半村 良 不可触領域 目 次  不可触領域  虚 空 の 男  不可触領域   第一章     一  その日、伊島が高嶺温泉から中原市へまわったのは、駒田敬子が中原市の伯父の家へ来ているせいであった。  敬子の伯父は、中原市の市会議員をしており、家業はそのあたりの素封家に多い木材商であった。  その駒田嘉平と伊島は、すでに東京で三度ほど会っている。  敬子の父親は八年前に死んでいて、それ以来伯父の嘉平が後見人のようなことになっていたから、敬子と婚約した伊島が彼に会ったのは、ごく自然のなりゆきであった。  伊島と駒田嘉平は、初対面からなんとなくうまが合った。どちらも商売が建築に関係していたし、釣りやゴルフなどの趣味でも話が合った。海よりは川の釣りが好きで、ゴルフの腕前も似たようなものらしかった。  伊島と敬子の恋がはじまったのは、二年ほど前である。敬子の母親の久江は、はじめの内あまりいい顔をしなかったらしいが、駒田嘉平が伊島に会ったあと、急に二人の結婚に積極的になった。 「お母さんて、まるで主体性がないの」  敬子は母親の変わりようをそう言って笑った。 「伯父が、あれはいい男だ、ってあなたのことを褒《ほ》めたら、コロッと態度が変わっちゃうんですものね。昔の女性って、みんなあんな風だったのかしら」  自分ではいっぱし新しぶってそんなことを言うが、敬子も芯《しん》はひどく古風なところがあり、伊島はどうやらその古風なところに魅かれたようであった。  亭主に皿洗いを手伝わすような妻を持つ気にはなれなかった。新婚直後のままごとめいたことならともかく、そんなことは一人前の主婦としてはひどく貧しいことのように感じている。早くに母親に死なれ、父親の手で育てられた伊島は、妻というより主婦に対して、家を守るといった古いタイプの女を求めていたのである。  敬子の母親がまさにそのタイプで、敬子は母親の古めかしさを笑いながら、実はそっくり同じものを引き継いでしまっているようであった。  ところが、敬子を恋人として悪友たちに紹介すると、誰も彼女のそういう古めかしさには気づかず、しなやかに伸びた脚線や、鋭く突きだしているバストの形に惑《まど》わされ、 「人妻風のおしゃれをするようになったら、きっとえらくセクシーな女になるぜ」  などと、多少やっかみまじりに言う。  頬の肉の薄い、鋭角的でモダンな顔だちの裏にかくされた、そういう古風な性分を自分だけが見抜いたという満足感があって、伊島は悪友たちの言葉を聞くのが愉しかった。  高嶺温泉から西尾湖沿いに中原市へ入ると、恒例の湖上祭が始まった市内の目抜通りは、華やかな飾りつけが秋の陽を浴びて、爽やかな活気に溢れていた。  今ではすっかり有名になった中原市の湖上祭も、もとはこの辺りの村々で古くから行なわれていた、ごく平凡な秋祭りにすぎないという。  ところが十何年か前、中原が市になると、観光開発の目的で市内の西尾神社を中心に、湖上祭が行なわれるようになった。  歴史的にはまったく根拠のない西尾湖の湖上祭が、レジャー・ブームの潮流にのって、数年後には盛大に観光客を呼び集めるビッグ・イベントになってしまったのだ。  青葉ガ原から妻引《つまびき》峠をへて直接国道十七号線に合流する、曙《あけぼの》高原スカイラインが建設されたのも、その途中にある濁沢《にごりざわ》峡谷が観光地として開発されたのも、もとはと言えば中原市の湖上祭の大成功があったおかげである。  駒田嘉平は、その湖上祭の発案者の一人で、今では市議会でもボス的存在になっているらしい。家は市役所などのある中心街から少しはずれた酒屋町《さかやまち》の湖畔にあり、美しく手入れされた生垣をめぐらし、商売物の銘木をふんだんに使った、渋く落着いた構えであった。  伊島は生垣に沿って道路から右に折れ、湖に突き当る土の道へ車をのり入れた。秋の陽ざしを受けてまばゆく光る湖の向うに、対岸の山がひどくくっきりと見えていた。  背後の西尾神社の辺りからは、祭り太鼓の音が響き、右手の湖畔広場のほうの空で、つづけざまに花火のはじける音がしたりしている。  伊島は車をのり入れた土の道を見まわし、邪魔になりそうもないことをたしかめてから車を離れた。  車はシボレーのステーション・ワゴンで、ボデーに、伊島インテリア設計、と白い文字が入っている。  入って来た生垣沿いの道を戻って通りへ出ると、駒田家の数寄屋風の門の前で、ヒップボーンのスラックスにうすい長袖の丸首シャツを着て、赤い鼻緒の駒下駄をつっかけた敬子が手をあげていた。 「ここ、すぐ判った……」  車を入れたのが生垣ごしに見えたらしい。 「判りやすい道順だから……それにしても、小ざっぱりとしたいい町だなあ」  伊島はあらためて道の左右を見まわした。 「伯父がお待ちかねよ。お祭りに出なきゃいけないのに。よっぽどあなたがお気に入ってるのね」  敬子はうれしそうに言った。  どうもそのようであった。高嶺温泉にできる新しいホテルの仕事も、駒田嘉平が紹介してくれたものである。伊島はその礼もかねて仕事の帰りに寄ったのだった。     二  中原市の古い町なみは、西尾神社のある西尾山のふもとにかたまっていて、以前はそこから西尾湖にかけて、一面の畑だったらしい。  新しい中原市の中心街は、その畑だった場所にあたり、都市計画を進めるには至って好都合だったという。  そのために、道路も広く、下水道なども完備されて、清潔な小都市に成長している。  目抜きの商店街の外観も、木材の産地として土地に根づいた、和風の重厚な様式をうけつぎ、華美を競《きそ》うよりは民芸調のおもむきに趣向を凝《こ》らせている。  焦茶色《こげちやいろ》の太い角材に煉瓦を組み合わせた外装などが、そういう商店同士の競争の中で自然に流行しはじめているらしく、専門家の伊島が驚くような新しい傾向が生まれていた。  湖上祭にしても、美人コンテストとかパレードとかいう一見新しげなものはなく、どこかの古代遺跡から出土した一人のりの刳《く》り舟を二、三十艘も復元し、それに裸の若者をのせて競漕させる、御霊《みたま》渡しなどという行事が中心になっている。  それなどは、いかにも古代の勇壮さをしのばせるようだが、実際には駒田嘉平らのアイデアによって生まれた水上ショーなのである。偶然とは言いながら、それがカヌー競技の普及と古代史熱にぶつかって大成功を納めているのだから、中原市のブレーンというのも相当なものである。 「どうです。われわれ田舎もんの知恵も、そうみすてたものではないでしょう」  日暮れ近くまで祭りを見物して酒屋町の駒田邸へ戻ると、湖がみわたせる十畳の部屋で、和服に着がえた嘉平がそう言って笑った。みごとな黒|漆《うるし》の座卓には、いかにも祭りの宵の宴《うたげ》らしく、料理の器《うつわ》がにぎやかに並んでいた。 「もう少し暗くなると、今度は花火ですよ」  嘉平は伊島に酒をさしながら言った。歳は三十近く違うのに、伊島を友達あつかいするのが楽しいらしい。 「変にバタ臭くないのが成功の原因でしょうね」  伊島はそう言って酒を受けた。 「実は、この中原というところは、余り有名な人物を出しておらんのですよ。有名なのは明治の学者の新藤龍泉博士くらいなものです」 「銅像がありましたね。西尾神社の下のほうに」 「まあ、郷土の誇りと言ったらあの人くらいなもので……。祭りを考えたときも、なんとかして新藤龍泉博士をからませたいと思いましてな。あれは考古学の大先達でしょう。それでこういうことになったのです。まあ、結局はそれがよかったわけですが」 「それにしても、御霊《みたま》渡しの絵葉書まで売りだすなんて、インチキがひどいんじゃないのかしら」  昼間とはうってかわり、しとやかな和服姿になった敬子がからかった。 「いや、あれが案外うけておるのですよ。判らんものですなあ。しかし、今の若者たちが、作りものにもせよ湖上祭のような古代調の行事に魅力を感じはじめているというのは、面白い現象ですな。物、物、物……科学万能で来た反動でしょうか。何か今の若い人の間には、科学を超えた、心の力のようなものに対するあこがれが出はじめているのではないでしょうかね」 「そういうことはあるでしょうね」  伊島は鯉のあらいに箸《はし》をつけながら答えた。 「公害、物価高……そういうものは、みんな科学の、いや、物質文明の行きすぎから起っている。そう感じているんじゃないでしょうか。政治に対する不信だって、政治がそういうものを維持しようとするからなんでしょう。もっとも、政治というものはそういうものだと思いますよ。いつの間にか宝が石ころに変わっていても、いつまでもそいつをかかえている。若い連中の間で、運勢判断だの念力だのというのがはやって来たのも、そういう政治不信と同じものにつながっているようですね」  その時、ヒューッと鋭く風を切る音がして、ドーンと大きな花火が湖上の空にひらいた。  駒田嘉平は身をよじってその美しい輪を見守った。 「よし。風もなし、花火にはうってつけの夜になりそうだ」 「あと二日、この天気が続くといいですね」  伊島が言うと嘉平は事もなげに首を横に振った。 「わたしら土地の者は、ここの天候ならテレビの予報よりよく当てます。南の山に雲があって朝夕の風がなぐ時は当分晴れ。そのかわり、そういうときは山仕事には向かんのです。ことに今ごろは、霧がかかりやすいのですよ」 「西尾神社のずっと上のほうに、高い鉄塔が見えていましたが……」  伊島が言いかけると、駒田嘉平は得意そうに何度も頷《うなず》いた。 「あれはテレビ塔です。あそこで受信して、中原市内の全家庭へ持って来ているんです。このあたりは山かげになるものですから……おかげで綺麗な画像で見れますよ」 「この見事な都市計画と言い、湖上祭といい、中原市というのは、よほど市民の気が揃っているんですね」 「まあ、そうせねば市として立って行けませんからな」  駒田嘉平は謙遜してみせたようだった。 「スーパーもおやりなんですね。中央通りで拝見しましたが、高い時計台があって……」 「いやあ」  駒田嘉平は頭を掻いた。 「随分以前のことですが、これからはスーパー・マーケットの時代だといくら言っても、誰もやりてがおらんのです。旧弊な土地柄ですからな。それで、わたしがとうとう自分ではじめたと言うわけで……最初の内はパッとしませんでしたが、おいおい成績もあがって来まして……だがそうなると、いろいろ言う連中も出て来ますし、安く売るというのもむずかしいものです。時計台をごらんになったのなら、あそこが有線テレビ……中原CATV局と言うんですが、それのセンターになっているのに気づかれたでしょう」 「ええ。市役所のニュースなどをやるそうですね」 「利益還元というのですか、まあそんなようなことで、あの店の儲けはほとんど吐きだしているのですよ」 「それは大変ですねえ」  伊島はいたわるように言った。  中原という町が理想的な小都市に成長したかげには、駒田嘉平のような人物が、損得ぬきで働いているらしかった。  また花火があがった。     三  翌日の昼すぎ、伊島は車を駒田邸の横の道から出して門の前に停めた。 「せめてもう一日ゆっくりして行ければいいのになあ」  駒田嘉平は車の窓からのぞきこんで言った。 「申しわけありません。仕事が重なっているものですから」 「残念だな。仕事ではしかたがないが、そのかわり来年の祭りには、ゆっくり休みをとって来てくださいよ」  嘉平はしん底惜しそうな顔をした。 「はい。必ず寄せていただきます」  車は左ハンドルで、伊島は歩道に立って窓の上に片手をついている嘉平をみあげながら答えた。  その車の前を、スラックス姿の敬子が、左手に黄色いスーツケースをさげて横切った。 「まったく、敬子まで一緒に帰るというんだから」  敬子は右のドアからシートにすべりこみ、うしろの席へスーツケースを抛《ほう》りだすように置きながら、 「はじめからこうするつもりだったのよ」  と嘉平に言う。 「そりゃ、彼氏と一緒に東京までドライブするんだから楽しかろうよ。でも伯父さんを大事にするんなら今の内だぞ、まだ結婚祝いを何にするかきめておらんのだからな」  敬子はうすい丸首シャツの上に白いカーディガンを袖を通さずに羽織り、 「よく考えて、その内欲しいものをお知らせするわ」  と笑った。伊島はギアをいれ、嘉平に最後の挨拶をした。 「気をつけてな……」  嘉平は腰をかがめて車の中の二人に手をあげた。車が走りだし、敬子は体をよじって門の前の嘉平に手を振りつづけた。 「いい伯父さんだ。まるで本当のお父さんのようだ」 「あのうちは男の子ばかりだから、女の子が珍しいんでしょ」  東京への道は、いったん市役所のある中央通りへ戻り、そこを右折して湖を背にまっすぐ山へ入って行く。  曙《あけぼの》高原スカイラインができる前は、駒田家の前の道を湖ぞいに進み、西尾湖を半周するかたちで対岸の遠谷《とおや》の町へ出て、ずっと西の国道一四六号を使って南下するしかなかったらしい。  どちらの道にせよ、伊島が中原市へ来たのはこれがはじめてだった。高嶺温泉なら本来は車でないほうが楽なのだが、何せ今回はホテルの内装に使う材料のサンプル類がひと荷物あったし、中原市へ寄って敬子を東京へ連れて戻る予定だったから、多少無理でも車で来てしまったのだった。  中央通りのはずれで小さな石の橋を渡ると、両側の家なみは一度に古臭くなる。道幅も狭く、屋根の重そうな、格子《こうし》のはまった窓のある家々が続いている。昔の中原の町なのだ。軒につるす湖上祭の提灯なども、新市街と同じ物なのに、どことなくひなびて見える。  その古めかしい家なみが突然跡切れて、左側に黒い簡易舗装をした大きな駐車場が現われた。スペースは色とりどりの観光バスや自家用車で八分どおり埋まっている。 「この駐車場、無料なのよ」  敬子が教えた。 「お祭りの間は、外から来た車はみんなここでとめられちゃうの」 「そうだったのか。知らないからどんどん入って行っちまった」 「高嶺温泉からだと道が違うから、通り抜ける車だと思われたんでしょ。あの家の横へとめたから何にも言われなかったのよ。伯父はあれでも市の顔役ですものね」  そう言えば、駐車場のはずれの対向車線に警官が十人近く出て、市内に入る車を規制しているようだった。  道はしばらく田圃の中を北へ向い、大きな製材所のさきに曙スカイラインへの案内標識があった。 「この先を右折か……君は通ったことがあるんだろ」  伊島が言うと敬子は首を横に振った。 「いつも遠谷からよ」 「俺も来年は遠谷線から来たいな。遠谷から船でこっちへ渡るんだろ」 「そうよ。お母さんもあの古ぼけた遠谷線が大好きなの。だから、曙スカイラインができるって聞いた時は血相変えて憤ってたわ。西尾湖のフェリーや遠谷線がなくなると思ったのね」  市内を出てからはじめての信号にぶつかり、伊島は右折のランプを点滅させて車をとめた。三叉路のスカイライン側に大きなアーチが作られていて、こちら側から見ると、「中原市へまたどうぞ」と書いてある。  伊島は笑いながら言った。 「あの裏は、ようこそ中原市へ、だな」  信号が変わって右折すると、敬子が素早くふり返ってアーチの文字を読んだ。 「ウエルカム・湖上祭……残念でした」  道幅が急に広くなり、片側二車線で白いガードレールが続いている。 「ずっと上へ行くと、西尾湖がひと目で見えるそうよ」 「記念撮影でもするか」  伊島はそう言ってちらりと敬子の横顔をみた。 「そうね……」  敬子はシートにもたれ、頭を伊島の肩に寄せた。 「この次来るときは、私たち夫婦になってるのね」 「子供ができてるかもしれない」 「嘘……お式までまだ半年あるわ」  敬子はぼんやりと前をみつめている。 「なるほどね。俺はそういうつもりで言ったんじゃないんだがな」  すると敬子は急に体を離し、伊島のほうに上体を向けて彼の右肩を力いっぱい抓《つね》った。「莫迦《ばか》、衝突するぞ」  中原市へ急ぐらしい乗用車が、五台ほどかなりのスピードで下って行った。敬子はカーディガンを羽織り直している。赧《あか》くなっているようだった。 「そういうことだと、いくら頑張っても来年の湖上祭にはまだ六カ月か」 「嫌っ……」  敬子はたまりかねたように両手で顔を掩《おお》った。掩った手の下で笑っている。 「おや」  伊島は真顔になった。すれ違った車が、黄色い|霧 灯《フオツグ・ランプ》をつけていたからだった。     四  湖上祭も第二日目の午後に入っているだけに、山を越えて中原市へ向う車の数もまばらで、まして反対に登って行く車は、伊島のステーション・ワゴンのほかにはないらしい。  カラー・フィルムの広告がついた木のベンチが並ぶひとけのない見晴し台で、伊島と敬子は二、三十分も写真を撮ったり西尾湖を眺めたりして時間を潰した。  山の空は曇りはじめているらしく、見おろすと西尾湖とその周辺だけが、黄色っぽく秋の陽に照り映えていた。  フィルムがおわって伊島はニコンを捲き戻していると、敬子が小さい嚏《くしやみ》をひとつした。肩をすくめて微笑し、 「なんだか寒くなって来たみたい」  と言った。 「そろそろ出かけるか。山をおりてからどこかのドライブ・インで晩飯。東京へ着くのはだいぶ遅くなるぞ」 「大変ね。これから夜おそくまで運転するんじゃ」 「何言ってるんだ。午前中に出発したかったのを、ぐずぐず引きのばしたのは君じゃないか」 「だって、伯父さんがはなさないんですもの」  敬子は今になって言いわけをする。伊島はその肩に手を置き、車へ戻った。  見晴し台を過ぎると、それまで斜面にそって登って来た道が急に山の奥へ向いはじめ、両側は杉の木立ちにかこまれて眺望がきかなくなる。 「やっぱりそうか」  伊島は白く伸びる道をみつめてつぶやいた。 「どうしたの」 「妻引峠までまだ三時間ほどあるな」 「そんなに……」 「うん。ガスが出ているらしい」 「ガスって、霧……」 「そうだ。そう言えば、ゆうべ駒田さんが言ってたよ。その土地の天気はその土地の人がいちばんよく知っているんだなあ」  前方に見えるはずの笠岳《かさだけ》が、重苦しい雲にとざされて見えなかった。 「青葉ガ原って、まだ……」  敬子が尋ねた。また頭を伊島の肩に寄せ、伊島と二人だけの高原のドライブをたのしむつもりになっているらしい。 「まだ道は登りだ。でも、もうすぐじゃないかな」  スピード・メーターは七十をさしていた。無人のスカイラインを進むにつれ、あたりの景色から次第に色が失われて行く。  杉の森の緑は黒ずんで見え、下生えの草は白っぽく感じられた。  ヘッド・ライトをつけた車が前方に現われ、すれ違いざま、けたたましくクラクションを鳴らした。敬子が体を起してそれをふり返る。 「なに、あの車」 「警告したつもりだったんだろう」 「警告……」 「ガスだよ。ライトをつけてたろう」  敬子は胡散臭《うさんくさ》そうに窓の外を眺めた。 「森の中が白いわ」 「ガスだよ。先へ行くともっとひどくなっているんだろう」  伊島が予感したとおり、空はますます暗くなり、両側の杉の森の中にうごめいている霧の渦がはっきりと判るようになった。  地形の関係か、時おり森から道路に白いガスが這いだして、車はそれを蹴散らして通りすぎる。  右へ大きく曲る切り通しがあり、そこをすぎると右側の森が急に道から遠のいていた。森までの距離はほぼ百メートル。その間のゆるい斜面が茅戸《かやと》になっている。  伊島は車のスピードを落した。すでにうすいガスにつつまれ、ガスは進むほど濃くなるようだった。 「ほんと。霧がでたわ」  敬子が感心したように言う。  茅戸と森の間に、濃いガスが蟠《わだかま》っているのが見えた。 「生き物みたい」  敬子が言うように、白いガスは跡切れ跡切れにかたまって、ゆっくりと動いていた。 「こりゃいけない」  伊島がそう言って|霧 灯《フオツグ・ランプ》をつけたのは、道路の真正面で、下から上へ捲きあげるように回転している濃いかたまりへ突っ込んだ時だった。霧灯と同時に|尾 灯《テール・ランプ》がついて、バック・ミラーの中でうしろの霧が赤く染まってみえた。スピード・メーターの針は三十に落ちている。 「なんにも見えないわ」  少しだけあけていた窓から、湿りけのある冷気が入りこみ、敬子は急いで窓をしめた。  伊島はセンターラインぞいに走っていた車を左へ寄せる。 「丁度坂が終ったところだから、ガードレールもない」  伊島はそうぼやいた。それでも視界は三、四メートルはある。彼はハンドルに胸をかぶせるような姿勢で、のろのろと車を進めた。  その時は、すぐ濃いガスを抜けられた。しかし、濃密なガスのかたまりは次第に間隔をつめ、二十分もすると跡切れるほうが珍しくなって行った。 「こわいみたい」  みたい、ではなく、敬子はすでにこわがっているようだった。まわりの地形がどうなっているか見当もつかず、霧灯がきりひらく、ほんの一メートルほどの視界をたよりに車をのろのろと進めているだけだ。 「ねえ、すぐ晴れるわよ。停って待ちましょうよ」  敬子はそう提案した。しかし、ガスがすぐ納まるという保証はなかった。 「風が止っている。このまま夜になったらどうする」 「でも、これじゃどこへ進んで行くか判らないわ」  言い合いながら、それでも一時間ほど濃霧の中を進んで行った。  二人が豹《ひよう》を見たのは、伊島が緊張を強いられるのろのろ運転に疲れ、濃いガスのまっ只中で車をとめた時だった。     五  伊島は進むのをあきらめ、車をとめてサイド・ブレーキを引いた。敬子は大きな布切れで目の前のガラスを拭いていた。窓は内側に曇りを生じていたが、いくら拭いても外の濃い霧に紛れ、いつまでも曇ったままのように思えた。  突然、左側から、濃い霧よりいっそう濃いかたまりが湧きだして、ふわりとフロント・フードの上にとびあがった。  音もなく渦まいている霧と違って、その濃いかたまりは、フロント・フードの上で二人の視界いっぱいにひろがったとき、車に軽い衝撃を与えた。シートが一度、ゆらりと揺れた。  窓を拭いていた敬子の手が、その瞬間マネキン人形のように硬化して動きをとめた。サイド・ブレーキを引きながら、シートにもたれこもうとしていた伊島の上体も、シートと背中の間に十何センチかのはんぱな幅を残したまま動かなくなった。  伊島の目の前に、豹の後肢と尻があり、太い尾がこまかく震えていた。霧に濡れたフードの上で、豹の後肢が爪先だったような踏んばりかたをしているのがはっきりと見えた。豹の胴体はしなやかにくねって、頭は敬子の顔と真正面に向き合っていた。前の右肢をあげ、牙をむきだし、耳をぴったりと寝かせ、けむいものを避けるような仕草で首を引くと窓ガラスを引っ掻くように、あげていた右肢をひとふりした。  その時になってやっと、キャッ、と言って敬子が窓から手を引いた。敬子が動くと、豹はつり込まれたように一度引いた首を突きだし、いっそう牙をむいて、襲いかかるような気配を示した。  伊島が無意識に、引いたばかりのサイド・ブレーキを外した。ブレーキの外れるショックが豹につたわって、豹の態度が防禦的な感じに変わった。伊島は倒しかけていた上体を起してハンドルを握り、アクセルを思い切り踏みつけてエンジンをふかした。  そのとたん、豹の体はフロント・フードの上から消えた。爪先だった後肢が大きく動いて、自分の体を右側の霧の中へたくましく送り出すのを、伊島はひどく克明に観察していた。  かなり長い間、伊島はエンジンに大きな音をさせ続けていたようだった。  気がつくと、敬子は伊島の体にしがみついていて、伊島は敬子の腕のしめつけにさからって、ハンドルをきっちりと握りしめていた。  ふうッ、と伊島は全身の力を抜いた。敬子の上体が密着して来た。 「大丈夫だ。もう行ったよ」  伊島はルーム・ランプをつけた。 「豹……豹よ」  敬子は細く震える声で言った。車内が明るくなると、外はいっそうに見えにくくなった。 「どうしてこんな所に豹なんかがいるの……」  敬子は泣いていた。泣きながら、おのれの不運を嘆くような言い方をした。 「たしかに豹だったな」 「いや、こんな所……」  敬子は伊島の肩に顔を伏せ、体をゆすった。 「車の中なら心配ない。しかし、なんだってこんな所に豹がいやがったのかな」  伊島の声に落着きが戻っているのを感じたらしく、敬子は顔をあげて恐る恐るあたりをみまわした。 「なんにも見えなくなっちゃったわ」 「ルーム・ランプをつけたせいだ」 「消して……外が見えないとこわいわ」 「消したって、霧しか見えないぜ」  伊島はそう言いながら明りを消した。敬子は伊島の右腕をかかえたまま、じっと外の霧をみつめている。 「お願い。動かして……」  しばらくすると敬子は伊島の腕をはなした。伊島は黙ってギアを入れた。  車がまたのろのろと進みはじめた。伊島は道路の左側にそって慎重に車を進めた。短い草と舗装した道の境目が、|霧 灯《フオツグ・ランプ》のおかげでわずかに見わけられた。  霧はぶきみだった。森の木々が吐く呪詛《じゆそ》のように、渦まいて車をおしつつみ、その背後で妖《あや》しいものが踊り狂っているように思えた。その霧にかこまれた伊島と敬子の心には、太古の人々が持ったのと同じ恐怖が湧きだしていた。エンジンの響きでさえ、その恐怖の中では妖しく感じられた。 「錯覚じゃないわ……」  敬子は沈黙に耐えかねたようだった。 「ラジオでもつけばいいんだがな」  伊島は詫びるように言った。カー・ラジオの調子が悪く、二、三日前に外したばかりだった。 「錯覚じゃないわよね」 「豹のことか」 「ええ」 「錯覚なんかじゃあるもんか。間違いなく俺たちは豹を見たんだ」 「どうして……」 「さあな」  伊島はハンドルを左に切りながら答える。 「この高原に最初から豹がいたわけはない。どこかで飼われていた奴が逃げだしたに決ってるよ」  道は左に曲りながら、やや下りはじめているらしかった。路肩の草の丈が長くなり、舗装した部分に掩いかぶさっていた。     六 「いけねえ……」  伊島がつぶやいた。左の路肩にそって車を進めているのに、屋根の右はしに木の枝らしいものが触れたからだった。 「どうしたの」  敬子が気味悪そうに体を寄せた。 「困ったよ。どうやら脇道へ入ってしまったらしい」  伊島は車をとめ、窓の外をすかして見たが、霧はますます濃く、何も見えはしなかった。 「懐中電灯を出してくれ」  そう言うと敬子は、 「どうするの」  と心配そうに尋ねながら、グローブ・ポケットから大ぶりの懐中電灯をとりだした。 「ちょっと外へ出てたしかめてみる」 「やめて」 「だって、出て見なければ判らないだろう。いま、そっち側の屋根に木の枝が当ったようだったじゃないか。道幅がひどく狭くなっているらしいんだ。どこかで左へそれてしまったんだよ」 「出ないで。お願い……豹がいるわ」  伊島はため息をついた。たしかに、車の外へ出るのは危険なようだった。 「じゃあ、これでそっちの窓から照らしてみていてくれ。少し右へ寄ってみる」  敬子は懐中電灯をつけ、窓の下をのぞきこむように照らした。 「見えるか」  伊島はハンドルを思い切って右へまわしはじめた。 「何とか地面は見えてるわ」  路肩の草が見えなくなると、伊島はひどく心細くなった。陸地を見失った小舟のようだった。車はたしかにまだ舗装した道路の上にのっているが、その面積がまるでつかめなくなった。水平感覚さえ疑わしくなって来るのだ。 「あ……」  伊島は短く叫んでブレーキを踏んだ。敬子の懐中電灯より先に、右の|霧 灯《フオツグ・ランプ》が路肩の草を照らしだしたのだ。へッド・ライトのスイッチをひねって光を上向きにさせると、前方に幹の細い木が密生しているらしいのが判った。 「雑木林のようだな」  伊島は一分間ほど、霧の中に朧《おぼろ》に浮んだ前方の木の様子を眺め、道路の幅をたしかめるため、車をまた左へまわした。  今度は左の路肩が見えるまでの距離がよく掴めた。両方で譲り合えば、どうやら二台がすれ違えるほどの道幅だった。 「やっぱり脇道へ入ってしまっている」 「左端をたよりに進んだんですもの、仕方ないわ」  敬子は伊島の失敗をなぐさめた。 「バックするわけにも行かないし……」  伊島は敬子をみつめながら言った。車の外で敬子が先導してくれれば、なんとか車をまわすことができそうだったが、豹のことを考えると、とてもそんなことはさせられなかった。 「仕方がない。ここで居すわるか」 「霧が動いてるわ」  敬子が窓の外に明りを向けて言った。 「案外すぐ晴れるかもしれないな」  たしかに風が出はじめたようだった。重く澱《よど》んで動かなかった霧が、少しずつ回転をはじめていた。白い渦の中に、時々黒くみえる隙間に光が当ると、視界が一度に五、六メートルも伸びるのだった。 「うしろへ流れて行くみたい」  霧の動きを敬子はそう観察した。体をよじってリア・ウィンドーの外を照らしている。 「みろ、前に何か見える」  伊島は大声をだした。敬子がさっとふりかえった。 「あかりだわ。電気のひかりよ」  霧がうすれて、かなり前方の光が見えていた。道はその光に向ってまっすぐに伸びていた。 「しめた」  伊島は素早くギアを入れ、車をスタートさせた。反動で敬子はシートにガクンと押しつけられ、 「急いで。また霧が来るわよ」  と叫んだ。車は一瞬の晴れ間を縫って狂ったように突っ走った。霧がまた道に湧きだしはじめている。  道は、その建物への進入路らしかった。やや下り気味で、小さな石の橋を渡るとすぐ、建物の正面へ出て行きどまった。 「助かった……」  伊島はそう言ってサイド・ブレーキを引き、エンジンを切った。目の前にコンクリートの二階だての建物があり、二階の窓から煌々《こうこう》と明りが洩れていた。ふり返ると、いま渡ったばかりの石の橋が、もう霧につつまれてかすんでいた。  二人が乗った車は、その四角ばった建物の玄関に鼻先を突っ込むような形で停っている。 「わけを言って、霧が晴れるまで休ませてもらおう」  伊島はそう言うと車の外へ出た。  ふつうの住宅でないのはすぐ判った。建物全体の様子がひどく素っ気なく、病院のような感じだった。入口は厚いガラスのはまった両びらきのドアで、プラスチックのタイルを貼った広い廊下と階段が見えていた。  ノブをまわしてみたが、鍵がかかっていてあかなかった。チャイムのボタンも見当らず、ドアを叩いてみたがまるで反応がなかった。伊島は壁に埋め込んだ、新藤研究所、というプレートを眺めて引き返した。 「返事がないんだ。誰もいないのかな」  車のドアをあけて敬子に言うと、敬子は黙って首を横に振り、右側を指さして見せた。  車が二台、きちんと並べてとめてあった。一台はベンツ、一台は中型のライトバンらしかった。 「何だか変なかんじがするわ。なんなの、このうち……」  敬子は肩をすくめた。 「裏口があいているかもしれない。裏へまわってみてくるよ」  伊島はそう言いおいてドアをしめると、玄関の左から建物の裏手へまわった。  敬子が言うように、その建物からはたしかに何か異様な雰囲気が流れだしていた。一度去った霧がまた勢いをもり返し、じわじわと建物をおしつつみはじめている。     七  たしかにそれは何かの研究施設らしかった。裏へまわると、煌々と明りの洩れる窓が四つほど並び、電子装置らしいものが何種類も据えてあるのが見えた。  裏口もあるにはあったが堅くとざされている。伊島は明りの洩れる二階をみあげながら、電子装置の並ぶ部屋の外へ戻った。一階で中がのぞけるのは、その部屋だけだったからだ。あとはみなブラインドがおりている。  四つ並んだ窓の、いちばん左端の窓があいていた。いや、閉まっているのだが、ガラスが割れていたのだ。伊島はガラスの割れた窓から大声で怒鳴った。 「新藤さん……どなたもいらっしゃいませんか」  二、三度呼んだが建物の内部は静まり返っている。伊島は四度目の声を出しかけて、急に息をのんだ。  部屋の様子が異常なのに気づいたからだった。何かひどく荒らされた感じだった。得体の知れない道具類は、縦横《たてよこ》の区別さえつかなかったが、何者かに引っ掻きまわされ、倒れたりころがったりしているらしいのだ。  伊島はあらためて割れた窓ガラスをみつめた。窓の外に破片がちらばっている。  割れ目からそっと手をさし込んで留め金を外すと、伊島は窓をあけた。窓枠に手をかけてとびあがり、中をのぞいた。  床に書類や器具類が散乱していた。部屋の隅にかなり大きな金属製の檻があり、けものの匂いが鼻をうった。檻の中には灰色のかたまりが見えた。 