[#表紙(表紙.jpg)] 犯罪症候群 別役 実 目 次[#「目 次」はゴシック体]  1 犯罪——その処方箋  2 犯罪——そのデザイン [#4字下げ]アリバイ/非常線/指紋/動機/指名手配/自首/時効/共同正犯/バラバラ事件/推理/殺人/泥棒/詐欺/愉快犯/自殺/黙秘権/海賊/不能犯/故意  3 犯罪——そのイロニー [#4字下げ]域内殺人事件/時限爆弾事件/あみだくじ自殺事件/銭湯事件/サインペン爆弾事件/幼児殺害事件/金属バット殺人事件  4 犯罪——そのたましい [#4字下げ]イスカリオテのユダ/エヴノ・アゼフ/ネチャーエフ/死のう団の最期/磯部浅一の場合/北一輝の場合/川瀬申重の方法/連合赤軍の神話/ポール・中岡の場合   初出一覧   文庫本のための≪あとがき≫ [#改ページ]   1|犯罪|その処方箋 [#改ページ]    1  今日ほど犯罪が、我々にとって重大な「意味」を持ちはじめた時代はない。明らかにそれらは、ひとつの「意味」である。我々は今、本能的にそのことを知っている。したがって、日毎に情報機関を通じて我々のもとに送りこまれてくる犯罪について、我々は常に、詳細に吟味し、正確に解読しようと努力している。あらゆる犯罪には、我々をそのように強制する何ものかが、内包されているのだ。  もちろんそれらの犯罪には、吟味し解読されやすいものと、そうでないものがある。そうでないものに出遇うと、我々は奇妙な不快感を覚える。そしてそれは、しこり[#「しこり」に傍点]となって我々の内に残り、蓄積され、病原体のように次第に周囲に伝染しながら、何ものかを冒しはじめるような気がする。  何ものが冒されるのか、ここではっきり断定することはできない。しかし少なくともそれは、我々の「生活感覚」を支える基本的なものだ。我々の「生活感覚」は、周囲の状況に敏感に反応しながら、それに従って微妙に調整されつつ維持されている。吟味し解読し得ない「不可解なもの」に出遇うと、その反応のシステムが混乱するのである。  これは、危険な兆候に違いない。我々は「生活感覚」によって犯罪を吟味し解読するのであり、その健康な反応力が失われたら、次々に発生する犯罪がさらに解読不能なものになりかねないのであり、限りない悪循環が、ここに予定されているからである。  このことを見こして、現在犯罪情報を我々のもとへ送りこんでくる情報機関は、同時に、それに対する吟味と解読のための手がかりをも添付してくることになっている。消化の困難な料理には、必ず消化剤を添えてサービスするというわけだ。  そして今日では、犯罪情報そのものよりも、その解読法の情報の方が圧倒的に多いから、皮肉な見方をすれば、犯罪が発生する度に情報機関は、我々をその現実に直面させるのではなく、出来合いの解読法で目隠しをさせようとしているのではないか、とすら思われる。情報機関は、常に本能的に、情報管理機関にならざるを得ないという宿命を負っているのである。  こうした情報機関の「手ごころ」は、犯罪の「不可解性」が及ぼす危険性を一時的になだめはするものの、原因不明の「痛み」をその場しのぎのモルヒネで押えてしまうように、その病根をさらにこじらせることになりかねない。「痛み」というのは、一種の警報である。犯罪の「不可解性」もまた一種の警報に違いない。我々の「生活感覚」がそれになじむ前に、情報機関がその場しのぎの解読法を与えてしまうのは、泥棒が入りつつあるのを知りながら、警報装置のスイッチを切ってしまうようなものである。  犯罪の吟味と解読は、我々の個々の「生活感覚」を生気あらしむるために行なわれなければならないのであるから、個々の「生活感覚」を直接、犯罪に対して開放しておかなければならない。しかしそれが今日、ここに述べたような事情で、極めて困難な時代でもあるのである。  しかしもちろん、我々はそれを知的に解読しようとしているのではなく、「生活感覚」によって解読しようとしているのであるから、その点では有利である。犯罪というものは、いかに情報機関の衛生思想によって消毒されようとも、我々の「生活感覚」に直接、生で訴えかけてくる透徹力を持っている。  それは、「恐怖」「悲しみ」「憎しみ」「苦しみ」などの原始的な感覚を通じて我々に把えられ、それ自体は、情報機関の提供する知的解読法にわずらわされることなく、我々自身の「生活感覚」によって確かめられる。それは犯罪にとって「氷山の一角」にしか過ぎないものであるかもしれないが、少なくとも我々にとって必要なものである。  したがって逆に言えば、あらゆる情報機関は我々に対して、状況を理解させるために情報を提供するのではなく、状況を錯覚させるためにそれをする可能性を秘めているのだが、犯罪情報に対してだけは、それができにくい。情報提供そのものを中止しない限り、犯罪そのものが持つ透徹力を防ぐことはできないのであり、その意味では、犯罪情報こそが、我々の信頼し得る最後のもの、ということもできるのである。  いかなる情報管理体制下においても、市井の犯罪事件の報道を中止することはほとんどない。それは、そうすることによって我々の「生活感覚」の健康な反応力を麻痺させないためであり、我々を警報装置のない巨大な建物の中に置く不安から、救うためである。  しかしそうは言っても、これまでに何度か、犯罪情報の提供そのものが中止された例もないわけではない。昭和十三年、岡山県津山地方に発生した大量殺人事件「津山事件」(3「域内殺人事件」参照)なども、そのひとつであると言われている。  昭和十三年が日中戦争の最中であったということもさることながら、事件そのものの「不可解性」が強く、情報を提供すれば我々の「生活感覚」に生気をもたらすよりは、むしろ混乱させる、と当局が判断したのであろう。地元の新聞はさすがに、情報機関としての本能的な反応に従って、大きく報道したが、しかしそれも、間もなく立消えになった。 「津山事件」というのは、今ふり返ってみると「近代化によって村落共同体が圧殺されつつあることを告げる悲鳴のようなものであった」と私は考えるのであるが、残念ながら我々の「生活感覚」は、その無気味な感触を記憶することなく、過してしまったのである。もしこの時、この情報提供が中止されていなかったら、戦時体制の緊張感が多少弛緩することはあったかもしれないが、その後のさらに重大な情勢を迎えるにあたって、我々はもう少しまともな判断力を持ち得ていたかもしれない。  ともかく、それが解読可能であろうと不可能であろうとにかかわらず、我々の「生活感覚」は常に、無垢で無防備のまま、犯罪情報に対して開放されていなければならない。それが、我々の「生活感覚」を、健康で生気あるものとして維持するための、基本的な姿勢であるからだ。    2  我々は犯罪というものを、ひとつの「生活感覚」の破綻として把えている。「生活感覚」というものは、状況に応じて微妙に調整されながらそれに順応してゆくものであるから、状況の変化に従って「生活感覚」も変化し、したがってその破綻の様相も変化する。つまり、その意味で犯罪というのは、常に時代の典型なのである。時代というものが、政治の流れ、もしくは経済の流れとして把えられるものなら、それは同時に、犯罪の流れとしても把えられなければならない。  そして我々の「生活感覚」にとってみれば、犯罪の流れとして把えられた時代こそが、最も具体的であり、最も本質的である。因果関係をひとまず切りはなして考えれば、政治の変化も、経済の変化も、状況の変化に過ぎないが、犯罪の変化は、もしかしたら「人間性」そのものの変化であるかもしれないからである。  人間は現在、最も人間を知らない存在になりつつある。人間は、犬のことも知っているし、猿のことも知っているし、象のことも知っているし、カンガルーのことも知っているが、人間のことは知らない。個人の表情についてだけなら、鏡に写し出してみれば事足りるが、そのトータルな「生活」そのものを写し出す鏡はないからである。  動物行動学者は、猿の生態を観察しその共同生活のメカニズムを探ることで、人間の中に無意識に眠る共同性の構造を探り当てようとしている。しかしある動物行動学者が、そうしたフィールドワークの最中に、逆に一匹の猿にじっとこちらを見返されているのに気付き、衝撃を受けたという事実は注目に価する。  彼はその時、彼がどんなにその猿を観察し続けても、その猿が彼を見返したようには人間を知ることはできないのであることを、悟ったのである。それならばいっそのこと、犯罪者の生態を観察した方がいい。  もちろん犯罪者というのは、猿と違って、その事件にあたってたまたま犯罪者であるに過ぎない存在であるから、その生活体系を閉鎖して独立させ、構造として対象化することはできない。そうするには余りにも、我々自身の「生活感覚」と、未分化に結びつき過ぎているのだ。したがって我々が犯罪者を理解することで得られるものは、理論ではなく実践段階におけるテクニックである。「生活感覚」をより柔軟に維持するための、フットワークのようなものなのである。  我々は現在、時代という闇の中に立たされている。したがって「生活」というのは常に闇仕合である。我々は、我々が先祖代々引き継いできた情報と、我々自身の経験にもとづく用心深さに従って、そろそろと歩きはじめる。  突然、左前方の闇の中で悲鳴が上がる。犯罪事件が発生したのである。誰かの生活がそこで破綻をきたしたのだ。我々は一瞬立止って身構える。もちろんこの場合我々は、彼が彼の単なる不注意でそうした事態を招いたのか、それとも、その闇の中にひそむ「時代の伏兵」のためにそうなったのかを、いち早く判断する必要がある。  それが、彼の不注意で招いた事態なら、我々はそんなに心配することはない。我々は充分に注意深いからだ。しかしもし「時代の伏兵」のためにそうなったのであり、その悲鳴がそれへの警鐘だとしたら、我々は考えなければならない。  その悲鳴の様態をあらためて詳細に点検し、それが時代のどのような伏兵によってもたらされたのかを推測し、それに対応するために我々の「生活感覚」を、より柔軟にトレーニングし直しておかなければならない。それが「時代の伏兵」によってもたらされたものなら、同様の悲鳴が、同様の方向から二度三度と続いて上がる場合が多い。そしてその度に、相手の様態は確かめられ、イメージが統一され、我々の「生活感覚」の基調も、それに従って修正される。 「時代の伏兵」の所在と様態がほぼ明らかになったところで、我々は再びそろそろと歩きはじめる。しかしもちろん、油断はできない。時代の変転はとめどもないものであるし、それに従って我々の「生活感覚」も、とめどもなく修正を強制されているからである。  この意味に従って言えば、犯罪者は「生活感覚」の破綻者であるが、必ずしも失敗者であるとは言えない。ここに述べたように、「時代の伏兵」をいち早く探り出すための、「先兵」としての犯罪者も、いるからである。そして、我々が注目しなければならないのも、そうした「時代への先兵」としての犯罪者なのだ。彼はたまたま、余りにもナイーブな「時代感覚」を有していたがために、その「生活感覚」を維持することができなかっただけなのである。  我々の「生活感覚」は、それ自体を独立させ閉鎖された体系とみなした時維持されやすいから、往々にして「時代感覚」と乖離しがちである。したがって我々は、我々の「生活感覚」を破綻させた時、はじめて「時代感覚」に遭遇するという、奇妙な事情の中に置かれている。  つまり我々が「時代への先兵」としての犯罪者に注目するのは、彼の遭遇した「時代感覚」を、我々の「生活感覚」を維持しながら、そのようにして間接的に体験しようとする試みなのである。もちろんこれは、彼を「時代への犠牲《いけにえ》」として血祭りにあげ、その上でこちらの身の安全を図ろうとすることであるから、必ずしも道義に叶った行為であるとは、言い難い。  しかしまた、逆に言えば、彼が図らずも選んだ「時代への先兵」としての役割を、我々が見届けることなく、我々の「生活感覚」への糧とすることもなく終らせてしまったら、その方が彼にとっては、もっとひどい仕打ちである、とも考えられる。彼が単なる失敗者であったか、それとも時代に挑戦した戦士であったかの判断は、すべて我々に委ねられているのである。我々が彼等に注目するのは、そうした責任を果すため、ということもできるだろう。    3  我々の「生活感覚」は犯罪に出遇うことによって、いささか鼓舞される。犯罪が刺激剤となって、「生活感覚」にある種の活性をもたらすのである。つまり犯罪というものには、「時代感覚」からともすれば乖離しがちな「生活感覚」に、時代の様態を示してその基調を修正させるだけでなく、もうひとつの機能があるということになる。 「犯罪は、非日常領域への回路であり、日常領域に在るものたちは、その回路を通じて非日常領域を呼吸する」という考え方がある。ひどく感覚的な言い方であるが、犯罪の持つもうひとつの機能について、極めて巧妙に言い当てていると、私は考える。  我々は日常的に閉ざされている、と言われている。日常領域においては、我々の生命は常にカモフラージュされ、体験はすべて間接化されているのである。生命が、生で直接的に虚空と対応するということがない。我々の「生活感覚」というのは、このカモフラージュされた生命と、間接化された体験を、そのまま制度化したものに過ぎない。  もちろん、かつてはそうではなかった。原始的な共同体においては現在でも、「生」と「死」に直接対応するいささか残酷な祭典を制度化し、その「生活感覚」を定期的に鼓舞することをしている。現在では、この同じことを犯罪が代行しているのである。  犯罪者というのは、その意味において、「時代への先兵」であると同時に、そうした祭典のための「巫子《みこ》」であるということができるだろう。そしてまた、その同じ意味において、かつて我々が祭典を楽しんだように、犯罪も現代の我々にとって、残酷な娯楽のひとつになりつつあることを、否定することはできない。  凶悪な犯罪が発生する度に、我々がテレビのニュースに関心を集中し、新聞をむさぼり読むのは、無意識にではあっても、それを楽しみ、それによって鼓舞されようとしているせいなのだ。その犯罪が発生した現場へ、わざわざ出掛けてゆくのも、同じ理由にもとづいている。  わが国における「名所」というのは、多く「歌枕の地」が転じてなったものであり、それはおおむね「みやこ」と「辺境の地」との境目にあったと言われている。つまり、「みやこ」からはるばるやって来て「辺境の地」を望むことによって、はじめて「歌心」が刺激されたのである。だとすれば、凶悪な犯罪の発生した犯行現場を「名所」とする考え方は、極めて理に叶っているとも言える。人はそこで、犯罪を通じて「辺境の地」つまり「非日常領域」を望むのであり、かつての歌人がその「歌心」を刺激されたように、「生活感覚」を鼓舞されるのである。  ただし、こうした事情がそのまま犯罪者をそそのかし、それを動機として犯罪が発生するという奇妙な事態が、現在おこりつつあるのは注目に値する。彼は、彼自身の「生活感覚」を鼓舞するためにのみ、犯罪に赴くのである。  我々はこれまで、あらゆる犯罪者は、それぞれの固有の動機にもとづいて犯罪を行ない、それが結果として、「時代の先兵」であり、「祭典の巫子」である役割を果すものと考えてきた。「時代の先兵」であり「祭典の巫子」であることを目指して犯罪を行なうことなど、人間が正当に人間である限り不可能なことであると、我々は信じてきた。  たとえば子が親に反抗して「それじゃ俺、犯罪者になってやるからな」と脅迫するやり方は、誰でも知っている。この場合その子は、「犯罪者」という言葉で親に「非日常領域」をのぞかせ、その恐怖で親を圧迫しようとしているのである。つまりその時その子は、自分自身とは非連続的な存在だからこそ「犯罪者」という言葉に、脅迫のための有効性を見出しているのであり、論理の必然として彼自身が「犯罪者」となることは絶対にない。彼自身が「犯罪者」になり得るのだとしたら、彼と「犯罪者」とは連続可能な過程にあるのであり、それならば彼は、それが親を脅迫するために有効だとは考えなかったであろう。 「日常領域」と「非日常領域」は、それぞれ相互に背きあっていて、こちらからそちらへ意識的には回路をつなぐことはできない。ただ犯罪者が無意識の犯行を通じて、結果的につなげることができるだけであり、意識的には、たとえば「日常領域」におけるパラドクスとして、「非日常領域」への回路を予定することができるだけなのである。少なくとも従来は、そう考えられてきた。 「それじゃ俺、死んでやるぞ」という脅迫も、同様である。「死」が「日常領域」におけるパラドクスであるからこそ、「非日常領域」への回路を予定できるのであり、だから脅迫になり、その「日常領域」を限りなく緊張させ得るのである。この場合、その子は、絶対に死んではならない。それが論理である。そこで実際に死んでしまっては、「死」という意味が損われる。  しかし、現実にはそうではない。我々は親に向って「死んでやるぞ」と宣言し、そのまま自殺してみせた子供を何人も知っているし、「犯罪者になるぞ」と言って、そのためにのみ犯罪を行なう子がいることも知っているのである。昭和四十九年、長野県で起こった「サインペン爆弾事件」(3「サインペン爆弾事件」参照)も、そのひとつであろう。その子は、親に進学しないことを納得させるためにのみ、犯罪を行なったのである。  私はこれは、一口に言ってしまえば「非日常領域」に対する感覚の鈍麻が招いた事態であると考えている。彼等はもしかしたらまだ一度も、たとえば山小屋の窓を開いて山の空気に触れるように、「非日常領域」に触れたことがないのだ。あの感触を味わっていないのだ。「日常領域」の中で、カモフラージュされた生命と、間接化された体験をもて余しながらも、それがカモフラージュされ間接化されているためなのだということを、実感できないでいるのだ。  ただ「犯罪者になってやるぞ」「死んでやるぞ」という言葉を、慣習に従って使い、その手応えを確かめられないまま、並べられた言葉の並列的な論理に従って、そのままだらしなく「犯罪者」になったり、「死んで」みせたりしてしまったのだ。  この限りなくふしだらな平面的な世界においては、「日常領域」と「非日常領域」の屈折のメカニズムによって支えられてきた、我々の論理は一切通用しない。土俵上でがっぷり四つに組んだ力士が、いきなり無重力状態の宇宙に放り出されたような、奇妙な不快感が、ここには漂っている。  もちろん、従来の犯罪の論理はここではまったく通用しない。私は犯罪というものを、共同体が共同体であるために不可欠の病気の一種である、という考えを持っているのであるが、この世界では、犯罪そのものが病んでいるのである。犯罪が犯罪として健康に機能し得ない世界なのである。  こうした世界が、現在次第に広がりつつあることで、犯罪はさらにわかりにくくなっているのである。    4  R・D・レインとA・エスターソンは、その著書『狂気と家族』の中で、分裂病について言及し、それを患者個人の体験や行動のみを通じて診断するのではなく、その人の家族連鎖の実践(プラクシス)と過程(プロセス)の光に照してみる必要性を主張している。  彼等はこの場合の「実践」と「過程」について、次のように規定している。「出来事や事件やハプニングというものは、行為者によってなされる行為であるかもしれないし、また張本人たる行為者をもたない、持続的な一連のオペレーションの帰結であるかもしれない。前者の場合には、われわれはこのような出来事を『実践』(プラクシス)の結果であるといい、後者の場合には『過程』(プロセス)の結果であるという」(笠原嘉・辻和子訳、みすず書房)。  凶悪な犯罪者がおおむね分裂病であることを別にしても、これはそのまま犯罪者に置きかえて考えてみることができる。もちろん、「家庭環境が犯罪者を創りあげる」というような、素朴なことを言っているのではない。重要なのは、「家族連鎖」もしくは「対人関係連鎖」の「実践」と「過程」としての犯罪、ということである。  著者は同書の中でさらに「各人は、他者の世界の中での一客体であるばかりでなく、自分[#「自分」に傍点]の世界の中で自分の体験や構成や行為がそこから生じるところの、時空間における一つの場所でもある。人は自分自身の視点をもった自分自身の中心である。そしてわれわれがみつけたいと思っているのは、まさに、他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴ[#「パースペクティヴ」に傍点]である」と述べている。  つまりもし様相がこのようなものであれば、既に個人が犯罪の単位ではなくなるのであり、その個人を取りまく「対人関係連鎖」そのものを、犯罪の単位として考えなければならない、ということになる。ひどく大ざっぱに言ってしまえば、どこかでひとつ犯罪が発生する度に、我々はすべて、その犯行者本人と「共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴ」に従って、共犯者となるわけである。  犯罪が発生する度に、我々がその犯人探しに熱中するのは、必ずしも真実を明らかにし、正義を行なうためではない。犯罪が起きると同時に我々は、我々自身がその無意識の共犯者であることを知るのであり、本能的にその連鎖系を断ち切ろうとする衝動に駆られて、そうするのである。犯人探しというのは、犯行者をすべての連鎖系から切り離し、孤立させるための試みにほかならない。  かつてある小さな城下町で、城内の金蔵が破られ、内蔵金が盗まれるという事件が発生した。直ちに探索が開始されたが、犯行者はなかなか見つからない。事件発生と同時に城外へ抜ける関所はすべて閉ざされたから、犯行者がいまだに城下にいることは明らかである。  犯人探索が難航し、捜査が長びくに従って、その城下は異様な緊張感に包まれていった。そして突然、発狂するものが続出しはじめたのである。ある男はぎらぎらと光る目をむいて街路に走り出し、そこで「私は犯人じゃない」とわめき出したのである。ある男は井戸端で、知人に肩を叩かれただけでその場に卒倒した。ある男は自分自身の無実を証明するために、納屋で首を吊って死んだのである。そして、これらはすべて犯人ではなく、疑われたことすらない人々なのであった。  こうした事態は充分に予測できることである。犯行者がその城下の生活者であるとすれば、彼等は彼と共有する部分が余りにも多過ぎたのであり、共犯者として余りにも抜きさしならないところに置かれていたのだ。捜査が難航したのもそのせいだろう。共有感覚が濃密に過ぎると、犯行者を個人として連鎖系から切り離すことが逆に不可能になり、もしかしたら、「張本人たる行為者をもたない、持続的なオペレーションの帰結」としての犯罪が、結果的にはここで成立していたのかもしれない。  もちろん現代では、対人関係におけるこうした濃密な共同性は期待できない。その代り、連鎖系それ自体は、複雑にからみ合い、幾重にも重なり合って、錯綜を極めている。つまり「他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴ」が確かめ難いのである。  かつての「対人関係連鎖」は、私的領域としての「家族」と公的領域としての生活圏である「村」との、屈折した二重構造のうちにほぼ把え切れるのであり、そこに域外からやってくる「よそもの」を加えれば、それで事足りた。連鎖系のメカニズムも、「私的領域は、それがそのまま拡大されて公的領域となるのではなく、私的領域は裏返されて公的領域となるのである」という、この屈折の法則性さえのみこめば、一つの緊張感の内に把えられる。  しかし現代はそうではない。私的領域であるはずの「家族」そのものが、私的であることの濃密さを現在次第に失いつつあるし、公的領域が、生活圏である「村」だけに限られる例など、ほとんどない。「職場」であり、「学校」であり、「同郷者の会」であり、「趣味の会」であり、その他様々の公的領域が、それぞれに固有の屈折をしながら、幾重にもかぶさりあっている。  そこで奇妙な犯罪が発生する。昭和五十五年、新宿駅頭で発生した「バス放火事件」なども、そのひとつである。この犯罪が、具体的にどのような手続きを経て行なわれたかについては、誰でも知っている。  新宿駅頭で、一台のバスが乗客を乗せたまま、発車時間を待っていた。そこへバケツにガソリンを入れた一人の男が現れ、バスの床にガソリンをまいて、火をつけた。バスはたちまち火に包まれ、逃げ遅れた乗客六人が、焼死した。  ある男がたまたまそこを通りかかった。バス停の前に立っていた男が、ひとりの逃げる男を指さして「あいつが火をつけた」と言った。通りかかった男が、指をさされた男を追ってつかまえ、警察に引渡した。その場までガソリンを運んできたと思われるポリエチレンのタンクが、近くの植込みの中から発見された。  逮捕された男は犯行を自供し、「バスに乗った人々の幸福そうな様子を憎んで」そうしたのだと、動機を説明した。  この事件にはいくつかの不連続性がある。最大のものは、被害者である乗客と犯行者のそれである。危うく難を逃れた一人の乗客は、「とっさに何があったかわからなかった」のだが、とにかく火がまわってきたので逃げた、ということを言っている。おそらく彼は、犯行者の動機を聞いた後でも、「何があったのかわからなかった」事情を、解消させることはできなかったであろう。  次の不連続性は、犯行者を目撃したものと、それを逮捕したものが、別人であるということである。言うまでもなく私は、だから間違った犯行者をつかまえてしまった、ということを言っているのではない。その可能性はあったとしても、私が言いたいのはただ、そこに行為と緊張感の断絶があった、ということだけなのだ。  もうひとつは、その動機と行為との間にある不連続性である。「バスに乗った人々の幸福そうな様子を憎んで」という動機から考えれば、これはどうやら衝動的な犯行のように見えるのだが、ポリエチレンのタンクが見つかったところを見ると、計画的な犯行のようにも考えられる。これをどうつなぎとめることができるのか、私にはわからない。  もちろん私は、前述したように、逮捕された彼以外の真の犯行者がいたり、彼自身に自供したとは別の真の動機があったりすることを、ことさら疑っているのではない。彼が自供した通りの動機にもとづき、その通りの犯行が行なわれた可能性は、否定するわけにはいかないからである。  しかし、事件にあるこれらの不連続性が、論理によって埋められない限り、我々はこの犯罪を、意味として受けとることは絶対にできないだろう。第一、この事件によって親を失った子供たちは、どのようにしてこの「死」を理解していいのかわからないに違いない。犯行者の動機が不可解であったり、それがまだ逮捕されていなくて目に見えないのではない。目の前に居て、目に見えながら、それをどう憎んでいいのかわからないのである。この場合の被害者と加害者は、ありありと害を受け、害を加えながら不連続なのである。  もちろん現実には、これらの不連続性を論理によって埋めることは不可能である。それぞれの連鎖系に閉ざされた人々が、ここで極めて偶然に接触したのであり、そのそれぞれの錯綜した連鎖系の網を解きほぐして、そこに何らかの必然性を見出すことなど、やってできることではないからだ。  つまりこれは、永遠に意味としての形を成さない犯罪なのだ。こうした事態に出遇うと我々は、「天災である」「偶然の事故である」ということで、自らなぐさめることをしてきた。  しかしこのやり方は、かつて我々が「家族」と「村」の屈折した二重構造のメカニズムだけで、連鎖系を確かめていた時代に、域外からやってきた「よそもの」の突発的な不条理な犯罪に対して、採ってきた方法である。「家族」と「村」による安定した連鎖系が保証されていない状況の中では、これは何のなぐさめにもならない。  犯罪が、その犯行者個人の単位で解読されるものから、彼の属する連鎖系の単位で解読されなければならないものへ、現在次第に移行しつつある現実は、注目すべきことであるが、同時にそれによって、犯罪というものがさらに解読され難いものになりつつあるということは、一層注目すべきことに違いない。    5  我々は犯罪学者ではないから、犯罪を論理的に説明しようなどとは考えない。我々は統治者ではないから、治安を保つために犯罪を撲滅しようなどとは考えない。我々は道徳家ではないから、我々が決して犯罪者にならないだろうなどとは考えない。また我々は犯罪者でもないから、その行為を正当化しようなどとも考えない。  我々は生活者である。そして不安な生活者である。我々の「生活感覚」を律するものは、「昨日まではこれでやってこれたから、今日もこれで大丈夫だろう」という程度のものである。大地を一歩一歩踏みしめるようにして、生活を確かめているのではない。むしろ力のよりどころを持たない、宇宙遊泳者のように、生活を漂わせているのである。  だからこそ我々は、こうもりが闇の中で音波を発し、その反響音によって闇の内部構造を確かめているように、我々の内にある「犯罪への傾向」を周囲に向って発し、それが「犯罪」にぶつかって反響してくるものを聞きながら、自分自身の位置を確かめているのである。  生活者にとっての犯罪は、そのようなものとしてある、と私は考えている。 [#改ページ]   2|犯罪|そのデザイン [#改ページ]   アリバイ  犯罪事件が発生する度に、捜査機関が気まぐれに抱く「不当な嫌疑」に対して、我々が、我々の無罪を証明するための手段とする、最も確かであるとされている方法の一つ。もちろん、犯罪事件がいつ、どんな場所に発生するかを予測することは、現在のところ未だ不可能であるし、捜査機関もまた、ちょっとした油断につけこんで、だれかれかまわず、「不当な嫌疑」をかけてくるという、抜きさしがたい習癖を保持しているから、実際上我々にとってのアリバイは、ほとんど日常的に必要とされている。多くの練達者は、一つの犯罪事件が発生すると同時に、反射的に、その時間に自分の居た場所を確かめ、その時間にそこに自分が居たことを証明し得る第三者を確かめ、その第三者に電話して、もしくはその第三者を訪ねて、改めて注意を喚起し、忘れている場合は思い出させ、間違って覚えている場合は訂正し、正しいけれどもこちらの都合に合わない場合は、そうでない方向へ錯覚させることをすらするのである。  言うまでもなく、アリバイは、「運が良ければ有効に使用することができるかもしれない[#「かもしれない」に傍点]手段の一つ」であってはならない。アリバイは、少なくともその犯罪事件に自ら手を下していない場合には(自ら手を下している場合にも同様であることが望ましいが)「運不運と関係なく常に[#「常に」に傍点]有効な手段の一つ」でなければならない。しかしそのためには我々は、連続する日常生活の過程を、常に途切らせることなく、アリバイに利用できる時間と考え、また、そのように利用しつつ行動しつづけるのでなければならないのである。このシステムがない限り、アリバイは、我々にとっての単なる気やすめ程度のものでしかないと言ってもいいだろう。  我々は往々にして、犯罪事件に「巻き込まれる」可能性を少なくし、捜査機関の抱く「不当な嫌疑」の対象から外れようとして、本能的に、なるべくつつましく[#「つつましく」に傍点]、ひそかに[#「ひそかに」に傍点]、目立たない[#「目立たない」に傍点]ように生活しようと心掛けている。実はここにオトシアナがあるのだ。アリバイ=「不在証明」という語感から、我々はそれを「何処《どこ》にも居ないこと」であるととっさに錯覚し、それをまた、犯罪事件そのものへの恐怖、誤認逮捕への恐怖と結びつけて、そのような生活態度こそが安全であると考えてしまうのである。もちろん、それではいけない。言うまでもないことかもしれないが敢て言わせてもらえば、我々は、「何処にも居ないこと」によって、犯罪事件と誤認逮捕から逃れられるのではなく、「何処かに確実に居ること」によって、逃れられるのである。それも、ただ「居る」だけでは充分ではない。≪犯罪現場からできる限り遠く離れた≫場所で、≪いざという時には喜んで証言台に立ってくれる、善意の、したがって日常つきあってゆくためには多少わずらわしいほどおせっかいな≫人々に囲まれて、しかもその中で≪極めて印象的に、けたたましく≫存在しているのでなければならない。そのような人々のみが、アリバイを証明できるのであり、したがって、犯罪事件と誤認逮捕から逃れられるのである。  アリバイを、我々のための有効な武器とするためには、我々は、従来小市民がそうすることによって生活の安全を保障されていた、≪つつましく≫≪ひそかに≫≪目立たないように≫という生活態度を、≪どぎつく≫≪けたたましく≫≪あざとく≫という方向へ、大きく転換させなければならないだろう。今や、何もしなかったら「無罪」、という時代は終ったのであり、「無罪」であることを証明できたもののみが「無罪」という時代が始まりつつあるからである。  ところで、アリバイというのは、言うまでもなく、「同一人物が、同時に二か所以上の場所に存在することは、不可能に違いない」という推測に基づいて成立しており、ある人物が、犯罪現場とは違う他の場所に明らかに「居た」ことを証明することにより、その時間に犯罪現場には「居なかった」こと、もしくは、「居る」ことが不可能であったことを証明するための方法とされている。論理的には非難の余地のないもののように思えるが、応用面においては、事はそれほど論理的に運ばれているわけではない。同一人物が、同時に二か所以上の場所に存在することが、本当に不可能であるかどうかという、この証明方法の根拠に関わる部分についての疑惑は、今のところ表立っては提出されていないものの、捜査機関のしばしば口にする「アリバイというのは必ずしも絶対的なものではない」という言葉の裏には、明らかにこれへの疑惑の萌芽がうかがえる。つまり彼等は、この厳正であるべき論理を、かなり弾力的に[#「弾力的に」に傍点]応用できるものと考えているに違いないのだ。  言うまでもなく捜査機関は、彼等の考える容疑者が、アリバイなどという不穏当なものを持っているということを、決して快くは思っていないし、同時にまた、それがあるからと言って、直ちに彼を容疑の対象から除外するというような、安易な方法はとらないのである。では、どうするか。彼等は、「アリバイ崩し」ということを始める。無辜《むこ》で無防備の我々が、我々の安全を保障する数少ない手がかりの一つとして、後生大事に抱きかかえているアリバイに対して、「アリバイ崩し」という言葉は、いかにも残酷な、そして、それこそ不穏当な響きを持つものだと思うのだが、彼等は、ほとんど合法的にそれができると信じているのであり、むしろ義務として、やらなければいけないものとさえ考えているのである。  彼等は、「このアリバイは強い」とか、「弱い」とか言う。もちろん、本来から言えば、アリバイというものは、「有る」か「無い」かが判定されなければならないものであり、「強い」か「弱い」かが判定されるべきものではない。つまり彼等は、そうすることによって、これが二者択一的な厳正な論理であることをゆがめ、伸縮自在の単なる物指し[#「物指し」に傍点]に過ぎないものに、すりかえようとしているのである。それだけならまだいい。また彼等は「このアリバイには、どうやら作為の匂いがある」などと言ったりもする。アリバイを、我々の安全を保障する「運不運と関係なく常に有効な手段の一つ」にするためには、前述したように我々は、日常意識してそれを「作り」続けていなければならない。「作為の匂い」がするのは当然と言わなければならないのである。そのこと自体が、彼等の「アリバイ崩し」を発動させる根拠になるのだとしたら、我々は一体何を信頼したらいいのだろうか。つまり彼等は、そのようにして、我々がアリバイを有効に機能させようとして作り上げつつあるシステムそのものを、根底からくつがえそうとさえしているのである。  我々は、アリバイというものが、論理的に成立するものであることを、知っているだけでは充分ではない。また、そのアリバイを、有効に機能させるために、日常生活をシステマティックに送っている、というだけでも充分ではない。それは、捜査機関の気まぐれな「アリバイ崩し」の悪意に、常におびやかされているものだということを、知っていなければならない。我々のアリバイと、それを有効に機能させるためのシステムは、捜査機関の「アリバイ崩し」の悪意に出遇って、むしろそれに刃向い、その悪意を粉砕するべく鍛えあげられていなければならないのである。犬の良い飼主は、犬をただ飼っているだけで「泥棒には入られないだろう」などと安心してはいない。その犬を、泥棒が入ってきた時にそれに噛みつくよう訓練し終った時、はじめて安心するのである。  某事件が発生し、某人物が、例によって捜査機関の気まぐれにより、重要容疑者と目された。しかし彼には、確実なアリバイがあった。すなわち彼は、その事件が発生したまさしくその時間に、用心深くも、他の捜査機関の管轄下にある留置場に「ぶちこまれていた」のである。つまり、こちらの捜査機関もまた、彼を、別な事件の重要容疑者であると、考えていたのだ。このアリバイこそ、完璧この上ないものと言えるだろう。何故ならば、捜査機関が、彼等の考えた重要容疑者に向ける眼ほど、注意深い眼は他にはないからであり、彼はただそこに「居る」だけで、その考えられ得る最も注意深い目に、見守られることになったからである。  しかも、この場合のアリバイは、もうひとつの意味で、さらに優れたものとなっているのである。つまり彼はそこで、彼を重要容疑者とみなした一方の捜査機関の悪意に対して、同じく彼を重要容疑者とみなして留置場に「ぶちこんだ」他方の捜査機関の悪意をそのまま刃向かわせるという離れ技を、演じてみせた。当然ながら、そこで双方の捜査機関の悪意は真向から衝突し、一方の捜査機関は、例によって「アリバイ崩し」の手練手管を駆使し、遂に他方の捜査機関が、「彼を重要容疑者とみなし、したがって留置場にぶちこんだという事実」はなかった[#「なかった」に傍点]ことを証明してしまったのであり、他方の捜査機関もまた、自らの捜査とその管轄する留置場の機能の完全無欠さを明らかにする必要上、「彼が、一方の捜査機関の主張する某事件に関係すること」は、絶対に不可能であった[#「不可能であった」に傍点]ことを証明してしまったのである。言うまでもなく彼は、双方の事件の容疑者であることから免れることとなった。この彼のシステムこそ、捜査機関の「アリバイ崩し」の悪意に出遇って、むしろそれに刃向い、その悪意を粉砕すべく鍛えあげられたものと、言えるだろう。  我々は、生きている以上、常に確実に、何処かに「居る」のである。したがって、アリバイも、常にそこにある。こうした考え方に基づいて成立しているそれを、「自然的アリバイ」もしくは「受動的アリバイ」と言う。我々は、「見られる」ことによって、「記憶される」ことによって、さらに「証言される」ことによってしか、何処にも「居る」ことはできない。したがって、アリバイも、「見られ」「記憶され」「証言される」可能性に従って、そこにある。こうした考え方に基づいて成立しているそれを、「積極的アリバイ」もしくは「システム化されたアリバイ」という。我々は、捜査機関の「アリバイ崩し」の悪意を、粉砕することなしには、何処にも「居る」ことはできない。したがって、アリバイも、その悪意を粉砕するこちら側の手練手管の精妙さに従って、そこにある。こうした考え方に基づいて成立しているそれを、「攻撃的アリバイ」もしくは、「技術的アリバイ」という。  このアリバイにおける三段階の、最上位にある攻撃的アリバイを、完全に自分のものとした場合、我々は、身近でどんな犯罪事件が発生しようとも、実際にそれに手を下していない場合はもちろん百パーセント、手を下している場合でも五十パーセント、無罪が保障されることになっている。  夢野久作の『いなか・の・じけん』に出てくる駐在所の巡査は、堕胎事件を調査中、その容疑者に「私にはアリバイがあります」と言われ、何故かとっさに、「アリバイとは処女膜のことである」と判断してしまった。以来その地方では、処女膜のことをアリバイと呼んでいるそうであるが、アリバイのことをアリバイのことだと考えている地方の人々とも、支障なく意を通じあっているということである。 [#改ページ]   非常線  事件が発生し、幸いにもそれが直ちに通報された場合、捜査機関は、犯行者の逃走を阻止し、あわよくばそれを逮捕せんとして、緊急手配を行なう。つまり、机の上に一枚の地図を広げ、犯行現場を中心にして、まだ犯行者がうろついているであろう地域の見当をつけ、「まあ、このあたりだろう」と思われる範囲を赤鉛筆で囲み、そこへ捜査官を派遣して出入りをチェックさせるわけである。そして、この場合の地図に記された赤鉛筆の線のことを、≪非常線≫という。  もちろん≪非常線≫の引きかたは、常に難しい。それが囲む区域は、広すぎてもいけないし、狭すぎてもいけない。広すぎれば、犯行者はそこに住みついて出て行こうとはしないかもしれないし、狭すぎれば、捜査員が到着する以前に、そこから逃げ出してしまうかもしれないからである。良い≪非常線≫というものは、これらの条件のぎりぎりの結着点を、そのまま連続させたものにほかならない。つまり、言葉をかえて言えば、すべての≪非常線≫は、捜査官の「もうそこにはいないかもしれないなあ」という不安と、「何とかそこにまだいてほしいなあ」という期待とのせめぎあいのうちに、微妙に成立しているのである。ただ一部の捜査機関においては、そこに犯行者がいることを、より強烈に期待しつつ引いた線を≪非常線≫、それほどでもなく引いた線を≪日常線≫と言い分け、一方を赤鉛筆で、他方を青鉛筆で引くよう習慣づけているところもある。言うまでもなく、青鉛筆で引かれた≪日常線≫には、捜査官を派遣して出入りをチェックさせることなどしないから、我々もまた、その現場に立ち会えることなどは,決してないのである。  ところで問題は、あらゆる捜査機関が、≪非常線≫の引かれた現場に派遣する捜査官に、そこを通過するものすべて[#「そこを通過するものすべて」に傍点]のチェックを義務づけている、という点である。つまり、もし≪非常線≫というものが、その内側に犯行者のいることを予定して引いたものならば、何故彼等は、そこを通過するものすべて[#「そこを通過するものすべて」に傍点]ではなく、「出ようとするもの」だけをチェックして、「入ろうとするもの」を無視しないのだろうか。もちろん、この疑問に答えるべく、これまでいくつかの説が唱えられている。第一に、それは外側にいる共犯者の導入を阻止するためである、とする深慮遠謀説。第二に、それはチェックされることの不自由さを「出ようとするもの」だけに課すのは不公平であるから「入ろうとするもの」にも公平に課すのである、とする「思いやり」もしくは「いやがらせ」説。第三に、それは既に逃げ出したかもしれない犯人が引き返してくるかもしれないことを期待しているのである、とする疑心暗鬼説。第四に、それは他の事件の他の犯行者がたまたま引っかかってくるかもしれないからである、とする僥倖期待説。第五に、それはさほど深い考えがあってのことではなくただ何となくそうしているのである、とする無邪気説。  この第五の説が唱えられるについては、いささかの事情があった。この説の主張者に言わせると、かつてはどの≪非常線≫に派遣されたどの捜査官も、そこを「出ようとするもの」だけをチェックしていたのだそうである。ところが、ここに一つの事件が発生し、幸いにも≪非常線≫にひっかかることなく逃亡したその事件の犯行者が、おそらく類い稀なる知能の持主だったのだろう、大胆不敵にも再び≪非常線≫の内部に潜入することにより、その捜査機関の捜査の裏をかこうと、企てたのである。しかし、潜入すべく彼のやってきたその一か所の≪非常線≫の、その捜査官のみが偶然、何を勘違いしたのか、そこを「出ようとするもの」だけではなく「入ろうとするもの」をも、チェックしてしまっていたのである。当然、彼は苦もなく逮捕された。しかしその捜査官は、どちらかと言えば「細かいことにくよくよするタイプ」ではなかったから、犯行者がその内側にいることを予定して引いた≪非常線≫の現場へ、何故彼が、外側から[#「外側から」に傍点]やってくることが出来たのかということについて、かすかな疑問をすら抱こうとはしなかったのである。捕えられた犯行者は、獄につながれると、嘆息して言ったそうである。「どんな叡智も、天性の無邪気さには抗し得ない」。  以来、あらゆる捜査機関が≪非常線≫における捜査官に出入りすべて[#「出入りすべて」に傍点]のチェックを義務づけたのであると、その説の主張者は主張するのである。果たしてどの説が正しいのかということはわからないが、ともかく彼等は現在そうしており、それなりの効果をあげている。ともかく、≪非常線≫の引かれた現場においてたまたま逮捕されたもののうちの約三割が、何故かそこを「入ろうとしているもの」だった、ということは既に統計的に明らかなのである。  さて≪非常線≫は、犯行者が既にその場を離れ、納まるべきところに納まったであろうことが充分に推定できるだけの時間が経過すると、極めて渋々ながら、消しゴムで消される。それはあくまで、その地図に課せられた臨時の処置であり、それがそのまま持続させられて、地区そのものの性格に新たな特質を加えることなどは、決してない。アメリカのテキサス州において二年三か月間≪非常線≫が解除されなかったという記録があって、当然それが対応する現場には当時、スナックができ、ホテルが建ち、娯楽場が設備され、多くの浮浪者が蝟集《いしゆう》することになったのであるが、それすら≪非常線≫が解除されると同時に捨てられ、沙漠の中の廃墟となり果てたのである。つまり≪非常線≫とは、地図とその対応する現場に課せられた一種の虚構なのであり、≪非常線≫そのものの特質を論ずる場合、我々はそのことを無視するわけにはいかない。  そして、虚構としての≪非常線≫が内包する特殊な緊張感は、その内部において発生した事件の衝撃力と常に不可分の関係にある。時間の経過に従って事件の衝撃力が薄れれば、それだけ≪非常線≫もまた、それがそこにあることの正当性を失うのであり、だから逆に言えば、≪非常線≫それ自体の緊張感をそのまま何等かの方法で持続させることにより、事件の衝撃力を弱めることなく温存することもできるのである。往々にして捜査機関は、≪非常線≫をできるだけ長く維持したいと考え、それ自体の機能を必要以上に鼓舞する傾向があるから、そこに囲われた地域は常に一種独特の昂揚感に満たされ、社会心理学で言うところの「ゆるやかな発狂状態」が維持されることになるが、それはほとんどそのせいである。  もちろん、この一種独特の昂揚感と、ゆるやかな発狂状態は、我々の日常生活にとって、さほど有害なものではない。と言うよりむしろ、一部の社会心理学者に言わせれば、これこそが、我々の「よどんだ日常性」を浄化するべくもっとも有効に作用するものなのであり、出来得れば、一定の周期をおいて度々そうあるべきであるとさえ、主張されているのである。この考え方の当否はともかく、この種の昂揚感とゆるやかな発狂状態に促されて、人々がどのような症状を呈するかについては、いくつかの報告例がある。≪目が生々としてきた≫≪顔色が良くなった≫≪食欲が出てきた≫≪うつ病が治った≫≪良く眠れるようになった≫≪生きがいを感じた≫≪便秘が治った≫≪社交的になった≫≪酒がうまくなった≫などであり、これらの症例に関する限り、社会心理学者の言をまつまでもなく、良い傾向[#「良い傾向」に傍点]と言えるかもしれない。しかし、いささか気になる症例もまた報告されているのである。≪突然ワッと叫びたくなった≫≪走り出したくなった≫≪何か大きなことをしてみたくなった≫≪怒りっぽくなった≫≪いらいらしてきた≫≪自首したくなった≫≪歌いたくなった≫≪嘘をつきたくなった≫≪どこかへ行きたくなった≫などであり、こうなると手放しで奨励すべき傾向でもないように思われる。  現に、事件が発生し直ちに≪非常線≫が引かれた場合は、その通報が遅れて≪非常線≫が引かれなかった場合に比較して、圧倒的に自首するものが多いのは事実である。今のところ一応捜査機関は、その事務手続き上の煩雑さには悩まされながらも、やがてそれが真の犯行者の自首をも促すであろうことを予想して、良い傾向[#「良い傾向」に傍点]であると判断しているが、果してそうであろうか。現在≪非常線≫に囲まれた地域に特に自首するものが増加する傾向については、ほぼ二つの理由が考えられている。一つは、その内部に一種の共同体意識が発生し、その共同体への倒錯した使命感がそうさせるのだ、というものであり、また一つは、その奇妙な昂揚感とゆるやかな発狂状態を、さらに具体的に自らの内に体現したいと考えてそうするのである、というものである。だとすれば、これらはいずれも、かなり問題のある兆候であるとしか思えない。  言うまでもなく捜査機関は、この前者の理由に依拠して、その共同体への倒錯した使命感が、真の犯行者の内にも芽生えるであろうことを期待しているのであろうが、もしこの場合、倒錯[#「倒錯」に傍点]という事情の内に本来の意味があるのだとすれば、真の犯行者はむしろ自首しないことに使命感を覚えるのではないだろうか。さらにまた、もしこの後者の理由が正当なものであるとしたら、この傾向は明らかに、犯罪への憧憬にほかならない。しかも、自らは犯罪に手を染めぬままに、自らを犯罪者に仕立てあげようとする、きわめて横着な思想にもとづくそれである。こうした傾向は当然、真に犯罪者たらんとするためにも、真に犯罪者たらざらんとするためにも、良くないことに違いない。考え方自体が不健康なのである。  こうして、≪非常線≫が引かれることから派生する様々な副作用は、現在次第に、大きな社会問題となりつつある。それが我々の日常生活にとって、有害であるか無害であるか、また、有益であるか無益であるか、の論議はしばらくおくとしても、この影響下にあったものが一部で、習慣化する兆を見せはじめているという事実は、無視するわけにいかない。言われているところの、≪非常線≫中毒である。正規のルートを通じて確認された情報ではないが、既に都市部において多くの中毒患者が、≪非常線≫から≪非常線≫へ、渡り歩くことをはじめているとも言われている。もしそれらの中毒患者が渡り歩くことをやめて、現在居住するそこを自らの手で≪非常線≫に囲ませようと計画しはじめたら、どうだろうか。事は余りにも重大である。  ともかく現在≪非常線≫は、そこに事件が発生しその犯行者がまだそのあたりにうろついているであろうという理由だけで引くわけにはいかなくなりつつある。一歩間違えば、その捜査方式自体が、新たな事件の発生を促すことにもなりかねないからである。すべての犯罪事件を「非常事態」と見る考え方に、問題が出てきはじめたということだろうか。 [#改ページ]   指紋 「指紋によって解決された最初の殺人事件は、アルゼンチンのネコシアで起きた」と、コリン・ウィルソンは『殺人の哲学』の中で書いている。もしこれが事実だとすれば、記念すべき出来事であるから、我々も覚えておいたほうがいいかもしれない。 「フランセスカ・ロハスという二十六歳の女が、近所の小屋に自分の子供達が殺されたといって駆けこんできた。四つと五つの二人の子供が頭を砕かれてベッドで死んでいた。彼女は彼女の現在の情夫ベラスケスという男が犯人だと言った。  ベラスケスは逮捕され、ひどく打たれたが、脅したことは認めながらも子供を殺したことは否定した。ネコシアの警察のやり方は原始的だった。警察はベラスケスを一週間拷問したが効果がなかった。そこで警察署長は容疑をロハスに向け、女の小屋の外でうめき声を立ててみた。子供の幽霊のふりをして彼女を驚かせ、自白させることをねらったのである。  アルバレスという警部がラ・プラータから調査に来た。彼はブエノスアイレスの警察統計局の局長ファン・プセティッチというダルマチア人の仕事についていくらか知っていた。プセティッチは、ゴルトンの論文を読んでから、独自の指紋識別法を編み出していたのである。アルバレスはその女の小屋に入り、戸に付着している血でできた親指の指紋を発見した。アルバレスは戸のその部分を鋸で切り取り、本署へ持って帰った。それから彼は、フランセスカ・ロハスを呼びにやり、親指の指紋を押させた。二つの指紋が同一のものであることは一目瞭然だった。彼が拡大鏡を通して女に二つの指紋を見せると、彼女は泣きくずれ自白した。彼女が二人の子供を殺したのである」。  コリン・ウィルソンが書いているのだから、実際にあった話には違いないのだろうけれども、こうして読んでみると、「指紋による捜査方法」を宣伝するためにわざわざ作ったんじゃないかと思われるほどよくできた話である。構文上も、起承転結の順をきちんと追っていて無駄がない。  特に私の好きなところは、拷問であるとか幽霊のまねをして脅かすとかいうネコシア警察の優雅な捜査方法が行詰ったところで、場面が一転し、「ダルマチア人」のプセティッチから独自の指紋識別法を伝授されたアルバレスが颯爽と登場するところである。彼の登場によって拷問の仕方がうまかったり、幽霊をやらせたら右に出るものがないと言われたネコシア警察のベテラン刑事たちが、没落を余儀なくさせられるわけであるが、彼等の残念そうな顔が目に浮かぶようだ。もちろん、人はあるいは彼等への哀惜の念について、ここで一言あってしかるべきだと考えるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。そんなことをしていたら場面転換のスピードがにぶるし、その点についてはむしろ、彼等には過酷を強いることにより言外に匂わせることができるのである。  アルバレスは直ちに現場へ赴き、指紋を採集する。容疑者に会って面倒な尋問などをしないところがいい。「人」よりも「物」、「情」よりも「論理」を尊重するのが、ブエノスアイレス流の近代捜査法なのである。しかし、ここで我々がいささか驚かされるのは、指紋の付着した戸の一部を「鋸で切り取り、本署へ持ち帰った」という素朴にして大胆な、そして断固たる行為である。もしかしたらプセティッチの編みだした独自の指紋識別法という場合の「独自性」は、あるいはここにあるのかもしれない。ブエノスアイレスの指紋採集係は、常に鋸を携行していたのだろう。もちろん採集すべき指紋が多数ある場合は、その付着した建造物にいささかの損害を与えることになるが、犯罪捜査において多少の犠牲が伴うのはやむを得ないことである。  さらに良く考えてみれば、犯行現場より指紋を採集したことを証明するためにこれ以上確実な方法は他にない。ブエノスアイレス以外の地域においては、言うまでもなくこの方法は採用していないと思われるが、ではどうやってその指紋がその現場から採集されたのだということを証明しているのだろう。もしかしたら我々は、今改めて「ダルマチア人」プセティッチの智恵に学び直さなければいけないのかもしれない。  アルバレスが採集した指紋と、フランセスカ・ロハスの指紋が一致することを示すと、彼女は突然泣きくずれて自白した。子供の幽霊に対しては顔色も変えなかった彼女が、指紋を見て泣いたのである。つまり、近代捜査方式が「情」よりも「論理」を大切にするように、容疑者もまた「情」よりも「論理」に泣いた、ということなのだろう。  この事件がいつ頃のものであるか、コリン・ウィルソンは書いてないからわからないが、プセティッチが参考にしたというゴルトンの著書『指紋』が出版されたのが一八九二年であり、イギリスで最初の「指紋事件」としてコリン・ウィルソンは、一八九七年の事件をあげているから、その間にあったものと考えていいだろう。ただし、この事件は正確な意味で「指紋事件」とは言えないかもしれない。つまり、指紋が犯罪を立証するための証拠として有効であるためには、我々の指紋というものが一人一人全部違っているのだという事実が、公認のものとなっていなければならない。たまたまこの場合は、フランセスカ・ロハスが物分かりのよい女だったからよかったが、そうでなかったらアルバレスは彼女に対して、フランシス・ゴルトン卿の著書『指紋』の講義からはじめなければいけなかったかも知れないのだ。  何らかの方法によって事件の発生を知った捜査官が現場に到着した場合、犯行者がまだそこにいる場合はもちろん直ちに逮捕する。しかし、不幸にして既に逃走してしまっている場合、捜査官はその現場の状況、犯行の手口、残された痕跡、遺留品などを手がかりにして、犯行者として世論を納得させるに足る特定の人物を選び出してみせなければならない。もちろん、従来ならネコシアの警察なみに、そのあたりをうろついているうさんくさいのを何人かつかまえてきて、拷問して自白させればそれで事足りたが、現在では、さすがにそれでは世論が納得しない。 「情況証拠ではなく、物的証拠を」などと言いはじめる。現在ではたいてい誰でも推理小説の一冊や二冊は読んでいるから、いいかげんなことでは満足しないのだ。そこでしようがない、捜査官も「物的証拠」という奴で推理の裏付けをしなくてはならなくなる。もちろん、これには色々ある。足あと、というのが最も素朴で一般的なものだ。それを辿っていったらそこに犯人がいるのである。犯人がその所持品を落していくという場合もある。ハンカチに名前が書いてあって、言うまでもなくその名前の人物が犯人なのである。それから凶器。斧が残されていたのなら犯人は木樵に決まっている。少し難しくなって頭髪、血痕。もちろん、ちょっと考えてみればわかる。犯人は、ハゲ頭ではない何処かに傷のある人間である。時には死体の口の中に犯人の右手の人差指が残っていることもある。それらしき人物に道を聞いてみて、左手の人差指で「アッチです」と言う奴がいたらそれが犯人だ。その他様々だが、そのひとつに指紋がある。そして、いわゆる「物的証拠」の中では何といっても指紋が花形だ。 「犯行現場に残された指紋と、容疑者の指紋が一致しました」ということになれば、どんなにたくさん推理小説を読んだ口うるさい向きも、グウの音も出ないことになっている。犯罪捜査における指紋の効用は、現在ではほとんど信仰に近いのではないだろうか。これはまさしく霊験あらたかな護符のように作用する。  指紋による捜査法式を有効に機能させるためには、三つの条件が必要である。第一に、指紋の採集技術が確立していなければならない。もちろん、これはさして難しいことではない。やむを得なければ、ブエノスアイレス方式でもかまわないからである。第二に、同一指紋は二つとないという知識が、少なくとも司法当局と犯人とそれに関心を持つ人々との間に行きわたっていなければならない。これが疑われはじめたらとたんに、この捜査方式は無に帰するのである。第三に、多くの犯罪者の、もしくはその可能性のあるものの指紋が、どこか一か所に分類してファイルされていなければならない。おそらくこれが最も重要なことだろう。このファイルがあることによってはじめて捜査官は、指紋を、既につかまえた容疑者の犯行を立証するためだけではなく、捜査そのものに役立たせることができるからである。「物的証拠」の中で指紋が重要視されるのはこのためでもある。  現在、一度つかまったことのある犯罪者はすべて指紋に従って分類され、ファイルされている。名前は変えることができるし、年齢もごまかせるし、顔かたちも隠したり変装することができるが、指紋だけはどうすることもできない。指紋だけがその人物を特定の個人とするために正直なのであり、だから捜査当局は特定の個人を個人と認めるために指紋しか信用していないのである。