[#表紙(表紙.jpg)] 人面町四丁目 北野勇作 目 次  その一 鱗を剥ぐ  その二 耳を買う  その三 首を振る  その四 皮を反す  その五 舌を出す  その六 肝を冷す  その七 頭を洗う  その八 鋏を使う  その九 腕を試す  その十 虹を探す [#改ページ]   その一 鱗を剥ぐ  今でこそ緑台などというどこにでもあるような地名になっているのだが、ふた昔ほど前までこのあたりは、人面町と呼ばれていたらしい。そういえば近所にある古くて長いあの商店街の名は、人面銀座である。年寄り連中は今でも人面町と呼んでいるようだし、その住所でもきちんと郵便が届く。そもそも、ときおり妻に届く郵便物に記されているその住所に疑問を持ったことから、私はそのことを知ったのだった。  郵便物に書かれたその住所によると、どうやら私の棲《す》んでいるこの場所は、人面町の四丁目にあたるらしい。  妻の話では、このあたりにはかつて人面の工場がたくさんあって、毎日たくさんの人面が作られ出荷されていたのだという。それで人面町。  ようするに瀬戸物町とか鍵屋《かぎや》町とか、そんなふうなものか。  なんでも、妻の実家もけっこう大きな人面工場だったのだが、戦後すぐ占領軍によって閉鎖されてそのままになっているそうな。  なるほど、ここから歩いて十分ほどのところにある妻の実家の隣には工場がそっくりそのまま残されている。 「と言っても、土地はうちのものじゃないから財産にならないし、工場のなかのいろんなものを処分するのにだいぶお金がかかるだろうから、建物だけ持っててもややこしいだけなのよ」とその前を通るたびに妻はぼやく。  町のいたるところにある人面の工場はすべてそんなふうに閉鎖されて、つまり工場跡になってしまっている。今はもう小さな工房で細々と受注生産が行われている程度らしい。もう人面を大量生産するような時代ではないのだろう。時代とともに世間から忘れられ、取り残されてしまった町なのだ。  とまあ、この町のことをもし誰かに尋ねられた場合、そんな風に説明することくらいは私にだってできるのである。  だが、本当のところを言えば、それがいったいどういうものなのか、私はよく知らない。  この町でかつて大量に作られ出荷されていたその人面というやつ。  だいたい、この町に来るまでそんなもののことを聞いたことはなかった。  妻が言うように、本当に全国に大量に出荷していたのだろうか。それなら、その名前くらいは聞いたことがあるはずである。  話が少しばかり大きくなっているのではないか。  そんな気がする。  その人面というのがいかなるものなのかというのは、妻の父親に何度か説明してもらったことがある。  仕事のことを話すとき、義父はなんともいえない嬉《うれ》しそうな顔をする。普段は無口であるその反動ではないかと思われるほどそのときだけは早口で、その内容は深く細かくひたすらどこまでも入っていく。おまけに聞いたことのない専門用語らしきものがなんの説明もなく次々に出てきて、初めはその度に質問していたのだが、そんなふうに話の腰を折られるのはどうも不愉快らしく、説明を手っ取り早くすませてもとの自分が話したいところに戻りたいようで、さらに早口でしかも端折《はしよ》った説明になるからよけいわからなくなるが、もうそれはわかったものとして本筋に戻り、しかもそこまではわかっているという前提でさらに深いところに入っていってしまう。  結果として、何度聞いてもなにやらよくわからず、同じ質問を何度も繰り返すのも失礼かと思ってそのままにしているからますますわけがわからず、それで今もわからないままということになっている。  あとで妻に尋ねたこともあるのだが、もういいじゃない、とか、そういうのってなかなか口で説明しにくいのよ、とか、それでも尋ねようとすると、しつこいなあ、もう、などと面倒くさそうに言い、しまいには怒りだす。どうやらその口調からして、妻は父親のしているその仕事のことをあまり快く思っていないようなのだ。  そんなわけであいかわらずわからないままなのだが、とにかく人面というくらいだから、お面のようなものなのだろう。このあたりのお祭りとか伝統行事にでも使われるものなのではないか。妻は自分の生まれ育った場所のそんな古くさい部分を鬱陶《うつとう》しく感じているのかもしれない。  勝手にそう納得した。  そのうちわかってくることだろう。 「そうよ、そのうちに嫌でもわかってくることなんだから」  妻もそんなふうに言う。  まあそれならそれでいいか、と思う。  いつからだろう、そういう考え方にすっかり慣れてしまった。いや、まあ前からそうだったか。  どうもそういうところは私は他人よりいいかげんにできているようなのだ。父親がそんなことをあまり気にしない性格だった、ということもあるのだろうな。それにどうせ曖昧《あいまい》でいいかげんなことばかりの世の中なのだ。いちいち立ち止まっていては前に進まない進めない。  まあ進むのがいいということでもないのだろうが、それでも、止まっているよりはいいだろう。  すくなくとも景色は変わる。  そもそもよけいなことをあれこれ詮索《せんさく》するより、妻とこうしていられるということのほうが私にとってはずっと大切だ。それはこの世界においてはっきりしている数少ないことのひとつなのだから。  だから、うやむやなままでもとくに問題ないようなことはそのままにしておく。嫌でもそのうちわかってくることなら、それでなんの差し支えもないではないか。  うやむやで曖昧なままやっていけるのなら、それに越したことはないのだ。他の者は知らないが、私は昔からそんなずるずるした性格だった。それを直さなければいけないと思ったこともないから、きっとそういうふうにできているのだろうな。  しかしそんな私でも、さていよいよ結婚するということになって、そうなるとさすがに妻の両親の家にいつまでも居候を続けているというわけにもいかず、とりあえず住む場所だけでも探さないといけないのだろうなあと思っていたところにさっそく妻が見つけてきたのがこの家なのだ。  木造平屋の一戸建て。六畳と四畳半と台所、それに小さいながら庭と縁側がついている。  押入れは大きく、縁側の端にも大きな納戸があるから収納にも困らない。風呂《ふろ》はないのだが、幸い近所には遅くまでやっているなかなかいい感じの銭湯がいくつかある。  まわりは静かで、坂の途中だからけっこう見晴らしもいい。なによりもすぐ近くを大きな川が流れている。  私は大きな川の側が好きなのだ。  いかにも暮らしよさそうだし、風呂がついてないせいか、同じくらいの広さのマンションなどよりかなり安かった。中を見せてもらって、すぐに決めた。  家主は近所の商店街にある石亀堂という古道具屋の老夫婦で、彼らは妻のことをよく知っていて、お嬢さん、などと呼ぶ。なんでも昔、ふたりとも妻の両親が経営していた人面工場で働いていたのだという。  まああれですな、私ら、流れ作業のベルトを挟んで、あっちとこっちで働いておったわけでして、いやもうお互いにこれっぽっちも話をしたことはなかったんですが、でも顔だけはよく知っているというようなちょっと妙な間柄でしてな、そうそう、それがある日のこと、私が弁当を忘れまして——、と家賃を手渡しにいくたびに、夫婦の馴《な》れ初め話が延々と続く。  片方が喋《しやべ》っている途中で、もう片方がその間違いを指摘する。あれはそうじゃなかったでしょう、いやいやそうだよ、そんなことありませんよ、などとその食い違いで揉《も》めたり、それがまた別の話の糸口になったりして、いったい何がどうなっているのか何度聞いてもさっぱりわからない。ところどころよくわからない言葉や表現もある。  それでですよ、そりゃもうひとたまりもありませんよ。作られてたのが、いっせいに逃げ出したわけですからな、それも特大ですわな、ええ、暴走なんて言葉じゃとても言い表せません、いや、とてもとても、人間なんかもうひと呑《の》みにしてしまうようなのも幾つかはありましたし、実際に犠牲者も出ましたよ、そりゃあね、今ならきっと大事件なんでしょうけど、そこはそれ、戦争中のことですからね、そういう死に方だって珍しくもないわけですから。うん、でもそりゃもちろんびっくりはしましたよ。しましたね。ええっとね、最初は空襲警報かと思ったのかなあ。うん、そうだな、工場を覗《のぞ》いてみるとこれがあなたものすごい有様でして、いやまったくあのときはもう逃げ出した人面でそこらじゅうがめちゃくちゃになって、それがまた決戦兵器だなんてことで作ってた試験用の機動性のとびきり高い人面で、これが制御できなくなったわけですからね。で、私らはその真っ只中《ただなか》ですからもうこれじゃとても助からない、ええそうです命がですよ、そりゃもう覚悟しました。だって、馬鹿じゃなかったらわかりますよ、そんなもん。いくら安全だ安全だなんて言われててもね、そんなわけないだろうよってね。実際、現場で触れてりゃね、わかりますよ、そりゃあ。だから、うああ、ついに来たか、てなもんです。で、それでこいつがやけになったというかなんというか、あの狭い退避壕《たいひごう》のなかでふたりっきりになったときにですね、ぎゅううっといきなり、そりゃ私も若いですから、いえいえ違いますよ何言ってるんですか嘘ばっかり、あなたのほうからいきなり抱きしめてきたんですよ、おいおい馬鹿なことを言うんじゃない、そっちからじゃないか、違いますよ、あんなところでいきなり抱きつかれたもんだからこれはてっきりそういうことだと思って私は、まあいやだそんなことあるわけないじゃないですか、私そんなことしませんってば、いやそうだよ、違います、とまあそんなのが延々続くのだ。  銀行振込ではなく直接家賃を持ってきて欲しいというのはもしかしたらこれを聞かせるためなのだろうか。そんな気がする。きっとそうなのだろうなあ。  それにしてもよく似た夫婦だといつも感心する。卵形の顔やその頭の真ん中で分けた髪形はもとより体つきから仕草に声、喋り方までそっくりで電話ではちょっと区別がつかない。夫婦というのはだんだん似てくるものだとは言うが、それだけではちょっと説明がつかないほど似ているのだ。  本当は双子なのではないかとさえ私は思っている。もしかしたらそのことを隠すために、あそこまで自分たちの馴れ初めを語りたがるのではないか、と。  初めのうちはちゃんと聞いていたのだが、さすがに最近では話が始まると適当に相槌《あいづち》だけ打ちながら、店の棚を検分することにしている。はあ、ほお、おお、へえ、ほん、と、だいたいこんなのを等間隔で繰り返していればいい。  棚に並んでいるほとんどは、古道具というよりガラクタといったほうがいいようなもので、誰がこんなものを買うのだろうか、といつも不思議に思うのだが、それでもこうして閑《ひま》を潰《つぶ》すくらいのことはできるから、ここが古道具屋でよかったとつくづく思う。  儀式のようなその長い馴れ初め語りにひと区切りらしきものがついて、そこでようやく家賃の通帳にハンコを押してもらえる。  ハンコをもらって家に帰ってくると、玄関に子供が群れていた。近所でたまに見かける子供たちだから顔は見覚えているが、名前まではわからない。  そんな子供たちの中心にいるのはなぜか妻である。 「ありがと、また教えてね」などと妻は子供たちに何か渡している。 「おっ、やった」 「いただきっ」 「すげえ」 「誰に貰《もら》ったのかは、言っちゃだめよ」 「りょーかいりょーかい」 「すげえ」 「えぐえぐ」 「げろげろ」 「げろっぱ」 「見つからないようにね。ちゃんと隠れて観るのよ」 「りょーかいりょーかい」 「どこで観る」 「うち、今日誰もいない」 「決定」 「ありがとう」 「さんくす」 「感謝感激」 「さんきゅう、おばちゃん」 「ばか、おねえさんだよ」 「おねえさん、ありがとう」と子供たちが声をそろえて一礼する。 「あらあら、おばちゃんでいいわよ」  箱を奪い合うようにしながら子供たちは路地の奥へと走り去った。 「あいつら、なにしに来てたの」  妻に尋ねた。 「赤目川にね、人面魚がいるんだって」  妻が言った。 「それをわざわざ教えに来てくれたのよ」 「ああ」  私はつぶやいた。 「昔そういうの、いたなあ」 「まだけっこういるのよ」 「それで」 「それでって?」 「さっき、子供に何かあげてただろう」 「ああ、いらないビデオよ」 「ビデオって——」  だいたいわかってはいたのだが、いちおう尋ねてみた。 「またあの手のビデオか」 「あなたの言うあの手っていうのがどの手なのかがよくわからないんだけど、ええっと、さっきあげたのはね、『血みどろ青ミドロ』と『生首ダンクシュート』と、あと『地獄のカエル処刑人』だったかな」  どれも聞いたことのないタイトルだったが、内容はだいたい想像がつく。 「ほんと、子供ってどうしてああいうのが好きなのかしら」 「君ほどじゃない」  私は言った。 「まったくもう、いったいどこでそんなわけのわからんビデオを買ってくるんだ」 「あら、買ったりなんかしないわよ」  妻はむっとした顔で答えた。 「もらってくるのよ」 「どこで?」 「銭湯の角のレンタルビデオ屋で」 「レンタルビデオ屋がなんでビデオをくれるんだよ」 「だって、ひと通り借りられたら、もう借りる人はいないじゃない」 「そりゃそうだけど」 「ただもらうだけじゃないわよ。次に何を仕入れたらいいのかをレンタルビデオ屋に教えてあげてるの」 「君が」 「そう、私が」  なんでも妻の話では、そのレンタルビデオ屋は、そういったマニア向けのビデオやらDVDやらを取り揃えることで大型店との差別化を図っているらしい。そして、そのセレクションには彼女の意見が不可欠で、最近では『人妻の選ぶB級ホラー』という棚を店長にまかされているほどなのだそうな。 「それにね、こんどあの店が中心になって自主製作にも乗り出すらしいわよ。この町に住む有望映像作家とか造形師とかを集めて、停滞した業界に新しい波を起こすんだって店長さんはりきってたわよ」 「自主製作ねえ」 「そうよ、その顧問も頼まれてるの。すごいでしょ」 「顧問っていったいなにするんだよ」 「知らない。でも、すごいでしょ」  いったい何がどうすごいのか、さっぱりわからなかった。 「あ、そうだそうだ、私こんなことしてる場合じゃないんだった」  妻が慌てたように言った。 「なんだよ」 「とりあえず、捕まえに行かなきゃ」 「何をするって?」 「捕まえるのよ」 「なにを?」 「人面魚よ。たぶんそれ、昔うちの工場で作った奴だと思うんだけど」 「なにが?」 「だから人面魚よ」  話がよく見えない。 「あの——」  妻を制して尋ねた。 「さっきから君が当然のように言ってるその人面魚なんだけど」 「人面魚がなに?」 「それが何のことだかわからない」 「えっ」  彼女は口をぱかんと開いたままの姿勢で静止した。そして、五秒ほどしてようやく動きを再開する。 「人面魚が、わからないって?」  あまりに妻が驚くので、すこし弱気になった。 「いや、だから」と弁解するように私は続ける。 「ようするに、その、人面魚、だよね」 「そうよ、人面魚よ」 「ああ、人面魚」 「そう、人面魚」 「なんだ、人面魚か」 「そうよ、知ってるんじゃない」 「まあ、いちおう名前くらいは、ね」 「そりゃそうよね。だってあなた、ホラー小説とかも書いてるんだものね、それで知らないわけないわよね。ああ、びっくりした。もしかしてボケたのかと思っちゃった」  やっぱりそうか。ホラーなどという言葉が出てくるくらいだから、話の流れからいくと、妻の言う人面魚というのは、やはりあの人面魚らしいな、と昔好きだったアイドルのことを回想するように私は思う。  たしか子供の頃、その手のものがやたらと流行したことがあった。人面犬とか人面魚、それに牛面人なんてのもあったか。そんなものが出たという噂が、あちこちでささやかれたものだ。都市伝説などという言葉がちょっとした流行語のようになった。あ、もしかしたら、このあたりが噂の発信地だったのだろうか。なにしろ人面町というくらいだからな。  噂の内容はといえば、怪談というほどのものでもない。例えば、早朝の舗道で、前を歩いていた犬がふいに振り向く。すると、その顔は人間だった、とか。そんな他愛《たわい》ない話ばかりだ。  その人面犬はバイオテクノロジーによって産み出された生き物で、どこかの企業の研究所から逃げ出したものではないか、とかそんなB級SFホラー映画のような薄っぺらでご都合主義的な説明が付け加えられたりもしていたな。たしか牛面人というのは、人面犬とは逆で、胴体のほうが人間で顔が牛なのだ。  この牛面人には予知能力があって、これまたどこかの企業が未来予測のために作ったのだが、縁起の悪い予言ばかりするので、気味悪がられ、会社の地下室に閉じ込められたまま、結局こっそり処分されてしまったという。処分される直前にした予言が「この戦争は負け」だったらしいから、その予知能力というのは本当だったのかもしれない。  もっとも、予知能力などなくてもあの時点でそのくらいのことはわかると言われればその通りだし、案外、誰にでもわかっていたが公にはなかなか言えないそのことを言わせるためだけに作られた人造の怪物だったという見方も今となってはできるのだが——。  でもその辺りの動物系のものより、本当に怖かったのはなんといっても口裂け女だったよなあ。もう噂というより切実な問題だった。夕暮れ時に人気のない道を歩くときなど、本当に恐怖を感じていたものだったが、いやいや、そんなことはこの際どうでもいいのだ。  そう、肝心の人面魚である。ところが、それがいったいどういう性格のものだったか、うまく思い出せない。いまいちキャラクターがはっきりしないのだ。いや、それは思い出せないのではなく、当時からすでにそうだったのかもしれない。なにせまあ魚だからなあ。追いかけてきたりとか、そういう派手なことはできないだろうし、出てきたのも、あの人面なんとかのブームみたいなのが下火になってからだったし、どう考えてもあれは二軍だよなあ、などとすっかり回想モードになってしまった私に構わず、妻はあわただしく準備を進めている。  見ていても何の準備なのかよくわからないが、たぶんここまでの流れからいくと人面魚を捕まえる準備なのだろうなあ。ということは、本当に捕まえに行くつもりなのか。  あいかわらずよくわからない。そこへいきなり「それじゃ、あなたはこれとこれね」などと長い柄の付いた網と魚籠《びく》みたいなものを差し出してくるから、これはもしかしたら私もいっしょに行かなければならないのだろうか。  恐る恐る尋ねてみると、「そりゃあそうでしょう」ときっぱり答えるその妻の右手には、いつのまにやら先端が三叉《みつまた》に分かれたヤスみたいなものが握られている。 「だって、あなた、最近さっぱり収入がないじゃないの。家計が苦しいんだから、せめてこのくらいは手伝ってくれなきゃ」 「いや手伝うのはいいんだけど、でも、これとうちの家計となんの関係があるんだよ」 「捕まえてお金にするのよ、当たり前じゃない」  当たり前じゃないだろう、と私はそっとつぶやいた。 「ええっと、そんなものがお金になったりするのか」 「あったりまえじゃない」と、またまた呆《あき》れたように叫び、そして珍獣でも見るように私を見るのだ。 「前々から思ってたけど、あなたってほんと世間知らずなのね」  まあたしかにそういう面もあるかもしれないと自分で思うこともあるのだが、でもそれとこれとはすこし違うのではなかろうか、とも思う。あるいは、妻の思っている世間と私の知っている世間との間には、けっこう大きな溝とか深くて暗い川とかがあったりするのだろうか。  たまにこんなことがあって、その度にそんなことを思うが、そんな私の思いとは関係なくてきぱきと準備を整えた妻は「さあ行きましょ」と早くも表に立っている。 「行くって、今から?」 「そうよ、さあ早く」 「でも、もう暗くなるぞ」 「そりゃそうでしょ、夕方なんだから」 「いや、そういうことを言っているのではなくてだな——」  反論しかけたが、するだけ無駄な気がして途中でやめた。いちど行くと言ったら私がどう言っても行くことはもう決まっているのだ。        *  市場の横手の路地を右に折れて銭湯と硝子《ガラス》工場との狭い狭い隙間を抜けていく。なぜこんな妙なところを通るのかと問えば、それが土手への近道だから、と妻は答えるだろう。  いったいなにがおもしろいのか知らないが妻は近道を見つけるのが好きなのだ。  それも通りを一本外れた路地のなかの裏道とかならまだいいほうで、壁と塀の間とか塀の上とか暗渠《あんきよ》とか工事が中止になったままずっと放置されている橋だとか水の涸《か》れたどぶの中まで通っていく。それはまあたしかに直線距離にすれば近道ということになるのだろうが一般的にはとても道とは呼べないような、場合によってはかなり危険でもあるような経路を平気ですたすた行くのである。  いったいどうやってこんな道を見つけているのかと前にいちど尋ねたことがある。  猫を追いかけたりしてると自然にね、などと妻は笑って答えたが、いったいなぜ猫など追いかけたりしているのか。  そのあたりのことも続けて尋ねたような気がするのだが、どんな答えが返ってきたのかは憶《おぼ》えていない。憶えてないくらいだから、たぶん同じくらい不可解な回答だったのだろう。  質問してもわからないことが増えるばかりというのは私に理解力がないのか、それとも質問の仕方が悪いのか、あるいは妻の説明が悪いのか。そんなことを考えつつ、妻の背中を見失わないように、ただひたすら、近道というか猫道というかそんなごちゃごちゃした経路で木造アパートの裏口みたいなところに出た。×印の形に打ちつけられた板の隙間をくぐり、土足のままで薄暗い板張りの廊下を進んで行く。  おいおい、こんなとこほんとにいいのかよお、などとつぶやきながらついていった。廊下には埃《ほこり》がつもっている。もうだいぶ前から廃屋になっているらしい。めりめりきこきこと鳴る急な階段を上って、二階の廊下を端まで行き、そこにある窓からいきなり飛び降りたからあわてて駆け寄って覗《のぞ》くと下には土手らしき斜面があった。  雑草の茂る斜面に立って妻はこっちを見上げておいでおいでしている。  その掌《てのひら》が妙に白く見えるのはあたりが暗くなってきたせいだろうか。  二階の窓だが、登りの斜面がすぐそこまでせまっているのでそれほどの高さはない。思い切って飛び降り、そのまま土手の草にしがみついたからなんとか転げ落ちずにすんだが、もう嫌だ、こんな近道は二度と通りたくない。次こそは思い切って拒否するぞ。口のなかでそんなことをぶつぶつ言いながら腰あたりまである草をつかんで斜面を登った。  土手の上に立つと、川が見えた。五十メートルほど上流には見覚えのある鉄橋があるし、向こう岸には屋上に空中庭園などもある高層ビル街やテレビ局の電波塔が見える。そして、高圧線の鉄塔と電線。どれも見覚えのあるものばかりである。  にもかかわらず、ここがだいたいどのあたりになるのかいまいちよくわからない。  それぞれの位置関係がなんとなくしっくりこない。どこか間違っているような気がする。地図を裏側から透かして見ているような妙な違和感があって、かといって、どこがどうおかしいのかよくわからない。  単に普段の道を通ってこなかったからなのだろうか。  どうも妙な具合である。  しかしまあそんなことばかり考えてもいられない。妻はもう土手から河川敷に下りているのだ。  すこし冷えてきた。陽はすでに落ちていて、西の空が水色に光っているだけ。  白から黄色に変わりかけた月が向こう岸に立つ高圧線の鉄塔にかかっていた。  はやくはやく。  妻がそうささやく。  ささやいているのに、はっきりと聞こえる。  大人の背ほどもある葦《あし》が茂る湿地のなかにトンネルのようにあいた細い道に妻が入っていくのが見えたから、あわてて膝《ひざ》まである雑草を掻《か》き分けながら靴の裏で滑るようにして土手の斜面を下っていく。        *  懐中電灯の黄色い光が、まっすぐな棒のように水中に伸びていた。  妻が水辺にしゃがみ込んで、持ってきた懐中電灯で照らしている。照らしながら、岸に沿ってゆっくりと光を移動させていった。 「この赤目川ってね、昔は汚れがひどくて泳いだりすると目が真っ赤になるからそう呼ばれてたんだけどね、上流の工場が閉鎖されてからはだいぶきれいになったの」  なるほど水は意外に澄んでいる。 「まあ閉鎖されたっていうか、私とヨシコちゃんとユウちゃんとで閉鎖してやったんだけど」 「閉鎖してやった?」 「うん」 「どうやって?」  すると妻は、「まあ、ちょっと脅かしただけよ」と笑う。 「えっ、いったい何をやったんだよ」 「だから、ほら、まだ子供だったから、たしかにちょっとやり過ぎちゃったっていうところはあるかなあ。それに関しては反省してるのよ。あのあと三人で反省会もやったしね。でも、最初にやろうって言ったのはヨシコちゃんなの。だいたいみんな、ヨシコちゃんが悪いのよ。だって、最初にやっちゃったんだから」 「だから、何を?」 「だから、何って、わかるでしょ、ほら、ね、いいじゃない、もう。だって、まだ子供だったからさ、仕方ないじゃない、力の加減とか、そういうのがまだわからないじゃない。それでつい——」  そこまで喋《しやべ》って、急に妻は黙った。  じっと、水の中を見つめている。  私にもようやくわかった。彼女の右手に握られた懐中電灯からの黄色い光の先に——。  思わず声をあげそうになった私の口を塞《ふさ》いだのは妻の掌だ。 「しっ」  耳元で妻がささやいた。 「静かに」  光の輪の中に見えたのは川底だ。  丸く照らされた浅い川底に、人の顔があった。  のっぺりとした中年男の顔だ。  目を閉じている。  目を閉じたままで、かすかな笑みを浮かべている。 「寝てる寝てる」  嬉《うれ》しそうに妻がささやいた。 「なんにも知らずに夢見てる」  歌うようにそう続けた。  私が見たときにはもう網を構えていた。  頭の上でふわりと動いたかと思うと、もう網は水の中に入っていた。  そして、次の瞬間には網の中で何かがびちびちばちばちと跳ねていたのだ。  さっき光の中に見えたあれは、いったいなんだったのか。たしかに人の顔のように見えた。だが、目の錯覚だったのでは。  そのことをたしかめようと顔を近づけたその瞬間、いきなり網が破けた。  飛び出してきたそいつは、そのまま土の上に転がり、跳ねまわった。  魚だった。  鯉のような色と形をしている。地面の上のそれは、水の中にいたときよりだいぶ小さく見えた。  全体的には地味な魚だ。ただ、鰓《えら》のあたりから太い胴体がさらに太くなっていて、その先に中年男の顔がついている。  たしかに、人面魚としか言いようがない。その顔がまっすぐこっちを睨《にら》んでいた。やたらと恨みがましそうに見えるのは、目が充血しているからだろうか。  頭のてっぺんから額にかけて禿《は》げている。水の中ではふわふわなびくのでわからなかったのだが、少ない髪の毛が肌色の濡《ぬ》れた頭皮に貼りついて、絵に描いたようなバーコードだ。 「あなた、早く早く」 「えっ、早くって、なにを?」 「早く捕まえるのよ」  そう言うから土の上で跳ねまわっているそいつを取り押さえようとした。後ろから首筋を押さえようとしたそのとき妻が言う。 「噛《か》まれないようにね」  その言葉で思わず飛び退《の》いた。そういうことはもっと早く言ってほしい。 「なにやってるの。早くしないと逃げちゃう」  妻が叫んだ。 「だって、噛むんだろ」 「頭を両手でしっかりつかめば大丈夫だってば、さあ早く」 「嫌だ、怖いよ」 「あああ、逃げる。逃げたらあなたのせいよ」 「そんなこと言われたって」 「もうちょっとじゃない」 「じゃ、君が捕まえろ」 「嫌よ、噛むもの」 「そらみろ」 「そらみろ、ってなによ。なにをみるのよ。私が、私がひとりでこんなにがんばってるのに——」  まずいなあと思ったときにはもう遅く、妻の目からはころころと涙が出てくる。いくらでも出てくる。  びゃっ、びゃっ、びゃっ、としゃくりあげながらも、妻は続けた。 「これを捕まえないと、今月の生活費がないのよ」  妻が泣き出した。 「ええっ」 「だって、もう長いことあなたの本、出てないじゃない。だからこうやって内助の功で私が生活費を稼ごうとしてるのに、あなたは全然協力してくれない」 「こんなとこでそんなこと言うなよ」 「こんなにがんばってるのに」  その間も、人面魚はばちんばちんと地面を跳ねながら水辺へ確実に近づいていく。 「わかった、わかったから、もう」  半ばやけになりながら、跳ねまわる人面魚に背後から近づき、思い切って頭をつかんだ。ぐぎゅ、という蛙を潰《つぶ》したような音と感触で指がめり込んだ。それで放してしまいそうになったが、なんとかこらえた。人間の頭の形こそしているがどうやら頭蓋《ずがい》骨はないらしい。 「気持ち悪いいい」  私は叫びながらそいつの頭を両手で握ったまま魚籠《びく》まで走り、自分でもなんだかわからない言葉を発しながら中に叩《たた》き込んだ。  両方の指はぬるぬるで魚臭く、おまけに抜けた髪の毛が絡みついていた。あわててそこらの草に手を擦《こす》りつけたところが、剃刀《かみそり》のような葉ですぱっと切れるわ血は出てくるわ、もう泣きそうである。 「やったあ、捕獲成功」  妻が言った。 「さあ、早く帰りましょ」  もちろん異論はない。  魚はしばらく魚籠のなかで暴れていたが、やがて動かなくなった。  家に着くと、まず玄関前の水道で手を洗った。それでも魚臭さはとれなかったので、まだ血の止まっていない傷口など気にせず石鹸《せつけん》を塗りたくった。  妻は魚籠を提げたまま台所へ行って、そこでなにかやっているようだ。とんとんとんと包丁がまな板を叩く音とか、がりばりぼりべりと鱗《うろこ》を剥《は》ぐような音とか、きゅうきゅうと子犬が鳴いているような音とか、いろんな音が聞こえてくる。  救急箱をようやく見つけて傷口を消毒していると、ちょっと行ってくるね、と妻が勝手口から出ていく。両手で重そうな黒いビニール袋を提げていた。それから、きいかたきいかたと妻の漕《こ》ぐ自転車の音が路地を遠ざかって行った。  妻は二十分ほどして帰ってきて、そのまま夕飯の仕度を始めた。魚料理だったりしたらちょっと嫌かなあなどと思っていたのだが、豚肉と南瓜《かぼちや》の入ったタイカレーで、もちろんタイカレーのタイというのは魚のタイではなく国のタイなのである。ココナツミルクもたっぷり入っていて、なかなかうまかった。  その何日かあと、テーブルの上に置きっぱなしになっていたビデオテープのラベルに『俎板《まないた》本番スプラッタ・人面魚の生き造り』などというタイトルが油性マジックで書かれていたのだが、はたしてそれがこのあいだ妻と捕まえた魚となにか関係があるのかどうか、私にはわからない。  いちおう、尋ねてはみた。すると、まあ観ればわかるわよ、とビデオを差し出して妻が笑う。さっそく観てみたが、やっぱりわからない。いや、わかるとかわからないとかいうより、なにがおもしろいのかさっぱり理解できない。どうやら映画らしく、ストーリーらしきものもあるようなのだが、結局、途中で寝てしまった。だからといって、もういちどわざわざ観ようとも思わないから、まあおもしろくなかったのだろう。  またこんなことがあったらお願いね、と妻が言う。