子はやっと納得の行く返事を聞けたという顔でギター弾きに尋ねた。 「クレジットの上はなんて言うの」 「俺は何も十ローンも二十ローンもくれとふっかけてるわけじゃないんだぜ」  ギター弾きは目を丸くした。 「クレジットの上はローンだって」  邦子はうれしそうに私を見た。 「十進法を使っているんでしょうね」 「とにかく金を払ってもらいたいね、奥さん」  ギター弾きは催促した。 「たったの三クレじゃないか。ポケットの底を探ればあるはずだ」 「済まない。だがないんだ」 「ほら来た」  ギター弾きはおどけた表情だったが、その実|凄味《すごみ》をちらつかせていた。 「その手に乗る俺じゃねえや。甘く見てもらいたくねえな」 「本当にないんだよ。あったら払うさ」 「金もないのに流しギター弾きに唄わせたのかい」 「そう言われても困る。もともと僕は唄ってくれと頼みはしなかったんだ」 「へえ、そうかい」  ギター弾きは肩紐《かたひも》をずらせてギターを背中へまわした。喧嘩《けんか》の構えである。 「じゃあ何とおっしゃったんだね。ええ、旦那」 「宇宙人の間では、どんな歌がはやっているかと訊いただけだ」  金がない以上、私も肚《はら》を据えるより仕方がなかった。 「こういう歌を唄ってくれと、曲を指定したかい」  ギター弾きはちょっとひるんだようだった。しかしすぐ気をとり直す。 「どんな歌がはやっているかと訊かれれば、たのまれたも同然だ。俺は水道屋じゃないんだぞ。ごらんのとおりギターをかかえて歩いてる人間だ」 「それなら訊くが、さっき唄ったのは都はるみの歌のはずだ。僕は宇宙人の間ではどんな歌がはやっているかと訊いたんだ。宇宙人の間であの歌がたしかにはやってるのか」  ギター弾きは敵意のこもった目で私を睨みつけた。 「ええ、どうなんだい」 「言葉の綾《あや》だろう」 「僕は本当に知りたくて訊いたんだぜ。君は宇宙人を知っているらしいじゃないか。宇宙人たちは都はるみの歌が好きだと言うんだからな。ここには宇宙人がいるんだな……。そうなんだろう。君は宇宙人たちを知っている。どこにいるんだい。会わせてもらおうじゃないか」 「人のあげ足を取るようなことを言いやがって」  ギター弾きはくやしそうな顔になった。 「畜生、まんまとしてやられたぜ」  三クレはあきらめたらしかった。     2  私と邦子はギター弾きに案内されて、細い横丁へ入って行った。金をとれないと判っても、ギター弾きは私たちを解放してはくれなかったのだ。邦子が気に入ったらしかったし、それにこの町の事情に暗いよそ者の私たちを利用して、なんとかひと稼《かせ》ぎしようと企んでいるようであった。  そういうギター弾きの思惑が判っていても、私は嫌がらずについて行った。彼以外の人間とはまだ会っていないのだし、何やらひとけのなさそうな雰囲気が不安になってもいた。  騙されるなら騙されてもかまわない気だった。彼が作りだしてくれる新しい局面が、私には必要だったのだ。 「どこへ連れて行こうと言うんだ」  前を歩くギター弾きに私は尋ねた。 「ジャンの店さ」  ギター弾きはそう答える。 「ジャン……どんな男だ」 「でかい奴だよ。いい奴さ」 「どういう店だ」 「酒、飯、女。博奕《ばくち》もできるし薬だって都合がつくぜ」 「そんな店へ僕らを連れて行ってどうする。こっちはオケラだぜ」 「さあ、どうなるのかね」  ギター弾きにも見当はついていないらしい。 「まあいいさ。なるようになれだ」  私は邦子を見てそう言った。  道は相変わらずくねくねとよく曲った。静まり返っていて、私たちの靴の音がやけに大きく聞こえた。 「ここだ」  黒光りして見える石の壁に、洞窟《どうくつ》の入口のような感じで地下へおりる階段がついていた。 「そうだ、ヴォネガットという男を知らないか」  ギター弾きについてその階段をおりながら尋ねた。 「ヴォネガット……。どんな奴だい」 「さあ。判らないな」 「変な旦那だな。それじゃ探しようもねえだろうに」  ギター弾きは小馬鹿にしたように言った。  薄暗い階段を下り切ると、突き当たりに茶褐色《ちやかつしよく》の重そうな木のドアがついていた。ギター弾きはそのドアの横にぶらさがっている、古ぼけた房つきの太い紐を引っ張った。  ドアの奥でカランカランと金属性の乾いた音がすると、しばらくして錠を外す気配が起こった。 「誰だい。ああ、お前か」  細目にあいたドアの中から、嗄れた男の声がした。今にもドアがあくかと思っていると、嗄れた声が急にきつくなって、 「誰だい、それは」  と言った。 「よそ者だ」  ギター弾きが答える。 「よそ者……どこから来た」  ギター弾きは肩をすくめる。 「知らねえ。ご当人たちは砂漠から来たと言ってるぜ」 「砂漠だって」  ハン、と鼻にかかった声でドアの中の男は何かの感情をあらわし、 「ちょっと待ってな。ジャンに訊かなくてはならない」  と細くあけたドアをしめてしまった。 「心配することはねえよ。ジャンはいい奴だし、こういうことが好きなんだ。きっと中へいれてくれるよ」  私たちは狭い階段に立っていた。下り切ったところにはギター弾きがいて、先がつかえていたからだ。邦子が先で私があと……。  すぐにまたドアがあいた。今度は一度に大きくあけられる。 「よう、ジャン。客を連れて来たぜ」  なるほどよく肥えた大男だった。髪は黒くてこまかくカールしている。目玉がギョロリとしていて、鼻は愛敬《あいきよう》のある獅子《しし》っ鼻《ぱな》であった。 「砂漠から来たそうだな」  ダーク・グリーンのツイードの服を着て、太い首に派手なネクタイをぶらさげている。 「たしかに、このギター弾きにそう言ったが、信じてくれるかね」  ジャンは煙をさけるように目を細め、私たちを観察しはじめた。左眉をあげ右眉をさげる癖があるらしい。  私たちはかなり長い間、そうやって観察されていた。 「余分な物はかくしていないだろうな」  やがてジャンは太い声でギター弾きに言った。 「余分な物……一文なしさ」  ギター弾きは笑った。 「調べて見たのか」  ジャンに念を押されて、ギター弾きは急にあわてだした。 「まだだよ。でも大丈夫さ。この二人を見てくれよ、そんな危《ヤバ》そうな連中かどうか。だいいち、俺の友人《ダチ》だぜ」  ジャンはギロリと目を剥いた。ギター弾きはそれだけで素直になった。ふり向いて私たち二人に言う。 「すまねえ、体を当たらせてもらうよ」  今度は邦子が肩をちょっとすくめて見せた。なかなかさまになっていた。 「壁へ両手を突いて足を引くんでしょう」  ギター弾きは苦笑した。 「そこまですることはねえさ」  一段下から邦子にボデーチェックを加える。邦子はおとなしく両手をあげて触られていた。 「いいよ、次は旦那だ」  そう言われ、邦子はギター弾きと体を横にし合って入れかわった。私は一段下へおり、両手をあげてジャンをみつめていた。  ジャンはタフそうだった。数多くの危険な目に遭って、鍛え抜かれているという感じであった。  ギター弾きにしたような、機嫌を取る態度に出ても通じる相手ではない。……私はそう判断した。実際の修羅場《しゆらば》は経験していなくても、小説の中ではしょっちゅう殺したり殺されたりしている。その小説がいちいち現実のものになった為にこんな目に遭っているのだから、そういうことも実際の体験として考えてもよかろう。いや、それだったら自分の作品ばかりでなく、他人の作った小説や映画の中のことも、自分の体験のひとつにしてしまえ。……私は勝手にそうきめた。 「危《ヤバ》い物は何もない」  ギター弾きはジャンに報告した。チェックがおわり、ジャンが道をあけたので、私はギター弾きについてドアの内側へ足を踏み入れた。  ざわざわと大勢の人間の気配があったが、そこはまだクロークのある狭いフロント・スペースで、人の姿は見当らなかった。 「信じたのか、砂漠を」  私はジャンのギロリとした目をみつめて言った。ジャンは表情を変えなかった。 「さあ、どうだかな」 「彼女は喉が渇いている。冷たい物をやって欲しいんだ」  ジャンはかすかに頷き、私から目をそらせると、どっしりと腰の落ちた歩き方で先に立った。  緑色の厚いカーテンがあり、ジャンはそれをわけて中へ消えた。邦子、私、ギター弾きの順でそれに続く。  驚いた。予想はだいたい外れるものだが、それにしてもこれは外れすぎていた。恐ろしくでかい店だった。屋内だから感じが違うかも知れないが、フットボールのグラウンドがひとつ、楽にその中へ納まってしまうくらいの広さで、そのだだっぴろいフロアーに、びっしりと円いテーブルが並べられ、少くとも一卓に四人以上は坐っているようだった。  客はだいたい地味な服を着た連中で、その中にケバケバしい装いの女たちが嬌声をあげている。 「でかい店だな」  私はジャンに言った。 「女はみなこの店の女たちか」 「そうだ」  ジャンは頷き、テーブルの間を縫って奥へ歩んで行く。高い天井にたちこめた煙草の煙の中で、大小さまざまのシャンデリアが光を放っている。 「町中の男が集まっているんじゃないか」  そう言うとジャンはニヤリとした。得意がっている笑い方ではなく、そうでもないと言っているらしかった。 「よう、一曲やって行け」  通りすがりにギター弾きはそう声をかけられ、客につかまってしまった。 「先に行っててくれ。ひと稼ぎするから」  ギター弾きは私に言って商売にとりかかったようであった。  突き当たりは長いカウンターだった。フットボールのグラウンドのエンドラインがカウンターになっていると思えば間違いない。そのカウンターにスツールはなく、両端は白いコートを着たウェイターたちが、器《うつわ》をさげたり、料理や飲み物を受取ったりする部分になっている。  ジャンはそのカウンターのまん中あたりに倚《よ》りかかり、中のバーテンダーから太い葉巻を一本受取ると、ゆっくりとそれを撫でまわしはじめた。 「二人だけか」  ジャンはさりげなく切りだした。     3 「二人きりだ」 「ここへ来る前はどこにいた」  ジャンは砂漠以前のことを尋ねているらしかった。ここで間の抜けた返事をしてはぶちこわしだと思った。 「ホテルにいたよ。俺はパジャマを着ていて、彼女が訪ねて来たんだ。静かな夜だった」 「雨が降っていたわ」  邦子がつけ加えた。私は彼女の助太刀に感謝した。効果的な台詞に思えたのだ。 「そしていきなり砂漠か」  ジャンは憂鬱《ゆううつ》そうに言う。 「鉄の塔の中だ」  ふうん、とジャンは鼻を鳴らした。 「奴にそのことを喋ったか」  私はフロアーのずっと向こうで唄っているギター弾きを眺めた。ギター弾きはそれに気付いて、陽気な手のあげかたをした。だが唄声は聞こえない。遠すぎるし、あたりの人声に掻き消されてしまっている。 「君のような人間は多くないはずだ」  私はそれをジャンの質問に対する答えにした。ジャンのような男を小説の中に登場させたら、そういう返事のしかたをよろこぶ性格に設定するはずである。 「ほかには誰とも会っていないのだな」 「ああ」  ジャンは葉巻を咥《くわ》え、マッチを擦《す》って長々と吸いつづけた。マッチが太い指を焦がすまでそうしていた。 「ゆっくりしてくれ。ここもそう悪いところではないはずだ」  煙を吐きだしてジャンは言う。 「奥さんか」  邦子のほうへ目を移した。 「まあそんなところだ」  邦子は私が答えるとあらためてジャンに軽く会釈した。 「ノース・ポールを彼女に」  ジャンは若いバーテンに命じた。そのバーテンはばかにいい男で、邦子にポーッとしているようであった。 「何か飲《や》るか」 「そう願いたいな」  ジャンはニヤリとして、片目をつぶって見せた。 「451をふたつ」  自分も飲む気らしい。どうやら私はジャンを味方につけることに成功したようだった。バーテンダーは邦子に冷たい飲物を与えると、急いでカクテルを作りはじめた。 「冷たくておいしい……」  邦子は首をすくめて言った。 「よかったら、いくらでも飲《や》ってください」  ジャンは紳士的な態度を示した。 「451をおふたつ」  若いバーテンダーがことさららしくそう言って、大きなタンブラーをふたつカウンターの上へ置いた。みごとな緋色《ひいろ》をした飲み物であった。  ジャンと私はそれをとりあげ、互いにちらりとみつめ合ってから口をつけた。  強烈な酒だった。淡い甘味とほろ苦さがうまく融け合って、旨《うま》いのも旨かったが、その強さは口へいれただけですぐ判った。 「凄い……」  私は腹の中にその酒が通った痕《あと》がついてしまうのではないかとさえ思いながら感嘆した。 「うちの自慢の酒だ。よそにこれだけの酒を飲ませる店があったら、俺は自分から砂漠へ出て行くよ」 「451だって……」  私はジャンが命じたその酒の名を思い出して言った。 「そう、451」 「そんなにおいしいの」  邦子が好奇心をのぞかせた。 「君には無理だ」  私はジャンの顔を見て笑った。ジャンもニヤリとした。 「強いの」 「ああ、恐ろしく強い。こんな酒ははじめてだ」  そう言って私はまたひと口飲んだ。口の中にカッと火が燃えさかったようであった。 「あ……」  私は気付いた。 「451と言ったな」 「そうだ」 「紙が燃え出すくらい強いという意味か」  ジャンは好意をこめた目で私を見返した。 「紙が燃えるって……」 「そうだよ。華氏451度でな」  邦子は何のことかよく判らぬ儘《まま》頷いている。 「洒落《しやれ》た名を付けたもんじゃないか。君が付けたのか」 「いや」  ジャンは首を横に振る。 「マックが付けた名さ」 「マック……」 「ああ。多分すぐ彼に会うことになるだろう。その方面のプロだ」  その方面とはどの方面なのかよく判らなかったが、私がすぐ会うことになるだろうと言うからには、亜空間の問題と関係のある人物に違いないと思った。 「マッカーティさ。クリフォード・マッカーティ。だがここではマックで通っている」 「そのマックが我々に力をかしてくれるのか」 「どうかな。気むずかしい男だ。だが多分あんたがたなら何とかする気になるんじゃないかな」 「そう願いたいな。ところでジャン。君はヴォネガットと言う男を知らないか」  すると、451を飲んでいたジャンの表情がかすかに変化したようだった。 「ここにそいつがいるのかどうかもよく判らないんだ。しかし多分いるはずだと思っているのさ」 「顔を知っているのか」 「さあな。ここにいるヴォネガットが、俺の知っている通りの顔をしているかどうかは疑問だ。しかし多分会えば判ると思う」 「その名も砂漠と同じだぞ」  ジャンは厳しい表情で言った。砂漠のことと同じように、余り軽率に人に言うなと警告したのだろう。 「いけない。ギター弾きに訊いてしまった」 「奴はいい。知るわけがない」  ジャンは無造作に言った。 「ということは、大物なのか」  ジャンは頷いた。 「政府の人間だ。サツを手足のように動かしている。君がギター弾きに、もしヴォネガットと言う名ではなく、別な名を言っていたら、恐らく俺には会えなかったろう。