「誰もいないんですか……」  もう一度大声を出し、伊島は肚《はら》を据えて部屋の中へ滑りこんだ。中へ入ってみると、荒らされようは外で見たのよりずっとひどかった。椅子が引っくり返り、灰皿が割れ、ノートや筆記具が床に散乱していた。  檻の中はいっそう異様だった。  檻の中央に太いとまり木が渡してあり、その木に毛の密生した四本の腕がぶらさがっていた。四本の腕の先には、それぞれ三本の異常に長い爪がついていて、四本の腕はひとつの胴につながっている。  伊島ははじめ、それを生き物だとは感じなかった。まったく静止していて、とまり木に毛皮をくくりつけたようだった。  そのけものの頭を、伊島は最初の内、尻だと思っていた。そう錯覚するほど、頭としては小さすぎた。けものの顔としてはとほうもなく扁平で、顎も額もなく、目と鼻がついているのを見ても、まだそれが排泄器か性器のように思えた。  四本の腕と思ったのは、前肢と後肢だった。しかし、前肢も後肢も同じような太さだった。両方とも体のわりにひどく太く、胴と同じくらいに見えた。主体が胴なのか四肢なのかはっきりせず、小さく扁平な感じの頭部などは、ただの付属物のようにしか思えなかった。  その貧弱な頭部が、わずかに伊島のほうへ伸びるような動き方をした。すると、その頭に細い紐が二本つながっているのが判った。細い紐は檻の横にある、煙草の自動販売機などの大きさの機械につながっていた。  よく見ると電線のようだった。  とまり木にぶらさがったものは、鈍い目を伊島に向けていた。それを見返していると、頭に電線を差し込まれたけものが急に憐れになり、伊島は反射的に二本の電線をつかんでぐいと引っ張った。電線はけものの頭から外れて檻の中へ落ちた。  伊島はけものの前を離れてドアに向った。ドアは錠がおりていて、ノブの中央に埋めこんだ金具を一回転させなければ開かなかった。  廊下に出たとき、伊島はやっとそのけものの正体を思い出した。南米大陸にいる、ナマケモノという動物だった。     八  伊島は玄関へ出てドアをあけた。それを見て車から敬子がとび出して来る。 「誰もいないような、妙な具合なんだ」  そう言われて、敬子はあてが外れたように眉をひそめた。 「二階は」  と階段をみあげる。 「まだこれからだ」  伊島はそう答えると、階段の手すりを右手で掴んで大声を出した。 「どなたかいらっしゃいませんか……」  返事はなかった。 「上へ行ってみよう」  階段を登りかけると、敬子が伊島の手をしっかりと握ってついて来た。 「車はあるし、明りはついてるし……変ね」 「窓ガラスが壊れていた。そこから中へ入ったんだ」 「何かあったのかしら、このうち……」  二階の廊下へ出ると、ドアが四つ並んでいた。伊島は右側のとっつきにあるドアをノックした。  返事はなかった。 「明りがついていたのはこの部屋よ」  敬子が言った。伊島はノブに手をかけて、そっとまわした。内鍵はかけてなく、カチリと音がしてドアが細目にあいた。伊島はゆっくりとドアを押した。  シングル・ベッドが見えた。壁に服がかけてあった。本棚があり、小さなテーブルと椅子があり、霧にとざされた窓が見え、そして一番最後に、椅子に腰かけ、木のデスクに顔を伏せている男の姿が見えた。  睡っているように見えた。  伊島と敬子は顔を見合わせた。伊島は入口に敬子を残し、思い切って男に近づいた。  男は洗いざらしの白衣を着て、右腕をデスクの上にのせ、左腕をだらりと膝の脇にさげていた。  伊島には、その男が死んでいるのがすぐ判った。蝋色の肌をしていた。伏せた顔の額《ひたい》のあたりに、薬局などで使う白い薬鉢《くすりばち》が置いてあり、その底に薬品らしいものが見えていた。  伊島は男の蝋色の手首に触れてみた。救いようのない冷たさがつたわって来た。 「どうしたの……」  うしろで敬子の声がした。 「死んでる」  ふり返って言うと、入口からさっと敬子の姿が消えた。あわてて行って見ると、敬子はドアの横の壁にもたれ、両手で顔を掩っていた。 「嫌よ、こんなの」  伊島は部屋の中の死体と敬子を交互に眺め、深呼吸を二度ほどしてから言った。 「もっと調べてみる。こわければ車へ戻っていなさい」  敬子はとんでもないというように顔を左右に振り、伊島の腕を両手でかかえた。その敬子を引っ張るようにして、伊島は反対側のドアをあけた。  そこは応接間のようだった。ソファーが並び、絨緞《じゆうたん》が敷いてあった。二人は中へ入って部屋を見まわした。 「中原市の写真ばかりだわ」  敬子が言うように、壁にはずらりと写真パネルが飾られていた。市役所のビル、中央通りの風景、湖上祭のスナップ、山の上からの俯瞰《ふかん》、テレビ塔……。 「これは駒田さんの店だな」  伊島はサイドボードの上にあるスーパー・マーケットの写真を指さして言った。そのほかにも、記念撮影風に男たちがずらりと並んだ写真が何枚かあった。  応接間の中にドアがひとつあり、伊島はその前で敬子の表情をたしかめるように見た。 「あけるよ」  敬子は生唾をのんでうなずいた。ノブをまわし、思い切って一気にあけた。  ダブル・ベッドと三面鏡があり、ドス黒く床が汚れていた。血だった。血溜りがあり、その傍に白衣を着た老人の死体があった。死体はドアに足をむけ、床の中央に右へよじれ気味に倒れていた。  頭が奇妙な具合に肩から浮いて見えた。敬子が、うッ、と喉を鳴らして伊島にとりすがった。  死体の首が裂けていた。右へねじれた死体の左手が、小ぶりの猟銃を逆手《さかて》に掴んでいた。 「自殺だ」  伊島は呻くように言った。猟銃で自分の喉を撃ち抜いた様子だった。銃口を喉に押しつけたのだろう。顔はまったく損われていなかった。  敬子の体はガタガタと烈しく震えはじめていた。伊島にすがりつき、今にも頽《くずお》れてしまいそうだった。  伊島は敬子をかかえるようにして死体のそばを離れた。応接間を抜けて廊下へ出ると、向いの部屋のデスクに突っ伏している、最初の死体が見えていた。伊島は敬子をだきかかえ、階段を降りて玄関の外へ出た。  敬子を車のシートに坐らせた伊島は、うんざりした顔で濃い霧をみまわしてから、叱りつけるように言った。 「ここにいろ。こわかったらドアをロックして置け」  敬子はかすかに頷いた。  伊島は怒ったような足どりで建物へ戻った。二階へ駆けのぼり、まだあけていないドアを蹴りあける。そこは書庫らしい小部屋で、書物の棚が並んでいた。磁気テープをいれるドラムのような容器が、たくさんの書物に混って積んであった。  伊島は応接間に戻り、ドアの奥に見える血まみれの死体を眺めた。額が禿げあがり、鬢《びん》に残った髪も白くなっている。部屋の様子からして、この建物の主《あるじ》らしかった。  伊島はサイドボードの上の壁にかけてある写真に近づいた。  広い日本庭園を背景に、十人ほどの男が正面を向いて並んでいた。中央に額の禿げあがった老人がいて、それが隣室の死体と同一人物であることがすぐ判った。  その隣りで駒田嘉平がにこやかに笑っていた。伊島は首をかしげ、一階へ戻った。  新藤研究所……ひょっとすると、二階で死んでいる老人は、考古学者新藤龍泉博士にゆかりのある人物ではないかと思った。  一階には、小さな事務室風の部屋と、キッチン兼食堂、それにベッドのついた宿直室のような小部屋がひとつあった。  伊島はその小部屋へ入りこんで眉をひそめた。乱れたベッドの様子からして、この建物にもう一人、誰か住んでいるらしい。  伊島は慌《あわ》ててその部屋を出た。裏口の横の油じみた階段をおりると、単調な機械音が響いて来た。階段の突き当りのスチール・ドアをガタンとあけた。灯油を使う自家発電装置が薄暗い地下室の中で唸り続けていた。配電盤があり、給湯用のボイラーがあり、井戸ポンプのモーターが床にうずくまっていて、壁から天井へ大小のパイプが通っていた。  そして、そのいちばん太いパイプにロープをかけて、ジャンパーを着た若い男がくびれ死んでいた。  伊島はあけたばかりのドアを大急ぎで閉め、うしろにまわした両手でノブを握りしめて目をとじた。  三人死んでいる……。  縊死、猟銃自殺、そしてもう一人も、あの様子では服毒死なのだろう。  何かこの建物の中で、とほうもない事件が発生したのだ。  その事件を考えようとして、伊島はすぐ考えることを放棄した。判るわけがないと思った。殺人ならともかく、三人とも自殺では考える糸口さえつかめなかった。電気を自給しているくらいだから、電話も来ていない。  霧が晴れたら中原市へ戻って、これを報告しなければならない……。伊島はそのことだけを考えていた。   第二章     一  霧にまかれて悪戦苦闘した道を、伊島のステーション・ワゴンは、四十キロほどのスピードで中原市へ引っ返していた。  さいわい風が少し出て、重く澱《よど》んでいた霧がよく動くようになったのだが、何よりも敬子がすっかり怯《おび》えきっていて、死体だらけのあの建物から、一刻も早く遠のかねばならなかったのである。 「どうして一度に三人も自殺しなければならないの」  敬子はまた同じことを言った。もう十何度もその問いを発している。しかし、車が動きはじめてからはだいぶ間遠になり、言い方にも幾分落着きが戻っていた。 「よく飽きずに同じ質問ができるものだ」  伊島はからかうように言った。 「だって、変じゃないの」 「たしかにおかしい。異常な事態だよ。僕だってさっきからずっとそのことを考えつづけているんだ。でも判らない。判りっこない」 「豹と関係あるのかしら」 「さあね。でも見たろう。建物の裏手にあの豹を飼っていたらしい大きな檻があったじゃないか。中がからだったから、多分あそこから逃げだしたんだろう」 「猿も飼っていたんでしょう」  伊島は前方に見えて来た切り通しをみつめ、あれを過ぎればもう霧の心配はないはずだと思いながら答えた。 「書庫をあけたら動物に関する本がかなりあった。あの新藤研究所というのは、何かその方面の研究をしていたんじゃないかな。それにしても、随分変わった動物を飼っているもんだ。ナマケモノとはね。君は見なくてよかったよ。気味の悪い恰好をした動物だからな」 「それでなくても、思いきり怕《こわ》い思いをしたんですもの……たくさんだわ」 「たしか、ナマケモノというのは猿によく似ているが、猿の仲間には入っていないはずだよ」 「いつかテレビで見たことあるの。木の枝にさかさまにぶらさがって、子供がおなかのところにしがみついていたわ。あれ、猿じゃないの」 「アルマジロなどの仲間だったはずだ。アリクイとか……貧歯目というんだと思ったな」  伊島は敬子を安心させるために、時間をかけて話題を徐々にそらせていた。車は切り通しをすぎ、下り坂になった。かなりの向い風で、もう霧の心配はまったくなくなっている。伊島はアクセルを踏みこんでスピードをあげた。 「もうすぐ見晴し台だ。湖が見えるはずだよ」  そう言ってやると、敬子は大きく溜め息をつき、 「ああ助かった」  とシートにもたれた。 「あたし随分怕がったでしょ。見苦しかった」 「いや」  伊島もゆとりをとり戻し、すっかり忘れていた煙草に手を伸ばした。 「怯えて当然さ。あんな事件は滅多にあるもんじゃない。もし霧にまかれないであそこを素通りしたとしても、あとで新聞やテレビで知ったら、ぞくっとするだろう。それを僕らはじかに見たんだからね」  敬子は慰められて、伊島のほうへ体を寄せた。 「一人だったら心臓が破裂して死んじゃってたわ」  伊島は煙草に火をつけ、車のライターを元の穴へ差し込んだ。 「ところで君に相談なんだが」 「なに……」 「僕らは今、事件を報告するために中原市へ引っ返している。このまま市内へ入ったら、警察へ横付けして駆けこむつもりだ」 「そうよ。あんなこと、早く警察にまかせて縁を切りたいわ」 「駒田さんに教えなくていいだろうか」 「伯父に……」  敬子は不審そうな顔をした。 「あの応接間だか居間だかの写真を見たろう。どうやらあの建物のあるじと駒田さんは、かなり深い関係があるようじゃないか。ほとんどの写真に駒田さんの顔があったよ」 「そうだったかしら。あたしよく憶えていないわ」 「警察に隠すつもりはないが、警察と同じくらいのタイミングで、駒田さんにも報《しら》せたほうがいいような気がするんだ。無駄ならそれにこしたことはないが」  敬子は考え込んだようであった。     二  秋晴れの、眩しいほどの光の中でくぐった曙スカイラインの入口のアーチが、引き返した時には左右に据えたスポット・ライトを浴びて、「ウエルカム・湖上祭」という文宇を闇の中に浮きあがらせていた。 「警察へ行くまでに公衆電話があるだろう」  伊島は三叉路の信号を左折しながら言った。 「あるわ。新市内へ入る橋のたもとに……」  敬子の声に、もう怯えは感じられなかった。製材所の前を通りすぎると、田圃の中を一直線に南へ向う道の先に、中原市の灯が輝いていた。  その道を直進して行くと、前方に突然赤い灯が湧きだして左右に揺れた。伊島はちょっとうろたえ気味にブレーキを踏み、すぐ思い出して、 「そうか……」  とつぶやいた。市内に入る車を規制している警官の灯りであった。警官は短く笛を鳴らし、左手に持った赤ランプを振って駐車場へ入るように合図した。  伊島はその警官に事件を告げる気にはなれなかった。そこで車を停め、窓をあけて交通整理の警官に語りかけても、もどかしいやりとりを何度も繰り返さねばならないのが、目に見えるような感じであった。  ステーション・ワゴンは市が湖上祭のために用意した無料駐車場へ滑り込み、観光バスのとなりへ停めてエンジンを切った。 「寒くないか」  車を出るとき、伊島は敬子に言った。敬子はカーディガンの袖に腕を通し、形のいい胸を突きだすようにして大きく伸びをしていた。それを見て、伊島は緊張が一度にとけたように感じた。 「さあ、早く済《す》ましてしまおう」  歩きだすと敬子は伊島の右腕に腕をからませ、 「だからもうひと晩泊って行けと言ったのに……伯父にそう言われるわよ。帰ったら少しお酒飲もうかしら」 「それがいい。嫌なことは早く忘れるんだ」  伊島も飲みたい気分だった。  軒の低い旧市内の道を歩いて行くと、次第に祭りの夜の華やかさが濃くなり、旅館の入口で酔った観光客の一団が騒いでいたりした。 「お仕事大丈夫なの。急いでたんでしょう」 「こうなっちゃ仕方ないさ」  伊島は肩をすくめた。  ほうねんばし、と書いてある短い石の橋を渡って新市内へ入ったすぐ左手に、公衆電話のボックスがあった。敬子はそのドアをあけ、ハンドバッグから小銭を出してダイアルをまわした。 「敬子ですけど。伯父さま、いらっしゃる……」  そう言った敬子は、ドアを半びらきに押えている伊島に、すぐ顎を引いて見せた。伊島はボックスの中へ体を斜めにして入りこみ、受話器を敬子から受取った。 「敬子か。いまどこにいるんだい」  すぐ駒田嘉平の声が聞えた。 「伊島です」 「なんだ、君か。敬子だと言うから……」 「彼女もここにいます。いま豊年橋のたもとの公衆電話から掛けているんです」 「え……まだそんなところにいたのか」 「実はスカイラインで霧にまかれまして」 「だからもうひと晩泊って行けと言ったろう。引き返して来たのか」 「それが、途中で脇道へ迷いこみまして」 「脇道……ああ、青葉ガ原の手前だな」 「その突き当りの新藤研究所という建物の中で、大変な事件が起っていたんです」  駒田嘉平の声が跡切れた。 「三人死んでいるんです」 「なんだって……」  伊島は思わず受話器を耳から離した。痛いほど高い声であった。 「三人死んでいます。僕らの見たところでは、どうやら三人とも自殺らしいんですが……」 「三人自殺……」  嘉平は呻くように言った。 「ええ。これから警察へ報《しら》せに行きますが、その前にちょっとご連絡しておこうと思いまして」 「間違いないな」  嘉平は念を押した。 「ええ。それから、あそこで豹を飼っていませんでしたか」 「豹……うん。たしか飼っていたはずだ」 「やっぱりそうですか。その豹が逃げだしましたよ。途中で僕らの車がそいつに襲われたんです」  襲われた、と口に出したとたん、伊島は敬子の顔を見た。豹のことは軽く考えていたが、たしかに襲われたに違いなかった。これは大変な事件だ、とあらためて実感した。 「僕に教えてくれたのが最初か」  嘉平の声は低く早口になった。 「ええ」 「ゆっくり警察へ行ってくれ。こっちからすぐ署長に連絡して置く」 「市の入口で車をとめられましたから、歩いているんです。十分やそこらはかかるでしょう」 「そうか。そうだったな。途中で誰にも喋らんでおいてくれないか。余計な混乱が起ると困る。何しろ祭りの最中だし」 「判っています」 「儂もすぐに行く。警察で会おう」  電話は嘉平が先に切った。受話器をかけた伊島は何か敬子に言いかけ、若い娘がボックスの外に立っているのに気づくと、黙ってドアをあけた。 「やっぱり駒田さんに連絡してよかったよ」  また腕を組んで歩きだしながら、伊島はささやくように言った。 「どうして」 「やっぱり立場があるんだ。お祭りをブチこわしたくないんだろうな」 「大騒ぎになるわね」 「そうだ。それに豹のことがある。死人はもう何もしないが、豹はそうはいかない。山狩りしなければならないだろうしな」  湖畔広場に突き当るメイン・ストリートを、無灯火の自転車が勝平気儘に走りまわっていた。祭りの期間中、市内は自転車だけが幅をきかしているのだ。  二人はその自転車をよけながら通りを横切り、反対側の歩道へ渡った。まだどの商店も道に煌々《こうこう》と光を投げかけて営業しており、小ざっぱりとした町の中を、観光客たちがぞろぞろと歩いていた。  市庁舎の前にはテントがふたつ張られ、そのまん中に西尾神社の大きな神輿《みこし》が据えてあって、土地の子供らしいのが二十人ばかり、順番にその傍の太鼓を打ち鳴らしている。 「のん気なものね」  その前を通り抜けた時、敬子は甘えるような言い方をした。大事件の情報を自分だけが握っているという優越感に駆られたらしかった。  たしかに町中がのんびりとお祭り気分にひたっているようであった。市庁舎と消防署にはさまれた警察の建物へ入って行っても、二人に特に注意する警官はいないようだった。  どの警官に声をかけようかと伊島が物色していると、急に警官たちの態度があらたまった。気がつくと奥の階段から、袖口に太い金筋のついた制服のボタンをとめながら、初老の男が降りて来るところであった。 「署長さんよ」  敬子は顔を知っているらしく、小声で伊島にそう告げると、署長のほうへ微笑しながら軽く頭をさげた。 「やあ、いらっしゃい」  署長はとほうもなく快活な声で言った。 「嘉平さんからいま電話がありましてな」  伊島も軽く頭をさげたが、署長が快活さを装っているのがよく判った。瞳《め》が伊島を刺すようにとらえていた。 「さあ、どうぞ、どうぞ。どうぞこちらへ」  署長は一階の警官全員に聞えるように、わざと大声をだしているようであった。 「お嬢さんはここがはじめてでしたな。どうも若いご婦人には殺風景すぎるでしょうが、まあとにかく、一度は署長室などという場所も見学しておいてくださいよ」  署長はそう言ってわざとらしく笑い、二人をせきたてるように急ぎ足で階段を昇った。  署長室は二階で、正面玄関のまうえに当っていた。ドアをおさえて二人をその部屋にいれた署長は、うしろ手でしっかりとドアを閉めた。     三 「ガラスの破片が窓の外に散っていたのですな」  署長は制服の上着のボタンを幾つか外しかけ、またそれをはめ直しながら言った。伊島と敬子は祭りの灯りが溢れる湖畔広場の見える窓を背に、白いカバーのかかったソファーに並んで坐っていた。閉め切った窓を通して、市庁舎の前から太鼓の音が響いて来る。 「ええ。内部が滅茶苦茶に荒らされていました。あれは実験室か何か、そんなような部屋でしたが」  署長は黙って頷き、ちらりと腕時計を見た。 「で、僕はそのガラスの割れた窓から中へ入ったんです。何度も大声で呼んだのですが、返事はありませんでしたし」 「その状況なら無理はないです」  署長は慰めるように物判りのいい表情で言ったが、どこか上の空のような態度だった。  その時、ドアを叩く音がした。署長は待ちかねていたように立ち上がり、ドアをあけた。  先頭は渋い和服姿の駒田嘉平。次は三つ揃いの服をきちんと着た、背の高い細面の老人。最後は茶のスーツに赤いネクタイをしめた、赭《あか》ら顔で太鼓腹のずんぐりした五十男であった。 「えらいことに捲き込まれたな」  嘉平は伊島にそう言うと、二人の前のソファーに体を沈めた。ほかの二人も、伊島と敬子をとりかこむように坐ると、署長は自分のデスクへ行って煙草に火をつけ、 「いま状況をお聞きしはじめたところだ」  と不機嫌な声で言って回転椅子に腰をおろした。 「研究所で三人死んだというが……たしかにあそこの人たちなんだろうな」  赭ら顔の肥った男が言いかけると、嘉平が手をあげてそれを制止した。 「君と敬子のことは途中でみんなに話した。これは中原市の岡野市長」  背の高い細面の老人が軽く頭をさげた。 「こっちは市教育委員長の村井君だ」 「とにかくこれはえらいことですぞ」  村井はいちばん昂奮していて、早口でそう言った。 「慌《あわ》ててもはじまらん。騒ぎたてればそれだけ収拾がむずかしくなる」  嘉平は叱るように言い、 「大山さん。あんたのほうは、とりあえず豹の対策を考えておいてくださらんか」  と署長を見た。 「濁沢《にごりざわ》峡谷のあたりには、キャンプしている連中もいるはずだ。そっちへは一番に報せてやらなければならんだろうが……」  署長の大山は歯切れの悪い答え方で、回転椅子の背にもたれこんでいた。 「で、敬子と君と二人で中へ入ったのだね」  嘉平が伊島のほうへ向き直る。 「僕が裏の実験室の窓から入って、入口のドアを中からあけたのです。一階には誰もいないようだったし、二人で二階へあがって見たのです」  嘉平は頷いて見せた。 「最初、階段をあがってすぐにある、右側の部屋のドアをあけました。外からその部屋の灯りが見えていたものですから。その部屋にまず一人死んでいました」 「どんな男だ」 「白衣を着て机に突っ伏していました。だから顔はよく見ませんでしたが」 「老人かね」  市長の岡野が尋ねた。 「いいえ。老人は廊下の反対側の、寝室であおむけに……」 「順に聞こう」  嘉平は少しじれったそうであった。 「白衣を着た、老人でない男だね」 「ええ。多分服毒死だと思います。机の上に薬鉢かがあって、その中に毒物らしいものが入っていました」 「三十七、八の男だろう。色の浅黒い、痩せた……」  教育委員長の村井がたまりかねたように早口で言った。 「さあ、うつぶせでしたから」 「間違いない。それは崎山だ。二階のとっつきの右側というと、彼の部屋だからな」  嘉平も市長も署長も、それには同意したようであった。 「その次に寝室へ入ったのかね」 「ええ。廊下の反対側のドアをあけると、そこは居間か応接間といった様子でしたが、誰もいませんでした。奥にもうひとつドアがあって、そのドアをあけて見ると、老人が血まみれになってあおむけに倒れていました。猟銃で喉を撃ったらしい様子でした」  すると署長が立ちあがり、市長の肩ごしに一枚の写真を差し出した。市長がそれを受取り、黙って伊島に渡す。 「老人というのはその人物かね」  署長はそう言い、咳《せき》ばらいをした。写真には、新藤龍泉博士の銅像と、その前に立つ一人の品のいい老人が写っていた。 「はっきりは憶えていませんが、多分この人物だと思います」  署長を除く三人は、言い合わせたように吐息を洩らした。 「それは、新藤慶太郎先生と言って、あの新藤博士のいちばん末のお子さんだよ」  嘉平が言うと、肥った村井が立ちあがり、部屋の中を歩きだしながら言った。 「事故ですかなあ」  伊島はそのほうを見つめて強調した。 「事故じゃありません。あれはたしかに三人とも自殺です」 「村井君、少し落ちつきなさい」  市長がたしなめた。嘉平は歩きまわる村井をちらりと眺め、 「で、夫人はどこで……」  と尋ねた。 「夫人……」  伊島は眉をひそめた。 「女性がいたのですか、あそこに」 「そう言えば、あたし三面鏡があったような気がするわ」  敬子が伊島を見つめて言う。 「でも女性はいなかった」  四人の男たちは気色ばんだようであった。 「じゃ、三人目も男か」 「ええ。しかし、そういうことなら、僕はもう一人どこかにいるのを見落したのかも知れませんね。何しろ、それでなくても霧に捲かれたり豹に襲われたり、不気味な感じでしたからね。建物の中には長くいませんでした」 「あたしが怕がったからですわ」  敬子が伊島をかばうように口をはさんだ。 「三人目の男は……」  署長はふたつのソファーの背に両手をついて、嘉平と市長の間から首を突きだすようにして尋ねる。 「一階の廊下の突き当りに、裏口のドアがあって、その横に地下へ降りる小さな階段がついていました。その地下室で、天井に通ったパイプにロープをかけて、若い男が首を吊って死んでいました」 「若い男か」 「ええ。髪を長く伸ばして、ジャンパーを着た……」 「久野だ。久野健次だ」  嘉平が首を曲げて署長に言った。署長は伊島と敬子を半々に見つめ、何度も頷いている。 「夫人はどうなんだ。無事か」  市長が嘉平に言う。 「判らんね。行って見なければ」  嘉平は深刻な表情で首を左右に振った。     四  伊島がひと通り現場の状況を説明しおえると、署長室に集まった中原市の有力者たちは、急にテキパキと動きだした。 「とにかくわたしは滝沢先生に連絡する。大山さん、この署長室を借りていいかな。何なら市庁舎へ戻ってもいいが」 「かまわんですよ」  署長は何か考え込みながら岡野市長に答えた。 「市長はここを動かんほうがいい」  嘉平は和服のたもとからピースの罐をとり出し、テーブルの上へ置いて言った。 「今夜のところはここを対策本部に使おう。市長室とここでいちいち連絡を取るのは面倒だ」  そう言って罐から煙草を抜きだし、黙って伊島の前へ押して寄越した。伊島は首を振ってそれを断わり、ポケットからセブンスターをとりだして咥《くわ》えた。敬子が大型の卓上ライターを両手でとりあげ、二人の煙草に火をつける。  市長は署長の回転椅子に坐り、大きなデスクの電話機を引き寄せると、上着の内ポケットから厚い手帖をとりだして、そのページを受話器を掴んだ左手で押えながら、ダイアルを廻しはじめた。 「わたしはこれから現場へ行かねばならん」  署長は曖昧《あいまい》な言い方をした。ピースを咥えた嘉平が振り向いてその顔を見た。二人はしばらくみつめ合っていた。 「あんた、すまんが湖畔広場のステージにいる杉本のところへ行ってくれんか」  嘉平は署長から視線を村井に移して言う。 「状況を呑み込ませた上で、ここへすぐ来るように言ってくれ。儂《わし》らがここへ全部集まってしまっては具合が悪かろう。九時近くまで、祭りのほうをうまくやっておいてくれんか。儂らは決着がつくまで今夜はここを動かんつもりだ」  教育委員長の村井は、嘉平にそう言われるとほっとしたような表情になり、 「とにかく大変な目にお会いでしたなあ、今夜は」  と伊島たちに言って、そそくさと部屋を出て行った。 「はい。中原市長の岡野善兵衛です。どうしても今夜中に、いや、今すぐに先生と直接お話がしたいのですが。非常に緊急な用件なのです。……はあ、そうですか。それでは十分後にこちらからもう一度ご連絡いたしますから、くれぐれもよろしくお願いいたします」  嘉平は市長の電話に聞き耳をたてていた。署長はそのうしろで、所在なげに突っ立っている。  伊島は署長の行動の鈍さが不思議で、無意識にとがめるような視線を送っていたようであった。 「それで、ちょっと聞きたいんだが」  市長の電話がおわると、嘉平は大きなガラスの灰皿のふちでピースの灰を叩きながら、軽い口調で言いだした。 「豹が車の上へとび乗って来た時は怕《こわ》かったろう」  敬子に向けて、微笑を泛《うか》べながら言った。 「それはもう……」  ねえ、と同意を求めるように、敬子は伊島を見て答える。 「霧の中からいきなり豹が湧きだしたんですもの、びっくりしないほうが不思議よ」 「その辺りで道を間違えたのかなあ」 「いや……」  伊島が言った。 「路肩の草をたよりに走らせたのですから、左折路があれば自然にそっちへ行ってしまいますよ。もちろん豹にも度胆を抜かれましたがね……」 「建物の裏手へまわったら、実験室の窓ガラスが割れていたと言ったね」 「ええ」 「破片が外の土に散らばっていたのなら、豹の奴、そこから外へとびだしたんだな。暴れて、ガラスを突き破ったんだろう」 「そうだと思います。今考えれば、足跡ぐらいたしかめて置けばよかったんですが、何しろあの時はそんなゆとりなんかありませんでしたし……」 「いや、君はよく観察しているよ。仲々それだけ観察できる状況ではないからな。で、どうだったのかね。研究所へ近づいて行った時の印象などは」 「霧の晴れ間から灯りが見えた時は、まったく地獄で仏と言う気分でした」 「そうだろう。しかし、車が二台停めてあって、灯りがついていて、そのくせ呼んでも答がない。嫌な気分ではなかったかね」  すると敬子がひと膝乗りだしたように坐り直した。 「今だから言うけど、あたしとっても嫌な感じだったわ。幽霊屋敷みたいな感じで……」 「それは、中で三人も揃って自殺していたんだからな……」  嘉平はかすかにからかうような言い方をした。 「いや、実は僕もそんな感じでした。建物の裏手へ行って見るのでも、本当はびくびくものだったんです」 「やはり、そういう死の館《やかた》だから、妖気のようなものがたちこめていたかな」  伊島は嘉平の言葉に答えようとして、ふと目をあげた。その視線が署長の瞳と真正面からぶつかった。署長は食い入るような目付きで伊島をみつめていた。 「そんな感じですねえ」  いったいこの署長は何で動かないのだ、と不審に思いながら目をそらし、伊島は部屋の中を見まわして言った。 「で、そのガラスの割れた窓から入ったのだったね」 「ええ」 「たしかあそこには妙なけものがいたはずだな」  嘉平は首をまわして署長をちらりと見た。署長が言う。 「のろまな猿みたいでしょう。一日じゅう木にぶらさがって、ユーカリの葉ばかり食っている奴ですな」 「そうそう。あのナマケモノを飼うため建物の近くにユーカリの林が作ってあるのだよ」 「何でナマケモノや豹などを飼っていたのです。モルモットの役をしていたんですか」 「さあ、儂《わし》らにはむずかしい学問のことなど判らんでな」 「とにかく実験動物でしょう。僕が入ったとき、あのナマケモノは頭に電線をつけられていましたからね」  嘉平は半分ほどになったピースを、ガラスの灰皿の底へ力を入れて押し潰した。 「可哀そうに。電線をつけっぱなしか」  乾いた声であった。 「僕も可哀そうになって、引っぱって外してやりました」  署長が急にせかせかと口をはさんだ。 「嘉平さん。わたしはとにかく行って来ます。遺体も収容せねばならんし」  市長がまたダイアルをまわしはじめた。 「検視の医者、鑑識班……大変だろうが、あまり大げさにならんようにな」 「また霧が出ておるでしょう。時間がかかるでしょうが、短波で連絡をとります。豹の始末のほうは、地域が広いし、とてもこっちでは無理です。県警本部と自衛隊にまかせるより仕方がないでしょう。滝沢先生のほうはおまかせしますから、よろしくたのみますよ」  署長はそう言い残すと、急にしゃっきりした姿勢になって、大股でドアの外へ出て行った。 「はい。……はい」  市長は電話番号を教えられたらしく、手帖に何やら書きつけると一度電話を切り、すぐまたダイアルをまわした。     五  杉本という男は、伊島より四つか五つ上らしい年恰好で、俳句か和歌の同人誌でもやりそうな、色白のひよわな感じの人物であった。  市の広報課の手伝いをして、船で湖へ出ていたために来るのが遅れたと、くどいほど詫びていた。嘉平には絶対服従している様子である。  敬子は杉本と面識があるらしく、気軽な挨拶をした。伊島に差し出した名刺を見ると、中原CATV局の局長という肩書きが付いていて、嘉平は席を立って部屋の隅で何かしきりに打合わせをはじめた。  全市のテレビが有線受信をしており、CATV局はそれに市政ニュースなどを挿入すると聞いていたので、伊島は多分今夜の事件を、明日どういう形で流すかの相談だろうと思った。