おいおいまたあるのかよ、などと応えながらも、こんなこと、というのがいったいどんなことなのか、じつはよくわかっていない。尋ねたら答えてくれるだろうが、でも答えを聞いてもやっぱりわからないような気がするし、たぶんまたあったときには、ああこういうことだったのかとわかるのだろうから、別にそれならそれでいいような気はする。 [#改ページ]   その二 耳を買う  妻に買い物を頼まれて市場へ行く。  自転車で地蔵坂を下り、万年天神の池をぐるっと半周したところにある石の鳥居の向こうが商店街の入口である。このあたりではいちばん古い商店街で、これがいわゆる人面銀座。そのアーケードの下を駅に向って走り、高架の手前で一本東の筋に入る。そのあたりは蜘蛛《くも》の巣のように路地が広がっていて、その中に目指す『牛の首市場』はある。戦後の闇市がその始まりだったというから、これまたずいぶん古い市場だ。  その当時、牛肉と称して犬の肉が売られていることがよくあったらしい。まあ買う方もそれをわかっていながらあえてだまされているというところがあったようで、ようするに犬の肉というのはやはりどこか食べるのに抵抗があるから、建前だけでも牛の肉ということにしておいたのだろう。  その市場の裏にはたくさんの犬の生首が捨てられていたのだが、だからそれを見ても皆、犬の首とは言わず牛の首と呼んでいた。犬の首を放り込むための大きな穴があって、そのあたりではいろいろと怪しいことが起きた。  そんなこんなで、あとになって供養のために塚が建てられたのだが、だからもちろんその塚もまた当然のごとく『犬の首塚』ではなく『牛の首塚』と呼ばれることになり、それでこの市場も『牛の首市場』になった、というのがその名の由来。  市場の手前にある銭湯の角に自転車を停める。ここならしばらく停めておいても大丈夫だろう。どこかの店のシャッターの前に置いたりするとどこに移動されてしまうかわからないし、もし移動されていても店の主人が怖い顔をしていたりすると、どこに移動したのかを尋ねることすらできない。移動どころか、そのままぐちゃぐちゃに潰《つぶ》され、漬物石大の塊にされてしまうこともある。現にそうされている自転車を何台も見たことがあるが、もちろんそんなところに停めるほうが悪い。そのシャッターにはちゃんと、「ここに停めるな。破壊します」という張り紙があるのだ。文句は言えないだろうし言うつもりもない。うかつにそんなことをしたらぐちゃぐちゃに潰されるのは自転車だけで済まなくなるだろう。現にそうなってしまった者が商店街の電柱の陰などに置かれたままになっていることもある。それらは自力で動くこともできず、誰も引き取りに来てもくれずで、何日間かはそこでぼやいたり夜泣きしたりしているのだが、そのうち何も言わなくなり、ついには、隣に置かれている自分の自転車だった赤錆《あかさび》色の塊と見分けがつかなくなってしまうのだ。  いくらなんでもそんな目にはあいたくないから、ここはいかにも、「銭湯に入りに来ました」あるいは「銭湯に入りに来て、でもその前にちょっとだけ買い物してそのあと必ず銭湯に入ります」というような顔をして自転車を停めなければならない。自転車を停めるという行為だけでそれだけのニュアンスを出すのは素人には難しいだろうが、私くらいになるとそういう複雑な表現も可能なのだ。  無事自転車を停め、弁天湯の塀沿いに裏にまわるとそこは市場の入口で、『牛の首市場』と角張った太い字で書かれた木の看板があがっている。  妻に渡されたメモを片手に入っていくと、市場全体を覆うトタン屋根のせいでそこは昼間でも薄暗い。  屋根には天窓が並んでいるのだが、それらは長年の埃《ほこり》ですっかりくすんでしまっていて、そのかわり天井から裸電球がたくさんぶらさがっている。子供の頃大好きだった夜店のことを思い出すのはそのせいかもしれない。  朝のピークはもう過ぎたらしく、買い物客の姿はまばらだ。  さて、メモを見て確認してみると、まず最初に買うのはパンの耳である。  うちでは朝昼兼用の第一食は、パンの耳にしている。安いということももちろんあるのだが、ふたりともパンの耳が好きなのだ。  子供の頃など、あの耳の部分を食べるのが楽しみで、先に白いところを食べてしまい、最後にまとめて耳を食べていたくらいである。  あそこは食パンのいちばんおいしいところなのに、なぜわざわざ切り落としてしまうのか、私にはまったく理解できない。  パンは耳、というのがふたりの共通する意見なのである。  さらに妻は食べることに貪欲《どんよく》である。一種類のパンの耳では満足できないらしい。よりうまいパンの耳を探し求めるのだ。どこへ行ってもパン屋を見かけると取りあえずパンの耳を置いているかどうかを尋ねる。愛想《あいそ》よく売ってくれるところもあるが大抵は愛想が悪い。「ありません」となんだか迷惑そうに言う店もある。パンの耳だけでは売ってくれない店も少なくない。  やはりあれは商品ではなく、捨てる部分を、まあ捨てるよりましだ、ということで売っているわけで、だからそれだけを買うような人間を客とは見ていないところがあるのだろうが、しかしそれにしても売っているには違いないのだからああいう態度はどうなのだろう、普通に愛想よくしたらいいのになあ、などと妻とぼやきあったりすることも多い。  とにかくそうやっていろんな店のパンの耳を食べたのだが、妻によるとこの『牛の首市場』のなかにあるパン屋のパンの耳がいつ行っても売り切れているらしい。この間も一足違いで買われてしまったのだという。いつも売り切れているくらいだからきっとおいしいに違いない。市場に行ったらまずいちばんにそのパン屋を覗《のぞ》いてパンの耳があるかどうかを尋ねて欲しい、と妻は言うのだ。  だから、最初はそのパン屋に行って、それから角煮用の肉五百グラム、その次には、スパイスだかなんだかわからない呪文《じゆもん》のような単語がずらずらと書かれていてそれがどういうものだかさっぱりわからないのだが、メモには店への道順が書かれているからとにかくその店に入って店員にメモを見せれば大丈夫だろう。  メモを片手に市場を奥へ奥へ進む。まるで巨大迷路のような市場だから、分岐点の目印に注意していなければすぐに迷ってしまう。実際、迷ってしまって頼まれていた買い物ができなかったこともある。初めてのお使いでもないのに今度またそんなことになったら夫としての面目丸つぶれである。まさかそんな間抜けなことにはならないとは思っているが、しかし万が一ということもある。着実にひとつひとつこなしていくに越したことはない。  そんなわけで、ともかくパンの耳である。渡されたメモによるとそのパン屋はここから入ってひとつ目の角を右に折れてすぐだ。楽勝である。ところが行ってみるとシャッターが下りていて、まことに勝手ながら従業員特別研修のためお休みさせていただきます、という張り紙。  いきなり出鼻をくじかれてしまった。  隣は乾物屋で向かいは八百屋、その隣は総菜屋だ。パンの耳がありそうな店は他に見当たらない。  仕方がないので先に進むことにする。まあこの大きな市場のなかにパン屋がここ一軒ということもないだろうから、途中であったらそこで買うことにしよう。気を取り直して再び張り紙を見るとそこには「パンがご入用の方はこちらまで」という文があってその隣に地図のようなものが添えられている。びんご。なんだそれならまったく問題ないではないか。それにしてもこの地図、えらく簡略化されているというか、目印も何もなくただ矢印しか描かれていないぞ。  ええっと、この先を右に折れて、そしてすぐに左、そのまま進んで、それから、ここに描かれているぎざぎざはいったいなにを表しているのだろう、まあいい、とにかくそこを過ぎてまた右に折れて左、そこに行けばパンの耳も手に入るはずだ。  よしよし、右で左でぎざぎざしてから右で左、右左ぎざぎざ右左、と口のなかで繰り返し、とにかくその通りに行くことにする。  最初の角を右に折れるとすぐ左に身体を斜めにしてやっと入れるほどの細い隙間があったが、まさかこれではないだろうと行き過ぎた。ところがそこからだいぶ行っても左に折れるところがない。  引きかえして、ものは試しと入っていってみると、人が歩いた形跡があるから、いちおう通路ではあるようだ。裸電球の光は届かないが、トタン屋根に幾つもあいた穴のせいでかろうじて足元は見える。両側は高い板の塀。その塀には勝手口のような小さな木戸がところどころにあって、その前にはゴミを入れる青いポリバケツが並んでいる。  通路の真ん中は浅い溝のようになっていて、板塀からは樋《とい》や排水のパイプのようなものが突き出ている。と、いきなりごぼりと音がして、すぐ横のパイプから赤茶色の液体が噴き出してきて、溝を流れて行った。真ん中の溝に足を置かないように気をつけてつま先立ちで進む。  通路の向こうに光が見える。裸電球の光だ。  あそこまで行けば再び商店の並ぶ通りに出るのだろう。やれやれと思ったところで、足元にあったポリバケツを倒してしまった。  起こそうとしてあわてて出した手を、次の瞬間には引っ込めていた。  横倒しになったポリバケツの蓋《ふた》が外れ、そこからなんだかわからないものがはみ出している。半透明でぐにゅぐにゅして繋《つな》がっていてそのなかに黒い粒がいくつも見える、なんというか蛙の卵のようなものだ。もっともその黒い粒は、ひとつひとつが人間の目玉くらいの大きさである。そして、これは気のせいだろうと思うのだが、動いた。どろりと流れた地面の上から、そのたくさんの目玉がいっせいにこっちを見たのだ。  いや、もちろんそんなはずはないから、そんな気がしただけだろう。そう思った。そう思う前に身体はとび退《の》いていたのだが。  と、今度はそのはみ出していたぐにゅぐにゅしたものが動いて、ポリバケツのなかに戻っていったかと思うと、ポリバケツはフィルムの逆回しのようにとんっ、と立ちあがったから、こうなるともう気のせいなどではない。こんな気のせいはない。ということはさっきのあの目玉みたいなものがこっちをいっせいに見たのも気のせいではない。  かたわらに転がっている丸い蓋を手にとり、ポリバケツの中身を見ないようにして元通りかぶせた。途端に蓋は四分の一回転して、その合わせ目がかちりと填《は》まった。まるで中にいる誰かが内側から戸締りをしたように。  今後はポリバケツは倒さないようにもっと注意しよう。そう心に誓った。この程度ですんだからよかったが、もしもなかにいるものの機嫌をそこねたりしたらどんなことになるやらわからないわかりたくもない。  狭い通路を抜けるとそこは通りではなかった。空が見える。テニスコートをふたつ並べたくらいの屋根のない広場になっている。広場の周囲は石の壁だ。壁に沿ってベンチが幾つか並べられている。  市場のなかにこんなところがあったとは知らなかった。  広場の中央には煉瓦《れんが》で囲まれた正方形の池がある。なかを覗いてみると深緑色の水に鯰《なまず》のような形の影が動いている。  入ってきた通路と池を隔てて反対側にも壁の切れ目があって、階段らしきものが見える。となると、地図にあったぎざぎざはあの階段なのだろうか。  それにしても、そんなものがあるということは、この市場には二階があったのか。今まで知らなかった。  古いお寺などにあるような、長年使われて中央の部分が磨《す》り減った木の階段だ。人がすれ違えるほどの幅のその階段を上りきったところに、同じくらい古そうな木の廊下が続いている。  廊下を右へ、そして、つきあたりを左へ。  両側には壁しかない。その壁の片側には、窓が等間隔で並んでいる。  木枠の窓だ。  外を覗いてみると、大勢の人がこっちを向いて並んでいるのが正面に見える。  そこはどうやら駅のプラットホームだ。並んでいる人たちの頭の上に駅名のプレートも見える。  市場の裏を通っている鉄道。その高架の上にある駅のプラットホームが見えているのだ。  プラットホームの手前にあるはずの線路は見えない。何かの陰になっているのだが、それが何なのかがよく見えない。  プラットホームは、なんだか闇の向こうに浮かんでいるみたいに見える。それにしても、そこに並んで電車を待っている人たちに現実感がないのはなぜだろう。  プラットホームの地面とこの窓が同じ高さにあるからか。  人々が立っている地面が見えず、そのせいか、並んでいるのは身体の形に切りぬかれて貼りつけられた古い写真のように見えるのだ。  だとすれば——、とふと思う。  あのプラットホームから、私のいるここはどう見えているのだろう。だいたい駅のプラットホームからここが見えるのなら、私とて電車に乗らないことはないのだから、市場に二階があることにもっとはやく気がついていてもよさそうなものだが。  あるいは見えているのだがそれが市場の二階だとはわからないのだろうか。騙《だま》し絵のように。  今度電車に乗るときに、じっくりと探してみることにしよう。こちらからこれだけはっきり見えているのだから、向こうから見えないはずがない。  そんなことを考えながら長い木の廊下を歩いていく。両側には店も何もない。いったい何のためにこんなものがあるのだろう。  さっきから、なぜかしきりに学校のことが頭に浮かんでくる。  それは、どうやらこの木の廊下のせいらしい。あの職員室のあった木造の旧校舎の廊下に似ているのだ。そう言えば窓もこんな感じだった。そして、油引きの匂い。  小学校にあったあの建物は、たしか私が中学生の時に取り壊されてしまったのだった。  壊されるところは見た。  学校の帰りに、見に行ったことを憶《おぼ》えている。  だからあれは夕方だったはずだ。  鉄の玉をぶらさげたクレーン車みたいなものが運動場に停まっているのが校門のところから見えた。  そして、そのときにはもう校舎はなくなっていたのだ。  すでに作業はあらかた終わっていた。私はあの缶のことを考えていた。  あの校舎の二階にあった畳敷きの大広間。  古い建物だから大広間などというものがあったのだろう。  畳敷きの広間だ。  よく憶えている。  大広間の天井裏。  その隅にある押入れの二段目から、天井板を押し上げて、天井裏に上がることができたのだ。  掃除当番のとき、そのことを発見した。そして、その向こうにある秘密の空間を。  私はそこに、円柱形のビスケットの缶を置いた。なかにいろんなものを入れ、ボンドで蓋を接着して。  それはあの頃やたらと流行《はや》っていたタイムカプセルだった。いろんなものを詰めておいて、未来になったら開ける。あの時代、なぜかいろんなところにそんなものが埋められた。テレビのニュースなどでもよくやっていた。  私はその真似をして自分のタイムカプセルをそこに置いたのだ。誰も知らない私だけの空間に。  だが、その缶のなかに入れたものは、中学生になっていた私にはすでになんの未練も思い入れもないものになっていた。  なぜ、あんなものをわざわざ缶に入れて天井裏に隠したりしたのだろう。  自分でもわからなかった。自分がもうあの頃の自分ではなくなってしまっているというのはなんだか不思議な気がした。  校舎のなくなったところには、空があった。  空だけしかなかった。  校門のところから私はそれを見ていた。今まで見えたことのない位置に見える空は、やたらと広くて高くてそして、からっぽだった。  それにしても、もうずいぶん歩いたはずなのに、いっこうにパン屋らしきものは発見できない。パン屋どころか一軒の店もない。廊下の片側に並ぶ窓から見えるのは、市場を覆う赤錆《あかさび》色のトタン屋根と空だけである。  トタン屋根には煙突が突き出ていたり大きな物干し台があったり天窓がついていたり部屋らしきものがあったりする。さっきまで見えていた鉄道の高架はもう見えない。  窓の反対側には戸が並んでいる。  さっきまでは壁しかなかったのに、いつのまにかそんなことになっている。  それがあの校舎にあったのによく似ているような気がして仕方がない。  例えば、ここにある大きな木の引き戸。あの校舎の二階にあった理科室のとそっくりである。  いや、もしかしたらそのものなのではないのか。そんな可能性すら考えてしまう。  あの校舎はもうずいぶん昔の建物で建築資料としても貴重なものだから、壊してしまわずにどこかにそのまま移築して保存しようという話もあった。もしあの話が実現していれば、こんなふうに残っているはずなのだ。  しかし、あのクレーンの先についた鉄球。  あれは壊すためのものに間違いないだろう。  どこかに移したなどという話も聞いたことがないし。  どこからか、チャイムの音が聞こえた。そして、それに続いて流れてくるのは夕焼け小焼けのメロディー。  それは、あの校舎の時計台にあるスピーカーから流れていたのと同じものではないか。 『五時になりました。学校に残っている人はうちに帰りましょう。日が暮れると人面犬が出ます。校庭で遊んでいる人はうちに帰りましょう』  やっぱりそうだ。  テープに録音された沢田先生の声だ。  私は、いつもこの放送を聞きながら、家に帰っていたのだ。ということは、やはりこれはあの校舎で、そしてここはあの校舎の二階の廊下なのか。  あの理科室の前の——。  まるでチャイムとメロディーが引き金になったかのように、その頃の感情が蘇《よみがえ》ってきた。そして、私は思い出す。  理科室の前の廊下に出ると噂されていた人面犬のことを。  はっ、はっ、はっ、はっ。  理科室の中から、そんな荒い息づかいが聞こえてきた。  そして、低い唸《うな》り声。  ぐるるるぐるるるるる。  犬のような。  そうだ。  これは前にいちどあったことだ。  あの頃、たしかにこれと同じことを私は体験している。  なぜ忘れてしまっていたのだろう。  放課後に行われていた実験。  科学クラブの顧問の沢田先生がやっていたあれ。  あれはいったいなんのための実験だったのだろうか。  理科室だ。  そう、この理科室で。  その頃、私は人面犬の噂など信じていなかった。だからもちろん、放課後の理科室の前の廊下などまったく怖くなかった。だから、ひとりで行ったのだ。  科学クラブの次の実験を決めるための相談を沢田先生にするために。  職員室に行くとそこに先生はいなくて、たぶん理科室だろうと言われ、それで放課後の理科室に行ったのだった。  理科室に入ったが沢田先生は見当たらない。でも鍵《かぎ》はかかっていないから誰かが中にいるだろう。  そう思った。  理科室の奥にある実験準備室の扉がすこし開いていた。  隙間から覗《のぞ》いてみると、沢田先生らしき背中が見えた。  白衣を着ている。テレビのなかの博士が着ているような白衣だ。そんなものを着ている沢田先生を見るのは初めてだった。  声をかけようとしたそのとき、白い背中の向こうに奇妙なものが見えた。  茶色い棒のようなもの。  それがまっすぐ天井を指している。  動物のようだった。  ぴんと伸びたその先にはちゃんと肉球と爪があって、その爪は何かを掴《つか》もうとするかのように開いていた。  小刻みに震えながら仰向けになって硬直している犬の脚なのだ。 「あら」  振り向いた沢田先生が、マスク越しのくぐもった声で言った。 「なにか用?」  沢田先生は、白い大きなマスクをしていた。  いったいなんの用事でここに来たのか私はもう忘れていた。ただ、沢田先生の右手だけを見つめていたのだ。  大きな鋏《はさみ》。  血まみれの鋏。  薄いゴム手袋をした右手がそれを持っている。 「先生ね、今、とっても忙しいのよ」  そう言いながらこっちに一歩踏み出した。  その後ろに、犬の頭が見えた。  実験準備室の台の上に仰向けに置かれた犬の顔は、毛皮が剥《は》ぎ取られて肌色になっていた。つるりとした肌色の顔に、青や赤の血管が浮き出ているのが見えた。 「見えた?」  マスク越しのくぐもった声にそう尋ねられて、私は思わずうなずいてしまった。  先生は自分のマスクに手をかけて言った。 「それじゃ、もっといいもの見せてあげようか」  私は転がるように後退《あとずさ》りし、そのまま走り出していた。理科室を出るところは憶《おぼ》えていない。廊下を走り、階段を駆け下りようとして、そして足を踏み外して転げ落ちて——。  目を覚ましたのは病院のベッドだった。職員室の前の廊下で倒れていたのを用務員さんに発見されたのだという。救急車まで来て大騒ぎだったようだ。  脳波をとったり、他にもいろんな検査をやって、それで翌日家に帰った。  あれがなんだったのか、はたして本当の記憶だったのかどうか、未《いま》だによくわからない。  それ以来、なぜか沢田先生の姿を学校で見ることはなかった。しばらくお休みしているということだったが、結局そのまま学校に来ることはなかったのだ。  妊娠したとか、不倫だったとか。とにかくいろんなことがあって、それで、そのストレスのせいか、近頃は言動がおかしかった。  そんな話を聞いた。  おかしな言動というのがどんなものだったのか、ということまでは同級生たちの間での噂でしかわからない。とにかく、いろんな噂があった。  沢田先生は昔、整形手術をしていて、でもそれは失敗だった。だんだん口が裂けてくる。耳まで裂けてしまう。それをなんとかするために、自分で手術をやり直そうとして、そして、校庭に迷い込んだ犬を使ってその練習をしていた。  犬の顔を人間の顔のように整形する練習。  理科室の前の廊下でときどき目撃された人面犬は、その実験台になった犬なのだという。  理科室の床下には、鋏で切り取られた数え切れないほどの犬の耳が隠されている。  ただの噂だ。  小学生たちの間で、一時期だけ語られた何の根拠もない噂。  だが、私にははっきりと思い出せるのだ。  あのとき、マスクの隙間から見えたあの沢田先生の口。耳まで裂けた口と血まみれの鋏。  憶えている。  それがはたして本当にあったことなのか、それとも階段から落ちて頭をうったときに見た夢なのか、噂を聞いているうちに自分のなかで作られてしまった記憶なのか。  私にはわからない。  たしかめる方法もない。  階段があった。  かつて私が転げ落ちた階段だ。  今度はそんなことにならないように注意してゆっくりと下っていった。  きい、きい、きい、と階段の木が軋《きし》んで鳴った。あの頃から、そうだったのだ。  そうだ。たしかにこの階段。これを下ったところには給食室があって、そして——。 『パン』  そんな張り紙があった。  大きな戸に手をかけると、からからからと開く。力を加えるより先に、戸のほうが勝手に動いたような気がした。  そこに立っていた。  たしかにあのひとのようだった。  理科室ではなく今はここにいるのか。  そんなことを思ったのだが、それでも確信はなかった。似てはいるが、そんな気がするだけかもしれない。なにしろ、あれからもう長い年月が経っている。 「あの——」  私は言った。 「耳は、ありますか」  そのひとは少し考え込むようにして、それからもういちど私の顔を見て言った。 「耳って、パンの?」 「ええ」と私はうなずいた。 「ええっと、ちょっと待ってね」  そのひとは奥に入っていき、しばらくするとビニール袋いっぱいのパンの耳を持って出てきた。 「パンの、ですよね」  そのひとは念を押すように言った。 「ええ、パンの、です」  ほかになにか違う耳でもあるのだろうか。  例えば、犬の耳とか。  もちろんそんなくだらない冗談、口に出したりはしなかった。 「五十円です」  そのひとは言った。  五十円玉を渡すとそのまま無造作にレジに放り込んだ。そして、私の顔を見つめるようにして言った。 「おぼえてる?」 「えっ?」 「帰り道」  つぶやくようにそのひとは言った。 「ここって、ややこしいでしょう」 「ああ、帰り道」  私は言った。 「大丈夫ですよ。思い出せたから」  パンの耳はずしりと重かった。 「ありがとうございました」  そう言って、そのひとは頭をさげた。  家に帰り着いてから、パンの耳を見た。  食べてみた。  なかなかおいしいパンの耳だったし量も多かったので妻は喜んだ。  何日かしてまたあのパン屋に行った。シャッターは開いており、通常の営業に戻っていた。パンの耳はあったが、そのひとの姿はなかった。駅のプラットホームからあの廊下が見えるかどうかは、まだたしかめていない。何度か電車に乗ることはあったのだが、いつもつい忘れてしまう。  まあ昔からもの憶えはよくないほうだったし、実際、今もあの校舎の二階の天井裏にあるかもしれないビスケット缶のタイムカプセルの内容を、私はさっぱり憶えていないのだ。  私にとって、それがもういらないものだというそのこと以外は——。 [#改ページ]   その三 首を振る  会社勤めをしていた頃についた習慣は今もそのままで、あいかわらず喫茶店で文章を書いている。  あの頃は会社の帰り道や外回りの途中に入った喫茶店で毎日少しずつノートに小説の下書きらしきものをごちゃごちゃと書き、独身寮の部屋に帰ってから、それを清書していたのだ。  入社したばかりの頃、その独身寮は二人部屋だったのだが、会社が傾き出して社員が少なくなりそれで部屋を一人で使えるようになった。  その頃はまだコンピュータなど持っていなかったから、原稿用紙に万年筆で清書していた。  そんなものを書いてどうしようというわけでもなく、ただ、頭のなかにあるものを文章に移し換えて外に出すという行為がおもしろかった。自分では意識もしていなかったようなことが、文章という道具によって自分のなかから引っ張り出されてくるというそのことがとにかく不思議で、だから誰に見せるでもなくただ書いていた。  ほとんど毎日、書いていた。あの頃、私はそうすることで自分のなかの具合の良くないところを自分の手で治療していたように思う。そうでもしていないと、自分というものの継ぎ目がどんどんばらけて、自身の姿を保てなくなってしまうような、そんな気がしていたのだ。まあそれは今もあまり変わらないのかもしれないが。  書いたあとは自分のなかに溜《た》まった澱《おり》みたいなものが濾《こ》しとられて、それで頭のなかがほんのすこしだけ軽くなったように思えた。  ほんとうにそれが治療になっていたのかどうかはわからないが、とにかく会社勤めをしていた十年ほどの間、私はそんな毎日を送っていた。そのせいか、会社を辞めた今でも喫茶店でしか文章を書くことができない。  文章を清書したり推敲《すいこう》したりすることは家でもできるのだが、まったく新しい文章というのは、喫茶店のテーブルでないと書けないのだ。  稼ぎが少ないからじつを言えば喫茶店代も節約したいところなのだが、できないものは仕方がない。何度やってみても、喫茶店でないと一行も書けないのである。知らないうちに私は自分自身をそう条件づけてしまったのかもしれない。まあそんな事情で、この文章も喫茶店のテーブルで書いている。  会社勤めをしていた頃は、独身寮に帰る途中の喫茶店で書くことが多かったが、今は家の近所にある喫茶店である。  ぎしぎし鳴る木の階段を上がって二階の窓際のテーブル。大抵はそこに座る。  窓から路地が見下ろせる。市場へと続く狭い路地だ。  いろんな人たちが通っていく。  コーヒーが来るまでの間、それをぼんやり眺めている。  窓の下を通り過ぎていくのは野菜であったり果物であったり魚であったり肉であったり、見ているだけでなかなかおもしろい。  そこから見るだけでは野菜だか果物だか魚だか肉だかなんだかわからないものもけっこうある。  紫色の巨大な饅頭《まんじゆう》のような塊や、水槽に入った青や赤の細長いにゅるにゅるしたものや、人間の頭くらいもあるような猫の頭がほいほいほいと次から次へ手渡しで幾つも幾つも市場の奥へ運ばれていったりするのだが、あれらはいったい何で、どんなふうに使うものなのだろうな。  市場も奥の方になると、あまり行ったことがないから道もよくわからないし、前にいちど怖い目にあってからはなるべく行かないようにしている。  そういうのが好きな人もいるのだろうが、私はどうも苦手だ。  窓の下で何やら声があがったので覗《のぞ》いてみると、電柱ほどの太さの頭のない蛇みたいな鰻《うなぎ》みたいなものにアルバイトの青年が巻きつかれている。皆でその蛇みたいなものを引き剥《は》がそうとしているが、力が強くてどうにもならないようだ。いったいどうなるのだろうと思っていると、誰かが鉈《なた》を持って来てその場でアルバイトの腰に巻きついたそいつの解体が始まってしまった。そいつはそいつで大人しく解体されているはずもなく、何人かが撥《は》ね飛ばされ、荷車がひっくり返ったり、店先の蜜柑《みかん》が転がったり、胴体に鉈を打ち込まれてのたうちまわりながらその切り口から噴き出させているあの青いものは血なのか体液なのか、またたくまにそこら一帯が青黒くぬかるんで、とにかくもう大騒ぎである。  かたん、とテーブルが鳴ったので見ると、そこにはコーヒーカップが置かれている。  コーヒーをひとくち飲むと、どうやらそれがスイッチになっているらしい。すぐに集中できる。窓の下からの音も声も、もう気にならない。文章が途中で切れないように自分のなかから引っ張り出すという行為に夢中になっている。  区切りのいいところまで書いて手を止め、大きく息を吐《つ》く。さっきまで、喫茶店ではなくて自分の頭のなかにいたような気がする。そんなふうに感じられるときはうまくいっていることが多い。つまり、そうならないとうまくいかないということなのだが、まあ今のところはたぶんうまくいっている。  ほっとすると店のなかの会話が聞こえてくる。  ほらねあれねえ怖いでしょうなによほらほらあの鶏ねそうそうそううん病気ももちろんそうだけど大きいしつつかれるしだってほらねえあれあんなに大きいんだもんねあれほんとに鶏なのかしらでもどう見ても鶏よそりゃね形はそうなのそうだけどそれにしても大きいんだもんねそれじゃあ大きい鶏なのよ大きい鶏ね怖いのよでも鶏でしょ鶏だけどなにしろあの大きさだからさ嘴《くちばし》が顔の高さにくるでしょうそれでそのまま突ついてくるんだからそれにしてもなんでちゃんと目を狙ってくるのかしらねえあれってちゃんとどこが目なのかわかってるのね考えてみたら不思議よねえ誰に教わるわけでもないのにさそういうのを本能っていうのかしらそれとも知性なのかしらねえおもしろいわよねえとにかく目を狙ってくるからね目をつぶしてそれからあの尖《とが》った爪のついた脚で蹴《け》られるんだってさキックねキックよ凄《すご》い力でねキックされてそのまま地面に倒されてあお向けになったところにあの嘴でお腹をずぶりよそうそうずぶっと入れられるらしいのよそうなのそうよそんなことされたら死んじゃうんじゃないのそりゃそうよ死ぬわよ怖いじゃないだからさっきから怖い怖いって言ってるじゃないのまったく何を聞いているのよ。  いったいなんの話なのだろうとつい聞き入ってしまうのは私だけだろうか。いつもながら喫茶店の会話というのはおもしろい。話している当人たちはまわりの客のことなどまるで気にしていないようなのだ。喫茶店というのはどうもそういうところらしい。けっこうすごい話を平気でしていたりする。  話しているのは中年女ふたり。ふたりともチョコレートパフェを食べている。体形がそっくりなせいか声もよく似ていてどちらの声なのか区別がつかない。ひとりで途切れなく喋《しやべ》っているようにも聞こえる。  ときおり、どこどんどこどこどこどんどこどこと天井が鳴るのは電車の振動だ。この店は鉄道の高架の下にある。頭の上に線路があってそこを今電車が走っていると思うとなんだか不思議で、そしてなぜか妙になつかしくもある。  