阿部牧郎 誘惑街の女たち 目 次  夜の金魚  土曜日の男  夜の喜劇  夜の終幕 [#改ページ]   夜の金魚     1  魔子は酔ってマンションへもどった。灯をつけて、居間のすみの金魚の水槽の前へすとんと腰をおろした。赤紫色の絨毯《じゆうたん》を敷きつめ、ステレオ、ビデオディスク、鏡台、人形の陳列ケースなどのならんだ型通りの若い女の部屋である。  蛍光灯のついた青白い水槽のなかで、十尾の金魚が不安そうに右往左往した。魔子は目をこすり、ふふんと軽蔑して金魚を眺めた。手近な瓶のミジン粉をほんのひとつまみパラパラと水面にふりかける。保護者気どりで、そっくり返って餌《えさ》をあたえてやる。  とたんに金魚たちは目をさました。争って水面に鼻づらをあげる。付近にただようミジン粉を喘《あえ》ぎながら呑みこみはじめる。みんな目をむき、口とエラをせわしく開閉させる。胸ビレをひらいて立ち泳ぎしながら、ただもう一粒でも多く餌を食べにかかるのである。白地で頭に一つ赤点のある丹頂も、小型のタイみたいな蘭鋳《らんちゆう》も、やぶにらみの目が頭上に飛びでた頂天眼も、無我夢中で、なりふりかまわずぱくぱくやった。他をおしのけ、蹴散らそうとする者こそないが、まるで恐慌状態で、必死に餌をかきこむのだった。 「アホやねえ、もっとゆっくりお食べ。あーあ、この子はウンコまでひきずって——」  魔子は金魚を憐れみながら、それ以上餌はやらなかった。たっぷりあたえると、金魚たちは安心してこれほど必死に餌を食べなくなる。みていて面白味がすくないからだ。ひとつしゃっくりをして魔子は大儀そうに立った。自分のほうこそ金魚に似た、ぞろりと長く赤い服を脱ぎにかかった。金魚のただよう青白い水槽の情景が、ついさっき今日のつとめを終えたばかりの、彼女の働くキタの高級クラブの光景と頭のなかでかさなりあう。  そこは大がかりな金魚鉢のような、華やかで夢幻的な職場だった。  店内はほどよく昏《くら》い。さまざまな企業の経営者や世間に名の通った男たちがつめかけて、酔いに顔を火照《ほて》らせていた。その客たちを岩石に見立てた印象で、魔子たち四十人のホステスが金魚のように泳ぎまわっている。  ぞろりの帯さながらにドレスをひきずる琉球金魚、餌に飛びかかるオランダ獅子頭、ブルドーザーのように水底を掘る黒出目金。いろんな種類の金魚がそこにはいた。魔子は、自分を、せわしく尻《しり》をふって泳ぐ蘭鋳金魚になぞらえている。ごく小さなタイ形をしたその金魚には背ビレがなく、そのぶんせわしく尾をふって悶《もだ》えながら泳ぐのである。きょとんと目をあけ、大あわてで尻尾《しつぽ》をふり、いかにも懸命に生きているようで可憐《かれん》なのだ。 「私はかわいい蘭鋳ちゃん、一生懸命生きてます——」  魔子は歌いながら裸になり、種火をつけ放した浴室へあるいていった。クラブで日給二万円、さらにいわゆるスポンサーの中崎から月々三十万円の手当のでる安穏な暮しでも、魔子からいえば一生懸命にやっているのだ。  浴室の鏡に向って、魔子はオスとかるく敬礼し、適温の湯ぶねに体を沈めた。  とろんと酔った表情で、しばらく湯温をたのしむ。やがて、うずくまったまま湯ぶねの底へ両手をついて体を浮かし、蘭鋳のように泳いでみた。飛沫《ひまつ》をあげ、尻をふった。ちぢめた足をひらひらさせて、せわしく悶えてみる。いつも金魚を真似るとはかぎらず、仔犬になったりお猿さんになったり、いろんなものになり変って、いつくるかわからぬ中崎を毎晩心待ちするのだ。しかし、じつは今夜中崎のやってくることはたしかなので、湯の一人遊びをつづけながら、 「おそいな。なにしてるのやろ。あのお客さんとよそで飲んでるのやろか」  と終始彼のことが念頭をはなれなかった。  中崎との仲はもう二年になる。工作機械の部品工場を経営する彼は、魔子がいまの店へ入る前からの常連客だった。いつも魔子をそばへ呼んでくれた。渋い銀髪でおしだしがよく、遊びかたも控え目である。ホステスに評判のよい客だった。魔子は二、三度彼と食事をともにし、たばこの匂いとまぎらわしい穏和な体臭にふと魅《ひ》かれて一緒に有馬温泉へいった。そのときは、これほど深くなるという予感はなかった。以後、二度ばかりそういう夜をともにしてから、 「おれに世話をさせてくれ。魔子を独占したくなってしまった」  と照れくさそうに彼はいった。その意味がまだわからず、魔子は曖昧《あいまい》にうなずいただけだった。だが、やがて彼が自分のために種々金をつかってくれるのをみて、ようやく愛された実感を得てうれしかった。  だが、その中崎が、最近ひどく疲れた印象なので魔子は不安である。さっき店で会ったときも、いつになく蒼白《あおじろ》い酔いかたをしていた。頬《ほお》がこけ、白髪も急に殖《ふ》えたようだった。仕事の上でなにか苦労があるのかも知れない。疲れているのなら、いいかげんに切りあげて、はやく魔子のそばへ寝にくればよいのに。なにをぐずぐずしているのだろう。  午前二時になって、ようやく扉のチャイムが鳴った。  魔子は裸にバスタオルを巻いて浴室を飛びだした。中崎は合鍵でなかへ入ってきた。 「おそかったね、パパ。ご一緒のお客さん送ってきはったん」 「ああ。やっと車に乗せた。しつこい男でね」  中崎は居間ヘ通り、水をくれ、と魔子に命じた。それから酔眼で金魚の水槽をにらんだ。  魔子が水をもってゆくと、中崎は金魚に餌をやっていた。さっきと同様われがちに餌を追う魚たちを眺めながら、 「ま、人間も金魚もやってることはおなじだな。うん、似たようなもんだ」  と一人で納得していた。コップの水を一息に飲んだ。ああ悪酔いした。彼はその場に大の字になった。 「疲れてるのやわパパ。お仕事きっと大変なんやね。大変なんでしょう」  魔子は正座し、湯あがりで桜色をした腿《もも》に彼の寝顔を乗せてやった。 「大変だなんて安直にいうな」中崎は舌をもつれさせた。「安直にいわれると腹が立つ。どんなに大変か魔子にわかるはずがない」 「そらそうやけど、心配やもん」 「いや、もう心配しなくていい。心配してもむだになった。一巻の終りさ」 「どういうこと、それ」  魔子はふっと恐怖にかられた。寝入ろうとする中崎を揺り起した。中崎は五十近い年齢のたるみがきた顔ぜんたいに、荒涼とした雰囲気《ふんいき》をただよわせて目をとじている。魔子の体の芯《しん》のあたりで、かすかに欲望が疼《うず》いた。 「魔子、おまえ大野氏をどう思う」  やがて、薄目をあけて中崎はたずねた。 「どうって——。パパの大事なお客さんでしょう」  大野は最近中崎によくつれられてくる頭の禿《は》げた客で、大会社の部長だときいている。彼は魔子と中崎の仲を知らない。冗談めかして二、三度魔子を旅行にさそったりした。今夜も彼はさっきまで中崎と一緒だったはずだ。 「男としてどうかと訊いているんだ」 「うん。いい人やけど、禿げた人は私かなんわ。とくにいまはパパ以外の男性は眼中にないから」 「そうかね。それはありがたいな」  中崎は疲れた笑みをうかべた。間髪をいれず大変なことを口にしたのだ。 「ところが、おれはもうだめなんだ。魔子の面倒をみられなくなった。今度の不景気で、刀折れ矢つきて、貧乏になってしまったよ」 「貧乏になった——。パパが」  魔子は悲鳴に近い声をあげた。夢中で中崎の肩のあたりを揺さぶった。 「倒産したの。まさか、嘘でしょ。パパがそんなになるはずがないわ」 「倒産じゃない。だが、似たようなものさ」  目をとじたまま中崎は事情を説明しはじめた。だが、魔子は混乱して、話の筋道をたどることができなかった。切れ切れに理解できたのは、中崎の工場が不況で力つきたこと、彼が親ゆずりのその工場を、大野のつとめる大企業へ売りわたす決心をしたということだけである。中崎は今後その大企業のサラリーマンになるか、どこかで資金を調達して新しい事業をはじめるか、まだきめていなかった。だが、どちらにしても、マンションに女を囲う力はなくなったのだ。 「今後はめったにキタで酒も飲めなくなる。記念に一度旅行でもして、わかれようか」  自嘲をこめ、あかるくいう中崎を魔子は正視できなかった。彼に抱きついていった。 「いややそんなん。私わかれとうないわ。貧乏なパパでも私好きやのに」 「そりゃありがたいが、このままでもいられないさ」 「いやよ私。お金のためにパパのものになったんとちがうもん。そんな女やないよ」 「そうさ。魔子はそんな女じゃない。最初からおれにはわかっていたよ」  中崎は笑ってうなずいた。身を起して、まるで彼のほうがなぐさめ役であるかのように魔子を抱きかかえた。  いやや、私わかれとうない。貧乏なパパでもかめへんのや——。魔子はわが身にいいきかせる。懸命に中崎の胸に顔を埋めた。われをわすれて昂《たかぶ》って、悲しみを追い払わねばならなかった。 「貧乏になるのは、おれは平気さ。事業は建てなおしできるからね。でも、魔子をまもってやれなくなるのが残念なんだ。もっともっときみの力になってやりたかったのに」  つよい力で中崎は抱きしめてきた。いままで眠りかけていた男のようではなかった。  たちまち魔子の体からバスタオルが剥《は》ぎとられた。十一月の冷気が肌にしみてくる。湯あがりの体には、ちょうどいい寒さだった。中崎のネクタイを魔子は解《と》こうとする。  その余裕はなかった。魔子は押し倒された。体をひらかされる。中崎はずりさがって、魔子の両脚のあいだにうずくまった。  すぐに中崎は魔子の秘密の部分へくちづけにきた。いつものことだった。魔子のやわらかな肉を彼のくちびるが吸う。ついで、体内からあふれでた液のなかで、彼の舌が泳ぎはじめる。魔子は目をとじて、すべてを中崎にまかせた。あとは、おしよせる快楽に身をまかせればよいのだ。  だが、今夜はすぐに快楽が中断した。うすく目をあけて魔子は中崎をうかがった。すこし固い感じの快楽が新しくおくりこまれてくる。中崎は魔子の女の部分を指でさぐっていた。そこに見惚れている。気のせいか、悲しそうな顔にみえた。悲しみと欲望のまじりあった表情である。  じっとみつめて指をつかっている。魔子の恥ずかしい部分の光景を、脳裡《のうり》にきざみこもうとしていた。魔子とわかれなければならない。大事な部分のイメージをしっかりと抱いて、去っていこうとしているのだ。 「いやよ、パパ、みないで。恥ずかしいわ。あんまりみないで」  言葉とは逆に、魔子は思いきり体をひらいた。腰をもちあげる。  中崎の希望をかなえてやりたい。魔子のすべてをおぼえていてほしいと思う。  が、すぐに中崎は淫《みだ》らなくちづけを再開した。吸って舌を泳がせはじめた。魔子が大きく体をひらいたのを、淫らなキスの要求と感ちがいしたらしい。  それならそれでいい。魔子は快楽におぼれこんだ。声をあげていた。体を反《そ》らせた。両ひざを折って脚を立てる。クッションを中崎は魔子のヒップの下へおしこんできた。おくりこまれる快楽の量がますます増大する。魔子は爪で絨毯《じゆうたん》をかきむしった。なにもかもわからなくなる瞬間がやってくる。  息をととのえる魔子をながめながら、中崎は体を起こした。薄目をあけて魔子は中崎を観察する。両ひざで立って、中崎はベルトをゆるめた。それから床に尻をおいて、ズボンをぬぎはじめた。  動作の一つ一つに、どっこいしょ、という感じがつきまとった。パパも年齢《トシ》だなあ。魔子は思った。ほんとうにパパは再起不能なのかもしれない。魔子は陶酔がうすらいできた。首すじや背中に、かすかな冷気が吹きこむのを感じた。魔子のひそんでいた金魚鉢が割れて、外界の風がおしよせてきた——そんな思いが頭をよぎる。  中崎はズボンと下着をぬいだ。上衣もぬぎすてた。ネクタイとワイシャツはつけたままである。ワイシャツの袖をおしあげて、男性が突き立っていた。再起不能どころではない。中崎はまだまだ元気である。かならず事業を建てなおしてくる。魔子はそう信じた。 「きて。はやくきて。パパ、お金がなくてもいいよ。元気であればそれでいい」  上体を起こして、魔子は中崎の首に両手をまわした。  それから、あおむけに倒れこんだ。     2  魔子の本名は中川松枝である。子供のころから、この名前がいやでいやでたまらなかった。店へ入ってマコと呼び名がきまったとき、ごたごたした都島《みやこじま》の文化アパートの路地からやっとのことで脱けだした気持になった。さらに一年ほどたって、魔子と漢字をあてるようになった。  その松枝は、塵埃《じんあい》と煤《すす》にまみれた都島の一角にある印刷工場の娘だった。いまはおちぶれたけれど、松枝が小学生のころは三台の印刷機械が一日中動いていて、職人も三十人ぐらい使っていた。人なみ以上の暮しをしていた。父親の芳郎は新しいもの好きで、当時まだめずらしいシボレーの中古車を乗りまわしていた。遠足や運動会の日は松枝も兄といっしょに送り迎えされた。ピアノを習い、級友がみんな十二色のクレヨンなのに二十色入りのを使用した。天神祭のお参り衣裳も仲間でいちばん高価だった。ある日、最新流行の、下着のすけてみえるナイロンブラウスを買ってもらった。下着もそれまでのメリヤスではなく、刺繍《ししゆう》入りの大人とおなじものを着て登校した。 「いやあすごい。ナイロンやわ」  と、みんなに注視されて得意だった。級の男たちの囃《はや》し立てた「こちらは難波の高島屋、ナイロンパンツの発売中」というコマソンの替え歌が、一日中耳についた。街中にその歌があふれている印象だった。松枝、いや現在の魔子は、いまだにおりにふれてこの歌を思いだすのだ。  だが、小学五年のとき、父の工場のいちばん大きな得意先だった製薬会社が倒産した。べつに手形のいざこざもあって、いっぺんに工場が人手にわたった。人相のわるい男たちが、工場と地つづきの家へ連日つめかけて、深夜までののしりわめいていた。やがて父は家の権利書を手に、妻子に因果をふくめて雲がくれしてしまった。それを知った高利貸の手下どもが、ピアノやテレビ、応接セットの類《たぐ》いまではこび去った。松枝はがらんとした家のなかをみわたして、目をつぶった。これは夢なんやと懸命に自分にいいきかせた。  父親の芳郎は、半月後、キタのキャバレー女と下味原町《しもあじはらちよう》のアパートにひそんでいるのを取立屋に発見され、つれもどされた。結局家屋敷を奪《と》られることになった。あとで思えば女が型通りの性悪《しようわる》で、極道すじの取立屋と内通した気配《けはい》だった。ともかく芳郎は松枝をつれて、新しい家さがしにあくる日出かけなければならなかったのである。  芳郎は裏町のドブ板をふみ、安アパートばかり巡回した。子供心に松枝はうらぶれた思いだった。その気配を察したのか、芳郎はあっさりと家さがしを切りあげ、天六の映画館で時代劇をみせてくれた。そして夜、小屋をでてビフカツを食べたあと、松枝の手をひき、だまりこくって裏通りへ入った。 「どうやろ。ここ空《あ》いてる思うか」  ちょうど通りかかった木造アパートへ芳郎は飛びこんだ。幸か不幸か空室があった。かびくさい六畳三畳のつづき間へ芳郎は前家賃を入れた。あしたからここで暮すのである。松枝はとなりのつれこみ旅館のネオンをみながら、夜のあかりがきれいでいいと考えていた。だが、つぎに父が、 「な、松枝。今日はとなりの旅館へ泊ろう。お父ちゃんはもう疲れた」  といいだしたのは意外だった。キャバレー女のことがばれて母との仲が険悪になり、家へ帰りたくなかったのだ。家をつぶした婿養子の手前もあった。松枝は、つれこみ宿のベッドで父と一夜をすごした。朝部屋の窓から眺めると、これから自分たちの住むアパートの洗濯物が正面にならんでいた。その向うの軒下で、下着姿の老人がぼんやりしゃがんで歯をみがいていた。その老人の下帯がゆるみ、毛のぬけた睾丸《こうがん》がだらりとのぞいているのが目に入った。松枝はあわてて顔をそむけたが、そういうみたくもないものはいつまでも印象ぶかく脳裡《のうり》にのこった。  父は印刷ブローカーになった。競輪競馬に手を出しはじめた。曲りなりにも経営者だった身が浮草のブローカーにおちぶれて、注文とりが辛いらしい。朝家をでて、パチンコ屋や碁会所でよく遊んでいるようだった。パチンコ屋の常連の、知恵おくれの若者から三百円借りて球をはじき、その若者をツケ馬に家へ帰ってきたりする。そのくせ子供たちへは、 「いまに見とり。ちゃんとした家を建てたるさかいな」  と大口をたたき通しだった。  母親は愚痴と泣き言に明け暮れていた。父に撲《なぐ》られてまた泣きわめいた。そのくせ自分は働こうとしない。週一度は奥様ふうに心斎橋をぶらついていた。PTAにも盛装で出席した。たまにやる内職のラベル貼りにもすぐに倦《あ》きた。それでも九州の親戚に不幸のあったときなどは、見栄をはって、新幹線のグリーン車で出かけていった。  兄のほうは、毎晩夜おそくまで家をあけた。帰ってくると、寝床でこっそり喫煙したり、妙な本に読みふけったりした。松枝だけが知っていることだが、家族が寝しずまると彼はそっと窓から屋根へ這《は》いだし、となりの旅館の窓をのぞくのである。すぐもどって寝ることもあり、布団のなかで妙な物音を立てたり、松枝が眠るまでもどってこない夜もあった。家族はみんな人が変った。ひろい家からせまい家に移り住むと、男も女も別人となるもののようだ。  松枝は毎日のようになにかに裏切られた。  学校で弾《ひ》いたピアノの音を快く耳にひびかせてアパートへもどると、左右の部屋から赤ん坊の泣き声と、ラジオの浪花節が容赦《ようしや》なく流れこんで松枝をいらいらさせた。アメリカの恋愛映画をみた夜、うっとりとアパートの階段をのぼる途中、足もとからふいに猫が飛びだして、ロマンチックな気分をぶちこわしにした。そのあとに喰い散らされたネズミの尾と頭がのこっているのだった。学芸会の劇で王女を演じたことがあった。侍女にかしずかれた気分のまま帰宅すると、扉をあけるなり、 「ええとこ帰った。二級の四合瓶とスルメ買うてきてんか」  と父にいわれた。母もそれに同調して買物をいいつけた。結局酒屋、米屋、魚屋、漬物屋、豆腐屋、炭屋を巡回させられる。なにか素敵な世界で松枝が気持よく遊ぼうとすると、薄汚ないまわりの社会にかならず足をひっぱられるのだった。  いつも菓子をくれた近所の写真屋のおっちゃんにも裏切られた。ある日家へ招きいれられ、おっちゃんが仕事する暗い部屋でいたずらされてしまったのである。パンティをぬがされ、指でくすぐるようにされた。気味わるかったが、松枝はうっとりしてしまった。だれにもいうなと念をおされてすなおにうなずいた。幾度かそんなことがあり、やがて他の女の子が原因でおっちゃんは警察につかまった。松枝は自分のこともばれないかと不安だった。だが、おっちゃんがよそへ引越したので、うちはなんにもせんかったと思うことができた。  中学のころ、松枝は毎朝アパートの便所へ入るのが悲しかった。壊れた汲取口からいつも朝日がさしこみ、下をみると、しゃがんだ自分の尻が汚物に円く映るのである。あわてて目をそらし、用をたした。つらかったり、醜かったりすることが多いので、松枝はなるべくぼんやりと、楽しいこと、美しいことを夢みて暮すようになった。  松枝は中学をでて、近所の鶏卵問屋の店員になった。夜は定時制にかよった。級友のほぼ全員が全日制へすすんだから、息のつまるほど肩身がせまかった。  兄は家をでて、広告会社へつとめながら夜間大学へかよっていた。息子のかせぎをあてにした親へしっぺ返しをしたわけだ。  一日中店員を追いまわさずには気のすまない鶏卵問屋だった。松枝はいつも、筋向いの洋装店ばかり眺めて暮した。店頭が花畑のように色どりゆたかだった。三つのマネキン人形が数日ごとに服を着がえ、道ゆく人々へ微笑《ほほえ》みかけていた。富裕な階級の女たちが、店のマダムにかしずかれて、松枝の給料よりも高価な服をつぎつぎに買っていった。マネキン人形よりもずっと醜い女ばかりだった。松枝はいつもそれを不満に思った。松枝はさまざまな服が咲きみだれる店内で、流行の服をえらんでいる自分の姿を頭に描いた。自分のいまの給料では実現するわけがない情景である。だが、流行の服をぴしゃりときて無造作に金を支払う自分の姿がなぜかはっきりと予見できた。 「松っちゃん、荷作りすんだんかいな」  などとだれかに一喝《いつかつ》されるまで、つい仕事をわすれてしまうのだった。  定時制三年目の春休み、アルバイトしようと級友にさそわれ、松枝はミナミのスナックバーで十日間働いてみた。  カウンターのなかに立って、水割りをつくったり、客とバカ話をするだけの仕事だった。そして十日目に日当をもらい、一日一万円の約束がほんとうに守られていたのでびっくりした。金を財布におさめたとたん、だれにともなく、ほらごらん、といってやりたい気持がした。人生はこんなに惨めなものであるわけがないと、心の底で、松枝はいつもいい張っていたのである。  あくる日松枝は鶏卵問屋の筋向いの洋装店で、一万円のスーツを二着買った。マネキン人形の服が修整なしでぴったりと身に合った。 「すばらしいプロポーションですわ」  とマダムに賞《ほ》められて鏡をみたとき、松枝はまわりの華やかな衣裳の群れが、いっせいに花の香りをかもしはじめたように思った。やっとのことで、ほんとうの自分に立ち返れたという気がした。父母の諍《いさか》いや、安アパートの騒音や、猫に喰われたネズミの死骸や、尻の映る便所になやまされているまずしい娘は、偽りの中川松枝である。ほんとうの松枝は、こんなふうに服の花畑に埋まった倖せな娘、松枝自身が好きになれるような娘でなければならなかった。そういう娘には松枝などという名でなく、たとえばマコというような現代的な名がたぶんふさわしいのだ。  松枝は新しい服をきて、ひらひら踊りながら鶏卵問屋へもどっていった。 「ひゃあ松っちゃん、みちがえたわ」 「ねえねえ、なんぼで買うたん、これ」  同僚の娘たちにとりかこまれた。スーツ二着で松枝は生れ変っていた。  こちらは難波の高島屋、ナイロンパンツの発売中。久しぶりで松枝はうきうきするそのコマソンを思いだした。あのころから今日まで、もしかすると、ながい悪夢のなかで生きてきたのかも知れない。     3  いまのクラブへ入る前、魔子はスナックバー三店で働いた。その間三人の男と関係をもった。そんなつもりではなかったが、一店一人の割合になった。  三人とも若くて様子がよかった。外車を乗りまわし、しょっちゅう外国へいっていた。金には不自由ないふりをしていた。だが、すぐに馬脚がでて、食事代を魔子に払わせたり、店の勘定を立替えさせたりするようになった。つきあうのがわずらわしくなった。好きで深くなるのだが、意地汚ないところをみせられると、繭《まゆ》に穴をあけられたカイコのように魔子は相手がうとましくなるのだ。わかれぎわの悶着《もんちやく》がめんどうである。だまって店を替え、男の前から姿を消した。いま住んでいる吹田の阪急沿いのアパートの所在を、人に告げたことはなかった。最初は親の住いからなるべくはなれた天王寺へつとめ、難波、心斎橋の店を経てキタ新地のクラブにいたった。べつにその気はなくとも、移るたびに働く場所の格があがったわけだった。  男たちにたいして分別をたもつことができたのは、魔子の体がまだ未熟で、感覚におぼれずにすんだためだった。彼らのほうも、ベッドではまだ若く自分本位で、魔子を夢中にさすことができなかった。  クラブへ入る前は、客のほとんどがそういう若い男だったから、仕事もなかばは遊びだった。客と話をするよりも、せまい店のすみでディスコダンスを踊り、自分のほうが愉《たの》しんでいればよかったのだ。カウンターの外で酔客に尻をなでられたりすると、 「さわらんといて。さわられるほど私お給料もろてへんのやから」  と睨《にら》みつけて、それで通った。どこの店でも器量がいちばんだから、客のほうが機嫌をとってくれる。これまでの倍の収入をスカウトに保証され、クラブへ入る気になった。酔客のお相手がいやになったらすぐスナックバーへ舞いもどるつもりだったのである。  ところが、いざ入ってみると、魔子はクラブをはなれられそうもなかった。四十人の女が立派な客たちのまわりを金魚のように遊泳する夢幻的な光景に、彼女のほうが心を奪われてしまったのだ。  快い音楽のなかで高価な酒を飲みながら、男たちは笑いさざめいていた。妍《けん》をきそう女たちをみくらべた。テレビや雑誌で見知った顔がふいにすぐそばに見出され、当然のように魔子に話しかけてきた。流行の衣裳をまとった女たちは、たくみに話し、愉しく飲んだ。みんな良家の令嬢のようだ。魔子もここではとくに器量よしではなく、気の合わない同僚もいた。それでも従来になく安心して働くことができた。大きな金魚鉢のなかで、外界からはっきり遮断され、保護されている気分でいられたからだ。ネズミの死骸が落ちていたり、便所で尻が映ったりする安アパートなどいまは遠い記憶となり、そこからさらに遠ざかろうとすることが、魔子にとって、いっしんに生きることだった。  中崎はそんな魔子のために、いわば専用の金魚鉢を用意してくれたのである。  世話をさせてくれ、といって、彼は豊中に2DKのマンションを借りてくれた。そして魔子を車でデパートへはこび、欲しい家財道具をすべて買ってくれた。 「あとは毎月これでやりなさい。むだづかいせずに、なるべく金をのこすんだな」  レストランのテーブルの上で二十万円の小切手を書いてくれた。魔子はスープをすくう手がふるえて恥ずかしかった。自分という存在を、そんなふうに金銭におきかえて考えたことはなかったのだ。  中崎とは週に一、二度会った。店が終ってのち、深夜レストランで待合せてマンションへゆくことが多かった。昼間急に電話がきて、大阪市内のホテルのロビーで待合せることもあった。魔子の都合を考えず、思い立ったらすぐにも会いたがるのが、中崎の二代目経営者らしいところである。 「だいぶ待たしたかな」  と彼はむずかしい顔であらわれ、二人きりになると、にわかに親切になった。  マンションやホテルの部屋へ入っても、中崎は若い男のように性急ではなかった。酒や会話でじっくり魔子の欲望を熟成した。浴室で魔子の体をすみずみまで洗い、清潔すぎるほどにして、ようやく彼女をかわいがった。魔子の耳や首すじから中崎はキスを這《は》わせてくる。足指を一本一本しゃぶったり、足の裏に吸いついたりした。それから、あらためて下肢をさかのぼった。中崎のキスが魔子の体の中心部に近づくころは、魔子の女の部分は恥ずかしいほど欲望の液でまみれていた。魔子の女の部分のなかで、中崎は舌を泳がせた。その周辺も舌さきでくすぐった。さまざまな、微妙に異った快感を、魔子はおくりこまれて身をくねらせる。セックスの感性が、花のようにひらいてゆくのがわかった。つねに魔子の意を尊重するふりをしながら、中崎は巧妙に彼女へよろこびを教えこみ、あくまでやさしく彼女を支配していった。  だが、ことを終えてしまうと、中崎は優雅な銀髪に似つかわしくなく、くだけて品がわるくなった。寝物語で魔子に猥語《わいご》をいわせようとしてみたり、無我夢中になった魔子の声を真似てみたり、魔子のパンティを仔細にしらべようとしたりする。身も蓋《ふた》もない柄のわるさで魔子を笑わせ、あきれさせるのだった。一度、ホテルの部屋で、裸にシャツをひっかけた滑稽な姿で用たしにゆき、もどってから、 「ここの便器は大型だな。腰かけて股のあいだをのぞくと、自分の尻が水に映ってるんでびっくりするよ。クソするときの尻の動きぐあいがよくわかる。どうだ魔子、きみのも一度みせてくれよ」  と、なんともあけすけな報告をしたことがある。魔子は顔をしかめたが、同時にいいようもなくくつろいだ気分もあって、 「私も前にそんな経験をしたわ。うん、天六のほうのアパートで——」  と笑いながら便所のことを話そうとした。だが、当時をあまり思いだしたくない。はしたないという自制もある。あわてて話をひっこめた。じつのところ、そういうあけすけな話のできる仲というのが魔子には恐ろしかったのだ。ほんとうは彼のいう通り、尻の動きもみせあって心からくつろぎたい気持はある。だが、そうなっては、正真正銘の深間《ふかま》である。ぬきさしならぬ間柄になってしまう。三十も歳のひらきがあり、地位も家庭もある中崎へ、いくら世間知らずの年齢でも、全身全霊でうちこむわけにいかなかった。  だから魔子は知らず知らず令嬢ぶって、 「もういや。あんまりエッチなこといわんといて。パパが尊敬できんようになるやんか」  と、まじめな顔で中崎を苦笑させるのである。魔子はあくまで魔子であり、ベッドのなかでも中川松枝にもどりたくなかった。その気持は店でも態度にあらわれる。魔子は猥談をする客のそばで、 「いや。いややわ。そんな話もう堪忍」  などと可憐に耳を覆《おお》ったりしてみせる。 「ええかいなあの子、カマトトやわ」 「ああいうのにかぎって、禿《はげ》のスポンサー三人もおるのやで」  と陰口をたたく同僚もいた。つまり魔子は、かなりに客の人気を集めていたのである。スナックづとめのころとちがって、懸命に客の機嫌をとった。ママや支配人に働きをみとめられないと、給料日に別室へ呼びだされて、 「あんたはうちの店に合わへんから」  とあっさり首を切られてしまう。金魚たちもつねに危険にさらされているのだ。  中崎は服や装身具を惜しみなく魔子に買いあたえた。昼間も金魚の身なりであるく彼女を目をほそめて眺めていた。魔子があまり奇抜な服で待合せの場所にあらわれると、照れてさっさと車に乗せてしまう。そうでなければ一緒に賑やかな場所をあるきたがった。装身具店で無造作にブローチを買ってくれたりするのである。魔子は、うけとったブローチが二十万円の品だとあとで知って、あわてて彼の会社へ電話をいれたこともあった。 「ありがとうパパ。こんな高いものを」 「いいさ。大した品じゃない」 「パパは、どうして私にこんなに良うしてくれはるの」 「魔子は安心しないところがいい。ふつうの女なら、こういう仲になると、いろいろ汚ない地金をだすものなんだ。魔子は深くなっても、最初のころと変らない。そこがいいんだ」  中崎にすれば、金は一種の免罪符だった。  女を幸福にできる年齢でもないのに、娘のような若い女を囲っている。嫁入り前の女の体を金の力で自由にしている。誇らしくもあるが、一沫のうしろめたさもある。それをつぐなうには、金の力を借りる以外になかった。  だが、魔子は、それを中崎の愛情の証拠と思うのである。愛されているから、これだけの贅沢《ぜいたく》をさせてもらえるのだと解釈する。中崎がたくさん金をつかうほど、魔子の物腰に自信があふれた。経営者である中崎には、月五十万や六十万の裏金の支出など大した負担でもないのだが、常識でみた場合のその金額の大きさが彼女の自尊心の支えになった。 「私にかて、百万や二百万ぽんと出してくれるスポンサーがおるんよ」  と、魔子にかぎらず、女たちは冗談口調でときおり鼻をうごめかす。しかし自分たちをけっして売春婦とは思わないのである。  すべての点で寛大な中崎が、一度だけいじわるな中年男に変ったことがあった。  識《し》りあって半年ばかりのころ、ある日二人は待合せたホテルのロビーで、結婚式に集まった華やかな一団ととなりあわせになった。そのとき、魔子が白っぽい訪問着姿の同年輩の娘たちを眺めながら、 「式はやっぱり和風がいいなあ。私も、こういうふうにしたいわ」  とつぶやくと、中崎が失笑してそっぽを向いたのである。 「なんやのパパ。なにがおかしいの」  魔子は見咎《みとが》めて詰問した。自分でも意外なほどきつい声になっていた。 「いや、べつにおかしくはないさ」 「嘘。いま笑うたやないの。失礼やわ。私が結婚したいいうたらおかしいの」 「そんならいうがね、いい気なもんだと思ったのさ。これほど呑気《のんき》で、おもしろおかしい暮しをして、さらに玉の輿《こし》を望んでいるとはね。欲が深いよ、魔子は」 「かめへんやないの。女やもん、結婚するの当然でしょ。いまにいい相手みつけるわ。パパにとやかくいわれることはないわ」 「そうか。じゃホステスをやめるんだな。結婚を考えるのなら、三畳間に下宿して、月給十万円で地道に働かなくてはいけない。二兎《にと》を追うべきじゃないね」 「私は、私のしたいようにするよ」 「そんな甘い考えでいると、いまに世の中からしっぺ返しを食うぞ」 「放っといて。そんなお説教。私には私の生きかたいうもんがあるわ」  魔子は逆上して立ちあがり、赤いスカートをひらひらさせて訪問着の娘たちのなかを通りぬけた。ホテルの外へ駆けだしていった。金魚鉢が壊れたかのように、車の騒音が耳についた。中崎が追ってくるかと心待ちしたが、その気配はない。虚空に放りだされたかのように心細かった。  魔子は電話ボックスに飛びこみ、広告会社につとめる兄を呼びだした。  まだ家をでたばかりのころ、その広告会社をたずねてみたことがあった。兄は魔子をみるなり不機嫌になった。水商売の恰好《かつこう》で会社へくるなと叱った。以来会わずにいたのである。そんな兄でも、いまは彼女の唯一のたよりだった。 「いい人がいたら紹介して頂戴。私、まじめになって結婚したいねん」  魔子がいうと、兄は面喰《めんくら》って思案にくれていた。やがて、よっしゃ、だれかおれの友達に紹介したると約束した。そして、翌日さっそくマンションへ電話をよこした。今夜同僚二人とボウリングにゆく、そこで偶然らしく会うことにしようといってきたのだ。 「ええな、ふつうの化粧でこいよ。くれぐれもわしの顔つぶさんといてくれ。それから、ことわっとくけど、みんなわしといっしょで安月給やぞ。うん、二十万とすこし——」  夕刻ちかく、魔子は思いきって中崎へ電話をした。中崎はあれ以来連絡をよこさない。店にもあらわれなかった。 「これから見合にいきます。ながいあいだお世話になりました——」  中崎は仰天していた。待て、すぐいくからと受話器のなかでさけんでいた。魔子は見合にふさわしく訪問着にきがえて彼を待った。ボウリング場にゆくまでは、まだ時間がある。 「——何時からだ、見合は」  やがて駆けつけた中崎は、めずらしく気色《けしき》ばんで詰問した。そして、一時間後との答えをきくと、みたこともない荒々しさで魔子を抱きしめた。その場におし倒して着物のすそを捲《まく》りあげようとする。  期待通りのことだった。だが、魔子は必死で抗《あらが》った。絨毯《じゆうたん》の毛をかきむしって、呻《うめ》きながら抵抗をつづけた。あられもなく着物のすそを捲りあげられるのが、どうしてもいやだったからだ。魔子はあくまで魔子であり、きれいな金魚であるはずだった。尻をからげた下品な女であってはならなかった。どうせねじ伏せられるにしても、逆らうことで自分を得心させねばならなかった。  無我夢中であばれてから、魔子は満ちたりて体の力をぬいた。床に這って顔をふせた。むきだしにされたヒップに、新鮮な空気がしみこんでくる。中崎が両手でヒップをなでさすった。ついで魔子は快楽で体をつらぬかれた。頭のあたりまで、つらぬかれたような気がした。呻きながら、魔子はすこしずつ前進した。突きまくられる快楽をわずかでもやわらげようとしていた。やがて頭が壁にぶつかる。逃げられなくなった。丸くなって魔子は泣いた。見合なんてもうどうでもよい。結婚したい相手と、めぐりあうことはないだろう。心の底からそう思った。     4  中崎はよく遊ぶわりに家庭大事の人物だった。外泊することはめったになかった。  魔子の部屋で時間をすごし、朝の四時、五時になった場合も帰っていった。泊ってゆけと魔子がたのんでも、きかなかった。  帰宅する中崎を見送るのは辛い。魔子は一人さきに眠るくせをつけた。眠っているまにこっそり帰ってもらうためである。朝おそく目ざめ、となりの寝床がもぬけの殻なのを発見する。さびしくならぬうちにヤッと跳ね起き、一気にカーテンをあけるのだ。その習慣がいまはすっかり身についた。中崎が夜中少々物音を立てて部屋からでていっても、彼女は頑《かたく》なに目がさめなかった。  ところが今朝目ざめると、中崎がとなりに寝ている。魔子は一瞬陽光が部屋いっぱいにさしこんだような気持がした。だが、短い針のような灰色のひげが点々と突き立っているその寝顔を眺めるうち、昨夜のわかれ話が頭によみがえった。また周囲が暗くなった。寝物語でやさしく説得され、わかれを納得したはずなのに、今後のことを考えると、どうしても心細さがさきに立つのだ。 「——魔子の気持はありがたいが」と、中崎は魔子の髪をなでていっていた。「若い男なら、きみに結婚というプレゼントをすることができる。だが、私には金で買えるものしかプレゼントできないんだ。その金がないんだから、もうなんの役にも立たない」 「ちがう。パパは私を可愛がってくれるだけでいいの。貧乏でもかめへん」 「それは若い男の仕事だよ。それに私にもプライドというものがある。一文なしでおめおめ魔子につきまとうわけにはいかない」 「どうしてもパパ、いってしまうの」 「ああ。がんばって再起してから、あらためて魔子に会いにくるさ」  騎虎《きこ》の勢いだった魔子も、こうしてあやすように説得された。泣きながらうなずいていた。そして、わかれの悲哀というよりも、金魚鉢がひびわれてどんどん水の減ってゆく恐怖にかられた。寒くもないのに床のなかで身をすくめて朝を迎えたのだ。  かすかに口臭のある息を吐き、中崎は疲れきって眠っていた。その寝息を吸いこむように近々と彼の顔を眺めたのち、魔子は朝食の支度に立った。中崎の口臭がすこしも気にならない。かなり前からそうなっていた。自分では意識していない。  電気釜をつけ、味噌汁の鍋を火にかけた。