研究所で死んだ三人のうちの一人は、郷土の誇りである新藤龍泉博士の直系であるから当然ニュースで流さねばなるまいし、嘉平の経営するスーパー・マーケットの一部がCATV局のオフィス兼スタジオになっているのだから、嘉平がその有線テレビ局の実権を握っていても当然のように思えた。 「ねえ伯父さま。あたし、お腹がペコペコよ」  杉本とのひそひそ話がおわると、敬子は待ちかねたように嘉平に言った。 「そうか。まだ晩飯前か」  嘉平は物判りのいい伯父の顔に戻り、元のソファーに坐って言った。 「それは気づかなかった。それでは、敬子はひと足先に酒屋町へ帰りなさい」 「あら。あたしだけなの」  敬子は唇をとがらせた。 「伊島君にはまだ少しいてもらわねばならん……とにかくこの騒ぎだ。我慢しなさい」 「お送りしましょうか」  杉本が言う。 「いや、祭りの晩だ。道は明るいし人通りは多い。酒屋町までなら心配は要らんよ」 「それじゃ、あたし帰るわね」  敬子は立ちあがった。 「でもなるべく早く解放してあげてね。疲れてるんだし、お酒でも飲んであんなこと早く忘れてもらわなくては」 「ほう。案外世話女房型なんだな」  嘉平は笑った。 「とにかく心配するな。儂がついている。それから、家へ帰ったらすぐ東京へ電話をして置きなさい。お母さんが心配するといかんからな」 「はい」  敬子は伊島をみつめた。伊島が笑顔で頷いて見せると、 「車に着換えなんかを置きっ放しだけど、いいわ」  と言って帰って行った。  それからかなりの時間、伊島は嘉平たちと無関係に放って置かれた。嘉平と市長は、山の研究所で死んだ三人の身寄りへの通知方法やら、葬儀のことやらを、地方都市特有の繁雑な人間関係を言葉の端々に覗かせながら、かなり要領よく処理して行っているようであった。  死んだ新藤慶太郎という老人が、東京の城南大学の名誉教授であることや、冴子という名の夫人以外に近い親族が一人もいないことなどが、伊島の耳に聞えて来た。 「とにかく、新藤先生のことは、冴子夫人の生死が知れてからでないとどうにもならん」  嘉平は何度もそう言っていた。  崎山というのは、伊島があの二階で最初に発見した、服毒死したらしい男のことで、名古屋の大学の助教授だということであった。どうやら新藤慶太郎の研究の、助手か協力者といった立場らしい。  首を吊った久野健次というのは、市内の食料品店の次男坊で、研究所のボイラーや発電機の面倒を見たり、豹やナマケモノの世話をしたりして、実質的には研究所員のような日常であったという。ただし、普段は市内の親の家から、研究所のライトバンを使って通っていたらしい。  市長や嘉平が口にする滝沢先生というのが、地元選出の衆議院議員で、保守党の実力者の一人である滝沢元三郎のことを指していることは、伊島にもはじめから判っていた。  西尾湖を横断するフェリー・ボートで、対岸の国鉄遠谷線と接続するしか足の便がなかった中原市に、曙スカイラインという恩恵を与えたのが、その滝沢元三郎であることはかなり有名な事実であった。話を聞いている内に、伊島は妙なことに気がついた。  誰一人、あの奇妙な集団自殺の原因とか理由について、疑問を口にしようとはしないのである。ここの連中には、何かとほうもない欠落がある。……伊島ははじめそう感じた。  三人が一度に自殺した。期待された実験に失敗し、絶望のあまり関係者全員が死ぬ気になった。……何かの研究所だということからすると、まず考えつく一番平凡な解答がそれであろう。  だが、そんなことがあり得るだろうかという反論も、同時に強く湧いて来る。第二、第三の仮説が、その反論から呼び起されねばなるまい。  議論はまずそこから始まって然るべきであるのに、この中原という土地では、その議論がまったく欠けて、いきなり善後策の相談になってしまっている。  想像力がないのだろうかと、伊島は首をひねった。そしてふと、あの肥った村井という教育委員長の言葉を思い出した。 「事故ですかなあ」  ちらりとそんなことを言っていた記憶があった。  人が事故で自殺をするものだろうか。あの見るからに打算的なタイプの村井に、そんな飛躍した思考ができるくらいならば、それよりはるかに知的な岡野市長や嘉平たちが、自殺の原因について語り合わぬのはおかしい。  ひとり窓辺のソファーに置き忘れられたように坐っているうち、伊島は自分が嘉平や市長や村井や署長たちから、だんだん遠のいて行くような気分になった。  嘉平たち中原市の男たちには何かの共通項があって、よそ者の自分にはそれが理解できない。伊島はそう思い、パーティーなどで時々感じる、あの気色の悪い疎外感に似たものを味わった。人を招いて置きながら、関係者だけにしか判らない隠語が横行する。目配せや独特のジョークで笑い合う。そんな時、伊島は逃げるようにパーティーを抜けだし、味気ない思いで飲み直しの店へ辿《たど》り着くのであった。  ここにもそれに似た嫌なものがあると思った。     六  CATV局の杉本が運転する車で、伊島はきのうの昼通った道を、高嶺温泉へ逆戻りしていた。署長室では、近くの喫茶店から取り寄せたコーヒーとサンドイッチが出ただけで、それもかきいれの祭りの晩とあっては、声をかけてから小一時間も待たされた挙句であった。 「おなかがお空きになったでしょう」  運転しながら、杉本は気の毒そうに言った。署長室で、伊島がサンドイッチをふたきれくらいしか口に運ばなかったことを知っているのである。 「明日も晴れますかね」  伊島は夜空を眺めてそう言った。杉本に気をつかわせたくなかったのだが、実のところを言えば、いささか中っ腹ではあった。  あれから二十人近くの人間が署長室へ出入りした。それぞれ中原市で然るべき役割を果している人物たちらしかったが、部屋へ顔をだすとまず第一に山の研究所における不思議な事件についての感想を述べるのであった。その都度、市長か嘉平かが呆れるほど根気よく、似たような会話の相手をしてやる。それが地方都市の儀礼と言うものなのかも知れぬが、伊島にはもどかしく、とてもついて行けぬ感じであった。際限もないどうどうめぐりに思えるのである。  その間、伊島は必ず一度だけ会話に組みこまれて、挨拶させられた。事件の発見者であることと、駒田敬子の婚約者であることが説明され、訪問者たちは大変なことに捲き込まれたという同情と、いい結婚が出来てしあわせだという祝いを、いっしょくたに言うのであった。そのたびに伊島はソファーから腰を浮かし、頭をさげさせられるのである。  東京生まれの伊島は、こうした地方都市の糸を引くように粘っこい人間関係をはじめて目のあたりに見て、肩のすくむ思いであった。それは、日頃自分たちが東京のくらしで用いている儀礼が、きわめて粗雑に簡略化されていることへの反省であったが、それ以上に、とてもこんなところでは暮して行けそうもないという、一種のおぞましさを感じたからであった。 「陶明館のほうへは、お食事のことも申して置きましたから」  文学青年めいた風貌の杉本は、また済まなそうに言った。馬鹿丁寧に筋を通すくせに鈍感な厚かましさを持った人々の中で、杉本のような幾分都会的な人間は、いつもそんな風に肩をすくめていなければならないのかも知れなかった。 「お酒は召しあがられるのでしょう」  だいぶ前に湖畔の道からそれ、両側に木の生い茂った山道へ入っていた。伊島は杉本の少々無理な敬語づかいを聞き、相手がこの道をもう一度一人で下ることに気づいて気の毒になった。 「あんな事件にぶつかりましたからね。酒でも飲まねば睡れませんよ」  そう答えると、杉本はうれしそうな声で、 「お好みを存じあげなかったのですが、日本酒の用意をするように言って置きました」  と言った。 「それは有難いですね。こういう夜は日本酒に限ります。熱燗でね」 「このあたりの地酒では、シュコウというのが一番です。珠《たま》の光と書きます。辛口で軽くて、珠光だけは東京からいらっしゃった先生がたもお褒めになります」  伊島は自分が杉本にその先生がたと一緒にされていることに気づいた。……そう言えば、たしかに伊島はインテリア・デザイナーで、まれに先生と呼ばれることがないでもない。 「お見うけしたところ、杉本さんは芸術家タイプで……何かおやりになっている方だと思うんですがねえ」  体を右へ半身にして相手の横顔を見ながら伊島が言うと、杉本はハンドルから片手をはなし、頭を掻いた。 「さすがお目が高いですね。そうですか、判ってしまいますか」  そう言い、 「長いこと詩の同人誌を出しているのです。以前一時、女学校で絵を教えたこともあるのですが、どうも教師というのはわたしの性に合いませんで」  と笑った。詩の傾向を聞くと、伊島も知っている中央の詩の雑誌の名が出て来た。話題は急に詩のことに移り、杉本は多弁になった。  伊島は適当に相槌を打ちながら、嘉平の顔を思い出していた。  今夜高嶺温泉へ泊ることになったのは、署長室へ一人の若い警官が駆け込んで来たあとであった。 「只今大山署長から連絡が入りました」  警官はそう言って、市長と嘉平を半々に見ていた。 「研究所の建物内には夫人の姿がないそうです。現在念のため建物の周辺を捜索中ですが、霧が相当濃いということでした」  警官はそう告げて帰った。 「案外市内かも知れんぞ」  市長が言った。 「祭りだからな」  嘉平は考え込むように言ってから伊島の傍へ来た。 「どうやら夫人は無事のようだ。もう遅いし、君にはそろそろ引きあげてもらおう。長い間引きとめて申しわけなかった」  そして大声で杉本に高嶺温泉へ宿をとるように言いつけたのである。宿は一昨夜泊った陶明館らしかった。  伊島が中っ腹になったのは、その宿のことが釈然としなかったからである。昼間駒田邸を出る時は、あれほどもうひと晩泊って行けと言ったくせに、なぜ今になって遠い高嶺温泉へ追いやろうとするのか、理由が掴めなかった。早く酒屋町の駒田邸へ行って敬子に迎えられたいと思い続けていただけに、一層腹が立った。 「すると、中原CATV局のニュースの構成などは、杉本さんがおやりになるのですか」  伊島は探りを入れる気になった。 「それは、読ませる文章と放送のコメントではだいぶ違いますからね。大筋は市の広報課で言って寄越すのですが、結局わたしが全部面倒を見ることになります。やはり餅は餅屋ですから」  杉本は詩や小説について語っている内に、伊島に対してだいぶ気楽になったらしかった。 「それは大変ですね。今度の事件も、明日のニュースで流さねばならないのでしょう」 「ええ。帰ったらさっそく準備しませんと」 「亡くなった新藤慶太郎という方は、中原市と具体的にどういう関係がおありだったのです。市長や駒田さんたちとはかなりお親しかったようですが」  すると、杉本は急に夜道を注意深く見つめ、いかにも運転に気をとられていると言った態度で沈黙した。 「いったい、あんな山の中で何の研究をなさっていたんですかね」 「動物の習性についてです」  杉本はハンドルを切って右に大きく曲りながら言った。左側が深い谷になっていて、谷底に白い霧があった。 「よく存じませんが、お若い頃からずっとその研究に打ち込んでおられるそうです。動物の習性などということは、あまりお金には縁のないことでしょうし、財産もあらかた使い尽してしまわれたそうですよ」  言葉づかいが、微妙に元の堅苦しさに戻っていた。 「それにしては、あの建物は新しかったですよ。鉄筋の二階だてで……」 「何しろ新藤龍泉博士のたった一人残ったお身内ですし、市の有力者たちが見かねて援助したようです」  一応筋は通っていた。 「冴子夫人というのはどういう方ですか」  すると杉本はほっとしたようだった。 「美人ですよ」  無意識のようにハンドルを柔かく握りなおして答える。 「でも、もうお年でしょう」 「とんでもない」  杉本は笑った。 「正確には知りませんが、三十五……そのくらいではないでしょうか」 「そんなに若いんですか」  伊島は驚いた。 「美人は若く見えますから、もしかするともっと上かも知れませんが、とにかくご主人とは随分年が違うのです」  伊島は、ダブル・ベッドの傍であお向けになっていた、血まみれの老人を思い泛べた。杉本の言う若く美しい女とあの老人が、どうしてもうまくつながらなかった。     七  高嶺温泉は、本来中原市の対岸にある遠谷に依存して成り立っていたが、曙スカイラインの開通以後、中原市に依存する度合が強まっていた。  旅館は四軒で、その内の三軒までが比較的新しい。昔は陶明館という宿が一軒あるだけであったという。それが戦後徐々にひらけはじめ、曙スカイラインと中原市の観光都市化以後、一拳にあと何軒か増えそうな情勢にあるらしい。  そんな中で、しにせの陶明館はその地位を確保すべく、ホテルの新築に踏み切ったのであった。鉄筋五階だての建物がほぼできあがり、間もなく伊島たち内装業者の出番になっていた。  東側が狭隘な谷で、山腹を危うげな細い道がうねうねと這いあがって行く。四軒の旅館はいずれもその山腹にへばりつくように建っていて、温度はかなり高いが硫黄分の強い湯を、ひとつの湯元から分け合っていた。  取り柄は湧出量が豊かであることと、昔の素朴だが頑丈な石だたみの道がよく保存されていて、いかにも山の湯と言った趣があることであった。  近年になって中原市が積極的に介入するようになってから、ちょっと過剰なくらい古めかしさを強調するようになり、縁もゆかりもない遠い土地の石地蔵が運ばれて、いわくありげに路傍を飾ったり、電線を地下方式に変えて現代臭を消して見たりしている。  だが、そんな試みも結局は生存競争の激しさに押し流され、本家本元の陶明館が、五階だてのホテルを出現させてしまったのだ。  要するに、高嶺温泉をひとことで言えば、崖の温泉である。どこをどう変えようと、危っかしい崖の上に乗った温泉宿の一群であることは変えようがない。その意味で、陶明館の着眼点は正しいようである。古い旅館が道の山側に建てられているのに、そのホテルは切り立った崖側に作られた。全戸南向き、というのは市街地マンションのうたい文句だが、そこでは全室崖向きが売り物になるはずであった。 「自殺の名所にならんだろうか」  陶明館の当主の心配はそのことで、伊島も何度か意見を求められた。たしかに客室の窓をあければ、目の下は深い谷で、岩の間を流れる細い谷川が白く見えることになる。そこからとび降りれば、まず即死することは間違いない。ことに、五階の宴会場は崖へテラスが張り出していて、酔った客が転落する心配は大いにあったが、そこへは高い金網を張ることになっていた。  陶明館の主人は、設計家に強引に押し切られたようであった。転落事故の心配さえなければ、それ以上に地形を生かした設計はないはずであった。現に陶明館の主人でさえ、 「最上階の展望風呂などというのを売り物にするくらいなら、うちなどは全室展望風呂ですな。谷底からの高さで言えば、日本一高い風呂でしょうが……」  と自慢し、いずれ儲かったら谷底までエレベーターを特設して、谷川でバーベキューをさせると張り切っている。  その危っかしい崖の道をたどって伊島が陶明館に入ったのは、もう十時近かった。 「お忙しいのに、どうも有難うございました」  伊島は陶明館の玄関で杉本に礼を言った。 「どういたしまして。……あ、そうだ。車のキーを頂いて戻らなければ」  杉本はせかせかと言った。伊島がキーを渡すと、靴を脱いで上へあがり、ガラガラと右側の帳場の戸をあけ、 「伊島さんがお着きだ。判ってるね」  と言った。玄関の正面に階段があり、帳場の前の廊下を通って行くと、途中に調理場や女中部屋が並び、その突き当りが銭湯ほどの広さの男湯になっていて、となりにそれより小さいらしい女湯の入口があるのだ。 「もうお帰りになったと思っていましたのに」  おのぶさんという名の中年の女中が、愛想よく腰をかがめて出て来た。 「もうひと晩泊ることになってしまったよ」  伊島は彼女に笑いかけ、 「とにかく腹ペコだ。たのむよ」  と言った。  その時、パタリ、パタリとスリッパの音がして、黒光りする古い階段を、宿の浴衣と茶羽織を着た女が降りて来た。ものうげにタオルをぶらさげているところを見ると、これから湯に入るつもりらしかった。  伊島はちらりとそれを眺め、驚いてもう一度見直した。ドキリとするほどの美人であった。すでに一度湯に入ったあとらしく、洗い髪を無造作に束ねている。呆気にとられたような顔の伊島を、おのぶさんが悪戯っぼい目でみつめていた。 「それではお会計のほうは……」  杉本が帳場からそう言いながら現われ、伊島の視線に気づいて女のほうを見たとたん、 「奥さん……」  と大声で言って息をのんだ。  伊島はあっと思った。 「こんな所にいらしたんですか」  杉本は悲鳴をあげるように言い、その美女に駆け寄った。美女は心持ち頤《あご》を引いて、謎めいた瞳で杉本をみつめている。  伊島の背筋を痺《しび》れのような感覚が走り抜けた。新藤夫人に違いなかった。 「大変です、奥さん」 「何が……」  低いがなめらかな声であった。視線をちらりと伊島に走らせ、すぐ杉本にそれを戻して、眩《まぶ》しがるような眉の寄せかたをする。 「研究所で……」  杉本は言いかけ、伊島を振り返ると意味不明にペコリと頭をさげた。 「困ったな、どうしよう」  うろたえているのだ。 「とにかく電話で報《しら》せたらどうですか」  伊島が助言した。 「そうそう」  杉本は帳場へとってかえし、 「奥さん、ちょっとお待ちください」  と懇願するように言った。 「どうしたのでしょう」  美女はおのぶさんに微笑を向けた。杉本は電話をかけはじめていた。 「新藤さんでいらっしゃいますか」  伊島が言うと、 「はい」  と答える。ふり向いて杉本を見ると、彼は伊島のほうへ片手拝みをして見せた。たのむ、ということらしかった。 「町では大騒ぎであなたを探しています」 「あら」  夫人は瞳を大きくして首をかしげた。 「申しあげにくいんですが、ご主人がおなくなりになったそうです」 「ほんとですか、伊島さん」  おのぶさんが黄色い声で言った。伊島は夫人から目をそらし、また杉本を振り返って見た。杉本はおかげで助かったというようなジェスチュアをして見せた。 「それ、いつのことですの」  夫人の表情が堅くなり、血の色が引いたようであった。 「さあ、よく判りません。くわしいことは彼にお聞きください。とにかく、お帰りの仕度をなさったほうがいいでしょう」  夫人はくるりと背を見せ、今度はスリッパの音もさせず、二階へ戻りはじめた。伊島は階段を昇って行く白い足首をみつめていた。     八 「仏さまやら豹やら、おそろしいことでございましたわねえ」  床の間を背にして浴衣に着換え、あぐらをかいた伊島に、おのぶさんが徳利を差し出しながら言った。そのとなりに、もう一人似たような年輩の女が坐って、さっきから伊島の話を聞いていた。 「健次さんまで……ほんとにおかみさん、世の中って判らないもんですねえ」  おのぶさんはとなりの女に言った。陶明館のおかみさんは大きく頷き、 「今ごろどんな気持で車に乗っていらっしゃるのか」  と憐れっぽい声をだした。 「きのう、その久野健次という若い子に送られてお見えになったんですよ」  おのぶさんの言葉に、伊島は盃を持った手をとめて顔をあげた。 「久野健次に」 「ええ。研究所のライトバンで……ねえ、おかみさん」 「あの久野という若い子は、それはよく奥さまにお仕えしていたんですよ。もっとも、ああお綺麗なんだから、無理もないでしょうけれど」  伊島は盃を乾し、おかみさんに差し出した。おかみさんがそれを受け、おのぶさんが酌をする。 「きのうもあの子は、奥さまをお送りして来て、とてもはしゃいでいましたよ」  おかみさんが言うと、おのぶさんも、 「よほどうれしいんでしょうね。僅かな道のりでも奥さまと二人きりで車に乗れることが」  と言った。 「惚れてたのかね」 「そりゃそうですよ。伊島さんだって、さっき玄関でうっとりと見とれていらしたじゃありませんか」  おのぶさんが笑った。 「男のかたなら、誰だってあの奥さまには……ねえ」 「つまり憧れていたってわけか」 「ええ。でも奥さまのほうも、随分可愛がっておいでだったようですよ」 「ほんとかい」 「以前からうちへはよくお見えでしたけど、近頃はかなり頻繁《ひんぱん》においででした。いつもあの子が運転して……。この山の裏側まで遊歩道を作ってあるんですが、この間なども半日近く二人きりで、あそこを歩きまわったりなさって」  おのぶさんが言うと、おかみさんはそれを打ち消すように首を振る。 「何しろ崖ばかりの土地ですからね。遊歩道と言っても碌《ろく》な道じゃないんです。お一人では危くてとても……」 「ご主人とは随分年が違うんだね」 「ええ。でもお仲はとてもよろしいそうでしたよ」  おのぶさんが腰を浮かせた。 「お銚子を……」 「いや、もういいよ。いくらなんでも明日は東京へ帰らなければ、運転するのに二日酔いではな」 「あら、でもお車が」 「明日の朝、誰かが届けてくれることになっている」 「それに駒田のお嬢さまが乗って見えるんですね」 「ああ」 「それは結構なこと」  おかみさんはそう言い、 「じゃおのぶさん」  と目配せして立ちあがった。 「お邪魔さまでした。どうぞごゆっくり」  おかみさんは廊下へ出て行った。伊島は食事をはじめた。 「さすがに宿のおかみだな」 「あら、どうしてです」 「おのぶさんはどうやら目で叱られてたじゃないか」 「奥さまのことですか」 「そうだよ」 「だって、伊島さんはこの土地の方じゃないし、第一本当なんですの。言ったっていいじゃないですか」  おのぶさんは首をすくめて見せた。 「新藤慶太郎という人は、もう男の役をおえた年齢だ。あんな美しい女性が……気の毒だよなあ」 「そうですよ」  おのぶさんは乗って来た。 「あたしは絶対にあの子と何かあったのだと思いますよ。あたしだって女ですからね。見れば判りますよ。奥さまは冷たそうな態度をつくろっていても、若い子のほうはそうは行きません。お部屋へ伺った時など、二人がさっと離れる気配が判るんです」 「しかし、そうなると研究所の事件は理由がはっきりするな」 「そうでしょうか」 「おのぶさんはどう思うんだ」 「新藤先生と健次さんが揉《も》めた挙句ということは、ひょっとしたらあるかも知れませんけど、それで自殺なんて、とても……」 「そうかね」 「きのうあの子が帰るとき、奥さまに何度も何度も、あした迎えに来る。必ず迎えに来ますって……くどいほどそう言っていましたからね。それが自殺するなんて」 「ちょっと待ってくれ。そいつは妙だな」 「変でしょう……だから」 「いや、あした迎えに来る。きのう久野健次はそう言っていたのかい」 「ええ」 「あした、というと今日のことだぜ」 「そうですよ」  おのぶさんは、何が不思議だというような顔で伊島をみつめた。  伊島は黙って飯を食った。  迎えに来るはずの久野健次が夜になっても来なければ、連絡しようとするはずではないだろうか。研究所に電話がなくても、少くとも中原市のどこかへは連絡するはずだ。それを研究所へとり次ぐ方法は、そこで暮している以上ないほうがおかしい。 「夫人は今日どんな様子だったね」 「さあ……ほとんど一日中お部屋にいらっしゃったし」 「電話をするとかなんとか……」 「いいえ。そう言えば、少し沈んでいらしたようでしたわ。虫が知らせたんですかねえ」 「そうか、沈んでいたかね」 「ええ。お昼ご飯の時、どこかお加減がお悪いのかってお聞きしたら、なんでもないとはおっしゃってましたけど」 「そんなことをおのぶさんが尋ねるようでは、少しどころか随分陰気だったんじゃないのかい」 「ええ、まあ……でも、お一人の時はいつもとてもお静かですし」  おのぶさんの表情は不確かでとらえどころがなかった。  食事をすませると、伊島はすぐひと風呂浴びて床に入った。  想像でしかなかったが、久野健次と冴子夫人の間に何かあったことは確実だと思った。そうなれば、新藤慶太郎とのもつれた関係が浮びあがる。しかし、それではもう一人の自殺者である崎山という人物の存在が判らなくなる。冴子夫人は、崎山という男とも何かの関係があったのだろうか。  伊島はあれこれ考えて仲々寝つかれなかった。とにかく、あの美人を見て以後、今度の件に愛情関係がからんでいることは間違いないと確信していた。しかし、それでは嘉平たちの妙な態度はどうなる。彼らは三人が自殺した理由を知り抜いているようだったではないか。理由の詮索などそっちのけで、夢中になって善後策を講じていた。いったい、彼らが無条件で思い当てた三人の自殺の理由は何なのだろう。なぜ自分はこの崖の温泉へ追いやられたのか。伊島は考え続けた。  妙なことはいくらでもあった。  今年の湖上祭の成功のために事件を拡大させない……嘉平の態度はそれで一貫しているようだったが、果してその通りなのだろうか。祭りでなくても事件を秘匿したかったのではなかろうか。逆に祭りであることがその口実にされているのではないだろうか。  事故ではないかという、教育委員長の村井の発言も不可解であったし、署長が仲々行動を起さなかったのも妙な感じだ。  嘉平はなぜ研究所の雰囲気のことなどを、のんびりと尋ねたのだ。そう言えば、たしかその説明をした直後、急に署長は活動をはじめたようだった。  明け方伊島は眠り、ナマケモノの夢を見た。   第三章     一  六十近い年輩の男が、初冬の陽ざしの中で縁側に書物を二十冊ばかり積みあげ、一冊ずつ丹念にはたきをかけていた。背が高く、骨っぽい体つきで、額のあたりはかなり禿げあがり、それに白髪がだいぶ目立つが、背も腰もまだしっかりしていて、老人という感じはなかった。  建物は古びた和風の平屋で、建坪の倍ほどの広さの庭に手入れの行き届いた松や楓や柘榴《ざくろ》などの庭木が並んでいる。 「見ろ、お前にまかせて置くとこの通りだ」  男はそう言って光の中に舞う埃《ほこり》を、はたきの先で掻《か》きまわすように示した。  座卓の上に置いたふたつのカップに紅茶を注《つ》いでいた伊島は、 「そんな押入れの奥の本の面倒までは見きれないよ。庭の手入れだって、お父さんに対する義務感だけでやっているようなもんなんだからね」  と笑った。 「この本だけは、俺が死んでも自分の蔵書として、ずっと保存して置いてもらいたい。これは俺の学生時代の愛読書なんだ。そして、お前が今の俺の年になったら、今度はお前の子供に譲る……この本が先祖代々の家の宝になる。いいことだぞ、こういうことは」 「紅茶がさめるよ」  伊島は自分のカップに砂糖をほんの少し落して言った。 「それより、この家を改築しようよ」 「またその話か」 「だいたいお父さんはずるいよ。俺にこんな古臭いすまいをまかせて、自分はちゃっかりマンションぐらしなんだから」 「何を言ってる」  父親ははたきを本の山の上へ置き、下駄を脱いで家へあがった。 「家賃なしだぞ。贅沢を言うな」 「改築は俺のほうでやるよ。そのくらいの金はなんとかなるんだ。そうしたら一緒に住めるじゃないか。敬子のことなら心配ない。彼女はそういうことは苦にしないよ。そのつもりで敬子を選んだんだから」 「苦にされてたまるか」  父親は苦笑しながら坐った。 「だいたいお袋が早くに死にすぎたんだよ。だから夫婦に子供一人のスタイルのまんまになってしまったんだ。新婚夫婦に父親という組合わせは、この家ではどうにも納まらない。でも今どきこんな庭もあるんだし、改築は自由自在じゃないか」  父親は目を細めて紅茶を啜《すす》った。 「夫婦に子供一人のままか……そうだな、俺たちは変わったが、この家は母さんが死んだ時のままで年をとってしまった」  そしてにやりと笑う。 「子供というのはどんどん育つものだ。お前はいま、新婚夫婦に父親では、この家は都合が悪いと言ったが、たしかにその通りだ。実を言えば俺も一、二度は、この家の改築や増築を考えたことがあった」 「え……」  伊島は意表をつかれたように目を丸くした。 「まあいいさ。結局この家は母さんが死んだ時のままで残ったんだからな」  伊島は目を伏せた。 「そうか……」 「馬鹿、気にするやつがあるか。俺は喜んで言ったのだ。お前も俺と同じようにこの家を作りかえることを考えはじめた。しかも自分の金でやると言う……結構なことだ」  父親に再婚してもいい相手ができた時、伊島はもうかなり育っていたらしい。中学生か、高校生か。だが父親はとうとうこの家を作りかえず、最初のままで通して来てしまったのだ。 「俺は今、マンションぐらしをたのしんでいる。まるで学生の昔に返ったようだ。その気になればまだ浮気だってできる」 「まさか」 「疑うのか。この間お前が中原市でぶつかった事件の、なんとかいう老人だって、若い美人の嫁さんを持っていたそうじゃないか。俺はまだそんな年じゃない」 「でも、急に病気になったりしたら」 「心配するな。それに、俺は別に改築に反対しているんじゃない。この家ももうボロになった」  父親はそう言って家の中を見まわす。 「だが新婚ホヤホヤの夫婦の傍にいるのはごめんだよ。そのかわり、孫ができたら一緒に暮そう。家の設計などはお手のものだろうが、見くびるものではないぞ。子供が生まれる前と、生まれて顔を見てからとでは、親として夢の持ちようがまるで違うものだ。自然、家に対する考えも違って来るはずだ。だから、この家を建てかえるのなら、子供ができてからにしろ。そうなれば俺だってマンションの一人ぐらしなんかごめんだ。一日中孫と遊んでいたい。その時は俺も自分の住む分ぐらいは出すさ」 「判ったよ。そういうことならお父さんの言う通りにしよう。今度機会を見て、敬子や駒田さんのほうにもそう言って置くよ」 「駒田さんは元気か」 「うん。相変わらずボスぶりを発揮して……あんなに力のある人だとは思わなかったなあ」 「どうだ、材木の手配などはあの人に頼んで見ては。どうせ改築するのなら、今度は床柱などもうんと奢《おご》りたいもんだ」 「そうだね。……でも、おかしな事件だったなあ」 「あの時自衛隊に射殺された豹の剥製が、中原市のどこかに飾ってあるそうだな」 「うん。図書館にあるらしいよ。でも、中央の新聞に出たのは豹の騒ぎのことばかりだ」 「ニュースというのはそういうものさ。派手なほうへかたよる。それに、お前が発見したという三人の死体は解剖されたわけだろう。その処理に手間どっている間、ずっとあの豹の山狩り騒ぎだったのだから……」 「それなんだけど、考えように依っては実に巧妙じゃないか。三人一度に自殺したというショッキングなニュースを伏せるために、わざと死因の判定を遅らせたかもしれないだろう」 「そう勘ぐるものじゃない。事態が異常なだけに、自殺に見せかけた他殺というケースを特に念入りにチェックしたんだろう。それで判定のタイミングが遅れた。正式に発表された時は多少ニュースとして価値が減っていた……それだけのことさ。その証拠に、中央紙はのせなかったが、地元ではやはり大々的に報道しただろう」 「うん」 「筋は通ってる。警察はよくやったよ」 「老人がまず猟銃を暴発させて死ぬ。その愛弟子は恩師が死んで研究の前途を絶たれたのを悲観して毒を呷《あお》る。一方、その騒ぎで豹をとり逃した飼育係は責任を感じて縊死。……話がうますぎると思うんだよ」  父親はたしなめるように伊島を睨んだ。 「それは、死んでしまった以上、仮りに遺書があったとしても自殺した当人の本当の気持など判りっこない」 「遺書があっても……」 「そうさ。書いたものが本心通りとは限らんだろう。単純な厭世自殺だって、人のために死んだというような恰好をつけることもある。あの警察の発表は事実をできるだけよく調べた結果だが、事実ではない。それに近いものだ。推定だよ。逆に言うと推定だが非常に事実に近いということだ。少くとも他殺、謀殺の線はない。その点はお前だって、はじめから自殺だと考えていたじゃないか」 「それはそうだが、高嶺温泉であの夫人に会ったとき」 「馬鹿な……単なる宿の女中の噂じゃないか。その夫人というのが、お前にそんな疑惑を抱かせるほど妖艶な美人だったということはよく判るがね。とにかく、そんなこととはもう縁を切れ。中原市の駒田家は、いわば敬子さんの実家ではないか。その駒田さんが郷土の名誉にかけて一生懸命なさったことを、お前がどうこう言うのは筋違いだろう。第一お前は事件の発見者というだけで、何の利害関係もないじゃないか。他人のことだ」 「まあ、済んでしまった事だからもうどうでもいいけどね」 「それより、高嶺温泉のホテルの仕事はどうなった。