あのねなんでそんな大きな鶏がこのあたりにいるのか知ってる?  ひとりが言う。  知らないわよ、っていうか、そんなものがいるってことも知らなかったもの。  もうひとりが答えると声をひそめたような様子ででもすこしもひそめていない声で、あれはね、そう、バイオなのよバイオ、バイオテクノロジーなのよね、と続ける。  知ってる?  知ってるわよバイオテクノロジーくらい。恐竜とかミトコンドリアとかそういうやつでしょ。  それは知らないけど、とにかくそれでできたらしいわよ。  それって?  だからバイオテクノロジーじゃない。  バイオテクノロジーでできたの?  そうよ。  鶏が?  そうよ。  そんなことしなくても普通に卵から生まれるんじゃないの?  だから普通の鶏じゃないのよ。  ああ、ミトコンドリアの鶏ね。  さあ、そこまでは知らないけど。とにかく、その、あれよ、そうそう、ほら、このままだと将来、地球の食糧が足りなくなるじゃない。  そうなの?  そうそうそうよ、それでそういう危機に備えてね、そのために大きい鶏を作ったのよ。病気なんかにも強いのをね。  バイオテクノロジーで?  そうそう。  それって映画の話でしょ?  そうよ。  えっ、さっきまでのは映画の話だったの?  だから、そういう映画の話をね、実際にやっちゃった人がいたわけよ。  恐竜とかミトコンドリアとか?  いや、だからさっきから鶏だって言ってるじゃない。  すごいじゃない。  すごいのよ。  たしかにすごいことになっているのだなあと、思いながら隣のテーブルの会話を聞いている。これをこのまま書くほうが私の小説なんかよりおもしろいかもしれないなあ、とか考えながら。  そりゃあね、もう揉《も》めまくりですよ、だってね、五連休ですよ、と入ってきて席にもつかないうちから店中に響くような声でしゃべっているのは紫色のシャツを着た男と緑色のスーツの男である。おかげでさっきまでの会話が聞き取れなくなってしまった。  これをね、こんどゲーム化しようとしてるんですけど、ほら、労働争議なんかは選択肢がやたらと多くて、なかなかね、と紫シャツが甲高い声で言うと、いやいやいや、それはやばいね、そういう片付け方をしてはいかんよ、言うべきことは言うべきところできちんと言うべきだからね、それはもう管理者としての、ほら、その、なにだから。  いや、でもね、ママのほうにしても、すっかり諦《あきら》めてるんですよ。そりゃもう性格とかそういう人間的なことまではね、できたら言いたくないんですよね。  まあそりゃそうだ。もちろんママにはぼくからも言うけどね。うん、性格の悪い奴というのはいるよ、うん、とことん悪い奴というのはこの世に存在するんだな、そういうのはもう死刑にしたほうがいいからね、それはもうぼくもそう思う。だからだよ、だから言ってるんだよ。  いやけどね、この、業務の全体像っていうか、そういうのがよくわからんというか、そのせいでごたごたしているという面もあるんですよ。そこんところもわかってやらないといけないんじゃないかと。  いやいや、それはそれとして、全員が自分でやってみてだよ、やってみてからのことだよ、それは、それでおのおのの意見を出してすりあわせるというようなやり方で集約するほうが。  うんうん、それはたしかにそうですね。  やっぱりこの、組織というものの運営は、最終的にね、最終的な分担をみんなでね、いやもちろんこれは難しいけどな。  うん、そこはやっぱり貫かないとだめですよね。  そうそうそう、そこはもう貫かないとな、貫くところは貫かないと、もうこれはいかんよ。  しかしまあ現場としてはですよ、実際問題、あんなものを押しつけられてもね。  いや、押しつけるとかじゃなくて、ほら、そこは競争原理としてだな。  でも結局は現場が尻拭《しりぬぐ》いをさせられてるっていうか、まあそういう気分はあるんですよ、これは間違いなくね。女の子たちもそう感じてると思うんです。で、実際にそういう面も否定できないわけでしょ。そんな調子じゃ、統率っていうか、士気っていうか、まあ現場の結束がね。  いや、わかるわかる、それはわかるけれどもだね、それじゃ東京式でいいのかっていうとこれまた微妙なところだろ。  ええ、まあ東京式は、微妙ですね。なんにしてもやっぱりあれはまずいんじゃないですかね。  あれって、あれかい、例のあの。  そうそうそうです、あれですよ、あれ、あの鶏。あんな鶏を押しつけられても——。  おいおい、あんまり大きな声でそんなこと言うなよ、誰が聞いてるかわからんよ。ここは天下の喫茶店だよ。  あ、天下のね、そうですね。それにしてもあれはちょっとね、大変でしょう。プールが壊れて逃げ出したそうじゃないですか。  そうなんだよなあ、ほんと、大変なことになったもんだ。  ええ、こっちも実際もう頭を抱えちゃってね。  おいおいおい、大きい大きいよ君、声が大きい。  と、そのあたりから次第に声はひそめられ、ぼしょぼしょぼしょとしか聞こえなくなってしまう。  ぼしょぼしょ、ぼしょぼしょぼしょ、ぼしょ、ぼしょぼしょぼしょぼしょ、ぼしょ。  せっかくこれもそのまま書かせてもらおうと思っていたのにこれではどうしようもない。  そこへ鶏が入ってきたのだった。  いやまあ入ってくるところは見なかったからもっと前からそこに立っていたのかもしれないのだが、とにかく、こおここ、と声がしたからそっちを見たら、立っていたのだ。  トイレの前だ。  私が気づいたのと同時くらいに他の連中が騒ぎだした。  もっと前に気づいていたらもっと前に騒いでいただろうから、皆ほとんど同時にその鶏に気づいたのだろう。  こおここ。  鶏が言った。  大きい。  そんな大きさの鶏をこれまで見たことはなかった。  とさかの先まで入れると一メートル七十五センチはあるだろう。  わあっ、と今更のように紫シャツの男が叫んで立ちあがった。 「なんだ、てめえっ」  とってつけたようなヤクザな口調で喚《わめ》いた。  くくるこ。  鶏が言った。 「おた、おた、おた、おた」  緑のスーツの男が床を這《は》いながら言った。立ちあがろうとして、腰を抜かしてしまったらしい。  とさかが大きいから、これは雄鶏《おんどり》なのだろうと思った。 「あらま、鶏よ」  さっきバイオテクノロジーの話をしていた女のひとりが言った。 「ほんっと。すんごい偶然よね」ともうひとりが感心したように言った。  ふたりが顔を見合わせ次の言葉をさがしている間に鶏は男ふたりに近づき、その前で首をすばやく動かした。それはまるで、振り下ろされる斧《おの》のようだった。  そして、ぴゅううう。  鶏の首がもとの位置にもどったときには、緑のスーツの男の胸から赤い液体が噴水のように真上に飛び散っていた。嘴《くちばし》がまっすぐ胸を突き刺したのだ。  赤い飛沫《ひまつ》は天井までとどき、鶏の白い胴体が赤い水玉模様になった。  くあこ。  鶏は言った。  鶏のまんまるい目が細くなり、そして笑った。嘴を歪《ゆが》めて笑ったのだ。その笑顔の先には紫シャツの男がいた。 「ひっ」  男はしりもちをついたままの姿勢で後退《あとずさ》った。紫のシャツは、赤紫になっていた。 「こ、こ、ここここ、この」  鶏のような声を発しながら、男が懐から取り出したのはオートマチック式の拳銃《けんじゆう》だ。男はそれを両手で握って、鶏の頭に向けた。  思わず耳を塞《ふさ》いだが、いっこうに音はしない。男もそう思ったらしく「なんだよ、おい、どうなってんだよ」などと叫びながら銃を振り回し、それでも弾が出ないからついにはそのまま投げつけようとして、しかしいくらなんでもそれでは大したダメージは与えられないだろうと思い直したのかその動作を中断し、そこでようやく安全装置の存在に思い当たったらしい。かちり、と安全装置が外れ、男の顔に引きつった笑みが浮かんだ。  ぱあん。  安っぽい音がした。  ぱあん。ぱあん。  こ。  鶏がそう言って動きを止めたから、命中したのかと思ったのだが、単に止まっただけで次の瞬間にはその嘴を男の顔めがけて振り下ろしていた。  まず右、そして左。  正確に両目が潰《つぶ》された。  男が、ぎょわっ、と叫んで両目を押さえ、床にはぼたぼたぼたと血が落ちた。男はそのままテーブルの下で丸くなっている。 「うわあ、今度はこっちに来るわよ」  女のひとりが叫んだ。 「どうするどうする」  もうひとりが言った。 「こっこちゃん、落ちついて落ちついて」  女が鶏にささやきかけた。 「こっこちゃんって、なによ」 「あの子の名前に決まってるじゃない」 「そうなの?」 「だって鶏だもの」 「そんなのでいいの?」 「いいのよ。それより、よけいなこと言ってないであんたちゃんとやることやってよ」 「はいはい、わかってますよ。やれやれ、また男どもの尻拭《しりぬぐ》いかあ」  肩をすくめてそう言うと、壁を背にして立った。その間にもうひとりは「ほらほら、こっこちゃん、こっちよこっち、手の鳴る方へ」などと手を叩《たた》きながら窓際——つまり私の座っている方——へと近づいてくるのだ。  くかここ。  鶏がこっちを見た。目があったような気がするがよくわからない。暗闇に金色のリングのはまったようなまんまるの鳥の目だ。  鳥類と爬虫《はちゆう》類の目はよく似ている。  それにあの首だって蛇みたいだし、脚には鱗《うろこ》みたいなものまである。たぶん生き物としてもかなり近いのだろうな。 「ね、こっこちゃん、私たちはあなたのことを食べたりなんかしないし、もちろん処分したりもしないからね」  こおこ、とこっこちゃんは言った。それから短い羽でせわしなくはばたき、私の前のテーブルに飛びのってきた。  脚がコーヒーカップを払いのけた。  床でカップが割れたが、すでにコーヒーは飲み終えていたので被害はなかった。  今、私の目の前には人間の太ももかあるいはそれよりも太いもも肉があった。テーブルの上を滑ってかちかち音をたてている象牙《ぞうげ》色の爪は鋭くて硬そうだ。 「さあ、こっこちゃん」  窓際に立った女がいきなりセーターを両手で捲《まく》り上げた。  ブラジャーはしておらず、乳房が丸見えになった。  大きくて垂れている。 「いらっしゃい」  こっこちゃんはあっけにとられたようにそれをしばらく見つめ、テーブルの上でかつんかつんと脚踏みした。それから、こけかこ、と叫んで飛びついていった。  こっこちゃんの嘴がまっすぐ女の心臓に突き刺さりそうになったとき、女の上体が大きく動いた。それに伴って、垂れ下がった乳房が、ぶん、と音をたててスイングし、そのままこっこちゃんの横面を張ったのだ。  ぺち。  餅《もち》をつくような音だった。  けこ。  こっこちゃんの開いたままの嘴からそんな声とも音ともとれないものが漏れ、動きが一瞬止まった。そして、次の攻撃に移ろうとしたその瞬間、こっこちゃんの頭はなくなっていた。  頭のない体で、こっこちゃんはばさりばさりと大きく二度はばたき、そのまま動かなくなった。  こっこちゃんの頭があったところには、もうひとりの女の顔があった。  女の頬はぱんぱんに膨らんでいる。ひっぱられて薄くなった頬ごしに鶏の顔らしきものが透けて見えていたが、すぐにごきゅごきゅごきゅという音とともにその膨らみは喉《のど》の部分へと移った。それがやけにゆっくりに見えるのは、その動きがゆっくりだということ以上に、女の首が長いからなのだ。なにしろ女は、窓と反対側の壁を背にして立っている。にもかかわらず、女の顔が窓際のこっこちゃんの頭があったところにあるということは、少なくともその女の首はそれだけの長さがあるということになる。  どうやら女は鶏の頭にかぶりつき、そのまま丸ごとくわえ込んでいるようなのだ。  口が耳の後ろまで綺麗《きれい》に裂けていた。  そのとき突然、叫び声をあげて立ちあがったのは目玉を突つかれて血を流していたさっきの紫シャツの男で、シャツはすでに赤黒くなっている。あいかわらず両目をおさえた両手の間からだらだらと血を流しながら、逃げようとして階段を見つけられずにそのまま床に倒れて、また静かになった。  そこへウエイトレスがやってきた。彼女は二階の様子をひとめ見るなり記述不可能な悲鳴をあげ、階下へと去った。  さっきの鶏はと見ると、もうそこには跡形もない。そのかわり首の長い女の喉が、つちのこのようになっているから、鶏の頭だけでなく胴体まですべて呑《の》んでしまったのだろう。 「お姉ちゃん、ひどいじゃない」  乳房を出したままの女が叫んだ。 「なんでひとりで全部食べちゃうわけよ」 「あとでちゃんと出すわよ」 「そんなこと言って、この前も全部消化しちゃったじゃない」  セーターのなかに大きな乳房をひとつずつ丁寧にしまいながら女はぼやくのだ。  言われた方は「あら、そうだったっけ」と首を傾げるが、その長い首の途中は鶏の形に膨らんでいる。人間よりも大きな鶏が首の途中にあってはさすがに立ちあがれないのか、女の身体も床にどたりと横たわったままである。  次に階段を上がってきたのは店長で、彼は「こりゃ、ひどい」とだけつぶやいてその場に突っ立っている。しばらくはそのまま何事か言いたげにしていたが、肩をすくめるとおもむろに掃除を始めた。なぜ彼のその行為が掃除だとわかったのかといえばバケツと雑巾《ぞうきん》を持っていたからだ。 「店のなかでこういうことされちゃ困るって前から言ってるじゃないですか」  店長は床に這《は》いつくばったまま言った。 「これでまたアルバイトが辞めちゃったらどうしてくれるんです」  乳房の女が笑った。 「笑いごとじゃありませんよ」  店長は雑巾で床の血をぬぐい続ける。 「ほらあ、もう、ぼさっと見てないで、ちゃんときれいに片付けていってくださいよ」 「わかってるわよお」  乳房の大きな女は、緑スーツと紫シャツの男のベルトのあたりに手をまわし、同時に小脇に抱えた。自然で無理のない動きだったから、そんなに特殊なことをしているようには見えなかったのだが、女は脇にふたりの男を軽々と抱えているのだ。 「ああやだやだ、いつだって私が損な役まわりなんだから」  ぼやきながら階段を下りて行こうとする女の背中にあわてて店長が声をかける。 「ちょっとちょっとちょっとお、困りますよお」 「なにがよ?」  振り向いた女は、もう人間の顔をしていなかった。 「なにがって、下の階には他のお客さんもいるんですからね。ちゃんと裏口から出ていってくださいよ」 「私だっていちおうお客さんなんだけどな」 「いやもう、ほんと、お願いしますよ、冗談抜きで」  店長は乞《こ》うようにトイレの脇を見た。観葉植物の鉢の後ろに小さな木のドアがある。私はそれを掃除用具入れだとずっと思っていたし、現にさっきも店長はバケツと雑巾をそこから出してきたのだったが——。  女は「はいはい」とうなずいてその扉を開け、脇に一人ずつ男を抱えたままでそこに入っていった。  たぶん、あの鶏もあそこから入ってきたのだろうな。  私は思った。それで入ってきたときに気がつかなかったのだ。階段を上がってきたのなら、いくら私でも気がつくだろうし、そうでなくてもまず一階の客が気づくはずだ。  店長は床の血を雑巾で拭《ふ》いてバケツに絞り、また床の血を拭く、という行為を機械のように黙々と続けた。バケツの水が真っ赤になるとそれをトイレに流し、また新しい水を入れた。それが何度も繰り返されるうちに、足の踏み場も目のやり場もなかった床は、なんとかそれなりに見ることができるようになった。  どうしようもないとしか思えないようなことでも、手の届くところからひとつずつ丁寧にこなしていけばけっこうなんとかなるものなのだな、と私は素直に感心した。  そんなふうにして私のいるテーブルまでやってきた店長は、そこで初めて私の足に気づいたらしく、顔をあげた。 「あ」  彼は言った。立ちあがって私のテーブルの上と床で割れているコーヒーカップを見た。 「これは失礼しました。すぐにかわりのコーヒーをお持ちします」 「あ、どうも」  私は言った。  店長は一階に下り、すぐにコーヒーを持って戻ってきた。  私は小説の続きを書き、彼は掃除を続けた。  突然、トイレの脇のあのドアが、また開いた。顔を出したのはさっきの女だった。 「ちょっと、お姉ちゃん、いつまで寝てるのよ。今日は自分で歩いてよね。私、両手が塞《ふさ》がってるんだから」  その声に反応して壁の前で何かが動いた。  もうひとりの女だった。さっきからずっと壁の前で転がっていたらしい。  その胴体が、床に転がったままの自分の頭とそれに繋《つな》がる膨らんだ首を引きずるようにして歩きだした。  胴体と首と頭がまるで別々の生き物のようだった。ごぼっ、と女の口からとろみのある半透明の液体が噴きだした。 「ああもう、さっき拭いたところなのに」  店長が女の頭を両手でつかんで持ち上げ、歩いていく女の胴体の後に続いてトイレの脇のドアに押し込んだ。入る寸前、逆さまになった女の顔が私を見て、にまあ、と笑った。  ドアの向こうは階段になっているらしく、女の胴体はその階段を一歩一歩上っていく。そのあとに、ずるずるごとごとと頭が続いた。店長はまた床の掃除にかかりきりになっている。  胴体が一段上がると、それに引きずられて頭も一段上がる。その度に後頭部が階段にぶつかる、ごとん、ごとん、という音がしばらくは聞こえていたが、やがて、電車が高架を通過するときのどんごとんどんごとんどんごとんという音に紛れてわからなくなり、電車が行ってしまったあとはもうなにも聞こえない。  店長はようやく掃除を終え、トイレの隣のドアにバケツと雑巾を入れ、トイレで手を洗うとそのまま階段を下りていった。  二階席に残っているのは私ひとりになった。  窓の下は市場の路地で、今日は雨が降っているせいか人通りが少ないが、それを除けばいつもと変わりはない。  何事もなかったような気もするが、いちどは飲んでしまったはずのコーヒーがこうしてまた目の前にあるのだから、やっぱり何かがあったのだろう。  顔を上げると、トイレの脇の観葉植物の鉢の後ろにドアが見える。  あの向こうに階段があることを私は知っている。さっき見たのだから間違いない。  しかし、考えてみれば、この上にはもう階など無いはずである。ここは鉄道の高架の下で、上には線路が通っているのだから。  ではあの階段はどこに通じているのか。高架の上に出るのだろうか。線路にでて、枕木と砂利の上を歩けばまもなく赤目川の鉄橋にさしかかる。そこまで行けば踏み切りを通って線路の外に出ることはできるだろう。  あの踏み切りのあたりに妙なものが棲《す》んでいるという話は前からあったが、仮にさっきのあれがそういうものだとしても、わざわざそんなものが出入りできる階段とドアを店内に作ったりする理由がわからない。この喫茶店にとって何か得なことでもあるのだろうか。  まああんなものが入ってくるのを迷惑そうにしながらも店長は容認しているようだったから、やはりそこには何かあると考えるべきなのだろうな。  とまあ、そんなふうなことを考えつつ二杯目のコーヒーを飲んでいると、またまた頭の上に、ごんごんごとんごん、と電車が入ってきた。  とたんに、ぎいいぐぎぎぎぎぎぎいいいい、とものすごい音である。そのまま電車は停止したようだ。  コーヒーを飲み終え、使いものになるかどうかはともかくとして予定枚数には達したからそろそろいいかと席を立ったが、なぜかまだ頭の上の電車が動く気配はない。  ずっと停まったままである。  喫茶店を出ると、コンクリートの隙間から高架の上にある駅のプラットホームが見える。  いつもは無表情で並んでいるだけの人たちが、今はなぜか皆生き生きした表情をしている。  うわあ、ぐちゃぐちゃだよ、とかなんとか。  いろんな声が聞こえてくる。  いったい何事かと駅員に尋ねる声も聞こえてくる。  飛び込みですよ。  うんざりしたような口調で、若い駅員が答える。  自殺なの?  わかりません。とにかく男ふたりがいっしょに飛び込んだみたいで。  男ふたりが?  ええ、男ふたりです。  心中かね。  男ふたりですよ。  男ふたりだって心中くらいするだろう。  まあ詳しいことは私にもわかりませんけどね、とにかくホームの端に靴が揃えて脱いであったんですよ。  じゃ、覚悟のうえだよな、やっぱり。へええ、靴がねえ。  ええ、紫色の靴と緑色の靴。  紫と緑っていうのはすごいね、どうも。  まあすごいのは靴だけじゃなくてね、と妙に嬉《うれ》しそうにそのあとを続けようとしたところへ、駅の構内放送がわおわおああおあんあごおおあ、と何事かを告げ、はいはいわかってますわかってますよお、とつぶやいて早足で去っていく若い駅員のその手には、なぜか見覚えのある雑巾《ぞうきん》とバケツがある。 [#改ページ]   その四 皮を反す  自転車で坂を下るのが子供の頃から大好きで、じつは今もかなり好きだ。  だから、うわばみ坂と呼ばれているその長い坂道のことを知ったとき、それをいちばんに考えたのである。  人面銀座のお知らせ板のところに置いてある「町民だより」という小冊子のなかのご近所散策マップで紹介されていた。  まるで蛇がとぐろを巻いているような坂でその下にある両面寺への参道でもあるのだという。写真で見た限りではなかなか自転車で下り良さげな坂である。天気のいい日にさっそく行ってみることにした。 「町民だより」を片手に自転車を漕《こ》いだ。  商店街を駅とは反対方向に抜けて郵便局の角から路地に入る。水道橋をくぐり石垣沿いにしばらく行くと、人面銀座と同じくらい大きくて古い商店街にぶつかった。こんなところにも商店街があったとは知らなかった。  では、地図に描かれているこの点線は商店街ということか。簡単な地図だから他に目印らしきものはないが、この商店街の先がそのままうわばみ坂に繋《つな》がっているようだ。商店街が、もうすでに緩やかな下り坂である。  アーケードが切れたあたりから傾斜が急になった。なかなかいい感じだ。  自然と顔が笑ってしまう。  天気もいいし、自転車を漕いで温まった身体にはこの冷たい風もちょうどいい。  広くなったり狭くなったりする坂道を走り下りていく。  子供の頃、近所にあった小さな山の坂道をブレーキをかけずに下りきろうとして途中のカーブを曲がり切れずそのまま自転車で墓地に飛び込んで腕の骨を折ったことがあった。もう大人だからさすがにそんな無茶はしない。たまにブレーキを使いながら下っていく。  思っていた以上に具合のいい坂道ではないか。  途中から坂は大きな円を描きだした。  なるほど、蛇がとぐろを巻いたようになっている。  回りながらどんどん下っていく。  どうやら土地がすり鉢状になっているらしい。自転車を内側に傾けたままぐんぐん下っていく。左巻きの螺旋《らせん》だ。  蚊取り線香の外側から中心に向かって進んでいくように下っていくから、その半径は次第に小さくなっていく。さっき通った道がすぐ外側のすこし上方に見えた。  すり鉢の底には、町民だよりの写真にもあった五重の塔らしきものが見える。  すっかり楽しくなって、左巻きにくるくる回りながら下りていった。  まあしかし、これでは帰りが大変だろうな。  ふと、そんなことを思う。  往きはよいよい帰りはひたすら上り坂。自転車を漕いで上るのはとても無理だろう。押しながら歩いて上らねばなるまい。まあこれだけ下り坂を楽しむのだから、仕方がないことだが。  くるくる回って坂を下りきったところが山門で、手前には鳥居、門の左右には木彫りの仁王像、その向こうには朱色の五重の塔が覗《のぞ》いている。今日は何かのお祭りにでもあたっているのだろうか、境内には人が大勢歩いている。いたるところに立っている赤い幟《はた》には白く染め抜かれた文字で『亀遊』。意味はおろかどう読むのかすらわからない。  それにしてもここに来るまでの道には人影などまるでなかったのに、こんなに人がいるというのは不思議である。別の参道でもあるのだろうか。あるいは、ここにいるのは人ではなくて幽霊とかそんな類《たぐい》のものだったりして、などと一瞬考えたりもしたのだが、特におかしな様子もなく、どう見ても生きている人である。  ござの上に古道具やら古着、古本を並べた店がずらりと並んでいたり食べ物の屋台や蝦蟇《がま》の油売りまでいるから、どこかに自転車を置いて身軽になって、そこらをぶらつこうとさっきから考えているのだが、なかなか適当な場所がない。人の流れのままに自転車を押していくと、石畳の向こうから聞こえてくるのはなぜか波の音。  どざああああざあ、どざああああざあ。  その方向に水面らしきものがちらちらと見えるから、きっと池があるのだろう。  立て看板には、矢印と『亀の海』という文字が書かれている。周囲には松の木。その幹にはスピーカーが結わえつけられていて、どうやら波の音はそこから聞こえているらしい。 『亀の海』だから波の音を流しているのだろうか。  そんなことを思いつつ近づいていくと、波の音だけではなく、ラジオ番組らしき音声やがあぱあぴいいいいがあ、といったハウリングが聞こえてきたから、あれは波の音などではなく、ノイズがたまたまそんなふうに聞こえただけかもしれない。  手ごろな松の木の下に自転車を停め、ダイヤル錠の付いた鎖をかけた。  まあここなら通行の邪魔にもならないだろう。  それにしても『亀の海』とは大袈裟《おおげさ》である。ただの四角い池なのに。  覗きこんで見ると、なるほど亀はたくさんいる。あたりまえだ。神社やお寺に亀の池はつきものだからな。  ところが、泳いでいる亀を見て驚いた。  なんとまあ、海亀なのである。  あのオールのような足をはたはたと水中で動かして泳ぎまわるいろんな大きさのいろんな海亀だ。これほどの数の海亀は水族館でも見たことがない。  中央に架かる太鼓橋の上に立ち、紙袋からぱらぱらとなにやら水面に撒《ま》いている人がいる。その紙袋には『亀の麩《ふ》』とあって、ここで売られているものらしい。しかし淡水の亀は麩を食べるが、海亀もそんなものを食べるのだろうか。  水面から突き出ている看板には、『この亀は噛《か》みます。飛び込まないでください』とある。別に亀が噛まなくてもこんなところに飛び込む奴がいるとは思えないが、でもわざわざこうして書いてあるくらいだからいるのだろう。  亀の海を見ると、石垣沿いに小さな砂浜があって、そこには靴跡がついている。あんなところを誰かが歩いたようだ。  その先は砂を掘りかえした穴がいくつもある。いったいあれは何をした跡なのだろう。  あれこれ考えながら靴跡やら穴やらを見ていると、ふむまったくけしからんな、とすぐ横で麩を撒き終えた老人がつぶやいた。周囲には誰もいないからたぶん私に言ったのだろう。  夜中に卵を盗みにくる奴がおるんだ。  穴を指差してそう言う。  卵ですか?  そう、と老人はうなずいた。  けっこういい値で売れるらしいからな。  海亀の卵がですか。  ああ、なかなかうまいらしいな。  あの砂浜に海亀の卵があるんですか。  そうそう、産卵は大抵夏なんだが、今時分でもたまに来ることがある。と指差す先にはなるほど『亀の産卵のため、夜は静かにしてください』の看板。  それにしても、これだけの海水を海からここまで運んでくるのは大変でしょうね。水換えとかはどうやってるんですか。  ちがうちがう、と私の問いに老人は大きく首を振る。  下のほうで海と繋がっとるのだ。  えっ、それは、ここと海とが繋がってるっていうことですか。  そうそうそう、と老人は指で地面に絵を描きながら続ける。  まずあそこにあるのが亀の井戸。あれはここから龍宮《りゆうぐう》まで繋がっとるのだな。ここは龍宮と同じ高さにあるからな。銀の樋《とい》を通って海の水がここまでくる。それで海の水といっしょに亀もくる。むろんあの亀の井戸とこの亀の海が地下で繋がっとることは言うまでもないわな。なにせ、ここには敵がおらん。ここで産卵してある程度の大きさになるまでここで育ってから海に出て行く方が亀にとっては安全だからな。そうやってここで生まれて育った亀がまたここに卵を産みに帰ってくる、とまあそういうことよな。  はあ、なるほど。  私がうなずくと、老人は、ところがなあ、といきなり声を張りあげた。  このごろ悪い奴が出てきて、この卵を狙うんよな。そういう奴は許せんだろ。そういう不心得者は必ずや地獄に堕《お》ちて、地獄の池でその身体は未来|永劫《えいごう》亀に食われつづけるであろうな。あんたもそう思うだろうがな。だから、そのことを思い知らせてやることにしたのよな。ここでな。まあここでやれば亀が跡形もなくきれいに食っちまってくれるんで、つまりは一石二鳥、面倒がなくていいわな。  そう言ってひとりで大笑いするのだ。  言っていることがよくわからなくなってきたので、愛想笑《あいそわら》いを返し、それじゃ私はちょっとその亀の井戸を見に行ってきますね、とその場から——というかその老人から、だが——足早に離れたのである。        *  亀の井戸というだけあって、その小さなお堂は亀の甲羅の形をしていた。大きな亀の甲羅だけをそこに置いたような、ようするに中身のない空っぽの甲羅のように見えるのだ。  なかに入ると、その中心には、井戸のような穴がある。  その周りは柵《さく》で囲われていて、その由来を説明するプレートがあるのだが薄暗くてほとんど読めない。たぶんさっきあの老人が言っていたようなことが書いてあるのだろう。  甲羅の内側にあたるその天井いっぱいに泥絵の具で描かれているのは、大きな亀だ。どこから光が射しているのか、それは細かいところまでよく見える。  首を伸ばしてこっちを向いているその亀は、なぜか人の顔をしているから、ろくろ首のようでもある。年を重ねると亀もそんな風になるのだろうか。よく見ると人の顔をしているだけでなく、その背中の甲羅にもたくさんの人の顔を貼りつけている。くっきりとした顔もあれば甲羅の凹凸に紛れてしまいそうなぼやけた顔もある。見つめているといくらでも見えてくる。髪の毛のように生えている苔《こけ》の隙間からも目玉のようなものがいくつもこっちを覗いている。そんな気がする。いや、気がするだけでなく、実際さっきも目があった。  亀に乗って龍宮へ行くというのは、つまりこういうことなのだろうか、とまあそんなふうなことを考えるともなく考えていたら、外でなにやら騒ぎが起こった。  なにごとかと出てみると、さっき私がいた松の木のあたりに大勢の坊さんがいて、水面を指差したり叫んだりしている。  ところどころ聞き取れる言葉から、どうやら飛び込みがあったらしいとわかった。それも野球やサッカーの試合に便乗して水に飛び込んだというようなのではなく、ようするに身投げである。  どうやらあの亀の海の中心部はそんなことができるくらいに深いらしい。まあ龍宮と繋《つな》がっているくらいだからな。重しになるものを服のポケットに入れて飛び込めばどこまでも沈んでいってしまう。  そう、たぶん龍宮までも。  さて人をすくうは坊主の仕事、というわけで、坊さんたちがこの身投げした人物を大きな網でなんとかすくい上げようとしてはいるのだが、なにしろ水面は亀だらけである。餌をくれると勘違いしてよってくる亀たちでたちまち網はいっぱいになってしまい、そのまま水中に引きずり込まれそうになるのを全員で引っ張ったものだから亀の重みでたちまち破けてしまった。  あーあ、と見物から諦《あきら》めともため息ともつかない声があがる。  だがその衝撃で重しを入れていた上着が脱げたのか、亀亀亀亀のその隙間にうつぶせのままで人間が浮かんできた。  