魔子は自分がすこしテキパキと動きすぎるような気がした。わかれの朝は悲しみに濡れ、もっとけだるいものではないだろうか。魔子は味噌汁にいれる玉ネギをきざみ、目につんとくる刺戟を歓迎していた。そして、涙ぐんだ自分の顔を鏡で眺めた。そっと微笑《ほほえ》んでみる。泣いた痕《あと》が消える前に、 「パパ、十時半よ。起きんでもいいの」  と中崎を揺り起しにいった。  ひどく気づまりな朝食になった。すくなくとも、魔子の部屋でいっしょに食事するのはこれが最後だろうから、箸のあげおろしに一々意味がつきまとった。今年は松茸が高いとか、京都の紅葉がきれいなころだとか、たがいにどうでもよい話をした。そのうち魔子は、昨夜ふと抱いた疑問が脳裡《のうり》によみがえってきた。 「パパ、ゆうべ変なこと訊いたわね」魔子はすばやく中崎をみた。「大野さんをどう思うかって。なんであんなこと訊いたの」 「そうかな。そんなことを訊いたか」中崎は首をひねり、苦笑いした。「やっぱり気にしていたのかも知れない。大野氏はどうやら魔子にご執心らしいからな」 「私となにかあったと思うてるの」 「そうじゃないさ。だが、消えゆく老兵としては魔子の今後が気になるからね。つぎはどんな男がきみの面倒をみるのかいろいろ考えてしまう」 「いややわ。パパの思い出に生きるつもりやのに。私、頭の禿げた人ってかなんねん」 「そうか。だが、あれはなかなかいい人物だぞ。私とはうまが合うんだ」  恰好《かつこう》の話題をみつけた感じで、中崎は大野の噂《うわさ》をした。  大野は、中崎の工場を買収するに当っての大企業側の責任者だった。買収価格、時期、方法、従業員などの処遇について、中崎はすべて大野と折衝せねばならないのである。いきおいいっしょに飲む機会が殖《ふ》えた。魔子を引合わす結果にもなった。まだどちらにもそんな話はしていないが、あるいは工場ごと女も大野へ引渡すことになるのかと、こっそり苦笑していたらしい。大野は無骨な酒飲みで、ものにこだわらぬ気性である。能力のわりに会社では報われていないようすだ。だが、禿頭の陽気さで愚痴のかけらもいわなかった。 「そう。大野さんはパパの工場買わはる人なん」魔子は大野を見直していた。「それやったら、もっと大事にせないかんねえ」 「そうさ。大事にしてやってくれ。魔子ともきっとうまが合うはずだ」  無責任に中崎はけしかけてきた。  二人にその気があるのなら、じっさいにとりもってもよい。ただ、自分の愛人だった女を他人にすすめるのは悪趣味である。また大企業の部長とはいえ一介のサラリーマンである大野へ、これだけ金のかかる女を近づけてよいかどうかも判断がつかない。そんな心境でいるようだ。 「——さ、そろそろ出かけなくては」  十一時すぎに中崎は腰をあげた。わざとらしくテレビを眺めて身仕度をはじめた。  うしろから上衣をきせかけたり、ひざまずいて靴下をはかせたり、甲斐甲斐《かいがい》しく奉仕しながら、魔子はもうひとつ悲しみが稀薄だった。だが、中崎が本箱の上の万年筆にふと目をとめ、それをポケットにしまうのをみて、ふいに勢いよく涙がこみあげてきた。その万年筆を中崎は三月も前から魔子の部屋へほったらかしていた。目にとめても、今日までけっしてもち帰ろうとはしなかったのだ。中崎の背に顔を埋めて彼女は涙を流し、 「ときどき顔みせてね、パパ。ここでなくても、お店にはたまにきてくれるね」  と、腕をとって指切りした。 「ああ。私が必要でなくなるまで、ときどき見回ってもいい。老兵は徐々に消えるよ」  中崎は魔子の両肩を抱いた。照れた顔でかるくキスしてから扉のほうへあるきだした。  中崎の運転するスカイラインが畑まじりの住宅地の角へ消えるのを魔子は茫然《ぼうぜん》と見送った。ふと室内に視線を移すと、部屋のすみの水槽のなかで、十尾の金魚が一様にこちらへ頭を向けて漂っていた。空腹時、水槽の前で人影が動くと、魚たちはそろってその側面の硝子《ガラス》に鼻づらをよせ、きょとんとした面持《おももち》で口を開閉させる。いまそんな彼らをみると、昨夜からのいっさいを彼らが心得ているような感じがした。蘭鋳《らんちゆう》も、琉金も、黒出目金も、胸ビレをゆっくりそよがせて、声はなく、しきりになにか話しかけてくるようだ。 「なにいうてるのよ。私は棄てられたんとちゃうよ。パパが貧乏になったんやから、仕様がないやないの」  魔子は瓶のミジン粉をひとつまみだけ水槽へ撒《ま》いた。たちまち混乱する彼らを、アホ、なにをそんなにあわてるのやと軽蔑する。やっとすこしおちついた気持になった。  だが、すぐに魔子はひどく不安な表情で、箪笥《たんす》から預金通帳をとりだすと、あわただしくなかをしらべた。中崎同様この不景気で倒産した男が、愛人のホステスの預金をひきだして姿を消したとの話が頭にうかんだのだ。  残高四百五十万円に異状はなかった。彼女は安堵の息をついた。だが、通帳の印字を眺めていると、今後は預金をひきだすいっぽうだと思われて、胸苦しく不安になる。もう月の下旬だから、いつものように中崎が小切手を書いてくれるのではないかと、さっきまで内心期待していたのだった。  魔子はつぎに管理人室へ電話して、部屋の賃貸契約がぶじ継続中なのをたしかめた。男にマンションの敷金をもち逃げされたホステスの話を思いだしたからである。ぶじと知って、中崎をそれら下等な男たちと同列に疑ったのがやましくなった。 「仕様ないやんかねえ。世の中が不景気やといろんな話きかされるもん」  金魚に話しかけてけりをつけた。  だが、その夕刻、出勤の身仕度をしているとき、魔子は管理人からの電話で思いがけぬ中崎の好意を知らされた。2DK、月八万円のこの住居の家賃が、約三年分、三百万円も銀行経由で家主へふりこまれたのである。 「——いいえ。まとめてお払いしといたほうが、私も安心して暮せますし」  くどくど礼をいう管理人へ辻褄《つじつま》を合わせて電話を切った。やっぱりパパはいい人や、私のこと案じてくれたんやと、魔子は思慕の念が噴きだしてきた。愛されていた自信がわいた。窓にそそぐ西陽が金粉の流れのようにまぶしく視界をかきみだした。  出してもらう金の多寡で男の愛情を測る習性のせいばかりではなかった。なにに変るかわからぬ現金としてではなく、三年分の家賃として三百万円贈られたことで、中崎の好意がいっそう深味を増して感じられた。魔子はおかげであと三年、どうころんでもマンション暮しが可能なのだ。たとえ病気で働けなくなっても、交通事故で大怪我をしても、あと三年はこの住居が保証される。それは、彼女の専用につくられた金魚鉢が住の面で最低もう三年は壊れないことを意味していた。同様に中崎の好意がもう三年は持続することを意味していた。しかも、中崎は工場を手ばなすほどの苦境のなかで、この金を贈ってくれたのである。おなじ三百万円でも、ふだんの三千万円の値打ちがある。そう思うと、いまの住居がしっかり保証された意識もあって、魔子はねむいほどの安堵をおぼえた。  ごめんねパパ。敷金のもち逃げなんか心配して、私パパを侮辱してた。  魔子ははじめて自分を恥じ、飛んでいって中崎の足下に伏したく思いながらマンションをでた。中崎に甘えるいっぽうで、なに一つつくしたおぼえのないのが苦しかった。  なんとかしてパパの役に立ちたい。なにかしてあげられることがないだろうか。私にくれた三百万円が、パパの最後のお金だったかも知れないのだ。  思案にくれて駅へいそいだ。やがて魔子は、考えが小川のように一つの方角へ流れだすのを感じた。駅のそばの赤電話の前で立ちどまった。手提げから大野の名刺をだした。その電話番号にダイヤルを合わせる。中崎がいまいちばん望んでいるのは、工場が高く売れることだろう。それを叶《かな》えられる者は、大野ただ一人である。中崎のために、魔子はあの禿げた人物へ近づかねばならなかった。冗談めかしていたけれど、いま思えば、中崎もそれを望むような口ぶりだったではないか。 「あ、大野さん、こんにちは」  華やかに魔子はさけんでいた。食事でも、と甘えた声をつぎにだした。  パパがへいこらするほどだから、この大野という人物はパパ以上に裕福なのだと魔子は信じこんでいる。こせこせしない、気前のよい男だともわかっている。ただし、自分という女が、心の底ですでに中崎の後釜を欲しているなどとは、夢にも考えていなかった。     5  その翌日の夕刻、中崎は工場で事務をとりながら、意外な事態に苦笑していた。  証券の払込み用に切った三百万円の個人小切手が、秘書のミスで、魔子の家賃として支払われたのを知ったのである。家賃用に用意した半年分四十八万円の小切手が、かわりに証券会社へ支払われていた。私用小切手に一々宛先を記入しない習慣が仇になった。女秘書は中崎に命じられた通り、 「中川松枝さんのお家賃として、まとめてお支払いいたしますので」  と電話で家主の口座をききだし、そこへ送金してしまったのである。  糠《ぬか》よろこびさせた魔子にはわるいが、工場を手ばなすほどの苦境のおり、鷹揚《おうよう》にかまえるわけにもいかない。今日はもう銀行の閉店時刻がすぎている。明日早々に必要な手つづきをふもうと決心した。ところが、夜の近づくのを待ちかまえた感じで、大野からこれも意外な電話がかかってきた。昨日の夕方魔子といっしょに飯を喰い、近いうち有馬温泉へ同行する約束ができたと太平楽をならべるのである。 「それはご同慶のいたりですな。羨《うらや》ましい」  さすがに中崎は鼻白んだ。小娘にしたたか面を撃たれた思いだった。 「いや、ところが妙なんだ。あの娘はあなたに惚れているよ。中崎さんの工場を高く買ってあげて、と何度もいうんだ」 「————」 「どうやら人身御供《ひとみごくう》のつもりらしい。そうははっきり口にしないが、工場にいい値をつけるのと有馬ゆきが交換条件の感じなんだ。あの娘、あなたの息がかかっているのか」 「まさか。工場の値段が、大野さん一人の判断できまるものでもないでしょう」 「いや、そういう意味ではなくて、あなたは魔子とデキているのかと——」 「そんなことはありませんよ」中崎は、こういう場合の常識通り白を切った。「あの娘は二股かけるほどのワルじゃない。人身御供云々は、あなたを口説くための照れかくしじゃないんですか。そんなところですよ」 「お、それはいい解釈だ」大野は笑った。「そういってくれるのはありがたい。中崎さんのお赦《ゆる》しさえあれば、ぜひ有馬ゆきを実現させたいんだ。なにしろ、ああいう金のかかる女は高嶺《たかね》の花だったもので」  今夜またあの娘の店へゆくが、よければ九時にそこで会おう。そういって大野は電話を切った。中崎は受話器をもったまま、虚をつかれてぼんやりした。  やられたな、とまず彼はつぶやいた。三百万円をとり返すのがいまは至難になったのだ。  送金の報せに感動した魔子が、お返しに中崎のため働こうとしたのはたしかである。その彼女に、当の中崎が金の返却をせまるのでは、あまりにも殺伐《さつばつ》な話になる。懸命につくしてくれる女の気持へ、冷水を浴びせてみてもなんの救いにもならないだろう。中崎は金をとり返すことよりも、このなんとも気恥ずかしくありがためいわくななりゆきに、だまって流されてみたい気になった。二代目経営者の甘さである。年齢による気力の萎《な》えかも知れなかった。真相よりも虚構のほうを愉しんでみたいのだ。愛されていると思うのも、たまにはわるくない気分だった。  じつのところ、中崎の「貧乏」は魔子と手を切るための口実だった。工場を売りにだすほどだから、むろん経済状態は深刻である。だがその気になれば、魔子とこれまで通りの関係をつづけるのも不可能ではなかった。  それを思い切ることにしたのは、すこし倦《あ》きもしたし、心機一転のためでもあった。なによりも深間から逃げ腰になったせいだった。かつては魔子がそれをおそれ、中崎のほうがひきずりこんだ。魔子がしだいに生臭い男女の絡《から》みに馴《な》れてくると、立場が逆転したのである。経営の苦境を機に、深間を清算しようとした。魔子には充分のことをしてきたから、このさいなるべく安くあげようとの魂胆でもあったのだ。  中崎はいまになって未練を感じはじめた。    その夜も金魚鉢のようなクラブは、世間の不景気風をよそに賑わっていた。魔子はブランデーでかるく酔って、いつもの通り、ひらひらと店内を遊泳していた。不動産会社の社長と、イラストレーターと、医者が今夜はそれぞれかるく気をひいてきた客だった。  三人づれの医者の好色話に耳をふさいでいるとき、中崎が店に入ってきた。魔子は胸がおどったが、やや落胆の気分もあった。もうすこし日をおいて彼はやってくるべきだった。そんな気がする。  中崎が手洗いに立ったとき、魔子はあとを追っていって、 「パパ、お家賃ありがとう。うれしかった私」  と、ささやいた。中崎の席にはホステスが三人|侍《はべ》ったから、魔子はいま彼のそばでゆっくり話をすることはできなかった。 「九時ごろ、大野氏もくるそうだ」  中崎は時計をみた。八時四十分である。 「そう。大野さん、くるの。任しといてパパ。私、腕によりをかけるよって」 「そんなこと、考えなくてもいいんだ。ビジネスはビジネスなんだから」 「ううん。彼はできるだけパパの力になる、いうてたよ。パパ、貧乏になったんやから遠慮することないわ」 「魔子は彼と有馬へいくのか」 「——ううん。いかへんよ。パパとわかれたからいうて、すぐにそんな」 「わかれて、すこし残念なんだ」 「うん、でも——」魔子はじっと中崎をみつめた。「でも仕方ないわ。私みたいな金喰い虫は、パパの重荷になるだけやもん。私、経済的にパパを苦しめるのは辛いし」  あわただしい立ち話だった。中崎は、自分の貧乏物語に裏切られたのをさとった。  席でしばらく飲んだが、魔子はそばへこなかった。大野があらわれてから座に加わるつもりらしい。中崎は、大野との同席を避けることにした。大野と魔子のあいだを年甲斐《としがい》もなく邪魔したくなるにきまっているからだ。  話のあいま、ふと顔をあげた魔子の目に、店を去ろうとする中崎の姿が映った。魔子はいそいで駆けだしていった。 「もうお帰りなの、パパ」  大野さんがすぐあらわれるだろうにと、不審な面持《おももち》でたずねた。 「急用を思いだした。大野氏によろしく伝えてくれないか」 「うん。腕によりをかけるわ。任しといて」  魔子は玄関に立って、中崎のうしろ姿に向って手をふった。十何年か前、やはり不況でおちぶれた父親と同様、その姿は一文なしの感じで目に映った。  中崎の去ったのと逆の方角から、人影が一つ近づいてくる。水槽の水を思わす青いネオンの薄明のなかに坊主頭がうかんだ。大野がやってきたのだろう。  魔子は華やかな歓迎の声をあげて、薄明のなかを、金魚のようにひらひらと駆けだしていった。 [#改ページ]   土曜日の男     1  土曜日の夜、十時すぎだった。クラブ「アローラ」へ若原が入ってきた。背のひくい、目玉の大きな男である。臆病《おくびよう》そうに店内をうかがいながら、従業員になにか訊いている。例によって若原は一人である。  若原が知っているホステスは、この店ではまち子だけのはずだった。店を移って、案内状も出さなかったのに、たずねてきてくれたのだ。まち子の思っていた以上に、気のいい男らしかった。  まち子は相手していた客に挨拶《あいさつ》して、席を立った。両手をひろげ、小走りに若原を迎えに出る。近づいてから、首をかしげ、歓声をあげた。若原は照れて、大きな目のやり場に困っている。まち子は若原に抱きついた。大柄なまち子をもてあましてよろめいてから、若原はしまりのない口もとになった。 「ようこそ。うれしいわ。夢みてるのかと思うた。ふっと顔をあげると、若原さんが立ってはるのやから。もうドキーンとなった」  二十二名のホステスの視線がそれとなくまち子と若原に集中した。  まち子はこの「アローラ」の新任のママ代理である。一ヵ月まえ、大阪北新地の名門クラブ「赤い鳥」からひきぬかれてきた。二十歳で水商売へ入り、ことしで十年になる。管理職になって当然の年齢だった。ホステスたちはみんな、まち子がどれだけ「赤い鳥」の客をつれてくるか注目している。この店は「赤い鳥」からほんの百メートルの距離にある。経営者やママも、名門クラブの客を帰りがけ、こちらへひき寄せるのがねらいでまち子をスカウトしたのだ。  再会を祝って若原と乾盃した。若いホステスを一人呼んで、こちら若原さん、鉄工所の社長さんよ、と紹介してやる。まち子がいまいちばん生甲斐《いきがい》を感じる瞬間である。若いホステスがすぐ若原に体を寄せてゆく。さりげなく身をかわす感じで、若原は姿勢をくずさずにレミーマルタンを飲んだ。  かなり酔った顔つきである。だが、若原はすこし緊張していた。どてらの袖口のような、という形容がぴったりの口もとをひきしめかげんにしている。はじめて入った店だから、当然だとまち子は思っていた。 「赤い鳥へいってきはったの。そう。やっぱり土曜日の男、健在なんやねえ」 「いちおう顔は出してるよ。習慣やからな。けど、以前のように張りあいがなくなった。まち子ちゃんがいなくなったから」 「うまいこというて。若い子が最近たくさん入ったのに。オバンはいにくくなって辞めたんですよう」 「おれ、ショックやったんやで。まち子ちゃん、おれになんにもいわんと辞めてしもたやろ。案内もくれへんかった。まいったよ。おれの気持全然つうじてなかったんやなあ」  若原は目を伏せ、口もとをゆるめた。さびしい、やるせない表情だった。  まち子はびっくりした。目を大きくして若原をみつめた。若原のように突出した感じはないが、まち子も目が大きい。二十歳前後の女の子に負けない、生き生きと澄んだ目をしている。酒を飲まないから、注意力を欠くことはない。冷静に観察したが、若原が嘘や冗談をいっている様子はなかった。 「なにをいうてるの若原さん。赤い鳥にたくさん彼女がいてるくせに」  とっさにまち子は煙幕を張った。口説かれたときは、とりあえずこういうことにしている。  いてないよ。デマやでそんなの。若原は口をとがらせた。横合からしなだれかかる若いホステスは相変らず眼中になかった。 「そやからおれ、この店へくるのも気がすすまんかったんや。招かれざる客やからな。けど、やっぱりきてみたかった」 「なにいうのよ若原さん。私、すごくうれしいのよ。ほんまにうれしい。案内出さなくてごめんね。若原さん、私のことなんか眼中にない思うてたから」  まち子は若原の手をとった。たずねてきてくれて、うれしいのは本心である。  名門クラブで働いているあいだ、多くのホステスは幸福な錯覚のうちにある。可愛がってくれる財界人、政治家、文化人が、みんな自分のファンだと思っている。独立して店を出しても、よそのクラブへ移っても、そうした客たちがあとを慕って、群れをなしてついてくるものと信じている。  そして、ほぼ例外なく裏切られる。体の関係のあった少数の客か、いずれそのホステスと寝られると思っている客のほかは、まず新しい店まで追ってこない。客たちは名門クラブの女だからそのホステスを可愛がっただけで、その女自身に魅かれていたわけではない。相当に美しい女でも、看板をはずせば、星の数ほどいる北新地の女の一人にすぎなくなる。一流の店にいてこそ女は一流だが、二流の店では二流にしかみえないということもある。裏切られたホステスは、かつてのファンへつぎつぎに勧誘の電話をいれる。そして、ファンの実体が居留守をつかう男たちと、色好い返事だけで行動のともなわない男たちの二種類にすぎないことを発見して、人生観が変るほど傷ついてしまうのである。  水商売へ入って、最初の二年、まち子は二流の店にいた。それから「赤い鳥」で八年間働いた。女王気取りで店を辞めて、当てのはずれた女たちをいやになるほどたくさん知っている。自分はそんな失敗をしないつもりだった。まち子をたずねて「アローラ」へきてくれる客を、控え目に控え目に見積ってこちらの経営者へ申告した。それでもいいというからスカウトに応じたのだ。じっさいに「アローラ」へ移籍すれば、申告した数の五割増の客が会いにきてくれるだろう。内心ではそう信じていた。  だが、それでも見積りは甘かった。ママ代理になったまち子へ会いにきた客は、申告数の五割増でなく五割減だった。  月に一度は食事につきあってくれた銀行の副頭取も、毎年夏にはヨットあそびに招待してくれたデパートの会長も、転職の挨拶をしたときは、応援するぞ、がんばれ、といってくれた。だが、こちらへきて一ヵ月にもなるのに、まだ一度も顔をみせない。会社へ電話しても、秘書が居留守をつかう。  機械メーカーの社長も、電鉄会社の常務も、商社の重役も、「赤い鳥」へきたら帰りはかならず「アローラ」へ寄ると約束してくれた。だが、やはりまだ一度も立ち寄らない。「赤い鳥」には週に一、二度顔をだしているのに、である。中小企業の社長とか、青年会議所のメンバーとか、商業デザイナーとか「赤い鳥」ではあまり大きな顔のできないクラスの客が、まち子のもとへやってくるようになっただけだ。それも再三、勧誘の電話をいれた成果だった。「アローラ」の経営者やママにたいして、まち子が誇るにたる客は、いまのところ、造船会社の専務と南大阪の病院長だけである。専務とまち子はいま体の関係がある。病院長とは一年まえまで月々三十万円の手当てをもらって、操《みさお》を立てていた仲だった。  そんな状態だったから、たずねてきてくれた若原の好意がまち子は胸にしみた。愛情を告白されてみれば、なおさらである。  一流の店から二流の店へ移って、お客についてまち子はずいぶん認識を新たにした。苦い勉強ばかりだった。胸が甘くしびれるような認識を得たのは、今夜がはじめてである。若原が自分に好意をもっていてくれたとは意外だった。風采《ふうさい》のあがらない男でも、ほんものの好意はありがたい。風采のあがらないことが、誠実の証拠だという気さえする。  青年会議所の会員らしい五人づれの客が店へ入ってきた。若原とは反対に、一人ではまず絶対に飲みにこないのが、JCの会員の特徴だとまち子は思っている。「赤い鳥」にも彼らはときおり顔をだす。まち子がこの店へひっぱってきた客たちである。  当然挨拶にゆかねばならない。だが、できるだけ若原のそばにいたい。転職の案内状を出さなかったことで、まち子は若原にうしろめたい思いをしていた。十年もホステスをしてきたのに、いったい客のどこをみてきたのかと自分を責めている。  青年会議所の男たちには、ママがいそいで挨拶に出向いた。カウンターをあわせて四十人入る客席は、ほぼ満員だった。 「よう流行《はや》っとるなあこの店は。赤い鳥よりずっと混んどるやないか」 「赤い鳥は女がオバンやからな。客がオジンやから当然やろな。こっちの店のほうが、若い子が多くて、くつろげるわ」 「赤い鳥」の帰りであることをひけらかしたい男たちだった。向うの店でよりも、この店で大きな態度になるのが特徴である。あまり大事にされていないのを知りながら「赤い鳥」へゆきたがる男たち。二流店へ移った以上、まち子はそういう男たちを仕事の標的にしぼらなければならないようだ。 「挨拶にいかんでもいいのか。向うの人ら。まち子ちゃんのお客なんやろ」  五人づれの男たちのほうを上目づかいでみて、若原はいった。 「赤い鳥」で若原が見知るほどには、向うの男たちは常連ではなかった。群れとして若原は認識しているのだろう。 「いいのよ。それより今夜は若原さんと踊りたい。久しぶりに踊ろう」  女性ピアニストが弾き語りをしている。  そばのフロアへ出て、まち子は若原と抱きあった。照れくさそうな、緊張したような表情を若原はしていた。  ゆるやかなワルツを二人は踊った。抱きあってみると、若原は小柄だが、がっしりした体つきをしていた。まだ四十まえだという話を眉唾《まゆつば》ものできいたおぼえがある。案外ほんとうの話かもしれない。 「このまえ踊ったの、いつやったかおぼえてるか。おぼえてないやろ」  若原に訊かれて、まち子は返事できなかった。また借りができた気分になる。  三月のな、二十八日やった。もちろん土曜日や。あの晩は感激して寝られんかった。固く抱きしめてきて、若原はささやいた。下腹と下腹が密着しあった。  まち子は身ぶるいした。若原の下腹部の固い物が、敏感な部分にふれたのだ。林檎《りんご》かなにかをおしつけられたような気がした。それほど固くて、大きかった。造船会社の専務にも、そのまえの病院長にも、味わわせてもらったことのない感触だった。赤ん坊の頭くらいある、と思った。  まち子はだまって若原をみつめた。まったく男は、みかけだけではわからない。いまの感触からすると、この男は意外な性的強者なのかもしれない。  若原はうっとりとまち子を抱いて揺れていた。大きな目が、酔って赤く濁っている。よそおっているのかどうか、いま欲望にかられている男の顔とは思えなかった。     2  名門クラブ「赤い鳥」の女たちに、若原は土曜日の男と呼ばれていた。  まじめにそう呼ばれていたわけではない。二枚目を連想させるその呼び名と実物のギャップをみんな面白がっていたのだ。  週休二日制が世間に定着して、土曜日のクラブや酒場の客は減った。休んでしまう店も多くなった。「赤い鳥」はそこまで徹底せず、出勤するホステスの数をはんぶんに減らして営業している。一年ばかりまえから、若原はその土曜日ごとに「赤い鳥」へあらわれるようになった。  いつも一人である。独身だという話だった。やさしい誠実そうな口調で、毒にも薬にもならない話をする。気はきかないが、ホステスをみくだすところがない。歌が好きだった。リクエストタイムになると、バンドのそばに立って泥くさい演歌を大まじめにうたう。「赤い鳥」は客にうたわせないのが原則だが、土曜だけはステージを客に開放するのだ。  若原はホステスを冗談まじりに口説いたり、彼女らの体にさわったりしなかった。いつもおずおずしていた。鉄工所の社長だか副社長だとかいう話だが、若原の経営する鉄工所の名はだれも知らない。著名な財界人、政治家、文化人の客の多い「赤い鳥」では家賃が高すぎることを彼は自覚していた。そのことにまち子は好意を感じていた。だが、裏をかえせば、若原に魅《ひ》かれる点はほかに一つもなかったということになる。 「赤い鳥」には、土曜日は一流企業の経営者たちの姿がない。医師、弁護士、建築士など自営業の客が多い。そのぶん気がらくなので、若原は土曜日の男になったのかもしれなかった。支払いはいつも現金である。独身のふれこみどおり、土曜の夜はキタ、ミナミを股にかけて午前三時、四時まであそんでいるという噂だった。要するに若原は、えたいの知れない客だった。つねに現金払いで、支払いの痕跡をのこそうとしないあたり、不正な金で飲んでいる疑いもある。  店を移って案内状を出さなかったのは、まち子の良識というものだった。だが、若原にわざわざたずねてこられて、良識についての自信が大きく揺さぶられた。こんな経験ははじめてである。そして翌週の火曜日、さらにまち子は揺さぶられてしまった。土曜日の男がその夜、店へやってきたのだ。 「どうしたん。めずらしいねえ若原さん。きょうは火曜日の男なの」 「商談ですぐ近くまできとったんや。いつもはまっすぐ帰るんやけど、まち子ちゃんの顔思いだしたら、もうあかん。矢も楯もたまらんようになってしもた」  ウィークデーに取引の相手や同僚と酒を飲むことはある。だが、土曜日以外にプライベートで飲むのは数年ぶりだという。  社用のときも北新地へくる。だが、「赤い鳥」にはいかない。あそこはプライベートの別世界にしている。第一、あんな店へ大勢でおしかけたら、高価《たか》くついてとてもまかないきれない。うちは中小企業だから、接待もそれ相応にするのだと若原は説明した。 「赤い鳥は、おれなんか身分不相応や。それはようわかってる。一人者やから小遣いであんな店へもいけるわけや。もし世帯をもったら、きっちり足を洗わざるをえない」 「そうやったの。それで若原さん、うちの店は社用で使うてくれはるの。それともプライベートの別世界?」 「別世界にしたいな。まち子ちゃんに会う場所なんやから。けど、それではきみのプラスにならないか」 「いいの。プライベートにして。そのほうが私もうれしい。この年になると売上げなんか二の次になるの。ハートが問題になるわ」  ほんとうは社用で使ってほしいのだが、そういわざるを得なかった。若原の気持を尊重したい。  話をきいてみると、若原が土曜日の男であることにも、現金払いであることにも納得がいった。「赤い鳥」時代に感じた胡散臭《うさんくさ》さが消えてしまった。堅実な男ではないか。ハッタリのないまじめな男だ。四十歳前後の男は自分を立派にみせたい欲望がとかく鼻につくものだが、若原にはそれがなかった。  しばらく飲んで、またダンスをした。若原ががっしりした体つきなことは、前回わかった。きょうは彼が多少O脚であることを発見した。腹もすこし出ている。自分の不恰好《ぶかつこう》を恐れず踊るところに好感がもてた。 「若原さん、もうずっと独身なの。なんで結婚しないんですか」 「嫁はんとわかれて、八年になる。子供がないのがさいわいやった。もう結婚はこりごりやと思うた。女に失望した」 「どうして失望したの。裏切られたの」 「そんなところや。その話は訊かんといてくれ。機会があったらゆっくり——」  踊りながらそんな話をした。  女に失望した、といわれてまち子はすこし腹が立った。世の中にはいろんな女がいる。十把《じつぱ》ひとからげは困るといいたくなる。世間一般の常識とはずれがあるかもしれないが、まち子は誠実に生きてきたつもりである。金持の老人に身をまかせて、法外な大金をせびるようなまねはしたことがない。他人の足をひっぱったり、同僚の客を奪ったりした経験もない。適当にあそびもしたけれど、ハートにだけは埃《ほこり》をかぶらせずにやってきた。可能なかぎり他人のめんどうもみた。この店のママ代理にスカウトされたのも、誠実に働いてきた経歴がものをいったせいである。 「けど、まち子ちゃんをみて反省したよ。女に失望したやなんて、軽率にいうべきことやないね」  まち子の耳に若原は口を近づけた。口のほうが下にあったので、若原は背のびしてくちびるをとがらせている。 「きみはいい人や。なによりハートがいい。ホステスはおたがい陰口をたたきあうけど、きみの悪口はきいたことがない」 「ほんまかしら。そうとしたら私、舐《な》められてるのね。どうりでお金が貯まらない」 「人柄がいいから、ここへスカウトされたんや。おれ、きみを知って、女に失望するのはやめた。希望をもったよ」  若原はまた力をこめてまち子を抱いた。  下腹と下腹が密着しあった。林檎《りんご》のような丸く固い物が、ちょうどまち子の敏感な部分へおしつけられた。この前よりもまち子は、その部分が甘くしびれた。ついで若原の言葉が、いっそう甘く脳裡《のうり》をしびれさせた。 「まち子ちゃんさえよかったら、おれ、結婚したいと思うてるのや。つまらん男やけど、ついてきてくれたら大事にするよ。ほんまに一生大事にする」  ピアノの弾き語りにあわせて二人は揺れた。まち子は若原と一体になった気分だった。  だが、すぐにまち子は良識がもどった。若原はとんだくわせ者かもしれない。男はたとえ中年であっても、プロポーズとなると二十五、六までの女をえらぶのではないのか。 「そんな、若原さん。おそれ多いわ。私が奥さまやなんて、全然似合いませんよ」 「似合わんて、おれ、風采《ふうさい》があがらんからか」 「ちがいますよ。そんな意味やないわ。私、奥さまというようなガラやないですよ。結婚なんて、考えたこともなかったんやから」  若原はだまりこんだ。大きな目を悲しげにあけて、ぼんやり立っていた。  曲の途中なのに、彼は席へもどった。うつむいてブランデーを飲みほした。 「びっくりするやないの。あんまり急で。若原さんがきらいという意味やないのよ。ただ私、考えたこともなかったから」  まち子は若原に体を寄せた。とりかえしのつかないことをいってしまったような不安が胸にこみあげていた。  まち子の知ってる客がきた。うしろ髪をひかれながら、そちらの席へ移った。二十歳のホステスが代りに若原の席へついた。  十五分ばかりしてから、まち子はさらによその席へ挨拶に立った。そのとき、背中を突つかれた。二十歳のホステスが、目顔《めがお》でまち子を物陰へつれていった。 「あのお客さん、変よ。チイママに失恋したんとちがうの」  若原の席をそのホステスはふりかえった。若原が泣いていたのだという。  彼はいま席にいない。手洗いに立ったらしい。顔を拭きにいったのだろう。 「そう。泣いてたの。まいったなあ」 「どうしたんですか、って私、訊いたの。そうしたら彼、恋をうしないかけてるっていうてたわ。ねえ、可哀相よ。チイママのこと、すごく想っているみたいよ」  手洗いから若原が出てきた。泣いたあとののこる顔だが、足どりはたしかだ。  すぐいくわ。十分だけ彼の相手をしてて。帰さないようにして。二十歳のホステスにそう命じてまち子はよその席へ向かった。感動で胸が重かった。こんな気持にさせられたのは、いったい何年ぶりだろうか。  挨拶をそこそこに切りあげて、若原のもとへまち子はもどった。あらためて二人で会って話しあうことにきめた。  土曜日の午後四時、Rホテルのロビーで会う約束ができた。現金に若原は、あかるい顔になって帰っていった。尻の大きな人だ、とうしろ姿をみてまち子は思った。     3  約束の土曜日、四時に二人はRホテルのロビーで落ちあった。  館内のレストランや料理店はまだほとんど営業していない。二人はバーへ入った。すみのテーブル席で、若原はブランデー、まち子はジュースを飲んで話しあった。 「こないだの話に嘘はないのや。きみさえよかったら、結婚したい」  若原は豊中でマンション暮しをしていた。まち子さえその気なら、あすにでも引越してもらってよい。歓迎するという。 「まさか。そうかんたんにいかないわ。私の人生設計を根本的に変えることなんですから。よく考えてみます。親にも相談して」  テーブルの角を直角にはさんで二人は腰をおろしていた。  ひざとひざがふれあった。まち子は脚を若原に密着させていた。承諾のしるしだった。結婚はともかく、若原に抱かれることは承諾したつもりだ。知れば知るほど、若原にはふしぎな魅力がある。心のやさしさと、動物的なしたたかさが同居している。  まち子は高校を出て、会社へ二年つとめたあと、水商売の世界に入った。サラリーマンだった父が、まだ五十歳で蜘蛛《くも》膜下出血で急死した。一家の柱にならざるを得なかったのだ。体の弱い母親と弟妹が一人ずついる。  結婚などあきらめて、働いてきた。夜の仕事をもつと、結婚したい相手にめぐり会うチャンスがふしぎになかった。弟妹はすでに独立して家庭をもっている。まち子はいま、母親とマンションに同居中である。将来スナックバーを経営する気で、二千万円ばかり貯金をつくった。あと一息でなんとかなるところなのだ。ここで結婚となると、すべての計画を変更しなければならない。母親のめんどうをだれがみるのか、ローン支払中のマンションをどうするのか、店の計画は反古《ほご》にするのか、いろいろ考える必要がある。  そういう事情をまち子は話した。だから、いますぐプロポーズに諾否の返事をするわけにはいかない。そういうと、若原は了解してくれた。なるべくはやく結論を出してほしい、首をながくして返事を待っている、と熱をこめて彼は話した。手を握ってくる。  若原は昂《たかぶ》っていた。セックスをもとめている。だが、口にだしそびれていた。まち子が道をつけてやらねばならなかった。 「二人きりになってお話ししましょうか。私はいいのよ。若原さんと肌が合うかどうか、たしかめておきたいわ」 「そ、そうしよう。われわれは結婚を前提につきおうてるのや。そういうことがないとむしろ不自然やもんな。不自然や」  まち子をそこへ待たせて、若原はすっとんでバーから出ていった。フロントへ部屋をとりにいったのだろう。  すぐに若原はもどってきた。緊張のあまり悲しげな表情になっている。緊張が感染してまち子も昂ってきた。息づかいのみだれるのをおさえて、エレベーターへ乗りこんだ。  部屋へ入った。まち子がバッグをテーブルに乗せるのを待ちかねて、若原は抱きついてキスしにきた。舌をまち子の口へさしこんでくる。酒の匂いがしたが、いやではなかった。若原の誠実さが、あらゆる欠点を美しく覆いかくすような気分だった。  家を出るとき、まち子はすでにシャワーをあびてきていた。おし倒されるまま、彼女はベッドに横たわって靴をぬいだ。  若原がのしかかってくる。服をぬがせにかかった。スーツの上衣をぬいだところで、まち子は上体をおこし、自分で衣服をぬぎはじめた。裸になることに抵抗はない。乳房は勢いよく上向いているし、腰もひきしまっている。酒を飲まないから体が若い。腰から脚にかけての自慢の線を、立って若原にみせてやりたいくらいだった。 「シャワー使ってくるからな」  まち子が服をぬぎだしたので、若原はあわただしくバスルームへ消えた。  まち子は全裸になった。ベッドに腰かけて自分の体を点検する。一分の隙《すき》もない、と自分では思う。恥ずかしいほど濡れている。ティッシュペーパーでそのあたりを拭きとった。若原がバスルームを出てくる気配《けはい》がしたので、いそいで横たわり、毛布をかぶる。あかりを消したかったが、若原がよろこばないだろうと思ってそのままにしておいた。  若原がバスルームから出てきた。全裸の腰に黄色いバスタオルを巻いている。  ものもいわずに彼はベッドにのぼってきた。目玉がいっそう大きくみえる。