うまく進んでいるか」 「それが、だいぶ遅れてしまっているんだよ。予定より三カ月遅れる見込みなんだ。こういう時には内装関係に全部シワ寄せが来てしまう。オープンの日にまだトンカチやってなければならない。うんざりするよ」 「そう言わずにしっかりやれ。駒田さんの世話でもらった仕事だろう」  父親は諭《さと》すように言った。     二  伊島は家を出た。その家は両側を生垣にはさまれた細い私道の奥にあり、土の上に一直線に踏み石を敷いた突き当りに門があった。建物は門を入った右側に寄せて建ててあり、門から庭木の間を抜けて敷地を突っ切ると、隣家とひと続きになった生垣の外は、いきなり原宿・渋谷間の国電の線路へ落ちこんでいる。  私道は外の舗装した道路と直角に交差している。道路は何度か曲りくねって明治神宮の表参道へ出る。伊島インテリア設計という小さな会社のオフィスは、その表参道に面して並ぶマンションの六階にあった。  丁度昼飯どきで、派手な装いの男女がぞろぞろと並木のある通りを歩いていた。伊島はその間を足早に縫ってマンションへ入り、エレベーターで六階へ昇った。  オフィスのドアをあけると、すぐに応接間で、濃いグリーンのソファーに二人の男が深々と体を沈めて煙草を吸っていた。一人は真っ赤なセーターに膝のあたりが白っぽくなったブルージンをはき、ちぢれた顎ひげを伸ばしていた。 「何だ岩永さん。来てたの」  赤いセーターの男は坐ったまま見あげ、うん、と優しい声で答える。 「門前仲町のほうがおわったから挨拶に来たんだよ」  するともう一人の男が立ちあがり、軽く頭をさげた。このほうはきちんとスーツを着て、物堅い様子であった。 「おかげさまで」 「どうです。お気に召していただけましたか」  すると岩永が口をはさんだ。 「思ったよりだいぶよくなりましたよ。ねえ……」 「ええ。やかましいことばかり言って、岩永さんには随分ご迷惑をかけてしまいましたが、おかげで立派になりました。来月の十日に開店する予定ですが、おひまな時はぜひ来て見てください」 「ええ、ぜひ。……あれ、まだお茶もお出ししてないんですか」  伊島がとなりの部屋をのぞこうとすると、岩永が笑った。 「昼飯に行っちゃったよ。留守番してたんだ」 「ひでえ奴らだな」  伊島は苦笑した。岩永はフリーのインテリア・デザイナーで、伊島の会社の助っ人のような存在であった。 「僕はこれで失礼しますから」  スーツの男は丁寧にまた頭をさげた。 「新宿に用があると言うんで、僕の車で一緒に来たんだよ」 「そうですか。開店準備で何かとおいそがしいでしょうからお引きとめしませんが」  伊島は廊下へ客を送って出て、しばらく見送ってからドアをしめた。 「家へおやじさんが来てるんだって」  岩永が尋ねた。 「うん。休みらしい」 「郵政省をやめてからもうだいぶたつねえ」 「役人はいいよ。定年のあともなんとか外廓団体へもぐり込めるんだから」 「どういう所だっけ」 「日本電波教育会」 「そうか。郵政省と文部省でやってる奴だな」 「よく知ってるな」 「うん。ちょっとね」  伊島はさっきまで客が坐っていたソファーに腰をおろした。 「気に入ったらしいね」 「門前仲町か」 「うん」 「でも、あんな所であんなに凝った店作って、やって行けるのかねえ」 「そこまで知るか。こっちは注文どおりにやっただけだ」 「敬子さんと同じ年だそうじゃないか。若いのによく金があるなあ」 「中原市というのは、わりと金持が多いんだ。どうせ親の金さ」 「でも、臑《すね》かじりにしてはしっかりしてるぞ。こっちの仕事だって、敬子さんの伝《つて》で仲間相場でやらせたんだしな」 「敬子の伯父さんの紹介だから断われなかったんだ」 「金持が多いって言うけど、あまり住みいい土地でもないらしいじゃないか」 「そうかな。小ざっぱりしていい所だぜ」 「でも彼が言ってたよ。東京へ来るとなんだかほっとするって。自分をとり戻したような気分だってさ」 「向うで親に頭をおさえられてるからだろう」  伊島は軽く笑った。 「そんないい所なら、俺も来年の秋、湖上祭とか言うのに行って見ようかな。豹が出たらとっつかまえてやる。……豹ってのは食えるのかね」 「豹を食う気でいやがる」  今度は二人で笑った。その時ドアがあいて、一人の青年がおずおずと顔をのぞかせた。 「あ、入れよ」  岩永が手招きした。 「紹介しよう。これ、当分僕の助手をやってくれる津川君だ」  その男もよれよれのブルージンをはいていた。 「津川です。よろしく」 「バイトなんだ。本職は革命家さ」  岩永が冗談のように言った。 「自分だって一見バイト風じゃないか。あんたもそろそろオフィスを持ったらどうなんだ」 「いずれね。とにかく近頃は駐車できないし、一人じゃ車も不便でいけないよ」  岩永はそう言って新しい助手と帰って行った。     三  その夜、伊島は渋谷の喫茶店で敬子と会った。敬子の家は世田谷にあり、彼女はもう日本橋の商事会社もやめて、伊島との結婚を待つだけの生活に入っている。  伊島はその喫茶店で、昼間父親の話したことをそのまま告げた。 「すてきなお父さまね」  敬子はそう言っていくらか瞳を潤ませたようであった。 「それで気がついたんだが、君のお母さんのほうはどうなるんだい」 「それは心配ないわ。母は世田谷の家をもう売りに出してるの」 「え……あの家、売るのか」 「中原で暮したいんですって。東京は空気が汚いし。でも、おうちを新しくしたら、母が来て泊れるお部屋もひとつ作ってもらえないかしら。やっぱりうちの母も孫のことを言ってたわ。生まれたら中原と東京を行ったり来たりしたいらしいの。そうすれば大好きな遠谷線にも乗れるし」 「そうか。おばあちゃんの部屋も作らなければいけないんだな。でも、おやじと君のお母さんと、みんな揃ったらにぎやかになるな」 「二人とも長い間片親だったから……。両方足して一人前ね」 「いっそのこと、親同士も結婚しちまえばいい」 「そうは行かないわよ」  敬子は笑った。 「こうなると、人のことより自分のことだな。俺はプロなんだから、皆さまのお好みに応じて、ひと部屋ずつ内装を変えなければならないな。お母さんの部屋のことは大丈夫だ。まかしとけよ」 「そうそう。今日丸山君から電話があったわ。お店がちゃんと出来あがりましたって」 「丁寧な奴だな。君の所へもちゃんと挨拶したのか」 「中原の人って、みんな礼儀正しいのよ」 「そうかな。今日岩永さんが言ってたけど、丸山という奴は中原市が嫌いなんだそうだ。東京へ来ると自由でほっとするってさ」 「あら、あたしは逆だわ。中原へ行くとなんとなく気分が落ちつくの。ことに伯父さまの家でテレビなんか見てると、一家|団欒《だんらん》ってこういうのだなあ、なんて……みんないい人ばかりだし」 「中原まで行ってテレビ見てることはないじゃないか」  伊島は失笑した。 「湖の水も綺麗だし、星もよく見えるし、東京で見られないものはいくらでもあるじゃないか」 「伯父さまから、結婚祝いに何が欲しいか早くきめろと言って来てるんだけど、何がいいかしら」 「そんなもの俺に聞いたって知るか」 「でも結局二人の物になるのよ」 「それなら材木でももらうか」  伊島は父親の提案を思い出していた。 「やだ。そんなものもらって何に使うの」 「家を新しくするのさ」  すると敬子は目を丸くして言った。 「あ……それいいわね。材木がタダになれば、家を建てる費用が随分安くなるんでしょう」 「全部もらう気でいやがる」  伊島は笑った。 「床の間の柱とか板とか、そういうのを少し、安く分けてもらうんだよ」 「それっぽっちじゃつまんないわ」  敬子は鼻を鳴らした。 「銘木というのは高いんだよ。それに本当にいい物を見分けるのはむずかしいんだ、その点駒田さんが奨めてくれる木なら間違いない」  二人はそれから原宿寄りにあるレストランで食事をし、その間も新しい家について語り合って、結局伊島のオフィスで本格的に相談することになった。二人は体を寄せ合って、冷たい風の中を表参道まで歩いた。ワインの酔いが寒さを感じさせなかった。     四  エレベーターで六階へあがって、伊島は「おや……」と言って足を早めた。 「誰か来ているらしいな」  オフィスのスチール・ドアの下から、廊下へ僅かに光が洩れていたのだ。二人の靴音がコンクリートの壁に響く。  ドアに近寄り、伊島がノブに手を差しのべたとたん、その光が急に消えた。伊島はそれに気づくと、ノブに手をかけたままじっと中の様子をうかがっている。 「どうしたの」  敬子がささやいた。同時に伊島は一気にノブをまわしてドアを大きく開いた。中は暗かった。 「誰だ……」  伊島は大声で言い、左側の壁のスイッチを素早く押した。一、二度短く点滅して蛍光灯の白い光がともり、濃いグリーンのソファーが鮮やかに浮びあがったが、入口の部屋に人影はなかった。 「誰もいないじゃないの」  敬子がほっとしたような声で言うと、伊島は彼女を廊下へ押し戻すようにして、そっと中へ入って行った。 「誰なんだ。出て来いよ」  今度は静かに言った。すると、隣りの部屋でカチリと微かな音がして、厚毛のハーフ・コートを着た長髪の男が、のそりと応接間へ出て来た。同時にその男の背後で、暗かった部屋にパッと灯りがつく。 「君は……」  伊島がその顔を見て呆れたように言った。 「津川です」  男はふてくされた表情で名乗り、 「今帰るとこだったんだ」  とつぶやいた。 「何の用だい。どうやって入った」  伊島が尋ねると、津川はハーフ・コートのポケットに手を突っ込み、拇指《おやゆび》と人差指で白く光るキーをつまみあげて見せた。 「岩永さんに借りたんだ」  たしかに、岩永には社員なみにドアのキーを預けてあった。 「岩永さんの用事で来たのか」  二人の男が睨み合うように立っていて、それを入口で敬子が寒そうに肩をすくめて見ている。 「そうじゃない」 「でも君にキーを渡したんだろ」 「無断で拝借したのさ」 「何のために」 「いいじゃないか。もう帰るから」 「とにかくキーを返してもらおう」  男は指でつまんでいたキーを持ち直し、ゆるく投げた。キーは伊島の掌《て》へ移る。 「帰っていいかな」 「いや。坐ってくれ」 「そうだろうな」  津川は肩をすくめ、ソファーへ腰をおろした。伊島は膝を折ってガス・ストーブに点火した。 「あの人も中へ入れたほうがいいよ。別に撲《なぐ》り合いがはじまるわけじゃないんだから」  津川は依然として籠《こも》ったような喋り方で言う。 「入れよ」  伊島は立ちあがり、敬子に顎をしゃくって見せた。ドアを閉めて敬子が入って来る。 「火の傍にいるといい」  そういうと、敬子は隣りの部屋から車輪つきの椅子を引っぱって来てストーブの前へ置き、それに腰をおろしながら伊島に目で合図をした。伊島がすぐ部屋をのぞきに行く。  スチール・デスクが四つほど並んだ部屋の書類キャビネットの抽斗《ひきだし》が、全部あけたままになっていた。 「断わって置くが、俺は泥棒じゃない」  津川が言った。 「どちらにせよ、ここには金目の物など置いていないよ」 「そうでもないさ。カメラのいいのがある」 「居直るなよ。いつから岩永さんの助手になったんだ」 「あしたで一週間になる」  伊島は壁を背にした津川の真正面のソファーに坐った。 「説明してもらおうか、ここで何をしてたんだ」 「実害はないよ。安心してくれ」 「でも不法侵入だろう」 「たまたまあんたが帰って来てしまったからそうなっただけさ」 「警察沙汰にしてもいいぜ」 「ナンセンスだよ、そんなの」 「学生かい」 「まあね」 「岩永さんとはどういう関係だ」 「後輩さ。城南大の……」  津川はそう言ってから急に首を横に振り、ポケットからいこいの袋をとりだして一本|咥《くわ》えた。 「説明するよ」  火をつけてから言う。 「教えてくれ」 「俺はあんたに興味を持っている。だからちょっと調べさせてもらったんだ」 「何を調べた」 「その……いろんなことさ」 「なぜ俺に関心を持つんだ。なぜこんな風にこっそり調べる必要があるんだ」 「あんたのおやじさんは、日本電波教育会の常任理事だろう」 「そうだ。それがどうした。おやじはおやじ、俺は俺だ。俺はただのインテリア・デザイナーだよ」 「でも、中原市の上層部とも親しいだろ」 「それとおやじとどういう関係がある」  津川はニヤリとした。伊島にはそれがひどく卑屈な笑い方に思えた。 「じゃ、なぜあんたは新藤研究所のあの事故に関係したんだ」  少し得意そうに上体を伸ばした。伊島はふり返って敬子を見た。 「霧に捲かれてたまたまあの事件にぶつかった。しかし、なぜあれを君は事故だというんだ。自殺は事故か」 「事故で自殺したのさ。きまってるじゃないか」  そう言うと津川はよれよれのズボンの膝に両手を突いて立ちあがった。 「あんたがそんなでは、いくら話し合っても無駄らしい」 「待てよ」  伊島は強く言った。 「実はあの事件の直後、中原市でも事故という言葉を口にした人間がいた。事故だと言ったのは君で二人目だ」  すると津川は鋭い目で伊島を見おろした。 「誰が言ったんだい。駒田嘉平か」 「君は駒田さんを知っているのか」 「まだ会ったことは一度もない。……あんた、本当に関係ないのか」 「何の関係だ。俺が中原市の何に関係していると思っているんだ」  津川は真顔で首をひねった。 「信じられないな」 「実は、あの事件については俺も少し疑問を感じている。妙なことがたくさんあるんだ。今夜のことは岩永さんには伏せて置くから、そのかわり教えてくれないか。君は中原市の何を知っているんだ」  津川は肩をすくめた。 「滝沢たちがやりそうなことさ」 「滝沢と言うと、保守党の……」 「あんた、その人と結婚するんだろ」  津川は敬子のほうを顎でしゃくって見せ、 「無関係ならそのほうがいい。でも、俺は今夜トチったよ。事もあろうに、駒田嘉平の親戚の人に見られちゃったんだからな。バイトがパアになった上に、またどこかへもぐりこまなきゃならない」  と言ってドアへ向った。伊島は急いで追いすがり、 「教えろよ。いったい何があるんだ」  とドアをおさえた。 「悪いことは言わない。知れば碌《ろく》なことにならないよ」  津川は強引にドアを引いて廊下へ出ると、 「岩永さんはいい人だ。しばらくあの人の助手をして、のんびり暮したかったよ」  と言い残して、走るように去って行った。 「誰なの」  敬子が待ちかねたように尋ねる。 「昼間はじめて会った奴だ」  伊島は憮然《ぶぜん》として敬子の傍へ戻った。     五  体育館のような、天井の高い巨大な建物の中で、釘を打つ音があちこちから響いていた。赤いセーターを着てデニムのズボンのポケットに両手を突っ込んだ岩永が、ベニア板とプラスチックで小綺麗に仕上げた仮設ショー・ルームを点検していた。 「よし。スイッチをいれて見ろ」  岩永が傍にいた作業服の男に言うと、小さな仮設ショー・ルームの中央に置いたピラミッド形の台が、ゆっくり回転しはじめる。 「少し早くないかな」 「商品が乗っていないからですよ。商品が並べば丁度いい早さになります」 「そうだな。ダイカストは重いからな。でも、そうすると今度は動かなくなるんじゃねえかな」  岩永はそう言って、ちぢれた顎ひげのある顔を綻《ほころ》ばせた。  巨大な屋根の下に、似たような仮設の小部屋が四、五十も並んでいて、ちょっとした市が立ったような具合である。どの小部屋も、照明のとりつけやショーケースの搬入で、男たちが忙しく動きまわっている。  その間を縫って、模擬店めいた小部屋の会社名をたよりに、伊島が岩永のほうへ近づいていた。 「やあ……」  岩永の赤いセーターに気づくと、伊島は手をあげた。 「あれ……君のとこもここの仕事を受けてたのかい」 「違う。ちょっと岩永さんに用があってね」 「俺に」  岩永はポケットから手を出し、背を丸くして自分の鼻先を指でさした。伊島はその顔の前へ、オフィスのキーを差しだした。 「あ……」  岩永は慌ててポケットから革ケースつきのキーホルダーをとりだす。 「いけねえ。いつ落したんだろう。君のオフィスにあったのかい」  受取ってホルダーのリングにキーの穴を通しながら言う。 「新しい助手は来てないのかい」 「うん。今日は休みらしい。もっとも、一週間ぶっ続けにこき使ったからね。明日は出て来るだろ」  伊島は岩永の仕事を同業者の目付きで眺めながら、 「城南大だそうだね」  と言った。 「過激派というほどではないんだが、どこかの組織にかなり深入りしてるらしいよ。出来る男なんだそうだが」 「学部は」 「理科だろ。俺も昔は暴れたからね。罪ほろぼしさ。俺の関係の下請業者のところには、ああいうのがたくさん行ってるよ。電気も塗装もカーペットも、みんな人手が足りなくて困っているから丁度いいんだ。こっちは卒業したら学生運動なんかとはすぐサヨナラだろ。幾分気がとがめてるのさ」 「それで片っ端から面倒見てるわけか」 「まあね」 「あんたは、俺のおやじがいる日本電波教育会のことで、きのう何か知ってると言ってたね」  すると岩永は伊島の顔を正面からみつめ、 「そのことか」  と言った。 「うん」  伊島は曖昧に頷く。 「俺もよくは知らない。第一、日本電波教育会がどこにあるのかも知らないんだ。でも、俺の所へ出入りする学生たちの一部が、時々日本電波教育会のことを口にしてる。連中はマークしてるらしい」 「なぜ……」 「知らない。多分、保守党の滝沢元三郎と関係があるからだろう。滝沢は連中に憎まれてるからな。いったい、君のおやじさんの所は何をやってるんだ。滝沢の資金源か何かになっているんじゃないのか」 「まさか。金には縁のない所だそうだ。で、津川という奴に、俺のことを何か言ったかい」 「別に……きのう君のオフィスの帰り、車の中で世間話をした程度だよ。そう、君が例の中原市の豹の事件の発見者だということを喋ったな。ほかには何も……」 「そうか。あの事件で死んだ新藤慶太郎は、城南大の名誉教授だったな。城南大と中原市は、そういうことでつながっているのか」 「そうそう。津川を紹介してくれたのは、城南大の電波研究所の関係者で、富田という奴だよ。変な奴でね。犬でも猫でもすぐ手なずけちまう。生き物が好きなんだな」 「やはり理科系か」 「いや、彼はたしか文学部だ」 「なぜそれが電波などに……」 「動物好きだからさ。あそこの服部という助教授にたのまれて、ナマケモノの面倒を見ていたらしい」 「ナマケモノ……」 「うん。ミツユビ・ナマケモノを飼っているんだと言ってたな」  伊島は唸った。彼の頭の中で、駒田嘉平と津川と、そうして父親の顔がひとつに重なったようであった。 「何かあの事件がまだ尾を引いているようだな」 「うん」  伊島は思い切って、昨夜津川にオフィスへ忍びこまれたことを話した。律義な岩永は済まながって何度も詫びた。 「そんなことはいいんだ。それより城南大のことを少し調べてもらえないかな。特に中原市とのつながりを。その電波研究所で飼っているミツユビ・ナマケモノという動物を、俺はあの事件の時、新藤研究所という建物の中で見ているんだ。死んだ新藤慶太郎という人は動物が専門で、電波には関係なかったはずだ。だが城南大で同じ奴を飼ってるとなれば話は違って来る。それに、俺のおやじも電波に関係している」 「判った。調べてみるよ。しかし、そうなると津川はもう出て来ないな」  岩永はがっかりしているようであった。 「自分でも言ってたが、たしかに実害は何もない。俺もあいつを責める気はないんだ。出て来たら今迄どおり使ってやってくれないか。悪い奴ではなさそうだよ」 「有難う」  岩永は頭をさげた。それはまるで津川の兄のような態度であった。後輩たちが彼に慕い寄って来るのは、そういう人柄のせいらしかった。  その時、いやにきちんとしたスーツを着た男が、二人のほうへ近寄って来た。     六  勝鬨橋を渡って築地から日比谷へ抜ける通りは、相変わらず車がひしめき合っていた。  その混雑の中に、伊島のステーション・ワゴンが、最新型のスポーツ・カーのうしろにぴたりとつけて信号待ちをしていた。  前のスポーツ・カーには、いまや人気タレントなみの若手建築家、漆山唯明が乗っている。漆山は明日から始まる工業見本市の会場で伊島を見つけると、ひどく親しげに話しかけて来て、たまには青山のオフィスへ寄って行けと、強引に伊島を誘ったのである。  漆山は伊島とそう違わない年齢だが、建築関係のトップスターで、伊島にして見れば、ドサ廻りの芸人が檜舞台しか知らない名門の役者に声をかけられたという感じであった。もっとも、職種としては似たようなものだから、共通の友人は何人もいて、パーティーなどで何度も顔を合わせてはいた。  漆山のオフィスが青山のどこかにあることは知っていても、正確な場所をまだ知らない伊島は、派手なスポーツ・カーから離れまいと、緊張してハンドルを握っていた。信号が変わると漆山のスポーツ・カーは跳ねるような勢いでとび出して行く。車間距離がぐっとあき、左側のタクシーが割り込む気配を見せる。伊島は割り込ませまいと常にない乱暴な運転になった。タクシーは伊島が邪魔する気なのを覚って意地になり、次の機会を狙っているようだ。銀座を抜け、地下道を通って桜田門へ向っても、客を乗せた足立ナンバーのタクシーは、しつっこく競《せ》り合って来る。  伊島はだんだん嫌な気分になって来た。  花形役者に声をかけられ、夢中になってその尻を追いまわしている形なのだ。競り合って来るタクシーが、その感じをいっそう具体的にしてくれる。  車の性能の差なのだとは判っていても、自分勝手に行く漆山の走りようが憎らしい。他人のことなどお構いなしに、機敏に突っ走る漆山の態度が、人生のレースそのもののように思えて仕方なかった。いっそのこと、車に紛《まぎ》れたふりをして原宿へ帰ってしまおうかと思いはじめたが、三宅坂で左折するとそのタクシーの姿が消え、結局南青山の豪勢なオフィスまでついて行くことになった。  さすが、と思わずにはいられなかった。個人のオフィスにしては馬鹿馬鹿しいくらいゆったりしたスペースに、デンマーク製の家具類が、かなり気負った感じで並べてあった。  しかし、当の漆山の態度はいかにも同年輩の仕事仲間といった砕けた様子で、驕《おご》りたかぶった所はなかった。そしてそのソツのなさが、伊島をいっそう萎縮《いしゆく》させ、妙にこじれた反感をつのらせている。 「僕の先生を知っているでしょう」  漆山はデンマーク製のソファーに坐り、脚を組んで伊島をみつめた。ミディのスカートをはいた知性的な美人が、二人の前へ紅茶を運んで来た。 「亡くなった今井潤造先生でしょう」 「中原の都市計画は先生が中心になってやったんですよ。あの時はたのしかったなあ」 「あなたも参加していたのですか」 「そう、部分的には僕の意見がまるまるとりあげられたところもあるんですよ」  ミディの女は静かに部屋を出て行った。伊島は彼女がただのスタッフの一人なのかどうか、そんなことが気になった。 「高嶺温泉の新しいホテルの仕事を引受けたんでしょう」 「ええ。でも今になって遅れが出て」 「まだそちらの仕事にはならない……」 「そうなんです」 「困るなあ、そういうのは。もっとも、ああいう山の中だから下請けのかけ持ちがきかない。近頃はそういうケースが増えて来ているんですよ。そのしわ寄せが結局内装関係へまわってしまう。大変ですね」 「僕らだって、何もオープン披露のレセプションのうしろで、シートを張ってごそごそやりたいわけじゃないんですがね」 「どうです。その内一緒に仕事をしましょうよ。関西と九州にホテルを二つ三つ受けてるんですが、一度是非あなたにフィニッシュをまかせて見たいな。あなたの仕事を、僕はわりと注意して見てるんです」  そう言って、漆山は伊島の手がけた現場を幾つかとりあげ、的確な批評を加えた。  本気で組みたいような気配であった。もしそれが実現すれば、伊島にとっては名も実もとれ、願ってもないことになる。 「それでは近頃よく中原市へ行っているんですね」 「ええ」 「岡野市長はお元気ですか」 「市長とはその後お会いしていないのです」 「その後というと」 「妙な事件がありましてね」 「ああ」  漆山は三度ほど頷いて見せる。 「新藤研究所の事件ですね。あれは大事件だった。あの時のお連れは、たしか駒田嘉平さんの姪御さんでしたか……」 「ええ」 「あなたのフィアンセ……」 「そうです」 「あなたはとにかく、その女性は驚いたでしょう。一度に三人も自殺しているんですからね」  伊島は、はてな、と思った。警察の見解では、その内の一人は猟銃の暴発事故で死んだことになっているはずである。  漆山は立ちあがると、 「ちょっと失礼」  と言って女が去ったのとは別のドアへ消え、すぐ図面を持って戻って来た。 「僕じゃないんですが、あの研究所はうちのスタッフの一人がやった仕事でしてね」  そう言うと、テーブルの上へ図面をひろげた。 「どんな雰囲気でした」  伊島は落着こうと努力していた。漆山は雰囲気のことを尋ねたのだ。あの晩、署長や嘉平が示した関心と同じである。 「霧の中で研究所へ近づいた時のことですか」 「もちろん」  図面に見入るふりをして、伊島は驚きをかくした。漆山唯明があの事件についての何かを、よく知っているのは明白であった。 「ここに崎山さん。こっち側の寝室に新藤先生。そして地下の……この機械室に久野健次の奴が死んでいたんですね」  伊島は漆山の顔をみつめた。久野健次の奴……その言い方が何か大きな謎の答を浮びあがらせようとしている。  漆山が顔をあげた。伊島の言葉を待つように、じっと目を見返す。 「異様な雰囲気でした。ドラキュラでもとびだして来そうな……」  伊島は相手が期待しているらしい言葉に見当をつけ、少しオーバーに言った。それが正解だったのかどうか、漆山は微笑した。伊島は敵地へ踏み込むような気分で、図面を指さした。 「この窓から入ったんですが、檻の中でナマケモノが僕をじっと睨んでいましてね。その目を見たら急に可哀そうになって、それで頭につけたままになっていた電線を、二本とも引き抜いてやったんです」  電線を引き抜いたことにどんな意味があるのか知らないが、中原市警察の署長が、それを聞いて唐突に行動を起した事実があるのだ。 「そうでしょう。そうでしょう」  伊島は相手がその答を待っていたのだと知った。漆山はそうでしょうと二度繰り返し、深く頷いた。 「しかし、考えて見れば、人間という動物も堕落したもんですね」 「どうしてです」  伊島は漆山をみつめた。 「だってそうじゃないですか。豹はナマケモノの危険から脱出したが、人間は逃げられなかった」  伊島は生唾《なまつば》を呑みこんだ。ナマケモノの危険……。 「動物としては、それは明らかに退化ですよ。本能の脆弱《ぜいじやく》化です。豹のほうが余程立派だな」  漆山は嘆くように言った。 「久野などという八百屋の馬鹿息子がいなければ、あんなことにはならなかったんだ。いや、久野は利用されただけで、本当は……」  漆山はそこまで言うと、急に醒《さ》めた顔になって、 「いや、よしましょう。我々は何も知らないことになっているんでしたね」  と言い、照れたように笑った。 「とにかく三人死んだわけです」  伊島はなんとか話を続けさせようとした。 「でも服部さんがまだ残っています。新藤先生は原理を発見したにすぎないし、崎山助教授は服部さんの協力者ということで、たしかに損失は大きいが、今後のことは服部さんがいる限り大勢に影響ないわけでしょう。そんなことより、例の中原から出て来た人物はどうしています」 「例の、というと……」  伊島は考えるふりをした。 「ほら、あんたが内装をやったという、ノイローゼの……」 「丸山君ですか」 「名前までは聞いていなかったが、僕には彼のほうが興味深いな。テレビ中毒でノイローゼになる人間がいるとはね。やはり何にでも例外はあるんですね」  漆山は声をたてて笑った。   第四章     一  深川門前仲町の丸山のレストランが開店して一週間ほどした日、伊島はその店へ行って見た。  そういう業種には、昔から年末に開業する店が多い。クリスマス前の浮き立った雰囲気の中でオープンし、歳末までを新しい店の試運転期間と考えて、部分的な手直しを年末年始の休業期に行なえるからであろう。  だが、行って見ると表通りに面した新しいビルは、まだ内部が完全には整っておらず、上の階に入居するオフィスのスチール・デスクなどが、入口から歩道に溢れんばかりに積みあげてあったりした。  丸山のレストランは、一階の角に〈クレッセント〉という凝った看板を掲げ、いかにも庶民的な町の中で、ひどく場違いな威厳を保っていた。  伊島はその前に立ちどまって唇を噛んだ。いいかげんな仕事をした、という悔いがあった。無論それはそれなりに知恵をしぼり、苦心したデザインには違いないが、土地柄からはまったく遊離していたのである。丸山がいくらそれを望んだにせよ、もう少し強硬に反対し、場合によっては仕事をオリるくらいの態度でいるべきだったようだ。  もともと、フランス料理をやるのなら、オープン・キッチンの小ぢんまりとした店で、味本位腕本位で行くべき土地なのだ。そうでなくて〈クレッセント〉級のスペースを使うのなら、焼肉の店あたりが適当なのだが、何せフランス料理に凝りかたまった丸山には、いくら土地柄と合わぬ危険性を言っても、逆に説得される始末であった。  今考えてみると、中原という地方の小都市で育った丸山には、深川、とか、門前仲町とかいう名の土地に自分勝手な独特のイメージがあったようである。〈クレッセント〉はそのイメージの中で開店した店であって、だから実際の門前仲町からは遊離してしまっているのだ。  伊島はがっかりしてドアをあけた。静かに迎える蝶ネクタイの店員の姿がそらぞらしかった。  だが、丸山は活気のある表情で元気一杯に伊島を歓迎した。開店祝いに贈った品の礼を言い、おかげさまでと、オープンの日の盛況を得々と語った。すぐ目の前に迫った悲観的局面にはまったく気づいておらず、それだけに瞳の色にも自信が溢れ、伊島はひょっとするとこのままうまくやって行ってしまいそうな気さえした。 「それはよかった。そんなに喜んでもらえると僕も嬉しくなりますよ」 「さすがは駒田敬子さんのご主人になる方だけあってセンスが違う……父がそう言って驚いていました。こんな店は銀座にもないだろうと……」  だからいけないのだ、と危うく言いかけて、伊島は丸山から目をそらせた。 「ところで、お体のほうはいかがです。お店も大切ですが、オープン前後は何かと無理しやすいですからね。敬子君も、無理しなければいいがと言っていました」  勝手に敬子の名を引合いに出して言うと、丸山はひどく子供っぽい仕草で頭を掻き、 「ちぇっ、お喋りだなあ……」  と照れ笑いをした。 「あんまり名誉な病気じゃないですからねえ。でも、ノイローゼと言っても、僕のは大したことはないんです。中原という土地がいけないんですかねえ」 「お嫌いですか。中原は」  丸山は首を左右に振る。 「いい所だと思いますよ。でも、どういうんですか、あそこにいると覿面《てきめん》に具合が悪くなるんです」 「でも、子供のころからではないのでしょう」 「昔はそんなことはなかったんです。考えて見ると、僕にはテレビが合わないのかも知れない。何かこう、テレビの傍にいると電波が体を突き抜けて行くような気がして来るんです」 「今でもですか」 「それが、転地するとピタリと納まってしまったんです。もっとも、乱視だったのに気づかず、眼鏡をかけないでいたからかも知れません。東京へ来てすぐ眼鏡をかけるようになったから……」 「今はもう、中原へ行っても大丈夫なんでしょう」  すると丸山は億劫《おつくう》そうに、 「どうですか」  と答えた。 「やはり具合が悪い……」 「一、二度帰って見たんですがなんとなく嫌な気分で、両親も元に戻られては困るものだからなるべく東京で暮せというし。それでまあ、こういうことになったわけです」  丸山は店の中を見まわして言った。 「お医者さんはどう言っておられるのです」 「やはり眼のせいだったのだろうと言っています。乱視の上に少しテレビだの本だのを見すぎたんでしょう。眼鏡でそれも治ったわけですが、中原へ戻ると嫌な記憶が無意識によみがえって来るのだそうです。亡くなった新藤先生に紹介していただいた、城南大の中村博士ですから間違いありませんよ」  丸山はそう言ってウェイターを呼び寄せ、伊島にメニューをひろげさせた。 