危険な秋 阿部牧郎   目 次 第一章 昔馴染み 第二章 性 夢 第三章 春の断層 第四章 熱い夜の祝祭 第一章 昔馴染《むかしなじ》み   1  南禅寺の近くにある古いホテルの玄関で、柚木克彦《ゆきかつひこ》は車をおりた。運転手に帰宅の許可をあたえて、ロビーへ入った。  午後七時だった。ロビーは混みあっている。家族づれが多い。外人観光客の団体も二組いた。浴衣《ゆかた》がけの男女が何組か、まんなかで立ち話している。女はともかく、浴衣の男はホテルでは間のぬけた顔にみえた。  カウンターで柚木は南部律子《なんぶりつこ》の部屋番号を教わった。館内電話で部屋を呼びだしてみる。すぐに律子の声がきこえた。 「とうとうきてしまったわ。大文字、一度見たいと思っていたから」  律子はふくみ笑いをした。いたずらの共犯者へ向けるような笑いだった。 「二階のバーで待っています。見物をさき、食事はあとということにしましょう」  周囲を見まわして柚木はいった。  木材の味わいを生かしたシックな造りのロビーである。照明は黄昏《たそがれ》のあかるさだった。年輪、格式、品位が身上のホテルだった。もう若くない男女が落合うには、ちょうどよい場所である。そう思って柚木は、今夜ここに部屋をとった。  だが、思ったより人が多い。照明も明るすぎるような気がする。とまどって柚木は二階の酒場を指定したのだ。新聞や雑誌の読めない、うす暗い店だった。  柚木は酒場へ入った。ここも混みあっている。大文字見物のまえに一杯やっている者が多いようだ。このホテルは洛北の山々の送り火を見物するのには好い場所だが、肝心の大文字が見えない。火がともれば、みんな鴨川あたりへ出てゆくはずである。  南部律子が酒場へ入ってきた。律子はいまの姓は大森である。だが、柚木は大森姓で彼女を呼ぶ気になれない。  律子は白っぽい和服をきていた。出入口に立って店内を見まわした。柚木は手をあげてみせる。ゆっくりと律子は近づいてきた。  会釈《えしやく》してから律子は向いあわせに腰をおろした。正面からほほえみかける。柚木は安堵《あんど》の息をついた。卵型の律子の顔は、薄闇に染まって細部がぼやけている。四十代後半の女にはみえなかった。 「ご苦労さま。何時に着きましたか」 「二時東京発のひかりに乗りました。ここへ着いたのは六時まえだったかな。スーツできたんだけど、着替えをしました」 「あなたは着物も似合うんですね。しとやかで色っぽい。見惚《みと》れてしまう」 「ありがとう。でも、とても京都の女性のようにいかないわ。緊張してしまいます」  二人はブランデーを飲んだ。  律子の着物の袖が揺れて、仄《ほの》かな化粧品の香りがただよう。グラスを口へもってゆく腕が白い。磨きぬかれた感じの腕である。  律子の夫は洋酒の輸入商である。年の三分の一は海外に出ている。東京の自由が丘に律子の家はあった。夫以外に家族は、大手商社へ勤務する息子がいるだけである。律子が旅行に出るのにあまり支障はなかった。  柚木と南部律子は東北のある高校の同窓生である。柚木のほうが一級上だった。  柚木はサッカー部員だった。律子はピアノを弾《ひ》いていた。  最近まで、おたがいの消息も知らずにすごしてきた。  この六月、柚木は高校の同窓会の東京支部から招待状をもらった。柚木は大学を出て以来、ずっと大阪で暮してきた。東京の同窓会に出たことはない。招待状がきたのは、柚木がこの春勤務先の化学会社で取締役にえらばれたためらしい。新聞の企業人事欄にそのことが紹介されたのである。  柚木は出席してみた。そこで南部律子とおよそ三十年ぶりに顔を合わせた。会が終ってから、ホテルの酒場で二人きりで話しこんだ。以来、会うのはこれで四度目である。 「京都で柚木さんと会っているなんて、同級生が知ったらなんというかしら。律子は堕落したっていわれるだろうな」 「ぼくはみんなに恨まれるな。あなたはマドンナだったから。あなたに近づく男が仲間うちから出るなんて、とんでもないことだ」  柚木はじっと律子をみつめた。期待どおりの変化が生じはじめていた。  若くはみえても、律子の顔にはやはり張りがなかった。頬に腫《は》れぼったい感じがある。指で圧《お》すと、ほんの一瞬だが、そこに窪《くぼ》みができそうだ。化粧をとれば、目じりにしわも刻まれているのだろう。  その律子の顔がしだいにぼやけてきた。入れ代って、高校時代の律子の顔が浮かび出てきた。みるみるそれは鮮明になった。青い林檎《りんご》のようにひきしまった、艶《つや》やかな顔である。目に光があった。鼻すじが通り、くちびるの両端が上向いている。律子が笑った。柚木は野山にかこまれた郷里の町の風景が律子のうしろにひろがるのを感じた。セーラー服の律子と柚木は向いあっていた。当時と同じように心が浮き立っている。  むかしの記憶があるので、柚木は中年の律子と話しながら、当時の律子の顔を思いうかべ、当時の律子と話している気分にひたった。幼馴染みでない中年女性と会っても、こうはならない。想像をめぐらせて若い顔を再生するわけにいかないからだ。  午後七時半になった。酒場を出てゆく者が目についた。柚木は律子をうながして席を立った。送り火を見物しやすい場所へ出向かねばならない。若い律子といっしょにいる華やいだ気分は持続していた。  ホテルの玄関で二人はタクシーに乗った。  北大路橋。柚木は運転手に告げた。律子は十何年ぶりかの京都だという。雨の心配をせずに済んだのをよろこんでいた。  夜の京都をタクシーは北へ走った。御所のあたりから車が渋滞しはじめた。大文字に火がともるのは午後八時である。家々から人が出てきて、渋滞を尻目にのんびりと賀茂川のほうへ歩いてゆく。よそゆきの柚木らとちがって、人々は浴衣やふだん着のままだった。柚木は大阪に住み、京都を身近に感じているのだが、きょうは旅行者だった。  北大路橋へ着いた。川面《かわも》を除いて、暗闇の底を群衆が埋めつくしている。柚木は運転手と交渉して、一時間後に糺《ただす》の森《もり》のそばへきてもらう約束をした。二人は車をおりた。賀茂川に沿って南のほうへ歩きだした。  堤防沿いの道路は暗くて人の顔が識別できなかった。車の交通は禁止である。おびただしい人々がゆききしている。堤防の斜面も河川敷も人でいっぱいだった。人々の頭のあいだから川風が吹き寄せてくる。  右手にならんだ屋台のあかりで、柚木は律子の横顔をながめた。律子はほほえんでいる。横顔の輪郭が彫像のようにあざやかだった。どう見ても三十代の女である。  堤防の人々がどよめいた。大文字に火がともった。東南およそ十キロの山影の頂上近くが明るく変った。白煙がゆっくり湧き立った。オレンジがかった赤い大の字が、追いかけるように浮かびあがった。  大文字は最初輪郭があいまいだった。しだいにはっきりしてきた。筆で一気に描かれた大の字ではない。赤いインクにひたした筆の穂先で点々と画面をたたいて描かれた大の字だった。穂形の赤い点々で文字が形成されている。徐々にそれは赤味を増した。やさしい感じになった。  堤防や河川敷から嘆声が立ちのぼった。道路の人々は足をとめた。柚木は律子の手をひいて堤防のうえへ出ていった。  二人とも見惚れて、立ちつくした。大文字はあかあかとして、なにか悲しかった。 「長い歴史のせいかな。ただ明るいだけでなくて、抒情的ですね」 「こんなに明るくて大きいとは思わなかったわ。そのくせさびしい感じがする。テレビや映画では絶対わからない美しさね」  柚木はあらためて律子の手をとった。  手をあずけたまま律子は立っていた。やがて柚木を見て笑った。指に力がこもる。  二人は河川敷へおりた。おびただしい人影のあいだを縫って南へ歩きだした。京都で会って大文字を見物する——柚木の企《たくら》みは成功したらしい。やがて五十歳になろうという現実が、はるか向うに追いやられた。夢のなかに二人は立っていた。  人々がまたどよめいた。北部の山に妙法の火文字がともった。地上すれすれにそれは浮かんだ。そばにいた若い父親が、幼児を抱きあげて肩車に乗せる。  しばらく歩くと、北部の山にこんどは船形《ふながた》の送り火があらわれた。さらに左大文字、鳥居形が北から西にかけて浮かびあがる。そのつど人々はどよめき、柚木と律子は立ちどまった。堤防沿いの並木や建物の陰を避けて、すべての送り火を見わたした。東南から北、西にかけて京都は赤い文字と絵で遠巻きにされている。街ぜんたいが幻想のなかにあった。暗闇の底に、律子の顔だけがかすかに明るく静止していた。送り火のあかりを映しているようだ。  出雲《いずも》路橋《じばし》のそばへきた。河川敷にテント張りのステージが設けられている。市の交響楽団がウインナ・ワルツを演奏していた。  左手に大文字がいまは一気に描いた筆蹟となって燃えている。ステージでは何十もの楽器の絃が動いていた。柚木は律子を前に立たせて音楽を聴いた。高校のコーラス部がよくウインナ・ワルツを歌っていたものだ。  十五分ばかりそうしていた。演奏に一区切りがついた。二人は堤防沿いの道路へ出た。いまの曲を柚木は胸のうちで口ずさんだ。  アイスクリーム、お好み焼、とうもろこしなどの屋台が並んでいる。アイスクリームの店の行列に二人は加わった。 「向うの店に絵葉書があるわ。ちょっと見てきます」  すぐに律子は行列を離れた。  まもなく順番がきた。律子はまだかえってこない。代りに柚木は屋台の女の子からクリームをうけとろうとした。  女の子は怒った顔で手をひっこめた。柚木が同伴者だとは知らなかったらしい。 「ここにいたおばちゃん、どこいったんやろ。もうクリーム要《い》らんのやろか」  おばちゃん、の語に柚木は虚をつかれた。狼狽《ろうばい》して立ちつくした。  律子がもどってきた。女の子は勢いよく律子にクリームをさしだした。 「列を離れんときよしな、おばちゃん。うしろの人にさき取られてしまうエ」  二人は苦笑してそこを離れた。  交通整理にきたパトカーのライトがこちらを照らした。律子の顔がうかびあがった。年齢なりに美しい横顔だった。挑むように律子は柚木の顔をみつめる。柚木は律子の肩を抱いて、暗い橋のうえへ出た。  クリームを舐《な》めて歩いた。律子はすぐにそれを河へ捨てた。ほろ酔いの舌に冷気が快《こころよ》かったので、柚木は手離さなかった。  大文字が急に近くみえてきた。火の勢いが弱まったのか、大の字がやわらかな感じになった。送り火は午後九時に消えるはずだ。その準備に入ったのかもしれない。二人は足をとめて大文字に見入った。オーケストラの演奏が遠くなると、赤い大の字は上空の静寂を吸いこんだようにさびしく映った。  若いころ柚木が見た大文字は、ただ美しかった。七、八年まえ、社の幹部たちとともに鴨川沿いの料亭からながめた大文字は、酔った芸妓の寝姿のようになまめかしかった。  今夜のはまったくちがう大文字だ。三年まえに亡くした父親を柚木は思いだした。 「大の字って、人が寝ている形なんですね。一人ぼっちで、ふてくされて寝ている姿なんだわ。いまはじめてわかった」 「もともと死者の霊を送る火ですからね。悲しい感じがあるのは当然ですよ。死んだ肉親のことを思い出さされてしまう」 「そうね。なんだか私、せき立てられるような気がする。残り時間がすくないのに、なにをぼやぼやしているのかって。なにをすればよいのか、わからないけど」 「過去をふりかえると、やり残したことがあまりに多い。一つ一つ仕上げてゆきたい。とくに律子さんとのことを——」 「柚木さんは欲しいものをみんな手にいれたんだと思っていました。やり残したことが多いなんて、信じられない」 「とんでもない。大事なものはなに一つ手にいれていませんよ。同窓会であなたに会って、つくづくそう思った。高校、大学のころは、あらゆる意味で貧困だった」  律子の腕をとって柚木は歩きだした。  酒店の自動販売機で缶ビールを二つ買った。いっしょに飲みながら歩いた。商店のあかりのなかに律子の姿がうかびあがった。昂然《こうぜん》と律子は顔をあげていた。  糺の森のそばでタクシーが待っていた。河原町三条方面へ二人は向かった。大文字が消えると、交通渋滞がおこる。その寸前なので、順調に走ることができた。  木屋町《きやまち》の料亭へ柚木は律子を案内した。鴨川に面した座敷で食事をとった。  座敷は明るかった。それでも二人きりで向かいあうと、現実の律子の顔のなかに高校時代の律子の顔がうかび出た。律子はにこにこ笑った。電灯に柚木は向かいあっている心地になる。くつろいで酒を飲んだ。律子の顔にも赤みがさしてくる。彼女はひざをくずした。二人のあいだの座敷机が邪魔だったが、わきへ寄せるきっかけを柚木はつかめなかった。  二人は酔って料亭を出た。午後十一時だった。先斗町《ぽんとちよう》はまだ人通りが多い。さまざまな電飾が空間にうかんでいるのに、暗くて人とぶつかりそうになる。しぜんに肩を寄せあった。四条通りへ出るまで、大勢の人々に追い越された。  タクシーで二人はホテルへかえった。ロビーに人影はほとんどない。酔いのせいで柚木は建物が揺れるように感じた。  部屋のキーは律子のバッグに入っている。柚木は律子を待たせて、自分のチェックインの手つづきをした。  二人はエレベーターへ向かった。扉のまえで律子は足をとめ、柚木を見あげた。 「柚木さんもここへお泊りになるのね。部屋は何号なんですか」  柚木はすぐに意味が呑みこめなかった。  何秒かたって、建物の揺れが停止した。柚木は茫然《ぼうぜん》となった。ほかの感情にとらわれる余裕はなかった。 「あなたのいる部屋はぼくの名前でとったんですよ。そこへ泊りたい。いけませんか」 「そんな。私、そんなつもりでは——」  うつむいて律子は動かなくなった。全身が石に変った。 「いけないんですか。おどろいたな。では、あなたは大文字だけのためにわざわざ東京から——。そうなんですか」 「柚木さん、お宅が近いんだからすぐお帰りになれるはずよ。それにあなたは、大文字を見にこいとおっしゃったのよ。私といっしょに見たいって」 「ひどいな。子供みたいなことをいって。高校時代にもどろうとはいったけど——」  柚木は全身の力がぬけた。  気をとりなおして律子の腕をとった。いっしょにエレベーターへ乗ろうとする。 「冒険しましょう。せっかくここまできてくれたんじゃないか」 「いや。それだったら私、べつに部屋をとってきます」  律子は肩を揺すった。はねとばされたように柚木は感じた。  私、自分を大事にしたいんです。うつむいて律子はいった。柚木は苦笑いする。  二階の酒場へ行くことにした。顔をこわばらせて律子はついてきた。  カウンター席でビールを飲んだ。話ははずまない。柚木はしきりに苦笑いした。時間のむだをした。働きざかりの男に時間がどれだけ大切か、女には絶対にわからない。 「男と女の考えることは全然ちがうんだな。勉強になりました。苦い水を飲んだ」 「ここまでだって女には大変なことなのよ。とくに私はそう。とても若い人のようにはいかないわ。ああいうのって好きじゃないの」  律子はとくとくとしていた。柚木を傷つけたことには思いおよんでいない。  柚木は席を立った。レジへいって受話器をとった。大阪|北新地《きたしんち》の酒場へ電話をいれる。あゆみを呼びだしてもらった。 「ああ柚木さん。いまどこ。東京?」  あゆみのはずんだ声がきこえた。家にも彼女にも東京へ出張だといってある。 「予定が変ったんだ。いま京都にいる。これからあゆみのマンションへいくぞ。午前一時ごろになるだろうが、かまわないか」 「わかった。待ってるわ。今夜泊ってもいいんでしょう。おすし買ってきてね」  あゆみは二十二歳である。柚木と親密になってから一年近くたっている。  カウンターにもどって柚木は律子に別れの挨拶をした。しだいに気持が晴れてきた。   2  同窓会は東京駅の近くにある中華レストランのホールで行なわれた。  定刻の午後二時、柚木は会場へ入った。出席者は約二百名。四十歳以上の会員にたいしてのみ招待状が送られたらしい。  同期生は男女あわせて三十名ばかりが出席していた。ほとんどの者とは卒業後の同期会で何度か顔をあわせている。同期生以外の出席者とは卒業後最初の出会いか、初対面かのどちらかだった。パーティ形式で会は進行した。柚木はスピーチをさせられた。  たくさんの出席者と柚木は旧交をあたためた。何人かの男に敬愛の念を抱いた。それ以上に、女たちに関心をそそられた。同期生もかつての上級生、下級生もすでに孫がいそうな年齢である。程度の差はあるが、みんな老《ふ》けていた。女としての魅力が感じられるはずのない相手ばかりだった。  それでも柚木は彼女らと話していると上気してきた。若い肌の香りを感じた。衣服を透して立ちのぼる活気を感じた。年齢なりの美しさを保っている女がとくにそうだった。昔馴染みの女には、得体《えたい》の知れない魅力がある。はじめて柚木はそれを知った。  南部律子とことばをかわして、柚木は昔馴染みの魅力のわけを知った。五十近い律子と話しながら、柚木は高校生の律子と向いあっていた。昔の顔が眼前にうかんでいる。ひきしまった、利口そうな目鼻立ちだった。笑うと、透明感のある歯が口もとから覗《のぞ》いた。とたんに人なつこい印象になる。声は当時と変っていない。つりこまれて柚木も、高校時代の気分になった。  まず記憶がある。それを足場に想像力が昔の顔を描きあげる。現実の顔が消えてしまう。昔馴染みの女たちの魅力の正体がこれだった。彼女らは、同じころ同じ校舎へ通った男たちにだけ見えるセーラー服をきて会に出てくる。なかでも律子は一番鮮明に当時の面影を残している。 「二人だけでこっそり二次会をやりませんか。××ホテルのバーで」  柚木はささやいた。日曜日なので、知っている酒場はみんなしまっている。  律子はうなずいた。先約があるけど、口実をつけてキャンセルします。首をすくめて笑った。愛らしい仕草《しぐさ》だった。  パーティが終った。出席者が三々五々会場の外へ出ていった。柚木も同期の男たちと談笑しながら、ホールからロビーへ出た。  南部律子が小走りに柚木たちを追いぬいて階段をおりていった。真剣な表情だった。律子は会の幹事の一人である。さきに会場を出たべつの幹事に急用ができたらしい。  わきから律子を見て柚木は胸をつかれた。律子は現実の律子にもどっていた。顔が腫《は》れぼったい。酒のせいか、かすかに紫がかった、荒れた肌をしていた。その日律子はブルーのスーツを着ていた。不恰好《ぶかつこう》というほどではないが、日本の中年女らしい体型が露呈している。柚木は顔をそむけた。二人だけの二次会の約束を後悔していた。  だが、ホテルのバーは適度に暗かった。向いあって腰をおろすと、すぐに高校時代の律子が復活した。低い山なみのなかの盆地の風景が律子のうしろにひらけた。若い肌と樹葉の香りを感じて柚木はうっとりした。関西へあそびにいらっしゃい。熱心にさそった。十代の終りのころをやり直してみたかった。  盆地の中央の町に高校があった。その地方では唯一の普通高校だった。生徒数は男女あわせて約五百名。柚木はその町で育ち、高校へ入った。父親は製材工場の経営者だった。  盆地の西側に鉱山があった。江戸時代までは金銀を、明治以降は銅を産出してきた。大手の鉱業会社がそこを経営していた。従業員の息子や娘が百名近く、そこから高校へかよっていた。バスで十五分の通学だった。  鉱山町の一劃《いつかく》に上級社員用の住宅地があった。しゃれた白い住宅が三十戸ばかりあつまっていた。なかの道を通ると、ピアノの音がきこえた。柚木はいつも、東京の住宅街へ迷いこんだ気分になった。人口二万の盆地の町では、ピアノのある家は旅館、造り酒屋、医院の各一軒ずつぐらいのものだった。社宅の町では六、七軒にピアノがあった。  南部律子は社宅の一軒の娘だった。同級生といっしょに柚木は社宅の町を通りかかり、あれが律子の家だと教えられた。門のなかにヒマワリが咲き、犬小屋に白い小犬がつながれていた。ピアノの音がきこえた。柚木の知らない曲だった。  律子は中学生のころ、父親の転勤で東京から鉱山町へ引越してきたということだった。みんなと同じセーラー服を着ているのだが、一人だけ贅沢な服を着ているようにみえた。一分の隙もない、磨きぬかれた感じが全身にあった。澄んだ声で、歯切れよく話した。柚木は律子と町で会うと、彼女のうしろからピアノの音がきこえるような気がした。  まとまった演奏ができるのは、学校中で律子ひとりだった。文化祭のおりはコーラス部の伴奏をしたり、独奏したりする。ピアノを弾《ひ》くとき、律子はすこし眉根《まゆね》を寄せて神経質な顔になった。首をかしげて自分の音にききいることもあった。終って拍手にこたえるときは、泣き笑いのような表情になった。  柚木は講堂のうしろから、文化祭のステージの律子をみつめつづけた。息をつめてみつめた。ペダルをふむ白いズック靴にときおり視線がいった。奇妙に胸苦しくなる。ショパンの曲と、律子にたいする自分の気持がぴったり一致していると思った。演奏が終ると、柚木は拍手もせずに講堂から姿を消した。あこがれの念をだれにも知られたくなかった。  律子とは学年もちがう。所属のクラブもちがう。近づくチャンスがなかった。生徒会の委員会などで、たまに口をきくだけだった。二人きりになることもなかった。  夜、柚木は律子の顔を見たくてたまらなくなることがあった。家をぬけだして、歩いて鉱山町へ向かった。星空をあおいで坂道をのぼってゆくと、まるで律子が自分を待っていてくれるように感じた。  社宅の町へ入った。律子の家のそばを通る。二階のすみの窓が律子の部屋の窓だと柚木は勝手にきめていた。窓にはいつもあかりがついていた。立ちどまって窓あかりをみつめる。夜気を吸いこむ。律子の肌の香りが夜気にこもっていた。彼女の姿が窓にあらわれたことはない。それでも気が済んだ。遠い坂道を歩いて帰った。稔《みの》りのない恋をしているという意識によろこびがあった。  夏の午後、柚木たちはいつものように校庭でボールを蹴りあっていた。音楽室から女声コーラスが流れてきていた。  仲間の一人の蹴ったボールが、窓|硝子《ガラス》をやぶって音楽教室へとびこんだ。コーラスが止んだ。近くにいた柚木は頭をかきながら、窓の下へ走っていった。  教室では女生徒たちが箒《ほうき》と塵取《ちりと》りをもちだしていた。律子がボールをもって窓辺にやってきた。両手で、バケツの水をかけるような姿勢でほうってよこした。頬ぺたをふくらませて、力をこめていた。  柚木はボールをうけとった。腕でひたいを拭って律子に笑いかけた。 「硝子、なかへ飛んだんだろう。だれか怪我をしなかったか」 「大丈夫です。硝子はすぐ片づけます」  律子は右手で髪をなおした。  半袖の白いセーラー服を律子は着ていた。右手をあげた瞬間、腋毛が見えた。柚木はわけのわからない衝撃をうけた。あこがれの感情が汚されたように感じた。 「がんばってくださいね」  律子が声をかけてきた。  うなずいて柚木はそこを離れた。仲間のほうへボールを蹴った。柚木は頭をふって、腋毛のイメージを追い払おうとつとめた。  三年の夏休みが終った。受験勉強で柚木はいそがしくなった。律子の部屋のあかりを見に鉱山町へ行くこともなくなった。  大学の入試が近づいた。ある夕刻、柚木は思いきって学校帰りの律子を待ちぶせした。律子は音楽部でコーラスの伴奏をする。終るのはいつも午後五時だった。  鉱山町まで律子は仲間といっしょにバスで帰る。おりると社宅まで一人になる。停留所のそばに柚木は立っていた。まだ野山を覆《おお》っている雪に夕闇がにじみはじめていた。紺の外套《がいとう》をきた律子がやってきた。近づいて柚木は声をかけた。いっしょに百メートルばかり歩いた。公民館の裏で立ち話をした。  柚木は東京の大学へすすむ。五月ごろ律子は修学旅行で東京へゆく。向こうで落合おう。約束をかわした。自由行動の時間、二人でほうぼう歩きまわる予定を立てた。  はじめてゆっくり話をした。律子のほうも柚木と友達になりたかったらしい。柚木は元気づいた。二人とも大学へ入って東京で交際する。かがやかしい学生生活になる。  柚木が受験に出発する列車の時刻を律子は訊いた。駅まで送りにいくという。長靴を雪道に弾《はず》ませて柚木は帰途についた。  出発の日になった。夕刻の列車だった。駅に律子はあらわれなかった。列車に乗りこんでからも、柚木は窓から外をながめていた。列車が動きだした。あきらめて柚木は参考書をひらいた。  受験は失敗だった。第二志望の大学にも入れなかった。柚木は東京に下宿して予備校へ通うようになった。五月に律子は修学旅行で上京してきた。大学へ入った同級生たちが得意顔で宿へあつまるはずである。彼らに会うのがいやで、柚木は顔を出さなかった。  翌年、柚木は入試に合格した。郷里の町へかえってすぐ律子の家へ電話をいれた。律子の一家は引越したあとだった。つい一ヵ月まえ、父親が北海道の鉱山へ転勤したのだ。一級下の女生徒から律子の消息をきいた。札幌の大学へ入ったということだった。  それきり柚木は律子に連絡しなかった。合格して気持がたかぶっていた。彼女にこだわらなくても、新しい女友達がいくらでもできそうな気がしていた。柚木は大学へ入った。女友達はできなかったが、東京に住んでみると、札幌は外国のように遠かった。 「——浪人されたとき、どうして連絡をくれなかったんですか。私、待っていたのに」 「合わせる顔がなかった。不信感もありました。あなたが駅へきてくれなかったから」 「いいえ、私、行ったんです。柚木さんの姿がなかった。私のほうこそ傷つきました」 「ほんとうですか。きてくれたんですか。変だな。ぼくは予定どおり発《た》ったのに」  二人は顔を見あわせた。律子は怯《おび》えた表情になった。  あらためて当日のことを話しあった。行き違いの原因がわかった。盆地の町は太平洋、日本海の双方からほぼ等距離にある。上京するには支線で東へ行き東北本線に乗りかえるのと、西へ行って奥羽本線へ乗りかえるのとの二コースがあった。町の駅からは前者は上り、後者は下りになる。下りはやや遠回りだが、東京までの所要時間に大差はない。  五時台だったか六時台だったか、ともかく柚木は下り列車に乗った。律子はそれが出たあと、上り列車を送りに駅へ入った。 「いやだ。東京へ行くのに下りに乗るなんて、私、夢にも思わなかったわ。東京からあの町へ越したとき、東北線だったし」 「そうだったんですか。あなたはきてくれたのか。よかった。長年の不信の念が消えましたよ。すばらしい話をきいた」  柚木は急に酔いがまわってきた。律子は雪の上で立ち話したときの顔をしている。 「私のききちがいだったのかしら。柚木さんは上りとおっしゃったはずなんだけど」 「そうかもしれません。でも、どちらのミスでもいいじゃないですか。二人とも約束をまもったんだから」 「そうね。柚木さんは下りのつもりだったのね。知らなかったわ。夢にも思わなかった。考えてみると恐い話ですね」 「あのとき見送ってもらっていたら、引込み思案になることもなかった。そしたら——」  柚木はことばを呑みこんだ。  笑って二人はうなずきあった。すぐに視線をそらせた。 「縁がなかったんですね、私たち。父が転勤になったのも、縁がなかった証拠だわ」  律子は鼻にしわを寄せてみせた。深刻になるまいとしている。  酒場は混みあっていた。人々の談笑の声で薄明が揺れている。ステージで女のピアニストがショパンを弾きはじめた。音が柚木の耳よりも、のどの奥にひびいた。 「縁がなかったで済ませたくないですね。失ったものをとりもどしたい。そうする権利があるような気がしますよ。当然手にするべきものを失ったんだから」  柚木は、律子をみつめた。  音楽が胸に流れこんだ。信じられないほど柚木はすなおな気持になっていた。 「とりもどせたら——。私もそうしたい。でも、いまさらどうにもならないわ」 「そんなことはない。われわれ二人だけのあいだでなら、とりもどせます。なんでもできる。あのころにだって帰れる」  律子は目をふせてだまっていた。柚木のことばをどうきいたのか、よくわからない。  瞬間、柚木は女好きの中年男の目で律子をうかがっていた。つけこむ隙はないか、どう押せばよいのか、測っていた。  柚木はわれにかえった。いつもの情事ではないのだ。自分にいいきかせた。ステージでピアノを弾く律子を遠くからながめたときのすなおな感情が胸にあった。それに気づいて、うれしかった。涸《か》れていた自宅の庭の泉がよみがえった思いである。  女好きの中年男の目は、そうした感情のふくらみのさまたげになる。律子にそんな目を向けるのを柚木は自分に禁じることにした。セックスをいそぐ気持は強くなかった。みずみずしい感情におぼれることで、若い日々をもう一度経験するつもりである。  二時間ばかりそうして話しあった。午後九時に二人は腰をあげた。柚木がレジで支払をするあいだ、律子はどこかへ電話をかけた。  カウンター席にいる若い女が、こちらを見て手をふった。北新地の酒場で働いている愛人のあゆみだった。きのうから東京へあそびにきている。柚木の予定にあわせて上京したのだ。夜、ホテルへくるよう伝えてあった。あした、いっしょに大阪へ帰る約束である。  あゆみに合図しておいて、柚木は律子を送りに出た。ホテルの玄関で律子はタクシーに乗らなかった。迎えがくるという。  白いベンツがやってきた。運転手が扉をあけて律子を乗せた。すぐにベンツは走り去った。柚木は酒場へもどった。 「品のいい人やねえ。服装のセンスも抜群やった。あの人も柚木さんの同級生なの。東北地方って、案外レベル高いんやねえ」  あゆみは感心していた。  ブランデーを柚木は注文しようとした。あゆみに制止された。ビールにしておきなさい。ささやいてあゆみは体を寄せてきた。  八月までに柚木は三度上京した。そのつど律子を呼びだして会った。いつも夜だった。レストランや酒場で柚木は若いころの律子に再会できた。三十年まえの日々を、すこしずつやりなおした。  律子の内面は成熟していた。話していて、柚木は倦《あ》きなかった。音楽や文学の素養の点では、柚木は足もとにもおよばない。律子は若い音楽家たちで編成されたある交響楽団の有力な後援者になっていた。コンサートの世話をしたり、若い演奏者に経済的な援助をしたりするらしい。骨を折って海外公演を実現させ、ヨーロッパへ同行したこともある。  律子自身もまだピアノをつづけている。高名な演奏家に弟子入りしていた。 「音楽大学を出たわけでもないし、趣味でやっているだけ。素人芸ですよ。チャンスがあったら、聴いていただきますけど」  律子は手をみせてくれた。  しっかりした感じの手だった。大きく指が反《そ》った。律子はテーブルのうえで、鍵盤をたたく指づかいをした。あどけない笑顔になる。柚木は律子を抱きたい衝動にかられた。  八月に入ってすぐ柚木は上京した。律子の家へ電話をいれた。食事にさそったが、ことわられてしまった。夫がいま日本に帰っている。夜の外出はできないという。 「ご主人がおられるのなら仕方ないな。つぎの機会ということにしましょうか」  柚木は刃物に手をふれた思いだった。律子の夫をはじめて強く意識した。 「中旬にはまた自由になるんですけど。大森がフランスにいく予定だから」  洋酒の輸入商にとっては多忙な季節なのだという。八月中旬から二ヵ月ばかり、律子の夫はフランスに滞在するらしい。 「では十六日に京都へきませんか。大文字なんです。いっしょに見ましょう」  思いついて柚木は申しいれた。  律子は返事をしぶった。動揺しているのが声でわかった。   3  チャイムの音で柚木は目をさました。  サイドボードの時計を見た。午前一時すぎだった。ベッドに横になってテレビを見ているうち、眠ってしまったらしい。  起きていって柚木は部屋の扉をあけた。あゆみが立っていた。ぼんやりした顔で入ってくる。バッグをテーブルにおいて、くずれるように椅子へ腰をおろした。 「やっと終ったわ。お尻の長いお客がいて、まいった」  おそくなった詫《わ》びをいったつもりらしい。これでも店が終ってすぐやってきたのだ。  電話ではあゆみは陽気で愛らしいうけこたえをする。顔をあわせると無愛想になった。照れてしまうのだ。母親の視線に四六時中つきまとわれて育った娘なのだろう。  九月のはじめである。柚木は朝から広島へ出張し、夜九時に大阪へ帰ってきた。あゆみの働いているラウンジバーへ顔を出した。そのあと酒場街のそばにあるホテルの部屋へ入った。店が終ってから、あゆみが会いにくることになっていた。自宅にはきょうは広島泊りだと告げてある。  あゆみは一昨年、短大を卒業した。英会話の学校に通いながら、夜、ラウンジバーで働いている。家は京都にあった。両親が離婚し、弟とともに母親に育てられたらしい。  あゆみは家を出て、一人で暮したがっていた。あゆみと体の関係をもってから、柚木はそのことを知った。東三国《ひがしみくに》にマンションを借りる資金を出してやった。以後、家賃のほか小遣い程度の金をあゆみにわたしている。ベッドをともにするのは月に二、三度だった。たまにあゆみの部屋へ泊ることはあるが、暮しぶりに特別の関心はなかった。  柚木も椅子に腰をおろした。浴衣《ゆかた》がけである。ビールを飲みながらあゆみと他愛のない話をした。やがて、あゆみはクロゼットのまえで服をぬぎはじめた。柚木はベッドに横たわった。そこからあゆみの姿がみえる。  あゆみは靴をぬぎ、ストッキングと下着類を足からぬきとった。裸足《はだし》のまま、上体を折ってワンピースをぬぎにかかる。途中であゆみは動きを停《と》めた。 「ねえ、このあいだ話、したでしょう。毛皮のコート、注文してもいい」  ワンピースをかぶったエビのような恰好であった。  柚木は苦笑いした。まっすぐのびたあゆみの脚から視線をあげた。 「いいよ。ただし、条件はまもるんだぞ。サラリーマンには荷が重いんだから」  百万円以内。五回以上の分割払い。柚木は先日そう申しわたしておいた。  ほっとしたようにあゆみの青いワンピースが動きだした。かたちのよい裸身が下からあらわになってゆく。日焼けした肌だった。 「しかし、まだ九月だぞ。毛皮の心配は早すぎるんじゃないのか」 「いまから注文するほうが、いいものを安く買えるのよ。男の人は知らんやろけど」  あゆみはワンピースをぬいだ。  