あいつは俺たちの敵だからな。その敵をたずねる奴も敵というわけだ」 「知らなかったよ。するとヴォネガットは名前をふたつ持っているのか」 「ヴォネガットは正式の名前だが、奴くらいになると正式の名など誰も知らない」  ジャンはグラスをみつめていた。 「別な名前とは……」 「J・G。みんなそう呼んでいる」  そのとき、店の中のざわめきがピタリとやんだ。ギター弾きの唄声だけが遠くで続いている。 「どうしたんだ」  私は振り返って言った。 「警察《サツ》さ。噂をすれば影……J・Gの手下どもだよ」  ジャンは吐き棄てるように言って、緋色の酒を一気に呷《あお》った。緑色のカーテンのほうに、黒い制服を着た男たちが見えていた。     4  制服の男たちは、ひとめで警察の人間だと判った。私はこの世界についてまだ何も知らないよそ者だが、警官ならどんな制服だろうと、そのデザインに関係なく、すぐ判るのだ。兵隊ほど陽性ではなく、ガードマンほど粗雑ではない。陰気で疑り深くて、本物の権力者よりずっと権力を愉《たの》しんでいる。  誤った先入観かも知れないが、警察官になろうと志す人物は、本当に社会の法と秩序を守ろうと考えるのだろうか。善良だが無力な市民を、強い悪者の手から守ってやろうと警察官を志すのだろうか。  繰り返すが、これは私の誤った先入観だろう。しかし、たとえば交差点で笛を鳴らしている警官を見ると、その交通整理のご苦労はご苦労として、人々の交通を円滑に行かせるために汗を流しているのか、他人を止めたり動かしたり意の儘に操ることが楽しくてやっているのか、私にはどうも判然としないのである。まして深夜に不審訊問をされたりすると、本当に市民の安全のためにやっているのか、自分に与えられた権力を愉しむためにやっているのか、よく判らない気分に陥らされてしまう。ひょっとすると、万人のために公僕として働くよりは、与えられる権力に魅力を感じているのではあるまいか。  とにかく、そのような先入観があるくらいだから、警官がいや応なしに身につけるあの権力臭に敏感なのである。ことにそういう集団の幹部級ともなれば、私服を着てさりげなく振舞っていても、なんとなくキナ臭い感じに襲われてしまう。 「よう、相変わらず繁昌《はんじよう》してるな」  警官たちが客席の間へ散ったあと、私服だが私にはすぐ警官と判る人物が、まっすぐカウンターのほうへやって来てジャンに声をかけた。 「おかげさまでな」  ジャンはカウンターに向かった儘でそう答えた。 「毎度騒がして済まない。しかしこれも仕事でな。近頃|薬《ヤク》がまたぞろ息を吹き返して売人《バイニン》たちがごそごそはじめているし、不穏分子が何か企んでいるという噂も流れているんだ」  その男は早口でまくしたてながらちらちらと私たちを見ていた。 「そいつはよく判ってる。仕事なら早く済ませてもらいたいな。お客が折角乗りはじめたところだったんだぜ」 「うん。長居をする気はない。問題さえなければな」  広い店の中へ二十人ばかりの警官が散っていたが、すぐ緑色のカーテンのほうへ戻って行き、そこにひとかたまりになった。私と邦子はジャンのとなりに並んで、素知らぬ顔でグラスを口に運んでいた。 「部長」  警官の一人が報告に近寄って来た。 「ちょっと来ていただけませんか」 「何だ」  私服の男が私たちから注意をそらせた。 「アルがまた不法な薬品を所持していました」 「またか」  男は舌打ちをした。 「ここは雑魚《ざこ》ばかりだ。大物がゴロゴロしているというのに、ボロを出すのはチンピラばかりだな」  ジャンに向かって皮肉たっぷりに言うと、渋々制服の警官のあとについて去った。 「まずいぞ」  ジャンが低い声で言う。 「あいつが来るとは思わなかった。まずい奴に見られたな」 「あれは誰だい」  私は緊張して尋ねる。 「J・Gの片腕だ。ノヤマという検察局の部長さ。N・W研究講習会《ワーク・シヨツプ》のリーダーだよ」 「N・W研究講習会《ワーク・シヨツプ》……」 「そうか、それも知らないんだったな。奥さんも憶えておいたほうがいい。ノヤマはN・W研究講習会《ワーク・シヨツプ》のリーダーで、検察局のエリートだ。君らに何かを嗅《か》ぎ取ったようだったから、充分に用心しろよ」 「N・W研究講習会《ワーク・シヨツプ》って何だい」 「ここの社会をN・W一色で塗りつぶそうとしている連中の集りさ。凄い奴らが揃っているよ。おかげで彼らのN・W体制は着々と実を結んでいる。それに従わない奴は投獄され、洗脳される。へたをすれば死刑だ」 「ファッショか」 「そんなところだな」 「J・Gはそのボス……」 「そうだ、親玉だ」 「迷惑がかかってはいけない。今のうち逃げだそうか」 「無理だ。運を天にまかせてとぼけていたほうがいい」  ジャンの心配どおり、ノヤマはすぐ戻って来た。 「くだらん奴をつかまえてしまったよ」  ノヤマは私たち以上に空とぼけて、ジャンの向こう側へ肱《ひじ》をついた。 「一杯もらおうか」  ジャンが頷く。 「お望みのを差しあげてくれ」  言葉は紳士的だが、言い方はひどく邪慳《じやけん》な調子であった。 「俺も451がいいな。そっちのお客とおんなじに」  私にからみつきはじめた。私の頭は過去に読んだ小説や、見た映画のデータを走査するのに大わらわであった。そして私なりに結論をだした。 「ノヤマ部長の健康を祝して」  ジャンごしに私はグラスをあげて見せた。 「これはどうも」  ノヤマは機先を制されて、硬い表情で会釈した。そういう態度に出ろと私の貧弱な生理的コンピューターが命じたのである。  バーテンダーが451を作ってノヤマの前へ置いた。 「しかし、あなたにはホーセズ・ネックという名のカクテルのほうがお似合いですな」  私はなんとなくそうからかった。 「ほう競馬好きだからという意味ですかな」  しめたと思った。 「外れ馬券のコレクションをなさっているそうで」  ノヤマは苦笑する。 「こう見えても血統を重んじるほうでしてね。ところで、どなたかな。申しわけないが思い出せんのです」 「ヴォネガットのところでお会いしたはずですがね」  もちろん嘘っ八だ。しかし効果はあった。ノヤマはあわてて緋色の酒で満したグラスを口から離し、少しむせて咳《せ》き込んだ。 「失礼」  ハンカチをだして口を拭った。 「J・Gのお知り合いでしたか」  私はあいまいに微笑して相手をみつめた。 「そちらのご婦人は」 「家内です」  邦子がにこやかにノヤマへ顔を向ける。 「どうぞよろしく」 「いや、こちらこそ」  ジャンが言った。 「近頃よくお見えいただいているんだ。それも奥さまご同伴でな」  呆れたものだ、という言い方であった。ジャンもなかなか演技力があると思った。敵方の人間に客で来られて扱いに困っているという風情であった。 「危険ですよ。こういうところへあなたのような方が出入りなさる時は、充分ご注意ください」 「大丈夫ですよ」  私は笑って見せた。ノヤマは451を一気に飲みほし、 「では私はこれで」  と挨拶して帰って行った。ノヤマたちが姿を消すと、一度に店の中に活気が戻った。 「N・W体制というのがどんなものか知らないが、ここの人たちは余り面白がらないようだね」 「人はさまざまさ」  ジャンは体の向きを変え、カウンターに倚りかかって客席を見渡した。 「しかし君もいい度胸だ」 「なに、へたに黙りこくっているよりは、ああしたほうがいいと思っただけさ。それに、ヴォネガットという名は知られていないんだろう」 「ああそうだ。あれは効いたな。だが、もし身分証明を見せろと言われたらそれでおしまいだったんだぞ」 「その時はその時さ。それよりあのノヤマは余程|慌《あわ》てていたらしいな」 「うん」 「名前も訊かずに帰って行った」 「舐《な》めちゃいけない。それだけJ・Gの力が強大だということだ」 「味方さえ恐れているというわけだな」 「自他ともに片腕と認めている男さえもだ」 「いったいN・Wとは何なのだい」 「ひとことで説明しろというのか。そいつは俺には無理なことだ。……さて」  ジャンはそう言ってカウンターから離れた。 「連中はもうこの辺りからいなくなった筈だ。そろそろマックのところへ連れて行こうか」  ジャンがそう言ったので私たちも出かけようとした。するとジャンは片手をあげ、 「まず連絡して来る。少し待っていてくれ」  と言って大きな体を思いがけぬ素早さで折り曲げると、ウェイターたちが銀盆を手にむらがっているカウンターの下をくぐって向こう側へ消えた。 「マックという人に会えれば万事うまく行きそうね」  邦子は甘えた調子で私に言った。 「とにかく、とんでもないところへ引きずり込まれたよ。マックがどんな力を持っているか知らないが、そうトントン拍子に元のホテルへ戻れるとは限らないと思うな」 「あら、悲観的なのね」 「君は楽観的すぎるようだ。いつからそんな楽天家になったんだい」 「どうにかなるもんだって判っただけよ。散々ひどい目に遭ったおかげでね」 「そんなにか」 「ええ」  邦子は目で頷いた。かすかに笑いを含んでいる目であった。 「でも今度はちょっと問題が違う。考えてみろよ。あのホテルへ戻るには、宇宙人と対決するかどうかしなければいけないんだぜ。円盤が放った緑色の光線……あんなものを相手にしなければ、この亜空間から出られやしないんだ」  だが邦子は動じなかった。 「ジタバタしても始まらない。そう思ってじっと待つ時もあるわ。でもあたし考えたの。ジタバタしたいだけしたほうがいい時もあるのよ。今度はきっとそれだわ。二人で精一杯ジタバタしてみましょうよ。ジタバタすればいやでも応でも次の局面が来るのが早まるでしょう。掻きまわしちゃうのよ。そうすればチャンスもできるじゃない」 「そのかわり泥沼へ足を突っ込んで抜けなくなるかも知れないぞ」 「いいわ。どこで生きたって一生は一生よ」  私は黙って頭をさげて見せた。勿論冗談だったが、内心は本気で邦子に感心していた。     5 「ジャンが呼んでます」  例の若い美男のバーテンダーが私たちのほうへ体をのりだして低い声で言った。あちこちのテーブルで博奕が始まっていて、その派手な歓声に掻き消されそうな声であった。 「よし判った」 「あちらから中へどうぞ」  バーテンダーはさっきジャンが潜《くぐ》り抜けたカウンターの隅《すみ》を指さした。 「よう、どうしたね」  そのほうへ急ぎ足で行くと、あちこちのテーブルに呼ばれてやっとエンドラインまでたどりついたギター弾きが声をかけた。 「ジャンと出かけるよ」  ギター弾きは肩をすくめる。それが癖らしい。 「おかげで商売繁昌《はんじよう》さ。こんなにお声のかかる晩はそうザラにないんだ。あんたがた二人は福の神だよ」  ギター弾きは私たちにすっかり打ちとけた様子を示している。 「よかったな。また会おう」 「ああ、待ってるぜ。流しのピーターと言えばたいていの奴は知ってる。力になるぜ」 「それより借りがあるからな」 「借り……」 「三クレジットさ」 「ああ」  ピーターは笑いだした。 「忘れたよ」 「なんとかして返すよ」 「いいんだ」  その声を背中に、私たちはカウンターの下を潜って店の内側へ入った。肉を焼く匂いとこぼれた酒の匂いが溢《あふ》れ、鍋がタイルに当たる音がひっきりなしに聞こえている。  肥ったコックが、大きなナイフを振ってジャンの居所を示した。ジャンは調理場の隅《すみ》で、上着を脱いで拳銃《けんじゆう》のホルスターをつけているところだった。 「そんな物が要るのかね」  私は訊いた。 「要るかどうか知らないが、こいつがないと転んじまうのさ」  ジャンは照れたように急いで上着を着た。 「いい心がけだ」  私はからかっているのではないことが判るように、できるだけ鹿爪《しかつめ》らしい表情で言った。 「あんたはなかったな」 「うん」 「要るなら貸すぜ」 「そうだな」  私はちょっと考えた。 「借りなさいよ」  邦子がすすめた。 「いつもジャンが傍にいてくれるとは限らないわよ」  ジャンはニヤリとした。 「いい女房を持ってるな」 「有難う」  邦子はニコリともせずに受けた。ジャンが大ぶりの自動拳銃を渡してくれた。 「どうせならお金も少し拝借したら」 「おいおい、調子に乗るもんじゃないぜ」  私は邦子をたしなめた。 「だって、お金があれば揉《も》めないで済むことも多いわ」  そう言ってジャンのほうへ顔を向けた。 「さっきだって、流しギターに唄わせて、借りができちゃったのよ。たった三クレで揉めたわ」  ジャンは愉快そうに大声で笑った。 「三クレでね。よし、俺が返しといてやろう。ところで奥さん、その服にポケットはあるのかね」 「ええ、小さいのがふたつほどね」 「じゃあこいつをしまっといてくださいよ」  ジャンは紙幣を何枚か丸い筒にして邦子に渡した。 「これが十ローン札なのね」 「十ローン……ひょっとしたら、そいつは大金なんじゃないか」 「十枚あるわ」 「百ローンか」  ジャンは拳銃の吊り具合をたしかめるように一度大きく肩をゆする。 「旦那には銃、奥方には金……俺も案外頭がいいだろう。もしこれを反対にしたらどうなるかな」  どうやら負い目を感じさせまいとする軽口らしかった。 「旦那は札びらを切り、奥方はすぐ銃をブッ放す……」  ジャンは笑いながら顎《あご》をしゃくって歩き出した。  さっきの階段とは違う階段へ出た。ずっと薄暗く、何やらかび臭かった。 「建物同士がみなくっついているから、どこにでもこんな妙な道ができあがっちまうのさ」  たしかにそれは妙な通路であった。二、三階まで登ったかと思うと、今度は地下二階あたりまでおりたり、小さな空部屋を通り抜けたり、ドアをあけて中庭のような場所を突っ切ってまた建物の中へ入ったり、私たちにはものの三分ほどで方角の見当がまるでつかなくなってしまった。  二、三度通りを突っ切りさえした。通りを横断する時は、ジャンが注意深くあたりを見まわし、いいとなったら三人ひとかたまりに走って次の建物へとび込むのだ。 「随分用心するんだな」  私は呆れて言った。 「自分の店から出ているからな」 「あの店にいれば大丈夫なのか」 「安全権を買ってある」 「安全権……」 「ここでは何でもかでも金、金、金なんだ。金で法律が守られている」 「金でかい」 「ああそうとも。たとえば誰かが君を殺したくなったら、警察へ行って申請書に書き込むんだ」 「何の」 「殺人のさ」 「まさか」 「本当だ。そうすると警察は相手の価値をチェックして、許可料を査定する」 「金を払えば殺してもいいのか」 「ああ」 「相手の価値をチェックするって、どういう価値だ」 「社会的価値さ」 「ふうん」 「ただ、許可する前に相手にも知らせる」 「知らせるだけか。保護しないのか」 「そいつも金さ。通知を受けたら、その申請を認めさせないために、それ相応の金額を納めればいい」 「驚いたやり口だな。それじゃあ、金持ほど有利じゃないか」 「そうだよ。拝金思想の行きつくはてがこうなったんだ。