あれはさっきの老人ではないか、とそう気づいたとき、群がってくる亀に埋めつくされ、ついっ、と再びその姿は水面から消える。  亀たちがくわえてそのまま水中に引き込んだのだ。なにしろ毎日|麩《ふ》ばかり食わされているところにいきなり肉がきたわけだから、親亀も子亀も孫亀も飛びつくだろう。亀まっしぐらに寄ってきて、その平らな足でばしゃばしゃやるものだから亀の海は瞬く間に赤黒く泡立ち、たちまち赤潮の海のようになった。  うわあえぐい、たいへんだあ、はやくはやく、もうだめだよ、なんとかしろ、救急車救急車、警察警察、無駄無駄、だってほらもうなんにもないよ、ひえええ、などと見物が騒ぎ、破けた網を持ったまま坊さんたちが頭を寄せあって相談しているうちに、誰が連絡したのか警官が何人もやってきて、そこらにロープを張り巡らせ始めた。  坊さんたちに事情を聞いているあの男は刑事なのだろうか。制服を着ていないからそうなのだろうなあ。  あの松の木の下に草履がそろえて脱いであるのが見える。それに遺書らしきものも。  ということは、覚悟のうえの身投げに間違いないのだろうなあ。私と話したあと、すぐに飛び込んだらしい。ということは、あの身投げした老人と最後に話をしたのは、この私ということになるのか。  うん、たぶんそうだな。  まてよ、いったいどんな話をしたんだっけ。  なんだか頭のなかがごちゃごちゃしてうまく思い出せない。いかんいかん。あわててはいかん。ちゃんと思い出してやらないと悪いような気がする。なにしろ最後に話したのだ。なにかとんでもなく大切なことを聞かされているかもしれないではないか。でもだめだこの調子ではとても無理、せめてもうすこし落ちついてからにして欲しい。  だから今事情を話すわけにはいかない。なのに、自転車はあの松の木の下に停めてあって、なんとそれは警察がすばやく張り巡らしたあの黄色と黒の縞《しま》のロープのなかである。もしここであの自転車を取りに行ったりしたら、まちがいなく事情を聞かれることになるだろうし、もしそうなったらというか、きっとなるに決まっているのだが、そうなったら私はきっとしどろもどろになってわけのわからないことを言ってしまうだろう。しゃべりながらこれではあの老人に対して申し訳がたたないなと思う、そう思えば思うほどしどろもどろになり汗まで出てきて、ヘタをすればこれはどうも様子がおかしい、などと刑事に思われかねないそう思うとますます汗が出てくるそうでなくて暑がりで汗かきなのだがもちろん警察はそんなことなど考慮してくれるはずもないしそもそもそんなことまで知らないだろう、だからといってそのことを今更告げても言葉通りに受け取ってくれるはずもなく、つまりますます疑われることになってしまうだろう、とそう考えているだけで汗が出てきた。冬だというのに額に汗がじっとり。まずいまずいな、とてもまずいこれは。もし捕まったりしようものならえらいことだ。なにしろいつもぼんやりしている私なのだ。なんのためにここへ来たのか、なぜあんなところに立って亀を見ていたのか、いきなりあらたまってそんなことを尋ねられてもうまく答える自信はない。だからといって、なんとなくです坂が好きです亀も好きですでは納得してもらえないに違いない。なにしろ向こうも仕事だ。こっちが口ごもっているうち、警察側にわかったわかったつまりお前の言いたいことはこうだろう、こうこうこういう理由でこうなってそれでこうこうこういうことになってしまった、それに相違あるまい、などと言われ、言われ続けているあいだになんとなく自分でもそんな気がしてきて、なにしろ普段から記憶力にはまるで自信がないので、思い出してしゃべったことのなかにはいろいろと辻褄《つじつま》のあわないところが出てくるだろうから、そこを指摘されねちねちねちねちとつつかれ突っ込まれて、めりめりぺしぺしと音をたてて土台が軋《きし》み始め、そしてついには、がしゃがらがらぐしゃがらがんがらがらがらがらがらとさっきまで自分では現実だと思っていたものが崩れてしまうのだろう、きっとそうなるに違いないのだ。  もしそういうことになるととてもまずいからあの自転車を取りに行ってはいけない。そうだ、あとで取りに行くことにしよう。とりあえず今行ってはいけない。それどころか、ここでこうしてじっと立っているだけでもけっこうまずいことになるかもしれない。その証拠に、ほら、あそこにいる坊さんのひとりがこっちを指差して何かしゃべっていてそばにいる警官はその言葉にうなずいたではないか。なんだあのくそ坊主、あることないこと警察にしゃべりやがって、とそんなわけであわててこの場所を離れることにした。  あわてて離れるとはいっても、けっして早足になってはならない、さりげなくだぞあくまでもさりげなく、と自分に言い聞かせながら現場から遠ざかっていくのだ一刻も早く。  じわじわと後退《あとずさ》ってから、思いきって亀の海に背を向けた。また誰かがこっちを指差しているかもしれない。振り向きたい衝動をどうにか抑えつけ、とにかく人の少ない方へ少ない方へと歩いていった、もしかしたら追手がいるかもしれないから角を続けて曲がったり人の流れに逆行したり、とまあそんな事情があるのだから、いったいどこをどう通ってそこに出たのかを憶えていないというのも無理はないだろう。  とにかく気がついたら石段を早足でひたすら下っていた。  前にも後ろにも数え切れないほどの鳥居が連なっている。  石の鳥居ではなく、朱色の木の鳥居だ。ぎっしりと並んだ鳥居のせいで石段はトンネルのようになっていて薄暗い。鳥居の左右の脚には寄進した者や団体や組織の名前が書かれていて、それがまるで呪文《じゆもん》のようにどこまでも続いている。  もうどのくらい下っただろうと振り向いたところで足を踏み外した。いや、たぶん踏み外したのだろう。そのあたりはよくわからない。というのも、しばらく意識が途切れていた。いや、しばらくなのだろうか。どのくらい途切れていたのかもよくわからない。とりあえず身体のあちこちが痛かったし肘《ひじ》も擦りむいている。  怪我の具合からして、どうも転がりながら石段を落ちたらしいのだ。  そんな映画があったな。まああれは男の子と女の子がいっしょに転げ落ちるんだったが。  その映画のことを思い出したのは身体を起こしたときに見えた風景のせいもあったかもしれない。  そこは町を見下ろす高台になっていた。坂の多い町を舞台にしたあの映画にもそんな風景が出てきたのだ。そう、たしかこんな高台から自分たちの住んでいる町を見下ろすシーンがなかったか。  と、そこでやっと、これはおかしいということに私は気がつくのだ。気がつくのが遅過ぎるのかもしれないが、なにしろ普段からぼんやりしているところに石段で頭を打ったのかもしれないのだから、これも仕方がないだろう。いや、そんなことよりも、だ。  石段から転げ落ちたはずなのに、なぜ私は石段を上り切った高台にいるのだろう、ということなのだ。あたりを見まわしても、ここがいちばん高いところで、だからここへ下ってくる石段などどこにもない。  どうなっているのだ。気を失っているところをそのまま誰かに移動させられたのだろうか。しかしいったい誰がなんのためにそんなことをするのか。  宇宙人に誘拐されたとか空飛ぶ円盤のなかで変なものを埋め込まれる手術を受けたとか、そんなことを主張する人たちのことがなぜか頭をよぎった。  なにがなんだかわからないまま、高台の端に立っている。手すりはないからあまり縁に近づくのは怖いが、景色はよかった。  蛇行する川とそれに沿って広がる緑色の湿地が見える。鉄橋と線路と駅、市場とその反対側に広がるあの茶色いところは操車場跡、そして市場の向こうに見える商店街のアーケード。あれが人面銀座かな。  ということは、うちはあの商店街の外れの路地を入って坂を上り切る手前だから——、と目でたどっていくのだが、そんなことをしている自分がいったい今どこにいるのかがわからなくなった。  たしか自転車でひたすらぐねぐねと坂を下ってここまでやって来たはずなのだ。だから、こんな高いところにいるはずがない。  しかしまあ実際にいるのだし、そんなことであれこれ悩んでいても仕方がないから、とりあえず石段を下りていくことにした。  すこし下りると、さっきの亀の甲羅形のお堂と亀の海が見えてきた。もう警察はいないし、ロープもなくなっている。あんなにいた見物人もいない。  松の木の下に私の自転車だけがある。回収するなら今のうちだ、とあたりをもういちど見まわしそれから私は自転車に駆け寄ってすばやくダイヤル錠を外し、自転車に飛び乗って帰路についたのだ。  なんだかいつもと微妙に乗り心地が違うような気がした。でもそれどころではない。  来るときと同様、帰り道も下り坂だったので、じつに楽だった。ほとんどペダルを踏むことなく螺旋《らせん》状の坂を左巻きに下り、路地と商店街を抜け、家に帰りついた。  妻はいなかった。  買い物にでも出たのだろうかと思っていたのだが、暗くなっても帰ってこない。  腹が減った。  妻はいっこうに帰ってこない。何か作って先に食べようかどうしようか迷っていると、がらがらがらと玄関の戸が開いた。  妻が立っている。 「どこに行ったのかと思ってたら、こんなところにいた」  私を見るなり妻は言った。 「そっちこそどこに行ってたんだよ」  そう尋ねる私の手を妻がつかんだ。  そのまま表に出た。 「さあ、帰るわよ」 「帰るって、どこへ?」 「うちに決まってるでしょ」  表には妻の自転車があった。 「ついてきて」  妻が自転車に乗ってそういうから、私も自分の自転車に乗り、なんだかわからないままそのあとをついていった。  まだ私が入ったことのない路地に入っていく。かなり速いし、やたらと角を曲がるからすぐに見失いそうになった。ついていくだけでせいいっぱい。どこをどう走っているのかすらわからない。  それにしてもえらくきついなと思っていたらさっきからずっと上り坂なのだ。たまに緩やかになったりもするがそれでも上って上って上り続けている。いつまでこんな坂が続くのか。ときどきとんでもなく急な上りがあったりして、そこは妻がそうするように自転車を降りて押して上った。いったいどこまで行くのか尋ねようにもなかなか追いつけない。そんなふうにして一時間ほども上り続けただろうか、ふらふらになってひょいと角を曲がると、見覚えのある商店街に出た。  なんのことはない、ここはもとの人面銀座ではないか。この商店街の外れの小さな坂を上ればうちである。いったい何をやっていたのやら。自転車で周囲をぐるぐるぐるぐる巡っていただけか。  いやまて、しかしそんなはずはない。  なにしろ初めからずっと上り続けだったではないか。緩やかになったり急になったりはしたが、一貫して上り続けていたはずだ。なのになぜもとのところに着いたのか。  商店街の外れの最後の坂を立ち漕《こ》ぎで上りながら私はひたすら混乱している。 「裏面に迷い込んでたのよ」  妻が立ち漕ぎのまま振り向いて言った。 「私がすぐに気がついて迎えに行ってあげたからよかったけど、あやうく戻れなくなるところだったのよ。ときどき穴があるから気をつけないと」 「穴って」 「ほら、こっちではすり鉢の底みたいになってるでしょ、あそこ。それが裏面にまわると山になってるわけよ。普通はそこで気がつくんだけどね、自分が裏側にまわっちゃったって。あなたはいつもぼんやりしてるから裏面のまま気づかずにうちに帰ってきちゃったのね」  呆《あき》れたように妻が言う。 「ま、あなたって、自分が裏返されても気がつかなかったりするようなとこあるものね」  そうなのか。いくらなんでも、そんなことはないだろうと思うが。  うちに着いた。これは裏面のうちではなく、もとのうちらしい。どこかで裏から表に返って、つまりここは表の面ということになるのか。 「裏面か」  私はつぶやいた。 「そんなのがあるとは知らなかったな」  まあ私は知らないことのほうが多いのだからしかたがないとも思う。とにかく帰ってこられてよかった。ひとりではとても帰ってこられなかっただろう。  そんなわけであれ以来、両面寺には行っていない。亀の海はもういちど見たいのだが、またあんなことになると困る。  それにしても裏面に行ってしまうなんてことがあるとはなあ。  どうやらこの世界は、私が思っている以上に薄っぺらい皮みたいなものらしい。  しかし、あそこが裏面だとすればあそこに自転車を置いていたのは誰なのだろうか。ひょっとすると、裏面の私か。裏面にも私がいるのか。では、その裏面の私は今どうしているのだろう。もっとも、こっちが表だと思っているのは、この私がこっちにいるからというだけのことであって、裏面のほうからすればあっちが表でこっちが裏ということになるのだろうな。  とそこまで考えてふと思うのは、いや、そもそもこの私だって、ずっと前に裏の面に迷い込んでそのままそんなことを忘れてしまい、ここを表の面だと思い込んでいるだけなのではなかろうか、といったような、まあいかにもありそうなこと。 [#改ページ]   その五 舌を出す  駅の階段を下りたところにあった駅周辺地図で埠頭《ふとう》の方角をたしかめた。  高架の上のプラットホームからは商店街や飲食店の明かりがいくつも見えていたような気がしたのだが、行く手には銀色の街灯が並んでいるだけ。  ではさっき見えていたあれは、反対側だったのだろうか。方向音痴のせいか、すぐそういうことがわからなくなってしまう。だから初めてのところに行くときは、まずその駅で地図を見るようにしている。  まあそれでも道に迷うことのほうが多いのだが。  どこどこどこどこ、と新交通システムの車輛《しやりよう》が高架の上を遠ざかっていくのが見えた。芋虫のような形をしたあの車輛は、本来ならほとんど無音で軌道を走行することができるはずで、それゆえに新交通システムと名付けられたはずなのだが、老朽化のせいなのか今ではあの通りだ。  夜風には、かすかに海の匂いが混じっている。幅の広い道路の左右には店も民家も見当たらず、まるで人の気配がない。駐車したトラックや作業機械、その後ろに倉庫らしき蒲鉾《かまぼこ》形の建物がどこまでも並んでいるだけだ。  妻からわたされたチラシに描かれている簡単な地図によると、このまま埠頭に突き当たるまでまっすぐ、そして海沿いに左に折れてすこし行ったところにその店はあるはずである。  建物が切れると、道路の片側が大きな水路になっている。堤防から身体を乗り出して覗《のぞ》いてみたが、暗くて何も見えない。幅はかなり広そうだ。  水路の果てに広がるあの平らな闇は湾だろう。  湾に近づくにつれて、空は低くなってくるような感じがする。ゆるい傾斜で下がってきた空が沖で海と繋《つな》がっている。  そんな空には月も星も見えないが、それでも全体に薄ぼんやりとした光がある。そのせいか、対岸に並ぶ様々なものが影絵のようにくっきりと見えてくるのだ。  巨大なロケットの発射台や豪華客船やジャングルや火山や観覧車、そんなシルエットが暮れかかった空を背景に浮かんでいる。  あの黒いジャングルから頭を突き出しているひときわ大きな影は首長竜だろうか。口を開いたままの姿勢で動かない。  たしか、あのテーマパークの最大の売り物だったはずだ。  何年か前に、造船所を潰《つぶ》して造られた巨大遊園地だ。鳴り物入りでオープンしたが、結局経営に失敗し、閉鎖されてしまった。新たな買い手も見つからず、壊す予算も出ないまま様々な遊戯施設は今もそのまま残されているらしい。  それが対岸のちょうどあのあたり。  テレビのニュースでその閉鎖の模様を見たのも、もうずいぶん前のような気がする。  あれはたしか、最後のパレードだったか。  電飾を点滅させながらキャラクターたちがパーク内のメインストリートを行進するお馴染《なじ》みのファイナルイベントだ。  最後の夜は、土砂降りだった。雨が降れば本来なら中止になるはずなのに、しかしまるでやけくそのように強行され、案の定、途中で感電事故が起こって最後までやることができなかったパレード。  皮肉なことにそれは久しく忘れられていたそのテーマパークの存在を人々に思い出させるような一大スペクタクルになった。  色とりどりの火花と煙を噴きあげるキャラクターの着ぐるみたち。夜空を焦がして爆発するバルーン。悲鳴をあげながら激しく踊り続けるダンサーチーム。パビリオンやタワーを薙《な》ぎ倒して暴走する自走式ステージ。水平に飛び交う花火。  まるでそれ自体が『最後のショー』というアトラクションみたいだった。  その残骸《ざんがい》も片付けられることなく、そのままになっているらしい。巨大な廃墟《はいきよ》にはつきものの幽霊が出るという噂まである。  二本足で夜のパークを歩く巨大な何かを見たという者もいるが、それは幽霊などではなく、アトラクションとしてそこに投影されていたホログラフィだとも言われている。テーマパークに住みつくようになった失業者たちが、どこからか電気を引っ張ってきて死んでいたシステムを再起動させたのだ、とか、今では正体不明の人物がそこを王国として支配している、とか。まあ都市伝説の舞台にこれほどふさわしい場所もないだろう。  なにしろ、そこは失敗した夢の国、その残骸が転がっているところなのだから。  そんなことを思ってもういちど目をやると、首長竜のシルエットが一瞬動いたような気がした。  もちろん気のせいだろうが。  前方の闇に塔のような影が突っ立っているのが見えてくる。向こう岸にも同じようなものが立っている。  近づいてみると、どうやらそれはこの水路に架けられていた橋だ。こちら側からもあのテーマパークまで渡れるようにと、わざわざ地元の商店街が金を出して造ったものだ。商店街の連中は本気でそれが町おこしになると考えていたらしい。  水路を通行する船の邪魔にならないように跳ね橋として造られたが、あのテーマパークが閉鎖されてからは上がったままで固定されてしまっている。再び動かせるようにするためには、新しく橋を架けるほどの金がかかるらしい。  跳ね上げられたままの橋を過ぎて、さらに堤防沿いに歩いていく。暗い水の上に、赤い光が明滅しているのが見える。  船だろうか。だがその船体には、窓らしきものはない。目を凝らすと黒々とした壁のようなものがゆっくり動いているのがかろうじてわかるだけだ。  前方に埠頭の看板が見えた。ロープが張られていて、『関係者以外立ち入り禁止』の金属プレートがかかっている。  その向こうは、海に突き出たコンクリートの道だ。テトラポッドに打ち寄せる波の白い飛沫《しぶき》が見える。  海上には霧がたちこめている。  冬だというのに妙に暖かいのはこのせいだろうか。  地図の通り、ここで左に折れる。  相変わらず道路沿いには倉庫しか並んでいなかったが、しばらくそのまま歩くと定期航路の船着き場だったらしい建物が見えてきた。  もう今は運行されていない航路だ。  剥《は》がれた壁に、かろうじて『汽船』という文字だけが読み取れる。  チラシの地図によるとこの建物らしいのだが、入口のガラスドアにはひびが入っているし、その中も暗い。水銀灯の光が射し込んでいるから、かろうじて通路らしきものが見える。  通路の両側に並んでいるのは、飲食店のようだが、営業をしていたのはずっと前のことだろう。看板は壊れているし、割れたガラスが通路に散乱している。  ライブの会場は、この建物の二階ということになっているのだが、とても入っていく勇気はない。うかうかこんなところに入ってそれでもし何かあっても、入ったほうが悪い、と言われるに違いない。これは、やめといたほうがよさそうだ。ところが、帰ろうとしたそこでいきなり「お客さんですか」と声をかけられた。  背の高い痩《や》せた男だった。ドアのすぐ横に立っていたのに、闇に紛れて気がつかなかったのだ。 「それって、ここですよ」と私が手にしているチラシを指差した。 「わからなかったでしょう。初めての人にはわかりにくいですよね。前からわかりにくいってぼくは言ってるんですけどね」  申し訳なさそうに言って頭を下げた。なんだか針金細工が動いているみたいだった。 「どうぞ、入ってください。ここを左にまっすぐです。そしたら、階段があります。それを上がるとすぐですから」 「あ、そうなんですか」 「あ、どうぞどうぞ、ずっと奥へ行ってください。まだ来る人がいるみたいだから、ぼくはもうしばらくここにいます」  男は、入口のコンクリートの段に腰をおろした。  暗い廊下を進んで行くと前方に明かりが見えた。階段がある。階段には、クリスマスツリーの電飾につかうような、たくさんの豆電球を繋《つな》いだ蔦《つた》のようなものが這《は》わされている。とりあえず何かをやっているということは間違いないようだ。  豆電球の点滅する階段を上がっていくと、店の入口らしきものがあった。黄色い光が廊下に漏れている。  半開きのドアを押して入ると、意外にも大勢の客がいる。入ったところに十人分くらいのカウンターがあり、その奥はなぜか座敷のように畳敷きになっていた。いちばん奥の窓際には一段高くなった三畳ほどのスペースがあって、それを取り巻くようにして座布団が置かれている。カウンターはいっぱいだし、座布団も大方埋まっているようだ。  カウンターの端に受付らしきものがあったから、そこでチケットを見せた。 『ご招待』とスタンプの押された薄い紙だ。  それから妻に頼まれて持って来た包みを渡した。  あ、そうなんですか、と受付の女が私の顔をあらためて見る。  ごくろうさまです。  隣の女が包みを受け取って、これこれこれよこれ、だってこれがないと始まらないもんね、などと言う。そう言われて、そんなに大事なものだったのか、と驚いた。入口がわからないからといってあそこで帰ってしまわなくてよかった。  知り合いが出演するのよ、と妻は言った。それが、締め切りが近い仕事が急に入って、どうしても行けなくなってしまったから代わりに行ってきて、と頼まれたのだ。それで、チケットと地図の描かれたチラシを持って夕方に家を出たのである。  なんにしても、こうして無事にたどり着けてほんとうによかったと思う。  ビニールで包まれたあの塊を無事手渡すことができたし、おかげで始められなくならなくて済んだ。それにしても、そんなに大事なものなら、前もってちゃんと言っておいて欲しい。  あとで妻にそう言おうと思いながら靴を脱ぎ、座布団の隙間を歩いて空いている場所を探す。前のほうはけっこう空《す》いているから、そのあたりの座布団に腰を落ち着けた。  あの高くなったところがステージなのだろうか。すぐ後ろは大きな窓だ。  いったい今からどんなことが行われるのか、私は知らない。妻がいちおう説明してくれたのだが、結局なんだかよくわからなかった。まあチラシには『LIVE』とあるから、そうなのだろう。  店の中を改めて見まわしたが、お客の年齢や服装もばらばらである。いわゆる今風の若いカップルもいればスーツ姿の初老の男もいる。主婦らしき集団も仕事帰りらしい作業服の人もいる。その間を縫うようにちょこまかと動き回り、ああすみませんねえどうもほんとにもうわざわざあの子のためにこんなにもうおおぜい集まってもらってもうほんとにけっこう人気があるのねえあの子ほんとにもう皆さんのおかげですわあ、と頭を下げているのは出演者の母親なのだろうなあ。  もうそろそろかねえ、とカウンターにいる作業服の男が言う。  あ、すみませんねえ、もうちょっと、もうちょっとだけ待ってやってくださいねえ、なんかほら、下が真っ暗でしょう、これじゃあお客さんが上がって来られないからって、それで今もまだ入口のところに立ってるみたいなんですよ。  そうそう、もうちょっとで通り過ぎちゃうところだったわよ、なんで真っ暗なの、とOL風の女。  ほんとは下の店がね、ちゃんとやってるはずなんですけどね、ほら、雨が降りそうでしょう、それで今夜はもう閉めちゃったのね。  そりゃ勝手だなあ。  まあ仕方ないっていうか、雨が降りそうだからね。  でも雨が降らなきゃこっちはできないわけでしょう。そうなると、これからもいつも真っ暗ってことになっちゃうんじゃないの。  さあ、どうでしょ。  でも、もし降らなかったらどうなるの。  いやあ、なんか無理に降らすとか言ってましたけどねえ。  へええ、彼、雨乞《あまご》いなんかできるんだ。  いやいや、そういうんじゃなくて、ほら低気圧が発達してきてるからね、それを刺激するらしいよ。ほら、硝酸銀だっけ、なんかそんなのを上空に撒《ま》いて。  えっ、どうやって撒くの。  自衛隊の戦闘機で。  そんなのやってくれるかね、自衛隊が。  だから、怪獣が出たっていうデマを流して。  そりゃ無茶でしょ。  でも、どうせ自衛隊は出るでしょ、怪獣が出たら。雨が降ったらどうせ怪獣は出るわけだから、自衛隊が先に出てたって、それでいいんじゃないですか。出動の手間はいっしょでしょ。  いやでもね、あくまでも怪獣が出たから自衛隊が出るわけであってね、自衛隊が出たせいで怪獣が出るんじゃ、それは本末転倒ってものでしょ。  でも、怪獣が出たらどうせ出るでしょ、自衛隊も。  そりゃ自衛隊ってくらいだからね、それが仕事だもの。  ほら。  なにが、ほらなの。  だから怪獣が出てから自衛隊が出るのも、自衛隊が出てから怪獣が出るのも、結果としては同じでしょ。  結果としては同じでも、内容はだいぶ違うよ。  じゃあさ、あとで内容を変えたらいいじゃない。結果が同じなら同じでしょ。  そりゃ、結果論だよ。  いいじゃない、結果論。結果でしょ、いちばん大事なのは。  そりゃそうだけど。  でしょ。  あれ? いいのかな。  いいと思うけどね、結果が同じなら。  いや、結果論っていう言葉の使い方、それでいいのかなっていうことを言ったんだけど。  さあ。とくに間違ってはいないんじゃないの。  そうかなあ。  あ。  あら。  雨。  雨だ。  雨だね。  自衛隊呼ばなくてよかったね。  ま、結果としてはね。  結果論だけどね。        *  稲光だろうか。ときおり空全体が紫色に光る。それで、向こう岸にあるビル街が闇に浮かびあがる。  本物のビルではない。ハリボテだ。  あれはたしか、未来のロサンゼルスだったかニューヨークだったかトーキョーだったか。そんな設定で造られた街並み。  ヒットしたSF映画を再現して造られたハリボテの街なのだ。そして、そのSF映画のパート2は、あのテーマパーク内のセットを使って撮影された。  そうすることで低迷する映画界とテーマパークは、共に巻きかえしを図ったのだ。だが、映画の製作はトラブルに次ぐトラブル、監督は三度交代し、最後の監督はセットのクレーンで首を吊《つ》って自殺、映画はお蔵入りとなった。呪《のろ》われた映画、として、画面の隅に幽霊だか悪魔だか宇宙人だか、そんなものが映っているというふれこみでこぢんまりと公開されたらしいが、一部の好事家の間で短期間話題になっただけ。  あの映画のクランクインあたりが、テーマパークにとっての最後の輝きだったわけだ。  水路の向こうに見えるハリボテの未来都市を眺めながらそんなことを思っていると、さあ帰ってきました帰ってきました、みなさん、もうすぐ始まりますわよ、と先ほどの母親が立ちあがって宣言する。  そして、さっき入口にいた針金細工のような青年が入ってくる。そのまま窓の前まで行って、奥の一段高いところに立った。  ええっと、それでは、そろそろ始めます。  一礼すると拍手が起こった。  彼が胸の前に抱えるようにしているのは、私が持ってきたあのビニールの包みだ。  折り畳み式の卓袱台《ちやぶだい》を壇の上に広げ、その上に包みを置いた。それから、ノート型のパソコンらしきものを開き、キーボードをかたかたかたと叩《たた》く。  ええっとね、やっぱりそろそろじゃなくて、もうちょっとかかるなあ、すみません、まだいろんなものがあたたまってないんで、でももうすぐですけど、もうちょっと待ってください、そのあいだにトイレにでも行っといてください、それにこの窓の外にあるベランダもけっこうすごいですよ、ちょっと出てみたらおもしろいです、なにしろ二百メートルもあるベランダですからね、このベランダは昔は船着き場として使われてて、ここから向こう岸まで行くための渡し舟が出てました、その頃はここもにぎやかだったんです、その頃の船舶関係の人たちも今日は大勢来てくれてるはずですが、ええっと、もうちょっとだけごそごそしますね、タネも仕掛けもちょこっとだけありますよ、とがさごそがさとビニールを剥《は》がす。  キーボードの側面からわしゃわしゃと植物のようにたくさんの細いコードが出ている。コードの先には銀色の釣り針のようなものが付いていて、それが絡まりあってしまったようだ。なかなかほぐせそうにない。  着いてさっそく飲んだビールのせいか、さっきから膀胱《ぼうこう》が膨らんでいる。今のうちに行っておくことにする。  靴を履き、入口の店員にトイレの場所を尋ねた。廊下に出て左だという。  廊下はあいかわらず暗い。  突き当たりに見える蛍光灯の光。あそこがトイレだろうか。  けっこう長い廊下は、途中から剥《む》き出しのコンクリートになっていて、天井からは電線のようなものが垂れ下がったりしている。  壁には切れかかった蛍光灯がちかちか瞬いていて、その下に赤いペンキで「トイレこちら」という文字。  入ってみると、二つある個室の奥の方はベニヤ板とブルーのシートで塞《ふさ》がれ、ロープには立ち入り禁止の札がかかっている。  まあひとつあればそれでいい。  用を足し、あらためて廊下を見るとトイレ以外にもいくつかドアが並んでいる。  一戸建ての玄関のようなものがある。  表には小さな門と郵便受けとインターホン、そして玄関までには植込みと小さな池と石|灯籠《どうろう》まである。玄関の引き戸の磨《す》りガラス越しにちらちら揺れている青い光はテレビの画面だろうか。かすかに音も聞こえてくる。その隣には潜水艦の内部のような丸いハンドルのついた金属の扉。そして、その隣には大きな暖簾《のれん》のかかった入口らしきものがある。  いろんな人がいろんな形態で暮らしているようだ。  店に戻ろうとして、その手前の分岐に気がついた。覗《のぞ》いてみると細い通路の向こうに大きなガラス戸があって、水路と夜空が見えている。その下にある柵《さく》のようなものは手すりだろうか。どうやらそこからさっき言っていたベランダに出ることができるらしい。  二百メートルのベランダとか言っていたやつ。せっかくだから見ていくか。  細い通路を進んでガラス戸の前まできた。廊下が暗いから外がよく見える。なるほど左右にどこまでもベランダと手すりが続いている。  出ようとしてガラス戸に手をかけたが、隙間に砂でも詰まっているのか開かない。  仕方がないのでガラスに顔を近づけるようにして外を覗いた。  雨が降り始めていた。  水路の上に橙色《だいだいいろ》の丸い光が浮かんでいる。航行している船の窓から漏れる光らしい。  船体そのものは見えない。ただ、その円形の窓だけが水の上の闇に浮かんでいる。  それはゆっくりと近づいてきていた。円形の窓が等間隔で並んでいる。  それが満月ほどの大きさになると、そのなかにひとつずつ顔があるのがわかった。若い顔も年老いた顔も子供の顔もあるが、皆なぜか表情がない。ただ、こちらをじっと見つめているだけ。  向こうに私の顔は見えているのだろうか。  そんなことを考えたとき、廊下の方から、さあさもう始まりますよお、と声が聞こえた。振り向くとあの出演者の母親だ。  