封建時代の司法機関は、前科のあるものの体の一部に刺青を施したが、我々の指紋もまた、ある意味では生れながらに記された刺青の一種ということができるかもしれない。  だから、かつて刺青者が身分を隠すべくそれを硫酸で焼いて消し去ろうとしたように、現在の犯罪者も、指紋を硫酸で焼いて消そうとする。指紋さえなくなれば彼も、犯罪世界においては、いかなる特定の個人でもなくなるわけである。私も一人、金庫破りの名人といわれる人間でそれをした人物の書いたものを読んだことがあるが、指紋を焼いた後、浅草の観音様に行って手を合せたら、「他人の手が他人の手に触れてるような気がした」、というようなことが書いてあった。おそらく、犯罪世界においていかなる特定の個人でもなくなるということは、彼自身にとってもいかなる特定の個人でもなくなるということかもしれない。不自由なことである。しかも、刺青は一度消したら二度と出てくることはないが、指紋の場合は、やけどが治ると再び同じ指紋が現れるのである。彼は以後永遠に焼き続けることなしには、その指紋を失うことができないのである。そこまで考えるなら自分の手を焼かずに捜査機関が持っているファイルの方を焼こうと考えつきそうなものだが、どうもわが国の犯罪者は発想がもうひとつダイナミックでない。根が善良なせいだろうか。 [#改ページ]   動機  たとえばひとつの殺人事件が発生し、捜査官がたまたまその犯人を逮捕した場合、彼は慣習上「何故あんなことをやったんだい?」と、犯人に聞いてみることになっている。つまり現文明下においては、人を殺すにはそれなりの理由がなければならない、とされているからである。したがって犯人も、それに答えることによって、ひとつの選択をせまられることになる。つまり万人に理解され得る理由を述べることで現文明下にとどまるか、それとも、真実を述べることで現文明から放逐されるかである。言うまでもなく、前者の場合は刑務所へ、後者の場合は精神病院へ放り込まれることになっている。  そしてこの前者の「万人に理解され得る理由」のことを、一般に「動機」と言っている。したがって「動機」の良し悪しは、その「わかりやすさ」にかかっている。「動機」は、わかりやすければわかりやすいほど、いいのである。もちろん、言うまでもないことであるが、わかりやすい「動機」を述べたところで、罪が軽くなるわけではない。「動機」の難易と罪の軽重は、ほとんど関係がない。この場合の「わかりやすさ」は、犯人のためというよりは、捜査官とそれを取りまく我々のために必要なことだからだ。その「動機」がわかりやすければわかりやすいだけ、我々はその犯人を、しっかりした[#「しっかりした」に傍点]「罪人[#「罪人」に傍点]」とみなすことができる。  ただしかし、犯人の側には、その「動機」をわかりやすくするための必然性が何もないかというと、そうではない。どんな犯罪者も、精神病院へ放り込まれるよりも、刑務所へ放り込まれることを期待している。どんな犯罪者も、得体のしれない「狂人」とみなされるよりは、しっかりした「罪人」でありたいと心掛けているからである。そこで彼等も捜査官に迎合して、「動機」をわかりやすくすることには決して異議を唱えない。よく、罪を逃れるために「狂人」のふりをするということがあるが、あれは特異な例である。よほど自分自身の精神の正常さに確信のあるものか、あるいは、本当の「狂人」ででもない限り、ああした離れ業はできるものではない。そして常人というものは、それほど自分自身の精神の正常さには確信のもてないものであるから、狂人のふりをするのも一種の「狂人」とみなすことができる。つまり、あたりまえの犯罪者はすべて、動機をわかりやすくすることに、反対ではないのである。  わかりやすい「動機」が述べられると、捜査官も安心し、我々も安心し、犯人も安心し、文明全体もほっと胸をなでおろす。文明というものはすべて、人が人を殺すという事実よりも、わけのわからない「動機」によってそれがなされる事実に、神経をとがらせているのである。文明にとっては、「悪」そのものよりも、「理解できないもの」の方が受け入れ難い。もちろん、その「理解できない」程度が、極端に度を超えていて、文明外に、つまり「精神病院」に放逐するよりしようがないものだったら、それはそれで処理できる。「理解できない」程度がそれほど極端でもなく、しかもわかりやすい「悪」に置きかえることもできない時、文明は最も苛々してサディスティックになる。だから極端に言えば、ひとつの「動機」の「理解できない」程度を、そのすれすれのところで維持しつづけることにより、その文明全体を苛立たせ、混乱させ、ひいては滅ぼすことも可能なのである。  つまり「動機」とは、犯罪を文明の中で正当化し、それによって文明にある安らぎをもたらすものにほかならない。  私の手元にひとつの資料がある。わが国における殺人事件を、「動機」別に分類したものである。どのような機関が、いつごろの数字をもとにして作ったものかはわからないが、いずれ近年のものには違いないし、こうしたものはそれほど変動のあるものではないから、やかましいことを言わなければ、一応参考にしてもいいものだと思う。  ≪怨恨≫二八・四パーセント、≪報復≫一〇・四パーセント、≪喧嘩口論≫六・九パーセント、≪家庭問題≫六・六パーセント、≪愛欲≫六・五パーセント、≪憤怒≫六・四パーセント、≪利欲≫五・〇パーセント、≪その他≫二九・九パーセント(年代不明、出典不明)  念のため全部の数字を足してみたら、一〇〇・一パーセントになってしまった。〇・一パーセントあまるのである。しかし、この程度の誤差は、まあしようがないのだろう。どこかで誰かが「四捨五入」の仕方を間違えたのかもしれないし、私が「足し算」を間違えているのかもしれない。ともかく、殺人事件の「動機」を分類するということからして、そもそも大ざっぱな試みには違いないのだから、数字についてもそれほど細かくせんさくする必要はないだろう。  だいたい分類した項目のたてかたにも、かなりあいまいなところがあるようである。たとえば、一般に「三角関係のもつれ」などと説明されているものが、≪家庭問題≫に入るのか、≪愛欲≫に入るのか、よくわからない。三角関係の一方の当事者が結婚している場合が≪家庭問題≫となり、三人とも独身の場合が≪愛欲≫となる、とも考えられるが、家庭の秩序を保とうとして妻が良人の愛人を殺すのが≪家庭問題≫で、愛人との関係を維持しようとして良人が妻を殺すのが≪愛欲≫である、とも考えられる。また、「首を切られた腹いせに雇主を殺す」などという事件もよくあるが、これも≪怨恨≫に入るのか、≪報復≫に入るのか、よくわからない。つまり、当人に首を切られるに足る充分な理由があった場合が≪怨恨≫で、そうでない場合が≪報復≫である、とも考えられるが、首を切られたことの恨みをはらそうという感情が優先した場合が≪怨恨≫で、首を切られたことによって生じた損害を補填しようという理知的な判断が優先した場合が≪報復≫である、とも考えられるからである。少なくともこのままでは、どちらとも見当がつかない。それに≪憤怒≫とは一体どういうことだろう。「カッとなって殺した」のなら、当然≪喧嘩口論≫と、かぶさりあう部分が出てくるはずである。  ともかく、人を殺すための「動機」をこれだけの項目に分類するのなら、それぞれの項目の、それぞれにかぶさりあう部分について、もう少し厳密な仕分けをしてほしい、という気はするが、項目そのものは一見してわかりやすい。また、詳しくせんさくしはじめたら、キリがないということもあるのだろう。それぞれの項目の、かぶさりあう部分について、どれほど厳密な細目を作っても、必ずそれに分類し切れないものが出てくるに違いないからである。そんなことをして「動機」そのものを、わけのわからないものにしてしまっては、元も子もなくなる。  さて、これらの数字を見てまず気がつくのは、≪利欲≫による殺人が意外に少ないということだろう。と言うことはつまり、現文明下においては≪利欲≫を「動機」とする殺人は、比較的正当化され難いということだろう。圧倒的に多いのは≪怨恨≫を「動機」とするものであり、と言うことは、これが一番「理解されやすい」と信じられていることになる。犯人がしおらしく「怨恨のためにやりました」と言うと捜査官も「そうだろう、そうだろう」と納得し、我々も「なるほど、そうだったのか」とうなずき、文明全体も「さもありなん」と安心するのである。したがって≪怨恨≫を「動機」にしたがるものが多くなり、したがって≪怨恨≫を「動機」とする実際の殺人事件も多くなる。  この場合、順序が逆だなどと考えてはいけない。犯罪者というものは、逮捕されて捜査官の前に立たされた時はじめて、その「動機」を「万人に理解できる」よう、言い繕うのではない。彼は逮捕される以前から、いや、犯行に至る以前から、もっと言えば、常に四六時中、文明そのものに対して自分自身の「動機」を、「わかりやすい」ものにすべく暗に言い繕っているのである。したがって次第に彼等はわかりにくい「動機」などで、犯罪を遂行することなどできなくなってくる。自分自身の中にきざしはじめた「動機」が、前述した分類項目の、どれかに当てはまることが暗に了解できた時でなくては、彼は決して行動しないのだ。たとえ無意識的であれ、彼は捜査官の前へ立たされて聞かれた時、「なるほどそうか」とうなずいてもらえる「動機」を、文明そのものに強制されつつ行動しているからである。  その意味では「動機」というものは、個々の犯罪者の内に、独立して芽生えるものではなくて、文明そのものが、彼に強制して抱かせる[#「強制して抱かせる」に傍点]ものである。その強制から逃れるためには、前述したように彼は発狂して、その外側に出なければならない。だからこそ「動機」というものは、犯罪捜査のためのひとつの手がかりにもなり得る。文明が犯罪者に常時強制しつつある「動機」の数には限りがあるし、そのそれぞれには、ほぼ決ったパターンがある。捜査官は、そのパターンを逆用すればいいのだ。「殺し方が少しばかり残虐だな」「では動機は怨恨だろう」。そこで被害者に恨みを持っている人間を探し出して、拷問して自白させる。「私がやりました」「動機は怨恨だろう」「その通りです」「やっぱりね」。  事態が現在、このように進行しつつある以上、我々は「動機」を通じて犯罪の真相に到達することは、ほぼ期待できない。「動機」とは犯罪の真相とはまったく関わりのないところでやりとりされる、手続き上の要素にしか過ぎないからである。そこで「真実」を愛する人々は「動機なき殺人」などという幻想を抱きたがる。そこにこそ真実の犯罪があるに違いないと、確信するのである。しかしもちろん、しょせんそれは幻想に過ぎない。「動機なき殺人」は、いかなる手続きの対象にもなり得ないから、文明的でないし、文明的でないものは形になり得ないし、形になり得ないものは見ることができないし、見ることができないものは存在しないからである。  つまり我々は「動機」を通じることによっては、決して犯罪の真相に近づくことはできないが、だからと言って「動機」を無視したら、今度は犯罪そのものをも見失ってしまいかねないのである。言ってみれば「動機」とは、「犯罪」のためのイロニーにほかならない。イロニーという言葉もひどくあいまいであるが、あいまいなものをあいまいなものに対応させると、逆に意味が鮮明に浮かび上がってくることがある。つまり、これがいい例である。 [#改ページ]   指名手配  事件の犯人には、つかまえてみなければ誰だかわからないというものと、誰であるかはわかっているのだがまだつかまえていないというものと二種類ある。前者の犯人に対してはただやみくもに追いかけるだけだが、後者の犯人に対して捜査機関は、≪指名手配≫ということを行なう。つまり、そのものの写真もしくは似顔絵、氏名、年齢、変装によって改良することのできない身体的特徴などを記したものを、公共の場所へ貼り出すのである。そうしておけば、それを見つけたものが必ず通報してくるであろうと彼等は期待するのである。  かつて、まだ人情が素朴であったころには、≪指名手配≫された犯人には必ず賞金がつけられた。それを発見してつかまえたものにおくられたのであり、したがってそれをつかまえたものは、猟師が思いがけない獲物にありついた時のように、得意然としてあたりに見せびらかして歩いたし、それをとりまく人々も極く単純にうらやましがってみせたものである。もちろん、現在ではそんなことはない。犯人を発見してわざわざ捜査機関に通報してやっても、危険を冒してそれをつかまえることまでしてやっても、何ももらえない。  何故そうなったかについては二つの説がある。「賞金をもらうためにつかまえたんだと思われては寝ざめが悪いから」という理由で、通報者の方が断ったという説と、「賞金をもらうためにつかまえたんだと思われたら気の毒だろう」という理由で、捜査機関の方がやめたという説である。  どちらの説が正しいのかはわからない。ともかく、何ももらえなくなったのは事実である。捜査機関の極く末端の、数の内にも入らないような下級係官に「やあ、ありがとう」と軽くいなされて、我々はすごすごと引退らなければならない。しかもなお何故人々が≪指名手配≫された犯人を発見し通報し、あわよくばつかまえようと努力するのか、そして捜査機関が人々のそうするであろうことをあくまで固く信じきっているのか、これが新たな謎である。  一説には我々の内に≪指名手配≫者に賞金がついていた当時の記憶が残っており、そのため条件反射的に、そうせざるを得なくなっているのであろう、と言われている。しかし、この考え方にはいささか無理がある。≪指名手配≫書を見て、我々が無意識にそうした衝動をそそのかされるためには、それに賞金をつけるという習慣がもっと長期にわたって施行されていなければいけなかったはずだ。またさらに言えば、たとえそうした無意識の衝動が我々の内に潜在していたとしても、それは≪指名手配≫書と同じ顔を見つけて、ハッとしたり、思わず指をさすくらいまでで、それを捜査機関に通報したり、追いかけていってつかまえたりするまでその衝動が長もちするかどうかは、大いに疑わしいからである。  他の説によるとこうである。つまり、賞金がつかなくなった[#「賞金がつかなくなった」に傍点]からなのだ。いささか論理が混乱しそうなので、これは順序正しく説明しなければならない。まず≪指名手配≫された犯人に賞金がつけられていた当時、我々には犯人を見つけてもそれを捜査機関に通知しないでおくための正当の理由があった。「賞金めあてに通報したと思われたくない」というのがその理由である。しかし、賞金がつかなくなって以来、その理由は根拠を失った。賞金がつかないのだから、賞金めあてだなんぞと誰にも思われることはない。それでもなお捜査機関に協力するのをためらっていると、「賞金がもらえないので協力しないのだろう」などと、痛くない腹を探られかねない。おそらくそうなのだ。賞金がつかなくなることによってむしろ我々は、≪指名手配≫書に対する抜きさしならぬ義務を背負わされつつあるのではないだろうか。  この考え方には明らかに説得力がある。そしてこのことが、捜査機関のはっきりした意図にもとづいて行なわれているのだとすれば、さらにわかりやすい。つまり彼等は≪指名手配≫された犯人にまず賞金をつけることにより、一方で犯人探索への衝動を我々の内に植えつけ、同時に賞金めあてにそれをすることの罪悪感を我々に植えつけることに、成功したのである。そこで≪指名手配≫書から賞金をとりはらう。すると今度は彼等は、我々の内にある賞金めあてにそれをすることの罪悪感を逆用して「賞金がなくなったから協力しないのだな」と暗に我々を脅迫しつつ、我々のそのいわれのない中傷から身を護るための防禦本能を、そのまま犯人探索へ向かわしめることに成功したのである。この複雑怪奇な論理の迷路を通じて、我々は固く≪指名手配≫書に結びつけられている。どんな人物も、いったんその≪指名手配≫書を見てしまった以上、それから自由にはなれない。それを見ることによって我々は、いやおうなく捜査機関の一部にとりこまれてしまうのである。  つまりこのようにして≪指名手配≫書には、奇妙な呪術的側面がある。だからナイーブな人間が≪指名手配≫書を見たとたんに慌てて目を伏せて、あたかも悪魔の誘惑に出遇ったかのようにそそくさとその場を立去るのはそのためである。もちろん、そうしたからといって彼が、その≪指名手配≫書から完全に無害であり得るかというとそうではない。何度も言うようだが、≪指名手配≫書というものは、いったんそれを見てしまった以上、駄目なのだ。それから逃げるわけにはいかない。あとはただ、その≪指名手配≫書と合致する人物に出遇わないように祈ることしかできない。  また我々の内には、こうした≪指名手配≫書の呪術的な側面に苛立つあまり、あえてそれを詳細に観察してやろうという不健康な衝動に、時としてかられることがある。もちろんそれは自分だけはこの呪術にひっかかることはあるまいという、無謀な勇気に裏打ちされているのである。しかしこれは極めて危険なことなのだ。そのこと自体の中にもまた、巧妙な落し穴が仕掛けられてあるからである。詳細に観察すればするほど、我々はそれを強く記憶せざるを得ない。しかもそれは行きがかり上、極めて異常な記憶として我々の内に蓄積される。とすればその上でそれに合致する人物に我々が出遇ってしまった以上、我々は自然にそれをやり過すことはできない。言うまでもなく当の本人は、現実に追われているのであるから、そうしたことについては必要以上に敏感になっている。不自然さは勢い増幅されるのである。つまり、こうした相互の不自然さが、結果的には次第に犯人を駆りたててゆくのであり、その意味で言えばそれもまた捜査機関の術中におちいることにほかならないからである。彼等は決して手抜かりはしない。  と言うことで≪指名手配≫書の呪術から無害であるためには、それを見ないでいるしかないのだが、これがまた意外に難しい。どんなに注意して歩いても、いやむしろ注意して歩いていればいるほど、我々は思いがけず≪指名手配≫書に出遇わされてギョッとする。捜査機関の≪指名手配≫書の配布の方針というのが、「あらゆる公共の場所における、あらゆる市民の目に触れるべく」というのだから、論理的には我々が公共の場所において平凡な市民生活をしている以上、それを見ないですごすことはできない建前になっている。しかしもちろん、捜査機関の予算にだって限度があるし、≪指名手配≫書の配布枚数にだって制限があるのだから、のきなみベッタリではない。したがって、捜査機関の配布の傾向がわかっていれば、≪指名手配≫書に一切出遇うことなく通過する闇のルートを発見することも、まったく不可能ではないのである。  言うまでもなくそのためには、捜査機関の≪指名手配≫書の配布傾向というものを、極めて詳細に知る必要がある。これは時々刻々に変化するから、一度それが貼られた場所を記憶しておくだけではいけない。変化のルールがわかっていなければいけないのである。一説によると捜査機関には、全国の職業別階層別歩行傾向図というのがあって、彼等はそれに従って≪指名手配≫書の配布を行なっているのだと言われる。つまり我々は、その職業に従い、もしくは階層に従って、歩行傾向というものを持っている。たとえば同じ新宿の街にしても、小市民のルート、学生のルート、アウトサイダーのルートなどがそれぞれかぶさりあう部分をもちながらも厳然としてあって、相互に踏み込まない領域を持っているのである。これがわかっていれば≪指名手配≫書というのは、言うまでもなく当の犯人に見せて用心させるためのものではないのだから、アウトサイダーのルートではなく、この呪術にいちばんひっかかりやすい小市民のルートを中心に配布してあるだろう、ということは誰にでもわかる。抜け目のない捜査機関のことだから、きっとそうしているに違いない。  とすればこの捜査機関の持つ、全国の職業別階層別歩行傾向図を手に入れれば、我々はその裏をかいて≪指名手配≫書に一切出遇うことのないルートを自ら選びとることができるわけである。もちろんこれは彼等の極秘資料であるから、おいそれと公開するはずはないし、聞いたところによると、そうした種類のものがそこにあるということを認めることも拒否するそうである。だからと言って組織も金もない我々が、自分たちの手でこれと同じものを作れるとは思えない。  しかし、ではまったく絶望かというと、そうではない。つまり、≪指名手配≫書というものは、当の犯人に見せて用心させるためのものではないのだ、ということがヒントである。それは、犯人が歩くであろうルートには配布されていないと考えていい。とすれば我々は、我々が無意識に我々自身に課しつつある歩行傾向というものを意識化し、それを我々以外のものが、つまり犯人がそうするであろうような歩行傾向に、改造すればいいのである。もちろんこれは完全な方法ではない。我々の内には当然、錯誤もあるであろうし、また我々自身がまったく我々以外のものになり切ることも不可能である。さらに極端なことを言えば、こうした傾向を余りにも過剰に自分自身に課すあまり、我々は遂に当の≪指名手配≫書に追われる身分にもなりかねないからである。  そうなのだ。これがほとんど結論である。つまり、一片の≪指名手配≫書が公布されることにより、我々小市民は全員捜査機関の一部にとりこまれるか、それとも、それによって追求される犯人の一部にとりこまれるか、その岐路に立たされることになるのである。 [#改ページ]   自首  言葉の意味は、犯罪者が≪自らその罪を認めること≫であるが、実際には≪自ら逮捕されに出かけてゆく≫ことの意味に使われている。いずれにせよ、彼等がなぜそんなことをするのかはわかっていない。もちろん捜査当局にいわせると、「自首すれば刑罰が軽減されるから」というのだが、これは理由にならない。自首しなければ刑罰は課せられないのである。  実はなぜ自首すれば刑罰が軽減されるのかということについては、古来より色々と議論のあるところであって、一般には「自首することを促すための制度であろう」と簡単に考えられているが、良く考えてみると、今いった理由でどうもそうではなさそうなのである。  つまり「自首すれば刑罰が軽減される」のだとしても、「自首をしなければ刑罰は課せられない」のだから、どちらかを選べといわれたら、どんなに間抜けな犯罪者でも、後者を選ぶに決っているからである。最近ではこの制度は犯人を逮捕することができなかった捜査当局に対する罰としてそうなったものであろうと考えられている。つまり、捜査当局の無能さに対する「いやがらせ」である。これはありそうな話だ。犯人の刑罰が軽減される分だけ、捜査当局は屈辱を感ずるに違いないからである。  ともかく、「自首すれば刑罰が軽減されるから」という理由で、彼等が自首するのではないことは、ほぼ間違いなさそうである。ではなぜなのか。一部の犯罪学者はこれを犯罪者に特有の自己顕示欲によって説明しようとしている。犯罪者というものはおおむね、犯罪者であることを極力否定すべく自らを律しているのであるが、同時にまた彼は、そのことを常にきわめて残念なことだと考えているのである。  したがって、多少疑われている場合は何とか自重することができても、テンから相手にされないとわかると、思わず乗り出していきたくなる。この気持は、良くわかるような気がする。自己顕示欲を満足させるために自首した犯罪者も何人かはいたに違いない。また一部の犯罪学者は、大胆にも、彼等がその行為を反省するせいではないかと考えている。犯罪を遂行した後、しばらくたってから彼は、自分のしたことがもしかしたら悪いことであったかもしれないと考えつくのである。そこで自首する。つまりこの場合は、言葉通りの意味で「自らその罪を認める」のである。ところが現代では「自らその罪を認めること」を、「自ら逮捕されに出かけてゆくこと」の意味に、すりかえて制度化しているから、彼の反省はそのまま捜査当局への出頭に直結してしまう。これもあり得ることだと思う。犯罪者の方もこの意味のすりかえに慣れていて、逮捕されたとたんに、何やら自分の罪が許されたような安心感を得るに違いない。こうした実例も、決して少なくはないことだろう。  もうひとつの考え方は、犯罪者が犯罪者であることにくたびれるせいであろう、というものである。もちろんこのいい方は必ずしも正確ではない。犯罪者というものは、逮捕されて公表された時に犯罪者となるのであり、それ以前は犯罪者であることを隠蔽することによってのみ、逮捕をまぬがれているからである。だから正確には犯罪者が犯罪者でないことにくたびれる、といった方がいい。ともかく、こうした生活がさぞかしくたびれるものであろう、ということは良くわかる。こんなことなら、逮捕されてはっきり犯罪者と名指されたほうが、よほどしあわせだと考えたとしても、無理はない。捜査当局の無能ぶりがまるで「いやがらせ」のように見えてくるのだろう。これもあり得る考え方である。  犯罪者が何故わざわざ自首してくるのかについては、このほかにもいくつかの考え方がある。しかし、それらをいちいち列挙するのはやめよう。問題をいたずらに混乱させ、複雑にするだけだからである。我々が知らなければならないのは、犯罪者が自首するための様々な理由ではなく、それをそうさせる一つの理由なのだ。  そしてそのために我々は自首という現象の持つもうひとつの側面について考えてみなければならないだろう。つまり、自首には二つの種類があるのであり、ひとつはこれまでに述べたように、犯罪者がする自首であり、もうひとつは犯罪と何の関係もないものがする自首なのである。実に思いがけない話であるが、ひとつの事件が発生し、それが大きなものであればあるほど、そしてその犯人の課せられるであろう刑罰が重いであろうことが予想されればされるほど、それとまったく関係のない多くの人々が、自首すべく捜査当局に続々とつめかけるのである。  最近では重大事件が発生する度に、この種の自首者たちの処理が、捜査当局のやっかいな問題になりつつある。専門の自首処理班を設けるところすらあるほどなのだ。これを見ても「刑罰が軽減される」から自首するのだ、という捜査当局の見解がまったく見当はずれのものであることは良く理解されるであろう。  ともかく何か大きな事件が発生したら、その捜査本部の設置された警察署を訪ねてみれば良くわかる。受付のカウンターから奥の取調室の方へ、二つの行列ができているのが見られるはずである。ひとつはいうまでもなく現場から係官にいわれて無理に連れてこられた目撃者たちの行列であり、これは時々何かの用事にかこつけて逃げ出すものがいるから、何人かの係官がそれとなく見張っている。もうひとつの一種独特の暗い表情をたたえた人々の行列が、自首者たちである。こちらの方は放っておいても、多少邪険に扱われても、決して逃げない。それぞれがそれらしく打ちしおれており、中には袖口のあたりに血痕らしきものを付着させているのまでいる。  これは一体、どういうわけであろうか。つまり、この第二種の自首をないがしろにしては、我々は決して自首というものの真の理由を理解することはできないのである。そして、奇妙なことには、捜査当局の見当違いの見解を別にすれば、第一の自首を促したであろう様々な理由は、そのまま第二の自首を促したであろう理由にも合致するのである。前述した第一の自首を促したであろう三つの理由をそれぞれ第二の自首について当てはめてみよう。  まず自己顕示欲である。自己顕示欲が強いのは犯罪者ばかりではない。もちろんこの場合は、自ら事件に手を下していないにもかかわらず、その手柄だけを自分のものにしようとするのであるから、いささか不正の匂いがしないでもないが、その分、真の犯人の刑罰を負担してやるのだからということで、バランスをとっているつもりなのだろう。大事件であればあるほどその種の自首者がふえるのは、その方がより自己顕示欲が満足させられるからである。  第二の反省というのは、少しばかり事情が複雑である。彼は実際に事件に手を染めていないのだから反省をする必要はない。しかし、彼はこう考えるのである。犯人はそうした。私も犯人の立場にあったら、きっとそうしたであろう。つまり彼はそのようにして犯人を理解するのである。そして理解したとたん、逆に彼はそうしなかった自分に罪を感じてしまうのだ。そうしなかった自分自身のしあわせを許せなくなる。犯人のふしあわせを分担して受持つ義務を感じて、自首せざるを得なくなる。第一の自首に比較して、やや複雑な経路をたどらされることになるのだが、これもあり得ることである。  第三のくたびれるというのはどうであろうか。彼は現実には追われていないのだから、事実上の犯人ほどにはくたびれないと考えなければならないだろうか。私はそうは思わない。たとえば捜査当局が犯人を含む十名に疑いをかけた場合、そのストレスはむしろ、犯人であることをはっきり自覚できる本人よりも、残りの九人に強いのではないだろうか。いってみれば犯人であることをはっきり自覚できる本人だけは、「私はそうでない」と主張する根拠を持ち得るが、他の九人にはそれすらもないのである。疑われるべきでないものが、どのようにしてそれをはらすことができるだろうか。その九人の立場の方が、より困難なのであり、彼等がそうした状況に耐え切れなくなったとしても、決して不思議ではないのである。  つまりこのようにして、第一の自首者たちを促す衝動と、第二の自首者たちを促す衝動がまったく同様であり、または極めて良く似ているのである。そしてそのことがこの自首という現象を考える上で、大いに重要なことだろうと私は思う。そうなのだ。自首という現象はこのそれぞれの立場にある両者が、それぞれの他の立場にあるものと交流し[#「交流し」に傍点]、折りあいをつけ[#「折りあいをつけ」に傍点]、会話を交わし[#「会話を交わし」に傍点]、出来得れば理解をし[#「理解をし」に傍点]、それぞれに安らぎを得る[#「安らぎを得る」に傍点]べく行われるものに違いない。  たとえばここに「日常空間」と、それに背中合せの背後に「犯罪空間」というものがある。それぞれの空間はそれ自体閉鎖されている限りにおいて、次第に腐敗し、弛緩し、それ自体であることを失ってしまいかねない。そこで時に「日常空間」は「犯罪空間」を、「犯罪空間」は「日常空間」を、それぞれに呼吸しあわなければならない。そうすることによってしかそれぞれの空間は、生気をとりもどすことができないからである。我々の「日常性」と「犯罪」はこのようにして、それぞれに侵しあうものというよりは、むしろそれぞれに補いあっているものであると、私は考えている。つまりこのことを個人レベルで保障している制度が、自首なのだ。  酸素の少なくなった水の中の金魚たちが、苦しがって水面に上がってくるように、第一種の自首者たちは、「日常空間」を呼吸するのであり、第二種の自首者たちは、「犯罪空間」を呼吸するのだ。金魚にとっての酸素のようにそれぞれの自首者たちには、それが必要だからだ。「自己顕示欲」も「反省」も「疲労」も、それを説明する要因とするには小さすぎる。犯罪者にとっては「日常性」が、日常生活者にとっては「犯罪」が、それぞれ酸素であることを知らなくては、このことは理解できないのである。  それにしても、これが捜査当局を窓口にして行なわれているということは奇妙なことである。欧米では教会の懺悔室を窓口にしてこれが行なわれ、最近次第にテレビスタジオに移行しつつあるそうである。日本でも間もなく自首者たちはすべてテレビスタジオにつめかけるようになるだろうと、私は考えている。 [#改ページ]   時効  これはもしかしたら≪時間効果≫の略語ではないかと、私は考えている。≪時効≫というのは、一つの事件が発生すると同時に成立したその犯行者の刑法上の罪は、時間の経過に従って次第に軽減されてゆき、ある一定期間が過ぎると消滅してしまう、という考え方らしいのだが、それは「川の水は十メートル流れれば清潔だ」という考え方と同様、時の流れにも罪の浄化作用があるという考え方にもとづいているに違いないからである。言うまでもなく、その罪が次第に軽減され、遂に消滅してしまうまでの時間は、犯罪の種類によって長短があり、重犯罪の場合は長く、軽犯罪の場合は短いことになっている。「立小便」というのが最も一般的な軽犯罪の一つであるが、これは現行犯でなければ逮捕できないことになっている。ということはつまり、その先から最後のしずくが切れると同時に、その事件の刑法上の罪も消滅するのであり、したがってこの場合の≪時効≫は、各個人の膀胱の容量と放出量の速度によって差違を生ずることになる。  と、ここまで≪時効≫に関する私独自の見解を発展させたところで私は、これにアカデミックな裏づけを与えるため、辞書をひもといて、そこにそれがどう説明されているかを調べてみることにした。こうしたことは、さほど重要なこととは思えないが、時に思いがけず、アカデミズムの陥りやすい欠陥を見出すこともあるのである。そこにはこうあった。  ≪一定の事実状態が長期間継続し、今さら真実の法律関係を調査することも困難であり、また、たとえ調査しても、これに基づいて永続した状態を覆すことが不当だという場合に、真実の法律関係の如何を問わず、永続した状態を尊重して、これをそのまま合法化する制度≫  言うまでもなく我々は、この文章からは≪時効≫に関するいかなる具体的な意味をも見出すことはできない。もし言葉通りに理解するとすれば、人が立小便をはじめて、それが長期間継続し、中止させることも元へもどすことも不可能である場合、「真実の法律関係の如何を問わず[#「真実の法律関係の如何を問わず」に傍点]、永続した状態を尊重して[#「永続した状態を尊重して」に傍点]、これをそのまま合法化する制度[#「これをそのまま合法化する制度」に傍点]」ということになってしまうからである。法は「立小便」を取締ることができないほど無力なものであってはならない。  ともかく、この≪時効≫という制度は、それがいかなる必然性にもとづいて成立したものであるかということはわからないまでも、犯罪者と捜査官に、一種独特の緊張感を作りだすことには成功したようである。犯罪者は≪時効≫という制度があるからこそ、「逃げる」ことに希望を持ち得るのであり、逆にまた捜査官はこの制度があるからこそ、事件の早期解決ということが具体的な目標となり、その焦燥感を捜査のエネルギーに置きかえることが可能なのである。ということから考えれば、この≪時効≫という制度は犯罪者と捜査官に、その本分とするところを自覚させ、各人をそれに向かって一路邁進させるためのものとも言えるのである。いわば、ドッグ・レースの犬の鼻先にちらつかせて、犬に走る気を起こさせるためのぬいぐるみの兎に他ならない。  犯罪者が必ずしも必死になって逃げるとは限らないし、捜査官が必ずしも目の色を変えて追いかけるとは限らない。世の中の人間は、次第に横着になってきている。ある資料によると(どの資料であるかを明示できないのは、このレポートの権威のために大いに残念であるが)新宿のひったくり[#「ひったくり」に傍点]は、女性のハンドバッグをひったくった後、オートバイで逃げるそうであるが、ニューヨークのそれは、二本の足で走って逃げる。しかし、ローマのひったくり[#「ひったくり」に傍点]は置いてある旅行者のトランクを手にして悠々と歩み去る[#「歩み去る」に傍点]のであり、気がついて注意すると顔色も変えずにそこに置いてゆくのである。さらに言えば、戦前の満洲のハルピン駅頭のひったくり[#「ひったくり」に傍点]は、これをひったくり[#「ひったくり」に傍点]と言っていいのかどうかわからないが、ローマにおけるそれと同様に行為した後、こちらが気がついて注意すると、極めていんぎんに「返すから金をくれ」と言うのである。言うまでもなく、文明の進化の程度で言えば、新宿が一番「遅れている」のであり、戦前のハルピン駅頭が一番「進んでいる」のである。  おそらく≪時効≫という制度は、文明が進化して人間が次第に横着になり、犯罪そのものの様相が極めて緊張を欠いたものになるであろうと予想したものが、それを防ぐために発明したものに違いない。つまりそれがない限り、やがて犯罪者は何のために「逃げる」べきかわからなくなるのであり、捜査官もまた、何のために「追いかける」のか、わからなくなるのであろう。  その証拠に刑事法上の≪時効≫は一応次のように確定されている。 [#ここから1字下げ] ◎死刑にあたる罪………………時効十五年 ◎無期懲役にあたる罪………………時効十年 ◎十年以上の懲役にあたる罪………………時効七年 ◎十年未満の懲役にあたる罪………………時効五年 ◎五年未満の懲役にあたる罪………………時効三年 ◎拘留科料にあたる罪………………時効一年 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——刑事訴訟法第二五〇条  つまり良く見ると、おとなしく刑に服した場合よりも、捜査官の手を逃れて逃げまわっていた場合のほうが、その罪の消滅する期間が短いことに気づく。もし「時の流れ」の中に罪の浄化作用があるという考え方だけで、≪時効≫の制度が成立しているのだとすれば、これは明らかにおかしい。少なくともその場合は、おとなしく刑に服した場合の刑期と、逃げまわって≪時効≫の成立する期間は、同じか、あるいは、おとなしく刑に服した分だけ捜査官に楽をさせたのだからそれを考慮して前者の方が短くならなければならない。  なぜ逃げまわった場合の方が、その罪の消滅する期間が短いのだろうか。考えられる理由はただひとつ、法はおとなしく刑に服するよりは、逃げまわる方が労苦が多いと判断したのであり、当然、その労苦に正当に報いなければならないと判断したのである。つまり法はここで、犯罪者の逃げまわることを暗に促しているのであり、そうすることによって犯罪者と捜査官に、新たな緊張を生じさせようと試みているのである。言ってみれば≪時効≫という制度は、ともすれば弛緩しがちな犯罪に刺激を与え、それを限りなく躍動させるための活性剤に他ならない。  ユダヤのジョークに次のようなものがある。 [#ここから1字下げ]  あるレストランに、初老の夫婦が坐っていたが、夫の方は目の前の料理に手もつけずにしゃくりあげている。そこでボーイが近づいていって声をかけた。 「お客さん、どうしてそんなに泣いているんですか?」  すると横から夫人が口を出した。 「今日は私たちの結婚二十五周年記念なんです。それなのにうちのモーゼスは泣いているんですよ」 「モーゼスさん」  と、ボーイは夫のほうに言った。 「奥さんが言うように、結婚二十五周年だったら、もっと楽しくやって下さいよ」  すると夫は、さらに悲し気な顔をして言った。 「じつは結婚して五年目の朝、今でも思い出しますが、私はこの妻のレベッカを殺そうとしたんです。しかし殺すと言っても、私は大学も出ていましたから、ひとまず弁護士に相談することにしました。≪レベッカを殺したら、どのくらいの刑罰になるでしょうか≫。すると弁護士は分厚い六法全書のページをめくって言ったものです。≪まあ、懲役二十年はくらいこむことになるな≫。考えてもみてごらんなさい。今日がその二十年目で、まだ私は自由ではないのです」 [#ここで字下げ終わり]  つまり、この夫は、最悪の道を選んでしまったのだ。もし彼の相談した弁護士がもう少し有能なら、≪まあ、二十年はくらいこむことになるな≫と言ったあとで、こっそり彼を戸棚の陰に呼びよせて小声で、≪しかし、うまく逃げれば七年で時効が成立するよ≫と囁きかけることもできたのである。そうしていたらこの夫も、もう少し積極的な人生を選べたかもしれない。つまり≪時効≫という制度は、こうした横着な夫を、横着なままに怠惰な人生を歩ませるのでなく、その尻に火をつけ、前途に希望を抱かせ、勇敢に立ち上がらせるべくそそのかすものなのである。  ≪時効≫が成立した事件で、我々に最も耳新しく、そして有名なのは言うまでもなく例の府中の「三億円事件」である。これは、事件発生以来七年間を経て≪時効≫が成立したことになっているが、実はこれはあの事件を強盗事件と見た場合の≪時効≫であって、当時あれを単なる詐欺事件と見る人々は、三年で≪時効≫が成立することを主張していた。このことは最終的には、犯人が逮捕されて裁判をしてみなければ確定できない問題である。この場合の犯人は(既に≪時効≫が成立しているから犯人ではないが)遂につかまらなかったから、捜査官に都合のいい七年≪時効≫説がそのまま通用してしまったのである。我々は(少なくとも私は)関係ないから、そんなことはどっちでもかまわないが、一日一日薄氷を踏む思いで逃げまわっている犯人にとってみれば、その辺をあいまいにされておかれることはかなりいらいらすることに違いない。≪時効≫という制度が本来の機能を発揮するためにも、私は事件発生と同時にその事件の種類と、不幸にも≪時効≫成立以前につかまってしまった場合の刑期と、≪時効≫が成立する日時を、確定して公表することが必要ではないかと思う。それによってはじめて犯罪者は計画的に逃亡し、捜査官は計画的に追及することが可能になるからである。  七年目の≪時効≫が成立すると同時に名乗り出るのではないかと予想された「三億円事件」の元犯人は、遂にその顔を見せなかった。これは別に異例のことではない。その手柄によって一生喰いつないでゆく見通しが立ったとしても、そこで安心して名乗り出たりしてしまうと停年退職をしたサラリーマンのように、あらゆる緊張を失ってポックリいってしまいかねないからである。≪時効≫という制度が、すべていいことずくめであるとは限らない。そこには、そのような「悪意」もまた、秘められているのである。 [#改ページ]   共同正犯  ≪二人以上共同して犯罪を実行したものは、みな正犯とされる(刑法第六十条)。これを共同正犯という≫  もののほんにはこう書いてある。法律というものは、あんまり当り前すぎていて、それがどのような事情におけるどのような事柄を説明しようとしているのか、さっぱりわからないところがある。これがその良い例と言えよう。我々はすべての法律を、それがどの程度我々自身にとって危険であるかという点で理解しなければならないのだが、ここからはその手がかりすらもつかみ得ないのではないか。  しかし具体的な例をあげて説明すれば、そのあたりの事情がよくのみこめる。「AとBが共同してCに発砲した場合、Aの弾丸のみがCを殺し、Bの弾丸がそれたとしても、AだけではなくBも、殺人罪に問われることになる」ということを、この文章は説明しようとしているのである。つまり射撃の腕が下手だからといって安心はできない。射撃のうまい友人を持っているだけで充分に危険なのだよ、ということを言っているのだ。  一般には「共同正犯」が成立するためには、二つの条件が必要であるとされている。一つは「共同実行の意思[#「意思」に傍点]」であり、もう一つは「共同実行の事実[#「事実」に傍点]」である。しかし実際上は、「共謀共同正犯」の理論というのがあって、≪二人以上のものが共謀の上、その中の一人に実行をさせた場合も、全員が共同正犯とされる≫という判例がいくつか出されているから、「共同実行の意思[#「意思」に傍点]」さえあれば「共同実行の事実[#「事実」に傍点]」はなくとも、「共同正犯」とされることになっているのである。  つまり「共謀共同正犯」の理論によれば「AとBが共謀してCを殺すべく意図した場合、Aのみが実行し、その間Bが昼寝をしていたとしても、AだけではなくBも殺人罪に問われる」のである。つまり行動的でないからといって安心は出来ない。行動的な友人を持っているだけで充分に危険なのだ。  実はこの「共謀共同正犯」の理論というのがクセモノなのである。これによって我々の日常的な平安は、常におびやかされていると言ってもいい。明日にでもお昼寝の最中に突如捜査官に踏み込まれ、「貴殿をC氏殺害の共同正犯として逮捕する」と言われかねないのだ。我々は誰でも「殺してやりたい」人間を一人や二人は持っているのであり、そうしたことはたいてい何かの折にふと口をついて出てしまうものなのであり、そうだとすれば、それをもれ聞いた「善意の第三者」が、我々への純然たる好意から、それを殺してしまうことも、まったくあり得ないことではないからである。そして我々には、これを防ぐ手だてはまったくないと言っていい。  捜査当局に「共同謀議」の立証ができない限り逮捕されることはないだろう、などとタカをくくってはいられない。我々は逮捕された後はじめて、「共同謀議がなかったこと」を、自分自身で立証しなければならないハメに陥っていることを知ることになるだろう。そして、捜査当局にとっての「共同謀議」の立証が困難であるように、我々にとっての「共同謀議がなかったこと」の立証は、さらに困難なのである。「あったこと」の立証より、「なかったこと」の立証の方が困難なのは、言うまでもないことだ。  それでは我々は、たとえ「殺してやりたい」人間がいても、それについては一切口に出して言わないように用心していたら、安全であろうか。そうではない。「善意の第三者」はどこにでもいるし、そうした人間は往々にして常に「善意」にみちみちているから、口に出して言わずとも我々がそう考えているだけで、それと察することだろう。そして殺しに出かけるに違いない。我々は「殺してやりたい」人間を持ち、それをそう考えているだけで、既に充分に危険なのである。我々は「考えている」だけなのだから、それと察する「善意の第三者」を特定することは出来ないし、特定し得ない「善意の第三者」に対しては誰も、どのような対策も立てようがないのである。  さらに言えば、万一我々が「殺してやりたい」人間を一人も持っていなかったとしても、そして口に出して言うことはおろか、「考えたこと」もなかったにしても、決して安全とは言えないのである。「善意の第三者」はそのあふれんばかりの「善意」をもてあまして、常に積極的であるから、我々の意図とは関係なく、独自にそうであると判断してしまいかねない。「あの人は、そんなそぶりはちっとも見せないが、実際は殺してやりたいと思っているに違いない」。つまり我々は、そうした「善意の第三者」に、「殺してやりたいと思っているに違いない」と思わせるに足る人物を、その関係の中に介在させているだけで、かなりの程度危険なのだ。言うまでもないことだが我々には、その「善意の第三者」が誰なのか、どんな人間なのかがわからないのだから、その彼がどのような人物を我々が「殺してやりたいと思っているに違いない」人物と判断するのかわかるわけがない。したがってそうした人物を、我々の関係の中から排除することもできないのである。あらゆる人間をつかまえて、その一人一人に「もしかしたらあなたは、私があの人を殺したがっていると考えてやしませんか」などと聞くわけにはいかない。  そこで我々は「共謀共同正犯」の容疑から我々自身を防衛する方法は、まったくないに等しいという事実を知らされることになる。我々はいつ、どこで「共同謀議」に参加しているか、参加させられているか、参加していると誤解されているか、わからないからである。そして情勢はさらに次第に悪化しつつある。というのは、少なくともこれまでは、我々が「共謀共同正犯」の容疑を受けるのは、我々に関係のある人間が殺された場合に限られていた。「善意の第三者」は我々が「殺してやりたい」と言った[#「言った」に傍点]人間か、そう考えている[#「考えている」に傍点]人か、考えているに違いない[#「考えているに違いない」に傍点]人間しか殺さないであろうからである。しかし、これからは違うのである。我々は今や、我々のまったく知らない人間の殺害に関わる「共謀共同正犯」の容疑をも引き受けかねない事態になってきたことを、知る必要があるだろう。  最近「人質事件」というのが、急激に増加しつつあることは、御存知の通りである。そしてこの「人質事件」こそは、それを知るあらゆる人々を、人質の生命の毀損に関わる「共謀共同正犯」にすることによって成立する、まったく新しい犯罪形式なのである。つまり「人質事件」が発生する度に、我々は全員その人質を殺すための「共謀共同正犯」を引き受けるべく強制されるのだ。そしてこの事情はその人質が人質であることをやめない限り、我々の側のいかなる条件をも無視して、継続されることになる。この場合こそ我々にはそれを拒否するいかなる手段も持ち得ないのである。  古い時代の「人質事件」というのは、犯行者がその「憎悪の対象者」もしくは「要求の対象者」に直接対応できず、したがってそれを直接抗議もしくは攻撃できない時に、それと関わりのある[#「それと関わりのある」に傍点]「第三者」を人質とし、その生命をおびやかしつつ、「真の対象者」を誘い出そうとする方法であった。つまりその時代の「人質事件」というのは、犯行者とそれが直接対応できない「真の対象者」が、人質を介在させて行なうドラマであり、この場合の人質は「真の対象者」と関わりのある人間[#「関わりのある人間」に傍点]に限られていたから、我々もまた単なる観客としての立場を保証されていた。  しかし、新しい時代の「人質事件」では、様相はガラリと一変する。そこでは、犯行者は、憎悪とその要求を誰に向けていいかわからない時に[#「誰に向けていいかわからない時に」に傍点]、誰でもかまわない[#「誰でもかまわない」に傍点]「第三者[#「第三者」に傍点]」を人質とし、その生命をおびやかしつつ、誰でもいい誰かを[#「誰でもいい誰かを」に傍点]その憎悪と要求に応えるべく期待するのである。この場合我々は、その人質を手練手管によって、もしくは強力を以って解放しない限り、事件の「共謀共同正犯」たることから逃れることはできない。いかに犯行者の主張が不当であり容認しがたいものであったにしても、それを「容認しがたい」とする我々自身の判断が、人質の生命を損うことになるからであり、その引金を引く義務は我々自身が負わされているからである。  そこで我々は、犯行者の憎悪と要求を、ひとまず我々自身が引き受けることにより、その人質を解放する方法を採るのであるが、その場合でも我々は、事件の「共謀共同正犯」たることから逃れることにはならない。何故ならば我々が犯行者の憎悪と要求を、便宜的にせよ一旦引き受けた以上は、論理的には犯行者の主張を正当なものと認めたことにほかならないからである。人質の生命は確かに損われずにすむが、「いかに不当にして容認しがたい主張であれ、それによって何の関係もない人間の生命を損うことが可能である」という事実を、我々は犯行者と「共謀」してつくりあげたことになるからである。 「人質事件」が起こる度に、多くの人々は犯行者の道徳性を非難するが、論理的にはその度に我々自身の道徳性もまた非難されなければならないだろう。手練手管と強力を以って人質を解放する方策をとろうと、犯行者の憎悪と要求を我々自身が引き受けることで人質を解放する方策をとろうと、そのメカニズムの中では我々自身もまた、人質の生命を「損なわれることが可能な状態」に追いやることになるからである。  というわけで「人質事件」というのは一種の完全な犯罪ということができるだろう。技術的にはともかく、論理的には我々は決してこのメカニズムを突破することはできない。いつ、どこで発生した「人質事件」に対しても、我々はそのための「共謀共同正犯」たることを逃れ得ないのであり、それはもがけばもがくほど我々の首をしめるワナのように、我々自身が我々自身であることを限りなく損なうことになる。  つまりこの「共謀共同正犯」の理論は、こうした新しい時代の「人質事件」を発生させるに及んで、致命的な矛盾に突き当ったと言えないだろうか。少なくともこの「人質事件」という奇妙なメカニズムを持つ犯罪形式は、「共謀共同正犯」の理論と、それを生みだした状況を抜きにしては考えられなかったのだし、現在ではその理論が否定されない限り突破できないものに育ちつつある。もちろんこれまでに起きた多くの「人質事件」の中で、我々の内の誰もがまだ自首をしていないところを見ると、そして法律家たちが誰もそれに異を唱えていないところを見ると、その理論は今やなしくずしに、崩壊しつつあるのかもしれない。ともかく現在我々はあらゆる「共謀共同正犯」の容疑から、ひたすら逃走しようとしている、ということだけは言えそうである。 [#改ページ]   バラバラ事件  マルグリット・デュラスの戯曲『セーヌ・エ・オワーズの陸橋』にはその冒頭に、≪開幕前に一読し、あらかじめ知っておいていただきたいこと≫として、次のように書かれている。 [#ここから1字下げ]  一九五四年のこと、フランス各地のさまざまな駅で、貨車のなかからバラバラになった人体の断片が発見された。人類学的検証の結果、これらの断片はもともと同一人物のものであったことが判明した。事実、ボルドーにおいて人体の復元が行われ、このことが立証された。鉄道経路を検証した結果、これらの断片を運んだ列車はすべて、その行先のいかんにかかわらず、地理上のある同一地点、すなわちエピネー・シュール・オルジュの陸橋の下を通過していたことが判明した。最後に警察による検証の結果、この犯罪を犯したものは、エピネー・シュール・オルジュに近いある村の住民で、フランス国有鉄道を退職したのち、年金で暮らしていた六十歳前後の穏健な夫婦者であること、犠牲になったのは彼らの従姉妹で、生まれつきの不具者ではあったが、二十年来仲むつまじく彼らと同居していたものであることが判明した。  司法官と犯人夫婦が一致して努力したにもかかわらず、この犯罪の原因をあきらかにするには至らなかった。したがって、この行為は解明されないままになっている。犯人のうち男は死刑に、女は終身刑に処せられた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](岩崎力訳)  実際にあった事件の記述に違いない。私は≪バラバラ事件≫のことを考える度に、この記述について思い出して感動を新たにする。「さすがにフランスだ」と思うのだ。≪バラバラ事件≫についての本質が、よくとらえられている。余計なことかもしれないが、この記述に引き続いて書かれた芝居の部分は、これほど感動的でもなければ美しくもない。前書きが良すぎるのである。  ところで、ここでの記述にもある通り、≪バラバラ事件≫というのは、ひとまず、バラバラにされた人体の断片が発見されることから開始される。右足が発見されたり、左手が発見されたり、そぎ落された鼻が発見されたりするのである。そしてこれらが、各地の警察に届けられて、捜査官たちをびっくりさせる。「もしかしたら、バラバラ事件に発展するかもしれない」と思わせるのである。つまり、バラバラにされた人体の断片が発見された段階では、これはまだ≪バラバラ事件≫とは言えないのである。手術で片足を切断した人間が、それをもらって帰る途中でどこかに置き忘れたのかもしれないからだ。  もし、それら発見された人体の断片が、復元されて一個の人体を形成したら、その時こそそれは≪バラバラ事件≫と判断される。だから捜査官も、発見された人体の断片が、一個の人体を形成するに足る総量の五十パーセントに充たない場合は、これを遺失物保管係に移管し、これが五十パーセントをこえた時、はじめて≪バラバラ事件≫として捜査を開始するのである。もちろん正確に言えば、ここに至ってもまだ≪バラバラ事件≫と、断定するわけにはいかない。論理的に言えば、発見された人体の断片が、一個の人体を形成するに足る総量の五十パーセントをこえた場合でも、それらの断片がすべて同一人物のもの[#「同一人物のもの」に傍点]であることが判定されない限り、≪バラバラ事件≫とは言えないからである。  前述の記述にもある通り、フランス警察は「人類学的検証[#「人類学的検証」に傍点]の結果、これらの断片はもともと同一人物のものであったこと」を知り、はじめてこれを事件としたのである。「人類学的検証」というところが、いかにもフランスらしい。日本ならおそらく「医学的検証」とでもいうのだろう。フランスでは、まず「人類」であるかどうかから疑ってかかるのだ。しかも記述によればフランス警察では、「人類学的検証の結果、同一人物であること」を知ってから、それではというのでこれらの断片をボルドーに集めて、復元をしてみている。いちいち比較することもないが、日本ではこれが逆になる。まず一か所に集めて、それぞれをくっつけてみて、復元され得ることを知ってから、「やってみるまでもないだろうが、まあ参考のために」ということで「医学的検証」を行なうのである。手続きから言えば、日本の警察のやり方の方が、はるかに簡単で効率的なように思えるが、言うまでもなく、礼儀正しさと奥床しさの点では、フランス警察の方が数段上である。捜査官は犯罪者の逆の経路をたどるものであるという方式を、フランス警察こそ順序正しく追ってみせているからである。  この事は、その後に引き続く捜査の進展ぶりをみれば、さらにハッキリする。「鉄道経路を検証した結果、これらの断片を運んだ列車はすべて、その行先のいかんにかかわらず、地理上のある同一地点、すなわちエピネー・シュール・オルジュの陸橋の下を通過することが判明した」。そこでメグレは、それまで眺めていたフランス国有鉄道の時刻表をパタリと閉じ、消えかかっていたパイプの火をつけながら、「リュカ!」と叫んだのだ。フランス警察もなかなかやるではないか。つまり彼等は、それら断片が到達した駅から、それらがそこに至った経路と時間を、フランス国有鉄道の時刻表に従って逆算してみたのである。簡単なことだなどと考えてはいけない。彼等は、単に捜査のためにそうしたのではない。≪バラバラ事件≫というものの本質を、そのようにして突きとめるべく、そうしたのであるからだ。  フランス警察のメグレたちは、直ちにエピネー・シュール・オルジュの陸橋に急行し、そのあたりにいる何人かを拷問にかけて、難なく犯人の老夫婦を逮捕した。もちろん「司法官と犯人夫婦が一致して努力したにもかかわらず[#「司法官と犯人夫婦が一致して努力したにもかかわらず」に傍点]、この犯罪の原因をあきらかにするには至らなかった」。このあたりはフランス警察の限界である。犯人夫婦も同罪だ。おそらく想像力の不足であろう。この点に関しては、ひいき目にみて言うのではないが、日本の警察の方がはるかにすぐれている。  ただし「犯罪の原因」をあきらかにすることはできなかったが、彼等老夫婦が何故その不具の従姉妹をバラバラにし、何故エピネー・シュール・オルジュの陸橋から、その下を通過する貨車に落したか、という点は何とか解明している。記述にはないがフランス警察もまた、そのことについては、その捜査方法において、暗に言い当てているのである。  わが国の伝統的な捜査方式によれば≪バラバラ事件≫というのは、その死体の身元を明かすまでの勝負である、ということになっている。つまり逆に言えば、≪バラバラ事件≫の犯人は、その死体の身元を隠すために、それをバラバラにするのである。少なくともわが国の捜査官たちは、固くそう信じているから、事件発生と同時に、まず身元を割ることを考えはじめる。左足にあざ[#「あざ」に傍点]があるとか、歯の治療のあとがあるとかないとか、盲腸の手術あとがどうであるとか、そういうことから手をつけていって、それを特定の個人に結びつける作業をはじめるのである。しかしフランス警察のメグレたちは、そうはしなかった。それが特定のいかなる個人の死体であるかなどということは、はじめから念頭になかったのである。  彼等は、フランス国有鉄道の貨車に乗って各方面に散らばり、おそらくはフランス全土をおおうほどまで拡大されてしまった同一人物の形象を、それらがそこに至った経路と時間を逆にたどらせることにより、同一人物として可能な大きさにまで、縮小してみせたに過ぎない。そうなのだ。そこにこそ≪バラバラ事件≫の本質がある。