でも、君のいた社会だって、似たようなもんじゃなかったのかね。金持ほど有利だってのは、そう不自然なことじゃないんだぜ」 「でも、いつからこんな風なのだい」 「ずっと以前からさ。もとは単純なことさ。たとえば悪事を働いても、袖の下次第でどうにでもなるくらい世の中が腐ってしまっていれば、かえってそいつを法制化するほうがいいじゃないか。万引なら十ローン。殺しなら百ローンとね。袖の下を国に納めるわけだな。しかも、社会的に価値のある者なら、五百ローン出さなければ許可証がおりない場合だってある。貧之人は金持を殺したくてもあきらめるしかなくなる」 「借金してでも五百ローン都合して来たら……」 「警察が金持のほうへおきまりの通知を出す。八百ローンでこの申請をとりさげる、とね」 「八百ローンがないときは」 「逃げまわるだろうな。たいていは殺《や》られちまうがね」 「殺《や》り損なったら」 「許可料は戻っては来ない。それが国の大事な財源なんだ」  腐り切っている……はじめそう思ったが、腐り切った社会で何とか秩序を保とうとすれば自然そういうことになるだろうと気がついた。 「いい点もあるぜ」  ジャンは皮肉な喋り方になった。 「気軽に申請を出せない人間になればいいわけだ、ということは、所得を誤魔化さないほうがいいということになる」 「そうか。金より命だものな」 「そうだろう。したがって、我々の社会にはほとんど脱税というものがない。こいつは世の中を治める側にはうまい話だ」 「それがN・W体制というのかい」 「いや、N・Wはちょっと違う。J・Gたちは今のやり方をきちんと法律にしただけだ。こういうことは自治体単位ではずっと以前から行なわれていたのさ」  はじめは自然に発生した制度らしい。 「じゃあ、N・W体制というのは」 「すぐに判るさ」  ジャンはそう言って話を打ち切った。  あたりの様子が変わって来ていた。前方に長い煉瓦《れんが》の壁が見えはじめ、その間が緑地帯になっていた。どうやらマックという男に近付いたようであった。     6  クリフォード・マッカーティの家は、まさに邸宅と呼べるしろものであった。広い庭と白堊《はくあ》の二階だての家が、煉瓦の長い壁近くにあった。 「中間地帯だぜ、あそこは」  ジャンが言った。 「壁の向こうはどうなっているんだ」 「N・W体制派の連中がいる」 「つまり支配者たちというわけだな」 「そうだ。中間の緑地帯は、本来は緩衝地帯だったんだが、今では両方の法律のトワイライト・ゾーンになってしまっている」 「どちらの力も完全には及ばないということか」 「そうだ。だが、壁の向こうの連中には用のない所だ。つまり、こちら側では一番高く売れる場所ということになるわけさ。もっとも、余り高くてマックのような男じゃなければ手が出ないが……」  ジャンはマックのことを言うたび、誇らしげになるようであった。 「壁の向こうの連中はどんな暮らしをしているんだ」 「知らないね」  ジャンは知りたくもないと言うようだった。 「君が持っている安全権というのは……」  私は話題を変えた。 「盗みや破壊行為、殺人を含めた暴力|沙汰《ざた》など四十八項目の申請可能な事柄に対して、あらかじめ抵抗を設定してあるのさ」 「抵抗をねえ」  私は抵当の聞き違えではないかと思ったが、ジャンはやはり抵抗と言ったようであった。要するに、ジャンは自分の店における犯罪行為を成立しにくくさせてあるのだろう。 「無銭飲食に対しても安全権があるんだぜ」  ジャンは私の顔を見ておどけた表情をした。私はたしかに、ジャンにとって儲《もう》からない客であった。 「金を払ったほうがよさそうだな」  邦子を見て言うと、 「お金ならあるわよ」  と笑った。 「百ローンほどね」  ジャンもうれしそうに笑う。 「釣銭がない」 「百ローンあると、どんな物が買えるんだい」  私は尋ねた。 「そうだな。五十ローンあればちょっとした住まいが持てるな。それに二十ローンたすと洒落た家具が揃う。残りの三十ロ—ンで三か月くらいは食って行ける」 「大金ね」  邦子は驚いたように自分の上着のポケットをおさえた。マックの邸宅の門が目の前にあった。 「ドーベルマンを飼っているのね」  遠くから走り寄って来る三頭の犬を見ながら邦子が言った。門は大きな両びらきの鉄格子であっだ。 「赤外線警報装置、監視カメラ……いろいろと揃えてある」  私たちはとざされた門の前に並んでいた。犬たちが内側でジャンに向かって鼻を鳴らしている。  どこかで犬笛が鳴ったのだろう。三頭のドーベルマンは一斉に門から少し退り、尾を激しく振りながら坐った。門があき、私たちが中へ入るとしまった。 「さあ、これでひと安心だ」  ジャンは白堊の建物に向かって歩きはじめながら言った。気楽そうにしていたが、自分の店を出て以来ずっと緊張していたらしい。 「安全権があるのはあの店の中だけなのか」 「そうだよ」  ジャンは当り前だと言うように私を見た。 「マックは何でそんなに儲けたんだ」 「ありとあらゆることさ。彼は天才だ」  ジャンはまた例の誇らしげな表情をした。邦子はからみ合うようについて来るドーベルマンの頭をなでながら歩いている。 「それじゃ番犬にならないな」  私はそう言った。 「俺がいなかったらいまごろ噛み殺されているだろうよ」  ジャンは真顔であった。  そのとき白堊の建物の扉があいた。 「あれはサムだ」  中から現われて私たちのほうを見ている男を、ジャンは顎でしゃくって教えた。 「執事か」 「まあそんなところだ」 「マックはいるんだろうな」 「いる」  ジャンは頷いた。 「よう、サム」  玄関の石段を登りはじめたジャンが言った。 「お珍しいですね」  サムは気の好さそうな男であった。私たちはサムの前を通って中へ入った。外見も立派だが、中はもっと豪華な家であった。  サムは静かに扉をしめると、 「マッカーティさんはすぐおりて参ります」  と告げた。  私と邦子はその豪華な家の中を眺めまわしていた。 「こんな凄いうち、私はとても住む気になれないわ」  邦子のそういう声が、やけに大きく響いた。 「マック、お連れしたぜ」  ジャンが言ったので気がつくと、二階から吹き抜けになったロビーへ、細身で面長の男がゆっくりおりて来るところであった。  黒いスラックスに白い上着を着ていた。額が広く、ちょっと険のある顔だちであった。  マックはジャンに顎をしゃくって見せた。ジャンは頷いて階段と入口の中間にある木の扉をあけて中へ入った。私と邦子はマックを従える恰好でそれにつづく。  そこもかなり大きな部屋であった。三か所にソファーとテーブルのセットが置いてあって、私たちは窓際にある革ばりのソファーに腰をおろした。 「砂漠は向こうから来るときにだけ存在する」  マックはいきなり言った。余り唇を動かさない陰気な喋り方であった。かなり渋い声である。 「まず、なぜそれが判るのか教えてもらえるでしょうね」  私は鄭重《ていちよう》に言った。 「俺も向こうにいた」 「まあ」  邦子が言う。 「それじゃ、やっぱり宇宙人に」  マックは頷く。 「僕らもそうなのです」 「ヴォネガットを知っているそうだな」 「ええ。しかし、ここにいるヴォネガットが……つまりJ・Gが、僕の知っているヴォネガットと同じかどうかは判らないのです」 「たしかめたいか」 「ええ」 「拳銃|一挺《いつちよう》でか」  マックはジャンを見てかすかに苦笑した。私はジャンに借りた銃の重味を急に意識させられた。 「ここでヴォネガットに会うのは容易なことではない」 「壁の向こうにいるんでしょう」 「そうだ」 「壁を越えるにはどうしたらいい」  私はジャンに尋ねた。 「俺も越えたことはないんだ」 「何か方法はあるでしょう」  今度はマックに目を向けて言うと、彼は鋭い目で私をみつめた。 「ヴォネガットに会ってどうする気だ」 「さあ。しかしとにかく会いたいのです。N・W体制と言うのも知りたいし、それよりもここから脱出するにはヴォネガットに会うしかないでしょう」 「帰りたいのか」 「勿論ですよ」 「俺はここが気に入っている」 「私は帰りたい」  私とマックはしばらく睨み合っていた。 「手を貸して、俺にどんな得がある」 「それもこれから考えますよ」  マックは顔を露骨にしかめた。 「その喋り方をやめてもらいたい。ここはもっと粗野なところだ」 「それならそうする。僕も気が楽だ」  私はソファーにもたれて脚を組んだ。     7  私はマックとジャンに、亜空間へ連れ込まれることになったいきさつを、逐一説明した。 「すると、連中は君がどこから亜空間の情報を得たか、過去へ遡行《そこう》させて調べていたわけか」  ジャンが言った。 「そうらしい」  私が頷くと、マックは煙草に火をつけながらきっぱりと言う。 「違う」 「違うって、どう違うんだ」 「それだけじゃないと言うことさ」 「ほう」 「よく考えてみろ。君はなぜか亜空間のことを知っていて、それを自分の想像力だと思い込んで小説にしてしまった。宇宙人にとって、たしかにそれは興味あることだ、情報が洩《も》れていたのだからな。しかし、その漏洩《ろうえい》ルートを調べると同時に、君を向こうから引き離すことも必要だったのだ。君はあらかじめ覚悟すべきだったんだ。亜空間の存在を知っている人間を……宇宙人がそれを作ったことや、彼らが地球に対して何か企んでいることを知っている君を、向こうの社会に野放しで置いておくわけがなかろう」  私はマックが正しいと思った。 「たしかにそうだな。しかし、それならなぜ彼女まで連れて来たんだろう」  邦子が頷く。 「判らん」  マックの目がキラリと光ったようだった。 「ひとつ考えられることは、漏洩ルートを宇宙人が発見したかも知れんということだ」 「発見した……」  私ははじめマックの言うことがよく判らなかった。しかし、マックの視線が邦子に注がれているのに気づいて声を高くした。 「まさか」 「しかし、それなら彼女がここにいる理由がはっきりする」 「君が僕に教えたのか」  私は邦子をみつめた。 「あたしが……知らないわ」  邦子はうろたえた。 「知るわけないでしょうに」 「判らんぞ」  マックが言う。 「君らは以前一緒に暮していた。その間に何かを喋ったのかも知れん」  私は考え込んだ。邦子からあの小説のヒントになる何かを聞いたかどうか、思い出そうとしていた。しかし、思い当たることは何もなかった。  そのときマックが急に目をあげて窓の外を見た。聞き耳をたてていたようだった。 「客だな」  ジャンは腰をあげ、素早く窓際へ行った。私の耳にも、はっきり車のエンジンの音が聞こえて来た。 「誰だ」  マックが坐ったまま訊く。 「判らん。しかし検察局の車だな。あれは」  するとマックは大声で、 「サム」  と執事を呼んだ。 「ご用ですか」  サムはすぐ現われた。 「この二人を別な部屋へ案内してくれ」  そう言って私と邦子を見た。 「決して顔を出すな。かくれていろ」  私たちは急いで立ちあがった。 「こちらへどうぞ」  サムはいま入って来たドアをあけ、ロビーへ出ると階段を登って二階へ私たちを連れて行った。  客用の寝室なのだろう。ツインのベッドを置いた、清潔で明るい部屋だった。 「しばらくお静かに願います」  サムはそう言って出て行った。  私と邦子は窓際へ行き、カーテンのすき間からそっと外をのぞいた。門があき、黒塗りの重そうな乗用車が邸へ向かって来るところだった。 「検察局とか言っていたな」 「ノヤマと言うあの男じゃないかしら」  邦子はそう言ったが、勿論判るわけもなかった。 「言われたとおりじっとしていよう」  私は窓から離れてベッドに腰をおろそうとした。 「だめ、坐っちゃ」  邦子がとめた。 「なぜだ」  私はおろしかけた腰を浮かせて訊いた。 「家探しをされるかも知れないじゃないの。ベッドはすぐ跡がつくわ」 「用心深いんだな」  私は化粧台の椅子に坐った。 「私たちのことで来たんじゃないかしら」  邦子は心配そうに窓をのぞいている。 「そうかも知れん」 「外に警官を乗せたバスみたいな車がとまってるわよ」 「どうともなれだ」  私は覚悟をきめた。 「それより、さっきマックが言ったことだがね」 「私が教えたと言うのね」 「君は意識しなくても、マックの言うように何かを僕に与えた可能性はある」 「私には見当もつかないわ」 「君と僕とは随分前に別れた。そのあと、僕には何人かの女性がいる。……なぜ急に電話をする気になったんだ」 「言ったでしょう。宇宙人にあやつられていたのよ」 「問題はそこだ。なぜ君でなければいけないんだろう。君以外の女性でもよかったはずじゃないか。そんなに大勢いたわけじゃないが、それでも僕にとって君と同じような関係の女性は何人かいる」 「モテるのね」  邦子はからかうように言った。 「ここで皮肉を言われてもはじまらない」  私は苦笑した。 「あたしに訊くより自分で考えなさいよ。なぜ亜空間要塞なんて変な小説を書いちゃったの。それこそ、ほかにもっと書くことがあったでしょう」 「そいつが判らないから苦労してるんだ」 「あたしもおなじよ。あなたが判らないのに、あたしには判れと言うの……」  行きどまりであった。私はあきらめた。 「もしかすると君は宇宙人なんじゃないかな」 「悪い冗談を言わないでよ」  邦子は即座に言った。 「なんで宇宙人は亜空間などを作ったのだろうな」 「知らないわ」 「地球を侵略する気なのかなあ」 「あなたならどうする」 「どうするって……」 「小説でよ。地球に亜空間要塞をとりつけた宇宙人がいるとして、どんな目的でとりつけたことにするの」 「やはり侵略かな」 「頼りないSF作家だこと」 「うん、やはり侵略しかテがなさそうだよ。だって、亜空間要塞と、要塞なんて言葉を使ってしまっているものな。要塞である以上戦争が必要になって来る。地球へ親切をしに来たのなら、要塞なんていらないわけだ」 「自分たちの経験があなたの小説そっくりだったと言う人たちはどうなの。その人たちもこちら側へ来たんでしょう」 「そうだ。奴らもここへ来たわけだな」 「じゃあやはりジャンやマックに会ったわけね」 「そんなことは言っていなかったぞ」 「おかしいじゃない」 「そうだな。奴らはロスボやワイナンや、トランシルヴェニア鋼鉄都市そっくりのところへは行ったと言うが、あんな妙な都会のことは言わなかったよ」 「じゃあ、ここはその人たちが行ったところと違う場所なわけね」 「そうなるかな。いや、一概には言えんな。僕は、亜空間は宇宙人が必要とする、いろいろなタイプの世界に仕切られているように書いたんだ」 「すると、そのひとつであるこの世界へは、三人は来ていないわけになるわね」 「うん」 「なぜ……」 「知らないよ。しかし、もしそうだとすれば、僕が書いたとおりにはなっていないわけだな」 「いやになるわね。判らないことばっかりで」 「まったくだ」 「下では何をしているのかしら」 「それも判らない」  私と邦子は顔を見合わせて、声をたてずに笑った。  