はやくはやく。  手招きしている。  他には誰もいないから、どうやら私に言っているらしい。再び目を戻すと、もう船は通り過ぎてしまったのかさっきの丸窓は見えず、闇が広がっているだけ。  店に戻ってみると客はさらに増えていた。  えー、それでは始めようと思います。  窓の前に立って、プレイヤーが言った。  プレイヤーの前には私が持ってきたものが置かれていた。ビニールのパックは剥がされて、そこにあるのは肉色の塊だ。  卓袱台の上に電熱器のようなものがあって、その上にその塊はのせられている。  それでは、とプレイヤーがつまみを回すと、そのコイル状の部分が赤く光りだしたからますます電熱器だ。その上の肉色の塊には、針の付いたコードが無数に突き刺さり、まるでハリネズミかウニのようになっている。コードはすべてノートパソコンに繋《つな》がっていて、そのキーをかちかちかちとプレイヤーが叩き始めた。  ぽおおおおおおん。  どこからか、そんな音が聞こえた。  コンピュータからなのか、それともその塊からなのかわからない。  鳴り続けている。  ぽおおおおおおん。  すると、窓の外からそれに応えるように、音が返ってきた。  ぽおおおおおおん。  船の汽笛らしかった。  ぽおおおおおおん。  店の中のいろんなものがその音に共鳴してかたかたと揺れた。ものだけではなく、その場にいる誰もが、かたかたかたと揺れていた。  音は徐々に、だが確実に大きくなっていき、そして突然、店の明かりがすべて消えた。  真っ暗になったせいで、さっきまで見えなかった窓の外が急に見えるようになった。  最初に見えたのが、あの丸窓だ。等間隔で並んだあの橙色の丸い光。  窓から射し込むその柔らかい光に店の中が照らし出され、そして私は見た。  卓袱台の上のあの肉色の塊が、風船のように膨らんでいくのを。  アドバルーンのように大きく、そして薄い膜のように引き伸ばされたその表面。それは巨大な顔だ。  そして——。  ぽおおおおおおん。  大きく開かれた口。その奥からその音が発せられていた。  ぽおおおおおおん。  それに応えて、汽笛が鳴った。そして、ぴし、と大窓のガラスにひびが入り、次の瞬間には、それは細かく砕けて砂のように崩れ落ちていた。  雨と風が吹き込んできた。  そして、がりがりがりがりと、コンクリートのこすれる音。  船が接岸したのだ。  ぽおおおおおおん。  巨大な顔はさらに大きく口を開き、そして舌を出した。べちゃべちゃと音をたてて舌が出てきた。  長い舌だ。  それ自体が独立した生き物のように舌は店の中を這《は》いまわった。  そして、ガラスの無くなった窓枠からさらに外へ、船の甲板までタラップのように伸びていったのだ。  さあ、お待ちかね。  プレイヤーが言った。  皆で乗り込みましょう。  お客たちは歓声をあげ、そして、肉色の橋を船の甲板へと渡っていった。  さあさあ、あわてずゆっくりね、あせることはありません、ちゃんと全員乗れますからね。  店の中の客が一列になってぞろぞろと船に乗り込んでいく。  最後に、プレイヤーと私が残った。  あなたはいいんですか。  プレイヤーが言った。  私は家内に頼まれてそれを届けに来ただけですから。それに、どんな具合だったかをうちに帰ってから話してやらないといけないし。  ああ、そうですか、とプレイヤーはうなずいた。  まあそういうことなら、と軽く頭を下げ、肉色の橋に乗る。  船の甲板の上から彼の母親が心配そうにこっちを見ていた。  すいません、お客さんにこんなこと頼んじゃって悪いんですけど、最後にこれを閉じていただけますか。  プレイヤーはそう言って、ノートパソコンを指差した。  どれでもいいですから、どれかキーを押していただけると助かるんですが。それで自動的に閉じられますから。  いいですよ、と私は言った。  ありがとう。あ、それから、それはもういりませんからよかったら持って帰ってください。お土産です。  それだけ言うと、彼は橋を渡っていった。  私は彼が甲板に着いたのをたしかめてから、リターンキーを叩《たた》いた。途端、フィルムが巻き戻されるように舌は口のなかに入っていった。  船は甲板にいっぱいのお客を乗せ、ゆっくりと岸を離れた。  いつのまにか顔はなくなっていて、ノートパソコンだけが卓袱台《ちやぶだい》の上にあった。  廊下は真っ暗で、私は手探りでなんとか建物から出た。  表に出てみると幸い雨はやんでいた。新交通システムの駅までの帰り道、水路の向こうにあの失敗したテーマパークが見えた。  そこに二本足で立つ巨大なシルエットがある。ゆっくりと動いているようにも見えるが、ここからではよくわからない。  向こう岸は今も雨が降っているらしい。  どういうわけかそこには明かりが灯《とも》っていて、いろんな色や形の光が雨のなかを飛びまわっている。  どうやらLIVEはこれから始まるらしい。  向こう岸での彼らのLIVE。  彼らが何者なのかは知らないが、橋を閉じるためにはこちら側に残る人がひとり、必要だったのだろう。はたして私がその適役だったのかどうかはよくわからないが。  まあそれはそれとして、お土産にもらったノートパソコンはなかなか役に立つ。現に、この文章もそれを使って書いている。  文章ソフト以外にもなんだかわからないものがいろいろ入っていたりするのだが、まあ少しくらい変なものだとしても無闇に開けなければ特に困ったことにはならないだろうと思う。 [#改ページ]   その六 肝を冷す  この人面町から駅で言えばふたつ西にあたる土地で起きたあの蛹谷《さなぎだに》大鳴動災害については、人災であるか天災であるかをはじめとして、まだいろいろとはっきりしていないことが多いのだが、それでもこうして語る資格くらいはあるのではないかと考えるその根拠は、何を隠そう私もその被災者のひとりだからに他ならない。  当時、私は蛹谷駅の南口から伸びる商店街の外れにある蜂蜜《はちみつ》屋の隣の烏荘という木造アパートの一階に住んでいた。  忘れもしない——、などと人はよく言うが、あまりものを憶《おぼ》えていない私にとってさえあの出来事はそんな感じで、あの日はいつものように明け方近くまでコンピュータに文章を打ち込んであれこれいじっていたところが、まあいつものようにあまりうまく進まず、あきらめて蒲団《ふとん》に入ってそれでうとうとしかけたところに、どおんっ、と一発目が来たのだった。  のちに大鳴動災害と呼ばれることになるくらいだからそれはもうものすごい鳴動である。おまけにこっちはちょうど夢と現《うつつ》の境目でふらふらしているところだったから、何が起きているのかまるでわからない。それでも、なんだなんだととりあえず立ちあがろうとはした。しかし、揺れが激しくてそれすらできない。  誰の仕業だ、とまず思った。いったい誰がこんなことをしているのだ。五メートルくらいの巨人がこの部屋に両手をかけてゆさゆさと揺すっている、そんな絵が寝ぼけた頭に浮かんでいた。  でも、そんなはずはないということくらいはわかるから次の瞬間には、これは戦争に違いない、と思った。なんだよまた始めやがったのか、と。  あとになって考えると、それらはどちらもそれほど大きく外れてはいなかったのだ。  そもそもあの蛹谷大鳴動災害の原因となったのは土竜《もぐら》で、それも全長四十メートルにも及ぶ巨大土竜だったのだ。そんなものが蛹谷南商店街の地中を動きまわったせいで起こったということはまず間違いない。  では、なぜそんな大土竜が出現したのかと言えば、この蛹谷の北に位置するクワガタ山の地下にあった政府の秘密研究所で開発されたハニーローヤルストレートフラッシュとかいうローヤルゼリーをとんでもなく強力にしたような変身強壮剤を、そこの研究員が何のつもりか飼っていた土竜に食わせたからだという。ペットかわいさに、自分が何をやっているのかわからなくなってしまったのだろう。ありがちなことだが迷惑な話である。  で、その作用によって巨大化した土竜がさらなるハニーローヤルストレートフラッシュを求めて商店街の蜂蜜屋まで地中を進行し、蜂蜜屋の前の道路のアスファルトを割って地上に出現した。巨大土竜に驚いて、斜め向かいの交番にいた警官が発砲し、土竜はまたまた地中に逃れ、いろんなものを破壊しながら迷走を続けたすえ、その日の夕方には自衛隊のミサイル攻撃にあっけなくしとめられることになるのだが、もちろんそのときはまだそんなことは知らない。  どばんどばんどばんというものすごい縦揺れで目を覚ましたときにはすでに真っ暗な部屋ごとシェイクされている。頭の上でかしゃんかしゃんと鳴っているは吊《つ》るしてある蛍光灯が天井にぶつかっているのだろうということはわかったのだが、なぜかその音がだんだん近づいてくる。なぜそんなものが近づいてくるのだろう。えっ、もしかしたらあれか、天井が下がってきているのか。いやまさかそんな馬鹿なことが、と思う間に手を伸ばせばとどくほどのところでめきぺきぴしめりもりべりばりぼりと明らかにいろんなものが割れたり折れたりダメになったりしている音が聞こえてきた。なんの光なのかわからないのだが窓の外がぱしぱしと稲光のように青白く光る。それで部屋の中が見えて、いよいよ天井がすぐ頭の上まで迫っているのだということがわかった。  ぶん、と唸《うな》りをあげてすぐ顔の横をかすめ窓ガラスを割って飛び出していったのは蛍光灯だろう。ここまで天井が迫ってきているのに、まだ窓はちゃんとそこにあるらしい。よし窓から逃げよう、と四つんばいのまま、床の上で暴れまわっているいろんなものをかきわけかきわけ、気がつくと窓枠らしきものをつかんで割れたガラスといっしょにちゃんとアパートの外へ転げ落ちていたのだからそんな自分を誉《ほ》めてあげたい。  道路に落ちてもまだ地面は揺れていて、身体はそのまま転がり続け、いろんなところを打ったり擦りむいたりガラスで切ったりもうひどいものだったが、痛みを感じたのは揺れが完全におさまってからだ。  夜明け前のアスファルトが頬に冷たかった。ようやく立ちあがったとき、道の向こうに見えた月がやけに赤くて大きかったことを、妙によく憶えている。  道路にはあわてて飛び出してきたらしい同じアパートの住人が並んでいた。何度か玄関で顔をあわせたことがあったりなかったりする程度の人々。アパートは完全に倒壊せず、斜めになって止まったので無事外に出ることはできたようだ。  おおい、こっち手伝ってくれえ。  そんな声がした方を見ると、全壊した隣の家で下敷きになった人を掘り出そうとしている。開けてえ開けてえ、という声は、その向かいの文化住宅。ドアが傾いて開かなくなったのか台所の窓から叫んでいる。  とにかく助けに行こうとして、自分が裸足《はだし》だということに気がついた。アパートの玄関の前に落ちていた誰のものかわからないサンダルを見つけ、とりあえずそれを履いた。  皆で瓦《かわら》をどけたり柱を持ちあげたりドアをぶち破ったり、なんだかわからないまま声のしているところにいってそのまま手伝っているうちにあたりはすっかり明るくなった。  死体とか死体らしきものとかをいくつも見た。見るだけでなく運んだりもしたが、それが死体だという実感がなかったのは自分の知り合いではないからだろう。  それもひととおり終わると、もう何もすることがなくなった。  いつものように朝日が射してきて、電柱の影がアスファルトの上にのびている。  そうなって、さてこれまで自分が暮らしてきた烏荘はと見ると、これがもう見事に壊れてしまっている。二階部分はほとんどそのまま残っているのだが、その二階部分が一階を押し潰《つぶ》しており、一階は薄い平行四辺形になっている。すぐ目の前にさっき這《は》い出してきた自分の部屋の窓があるのだが、ひしゃげた窓枠がかろうじて判別できるだけだ。それを見ていると今頃になって膝《ひざ》ががくがく震えてきた。よくもこんな狭いところから這い出せたものだ。もしあのままぐしゃりとなっていたら。そう考えるだけで立っていられなくなる。  すぐ後ろで、くちおしいなあ、くちおしいなあ、とぶつぶついっている中年男も、どうやらこの烏荘に住んでいたらしい。  ああ、くちおしいなあ、なんとかならんかなあ、くちおしいなあ、と何度か繰り返したあと、がんがんがん、と大きく傾いたアパートの壁を蹴《け》っている。  なんとか直せんかなあ、これ、ブルドーザーとかショベルカーとかで反対に押したらなんとか直らんかなあ。  しばらくそんなことを繰り返してから、前の道路を北の方に向かってふらふらと行ってしまった。それで初めて、ああ、そうか、もうここには住めないのか、と思ったのだ。  どうしたらいいのかわからない。それに、パジャマのままである。  ひしゃげた窓から部屋を覗《のぞ》き込んで見つけたジャージとトレーナーを恐る恐る窓から身体を入れて引っ張り出した。それから、なんだかわからないままに近所を歩きまわった。  壊れている家もあれば壊れていない家もあった。商店街のアーケードの柱が倒れて、屋根の端が道路についていた。  駅前のロータリーに行ってみると、ロータリーがなくなっていた。その正面にあったレンタルビデオ屋のビルが倒れているのだ。ミニチュアか何かのように本当に地面に横倒しになっていて、それがロータリーだったところを押し潰している。  黒い煙が棒のようにまっすぐ空まであがっていた。  駅の高架をくぐるとさらに大変なことになっている。立っている建物のほうが少ないくらいで、しかも自衛隊の戦車が走りまわっていたりヘリコプターが飛んでいたり、飛行船まで浮かんでいた。高架も半分落ちていて、線路はぐにゃぐにゃで、まっすぐの電信柱はなく、自衛隊員が走りまわっている。  ちゅどーん、ちゅどーん、とどこからか聞こえてくるのは砲弾かミサイルの炸裂《さくれつ》する音なのだろうか。とにかくこれはもうとんでもないことが起こっているに違いない、この場をとりあえず離れなければ、と真っ白になった頭でそのまま回れ右して戻ってきたのだがもちろんアパートは倒れたままである。  まいったなあ、結局なんだかわからないぞ。そうだとにかくこういうときはコーヒーコーヒーなどと呑気《のんき》に商店街のいきつけの喫茶店の方へと歩いてみたのだがやっぱりアーケードごと倒れていて喫茶店に近づくこともできない。まあ行ったところでどうせ営業などしているはずがない。そのくらい行く前に気がついてもよさそうなものだが、そのときはそうではなかった。コーヒーはあきらめ、比較的大丈夫そうな道を通って烏荘の前まで戻ってきて、その前でぼんやり突っ立っていたら、知らない人が、あんたこんなとこで何してるの、ここいら一帯は避難命令が出てるよ、と教えてくれた。ああ、なんだそれで誰もいなくなってしまったのか、と納得する。とりあえずこんなところにいてはいつなんどき例の巨大土竜が襲ってくるかわからないのだから一刻も早く中学校に避難しなさい、とその人は言う。  なんですかその巨大土竜というのは。  すごく大きな土竜のことですよ、それくらいわからないんですか。  それくらいはわかりますけど。  じゃ、とにかく避難しなさいね。  面倒なのでそれ以上の質問をやめ、とりあえずその人の指差す方へ行ってみることにした。ところが、ちょっとお待ちなさい、と行きかけた私をその人は呼びとめる。  蒲団《ふとん》の数が足りないから自分のを持って行くほうがいいよ。  そうなんですか。  まあ余分にあるにはあるでしょうが、それは本当に困っている人たちのために使われるべきでしょうからね。  それはもっともなことだと思ったので、またひしゃげた窓から部屋に入って、敷いたままになっている蒲団を引っ張り出すことにした。  低くなった天井のせいで腰を屈《かが》めないと歩けない。そんな姿勢をいつまでもしていられないので、両手をついて亀のように進んでいくと、すぐに蒲団があった。そのまま引っ張り出そうとしたのだが、なにしろそんな姿勢では力が入らない。  台所の方を見ると、まだそっちの方が天井が高くなっている。そのあたりならとりあえず立つことはできそうである。台所の横のドアが開いてアパートの廊下が見えた。廊下からそのまま玄関へ出るほうがよさそうだ。蒲団を台所のところまで引っ張りそこで畳んで背中に載せた。ますます亀である。  そのまま廊下を歩いて玄関まで行ってみた。天井はほとんどそのままの高さだが下駄《げた》箱のあったあたりに大きな壁のようなものがある。いったいなぜこんなところに壁があるのだろうと近づいてみるとそれは壁ではなくて土である。  目の高さに、ひび割れたアスファルトが見える。これはアパートの前の道路なのだろう。どうやら玄関のほうは天井が下がらなかったかわりに地中に沈んだらしい。  まず蒲団を押し上げ、そしてよじ登った。  道路に立つと、同じ高さに二階の窓があって部屋の中が見えた。襖《ふすま》に貼られたポスターは『2001年宇宙の旅』だ。  再び蒲団を背負い、盛りあがったり沈んだりしてアスファルトがべきべきになった道路を中学校の方へと歩いていった。  いつのまにそんなに時間が経っていたのか、正面に見えるのは橙色《だいだいいろ》の大きな夕陽。倒れた建物や傾いた電柱が影を長く伸ばしている。  まっすぐ歩いていくと中学校に着いた。  こっちは駅と逆方向だから、けっこう長くこの町で暮らしているのに来たことがなかった。まあ、こんなことでもなければ来なかっただろう。  正門のところに紙に墨の太い字で「蛹谷大鳴動災害特別臨時避難所」と書かれていて、それで初めてこれが蛹谷大鳴動災害と呼ばれているらしいということを知った。  運動場に張られたテントに自衛隊員らしき人たちがたくさん出たり入ったりしていて、比較的ひまそうにしているひとりに避難所のことを尋ねると、運動場の向こうにある体育館を指差した。埃《ほこり》っぽい運動場の真ん中を突っ切っていった。  体育館の入口に「被災者用宿泊所」と看板が出ている。校舎の向こうに大きな夕陽が浮かんでいた。  運動場の土がオレンジ色に染まり、たくさんのタイヤの跡がさざ波のように見える。  オリーブ色の角張った自衛隊の車輛《しやりよう》が運動場の隅の鉄棒の前に何台も並んでいた。  きりこきりこきりこきりこ、とキャタピラを鳴らしながら裏門から戦車が入ってくる。あたりを見回すようにゆっくりと砲塔が動いていた。  てっぺんのハッチが開いて自衛隊員が顔を出してなにごとか叫ぶ。ちゃうわー、とか、くらっとらあー、とかなんとかそんなふうなことを叫んでいる。戦車は、きりりこきりりこきりりこと小さな半径で回り始めた。そのまま、運動場の真ん中あたりで回り続けている。  太陽は校舎の向こうに沈んだが、それでもまだ窓ガラス越しに赤い寒天のようなぐにょぐにょした光で運動場を照らしていた。  そんな運動場を戦車は回っている。  テントから自衛隊員が三人駆け出してきて、戦車が回っているその外側を走り、そのまま車体に飛び移ろうとして何度も失敗する。まあこれも何かの訓練なのだろうなあとは思うが、今にも轢《ひ》かれてしまいそうである。  失敗するたびにハッチから顔を出している男がなにやら叫ぶ。  やじゃとるっかー。  くめやっとすっとるんじゃー。  すると戦車を追いかけながら三人が口々に叫びかえす。  すばらっしゃあっ。  わっしゃあ。  ちゃあっ。  窓ガラス越しの太陽もすぐ見えなくなり、校庭は闇に包まれ、戦車も見えなくなってしまう。それでも、号令のような叫び声ときりこきりこきりこというキャタピラの軋《きし》みとエンジン音だけは聞こえてくる。  きりこきりこきりこきりこきり。  べんぼらばしゃったあっ。  じゃあっす。  ていすっ。  ばっ。  体育館の扉を開けると入口は履物で埋めつくされたようになっていた。すべて被災者のものなのだろう。  折り畳み式の長机の上には、臨時に置かれたのだろうテレビがあった。  大きな横長のテレビだ。  なんだか見覚えのある景色が映っているなあ、と思ったらこの近所なのだった。  駅前の商店街が燃えていた。さっき通ったときは、そんなことにはなっていなかったのに——。  これはいったいいつの映像なのだろう。  ヘリコプターから撮られたものらしい。JRの高架が横倒しになっている。  て——ます——すから——で——のし——ません。  ヘリのエンジン音なのかそれとも炎のせいで起こる風の音なのか、アナウンサーの声がほとんど聞きとれない。  山が映っている。  クワガタ山だ。その頂上近くに湾曲した巨大な木が二本、天を指しているからそうだとわかる。そのふもとのあたりで何かが動いている。生き物のようだが、まわりの建物と比較するとかなりの大きさであることがわかる。  ——によりますミサイル攻撃がまもなく——としており——この巨大|土竜《もぐら》がひ——。  アナウンサーの声がとぎれとぎれに聞こえる。  それにしてもその巨大土竜、やけに動きが速い。子供がだだをこねるように両手を振りまわしている。そのせいかあまり巨大には見えない。なんとなく、着ぐるみみたいなのだ。そう思ってあらためて見ると、いっしょに映っている建物や山もなんとなくミニチュアっぽいし。  しゅぽんしゅぽんしゅぽん、とロケット花火のようなものがその巨大土竜に放たれた。  土竜はそれに抵抗するように爪のついた両手を勢いよく振りまわして暴れていたが、やがて爆発とそれにともなう煙でその姿はまったく見えなくなる。  カメラがスタジオに切りかわった。  えー、この一斉攻撃のあと、巨大土竜は再び地中へと姿を消したわけですが、むしろこの攻撃のせいでこの土竜が市街地に向かうことになって今回の災害が引き起こされたのではないか、という意見もありますが、それについてはどう思われますか。  司会者らしき男が言った。  馬鹿言っちゃいかん。それじゃ聞くがね、攻撃したのが悪いのなら、放っておいたほうがよかったのかね。あんな巨大土竜をそのままにしておいたらどんなことになっていたか。もっと大変なことになってたら、君、責任がとれるのかね。あそこで攻撃したからこそ、やっこさんは地中深くもぐって自分から火山帯にぶつかったのだよ。  博士、やっこさんというのは、巨大土竜のことなのですか。  もちろんそうだとも、もしやっこさんをそのままにしていたら、今頃はもうあのあたり一帯すべて巨大土竜だらけになっておる。  しかしですね、そもそもあんなふうに土竜が巨大化したのは、政府の研究施設で行われていたというその——、とそこで画面が突然乱れてざらざらになってしまった。しばらくそのまま見ていたのだが、一向に回復しない。 「すみません、チャンネル変えてもいいですか?」  リモコンを手にした男の子が、私を見上げるようにして言った。 「うん」  うなずいて蒲団《ふとん》を再び背負い、その場を離れた。  大きな土間の向こうにある両開きの扉は開け放たれていて、体育館全体が見渡せた。  天井には銀色のライトが並んでいる。  正面にバスケットボールの、あれはゴールというのだろうか、ネットのついた輪っかが天井からさがっている。立っている入口のところから向こう端まで、びっしりと蒲団が敷きつめられていた。見渡す限りの蒲団。まるで蒲団の国にでも来たようだと私は思った。  夢と蒲団の国。  蒲団の上にたくさんの人たちが住んでいる。  自分もこの蒲団の国の住人となるために、とりあえず持ってきた蒲団を敷ける場所を探すことにした。ところが、もうびっしりと敷かれてしまっていて、そんな場所は見当たらない。しかもほとんどの人たちがすでに眠っているのだ。  いろんな寝息が聞こえてくる。  体育館の壁に沿ってぐるりと一周してみたが、やはり蒲団を敷けるようなスペースは残っていない。  ぼんやりしているせいで私はよくこういう目にあうのだが、今回ばかりはさすがにそんな自分の迂闊《うかつ》さが嫌になった。  ため息をついたところで、入口のところに乾パンと水のペットボトルの段ボール箱が置かれているのを見つけたのだが、これもすべて空になっている。もう配ってしまったあとなのだろう。まあ来るのが遅かったのだから仕方がない。それは我慢すればいいのだが、しかし寝るところだけはなんとか確保しなければならない。どこかに割り込めるような隙間はないものかとひとまず入口に蒲団を置いて、体育館の中を再びうろうろする。  板張りの床の上はもういっぱいなのだが、いちばん奥に学校の講堂などによくある一段高くなった舞台のようなところがあって、そこには海老茶《えびちや》色の緞帳《どんちよう》が下りている。その向こうならもしかしたら空いているかもしれない。  分厚い緞帳をくぐって入ってみると照明も灯《とも》っておらず、舞台の袖《そで》から漏れるかすかな光があるだけ。しかしまあ寝るだけなのだから、別にそれでかまわないだろう。目が慣れてくると周囲が見えてきた。ここにもやっぱり蒲団は敷いてあったが、それでも隅のほうに、どうにか蒲団をひとりぶんくらいは敷ける場所を見つけた。  さっそく蒲団を背負ってきてそこに敷き、それでほっとしたら急に眠気がやってきた。夜明け前に叩《たた》き起こされてそのままだから無理もない。すとんと眠りの底へ落ちていった。        *  誰かに呼ばれたような気がして、目が覚めた。一瞬自分がどこに寝ているのかわからない。なぜ自分がこんなところで寝ているのか、ということを蒲団のなかで思い出す。それでもどこまでが現実でどこまでが夢なのかいまいち自信がない。  あたりを見まわしたが、誰も呼んでなどいない。たぶん夢のなかで呼ばれたのだろう。  少し離れたところにミカン箱くらいの台があって、その上に蝋燭《ろうそく》が一本灯っている。その光で周囲が見える。  寝る前にはあんなものはなかったと思うのだが、いったいあれは何だろう。それにあたりにたちこめているこの匂いは——、などとわざわざ考えるまでもなく、線香の匂いである。  蝋燭の隣をよく見ると、線香が何本も立っている。  ああ、そうか、と今頃になってなぜ緞帳が下ろされていたのかがわかった。  ここは臨時に遺体を安置しておくための場所だったのだ。なんだ、まわりにいる人たちは寝ているのではなく、死んでいるのだ。それで、体育館の床はあんなにぎっしりだったのにこの場所は空いていたのか。  あらためてあたりを見まわしてみると、なるほど誰も生きてはいない。  ここでこうやって身体を起こしているのは自分ひとりで、それがなにやらひどく場違いで気まずい。間違っているのはこっちではないか、という申し訳ないような気持ちになってしまう。  もしかしたらこのなかには同じアパートの人もいるかもしれない。  そう思った。  同じ屋根の下で、ほとんど顔もあわせたことのない人。  いろんな顔のいろんな人たちがいた。緞帳の向こう側と違っているのは、冷たくなってしまっているということだけだ。自分がそのなかに入っていてもなんの不思議もない。  そう思うと、ここにこうしているのも間違ってはいないような気がした。  そんなふうに納得するとまた眠くなってきた。どっちにしても、どうせここにしか寝る場所はないのだ。  横になって目を閉じた。  あいかわらず、いろんなことに実感がなかった。そのかわりやたらと生々しい夢をみた。夢のなかで、崩れた建物の下から死体を掘り出してみるとそれが自分で、というような夢を何度も何度も何度も何度も繰り返し見て、その度に目を覚ました。  何度目かに目をあけたとき、そこにいきなり知らない女の顔があったから驚いた。  すぐそこ、数センチの距離にその顔はあったのだ。 「あ」  その女はつぶやくように言った。 「生きてる」 「うん」  私は応《こた》えた。 「ここにしか寝床がなかったから」  女はそんな私をしばらく見つめ、「ああ、なるほど」とうなずいた。  そして、思いついたように「住むとこ、ないの?」などと言う。  なぜそんなことを尋ねられるのかわからないまま「まあ、壊れてしまったからね」と答えると「いっしょに来る? 住むくらいならできるけど」とかなんとか、そんなふうなことも言われたはずだ。すごく唐突なようだが、そのときはそんなふうには感じなかったからもうちょっと自然な言い方だったのかもしれない。  そのときは単純に、ああそれは助かるなあ、と思った。とにかくアパートはあんなことになってしまったし、ずっとここにいるというわけにもいかない。しかしまあ、それにしても妙な話である。だからこうして思い出していても他人事のような気がしてしまうのだが、そのまま彼女に拾われるようにして私はこの町にやってきたのだ。  駅は壊れていたから、川沿いに土手を下っていった。  上流に見えるJRの鉄橋が途中で折れて川に落ちていた。  河川敷の野球場のフェンスが倒れていたり、土手に大きな裂け目が何本もあったりしたが、歩くのに困るほどではない。迂回《うかい》すれば簡単に通過できそうだ。  冬だったが、天気がよくて風もないからぽかぽかと暖かく、なんだかハイキングでもしているような気になった。すこし前をリュックを背負った人たちが歩いていたせいもあるかもしれない。  前にも後ろにも、大きな荷物を持って歩いている人たちが何組もいた。  土手の上を蟻の行列のように下流へと歩いていった。しばらく行くと、国道に出た。  このあたりにはそれほど被害も出ていないらしい。信号は傾いて消えたままだったが橋は落ちていないし、車も行き来している。  バス停があった。  はたして来るのだろうかと思っていたのだが、しばらくするとバスが来た。群青色のバスだ。バスがきちんと来るというのがなんだかひどく奇妙なことに思えた。  こんなことになるまで、ここを路線バスが走っていることすら知らなかった。はじめて乗るバスにしばらく揺られているとすごく眠くなった。昨夜は夢ばかりみていたせいか、眠った気がしない。  そうして窓際でぽかぽかうとうととしているうちに、この町に着いたのだ。  女に揺り動かされて目を覚ますと駅前だった。  バスを降りるとそこは駅前のロータリーで、駅の名前は知っているし電車のなかからは見たことはあるが降りたことのない駅だ。  駅前の風景になにも変わったところはなかった。たったふた駅離れただけで、何事もなかったかのようなのだ。女の後について歩きながら、初めての町を眺めた。  歩きながら、自分がここにいるということが不思議で仕方がなかった。まるですべてが夢のなかの出来事だったような気がする。  いや、もしかしたらそうではなかったのか。まさかとは思うが、そんな気になることがじつは今もたまにある。  自分がこの人面町に来ることになった、そして、妻と出会うきっかけになったあの蛹谷大鳴動災害。あれはいったい何だったのか。いったいどういった災害だったのか。  それをもっと詳しく知りたくて、いろんな人に尋ねてみた。  ところがである。  あれが何だったのか、どころか、蛹谷大鳴動災害など知らない、聞いたこともない、などと皆が口をそろえて言うのである。  そんな馬鹿な。  いくらなんでもそんなはずはない。だって、たったふたつ向こうの駅で起こったことなのだし、テレビでもあんなにやっていたはずだし。  釈然としないまま、前に住んでいたアパートへと行ってみた。ところが、あのひしゃげたアパートはもう取り壊されてしまったのか、そこにあるのはまったく違う建物で、あたりの風景のあまりの変わりようにその場所が正しいという自信すらない。  でも私はそれが原因でここに来たわけだから、妻に聞けばそのあたりのことは確認できるはずだ。そうは思うのだが、ふたりが出会ったときの話など、今更わざわざするのはどうも照れくさいし、それに話が食い違ったりちゃんと憶《おぼ》えていないことがあったりすると、途端に妻は機嫌が悪くなったりする。