ブラジャーをはずして、ちらとこちらをみた。すこし笑った。どこもかくさない。きびすをかえして、ゆっくりと浴室のなかへ消えた。  まったく物要《ものい》りなことだ。柚木は苦笑いした。プロとはいえないが、あゆみも酒場街の女だ。経済の面でかなりの負担になる。  あゆみは店で目立つほうではない。気のきいた会話もできない。ときおり物陰でママに叱られている。真剣に客の話をきくのが取得《とりえ》だった。笑顔が愛らしい。  柚木はあゆみの翳《かげ》りのある様子に魅《ひ》かれた。複雑な人生をたどってきた娘のように思われた。力になってやりたかった。可愛がるうち、男と女の関係になった。あゆみを目あてにその店へ通ってくる客はすくない。柚木を見る彼女の目に感謝の色があった。  仲良くなってみると、あゆみはとくに翳のある娘でもなかった。カラオケ酒場で、中森明菜の歌をよくうたった。明菜が乗り移ったような身ぶりをいれた。英会話学校の文化祭でアイドル賞をもらったといっていた。  あゆみは待ちあわせの時間によくおくれた。今夜のようにホテルで待たせるのはいつものことである。すっぽかしたことも一度あった。芸能人のこと以外なにも知らない。会っても話題がなかった。ときおり英会話の練習台に使える以外、柚木には得るところのない娘である。いつでも別れられる相手。そうした安心感があった。  バスルームからあゆみが出てきた。こんどはいそぎ足だった。柚木のとなりへ倒れこんでくる。二人はくちづけをかわした。  あゆみの肌は小麦色である。色白の女の多い地方で育った柚木には、その肌色が刺戟的だった。甘苦い香りを肌に感じる。  あゆみの顔や首が上気して赤くなった。その耳や首へ柚木はキスを這わせてゆく。あゆみはいつも受身である。目をとじて動かない。呼吸だけ、はずませている。柚木はあゆみの肩や腋から、乳房へ移ってゆく。乳首の色の濃いことだけが気にいらない。あとはすべての点であゆみの体に満足している。  特徴のない、ほどよくまとまった裸身だった。ほどよくふくらみ、ひきしまっている。どの部分の線にも歪《ゆが》みがなかった。肌には光沢がある。吸いつくと緊張し、離すとゴムのようにもとへもどった。筋肉も骨もしなやかである。毛は濃いほうだった。女の部分の色合は奇蹟のように明るい。  柚木はあゆみの体をすみずみまでくちびると舌で味わった。ときおり顔をあげて見惚《みと》れた。指で肉を圧《お》したり、つまんだりすることもあった。一分の隙もなく均整のとれた裸身なだけ、どこか一角をくずしてみたい気持におそわれるらしい。くずしたあとへくちづけにゆく。修復するつもりである。  あゆみの体に柚木はあこがれの感情をおぼえる。しだいにそれがたかまってくる。柚木は女の部分へくちづけにゆく。崇拝する気持で舌をおどらせる。そうしていると、柚木は心がやすらいだ。いつまでもこの状態を持続したい気持にかられる。  あゆみはせいいっぱい体をひらいていた。高い声で泣いていた。とめどなく熱いものをにじみ出させる。体を揺すりはじめる。指をもとめる合図だった。くちびるに加えて、柚木は指を使いはじめる。あゆみはさらに揺れて、快楽の頂上へ近づいたことを告げた。反りかえって、呻《うめ》き声をしぼりだした。  そんなことを三度くりかえした。あゆみはぐったりとなった。愛撫をやめて柚木は添い寝をする。あゆみの手をとって、自分の下腹部へ誘導しようとする。  反抗の声をあゆみはあげた。手をひっこめてしまう。いつものことだった。あらゆる奉仕をあゆみはうけいれる。どんなポーズにも応じる。だが、いっさい奉仕をしない。男性にさわるのをいやがる。 「まだ馴れないのか。やっぱり年寄りがきらいなんだろう。心の底できらっている」 「ちがうって。きらいやないけど、ようしないの。私の友達にも何人かいるよ。そういうことだけはようせんいう子」 「好きな男ができたときのためにとってあるなら話はわかる。そうじゃないのか」 「べつに意味はないわ。ようしないだけ。まだしたことがないんやから」  あゆみの体を尊いものに感じるので、柚木は彼女のわがままに反撥がなかった。逆にひそかな快感があった。  柚木は女の部分へ手をのばした。奉仕をうけるのをあきらめたしるしである。あゆみはうつぶせになり、後方から迎えいれる姿勢をとる。柚木は入ってゆく。丹念に快楽を掘りおこして、やがて完了にいたる。  横たわって柚木はあゆみを抱き寄せる。髪や背中をなでさすった。寝るまでつづけるつもりだ。あゆみの体を尊く思う気持を持続させながら眠りに落ちてゆきたい。  あゆみが起きあがった。貼りついていた二人の肌をひき剥《は》がされたように柚木は感じた。あゆみはベッドをおりて、裸のままバスルームへ消えた。水音がきこえる。柚木は目をつぶった。疲労が全身ににじんだ。  あゆみがもどってくる足音がした。 「ああ、目がさめてしもた。深夜番組を見るからね」  テレビのスイッチが入った。  あゆみの体が柚木のそばに投げだされる。テレビの音声が流れはじめた。 「毛皮の契約書にサインしてね、あした」  遠くでそんな声がきこえた。  翌朝八時まえに柚木は目をさました。バスルームへ入り、シャワーを使った。  バスルームの壁の電話のベルが断続して鳴った。あゆみがベッドの枕もとの電話でどこかを呼びだしている。二つの電話は連動しているのだ。めずらしくあゆみは早く起きた。  あゆみが話をはじめた。壁の受話器をとって柚木は耳にあてた。あゆみの声が伝わってくる。盗聴されているとは知らない。 「住所氏名さえ書いてもろたらいいのやろ。金額は記入せんとく。そうかて、予算が百万やていうてはるから——」  相手は同僚のホステスのようだ。毛皮商と親しくしている女らしい。  百五十万円の毛皮をあゆみは買う気でいた。だが、柚木の条件と合わない。とりあえず契約書にサインさせて、金額はあとで自分が書きこむ考えをおこした。住所氏名と金額が異った筆蹟で記入されても効力があるのか訊いているのだ。 「べつにかめへん思うよ。けど、そんなことしていいの。柚木さん怒らへん」 「大丈夫。怒っても最後はいうこときいてくれるわ。やさしい人やから——」  柚木は苦笑して盗聴をやめた。  あゆみの関心は芸能界と経済の領域を出ることがない。若い体への崇拝の念に水をかけてばかりいる。のめりこんでしまえば、百万がたとえ五百万でもなんとかする性分なのだが、あゆみのほうが柚木にそれをさせない。そんな点、おそろしく鈍感な娘である。  柚木はバスルームを出た。身支度をはじめる。あゆみが契約書にサインをせがんだ。 「こういうものにはかんたんに記入できないよ。条項をよく検討しなくては」  契約書を彼は上衣のポケットにしまった。  口をとがらせるあゆみを無視した。いずれサインすることになるのはわかっている。すこしは気をもたせてやりたい。  九時十五分まえに会社へ入った。席について、トレーのなかをしらべた。稟議書《りんぎしよ》や伝言メモがたまっている。一日出張すると、トレーは書類でいっぱいになる。  南部律子から電話が入っていた。とくに伝言はない。また電話しますの一言だけだ。  大文字の日以来、律子はむしろ頻繁に電話をよこすようになった。上京の予定はないか訊いたり、同窓生の消息を伝えたりする。郷里の町のニュースを報告することもあった。会議のまえだろうと、決算事務の最中だろうと、こちらの様子には頓着しない。  柚木はわずらわしくなる。だが、話すうちに高校時代の律子の面影がうかんでくる。郷里の空や野山のイメージがひろがる。いつかひきずられて相槌《あいづち》を打っていた。  十時ごろ、受付の女の子が白い花の鉢植えを柚木にとどけにきた。鉢をかかえて近づいてくる女の子の胸のあたりで、白い蝶の群れが舞っているようにみえた。胡蝶蘭《こちようらん》だった。フラワーショップからとどいたという。  付されたカードを柚木は手にとった。律子からだった。誕生日の祝いである。そういえば大文字の晩、誕生日はいつかと律子に訊かれたおぼえがあった。  柚木は律子の家へ電話をいれた。お手伝いに取次がれて律子が出てきた。大文字以来、柚木から電話したのははじめてである。  花の礼を柚木はのべた。お返しをしなければならない。律子の誕生日が十二月の二十一日であることをたしかめた。 「でも、お花なんかいただいたら困ります。大森がそのころは家にいますから」  柚木はまた刃物に手をふれたような感覚を味わった。  律子の夫は例年、十二月と一月は家ですごす習慣である。そうでない年は海外へ律子を呼び寄せる。パリ、ニューヨークはもちろんリスボンやカサブランカの正月も、律子は体験していた。  十月にピアノの一門の発表会がある。律子も出演してショパンを弾《ひ》く予定である。毎日練習している。後援しているオーケストラの演奏会も成功させなければならない。生き生きと律子は近況を語った。 「発表会、かならず聴きにいきます。そのまえに東京へ行く用事をつくります。あなたの誕生パーティの先取りをしよう」  柚木は受話器をおいた。  デスクのうえで数羽の白い蝶が舞っている。課員の一人が目をとめて近づいてきた。追従《ついしよう》をこめて羨《うらや》んでみせる。 「たまにはこんなこともあるさ。ことわっておくが、贈り主は酒場の女じゃないぞ」  上衣のポケットにある毛皮の契約書を、柚木は苦々しく思いだした。  志《こころざし》とちがって、なかなか東京に用事をつくれなかった。九月の下旬、やっと柚木は上京した。  午後六時すぎ、柚木は東京支社を出た。まっすぐホテルへ向かった。七時ごろ、ロビーで律子と待ちあわせる約束だった。  七時に柚木はロビーへ出た。ボーイが柚木の名を呼んでいる。電話が入っていた。いやな予感にかられて彼は受話器をとった。  律子の声をきいたとたん、予感が的中したのを知った。律子の夫が急にフランスから帰ってくることになった。午後八時、成田に着く。家を空《あ》けるわけにはいかない。疲れた声で律子は詫びをいった。 「ひどいなあ。たのしみにしてきたのに。今夜どうすればいいのかな、おれは」  柚木は心臓がひきつった。そんなに夫が大事なのか。胸のうちでつぶやいた。 「八時に成田なら、家に着くのは早くて十時でしょう。まだ大丈夫だ。出ていらっしゃいよ。一目でいいから会いたい」 「そんなわけにはいかないわ。子供もいるし、出かける口実がないんです」 「ご主人の海外出張はめずらしくないんでしょう。たまに家を空けてもいいじゃないですか。ぼくのために不義理してください」 「ごめんなさい。どうにもならないの。こんど、かならず埋めあわせをするわ。どんなことをしてでも。私、約束します」  どんなことをしてでも——。そのことばが柚木ののどの奥にひびいた。  セーラー服の短い袖口から覗いた腋毛を彼は思いだした。とっさに声が出なかった。無理をいって律子を困らせたい執念が消えてしまった。  電話は終った。部屋に柚木はもどった。夕食をとりよせる。味気なくたべた。終ってベッドに横たわった。腋毛のイメージがよみがえった。  律子を抱きたい。三十年来の夢が叶《かな》う。だが、それが心の底からの望みなのかどうか、自分でもよくわからない。律子の体はおとろえているにきまっている。服をぬがせたあと、柚木がたじろがないという保証はない。そうなるのが恐かった。抱きたいと思う半面、一日のばしにしたかった。  現在の律子と向かいあって話すとき、柚木はむかしの律子の顔を思いうかべる。イメージで現実を覆いかくす。だが、律子の現在の裸身をまえにしてそんな操作ができる自信はなかった。柚木はむかしの律子の裸身を知らない。若い裸身を再生する手掛りがない。  大文字の夜はあれでよかったのかもしれない。知らず知らず破綻《はたん》を回避したとも考えられる。幼馴染みとの恋は、成就と破綻がとなりあわせなのだろう。律子とは寝ないほうがいいのかもしれない。だが、それではなんのために逢《お》う瀬《せ》をかさねるのか。  考えが柚木は停滞した。まだ眠る時間ではない。起きて身支度をした。タクシーで柚木は銀座の酒場街へ出かけた。働いているあゆみの姿がふっと目にうかんだ。  十一時すぎまで柚木は酒場にいた。酔って、にぎやかな気分になった。だが、外へ出ると、ひやりとする夜気がのどの奥へしみこんできた。夜気は細い竜巻になって、のどから胸のうちをかきまわした。律子の笑顔が脳裡《のうり》にうかんで消えなかった。  自由が丘。タクシーの運転手に柚木は告げた。所番地をたよりに律子の家を見にゆくのだ。高校のころと同じことをやろうとしていた。  目的の所番地の近くでタクシーをおりた。街灯の淡いあかりの下に邸宅がならんでいる。ゆたかな樹木がところどころ街灯や門灯に照らされて、あざやかな緑色をしていた。  人通りはすくない。ときおり車が通った。しずかな街のすみずみまで、走行音の波及するのがわかる。邸宅の標札をたしかめながら柚木は歩いた。ときおり犬が吠える。自分の足音がわずらわしいほど耳についた。 「大森」の標札を柚木は見つけた。所番地からいって、まちがいなく律子の家だった。予想よりも一まわり大きな邸宅である。白い塀をめぐらせ、門柱のあいだに高い鉄扉があった。塀ごしに庭木の黒い影がならんでいる。門灯は明るいが、玄関の軒灯は暗かった。玄関の横の窓にあかりがついている。二階の窓にも、淡いあかりがともっていた。  建物の大部分は白い塀にかくれている。外からみえるのはほんの一部だった。内部の様子はまったくわからない。二階建ての邸宅のどっしりした量感だけが伝わってくる。柚木は思わず土地と建物の時価を見積ろうとした。途中で思いとどまった。  門のまえに立って柚木は空を見あげた。地上よりもやや青みがかった夜空に、塵のような星が散っている。星のあいだから、かすかなピアノの音が降ってきた。  こっそり社宅の灯をながめたときの悲哀がよみがえった。律子の肌の香りが闇ににじんでいる。ピアノの音がなまなましくなった。団欒《だんらん》のざわめきも耳に入る。律子は家族にまもられている。堅固な城のなかにいた。近づくすべはない。そう思うと、奇妙に心がおちついてきた。片想いもわるくない。なかなかいい気分のものではないか。柚木はつぶやいた。  車がやってきた。塀ぎわに身を寄せた柚木をライトで照らして走り去った。表通りのほうへ柚木は歩きだした。ピアノの音はもう消えている。首すじに柚木は秋を感じた。東京にも虫の声があった。   4  午後からの会議が四時に終った。  ある化成品の開発をめぐる会議だった。柚木はその事業の責任者である。  開発ははかどっていなかった。会議では出席者の弁解があいついだ。終盤、柚木は強硬な発言をする羽目になった。結論を出し、方針をみんなに示した。けわしい顔つきのまま自分の席にもどった。  デスクのうえに白い蝶が五羽舞っている。律子から贈られた胡蝶蘭は、陽光と水を過不足なくあたえているのでまだ花が落ちない。だが、花びらがやわらかくなり、緑も黄ばんできた。あと二、三日の生命だろう。  律子からの伝言メモがトレーにあった。また電話します。例によってそれだけだった。東京出張から柚木はきのう帰った。先日の違約の詫びを律子はいいたいのだろう。  デスクワークに柚木は手をつけた。電話が鳴った。受話器をとると、律子からだった。いつもより声が切迫している。息を切らせた感じで、律子はまず詫びをいった。 「ご主人、お元気でしたか。たっぷりお土産《みやげ》があったんでしょう」  口調に皮肉が出てしまった。いそいで柚木はつぎのことばをさがした。 「大森はいま関西なんです。きのうから」  律子はいいにくそうだった。なにか事情がありそうだ。 「間《ま》がわるかったんだな。きょうあたりから東京へ出張すればよかった」 「じつは私、いま大阪なんです。Rホテルにいるの。大森とは別に——」 「なんですって。Rホテル——。ご主人と別々に。どういうことなんですか」 「私、柚木さんにお会いしないで帰るつもりだったの。でも、やっぱり無理。せめてお茶でもごいっしょしたいと思って」 「わかりました。そちらへいきます。Rホテルの何号室ですか」  律子は部屋をとっていなかった。ロビーの奥のラウンジにいるという。  律子の身になにか起ったらしい。会わないわけにはいかない。私用外出だと秘書に告げて柚木はオフィスを出た。社の車でRホテルへ乗りつけた。  約束のラウンジに律子の姿があった。ロビーを見わたせる場所だった。律子は紫色のスーツをきている。  律子のほうへ歩きながら、柚木は不安にかられた。まだ夜ではない。年齢《とし》とった律子とまともに対面することになるのではないか。若い律子のイメージで現実を補いきれなくなるのではないか。わるくすると、律子へのあこがれを持続できなくなるだろう。  ほんの数秒で不安は消えた。一流ホテルのロビーやラウンジの光景に、律子はすこしも無理なくおさまっている。よほど美しい女でも、一流ホテルで会うと豪華な内装に位負《くらいま》けして貧弱にみえるものだが、律子はちがっていた。建物に負けないだけの優雅な雰囲気があった。柚木の贔負目《ひいきめ》もあるのだろう。  柚木は律子と向いあわせに腰をおろした。バーはどうかとさそってみる。ほほえんで律子はかぶりをふった。 「大森はね、女づれなんですよ。日本観光をさせる目的で帰ってきたわけね。もちろん本人はビジネスだといっていますけど」  しずかに律子は打ちあけた。  柚木が上京した日、律子の夫は成田へ着いた。フランスの女をつれていた。女をホテルへ送ったあと、夫は家へ帰ってきた。律子はそんな予感がしていた。自宅の車の運転手を追及して事実をつきとめた。 「何度もあったことなんです。海外で所在不明になるの。クレジットカードの明細がまわってくるので、様子がわかるんです。お恥ずかしい話なんですけど」  律子は目をふせた。涙をこらえている。  夫を責めたことはない。騒ぐ値打もない事柄だと考えていた。だが、こんどは冷静でいられなくなった。夫が女をつれて帰ったのははじめてなのだ。一日東京にいただけで、夫はきのう関西へ発《た》った。きょう、気がつくと、律子は「ひかり」の車中にいた。夫を追跡するのだけが目的ではない、柚木に会いたいためでもある。沿線の風景をながめて、自分にいいきかせた。 「大阪では大森はいつもこのホテルなの。きょう二時にチェックインしているわ。昨夜は京都だったんでしょうね」  フロントオフィスで律子は夫とフランス女の滞在をたしかめていた。  二人は外出中である。やがて帰ってくるかもしれない。ロビーのみえる場所を、律子は離れたくないようだ。 「女の気持ってふしぎですよ。自分にうしろ暗い点があると、かえって夫をゆるせなくなるのね。こんなこと私、はじめて。いままで干渉なんかしなかったのに」 「うしろ暗い点とは、どういうこと」 「柚木さんのことです。わかっているくせに。ほんとうに私、身勝手なの。自分だけ恋をしたいの。夫にはさせたくない。私が恋をしているあいだは、夫に苦しんでほしい」 「そういうものかもしれないな。でも、いまは冷静なんでしょう」 「事実をつきとめたら、おちつきました。なにしに大阪へきたのか、わからなくなった。やっぱり柚木さんに会いにきたのね」  律子はほほえんだ。高校時代の笑顔がゆっくり浮かび出て、正面に静止する。  律子はとりみださなかった。それが柚木には大きなよろこびだった。あこがれる気持が損《そこな》われていない。かえって濃くなっている。 「気が済んだから、これから東京へ帰ります。息子も家にいることだし」 「あわただしいんだな。大阪であそびませんか。ぼくがエスコートします」 「きょうは遠慮します。浮気亭主を追ってくるなんて、私、最低の状態だったんだから。柚木さんに合わせる顔がありません。こんど東京で、最良の状態のときに」  せめて食事を。柚木はさそった。ホテル内の日本料理の店へ二人は入った。  二人のあいだで、はじめて律子の夫のことが話題になった。  夫の父親が洋酒の輸入を手がけて産をなした。夫は二代目である。初代は引退して、逗子《ずし》で余生を送っている。  律子が札幌の大学の二年生のとき、同級生の紹介で大森と知りあった。大森はその同級生の親戚だった。夏休み、札幌へあそびにきていたのだ。大森は東京の大学の四年生だった。経済学部で首席を争っていた。 「金持の息子で、秀才だったんだな。一目惚れしたんですね」 「ちがうの。ルックスの良くない人なんです。フランス語でいえばプチグロ。小柄で、ふとっているという意味」  執拗《しつよう》に乞われて律子は大森に嫁《とつ》いだ。  大森は事業を大きくした。律子や子供にもやさしい。不満な点は、音楽に理解がないことぐらいだった。だが、八年まえ社長になってから、海外での行動がいかがわしくなった。律子は見て見ぬふりをしてきた。 「亭主というのは、大なり小なりそんなものですよ。さわぎ立てなくてよかった。あなたの分別がご主人の支えになっている」 「下心があって追及しなかったんです。いつか私も恋をする。いま正義をふりかざすと、そのとき困るという意識があったの。最近それがわかってきました」  ゆっくり食事を終えた。六時まえだった。  二人は料理店を出た。ロビーを通って玄関へ向かった。柚木は新大阪までタクシーで律子を送ってゆく気だった。  玄関のそばで声をかけられた。あゆみが立っている。柚木は約束を思いだした。六時にあゆみとここで落合い、食事のあと同伴出勤する予定になっていたのだ。  あゆみを待たせて、律子についてタクシー乗り場へいった。適当に事情を話して別れを告げた。二週間後に律子のピアノの発表会がある。なにを措《お》いても聴きにゆくつもりだ。  律子を見送ってから柚木はロビーへもどった。館内のイタリア料理店へあゆみをつれていった。あゆみが食事するあいだ、柚木はワインを飲むことにした。  四、五日まえ、柚木は毛皮のコートの売買契約書にサインしてあゆみにわたした。総額百五十万円。十回払いである。そのせいかあゆみはうるんだ目を柚木に向けてくる。店が終ったあと待ちあわせるつもりらしい。 「さっきの女性、例の同級生の人でしょう。大阪へきてはったの」  あゆみは玄関のほうへ目をやった。律子の姿を追うような動作だった。 「用があったんだ。やさしくて教養ゆたかな人だよ。あゆみもわがままばかりいっていると、このおじさんを彼女に奪《と》られるぞ」 「まさか、あんなお婆ちゃんに。なんぼなんでもありえないことやわ」  スパゲティをあゆみはうまくフォークに巻きつけた。首をかしげて口に運んだ。  あゆみの体はしなやかで無駄がなかった。肌もみずみずしい。向いあっているだけで、抱きごこちがよみがえる。  だが、それだけのものでしかなかった。柚木はあゆみの顔を遠く感じた。  中庭の楓《かえで》に色がつきはじめている。ことしは冬が早いようだ。毛皮のコートは、別れの記念品になるはずである。   5  律子は白地に蝶と小鳥の絵がすりの着物をきてきた。帯は濃紺のつむぎである。同じつむぎの白いバッグをもっていた。  柚木がレジで料金を払うあいだ、外の廊下に律子は立っていた。  廊下は夕暮れどきの明るさである。律子の表情はひきしまっていた。目もとだけがやさしい。かすかに上気していた。ワインを二人で一本空けたあとだった。  東京の古いホテルの二階にあるレストランだった。午後九時をすぎた。入ったときはほぼ満員だったのに、柚木たちを除くと客は一組だけになった。五人づれの男たちである。酔って威勢よく談笑している。  対照的に廊下はしずかだった。律子の姿がひどく孤独に映った。心を決めた女の姿は孤独にみえるものらしい。しばらくのあいだ、他人を寄せつけない印象になる。  柚木は廊下に出た。かるく律子の腕をとって歩きだした。正面のホールへ出た。体の関係をもつことを一日のばしにしたい気持は消えていた。律子の愛をたしかめるために、彼女を抱きたかった。律子はあゆみとはちがう。セックスは愛のあかしである。  エレベーターで十階へのぼった。すこし歩いてスイートルームへ入った。広い居間と寝室がならんでいる。ソファに柚木のスーツケースがおいてあった。柚木は部屋のあかりを夕暮れどきの水準に調節した。  窓辺に律子は立って夜景を見おろした。白い着物を透して、体の影がうかびあがった。柚木は近づいて、うしろから律子の両肩をおさえた。抱き寄せると、律子は体をあずけてきた。目をつぶって、柚木の肩を枕にする。  柚木は律子をこちらに向かせた。衣ずれの音にたかぶった。律子の後頭部を掌でささえてくちづけにゆく。舌をからませあった。律子の舌は小さくて薄い。とらえるのに手間どった。たちまち律子の呼吸がみだれる。苦しげな声がもれた。柚木は律子の唾液にかすかな青林檎《りんご》の香りを感じとった。  長いくちづけを終えた。律子は柚木の胸に顔を埋めて立っていた。柚木は抱きしめて陶酔する。あゆみの体よりもすこし重い。抱いた感触はやわらかだった。  柚木は律子のあごを指でささえて、あおむかせる。恥ずかしそうに律子は笑った。むかしと同じ笑顔である。イメージに頼る必要はなかった。柚木は感動していた。 「あのころぼくがキスしにいったら、あなたはどうしただろう。必死で抵抗したかな」 「私、うれしかったと思う。柚木さん、キスしてくれればよかったのに」 「まだキスの味を知らなかった。あんなことをしてなにがいいのかと外国映画を見るたびに思ったよ」 「キスってまだ一般的じゃなかったものね。日本映画にキスシーンが出はじめて、みんなまねするようになった。ああいうことって、あっというまに普及するのね」  会話のおかげで、緊張がほぐれた。  二人は離れた。柚木は冷蔵庫の扉をあけて清涼飲料をとりだした。二人でのどをうるおした。ついで柚木はバスルームへ入って、風呂の支度をした。  順番をゆずりあったあと、柚木がさきに入浴した。湯を入れ替え、バスタオルを体に巻いて外へ出た。部屋は暗くなっていた。寝室の電気スタンドが一つついているだけだ。窓辺の椅子のうえに、律子の姿が幻想めいて仄白《ほのじろ》くうかんでいた。  だまって柚木は寝室へ入った。ベッドに横たわった。汗ばんでいる。タオルをとって、全身を部屋の空気にさらした。高まった体温が快く薄闇に吸いとられていった。  居間で律子の立ちあがる気配があった。柚木の全身が鋭敏になった。律子の足音、息づかい、立ちどまった気配、足袋《たび》をぬぐ音、帯をとく音、すべて皮膚に伝わってくる。  律子はバスルームに入った。柚木はほっと息をついた。スタンドのあかりで自分の体を見まわした。腹がたるんでいる。肩や胸の筋肉もおとろえてしまった。だが、年齢にしてはそんなに不恰好《ぶかつこう》ではないと思う。背も高いほうだ。百七十五センチある。  プチグロ。冷酷なことばで律子は夫を呼んでいた。それよりはましなのだろう。飲みすぎた失敗もないはずだ。うまくやろうという緊張をむしろ警戒しなければならない。  ついにここまできたという安堵《あんど》はなかった。つぎの場面だけが頭にある。ひたすら待機している。息のつまる時間だった。人なみに情事の経験をつんだにしては余裕がなさすぎる。幼馴染みとの恋が叶《かな》う瞬間は、三十年がかりのドラマのクライマックスだからだろう。  バスルームの扉があいた。足音がきこえる。胸まで毛布をかぶって、柚木は茫然と出入口をみつめていた。体がうごかない。恐怖の対象を待ってでもいるようだ。  律子が寝室へ入ってきた。そなえつけの浴衣をきている。電気スタンドのオレンジ色のあかりに、やや伏目の顔がうかんだ。柚木は緊張がやわらいだ。薄暗に細部が溶かされて、律子は充分に若く美しかった。  ベッドのそばを律子は通りすぎた。スタンドの灯を消した。まっ暗になる。息づかいとともに律子がベッドへ倒れこんできた。毛布のなかへ迎えいれてやる。浴衣をきた女体があえぎながら抱きついてきた。  くちづけをかわした。はげしいキスになった。舌をからませあったまま、柚木は律子の帯をとく。浴衣をぬがせる。腰を抱きしめる。脚をからませあった。湿った二人のふとももが、あわただしく密着しあった。 「あなたが見たい。スタンドをつけましょう。豆電球だけでいいんだ」 「おねがいだからやめて。柚木さんをがっかりさせたくないの。ああ、三十年まえにこうなりたかった。若かったころに」 「がっかりなんかしませんよ。あなたは変っていない。あのころのままです。おれにとっては、あなたはビーナスなんだ」 「あかりをつけないで。私、恐いの。光をあびたら、なにもかも終ってしまうわ」  ことばをかわしながら、二人はたがいの体を手でさぐりあっていた。  律子の背中や腰を柚木はなでさすった。律子の特徴をつかもうとしていた。ヒップやふとももにも手をのばした。想像したよりも律子は肉づきがよい。骨組みもしっかりしている。肉はやわらかい。ヒップは大きく、脂肪の粒でざらついていた。全身にほどよく脂《あぶら》が乗っている。それらが特徴だった。  乳房を柚木は愛撫しにいった。いそいで律子は柚木の手首をおさえる。強くは抵抗しない。さぐられるにまかせた。空虚な感触が掌に伝わってくる。柚木は胸をつかれた。否応《いやおう》のない老いがそこにあらわれている。 「ね、わかった。もうお婆さんなのよ。さらけだささないで。みじめになる」  律子の乳首は若い感触を保っている。  指でそれを揉んだ。律子は声をあげる。柚木はそれを口にふくんだ。ふくらみの空虚さが気にならなくなった。かたちはおとろえてても感性は生きている。  柚木はしばらく乳房を吸った。二人の体から毛布を剥ぎとった。闇に目が慣れて、律子の体が仄白く判別できるようになった。雪山を夜、上空から見おろしている心地である。ふれてみると、あたたかい雪山だった。キスの移動につれてそれは微妙にふるえた。  柚木のなかで欲望はたぎっていた。若々しく体が反応している。律子の体が少しばかり老《ふ》けていようと問題ではなかった。律子が律子であるかぎり柚木は彼女が欲しくなる。活力が体いっぱいになる。  だが、物足りない思いが一方にあった。柚木にとって律子はあこがれの女でなければならない。崇拝の対象であってほしい。少年のようにすなおな気持で奉仕したい。そうすることで最大のよろこびを味わえそうな気がする。そうしたくてたまらない。女を尊く思う感情は、柚木にとって、性のよろこびを盛りあげるために湧いて出るもののようだった。  柚木は律子の顔を見たくなった。耐えがたい衝動だった。いま愛撫を加えている相手が律子であることをたしかめたい。それなしには、あこがれの気持が湧いてこない。  柚木は律子の首へくちづけにいった。手をのばして電気スタンドをつけた。律子の全身がうかびあがった。目じりにしわの刻まれた顔と、萎《な》えた乳房があらわになった。  律子は悲鳴をあげた。うつぶせになってスタンドを消した。動かなくなった。 「ひどいわ。どうしていじめるの」  律子はしゃくりあげた。仄白い肩や背中が闇の底でふるえている。  柚木は律子をあおむけにした。のしかかって、闇の底の顔を見つめた。 「すみません。でも、ほっとしました。まちがいなくぼくは南部律子を抱いているんだ」  律子の目に柚木はくちづけした。  熱いものをそっと吸いとった。まちがいない。きみは律子だ。彼はつぶやいた。  まっ暗ななかで、最初、律子の全身は仄白い野山のようにみえた。だが、いまはすっかり目が馴れて、白い野山が人間の輪郭をもちはじめた。ぼんやりと、それは女の形をとった。おかげで変化が生じはじめた。  若い律子の裸身を柚木は見たことがない。記憶を手がかりに昔をよみがえらせるすべがなかった。だが、闇の底の仄白い裸身が、記憶の裸身の代りをした。全裸になった若い律子のイメージが形成されてきたのだ。  ぼんやりと律子の顔がうかんできた。しだいに鮮明になった。むかしの律子の顔である。利口そうにひきしまっている。肌に艶があった。律子が笑った。口もとから、透明感のある歯が覗いた。あこがれの感情で柚木はのどの奥が痛いくらいだった。  若い裸身も闇の底からうかんできた。かたちのよい双《ふた》つの乳房。乳首の色が明るい。ひきしまった腰と腹。わずかな草むら。双つの脚が優雅な線を描いて投げだされている。足指が、なぜかぜんぶ反りかえっている。 「わかったよ。暗いほうがいいんです。そのほうがはっきりあなたがみえる。あなたを抱くときは、照明は無用なんだ」  律子がいまは全身を陽光にかがやかせて横たわっていた。  均整のとれた、すばらしい裸身だった。あゆみの裸身よりものびやかで、色が白く、若々しかった。律子は笑って片脚をあげる。柚木はその足へとびついていった。  足指を一本ずつ口にふくんだ。足裏にくちづけする。くちびると舌で下肢をさかのぼった。時間をかけて反復する。やがて、大きくひらかせた。女の部分から湧きでる暖い泉を柚木は飲みにいった。かわいた獣のように舌を鳴らして飲んだ。  律子はさけんでいた。体が千切れそうなほど悶《もだ》える。こぶしでベッドをたたいたり、体をねじってシーツを噛んだりする。暗くてもその様子がよくわかった。  三十年の恋が成就した実感に柚木はひたった。体のなかが、よろこびで黄金色にかがやいた。奉仕に彼は陶酔した。年齢とってようやく知った陶酔である。柚木は目のまえに新しい、広い空間がひらけたのを感じた。それを意識するのが、二重のよろこびだった。  柚木はやがて、若い律子と体をかさねあわせた。結合して激しく動いた。 「ああ、あなた、あなた——」  律子は口走った。両手と両脚で柚木に抱きついて離さなかった。  脳裡に夫を抱いていたのか。夫に抱かれている気でいたのか。柚木は首をかしげた。夫を愛しているのに、柚木と恋をしたのだろうか。  やがて柚木は完了した。目のくらむような瞬間を通った。みちたりていた。  高名な女流ピアニストの一門の発表会は、午後一時の開演だった。  東京都下K市の市民会館が会場だった。開演十分まえに柚木はそこへ着いた。  招待状を受付に出した。大森達夫殿。律子の夫の名前が宛名になっている。 「あ、大森のおばさまの——」  受付の若い女が声をあげた。  じっと柚木をみつめる。大森達夫とまだ顔を合わせたことがないらしい。  若い女は、受付の横にいた男に声をかけてテーブルの外へ出てきた。二人はていねいに挨拶する。律子の夫だと信じこんでいる。二人とも律子が後援しているオーケストラのバイオリン奏者だった。  柚木は誤解を訂正するチャンスを失った。