その時階下からピアノの音が聞こえて来た。 「うまいわね」  邦子が感心した。彼女も少し弾くのだ。 「そう言えばマックって、ちょっとボギーに似ていると思わない……」  邦子がそう言ったとたん、ノックもなしにいきなりドアがあいた。  マックの陰気な顔が見えた。そのうしろでニヤニヤしているのは、例の検察局の部長とか言う、ノヤマであった。 「君らはこれから壁の向こうへ行く」  マックがそう言った。  壁     1  邦子は階段のところまで行ってから、急に足をとめ、振り返ってマックに鋭い声で言った。 「私たちはこれから壁の向こう側へ行くのね」  マックは驚いたような目で邦子をみつめている。 「大丈夫なの」  邦子の言い方には非難の調子がこめられていた。マックは黙ったまま、まずちらりと私の顔を眺め、次にその視線を階段の途中にとまって私たちをふり仰いでいるノヤマに移し、最後に階段の下にいるジャンでとめた。  マックはジャンをみつめたまま頷いてみせる。 「本当……」  邦子はマックの視線に誘われたように、階下のジャンをみつめて言った。  ジャンは広いがっしりとした肩をすくめて見せる。 「行って見なければ判らんさ」 「頼りないのね」  邦子は、今度は階段の途中のノヤマに視線を移して言った。 「あなたがた、私と彼をあいだにして、どんな取引きをなさったの」 「別に取引きだなんて、奥さん……」  ノヤマはわざとらしく呆れて見せる。 「我々はあなたがたを招待することに決めたのですぞ。客として来ていただくのです」 「本当……」  邦子は疑わしげに言った。 「君らは彼に対して、すでに嘘をひとつついている」  マックは抑揚のない喋り方をしていた。 「ヴォネガットのところで会っていると言ったそうじゃないか」  マックは邦子に向けてそう言った。それは私がジャンの店でハッタリに使った言葉であった。  邦子はひるまなかった。 「私たちは困った立場に陥っているのよ。ここへだって来たくて来たんじゃないわ。だから別に嘘をついたとも思っていないのよ。急場を切り抜けるにはどんなことだってするわ」 「急場……」  ノヤマが聞きとがめた。 「しかし、嘘は嘘だ」 「そうかしら」  邦子は軽蔑《けいべつ》したように言う。 「たしかヴォネガットのところで会ったような気がすると言っただけよ。私たちはヴォネガットという人物を探していたし、あなたを見たらヴォネガットと一緒にいるときお会いしたような気がしただけなのよ」 「しかし、君らはヴォネガットに会ったことは一度もない」  私が口をはさむにはいいチャンスだった。 「それは君が知っているヴォネガットのことだ。つまり、ここでJ・Gと呼ばれている人物さ。僕らは違うヴォネガットを知っている。その人物とJ・Gが同一人物かどうか知りたいと思っているのさ」 「だったら黙ってついて来ればいい」  ノヤマは面倒臭そうに言う。 「ついて行くさ」  私は逆らわなかった。 「行くわよ。でも、マックに訊いて置きたいのよ。何かの取引きに私たちを使ったんじゃないの」 「そんなことはない」  ジャンが下から言った。それで邦子はまた歩きはじめた。階段をおりながら言う。 「ジャンの言うことなら信用するわ」 「それはどうも」  ノヤマがふざけたように笑う。 「彼らは君らを招待した」  マックが私に言った。私は素直に頷いた。 「でなかったら、ノヤマは君ら二人を壁のこちら側で監禁することもできるし、場合によっては殺すことだってできるんだ」 「理由は」  邦子が尋ねる。 「嘘さ。嘘をついた」 「なるほどね」  邦子もノヤマに敗けないくらい、意味のとらえにくい笑い方をしてみせた。 「で、こっちへ帰してもらえるのかしら」 「必要があればいつでも……」  ノヤマは馬鹿丁寧に言い、ドアのノブに手をかけた。 「我々の招待をお受けいただけるでしょうな」  邦子も芝居がかって答えた。 「ええ、うかがいますわ」  ドアがあき、私たちは外へ出た。     2  黒塗りの、四角ばった大型乗用車のシートに納まってノヤマが言った。 「ここは汚い世界ですよ」  車の右側の窓から、くろずんだ街の外側が見えている。左側はえんえんと、煉瓦の壁が続いている。 「人間の屑《くず》どもが住んでいる。手がつけられぬほど腐った連中ばかりです」 「そんな風にも見えなかったがなあ」  私は街を見て言った。道は緑地帯に沿ってどこまでも続いている。 「コソコソと下らんことばかりたくらんでいる。犯罪者ばかりですよ」 「なんでも金次第だそうですね。あのジャンという男に聞いたんだが」 「殺人、強盗、婦女暴行……なんでも金で買えます。或る種の人間には天国でしょうな」 「なぜそんな妙な法律を作ったのかしら」  邦子はお前が悪いのだと言わんばかりにノヤマをみつめた。 「我々は、一時小康を保つためにそういう法を施《し》いたのです。そうでもしなければ、連中は際限もなく殺し合っていたでしょうな」 「それで、街から犯罪は減りましたの」 「ええ」  ノヤマは自信たっぷりに頷いた。 「無許可で盗んだり殺したりする者はほとんどいませんよ」 「許可がおりればやっているわけね」 「合法的なものです」 「壁の内側も同じ法律なの」  するとノヤマは嘲《あざけ》るように笑った。 「とんでもない」 「あら、違うの」 「違いますとも」  車は兵士をのせたトラックをあとに従え、二、三台のオートバイに先導されながら壁ぞいに進んで行った。曇った空の下に、壁の切れ目が見えて来た。  壁の切れ目。  まさにそれは切れ目と言うよりなかった。えんえんとつらなる煉瓦の壁が、その部分だけ欠け崩れていた。まるで爆破されたあとのように、無残な感じで崩れていた。崩れた幅は約二十メートルほどである。  私はその部分に何か異様なものを感じた。なぜか判らないが、この世の涯《は》てといったような、陰湿な、荒廃したものを感じたのだ。  その印象を生みだした第一のものは、壁の切れ目へ近づくに従って、緑地帯の様子が荒れた感じにかわり、赤黒い土が露出しはじめていたからである。植物は壁の切れ目に近づくに従って枯れはじめ、幅二十メートルあまりの切れ目の前では、完全に姿を消している。 「あれがゲイトですよ」  ノヤマは憂鬱そうな表情で言った。私もそういう表情に共感するものがあった。陰気な風景のせいだろうか。邦子も、私の左腕を胸にかかえこんで、体を堅くしているようだった。 「壁はいつこわれたの」  邦子はおぞましげな声でそう尋ねたが、ノヤマは答えなかった。 「まるで毒が流れ出した土地のようね」  邦子の表現は当を得ていた。煉瓦の壁が何かの毒によって崩れ落ち、あたりの大地がその毒に汚染されて植物の繁殖を許さなくなってしまったように見えたのだ。  しかしそれは質問ではなかった。ノヤマは依然として沈黙し続けていた。 「壁の切れ目は何か所ぐらいあるのかね」  私が尋ねるとノヤマはやっと答えた。 「ゲイトはここだけですよ」 「ふたつの世界をつなぐ唯一の通路というわけか」 「まあそうです」  ノヤマはゲイトと言ったが、少しもそれらしくなかった。第一、その壁の切れ目は崩れ落ちたままにされていて、そこをたまたま通路に使っているにすぎないようだった。  それにゲイトを守る兵士の姿も見えない。私がそれを指摘すると、ノヤマはやっと薄笑いして、内側に検問所があるのだと言った。 「こっち側の連中に対して、案外警戒がゆるいんだな」  私が邦子に言うと、ノヤマは意外そうに私の顔をみつめた。 「警戒……。連中がゲイトの向こう側へ行きたがっていると言うんですか」 「だって、街の連中は、いわば圧迫されているわけだろう。弾圧と言ってもいい。見たところそんな風に思えるぜ」 「なぜそう思うのです」 「壁で仕切ってとじこめられているじゃないか。壁の向こうはもう少しましな世界があるんだろう」 「たしかに、街よりはましです。しかし、街の連中が壁を越えたがっているなんて、聞いたこともありませんよ」 「でも、現に警備兵がパトロールしているんだろう。そのための中間地帯として、緑地帯が作られているんだろう」 「街の者が壁に近づくのは許されていません。しかし、許可証があれば別です。現にマッカーティ氏は緑地帯に住んでいるではありませんか」  私は言い敗かされたような感じで沈黙した。何かここには私がまだ気付いていない、特別なことがあるのだ。たしかに異常な世界だが、それはそれなりに、全体を何らかの筋が通っているに違いないのだ。その筋を発見すれば、どんな異常な考え方だろうと、私にも理解できるものがあるはずである。  車はスピードを落とし、オートバイがまずゲイトを入って行った。     3  壁の切れ目を通り抜けたとたん、私と邦子は思わず息を呑んだ。  ガラリと風景がかわっていた。ゲイトの内側に、泥でかためた灰色の小屋があり、その前に兵士たちが並んでいた。灰色の小屋は、何やらけものの巣じみている。形がまず異様で、底の丸い壺を伏せて置いたような形をしていた。私は、アフリカかどこかにある、原始的な住居を連想した。  オートバイの兵士たちは、壁ぞいに並んだトラックの列の間に自分たちの車をとめると、ぎごちない歩きかたで灰色の小屋の前に整列した兵士たちのほうへ戻って来た。私たちの車は小屋の前にとまり、何かを待っているようだった。 「見て、あの兵隊さんたち」  制服を着ているし、多分兵士なのだろうが、ひょっとするとそれは警官たちなのかも知れなかった。とにかく、その兵士たちを指さして、邦子が怯《おび》えていた。 「何がだ」  私はそう言って邦子が指さす兵士たちを見た。 「あ……」  私は無意識に前のシートにいるノヤマの肩をつついた。 「これは……いったい」  ノヤマは振り向いて笑顔になった。 「何に驚いているんです」 「人形じゃないの」  邦子が震え声で言った。 「人形……。アンドロイドと言って欲しいですな」  ノヤマは私たちの驚愕《きようがく》ぶりを見てニヤニヤしていた。 「向こうで見たときはちっとも気がつかなかったわ」 「そりゃそうでしょう。こちら側は本当の世界ですからな」 「本当の世界……」 「ええそうですよ。あの兵士たちは、こちら側ではただの道具にすぎません。消耗品ですよ。しかし、壁の向こう側では生きた本物の人間として動くのです。腐った世界では人形まで本物のように見えてしまうのです」  アンドロイドの兵士たちは、うつろな目を正面に向けてじっと動かなかった。 「いったいどうなっているのだ。煉瓦の壁は便宜的にひとつの土地をふたつの地区に区切っているのではないのか」 「壁は内側と外側を決定的に分けるものですよ。ふたつはまるで別な世界です」  灰色の小屋から、アンドロイドの兵士ではなくて、腰の曲った老人が出て来た、首に太い金鎖をかけ、鎖の先には黄金色に光る丸いメダルをぶらさげている。  老人は車の前にまわって、私たちのほうを向くと、口の中で何か呪文《じゆもん》のようなものを唱えはじめた。両手をしきりに動かして何かしている。 「あれは何のまじないだね」  私が冗談半分に言うと、ノヤマはおそろしく真面目な表情で、 「こちら側ではそういう言葉は慎んだほうがいいですよ」  と言った。 「まじないをからかったりするなと言うことかね」 「そうです」  ノヤマはなぜか少し気を悪くしたようであった。  老人のまじないが済むと、車は走りだした。もう前衛も後衛もなく、私たちの車一台だけが広い野原の中の道を走って行った。  豊かな、とは少し言いにくいかも知れないが、とにかくそれは田園地帯であった。畑が続き、こんもりと木の生い茂った丘があり、遠くに濃い緑の森があって、曲りくねった小川が幾筋も流れていた。 「こっち側も街だと思っていたわ」  まったく、邦子が言うとおりだった。壁の内と外でこれほど世界が異るとは思ってもみなかった。 「高度な機械を使っているくせに、なぜこんな田園風景を残しているんだね」  なんと、道さえろくに舗装されてはいないのだ。私はそれをこちら側の政治の方針によるものだと思っていた。 「高度な機械……」 「そうさ。アンドロイドを使役しているじゃないか」  するとノヤマは擽《くすぐ》ったそうな表情になった。 「そう、高度と言えば高度ですな」  そこで私は気がついた。私たちの車を運転している者も兵士の制服を着ていた。 「おい、彼もか」  私はノヤマに顎をしゃくってみせた。 「ええ」  ノヤマはニヤリとした。 「畑で働いている農夫たちはどうなんだ。まさかあれもアンドロイドでは……」 「たいていはそうです」 「まあ」  邦子はあらためて窓の外を眺めた。あちこちに粗末な服を着た農夫の姿が見えていた。  私は早くこの世界を理解しようと、一生懸命自分の先入観を追い払った。アンドロイドが小作人のように田園で追い使われる世界を想定したことは一度もなかったのだ。アンドロイドが登場すれば、それは高度に機械化された未来都市の中であった。|走 路《ベルト・ウエイ》があり、警官は麻痺銃《まひじゆう》を持ち、テレビ監視網が張りめぐらされ、コンピューターが支配するような社会だ。  しかしここは違っていた。未来都市どころか、ひどく中世的な感じなのである。その中にアンドロイドたちがいるということが、私を得体の知れぬ不安におとしいれていた。     4  山が近づいて来た。  道はかなり大きな川に沿って曲りくねった揚句《あげく》、深い森の中へわけ入っていた。 「森の奥に湖があるのです。今の川はその湖から流れ出しています」  ノヤマが教えてくれた。 「さっきの村に教会のようなものがあったけれど、ここの宗教はどうなっているんだね」  私はあたりの景色にもなれて、少し落着いて来ていた。 「あの村は皆|敬虔《けいけん》なクリスチャンですよ」 「クリスチャン」  私にはその答が意外だった。 「そのほかの宗教も許されています。信仰の自由は確保されているのです」 「お城だわ」  邦子が前方を見て言った。修学旅行の女学生のように弾んだ声であった。 「山全体が城になっています」  山は森の奥にそびえ立っていた。ごつごつとした岩山で、その地形を生かした中世風の城は、難攻不落に思えた。 「城の名は」  私は何気なく問い、ノヤマも何気なく答えた。 「ナン・タウアッチ城」 「なんだって……」  私は叫んだ。車が大きく右にカーブし、邦子が私に倚りかかって来た。 「ナン・タウアッチ城ですよ」  私はすっかり忘れていた。ここは亜空間なのだ。そして私は、自分が書いた亜空間要塞という小説のために、この世界へ連れ込まれているのだ。 「まさか……」 「まさか何です」  ノヤマは鋭く問い返して来た。私の態度に警戒したのだろう。 「湖だ。その湖は、もしやナン・マタル湖と言いやしないかい」 「そのとおりです」  ノヤマはますます警戒の色を強めた。 「なぜ城や湖の名を知っているんです。街の連中は知らんはずですぞ」 「知っているんだから仕方ない。ヴォネガットという名を知っているのと同じことだよ。ただ、私が知っているナン・マタルやナン・タウアッチと、ここのそれが同じものかどうかは別問題だ」  ノヤマは鼻を鳴らした。