つまり、逆に言えば≪バラバラ事件≫の犯人は、その身元を隠そうとしてバラバラにするのではなく、彼の犯行の結果であり、罪の結晶である死体を、大きく拡散させ、同一人物の死体としてはあり得ないほど「薄める」べく、そうするのだ。  下世話なたとえで恐縮だが、風呂の中で小便をした人間は、本能的にその前で手をひらひらさせて、その犯行の結果であり、罪の内実である部分を、他の無罪の部分へ押しやり、拡散させ、そうすることで許しを得ようとする。彼にしてみれば、それがそれ自体として存在せず、全体に拡散されて総量における何パーセントかの含有量に過ぎないものに下落すれば、その行為自体がなかったことになるであろうと信じているのである。  ≪バラバラ事件≫の犯人の考え方の中にも、明らかにこれがある。彼は彼の罪を恐れるあまり、次第に彼の殺したそれが人間であったことを拒絶しはじめるのである。彼は足をちぎり手をちぎり、頭と胴体をバラバラにする。そうすることでいくらか、それらが人間であった当時の印象が薄れる。しかしまだ完全ではない。そこにそうしたままにしておくと、まだ足はかつての足であった位置に、手はかつての手であった位置に、結びつけられて人間であるものを形成しそうになる。そこでそのそれぞれを、少し離しておいてみる。もっと離しておいてみたらどうであろうか。もっといいのではないだろうか。つまりそのようにして、最初の≪バラバラ事件≫は出来上ったのである。  言ってみれば、≪バラバラ事件≫の犯人がその死体をバラバラにする行為は、一種の自己嫌悪である。したがってこれを解決するためには、それがバラバラになって散った経路と時間を逆にたどり、フランス警察がやったように、それを状況における含有量としての人間から、実体としての等身大の人間に凝縮して置きかえてみせればいい。犯人はそこにいるのである。もしかしたらいないかもしれないが、それはそれでもかまわない。犯人にしてみれば、それが状況における含有量に過ぎない人間から、実体としての人間に凝縮して置きかえられるだけで、充分に罰せられることになるからである。≪バラバラ事件≫の犯人は、他の犯罪の犯人に比較して、極端に兇悪視される傾向があるが、実際は決してそんなことはない。彼等はすべて、思いがけないほどにナイーブである。ナイーブであるからこそ、自分自身の犯罪に耐えられず、耐えられないままに、それをバラバラにして、なかったことにしようと自ら繕うのである。私に言わせれば、自分が殺した人間の死体をバラバラにして捨てる人間は、それだけでもう充分に許されてしかるべきなのだ。一個の人間の死体として平然と放っておける神経こそ、罰せられるべきではないだろうか。 [#改ページ]   推理 [#1字下げ] 「なあに、簡単な推理だよ。ここに医者タイプの紳士がいる。しかし軍人らしいところもある。してみると軍医だろう。顔は黒いけれど手首は白いから、生まれつきの色ではなくて、熱帯地方から帰ってきたところだろう。やつれた顔からみると、明らかに困苦の生活をおくり、病気になったのだ。左腕を負傷している。仕草がぎこちなくて不自然だ。熱帯地方で、しかもわが国の軍医が腕に負傷するほどの苦難にあわなければならなかったところはどこか。アフガニスタンにきまっている。そこで君にアフガニスタン帰りでしょう、と言ったのさ。」 [#地付き](コナン・ドイル『緋色の研究』)  犯罪はおおむね、終ったあとで発見される。したがって現場に駆けつけた捜査官たちは、そこに残された様々な事象を基に、「そこで何が行なわれたか」を判断しなければならない。この一連の作業を「推理」と呼んでいる。言うまでもなく、犯罪捜査においては最も重要な作業であり、この作業の成否に捜査のすべてがかかっていると言ってもいい。  なお、三省堂刊行の『新明解国語辞典』によれば、「推理」とは≪既知の事実を基にして未知の事柄をおしはかること≫となっている。つまり「推理」をするためには、あらかじめいくつかの≪既知の事実≫がなければならない。これがひとつの原則である。シャーロック・ホームズも、「医者タイプの紳士」であり「軍人らしいところもある」という≪既知の事実≫を基にして、それならば「軍医であろう」と「推理」しているのである。「医者タイプの紳士」であり「船員らしいところもある」のなら「船医であろう」と「推理」したに違いないし、「医者タイプの紳士」であり「百姓らしいところもある」のなら「獣医であろう」と「推理」したに違いない。  ただし、犯罪捜査に慣れていない多くの人々は、「それだけのことなら、そのどこに推理があるのだ」という疑問を抱かれるであろう。「ここに示された≪既知の事実≫と≪未知の事柄≫との間で、何事かが行なわれたという形跡は何もないではないか」と。その通りである。一見してここでは何事も行なわれなかったかに見える。しかし、違うのである。シャーロック・ホームズは、「医者タイプの紳士」であり「軍人らしいところもある」という≪既知の事実≫を基にして、それならば「八百屋であろう」とは言わなかった。「軍医であろう」と言った。つまり、だからこそこれが「推理」なのである。しかも、ここには記述されていないが、シャーロック・ホームズも一度は「八百屋かな」と考えたのである。しかし「いやいやそうではない」と、それを打ち消して「軍医であろう」と言ったのだ。この「八百屋かな」から「軍医であろう」とするまでの幅の中に、シャーロック・ホームズの類い稀なる「推理」の過程が隠されている。我々には、それが見えないだけの話である。  事柄がここまで明確になってくれば、前述した『新明解国語辞典』における「推理」の定義が「やや正確さを欠くものではないか」という疑問の出てくるのも、当然と言えよう。浅学をかえりみずに敢て言わせてもらえば、これは≪既知の事実を基にして、それが必然的にもたらす[#「それが必然的にもたらす」に傍点]、未知の事柄をおしはかること≫と修正されなければならない。なぜならば従来の定義では、「医者タイプの紳士」であり「軍人らしいところもある」という≪既知の事実≫を基にして、それならば「八百屋であろう」と「推理」してしまいかねない過程を、禁止するためのいかなる保証もなされていないからである。この「それが必然的にもたらす」という一節が挿入されることによってはじめて我々は、それならば「軍医であろう」という正しい「推理」に導入されるのである。  しかしまた「それが必然的にもたらす」という言葉にも、問題がないわけではない。事象は、常に原因から結果の方向へ推移する。したがってこの場合の「それが必然的にもたらす」過程は、黙って見ていればすぐわかる。賊が侵入したのなら、彼が家人を殺すのか縛りあげて物を盗るのかは、見ていればわかるのである。しかし、前述したように、犯罪というものはおおむね終っている。したがって「推理」は、原因から結果への「順路」ではなく、結果から原因への「逆路」をたどらされることになる。そして、「逆路」における、「それが必然的にもたらす」過程というのはなかなか見えにくい。「軍医である」ということが≪既知の事実≫であるなら、そこから「医者らしく」見えたり「軍人らしく」見えたりするものを発見するのは誰にでもできるが、「医者らしく」見えたり「軍人らしく」見えたりするものから、思いがけなくも[#「思いがけなくも」に傍点]「軍医である」ことを「推理」するのは、シャーロック・ホームズくらいの名探偵でないと、なかなかできるものではない。それは彼が、「医者らしく」てしかも「軍人らしい」ものは、たいてい「八百屋」ではなくて「軍医である」ということを、その長い経験によって知っていたからであり、同時に、その知識をその過程で応用する方法を心得ていたからにほかならない。  つまり「推理」の作業には、特に犯罪における「推理」の作業には特殊な能力が必要なのであり、近年次第にそれが専門家の手に委ねられるようになったのも、そのせいであろう。こうした専門家たちは過去の経験を通して、「どのような原因が、どのような結果をもたらすか」というパターンを、数多く知っている。そして、ただ結果だけを見れば、それがどのような原因に由来するものであるかを、機械的に指摘できるようなモデルを、数多く作りあげてきた。古典的なもののいくつかは、既に我々も知っている。たとえば、≪遺書があるのは自殺である≫≪部屋が荒されているのは物盗りである≫≪毒殺されていれば犯人は女である≫≪鈍器が使われている場合、犯人は男である≫≪残虐な殺されかたをしている場合、動機は怨恨である≫≪簡単な殺されかたをしている場合、動機は好奇心である≫≪手近な凶器が使われていれば、衝動的犯罪である≫≪凶器が他から持込まれていれば、計画的犯罪である≫。  専門家たちは、こうしたモデルを使って、ひとまず犯行の実情を探ろうとする。しかしもちろん、これらが単純にそして一方的に当てはまる例というのは、極めて少ない。つまり、「推理」の作業には、常に「もう一人の専門家」がいるからである。言うまでもなく、犯行者のことだ。彼等だって全然ものを考えないというわけではない。≪遺書を残しておけば、自殺とみなされるだろう≫という程度のことは、思いついたとしても不思議はないのである。そして、それが思いつけるのなら≪部屋を荒しておけば物盗りと思われるだろう≫≪毒を使用すれば、犯人は女と思われるに違いない≫≪鈍器を使えば、犯人は男と判断されるだろう≫と、これらのモデルはすべて、彼等によって塗りかえられる可能性があると考えなければならない。  そこで、犯行者でない方の専門家も、当然ながら、「もう一人の専門家」が、そのように考えるであろうことを予定して、これらのモデルを常に、そしてひそかに、修正しておかなければならない。≪遺書があったとしても、自殺とは限らない≫≪部屋が荒されていたとしても、物盗りとは限らない≫≪毒が使われていても、犯人が女であるとは断定できない≫等々である。  つまり、このようにしてこれらの事情は時々刻々「進歩」しつつあるのであり、それが、どの時点でどの程度まで「進歩」しつつあるのかということは、この専門家と「もう一人の専門家」たる犯行者にしか、わからないのである。犯罪における「推理」の作業に、素人が次第に参加し難くなったもうひとつの理由は、ここにある。それがその時点で、どの程度まで「進歩」しているのかわからない限り、我々には「遺書があるからこそ自殺なのだ」と判断していいのか、「遺書があるからこそ自殺ではないのだ」と判断していいのか、わからないからである。  ところで、この専門家と「もう一人の専門家」が、こうした事情の中で相互に裏をかきつつ、「推理」の作業を余りにも精妙に組み立てすぎたせいであろう、ここに困ったことがひとつできてきたのである。犯行者でない方の専門家は、常に専門家であり続けるが、「もう一人の専門家」の場合は、時として専門家でない場合がある。つまり素人の衝動的犯行という奴だ。これが困る。こういうのにぶつかる度に、この専門家は、脳外科の専門医が、馬のお産を見てくれと言われた時のように、うんざりする。どうしていいか、わからなくなるのだ。  近年、「行きずりの犯行」もしくは「素人の衝動的犯行」の検挙率が著しく低下しているのは、おそらくそのせいであろう。現在高度に「進歩」しすぎた「推理」のテクニックは、そうしたデリカシーを欠いた野蛮な対象には、向かないのだ。しかも、最近の傾向として犯罪への素人の参加が次第に増加しつつあり、「もう一人の専門家」としての犯行者は、古典的遺物としてとり残されつつある。捜査当局は、作りあげた専門家を一度素人に戻すことによって、「推理」の水準をこれら素人に対応できるまで引き下げたいと考え、しきりに「初心に戻れ」ということを言うが、一度「進歩」してしまったものは、なかなか後戻りがきかない。 「冗談じゃないよ」と、ある専門家は言うのである。「犯行現場の血のりを踏んだ足跡が、丁寧につながって、そいつの家まで続いているんだ。私はそこまで見届けて、黙って引き返してきた。そいつが犯人だなんて、私は精神として許せない」。  この気持ちは良くわかる。いかに捜査当局が「初心にかえれ」と言っても、「足跡をたどって行ってみたら、そこに犯人がいました」なんて、ネアンデルタール人だって、もう少し工夫ということをする。  最近の「推理」の作業における問題のひとつは、この専門家たちの気位をどうするか、ということになりつつある。「もうしばらくすれば、これら素人たちも犯罪ということを理解して、推理するに足るような事件を起こすようになるだろう」と、捜査当局はそこに期待しているようだが、どうだろうか? それまでに、犯行者でない方の専門家が落胆して素人になってしまいそうな気もする。 [#改ページ]   殺人  ≪殺人≫というのは犯罪として最も古くから認められたもののひとつであり、いまだにそれが犯罪であることを疑われてはいないもののひとつである。したがって、≪殺人≫というのは、もっとも犯罪らしい犯罪なのであり、それが犯罪的であることに比較したら、他のあらゆる犯罪はほとんど犯罪ではないのではないかと思われるほどである。  一般に≪殺人≫には、四つの種類があると考えられており、そのそれぞれに従って四つの刑罰が規定されている。  第一のものは「通常殺人」であり、これを犯したものは死刑または無期もしくは三年以上の懲役に処せられることになっている。——刑法第一九九条  第二のものは「尊属殺人」であり、これを犯したものは、死刑または無期懲役に処せられることになっている。——刑法第二〇〇条  第三のものは「強盗殺人」であり、これを犯したものは死刑または無期懲役に処せられることになっている。——刑法第二四〇条  第四のものは「自殺関与罪・承諾殺人罪」であり、これを犯したものは、六月以上七年以下の懲役または禁錮に処せられることになっている。——刑法第二〇二条  ただし最近の傾向として、「尊属殺人」については、特に規定する必要はないのではないか、という考え方が出てきている。つまり他の人々に比較して特に尊属を殺してはならない、とする考え方に、我々は次第についてゆけなくなりつつあるのである。  また「自殺関与罪・承諾殺人罪」についても、例の「安楽死」問題をめぐって、疑問が提出されつつある。言うまでもなく「自殺関与罪・承諾殺人罪」というのが、個人の「死ぬ権利」の侵害になりかねないからである。  つまりこのようにして≪殺人≫が犯罪であるという事情そのものはゆらいではいないものの、その内実はほんの少しずつではあるが、変化しているのである。もちろんこれもまた、ひとつの進歩といわれるものに違いない。  しかし言うまでもなく、この進歩がやがて、≪殺人≫が犯罪であるという事情そのものをもくつがえすであろう、と期待するのは間違いである。この点について太古よりこのかた、人類が抱いてきた信念の一徹さには驚くべきものがある。≪殺人≫が犯罪であるという一点だけは、これまで人類が体験したあらゆる変動をくぐり抜けて、決して変えられることがなかったのである。  このことは、≪殺人≫が犯罪であることの理由[#「理由」に傍点]が、極めてダイナミックに変化したことと考えあわせれば、さらに驚くべきことであることが知れよう。つまり「何故殺してはならないか」という理由は、時代と状況によって、大きく変化したのである。にもかかわらずその度に人類は「それでも殺してはならない」という結論しか、遂に導き出すことはできなかったのである。  それはもしかしたら「殺してはならない」ということを、やみくもに正当化するために、時代と状況に応じて無理に理由をでっちあげてきたのではないか、とさえ思えるほどである。  最初に人類が考えだした「殺してはならない」ことの理由は、「減るから」ということであった。言うまでもなく殺してしまえば居なくなるのだから、人数は「減る」。地球上にまだそれほど人間が居ない時代にあっては、確かにそれがさらに「減る」ことは困ったことだったであろう。これはどうやら合理的な考え方である。  二番目に人類が考えだした理由は、「痛いから」ということであった。「安楽死」の技術が進歩したのは極く最近である。したがって当時はまだ「殺す」ためにはかなりの苦痛を負わせなければならなかった。これは困ったことである。単に「殺す」だけのために、それほどの苦痛を強いていいものだろうか。もちろん「痛い」のは、「殺される」方であって、「殺す」方ではないのだから、この理由はおかしいという説もあるが、しかしこの頃から相手の身になって考えてみるという知恵がついてきたのかもしれない。だとすればこれも正当な考え方といっていいだろう。  三番目に人類が考えだした理由は、「しかえしをされるから」ということであった。仇討ちである。これも困った習慣に違いない。現代では「殺されても仇討ちをしてはならない」と「仇討ち」の方を禁じているが、当時は「殺す」方を禁止した。いかにも素朴な考え方ではあるが、これも無理からぬ考え方と言えるだろう。  四番目あたりから、少しずつ事情が混乱してくる。つまりこのあたりから、人類は「何故殺してはならないか」ということが、わからなくなってくるのである。わからないままに「殺してはならない」ことを無理に正当化しようとするから、いきおい論理が不明確で、言い方がまわりくどくなってくる。 「人間はすべて神様がお創りになったものである。したがって誰もこれを損うことはできない」という説がある。「人間はすべて生きる自由を持っている。したがって誰もこれを否定することはできない」という説もある。また「人間の命は地球よりも重い。したがって誰もこれをおかしてはならない」という説もある。  いずれも漠然と聞き流す分には、それほど抵抗を感じないが、良く考えてみるとそれぞれ理由になっていないことに気付く。「したがって」という言葉で後半の「殺してはならない」という意味につながっているから、前半がその理由になるべきものと思われるが、これがわからないのである。  これだけでは「神様が創ったものはどうして損ってはいけないのだろうか」「人間はどうして生きる自由をもっているのだろうか。そしてもしそれが本当だとしても、それをどうして否定することができないのだろうか」「人間の命はどうして地球より重いのだろうか。重いからと言ってどうしてそれをおかすことができないのだろうか」という疑問が次々に出てくるはずだからである。  しかしもちろん誰もこうした疑問を口に出して言うことはない。みんな知っているからである。ともかく「殺してはならない」のだから、そのための理由なんか何だってかまわない。  先日、某大学の生活協同組合が、全学生にアンケートを出して、「あなたは何故殺さないのですか」と質問したら、「面倒臭いから」というところに印をつけたものが十二パーセントもあったそうである。  つまり現代では既にあらゆることが「殺してはならない」ことの理由になりつつある。何が何でも「殺してはならない」のだから、その理由の内容を深くせんさくする必要なんかないのである。ということは逆に言えば、「殺してはならない」ということが、あらゆる理由をこえた理由にもとづいているとしか考えられない、ということでもある。  もちろんこうした人類の「殺してはならない」とする不動の信念に比較したら、実際に起きている≪殺人≫が少し多すぎるような気がしないでもない。それほどまでにして「殺してはならない」ことを守り続けてきたのなら、もう少し「殺さない」でいられそうなものだ、と誰しも思うだろう。ところが実際にはそうではない。「殺してもいい」ということになっているのではないかと思われるほど、多くの人々が、平然と「殺し、殺され」つつあるのである。これはどういうわけであろうか。  色々の説がある。「人類は本来、殺したいのではないか」というのもそのひとつである。「したがってこの程度ですんでいるのは、殺してはならないとする教訓が、むしろ成功しているせいである」。 「殺してはならないということが、礼儀であることから法律に変わったからではないか」という説もある。「人々は殺そうというよりはむしろ、法を犯そうとしているに過ぎないのである」「殺してはならないという教訓が、余りにも不動で確固たるものたり過ぎたせいではないか」という説まである。「むしろ殺してもいいということにした方が、彼等の情熱をそぐことになるだろう」。  このほかにもまだたくさんある。中には、ありそうな考え方もないわけではないが、大部分は、取るに足らないものである。  そこで私が結論を出す。冷静に考えて私は、やはり「殺してはならない」ことの裏づけとなる理由の変化に、問題があっただろうと思わざるを得ない。理由がはっきりしていた時代はよかった。その時代には確かに≪殺人≫はそんなに多くはなかったのである。理由がはっきりしなくなってから、≪殺人≫は急に増えている。確かに「殺してはならない」という教訓は維持され、そのためのあやふやな理由にも人々は文句を言わなかったが、しかし無意識の内にその不満は潜在したのである。  つまり私の言いたいことはこうである。「殺してはならない」ことの理由を失って、なおも「殺してはならない」ことを維持せざるを得なかった人々は、その理由をこえた理由へ向けて、限りない疑問を無意識の内に抱いてしまったのである。そしてそのために「殺す」のである。言ってみれば彼等は、「何故殺してはいけないのか」という理由を探るために「殺す」ということになるだろう。彼等にとってみれば、「殺してみる」ことこそがその理由をこえた理由を問うための、唯一の正当な行為だったに違いない。  このようにして、「殺してはならない」ことの形而上学は、現在、奇妙な展開を見せつつある。もちろん、その理由をこえた理由が、何等かの形で得られたという話はまだ聞かない。したがって「殺してはならない」ことを維持しながら≪殺人≫は今後も、なお限りなく続くであろう。  ただしかし、かすかな希望がないわけではない。前述した某大学の生活協同組合が行なったアンケートの答である。「面倒臭い」というところに印をつけた十二パーセントの人々は≪殺人≫という行為に対してそう思ったのであると同時に、その理由をこえた理由を探るということに対しても、そう思ったに違いないからである。  この十二パーセントが増加するに従って≪殺人≫は減少するだろう。もちろん、それが人類にとって良いことかどうかは、判断の限りではないが……。 [#改ページ]   泥棒  ≪泥棒≫が犯罪となったのは、比較的近年のことである。つまりそれは、物に経済的価値が生じ、さらにそれが所有権によって縛られて以来のことだからである。それ以前においては≪泥棒≫は単に≪運搬≫と同義語であった。  ということから我々は次のことを知ることができる。つまり≪泥棒≫とは≪運搬≫によって所有権の変更を促す行為のことである。さらに詳しく言えば、所有権の変更を促すために≪運搬≫以外の手段に依存しない行為のことである。もちろん≪泥棒≫行為には、直接≪運搬≫に関わらない様々な行為が伴うが、それらもせんじつめれば、≪運搬≫をより円滑に行なうためのものにほかならない。  ともかく≪泥棒≫行為における最も基本的なものは≪運搬≫であり、物の≪移動≫である。≪運搬≫を伴わない≪泥棒≫行為はない。他人のポケットの中の金を、≪運搬≫し、≪移動≫させることなしに「それは俺の金だ」と主張するのは≪泥棒≫ではない。自分のポケットの中に≪運搬≫した上で「これは俺の金だ」と主張するのが≪泥棒≫なのである。  したがって≪運搬≫し、≪移動≫することが不可能なものは決して≪泥棒≫されることがない。金庫が往々にして重いのは、それによって≪運搬≫し≪移動≫することを困難たらしめようと企んでいるのであり、こじあけて中身の軽いものだけを≪運搬≫し≪移動≫されるかもしれないことは、たまたま思いつかなかっただけのことである。  我々の思い描く古典的な≪泥棒≫は、たいてい唐草模様の風呂敷にいっぱい荷物を包みこんで、夜道を一生懸命歩いている図である。つまり彼は≪運搬≫し、物を≪移動≫せしめているのである。ただ、他の運輸業者といささか異なる点は、彼がそれによる運賃を期待しているのではなく、そのもの自体の所有を自らに帰せしめるべく期待しているということだけである。  しかも、この種の≪運搬≫による物資の≪移動≫は、常に必要に応じて行なわれる。≪泥棒≫は決して、不必要なものを不必要な場所へ≪運搬≫することはしない。「趣味の泥棒」という存在もないではないが、しかし自分自身の趣味を満足させるために≪泥棒≫という手段を選ぶというからには、それは彼にとって何よりも必要なものなのに違いない。  物資はそれが豊富な場所から不足している場所へ確実に≪移動≫する。この点では、経済活動の有効な法則性を、決して損わない。しかも彼等は、そのために費した運賃を、絶対に要求してこないのだ。≪泥棒≫が≪運搬≫した物資の総量は、残念ながら算出できないから、確実なことは言えないが、現在の経済体制下における流通機構の不備を、彼等が、かなりの程度穴埋めしているのは、疑いようのないことに思われる。  彼等の≪運搬≫するものが、近年次第に物資から現金に変化しつつあるとしても、富の公平な分配に役立っていることは言うまでもない。ともかく彼等の行為において最も重要な点は、物の価値そのものを決して損壊せず、移動せしめるだけである、という点であり、さらに言えば往々にして彼等は、「眠れる資材」を掘り起こし、経済活動に有効に参加せしめてすらいるのである。  このような点から見て、現下の経済体制下における≪泥棒≫の効用というものは、決して過小評価できるものではないだろう。  そこで、しかもなお≪泥棒≫は何故犯罪なのか、ということが問題である。言うまでもないことだが、私はここで「泥棒は犯罪ではないのではないか」ということを、反語的にそう言っているのではない。≪泥棒≫は犯罪である。そうでなくてはならない。これはハッキリしている。つまり私は、そのことを前提にした上で「それは何故なのだろう」と、素朴に考えてみようとしているに過ぎないのである。  ≪泥棒≫が犯罪であり、でき得ればしない方がいいものであることは、誰でも知っている。かなり思いがけない話かもしれないが、当の≪泥棒≫ですら、≪泥棒≫は悪いことであることをよく知っている。≪泥棒≫がその弟子に最初に教えることは、そのことである。その弟子が反省して、≪泥棒≫になることをやめるかもしれない危険を敢ておかして、彼は言うのである。「泥棒をすることは悪いことだぞ。しなければしない方がいいんだ」。  しかし、何故≪泥棒≫が犯罪であり、何故しない方がいいのか、ということになると、誰も知らない。誰もその点について、深くせんさくしてみたことがないのである。逆にその≪泥棒≫たちが正当な活動を停止したら、前述したように物資の流通過程において、また富の公平な分配において、現下の経済体制が、危機的な破綻を呈するであろうことだけが判明している。  被害者の立場に立って考えてみたらどうであろうか、という考え方が出されてきたのは、極く最近の事である。「それまで自分の物であると思われていたものが、突然何の理由もなく、そうでなくなったことに気付いた時、我々はひどく残念に思う」。だから≪泥棒≫は犯罪であり、してはならないことだと言うのだ。こうした感情の推移にはもちろん不合理な点はないが、「残念に思う」から犯罪だというのはいささか強引のように思われる。忘れていた借金を突然請求されて返済させられても、我々は「残念に思う」が、借金とりは犯罪ではない。  所有権が犯されたのだという言い方がある。だから犯罪なのだ。この言い方は一見正当のように思える。しかしよく考えてみよう。果して所有権は犯されたのであろうか。≪泥棒≫が逮捕されて、たまたま盗品を未だ所持していた場合は、それはその正当な所有権者のもとに返還される。所有権は回復されるが≪泥棒≫は犯罪者として罰せられる。もちろん、こうした幸運はめったにないが、盗品が返還されない場合でも、正確に言えばそれは所有権の変更を促されつつある[#「促されつつある」に傍点]状態に過ぎない。少なくともその正当な所有権者は、常に追いかけてつかまえてそれを取り戻す権利を保有しているのである。  かつては、こうした事態が発生した場合、≪泥棒≫ではなく、その被害者の方を非難する風があった。「お前が間抜けだから」≪泥棒≫なんかにねらわれたのだ。つまり、正当な所有権者でありながら、それをみすみす他人に利用されている点が、喜劇的だったのであろう。  歴史的に言えば、こうした「間抜け」の陰険な復讐心が、≪泥棒≫を犯罪者に仕立てあげていったのであろうと思われる。もちろんこれは≪泥棒≫が犯罪であることの、もしくは、犯罪であらねばならないことの正当な理由にはならないが、何故そうされてきたかを知っておくことは重要であろうと思われる。  さて、こうして考えてみると、≪泥棒≫が犯罪であり、してはならないことである理由は、次第に希薄になってゆくようである。しかし、≪泥棒≫は犯罪である。そうであらねばならない。しかも経済活動において、≪泥棒≫の効用が、次第に高く評価されるに従って、≪泥棒≫が犯罪であらねばならないという主張も、強くなってきているのである。これは何故だろうか。  つまり、こういうことである。現在の経済活動というものは、どんな自由主義体制下においても、あらゆる機関によるチェックと調整が行なわれている。つまり管理されているのである。そして、この力は次第に強化され、やがて、ひとつの指針のもとに完全に掌握されてゆくであろうことは、目に見えているのである。  こうした閉鎖状況への予感というものが、各調整機関の中で問題になりはじめた頃、≪泥棒≫の効用が話題になりはじめた。彼等の経済活動を調整する機関だけが存在しないのである。それが終了した後に結果だけは何とか知ることができるが、それを未然に調整することはできない。管理し調整することに慣れ、そうすることに疲れ、さらに次第に絶望しつつあった彼等調整機関の担当官たちは、何故かそのことが一条の「希望の光」のように思えたそうである。  山父《やまちち》と狩人の話がある。ある日一人の狩人が山に迷って、野宿をすることになる。適当な場所を見つけて焚火をはじめた。するといつの間にか火の向うに大きな山父が、やってきてのっそりと座ったのである。「おや、誰だろう」と狩人が思う。すると山父が「お前は今、おや誰だろうと思ったな」と言うのである。「こいつは人の心を読むんだな」と狩人が思うと、「こいつは人の心を読むんだなと思ったな」と山父が言い当てる。「マサカリで頭をぶち割ってやろうか」と思うと、山父もその通り言ってみせる。狩人が「もうこれまでだ。俺はこの山父に喰われてしまうだろう」と思った時、焚火の木がはじけて、それがパチンと山父の目に飛ぶ。山父はびっくりして、「お前は、思いもかけないことをする奴だ」と言って逃げて行った。  経済活動の管理と調整に絶望して、ちょうどこの山父の前の狩人の心境になっていた調整機関の担当者は、≪泥棒≫の管理し得ない経済活動が、いつかこの焚火の火花の役割を担ってくれるのではないかと、期待したに違いない。  しかしその場合、≪泥棒≫をあくまでも、彼等経済活動の管理中枢の外におくことが必要である。そのためにはどうしたらいいであろうか。≪泥棒≫はたまたま犯罪である。犯罪であることによって、≪泥棒≫はこれまでその経済活動を管理されることなく、逃れてきたのである。それでは≪泥棒≫は、そのまま犯罪であり続けることが必要である。したがって≪泥棒≫は犯罪である。犯罪でなければならない。  つまり≪泥棒≫は、かつて犯罪であり、しかし何故犯罪なのだろうかと疑問視されるに至って犯罪性が希薄になり、その後その経済活動における効用が見直されて、再び犯罪とされるに至ったのである。もちろん、当の≪泥棒≫たちもこのことはよく知っている。知った上で、こうした管理中枢の期待に応えるべく努力しているのであるが、最近、こうした傾向に批判的な分子が次第に増えつつあるということを聞く。「俺たちが奴等のためにやってやっても、奴等は俺たちに何をやってくれるんだ」と言うんだそうである。もっともな言い分かもしれない。 [#改ページ]   詐欺  一人の帽子売りが、大きな木の下に荷を置いて休んでいる。一匹の猿が、帽子売りの帽子を取って木へ逃げる。帽子売りは先ず木に登って猿をつかまえ、帽子を取りもどそうと考える。しかしもちろん、そんなことはしない。木登りの技術で猿に対抗できるとは思えないからだ。次に帽子売りは、石を投げることで猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようと考える。もちろんこれも実行はしない。石は当らないだろうし、万が一当ったとしても、帽子を捨てるかどうかわからない。  そこで帽子売りはしばらく考え、試してみる価値のあるひとつの方法を思いつく。商品の帽子をひとつ取り、それを自分の頭に乗せてみるのである。木の上の猿も、なるほど帽子とはそうするものかと考えて、帽子を頭に乗せてみる。次に帽子屋はそれを脱いで地面に思い切り叩きつける。帽子をそのように取り扱うやり方もないとは言えない。もちろん、木の上の猿も、そうしてみる。そうしなければいけないものかもしれないからだ。  つまりそのようにして、帽子屋はその帽子を無事取りもどすことができた。この場合、帽子はもともと帽子屋の所有するものであるから、彼の行為はいかなる法にも抵触するものではないが、もしこの帽子が、もともと猿の所有するものであるとしたら、その時彼の行為は≪詐欺≫ということになる。言ってみればこの猿は、「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」帽子屋に帽子を渡してしまっているからであり、≪詐欺≫が成立するための最も特徴的な条件は、まさしくそこにあるからである。  さらにこのエピソードは、人間が他人の所有するものを手に入れるために、窃盗から強盗へ、そして≪詐欺≫へと、次第にその手段を進歩させていった過程を、明らかにしてくれている。木に登って猿をつかまえ、帽子を奪いとろうとするのは窃盗の方法である。石を投げて猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようというのは強盗の方法である。そして我々は、それからこれへの進歩を促したものが、「より労を少なく」「より横着に」という法則であることに、直ちに気付くことができる。石もしくはその他の凶器で脅迫し、被害者の自由を奪った上でその財物をかすめとるやり方は、追いかけてつかまえ、その者の抵抗を排除しつつ奪いとるという労力を、惜しむことから発明された方法に違いないからである。  したがって≪詐欺≫の方法は、強盗の方法からさらに、脅迫する労力を惜しんで発明されたやり方であると言えるだろう。言ってみれば、最も横着な手段であり、他人の財物をかすめとるための、この過程における最も進歩した、もしくは、ほぼ完全な手段であると言ってもいいかもしれない。被害者が「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」、加害者にその財物を渡さざるを得ない方法というのは、古来よりすべての犯罪者が夢見てきたものであった。つまりそれが、ここに完成をしたのである。  他人の財物をかすめとるための方法で、これ以上に進歩した手段が、今後生れてくるであろうことは、ほぼ考えられない。断定はできないものの、大部分の犯罪学者が「窃盗」「強盗」「詐欺」と段階を経ることによって、少なくともこの過程は完成したのであると、考えているのである。  しかしもちろん、今後、他人の財物をかすめとる方法が、すべて≪詐欺≫に拠るものになるというのではない。窃盗の方法も、強盗の方法も、決して減少することなく、存続することになるだろう。それは人間よりも進化の遅れている猿が、やがて進化して人間になることがないのと同様、進歩が枝わかれをして、それぞれ独自の領域に深く入りこんでしまっているからである。これは多くの統計が明らかにしていることであるが、「窃盗」を志す人間と、「強盗」を志す人間と、「詐欺」を志す人間とは、まったく別人種であり、それからこれへ鞍がえする人間は、ほとんどいない。それぞれが、それぞれの方法を固守しているのである。  また、≪詐欺≫の方法が最も進歩した、文化的なものであるという考え方も、純粋に論理的なものなのであり、それだからと言って≪詐欺≫に従事しているものが、その意味で事実上の権威を持っていたり、尊敬されていたりするわけではない。ばかりか、往々にして「窃盗」に従事しているものや、「強盗」に従事しているものは、彼らを軽蔑する風すらあるのである。しかも、さらに思いがけないのは、≪詐欺≫に従事しているもの自身が、その方法を「窃盗」や「強盗」の方法よりも、劣ったものだと考える傾向にあるということである。もちろんこれは、「労少なくして多くを得る」ものをおとしめる一般的風潮に従ったものに違いないが、しかし≪詐欺≫というものは、まさしくそのために発明された方法ではないか。≪詐欺≫の≪詐欺≫たる根拠に関わることについて、軽蔑されたのでは、≪詐欺≫も立つ瀬がない。  人間は「より労を少なく」「より横着に」ということを目指して、その手段を進歩させ、それが完成に近づくに従って、「労を惜しみ過ぎる」「横着すぎる」ということで、今度は逆に非難される。≪詐欺≫は現在、この奇妙な論理の、まさしく渦中にあるのである。つまり≪詐欺≫は、その技術的な完成度によって「窃盗」や「強盗」よりも賞讃されるという、幸運な状況にはまだめぐまれていないということである。≪詐欺≫に従事するものたちが、「窃盗」や「強盗」に従事するものたちに比較して、社会的に孤独なのは、そのせいかもしれない。  ところで、≪詐欺≫というのは、前述したように、被害者が「自分ではまったくその気がないのにもかかわらず」「自分の意志で」、加害者にその財物を渡す、というところに基本的な条件があるのであるが、言うまでもなく、それを可能たらしめるための手練手管は、多様を極めている。そして、多くの犯罪学者がその手口の分類を試みているが、いずれも成功していない。手口が多岐にわたっているのと、日々新たな方法が生れてくるせいである。  しかしもちろん、原則的な構図がそれほど大きく動いているわけではない。典型的なものに「カゴ抜け詐欺」というのがあるが、あらゆる≪詐欺≫は、これのヴァリエーションであると考えてもいい。言うまでもなく、「カゴ」というのは、状況のことであり、つまりこれは「状況設定」と、そこからの「抜け出しかた」の技術によって成立している方法なのである。「カゴ抜け詐欺」という言葉の感じから、ひどく素朴に情景を思いうかべると、こういうことになる。先ず、加害者が、地面に伏せたカゴの中に自ら入り、被害者を手招きする。「何んにもしないから、お前も入ってこいよ」というわけである。被害者の方の判断の規準は、丈夫そうなカゴだから加害者だけ抜け出すことはないだろう、カゴの中へ入って災いを受けるにしても、加害者と一心同体だ、ということである。そこでカゴの中に入る。すると丈夫そうに見えたカゴには大きな穴があいていて、加害者はそこから消え、被害者だけが残されていたというわけだ。  そこで問題は被害者からは丈夫そうに見え、実際には大きな穴のあいているカゴを、どのように設定するかということである。≪詐欺≫の原則は、ここにつきると言ってもいい。最も見事な例を、実際の事件から取りあげてみよう。  彼は、あるバス会社の窓に、社内運動会の告示が出ているのを見て、とっさに思いついたと言っている。彼は建物に入り受付で、観光バスを一台借りたいのだが担当者に会わせてくれと頼み、奥の机に坐っていた課長に紹介される。一応用件を伝えたところで、ちょっと用があるので十分ばかり待ってくれと言ってそこを出る。バス会社を出て、二町ばかり行ったところで煙草屋を見つけ、その店員にバス会社のものだが社内運動会の景品に使いたいので、ピースを三ケースばかり包んで、今すぐ会社まで届けてくれないかと頼む。店員が品物を揃えている間に、再びバス会社にもどり、前述の課長と観光バスのことで話し込む。煙草屋の店員が受付に現れると、「ちょっと失礼」と言って課長のもとを離れ、店員から品物を受取り、それから、「忘れていたんだが、≪光≫を一ケース、大至急追加してくれ」と言って、店員を店に走らせる。課長のところに戻り、詳しいことは明日また聞きにくるから、と言って、三ケースのピースを抱えたまま消えてしまう。  ややクラシックな方法であるが、見事な手口である。言うまでもなく、この手口における基本は≪詐欺≫師たる彼が、バス会社のものにとっては、「観光バスを借りにきた客」に見え、煙草屋の店員にとっては「バス会社の事務員」に見えるという、その二重性にある。それによって彼自身の姿は、誰にも見えないのである。チェスタートンの「ブラウン神父」の中に、ある宴会場で、そこの客である紳士と、ボーイの役を使いわけながら、そのどちら側からも不審を抱かれずに、まんまと会場の銀器を持出してしまう話があるが、この≪詐欺≫師は、それを地でいっているのである。余りにも論理的で、ほとんどフィクションではないかと思われるほどだ。  ただし、こうした手口の見事さは、≪詐欺≫師にとっての、致命的なおとし穴でもあることを、我々は知っておく必要があるだろう。そうなのだ。この実例でもわかる通り、彼の手口の見事さに比較して、その報酬がピース三ケースというのは、余りにも貧しすぎる。我々がそう思う以上に、彼もそう思っているのである。つまり≪詐欺≫師たちは、その技術を高度なものにすればするほど、それによって得た財物を、そのための正当な報酬と考えなくなる。それでは彼等は、その技術に対する正当な報酬として、何を求めはじめているか。言うまでもない。観客とその拍手である。純粋に、その技術のみに対する独立した賞讃である。つまりそのようにして、多くの≪詐欺≫師たちは、犯罪者たる栄誉をかなぐり捨て、芸術家へと堕落してゆくのである。 「窃盗」や「強盗」に従事しているものたちが、≪詐欺≫師たちを、うさん臭く思うのは、そのためもあるかもしれない。≪詐欺≫師というのは、極めて不安定な存在である。 [#改ページ]   愉快犯  法律用語ではない。したがって言葉の意味を厳密に定義することができるものではない。昭和五十二年一月、品川駅付近で青酸カリ入りコーラによる無差別殺人事件が発生した時、この言葉が使用されて、一時マスコミなどでもてはやされたことがある。言ってみれば、騒ぎを起しておいてそれを陰でこっそり楽しもうというもので、そのためにのみ事件を起こす人間のことを言うらしい。陰で「愉快愉快」とほくそえんでいるに違いないということで、つけられた名前であり、当人が実際に「愉快」に思っているかどうかは、わからない。つまり、この名前には不可解な相手に対して、「愉快に思っているに違いない」と一方的にきめつけ、「怪しからん」という怒りを、これまた一方的に先行させつつあるようなニュアンスが、ないでもない。  しかし、個別的に事件をとり上げてゆけば様々な問題が生ずるにしても、言うところの≪愉快犯≫に属する事件が、実際に発生しつつあることは、誰にも否定できないに違いない。  いわゆる放火魔などは、中にはそれによって保険金をせしめようなどという計画的でかつ功利的なものもあるが、おおむねこれに属する。小さなマッチのひとこすりで、建物が勢いよく燃え人々が大騒ぎをするのを見ると、そして、その犯人が自分であることに誰も気付いてないのを知ると、何故か胸がスカッとする、のだそうである。  小さな原因が大きな結果を及ぼす、という点に、≪愉快犯≫をそそのかす何ものかがあるに違いない。したがって、時限爆弾を使用する事件にも、この種のものが多い。古くは「草加次郎」などという有名な爆弾魔がいて、あちらこちらに爆弾を仕掛けてあるいていたが、どうやらこれも、いわゆる≪愉快犯≫であったらしい。その被害を受けた相手に、受けるべき共通する理由が、何も発見できなかったせいである。  ≪愉快犯≫は、事件を起こして人々に大騒ぎをさせることのみが目的であり、何等かの目的を遂行するためにやむなく事件を起こしてしまう他の犯罪者とは、この点で大きく異なっている。  しかしもちろん、≪愉快犯≫の犯行の相手が、常に不特定で無差別であるかというと、そうでもない。電話魔などというのがあるが、これなどは、おおむね相手は特定されている。電話で深夜、女性にわいせつなことを話しかけたり、あるいは特定の相手にその名をかたって本人の知らない大量の品物を注文したりするのである。しかしこの場合でも、犯行者の方は相手を特定しているが、被害者の方は何も知らない。一方通行であり、犯行者と被害者の間に、いかなるドラマがあったにせよ、少なくとも被害者の側からは、それをうかがい知ることはできない。  ≪愉快犯≫はその被害者と、それが特定されたものであれ不特定のものであれ、その同じ土俵の上で対応しようとは、決してしない。被害者が受けるべき被害は、それを促した加害者の思い入れからは独立して、被害者自身が自己完結的に負うべきであると、彼は考えている。  ≪愉快犯≫の犯行の動機は、前述したように事件を起こして人々が騒ぐのを見て楽しむ、ということで現象的には説明され得るが、それはおおむね、潜在的な怨恨もしくは報復の衝動に支えられているとみて、ほぼ間違いないだろう。そしてこれまでは、その怨恨もしくは報復の対象が特定できない場合に、人は≪愉快犯≫になるのであると説明されてきたが、ここにはいささか問題がありそうである。  私の観察によれば、≪愉快犯≫というのは、怨恨もしくは報復の対象を、特定できない人間のことではなく、むしろ、特定する必要を認めない人間のことなのである。つまり、彼の怨恨もしくは報復の衝動は、その対象に置きかえて相殺されるという種類のものではないのだ。  怨恨もしくは報復に対して、感情移入の激しい人間は、そしてそれが可能な人間は、その相手が特定できないことに、決して我慢をしない。もちろん、実際上相手を特定できない場合、彼等は間違った相手や、手当り次第不特定の相手に対して事件を起こすことがあるかもしれないが、その場合でも彼等は、そこに関わった加害者としての主体を、極端に誇示しつつ事件を起こすだろう。そこにこそ、彼等の目的があるからである。そして、これは≪愉快犯≫の事件ではない。  怨恨もしくは報復に対して、感情移入をしない人間、それが不可能な人間が、≪愉快犯≫に走る。もちろん彼等は、自己の内に怨恨もしくは報復の衝動が内在しつつあることを、知らないわけではない。それに気付き、充分に苛立っていながら、それを特定の対象への憎悪に置きかえることができないのである。それがそうした種類のものであることなど思いもよらないのだ。  したがって彼等は、刃物を持って表に飛出してゆき、特定の、もしくは不特定の人々をそれで刺し、そうすることによって内在する怨恨もしくは報復の衝動を解消させようなどとは考えない。彼等はそれを解消させることにあらかじめ絶望している。ただ彼等は、それがそこにあることを、時々確かめてみたいと考えている。それがそこにあることを確かめることのみが、彼等にとっての、唯一のなぐさめなのである。  彼等は、深夜こつこつと働いて、時限爆弾の装置を組み立てる。それをこれまた深夜ひそかに、何処かへ出掛けて行って、セットする。息をひそめて待つ彼から、遠いところで爆弾が爆発し、人々が大騒ぎをする。事件と彼との関係については、誰も知らない。事件の意味についても、誰も知らない。ただ、事件があって彼が居る、という厳然たる事実だけが、彼の中に独立する。彼に内在する怨恨もしくは報復の衝動が、事件に対応して激しく振動する。  もしかしたら彼は、うんだ傷口をいつまでもうませておくように、そうすることで内在する怨恨もしくは報復の衝動と、折合いをつけようとしているのかもしれない。これはある意味では、壁に貼りつけたピンナップ写真をよりどころにして、手淫にふける構図に似ている。彼の怨恨もしくは報復の衝動は、事件によって被害を受けた相手においてではなく、彼自身において完結するのである。事件とその被害者は、そのための単なるよりどころに過ぎない。  芸術表現を促すものとして、「感情移入」と「抽象衝動」ということが言われている。その意味では≪愉快犯≫は、抽象衝動に促された犯罪者であるということが、言えるかもしれない。抽象衝動というのは、空間に対する恐怖であると言われている。広大な空間に対応して、自分自身のよりどころのなさを感ずることからくる不安である。そこで空間に一本の線を描く。その一本の線をよりどころにして空間は組織され、したがって彼自身も確かめられる。  その空間に描く一本の線のために、それへの緊張感のために、彼は事件を必要としているのである。空間に描かれた一本の線が実体でないように、彼にとっての事件もまた実体ではない。というより彼にとっては、実体であっては困るのである。そこで彼は、彼自身がそこに直接関わらないですむ事件、遠くから息をひそめて眺めていられる事件、を選ぶのである。  ≪愉快犯≫は、決して事件の自慢をしない。自己主張をしない。捜査当局が無能で事件の解決がちっともはかどらない時、真犯人が苛立って、しきりに投書やら電話で、ヒントを与えたがったりする例がよくあるが、これは感情移入型の、普通の犯罪者のやることで、≪愉快犯≫のやることではない。  ≪愉快犯≫には、前述した通り、放火魔や爆弾魔や電話魔など、「魔」のつけられるものが多い。これは、犯行主体がはっきりしないことから、たまたまつけられたものとも言えるが、それ以上にもっと得体のしれない事情がそこにあって、そのためにつけられたものである、と言った方がいいだろう。  どんな人間が≪愉快犯≫になるか、という点について社会心理学者が、ひとつの類型をこしらえあげている。それによると、「内気で大人しい」「無口である」「友だちが余りいない」「礼儀正しい」「ひとりでこつこつやるのが好き」「臆病である」「平凡で目立たない」「成績は中の上」など、特殊なものを除くと、ほとんど取るに足らない。良く考えてみると、これらはすべて従来の概念に従えば、犯罪者にならないものの特質としか思えない。  つまり、≪愉快犯≫というのは、特異な個性が生み出す特異な犯罪なのではなく、最も平凡な個性が、得体の知れない事情に促されて起こす奇妙な犯罪なのである。そしてその得体の知れなさは、犯人そのものの中にあるというよりは、それを促す状況の中にあるといっていいかもしれない。≪愉快犯≫の多くに「魔」がつくのは、それを促す状況に内在する得体の知れない部分を、その言葉で探り当てようとしているためでもあるだろう。  ≪愉快犯≫というのは、比較的近年の、そして都市型の犯罪である。共同体が健康に機能し、個々人が濃密な対人関係の中に、がんじがらめに縛られている中にあっては、≪愉快犯≫は決して発生しない。もちろんだからと言って、共同体がかつてもっていた監視体制をだけ抽出して、作りものの緊張感を恢復させようとしても、かえって逆効果を及ぼすだけだろう。  前述した青酸コーラ事件の時に、それを≪愉快犯≫の一種であると指摘した記事に対して、「人を殺しておいて何が愉快だ」と噛みついた投書があった。八つ当りもはなはだしいが、この得体の知れない≪愉快犯≫に対しては、とかく我々の苛立ちが先行するきらいがある。それによる我々と≪愉快犯≫との乖離は、問題をさらに深刻にするだけだろう。 [#ここから1字下げ] 「新しい損害保険に入ってね、これだと火事の場合だけでなく、地震の時にも補償をもらえるんだ。」 「へーえ。しかし、火事の場合はわかるが、地震はどうやって起すんだい?」 [#ここで字下げ終わり]  ユダヤのジョークである。こういった健康な精神のもとでは、≪愉快犯≫は現れない。 [#改ページ]   自殺  言うまでもなく「自殺」は、法律上では「犯罪」とはみなされていない。特にわが国においては、道徳上でも、それを罪悪視するという風はなかった。むしろかつては、当然「自殺」してしかるべきものが「自殺」しなかった時、それを白眼視する風すらあったほどである。「自殺」には「自由死」という考え方があって、その意味で肯定せざるを得ないものがあると、考えられていたのであろう。  しかし最近では、このあたりの事情がいささか変化をきたしつつあるように思われる。もちろん「自殺」は依然として法律上の「犯罪」とはみなされていないし、それを罪悪視する風潮が生れてきたわけでもない。ただ何となく、「自殺」というものがややスキャンダラスな様相を帯びてきたような気がするのだ。もしくはスキャンダラスな、我々に奇妙な衝撃をもたらす「自殺」が、ここへきてにわかに増加しつつある、ということかもしれない。  言うまでもなく「自殺」というのは、日常当然あり得てしかるべきことではないのであるから、そこから我々がいささかの衝撃を受けたとしても決して不思議ではない。しかし最近の「自殺」にはどうやら、もう少し不健康な、反社会的な、そして強引に言ってしまえば「犯罪」のような匂いがするのだ。事件としての「犯罪」が、我々の日常的な意識の流れを停止させ、無意識にそれをそうさせていたものを覚醒させるべく挑発するように、事件としての「自殺」も、我々に対して同様の挑発をしつつあるような気がするのである。  一口に言ってしまえば、いわゆる「いやがらせのための自殺」である。「自殺」者本人にとって、自らの命を断つことそれ自体が重要なのではなく、そうすることによって他への「いやがらせ」もしくは「つらあて」を完成させるべく行なう「自殺」のことである。彼もしくは彼女は、そうすることによって誰かが「悲しみ」「苦しみ」そして「非難される」ことを知っており、それのみを目的に「自殺」するのである。  もちろんこの場合でも、自ら命を断つその瞬間に、「自殺」者本人がその生命に対して純粋に孤独になり得たら、その死はあらゆる事情を超えて、我々に何らかのものをもたらすに違いない。しかし最近では、どうもそれが信じられないのだ。彼もしくは彼女は一度たりとも「そんなことをしたら死んでしまうのだぞ」ということを、考えずにそうしているとしか思えないからである。特に最近の子どもたちの「自殺」に出会う度に、我々が死それ自体のもたらす本来の感動を素通りして、ただ苛々させられるだけなのは、おそらくそのせいではないだろうか。  つまりこの種の「いやがらせのための自殺」が、現在一度も自らの生命と純粋にそして孤独に対面することなく行なえるようになったことにより、それは既に「自殺」ではなく、自分自身という他人を殺す行為——つまり「他殺」になったのであり、したがってその内実において「犯罪」と変わるところがなくなったのではないかと私は考えるのである。そして実際には「他殺」でありながらその実「自殺」に見せかけているこの奇妙な現象が、どことなくスキャンダラスな、不健康な匂いを発散させているのに違いない。極く論理的に言えば、「自殺」とは絶対的な自己否定による「負への衝動」であり、「他殺」とは絶対的な自己肯定による「正への衝動」である、と言うことができるであろう。しかし、この論理はあらゆる「場」においてそのまま通用するものではない。ひとつの「場」が閉鎖されることにより、それぞれの存在は次第に相対的なものとして自覚されはじめるのであるが、それに従ってこの論理も逆転しはじめる。つまり「正への衝動」が、相対的な自己否定としての「自殺」を目指し、「負への衝動」が相対的な自己肯定としての「他殺」を目指しはじめるのである。  この逆転現象が、現在次第に周囲に広がりはじめたように、私には思える。「自殺」者がそのこと自体に対してあっけらかんとしているのは、それが「負への衝動」であるという自覚が失われつつあるせいであり、「他殺」者が必要以上にうしろめたく感じているのは、それが「正への衝動」であるという自覚が失われつつあるせいに違いない。  この奇妙な現象は「自殺」者はもちろんのことだが、「他殺」者にも微妙に作用しはじめており、それを含めた奇妙な「犯罪」の実例を挙げることにより、さらによく説明され得るであろう。  先日、大阪のある地下街で、ひとりの少女が出刃包丁を持って便所に隠れ、やってきた若い女性を刺して殺すという事件があった。殺された若い女性とその少女には、何の関係もなく、ただ彼女は「そうすれば刑務所に入れると思って」刺したのである。  同じく先日、東京の高校生が授業中に学校を抜け出し、出刃包丁を持って銀行に押し入り、女子行員をおどして百万円を奪って逃走するという事件があった。彼はそのまま教室に帰り、奪った金を級友に見せびらかしているところを通報されて逮捕された。この場合の彼も、特に金が必要だったわけではない。「そうすれば、嫌いな現在の高校をやめることができると思って」そうしたのである。  その他、長野の中学生が、高校に進学するのが嫌で「警察につかまるために」ペンシル爆弾を爆破させた事件など、これに類する事件は数多く発生している。そしてそのいずれもが、「人を殺すこと」や「物を盗むこと」や「器物を破損すること」それ自体を目的としたものではなく、そうすることによって生ずる「場」の力学が自らに及ぼす影響力を期待したものなのである。 「犯罪」者が「犯罪」というものをこのように利用しはじめる傾向というのは、かなり異常なことに違いない。そこでは既に、「憎い」から「殺し」たり、「飢えて」いるから「盗っ」たり、「怒り」によって「壊し」たりする法則は成立し得ない。「殺し」たら人々はどうするか、「盗っ」たら人々はどうするか、「壊し」たら人々はどうするか、というそのリアクションが常に予定されているのであり、そのために彼等は「殺し」「盗り」「壊す」のである。  この種の「犯罪」が増加しつつあることについては多くの実例がある。そして言うまでもなくこのことは、「犯罪」というものが、自己肯定による「正への衝動」から、大きく逆転しつつあることの、明らかな論拠となるものではないだろうか。もしそうならば、同様のことが「自殺」についても言えるはずなのである。  先日、高校生の姉妹が家の付近の松林で、二人並んで首を吊って死んでいるのが発見された。そのうちの一人のノートに≪あみだくじ≫が書かれており、鉛筆でなぞった線が、下に並んだ四つの項目の「自殺」のところにたどりついていた。≪あみだくじ≫自殺事件として有名になった事件のことである(3「あみだくじ自殺事件」参照)。  この事件から、我々は一体どのような「自殺」を感じとることができるだろうか。従来の我々の生活感覚に従って言えば、ただわけのわからないことが、わけのわからないままに行なわれたのだとしか言いようがない。ここからは奇妙に、生命に対する抵抗感が感じられないからだ。  もちろん、彼女たちにも死ぬべき理由が、何かしらあったに違いない。しかしそれを彼女たちの生命とテンビンにかけて、あれかこれかと計量した過程は、一切感じられない。それは、≪あみだくじ≫で「自殺」を選んだ事実によって明らかである。つまり問題はここにあるのだ。少なくとも彼女たちは実際に死んでしまったのであるから、その理由がどんなにささいでつまらないものであっても、その瞬間にそれは、彼女たちの死と見合うだけの重量を持たされることになる。  言ってみれば現代では、「自殺」することによってそれをそうさせた理由を、彼もしくは彼女の死と見合うだけ重要なものに、仕立てあげることができるということである。隣の席に坐っている友だちに「消しゴムを貸してくれ」と頼み、断わられたということで、現代の子どもたちは平然と「自殺」してみせることができる。そして、それによって「消しゴムを貸してくれなかった」その友だちの罪を、彼自身を「自殺」に追いやった罪——、つまり殺人の罪にまで大きく増大させることができるということなのだ。  こうしたカラクリを、現在ふせぐ手だてはまったくないと言っていいだろう。