めんどうでもあった。案内されるまま、客席へ入った。貴賓席というべき正面の席が柚木に用意されていた。  客席はおよそ五百だった。満員である。良家の夫人や令嬢が多いようだ。男も百人以上はきている。柚木のまわりには、出演者の家族らしい人々が腰をおろしていた。柚木と同年輩の男が数名いた。  すぐに開演のベルが鳴った。司会者の挨拶につづき、まず師匠の女流ピアニストがドビュッシーを演奏した。  冴《さ》えたピアノの音をきいて、柚木は頭のなかが晴れわたった思いだった。コンサートなど十年ぶりである。若いころはよく足を向けた。久しぶりに良い演奏をきいて、学生時代にもどったような気がした。  つづいて弟子たちの演奏になった。持時間は、上級者が一人二十分程度らしい。最初、若い男性が出てきて、モーツァルトのソナタを弾《ひ》いた。二番目に出てきた女性はフォーレを聴かせてくれた。柚木の耳には、どちらの演奏も相当のレベルにきこえた。感動して、熱心に手をたたいた。  律子は三番目に出てきた。白いドレスを着ている。緊張で顔が青白かった。きちんと背をのばしてピアノのまえに腰をおろした。  演奏がはじまった。ショパンだった。律子は眉根を寄せて、神経質な顔になっていた。ときおり首をかしげて自分の音にききいった。澄んだ音がつづけて柚木ののどへ流れこんでくる。  胸のなかが柚木はふるえた。皮膚もふるえはじめた。高校時代と比較にならないほど律子は上手になっている。一門のランクでも上位にいるようだ。メリハリのきいた、スケールの大きな演奏だった。  柚木は深い感動にかられた。あの山の中の学校から出てきて、よくもこんな舞台をふめるようになったものだ。おたがいにがんばった。二人は戦友であった。  息をつめて、柚木は律子をみつめた。ゆうべホテルの部屋で体をむさぼりあった相手だとは思えなくなった。律子が遠い存在に感じられた。彼女をとらえたカメラが大きくうしろにひいたように、はるかに手のとどかない女となって映りはじめる。律子は文化祭のステージでショパンを弾いたときの律子だった。  あこがれの念で柚木は胸がいっぱいになった。律子とまたホテルの部屋で会いたくてたまらない。ドレスをぬがせたい。まっ暗な部屋で思いきり奉仕してやりたい。 「奥さまからおあずかりしました。演奏が終ったら舞台でわたしてほしいそうです」  係員が花束をとどけにきた。  さきに演奏した二人はそれぞれ家族から花束をうけとった。律子は柚木に夫の代りをさせるつもりなのだ。  昨夜ベッドで律子が口走ったことを柚木は思いだしていた。 第二章 性 夢   1  日曜日の午後五時。柚木克彦はホテルに着いた。ロビーは混みあっている。ベンチにもフロアにも南部律子の姿はなかった。  柚木はフロントテーブルでチェックインの手つづきをした。ダブルベッドの部屋が予約してある。ベルボーイに案内されてエレベーターに乗った。期待で胸がはずんでいる。  部屋は二十階にあった。ボーイが去ってから、柚木は窓に近づいた。新宿の高層ビル街が見わたされる。窓を大きくとった部屋だった。硝子《ガラス》の縦のサイズが柚木の頭上からひざの位置まである。ホテルのまえの道路を、ほとんど垂直に見おろすことができた。歩道の人影が豆粒のようだった。  柚木は身がすくんだ。目まいがして、いそいで窓を離れた。背中から尻にかけて、刷毛《はけ》でなでられたように神経がざわついている。  少年時代から柚木は高所恐怖症の傾向があった。成人してますますひどくなった。原因はわからない。といっても、飛行機のなかや高層ビルの最上階にいても、窓から下界を見おろさないかぎり冷汗《ひやあせ》をかくことはない。高い部屋でも、情事に不都合はなかった。  すぐに柚木は部屋を出た。一階へおりてロビーを見わたした。まだ律子の姿はない。人待ち顔の人々がならぶベンチのそばをぶらついた。新幹線で大阪から上京したばかりである。足腰がこわばっていた。  淡いベージュの着物をきた女がベンチから腰をあげた。こちらへやってくる。南部律子だった。柚木は虚をつかれた。再三そのベンチを見たのに、律子に気づかなかったのだ。  ほほえんで律子は柚木のまえに立った。ひどく顔色がわるい。艶《つや》がなく、かすかに紫がかってみえた。目の下がくぼみ、頬も削《そ》げている。どこにでもいるおばさんの顔だった。柚木は目をふせた。  短い挨拶を二人はかわした。律子の顔が目に入らぬよう、柚木はいそいで肩をならべた。エレベーターのほうへ歩いた。横目でみると、いっそう律子は老《ふ》けてみえた。 「風邪をひいてしまったの。もう熱はないんだけど」  エレベーターのなかで律子はかるく咳《せ》きこんだ。声がざらざらしている。 「相当ひどいようだね。顔がやつれている。体はだるくないですか」 「すこしだるい。でも、せっかくのチャンスを逃すわけにいかないでしょ。ビタミンCをたくさん嚥《の》んで出てきたのよ」  柚木は二週間ぶりの上京だった。  律子は柚木に寄りそった。エレベーターにはほかにだれもいない。かるいくちづけを律子は望んでいた。風邪の感染が恐くて、柚木はそしらぬふりをした。いまから年末にかけて業務が多忙になる。風邪で寝こんだりしては、とりかえしがつかない。  最上階のレストランへ二人は入った。窓ぎわの席へ案内された。ここも窓が大きくとってある。下界がほぼ垂直に見おろされる。窓のほうへ顔を向けられない。街は夕闇に染まりはじめていた。暗くなってしまえば、恐怖はなくなるだろう。  ハイドンのセレナードが店内に流れていた。四人の若い女性がステージで演奏している。二つのヴァイオリンとヴィオラ、チェロの編成だった。柚木は心がなごんだ。あまりに古く、あまりに可憐《かれん》な音楽なのだが、柚木の感性には合うのだ。  兎のテリーヌ、コンソメ、サラダ、鶏のワイン煮のメニューにした。ワインの選択は律子にまかせた。律子は洋酒の輸入商の妻である。柚木の知識では太刀打《たちう》ちできない。 「すみません。すこし贅沢《ぜいたく》をさせてね」  アロース・コルトンを律子はえらんだ。  ブルゴーニュのやわらかな赤である。年代も律子は指定した。 「正直いって、あまり食欲はないの。でも、お酒だったら大丈夫です」  とりあえずキールから飲みはじめた。  ときおり律子はハンカチを顔にあてて咳《せき》をした。苦しげな咳ではない。いくぶん健康を回復したようにみえた。  近況を語りあったあと、いつものように同窓生のだれかれの噂話になった。柚木よりも一級上のHという男の消息を律子は教えてくれた。Hは一番の秀才だった。生徒会長をつとめ、達者な弁舌で総会を圧倒していた。東大受験に何度も失敗して、二流の大学へ入った。在学中から作家志望だった。卒業後は公務員になり、家では創作にはげんだ。作家になると公言していた。芽の出ないまま五十歳になろうとしている。役所でもうだつがあがらないらしい。酒におぼれて、最近はアル中になったという。 「土曜日、池袋サンシャイン劇場のコンサートを聴きにいったんです。駅のそばでHさんに会ったわ。べろべろに酔ってガード下の壁にもたれているの。まだ五時半ごろよ。ああ噂のとおりなんだと思いました」  律子は自家用のベンツに乗っていた。Hを見つけて、運転手に停車を命じた。だが、声をかけそびれてそのまま立ち去った。 「あのHさんがアル中——。信じられないな。針路の選択をあやまったんだ」 「早く転向すればよかったのにね。いまからではもうおそいでしょうし」 「きみは音楽の道をまっすぐ歩いて、うまくいっている。倖《しあわ》せな人だ。このあいだのショパンはすばらしかった。心臓がふるえた」 「私なんか素人《しろうと》芸《げい》だもの。自慢になりません。でも、柚木さんに聴いていただいてよかった。私にも一人ファンがつきました」  律子は笑顔になった。高校時代を思い出させる表情だった。  ほほえみが律子の防護マスクになった。目じりのしわ、面《おも》やつれ、肌の荒れなどが微笑の裏へすこしずつかくれてゆく。高校時代の律子がゆっくり復活しはじめる。柚木と律子はタイムマシンに乗って、過去へ向かって動きだしていた。ワインのおかげで律子は健康な顔色をとりもどした。柚木も生き生きした気分になった。  絃楽四重奏の女性奏者がステージから去った。代って若い女性ピアニストが出てきて、演奏をはじめた。ドビュッシーの小曲だった。さすが東京である。クラシック音楽を聴かせるレストランは、関西にはすくない。 「あ、ミスタッチ」  律子は笑ってステージをふり向いた。 「あ、また」  しばらくして律子は首をすくめた。ピアノに関しては容赦《ようしや》がなくなるらしい。 「すごいな。おれなんか、どこがミスタッチなのか全然わからない」 「すこし本格的に習えばすぐにわかるわ。柚木さんもおやりになればいいのに。ピアノが面倒なら、声楽のほうでも」 「シューベルトを歌えるようになりたいね。おれの声では漬物がくさるけど」 「ご謙遜ですね。いいバリトンでしたよ。私、柚木さんのソロを聴いたことがあるの」  妙なことを律子はおぼえていた。  郷里の町に愛好者による合唱団があった。律子は伴奏者だった。高校二年のとき、団員だった同級生がクリスマス公演に出てほしいと柚木にいってきた。ヘンデルの「ハレルヤ」をやるのに、バスの人数が足りなくて困っているらしい。楽譜をろくに読めないので、柚木はためらった。結局は承諾した。律子と親しくなれるかもしれない。  練習に彼は出かけていった。その日はとくに男子の団員の出席率がわるかった。女子は三十名もいるのに、男子はテノールが五名、バスは柚木が一人きりである。  いびつな編成のまま、四部合唱がはじまった。どうにか柚木はついていった。やがてバスのパートのみがうたう箇所になった。否《いや》も応もなく柚木は一人で声を張りあげた。   ときわに変りあらじ  たったそれだけのフレーズだった。すぐに他のパートの合唱が追いかけてきた。案外うまくいった。柚木は自信を抱いた。「ハレルヤ」は何度もくりかえされたので、柚木は何度も短い独唱をすることになった。  その後、四、五回練習に出た。クリスマス公演にも参加した。だが、バスが柚木一人だったのは、初回の練習だけだった。 「あの一声をおぼえていてくれたのか。まいったな。光栄なようだが、不倖せだ」 「あれきり合唱団においでにならなかったでしょ。私、期待していたのに」 「サッカーの練習があったからね。三年の冬は受験で必死だったし」  現実の律子の顔は消えた。高校時代の律子の笑顔がいま柚木の目のまえにあった。  柚木は浮き立っていた。全身が火照《ほて》って、しかもこわばっている。律子の顔に陽光がさし、背後に郷里の野山がひろがった。タイムマシンが目的地に到着したのだ。早く二人きりになりたい、と柚木は思った。  ワインのボトルがからになった。柚木は料理をたべ終った。律子のほうはサラダに手をつけただけだが、表情は明るい。酔って風邪をわすれてしまったようだ。  コーヒーを飲んだあと、柚木は律子をうながして席を立った。建物がゆっくりと揺れるような心地だった。社用で酒を飲むときとちがって、酔いかたが早い。なかでも良質なワインに柚木は抵抗力がなかった。  支払いをすませて外へ出た。律子は廊下の窓のそばで夜景を見ている。急に咳きこみはじめた。うつむいてハンカチを口にあてる。 「大丈夫ですか。つらそうだな」  近づいて柚木は覗《のぞ》きこんだ。  すぐに咳はとまった。律子は目をとじて、壁にひたいをおしあてた。 「すみません、息切れがするの。体調がわるいのに、飲みすぎてしまった」 「部屋で横になりなさい。暖房を強くして寝れば、風邪もなおりますよ」 「私、きょうはこのまま帰ろうかしら。熱が出たら困るもの。柚木さんに風邪をうつしてしまうかもしれないし」 「ご心配なく。抵抗力は強いほうなんです。万一うつっても悔《く》いはないですよ。うつるようなことをあなたとするんだから」  柚木は律子の着物の袖下へ手をいれた。  律子は顔をあげた。笑ってかるく柚木の胸を叩いた。笑顔が華やいでいる。  二十階の部屋へ二人は入った。さきに柚木がシャワーをあびた。  柚木がバスルームから出ると、律子は肌じゅばん姿になっていた。さむそうに肩をすぼめてバスルームへ向かう。柚木とすれちがうとき、会釈《えしやく》をした。柚木は裸にバスタオルを巻きつけた恰好《かつこう》である。窓辺に立って、地上を見おろした。  外はもう暗い。街灯やホテルのあかりが、街路樹や歩道をやわらかく照らしている。光線の工合で樹々《きぎ》はところどころ新鮮な緑色をしていた。豆粒のように人々が歩道をゆききしている。人々は暗がりからホテルのあかりのなかへあらわれ、短い脚をせっせと運んで、また暗がりへ消えていった。車がひっきりなしにホテルのまえを走り去る。灯をともしたゴキブリのようにみえる。人の動きも車の動きも、上から見るといじらしかった。 「みんな大変なんだなあ」  優越感をもって柚木はつぶやいた。  われにかえった。高所恐怖症が消えてなくなっている。はるか足下にある地表を平気で見おろしていた。酔っているせいだ。感心して柚木は頭をふった。酒は人を変える。身にしみてわかった。  風邪がうつるかもしれない。不安が柚木の頭をかすめた。もうなるようにしかならない。柚木はベッドのそばへいった。サイドボードのFM放送のスイッチを押した。ヴァイオリン・ソナタが流れた。フォーレのようだ。柚木は体のタオルを剥《は》ぎとって、ベッドに横たわった。  音楽にききいった。むかし律子にたいして抱いたあこがれの感情を呼びおこそうとしていた。ステージでピアノを演奏する律子の姿を思いうかべた。彼女は、高度な文化やゆたかな生活の申し子のように映った。苦しいほど柚木はあこがれた。律子自身にだけではなく、彼女をつくりだした環境もひっくるめてあこがれの対象にしていた。  二十分ばかりたった。律子がバスルームから出てきた。浴衣《ゆかた》に着替えている。相変らずさむそうに肩をすぼめていた。律子は部屋のあかりを消した。壁ぎわのスタンドの豆電球が一つついているだけになった。  律子は柚木のとなりに横たわった。 「会いたかったわ。毎日想っていた」  激しく抱きついてきた。むさぼるようにくちづけにくる。  柚木は律子の舌を吸いながら、浴衣をぬがせにかかった。毛布のなかで律子は全裸になった。くちづけをつづける。律子はふるえていた。ものもいえないほどたかぶっている。  律子の顔から柚木は離れた。白い首すじや肩にくちびるを這わせた。いつもより肌に張りがない。風邪のせいだろう。胸はくちづけせずに通りすぎた。  しだいに目が馴れてきた。柚木は毛布をひき剥がした。闇の底に仄白《ほのじろ》く律子の裸身があらわれる。しばらく柚木は見惚《みと》れた。フォーレの曲に耳をすました。裸身がとても貴重なものに思われてくる。若いころの律子の体がやがて目にうかんでくるはずだった。  律子といるとき、柚木はいつも高校時代の律子の面影《おもかげ》を脳裡に停《と》めている。おかげで当時の律子と会っている気持になれる。だが、あのころの律子の裸身は見たことがない。ベッドで思いうかべて当時の律子をとりもどそうにも、手がかりがないのだ。  若々しい律子を抱きたければ、いまの律子の体をもとにイメージをふくらませなければならない。部屋を暗くする。闇のなかに横たわる律子のぼんやりした姿を手がかりに、むかしの律子の裸身を思い描くのである。上向きの乳房、くびれた腰、のびやかな下肢を目裏《まなうら》に描きだす。すると、柚木の体に若さがみなぎってくる。これまでの二度の逢《お》う瀬《せ》がそうだった。いまの律子の姿をありのままに見て、同じように燃えあがれる自信はない。  柚木は律子のふとももへくちびるを這わせていた。イメージの操作は成功しかけている。闇の底の中年女の脚が、長い、ひきしまった女子高校生の脚に変りつつあった。  律子の声がきこえた。陶酔した声だった。洟《はな》をすする音がつぎにきこえた。しばらくして、またきこえた。柚木のくちづけしている脚は、弾力のとぼしい中年女の脚にもどった。ひそかに柚木は舌打ちした。想像をかき立て、あらためてくちづけに移る。  律子は咳きこんだ。ついで、かすかな物音がした。ティッシュペーパーをとって始末したらしい。若々しい脚は消え去った。気をとりなおして柚木は作業を再開する。なかばまできて、また洟をすする音がきこえた。柚木はため息をついた。もう風邪はうつっただろうか。考えざるを得なかった。  柚木は律子の秘密の部分へ顔をふせていった。投げやりな気分になっていた。奉仕することで、逆に若々しい裸身のイメージを呼びおこせるかもしれない。舌と指で、律子の体内の快楽を掘りかえした。律子は激しく反応した。柚木のほうはさらに冷静になった。成熟した女の反応を見せられて、若い律子のイメージはかえって遠くなった。  二度、律子はのぼりつめた。もういいだろう。柚木は律子にのしかかった。打てばひびくように律子は体をひらく。  洟をすする音がきこえた。柚木の顔からその音は三十センチも離れていない。柚木の体が若さをうしなった。あわてて回復をはかる。咳がきこえた。努力は実らなかった。  律子がくちづけにくる。彼女のくちびるがなめくじのように柚木には感じられた。 「さむいわ。さむい——」  柚木の腕のなかで律子はふるえた。  最初から彼女はときおりふるえていた。昂《たかぶ》っていたせいだけではなかったようだ。 「まずいな。熱が出たのかもしれない。しばらく休みなさい」  柚木は律子とならんで横たわった。二人の体を毛布で覆った。  年齢《とし》をとって気むずかしくなった。五、六年まえまでは女が風邪だろうと腹痛だろうと、体はいつも若々しかったのに。暗い天井をながめて柚木は思った。FM放送の音楽はドビュッシーに変っている。  毛布のなかで律子が動きはじめた。頭を上に向けたまま足のほうへずり下がってゆく。柚木の腹のあたりで律子は丸くなった。柚木の体へ快楽をおくりこんでくる。 「じっとしてなさい。熱がひどくなるよ」  毛布をもちあげて柚木は声をかけた。 「いや。私だけ済ませたなんて。わるいわ。柚木さんも——」  それきり律子は物がいえなくなった。奉仕のお返しにとりかかったからだ。  まもなく柚木の体は若さをとりもどした。あおむけになったまま、柚木は結合をもとめた。疲れたといって律子は応じない。そのまま奉仕をつづけた。  飲ませて。やがて律子は声をかけてきた。甘えた気分で、柚木は全身を投げだした。   2  午前零時すぎ、柚木の家の電話が鳴った。  電話機は階下にある。二階の寝室のなかで柚木はその音をきいた。  ベッドで柚木は読書していた。となりのベッドで眠っていた妻の菊枝《きくえ》がねむそうに顔をあげる。白い仔犬が彼女の腕のなかにいた。 「いいよ。おれが出るから」  柚木は起きて寝室を出た。  不安だった。子供たちへの電話にしては時刻がおそすぎる。高血圧でなやんでいる郷里の母が倒れたのではないか。高血圧患者には、冬はいちばん危険だときいている。 「もしもしィ、あ、柚木さん。夜おそう電話してごめんなさいね。いま話してもいい?」  酔ったあゆみの声がきこえた。  彼女はまぎれもなく柚木の愛人だった。だが、柚木の頭のなかで、その語はあゆみとうまく結びつかない。愛人というには年齢的にも精神的にも若すぎるし、柚木に拘束されている様子がなかった。 「いいよ。どうしたんだ急に」  不機嫌に柚木はこたえた。不幸の報《しら》せでないと知った安堵《あんど》は、瞬間に消えていた。  大学二年の長女と高校一年の長男が一階のそれぞれの部屋で寝ている。浮気の相手と話をするのは、気がとがめた。 「大事な相談があるの。待ってたけど、柚木さん、最近全然店へきてくれへんでしょ。連絡もないし。私、困ってしもた」  勤務を終えて公衆電話で話しているらしい。夜の盛り場の物音が伝わってくる。 「私ね、お店をやろうと思うの」  あゆみの息づかいが伝わってきた。思いつめた口ぶりだった。 「店って、なんの店だ。バーか」 「そうなの。資本を出してやるいう人がいるの。小さいお店やったら出せるわ」 「資本をねえ。まじめな話なのか。バーの経営はたいへんなんだぞ」  きみにはまだ早いといいたいのが本音である。かろうじて抑制した。 「そやから柚木さんに相談したかったんやないの。ねえ、あしたお食事ごちそうして。ゆっくり話をしたいの。いいでしょ」 「わかった。あすの午後、会社へ電話しなさい。打合せをしよう」  柚木は話を打切った。最初感じたのとは質のちがう腹立たしさがこみあげている。  柚木は寝室へもどった。ベッドに横たわってあかりを消した。闇のなかから菊枝の視線がからみついてくる。 「××からだったよ。いま北新地で飲んでいるらしい。べつに用はないんだが、久しぶりで声がききたかったんだそうだ」  学生時代の友人の名を柚木はあげた。  だまって菊枝は寝返りを打った。こちらへ背を向けて寝息を立てはじめる。こうした場合、夫を追及すると自分も傷つくことになるのを菊枝は知っていた。むかしから柚木は、善良な夫ではなかった。  木曜から金曜へ日が変ったところである。東京からは月曜の最終の飛行機で帰った。さいわい風邪の症状は出ていない。あゆみには二週間近くごぶさたしていた。そのことを気にもとめていなかった。  なぜあゆみをほうっておいたのか。目をとじて柚木は考えた。愛情がさめてきたというわけではない。もともと愛といえるような感情は抱いていなかった。南部律子と体の関係ができてから、急にあゆみに冷淡になった。考えてみると、あゆみに会いたくなるのは彼女の体が必要になったときだけだった。先日柚木は律子を抱いたばかりである。だから、あゆみが必要でなかったのだ。  資本を出してくれる人がいる。あゆみのことばが耳に残っていた。だれか金持の男がそんな条件であゆみを口説《くど》いているのだろう。あゆみは乗り気になっている。相談とは、別れ話のことなのだろうか。  渡りに舟、といえなくもなかった。あゆみとの仲はおよそ一年になる。彼女の体にもすっかり馴れた。律子と今後逢《お》う瀬《せ》をかさねてゆけば、あゆみを必要とする度合は小さくなる一方だろう。年齢に柚木は規制されはじめた。二人の愛人をもつのは重荷である。  あゆみに倦《あ》きたわけではなかった。手離すとなると、惜しい気がする。柚木なりに金もつかった。マンションを借りてやり、家賃も払っている。百五十万円の毛皮のコートも買ってやった。償却がまだ済んでいないという気がする。済んだと感じるのは、完全にあゆみに倦きたときなのだろう。  柚木は寝返りを打ち、足をのばした。考えが経済の方面にかたむいたことで、自己嫌悪にかられていた。寝言めかして、罵声をあげた。菊枝の布団のなかにいるプードルの仔犬が唸《うな》りはじめた。柚木になついていないのだ。菊枝が小声で仔犬をあやした。  あくる日の夕刻六時、北区の都市ホテルのロビーで柚木はあゆみと落ちあった。  ホテル内のステーキ店へ入った。カウンター席で食事をとった。店は混んでいて、大事な話をするのにはかえって好都合だった。  スナックバーをあゆみは出す気でいた。男女一人ずつ従業員をおく程度の店である。 「カラオケをおいて、お勘定は一人八千円ぐらいにするの。北新地の安い店はサラリーマンで一杯なのよ。最初の六、七人でモトがとれる。それ以上入ったぶんは丸儲けなの」  あゆみは幸福そうに計画を話した。  料金の高い酒場が北新地にはひしめいている。サラリーマンには足をふみいれにくい一帯である。安くて雰囲気のよい店があれば、彼らはあつまってくる。成功しているカラオケの店をあゆみは何軒も見ているようだ。 「リースのお店なら、五百万で営業できるらしいわ。家賃は割高やけど、計算してみたら、なんとかやっていけそう」  スナックバーをやるには、五千万や六千万は必要である。だが、リースシステムなら五百万で立ちあがれる。才覚のある女なら、資金はなくとも成功できる世の中になった。  話をきいて柚木は感慨にひたった。  知りあったころ、あゆみは目立たないホステスだった。とくに美しいわけでもなく、気のきいた会話もできなかった。あいまいな笑《え》みをうかべて客の話をきいているだけだった。もっと明るくしなさい。店のすみでときおりママに叱られていた。素朴なのが取得《とりえ》だった。あゆみを目当てに店へくる客は、ほとんどいなかった。  そのあゆみが店を出すといっている。信じられないほどの変化である。柚木に責任がないとはいえない。柚木と関係ができてから、あゆみは自信をつけたらしい。人見知りしなくなった。きわどい話にも乗るようになった。陽気に談笑しはじめた。英会話学院をやめ、午後まで寝る習慣をつけた。  あゆみは夜の仕事の垢《あか》のようなものを感じさせる女に変った。色っぽくなったと客には映ったらしい。人気が出てきた。五百万円出そうという男まであらわれたのである。 「その五百万については問題ないんだろう。おれにはどんな相談があるんだ。これを機会に別れようといいたいのか」 「そんな——。私、応援をたのみたかったの。会社の人をたくさんつれてきて。私、絶対に大事にするわ。値段も安くする」 「しかし、おれが応援したら、五百万の旦那におれたちのことがばれてしまうぞ。向うは怒って金をひきあげるだろう」 「大丈夫。小さいことにこだわる人やないもん。その人、酒屋さんなの。お酒の売上げあげるために、女の子に店を出させるの」 「売上げだけのはずはないな。色と欲の二人づれだ。当然要求してくるだろう」  柚木はあゆみの顔をみつめた。  のどから食道にかけて苦い汁が流れた。あゆみはもうその洋酒店主と寝たにちがいない。結果、洋酒店主は出資の約束をした。あゆみの体は合格だったわけだ。 「そんなことないわ。向うは商売でいうてるだけよ。私、口説かれてないもん」 「信じられないね。ほんとうのことをいえよ。もう寝たんだろう。なんの関係もない女に男が大金を出すわけがない」 「それが出すのよ。向うはお金持やから五百万ぐらいなんとも思うてないわ。ほんまよ。世の中にはそういう人もいるの」  柚木は苦笑いした。若い女のいうことは神経にこたえる。  あゆみが別れ話をもちだしたら、つべこべいわずに応じてやろう。さっきまではそう思っていた。みっともないまねはできない。いまが潮時だという判断もある。あゆみと切れても、柚木には南部律子がいる。さびしい思いはせずに済むはずだった。  だが、じっさいにあゆみの話をきいて、柚木は苛立《いらだ》った。あゆみと別れたくない。彼女につきまとう男の影がはっきりしたぶん、未練も色濃くなった。いつでも別れられる女のはずだったのに、当てがはずれた。 「要するに、もう決心してしまったんだな。おれが反対しても店は出すんだろう」 「柚木さん、反対なの。なんで。私、新地でいちばん若いママになるのよ。よろこんでくれる思うてたのに」 「どう見てもまだ早いよ。最低五、六年はキャリアをつまないと、手持の客が不足する」 「そやから応援をたのんでるんやないの。ほんまにお客さんつれてきてね。私、なにがあっても二年はがんばる。バーいうもんは、二年|保《も》てば安定するそうやから」  それ以上柚木はことばがなかった。  あゆみのいうとおり、まだ彼女は洋酒店主と寝ていないのかもしれない。だとしても店を出せば確実に関係ができるだろう。だから柚木はあゆみの計画に賛成できないのだ。それを自覚しているから、あまり強く反対意見をのべるわけにもいかない。  午後八時まえに食事が終った。二人はホテルを出た。タクシーで北新地へ向かった。 「きょうは休んでしまえ。どこかへあそびにいこう」  車のなかで柚木はさそった。あゆみの体に新鮮な欲望を感じていた。 「きょうは無理やわ。この時期に無断欠勤したらママに怒られてしまう」  あゆみは柚木の耳に顔を寄せてきた。  店が終ってからデートしよう。あゆみはささやいた。いつものように、北新地の近くのホテルの部屋で待つことにきめた。  あゆみの働いている店はラウンジバーである。馬蹄型のカウンターのほか、テーブル席が四組あった。白と黒を基調にしたメタリックな内装の店である。モダンジャズのピアノの音が、天井や内壁に快《こころよ》くはじける。  比較的若い医師、弁護士や、若い経営者などがあつまってくる店だった。財界人とか、金力がたのみの中小企業主は寄りつかない。柚木は最初、友人の弁護士につれられてこの店へきた。垢《あか》ぬけた雰囲気が気に入って、しばしば顔を出すようになった。  柚木とあゆみが入ったとき、店はまだ空《す》いていた。テーブル席を柚木は占領した。あゆみら三人の女の子を相手に飲んだ。八時半から九時にかけて店は混んできた。  九時すぎ、柚木はそろそろ腰をあげる気になった。三人づれの客が入ってきた。あゆみが立って迎えにいった。すぐに彼女はもどって、柚木に向かって両掌をあわせた。カウンター席へ移ってほしいという。テーブル席はぜんぶふさがっているし、カウンター席にも一人ぶんしか席がなかった。  済まなそうなあゆみの顔で、柚木は察しがついた。三人づれの一人が例の洋酒店主なのだろう。柚木は店を出るのをやめてカウンター席へ移った。三人づれを観察する。  六十歳ぐらいの男がいままで柚木のいた席に腰をおろした。灰色の髪をした、小柄でやせた男だった。あとの二人は洋酒メーカーの社員かなにかだろう、下座に控えている。あゆみは灰色の髪の男のそばにすわった。  あの男は何者なのか。柚木はバーテンダーに訊いてみた。予想どおり洋酒店主だった。案外貧弱な男なので、柚木は拍子ぬけした。体の関係がないというあゆみのことばを、信じられる気分になった。  柚木は出口へ向かった。あゆみがママといっしょに送りに出てきた。 「あの三人づれの男、例の酒屋だろう」  声をひそめて柚木は訊いた。 「ごめんなさい。私、ホテルへいかれへんようになってしもた」  怯《おび》えた顔であゆみがささやいた。  店が終ったら食事にいこうと洋酒店主がいっている。あゆみに任せる店について打合せしたいらしい。断わるわけにはいかない。逢う瀬は後日にしてほしい。早口であゆみはささやいた。 「わかったよ。おれを振って酒屋へなびくんだな。金持優先というわけだ」 「そんなんやないよ。わかってください。こんなチャンス、絶対逃されへんもん」 「話が終ったらおいで。おそくなってもいい。例によって部屋をとって待つから」 「けど、予定がはっきりしないもん。ホテルのバーで待っててください。電話するわ」  柚木につきあう気は、あゆみにはなかった。部屋をとって待たれると、電話したとき断わりにくい。だからバーで待てというのだ。  ママがそばにいる。ゆっくり話しあう余裕はなかった。柚木はそこを離れた。つぎの角《かど》まで歩いた。角でふりかえると、ママとあゆみはもう見送っていなかった。  タクシー乗り場に長い行列ができていた。後尾に柚木は立った。家へ帰る気になった。これでよい、うまく結着がついた。柚木はつぶやいた。二人の女をあやつるなんて、もともと物理的に無理だったのだ。自然なところへおちついた。これからは律子だけを大事にすればよい。恋愛、と呼べるような感情をもって対せるのは、最初から律子のほうだったのだから。  一方で柚木はいまにも足もとがくずれそうな感覚を味わっていた。けっして結着がついたわけではない。あゆみの出かたによって、事態はどう変るかわからない。自分自身がどう変るか、見当もつかない。洋酒店主があらわれたとたんに、柚木は強くあゆみに魅《ひ》かれはじめた。予想外の変化だった。似たようなことがいまから何度も起りそうな気がする。  タクシーはたまにしかこなかった。行列の順番が二、三くりあがっただけで、柚木は酔いがさめてきた。彼は行列を離れた。もう一軒のなじみの酒場へ向かった。そのあと自分がどうするか、おぼろげにわかっている。  その酒場も混みあっていた。のどの奥までの冷えこみが癒《いや》される状態ではなかった。柚木はカウンター席でバーテンダーと雑談しながら、湯割りのブランデーを飲んだ。  午後十一時半になった。柚木は酒場を出て近くにある都市ホテルへ向かった。あゆみに指定しておいたホテルである。  あゆみがこないのはわかっている。電話があるはずだ。彼女はことわりをいうだろう。どう答えるべきか、腹案はなかった。だが、ことばをかわせばなにか変化が起りそうな気がする。すぐに柚木は苦笑いした。とりつくろいすぎている。あゆみの声がききたい一心で、ホテルへ向かっているのだ。  ホテルの地階のバーへ入った。カウンター席でビールを注文した。テーブル席で何組かの客が談笑している。彼らの酔いと疲れがにじんで、空気は暖く湿っていた。  女性ピアニストが演奏していた。新しいクリスマス・キャロルだった。すなおな、優しいメロディが柚木の体にしみこんでくる。全身の血液が澄んでゆく感覚があった。律子の顔が柚木の脳裡にうかんだ。高校時代ではなく、現在の顔である。きちんと化粧すると、律子は十歳も若くみえる。  入り組んだ色と欲の世界から、やっと脱けだしたような気持だった。律子と会ったり、律子のことを考えたりすると、世の中の騒音が遠くへいってしまう。われにかえり、心の底からくつろぐことができる。反対にあゆみと会ったり、あゆみのことを考えたりするとき、柚木はさまざまな欲望の渦中に吸いこまれる。ネオンの色で頭のなかを染められてしまう。さっきまでがそうだった。ネオンの色のように、つぎつぎに気が変った。  律子と話したくなった。電話してみたい誘惑にかられる。律子の夫はヨーロッパに滞在中である。金髪のフランス女と熱い仲だというから、当分帰国しないだろう。電話してもトラブルにはならないはずだった。  だが、万一ということがある。夫が帰っているかもしれない、留守だとしても深夜の電話は人を不安にする。昨夜のあゆみの例でよくわかった。やはり慎しむべきだろう。  柚木は目をつぶった。クリスマス・キャロルをききながら律子のイメージを追いもとめた。あゆみを待ちながら律子を想う。その不自然さには気がつかなかった。  バーテンダーに呼ばれて柚木は目をあけた。電話が入っている。零時五分だった。あゆみは店の電話を使っているようだ。 「やっぱり駄目やねん。酒屋さんにおすし屋へ呼ばれてるの。もう一時間近う待ってるんやて。わるいけど、今夜は——」 「わかった。でも、おれだってかなり待ったんだ。ここへ寄ってビールを一杯だけ飲んでいけよ。