よく理解できないらしい。 「とにかく、すぐ城に着きます」  車は急な坂をガタガタ揺れながら登って行った。道はどこまで行っても舗装されていなかったし、すれ違う車も見なかった。  アンドロイドなどがあるのに、ひどく遅れた感じであった。 「国の名は」  私は唾を呑みこんでまたノヤマに訊いた。 「国……」 「国で悪かったら、この地方とか、この世界とか言い直してもいい。とにかくあの壁からこっち側のことさ」 「ああ……」  ノヤマは頷き、私の反応をたしかめるように、顔をみつめてゆっくりと言った。 「メタラニム」 「やっぱり……」  私はため息をついた。 「どうかしましたか、その名が……」 「判らん。もうひとつ教えてくれ」 「何です」  ノヤマは好奇心を抱いたようであった。 「ここに宇宙人の話はないのか」 「宇宙人……」 「他の星の知的生物のことだ。異星人と言ってもいい」  ノヤマは笑った。 「火星のタコのことですか」  その程度のものらしい。私はがっかりした。 「では、亜空間について何か知ってるか」 「亜空間……判りませんな」  ノヤマはつまらなそうな顔になった。  車は坂を登り切り、みあげるような巨大な城前に近づいていた。城門は開かれており、人影は見えなかった。 「淋しそうなお城ね」  邦子が言った。 「そうでもありませんよ」  ノヤマが答える。 「この城のあるじがJ・Gなのか」 「そうです」 「ヴォネガットはなぜJ・Gと呼ばれているんだ」 「J・Gは称号です」 「どういう素性の男なのかね」  ノヤマはその質問を拒否した。はっきりと肩をすくめて見せる。  車はその間に城門をくぐり、タイヤを軋《きし》ませて幅広い石段の前にとまった。どこからか少年たちが駆け寄って来て、左右の車のドアをあけた。 「ご苦労さん」  私は車を降りるとき、制服を着た運転手の肩を叩いて言ってみた。案の定、運転手はまったく反応を示さなかった。そこで降りてから私は車の前へまわり、フロントのガラスごしにその男の顔をのぞき込んだ。  うつろな動かない目を前方に据えていた。アンドロイドなのだ。 「そうよ。お人形の運転手さんよ」  邦子は冗談のように軽く言った。 「どうぞこちらへ」  少年たちは邦子の手をとらんばかりにして石段を登りはじめた。私もそのあとについて途中まで登り、振り返ってみると、あちこちの物かげで、貧相な男女がこちらを眺めているのが判った。  城     1  その城は遠望したときの感じよりずっと大きかったし、内部の構造は複雑をきわめていて、ノヤマのあとについて進んで行くと、すぐどのあたりに自分がいるのか、見当もつかなくなってしまった。  あちこちに動く人影のほとんどは、よく見るとアンドロイドで、本物の人間たちはごくまれにしか見ることができなかった。  それでも、やがて大きな広間に着き、そこの椅子のひとつに坐らされた。家具類はどれもどっしりと重そうで、革がふんだんに使われていた。 「いま執事長が来ます」  ノヤマは立ったままそう言った。  すぐに石の床に靴音《くつおと》が響き、グレイの寛衣を着た白髪の男が広間へ入って来た。 「ようこそ、ナン・タウアッチ城へ」  その男はうやうやしく私たちに言った。 「こちらはJ・Gに招待されたご夫妻だ」  ノヤマはそう言い、私に軽く頭をさげて見せた。 「後でまたお目にかかります。ちょっと仕事がありますので」  ノヤマはそう断わると足早に来たほうへ去って行く。私は少し心細くなった。 「大きなお城ですのね」 「はい、大きゅうございます。お飲物をお持ちしますが、何かお好みがございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいませ」  執事長と言うからには、大勢の執事たちがいるのだろう。 「何でも結構」  私は城の重厚な雰囲気に位まけしないよう、その執事長をただのボーイか何かのような目で眺めて言った。 「壁の向こうからではお疲れでございましょう。ひと休みなさいましたら、お部屋へご案内いたします」  白髪の執事長はそう言い、うしろを振り向いて何か合図をした。すぐに別な少し若い男が盆に冷たい飲物をのせて運んで来た。 「ではごゆっくり」  灰色の寛衣を着た執事長が去ると、飲物を運んで来た男もすぐそのあとについて行ってしまった。 「ナン・タウアッチって、どういう意味なの」  邦子がさっそくグラスをとりあげながら言った。 「知らんね。地名だよ」 「なぜ知っているの」 「例の亜空間要塞さ」 「ああ、またあれが出たの」  邦子はなんだというように軽く頷き、レモネードのような味のする飲物を口に含んだ。 「おいしいわ」 「今のところ、まずまずの待遇だな」 「ねえ」  邦子は声をひそめた。 「あの壁は何の為の壁なのかしら」 「そうだな」  私は考え込んだ。  どうも、ベルリンの壁のように、本来ひとつの土地を政治的に区切ったものではないようであった。 「ちょっと恐ろしい考え方だが、ひとつの答がある」 「何よ。言ってみて」 「たしかにあれは煉瓦の壁だ。乗り越えるには少し高いし、ぶち破るにはだいぶ厚い」 「そうね」 「俺は、あの壁の製作者のことを考えている」 「誰だと思うの」 「人間じゃないかも知れん」 「宇宙人」  邦子はさして驚く風も見せなかった。 「そうだ。そして、壁ははじめからこの世界に作りつけられている」 「まさか」  さすがに邦子は目を丸くした。 「いや、そうかも知れん。この世界……つまり亜空間の自然の一部なんじゃないかな」 「すると、あの壁は何の為なの」 「仕切りさ。壁は壁だよ。だが、ここではあの壁がまったく異るふたつの世界の境界になっているんだ。俺は似たような役目をする不可視の壁を小説の中で設定した」 「また亜空間要塞……」 「うん。逆戻りの壁と言うんだ。その壁の中の者は、絶対に越えることができないのさ。行こうとしても元の場所へ戻ってしまうんだ」 「変ね。それは小説の中のことだからいいけれど、あの壁はいくら高いと言ってもたかが知れてるわ。刑務所の塀《へい》だって、看守がいなければ乗りこえるのはそうむずかしくないはずよ。あの街に梯子《はしご》がひとつもないというわけはないでしょう。ジャンやマックはなぜ越えようとしないの」 「来たくないのかも知れない」 「なぜ」 「判らんよ」  そのあたりのことは、まだまるで見当がつかなかった。だが、緑地帯をこえて越境することはそうむずかしくはないように思えた。なぜこちら側へ来ないのか、その理由がよく判らない。 「何か深いわけがあるんだろう」  邦子はため息をついた。 「疲れたわ。体もだけれど、気分がね……」 「そうだろう。わけの判らないことばかりだからな」 「ねえ、戻れるかしら」 「あのホテルへか」 「そう。こんな面倒なことと早く縁を切りたいわ」  それは私も同感であった。     2  私たちは慇懃《いんぎん》だが愛敬のない若い男に案内されて、最初の広間からベッドのある二間続きの部屋へ移された。  その若い男も、この城の執事の一人らしかったが、アンドロイドではなかった。どうやらアンドロイドはもっと下等な仕事に従事しているようであった。 「どうぞおくつろぎください」  その男が部屋から出るとき言ったので、私は少しきつい調子で尋ねてみた。 「いつまで待てばいいのかね」  すると男は一瞬戸惑ったように動きをとめ、 「手前には判りかねます」  と言って急いでドアをしめた。 「まあいいさ。いずれJ・Gの呼出しがあるはずだ」  私は気休めのように言った。 「私、バスを使わせてもらうわ」  部屋の中をあちこち調べてまわって見ていた邦子は、バスルームのドアをあけてほっとしたように言った。 「それがいい。少しのんびり構えたほうがいい」  私は邦子の肩ごしに浴室の中を覗《のぞ》き込んで笑った。 「もっとも、監視カメラぐらいは覚悟しておいたほうがいいぞ」  邦子も笑い返した。 「平気よ。宇宙人相手なら」  邦子は服を脱ぎはじめ、私はソファーへ戻った。  大きな窓が目の前にあった。知らず知らずのうちに、城のかなり高いところへ来ていたのが判った。ちょっと陰気臭い田園風景がひろがっていた。そして、そのずっと彼方に、赤黒い線が地平線のように伸びていた。 「壁か……」  私はつぶやいた。  いったい、宇宙人はどうやってこれから私を取り調べようというのだろう。秘密|漏洩《ろうえい》ルートと言ったところで、私にはまるで心当たりがないのだ。ただ、私は私の想像力にたよってあの小説を書いたにすぎない。  しかし、壁の向こうでクリフォード・マッカーティが言っていた。秘密は邦子を通じて私に与えられたのかも知れない……と。もしそれが当たっているとすれば、邦子が今度の事件に捲《ま》き込まれた理由が頷ける。  バスルームからは水音が聞こえはじめていた。私は彼女の裸身を思い出そうとしていた。バストは基部の面積が狭く、そのかわり高さがあった。頂きはいつもつんと突きだしていて、少し大きめであった。  下腹部や腿《もも》のあたりまで思い泛べてみたが、別れてからもうだいぶたっている。女の体はすぐにかわる。だいぶ脂がついて、もうすっかりかわってしまっただろうと思った。  あの、よく雨に降られた頃、いったい邦子は何を私に吹き込んだというのだろう。いくら思い出しても、さっぱり見当がつかなかった。だいいち、邦子はまるっきりのSF音痴なのである。それどころか、読書ぎらいと言っていい。もしそうでなく、仮りにSFについて私と多少なりとも語り合うような人間だったら、誰かの作品を自分で買って来て、気づかずにそれを私も読んでしまったということもあり得るのだ。それなら、邦子が私に何ひとつ語らなくても、のちに亜空間要塞のヒントとなるような作品を、いくつか私に与えることができただろう。しかしこの場合、そういう可能性はまったくなかった。  結局、J・Gに会うまで何も判らない。……私はあきらめてまた窓の外に注意を向けた。立ちあがり、首をつきだして左右を眺めた。  濃い森が城のある岩山をとりまいており、その中に川の流れが光って見えていた。ナン・マタル湖は左手に見えていた。もちろん城自体のかげになって、湖の全貌《ぜんぼう》は見ることができない。  私はムーン・プールがあるかも知れぬ湖の中の島を探した。しかし島はなかった。 「メリットか……」  私はつぶやいた。  エイブラム・メリットの作品群は、数多いSF作品の中でも、私が最も愛読している作品である。 「不公平だな」  私は苦笑しながらまたつぶやいた。亜空間要塞が宇宙人の検閲にひっかかるくらいなら、エイヴラム・メリットもまた亜空間に連れ込まれねばならないだろうに……。  それに、あの飯田敬一、大野志朗、加藤小吉の三青年は、いったいどうしているのだろうか。さんざん私の過去に出現して悩ませたくせに、肝心の亜空間へ来てからは全然姿を見せない。彼らは本当に亜空間へ行って来たのだろうか。私の作品そっくりの体験をしたというのは、でたらめではなかっただろうか。彼ら三人のこしらえた嘘ではなくても、宇宙人があの三人を私に対して使ったということはあり得るのだ。     3  まる一日、無為に過ぎてしまった。  私は翌日の昼ごろ、たまりかねて寝室にある呼鈴のボタンを押した。  すぐ若い執事が部屋へ現われた。 「君、いったい僕らは何日ここへ泊めておかれるのかね」  すると若い執事は丁寧に頭をさげて見せた。 「申し訳ありませんが、私どもには判りかねます」 「J・Gは私たちに会いたがっているのだろう」 「存じません」 「困るなあ」 「何か不行届きの点がございましたでしょうか」 「いや。食事も申し分ないし、ゆうべはぐっすり睡れたよ。しかし、いったいいつJ・Gに会えるんだい」 「今申しあげたとおり、手前どもには判りかねます」 「J・Gは何をしているんだ」 「存じませんです。はい」  私は腹をたてた。 「君じゃ判らんのなら、あの執事長に言ってくれ。いったい僕らはどうなるのか、それが知りたいとね」 「かしこまりました」  若い執事は慇懃なばかりで、まったくとらえどころがなかった。 「畜生、嫌な奴らだ」  私は邦子にそう言った。 「格式ばっているくせに、サービスが何だかちっとも判っていない田舎ホテルみたいね」  邦子はいいことを言ってくれた。まさにそういう田舎ホテルそっくりであった。  やがてその田舎ホテルのフロントマンがやって来て言った。 「馬車をご用意いたしました」 「何だって……」 「馬車でございます」 「馬車でどこかへ行くのか」  私はJ・Gに会いに行くのかと思って邦子と一緒に立ちあがった。いつでも会えるよう、昼前から仕度をしていたのだ。 「執事長がそのようにお取りはからいいたしました。ご退屈なようなので、少しメタラニムをご見物くださるようにと」 「冗談を言うな」 「はい」  若い男は無抵抗に頭をさげる。私と邦子は顔を見合わせた。 「いいじゃないの。出口があるわけじゃなし」  邦子が廊下へ出ようと歩きはじめた。 「そうだな」  私も不承不承《ふしようぶしよう》そのあとに続いた。若い男を先頭にして、私たちは長くややこしい廊下を下へおりて行った。 「出口なしか。まったくだな」 「部屋にとじこめられているよりはいいわ」  邦子は割り切っていた。 「でもな、一か月か一年か、この分じゃ見当もつかないぞ」 「仕方ないわよ。すべてそのJ・Gとかいう人しだいなんでしょう。もしかすると、J・Gじゃなくて宇宙人しだいということかも知れないし……」 「つまり、我々は彼らにすべてを握られているということか」 「私たちをここへ連れ込んだのは円盤よ。それを忘れちゃ駄目じゃないの。異常な事態なのに」  たしかに邦子の言うとおりであった。  最初に着いたあの石段のところへ出た。古めかしい石積みの城壁にとりまかれた石だたみの広場の中央に池があり、古風な二頭だての馬車がその池と石段の間にとまっていた。 「とにかく、亜空間に馬がいることが判った」  私はそれを見て笑った。私の小説では馬はいないことになっていた。 「どうぞお乗りください」  若い男がドアをあけて言った。私はその男と口をきくのも億劫《おつくう》な気がしたので、さっさと邦子を中へ押しこみ、自分も乗り込んで大声で言った。 「さあ、どこへでも連れて行ってくれ」  馬車はドキッとするほど大きな音をたてて動きだした。 「馭者《ぎよしや》はあの人形かしら」  邦子が急に気づいたらしく眉をひそめた。 「さあな」  私はアンドロイドかどうかたしかめようとしたが、背中だけでは人間とまったく見わけがつかなかった。     4  馬車は急坂を下り、森の道を長い時間かかってゆっくりと通り抜け、畑の中にかたまった最初の村にさしかかった。 「おい、とめてくれ」  私は教会らしい尖塔《せんとう》を見ると、そのほうへそれる細い道のところで馭者に命じた。  馬車はすぐとまった。 「少し見物して来るが、いいかな」  馭者はまったく答えない、身動きもしないのだ。 