はずみにバスタオルのすそから、力をみなぎらせた男性が顔をだした。息をのむほどそれは大きく、艶《つや》やかだった。これまで関係したどの男よりもみごとな物を彼はもっている。店のフロアで抱きあって、下腹を密着させあったときのように、まち子は女の部分が甘ったるくしびれてくるのを感じた。  あわただしい息づかいで、若原はまち子の肩や胸にキスを這《は》わせてきた。せかせかしておちつかない前戯である。それでも、乳房は入念に吸ってくれた。まち子は目をとじ、乳首からおくりこまれる快感が、体内の導火線を通って、下腹部の内側へゆるやかにながれこむ感覚に陶酔していた。しぜんに体がそりかえった。若原はときおりまち子の乳房から顔をはなして、まち子の体の美しさ、みごとさを賞めたたえる。返事の代りにまち子は若原を抱きよせて、肩や胸板のあたりへキスのおかえしをしてやった。  たっぷり乳房を吸ったあと、若原は体をずりさげた。腹からふとももへ、彼のくちびると舌が這いおりていった。  草むらの箇所を若原は揉《も》んでくる。そうされると、まち子はみだれてしまう。とろけるほど甘美な感覚がその付近にひろがり、あふれでる果汁とまじりあった。やがて若原は濡れた箇所へ顔を伏せてくる。まち子は無我夢中の境地へ投げこまれた。ごく自然にかん高い声が口から流れでてゆく。目をとじたまま、うっとりとまち子はうなずいた。合格、という気分である。セックスに若原はけっこう練達していた。この男となら結婚しても、性的に不自由させられることはないだろう。  くちびると舌のほか、若原は手指で巧みにまち子の体を愛撫していた。秘密の果肉の下のほうやアヌスにかるくひっかくような刺戟《しげき》を感じた。くちびると舌でおくりこまれる快楽を、それらの刺戟が厖大《ぼうだい》なものにふくらませる。泣きながらまち子は体をよじった。短いあいだに、快楽の頂上を二度、乗りこえていた。  とつぜんまち子は裏返しにされた。ついで下肢をひらかされた。左右の脚のあいだに若原の這いこんでくる気配があった。  まち子はさけんでいた。ふつうは考えられない部分に若原の舌が這いこんできたからだ。はじめて味わう感覚だった。まち子は泣きながら腹を波打たせた。ヒップを動かさずに身を悶《もだ》えようとすれば、腹のあたりを波打たせる以外に方法がなかったのだ。  しばらくそうして苦しまされたあと、まち子はふたたびあおむけにされた。そして、下肢を大きくひらかされた。  目をあけてみる。下肢のあいだに若原が両手をついてうずくまり、じっとまち子の顔をみつめていた。若原は腹が出ている。尻が大きく脚は短い。とびでたような目玉と、しまりのない口もとをしている。まち子はガマにみおろされているような気がした。とんでもない醜悪な生き物から犯される寸前のような気持におちいる。それがけっして苦痛ではなく、むしろ快感である。 「してあげようか、こんどは私が」  うっとりと寝そべったまま、まち子は手をのばした。  どうしてもさわってみたかった。  まち子は男性をとらえた。息をのんでいた。予想よりはるかに大きな感触だった。恐怖をおぼえるほどではないが、いままで体に迎えいれたことのないスケールであることはたしかである。迎えいれたとき、どんな感触なのか、想像しないわけにいかなかった。 「すごいわ。若原さん、すごい」 「ふしぎやねん。きょうはとくべつ大きいみたいなんや。まち子ちゃんと仲よくなれて、こいつも張りきってるみたいや」  うっとりさせることを若原はいった。そして、まち子の手やくちびるによる愛撫をことわり、大事な箇所に男性をおしつけてきた。  思いきってまち子はひらいた。体のなかへ若原がゆっくり入ってきた。一センチずつそれは近づいてくる。ひらいた脚とおなじように、体のなかのあたたかい肉がつぎつぎに左右へひらいてゆく。すこし痛いような気がする。だが、じっさいはそのたびに快感が湧きだした。大きな、力づよい、固い生き物に蹂躙《じゆうりん》されるよろこびが全身にひろがる。一センチずつ若原が入ってくるたびにまち子はあえいで声をあげる。若原が動くよりさきに、まち子が動きだした。ひとりでに小さく、いそがしく揺れ動いた。  体がせいいっぱい快楽を頬ばった。たぶんこの誠実な男と結婚することになるのだろう。そう思うと、たんに快楽ではなく、幸福をまち子は頬ばっている気持になった。     4  土曜日の男、若原のクラブめぐりの順番がそれまでとは逆になった。まち子が望んでそうしてもらったのだ。  午後四時にホテルで落ちあう。二時間以上かけてセックスをたのしんだあと、食事して「アローラ」へ同伴出勤する。そこで一時間ばかり飲んで若原は「赤い鳥」へ出向く。  活力をぜんぶ吸いとって、若原を脱け殻にして「赤い鳥」へ送りだしてやる。そのことに奇妙な快感があった。本人の好きなようにあそばせればよい。肝心の部分は私が握っている。そんなふうに感じていた。つまりは女房気取りなのだ。一度若原とセックスの関係ができて以来、まち子の身のまわりの雑事はとんとん拍子にかたづいていった。  半年さきを目途に挙式の準備をしようと若原と話しあった。式のあと、母親は弟夫婦と同居することになった。姉さんにいままで苦労をかけたのだから、と弟はこころよく母親のひきとりを約束してくれた。  式の直前にいま住んでいるマンションを処分することにした。若原もマンションを売り、郊外に一戸建ての家を買う。扶養すべき係累が若原にはないので、しゃれた一戸建ての住居で新婚生活を満喫《まんきつ》できるはずだった。  スナックバーの経営は、数年さきのことにすればよい。結婚後はとりあえず家にいて、十年のホステス生活の疲れをとるべきだろう。何年かたって主婦の暮しに退屈したら、店のことを本気で考える。子供でも生れて家事育児から手がはなせなくなったら、それはそれでよいのではないか。若原はそんな意見をのべた。まち子に異論のあるわけがない。いまの稼業に身が入らなくなった。だが、まだ公表の段階ではない。私、近く辞めて結婚するの。ママや支配人にそう告白したい衝動をおさえてまち子は勤務時間をすごした。  まち子にとって、若原はこれまで知った男のうちで最高のセックスの相手だった。肌が合うかどうか最初疑ったのがばからしく思えるくらい、いつもまち子は満足した。  あおむけになった若原によりそい、男性にキスしたり、頬ずりしたりするとき、まち子は男性にすがりついているような気がした。それほど大きかった。倦《あ》きずに見惚《みと》れ、そのぜんたいに舌をおどらせる。下方のふくらみに舌を這わせるときなど、たくましい柱に終始頬ずりをつづけていた。  どの角度から体にそれを迎えいれても、強烈な快感でのたうちまわらされた。正面からも、後方からも、ななめからも、申しぶんなく豊富な快楽がおしいってくる。まち子は赤ん坊のように泣きじゃくってしまう。快楽と幸福を思いきり頬ばることができる。  なかでもまち子は、あおむけになった若原を組み敷くポーズで結合するのが好きだった。その姿勢で若原を迎えいれると、丸太ん棒で突きあげられたような気持になる。宙にうかんで快楽に揺られる心地だった。  そして、終ると落下の感覚があった。まち子の錯覚かもしれないけれど、自分を宙にささえていた柱が急に消えて、若原の腹へ自分の体がどしんと落ちるような気がするのだ。それくらい若原の男性はみごとだった。丸太ん棒のようなその男性が、活力の白い液体を噴きだすところをまち子は一度みたいと思うようになった。 「なんぼでもみせたげるよ。さ、上手に可愛がってやってくれよ」  呑気《のんき》な顔で彼はそれを突きだした。  とりすがるようにして、まち子はくちびると舌を駆使した。だが、それが熱してくると、つい自分の体へ迎えいれたい気持がさきに立って、見物はあとまわしになってしまう。まあいい、一生ともに暮す男なのだから、そんな光景はいつでもみられる。そう自分にいいきかせて、まち子は馬乗りになったり、反対に組み敷かれたりをくりかえした。  若原がはじめて「アローラ」へあらわれた日から二ヵ月たった。ある晩、まち子は客を送りに外へ出た。本通りで偶然、順子という友達に出会った。  順子は約三年にわたって「赤い鳥」の同僚だった。最近彼女も店をやめ、永楽町通りの二流店へ移籍したところだった。 「びっくりしたわ。土曜日の男がきてくれたんよ。私、案内も出してなかったのに。お客さんの気持って、ふしぎやねえ」  三週間まえの土曜日の夜おそく、ふらりと若原が順子の店へ入ってきたのだという。 「赤い鳥」時代には告白できなかったが、以前から順子がすきだった、と若原は表明した。そして、土曜以外の日にも、お客をつれて飲みにきてくれた。移籍直後で、ひとりでも客をひっぱってきたいときなので、若原の好意が順子は身にしみているという。 「ほんまにいい人よ、若原さんは。まち子ちゃんのお店にもいってるの」 「うん。まあね。たまにきはるわ」  まち子は蒼白になった。夜なので、顔色の変ったのをやっとかくしおおせた。  その足で、まち子は「フルフル」という店へいった。半年まえまで「赤い鳥」の同僚だったまゆみというホステスが、まち子とおなじようにママ代理をしている店だ。もちろん二流のクラブである。  まゆみを呼びだして、若原があそびにくるかどうかを質問した。 「ああ、土曜日の男。ひところはよくきてたよ。呼びもしないのに、向うから」  まゆみは顔をしかめた。いろいろ事情があって、いまはきていないという。 「まち子ちゃんも気ィつけなさいよ。あいつ、赤い鳥では虫も殺さんお客やったけど、相当のワルよ。私も一時乗せられてしまって」  結婚の約束をしたらしい。口実をつけて合計百万円ほどまゆみに小遣いを出させたあげく「フルフル」に寄りつかなくなった。  そうして巻きあげた金で、若原は飲みあるいているらしい。現金払いは当然だった。茫然として、まち子はまゆみとわかれた。一昨日の夜、会社の運転手が近くで交通事故をおこした弁償金だと称して、まち子の保証で店から三十万円借りていったばかりだ。 「やられたなあ。いい年コイてみごとにやられた。被害僅少でまあよかった」  つぶやいて、まち子は店に向かってあるきだした。  あまり腹は立たない。たのしい夢をみたせいか、それともあの男性のせいだろうか。 [#改ページ]   夜の喜劇     1  木山がやってきた。夕刻の五時半だった。  事前に連絡があったから、夏美はおどろかなかった。ただ、うとましかった。まったくこの男、どうやって会社を切り盛りしているのだろう。  五時半といえば、男たちにとってまだ事実上の就業時刻である。それなのに木山は週二回、この時刻にいそいそと夏美のマンションへやってくる。三時ごろ呼びだしても、駈けつける。小さな家具工場を木山は経営していた。だが、いくら小さな会社でも、こんなことで社長がつとまるものなのだろうか。  夏美のマンションの扉の鍵を木山はもっている。チャイムを鳴らしておいて、勝手に入ってきた。夏美はソファに寝そべっていた。テレビをみている。木山には目もくれない。いつものことだった。木山は小男である。目が大きい。口もとにしまりがなかった。赭《あか》ら顔の醜男《ぶおとこ》である。できれば木山の顔をみないで済ませたい。夏美の本音だった。 「すし買うてきたで。食うか夏美ちゃん」  木山は椅子に腰をおろした。  すしの折り箱をテーブルのうえにおく。夏美の顔色をうかがっていた。お茶いれよか。声をひそめて訊いた。 「また駅前のみどりずしかいな。要《い》らんわ。冷蔵庫にいれといて」  折り箱を夏美は一瞥《いちべつ》しただけだった。  木山は折り箱をさげてキッチンへいった。缶ビールを二つもって戻ってきた。ピシリと音をさせてふたをとる。ゆっくりと飲んだ。  夏美はまだテレビをみている。子供向けのアニメ番組である。おもしろいわけがない。木山を無視するためにそうしている。もっとも木山は、冷たくされると、かえって欲望にかられるたちだった。もちろん夏美はそれを計算している。シャワーをあびたあとの素足をこれみよがしに投げだしている。  十分ばかり時間がたった。いつもなら木山はソファのまえに身を投げだして、夏美の脚に舌を這《は》わせているはずだった。きょうはなにもしない。その気配《けはい》もない。はじめて夏美はふりかえって木山をみつめた。 「どないしたん、社長。きょうはえらいしずかやないの。体の調子わるいの」  訊かれて木山はかぶりをふった。  背中を丸くしている。顔をふせた。うなだれると、髪のうすくなった頭がこちらを向いた。赭ら顔がくろずんでいた。木山は四十八歳である。きょうは五十代のなかばにみえた。精気がない。胸がわるくなるほど貧相である。  あっと夏美は思いあたった。体をおこした。真剣に木山をみつめた。 「社長、あんたひょっとすると、会社がだめになったんとちがうの。そうでしょ。正直にいうて。ね、そうとちがうの」  木山はこたえなかった。  顔をあげた。だが、夏美を正視はしない。ななめのほうへぼんやりと目をやる。口もとにしまりがない。とほうにくれていた。 「はっきりいうてよ。どうなんよ。つぶれたんでしょ社長の会社。変やと思うてたわ」  夏美は木山の脛《すね》を蹴った。  返事をうながした。背中に冷たい汗がにじんでいる。木山がだめになると、夏美にもいろいろ不都合が生じるのだ。 「まだつぶれてへん。そやけど——」 「そやけど、どないしたんよ。はっきりいうたらどうやの。男でしょ社長」  また夏美は木山のひざを蹴った。ついで足裏で踏んだ。いらいらする。 「どうも近いうち二進《につち》も三進《さつち》もいかんようになりそうなんや。そやから今月の振り込み、堪忍してくれへんか。景気が回復したら——」 「そんな。困るやないの私。けど、お店のほうは大丈夫なんやろね。請求書、二百万近うになってるのよ」  夏美はさけんだ。悲鳴のようだった。  振り込みとは、木山から月々もらう手当のことだ。金額は百万円である。将来店を出す資金にする気で積み立てている。  北新地のクラブ「ジェリー」に夏美はつとめている。木山は三年ごしの常連客だった。夏美のもとへかよってきたのだ。  月に七、八十万円木山は店でつかった。いつも現金払いだった。だが、三ヵ月まえから木山は勘定をツケにするようになった。ひょっとすると会社が危いのか。夏美は心配した。月々の手当に滞《とどこお》りはなかったので、だまって様子をみていたところだ。不安が的中した。木山は倒産するらしい。 「そら大丈夫や。どんなことがあっても、わし夏美ちゃんには迷惑かけへん。ツケを払うぐらいのもんは用意してあるで」  つよい調子で木山はいった。  目をむいて、きっぱりと断言する。誠意を売りこむときの表情である。夏美は顔をそむけた。木山は顔に蜜柑《みかん》の皮のようなブツブツがある。目をむくと、蛙みたいだ。 「会社がつぶれてもかめへん。わしは新しい出発や思うとるんや。夏美ちゃん、このさい結婚しようやないか。二人で、スナックでも出そう。新地でのうてもええ。場所さええらんだら、じゅうぶんやっていける思うねん」  追いかけるように木山はいった。じっと夏美をみつめている。 「うん。そうやね。ゆっくり考えてみよう。そのことも——」  夏美はたじろいだ。こんなかたちで結婚話が具体化するとは思わなかった。  木山は独身である。一度結婚して、わかれたらしい。子供はいない。夏美と結婚したがっていた。可能性のあるような返事を夏美はしてきた。だから木山も三年近く、月々百万円もの払い込みをつづけてきたのだ。いくら木山がお人好しでも、結婚の当てなしにそれだけの金を貢《みつ》ぎはしなかっただろう。 「なあ夏美ちゃん。結婚しよう。二人で力をあわせて生きていこうやないか。わし、あんたを大事にするで。生命《いのち》に代えてもあんたを倖せにするさかい——」  口説《くど》きながら木山は立った。  夏美のとなりに腰をおろした。抱きついてキスしにくる。夏美は顔をそむけた。両手で木山を突きはなした。木山には口臭がある。酸味がかった、ひどい臭いだ。これをかぐと夏美は吐きたくなる。 「いや、もう。歯アみがいてきて。いつものことやないの。ちゃんとしてきて」  夏美は立ちあがった。  木山は腰かけたまま、横合から抱きついてくる。夏美のふとももに顔を埋めた。いつもとちがって従順ではない。倒産を告白して感傷的になっている。  夏美は腕で木山の顔を横に払った。向きなおって、突き倒した。横腹を蹴った。いてて、痛いがな夏美ちゃん。甘えた声で木山は悲鳴をあげた。よろめきながら立って、バスルームへ向かった。ガニ股だった。  バスルームのまえに洗面所がある。流し台に向かって木山はうがいをはじめた。ゴボゴボと口をすすぐ。水を吐きだしている。まだ四十代なのに、木山は総入歯である。それが口臭の原因かもしれない。  夏美は缶ビールをあおった。アルコールなしで木山に抱かれたくなかった。飲みながら思案をめぐらせた。木山とわかれるときがきたらしい。だが、どうやって切れるべきか。彼は夏美に大金を注ぎこんでいる。かんたんにはあきらめないだろう。小心者だけに、怒るとなにをやらかすかわからない。うまくかたをつけなくてはならない。  木山を捨てて逃げてしまえば、話はかんたんだった。だが、そうできかねる事情があった。マンションの権利書を木山に握られている。身をかくすことは、ここを木山にゆずりわたすことを意味している。  ここは分譲マンションである。五年まえ、二千五百万円で購入した。頭金二割を支払い、のこりは月十五万円、十五年のローンとした。二年間夏美はローンを支払った。その後、木山と知り合った。木山はローンの残額二千万円あまりを支払ってくれた。  木山もバカではない。ローンののこりをひきうけるにあたって権利書をもち去った。盗難のおそれがある、会社の金庫にあずかってやるとの口実だった。権利書は、名義人であろうとなかろうと、それを持っている者が自由に処分できる。事実上そうである。うっかり夏美は乗せられてしまった。人質をとられたのだ。木山のまえから姿を消すと、これまで投資した一千万円近い金をどぶに捨てることになる。いや、一度手にいれた住居を奪われると思うだけで、口惜しくて体がふるえてくる。  木山とわかれる。権利書をとりもどす。この二つを同時にはたす方法がなにかないものだろうか。夏美は正念場に立っていた。三年間、木山から月々百万の手当をせしめてきた。それでじゅうぶんだとはとても思えない。へどの出そうな嫌悪をいつも耐えて、夏美は木山の欲望をうけいれてきたのだ。  木山がバスルームから出てきた。まっすぐ近づいてくる。バスタオルを腰に巻いただけの裸だった。口もとがすぼんでいた。入歯をはずしてきたのだ。  夏美のとなりに木山は腰をおろした。夏美の肩に手をかけてひきよせる。くちづけにきた。夏美は顔をそむける。木山の口から歯みがきの匂いがただよった。口臭とまじりあって、歯みがきの匂いも生臭くなっている。  木山は夏美の頬や首すじにキスしてくる。嫌悪と快感がまじりあって夏美の体へながれこんだ。木山は思いつめた顔をしていた。腕ずくで夏美に正面を向かせる。こうなると彼も男である。くちづけにきた。  しまりのない木山のくちびるに、夏美は口を覆われた。歯を噛みしめる。舌の侵入はゆるさない。生臭い木山の息がおしよせる。呻《うめ》きながら夏美は耐えた。きょうまで三年間耐えてきた。この一回、我慢できないわけはない。そう自分にいいきかせる。 「結婚しよう。いっしょに住もうやないか。夏美。あんたはわしの生命や」  うわごとを木山はつぶやいた。  総入歯をはずしている。手で口をおさえて話している。発音が不明瞭だ。つきあいのながい夏美だからこそ内容がわかる。どうなとしろガマ蛙。夏美は胸の内で悪態をついた。あおむけにソファへ身を投げだした。目をあけて天井をながめる。 「たのむ。きちんと腰かけてくれ。正面向いて。きちんと——」  木山が哀願した。夏美の体をかかえて正面を向かせる。夏美はソファに腰かけた。背もたれに体をあずける。天井をながめた。  木山は夏美の足もとへうずくまった。夏美のスカートのなかへ手をいれてくる。パンストを夏美ははいていない。ショーツだけだ。木山はショーツに手をかけてひっぱる。足さきからそれはぬけていった。  夏美の両脚を木山は手でひらかせた。なにかつぶやいている。夏美のスカートのなかへ頭をもぐりこませてきた。そのままじっとしている。夏美の体の秘密の箇所へ見入っているわけではない。暗くてみえないはずだ。スカートのなかへもぐりこむと、とても安らかな気分になる。そう木山はいっていた。 「夏美ちゃんのスカートのなかにいると、おふくろの胎内にいたころを思いだすわ」  酔ってそんなバカをいったこともある。勝手にしろ、と夏美は思っている。  やがて夏美の秘密の箇所から、快楽が流れこんできた。木山がそこへキスしにきている。舌でさぐっている。気味わるいと思う。だが、快楽があるのも事実である。木山はくちびると舌を上手につかう。夏美の体でおぼえた手管《てくだ》である。  夏美は背もたれに体をあずけて、じっとしていた。目をあけて天井をみている。快楽がつのってくる。心は冷えているのに、体が反応しはじめている。呼吸がみだれてきた。木山はむきだしになった歯茎を上手に使って、夏美の敏感な箇所に刺戟をあたえていた。歯茎でやさしく引っ掻くようにする。  夏美はブルーのスカートをはいていた。その中央部が、木山の頭で盛りあげられている。盛りあがった部分が上下に動いていた。夏美は我慢できなくなった。声が出てしまう。木山は勢いづいたようだ。盛りあがった部分の動きがあわただしくなった。しだいに夏美はわれをわすれてゆく。こうなると、嫌悪も一つの刺戟である。ぞっとする思いが、逆に快楽をするどくしていた。  夏美は無我夢中になった。いつのまにかソファにあおむけに寝ていた。木山がのしかかってくるのを意識して、顔をそむけていた。快楽のうねりがおしよせてくる。夏美は翻弄《ほんろう》されようとしていた。だが、急にうねりは消えてしまった。人工皮革のソファのうえに夏美は横たわっている。ソファの平面は冷たくて、微動もしなかった。  生臭い風が吹きつけてきた。歯みがきの匂いのまじった風だった。木山の顔が、夏美の顔のすぐそばにあった。目をとじてぐったりしている。しまりのない口が、いっそうゆるんでよだれをたらしていた。蜜柑の皮のような頬が、拡大鏡を通したようにすぐそばにみえる。また生臭い風が吹きよせる。  夏美は吐きたくなった。木山の体をおしのけた。小男なりに腹の出た、たるんだ体がソファのうえで横転する。夏美はいそいでバスルームへ走った。嫌悪で鳥肌立っている。あんな男に抱かれて声をだした自分が、うとましかった。腹が立った。あと一息で快楽の頂上というところで終ってしまう木山への軽蔑と苛立ち——それは意識していなかった。  バスルームのまえの洗面所で夏美は足をとめた。流し台の横を凝視していた。白い大型のカップがある。愛らしい仔犬の絵の入ったカップだった。夏美は毎朝、それをつかって歯をみがいている。  カップにはかすかにグリーンがかった水が入っていた。水のなかに白い歯の列とピンク色の歯茎がみえた。木山が総入歯を沈めたのだ。水がグリーンがかっているのは、入歯洗浄用の錠剤を投げこんだせいである。  夏美は全身の血が逆流した。頭髪が逆立つ思いだった。私のカップに総入歯——。なんという汚い、無神経なことを。あいつ殺してやる。もうとても辛抱できない。夢中で夏美は決心した。入歯用の硝子《ガラス》のカップはべつに用意してある。木山はそれをさがさずに、夏美のカップを使ったのだ。  夏美は目をつぶった。入歯の沈んだカップを正視できなかった。目をとじたまま、カップをつかんだ。ソファに横たわった木山目がけてほうり投げた。  カップはソファのそばの床へたたきつけられた。派手にくだけ散った。総入歯が上下一組になってぽとりと床に静止する。おどろいて木山が顔をあげた。目を見張っている。 「バカ。なんで私のカップに入歯なんかいれるのよ。気持わるいやないの。なんで自分のカップをつかわへんのよ。ガマおやじ」  足ぶみをして夏美はさけんだ。  殺してやる。もう一度誓った。権利書をとりかえして、あとで殺す。さもないと、こっちの神経がずたずたになってしまう。     2  三年まえまで、夏美は大阪北新地の有名クラブ「イエローバード」で働いていた。  二十歳でこの道へ入った。いまは二十八歳である。木山と知りあったのは、二十四歳のころだった。夏美は花盛りだった。 「イエローバード」はマスコミでかつて「夜の商工会議所」と囃《はや》されたクラブだった。全盛期には五十人ものホステスがいた。映画女優になってもやっていけるような美女がたくさんいた。名のある財界人や文化人が、この店へあつまった。噂される色模様も華やかで贅沢《ぜいたく》だった。何千万円ものマンションをぽんと買ってもらったり、店を出させてもらったりした女の子の話がざらにあった。  夏美が「イエローバード」へ入ったころは、高級クラブのそんな全盛期は終っていた。日本の経済界が高度成長の時代から低成長の時代へ移ったころだった。大物の財界人などはめったにクラブへ顔をみせなくなった。ホステスの数も三十人ばかりに減った。沸き立つような活況はすでに昔話だった。「イエローバード」は洗練された、おだやかな持味の店に変っていた。  それでも客筋はよかった。主流は一流企業の幹部と中小企業の経営者だった。医師、弁護士に文化人の客も多かった。酒品のわるい客はめったにいなかった。女たちに威張りちらしたり、自己宣伝につとめたりする客にもまず出会わなかった。  男たちは酔ってバカ話をした。ホステスといっしょになって談笑した。証券会社のOLからこの道へ入ったばかりのころ、夏美は彼らがとくにすぐれた男たちだという実感がなかった。たんに好色で、冗談好きで、口説き文句のうまい中年男や老人にしかみえなかった。彼らは夏美をちやほやしてくれた。夏美は彼らと友達づきあいしている気で、客席から客席を泳ぎまわったものだった。  だが、月日がたつにつれて、彼らの実体がわかってきた。冗談話のあいま、客どうしふと真顔になって言葉をかわすことがある。夏美などには理解できない話をする。たんに仕事の話だけではない。世の中の移り変りや、人の営みについて短く真剣に語りあう。きわめて質の高い内容であることは、夏美にもわかった。やっぱり偉い人たちなのだ——会話の外へはじきだされて、畏敬の念をもって客をみつめたりするようになった。  夏美は和歌山県S市の出身である。父親は公務員だった。弟が二人いた。平凡な家庭で平凡に育った。夏美は生れつき気がつよく、わがままだった。平凡な暮しにいらいらして育ったようなところがある。一歩一歩、腰をひねるようにしてあるくくせがあった。何人かの同級生の女の子を、家来にしてつれてあるいていた。  中学三年の春に、死にたくなるような災難に遭《あ》った。ある晩、映画をみて帰る途中、数人の若者にとりかこまれた。手とり足とり蜜柑畑につれこまれて、代る代るおかされた。まっ暗ななかで、相手がだれともわからなかった。男の一人のひどい口臭が記憶にのこった。打ちのめされて家へ帰った。警察へとどけるのはよそう。夏美の人生のさまたげになる。両親はそういいかわした。だまってしたがう以外、夏美には手段がなかった。  それ以後夏美は、親や教師に手をやかせる娘になった。暴走族の仲間に入った。シンナーあそびと暴力行為で二度補導された。女子高校へ入ってからは番長の一人になった。沖山宏という恋人ができた。宏は高校を中退、鉄工所の工員をしていた。暴走族グループのリーダーでもあった。高校の補導係の教師は夏美と宏の仲を知って、 「似合のカップルやな、おまえらは。子供だけは絶対つくるなよ。絶対に犯罪者になる」  と、念をおしたものだった。  沖山宏は、夏美にすればふつうの青年だった。気性も言葉つきも荒っぽいが、夏美にはやさしかった。彼のオートバイに乗って海岸道路をぶっとばすのが、なによりもたのしかった。金がないので、モーテルにはあまり入れない。海岸の岩陰や、山の林のなかで宏に抱かれた。一度妊娠して病院であとしまつをした。むろん両親には内緒だった。  夏美はとくに反抗的な気持で世の中に対していたわけではない。ただ、例の蜜柑畑の事件以来、町の人々が目ひき袖ひきその噂をしているような気がしてならなかった。いつも強迫感にかられていた。あのことを知られているかぎり、まじめに勉強してもむだだと思った。番長であるほうが自分にはふさわしい。心の底でそう信じていた。  夏美が高校二年のとき、沖山宏が警察に逮捕された。傷害と窃盗容疑だった。夏美の両親は必要以上にうろたえた。夏美にどんなとばっちりがくるかもしれない。このままでは夏美自身が、いつそうした事件に巻きこまれるか、わからない。神戸の女子高校へ夏美を転校させることにきめた。父親の兄が神戸に住んでいた。警察官をしている。夏美をそこにあずけて更生させるのが狙いだった。  夏美はすなおに神戸へ移った。田舎を出たくて仕方なかったので、渡りに舟だった。沖山宏との仲も、しょせん一時の火あそびにすぎなかった。ながつづきするとは夏美自身、考えていなかった。拘置所へ面会にゆくこともなく、夏美は故郷をはなれた。  神戸でぶじに高校生活を終えた。わるい友達をつくるひまもなく、一年あまりをすごしたというのが実感だった。神戸にはあの蜜柑畑の事件を知る者がいない。夏美はふつうの娘にもどることができた。わしの教育の成果じゃと、警察官の伯父は得意がっていた。  Y証券へ二年つとめた。神戸の伯父の家から通勤していた。おなじ会社の営業マンである青年と仲よくなった。一年後に結婚しよう。そう約束して準備にとりかかった。  そのころ和歌山の実家で変動がおこった。父が汚職をやって役所をクビになったのだ。町の酒場の女に父は深入りしていた。子供まで生ませたということだった。女に貢ぐため、汚職をやったらしい。数年まえ、夏美の素行に目くじら立てていた男が、恥ずかしくもなく醜態をさらけだしたわけだ。  父母は離婚した。女と赤ん坊をつれて、父は姿を消してしまった。汚職の弁済のため、山や畑を夏美の家は手ばなさなければならなかった。母と弟二人がS市の家にとりのこされた。弟たちは進学希望だった。成績もわるくない。彼らの希望をかなえてやるには、夏美が夜の世界へ入る以外に道がなかった。  恋人に夏美は事情を話した。営業マンはたちまち逃げ腰になった。なかば予期していたとおりだった。顔と心をこわばらせて夏美は証券会社をやめた。和歌山の高校の同級生が一人、大阪の北新地で働いていた。その娘に口をきいてもらって、夏美は「イエローバード」の支配人の面接をうけたのである。  おどろいたり、あきれたり、感心したりして夏美は北新地に馴染《なじ》んでいった。客に叱られたこともあった。同僚にいじわるされた晩もあった。一度も泣かなかった。ニコニコして働いた。毎月、弟たちへ仕送りをつづけた。酒がつよくなった。和歌山の実家へは一度も帰ったことはない。蜜柑畑の事件でうけた傷はとうになおったはずだった。だが、父のしでかした不始末を思うと、S市の人々に合わす顔がなかった。  入店して半年後、夏美はある大企業の専務にしつこく愛をささやかれた。 「この年齢になってまだ恋のできる自分を発見したよ。こんなうれしいことはない。きみを応援させてくれないか。物心ともにだ」  専務は一分の隙《すき》もない紳士だった。やさしくて、表情に誠意があふれていた。  夏美は心を動かされた。高い給料をとっているが、仕送りで暮しはらくではない。援助してくれる男性がほしかった。さそわれるまま、専務といっしょに別府へ一泊旅行した。帰りぎわ、専務は五万円の小遣いをくれた。プレゼントの代りだという。感謝して夏美はそれをうけとった。  夏美は専務の愛人になったつもりだった。だが、それきり専務のさそいはなかった。店にも彼は以前ほどあらわれなくなった。たまに姿をあらわすと、以前とおなじように夏美に対する。やさしく談笑する。それだけで帰っていった。店のハネたあとの待合せの約束もない。つぎのデートの約束もない。ほかのホステスをつれて深夜レストランへいったという話をきいた。一回きり、夏美はあそばれてしまったのだ。  これが男というものなのだ。夏美ははらわたが煮えくりかえった。専務を刺し殺してやりたかった。自分とのことを酒のさかなにするようなら、ほんとうに刺すつもりだった。さすがに専務はそれをしなかった。殺すのだけは夏美はやめた。だが、噂にされているような気がしてならなかった。夏美のやつ、寝てみたら粗マンもいいとこやった。二度と寝る気はせんかったぞ——。専務の声がきこえるようだった。自分がバカだった。もう二度とヘマはしない。以前とはちがう姿勢で夏美は男にたいするようになった。  その一年後、二度目の失敗をした。相手は保守党の国会議員だった。まだ四十三、四歳。長身で彫りの深い顔をしていた。大物政治家だった父親の地盤をついで議員になった人物である。選挙区は四国だった。 「地元でも東京でも、世間の目がうるさくてくつろぐひまがないんだ。ほっと一休みできる場所がほしい。大阪できみが待っていてくれたら、理想的なんだけれど」  選挙区のゆきかえりに大阪へ寄りたい。きみが住むためのマンションを買おう。そこを休息の場にしたいんだ。  夏美の耳に議員はささやいた。夏美は胸がおどった。相手の風貌に魅《ひ》かれていた。議員がまさかいいかげんな話はするまいと信じてもいた。  議員の宿泊しているホテルへいった。一夜をともにした。数日後、四国から折りかえした議員と、またホテルへ泊った。議員は夏美の体やセックスの技巧を賞めてくれた。自分にもけっこう性的魅力があるようだ。それがわかって、夏美は一安心だった。  月に一、二度、議員と夜をともにした。五ヵ月たった。議員はいっこうにマンションの話を出さなかった。たまりかねて夏美は催促してみた。近く選挙がある。資金がかかる。選挙が終ったら買おう。そんな返事だった。  じっさい選挙になった。議員はもう大阪へ立ち寄るどころではなかった。二ヵ月後、議員はぶじに当選をはたした。それきり大阪には姿をみせなかった。電話をいれても、秘書にさえぎられてしまう。国会議員も嘘つき男だった。口惜しかったが、以前ほど夏美は憤怒にかられなかった。議員は夏美のセックスの魅力をみとめてくれた。さらにいえば、公平にみて夏美には過ぎた男でもあった。  夏美と議員の仲を、店のママ代理の妙子がよく知っていた。ある夕刻、いっしょに食事しながら、妙子が忠告してくれた。 「夏美ちゃん、あんた、いい男に目をつけすぎるわ。ルックスが良うて、いっしょにあるいて晴れがましい男。有名な男。顔の売れた男。そんな男はお金になれへんよ。不細工で、教養がのうて、どの女の子にも相手にされんような男。これがお金になるんやないの。あんた、この世界で甘い夢みたらあかんよ」  この言葉を夏美は心にとめた。  なんのために夏美は水商売へ入ったのか。金のためなのだ。     3  木山定男をはじめてみたとき、夏美は妙子の言葉を思いだした。  木山は醜男《ぶおとこ》だった。小男でもあった。教養もなかった。名声などあるわけがない。どの女の子にも相手にされない部類の男である。  他店から移ってきたホステスに呼ばれて、木山は「イエローバード」にあらわれた。名門クラブにそぐわない客だった。ママや支配人は最初いい顔をしなかったらしい。 「けどママ、あの人金ばなれはいいですよ。店に損になるお客やないと思います」  彼を呼びよせたホステスは、木山をそう弁護したという。  店側は半信半疑だった。様子をみようということになった。昭和四十年代までの「イエローバード」なら、問題なく木山をしめだしていただろう。だが、名門クラブはすでに不況のさなかにあった。素姓《すじよう》のあやしい客でも、勘定を払ってくれるかぎり、うけいれざるを得ない状態にあった。  名の通ったクラブへ出入りするのは、木山ははじめてのようだった。目を見張って店内をみまわしていた。足しげくやってくるようになった。最初のころはおどおどしていた。すぐに馴《な》れたようだ。物馴れた様子で、ズボンのポケットへ手を突っこんで、店へ入ってくるようになった。  ほとんどのホステスが木山の席を敬遠した。夏美だけがすすんで彼の席についた。金の生《な》る木だという予感があった。木山は、夏美があらわれると、ほっとした顔をするようになった。親切が身にしみたようだ。  木山はいつも現金払いだった。レジで札束をポケットから出して支払いをすませた。それが信用を博する道だと信じていた。事実は逆である。「イエローバード」で現金払いする客は、かえって信用をなくする。請求書を職場へ送られたくない事情があるのだろう。うしろ暗い金で飲んでいるのかもしれない。そうみられるのが関の山だった。事実、ホステスたちは木山が店にあらわれると、 「みとったらいいわ。すぐにあのおっさん、パンクするで。一年はよう保《も》たんやろ」  と、ささやきあった。客の栄枯盛衰が目につく時代だった。  木山はお人好しだった。ホステスにねだられると、二つ返事で同伴出勤につきあった。店が終ってから、深夜レストランなどに女たちをつれていった。ただし、一人で木山についていく者はいない。彼の係のホステスを中心に、いつも数人づれだった。食事させるだけでも、かなりの出費である。木山はいやな顔をしなかった。女たちにつきあってもらうのが、うれしくて仕方ないようだった。  終夜営業の劇場に、評判の映画がかかったことがある。店の終ったあと、木山はせがまれて、五人のホステスをつれてその劇場へいった。夏美もいっしょだった。