私はなにからなにまできちんと憶えているのに、とかなんとか。  だからなかなかそういうことは尋ねにくい。そういうのは、誰でもそうだろう。  まあそのうち何かのついでがあれば、それとなく尋ねてみようかなと思ってはいるのだが。 [#改ページ]   その七 頭を洗う  小説だけではなかなか食っていけないので、たまに妻の実家にアルバイトに行ったりする。  昔はこのあたりでいちばん大きな工場だったらしいのだが、現在は妻の両親だけでやっている小さな工房で、以前工場として使われていた建物は隣にそのまま残されている。  同じものを大量生産していた昔とは違い、今ではひとつひとつ仕様の違う完全受注生産になっていて、大きな工場はすべて閉鎖されてしまったらしい。  かつては工場街だったそのあたりが一丁目で、この人面町はそこを中心にして反時計まわりに巻貝のような形で六丁目まで。  だから一丁目のあたりは昼間でもほとんど人気がない。すこし怖いくらい、などと言うと妻に笑われるが。  そもそも、何だかよくわからないままいつのまにかあまり話題にものぼらなくなってしまった例の災害によって住んでいたアパートが倒壊し、妻——もっともそのときはまだ妻ではなかったのだが——に連れられてこの町にやって来て、そのまま彼女の実家にやっかいになることになったのだが、今にして思えばどうやら私はこの仕事のために連れてこられたようでもある。  ここに来たあの日のことは、今でもたまに夢に出てくる。  玄関で靴を脱いで、彼女に導かれるまま廊下を歩いた。天井に下がった白熱電球のせいか、妙にくっきりと影ができる。薄暗くもないのにところどころに闇がある板張りの廊下はやたらと長く、そして曲がりくねっていた。廊下の右側は壁、左側には障子や襖《ふすま》があるからその向こうは部屋なのだろう。  それにしてもどうしてこんなに曲がっているのか。  そんなことを考えていると、雨戸を閉めた長い縁側のようなところに出た。左側は大きな座敷だ。その座敷に入っていく。座敷の天井には橙色《だいだいいろ》の豆球だけが点《とも》っている。床の間やら違い棚やらにいろんなものが置かれているようだが、それが何なのかはよく見えない。奥の襖を開けるとまた座敷があり、その奥にもまた座敷があった。何番目かの座敷のそのまた奥に小さな梯子《はしご》段があって、その梯子段の上から白い光が漏れている。  とんとんとんと上っていくから後についていくと、そこは小部屋になっている。  大きな天窓があった。その真下に木の作業台らしきもの、そして、その周囲には様々な器具が並べられていた。 「お父さん、お父さん」  彼女は言った。 「ねえ、前から人手が欲しいって言ってたでしょ」  機一郎《きいちろう》氏は背中を丸めて細かい仕事をしていたようで、作業台に顔を伏せたまま「ん」とだけ応《こた》えた。 「それでね、この人、住んでるアパートが壊れちゃったのよ。だから空いてる部屋に住ませてあげてもいいでしょ」 「ん、ん」と機一郎氏。 「ねえ、聞いてる。いいの? あとで文句言わないでよ。いいよね?」 「ん、なにが」  とそこで初めて顔をあげた機一郎氏は水中眼鏡のようなゴーグルを填《は》め、片手には細いメスみたいな刃物、もう片手には赤色や青色や黄色の電気コードの付いた棒を握っていた。 「ね、お父さん、いいでしょ」  機一郎氏はしばらく考えるようにして、そしてまた作業に戻った。そして、手を細かく動かしながら思い出したように言った。 「またまた何を拾ってきたのか知らんが、ま、お前がちゃんと責任を持つんなら、よろしい」  天窓からの四角い光でまぶしいほどの作業台の上には、烏賊《いか》のような蛸《たこ》のような芋虫のような子犬のような、ようするになんだかわからない生き物らしきものが置かれていて、その腹だか背中だかはきれいに縦に裂かれている。  機一郎氏は、さっきからその裂け目に銀色のメスと棒を入れて、なにやら細かい作業をしているようだった。  じゃあそういうことで、と彼女がささやくように言ってすたすたと梯子段を下りていくから私も後に続いた。  空いている部屋というのは、さっきの縁側からT字に枝分かれした渡り廊下を通っていく別の建物の中にあって、工員がたくさんいた頃には独身寮として使われていたところだという。  蒲鉾《かまぼこ》形の平屋で、廊下の左右に同じ形の部屋がずらりと並んでいる。廊下の奥のつきあたりに共同トイレがあって風呂《ふろ》はない。そのかわり、渡り廊下の横の石段を下りて中庭の洗濯場の塀についた木戸を開けると、道のすぐ向かいに銭湯の暖簾《のれん》がかかっている。  蟹穴《かにあな》温泉、というのがその銭湯の名前だが、銭湯につきものの大きな煙突は見当たらない。天然の温泉なのだという。天然ミネラル心身健康湯、と看板もあがっており、赤錆《あかさび》色のその湯はリューマチ神経痛人面不全甲羅|剥離《はくり》などの治療に効果があると記されている。とにかく入ってさっぱりしてくれば、と手ぬぐいと石鹸《せつけん》を貸してくれた。  蜜柑《みかん》色の大きな暖簾をくぐって右側が男湯。番台には男が閑《ひま》そうに座っている。これからもどうせずっと来ることになるだろうから、回数券を買った。十回分の値段で十一枚|綴《つづ》りである。  入口からは考えられないほどなかは広い。いや、広いというより深いというべきか。ガラス戸を開けて浴室に入ると、幅が広くなったり狭くなったりしながらどこまでも洞穴のように続いている。その奥は蟻の巣のように枝分かれしていて、話では六丁目にある銭湯まで繋《つな》がっている道もあるという。途中でのぼせそうなのでさすがにそこまで行ってみようとは思わないが。  まあその名が示す通りの蟹穴式温泉なのだろう。このあたりに棲《す》んでいた大きな土竜《もぐら》に掘らせたという言い伝えが残っていて、その由来を描いた軸が脱衣所にかけられている。侍が刀を抜いて大きな土竜に何かを命じている場面だ。それなら土竜穴温泉にすればいいのに、と思うが、土竜穴ではいまいち浸《つ》かる気になれないのかもしれない。  すっかり温まって部屋に戻ってみると彼女がいて、近所の安い食堂も教えてくれた。なるほどそこの定食は安くて量も多くうまかった。  初めの何日間かはそこで食べていたのだが、そのうち食事の時間になると彼女が部屋まで呼びに来るようになり、なぜか彼女と彼女の両親といっしょに食べるようになった。  彼女の両親は、私と彼女がいったいどういう関係にあると思っているのだろう。そんなことを思いながら食っていたのだが、まあ考えてみれば私にもそれはわからない。面と向かって尋ねられたりしなくてよかったと今でも思う。いくらなんでも、私にもよくわかりません、ではまずいだろうし。  それにしても、住まわせてもらってしかもご飯までご馳走《ちそう》になっていてはさすがに申し訳なく、家賃の話をしたりもするのだが彼女は、どうせ空いてるんだから、などと言う。  もちろんそれはありがたいことだし、実際、金はまったくないわけではないが特に余ってもいないし、ここを出て新しく部屋をかりるというのはいろいろと面倒である。前のアパートに入るときも、会社員ではないというだけで保証人がどうのこうのとややこしかった。そんなことを考えるとついつい先へ先へと延ばしてしまい、気がつくとそのままずるずる半年ほどが過ぎてしまっていたその頃、彼女の父親にこう言われたのだ。 「ん、ちょっとした仕事、やってみる気はないか、こづかい稼ぎ程度にな」  まあ断る理由はない。 「ん、あのな、材料の調達なんだがな、やって欲しいのは。ええっと、つまりな、だいたいこんなふうなやつをな」と機一郎氏は作業台の上を指差した。 「取ってきて欲しいんよな」  そこには肌色の塊があった。最初に機一郎氏と対面したときに見たものとよく似ていたが、あれよりはだいぶ大きかった。よく見ると、それは動いている。呼吸するようにゆっくりと膨らんだりしぼんだり。  肌色というより肌そのもので、表面には細かい血管のようなものが浮いている。 「ん、まあ、だいたい、こういう感じのいいものをな」  機一郎氏の話によると、それは人面の材料で、しかしこの頃はいい材料を手に入れることがきわめて難しく、だから閉鎖されている工場から材料を持ってくるのがいちばんいいのだという。 「ここの工場からですか」 「ん、いやいや、うちのはもう使ってしまったからな、よその工場だな」 「そこに入っていって取ってくればいいんですね」 「ん、そうそう」 「じゃ、今からさっそく」 「ん、いやいや、さすがにこんな昼間に行くのはまずいんじゃないかな」 「なにがですか」 「誰かに見られるだろ、こんな昼間ではいくらなんでも」 「どういうことでしょう」 「だから見られたらまずいだろ」 「ええっと、ちょっとよくわからないんですが」 「ん、なにが?」 「だから、どうして見られたらまずいんですか」 「ん、だって、置いてあるのを勝手に持って帰ったらそれはやっぱりまずいだろ」 「えっと、勝手に持って帰るんですか」 「ん、まあ、そうなるかな」 「えっ、勝手にですか」 「ん、勝手にかな」 「かな、って。勝手になんですか」 「ん、まあ、もう誰も住んでないからな。許可を得ることもできないんだな」 「でもあの、それは、泥棒、ということになりませんか」 「ん、まあ考えてみたらそうかな」  考えてみなくてもそうである。しかし放っておいたら誰も使うことなく朽ちていくだけだと言うし、まあそれならたしかに無断でもなんでも誰かが使ったほうがいいのではないかという気はする。  それじゃ、できるかどうかわかりませんけどやってみます、と私が言うと、いやいや、そりゃあまあ、やるからにはできてもらわんとなあ、と機一郎氏は笑い、「じゃ、その前に」と指差す部屋の隅には紫色の箱がある。 「なんです、あれ」 「センタクキ」 「ああ、洗濯機」 「ん、あれに入るがよろしい」 「入る?」 「そうそう」 「入るんですか」 「そう、頭から入るがよろしい」 「なんでそんなこと」 「あらう」 「洗う?」 「脳味噌《のうみそ》」 「脳味噌?」 「そうそう、すっきりする」 「脳味噌が?」 「そうそう、すっきりさせるがよろしい」  どう応えたらいいのかわからないが、あまり何度も聞き返すのもなんだし、わからないままにその洗濯機に近づいていった。  やけに毒々しい色の洗濯機だ。全体は紫色をしていて、中央の窪《くぼ》みから放射状に黄色と緑色と赤色の縦縞《たてじま》が入っている。  その穴を覗《のぞ》き込んでいるだけでなんだか妙に落ちつかないのは、それが直方体ではなく、微妙に歪《ゆが》んでいるからだろうか。  見つめていると、めまいを起こしそうになる。なのに、なぜか目をそらすことができないのだ。  と、周囲がぐにゃりと歪んだ。足元がぐらぐらして膝《ひざ》から力が抜け、かくんと身体が沈むと、すぐ目の前に洗濯機の縦縞がある。  それでわかったのは、歪んだのは私の周囲ではなく洗濯機のほうなのだということ。  さっきまでは無理をして箱形を保っていたが、もう我慢ができなくなって、元の形に戻ってしまったのだ。  なぜか、そんなことがわかった。  そしてそのときには、すでにその中央の穴が顔の前に広がっていて、おまけにさっきまで単なる穴だと思っていたその中からこれまたけばけばしいショッキングピンクのびらびらにゅるにゅるした触手のようなものがたくさん出てきていて、巨大なイソギンチャクみたいにそのまま頭に吸いついてきたのだった。  頭ごと、頭のなかが吸いとられていくような感じがして、実際、そのまま何が何やらわからなくなった。  気がつくと蒲団《ふとん》で寝かされていて、枕元では彼女と機一郎氏が喧嘩《けんか》をしていた、というか、機一郎氏が彼女に怒られているようだった。 「ほんとにもう、私の居ないときを狙って勝手にこんなことするなんて」「いや、別に狙ってやったとかそういうわけでは」「ううん、そうに決まってる、ひどいひどい、もうお父さんなんか大嫌い」「いや、そんなこと言うけどな、もともとこいつは、お父さんの手伝いをさせるためにお前が連れてきてくれたんだろうが」「だったら何よ?」「部屋に住まわせて飯もくわせてるんだから、もういいかげんに仕事をしてもらわないと」「だめよ、そんな危ないことさせないでよ、せっかく私が世話してるのに」「いや、でも、まあもしものことがあったときのためにちゃんと写しを取っておいたし」「絶対だめ、もうあんなことさせないからね」「いや、だからもしものことがあってもいいようにだな」「あっていいわけないじゃない、そんなの」「うん、まあ、いや、うんわかった、しかしなあ」「しかし、って何よ」とまあ、障子越しにそんなやりとりを聞いたように思うのだが、また眠くなって寝てしまった。寝なければよかったと今になって思うのは、そのあととんでもなく嫌な夢を見たからだ。  私はひとりで廊下を歩いている。  薄暗くて幅の広い廊下。床はタイルだ。つるつるした白いタイル。壁面も同じ。  天井には長い蛍光灯が何本も並んで続いている。  どうやって自分がここに来たのかは憶《おぼ》えていないが、なぜここにいるのかはわかっている。  一種のおとりだ。あいつをおびきよせるための。  以前はここで大量に培養されていた生体材料。ここで培養され、この周囲の工場街で加工され出荷されていた。  二十五メートルプールほどもある培養槽がいくつもあった。それでも足りなくて、成長を人工的に加速するいろんな方法が試されたりもしていた。  あんなものができてしまったのは、そのせいだという話もある。確かな根拠があるわけではなく単なる噂だが。  もっとも、あいつが鮫《さめ》のような大きな顎《あご》と鋭い歯を持っているというのは単なる噂ではなく目撃情報だ。  股間《こかん》にある剥《む》き出しの大きなペニスはいつも勃起《ぼつき》しているという。もっとも、目撃されるのは人を襲うときだけだから、人を襲うとき以外は勃起などしていないのかもしれない。  なぜ人を襲うのかはよくわからない。噛《か》み殺しはするが食っているわけでもないようだ。  そうなると、そいつにとって、その行為は単なる遊びなのか、それとも恨みなのか。まあ、両方なのかもしれないが。  最初に、そのぺたりぺたりぺたりという足音が聞こえてくる。タイルの上を裸足《はだし》で歩く音だ。足跡が残っていたりもする。それで扁平足《へんぺいそく》らしいということがわかっている。  だが、足は速い。獲物を見つけると走ってくる。ぎざぎざの尖《とが》った白い歯を噛み合せながら、まっすぐ走ってくるのだという。  もしそうなったら、振り向かずにただ前を見て走って逃げるしかない。振り向いたりすれば速度が落ちる。足は速いのだが、それほど持続力がないから、うまくすれば途中で諦《あきら》めてくれる。  いったい誰に聞かされたのか、それとも何かで読んだのか、とにかくそんなことを知っている。まるで襲われたことがあるかのようにくっきりとイメージすることができる。  だから、怖い。  こんなに怖いのならそんなこと知らないほうがずっとよかったなと思うのだが、今更どうにもならない。  ともかく、もしそれらしきものが見えたら、すぐに走り出そうと思う。膝が震えている。うまく走れるだろうか。  あまりあわててもいけない。なにしろ床はつるつるのタイルなのだ。ただでさえ滑りやすいのに、なぜか濡《ぬ》れている。  靴は脱いでおいたほうがいいのだろうか。  ふと、そんなことを思う。  もし転んだらおしまいだ。裸足のほうがまだ滑らないのでは。  まっすぐだと思っていた廊下だが、ずっと先を見るとわずかにカーブしているのがわかる。円だと感じることができないほどの大きさの円周状の廊下なのではないか。ふいにそんなことを思いつき、そうに違いないと確信する。  思いついたのではなく、知っている。ここは閉じられた輪のなかだということを。  前にも来たことがあるから。  水の音が聞こえる。ちろちろちろちろと石の上を流れるような小さな音。  壁のなかからだ。  白いタイルの向こうから聞こえる。  最初からあったのに気がつかなかったのか、それともこのあたりだけがそうなっているのか、壁に小さな穴が並んでいることに気がつく。  膝くらいの高さのところに、等間隔で十円玉くらいの大きさの穴がある。穴の周囲にだけはタイルがはめられていない。剥き出しの壁に開いた穴はきれいな円ではなくいびつな形をしている。よく見ると、それがゆっくりと動いているのがわかる。柔らかい壁に開いた柔らかい穴だ。  ゆっくりと開いたり閉じたり。ひとつが開くとすこし遅れてその隣さらにまたその隣というふうに波のように伝わっていく。  ああ、それでタイルがはめられているのだな、と思う。放っておけばぐにゃぐにゃになってしまうのを、あのタイルでどうにか固めているのだ。  だが、もちろんそれだけではない。  いちばんの理由は、掃除だろう。血やら体液やらその他もろもろ内容物、それらが床にぶちまけられた時でも掃除がしやすいようになっている。  作業が始まると、壁にあるあの穴から水が流れ出して、この廊下は川の浅瀬のようになる。だから、そういう作業はすべてこの廊下で行われていた。  天井の蛍光灯とヘッドランプの光が流れに反射してタイルにきれいな縞《しま》模様をつくった。  そんな流れのなかでゴム長靴を履いて作業をしていた。冬は辛《つら》かったな。  足が痺《しび》れた。作業を終えて歩き出そうとして、冷たさで足がうまく動かせず水に倒れ込んでしまった者もいたほどだ。  待て。  はっきりと思い出せる。  そうだ。  最初は鼠でやっていたな。  鼠の背中をシートに使って、そこでいろんなパーツを育てていた。  鼠から始めて、だんだん大きくしていったのだ、たしか。  いろんなものからいろんなものを作った。株になる細胞を育てたり、その核の中身を書き換えたりして材料を作った。  そんな材料を切ったり貼ったり挿入したり削除したり、そしてまたそこから株になる細胞を作ったり枝分かれさせたり。  思いつくことは次々にやった。  ダメもとだよ。  それが合言葉。  大きいのを使うと、いろいろとやりやすくなった。細かいものを操作する技術を開発するより、操作するものを大きくしてしまうほうがずっと簡単だったのだ。とりあえず、大きいもので作ってしまってから、その小型軽量化を図る。  それが基本方針だった。  だから部品は複雑になればなるほど大きくなっていったし、それらを組み立ててできあがるものはさらに大きくなっていった。大きくて力があるから、たまに暴走した。  ある程度以上に複雑になってくればもうその細部までは管理できず、自己発展的に作られた部分が増えてくるからとてもすべてを把握することなどできない。  いろんな事故が起きたがその事故も隠されたから、原因もよくわからないまま次の段階へと進むことになる。事故が起きたことすら知らない者が多かったのだ。  あいつは、そんな過程で生まれた。いちど仮に組み上げて、それから高性能化するプログラムを挿入した。自分自身の情報を自分で書き換えながら、設定された目標へと接近していく自己開発プログラムだ。効率を上げるために遺伝情報を不安定にして、代謝を加速した。  その結果があれだ。  性能は確実に上がったから、あながち失敗とはいえない。  小型軽量化され速度も上がり、でもそのかわり狂暴化した。  不注意な研究員がひとり食い殺された。  あいつが今使っている下半身は、その研究員のDNAから作られたものではないかとも言われている。なにしろ、彼は巨根ということで有名だったらしいから。  あれ?  それにしてもなぜ私はこんなことを知っているのだろう。たぶん、誰かに聞いたのだろうなとさっきまでは思っていたのだが、それにしてはあまりにもはっきりと憶えている。それに付随した映像までくっきりと浮かんでくるのだ。  これではまるで回想——、と思わず立ち止まったとき、それが聞こえた。  ぺたり。  濡れた足がタイルを踏む音。  いや、そんな気がするだけで、単に水滴がタイルを叩いただけかもしれない。  そう思って歩き出すと——。  ぺたり。  また聞こえた。  後ろからだ。  どのくらい後ろなのか。  それがわからない。  怖い。  怖くて振り向けない。  でも、このままここでじっとしているわけにもいかない。  思い切って振り向いたすぐそこに、白い歯があった。白いぎざぎざの歯が並んでいる。  きりきりきりという音をたてて顎《あご》が開き、そいつの喉《のど》の奥が見えた。  赤くて暗い穴。  走っていた。  いつ走り出したのか自分でもわからない。とにかく走っていた。自分の足の裏がぺたんぺたんぺたんとタイルを叩《たた》いているその音に、もうひとつよく似た音が重なる。でも、振り向くことはできない。そんなことをしたら追いつかれる。  濡《ぬ》れたタイルの上を前だけを見て走る。バランスを崩してはいけない。  このまままっすぐ、ただ走り続ける。  それしかない。  きり、きり、きりきりきり。  そんな音が聞こえる。追いかけてくる。  ふおお、ふおおおおお、というあれは呼吸音なのかそれとも笑い声なのか。生あたたかい息のようなものを首筋に感じる。  膝《ひざ》から力が抜けそうになる。いっそ諦《あきら》めてしまいたいと思いながら走っている。  追いつかれたら——。  もし、追いつかれたらどうなってしまうのだろう。  噛《か》み殺される。  それは当然だ。  それだけでは済まない。  顎だけしかないあれは、もっと他の部品を欲しがっている。部品を集めて、それで自分を組み立てる。  そんなふうにプログラムされている。そのための顎なのだ。たぶんあいつがいちばん欲しがっているのは、いろんなものを組み立てるための腕だろう。技術者の器用な腕が欲しいのだ。  自分を組み立てるための腕と脳を自分の肉体に組み込もうとしている。そんなことになったら大変だ。ますます始末に負えなくなる。  だから捕まってはいけない。  走りつづける。  緊急退避所のドアのところまで。  もうすこしだ。もうすぐ見えてくるはず。  と、そのとき、ごぼごぼごぼごぼと老人の喉に痰《たん》が絡んだような音がそこらじゅうからいっせいに起こり、そして大きくなる。  壁の穴だ。  穴が大きく開いて、そこから勢いよく水が噴き出してくる。  おいおいおい、なんだこれは。いったいどうなって——。  水の流れに足を取られ、そのまま床に倒れる。水|飛沫《しぶき》があがった。起きあがろうとして、タイルで滑った。水の流れは激しくなり、身体がそのまま流されていく。掌《てのひら》にタイルの感触。滑っていく。  大便のように流されていく自分の姿が頭の隅をよぎる。  すぐ後ろできりきりきりとネジが巻かれるような音がする。振り向くとそこには白い歯が並んでいた。すぐ目と鼻の先で、顎がゆっくりと開いていく。        * 「ん、なかなか大きい。初めてにしてはなかなかの首尾よな」  機一郎氏が、作業台の上を指差して言う。  作業台の上には鎖に繋《つな》がれたあいつがいる。  下半身が人間で上半身が鮫《さめ》の顎。下半身だけが規則正しく足踏みをしている。  やっぱり餌は生きたのがいちばんだからな、と機一郎氏は言った。そして、よくやってくれた、ごくろうさんごくろうさん、と私の肩を叩いた、というふうにその記憶は続いているのだが、どうも怪しいのだ。  だいたい、この私は、前の私とほんとうに同じ私なのだろうか。  たしかに記憶は連続しているようだし、どういういきさつでこうなったのかというのもなんとなく回想できるのだが、それにしても、知らないはずのことまで思い出せてしまうというのはいかにも怪しいし、写しがどうのこうのとか言っていたのも怪しい。食われてしまったときのためのコピーかなにかを取ってあって、今の自分はそのコピーのほうなのではないか。そんな気がしてならない。機一郎氏になら、そのくらいのことはやれそうなのだ。  今もこうしてたまにアルバイトには来ているが、あのときのような仕事は頼まれても断るように、と妻にきつく言われている。だから、材料を切ったり貼ったり写したりするようなちょっとした手伝い程度のことをやっている。どういうわけか、習ったわけでもないのにいつのまにかそういうことができるようになっていた。腕が勝手に動くのだ。  なぜかなつかしい気分になったりもする。こんな仕事、したこともないはずなのに。  まあなかなかいいアルバイトであるし、その点に関してはありがたいことだと思う。  ただひとつだけ困るのは、仕事中に仮眠したときいつも怖い夢を見るということくらいだが、そんなことを言うと笑われるから誰にも言わない。  目が覚めるとどんな夢だったのかもうわからなくなってしまっているのだが、終わりだけはいつも同じ。そして、耳元まで迫ってきたきりきりきりというあの音で毎回目が覚めるというその点も同じだが、目が覚めてみるときりきりきりと鳴っているのは、なんのことはない自分自身の顎なのだ。 [#改ページ]   その八 鋏を使う  映画館などもある川向こうの駅。その裏手には大きな掲示板があって、そこはいろんな人のいろんな悪口で溢《あふ》れんばかりになっているらしい。  まあ誉《ほ》めるよりは悪口のほうが簡単だし気持ちがいいし、なんとなく自分が偉くなったような気分にもなれる。だがその気分を持続させるためには悪口を言い続けなければならず、これまでと同じレベルの悪口では満足できなくなってくるのだが、そうそう悪口のネタも根拠もあるわけがないから無理やりエスカレートさせねばならなくなり、そうなると当然のことながら無理がでてきてどんどんわけのわからないことになっていく。そんなことを続けているうちにおかしくなってしまう奴もけっこういるらしく、だからそういうところにはなるべく近づかないほうがいいのだろうと前から思ってはいた。  ところが、映画を観てきた妻が、帰ってくるなり嬉《うれ》しそうに、あなたのこともあったわよ、などと言うのである。  なんだよ、それ。  私が尋ねると妻は、まあよくあるやつよ、などと笑うだけ。  もしかして、悪口か。  そうよ、悪口よ。  どんな?  このあいだ久しぶりに出た本とあなた自身に関する悪口よ。  えっ、おれ自身? 本の内容はともかくとして、おれ自身の悪口って、それいったいどういうことなんだよ?  思わず声を荒らげた。  どんなのがあるんだ?  どんなのって言われてもね、と妻はにやにや笑う。  言ったら、あなた怒るじゃない。  怒らない怒らない。そんなことで怒るわけないだろ。子供じゃないんだから。  ほんとに怒らないのね。  ああ、怒らない。  すると、妻は天井を見つめていかにも今思い出しているというようなわざとらしい仕草をしてからつぶやくように言った。  顔がでかい。  なにっ。  私はわめいた。  ほら、怒った。  妻が勝ち誇ったように言った。  さっき、怒らないって言ったじゃない。  いや、怒ってない怒ってない。全然怒ってないよ。それで、それ以外にはどんなのがあった?  言うと、あなた怒るから。  だからさっきから、怒らないって言ってるだろうが。  その口調がもうすでに怒ってるもの。  怒ってないって。いったいおれのどこが怒ってるって言うんだよ。全然怒ってないじゃないか、ほらっ。  なにが、ほらっ、なのかさっぱりわからないわ。  こうして笑い飛ばしてるところがだよ、ほら、うはははははははははははははははは。  気持ち悪い。  なにっ。  私は思わず叫んだ。  なんでそんなこと掲示板に書かれなきゃならんのだ。  今のは掲示板じゃなくて私の感想よ、と妻。  ね、やっぱり怒ってるじゃない。顔の筋肉がひきつってるし、目が血走ってるわ。  あのな、そんなことはどうでもいいんだよ。いったいその掲示板とやらには他にどんな悪口が書いてあるんだ。  書いてあるっていうより、貼りつけてあるんだけど。  そんなことはどうでもいいっ。  ほら、怒った。  怒ってないって。いや、だから、そんなことはどうでもいい。他にどんな悪口があるんだよ。  そんなに気になるなら、自分で見てくればいいじゃない。  嫌だ。  どうして?  だって、馬鹿馬鹿しいじゃないか、そんなのにつきあうなんて。だいたい掲示板で悪口を言うなんてくだらん奴のすることだ。そんなくだらんものを大人がわざわざ見に行けるか。  じゃ、別に気にしなければいいんじゃないの。  ああ、そうだ、そうだよ。  じゃ、それでいいんじゃないの。  いいよ。  なにがおもしろいのか妻はくすくす笑っている。くだらん。ああ、そうだそうだ、そうなのだ。そんなもの気にする必要はない。馬鹿馬鹿しい。いちいちそんなものを気にしていては小説なんか書けはしないのだ。  うん、そうだぞ、とわざわざ声に出して自分に言い聞かせ、それから小説の続きに取りかかった。それにしても、顔がでかいとはなんだ、まったくもう。そりゃたしかに小さくはないよ。しかしものすごく大きいわけでもないだろう。まあ、たぶんあの写真のせいだろうとは思うのだ。うん、あの雑誌に載った写真だ。対談だったかなんだったか、そんなのをやったときの写真だ。あれを見るとたしかにでかく見える。いやしかし、あれは写真が悪いのだ。隅のほうだから、ちょっと横長気味になってしまっている。そんなことが起こるものなのかどうか、技術的なことはしらないが、実物よりも横長になっていて、しかもモノクロの写真だからバックの壁と顔との境界が曖昧《あいまい》になって、それも原因なのだ、きっと。自分でも見て、ちょっとびっくりしたくらいだ。なぜあんな写真を使うのか。しゃべっていた一時間ほどの間、ずっとばしゃばしゃシャッターの音がしていたはずだ。なのに、よりによってなぜあの写真。事前にチェックすべきだったよ。いや、しかしなあ、そりゃ、文章とか喋《しやべ》った内容なんかならともかく自分の写真をチェックさせろなんてのは、ちょっと恥ずかしいかなあ、とあの時は思ったのだ。チェックして、こっちのもっと映りのいい方を使ってくれ、なんてのはさすがになあ。いや、しかし、まさかあんな横長写真を使われることになるとはなあ。いや、本当に横長なのかどうかはわからないのだが。とにかく、角度も問題なのだろうなあ、顔と首と壁がひと繋《つな》がりになっていて、壁の部分までが顔のように見える。異様に顔が大きく見えるのはそのせいもあるだろう。いやまあ実際に大きいというのもある。それは否定しないが、あの写真では必要以上にそこが強調されているというか、まあ必要以上という言い方はちょっとおかしいが、とにかくそんなふうに見える。それでこんなことになったのだ。そうに違いない。  と、改行してふと我に返って画面を見ると、なんだこれは、私はいったい何を書いているのだ。いつのまにやら指が勝手にこんなことをかたかたかたかたと打ち込んでしまっているではないか。  これではとても仕事にならない。  ちょっと古本屋まで行ってくる、とだけ言って表に出た。なにがおかしいのか妻はあいかわらずくすくす笑っている。        *  石の坂を下ってそのまま土手に出る。  川沿いにしばらく歩くと木の橋がある。  まっすぐで長い木の橋だ。  隣には鉄道橋が架かっている。  その向こうにはもう一本、木の橋がある。  その橋まで行くためには鉄道橋の手前の踏み切りを越えなければならない。  嫌だなと思う。  というのも、それは夜になるとお化けが出るという噂の踏み切りなのだ。幽霊ではなくてお化けなのだという。