従来それがふせがれていたのは、「自殺」が絶対的な自己否定による「負への衝動」であり、生命の本能的な順路と、逆行したところにしかそれが見出せなかったせいにほかならない。「場」が閉鎖され、それぞれの存在が相対化され、事情が逆転した今日、我々にはそれをふせぐ手だてがないのである。  もうひとつ実例を挙げよう。誰もが知っている事件である。ガイアナのジョンズ・タウンで、ピープルズ・テンプルの信者たち九一八名が集団自殺をした。何故彼等は「自殺」をしたのだろうか。最も素早くそしてかなりいかがわしいねらいをもって出された解答は、「彼等は自殺したのではない。教祖ジョンズによって虐殺されたのだ」というものであった。もちろん、これにはほとんど説得力がない。九一八名すべてをそのように強制することは、如何にジョンズであっても、物理的に不可能であろうと思われるからである。  私の考えを簡単に言ってしまえば、こうである。彼等は、彼等をそうさせた理由を、我々に探らせるべく「自殺」したのである。そして我々が、そのためのどんな理由を見つけ出そうと、それが九一八名の死と見合うだけ重大であり、かつ深刻なものであることを見せつけるべく死んだのである。つまり我々は今、彼等からまったく一方的に、彼等の「自殺」に対する責任を、問われているのである。こんなことが一体許されてしかるべきことであろうか。しかも、こうした「自殺」は、「犯罪」以外の何ものでもないにもかかわらず、我々にはそれを、「犯罪」とみなすべき何の手だてもないのである。つまり現在この種の「自殺」によって、ひとつの完全犯罪が可能だということではないだろうか。 [#改ページ]   黙秘権  日本国憲法第三八条第一項は、「何人も自己に不利益な供述を強要されない」と、規定している。言うまでもないことであるからわざわざ規定はしていないが、「自己に利益をもたらす供述」だって、強要はされないことになっている。つまりどちらにせよ、我々はあらゆることに対して「黙っている権利」を持っているのだ。これがいわゆる≪黙秘権≫である。  当然ながらこれに対して、≪饒舌権≫をも認めるべきだという主張が、ある勢力から提出されつつある。あらゆることに対して「黙っている権利」があるのなら、「あることないことしゃべる権利」だってあるはずだ、と言うのだ。公平に見て極めて正当な主張のように思えるが、何故か司法当局は、この問題に対して、検討をすることすらしていない。仄聞《そくぶん》するところ、取調担当官たちから、「由々しき事態を招く怖れがある」として、強い圧力がかけられているとも聞くが、詳細は明らかではない。  ともかく今のところ、我々に許されているのは「黙っている権利」だけである。したがって我々はこれを、充分に利用し有効に行使しなければならない。  もちろん、この権利を有効に行使するための技術過程というものは、我々が考えるほど単純ではない。未経験者は「要するにただ黙っていればいいんだろ」と、おおむねその程度のことしか考えていないのだが、これが間違いのもとである。我々は、我々に≪黙秘権≫が許可されると同時に、取調担当官たちのそれを打破するための手練手管の開発が猛烈に行なわれはじめたのだということを、それが現在まさしく悪魔的な精妙さを獲得しつつあるのだということを、得てして忘れがちなのだ。  かつて学生運動や組合運動が官権の弾圧とほぼ対等に対抗し得ていた当時、活動家たちに度々、一葉の粗末なパンフレットが配られていた。タイトルに「逮捕者の心得」とあり、その中に必ず一項目「黙秘権の行使の仕方」というのがあったのである。 「逮捕された場合、すべてに対して黙秘権を行使するのが、官権に対する正しい態度である」という書き出しにはじまって、そこには≪黙秘権≫の行使に関わる技術過程が、極めて詳細に説明されていたのだ。もちろん「誰でもが簡単に黙秘権を行使できると考えるのは間違いである」として、その技術修得の重要性について、論理を尽した上で、である。  それによると、≪黙秘権≫の行使方法には、当時の技術水準でのことだが、三種類あるとされていた。つまり≪完全黙秘≫と、≪機械的反復黙秘≫と、≪条件黙秘≫である。言うまでもなく、これらの方法にはそれぞれ一長一短があって、どの方法を採用するかについては、逮捕された個人の置かれた状況、体質、経験の有無等に従って大いに異なるから、それぞれの個人が臨機応変に判断すること、となっている。  まず最初の≪完全黙秘≫は、≪黙秘権≫を行使するに当って最も理想的な方法であり、もしこれが一般に可能なら、これ以外の方法は一切必要がないのであるが、現在では、一種の特異体質のものでない限り、これを完遂することはできないのではないかと考えられている。それというのも≪完全黙秘≫というのは、取調官の質問に対して答えないというだけでなく、相手の言動すべてに対して反応をしないということが、最終的には要求されてくるからである。  彼は取調官との如何なる人間的ドラマにまきこまれてもいけない。反抗しても迎合してもいけないのであり、極端に言えば、こづかれて痛いと思ってもいけない。ベテランの取調官ともなれば、「おい、吸えよ」と煙草を差し出して、相手がふと目を上げたのを把え、その反応を次第に増幅させながら自らの手の内にとりこむことすら、やりかねないからである。しかもさらに困難なのは、それでいて発狂してはならない、ということである。発狂してしまえば、≪黙秘権≫の行使者としての主体を喪失することになる。それではいけない。あくまでも正気を失うことなく、あらゆることを発言せず、あらゆることに反応せず、彼がそこに存在することの意味をすら、次第に失ってゆく。これが≪完全黙秘≫の方法なのである。  ある取調官は、≪完全黙秘≫を完全にやり終えた一人の被疑者について、次のように語っている。「彼は、かすかにほほえんでいるような、悲しんでいるような表情をたたえたまま、私の目の前の椅子にひっそりと腰を下しておりました。そのたたずまいには一種独特の雰囲気があり、その周囲をこの世のものではない風が、常にひそかに吹き抜けているような感じがしました。最初私は彼から、何かしら無気味なものを感じておりましたが、次第に私は、彼にではなく、彼の前で平然としていられる私自身に、無気味なものを感ずるようになりました……」。  ≪完全黙秘≫がほぼ完全な形で行なわれた場合、このようにして状況が逆転し、むしろ取調官の方が被疑者に対してうしろめたく思いはじめるのである。しかし、ここまで述べただけで充分おわかりのように、これは誰でもがやってのけられる方法ではない。そこで、新たに考え出されたのが、≪機械的反復黙秘≫の方法である。  ≪完全黙秘≫における第一の危険は、取調官の言動に反応することを拒否するあまり、とめどもなく自己の内部に閉ざされ、気分的にややもすれば「落ちこむ」点にあった。その点を修正して出来上がったのがこの≪機械的反復黙秘≫の方法である。  これは、取調官の質問に対して、答えることを拒否する単純な言葉、たとえば「それは、お答えできません」というようなことを、何回も機械的にくりかえしてみせる方法である。 「名前は?」 「それは、お答えできません。」 「何故だ?」 「それは、お答えできません。」 「名前を聞いているんだぞ。何故名前を言うことができないんだ。」 「それは、お答えできません。」 「理由を言え、理由を。」 「それは、お答えできません。」 という具合である。  この方法の長所は、取調官の質問に対して、いちいち大声で反応することができるから、気分的な高揚感を保持できるという点にある。つまり、この方法での最も重要なことは、どんなつまらないささいな質問に対しても、極めて朗らかに、思いがけないほどの大声で答える、ということである。その点で取調官を圧倒するのがコツなのだ。  しかしもちろん、だから誰にでもできるというものでは、決してない。いかに機械的な言葉のくり返しだとは言っても、一応それは相手に対する反応なのであるから、一歩取調官の手の内に入ったことには間違いない。その意味では≪完全黙秘≫よりも危険が多いのである。  要は、その機械的反復の線を、あくまでも平行に維持することであって、それを論理的に深化させないよう、あらゆる注意を払うことである。ある被疑者は、「それは、お答えできません」ということをくり返しながら、何度目かに、「それも[#「も」に傍点]、お答えできません」とやってしまい、ベテランの取調官にいち早く気付かれ、以後しどろもどろになって、遂に失敗したということがある。それ自体がどうということではない。ただ、いささかでも相手の論理に乗ったということで、機械的反復を支えつつあった精神のリズムを、崩すことになってしまうからである。  しかしこの方法も≪完全黙秘≫よりはやや当りがやわらかいが、取調官に異和感を抱かしめ、人間が≪黙秘権≫を行使するということに内在する本質的な異様さを以って、それを圧倒する方法にほかならない。つまり、この異様さを理解し、自らそれに耐えられる人間でなくては採用できない方法なのである。そこで、そうでない人間のために考え出されたのが、≪条件黙秘≫の方法である。  ≪条件黙秘≫というのは、一見するところ一番簡単である。これはまあ、たいがいのことは全部しゃべってしまおうという案であるから、取調官の前で、妙に構える必要はまったくない。おなじみのコソ泥みたいな顔をして、特に愛敬をふりまく必要もないが、意固地になることもなく、人間同志が普通にやりとりをくりかえすように、話しあえばいいのである。  ただし、肝心なところにきたら、「そいつはよしましょうよ」というような言い方で、やんわりと拒絶することにする。もちろん間違っても、「ここでは黙秘権を行使させていただきます」というような切口上をかませてはいけない。論理的な葛藤に持ちこんではいけないのである。  あくまでも「まあ、そこんところはカンベンして下さいよ」というような、あいまいな言い方ですり抜けなくてはならない。俗に言う「のらりくらり」の方法である。取調官の方が強面になっていきり立ってきても、「まあまあいいじゃありませんか」と、こちらがなだめるようでなくてはならない。このようにして状況を逆転させてゆくのである。  したがってここでは、意識操作の面における困難さはほとんどないが、その代りに、巧妙な話術が要求されることになる。それによって取調官を煙に巻くほどの話術がない限り、逆にこちらが、しゃべってはいけないことをしゃべらされるはめに追いこまれてしまうかもしれない。≪条件黙秘≫の場合は、≪黙秘権≫を行使しつつあることの緊張感を常に持続しているわけではないから、それに失敗したのか成功したのか、自分でもわからない場合が多いのである。  ともかく、≪黙秘権≫を行使するということは、ここにあげた三つの手段のいずれを採用するにせよ、容易ではない。憲法に保証された当然の権利であるとは言っても、一般人が簡単に使ってみるというわけにはいかないのである。  一番いいのは、機会を作って、ここにあげた三つの方法を、くり返し何度も体験してみることである。そうでなければ、我々は最も肝心な時に、この当然の権利を有効に利用できないまま、終ってしまいかねない。そのうちに、前述した≪饒舌権≫が認められ、逆に≪黙秘権≫は、権利ではなく義務になってしまうかもしれないのだから……。 [#改ページ]   海賊  海に居たから≪海賊≫であり、したがって山に居たのは≪山賊≫と呼ばれていた。馬に乗っていたのが≪馬賊≫である。これは、馬に乗れるところでそうしていたのであろうから、おそらく野原に居たのであろう。  もちろん≪海賊≫と≪山賊≫が、その居住地域もしくはその活動地域の名で呼ばれ、≪馬賊≫だけがその行動形態の名で呼ばれているについては、かねてから問題になっていた。当然これは≪野賊≫と呼ばれるべきなのであるが、そうした言葉はないのである。≪野盗≫という言葉はあるが、これでは少し意味が違ってくる。≪野盗≫というのでは、単に「野原に居る泥棒」のことに過ぎない。そして、≪馬賊≫自身は、自分たちのことを「野原に居る泥棒」だとは思っていなかったのである。  それでは≪馬賊≫は自分たちのことを、何だと思っていたのか。思いがけないことではない、彼等は彼等自身のことを、単に≪馬賊≫だと思っていたのである。  つまりここに≪海賊≫であり≪山賊≫であり≪馬賊≫であるそれぞれの呼称に、統一的な規準のない理由が隠されている。言ってみればこれらの呼称は、彼等自身が彼等自身に対して使用していたものを、そのまま我々が利用させてもらっているに過ぎないものであり、我々が我々自身の論理に従って分類しそれを彼等に与えたものではないのである。  海に居たから≪海賊≫なのではあるが、何よりもまず彼等自身が自分たちのことを≪海賊≫だと思っていたから≪海賊≫なのである。彼等自身が≪山賊≫と思っていたから≪山賊≫なのであり、≪馬賊≫と思っていたから≪馬賊≫なのである。つまりこれらの呼称は我々のものではなく、彼等のものなのだ。  これはかなり特殊なことである。我々が犯罪行為をするものに対して使用する呼称は、おおむね我々の側の価値規準に従って、我々から彼等に与えたものである。したがってそれらには、単なる呼称にとどまらず多分に非難の意味がこめられることが多い。≪ならずもの≫≪ごろつき≫≪人殺し≫≪泥棒≫≪たかり≫≪痴漢≫≪万引き≫≪ひっこぬき≫その他いずれもそうである。  ある若い窃盗犯は、初犯の時の印象を次のように記している。「背後から≪泥棒≫と叫ばれた時、私はとっさに全身の力が抜け、膝頭がゆるみ、そのままそこにたちすくんでしまいました」。つまりその時彼は、彼自身が盗みをしつつあることを忘れていたわけではない。にもかかわらず、≪泥棒≫と呼ばれたとたんに彼は、彼自身にも思いがけなかった≪泥棒≫という無気味な実体に、自分自身が変身させられつつあることに気付き、その恐怖に耐えることができなかったのである。  もちろん、すべての≪泥棒≫や≪人殺し≫が、このように初《うぶ》で純真だとは限らない。≪泥棒≫と呼ばれたら、「それがどうした」と開き直る奴も居るかもしれない。いやむしろその方が多いのかもしれない。しかし少なくとも犯罪者でない人間は、そして彼等に≪泥棒≫とか≪人殺し≫とか呼びかける人間は、彼等がそれによって打ちのめされ、立ちすくむことを常に期待しているのである。  あらゆる犯罪者に対する呼称は、その名で呼ばれれば怒るか、それを否定するか、否定し切れない時は恥じるか、それとも、思い切って開き直ってそれに耐えるか、しかないものと、一般には期待されているのだ。つまりそのようにして犯罪者のための呼称は作られ、そして与えられてきたからである。  しかし、≪海賊≫と≪山賊≫と≪馬賊≫だけは違う。何度も言うようだが、これらの呼称は我々が仕組んで彼等に与えたものではなく、彼等が彼等自身でそう思いこんでいるものだからである。したがって我々は、≪海賊≫であり、≪山賊≫であり、≪馬賊≫である名で彼等を呼んで、彼等を打ちのめし、立ちすくませることなど、ほとんど期待することができない。「やい、≪海賊≫」と呼ぶと、「はい、何ですか」と、当り前に答えられてしまいそうな不安が我々にはあるのだ。  ≪海賊≫と≪山賊≫と≪馬賊≫が、我々に対して明らかに犯罪行為を成すものでありながら、我々が彼等を犯罪者と呼ぶことができないのは、そこにいささかのためらいを抱かざるを得ないのは、実にそのためである。つまり、彼等を犯罪者として確かめるに足る呼称を、こちら側の論理に基づいて作りあげていないせいなのだ。  もちろん私はここで、「その点が実に残念だ」ということを言うつもりなのではない。そうした種類の犯罪行為と、我々が身近に知る従来の犯罪行為との差を考えてみたいと考えるだけなのである。  平凡社の『世界大百科事典』によると、≪海賊≫は、次のように定義されている。「国際法によれば、特定の国家もしくは政治団体の命令ないしは委任によることなく、私的目的をもって公海において暴行、略奪を行い、海上航行を危険ならしめるもの、または行為を言う。この行為は人類の公敵として、その国籍を問わず、あらゆる国によって逮捕、処罰され得ることになっている」。  この「海」を「山」にし「野原」にすれば、それはそのまま、≪山賊≫の定義にも≪馬賊≫の定義にもなり得る。ただし、現在「公海」というものはあっても、「公の山」や「公の野原」というものが無くなったから、その点での意味をなさなくなっただけである。  ともかく一見して、「海に居る悪い奴」とか「山に居る悪い奴」とか「馬に乗った悪い奴」とか言う単純な意味ではなく、ひどく七面倒臭い、そして用心深い定義がなされていることに気付くであろう。  しかも、こうしたまわりくどい定義の後に「この行為は人類の公敵として」というのが、いかにも大げさで、かえって間の抜けた決めつけかたのように思える。「逮捕、処罰され得ることになっている」という言い方も、ひどく自信なさそうである。「本当は、逮捕したり、処罰したりしてはいけないように思われているが、国際法上では、そうしてもいいことになっているんだよ」という感じである。  ≪海賊≫が犯罪行為であるということに対する、この自信のなさはどういうわけであろうか。ひとつには、これが最も論理的な説明であるが、彼等が「公海」といういわば治外法権区域において活動している、というところからきている。昔から、「戦争と貿易と海賊行為を区分けすることは不可能である」と言われているように、そこにはそうでない要素が入りこむ可能性が大きいのである。  しかしもちろん、それだけのことではない。現実に犯罪行為を抑制しつつあるものは、それが犯罪であることを論理的に説明する法律制度の完備でもなく、それを犯すものを取締る警察力の強さでもなく、我々自身がそれを犯罪行為であると思い込む確信の、もしくは錯覚の強さであり、それに基づいて我々自身が抱く彼等への憎悪と蔑視の強さだからである。  ≪泥棒≫は、現在でも決して少ないとは言えないが、これをこれ以上増加させないでいるのは、「窃盗は犯罪行為である」という刑法の条文でもなく、それをすればすぐつかまえにくる警察でもなく、≪泥棒≫は憎悪し蔑視してもかまわないと確信、もしくは錯覚している我々自身の考え方であり、したがって≪泥棒≫自身の、そう呼ばれたくないという考え方であり、そう呼ばれることに対する嫌悪と恐怖なのである。  我々の管理機構も、このことは良く知っている。したがって彼等の我々に対する防犯教育は、それぞれの犯罪行為の、してはならないことを論理的に説得することではなく、それらをいかに憎み、蔑視するかということの、感情移入の方式を会得させるべく行なわれる。言うまでもなく、「人を殺害したものは二〇年以上の懲役に処せられる」という法律の条文は、それでは「二〇年以上の懲役を覚悟するなら、我々は人を殺すことが可能である」というように逆転させて考えることができるからであり、管理機構は、そうした論理の逆転を防止すべく、そうしているのである。  しかし、≪海賊≫と≪山賊≫と≪馬賊≫だけは、こうした抑制機構の埒外にある。我々はまだ、彼等をどのように憎悪し蔑視していいのか知らないし、何よりもまず彼等自身が、そう呼ばれることに対して嫌悪も恐怖も抱いていないのである。  ≪海賊≫や≪山賊≫や≪馬賊≫が、我々の日常生活の中にまぎれこんで自己主張をする機会などというものは、現在ではほぼ考えられないが、しかしもしあったとすれば彼等は、我々が我々自身を「サラリーマンだよ」とか、「八百屋だよ」とか、「詩人だよ」というように、「≪海賊≫だよ」とか、「≪山賊≫だよ」とか、「≪馬賊≫だよ」とか、名乗って出るに違いないのである。恥じたり怖れたりすることなく自分自身が自分自身であることを公然と名乗るものに対して、我々はどのように、それを「人類の公敵である」などと見なすことができるだろうか。  犯罪というものの、ひとつの重要な要素がここにあると私は考える。犯罪者の呼称とそれに対する我々の感情移入の仕方の差によって、様相は微妙に変化してくるのである。そして、と私は考えるのであるが、どうやら≪海賊≫と≪山賊≫と≪馬賊≫の呼称を、我々が我々の文明の内に取りこんで、それに対する憎悪と蔑視の方式を会得するよりも、むしろ、現在そうである≪泥棒≫や≪人殺し≫や《たかり》や≪痴漢≫が「公海」に逃れ、我々の感情移入の埒外に去ってしまう可能性の方が大きいのではないだろうか。  いつか九州のある村で、村全体が集団万引きの組織となっており、組織的に東京へ出張しては、万引きをしているという事件があった。彼等は海に居たわけではなかったから≪海賊≫ではないし、山に居たわけでもなかったから≪山賊≫でもないし、馬に乗っていたわけでもなかったから≪馬賊≫でもないわけであるが、いずれその種の、たとえば≪村賊≫とでも言うべきものに違いない。一般の犯罪者と同一視することは、我々にはどうしてもできないのである。  犯罪状況は、この種の転期を迎えつつあるような気がする。間もなく我々は、犯罪者全員を「人類の公敵」と大ざっぱに見なす以外の、何の方式も持ち得なくなるのではないだろうか。 [#改ページ]   不能犯  一般的には、「犯意があり、実行行為があっても、結果の発生があらかじめ不能であるために、犯罪を構成しない行為」を、≪不能犯≫と説明している。言ってみれば、殺意をもって、相手の顔にお豆腐をぶっつけるようなものだ。そうした方法によって人を殺すことは、絶対的に不可能であるとあらかじめ了解されているから、≪殺人未遂犯≫にはならない。≪不能犯≫である。  よく例に挙げられるのは、「丑《うし》ノ刻参り」に典型的に示されているような、いわゆる「迷信犯」である。これは、殺すべき相手の姿に似せてワラ人形をこしらえ、深夜人目のないところでそれに五寸釘を打ち込むという、わが国に古来より伝わる伝統的な殺人方法なのであるが、現在では≪不能犯≫とされている。そうした方法によって人を殺すことは、絶対的に不可能であるとの了解が、どこかでついたのだろう。もちろん、それがそうなったのは、それほど遠い過去のことではない。たとえば、明治二年の「仮刑律」には、≪妖術≫で人を殺す規定があったし、明治三年の「新律綱領」にも、「凡そ魔魅を行い符書を造り呪詛して人を殺さんと欲する者は各謀殺を以って論す」と規定されていた。つまりその頃であったら、「丑ノ刻参り」をしたものも、≪不能犯≫ではなく、名誉ある≪未遂犯≫として、いやもしかしたら≪既遂犯≫として罰せられることも可能だったのだ。  ≪不能犯≫というのは、≪未遂犯≫の一種であるとされている。そして、≪未遂犯≫というのは、「犯意があり、実行行為がありながら、何等かの事情でそれを完遂することに失敗したもの」のことであり、それだけでも充分に「みっともない」ことであるのに、≪不能犯≫は、「あらかじめ失敗することが絶対的に約束されているにもかかわらず、それを完遂しようとしたもの」のことであり、さらに「みっともない」ことであるとされている。≪未遂犯≫であることすらできないのが≪不能犯≫なのだ。判例でも、「未遂犯にも[#「にも」に傍点]ならない」と、敢て侮蔑的な言辞を弄して≪不能犯≫であることを立証する場合が多いのである。犯罪者の中でも、≪未遂犯≫になることは厭わないが、≪不能犯≫になることには極度の屈辱を感ずる、と言うものが多い。刑務所に入って肩身のせまい思いをするからではない。≪不能犯≫は、刑務所にすら入れてもらえないのだ。つまり彼は、犯罪者として自己の適性に不安を抱いてしまうのである。  しかし、本当にそうなのであろうか。≪不能犯≫というのは、≪未遂犯≫以上に間抜けな存在なのであろうか。私はそうは思わない。現在、≪不能犯≫に向けられているこうした侮蔑と嘲笑は、明らかに当を得たものではない。我々が敢てそれを罰するに足るほどのものかどうかはともかく、少なくとも彼の試みそれ自体は、≪未遂犯≫のそれ以上に評価してしかるべきではないかと、私は考えているのである。  たとえば、≪未遂犯≫と≪不能犯≫を、どう区別するかということが、法律上では極めて難しい問題になっているのだが、そのいきさつを簡単に説明するものとして、常に次のような例が挙げられることになっている。  AがBを射殺しようとして、ピストルをBに向けて引金を引くが、弾丸が飛び出さずに、Bを殺害することは失敗する。この場合、ピストルに弾丸がこめてあったにもかかわらずそれが不発であった場合、Aは≪未遂犯≫であり、弾丸がこめてなかった場合、Aは≪不能犯≫である、というのである。  この解釈は、言葉通りの意味では正しい、と私も考える。しかし、さらに厳密に言うなら、この場合のAが≪不能犯≫であるためには、「ついうっかりしてピストルに弾丸をこめるのを忘れた」のであってはならない。それでは、「ついうっかりして弾が不発であるのに気付かなかった」場合と、「うっかり」の度合にさほどの差はないのであり、この一方を≪不能犯≫にして、一方を≪未遂犯≫にするのでは、明らかに不当だからである。この場合のAは、「ピストルに弾が入っていないことを充分に知り」、その上で「相手を殺せることを充分に信じ」て、引金を引いたのでなければならない。その時はじめて、Aは≪不能犯≫なのであると、私は考える。  また、≪不能犯≫と≪未遂犯≫の区別を明らかにするものとして、次のような事例も、度々挙げられることになっている。  Aが、財物を得ようとして、自分自身の所有する財物を窃盗してしまった時、Aは≪不能犯≫であり、またAが、懐中無一物の通行人から、その財物を窃盗しようとした時、Aは≪未遂犯≫である、というものである。  しかしこの考え方も、言葉通りの意味では正しいとしても、厳密には、次のように言いかえなければならないと、私は考えるのである。  つまりAは、自分自身の所有する財物を、それが自分自身の所有するものであることを充分に知った上で、それを窃盗した時に、はじめて≪不能犯≫なのであり、また同じくAは、懐中無一物の通行人から、彼が懐中無一物であることを知らずに、その財物を窃盗しようとした時、その時にのみ≪未遂犯≫なのである。  というのは、私は、Aが「何を知っていたか」が変わることにより、この解釈はまったく逆にもなると考えているからである。  Aが、自分自身の所有する財物を、それが自分自身の所有するものであることを知らないままに窃盗した場合、窃盗の事実は成立しないものの、窃盗の行為は論理的に経過するわけであるから、それは明らかに≪未遂犯≫ということができる。また同じくAが、懐中無一物の通行人から、彼が懐中無一物であることを知った上でそれを窃盗しようとした場合、窃盗の事実が成立しないことはもちろん、窃盗の行為の論理的な経過すら期待することができないのであるから、これこそが≪不能犯≫である。  このあたりの事情を誤解すると、我々は≪不能犯≫であり、≪未遂犯≫であることの本質を見あやまることになるであろう。つまり≪不能犯≫というのは、決して「≪未遂犯≫にも及ばない」もののことではないのである。≪未遂犯≫が、万人の了解し得る、あり得べき方法にのっとって犯行を行ない、かつ失敗したもののことであるとすれば、≪不能犯≫は、万人が了解し難い、あり得べからざる方法にのっとって犯行を行ない、あえなく失敗したもののことである。  ≪未遂犯≫より、≪不能犯≫の方が間抜けであることを立証することは、我々にはまだできない。≪不能犯≫は、いわば挑戦者である。彼は不可能犯罪に挑戦しているのである。むしろ≪未遂犯≫の方が、これは可能なる手段に従って犯罪を行ない、かつ失敗したのであるから、明らかに「間抜け」であることを立証することができる。≪不能犯≫はそうではない。彼は、既存の、万人の了解し得る、あり得べき方法に従って犯行を行なうには、いささか想像力が豊かすぎたのであり、発想が大胆すぎたのであり、手段を選択するに独自的でありすぎたのである。 「失敗は成功のもと」という歴史の通俗的発展法則に従って考えてみても、≪未遂犯≫が犯罪の戦術的な発展に寄与するのにとどまるのに反して、≪不能犯≫は、犯罪の戦略的な発展に寄与するのである。≪未遂犯≫の考える犯罪は、スケールにおいて≪不能犯≫の考えるそれに、遠く及ばないのである。  ところで、わが国においては、≪不能犯≫に関する判例そのものが極めて少ない。大正八年の≪アンチムーズによる殺人企行≫、昭和二年の≪猫イラズによる殺人企行≫、昭和十五年の≪黄燐による殺人企行≫などであり、いずれも、分量不足の毒薬投与事件でしかなく、言うまでもなく≪不能犯≫としては取扱われなかった。  これまでに、判例が認めたただひとつの≪不能犯≫の事例は、大正六年大審院判決において、イオウ粉末の施用によって毒殺をはかった事件、があるだけである。「イオウ粉末の服用による致死の可能性がないことは、常識的にも[#「常識的にも」に傍点]明らかである」として、判決は、被告の想像力の豊かさと、発想の大胆さと、手段選択の独自性を無視し、ほとんど嘲笑せんばかりにして、これを≪不能犯≫としたのである。しかし、裁判官にもさすがに、いささかの憐憫の情が働いたのであろう、続けて「殺人罪としては≪不能犯≫であるが、原告を下痢させることくらいはできたであろうから」ということで、傷害罪の適用を認め、被告をその屈辱から救済しようとしている。  しかしもちろん、こうした裁判官の憐憫など、無用のものである。被告の、イオウ粉末によって毒殺してみせようとする決意の大きさは、たとえ一時的に≪不能犯≫ときめつけられようと、評価されてしかるべきものに違いない。第一、イオウ粉末というのは、何となく口にしてはいけないもののように見えるではないか。その凶々しい印象に、彼は彼自身の「殺意」をこめたのであり、そこに彼の発明があったのだ。  もちろん、相手は死ななかったのであり、イオウ粉末は毒薬として一般化されてはいなかったのであるから、≪不能犯≫とするのはやむを得ない。しかしそれによって被告に屈辱を感じさせたり、彼をその屈辱から救うために敢て傷害罪を適用させたりすることはないだろうと、私は考えるのである。  ともかく、わが国の≪不能犯≫の事例は、少ない上に、発想が比較的貧困である。「あっ」と驚くような不可能犯罪への挑戦がないのである。比較して、外国ではそうではない。驚くべき≪不能犯≫というのが、私はあまり詳しくないので、具体的な事例を挙げられないのが残念だが、数多くあるらしい。≪死体に対する殺人企行≫などというのがある。言うまでもなく、私の≪不能犯≫の解釈に従えば、彼は、それが死人であることを充分に知った上で、さらにそれを殺そうとしたのである。≪非懐胎者の堕胎企行≫などというのもある。これも、懐胎していないことを充分に知った上で、堕胎をくわだてるのである。「無から有を生ずる」というのは、こういうことを言うのであろうか。  ともかく、≪不能犯≫というのは、犯罪に極めて新鮮な刺激を与え、意外性と感動をもたらすために、なくてはならないものであり、それが事実として成立すること自体が、名誉あることであると、私は信じている。 [#改ページ]   故意 [#ここから1字下げ] 「事実の概要」[#「「事実の概要」」はゴシック体]  被告人は、狩猟法により一定期間中捕獲を禁止されている狸《たぬき》を、その地方で通俗的に十文字|狢《むじな》と呼ばれている獣であって、狸とは全然別個のものであると誤信して、捕獲し殺したものである。 「判旨」[#「「判旨」」はゴシック体]  被告人は、狸と狢とは全然種類を異にし、|※[#「豸+端のつくり」、unicode8C92]《タン》に該当する獣を以って狸なりと誤信し、延て本件の獣類は十文字の斑点を有し、被告人の地方に於て通俗十文字狢と称するものにして、狩猟禁止の目的たる狸に非ずと確信し、之を捕獲したるものなることは、疑を容るるの余地なし。然らば被告人の狩猟法に於て捕獲を禁ずる狸中に、俚俗に所謂狢をも包含することを意識せず、従って十文字狢は禁止獣たる狸と別物なりとの信念の下に、之を捕獲したるものなれば、狩猟法の禁止せる狸を捕獲するの認識を欠如したるや明らかなり。蓋し学問上の見地よりするときは、狢は狸と同一物なりとするも、斯の如きは動物学上の知識を有する物にして甫めて之を知ることを得べく、却て狸、狢の名称は古来並存し、我国の習俗此の二者を区別し、毫も怪まざる所なるを以って、狩猟法中に於て狸なる名称中には、狢をも包含することを明にし、国民をして適帰する所を知らしむるの注意を取るを当然とすべく、単に狸なる名称を掲げて其の内に当然狢を包含せしめ、我国古来の習俗上の観念に従い狢を以って狸と別物なりと思惟し之を捕獲したる者に対し、刑罰の制裁を以って之に臨むが如きは、決して其の当を得たるものと謂うを得ず。故に本体の場合に於ては、法律に捕獲を禁ずる狸なる認識を欠缺《けんけつ》したる被告に対しては、犯意を阻却するものとして、其の行為を不問に付するは固より当然なると謂わざるべからず。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——大審院・大正一四年六月九日・第一刑事部判決  有名な「たぬき・むじな事件」の判例である。同種のものに、「むささび・もま事件」(大審院・大正十三年四月・判決)というのがある。どうやら「もま」というのは、「学問上の見地よりするときは、むささびと同一物」であるにもかかわらず、事件を発生せしめた地方においては、「全然種類を異にする」ものであると、信じられていたのであろう。似たようなものでは、さる外国に「ライオン・とら事件」というのがある。つまり「学問上の見地よりするときは、ライオンととらとは、全然種類を異にする」ものであるにもかかわらず、その地方では「古来よりライオンはオスのとらであり、したがってとらはメスのライオンである」と、固く信じられていたのである。この種の事件は、こうした地方に多い。  事件の内容については、ここに書かれている通りであり、あらためて説明するまでもない。被告人は、「たぬき」が狩猟禁止獣であることは知っていたものの、「むじな」と「たぬき」が同一種類のものであることを知らなかったので、これを「むじな」であると判断して捕獲し、殺してしまったのである。彼は結果的には「たぬき」を殺したのであるから、明らかに法に違反したのであるが、「むじな」であると信じてそうしたのであり、「たぬき」と「むじな」が同一種類の動物であるということは、専門家にしかわからないことなのであるから、犯意は認められず、したがって無罪である、というものである。言ってみれば、被告人には≪故意≫がなかったのである。  ところで、法律というものは難しい。この考え方には異論があって、被告人は≪刑事責任≫はないが≪故意≫はあった、という説もあるのである。  面倒なことだが敢て問題に深入りしてみると、「法律の錯誤は一般に故意を阻却しない」という考え方があるらしい。法律はすべての行動の指針なのではなく、それ以前に個人の善悪の判断があってしかるべきであるから、「法律ではそうなっていたと思ったから」と、誤って信じて事を行なったとしても、≪故意≫がなかったとは言えない、という考え方である。  そして、この場合の被告人がしたのは、明らかに「法律の錯誤」なのであるから、この説に従えば、刑事責任を問うべきかどうかはともかく、≪故意≫はあったということになる。≪故意≫があったということになれば、犯罪であることを免れない。  ただし、これが「法律の錯誤」ではなく、「事実の錯誤」であるとすれば、「事実の錯誤は一般に故意を阻却する」という考え方に基づき、この被告人の≪故意≫はなかったことになる。それならば、この判決がそのまま正解なのである。  そこで、この被告人の行為に≪故意≫があったかなかったかは、この被告人が「法律の錯誤」を行なったのか、「事実の錯誤」を行なったのかの判定は待たなければ、決せられないということになる。  被告人は「むじな」が「たぬき」の一種であるという「法律」を知らなかったのか、もしくは、「むじな」が「たぬき」の一種であるという「事実」を知らなかったのか、どうかである。つまり、「むじな」が「たぬき」の一種であるということは、「法律」なのか「事実」なのか、ということだ。  ひとつの考え方としてはこうである。被告人の活動する地方においては、一般に「たぬき」と「むじな」は、別種のものと考えられていた。ということは、それを同種のものと規定していたのは「法律」であり、つまり被告人は、その「法律」を誤って解釈したのであるからこれは「法律の錯誤」である。  しかしまた別な見方をすれば、こうも言える。この地方の人々が一般に「たぬき」と「むじな」を別種のものと考えていたのは、その時点で彼等が「事実の錯誤」をしていたせいであり、被告もその一人なのであるから、「法律」のあるなしにかかわらず、これは「事実の錯誤」である。  というわけで、こうした考え方は、幾重にも屈折していて、考えれば考えるほど、果てしないところにまきこまれてしまうだけのような気がする。  現実はもっと簡単である。被告人が「ここいらじゃ、誰に聞いてもたぬき[#「たぬき」に傍点]とむじな[#「むじな」に傍点]は別もんだって言うぜ」と、取調官の前でふてぶてしくうそぶいた場合、その被告人には≪故意≫があるのであり、「すみません、てっきりたぬき[#「たぬき」に傍点]とむじな[#「むじな」に傍点]は別のものだと思いまして」と、殊勝らしくうつ向けば、その被告人には≪故意≫がないのである。  ≪故意≫のあるなしは、おおむね、演技力と、その演出力にある。  ところで刑法では、「故意のない行為は罰しないのを原則とする」となっている。そして≪故意≫とは、「罪となる事実の実現を意図し、あるいは罪となる事実の発生を容認して行為する意思である」とされている。つまり、「みずからの行為から罪となる事実が生ずる旨の認識に当面した時」には、「違法性の意識が喚起され」「違法行為を避けるよう良心の抑止力が生ずることが期待される」にもかかわらず、「敢てそれを押し切った」か「それが喚起されないまま悪に踏み切った」ということで、「行為者に非難を帰する」ことができるというのである。  要するに、「悪いことを知っててわざとやった」というのが≪故意≫なのだが、「それを喚起されないままに悪に踏み切った」のもいけないというのだから、当然気付くべき違法性に気付いていなかったからと言って、≪故意≫がなかったとは言えないらしい。まあ、こうしたややこしい問題はおおむね文字面だけのことであり、現実においては、前述したように、たいした問題ではないのだから省略しよう。  ところで≪故意≫には、≪確定的故意≫と≪未必的故意≫があるとされている。≪確定的故意≫というのは、言うまでもない。人を殺すことが違法行為であることを十分に知りながら、人を殺すに足ると万人の認めるだけの用意を整えた、人を殺すために十分の能力を有した人物が、人を殺そうと思って、まさしくその殺そうと思った人物を、間違いなく殺した場合に、認められる≪故意≫のことである。  ≪未必の故意≫というのは、やや難しい。法律用語で説明すれば、「犯罪事実実現に向けられた積極的な意思はないが、犯罪事実実現の認容が認められた場合の≪故意≫」のことを言う、とある。「こんなことをすれば、奴は死ぬかもしれないが、まあその時はその時だ」というような気分のことらしい。  ただし刑法上、≪未必の故意≫が問題となる事例としては、「犯罪の構成要件的事実の認識には確定的なものがあり、ただその事実について結果が発生するか否かの点に関してのみ不確定な場合」と、「構成要件的事実そのものの認識に不確定的なもののある場合」と、二つの場合があるとされている。言ってみれば、「ビルの屋上から、当れば相手を殺すに足るものを落し、ただ相手に当らないこともあり得ることを知っている場合」と、「同じくビルの屋上から、当れば相手を殺すに足るものであるということも確信せず、それを落す場合」とのことであろう。 [#ここから1字下げ]  あるアフリカの酋長が、ソ連を訪問し、そこでロシア式ルーレットについて知り、大いに感動するところがあった。そこで彼は自国に戻り、ロシア式ルーレットについて考えること数日、遂にそのアフリカ的改良方式なるものを発明した。彼はソ連大使を招き、その「アフリカ的改良方式」を披露すると称して、大使の周囲に六人の美女をはべらせて、こう言った。 「どれでも選んで下さい。そうしたらその選んだ一人が、あなたにフェラチオをしてくれるはずです」 「しかし……」と、大使は困惑して言った。 「どうしてそれがロシア式ルーレットなんですか?」 「決ってるじゃありませんか」  酋長は、嬉しくてたまらないというように手をこすりあわせながら言った。 「六人のうち、一人は人喰人種なのです」 [#ここで字下げ終わり]  既におわかりであろう。たまたまそのソ連大使が人喰人種を選び、食べられてしまったとしても、酋長の行為は、明らかに≪未必の故意≫でしかないのである。   3|犯罪|そのイロニー [#改ページ]   域内殺人事件 [#1字下げ] その男は詰襟の洋服を着て、脚に脚絆をまき、草鞋をはいて、白鉢巻きをしていた。そしてその鉢巻きには、点けっぱなしにした棒型の懐中電燈二本、角のように結びつけ、胸には、これまた点けっぱなしにしたナショナル懐中電燈を、まるで丑の刻参りの鏡のようにブラ下げ、洋服のうえから締めた兵児帯には、日本刀をぶちこみ、片手に猟銃をかかえていた。  横溝正史作『八ツ墓村』の一節であり、この作品を読んだものは誰でも、この田治見要蔵の異様な扮装に衝撃を受けたに違いない。実はこの部分は、横溝正史が、昭和十三年岡山県苫田郡西加茂村に実際に起きた事件から取材したものであり、この描写から感じとられる奇妙なリアリティーは、それに負うところが大きい。しかし、同時にまた私には、横溝正史がこの短い一節の中に、この稀有の大量殺人事件の様相を、見事に把え切っているようにも、思えるのである。  この同じ事件を松本清張がノンフィクション『闇に駆ける猟銃』で書いている。その中で、これに関するくだりを引用してみよう。 [#ここから1字下げ]  睦雄は、その間、小形筒型の懐中電灯=二個を買い、それを額の両脇に恰度牛の角のような恰好で取付ける布製の鉢巻きをつくった。また胸の前に吊り下げるための大形円筒型の自転車用懐中電灯一個を準備した。睦雄は集落中の人々の殺害を暗闇の中に設定したので、こうした照明器具が自分の身体の各部に必要であった。この地方では、夜間川漁をするとき懐中電灯一個を手拭などで頭上に結びつける風習がある。睦雄はこれにヒントを得たものと思える。が、また一方では、彼が愛読していた雑誌『少年倶楽部』昭和十二年十二月号第十頁に、剣付銃を構えた日本兵が中国人を誰何している画が載っているので、これに着想を得たようにもとれる。       ……………………………… [#ここで字下げ終わり]  午前一時すぎ、都井睦雄は蒲団から起きた。彼は黒セルの詰襟服を着て茶褐色のゲートルを巻き、地下足袋を穿いた。暗闇の中だったが、前夜から用意しているので手さぐりでもその身支度ができた。彼は懐中電灯をとりつける鉢巻きをした。自転車用ナショナル電灯を細紐で頸から胸に吊り下げた。薬莢入り雑のうを左肩から右腋にかけ、日本刀一振と匕首二口を左腰に差込んで紐でくくり、これらの上を革帯で締めた。行動の際、刀がずれるのを防いだのである。その恰好は漫画の兵士の支度にそっくりであった。彼は九連発に改造したブローニング銃と弾薬実包約百個を持った。次には磨いておいた斧を持った。 [#ここで字下げ終わり]  もちろんこれらの文章はそれぞれ、一方はフィクション、一方はノンフィクションとして書かれたものであるから、その一部を抜き出して同列に論ずることは不可能であるが、それにしても、この違いは面白い。一方が戦前戦中を通じて江戸川乱歩以来のいわゆる猟奇的な探偵小説の流れを汲む一人であり、一方が戦後社会派推理小説をもって華々しく登場し、その流れを大きく変えた一人であってみれば、その興味はさらに尽きないのである。  それはともかく、事件に対する考え方の本質的な違いを表現しているのは、一読して明らかなように、犯人都井睦雄(『八ツ墓村』では作中人物田治見要蔵)の身につけた二本の棒型懐中電灯と、箱型懐中電灯に対する見方の差である。松本清張が、その異様さにいささかとまどいながらも、あくまでそれらを夜間行動するための照明器具であると考えているのに対して、横溝正史はどうやら、犯罪という儀式を遂行するために必要な一種の扮飾として、それらを取扱っている。もちろん、単なる扮飾ではない。我々がそこに強烈なリアリティーを感ずるのは、「丑の刻参りの鏡のようにブラ下げ」とさり気なく挿入された一節によっても明らかなように、この種の犯罪者というものが自らを犯罪へむけて鼓舞するために、往々にして自分自身を異形のものに仕立てるものであることを、作者が良く知っているからである。  松本清張が、川漁をする場合の地元の風習に従ったのではないかとか、『少年倶楽部』の漫画にヒントを得たのではないかとか、この異様さを自ら納得するための種々の要因を並べたてて見せているのは、明らかに、横溝正史の気付いたこの観点を欠いていたからに他ならない。つまり、この点に関しては、横溝正史の方が、事件の様相をよりよく理解していたのではないかと、思われてならないのである。事件に対する、この考え方の差は大きい。犯人が、単なる照明用具としてそれを使用したか、それとも自らを異形のものに仕立てるためにそれを使用したかによって、事件の様相は、大きく異なってくるからである。  この事件は、前述したように、昭和十三年五月、岡山県苫田郡西加茂村大字行重という山間の一寒村で起きた、一夜にして三十人が殺害されるという大量殺人事件である。言ってみれば、閉鎖された共同体内部で発生した凶悪事件として特徴的なものであると、私は考える。そしてその意味では、松本清張がその観点をまったく欠いているのに対して、横溝正史は、そこに全ての焦点をあわせているように思われる。言うまでもなく、川漁をする場合の地元の風習に従っているから都井睦雄が共同体内部の人間なのではない。それは、同じ共同体内部の人間を殺しに行くための、決意の差となって表現されなければならないのであり、したがって横溝正史は、その異形性を強調しなければならなかったのだ。  横溝正史は、≪角のように結びつけ≫≪丑の刻参りの鏡のようにぶら下げ≫ということで、その性格を規定している。松本清張も≪恰度牛の角[#「牛の角」に傍点]のような恰好で≫と書いているが、横溝正史の方は、私の想像に過ぎないかもしれないが、≪鬼の角≫の意味だと思う。つまり、≪牛の角≫はやや下方を向いていてそれ自体ひとつの機能を担っているのであるが、≪鬼の角≫は上方を向いていて、それは単なるシンボルに過ぎないのである。こう考えてみると、私には、≪牛の角[#「牛の角」に傍点]≫とわざわざ規定せざるを得なかった松本清張の考え方の限界が、よく見えてくる。彼には、「共同体内部の犯罪」に立ち向う犯罪者の、内部の事情が理解できなかったに違いない。  それは、他の描写についても言えることである。横溝正史は、≪(彼は)白鉢巻きをしていた≫と書いた。松本清張は同じことを≪彼は懐中電灯をとりつける[#「懐中電灯をとりつける」に傍点]鉢巻きをした≫と書いている。つまり、横溝正史の場合その≪白鉢巻き≫が、それに懐中電灯を結びつける以前に、ひとまず決意の問題として必要だったのに対して、松本清張の場合は、それは懐中電灯をとりつけるための機能としてしか役立っていない。彼は、その他の描写においても、≪行動の際、刀がずれるのを防いだのである≫とあるように、その扮装の機能性を強調するようにつとめている。もちろん、そうした事実はあったに違いない。作品の性質から言って、これらの描写の細部にわたっては、松本清張のそれの方が、はるかに正確であったろうと私は考える。にもかかわらず、犯人都井睦雄が、自らを仕立てていった扮飾の、最も決定的な動機について、彼は見逃していたのである。そして横溝正史は、細部の事情は多少ゆがませながらも、その動機の本質は、見事に把えているのではないだろうか。  ただし横溝正史が、この「共同体内部」の犯罪者たる都井睦雄の扮装の動機を強調するために、≪鬼の角≫であり≪丑の刻参りの鏡≫であるような、土着の因習的なもののみに焦点をあわせていったのだとすれば、我々もこれを、さほど評価するわけにはいかない。その場合には我々は、松本清張の合理精神から眺めた事件の様相と、つきあわせてみることによってしか、事件の真相を垣間見ることはできなかったであろう。しかし、この部分の描写に関するかぎり、そうではないのである。松本清張の書いたものが事実に近いものであるとすれば、横溝正史が、その事実から何を選び、何を捨てたかを見れば、よくわかる。彼は≪詰襟の洋服≫を採用し、≪ゲートル≫のかわりに≪脚絆≫を、地下足袋のかわりに≪草鞋≫を使っている。そして≪革帯≫のかわりに≪兵児帯≫としているのである。  何故横溝正史はそうしたのだろうか。もしかしたらそれは、≪黒セルの詰襟の洋服≫を、≪鬼の角≫であり≪丑の刻参りの鏡≫である土着の因習的なものにとけこませるための配慮なのかもしれない。しかしどうもそうではなさそうである。もしそうなのだとすれば、何故≪詰襟の洋服≫をも捨てなかったのだろうかという疑問が湧いてくるからである。私は逆に彼は、≪ゲートル≫のかわりに≪脚絆≫を、≪地下足袋≫のかわりに≪草鞋≫を、≪革帯≫のかわりに≪兵児帯≫を採用することで、≪黒セルの詰襟の洋服≫のグロテスクさを、強調したかったのだと思う。つまり彼は、それを土着の因習的なものにとけこませようとしたのではなく、そこにとけこまないものをむしろ際立たせようとしているのだ。しかもこの場合、土着の因習的なものをシンボライズする≪鬼の角≫は二本の≪棒型懐中電灯≫であり、≪丑の刻参りの鏡≫は≪ナショナル懐中電灯≫である。この彼の文中に植え込まれた≪ナショナル懐中電灯≫という語感の凶々しさはどうであろうか。同じ言葉の、松本清張の文中の語感と比較してみると、その違いがよくわかる。つまり彼はここで、都井睦雄をそそのかしたであろう土着の因習的な要素を一方で明らかにしつつ、他方でそれを痛烈に批評しているのである。  ここの描写から感じとられる強烈なリアリティーは、すべてここに原因していると、私は考える。彼は、この昭和十三年当時、この山間の寒村に無原則的に流入しはじめたであろう近代的なものと、土地に残された因習的なものを重ねあわせながら、次第にグロテスクな印象をまとめあげてゆくのだが、これを読みながら私には、その扮装の異様さもさることながら、当時流入した近代化の波にもまれて崩壊してゆく共同体の、うめき[#「うめき」に傍点]のようなものまで、聞こえてくるような気がしてならない。そしてさらに言えば、この事件を事件として成立させた背後には、こうした共同体の崩壊してゆく現象そのものが、大きく影響しているのではないかということまで、この描写は暗示しているのである。  私はここで、それぞれの描写の文章法にまで言及するつもりはないし、また作風の違いから言って、この部分だけを取りあげてそうするのは明らかに間違いであると思うが、しかし少なくとも、横溝正史の描写には、彼都井睦雄がどのような種類の犯罪に、どのように立ちむかうつもりであるかが、明らかにされているように思う。そしてこの事件については、横溝正史の判断の方に、明らかなリアリティーがあると、私は考える。  私がこの事件を知ったのは、加太こうじが『昭和犯罪史』の中で戦時中の犯罪にふれ、≪昭和十二年末[#「十二年末」に傍点]には岡山県下の山村で怨恨による四十数人殺し[#「四十数人殺し」に傍点]という殺人事件があったが、その新聞記事などどこをさがしてもない。おそらく地方紙にほんのちいさいかたちで報道されただけだと思われる≫と書いているのを見て以来である。それ以来、折にふれて資料を探していたが、なかなか見つからなかった。もちろん、その間に、横溝正史の『八ツ墓村』は読んでいたが、それがその事件に取材したものであることは知らなかった。松本清張の『ミステリーの系譜』を手に入れて、はじめてそれを知ったのであり、同時に『八ツ墓村』をも思い出していた。言ってみれば、この事件とは、いささか感動的な出会いをしたわけである。  しかし、いかに報道管制の厳しい戦時下にあったとしても、司法当局がこれほど徹底して事件を隠したというのは、いささか異常な気がしてならない。もちろんある意味では、当時の世相に対して、極めて大きな影響力をもつものと判断されていたのだろう。その点からも、この事件は見直されてしかるべきかもしれない。  ともかく私はこの事件を、「共同体内部の犯罪」もしくは、「共同体がそれ自体内包し、それ自体が誘発する犯罪」の、最も典型的なものであろうと考えている。もちろん、当時の司法当局がいち早くこれに気付き、その上で報道管制を敷いたのだとすれば、その判断は正しいと思う。これは、当時の状況下にあった共同体そのものの危機を暗示し、これが他の共同体の危機を誘発しはじめれば、当時の戦時体制に重大な影響をもたらしかねないからである。 「共同体内部の犯罪」については、これまでにもいくらか問題にされている。つまり、共同体内部に発生した犯罪は、他のそれより凶悪化される傾向があり、大量殺人に結びつきやすい、という程度のものである。しかし「共同体がそれ自体内包し、それ自体が誘発する犯罪」については、ほとんど問題にされていない。と言うより、共同体というものが、それ自体の内部に犯罪を内包しているものである、ということが、そもそも明らかにされていないのである。ただしかし、ここに、それを暗示する、一つの文章がある。 [#1字下げ] 外部からこの窪地を襲って災厄をもたらす邪悪なものの典型がチョウソカベであり、それは谷間の民衆から絶対に拒否される敵であるが、窪地には、それとは異なったもう一種の邪悪なもの乃至は、邪悪をなすものが訪れる。しかもそれは谷間の人間にとって、それを拒否し外部へ押し戻すだけでは解決できない性格をもった存在である。なぜなら、もともとそれは谷間の民衆に属するものたちだからである。毎年、盂蘭盆会にそれらは森の高みから敷石道をつたう一列の行列をなして谷間に戻り、生きている人々に敬意をこめてむかえられる。僕は、折口信夫の論文によって、森から戻ってくるところのものが、すなわち森=他界から谷間=現世に働きかけて害をなすことのある「御霊」であることを教えられた。谷間に執拗な洪水が荒れたり、イモチが猖獗をきわめたりすると、それは「御霊」によるとされて、かれらを慰めるためにその盂蘭盆会に人々は熱情をもやす。戦争末期の発疹チフスの流行の際には、とくに盛大に「御霊」をまつる盂蘭盆会の踊りが行われた。白い巨大なイカみたいな扮装をした人物の参加した盂蘭盆会の隊列が森から降りてきて村の子供たちを脅やかしたものだ。あれは暴虐なる虱の「御霊」だったのであろう。もっとも虱が死んでその「御霊」になったのではなくて、われわれの祖先の内なる兇暴な人間の死者か、不幸な死を死んだ善良な者の魂が、あの年に虱の「御霊」として顕在化し、災厄をもたらしたとみなされたのである。(中略)そのようにして僕が見た盂蘭盆会の行列のうち、もっともめざましい変化として記憶に残っているのは、戦争中のある夏突然に、兵隊服を着た「御霊」たちがあらわれたことである。それらは谷間から出征して戦死した者たちの「御霊」であった。しかも年々、兵隊服の「御霊」の数は増加したのである。徴用工として広島で働いていて爆死した青年の「御霊」は、全身まっくろの消し炭のかたまりみたいな様子で森から降りてきた。  大江健三郎の『万延元年のフットボール』の一節である。私はここに、共同体というものの、最も典型的な力学というものが語られていると考える。そして私は、これを次のように読みとりたい。つまり、共同体というものは、外部からそれを襲って災厄をもたらす邪悪なものと、内部にあってそれに災厄をもたらす邪悪なものを、常に予定している。逆に言えば、共同体というものは、そのそれぞれの邪悪なものを予定することによってのみ、共同体であり得るのだ。ところで、外部からそれを襲って災厄をもたらす邪悪なものに対応するための共同体それ自体の力学は、比較的単純である。それは≪絶対に拒否される敵≫だからである。問題は、内部にあってそれに災厄をもたらす邪悪なものである。それは≪敵≫であると同時に≪彼等の内に属するもの≫だからであり、それに対応する共同体の力学は、複雑を極める。  たとえば、この力学を最も単純化したものに三すくみ[#「三すくみ」に傍点]の法則がある。ジャンケンのとと≪カミハサミイシ≫であり、≪ナメクジ≫とと≪カエルヘビ≫であり、≪リョウシ≫とと≪テッポウキツネ≫である。共同体の内部に、この三すくみ[#「三すくみ」に傍点]の法則が機能していれば、邪悪なるものは、絶えず生起し、絶えず解消されるという、健康な循環が保障されることになる。この種の力学と、それを絶えず作動させてゆくエネルギーが、共同体内部には絶対に必要なのだ。共同体が、時として危機に見舞われるのは、強大な外部からの邪悪なものに立ち向う時である。つまりその時、共同体は、内部の邪悪なるものを作動させつつあるメカニズムに、一時中止を命ずることがあるからである。その時は、外部の強大な邪悪さに立ち向う緊張感で、共同体そのものは何とか保持されるが、それを失った時、そして内部の邪悪なるものを作動させるメカニズムがまだ機能を恢復していない時、共同体は崩壊するのである。  つまり私は、この『万延元年のフットボール』の一節に記された≪盂蘭盆会≫は、三すくみの法則[#「三すくみの法則」に傍点]の力学を見失った共同体が、自らその「内部の邪悪なるもの」を予定するための、ひとつの儀式であろうと考えるのだ。この儀式を通じてこの共同体は、それを共同体として成立させるために絶対に必要な「内部の邪悪」さを、温存しつつあるわけである。言ってみればこの≪盂蘭盆会≫の儀式こそ「共同体がそれ自体内包し、それ自体が誘発する犯罪」の、代償行為に違いない。この儀式によって共同体は、犯罪を防いでいるのであり、逆に言えば、この儀式によって共同体は、実際の犯罪を防ぎつつ、それ自体が内包する犯罪性を温存することに成功しているのであり、それによって生き、有機体として成立しているのである。 「津山事件」が発生したこの山間の地方に、この≪盂蘭盆会≫に類した儀式があったのかどうか、私は知らない。しかし、古くからそこに共同体としての営みを続けていた以上、これに類した何らかのものがあったのであろうということは疑い得ない。そしてそれがおそらく、昭和十二年から開始された日中戦争の圧力によって、もしくは、それ以前から引き続きこの地方にも押し寄せてきたであろう近代化の波によって、その機能は崩壊寸前にあったのだろう。そのストレスが、犯人都井睦雄に、すべて凝縮されてのしかかっていったのだ。  都井睦雄が、自らを異形者に仕立てなければならなかったのは、この共同体が潜在的に内包していた、そしてその出現を暗に期待していた「内なる邪悪なもの」の役割を、自ら買って出たからに他ならない。この貧しい山村の誰もが、「いつかこんなようなことが起るんじゃないかと思ってた」と発言しているのは、極めて暗示的なことである。つまり、みんな、潜在的にはそれを期待していたのだ。共同体が、本来そうであるためのメカニズムに、彼等は、深部においてそそのかされつつあったのだ。だからこそ、つまりそこには、共同体が本来そうであるためのメカニズムが作用していたからこそ、都井睦雄はそれを拒否することはできなかった。彼は、共同体のためのイケニエとなったのである。  しかしもちろん、共同体の側にも、誤解があったことは事実である。おそらく共同体は、都井睦雄の邪悪さを、たとえば≪盂蘭盆会≫の儀式の中でのように、生起させ解消させ得るものと考えていたに違いない。