木山をまんなかにして、一同は客席に腰をおろした。映画のあいだ、木山は口をあけて眠っていた。終ってみんな外へ出た。タクシー乗り場へくると、木山は女たち一人一人に過分のタクシー代を手わたすのだった。 「カコちゃん家はどこやったかな。勝山通りか。はい、五千円。ジュンちゃんは尼崎か。一万円。マリちゃんは、ええと——」  あきれて夏美は木山をみていた。  深夜映画を女たちにみせてやったと木山は思っていない。自分のほうがつきあってもらったつもりでいる。よほどいままで、女に縁のなかった男らしい。  金はもっていた。つまり金になる男だった。大事にしてみるべきだった。努力してどこまで金をひきだせるか。自分の魅力をためしてみようと思った。  木山を「イエローバード」につれてきたホステスが店側とトラブルをおこした。彼女はよその店に移ることになった。チャンスだった。そのホステスに遠慮があって、夏美は木山に思いきって接近できずにいたのだ。 「ヒロちゃんがやめたら、木山社長、もううちへきてくれへんでしょうね。せっかくお知合いになれたのに、残念やわ」  ある晩、夏美はささやいた。木山は恐いものをみるような顔を夏美に向けた。 「そ、そんなことないで。わし、正直いうてヒロ子より夏美ちゃんが好きやったんや。ほんまやで。ナ、夏美ちゃんがついてくれるんやったら、わし、よそへはいかへん」  勢いこんで木山はいった。  酸味のきいた空気が吹きよせた。ウイスキーの香りとまじりあって、異様な匂いのする息だった。はじめて夏美はそれをかいだ。吐き気が出て、鳥肌が立った。笑って夏美はそれに耐えた。男だと思えばいやけもさす。これは金の生《な》る木なのだ。 「イエローバード」へくると、木山はかならず夏美をそばへ呼ぶようになった。夏美は彼の係ということになった。  もうだれにも遠慮はいらない。夏美は週に一、二度、木山を同伴出勤につきあわせた。おなじ同伴出勤でも、土曜日のそれは平日の二倍の点数になる。土曜の夜、夏美はかならず木山といっしょに店へ入った。六時ごろ待ちあわせて夕食をおごらせる。かるく一杯やって八時に店へ入る。木山が一番乗りの客であることが多かった。最初のころのようにおどおどと彼は席についた。  土曜日、「イエローバード」ではのど自慢の客に自由に歌をうたわせる習慣だった。  かなりレベルの高い専属のコンボが入っている。土曜日にかぎり、コンボは客の歌の伴奏をひきうけてくれる。木山は歌が好きだった。夏美たちの要望にこたえて、ステージへ出て高唱した。ほかになにも取得はないが、歌にだけは自信がある。本人がそういっていた。「夢追い酒」だの「夫婦《めおと》春秋」だの、ジャズメンが顔をしかめる歌をうたった。  おなじく歌の好きな客がいた。大きな造船会社の副社長だった。この人物の声は美しいバリトンだった。イタリア民謡「オーソレミオ」を、最初から終りまで「おめこおそそ」とくりかえすだけの歌詞でうたった。土曜日の晩は木山の泥くさい演歌と、副社長の奇怪なイタリア民謡が店の名物であった。  木山は陶然としてうたった。二曲うたう客はすくないのに、彼だけは三曲もうたうことがあった。低い音階に入ると、ときおり歯茎がむきだしになった。青みがかったピンク色にかがやく歯茎だった。夏美は顔をしかめた。臭い息が吹きよせてくるような気がしたからだ。だが、木山とはじめてベッドをともにするまで、それが総入歯だとは想像もつかなかった。  名門クラブの経営不振は慢性化していた。回復どころか、景気は後退の一途だった。閉店の噂が出はじめた。スカウトされたのをさいわい、夏美は「ジェリー」という店へ移ることにした。「イエローバード」より規模は小さいが、若いホステスの多い、活気のあるクラブだった。客筋もいいらしい。夏美は実家や弟たちへ送金をつづけていた。今後もつづけなければならない。条件のいい職場へ移るのは、自然のなりゆきだった。  ある晩、店がはねてから夏美は深夜バーで木山と待ちあわせた。  午後九時ごろ木山はやってきた。予告なしだった。店を移ることを話すつもりで、夏美は彼を待たせたのである。 「私ね、来月からジェリーいう店へいくことになったん。ごめんね。木山社長に相談するひまがなかったの。急な話で——」  甘い声で夏美は話しかけた。木山によりそって、もたれかかった。  店を移っても応援してくれはるでしょ。私、木山社長をたよりにしている。夏美はささやいた。木山はだらしない顔になった。 「そうか。いまの店、やめてしまうんか」  木山はすこし不満そうだった。  名門クラブが彼は気にいっていた。だが、夏美がいなくなると、もうだれも木山を親身に迎えてくれない。「イエローバード」へゆく機会はなくなるだろう。 「けど、なんで急に店変るんや。なにか気にいらんことがあったんか」 「一つは閉店の噂があること。もう一つは急にお金が必要になったん。弟が交通事故をおこして、人身事故で——」  人身事故のための保険に弟は入っていなかった。まとまった金が要《い》る。「ジェリー」の支度金をあてるより仕方がなくなった。  つくり話だった。夏美は勝負に出た。悲しそうに目をふせた。木山の反応を目の端でうかがう。木山は、夏美をみつめた。  まとまった金ってなんぼ。木山は訊いた。二百万。夏美はこたえた。いくらが適当か、考えぬいた金額であった。 「そんな、二百万ぐらいのこと。なんでわしに一言相談してくれなんだや」  木山は誠意をこめて夏美をみつめた。夏美の手を握りしめる。 「そうかて私、木山社長の恋人でもないのに。そんな相談できないわ」 「恋人やがな。きみ、わしの恋人やで。きみはめいわくかもしれんけどな。わし、じつをいうと夏美ちゃんと結婚したい思うとるんや。そこまで思うとるんやで」  夏美は胸のなかで悲鳴をあげた。  たいへんなことになった。冗談ではない。木山との結婚生活なんて考えただけで胸がわるくなる。だが、木山が真剣に夏美を愛しているのはわかった。以後の処理は夏美の腕一つにかかっている。 「うれしいです社長。けど、急に結婚なんかいわれても。私、思ってもみんかったし。考えさせてください。しばらく」 「わ、わかっとる。わかっとる。わしの気持がそうやというだけや。それよりさっきの話。わしに援助させてくれ。な、ええやろ」  木山は上衣のポケットから札束をとりだした。三十万円ぐらいあるらしい。 「とりあえずこれ、役に立ててくれ。あとはきみの口座にふりこむ。銀行名と口座番号をいうてくれよ」 「いいんです社長。この件はもう済みました。私、ジェリーからお金を借りて——」 「ほな、ジェリーに返しゃええやないか。わし、夏美ちゃんを応援してやりたい」 「いいんです。これはしまってください。私、社長の恋人でもないのに、お金を借りるわけにいかないわ」  札束を夏美は手にとった。  木山の上衣のポケットへおしこんだ。きっぱりした、誠意ある態度だった。 「そうか。わしがきらいか。金なんか借りたら、あとが恐いと思うとるんやな」 「ちがいます。社長とそうなったら、いくらでも甘えるわ。お世話になります」 「いつそうなってくれるんや。わ、わし、何年待ったらええのや」  夏美はうなだれた。沈黙した。  しばらく間をおいた。やがて顔をあげた。ほんまに私を愛してくれはるんですか社長。夏美は訊いた。真剣な表情だった。 「ほんまや。わしは本気や。結婚したい思うとるんや。きみみたいなきれいな人と結婚するのが、わしの夢やったんや」  出ましょう。急に夏美は立ちあがった。  あわてて木山も立った。夏美を追って店の外へ出る。暗い歩道へ出た。夏美はぴたりと木山によりそう。腕を組みにいった。 「ど、どこへいくんや」  木山は訊いた。彼をひきずるようにして、夏美は御堂筋へ向かっていた。  どこへでも。夏美はこたえた。木山は沈黙した。あるきながらふるえだした。タクシー乗り場までの道を夏美はひどく遠く感じた。  中之島の都市ホテルへいくのだろうと夏美は思っていた。当てはずれだった。桜宮《さくらのみや》の大きなラブホテルへ木山は夏美をつれていった。情事の場所はラブホテル。そういう固定観念が彼にはあったらしい。  けばけばしい洋室へ二人は案内された。さきに夏美は入浴した。応接セットのソファにすわって、木山は待っていた。緊張のあまり恐怖にかられたような表情になっている。  夏美は風呂からあがった。代って木山が浴室へ向かった。洗面所のそばで木山は服をぬぎはじめる。寝室からその光景がみえた。夏美はベッドに横たわってそれをみていた。  木山は全裸になった。小柄で、O脚で、腹が出ている。越中|褌《ふんどし》の似合いそうな裸体だった。律義にタオルで前をかくしている。夏美に背を向けて鏡に向かいあった。  彼は口に手をあてた。入歯をはずした。上下二組である。総入歯だった。水道で彼は入歯を洗った。流し台のそばに入歯をおいた。浴室のなかへ消えていった。  夏美は頭から毛布をかぶった。なにも考えたくなかった。ここへきたことを後悔しそうになる。目をつぶって体を丸くしていた。すぐに済む。自分にいいきかせた。  木山が浴室から出てきた。まっすぐベッドへやってくる。毛布のなかへ入ってきた。すでに息をはずませている。のしかかってきた。前戯らしいものがすこしあった。結婚しよう。結婚してくれ。呪文《じゆもん》のようだった。 「結婚しても、私、じっと家で夫の帰りを待つのはいやよ。私、お店をやりたいの。夫は夫で事業をやる。妻は妻でお店をやる。そういうのが理想やねん」  とっさに夏美はそういった。われながらうまい提案だと思った。 「そらええ考えや。夏美ちゃん。店やれよ。わし毎晩飲みにいくで。迎えにいく。わしは昼儲けて、あんたは夜儲けたらええのや」 「そうしたいわ。けど、資金がない」 「貯めたらええのや。月々百万ずつわたすさかい、プールしていったらええ。三年もしたら、店の一軒ぐらい出せる」 「月百万——。ほんまに。社長、それほんまの話ですか」 「わしは嘘いわへん。夏美ちゃんにはなんでもほんまのこというてるで。あんたはわしの生命や。わしの嫁はんになる人やないか」  やったア。胸の内で夏美はさけんでいた。  現金に体をひらいた。迎えてやる。  まもなく木山は夏美のなかへ入ってきた。口臭をあびないように夏美は顔をそむけていた。木山のは貧弱だった。すぐに終った。満足するどころではなかった。すぐ終ってくれたのが、最高にありがたかった。 「ああ、とうとう夢がかなった。夏美ちゃん、わしのものになってくれたんやなあ」  木山は一人で感動していた。  入歯を口にもどしてきたらしい。言葉ははっきりしていた。口臭もさほどではない。入歯を洗ったせいだろうか。これなら我慢できる、と夏美は思った。それにしても、金というものは、男によっては案外かんたんに出てくるものだ。夏美は金の生《な》る木を得た。知恵をつけてくれたママ代理の妙子に、いくら感謝しても足りないと思った。  夏美は「ジェリー」へ移った。週に二、三度、木山は通ってきた。たちまち店でも第一級の客になった。  深夜、木山と会うのはつらい。へたをすると朝までつきあわされる。木山とのセックスはなるべく出勤まえに済ますことにした。  木山を愛人と他人に思われたくなかった。すこしでも木山が旦那づらをすると、邪険にあつかった。テーブルの下で木山の脛を蹴った。コップの水を顔にかけたこともある。おかげで仲間のホステスたちは、木山のことを、つれなくされても通いつめる哀れな男とみなした。みんな木山に親切だった。  木山もふられ男の役割に甘んじていた。はまり役でもあり、馴《な》れてもいた。裏では夏美の体を自由にしている。その意識で快感を味わっている向きもあった。  だが、その木山も人前で侮辱されて、気を滅入らせることもある。そんなとき、夏美はタクシーのなかで木山にしなだれかかった。 「ごめんね社長。商売やから、ああせざるを得なかったんよ。わかってくれてるでしょ。私、好きなのは社長だけなんだから」  木山の首すじにキスしてやる。木山は首をちぢめた。たちまちだらしのない顔になった。 「そんな。こそばいやんけ。夏美ちゃん。こそばいがな。やあ、やめてくれ」  大さわぎしてラブホテルへ向かう。着いたとき、機嫌はなおっていた。     4  木山の会社があぶない。ツケをすぐ集金してほしい。 「ジェリー」の支配人へ夏美は報告した。焦《こ》げつきが出ると、担当のホステスの責任になる。焦げついた金額を給料から差引かれてしまう。二百万近くも返済する羽目になっては、たまったものではない。  支配人はすぐ木山の家具工場へとんでいった。帰って、目を丸くして報告した。とんでもない事実がわかった。  家具工場というのは、スクラップを組みあわせたような貧弱な建物だった。社長おられますか。事務所で支配人は声をかけた。社長が出てきた。木山定男ではなかった。おどろいて事情を訊いてみる。 「定男はわしの兄貴です。なにかめいわくかけたんですか。なにイ、新地のクラブに二百万もツケが——」  弟は怒りで赤くなった。しゃあないやっちゃ。吐きすてるようにいった。  家具工場は木山の父がつくった会社だった。十年まえ父が死んだ。木山があとをついだが、たちまち左前になった。木山はミナミの酒場の女にいれあげて、妻にも逃げられた。  親族会議で木山は社長をクビになった。銀行マンだった弟が、退職して社長に就任した。木山は顧問の肩書で、営業の手伝いなどをするようになった。安月給である。亡父の遺産の分け前で呑気《のんき》に暮していた。北新地へ出入りしているとの噂《うわさ》を弟はきいていた。だが、まさか財界人のような顔で、派手なあそびをしているとは考えなかった。 「しゃあないやっちゃ。分け前をつかいはたしてしまいよったんや。これからどないする気なんや、あいつ——」  木山定男は外出中だった。みっともない姿を支配人にさらさずに済んだ。  二百万近くのツケは、とりあえず弟が払うことになった。一回払いではない。三回の分割払い。それが精一杯だという。  以後は兄のツケに責任はもてない。兄が飲みにいっても店へいれてくれるな。弟はそう申しわたした。酒場づとめ十五年の支配人も、こんな経験ははじめてだという。 「どうりであの人、いつも現金払いやった。ああいう男って、あやしいのやねえ」  夏美は深く納得した。  木山の考えがおぼろげにわかってきた。彼は夏美のマンションにころがりこむ気でいる。結婚して、いっしょに商売をするつもりなのだ。木山は甘やかされて育った男だった。幼いころ母を亡くして、祖母に育てられた。祖母はむやみに甘い物を買いあたえた。子供のころから木山は歯がわるかった。 「戦後の物のないときでも、ブドウ糖やら黒砂糖やらかじってたさかいな。ブドウ糖って知ってるか。ツーンと甘い刺戟が歯にきよるねん。痛いほどや。あのおかげでわし、総入歯になってしもうた」  木山本人がそう語っていたことがある。  夏美の予想は当った。その晩おそく夏美がマンションへ帰ると、電話のベルが鳴っていた。受話器をとる。やはり木山だった。 「わし、さびしいねん。もうジェリーへいけんようになってしもた。店の資金もできたことやし、夏美ちゃん、結婚しような。近いうち引越していっても、ええか」  夏美は背すじがさむくなった。木山の声は地底からきこえる声のようだ。 「ちょっと待って。私もいろいろ都合があるわ。店やるいうても、まだ物件も当ってないし。受入れ態勢ができるまで待って」  夏美は受話器をおいた。時計をみた。  午前一時半だった。沖山宏の働いているスナックバーはまだ営業しているはずだ。  夏美はその店へ電話をいれた。手みじかに宏に事情を話した。きょう泊りにきてほしい。大事な話がある。そう申しいれた。宏は二つ返事で承諾した。店は午前三時に終る。それからいくという。  夏美は受話器をおいた。入浴してから、ベッドに横になって「プリンス」のレコードをきいた。  夏美は酔っていた。ふだんは店でなるべく飲まないようにしている。きょうは例外だった。木山定男のことを考えると、飲まずにいられなかった。酔っているから決断がはやい。だから、沖山宏を部屋へ呼んで相談することにしたのである。  半年まえ、偶然宏に会った。深夜、客につれられて入ったスナックバー。宏はそこのバーテンダーをしていた。笑顔の福々しい、愛想のよい勤務ぶりだった。かつての暴走族のボスで、前歴もある男にはみえない。  びっくりした。なつかしくて涙ぐんだ。郷里を出てから、沖山宏は四年になるという。北新地へきたのは二年まえかららしい。大都会の魔力だった。すぐ近くで働きながら、二人は二年も顔を合わせずにきたのだ。  日をおいて、あらためて会った。宏は一年間、刑務所暮しをしたらしい。出所してから和歌山の印刷工場へつとめた。安月給だった。将来うだつのあがるみこみもなかった。二年でやめて水商売へ入った。この道でやるなら大都会へ出るほうがいい。しばらく働いて大阪へやってきた。すっかり堅気になっている。  夏美はその日宏に抱かれた。彼の胸板や腕には、故郷の海の香り、陽光の香りがしみこんでいた。夢中で夏美はそれを吸いこんだ。思い出と快楽に揺さぶられた。泣いてのたうちまわった。やはり私の彼はこの男しかいない。宏だけが恋人だ。そう信じられた。 「いっしょにお店をやろうよ。資金はなんとかなる。二人でがんばろう」  宏に抱きついて夏美は提案した。  そんな金をもってるのか。宏は夏美の顔を覗《のぞ》きこんだ。やさしい目だった。 「そのつもりで貯めてるの。けど、きれいなお金やない。宏さん、わかってくれる」 「旦那がついてるんか。まあ仕様ないな。おれのほうが途中から割りこんだんや。目をつぶるよ。ただし一年だけやぞ。一年で資金の目処《めど》を立てて、きっぱり手エ切れ。揉《も》めたらおれが話つける」  そんな約束になっていた。  あれから半年で木山と切れる日がきた。  木山には世話になった。大金を貢《みつ》がせた。ホステスとしての成績をたすけてもらった。だが、同情はわかない。うとましいだけだ。沖山宏と再会してから、ますますそうなった。いやな思いを我慢して、木山に体を自由にさせてきた。それだけで、お釣りがくると考えている。女の本音である。  一時間あまり夏美は眠った。酸味のある、なまぐさい風が吹き寄せてきて目がさめた。声をあげて、上体をおこした。目の大きな、口もとにしまりのない顔がそばにあった。 「泊ってもええやろ、夏美ちゃん。わし、家にじっとしてると、もう心配で心配でたまらんのや。夏美ちゃんがどこかへいってしまいそうで。一人で寝られへん」  合鍵をつかって木山は入ってきた。  素っ裸だった。ベッドへのぼってくる。毛布のなかへ入ろうとした。 「いや。やめて。いややて。私きょうそんな気おこらへんで」  夏美は木山を両手でおしのけた。  上体をおこした。夢中だった。時計をみる。午前三時である。もうすぐ沖山宏がやってくる。宏は木山のことを知っている。木山に会っても、意外には思わないだろう。  だが、夏美は木山を宏に会わせたくなかった。恥ずかしかった。こんな冴えない中年男に抱かれてきたことが恥ずかしかった。旦那がいても、やむをえないと宏はいっていた。しかし、現実にこのガマのような男をみると、やはり夏美を軽蔑するだろう。 「社長、おねがい。今夜は帰って。私、考えごとをしたいねん。一人でいたいの。おねがいやから、いうことをきいて」  いつになく夏美は下手に出た。  なんとしても追い出したい。よりによってよくも今夜、このガマ蛙がたずねてきたものだと思う。ツイていない。 「そんな殺生《せつしよう》な。わし、その気になっとんのに。ええやないか夏美ちゃん、わしらどうせ夫婦になるんやろ」  木山の目は血走っていた。  酔っているらしい。うすいネグリジェをきた夏美の乳房に目を据えている。あらためて抱きついてきた。夏美をベッドにおし倒そうとする。あえいでいた。  夏美は抵抗した。ふっと手をとめた。大きなスーツケースが寝室の出入口にあった。ころがりこむ気で木山はやってきたらしい。すると、通帳とか権利書とか、大事なものもいっしょにもってきたのではないか。 「わかったわ。社長、抱いてもらうわ。いつものように歯アみがいて、シャワーあびてきて。それから今夜は泊らんと帰ってね。ほんまに私、一人になりたい」  甘えた口調でたのみこんだ。かならず木山がだらしない顔になる口調である。  木山は機嫌をなおした。すっ裸のまま浴室へ向かった。小柄なO脚のうしろ姿が消えたとたん、夏美はスーツケースへとびついた。ファスナーをあけた。かすかに男の匂いが立ちのぼった。着替えなどが入っている。内ポケットに大型の封筒があった。  あわただしくひらいてみる。通帳、小切手帳、預金証書などが出てきた。表紙つきの書類もあった。このマンションの権利書だった。名義は夏美になっている。まちがいない。これだ。夏美はそれをサイドボードのひきだしにしまった。  ついでに通帳の残高をしらべる。通帳は三つあった。うち二つは残高がゼロである。一つに三十万円残高があった。預金証書の額面は二百万円である。定期預金だった。満期は二年後になっていた。  通帳や預金証書をもとにもどした。夏美はスーツケースをもとどおりにする。ついで電話のそばへいった。沖山宏のつとめる店を呼びだしてみる。応答はなかった。もう営業は終ったらしい。宏はこちらへ向かっている。どうしようか。懸命に夏美は考えた。いまさらどうにもならない。なるようになれだ。権利書を手にしてしまった以上、事態がどうころぼうと平気だ。肚《はら》がきまった。  木山が浴室から出てきた。すっ裸である。入歯をはずして、口もとがしぼんでいる。貧弱な男性を固くしてきた。夏美は居間のソファに寝そべっている。  木山が近づいてきた。夏美の足もとにひざまずいた。ひざへ抱きついてくる。夏美は木山を足で突きはなした。 「ガツガツせんといてよ社長。一杯飲もうよ。せっかく寝てたのに私、目エさめてしもた。社長の責任やで」  バスタオルを木山に投げてやる。  木山はそれを腰に巻いた。サイドボードからブランデーのボトルとグラスをもってくる。二つのグラスにブランデーを注いだ。  一杯ずつ飲んだ。「ジェリー」への支払いでは絶対にめいわくをかけない。くどくどと木山は弁解した。夏美は上の空だった。  チャイムが鳴った。夏美はほっとした。これからどうするか、もうきまっている。 「だれやねん、いまごろ」  不安そうに木山が夏美をみた。  だまって夏美は立った。扉をあけにゆく。沖山宏には合鍵をわたしていない。  扉をあけた。宏が入ってきた。出入口から居間は見通しである。彼は木山に気づいた。眉をつりあげて夏美をみた。  旦那か、あいつ。宏は訊いた。入っていいのか、と目顔《めがお》で問いかける。 「急にきよってん。ほうりだして」  外を夏美はあごで指した。  ギラギラした目になっているのが自分でもわかる。宏はうなずいた。木山がすでに金持ではないことを夏美からきいて知っている。  宏はなかへ入った。ソファに近づいてゆく。木山はちぢみあがった。なにか口走った。だれやおまえは。な、なんの用や。悲鳴に近い声でそういったらしい。 「わしは夏美の亭主になる男や。おっさん、夏美がえらい世話になったらしいな。けど、もうおまえは用なしになったんや。もう要《い》らんのや。さあ、はよ帰ってんか」  木山と対照的に宏は長身である。人なつこい笑顔になっていた。貫禄だった。  木山は口を痙攣《けいれん》させた。夏美と宏を交互にみた。泣き声をあげた。亭主ってなんや。亭主はわしやないか。夏美、これはどういうわけや。わしをだましとったんか。 「だましとらへんわい。ちゃんとおめこさしたったやないけ。うちのは高価《たか》いねんで。一億もろてもチャラにはならんわ。安うついたと思わんかい、ガマのおっちゃん」  暴走族のころの口調にかえった。はよ出ていけ。追い討ちをかけた。 「いやじゃ。わしは出えへんぞ。ここはわしが買《こ》うたったマンションや。だれが出るか。おまえらこそ——」  木山はソファの肘《ひじ》かけにしがみついた。死んでもはなさないかまえだった。  宏が近づいた。二発、三発、四発、木山の顔にパンチをいれる。木山は肘かけをつかんだ。その腕をつかんで宏は木山を床へひきずり倒した。タオルを裸に巻いた恰好《かつこう》で、木山は床へ這《は》いつくばった。 「はよ去《い》ね。見苦しい。服を着んかい」  宏が木山の横腹を蹴った。  木山は横転した。うおう、と大声で泣きだした。わしはどうなるんや。死ねいうんか。死ねいうんか。木山は泣きじゃくった。ただ醜いだけだ。かわいそうではなかった。  宏が木山の衣服を寝室からとってきた。泣きじゃくる木山のそばへほうった。  木山は起きあがった。台所のほうへ走り去った。すぐもどってきた。夏美は全身が凍りついた。出刃包丁を木山はもってかまえている。うわあ。彼は大声をあげた。宏のほうへ突進する。夏美は夢中で寝室へのがれた。  宏が迎え討った。包丁をもった木山の右手首をつかんだ。揉《も》みあっている。まだ木山は包丁をはなさない。二人はもつれあってその場へ倒れた。宏が木山に馬乗りになって首をしめる。宏はこちらへ背中を向けている。その陰になって木山の顔はみえない。  木山は両足をこちらへ向けて投げだしていた。タオルがはずれて全裸である。貧弱な男性とその下のザックが、まるで三つの球のようにひとかたまりになっていた。  うなり声がした。宏は手をゆるめない。なにかののしりながらしめつづける。木山は両足をばたつかせた。片足を横にひらいてふんばる。あらわになった肛門から、褐色の便がおしだされた。急に木山は動かなくなった。馬乗りになったまま、宏は荒い息を吐きつづける。臭気がおしよせてきた。 「し、しもた。逝《い》ってもうた」  宏はふりかえった。目がつりあがっている。顔色は紙のように白い。 「死んだん。死んでしもたの」  夏美は両手で顔をかくした。さすがに正視できない。寝室のすみにうずくまった。 「そこでじっとしとれ。始末してくる。こいつ、クルマできよったんやろ」  宏の声がきこえた。冷静な声だった。  死体をひきずる音がきこえた。玄関のほうへいったらしい。夏美はうずくまったまま、ふるえていた。木山を殺してやる、とは思っていた。だが、現実になるとは思わなかった。  金属の音がした。木山の服のポケットからクルマのキイをとりだしているらしい。 「こいつのクルマ、黒のグロリアやろ。マンションの横手に路上駐車してあるやつ」  宏の声がきこえた。  夏美はうなずいた。声が出ない。宏にすべてをまかせる。やはり女は弱いと思う。 「大丈夫や。こんな時間、起きとるやつはおらん。こいつをクルマに乗せてくる」  おまえはじっとしとれ。動くなよ。宏の声のあと物音がした。どっこいしょ。宏は死体を背負って外へ出たらしい。  部屋は二階にある。階段はすぐそばだ。一階へおりて横の出口を出ると、暗い路上に出る。きっと大丈夫だ。だれにもみられずに、死体をクルマに積めるだろう。  やっと夏美はすこし勇気が出た。ひざをがくがくさせて立ちあがる。雑巾《ぞうきん》とバケツをもってきて、木山ののこした汚物を始末した。風呂場で雑巾を洗う。吐いてしまった。気分がわるい。だが、心はせいせいしている。これで目的をはたしたのだ。  宏がもどってきた。ぶじに遺体をグロリアに乗せたらしい。 「北摂の山のなかへいって埋めてくる。大丈夫。絶対、死体が出んようにしてくる。あいつの服と荷物、ぜんぶよこせ。証拠になったらいかんさかいな」  夏美はいわれるまま、木山の荷物をとりまとめた。  宏に抱きついた。彼の胸板へ顔を埋める。 「私のために。宏さん、私のために——」  涙が出てきた。  宏はやさしく背中をなでてくれる。涙のおさまるのを待って外へ出ていった。  夏美は一人になった。意外なほど恐怖心はなかった。木山の死顔を直接みていないからだろう。いつもとおなじ部屋のなかだ。 「プリンス」のレコードをかけた。ブランデーを飲みはじめた。もうすぐ朝だ。あかるくなってから眠ろう、と思った。     5  つぎの日の夜。夏美と沖山宏はそれぞれ平常どおり出勤した。  店が終ってから、夏美は客や同僚と数人づれで宏のつとめる店へいった。客や仲間が帰ってからも、一人その店へのこった。したたかに飲んで酔っぱらった。  閉店後、宏といっしょにマンションへ帰った。一人ではやはり気味がわるい。だが、宏がついてきてくれれば安心である。  たっぷりセックスをした。疲れきって夏美は眠った。だが、まもなく目がさめた。  笑い声がきこえた。木山の声に似ている。夏美は恐怖で全身が凍りついた。  部屋はまっ暗である。一ヵ所だけぼんやりとあかるい。サイドボードのうえに電気スタンドがある。豆電球がともっていた。  せきばらいがきこえた。木山の声に似ている。夏美はふるえだした。となりで宏がいびきをかいて眠っている。彼がいるので、夏美はやっと気を失わずにいた。  また笑い声がきこえた。かすかな声だった。だが、近いようでもある。夏美は目をあけた。電気スタンドのほうをみる。  全身が総毛立《そうけだ》った。体のすみずみにまで鳥肌が立った。スタンドの傘の下に入歯がおいてある。総入歯が上下、かさなっておいてあった。木山の歯だ。ゆうべ彼はそこへ総入歯をおいて死んだのだろうか。そんなものがおいてあるとは、昼間、気がつかなかった。  笑い声がきこえた。夏美は自分の眼球がとびだしたかと思った。総入歯が動いている。ぱくぱくと口があいたり、とじたりする。笑い声がひびく。総入歯はあいたり、とじたりする。ゆっくりと開閉する。  夏美は絶叫した。全身で痙攣《けいれん》して、起きあがった。すぐに倒れて気をうしなった。 「しかし、夏美も案外気の弱いやつでした。すぐにあのマンションを売る。おかしな夢をみるさかいとても住めん、いうんですわ」  沖山宏は腰をおろすなり、にこにこして話をはじめた。翌日の午後二時。中之島のホテルの喫茶室である。  テーブルをはさんで腰かけているのは、木山定男だった。相変らず口にしまりがない。憮然《ぶぜん》としている。  沖山宏は報告をはじめた。さっき知合いの不動産業者へ夏美のマンションの権利書をあずけてきた。おなじぐらいの価格のマンションを夏美にさがしてやってほしいとたのんできた。夏美はあすにでも引越しできるだろう。  ついでに店の売物もさがした。夏美は宏といっしょに酒場をやる気でいる。その店舗を物色したのだ。北新地のなかに、適当な店があった。権利金は三千万円である。 「さっそく三千万円、持主の田中正雄氏の口座に振込むことにしました。いまごろ夏美は銀行へいってるはずです」 「おおきに。ほんまにおおきに。おかげで私、無一文にならんと済みます。今後は心をいれ替えます。新地の女にはこりごりです」  木山は頭をさげた。手で涙をぬぐった。  田中正雄は木山の変名である。宏にいわれて、大いそぎで銀行に口座をつくった。夏美からの振込みをうけるためだ。 「いや、あいつも根っからの性悪《しようわる》やないんです。北新地の水に染まっただけですわ。今後はおれがそばにいて、むかしの夏美にもどるようにします」 「けど、夏美ちゃん、怒るやろなあ。せっかく店を買う気で貯金はたいて、まるまる詐欺にあうわけやからな」 「詐欺はおたがいさまですよ。人からだましとった金で店をやっても、結局つぶれます。世の中そんな甘いもんやない。そこをしっかりと教えてやります」  宏はポケットから玩具をとりだした。笑いながらテーブルの上においた。  総入歯の玩具だ。歯茎はゴム製である。細いゴム管を通して空気を送りこめるようになっている。端のゴム球を押すと空気が入る。  宏はゴム球を握りしめたりゆるめたりした。総入歯は口をあけたり、とじたりした。店の客の一人が、この玩具を以前みせびらかしたことがある。夏美が木山の総入歯を毛ぎらいしているのを宏は知っていた。一つ買ってきて夏美をおどかしたのだ。夏美が木山に対してどんなにひどい仕打ちをしてきたか、思い知らせるためだった。玩具の総入歯が動いているあいだ、聞こえた木山の笑声は、テープで録音したものだった。 「失神したくらいやから、夏美もかわいい女ですよ。しかし、木山さんの芝居も真にせまってましたな。首しめられて、まさかクソまでするとは思わんかった」 「いやあ。わしも必死でしたんや。金が返るかどうかの瀬戸ぎわでっさかいな」  木山は頭をかいて笑った。  酸味のある生臭い風がおしよせた。さりげなく宏は顔をそむけた。 [#改ページ]   夜の終幕     1  十一月の第一月曜日、夕刻五時からミーティングがおこなわれた。二十五名のホステスが営業用に着かざって、壁ぎわのシートにならんで腰をおろした。  ママの望月陽子は姿をみせていない。ママ代理の秋子が一同からすこしはなれて、テーブル席についた。  秋子はいつも着物姿である。小柄で、細身で、和服がよく身につく。客のまえでなくとも、笑顔を絶やさない。もう三十代も後半なのに、小娘のように屈託《くつたく》ない笑いかたをする。不快なことがあっても顔にださない。笑顔で壁をつくって内心を覗《のぞ》かせない女だった。客席では主役にならない。いつも若いホステスを立てる。客よりもホステスたちに人気があった。店歴があさいのに、ママ代理に起用されたのはそのせいである。  その秋子がきょうは笑わない。疲れたような横顔をみせて、だまって腰かけている。なにかあったらしい。個人的な事情で暗い表情をみせる秋子ではなかった。店の営業成績がきっとよくないのだ。 「どうしたの秋ちゃん。元気ないね、きょうは。ひょっとしたら二日酔い」  志津子は声をかけた。秋子のすぐそばに志津子は腰をおろしている。  秋子はふりかえった。笑ってかぶりをふった。ややこしいことになりそうやねん。顔をしかめて返事をした。いまから支配人が重大発表をするのだという。 「なに、大事な発表って。まさか今月かぎりで店をしめるいうのやないでしょうね」 「ちゃうちゃう。そこまで深刻な話やないわ。けど、けっしてたのしいニュースでもないよ。私もさっき知らされたとこやねん」  それ以上秋子は話したがらない。すぐわかることだから、しいて訊《き》く必要もなかった。  だまって志津子は待つことにした。たばこが吸いたい。五時すれすれに出勤した。一服するひまがなかった。ロッカーのバッグのなかの「ラーク」が頭にちらついた。クラブ「ラセーヌ」では、従業員は客席での喫煙《きつえん》を禁じられている。たばこが吸いたくなったら、地階の更衣室へいかなければならない。日に十本ぐらいしか吸わないのに,吸いたいとなると、耐えがたかった。大事な発表をはやくききたくて、苛立《いらだ》っているせいもあるのだろう。  クラブ「ラセーヌ」の店内は、赤を主調に内装されている。出入口のそばにカウンター席と、化粧室、更衣室につながる通路がある。カウンターと通路の部分をのぞいて、壁にそってながいシートがあった。二十組ばかりのテーブルがシートのまえにならんでいる。  ながいシートは各テーブル席の上座《かみざ》にあたっていた。数人づれの客の場合、偉い人が壁を背にしてシートに腰をおろす。つれの者はテーブルをはさんで、偉い人と向かいあう体裁《ていさい》になる。客席にかこまれた中央のフロアで踊れるようになっていた。フロアのすみにグランドピアノがある。四人編成のコンボが毎晩七時から演奏をはじめるのだ。 「ラセーヌ」はかつて、大阪の夜の商工会議所といわれた名門クラブだった。五十名ものホステスがいた。名の知れた財界人や文化人の客がひきもきらなかった。しかし、もう当時の面影《おもかげ》はない。石油危機のころから客の数が急激に減った。店内を金魚のように泳ぎまわったホステスたちも半減した。椅子テーブルも古くなったままである。経営状態がよくないという噂《うわさ》が志津子らの耳にも入るようになっていた。志津子のような店歴の古いホステスには、あの「ラセーヌ」がここまで小さくなったことをまだ信じきれない思いがある。  それでも全盛時代のなごりは感じられた。客が入り、バンド演奏がはじまる。店内は優雅になまめいてくる。成金趣味の新興クラブとはちがう垢《あか》ぬけた活気のさざ波が揺れた。品のわるい客はさすがにすくない。ホステスたちも、人なつこく、行儀がよい。むかしを知らない若いホステスたちは、いまの「ラセーヌ」にけっこう誇りをもって働いていた。経営不振の噂をきいても、あまり気に病《や》む者はいない。「ラセーヌ」は中華レストランのチェーンや十店以上の酒場、パブを傘下《さんか》にもつ六浦興産《むつうらこうさん》株式会社の顔である。ちょっとやそっとでつぶれるわけがない。そう彼女らは信じていた。たとえつぶれても、「ラセーヌ」のホステスをよその酒場がほうっておくわけはないと高《たか》をくくってもいるようだ。  ママ代理の秋子や古参の志津子が不安な顔で会話をしていても、だれも耳にいれなかった。ほとんどの者が、店の全盛時代そのままにあかるくおしゃべりしている。ゴルフ、映画、店が終ってからあそびにゆくスナックバーについての話題が多い。正月の海外旅行の相談をはじめる者もあった。  ウェイターやバーテンダーが全員やってきて客席についた。すぐに支配人の福原があらわれた。五十代なかばの、まじめな、仕事熱心な人物である。年齢相応に老《ふ》けた顔だが、少年のように澄んだ目をしていた。小さなことに目くじら立てる支配人ではない。男女を問わず従業員のなやみごとを親身《しんみ》になってきいてくれる。  支配人があらわれたので、ホステスたちはおしゃべりをやめ、立ちあがった。おはようございます。挨拶《あいさつ》してから腰をおろした。支配人だけが立ったままだ。いまから恒例《こうれい》のミーティングをはじめます。彼は宣告した。 「きょうは重大なお知らせが二つあります。