「とにかく、今日は何がなんでも試食して行ってくださいよ」 「そのつもりで来ました」  伊島はそう言って二、三品注文し、丸山が注いでくれたワインを味わった。 「そう言えば、おたくの珠光《しゆこう》を思い出します。あれはいい酒だ」  丸山の生家は何代も続いた造り酒屋なのであった。     二 「城南大の電波研究所の実権は、服部哲郎という助教授が握っているよ」  伊島のオフィスの濃いグリーンのソファーに坐って、岩永が真剣な表情で言った。今日はブルージンの上に、襟に茶色い毛のついたジャンパーを着ている。 「それに名古屋の大学に籍を持っていた崎山実男という科学者とは、とても親しかったそうだ。君の言う通りだった」 「何の研究をしている」 「サブ・ミリ波だそうだ」  岩永はそう言ってジャンパーのポケットから、銀行の名が入ったメモ帖をとりだし、表紙をめくった。 「波長一メートルは三百メガヘルツ……十の六乗」  岩永は首をすくめ、ちらりと伊島を見て笑った。 「こんなことからはじめても意味ないね」  伊島も微笑を返した。津川の件で、律義な岩永はあの事を本格的に調べてくれたのだろう。と言って、だから津川の行為を責めてもいないのだ。困るなあ、あんなことしては……もし津川とあれから会っているにしても、ぼやくように言うのが関の山なのだ。万事にそういう穏やかな人柄なのである。 「中波とか短波とかはラジオでおなじみだ。VHF、UHFと来るとテレビだな。僕らの生活は、だんだんそういう風に波長の短い電波を使う方向へ進んで来たわけだ。長いのが旧式、短いのが新式という恰好だね」  岩永は伊島に説明するというより、自分で納得するように、右手にメモを持って両手をひろげ、間隔を何回かに分けてつめて見せた。 「ミリ波というのは、電波の中でもうんと短い奴で、十ミリから一ミリの長さの波長をそう呼ぶらしい。そのくらいの波長の電波のことは、最近の研究で比較的よく判って来たらしい。使い道についてもいろいろ考えられているそうだよ。ところで、可視光線の波長がどれくらいの長さだったか、憶えているかね」  インテリア関係には照明や色彩の問題がついてまわるから、学んだことがあるのはたしかであった。しかし、そんな基礎的なことは伊島もとうに忘れている。 「憶えてないだろう。俺も忘れたよ」  岩永は笑い、 「〇・〇〇一ミリから〇・〇〇〇四ミリさ」  とメモを見た。 「下が紫、上が赤だ。そして、この可視光線とミリ波、つまり上が一センチから下が一ミリのミリ波領域から、可視光線の赤、つまり〇・〇〇一ミリの間が、サブ・ミリ波と呼ばれる領域なんだそうだ。長波と中波や、中波と短波の間にはサブ波なんていうのはないくせに、ここまで短くなると、中間領域が問題になるらしい。まるで東京の土地みたいだ」  岩永はまた笑った。 「境の塀の杭が半径分だけ隣りの敷地へ入ってると言って弁護士が乗りだすんだから嫌になるよ」 「サブ・ミリ波か」  伊島は何か不吉な予感がした。 「サブ・ミリ波って言うのは変な電波だよ。それよりひとまわり長いのは、今言ったとおりミリ波で、いろんなことがどんどん判って来ているし、そのすぐ下の、もっと短い奴は、電波なんていうのを人間が知らなかった昔から、性質がよく判っていた。何しろ目で見えるんだから。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫。子供でさえ順番を知ってる。ところが、サブ・ミリ波と来たら、まるで何も判ってはいない。そのくらいの波長は、発振させることもむずかしいし、受信もうまくできないというんだ。受信も発振もできないんでは当分利用なんかできっこない」 「可視光線の下は紫外線やX線になるわけだろう。となると、いわゆる電波という奴の中では、最後に残された未知の領域だな」 「うん。そういうことになる。……ま、そこまでは一般論だ。ここで城南大の電波研究所や中原市の新藤研究所がでてくるわけだ。死んだ生物学者の新藤慶太郎という人は、若い頃からだいぶ変わった人物だったらしい。次から次へ変てこな研究ばかりして一生を台なしにしてしまったのだが、最後に少しまともな奴にぶつかったらしいね。動物の体内には……ことに脳だけど、I・CとかL・S・Iと言ったような高度な半導体が備わっていて、ある種の電波を生理的に感知したり、発振させたりできると言いだしたんだね。ちょいと聞くと眉唾もののようだが、早くからサブ・ミリ波という難物にとりついていた服部とか崎山とかいう若手の科学者が、新藤慶太郎と組んで急に威勢よく研究を進めだしたというわけさ。……信号は周波数変調によって可能とされる。このメモに自分でそう書いたんだけど、専門家の喋ったのをそのままだから、何のことかよく判らないや」 「周波数変調と言うと、FMと同じだよ」 「そうかい」  岩永は関心なさそうに答えた。 「で、ナマケモノは……」 「うん。やはり実験動物で、サブ・ミリ波に対しては、いろいろな動物の中で一番敏感らしいね。見て来たけど、何だか退化した動物みたいで気色の悪い奴だ」 「すると、新藤研究所と城南大の電波研究所は同じ研究を進めていたわけだ」 「津川たちがマークするわけだよ。中原市のほうはよく判らないが、城南大のほうへは防衛庁からかなり大きな研究費が流れてる」 「当然だろうよ。未知の領域の電波となれば、軍事的にとほうもない価値があるだろうからな」 「滝沢元三郎みたいな政治家が、それでからんで来ているんだな。平和利用の面だけでも、新しい放送、新しい電話……利権の種はいくらでもあるものね」  嘉平たちはそれに一枚噛んでいるのか。伊島は宙を睨んでそう思った。 「白状すると、今のことは主にあの津川から聞いたんだ。君が腹を立てるのは当り前だって、済まながっていた。勘弁してやってくれよ。悪い奴じゃないんだから」 「もう気にしてないさ。それよりあいつ、どこへ行ったんだい」 「知り合いのカーテン屋へ入れたよ。お咎《とが》めなしじゃ君に悪いからな」 「そんなにしなくてもいいのに」  伊島は岩永の義理堅さに呆れた。 「いい助手だったじゃないか。使ってやってくれよ」 「その内ね。……そうだ、あいつに君へ言づけをたのまれてたっけ」 「何だい」 「そこまで調べるなら、滝沢元三郎の選挙を調べろってさ」 「不正でもあるんだろうか」 「よく判らない。あいつは時々謎めいたことを言うんで困るよ」 「判った。どうも有難う。津川にも礼を言って置いてくれないか」  岩永は、さて仕事だ、と言って急に気ぜわしく立ちあがり、足早に帰った。もう年の瀬で、お互いに暇のない体であった。     三  年末のひと騒ぎのあと、新年の付合い酒で、何やかやと日のたつのが早かった。ことに年が改まると、それまでまだだいぶ先のことだと思っていた敬子との結婚が、すぐそこへ近づいているのに気付かされた。一月は夢の間に過ぎてしまうだろうし、二月には本式に準備をはじめなければなるまい。そして三月に入ればすぐ挙式である。式の前後に仕事であたふたするのは、自分も嫌だし敬子にも済まないと思う。半日分でも一日分でもやれる仕事は早目に片付けて置かねばならなかった。  その飛び去るような日々の中で、伊島はときどきナマケモノの姿を思い泛べていた。漆山唯明が言った、ナマケモノの危険とはいったいどういうことなのかが、気になって仕方なかった。  そのナマケモノの危険から、豹は逃げだしたが、人間は三人とも逃げそこなってしまった。……漆山ははっきりそう言ったのである。いったい漆山のような建築家が、新しい電波領域とどういう関係があるのだろうか。中原市のどこかに、軍事的な構築物が隠されているのだろうか。  その漆山は、正月の新聞に相変わらず派手な書きぶりで新しい都市論を発表していた。  伊島は父親と新春の酒を汲み交しながら、日本電波教育会の実態について尋ね渋っていた。もしそれが、政界の汚濁につながっていたら、息子に告白することは辛かろうと感じたからであった。  その父親も早ばやと自分の生活に戻り、伊島の仕事も始まってしまう。忙しい日々が戻り、伊島はナマケモノを気にしながら、次第にそれから遠のいて行くようであった。  ナマケモノの姿が大きく伊島の心に戻って来たのは、二月に入って一人の友人に会った時であった。  銀座の並木通りの喫茶店で客に会い、話がおわって出ようとすると、 「おい、伊島じゃないか」  と、陽焼けした顔の男が呼びとめた。 「おう、久しぶりだな」  学生時代の友人は若い女を連れていて、 「女房だよ」  と言って紹介した。伊島は挨拶し、そのテーブルへ坐った。 「社会党の景気はどうだい」 「馬鹿言え。政党に景気なんかあるか」  友人は快活に笑った。政治家志望で、今はさる国会議員の秘書をしているはずだった。 「そうだ、お前に聞けば判るな」 「何だ」 「滝沢元三郎の悪い噂が知りたいのさ」  すると友人は大笑いした。 「どの方面だか言ってもらわねばありすぎて困る」 「選挙関係だ」 「そいつはだめだ」  友人は右手を横に振った。 「素人だな。あいつの選挙は今迄数え切れないくらいの人間がアタックした。でも何も掴めない。どうしたっておかしいんだが、絶対にしっぽがつかめないようになってやがる」 「どういうことなんだ。買収か」 「何も知らないのか」  友人は真顔になった。 「滝沢の選挙に何があるんだ」 「とにかく異常なのさ。毎回毎回な」 「勿体ぶらずに教えろ」 「保守党内部じゃ、滝沢は選挙の名人で通っている。奴の地盤は中原市が中心だ……それぐらいは知っているな」 「うん」 「じゃ、中原市の投票率は」 「知らない」 「いつでも全国一だ。毎回八十パーセントをこえる」 「高いな」 「高いなんてもんじゃない。奇蹟だ。八十をこえるということは、全員ということに等しいんだからな、重病人もいればよんどころなく旅に出た者もいる。つまり、その日投票所へ行ける人間は、百パーセント投票するということだ。東京が六十台くらいでまずまずなんだから、八十というのは驚異的さ」 「昔からか」 「そう昔ということもないが、だいぶ前からそうなった」 「それと滝沢の関係は」 「大ありさ。衆議院のときは、その八十があらかた奴に行っちまう」 「ほんとか、おい」 「中原というのは、余程気が揃うんだな。みんな滝沢先生を郷土の誇りにして愛しご尊敬申し上げてるのさ」  友人は苦そうに煙草を吐き、 「でなければ徹底した買収か、不当な投票管理だ。反対票は村八分とかな」 「そんなことがあるのか」 「言ったろう。野党にトップ屋、政治ゴロ……みんなで寄ってたかって調べ抜いた。でも埃も立たない」 「本当に公正な選挙なのか」 「いや。埃は立たないが匂いはする。何か仕掛があるはずなんだが、それがどうにも判らないのさ」 「滝沢以外の場合は」 「似たようなもんだ。滝沢系でなければ絶対入らない。あそこだけはどうにも手がつけられないのさ。もうみんな諦めてるよ。滝沢先生がお亡くなりにならない限り、どうしようもないってね」 「滝沢と電波関係の結びつきは」 「おい、よせよ。素人のくせに」  友人は驚いて見せた。 「滝沢の放送道楽と言えば有名だが、あいつは本気でかかっているらしい。電波を使って……つまりテレビやラジオを徹底的に管理して世論を操作するのが奴の夢らしい。とんだゲッベルスだが、何かこそこそやっていることはたしかだ。言論統制には若い連中が一番敏感だから、今や滝沢元三郎は全学生運動家共通の敵ってわけさ」 「防衛関係は」 「保守党であの地位までたどりついた奴はみんなつながってしまうから、その点では普通だろう。ところで、お前はまだ独身か」  友人は話題を変えた。  それからあと、伊島は適当に相槌を打つばかりで、うわの空であった。相手が誰でそこがどこなのかさえ、どうでもいいような気分に陥っていた。  ……動物の体内には、ある種の電波を感知するメカニズムが備わっている。ある周波数の電波を発振し、それを受信もできる。  ……ミリ波領域と可視光線の間にサブ・ミリ波という未知の領域がある。  ……中原市の世論が極端に操作されている。  ……保守党および防衛庁関係の一部がサブ・ミリ波の開発に関心を示している。  ……ナマケモノの頭に電極がつないであり、二本のコードが何かの電子装置に接続してあった。  ……豹はその部屋からガラスに体当りして脱出した。ドアには錠がかかっていた。  ……豹は逃げたが三人の男は自殺した。  ……ナマケモノに見つめられて自分はなんとなく電極を外してやった。  ……嘉平や市長や署長たちは、三人の自殺が事故だと考えたらしい。  ……ナマケモノはある種の電波に敏感である。 「テレパシー……」 「え……なんだい」  友人は伊島のつぶやきを聞き咎めた。それまで続けていた同窓生たちの噂ばなしと、まるで関係がなかったからだ。 「テレパシーだ。サブ・ミリ波はテレパシーなんだ」  伊島はうつろな目付きで立ちあがった。 「何だい。変な奴だな」  友人は呆気にとられて伊島を見送った。  ……丸山はサブ・ミリ波に特に敏感な体質だったのだ。だからテレビ電波のノイローゼになった。  ……敬子は中原市へ行くと気分が落着くと言う。テレビを見ていると団欒の気分になると言っている。  ……中原市の西尾神社の上にCATVの受信塔がそびえている。  ……中原市の全家庭はCATVによってテレビを見ている。  ……中原CATV局のセンターは嘉平が経営するスーパー・ストアーの中にある。  ……局長の杉本が嘉平たちと秘密を共有しているらしい。  ……中原市の整然とした都市計画には、市民の積極的な協力が必要だったはずである。  ……都市計画立案に参加した漆山唯明が、中原市のナマケモノの秘密を知っている。  ……署長と嘉平、そして漆山が、霧の夜の研究所の雰囲気に強い興味を示した。 「テレパシーだ。サブ・ミリ波は意志や思考の搬送波なのだ」  伊島は殆ど無意識に、以前よく行ったビアホールへ入って坐り、大ジョッキのビールを飲んだ。酒が欲しくてたまらなくなっていた。     四  二杯目の大ジョッキに口をつけたとき、伊島はふとナマケモノという動物の不思議さを思った。  貧歯目の動物で、猿に似て一産一子のはずであった。  特徴は、きわだって動作が鈍いということである。ミツユビ・ナマケモノの場合、その三本の鉤状の爪は強力で、全体重を楽々とそれで支える。そうやって生涯樹枝にぶらさがって過すのだ。そのために体毛が他の動物と逆になり、腹部から背へ向って生えているほどだ。  生活範囲は極めて限定されている。餌はユーカリの葉だけなのである。  鉤状の爪は、一度相手を捉えたら決して離すことがないだろうが、彼らの棲むジャングルで、その爪につかまる生物がいようなどとは思えない。運動性では例外的に遅鈍なのである。おまけに貧歯目の名のとおり、歯も防禦の道具にはならない。牙などないのである。  いったい、長い進化の過程で、どんな動物がこれ程無防備のまま生き続けたであろうか。餓えたけものが、枝にぶらさがる彼らのむきだしの頸動脈に、鋭い爪を立てればそれでおわりではないか。素早く逃げることさえできないのだ。  たとえば餓えた豹が、肉の選り好みをするだろうか。すまい。豹は最も捕えやすい肉を食うだろう。ナマケモノは、木になる果実同様で、最も捕えやすい肉塊ではないのか。  自然界で、そういう弱者が見のがされるはずは絶対にない。ナマケモノだけを食って生きる種族がいても不思議はないほどである。  たとえば、水中の魚卵がそうであるように、他の餌にされやすいものは、防衛手段として極端に多産である。ところが、ナマケモノにはその防衛手段すらない。一産一子である。しかも、現在彼らは厳然として生きのびており、南米大陸では珍獣扱いすら受けていない。他の動物と同じように、生存競争を生きのびているのだ。  果して本当に無防備なのだろうか。未知の防衛手段を持っているのではないだろうか。その特殊な武器を持つために、運動性を棄てたのではなかろうか。  檻の中にナマケモノがいた……。  伊島はテーブルの上へ、ビールのしずくで小さな円を描いた。マッチの棒をその中へ一本入れた。  檻のある部屋へ豹をはなす……。  円のそばへマッチの箱を近づけた。円の中のマッチ棒は、ナマケモノのように動かなかった。  だがナマケモノは豹をこわがる……。  伊島はマッチ箱をいっそう近づけた。いま彼の心の中で、マッチ箱は一匹の獰猛な豹であった。豹はナマケモノに襲いかかろうとした。  ナマケモノが身を守ろうとする……。  ナマケモノは死の恐怖に駆られ、相手を憎悪した。相手の消滅を願った。消滅……すなわち、死。  伊島はマッチ箱を人差指で弾きとばした。マッチ箱はテーブルから飛びだして床に落ちた。通りがかったウェイトレスが怪訝《けげん》な表情でそれを拾い、テーブルの上へ戻してくれた。  ナマケモノの憎悪で豹は逃げだした。ガラスに体当りし、窓から霧の濃い高原へ走り去った。  逃げなければどうなる……。  ナマケモノは今相手の死を願っていた。サブ・ミリ波が相手の脳を支配するのだ。  伊島は円の中のマッチ棒から、半分ほどに減った大ジョッキへ、また指を濡らして線を二本引いた。二本の線はマッチ棒の頭へつながった。  服部と崎山という二人の電波の専門家が作った、サブ・ミリ波の増幅器が大ジョッキだった。マッチ棒の頭はナマケモノの頭だった。  豹は逃げた……。  伊島はまたマッチ箱を指で弾きとばした。今度は拾ってくれるウェイトレスはいなかった。  そして三人死んだ……。  伊島はテーブルから顔をあげ、あの三人の死にざまを思いだした。喉を銃で撃ち抜き、毒を服《の》み、首を括《くく》っていた。増幅されたナマケモノの意志が三人を自殺へ追いやったのであろう。  ナマケモノの危険……。まさにその通りであった。研究者にとって、ナマケモノが敵に死を命ずる意志を発したことは、予期せぬ事故であるはずだった。豹の生存本能は、その危険から自己を脱出させた。もともと豹には自殺能力などないのかもしれない。しかし人間はそれを持っていた。野性の本能も減衰していた。  ナマケモノにさまざま状況を体験させ、その時々の意志や思考を、電気的な信号として保存したらどうなる。  喜び、憂い、期待、不安……。我を愛せ、我を信じよ、我に協力せよ……。  CATVへの加入を口実に、すべてのテレビにサブ・ミリ波の発信機をとりつけたらどうなる。CATV局のセンターで、適当に選択されたナマケモノの意志の信号を、その発信機へ送りつけたらどうなる。  すばらしい都市計画が、何の抵抗もなく実現できるではないか。新しい祭りを全市民が受容し、参加するではないか。一人の候補者に全市民が投票するではないか。  いったいそれで、何が生まれるのだ。ユートピアか。地獄か。誰にそれを操る権利を与えるのだ。滝沢元三郎たちか。津川たちか。  伊島はふと敬子の顔を思い出した。この愛も、他人の手で作りだすことができるようになる。それでいいのか。 「いけない」  伊島はつぶやき、残りのビールを飲みほした。席を立ち、その店を出た。 「いけない。そんなことはできない。俺たちにはまだ触れられないのだ」  伊島はぶらぶらと歩きはじめた。不安で人ごみから出る気になれなかった。 「その領域に触れてはいけない。俺たちにはまだ触れられないのだ」  伊島はつぶやきつづけた。  銀座通りは相変わらず華やかだった。みんながそれぞれに装い、どこかへ向っていた。  少し酔いがまわったようであった。 「どこへ行くんだろう。みんな、本当に自分の行きたい所へ向っているんだろうか。本当に自分の好きな服を着ているんだろうか」  ガラスばりのショー・ルームの中に、無数のテレビが同じ画像を写しだしていた。伊島はその前を大きく避け、足早に抜けた。   第五章     一  敬子は和服を着て来た。夏の暑いさかりに訪ねて来た時は、門からいきなり庭へまわり、縁側からあがりこんだものであったが、その日は土産の風呂敷包みを左胸にかかえ、玄関の戸をそろそろとあけて、 「ごめんください」  と案内を乞うた。玄関の脇の八ツ手の木に白くコロコロとつながった花が咲き、陽の当らぬ側の葉が、生茹《なまう》でにされたようにしおれている、ひどく寒い日曜日であった。  もう使わなくなって久しい学生時代の木の机が置いてある三畳間の障子をあけて、 「寒かったろう」  と伊島がいたわるように言った。 「そこまで車だったから」  敬子はそう答え、草履をきちんと揃えて家へあがると、コートをたたんで薄暗い三畳の隅へ置き、次の茶の間へ入って襖《ふすま》を閉めた。 「ほう……」  八畳のまん中に置いた炬燵《こたつ》へ戻った伊島は、そう言って目を細めた。敬子の好みにしてはだいぶ華やかな柄の装いであったからだ。 「ねえ、そうでしょう」  敬子は羞《は》じらいを示し、 「娘時代の最後だから今の内に着ておけと言って母が頑張るのよ」  と弁解するように言った。 「娘時代か……」  伊島は溜め息まじりに言う。 「おかしいの」 「いや。ただ、なにか凄く責任を感じさせられるよ」 「嫌な人。今まで無責任だったの」  敬子は炬燵に膝を入れて楽な姿勢になった。 「そういうわけではないが、娘時代の最後と言われるとドキリとするな。自分がそれをおわらせる嫌な奴に思えて来る」  敬子は笑った。 「自分だって独身時代の最後のくせに。あたしは責任なんて感じないわよ。おわらせるのはあたしだけど」 「こいつ」  伊島も笑いだした。 「なんだい、その風呂敷包みは。どうせ俺に持って来てくれたものだろう。寒くてお茶菓子を買いに出そこなったんだ。蜜柑と煎餅ぐらいしかない」  そう言うと敬子は首を横にふる。 「残念でした。晩ご飯の時のものよ」 「晩飯の」 「今日は寒いから、出歩かないでこのおうちで晩ご飯にしなさいって、母が出がけに大騒ぎで作ったの。言われちゃった……」 「なんだって」 「お酒も一、二本つけて、お酌をしてあげなさいって。新婚ごっこして遊んで来いって言うのよ」 「あのお母さんがか」 「いいえ、母が言いっこないでしょ。伯父さまよ」 「駒田さんが来てるのか」 「ええ。二、三日東京にいたらしいの。三時すぎに帰るそうよ。あたしがこっちへ来ちゃったあと、お母さんは中原で暮すようになるわけでしょう。その相談に寄ったんだと思うわ」  伊島はポットをとりあげて茶をいれようとした。敬子が手をだしてそれをとりあげ、急須と湯呑みを並べる。 「君は駒田さんのことを、どの程度知っているんだ」 「どの程度って……」 「中原市のCATV局のことや、選挙のことなどだ」 「選挙……」 「君はあそこの選挙に何か変なことがあるのを知っているかい」 「変なことって」 「たとえば投票率さ」 「伯父さまは選挙のたびに自慢してるわ。日本一なんですってね」  伊島の前へ湯気のたつ湯呑みを置いて言った。 「八十パーセントこえるんだ。選拳のたびにね」 「そういう土地柄なんでしょう。中原ってところは、よく気が揃うのよ。みんなで協力し合う気風が昔からあるんじゃないかしら」 「昔のことをよく知っているのかい」 「江戸時代から材木の産地で……」 「そんな昔のことでなくていい。君の小さい頃のことでいい」 「よく憶えてないわ」 「その頃からみんなが今みたいに気を揃える土地だったのかね」  敬子は小首をかしげ、両手で湯呑みを包みこむように持った。 「そう言えば、昔は気が荒くてよく喧嘩が起ったそうよ。山から大きな木を切りだして、西尾湖で筏《いかだ》に組んで、それで川を下ったわけでしょう。荒っぽい仕事だから……」 「それがここ十年から十五年の間に、どんなことにでも反対しない、丸く納まる土地柄になってしまった。変だとは思わないかい」 「材木だけではやって行けないし、仕方なかったんじゃないの」  敬子は自信なさそうであった。 「駒田さんのやっているスーパーの中へ入ったことはあるかい」 「あるわよ。どうして……」 「CATV局のスタジオがあるだろう」 「ええ。小さな部屋だけど、テレビ・カメラも本式だし、ガラス窓のついた調整室もちゃんと揃ってるわ」 「君は以前、中原の伯父さんの家でテレビを見ていると、これが本当の家族の団欒というものだと感じると言ったね」 「ええ、そうよ。気分が落着くの。私だけじゃなくて、母もそう言っているわ」  伊島は立ちあがり、部屋の隅のカラー・テレビのスイッチを入れて炬燵へ戻った。すぐ音が聞え、やがて映像が出た。中年の女性タレントが俳優の一家を並べてインタービューをしていた。 「東京のテレビはどうだい。番組は変わらないはずだが」  敬子は怪訝《けげん》な表情でテレビを眺め、曖昧に笑いながら答えた。 「やっぱり中原でなくてはね。東京じゃ駄目よ、ガサガサしていて」 「土地のせいかな」  敬子は何かに勘付いて急に真顔になった。 「どういう意味」 「テレビのせいじゃないかと思うんだよ」 「どうしてなの」 「どうも中原市のテレビには、とほうもない秘密があるらしい」 「嫌だわ。CATVのことね」 「うん」 「伯父さまが関係しているのよ。秘密って、悪いことなの」 「その答は一概に言えない。駒田さんはいいと思っているかも知れない。しかし俺はその反対だ」 「ねえ、教えて。どういうことなの」 「特殊な電波が、人間の意志や思考に関係しているらしい。その電波を使えば、こういうテレビなどよりもっと進んだ通信方法が可能になるかわり、大勢の人間の考えを思い通りに操ることもできるのさ」  敬子は黙って伊島の口もとを見つめている。 「たとえばこのテレビでは、音声と映像が電波で送られて来ている。それによって子供は超人と怪獣の格闘に昂奮し、主婦はメロドラマの主人公に同情するわけだ。しかし考えて見れば、これはまだ不完全だよ。科学の粋みたいに言うが、随分幼稚な道具だ」 「どうして。色だってついてるし……」 「怪獣の出現に緊張するのは小さな子供たちだけだ。大人がそれで手に汗を握るかい。それどころか、少し生意気になると、子供でさえ鼻の先で笑ったりする。スポンサーも制作者も、その点はあきらめているが、本当は全部の子供を熱中させたいだろう。午後の安っぽいメロドラマで君は泣けるか。泣けないだろう。ところが、作る側は全女性を泣かせたいのだ。でもそれはできない」 「無理よ。人間には好みというものがあるし、泣きやすい人や泣くのが嫌いな人もいるんですもの」 「そうだ。コマーシャルで、これをどうぞ、と言われても、その気になる奴と逆に反感を持つ奴がいる。それを克服しようと、集中スポットをやったり、高いゴールデン・アワーを買ったりするんだ。つまり、テレビはまだ送り出す側の意志を、視聴者に完全に送り届けてはいないわけだ。だが、テレビやラジオがもう一歩進んで、意志をじかに相手の脳へ送れるようになったらどうなる」 「そんなこと、できっこないわ」 「どうやら中原市ではそれをやっている」 「嘘……」 「滝沢元三郎に対する反対票がほとんどないのはどういうことだい」 「偶然よ。人気があるから、長い間にはそういうこともあるわ」 「毎回だぜ。最初からあの男に対する反対票は全体の二割以下だった。それがだんだん零に近づいている。あり得ないことが起っているんだ。それに、君の知っている丸山君……門前仲町にレストランを開いた……彼は中原にいると、どうして電波ノイローゼになるんだ」 「でも、ほかの人は電波ノイローゼになんかならないわよ」 「薬やたべ物と同じで、その特殊な電波にアレルギー反応を示す人間もいるんだ。それが丸山君さ。ただ、丸山君の家は昔からの造り酒屋で、あそこでは指折りの資産家だ。恐らく市政の内幕に関与していて、丸山君のノイローゼの原因を両親はよく知っているんだろう。だからあんな立派な店を買い与えて、中原以外の土地で身の立つようにはからったのさ。君が中原市で団欒の気分を味わうのは、恐らくテレビのせいなのだ。多分、普段は他人と協調した平和な気分にさせる信号が流されているのだろう」 「そう言えば、伯父さまの家では口喧嘩ひとつ聞いたことがないし……」  敬子は半信半疑の表情であった。 「あたしとあなたのことについて、最初とても母は反対してたでしょう。それが伯父さまのところから帰って来て、ころっと態度が変わったのよ」 「一度きりでそんな効果があるのかどうか知らないが、とにかくテレビに住民の意志を統一する仕掛がかくされているのはたしかのようだ」 「夫婦喧嘩をしたら俺のところへ連れて来い。必ず仲直りさせてやるって……」 「駒田さんがか」 「自信満々だったわ」  敬子は笑った。 「でも、なぜそんなことに気付いたの」 「例の研究所の事件だ」  敬子はおぞましげな表情になった。 「あれは事故だったらしい。あそこでは、意志や思考を電波で送る研究を続けていたんだ。実験動物はナマケモノだ。ナマケモノの脳と増幅装置をつないであった時、どういうはずみか豹が部屋の中へとびこんだ。ナマケモノは敵を追い払うために、強い意志を豹に送った」 「あ……」  敬子は手を口にあてた。 「テレパシーね」 「そうだ。豹は自殺できない。それで窓ガラスを突き破って霧の中へ逃げだしたわけだ。多分自然界ではそれでいいのだろう。豹に死んでしまえというテレパシーを送り、豹は閉口して遠くへ去る。それがナマケモノの唯一の武器で、それ以上のことはできない。もしそれ以上の効果を持てば、ナマケモノは地球の王者になってしまっただろうからね。だが、あの三人……つまり人類には自殺するという妙な能力が備わっている。ナマケモノの増幅された命令に生きる意志を失い、本当に自殺してしまったんだよ。だからあれは事故さ」 「じゃ、研究はそこでもうとまってしまったわけ……」 「いや。城南大学の電波研究所で同じ研究を続けている学者がいる」 「あ……」 「知っているのか」 「服部という人じゃないの」  伊島は気色ばんだ。 「新藤未亡人……冴子夫人は、いずれその人と再婚するそうよ。伯父さまが母に言っていたわ」  伊島は考え込んだ。敬子がその深刻な表情を見て心配そうに言う。 「あなた、そのことで伯父さまと喧嘩しないでね」 「判らん。するかも知れない。とにかくあさって高嶺温泉へ行かねばならないし……会って話そうと思っているんだ。人々の意志をひと握りの人間が操作するなんて……」  敬子は眉をひそめ、悲しげな表情をした。     二  陶明館の新ホテルがいよいよ完成に近づいていた。遅れに遅れたが、どうやら結婚式の寸前には伊島の手を離れることになりそうであった。  オープンの披露パーティーには伊島も当然招かれていた。予定どおりに行けば、新婚旅行の帰りに高嶺温泉へ寄り、パーティーに出席してその晩新ホテルに一泊し、翌日駒田邸へ挨拶して帰京することにしてあった。  だから伊島の気持では、その前になんとしても、サブ・ミリ波のことで嘉平と話し合って置きたかった。  場合に依っては、対決といった具合になるのもやむを得ないと思っている。  嘉平にはっきりしたことを問い質《ただ》してから、父親とも話し合うつもりであった。本音を言えば、父親と話し合うふんぎりをつけるために、まず嘉平に会おうとしていた。  親一人子一人。男手ひとつで子供を育てるのがどんなに苦しかったか判る年齢になって、伊島としては今度の件で父親と話し合うことが、ひどく重い荷に感じられるのである。  音響機器や照明器具を満載した下請会社のトラックに便乗して高嶺温泉へ向う間、伊島は父親が今度の件に深入りしていないことを祈るように思っていた。  幌《ほろ》つきのトラックは国道十七号線から妻引峠へそれ、曙スカイラインを抜けて中原市へ入り、そのまま湖岸の道から高嶺温泉へ向っている。トラックには運転手のほかに五人ほど乗っており、給油や食事のたびに、楽な運転台のシートへ順番に入れ替わって、コースの終わりの山道へさしかかった時には、伊島は荷台の幌の中で、ラジオ局で使うような大型のテープ・レコーダーによりかかって揺られていた。 「そろそろ高嶺温泉だ」  小さな段ボールの函に腰かけたままそう言うと、胸に下請会社のマークが入った作業衣を着た若い男が、 「やっと終点か」  と言って立ちあがり、揺れる荷台のうしろへ行って、幌をあけた。 「見ろよ。こいつは凄えや」  奇声をあげて仲間を呼ぶ。もう一人も覗きに行った。もう道の右側は切り立った崖になっていて、トラックは山腹の道をうねうね曲りながら登っているのだ。 「ちょっとハンドルを切り損っただけで、完全にお陀仏だな」  そう言いながら戻って来て伊島に尋ねる。 「こんな山の中で商売になるんですかね」  伊島は頷いた。 「今はこういう所のほうがいいらしい。どこもここも少し開けすぎたからな。