「なるほど、アンドロイドだったよ」  私は先に馬車から降り、邦子に手をさしのべて言った。 「やっぱりね」  邦子が私の手にすがっておりた。 「待っていろ」  私はアンドロイドの馭者に命じ、柔かい土の道を、邦子の腕をとって歩きだした。 「どうだい、ちょっといい気分だな」 「ええ。貴族になったみたい」 「領主さまか」  私たちは笑い合った。道の向こうから二人づれの農婦がやって来て、私たちのだいぶ先で道をよけ、うやうやしく頭をさげた。 「ご機嫌よう」  私はそう言って通りすぎた。 「ばかね」  邦子がたしなめた。 「なんて言えばいい」 「黙ってればいいのよ。せいぜい目礼を返す程度ね」  私はふり返って二人の農婦を見た。二人は案の定私たちを物珍しげに見送っており、私と目があうとまたあわててお辞儀をした。 「まるで中世だな」  私はゆっくりと歩きながら言った。  それはたしかにキリスト教の教会であるようだった。小さい木造の教会だが、先のとがった屋根の上に、白く塗った十字架がついていた。  黒衣の男がその入口から出て来て、私たちを待つようだった。 「牧師か」  私はささやいた。 「今日は、神父さん」  邦子が意外に明るい声で挨拶を送った。 「お城のお客さまですな」  神父は笑顔でそう言った。 「ええ。J・Gに招待されたんですの」 「ようこそおいでなされた」  神父はそう言うと、ひょいと腰をかがめた。とたんに雑草ばかりだった足もとの草むらに、小さな白い花が咲き乱れ、神父はそれを二、三本摘んで邦子に差しだした。 「歓迎のしるしです」  私は口笛を吹いた。 「凄《すご》い手品だ」  邦子は薄気味悪そうに白い花を受取り、じっとそれをみつめた。 「本物の花です」  神父はたのしそうに言った。 「わらくずには、いつかわるの」 「かわりはしません」  神父はたしなめるように言う。 「種も仕掛けもないというのか」  私は信じかねた。 「何をおっしゃる。誰だってこれくらいのことはできますよ」 「じゃ、彼女にもできるというのかね」 「やってごらんなさい」  神父は平然と言った。邦子はちょっと膝を折り、足もとの草を摘んだ。  雑草のままだった。 「花を考えてくださらなければ……」  神父は閉口したように苦笑した。 「花を考えるのね」  邦子はもう一度ゆっくりと雑草に手をのばした。 「あら……」  足もと一メートル四方ばかりが、赤い綺麗《きれい》なカーネーションで埋まった。私たちは呆気《あつけ》にとられてそれを見守った。 「ここは魔法の国らしいな」 「ほんと。ねえ神父さん、花以外のものでも作れますの」 「あなたの頭に泛ぶものでしたら何でも……」 「本当かな」  私は素早く小石を拾いあげ、軽く投げた。投げるとき、私は重い金のかたまりを想像していた。  ポトッと鈍い音がして、それは土の道の上へ落ちた。落ちて黄色く光っていた。 「まさか」  私は急いでそれを拾いあげた。小石は金塊になっていた。 「ほう……」  神父は目を丸くした。 「黄金を生みだせるとは、かなりの業《わざ》ですぜ」 「ふつうはできませんの?」 「なかなか……」  神父は首を横に振る。 「私にもできはしません。それができる人間は滅多におりませんからな。しかし、ご用心なされ」 「なぜ」 「悪者に狙《ねら》われますぜ。悪者でなくとも、出来心ということがある。人に知られるととんだ災難を呼び込むことになりますからな」  私はすっかり有頂天になっていた。今度はもっと大きな石を拾って同じことをやった。石はまた金になった。 「できるぜ」  神父は物欲しそうな目で私をみつめた。 「教会にご寄付いただけませんかな」 「いいですとも」  私はふたつの金塊を神父に渡した。  構 図     1  どこまで行っても、あの壁が視界の一部にあった。しかし、それを除けばのどかな田園風景であった。  実際、よく耕された土地であった。耕作可能な場所は、ことごとく人間の手が入っていて、多少陰気であることに目をつぶれば、その土地に好感さえ持てるほどであった。  馬車の走りかたも、その田園風景にふさわしく、のんびりとしたものであった。馭者がアンドロイドであるのも、なれればかえって好都合である。私と邦子はすぐ目の前に背中を見せている馭者に、何の気兼ねをする必要もなかった。 「魔法の国ね、ここは」  邦子はだいぶそれがお気に召したらしかった。馬車に揺られながら、気の向くままに、赤や黄色の草花を道ばたに咲かせていた。 「ねえ、どうして花には緑色のがないのかしら」  邦子がのんきなことを言った。 「そう言えばそうだな」 「黄色も赤も紫も、そうよ、黒だってあるじゃない。それなのになぜ緑がないの」 「咲かせてみるといい」  私はなんとなく面倒な気分になっていて、邦子に無責任な言い方をした。 「緑の花」  邦子は左手を前に出し、花の咲いた草の茎を持つような恰好《かつこう》にして言った。パッとチューリップが一本その手の中に生じた。 「やだわ」  邦子がおぞましげに言った。 「花がないじゃないの」 「あるよ」  私はその茎のてっぺんを指さして笑った。 「緑色のチューリップが咲いてる」 「あら、これ……」  邦子は近眼のように顔を近づけて見た。 「ほんとだわ。咲いてる……でも葉っぱみたいね」 「な……」  私は笑いながら言った。 「だから緑の花はないんだ」 「なるほどね。でも、それじゃ花は自分が花だっていうことを誰かによく知らせたくていろんな色をつけるわけかしら。いったい誰に……」 「哲学的だな」  私はからかった。 「誰にだって自己顕示欲があるのさ」 「花も……」 「だろう。だから緑色の花を咲かせる奴がいないんだ。葉っぱと同じ色じゃ咲いてもつまらない」 「花の自己顕示……」  邦子はそう言い、笑った。 「花のなんとかって、よくあるわね。何かの題名みたい」  ひとりごとのように笑いながら言うと、葉っぱだか花だかはっきりしないチューリップの花びらをむしりはじめた。 「来る……来ない……来る……来ない」 「よせよ、小娘じゃあるまいし」  最後の一枚が残った。 「来る……」  邦子がそれをむしり取って捨てたとき、右手の畑の中の道を、こちらへ向かって誰かがやって来た。 「おおい」  男だった。私たちを呼んでいる。 「とめろ」  私は馭者に命じた。すぐ馬車がとまる。 「本当に来ちゃった」  邦子は呆れたような顔をしていた。 「お城のお客さまがたかね」  その男は、ロビンフッドの時代の農夫の服装そっくりな恰好をしていた。英国製の貧之人だ。 「ああそうだよ」 「俺はこのあたりで石屋をやっている者だけど、あんたがた、この先ずっとここに落ちつきなさるのかね」  私は邦子を見た。 「そうならないように祈っているんだが」  すると石屋は舌打ちをした。 「なんだ、そうなのかね」  がっかりしたようだった。 「でも、なぜそんなことを訊くんだい」 「いや何ね、実はここに居つきなさるんなら、早いとこ墓石を買っておいてもらいたいと思って」 「墓石」 「ああ。俺は石屋だからね。いい石をいろいろとり揃えてあるんだよ」 「墓石なんて、あんまり早目に買うもんじゃないな」 「そうでもないよ。ここじゃみんな若い元気なうちに、自分の金で自分の墓石を用意するのがきまりさ」 「へえ、そうなのかい」 「ああそうだよ。死んだあとで人に墓石を作らせるのは恥かしいことだものな」 「それはそうかもしれないな」 「何しろ、明日のことはひとつも判ってない世の中だが、死ぬことだけははっきりしているものな。死ぬと判っていて墓の用意をしない奴は、いずれ死ぬことさえ頭にない大馬鹿者さ」 「そうよねえ」  邦子が感心したように言った。 「いずれ死ぬってきまってるのに、みんななぜそのことを考えずに生きているのかしら」 「きまっているからさ。きまっていることはつまらないんだ。はっきりしないことのほうが面白い。現に俺なんか、一生懸命本を読み漁《あさ》って、まだ判っていないことばかり探している。医学にしても、神経痛だとか……。あれはまだそれほど原因がはっきりしているわけじゃないんだぜ」  話が石屋の興味から外れはじめたと見え、彼は急に声を大きくして言った。 「墓石が入り用でないんなら、どうかね、俺にこの土地を案内させてもらえないかね」 「ああ結構だよ」  私は即座に答えた。なんとなく、その石屋に好感を抱いていたからである。 「この木偶の坊じゃ、ろくな案内もできまいからな」  石屋はさっさと車へあがって馭者のとなりに腰をおろした。 「まっすぐにやれ」  馭者に命令する。馬車が進みだした。 「これでも俺は少しはみんなより頭がいいと言われているのさ。もっとも、頭はいいけれどかわり者だとも言われているがね」  石屋は振り向いて言い、笑った。 「かわり者かね。どうかわっているんだ。そんな風にも見えないがね」 「たとえばさ」  石屋は右の人差指で鼻の下をひとこすりした。ちょっと得意そうである。 「いまあんたがたに言ったろう。この土地に住みつく気かって」 「うん」 「そんな風に思うのは、恐らく俺くらいなもんさ」 「なぜだい」 「だって、みんなはここよりほかに別な土地があるなんて、あんまり考えて見ないものな」  私は石屋が重大なことに触れているのに気づいた。ここは亜空間だ。私の推理が正しければ、それでなくとも大した大きさではない亜空間の、更に分割された小区画なのだ。ここにいる人間は、その小区画に自分たちがとじ込められていることに気づいていないし、従って別な世界の存在については、まったく意識しないでいるのだろう。  とすると、たしかにこの石屋は相対的に言って、非常に高度な認識を持っていることになる。 「壁の向こうは……」  私は緊張して尋ねた。 「壁かね。あれはこの世のおわりさ。向こう側はとまっているよ」 「とまっている……」 「ああ。時が流れていないのさ。時がとまっているんじゃ、この世じゃないよ」 「でも、俺たちは向こうから来たんだぜ」 「そういうことのようだが、向こうでも動いていられて、こっちでも動いていられるとなると、そのもうひとつ先から来なすったかね」  ひどく大ざっぱだが、この石屋は亜空間について何かしら悟っているらしかった。 「その先にも別な世界があると思うのかい」 「そりゃあるだろうさ。だって、あんたがたがいなさるし、お城にもあっちとこっちを往き来できるお方が何人かいるそうだからね」 「そういう連中の名を知っているかね」  私はさりげなく尋ねた。 「知らないね」  石屋の答はあっけらかんとしていた。 「お城のことについては、何ひとつ正確には判らないんだ。何ひとつ正確にはね。……そうさ、お城のことが判れば、それはこの世界というものが判るってことだからね」  石屋はこの世界と言うとき、はじめ空を指さし、次に右、左の順でちょっと妙な手の動かしかたをした。  まったく、それは世界を示す動かしかたとしては奇妙なものだった。石屋は天頂と左右の水平線を指で結んで見せたのだった。たしかにその形は三角形でしかなかった。     2 「停めろ」  私はしばらく黙り込んでいたあと、急にそう大声で馭者に命じた。石屋が振り向いて私をみつめ、邦子もびっくりしたような顔で私を見ていた。 「どうしたの」  アンドロイドの馭者が馬車を停めると、邦子が心配そうに言った。 「ちょっと口をはさまないでくれ。いいな」  私は邦子に念を押してから、石屋に尋ねた。 「君はなぜ俺達二人が城の客だと思ったんだ」  石屋はキョトンとしていた。 「たしかに俺達はあの城の客さ。とらわれているのかも知れんが、とにかく客は客なんだ。だが、君はどうして俺たちが城の客であるということを知ったんだい」 「なんだ」  石屋はびっくりさせるなと言いたげに微笑して見せた。 「かんたんなことさ。お城の連中はときどき見かけるから、遠くからでもだいたい見当がつくし、だいいちこの馬車はお城の馬車だ。こんな馬車を持っている奴など、お城の外にはいやしないさ。だけれど、あんたがたお二人はついぞ見かけたことがない。そんな服を着てる人間なんて、ここにはいやしないからね。……いや、変てこな恰好だと言ってるんじゃない。なかなか洒落《しやれ》てるよ。でも珍しいんだ。だから外から来なすった方だと思ったわけさ。外から来た人だとすれば、お城の客になる以外、ここにいられる方法はないものな」  なぜそんな当たり前のことを訊くのだというように、石屋は首を傾《かし》げた。 「外から来て城の客にならないとどうなる」  私がたたみかけて尋ねると、石屋はとうとう笑い出した。 「お城へ連れて行かれるだろうな。同じことだよ」 「この世界の外に別な世界があるということを、君はどうして知ったのだ」 「おやおや」  石屋は呆れて見せた。 「あんたがたがここにいなさるじゃないか」  正解だが、正解すぎて答になっていなかった。石屋もそれを自覚したと見えて、照れ臭そうにつけ加えた。 「これ以上くわしく説明しろと言われても無理なことだな。何しろ哲学的なことだからな。あんたがさっき言ったとおりに」  私はちょっとたじろいだが、話のポイントは別にあった。 「じゃ、別な話をしよう。もっとも、ちょっと哲学的かも知れんがね」  石屋は面白い冗談を聞いたときのように、ニヤリとして見せた。 「君はどこから来たんだ」  石屋はとたんにうんざりした顔になった。 「まったく哲学的だ」 「だが俺は本気で訊いている」 「そうだろうとも」  石屋は同情するように頷いてくれた。 「あんたがた、ここから出たがっていなさるんだ」 「そうだよ」 「でも、どこから来たと言われても俺には答えられないね。どこから来て、どこへ行くのか……いやはや、まったく哲学的だ」 「考えてみてくれ。ここへ来る前の記憶といったようなものはないのかい」 「生まれる以前の……」  石屋は目を丸くする。  邦子がとうとう我慢しきれなくなったらしく、いらいらしたように言った。 「あなた、いったい何を考えてるのよ」  私はそれを無視して続けた。 「何かかわった夢のようなものを見ることはないのか。まったく経験したことのないことを夢で見るとか」 「夢……」 「たとえば、海の上に船でいるとか」 「海……」 「うん、海だ。だって、ここには海はないんだろう」 「ああ、ないよ」  私はその返事でキッとなった。 「海のことは知っているのか」 「海くらい知ってるさ」 「でもこの世界にはない。この世界にない海を、この世界から出たことのない君がなぜ知っているんだ。おかしいじゃないか」 「でも、海くらいみんな知ってるさ」 「みんな……」  私はますます興奮した。 「ああ、そんなこと、常識だね。この世界には空と陸と海がある」  石屋はまた、世界と言うとき指で宙に三角を描いた。 「本で読んだのか。学校で教えたのか」  石屋はやっと私が何を追及しているのか気がついたようであった。 「本で読んだんでもないし、誰かに教わったんでもない。ただ、みんな知っているのだ、でも……どうして知っているんだろう。そう言えば、ここの人間は誰一人海なんか見たことはないんだ」  石屋は自分の知識の不自然さに気付いて愕然《がくぜん》としたようだった。 