一つは人事異動の件です。このたび望月陽子ママは六浦興産を退社します。会社の新しい方針にどうしても応じられないというのでやめてもらうことにしました。懲戒《ちようかい》免職です」  息をのんで志津子はきいていた。  若いホステスたちはどよめいている。陽子ママはついきのうまで、いつものように元気で店をとり仕切っていたのだ。  そのママが退社するという。しかも懲戒免職なのだ。なにがあったのだろう。「ラセーヌ」はじまって以来の事件だった。新しい方針とは、いったいどんなことなのか。 「陽子ママの退社にともない、秋子さんが新しいママに昇格することになりました。今後みなさんは秋子新ママを守り立てて、当店の発展に貢献してください」  支配人にいわれて秋子は立った。未熟者ですけどどうぞよろしゅう。彼女は一礼した。  拍手がわきおこった。志津子も手をたたいた。秋子の緊張した面持《おももち》の原因はこれだったのかと納得していた。正直いって秋子はママにしてはかるい感じがする。だが、陽気で、気さくで、きびきびと動く。「ラセーヌ」には異色のママになるかもしれなかった。最近は客が小粒になった。中小企業の経営者や、青年会議所のメンバーなどが多い。そういう層に秋子は案外支持されるかもしれない。  新しいママ代理には、佐代子というホステスが起用されていた。支配人が紹介する。佐代子も立って挨拶した。  佐代子はまだ若い。二十五である。だが、着物をきると三十ぐらいにみえる。大柄で、おちついた笑みをうかべて、ものに動じない。社会的地位の高い三人の客が佐代子を贔屓《ひいき》にしていた。どの客とも佐代子はセックスの関係があるらしい。客のほうは三人とも、自分だけが保護者だと思いこんでいる。  上客をつかんでいるから、売上げの点で佐代子は店に貢献している。そこを評価されてママ代理に登用された。三人の男をあやつっているいささか品のわるい処世のほうは問題にされなかったのだ。「ラセーヌ」もそこまできているのか。志津子はため息をついた。なにもかもがむかしとは変ってしまった。  支配人の発表はまだつづいた。少年のように大まじめに声をはりあげる。 「もう一つお知らせがあります。この不況に対処するため、当店でも女性の雇用《こよう》システムを変更することになりました。オールサービス制を廃止して、売上制を採《と》りいれます。ただいまから、新しいシステムについてざっとご説明いたします」  声にならない悲鳴が、ホステスたちの口からほとばしった。  志津子はかるい目まいを感じた。くちびるを噛《か》んだ。陽子ママが会社と対立した理由がこれでわかった。プライドの高い陽子ママは売上制の導入をどうしてもうけいれられなかったのだ。まったくなんということを、店はやってくれるのだろう。 「ラセーヌ」はいわゆるオールサービス制の店だった。客はみんな、事務処理上は、店の客である。ホステスが新しくつれてきた客も、店の客として登録された。一般のクラブとはそこがちがう。よそはふつう、ホステスが店さきを借りて自前の商売をする体裁をとっている。売上げが増えれば、ホステスの収入も増える。その代り集金の責任もホステスが負わなければならない。 「ラセーヌ」のホステスはみんな固定給で働いていた。個人別に売上げは算定されない。売上ノルマも集金ノルマもなかった。だから客の奪《と》りあいがない。客ひきのため、客の職場へうるさく電話する者もすくない。ふつうの店よりもホステスがおっとりしていた。客が店に入ってくるたび、ホステスたちのぎらぎらする視線がいっせいに客へ集中する、私のお客ではないかとみんなが一瞬緊張する、そんな殺伐《さつばつ》な空気がこの店にはなかった。  そこを気にいっていた客が多い。志津子たちも、がつがつしなくて済むことをいちばんの誇りにして働いてきたのだ。  だが、今後は売上制の店になる。あのお客はA子、このお客はB子という工合に担当がきまる。ホステス一人一人の売上高が算出され、公表される。いい客をもてば収入が増える。客の奪《と》りあい、仲間どうしの足のひっぱりあいが当然おこるだろう。 「売上制の実施にあたって、どのお客さまをどなたが担当するか、はっきり決めたいと思います。自分の担当したいお客さまの名前を書きだして一両日中に提出してください。私のほうで調整しながらふりわけていきます」  ホステスたちはまたどよめいた。支配人の声が金属的に志津子の頭にひびいた。  ホステス一人一人の顔のうしろに、それぞれ何人かの客の顔のイメージがうかびでては消えていった。人気のあるホステスには、金持の客、地位の高い客がついている。新しいママ代理の佐代子がその典型である。  これという客をもたないホステスもいた。その子たちは不安な面持である。他人事ではなかった。私のお客になってくれる人が何人いるだろう。志津子は数人の男の顔を脳裡《のうり》に描きだした。店歴が古いから、志津子には佐代子のパトロンにもひけをとらぬ上客が数人ついていた。だが、体の関係があるのは弁護士の浅野康彦ひとりである。浅野以外の客がこれからもついてきてくれるかどうか。ほかのホステスに目を向けるのではないか。自信や誇りが志津子は急にあやふやになってきた。  志津子は三十三歳である。厄年《やくどし》だった。一月から十月まではつつがなく終った。ぶじにこの年を通過できそうだったのに、ここへきてつかまってしまった。売上制で働くなんて、三流クラブで働くのとおなじである。 「担当したいお客さま、何名ぐらいリストアップしていいんですか」 「おなじ会社のお客さまが何人かおられる場合はどうするんですか。みんなおなじ女性の担当になるんでしょうか」  ホステスたちが質問していた。若い子もベテランも真剣な目をしている。  きのうまで、ホステスたちは幸福な金魚のようだった。しずかな水のなかを、ひらひらと服のすそをひるがえして泳いでいた。みんな仲よくしていた。だが、きょうからは荒海のなかだ。金魚たちは狼狽《ろうばい》したり、緊張したり、おびえたり、張りきったりしている。それぞれの色が体に出ていた。志津子は以前とおなじ、穏健《おんけん》なオレンジ色で通してゆくつもりだった。おだやかに微笑《ほほえ》んでみんなをみていたい。だが、気がつくと、冷やかに値ぶみする目で仲間をみていた。これまでにはなかったことだった。  あの子は客がつかない。色がくろくて、あごのとがった顔をしている。ブーツみたいな顔だと評した客がいた。出しゃばりで仲間にきらわれている。問題にならない。  あの子も美人ではない。物好きな客が個性的な顔と誤解しているだけだ。田舎出のくせに食わせ者。二十四だといっているが、二つ三つサバを読んでいる。尻軽《しりがる》だという噂もある。いざとなれば噂をながしてつぶせる。  あの子は美人だ。にこにこしてすわっていれば客がつくと思っている。これからはそうはいかなくなるのだが、まだわかっていない。ぐうたらな愛人に貢《みつ》いでいる。仲間から五千円、一万円と借りていって返さない。客を奪られそうになったら、それをバラせばよい。客は百年の恋もさめるだろう。 「きょうのところはこれで終ります。わからないことがあったら、いつでも質問にきてください。陽子ママのことをお客さまに訊《き》かれたら、正直に答えてもらってけっこうです。では元気でお客さまをお迎えしましょう」  支配人の声で志津子はわれにかえった。  一礼をかわして、解散になった。支配人が去ると、みんな席を立った。三々五々外へ出てゆく。それぞれが役者だった。みんなもうなにごともなかったような顔である。  六時すぎだった。七時まで自由時間である。客と同伴出勤する者は八時に入店すればよい。気のあう者どうし三、四人づれで夕食をとりにゆく者が多かった。  志津子は二人の仲間とともに、筋向いのイタリアレストランへ入った。  三人とも三十代だった。志津子以外の二人には離婚歴がある。夫とわかれて水商売へ入った。だから店歴は短い。十年選手の志津子がここではリーダー格だった。バジリコのスパゲティを志津子は注文する。あとの二人も、それにならった。 「おかしい思うたわ。きのう電話当番で出てきたら、陽子ママが事務所で副社長らといいあいをしてたの。すごい大きい声出して。恐《こお》うて立ちぎきもようせんかった」 「ママ偉いね。体を張って売上制に反対しはったんやわ。ほんまにうちのお店、売上制やったら値打なくなるんやから」  二人の同僚は昂奮していた。おびえたように声をひそめている。 「けど、懲戒免職ってひどいね。使いこみでもしたみたいやないの。陽子ママは十五年選手よ。その功労者をポイなんやから」  話しながら志津子は背中がさむかった。  志津子は六浦興産に十年つとめた。キャリアに恃《たの》むところがあった。長年まじめに働いてきた自分を、会社はそう冷淡に遇しないだろうと思っていた。  だが、ちがっていた。望月陽子ママをあっさり切った。ネオン街では六浦興産は大企業である。それだけに、不況期には大企業の冷酷な側面があらわれる。過去にどんな貢献があろうと、どれだけ会社を愛していようと、会社にとって不要な者は不要なのだ。 「陽子ママ、このあとどうするのやろ」 「お店でも出すんでしょ。うしろ楯《だて》がちゃんとしてくれるわ。いいバックがついてこそ会社にいいたいこともいえるのよね」 「見習わないかんなあ。私、バックなんか全然ないわ。志ィちゃんはいいねえ。浅野さんがついてるから。いい人やもんねえ」 「いちおうね。けど、いざというとき店を出してくれる力は彼にはないわ。もっとオジンでもいいから、平田さんのような大金持をつかまえるべきやった。その点、さすがよね陽子ママは」  平田は望月陽子ママの保護者である。大手の農機具メーカーの社長だった。  十何年まえからの仲だという。当時平田はまだ、ただの取締役だった。社長になるとは思われていなかった。彼と深くなったのは、陽子ママの先見の明というべきだった。 「よき時代は終ったのよねえ。私もそろそろ年貢《ねんぐ》のおさめどきやろか。十年働いて財産もできない。結婚もできない。私だけアホみたいな人生やないの。ねえ」  スパゲティをたべながら志津子はいった。  二人の同僚はこたえなかった。話が深刻すぎて相槌《あいづち》の打ちようがないのだ。  三人は食事を終えた。コーヒーを飲み、たばこをふかした。あまり話をしたくない。仕事まえなのに、みんな疲れたような表情である。  四人づれの女の子が店へ入ってきた。近くの新大阪ビルで働くオフィスガールたちだった。席について彼女らは談笑をはじめる。  志津子たちはたばこを灰皿におしつけた。立って店を出た。三人とも美しく装《よそお》っている。オフィスガールなど問題にならない。だが、四人のオフィスガールは志津子らに目もくれないで話をつづけていた。     2  二日後、志津子は自分が担当したい客の氏名を書きだして支配人へ提出した。  浅野康彦以下十五名の客をえらんだ。二流の建設会社の会長、酒造会社の御曹子《おんぞうし》、金属会社の部長などがおもな顔ぶれである。  みんな志津子を贔屓《ひいき》にしてくれる。店へくれば名指しで呼んでくれる客ばかりだった。  ほかにも可愛がってくれる客が七、八名いた。だが、それらの客にはほかに馴染《なじ》みのホステスがいた。ホステスのだれかの客がつれてきた人物もまじっていた。彼らの名を書きだすと、同僚のだれかと客を奪いあうかたちになる。それがわずらわしい。確信をもって自分の客と呼べる人物だけを、志津子はリストアップすることになった。  念のため、志津子は十五名の客たちに一々電話をかけて事情を説明した。 「そんなわけで、私、ぜひ塩田さんの係になりたいんです。私のような者でも、シーさん、あそびにきてくれはるかしら」 「ああ、志津ちゃんの客になるのなら、ねがってもない。ほかの女は用ないで。けど�ラセーヌ�もたいへんやな。同伴出勤のノルマが増えた思うたら、こんどは売上制かいな」 「そうなんですよ。わたし、たよりにできるのはシーさんだけ。ほんまよ。今後もよろしゅうおねがいします。可愛がってね」  そういう手つづきをきちんとふんだ。トラブルの発生する余地をなくしたはずだった。  だが、そう単純に物事ははこばない。支配人の福原は志津子の提出したリストに目を通して、不審そうな顔になった。 「志津子さん、なんでこんなに遠慮するの。みんなもっとたくさん書いてきてますよ」 「いいの。私、奪《と》りあいするの、かなんから。けど、みんな何名ぐらい書いてるの」 「平均三十名ぐらいやね。ここだけの話やけど、あつかましい子もいます。遼子なんか五十名ぐらい書いてきてる」 「遼ちゃんが。ほんま。五十名も——」  志津子は目を丸くした。他人の自己評価の度合《どあい》ほどわからないものはない。  遼子というのは、ブーツみたいな顔だと客に評されたホステスだった。色がくろい。あごがとがっている。絶対に美人ではない。  遼子は出しゃばりである。東京育ちということで、妙に上品ぶるところがあった。マキシムよりもレンガ屋が美味《うま》いとか、サントノーレはもう古い、いまはフィレンツェだとか、そんな話ばかりしている。同僚にも客にも人気はなかった。だが、本人には劣等感のかけらもない。反対に、かなり魅力的だと自己評価している。こんどのことでそれがはっきりした。志津子は、屈託《くつたく》ない遼子の顔を思いうかべて、苦笑いした。  リストの提出はその翌日、締切りになった。店がはじまってから、ホステスは一人ずつ事務所に呼ばれて担当の客をわりふられた。泣き顔で客席へもどってくるホステスがいた。いい客を担当させてもらえなかった女の子である。これを機会に日給のひきさげをいいわたされた女の子もいた。かならずしも客のついていないホステスだけではない。遅刻、欠勤の多い子や、居残りやパーティへの派出をいやがる子が冷遇されたらしかった。美貌を鼻にかけて浮かれている子よりも、地味でまじめに働く子を優遇する——北新地の高級クラブにはそういう方針の店が多い。 「志津ちゃん。売上制ってどない思う。私、とてもようついていかんわ。プライドがゆるさへん。もうやめよう思うねん」  手の空《あ》いたとき、店のすみで志津子にそう話しかけてきたホステスがいた。  サーフィン焼けした大柄な若い子だった。日給ダウンをいいわたされたらしい。店側はその子をやめさせたがっているようだ。一晩五万円で客とつきあうとの噂が、その子にはつきまとっていた。 「そうやねえ。向き不向きって、どんなことにもあるからね。向いてないとわかったら、はやく見切りつけるほうがいいかもしれないわ。あんたはまだ若いんやから」 「志津ちゃんなんかベテランやし、よその店のママよう知ってるでしょ。いい店あったら紹介してな。な、たのむわ」  そのサーフィン焼けの女の子と、志津子はあまり話をしたこともない。二言目には若さをふりまわす。鼻白んでしまう。  が、向うは馴《な》れ馴れしく近づいてきた。たのみがあるときだけ親しげにする。若さというのはこんなものだ。いいわ、心がけておいてあげる。そう答えて志津子は彼女からはなれた。苦笑いする。他人の若さが鼻につくような年齢に私もなったか。そう思うと、こんどは大きなため息をつくことになった。 「志津子さんには、あんたがリストアップしたお客さんを全員担当してもらいます。それで収入ダウンになるようなら、適当にお客さんをつけます。安心して働いてください」  事務所で志津子は支配人にそういわれた。  志津子はこれまで日給二万三千円で働いてきた。売上制のもとでは、その日給が成績によってあがったりさがったりする。ノルマを達成できるかどうかでちがってくるのだ。  月に百万円の売上ノルマが、志津子に課せられることになった。売上げがノルマを上まわれば十万円単位ごとに日給が千円あがる。百十万円達成すれば日給は二万四千円に、百二十万円達成すれば二万五千円になる仕組みである。ただしサービス料やテーブルチャージぬきの正味の売上高を意味する。  反対に九十万円しか売上げられなかったとする。日給は二万二千円にさがる。八十万円なら二万一千円にダウンしてしまう。  なるほど、これなら担当の客数を多くするほうが有利である。志津子は消極的にすぎたようだ。「ラセーヌ」とその傘下の店しか知らないので、そうなった。お嬢さんホステスというべきだった。だが、志津子の成績については店が適当にカバーしてくれるらしい。サーフィン焼けの女の子にくらべれば、まだしも大事にされている。ひそかに志津子は安堵《あんど》の息をつくことになった。  あくる日、新しい制度になって最初のトラブルが志津子をおそった。  午後九時すぎだった。客席は八分どおり埋《う》まっていた。赤い色調の店内に音楽があふれ、何人かの客とホステスが踊っている。談笑に空気がたのしく揺れていた。新鮮な水に入った金魚のようにホステスたちは生き生きしている。志津子もブランデーを飲みながら、建設会社の会長のバカ話にあきれたり、笑いころげたりしていた。  お電話です。ボーイが呼びにきた。志津子は席を立ってクロークのそばへいった。はずしてあった受話器をとる。 「志津ちゃんか。わしや。木村や。きょうきみんとこの遼子から電話が入った。係になったさかい、よろしゅういうことやった。なんできみが係にならへんかったんや」  木村は薬品問屋の社長である。酔っていた。どこか近くの酒場へきているらしい。  木村は新ママの秋子の客である製薬会社の重役につれられて「ラセーヌ」へやってきた。志津子を可愛がってくれていた。だが、秋子に気がねして、志津子は担当したい客のリストに木村の名を書かなかったのだ。彼は秋子ママ自身のお客になるのだと思っていた。ところが、出しゃばりの遼子が木村の係になったという。遼子は木村の名まで書きだして提出したらしい。 「そうなんですか。私、木村社長は秋子ママのお客さんやとばかり思うてました。係になりたいけど、遠慮したんです」 「アホか。わしはきみが気にいって�ラセーヌ�へいってたんや。遼子みたいな女、顔もみとうないわ。わしの係になれ。いまからいくさかい、話をつけといてくれよ」 「わかりました。ありがとうございます。さっそくママに話してみますから」  志津子は客席へもどった。建設会社の会長へことわりをいって秋子ママへ近づいた。  通路へ秋子を呼んで事情を話した。 「へえ、志津ちゃん木村さんをリストにいれなんだの。アホやな。なんで遠慮するのよ」  遼子が木村の担当を希望したときいて、秋子はあきれていた。せいぜい二、三度、遼子は木村の席についただけなのだ。 「けど、困ったわ。係を変えるの、支配人が承知してくれるやろか」 「なんで。お客さまのご希望やから、いいのとちがいますか。私がいいだしたのやったらいやらしいけど。木村社長、ほんまに遼ちゃんとは気があわないみたいですよ」 「けどねえ、一度きめた担当をそのときどきの都合で変えだしたら、収拾《しゆうしゆう》がつかんようになるわ。第一、遼ちゃんがかわいそうでしょ。傷つくわよそれは」  いわれてみればそのとおりだった。  いくら客の希望でも、担当をとりあげられるのは屈辱である。タフな遼子も傷つくにきまっている。だが、変えないと木村はもう飲みにこないだろう。その矛盾《むじゆん》をどう解決すればいいのか。  支配人と相談するまえに、木村の姿が出入口にあらわれた。 「ラセーヌ」の客席は、出入口に向けて大まかなコの字型に配置されている。店へ入った客は、左側からコの字のなかへ乗りこむかたちになる。千両役者の登場、というわけだ。  木村の姿をみたとたん、遼子が席を立ってとんでいった。寄りそって席についた。うれしそうだった。昼間の電話が効いて木村があそびにきたと信じているらしい。木村のほうは志津子をさがして店内をみまわしている。ボーイに声をかけた。志津子を呼んだのだろう。  志津子は木村の席へいって挨拶した。よろこんで彼は自分のとなりの席を指した。 「遼子はわし、要《い》らんねん。志津子、おまえがわしの係やで。ええな。ここへこい」  木村のとなりに志津子はすわらされた。  手を握りにきた。気持よさそうに木村はもたれかかってくる。腹が波打っていた。男の出っ張った腹を志津子はきらいではない。無邪気で、お人好しな感じがそこには充満している。裸にしてたたいてみる手応えが、妙にあかるく心地よいのである。  遼子はあいまいに微笑《ほほえ》んでいる。近くでみると、頬がひきつっていた。やはり傷ついている。これではいじわるできない。恨まれると、あとが恐い。遼子のことをとりなしてやろうと志津子は思った。 「ごめんなさいね木村社長。私、社長の係になれそうもないの。一度きまったことは変えられへん規則らしいんです」  体をすり寄せて志津子は甘えてみせる。  ふだんはそれでよかった。体を寄せれば、客の気持はなごやかになる。だが、今夜にかぎってそれは逆効果だった。 「なんで変えられへんねん。客の要望やないか。よし、わしが直接ママに交渉したる。ママを呼んでくれ」  ボーイに志津子は呼びだしをたのんだ。  秋子ママがやってきた。話のこじれるのを見越したらしい。支配人の福原をつれてきた。いかにもほやほやのママだった。  ママは木村の正面にすわった。緊張している。福原は立ったまま木村へ一礼した。愛想はよいが、肩や腰のあたりの線が硬い。  遼子はわし好かんのや。志津子をわしの係にしろ。木村は交渉をはじめた。志津子に会うためにわしはこの店へくる。いくらかでも志津子の成績に貢献してやりたい。ところがいまのシステムでは、何度きても遼子の成績になるだけやないか。それでは「ラセーヌ」へくる意味がない。木村は大きな声で話した。これほど木村が自分を気にいってくれていたとは、志津子はきょうまで知らなかった。  だが、福原支配人は予想どおり、木村の注文に応じなかった。一度きまった口座は変えられない。わるい前例になる。みんながそれをはじめたら、店の人間関係が滅茶滅茶になってしまう。それにホステスの立場が弱くなる。係を変えさせるぞと脅《おど》されて、客にものもいえなくなるだろう。 「申しわけございません。なにぶんにも過渡期でございます。いたらぬ点も多々あると思います。ですが、いまお話したような事情ですので、システムが定着するまで、どうかいまの係でご辛抱くださいませんか」 「そらあかん。わしのきらいな女が、なんでわしの係になるんや。店の都合のおしつけやないか。ブスのそばでは飲む気がせんぞ」 「社長、ひどいこといわんといてください。遼子ちゃんはいい子よ。ね、社長がおいでになったら、私かならずお席へつきますから」  木村をなだめながら、志津子は遼子の辛抱づよさに舌を巻いていた。  志津子が彼女の立場だったら、とても耐えられないだろう。もうけっこう。私はご遠慮します。ご勝手にどうぞ。捨《すて》台詞《ぜりふ》でこの席から逃げだしたにちがいなかった。  だが、遼子は耐えていた。あいまいな笑顔のまま、やりとりをきいている。深く傷ついた様子もない。売上制に向いた性格なのだろう。そんな性格の女が「ラセーヌ」にいたとは、これまで思ってもみなかった。  結局、交渉は決裂した。木村社長は怒りであえぎながら腰をあげた。 「これだけ客をないがしろにする店ははじめてや。バカにしくさって。もう二度とこんさかいな。こんな店つぶれてしまえ」  懸命に志津子はひきとめた。支配人もママも平身低頭していた。  だが、木村は怒り狂って去っていった。福原とママは悲しげに顔をみあわせた。この不況期に一人でも客をうしなうのは痛い。なによあんな客の一人や二人。そんなつよがりをいう余裕は、幹部にはなかった。  遼子にたいして、急に志津子は怒りにかられた。この子が出しゃばったからいけないのだ。おまけに最後まで木村のそばにいた。ゆるしがたい無神経さだ。 「遼ちゃん、あんた、手をひろげすぎよ。もっと謙虚になってよ。お客さんがみんなあんたを目あてにくると思うてるの」  めずらしく志津子は叱りつけた。先輩だから、叱っても不自然ではない。  すみません。遼子はいちおう詫《わ》びた。すぐに横目で志津子をみる。冷笑していた。 「でも志津ちゃん、たのしかったでしょ。あなた、勝利者だったんだから」  遼子はべつの席に去った。気をしずめるため、志津子は化粧室へ入らねばならなかった。  おまえがなんでわしの係なんや。怒った客がもう一人いた。怒られたのは、サーフィン焼けの例の若いホステスだった。  支配人とママがまた釈明にいった。効果はなかった。客は帰ってしまった。若いホステスは屈辱に泣いて姿を消した。店側の狙いどおり、あすからは出てこないだろう。 「あのお客さんの係、なんであの子なのよ。私が友達に紹介してもろた人やのに」 「あつかましい者が勝ちやわ。どう、遼ちゃんの強引《ごういん》なこと。目をそむけたくなる」 「あの子、Kさんとこへ朝から電話したらしいわ。私の口座に入ってって。汚いわよ。あのお客さん、私の担当やのに」  化粧室や更衣室でそんな話がきこえた。  客席でも、手が空くと小声でそんな話をする者が出た。常連客に寄りそって話す仲間へ、憎しみのこもった目を向ける者もいた。客を奪われた、と思うのだろう。  以前にはなかったことだった。ホステスどうし、かわす視線が冷たくなった。いつもだれかに観察されている。客と親しくしても、よそよそしくしても、妙な噂になりそうだった。「ラセーヌ」はすっかり変った。みんなで力をあわせて客をもてなしてきた職場が、生き馬の目をぬく競争の場となったのだ。  だが、ホステスたちには演技力があった。みたところ以前と変りなく店内を泳いだり、停まったりしていた。競争の気配など客にはみせない。ほとんどの客が、これまでとおなじようにたのしく酔って帰っていった。  数日たった。志津子は新しいシステムにやっと馴れてきた。元気に働いた。夜十時ごろ、係である灘《なだ》の酒造家の御曹子《おんぞうし》がやってきた。  いらっしゃい。高い声をあげて志津子は出迎えた。寄りそっていった。  御曹子はまだ三十なかばで専務である。ときおり大言壮語をする。腕白坊主じみていて可愛い。はじめて「ラセーヌ」へきたとき、さきに番頭が下見にあらわれた。「若《わか》」をよろしくとたのんで帰った。いま志津子は彼にヨーロッパ旅行にさそわれている。  御曹子をもてなすあいだ、だれかの冷たい視線が自分にからみつくのを志津子は意識していた。わずらわしくて仕方がない。だれかに恨まれているのだろうか。志津子は急にその視線のほうへ目をやった。新しいママ代理の佐代子が、右手の席でいそいで目をそらせた。ツンとあごを横に向ける。  酒造家の御曹子は、志津子と佐代子をいつも席に呼んでいた。佐代子とはセックスの関係があったのかもしれない。だが、知りあったのは志津子のほうが古い。彼の名を志津子はリストに加えて提出した。係になってよいのかどうか、電話で問いあわせた。二つ返事で御曹子は了承してくれた。だから、うしろめたい点はない。だが、佐代子にすればやはり奪られたと感じるのだろうか。 「な、旅行しようやないか。あらゆる点で志津ちゃんをがっかりさせるようなことはない。ほんま。固く約束するで」  しきりに御曹子はせまってきた。  相手をするのに、いつになく志津子は肩がこった。芯《しん》が疲れた。佐代子の冷たい視線を意識するせいだった。  他人のことが気になるとすれば、以前は情事の次元においてだけだった。あの子とあの客はできているのかどうか。興味のたねはそれだけだった。だが、いまはちがう。経済がからんでくる。同僚への関心のもちかたが深刻になった。うっかりすると志津子たちは、色と欲の双方で打撃をうけることになる。  十時半ごろ、浅野康彦がやってきた。およそ十日ぶりの来店である。  うれしくて志津子は心臓がおどった。そばへとんでゆきたい。だが、ほんとうに会いたい相手がきたときほど、うっとうしげにふるまう性分《しようぶん》である。知らん顔で御曹子の相手をしていた。ボーイに呼ばれて、わざとゆっくり席をはなれた。気がゆるんだ。浅野のそばへくずれ落ちるようにすわった。 「疲れた。もう。ちっともたすけにきてくれへんのやから。何日ぶりやと思うの」 「すまん。相変らずバタバタ貧乏でな。けど、大きい事件がやっと一つかたづいた。今週はまとめて飲みにくるぞ」 「ほんま。よかった。で、きょうはあそんで帰れるの」 「そのつもりや。�B�で待ってる。早う切りあげてこい。おまえの顔をみると、ちんぽが立って困る」  ママが挨拶にくるまえに打合せを終えた。二人とも視線を合わせずに話した。  浅野のために志津子はブランデーの水割りをつくった。あとはほとんど用事がない。会話はほかのホステスにまかせる。浅野に寄りそって、ぼんやり休息をとった。  やがて、ほかのホステスが去った。志津子は浅野と二人きりになった。甘ったるい酔いに志津子はひたった。人前だから、浅野の肩へ頭をあずけたりはしない。だが、そうしているのとおなじ気持である。佐代子が酒造家の御曹子と談笑していた。全然気にならない。勝手になさい、という心境である。 「店のシステムが変ったらしいな。志津子は当然おれの担当なんやろ」  志津子はだまってうなずいた。せちがらい話はしたくなかった。 「きのうおれの事務所へ電話してきた子がおったぞ。私のお客さんになってって」  志津子は夢からさめた。体をはなして、浅野をみつめた。  浅野は四十五歳。週に一、二度店へやってくる。大金持ではないが、同年輩のサラリーマンの三、四倍は収入があるらしい。日焼けして、長身である。彫りの深い顔立ちだった。いまが食べごろの男なのだ。 「だれやの。ねえ,だれが電話したの」  浅野と志津子の仲は、ほとんどの同僚が知っている。それを無視して、だれかが手をだしたらしい。世も末である。 「ルミ子や。あいつ、近いうちここをやめるらしいな。どうせ売上制なら、もっと給料のいい店へいくいうてた」  ルミ子は三年まえに入った子だった。  大学は同志社。ゴルフ部の選手だったというので、みんな敬意を払っていた。  ところがすべて嘘だった。最近それがわかった。ルミ子はだれにも信用されなくなった。客のわりふりで冷遇されたらしい。だからよそへいく決心をしたのだろう。いま店内に姿はなかった。もうやめたのかもしれない。 「なんや、移った店へきてくれというてきたの。それならまあ、ゆるせる」 「おまえいま、一瞬恐い顔になったなあ。目がつりあがって口が裂けた。鬼の形相《ぎようそう》や」  浅野は手で自分の目や口をひん曲げてみせた。手をはなして笑った。 「嘘ォ。そんな顔してないよ。いやあ、もうオーバーにいうんやから」 「システムがきびしゅうなると、顔もきつくなる。気ィつけてくれよ志津子。おれの好きなんは、やさしい志津子なんやから」  志津子は顔を伏せた。浅野のひざのあたりをこぶしでたたいた。  自戒しなければ。すなおに思った。先日、遼子にたいしても、自分は鬼の顔を向けたのではないだろうか。きびしい時代であればあるほど、女はやさしくなければならない。    二時間後、志津子は浅野とともに中之島のホテルの一室へ入っていた。  店が終ったあと、永楽町のスナックバーで待ちあわせた。かるく飲んでからホテルへきた。適度に酔っていた。  ダブルベッドの部屋だった。二人とも全裸で横になっている。体を向きあわせ、顔をみあわせていた。望みの場所へ志津子はやっとたどりついた心境である。  志津子はよくしゃべった。店でぼんやりしていたことの埋めあわせのようだった。  浅野は志津子の髪をなでたり、乳房をさわったりしている。話をきいてくれた。志津子は大きな掌《てのひら》に乗ったような気持になる。乳房がときおり快感で溶けかかった。そのたびに浅野の手を払いのけなければならない。  時間がたつにつれて、浅野の手が下のほうへのびてきた。志津子の腰のかたち、ヒップの量感を浅野はたしかめる。肉をつかんだり、肌をつまんだりする。またすこしずつ下へさがった。彼の手が動くたびに、欲望の溶液が志津子のなかから湧き出てきた。  志津子のふとももの内側を、浅野の手が這《は》いまわった。気づかないような顔で、志津子はおしゃべりをつづけた。浅野はじっと志津子をみつめている。ときおり志津子が快感で眉をひそめたり、口をあけたりするのをみていた。  ふっと志津子は話をやめた。浅野の毛深い脚が、志津子の両脚のあいだへすべりこんできたからだ。志津子は浅野へキスしにゆく。待っていたように抱き寄せられた。浅野の手が志津子の大事な部分へそっとのびてくる。とうに志津子は体に火がついていた。腹を突きだすようにして、大事な部分を浅野の手にあたえた。浅野の指が動いた。そこから快感がゆっくりと体のなかへながれこんでくる。  志津子も浅野の男性を手でとらえた。硬いものにふれて、安堵《あんど》の息をついた。愛情の証拠をとらえた気分である。 「ふしぎな女やな志津子は。どれだけばてていても、おまえのそばにいると立ってくる。おれ、まだ若いなあと思わされる。働く元気が出る。ありがたい女や」 「やさしくしてね先生。最近、修羅《しゆら》の巷《ちまた》で神経をすりへらしているんやから。先生がやさしくしてくれたら、私、鬼の顔にならんでも済むの。そうなのよ」 「わかったよ。たっぷり可愛がってやる。さ、あおむけになって」 「待って。きょうは私がさきにやさしくしてあげる。私がさき。私のほうがたくさん先生を愛しているからね。ほんまよ」  志津子は毛布をわきへ寄せた。  浅野の腰の横にうずくまった。浅野の腹はすこしたるんでいる。気にはならない。下腹部やふとももの草むらを手でさすった。  男性を口にふくんだ。ゆっくり頭を動かした。口腔で男性のかたちをたしかめる。浅野の愛情のかたちをたしかめる思いだ。執拗《しつよう》につづける。舌さきをおどらせた。  やがて男性を口からぬきだした。舌で裏側をくすぐってやる。下方のふくらんだものと体の継ぎ目を舌でなぞった。手は男性をとらえてゆっくり動いている。  浅野は呻《うめ》きはじめた。志津子の愛撫を賞《ほ》めてくれる。浅野とは二年ごしの仲だった。どこをどう愛撫すれば彼がよろこぶか、知りつくしている。舌さきでいったりきたりした。  男の体の粗《あら》い手ざわりに陶酔《とうすい》する。毛深いのも好きである。女にない、男の特徴をすみずみまでたしかめる。体温と体臭のやさしいかたまりにつつまれている。  志津子は執拗だった。最大の快楽を浅野にあたえなければならない。たくさんの女の手がこれから浅野へからみつくはずだ。自分のほうへひきよせようとするだろう。色よりも欲でそうするにちがいない。  志津子と寝るよろこびを、浅野にしっかり認識させる必要があった。浅野の望むことならなんでもしてやる。どんな要求にも応じる。つつしみも羞恥もわすれる。快楽を大きくすることだけ心がける。よき時代の去ったあとの情事とは、そんなものだ。受身でばかりいるわけにはいかない。  とつぜん浅野が上体をおこした。手をのばして志津子の足首をつかんだ。ひきよせる。志津子はまだ男性の周辺にキスをつづけている。自分の両脚が、浅野の顔のそばにもっていかれるのを意識していた。  脚が左右にひらかれた。大事なところに浅野が見入っている。ますますひらかれる。志津子はとじようとした。だが、つつしみも羞恥もわすれる決心をしたばかりである。みられるにまかせた。浅野の指が、秘密の花びらをひらいている。ずうずうしくひらく。  可愛いな。可愛いおそそ。浅野の声がきこえた。恥ずかしくて志津子は逆上する。あらためて浅野の男性にむしゃぶりついた。男性が口腔に貼《は》りついた。夢中で頭を動かした。指を浅野の体のうしろの小窓にすべりこませてやる。また浅野は呻き声をあげた。しばらくそれは消えなかった。  つぎは志津子が悲鳴をあげる番だった。大事な部分に浅野のキスがとどいたのだ。快楽の渦巻きがそこに発生する。志津子は愛撫をつづけられなくなった。男性から顔をはなして、あおむけに寝る。大の字になった。右腕だけ曲げて、顔をかくした。  志津子は頭をあげて下腹部をみた。左右のふともものあいだに浅野の頭があった。ゆっくりと、正確なリズムでそれは上下に動いていた。  安心して志津子は目をとじた。ひとりでに泣き声をあげてしまう。どうなっているのかよくわからない。快楽の渦がしだいに大きくなる。志津子の体よりそれは大きくなった。泣きながら志津子は呑みこまれる。苦しくて手足をばたばたさせてしまう。  やがて快楽が中断した。志津子はひっくりかえされていた。  しぜんに志津子はヒップを高くする。三十をすぎてこの姿勢が好きになった。もてあそばれる少女になったような気がする。そこが好きだ。年増《としま》にはなりたくない。  うしろから浅野は入ってきた。黄金色の快楽の筒が志津子のなかへねじこまれる。それは後頭部へたっした。浅野の腹が、規則ただしいリズムでヒップへぶつかってくる。  幸福だった。志津子は泣きさけんだ。幾度も気が遠くなりかけて、われにかえる。いつまでもそれがつづく。すばらしく浅野はタフだった。志津子が疲れて動けなくなるまで、荒っぽい動きをとめなかった。     3  志津子が「ラセーヌ」へ入ったのは、昭和四十七年の秋である。二十二歳だった。  生れ故郷は下関である。広島の高校を卒業して、大阪の家具メーカーへ就職した。大学へ入りたかったのだが、家の都合であきらめなければならなかった。  志津子の父は下関で小さな建築会社を経営していた。従業員二十何名かの会社だった。志津子の家には乗用車が二台と、ピアノとホームバーがあった。昭和三十年代の地方都市の家庭にしては贅沢《ぜいたく》に暮していた。  だが、志津子が高校へ入った年、父は倒産した。親しい会社をたすけるために振りだした手形が暴力団の手にわたった。それ以来、経営が悪化したらしい。