もう夏場は六割がた予約でふさがっているというよ」 「大したもんですね」 「今のところは企業の研修会や新婚旅行などが多いらしいが、来年までにはここから北へ新しい登山コースをひらくそうだ。大して高い山はないが、沢あり岩場ありで結構面白いらしい」 「でも、それ以外には何もない所でしょう」 「名物は崖と山彦だけさ」  男たちは笑った。今度は伊島が立ちあがり、幌の柱につかまって前を覗いた。丁度車は左にカーブしたところで、進行方向の右寄りに、崖の上へ白い壁を立てたような感じで、新しいホテルが見えていた。  東京をまだ暗い内に出発したので、今日は積んで来た荷を解き、照明器具などを必要な場所へ運び込むだけで終わる予定であった。荷台の男たちはこの崖の温泉場が気に入ったらしく、急に活気づいて車が停らぬ内から荷をおろす準備をはじめた。  やがて車が旅館を二軒ばかり通りすぎ、陶明館の前にさしかかった時、伊島は大声で、 「停めろ」  と怒鳴った。荷台にいた一人が素早く運転席との境のガラスを叩いたので、トラックは陶明館のはずれでブレーキをかけた。  伊島は幌をめくってひらりと飛び降り、 「先に行って予定どおり進めていてくれ、俺はここに用がある」  と手をあげた。トラックはすぐ新しいホテルへ登って行った。  車を送ってふり返ると、陶明館の入口の前に、駒田嘉平が立っていた。珍しく暖かそうに茶色のツイードの服を着ていた。 「来ていらっしゃったのですか」  そう声をかけると、嘉平は黙って頷く。伊島は相手の堅い表情に気付いた。嘉平は近寄って行く伊島を、じっと観察するような態度であった。 「間もなく出来上がるというので見に来たのだよ。車を遠谷まで使いにやったので、帰りを待っていた所だ」 「今の車は電気関係の分です。あれのあとすぐに、家具、敷物、カーテンなどが来て、それで終わりです」 「どうやら式に間に合ったようだな」 「ええ。おかげさまで」 「今夜は儂の所へ泊らんか。車が戻って来たら一緒に帰ろう。君にちょっと話もしたいし」 「僕も駒田さんに是非お伺いしたいことがあります。しかし、今着いた荷のこともありますし、できればここのほうが都合がいいんですが」  伊島は緊張した声で言った。 「やはり若いのだなあ」  嘉平の言い方は老獪《ろうかい》で、伊島の精神年齢を言ったのか肉体年齢を言ったのかよく判らなかった。 「そうだな。今は一時間でも早く仕事を終わらせねばならんのだな。手間を取らせては敬子に叱られる……」  嘉平は微笑して陶明館へ入った。帳場に言って二階の空部屋を借り、茶を運ばせた。 「はやばやと飯場をとり壊してしまったのだな。来て見たら跡形もないので驚いたよ」 「あれは建設会社の物ですから、彼らの仕事が終われば持って帰ってしまいます。今のはみんなユニットですから」 「君のほうの連中はみなここへ寝泊りしているそうだ。若い連中ばかりだから、新藤の未亡人もびっくりして別の宿へ行ったよ」 「来ているんですか」 「今日来た。この下の宿をとったそうだ」  伊島は花柄のついた自動栓のポットを傾けて急須に湯をいれた。 「で、僕にお話って、何ですか」 「君のほうのことから聞こう。ひょっとすると同じことかも知れない」  嘉平は薄笑いを泛《うか》べていた。 「そうですね」  伊島は茶をひと口啜ってから言った。 「僕の用件はサブ・ミリ波のことです」  嘉平は頷く。 「敬子が心配して電話をして来た。喧嘩をしてくれるなと言う。儂と君の間に争いの種などありはせん」 「中原市では、サブ・ミリ波を実際に使っているのですか」 「使っている」  嘉平は突き放すような言い方をした。 「市民はそれを知っているのですか」 「知らん。まだ知らせる必要はないと思うがね」 「なぜです」 「文句を言うに決っている。みすみす反対されるものを公表するのか」 「判っていらっしゃるのですか。サブ・ミリ波は個人の判断に生理的な影響を与えるのですよ。明らかに基本的人権を侵害しています」  嘉平は急に親しげな暖かい表情になった。 「よく知っているよ。基本的人権が何かも、民主主義が何かも」 「自分が人を裁《さば》ける人間だとは決して思っていませんが、サブ・ミリ波の件は憲法違反です。犯罪ですよ」 「たしかに、君ら戦後の教育を受けた若者にはそう思えるだろう。民主主義にもたしかにいい所はある。自由ということを君らがこの上もなく尊いものに感じているのもよく判る。しかし、ここに大きな道を一本通したほうがいい、町の区画をこういうように作り変えたほうがいい……そうしたほうがみんなの為になると判り切っているような時、デモクラシーだの自由だのの名のもとに、個人の我儘勝手が許されるのはどういうものかな。一人の反対のために道が曲げられるのは全体の損失だ」 「その問題とこれとは……」 「まあ聞きなさい」  嘉平はおしかぶせるように言った。嘉平の声ではなく、彼の人生の厚味が伊島の口を閉じさせた。 「西の町のゴミを東の町へ持って行って棄てる。東の町は迷惑だと言い、西の町もそれは認める。しかし西の町にもゴミ棄て場を作ろうとすると反対が起る。この場合、東の町のことはさて置こう。そこで、西の町のデモクラシーとはいったいどういうことなのだね。反対する権利を行使しているだけではないか。自分たちが出すゴミについての責任はどうなるのかね。これは特殊なことではないのだ。戦後の民主主義社会に共通した現象だ。次々に新しい生活資材が生まれて、みんな重宝した。それで豊かになった。プラスチック会社の株を買って儲けもしたし、石油化学の関連産業に職を得てボーナスももらった。それで車を買い、休日には家族でハイウェイのドライブをたのしんだ。車を買う者がなければ誰も作りはせん。広告で煽《あお》って買わせたとは言わせんよ。大気汚染がこんなになるのをなぜ見通せなかった。公害が出ることを見通せなかったのが罪と言うなら、企業ばかりが裁かれるのは片手落ちだ。民主主義の社会では、市民だけが常に正しいのか。そうだとすれば、東の町にゴミを押しつける西の町もまた正しいと言わねばならん。では、ゴミの責任はどこへ行く。政治か……。どこかへゴミは棄てなければならん。たしかに、ゴミ棄て場を探すのが政治というものかも知れん。西の町はご免だという。南も北もきっと同じことを言うだろう。政治は手品ではないのだよ。どこかにゴミ棄て場を作らねばならない。本当の政治とは、新しいゴミ棄て場をどこにするかきめることだ。きめたら一刻も早くそれを作ることだ。そのためには一部の反対を素早く排除せねばならん。もちろん、まず説得だ。しかし、それでだめなら法を行使する。政治はそのために法の力を背景に持っているのだ。……だがな、伊島君」  嘉平はいたわるように伊島をみつめた。 「儂らはその一部の反対者に対して、例の電波を使おうというのではないのだよ。そこのところをよく考えて欲しい。もちろん、公害はいかん。水銀中毒患者など二度と出してはいかん。しかし、そのための対策は対策として、どこかにコンビナートは必要だし、原子力発電所ももっと数多く作らねばならない。高速道路網も整備せねばならんし、新幹線も増やさねばならん。市街地の日照権問題をなんとかしなければ、増えて行く人口を収容する方法がないだろう。いいかね。儂らが夢に描いているのは、この日本という国全体の心をひとつにまとめあげることだ。新幹線の通過で騒音が出るなら、騒音対策に全力を挙げようではないか。それでも解決し切れなければ、沿線の一部住民に別の所へ移ってもらおう。そのための土地も手当てしよう。住宅も建設しよう。新幹線というが、もはや新の字は要らん時代になっている。あれはこの時代に即した必要不可欠の交通機関なのだ。だが現実はどうだ。自分たちの町に駅ができぬなら必要ない、反対だと言い出すだろう。それでは何もできん。そのくせ、反対している人間が休みの日にはすでに出来ている新幹線に乗って楽しんでいる。儂らは個人の問題について何をどうせいと言うのではない。国民全体がお互いに譲り合い、協力し合う気風を作りあげるために、あの電波を利用したいのだ」  嘉平は伊島を説得している内に、ふと酔ったような表情をのぞかせた。伊島はそれを見て、言いたいだけ言わせる気に変わった。 「みんながそういうようになれれば、たしかに日本は今より住みやすい国になるでしょうね」 「そうだよ」  嘉平は胸を張って頷いた。 「今は勝手なことが言えすぎる。たしかに特高や憲兵がのさばった時代より、今のほうがずっといい。しかし、戦前だって、特高や憲兵が怕《こわ》かっただけではない。そんなもの抜きでも、今よりずっと国民の気持が揃っていた。隣組で防空演習をやるのも、自分たちのためにそれが必要だと思ったからしたのだ。ここらあたりでも、松の根をよく掘らされた。松根油をとるためだ。女たちには大変な労働だったが、それが自分たちの国のためになると思ってみんなが気を揃えたのだ。どこか一点に、みんなの気が揃っていた。戦後になって、儂らの世代の者でさえ天皇陛下のことをとやかく言う奴がおるが、あの時代に天皇陛下の悪口を言う奴はまともではなかった。あのお方をみんなが信じていた。国民全体の気持が、あのお方一点にしぼられていた。制度として問題もあろう。学問としてそれを研究するのは結構だ。だが、今のように気持がバラバラでは、いったい日本という国はどうなる。せめて祝日には、すべての家の軒に自分の国の旗が掲げられるようになりたいではないか」  伊島は頷いて見せた。すると嘉平は嬉しそうに頷き返した。 「だが、天皇陛下を認めない人間もいる。儂はそういう人間がいることも認めるよ。天皇陛下を否定する人間はみな死んでしまえとは言わん。それが民主主義というものだろう。断わって置くが、儂が天皇陛下というのは、何もあのお方お一人のことではないのだぞ。日本という国のまとまりのことだ。天皇陛下はその象徴であらせられるわけだ。ところで、あの学生たち……天皇陛下を頭から否定し、日本を新しくするとか言ってゲバ棒とかをふりまわす連中にしたところで、それならそれで仲間がみんな同じ気持になることを望んでいるのではないだろうかね。似たような考えの者同士が、少しの違いで殺し合う無駄を考えぬわけには行くまい。立場こそ違え、気を揃えなければいけない点では同じだ。同じ悩みを持っているのだ。儂ら、あの電波を私利私欲に使おうというのではない。まず日本中の人間の気持をひとつにする。その上で、自分たちが何をするべきか、どう進むべきか、みんなで考えるのだ。それでこそ民主主義というものだろうが」  伊島はうつむいて煙草の先で灰皿のふちをなぞっていた。 「おっしゃることは判ります。でも質問させてください」 「いいとも。何でも答えよう」 「サブ・ミリ波を滝沢元三郎氏の選挙に利用している理由です」  嘉平は鷹揚に笑った。 「簡単だ。滝沢先生は儂が今言ったようなことを実現させようと努力しておられる。この運動の中心なのだ。是が非でも国会にいてもらわねば困る」 「中原市民の意志を操作していることにはなりませんか」 「まだ判っておらんのか」  嘉平の声が強くなった。あぐらを組み直し、膝に拳をあてがって肩をいからせた。 「みなの気が揃えば、これが必要だったことは明々白々だ。だがこういう世の中だ。基本的人権だのプライバシーだのと、もっともらしい理屈にかくれて、好き勝手をし合っている時代ではないか。儂らがあの電波を正しいことに使っても、不正だの憲法違反だのと騒ぎたてる連中はいくらでもいる。もしそうなって、誰もがあの電波を使えるようになったら、いったいどういうことになる。ゲバ棒の連中も使うぞ。菓子屋も石鹸屋もみんな使いたがるぞ。あれを悪用すれば、要らん物でも買わせることができるし、人を殺せと命令もできる。まさか君は、儂があれを自分のスーパーへ客を呼ぶために使うと思っているのではあるまいな」 「そこまで疑ってはいませんよ」 「当り前だ」  嘉平はそう吐き棄て、気がついてなだめるような態度になった。 「敬子にも言って置いたが、もし夫婦喧嘩をしたら中原市へ来い。人間同士のいがみ合いなど、ちょっと譲り合えば簡単に解決することばかりだ。君はもうすぐ儂の身内になる。ひとつ、儂らに力を貸してくれ。新しい日本を作ろうではないか。ひとつにまとまった美しい日本をな」     三  その日、嘉平は遠谷から自分を乗せて帰る車が着いても、それを待たせて長々と喋りまくった。伊島は時々疑問や反論をさしはさみながら熱心に聞いた。おかげで日が暮れるまで仕事の現場には行けず、すべて下請けまかせになってしまった。  嘉平が帰ったあとすぐ夕食になり、下請けの連中の酒に少しばかり付合ってから、硫黄分の強い湯に入ってはやばやと床についた。  ホテルの内装がはじまってから完全に客を断わり、作業員たちの宿舎がわりにされた陶明館の内部は、建物が古すぎるだけにひどく荒れ果てた感じになった。  伊島は妖怪でも出そうな薄暗い部屋の中で、じっと天井を見つめていた。  迂闊《うかつ》だったと反省している。サブ・ミリ波、すなわちテレパシーによる大衆の意志操作という問題に直面して、充分に気負いもしたし、事の大きさも認識しているつもりであったが、実際に駒田嘉平から話を聞くと、根の深さ範囲の広さが、自分の考えていたよりずっと大きいことを思い知らされた。  たしかに嘉平が指摘したとおり、今の社会には重大な混乱がある。ひょっとすると、それは日本だけの問題ではなく、全人類が直面している危機なのかも知れなかった。サブ・ミリ波は、その人類の危機を乗り越えるために必要な道具のひとつなのかも知れないとさえ思える。  しかし、だからと言ってサブ・ミリ波を滝沢元三郎や駒田嘉平らの手にゆだねてよい理由はどこにもないと思うのである。誰がそれを公正に活用し得るのか。そう考えた時、伊島は我ながら答に窮した。  同時に、いち早くサブ・ミリ波の秘密に接した嘉平たちの気持も理解できるのである。  たとえば伊島は、母校の学園紛争について、彼なりの理想論を持っている。その通りになれば素晴しい学びの園が復活すると信じている。滝沢元三郎が全中原市民の支持を得たように、自分の意見が母校の全員に支持されたら、どんなに素晴しいだろうと夢想してしまうのだ。そのために、母校をサブ・ミリ波で満たすことは、天地に慚《は》じぬ公正なことであるように思えて仕方がない。いつ果てるともない悪循環を誰も解決できぬ以上、サブ・ミリ波の行使は正義であるかも知れないと思う。  国鉄の駅員も、郵便局員も、職場を愛するなら誰でもサブ・ミリ波を用いた紛争の理想的解決を夢見てしまうだろう。  嘉平たちも同じように正義の夢を見ているに違いない。ひょっとすると、嘉平たちのグループの中でも、天皇中心の精神的統一を考えているのはごく少数で、大勢《たいせい》はもっと伊島らの感覚に近い所にあるのかも知れない。  だが、それにしても危険な道具である。情報伝達の道具として、次第に波長の短いほうへ発達して来た電波が、可視光線ギリギリの部分に、このような危険なものを秘めていようとは、なんという皮肉なことであろうか。  伊島は、サブ・ミリ波が解決してくれるはずの、人間同士のあらゆる衝突、社会の歪《ゆがみ》を数えあげている内に、いつしか睡ったようであった。  使わねば滅びる。使えば地獄に堕ちる……睡りに入る寸前、伊島はそう思った。  あくる日、伊島は照明関係の手順を指示するとすぐ、車を借りて崖の道を下った。よく晴れた山道を走りながら、きのう嘉平に強く反論しなかったのは成功だったと思った。嘉平らの立場を支持するように思わせて、今しばらく内情を探るべきだと考えたのである。  中原市へ入るとまっすぐ嘉平のスーパー・マーケットへ向った。その建物の一部にあるCATV局のセンターへ顔をだすと、局長の杉本が胡散臭《うさんくさ》そうな表情で迎えた。 「きのう駒田さんとじっくり話し合いましたよ」  そう言うと杉本はニヤリとした。 「そうですか、それはよかった。実は敬子さんのご主人が敵にまわったらどういうことになるのかと心配していたのですよ」 「ひとつ、ゆっくり中を見せていただけませんか。サブ・ミリ波のことを教えてもらいたいし……心配でしたら、嘉平さんに電話して見てください」  伊島はわざと、嘉平さんという呼び方をした。杉本は、一応念のため、と済まなそうに言いながら駒田邸へ電話で問合わせたようであった。 「どうでした」  電話が終わるとすぐ、伊島は笑顔で尋ねた。 「もちろんオーケーですよ」  杉本は嬉しそうに言い、 「ではこの仕事はあとまわしにして……」  と、デスクの上のLPレコードの山を片付けはじめた。 「すみませんね。お仕事の邪魔をして」 「いや、ほんのアルバイトですよ」 「アルバイト……」 「僕個人のではありませんよ。局のアルバイトです」 「というと」  杉本はレコードを棚にしまいながら言った。 「陶明館の新しいホテルで使う奴です。こう見えてもうちにはかなりのレコードが揃っていましてね。僕が選曲してテープに入れてやるんです。一カ月か二カ月に一回ずつ、選曲を変えてホテルに届ける約束が出来ているんですよ。大した金にはなりませんが、それでもこの局の雑収入で……」 「ああ、それですか」  新しいホテルには、一応すべてホテルなみの設備が整っていた。一日中テープをまわしっ放しにして、オーバナイターのプッシュ・ボタンを押せば、いつでもムード・ミュージックが流れる仕掛になっている。エレベーター・ホールでエレベーターのボタンを押しても低く音楽が流れるし、エレベーターの中やロビー、ラウンジその他のパブリック・スペースにも流れるようになっている。 「きのう僕らはそれに使うテープ・レコーダーを運んで来たのですよ」 「そうだったんですか。それでは今日中に仕あげてお届けしたほうがいいですね」 「そう急ぐこともないでしょう。まだ今日一杯は照明関係にかかりきりのはずですから」  伊島の声を聞きながら、杉本は部屋の隅にある頑丈な金庫のダイアルを合わせはじめた。 「これを見てください」  重い扉をあけて杉本が振り返った。意味ありげに微笑していた。  金庫の中には茶色い環が積んであった。 「ビデオ・テープのようですね」  伊島が覗くと、杉本はその中のひとつをとりだして封のテープをはがした。ベークライトのような茶色をした、幅四センチほどの帯を捲いたものであった。 「これにナマケモノのテレパシーが記録されているのです」  伊島はギョッとした。その表情を杉本は優越感のこもった瞳でみつめている。 「ナマケモノが異常に強いテレパシーを持っていることを発見したのは、亡くなった新藤先生の功績です。そして、それが電波の一種であることを解明なさったのが、城南大の服部さんなのです。服部さんは立派な方です。テレパシーが電波の一領域であることを発表すれば、学者として世界的な地位に登れたでしょう。それがいまだに助教授ですからね。サブ・ミリ波の正しい利用のために、ご自分を犠牲になさったのです」 「テレパシーは人間にもあるのですか」 「もちろん。だが、ナマケモノにくらべるとはるかに微弱なのだそうです。最初はもっと強かったのでしょうが、言葉は使う文字は使うで、だんだん能力が弱まったらしいのです。もっとも服部さんは今、人間から直接信号を採取しようと研究を続けていらっしゃいます。テレパシーはあっても、ナマケモノの知能は人間とは較《くら》べ物になりませんからね」 「なぜだろう。以心伝心で精神面は人間より豊かになりそうなものなのに」 「それは、要するに生物の能力とは、根本的には生存のためのものだからです。ナマケモノはテレパシーで他の肉食獣から殆ど完全に保護されています。病気、餓え、怪我、老衰……それ以外の、ジャングルの動物たちにとって最も大きな、外敵からの危険をまぬがれているのです。したがって、それ以上の能力は発達しようがないのです。ただ念力が強いというだけの下等な動物ですよ。彼らのテレパシー能力はギリギリ必要な所でしか発動されません。その証拠に、猿たちがよくナマケモノを苛《いじ》めるんだそうです。木の枝をゆすって落したり……でも、ナマケモノの生命には危険がないのです。だからナマケモノは憐れにも猿のおもちゃにされて苛められ放題なんだそうです」 「するとナマケモノは無抵抗主義の平和を一生楽しんで暮すわけですか」 「いや、やはり天敵は豹らしいですよ」 「でも、テレパシーで追い払うのでしょう」 「テレパシー、というか、サブ・ミリ波というのが、現在なお一般には正体がよく判っていない理由がそこら辺にあるわけです。発振させにくいし、第一とても捉えにくいのです。ラジオはアンテナなしでよく聞えるが、テレビでは少くとも室内アンテナが要りますね。UHFとなると、もうアンテナなしではどうにもならない……波長が短くなるにつれ、キャッチすることがだんだん困難になるのです。そのいちばん短いのがサブ・ミリ波ですからね。ちょっとした障害物があるとすぐ消えてしまうのです。雨滴とか霧の粒子に当っても減衰してしまいます。赤が〇・〇〇一ミリの波長だそうですから。その上から一ミリまでというと、本当に短い波なのですね。ということは、雨や霧の日はいつものようには威力を発揮できないということです。どうも豹はその辺のことを知っているらしいのです。時々他のけものに食い殺されたナマケモノの死骸が見つかるのは、雨や霧にさえぎられて、うまくテレパシーを使えなかったせいなのでしょう」 「するとあの事件の夜のことは……」 「ええ、大変な霧でしたね。二匹のけものは、お互いに野性の感覚で外の気象を知っていたのでしょう。豹はチャンスだと思い、ナマケモノは死にものぐるいでテレパシーを発した。つまり大声で叫んだことになりますね。運悪くそれが増幅されていたのです。テレパシーの増幅方式は服部さんと死んだ崎山さんの協力で開発されたものです。ナマケモノの奴が放ったテレパシーの絶叫で、同じ建物内にいた三人は自殺してしまいました」 「なぜそんな危険な日に豹を放ったのだろう。外から鍵をかけて、まるでわざとナマケモノに死の命令を絶叫させたようではないですか」 「事故ですよ」  杉本は伊島の顔へ通り抜けてしまうような視線を送って言った。 「ところで」  伊島は疑問の核心に踏み込んだ。 「ナマケモノは人間より遥かに知能が劣るわけですね」 「ええ」 「それなのに、なぜ特定の人物を支持するようなテレパシーが採取できるのです」 「滝沢先生のことですか」  杉本は擽《くすぐ》ったそうに言い、うしろのモニター・テレビを振り返った。 「ええ。ナマケモノは滝沢元三郎氏をよく知っているのですか」 「いいえ」  杉本は指を三本立てた。 「三次元放送をするんです」 「三次元……立体テレビですか」 「そうではないんですが……つまり」  杉本はモニター・テレビを指さした。 「こいつは今、音を消していますが」  そう言って音声ツマミをまわした。モーニング・ショーの司会者の声が聞えだした。 「テレビは視聴率と言いますね。ラジオの場合は聴取率です。つまりテレビは視と聴の二次元ですよ。そこへもうひとつサブ・ミリ波をいれます。視、聴、心で三次元になるでしょう。僕はよくは知りませんが、何でもナマケモノを餓えさせて置いて、餌の木の葉を持って檻のまわりをうろうろして見せるんだそうです。するとナマケモノは、呉れ、と言うらしいんですね。我に与えよ、ですか。いや、僕も何度も体験しましたが、その脳へ直接働きかける信号は、急に好感を持たせてしまうんです。我に与えよ、というより、我を愛せ、という感じですね」 「そうか。その時画面には滝沢元三郎氏が映っているんだな」 「その通りです。顔が映って、喋っているのです。政見放送の時間が主ですが、その前後から、この局で流す市政ニュースでもさかんに滝沢先生の写真を出しますし、ご当人も中央でニュースにされやすい行動をおとりになります。テレビ・ニュースにそれが出るような時は、あらかじめ時間の連絡が入りますから、こっちはサブ・ミリ波の発振を手ぐすね引いて待っているわけです。何しろ全市有線テレビですから操作はかんたんです。全員協調せよ、というナマケモノ同士でいつも交換しているテレパシーは、以前何匹も飼っていた時代に採取してありますし、その信号はしょっちゅう流していますから、たまたま滝沢先生のテレビを見ない人間がいても、市民の四、五割が滝沢先生支持となればもうしめたもので、いつとはなしにその影響が及んで、結果としては驚異的な支持率になるわけです」  恐るべき世論操作であった。伊島は目の前にいる幾分頼りなげな杉本が、ほとんど一人でそのような恐るべき操作をやってのけられることに、いっそう恐怖を覚えた。     四  それから数日間、伊島は仕事に追われた。内部の壁面処理や装飾物の配置、照明のテストなどで、結婚式までの残り時間と追いかけっこをしているようであった。  そして伊島が東京へ引きあげる前日、高嶺温泉へ城南大の服部哲郎が姿を見せた。服部は嘉平や市長らと共にホテルの内部を見てまわり、伊島にも挨拶した。  例の事件の発見者だということで、何度も噂を聞いていたらしく、初対面にしてはひどく親しげな口をきいた。  市長や嘉平らと一緒に、冴子夫人の美しい顔があった。事件のあった日に見た謎めいた陰気さは消え、心なしか頬のあたりも艶々としているようであった。  伊島は彼女が恋をしていると直感した。もちろん相手は服部哲郎であろう。男を愛し、愛することで充ち足りている女の顔であった。  服部について来た学生が二人、物珍しそうに伊島たちの仕事を見てまわっていた。彼らは多分服部と冴子夫人のダシに使われているのだろうと、伊島はその二人を皮肉な目で眺めていた。学生と服部たちは冴子夫人と同じ宿に泊るということであった。  午後遅くなって、伊島が来た時のように、岩永がトラックでやって来た。トラックは大型と中型の二台で、パブリック・スペース用の絨緞を満載していた。 「まだいたのかい」  岩永は驚いたように言った。 「明日の朝帰るよ」 「大変だな。結婚式はあさってだろう」 「男の仕度は簡単だからな」 「可哀そうに。新婚旅行は二日きりか。だって三日目にはここのパーティーへ来るわけだろ」 「こっちへ向けて、のんびりドライブしてまわるよ。そのために無理してポルシェを買った。中古だがいい車だよ」 「俺のワーゲンはそろそろ寿命らしい。そうそう、明日津川が来るぜ」 「津川が……」  伊島は眉を寄せた。 「心配することはない。カーテン屋の仕事で来るだけさ」 「あの時は、これで追われる身だなんて深刻そうなことを言っていたが、何でもないんだろう」 「何もあるもんか。奴はおとなしいよ」  岩永は笑った。 「伝えてくれ。俺はどこへも喋っていないって……敬子もそんなお喋りじゃないとね」 「判った。ところで、さっきここのパーティーの案内状を見たが、例に依って俺たちが最後までガタガタすることになりそうだよ。まだカーテンや絨緞の来てない分があるし、どう急いでもパーティーまでに終わりそうもないね」 「済まないな。俺だけ逃げだして」 「婚礼じゃ仕方ないさ。津川たちとなんとか始末するよ」  岩永は伊島の肩を叩いた。 「そのかわり、俺は結婚式の料理を食いそこなうわけだから、あとで埋め合わせてくれよ。何なら新婚家庭へひやかしに行ってもいいぜ」 「来てくれ。どんな料理を食わせるか知らないが、水割りだったらどこで飲んだって同じ味だろう」 「何言ってる。敬子さんはちゃんと料理学校を出てるそうじゃないか」 「だから余計油断できないのさ」  伊島はそう言って笑った。ホテルの前の道を、服部と冴子夫人が遊歩道へ向っているのが見えた。     五  伊島は氷をつまんで父親のグラスに入れた。大きなグラスに角氷が鳴り、父親はそれへウィスキーを注いだ。  父と子の、ささやかな酒宴が始まっていた。座卓に並べた肴類も冷えたものばかりで、いかにも男世帯の侘《わび》しさが漂っている。 「余り飲むなよ。明日は新郎の身だ」  父親は珍しい物を眺めるように伊島をみつめて言った。 「結婚式は腹が減るっていうけど、本当かな」 「それは花嫁のことだろう。男はどうかな。しかし近頃は男と女が入れ替わってしまったようだからな」 「お父さんも昔が懐かしい組……」 「そりゃ、今より昔のほうがいいな。昔のほうが秩序があったよ」 「でも、褌《ふんどし》一丁の労働者が通りがかる女を片はしからからかったと言うし、道路には馬や牛の糞でしょう」 「そう言えばそうだ。俺はここ二十年ばかり馬糞を見てないぞ」  父親はおかしそうに言った。 「昔のほうが秩序があったというのはどうかな。お父さんたちの世代のノスタルジアじゃないのかなあ」 「何とも言えんな。でも、こういうことは言えるんじゃないか。昔の人間もなんとかして立身出世しようと考えていたが、それはルール違反などしなくてもすむような暮しを求めてのことだったと思うんだ。ところが今は逆だ。ルール違反をしても追及されにくい階層に入らなければ損だと思っている。新聞だって、大企業の出す公害には慎重に筆をとるが、町の小さなメッキ工場のたれ流しには、潰してしまえというような勢いで、いきなり四段抜き五段抜きをくらわせる。みんながその仕組を知ってしまったんだな」  伊島は坐り直した。 「別に嫁に行くんじゃないから、明日結婚式だって改まるわけじゃないが、少くとも今夜は俺の人生の区切りだ。だからお父さんに聞きたい」  父親は黙って伊島を眺め、目を伏せてウィスキーを飲んだ。 「お前が何を尋ねたいか判っているよ」 「お父さんはどの程度深入りしてるんだ」  父親は苦笑した。 「東海道新幹線で言えば、ひかりに乗って静岡の先を走っているところかな。名古屋まで降してはもらえん」 「日本電波教育会の内情を知りたいな」 「それより、お前こそ深入りするな。駒田さんのほうから、とっくに連絡をもらっている。さいわい理解してくれたそうだからよかったが、さもないととんでもないことになるはずだったのだぞ」 「とんでもないことって……」 「あの事件を忘れたわけではないだろう」 「すると……」  伊島は顔色を少し変えた。 「サブ・ミリ波は大変な代物だ。あれで世界が変わる。新しい文明が興るはずだ。それだけに、今下手に世間へ洩らせばえらいことになる。あの事件ははっきり言って、たしかに事故でもあるが一種の処刑でもあった」 「どういうこと」 「警告の意味で教えよう。新藤慶太郎という老人は、偏屈な人間だった。名誉欲が強く、そのくせ正統的でないことしか好まなかった。若い頃から妙な研究ばかりやって、一生それで終わるかと思った時、偶然ナマケモノのテレパシーにぶつかったのだ。人の行かぬ道ばかりを歩いて最後に金目のものを拾ったというところだ。だが、それがサブ・ミリ波という電波の未知の領域だったなどということは、あの老人一人では死ぬ迄解明できなかっただろう。当時丁度服部哲郎が、サブ・ミリ波とテレパシーをつなげて考えていた。すぐ服部はあの老人と連絡をとり、それで研究が進んだ。だが、老人はあくまで自分が研究の主体でいたがった。そのため一時公表を避け、中原市の有力者たちに資金を仰いだ。滝沢元三郎がその中にいた。あとは知っての通りだ。服部という男は、研究一本槍の本物の学究タイプだ。名目がどうだろうと、研究が進めばそれでよかった。しかし老人のほうはそうは行かない。適当な所で華々しく成果を学会にぶち撒《ま》けたがった。名誉が欲しかったのだ。ところが滝沢たちはそうさせなかった。問題の大きさを知り抜いていたのだ。中原市が実験場に使われ、都市計画が理想的な形で実現し、滝沢は保守党内での地位を築きあげた。与党なら、サブ・ミリ波にとびつかぬわけがない。その上公表するわけもない。滝沢はサブ・ミリ波の秘密を武器に、保守党の大物や黒幕たちに引き立てられたのさ。一方、服部は誠実に研究を進める。政治性などまるでない男だ。だからだんだんにあの老人は浮きあがり、内心服部に対して反撥するようになったらしい。そこへからんだのが、服部の恋人の冴子という美人だ。なんとあの爺さんは、ナマケモノのテレパシー再生装置を用いて、冴子を自分のものにしてしまったのだ。まさかあの齢でと、服部さえ油断していたのが悪かった。老人は冴子と結婚し、ベッド・ルームに発情したナマケモノのテレパシーを再生して、冴子を思いのままに操ったということだ。服部は古巣の城南大へ去り、老人は秘密の保持をたねに滝沢たちから際限もなく金をしぼりあげた。新しい研究所もそれでできたのさ。服部の後輩の崎山がかわりに老人と組まされたが、この崎山がまた厄介だった。サブ・ミリ波の利用について本気で思い悩むタイプの男だったのだ。次第に滝沢たちのやりかたに批判的となり、情報の一部を革新勢力に流したりしたらしい」  伊島は父親の話に聞き入りながら、ふと今高嶺温泉にいるはずの津川を思い出した。 