「いいか、落ちついてよく俺の質問に答えてくれ」  私はできるだけ冷静に言った。邦子は私が何かこの世界の秘密に気付いたらしいと悟って、それを黙ってみつめていた。 「まだ何かおかしなことがあるのか」  石屋はなかばおぞましげに、なかばは好奇心に煽《あお》られて私の顔を見た。 「君はこの世界をあらわすとき、どういう風にやるのかね」  それが私の最終的な質問であった。 「この世界をあらわす……」  石屋は呑み込めぬ様子だった。 「やってみてくれ。この世界はどうなっているんだ」  すると石屋は両手をひろげ、肩をすくめた。 「これだけのもんさ。見たとおりだよ。もっとよく知りたければどこへでも案内する」 「違う。たとえば、この世界はどんな形をしているんだ」 「かたちなんか……」  石屋は失笑した。そしてすぐ私が真剣に訊いていることに気がつき、表情をあらためた。 「もっとくわしく、わかり易く言って欲しいな」 「君はこの世界をあらわすとき、どうやるのかね」  石屋は首を傾げた。 「つまりその……」  石屋は私が待っていたことをはじめた。右手をあげ、人差指で空をさした。その指は急に下におりて真横をさし、次にその腕を胸の前へまわして、左側をさした。最後はもとの上に向かってのび、とまった。 「だめだ」  石屋は空へのばしていた右腕をおろして首を横に振った。 「ひとことでこの世界をあらわそうと言ったって無理だ。俺にはできないよ」  だが私は満足だった。必要なことを私は充分に見せてもらったのだ。 「もう君はやったよ」 「もう……」 「ああ、君は空を指さし、次に右の地平線、次に左の地平線を指さして、最後にはじめの空へ指を戻したじゃないか。今の身ぶりは世界をあらわしているんだろう」 「なんだ、そんなことか」  石屋は拍子抜けしたように苦笑した。 「それが重大なことなの」  邦子が訊いた。 「ああ、俺は亜空間の正体を見つけたぞ。畜生め、俺がSF作家でなかったら、いや、SFを読み漁るような男でなかったら、まるで見当もつかなかったろうな」 「何なのよ」  邦子は焦れていた。 「今の彼の手の動かしかたを見たかい」 「見てたわよ」 「何か感じたかい」 「ワルツの拍子をとるみたいだったわ」  私はパチンと指を鳴らした。 「そいつさ。ブン、チャッ、チャ、ブン、チャッ、チャ……」  私は右手をワルツのリズムで動かして見せた。 「三角だろ」 「ええ、ワルツは三角よ。小学校で教わるわ」 「彼はこの世界を三角であらわしているんだ。なあ君、ここの人はみんなこの世界をあらわすとき、今のような身ぶりをするのかい」 「まあね。だいたいそうだ」 「なぜだ。俺たちは、世界は丸いと思ってやしないか」 「そうね。丸か、球」 「そうだろう。だがここは三角で示す」 「どうしてかしら」  邦子は首をひねった。 「三角だからさ」 「え……」 「この世界は三角なんだよ」 「まさか」  邦子はあたりを見まわした。 「見たって判るもんか。しかし、この亜空間は三角なんだ。ひょっとすると三角錐《さんかくすい》かな。三角柱ということはないと思うんだが……」 「何のことを言ってるのよ」  邦子は私が何を言おうとしているのか、まるで見当がつかない様子だった。 「なあ君」  私は石屋に言った。 「君は自分がこの世界にとじこめられているのだというようには感じたことがないかね」 「とじこめられている……そうだな、特にそうも思わないが、何か自分を縛りつける力があるようには思うな」 「どういうようにだ」 「つまりその、何かになりたくてもなれないとか、したくてもできないとか……ひとことで言えば運命みたいなもんだけれど、とにかく生れてから死ぬまで、何か大きな力に支配されてしまっている感じはする」 「そいつをたしかめる気はないかね。君を支配している力がどんなものかを」 「運命のからくりを見せてくれるというのか」 「運命なのか、それともただ一人の人間が支配しているのか……たとえばJ・Gのような男が……」  石屋は目を輝かした。 「誰かにやられているんだったら我慢ならないぜ」 「あるいは君は本来ここにいるはずの人間じゃなかったかも知れない。とじこめられていて、しかもそれに気がついていないのかも知れない」 「本当か」 「そいつをたしかめようじゃないか。とにかく俺たち二人は、さっき君が言ったように、外の世界からここへ連れて来られたんだ。少くとも俺たち二人はここにとじこめられている。だから脱出しなくてはならない」 「よし、力をかそう。本当を言えば、この世界にもう倦《あ》き倦《あ》きしちまっていたんだ。外へ出るチャンスが百万分の一でも、俺はそいつに賭《か》ける」 「有難う。じゃあ城へ戻ろう」  そう言うと私は馬車からとびおり、片手でやっと掴《つか》めるような石をひろうと、馬車の座席へ戻った。 「失敗したときには何もしてあげられない。礼は今のうちにしておこう」  そう言うと、私はその石を高く抛《ほう》りあげた。石は道ばたの柔かい土の上へ、ズボッという鈍い音をたてて落ちた。  今度は石屋がとびおりてそれを拾いに行った。 「金のかたまりだ」  石屋は私を畏敬のまなざしで見た。 「凄い術を使いなさる」 「城でもこの力が使えるといいんだが」  石屋は馭者台へよじ登り、アンドロイドに命じた。 「城へ戻れ」  アンドロイドはその命令どおり、馬車の向きを手ぎわよくかえた。 「何が三角なのかさっぱり判らない」  邦子は馬車が動きだすとすぐに口をとがらせて言った。 「SFなんて読んだこともないんだろう」 「もちろんよ」 「じゃあ判らんさ。だが、空飛ぶ円盤くらいなら知っているだろう」 「U・F・Oね」 「ああそうだ。とにかく、そういったわけのよく判らないことのひとつに、バミューダ・トライアングルと言うのがあるんだ」 「バミューダって、あの大西洋の島のこと」 「ああ。そのバミューダ島を含む海に、正体不明の三角形をした海域があるんだ。そこでは船や飛行機が、一瞬のうちにパッと消えてしまうことがよくあるんだ。しかも、乗組員はおろか、破片ひとつ残していないんだ。亜空間要塞は、この地球にとりつけられた宇宙人たちの基地だというのが俺の小説の骨子になっていた。そして今、彼がやった三角の身ぶりを見たろう。俺はそれでハッと気がついたのだ。三角……バミューダ・トライアングルの謎《なぞ》と亜空間要塞。ひょっとすると、ここはバミューダ・トライアングルと称される謎の空間の中なのかも知れないじゃないか」 「どうしてそんなことが判るの」  邦子は私に向かってつめ寄るように言った。 「判らない」  私は自信をもって大声で答えた。 「判りゃしない。だがそれ以外に何か考え方があるか。バミューダ・トライアングルがUFOと関係あるというのは、俺たちSFファンの間では定説のようなものなんだ。彼がこの世界を三角で示した。ここは亜空間要塞の中だ。……それで充分じゃないか。そう考えるほかに何かあるかい」  邦子は沈黙した。沈黙して右手を振り、道に色とりどりの花を咲かせていた。  破 壊     1  バミューダ・トライアングルと亜空間要塞を結びつけることは、SFファンなら至極簡単だろう。バミューダ・トライアングルにおける船舶および航空機の事故には常に電磁現象がともなっているというし、エレクトロニクスの専門家が、その海域に磁力と重力の 圧縮凝結地帯《レデユースト・バインデイング》 を発見したりもしている。  実は私も、亜空間要塞という作品を書きはじめるとき、魔の三角地帯とも呼ばれるバミューダ・トライアングルを亜空間要塞が存在する場所として想定していた。  二代目SFマガジン編集長、森優氏とそのことで話し合った憶えもある。バミューダ・トライアングルと言えば、これはもう森優こと南山宏の専門領域というわけで、そのほうのデータ提供を要請したのだ。  だが、亜空間要塞では遂にバミューダ・トライアングルの件は出ずじまいだった。続篇を書くつもりだったし、バミューダ・トライアングルは次の機会でみっちり書き込んでやろうと思っていたのだ。  それが、あの飯田敬一たち三人組の出現から、自分の書いた小説の一部が事実となって私に逆襲をはじめ、とうとうこの亜空間へ連れて来られてしまった。その騒ぎの中で、私はバミューダ・トライアングルの件を忘れてしまっていたわけだが、いま石屋の手つきでやっと思い出したのである。  馬車は来た時と同じように、のんびりとした速度で城へ戻りはじめていた。この世界の住人である石屋を味方につけた私は、その馬車の座席で黙り込んでいた。興奮していて、喋るゆとりさえ失っていたのだ。  亜空間要塞、イコール、バミューダ・トライアングル。一秒ごとに確信が強まっていた。あの謎の海域こそ、亜空間要塞だったのだ。  私は自分の脳味噌に手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃ掻きまわしているような気分だった。突然あらゆることがはっきりしはじめていた。バラバラに置かれていたリングが、ひとつまたひとつとつながりはじめ、一本の鎖になって行くのだ。カチリ、カチリと、リングはつながってゆく。  なんと、亜空間要塞は実在したのだ。バミューダ・トライアングルは、宇宙人がこの地球の空間にとりつけた亜空間だったのである。  どんな方法で亜空間が作れるのか、もちろん私などに判ろうはずもない。しかし、電磁的な力を利用しているであろうことは想像できる。空飛ぶ円盤が現われると、同じような現象が見られるそうである。宇宙人たちは、電磁的な力をその主たる動力として使用しているのだろう。だから、亜空間の存在は、四次元への道が磁力や重力を自由に操作することによってひらかれるという、明白な解答でもあるわけだ。  そして更に、この事件に捲《ま》き込まれた私自身のことについて言えば、彼ら宇宙人は、私が亜空間要塞を小説の題材としてとりあげたことで、何らかの脅威、あるいは興味を感じたのであろう。  だから私の過去を調べたのだ。彼らは亜空間要塞の秘密がどこからか洩れたという疑いを持ったのだろう。いや、洩れたというケースを想定しただけかも知れない。洩れたとすればどこからか。……当然彼らはそれを突きとめようと試みたのだ。私の過去に遡り、のちに亜空間要塞という小説を書くことになる私に、そのヒントとなる知識を与えたのがどんな人物なのか、知ろうとしたのである。  とすると、飯田敬一たちの三人組は、私が書いたとおりの亜空間内部を経験してはいないのかも知れない。彼らは私に対する調査用の道具にされていたのだろう。小説・亜空間要塞の内容どおりだったと言わせることで、私とのっぴきならない関係が作りあげられるわけである。  とにかく、三人組は宇宙人にコントロールされていたのだ。と言うことは、またひとつの明白な解答を泛びあがらせる。それは、何かの理由で、宇宙人が直接我々地球人と接触することを避けているということだ。ひょっとすると、直接に接触することは不可能なのかも知れない。もしそうだとすれば、数多いUFOの目撃例の中から、宇宙人、或いは円盤搭乗者を見たり触れたりしたケースは除外してもいいということになる。だが円盤に搭乗していた生物らしきものを目撃したり、それに追われたりした報告の中には真実を語っているものもあるかも知れない。その場合でも、相手が本当の宇宙人ではなく、円盤が搭載して来た調査機器だったと考えることができる。その種の機器が人間に似た形態をとることは容易に想像できる。なぜなら、我々の宇宙船でも、船外で調査活動を行なう機材は、車輛《しやりよう》の形をとるではないか。それは我々より知能の劣る者が見た場合、多分昆虫に似ていると感じるはずである。宇宙船に乗って来た者は、地を這《は》う大きな昆虫のたぐいであったとする報告がなされるかも知れないのだ。だが、そのような調査活動に最も適した道具が車輛の形をとるとは断言できまい。技術が更に進めば、もっと動物に似た形をとるであろうし、最終的にはその天体での適者と同じ形をとらせることが、最もよい解答であるはずだ。  私は噴きあげるような興奮の中でそう考えていた。  だが、その人間に似た船外調査用機器でも、人間自体を調査するには能力が不充分だろう。我々自身を過大評価するわけではないが、いかに宇宙人といえど、この天体上での自然がもたらした最も複雑な生命形態を相手にするのだし、調査していることを気づかせずに何かしたいときは、いっそうそういう道具の使用はむずかしくなるに違いない。  その場合、人間自身を道具にするのではあるまいか。今度の私のケースだと、それが飯田敬一たち三人ということになる。私自身をそのままにして、彼らを使って私の過去を調べあげたのだ。だから、その調査がおわり、今度は直接亜空間内部へ私を移して調べる段になると、あの三人組はもう必要がなく、そのために私の前へは出現して来ない。 「奴らは見落としてやがる」  私は突然そう言って笑った。 「何を見落としているというの」  邦子がすぐ尋ねたが、私は答えなかった。私の頭脳は猛烈な勢いで回転しはじめており、邦子に説明してやるゆとりがなかった。  私の目には一人の男の顔が泛んでいた。その名は南山宏。本名森優。SFマガジン二代目編集長である。  バミューダ・トライアングルの存在をくわしく私に吹き込んだのは、南山宏であった。 「アメリカの東海岸沖合に、変な場所があるのを知ってるかい。……三角形をしているんだ。……百以上の船と飛行機がそこで消えてしまっているし、千人以上の人間が行方不明になっている。死体も見つからないんだよ」  死体がないわけだ。みんな亜空間にとじこめられて別な人生を送っているのだ。馭者台にいるこの石屋だって、もとは船乗りかも知れない。とにかくそれはたしかなことだ。みんなその三角形の海域へ入ってつかまり、ここへ送り込まれたのだ。だからみんな、海も見たことがないはずなのに海を知っている。  たしか、最近になって南山宏が翻訳した本に、バミューダ・トライアングルはUFO基地か四次元の断層かという言葉が使われていたはずである。どちらも正しいのだ。UFO基地は四次元の断層なのだ。  私にしてみれば、その本はやっと出て来たという感じであった。南山宏がバミューダ・トライアングルについて何か本を出すことは、もう随分以前から私には判っていたのである。 「あの宇宙人の畜生め」  私は自分が彼らにとらわれてしまっていることも忘れたように、しきりに痛快がっていた。  彼らは私を過去へ遡《さかのぼ》らせ、どこかに亜空間要塞の秘密を吹き込んだ人物がいないか調べていた。 「無駄なこったい」  私はまた言った。  小説を読むことさえ満足には許してもらえなかった私である。周囲にそんなSF的空間の存在を知る人間がいるわけはないし、ましてそれを教えてくれる人物など、あろうはずもなかった。  私が本格的にSF的世界へ没入しはじめたのは、ずっとあとになってからである。