それでおれも気分よく帰れる」 「ビール一杯だけ。ほんまにそれでいいの。ほな、いまからいくわ」  受話器をおいて柚木は席にもどった。  醜態だぞ。自分にいいきかせた。子供のような駄々をこねたと思う。半面、快感があった。醜態をさらすのはいい気持だ。五十近い男が日常の暮しのなかで醜態をさらせるチャンスは、あまりにすくなかった。  あゆみがバーへ入ってきた。ミンクのコートがぴたりと身について、隙のない、洗錬された印象をあたえる。芸能人のゴシップ以外に話題のない小娘にはみえなかった。夕刻待ちあわせたときは、柚木はあゆみのコートを気にもとめなかった。いまはちがう。そのコートのローンがまだかなり残っていることをどうしても意識してしまう。  あゆみはコートをぬいだ。黒のスーツを着ている。胸のふくらみをみせつけて、柚木のとなりに腰をおろした。ビールを注文した。グラスに口をつけて飲みながら、柚木の顔をじっとみつめた。無表情な目だった。 「済まなかったな。手間をとらせて。よく寄ってくれた。あゆみの顔を見て安心した」  柚木はご機嫌とりの口調になっていた。いままでなかったことだ。 「柚木さん、きょうはおかしいわ。いつもとちがう。人が変ったみたい」 「いらいらしているんだ。あゆみが酒屋の女になるかもしれないからな。酒屋はぱっとしない男だ。しかし金持だ」 「やめてよ。あんなおじいちゃんと私がどうかなると思うの。考えただけで気持わるいわ。あり得ないことです」 「おれを愛しているか、あゆみ」 「愛してるやん。けど、おどろいたわ。柚木さんが焼餅やいてくれるなんて。柚木さん、私のことそんなに好きやない思うてた」  あゆみはビールを飲みほした。これ以上ひきとめる気は、柚木にもなかった。  いっしょに腰をあげた。ホテルを出て、四ツ橋筋のほうへ歩いた。洋酒店主の待っているすし屋は本通りの西寄りにある。  右折すると、小さな神社のまえへ出た。両側のビルの影のなかに、提灯《ちようちん》に飾られた鳥居がぼんやりうかんでいる。柚木はあゆみの腕をとって境内《けいだい》へひっぱりこんだ。まっ暗である。影のなかに二人の姿は溶けた。  柚木はあゆみを抱き寄せた。くちづけにいった。あゆみは応じてきた。柚木の首に両手をまわし、反《そ》ってぶらさがるようにする。  右手を柚木はあゆみのコートのなかへすべりこませた。スカートのうえからさぐった。あゆみの体のやわらかな磁石に引き寄せられて、柚木の掌はそこへ重なった。ゆっくりと柚木は掌を上下に動かした。あゆみはため息をついた。腹をおしつけてくる。  柚木の体に快感が湧いた。あゆみが右手をのばしてきている。指がうごめいた。柚木は左手でファスナーをひきおろした。あゆみの手がなかへ入ってきて、とらえた。  掌の動きを柚木はつづけた。あゆみの手はからみついたまま動かない。そろそろと力をこめてくる。しばらくそうしていた。あゆみはため息をついた。体をくねらせる。 「もういくわ。これ以上はだめ——」  あゆみはささやいた。柚木のものをとらえていた右手をひっこめた。  あゆみは体をひいた。愛撫の手を、柚木はあゆみの肩のうえにおいた。  二人は歩きだした。境内を出てから二人は手をつないだ。柚木の右手の指を束《たば》ねるようにしてあゆみは掌におさめている。 「お土産《みやげ》、もらったわ」  横合から、あゆみは柚木を見あげた。  通りかかったタクシーを柚木はひろった。すぐに発進した。手をふるあゆみの姿をふりかえるひまもなかった。  北新地は一方通行の通りが多い。タクシーはコの字の経路で走り、あゆみと別れたすこし南側を通りかかった。いそぎ足で歩くあゆみのうしろ姿が目に入った。本通りのすし屋の方角ではない。さっき出たばかりのホテルのほうへあゆみは歩いていた。車が彼女を追い越す瞬間、柚木は目をつぶった。  家へ帰って、柚木はすぐに眠りこんだ。あけがた近く、めずらしく夢を見た。  均整のとれた、若々しい女の裸身が床にあおむけになっている。薄明のなかに首から上が溶けていて、顔立ちはよくわからない。  まだ充分に成熟していない女体だった。体の線に脆《もろ》い感じがある。乳房も尻もそれほど大きくはない。だが、ふるいつきたくなるほど形がととのっている。脚は優雅にのびきっていた。身長と脚の長さの割合は、柚木の世代の女のものではなかった。体の中央部には淡い影ができている。肌はかすかに褐色がかって、光沢《こうたく》にあふれていた。  眠っているようだが、女は目ざめている。ときおり手を動かしたり、片ひざを小さく屈伸させたりする。呼吸につれて、胸がゆっくりと上下に動いた。動きのたびに、肌の香りとぬくもりが周囲にひろがる。  柚木は女の足もとにひざまずいて見惚《みと》れていた。裸身の美しさ、若々しさに打たれた。どの部分をみつめても、柚木の胸には澄んだあこがれの感情がわいてくる。この女を崇拝し、讃美し、力のかぎり奉仕したいという気持になる。命じられれば、どんなことでもよろこんでするつもりである。だが、女はなにもいわない。柚木を意識しているのかどうかもわからない。薄明に顔をかくして、ただなまめかしく横たわっている。  あこがれの感情を柚木はおさえきれなくなった。女の脚にさわった。ゆっくりとなでさすった。なめらかな肌の感触に、柚木のほうが陶酔する。愛撫される側よりも愛撫する柚木のほうが濃い快感を味わっている。  もっと女を大切にしたい衝動に柚木はかられた。女の足にくちづけにいった。指を吸い、足裏の窪《くぼ》みを吸った。女の忍び笑う声がきこえた。足蹴《あしげ》にしてくる。女が反応してきたことで柚木はよろこびにふるえる。冷たい足裏の窪みにまた吸いついていった。  何分かのち、柚木は投げだされた女の両脚のあいだへせりあがっていた。女のふとももの内側に沿って、下から上へくちびると舌を這わせる。時間をかけて、何度もくりかえした。女の美しさ、若さが舌にしみこんでくる。弱々しい声がきこえた。女は柚木の髪をひっぱったり、ふとももで柚木の首をしめたりする。柚木が得ているのと同じぐらいの快感を女も味わいはじめたようだった。  最後の段階に柚木は近づいていた。貴重な女体へ押し入ってゆくなど、考えられないことだった。ひらかせて、彼はくちづけにいった。舌を使いはじめる。いちばん深い箇所に到達した安堵に柚木はかられた。もう思い残すことはない。もしこれ以上を望めるなら、溶けて女体に吸収されたい。女体の一部になってしまいたかった。  舌の愛撫を柚木はつづけた。やがて、下半身に快楽をおぼえた。柚木は自分の体に目をやった。裸の女が一人、あおむけになって横合から柚木の下へ這いこんできている。柚木の男をくちびるでうけとめていた。女の乳房は年老いている。下肢はふっくらして、曲っていた。腹にしわがある。薄明がにじんで、顔はぼやけている。  柚木は目をそらせた。不審の念と不満がこみあげてくる。 「律子さんだな。いつきたんだ」  柚木は声をかけた。なにしにきた、と訊くのは遠慮した。 「会いたかったわ。毎日想っていた」  上のほうで律子の声がきこえた。  柚木はおどろいた。さっきから柚木が奉仕している若々しい裸身が律子だったのだ。 「ごめんね。私、きょうホテルへいかれんようになってしもた」  腹の下にいる女はあゆみだった。  黄金色の陽光が室内にあふれた。   3  朝食をとっている柚木のもとへ、長女の裕子《ひろこ》が一通の書類をもってきた。二年上の女子学生の履歴書だった。  裕子は私立大学の英文科の二年生である。ESSに所属していた。履歴書の女子学生は経済学部に在籍し、やはりESSのメンバーである。その先輩を柚木の会社へ入れてやってほしいというのだ。  先輩の女子学生はマスコミ志望だったが、試験に失敗した。小さな旅行代理店に就職をきめた。だが、どうせ社会へ出るなら大きな組織に所属したいと考えるようになった。裕子の父が大企業の取締役だとだれかにきいて履歴書をとどけにきたのだ。世話になった先輩なので、裕子は断われなかった。 「無理だよ。うちは縁故採用はしない。新卒の採用はとうに終ったことでもあるし」  履歴書の写真を一瞥《いちべつ》して柚木はかぶりをふった。美しい女子学生ではなかった。 「そこをお父さんの顔でなんとかしてよ。その先輩、すごくいい人なのよ。頭はいいし、実行力はあるし。絶対有能な社員になる」 「もう男子でも難しいのに、女子は絶望的だな。高卒や短大卒ならともかく、大卒となると、役員会の承認が要《い》るんだ」 「お父さん、重役なんでしょう。おねがい、なんとかして。恩にきるわ。もし彼女が入社できたら、ESSにおける私のステイタスはすごいもんになるんやから」  履歴書をおしつけて裕子は逃げていった。  仕方なく柚木は履歴書を鞄におさめた。娘の頼みは拒《こば》みにくい。無理を承知で人事部へ補欠採用を申し入れなければならない。  長男の進《すすむ》が小遣いをねだりにきた。DCブランドのスーツを欲しがっている。あれを着ないと肩身のせまい場面があるという。当然のような顔で五万円奪っていった。 「今晩は早う帰ってくださいね。おじさんのお酒のお相手、私一人ではどうにもならないから。私も飲めればいいんだけど」  出がけに玄関口で妻にいわれた。  郷里の福島から叔父が出てくる。神戸に商用があるらしい。暮のこんな時期なのに、二、三日厄介になりたいといってきた。柚木の郷里の人間は都市に住む親戚の家を旅館代りに利用するくせがぬけていない。  みんな頼りにしてくれる。複雑な思いで柚木は迎えの車に乗った。家族に弱い顔は見せられない。男は家庭の頑丈な大黒柱でなければならない。柚木はそうだったつもりである。疲れたとも思っていない。だが、本人に自覚がないだけかもしれない。  以前の柚木は年に幾度か若い女の体に接するだけで、じゅうぶん気晴しになった。いまはちがう。欲深くなった。律子やあゆみとの係《かか》わりあいにそれが出ているような気がする。二人の女の体を自由にできて、ずいぶんめぐまれているはずなのだが、満たされた思いはふしぎになかった。苛立《いらだ》ったり、傷ついたりする場面が以前よりも多くなった。女を抱くことでは癒《いや》されない深い疲労を、柚木はかかえこんでいるのかもしれない。  会社へ出勤すると、経営会議が待っていた。柚木の担当する部門の業績は、わずかながら目標を下回っている。原因と対策をめぐって工場・管理部門の責任者たちと柚木は激しい議論をかわした。毎日、セールスや開発に駆けまわっている約三百名の部下たちの不満や要望を代弁しなければならなかった。  昼すぎからは部内の会議だった。二十名の管理職とおよそ三時間、話しあった。報告をきき、指示をあたえた。ときおりきびしいことばを吐いた。感情を部下にぶっつけたあと、自己嫌悪にかられる。社員をひっぱる側よりも、ひっぱられる側に自分は向いていると思われてくる。末席で参加する役員会や経営会議よりも、自分の主催する営業部門の会議のほうが柚木には負担が大きかった。  会議を終えて柚木は席にもどった。午後四時すぎだった。トレーに未決の書類がたまっている。柚木はデスクワークをはじめた。  あゆみから電話が入った。彼女の声をきいて、柚木は忘れ物を思いだした気分だった。先夜の同伴出勤から五日たっている。職場にいると、先夜のことがテレビドラマの場面のように他人事に感じられた。 「このあいだはごめんなさいね。あくる日、すぐ電話したんやけど、柚木さんは会議中いうことやったから」  あゆみの声はしおらしかった。  ビジネスで殺気立っているとき、柚木は私用電話にしばしば無愛想な応待をする。妻の菊枝はだから、めったに会社へ電話してこない。あゆみも柚木が電話に出ると、いつも何秒か様子をうかがうらしい。  洋酒店主との話しあいはどうなったか。柚木は訊いてみた。順調です。あゆみはこたえた。柚木はかすかに胸のうちがひきつった。 「ねえ、きょう同伴してくれへん。年内にもう三回ほどがんばると、私、トップクラスになれるの。柚木さんが私の切り札やねん」  あゆみは甘えた口調になった。  みんな頼りにしてくれる。光栄なことだ。柚木は笑った。気乗りしなかった。 「切り札はおれじゃないだろう。あの酒屋のおじいさんがいるじゃないか」 「またそんな。あの人はただの資本家なんやから。私、柚木さん以外の男性とは一人もおつきあいしてないのよ。信じてほしいわ」 「このあいだ酒屋が待っていた店、本通りの××ずしだったな。朝までやってるのか」 「四時ごろまでやってるわ。私らは二時まえに出たけど」 「嘘をいうな。あゆみはおれと別れてからZホテルへもどったじゃないか。部屋で酒屋が待っていたんだろう。わかっているよ」  タクシーがコの字形に迂回《うかい》したいきさつを柚木は話した。あゆみがZホテルへ入るのを見た、と嘘をいった。 「ちがうよ、ちがうよ。あれは——」  あゆみの声がかすれた。息のつまる気配が伝わってくる。 「弁解しなくてもいいよ。あゆみの気持はわかる。チャンスはつかんだほうがいい。酒屋とつきあってやれよ」 「————」 「きみさえよければ、われわれの仲は従来どおり継続しよう。おれはそれでもいい。愉快ではないが、辛抱するよ」  あゆみはしばらく沈黙していた。しばらくして、ため息をついた。 「ほんまに、そんなんでいいんですか」  あゆみは訊いた。安堵《あんど》の気配がなまぬるい風のように柚木の耳へおしよせる。 「かまわない。いい年齢《とし》をして焼餅でもないからな。大人のつきあいをしよう」 「よかった。私、柚木さんにわるくてわるくて。すごくなやんだんよ。あの晩も家へ帰って朝まで泣いたの」  あゆみの声は大きくなった。  すぐに事務的な口調に変った。ねえ、きょう同伴してよ。会いたいわ。時間とってくれへん。あらためてさそってくる。  多忙を理由に柚木は断わった。夜おそく店へいくかもしれない。つけ加えた。  柚木は受話器をおいた。苦い液が胸のうちにあふれている。くだらない小娘めが。彼は顔をしかめた。つばを吐きたかった。  半面、あゆみのしなやかな裸身が脳裡にうかんでいた。職場でこれだけあざやかにあゆみの体を思いうかべたのははじめてである。柚木は欲望にかられた。あゆみにうんざりしながら、今夜店へいくかもしれないと伝えたのは、そのためだった。嫉妬のおかげで、柚木はあゆみに新しい魅力を見出していた。先夜の経験でそれを思い知った。  午後五時半ごろ、柚木のデスクの電話が鳴った。受話器をとると、南部律子だった。 「あなただったのか。めずらしいな、こんな時間に」  柚木は両肩がかるくなった。  前回の逢《お》う瀬《せ》から十日あまりたっている。律子の風邪はなおっていた。澄んだ、さわやかな声にもどっている。三日に一度ぐらいのわりで律子は電話してきた。昼まえか午後三時ごろのことが多かった。  十二月二十一日は律子の誕生日である。その日にあわせて上京すると柚木は約束していた。確認の電話だった。  そのことで柚木は困惑していた。二十一日の午後、経営会議の予定が入った。上京する日を変えなければならない。 「すみません。誕生日に間にあわなくて」 「いいんです。誕生日なんて、いまや悲劇の日でしかないんだから。でも、二十三日までにお会いしたいわ。できるかしら」 「二十三日ですか。待ってください」  スケジュールを柚木は調べた。  二十二日は部の忘年会がある。二十三日は午前中、工場との打合せ会議があった。夕刻以降はとくに予定はない。 「二十三日の夜なら上京できます。あとは年末ぎりぎりにならないと無理だな」 「二十三日の昼にお会いしたいの。夜は私、成田へいかなければ——」  律子の夫は一年の三分の一は外国に滞在している。  正月を日本で迎える年もあり、外国ですごす年もある。後者の場合は、律子を呼びよせる習慣である。ことし律子の夫はマドリッドでクリスマスと新年をすごす予定を立てた。二十四日にマドリッドへ入れと律子に電話してきた。時差の余裕を見込んでも、律子は二十三日の夜日本を出ないと、現地のクリスマスイブに間にあわない計算になる。 「無理をいってごめんなさい。向うへいくまでにどうしてもお会いしたくて」  二十一日以前に時間がとれるなら、私が大阪へいってもいい。律子はいってくれた。  あらためて柚木は手帖を見た。夜のスケジュールはぜんぶ埋まっている。取引先との懇親会が多い。パーティもある。忘年会もいくつかあった。ほかの日は残業、土曜日曜は研修会とゴルフである。十二月の中旬以降は、自分の体が自分のものではなくなるのだ。 「まいったな。二十三日の夜しかチャンスがないみたいです。どうしようか」 「やっぱりだめ。がっかりだなあ」  律子はしばらくだまりこんだ。  マドリッド行きをやめようかな。彼女はつぶやいた。すぐに元気な声になった。 「私、向うへいくの止すわ。年末からお正月、京都へいく。柚木さんに会いに——」 「いや、それは無茶だよ。ご主人を心配させてはいけない。マドリッドへいきなさい」  いそいで柚木は制止した。年末から正月にかけて、情事の時間がとれる見込みはない。 「でも私、主人と十日暮すよりも、柚木さんと一日いっしょにいたいんですもの。ね、お正月に京都で会いましょうよ」 「最低の枠組は外さないほうがいい。スマートにやりましょう。わかりました。二十三日の昼の飛行機でそちらへいきます。なんとか都合をつけますから」  しばらく律子はためらったが、結局申し出をうけいれた。  銀座のホテルを律子が予約してくれることになった。電話が終った。律子の激情的な側面にふれて、柚木はうれしかった。半面、とまどいもあった。無分別な女にあこがれつづけるのはむずかしい。律子があまり積極的になると、すなおな憧憬の念がうすらいでしまうだろう。律子にはもっと優雅であってほしい。それでいて淫《みだ》らでもあってほしい。いつのまにか柚木は袋小路に入っていた。出口は見えない。薄明のなかを、手さぐりですすむより仕方がなかった。  その夜、柚木はあゆみの働いている店へ顔を出すのはやめた。律子との会話の余韻にひたって、自宅へ車を走らせた。福島の叔父がきていることを、自宅近くで思いだした。  二十三日は金曜日だった。朝からの会議が十一時で終った。余裕をもって柚木は空港へ車を走らせた。正午発の便に間にあった。体調不良で早退と秘書に伝えてある。  銀座のホテルのロビーの中央に律子は立っていた。笑顔で近づいてきた。淡いベージュの着物に小豆《あずき》色のコートを着ている。いつもより顔の彫《ほ》りが深くみえた。短い挨拶ののち、律子は電話をかけにいった。  すぐに律子はもどってきた。柚木の腕をとって玄関のほうへ歩きだした。午後二時である。いまから食事にゆく気なのか。 「わるいけど、つきあってね。車のなかで説明しますから」  白いベンツが玄関のまえに停まった。  運転手がおり立って扉をあける。律子がさきに乗った。柚木が座席に腰をおろすと、花の香りがした。色とりどりの蘭の大きな花束が助手席にある。 「Hさんが倒れたんですって。二、三日まえに同窓会の幹事のかたから知らされたの。病院は向島《むこうじま》らしいわ」  アル中になった作家志望の公務員の名を律子は告げた。  見舞いに律子はいきそびれていた。日本を発《た》つまえに義理をはたしておきたい。向島まで足をのばそうというわけだ。 「つきあうのはいいよ。しかし、二人そろって顔を出すのは悪趣味だな。おれは車のなかで待っている」  Hとは高校を卒業以来になる。柚木が見舞うのは、いかにも唐突だった。 「いいわ。待っててください。柚木さんといっしょでもおかしくないと思うけど」  柚木のしていた手袋を律子はぬきとった。  両手で柚木の右手をつつんだ。ため息をついた。もたれかかってくるようなことはしない。運転手の手前があるからだろう。  律子の横顔を柚木はみつめた。律子は上気している。目じりのしわは化粧でほとんどかくれている。高校時代の面影が、現実の横顔にかさなりはじめた。やっと律子に会えた、と柚木は思う。飛行機と車を乗りついだ疲労が、きょうは甘く感じられた。  病院に着いた。下町の表通りにある、古い三階建ての病院だった。駐車場にベンツは停まった。花束を手に律子は病院へ入った。  運転手に柚木は話しかけてみた。六十歳前後の品《ひん》のよい人物である。運転手のほうは、ことばをかわしたくない様子だった。柚木は目をとじて、体をシートにあずけた。  何分かたった。人の声をきいて柚木は目をあけた。車の扉があいている。律子と一組の男女がそばに立っていた。男はHだった。トレーナーを着ている。黄ばんだどすぐろい顔だった。女はHの妻なのだろう。  柚木は車から出ようとした。両手を突きだして、Hは制止した。 「わざわざどうも。遠慮しないで部屋にきてくれればよかったのに。なあに、すぐになおりますよ。一ヵ月もすれば社会復帰します」  Hは泣き笑いしていた。素人が見ても、絶望的な症状とわかる顔つきだった。  H夫婦に律子は挨拶した。予想したよりも元気そうで安心した、などといっている。律子は車に乗りこんだ。すぐに発進した。Hは小腰をかがめて見送っていた。 「わるいものを見てしまった。おれがきていることをいわないでほしかったのに」 「どうしても玄関まで送るというの。柚木さんのこと話さないわけにいかなかった」  律子は虚脱した表情だった。  急に両手で柚木の右手を握りしめた。甲に頬ずりする。呼吸がみだれていた。 「私が高校へ入ったとき、あの人、生徒会長だったわ。予算会議で音楽部の予算を削ったのよ。すごく削ったの。横暴だったわ」  どんな理由でだったか、予算会議でHは音楽部にきびしく当った。彼の弁舌にはどの委員も対抗できなかった。音楽部は合唱コンクールへの出場がとりやめになった。部の三年生たちが泣いて口惜しがった。律子はHに裏切られたような気がした。彼にあこがれる気持があったのだ。 「そんなこと、わすれていたのよ。あの人の顔を見て思いだしたの。わけがわからない。私、復讐したのかしら」 「そうさ。その一件を心の底でおぼえていた」 「いやな女ね私。執念深くて、陰湿で。こんなだとは思わなかったわ」 「すばらしいよ。そういうところがきみの魅力なんだ」 「どういうことなの。からかわれているみたい。私、いやな女じゃない?」 「いやじゃないね。自己批判できるところもすばらしい。またあこがれてしまった」  銀座のホテルへ着いた。いまから食事をする。家に帰って荷物を積み、七時に迎えにきてほしい。律子は運転手に命じた。  午後四時にすこし間があった。成田発午後十時半の飛行機に律子は乗る予定である。部屋でスーツに着替えてから、彼女は出発する。年末で空港が混むとしても、七時にホテルを出ればじゅうぶん間にあうはずだった。  二人は部屋へ入った。まだ陽が高い。柚木は窓のカーテンをあけようとした。律子がとんできて制止する。あかりがついて、室内は夜の光景になった。  柚木は律子を抱きよせた。あおむいて律子はくちびるをとがらせた。むかしの面影が色濃くあらわれる。長いくちづけになった。律子の呼吸がみだれてくる。 「ヨーロッパへいく日なのに、ちっとも浮き浮きしない。こんなことってあるのね」  苦しそうに律子はいった。着物のうえから柚木はふとももにさわった。  柚木はたかぶった。酒を飲まずに律子を抱くのははじめてである。律子と体がぶつかりあうたび、その部分が甘いひびきを立てた。着物のすそを割ってふとももにさわる。かわいた肌の感触がふるえるほど新鮮だった。  さきに柚木はシャワーをあびた。終ると、入れ替りに律子がバスルームへ入った。  柚木は腰にタオルを巻いていた。窓に近づいてカーテンをあけた。  六階の部屋だった。それでも下を見ると、高所恐怖症の発作がおこる。目まいがし、背中がざわざわと波立った。きょうは酔っていない。彼は納得した。いそいで窓を離れ、ベッドに横たわる。カーテンをあけたままだった。陽光が室内へ入ってくる。  陽光のなかで律子の裸身を眺めてみたい欲求にかられた。昼間なのに、律子の目じりのしわは目立たなかった。年齢によるおとろえを過大に考えていた可能性がある。律子の裸身は案外若々しいかもしれないのだ。  バスルームの扉があいた。律子が出てきた。裸身にバスタオルを巻いている。ふとももがなかば露呈していた。脚はやや曲っている。不恰好《ぶかつこう》なほどではなかった。 「いやあ。カーテンをひいて」  若々しい悲鳴を律子はあげた。  窓のほうへ律子は歩きだした。陽光に風圧がふくまれているかのように、途中で停まった。片手を突きだして陽光をさえぎる。顔をそむけ、体の向きを変えた。小走りにベッドへ近づき、毛布のなかへすべりこんでくる。 「やめて。明るすぎる」  肩まで毛布をひきあげようとする。  柚木は律子におおいかぶさった。くちづけにいった。毛布のなかで、律子の体からタオルを剥ぎとる。くちづけを終えて律子をみつめる。律子は目をとじて毛布のなかへもぐりこもうとしていた。化粧を落している。目じりにしわが刻まれていた。頬の線にも若い女のような張りがない。  だが、そんなにひどい顔ではなかった。風邪のときにくらべると、見ちがえるほど美しかった。血色がよい。肌に艶《つや》がある。目の下の窪《くぼ》みもない。みつめつづければ、高校時代の面影で律子は化粧するだろう。柚木は安心した。勢いに乗って毛布を剥がした。  律子は悲鳴をあげた。右手で乳房をかくした。陽光に白い体がさらけだされる。両ひざを折った律子の全身を柚木は一瞥《いちべつ》した。気力のぬけ落ちるのを意識した。  律子の肌は青白かった。太ってはいないが、体の線がゆるんでいる。肩も腕も尻も、どんよりと鈍い形態だった。乳房はひしゃげ、濃い小豆《あずき》色の乳首が指のあいだから覗いている。腹にしわがある。青白い脚から柚木は顔をそむけた。何本か灰色の脛毛《すねげ》があった。  ふいに柚木は怒りにかられた。両手で律子をかかえあげ、裏返した。獣の姿勢をとらせてみる。それでは物足りない。もっとみじめな恰好にしてやりたくなる。柚木は律子を横臥させた。自分の右脚を律子の左右のふともものあいだへこじいれる。律子の右脚をかかえて大きくもちあげた。彼女の股関節が、妙に明るい音を立てる。 「やさしくして。おねがい柚木さん、こんなのあなたらしくないわ」  顔をしかめて律子は哀願した。  たかぶっていたものが柚木は萎《な》えた。律子の体に欲望のしるしがなかった。 「カーテンをひいて。私、目がつぶれる。はやく暗くして」  渡りに舟だった。暗くする必要を、柚木のほうも感じていたのだ。  柚木はベッドをおり、窓のカーテンをひいた。その間に律子が室内灯を消した。スタンドの豆電灯を残して部屋は暗くなった。  ベッドに柚木はもどった。あおむけに寝ている律子とかさなりあった。右手をのばしてラジオやBGMのスイッチをさぐる。FM放送をさがしあてた。ゆるやかな絃楽器の合奏が流れる。だれの曲かよくわからない。柚木はおだやかな気分になった。 「変化をつけてみたんだが、うまくいかなかった。あなたはやっぱりマドンナなんだ。大事にされるほうが似合うんだよ」  律子の首すじから肩へキスを這わせる。  息づかいが律子は平常にもどった。両手を柚木の首にまわしてくる。 「会いたかったわ。せめて二十年まえに。太陽のもとでこんなふうにしたかった」 「おれはいつも会っているよ。三十年まえのあなたに。こうしていると会える。バージンを抱いているような気がする」  目が馴れてきた。闇の底に横たわる律子の裸身がぼんやりと形をととのえてきた。タイムマシンが出発した。青い林檎《りんご》の香りが律子の全身からただよいはじめる。  柚木は起きて律子の足もとへひざまずいた。裸身が仄白《ほのじろ》く固まってくる。胸が盛りあがり、腰はひきしまり、脚が優雅な線を描いた。若い律子の顔が闇のなかにあらわれる。ほほえんでじっと柚木をみつめた。  柚木は澄んだ感情をとりもどした。崇拝し、賛美し、奉仕したい衝動にかられる。脚をひらかせ、顔をふせていった。舌をおどらせる。律子の欲望のしるしが湧いてきた。深いため息を律子はついた。  律子は声をあげはじめた。ほっとして柚木は奉仕をつづける。律子の手がおりてきて柚木の手をさぐる。二つの手が握りあった。 「Hさん、きっと亡くなるわね」  握りしめながら、律子はいった。   4  年内いっぱいであゆみはそれまで働いていた店をやめた。暮から正月にかけて、自分の店を出す準備をするということだった。  柚木は暮のうちにあゆみと会うチャンスをつくれなかった。三十日にあゆみのマンションへ電話をいれた。  留守番電話がメッセージを告げた。開店の準備のため田舎へ帰る。新しい店の営業は一月二十日ごろになるだろう。どうぞよいお年を、という内容だった。  店をやるにあたって金の無心にでもいったのだろうか。あんな小娘がほんとうに酒場を経営するとは、まだ柚木は信じきれなかった。  家族とともに柚木は正月をすごした。初出勤すると、律子からエアメールがとどいていた。クリスマスから正月までマドリッドですごした。フラメンコが案外つまらなかった。これからリヨン経由でパリへ向かう。帰国は一月中旬の予定、と書いてあった。  夫と肩をならべて外国の街を歩く律子の姿を柚木は思い描いた。ふしぎに嫉妬は感じなかった。祝福したい気持だけがあった。夫の所有権を無条件で容認している。柚木自身が菊枝という女の夫だから、そうなるのだろうか。夫婦のつながりが性的な嫉妬の対象になるようなものでないのを、よく知っているせいもある。  上旬はまたたくまにすぎた。業務に追われる日々がもどってきた。しばらくして、会社気付で柚木に開店の案内状がとどいた。店の名は「いるか」。代表者は小林あゆみとなっている。案内状には店のありかを示す地図が印刷してあった。キタの酒場街の中心から、かなり離れた場所だった。  柚木はあゆみの住居へ電話をいれた。生き生きした声がきこえた。二、三日まえに和歌山から帰ったところだという。  柚木は祝いのことばをのべた。店の場所についての意見は口に出さなかった。こんなに早く計画の実現したことには、お世辞でなく敬意をあらわした。 「そうやねん。関口さんはこんなことに馴れてはるからね。手ぎわがいいの」  小売店主の名が関口であることを、柚木ははじめて知った。  不安定な気分になった。小売店主は酒屋さんから関口さんに昇格している。 「食事しようか。久しぶりで」  柚木は声がかすれた。臆病になった。  打てばひびくようにあゆみは応じた。柚木はほっとしたが、考えてみると、きょうから三日つづけて夜間の予定が埋まっている。四日目の土曜日の午後、会うことにした。場所と時間を二人は打ちあわせた。  土曜日、午後二時に柚木は約束のホテルへ着いた。休日出勤だと家にはいってある。チェックインをすませて酒場へいってみると、カウンター席にあゆみが腰をおろしていた。髪をアップにして、黒のスーツを着ている。三つ四つ年上にみえた。笑顔になると、たちまち幼い印象になった。  ビールで乾盃した。手短かに近況を語りあった。店の従業員の採用、改装、宣伝などの苦心をあゆみは語った。 「お客さん、きてくれるやろか」  正面を見てあゆみはふっと途方にくれた表情になった。  たぶん繁昌するさ。柚木は力づけた。上《うわ》の空であゆみはうなずいた。  一杯飲んだだけで二人は酒場を出た。ミンクのコートをあゆみは腕にかかえている。いっしょにエレベーターに乗った。 「ミンク買《こ》うてもろて、ほんまによかったわ。お店を出そうかいう女が安物着てたら、それだけでお客さん、いやになるやろから」  あゆみは腕を組みにきた。  十五階の部屋に入った。あゆみはすぐに窓のカーテンをあけはなした。街の風景を眺めている。柚木は窓辺を敬遠してベッドに腰をおろした。昼のあかりが室内にあふれる。ベッドのシーツが純白にかがやいた。 「さきに入りなさい」  バスルームを柚木はあごで指した。  あゆみはだまってクロゼットのまえに立った。服をぬぎはじめる。みるみる肌があらわになった。すべてをぬぎすてた。気取った表情で壁の鏡に向かいあう。柚木に目もくれず、バスルームの扉のなかへ消えた。  あゆみの肌を見るのは一ヵ月ぶりだった。じっとしていられない。柚木は服をぬぎすててバスルームへ入った。あゆみといっしょにシャワーをあびる。おたがいの体に石鹸を塗って、掌や体でこすりあった。あゆみは弱々しい声をあげた。うっとりと目をとじている。すこしも変っていない。 「酒屋の社長ともこんなことをするのか」  あゆみのわき腹から腰をなでさすって、柚木は訊いてみた。  あゆみは細く目をあけた。なにもいわない。質問の意味がわからない顔をしている。柚木はそれ以上訊く気をなくした。プライベート、ということばが頭をかすめた。  二人はバスルームを出た。ならんでベッドに横たわった。しなやかな裸身をあゆみはあますところなく陽光にさらしている。柚木はシャワーのあとのさわやかな全身を、思いきり上下にのばした。深呼吸をしてみる。  こまかな気づかいや演出が必要な律子との逢《お》う瀬《せ》にくらべて、なんと気がらくなことだろう。工夫もいらない。不能になるおそれもない。好きなように眺められる。やはり若い女の体がいちばんだと思われてくる。  柚木は上体を起した。くちづけにいった。目をとじたまま、あゆみは応じる。受け身のままうっとりしている。柚木はあゆみの耳へ息を吹きかける。あゆみの顔に笑みがうかんだ。柚木のくちびるが首すじへ移ると、身をすくめて笑い声を立てた。  どの部分も若くて美しかった。くちびるを移動させるたびに柚木は讃嘆させられた。乳房や腰や背中を舌で味わって陶酔する。あゆみの体があたたかい島のようにみえてくる。身をひそめる場所を彼はさがしていた。  ふとももに柚木はくちづけした。赤紫の小さな痣《あざ》に気づいた。胴とふともものつなぎ目にそれはついている。左側にだけ、三つならんでいた。 「どうしたんだこの痣は」  いわれてあゆみはわれにかえった。  痣をかくそうとするように両ひざを折った。が、すぐに足を投げだした。 「関口のおじさんにつけられたの。あの人、変なくせがあるねん。つねるの、そこを」  体を結合させて感きわまると、関口はあゆみのふともものつけねに爪を立てる。  強くつねる。どんな姿勢のときもそうする。苦痛であゆみは顔をしかめる。じっと関口はみつめて、顔を赤くしている。 「そういう趣味がある男なのか。