つまりそこに、儀式としての刃止めがきかなくなっていることを、そこまで共同体それ自体が病んでいることを、彼等は知らなかったのだ。悲劇はそのようにして行なわれたのだと、私は考える。この誤解によって、その共同体は、息の根をとめられたのである。  三十名を殺害した後、都井睦雄は村の北側をさえぎる山へ入った。つまり彼は、≪森≫に帰ったのである。彼のたどった同じ道を後に検証した中垣検事の文章を、松本清張の『闇に駆ける猟銃』から引用してみよう。 [#1字下げ] 道はますます狭く且つ嶮しくなる。私たちの呼吸も荒くなる。三十余名を殺戮してこの峻嶮を踏破した犯人都井の脚力と膂力に驚嘆のほかはなかった。暗い細い山道を、多数の人を殺傷し、ただひとり分け登る在りし日の犯人の姿を想像して今更四囲の情勢を見通した。深々とした夜の静寂、冷然たる夜気、ひたひたと葡い寄る木の精の呼吸——点滅する屑星。その中を全身返り血を浴びて悪鬼の如く自らの黄泉路へ急いだ犯人の全霊を捉えたものは何であろうか。  いささか気負った文章であるにせよここで彼は、都井睦雄のたどったと同じ≪森≫の空気を、呼吸しているように、私には思われる。都井睦雄はこの森を一気に抜け、峠をこえて「仙之城」という隣村との境界になる草原で、自殺をした。この頂上にあたる草原は、慶応年間に、蓆旗を立てた一揆の農民が集合したところでもあったそうだ。都井睦雄が自殺をするためにわざわざ山越えをしてこの地を選んだということも、私には無視できないような気がする。彼の、ここで自殺をする直前に書いた遺書の中に、次のような一節がある。≪このようなことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決してはか(墓)をして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である≫。つまり彼は、彼自身の死体を、共同体の内部に埋葬されるべきであるとは考えなかったのだ。と言うよりむしろ、共同体の内部に埋葬してはならないと、自ら判断したのではないだろうか。  彼は、共同体内部の「邪悪なるもの」として行動を開始した。そして、彼がそうするであろうことは共同体それ自体の、潜在的な要請でもあった。もしその時、共同体が共同体として健康に機能していれば、彼の行為は、儀式としての「邪悪なるもの」として、つまり単なる道化として、共同体そのものが吸収してしまっていただろう。しかし、その共同体は既に病んでいた。その「邪悪なるもの」を、儀式として受けとる能力を欠いていた。それが、無差別の大量殺人となって表現されてしまったのは、そのせいである。ただその過程で、彼自身もまた、気付いたに違いない。共同体内部の「邪悪なるもの」として行動を開始した彼自身が、いつの間にか、外部からやってきた「邪悪なるもの」のごとくに、取扱われはじめていることをである。つまり彼は、まるで外側からやってきた「邪悪なるもの」の如く、その場を立去らねばならなかったのに違いない。  私は、三十人を殺して疲れ切った体に、わざわざ山越えをさせ、村の境界にまでその身を捨てに行った彼の行為を、ひどく傷ましく考える。そしてそこに、しがらみのようにまつわりついた共同体の奇妙な論理を、見る思いがするのである。 「津山事件」は、当時の戦時体制の末端を支えていた個々の共同体の、圧殺されてゆく過程を物語る、一つの典型的な事件であった。 [#改ページ]   時限爆弾事件  ある日、三菱重工業ビルの前で時限爆弾が爆発して、以来数回にわたって各種の企業がねらわれている。事件の度に、「狼」「大地の牙」「さそり」等を名乗る者から予告がなされているのだが、言うまでもなくこの「事件」の本質は、その匿名性にある。つまり、この匿名性があばかれたとたんに、これは「事件」であることを終了するのであり、さらに言ってみれば、この匿名性こそが、時限爆弾が破壊した以上のものを、現在もなお、刻々と破壊しつつあるのである。  犯罪行為といわれているものがすべて匿名である、という考え方は間違っている。宝石店が襲われて宝石が盗まれ、銀行が襲われて現金が盗まれる事件の本質は、決してその匿名性にはない。その人間の氏名や年齢がたとえばわからなくても、「それが誰か」ということを、我々はほとんど知っている。「それが誰か」ということがわからないことに由来する「不安」が、この場合の最大のものではないのである。したがってその場合の被害は、盗まれた宝石と現金の量に限定されるのであり、それ以上でも以下でもない。しかし、この一連の爆破事件の場合は違う。それが物理的に破壊した以上のものを、まさしくその匿名性によって、破壊しつつあるからである。  三菱、三井と事件が引続いた後、「次は三越ではないか」という冗談が流行した。官権や企業が「その次」を読みとれないために、ある種の不安を抱いたのは事実であろう。しかし、その匿名性の本質は、「その次」を読みとらせないためにあるのではない。もちろん官権や企業も、「その次」を読みとることそれ自体を目標としていたのではないだろう。「その次」を読むことによって、事件の本質がその匿名性にあるという、その根拠をくつがえそうとしていたのに他ならない。つまり、匿名性の本質は、「我々は匿名である」とする宣言そのものの中にあるのであり、逆に官権と企業は、その宣言そのものをくつがえそうとしているのである。  人間は、特にそれが個々の人格として表現される場合、匿名であってはならない、とするのが、企業や官権にとっての、つまり体制にとっての原則である。その実、企業も官権も、匿名性によって、その実体をおおい隠しつつある。我々は「三菱重工業が誰か」ということをほとんど知らない。明らかにそれは一つのはっきりとした意志を持ち、それに従って具体的な作業をしていながら、「それが誰か」ということを我々には見せてくれないのである。社長も重役も株主も、その個々の人格の表現は、常にその企業のトータルな意志に対して従属する位置に配置されることが可能なシステムの中にある。言ってみれば三菱重工業というのは、誰のものかわからないこの巨大な意志のための不在証明に他ならないのである。  体制側の、この一方的な匿名性が、匿名であることを拒否された個々の人格の表現である我々を、時としてひどく苛立たせる。三菱重工業ビルの前で最初の時限爆弾が爆発した時、その企業とは何の関係もない多くの人々が殺傷された。これは無残なことである。「この人達は、何の関係もないのに……」という思いがまず我々を襲った。しかし次に「では、関係のある人々とは……?」と自ら反問して、我々は暗然とした。もちろん、「関係者」なら、殺傷されて当然である、と我々が考えたせいではない。ただ我々は、「これこそが関係者だ」と、何者かによって指摘されたとたんに、それをおおい隠して限りなく逃亡し尽すであろう精緻なメカニズムの一端を、ちらと垣間見せられたに過ぎない。つまり、どこを探しても「関係者」など居なかったのだ。  もしかしたら彼等は、「関係者」が居なかったら、その意図を明らかにするための行為で、偶然「関係外の者」をまきこんでしまったとしても、やむを得ない、と考えたかもしれない。しかしもしかしたら彼等は、「関係者」を探る作業を徹底的に追いつめ、その過程における「絶望」を、そのまま「絶望」として表現したのかもしれない。そしておそらく、企業と官権が恐れるのは、この後者の場合である。匿名性の本質は、多くこの「絶望」に由来している。匿名性とは、その表現の対象たるべき標的が一点に定めがたく、同時にその標的に対する人格と人格によるコミュニケイションの方法が失われている時に、それに対する「絶望」から発明された方法に他ならない。したがってこの匿名による表現は、何を表現したかという点よりも、何故匿名であるかという点に、多くの破壊力を秘めているのである。体制側はその「何故」を探ることにより、表現者の限りなく深い「絶望」の内にとりこまれかねないからである。  もちろん、匿名の表現者の側も、常に安全であるとは限らない。匿名の表現者の隠れ家は、その限りなく深い「絶望」の内でしかない。それが安易な浅いものであった場合、体制側の圧倒的な自己正当化のメカニズムにあって、たちまちその隠れ家からあぶり出され、逆にこちら側からの自己正当化を強要されることになりかねない。人は、あらゆる場合において、体制側の論理に拠らずには自己正当化できないのであり、したがって自己正当化を開始したとたんに、彼は匿名である根拠を失うことになるのである。  彼等は三菱重工業ビルの門前に、時限爆弾を装置した。時限爆弾による事件の特徴は、言うまでもなく、その時、その場に、彼等はいない、という事である。三菱重工業そのものが、その名によって発せられる巨大な意志のための不在証明だとすれば、その時限爆弾もまた、それによって発せられるある意志のための不在証明に他ならない。もしこの時、その相互の匿名性による表現の機能が正確に作動したのだとすれば、この爆破は、その三菱重工業を三菱重工業たらしめているある巨大なものをトータルに見据えて、「お前は誰か」という問いを発したのである。もちろんこの問いは、この時この場に三菱重工業を三菱重工業たらしめている体制そのものの、もしくは文明そのものの論理によって、自動的に答えられている。もし彼等が、この時限爆弾を限りなく自己の不在証明に仕立てあげるつもりなら、この既に答えられている答えの射程外に自らを位置させ続けなければならないのであり、これを保証するものは、彼等が、この文明を文明たらしめている論理を超える「絶望」に自らを置いているという事実以外にない。この「絶望」の雄弁さのみが、時限爆弾を不在証明とすることを、かろうじて彼等に許可するものだからである。  体制の匿名性に対する表現者の匿名による挑戦は、このようにして、逆に自己の匿名性の根拠を問い直すことにならざるを得ない。このことを抜きにしては、匿名性による本質的な有効性は発揮できないからである。また同時に、我々はまだ、この相互の匿名性による対話の文体に、余り慣れていない。それは常に一見不可解である。したがってそれは、当時者にとっては余りにも本質的な、そして部外者にとっては極めて局部的な事情に閉鎖されてしまいかねない。つまり匿名性による問いは、それが私的な個別的な問いになることを防ぐために発明された方法であるにもかかわらず、結果的に、そうなる可能性を多く含むという矛盾したメカニズムを保有しているのである。  さらに言えば、現在、体制の匿名性に対する、個々の人格の記名性による反乱が、わずかではあるが成功しつつあるという事実がある。各地に起りつつある各種の企業の公害事件に、私はそれを見る。公害事件の被害者こそが記名性の表現者だという事実は、いかにも悲劇的であるが、しかしその○町の○丁目○番地に住む○子さんの目が見えなくなったという記名性の事実が、匿名性の企業から、まがいものではあれ記名性の人格を、わずかながらあぶりだしつつあるのである。もちろんこの場合、公害問題そのものが、今日まで企業を企業たらしめてきた論理を、根底からゆるがすものであるという事実を、見逃すわけにはいかないかもしれない。したがってこそ企業は、その匿名性に拠って責任逃れをすることで企業を企業たらしめている論理そのものを損うよりは、むしろまがいものの記名性の人格を打出すことにより、その損害を最小限に喰いとめようと図るのである。ともかく、そのあぶり出されつつある記名性の人格が、たとえ今のところまがいもののそれであったとしても、企業の匿名性が破綻をきたしつつある事実は否定できない。  体制の匿名性に対する記名性の人格による挑戦は、まずもって個別的な、私的な、したがって局部的な事情に拠って開始されるのであるが、それが公害問題という、文明の根拠に関わるテーマに結びついた時、それは、普遍的な、公的な、したがってトータルな事情に変わるのである。たとえ体制が、その匿名性を保存すべく、仮りにまがいものの記名性の人格をいけにえ[#「いけにえ」に傍点]として打出してきたとしても、それが公害問題であり、文明の根拠に関わる問題であり続ける限りにおいて、それは一時しのぎに過ぎない。  匿名性と記名性による表現の、窮極のメカニズムは、このようなものであろうと私は考えている。つまり匿名性も記名性も、表現の一つの手段なのではなく、それ自体が一つの表現そのものになりつつあるのではないだろうか。それ以前の、中間的な過程における、つまり表現の一つの手段としての匿名性と記名性については、私は興味を持っていない。それは、どちらにしても、大して変わりがないからである。 [#改ページ]   あみだくじ自殺事件  九月五日早朝、富山県下新川郡の園家山キャンプ場の松林で、二人の女子高校生の首吊り死体が発見された。身元調査の結果、二人は同郡入善町の大工、寺林直光さん(四十九歳)の双子の姉妹であり、県立泊高校一年の尋香さん(十六歳)と、同じく県立入善高校一年の美香さん(十六歳)と判明した。同町で雑貨商を営む母親、寺林俊子さん(四十五歳)との四人家族で、最近家も新築したばかりで経済的には恵まれた家庭であった。二人は、二十メートルほどはなれた松の木に、母親の営む雑貨店から持ち出した荷造り用のロープをかけて、向き合うようにして死んでおり、尋香さんはキャンプ場の管理小屋から持ち出した椅子を、美香さんは付近で拾ったらしい大きな石二つを、それぞれ踏み台にしていた。服装は二人とも、白いブラウスに濃紺のスカートという制服姿であった。  遺書はなかった。両親および周囲の人々はすべて、前日までの二人の行動に特に変わった点はなかったこと、自殺の動機について思いあたるふしはないことを証言している。  ただ、美香さんの所持していたノートの裏に、四本の縦線にいくつかの横線を引いた≪あみだくじ≫が発見された。四本の縦線のもとには、それぞれ「日本人のX」「自殺」「ROS」「御三家」という言葉が書かれてあり、鉛筆でなぞったあとが「自殺」のところへ導かれていた。  ここに書かれた「自殺」以外の言葉が何を意味するのか、誰も知らない。最初の「日本人のX」については、彼女の他のノートに「アジア人なんてきらい」「ヨーロッパ、プラス日本人で生まれてきたかった」「日本にいてもつまらないしおもしろくない」などという言葉が書きちらされていたそうであるから、それと何か関係があるのかもしれない。「ROS」については、ローリング・ストーンズのことかもしれないという推測が行なわれている。  ともかくこの二人が≪あみだくじ≫によって自殺を選び、そしてその通り死んでいったらしいことは、ほぼ間違いなさそうである。動機は、もしこれが動機といえるのならの話だが「あみだくじが自殺を指したから」ということになるのだろう。現象的にはこれほど明解で、その実本質的にはこれほど不可解な動機はない。  この事件を報道する新聞記事に接した時、誰しもが一種奇妙な感触を得たはずである。それは、衝撃というのではない。抵抗感がないのだ。抵抗を得ようとして身構えたとたんに、いきなりそれがはずされて、無重力状態の場へ投げ出されたような「ぐんにゃりとした感触」がその時あったように思う。  特に、子どもを持つ親にとって、この事件が生理に及ぼした影響には、計りしれないものがあっただろう。私も反射的に、この二人を養い育ててきた両親のことを考えた。育児ということが親にとっての生活のすべてではないにしても、この両親の育児のシステムは、それが意識的なものであったにしろ、無意識的なものであったにしろ、ここで破産したのである。  しかも悲劇的なのは、この両親は決して自分たちが「何を間違えたか」を知ることはできないだろう、ということだ。いや、もしかしたらこの両親は、本質的なところでは「何ひとつ間違えなかった」のかもしれない。その方がありそうなことだ。つまりこの二人は「何ひとつ間違えない」ままに、それを破産させてしまったのである。  もしかしたら我々は、ひどく奇妙な時代を迎えつつあるのかもしれない、と私はこの事件を前にしながらぼんやり考えた。もちろん、この事件だけがそうなのではない。それ以前に我々は、不可解な小中学生の自殺について、多くの事例を知らされている。そして、それを防止するために配布されたパンフレットには「合図を見逃すな」とあるそうである。つまり、どんな子も自殺をする前に、近親者に何らかの「合図」をする。それを注意深く見守ることによって、自殺は防止できるというのだ。  子どもが自殺するのを恐れた親たちが、自殺のための「合図」かもしれない子どもたちの奇妙な仕草を、息を殺して見守っていなければならない時代が、奇妙な時代でなくて何であろう。自閉症児の問題にしろ、暴力児童の問題にしろ、我々の理解をこえた現象は、数限りなくあると言ってもいい。  もちろん、こうした事態については、識者によってさまざまな分析がなされ、さまざまな意見が提出されている。過保護がいけないのである。もちろん、過当競争もいけないのである。エセ平等主義に問題があるのである。当然、エリート教育にも問題があるのである。家庭における父親の失権を、どうにかしなければいけないのである。だからといってスパルタ教育も子どもを駄目にするだけなのである。母親が教育に関心を持ちすぎるのかもしれないのである。もしくは、関心がなさすぎるのかもしれないのである。子どもが社会生活になじめなくなってきているのである。それとも、社会環境が、子どもを不良化しているのである。  ともかくこれでは、混乱としか言いようがない。少なくとも、教育システム、もしくは育児システムが現在、混乱の極にあることについては、文部省も、日教組も、親たちも、子どもたちも、一致して主張しているようである。それが「どうにかしなければならない状態」にあることは誰もが感じている。  しかし、これはただ混乱しているだけのことだろうか。私にはどうもそうは思えない。ひどく感覚的に言えば、我々がこれまで素朴に信じてきた教育システムであり、育児システムであるものが、何故かここで突然手がかりを失って、たとえば溶けてなくなりつつあるような、そうした根深い消耗感を、私は感ずるのである。  大げさに言えば、愛と憎しみと生と死にかかわる哲学、それらに対する緊張感によって自覚されてきた個人の存在、それが重層化され構造化されて新たな緊張感をはらむ共同体、そうした本質的なものが、我々のまったく知らない新しいルールによって、なしくずしに静かに崩壊させられてゆくような気がするのである。  これまでの我々の生活は、こうしたことはすべて自明の理であるとして、その上に構築されてきた。教育システムも育児システムも、当然、それを前提として成立してきたものである。しかし≪あみだくじ≫によって死を選ぶ少女たちが、この同じ緊張感のもとにあったとは、とうてい思えない。もしかしたら彼女たちには、愛と憎しみと生と死にかかわるまったく別な哲学があったのかもしれないと、私には思えてくる。  最近、ある雑誌の調査によると、若いものたちの間で「UFO」と「古代史」と「インド」がブームになっているそうである。こう並べてみるとひどくとりとめがなくて、自殺した二人の少女の≪あみだくじ≫に並べられた言葉のようであるが、しかし感覚的に見れば、何となく共通点があるような気もする。しかし何よりも私が気になるのは、これらに対する彼らののめりこみの姿勢である。どうやら彼らには、単なる好奇心以上のものがあって、一応それらは「趣味」であるとか「遊び」であるとかのオブラートに包まれているものの、隠された奇妙な真剣さに、時々驚かされることがある。  たとえば「UFO」の問題である。「空飛ぶ円盤」という名で話題になった当初は、それが「実在するのかしないのか」ということが、ともかく最初の問題であった。「あなたは、空飛ぶ円盤が実在すると思いますか」と問われて「実在すると思います」と答えるにしろ、「実在しないと思います」と答えるにしろ、そこにはそれをそう判定する我々の生活感覚というか、極端に言えば哲学が試されていたのであり、少なくとも、そこをそのようにくぐり抜けなければ、問題をそれ以上発展させることは決してできないのだと、信じられていた。  したがって「空飛ぶ円盤」問題は、その新たな発見者が現れる度に「実在すると思いますか。実在しないと思いますか」という問いが、いたずらに平行移動をくり返していたに過ぎない。こうした状態がしばらく続いたのである。この場合、発見者の数の増加は、現象の本質とはまったく関係がない。きめ手は、数ではないからである。  しかし「空飛ぶ円盤」が「UFO」と呼ばれはじめるに至って、事情は少しばかり変化してきた。その頃から、これは微妙な問題であるが、人々の問いは「あなたはUFOを信じますか」というものに変わってきた。もちろんこれは「あなたはUFOの実在を信じますか」という質問を省略したものに過ぎないかもしれない。しかしニュアンスは明らかに違う。  極端に言えば「UFOを信じますか」という言葉には、それが「実在するかしないか」という知的関心をこえた、もうひとつ先の暗部をも含みこんだ響きがある。これに気付いた時我々は、それに対応するには我々の生活感覚も哲学も、何の役にも立たないことに、同時に気付かされてしまうのである。  だから逆に言えば「UFOを信じますか」という言葉には「これまでの生活感覚や哲学をすべて捨て去ることができますか」という、奇妙な甘美な問いが含まれている気がする。  たとえば「UFO」問題をとりあげたテレビのスタジオ番組などで、アナウンサーと集まってきた若ものたちとの間で、よく次のようなやりとりが行なわれる。 「あなたは、UFOを信じますか?」 「信じます」 「それは、どうしてですか?」 「だって、その方が夢があるから」  このやりとりのパターンは「UFO」の問題に対する若ものたちの反応の、極めて典型的なものである。先日、別な番組で、大地震で海中に没したとされている伝説上の島の調査をするものがあったが、現地を訪れた調査団の「そのことを信じますか」という問いに対して、決して若ものとはいえない寺の住職が「その方が夢がありますからね」と答えていた。もちろんこの場合は、このやりとりのパターンだけが覚えられていて、それがとっさにその場で応用されたに過ぎないのであろうが、平然としてそう答える住職の顔を見て、私は少なからず呆然とさせられた。  言うまでもなく「夢がある」から「信じる」というのは理論的に飛躍している。そこに「夢があるかないか」ということと「信じるか信じないか」ということは、まったく別のことだからである。しかし私は、だからといってそうした答え方に呆然とするのではない。そこに論理の飛躍があることくらい、当の若ものたちだって知っている。いや、もしかしたら彼らの方がよりよく知っているのかもしれない。  つまり彼らは、それを知った上で、その論理の飛躍を逆に利用して、我々の問いを封鎖しようとしているのである。我々の問いには「空飛ぶ円盤」が「実在するかしないか」が問題であった時代のニュアンスを踏まえて、答え方によっては「お前の生活感覚、もしくは哲学を見抜いてやるぞ」という、卑しい魂胆がどうしても含まれてしまう。若ものたちは敏感にそれを感じとる。そこで「夢があって、おもしろければそれはそれでいいじゃないか」と肩すかしを喰わせるのである。  もしかしたらそれは、一種のユーモアかもしれない。「夢のある方がいいじゃないか」というのは、生活上のひとつのゆとりであるかのようにも思える。したがって我々は、それ以上は決して追求しない。それ以上追求して、「ユーモアを理解しない奴だ」と思われたくないと考えるからである。  しかし、と私は考えるのだが、若ものたちの側にとっては、それは決してユーモアではない。彼らは、思いがけなく真剣なのだ。「その方が夢があるからさ」という言葉の裏には「信じようと信じまいと俺たちの勝手じゃないか」「ガタガタ言うな」「それ以上俺たちのことに立ち入るな」という、冷たい強面の態度が見えかくれしているような気がするのである。  つまりその時彼らは「空飛ぶ円盤」が「実在するかしないか」が問題であった時代の、それに反応することで試された我々の生活感覚、もしくは哲学を、すべてひっくるめて相対化し、批判し、そしてそれを冷たく拒絶しているのである。そうしたことにまで、生活感覚や哲学を持ち出さざるを得ないこと自体が、貧しい卑しいことなのだと判定し、それに巻きこまれまいとしているのである。  さらに重要なことは、若ものたちのそうした反応を鏡にしてわが身を映し出した我々自身が、そのことを貧しい卑しいことだと思い始めているという点である。ひところ「スプーン曲げ」ということが流行した時、『週刊朝日』がこれを批判するキャンペーンを展開したのだが、この時私は『週刊朝日』のやり方が、大人気のない貧しいものであると感じつつ、同時にそれをそう感じている自分自身にガク然としたことがある。つまりその時私は、無意識に「夢のある方がいいじゃないか」という心情の内に巻きこまれていたのである。  すでに「UFO」問題は「実在するかしないか」が問題にならないばかりでなく「信じているかいないのか」ということですら、問題ではないのかもしれない。「信じているよ」「そうかい」と、さり気なく言い交わして彼らはすれ違ってゆく。彼らの内にあっては、おそらく「信じている」ことと「信じていない」ことは等価なのであろう。ただ「実在しているかいないか」「信じているかいないか」という問いの中に、何らかの企みをこめ、それによって何事かを試そうとする試みに対してだけ、彼らは身構え、防禦的な姿勢をとるのである。  一方我々にとっては、それを「信じている」ことと「信じていない」ことが等価である状態などというものは、決して理解できない。過渡的に、苛立ちながらやむを得ずそうした状態に耐えることは出来たとしても、それをそのまま許容することはできないのである。我々にとっては「実在する」ことと「実在しない」こと、「信じている」ことと「信じていない」ことは、常に葛藤としてしかかかわりあっていない。どちらかに断定することが困難な状況だとしても、したがって当面はそれをそのまま放置しておかなければいけない問題であったとしても、それはあくまで葛藤なのであって等価ではない。「空飛ぶ円盤」時代と「UFO」時代の、それぞれに対する反応の決定的な違いは、このあたりにあるのではないだろうか。「空飛ぶ円盤」時代にあっては、我々はそれを確かめるために、何ものかを賭けようとしたし、賭けなければ確かめようがないと信じていたのだが、「UFO」時代にあっては、彼らは何ものも賭けようとしていないし、もっと言えば、確かめようとすらしていないように思える。 「UFO」のブームも「古代史」のブームも、そして「インド」のブームも、若ものたちの一種の現実逃避であると、一般には言われている。おそらく、そのこと自体は間違っていないだろう。彼らは、我々の貧しく卑しい現実感覚に裏打ちされ、すべてを葛藤の内にとりこもうとする精神に、そのナイーブな表皮を傷つけられまいとして、一斉に逃避を開始しているのである。  しかし、だからといって彼らのそうした行為が、我々の文化に何の影響ももたらさないかというと、私はそうは思わない。これまでになされた多くの現実逃避は、逃避し切れない苛立ちを現実の方向に残すことによって、そこにある種の影響をもたらした。もちろん、この場合もまたそうだ、というのではない。逆である。現在の「UFO」と「古代史」と「インド」のブームは、これまでになされた現実逃避に比較して、はるかにスマートに行なわれている。現に前述した二人の少女は、≪あみだくじ≫がそう指示したという理由で、平然と自殺に赴いている。  そちら側に、こちら側と何のかかわりもないルールが成立していて、したがって彼らは、ほとんど苛立ちを残さず、そちら側だけで自足しているように見える。それが、我々を本質的なところで、不安にさせているのである。だからこそだ。だからこそ、彼らの行為が、その現実逃避が、我々の文化に及ぼす影響を無視できないと、私は考えるのである。つまり、我々の、彼らから受けるそうした不安が、現実に我々の文化を構造的にゆるがしつつあると思うからである。  従来、これに似かよった現象は、おそらく宗教運動の形で発生した。我々がそれまで素朴に養ってきた生活感覚や哲学と、まったく別なルールによる新興宗教が突如発生し、みるみる大量の信者を獲得し、一大勢力を形造ったという例は、これまでにも多くある。戦前においては、国体に抵触するということで、それらの新興宗教はすべて、大弾圧されたのである。その良し悪しはともかくとして、そうした勢力の出現によって、当時の国体の管理者が、その崩壊の危機を感じとった事情は、よくわかるような気がする。  現に、現在の「UFO」や「古代史」や「インド」のブームは、どこかしら宗教的なニュアンスを帯びている。しかし、従来の新興宗教とまったく違うところは、それらは運動ではないし、したがって教団組織を作ることもないし、ならば当然、他の現実的な勢力、たとえば国体などというものとも、決して拮抗しないだろうということだ。ただ逆に言えば、それだけによけい、始末におえないのだ、ともいえるのである。  彼らは極めて日常的なレベルで、個々に細分化された対人関係や、共同体のメカニズムを、かつての新興宗教が国体の存立をおびやかしたように、おびやかしつつあるからである。  もちろん私は、そのことで今すぐ彼らを非難しようというのではない。彼らのそれが現実逃避だからということで非難することはもちろん、そうした事態が我々の対人関係や共同体のメカニズムをおびやかしているとしても、だからといって直ちにそれを非難することはできないと考えている。もしかしたらそのことは、我々が歴史的に当然たどらなければならない過程であるかもしれないからだ。  しかし少なくとも、現在こうした事態が、我々のこれまで素朴に信じてきた愛と憎しみと生と死にかかわる力学を、その原始的な構造を、本質的なところでおびやかしつつあるということだけは、知っておきたいと思う。そして、これがこのままなしくずしに崩壊するのか、それとも、やがてまた何らかの形でその力を回復するのかは、わからないけれども、当面はともかく、この構造によって生活を組み立ててゆく以外にはないと考えている。  二人の少女が≪あみだくじ≫のために選んだ、「日本人のX」「自殺」「ROS」「御三家」という四つの文字に、彼女たちがどんなドラマを見、何を選んだのかはその過程を通ずることなしには理解できないに違いない。 [#改ページ]   銭湯事件  ある中年のサラリーマンが、持家を売って都心のマンションに移り住んだ。年をとった母親と夫婦と子供二人の五人家族であり、下の子が中学を卒業したのを機会に、通学と通勤に便利な場所を選んだのである。移り住むにあたって、最も抵抗のあった母親のことを考慮して、彼女のためには特に一室を用意した。もちろん、そのことがかえって良くなかったのかもしれない。彼女はその一室に閉じ籠もることが多くなり、そこに、自分用のテレビ、自分用のお茶の道具などを独自に揃えることに情熱を傾け出した。しかし、それも長くは続かない。共有できるものは共有した方が経済的であるし、そのことで家族の抵抗に遇ったからである。  彼女は、次いでひんぱんに外出するようになり、それは、持帰った買物の包み紙などから推察するに、どうやらかつて持家のあった付近をうろついていたらしい。しかし、住んでいた当時からそのあたりに、彼女の親しい友人や、話し相手がいたとは、家族の誰も記憶していない。そうこうしているうちにある日、彼女は自分でその街に小さなアパートを見つけ、突然、そこに一人で住みたいと言い出した。家族は一様に驚いたが、結局、一時そうしてみた方が問題を紛糾させないために有効であるかもしれないと考えて、許可した。  彼女は今そこに、家族の見るところ、極めて平穏に暮している。時々家族の方から彼女を訪ね、また時々彼女の方から家族を訪ねてくるが、そのこと自体は、ことあらためてどうということもない。つまり、何等かの問題は、そこで一応の解決を見たのである。  この事件は、言ってみれば極めてありふれたものだろう。「年よりというものは常にそうしたものさ」ということで、誰でも彼女の行為を理解することができる。しかし、そうは言っても、何かしらひっかかるものが残るのも事実である。実はこの話は、私が「マンションの生活」を材料にして仕事をしようとしていた時、ある友人が話してくれたものだが、「住んでいた当時からそのあたりに、彼女の親しい友人や話し相手がいたとは、家族の誰も記憶していない」などという語り口の中に、ある種のことをほのめかしていたらしい。 「つまり銭湯だよ」  と、その友人は言った。かつての持家にも内湯はあったのだが、その当時から彼女は、よほどのことがない限り銭湯にゆくのを常としていたそうである。言ってみれば、彼女は、銭湯へ通うことのできなくなった生活から、銭湯へ通うことのできる生活へ回帰したのである。なるほどそう言われてみれば、彼女の行為はもうひとつ具体的に理解できるような気がするのである。  考えてみると、かつて我々の生活空間としての街は、常にその暗部に、銭湯という猥雑な空間を抱え込んでいた。そこで実際に何が行なわれていたかというと、ひどくとりとめがないが、しかし少なくとも、街というものの共同性に関わる、最も内密な取引は、そこで交わされていたに違いない。言ってみればそこが、街の共同性を内側から支える最暗部の、肉声の現場だったのだろう。もちろん、言うまでもないことだが、そこへ行けば必ず特定の話相手がいる、というようなことではない。むしろそここそ、沈黙すること、個別的であることが具体的に了解される唯一の場所でもあったのである。だから、その意味で言えばそこは、共同性と個別性が具体的に折合いをつける現場だった、と言ってもいいかもしれない。  マンションにはそれがない。マンションという空間は、おおむね個別性を強調したものである。もちろん、形式的には共同の空間というものをそれぞれ保有しているのだが、何ものも、それを内側から支えようとはしていない。そこで人々は、ひとまず過度に個別性を強調しはじめる。彼女が、彼女の与えられた一室において開始したのは、おそらくそれだったのだろう。しかし、やがて彼女はそれをあきらめる。彼女のそうした行為が、家族としての共同性を損いはじめたからだろうか。私はそうは思わない。むしろ、そのようにして復讐しようとした共同性が、彼女には遂に見えてこなかったからに違いない。人はおおむね、共同性の中で了解されていないと感じた時、過度に個別性を強調することでそれに復讐しながら、同時にその了解への手がかりを得ようとする。  つまり彼女は、そうすることでそのマンションの空間に、いわば「幻の銭湯」を探り、遂にそれを見出すことのできないまま、その銭湯を具体的に保有するかつての街の空間へ回帰したのである。これが彼女の行為に対する、ある意味での「正解」ではないだろうか。  我々は常に彼女の行為を理解する。しかしもちろん、問題はそれだけでは終らない。現在、我々の街から具体的に銭湯が失われつつあるように、それが内側から支えていた内密な共同性そのものも崩壊しつつある。かと言って、新たな共同性が、マンションの林立する空間に現在再編成されつつあるかと言えば、それも期待できない。個別性と共同性の相互の復讐戦は、それぞれにまったく噛み合わないまま、続けられざるを得ないのである。  前提がひどく長くなったが、私は現在の差別語の問題を考える時、常にこの構図を考えざるを得ない。究極のところこの問題は、我々の言葉が、その共同性と個別性の折合いをつけるべき現場を見失い、一方でその幻の共同性に依拠しようとし、一方でそれに復讐すべく過度に個別性を強調しようとして、開始されたのではないだろうか。  現在よく言われているように、「めくら」という言葉が差別語として問題にされているのはともかく、それに関わって「めくらじま」「めくらめっぽう」まで問題にしようというのは明らかに理不尽なことである。そこに我々はどうしても、ある種の「過剰なる意図」を読みとらざるを得ない。しかしまたおそらく、情勢の平均値の中からその「過剰さ」を指摘することで、それを中和させようというのは、問題のすりかえ以外の何ものでもないだろう。その「過剰さ」が意図であり、それには明らかな根拠があることを理解することなしには、問題は一切噛み合うことがないのである。  私は、言葉が、その共同性と個別性の折合いをつけるべき現場を見出し得たら、その時はそもそもの出発点である「めくら」ですら、問題にされるようなものでなくなると考える。これはいわば「銭湯用語」であり、かつてその現場で一つの言葉として確定されてきたのであろうと思われるニュアンスを帯びている。つまり、かつての「銭湯」的空間においては、その言葉は正確に機能し得たのである。  それはこういうことだったと思う。人は「銭湯」で「めくら」という言葉を口にする時、必然的にその街に具体的に住む「めくら」である人の存在を意識せざるを得なかったのであり、そうすることで、その特定の人に対する同情と優越性の分量を、自分自身の思想を賭けて、調節しなければならなかった。つまり、「めくら」という言葉は、我々が今考えるより、はるかに多くの不安定な内容を含んだ言葉だったのであり、それは、「銭湯」と言う極めて内密な共同性が養われつつあった現場で、その言葉の関わる具体的な存在を手がかりにして、それに対するある種の決意をすることなしには、決定できないものだったに違いないのである。  かつて人々は、「めくら」という言葉を口にする時、たとえ意識はしていなかったにせよ、常に或るリスクを背負っていた。リスクを背負うことによって、その言葉の個別性をかろうじて共同性の現場に、つなぎとめていたのである。逆に言えば、「めくら」という言葉は、そのようにして常に緊張していたのであり、そうすることで言葉たり得ていたに違いない。  我々は現在、「銭湯」的現場をまったく見失ったまま在る。そして「めくら」という言葉を、共同性の中で既に了解され終ったものとして、それに対する何等のリスクを背負うこともなく、使用している。しかし、言葉というものは、一度了解され終ったものがそのまま持続するということはない。それは常に、時々刻々、了解され続けなければならない。そうされ続けることによって言葉は、生きて[#「生きて」に傍点]いる。つまり我々は、それが共同性の中で了解され終ったと考えた時、その言葉を殺した[#「殺した」に傍点]のである。  言って見れば、我々は現在、言葉の共同性を、それらがすべて死骸である、という点において了解しているのだろう。だからこそ我々は、あらかじめ共同性の中で殺されている「盲目」という言葉でなしに、「めくら」という言葉から、かつてそれが個別的であった事情を探ろうとするのだろう。言うまでもなくそれは、死骸として了解された言葉の共同性の側から、それぞれの個別性を恢復させることにより、新たな現場を再編成しようとする意図から出たものに違いない。  しかしもちろん、「めくら」という言葉の個別性に依拠することを強制されてきた側から見れば、それは無気味な現象にしか見えなかっただろう。様々な言葉の中で、「めくら」という言葉だけが、たとえば巨大な爬虫《はちゆう》類の死骸の中でそこだけぴくぴく動く部分[#「部分」に傍点]のように、不快なものとしか感じとれなかったとしても不思議ではないからである。そこで、その言葉の個別性を圧殺する。この行為もまた、正当なものに違いない。それはこの行為が感覚的に理解できるということだけではなしに、爬虫類の死骸の一部だけをぴくぴく動かしてみせるということが、たとえどんなに広範囲に行なわれても、結局その爬虫類全体を生き返らせることにはつながらないと考えられるからである。 「めくら」という言葉の個別性に依拠する人々がその個別性を圧殺した時、その死骸としての共同性に依拠している人々が、もし正当に対応して緊張することができたら、あるいはその時、言葉の共同性の新たな現場が見出し得たかもしれない。しかし、現実には、そのようなことはなかった。我々は、ほんの一瞬、すれ違っただけに過ぎない。その後、そのそれぞれの言葉の個別性に依拠する人々が、そのそれぞれの言葉の個別性を圧殺するだけにとどまらず、さらに「過剰なる意図」を示しはじめたのは、逆にその個別性を正当なる共同性の中で了解させるべく、正当ならざるそれに復讐を開始したということに他ならないと思う。  つまり、言葉の見せかけの共同性の側から個別性を恢復させようとする動きと、その個別性の側から真の共同性を恢復させようとする動きの、位相の喰い違いが、現在の問題を現象させているのだと、私は考える。  ある日、有楽町の小さな映画館で『レニー・ブルース』を見た。≪五〇年代後半から六〇年代前半のアメリカ・ショー・ビジネス界を閃光のように駆け抜けたエンターテイナー≫と言われるレニー・ブルースは、聴衆の前であえて、ニガー、カイク、ボラック、スピックなどの、いわゆる人種差別用語、または猥せつ語を使い、それによってアメリカ社会における、ある種の偽善性をあばいてみせたということで有名である。事実、ダスティン・ホフマン扮するところのレニー・ブルースが、サンフランシスコの地下クラブで、それら人種差別用語を使用しながら、一方で聴衆を挑発し、一方でそれを了解させるべき共同性の空間を作ってゆく過程は、スリリングであった。  おそらく、彼のこの行為を、前述した構図の中で位置づけるとすれば、それはその地下クラブの空間を、いわゆる「銭湯」的な空間に再編成してみせる、という種類のものになるだろう。つまり彼は、そのようにして、言葉の共同性と個別性に折合いをつけることに成功したのである。しかし、あくまでも重要なのは、彼のその方法は、その特定な空間においてのみ成功したという事ではないだろうか。おそらくその地下クラブは、かつて銭湯がその最暗部として街全体に関わっていたようには、それに関わっていないに違いない。現に彼は、猥せつ罪で法廷に召喚されるのだが、その法廷の場では、言うまでもないことかもしれないが、失敗しているのだ。  彼のその事件が契機となって、ポルノ解禁への道が開かれたと、一般には言われているらしいが、事実そうであったとしても、それは「彼の成功」とは、何の関係もないことに違いない。彼が真に情熱を傾けたのは、もっと別のものだったに違いないからである。  私は、レニー・ブルースが地下クラブであえて人種差別用語を口にすることと、「めくら」という言葉の個別性に依拠することを強制されている人々がそれを差別語として忌避することの間には、極めて似かよったものがあるような気がする。おそらく、その言葉への決意の仕方と、それを決意させつつある立脚点の「暗さ」において、まったく同質のものとみてもいいのではないだろうか。つまり、ここでは、人種差別用語をあえて口にしようとしたレニー・ブルースの方法や、「めくら」という言葉を差別語として忌避するそれに個別的に依拠する人々の方法の有効無効が、性急に問題にされるべきではないのであり、むしろそれをそうせざるを得なかったそれらの人々の言葉への決意と、それを決意させつつある立脚点の「暗さ」を、我々が理解することではないだろうか。そして、我々がそれぞれ個別的に依拠している言葉をひとつひとつ、その場所で確かめてみることである。極めてまだるっこしい方法であるが、そのようにしてしか現在のこの問題は解決されないのではないかと、私は考えている。 [#改ページ]   サインペン爆弾事件 [#1字下げ] 長野県立吉田高校(丸山保彦校長)(長野市吉田)で昨年十二月二十六日、生徒が拾ったサインペンが爆発し、指の骨を折るなど、一連の爆発物が見つかった事件で、長野中央署は一日、同校三年生少年(一七)に任意出頭を求めて追求したところ「ぼくがやった。大学に行くのがいやで[#「大学に行くのがいやで」に傍点]、警察につかまれば進学せずにすむと思った[#「警察につかまれば進学せずにすむと思った」に傍点]」と犯行を自供したため、同日夕、少年を火薬類取締法違反、傷害などの疑いで緊急逮捕、事件は一カ月で解決した。 [#地付き]——『朝日新聞』昭和五十年二月二日  事件としては大きなものではない。被害は「あけると発火するマッチ箱」を拾った生徒一人が手に軽いやけどをし、「キャップをあけると爆発する仕組みのサインペン」を拾った生徒が、指を骨折し一カ月のけがをしただけである。その割りに扱いが大きいのは、言うまでもなく、動機の特異性によるのであろう。前述した『朝日新聞』の記事の見出しも、≪「進学イヤでやった」・吉田校のサインペン爆弾・三年生が犯行自供≫となっている。大学進学を前にした受験生が、「むしゃくしゃした気分から逃れてさっぱりしたいため」に、「事件」を起した例は、これまでにもなかったわけではないが「警察につかまれば進学せずにすむと思った」と、これほど意識的に「犯罪」を利用した[#「利用した」に傍点]例は少ないかもしれない。そして、この言葉が、単にその場の思いつきで言われたものでないことは、一月二十七日、県警本部に一一〇番して「吉田高校事件の犯人はぼくだ。自首するにはどうすればいいか」と電話していることでもわかる。言ってみればこの少年は、大学進学から救済される[#「救済される」に傍点]ために、一目散に「犯罪」という領域に逃げこもうとしていたのだ。しかも、我々が驚かされるのは、この少年にとっての「犯罪」という領域が、大学進学を強要する確固たる日常世界を形成するもののアンチテーゼとして漠然と気分的に存在するものではなく、「一一〇番に電話して自首する」という手続きを経て入り込める極めて具体的な領域と考えられていたらしい、ということだ。従来、「犯罪」という領域は、日常生活に背を向けた方向に、どちらかと言えば「情緒的に」存在するものとされていたのであり、我々はそこに、「ヤケを起こす」か「思わず間違える」か「やむを得ず」に踏み込むことしかできなかったのである。しかしその少年は、極めて計画的に、しかも、「自己救済」の目的をもって、そこに踏み込んだのである。  少年は「警察につかまれば、進学せずにすむと思った」と言っている。つまり、進学しないためには、警察につかまる以外にないと考えたのである。もちろん我々は、ここから論理の飛躍を発見するのは簡単であるが、しかしまた同時に、彼にこの論理の飛躍を強いたであろう状況についても、充分理解できるような気がする。もしかしたら彼は、この「事件」を起す以前に、「進学したくない」ということを、周囲の誰にも打明けていなかったかもしれない。だから周囲は、この「事件」が起きるまで誰も、彼が「進学したくない」と考えていたことなど、まるで知らなかったかもしれない。ありそうなことである。人々は「それならそうと一言[#「一言」に傍点]いってくれればいいのに」と考える。もちろん、「事件[#「事件」に傍点]」の後で[#「の後で」に傍点]、である。これがおそらく重要なところだろう。言うまでもなく、言って欲しかったこの「一言」が、「事件」の前でも[#「前でも」に傍点]有効であったとする保証は何もない。人々はただ、「事件」後になってみてはじめて、もし発言されていればその「一言」が重要であったのだと、気付いたに過ぎない。逆に言えば彼は、まさしくそのためにこそ「犯罪」を必要としたのである。  ひとつ言えることは、彼をとりまく状況の中では、「進学するかしないか」という選択の規準は存在していなかった、ということだろう。国立へ行くか私立へ行くか、文科系へ行くか理科系へ行くか、一流校へ行くか二流校へ行くか、選択の幅はここに限られていて、「進学しない」という規準はなかったのである。選択の幅がせばまればせばまるほど、その生活空間におけるストレスは高まる。中学卒業生の大部分が高校へ進学し、またその高校卒業生の大部分が大学へ進学している現状から言えば、「進学しない」ということは、その段階を進むに従って、意図的ではないにせよ、選択の規準としての価値を失ってゆくのであり、遂にそれがある段階でタブーになったとしても不思議ではない。彼はその時、高校三年だった。そして彼はその周囲を、「進学しない」というその一言を発言すること自体が危険である状況であると、判断した。つまり彼が、「事件」前にそれを言わなかったのは、単に怠慢だったのではなく、危険だったからである。  しかし言うまでもなく、彼が「進学したくなかった」のは、進学しないで何かをやる計画があったせいではないだろう。大学へ進学しないで、コックになりたかったり、大工になりたかったりしたなら、彼は「進学すること」を暗に強要する状況と、さほど緊張しあうことはなかったであろうからだ。そこは、「進学すること」と「進学しないこと」を、それぞれに可能な条件と考え、そのそれぞれの利害得失を論ずれば足る世界である。たとえば「進学しない」と言い出すこと自体は一時危険であっても、次いで彼は、コックであり大工であることによって、救済される可能性がある。しかし、この場合は違った。彼は、「進学すること」を暗に強要している生活空間を、何かのために[#「何かのために」に傍点]逃れたかったのではなく、ただ単に逃れたかったのである。彼が「犯罪」を犯すことによって得たのは、彼の目的を達するための新たな可能性ではなく、ただ彼が存在するための新たな「関係」に過ぎなかった。  おそらくそうだろう。彼は、「進学しない」と発言すること自体が危険な、選択の幅がせまい、ストレスの高い「関係」から、もっと選択の幅が広い、ストレスの低い新たな「関係」を欲したのであり、そのために「事件」を起こしたのである。事実、「犯罪者」としての自由を獲得してはじめて彼は「進学したくない」と発言し、その時周囲も、それが極めてささいな問題であることを理解したのである。おおむね人々は「そのようなささいなことで事件を起こしたのか」と考えるが、これは順序が逆である。「事件」の後だからこそ、それがささいな問題に変化したのだということを、人々は知らない。つまり、彼は結局、成功したのである。  彼の行為を愚劣と見るのはたやすい。心理学的に見れば彼の行為は、「進学しない」という言葉自体をタブーに仕立てあげてきた周囲に対する「いやがらせ」であり、そのために敢て自らを損うものに他ならないからである。そして、自己の欲望を抑圧するものに反抗してこれを打開するのでなく、単にそれに対する「いやがらせ」のためにのみ自らを律し切る精神を、人々はおおむね愚劣と言う。敗北主義と言ったりする。しかしこの考え方は、人間の欲望に対する余りにも素朴な信仰に把われすぎているように、私には思われる。つまり人々は、欲望というものは達せられるためにあり、したがってそれを中途であきらめて、「いやがらせ」にのみ徹する精神を、愚劣、もしくは、敗北主義とするのである。私はそうは思わない。  欲望は、それ自体として達せられるか、あるいは、それを抑圧するものに関わって緊張し、その「関係」を絶対化することによっても「達せられる」のである。したがって「いやがらせ」の精神は、欲望の達成をあきらめたところから発生するのではなく、欲望の新しい達成の方法に他ならない。欲望をそれ自体として達成せしめるべく行なう努力をプラスのエネルギーとし、それを抑圧するものとの「関係」を絶対化するべく行なう努力を、つまり「いやがらせ」の精神が発するものをマイナスのエネルギーとするのが一般の風潮であるが、これは社会が近代化する過程で、為政者が意図的に押しつけてきたモラルであり、信ずるに足らない。少なくとも、プラスのエネルギーであるから善であり、マイナスのエネルギーであるから悪である、ということはできないのである。  私は「関係の人間」というものの存在を想定する。彼は、自らの内に確かに欲望というものが存在しそれが抑圧されつつあることを知っているが、その欲望というものが果していかなるものか、またどのような過程を経て、それ自体達成され得るものかを知らない。つまり逆に言えば彼は、抑圧されているからこそ、そこに欲望が存在することを知るのである。そしてこの場合の不安は、それが抑圧されていることからくるのではなく、それが何であるかわからないところからきている。そして彼は、それが何であるかわからないままに、その抑圧されている「関係」に耐え切れなくなってゆく。この時、彼は、その抑圧をはねのけて欲望それ自体を達成させる方途ではなく、抑圧するものとの緊張した「関係」を絶対化することによってそれを確かめる方途を選ぶ。もしかしたらそれは、抑圧をはねのけることによって欲望それ自体も見失われるかもしれないと考えるせいだろう。これを私は「関係の人間」と言う。 「関係の人間」というのは、「関係」の中で常に相対化された人間のことである。彼は常に「見られている」人間である。と言っても、彼に主体性がないわけではない。彼は、言ってみれば「主体的」にそうしているのであり、言葉を換えて言えば、他人をして常に「見させている」人間なのであり、そうさせることによって自ら確かめつつある人間のことである。当然彼には、人々にこう見られるべきだ、という確信はないのだが、こう見られるべきではないという反応はあるのであり、その時彼はある種の抑圧を感ずることになる。視線の抑圧と言ってもいいかもしれない。他愛ないことを言ってすませるわけにはいかない。彼は常に人に「見られている」人間なのであり、そうされることによって自らを確かめつつある人間だということを忘れてはならない。そこで彼は、人々の視線の予定する地点に、まったく違った解答を用意しつづけるべく、自らの存在をイロニカルなものに仕立てあげてゆく。よく我々は「いやがらせ」のために自殺してみせる女の子の事を聞くが、この時死ぬのは決して彼女自身ではない。言ってみれば彼女はこの時、「人々の視線の予定する地点に、まったく違った解答を用意しつづけるべく、イロニカルなものに仕立てあげた自己」を、殺したのに他ならない。  彼は、抑圧するものの前に、イロニカルに仕立てあげた自己を置き、それとこれとの「関係」を絶対的なものにして凍結し、よって、他の新しい「関係」に住み変える。これが「関係の人間」の行動のメカニズムである。この「事件」の少年も、このメカニズムの内に捉え切れると、私は考える。  彼は、「進学しない」で何をやるという確たるもののないままに、ただひたすら「進学すること」を暗に強要する状況に耐え切れなくなっていた。彼は「進学しない」ことなど想像だにしない視線の集中に、ある抑圧を感じたのである。そこで彼は、その視線が予定する地点に間違った解答を用意しつづけるべく、自らの存在をイロニカルなものに仕立てあげていった。「犯罪者」というのは、彼が自らの存在をイロニカルなものに仕立てあげてゆく過程で得た、究極のイメージに他ならない。言ってみれば、「犯罪者」にもなり得るという決意が、そのイロニカルな存在を維持する根拠となったのだろう。彼が、自らをイロニカルな存在であると信じた瞬間、それを抑圧しつつあった周囲との「関係」から彼は自由になる。  次いで、彼は「犯罪者」とその周囲という新しい「関係」の中に住み移り、前段階での「関係」を絶対的なものとして凍結して閉ざし込むのである。周囲は、彼が凍結して閉鎖した前段階の「関係」を通じてしか彼を「見る」ことができないから、この新しい「関係」の中では、ただ混乱するしかない。つまりそこで彼は、白紙の状態で改めて見直されるであろう条件を、整えることに成功したということになる。  もちろん彼は、この新たな「関係」の中においても、再びある種の抑圧を感じ、さらに新たな「関係」に住み移ることを余儀なくされるかもしれない。彼は、それら「関係」を限りなく住み変える人生を約束させられている。しかし、少なくとも彼は、そのようにして限りなく「関係」を住み変えることによって、やがて本来あるべき正確な「関係」に植え込まれるであろうことを、信じているに違いないのである。そしてそれを信じてならない理由は何もない。 [#改ページ]   幼児殺害事件 「サインペン爆弾事件」がイロニーとしての犯罪の、最も典型的な例であるが、こうした例は我々の周囲においても、決して珍しいものではない。仮りに今、『週刊朝日』に連載された≪殺人者シリーズ≫をとりあげてみても、中にいくつかの、この種のものをあげることができる。  第十八回、「埼玉・杉戸町の赤ん坊殺害事件」は次のような事件である。本文冒頭には「『子どもなんかいらねえ。仕事をしたり子どもを育てたりじゃ、体がもたねえ』と半狂乱になった中林良江(当時二十六歳・仮名)は、無残にも生後二十六日の次女の命を断った。旧家の姑との間の、入組んだ感情のもつれ、対立が、その陰にあった。埼玉県草加市の農家におこった悲劇である」、とある。文中中林良江は、昭和三十九年六月二十歳で、「実家の倍近い農地をもつ旧家」の長男に嫁ぐ。見合の三カ月後、≪足入れ婚≫の風習に従って、式も挙げず、入籍もしないまま中林家に入る。「農作業は、ほとんど夫と、夫の両親がやっていました。私の仕事といえば、朝夕の食事の支度と洗たく、それに草取りなどの軽い農作業ぐらいでした。日常のオカズなどの買物も、サイフをあずかっている姑がほとんど済ませてしまうので、私が外へ出かけることはめったにありませんでした」。  同年九月妊娠して入籍。十二月、結婚式をあげる。四十年五月、長女出産。「長女が生れたときは、初孫のせいか、みんな喜んでくれました。長女の面倒は、ほとんど姑が見てくれました」。四十一年十一月、長男出産。「長男が生れたあと、何となく家族に冷たい目で見られてるような感じがしだしたのです。おばあちゃんが長女、私が長男を育てることになったのですが、おばあちゃんにくらべ、育児が下手だといわれているような気がしてなりせんでした」。「私はいつしか、食事をひとりでするようになったのです。ナマ卵をご飯にかけたり、インスタントラーメンだけで済ます日が続くようになりました」。四十四年五月、姑に「鍬の使い方を知らない」と叱られ家出、東京都内の建材会社に事務員として勤める。同年九月、夫に連れもどされて親族会議を開く。「私は、両親と別居するなら中林家へ戻る、と主張したのですが、姑が、別居などすれば、私が良江をいじめたと近所の人にカングられるから絶対にいやだ、と強く反対し、すったもんだのあげく、夫に説得されて、嫁ぎ先に戻りました」。同年末、次女の妊娠を知る。良江は夫に中絶を主張したが拒絶される。「三人目の子供ができたことを知った姑から、今度の子供は自分で責任をもって育てなさい、ときつく言われたのです」(浦和地裁の法廷で、良江はこの姑の言葉を「子どもを生むなという意味にとった」と言い、一方姑は「生むなと言ったことは絶対にない」と証言)。四十五年五月、次女を出産(良江は赤ん坊を見るよりも早く、助産婦に「子どもをもらってくれるところを捜して下さい」と頼んでいる)。同年六月、退院後次女を連れて実家に戻る(実家でもしきりと、「この子にはおっぱいなんかやらなくていい」などと口走った)。同年六月二十三日、事件の前日、良江は生れたばかりの次女を実家の近所の実兄の家に預けて中林家へ戻る。「夫は私の手を引きずるようにして杉戸の兄のところへ駆けつけ、実兄の前で次女を連れて帰るようさかんに私を説得しました」(しかし良江は「子どもなんかいらねえ、くれちゃうんだから……。仕事をしたり子どもを育てたりじゃ、体がもたねえ」と、目をすえてくってかかり、駆けつけた実家の説得にも、耳を傾けようとはしなかった)。「その夜は、夫と次女と一緒に実家に泊ったのです。翌二十四日、朝八時すぎ、私達親子三人は、バスで草加に向いました」。同日午前十時、中林家に着く。「私は何をする気もなく、放心したように次女を縁側に放りだしたままにしていました。夫が、次女のオムツをとりかえ、ミルクをやっていました」(そんな夫のそばで、良江は大声で「子どもはいらない」「子どもなんかもう生みたくない」とわめきちらしていた)。同日午後三時、家族が全員野良へ出たすきに、次女を連れて飛出す。