家を追いだされて、家族はアパートへ移った。志津子には兄が一人、妹が二人いる。父母と六人で四畳半と八畳の二間《ふたま》に住んだ。アパートにも毎日債権者がおしよせてきた。いたたまれなくなった。  一家は広島へ引越した。父は小さな不動産会社のサラリーマンになった。ほそぼそと暮した。以前から父は酒が好きだった。景気のよかった時分は、料亭や酒場へ派手に出入りしていた。だが、広島へ移ってからは、日本酒のカップを毎晩一つあけるだけになった。子供たちは進学どころではなくなった。二つ年上の兄は、高校を出て化学薬品の会社へ入った。志津子も卒業後、働くことになった。大阪へ出てきたのは家がせますぎたからだ。広島でも一家は2DKの貸家住いだった。  家具メーカーではデパートの出張店員になった。一年ばかり、心斎橋《しんさいばし》のデパートと高石《たかいし》市にある寮を往復するだけの日がつづいた。つとめ帰りに心斎橋筋をぶらついたり、難波《なんば》の喫茶店へ入ったりするのがたのしかった。  大阪へ出て二年目の春、ミナミの洋酒喫茶で中村光一という大学生と知りあった。志津子は同僚の女の子といっしょ、光一も仲間の学生と二人づれだった。四人でディスコへいった。その後、志津子は光一とデートをかさねるようになった。何度目かに、日本橋《につぽんばし》のラブホテルではじめてセックスの経験をした。よろこびはなかった。愛情よりもバスに乗りおくれたくない一心で、志津子は彼と寝たのである。  セックスの関係ができると、光一は横柄《おうへい》になった。おれの女、という態度をとりはじめた。光一は名門の私立大学の学生である。平凡なOLである志津子をバカにしている感じがあった。スナックバーやディスコの支払いをぜんぶ志津子にさせる。ホテルの代金さえそうである。金を借りていって、返してくれたためしがなかった。光一の家は豊中の高級住宅街にあった。両親がうるさいとかで、志津子は一度も招待されたことがない。  一年あまり、光一とつきあった。ある日、同僚の女の子がスナックバーでバイトしようといってきた。そういう仕事に好奇心があった。いってみると、ミナミの玉屋町のビル内の小さな店だった。笑顔のやさしいマスターと年増《としま》のママがいそがしく働いていた。  志津子は紹介者である女の子といっしょに、夜、その店で働くようになった。二ヵ月後紹介者の子は店をやめた。彼女は美しい娘ではなかった。志津子だけが客に可愛がられるので、いやになったらしい。  ママが風邪で何日か店を休んだことがあった。笑顔のやさしいマスターに、志津子はいい寄られた。三日目に根負けして、いっしょにホテルへいった。ながい時間をかけてマスターに抱かれた。彼は大事に志津子をあつかってくれた。光一とのセックスよりも、何十倍もすばらしい経験をした。  光一はときおり店へきて飲んでいった。勘定は志津子まかせのツケだった。  しだいに志津子は光一がうとましくなった。いろんな客が店にくる。堅い会社のサラリーマンが多い。将来立派な人物になるだろう青年も何人かいた。その男たちにくらべると、光一なんかまだ半人前にもならないヒヨコだった。カウンター席で、色男気どりで飲んでいる彼をみると、虫唾《むしず》が走った。 「もうここへ来《こ》んといてちょうだい。うんざりやわ。二度と会いとうない。終りにしょ」  ある晩、志津子はそう光一に宣告した。ほかに客はいなかった。  光一は逆上してグラスを床にたたきつけた。マスターが彼を外へつまみだしてくれた。光一はその後態度を変えて、哀願の電話をデパートや店へかけてきた。おれがわるかった、わかれないでくれという。だまって志津子は電話を切った。われながら冷静だった。  マスターとの関係はその後もつづいた。彼はママの夫である。二人の仲は極秘にしなければならなかった。  店が終るのは真夜中である。志津子は昼のつとめがつづけられなくなった。家具メーカーをやめて寮を出た。ママにはそのことをいわずにおいた。給料があがったので、昼の仕事がなくとも経済の痛手はなかった。  長居《ながい》のアパートの一室で志津子は暮すことになった。三日に一度くらいのわりで、午後マスターがあそびにきた。汗まみれでセックスをした。  光一とちがって、マスターは舌で志津子の体を味わうのが好きだった。志津子をあおむけにしたり、裏返したりして執拗《しつよう》に大事なところへ舌をおどらせた。一度、志津子が酔って寝こんでいたとき、マスターがやってきたことがある。寝息を立てている志津子の脚のあいだに二時間も彼は頭を突っこんで、舌を動かしつづけた。夢うつつに、志津子は何度もさけび声をあげた。  そんなふうにして、性的に志津子はしだいに一人前になった。光一との場合もそうだったが、マスターをとくに愛したわけではなかった。性のよろこびを知るために、彼との関係をつづけたといってよかった。  なにも知らないママにかくれてマスターとあそぶ。そのことに大きな刺戟《しげき》もあった。ママのそばでマスターにそっとヒップをなでられたりすると、昂奮でふるえそうになった。ママにはなんの恨みもない。三十三歳のマスターよりも、ママは三つ年上だった。さほど美しくない年上の女が、ハンサムなマスターを独占している。そのことに志津子は多少の不公平を感じていたのかもしれない。 「志津子は美人になったな。男性ホルモンの作用や。よかったな、おれとデキて」  セックスのまえ、入浴した志津子の裸身をマスターはいつもタオルで拭いてくれた。  まぶしそうに軽口をたたいた。しだいに熱っぽい表情になり、志津子をおし倒した。  じっさい志津子は美しくなった。自分でもそれがわかった。肌に艶《つや》が出てきた。もともと均整のとれた体つきである。体の線に、やさしい丸みがあらわれてきた。乳房はかたちよく突き出ている。腰は深くくびれていた。ふとももやヒップはつき立ての餅《もち》のようになまめかしく張っている。裸で鏡のまえに立つと、照明をあびたように、全身が空間にかがやき出ていた。そういう自分をみると、志津子はなにかいいことがおこりそうな予感にかられた。べつの世界へ飛んでゆくために、自分は準備中なのだという気がした。  ある夏の夕刻、戎橋《えびすばし》のそばで志津子は一人の中年女に呼びとめられた。色のあさぐろい、やせた、目の大きな女だった。ノースリーブの黒のスーツがぴたりと体に合っている。美しいとはいえないが、洗錬された雰囲気の女だった。  ペンダントのエメラルドのかがやきが志津子の目を吸いよせた。女の手にはハニーカラーのキャッツアイの指環《ゆびわ》があった。目の冷たい女だった。志津子は身がまえた。 「ごめんなさいね。あなた、ふつうのお宅のお嬢さんかしら。もしかしたら、どこかクラブのようなところへおつとめなの」  微笑んで中年女は訊《き》いた。笑うと目じりにしわが出て、親しみやすい顔になった。  ミナミのスナックバーで働いています。志津子がいうと、女は名刺をくれた。クラブ「ラセーヌ」、早田啓子と印刷してあった。 「ラセーヌ」の名を志津子はまだ知らなかった。だが、女の服装をみて、一流のクラブだと見当がついた。所番地が北区堂島一丁目になっている。格式の高いクラブの多い北の新地のなかである。早田啓子は「ラセーヌ」のママだということだった。新地のクラブのママが私になんの用事なのだろう。志津子は緊張して中年女をみつめた。だが、どんな用事かはだいたい見当がついていた。 「よかったらうちの店で働いてみません。キタはいいお客さまが多いの。たのしいし、若い人には勉強になりますよ。失礼やけど、収入もよくなると思います」  やはりそうだった。志津子は胸がおどった。予感があたったと思った。  金がほしい。田舎へ送金してやりたい。もっといい住居に入りたい。どのぐらい給料をもらえるのだろう。 「ほんまですか。私のような者にもつとまるでしょうか。田舎者ですけど」 「あなたなら大丈夫よ。磨けばもっともっと光る人だわ。よく考えて、もしその気になったらお電話頂戴ね」  志津子が乗り気だとみて、早田ママは急に冷やかな目つきになった。値ぶみするように志津子の顔と体をみくらべた。  すぐに早田ママはタクシーをひろった。風のように去っていった。キャッツアイの指環の光が志津子の目裏にのこった。  すぐにも早田ママに電話したかった。だが、気おくれがあった。さそいにすぐ乗るのも沽券《こけん》にかかわる。一週間ばかり志津子はためらっていた。だが、やがて否応《いやおう》なしに行動をおこさざるを得なくなった。  スナックバーのママが志津子とマスターの仲に気づいた。おなじ酒場ビルの、二軒おいてとなりの小料理屋の女将《おかみ》が通報したのだ。昼間、マスターと腕を組んで阿倍野《あべの》の地下街をあるいているところを、その女将に目撃されたらしい。女将とママは同年輩で、ふだんから親しくゆききしていた。 「おれ、あいつと離婚する。いっしょになろう。二人で働いて店をもとうやないか。な、志津子、そうしよう」  夫婦喧嘩のあと、アパートへきてマスターはそういった。切迫《せつぱく》した口調だった。 「いやや。ママはいい人よ。マスターを奪《と》るなんて、私ようしないわ。それに私、まだ結婚する気になれへんから」  志津子はことわった。「ラセーヌ」のことが頭にあった。もし先日早田ママに声をかけられていなかったら、そのままマスターと結婚していたかもしれない。  マスターとはすこし揉《も》めた。志津子は店をやめて「ラセーヌ」に電話をいれた。すぐ面接にこいと早田ママはいってくれた。新大阪ビルを目あてにくればすぐわかるという。北の新地の南部にある十何階かの大きなビルだった。  志津子は出かけていった。大江橋にバスがさしかかると、新大阪ビルはすぐ目についた。波止場に停泊中の白い豪華客船のようなビルだった。そのやや西寄りの酒場街の角《かど》のビルに「ラセーヌ」はあった。一階が店、二階は事務所や従業員の更衣室などになっている。ビールの入った木箱が階段につんであった。おびただしい量だったので、志津子は感心してしまった。  早田ママと支配人の面接をうけた。履歴書と抄本《しようほん》、家族調書を提出した。いろいろ質問された。かくさなければならないことは、なに一つなかった。来週の月曜日から出勤ときまった。面接の当日は火曜日だった。今週中に興信所が志津子の身辺調査をするらしい。そういう点はふつうの会社の従業員の採用手つづきとおなじだった。「ラセーヌ」が六浦興産傘下の二十店近い酒場や中華レストランの顔といわれる有名クラブであることを、志津子ははじめて知ったのである。  給料は日給八千円だった。一流会社の課長の月給が十四、五万円程度だった時代である。ききちがいかと志津子は思った。いままでは日給四千円でやってきたのだ。それでも不足は感じなかった。今後は田舎へ月々五万円ぐらい送金できそうである。とりあえず住居《すまい》を変えようと思った。月に二十万もかせぐ女に、古い木造アパートは似合わない。以前からの念願どおり、鉄筋コンクリートのマンションに移らなければならなかった。  三日後の夜、志津子は郊外の吹田《すいた》市のマンションへ引越した。こぢんまりした2DKだった。マスターにはすべて内緒だった。彼に妨害されないために、わざわざ夜運送業者を呼んで荷物をはこんだのである。目ぼしい家具のほとんどない新居だったが、新居にはちがいなかった。いずれステレオもクルマも買おう。そう考えると、体のなかから力がわきでてきた。志津子は身ぶるいした。金の苦労のつきまとううっとうしい街のすみから、ほしいものがらくらくと手に入る広大な海へ乗りだした気分である。贅沢《ぜいたく》な暮しにそれほどあこがれていたわけではなかった。だが、贅沢ができそうになって、ほしいものがいくつも出てきた。子供のころのめぐまれた暮しをとりもどしたい願望が心の底にひそんでいたらしい。デパートの売り子などをして、時間のむだをしたと思った。  月曜日、緊張して志津子は出勤した。むし暑い日だった。夕刻のミーティングの席でみんなに紹介された。当時、「ラセーヌ」には五十名近いホステスがいた。上は三十代の後半から下は志津子のような二十歳そこそこの小娘まで、きわめて多彩な陣容だった。みんな美しい。好みのいい服や着物を身につけている。女優にしても通用するだろう女もいた。志津子はきらきらする錦《にしき》の森のなかへ迷いこんだ気分だった。何人かの年上のホステスが黒や白、淡いピンクなどのフランス製のレースの服を上品に着こなしていた。いつかは自分もあんなレースが似合うようになりたい。こっそり志津子は心に期した。ゴルフの話、ファッションの話、美味《おいし》いレストランの話。みんな外国語のように耳にひびいた。 「お客さまの会社のバッジをおぼえなさい。それが最初のお仕事です。バッジをおぼえたら、その会社の内容を勉強なさい。そうすればお客さまと話ができるようになります」  早田ママにそう教わった。いわれたとおり志津子はそれをはじめた。  お客がやってくる。先輩たちといっしょに客席につく。どこの会社の人たちなのか、先輩にそっと教えてもらう。客の上衣の襟《えり》のバッジのデザインを頭にきざみこんだ。ころあいをみて化粧室へゆく。手帖にバッジのデザインと社名をメモする。なにくわぬ顔で客席へもどった。マンションへ帰って会社要覧をひらく。資本金、従業員数、事業の内容、株価、社長、会長、専務などの名。それらをメモして、目をつぶって暗唱した。「ラセーヌ」では、ママとママ代理以外、名刺はもたされていなかった。ホステスは客と名刺を交換するような、なまいきなまねはできない。一人一人の客についてどれだけのことを知りうるかは、ホステスの努力にかかっていた。  丸紅、伊藤忠、松下電器、関西電力、大阪ガス、サントリー、近鉄、阪急、日立造船、久保田鉄工、ダイキン——。関西系の有力企業のバッジおよび必要事項を、そうやって志津子はおぼえこんだ。住友、三菱系の会社のバッジは知っていた。だが、おなじ住友、三菱でも、銀行あり商社あり金属あり化学ありで、区別をつけるのが一苦労だった。 「はじめまして、志津子です。あ、××商事のかたですね。このあいだ社長さんにお目にかかりました。恐いかたかと思うたら、すごく気さくなかたなんですねえ」  客は超一流企業の役員が多い。会社にも自分の地位にも誇りをもっている。  女の子に社章を知られていて、わるい気はしない。自社の人間がなじみとわかれば、なおさらである。シートに腰かけた姿勢がゆったりする。くつろいで声が大きくなる。 「なんやこの子。新顔かいな。それにしてはうちのことよう知っとるなあ。まさか社長のお手つきやないやろな。なに、まだ入って二週間。この店では処女。ほんまかいな」  適当に客は志津子をからかう。客どうし話をはじめる。また志津子をからかう。猥談《わいだん》をいって大笑いする。  常連は社会的地位の高い人物ばかりである。だが、ホステスにそれを意識させない男が多い。世馴《よな》れている。ホステスの肩を抱いたり、体にさわったりする行儀のわるい客はすくなかった。みんな体面を意識している。財界人はとくにそうだった。いろんな企業の要人が一堂に会するこのクラブでは、酔ってもあまり羽目《はめ》をはずすわけにいかないのだ。  客といっしょに笑いころげたあと、志津子はそらおそろしくなることがあった。客は偉い人ばかりである。そういう人たちと友達みたいな気でバカ話をする。ときには志津子のほうがご機嫌をとってもらう。おだてられたり、いたわられたりする。どうしてこうなのか、よくわからない。どこかがおかしい。冗談まじりに口説《くど》かれることもある。あれが客の本音《ほんね》かもしれない。セックスの相手をもとめて、客は「ラセーヌ」にくるのだろうか。  だが、そうばかりともいえなかった。セックスだけが目的なら、話にきくソープランドの女とかコールガールとか、いくらでも相手がいるはずだった。金に不自由のない男ばかりである。芸妓を囲うこともできる。しかも、クラブの女は金さえだせばすぐに寝るというわけのものでもない。  それでも客はひきもきらず「ラセーヌ」へやってくる。美しい女の多いことが、繁昌の一因なのはたしかだった。だが、この店の女がよその世界の女と別人種なわけでもない。ソープランドの女にもコールガールにも、美女はたくさんいるはずだった。なぜ地位の高い男たちがここへきて、娘や孫のような女を相手に高価《たか》い酒を飲むのだろうか。  店が終ったあと、ママが志津子ら三人の新人に夜食をごちそうしてくれたことがあった。新大阪ビルのそばの「CHECK」へいった。美少年のボーイが多い清潔な深夜レストランだった。志津子はママに疑問をぶつけてみた。 「お客さまはね、夢を買いに�ラセーヌ�へくるのよ。志津ちゃんたちは、社会のトップにいる男性に夢を売っているの。若くてきれいな女性でないと、できない仕事よね」 「夢ですか。けど、私らみたいな教養もない女とアホな話をして、お客さん、たのしいのかしら。偉い人ばっかりやのに」 「そりゃたのしいわよ。若くてきれいな女性が誠心誠意もてなしてくれる。雰囲気はデラックス。きているのは一流の人ばかり。そこでお酒を飲むのよ。男性にとってこれ以上の場所はないわ。私が男でも常連になる」 「お客さんたち、現実をわすれにくるんですね。夢をみて、現実をわすれる——」 「うちのお客さんは、昼間は戦争をしているのよ。部下の先頭に立って、死にもの狂いで働いている。うちへくるときなんか、もうくたくたなのよね。私たちはそれをいやしてあげている。社会的にも意義のあるお仕事じゃないかしら。私はそう思う。だから、いくらでも努力できるわ」  早田ママの話に、志津子は感心した。  経験をつんだ人の話はやはりちがう。哲学がはっきりしている。仕事の意味がよくわかった。ママを見習って自分も誠心誠意お客をもてなそう。志津子はそう決心した。  だが、新しい疑問ができた。客に対する最高のもてなしは、ホステスがセックスに応じることだろう。性急に口説く客はすくない。だが、ほとんどの客がホステスとのセックスを望んでいる。気配でわかる。もしお客にしつこく要求されたら、どう対処すればよいのだろう。拒絶すると、誠心誠意もてなすことにはならないのではないか。  その疑問を志津子は口にだした。ママはコンソメスープを噴《ふ》いて笑った。 「バカねえ。お客さまみんなとセックスしていたら、体がいくつあっても足りないわよ。向うが志津ちゃんが好き。志津ちゃんも向うを好き。そうなってから、はじめてなるようになればいいの。誠心誠意の接待は、気持のうえだけのことでじゅうぶんよ」 「けど、ことわったら、お客さまもうお店にこなくなるでしょう。それが恐いわ」 「志津ちゃんも苦労性ねえ。心配ないわ。うちのお客さま、そんな野暮天《やぼてん》じゃないもの。それに志津ちゃんがだめなら由里ちゃん、由里ちゃんがだめなら直美ちゃんというふうに目標を変えるたのしみもあるの。フラれたからって、そう傷つくものじゃないわよ」  同席した二人のホステスを話に巻きこんで早田ママは説明した。 「そうよ。××製作所の会長がそうやわ。いっしょにハワイへいこうってさそわれたの。いやです、いうたってん。けど、怒らなんだわ。その後も機嫌ようきてくれてるよ」  由里という子がさけんだ。にぎやかな、なんの考えもない丸顔の娘である。 「へえ。あのお爺ちゃん、私もハワイへさそうたんよ。禿《は》げた頭して、ようやるねえ。あんな年寄りとつきあう女の子って、だれかいるのやろか。考えられへんわ」  直美も負けずに身を乗りだした。ミナミのディスコの常連である女の子だった。 「あなたがたにかかったら××さんもかたなしだわ。偉い人なのよあのお爺ちゃん。大阪財界の大物の一人。経団連の役員を長年やってらっしゃったんだから」  早田ママは笑った。ストロガノフをたべ終って、たばこに火をつける。  けむりを吐いてママは由里と直美をみた。冷たい目だった。志津子には笑いかけた。 「志津ちゃん、いまの調子で一歩一歩すすむといいわ。疑問があったら、なんでも訊きなさい。疑問がないと人間はだめになる」  早田ママに目をかけられたのを志津子は知った。勇気が出てきた。  真剣に取組めば、この仕事をやっていけそうだと思った。美しい女が「ラセーヌ」に多いので、それまで気おくれしていたのだ。  客は夢を買いにくる。早田ママのその言葉の意味が志津子にはやがて、さらに深く納得《なつとく》できるようになった。  志津子も以前から名前を知っていた財界の巨頭たちが、ときおり店にやってきた。杉道助、佐伯勇、堀田庄三、永田敬生などという人々だった。流行作家も何人か顔をみせた。財界の名士はほとんどの場合、自社の重役など何人かの従者をひきつれていた。巨頭は壁を背にして座の中心にすわる。重役たちは皇帝をかこむ陪臣《ばいしん》のように円陣をつくった。この人が杉さんなのか。この人が佐伯さんか。その席についたとき、志津子はほとんど夢ごこちだった。たわいのない会話が深遠な哲理のように胸にひびいた。巨頭たちは、「ラセーヌ」ではその権力や富をご破算にして、冗談好きの、罪のない老人に変っていた。だが、目にみえない壁を志津子らには感じさせた。男としての底力《そこぢから》というものだったのだろう。  ほかの席にいる一流企業の社長や重役がつぎつぎに巨頭へ挨拶にくる。あこがれの野球選手に会った少年のように、彼らは顔をかがやかせていた。たまたま巨頭のとなりにすわっていた志津子までが得意な気分になった。みていると、巨頭へ挨拶にきた人々は、より小さな会社の社長や重役から挨拶をうけていた。小さな会社の経営者たちも、よろこびで顔をかがやかせていた。その人たちは巨頭には近づけない。遠くからうかがいみるだけである。ふっと横のホステスをみて、 「どうや志ィちゃん。こんどわしの別荘へあそびにこいや。きみら十人ぐらいやったら、泊めたるで」  と、富を誇示したりした。  巨頭とおなじ店で飲む、一流企業のトップとならんだ席で飲む。これが男たちの夢だった。立派な人々のそばにいると、志津子でさえその仲間入りをしたような気になる。地位と富にそれなりの自信がある男なら、なおさらだろう。たしかに「ラセーヌ」は豪奢《ごうしや》な夢を売っていた。志津子たちは男の夢をいろどる花であり、蝶でもあった。  いつも緊張して志津子は客と対した。酒に酔っても、遠慮なく嬌声《きようせい》をあげるホステスにはなれなかった。座が浮き立っても、控え目に笑っているようにした。無口な客の席についたときだけ、積極的にしゃべるようにした。好色な話にも、乗っていった。 「ね、ね。男の人って、結婚してからもマスターべーションすることがあるんですって。なんでそうなるんですか。教えて」  性について質問すれば、無口な男もよく話すようになる。それはスナックバー勤務で知っていた。客との話のつぎ穂に困ることはあまりなかった。  酔って猥語を連発する客にもつきあわねばならない。関西地方の女性のセックスについての語を抵抗なく口にする必要があった。  深夜、マンションへ帰ってから、志津子はその練習をしてみた。風呂につかりながら、おめこ、といってみるのである。だが、深夜の浴室は音の反響が大きすぎる。やりにくい。一人で志津子は赧《あか》くなった。つぎにステレオでロックンロールを流した。リズムにあわせて、おめこ、おめこ、おめこ、おめこと復唱してみた。こんどはうまくいった。しらふのときはさすがにいえない。だが、酔えば自然に口にだせるようになった。 「いやあ、志津ちゃんて、すごい」  気取った同僚からは顔をしかめられた。だが、客には百パーセントよろこばれた。  衣服には気をつかった。早田ママがいつも冷たい目でホステスの服装を点検する。贅沢な衣裳はいらないが、洒落《しやれ》た服を数多くそろえなければならなかった。  家への送金は半年後からに延期した。たくさん服を買った。出勤まえ、いつも一時間鏡に向かった。髪型、バッグ、靴まで一分《いちぶ》の隙《すき》もないとりあわせでなければならない。お洒落については、かんたんに妥協できない性分である。  ある日、どうしても服装の気にいらないことがあった。服もバッグも靴も、いろいろ変えてみた。うまくいかない。どこかたるんだ気分が顔や体に出ていて、ぴりっとしないのだ。志津子は服をぬぎすてた。全裸の自分を鏡に映してみた。手入れするべき箇所は一つしかない。毛抜きをもってきて、下腹部の草むらの手入れをした。荒っぽい逆三角形だったのを、こぢんまりした、たての長方形になおした。服をきてみる。なぜかぴたりと身についていた。すがすがしい表情になって、志津子は出勤していった。  一日のつとめが終ると、やはりぐったりする。客とのつきあいがない晩は、志津子は「CHECK」でかるい食事をして帰る習慣になった。同僚とおしゃべりしたり、ピアニストの弾き語りをきいたりして、休息した。美少年のボーイを品定めするのもたのしかった。  どんなに酔っていても、志津子は「CHECK」のまえで自然に足がとまるようになった。右手に新大阪ビルがある。あるいていると、巨大なビルの重量感が頭上からのしかかってくる。自然に足がとまる。左手に「CHECK」があった。  昭和四十八年の秋になった。中東のOPEC産油諸国が、とつぜん資源温存政策を打ちだした。石油の価格が高騰した。さまざまな企業の経営状態が急速にわるくなった。日用品、食料品などの不足がいわれて、街では主婦たちが買いだめに狂奔《きようほん》した。 「日本経済は危機に直面しています。われわれの業界にも影響があらわれるでしょう。みなさんも、これまで以上に気をひきしめて仕事にはげんでください」  支配人がミーティングで演説した。  志津子たちは不安な顔をみあわせた。「ラセーヌ」へお客がこなくなるのだろうか。私たちはこの先どうなるのだろう。まさか店はなくならないだろう。だが、一般企業と同様、合理化は実施されるかもしれない。  安月給の人でもいい。相手をみつけてお嫁にいってしまおうか。そんなことを志津子たちは話しあった。しばらく心細かった。だが、「ラセーヌ」は繁昌していた。衰退の気配もなかった。それどころか、翌年の春には目のまわるような好況がやってきた。  ほとんど毎日、パーティ出向《しゆつこう》の仕事が入った。上場企業がこの年、つぎつぎに市内の主要ホテルでパーティを開催した。新社長就任披露のパーティが多かった。  石油危機によって経済の高度成長の時代は終った。これからはエネルギー源の供給の制約のもと、低成長の時代に入る。経済環境の変化に企業ははやく対応しなければならない。そういう認識で、たくさんの一流企業が経営者層の人事を一新したのである。百何十かの大企業で、社長が交代した。連日連夜、どこかで披露パーティがひらかれた。志津子たちはおそろしく多忙だった。  ホステスがいないと、パーティは殺風景になる。主催会社から北新地の主要なクラブにホステス派遣の依頼がある。「ラセーヌ」「JUN」「大田」などのホステスが数名から十数名ずつ出張して出席者の接待にあたる。経営者が店の常連である会社のパーティであれば、ママが陣頭に立って挨拶にいかなければならない。もちろん店側にも恩恵はあった。パーティの主催会社の人々や、出席した人々が帰りに店へ顔をだしてくれるからだ。ホステスたちは会場で顔見知りの出席者に挨拶したり、水割りや料理をはこんだりする。ついでに店への客ひきをやる。 「××さん、帰りに寄ってくださいね。お待ちしていますよ」  などと声をかける。用のないかぎり、あとで顔をだしてくれる客が多かった。パーティの関係者が大勢でくりこんできて、店が満員になることがめずらしくない。  パーティは午後六時からはじまるのがふつうである。だが、会場の都合などで三時にはじまる場合もある。正午からのも一時からのもあった。午前中のパーティもある。同時刻に数社のパーティがかさなる日もあった。ホステスの数が不足する。志津子も正午から夕刻まで、一日のうち三つのパーティにかけもちで出たことが何度かあった。  何日の何時、どこの会社のパーティに出席せよという指示は前日までにある。どのパーティにはどのホステスがふさわしいか、担当のママ代理が考えてわりふるのだ。パーティの手伝いに出れば、日当は出る。だが、一会場三千円ぐらいのものだった。立ちづめなので、ひどく疲れる。志津子たちにとって、ありがたい仕事ではなかった。  夕刻からのパーティには、ホステスも億劫《おつくう》がらずに出てゆく。だが、はやい時間のパーティはみんな敬遠したがる。府下の衛星都市の商工会議所や青年会議所など「イモ」のパーティにも出ていきたがらない。とくに二代目経営者の多い青年会議所のパーティが敬遠された。自分たちとあまり年齢のちがわない七光りの社長や専務を接待するのは、たのしいことではない。しかも彼らは、ホステスにたいしてしばしば横柄《おうへい》である。「ラセーヌ」にかぎらず、一流クラブの女たちはなにかと口実をつけて「イモ」のパーティから逃げようとしていた。 「ママ、済みません。急に昼の仕事が入ったの。わるいけど、きょうのパーティ、休ませてもらいますから」  昼間、ファッションモデルをしていると称する女の子は、何度かその手でパーティをサボった。  テレビの深夜ショーのカバーガールを一ヵ月つとめて、その子は得意になっていた。だが、名のあるファッション雑誌に登場した彼女の姿をみた者はだれもいない。  志津子はまじめに働いた。午前中のパーティも、「イモ」のパーティにもきちんと出た。つらくはなかった。  美しくて人気のあるホステスを、かならずしも店は大切にしない。誠実と努力がものをいうのは、この世界でもおなじだった。ママや支配人の口ぶりから、志津子はそれに感づいていた。だまって人のいやがる仕事をした。そうしていれば自分は目立つ。客の目にとまるよりも、ママや支配人の目にとまるほうが有利である。本能的にそう計算していた。株の本などをすこし読んでいた。石油危機をほかのホステスよりも深刻にうけとめていたのかもしれなかった。  働くことがたのしくもあった。貯金はほとんどできないが、洋服は増えた。一流の人物と軽口をたたきあったり、手を握りあったり、おもしろおかしい夜が多い。男に媚《こび》を売っているひけ目は、客が立派な男であればそんなに感じないものだった。経団連の首脳である老人にゆうべ頬《ほつ》ぺたにキスされた——それを知ったら田舎の父がなんというだろう。考えただけで笑いがこみあげる。「ラセーヌ」へ入ってから、両親の掌から完全に飛び立った自分を意識するようになっていた。  お客様の服のバッジをおぼえなさい。早田ママの言葉の値打が、このごろになって身にしみた。  パーティへ働きにゆく。出席者のなかに顔見知りの男がいる。会社のバッジをみる。身もとがわかる。名前を思いだすことも多い。 「しばらくでございます、××さん。先日、おたくさまの専務さん、おみえになりましたのよ。××さんもお顔みせてください。このあと、どうせ新地へ出られるんでしょう」  客ひきに成功することが多かった。おはこびだけでなく、客と話もできる。  男たちはパーティの席で顔見知りの女に会うのをよろこんだ。ほかの出席者にたいして得意な気分になるらしい。知人を志津子に紹介してくれたりする。そういう客が数人づれで店へあらわれることもあった。 「志津子を呼んでくれ。あの子にうまいことひっぱられてきた」  支配人に客がいってくれる。この稼業のよろこびである。  早田ママも、ママ代理も、志津子のそんな努力をちゃんと目にとめていた。気がつくと、上客の多いパーティや、体のらくな夕刻のパーティにばかり志津子は派遣されるようになった。カバーガールだった女の子は、午前中とイモ専門にさせられていた。ひがんで根も葉もない陰口《かげぐち》をたたく者が出た。だが、気にもならなかった。六浦興産という企業の意に叶《かな》っている自分を意識していた。  パーティの立て混んだ日の早田ママは、大きな蝶のように華麗だった。会場であるホテルの大広間へ、ホステスとはべつにあらわれる。主催会社の人々やおも立った出席者に挨拶してまわる。談笑する。  時間をみはからってホステスのだれかがママへ耳打ちしにゆく。うなずいてママは外へ出る。影のように目立たない。 「あとはおねがいね。用があったら、連絡してちょうだい」  ママ代理やホステスにいいわたす。迎えにきたホステスといっしょに、おなじホテルの、べつのパーティ会場へとんでゆく。あるいはクルマでべつのホテルへ向かう。体がいくつあっても足りない。ハイヒールをきれいにさばいて、小走りに去ってゆく。昼から夜までパーティ。店が終ったあと、客と食事にいったりもする。ほとんど眠るひまもないらしい。ママの顔色はわるかった。  それでも去ってゆくうしろ姿に、幸福感がみなぎっていた。多忙であることの倖《しあわ》せだった。志津子はいつもため息をついて、ママを見送った。いつか自分もああなりたいと思う。だが、ママは六浦興産の社長の愛人といわれている。大金持の実業家の二号さんになってまで出世しようとも思いきれない。  なにが女の倖せなのか。考えても志津子にはわからない。とりあえずは仕事である。ママの姿が階段へ消えると、志津子は笑顔になって会場へひきかえした。     4  黄金の嵐のようなパーティの日々は、あとで思うと、きびしい不況の予告だった。  各企業の新社長は例外なく経営の合理化に熱中した。赤字部門の切りすてや人員の削減が一つの流行のように実施された。レイオフとか窓ぎわ族といった言葉が、志津子らの耳にも入るようになった。あの会社があぶない、この会社もあぶないという噂《うわさ》が絶えなかった。名門の「ラセーヌ」からも、すこしずつ客足が遠のいていった。  一流企業の経営者たちも、以前のように派手に交際費をつかえる立場ではなくなった。どこの会社の交際費も、皮を剥《は》ぐように削《けず》りとられていったのである。  一部の景気のよい中小企業主のほうが「ラセーヌ」の常連客として生きのこった。彼らは好きなように会社の金がつかえる。労働組合に気がねもいらない。中小の薬品商社とか、鉄工所の社長が新しく「ラセーヌ」の客となった。以前からの馴染みのような顔で彼らは頻繁《ひんぱん》にやってきた。だが、急に姿をみせなくなる者がいる。その会社がつぶれたことがわかる。「ラセーヌ」ではホステスは集金業務をやらなくてもよい。事務所がそれをやる。だから志津子たちは倒産の情報にそれほど神経をとがらさなくても済んだ。若いホステスはまだ呑気《のんき》だった。古くからいる女たちは、感慨をこめて男たちの栄枯盛衰《えいこせいすい》ぶりを語りあっていた。  六浦興産の社長は、時流を読むのに敏な人物だった。各企業の、いずれトップとなる人物を比較的若いころから優遇して、一流の客をつかむことに成功した。マスコミ関係者や文化人を大事にした。おかげで「ラセーヌ」は夜の商工会議所として有名になった。  北新地の名門クラブはほかに「大田」「JUN」の二店があった。「大田」は格式、見識の高さが売り物だった。その商法は「大田の威張《いば》り取り」といわれた。「JUN」は下にもおかぬ接客を売り物にした。「JUNの拝み取り」と評されていた。「ラセーヌ」は「PR取り」であった。店の宣伝になる人物を優遇して、料金を高いと感じさせない華やかな雰囲気をつくりあげていた。  機をみるに敏な六浦社長が、時代の変化を茫然とみているわけがなかった。不況が深刻になる以前に、合理化に着手した。  傘下のクラブ「シャンデリア」を「ラセーヌ」に吸収合併させた。「シャンデリア」は歴史こそあさいが、五十名のホステスを擁《よう》するきらびやかな店だった。社長はそれをつぶしてサラリーマン向きのパブに変えた。高級クラブという日本独特の営業形態はやがてすたれる。近い将来北新地は大衆化して、パブやスナックバーの街に変るだろう。そういう見通しだったといわれていた。  二つの大きな店が合併した。当然ホステスに余剰人員が生じる。三十名以上が整理されたり、系列下のよそのクラブへ移されたりした。ちやほやされて浮かれていたホステスは、この時期ほとんど姿を消した。あの子もやめた、あの人もクビになった。話をきくたび志津子は、華やかな店の内装を透《すか》して、企業の冷たいコンクリートの壁が目に入るような気がした。志津子自身は給料がアップした。何人もの先輩がやめて、店での序列もかなり上になった。だが、こんな環境で気をぬけるものではない。笑顔や物腰にゆとりが出たと人にはいわれた。だが、心の張りは入店当時とあまり変っていなかった。  合併を機に早田ママが退職した。六浦興産をやめて、東京で自分の店を出すのだという。ベテランホステスの木暮《こぐれ》まゆみが新しくママになった。まゆみは自己抑制のきいた、さっぱりした気性《きしよう》の女だった。おちついている。はしたなく嬌声《きようせい》をあげたりしない。おだやかに座をとり仕切る。後輩の面倒見がよかった。入店の序列は四、五番目だったが、先輩をとびこしてママに起用された。序列の上だったホステスの二人が、面目《めんぼく》をうしなって店をやめた。木暮ママは六浦興産の副社長の愛人だったから出世したと陰口をたたく者もいた。だが、ほとんどのホステスはすなおに木暮ママの登用をよろこんでいた。  支配人も変った。福原支配人が社外からスカウトされてきた。映画会社の営業部に長年彼は勤務していた。不振の映画産業に見切りをつけてこの道へ入ったという話である。話しかたにも物腰にも水商売の垢《あか》が感じられない。評判のよい支配人だった。  流行の減量経営に切り換えて、「ラセーヌ」は再出発した。世の中は不況がつづいた。安宅産業、永大産業、興人、日本熱学ら名のある会社がつぎつぎに倒産した時代だった。