よく我慢しているな、あゆみは」 「その程度は仕様ないと思うの。お金出してもろたんやから。けど、最初のときは大喧嘩したわ。噛みついたろか、思うた」  はじめてベッドをともにしたとき、関口は口による奉仕をあゆみに要求した。  あゆみは拒絶した。関口はあゆみの髪をつかんで自分の体へおしつけようとする。懸命にあゆみは抵抗した。関口の胸を引掻いた。ふとももに噛みつこうとした。あきらめて関口は二度と要求しなくなった。 「スポンサーやからいうて、なんでもしてもらえる思うたら大まちがいや。私、ああいうこと、絶対ようせんのやから」  あゆみは容赦《ようしや》のない口調になった。声まで歪《ゆが》んでいるようにみえた。 「よっぽどきらいなんだな、男のものが。どうしてそうなったのかな」 「気持わるいわ。口にいれるやなんて、考えただけで吐き気がする。私だけやないのよ。そういう女の子って、たくさんいるわ」 「自分がしてもらうのは構わないのか」 「柚木さんがしたいいうから、させてあげるんやないの。誠意感じるもん。私はべつにしてもらわんかていいのよ」 「いや、させてくれよ。あゆみの体を、おれは尊いものに感じるんだから」  柚木はベッドからおり立った。あゆみの腕をとってこちらに向かせる。  あゆみはベッドに腰かけた。彼女の両脚のあいだへ柚木はうずくまった。舌を使いはじめた。たちまち熱中してゆく。あゆみは声をあげはじめた。赤ん坊のような声だった。 「きてよ。柚木さん、もういいからきて」  何分かたって、あゆみは要求した。体の向きを変えようとした。  女の体の中心のところに、柚木はもうしばらくひそんでいたかった。両手であゆみのふとももをかかえる。淫《みだ》らなキスをつづけた。  あゆみがなにかさけんだ。柚木は肩を蹴られて体勢をくずした。その間にあゆみはうしろを向いてベッドに這った。尻を突きだした。丸くて愛らしい尻だった。  早うして。シラけるやないの。あゆみはさけんだ。柚木は立ちあがって、丸い尻をひきよせた。愛は感じていない。むしろうんざりしている。体だけが痛いほど反応していた。  スナックバー「いるか」は予定どおり開店した。会社の名で柚木は花輪を贈った。  開店の夜、若い社員を二人つれて柚木は「いるか」へいってみた。十五人掛けのカウンター席のほか、奥にテーブル席が一組。バーテンダーと、手伝いの女の子が二人いた。変哲もない店だった。  それでも客は満員だった。ほとんどが三十代のサラリーマンである。代る代るマイクをもち、ビデオディスクにあわせてうたっていた。歌声が店内にひびきわたった。柚木の好みとは、ほど遠い雰囲気である。  目を血走らせてあゆみは働いていた。柚木のもとへ挨拶にきたが、五分もそばにいなかった。こんな日は、親しい客はかえってないがしろにされる。三十分ばかりで柚木は退散した。開店当初だけかもしれないが、繁昌ぶりを見て、気がかるくなっていた。  二日後の午後三時ごろ、律子から電話が入った。いま大阪空港にいるという。パリから大阪ゆきの日航機へ乗ったらしい。 「主人はパリにとどまっているわ。いそいで帰ることもないから、大阪へ寄ったの」  律子は息をはずませていた。今夜時間がとれるかどうか、不安そうに訊いた。  夜の予定はなかった。律子はこれからホテルの部屋へ入って一眠りするという。七時に柚木はホテルをたずねてゆく約束をした。  約束どおり柚木は七時にホテルへ着いた。電話で律子を呼びだした。白いサファイア・ミンクのコートを着て律子はあらわれた。ロビーにいる人々のなかで、律子にだけ照明があたっているようにみえた。バッグのほかに小さな黒い鞄を彼女はさげている。  ホテルを出て、日本料理店へ入った。座敷机をはさんで向いあった。一眠りして、律子は元気そうだ。最初から高校時代の面影が顔にあらわれている。ビールで乾盃して、おたがいの健康を祝しあった。 「はい、お土産。なにがいいか、ずいぶん考えたのよ」  小さな黒鞄を律子はさしだした。  柚木はふたをあけてみた。おどろいて声をあげた。管楽器が入っている。複雑な白い金属部品のついた黒い管が三つに分離されて、鞄におさまっていた。 「オーボエじゃないか。すごいな。こんなのもらっていいのかな」  楽器にメーカー名が刻んである。FOSSATI。名の通った会社だった。たぶん五十万円はするだろう。 「楽器を習うのが柚木さんの夢だったんでしょう。練習なさいな。私が伴奏してあげる」 「でも、いまから——。きみはアマチュアのトップレベルにいる人なのに、伴奏なんかおそれ多いよ。一年練習して、サイレントナイトを吹けるかどうかわからないのに」 「サイレントナイトでいいわ。今年のクリスマスに演奏しましょう。柚木さん、夢を実現なさいな。ちょうど私たち、青春をやりなおしているんですから」  だまって柚木は頭をさげた。  オーボエをケースから出して一本につないだ。リードをつけて吹いてみる。音が出ない。力んで吹くとホラ貝のような音が出た。ほほえんで律子はみつめている。  フルートやクラリネットはアマチュアの演奏者が星の数ほどいる。その点オーボエを吹く者はすくない。教則本をマスターすれば合奏の申し込みがあいつぐだろう。この楽器をえらんだ理由を律子はそう語った。  柚木はオーボエをおしいただいた。毎朝一時間ずつ練習する決心である。他人との合奏はどうでもよい。律子の伴奏で、一曲でもいいから吹いてみたい。彼は体が熱くなった。男からダイヤを贈られて感動する女の気持が、生れてはじめてわかったと思った。  二時間近くかけて食事が終った。二人は料理店を出た。律子の肩に腕をまわして柚木は歩いた。ミンクに覆われた律子の体が、若い女のようにしなやかに感じられた。  柚木は決心した。律子を「いるか」へつれていった。律子とあゆみを同じ場所へおいてみたい。今夜の律子のまえでは、あゆみは色褪《いろあ》せてみえるはずだった。それを見れば、心の揺れにけりがつくだろう。あゆみなんか、どうでもいい小娘なのである。律子といると、星空を見あげたときの澄んだ気持になれるのに、あゆみといっしょだと泥にまみれた思いにおちいる。  先日ほどではないが、「いるか」は混んでいた。カウンター席に柚木は律子とならんで腰をおろした。従業員の女の子が相撲をとるような恰好で白いミンクをかたづける。オーボエのケースを柚木はひざに載せていた。  ブランデーを注文した。店内には客の歌がひびきわたっている。大声を出さないと、会話が成り立たない。律子は物珍らしく店内を見まわしていた。  奥のテーブル席にいたあゆみが立って挨拶にきた。律子のペンダントや指環を一瞥《いちべつ》して、真剣な表情になった。ごゆっくり。つぶやいて奥へもどった。  柚木の胸をかすかな痛みが走った。テーブル席にいる三人づれの客のなかに関口がいた。大声で談笑している。となりであゆみがかしこまっていた。柚木の席にいるときとはまるで態度がちがう。明らかにあゆみは柚木よりも関口を大事にしていた。 「やっぱり疲れているわ。居眠りさせてね」  柚木の体に律子がもたれかかってきた。ほほえんだまま、目をつぶった。  カウンターに柚木は頬杖をついた。正面の壁をぼんやり眺めた。二つの女体のイメージが徐々にうかんでくる。  しなやかな若い裸身に柚木はくちびると舌で奉仕していた。もう一つの、青白い、どんよりと鈍い感じの裸身は、やはりくちびると舌で柚木に奉仕をつづけている。若い裸身のほうは声をあげていた。律子の声だった。まちがいようがなかった。 第三章 春の断層   1  朝からの経営会議が午後二時に終った。柚木克彦は七階の役員会議室をまっさきに出た。下りのエレベーターに乗った。彼が責任者をしている事業部は三階にある。  柚木は神経がたかぶっていた。けわしい顔になっているのがわかる。エレベーターのなかで、おだやかな表情をとりもどすつもりだった。うまくいかないまま三階に着いた。  会議の終了まぎわ、経理担当の常務と柚木は激論をかわした。柚木の事業部内の一つの課が、いま新しい工業薬品の開発に取組んでいる。その薬品は発売後一年を経たのに、まだ黒字を出していない。撤退すべきだと常務がいいだしたのだ。柚木は反論した。あと半年でモノにできなければ責任をとる。見得《みえ》を切って開発継続をみとめさせた。  柚木は自分の席にもどった。女子社員に茶をいれてもらって、一息ついた。トレーから書類をとりだしたが、読む気になれない。目が疲れている。指で瞼《まぶた》をマッサージした。最近、目が疲れやすくなった。老眼鏡が必要なのだろうが、かける気にはならない。老の字のつくものをうけいれると、たちまち全身がおいぼれてしまいそうな気がする。  一人の女子社員がデスクのまえを通りかかった。美しい女の子である。気がつくと、柚木はその女の子の下半身にじっと視線を注いでいた。いそいで目をそらせた。疲れると、性的な刺戟に敏感になる。身近な女子社員が急になまめかしくみえたりする。生命力がまださかんであることを体が示そうとするのか。それとも、セックスのあとの快《こころよ》い眠りをもとめているのだろうか。  あらためて柚木は書類に目を通そうとした。デスクのうえの電話のベルが鳴った。柚木は受話器をとった。ゆるやかな絃楽合奏のひびきを彼は感じた。南部律子の声がきこえたのだ。 「早いな。あれからもう一週間か。一週間が一日の感じですぎていきますね」  柚木は苦笑して話しかけた。  きょうは金曜日だ。先週の土曜日、柚木は東京で律子に会った。昼食をともにしただけで、別れて大阪へかえってきた。 「あした予定どおり浜松へいきます。柚木さん、ご都合はいかがかしら。ホテルはもうとっておきましたけど」 「わかりました。一時ごろに着くように行きます。泊るわけにはいかないけど」 「私もそのほうがいいの。夜はパーティに出なくてはならないから。でも、よかったわ柚木さんの予定がとれて。心配で、電話するのが恐いくらいだったのよ」  体から力のぬける気配が伝わってきた。柚木はほほえんだ。 「どうして心配なんか。かならずいくといっておいたのに」 「でも、柚木さんはお忙しいから。土曜でもお仕事のあることが多いんでしょう」 「どんなに忙しくてもいきますよ。律子さんを抱きたいんだ。いまは欲望の鬼です。先週、プラトニックだったおかげで——」 「欲望の鬼だなんて。あまり期待させないでください。そういう鬼って私、好きなの」  律子は笑った。目のまわりが仄《ほの》かに紅くなっているのがわかる。  先週の金曜日、柚木は東京へ出張した。会議と接待で、その夜は律子と会う時間がとれなかった。土曜日の午後一時、都心のホテルで律子と待ちあわせた。食事のあと、いっしょに部屋へ入るつもりだった。  三時まえに食事が終った。柚木はフロントデスクへ部屋をとりにいった。予約はしていなかった。昼間から満室になることはあるまいと思っていた。  ところが部屋はぜんぶふさがっていた。ロビーの光景を見て、理由がわかった。着飾った若い女のグループが、あちらでもこちらでも談笑している。女子学生たちの謝恩会であるらしい。ついでにホテルへ宿泊する娘も多いのだろう。  家族づれの客が何組もロビーをぶらついている。子供たちが駈けまわっていた。若い男女が腕を組みあってボーイに案内されてゆく。主婦らしい女たちのグループもいる。おまけに外国人の観光客の団体がチェックインの順番を待っていた。土曜日のホテルは市民公園のようなものだ。中年の男女が人目をしのんで会うための場所ではなくなっている。  柚木は公衆電話のコーナーへ足を向けた。主立《おもだ》ったホテルへかたっぱしから電話をいれてみた。どこも満室だった。会社の名前を出せばなんとかなるホテルもある。だが、情事を社用にするわけにはいかない。舌打ちして柚木はレストランへもどった。律子に事情を話した。品《ひん》のわるいホテルを利用する勇気があるかどうか訊いてみた。 「だったら、きょうはお食事だけでお別れしましょう。そのぶん、このつぎのデートがたのしみになるわ」  翳《かげ》のない笑顔で律子はいった。  物足りなかったが、柚木は同意せざるを得なかった。律子の夫が、いま日本へかえってきている。夕刻には律子は帰宅しなければならない。いまからラブホテルをさがしたりしていると、ゆっくり情事をたのしむ時間がなくなってしまう。 「むかしは、都市ホテルを使うと多少エリート意識をもったものだったけど、時代は変りましたね。デートの場所を確保するために、マンションでも借りようか」 「ほんとうね。その方面にくわしいお友達に相談してみようかしら」  そんな話のあとで、来週浜松で会おうと律子がいいだしたのだ。  律子は若い演奏家で編成された室内管絃楽団を後援している。演奏会を計画したり、切符をひきうけたり、有望な楽員を留学させたり、仲間とともに活動していた。そのオーケストラがつぎの日曜日、浜松で演奏会をひらく予定だった。律子は前日、現地に出向く。よければ落合おうというわけである。  一も二もなく柚木は承諾した。東京、大阪の中間地点で会えるのなら、手間の点で恨みっこなしである。一週間後に会える目処《めど》が立って、気分よく帰阪《きはん》することができた。  確認の電話を律子はかけてきたのだ。あの日食事だけで別れたのが、柚木と同様心残りだったらしい。あすへの期待で胸をはずませている。そんな気配をかくさない人徳のようなものが律子にはそなわっている。  あまり長話もできない。待ちあわせの時間と場所をきめて柚木は電話を切った。意欲をもってデスクワークにとりかかった。すぐに夕刻になった。  六時まえ、小林あゆみから電話が入った。 「おねがいやねん。きょう私と同伴して。店の子らに恰好《かつこう》つけんならんさかい」  あゆみの声は、妙になまなましくきこえた。すぐ近くにいるような気がする。 「きょうは勘弁してくれ。まだ仕事がある。それに、あした出張なんだ。早く帰って英気をやしないたい」 「ちょっと店へ顔出してくれるだけでいいの。ねえ、つきあって。助けると思うて」  鼻を鳴らしてあゆみは事情を説明した。  彼女の店にはいま手伝いの女の子が三人いる。求人雑誌の広告であつめた娘たちだった。彼女らにはまるで職業意識がない。平気で遅刻や欠勤をくりかえす。客をつれてくる努力はしない。きのうあゆみは、いまのままでは店を辞《や》めてもらうと彼女らに宣告した。  ところがきょう、あゆみは午後二時まで寝すごしてしまった。おまけに友達があそびにきた。おしゃべりして、別れたところである。これから美容院へゆく。定刻の午後七時までに店へ入れそうもない。説教の翌日に遅刻では、いかにもしめしがつかない。  だが、同伴出勤なら午後八時に入店してもよいきまりである。柚木をつれてゆけば、あゆみは威張って八時に出勤できる。 「ママになるのも大変だな。でも、そんな役目なら例のスポンサーが適任だろう」 「あの人いま福岡へいってるの。たとえあの人がいても、私、なるべく同伴しとうないわ。あんなダサイおじいちゃんはカナン」  美容院は七時すぎに出られる予定である。  それまで柚木が残業するのなら、会社のまえまで迎えにゆく。いっしょに店へ入ってほしい。あゆみは露骨に自分の都合をおしつけてきた。最近、たくましくなった。  柚木は承諾した。残りの書類を処理するのに、七時すぎまでかかりそうだった。あゆみの店で一杯やって十時ごろ帰宅する。週末の道草としては手ごろである。  柚木はビルの駐車場に連絡して、送迎用の社用車の運転手に帰宅してもらった。あとはデスクワークに没頭した。七時すぎにあゆみから電話があった。ビルのまえにきているという。柚木は帰り支度《じたく》をした。  六時すぎると、ビルの正面のシャッターがおりてしまう。横合の通用門から柚木は外へ出た。ビルの玄関へまわってみる。人影はなかった。車が一台停まっている。  あゆみは車をもっていないはずだった。念のため柚木は車に近づいてみた。車内灯がともった。運転席であゆみが笑いかけてくる。柚木は扉をあけて助手席に腰をおろした。 「いい車だな。買ったのか」  柚木は車のなかを見まわした。ソアラの新車だった。 「なんとかね。長いことペーパードライバーしてたのが、やっと終った」  あゆみは車を発進させた。運転の手つきはまだぎこちない。 「偉いな。経営順調というわけか」 「そうでもないの。開店直後はみんなきてくれるけど、これからが大変。けど、お店のママとしての体面があるでしょ。なんぼちんぴらママでも、車ぐらいもってないとね」  きのうあゆみのマンションへ車が届いた。うれしくてあゆみは深夜から明け方まで乗りまわして、きょう寝すごしてしまったのだ。  話しながら、北新地へ向かった。肥後《ひご》橋から渡辺橋にかけての混雑のなかで、何度か近くの車に接触しそうになった。おれが運転しよう。柚木は申しいれた。あゆみは耳を貸さず、ハンドルを握りしめていた。  北新地からやや離れたビルの駐車場へあゆみは車をいれた。そのビルの社長はあゆみの店の客である。夜間だけ車をおかせてもらうよう、交渉済みであるらしい。 「柚木さん、今夜ホテルで待っててね。店が終ったらいくわ。久しぶりで——」  車を停めてから、あゆみは柚木へ体をあずけてきた。切なそうに、ため息をついた。  もう夜である。周囲のビルの窓あかりはほとんど消えている。駐車場へ人は入ってこない。車は安全な密室だった。 「きょうはだめなんだ。あした朝から出張なので、夜更《よふ》かしはできない」  柚木はあゆみを抱き寄せた。かるくくちづけした。すぐにあゆみは顔を離した。 「あかんのオ。私、たのしみにしてたのに。出張って、どこへいくの」 「浜松。支店に用事があるんだ」 「ほんまかしら。信じられへんわ。柚木さん、デートとちがうの。そうでしょ。どうも最近、変な気配がするわ」 「なにをいってるんだ。あゆみとはちがうよ。おれはあゆみ一人だけなんだから」 「なにが一人よ。最初から奥さんがいてはるのに。私、やっと柚木さんと五分五分《ごぶごぶ》の関係になったとこよ」  あゆみは柚木の首に両手をまわした。  くちづけにきた。あゆみのしなやかな体に一種の気迫がこもっている。欲望にかられているのがわかった。  店を出すにあたって、あゆみは出資者である洋酒店の社長と体の関係をもった。そのことで柚木にさほどうしろめたい様子をみせなかった。いま理由がわかった。体の関係のある相手の数を彼女は誠意の基準にしている。 「きょう私、ほしいねん。生理まえやから」  抱きついたまま、あゆみはささやいた。柚木の耳に息を吐きかけてくる。 「生理まえか——。だとしても、もっとほかにいいまわしはないのかね」  柚木は苦笑した。腕のなかのあゆみの体がしだいに大きく感じられてくる。  あゆみの手がさぐりにきた、柚木もさぐりにいった。柚木は焦燥《しようそう》にかられた。あゆみは固い下着を身につけている。 「ホテルの部屋をとろうか。一時間ぐらい遅刻してもいいだろう」 「ねえ。部屋で待ってて。終ったらすぐにいくわ。私、八時には店に入らんと」 「あした早いんだ。店が終ってからデートすると、帰りが二時三時になる。無理だよ」 「いじわる。そしたらここで——」  柚木のズボンのファスナーをあゆみはひきおろした。  手をいれて、動かしはじめた。柚木の体が急速に若々しくなった。柚木はじっとしていた。あす浜松で、南部律子に会わなければならない。若いころとはちがう。いまあゆみとあそんだら、律子を抱く能力が残るかどうか心配である。  あゆみはやがて手を離した。靴をぬぎ、下着類を脚からぬきとった。窮屈そうに這って柚木のひざのうえに移動してくる。うしろ向きに、馬乗りになった。 「自分の車のなかでしてみたかってん。柚木さんに第一号をあげるのよ」  柚木の手をとって、あゆみはスカートのなかへ誘導した。充分にうるおっている。  あすのことはわすれよう。柚木は決めた。シートの背を倒した。慎重にあゆみは体を沈めてくる。柚木はあゆみのなかへ入った。  あゆみは動きだした。最初はゆっくりと、すぐにあわただしくなった。あゆみは両手を柚木のひざについて、体を浮かせかげんにしている。柚木は右手をあゆみのまえにまわして、指で刺戟をあたえた。自分をかり立てるように、あゆみは声をあげつづける。  ものの五、六分であゆみは坂をのぼりつめた。呻《うめ》いて、背を丸くした。動かなくなった。さらに柚木は指をつかってみる。痙攣《けいれん》してあゆみは柚木の右手をおさえた。  体力を残したまま、行為が終わるのではないか。ひそかに柚木は期待した。が、あゆみは一息いれて、また体を揺すりはじめた。右手を下からのばして、男性の下のものをさぐりにくる。柚木さん、絶対にいかせるからね。あゆみの指がささやいていた。  まもなく柚木は耐えきれなくなった。あゆみにしがみついて、終った。おどろくほど深い快感があった。しばらく身動きできないくらいだった。  やがてあゆみは運転席へもどった。出勤のための身づくろいをはじめる。車内灯をともして、手鏡に見入った。 「最高やったわ。自分の車のなかって、新鮮で、すごく刺戟があるわね」  あゆみが話しかけてきた。  柚木はだまっていた。快楽が深かったぶん、疲れも重かった。 「柚木さん、車のローンすこし助けてね。毎月やなくてもいいから。おねがいしまーす」  独《ひと》り言《ごと》のようにあゆみはいった。顔をななめに向けて手鏡を覗《のぞ》いている。  柚木は苦笑した。あゆみを可愛いと思う気持が急速にしぼんでいった。  二人はあゆみの店へ午後八時に入った。女の子たちに範を示して、あゆみは胸を張っていた。店にはまだ一人も客がいない。開店直後の義理や物珍らしさによる繁昌が、一段落したところのようだ。  カウンターで柚木はビールを飲んだ。となりにあゆみが腰をおろした。三十分ばかり、とりとめない話をした。  三人づれの客が入ってきた。あゆみはそちらへとんでいった。さらに二人づれの客がやってきた。カラオケがはじまる。あゆみは二組の客への応待でいっぱいになった。  柚木は立って店を出た。タクシーに乗ると、明日律子と会えるよろこびがしずかに湧いてきた。あゆみを抱いたおかげで、体がすきとおったような状態にある。律子とのセックスがうまくゆくかどうか、不安がきざした。なんとかなるさ。柚木はつぶやいた。   2  午後一時に柚木克彦は浜松へ着いた。  タクシーで約束のホテルへ向かった。市内でも一、二の大きなホテルである。  柚木は玄関からなかへ入った。東京や大阪のホテルに負けない、広いロビーがそこにひらけた。地方へきた、と柚木は感じた。ロビーの人影がすくない。謝恩会に出た女子大生も、子供づれの夫婦も、外人の団体客もここには見当らない。待ちあわせらしい何人かの男女と、披露宴への出席者らしいグループが一つ目につくだけだった。  白いスーツを着た南部律子が、中央のベンチから腰をあげた。ほほえんで手を振った。こちらへ歩いてくる。姿勢の良い歩きかただった。長い髪が肩で揺れている。 「お昼ごはん、もう済みました」  会釈して、律子は訊いた。上気して、ふっと目をそらせた。  柚木は十時ごろブランチを済ませて家を出てきた。腹は空《す》いていない。律子も同様だという。さきに観光に出ることにした。  二人はホテルを出た。駐車場にある白いソアラのほうへ律子は歩いた。駅の近くでレンタカーを用意してきたのだ。三十分まえに着いて、部屋に荷物をおいてあった。 「富豪の奥さまに運転ができるのかな。ぼくがやりましょうか」 「いいえ、私にさせて。たまにハンドルを握らないと、反射神経がにぶくなるわ」  柚木は取締役に昇進してから、社の車で送り迎えされるようになった。休日にはタクシーを利用する。ここ一年のあいだに、二、三回しか運転をしていない。  律子の運転で出発した。土曜なのに、道路は車で混雑していた。人口のわりに、ひろい道路がすくないようだ。  律子はバッグからカセットテープを出してデッキにいれた。のどかな管楽器のテーマにつづいて、オーケストラの流麗な演奏がはじまる。無数の金箔のようなピアノの音がそのうえに噴《ふ》きこぼれた。華やかな音が、車のなかにひろがった。息を吸いこんで、柚木は律子の顔をみつめた。 「サン・サーンスよ。コンチェルトの一番。ご存知でしょう」 「ききおぼえはあります。このピアノ、あなたですか」 「まさか。からかわないでください。アルド・チッコリーニ。粋《いき》な演奏をする人よ」  しばらくして市内を通りぬけた。浜名湖へ向かう自動車道路へ入った。  くもり空だが、行楽の車が多い。ほとんどの車の窓から子供の顔がみえる。犬をつれている家族もあった。若い男女の乗る車が、何度も柚木たちを追い越してゆく。柚木は自分たちが若い恋人たちの一員であるような気がしてきた。運転する律子の横顔に見入った。冷たい感じのするほど、ととのった横顔である。だが、肌に健康な紅みがさしていた。髪にもくちびるにも、濡れたような光沢《こうたく》がある。柚木は、律子の横顔に顔を寄せた。おだやかな化粧品の香りを吸いこんだ。  周辺の家々がまばらになった。木々や畑地の緑があざやかである。蜜柑《みかん》の木が多い。桜の季節は終ったところで、木々の枝に点々と赤い芽が付着したようになっている。ところどころ菜の花畑が目についた。レンタカーのソアラは、埃《ほこり》っぽい街を離脱して、遠い外国へ向けて疾走しているようだった。  途中、酒店を見つけた。柚木は車を停めてもらって、酒店へ入った。缶ビールの大きなやつを三本買って車にもどった。飲みながらのドライブになった。律子にすすめたが、彼女は頭を横にふった。  やがて、左手に湖がひらけた。平らかなようだが、湖面はわずかに揺れている。水は思ったほど澄んでいない。琵琶湖と似たようなものだ。海苔《のり》の養殖の棚が、浅瀬に枯木の林のように突き立っている。ところどころ小舟が浮かんでいた。小舟には黒い服の男が一人ずつ乗って働いている。モーターボートの航跡が沖に繃帯《ほうたい》のように浮かんでいた。  眺望はひろびろとしていた。冷たいビールが柚木ののどにしみこんだ。かるい目まいとともに酔いがおそってくる。柚木は窓硝子《ガラス》をおろして、風を呼びこんだ。掌《てのひら》をかざして風をうける。酔ってタクシーで帰るとき、いつもそうする。酔いがかるくなるのだ。  大きな橋をわたった。カーブにさしかかった。はずみに律子の腕が柚木の腕に密着した。しばらく離れない。律子の体の重みが伝わってきた。  律子の脚に柚木は目をやった。白いスカートのなかから、やさしい感じの脚線がのびている。ひざは心もち尖っていた。白透明のストッキングを律子ははいている。  柚木は胸をつかれた。律子の脚を見ると、いつも柚木はおちつかない気持になる。脚からなにか性的なエネルギーが放射されて、柚木の欲望を呼びおこすかのようだった。きょうはそれがない。律子の脚はマネキン人形の脚のように無表情である。脚が死んでいる——そんなふうに柚木は感じた。  律子の脚が死んでいるわけではない。柚木の欲望が死んでいるのだ。そういえば柚木は律子の体をほとんど意識せずに、湖の風景に気をとられていた。ふつうなら、ありえないことだった。律子と二人だけで車に乗っているのだ。雌とともに密室にとじこめられた雄さながら、柚木は律子の体の気配を吸収するはずである。  やはりあれか。ゆうべあゆみを抱いたのがわるかった。柚木はのどの奥が鉛を呑みこんだように重くなった。年齢をとったのだ。数年まえまでは、こんなことはなかった。女が変れば、欲望が湧いた。女が変り、日が変って、それでも欲望が死んでいるようなことは絶対になかった。いつのまにか事情が変った。仙人のようにおだやかな気持で、律子のそばで風景をながめている。  一時間近く車は走った。湖北の温泉町に着いた。湖畔のレストランと道ひとつへだてた駐車場へ律子は車を乗りいれた。ケヤキの林が三方から駐車場を囲んでいる。  車が停まったとき、柚木は律子のひざに手をおいた。欲望にかられたのではなく、欲望をかき立てるためだった。ふとももをつかんで、内側をさぐった。  律子はほほえんで柚木をみつめた。 「ビール、みんな飲んでしまったのね」  律子は柚木の右手をおさえた。  ふいにひきつった表情になった。抱きついてくちづけにくる。  律子の背中を抱いて柚木は応じた。腕に力をこめた。舌で舌をさぐった。律子の体は熱くなっている。呼吸がみだれはじめる。つりこまれて柚木は、体のなかで欲望のかすかな焔が《ほのお》ゆらめくのを感じた。柚木は安心した。律子と二人きりで部屋に入れば、欲望がよみがえるにちがいなかった。  湖の見えるレストランで食事をとった。ブルゴーニュ産の良質なワインがあった。料理には感心できなかったが、ワインで救われた。風景と会話をたのしんだ。高校時代の思い出話や、同窓会の人たちの噂話が多かった。  やわらかなトランペットの音がきこえた。なまの音である。だれかがつっかえながら、「アニー・ローリー」を演奏している。二人は顔を見あわせた。高校の音楽の教科書に出ていた歌だった。レストランの建物の右手から音は流れてくる。窓のない側だった。  律子は立って、湖に面したベランダへ出ていった。音のほうを見ている。こちらを向いて手招きした。柚木もベランダへ出た。  五十メートルばかり右手にマリーナがあった。堤防のうえで中学生らしい少年がトランペットを吹いている。姿勢よく沖に向かって立ち、頬をふくらませていた。力が入ると、顔が赤くなる。音がときおり苦しげにふるえた。少年は大きく息を吸った。 「かわいいじゃない。きっと学校のブラスバンドに入っているのよ」  律子は柚木をふりかえった。 「おれは嫉妬を感じるね。中学高校のころは楽器どころじゃなかったから。音楽が好きなやつは軟派だといわれた」 「そうね。田舎だったものねえ。楽器もなかったし、先生もいなかった。私もあの子がうらやましいわ」 「きみはピアノをやっていたじゃないか。めぐまれた環境にいたんだ」 「先生がいなかったわ。高校時代、いい先生についていたら、私だって芸大へいけたと思うの。考えると口惜しくなる。父があの時期、田舎に転勤さえしなければ」  四歳で律子はピアノをはじめた。  東京に住んでいた。小学校を経て中学二年までは優秀な先生に習った。将来毎日コンクールに挑戦するつもりだった。  中学二年の秋、採鉱技師だった父親が東北の鉱山町へ転勤になった。律子も父母について鉱山町の社宅へ移ってきた。いいピアノ教師がいないのはわかっていた。寄宿させてもらえる親戚が東京になかったのだ。  月に一、二度、仙台へレッスンをうけにいった。自分なりに練習もした。だが、高校を卒《お》えるころになっても、芸大合格にはほど遠い水準にしか達しなかった。 「知らなかったな。律子さんにそんな無念の思いがあったなんて」  柚木は律子をみつめた。律子にたいする理解が一気に深くなったと思う。 「楽器を習いたいっていう柚木さんの気持が、私にはよくわかるの。だから、フランスでオーボエを買ってきたのよ。ちゃんと練習していますか。あの子みたいに」  トランペットの少年を律子は指した。 「原則として毎朝一時間。実状は週に五日がせいぜいです」  柚木は頭をかいた。  プロの奏者から月に二度レッスンをうけている。毎朝、出勤まえに練習する。つい寝すごす日がときどきある。腕前はまだ少年のトランペットに遠くおよばない。 「欠けた日があったら、そのぶんを土、日にカバーしてください。がんばってね。ことしのクリスマスに成果をきかせてもらいます」  柚木の背中を律子はたたいた。  湖をわたる風が冷たかった。「アニー・ローリー」に送られて二人はレストランへもどった。ワインのボトルを柚木はほとんど一人で空《あ》けてしまった。もう一本とりよせて、律子にすすめる。律子はためらった。帰りのドライブを心配している。 「酔ったら、そのへんのホテルで休んでいきましょう。すぐにさめますよ」  柚木にいわれて律子はグラスをとった。話しかたがなめらかになった。  二本目のワインを半分空けて、二人は店を出た。律子の制止をふりきって、柚木は運転席に腰をおろした。律子を助手席に乗せる。 「ほんとうに大丈夫なの。柚木さん、相当息切れしているわよ」  律子が訊いた。面白がっている表情で、柚木の顔を覗きこんだ。  しばらく走ってモーテルを見つけた。空いているガレージへ柚木は車をいれた。階段をのぼって部屋へ入る。せまい部屋にダブルベッド、応接セット、テレビ、冷蔵庫などが詰めこまれている。若者向きのちゃちな部屋だが、酔っているので柚木はさほど違和感をおぼえなかった。  柚木はベッドに体を投げだした。息切れを指摘されて、不安にかられていた。まったく自覚していなかったのだ。しばらく動かずに呼吸をととのえるつもりだった。 「モーテルって、こんなふうになっているの。なにもかもかわいいわね」  律子は目を大きくして室内を見まわしていた。  従業員が料金をうけとりにきた。まごつきながら律子は支払った。うきうきしている様子なので、柚木は支払いを彼女にまかせた。  律子はバスルームへ入った。湯の支度をする。かわいいお風呂ねえ。嘆声をあげて出てきた。冷蔵庫からコーラを出して、ベッドへやってきた。一本ずつ二人は飲んだ。  窓のカーテンを律子はあけた。湖が見える。それがこのモーテルの取得《とりえ》のようだ。 「このへんにマンション借りましょうか。週末に落ちあうのにちょうどいいわ。夏がすばらしいはずよ。私、クルーザーの運転を習おうかしら。以前から運転したかったの」 「おくれてきた太陽族か。それもいいかもしれないな。なにごとも経験だ」 「テナント募集の広告をどこかで見たような気がするの。ほんとうに私、計画してみるわ。このへんに隠《かく》れ家《が》があれば最高だもの」  いいながら律子は立ってバスルームへ入った。湯の降り落ちる音がとまった。  律子がもどってきた。風呂をすすめる。ゆずりあったのち、柚木はベッドをおりた。脱衣場がない。ベッドのそばで服をぬいだ。  柚木は風呂につかった。手足をちぢめないと入れない、小さなバスタブだった。さっさと体を洗って外へ出た。タオルを腰に巻いてベッドに横たわった。代りに律子がバスルームへ入る。しばらくして、わずかに扉があいた。たたんだ律子の衣類が、扉の隙間《すきま》から外へ押し出された。  一風呂あびて、息切れはなくなった。だが、酔いは柚木の全身にしみわたっている。手足に力がなく、しかも重い。欲望はほとんどなかった。男性のかすかな緊張感だけが、いまの柚木のよりどころである。  