いったいどう違うのかはわからないが、とりあえず幽霊ではないということはわかるらしい。そんなわけで昼間でもあまり渡りたくない踏み切りなのだ。 でも、ここで渡っておかないと、あとは駅の西にある地下道をくぐってしか線路を越えることができず、そしてそっちの地下道には昼夜を問わずお化けが出るという噂なのだ。もちろん幽霊ではないお化けである。  まだこの踏み切りのほうがましだろう、今は昼間だし。だからここで渡っておく。  渡ろうとすると、かあんかあんかあん、と警報が鳴る。大きな赤い目玉のような警告燈《けいこくとう》が点滅する。そして、あのスズメバチの尻《しり》のような黄色と黒の縞《しま》模様の棒が腹のあたりまで下りてくる。  川には大きな中洲《なかす》がある。背の低い木が何本かあって、あとは葦原《あしはら》だ。枯れた葦原の上を雲の影がゆっくりと移動している。  中洲には住んでいる人がけっこういるようだ。廃材で造った家や畑のようなものがいたるところにある。あの風車のようなものはもしかしたら発電機なのだろうか。その隣にあるのはパラボラアンテナか。よく見ると葦原の間にはそれらを結ぶ道や水路のようなものまである。  冬の午後の光のせいだろうか、すべてが古い写真のように見えた。  かたん、という乾いた音に振り向くとすでに警報機は鳴り止み遮断機も上がっている。  中洲を眺めている間に列車は通過してしまったのだろうか。それにしても、その振動すら感じなかったように思うのだが、まあたんに気がつかなかっただけか。  もしかしたら夜中でもないのに列車以外の妙なものが通過したのかもしれないが、そうだとしたらますます見なくてよかったと思う。  踏み切りを渡り、線路を挟んでもう一本架かっている橋の上に出た。  この橋とさっきの橋はまったく同じ構造になっているから、一瞬、左右が逆転した世界に入り込んだような錯覚を覚える。いつもそうだ。その瞬間が、けっこう好きである。  橋を渡って土手の斜面を下り、そのまま線路に沿ってしばらく歩くと、高架の上に駅のプラットホームが見えてくる。  線路の反対側には映画館や商店街や市場があるのだが、こちら側には何もない。  工場があるだけ。  もうずいぶん前に閉鎖されてそのままになっている工場の入口は板で塞《ふさ》がれているし、隣接する寮にも今はもう誰も住んでいない。  工場がまだ稼動していた頃、工場に出勤する人たちのために設けられていたこちら側の改札口も、今は鉄の扉で閉ざされたままだ。  かつては、ここが人面製造の生産ラインの終点になっていて、ここから毎日のように全国に出荷されていたそうだ。その頃の名残である引込み線が柵《さく》の向こうに見えた。あの先に貨物列車のプラットホームがあるのだろう。  線路の先にある蒲鉾《かまぼこ》形の屋根は、すっかり塗装が剥《は》げ落ちている。  例の掲示板は電車の窓や駅のホームからもよく見えるという話だったから、このあたりにあるのだろうと見当をつけていたのだが、それらしきものは見えない。行けばわかるだろうと思って来たのが甘かったのかもしれない。いつもそれで失敗するのだ。  おめおめと帰るのはくやしいのでやれるだけやってみることにする。フェンスは簡単に乗り越えることができた。貨物列車の引込み線は、もう長いこと使われていないらしく赤錆《あかさび》だらけで、冬だというのに背の高い草が線路と枕木とを覆い隠すように生えている。  建物の周りを一周して、壁に穴を見つけた。  煉瓦《れんが》塀に大人の胴体より少し大きいくらいの穴がある。最近になって開けられたような形跡があるから、これではないか。皆ここから入ってその掲示板とやらに悪口を貼りつけたり見物したりしているのではないか。  くぐってみると、そこはプラットホームで、埃《ほこり》の積もった床には一方向へと続くたくさんの靴跡がある。  もし本当に私の悪口が書いてあるならそれが本当のことでも本当のことでなくても切りとるか消すかしてしまいたいし、できることならもう書けないように潰《つぶ》してしまいたい。  靴跡をたどって歩きながら、そう考えていた。  まあ実際にそんなことができるものなのかどうかは、掲示板自体を見てみないことにはわからない。  一時期はこの内部に烏が大量に棲《す》みついて、問題になったこともあったようだが、今はもう一羽もいない。もっとも、とくに駆除したというわけではなく、あるときを境に勝手にいなくなってしまっただけだ。何か別のものが棲みつくようになったからだという噂がある。あの屋根の上に、なんだか得体の知れないものが立っているのを見たことがあるという者もいる。猫のような烏のような蛇のようなものだったとか。他にもいろいろあるが、それが具体的にどんなものなのかという証言の内容は目撃者によってかなり食い違っている。  なんにしても、そのせいでこのあたりには誰も近づかないようになって、それであんな掲示板ができてしまったのだろう。  ひょっとするとその噂、掲示板が簡単に潰せないほどの大きさになるまで発見されないようにと意図的に流されたものだったのではないか。その証拠に、当時ささやかれたいろんな噂は、その掲示板上にそっくりそのまま、まるで掲示板の歴史のように残されているらしい。  プラットホームの端にベルトコンベアがあった。靴跡はその上へと続いている。  緩やかな上りのスロープだから滑り落ちたりすることなく上れそうだ。  製品はここを通って出荷されていただろうから、逆にたどって工場の中へと入ることができるだろう。  くきゅ、くきゅ、と靴とベルトコンベアが音をたてた。  幅の狭い緩やかな坂道を、滑り落ちないように気をつけて上っていく。  天井の高い体育館のようなところに出た。  中央にある四角い天窓から日光が柱のように何本も射し込んでいる。それでフロア全体は明るい。  なぜかそこには、川が流れていた。ベルトコンベアが途中から水没して川になっている。その両岸には様々な大きさと形状をした腕がジャングルのように並んでいた。それは生体素材で造られた作業機械たちだった。かつてここで流れ作業を行っていたのだ。  透き通ってはいるが、とろりとした粘性のある水だ。歩くと、波がゆっくりと伝わっていく。  天窓からの光を反射して、水面がきらきらと輝いている。  それはなぜかずっと昔見たことのある光景のような気がしたが、いったいそれがいつだったのか思い出せない。  そこしか歩けるところがないので、そのまま川の浅瀬を歩いていった。  そして、プールに出た。  深いプール。  水は透き通っていて天窓からの光がどこまでも射し込んでいる。なのに、プールの底は見えない。  深くて青い淵《ふち》をのぞきこんだ。  一歩踏み出せばそのまますとんと沈んでいってしまうだろう。そんな気がした。そのまままっすぐ沈んでいく。いちばん底まで。  でも、それが正しいことのようにも思えた。  どのくらいそうしていたのかわからない。  突然、身体に衝撃がきて、私はしりもちをついていた。  何が起こったのかはすぐにわかった。  ベルトコンベアが動きだしたのだ。  身体が後ろに送られ、さっき抜けてきた腕のジャングルが再び迫ってきた。  いや、動きだしたのはベルトコンベアだけではない。ざわらざわらざわらとそこらじゅうの機械や壁から突き出たり垂れ下がったり生えたりしている肌色の作業用の腕が動いていた。  独立して動いているようで、でも全体として大きな波のように動いている。  腕の先には小さな手があり、五本あるその指の先にも小さな手があった。たぶんその小さな指の先にもさらに小さな手がついているのだろう。それで大きなものから小さなものまで自由自在に組み立てることができる。  道具を持っている手もある。メスや鋏《はさみ》やピンセット、その他もろもろ。  工場はまだ生きているようだった。自己修復機能のあるものは、放置されていても自分で生き残る方法を発見して生き延びる場合がある。南極基地に置き去りにされた自動機械が次の年に行ってみたらアザラシやペンギンを食ったりしてちゃんと自力で生き残っていた、というようなちょっと感動的な話もあるくらいだから。  そんなことを思っている間に、身体はすっかり作業腕のジャングルのなかである。  ベルトコンベアに載せられたまま、肌色のいろんな腕の間をくぐっていった。大きな手小さな手、硬い手柔らかい手、太い手細い手、若い手年老いた手。  もちろんそのままというわけにはいかない。おおいに揉《も》まれた。ぐしゃぐしゃになって、とにかくもうありとあらゆるところに手を入れられ、そして鋏を入れられているのがわかる。しゃきしゃきしゃきといろんな大きさの鋏を使っている音がするのだが、それはなぜか、頭のなかから聞こえる。とにかくそれがもう気持ちいいの気持ちよくないの。  じつに気持ちがいいのである。自分を見失ってしまうほど——。  そう、そんな感じ。  そして実際見失った。  うん、まあそう言ってもさしつかえないだろう。なにしろ、目を開けると赤い砂漠にいた。  そんなはずがないとは思う。こんな赤い砂漠が近所にあるわけがない。だが、現にこうしてあるのだからしかたがない。  まあそれはそれとして、目の前に広がるこの砂漠が赤いのは地平線近くにある太陽のせいではないようだ。そのくらいのことは見ればわかる。そこにある太陽は、赤ではなく水色をしているのだから。  何気なく一歩踏み出した靴の下で、ばりばりばりと何かが砕けた。  足元を見る。  それだけではわからず、しゃがんで、顔を地面に近づけた。  殻だ。  手に取った。  甲殻類の殻。  エビか。いや、両手が大きな鋏になっている。  ザリガニに似ていた。アメリカザリガニ。  ザリガニが脱皮したあとの殻にそっくりだった。それが、一面に落ちている。  いや、その赤い殻で地面ができているというべきかもしれない。赤い砂漠のように見えていたのは、すべてその赤い殻なのだ。  ということは、ここは火星なのか。  私はなぜかそんなことを知っている。  あのザリガニに似たものたちがかつて火星に送り込まれたことを。  彼らは、ここを改造するために地球から送り込まれたマシンなのだ。その特徴ある形状と送り込んだ国の名前から、それは「アメリカザリガニ」と呼ばれていた。  アメリカザリガニたちは、火星を食う。火星を食って、それを材料にして成長し、脱皮する。そして火星で子孫を増やしていくのだ。  脱ぎすてられた彼らの古い殻が、火星の新しい大地になり、そしてそこに新世界が創られる。  そんな計画だった。  そんなものがかつてこの工場で作られていた。そして、私が今見ているのは、そのプロモーションのためのイメージ映像だ。そのことを私は知っていた。  製造されて次々に出荷されるアメリカザリガニによって予定通り順調に改造されていく火星の未来図。  だが、計画は中止された。主として予算の問題だったらしいが、詳しいことは知らない。  なんにしても、結局ここで作られたアメリカザリガニたちがプラットホームから出荷されることはなかったのだ。  そんなわけでここで作られたアメリカザリガニたちには別の仕事が与えられることになった。  本物の火星ではなく、作り物の火星での仕事だ。  テーマパークのなかに組まれた火星のセットのなかで演じられるアトラクションだった。そこで彼らには、ヒーローに倒されるためにだけ現れる巨大怪生物としての役割が与えられた。  だが、彼らは人間のコントロールから逃れることになる。  それはテーマパークのアトラクションのシナリオの中でのことだったか、それとも、そのテーマパークが経営|破綻《はたん》して、その管理のずさんさから彼らが外界に流出するという事故が起こった後のことだったか。  どっちだったかな。  とにかく、彼らは組み込まれた衝動によって改造を行った。  火星ではなく、人間を。彼らの棲《す》みかである穴のなかに引きずり込み、そこで改造した。  人間をザリガニに——。  人間を材料にして、彼らの王を作ろうとしたのだ。  ザリガニの王を。  地面から突き出た巨大な赤い鋏が、まっすぐ天を指していた。  あれがそうだ。  あれが、ザリガニの王。  赤い大地が揺れた。  そして地面を埋めつくす殻の層を突き破るようにしてそれが今、地上に姿を現そうとしていた。  鋏と鋏の間に、その尖《とが》った頭が見えた。  そして、そこには人の顔がついていた。  まるで貼りつけたように唐突に。  ぶよぶよとふやけ、歪《ゆが》んだ表情を浮かべた顔。  それは、私の顔だ。  たしかに、私の顔なのだ。  私の顔を貼りつけたザリガニの王は、突然脚をせわしなく動かして歩き出した。わしゃわしゃきこきこと脚の関節を鳴らしながら。  その目指す先には、肉の塊のようなものがあった。ザリガニの王より大きい。二階建ての家ほどもある赤黒い塊だ。  ザリガニの王は、二本の大きな鋏をフォークとナイフのように器用に使い、それを切りとって食い始める。鋏が突きたてられるとその塊は切れて、そこからは黄色く濁った汁のようなものが噴き出した。溝に溜《た》まった泥のような臭いがした。そんなことには構わず、切り取った肉片を顔の前へと運ぶ。  大きく口を開けて、私の顔がそれにかぶりついた。  くちゃくちゃくちゃくちゃと執拗《しつよう》に噛《か》む音が聞こえた。よく噛まないと自分の血と肉にならない。  くちゃくちゃくちゃくちゃ。  その音は、まるで自分の耳のなかでしているみたいにはっきりと聞こえる。  くちゃくちゃくちゃくちゃ。いつのまにか自分の口がその音の通りに動いている。  胸が悪くなって、私は吐いた。  何も出なかった。  ただ酸っぱい味がして、涙が出た。  それでも、まだ身体は何かを吐き出そうとしている。そして、ようやく何かが出てこようとしていた。  だが、喉《のど》の奥に引っかかってなかなか出てこない。何か硬いものだ。  痛い。蠢《うごめ》いている。  尖ったものが喉の奥に刺さる。  指を入れた。  指先にそれが触れた。そのままつまんでひっぱり出そうとした。  ところが、抵抗する。出てこようとしない。  暴れて喉の奥にまた何かが刺さった。  血の味がした。  指をさらに入れて吐いた。  胃液といっしょにそれが押し出されてきたのをそのままつかんで引き出そうとした。  びちっ、と何かが千切れた。  引き出されたのは鋏《はさみ》だ。赤くていぼいぼのある生きた鋏だ。千切れた付け根から、白い繊維が何本か出ていた。  それを見て、さらに激しい吐き気が襲ってきた。胃がそのまま裏返ってしまうほど。  そして、出てきた。  何匹も何匹も。あとからあとから出てきた。  ザリガニだ。  ぼたぼたとたくさんのザリガニが、地面のザリガニの殻の上に落ちた。落ちたザリガニはそのままがさがさと歩き回った。  なぜ自分の身体のなかにザリガニがいるのかわからない。それも何匹も。  まるでザリガニの穴だ。  泥の臭い。  そしてザリガニの臭い。  それが鼻の奥に溢《あふ》れた。  そうなると、もういくらでも吐くことができた。  口から、そして鼻からも小さなザリガニが出てきた。  うずくまったまま、私はいつまでもザリガニを吐き続けた。なぜかどのザリガニも鋏や脚や触角がとれていた。すべてのパーツがそろっているザリガニはなかった。  そのうち、殻のないザリガニばかりになってきた。そうなるとひっかからないから吐きやすい。半透明のザリガニの肉。ぴちぴちと跳ねるその感触を口のなかに感じながら、私はそれを吐き続けた。  身体の中身が全部なくなってしまうほどの勢いで——。        *  目を開けてみると天井が見えた。どこかに仰向けに寝転んでいるのだ。  大きく湾曲しているところからして、あの蒲鉾《かまぼこ》形の建物の天井らしい。  その天井が動いている。  なぜそんなものが動いているのだろうかと考え、すぐに動いているのは天井ではなく自分の身体のほうなのだとわかった。  どうやらベルトコンベアのようなもので運ばれているらしい。ということは、ベルトコンベアのようなものではなくて、この建物に入ってきたときにプラットホームで見たあのベルトコンベアそのものなのだろうな。  がくんと衝撃があって、そのまま放り出されたところはプラットホームの上だ。  コンクリートが頬に冷たかった。  自分の身体の動かし方が自分でよくわからないような妙な感じだが、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。動かし方をひとつずつ思い出すようにしてゆっくりと身体を起こしてみると、ちゃんと立つことができた。  すぐ後ろに、ベルトコンベアがあった。  ほら、やっぱりそうだ。  さっき上っていったベルトコンベアだ。埃《ほこり》の積もったその上には、新しい靴跡もくっきり残っている。  ということは、どういうことだろう。  私はベルトコンベアを逆行して工場のなかに入っていって、こうしてまたベルトコンベアで吐き出されたということか。  工場のなかがどんなふうだったのかがどうもうまく思い出せないのだが、とにかく目当ての掲示板がなかったことはたしかだ。そんなものを見たならいくらなんでも忘れるはずがない。  ではいったいどこにあるのだろう、とあたりを見まわすと、きりきりきりきり、と電車のブレーキの音が建物の奥から聞こえてきた。  見ると、車庫へと続く線路の向こうから貨物列車がやって来る。  貨物列車は、私の立っているプラットホームに滑り込んできた。その貨物列車にそれが載っているのを私は見た。  それは掲示板と呼ぶにはあまりにも肥大していた。  もともとはタンパク質で作られた記憶板《メモリーボード》だったのだろう。  そのことだけはかろうじてわかった。  だが、もとの形よりあとでそこに貼りつけられたもののほうがはるかに大きく、そして重かった。  そこには、無数の顔が貼りつけられている。  もしかしたら、これが人面というものなのだろうか。  歪《ゆが》んだ顔が、その表面を覆い尽くしていた。もともとは、ここから出荷されるはずだったものなのだろう。だが工場は閉鎖され、それは貨物列車に積み込まれたまま行き場を失ってしまった。  そして、ここに入り込んだ者達がその表面に好き勝手にいろんなものを貼りつけ、それが膨れあがって、こんな妖怪《ようかい》じみたものになったのだ。  貼りつけられた顔たちはプラットホームの私を見つけると喋《しやべ》りかけてきた。自分のなかに書き込まれた内容を声高に喋るのだ。相手の言うことなど聞かず、ただ喋りまくる。  貨物列車の鉄の車輪がきりきりと鳴っている。よく見るとその車輪にも顔が貼りついている。貼りついているだけでなく、顔の筋肉が車輪を回しているらしい。  普段は車庫のなかに隠れていて、ラッシュアワーなどに引込み線を使って貨物列車ごと人目に触れるところまで出て行くのだろうか。  とにかくいろんな顔がそこにある。なかには歪みすぎて顔なのかどうかわからなくなっているようなものもある。  そんなのがいっせいに喋りかけてくるのだ。  長い貨物列車の貨車すべてがそうだった。  貨車ごとにジャンルが分かれているらしい。  せっかくだからと私の悪口を言っている顔を捜したのだが、とにかくあまりにも膨大で、結局見つけることはできなかった。  このぶんでは、まだまだ大きくなるのだろう。私は見つけることを諦《あきら》め、来た道を逆にたどって帰った。かなり急いだので、なんとか暗くなる前に家に着くことができた。  ずぶ濡《ぬ》れの私を見ても妻は何も尋ねず、ただ「その様子じゃ、先にお風呂《ふろ》ね」と言っただけ。  夕飯のおかずはエビフライだった。 [#改ページ]   その九 腕を試す  新聞屋が券をくれたので、その山上遊園とやらへ行くことにしたのだった。  新聞屋はいろんなものをくれる。映画やらサウナの券やら。実際に映画の券を買うよりも新聞代を払った方が安い場合もけっこうあって、そんなときだけ新聞を取るようにしている。  その券を見るまですっかり忘れてしまっていたが、私はずっと前にそこへ行ったことがあるのだ。  あの頃、そこは最新の娯楽施設で、子供の目にはまるで未来からやってきたもののように見えた。電車を幾つも乗り継いで行ったはずだ。いっしょにいたのは両親ではなく先生だったから、たぶん小学校の遠足だろう。  たしか山のふもとにある駅で電車を降りて、プラットホームの端にある改札口を通って、また別のプラットホームへ行った。そういうところはなぜかよく憶《おぼ》えている。けっこう遠かったような気がするのだが、そうか、あれはこの町からすぐのところだったのだ。  山の斜面には銀色に輝く電磁式のレールがあったはずだ。  たしか、レールガン・システムと呼ばれていた。それは宇宙機の加速に使われるものと原理的には同じなのだ。  当時、宇宙機が大好きな子供だった私は、そのことを漫画雑誌の巻頭特集で読んで知っていたから、それだけでずいぶんわくわくした。  国産大型宇宙機が、軌道上でのテストを終え、その年の夏、いよいよ火星に向けて出発することが決まっていた。  選出された五名の宇宙飛行士の名前はまだ発表されていなかったが、そのなかには自分たちと同じ小学生も一名いるという話だった。世界初の少年宇宙飛行士が誕生する。  それは決定事項として報道され、世間はその話題でもちきりだった。  だからあの最新の山上遊園への乗り物も、当然のごとくその形状が選ばれたのだ。  亀の甲羅のような形をした赤い胴体には、「火星号」と大きく書かれていた。  そっと触ってみたときの、そのつるつるした冷たい感触は今も自分のなかに残っている。  掌《てのひら》の記憶として。  そう、少しずつ思い出してきた。  あの山上遊園は、火星計画を主題《テーマ》として造られた巨大娯楽施設だったのだ、とかそんなふうなことも。  ところが、火星計画の突然の延期及び無期限の見送りという予想外の事態のせいで、あの山上遊園までもが失速してしまったのだ。私が行ったのは、まだそれが盛りあがっていた頃だからオープンしてすぐ、あるいはプレオープンの時期だったのではないか。  わくわくして列に並んだ記憶は確かにある。  ところが、その先がわからない。  それが不思議だ。  おもしろくなかったのだろうか。  あまりにも期待外れで、それで思い出したくなくて忘れてしまったのかもしれないな。  妻にそんな話をしているところで、電車が駅に着いた。  プラットホームから見える山の斜面には曲がりくねった木がぽつぽつと生えているだけで、あとは地肌が剥《む》き出しである。  あの頃も、こんな景色だったのだろうか。もっと華やかだった気がするのだが——。  平日の昼間ということもあるのかもしれないが、それにしても電車を降りたのは私と妻のふたりだけ。プラットホームにも見渡す限り人影はない。  電車が切通しの向こうに見えなくなってしまうともう動くものはなにもない。廃線の駅にでもいるような気になった。  プラットホームを歩いていくと、緩やかな下りのスロープがあり、その向こうに遊園地のゲートがあるのは記憶通りで、その上には『山上遊園・未来ランド入口』と書かれたロケット形の看板がかかっている。  金属のゲートの手前には、子供くらいの背丈のロボットがいる。直方体を組み合わせて作ったような角張った古風なロボットだ。四角い顔には丸いガラス板の目がふたつ。前に立つと、それが赤く点灯した。鼻は尖《とが》った円錐《えんすい》形で金網の張られた丸いスピーカーがそのまま口になっている。頭にはアンテナが一本。塗装はほとんど剥《は》がれていて、もとの色がどんなだったのかもわからない。  赤い目を点滅させながら、うおおんうおおん、と片手をあげる。 「ようこそようこそようこそようこそ」  スピーカーの口からそんな声が聞こえてきた。他にもまだいろいろ言っているのだが、メモリーか再生装置に問題があるのだろう、いったい何を言っているのかさっぱりわからない。  がおがおがあがあというノイズの向こうからたまに「火星」とか「宇宙」とか「基地」といった単語が聞こえるような気もするのだが、確信をもってそうだとは言えない。 「ほんとにやっているのかしら」  妻がゲートの向こうを覗《のぞ》きながらつぶやいた。 「入場券があるんだからやってるだろう」  そう答えはしたがあまり自信はない。ゲートの隣にブースがあるのだが、そこにも誰もいない。  自動改札に入場券を通すとゲートのバーがかたんと上がった。 「人がいないっていうところが、また未来っぽいのかしら」 「いやあ、お客がほとんどいないっていうだけのことじゃないかな」 「あなたって、ほんと夢がないわねえ」  言いながら妻は先にたって歩いた。  なんとなく見覚えのある通路のような気がする。スロープを進んでいくとその突き当たりにカプセルを射出するためらしいレールが山の斜面に沿ってまっすぐ山頂まで伸びているのが見えた。 「わあ、すごいすごい」  妻がはしゃぐ。 「けっこう本格的じゃないの」  レールの手前には『発射用超電磁軌道』と赤い文字の表示があり、その下のプラットホームには宇宙機がある。  記憶のなかにある通りの火星号。  甲羅状のシェルで覆われたカプセルだ。  二人がけの狭いシートがあって、その前の席にはパイロットの人形が乗っている。  パイロットは人間ではない。  コクピットにぴたりと収まったその背中には甲羅がある。 「うわあ、なつかしい」  妻が言った。 「レプリカメじゃない、これ」 「ああ、そんなのあったなあ」  私が応《こた》えた。  そうそう、そんなものが作られたことがあったなあ。あれはいったいなんのために作られたのだったか。いつからか見かけなくなったが、昔はたまにそんなのが街なかを歩いていたりした。  たしかそれは宇宙開発のために開発された亀と機械とを合成したハイブリッドメカで、二足歩行ができて自己判断機能もあるから人間の代わりに危険な作業にも従事できるというふれこみだったが、でも結局それが投入されるはずだったいろんな計画がぽしゃって、同じ頃に動物愛護団体のテロによってその製造が中止されたとかなんとか、とにかく最近はもう見かけることもなくなった。 「こんなところにまだいたのねえ」  妻が、その甲羅を掌で叩《たた》くと、ぽこんぽこんと空《うつ》ろに鳴った。 「なあんだ、本物じゃないのか」  妻は言った。甲羅の音で彼女にはそれがわかるらしい。 「まあ遊園地だからな」  シートベルトを締めながら私はいった。 「そんなのしなくていいんじゃないの」 「いや、念のため」  コクピットのレプリカメは、ふしゅう、とため息のような音を出すと、その爪でかちかちぱちぱちと器用にキーボードを叩いた。  各座席の前についている液晶表示に文字が現れ点滅した。 『発射準備完了』  ぶううううううううん、とカプセル全体が唸《うな》り始め、そして文字は秒読みの数字に変わった。  ぱらぱらぱらぱらと小数点以下五|桁《けた》まである数字が目まぐるしく動いて、機械音声による秒読みが始まった。 「ぜろ」  カプセルが言った。  一瞬遅れて、かたん、かたん、かたん、かたん、と私たちを乗せたカプセルは山の斜面に敷かれたレールを上り始めた。  エスカレーターよりすこし速いくらいの速度だ。そのうち加速するのかと思っていたのだが、どうやらこのままらしい。 「遅いわねえ」  妻が言った。 「こんなのじゃ、宇宙まで行くのはとても無理よね」  前方に下りのカプセルが見えた。軌道は途中で二股《ふたまた》に分かれていて、そこですれ違えるようになっている。  たぶんケーブルカーと同じように下りのカプセルの位置エネルギーを使ってこのカプセルを上げているのだろう。  下りのカプセルが近づいてきた。向こうのコクピットにも同じようにレプリカメがいて、それがゆっくりと右手をあげた。我々の前にいるレプリカメが、それに応えるように右手をあげた。  きいい、きい、と金属の軋《きし》む音がした。  すれ違うとき、下りのカプセルの座席を覗《のぞ》くと、そこにはなにか変なものが乗っていた。人間のような形をしてはいるが、人間ではない。  それでも人間に似ているから、並んで座っているそれらのひとつが男でもうひとつは女であるということはその体形でわかった。  目も鼻も口もないのに、なぜか髪の毛だけはあった。男は七三分け、女はポニーテールだった。  身体は肌色で、服は着ていない。乳首も性器もないのっぺりとした均質な表面で、それがかえってなまめかしかったりする。  妻も同じ印象を持ったらしく、「なんだかエッチよねえ、あれ」などと言う。  あれは人形なのだろうか。  人間の形をしているから、まあそうなのだろうな。  それにしても、なぜあんなものをわざわざ乗せているのか。あまりにも客が少ないので賑《にぎ》やかしにあんなものでも乗せているのだろうか。だとしたら、かえって寒々しいだけだからやめたほうがいいと思うのだが。  ごんっ、と唐突にカプセルが止まる。 『軌道上宇宙ステーションにドッキングしました』  そんな液晶表示が出た。  きいい、きいい、きいい。  コクピットのレプリカメがバンザイをするように両腕を上下させる。 「はい、着いた」  つぶやいて、妻が立ちあがった。コクピットのレプリカメはもう動かない。目玉の赤いライトも消えている。  頭の上には星空があった。  ここは地球の衛星軌道上ということになっているから、星々はまたたかない。無重力でなくちゃんと重力が感じられるということは、このフロアが回転によって重力を作り出しているということになるはずだが、それにしては頭上の星空は動かない。もしこれが回転しているという設定なら星空も回転して見えるはずである。ということはこの重力は回転によるものではなく、人類は重力を制御する技術をすでに手に入れているという設定なのだろうか。それとも、単に間違っているだけなのか。  そんなことを考えながら矢印に従って、透明のチューブのなかを歩いていく。外見からして、これは動く歩道だろうと思うのだが、壊れているのか節電中なのか、まったく動く気配はない。 「これじゃ動く歩道じゃなくて、歩く歩道よね」  妻がつぶやくように言った。  チューブの向こうにあるのは大型宇宙船だ。入口のプレートにそう書いてある。 『惑星間有人宇宙船玄武号』と。  だから、分厚い二重の金属扉をくぐったそこは宇宙船のブリッジということだろう。  巨大スクリーンが正面にあって、その画面の下半分を地球が占めている。  我々の到着を確認したかのように、ぶよよよよよよよん、とスクリーンに人物が現れる。  バッジだか勲章だかがじゃらじゃらとついた軍服に緑のベレー帽といういでたちで、深い青色をバックにしゃべっている。  どうやらその言語は英語らしいのだが、同時に日本語の吹き替えもついている。 「諸君」  吹き替えの声が重々しく切り出した。もちろん画面の男の顔も吹き替えの声と同じくらい重々しかった。 「異星人との和平交渉は決裂した。これより地球人類と異星人とは全面戦争に突入することになるだろう。異星人の科学力は、我々より進んでいる。それは事実として認めざるを得ない。しかし、希望はある。この事態を予測し、我々はひそかに異星人の弱点を研究し、異星人のテクノロジーを流用した対異星人兵器の開発を進めていたのだ。そして、それはついに完成した。人類の未来のために、今こそ全力をつくして——」  ずさああああ、と画面は途中で途切れ、スクリーンに映っている地球の上に爆発らしいオレンジの光が幾つも現れたかと思うと、ぷつんと何も映さなくなった。  こういう演出なのかそれとも単に壊れただけなのかよくわからないまま、矢印の方へと通路を歩いた。  