「新藤という爺さんもさすがに年は年で、冴子の若さを持て余すようになったらしい。自由に外へ遊びに行かせることが多くなった。サブ・ミリ波から解放されて見れば、やはり冴子にとって恋しいのは服部という男だ。サブ・ミリ波で服部からひき離されたのだからな。冴子は逃げだすことを考えはじめた。そうなると女は恐しい。出入りの若い男をたぶらかして、霧の夜、豹を実験室へ追い込ませた。自分は安全な高嶺温泉にいて、その若い奴を操ったのだ。あとはお前たちが見たとおりだ。豹だけが逃げのびて、老人も崎山も、その若い奴も、ナマケモノのテレパシーにやられた」 「それじゃ殺人だ」 「ミツユビ・ナマケモノは、学名をブラディプス・トリダクリルスという。動きの鈍い三本指という意味だ。ブラディプス・トリダクリルスの殺人さ。だが真犯人は高嶺温泉にいた冴子だ」 「罪に問われなかったんですか」 「当り前だ。サブ・ミリ波が秘密である以上、冴子の犯罪は完全犯罪だ。それに、こちら側にとっても、老人と崎山は消えたほうが望ましい存在になっていた。関係者は冴子に同情しただけだった。その内冴子と服部は晴れて夫婦になるだろう。多分媒酌人は滝沢元三郎あたりだよ」 「それで、お父さんはどうなの。どういう立場なの」 「役人だ。俺のような役人は死ぬ迄役人なんだ。それでなければ生きて行けなくなっている。公共放送があの地域に中継局を作って、難視聴エリアをひとつ減らそうとした時、当時の首相じきじきのお声がかりで、その中継局の計画が潰れた。山かげのままにして、CATV局を存続させる必要があったのだ。俺が関係したのはそれ以来だ。日本電波教育会の表向きのことはとにかく、本当の仕事は日本に中原方式を普及させることなのさ。最初の内は適当な土地の有力代議士の地盤を単位にやって行く。学校教育への転用は簡単だ。そのために俺たちの所へ文部省からも来ている。暴動の中心になりやすい都心部にも、ビルかげ受信解消の名目で、もう一部実施されている。休日の歩行者天国はそれと同調させてある。少しずつ、日本人はサブ・ミリ波で足並みを揃えはじめるのだ。満員の通勤電車、公会堂、劇場……徐々に普及している。公共放送の人気番組は、だいぶ以前から、国民が自分たちの国家に関心を向けるような方向で企画され続けている。民間放送の無事平穏なホーム・ドラマや歌番組が高率で視聴されるのも、サブ・ミリ波の普及と無関係ではない。サブ・ミリ波の中原方式が普及した地域では、常時協調性を高めるための信号が流されている。順法ストの時、我々は故意に駅や車内のサブ・ミリ波をとめた。その結果何が起ったか、お前は知っているだろう。駅が不満を爆発させて乗客の手で破壊され、車輛が焼かれた。サブ・ミリ波はすでに現代社会の必需品となりかけているのだよ。もうサブ・ミリ波は社会に浸透しはじめている。その秘密を公表しようとする者は、多分死ぬしかない。今のところ、サブ・ミリ波の技術はまだ未熟で、操作を誤ると一部に悪い結果をもたらす。協調性が悪いほうへ動いて、石油危機などと大声で言うと、一斉にその気になり、買占めや便乗値上げが起ることもある。協調する信号のかわりに、楽観する信号を送ればよかったのだが、はじめてのことでそれが判らなかった。当局側の発表より、巷の声に協調してしまったのだな。まあそういう試行錯誤も多少は起るだろうが、いずれ日本中にサブ・ミリ波が流れ、コンピューターがそれを自動的に管理する時代が来るだろう。いま各地の公共放送局は、毎日何十人という数で、電波障害を訴えるノイローゼ患者の抗議を受けている。この問題にも早く対策を講じなければならない」 「ひどい話じゃないか、お父さん」  伊島はその時、憤りでも涙が湧くことをはじめて知った。     六  父と子は声高《こわだか》に夜ふけまで議論を続けた。ウィスキーの酔いが、その声をいっそう荒くさせた。 「駒田さんもそういうことを言っていた。日本人の心が一点にしぼられることこそ理想なのだと……たしかにそうなればすばらしいと思う。でも、その一点というのはどこなんだい。たしかに今はバラバラだ。だが、バラバラの底には自由という宝石が光っている」 「自由を奪おうというんじゃない。だがこのままでは日本はどうにもならない。ゴミひとつ始末できない。道一本作れない」 「待ってくれよ。駒田さんと同じ理屈を言うね。ひょっとするとお父さんもサブ・ミリ波で洗脳されちまったんじゃないのか」 「冗談いうな」 「判らんぜ……じゃ聞くけど、ひょっとして、その国民の心を集中させる一点というのは、千代田区のまん中にあるんじゃないのか」 「断言したくないが、仮りにそうだとしたらどうなんだ。それ以外にもっといい所があるのか。その一点を北京に置くか、モスクワへ置きたいか」 「そうじゃないが、少しおかしいよ。何かをわざと落してるぜ」 「何のことだ」 「敗戦さ。敗戦という歴史的事実さ。俺たちは……日本は、サブ・ミリ波こそ使わなかったが、以前同じように気を揃えたはずじゃないか。揃えて向けたその一点も、今の話に出たのと同じ場所だ。そうじゃないか。それが間違っていたんじゃないか。間違っていたから敗けたんだ。いや、戦争を始めたこと自体が、間違っていた証拠さ。それで間違いは水に流したはずだ。みじめな焼跡で、みんながひとつずつ自由を拾ってポケットへいれたんじゃないか。憲法はマッカーサーのおしきせだ、教育も占領政策の申し子だ……だから昔にかえす。おかしいよ。マッカーサーを呼び込んだのは誰だ。なぜ進駐軍がここへ来た。そうだろう。敗戦は或ることの結果だ。原因じゃない。その証拠に敗戦以来日本は戦争をしたかい。敗けたかい。敗戦を境にどっちが正しいかって言えば、こっちのほうが正しいにきまっている。今こっち側が少々混乱してるからって、だから向う側へ戻りましょうというのは短絡もいいところだよ。サブ・ミリ波はもっと別な使い方があるはずだ。新しい技術の実用化をやみくもに急ぎすぎた結果がどうなっているか、見れば判るだろう。薬が毒だった。生まれてくる子供たちに影響がでてしまった。物は作ったが魚が食えなくなった。……そういうことは、ひと息待ってもう少しよく研究すればすぐ判ったことじゃないのかい。お父さんたちがやりかけてるのは、それと同じことだ。メリットだけを考えてる。民衆の意志操作はたしかに便利だろうぜ。でも、その体制をひっくり返すのには、サブ・ミリ波を一日だけ反対勢力が握るだけでよくなる。お父さんたちは、そうはさせまいと考えるだろうね。で、どうなる。警察国家の誕生かい。だったら何のためのサブ・ミリ波だい。そしてその内戦争を始めるさ。サブ・ミリ波で死を恐れぬ若者が生まれるのさ。石油の輸入が減ると聞いただけでパニックに陥《おちい》る国が、また世界を相手に戦争をはじめるさ。敗戦、マッカーサー、進駐軍、そして今度こそなんにもなくなるさ。とにかく俺は明日結婚する。でも覚悟しといてくれないか。中原方式とやらはぶっ潰す。自分の頭で判断しない子供なんて、俺は絶対に持ちたくない。お父さんだって本当はそうなんだろう。子供を鉛の兵隊みたいな心のないおもちゃにしたくはないんだろう。俺をそういう風には育てたくなかったんだろう。俺はお父さんに感謝してる。嘘じゃない、この通りだよ」  伊島は酔って、畳に手をついた。 「中原方式に反対する自分を誇りに思う。こういう俺に育ててくれて有難いと思う。だから頼むよ。お父さんも俺を誇りにしてくれ。今の仕事から手を引いてくれないか」  父親は憮然《ぶぜん》として飲んでいた。 「酔ってるよ、お前は。明日は大事な結婚式だ。もうそれ以上飲んじゃいかん。お前の言い分もよく判った。俺も少し考えてみる。しかし、いずれにせよもう俺にとっては手遅れなんだがなあ」  父親の声は淋しそうであった。   第六章  結婚式は終わった。敬子は伊島の妻になった。世間の習慣どおり、その祝いの席では、すべての行き違いが、すべての争いが一時棚あげにされ、伊島も敬子も伊島の父親も嘉平も、みなが円満な笑顔で頷き合った。  そして、伊島が手に入れた中古のポルシェが、爆音を響かせて東京の明治記念館をあとに、新婚の旅へ出発した。  二人にとって、旅はたのしかった。新ホテルの披露パーティーさえなかったら、二人は車ではなく、のんびり飛行機や列車のシートに坐っていたはずであったが、いずれにせよ、それは甘ったるい新婚の旅であった。そして三日目の朝もやをついて、二人は高嶺温泉へ向った。披露パーティーは十一時からで、招かれた客の中には、すでに前の晩から新ホテルに泊った者もいるようであった。  着いて見ると、それは奇妙な披露パーティーであった。ホテルの営業サイドによる本当の催しは翌日で、それに先立って開かれた今日のパーティーは、正しくは新ホテル落成のためのものではなかった。  滝沢元三郎をはじめ、政界の大物が集まっていた。日本電波教育会の理事連中も顔を揃え、その中には当然伊島の父親も姿を見せていた。そのほかに、公共放送の関係者もいたし、郵政省や文部省、通産省、防衛庁、それに公安関係者も招かれていた。  伊島と敬子がホテルの部屋へ入って着換えをし、パーティーの会場へ行くと、まず建築家の漆山唯明が握手を求めて来た。 「やあ、おめでとう。結婚式には行けなかったけれど……」  伊島は少し照れて新妻を紹介した。 「いや、あのあとで少し肝を冷やしたんだよ」  漆山は声をひそめて頭を掻いた。 「あのあとと言いますと……」 「ほら、いつか見本市で会ったじゃないか」 「ああ……」  伊島は苦笑した。 「駒田さんのお身内と結婚するって聞いてたし、てっきりもうこっちの陣営に入っているとばかり思い込んでた。さいわいここで会えるくらいだから問題はないが、もし君が敵に走っていたら、こっちはペラペラ喋ったおかげで、これが飛ぶところだったよ」  漆山はそう言って平手で自分の首を叩いた。伊島は適当に微笑しながら、この処世術の名人を新しい敵として観察していた。その近くで、冴子夫人と服部哲郎の二人が、保守党の代議士に大声で冷やかされていた。  似たような態度で、嘉平と滝沢元三郎が敬子をからかいに来た。敬子は恥ずかしがって伊島の背にかくれ、中原市長と警察署長の大山が伊島に祝いを言った。  パーティーがはじまり、滝沢元三郎が壇上に立ってマイクを使った。彼は、このホテルから新しい日本が始まると、誇らしげに宣言した。滝沢の説明に依ると、まず財界首脳がこのホテルへたびたび招かれて、サブ・ミリ波による意見の調整を行なう予定だという。やがてそれはピラミッドの下へ拡がり、各産業間の利害の不一致が修正されることになる。更にそれは、労組、教育界、学界、言論界の指導的人物たちに及び、大衆への中原方式の浸透と並行して、指導者層の意志統一が行なわれるのだ。このホテルのようなサブ・ミリ波の拠点が、これから各地に誕生するのだろう。  伊島はふとあたりを見まわした。最上階の五階にあるバルコニーつきの宴会場のそこここに、サブ・ミリ波の発信機が隠されているのだ。伊島は敬子の手を引くようにして父親の傍へ近寄った。 「お父さん」 「なんだ」  二人はささやきあった。 「もう使っているの……」 「あれか……」  父親はそう言うと顔をそむけ、 「まだだろう」  と確信なさそうに首を横に振った。伊島は敬子と一緒に父親の傍を離れ、壁ぎわへ行った。 「そうか。俺が東京へ帰る日に服部哲郎がここへやって来た。冴子夫人に会う口実だとばかり思っていたが、学生を二人連れていたよ。あいつらが服部と一緒に、サブ・ミリ波の発信機をホテル中にセットしてまわったんだな、きっと」 「やだわ。あたし、気持悪い」  敬子は気のせいで本当に蒼い顔になった。 「風に当るといい」  伊島は宴会場の外のバルコニーへ出た。そこは名物の崖へ大きく張り出していて、下をのぞくと千仞《せんじん》の谷底が見えるはずであった。 「あれ……」  伊島は職業意識をとり戻してバルコニーを眺めまわした。 「なんだ、岩永さん、まだ金網を張ってないのか」  陶明館の主人がいちばん気に病んでいた、転落防止用の金網がまだとりつけてなかった。腰ほどの高さの防護壁があるだけであった。 「駄目だなあ」  危いので敬子をバルコニーの端には行かせず、伊島はそうつぶやいて舌打ちをした。宴会場ではサブ・ミリ波の秘密を一手に握った連中が、かわるがわる立って気勢をあげている。拍手が響いてくる。  その時、ボーイが大きなガラスをあけて伊島を呼んだ。 「工事の方がお呼びですが」  岩永らしかった。 「よし、すぐ行く」  そう答え、敬子の背を押すようにして宴会場へ戻ると、人々のうしろを抜けて廊下へ出た。 「一階のロビーでお待ちです」  ボーイはエレベーターのドアを押えて言った。二人は一階へおりた。  津川が待っていた。 「岩永さんが怪我したんです」 「なんだって」 「いま陶明館へ運びました。行ってやってください」  伊島は敬子と顔を見合わせ、小走りにロビーを出て、石畳みの道を駆けおりた。 「岩永さんの部屋は」 「は、はい」  顔馴染みのおのぶさんが出て来てうろたえ気味に言った。 「二階の右から三番目のお部屋です」  伊島は靴を脱ぎながら尋ねた。 「どんな様子だ。医者は呼んだのかい」 「それが、電話が不通になっているんです」  伊島は舌打ちをして二階へあがった。岩永は蒲団をかぶって寝ていた。 「どうしたんだ」  こもった声が答える。 「大したことはないよ」 「怪我だって」 「いや……」 「なんだ、違うのか」 「パーティーはどうだ。盛会か」 「気勢をあげてる。勝手な熱を吹いてやがる。今に見てろ。あいつらぶっ潰してやる」  すると岩永は急に蒲団をはねのけ、むっくりと起きあがった。  敬子があわてた。 「大丈夫なの、岩永さん」 「そうか。やはり君は反対だったのか」  よれよれのブルージンに赤いセーター。いつものスタイルであった。 「いったいどういうことだ」 「あいつらを叩き潰すのさ」 「いつ」 「今だよ」  岩永は立ちあがった。 「あれから、服部哲郎が学生たちを使って発信機をセットした。知ってるだろう。サブ・ミリ波のだよ」 「知ってる」 「もう津川たちが一階の増幅器のある場所を占拠したはずだ」 「どうする気だ」  伊島は大声をだした。 「津川たちの仲間が、今頃中原市のCATV局を叩き壊している頃さ。電話線を切って向うから緊急報告が入らないようにしてある」 「そんなことじゃない。あのホテルをどうする気なんだ」  伊島は崖の上のホテルが、土台を爆破されて崩れ落ちる光景を想像した。 「津川は忍び込みの天才だそうだよ。君のところでは簡単すぎて失敗したがね」 「教えてくれ。ホテルを爆破するのか」 「そんなことするかい。苦労して仕上げたばかりじゃないか」 「ではどうする」 「津川が服部のところから、ナマケモノの信号テープをひとつ盗みだしたのさ。似たのをかわりに置いて来たから、判りっこない」 「それでどうする」 「その信号テープは、君らがぶつかった霧の晩のものらしい。君がナマケモノの檻の前へ行った時、ナマケモノの頭にコードが二本つないであったそうじゃないか」 「霧の晩のテープか」 「霧の晩豹に襲われたときのナマケモノのテレパシーを記録したテープさ」 「それを今使う気か」  伊島は悲鳴をあげるように言った。 「セットしてすぐ、津川たちは逃げだす気だが、間に合うかどうか……決死隊だよ」 「待ってくれ、おやじがいる」 「伯父さまがいるわ」 「君らを助けたのが精一杯だ。気の毒だが、サブ・ミリ波を不当に使う連中をこのままにはして置けん。関係者の殆ど全員が集まっているチャンスなんて、これを逃がしたらもうないだろう」  敬子は畳の上にペタンと坐って泣きだした。伊島は急いで窓に近寄り、身をのりだしてホテルのほうを見た。 「危いよ。ここまで影響があるかもしれん。とび降りたくなったらどうする」  岩永が言うと、敬子は突然泣きやみ、狂ったように伊島にしがみついて部屋へ引き戻した。 「何か感じるわ。嫌な気分よ」  敬子が叫んだ。 「ほんとだ。感じるぞ」  伊島は敬子の肩をしっかりとだき、岩永に向って叫んだ。 「逃げろ。ホテルからもっと離れるんだ」  三人はどやどやと階段をかけおり、はだしのまま道にとびだすと、夢中で坂道を下った。走って走って走り抜いた。道が右にカーブし、山腹のかげになってホテルも旅館も見えなくなったとき、三人はやっと足をとめた。 「津川たちは助かったかな」  岩永が息を切らせて言った。 「お、俺はだな、五十になっても、ろ、六十になっても、おんぼろのジーパンに赤いセーターを着ていたいんだ。乞食みたいなひげをはやしてな。制服なんてまっぴらだ」  伊島は敬子をかかえ、うらめしげな目で岩永をみつめていた。  三人が山かげから出て、恐る恐るホテルへの道を引き返したとき、その崖の上にへばりついた小さな温泉町には、だれひとりいなくなっていた。そして、深い谷の底には、叩き潰されたような死体が折り重なっていた。  虚 空 の 男  私が広告代理店で、小ぜわしいCMづくりに追いまわされていた頃のことである。  Pレーヨンの宣伝部から、私に突然個人的な呼び出しがあった。Pレーヨンは半期十億円にのぼる広告費を支出する日本有数の大広告主だが、私の会社は歴史も浅く、まだ取引をするには至っていなかった。  当時私は企画制作部の次長になったばかりで、それ以前も営業活動とはあまりかかわりがなく、Pレーヨンから名ざしで呼び出しを受ける心当りもなかったから、留守中連絡を受けた部下に、何かの間違いではないのかと訊《たず》ねて見たが、先方はたしかに私の名を言ったという。  小首を傾《かし》げながら、指定された時間に京橋のPレーヨン本社へ行くと、五十がらみの体格のいい人物が現われた。交換した名刺を見ると前田卯一郎とあり、肩書きは常務になっていた。重厚な感じの応接間で、少々気押されながら用件を訊ねると、前田常務は急に親し気な笑顔を見せて、私の妻のことを聞いた。元気だと答えると、今度は子供が生まれたそうで目出度い、と悪戯っぽい目で言う。狐につままれたようで、中途半端な返事をすると大声で笑い出し、実は君と僕は親類なんだと種あかしをした。  私の妻は九州の博多生まれで、四人姉妹の末っ子である。その姉の一人が養女に出されて、今は博多の博山閣というホテルの幸福な若奥様になっている。前田常務はその夫に当る人の叔父だそうで、最近九州出張で博山閣へ泊った時、東京の広告代理店に勤めているという私の噂を聞いたらしい。 「そうでしたか、ちっとも存じませんで」  私も頭を掻いて笑って見せたが、内心とびたつ思いだった。何しろ超弩級《ちようどきゆう》のスポンサーである。こんな頼もしいコネはまたとない。 「博山閣で君のことを頼まれたからというわけではないが、ウチへ食いこむいいチャンスだと思ってね」  前田常務はそう言って部外秘の情報を洩らしてくれた。  どこの会社でもそうだが、とりわけPレーヨンは宣伝の戦略上デザイン・ポリシーということにやかましい。そのポリシーを大転換させる計画が進行中だと言うのだ。理由は長年守って来たPレーヨンの行き方に、他の会社が右へならえをしてしまい、最近では独自性がなくなったばかりか、偶然にせよ企画を先行されてしまう事態も生じている。だが一度踏み切ったら四、五年は続けなければならないものだから、なかなかこれという結論が出ないで困っているところで、それだけによい案を提出してくれればチャンスは充分にあるというのだ。  話のあい間にさり気なく拳げるデザイナーやカメラマンなどの名前も、ぴしっと壺にはまっていて、この人物が宣伝のスペシャリストであることは疑問の余地がなかった。  これは思ったより大きなヤマにぶつかったのだぞ。——私は自分に言い聞かせ、この時ばかりは見栄も外聞もなく、お願いしますぜひやらせて下さいの一点張りで辞去した。  社へ戻って営業部長と企画課、制作課の主だった連中に非常呼集をかけ、厳重に箝口令《かんこうれい》をしいてから問題をあかすと、みな昂奮し勇み立った。気の早い営業部長などは、算盤《そろばん》を持ち出して皮算用を始めるしまつで、それくらいPレーヨンは我々にとって夢のような存在だった。  検討して見ると、前田常務は試案提出と軽く言ったが、ことはシネスコの劇場用カラーフィルムからラベルの端に至る幅の広い問題である。プレゼンテーションの費用だけで、どのくらい掛るか見当もつかない。提出の仕方だって、相手がPレーヨンでは薄見っともないやり方はできない。作品を全部カラースライドにして、説明用のオーデオ・テープをつけるくらいのことはする必要がある。——などと、ドサ廻りの一座が歌舞伎座へ出るような騒ぎだ。  企画会議の大勢は、この道の有能なタレントを数多く集めて試作班を臨時に編成し、あらゆる角度からこの問題を煮つめていこうと言うことになった。——それに反対の意見を示したのは私だけだった。  そんな正攻法はとっくにPレーヨン内部で始めているに違いない。タレント集めだって、我々よりPレーヨンのほうがよほど幅広く行なうだろうし、第一超一流広告主の呼びかけなら、どんな忙しい人物だって飛びついていくだろう。我々はその点で遥かに劣っている。それより、この際は一人か二人の若く優れたタレントの持味を前面に押し出そうではないか。Pレーヨンが求めているのは表現上の偏《かたよ》りで、平均化ではないはずなのだから。  そう言うと、出席者の中には、また一発屋がはじまったなどと笑い出す者もいる。だが私には自分の社をPレーヨンの宣伝部と較べた際、どれほど非力であるかがよく判っていた。自分たちの非力を認めるのはみじめだが、その上に立ってチャンスを生かそうとする時、一発屋もまた止むを得まいと信じた。  激論になって、途中から出席した社長が二本だての予算を認め、やっとけりがついた。だが十対一の攻撃を浴びた私は無性に腹が立ち、なんとしてもこの一発をモノにして、企画責任者の実力を思い知らせてやらなければ納まらない心理になっていた。  Pレーヨンへの道も自分がつけた。これがうまく行けばいやでも支配力が強まる。一気に重役の椅子へ駆け登るか——。会議で部下たちから受けた圧迫感は、反動的に野心を掻きたてた。  その時ふと私の頭をひとつの名前が横切った。伊丹英一——そうだ、あの男さえいてくれれば。私はそう思うと慌ててデスクに戻り、受話器を手でかこうようにして、彼の所在を訊ねはじめた。  伊丹英一。その名は商業美術に関係する者なら誰でも覚えているだろう。つい三年ほど前まで、青山通りに面したビルに伊丹デザイン工房というオフィスを構え、戦前は京藤財閥と呼ばれた東日グループ三十数社の広告表現を一手に預り、派手な仕事ぶりを見せていたデザイナーである。  洋画家を志していた伊丹と作家志望だった私とは、同じようにアルバイトとして広告業界に首を突っつみ、駆け出しの頃私のコピーと彼のイラストが組んで、何度も一緒に仕事をしたものである。その後私は広告代理店に入り、彼はフリーを続けたあと、突然手品のようにあの大きなデザイン工房のあるじになったのだが、派手な活躍は数年間のことで、やはり突然この社会から姿を消したのだった。その伊丹がいてくれたら——。彼のタッチがPレーヨンの求めているイメージにぴったりなのを思うと、私はいても立ってもいられないもどかしさを感じた。  だが彼の所在は一向に判らない。商売柄デザイナー、カメラマン、コピーライターなどから、モデル、写植屋に至るまで、たいていの電話番号は私の手帳に載っているが、伊丹と関係のあった者を片はしから訊ねても、行方を知っている者は一人もいない。  私がのべつまくなしに電話をしていると、ハウスオーガンの編集を担当している若いのが、伊丹さんなら二、三日前に新宿の伊勢丹で見掛けましたよ、と言った。言葉は交さなかったが、ひどくよれよれの恰好でエスカレーターを降りて行ったのだという。  気がついて新聞の綴じ込みを引っくり返すと、伊勢丹広告の中に、小さく陽美会展の開催が告げられている。私はすぐに陽美会の事務所へ連絡した。陽美会のリーダーは白木|寧郎《やすお》画伯で、伊丹は画学生時代白木画伯に師事していたはずであった。  新宿区西大久保二丁目。伊丹の住所は陽美会が知っていた。  それは歌舞伎町の映画街の裏手に当り、私がそのあたりへ着いたのは、午後の五時半頃だった。駅前の高野の洋酒売場で、彼が最高の酒と讃えていたカティーサークを一瓶買い、九月はじめの暑い西陽の中を歩いて行った。  番地の見当をつけるため、びっしりとアパートの建てこんだ一角を睨《にら》んでいると、濃い化粧をした女たちがひっきりなしに路地から出て来る。新宿の夜の人種のベッドタウンなのだ。巽《たつみ》荘というアパートは、そのまん中の軽四輪も通りかねる狭い路地の奥にあって、やっと探し当てた時の私は、汗びっしょりになっていた。  陽当りの悪そうな部屋のドアに、見覚えのある字で伊丹の名が書かれていた。ノックをするとだいぶ経《た》ってからドアが開き、家人の留守中に客を迎えた高校生のように、不細工な態度で伊丹が立っていた。 「ずいぶん探したぞ」  そう言うと、「うん」とだけ答えた。商業美術雑誌に毎号名をつらね、前衛的な発言をしていた男の面影はなく、貧乏絵描きの昔に帰っている。 「上ってもいいか。話があって来たんだ」  私が押し入るように靴を脱ぎかけると、無感動に、「こっちだ」と言ってさっさと奥の部屋へ消えた。そのあとに続きながら、左手の台所の様子などを見ると、小奇麗にかたづいていて、おもちゃのようなポリバケツの中に、固く絞った雑巾が律義そうに納まっている。女と暮しているのは一目瞭然だった。 「話って何だ」 「引っ張り出しに来たよ」 「グラフィックの仕事なら駄目だぞ。今の俺は油絵《アブラ》しかやらない」 「どういうわけなんだ。何かあったのか」 「あった。だがどうせ判ってもらえないのだから説明はしない。とにかくアブラ一本槍にきめたんだ。誘わないでくれ」 「そんなもったいない。その腕があれば何だって思いのままじゃないか。第一俺はそっちを引っ張り出すことに賭けているんだ。ウンと言うまでは帰らないからそのつもりでいろ」  そう言うと、伊丹は二人の真ん中へ灰皿を置き、長い指でいこいに火をつけ、深々と吸いこんだ煙を吐き出してから、苦《にが》そうな笑いで唇を歪めた。 「次長になったそうだな」  やはりどこかで昔の仲間と繋がっているのだろう。そんなことも知っていた。 「率直に言おう。この仕事は俺の次の段階への足がかりだ。力をかしてくれ」 「社長になる気じゃないだろうな」 「それほどの野心は持っていない」 「今に持つさ」 「俺も所帯を持ったし、子供もできた。少しでも世の中を這い上って人並みの暮らしをさせてやりたい」 「今のままでは人並みじゃないのか。よせよせ、人間行ける所までしか行けやしない。それより自分の持って生まれた分をわきまえて、その中で人生を充実させたほうがいいにきまっている」  そんなことを言い、とにかく断わるの一点ばりで仕事の内容を聞こうともしない。Pレーヨン相手の大仕事だと言って見ても、色気を出す素振りさえないのだ。  私は頑固にねばって、一時間半ほども押問答が続いた。さすがに伊丹は辟易《へきえき》したらしく、私の持ってきた四角い紙包みに目を転じて、 「それはカティーサークじゃないのか。いやそうにきまっている。お前はそんなことに気が利く奴だから」  と話題をそらせた。私はつい調子にのって、 「もちろんカティーサークだが、高い酒をタダで飲ませるわけには行かない。飲みたかったらウンと言え」  と言ってしまった。 「馬鹿にするな」  とたんに伊丹の罵声が飛んだ。「貧乏は好きでしてるんだ。酒が惜しけりゃとっとと帰りやがれ」  そう言って荒々しく煙草をふかす。私は沈黙するよりなかった。 「痩せても枯れても伊丹英一、三流会社の次長などに舐《な》められてたまるか」  形にはまった啖呵《たんか》だが、目を見ると笑っている。私は彼の十八番《おはこ》を忘れていたのだ。使い古したテで主導権を握られてしまった。気がついて、笑っている目と睨み合っていると、どちらからとなく笑声をあげた。     * 「俺が断わる理由を聞きたいか」 「聞きたい」 「これは同時にお前への心づかいでもある。だいたいお前は次長すら荷が勝ちすぎている。この上Pレーヨンでも背負いこんで見ろ、自滅だ」 「そうかな」 「多少馬鹿でも組織の中で強い人間もいれば、その逆のタイプの人間もいるものだ。お前は今組織の中にいるから、その中でしか物が見えないのだ。自分の本質をよく考えて見るがいい。小説を書くことより上の才能がお前のどこにあるんだ」 「作家でモノになれるだけの才能かな」 「作家になれるかどうかは別問題だ。しかし自分の持ち分に賭けるのが一番いいことだろう。自分の取り柄が世間で通用しないんだったら、何をやったって駄目さ。それなのにお前は近頃小説を書かないらしい。どういうつもりなんだ」 「なるほど。それでお前はアブラ一本にきめたのか」 「まあそうだ。だがキッカケがあった。世の中の誰もが気づかないたいへんな秘密を覗いた」 「大げさな言い方をするな」 「これでも内輪に言っているつもりだ。俺は静岡事故の時それを知った」  飲みながら、しだいに廻って来る酔と共に、熱っぽい調子で語りはじめた。  四年前の夏、東海道線静岡駅の近くで大きな事故があった。東京駅十一時十分発の鹿児島行き急行〈あおしま〉が、静岡を出て安倍川の鉄橋を渡ってすぐ、原因不明の脱線転覆をし、四十名近い死者と百数十名の負傷者を出した。  現場は東日油化という会社の静岡工場のまん前で、事故発生時刻は午後一時五十七分ということである。  伊丹はその日現場のすぐ近くにいた。東日油化の会社案内を作るため、カメラマンやモデルなど数人のスタッフを連れて工場撮影に行っていたのだ。空中撮影のためのヘリコプターもチャーターし、事故のあった時刻には場外着地点である近くの浜辺でヘリを待っていたという。正規の飛行場以外の着地はいちいち届け出て許可を得なければならない。工場敷地内では、国鉄の線路に近すぎて認可にならなかったのだ。  大きな衝突音を聞いて、スタッフ一同は工場に駆け戻ったが、伊丹とヘリに乗るカメラマンの一人は、舞い降りるヘリを見上げて動くわけには行かなかった。ヘリが着くと、遊び半分に便乗して来た京藤謙介と姪の折賀令子が降り、列車事故らしいと告げた。するとカメラマンは、一生一度の決定的瞬間だと言って、パイロットをせかせて一人だけで舞い上ってしまった。事故直後からの現場を克明に記録したあの時の報道写真は、こうして伊丹たちの手で作られたのだった。  予定外のカメラマンの行動に、トランシーバーで怒鳴り合っていた伊丹たちが、諦めて浜辺から去ろうとしたのは、したがって事故発生からだいぶ経った頃である。 「その時俺は四次元の空間を見たんだ。いや正確には何次元だか知らないが、とにかく我々の次元のものではないものを見たんだ」  伊丹はそう言うと遠くを眺めるように目を宙に据え、しばらく自分だけの物想いに耽《ふけ》った。 「あれさえ見なかったら、俺はあの京藤財閥の一門につながり、折賀令子と結婚して、生まれついての金持ち連中を相手に這いつくばって暮していただろうな」  その言葉には、抜きさしならぬ実感が籠められている。 「京藤謙介って、あの京藤謙介か」 「そうだ。あの京藤謙介だ」  それはあまりにも有名な財界の青年紳士で、日本には珍しい国際級のプレイボーイだ。 「するとお前が青山の工房をやったのは」 「彼がうしろにいた。何もかもお膳立てしてくれて、俺はそれを食いかけたんだ」 「なんでまたそんな関係になったんだ」 「令子さ。美人で利口で物凄い浪費家さ。あれは京藤一門の余り者で、謙介氏が物好きに後見人を買って出てたんだ。あのビルは謙介旦那の持物だったそうだよ。下手の横好きで絵を書く令子に、謙介氏はデザイナーの看板を買ってやったんだろう。ついでに亭主もな」 「そういうわけだったのか。で、その四次元というのは」 「虚空の男さ。どこか得体の知れないところへ、空いっぱいに膨らんで落ちて行ったんだ。まるで悪夢のワン・カットのようだった」  伊丹が見たものは、空いっぱいにひろがった男の姿だった。左側は海、右側は焼津から御前崎に続く海岸線という彼の視野いっぱいに、頭を海に向けて横たわっていた。額のあたりからは鮮血が流れ出て、衣服や掌を不吉な色に染めていた。はじめ静止しているように見えたが、こちらに向って突き出された両の手は、何かを掴もうとするように指を曲げ、顔は刻々と驚愕の表情を深め、声こそ聞えないが、大きく開かれた口は、最後の悲鳴をあげているとしか見えなかった。