「私は家を出てすぐに、以前妊娠中絶の相談に行った産婦人科医のところへ行き、もう子供は欲しくないので不妊手術をしてほしい、と頼んでみました」。同日午後三時半、医者に断られて産院を出たところで高校時代の同級生に会う(このとき良江は放心状態で、同級生はそんな良江に異常を感じた。「かわいい赤ちゃんね、と話しかけたのに、ぼんやりした顔付きで返事もしないんです。そしてのっけに、この辺で赤ちゃんをもらってくれる人はいないかしら、というじゃありませんか。様子が変なので、家の中へ入ってもらいました」)。同日午後四時半、同級生の家を出て草加駅に行き電車に乗る。「どうせ捨てるなら、私が生れ育った杉戸の方がいいだろうと考えたからです。杉戸駅におりた私は、それから二時間半ばかり、実家の近くまで行っては引きかえしたり、兄の家の付近をうろついたりしました」。同日午後八時、「赤んぼをあぜ道に寝かせ、着物を脱がせオムツをとり、素っ裸にしました。裸にしたとき、ちょっと泣声をたてましたが、すぐ泣きやみました。私は無言のまま、赤んぼの脇の下に手を入れてもち上げたあと、頭を下にして地面に落したのです。自然に手を放したというより、心もち投げつけるように力を入れて落したことを覚えています」。  既に明らかであろう。彼女もまた「犯罪」を、「関係」の抑圧から逃れるために、利用している[#「利用している」に傍点]に過ぎない。前述した論理に従えば、この時生後二十六日の次女を殺したのは、イロニーとしての彼女に他ならないからである。  ここで改めて「事件」をふり返ってみると、四十一年十一月、長男の出産の頃から、彼女が、ある種の「視線の抑圧」を感じはじめたのだ、ということが理解できる。もちろん、この時彼女が「何となく家族に冷たい目で見られているような気がした」事情は、簡単に説明できる。初孫として長女が生れた時ほどには喜ばれなかったのが、不満だったのだろう。原因は単純である。しかしこれが「関係の人間」特有のやり方で、「関係」のメカニズムにおける戦術に変えられると、問題はただそれだけのことでなくなってくる。つまり、ひとまず彼女は「不満である」ことにおいて、「関係」における自らの位置と、そのメカニズムを探り当てたのである。「不満である」ことをやめることはできない。「不満である」ことをやめることは、同時に「関係」をおりることである。「長女が生れた時ほど喜ばれなかった」という不満が、「初孫じゃないんだから当然だ」という反応で相殺されて零になるのなら、その本来の理由は自らの内より放棄してもいい。ともかく、限りなく「不満である」事情を自らの内に培養しつづけなければならないのであり、そうすることによってその「不満である」「関係」を絶対化して凍結し、自らは軽々と他の「関係」に住み変えなければならない。  その後「私はいつしか、食事をひとりでするようになったのです」というくだりから、彼女が、自らをイロニカルなものに仕立てあげつつある過程を読みとるのは容易であろう。ただし、四十四年五月、家出したことについては、二つの解釈が成立する。つまり、この時彼女は、「家出人」という新しいイロニカルな衣裳をまとうべくそうしたのだという考え方と、実はここに至って彼女は、自らの存在をイロニカルなものに仕立てあげ、それを維持することに疲れ、つまり「関係」を一時おりたのだ、という考え方である。私は素直に考えて、どうも後者のような気がしてならない。彼女は、実家へ出した手紙から居場所をつきとめられて、夫に連れもどされるのであるが、連れもどされることを期待してそうしたのだとは、私には思えないからである。  彼女は、両親と別居するなら中林家へ戻ると主張したにもかかわらず、姑に反対されて、結局無条件で戻されてしまう。彼女が中林家へ戻るについて、条件を、それも「両親と別居する」という条件をつけたこと、これによっても、その時既に彼女が「関係」をおりていたのだ、ということがわかる。しかし、結局彼女は、条件なしで中林家へ戻ることになる。何故か? 私は、この時の姑の「別居などすれば、私が良江をいじめた、と近所の人にカングられるから絶対にいやだ」という言葉が、キーポイントであったと思う。つまり、この言葉によって彼女は、彼女の戦術が「関係」の中に具体的な効果を及ぼしつつあることを知ったのであり、再びその「関係」に立ち、それが「不満である」事情を自らの内に培養しつづける自信を得たのであろう。この姑の言葉が、彼女には、「関係」を絶対化されそのまま凍結されることを恐怖しているもの、と聞こえなかったはずはないからである。言ってみれば、この姑もまた「関係の人間」だったのであり、以後この二人は、「関係の人間」同志の相剋が常にそうであるように、相互に相手を絶対的な「関係」の中へ封じ込めるべく、角逐をくり返す。  間もなく彼女は次女を妊娠する。彼女は「育てる自信がないから中絶する」と言う。姑は「今度の子供は自分で責任をもって育てなさい」と言う。この言葉のやりとりにおける位相差を理解するのは、かなりのことかもしれない。つまり姑は、彼女の言葉を「今までだって忙しいのに、子どもがまた増えたらとても育ててなんかいけない。だから仕事を減らしてくれ」という意味に聞いたのであり、そこで「今までの子どもの面倒はまったく私が見てきた。それほどまでに言うんなら、今度生れた子どもだけは自分で全部責任をもって育ててみるといい」という意味を言ったのである。一方彼女は「子どもが生れても、私にはどうやら育てる能力がないし、今までのように全部おばあちゃんにまかせるのも、きっとめいわくでしょうから、中絶する」という意味を言ったのであり、したがって、姑の言葉を「私に押しつけるのはめいわくですから、生むなら今度の子だけは、あなたが全部責任をもって育てるんですよ」という意味に聞いたのである。  相互に相手の意図を、敢て誤解しながら[#「敢て誤解しながら」に傍点]、その「関係」を絶対的なものに仕立てあげるべく争うのである。あとは、一直線といっていいだろう。以後、彼女の中には、子どもへの愛情と、姑への憎悪との葛藤など、存在しない。このパターンの中に植え込まれた場合、イロニーとしての彼女にとっては、子どもへの愛情が強まれば強まるほど、それが殺されて、姑への憎悪として凍結されねばならなくなるからである。以後の彼女の行為は、一見複雑に見えるが、良く観察してみると、子供を「誰かにくれてやる」「どこかへ捨てる」「殺す」という直線的な段階を追っているに過ぎない。 「私は無言のまま、赤んぼの脇の下に手を入れて持ち上げたあと、頭を下にして地面に落したのです。自然に手を離したというより、心もち投げつけるように、力を入れて落したことを覚えています」。この最後のくだりが、やや不自然であることは、鋭敏なものには容易に読みとれるであろう。おそらくこれは、調書をとる過程で、事情を再確認する係官の質問が挿入されて書き加えられたものである。事実、ここは、力をこめて、投げ捨てられたのであろう、と私は想像する。しかし、この言葉を述べている時の彼女は、既にイロニーとしての自己から離脱して、新しい「関係」に住み移っているのであるから、たとえ言葉にせよ、「力をこめて投げ捨てる」には忍びなかったのであろう。憎悪は、姑との「関係」の中で絶対化されて凍結され、彼女は既に、その「関係」を通じて自らの行動を見るすべを失っているのである。  四十六年二月二十二日、浦和地裁は良江に対し、懲役三年、執行猶予四年の判決を下した。執行猶予の理由について、裁判長は、犯行当時の良江が心神衰弱とは認定しなかったが、中程度のノイローゼにかかっていたことは認めている。妥当な判決かもしれない。彼女の当時の精神状態を、「中程度のノイローゼ」と認めようと認めまいと、彼女は、我々の言う「犯罪者」ではない。我々はこれまで、彼女のような状況にあった場合、その姑を殺すことを、「犯罪」と言ってきたのである。 [#改ページ]   金属バット殺人事件 [#ここから1字下げ]  私は十一月二十九日午前二時半ごろ、野球バットで両親を殺しました。犯行状況は次の通りです。  前日の二十八日、父はゴルフ、兄はコンピューター関係の勤め先へ行っており、母も私が起きた時は、習字の習い事へ出かけてました。自分の部屋がある二階から一階へ下り、紅茶とクラッカーで朝食兼昼食を食べました。午後二時ごろから昼寝、三時ごろ母が帰ってきました。  宮前平の駅までスポーツ新聞を買いに行き、七時ごろ母と一緒に夕食を食べました。母は外で食べてきたからと菓子パン二つだけしか食べませんでした。私は母が作ってくれたしめサバ、ビーフシチューなどを食べ、その後テレビでプロレスを見ました。私は予備校の勉強も夏休みごろから中だるみのような状態になっていました。十一時半ごろまで国語の勉強をしていたら、玄関で音がして父が帰ってくるのがわかりました。  間もなくインタホンで父から「ちょっと下りてこい」といわれました。いつもより冷たい感じでした。父の定期入れからキャッシュカードを抜いて一万円おろして本やウイスキーを買っていたのがバレたと思いました。父はこわい顔をしていつもよりきげんが悪く、私に「座りなさい」と言い「キャッシュカードがなくなった。お前だろ。金もなくなっている」と言いました。  キャッシュカードは確かに盗んだが、お金は取っていないので、そう言うと「あんた以外、だれがやるの」と母親に言われ、さらに父は「キャッシュカードを持ってこい。ドロボウを育てた覚えはない」、母も「あんたには本当にあきれたわ」と言いました。私はお金のことも押しつけられたので怒りました。  手を上げられたりなぐられたりはしなかったが、十分間ぐらい怒られた後、部屋に戻りました。むしゃくしゃしてウイスキーをポケットびんからラッパ飲みしていたら、父が二階へ上がって来ました。やばいと思いましたが、机の上のポケットびんを見られ「酒なんか飲んでなんだ」と怒られました。  そのままいすに座っていたら右足で腹をけとばされ、倒れました。父は「ふざけるな。あした、出ていけ」と、怒鳴りました。父が出て行った後、私は胸がむかむかして、自分が盗んでいない金まで盗んだことにされ腹が立ちました。たばこを十本くらい吸い、カラになったポケットびんにウイスキーをさらに大びんから移し替え、二百四十ミリリットルくらい飲みましたが、次第に怒りがこみ上げてきました。  両親をぶっ殺してやろうと思った時、部屋の中に金属バットがあるのに気づきました。パジャマをジーパンにはき替え、ゴム手袋をしました。動きやすく、血がつかないようにしたのだと思います。時間は二十九日午前二時半ごろでした。階段の電気スイッチをつけ一階の父の部屋に行ったら、父はあお向けに寝ていました。肩の近くに立ち、両手でバットを持ち、ひたいのあたりに振り下ろしました。父は「うっ」というかすれた声を出したので、さらに布団をかけ三、四回はやりました。父をやったら憎しみが晴れました。  母の部屋のフスマを開けたら、父と同じように寝ていました。母にも憎しみがあったので同じようにやりましたが、母には布団をかぶせませんでした。その後、血のついた金属バットやゴム手袋を水で洗いました。そのうち落ち着いてきたら大変なことをしたと思い強盗にやられたように偽装しました。犯行の間、酒に酔ってふらついたりしたことはありませんでした。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——『東京新聞』  ≪金属バット殺人事件≫というのは、昭和五十五年十一月二十九日、川崎市高津区の高級住宅街に住む旭硝子東京支店建材担当支店長、一柳幹夫(四十六歳)と、その妻、千恵子(四十六歳)が、二男の二浪予備校生、展也(二十歳)に、金属バットでめった打ちされて殺された事件のことである。そしてこれは、犯行者展也が、同年十二月五日、検察官に対して行なった調書である。  こうした自白調書というものは、往々にして、検察官との交渉の中でその都度、確認修正されつつ書かれる場合が多いので、それがそのまま犯行者の生の表現と考えることはできないが、その点を考慮しつつ、私はここからこの事件の様態を探ってみたいと考える。  まず最初に気付かされるのは、浪人二年目に入った展也の、生活の弛緩である。「夏休みごろから予備校の勉強も中だるみのような状態になっていました」と、自ら認めているように、起床時間、二時の昼寝、スポーツ新聞の購入、などにその種のニュアンスがうかがえる。しかも、父はゴルフ、兄は会社、母ですら習字を習いにと、他の家族はすべて(母だけはやや事情が異なると思われるが、それは後述する)それぞれの生活のリズムに乗っているのである。展也だけがひとり「とり残された」感じを持ったとしても、不思議ではないだろう。事実、他の資料によるとこの一家は、父は東大出身、母は昭和女子大出身、兄は早大理工科出身と、それぞれがいわゆる「エリート」としての条件を全うしており、その意味から言っても、展也はハッキリと「とり残され」ていたのである。  次に私が気にとめるのは、展也と母親との、もしくはこの家族全体に漂っていたかもしれない、一種の荒寥たる感触である。それを私は、ここに書かれた展也の二度の食事に見る。朝食兼昼食の「紅茶とクラッカー」はまだいいとしても、夕食の「母が作ってくれたしめサバ[#「しめサバ」に傍点]、ビーフシチュー[#「ビーフシチュー」に傍点]」という献立はどうだろうか。誰が考えても、これは奇妙なとりあわせである。食事の献立を、味覚のシンフォニーとする考え方からすれば、この二つの味覚はそれぞれ明らかに、ある不協和音を奏でている。もちろん、食事の好みというものは個人差が大きいから一口には言えないにしても、もしかしたらこの時、この一家の味覚シンフォニーを統べる母親のタクトは、大きく乱れつつあったのかもしれないのである。  しかもこの時母親は、「外で食べてきた」からという理由で、展也と同じものを食べたのではなく、その前で「菓子パン二個」を、おそらくはボソボソとつまんでいたのである。一見して、ひどく寒々とした情景だったに違いない。この点から考えると、私にはどうしても、この母親もまた独自に、何らかの理由によって思い屈していたのではないだろうか、という気がする。それが何だったのかは、ここではわからない。良人との間に何事かあったのかもしれないし、展也のことで悩んでいたのかもしれないし、あるいはまたもっと漠然としたことかもしれない。  そこで、この母親が習いに行っていた「習字」のことを考えてみる。彼女は何故「習字」を習いに行っていたのだろうか。子供が自分の手を離れた主婦が、それぞれ何がしかの「手習い」をはじめるというのは、よくあることである。そうすれば「良人が外で何をしているかについて疑心暗鬼になったり、子供のことでクヨクヨしたりしなくなる」と、評論家たちがそそのかすからである。「今こそ、あなた自身の人生を見つけ出すべきです」と……。  この母親も、世のそうした風潮に乗ったのだろうか。しかしこの場合、開始された「手習い」が、彼女たちにとって「独自の人生」となる可能性よりも、「新たな義務」となる可能性の方が大きい。人生の半ばを主婦業として縛られ、それが終ったとたん「さあ、お前の好きな人生を始めろ。他の家族をこれ以上かまってくれるな」というのは、かなり残酷なことに違いないからである。「好きなことをすればいいんだから」と言われても、人生の何ごとかに好奇心を感ずる年齢は、とっくに過ぎている。  もし、この母親もまたそうだったとしたら、それは、家族がこの段階に至った一家における主婦が、共通に陥る事情と言うことができるだろう。そしてこうした事情は、時がたつにつれて屈折し、次第に複雑な様相を呈してくる。ともかく、「好きなことをしていい」ということで、表面的には自由を保証されているのだから、不満や苛立ちは確実に蓄積されていきながらも、それをどのように表明していいのか、わからないからである。  もちろん、何度も言うようだが、この時この母親が、果してこの通りの事情の中に置かれていたのかどうかは、誰にもわからない。私は、その可能性もある、ということを言っているに過ぎない。ただしかし、何かしらこれに類した事情があり、それによってこの家庭の空気が、淀んでいたという事実はあるのではないだろうか。  たとえば、展也は帰宅した父親に「キャッシュカードとお金を盗んだ」ことを叱責される。以後の経過は、あり得てしかるべき展開をしているように見えて、その実、詳細に見ると不自然が目立つ。まず論理的に考えれば、展也は「キャッシュカードを盗んだ」ことを認め、その点について反省しなければならない。次いで「お金は盗んでいない」ことを、証明してその誤解は解かなければならない。これが順序である。やりとりの詳細は省略されているから、どのような経過を辿ったのか明らかではないが、結果として展也に「お金のことも押しつけられた」怒りだけが残ったことを考えれば、この順序が正しく踏まれたとは思えない。  私にはどうもこの親子が、双方とも、それぞれの不満を打明け、誤解を解くことに、あらかじめ絶望しているような気がしてならない。つまりそれが、この家庭の空気の淀みとして、感じとられるのである。  この父親は、展也が、キャッシュカードにしろ、お金にしろ、それを盗んだから叱責したのではない。母親も、それを否定する展也の言葉が信じられないから、それを受け入れなかったのではない。そして展也も、そのことはよく知っていたから、キャッシュカードを盗んだのは事実だったが、その点について反省する気はなかった。  この三人は、この時、ただいがみあわなければいけない、ある必然性を感じていた。何かわけのわからない事情が、たまたまこの三人を、そのようにそそのかしつつあったのである。父親はそこで、展也の「盗み」を口実にした。母親もそれに乗った。したがって展也も、「お金だけは盗まなかった」という口実にしがみついて、それだけを守ったのである。  もしこの時父親が、展也の「盗み」について、この家庭全体に関わるある本質的な問題を感じていたら、「何故盗んだのか」「何に使ったのか」「どうして父親に要求しなかったのか」「要求できなかったとすれば、親子の間に今、どのような問題があるのか」というように、それはどこまでも本質に近づき得ただろう。父親にも、母親にも、その気はなかった。もしかしたらこうした事件はもう幾度もくり返されていて、二人とも、そのことの本質をここで再びほじくり返すことに、疲れていたのかもしれない。  ともかく問題は、「盗んだ」「盗まなかった」という手続上の事柄だけが平行移動しただけで、一応のケリがついた。もちろん、こうしたケリのつけ方は、不健全である。三人はそれぞれ、その対人関係の基底部が促すドラマをなおざりにしたまま、現象面でのみいがみあったに過ぎないのであり、三者三様に、未消化なものを残したであろうからである。  しかも、これはおそらく、この日だけのことではないだろう。こうしたことがある度に、この三人の間には、未消化な、不燃焼な、オリのようなものが少しずつ、蓄積され、淀みとなり、改めて洗い直して基本的な対人関係を見つめ直すことが既に遅いほど、危険な状態になっていたに違いない。  言うまでもなく、展也の中にもそれは残った。「お金のことまで押しつけられたことに対する怒り」と、彼はそのことをそう説明しているが、当然ながらそれは、この三人の間に長年に渡って蓄積されてきた、未消化であり、不燃焼であるオリのようなものの圧迫感を、その具体的な手がかりに置きかえたに過ぎない。  その未消化なものの圧迫感に耐え切れなくなった展也は、夜中の二時半に行動を起し、金属バットで父親を、次いで母親を殴打して殺害した。 「何故、この程度のことで、子供はその父親と母親を殺せるのか」などという疑問を発してはならない。この事件は、ここまで私が推測してきた通りに経過してきたのだとすれば、独立した個人としての展也が、独立した個人としての父親と母親を殺害したものではないからである。  この三人の「関係」は病んでいた。父親は「盗み」をした展也を憎んだけれども、それは同時に自己嫌悪でもあった。だからこそ、その「盗み」を許容した事態の本質をあばく気力を失ったのである。母親もそうだった。彼女もまた、自らを罰するべく、展也の前で「菓子パン」を食べたのであり、その「言いわけ」を否定したのである。展也もまた、二人のこうしたいきさつを知り、このぬきさしならない嫌悪感を共有せざるを得なかった。こうした「嫌悪感」は、独立した個人から独立した個人へ向けて「行為」として機能するのでなく、その具体的な対象を見失ってただぼんやりとそこに淀むのであり、その分だけそれは、もてあまされることになる。  特にこの時は、「お金だけは盗んでいない」という具体的な事実が、展也の中に残ってしまったことが大きかった。「嫌悪感」だけは共有されながら、この事実は展也の中にのみ、孤立してしまったのである。もしかしたらこれが、この事件の「動機」である。 「主たる行為者を持たない、一連のオペレーションの帰結としての事件」というものがもしあるとすれば、この事件はそれに近い。展也は、確かに結果としてその父親と母親を殺害したが、独立した行為者としてそれを成したのではない。「そのうち落ち着いてきたら大変なことをしたと思い」という言葉で、殺害後はじめて「行為者としての自覚」が生れたことを暗示しているが、それすらも疑わしい。その時、その事に気付いたのだとしたら、直ちに「強盗にやられたように偽装する」ことなど、思いつくはずがないからである。  注意深くこれを読んでみれば、「強盗にやられたように偽装する」たぐいの用心は、既に事前に、「ジーパンにはき替え」たり、「ゴム手袋をしたり」することで、やっている。その点から考えれば、展也は明らかに計画犯罪者である。極めて冷静に、計画的に、その父親と母親を殺害した「行為者」となるのである。一見、展也は確かに、そうした類いの犯罪者に見える行為をしている。しかし、そうではない。  奇妙な言い方かもしれないが、彼が冷静で、計画的であり得たのは、それが「殺人」ではなかったからである。「父親殺し」でも「母親殺し」でも、なかったからである。では彼は、何をしようとしていたのか。彼はただ「俺は、キャッシュカードは盗んだが、金は盗まなかった」ということを、言ってみせたに過ぎない。それを正確に、致命的に言ってみせたに過ぎないのだ。  彼は殺害後も、狂言が見破られた後も、いやおそらく現在でもまだ、その父親と母親の生命を損ったとは思っていないに違いない。かつて彼は一度も、父親と母親を、独立した生命として考えたことは、ないに違いないからである。それはただ、「盗んだ」「盗まなかった」という、事実の平行移動が、そのまま連続した過程で生じた、単なる平板な出来事でしかなかった。  しかしまた逆に言えば、「殺人」という行為は、特に「父親殺し」「母親殺し」という行為は、独立した個人がその存在の本質を賭けてのみ試みるものであると、我々は確信しており、しかるが故に我々はそうした行為から守られているのであると信じているのだが、「殺人者」としては未だ成熟していないこの事件の展也が、極めて容易にこうした行為に連続し得たことを知ると、我々にもまたそうした可能性があるのではないかという不安が、出てくるのである。  この事件は、その点での教訓を、我々にもたらすものと言えるだろう。 [#改ページ]   4|犯罪|そのたましい [#改ページ]   イスカリオテのユダ  人間はこれまで、実に多くのものを発明してきたし、これからも発明し続けるに違いない。私は月ロケットだとかコンピューターなどの発明にはちっとも驚かないが、時々、コーモリ傘だとか、下駄だとか、バイオリンだとかを見て、一体どんな奇妙な精神がこれを発明したのだろうかと、しばし沈黙させられることがある。「何故こうであって、ほかではなかったのだろう」と、考えこんでしまうのである。 「必要は発明の母」なんだそうで、だから「母の目」から見ればこれらの発明品はすべて、至極当然の所産ということになるのかもしれないが、我々はこれを時々「父の目」であらためて見直して、ドキリとさせられてしまうのである。ありそうもない話ではない。私は家内が生んだ子を最初に見た時に、思わずギョッとした。「こんなはずではない」と思ったのである。しかしもちろん、家内の方は一向に平然としていて、余りに平然としているので次第に私も、「こんなものかもしれない」と自分自身を納得させていったのだが、それでもやはりまだ時々、目の前に平然と坐っている我が子を、つくづくと眺めてしまう時がある。 「必要という名の母」は、時としてかなり思いがけないことをするものであり、我々もまたその「母の目」に慣らされて、現在ではその「思いがけなさ」を、往々にして見失いがちな傾向にある。これは気をつけなければいけないことだ。ともかく、発明という行為には、昔からどこかうさん臭い[#「うさん臭い」に傍点]ものがあった。かの錬金術師たちはどうみても日陰者だったし、古屋敷で得体の知れない薬を調合する博士たちも、怪奇小説には欠かせない登場人物だったのだ。おそらく、エジソンあたりから発明家も漸く日の当る場所に出してもらえるようになったものと思われるが、しかしそれにしても、現在の発明家たちが、完全な免罪符を手に入れたかというと、そうも思えない。「発明狂」という言葉があるように、発明するという行為が、どこかしら人間の狂気に支えられているという考え方は、まだ残っているからである。  ところで、蓄音器や活動写真や下駄やコーモリ傘の発明もさることながら、もっと得体の知れない発明——たとえば「神様」とか「悪魔」の発明ということになると、我々は既にそれを「発明されたもの」として対象化することすら、忘れてしまっている。我々は長い間、それを「父の目」であらためて見直してみようなどということを考えてみたことがなかったから、その発明の「思いがけなさ」にドキリとする手がかりをすら、失ってしまっているのだ。  しかし考えてもみよう。どんな時代の、どんな奇妙な精神が、どんな錬金術師が、どんな博士が、そしてどんな狂気が、「神様を発明しよう」などという類いまれなる野心を抱き得たのであろうか。そのことを考えると今でも私は、人間の人間とも思えない「悪智恵」に、ほとんど慄然とするのである。  もちろん、「悪魔」の発明も同様にして、大発明であることに変わりはない。「神様」が発明された以上、「悪魔」の発明などはその条件反射のようなものだ、と考えるのは、間違いである。種々の資料にもとづいて確かめれば、最初「悪魔」というのは「神様」を取りまく「天使」の一人——つまりその機能の一部に過ぎなかったのであり、それが次第に「善」と「悪」のように、「神様」と対応する関係に置きかえられていったのである。 「悪魔」が発明される以前の「神様」などというものは、おそらく現代人の想像を絶する。したがって、「悪魔」を発明することによって、それを一つの対応する関係の中に閉じ込め、我々にとって無害なものに仕立てあげた智恵というものは、なみたいていのものではない、ということになるのである。  しかし人間は、その後もう一つ奇妙なものを発明して、「神様」と「悪魔」という対応する関係に、あらためて対応することをはじめた。それが「裏切者」である。 「裏切者」の発明を得てはじめて我々は、「三角関係」という対応のメカニズムを知り、「複合体」としての人間存在を促されはじめたのである。そして、すべての「事件」はここから開始される。  ともかく、人間の文明史は、大きく三つに大別される。「神様」のみが発明されていた時代と、それに対応して「悪魔」が発明されていた時代と、そのそれぞれに対応して「裏切者」が発明された時代である。言うまでもなく現代は、この「第三の時代」に属し、この時代は、かのイスカリオテのユダの出現と同時に開始されている。  たとえば、アンケートがある。「あなたはバラの花が好きですか」という設問があって、「はい」「いいえ」「わかりません」という答えが書いてあって、いずれかに印をつけるのである。もちろんこれは現代——つまり「第三の時代」にふさわしく作られた設問と答えである。 「第一の時代」なら、こうはいかない。「あなたはバラの花が好きです」という決めつけがあって、答えも「はい」しかない。解答者に選択の自由はないのである。「第二の時代」に至ってはじめて、「好きですか」という設問の形式が現れ、「はい」「いいえ」という選択の自由が生れる。もちろん二者択一なのであるから、さほど自由というわけでもないが、当時としてはこれ以外に選択の余地があることなど、想像もつかなかったのであろう。  答えの中に「わかりません」という項目が生れたのは、「第三の時代」に入ってからである。もちろん、この「わかりません」という答えはおかしい。「バラの花が好きかどうか」わからないはずはないからである。好きでなければきらいなのであり、きらいでなければ好きなのだ。  しかし、この三番目の答えの効果は、一般にはよく知られている。小さな女の子に、面と向ってこのことを聞いてみると、よくわかる。「バラの花は好きかい」と聞くと、何も言わずにはにかんでうつ向くのである。さらに聞くと、例の悪名高い日本人特有のうすら笑い[#「うすら笑い」に傍点]を浮べて「わからない……」と、つぶやく。つまりこの場合の「わかりません」は、「理解し難い」という意味ではなくて、自分は好きとか嫌いとかの選択の埒外にあるという態度の表明であり、強引にこじつければ、そうした質問を他ならぬ自分自身に向けてくる理由が「わからない」、という意味になるであろう。  したがってこの「わかりません」は、前述の「はい」もしくは「いいえ」と同一地平において機能するものではなく——つまり、質問者の質問の内容に対応しようとするのではなく、質問者の質問する態度そのものに対応しようとするものであるから、当然その内容はさらに詳しく区分されてしかるべきである。たとえば、「わかりません」のその一「答えたくない」、その二「うるさい」、その三「勝手にしやがれ」、その四「……」などである。  しかしもちろん、一般に流布されているアンケートには、「わかりません」についてこのように詳しい区分を設けていない。アンケートというものは、「はい」か「いいえ」に区分けすることによって人々を、その質問者の手の内に取りこむ手段であるから、「わかりません」一派はその手段そのものに敵対する勢力として、当然ながら無視してかかるのである。  ただ私はここで、「わかりません」一派と書いたが、言うまでもなくそれは、彼等が現在党派を成しつつあることを意味するのではない。正確に言えば、そう呼ばれてしかるべき個々の人々のことであり、その複数形に過ぎない。  この場合の「はい」と「いいえ」は、それぞれに一つの「主張」であり、したがって彼等はもしその気があれば、主張を同じくするものとして党派を形成することも可能であるが、「わかりません」一派がそうすることは、決してない。「わかりません」というのは、言ってみれば単なる「態度」に過ぎないのであり、しかもそれは、「主張」しないことを自らに課した「態度」なのであるから、党派を成してそれを「主張」に置きかえることなど、思いも及ばないのである。彼等はそれぞれ個々に、沈黙するだけなのだ。  しかし、党派としての「はい・いいえ」一派の「主張」に対応するために、「わかりません」一派は次第に、より「熱心なる態度」と、より「熱心なる沈黙」を要求されることになる。そしてこの「熱心なる態度」と「熱心なる沈黙」が、必然的に「裏切者」を生む。 「態度」も「沈黙」も、それ自体が加熱されることはない。それらを「より熱心」なものにするためには、「そうでない態度」と「そうでない沈黙」に対応するよりほかはない。この「そうでない態度」であり、「そうでない沈黙」として選び出されたのが、「裏切者」なのである。  私は、「わかりません」一派は決して党派を成さないと言ったが、もしかしたら彼等は、そこから「裏切者」を選び出すことによってのみ、党派を成し得る存在なのだ、ということは言えるかもしれない。もっと言えば、「裏切者」こそが、党派としての「わかりません」一派の「主張」なのだ。  ともかく、「裏切者」を発明した最初の人は、私の知る限り、かのイエス・キリストである。もちろん、こうしたものには特許があるわけではないから、それ以前にこれらしきものを発明した人がいないとも限らない。私が知らないだけである。だから、それが最初というのは当らないかもしれないが、少なくともキリストは発明した。発明されたのはかのイスカリオテのユダである。  キリストと十二人の使徒の行状は、やがてイスカリオテのユダを「裏切者」として必要とする軌跡を正確になぞっている。逆にいえば、イスカリオテのユダを「裏切者」として定着した時、キリストの全業績は完成したのであり、「神様」と「悪魔」による二分法の世界から独立し得たのであり、「復活」を約束されたのである。「裏切者」を発明したというその功績だけで、私はキリストを人類の救世主と呼ぶことに、ほとんど反対しない。  キリストとその十二人の使徒が、長い放浪の後、最後に聖都エルザレムに入城した時、住民たちは「理解し難い情熱を以て、数世紀の間、救世主《メシア》を待っていた」と、ジム・ビショップは書いている。彼等は熱狂的に迎えられたが、もちろんまだその時は彼等も、エルザレムを度々訪れる数多くの「救世主候補」の一人に過ぎなかった。 「救世主」を名乗る男が田舎者を従えてエルザレムに入城し、人々が「人の子にホザナ」と叫びながらその通り道に花と椰子をまくという光景は、それほど珍らしいものではなかったのである。当時パレスチナは、ローマから派遣された知事ポンシオ・ピラトと、王ヘロデ・アンチパスと、司祭長カヤパの、複雑に入り組んだ三つの権力によって支配されていたが、三人はそのそれぞれの思惑を秘めて、「またか」とつぶやいたに違いない。  政治的な実権はピラトが握っていたが、民心の掌握はおおむねカヤパの手に委ねられており、特に度々訪れる「救世主候補」の真偽の判断は、彼がしなければいけないことであった。司祭長の任命権はピラトにあったから、そこでの失敗は彼の権力喪失につながった。しかしもちろん、ピラトも安全だったわけではない。ヘロデがローマ皇帝のチベリウスに直接つながっており、その失政を報告すべく虎視眈眈とねらっていたからである。そしてヘロデは、宗教的権威の中枢を握るカヤパに、異教徒として軽蔑されていた。  いわばこの三つの権力は、それぞれ「三すくみ」の状態にあったのであり、それぞれの「主張」はそれぞれに相殺されて、無に帰する可能性を常にはらんでいた。  このような状況の中で、訪れた多くの「救世主候補」はどのような運命を辿らされたか。彼等は最初、少数の熱狂的な信者に取りまかれ、しかし権力には無視され、やがて人々に飽きられてそのままそこを出て行ったのである。カヤパの、真偽の判断の対象にすらならなかったのだ。カヤパに、「救世主」を待望する情熱がまったくないことが、この場合は幸いした。しかし同時にそのことが、カヤパの弱点でもあったのだ。キリストはおそらく、その点を鋭敏にも見抜いていたに違いない。つまり、カヤパに真偽の判断を強い、敢て「偽者」の烙印を押させることによって、むしろ「救世主」として認知されるのだということを、彼は知ったのだ。  エルザレムに入城したキリストは、直ちに神殿に走ってその門前の市を破壊した。当然ながらカヤパが長老たちを連れて現れ、キリストを詰問した。 [#1字下げ] 汝何の権を以て是等の事を為すぞ、又是等の事を為すべく、誰か此の権を汝に授けしぞ。イエズス答へて曰《のたま》ひけるは、我も一言汝等に問はん、我に答へよ、然らば我何の権を以て是等の事を為すかを告げん。ヨハネの洗礼は天よりせしか、人よりせしか、我に答へよと。彼等心に慮《おもんばか》りけるは、天よりと云わんか、然《さ》らば何ぞ彼を信ぜざりしと云はれん、人よりと云はんか、人民に憚る所ありと、其《そ》は皆ヨハネを真に預言者と認めたればなり。斯《かく》てイエズスに答へて、我等|之《これ》を知らず、と云ひしかば、イエズス答へて、我も何の権を以て比事等を為すかを汝等に告げず、と曰《のたま》へり。 [#地付き]——『マルコ伝』第十一章  ここでキリストが何をしたのか、ということは誰にでもわかる。彼はこの時、アンケートの「わかりません」の項目をカヤパたちに作らせ、自らそこに印をつけてみせたのである。  キリストと十二人の使徒が「わかりません」一派に属する過激派集団となる条件は、これ以前から次第に整えられつつあったが、おそらくはこの時はじめて、その旗色が鮮明にされたのである。言うまでもないことだが、「わかりません」一派がすべて過激派集団ではないにしても、過激派集団はすべて「わかりません」一派なのである。そして、「わかりません」一派は、周囲の状況に押されて、その「態度」の、より一層の熱心さを要求された時、過激になる。キリストが、神殿に走って門前の市を破壊したのはこのためであった。  しかしもちろんこの場合、過激な行為のもたらす結果が重要なのではなく、過激である状態が大切なのであるから、カヤパとの問答においてもキリストは、それをした彼自身の根拠については、敢て主張しなかったのである。この根拠について主張しはじめたら、当然ながら彼は、「はい・いいえ」一派の論理の内にとりこまれる。彼等に対して自己を正当化する論理が脆弱だからそうするのではない。論理化されない自己を保持せんがためにそうするのである。  ただ、論理化されない自己を保持すること——つまり「わかりません」一派に属することは難かしい。特に、属し続けること[#「属し続けること」に傍点]は難かしい。「はい・いいえ」一派にとって論理化できないものは、自分自身にとっても論理化できないものなのであり、彼は直接、自己のそうしたグロテスクさと対面させられることになるからである。そして、このグロテスクさは、「裏切者」のグロテスクさと、一脈通ずるものがあるのである。  もしかしたら、この自分自身のグロテスクさに対する反動として、「わかりません」一派は、極端に超越的となるか、極端に過激になる傾向を、持つのかもしれない。ともかく、この意味から言って、「わかりません」一派からは絶対に、革命家は生れない。生れるのは、芸術家か宗教家に限られるのである。  神殿の市を破壊した後キリストは、その過激さのおもむくところ、一方でパリサイ人を切り、返す刀でサドカイ人を切った。パリサイ人とサドカイ人が、当時パレスチナの宗教界を二分する勢力であり、サドカイ人が、モーゼの成文法を信ずる保守派の貴族勢力であったのに対し、パリサイ人は、伝承や不文律から教訓を汲みとろうとする革新派の大衆勢力であった。言ってみれば彼等が、宗教界における「はい・いいえ」一派だったのであり、キリストはこれらを切ることにより、「わかりません」一派であることを、より明らかにしたとも言える。  これだけのことをした後、キリストと十二人の使徒は、ベタニアのシモンの家に入って待った。何をか。人々の判断をである。ピラトも、カヤパも、ヘロデも、パリサイ人も、サドカイ人も、「キリストが果して真の救世主か否か」について、判断を迫られていた。少なくともキリストにとって、彼等はそうでなければいけなかった。もちろん、その判断自体は肯定でも、否定でもかまわない。そのどちらに対しても、キリストはその「態度」を、柔軟に、そして熱心に対応させるだけの用意があった。  事実上彼等が、真偽の判断を下す必要性を、キリストが期待するほど切実に感じていたかどうかは疑わしい。ただしかし、これまでの「救世主候補」と違ってキリストが、極めて不可解であり、その存在が確定し難いことに、彼等が不安を感じていたであろうことは、間違いないであろう。その「主張」がではなく、その「存在」が人々を苛立たせるという、はじめての経験を、彼等はしつつあったのである。  彼等は、無視すべきか、それとも関係すべきか、そのことを迷っていた。キリストが、肯定と否定のどちらでもよかったように、彼等もまた、肯定するか否定するかはともかく、まず無視すべきか関係すべきかが問題であると考えはじめていたのである。「わかりません」一派に対応しようとした時、人々はまず、そのように考えはじめる。彼等は、どのような意味における「価値」でもなく、むしろ「価値」であることを超えた「存在」だからである。言ってみればキリストは、「救世主」というものを、そのように確定してみせたのであろう。  しかし言うまでもなく、「価値」であることを超えた「存在」は、「価値」であることを肯定して、もしくは否定して関わってくる行為を、限りなく拒絶し続けることによってのみ、持続される。つまり「救世主」は、「救世主は必ずやってくる」という希望と、「救世主なんか来るはずがない」という絶望の、パラドクスとしてしか存在し得ないのだ。キリストはこのことを正確に知っていた。  そして、ある危機を感じていた。彼等が彼等の不安を増大させながらも、それ故に彼に関わりを持つ決意をしなかったら、「救世主」は存在しないのである。言うまでもなく、その時キリストが既に「救世主」なのではない。彼等が関わりを持ち、彼がそれを拒絶し続けることによって、はじめてキリストは「救世主」となるのである。  危機がさらに増大した時、キリストは考えついた。「裏切者」をである。彼は、彼自身を限りなく裏切らせることにより、その「存在」を、「価値」を超えた「存在」として持続する方法を得たのである。言ってみれば「裏切者」は、彼自身の内から選び出されたのである。  キリストは言う。「あなたがたのうちのひとりが、私を裏切ろうとしている」。十二人の使徒は動揺して緊張する。つぎつぎに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言いはじめる。この動揺と緊張が、はじめて「わかりません」一派の人々を、党派としての連帯の中に送りこむ。最後に、イスカリオテのユダが言う。「まさか、わたしではないでしょう」。キリストは言う。「いや、あなただ」。  役割は決ったのだ。以後ユダは忠実に、その役割を追う。しかしユダはまだ、「裏切者」たる事の本質について、理解してはいない。ユダがそれを知ったのは、カヤパたちがキリストを死刑にすることに決め、それをピラトに渡した時だ。ユダは、「はい・いいえ」一派のための「裏切者」でなく、「わかりません」一派のための「裏切者」であり、「救世主」キリストのための「裏切者」であり、もっと言えば自分自身のための「裏切者」であることを明らかにすべく、カヤパに「銀三十枚」を投げ返し、いわば「真の独立した裏切者」として、首を吊って死ぬ。  キリストは、行きどころのない、論理化されない、意味に置きかえることのできない、永遠に漂泊するたましい[#「たましい」に傍点]である「裏切者」に対応することにより、独立した、「価値」を超えた「存在」となったのである。キリストは永遠である。しかし同時に、ユダもまた永遠なのだ。 [#改ページ]   エヴノ・アゼフ  裏切者の次にスパイが登場する。裏切者は、裏切られるものとの緊張関係において自らの実存を確認し得る。しかしスパイは、特に二重スパイは、いかなる緊張関係にも依拠することはできない。スパイこそ、つまり二重スパイこそ、現在考えられ得る最も自由にして独立したたましい[#「たましい」に傍点]である。スパイが往々にして二重スパイであり、したがってスパイと二重スパイはたましい[#「たましい」に傍点]においてほとんど同格に扱ってしかるべきことを、私は『スパイものがたり』のパンフレットに書いた。その部分を、少し抜萃してみよう。 [#1字下げ] 帝政ロシア時代の社会革命党戦闘団OLの隊長エヴノ・アゼフは、同時に秘密警察オフラーナに所属する特殊任務の高級警官であった。彼は、一八九三年に仕事を始め、一九〇八年にブルツェフに告発されるまで、実に見事にその二重性を保ち続けた。驚くべきことに、彼の活動の情熱は双方に全く公平に支払われていたのであり、その活動内容が明らかにされてくるに従って、果して彼がどちら側の人間だったのか、全く分らなくなってくるのである。彼が社会革命党の同志を多数密告しているのも事実であるが、同時に彼は、有能な戦闘団の隊長として、内相プレーブの暗殺をも成功させているのである。そしてこの暗殺計画については、一切警察側にもらしていない。警察は彼が戦闘団に加わっていることは知っていたが、彼がその隊長であることは、最後まで知らなかったのだ。彼は告発されて戦闘団から追放され、一九一八年にベルリンで死亡したのだが、未だにその真意は謎とされている。  スパイの登場である。われわれは新約の時代にイスカリオテのユダ、もしくはキリストという奇妙で不可思議なたましい[#「たましい」に傍点]に遭遇したわけであるが、十九世紀後半再びエヴノ・アゼフというグロテスクなたましい[#「たましい」に傍点]に遭遇しなければならないのである。新約時代のキリストと十二使徒は、十九世紀後半のテロ集団「社会革命党戦闘団」と、似ているか? 似ているのである。彼等はいずれも、当時の超過激集団であった。彼等は、それぞれに使命を帯び、それに促されて行為したが、その行為は、具体的な政治的成果として、制度化されるには、余りに過激すぎた。したがって彼等は双方とも、その行為が結果として発揮する説得力よりも、その行為におもむく態度の純粋さにおける説得力に期待していた。サヴィンコフの小説における、カミュの戯曲における主たるモチーフはそこにあり、その意味で彼等テロリスト達はほとんどキリストの十二使徒と異ならない。  では、サヴィンコフがキリストでアゼフがユダか? 違う。サヴィンコフは、アゼフがスパイであることが証明された時、それによって神聖化されたとはいえない。むしろそれによって権威を失墜したのである。ではアゼフがキリストでサヴィンコフがユダか? かなり魅力のある解釈だが、これもおそらく違う。アゼフは、スパイたるためにサヴィンコフごときを必要とはしなかった。つまりアゼフというのは、イスカリオテのユダとキリストという、「関係」の中で確かめ得るような生やさしいたましい[#「たましい」に傍点]ではなかったのだ。  もっとも、エヴノ・アゼフを描写した次の記述を読んでみよう。≪むくんだ黄色い顔、厚い唇、暗い表情と突きでた眼をもつアゼフは、肥っていて醜くかった。しかもその身体は、細い脚と、女性的なまでに弱々しい手とひどく対照的だった。普段は重々しい声でしゃべっていたが、反対意見を述べるような時には、それが猛烈な激しさを帯びるのだった。その外観から受ける印象は、すべて嫌悪を催させた。しかし、この怪人物には人の心を魅了するものがあった≫。私の想像するエヴノ・アゼフは、この文章ですべて語り尽されているように思う。背筋が寒くなるほど説得力のある描写ではないだろうか。そしてこの文章を読むたびに私は、かなり当てずっぽうな推量には違いないが、イスカリオテのユダもしくはキリスト(この両者は、私の中では次第に同一人物になってゆく)に、良く似ているように思えてくる。われわれが想像する「裏切者」のかくあるべき姿は、やはりどうしても、このアゼフに近くなるのである。  ともかく、アゼフは「裏切者」に似ているというところから出発してみよう。しかしアゼフは「裏切者」ではない、「スパイ」である。では「裏切者」と「スパイ」とはどう違うのか。面倒臭いから結論から先に言ってしまうが、つまり「スパイ」というのは「裏切り続けるもの」のことである。「裏切者」というのは、空間的概念であり、「スパイ」とは、時間的概念である。もちろん「裏切り続けるもの」とはいっても、「裏切られるものとの緊張関係」を持続する人間のことではない。「スパイ」とはつまり、「裏切られるものとの緊張関係をそのまま持続するもの」ではなく、「それを幾重にも裏切り続けるもの」のことである。 「裏切者」の生命は、一瞬である。イスカリオテのユダは、キリストによって「裏切者」にされたことを理解した途端、自殺した。キリストも処刑された。したがってこそ、その「関係」は、永遠なるものとして、残ったのである。私はキリストを「裏切者」の発明者としたが、言葉を変えて言えば、「関係」の発明者と言ってもいいのである。彼はその「関係」を武器として、神と悪魔による相対世界に訣別し、独立し得たのだ。もちろん「裏切者」がその「関係」をそのまま持続させることができるなら、それにこしたことはない。しかしそれは不可能だ。先にも述べたように「裏切り行為」というのは、あくまでも空間的表現であり、その時点で時間を停止させることなしには、永遠化されることはない。つまり、革命家は一度それになってしまえばその状態がそのまま引き続くのではない。革命家は常に、そして日々新たに革命家であり続けることによってのみ革命家である、というのと同様である。 「裏切者」も、一度裏切りさえすれば、その状態がそのまま引き続く、と考えるのは横着である。その時点で死ぬのがいやなら、日々新たに、「裏切者」たり続ける努力をしなければならない。しかし、この努力をする者をわれわれは「裏切者」とは言わない。それこそが「スパイ」なのである。  したがって「スパイ」が「裏切者」の子孫であることに私は反対ではない。ただし、畸型である、という条件つきだ。空間の延長が時間なのではなく、空間の堆積が結果として時間を形成するのであれば、「裏切者」たり続けるための方法は、空間における、「裏切者」たる方法とは、明らかに異なっていなければならないからである。そこでは、「裏切られるもの」との「関係」にある「緊張感」など、何の役にもたたない。その「緊張感」が機能するのは空間であって時間ではないからである。むしろその「緊張感」に依拠するまいという決意が、パラドキシカルに、「裏切者」たり続けることを約束するようである。  七面倒臭いことを言わないで、アゼフの例を見てみよう。エヴノ・アゼフは、社会革命党戦闘団OLを「裏切って」いた。しかし同時に、ここのところが特に大切だが、その緊張感に空間的に閉鎖されることを怖れて[#「その緊張感に空間的に閉鎖されることを怖れて」に傍点]、秘密警察オフラーナをも「裏切って」いたのだ。つまり分りやすく言えば、エヴノ・アゼフは社会革命党戦闘団OLを「裏切って」いることについての「良心の呵責」は全然感じていなかった。何故ならば同時に秘密警察オフラーナをも「裏切って」いたからである。このことは論理の正確さを期するためもう一度言わなければならないのだが、エヴノ・アゼフは、秘密警察オフラーナを「裏切って」いることについての「良心の呵責」は全然感じていなかった。何故ならば同時に社会革命党戦闘団OLをも「裏切って」いたからである。  見事な構図ではないだろうか。「裏切者」たり続けるということはこういうことだ。そして、ここまでくると誰でも気付く。彼は既に「裏切者」ではない。つまり「スパイ」である。だから「スパイ」とは、定義ばかり多くて恐れいるが「裏切られるもの」のいない「裏切者」のことである。キリストは、「裏切るもの」と「裏切られるもの」との間にある奇妙な緊張感が構成する人為的な「関係」を手がかりにして、神と悪魔による二分法の世界から独立した。エヴノ・アゼフは、二重に裏切ることにより、その緊張感をそれぞれに消し、もしくは自分一個の存在の中に凝縮させ、よってその「関係」より独立した。エヴノ・アゼフがキリストより「新しい」ゆえんである。  現在では、自分が自分である、ということは極めて難しい。人は誰でも、「あなたは保守ですか、革新ですか?」と聞く。「どちらでもない」と答えることで、自分自身を固持できると信じたらそれは間違いだ。人には限りなく智恵があるから、次に彼は「あなたは保守ですか、革新ですか、それともそのどちらでもない一派ですか?」と聞いてくるだろう。これらの質問に最も論理的に答えるには「私は保守であり同時に革新であり、また同時にそのどちらでもない」と言うより他はない。しかしその時あなたはスパイである。  したがってスパイは、自分が自分たり得るための唯一の、極めてパラドキシカルな方法である。エヴノ・アゼフは社会革命党員か警察官かどちらかでなければならない条件のもとで、そのどちらでもあってはいけない条件を自らに課した。つまり彼は、その二つの条件のもとで、自ら「自分」である以外の道を完全に閉ざしたのである。「自分」は積極的には決して「自分」ではない。アレでもなくコレでもない時にやむなく「自分」なのである。エヴ{ノ・アゼフこそ、そのことを良く知っていたのであろう。  もちろん、スパイであること[#「スパイであること」に傍点]は簡単なことではない。スパイは完全に孤独である。私は前述したパンフレットに≪彼が不幸だったのは、遂に最後まで、誰も彼をスパイとして認めなかったことであり、そのために賞讃されたことも、そのために非難されたこともなかったからである≫と書いている。≪彼の仕事が双方に於て順調であった時、彼は双方から賞讚された。しかしその賞讃は、当然のことながら、有能な革命家としてか有能な警察官としてであり、スパイとして[#「スパイとして」に傍点]ではなかった。彼の仕事が破綻をきたした時、同様に彼は、双方からの非難を浴びた。しかしそれも、裏切者としてか無能な警察官としてのそれであり、スパイとしての[#「スパイとしての」に傍点]それではなかった。二重スパイのたましいにとっての不幸は、全てここに起因する≫。  これがどれほどの不幸であるか、人はほとんど理解できない。しかし、自分が自分であって他の何者でもない、ということの不幸は、他のどんな不幸よりも大きいのである。だから人は、すぐこれに耐え切れなくなって、何者かになりたがる。エヴノ・アゼフが失敗したのも、これに耐え切れなくなったせいではないかと、私は考えるのだ。やっぱり彼も、社会革命党員か、警察官かになってみたいと、何度か考えたに違いない。その方がはるかに楽だからだ。しかし、そのために彼は疑われ始めた。慣れないことはしない方がいい。社会革命党員でも警察官でもないものが、社会革命党員や警察官になりたがれば、双方とも疑いたくなるのが人情である。  もちろん彼は、どちらかになりたいとは思っただろうけれども、なろう、と決心したかどうかはハッキリしない。私の推察では、決心まではしなかったと思う。やっぱりエヴノ・アゼフは英雄のまま死なせたい。いずれにせよアゼフは、二重スパイのまま双方から放逐され、例によって的はずれな非難を浴びつつ死ぬ。彼の死の直前のノートには、こう書かれてある。≪祈祷の後では、自分の力が回復するように思われる。……わたしは、無辜《むこ》な人間が耐え得る不幸のなかでも最も恐ろしい不幸を体験してきた≫。  私はこれを読むたびに感動する。そしてこの「恐ろしさ」を理解したいと希望する。この「恐ろしさ」がわからない以上、私もまた何者かであって私ではないと考えるからである。  歴史は、かつて一度もエヴノ・アゼフを「高く評価」しなかった。もちろん、それがエヴノ・アゼフの成功なのだ、と言えば言えないこともない。しかし「われわれの歴史」にとってみれば哀しいことではないか。これまでの「歴史」は遂に、人間として評価する規律を持つに至らなかったのだ。私はパンフレットの最後にこう書いた。≪私は確信している。スパイこそ、神様のおぼしめしにない、人間の創りあげた人間であり、考えられ得る最も自由なたましい[#「たましい」に傍点]である≫と。しかし、私は今、書き加えなければならないのかもしれない。スパイは「神様のおぼしめしにない」だけではなく、「歴史のおぼしめしにもない」のである。しかも、現代の管理社会は、さらに一層厳しく「解釈し難いもの」を拒絶する。イスカリオテのユダとキリストは聖書によって語り伝えられたが、エヴノ・アゼフには聖書がない。アゼフ信仰は起こりそうにもないのである。しかし、われわれがエヴノ・アゼフを忘れる時とは、われわれが管理社会によって解釈し尽され、人間たることを失う時でもあるのである。 [#改ページ]   ネチャーエフ  奇妙なたましい[#「奇妙なたましい」に傍点]について言及する時、人はよくネチャーエフについて問題にする。しかし私に言わせれば、ネチャーエフは、異常ではあるが奇妙ではない。特にネチャーエフの場合は、そのたましい[#「たましい」に傍点]を問題にしなければならないタイプの人間ではないのだ。イスカリオテのユダ、もしくはキリスト、あるいはアゼフとは、違う種類の人間なのである。私の分類法に従えば、彼は「はい・いいえ」一派の人間であり、「わかりません」一派の人間ではないのだ。しかし彼は「はい・いいえ」一派の中では極めて異常であり、ほとんど「わかりません」一派の人間と区別がつかないくらいのところがある。過去においてしばしば「わかりません」一派の人間が彼に親近感を抱いたのはそのためであろう。  つまりネチャーエフは、イスカリオテのユダ、キリスト、アゼフの系列とはまったく関係のない人間であり、したがってその系列上の新種というわけにはいかないのだが、別の系列から発生して極めて良く似た様相を呈している人間として、ここでとりあげてみようと考える。我々「わかりません」一派が、おのれを良く知るためにも、無益ではないだろう。  一八六九年九月、モスクワから数露里離れたペトロフスキー・ラズモフスキー農業大学の、学生を中心とする秘密サークルに、外国某所に本部を置いた「中央委員会」に所属するという一人の男が、突然訪れた。これがネチャーエフである。彼はその時、バクーニンに書かせた信任状と、同じくバクーニンと共同で書いたと思われる「革命家の教理」と、数種のパンフレットと、「民衆裁判委員会」と書かれた銅印を所持していた。これが世にいう「ネチャーエフ事件」の発端である。それまでチェルケソフ書店の店主ピョートル・ウスペンスキーを中心にした社会主義的な学習会に過ぎなかったサークルは、この彼の登場によって、いきなり「中央委員会」に直結するモスクワの中核組織に昇格する。  この登場の仕方は劇的である。しかもこの劇的な登場は、それよりほぼ一年前に行なわれたまさしく劇的な退場に続く第二幕だったのである。一八六八年、彼はペテルスブルグにおいて、彼の所属する社会主義的なサークルの学生達を「特権階級的な環境からひっぺがし、真の革命家に育てあげるため」、彼等の名簿をかっぱらって逃走する。もしその名簿が官権の手に渡ったら、彼等は文字通り牢獄にぶちこまれ、社会から追放されるだろう。騒ぎたてる彼等の中に、ネチャーエフからの手紙が届く。「ぼくは要塞監獄行きとなった。どこの要塞だか判らない。このことを仲間達に告げてくれ給え。また、ぼくがみんなに再会を望んでいることや、主義のために働き続けて欲しいと願っていることも」。まさに、サッソウたる退場といわねばならない。もちろんこの時ネチャーエフは、ジュネーブに直行しバクーニンに会っているのであるが、そのことでネチャーエフを責めるには当らない。この彼の虚言は、彼等学生達の革命精神を昂揚させるために十分有効であったし、事実彼等は、ネチャーエフが予定した通り、牢獄にぶち込まれ、あるいは遠い寒村に追放された。そこで彼等が真の革命家に育たずに、むしろ無為と倦怠の淵に落ちこんだとしても、それはネチャーエフの責任ではない。彼等自身の問題である。 「ネチャーエフ事件」のことは余りにも有名だから多くを語る必要はあるまい。ネチャーエフは、「中央委員会」の存在に疑問を持った組織の一員イワン・イヴァーノフを、他の四人の構成員に協力させて殺すのである。「中央委員会」など始めからないのだから、それに対する疑問がわずかでも出はじめたら、それは致命傷になりかねない。「殺す」という行為は、そのルールのもとでは極めて論理的である。たとえば、イヴァーノフを殺すことによって逆に「中央委員会」を現在化させ得る、という智恵がネチャーエフにあったとしても、それはキリストのイスカリオテのユダに対して行なった行為とは大いに違う。イヴァーノフの死は、ネチャーエフに突き当って相殺されるという種類のものではない。