不動産業で成功し、山口県の新聞社を買収したり、女優の有馬稲子と結婚したりした人物も、まもなく倒産して北新地へあらわれなくなった。 「ラセーヌ」には一部の中小企業主のほか、医師、建築家などの客がふえた。青年会議所の若い経営者たちも、よく顔をみせるようになった。全般に客が小粒に変った。財界の大物などは年に二、三度、思いだしたように姿をみせるだけである。サントリーの佐治敬三、ワコールの塚本幸一、ダイキン工業の山田稔など比較的若い財界人がときおりあらわれて、店の雰囲気に厚みをつけた。佐治、塚本はホステスに関係の深い業界の経営者である。他業種の経営者よりもたのしみかたが洗練されていた。ホステスたちにもっとも歓迎される客だった。  以前ほど華やかな、あわただしい雰囲気はなくなったが、「ラセーヌ」はまだ名門の面目をうしなわずにいた。外目《はため》には安定した営業がつづいた。ホステスの退社、入社もそんなに頻繁《ひんぱん》ではなかった。合併から二年たって、志津子はやっと自分を一人前に感じられるようになった。贔屓《ひいき》にしてくれる客も、何十人かできた。ずいぶん口説《くど》かれた。拒《こば》んでばかりいた。拒まれて客がはなれてゆくのは、仕方のないことだった。つかずはなれず、友達づきあいにもってゆくのが腕である。それができるようになって自信が生じた。  店を出させてやるの、マンションを買ってやるのという話にだまされて、あそばれた同僚がけっこういる。客と同僚の小さな浮気の兆候や噂話はいくらでもあった。仲間入りする気にはなれなかった。ミナミのスナックバーのマスターとつきあって、志津子は自分が好色な女であることを知っている。小さな浮気がセックスの深淵につながりかねない。それが恐かった。二度か三度、深夜ディスコで知りあったゆきずりの男とホテルへいったこともある。そんなにたのしくなかった。毎晩男たちと軽口をたたきあったり、好色な話をきかされたりしていると、セックスに一種の免疫ができてしまう。もちろん恋人はほしい。だが、肉体的な欲望はほとんどなかった。むしろ昼間街をあるいているとき、Tシャツにジーンズの若者や、ブルーのスーツの青年に新鮮な欲望を感じることがある。  合併して三年目に志津子ははじめて客と恋愛をした。賀川という医師が相手だった。中ぐらいの病院の院長である。  賀川はそんなに古い客ではない。一年まえ、ある上場企業の重役につれられて、はじめて「ラセーヌ」へやってきた。月に二、三度あらわれるようになった。志津子を気にいって、いつも席へ呼んでくれた。ロマンスグレーの上品な紳士である。ほかにホステスがいても、志津子にばかり話しかけた。目がやさしい。好色な話はあまりしなかった。  何度か食事をともにした。店が終ってから深夜営業のピアノバーへいっしょにいくこともあった。賀川は口説かなかった。気をひくようなこともいわない。ときおり志津子の手にさわったり、肩を抱いたりはする。それだけである。不審にかられて、志津子は彼の横顔をうかがったりする。  賀川の家は西宮《にしのみや》にあった。深夜いっしょにあそんだときは、いつも吹田《すいた》までまわり道して志津子を送ってくれた。マンションのまえでタクシーがとまる。だまって賀川は志津子の手を握った。それだけで帰っていった。お茶を飲ませろなどといったりはしない。  秋から冬への変り目、志津子は風邪をひいた。ひどくならないうちに一日店を休んだ。朝からじっと寝ていた。テレビをみたり眠ったりしていた。夜になると、店のことが頭にうかんだ。とりのこされた気分になる。わけもなく不安で仕方がなかった。  テレビのイレブンPMが終った。一階上の部屋に住んでいる北新地のホステスが帰ってきたらしい。水洗トイレの水を流す音が大きくきこえた。いろんなことを考えた。いつのまにか志津子も二十六になっていた。このままで将来どうなるかと思うと、心細い。結婚するのかしないのか、なにもわからない。ずっと一人暮しなのだろうか。  電話のベルが鳴った。いぶかりながら志津子は受話器をとった。同僚のだれかがかけてきたのだろうか。うれしかった。  賀川だった。酔っていた。いつものピアノバーにいるらしい。「ラセーヌ」へいって志津子の病気を知った。心配で電話せずにはいられなかったという。こんな時間に非常識だったかな。起してわるかった。賀川は気をつかっていた。 「おれはこの一年、きみに会うために北新地へ出ていたんだ。今夜それがよくわかったよ。きみのいない北新地なんてちっともおもしろくない。ネオンの砂漠だ」 「おねがい賀川先生。たすけにきて。私、さびしいの。先生に会いたい」  志津子はさけんだ。あとさきを考える余裕がなかった。  賀川はおどろいていた。うわずった声になった。すぐに電話が切れた。  志津子はベッドからおりた。部屋をかたづけた。シャワーをあびた。かみそりで下腹部の草むらをかたちよくととのえた。新しいガウンを着て賀川を待った。気がついて、ステレオのFM放送のスイッチをいれた。  賀川がやってきた。シクラメンの花束をもっていた。ピアノバーにかざってあったのを強奪してきたという。ならんで二人はソファに腰をおろした。賀川は志津子のひたいに手をあてた。ついで脈をはかった。口のなかをみる。ポケットから薬をだしてくれた。 「かるく済みそうだ。あした一日寝れば、完璧になおるよ。きょうやすんだのが、非常によかった」 「先生の顔をみたら、もうなおりました。けど、風邪はうつるかもしれませんよ。平気よね、先生は名医なんやから」  賀川の胸に志津子は顔を寄せていった。  くちづけをかわした。賀川は志津子のガウンの中をさぐりにきた。すすんで志津子はガウンをぬいだ。賀川のひざの上に横向きに乗る。両手で賀川の首に抱きついた。ストーブの芯《しん》が、かがやいている。さむくはなかった。賀川の手が、双《ふた》つのふともものあいだにすべりこんできた。あっと思った。五つの異った生き物のように賀川の指がうごめいた。快感が掘りかえされ、渦《うず》を巻いた。やっぱりお医者さんだ、女の体を知りつくしている。志津子はそう思った。声が出た。体をのばして、反《そ》りかえっていた。  気がつくと、いつのまにか志津子は絨毯《じゆうたん》の上に寝て、下半身を賀川にあずけていた。大事なところに賀川は見入っている。志津子は恥ずかしくなかった。相手はお医者さんなのだと自分にいいきかせた。みられることに快感がなかったわけではない。  くちびると舌と指で賀川はたっぷり可愛がってくれた。賀川のほそい指がうしろの窓へ入ってきて、これまで知らなかった快感を教えてくれた。  やがて志津子はベッドにはこばれた。賀川が服をぬいでのしかかってくる。志津子は両足を高くあげさせられた。賀川の肩に両足を乗せた。その姿勢で賀川はじっと志津子をみつめる。賀川がやさしいのか荒々しいのか、志津子はわからなくなった。快楽がおしいってくる。下のほうから頭まで志津子はつらぬかれていた。賀川は動きだした。志津子の両足をかかげさせたまま動き、手指で真珠の粒を刺戟してきた。じっと志津子をみつめながら、賀川はそれをつづけた。  何度も志津子は気が遠くなりかかった。久しぶりだということもある。だが、賀川の愛情に感応《かんのう》したのが快楽のいちばんの原因だった。軽薄で不実な情事の世界にいるだけ、志津子は愛情に飢えていたのである。 「五十にもなって、女の子をまともに好きになるなんて思わなかったよ。きみのおかげで案外うぶな自分を発見できた。うれしいよ。若返った気分になる」  いつまでも賀川は志津子の髪を撫でていた。安心して志津子は眠くなった。  午前三時に賀川は帰っていった。また志津子はひとりになった。階上の部屋の水洗トイレの水音が耳についた。だが、こんどはなにも考えずに眠ることができた。  賀川は週に一、二度ずつ「ラセーヌ」へやってくるようになった。  土曜日には午後四時ごろ市内のホテルで落ちあった。セックスと食事をたのしんだ。ウィークデイには、夜九時ごろ賀川が店へやってきた。勤務の終ったあと、志津子のマンションで待ちあわせる。賀川はあすの仕事にさわるので、午前二時には帰っていった。若い男とはちがう。デートの時間が賀川にはほとんどなかった。賀川の社会的立場を考えなければ。志津子は自分にいいきかせた。  賀川との仲をだれにも察知されないよう気をつかった。賀川が店へやってきても、つとめてさりげなく応待した。最初から最後までべったり彼の席につくようなまねはつつしんでいた。だが、ある晩、木暮ママにすべてみやぶられているのがわかった。 「志津ちゃん、あんたここへ入って何年になったっけ」  なにかの拍子にママに訊かれた。四年たちましたと志津子はこたえた。 「ふうん。もうそんなになるの。じゃ、いい人ができても当然よね」  賀川さんならわるくないわ。あなた、目が高いわね。ママは笑っていた。  賀川のそばにいるとき、志津子はいちばん緊張感のない顔になる。接待をお留守にしてぼんやりする。だからわかったという。 「むかしお女郎さんは、好きなお客と寝る夜だけ熟睡できたというわ。それとおなじなのよ。いい人がくると、ほっとして仕事ができなくなるの。いえ、それがいけないといっているんじゃないのよ」 「おそれいりました。けどママ、例《たと》えがよくないわ。お女郎さんやなんて、傷つきますよ。私のプライドはもう滅茶滅茶」 「あ、ごめんなさい。ある小説家がそう書いてたのよ。でもさ、一面の真理をついていると思わない」  たしかにそうだった。ホステスは、深い仲の男が店へくると、くつろいでしまう。懸命に接待しない。口数がすくなくなる。  まわりをみると、それがよくわかった。三十数人のホステスの七割ぐらいが、そうした他人でない客をもっていた。 「ラセーヌ」へくる客の数は、一日平均百名くらいのものだろう。月曜から土曜まで、のべ六百名ということになる。ホステスの「旦那」はうち約三十名。彼らは平均週に一度、店へあらわれる。  六百名の客のうち、いい思いをするのは三十名にすぎない。なかには複数のホステスを相手にするプレイボーイもいるようだが、数はほんのわずかなはずだ。せいぜい五、六名だろう。五百六、七十名は店へきて、酒を飲んで帰るだけである。「夢を買って」帰ってゆく、そういう客のほうが店の売上げをささえている。彼らの顔は、ホステスには一万円札にみえる。だから、懸命の接待をうける。男の顔をした客は、ホステスをむしろ休息させにくるのである。  賀川のそばに腰かけていると、志津子はそれがよくわかった。パーティ帰りのお客が団体で入ってくる。おびただしい一万円札が、風とともに舞いこんできたような気がする。団体のお客が去ってゆく。おびただしい一万円札が、彼らの去ったあとに舞い立っているように思う。志津子はぼんやりそれをみていた。居心地のよい賀川のそばから立つ気になれない。お金をひろいあつめるのは他人にまかせるという心境だった。  賀川とそうなって二年後、志津子は系列のクラブ「風車」へ出向がきまった。ママ代理を命じられた。 「風車」は「ラセーヌ」よりも若い客層をねらった営業をしていた。ホステスも二十歳そこそこの子が多い。二十八歳の志津子が管理職になっても、不自然ではなかった。緊張して志津子は「風車」へ移った。この世界の出世の階段に足をかけたのがわかった。ママ代理を無難にこなせば、やがてママだ。「ラセーヌ」のママ代理になる道もひらける。張合いがあった。賀川と今後何年つきあっても、結婚できる希望はない。サラリーマンと結婚して、団地の主婦になる気もない。どうせこの世界に住みついたのだ。一人でもやってゆける地歩を固めておきたかった。  管理職になると、クラブというものの風景が一変して目に映った。「風車」には二十五名のホステスがいた。彼女らの一人一人について、あらゆる情報をママやママ代理はつかんでおかねばならない。ホステスたちの家族調書に目を通すようになった。一人一人の性格をのみこんだ。このお客にはこの子をあてがう。このお客にはこの子は向かない。店のすみずみまでいつも目をくばらねばならない。  人気のない客は、率先《そつせん》して自分がひきうけた。店のためにならない客には、高い請求書を出して遠ざかるように仕向ける。あまり働かないホステスは店をやめさせる。よさそうな女の子をスカウトしてくる。今月の売上はいくら。収支はこれこれ。経営に参画《さんかく》できるので、張りあいがあった。いちばんはやく出勤して、いちばんあとに帰宅する。志津子は一日中小走りに動きまわった。  賀川は以前と同様、週に一、二度ずつ「風車」にやってきた。「風車」は「ラセーヌ」のとなりのビルの地階にある。「ラセーヌ」の客が流れてくるのをあてこんだ場所だ。 「風車」にあらわれると、賀川は二度に一度のわりで「ラセーヌ」へも足を向けた。さきに向うへ寄ってくることもあった。店そのものは当然「ラセーヌ」のほうが好みだった。「風車」へくるのは志津子に会うためだった。立場上、以前のように志津子は賀川に寄りそってばかりいられない。店へきた賀川と十分ぐらいしか話をしないこともあった。けっしてなおざりにしたわけではない。賀川はわかってくれているはずだった。  ある晩、賀川は一時間ばかり「風車」にいて腰をあげた。志津子は店の外へ送って出た。「ラセーヌ」へ寄ると賀川がいうので、その玄関までいっしょにあるいた。 「きょうは疲れた。まっすぐ帰るよ。マンションには寄らないからね」  賀川はささやいた。未練をこめて、志津子は彼の手を握りしめた。 「ラセーヌ」のホステスが三、四人、店のまえへ客を送りに出ていた。彼女らに迎えられて賀川は店内へ消えた。由香《ゆか》という子だけがのこった。志津子より三年ばかり先輩のホステスである。当時のママ代理だった。 「志津ちゃん、話があるんやけど」  由香は近づいてきた。  彫りの深い顔立ちの女だった。あかるく、勝気《かちき》である。客にもはっきりものをいう。 「賀川さんのことやけど、私、彼をいただいてもいいかしら」  おどろいて志津子は由香をみつめた。硬い顔で由香は立っている。 「ラセーヌ」で賀川の席へ由香がよくつくことは知っていた。志津子は気にもとめずにきた。賀川と志津子の仲は古いホステスならみんな知っている。由香と仲がわるかったわけでもない。こうなるとは思わなかった。 「いただくって、どういう意味。あんたたちもうデキてるいうの」  まあね。由香はこたえた。無表情だった。鼻が妙に高くみえた。  志津子は体のなかがまっ赤になった。赤い焔《ほむら》が腹のなかから、のどもとまでわっと立ちあがったような気がした。まぶしかった。夢中で志津子は口走った。 「ええ、あげるわ。好きなようにしィ」  きびすをかえして「風車」へ帰った。  トイレへ駈けこんだ。鏡に映った自分をみつめる。あふれかかる涙を、ぎゅっと顔をしかめておさえこんだ。なんでやのん。なんでこんなことに——。鏡のなかの自分に問いかける。責めるような調子になった。自分がわるいのだと思った。いままでなにも気づかなかったのがバカだったのだ。  志津子は体の力がぬけた。ぐったりして便器に腰をおろした。体とは反対に、心のほうが険悪になった。由香を刺し殺してやろうかと思う。あの子のマンションをたずねて、ナイフで刺し殺してやる。  扉をノックする者がいた。いそいで志津子は立ちあがった。鏡にむかって、えーいと掛声を発する。笑顔になった。いつもと変りない笑顔である。自分でも恐いほどだった。陽気な声をあげて志津子は客席へもどった。  もちろん志津子は電話で賀川を責めた。会って直接話しあいもした。 「�風車�へいっても、志津子はちっともうれしそうじゃない。おれの席にこないこともある。ママ代理ともなれば、おれがついていては出世のさまたげかと思ってね」  賀川にそういわれた。店でのあしらいが冷たくなったと感じていたらしい。 「ちがうよ。先生に背中向けてても、心は先生のほうを向いてるのに。そんなこと、みんなわかってくれてはる思うてた」 「おれをあげると由香にいったそうじゃないか。立派だよ。志津子のいさぎよさに感心した。もちろん愉快じゃなかった」 「なにいうてるの。売り言葉に買い言葉やないの。なさけないわ。先生、なんでわかってくれへんの。そんなに私がきらい?」  賀川は気のやさしい人物だった。  そうやって話しあうと、志津子のマンションへやってくる。だが、由香にせがまれた夜は向うへいってしまう。凧《たこ》みたいにふらふらと双方をゆききしていた。志津子はやっとわかれる決心がついた。賀川の優柔不断をみて、急速に心が冷えていった。  わかれにあたって、賀川は百万円の小切手を切ってくれた。二年間、志津子は賀川に経済的な負担をかけたことがなかった。金をせびるのがいやだった。二度の誕生日にそれぞれ三十万円ぐらいの腕時計とトパーズの指環をプレゼントされただけである。  だが、小切手を手にして志津子は歯ぎしりした。いままでもっと賀川に金をつかわせるべきだった。最後にこんな仕打ちをうけるのなら、遠慮する必要はなかったのだ。男からもらう金は保険金だった。要求しても、けっしていやしくはない。こんどいい人ができたときはうまくやろう。志津子はひそかに心に期するものがあった。  弁護士の浅野康彦と深くなったのは、賀川とわかれて一年半後のことだった。  浅野は「ラセーヌ」から流れてきた客ではなかった。同業の友人といっしょに、はじめて「風車」へやってきた。浅野は賀川のようなおだやかな紳士ではなかった。五つ以上年齢が若いだけ、威勢がよかった。ホステスにたいして遠慮のない口をきいた。  表面をとりつくろわない。率直で、せっかちだった。はじめて会った晩から、浅野は志津子が気にいったらしい。週に二度も三度もやってくるようになった。金曜日ごとに志津子は彼と食事をともにするくせがついた。 「おれの恋人になれよ志津子。男がいるのやったら、わかれてつきおうてくれ。大事にするぞ。絶対に後悔はさせへん」  浅野はせまってきた。照れて、あさぐろい顔を赧《あか》くしていた。  セックスもうまいぞおれは。浅野はつけ加えた。志津子は笑ってしまった。うまいぞ、といわれて、そうですか、それならと乗り気になれるわけがない。少年のようだ、と志津子は思った。はぐらかすにはいちばんらくな種類の客だった。  半年ばかり熱心に浅野はやってきた。そのあと、ばったりあらわれなくなった。志津子は彼の事務所へ電話をいれてみた。 「どうせ叶《かな》わんのなら、通うてもむだやと思うたんや。未練がましい男と女は、商売がらうんざりするほどみてきた。依頼者のようになりとうないのや、わしは」 「どうせ叶わんなんて、勝手に思わんといてください。一日千秋の思いでお待ちしてるんですよ。人の気も知らんと」  本音だった。浅野の足が急に遠のいて、志津子のほうが未練にとらわれていた。  浅野が月二、三度程度の客なら、店へこなくなってもたいして気にならなかっただろう。だが、浅野は濃密な常連客だった。この半年間、店で彼の顔をみるのが当然のようになっていた。それが急にあらわれなくなった。浅野が惜しくなった。好きになったのと判別しにくい感情であった。  宝塚の旅館で、志津子ははじめて浅野に抱かれた。自慢していたとおり、浅野のセックスはすばらしかった。  技巧は賀川と五十歩百歩だったが、浅野には旺盛な体力があった。熱い鉄のような男性をもっていた。正面から入ってきて志津子を泣かせる。揺すりあげる。ついで側面からも責めてくる。あられもない恰好《かつこう》をさせられて恥ずかしいが、快感も大きい。最後はうしろからつらぬかれた。体の奥のほうでこれほどの快楽をおぼえたのは、志津子ははじめてだった。泣きながら志津子は寝床から這《は》いだして、電話機をはねとばしてしまった。畳に爪を立てた。浅野の男性は活力を吐きだしてからも、まだ熱く硬かった。木の枝につらぬかれた虫のように、志津子は自分を感じることができた。志津子が満足し、疲れはてても、浅野は愛撫をやめなかった。胃の内容物をむりやり吐かせるような感じで、体の奥から快楽をしぼりだす。志津子は泣きじゃくって、声がかすれる。浅野とは当分はなれられまいと志津子は思った。週に一度は彼に抱かれるようになった。  浅野は志津子の両足を高くあげさせて交わるのを好んだ。うしろを向かせ、背を丸くさせて侵入するのも好んだ。でんぐり返りを途中で停めたような姿勢で結合してくることもあった。 「おまえを団子《だんご》みたいに丸くするのが好きなんや。丸めて可愛がってやる」  いつも志津子は裸で丸くなった。こわされてしまいそうな感覚が、たまらない快楽だった。  新しい恋人ができて、志津子は感情が安定した。以前にも増してよく働いた。だが、店の成績は思うにまかせなかった。  志津子がママ代理になる以前、「風車」は半年ばかり赤字つづきだった。志津子が移ってきて以来、決算は一進一退になった。一年を通算すると、わずかながら黒字になった。むろん志津子ひとりの手柄ではない。だが、志津子が献身的に働いて、店に活力をあたえたのはたしかだった。志津ちゃんは将来、本店のママになれる人や。六浦興産の重役に、そういって肩をたたかれたこともある。  二年目にも景気は一進一退だった。通算は赤字になった。ずいぶん努力したのだが、時代の大勢には勝てない。雨の土曜日、閉店まで一組しか客のこないこともあった。浅野と深くなったのは、この時分である。  三年目も似たような状態だった。ホステスを一部入れかえたり、彼女らにギターのレッスンをうけさせて演奏させたり、積極的に客へ電話したり、いろいろ志津子たちは工夫してみた。なんとか黒字が出そうになった。  だが、年があけてまもなく、「風車」は閉店ときまった。ママにも志津子にも寝耳に水の決定だった。  六浦興産の傘下にあるすべての酒場の連結決算が赤字である。打開のため、「ラセーヌ」以外のクラブは閉じることにした。こんどは少数精鋭で、難局を乗りきろうというわけである。再度の事業縮小だった。 「風車」のママはいまさら「ラセーヌ」の一ホステスがつとまる年齢ではなかった。誇りもゆるさない。辞《や》めていった。志津子は帰り新参で「ラセーヌ」へもどった。 「ラセーヌ」のママ代理だった由香も、こんどの事業縮小を機会に辞めていった。スナックバーを開店するらしい。賀川と由香はまだつづいているようだ。  賀川はいまもときおり店へやってくる。呼ばれても志津子は彼の席へいかない。わざとほかの客と親しいふりをする。  志津子について、浅野は「ラセーヌ」の客になった。彼のそばにすわるときだけが、志津子の休息の時間である。  木暮まゆみママもこの時期、退職した。由香とならんでママ代理だった望月陽子が新しいママに就任した。だが、その陽子ママも一年で退職した。売上制の導入にあくまでも反対して、店を追われたのである。     5  売上制が導入されて、最初の十二月になった。「ラセーヌ」の店内は、昨年と変りなくにぎやかだった。  忘年会帰りの客が多い。パーティの流れのお客もくりこんでくる。バンドは三十分おきにクリスマスソングを演奏した。酔ったアメリカ人の客が、演奏にあわせて「ホワイトクリスマス」をうたったりした。  ホステスたちはドレスや着物のすそをひるがえして客席から客席を泳ぎまわった。十人づれ、二十人づれの客がくりこんでくると、志津子は十年まえの好況期を思いだした。  客席がいくら混んでも、店内にむかしの栄光はなかった。超大物の財界人があらわれない。むかし「ラセーヌ」の格をあげた巨頭たちも、老いてほとんどが引退した。故人となった者もすくなくない。ほかの客が畏敬《いけい》の念をもって巨頭をちらちらうかがう光景など、いまは想像もつかなかった。  ホステスたちの数も減った。十年まえは約五十名のホステスがいて、色とりどりの衣裳で客席をかざり立てていた。いまはたった十八名である。女優やモデルに負けない美女がいるわけでもなかった。  むかしはいくら店が混んでも、ホステスたちの衣裳が客の服装を圧倒して、華やかな雰囲気をかもしだしていた。いまはちがう。グレーとかブラウンとか、客のしぶいスーツの色が客席の色彩の主調である。ホステスたちの衣裳は、男たちが身にまとう服のくすんだ色合に点々と変化をつけているだけだった。  客の会社のバッジをすばやく識別する子もいまはいない。客の仕事の内容や、趣味、家族構成などを憶《おぼ》えようとするホステスもいなくなった。ブランデーの注《つ》ぎかたも、若い子は知らない。オードブルをむりやり客の口へおしこもうとする。客の名をまちがって書いて年賀状を出す者もすくなくなかった。 「もう二年もしたら、社長にもセックスさせてあげるわ。経験つんで味もようなってるやろからね。けど、いまはいややで。若い彼氏ができたばっかりなんやから」  一部上場企業の社長に向かって、奄美大島出身の小娘がそんなことをいったりする。  相手がどれだけの人物なのか、小娘にはすこしもわかっていない。教育する者もいない。躾《しつけ》にこだわると、若いホステスはすぐ辞《や》めてしまう。高給でさそいにくる店がいくらでもある。それらの店は売上制である。ホステスは集金の責任を負わされる。五百万、六百万と未収金がたまると、回収のため雄琴《おごと》のソープランドで働かされるようなこともあった。  だが、「ラセーヌ」にいるかぎりでは、そんなことはわからない。若いホステスはただ強気《つよき》である。わが世の春だと思っている。売上制の実施を機会に古いホステスが十人近くも店をやめたり、やめさせられたりしても、若い女の子はあっけらかんとしていた。  年があけた。師走《しわす》のにぎわいが嘘のように店はひまになった。不況はほんものだった。松の内がすぎると、たった二十名のホステスが手持無沙汰をかこつ日がつづいた。かつてあれほど華やかだった店内に、否定しようのない黄昏《たそがれ》の色がにじんできた。  新しいママも志津子たちも懸命だった。売上制に追われてもいた。毎日、客のもとへ電話をかけた。だが、二つ返事で店にきてくれるのは、浅野のように、とくべつ親密なホステスが「ラセーヌ」にいる客だけだった。 「最近、景気わるいさかいなあ。新地に出る元気もなくなってきたわ」 「そやから社長。たまにはぱあっとやりはったらどうですのん。私らもヒマ。元気ないの。ね、いっしょに発散しましょうよ」 「けど、�ラセーヌ�も世智辛《せちがら》い店になったさかいなあ。女は品がわるうなった。店の調度《ちようど》は古い。床をゴキブリが這《ほ》うとる。経営者がもうヤル気をなくしたんとちがうのか」  電話で連日客とそんな話をした。 「ラセーヌ」は夢を売る店ではなくなっていた。売上制のおかげで、ホステスは神経質になった。内装や椅子テーブルも、オープン以来変っていない。「伝統」が売り物だからわざと古い椅子テーブルをつかうのだと客には説明してあった。だが、よそのクラブの贅沢《ぜいたく》な内装、調度をみている客には、「ラセーヌ」にはもう営業の意欲がないと映るらしい。かつて「ラセーヌ」と北新地の覇《は》をきそった「大田」や「JUN」も、店じまいしたり、みる影もなく縮小したりしている。トイレのおばさんも年末いっぱいでクビになった。「ラセーヌ」のトイレには、客におしぼりをだしたり、手洗いの水道の蛇口をひねったりしてチップをもらう名物のおばさんがいたのだ。  売上制の導入は完全な失敗だった。ホステスも客もそれをよろこばなかった。トラブルだけが相変らず続発した。  山村という客がいた。水道器材の会社の重役だった。同志社出だのゴルフ部員だの、嘘ばかりついているルミ子が、山村を担当していた。ルミ子は一度他店へ移る決心をしたが、その後の交渉で条件が折りあわなかったらしい。十一月、数日休んだだけで、また「ラセーヌ」で働くようになっていた。  ある晩、山村が中野という客とつれだってきた。建材会社の社長だった。志津子がその席へいって接待した。こうした場合,中野は志津子の担当の客となるきまりだった。中野もそのつもりでいた。  志津子は三度ばかり中野へ電話して店へ呼んだ。中野は三度とも山村をつれてやってきた。帰りぎわ、二人は善意の争いをした。 「わしがさそうたんや。わしが払います」 「いや、中野さん、そらあかん。ここはわしの顔を立てとくなはれな」  二人が争っているまに、ルミ子はさっさとレジで伝票の用意をさせた。  山村がサインするようにもっていった。山村のサインがあれば今夜の売上げはルミ子の実績になる。だが、中野がサインすれば実績は志津子のものになってしまう。ルミ子は欲をむきだしにしていた。同志社もゴルフ部も、いまは面影がなかった。  三度目に二人が店へきたとき、中野は自分のクレジットカードを志津子にわたした。これで勘定してくれという。山村も今夜は中野にまかせる気になっていた。  志津子はカードをもってレジへいった。ところがさきにルミ子がそこへきていた。 「——番のお客さん、いつものように山村さんのサインにしといて。山村さんよ」  レジの係にルミ子は声をかけていた。  こんどは志津子も腹にすえかねた。山村はルミ子の客。中野はその枝葉《えだは》である。だから、いままで苦情はいわなかった。ルミ子はそれをいいことにしている。 「あんた、いいかげんにしなさいよ。毎度毎度私にただ働きさせる気なの。中野さんがこうしてカードまで出しはったんやから、おまかせしたらいいやないの」 「けど、中野さんは山村さんがつれてきはったお客さんよ。二人がごいっしょのときは、山村さんのサインのほうが自然やないの」  ルミ子もそれなりの理窟で応酬してきた。  客を店のまえまで送った秋子ママがもどってきた。二人から事情をきいた。処置に困ったらしい。支配人へ相談しにいった。その間に山村と中野は帰っていった。結局今夜も山村が伝票にサインしていった。  十分後、志津子とルミ子は事務所へ呼ばれた。デスクが二十以上あるひろいオフィスである。すみに応接用の小部屋があった。  福原支配人が待っていた。今夜の山村と中野の飲食代金は、金額を二等分する。平等にルミ子と志津子の実績にする。二人ともそれで了承してほしい。そう支配人は話した。 「いいんです。みんなルミちゃんの実績にしてあげてください。私は要《い》りませんから」  志津子はいった。こんなトラブルをおこしたことで自己嫌悪にかられていた。 「いや、それはいけません。不満をのこしては今後の仕事にさしさわります。お二人とも一歩さがって妥協してください。二等分して、恨みっこなしにしましょう」  握手してください。福原は二人にいった。  冗談やないわ。子供みたいに。志津子は身の毛のよだつ思いだった。そんな白々しいまねができるものか。自己嫌悪がいっそうひどくなってしまいそうだ。  ルミ子が手をだしてきた。にこにこしている。さ、志津子さん。福原が横からせき立てる。仕方なく志津子は握手に応じた。ルミ子は握りしめてきた。さむけを感じて、志津子はいそいで手をひっこめた。   「——おい志津子。なんぼ売上制になったかしらんが、おれのまえで爺《じじ》ィとでれでれすることはないやろ。こっちはいい面《つら》の皮や。どんな顔で飲んでたらいいのや」  ある晩、店で浅野康彦に文句をいわれた。そばに人のいないときだった。  建設会社の会長がさっきまできていた。志津子の肩に腕をまわしたり、脚にさわったりして飲む老人だった。女を抱ける年齢でもないのに、やることはけっこう若い。  途中、浅野が店へ入ってきた。運わるく、志津子らの正面にすわった。老人に体をさわられる志津子の姿がいやでも目に入る。志津子はすぐにも立って、浅野のそばへいきたかった。だが、老人がはなさない。にこにこして志津子は応待せざるをえない。この商売をやっているかぎり、めずらしくもない情景だった。そんなことで浅野が腹を立てるとは、考えてもみなかった。  ところが浅野は怒っていた。あてつけられたように感じたらしい。 「なにいうてるの。あんなお爺ちゃん、私が問題にするわけがないやないの。早うこっちへきとうて、あせってたんよ。私の気持、わかってるくせに」 「いや、わからん。なにしろ売上制や。金をもってるやつに女はなびく。おまえかて、あの爺ィに懇願されたら、あそこを舐《な》めさすぐらいはするんとちがうか」  志津子は怒りで全身が熱くなった。  悲しみと落胆のいりまじった怒りだった。みくびられたと思った。浅野の心のなかで、志津子はどうせ水商売の女だった。金をつんで口説かれれば、顔にしみの浮いた老人にでも抱かれるだろうと思われている。一途《いちず》に浅野を想っているつもりだが、その想いを浅野自身にひくく見積られていた。 「先生、なさけないこというのね。よくそんなことが。恥ずかしィないの」  志津子は立って客席を出た。  化粧室でたばこをふかした。気をおちつけてから、ほかの客の席へいった。浅野先生がお呼びですよ。ボーイが耳打ちしにきた。志津子は無視して動かなかった。  勤務が終った。べつの客にさそわれるまま、志津子はカラオケ酒場へあそびにいった。午前二時、マンションへ帰った。扉の下に紙片がさしこんであった。 「きょうは済まなかった。どうかしていた。めずらしく焼餅をやいた。あやまろうと思って一時半まで待った。おやすみ。浅野」  いっぺんに志津子は憂鬱《ゆううつ》が吹っとんだ。  たのしくなった。風呂へ入る。ベッドに寝ころんでブランデーを飲んだ。やっぱりいい人なのだ、とつくづく思った。売上制のおかげで物事がおかしくなるのだ。  ほかの客と志津子がいちゃついても、これまで浅野は気にもかけなかった。にやにやしてみていた。おれの女なのを知りもしないで——。相手の客をばかにしていた。  ところがきょうは怒った。売上制になったから、志津子がこれまで以上に会長を大事にしたと勘ちがいしたらしい。会長の財力にたいするひけ目もあったのだろう。まったく経済のしめつけは人を歪《ゆが》めてしまう。ホステスだけでなく、お客も卑《いや》しくする。遼子のような二、三のあつかましい女をのぞいて、このシステムをよろこぶ者はだれもいなかった。導入して、客が増《ふ》えた兆候もない。まったくなんのために、こんなことをはじめたのか。もとのオールサービス制にもどしてはどうかとミーティングで提案してみよう。決心して、志津子は安らかに眠りこんだ。  一月のなかば、売上制をいやがってさらに三人のホステスが店をやめた。「ラセーヌ」が近く店じまいするとの噂が、志津子たちの耳にも入ってきた。  だが、志津子は信じなかった。六浦興産の顔であり北新地の顔でもある「ラセーヌ」が、かんたんに消えられるものではない。支配人もママもそういっている。客もおなじ意見の者が多かった。噂《うわさ》をくつがえすような事実も一つ目撃した。退職を申し出た一人の古参ホステスが事務所で支配人に慰留されるところへゆきあわせたのだ。 「もうすこししたら、給料も二割アップにしようと思うてたのに。いまからでもおそくはないよ。考えなおしなさい」  そばに会社の副社長もいた。支配人の言葉に、さかんにうなずいてみせていた。  近く店じまいするなら副社長や支配人がホステスを慰留するわけがない。志津子は一安心した。この時期を乗り切れば、黄金時代がまたもどってくるにちがいない。それまで辛抱すればよいのだ。  だが、とつぜん「上《あが》り」がやってきた。「ラセーヌ」の閉店がきまった。熟慮のすえ経営者は決断したのだろう。志津子らにとっては寝耳に水の決定だった。  古参ホステスが慰留されてから、一週間もたっていなかった。恒例《こうれい》の月曜日のミーティングで閉店は発表された。昭和五十八年の一月二十四日のことだった。  支配人だけではなく、副社長がミーティングに出てきた。よほど大事な話があるのだとだれにもわかった。 「ラセーヌ」大阪店は、今月をもって閉店することになった。ながいあいだご苦労さまでした。関係者には全員退社してもらうことになる。今後の身のふりかたについては、支配人と個別に話しあってもらいたい。「ラセーヌ」銀座店は従来どおり営業をつづけるので、希望者はそちらへ推薦してもよい。  発表して副社長はていねいに頭をさげた。志津子は茫然と彼をみていた。一週間まえにこの男はホステスを慰留していたではないか。よくもあんな芝居を打てたものだ。閉店になると、客足はばったり途絶《とだ》える。発表の日までひたかくしにして、客が減るのをすこしでもふせごうとしたのだろうか。  つぎに志津子はさびしく、腹立たしくなった。十年間自分はここで働いた。多少の貢献はしてきたつもりだ。それなのにばっさりクビだという。閉店まであと一週間しかない。きょうまで予告も暗示もなかった。会社にとってホステスは、要するに使いすての接客要員でしかなかったのだろうか。  ミーティングは終った。みんなどよめいて解散した。秋子ママも、佐代子ママ代理もなに一つ知らされていなかったらしい。青い顔で事務所のほうへ去っていった。 「——ひどいわ。あと一週間やなんて。すぐ二月やないの。つぎのつとめさきがいちばんさがしにくい時期にほうりだすとはね」 「いそいでつぎの店さがさんならんわ。けど、いい店は女の子があまってるしなあ。仕様《しよ》むない店はかなんし。ああ、まいった」  ホステスたちは話しながら解散した。当然のことだが、みんな元気がなかった。  二月と八月はむかしから水商売の不況期である。とくに二月がひどい。だから「ラセーヌ」も一月いっぱいで店をしめた。  よそのクラブも二月は営業規模の縮小をはかる。ホステスを採用するとしても三月からだ。つぎの就職まで最低一ヵ月は浪人しなければならないだろう。給与の条件もきっとわるい。足もとをみて値切られるにきまっている。ひどいことになった。それでもすぐに就職口がみつかればいい。