律子はなかなかバスルームから出てこなかった。柚木はうとうとした。暖く重いものに圧《お》されてわれに返った。目をあけたとき、口を律子のくちびるでふさがれた。あたたかいナメクジがうごめいた。頭を小さく左右にふって、律子はくちびるをおしつけてくる。湯あがりの湿った肌の感触が、ようやく柚木の体に伝わってきた。  二人の顔が離れた。律子は柚木と体をかさねている。やや頭をひいて、柚木の顔を見おろそうとした。体に巻きつけていたタオルから、右の乳房がこぼれた。張りをなくした、乳首のくろずんだ乳房である。ゆっくりと律子はそれをタオルの内へもどした。最初のころならもっとあわててかくしたはずである。 「ああ、会いたかった。うれしい。こんな気持になったの、生れてはじめてよ」  ささやいて律子は頬ずりしにくる。  苛立《いらだ》たしく体を揺すった。情熱をもてあましている。柚木の肩や胸にくちびるを這わせた。律子の横顔を柚木はみつめた。頬にむくんだ感じがある。目じりのしわが赤褐色をしていた。首すじにもしわがあった。  明るい部屋は不都合だった。窓のカーテンは布がうすい。ひいても部屋は暗くならないはずだった。柚木は目をとじて、高校時代の律子の顔を脳裡に描きだした。手さぐりで律子の体からタオルを剥《は》ぎとる。腰とヒップを掌でさぐった。欲望をかき立てる。柚木の体のタオルはすでにとり去られていた。  しばらく二人はたがいに背中や腰やふとももをさぐりあった。双方ともなにか苛立っている。なにかをさがしている。律子の体が柚木の脚のほうへ移動をはじめた。ふとももに彼女は馬乗りになった。上体を倒してきて、男性を口にふくんだ。しばらくして、手でもてあそびはじめた。柚木は上体を起して、律子をひきよせる。男性が律子の望んでいるような状態にならない。  まだ希望はすてていなかった。律子の体を愛撫するうち、欲望は回復するはずである。律子を押し倒した。ひらかせて、その中央へ顔を伏せていった。舌を泳がせ、指も動かした。最初は目をあけて、すぐにとじた。  同時に柚木は瞼《まぶた》までが暗くなった。律子が毛布で柚木の頭ごと自分の腹を覆《おお》ったのだ。柚木は気がらくになった。あらためて高校時代の律子の顔を思い描いた。  音楽教室からピアノの音がきこえた。校舎の廊下を柚木は通りかかった。サッカーのユニホームを着ていた。泥だらけである。右ひざに巻きつけた手拭いに血がにじんでいた。雨でゆるんだグラウンドでころんだ拍子に、石へこすりつけてしまったのだ。練習を早あがりして、一人で部室へ帰るところだった。  音楽教室の扉を柚木は細目にあけた。すぐ前にグランドピアノがある。扉に横顔を向けて南部律子が練習曲を弾《ひ》いていた。ほかにはだれもいない。柚木は息苦しくなった。律子と二人きりで部屋にいる心地である。  演奏など耳に入らない。律子をみつめた。律子は目を大きくして楽譜を追いながら弾いている。明るく緊張した面持《おももち》である。髪が肩に垂れていた。ときおり上体をかたむけたり、天井を見あげたりして弾きつづけた。  セーラー服の胸がやわらかそうにふくらんでいる。かすかな甘い香りと、律子の体温が外へ洩《も》れてきた。鍵盤のうえで手指がおどる。神わざのような動きなので、女の子の手という感じがしなかった。ペダルをふむ律子の脚を柚木はみつめた。白いソックスに白いズック靴を律子ははいている。わずかに脚がみえる。そこを見ていると、セーラー服に覆われた体のかたちがぼんやりうかんでくる気持になる。  性を意識するようになって以来、女の裸というものを柚木はまだ見たことがなかった。イメージを形成する手掛りがなかった。セーラー服の中身は、得体《えたい》の知れない、白くてやわらかな物体にすぎなかった。その物体は強い磁力をもっていた。近くに立っているだけで、柚木は律子に吸い寄せられそうになる。磁力に皮膚をくすぐられてたかぶってくる。律子の脚に柚木は見入った。ふくらはぎに噛みつきたい衝動にかられる。  とつぜん扉が内側からひらいた。おどろいて柚木はあとじさった。  音楽の女教師が顔を出した。律子ひとりだと思ったのに、女教師がなかにいたのだ。扉の隙間からは視界に入らない場所にすわって演奏をきいていたらしい。 「どうしたのよ柚木さん。聴きたかったらなかへ入ればよいのに」  邪心のない笑顔で女教師は話しかけた。  律子は演奏をやめた。こちらを見てほほえんだ。柚木は悪事の現場を見られた思いである。泥だらけの自分の恰好を意識した。目がくらむほど律子の顔がまぶしかった。ふしぎな昂奮で体がふるえた。  なにか弁解して柚木はそこをはなれた。痛めた右脚をひきずって走った。サッカー部の部室へ逃げこんだ。殺風景な汗くさい部屋のベンチに腰かけて、息をついた。ピアノの音がきこえてくる。扉の隙間から洩れてきた律子の香りと体温がよみがえった。柚木は自慰をはじめた。  くちびると舌の奉仕をつづけながら、柚木は片手で律子の脚をさぐった。とくべつすばらしい感触ではなかった。中年女の平凡な脚だった。扉の隙間から苦しいほどあこがれてみつめた脚の実体がこれだった。べつに落胆はしない。人生なんて、こんなものだ。  律子の呻《うめ》き声がきこえた。柚木を迎えいれたいという意味のことを訴えている。耳ざわりだった。柚木は奉仕に精魂をかたむけた。律子の体が波打ちはじめる。呻き声が高くなり、断続して消えた。律子は両脚を堅くとじて動かなくなった。  毛布のなかから柚木は這いだした。律子とならんであおむけに寝た。曲りなりにも律子を頂上へおしあげて、一安心である。どっと酔いがまわってきた。眠くなった。 「あんなに飲まなければよかったのに。それに、柚木さん疲れているわ。私たちの年齢になれば、だれだってそうでしょうけど」  柚木の腹に律子は毛布をかぶせた。  掌で柚木の胸をなでさすった。柚木は汗ばんでいる。律子は汗をかいていない。 「ふだんは意識しないけど、体は正直だな。律子さんには済まないことをしました」 「そんなこと。私はあれで充分よ。あんなにやさしくしてくれて、うれしい」  律子は寄りそってきた。  すこし眠りなさい。律子はささやいた。うなずいて柚木は目をつぶった。  そのまま柚木は眠った。ワインに誘発された、深い眠りをむさぼった。  やがて柚木は物音で目をさました。律子がベッドをおりてバスルームへ入っていった。午後四時半である。六時からのパーティに律子は顔を出す予定だった。交通渋滞を考えると、五時には出発するほうが無難である。  律子がシャワーをあびる音がきこえる。体と柚木は相談してみた。欲望はなかった。いまから律子を抱くなど、考えただけでわずらわしくなる。  律子がバスルームから出てきた。柚木は目をとじ、寝息を立てる。律子が柚木のとなりに横たわった。下着を身につけてしまったようだ。寝息を立てながら、胸のうちで柚木は苦笑していた。家庭ではときたまこのような状況におかれる。これでは律子は妻と同じになってしまう。  律子はじっと柚木の寝顔をみつめている。やさしいまなざしなのがわかる。柚木の胸や腕をそっとさすった。そのあたりが律子は妻とちがっている。律子に申しわけない気持で柚木はいっぱいになった。  妻、律子、あゆみ。大事な女である順番にこちらの欲望は稀薄になる。ふっと思った。   3  柚木克彦の勤務している会社では、年度はじめに社員の集団検診が行われる。  ここ数年、柚木は検査をうけずにきた。時間が惜しかったせいもある。いちばんの原因は恐怖心だった。調べられると、なにか致命的な病気が発見されそうな気がする。  検査をうけるかうけまいか、迷っているうちに検診の期間がすぎてしまう。うけなかったことがこんどは心配になる。二、三ヵ月してなんの症状も出ないのをたしかめてから、やっと安心する。そのくり返しだった。  ことしは柚木も検査をうけた。たわいのない話だが、浜松で不能に終ったのが引金になった。日常の暮しにおいても、疲れやすくなったような気がする。柚木としては蛮勇をふるって医務室の扉をひらいた。  数日後に結果が出た。病気というほどの状態ではなかった。だが、血糖値が平均よりもかなり高いということだった。肝臓も少々くたびれているらしい。 「肝臓は週に一日か二日、休ませてやれば充分です。血糖値のほうは、糖尿病につながる恐れがある。まじめに運動とカロリー制限にとり組んでください」  ほぼ予想どおりのことを医師にいわれた。柚木は忠告にしたがう気になった。  カロリー制限のほうは妻に協力を依頼した。妻はひきうけたが、あまり真剣ではなかった。休日をのぞくと、柚木は毎日のように夕食を外でとっている。家でとるぶんだけカロリーをおさえても仕方がないのだ。なるべく家で夕食をとることにしよう。柚木は空《むな》しい誓いを立てざるを得なかった。  問題は運動だった。最近、出勤まえにオーボエの練習をしている。朝、ジョギングをやる時間はなかった。帰宅はたいていおそいうえに、酒が入っている。夜、近所を走るというわけにもいかない。  ある晩、あゆみの店で柚木はなにげなくなやみを打ちあけた。 「ホテルのアスレチッククラブへ入ったらいいわ。このへんのホテルにもジムがあるのよ。一汗かいて飲みにきてちょうだい」  あゆみが教えてくれた。クラブの会員が客のなかにいるらしい。  さっそく柚木は入会の手続きを問いあわせた。入会金と保証金で百五十万円ときいて、ためらった。だが、この話には妻が積極的だった。すすんで銀行へ連絡し、百五十万円を振りこんだ。  会社が終ってから、柚木はホテルのアスレチッククラブへ足を運ぶようになった。おもにジョギングと水泳をやった。ホテルはキタの酒場街の近くにある。一汗かくと、耐えがたいほどビールが飲みたくなる。接待などの約束のある日は、そのまま酒場へ出向いた。そうでない夜は、つとめて帰宅した。社の車と運転手を待たせておくと、帰りやすかった。期待ほど柚木が店へ顔を出さないので、あゆみはがっかりしていた。  三週間ばかりジム通いをすると、目にみえて体調がよくなった。体重が二キロ減った。食事にも気をつかった成果である。柚木は期待をもって医務室へ足を向けた。血糖値はかなり改善されていた。この調子で努力をつづけなさい。医師も満足そうだった。  このことを柚木は電話で律子に報告した。 「次回はひきしまった体でお会いできますよ。ベルトが孔二つぶん短くなった」  柚木は身長百七十六センチ、体重はいま七十五キロである。海水パンツをはくと、ゴムひもが腰まわりに食いこむ恰好になる。まもなくそれも解消するだろう。 「そんなにスマートになったの。大変。私もダイエットしなくては。恥ずかしくて柚木さんに会えなくなる」 「律子さんは必要ないですよ。理想的な体型じゃないですか」 「からかわないでください。私も水泳をはじめるわ。食事制限もきびしくする」  律子は焦燥《しようそう》にかられていた。さきを越されたと感じているらしい。  律子の夫はめずらしく東京に腰をすえている。おかげで律子は家を空《あ》けられない。浜松でコンサート、というようなチャンスはあれ以来なかった。柚木のほうも最近東京出張の口実が見つからずにいる。その意味でも律子は苛立《いらだ》っていた。 「いま、不動産の会社にたのんで、浜名湖のあたりにマンションをさがしているの。ちょうどいいのがあればいいんだけど」  別の日の電話で律子は打ちあけた。  柚木は気を呑まれた。本気で律子が物件をさがしているとは思っていなかった。話の様子では、律子は賃貸ではなく、売り物を希望している。投資の意味もあるのだという。 「買うとなると、相当の金額でしょう。大丈夫ですか。ご主人にたいして」 「私にだって、その程度のお金を自由にする権利はあるんです。いつまでも忍従だけでは済まされないんだから」  律子の声が歪《ゆが》んだ感じになった。  柚木は話題を変えた。律子と夫のあいだの問題にまでふみこむ気にはなれなかった。そこへ足を突っこむと、泥沼へひきこまれそうな予感がする。柚木自身と妻とのあいだも、似たような不気味な状態にあった。柚木に愛人がいることに妻は感づいている。へたに事実をさぐりだすと、自分が傷つくので、顔をそむけているだけのようだ。  数日後、とつぜん東京へゆく用事ができた。恒例《こうれい》の経営会議が次回は東京支社で行われることになったのだ。月曜の午前十時に会議ははじまる。前日上京すれば、律子とゆっくり会うことができる。 「日曜日の夕方ホテルでお会いできるのね。わかりました。かならずいきます。六時半には着くと思います」  電話で連絡すると、律子はそうこたえた。期待が高まると、彼女は切口上になる。  日曜の午後、柚木は新幹線で上京した。六時にホテルへ入った。フロントテーブルへゆくと、係の男に伝言メモを手わたされた。 「申し訳ありません。急用でそちらへいけなくなりました。あすご連絡します」  メモにはそう書いてあった。一時間まえに電話が入ったらしい。  柚木は落胆した。腹立たしくもあった。重い気分で部屋へ入った。ダブルベッドに体を投げだして、三十分も動かなかった。  律子といっしょに夕食をとる気で、腹を空《す》かせて列車に揺られてきた。ビールも飲まなかった。前回に懲《こ》りて、入念に体調をととのえた。肝臓薬、スタミナドリンク、ダブルベッド。すべてお笑い草となった。いい年齢《とし》をして、いったいなにをしているのか。  むかし立ち消えになった恋愛を成就させる気で、律子と逢《お》う瀬《せ》をかさねてきた。若かった時代をよみがえらせるつもりだった。じっさいに経験した人生よりも、もっと良い人生があったはずだという思いが、そんな気持の裏にはあったようだ。  結果、得たものは、なによりも老いの実感だった。律子との逢う瀬は、老いとの逢う瀬でもあった。おまけにきょうは、孤独と対面する羽目になった。経験しそこなった人生も、じっさいにつかまえてみると、期待ほどのものではなかった。実物と五十歩百歩のもののようだ。律子との仲も、そろそろ切りあげどきではないのか。  ゆっくりと柚木は起きあがった。夜をどうすごすか、きめなければならない。日曜だから酒場街は休んでいる。以前とちがって、若い女の肌をもとめて風俗産業をたずねる気にもなれなかった。あてもなく柚木はホテルを出た。夜の街をぶらついた。  提灯《ちようちん》をかかげた屋台があった。おでんを売っている。柚木はそこの客になった。律子といっしょなら、高価なレストランの食事でなければ気がすまない。一人のときは、柚木は倹約家であった。日本酒一本と、おでん二皿で夕食を終えた。本を読みたい意欲に柚木はかられた。律子との恋愛よりも屋台のほうに青春時代の名残りがあった。  部屋のチャイムの音で、翌朝、柚木は目をさました。七時半だった。舌打ちして、浴衣《ゆかた》をひっかけてベッドを離れた。  昨夜、食事のあと書店でビジネス書と文学書を買って部屋へもどった。テレビを見物したあと、読書にとりかかった。文学書にひきこまれて、一気に最後まで文章をたどった。眠ったのは午前二時半である。八時半まで眠って、さわやかに起きる予定だった。  柚木は顔をしかめて部屋の扉をあけた。朝食のルームサービス係が時間をまちがったのだろうと思ったのだ。律子の顔が目にとびこんできた。柚木は茫然となった。 「ごめんなさい。やっぱり起してしまったみたいね」  気づかわしげに律子は柚木をみあげる。  突発的に柚木は笑顔になった。いそいで律子を招きいれた。  肩をすくめるようにして律子は窓ぎわの椅子に腰をおろした。カーテンをしめわすれたので部屋は明るい。律子はピンク色のスーツを着ている。ブラウスは白だった。部屋が朝の空気でいっぱいになった。 「ゆうべ来られなかったから、いそいで出てきたの。柚木さん、きょう大阪へお帰りなんでしょう。いまを逃したらまた当分会えないと思って」  きのう取引先のフランス人夫婦を夕食に招待することが急にきまった。  夕方から律子は支度にかかりきった。ホテルへ電話する気でいたが、客がきてみると、その余裕もなかった。けさは六時に起きて朝食の支度をした。友人とゴルフだといいわけして、家を出てきたという。  柚木はベッドに寝て話を聞いた。 「さ、ここへおいで。早く」  ベッドの端をたたいた。律子はやってきてそこへ腰をおろした。  上体を起して柚木は律子を抱きしめた。くちづけすると、律子はあえぎはじめた。いい香りのする律子の体を抱きしめて、柚木は安堵《あんど》にひたった。むかし得られなかったものを手にいれた実感が湧いてくる。 「きょうは酔ってないのね。よかった」  さぐりにきて、律子は笑った。  柚木は、律子の上衣をぬがせにかかった。律子は立ちあがった。部屋のすみのクロゼットのそばで服を脱ぎはじめる。肩と腕、背中があらわになった。ひそかに柚木は狼狽《ろうばい》した。朝の陽光のなかでみると、律子の肌にはやはり光沢がなかった。  柚木はベッドをおりて、窓の厚いカーテンをひいた。夜がもどってきた。スタンドの豆電球をともした。浴衣をきて律子がベッドへやってくる。タイムマシンが作動《さどう》しはじめたのを柚木は感じた。律子の姿が、薄明のなかでみるみる若いころにもどってゆく。 「ああ疲れた。いまから一日眠りたいわ」  ベッドに律子は乗ってきた。  両ひざを折って脚を立てた。脚をのばしながら毛布のなかへ入ってくる。  柚木に抱きついてきた。あらためて二人はくちづけをかわした。柚木はすでに裸になっている。律子のおびを解きにかかった。 「ダイエット、はじめたばかりなの。まだ効果が出ていないわ」  律子は裸になった。両脚をからませてくる。ふとももの肉がやわらかい。  部屋は暗い。律子の顔も体も、ぼんやりとしかみえない。彼女の体をまさぐりながら、高校時代の律子を柚木は脳裡に描きだした。晴れやかな笑顔が目のまえにあらわれる。均整のとれた、しなやかな裸身が、その笑顔につながっていた。むかし柚木がじっさいに見た笑顔である。体のほうは想像の産物だった。だからこそ、好きなように思い描くことができる。  考えてみると、高校時代の柚木も、何度となく律子の裸を脳裡に描きだしていた。裸身にすがりつく自分を想像しながら、自慰をくり返した。その意味では柚木は、想像力の旺盛なあの時代にもどったことになる。  両手で柚木は律子の体をさぐっていた。弾力のない、鈍重な中年女の裸身の感触が掌にあった。だが、脳裡には若々しい律子の全身が映っている。映像があまりにはっきりしているので、現実の掌の感触も、イメージの律子の裸身をまさぐる感触に変質していた。若い律子を柚木は愛撫していた。現実は、どこかに消え去ってしまった。  柚木は上体をおこした。均整のとれた裸身にくちびるで奉仕するつもりだった。 「だめ。だめよ。私にさせて。ゆうべ約束をやぶったあとなんだから」  律子が起きあがった。たかぶって、息をはずませている。  律子はベッドからおりた。柚木の体に手をそえてベッドに腰かけさせる。脚のあいだにうずくまった。顔を寄せてくる。柚木の体に快感が流れこんできた。  しばらく柚木は快感に酔った。だが、酔いきれなかった。居心地がわるい。ひどく僭越なことをしている気分だった。スタンドの淡いあかりで律子の姿がみえる。柚木の両脚のあいだで、律子の頭が動きつづけている。こんなことをさせていいのかと柚木は思う。律子はあこがれの対象でなければならないのだ。 「ありがとう。もういいよ。さ、こっちへおいで。きみはお姫さまなんだから」  柚木は律子の腕をとった。立たせて、ベッドにひきあげようとする。 「だめよ。じっとしていて。私がしてあげる。私にさせて」  律子は柚木をベッドに押し倒した。  柚木の両脚のあいだに正座した。もてあそびはじめる。快感を送りこんできた。指も用いる。じっと柚木の顔を見おろしている。  あおむけになると、柚木はすべてを律子のもとへ投げだした気持だった。すると、安楽になった。律子の手の動きにあわせてややおおげさに悶《もだ》える。大の男が美少女に手さきでもてあそばれる実感が湧いてくる。快感が急に濃くなった。柚木は狼狽した。二人の位置が変るだけで、こんなに快感の質が変るとは、思ってもみなかったからだ。  柚木は呻き声をあげた。おおげさに悶えた。すると、いっそう快感は濃厚になった。愛撫を中止させようとする。律子はやめなかった。終りがきてしまった。 「なんだ。もう終ったの。いじわる。どうして私をおいていくのよう」  中年になった律子の声がきこえた。  律子は柚木の右手をとって自分の体に誘導した。柚木は愛撫にとりかかった。  枕もとの時計に目をやった。もうすぐ八時である。カーテンの隙間から流れこむ陽光がまぶしかった。陽光は椅子のそばにきちんとぬいであるハイヒールを照らしていた。   4  およそ二週間後、律子から会社へ電話が入った。はずんだ声だった。 「柚木さん、いま私がどこにいるかわかる。当ててごらんなさい。びっくりするわ」 「当てるって。いま仕事中なんだ。そんなに急に頭が回転しないよ」  柚木は苦笑した。大がかりなプロジェクトの稟議書《りんぎしよ》を見ているところだった。  大阪へきているんですか。柚木は訊いた。近くから電話しているのかもしれない。 「ちがいました。浜名湖のそばにいるの。いいマンションが見つかったのよ」 「マンション——。浜名湖のそばに。律子さん、本気だったんですか」  柚木は声が高くなった。  ほんとうに律子は隠れ家をつくるかもしれない。半分、柚木は予想していた。実現してみると、衝撃は大きかった。  湖畔というわけではない。それでもさほど遠くない場所にマンションがあった。業者から連絡をうけて、律子はすぐ駈けつけたのだ。2LDKだという。その一室からいま電話している。業者といっしょらしい。律子は声をひそめていた。契約して東京へかえる。保証人を柚木にたのむということである。 「ちょっと待って。その物件はいくらなの。二、三千万はするんだろう」  いそいで柚木は制止した。  律子には天馬|空《くう》をゆく傾向がある。保証人の意味を正確に理解しているとは思えない。 「まさか。その一割よ。保証金三百万円。買うのではなくて借りるの」  売り物の物件がなかった。賃貸でとりあえず間にあわせることにする。契約をすませ、小切手で支払いをする。保証人の印はこちらへきたとき捺《お》してくれればよいという。  律子の知合いの不動産業者が物件を仲介したらしい。なにも問題はなかった。柚木は保証人の件を承諾した。 「最高よ。窓から湖が見えるの。きっと柚木さんも気にいってくれるわ。内装の業者の人にもいまからきてもらうの」  律子は昂奮していた。  夕刻までに内装と家具の手配をして帰京する気でいる。朝、東京を出てきたらしい。 「残念だな。きょうそちらへいければいいんだが、時間がない」 「いいの。ちゃんとかたづいてからお迎えするわ。いまはまだきてほしくない」 「すまないな。きみにだけ負担をかけて」 「水くさいことをいわないで。それより月に一度か二度はかならずここへきてね。せっかくスイートホームができたんだから」  そんな話をして電話を切った。  柚木ののどの奥に苦い液がたまっていた。不機嫌になっている自分に柚木は気づいた。一つはもちろん、律子に経済的な負担をかけた負い目である。勝手に律子がやったことでも、「スイートホーム」である以上、経済に頬かむりをするわけにはいかない。  わだかまりの原因はほかにもあった。分譲ではなく賃貸の物件で律子が折合ったことに柚木は不満を感じていた。二人の仲を律子が軽視しはじめた証拠のような気がしたのだ。愛を永遠のものにしたいなら、あくまで分譲にこだわったはずである。理屈もなにもなく柚木はそう感じた。胸をしぼられるように、律子に会いたくなってくる。  仕事を終えてから、柚木は北新地の近くのホテルのアスレチッククラブへ出かけた。ダンベルと水泳で汗をかいた。最初のころのように毎日は通えない。よくて一日おきのペースになっている。体重はほとんど減っていない。腰まわりはひきしまってきた。近いうち、また血糖値をチェックするつもりだ。  ジムを出て、柚木は小林あゆみの店を覗いた。午後八時だった。四人づれの客が一組、カラオケであそんでいる。三人いた手伝いの女の子が二人になっていた。  カウンター席に柚木は腰をおろした。冷たいビールを飲んで息をついた。しばらくしてあゆみがとなりにやってきた。客の入りがわるくなったと愚痴をいう。柚木の部下数人の勘定がたまっている。柚木からそれとなく催促してほしい。そんなことをいいだした。 「よせよ。社員をつれてこいというから案内したんだぞ。おれが催促なんかしたら、彼らは二度とこなくなる。それでもいいのか」 「そこをなんとか上手にいうてよ。おねがい。私、柚木さんだけが頼り。ほんまよ」 「頼る相手がちがうだろう。少々赤字を出しても、酒屋の社長は我慢するさ。あゆみの体にさわるだけで、その値打がある」 「もういや。関口さんのことはだまってて。私がどんな気持でつきあってるか、柚木さん、よう知ってるやないの」  カウンターにあゆみは両肘をついた。苦悩のポーズをとって顔をふせた。  こんどの土曜、デートして。うつむいたままあゆみはささやいた。そっと柚木のふとももに手をおいた。  大胆なVネックの服をあゆみは着ている。胸もとと背中から肌の香りが立ちのぼった。柚木はしなやかなあゆみの裸身の抱きごこちを思いだした。恋愛などではない。それでも抱きたい。病気のようなものだ。  柚木は承諾した。午後三時にアスレチッククラブのあるホテルのロビーで待ちあわせることになった。  土曜日になった。休日出勤と称して、柚木は午後一時ごろ家を出た。妻のこわばった表情を強引に無視した。タクシーで午後二時にホテルへ着いた。ジムで汗を流したあと、あゆみと落ちあうつもりだった。  ロビーへ入って柚木は顔をしかめた。家族づれでごったがえしている。謝恩会はないようだが、結婚式、講習会なども何ヵ所かで行われているらしい。若い男女の二人づれや、外人の姿も目についた。以前東京のホテルで部屋をとれなかったときと同じ状況である。  フロントテーブルに柚木はいってみた。全館満室だといわれた。前日、予約しなかったのが失敗だった。大阪のホテル事情は東京ほどではあるまいと高をくくっていた。  ともかく部屋を確保しなければならない。公衆電話のコーナーへ柚木はいった。大阪の主要なホテルに片端から当ってみた。ミナミの新しいホテルにやっと空室を見つけた。  柚木はアスレチッククラブのジムへいった。ダンベルとジョギングで体をいじめた。シャワーをあびると、午後三時まえだった。  柚木はロビーへもどった。あゆみはまだきていない。混雑のすみに立って柚木は待った。運動のあとで体が火照《ほて》っている。じっとしていても、汗が出てくる。ビールが飲みたい。あゆみがきたら、すぐにバーで一杯やるつもりだった。  三時十五分になった。あゆみはまだあらわれない。柚木はいやな予感がした。もともと時間にだらしのない女だった。体の関係ができてから、二度柚木はすっぽかされたことがある。他人でない相手だから失礼がゆるされるだろう。あゆみはそんな考えをする。  スナックバーのママになってからは、時間や約束の大切さを知ったようだった。だらしのない面が消えていた。きょうは地金《じがね》が出たのかもしれない。  三時半になっても、あゆみはこなかった。もうあいつはこないだろう。柚木は自分にいいきかせた。だが、まだ思い切れない。約束をやぶらざるを得ない事情ができたのかもしれない。それにしても、柚木を電話で呼びだして違約を詫《わ》びることができないわけはない。なにをあの女は考えているのだろう。  結局、柚木は一時間待った。本人も電話もこなかった。妻の不機嫌をおして出てきただけ、柚木は怒りにかられた。あの女とはこれきりにする。愛してもいない女と関係をつづけるのがまちがいだった。  公衆電話で柚木はせっかくとった部屋をキャンセルした。ロビーの玄関のほうへ歩きかけて、思いなおした。受話器をとって、東京の南部律子の家を呼びだした。土曜日である。律子の夫が家にいるかもしれない。それでも律子の声をきかずにはいられなかった。  お手伝いらしい女が電話に出た。柚木は名乗った。偽名など使うと、律子がかえってとまどうだろう。律子が電話に出た。 「例のマンション、その後どうなりましたか。つぎの週末にでも使いたいけど」  必要もないのに柚木は声をひそめていた。 「私のほうからお電話しようと思っていたの。つぎの土曜日、どうかしら。泊るのは無理だけど、日がえりなら」  律子は元気な話しかただった。  夫は外出しているらしい。マンションはいつでも使える状態になったという。業者がすべて整えてくれたようだ。  来週の土曜日の正午、浜松駅で待ちあわせる約束をした。やっと柚木は胸が晴れた。どこへも寄らずに家路についた。  月曜日の昼まえ、あゆみから詫びと弁解の電話が入った。土曜日、あゆみはゴルフにいっていた。不義理のきかない客に、前夜おそく約束させられてしまったのだ。  ゴルフ場からホテルへ電話するつもりだった。だが、プレーと社交にとりまぎれて時機をうしなった。ずっと気にはかけていた。 「ゴルフをはじめたのか。若いのに、あゆみも偉くなったものだな」  柚木は砂を噛む思いだった。  ソアラとゴルフ。みんな後援者の関口の趣味なのだろう。 「ごめん。ほんまに済みませんでした。かならず埋めあわせします。ね、夕方Zホテルへきて。私、部屋で待ってる」 「いや、きょうは予定がある。あそんでいるひまはないんだ」 「水泳しにいくんでしょう。帰りに店へ寄って。終ってから私のマンションへいってもいい。きょうがだめなら、明日でも」  柚木はとりあわずに電話を切った。  夕刻、柚木はクラブに出向いた。一泳ぎして出てくると、ジムの出入口にあゆみが立っていた。店へつれてゆくつもりなのだ。  苦笑して柚木はかぶりをふった。駐車場にいる社の車を電話で呼ぼうとする。あゆみがとりすがった。社の車は帰してほしい。私が家まで送ってゆくという。 「でも、きみはいまから店じゃないか」 「いいの。送らせて。私、柚木さんを失いたくないもん。せめてそのぐらいさせて」  柚木は折れざるを得なかった。帰宅してもよいと社の運転手に告げた。  付近の有料駐車場にあゆみのソアラがおいてあった。柚木は助手席に乗った。すぐに出発した。道路はまだ混んでいる。自宅まで一時間近くかかりそうだった。  あまり話をしなかった。ソウル・ミュージックがカーステレオから流れていた。途中、新しい造りのモーテルのそばを通った。あゆみは流し目で柚木を見て笑った。また苦笑して柚木はかぶりをふってみせる。  自宅の百メートル手前で柚木は車をおりることにした。停まると、あゆみは柚木の首を抱いて顔を寄せてくる。丹念なくちづけになってしまった。柚木は不本意なことに若々しくたかぶった。かろうじて車のドアをひらいた。  律子との約束の日になった。柚木は正午すこしまえに浜松へ着いた。改札口の外に律子が立っていた。  モスグリーンを基調に濃淡で縞《しま》をつけた服を着ている。しっかりと胴をひきしめ、肩やスカートはゆとりのあるデザインである。見るからに良家の夫人だった。スーツケースと紙の買物袋を律子はさげている。近くのデパートで、食料品を買いこんできたらしい。 「レンタカーはもうやめたわ。運転がめんどうだから」  駅前広場のタクシー乗り場へ歩くあいだ、律子は腕を組みにきた。  足がはずんでいる。柚木は目をふせていた。腕を組みあわせて歩くのが似合う年齢ではないと考えてしまう。  高速道路に乗って湖に向かった。運転手をはばかってあまり会話がはずまない。律子はバッグからキーホルダーをとりだした。白い鍵を一つはずして柚木に手わたした。これからゆくマンションの部屋の鍵だった。 「気が向いたら、いつでも使ってください。そのうち住みやすくなると思います」  顔をこちらに向けて律子はささやいた。  昼会うと、律子はなるべく正面の顔を柚木に見せようとする。濃い化粧品を塗った目じりのあたりをかくしたいのだ。  柚木は律子の手をとった。律子はエメラルドの指環をしている。指環一つで全身に凜《りん》とした感じが出ていた。服をぬがせたい衝動に柚木はかられてくる。一分の隙もない律子に会うと、いつもそうなった。  湖の北部のインターチェンジで一般道路へおりた。しばらくゆくと、小さな町の高台に五階建てのマンションがあった。湖岸から百メートルも離れていない。夏、別荘代りに利用する浜松市民が多いということだ。  せまいエレベーターで五階へのぼった。西の端の部屋が二人の隠れ家だった。なかへ入った。柚木は感嘆の声をあげた。家具、壁紙、絨毯《じゆうたん》。すべて整っている。キッチンも冷暖房も最新式であるらしい。あらゆるものが光沢をはなっていた。生活の匂いではなく、新しい品物の匂いが部屋にこもっている。  入ってすぐがダイニングキッチンだった。奥が居間、左手が寝室である。居間へ入ってみて、柚木は声をあげた。右すみのポケットのような箇所にスタンド式のピアノがある。 「すごいな。ピアノを買ったのか」 「すごくないわ。いまはピアノなんて、ごくふつうの家具なんだから。ないほうがむしろ不自然なのよ」  買物袋をキッチンにおいて、律子がやってきた。  ピアノの蓋をあけた。人差指でいくつか鍵盤を突っついた。澄んだするどい音だった。天井と壁が感応してふるえる。柚木の体も一瞬ふるえた。音が外へ洩れないよう、窓のサッシを二重に造り替えさせたという。 「こんどはオーボエをもっていらっしゃいね。合奏しましょう。なんでもいいの。鳩ポッポでもなんでもいいんだから」  二人で窓の外をながめた。ひろびろとした湖が見わたされる。快晴で、湖面が白っぽく光っていた。  律子はキスをもとめてきた。  力いっぱい柚木は抱いて、くちびるをあわせにゆく。律子の体がかなり細くなっていた。ダイエットに成功したらしい。思いきった食事制限をしたにちがいない。  キスが終った。しばらく抱きあったあと、くるりと反転して律子は離れた。若妻のような足どりでキッチンへ入った。冷蔵庫からワインを出して、そばのテーブルにおいた。律子は白いエプロンをした。流し台に向かってなにか料理をはじめる。 「デパートでおいしそうな魚を売っていたの。やはり海が近いのよね」  もう刺身になっている。律子はそれを皿に盛って、野菜をつけあわせた。 「おそれ多いな。