それは遠く無限の彼方にある「中央委員会」に奉仕させられていたのだ。つまり、キリストは何も信用していなかったが、ネチャーエフは「中央委員会」を信じていた。キリストの場合は「最後の方法」が成功した例であるが、ネチャーエフの場合は「過渡的な方法」が失敗した例である。したがって事件後、四人の構成員はいずれもつかまったが、ネチャーエフ一人は遁走する。  ネチャーエフのための第三幕は、一八八〇年十二月アレクサンドル二世暗殺をくわだてる「ナロードナヤ・ヴォーリヤ」(民衆の意志)党に届けられた一通の手紙によって開かれる。何という千両役者であろうか、その手紙こそ、一八七三年よりアレクシス半月堡に捕えられていたネチャーエフから届けられたものだったのだ。彼は「牢獄中の牢獄」であり「帝国第一の密牢であり」「誰でもこの場所を口にする時はさすがに声をひそめる」といわれるペテロ・パヴロ要塞のアレクシス半月堡にあって、営々として看守の兵を手なずけ、遂に外部に声明を送ったのである。「ネチャーエフの手紙が委員会で読みあげられた時、われわれはありったけの情熱をこめて叫んだ、彼に自由を与えねばならぬ」。革命家の中でも鼻つまみものだったネチャーエフの悪名は一挙に消し飛んだのだ。もっとも、ネチャーエフは遂に自由になれなかった。「ナロードナヤ・ヴォーリヤ」は、皇帝暗殺とネチャーエフ救出を同時にやるほど実力をつけていなかった。どちらか一方をやるとすれば、どちらかを選ぶべきか。実行委員会はネチャーエフの裁断を待つことにした。そして、ネチャーエフが答えるのである。「皇帝を打倒せよ。独房の奥から、ぼくの思想は君達と共に行く。ぼくに構ってはならぬ。ぼくは待てる」。「ナロードナヤ・ヴォーリヤ」はアレクサンドル二世暗殺に成功する。  ネチャーエフのための幕はここでおろされていい。このあと幾度か救出が試みられたが失敗し、一八八二年ネチャーエフは三十五歳で獄死する。実に劇的な、そして現代風に言えば「かっこいい」一生であったことに、誰も異論はないであろう。アゼフの一生が、実に「かっこわるい」ものであったのに比して、雲泥の差がある。つまりこれは、アゼフがそのたましい[#「たましい」に傍点]を直接問題にすべき人間であって、当然そこには「一生」というパターンで測り得ないものがあるのに反し、ネチャーエフの場合は、むしろその「一生」のパターンをもってしか、測り得ない人間だからなのである。そしてネチャーエフの「一生」は、最後の発言「皇帝を倒せ。私に構うな」によってピンと筋道が与えられ、すべての行為が極めて論理的に説明できるものになる。  ネチャーエフには、革命とそのための「中央委員会」が、外在していた。そのイメージがいかに漠然としており、その距離がいかに無限の彼方であろうとも、それは内なる「革命」でも、内なる「中央委員会」でもなかったのだ。彼の行為はすべて、イメージこそ漠然としていたが外在する「革命」と、距離こそ無限の彼方にあったが外在する「中央委員会」のために、もっとも有効であったと、論理的に説明することができる。したがって彼は「わかりません」一派の人間ではなかった。図式化して言えば「はい・いいえ」一派の、「いいえ」分子であり、彼は「革命」のイメージを漠然とさせ、「中央委員会」の距離を無限の彼方におくことにより、無限の「いいえ」を手に入れたのである。 「わかりません」一派と、無限の「いいえ」を手に入れた「いいえ」分子は良く似ている。しかし似ているのはその表情であって、内部ではない。「わかりません」一派は、たましい[#「たましい」に傍点]を独立させるためにそうした表情をするのであり、無限の「いいえ」を手に入れた「いいえ」分子は、その人生の軌跡を論理的たらしめるために、そうした表情をするのである。  ちなみに、彼とバクーニンが共同で作ったといわれる「革命家の教理」について考えてみよう。これは四章にわかれている。 [#ここから1字下げ]  一、革命家の自分自身に対する態度 ≪革命家とは社会の絆であれ、家族の絆であれ、友人の絆であれ、彼を結びつける絆の一切を自ら断ち切る人間のことである。革命家とは前以って罰せられた人間のことである[#「革命家とは前以って罰せられた人間のことである」に傍点]。到達すべき目標だけが彼にかかわる一切であり、道徳の概念は有効性のそれにとってかえられる。≫  二、革命家の同志たちに対する態度 ≪革命家がその同志達に受ける恩義は、ただその同志たちが如何に主義のために役立ち、また今後役立ち得るかによって決まる。同志達の間には階級が存在する。その筆頭に属する人間だけが最終的な目標と革命運動全体の組織に精通する資格をもつ。第二、第三の階級に属する人間は「革命の資本」を構成する。筆頭者もまた自分を「革命の勝利のために、支出することが避けられない資本」と考えなければならない。≫  三、革命家の社会に対する態度 ≪革命家は抹殺すべき人間や利用すべき人間について六種類の型を念頭におかなければならない。()革命の不倶戴天の敵「警官」と現在社会を支えている「支配階級のエリート」は、即座に死刑を執行すべきである。(1)残忍で悪辣な人間は、彼等の悪行が民衆の反抗を誘発するから、少なくとも一時的には居た方が死んでしまうより主義のためには有益であり、執行猶予が与えられる。(2)高い地位にある人間に対しては、彼等の「ちっぽけな秘密」を握ることにより、その財産、影響力、諸係累を革命のために利用する。(3)「自由主義者」特に政治的野心のある人間に対しては、その小陰謀に加担し、裏で彼等を引きずりまわし、決定的な危地に陥れ、その退路を断つ。(4)「サロン的な陰謀家と革命家」に対しては、のっぴきならぬ状態に追込んで破滅させる。もしそのなかに真の革命家がいたら、それは育てなければならない。(5)女は三種類に分けられ、それぞれに従って前述した様に対処し、第三の真に革命的な女のみ、無限に貴重である。≫  四、「教団」の民衆に対する態度 ≪民衆が反抗の勇気を示すのは、苦痛が限度を越えた場合だけである。従って革命家はその義務として、この苦痛をいささかも和らげてはならず、むしろできればこの苦痛をますます耐え難いものにするよう力を用うべきである。一度必要な破壊が終れば、革命家は民衆がその意に従って組織されるのを傍観する。革命とは、ただただ破壊的なものである。≫ [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——以上要約  この人間に対する辛辣さはどうだろう。我々はここから、ほとんどユーモアをさえ感じとれるほどではないか。余りにもシニカルであり、したがって我々は、「革命」への希望というよりも、むしろ絶望の方を先に読みとってしまう。そしてこれを読む限りにおいては、ネチャーエフが「わかりません」一派の人間であるような気がする。しかしそうではないのだ。  ネチャーエフは、自己のたましい[#「たましい」に傍点]に対する決意訓としてこれを書いたのではなく、あくまでも革命に対する技術訓として、これを書いたのである。被害者としてのおののき[#「おののき」に傍点]も、加害者としてのためらい[#「ためらい」に傍点]も、ここからは読みとれない。技術訓である所以である。  たとえば、第一章に「革命家とは、前以って罰せられた人間のことである」と書かれている。たましい[#「たましい」に傍点]にとってのこのような様態は、「わかりません」一派にはおなじみのものである。  しかし「わかりません」一派にとっては、この様態をいかに持続させるかが問題であるのに対して、ネチャーエフにとっては、「革命」という目的に向う行為をドラマチックにするための一つの過渡的な様態にすぎない。  しかもネチャーエフの場合は、この「前以って罰せられた人間」を、社会と家族と友人とその他一切の絆を断ち切ることにより、自ら創りあげようというわけである。「わかりません」一派の人間なら、そんなことをするまでもなく、既に「前以って罰せられた人間」であることを自覚できるだろう。  つまり言ってみればネチャーエフはここで、永遠の「ノー」、無限の「いいえ」を手に入れるために、「わかりません」一派のたましい[#「たましい」に傍点]についての技術を、一寸利用してみたということなのだ。  これはあくまでも人間性へのパロディーではなく、「革命家の教理」である。そのことを何度も確かめながら読まなくてはならない。この読み方の違いにこそ、「わかりません」一派とネチャーエフとの違いがあるからである。たとえばここには「革命」については何も書かれていないではないか、という意見がある。確かにそうだ。我々はこれを読んで、むしろ「革命」の不可解さのみを知らされる。しかし、それもネチャーエフの作戦のうちなのだ。ネチャーエフの「革命」のイメージは常に漠然としている。彼の「中央委員会」が常に手の届かない外国にあるのと同様である。私は確信するが、彼は選んでそうしたに違いないのである。つまり彼は、「現実」と「革命」との距離を、「革命」の肯定によってではなく、「現実」の否定によって縮めようとしたのだ。そしてこの「現実」を否定する力をより強めるため、「革命」を限りなく遠ざけなければならなかったのだ。結局、彼が手に入れたのは「革命」ではなく、永遠の「ノー」、無限の「いいえ」だったのだろう。  我々がこれを生活訓として受け入れようとした途端、我々は人間性の迷路の中に、永遠に迷い込む恐怖に一瞬とらわれる。ネチャーエフの場合、そんなことはなかった。彼はこれを、たましい[#「たましい」に傍点]の様態を決定するためのカセとして利用しようとしたのではなく、生理の条件反射を機敏に行なうための規準として利用しようとしたのだ。  革命家というのは危険な商売である。生理の条件反射を「無意識」の手に委ねておくと、膨大な「現実」にあっという間に飲み込まれてしまう。一瞬の判断をあやまれば、そこから手もなく追放される。生理の条件反射を決定する新しい規準が作られなければならないし、それにふさわしく生理の条件反射をきたえあげなければならない。  ネチャーエフが見事なのは、一生を通じて破綻なく、この規準に生理を律し切ったということであろう。我々も、それは認めなければならない。  おそらく、ネチャーエフ型の人間というのは「わかりません」一派よりも早く、歴史上に現れたのではないだろうか。「わかりません」一派というのは、人がすべてネチャーエフになれるとは限らない、ということから生れたものであろう。誰でもがネチャーエフになれるのだったら、「わかりません」一派は生れなかったのだ。しかしもちろん、既に我々はネチャーエフを羨望したりはしない。 「わかりません」一派は、決して衰弱したネチャーエフではないのだ。それは独立した一つの方法である。 [#改ページ]   死のう団の最期 「死のう団」という奇妙な集団について、我々は余り知らされていない。昭和史の中に時折小さく取扱われているだけで、詳細はほとんど明らかにされたことがなかったのである。しかし、先年れんが書房より保阪正康氏の著わす『死なう団事件』が出版されて、我々も漸くことの詳細を知ることができるようになった。  事件は昭和十二年二月十七日に起こった。その日正午から二時半までの間に、国会議事堂、外務次官邸、宮城前、警視庁、内務省の門前に五人の羽織袴の青年が現われ、「死のう、死のう、死のう」と叫びながら短刀をもって切腹したのである。傷は浅く、誰も死ぬことはなかったが、号外が街を走り、人々を驚かせた。これ自体はいささかチャチな事件であり、とりたてて言うほどのこともないのだが、集団が作られ、ここまで追いつめられてゆく過程にはかなり異様なものがあるし、この事件のあと盟主たる江川忠治が死に、あとを追って同志達が次々に自殺して果てたということになると、誰でも少しばかり気味が悪くなってくる。「鬼哭啾啾! 死なう[#「死なう」に傍点]の家」というのが当時の新聞の見出しである。  もちろん「死のう団」というのはこの集団の正式の名前ではない。正式には「日蓮会殉教衆青年党」といい、既成宗教の退廃に怒った青年たちが中心になって作ったいわば布教集団である。日蓮宗のことは私は余り良く知らないが、前述した『死なう団事件』の著者によると、日蓮の遺文といっても、直接日蓮のものか弟子達の手によるものなのかが極めて混乱しており、その解釈をめぐっても意見は多様であるという。この日蓮会は、門弟達によって手直しされたものを根本から否定し、日蓮に「直参」することを旨としていたのだが、それでも状況がそうである以上、誰かの解釈に頼らなくてはならないことになっていた。この矛盾が、この集団の奇妙な性格を決定したのだと、私は考える。  盟主江川忠治は言う。「本尊異解の謗法やその法義的解釈の偏狭放縦に至つては、吾等の糺弾すべきものあまりにも多し。されど見よ近き将来を。誓つて吾等が改革して見せる。又改革出来ずにはゐないのだ。それは其の筈である。吾等は吾等の説を立てないのだ[#「吾等は吾等の説を立てないのだ」に傍点]。唯だ日蓮聖人を仰がせ吾らの標準である標準を凡夫共に求めてはならぬ。飽くまでも日蓮聖人に直参する吾等は徹頭徹尾此の見地に立つて、私の見解各々の説を認めない。何処までも日蓮聖人の御指南に任せ奉る此の故に日蓮聖人の日蓮会に従はぬ者は、即ち日蓮聖人に背く者に限る」。  ここから論理的な矛盾を見つけ出すことはたやすい。 「吾等の説」を立てることなしに、「本尊異解の謗法やその法義的解釈の偏狭放縦」をどうやって糺弾できるのか、というわけである。しかし、そんなことは承知の上のことだ。「わかりません」一派の人間なら、それが論理的に矛盾しているかどうかとか、それが可能か不可能かなどとは考えない。そこにしか拠って立つところがないのである。しかも、ここからいきなり「故に日蓮聖人の日蓮会に従はぬ者は、即ち日蓮聖人に背く者に限る」へ強引に短絡させると、この文章がみるみるアナーキーな情熱を帯びてくる。ダイナマイトに信管を結びつけたような感じである。  ともかく昭和三年十月、この恐るべき独断(しかるが故に情熱的たり得るのだ)をもって日蓮会は発足した。他宗派への攻撃の激しさと、布教の熱狂性が支持されたのか、集団はみるみる大きくなる。何はともあれ情熱があり、しかもその情熱があいまいな根拠と具体的な目標に支えられているという場合は強い。集団は年を追う毎に量的に拡大し、一大勢力となり、そこでお決まりの通り、外部からのイヤガラセやチョッカイが出てきて一時挫折する。質的変化を余儀なくさせられるのである。五・一五事件など、軍部右翼の直接行動が頻発する時代風潮に感化されて、日蓮会の青年会員達は「何か決定的な行動を起こさなくてはならない」と考え始める。昭和八年の新年会の席上、布教活動以外、決して行動にでないことのいらだちが高まってきて、盟主江川忠治にぶつけられる。盟主忠治は言う。≪では、青年部の覚悟、綱領、実行はどういうようにするのだ≫。会員はぐっと詰まる。しかし誰かが言う。≪不惜身命です≫≪本当にそうかね≫≪真実そうです≫。  このやりとりは極めて面白い。ちょっとした禅問答である。しかしさらに面白いのは、盟主忠治が、このやりとりのぎこちなさをぎこちないままに、そのまま理解してしまったことである。彼は言う。≪そうだ、そこだ。理屈よりは覚悟だ、そして実行だ。真日蓮主義にいわゆる信伏随従、給仕第一と喝破する所以のものは、実にこれなのだ。どうだ諸君、やるからには本当にやろう。この血、この腕、この体、この命でやろう≫。その場の情景を『死なう団事件』の著者はこう言う。「桜堂(忠治)が言葉を結ぶと、全員がワッというわけのわからない声をあげた。彼らは、具体的にはどのような行動を起こすのかを知らなかったが、エネルギーのありあまる吐け口を見出したのにほっとしたのである。青年会員達は、自分が初めてなにかわけのわからないほどの興奮を味わったと漠然と思った」。  この時この場を支配した興奮の種類について、軽はずみな判断を下すことはできない。我々には余りにもおなじみの生理的反応なのである。忠治も言う、「理屈よりは覚悟なのだ」と。理屈というものが、綱領というものが、つまり自己正当化というものが、自己の「覚悟」に対する不信からしか生れ得ないということを、彼は良く知っていたのである。綱領ができたとたん、人は綱領と覚悟との差の中で、みみっちく葛藤をくり返すだけの小さな存在になり果てるであろう。その辺についての疑問が彼の中で大きかったのである。もちろん、奇妙なことではある。綱領がなくて、どんな「実行」が一体保証されるというのだろうか? 実はこのあたりから「死のう団」はその本領を発揮し始めるのである。つまり実行行為というのは、その「覚悟」を持続させることである。そして「覚悟」を持続させているという自覚は、それを持続させまいとする外力と拮抗する中でこそたしかめられる。結果的にはやはり「行動」が、しかも「不措身命」という究極のイメージに裏打ちされた絶対的な「行動」が、約束されているのだ。 「宣言、我が祖国の為に死のう! 我が主義の為に死のう! 我が宗教の為に死のう! 我が盟主の為に死のう! 我が同志の為に死のう!」が作られた。会員は、不動の姿勢で立ち、唇をかみ、右手を握りしめて勢いよく横にふりおとし、「死のう」と叫び、それから「我が祖国の為に、我が主義の為に、我が宗教の為に、我が盟主の為に、我が同志の為に」と叫び、もう一度右腕を横に振りおろし「死のう、死のう、死のう」と三度絶叫するのである。これはなかなか良くできている。「この動作を繰り返しているうちに会員たちは理性を捨て去り、感動の極致に達する事が出来る事を知る」とあるが、私もひそかにやってみて実に生きていることの感動を充分に味わうことができた。 「死のうの歌」もできた。≪生れた、生れた、直参が、死のう、死のう、正義の闘士よ、見よや我等が喜びを、祝へ、祝へ、諸共に。起てよ、起てよ、我が同志、死のう、死のう、諸共に、見よや我等がこの盟ひ、永遠に変らぬこの契り。戦へ、戦へ、正義の為に、死のう、死のう御法の為に、見よや我等が戦いを、朝日に輝く日蓮旗≫。これもまた、彼等の心情を写しとるに足る構造を見事に表現している。「生れた」「起てよ」「戦へ」から「死のう」へ論理を敢て飛躍させているのではない。それは論理的に言えば同義語反復に類するものなのであり、意識の上層と下層をそのように言い換えているに過ぎないのである。  昭和八年六月、盟主忠治は選ばれた二十八名の男女精鋭会員に「殉教千里行」に出ることを告げる。全員、「宣言」に忠誠を誓い血判を押すこと、七月上旬から鎌倉八幡宮(?)に祈願し、それから全国行脚に出るが、その詳しい日程はその場で忠治の口から発表する。ともかく「永遠に目的はなく、生還も期さない旅だ。各自はその覚悟だけしてゆくように」。実に「理屈より覚悟だ」という点において徹底しているではないか。もちろん、全員何の疑問も持たない。七月一日、忠治の給仕役鈴木某が指令書を持って党員の家をまわって歩く。「全員、羽織袴で七月二日午前十時横浜杉田梅林に集合のこと。盟主は七月三日午前八時に鎌倉八幡宮で落ち合う。それまでは主任長滝に従うこと。なお、羽織は白、袴は黒衣で短く脚絆を巻き草履を履くこと。手に樫棒をもち頭には鉢巻もすること」。  断っておくがこの格好は当時でもかなり異様だったといわなければならない。この総勢二十八名が、「死のう、死のう」と口々に叫びながら金沢街道を歩き始めたのだから、当時ただでも神経をとがらせていた官権にひっかからない筈がない。葉山署から連絡を受けた神奈川県警は、「秘密結社に違いない」「第二の血盟団事件か」と色めきだち、非常呼集で県特高課長を先頭に右翼係、左翼係の刑事を動員して、全員パクってしまった。「永遠に目的はなく、生還も期さない旅」は、思いがけなく早く「目的」を与えられることになって、党員達はさぞかし武者振いをしたことだろうが、迷惑したのは官権である。党員達は何を聞かれても答えないし、時おり思い出したように「死のう」と叫び、あとは虚ろな視線を投げるだけだった、というのだから、腕っこきの刑事連中も、ひどく手を焼いたことだろう。 「テロ? 邪教? 黒装束の一隊、昭和怪奇の出現」と、当時の新聞は書いた。これが「死のう団」第一回の法難である。法難か? まあ法難だろう。これによって組織はほとんど壊滅する。しかし、中心的なメンバーは、以後、この法難を財産にして、喰いつないでゆくのである。この法難がなかったら、果して殉数千里行はどうなっていただろう? その方が悲劇的だったに違いないのだ。当時の官権が野蛮で、それだけにいく分「人間的」だったのが幸いしたのかもしれない。現在の官権だったら、異様な服装をして「死のう」と叫びながら徒党を組んで行進しても、そこに危険なものを嗅ぎつける能力はないし、万が一嗅ぎつけたとしても、該当する法文が見当らないということで、逮捕なんかしてくれない。逮捕されないということになったら、これは困ったことになる。永遠に目的なく、さまよい歩くということで、とめどもなくわけのわからない所へ押し流されてしまったことだろう。  しかし、幸いなことに、官権は逮捕してくれた。そればかりではなく、実に拷問までしたのであり、転向することまで要求した。実に日蓮会の面目躍如というところではないだろうか。逮捕された盟主忠治は、官権を前にして言う。「ちょうどよろしい折だから、皆さんに簡単明瞭にお断りしておくことがあります。釈尊の法華経、日蓮聖人の御遺書どおりに死を賭して法を弘めているわれわれを、悪く言ったり、悪く計ったり、陥れたりすると必ずバチが当りますぞ。これだけは言っておきます」。まさしく「ちょうどよろしい折り」に違いない。  官権は例によって例のごとく、何等かの陰謀があることを突きとめようとしたのだが、日蓮会の方には始めから何もないのだから、いくら拷問をしても転向を進めても、ないものはないのである。あるのは「覚悟」だけであり、これは凄まじい拷問に耐えて良く残った。つまり日蓮会は、ここで図らずも官権の手をわずらわせることにより「覚悟」だけを純粋培養することに成功したのである。「泰山鳴動してねずみ一匹」と新聞が報じた様に、九月になって全員釈放される。  もちろん、これですべてが終ったわけではない。取調中に新聞はこぞって「死のう団事件」を、極めてスキャンダラスに報じており、会員は以後その余波の中に身をおかなければならなかったからである。そうした世間の眼があったからこそ、純粋培養された「覚悟」を、純粋なままに保ち得たともいえるのである。既成の日蓮宗教団も一斉に日蓮会に敵対して対応措置をとり始めた。「誤解されたくない」と考えたのであり、「純正日蓮主義の教義」と称するものを配布して文部省を後盾にして一大キャンペーンを開始したのである。まさしく日蓮会の思うツボといわなければならない。或る詩人の童話に出てくる利巧な王子は、父親である王の「囲い込めるだけの土地を全てやる」という提案に対して、地面に小さな円を描き「この外側を全部」といったそうだが、状況はまさにそのように展開し始めたのである。日蓮会は、存続することだけで全世界と拮抗し得たと言っていいだろう。  十月になって盟主忠治は、拷問された今井千世のため神奈川県警を相手どって裁判を開始するが、これも「日蓮会の攻撃」ととるよりは、この状況との関係を、緊密に持続してゆくための方便と見た方がいい。以後延々と和解工作だの、告訴取下げ依頼の交渉だの、脅迫だのが続くが、盟主の態度はノラリクラリとしてつかまえ難い。警察側からかなりの譲歩があったにもかかわらず断固として断っているし、かといって交渉にまったく応じないわけでもない。ダラダラとそうした状態が続いて、遂に検事局で不起訴となる。  ともかく日蓮会としては、世間との、そうした関係が、緊密に持続されなくてはならない。世間から忘れられた途端に、純粋培養した「覚悟」について、確かめようがなくなるからである。裁判沙汰が終り、警察との交渉が絶えると、今度は「餓死殉教の行」を考えつくことになる。昭和十一年六月、党員はそれぞれに遺書をしたため、遺品を肉親に送り、監視の警官が取巻く会館にこもって、餓死への旅を開始する。餓死への旅の途中で警官が踏み込んで来た場合、集団自殺をする手はずさえ決めていた。  ところが、これには誤算があったのである。「殉教要録」を各方面に送っておいたし、現に警官が監視していたのだが、これに誰も気付かなかったのである。こんな馬鹿な話はない。警官も「出歩かなくなったので不審には思った」というのだが、不審に思ったらのぞいて見りゃあいいじゃないか。餓死行は少なくとも六十日以上は続いたのだが、世間が騒がないし、止めにも来ないし、それによって彼等の「覚悟」のほどを知らしめることができないのなら、これはやってもしようがない。九月になってやめるのである。全世界が襲来してくるという自覚があった時にのみ、地面に描いた小さな円は、その外側全部と対応する。それがないところでは、小さな円は結局小さな円に過ぎないのである。  冒頭に示した「切腹事件」は、この餓死行の変型である。もっとも、あまりうまい変型ではない。やはり「いぶり出された」という感じがするし、これまでの作戦の見事さにくらべたら、敗北主義的な感じがするのは否めない。したがって盟主忠治は暫く頑強に反対する。しかし大勢は如何ともしがたく、一つの妥協案を出す。つまり≪木をつくり刃を≫み刃先を一寸だけ出して、「死なないように切腹する」方法である。苦肉の策とはいえ、実にシニカルな方法には違いない。肉を切らせて骨を切るということはこういうことを言うのだろうか。刃先一寸の差をもって世界に拮抗しようというわけである。馬鹿馬鹿しい方法かもしれないが、ここに「死のう団」の思考のパターンが如実に示されているといっていいだろう。  殉教者というものは、全世界の迫害の対象でなければならない。出来得れば、彼がそこに居る[#「居る」に傍点]ということだけで、全世界をやり切れなくさせることが望ましいが、それがならないならば、一寸だけ世界の方へ身を乗り出して、迫害に手を貸してやってもいい。「わかりません」一派、江川忠治とその組織「死のう団」は、おそらく「わからない」ことを示すために、余りに情熱的であり過ぎたのだろう。 [#改ページ]   磯部浅一の場合 [#1字下げ] 全日本の窮乏国民は一致して特権者を討て、討幕を断行せよ、然れどもその戦場を法廷にもとむるなかれ、その武器を合法的弁論に求むるなかれ、戦場は何処に、武器は如何にということを思慮してあやまるなかれ、余はいはん、全日本の窮乏国民は神に祈れ、而して自ら神たれ、神となりて天命をうけよ、天命を奉じて暴動と化せ、武器は暴動なり、殺人なり、放火なり、戦場は金殿玉楼の立ちならぶ特権者の住宅地なり、愛国的大日本国民は天命を奉じて道徳的大虐殺を敢行せよ、然らずんば、日本は遂に救はれざるべし、国民よ、無力なる国法を重んじ国権に従ひて何時迄隠忍するものぞ、神州神人は暴慢なる国法と国権と人と物とを討ち滅し焼きつくすための天祖の使徒ならずや  昭和十一年七月、二・二六事件の首謀者として死刑の判決を受けた磯部浅一は獄中でこう記した。過激である。アナーキーである。二・二六事件が失敗して、いささか捨て鉢になっているのではないかとさえ思えるのだが、実はそうではない。  たとえば、この文章を読んで我々の生理に特に奇異に感じられるところは、「……神に祈れ、而して自ら神たれ、神となりて天命をうけよ、天命を奉じて……」のくだりであろう。もちろん、ここで言う神の概念というものは、単純ではない。熱烈な天皇主義者である磯部浅一が、現人神《あらひとがみ》としての天皇に対する疑惑を次第に深め、しかもなおそれに対する信仰を失うまいとして見出した、無限の彼方にある正義である。この「神」は、磯部浅一の方向へ放射される過程で、まず天皇となり、天皇主義者の(つまり皇道派の)軍人となり、軍の階級に従って次第に天下ってきて同志となり、最後に磯部浅一となるわけである。したがって磯部浅一の内より発する正義というものは、この過程を逆流するわけであるが、それが近いものから次第に不信を唱えて上昇しはじめ、遂には天皇を超えて無限の方向へ放射されざるを得なくなったということである。当然ここで彼の言う「暴動」は、自分から無限の彼方にある正義まで、中間地帯をすべて吹き飛ばそうというスケールを持っていると見ていいだろう。  この「神」は、だから「無限の方向」という言葉に置きかえてもいいのだが、この概念は現在の我々にはないものである。我々は常に自虐的にしか過激になり得ない。暴動へのパトスは、「自己否定の論理」に一方を支えてもらわない限り、決して発情しないのだ。しかし、磯部浅一はいささかも自虐的でない。三島由紀夫が「癒しがたい楽天主義」といみじくも指摘したように、彼の暴動へのパトスは、天皇を信じていたが故に、それを粉砕して無限の彼方へまで上昇し得たのである。「信ずるものは幸いなるかな」と言わなければならないだろう。真の天皇主義者こそが、擬制としての天皇制を常におびやかす存在となるのであり、この時磯部浅一はこの矛盾を極限において確かめたのであろう。これを確かめ得た時(奇妙な確かめ方ではあるが)彼は「わかりません」一派の人間であったと、私は信ずるのである。  二・二六事件というのは、奇妙な事件である。一般に言われているように「拙劣な部類に入る軍事クーデター」というのはどうかと思われる。もちろん、磯部浅一がここでいう「暴動」とも違う。確かに、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、他警官数名を殺害し、鈴木侍従長他数名に重傷を負わせているのだが、ここで行動はパタリと途切れ、二十九日叛乱軍にされて逮捕されるまで、なすこともなく停滞しているのである。二十六日に蹶起して前述の「仕事」をすると、逮捕される二十九日までの、この不毛な四日間について、多くの人々が疑問を投げかける。もちろん、何もしなかったわけではない。「君側《くんそく》の奸《かん》」を除いて、天皇と直結すべく蹶起したのだが、「忠義の士」であるべき上層部の軍人どもがうろたえてしまって、ラチがあかなかったのだ。上層部の軍人などを信用したのがそもそも間違いなんだと言ってしまえばそれまでだが、実はここに、彼等の致命的な矛盾があったのである。  彼等には権力奪取のイメージはまったくなかった。「権力を以って天皇大権を私議する君側の奸を除こう」というのだから、権力を持つこと自体が蹶起の目的に反するのである。しかしまた、現存の天皇は擬制にすぎないから(彼等はこれを知らなかったし、また信用しようともしなかった)権力を持ってそれをそそのかさない限り、大権が発動されることは絶対にない。彼等の四日間は、この矛盾の中にあったのである。三島由紀夫はこう言う。「事件、逮捕、裁判の過程において、いや事件の渦中においてすら、戒厳令下の維新大詔の渙発を待った[#「待った」に傍点]。彼等は待ちつづけた。革命としてははなはだ手ぬるいこの経緯のうちに、私は、道義的革命の本質を見る。というのは、彼等は、待ち、選ばれ、賞讃され、迎えられなければならない、ということを共通に感じている筈だからである。純粋性と道義的責任の完遂は、権力自体の自画自讃によって決して果されず、ゾルレンの権力の側から、みとめられ、賞讃されることを待つほかはない。もし権力を奪取した者が、自分の敢行した道義的革命の成果を自画自讃したとしたら、誰がこれを信じるだろうか」。そして彼三島由紀夫はこうつけ加える。「そもそも一つの芸術作品を作り出したと信じた者が、その作品を賞揚する批評家の役を兼ねたいと思うだろうか。彼およびその作品にとっては、待つ事のほかに何が出来るだろうか」。  おそらくそうだろう。磯部浅一とその一派は「待った」のである。その待つべきものが、天皇の聖断であれ、民衆の蹶起であれ、「わかりません」一派の人間が行なう叛乱は、常に待つことを予定しないでは行なわれ難い。「死のう団」一派も、自ら過激なる装いをこらして待った。待ちきれずに飛び出して行ったから自滅したのである。もちろん、待つことは難しい。待ち続けることはさらに難しい。待っている状態をそのまま長びかせることではないからである。常に、日々刻々、待つことを新たにくり返していなければならないからである。  三島由紀夫は、それを「一つの芸術作品」ということで説明しようとしている。磯部浅一とその一派が行なった重臣の暗殺が、もし「一つの芸術作品」として機能し、以後日々刻々、日常性を侵蝕し、制度を脅迫し、倫理を破壊し続けたら、やがてある日、彼等の言う維新は成ったかもしれない。事実は残念ながら、日を追うに従って暗殺は、「芸術作品」ではなく「事件」として形骸化され(この操作に四日間を要した)磯部浅一とその一派は、叛乱軍の汚名のもとに逮捕され銃殺されるのである。  冒頭に掲げた磯部浅一の「暴動」のイメージは、「芸術作品」として考えあわせると良くわかる。つまりそれは、自らの内にある「正義」を外在化させるための一つの形式なのである。「暴動」はそれ自体政治的な成果を目指さない。自らの内なる「正義」を、無限の彼方にある「正義」に直結するため発情される無目的な行為に過ぎない。したがってそこにはもう政治のイメージはない。三島由紀夫は「道義的革命」という言葉を使ったが、政治的国家ではなく道義的国家へ、永遠に近づこうという方向のみがあるのだ。  ただしこの「正義」と「道義」は「わかりません」と同義である。「なにヲッ! 殺されてたまるか、死ぬものか、一千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、悪鬼となって所信を貫徹するのだ。ラセツ[#「ラセツ」に傍点]となって敵類賊カイを滅尽するのだ」。これは磯部の遺書である。ここで既に磯部浅一は闇の中にある。「悪鬼となって」と言っている。「ラセツとなって」と言っている。正邪の彼岸を越えているのだ。ただ自らの「強さ」のみを確かめたかったのであろう。そしてその「強さ」とは、「わからない」ものを支えるためのものであるに他ならない。  二・二六事件に参加した磯部浅一とその一派およびその遺族は、戦時中逆賊として世間から非難された。戦後民主主義下の日本にあって、熱狂的な天皇主義者の彼等が賞讃される筈はない。彼等は今後、いかに政治情勢が変ろうとも、そのたましい[#「たましい」に傍点]の救われることはあるまい。昭和四十年二月二十六日、二・二六事件の遺族を中心にして作られた「仏心会」は現在の渋谷公会堂の裏に(そこが当時の陸軍刑務所の処刑場の一角であった)碑文を建てたが、世間をおもんぱかってか、彼等の真意は伝えていない。彼等のたましい[#「たましい」に傍点]は、未だ安住の地を見出していないのである。  ここで、磯部浅一とネチャーエフの違いについて考えておかなければならないだろう。前に述べた様に、磯部浅一は「わかりません」一派の人間だが、ネチャーエフは違うのである。しかし、そのどこが違うのかというと、かなり漠然としている。これはもしかしたら、かれとこれとの文化の風土の違いになるのかもしれない。極く具体的に言えば、ネチャーエフには権力奪取のイメージがあって、磯部浅一にはそれがなかった、ということになるだろう。もちろんネチャーエフも「革命家の教理」の中では、「革命家の仕事は破壊する事だけだ」と明言しているが、彼にはそれにとってかわって進出してくるであろう組織者としての「民衆」のイメージがあった。しかし磯部浅一には、組織も政治も欠落しており、あるのは「上御一人の聖断」のみであって、それが擬制であることを見破って後は、虚空にたとえようもなく上昇してゆく以外にない。三島由紀夫は「私は少くともこれが成功していたら、勝利者としての外国の軍事力を借りることなく、日本民族自らの手で、農地改革が成就していたに違いない、と考える。史上、独裁と軍隊の力を借りずに成功した農地改革はなく、それはアジアにおける近代軍隊の使命なのであり、二・二六事件の義軍[#「義軍」に傍点]は、歴史に果すべき役割において、尖鋭な近代的自覚を持った軍隊だった。そして私はむしろ、その成功のあとに来る筈の、日本経済の近代化工業化と、かれらが信奉した国体観念との、真正面からの相剋対立に、かれらが他日真に悩む日があったであろう、その悩みにこそかれらを十分にひたらせて成熟せしめたかったと思う者である」と言っているが、そんなことはない。私はこれを信じない。この維新は、たとえどのようにしても絶対に成功しなかったであろうし、もし万が一成功したとしても、いかなる政治的成果も、もたらさなかったであろうと、信ずる。日本は一億総ヒッピーとなって、インド人のように、哲学者として飢え死にできただけだろう。  そこがネチャーエフとは違うのだ。ネチャーエフは、少なくとも政治と近代に絶望していなかったが、磯部浅一は、たとえ意識していなくとも、政治と近代に絶望していた。「わかりません」一派の革命は、三島由紀夫の指摘した通り、常に「道義的革命」であることを免がれないのだが、その「道義的革命」の限界は、状況と対等[#「対等」に傍点]になるところまでで、それを越えた途端に無に帰する。磯部浅一が、天皇の擬制であることを見破りながら、遂にそれを否定できなかったのは、そのせいである。彼は獄中で呻吟しながら、彼の維新のためのイメージが、政治の形で結実しないことに、おそらく気付いたであろう。冒頭の文章の中にある通り、神の概念を導入したのはそのためだ。それは神によって天皇を超えたのでもあり、同時に、それによって天皇を支えたのでもある。天皇こそが、彼の「道義」における唯一の政治だからである。  磯部浅一は日蓮宗の宗徒である。彼の行動に決定的な影響を与えた北一輝もまた、日蓮宗の宗徒であった。前回の「死のう団」も日蓮宗であったし、してみると、日蓮宗というのは、かなり異様な宗教の一つといえるのではないだろうか。宮沢賢治がそうであり、石原莞爾がそうであり、その他を考えあわせてみると、「わかりません」一派にとっての、日蓮宗というのは、極めて重要な関係にあるのかもしれない。 [#改ページ]   北一輝の場合 [#1字下げ] 大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死する迄読誦せる者なり。汝の生るると符節を合する如く突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。則ち汝の生るるとより父の臨終まで読誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此の法華経をのみ汝に残す。父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、又楽しき時、嬉しき時、此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ念ぜよ。然らば神霊の父、直ちに汝の為に諸神諸仏に祈願して汝の求むる所を満足せしむべし。経典を読誦し解説するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦経三昧を以て生活の根本義とせよ。則ち其の生涯の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き而して諸神諸仏の加護指導の下に在るを得べし。父は汝に何物をも残さず。而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり。  これは二・二六事件で死刑になる直前、北一輝が、その息子(養子)大輝に宛てて書いた遺書である。名文である。父が子に残す遺書というものは、常にかくあるべきである、という気さえする。法華経がどうのこうのという問題ではない。つまり、語るべきことはすべて法華経の内にある、ということを言っているのではないのだ。おそらく、法華経には何も書いてない。「此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ念ぜよ」という言葉があるように、経典は一つの護符として機能するのであり、また、「経典を読誦し解説するを得るの時来らば」というのも「経典の思想を理解できるようになったら」という意味ではない。「そうなったら」、「その思想を生活の中に生かせ」と言っているのではなく、「誦経三昧を以て生活の根本義とせよ」と言っているからである。「経典を読誦し解説を得るの時」という言葉は「経典の思想を理解できるようになった時」という言葉とほとんど同義だが、「その思想を生活の中に生かせ」という言葉と「誦経三昧を以て生活の根本義とせよ」という言葉は、かなり違う。つまり、極く大ざっぱに言ってしまえば、「その思想を生活の中に生かせ」というのは内的制約であるが「誦経三昧を以て生活の根本義とせよ」というのは外的制約である。  経典が護符であり、同時に外的制約であるという点が、重要である、と私は考える。つまりそこに、北一輝の「父」としての決意があると見るからなのだ。「父」というものは子に対して常に決意しなければならないのだし、その決意自体が持つ雄弁さを伝えなければならないのである。あるいは逆に、「父」というものは子に対して常に、決意することしかできないのであり、その決意のみが雄弁であると信じこまなければならないのである。そして、そう考える「父」は、子に対して護符と外的制約を遺言する。護符と外的制約の中にしか、その決意はこめられないからである。近代以前においては、多くの「父」がそのようにして子に遺言し、護符と外的制約を引きついできたのであるが、同時に子はそれをそうさせた「父」の決意を引きつぎ、その強さを維持してきたのであった。近代以後、護符と外的制約を伝達する風習は断たれ、それ自体は至極当然であったのかもしれないが、同時にすべての父は子に対する決意をも失ったのである。現在、父権の喪失がしばしば言われているのは、そのせいであろう。  歴史が連続し、一つの文明が連続する源には、そうした決意の伝達が連綿として行なわれ続けていなければならないのであり、北一輝もここでそれをしているのである。三島由紀夫は『文化防衛論』のなかで、終戦後の文化政策が≪文化を生む生命の源泉とその連続性を、種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じる事だった≫と書いている。これは終戦後[#「終戦後」に傍点]行なわれ始めたものではなく、明治以来の近代化政策そのもののなかに、そうした傾向が既にあったのだと私は考えるが、それはともかく、この「文化を生む生命の源泉」について思いをいたし、その「連続」をはかるべく語りかけようとしている姿勢が、この北一輝の遺言の主調をなしているのである。つまり「発電や灌漑」については一切ふれていないということだ。  さて、私がこの遺書をあえてここに引用したのは他でもない、革命家の遺書として(北一輝は自ら革命家を名乗っていた)かなり風変わりなものであると考えるからである。北一輝のイメージにある「革命家」がどんなものであれ、父[#「父」に傍点]と革命家[#「革命家」に傍点]はほとんど結びつかない。これはいわば私のカン[#「カン」に傍点]で言うのだが、革命家は父[#「父」に傍点]でなく子[#「子」に傍点]でなければならない。もちろん、本来そうであってはならないのかもしれないのだが、日本的な事情の中では、革命家はほとんど子[#「子」に傍点]であったし、その潔癖さも弱さも多分に子[#「子」に傍点]であることに由来していた。この辺を桶谷秀昭氏はこう説明する。≪日本の多くの時代の良心というもののよって立つ論理をかんがえてみると、それが対立し抵抗すべき支配者の論理にたいする自己の無力証明によってのみ、かろうじてその存在理由をもっていることが多い。それは、支配者に盲目的に屈従してかえりみることのない奴隷根性の裏返しとして、じぶんの身柄を支配の論理にあずけてしまっているのだ。そしてそれ故に、それは決定的な汚名からまぬがれる。しばしば汚名を蒙るのは、支配者の論理と同一の平面で自己の論理をうち立てようとする思想である。この種の思想は、支配と被支配の内在的なメカニズムそのものと対立することによって、その両者から憎悪され疎外されるのである≫。  子であることによる革命家と、父であることによる革命家の違いとは、まさしくそのようなものに違いない。もちろん、私の、そして一般的な見解にしたがっていえば、革命家は子[#「子」に傍点]でなければならないのであり、奴隷根性の裏であろうと表であろうと、ともかくもそれを固守しなければならないのである。支配者の論理と同一の平面に自己の論理をうち立て、支配と被支配の内在的メカニズムそのものと対立しようとする者を、われわれは革命家とはいわない。意識(もしくはたましい[#「たましい」に傍点])において、文明(支配者)と対等であることのみが目的である人間、つまりこれまで幾度か説明してきた「わかりません」一派の人間なのである。  北一輝は、意識において文明と対等となること、そうなり得る人間を、革命家と称したに過ぎないのだ。そして彼の革命も、またそうしたイメージの中にあった。「吾人は純正社会主義の名に於て永久に斯く主張せんとするものなり。肉体の作らるよりも先に精神が吹き込まれざるべからず。欧米の社会主義者に取りては第一革命を卒へて経済的懸隔に対する打破が当面の任務なり、未だ工業革命を歩みつつある日本の社会主義にとりては然かく懸隔の甚しからざる経済的方面よりも妄想の駆逐によりて良心を独立ならしむることが焦眉の急務なり」。つまり北一輝は「経済的懸隔の打破」などを、革命とは考えていなかった。革命とは「思想系を全く異にする」思想のたたかいであって、いかに過激な行為があっても「同一なる思想系の継承上にそれが行なわれるのなら」それは戦乱にすぎない、というわけだ。  もちろんここで言う「思想」というものが北一輝一流のものであることはいうまでもない。欧米の「経済的懸隔を打破する」たたかいも、「思想系を異にする」思想のたたかいが結果したものに違いないからである。しかし北一輝はそれをそうは見なかった。北一輝の言う「思想」とは、民族の創造の原理であり、それを連綿として支えてきたエトスであり、「魂のドン底」を流れるあるもの[#「あるもの」に傍点]、なのであった。したがってこそ、この「思想系を異にする」思想のたたかい、といったものがどのようなものか想像がつくのである。いってみればそれは、闇仕合のようなものに違いない。桶谷秀昭氏はこう言う。≪その思想が、支配と被支配の内在的メカニズムそのものとの対立を、論理として保有しつづけることは、思想の極めて困難な営為のになう栄光と優位の証しにほかならぬけれども、ひとたび歴史の現実に相渉り強力な具体的プログラムを打ちだす段階になったとき、その思想の論理は、さきの支配と被支配の内在的メカニズムとの対立関係をもはやもちこたえることができないという絶望的な困難に直面せざるをえない。思想の論理の変質をあえて犯してもさし迫った現実のプログラムを強行するか、プログラムの実現はただちに願わず、もっぱら思想の論理をかなしく守りつづけるか、この二者択一において、多くの場合、前者は政治的実践において自己の転生をはかり、後者は文学の創造におもむくであろう。しかし、いずれも、その転生の後においても、最初にその思想の論理を支えたエトスは、生きつづけているのである≫。 「歴史の現実に相渉り具体的なプログラムを打ち出す段階になった時」に「支配と被支配の内在的メカニズムとの対立関係をもはやもちこたえることができない」という事情については、われわれは良く知っている。「具体的なプログラムを打出す」ということは「はい・いいえ」一派になり下る、ということであり、当然「わかりません」一派のよくすることではない。北一輝の言う、王者の思想から奴隷の思想への転落を約束するものなのだ。ただし、そうした場合、人がすべて、政治的実践もしくは文学の創造への転生という二者択一的な立場に立たされる、というのは間違いであろう。「わかりません」一派は、思想家でも、革命家でも、文学者でもなく、「わかりません」一派であり続けることができる。たとえば「現実に相渉る」なかで、止むなく思想家風であったり、革命家風であったり、文学者風であったりすることはできるが、あくまでもそれは、「わかりません」一派なのである。  北一輝もまた、支配と被支配の内在的メカニズムそのものとの対立を、論理として保有し続け、遂に二者択一の場に立たされることなく、したがって転生することなく終ったのだと、私は信ずる。北一輝の栄光も悲惨も、すべてここに起因していると、私は考えるのである。つまり私は北一輝の『日本改造法案大綱』を、現実に相渉る具体的プログラムとは見ない。後に、現実にそうであったように、多くの人々がそれを具体的プログラムであると見誤るであろうことは、十分予想していたに違いないが、北一輝自身のなかではそうでなかったはずである。そうでなくては、その『日本改造法案大綱』をたずさえて上海より帰ってきて以後の北一輝の行動は説明できない。彼は西田税にそれを与え、自らは法華経の読誦三昧の生活をし続けたのである。北一輝にとっての『日本改造法案大綱』は、妙な言い方だが、支配と被支配の内在的メカニズムそのものとの対立を、自らの内に確かめるための「決意」の所産に他ならない。北一輝の「思想」とは、いわば「決意」のようなものとしてしか、確かめ得ないものだからである。ただし先にも述べた通り、それは政治の具体的なプログラム風であるから、それをそう見誤る人々にもてあそばれ、結果としていやおうなく現実の方から関わってくることが予定され、幸運にも(というべきか、不運にも、というべきか)それに耐えることで、その「決意」は持続を余儀なくされるのである。  一九二一年安田財閥の当主善次郎を刺殺した朝日平吾が、その遺品を北一輝にのこして改造法案に教えられるところがあったと感謝している。改造法案の影響による行動第一号であるが、この時の北一輝の恐怖とある種の快感というものを、私は良く理解できるような気がする。改造法案がひとり歩きを始めたのであり、それを遠くに感じながら、北一輝は法華経を読誦しつつ、耐えているのである。何に? つまり、一つの思想系がもう一つの思想系に触れ、きしむ[#「きしむ」に傍点]のをである。ここから二・二六事件が磯部浅一等によって計画され、連座して処刑されるまで、北一輝はこうした「恍惚と不安」のうちに居続ける。この北一輝の現実との関わり方のなかにこそ、「わかりません」一派の、極限的な姿勢が持続されていたのだと、私は考えるのである。  この頃北一輝は「高天原」と呼ばれ、実際問題に関知しないよう、極力努めていた。改造法案が北一輝にとっての「具体的プログラム」でなかったとはいえ、それは芸術作品でもない。三島由紀夫は、前回の磯部浅一の項で述べたように、芸術作品を完成し外在化させた者の、他からの関わりを「待つ」姿勢について語っているが、それが芸術作品ではなく、「革命のため」の「思想」である場合、「待つ」ことは単にそれだけのことではない。「芸術作品」の場合は、「体系としての思想」と同様、外圧に対しては、その「作品」なり「思想」なりを捨て去ればこと足りるが、「決意としての思想」については、捨てるわけにはいかない。それは未分化に、それを決意した思想家の実在に、無気味にもつながっているからである。北一輝が「高天原」にこもり、法華経の読誦三昧にふけったのは、その無気味さから必死になって逃れようとしていたせいであろう。もちろん前述したように、そうした関係からもたらされるマゾヒスティックな快感があったことも事実である。  当時の右翼テロ、革新将校と称する人々の軍事クーデター計画があるたびに、北一輝の改造法案は、陰に陽に見え隠れしながら、現存の思想系に、不協和音をもたらしていた。改造法案にある細目を政治の場で実行に移すことではなく、それがそこに存在すること自体に現存の思想系にとっての危機がある、という事情が、北一輝の目論見通り、かもし出されつつあったのだ。したがって北一輝にとっては、右翼テロも、革新将校たちの軍事クーデターも、それ自体としては有効であるとは思っていなかった。ただ、それらの事件によって改造法案の存在が重要性を増し、それを支える北一輝の「決意としての思想」が次第に無視できぬものになってゆくことを期待していたのだ。そうした「事件」が頻発すればするほど、現存の思想系が侵され、その分だけ、北一輝の思想系が顕在化されるからである。「高天原」にこもる北一輝と、当時の目に見えない支配者とは、そのようにして隠微な思想系と思想系を異にするたたかいをしていたのである。  ここで行なわれていたたたかい[#「たたかい」に傍点]の様相について、桶谷秀昭氏はこう言う。≪国家権力に対しては、久野収の言葉を借りれば、天皇制の『密教』をつかんで『顕教』を徹底的に退治することによって、日本の魂のドン底からの変革をこころみた≫。ただ私の見解に従えば、この分析にはやや問題がある。当時の井上日召や橘孝三郎などは、確かにそうだったに違いないが、北一輝は違っていたのだ。そこが北一輝の北一輝たる所以であり、当時の単なる右翼思想家でなかったところなのだ。北一輝は「顕教」と「密教」に支えられていた「天皇制」に対して、自らをも「顕教」と「密教」に分裂させて対抗しようとした唯一の思想家なのである。『日本改造法案大綱』を書いた北一輝と、「革命は順逆不二の法門なり、その理論は不立文字なり」と言っている北一輝は、同時にその双方であることにより、「天皇制」と対等になり得たのである。したがってここでたたかわれていた、たたかいは、「顕教」に対する「密教」のたたかいではなく、まさしく、「密教」と「密教」のたたかいだったのだ。北一輝が敗北したのは、その「密教」を、二・二六事件に関与することにより、「顕教」化された結果に他ならない。  さて、二・二六事件に北一輝はどう関与し、どう敗北したか、それを見てみよう。一般には、北一輝は二・二六事件にほとんど関与していないのであり、したがってその処刑は極めて不当である、といわれている。しかし私はそうは思わない。北一輝は関与したのであり、その関与の仕方を間違えたのであり、その処刑は不当だとしても、それは権力が不当であるという意味においてのみ不当なのであるに過ぎない。  二・二六事件の調書によると、北一輝は「事件」に参加した将校達を「革命軍ではなく正義軍である」と言っている。これは、二月二十六日、事件の起きた日の午後十一時、北一輝宅を訪れた岩田富美男が「革命軍大いに起る」という号外が出た、という話をした時、北一輝が言った言葉なのだそうであるが、この点について取調官に二度に渉って聞かれ、答えているのである。ノートにもわざわざ書いてあったそうであるから、単なる思いつきとは思えない。つまりこれが、北一輝の「二・二六事件」に対する戦術だったのだ。行動の具体的なプログラムについては認めないし、関与もしないけれども、その発想の真意については認めるし、関与していたとしよう、というわけだ。巧妙な戦術である。行動の具体的プログラムについて咎が及んできた場合は、その部分だけ切捨てる。しかし、それをそうさせた真情はあくまでも認め、北一輝の「思想」の重大さについては、行動の成否にかかわらず顕在化させよう、というのである。もちろん、巧妙ではあるが狡猾であるとは言えない。北一輝は前述したように、軍事クーデター如きにたたかいのすべてを賭けたりするようなことはしない人間なのだ。彼はその時既に、もっと大きな存在とたたかっていたのであり、そのたたかいに、「事件」をより効果的に利用しようと考えただけなのだ。  そして、北一輝は利用し損った。重臣暗殺をした後の部隊が余りにもたもたしていて、支那革命を実践してきたリアリストたる北一輝のカンに触れたのかもしれない。勝ちをあせったのかもしれない。北一輝は西田税から得た情報に基づいて、部隊に指示を与えてしまうのである。  調書にはこうある。「西田の話によりますと、青年将校は(首班を)台湾軍司令官の柳川中将閣下(にしたいと)を主張しているとのことでしたから、私は台湾軍指令官を誰が呼び寄せるかが問題であり、また台湾から来るに相当の日数を要するが、それまでの猶予ができないから左様なことをするよりも、青年将校は意見を一致して、真崎大将を内閣首班に推し、而して軍事参議官にも同意を求め、同参議官からも、また青年将校からも両方から一致して真崎大将を推戴せば、あるいは奉勅命令も発せられるかもしれないし、蹶起部隊の蹶起趣意書の目的も達せられることになるものと思いまして……」かなりチャチな指示をしたものである。「日数を要するから」など、蹶起部隊の真意に対して、余りにもリアルに過ぎるものと言わなければならないだろう。首班に推せと指示した真崎大将のことについても、北一輝はほとんど知っていないのである。考えるに、北一輝は、この事件が、下手に混乱することなく(混乱すれば、どんな結果が北に及んでくるかわからない)存在する[#「存在する」に傍点]ことが重要だったのであり、どんな政治的効果を発揮するかは、全然期待していなかったに違いない。  官権は当然ながらここに喰いつく。これは正義軍としての部隊への精神的加担ではなく、革命軍としての部隊への政治的加担である。こうなると、その指示は一時しのぎの便法だなどというわけにはいかない。一時しのぎの便法を与えるような部隊が、どうして正義軍であり得ようか。 「顕教」と「密教」の双方に支えられて存在する「天皇制」に対して、自らも分裂してそれに対抗しようとした北一輝の戦術が、ここで破綻をきたす。  三月八日の調書で、蹶起部隊への指示を認めてから、以後の北一輝は無惨である。「わかりません」一派の人間が、強引に「はい・いいえ」一派にとりこまれてゆく無惨さが、見事に描かれている。彼は彼の真意を伝えるべく、「(中国には)君主と仰ぐべき者がないために、万民塗炭の苦しみを続け居るを見、痛切に皇統連綿の日本に生れた有難さを、理論や言葉でなく腹のどん底に沁み渡るように感じました」、などと言っている。これは、ある意味でその通りであろう。官権に迎合しているわけではないのだ。ただこの言葉は、処刑の直前、「私達も天皇陛下万歳をしましょうか」と言った西田税に対して、「いや、私はやめましょう」と言った言葉と、決して無縁のものではないのであり、その点を、ここでは欠落させている。  北一輝自身は自らを分裂させ得たが、言葉は分裂しないのだ。北一輝の悲劇は、そこにあった。 [#改ページ]   川瀬申重の方法  川瀬申重(五十四歳・当時)は、昭和四十三年八月十五日午前五時、京都市右京区K魚類会社の社員寮三〇一号室において、妻節子(四十四歳)と長女清美(二十歳)を、掃除機および扇風機のコードで締め殺し、自らも自殺しようとしたが、失敗した。  事件はほとんど知られていないものであろうから、詳細を伝える『週刊朝日』より引用しながら話をすすめたい。問題にされるべき人物川瀬申重は、大正三年和歌山県日高郡に生れ、小学校を卒業後、村の塾に通い、大阪の本屋に就職。その後、京都の私鉄の乗務員、製菓会社と職を変え、昭和十七年陸軍に召集され、二十一年五月に復員した。同年節子さんと結婚、以後苦しい生活を続け、二十七年四月、K魚類会社に就職。三十八年四月から事件のあった鉄筋三階建の寮に入った。長男と長女があり、いずれも高校卒業後長男は銀行員、長女は店員となっていた。  特にとりたてていうこともない、平凡な半生である。ここの部分の『週刊朝日』の記事は、川瀬が「子ぼんのうであったこと」と「生活が苦しかったこと」を強調している。「子ぼんのう」はいいが、生活が何故苦しかったのかは、記事を読む限りでは、わからない。事件当時の川瀬家の財産は、家財道具と額面五十円の会社の株券百枚だけで、預金はゼロだったそうであるから、事実ひどかったには違いないのであるが。  