青っぽい背広にネクタイを締めた物堅い風体のその男は、上になった左足を奇妙な形で後方へ跳ねあげ、右の靴の爪先きは、遥か西につらなる山なみのあたりへ喰いこんでいる。伊丹と京藤謙介と折賀令子の三人は、西の空を見あげたまま、砂浜に立ちつくしていた。  虚空の男は、高速度撮影のフィルムを見るように、極めてゆっくりと体を動かしながら、次第に頭を下にさげ回転して行った。同時に全体の大きさが収縮をはじめ、ちょうど奈落へ回りながら転落して行くような具合に、伊丹たちから遠のいて行くようだった。が、その虚空の像は急に何とも言いようのない歪み方をしはじめ、やがて宙天の一角に折れ目があったかのように、腰のあたりからガクリと二つに折れ、今度はその折れ目へ吸いこまれて行った。最後は靴と頭がくっついてひとつの点になり、すうっと消えた。——消えたあとには、夏の見るからに健康そうな青い空と、何の変哲もない海辺の風景が、まるで伊丹たちを馬鹿にするように残っていた。  三人はしばらく言葉も出ず、目をしばたたいてお互いの顔を見合わせるのも、だいぶ経ってからという始末だった。 「何でしょう」  と伊丹は言い、京藤謙介も姪の令子の肩をかばうように抱き寄せて、 「あれは何だったろう」  とおぞまし気な表情をするばかりだ。気分がいくらか落ち着きはじめると、三人は言い合わせたように工場のほうを振り返った。すぐその先で起ったらしい惨事と今の不吉な虚空の男が、何の理由もなく結びついた。  駆けつけて見ると、東日油化の塀ぞいに道ひとつへだてて走っている国鉄の線路で、下り列車がこちらへ車軸を見せて横転している。先頭の機関車は線路下へ蛇の鎌首のようにたれさがり、ジグザグに折れた客車の列の二輛目あたりに、赤茶色に塗った上りの電車の先きが乗りあげている。怒号と悲鳴の中を、いち早くとび出した東日油化の従業員の白い作業着が、横転した車輛の上に点々と並び、這い出して来る乗客たちに手をかしていた。  これが静岡事故発生直後に伊丹の見た現場の様子である。やがて静岡市内から救急車やパトカーが雲集し、救援列車も着いて、東日油化のよく手入れされた前庭や、線路下の専用道路などには、血まみれの遭難者が溢れ返り、サイレンの音がひっきりなしに響き渡った。  騒ぎの中で、伊丹たちはあの虚空の男の怪現象を見なかったかと訊ねて廻ったが、誰一人見たと言う者はいず、かえってこの非常事態の中で妙なことを言い歩く伊丹たちを、うさん臭そうに睨みつけるばかりだ。  国鉄の職員たちや、警察、消防団ら本職の手が揃って、救助活動も本格的になりはじめると、伊丹たちは工場へ戻った。まだ昂奮して声高に事故のことを語り合っているスタッフに、伊丹は引揚げを命じた。  自分も帰るつもりでいると、京藤謙介がそれはならんと止めた。あとの仕事の手筈もあり、一刻も早く東京へ戻りたいのだが、京藤謙介は虚空の男のことが納得ゆくまで、この土地は離れられないと言う。  すべてを握っている権力者の言うことだけに、伊丹も強くは抗せず、自分もその件には好奇心がうずいているところだから、言いなりにスタッフと別れ、東日油化の首脳が馴染みにしている市内の料亭へ入った。  調べると言っても、おいそれと他の目撃者が見つかりそうもなく、伊丹は京藤謙介の顔色ばかり窺っていた。 「と言うのは——」  伊丹は空になったグラスにカティーサークを注ぎながら、そう言って唇を舐めた。「謙介旦那とじっくりつき合うのは、その時が最初だったからだ。ある仕事で識り合ってから急に親しくなった令子が、俺にオフィスを持って見ないかとすすめた頃は、謙介のケの字も俺は知らなかった。名義も何も、会社はすべて令子のもので、看板だけが俺の名前。——まあ言って見れば傭われマスターのような身分なんだ。それでもいい仕事ができそうだから、俺は喜んであの会社に精を出した。そのうちだんだん仕掛けが判ってくる。要は両親のない、京藤一族の余り者みたいな令子が、好きなデザインの途でしかるべく活動できればいい。その背後で全面的に面倒を見ているのが京藤謙介という大金持の叔父貴——と、こういうことになっているんだ。それまでにも三、四度は顔を合わせたが、ヘンに忙しい男でものの三十分と話したことはなかった」 「その令子っていう女とはどうだったんだ」  私が訊ねると、伊丹は何のてらいもなく、 「早くにできてた。美人だし、俺を買いかぶり過ぎるぐらいに扱ってたから、そうならないほうがおかしい。——しかし妙なもんだ。当節色の生っ白いのは貧乏人で、本物の金持ちはこんがりと陽焼けしてやがる。令子は冬でも小麦色に焼けた肌をしていて、それがお前、水着の跡もないんだ。利巧だが物識りと言うんじゃなく、キャッチボールのように、こっちが投げかける話題を面白おかしく投げ返す術にたけていた。勝気で少々乱暴なぐらいの身のこなし、美人でグラマーで、セックスも男のような愉しみ方をする奴だった。俺はそんな令子を所有したことに有頂天になり、仕事も派手にやれて仲間からも一目置かれるようだったから、この生活を失ってはと、令子の背後にいる謙介旦那には、卑屈なほど気を使った」  伊丹の思い出ばなしに、私も当時を思い浮べ、彼の羽振りをさんざん羨ましがっただけに、その立場がよく判るような気がした。  その日、八月九日の夕刊は、各紙とも第一面に静岡事故を報じ、社会面も血の香が匂いたつような烈しい字句で埋まっていた。しかし、あの虚空の男に関しては何もなかった。  床の間を背に、ありったけの新聞を取り寄せて調べていた謙介氏が、急におお、と声をあげた。伊丹が機嫌をとるように、 「ありましたか」  と言うと、謙介氏はあったあったと喜色満面で新聞を大きく拡げた。  地元のS新報という新聞で、事故発生時刻に怪現象——と小さく扱っていた。記事に依ると、S新報の望月という記者が、事故現場から約六キロ北のK村附近をバイクで走行中、やはり西の空に怪我をした男の姿を目撃したが数瞬で消滅したとあり、他にも二、三同種の報告が入っているということだった。記事の結びは、原因について目下究明中となっている。  謙介氏は部屋の電話で帳場を呼び出しS新報に連絡させた。  帳場が京藤の名を出したのだろう。十五分もしないうちに、ドタドタとS新報の望月という男がやって来て、自分の見たことや、他の目撃者の話を聞かせた。連絡して来たのは全部で六人いて、どれもほぼ似たような具合だったが、虚空の男の滞空時間については、かなり差異があった。  望月の場合は、頭を海側にしたまま動かずに大きいまま消えたと言い、見た時はすでに回転をしていたと言う者や、背後から頭上を通りすぎて西へ向ったようだったと述べる者もあった。 「他の社へ連絡して取りあげられないままのもあるでしょうし、連絡しなかった者もたくさんいるでしょう。明日になればもっと探し出しますが」  望月はそう言った。 「それからふた晩、俺たちは静岡市内に居残ってしまった。納期の迫った仕事を幾つも抱えてこっちはじりじりしているのに、謙介旦那も令子も虚空の男に夢中なんだ。——だいたいああいう連中が忙しがっているのは、本当は上っ面だけなんだな。自分の都合で予定なんかいつ抛《ほう》り出してもいい。三日目に帰る時だって、俺のために引きあげるみたいなことを言うんだ。目撃者のほうはというと、まるで増えない。望月は必死になって動き廻るが、てんで見つからないんだ。それで奴さんすっかり恐縮しちまったんだが、旦那は別れぎわご苦労代に相当なものを渡して、続けて調べてくれと頼んだらしかった」 「血を流してたと言ったな」 「うん。怪我をしてたらしい」 「事故と関係があるな」 「俺たちもそれには確信があった。しかし証拠も何もありはしない。第一それが誰なのかも判らなかった。——そのことがあってから、謙介旦那はちょくちょく青山へ顔を出すようになった。デザインの仕事にも興味が出たらしく、スタジオを覗いたりしていた。俺もだんだん親しくなって、この分なら俺の人生もまんざらじゃないなどと思ったもんだ。するとある日、珍しく昂奮した謙介旦那がとびこんで来て、俺と令子の前へ一枚の地図を拡げたんだ。あのあたりの五万分の一で、赤い点が書きこんであったよ」  赤い点は六人、望月と伊丹たちを入れて合計八つの目撃地点だった。一番海に近いのが伊丹たちの場所で、一番山側はGと呼ばれる山の上だった。その二点を結ぶと、事故現場を含めてすべての点がほぼ一直線上に並ぶ。 「どうだ。この意味が判るか」  謙介氏は得意気に言った。「あれを見ることができた地点は、この線の上だけなんだ。望月君がバイクで走行中だったということから考えて、おそらく幅百メートルそこそこの帯状をしていたに違いない。そこを走り抜けたから、彼はあの現象のはじめの部分しか見れなかったわけだ。頭上を通り越してという目撃例は、この百メートルの帯のギリギリ東側にいたに違いない。僕らはちょうどそのまん中あたりかな」  伊丹は謙介氏の推理に感心しながら、その地図を丹念に調べた。 「事故のあった地点が、少しはずれてやしませんか。この地図だと少し先きの畑の中を通ることになりますよ」 「そうかな。違うだろう」謙介氏が心外そうな表情になったので、伊丹は慌ててその場をとりつくろった。  それから数日後、望月から報告を受けた謙介氏は、青山へやって来るといきなり伊丹と令子に静岡へ同行を命じた。 「そうホイホイとは行けないよ。何しろ仕事は山ほどあるんだ。今度ばかりは俺も強く断った。だが断ると謙介旦那は鼻のさきで笑って、そんな仕事はあとでいくらでもやるから心配しないで踉《つ》いて来いと言う。癪だったね俺は。仕事なんてものはそういうもんじゃないよ」 「でも結局行ったんだろう」 「使用人さ、所詮は」  伊丹は自嘲して言う。当時の口惜しさ、物事の価値に対する判断のズレが、彼には相当こたえていたのだろう。酒の酔いだけでなく、その頃の自分への蔑《さげす》みが顔に出ていた。  目撃地点として地図にも書きこまれたGという山の中から、警察の自転車が出たと言うのである。届出人は当日虚空の男を見たと新聞社へ連絡した農家の主婦で、あれを見た直後に白く塗った警官の自転車を発見したが、そのままにして置いたのだという。十日近く経って再びそこへ行くとまだ転がっているので、近くの駐在所へ届けたらしい。地元の警察では大して興味を持っていないが、望月はこのニュースを重要視した。  と言うのは、東日油化の近くを通っている海沿いの国道に、その辺一帯を受持つ駐在所があり、安田という若い巡査と、老練な須崎巡査という二人の警官が事故当時勤務していた。  二人は事故直後現場に一番乗りをした警官で、東日油化の事務所に寄るところだったから、ほとんど事故発生を目撃したに等しい。望月が重要視したのは、問題の自転車がその時須崎巡査の使用していた物に間違いないという点である。登録ナンバーがそれを証明するし、安田巡査の言葉で、あの時須崎がそれを盗まれたのがはっきりしている。  多少面白くないのを堪《こら》えて静岡へ来た伊丹も、遥か彼方の山中へ、自転車が一瞬の内に移動したとなると、さすがに色をなした。Gという山の中で農家の主婦が自転車を見つけたのが、虚空の男消滅直後だとすると、どうしてもそういうことになるのだ。十キロや十五キロではきかない距離だ。 「ところがその須崎巡査がおかしいんです」  望月は全面的にお手あげの様子である。 「どうおかしい」  静岡駅前の喫茶店で、謙介氏は活きいきした表情で訊ねた。 「須崎さんは入院してるんですよ。それに、家の者は隠してますが、どうやらここが」  そう言って望月は自分の頭を指さした。 「会えるかな」 「ええ。院長の正木先生とは親しいですから。登呂遺跡へ行く途中の正木外科です」 「外科で頭がおかしい患者を扱うのか」 「いいえ、その巡査は事故の時右手を怪我しましてね。指を二、三本切断したそうです」 「どこまで行っても妙な話だ」  私は新しい煙草に火を点けて言った。 「そうさ、普通の出来事じゃない。正木という医者に会うと、初めは右手の指が壊疽《えそ》症状を呈したので切断したと言っていたが、突っ込んで聞くと、何と凍瘡《とうそう》だったと言うじゃないか。時候はちょうど夏の盛りだぜ」 「どうなってるんだ」  私は呆れてそう言った。奇妙な思い出ばなしにいつの間にか引きこまれ、仕事も野心も忘れ果てている。 「須崎巡査の病室を覗くと、右手に包帯をまいた中年男が、廃人のようにうつろな眼でベッドに坐っているんだ。何を言っても判らないらしい。結局何ひとつ聞き出すことはできなかった」 「自転車が盗まれたと言った、その若いほうの警官に聞けばいい」 「そうだ。むろん俺たちはその足で安田巡査のところへ廻ったよ」  二人の警官は、事故が起るとすぐ線路下へ自転車を投げ出して小高い土手を駆け登った。さすがに警官だけあって、最初に這い出して来た人々の中から、一番怪我の酷《ひど》そうなのをつかまえて土手をかつぎおろした。  その何番目かの男が、下へつくやいなや須崎巡査を突きとばして、傍に転がっている自転車をたて直すと、信じられない勢いで次の駅の方に向って走り出した。その不審な行動に驚いた須崎巡査は、慌ててそのあとから駆け出したのだった。安田巡査のほうはちょうど負傷者をかつぎ降ろすところで、それを唖然《あぜん》と眺めていたという。  現場に人手が増え、やっとひと息ついた安田巡査が、あれっきり先輩の姿が見えないのに気づいて、追いかけた方角へ行って見ると、ずっと先きの畑の中の道の中央に、須崎巡査が這いつくばっていた。——その時の恰好を、安田巡査はまるで崖を這い登る時のようだったと表現した。須崎巡査は長い間その畑の中の道で大地にへばりついていたらしい。 「私がだき起すと、夜が見える夜が見えると言って——須崎さん、すっかり変になってました。右の指ですか、いいえ、その時は気づきませんでした」  若い警官は、そう言うと気の毒そうな顔で伊丹たちから目をそらせた。 「静岡行きの収穫はそれだけだった。事態はますますこんがらがって、見当も何もつきはしない。日が経つにつれて、あんなことはどうでもよくなり、そのために遅れた仕事のしわ寄せで、俺はてんてこ舞いをさせられた。——ところが、事故があってから三週間目だったかな。今度は令子の奴が週刊誌を見て悲鳴をあげやがった」 「どうして」 「虚空の男の顔写真が出てた。間に合った不運、間に合わなかった幸運というタイトルの特集記事の中に、虚空の男の顔が名前入りで出ていたんだ」 「間違いなくその男か」 「見違えるものか。あの顔は一生涯忘れられるもんじゃない」  伊丹は断固として言い切った。「小池清次郎と言って、町野製作所という鉄工場の経理課長だった。事故当日の朝、警察に殺人容疑をかけられて追われたんだ。——と言っても当人はそれを承知してたかどうかはっきりせず、ただ相当疑わしい動きをしたために、刑事が熱くなって追いかけたんだな。結局犯人は別にいて問題は解決したんだが、その小池があの日の急行〈あおしま〉に乗るというんで、刑事たちがそれに追いつこうとして乗りそこなったんだ。下手をすれば静岡あたりまで突っ走って惨事にまきこまれたかも知れない。——とまあ、週刊誌の記事はだいぶオーバーに刑事の乗りそこねた幸運を書きたて、逃げるようにして飛び乗った小池という男の不運を強調しているんだ」 「すると小池というのは死んだのか」 「いや、行方不明。完全な蒸発なんだよ」  小池清次郎は中目黒にある町野製作所の経理課長で、別にどうと取り立てて言うことのない堅い男だった。会社自体は街工場としてはかなり大きいほうで、小池は社長の遠縁に当る娘と結婚し、子供は二人、赤羽の団地に住んでいた。同族会社だから本人の能力がどうということはあまりなく、地味にさえやっていれば、将来の不安などありようもない。——のだが、その年の梅雨どき頃から、どうも怪しい雲行きになっていた。小池の預《あずか》る経理に疑いが持たれたのだ。  町野社長は専務である長男と極秘のうちに帳簿を調べ、小池のところで二千万以上の金が消えているのを知った。そのダメ押し監査のため、口実を設けて小池に九州出張を命じた。出張は八月九日の予定で、二日前の七日には専務がそれを言い渡している。——ところが、八日の午後になって、それが小池の上司である総務部長の佐々木の仕業《しわざ》ということが急に判った。筆跡印鑑その他、巧妙に小池が疑われるように仕組んであったのだ。そうなれば小池出張はもちろん取消され、八日午後から夜を徹して、彼を入れた社長、専務の三人が、目黒区向原の町野邸で佐々木の背任事実を洗いあげた。  明け方その作業が終ると、小池は一番電車でいったん赤羽へ帰って行ったが、その直後町野邸の近くで佐々木の刺殺死体が発見され、大騒ぎになった。小池らしい男に、殺された佐々木がからんでいたのを目撃した者が現われ、当局は小池を訊問しようとしたが、小池はすでにその時旅仕度をして出掛けていた。彼の妻は七日に言い渡された出張命令通りだと思っていたらしい。  警察側の立ち遅れで、それが判ったのは十時半すぎ。小池が急行〈あおしま〉に乗る気らしいと判って駆けつけた時は、問題の列車は出たあとだった。  佐々木は使いこみの原因となった愛人の田村久子が経営する、五反田のバー『ボア』のバーテンに刺殺されたことが判ったのは、それから一時間半ほどあとのことだった。佐々木は町野邸で小池たちが何かはじめたのを知り、気になって夜中の二時頃からそのあたりをうろついていたのだ。田村久子と犯人のバーテンは以前から関係があり、前夜二時までボアで飲んでいた佐々木を、そのバーテンは尾行していたのだ。殺意ははじめからあったらしく、町野邸から出て来た小池に、様子を教えろと泣きついた佐々木が冷たく突き放されるのを見て、うすうす事情を知っていたバーテンは、小池に疑いを転嫁させるチャンスと思ったらしい。  しかし奇妙なのは小池清次郎の行動である。細君は、自分は見なかったが、朝の間中ずっとテレビをつけていたから、佐々木殺害のニュースを知らぬはずはないと言う。一方会社側は、融資問題で銀行と緊急な折衝があり、佐々木のかわりに小池がそれに参加するよう命じてあったから、九日という日は大切な日で、彼が無断欠勤するはずはないと言う。しかも、徹夜の帳簿調べの合い間に、社長は直接総務部長昇格を言い渡している。いわば初仕事だった。  それにしてなお、小池は取消命令の出た九州出張を予定通り行なって急行〈あおしま〉に乗ろうとした。さらにその朝、細君は実家である本所の鉄材商から、長年の夢だったマイホーム建設のための土地を借りられることになった吉報を伝えている。その夜か遅くもあくる晩には、その件で本所へ出向くべきなのだ。 「調べて見ると、そんな我儘勝手をする男じゃない。しごくおとなしい人物で通っていて、愛妻家で子煩悩。道楽と言えば〈つれづれ〉という俳句雑誌の熱心な同人だったことくらい」 「またずいぶん詳しく調べたもんだな」 「事件を担当した刑事にあたったり、町野製作所の社長父子に会ったり、赤羽の団地で小池の細君に聞いたり、金と暇を持てあましているような謙介旦那のことだ、調べられるだけ調べあげたよ。——ただ、そのたびに連れて歩かれるのには参った。俺はデザイナーで興信所の調査員じゃない。何度もそう言ってやろうかと思った。そして、だんだん令子や俺に対する謙介旦那の気持が判ってきた。令子は旦那のペットで、俺は令子のアクセサリーなんだな。金儲けが目的なら、商業美術なんか屁みたいなもんさ。だから仕事なんかどうでもいい。ところがそのちっぽけな金儲けや、大したこともない制作意欲、名誉、美、それに求道心——そういったことに賭ける男もいるんだ。金を渡せば済む、仕事をくれるからいい。そんなもんじゃないさ。俺の心に、あの二人を嫌うものがだんだん育って行った」  瓶の中身は半分以下に減っていた。酔って声を大きくする伊丹の瞳には、何の実質的な支えもなく、夢だけで世の中に掴みかかっていた頃の一途な光りがあった。そのナマな光りをふと青臭い、いやらしいと思う心がかすめ、次の瞬間私は慚《は》じた。——この怒り、この誇り、この光り。伊丹と同じく私も曾《かつ》ては持ち合わせていたそれらのものを、生きて行く世の塵《ちり》に棄て、いやその塵にこそなろうと己《おのれ》をへし曲げて、愚にもつかない出世欲からこうして伊丹の前に坐っている。  そんな風に思ったのは、私も酒に酔っていたからだろうか。  虚空の男に対する京藤謙介の執着は、そのあたりから次第に消えていった。金に飽かせて一気に調べるだけ調べると、掘り起される新事実もなく、やがて謙介氏は欧州で行なわれる造船工業会議のために羽田を発った。  その出がけの一夜、伊丹は令子と結婚するよう奨められた。二人がとうに他人でないことは知れていたから、いつまでもそんな関係を続けるのは許せない。正式に結婚しろという言い方でピシリとやられた。きつい目で高圧的に言ったあと、謙介氏は柔和に笑って見せ、今は表現技術だけをやらせているが、そうなれば東日グループをA・E扱いにする総合広告代理店にしようと言った。その場には令子もいて、何やら贅沢な甘い香が漂って来るようだったという。  謙介氏がヨーロッパへ発って一カ月あまり経ったある日、不意にS新報の望月から電話があり、いま東京駅に着いたところだと言う。謙介氏は海外旅行に発って三カ月くらい帰って来ないと告げると、ひどく落胆した様子で、それでは伊丹と令子に須崎巡査の話を聞いてもらえまいかと頼んだ。須崎はどうやら正気に戻ったが、それでも東京の精神科医に診てもらう必要があり、上京したらしい。  待っていると、望月と細君らしい貧相な女につきそわれた須崎巡査が現われた。  あの時、須崎は何人目かの怪我人を土手下へかつぎ降そうとしていた。土手の途中で、その顔中血まみれの男は、病院へ運ばれるのですかと、かなり丁寧に聞いた。須崎がそうだと答えると、どこの病院か判りますかと重ねて問う。ここなら静岡市内の病院で手当をしてもらえるから安心しろと言うと、ああそうですかとおとなしく肩につかまっていたが、下へおろすや否や、いきなり自転車に飛びついて、ふらつきながらも走り出そうとする。追いかけると、戻るのは嫌だと叫びながらどんどん逃げ、あの畑の道へ出た。須崎の手がもう少しで荷台にかかりそうになった時、突然目の前にポッカリ夜空が口をあけた。 「夜の空としか言いようがありません。星が無数に輝いていて、どこまでもどこまでも拡がっていたのです。その男は自転車ごとその夜の穴へつんのめって、私のほうに両手をさしのべるようにくるりと一回転すると、気味の悪い叫び声をあげて落ちて行きました。私は咄嗟《とつさ》に柔道の要領で転がり、その何とも底の知れぬ穴をのぞきこみました。自分でそうしようと思ったのではなく、転がった拍子にそんな恰好になってしまったんです。恐ろしかったのはそのあとで、夜の穴も自転車もその男も、掻き消すように無くなり、穴がすうっと閉じたあたりに私の右手のさきがうすぼんやりと見えていたのです。それからあと、私は狂ってしまったのでしょう。何も知りません」  須崎はそう言い、伊丹が小池の写真を見せると、ギョッとしたように身を引き、薄気味悪そうにそれと伊丹の顔を見較べていた。望月は須崎の件に深入りして引っこみがつかなくなっているのだろう。退職後の彼を、倉庫番にでもよいから使ってくれるよう頼んでくれと念を押して帰った。  伊丹は考えた。これで小池清次郎が虚空の男になったことは完全にはっきりした。しかしなぜ虚空の男になったのかは依然判ってない。だがそれまでの詳しい調査で、八月九日の小池にどこへも旅行できないような事情が積み重なったのが判っている。  横領問題の後始末と融資問題の処理は、彼を会社に縛りつけようとした。おまけに部長就任という餌までついている。  佐々木殺人事件は、彼を参考人として都内から出られぬようにしている。テレビのニュースで知っていたはずだから、会社へ駆けつけるなり警察に出頭するなりするのが当然なのにそれをせず、そのため一時は犯人と目されて刑事に追われた。  念願の土地を細君の実家が貸すのを承知したのは、家族のためにも旅行など出来ない状態を作っている。——その他にも、毎月十日は同人誌〈つれづれ〉の月例会で、十年間連続出席の記録保持者である小池に幹事の番が廻っていたことなどもあって、彼は八月の九日十日という日にはまったく旅行のスケジュールがたてられなくなっていたのだ。それなのに、まるで予定したように急行〈あおしま〉に乗っている。東京から西に親類はなく、急用のできた心当りも関係者にはまったくない。しまいには彼はあの惨事にぶつかり、それでもなお西に向って自転車で走り、畑の中でとうとう虚空に転落した。この小池の無茶苦茶な逸脱ぶりは何だろうか。憑《つ》かれたように九州めざして突っ走ろうとしている。しかも急行〈あおしま〉の切符は出張を言われた七日にすぐ手配して、大切に持ち歩いていたという。——伊丹は小池のその行動に、何か常識を超えた情熱のようなものを感じた。  それっきり何も起らず何もなく、事件から一年近くたった。伊丹デザイン工房は大いに栄え、彼自身の名も売れに売れた。それ以上に、伊丹デザイン工房のイラストレーター折賀令子の名も、マスコミに喧伝《けんでん》されていった。前衛的な演劇集団の舞台装置を引き受け、詩集に挿絵を書き、婦人雑誌の座談会に出席し、おしゃれに関する随筆をものし、女性週刊誌の服飾コンサルタントになった。——ベスト・ドレッサー折賀令子。現代を生きる女折賀令子。など、など、など。  すべては令子が華やかに愉しく人眼を魅くための道具だてに過ぎないのだ。今売れている自分の名も、東日グループ三十数社の大きな舞台を割引いたら、泡のようなものしか残らないのではなかろうか。これが現代の仕組なのだろうか。努力と精進より、力と力の間にうまくはさまって、それを利用することのほうが遥かに早い結果を生む。その結果は、どうも実りではなさそうだ。令子とこのまま結婚して、そんな中で自分を踊らせて行く才能があるだろうか。  令子はかろやかにマスコミの中で踊り続け、それをみつめる伊丹に深い迷いを与えた。迷いは反省に変り、酔い醒めに似た虚しさが、伊丹を元の伊丹に引き戻した。 「そんな時、偶然志津子に逢った。令子を知ってから、ふりほどくようにして俺が背を向けた女だ。ふたつ年下の幼馴染で、銀座のホステスをしていた。貧乏ぐらしの間中、時にはうんざりするほど俺に尽してくれたんだが——這いあがることだけしか考えなかった俺は」  伊丹はすっかり酔っていたが、その言葉だけはしんみりと醒めた調子だった。絶句して、残りの酒を喉にほうりこむ。 「それがこの家《や》の——」 「うん。——ちょっと因縁めくが、志津子の奴が虚空の男の結末をつけやがった」  志津子は銀座のバーに勤めていて、令子の世界を逃げ出した伊丹と縒《よ》りが戻った。絵を描くあなたが好き、広告をやるあなたは別な人、とはっきり言い、大切に飾ってある自分の肖像画の前に伊丹を坐らせた。 「私に絵のよし悪しは判りません。でも今のあなたにこれだけの絵が描けますか」  と母親のように叱る眼で言った。仕事のない貧乏ぐらしを忘れようと、一心にかいたその絵を見て伊丹は我が眼を疑った。俺にこんないい絵が描けたのか、今はとてもこれほどは描けないだろうと、正直昔の自分に頭をさげた。 「昔のように勉強して、それで出世して下さい。それまで私がつなぎます。駄目でもともと、そのほうがずっと私は倖せです」  言葉を改めて言う志津子の前に、伊丹は両手を突いて詫《わ》びた。  西大久保二丁目へ移って、志津子も勤めを新宿に変えた。ある夜ふと虚空の男の話をすると、むっくり夜具の上へ起き直って、その人知ってる。たぶんその人だろうと言った。  銀座の店の常連に、高条鋭という男がいた。人を悪くからかうのが好きで、いつもあとから腹の立って来るような、遠まわしな冗談を言って喜んでいた。  それがクラス会の流れだとか言って五、六人を連れて来たことがあるが、小池らしい人物はどうもその一人だったように思う。と言い、古い名刺の束を出して、やっぱりそうだったわと頓狂な声で言った。 「その人、生まれてから一度も旅行をしたことがないんですって。それでみんなの肴《さかな》になっていたのよ。そうそう、そうしたら高条さんがこう言ったわ。——そう小池をいじめるもんじゃない。人間誰しも持って生まれた分というものがある。一生の内どれだけ出世し、どれだけ遠くまで行けるか、生まれた時からちゃんときめられているんだ。ヨーロッパはおろか、南極まで行く人間もいれば、川崎の手前までしか行けない奴だって大勢いる。どっちかって言えば、小池は東京の中だけで一生を過すように生まれついているんだから、人の生まれつきを笑うのは本人にはどうしようもないことで、笑うほうがいけない。——高条さんて、そんな言い方をするのよ。聞き流して少したってから、小池さんはムッとしたように、それじゃ俺は生まれつきが悪いのかって。そのタイミングがおかしいって、みんなはまた大笑い。でもその人が旅行したことないって、本当らしかったわ。東京生まれの東京育ちで、市川と横浜の間しか行ったことないんですって。もう四十近いかしら。珍しいから私も忘れなかったのね」  伊丹はその間中、凝然と天井を睨んでいた。行ける範囲は初めからきまっている。——その言葉を繰り返し心の中で呟きながら。 「それ、いつのことだったか判らないか」  そう言うと、几帳面な彼女は、小池の名刺を引っくり返した。 「あら、去年の八月六日だわ——」     *  結局伊丹は引っ張り出せなかった。  しかしPレーヨンの仕事は、私の案ともうひとつの案の折衷のかたちでまとまり、首尾よく採用となった。社の扱い高は一挙に膨《ふく》れあがり、社員も増え、事務所も拡張され、Pレーヨンの近くのビルに分室を設けて、社運は隆盛の一途を辿った。  しかし、先方の前田常務がもっと上の職に就いて、宣伝部の人事に大異動があってから、私の社内にPレーヨン取扱いをめぐって権力争いが起り、社長派と専務派の二つに割れた。中間にあって、Pレーヨン導入を果した私はさんざん振りまわされたあげく、最後にはまんまと浮いた存在にされ、企画開発室長という、妙な閑職の立場に追いやられ、やがて比較的親しかった専務が権力争いから脱落すると、もうどうにも居づらい空気に置かれた。  そして結局辞めた。  失業を妻に告げるのは辛かった。妻の親類から、またとない仕事の上での援助を受けただけに、それを無にしたようで、自責の念が強かった。ところが、 「気にしないわ。それよりいつ辞めるのかと思ってたのよ。だいたいあんたなんかにサラリーマンの、それも次長さんなんて勤まるはずないと思ってたもの」  とケロリとしている。妻が私をそんな風に見ていたのが意外で、「ふーん」と言ったきり、その話は打切りになった。  静養のつもりでしばらく家にゴロゴロしていると、二週間ほどして伊丹から電話があった。 「おい、借家ずまいだったな。庭、あるか」 「あるが猫の額だ」  よし、と言って電話は切れ、夕方になると訪ねて来た。志津子さんも一緒で、何やら二人とも包みをかかえている。 「何を持って来たんだい」 「レンガさ」  伊丹は十個ほどの煉瓦を狭い庭に四角く積み、台所へ入った志津子さんは、豚のモツを串に刺した。持って来た堅炭をカンカンおこし、私と伊丹は縁側でモツ焼を肴に飲みはじめた。タレも七味唐辛子も、屋台の味そっくりで、酒も水っぽい安物だった。  初対面で意気投合したらしい女たちは、座敷で勝手にやっている。  酔って来ると、伊丹はしきりによかった、よかったを連発し、私がサラリーマンを辞めたことを祝福する。 「下手すりゃ分にない道で虚空の男になるところだった」  と冗談を言い、「だがあそこまで突進した小池清次郎の意地は買ってやろう」  と私の肩を叩いた。妻でさえ見抜いていた私の分に私自身が気付かなかったのが気恥かしく、そうだそうだと騒いでいるうちに、売れぬながらも小説に意欲を燃やしていた昔を思い出し、ふっと屋台で安酒のオダをあげていた頃の気分になった。  ——この趣向は。と私はそこで気づいた。重い煉瓦と豚のモツと安酒と。わざわざそれを運んで来た伊丹の、とんでもなく深い友情に、私の頬を泪《なみだ》が幾筋も滑り落ちた。 「レロレロレロ、バア。あんたのパパは泣き上戸。ほら、あんたのパパは泣き上戸」  座敷から、赤ん坊をあやす妻の声がして、そのたびに乳児特有の息を引くような笑い声が聞えた。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年一月二十五日刊