お姫さまの料理とは」 「恐縮することはありません。たいしたものがないんだもの。こんどはどこか料亭で、お弁当をつくってもらいます」  サーモンやキャビア、カニの缶詰、サラダ、クロワッサンを律子は用意した。  ワインの栓を柚木はぬいた。フランス産だが安いワインだった。この近所の酒屋に高級品がなかったのだろう。  乾盃して、食事にとりかかった。まぎれもなく新婚家庭の雰囲気になった。途中、律子は立って、カセットデッキにCDをいれる。モーツァルトのディベルトメントが流れた。 「くつろぐと帰るのが面倒になるなあ。今晩、泊ってしまおうかしら」  ため息をついて、律子はつぶやいた。 「まずいよそれは。ご主人を刺戟する。隠れ家がバレてしまうぞ」 「大丈夫。おととい急に出発したの。ローマなんだって。一ヵ月は帰らないみたい」  律子はキャビアをパンにのせて口へはこんだ。ゆっくりと噛んだ。 「柚木さんは帰らなくてはいけないの」 「家になにもいってこなかったからね。でも、なりゆきしだいだ。そのうち、帰るのが面倒になるかもしれない」  ワインのボトルが半分|空《から》になった。  律子はボトルを冷蔵庫にしまった。飲ませてあげない。意味ありげに笑った。  律子はほとんどたべなかった。ダイエットですか。柚木の問いにだまってうなずいた。  食事が終った。支度をして柚木は風呂に入った。ちょうどよい酔いごこちである。腰にタオルを巻いてバスルームから出た。  戸のそばに青いガウンがおいてある。それをもって柚木は寝室に入った。ダブルベッドがある。窓にカーテンがひいてあって、部屋はうす暗い。ガウンを身につけないで、柚木はベッドに横たわった。  体調はよかった。気持よく酔っている。久しぶりで欲望が体にみなぎった。すべてが新婚にふさわしい。律子がバスルームから出てくるのが待ち遠しかった。  やがて物音がした。律子が寝室へ入ってきた。大きなタオルを体に巻きつけている。柚木は胸をつかれた。律子の脚がたしかに細くなっている。全身がひきしまっていた。 「やせたね、律子さん。すごいよ。まるで二十代のシルエットだ。がんばったんだな」 「そうよ。病院でメニューをつくってもらって、必死で減食したの。柚木さんがジム通いしているのに、私だけおくれをとるわけにいかないわ。きれいになりたかった」  タオルを巻いた自分の体を満足そうに律子は見おろした。表からも裏からもながめた。  窓のカーテンを律子はあけた。寝室中に午後の陽光があふれる。窓辺に立って、律子は外を見わたした。 「どうしたの。暗いほうがいいのに」  背を向けた律子に柚木は声をかけた。  不安が胸にさしこんできた。律子の肩や背中には、光沢がなかった。 「柚木さん、いつも高校時代の私を思いうかべているでしょう。そういうのって、女はつらいのよ。いまの私を愛してほしい」 「いまのきみを愛しているよ。だって、そこにいるのはいまのきみじゃないか」  とっさに柚木はいい逃れた。動揺が声にあらわれていた。 「せいいっぱいなの私。これ以上きれいになれないわ。ベストをつくしたつもり」  こちらに背を向けたまま、律子はバスタオルを体からとりのぞいた。  最初、柚木は美を感じた。律子の体はほんとうに二十代のシルエットをとりもどしていた。肩や背中が脆《もろ》い感じになっている。腰はひきしまっていた。尻はひとまわり小さくなり、脚も細くなった。律子の脚はわずかに曲っている。いまはそれが、かえってエロチックに感じられる。  つぎに柚木は目を覆《おお》いたくなった。何秒か体が鳥肌立った。律子の尻のふくらみの下に深い横じわが走っている。以前にはなかったしわである。脂肪と肉が落ちた結果、まるでナイフをいれたような深いみぞができた。  腰にもしわが刻まれた。尻の上のほうにも横じわがある。律子が頭を動かすと、首にもしわができた。まるで切り刻まれたように、たくさんの黒い横線が走っている。 「かなりバランスが良くなったでしょう。水着をきて歩く自信がついたわ」  律子はこちらを向いた。  乳房のかたちが良くなっている。整形したらしい。若い女ほどではないが、ふくらみが回復している。だが、乳首の色は黒いままだった。そのうえ腹に横じわが刻まれている。脚と胴の継ぎ目もしわに変っていた。  目をそらさぬよう、懸命に柚木は律子の裸身をみつめた。讃嘆の表情をつくった。また体が鳥肌立ってくる。室内のすべての調度が新品だった。建物も新築の部類である。律子の体のおとろえが際立《きわだ》った。律子と柚木だけが、ここでは中古品である。 「やっと私、夢が叶《かな》ったんだわ。柚木さんとこうして新婚生活が送れるんだから」  律子はベッドにのぼってきた。  のしかかってくちづけにくる。精魂をこめて柚木は応じた。律子の体をまさぐる。くちびるを這わせにゆく。だが、目をとじてむかしの律子を思い描くことを禁じられてしまった。エネルギー源を柚木はおさえられた。体は無力のままである。  律子はあえいでいた。柚木を迎えいれたい、という意味のことを口走った。柚木の体をさぐりにくる。腰をひいて、ふれさせなかった。代りに律子をおし倒して、体をひらかせた。くちびると舌と手指をつかって、快感を律子の体へ送りこんだ。  しばらくして律子は声をあげた。悶《もだ》えながら頂上へ駈けのぼった。柚木はさらにしがみついて奉仕をつづける。身動きできないほど律子を疲れさせてしまいたかった。  三つ目の頂上を律子は越えた。柚木に背を向け、丸くなった。呼吸をととのえている。精根つきたようにみえた。ほっとして柚木はとなりに横たわった。  まもなく律子は起きあがった。柚木の下半身にむしゃぶりついてくる。奉仕をはじめた。どうにもならない。柚木は律子を抱きよせて、髪や背中をなでてやった。 「ねえ、どうして。どうしてなの」  律子は柚木の胸に顔をふせた。苛立《いらだ》たしく柚木を揺さぶった。 「ストレスがたまっているんだろうな。一休みすれば元気がもどるさ」  ほかにこたえようがなかった。茫然と柚木は天井に向かいあっていた。  しばらくして律子はベッドをおりた。スーツケースから下着と白いワンピースを出して身につけた。 「ピアノを弾《ひ》きましょうか」  柚木をふりかえって律子は訊いた。痛々しいほど明るい笑顔である。  律子はピアノのまえに腰をおろした。寝室からは彼女のうしろ姿がみえる。演奏がはじまった。ショパンの練習曲だった。冴《さ》えた金属的な音が、柚木の全身にひびきわたった。胸のうちで共鳴がおこった。すばらしい演奏だと柚木は思う。しだいに心が澄んできた。律子をあこがれる気持がよみがえった。  柚木は体をおこして、演奏する律子のうしろ姿をみつめた。彼女の白いワンピースが、夏の白いセーラー服に変りはじめる。高校生の律子がいまショパンを弾いている。やせたおかげで律子のうしろ姿は高校時代のそれにもどった。あこがれで柚木は息苦しくなる。  いつのまにか柚木は立って、律子に近づいていた。律子の髪や、首や、胸をみつめていた。やがて脚に視線がいった。律子は裸足である。高校時代、音楽室の扉の隙間からみつめたとき以上に刺戟的だった。  柚木は全裸のままだった。演奏が終るなり律子におそいかかった。音楽教室の扉の外から律子をながめたとき、自分がなにをしたかったのかが、いまになってはっきりとわかった。うしろから抱きかかえて律子を立たせる。ピアノの鍵盤に両手をつかせた。  ピアノは大きな音を立てた。残響のなかで柚木は椅子をわきへ寄せる。スカートのなかへ手をいれて下着をひきおろした。  ひとまわり小さくなった尻を、柚木は両掌で抱きかかえた。深い横じわは見えない。柚木はうしろから律子のなかへ入った。律子の体のなかに柚木は突き立った。  あくる日の午後五時、柚木と律子は大阪のZホテルのプールのなかにいた。  柚木の加入しているアスレチッククラブの室内プールである。七、八人の男女が温水へとびこんで泳いだり、デッキチェアで休んだりしていた。若者はいない。半数が六十歳以上の男女である。  情熱にかられるまま、柚木は昨夜、湖畔の隠れ家へ泊った。取引先と麻雀をする。家に電話でそう伝えた。  けさは朝から湖の周辺をドライブした。二時の新幹線で大阪へ向かった。まだ別れたくないといって律子はついてきた。今夜大阪へ一泊して、あす東京へかえる気でいる。  北新地のそばのホテルに二人はチェックインした。食事まえの腹ごなしをしよう。いいあって、プールへきたのだ。アスレチッククラブの会員は、三人までゲストを同行できる特権をあたえられている。  このプールでは、二人とも若者の部類に属していた。元気よく泳いだ。ここを出たあと二人で食事をする。終ったら柚木は家へかえるつもりでいる。だが、なりゆきによっては律子といっしょに泊るかもしれない。もちろん律子もそれを期待している。  一泳ぎして、柚木と律子は出入口のそばのデッキチェアに寝そべった。柚木は律子に目を向けないようにしていた。化粧を落すと、律子の顔にはやはり年齢があらわれる。肌に生気がない。目じりのしわも濃くなる。  律子は青いハイレグの水着をきている。尻の下の横じわが、いやでも目につく。うしろからみると、ふとももの内側にもしわが刻まれていた。服を着ているときとちがって、二つ三つしか若くみえない。  赤い水着の女が外から入ってきた。なにげなく目をやって、柚木は声をあげた。小林あゆみである。中高年の客のなかで、あゆみは一人照明をあびているように若々しく、颯爽《さつそう》としていた。  あゆみは足をとめて柚木たちを見た。なんや、柚木さんか。彼女は笑った。律子とは顔見知りである。会釈をかわした。 「ママもここの会員なのか。知らなかったな」 「ちがうの。私、ゲストやねん。関口さんにつれられてきたの。おじいちゃん、いまジムでふうふういうて走っているわ」  あゆみの目が冷たく光った。律子の全身を吟味している。  口もとに笑みがうかんだ。小鼻のふくらんだ表情になっている。あとで寄ってくださいね。いい残して彼女は水に入った。  あゆみは二十五メートルプールを平泳ぎで一往復した。あがって、向う側のデッキチェアに寝そべった。こちらに関心のないような顔をしている。だが、目の端で柚木と律子をうかがっているのはたしかだった。  柚木は外へ出たくなった。だが、プールサイドから去る律子のうしろ姿があゆみの目に映ることを思うと、できなかった。律子が歩くと、尻の下の横じわがくっきりと濃くなる。水着だから、かくしようがない。あゆみは大笑いするだろう。柚木さんも酔狂やわ。あんなおばさんのどこがいいの。つぎに会ったとき、そういうにきまっている。  律子がばかにされるのは、柚木には耐えがたいことだった。どうにかしなければ。懸命に思案した。やっと考えがうかんだ。律子よりもさらに自分がみっともなくなればよいのだ。そうすれば、あゆみは律子のうしろ姿を見物する余裕がなくなるだろう。  柚木は立って外へ出た。ジムの受付へいって、ハサミを借りた。手洗に入って、海水パンツの尻に切れ目をいれる。そこをおさえて彼は室内プールへもどった。 「そろそろ出ましょう。腹が減った」  律子に声をかけて立たせた。  ならんで出口へ向かった。海水パンツの切れ目を手でおさえなかった。  けたたましい笑声がきこえた。あゆみがこちらを指して笑っている。足をばたつかせていた。ほかの客も柚木の尻を見ている。  柚木は不審そうな面持《おももち》の律子の腕をとって室内プールの外へ出た。海水パンツの尻をおさえて、ロッカールームへ向かった。 第四章 熱い夜の祝祭   1  陽光がまぶしくて、目に痛いほどだった。ひろびろとした水面の揺れる気配が、赤ん坊の寝息のようにおだやかに伝わってくる。浜辺の波はところどころ白く砕けるだけである。ほとんどの水が透明なまま寄せては返していた。数隻のクルーザーが騒々しく沖を走っている。見わたすかぎり、それらの航跡だけが湖面の白波だった。かすかな汐の香があった。 「湖《うみ》の家」の上りかまちで柚木克彦は海水パンツ一つになった。律子の出してくれたゴム草履《ぞうり》をはいた。家のなかは家族づれや若い男女で混みあっている。中年の二人づれは柚木と律子だけだった。  律子はサングラスをしている。まだ服のままだった。バッグから化粧品やタオルを出している。支度《したく》にしばらく時間がかかりそうだ。柚木は波打際《なみうちぎわ》に向かって歩きだした。  二百人ばかりの男女が浜で陽光をあびたり歩きまわったりしている。バドミントンやバレーボールをたのしんでいる者も多い。ほとんどが若者と子供である。中年の男女はみんな子供づれだった。さわやかな風をうけながら、柚木は窮屈な感じにとらわれていた。  海辺の砂浜とちがって小石が多い。水際で柚木は丁寧にストレッチをやった。草履をぬいで水に入り、すこしずつ体に水をかける。若いころとちがって万事に慎重である。  沖に向かってすこし歩いた。小石で足裏が痛かった。腹まで水につかったところで「湖の家」をふりかえった。すわったまま律子がこちらを見ている。小さく手をふった。柚木は水に体を投げだした。平泳ぎでゆっくりと沖の赤旗の列のほうへ向かう。  全身に涼味がしみわたった。ひげそりあとの小さな傷を汐がかすかに刺戟する。浜名湖は南部で海とつながっているのだ。浜から見れば湖面は平らかだが、水のうえでは体がもちあげられたり下降したりした。全身が活気づいてくる。アスレチッククラブのプールで泳ぎつけているので、体は軽かった。血液の循環が良くなり、しかも涼しい。  浅い区域では若者や子供たちがにぎやかに水あそびをしていた。すこし沖へ出ると、まわりに人がいなくなった。たまに浮かんでいる者は中年の男だけである。浅い場所にいる妻子へ手をふったりしている。十メートル間隔で横一列にならぶ赤旗に近づくと、浜の監視所からアナウンスがきこえた。旗の向うへ出ないでくださいといっている。お節介《せつかい》されながら泳ぐ時代になった。  急に波がおしよせてきた。沖を横断するクルーザーが湖面を攪乱《かくらん》している。左手のほうからも爆音がきこえた。ジェットスキーを若者たちが乗りまわしている。  立泳ぎして柚木は浜をながめた。律子が水辺へ歩いてくる。ブルーのワンピースの水着をきて、ストローハットをかぶり、サングラスをつけている。白い買物袋をさげていた。均整のとれた体つきである。遠目にはとても五十近い女にみえない。駈けまわっている若い女たちに遜色《そんしよく》がなかった。  柚木のぬいだ草履のそばに律子は買物袋をおいた。サングラスをはずし、申しわけのようにストレッチをする。ストローハットをかぶったまま、水に入ってきた。柚木は手をあげて律子を招いた。毎日のようにプールへ通って、律子も泳ぎはうまいはずだ。  ふとももが水につかりきらないうちに、律子は泳ぎはじめた。やはり小石で足が痛かったのだろう。顔をあげて、平泳ぎでやってくる。柚木は律子のほうへ泳ぎはじめた。律子は笑っている。ストローハットの赤いリボンが風でおどった。顔はよくみえるのだが、なかなか距離がちぢまらない。長年離れ離れになっていた恋人との再会の場面のように、柚木はもどかしい思いにかられた。  ようやく近づいた。律子は華やいだ笑声をあげた。抱きついてくる。いっしょに沈んで泡のなかを浮きあがった。 「ああ息が切れる。もうだめ」  笑いながら律子は両手で顔を拭い、ストローハットのあごひもをなおした。  律子の手首が金色に光った。高価そうな腕時計である。防水式なのだろうか。 「泳いでから気がついたのよ。まあいいわと思って」  柚木の肩につかまって律子は立泳ぎしている。二人の脚がふれあった。冷えたせいで律子の脚は硬く感じられた。性的な刺戟をうけた、と柚木は思う。だが、他人事のように体は清冽《せいれつ》な状態にあった。 「息切れは最初のうちだけさ。すぐに調子が出るよ」 「ここから見ると、砂浜はすぐ近くね。ずいぶん泳いだつもりだったのに」 「努力の成果はつねに期待以下さ。流されるのはあっという間だけどね」  律子の横顔に柚木は見惚《みと》れた。  化粧を落した肌はやはりくすんでみえる。目じりのしわも濃い。だが、横顔の輪郭は変りなく鮮やかである。高校時代の面影を充分に見出すことができる。かるく口をあけて、少女のように律子はほほえんでいた。  柚木はあおむけになった。小さく揺れながら水にうかんだ。午後三時の陽光が顔に突き刺さってくる。いくつかの白雲のあいだを飛行機がいそいで通ってゆく。眠くはないが、柚木は頭がぼんやりしてきた。広大な水面に、律子と二人きりでいるような気がする。わずらわしい現実社会から逃れ出て、安息の地へたどり着いた思いである。  きのう柚木は名古屋へ出張した。きょうは土曜日である。律子と連絡をとり、正午に浜松で待ちあわせた。律子の夫はヨーロッパへ出張している。なんの支障もなく律子は朝、東京を発《た》ってきた。  かんたんな食事のあと、湖畔にあるマンションの五階の部屋へやってきた。月に二、三度ずつ二人はその隠《かく》れ家《が》を利用してきた。 「高校のころ、学校のプールでときどき泳いだわ。水泳部の人たちにいやがられながら」 「おれもそうだった。サッカーの練習のあと、シャワー代りにプールへとびこんだ。端のコースで遠慮しながら泳いだものだった」 「柚木さんが泳いでいるのを、私、何度も見たわ。カッコ良かった。水泳部の人よりうまいって噂《うわさ》してたのよ」 「きみの水着姿がまぶしかった。きみたち女の子は、一時間ぐらい平気で水につかっていたな。よく寒くないもんだと思った。皮下脂肪が男とはちがうんだろうな」  高校のプールの情景が柚木は目にうかんだ。律子は愛らしいお尻をしていた。赤い水着がくっきりとそこへ貼りついていた。  また波が押し寄せてきた。クルーザーが近くを通ったのだ。柚木は顔に波をかぶった。舌打ちして平泳ぎの姿勢にもどった。  そろそろいこうか。うながして柚木は砂浜と平行の向きに泳ぎはじめた。あらためて赤旗のほうへ泳ぐと、息が保《も》たなくなりそうだ。かといって陸へもどるのも沽券《こけん》にかかわる。若いころは二千メートルや三千メートル、苦もなく泳ぎ切ったものだ。  ならんで律子は泳いだ。柚木よりもせわしく両腕で水を掻きわけた。三十メートルもゆくと、悲鳴をあげた。もう陸へもどろうという。返事を待たずに砂浜のほうへ向きを変えた。柚木もあとを追うことにした。水中で青白く屈伸する律子の脚をながめながら、ゆっくりと泳ぎつづけた。  目ざしてみると、砂浜は遠かった。いくら泳いでも、陸の風景は近づいてこなかった。寄せる波より返す波のほうが強いような気がする。体が空《むな》しく波に乗りあげたり下ったりした。すこし不安になる。律子の判断にしたがって良かったと思う。息が切れてきた。律子も懸命に泳いでいるらしい。  とつぜん柚木は右足が硬直した。爪さきをのばしたままの形で、ふくらはぎの筋肉が石になった。激痛がおそってくる。柚木はエビのように体を折り、右足の親指をつかんでひっぱった。水中で足が痙攣《けいれん》したのははじめてである。なかなかなおらない。全身が水に没した。痛みがつづく。苦しくなって柚木はもがいた。死ぬのかと思った。  鞠《まり》のように柚木は水中で回転していた。左手が湖底にふれた。浅い場所にきていたのだ。左足で湖底を蹴って水面へ顔を出した。空気がどっと肺へ流れこんでくる。のどを鳴らして柚木はあえいだ。呪縛《じゆばく》が解けたように硬直はおさまっている。立ってみると、水は胸までしかなかった。全身が冷えきっている。  律子はなにも知らずに泳いでいる。十メートル以上、二人の距離は空《あ》いていた。柚木は心臓の鼓動が不規則になっていた。あわただしく動いて、二、三秒停止する。またあわただしく動きはじめる。すこし息が苦しい。立ったまま休息せざるを得なかった。  律子が泳ぎをやめた。立ってふりかえった。笑っている。浅い区域で懸命に泳いでいたのが、おかしかったらしい。砂浜へ律子は歩いていった。水着の尻の下に、左右一本ずつ深い横じわが刻まれている。  まもなく不整脈がおさまった。息をついて柚木は砂浜にのぼった。命拾いしたと思う。深いところで痙攣がおこっていたら、おぼれていたにちがいない。  買物袋から白いコートのようなものを出して律子は着ていた。フードがついている。日焼け防止の服のようだ。同じ恰好《かつこう》の女がほかにも二、三いた。中年の女ばかりだった。 「びっくりしたよ。足がつってしまった」  柚木は律子のそばに腰をおろした。砂のうえに大きなタオルが敷いてある。 「痙攣したの。冷えすぎたんだわ」  律子は柚木の右脚をかるく揉《も》んだ。  すぐにやめた。日焼け止めのオイルの小瓶を出して柚木の背中に塗りはじめる。 「いいよ。人まえでは照れる」 「平気よ。あっちでもこっちでもオイルの塗りっこしてるじゃないの」  砂に伏せてオイルを塗りあっている恋人たちが何組か目についた。若い男女ばかりだ。日焼け防止服の女はいない。苦笑して柚木は律子のするがままになった。 「そんなもの着たら暑いだろう。せっかく海辺にきた意味がなくならないか」 「でも、直射日光でしみができたら困るもの。しみは恐いのよ。お婆さんマーク。烙印《らくいん》をおされたようなものなんだから」  柚木は律子から目をそらした。妙な服をきているほうが年寄りじみてみえる。自然の陽光を恐れるような気持のもちかたが、むしろ老化を進行させるのではないのか。  買物袋から律子はオレンジとナイフをとりだした。輪切りにしてさしだした。柚木はそれをかじった。気分がおちついてくる。 「若い人たちって泳がないのね。浅いところであそんでいる。泳ぐのはダイエットが必要な層だけなのかしら」 「向上心がないんだよ。おれたちは泳ぐときは一メートルでも多く泳げるようになりたかった。なんでもいい、能力を伸ばしたかった。いまはちがう。連中はただあそびたいだけさ」  五、六年まえ、子供たちをつれて天の橋立へ海水浴へいったことがある。沖まで泳いで柚木は得意だった。浜へもどると、ダサイといって子供たちに軽蔑された。子供たちはサーフボードであそんでいた。  三人づれの若い女が、柚木らのまえを走って通りすぎた。セパレーツの水着やハイレグの水着をきている。まっくろに日焼けした肌をオイルで光らせていた。ひきしまった腰、まっすぐな脚。フードをかぶった律子は寒さでふるえているようにみえた。 「湖の家」へもどろう。柚木は提案して立ちあがった。あそこには屋根がある。みじめな服を律子は着なくとも済むだろう。  荷物をまとめて二人は屋根の下へもどった。律子は服をぬいだ。胸もとのふくらみが白くなまめかしい。水着のおかげで、尻の下以外にはしわがみえない。手首には金の上品な時計がかがやいている。  相変らずそこは混んでいた。子供たちが焼きイカやとうもろこしをかじり、父母がおでんを突っついている。ビールを飲む者もいる。若い男女のグループが奇声をあげたり、じゃれあったりする。孫のお守《も》りらしい老人が柚木らのそばで昼寝していた。  売店で柚木は缶ビールを二本買ってきた。律子に一本手わたした。ビールを飲んでしまうと、もう泳げなくなる。それでも良かった。痙攣が恐くて水に入る気になれない。  キャビアの缶詰を律子があけた。パンにのせてたべた。若い男女の二人づれが入ってきて、柚木のとなりに脚をのばした。日に焼けた、つるつるした脚だった。柚木の毛脛《けずね》にくらべて、いかにも新品である。男のつるつるした腕をいとしそうに女がさすっていた。 「やっぱりクルーザーの運転を習おうかなあ。三日もあればマスターできるんだから」  沖へ律子は目をやっていた。  一時間ばかりで柚木と律子は「湖の家」を出た。まだ陽は高い。疲れた様子もなく人々は水や砂や陽光とたわむれている。駐車場へ向かって砂浜を歩くあいだ、柚木は華やかな世界から脱落する気分だった。敗北感を噛みしめていた。若い男女のやりかたで恋愛を謳歌《おうか》しようとしたのが失敗だった。中年の不倫の恋は太陽や海にはなじまない。もっと暗く、ひそやかで、金のかかる営みでなければならない。若い時代とは異った方策によらないと、若い時代はとりもどせないもののようだ。  砂浜のすみのほうに夫婦らしい中年の男女の姿があった。男が腹這いになって寝ている。女がのしかかって、男の腰を指圧していた。男は顔をしかめている。汚いことば使いで女に注文をつけた。 「仲がいいのね、あの夫婦は」  律子は笑って柚木に腕をからませてきた。ストローハットが柚木の頬にふれた。 「腰が痛いらしいな。馴れないことをすると報《むく》いがくるんだ」  レンタカーのBMWの運転席に柚木は腰をおろした。車内は猛暑だった。  車を発進させた。柚木はやっと安息の場へたどりついたように感じた。  隠れ家のマンションで二人は一眠りした。目がさめると、午後七時だった。日が暮れかかっている。柚木は頭のなかが澄みわたり、手足にみずみずしい力があふれていた。  きょうの疲れだけではない。蓄積された疲労が一気に消えたようだ。最近にかぎったことではないが、多忙な日がつづいた。担当事業部の開発した新製品がまだ完全に軌道に乗っていない。各支店を駈けまわって担当者を督励したり、ユーザーをたずねて情報をあつめたり、息をつくひまもない状態である。毎晩、おそくまで酒席のつきあいもあった。  睡眠だけは、あまり不足しないよう心がけてきた。それでも眠りに飢えていたらしい。疲れをしぼりだすようにぐっすり眠った。陽気になっている。水泳場での屈折した気分は疲労のせいでもあったのだろう。  律子はキッチンで働いていた。明るい紫のシャツと白いショーツを身につけている。脚は細いとはいえないが、脚の線は優雅に流れている。律子は裸足だった。  ベッドをおりて柚木はキッチンへ入った。食卓に料理がならんでいた。海産物のオードブル、ステーキ、サラダである。ワインが冷やしてあった。律子はきょう早目に浜松へ着いて買物を済ませていた。  律子はカセットデッキのスイッチをいれた。モーツァルトのディベルトメントが流れた。ニ長調のおなじみの曲だ。テーブルを二人ではさんでワインを飲んだ。昨夜も柚木は深酒をした。きょうは控えたいのが本音《ほんね》である。だが、ブルゴーニュ産の赤のグランクリュを見てはあとにひけない。  ゆたかな夕食だった。思い出話や他人の噂をしながら、くつろいですごした。厚いステーキを柚木はたいらげた。律子のぶんにまで手をのばした。カロリー制限の必要なのはわかっている。酔うと自制心がきかない。 「思いきって翔《と》んでみるものよね。柚木さんとこんなふうにして食事できるなんて、一年まえには思ってもみなかったわ」  律子はうっとりした顔になった。  中年の顔のなかから、高校時代の律子の顔が浮かびでた。しだいにそれは鮮明になった。肌にミルクのような光沢がある。目が澄んで口もとがひきしまっている。 「むかしね、柚木さんの気持を知りながら、私、もう一つ積極的になれなかったでしょ。コンプレックスがあったのよ」 「コンプレックス。信じられないな。高嶺《たかね》の花だったきみがどうして」 「柚木さん、頭が良かったもの。いろんなことを知っていたし。この人とおつきあいしたら、私、ずいぶん背のびしなくてはいけないと思った。自分のバカがばれそうで」 「そんなこと思っていたのか。ピアノを弾《ひ》くきみは貴族の娘みたいだったのに。遠い世界の人としかみえなかった」 「そんなふうに思われていること、うすうす感じていたみたい。だから、かえって恐かったのね。バカがばれて幻滅されたらいやだと思った。だって私、音楽以外なにも知らなかったんだもの。秀才でもないし」 「学校の成績は良かったんだろう。しかし、おどろいたな。そんなことなら、もっと積極的に出るべきだった」 「でも、あれで正解だったのよ。私たち、もし結婚していたら、こうして会うこともなかったんだし。幻滅されて私、追い出されていたかもしれない。これでよかったのよ」  立っていって律子は何枚目かのCDを入れ換えた。ショパンのノクターンだった。  まえかがみになって律子はキスをもとめてきた。椅子にかけたまま柚木は応じた。  柚木は律子の腰やふとももをさぐった。不安が胸をかすめた。飲みすぎたかもしれない。酔いをさます必要がある。 「このまま寝るのは惜しいよ。湖畔へ出てみよう。タクシーを呼ぼう」  柚木は提案した。うなずいて律子は柚木から離れた。  タクシーで湖畔を走った。湖はまっ黒なひろがりにすぎなかった。船のあかりがいくつか湖上に浮かんでいる。湖畔の道路に街灯はまばらで、あかりも薄弱だった。夜の湖は、観光に適していないようだ。  しばらく走って、昼間きた水泳場へ着いた。浜は闇に塗りこめられ、しずまり返っている。砂のうえを歩いてみることにした。一時間後に迎えにきてもらうことにして、二人はタクシーをおりた。  駐車場には一台の車もなかった。そこを横切って浜へ出た。月あかりで、不自由なく歩くことができた。波の音がきこえる。道路をときおり車が通るだけで、人影は一つも見当らない。淡い灯を一つずつともして、五、六軒の民家が道路の向うに固まっている。  手をつないで二人は歩いた。「たゆたう小舟」を律子は口ずさんだ。高校のコーラス部がよく練習していた歌だった。律子は柚木と手をつないだまま、やや前かがみになり、体をスイングさせて歩いた。  砂浜の向う端にボートが積みあげられてあった。その向うは岩場である。両者のあいだへ二人は入った。洞窟のなかのように周囲が暗くなる。空だけが仄《ほの》かに明るかった。  柚木は律子を抱きよせた。まっすぐ律子は柚木を見あげる。柚木は息をのんだ。月あかりのもとに高校時代の律子がいた。澄んだ目で、おどろいたように柚木をみつめる。おびえているようにもみえる。一点の瑕《きず》もなく張りつめた顔だった。  律子の髪を柚木はなでてみる。かわいた、こまやかな感触だった。柚木は抱きしめた。律子の体にはゴムのような弾力があった。くちづけする。舌をからませあいながら、律子の背中やふとももをさぐった。どの部分からも、はずむような応答があった。おれはいま夢のなかにいる。柚木は思った。うまく入りこめた。夢は向うからは訪れてこない。工夫して描きだすものなのだ。可能かどうかの不安はなかった。柚木の体は猛《たけ》っていた。  二人は砂のうえに腰をおろした。律子のシャツを柚木はぬがせにかかる。 「こういう魂胆だったのね。やっぱり柚木さん、頭がいい」  律子はもどかしげにシャツをぬいだ。  手をとめなかった。すぐに全裸になった。シャツを敷いて横になった。 「ひんやりとしていい気持。昼間の砂は熱かったけど、夜は涼しいわ」  柚木も服をぬぎすてた。のしかかって、くちびるをあわせた。  あらためて律子の体をさぐった。律子の尻やふとももの裏側が砂でざらざらしている。はずむような感触が持続している。火のように熱い部分を柚木はさぐりあてた。しばらく指をつかった。律子は声をあげる。彼女も手を動かしている。猛ったものをたしかめて、安心したようだった。  柚木は律子の熱い部分へくちづけにいこうとした。律子は抗《あらが》った。このまま柚木を受けいれたい、という。柚木の体が若々しくある瞬間を逃したくないのだ。  柚木は入っていった。深々と入りこんで、しばらく静止していた。律子の尻からふとももの裏をさぐった。砂の付着した肌の感触を味わううち、一つの歌がよみがえった。   夏の陽を浴びて   潮風に揺れる 花々よ   草陰に結び   熟《う》れてゆく 赤い実よ  石原裕次郎の主演した映画「狂った果実」の主題歌だった。たしか柚木が大学へ入ったころの映画である。裕次郎と北原三枝が海辺で抱きあう場面があった。湘南の海、ヨット、海辺の酒場。バーボン。田舎育ちの柚木には、遠い外国の物語に思われた。  柚木の首にまわした律子の腕に力がこもった。両脚で彼女は柚木の体をはさみつける。 「最近の星は塵《ちり》みたいね。むかしの星は大きかったのに」  律子のほうから動きだした。柚木は動きをあわせた。   2  小林あゆみの店「いるか」に、柚木は週一度のわりで顔を出していた。  四月ごろまで店は繁昌していた。安いカラオケ酒場が北新地にあればサラリーマンはあつまってくる。あゆみの見込みどおりだった。毎晩、二時すぎまで歌声が絶えなかった。  気をよくしてあゆみはソアラを買った。二年のローンだという。だが、それと時期をあわせたように客足が落ちてきた。開店直後の義理や物珍らしさで足を運んでいた客が、一人二人と落ちこぼれていった。白いソアラは集金や金策に使われるのが主になった。  場所も良くなかった。北新地といっても「いるか」は中心部から離れたところにある。周辺のネオンは地味で、人通りもすくない。中心部で気勢をあげた男たちは、「いるか」へたどりつくまでによそのカラオケ酒場へ吸いこまれてしまう。ツケがたまって近寄らなくなった者も多いらしい。  あゆみは最近二十三になったばかりである。酒場づとめの経験も三年たらずだった。店をやってゆくには幼なすぎる。年輩の客の相手ができない。酔うと、客といっしょになってたのしんでしまう。べろべろに酔って、マイクを一人じめしてうたったりする。  従業員にも舐《な》められているようだ。小声であゆみの悪口を客にいう女の子がいた。あゆみが用事で外出しているとき、バーテンダーが客とトランプ賭博をはじめたのを、柚木は見たことがあった。  あゆみは客の名前をおぼえるのが苦手だった。はじめての客を、常連の客ととりちがえてしまう。何度か顔をみせた客に、そのつど名前を訊いていやな顔をされていた。歌の上手な客よりも、下手な客のほうが印象に残ると本人がいっている。カラオケ酒場のママとしては、致命的な欠陥だった。 「そんなトロいことでどないするねん。客の勤務先、地位、年収、家族状況、趣味。ぜんぶ把握《はあく》しておかんことには、店なんかやっていけるもんやないで。なんべんいうてきかせたらわかるんや」  スポンサーの洋酒店主が店の奥であゆみに訓戒をたれるのを柚木はきいたことがある。  小さいが、するどい声だった。泣きそうな顔であゆみはうなずいていた。  浜名湖畔の隠れ家で南部律子と会った数日後、柚木は「いるか」へ顔を出した。アスレチッククラブで汗をかいたあとである。ビールを一杯やって帰宅するつもりだった。  午後八時半だった。そろそろかきいれどきなのに、先客は一人もいなかった。二人いた手伝いの女の子が一人になっている。