さて、こうした平凡な人物川瀬申重がどのようにして、妻と長女を殺すに至ったのであろうか。京都地裁合議法廷では、次のようなヤリトリが記録されている。 [#ここから1字下げ] 検察官「君は一家心中と思っているのか、それともふつうの人殺しと思っているのか。」 被告「一家心中と思っています。」 検察官「ところが一家心中するほどの事情がないね。死ぬ直前まで会社に話して寮の明渡しをのばしてもらおうという気持があったのに、それが午前五時ごろ突然、殺そうという気になっているわけだが、そこまで深く考えていたわけではないね。」 被告「はい。」 [#ここで字下げ終わり]  ところが、「事情」はあったのである。それがどれほどの「事情」なのか、検察官に理解できなかっただけの話なのである。ともかく、その「事情」とやらを、ありのままに拾い出してみよう。  発端は四十年春、それまで特別に入居条件のなかった社員寮の使用規則が「入居後五年を経たもの、または税込給与額が五万五千円以上になったものは、入居の資格を失う」と改定されたことによる。川瀬の場合、四十三年四月に入居満五年になるし、さらに同年四月、給料が六万二百八十円に上がった。つまり、入居資格を失ったのである。  もちろん、入居資格を失うまでの間(四十年春から四十三年四月まで)川瀬は、ただ手をこまねいていたわけではない。四十二年六月、京都市右京区梅津に土地を買い、家を建てる契約をした。土地九十九・四平方メートル、家は木造二階建五十六・一平方メートル、価格二百八十五万円という条件である。手付金の三十万円は社長の口利きで金融会社から融資を受け、残り二百五十五万円は、八十万円を姉、四十万円を兄、百三十五万円は銀行からと、予定していた。  ところで、ここで変なことが起こるのである。川瀬は、いちばんあてにしていた姉に借金を断わられると、「がっくりして資金調達の意欲を失い」、兄と銀行からの借金をあきらめてしまうのである。完成した家は他人に売られ、手付金の三十万円は契約違反で没収されてしまった。このあたりはどう考えてもおかしい。さらに川瀬は、この事実を最後まで会社側に隠し続け、その家が「間もなく手に入る」ということで押し通すのである。  寮の明渡し期限、四十三年六月十二日、川瀬は、会社に寮の使用延期願いを出す。「今年の五月六日に家が完成したが、家具類がそろっていないので六月二十日まで待ってほしい」という理由によって、である。さらに「二十日には寮を明渡すのだから、こんな申請書を出す必要はないのだが……」とも言っていたそうである。  当時、規則によって寮を出なければならなくなっていた世帯は、川瀬を含めて四世帯あったそうであり、そのいずれもが、使用延期願いを出していたそうである。会社は、全員の延期を認め、ただし期限切れ後は、五千円だけ家賃を増額する、と決定した。家賃増額の決定を知らされた川瀬は、その時も「私はすぐ寮を出ますから、関係ありませんね」と、言ったそうである。  六月二十日はズルズルと延びて七月の十八日、川瀬は遂に退寮届を出した。「あす寮を明渡すので、承認してほしい」というのである。別に会社から責められたわけではない。川瀬は、退寮届と一緒に、新しく住む家の住所変更届も出した。ごていねいにも会社からの略図も書いてあったというから、念の入ったことである。当然ながら、あてがあったわけではない。川瀬は午後二時に勤務を終えると、バイクに乗って京都市内の不動産屋をかけずりまわり、多い時は一日に十四、五軒もまわったそうだが、「いい物件を見つけることは、できなかった」のだそうである。  あてがなくて出した退寮届であるから、翌日の七月十九日になっても、出てゆくわけにはいかない。「今度建てた家と知人の家とを交換することになったので、八月四日まで待って欲しい」と、急場を切りぬける。  なすこともなく八月の四日になる。これも、交換の話が難航しているから、もう少し延期して欲しいと申出て、八月十日まで延ばすことに成功した。この頃川瀬は、会社ばかりでなく、家族にもウソをつくようになった。妻節子に、引越しをするから用意をしておけと、言いつけているのである。  妙な話だが、川瀬はこの家の問題に関して子供達の援助を一切受けようとはしていないのである。子供達の給料は、全部子供達のものだったそうであり、銀行に勤めている長男にも、相談もしていないのである。「息子はカネの商売(銀行)をしているから、親がカネがなくて困ってると知って、ふらっと悪いことをしてしまったら困るから、これは絶対に言ってはいけないと、思ってました」と、後に語ったそうである。  八月に入って、川瀬の話を信用していた会社は、川瀬が出たあとに入居する社員を決めてしまった。  約束の八月十日、その日も明渡すことのできなかった川瀬は言う。「私も、一日延ばし、二日延ばしにしていて心苦しいので、会社としては最終的にいつまで寮の明渡しを待てるのか、はっきり言って欲しい」。まるで、ハッキリしないのは会社の方だと言わんばかりの口調である。会社は、八月十四日と決めた。この場合、明らかにしておきたいことは、会社は常に、明渡しの件については、受身にまわっているということである。川瀬の延期願いはすべて受入れて、川瀬の方から「ハッキリ決めて欲しい」と言われてはじめて、期限を切っているのである。  タンカは切ったものの、八月十四日も川瀬は引越すことができない。十四日会社へ出勤した川瀬は「仕事が忙しいので、きょうは宿がえできない。明日はひまだから、朝八時ごろ帰らしてもらって、ぱっと昼前に宿がえしてしまいたい。それで、いいですね」。  川瀬は家に帰って、寮の明渡しを妻節子に告げる。「どこに変わるのや」。川瀬に答えられる筈はない。「お父ちゃん、ガスひねって火をつけたらみんな死ねる」。節子はヒステリックに叫ぶ。  午後七時すぎ、ショックで食事の仕度をしない節子にかわって川瀬がマーケットで買物をし、一家四人はすき焼き[#「すき焼き」に傍点]を囲んだ。食後、これまた川瀬がつくった粉末ジュースをのみ、ひとしきりテレビを見たあと、ふとんにもぐりこんだ。  十五日午前三時、川瀬は目を覚ました。習慣になっていた寝たばこを吸いながら、川瀬は仕事のことを考えた。その日は、舞鶴へ干しダコを出荷しなければならなかったのである。しかし、「会社へ行けば、上司から明渡しのことを聞かれるに決っている」。  同午前四時、出勤する同僚の足音が寮の階段に響いた。もういいわけはきかない。川瀬は突然、ふとんの上に起きあがった。惨劇は、その直後に起こったのである。 「事情」は十分におわかり頂けたことと思う。私は、一家心中の記事を、他にいろいろと読まされてきたが、これほど論理的に、そして必然的に「一家心中」へ追い込まれていった過程を知らない。川瀬には「一家心中」する以外の何もなかったのだ。  もちろん検察官が「一家心中するほどの事情がないね」と観察した意味も、わからないではない。検察官は「五十四歳になっても家一軒もてん。かいしょなし、と思われたくない見栄も手伝って、会社にウソをつき続けた」という川瀬の言葉などから類推して、「見栄」が、「川瀬をかく追い込んだ」とし、「見栄」などはすぐ捨てればいいのだから、そんなものは「事情」にならない、としたのであろう。ここには二重の意味での誤解がある。つまり、私の観察するところに従えば、「川瀬をかく追い込んだもの」は見栄[#「見栄」に傍点]などではなかったし、もし仮りにそれを「見栄」とするなら、それは、たとえ「一家心中」しても、「捨てることはできなかった」ものなのである。現に川瀬は、「見栄も手伝って」と言っている。明らかに、「見栄」以外の何ものかが作用していたことを、言っているのだ。  まず第一に我々は、川瀬が昭和四十二年六月、三十万の手付金を払って契約した家を、手放すに至った事情について考えてみなければならない。資金調達の予定図まで作っておきながら、最初の姉に断わられると、あとズルズルとすべてをあきらめてしまい、手付の三十万まで取られてしまうのである。他から借りようとする努力も、兄や銀行に借りる予定であった金額をその分だけ増やそうとする努力も、していない。当時の川瀬にとっての三十万という手付金は、決して少なくない金額であったろうし、現にそれは「社長の口ききで金融会社から借りた金」なのであるが、それをなすこともなく、無駄にしてしまうのである。  もちろん、こうした男はよく居る。最初に何かでつまずくと、それですべて気力を失ってしまって、何も彼もいやになるのである。ただし、ここが重要なところだと考えるのだが、川瀬はそこで破滅はしなかった。ヤケにもならなかったし、ひどく落胆することもしなかった。会社では、そのことを最後まで知らなかったのである。おそらく川瀬は、妻節子にも聞かれるまでは黙っていたのであろう。一人で黙々と、耐えたのである。何故それに耐えられたのであろうか。私はここに、川瀬にとってのたましいの秘密があると思うのである。  最初に川瀬が、姉に借金を断わられた時、すぐにすべてをあきらめたとは考えられない。兄のところへ、もしくは銀行へ行って、姉に断わられた分も頼みこもうと考えたに違いない。しかし、それは重苦しい仕事だった。そこで一日延ばしに、延ばしていったのだ。「明日は行こう、明日は行こう」と考えながら一日一日と延ばしてゆくその日々の、ギリギリする緊張感は、大変なものだったろうと思う。そうした連続の中で、川瀬はたましい[#「たましい」に傍点]の奇妙なすれ違いを体験する。「兄のところへ交渉に出掛けてゆく強さ[#「強さ」に傍点]」を自らに課すのでなく、「行かなければいけないと考えながらおくる不安な日々に耐える強さ[#「強さ」に傍点]」を自らに課すことを始めていたのだ。たましい[#「たましい」に傍点]の奇妙な転換がここで行なわれたのである。人はこのようにして、「わかりません」一派の人間に生れかわる。  事実、「兄のところへ交渉に出掛けてゆく」ことの重苦しさなど、「出掛けてゆかないで日々耐える」ことの重苦しさに比べれば、何でもない。普通の人間は、この比較にもとづいて前者の道を選ぶわけであるが、川瀬は、同じこの比較にもとづいて後者を選んだ。たましい[#「たましい」に傍点]にとっての刺激、もしくは緊張感が、川瀬にとって何ものにも換えがたく貴重に感じられたせいであろう。川瀬の人生に対する方法が、ここで決定されたのだ。一旦、たましい[#「たましい」に傍点]にとってのこうしたスリルを味わってしまうと、そこから抜け出ることは不可能である。この快楽。おそらく川瀬は、彼のたましい[#「たましい」に傍点]に、手付の三十万が失われ、家族の、会社の、その他すべてからの信頼が失われてゆく事実を、刻々と刻みつけながら、それまでに味わったことのない「楽しみ」を、体験したであろうと、私は信ずる。  期限は切れ、三十万は失われ、彼自らが感ずる家族からの信頼、社長を始めとする会社からの信頼は、失われた。川瀬はそれを、彼のたましい[#「たましい」に傍点]に対する罰則として受けとめ、したがってあたかも平然とふるまうことができたのである。以後、寮の明渡し期限である四十三年六月十二日までの川瀬のたましい[#「たましい」に傍点]は、その事実が家族に、もしくは会社に、バレる日を待つことで緊張する。その頃になると、その緊張こそが彼の生活のすべてになっていたのだ。人生を送る方法には二通りある。「はい・いいえ」一派の人間は、人生を「目的」的に生きようとする。もしくはそう錯覚する。「わかりません」一派の人間は、人生に対して緊張し、その実感を持続させようとする。「はい・いいえ」一派の人間は、よく事業に成功するが、「わかりません」一派の人間は、よく失敗する。おそらく「わかりません」一派の人間は、成功させるよりも失敗させた方が、たましい[#「たましい」に傍点]にとってより刺激的だと考えてしまうせいであろう。「わかりません」一派の人間は、失敗をも楽しんでしまうのである。  もちろん、いうまでもないことと思われるが「わかりません」一派の人間は、快楽主義者ではない。快楽主義者がロマンチストであるとすれば、「わかりません」一派の人間はリアリストなのであり、快楽主義者が人間の弱さの表現であるとすれば、「わかりません」一派の人間は、人間の強さの表現なのである。川瀬は決して、社会の表層から逸脱しなかったし、しようともしなかった。それは、これまで述べたことでお分りの通り、彼の「見栄」の強さに由来するものではなく、彼の戦術の確かさに由来するものなのである。彼は彼のたましい[#「たましい」に傍点]が、どんな時に緊張するかをよく知っていたのだ。それは、家族を含めた世間一般の評判であり、いってみれば「見栄」であるが、それに一方的にすがることで緊張するのではなく、片方でそれにすがりながら片方でそれを裏切る時に、最も緊張するのであることを、彼は知っていたのだ。  最初に買おうとした家とその手付金を失った過程を見れば、よくわかる。彼がもし「見栄っぱり」ならば、あらゆる手を打って、それを買い取ることに成功したであろう。もし成功しなかったとしても、失敗にもっと落胆することができたであろうし、もしかしたらそこで破滅することも可能だったろう。彼はそうしなかった。選んでそうしなかったのだ。彼のたましい[#「たましい」に傍点]は、一方でそれにすがりながら、一方でそれを刻々裏切り続けるという、戦術を選んだのである。彼は「見栄っぱり」ではなかった。しかし「見栄」もあったのだ。彼は、彼の中にある「見栄」を利用したに過ぎない。つまり彼のたましい[#「たましい」に傍点]は、それに対して最もドラマを生じやすい性格を持っているからである。  寮の明渡し期限が切れて後の、彼の生活はまさしく狂躁的といってもいい。しかし、前述した観点にしたがってよく読んでみて頂きたい。極めて意識的に、ある戦術がとられているのがよくわかる。彼は、自らのたましい[#「たましい」に傍点]を、窮地に追い込むような、追い込まないようなデリケートな状態を延々持続させているのである。  いかに住宅事情が悪かったとはいえ、「適当な家が見つからなかった」というのは、どう考えてもおかしい。なぜ見つからなかったのか、おそらく金がなかったのだろう。もちろん、息子なり娘なりに相談して借りる気もなかった。彼自身「見つけられる見込み」のないことは知っていたのだ。そして、この辺の心理状態はいささか奇妙なのであるが、「わかりません」一派の人間にはよくわかると思う。彼の、「見つけられる見込み」のないままに歩きまわっているうしろめたさ[#「うしろめたさ」に傍点]が、一層彼を狂躁的にして「一日に十四、五軒」も歩かせたのであろう。「見つけられる見込み」がないからこそ、十軒よりも十五軒まわることで、満足しようとしたのだ。彼のたましい[#「たましい」に傍点]にとっての「不安と恍惚」は、このあたりでクライマックスになる。  もちろんこうした生活は危険であった。特に彼の場合は、生来「わかりません」一派の人間だったのではなくて、ある日突然、「わかりません」一派の人間に生れかわった人間である。いきなり新しい宇宙観を得た人間は、そのまま一気に駆け上がりたがる。会社から期限を切らせ、それをもう一日延ばしていよいよの土壇場、彼は「一家心中」を考え出したのだが、私は考えるに、それはすべてに結着をつけるべく仕組まれたのではなくて、緊張をさらに一オクターブばかり高めながら、結着をもうひとつむこうへ引延ばすために考え出した方法であると思う。発想に飛躍があるから、これがすべての結着だったのではないのかと考えがちなのだが、彼自身のたましい[#「たましい」に傍点]にとっては、寮明渡しを延期させるための理由(その時には既に、寮明渡しなど問題ではなくなっているのだが)の一つとして考え出したものに違いないのだ。その証拠に、彼自身は「死ななかった[#「死ななかった」に傍点]」のである。そして、彼の思惑通り[#「彼の思惑通り」に傍点]、寮明渡しの問題などは、その事件をもって、吹飛んでしまったではないか。  四十六年四月二十一日、川瀬申重に対する判決が下る。「主文。被告人を懲役五年に処する。未決拘留日数中九百日を右刑に算入する。押収してあるゴムの被覆電線一本(筆者注、これで妻節子を殺害した)およびビニール被覆電線一本(同、これで長女清美を殺害した)をいずれも没収する」。彼は遂にここで、転居先を見つけたのである。転居しても、かまわなくなったのだ。以後彼は、彼の同僚やその他の人々が、彼についてどううわさ[#「うわさ」に傍点]しているだろうかと想像することにより、そのたましい[#「たましい」に傍点]を緊張させておくことができる。しかも、これはちょっと無気味な話だが、長男は生残っているのである。『週刊朝日』の記事では、前夜四人で食事をしたことは書いてあるが、翌朝、父親が妻と娘を殺す場面には、息子は登場していないのだ。どこか他へ泊っていたのだろうか? もしかしたら、わざと川瀬はそうしたのかもしれない。息子の存在を意識することによって彼の刑務所の中のたましい[#「たましい」に傍点]はより強烈に刺激されるだろうからである。さらに刑を終えて出所した時、息子に顔をあわせる場面を、彼は何度も何度も思いうかべながら、そのたましい[#「たましい」に傍点]をのたうちまわらせていることだろう。私は、そうした彼を理解する。 [#改ページ]   連合赤軍の神話  浅間山荘事件は単なる茶番劇であったが、それ以前のリンチ事件はそうではなかった。そこには、「わかりません」一派の人間にとっての、真剣な、そして極めて人間的な、営みがあった。我々は、彼等をしてリンチ事件に至らしめた、すべての事情を極めてよく理解できる。それは、彼等にとって必然的な過程であったし、もしかしたら、計画的ですら、あったかもしれない。  私はある雑誌にこういうことを書いたことがある。≪もし文明の彼等に気付くのがもう三か月遅かったら、彼等は一人を残して、もしくは一人も残さずに、すべて消えていただろう≫と……。「そして誰も居なくなった」というわけだ。これは悪い冗談だけれども、冗談であるだけに、私をほとんど慄然とさせる。私は何度もこれを口にしてみて、何度も驚くのである。こんなことが行われていい筈がない。しかし、考えれば考えるほど、そうに違いないとしか思えなくなってくる。文明がこのリンチ事件に対して極度の拒絶反応を示したように、彼等もまた、文明に対する極度の拒絶反応によって、この事件を創りあげていったに違いないからである。彼等は彼等の信ずる革命の思想に基づき、妙義山に忽然と消え去るであろう軌跡を忠実になぞっていた。  文明がこれに気付き、彼等を追いたて、「浅間山荘事件」という解釈可能な事件にデッチあげたのは、だから文明の自己防衛本能であったに違いない。それが茶番劇であり、余りにも悲壮でかつ滑稽なのは、その文明の意図が露骨すぎたせいであろう。もちろん文明の側にまったく手抜かりがなかったとはいえない。それに気付くのが若干遅すぎたのであり、リンチ事件は、未完成ではあったが、既に開始されていたし、完結した円環を目指して、半円までは描いていたからである。ここまでを見れば、誰でもそれを完成させることができる。「そして誰も居なくなった」という解答は、今のところパラドクスでしかあり得ないが、それは我々の文明に対する未練がそうさせるのである。我々は、文明に対する一抹の未練にもかかわらず、それをそういいたくてウズウズしているし、文明の側は、それをそう言わせまいとして、ピリピリしているのである。  私は考える。妙義山中にこもった数十人の「わかりません」一派の人間が、その「わからない」事情を持続させる過程で、もしくはそれを凝縮してゆく過程で、一人を殺し、それを埋め、もう一人を殺し、それを埋め、次第に少なくなり、最後に一人になり……。その時彼は、もしくは彼女は、自分の穴を自分で掘るだろうか……? 掘るだろう。そして、自らそこに入るだろう。雪が降り、凍え、死に、土くれが崩れて穴を埋め……そして、「誰も居なくなる」。文明は、おそらく長い間、そこでいかなる厳粛な営みが行なわれたか、気付くことはできない。文明は、考古学者が沙漠の真中から一個の石を掘り出し、それによってもう一つの文明を推理するようにしか、事件に近接し得ないのである。何故なら、もしそれがそのように完成していたら、その事件は、我々のこの文明と対等の、もう一つの文明に違いないからである。  彼等は自ら、革命軍であると言っていた。しかし文明は、ゲバラや毛沢東と比較して、革命軍ですらないと決めつけた。したがって文明は、革命までは許容できるが、彼等は許容できないのである。文明をして、革命を受入れるほどまでに寛大にさせ、しかもなお排除しようとした彼等とは一体、何なのか。もうひとつの文明と、仮に名づけるより他にないではないか。  文明にとって最大の恐怖は、それと時間と場所を一にしたもう一つの文明が存在することである。革命もまた、一つの文明をくつがえし、新たな文明をそれにとってかえる試みではあるが、文明が革命をさほど恐怖しないのは、それとの葛藤の過程で相互に順応しあう可能性をもっているからである。しかしもう一つの文明は、そこに存在するだけで葛藤をしない。いぶり出して「浅間山荘事件」にしない限り、それとの葛藤は期待できないのである。  もし妙義山中にこもった彼等が自らを革命軍というのなら、確かにそれは革命軍なのであろう。しかしその革命は、現文明をくつがえすべくしくまれた革命ではなくて、現文明の中に、もう一つの文明を存在させるべくしくまれた革命であった。もしくは、現文明をくつがえすべく有効な革命ではなくて、現文明下にもう一つの文明を存在させるべく有効な革命であった。革命用語の中に、解放区闘争というのがある。とすれば彼等は、この情報文明下における、真の解放区を創りあげる試みを遂行したのであり、その試みは半ば成功したのである。彼等は情報下にいぶり出されて、すべてつかまってしまったけれども、文明におけるこの事件の部分だけは、我々の記憶が続く限り、永遠に白濁した分析不能の部分として、残り得るだろう。それを、我々にとっての解放区と名づけて、悪いわけはない。おそらく、情報文明下における真の解放区とは、そのようなものなのだ。  もちろん彼等が意識的に何をしようとしていたか、ということになると別問題だ。現体制下では、人はおおむね意識的であり得ない。意識的に何をしようとしていたかということと、結果的にどうせざるを得なかったかということの内に、ある真実を読みとらざるを得ない。  彼等は革命を行なおうと考えていた。その革命のイメージがどのようなものであったか、せんさくする必要はない。いってみれば人はすべて、革命を行なうために生きている。彼等は組織を作った。当然組織には規律が必要となる。さらに彼等は軍団を作った。これは非合法であるから地下組織になる。武器と資金を入手するために、強盗を始める。それによって官権につけねらわれ、次々にアジトを失い、遂に山中にこもる。もしかしたら、ここで体勢を立て直してやがては出撃し、何等かの政治目標をねらったのかもしれない。実際にはねらえなくとも、彼等はそう考えていたのかもしれない。これはあり得ることである。それができなかったから、彼等は自分達の行動を、失敗だと考えているかもしれない。それはまあ、それでもいい。しかし、それでは、成功の部分はどうなる? 彼等は、ある意味では見事な成功を収めたのだ。現文明を、これほど脅迫した事件は、かつてなかったのだから。  私は、彼等の思惑にかかわらず、たとえ無意識ではあれ、この「成功」を目指していた要素が、彼等の内に確かにあったと信じている。リンチ事件は、止むを得ず行なわれて結果的に文明を脅迫することになったのではなく、ある意味で必然的に起り、文明を脅迫することをまっすぐ目指していたのだ。それを、これから検証してみようと考える。それができた時、彼等は我々におなじみの「わかりません」一派の人間なのである。あるいは彼等が我々におなじみの「わかりません」一派の人間であった時、それができるのである。  彼等は革命を行なおうと考えた。これはいい。何度もいうようだが、人はたいてい革命を行なうために生きている。次いで彼等は組織を作った。このあたりから問題は二つにわかれてくる。組織は、外在化する政治目標に向って緊張している場合と、構成メンバーの離反を防ぐべく緊張している場合がある。もちろんこれは、構成員個々の、組織に対する対し方の問題だ。図式すれば、「はい・いいえ」一派は、組織というものを、前者のように把えるであろう。そしていうまでもなく「わかりません」一派の人間は、組織を後者のように把えてしまう。どうしてもそうなるのだ。したがって彼等が「わかりません」一派の人間であったとしたら、この組織は、革命のための機能ではなく、革命そのものとしか見えなかった筈である。彼等はほとんど、革命を行なっているがごとく、組織員たることに忠実たらんとしたのだ。当然、規律が生れる。規律を守っているという自覚が、そのまま革命を行なっているという自覚にすりかわる。この時、既にもう外在する政治目標など、目に見えないし、当然不要でもある。彼等にとっては、規律を守り、組織の一員たることが、既に充分に政治目標たり得てしまっているからだ。  しかし、何事にも人はすぐ慣れる。規律を守ること自体が革命であるためには、規律はそれを守ることが次第に刺激的なものになってゆくようでなければならない。非合法である軍団を作り、それを地下組織にしていったのは、そのためであるといってもいいかもしれない。彼等はそれを作ることにより、より尖鋭的に政治目標に迫ろうとしたのではなく、より困難な、したがってより刺激的な規律を自らに課し、それによって革命を行ないつつあることの実感を高めようとしたのである。彼等は銃砲器店に押入り、武器を手に入れ、銀行に押入り、資金を手に入れた。彼等は、外在する政治目標を獲得するために、それらの武器と資金が必要だったからそうしたのか? そうではない。彼等は、彼等自身の内にある「そうしてはならない」と教える文明に復讐し、そうすることで、革命を行なっているという自覚を、持続させたかったのである。  当然彼等の犯罪行為は、敏腕をもって鳴るわれらが官権の嗅ぎつけるところとなり、都市内のアジトは、ほとんど発見され、彼等は追い出された。彼等は組織の機能がおとろえ、外在する政治目標との距離が遠のいたことでなげいたであろうか? そんなことはない。彼等は、公然たる犯罪者の名を得、市民権をハクダツされ、文明総体を見返す立場に立つことで、革命家たる厳粛さを自覚し得たに違いないのである。  もちろんすべてがこのように運んだかどうかは知らない。しかし、もしこのような要素が、時に働いていたら、以後、山中にこもりリンチ事件に至る過程は、ほぼ必然的である。  彼等が妙義山中にこもった時、そこには新たな事情が待ち受けていた。ある評論家が、リンチ事件を評して、「都市ゲリラが山中に逃げこんだ悲劇」と言ったが、当らずといえども遠からずといえよう。いうまでもなく、「都市ゲリラ」の戦術は、日常空間にどう関わるか、という所から、すべてあみ出されてくる。彼等もまた、都市ゲリラであった時代は、そこに方法の基礎を置いていた。彼等の、組織を作ってから山中に逃げこむまでの過程は、日常空間からの離脱の過程でもあった。その離脱の幅を広げることにより、彼等はより刺激的に、自己の革命的持続を自覚しつづけてきたのである。極端にいえば、そこから離脱しつつあることの恐怖感こそが、その革命遂行の自覚とイクォールであったのだ。  ところで彼等は俗世間から隔絶された妙義山中にやってきて、まず途惑ったに違いないのだ。小屋を整備し、食物はここ、武器はここ、他の個人用の荷物はここと、置き場所を決め、食事当番と掃除当番と買物当番を決めたら、あとはやることがない。もちろん、官権の襲来を怖れての見張りもおいたであろう、軍事訓練もしたであろう。体制を固めて出撃してゆくための政治目標の検討もしたであろう。しかし、それらは彼等にとって何だったか? 革命とは、およそかけ離れた事柄だったに違いないのだ。都市内のアジトにあった時、周囲の目や耳を怖れながら武器の運搬を行なったことが、いかに革命的であったか。そこでは「バクダン」と一言発することだけで、それだけで充分革命的緊張を体験し得たのだ。あの一挙手一投足を厳粛たらしめ、一言半句を重大たらしめていた〈場〉はどうしたのか? その〈場〉のないところで、彼等はどのようにして革命家たり得るのか。彼等はおそらくもがいた。もがくことによって、自らその〈場〉を創りあげていった。  リンチ事件が始ったのである。一人の男は寝袋の中に居たまま人にチリ紙をとらせたことでリンチされ、殺された。あまりにも極端ではある。我々にはほとんど想像もつかない。しかし、その場を納得させるに充分な理由ではあったのである。彼等は、他からの強制があったとはいえ、納得してそのリンチに参加したからである。  この納得の種類というものが違うのだ。彼等は、それがその男を殺すに足る、充分な理由であると納得したのではない。彼等は、そのようなささいな理由でも、その男を殺し得る厳しさを、自らに課そうとしたのだ。逆にいえば、それほどの厳しさを自らに課すのでない限り、その隔絶された状況のもとでは、革命を行なっているという緊張感を持ちこたえられなかったのだろう。  文明が強制されるもとでそれに叛逆するのは、どちらかといえばやさしい。山の中にこもり、自らの内なる文明に叛逆のツメを立てはじめた時、それはリンチ事件となって表現されざるを得ない。何故途中で逃げ出さなかったのだろう、と、多くの人々は疑問をもつ。しかし、一体、誰が誰から逃げるというのか。誰も、自分から逃げるわけにはいかないのだ。いってみれば、すべてが共犯者なのだ。一瞬でも、その〈場〉に緊張し、そこに緊張することを決意し、それを共有したものは共犯者である。自らを喰いつくし、殺されて、埋められるまで、そこから逃げる理由は成立しない。しかも、それをそうしながらギリギリと、何ものかを構築しつつある、という実感を、すべてが持ったはずなのだ。  彼等の中にキリストは居なかった。すべてがユダの決意をしていたに違いない。キリストと、ユダを含めた十二人の使徒というのは聖書だが、これは十三人のユダという構造である。そして、その意味で完璧に近い。事件が前述したように完成していたら、我々はこれを偉大な神話として、すえながく語り伝えたであろう。  キリストが革命家としてではなく宗教家として語り伝えられているように、この事件の参加者も、宗教的に語り伝えられるべき要素を多くもっている。彼等の特徴は、当然「わかりません」一派の人間の特徴なのであるが、行為への熱心さが態度への熱心さに、すりかわってしまう、という点である。何度もいうようだが、彼等が妙義山中にあって、常に熱烈に、外在する政治目標をねらっていたら、当然、リンチ事件は起きなかった。  もちろん彼等が、外在する政治目標をまったく失っていたとも思えない。そうだったら当然、彼等はそこで解散していたであろう。彼等は、外在する政治目標を持ち、当然、それをねらっていたのだが、それに熱中することで失うものがあることを知っていたのである。  たとえば、彼等の側に立って、外在する政治目標をねらうということがどういうことか、考えてみよう。たかだか数十人のメンバーで、しかもわずかな武器で、ということになれば、現実にねらえる政治目標などというものはたかが知れている。管理社会の政治的中枢、もしくは経済的中枢、そんなものの占拠など及びもつかない。しかし、いいことに、情報化された文明下においては、政治的中枢も経済的中枢も遍在している。ここを押えれば、全政治的機能が、もしくは全経済的機能が停止するという場所はないかわりに、どこで何をやっても、たちまち情報の網にひっかかって、文明に、ある衝撃を与えることができる。  しかも、革命軍が首相官邸に飛びこんだという事件よりも、革命軍がデパートに乱入して占拠したという事件の方が、情報はより混乱する。はるかに効果は大きいのである。  当然彼等も、外在する政治目標をねらうという考えの中で、これらのことは理解していたであろう。要は一点を確保し占拠することではなくて、情報を混乱させることである。一点を確保し占拠することであるならば、その目標に向って、ひたすら、すばやく、たくみに、そして力強くあればいい。  そうではないのだ。彼等は、そうではない事情を、自らの中に確信したかったに違いない。  革命軍は、いかなる正当性をもって、首相官邸ではなく、デパートに乱入できるのか。これが、彼等に問われていた問題である。  革命は政治中枢もしくは経済中枢をたたくことによって成功する。ただし、革命軍は弱体であって政治中枢もしくは経済中枢をたたくだけの力がなく、同時に政治中枢もしくは経済中枢は、一点に凝縮して存在するというよりはむしろ遍在している。そこで、情報を混乱させることが、間接的ではあるがより効果的に政治中枢もしくは経済中枢をたたくことになる。したがって、首相官邸ではなくデパートに乱入することが可能である。ここまでは機能的にきめつけることができる。デパートに乱入することは、可能であり効果的であるが、それでは何故正当か?  ここで、「革命とは、文明を見返す行為である」という言葉を発明してくることはやさしい。したがって、デパート乱入を通じて文明に叛逆の姿勢をとるのは当然、正当なことなのだ。  しかし、この言葉を発明した時、彼等は政治家から宗教家に、「はい・いいえ」一派の人間から「わかりません」一派の人間に、すりかわったのだ。そのことに、彼等は気付いていなければならなかった。「革命を行なう」ということは、結果的に「文明を見返す」ことになるであろうが、「革命を行なう」ということと「文明を見返す」ということは、まったく別のことなのだ。つまり、「文明を見返す」ことによっては「革命は行なえない」のである。 「革命を行なう」ことは、行為への熱心さによって表現できるけれども、「文明を見返す」ことは態度への熱心さによってしか表現できない。  彼等は「革命を行なう」ために「文明を見返す」ことをそれ[#「それ」に傍点]とこれ[#「これ」に傍点]を飛躍させたまま開始した。リンチ事件は、「革命を行なう」ためという錯覚のもとに、その実「文明を見返す」べく開始されたのである。もちろん彼等が、その時革命家ではなく宗教家にすりかわっていたことを最後まで気付いていなかったからといって、彼等を責めるに当らない。そこで行なわれた営みの厳粛さは、それによって失われるものではないからである。彼等は、リンチ事件をくり返しながら、自らの内にある文明にグロテスクにもツメを立て、何度も何度も、幻のデパートに乱入し、人々の非難の視線の中に、自らのたましい[#「たましい」に傍点]を曝《さら》したに違いない。 「はい・いいえ」一派の人間が、政治的行動をとり、過激さの頂点を極めると、そこで「わかりません」一派にすりかわる。これはその典型的な例であろう。そしてもちろん、「わかりません」一派の人間の最も過激な行為は、自らを殺すことにある。ともかく、連合赤軍のこのリンチ事件の衝撃性は、まだまだ語りつくされてはいない。そして、もっともっと語りこまれなければならないほど、重要な事件である。  ただひとつ、私にハッキリといえることがある。我々は、一九八一年前、ユダによって完全となったキリストを得た。そして今日、我々はキリストなしの、ユダを得たのである。 [#改ページ]   ポール・中岡の場合  我々にとっての当面の問題は「不眠症」である。多くの人々がこの「不眠症」に、わけもわからずに悩んでいる。しかも一般にこの問題はさほど重大視されていない。特殊な人間の、特殊な事情における症状とみなされているからである。しかし、私は確信するのであるが、現代では「不眠症」を経験したことのない人間を探すことの方が難しい。「不眠症」は、異常ではなく、我々にとっては常態なのである。「不眠症」を一度も経験したことのない人間こそ異常である。直ちに精神科医へ相談に行くべきであると、私は考える。少なくとも、そんな人間を、私は信用しない。 「不眠症」の対処法には、いろいろあるが、大ざっぱにいって二つに分類されると考える。他律的なものと自律的なものである。他律的な対処法としては、第一に薬物に頼る方法があるし、その他アルコールに頼るもの、肉体を必要以上に酷使する方法などがある。自律的な対処法としては、いうまでもなく自己暗示の方法であるが、数を数えるとか、できるだけ楽しいことを考えるとかいう素朴なものから、推理小説を読むとか、眠るまいと決意してみるとかいうかなりひねくれたものまで、これは種々雑多である。しかしこの場合、他律的な対処法については考える必要はないだろう。これはかなり野蛮な方法であるし、何よりも「不眠症」に対して、意識的に対決を迫るという姿勢に欠けるところがある。  我々は「不眠症」に対して、意識的に対決を迫らなければならない。したがって当然、我々が検討しなければならないのは、後者の、自律的な対処法である。もちろんたびたび「不眠症」にかかった経験のある人間にとっては、数を数えるだの、できるだけ楽しいことを考えるだのというのは、子供だましだと思うに違いない。こんなのは駄目だ。しかし、推理小説を読む、というのと、眠るまいと決意するのは、ちょっと高度な方法である。この方法を検討することにより、「不眠症」について考えてみることができそうな気がする。  推理小説の特色というのは、ある連続が保証されている、ということである。もちろん他のどんな小説においても、一つの連続性は保証されているに違いない。しかし、それはその作品の主人公の、もしくは作者の、「生」の体験の連続であるかもしれない。それはいけない。我々はそこで「もう一つの生」を体験したいのではないのだ。我々の「生」と関係のない、つまりもっと乾いたものが連続していなければならないのである。良い推理小説というものには、作者の仕掛けたカラクリだけが連続している。それは我々の「生」を、生臭く持続させるのではなくて、ひどく抽象的なものにすりかえて、連続させようとする。それによって、我々は「不眠症」から救われるのである。  眠るまいとする決意も、同様である。もちろん、眠るまいとする決意は、眠ろう眠ろうとする焦りに安心を与えるための便宜的な決意なのであるが、その決意によって安心することができるのは、我々の「生」の体験的な連続をそこで断ち切り、自己を抽象化することができるからなのである。  つまり、「不眠症」というのは、自己を抽象化するためのあくなき衝動なのである。そして、自己を抽象化し得た時、しかも、し続け得た時、人々は「不眠症」から救われる(あらかじめ断っておくが、「不眠症」から救われるということは、必ずしも、良く眠れるようになるということではない)。  ユージン・キナミは、≪人は不眠症の始まる頃から虚構の生[#「生」に傍点]を生きる≫と言っている。つまり彼の説によれば、人間の寿命は現在不自然に長すぎるのである。人間は神を失い、したがって「死後」のイメージを失い、以来人間は自己の寿命を「自然に反してまで」延ばそうと努力してしまった。そして事実「延びた!」のである。人間は現在、自然の、つまり神のおぼしめしに叶った寿命に、反自然の、つまり神のおぼしめしにない寿命を接木して、連続している。その接木したあたりから「不眠症」が始まる、というわけだ。それ以後の寿命は、神のおぼしめしにない反自然の寿命であり、当然その「生」は、たましい[#「たましい」に傍点]に復讐をせまる。それが「不眠症」なのである。  荒唐無稽な意見には違いない。しかし、彼は一つの真実を言い当てている。「不眠症」のはじまる頃が分岐点なのだ。「不眠症」がはじまることによって、人は「人間」になる。彼は、神のおぼしめしにない反自然の寿命といったが、それならば「人間」とは、神のおぼしめしにない、反自然の存在なのだ。それが「虚構の生」ならば「人間」は虚構なのだ。 「不眠症」というのは、「眠ること」への恐怖を原因として成立し、「眠れないこと」への恐怖を結果として定着される。この原因と結果をとり違えてはならない。「眠れないこと」への恐怖をとり除くことなど、ちっとも重要ではないのだ。「眠ること」への恐怖が、我々にとっていかに正当な恐怖であるかを、知ることこそが重要なのである。それが正当な恐怖であることを知った時、我々は我々が「人間」であるという厳粛な自覚を持ち得るのであり、「眠れる」とか「眠れない」とかいうことが、この厳粛な事実の前で、いかに「小さな」ことであるか、悟り得るであろう。我々がもし「人間」であるなら、我々は永遠に覚めていたって、ちっともかまわないではないか。  我々は「不眠症」への予感といったものを、かなり幼い頃、抱いた記憶がある。床に入る度に我々は、この現在の覚めた意識が、どのようにして睡眠という事情に連続するのか、確かめてみたいと考える。覚めた意識から睡眠へ、睡眠から再び覚めた意識へという移行を、連続したものとして把えようと試みるのである。もちろん、その試みは必ず失敗する。こうした試みを全然したことのないものも居るかもしれないし、途中で馬鹿らしくなってやめてしまうものも居るだろう。こうした人々は、「不眠症」にかかることもなく、したがって「人間」たる自覚も持ち得ないまま、死んでしまう。こういう種類の人々は、問題にしなくてもいい。この試みを、延々とくり返してきた人間が、やがて「眠ること」を恐怖し始める。意識が断絶されることが恐いのである。  ここで断っておくのだが、「眠ること」への恐怖は、「死ぬこと」への恐怖とイクォールだというのは、ある意味では正しい。しかし、「眠ること」への恐怖は、「発狂すること」への恐怖とイクォールでもあるのである。私はこの関係を、次のように理解する。「不眠症」が始まる頃を分岐点として、それ以前の人間にとっての最大の恐怖は「死」である。そして、それ以後の人間にとっての最大の恐怖は「発狂」である。つまり、「人」にとっては「死」が恐ろしく、「人間」にとっては「発狂」が恐ろしいのだ。したがって、「人」にとっての「眠ること」への恐怖は「死ぬこと」への恐怖とイクォールなのであり、「人間」にとっての「眠ること」への恐怖は「発狂すること」への恐怖とイクォールなのである。ユージン・キナミは「不眠症」以前の「人」の「生」を、神のおぼしめしに叶った「生」といい、以後の「人間」の「生」を、神のおぼしめしにない「生」といった。しかし、神のおぼしめしにない「生」を生きるときこそ、人は「神」を肯定的であれ否定的であれ、意識するものなのだ。「人」は、神のおぼしめしにかなった「生」を生きているから、「神」は意識しない。したがって恐怖の最大のものは「死」である。「人間」は、神のおぼしめしにない「生」を生きているから、おそらくは否定的にであろうが「神」を意識する。したがって「神」との対応関係を失うこと、つまり「発狂」が、最大の恐怖となるのである。「不眠症」にかかる頃から、「死」はむしろひとつのやすらぎとして、イメージされ始める。「死」は、「発狂」へ至る緊張の連続からの逸脱を約束してくれるものに見えてくるのだ。したがって「不眠症」以前の「人」は、情熱的に「自殺」することができるし、もしかしたらそれは「神」に対する勝利になるかもしれないが、以後の「人間」は、衰弱して「自殺」することしかできないし、それは明らかに「神」に対する敗北である。そうした「自殺」に、我々は一切、「人間」の尊厳を見るわけにはいかない。  我々は「不眠症」以後、自殺もせず発狂もせず、営々と反自然の「生」を生き続ける「人間」にのみ、「人間」の尊厳を見るのである。その時、彼は、「神」ではないかもしれないが、少なくとも「神」と対等なのである。「神」を見返している。そのたましい[#「たましい」に傍点]は、ある絶対を勝ちとったのである。  健康な人間は良く眠るといわれている。それは確かだろう。しかし、健康というのは馬鹿の代名詞なのだ。スポーツマンがみんな馬鹿であるということは、統計が明らかにしてくれる。健康[#「健康」に傍点]な肉体に健康[#「健康」に傍点]な精神が宿る、というのがまやかしであることは、今や誰でも知っている。「健康な肉体に精神なんぞはない」のだ。そんな人間にあこがれることはない。「人間」のすべき最も「人間」的なことは、「人間」であるべき事情を、あくまで突きつめてみることなのだ。「不眠症」がその手がかりを与えてくれる。「不眠症」の人間はすべて、血色が良くて丸々と太り、何でもガツガツと良く喰い、大声であたりかまわず笑い、死んだ丸太ン棒みたいに良く眠る奴を、殺してやりたいほど憎悪する。その憎悪こそ、「人間」的なものである。  私の規準をいえば、馬鹿よりも利巧が「人間」的である。スポーツマンよりも青白いガリ勉家の方が「人間」的である。革命家より裏切者の方が「人間」的である。軍人よりもスパイの方が「人間」的である。労働者よりも小市民の方が「人間」的である。百姓よりも芸人の方が「人間」的である。警官よりも泥棒の方が「人間」的である。太った人間よりもやせた人間の方が「人間」的である。腕白で愛される人間よりも、分別臭くてほめられる人間の方が「人間」的である。何故ならば、後者はすべて前者よりも、「不眠症」にかかりやすいからである。「不眠症」にかかるか、かからないか、すべてはここにかかっている。これによって、たましい[#「たましい」に傍点]以前か以後かが、測られるからである。 「六日夜、蒲田署に留置された中岡は同署員の話では興奮のためか、何度も寝返りを打ち、ハナをすすったり、タメ息をもらしたり、深夜にトイレに通うなど、ほとんど眠れぬ夜を明かした。七日朝は午前五時には≪もう起きてもいいですか≫と体を起したが、看守係に起床は六時だからまだ寝ていなさい、といわれ、しぶしぶ毛布にもぐり込んだ。朝食は≪食べたくない≫とミソ汁をすすっただけ。それでも午前九時に空港署からの迎えの車に乗込む時は、前夜の興奮はすっかりさめ、おとなしく指示に従っていた……。」(以上『朝日新聞』)  記事にある中岡というのは、いうまでもなく日航機をかっぱらってキューバに飛ぼうとした、例のポール中岡氏である。現代の花形犯罪であるハイジャッカーの、これはまた余りにもリアルな描写ではないだろうか。「眠れなかった」というのが、いかにも哀れである。「もう起きてもいいですか」というくだり[#「くだり」に傍点]では、私はほとんど感動した。  私はこの事件の推移をテレビで眺めながら、中岡の使用したピストルとダイナマイトが偽物か本物か、という点に、最大の関心を寄せていた。そしてそれらが「本物だった」と発表された時、私は少しばかり驚いた。しかし、この「眠れなかった」という記事に翌日接し、納得したのである。そうなのだ。ここでは二通りのことが考えられる。玩具のピストルと、玩具のダイナマイトを使用し、成功を少しも疑わずに任務を遂行し、つかまってからグッスリ眠る場合がある。それから、自分の行動についてすべて半信半疑ながら、いつの間にか本物のピストルを手に入れ、いつの間にか本物のダイナマイトまで手に入れ、相変らず半信半疑で任務を遂行し、つかまってから眠れない場合がある。これは、人間のタイプの違いによるのではない。同一種類の人間の、表現の違いである。同一種類の人間が、同一種類の酒を飲んで、気持よく酔える場合と、悪酔いする場合があるのと、同様だ。ポール中岡氏はこの時、サギ師としてスランプの状態にあったのだろう。したがって後者の場合にはまりこんでしまったのだ。  ポール中岡氏がスランプであったことを示すもうひとつのエピソードがある。彼は面体を隠すためゴム製の面をかぶったのだが、それが余りにも無気味な面だったので、「乗客を驚かす」のを怖れ、遂に乗客の前には姿を現わさなかった、というのだ。これは、悪い兆候である。その時彼が真に怖れたのは、「乗客を驚かす」ことではなく、乗客の驚いた視線に晒される自分自身であった筈だからである。この恐怖の逆転現象については、我々はよく知っている。誰かを「驚かす」べく暗闇に身をひそめながら、我々は時に、その誰かが引受けるべき恐怖を先取りして自ら引受け、自家中毒して、なすこともなくやりすごしてしまう場合がある。相手を恐怖させるに足る人間は、その恐怖に耐えられる人間でなくてはならない。ポール中岡氏はその時、その恐怖に耐えられるほど、好調ではなかったのだ。つまり彼が好調であったら、その面が乗客を驚かすだろうなどとは考えなかったであろうし(事実、乗客を驚かすために面が必要だったのではない)彼がそう考えていなければ、乗客の方も、多少無気味な面になっていたとはいえ、驚きはしなかったであろうと、思うのだ。  サギ師というのは、私の規準にしたがえば、かなり「人間」的な商売である。つまり、事務労働者よりもセールスマンが、セールスマンよりもサギ師が、「人間」的であるごとく、「人間」的なのである。  アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の中で、チャーレエはいう。 [#1字下げ] 誰もこの男を責めるわけにはいかないよ。分っちゃいないんだよ、君には。ウィリイはセールスマンだったんだ。セールスマンというものにとっては、底のない生活が待っているだけなんだ。ボールトにネジをつけないのと同じさ、規則もなけりゃ、使う薬もありゃしない。靴をテカテカ光らして、ニタニタ笑いながら、フワフワとあの青空の向うに浮いている人間なのだ。だからさ、笑いかけても笑い返してもらえなかったら、一大事ってわけだ。こりゃあ、大地震だね。それから自分の帽子にちょいとでもシミをつけたが最後、もうおじゃんてわけさ。どこのどいつだって、この男の悪口なんかいえる筈もないんだ。セールスマンというものは、夢に生きてるものなんだ。 [#地付き]——菅原卓訳  そして、セールスマンがそうなら、サギ師はもっとそうである。「夢のまた夢」を生きているのである。笑いかけても笑いかえしてもらえなかったら、商売が成立しないから重要なのではない。形而上的に重要なのである。そこには存在のすべてがかかっているのである。「夢のまた夢」を生きているものにとっては、商売の不成立は存在の不成立に直接関わりあってくる。  ポール中岡氏も、まさしく「夢のまた夢」を生きてきた人間である。彼はそうせざるを得なかったのだ。推察するのだが、彼もまたいつか「不眠症」にかかり、「眠るまい」と決意し、その「眠らない」ための人生の軌跡をサギ師になることで保証しようとしたに違いない。サギ師という「虚構の生」こそが、彼の「眠るまい」とする決意を、持続させるものであると、彼は信じたのである。  もちろん、好調の時はいい。彼は彼の「虚構の生」のリズムとテンポを、日常の時間に巧妙に調和させることができた。しかし、やがてスランプがやってくる。「虚構の生」のリズムとテンポが、日常の時間と、わずかにズレてくるのである。彼は「虚構の生」を生き続ける限りにおいて、「眠るまい」とする決意を持続させ、つまり「覚めて」いられるのだが、それがスランプの訪れとともに、もう一段階「覚めて」くるのである。「夢のまた夢」ではない「現実のまた現実」の中へ導き出され始めるのである。 「不眠症」の「人間」の不幸は、ここにあるといっていいだろう。「眠るまい」と決意し、「覚めていよう」と考えると、我々は限りなく「覚め始める」のである。一度「覚めた」状態がそのまま引続くのではない。位相を違えて、幾重にも、「覚める」ことをくり返すのである。  ポール中岡氏もやはり、「覚めた」状態からまた「覚め」始めた。何故、ピストルとダイナマイトは、玩具ではなかったのか。彼が「覚めた」状態からさらに「覚め」かかっていたからである。それが本物であることに気付いた時、彼自身、恐怖せざるを得なかったであろう。それらが本物であることが、彼自身の「虚構の生」つまり「覚めた意識」に、復讐しはじめるであろうからである。  彼は不細工な面をつけた。そしてそれによって、さらに「覚め」てしまった。サギ師というのは「虚構の生」を生きるもののことである。素顔などあり得ない。それを面で隠そうとする行為が既に、彼の「覚めた」状態からさらに「覚め」かかっている事情を、証明しているのではないか。  ハイジャックは、実はここでもう失敗していたのである。ハイジャックというのは、サギ師がやるような「お上品」な仕事ではない。これは荒事なのだ。もちろん、もしかしたらポール中岡氏もそのことは重々知っていたのかもしれない。  知っていても、スランプに陥った人間が、つまり「覚めた」状態からさらに「覚め」始めた人間が、以前の状態に復讐することによって現在の状態を安定させようとするように、極端なことをやりたがる。自己に対して過激になるのである。  そうかもしれない。これはあり得ることである。ともかく、ポール中岡氏は、現在再び「不眠症」で苦しんでいる。いいことだ。この「不眠症」は、おそらく長びくであろう。それもいいことだ。「不眠症」は、周期的に何度も何度も我々に襲いかかる。そして、それをくり返す度に、「不眠」の時間は長くなる。やがて、我々は文字通り一切眠らなくなるであろう。我々の中の不要な部分はすべてそぎ落されて、ただ常に苛立つ白いぬるぬるした神経だけが、いつまでも「覚め」、そして「覚め」続けてゆくであろう。いいことだ。これこそがいいことなのだ。これこそが、現在考えられ得る最も「人間」的なことなのである。  私は、東京近郊の某所に、ある人物が居て、彼がここ三か月間、一睡もしていないといううわさ[#「うわさ」に傍点]を、かなり信じている。彼は居る。そして、眠っていない。彼は何もせずに、ただ眠っていないのだ。こうしたことは、我々の周囲で、現に始まりつつあるのである。  私は現在、そうした人物がそこに居ると考えるだけで、あるいは、そうした人物がそこに居るといううわさ[#「うわさ」に傍点]があると考えるだけで、ほとんどいたたまれない。 [#改ページ]  初出一覧[#「初出一覧」はゴシック体] [#ここから2字下げ] 1|犯罪|その処方箋——初版本での書き下ろし 2|犯罪|そのデザイン——「犯罪のことば」『三省堂ぶっくれっと』一九七六年十月〜一九八〇年五月 3|犯罪|そのイロニー [#ここから4字下げ] 「域内殺人事件」——「共同体と犯罪ー津山事件よりー」『季刊評論』一九七八年十一月 「時限爆弾事件」——「匿名性と記名性について」『放送批評』一九七五年六月 「あみだくじ自殺事件」——「UFO・古代史・インド」『教育の森』一九七八年十一月 「銭湯事件」——「言葉の『暗さ』」『展望』一九七六年一月 「サインペン爆弾事件」「幼児殺害事件」——「イロニーとしての犯罪」『季刊評論』一九七五年九月 [#ここから2字下げ] 4|犯罪|そのたましい——「裏切者の発明」『流動』一九七二年五月〜一九七三年一月 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  文庫本のための≪あとがき≫  たとえば、この原稿を書いている一九九二年六月八日の朝日新聞朝刊を広げてみると、≪タクシー運転手ら切りつけられけが≫という「見出し」で、次のような記事が掲載されている。 [#1字下げ] 七日午後十一時四十分ごろ、東京都大田区羽田空港三丁目の羽田空港外周道路で、タクシーの客が運転手と近くの警備員を切りつけて逃げたとの一一〇番通報があった。運転手は軽傷、警備員は重傷を負っており、東京空港署では傷害事件とみて現場から空港内に歩いて逃げた男を捜している。  これが全文であるから、文字通り「豆粒ほど」の記事と言っていい。朝日新聞には数百万の購読者がいるそうであるが、おそらくほとんどの人は、目にもとめなかったであろう。ところで、同紙の夕刊には、≪羽田で捕まる直前、自分の腹刺し重傷≫という「見出し」で、この事件のいわゆる「後追い記事」が掲載されている。 [#1字下げ] 東京空港署は八日午前二時すぎ、逃げた男を空港内で発見した。男はつかまる直前に自分の腹をナイフで刺して重傷を負った。調べでは、二人を刺したと見られるのは住所、職業とも不詳の男(五五)。男は京浜急行蒲田駅でタクシーに乗車。羽田空港の外周道路で内田豊さん(五一)を「金を出せ」と脅し、腕にナイフで切りつけてポケットから現金四万円を奪って下車。近くにいた警備員福本弘美さん(五五)も刺したらしい。福本さんは腹を刺されて重傷。内田さんも軽いけがをした。  これも、小さな記事である。そしてもちろん、これ以上この事件が、記事となって我々の目に触れることはないだろう。つまりこの五十五歳の住所、職業とも不詳の男は、朝日新聞紙上にそれこそ「豆粒ほど」のさざ波を立て、そのまま消えるのである。  単なる「タクシー強盗」であるから、事件としても極めてありふれたものと言えよう。被害だって、警備員の「重傷」というのがどの程度かわからないものの、命に別状はないに違いない。タクシーの運転手が受けたのは、四万円と「軽いけが」である。容疑者が、つかまる直前に「自分の腹をナイフで刺して重傷」というのが、ちょっと変っていると言えば言えなくもないが、これだってたいしたことではない。  つまり新聞社側としても、紙面にちょっとした余白が出来、「ほかに何かないかい」と探してみて、「じゃあ、これでも埋めこむか」となったものに違いないのである。他にもう少し気のきいた事件があれば、たちまち捨てられていたものだろう。  しかし、にもかかわらず私は、この日の紙面を子細に眺めわたして、この記事だけが目についた。この記事にだけ、何やら「人の気配」を感じとったのである。言うまでもなく、常日頃犯罪に関心を持っている人間として、事件の中に特殊なニュアンスを嗅ぎとったのでもなければ、犯行者個人から、独自の人間性がうかがえたのでもない。  何度も言うようにこれは、ありきたりの犯行者による、ありきたりの事件である。ただ、そうでありながら——と言うより、そうであるからこそ、と言うべきだろうか——そこに、それを遂行する人間の、いわば寡黙な「後姿」が感じとられる。  もちろん、「だからどうなんだ」などと言ってはいけない。「だからどうなのか」は、私にもわからないのである。しかし、ひとつの事件の中で犯行者が、ちらとでもいいその寡黙な「後姿」を見せた時、私は何故か胸を突かれる。そして人間についての、何かしら具体的な手触り[#「手触り」に傍点]を得たような気がするのである。  この事件にも、それがある。私が「人の気配」と言ったのは、そのような意味にほかならない。そして、私の犯罪に対する関心は、あらゆる事件におけるこの種のものを、何とか感じとろうとするもの以外の何ものでもないのである。   一九九二年六月八日 [#地付き]別役 実 別役実(べつやく・みのる) 一九三七年、中国・旧満州に生まれる。早稲田大学中退。劇作家。一九五八年、劇団自由舞台に入部。一九六七年「マッチ売りの少女」「赤い鳥の居る風景」で第一三回岸田戯曲賞。一九六八年、季刊誌「評論」の創刊に参加。一九七〇年「不思議の国のアリス」「街と飛行船」で紀伊國屋演劇賞個人賞。一九七二年、手の会の結成に参加。同年「そよそよ族の叛乱」「獏、もしくは断食芸人」「街と飛行船」で芸術選奨文部大臣新人賞演劇部門。一九七六年「あーぶくたった、にいたった」で第五回テアトロ賞。一九八七年「ジョバンニの父への旅」で芸術選奨文部大臣賞。同年「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」で読売文学賞受賞。一九九三年、日本劇作家協会設立に参加、副会長に就任。一九九六年、劇作家協会会報「とがき」を編集・発行。同年、劇作家協会責任編集による季刊戯曲雑誌「せりふの時代」発刊。つねに演劇界に新風を吹き込む演劇活動とともに、童話やエッセイ、評論などの多彩な著作でも知られる。日常性に潜む不条理への深い関心にもとづいて構築される言葉の世界には鮮烈な魅力が生きている。 本作品は一九八一年十月、三省堂より刊行され、一九九二年九月、ちくま学芸文庫に収録された。