志津子もいつのまにか三十歳をこえた。数年まえまではいろんな店からスカウトの声がかかったが、いまはそうもいかないかもしれない。  志津子は一人で「ラセーヌ」を出た。なんとなく新大阪ビルのほうへあるいた。かすかな風が吹いた。夢からさめたような気持だった。ついこのあいだまで、「ラセーヌ」は目のまわるほどいそがしかった。ママもホステスも、パーティからパーティをとびあるいていた。志津子自身も系列店のママ代理になった。  だが、気がついてみると、みんな消えていた。志津子はひとりだった。暗い道をひとりあるいていた。十年も働いたのになんの報《むく》いもなかった。客に夢を売っているつもりで、志津子自身が夢をみてきた。一流の男女にまじって、目がくらんでいた。夢からさめると、なにもなかった。ひたすら孤独だった。  志津子は足をとめた。いつのまにか新大阪ビルのまえを通りすぎていた。最近は北新地のまわりに大きなビルがふえた。新大阪ビルも目立たなくなった。「CHECK」にも、志津子は最近寄らない。三十をすぎると、過食をつつしまねばならない。若いころのような食欲もなくなっていた。  赤電話をとって浅野の事務所を呼びだした。心細い思いを吐きだせる相手は浅野しかいなかった。 「——そうか。あちこちで噂きいたけど、ほんまやったんやな。たいへんやなあ」  話をきいて、浅野は声をくもらせた。困惑のにじんだ口調だった。 「つぎの就職さき、当てがあるのか」 「いいえ全然。いまは時期がわるいでしょう。しばらく休むことになる思うの」 「あせることない。ゆっくり静養したらいいのや。およばずながら力になる。志津子の食い扶持《ぶち》ぐらい、なんとでもしてやる」 「ありがとう。たよりにしてます。というても、ごめいわくはかけませんけど」  志津子は笑った。気がかるくなった。  賀川とわかれたとき、男に金をつかわせるべきだったと痛感した。だが、浅野と深くなってみると、そうはできなかった。浅野は事務所の経理を妻にまかせている。妻に内緒でまとまった出費はできない。ときおり小遣いをくれたり、プレゼントしてくれるのが関《せき》の山だった。それでいいと志津子は思っている。恋愛に経済をもちこみたくなかった。同僚のホステスのなかには、男に金をつかわせて、はじめて男の愛情や誠意を実感できる者もいた。志津子は反対の感性をしていた。金にものをいわそうとする男をみると、弱みにつけこまれるようで腹が立った。 「けど、どこかいいお店ないやろかしら。先生、ご存知ありませんか」 「心当りあるぞ。二、三ある。こんど話をしてみる。�ラセーヌ�にいた子やったら、どこでも歓迎されるはずやぞ」  勢いこんで浅野はうけあってくれた。  浅野がそんなにほうぼうのクラブの常連だとは思えない。だが、弁護の依頼者といっしょに飲みあるいたりして、案外顔がひろいのかもしれない。心待ちしてよさそうである。あかるい気分で志津子は電話を切った。浅野という恋人がいて倖《しあわ》せだと思った。一人で閉店に直面していたら、もっと心細かったはずだ。具体的に力になってもらわなくともかまわない。いつも志津子のことを考えていてくれる男性がいるだけで、一月の底冷《そこび》えもやわらぐような心地になる。  あっというまに一週間が経過した。「ラセーヌ」のホステスたちは、一人をのぞいて身のふりかたがきまらないまま、閉店の日を迎えることになった。  身のふりかたのきまったのは、あごのとがった遼子だった。もともと彼女は東京の出身である。「ラセーヌ」銀座店へつとめることになった。銀座店でも売上制が採用された。元気よく遼子は働くにきまっている。  閉店の日もとくべつ行事はしない。いつものように営業して店じまいするという。 「ラセーヌ」とならぶ名門クラブ「大田」は閉店の日、常連客を招待した。飲みほうだいシステムで謝意をあらわした。客と女たちが夜おそくまでわかれを惜しんだ。名門の最後らしい、華やかな夜だったという。  六浦興産は最後をかざらなかった。店をしめるとなれば、一円の経費も惜しい。もう世話にならないのだから、常連に謝意をあらわしても仕方がない。ホステスともこれで縁が切れる。閉店後、送別会でもしてやればそれでじゅうぶんだろう。経営者のそんな判断が読みとれる幕引きだった。  一月三十一日は月曜日だった。最後のミーティングのあと志津子たちは客席に出た。  七時すぎから客がやってきた。人のよい、金払いのきれいな客が多かった。 「やあ、いよいよ終りやなあ。きみら今後どないするねん。たいへんやな」  すわるなりそんな話になった。  とくに湿っぽい雰囲気はなかった。いつものようにバンド演奏がはじまり、いつものようにフロア係は多忙になった。客席で猥談《わいだん》のすくないことだけがちがっている。  閉店の通知は各方面に出してあった。最近めったに店へあらわれない財界の名士たちも、通知をみてやってくるだろう。久しぶりに大物が顔をそろえて、華やかだった当時の思い出話をするはずである。にぎやかな夜になるはずだと志津子は思っていた。  ところが、財界の名士たちはあらわれなかった。二つの一流企業の社長が、ちょっと顔をみせただけだった。あとは最近の常連客ばかりである。それもけっして多数ではない。店内は、ふつうの混み工合だった。世の中のきびしさ、冷たさを志津子は思い知った。  閉める店は閉める店。将来そこで飲むこともない。最後の夜に顔を出したところで、あとで恩返しされるわけもない。きょう「ラセーヌ」でつかう金は死に金である。客の接待が必要なら「有馬」「桔梗屋」「MY」「本庄」などいま売りだしのクラブへいくほうがずっと効率的ではないか——。財界の名士たちのそういう思惑《おもわく》が、時間がたつにつれて志津子にはわかってきた。  閉店記念になんの催しもやらぬ店も店なら、客も客である。外目には仲睦《なかむつ》まじいが、わかれとなるとどちらも冷淡なものだった。客と店は内心たがいに軽蔑しあいながら、たがいに必要としあってきたのである。  九時すぎ、浅野康彦がやってきた。しらふで、ひとりで店へ入ってきた。  浅野はきょう、おそくまで仕事があったらしい。だが、志津子は強硬にせがんで店にきてもらった。最後の夜の感慨をわかちあえる相手は浅野しかいない。それに今夜浅野がきてくれなかったら、二人の仲を知る同僚たちに面目が立たないということもある。 「なんや。案外しずかなんやな。財界の偉いさんでごったがえしてるのかと思うた」  店内をみまわして浅野はいった。名門クラブの最後の夜の風景がどんなものか、興味はあったらしい。 「そうやの。偉い人って冷たいのよ。脱落する者には目もくれないの。もっとも、店のほうも店のほうよ。長年お世話になったかたに、ろくに挨拶もせえへんのやから」 「けど、いい感じやないか。じめじめしてない。たいそうな儀式もない。老兵は死なず、消えゆくのみという雰囲気や。やっぱりここは大人の店やったんやな」 「老兵ってなんですか。いわんといてほしいわ。その言葉、ズキーンと胸に突き刺さる」  志津子は浅野のそばでくつろいだ。いつもとおなじだった。感傷の整理は済ませてある。つぎの働き口がまだきまっていないが、たいして不安ではなかった。名門「ラセーヌ」とその系列店で十年働いたキャリアがある。声をかければきてくれる客も、何十人かもっている。どこかのクラブからスカウトされるはずだった。こちらから売りこんでは足もとをみられる。当分志津子はじっと様子をみて暮すつもりである。  浅野と、とりとめない話をした。閉店後、従業員のおわかれパーティがある。今夜はデートできない。浅野のそばにいると、それが残念でたまらなかった。テーブルの下で志津子は浅野の手を握りしめた。かるく爪を立てた。やはり最後の夜である。どこかで志津子はたかぶって浅野をもとめていた。 「おい志津子。いまきてる客はホステスの旦那《だんな》ばっかりやないか。そうやろ。旦那衆の勢ぞろいや。なるほどなあ。女心というやつやな。最後の夜はホステスは愛人のそばですごすわけか」  浅野がささやいた。大発見をした面持《おももち》で、目をかがやかせている。 「ほんま。そういわれたら、たしかにそうやわ。みんな彼女のいるお客さんばっかり」  妙なところへ浅野は目をつける。志津子は感心した。笑ってしまう。  二人三人そろってきている客はいま一組もない。みんな一人の客である。馴染《なじ》みのホステスがついている。控え目にどの組も話しあっていた。ふつうの客に対するときの緊張と気迫がホステスたちにはなかった。恋人や保護者と身を寄せあっている。どの女の子も、いちばん気のおけない客とともに閉店の感傷にひたっていた。ぼんやりと酔っている。やさしい表情である。疲れがうかがわれた。話のはずんでいる席はない。  客席のところどころに場ちがいな、生き生きした笑顔があった。「ラセーヌ」出身の、他店のママが何人かきているのだ。 「ラセーヌ」のママやママ代理をへて小さな店を出した女が何人かいる。客といっしょに彼女らはあそびにきていた。余裕のある物腰でかつての管理職は談笑する。 「ラセーヌ」をホステスのままやめて、よそのクラブのやとわれママになった女も、何人かきていた。彼女らの表情もあかるかった。古巣《ふるす》の閉店を惜しみながら、自分たちの幸運を彼女らはたしかめていた。はやく「ラセーヌ」に見切りをつけておいてよかった。利口だった。うまくやった。その思いが、彼女らの顔にはあふれている。この店の女をスカウトしようとするママもいるようだった。 「ラセーヌ」出身でも、羽ぶりのよくない女は大勢いる。その女たちはきていない。ママになった女だけが、古巣を惜しんであつまってきた。みんなあかるい顔だった。光るような笑顔だ、と志津子は思った。  浅野はママたちには関心がなかった。 「そうか。あの子とあのオジンはできとったんか。知らなんだなあ。そのとなりの鉄工所の重役は、あの大根足の旦那やったんか。わからんもんやな。最後になると、やっといろんなことがみえてくる」  しきりに浅野は感心している。  無理もなかった。志津子でさえはじめてそれと知ったカップルが二組いた。噂にはなっていたが、まさかと思われていたカップルも二組いた。最後になって、みんな自分たちの仲をおおっぴらにした。閉店の夜の「ラセーヌ」は、十何組かの恋人たちを乗せた、古い大きなゴンドラであった。     6  三週間、志津子は休養をとった。  もとの同僚たちと麻雀をしたり、有馬温泉へあそびにいったりした。客にさそわれてゴルフにも出かけた。陽光がまぶしかった。朝と昼のあかるさを思いだした。  毎日ビールを一本だけ飲むことにした。体の調子がすばらしくよくなった。吹田の緑地公園へ出てジョギングしてみた。汗をかいて、体がひきしまった。これから毎日走ろうと志津子は決心した。朝会社に出て夕刻帰宅する生活がなつかしくなった。  昼の仕事で食べていけたら、それに越したことはない。だが、昼間の仕事では、とてもいまの給料はとれない。かせぐ気なら、夜の世界へもどるしかなかった。あかるい陽光は天からの束《つか》の間《ま》の贈り物だった。晴れた日、つとめて志津子は出あるいた。どこという目的はなかった。テニスコートでラケットを振る女の子に見惚《みと》れたり、中之島へ出て、陽《ひ》だまりをえらんでぶらついたりした。夏の北欧の人々のように陽光を吸収した。やがて夜の仕事にもどる。あかるい日ざしにせき立てられるような思いだった。  六浦興産の事務所は一度だけ訪問した。身のふりかたがきまったかどうか、支配人の福原が問合せの電話をくれたからだ。 「ラセーヌ」の男子従業員はみんな退社させられていた。ほかの店へつとめたり、就職口をさがしたりしているらしい。福原ひとりが残務整理していた。彼だけは今後も会社へのこるのかもしれなかった。 「きびしい状況ですよ志津ちゃん。一流のクラブにはほとんど欠員がない。ホステスさんの受難時代になりました」  志津子の顔をみるなり福原はいった。  一流店にやっと二人、就職させたところだという。「ラセーヌ」出身の肩書がものをいう時代ではなくなった。あそんでいられない事情のある女の子は、希望ランクを落して就職してゆく。夜の仕事から足を洗って、田舎へ帰った者もいるらしい。たしかに受難時代だった。以前ならどこの店でもやっていけたはずの女の子が、一流店の面接でつぎつぎにはねられてしまう。 「うちの店にいた子は、みんな何人かいいお客さんをもってるわ。そやのに、なんでよその店に歓迎されへんのですか」 「お客さんがうちだけきてくれはったわけやないからですよ。�ラセーヌ�のお客さんは�有馬�や�桔梗屋�にもいっておられるかたが多い。うちにいた子がお土産にできるお客さんは意外とすくないんです」 「そうか。お土産のほうがさきに着いてるんですね。手持のお客さん、当てにしたらいかんのやわ。ほんまにきびしいですね」 「志津ちゃんはほかの子とちがいますよ。熱心なファンが多いのやから。どこかいい店へ話を通しておきます。大丈夫、なんとかなるはずですから」  そんな話をして志津子は六浦興産の事務所をあとにした。  夕刻だった。堂島上《どうじまかみ》通りにも、船大工町にも、曾根崎《そねざき》新地本通りにもおびただしいネオンがともっていた。志津子は全身がわくわくしてきた。北新地はやはり華やかだと思った。半年ぐらい、らくにあそんで暮せる程度の貯金はある。だが、一ヵ月以上家にじっとしていることはできないだろう。北新地へくると、それがわかる。ネオン街の空気にふれて、文句なしに志津子は血がさわいでいた。  本通りで佐代子と会った。「ラセーヌ」の閉店まえ、三ヵ月ばかりママ代理だった女である。志津子より十近くも若いのに、和服をきると、二つ三つしか年下にみえなかった。  佐代子ははやばやとつぎの働き口がみつかった。一流クラブの一つである。年齢のわりに数多い有力者の客を佐代子はおさえている。だから優先的に採用されたのだ。  そばの喫茶店へ二人で入った。近況を話しあった。佐代子はタフで、やり手なホステスだった。相変らず和服をきている。年齢のわりに貫禄があった。だが、よくみると佐代子はやつれていた。新米はやっぱりたいへんやわ。いろいろ可愛がってくれはるよ。顔をしかめて佐代子は笑った。そんなに暗くない調子で苦労話をきかせてくれた。 「ラセーヌ」の出身となると、よその店ではかえって風当りがつよいらしい。とくに佐代子は短期間ながらママ代理だった。新しい店のホステスたちの標的にされやすい。 「へえ、あんた�ラセーヌ�のチイママやったん。偉いもんやったんやねえ、若いのに」  敵愾心《てきがいしん》のこもった視線にさらされる。  ことさら新人あつかいされる。雑用をおしつけられる。いやな客にまわされる。客席で積極的に話をすると、睨《にら》まれてしまう。  が、それらはまだしも覚悟のうえのことだった。つらいのは「ラセーヌ」時代の客がたずねてきてくれたときだ。  ホステスたちはその客にあまりいい顔をしない。客まで新入りあつかいする。おまけにママがその客の席へすわらない。わざと無視する態度に出る。私は「ラセーヌ」の落穂《おちぼ》ひろいなんかやらない。客がほしくてその子を採用したのではないのだから。そんな態度を露骨にみせる。消えた名門にたいするママの意地というものだった。  ママの気持はわかる。だが、客は気をわるくして席を立つ。二度とこないぞ。宣言して去る者もいた。佐代子はなだめたり、詫びたりしなければならない。いいお客をつれてくればよろこばれると思っていたが、現実はそんなに単純ではなかった。「ラセーヌ」の尻尾《しつぽ》を切り落さなくてはやっていけない。 「あ、もう時間やわ。ごめんね志ィちゃん。一度また麻雀にでもさそってね」  話が完了しないうち、佐代子は腕時計をみて腰をあげた。  レジで佐代子が金をはらった。いそぎ足で去っていった。「ラセーヌ」時代には、いっしょにお茶を飲んだあと、いつも志津子が代金をはらった。志津子のほうが先輩だったからだ。それが逆になった。志津子は胸をつかれていた。店がしまって一ヵ月たらずでこれだけ大きな変化がおこった。そろそろ志津子もいそがねばならなくなったらしい。  久しぶりで志津子は広島の実家へ帰ってくることにした。  きょうだいはみんな結婚して家を出た。父母は小さな貸家で暮している。父は工務店の手伝いをしている。老齢で、ほとんど仕事はないらしい。志津子の送金が父母の暮しの柱になっていた。十年間、志津子は送金をつづけてきた。きょうだいはだれも父母のめんどうをみない。余裕がないせいもある。が、そういうことは志津子にまかせておけばよいときめた気配《けはい》があった。都合のいいことには、人はすぐ馴《な》れるものだ。  デパートで土産物を買った。マンションヘ帰って、旅装をととのえていた。そこへ電話が入った。浅野康彦からだった。 「ちょうどよかった。電話しよう思うてたとこなの。二、三日田舎へ帰ってくる」  志津子は事情を話した。  失業すれば、デートの時間ができる。週に三度も四度も浅野と会おう。「ラセーヌ」が店じまいするとき、志津子はそう思った。ひそかにたのしみにしていた。だが、じっさい失業してみると、そうはいかなかった。想像していたよりもずっと浅野は多忙だった。自分の時間がとれない。これまでどおり週一、二度しか会えなかった。情事は二人ですることである。いっぽうだけがひまになっても、なんのたしにもならなかった。 「なんや。せっかく就職の話をつけたのに。夕方、おまえをつれて面接にいくことにしたんや。Qいう店、知ってるやろ」 「知ってる。けど、もう田舎と打合せしたし、変更できへん。ごめんね。帰ってからまた先生にご相談するわ」 「Q」は新興の大きなクラブだ。きれいな女の子が多いことで売っている。  だが、暴力団の資本が入っているとの噂のある店だった。そういうのは困る。浅野の親切は、じつはありがためいわくなのだ。 「二、三日いうてたな。週末には帰れるわけやな。じつはもう一軒心当りがあるんや。土曜日に面接をたのんでおく」 「いろいろありがとう。けど、それなんというお店?」 「Cいう店や。おれは直接知らんけど、依頼人の不動産業者が贔屓《ひいき》にしてるらしい。デラックスな店らしいぞ」  志津子は返事に困った。 「C」は勘定が高価《たか》いので有名な店である。金で寝るホステスが多い。浅野はそんなにあそび人でないうえ、北新地の裏の顔を知らない。志津子のために、みさかいなく就職口をさがしてくれている。  帰ってからまたご相談します。あまりほうぼう声をかけないでください。そういって志津子は電話を切った。志津子のためにいろんなクラブへ当ってくれる浅野の顔が目にうかんだ。笑いがこみあげる。ムキになるところが浅野という男の魅力だった。  とりあえず志津子は帰省の途についた。夜、広島の実家へ入った。久しぶりに親きょうだいに会った。みんな歓迎してくれた。そろそろ結婚してはどうかと父母にいわれた。きょうだいも同意見だった。だが、志津子に代って父母のめんどうをみようとは、だれもいってくれなかった。 「ここまでホステスやったんやから、もうすこしがんばるわ。小さいお店でも出すようになりたい。自立できるように」  土曜日の昼、そういって志津子は実家を出た。午後四時に大阪へ帰りついた。  梅田新道のそばの喫茶店で浅野が待っていた。デートではない。「C」というクラブの支配人といっしょだった。仕方なく志津子はお茶を飲みながら話をきいた。日給二万八千円という好条件を向うは出してきた。  せっかくですが、お店のカラーに私合わないと思います。それに、おたくは若い女性が多いときいています。私がいってもお役に立たないでしょう。志津子は頭をさげた。 「なんでやねん。せっかくいい条件出してくれてはるのに。一度いってみたけど、なかなかデラックスな店やったぞ」  横で浅野はむかっ腹を立てていた。  支配人のほうが気をつかって浅野をなだめた。では、と挨拶して帰っていった。 「裏のことは先生、ご存知ないのよ。あの店は客層がよくないの。第一、目の玉がとびでるほど高価《たか》いわ。きてちょうだいって、私、気らくに先生にいえなくなる」 「そうか。ではQへいってみるか。向うはママに話を通してある」 「Qも困るのよ。先生知らないの。コレがからんでいる店なのよ」  指で頬に傷を描いてみせる。  浅野はだまりこんだ。弁護士であっても、浅野は暴力団の生態などにはあかるくない。貿易上のトラブルの専門家なのだ。  浅野は不機嫌になった。いっしょに食事するあいだも口数がすくなかった。そのあとホテルへいった。いつもより浅野は荒っぽく志津子をあつかった。最初はさんざん志津子の体をいじりまわした。それから志津子の裸身をまん丸にする。ヒップを高くあげる恰好《かつこう》でおさえつけてくる。恥ずかしい部分をあかりにさらす。そのまま侵入してくる。深々と入ってきた。さんざんに快楽の奥底を突いてくる。かと思うと、裏返しにして、志津子の両脚を梶棒《かじぼう》のようにもちあげる。そうやって、鉄の棒で入ってきた。志津子は床《ゆか》を両手で這《は》ってあるかされた。苦しかった。停まると、快感に体をつらぬかれる。苦しくて頭がぼうっとしてくる。いつもより大きな声を志津子はあげた。体を波打たせて室内を這いあるいた。浅野も汗まみれで呻《うめ》いていた。しこりはそれで消えた。添寝して二人は話しあった。 「ごめんね。せっかく紹介してくれはった店、ことわって」 「仕方ないよ。調査不足やったんや。こんどはもっといい店をさがしてやる」  おまえを囲《かこ》えるだけの金があったらな。浅野はつぶやいた。舌打ちした。  ホステスなどさせたくない。家であそばせておきたい。志津子をほかの男のまえに出したくない。浅野はつけ加えた。 「そんなんいや。私、働き者よ。囲われたりしたら息がつまる。働きたいわ」  浅野の胸に志津子は抱きついていった。  うれしかった。そんなことを浅野が考えているとは知らなかった。愛されているのがわかった。二年たっても、浅野は志津子に倦《あ》きていないようだ。  五日後、浅野はまた志津子に電話してきた。いい店がある。親しい弁護士の紹介だ。こんどは志津子の働きやすいクラブだという。「B」というその店を志津子は知らなかった。一人でママに会いにいった。店のなかも見物させてもらった。  有名クラブではなかった。小さいが、おちついた雰囲気の店だった。ホステスは十人しかいない。だが、粒ぞろいである。客すじもいいらしい。志津子は心が動いた。ママも志津子を気にいってくれたようだった。  給与の条件だけが合わなかった。日給一万八千円だという。ほかのホステスとのかねあいから、それが上限だとの話だった。「ラセーヌ」時代にくらべて月約十五万円の減収になる。志津子は即答できなかった。二、三日考えさせてほしい。そういって家へ帰った。 「ラセーヌ」の支配人だった福原からその翌日電話が入った。一流店の一つである「D」に欠員ができたらしい。「D」のママと志津子はパーティなどで面識があった。店にも、客といっしょに何度もあそびにいったことがある。「ラセーヌ」が閉店したとき、志津子はひそかに「D」からの引きを期待していた。さそいがないので、ママを恨んでいたくらいである。志津子さんなら、とママはいっているらしい。さすが福原である。志津子の希望どおりの店を紹介してくれた。  夕刻、志津子は「D」をたずねた。ママに会った。即決で採用がきまった。日給は「ラセーヌ」時代とおなじ二万四千円だった。  その足で志津子は「B」へいった。ママに会って礼とことわりをいった。給与のことを正直に話した。それなら仕方ないわね。気持よく「B」のママは了解してくれた。 「ごめんなさい。何度も顔をつぶして。けど、お給料があんまりちがいすぎたから。Dはいいお店よ。あそびにきてね」  浅野へは電話でそう報告した。  そうか。よかったな。短く浅野はこたえて電話を切った。やはり気をわるくしたらしい。仕方がなかった。志津子にとっても、人生の一つの節目《ふしめ》にあたる就職である。浅野の好意をふみつぶしてでも、良質の職場を得なければならなかった。  三月から志津子は「D」に出勤した。ミーティングで新しい同僚たちに紹介された。  約三十名のホステスがいる店だった。「ラセーヌ」で一時働いていた子も二人いた。不景気になってから、やめさせられた女たちだった。冷ややかな視線に志津子はさらされた。なにが「ラセーヌ」よ。若《わこ》うみえるけど、もうオバンやないの。あまり大きい顔はさせへんで。そんな声がきこえたと思った。志津子は気をひきしめて、微笑《ほほえ》んで頭をさげる。緊張すればするほど、魅力的な笑顔になった。 「ラセーヌ」時代のなじみ客に、「D」に移ったことを知らせる挨拶状をおくった。  とくに可愛がってくれた客には、挨拶状の着くまえに電話をいれた。 「おねがい。たすけにきてください。心細いの私。毎晩トイレで泣いてるのよ」 「嘘つけこの海千山千が。人を利用するときだけ電話かけてきやがって。まあ仕様《しよう》ない。顔出したるがな。その代り、恩返しにいっぺんおめこさせえ、おめこを」  憎まれ口をたたいて、なじみ客はやってくる。いい店だと賞《ほ》めてくれる。  長年の知合いである。いまさら志津子を口説いたりしない。気のいい男たちだった。一時間ばかりバカ話して帰ってゆく。一流企業の重役や中小企業主が多い。 「D」に移って三日目、浅野康彦がやってきた。このところ彼は多忙だった。やっとひまをみつけて出てきた。あした、仕事でロサンゼルスへ発《た》つ予定になっている。  運がわるかった。例の建設会社の会長がきていた。志津子の肩に腕をまわして、抱きしめて飲む。はなさない。  ちょうど店が混んでいた。浅野はカウンター席へすわらされた。志津子は浅野のそばへとんでゆきたい。だが、会長をほうってはおけない。おまけに「D」では、ホステスは自分の好きな席へ勝手に移動できない規則だった。ボーイの指示で動かねばならない。  会長の相手をしながら、志津子は気を揉《も》んで浅野のほうをみていた。  はじめてきた客である。店は浅野をほったらかしにした。ママもホステスもそばへいかない。バーテンも話しかけない。浅野はいらいらしていた。志津子のほうをみないようにしている。たまりかねて志津子はボーイを手招きする。浅野にホステスをつけてくれ、と注文した。ボーイはうなずいて去っていった。だが、実行はしない。志津子を新米とみて、あなどっているのだ。  たまりかねて志津子は席を立った。支配人をつかまえて、会長にホステスを一人つけてもらう。やっと浅野のとなりに腰をおろした。浅野は怒りで熱くなっている。 「どこの店でもこんなに失礼なあつかいされたことがないぞ。人の紹介した店にはあれだけケチつけて、ようこんな店をえらんだ」 「ごめんなさい。まだ私、ここでは新人やから、だれもたすけてくれないのよ。すこし待って。すぐに顔がきくようにする。先生にいやな思い、絶対させへんから」 「ラセーヌ」ではこんな失礼なことはなかった。男の従業員はよく訓練されていた。  はじめての客でも、けっして不快な思いはさせなかった。その「ラセーヌ」がつぶれた。失礼な「D」は繁昌《はんじよう》している。志津子の物差《ものさし》では測れない世の中になったらしい。 「わかったぞ志津子。この店はあの爺さんの紹介なんやろ。向うは金持や。キャリアもある。おれよりずっと新地では顔やろからな」  会長のほうを浅野はあごでしゃくった。水割りを飲みほした。 「なにいうてるの。ここ、�ラセーヌ�の支配人の紹介よ。電話でいうたでしょ。ママを知ってたし、お給料もよかったから」 「信じられんな。あの爺さんは悠然と飲んどるやないか。まえからここの客やったんやろ。おまえ、あいつに相談したんや」 「ちがうったら。あの人はただのむかしなじみ。店を移ったこと、早う連絡せんとかえって失礼になるような人よ」 「志津子、おまえあの爺ィとデキとるんとちがうか。二股《ふたまた》かけてるんやろ。正直にいえ。わかっとるぞおれは」 「酔うてるの先生。なにをアホなこというてるのよ。ね、機嫌なおして。つぎからは絶対いやな思いはさせへん。約束するわ」  だが、浅野は怒ったままだった。  帰る。彼は腰をあげた。制止する志津子を無視していた。運わるく志津子は生理がはじまったところだった。さきに部屋で待っててね。そうささやいてマンションの部屋の鍵をわたすわけにはいかなかった。  浅野は帰っていった。ふりかえらない。大股でずんずん去っていった。背中に怒りがあふれている。  なに怒ってるのよアホ。こんなに愛しているのに。志津子は浅野のうしろ姿へ心のなかで声をかけた。あすから彼はアメリカへゆく。約十日間の予定だといっていた。きょうは金曜だ。こんど会えるのは再来週の月曜か火曜になるはずである。怒っても浅野は根にもたない性分だった。日本へ帰ってくるまでには、いつもの彼にもどっているだろう。  志津子は店にもどった。かすかに不安だった。浅野のうしろ姿が目にうかんだ。こんな些細《ささい》なゆきちがいで彼との仲にひびが入るはずはない。そう自分にいいきかせた。会長がまた肩に腕をまわしてくる。くよくよしても仕方がない。甘えた声をだして、志津子はもたれかかっていった。  佐代子のいっていたとおり、新米ホステスには苦労が絶えなかった。高い日給で志津子の採用されたことがどこからか洩れていたらしい。それでなくとも「ラセーヌ」の看板は、同僚の標的になりやすかった。いろんな攻撃に志津子はさらされた。  数人づれの客と談笑しているときだった。正面の席の二十四、五歳のホステスが、志津子にあごを突きだしてみせた。水割りをつくりなさい。そういわれたとわかるまで、何秒かかかった。客のまえのタンブラーがからになっている。水割りつくりは新米の仕事だった。志津子はそれをやった。笑顔に一分《いちぶ》の隙《すき》もなかったはずだった。  べつの数人づれの客の席にいるときも、似たようなことがあった。客の一人がたばこをほしいといいだした。そばにいたちんぴらホステスが、志津子にとりついだ。 「志津子さん。たばこやてー」  銘柄を志津子は客に訊いた。  ボーイを手招きする。マイルドセブン一つと注文する。こういう雑用も、新米ホステスの仕事だった。 「ラセーヌ」時代の客に送った挨拶状がとどいたらしい。志津子をたずねて、ぼつぼつ客がクラブ「D」へあらわれるようになった。この店のママも「ラセーヌ」への対抗意識をもっていた。志津子の客にあまり愛想よくしない。向うはつぶれたのだから、今後はこちらをよろしく——そんな態度をみせるのは沽券《こけん》にかかわるという意識があるようだった。せっかくたずねてきた客の席へ、志津子はすぐいけないことがある。当然、客は気をわるくする。駈けつけて、詫びをいうのがたいへんだった。「ラセーヌ」と「D」とでは、いわば商習慣がずいぶんちがう。志津子はもちろん、以前からの客たちも、その差にしばらくとまどわねばならなかった。 「おまえ、�ラセーヌ�におったんやてな。向《む》こは上品な店や。わしみたいなガラのわるい客に会《お》うたことないやろ。なんやねんその顔は。汚《けが》らわしそうにしくさって」  酒くせのわるい繊維商社の社長にしつこくからまれたことがあった。成り上りの劣等感からぬけきれない男らしい。  むやみに志津子の体へさわりにくる。抵抗すると、力ずくでさわる。頬ぺたを張り倒してやりたいがそうもいかない。ホステスもボーイもみてみぬふりをしていた。午前零時をすぎていた。みんなにいやがられながら、その社長は腰をあげない。さすがの志津子も笑顔が歪《ゆが》むのを意識せざるを得なかった。  ボーイが志津子を呼びにきた。電話だという。救われた思いで志津子は席を立った。  浅野康彦からだった。ロスはいま午前七時だという。よく眠ったあとらしい。浅野の声はさわやかで力づよかった。 「すまんかったな先日は。おれもトシや。酒くせがだんだんわるうなってくる」  浅野はいきなり詫《わ》びをいった。その声で志津子はすべてのわだかまりが消えた。 「土曜日にハワイへこんか。ハワイでデートしようやないか。たまにはいいやろ」 「ほんま。そんなことできるの」  志津子はさけんだ。  クラブ「D」は土曜日も営業する。ただしホステスは半数が休みだ。一週交代で半数ずつが出勤する。つぎの土曜日、志津子は休むことになっていた。  土曜日の朝の便で大阪を発つ。六時間後にホノルルへ着く。現地は夜である。ハワイの夜を二人でたのしむ。  翌日は観光でついやす。また一泊する。あくる日の朝ホノルルを発つ。日曜日の午後大阪空港へ帰りつく計算になるという。 「パスポートはあるのやろ。旅行代理店をやってる友人がおるから、あした電話しろ。こっちからも電話をいれる。大丈夫。金曜日中には万事用意ができるはずや」  ホノルルのホテルの名などは金曜日の夜店に電話をいれる。  ハワイで会おう。たのしみにしてるぞ。やさしくいって浅野は受話器をおいた。志津子は夢みごこちだった。苦労がすべて吹っとんだ。土曜の夜はワイキキのホテルだ。たのしい日が三日もあれば、三ヵ月は志津子は元気に働いてゆける。酒くせのわるい問屋のおやじの席へいそいでもどった。嬌声《きようせい》をあげて、こちらから抱きついていった。  旅行代理店とすぐに連絡がとれた。金曜日の午後、志津子は代理店へ出向いてパンナムの航空券をうけとった。ホテルは予約済みだという。あとは浅野との打合せだけだ。空港へ彼が迎えにきてくれるのか、ホテルで落合うのか確認しなければならない。  航空券をバッグにいれて志津子は「D」へ出勤した。すぐママに呼ばれた。いそいそと志津子は事務所へいった。 「志津子さん、あした休みの日やけど、出てきてね。六時からF物産のパーティがあるの。向うの社長のご指名なんやから」  志津子は息をのんだ。背すじが棒のようになった。あおざめていた。  F物産の社長は「ラセーヌ」の常連だった。志津子を可愛がってくれた。  志津子の挨拶状をみて、自社のパーティへのホステスの派遣を依頼してきたのだ。パーティのあとは「D」へ寄るだろう。ママは張り切っている。F物産は大企業なのだ。 「ママ。じつは私、あしたは——」 「なにか予定があるの。けど、お父さんが危篤《きとく》やというわけではないんでしょう。絶対あしたは出てちょうだい。あんたがいないと、私、先方さんに顔が立たへんのやから」  ママは機嫌をわるくしていた。志津子が快諾しなかったからだろう。  志津子はうつむいた。はい、とこたえざるを得なかった。新米の悲哀が身にしみた。「ラセーヌ」でなら、絶対こんなことはいわせなかっただろう。休みの前日になって出勤を命じるほうがわるいのだ。  暗い夜になった。志津子は深い海の底で働いている気分だった。ボーイが近づいてくるたび胆《きも》を冷やした。浅野からやがて電話が入る。海の向うから、声をおどらせて話しかけてくる。それに志津子は身もふたもない返事をしなければならないのだ。  午前零時になった。電話です。ボーイが呼びにきた。緊張で胸をしめつけられながら、志津子は席を立った。 「ホテルの名をいうぞ。メモをとれよ。ホリデイ、イン、ワイキキ——」 「すみません。私、いけなくなったの。急にママにいわれて。パーティが入って」  浅野はだまりこんだ。鉛のような沈黙が志津子の肩にのしかかってくる。  浅野はまだなにもいわない。よほどショックが大きかったようだ。ごめんね。志津子はくりかえした。結局ゆるしてくれるはずだ。そういう思いが心の底にあった。 「どうしてもこられんのか、おまえ」  やっと浅野が訊いた。かすれた声だ。 「だめやの。どうしても休めないパーティなの。私、新米でしょ。そやから」 「おれがたのんでもだめか。たのむから一日だけ休んでくれいうてもだめか。たった一日、おれのために不義理ができんのか」 「ごめんなさい。けど、いまの私は——」 「おれ、いままで一度もこの手のわがままはいわんかったぞ。店休んでおれとデートしようなんか、いうたことがない。はじめてのたのみやないか。ハワイで会うのをたのしみにしてた。それをおまえは——」 「ごめんなさい。どうしたらいいの私。どうしたらいいの」  志津子は涙が出てきた。おさえようもなくあふれ出てながれる。  だが、ママへあらためて休みをもらいにゆく勇気はなかった。恐かった。志津子は三十三歳である。ママと喧嘩して、冷たい夜気のなかへとびだせるものではない。浅野にはわからないことだった。仕方がない。男と女がそれだけわかりあえたら世話はない。 「�ラセーヌ�がなくなってから、おまえは人が変ったな。なんぼ誠意をもって当っても、返ってくるのはこんな仕打ちばっかりや。もういやになった。つくづくいやになった。二度と会わんからな。爺ィと仲ようやれ」  電話は切れた。受話器をおく音が頭にひびいた。ショックで涙がとまった。  ハンカチで志津子は顔をふいた。背すじをのばして客席へもどった。足どりはみだれていない。一人になった、しっかりしなくてはと自分にいいきかせているおかげだ。  何人かの客の顔が脳裡《のうり》にうかんだ。好ましい客ばかりだった。浅野の後釜《あとがま》をだれにするか。志津子はえらびにかかっていた。知らず知らずそうしていた。重苦しい悲哀のなかに、灘《なだ》の酒造家の御曹子《おんぞうし》の顔がはっきりうかびあがった。  あした電話してみよう。志津子は決心した。  初出誌 夜の金魚 別冊小説新潮 第85号(昭和47年1月刊) 土曜日の男 オール讀物 昭和56年11月号 夜の喜劇 小説宝石 昭和60年6月号 夜の終幕 小説現代 昭和59年4月号 この作品は一九八六年九月、小社より講談社ノベルスとして刊行したものです。 底本 一九九〇年十二月刊行の講談社文庫版