最初に書いた小説は第二回SFコンテストに出した「収穫」という作品だが、本当に自由に想像の翼をひろげはじめたと自覚するのは、「石の血脈」という長篇以後のことである。そして「石の血脈」は南山宏こと森優が書くことを許してくれたために出来上がった作品なのである。  バミューダ・トライアングルと亜空間要塞を結びつけたのはこの私だが、そんなことはSFファンなら誰だってやる。だが私にバミューダ・トライアングルを教えた人物となると、南山宏しかいないのだ。あの当時どこの雑誌がバミューダの件を記事にしてのせるものか。SFマガジンしかなかったのだし、その編集部にいたのが南山宏なのである。  結局、宇宙人のそうした調査というのも、マスコミにあらわれたものしか対象にできないというのだろうか。私はそう思った。亜空間要塞という小説が発表され、彼らの調査対象になった。しかし、バミューダ・トライアングルを扱った南山宏の本はそのときまだ出ていなかった。そのために彼らは南山の存在に気づかず、やみくもに私の過去を取り調べていた。 「いけねえ」  私は叫んだ。南山宏が危ないのだ。あの本は出てしまっている。彼と私のつながりは調べればすぐに判ることだ。 「おい、急いでくれ」  私は馭者がアンドロイドであることも忘れて言った。馬車は私の命令どおり、やや早く走りはじめた。 「何か判ったの」  邦子が訊いた。 「もう一人、ここへ連れ込まれそうな友達がいるんだよ」  すると邦子は眉をひそめて言った。 「友達って、平井さんのこと……」  邦子は敏感な女だ。私がSF仲間について何か考えはじめていたのを悟っているらしい。昔、邦子のいた店へ平井和正を連れて行ったことがあるのだ。 「あいつじゃない」  私は揺れる馬車の上で首を横に振った。 「亜空間のことなんて、あいつは書かない。彼が連れ込まれるとすれば、狼のところさ」  私はふと、本物の狼人間に連行される平井和正の姿を想像した。「狼の逆襲」というのを書けばいいのに。  城に近づいていた。     2  橋を渡り、城門の中へ入った馬車は、乾いた轍《わだち》の音をその石だたみの広場に溢《あふ》れさせて半円を描き、石段の前へとまった。石屋はここへ来るのがはじめてらしく、馭者台からさっととびおりると、物珍しそうにキョロキョロとあたりを見まわしていた。  私は馬車に乗ったまま立ちあがり、石段の上へ向かって大声で言った。 「帰って来たぞ。J・Gに話がある」  広場を石の壁がとりまいていて、私の声がふくれあがる感じで空へ消えて行った。 「J・Gに話がある」  また言った。だが城内は静まり返って人の動く気配もなかった。 「J……G……」  私はそう叫んだ。しかしやはり返事はなかった。  私は馬車からとびおり、邦子に手をさしのべた。邦子はその手にすがって馬車をおりながら、 「これからどうする気」  と訊いた。 「どうもこうもないさ。脱出しなければ」 「でも、どうやって」 「判るわけはないだろう」  私は笑った。こう見えても、居直れば一人前になれる。そして私は完全に居直っていた。もう反省も遠慮も謙遜《けんそん》もありはしなかった。駄目なら、けつをまくってさあ殺せと大の字になるだけだ。 「いいか、石屋」  私はちょっと怯えたようにしている石屋に言った。 「うまく脱出できたら、多分俺たちは海の上にいることになる。そしてあんたは泳げるはずだ」 「泳ぐ……」  石屋は目を丸くした。 「ああ泳ぐんだよ。あんたは多分船乗りなんだ。泳げるはずさ」  石屋は何のことか判らずに肩をすくめた。 「邦子もだ。お前は泳げたな」 「ええ。でも水着がないわ」 「ばか。水浴に行くんじゃねえや。……さて、向こうが出て来ねえんなら、こっちから探しに行ってやるか」  私はそう言って石段を登りはじめた。 「あの頃そんな風に勇ましければ別れなかったわよ」  どうやら邦子も居直ったらしく、そんな冗談を言って私のあとに続いた。 「三人じゃ心細いな」  石屋はやっぱりびくついていた。無理もない。私たち二人はよそ者だが、彼はこの世界に所属してしまっている。いわば領主に対する反逆者になろうとしているのだ。 「心配するな。こっちには魔法がある」  私は石屋をはげます意味でそう言ったが、言って見るとそれが本当のことらしいのに気がついた。 「そうか、俺は外から来た人間だな」  この亜空間では魔法のような力が発揮できる。まだたくさんためしてみてはいないが、石ころを金のかたまりにできるくらいなら、なんだってできるだろう。邦子も道に花を咲かせていた。きっとそれは、亜空間へとび込んだ外の者の特権のようなものではなかろうか。あの教会の神父が言っていたが、そういうことはこの世界では奇蹟でもなんでもないらしい。こしらえものの亜空間の中だから、人間の精神力が何か特別な働きをしてしまうのだろう。月の世界へ行けば、みんな怪力の持主になる。火星へ行ったジョン・カーターだってそうだ。亜空間ではそれと同じことが精神の面で起こるのだろう。私はまだ亜空間へ入ったばかりだし、その内部にとじこめておかれるための特別な処置も受けた憶えはない。 「丸腰で心細いなら剣でも握っていろ」  私は石段の上の床を指さしてそう言った。すると、カシャン、と音がして、そこに大きな剣がひとふりころがった。 「ベルヴェラスの山賊の娘が持っていたのとおんなじ奴だ」  私は笑いながら教えてやった。 「山賊の娘……」  石屋は剣を拾いあげて私を見た。 「ヴァレリアという名前さ」  私は顎をしゃくって、大きな木の扉を石屋にあけさせると、ゆっくり中へ入って行った。 「いいか石屋。ここにいる連中も、もともとはお前の仲間だ。やたらに剣をふりまわして殺したりするなよ」 「判った」  石屋はうしろでそう答えた。 「そうだな、パラライザーが要るな」  私はそうつぶやき、ひょいと右手を突きだしてみつめた。その右手が急にこころよい重味を感じた。私は自分が銃を握ったことを知った。しかもそれは麻痺銃である。相手を傷つけることなく行動の自由を奪える。仕掛けは知らない。だがそれは私の念力によって手の中にあるのだ。金塊にしたって、Auという記号以外、化学的なことについて私は何も知りはしないのだ。だが金は知っている。それで充分なのだ。ひょっとすると、絶世の美女だって目の前へ湧きあがらせることができるかも知れない。ただしそれは、私が見て絶世の美女だと思うだけだろう。ほかの人が見たらちっとも綺麗じゃなかったりして……。 「ほら、こいつを持ってろ」  私は振り返ってその銃を邦子に渡すと同時に、もう一挺《いつちよう》手の中へ出現させていた。 「あれ……」  振りむいたついでに石屋を見て私は驚いた。石屋が手にしているのは剣ではなく、短い棍棒のようなものであった。帆船のロープをとめたりするときに使う奴らしい。 「やっぱり船乗りなんだな」  それもかなり昔のだ。ひょっとすると石屋は黄金を積んだスペイン船のクルーだったのかも知れない。     3  私たちが城のあちこちを駆けめぐり、執事たちと渡り合った活劇は、ここではあえて省略することにする。それはあまりにも子供っぽく、そして一方的であった。私は南海の島にある領事か総督の館へしのび込んだエロール・フリンみたいだった。物かげから物かげへと走りまわって番兵を次々に倒し、ちょっとしたピンチにも見まわれるけれど、結局それを難なくきりぬけて、石屋と結構コミカルなやりとりもして、ハリウッド万歳という軽快なタッチの冒険活劇……。そんな場面を書きつらねると、照れてしまう。  要するに私たちは、城の地下深くへ通じる秘密の通路を探しあてたのだ。その通路の奥からは、プッシュボタン式の電話器を耳にあてがって、たえまなくでたらめにボタンを押しているような、妙にリズミカルな音が聞こえて来ていた。 「J・Gはこの奥にいるに違いない」  エロール・フリン……いや、私はそう言った。 「J・Gって、やっぱり人間かしら」 「判らん」  私はどんどん奥へ進んで行った。私のパラライザーは三流西部劇の主人公のものと同じ性能を持っていて、いくら撃っても弾丸切れを起こさなかった。  ゴツンと鈍い音をたてて私はうしろへひっくり返った。おでこをいやというほど何かにぶつけたのだ。 「おお痛《いて》え……」  私は額に手をやって押え、その手を見た。別に血はついていなかった。 「透明な壁がある。ガラスみたいな奴だ」  私は足をのばして探った。堅い壁があって、それが通路いっぱいにふさがっていた。 「行きどまりね」  邦子が透明な壁に触れて見て言った。 「爆破しよう」 「どうやって……」 「勿論爆薬でさ」 「ダイナマイト……」 「プラスチック爆弾でもいい」  私は必要なものを作りだした。 「さがっていろ」  邦子と石屋にそう言って、私は爆薬をセットしはじめた。 「それには及ばないよ」  突然そういう男の声がして、壁の手ごたえがなくなった。私は爆薬を持って前へつんのめりながら罵った。 「危ねえなあ、畜生」 「ごめん」  目をあげると、髭づらの男が立っていた。どこかで見た顔だった。 「君は……」 「そう、俺だよ」  それは私が親しくしている唯一の評論家で、競馬好きの男だった。 「だからあんな小説を書くなと言ったんだよ」 「君がJ・Gか」 「もっと早くに気がつくべきだったね」 「そうか畜生め、J・G・バラードか」 「どうだい、ずっとこっち側にいたら」 「いやだよ、帰してくれ」  するとJ・Gは髭づらをほころばせて笑った。柔和で案外いい男に見えた。 「監獄へ入れてきたえ直してやる手もあるんだよ」 「監獄……どこにある」 「ホーナンの監獄さ。でも、その必要もなさそうだ。たしかにここは亜空間だが、こっちへ来て以来君がやっていたのは、君自身のイメージなんだ。だいぶ暴れまわったようだね」 「今までのあれは、俺の内面……」 「亜空間では、自由に内面の旅をすることができる」 「いんなあ・とりっぷ……」 「君はそれをやっていた。じっくり拝見したよ。やっぱり君はニュー・ウェーブ派じゃない」 「あ……N・W体制というのは……」 「君は通俗の人だ。根っからの、生まれつきの、もうかたまってしまってどうしようもないくらいの、大通俗人間なんだな」 「ああそうさ。悪いか」 「悪くはない」 「自分だって競馬に狂ってるくせに」 「SFも競馬も同一の領域にある」 「勝手な理屈をつけやがって」 「競馬は最も具体的に明日を予測しようとする行為だ。俺は人間の想像力と射倖心《しやこうしん》について専門に調査をしている」 「宇宙人にたのまれてか」 「俺と彼らはうまく行っている。インナ・スペースで結ばれているのだ」  私はちょっと淋しくなった。宇宙人がいるならそうやって結ばれてみたかった。私にとって宇宙人は神に似ていたからだ。 「だが、俺には無理だな」 「亜空間とは、一人一人のインナー・スペースを解放する場なのさ。こっちへ来た連中はみんな幸福に過している。過去の人類の誰よりも幸福なのだよ」 「だが俺はいられない。ごらんのとおりだものな」 「うん」  彼は同情をこめて頷いた。 「魔法に活劇に人情ばなし。……君は帰してあげる。でも気をつけてな。伝奇ロマンなんて、所詮《しよせん》本道じゃないよ。君は小説さえ書いていれば楽しいそうだけれど、小説を書くということは、本当はもっと苦しいことなんだ。書いて苦しいような小説を書けるように努力して欲しい」  私は彼が好意で言ってくれているのがよく判った。 「やってみる。でも、そうか……SFマガジンも、いずれはN・W一色になってしまうんだな」 「もっと深味のある、人間の本質を追求するための作品が主流となるのは、はじめから判り切ったことじゃないか」  私は肩をすくめ、彼から目をそらして振り返った。 「あれ、邦子たちはどうした」 「邦子……」  彼は軽く笑った。 「あれは、君の言う嘘の中から出た人物だろう。会うたび雨に降られる美女なんて、君の人生に本当にいたのかい」 「消えてしまったか……」 「ああ、架空の人物だったからね」 「淋しいな」 「淋しいより、むなしいだろう」 「ああむなしいよ」 「嘘はむなしいもんさ。もっと本当のことを書くべきだね」 「俺にはできない。それより帰してくれ」 「ここはバミューダ・トライアングルじゃない。この地球上に全部で十二か所ある亜空間のうちのひとつで、日本列島と小笠原諸島の中間あたりの海域なのだ」 「海の中へ抛り出す気か」 「いや。君が書いたとおりに、伊豆の海岸へでも送り届けよう」 「そいつは有難い。でも、なぜ俺を連れ込んだりしたんだ」 「君の内面を知りたかったからさ。君ほど通俗的な人物でも、内面には別な貴重なものを秘めているかと思った」 「有難う。買いかぶってくれて。で、今後どうしたらいい。君が宇宙人の手先であることを、俺は知ってしまったぞ」 「かまわないさ。本物の亜空間があったとか、俺が宇宙人の依頼を受けた調査活動をしているとか言ったって、誰も本気にはしないよ。何しろ嘘の専門家だからね、君は」 「面白い。それじゃ、ありのままを書いてもいいんだね」 「いいよ」 「よし、書いてやる。一ミリ四方の嘘もない奴をな。タイトルは亜空間要塞の逆襲とかなんとか……」 「どうぞ」 「本当に書くぞ。俺が体験したことをそっくりそのまんま……」 「かまわないよ。さあ、そろそろ帰してやろうじゃないか」  彼は通路の奥へ引きかえし、私はそのあとにつづいた。 「ひとつだけ約束してくれ」 「なんだい」 「これから伊豆の海岸へ戻るあいだの仕掛けだけは秘密にしておいて欲しい」 「それくらいならいいさ。でも、そいつを秘密にするかわり、金を少し貸してくれないか」 「金。……いくら」 「ホテルから連れて来られたろう。帰りの車代がないんだ」 「電車賃くらいなら貸してやるよ」  彼はポケットから金を出して私に渡した。 「有難う。あとで返しに行く。でも、書けない部分があるというのは残念だな」 「いま約束したじゃないか」 「守るよ。でも、どうやって亜空間から戻ったのか、知りたがるファンもいると思うんだ。そういう人には私信のかたちでなら教えてやってもいいかな」 「手紙ならかまわないだろう」 「で、宇宙人にはお目にかからせてもらえないかね」 「そいつは無理だよ」 「じゃ最後にひとつ……。南山宏はどうする気だ」 「彼はいずれここへ来ることになっている」 「俺と同じようにか」 「君よりは豊かな内宇宙を持っていると期待しているんだ」 「ちぇっ、勝手にしろ」 「じゃあ、気をつけてな。もっといいものを書くように努力しないと、もうすぐ本物の小説しか読まれない時代になるよ」 「やっぱり芸術でないと生き残れないのか。でも、そうなったらまたバーテンでもやるさ。古きよき時代をなつかしむってのが、俺の性《しよう》に一番ぴったりしてるんだよ」 「さようなら」 「また競馬場で会おう」  私は送り出された。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 (角川書店編集部) 角川文庫『亜空間要塞の逆襲』昭和52年9月15日初版発行               昭和55年7月30日9版発行