トンネル状の通路の壁面は入口の扉と同じ銀色をしていたが、触れてみるとどうやら金属ではないらしく、強く押すとぺこぺこと音をたててたわむ。  また扉があった。  その中央についたハンドルを回すとロックが外れ、ドアが開いた。  水色の部屋があった。  床も壁も水色で、天井が曇り空のようにどんよりと光を放っていた。  なんだか水を抜かれたプールの底を歩いているような気がした。広さもちょうどそのくらいなのだ。  中央あたりに、プラスチックの棺《ひつぎ》のようなものが並んでいた。SF映画などで見たことがあるような形をしている。 「れいとうすいみんそうちにはいってくださいれいとうすいみんそうちにはいってくださいれいとうすいみんそうちにはいってください」  どこからかそんな声が聞こえた。何度か繰り返すと、沈黙した。  その女の声には聞き覚えがあるような気がした。たぶん、声優で、なにかのアニメで聞いた声なのだろうと思った。 「ねえ、あれって、誰の声だっけ」  妻が言った。 「ナウシカかな」  私は言った。 「ナウシカじゃないわよ」 「じゃ、パタリロかな」 「全然違うじゃない」 「れいとうすいみんそうちにはいってくださいれいとうすいみんそうちにはいってくださいれいとうすいみんそうちにはいってください」  すこし早口になって、同じ声が繰り返した。 「ほら、怒ってるわよ。いいかげんなことばっかり言うから」  妻が言った。 「別に怒ってるわけじゃないだろ」 「じゃ、何よ」 「急《せ》かしてるんじゃないかな」 「だって、どうせ他に客はいないんだから急かさなくてもいいじゃない」 「まあ向こうにもいろいろ段取りがあるんだろ」 「すみやかにれいとうすいみんそうちにはいってくださいすみやかにれいとうすいみんそうちにはいってくださいはいってなくてもはっしんしますよきんきゅうじたいですから」  今度ははっきりと怒った口調になったので、私はすみやかにそのプラスチックの箱のなかに仰向けに横たわった。 「わあ、死んでるみたい」  妻が笑った。 「嫌なこというなよ」 「いっしょに入れないかしら」 「ふたりは無理だよ」  そうかなあ、と言いながらすでに妻は私の上に乗ってこようとしている。 「痛い痛い、無理だって」  押し返すとおもしろがってさらにのしかかってくる。 「やめろって、おい、ちょっと、ちょっとやめろ、痛い痛い痛い痛いって」 「おもしろいおもしろい」 「苦しいから、ちょっと、もう」 「おもしろいおもしろい」  すると、ばきっ、と嫌な音がして、プラスチックの箱の縁にひびが入った。ふおんふおんふおんふおん、と箱が鳴り出した。  そして、さっきまで開いたままになっていた蓋《ふた》がゆっくりと覆い被《かぶ》さってきたのだ。 「狭い苦しい暗い」  私は叫んだ。 「おもしろいおもしろいおもしろい」  妻が叫んだ。 「れいとうすいみんそうちすたーとしますすたーとしますすたーとしますすたーとします」  あ、そうかこれはパチンコ屋だ。フィーバーのスタートを告げるあの声と同じではないか。  怒りを通り越して事務的になったその声を聞いて、私はようやく気がついた。  それを妻に教えてあげようとしたそのとき、いきなり目の前が真っ白になった。舞台などで使われるスモークらしい。  勢いよくガスの噴き出る音とドライアイスの匂い。  ぺかぺかぺかと顔のすぐ近くでストロボ光がめまぐるしく点滅しだしたので、思わず目を閉じた。  そして、腹に響く衝突音。がりざりざりざり、と身体は激しくシャッフルされ、何が何やらわからなくなる。  私の上で妻が嬉《うれ》しそうな悲鳴をあげている。        *  静かになって目をあけたときには、れいとうすいみんそうちとやらの蓋は開いていた。 「重い」  私は妻に言った。 「なんでもいいから、はやくどいてくれ」 「あら、これでもう終わりなのかしら」  妻は私の腹を踏んで立ちあがり、箱の縁を跨《また》いだ。 「うわあ見てよ、すごいすごい」  妻が床を指差して言うので何事かと身体を起こすと、床が割れている。  開いたのではなく、衝撃でできたような裂け目がそこにあった。作り物とは思えないほどその裂け目はリアルだった。  裂け目の向こうに地面が見えた。  床にうずくまり、覗《のぞ》いてみた。  人間ひとりが這《は》い出せるくらいの裂け目だ。さっき入ってきたドアはひしゃげたようになって開きそうにない。ということは、この裂け目から出るということなのだろうな。  なんとか這い出してみると、そこは赤土の造成地のようなところだ。ブルドーザーで整地しただけで、植物も建物も何もない。  ところどころに大きな岩がころがっている。  それでも、道らしきものがあるから歩いてみた。粒の大きな砂が靴の下でじゃりじゃりと音をたてた。赤錆《あかさび》の上を歩いているような気がした。  天気はよかったが、冬の午後の日差しはなんとも頼りなく、地面の上の私たちの影も薄かった。風が吹くと、どこかで何かが、からからころころと軽い音をたてる。その音ははっきりと聞こえるのだが、それがいったい何の音でどこから聞こえてくるのかはわからなかった。  地面が赤土で覆われているせいだろうか、空気までもが赤みがかって見えた。  道なりにしばらく行くと看板があった。  建設現場によく立てられているような看板で、そこには完成予想図とおぼしきイラストがあった。  アメリカの無人探査機が電送してきた火星の写真——たしか、クリュセ平原だったと思う——によく似た荒野とそしてそこに建設されている火星基地らしきドーム。  だが、それはあくまでも予想図らしく、実際にそこにあるのは鉄条網に囲まれた円形の広場だった。  簡易テントのようなものがいくつもあったが、ここにもやっぱり人影はなくテントも砂埃《すなぼこり》が積もったままになっている。廃墟《はいきよ》のようにしか見えない。  冬の午後の廃墟だ。まあそれはそれで、風景としては悪くないのだが。  銀色のゲートには、『宇宙戦士訓練センター』とあって、その隣には〈さあ、君の腕を試すときがきた!〉と書かれた垂れ幕がさがっている。  ゲートをくぐって、広場のなかの簡易テントを順番に巡っていった。  手近なテントから覗いてみる。入口の防水布をくぐって中に入ると、回転するアームの先に椅子の付いたGに耐えるための訓練装置らしきものがあった。もっとも、シートがかぶせられていて、電源は入っていないし係員の姿もない。  次のテントにあったのは、迫ってくる異星人を射殺するための訓練装置だ。 「うわっ、重い」と対異星人用の銃らしきものを抱えようとした妻が言った。つまみやボタンやダイヤルがたくさんついた黒くて大きな銃だった。  並んでいるいろんな形のいろんな異星人の人形に妻は銃口を向け撃つ真似をした。撃つたびに反動で仰《の》け反ったり、なかなか迫真の演技である。そんな特技があるとは知らなかった。  次のテントには、捕らえた異星人を拷問して秘密を探るための装置。そして、その次はその拷問した異星人を——。  他にもいろんなものがあったのだが、どれもシートがかかっていたり鎖が巻かれていたりして動かないし係員の姿もない。  唯一動いているのは、宇宙開拓史と書かれたテントで、これは大画面で映像を流しているだけのものだった。  それでも仕方がないから客席に座ってそれを最初から最後まで観た。  たくさんのレプリカメが行進していたり、背中に甲羅をつけた人間がそれを指揮していたり、そして、異星人が送り込んできたザリガニ状の巨大怪生物を、巨大なヒーローが腕から発する必殺の光線で倒したりした。  ヒーローは人間型だったが、その背中には甲羅がついていた。 「ありがとう、亀甲《きつこう》マン」  画面のなかで人々が手を振り、亀甲マンは宇宙の彼方へ去っていく。そのついでに宇宙にある異星人の基地も壊滅させ、悪い異星人を生きたまま亀甲縛りにして懲らしめた。  最後に、この『宇宙戦士訓練センター』の全貌《ぜんぼう》が描かれたイラストマップが画面いっぱいに出て、そして小さく『訓練装置類の運転営業は土日と国民の祝日のみです』とテロップがでた。 「こういうことはチケットにもちゃんと書いておくべきじゃないのか」  私は誰にともなく言った。 「これだけなの?」  妻がつぶやいた。 「らしいね」  私はうなずいた。 「まあ昔はもっといっぱいあったんだろうけど」 「今日は平日だしね。あっ、でも、火星なら人面岩があるんじゃないの」 「あんなの心霊写真みたいなもんだろ」 「えっ、じゃ、あれって火星人の幽霊なの」 「いや、そういうわけでもないんだが」  まあしかし、もしかしたらそういうものも作られているかもしれないので赤い荒野をふたりでけっこう歩きまわったが、それらしきものを見つけることはできなかった。  そのうちすっかり陽が傾いて、寒くなってきたので帰ることにした。甲羅状カプセルの駅へと歩いていく途中で、ちょっと用事を思い出したから先に行ってて、と妻が言った。こんなところでいったい何の用事なのだろうと思ったが、尋ねる前に妻は走っていってしまった。  建物の中を抜けようとして、さっきのれいとうすいみんそうちのところで変なものに襲われた。上ってくるときに見た、人間の形をした肌色ののっぺらぼうだ。  岩陰から飛び出してきて、いきなり抱きついてきたのである。  なんだなんだと思ったときには、すでにそれは柔らかい粘土のように身体にへばりついてきていた。にゅるりととろけて、そのまま顔まで上ってきて、口と鼻が覆われ目の前が真っ暗になった。  このままでは窒息してしまう。  実際、気が遠くなりかけた。  そのとき、ずびゅううん、という奇妙な音がして、再び息ができるようになった。喉《のど》を鳴らして空気を吸い込む私の目の前には、肌色のものが倒れていた。  こめかみの部分に黒い穴があいている。その周囲は焦げたようになって、白い煙があがっていた。  そして、妻が銃をかまえて立っていた。  さっきの射撃場で見た黒い大きな銃だった。 「遊園地に来たお客と入れ替わることで地球人になりすまして地球を侵略しようとしたのね」  靴の先でその肌色のものを転がしながら妻は言った。 「いかにも異星人の考えそうなことだわ。まあどっちみち、こんなに客が少ないんじゃ、いつまでたっても地球侵略は無理だろうけど」  たしかにそうだ。私はうなずき、妻の腕前と適確な判断能力に素直に感心した。 「ああ、おもしろかった」  カプセルに乗り込み、地上の駅に着いたとき、妻が言った。 「うん、おもしろかったな」  私も言った。  帰りの電車に揺られながら、今日見た人類の未来を回想した。子供の頃の記憶よりはかなりしょぼくれた未来のような気もしたが、記憶なんてあてにならないものだし、実際はあんなものだろうなとも思った。文句を言ってどうなるものでもないだろうし——。  どうせ新聞屋に只《ただ》で貰《もら》った未来なのだ。  返すのを忘れてついそのまま持って帰ってきてしまったあの銃は、じつは今もうちにあって、たまに妻が新聞屋を脅して映画の券や洗剤を余分に貰うときなどに使っているらしい。 [#改ページ]   その十 虹を探す  すこし冷え込んできたなと思っていたら突然降りだした。  はじめに、ざあ、と地面が鳴るのが聞こえ、ばちばちばちと何かが爆《は》ぜるような音がそれを追いかける。  妻が縁側の物干しのところでなにやら叫んでいるので出てみると、地面の上で白い粒が跳ねていた。  また、雹《ひよう》だ。  最近、よく雹が降る。雹だけならいいが、小石が降ったりもする。異常気象がどうのこうのとよくテレビで言っているが、単にいろんなものが壊れはじめているというだけのことなのかもしれない。  あわてて洗濯物を取り込んでから、白くて硬い粒が家の前の坂道を転がっていくのを垣根越しに眺めていた。しばらくして音が変わると、もう雨になっている。  いつのまにやら西の空は晴れていて、傾いた光がまっすぐ射し込んできた。軒を落ちる雨粒が西日に金色に輝き、それが地面に落ちてはじけ、また輝き、流れる。 「これって、狐の嫁入りよね」  妻が嬉《うれ》しそうに言った。 「うん、狐の嫁入りだ」  私が言った。 「虹《にじ》は出る?」  妻にそう尋ねられて、あらためて西の空の様子を見た。  水色の空が広がっていて、雲は見当たらない。太陽が沈んでしまうまではまだもうすこし時間があるだろう。  私は何年間か倉庫で積み込みの仕事をしていたことがある。仕事中に雨が降りだすと、倉庫の前に広げた荷物をフォークリフトで屋根の下まで移動させねばならない。  だから、その頃はいつも空模様を見ていた。  倉庫の前はトラックの待機場所になっていて、空が広かった。雨があがると、たまに虹が出た。  年に何度か、くっきりした大きな虹を見た。そのうち、虹が出そうな様子というのがわかるようになった。空を見て、出そうだなと思う。どのあたりに出るのかということもわかっているから、たいていはいちばん最初に虹を見つけることができた。  これはちょっとした特技ではないか、と自分では思っている。  この感じならかなり高い確率で出そうだが、ここからでは肝心の虹の出るあたりの空の様子が見えない。 「ちょっと東の空を見てくる」  それだけ言って表に出た。  雨はまだ降っている。透明のビニール傘を片手に、坂になっている路地に入った。すこし上ると川が見える。この台地の手前で大きく曲がり、いろんな形の高層ビルの並ぶあたりを抜けて西の湾へと注いでいる川だ。  川向こうに雲と青空の境目があって、山の方はもうすっかり晴れている。  雨で空中の埃《ほこり》が流されたのか、普段は見えない湾岸のタワーまでがくっきりと見えた。  ビニール越しに見える真上の雲は濃い鼠色だが、この坂にはあいかわらず日光が射していて、雲の切れ目がゆっくりと近づいてくる。  あれがこの上までくるのと太陽が沈みきってしまうのとどちらが早いか。きわどいところだが——。 「どう?」  赤いビニール傘を手に妻が出てきた。 「かなりいい」  私は言った。 「でもここからだと後ろの坂が邪魔になるからなあ。河川敷のあたりまで行かないと、出たとしてもちょっと見えにくいかな」 「じゃ、行きましょ」  もう歩き出している。 「出ないかもしれないけど」  かなり自信はあったのだが、まあいちおうそう言っておく。  傘をさしてふたりで坂道を下りていった。天気雨にしては雨はなかなか激しくて大粒で、ビニール傘がぼてぼてと鳴った。  坂の両側の溝が泥水であふれかけているから道の真ん中を歩いた。  川の向こうの高層ビルの間に赤い輪が見えた。観覧車だ。  ただでさえ大きいのに、ビルの屋上に据え付けられているから相当な高さだ。ゴンドラの窓ガラスが夕陽に光っている。こんなに近くにあるのだからいつでも乗れるだろうと思っていたらいつのまにか終わってしまった観覧車だ。観覧車のあったビルごと営業を停止してしまい、今はもう回転していない。 「乗っとけばよかったかなあ」  妻がつぶやいた。 「でもまあ、そのためにわざわざ出かけるっていうのはちょっとなあ」  私が言った。 「やめるってわかってれば、すこしくらい面倒でも乗りに行ってたでしょうけどね」 「ま、わかってればね」 「うん、わからなかったんだから仕方ないわよね」 「まさか、あんなことになるとはなあ」 「でも、あんなことになるなんてわかってたら、怖くて乗りには行かなかったかな」 「それは言える」 「世の中、一寸先は闇よね」  坂を下りきると商店街で、二本目の路地を左に入ると銭湯、その角を右にまっすぐ行くと線路に突き当たる。左に折れてそのまま線路沿いに土の道を歩いていく。  線路の脇には木の柵《さく》があって、鉄条網が何重にも巻かれている。  木の柵と線路との隙間には、背の高い草が並んでいて、冬だというのにてっぺんに黄色い花を咲かせている。  雨に濡《ぬ》れたせいか、その黄色が妙にくっきりと見える。  線路沿いの道はぬかるんでいて、ふたり並んで歩けるほど広くはないから妻が先を行く。  透き通った赤いビニール傘越しに、その背中と首と頭が見える。  ときおり傘を回す。  遠心力で水滴が飛び散らない程度のゆっくりした速度で、妻は傘を回す。  西日はあいかわらず射しているのに、雨はなかなか止まない。  空を見上げると、落ちてくる水が金色の線のようだ。繋《つな》がってなどいないはずなのに、まっすぐ天まで伸びて見える。  金色の線の向こうに赤目川の土手がある。土手の上には、なぜかたくさんの人影が並んでいる。全員が黒い服を着ているせいか、影だけがそこに立っているように見える。  五メートルくらいの間隔で一列に並んでいて、それがゆっくりゆっくりと動いていた。  男も女もいる。  皆、黒服や黒い着物で、右手に同じ傘を持っている。平らな銀色の円盤に軸をつけたような不思議な形の傘だ。  無表情のまま、ただまっすぐ前だけを見て、一歩一歩確かめるように歩いている。  土手の斜面を上ると砂利道。  その脇に立って、目の前を進んでいく黒い行列を見ていた。  湾の方から上流に向かって、その行列はどこまでも続いているように見える。まるで私たちなど目に入っていないかのようだ。  いったい何の行列なのだろう。  黒い服だから葬式かとはじめは思っていたのだが、ネクタイを見ると白だったり黒だったり。  ざっと見ても、黒黒黒白黒白白黒黒黒白黒白白黒、とばらばらだ。  かあんかあんかあんかあんかあん。  突然、警報機が鳴り始める。  川に架かる鉄道橋の手前にある踏み切りの警報機だ。  黒いネクタイの男の前に踏み切りの遮断機が下りる。男が止まると、行列も止まる。  まったくばらつくことなく、見渡す限りの行列がきれいにぴたりと止まる。  男に続いている行列だけでなく、踏み切りを越えて男の前方に伸びている行列もぴたりと止まった。振り向きもしなかったのに——。  行列が止まっている。  止まっているとそこにはそんなものが存在しないかのようにも思える。  土手の上から見る赤目川は、普段からは考えられないほどの水量で、いつもなら見えている中洲《なかす》も岸の近くに広がる複雑な水路もすべて茶色い水に沈んでいる。広い河川敷も半分以上が水の中だ。  雨はさっきより激しくなっているようだが、川向こうは晴れている。  いろんなものが流れていく。河川敷にあった青いビニールのテントとか廃材とかぬいぐるみのようなものとか人形のようなものとか人間のようなものとか。  流れの勢いで大きく歪《ゆが》んだ水面を、いろんなものが通り過ぎていく。  警報機が鳴っている。  子どもの頃、あの点滅が血まみれの大きな目玉のように見えて踏み切りが怖かった。  そんなことを思い出す。  子どもの頃は怖いものがいっぱいあった。今になって思うと、まわりの世界は怖いものだらけだった。  では、今はそうではないのかといえばそんなこともなく、子どもの頃よりずるくなっただけで、単にうまいタイミングで目を瞑《つぶ》ることができるようになったから目に入りにくくなったということなのだろう。  記憶のなかのあれは、近所にあった踏み切りだろうか。どこまでも続く田んぼのなかを線路が一本だけ通っていた。  線路もまっすぐだし遮蔽《しやへい》物もない。見通しのいい踏み切りなのに、そこでは一年にいちどくらい人が死んだ。  いろんな理由があった。  閉じかけている遮断機を無理やりくぐって渡ろうとしてつまずいた、とか、背中を押された、とか、線路の上にぼんやり突っ立っていたとか、誰かに腕をつかまれたように引っ張られていった、とか、何かから逃げるように自分から飛びこんでいった、とか。その度にいろんなことがささやかれた。もしかしたらそれは、あの退屈な町の一種の娯楽でもあったのではないか。  警報機が鳴っているその側で泣いていた。  たぶんそれが私の最初の記憶だ。  かあんかあんかあんかあん。  あの音が、耳の側で鳴り続けている。  今もそれが鳴り続けているような気がする。心臓が鼓動を打つのと同じリズムで。  踏み切りで死ぬと、大抵の場合は、ばらばらになる。  いくつも並んでいるあの鉄の車輪で、いろんな部分が切断されそして撥《は》ね飛ばされるのだ。なにしろ電車というのはあれだけ長いから急には停まれない。ばらばらにしながらしばらくは走りつづけ、それでやっと停車できる。  それは父親から聞いた話だ。  今日もまたあったよ、と仕事から帰ってくるなり父親が言った。いったいなにがあったのかはその口調でわかった。  父親は私とふたりでいるときだけ、そんな話をした。それがあったときに彼がやらなければならない仕事、やらされる仕事について。  ばらばらに切断され散らばってしまった肉体を皆で集める。ゴム手袋をはめ青いポリバケツを持って、バケツのなかにその断片を入れていく。  ひとり、バケツ一杯がノルマなんだよ、とよく言っていた。だから大きい塊を見つけたらすぐに終わる。胴体とか、頭とかな。  ノルマというのがその頃はどういう意味なのかわからなかったが、たぶん嫌なものなのだろうなということはわかった。父親の顔はいつも正直だったから。  線路の上にある分はすぐ見つかるんだが、そんなのは早い者勝ちだからな。すぐになくなっちまう。あとはもう線路の両側の道とか溝のなかとか、とんでもなく遠いところとか高い木や電柱の上にひっかかってたりすることもある。だからうつむいてばかりでもダメなんだ。とにかく、いろんなものがな、それがいったいどの部分なのかわからないくらい小さくなって落ちているんだよ。ジグソーパズルみたいにな。それをせっせと皆で拾い集めるんだ。  ところがだなあ、と彼は笑う。  何度も同じ話をしたが、いつも同じところで彼は笑った。  いくら注意深く集めても、必ずどこかが足りないんだよな。それも、例えば、足が一本とか、腕が一本とか、な。そんな大きなものがなくなっちゃうなんてちょっと不思議だろう。ところが、どこを探してもない。  他は全部あるのに頭だけが見つからないなんてことも何度かあったな。  それは困るだろ。そんなときはもう仕方がないから人面を買うんだろうな。だって葬式のときに顔がないんじゃかっこがつかんだろうからな。  まあそんなだからさ、逆に言えば少しくらい足りなくたっていいし、つまりごまかしたってわかりはしないんだよ。  そうそう。  そうやってさ、少しずつ少しずつ、時間をかけて集めたんだ。そういう仕事がある度にな、だぶってないところを少しずつ集めて、それを使って作った。作ったっていうか、組み立てたっていうか、な。  わかるだろ。だから、お前は間違いなくおれの子なんだよ。な、誰が何を言ってもそうさ。  それに、おれが組み立てたっていうそのことだけじゃないんだよ。お前ってもののいちばん最初のピースは、母さんのものなんだからな。ほら、そういうところだって、他の子と同じだろ。  そうなんだよ、そうでなかったら誰が作ったりするもんか。  我ながらよくやったよ。あの工場が残ってたからできたことだ。戦争は終わったけど、工場はまだ生きてたからな。あのあと占領軍に閉鎖されるまで、ちゃんと生きて動いてたんだ。  おれは鍵《かぎ》を返さずにずっと持っていた。だって、誰に返せばいいのかわからなかった。怪しい奴の手に鍵が渡らないようにするのも倉庫番の仕事だ。だから持ってたんだ。だって、いつも鍵を渡してた工場長が目の前で破裂したんだもんな。  それも突然だよ。あんなに急じゃなかったらまだ冷静に対処できてたかもしれないけど、いきなり内側から膨れだしてな。ぷううう、とさ。蛇口につけた風船みたいにさ。それで、皮膚が透き通るくらい薄くなったところで、ぱあんっ、だよ。血だか体液だか、そんなのが霧みたいに飛び散った。  そりゃ、負けたからだろうな。負けたらそういうスイッチが入るようになってたんじゃないかな。そりゃ工場長だからさ。いろいろとほら、敵の手に渡っちゃまずいような情報なんかも知ってただろうし、体内にもソフトやらハードやらが組み込まれてる。工場長としてのな。だから、そういう信号が司令部とかから送られてきたら、すぐにそうなるようになってたんだろうな。うん、まあそれまでさんざんいい目を見たんだから本人も文句はないんじゃないかね。  とにかくそれで毎朝渡してた鍵がその朝は返せなかった。で、どうすればいいのかわからないままポケットに入れて家に持って帰って来てしまったというわけだよ。  それにしても、あれだな。やっぱり、戦争は負けちゃいかんな。負けたらなんにもならんよ。文句も言えんし。おれは工場長なんかじゃなくてよかったと思ったよ。ま、どっちみち、なりたくてもなれなかったんだけど。  人間なにが幸いするのかわからん。  そのときは、そう思ってた。  ところがなあ、まさか母さんが、あんなことになってしまうなんてなあ。  まったくなあ、おれの知らないところであいつもそんな仕事をやらされてたんだなあ。秘密任務ってやつだ。まあだいたいあいつは学生の頃からよく勉強ができたんだよ。きっとそれでそういうことになったんだろうなあ。  ぱあんっ、だよ。  笑い顔のままで、ぱあんっ。  ばらばらだ。  風呂《ふろ》場で。  そうなるのは自分でもわかってたんだろうな。だから風呂場に入ってさ。そういうことには気を遣うほうだったからな。  それにしてもあいつ、いったい何を知ってたんだろう。よっぽど大切な、敵に知られたら都合の悪いことを知ってしまってたんだろうなあ。いやしかしだよ、そうだったとしてもこれはちょっとひどすぎるんじゃないか。  そう思ったよ。  風呂場でな。  思ったんだよ。  これはひどすぎるって。  初めて、そう思ったんだよ。  工場長がああなったときには、まあこれが戦争っていうもんなんだろうから仕方がないよな、なんて思ってたんだけど、そのときはさすがにそんなふうには思えなかったな。工場長には昔から世話になったりなにかとよくしてもらってたのにさ、人間なんてほんと勝手なもんだよ。なあ、お前もそう思うだろ、と黒いネクタイの貧相な男が私の顔を見つめてそう尋ねてきた。  ではさっきから私に話を聞かせてくれていたのはこの男なのだろうか。  かたこんっ、と鹿《しし》おどしのような音を立てて黒と黄の縞《しま》模様の竿《さお》が直立する。  同時に行列が再び動き出した。葬式の行列だか花嫁行列だかその両方なのか、それともどちらでもないのか。とにかくそんな黒い行列が動き出す。  おかしいな、と思う。列車はまだ通過していないような気がするのだが。  でも、もしかしたらもう通ったのかもしれない。自信がない。ずっと線路を見ていたわけではないからな。前にもこんなことがあったような気がするがそれもいまいち自信がない。警報機だって鳴らなかったのかもしれないし、遮断機だって下りなかったのかもしれない。そんな気もしてくる。ビニールの傘にぶつかる雨粒の音だけが聞こえている。  でぽでぽでぽ、とそれはなんだか頭蓋《ずがい》骨をノックされているような響きだ。  さっきの男はもうとっくに私の前を通り過ぎて、ずっと先に行ってしまった。  あれはいったい誰なのだろう。私の知り合いだったのだろうか。  私に話しかけていたのか。  それともただの独り言だったのか。  尋ねてみればわかる。そう思って追いかける。  男はもう踏み切りを渡ってしまった。  線路の向こうに見える男の背中。  ところが、どういうわけかその顔が思い出せないのだ。これでは追いついたとしても、それがあの男なのかどうかわからないのではないか。  そんな不安にかられながら、走って追いかける。  金色の雨の向こうに、男の背中が影のように浮かんでいる。  すぐ、そこに、ある。  なのに——。  なぜ追いつけないのだろう。  線路を越えても越えても、なぜかまだ私は踏み切りの中にいる。  もう何本の線路を越えたのだろう。  雨水が線路の上で跳ねている。踏み切りのなかは激しい雨だ。雨の向こうに、男の背中だけが見える。  そこで、突然気がついた。  男の背中は、私から遠ざかっているのではなくて、小さくなっているのだということに。  ゆっくりと、だが確実に小さくなっていく。  あの男だけではなかった。男の前も後ろも、行列がすべて小さくなっていく。  小さくなりながら手にしたあの奇妙な傘のようなものを頭の上で回している。  銀色の薄い平らな皿だ。  川向こうのビルの屋上にある観覧車。その観覧車の赤い鉄骨に太陽が重なっている。  それはまるで赤い瞳《ひとみ》のようだ。赤い骨でできた虹彩《こうさい》のはまった瞳。  瞳から放たれた金色の光が行列を照らしている。光があたると、彼らが頭の上で回している銀色の皿は輝く。  かあんかあんかあんかあん。  遠くから警報機の音が聞こえる。  聞き覚えのある警報機の音。  雨の夜、ひとりでぼんやりしているとき、この音が聞こえることがある。どこから聞こえてくるのだろうといつも思っていた。かたとんかたとん、かたとんかたとん、かたとんかたとん。  なにかがこっちへやってくる。線路の上をまっすぐ近づいてくる。  それがわかる。  いったいどんなものが来るのか見てやろう。そう思って身を乗り出した。  なのに、いきなり後ろから腕をつかまれた。肘《ひじ》を持たれて、強い力でそのまま引っ張られ、引っ張られるままにとつとつとつと三歩さがる。  かああんかああんかああんかああん。  耳の隣で警報機が鳴っている。  目の前が真っ赤だ。  点滅する赤い光。 「なにぼんやりしてるのよ」  腕をつかんだまま、妻が言った。 「轢《ひ》かれちゃうわよ」  目の前を通過していくのは黒々とした貨物列車だ。その振動で体が小刻みに震えている。  妻が何か言っている。目の前で唇は動いているのだが、列車の通過音のせいで聞き取れない。 「——からね、わかった?」  貨物列車の赤い尾灯が線路の向こうに消えた。  思わずあたりを見まわした。  さっきの行列がどこにも見あたらないのだ。長い土手の上のどこにも、そんなものはない。誰もいない。  突然、土手の下から強い風が吹いた。  一瞬、雨が下から上に降った。  手に持っていた傘が、もぎ取られた。  透明のビニール傘がくるくる回りながらまっすぐ天に昇って小さくなり、そのまま見えなくなった。 「あ」  空を見上げたまま、私はつぶやいた。 「あ」  妻も同じようにつぶやいた。  しばらくはそのまま黙って空を見ていた。  傘は落ちてこない。  雨はまだ降っている。  妻の傘に入れてもらう。  赤いビニール越しに見る空は赤い。  妻の目のなかに映っている空も赤い。  その瞳の周囲をまるく縁どっている虹彩もまた赤い。  ビルの向こうに太陽が沈んだ。観覧車にかかっていたのはほんの一瞬のこと。  頭の上の雨雲がばらけ始め、雨は小降りになった。まもなくやむだろう。 「もうちょっとこれが早かったらなあ」  私は言った。 「太陽が沈む前だったら、きっと虹が出ただろうに」 「出てたんじゃないの」  妻はそう言って、そしてもう雨があがってるらしい川向こうのビル街を指差す。 「ほら、あそこから見たら、ちょうど私たちの立ってるこのあたりには出てたんじゃないかしら」  そうかもしれない。  もしかしたら、ここはずっと虹のなかだったのかもしれない。  虹のなかにいるものには虹は見えないし自分が虹のなかにいるということもわからない。 「ねえ、あのあたりには昔、人を化かす狐が棲《す》んでたらしいわよ」  妻が、雨に濡《ぬ》れた葦原《あしはら》を指差して唐突に言う。 「でも、もう今はいないんだろうな」  私がつぶやくと、「たぶんね」と妻。 [#地付き](了)  角川文庫『人面町四丁目』平成16年7月10日初版発行