それも以前いた女の子とは別人だった。人気の出る顔立ちの子ではない。  カウンター席の端のほうに柚木は腰をおろした。あゆみがとなりにすわった。 「どうした。女の子を替えたのか」  訊かれてあゆみはうなずいた。人件費の節約だという。 「まずいな。バーは女の子しだいなんだぞ。まえの女の子は可愛かったのに。自分の給料を削ってでも引き止めるべきだった」 「けど、本人がやめるいうんやもん。ヤル気のない者をおいといても仕様ないやんか」  あゆみは口をとがらせた。  経営についての柚木のアドバイスをすなおにきいたためしがない。柚木はしょせん客、自分は専門家だと思っているようだ。 「最近は入りがわるいようだな。世の中、景気はいいはずなのに」 「開店して半年目ぐらいが一番しんどいの。これを乗り切ったら軌道に乗るらしいわ。乗り切れるかどうかが問題やけど」  仕入れ、家賃、人件費など出費がかさんで困る。あゆみは愚痴をいった。  小さな店だが、リースだけに家賃は高い。月々四十五万だという。人件費は自分のぶんをふくめて、先月まで百六十万かかった。節約したくなるのも無理はなかった。 「でも、仕入れの支払いは融通がきくんだろう。スポンサーが酒屋の社長なんだから」 「そうでもないの。わりときびしいのよ。公私混同はしない、とかいうてるわ。先月の支払いも、ほうぼうでカキあつめて、大変やった。ああいう男って、女とあそんでも絶対損しないんやから」  ねえ、デートしよう。私、柚木さんのそばにいると、一番気が休まるわ。  ささやいてあゆみは体を寄せてきた。土曜の昼、待ちあわせることにした。前回あゆみとホテルへいってから、二週間近くたっている。あゆみの姿が新鮮に映ってきた。二年近くつきあった女とは思えない。  つぎの客があらわれないので、柚木は店を出にくくなった。ウイスキーの水割りを飲みはじめた。何分かたって、やっと人が入ってきた。客ではなく、洋酒店主の関口だった。 「今晩は。いつもお世話になっています」  関口は柚木に挨拶して奥に腰をおろした。  柚木のことをどう思っているのか。顔をあわせると、いつも挨拶にくる。  あゆみは関口のそばへいった。新しい女の子が柚木のまえへきた。入店五日目だという。器量もよくないし、会話もつまらない女の子だ。柚木は退散する気になった。  二人づれの客が入ってきた。どちらも三十代のサラリーマンのようだった。女の子が呼んだ客らしい。親しげにことばをかわした。彼らは柚木のとなりに腰をおろした。 「あのおっさん、このまえもきとったな。なんやあれは。ママの旦那か」  しばらくして客の一人が声をひそめて女の子にきいた。 「そうなんやて。お酒屋さんらしいわ。ごっついお金持やいう話よ」  小声で女の子はこたえた。  入店五日目の女の子が、ママの後援者を知っている。しかも、客にそれを教えている。やめた女の子たちも同様だったのだろう。客の減った最大の理由はたぶんこれだった。  柚木は席を立った。支払いをして外へ出た。あゆみが送りにくる。いま見聞した事柄を柚木はあゆみに教えてやった。 「あの子、そんなこというてるの。よし、きょうかぎりクビや」  あゆみは山猫のような顔になった。美しい山猫である。一瞬、柚木は見惚《みと》れた。  クビにするというのを柚木は制止した。それよりも、噂を立てないようにするのが先決だといいきかせた。関口はそんなにたびたび店へくるのか。ついでに訊いてみた。めったにこない。さっきの客とはたまたま二度顔をあわせただけなのに。口をとがらせてあゆみは説明した。噂を立てられていたのが、かなりの打撃だったようだ。 「柚木さんがスポンサーやったらなあ。あんなおじいちゃん、もうカナンわ」 「おれにはスポンサーは無理だよ。ほかの金持をさがしたらどうだ。土地成金とかお医者とか、金持はいろいろいるはずだぞ」 「うちにはそんなお客さん来ェへんもん。柚木さん、がんばって大金持になって」 「せっかく乗り出した舟なんだ。くじけずにがんばりなさい。それしかない」 「ねえ、会社の人つれてきてよ。××さんも××さんも最近は全然よ。柚木さんの会社、私すごく当てにしてたのに」 「わかったよ。こんどつれてくるから」  かえろうとする柚木の腕をあゆみはつかんだ。のびあがってキスしにくる。 「おじいちゃんがきたからいうて、急に冷たくせんでもいいやないの。妬《や》いてるの」 「バカ。そんなんじゃないよ。早くかえって休みたいだけだ」  あゆみは離れなかった。周囲を見まわしてから、柚木はキスに応じた。やってきた客に見られたらどうする気かと思う。あゆみは腹をこすりつけてきた。二人のふとももが甘くこすれあった。  ホテルに部屋をとって待つぞ。以前の柚木なら口走ったところである。いまはそうはいかない。午前二時すぎまであゆみは店をあけていることが多いからだ。  柚木はタクシーに乗った。ほっと息をついた。キスの余韻が残っている。半面、口のなかに苦々《にがにが》しい思いがあふれていた。たしかに柚木は嫉妬していた。関口とあゆみが仲よく話しているのを見て、いたたまれなくなったのだ。考えてみると、関口があゆみの後援者になってから、以前よりも柚木はあゆみの体に執着するようになっていた。くだらない女だと思いながら、週に一度は顔を見ずにいられなかった。しかも、それをあゆみに見ぬかれていた。関口はどうなのだろう。やはり見ぬいているのだろうか。柚木のことを二人で笑いものにしているのかもしれない。考えると、柚木は口の苦みが倍になった。  街の灯に柚木は目をやった。律子のことを想った。きょうも律子は電話をくれた。今夜、後援している室内楽オーケストラの演奏会へいくのだといっていた。柚木さんといっしょだったらなあ。子供みたいに愚痴《ぐち》っていた。律子の笑顔が脳裡にうかんだ。ゆっくりと胸のうちが澄んでくる。高校時代そのままの恋心がこみあげてきた。律子がいるのに、あゆみのような小娘といつまでも手を切れずにいる。自分で考えていたよりも、柚木はずっとだらしのない男のようだった。 「いいかげんにしろよな。いいかげんに」  柚木はつぶやいた。  運転手がふりむいて、なにをいったのかと訊いた。柚木は手を横にふってみせた。  金曜日の夜、柚木はめずらしく夕刻に帰宅した。妻や子供たちといっしょに食事をとった。教則本を見ながら、たどたどしくオーボエを吹き鳴らした。終って、居間に横たわってテレビを見た。心身ともに平穏にひたった。すると、明日のあゆみとの待ちあわせの約束が億劫《おつくう》でたまらなくなった。休日の安息のほうがずっと貴重に思われた。  妻が入浴している隙に、柚木は「いるか」へ電話をいれた。約束のキャンセルをあゆみに告げた。どうしても外《はず》せない用事が家にできたといいわけした。 「あ、そうですか。はい、わかりました」  気取った、あっさりした返事だった。  それだけで電話を切った。あしらわれたようで、柚木は苦笑いした。わずかながら会心の思いもあった。  八月に入った。ひどく多忙だったので、柚木はしばらく、アスレチッククラブへ顔を出さずにいた。汗を流したあと、あゆみの店で休みたくなるのを警戒する意味もあった。接待などでたびたび北新地へは出ている。あゆみの店へは寄らないようにした。一人相撲で意地を張っていた。妬いている、といわれたことにこだわりがあった。  しびれを切らせたように、あゆみから会社へ電話が入った。話したいことがある。すぐ近くへきているから、お茶をつきあってほしいという。ちょうどティータイムだった。近くのビルの地下にある喫茶店を柚木は指定した。あゆみのほうから連絡してきたことに、子供っぽい満足感があった。  すこし間《ま》をもたせて、柚木は喫茶店へ入った。あゆみと向かいあって腰をおろした。あゆみは胸を大きくVの字にひらいたノースリーブの服をきている。日焼けした肩や腕、胸もとがこれ見よがしにむきだしである。柚木はまぶしげな目になったようだ。 「焼けたでしょ。ゴルフ焼けやねん」  あゆみは自分の腕を見おろした。文字盤に漫画の入った腕時計をしている。  店の様子を柚木は訊いた。まあまあの成績だという。その話には乗り気でないようだ。 「私、お盆に一週間ほど店しめて、パリへいってこよう思うねん」  あゆみは切り出した。以前つとめていた店の女の子と二人で出かける予定だという。  団体旅行は拘束が多くてつまらない。個人でいきたい。ついてはどこか親切な旅行代理店を紹介してほしい。正面から申し込んでも親身になって世話をしてくれないだろう。柚木に顔をきかせてもらうつもりであゆみはやってきたのだ。 「それは、会社に出入りしている代理店はあるが——。でも、いいのか。呑気《のんき》に旅行なんかしている場合なのか」 「お盆ってどうせ夏枯れやもん。きょうびパリぐらい知らんことには、お客さんと話もできないから。この機会にいってくるわ」 「パリははじめてなんだろう。団体でいけばよいのに。費用もそのほうが安い」 「団体はハワイへいって懲《こ》りたの。食事も好きなものたべられへんし、時間の拘束は多いし。海外旅行は自由やないとアカンわ」 「ことばは大丈夫なのか。かたことの英語ではどうにもならないぞ」 「困ったらガイドをやとうわ。日航ホテルのそばに留学生くずれみたいなのがたくさんいるらしいの。大丈夫。私かてもう西も東もわからん女の子とちがうんやから」  あゆみは小鼻をふくらませた。止めさせなければならない理由は柚木にはなかった。  洋酒店主の関口になぜたのまないのか、柚木は訊いてみた。あゆみは顔をしかめた。関口は反対するにきまっている。出発直前までなにも話さずにおくつもりだという。  代理店の紹介を柚木はひきうけた。それで話は終った。二人は立って喫茶店を出た。裏通りに白いソアラが停めてある。 「今晩店へきて。久しぶりやないの」 「そうだな。早く店をしめるならいってもいい。ホテルを予約していくよ」  柚木はいわずにいられなかった。あゆみの肌が陽にかがやいている。 「あかんねん。いま生理。きのうはじまったばっかりやねん」  あゆみは車に乗った。さそったのを後悔して、柚木は会社へもどった。  三日後の金曜日。午後からはじまった会議が夜の十時までつづいた。問題になっている新製品についての、工場との連絡会議だった。約二十名が出席した。  柚木の担当する事業部の新製品の開発がいま一歩はかどらない。営業は製造に、製造は営業に成績不振の責任をおしつけあって会議は紛糾《ふんきゆう》した。開発が壁にぶつかると、関係者は逃げ腰になり、問題の解決よりも保身に知恵をしぼるようになる。柚木は出席者を叱りつけて、一つ一つの問題点を基本から再検討していった。すべて片づいたときは、出席者はあぶらの浮いた、むくんだ顔になっていた。  一同をつれて柚木は会社の近くのラウンジバーへ入った。ビールで慰労会をやった。終って帰途についた。風呂へ入って眠りたい。それだけが頭にあった。  家へ着くと、午前一時すぎだった。大学三年生の長女も、高校二年生の長男ももう眠っていた。妻の菊枝が居間でブランデーを飲んでいる。迎えには出てこない。 「まだ起きていたのか。寝ていればよかったのに」  服をぬぎながら柚木は声をかけた。 「寝たくても寝られないわ。変な電話がかかってきて。何度もよ。どういうことなの」  電話機を菊枝はあごで指した。目がすわっている。座敷机に肘《ひじ》をついて体をささえていた。どういうことなのよう。やや声を高くして、菊枝はくりかえした。  午後十一時ごろ、女の声で電話が入った。菊枝が名前を訊くと、ご主人の仕事関係の者ですと相手は答えた。柚木に急用だという。まだ帰宅していないときいて、相手は疑わしそうな声を出した。以後、三十分おきにベルが鳴った。午前一時にもかかってきた。非常識を菊枝は叱りつけたところだった。 「仕事関係の者。なんだそれは——」  柚木は顔をしかめ、舌打ちした。  そんなバカな返事をするのはあゆみにきまっている。どうせ旅行代理店からまだ連絡がないという程度の用件だろう。泥酔して、分別をなくしているのだ。 「もう私うんざり。あなたに女がいるのはわかっていたわ。みっともないところを子供に見せられないと思って我慢してきたのよ。もうだめ。これ以上耐えられない」 「なにをいうんだ。疲れてかえったのに、つまらん話をするな」 「浮気するにしても、もっと相手をえらんだらどう。なによあの女。教養のかけらもない話しかた。こっちが情なくなるわ」 「どこかのバーの女が酔っぱらって電話してきたんだろう。考えすぎだよ。相手にしなくていい。電話機を布団でくるんでおけ」  柚木は浴室へいった。泥沼のなかへひきずりこまれた気分だった。  湯につかった。律子のことを考えようとしてみる。ふしぎにイメージが湧かない。少年のような恋心もこみあげてこない。家庭にいると、人格が変ってしまうようだ。  柚木は居間へもどった。電話機はそのままだった。ため息をついて、柚木はビールを飲みはじめた。明るみに出たのがあゆみのほうだったことで、わずかに救われていた。より大切なほうはまだ闇に隠れている。 「重役になったとたんに浮かれるんだから。あなたって軽い人なのよね。課長になったときも、よろこんで女をつくって」 「もう寝ろ。そんな話はききたくもない」 「電話がかかってきたら寝るわ。あなたがどんな顔でお話しするか、見せてもらいます。仕事関係の女とね」  耐える以外、柚木には道がなかった。夕刊に目を通しながら飲んだ。  電話のベルが鳴った。柚木は受話器をとった。あゆみの声がきこえた。何度も呼びだしたことの詫びをいった。  いま店にいるのか。柚木は訊いた。菊枝にきかせるための質問だった。 「店は休みにしたの。いま家にいる」 「休みにした。どうして」 「サトルのやつが、サトルのやつが逃げよってん。店のお酒ぜんぶ売って。集金したお金ももって——」 「なんだって。サトルが逃げた」  サトルはあゆみの店のバーテンダーである。三十歳前後のギャンブル好きの男だ。  きょう七時にあゆみは店へ入った。一足さきに出勤した手伝いの女の子が茫然としていた。仕入れておいた洋酒が、客のボトルをふくめてぜんぶ消えていた。今月ぶんの仕入れをすませた直後である。調べてわかったことだが、今月サトルは高級な酒を大量に仕入れていた。叩き売っても五、六十万にはなる。  あゆみは足がふるえた。この種の事故の話を他人からきいたおぼえがある。同じ北新地にある、ふだん取引のない酒店へつぎつぎに問いあわせてみた。三店から二十万円ずつ、サトルはきょう仕入れをしていた。この二、三日、内緒でツケを回収してもいたらしい。被害はどれだけになるか見当もつかない。あゆみは休業せざるを得なくなった。 「関口のおやじに相談すればいいじゃないか。酒を入れてくれるだろう」 「あかんねん。店をしめるっていわれてしもた。先月、先々月と赤字やったし。仕入れのお金もたまってたから」  あゆみの経営能力に関口は愛想をつかせたらしい。あゆみの体に倦《あ》きもしたのだろう。  リース会社と契約を解除する。保証金五百万円のうち、四百万円程度を関口は回収できるはずである。被害をうけた金と仕入れ代金の未払いぶんは、あゆみが工面して清算しなければならない。サトルは知人の紹介であゆみがやとった男だった。すべての責任はあゆみがかぶることになる。 「関口のおやじが助けてくれるだろう。なんといってもきみの旦那なんだからな」 「私、どないしよう。店がなくなってしもた。柚木さん、たすけて。私、柚木さんしか頼れる人がないの」 「事情はわかった。日をあらためて相談しよう。きょうはおそいから、切るぞ」  柚木は受話機をおいた。あゆみを気の毒に思うよりも、事務的な会話に終始したことにほっとしていた。これなら菊枝の追及をかわせるかもしれない。 「おききのとおりさ。バーの女が身の上相談をしてきただけだよ」  菊枝に柚木は話しかけた。心もち菊枝の表情がやわらかになっている。 「ロマンチックなことですわね。真夜中の身の上相談だなんて」  ゆっくりと菊枝は立ちあがった。よろめきながら寝室へ入っていった。   3  五日たってもあゆみから連絡はなかった。マンションへ電話しても応答がない。  金策に田舎へかえったのだろうか。債権者から逃れて、身を隠したのかもしれない。清算の当てはあるのだろうか。  何度も苦い思いをさせられた女だった。だが、奈落の底へ彼女が突き落されたいまは、哀れと思わぬわけにいかなかった。なんといっても二年あまり体の関係がつづいたのだ。あゆみを抱いたときの感触が、わすれがたく柚木の記憶に残っている。あゆみの肌の細胞の一部が溶けて、柚木の皮膚の細胞の隙間へ流れこんだ感じがあった。  できるだけのことはしてやりたい。そのための経済的な用意もひそかにととのえた。あゆみから電話があれば、明るい声でこたえてやるつもりだった。  柚木は夜、あゆみの店をたずねてみた。「いるか」とはちがう標識が出ていた。開店祝いの花束がおいてある。扉をあけると、見知らぬ女たちが胡散《うさん》くさそうに柚木を見た。きょう開店したばかりだという。おそろしく手ぎわよくあゆみの生甲斐は消え去っていた。  あゆみよりもさきに律子から電話がきた。律子の声がピアノの音にきこえた。ことばの一つ一つが、ピアノの一音一音のようになつかしく柚木の胸にひびいた。それだけあゆみの事件をもてあましていたのだ。 「クルーザーの免許をとったの。三級だけど。最近、横浜の練習場に日参してたのよ」  実行力をまた律子は発揮したのだ。  こんどの土曜日、浜松でお会いしましょう。ご都合はいかがかしら。律子は気を逸《はや》らせていた。息づかいが伝わってくる。 「土曜日ですか。ちょっと待って」  柚木は日程をしらべるふりで間《ま》をとった。  菊枝が毎日酒にひたっている。以前から柚木の帰宅がおそい夜は飲んでいたらしいが、あゆみの電話になやまされて以後は、昼間から飲むようになった。朝、柚木の着る物を用意したり、夜食をつくったりしなくなった。ほとんど口をきかない。柚木がおそくかえると、酒くさい息を吐いて寝ている。子供たちは父母双方に冷たい目を向けはじめた。こんな時期に家をあけてよいものかどうか思案せざるを得なかったのだ。  逢わずにはいられなかった。律子のもとへ逃げだす、という気持である。 「わかりました。都合をつけます。でも、舟はあるの?」 「とりあえずレンタルで。なんだったら、買ってしまおうかしら。マリーナはメーカーが世話してくれるようだから」 「待ちなさい。衝動買いには高価すぎる買物だよ。年に幾度も乗るチャンスがあるわけではないんだから」  いそいで柚木は制止した。クルーザーは一千万円ぐらいするはずである。  前回と同様、土曜日の正午に浜松で落ちあうことにきめた。金曜の午後、柚木は名古屋へ出張する予定を立てた。電話のあと、柚木は現金に仕事がはかどった。  追いかけるように、銀行の支店長をしている友人から電話が入った。学生時代から親しくしている男である。 「このまえ、例の“いるか”へいったぞ。おまえの顔を立てようと思ってな」  歪《ゆが》んだ笑い声を支店長は立てた。  柚木はその男を二度あゆみの店へつれていった。あゆみとの仲は伏せておいた。 「いるか」は、つぶれたぞ。もう一週間以上になる。柚木は教えてやった。支店長はおどろいて声をあげた。 「つぶれた——。じゃ、この請求書は何なんだ。取立屋がよこしたのか」  七月の下旬に支店長は部下一人をつれてあゆみの店へいった。きょうその請求書が送られてきた。金額は十万を越えていた。高価なボトルをとったわけではない。あの店の格からいって、べらぼうな金額である。  計算ミスかと思って、請求書にある番号へ電話してみた。男が電話をうけて、それが相場だと横柄にこたえた。 「取立屋かもしれないな。申しわけないことになった。すぐに交渉してみるよ。支払いはしないでくれ」 「水商売に公定価格はないからな。払わざるを得ないだろう。しかし不愉快だ。いちおうおまえの耳にいれておこうと思ってな」  律子と話した倖《しあわ》せな気持が吹っとんだ。詫びをいって柚木は受話器をおいた。  部下の課長の一人を柚木は呼んだ。何度かいっしょに「いるか」へいったことのある男である。自分たちだけであの店を使ったことがあるか。柚木は訊いてみた。先月二度いったという。法外な請求書がきているらしい。遠慮して彼はいいそびれていたのだ。  請求書をもってこさせた。二十万近い金額だった。ほかに二人の課長が同じような目に遭っていた。課長たちから柚木は請求書をあずかる羽目になった。柚木自身は、あゆみの店にはいつも現金かカードで支払っている。あゆみの資金繰りを案じてしたことが、小さな儲《もう》け物《もの》になった。  取引先の男も七、八名「いるか」に紹介している。一人ずつ電話で様子を訊いた。四人から苦情をいわれた。まだ被害者は出てくるだろう。柚木は肩を落した。復讐された、という気持になる。中年男が若い女とつきあうのは、根本的に罪悪なのかもしれない。  取立屋へ柚木は電話をいれた。出資者である関口から「いるか」の債権を買いとった。未収金を完全に回収しないとこっちが赤字になるといういい草だった。値引を交渉したが、埒《らち》があかない。取立屋は凄みをきかせた。法廷で結着をつけよう。柚木は申し出た。相手はおとなしくなった。 「近いうち会社へうかがいます。ゆっくり話をさしてもらいますワ」  相手は電話を切った。よけいな仕事が増えた。柚木は苦り切った。  金曜日の朝十時ごろ取立屋の二人の男がやってきた。名古屋への出張をひかえて、目のまわる多忙な時刻だった。役員応接室で柚木は男たちに会った。その部屋はどんなに大声を出しても、社員たちの耳にはとどかない場所にある。気が立っていたので、柚木は最初から喧嘩腰で男たちに対した。  結果的にはそれが功を奏した。柚木が紹介した客への請求額を半額にすることで話がついた。念書を書いてサインさせる。とりあえず三十万円の小切手を書いてわたした。人相のわるい男に会社へこられても、上司に気をつかわずに済むポストにいることがしみじみありがたかった。取立屋にとっては、それが当《あ》て外《はず》れだったらしい。  予定どおり午後、柚木は名古屋へ発《た》った。夜おそくまで働いた。ホテルの部屋のテレビで見た天気予報は雨だった。運勢が下り坂なのかもしれない。予報が外れることを祈りながら眠りについた。  午前九時に柚木は目をさました。すぐに窓のカーテンをひらいて外を見た。黒っぽく濡れた鋪道《ほどう》に雨足がはじけている。かなり強く降っていた。木々の繁《しげ》みがうなだれ、ゆききする車のタイヤの音が伝わってくる。  柚木は舌打ちした。雨の場合はどうするかを律子と打合せていなかった。約束したとき、晴れた日の湖の風景しか二人の念頭になかった。正午の待ちあわせだから、律子はもう家を出ているだろう。電話で相談するわけにもいかない。  柚木はまたベッドにもどった。十時半にホテルを出れば、約束の時間に充分間にあう。もう一眠りするつもりだった。うまくいかなかった。仕事のことや家のことを考えてしまう。ビールを飲めば眠れるのだが、どうせきょうは深酒になる。朝から肝臓に負担をかけたくなかった。  オーボエの練習をする気になった。おととい律子から電話で、楽器を持参するよういわれている。合奏したいという。度胸をきめて楽器をもってきた。いそがしくて土曜日曜しかまともに練習できずにいる。それでも童謡ぐらいなら鳴らせるようになった。  楽器の用意をした。吹いてみると、身をちぢめたくなるほど大きな音が出た。ホテルから苦情をいわれるかもしれない。制止されるまでつづけることにした。律子と合奏するまでに、すこしでもうまくなっておきたい。きちんと練習しているかどうかで、律子に誠意を測られそうな気がする。  教則本をひらいて練習をはじめた。思いきり息を吸っては吹いた。たどたどしく曲が流れはじめた。注意力を音符に集中しなければならないから、すぐに夢中になる。懸命に息を吸い、指をつかった。音の汚れ、リズムの乱れなど気にしていられない。自分の手の楽器から曲りなりにも音が出るよろこびで、頭がしびれてくる。かんたんな練習曲をくりかえした。となり近所が空室だったらしい。ホテルからの苦情はなかった。  一時間近く練習した。全身が汗まみれだった。シャワーをあび、身支度をした。演奏のおかげで内臓が活気づき、生き生きした気分になっている。厄介事だらけの現実からようやく逃げだした、と柚木は思った。  正午に柚木は浜松へ着いた。雨は降りつづけている。改札口のまえに律子が立っていた。ビニールの重い買物袋を、柚木は彼女の手から奪いとった。 「あ、楽器もってきたのね。いいわ。湖がだめでも、これでいくらでもあそべる」  柚木の手から楽器ケースを律子が奪った。腕を組んで二人は歩きだした。  東京を発つとき雨は降っていなかったという。浜松で律子が買った傘に、いっしょに入った。駅の近くのレストランでかるく食事をとる。雨でタクシーがすくないので、レンタカーで湖畔の隠れ家へ向かった。  湖には靄《もや》がおりていた。ふだんのはんぶんも眺望がきかない。波は高かった。水際が遠くまで白波で縁どられている。モーターボートもヨットも目につかなかった。海苔《のり》舟《ぶね》が岸近くに十隻ばかり浮かんでいる。防水服をきた男が一人ずつ舟に立って、雨に打たれながら作業をつづけていた。 「雨もわるくないな。風情《ふぜい》がある。きみといっしょのせいかもしれないけど」  ハンドルを柚木は握っていた。道路と湖を交互に見た。 「雨のほうが私たちには似合うみたいね。お天気がいいと、浜はまぶしすぎる。若い人たちでいっぱいで」 「この雨ではクルーザーは無理だな。せっかく乗せてもらおうと思ったのに」 「夕方には雨はやむって天気予報がいってたわ。わるくても明日は晴れよ。午前中、思いきり乗ってから、ひきあげましょう」  柚木はあいまいにうなずいた。  きょう中に家へかえりたいのが本心である。二日つづけて家を空けると、菊枝がまた苛立《いらだ》つだろう。しかもきょうは土曜である。仕事だという口実が通用しにくい。  隠れ家へ着いた。部屋へおちついた。管理人にたのんでおいたので、掃除はできている。用意のふだん着に二人は着替えた。  缶ビールを一本ずつ飲んだ。あとはすることがなかった。この雨ではドライブに出ても仕方がない。絨毯《じゆうたん》に二人は寝そべった。 「いい休養になるじゃないの。柚木さん、一眠りなさいよ。私、本を読むから」  律子はキスしにきた。二人は抱きあった。そのままじっとしていた。  二人とも欲望をおさえた。いま発散してしまうと、あとの空白を埋めるのがむずかしくなる。暗黙のうちに合意ができていた。  柚木はうとうとした。三十分もたたないうちに目がさめた。肌さむかった。体がこわばっている。あくびをして起きあがった。  座布団にオーボエがおいてあった。ケースから出して一本につないである。テーブルのうえのグラスの水のなかに、すぐ使えるよう竹製のリードが浸《ひた》してあった。 「起きたの。ではレッスンしましょう。おとなりはお留守みたい。遠慮しないで、思いきり音が出せるわ」  ノートを律子はさしだした。  楽譜だった。鉛筆で音符が書いてある。最初の曲は「きらきら星よ」だった。「ゾウさん」「鳩ポッポ」「お馬の親子」「玩具のマーチ」などが列《なら》んでいる。柚木のために律子が書き写してくれた。最後は「サイレントナイト」になっている。クリスマスに合奏しようと約束した曲だった。 「幼稚園だな、これでは」 「当然よ。まだ習いはじめて半年なんだから。でも、伴奏つきで吹いてみると、案外うまくきこえるものよ」  跳ねるように律子はピアノのまえへ腰をおろした。かるく指馴らしをする。  柚木はオーボエにリードを装着した。手にもってリードを咥《くわ》えた。音を出してみる。聴衆のまえに立ったように緊張していた。他人に伴奏してもらうのは初めてである。  スコア・スタンドがないので、テーブルのうえに楽譜のノートをおいた。「きらきら星よ」を吹いてみた。二、三度つっかえたが、吹き終った。必要以上に力んだ。汗がにじみ出てくる。 「いけるいける。お上手よ。いそがしいのによく練習してくれましたね」  律子はピアノに向きなおった。  前奏を弾きはじめた。心臓がふるえるような、澄んだ音がひびきわたった。  柚木は吹きはじめた。全身の神経を張りつめて指をつかい、楽器に息を吹きこんだ。にごった音が流れはじめる。楽器のなかから黒煙がまっすぐ噴《ふ》きだしたような気がした。 「そう。いいですよ。そう」  律子が力づけてくれる。柚木は羞恥とためらいをわすれた。  ピアノの音の一つ一つが、金色の花びらのように舞いあがった。キラキラとそれらは舞って、黒煙の流れにまとわりついた。黒煙が澄んできた。花びらの舞いにかざり立てられて、まぎれもなくそれはオーボエの音に昇格した。キラキラする花びらは、部屋中にひろがった。オーボエの旋律にまとわりついたあと、それは宙に散ってゆくのだった。懸命に演奏をつづけながら、柚木は陶然となった。自分の体にも何十枚かの花びらが付着して、金色にかがやきはじめたのがわかる。 「はい。二番いきます。その調子で」  律子は間奏に入った。  息をととのえたあと、柚木は二番に入った。金色の花びらの乱舞のなかで、体が浮きあがるのを感じた。音楽がガスのかたまりのように体を浮きあがらせる。夢のなかのようだ。遠い星へのあこがれをこめて柚木は吹きつづけた。幼児になっていた。一度のミスもなく柚木は吹き終った。  ピアノ音が止った。金色の花びらは消えていった。律子が拍手してくれる。よろこびにあふれた笑顔である。柚木は茫然としていた。伴奏によってこれだけ音楽は変るものか。茫然としたまま汗をふいた。 「ありがとう。あまりに心地良くて、気が遠くなりそうだった。感激しました。生まれてはじめて音楽に参加できた」 「そう。参加したのよ。柚木さんは音楽の世界に足をふみいれたの。うたうのと聴くのはだれにでもできる。楽器をやることで、川を跳んで、こちらの世界へわたれるわけ」 「童貞をやぶったわけだな、おれは。セックスの初体験のときと感じが似ている」 「その発想は女にはないなあ。最初からそんなに恍惚《こうこつ》とできないもの」  笑って律子はオレンジジュースを飲んだ。  すぐにピアノへ向かいあった。「ゾウさん」の前奏が流れはじめる。緊張して柚木はオーボエをかまえた。  それから一時間あまり、金色の花びらの飛びかう世界に柚木はあった。酩酊《めいてい》し、揺れ、舞いあがった。バッハやモーツァルトの難曲を演奏している気持だった。技術の巧拙をぬきにして、柚木は律子と一つになった。つまり、こういう状態にあこがれていたのだと柚木は思った。高校時代の律子にたいするあこがれは、性のうえでも、感情のうえでも、こうして一体になりたい願望だったらしい。  くちびるが疲れて音が出にくくなった。休みましょう。律子が声をかけてきた。最後の「サイレントナイト」までは、ついに到達できなかった。  柚木は汗でシャツがずぶ濡れだった。シャワーをあびて着替えをした。雨は降りつづけている。夕刻に晴れるという期待は空しくなった。ビールを飲むことにした。 「いいわ。クルーザーなんかより、合奏するほうがずっと楽しい。私たち、このほうが似合うのよ。無理することはないんだ」 「生まれてはじめて尊敬できる先生に出会ったよ。美しい先生だ。この人のいうことなら、なんでもきけそうだよ」  律子を抱きしめてくちづけにいった。  柚木は律子の服をぬがせようとした。体を一つにしたい衝動にかられている。笑って律子は柚木の手から逃れた。バスルームへ彼女は消えた。服をぬいで柚木はベッドに横たわった。窓から湖畔の夕景色をながめる。家々に灯がともった。夕食のテーブルにつく妻子の姿が脳裡にうかんできそうになる。いそいで柚木はそれを頭の外へ追いやった。  律子がバスルームから出てきた。バスタオルを体に巻きつけている。うす暗くて楽譜が見えにくいので、部屋にはあかりがついていた。うしろ向きになって、律子は天井の蛍光灯のひもを引いた。  タオルの合せ目がひらいて律子の尻がみえた。ふくらみの下方に横じわがくっきり刻まれている。ふくらんだ部分もぜんたいにしぼんで、こまかなしわが寄っていた。ふとももの裏側もたるんでいる。弾力のない体であることが、見ただけで、わかった。  律子はベッドへやってきた。あかりは消えたが、夕闇はまだ濃くなかった。律子の肌に張りのないのがよくわかる。柚木は天井へ目を向けていた。  ベッドに律子は両ひざをつき、背すじをのばした。体からタオルを剥いだ。うすっぺらな乳房と、大きな乳首が柚木の目に入った。下腹の草むらが濃く映った。無理することはない——。さっきいったとおりの気分に律子はいるようだった。  柚木は律子を抱き寄せた。律子の姿が目に入るのを防ぎたかった。律子の体をさすってやる。すこしも弾《はず》まない。掌をとめると、律子の体に手形の窪《くぼ》みができそうな気がする。ダイエットなど止せばいいのに、と思う。口に出すわけにはいかない。  くちづけにいった。脚をからませあう。律子のふとももは厚みが足りなかった。両手で柚木は律子の体をなでつづける。律子の息づかいが苦しげになった。体を揺すりはじめる。柚木の肩へ歯を立ててきた。  柚木は律子の女をさぐりにいった。そこは若々しかった。律子は声をあげはじめる。しだいに反《そ》りかえった。指をつかううち、律子は呻《うめ》いて体をふるわせた。柚木の手首をつかんで、そっとひき離した。  律子の手がさぐりにくる。柚木のそこには力がなかった。欲望はあるのに、反応が起らない。柚木は起きて、律子とたがいちがいに体をかさねた。女の部分へ顔をふせてゆく。律子も口でうけとめた。いくぶん力が回復するのを柚木は意識した。  どちらが大量の快楽をあたえあうかの競争になった。技巧ははるかに柚木がすぐれている。まもなく律子は愛撫を中断して呻きはじめた。大きな声をあげる。二度つづけて律子はあばれた。虫の息になった。  つりこまれて柚木は力をとりもどした。体の向きを変えて律子に入っていこうとする。律子の乳房の下に、かすかに肋骨《ろつこつ》の浮いているのがみえたような気がした。律子の草むらは濃すぎる。彼は目をつぶった。  力が消えてしまった。柚木はならんで横になり、息をととのえた。 「合奏できみと一つになれたと思ったら、体が反乱を起した。うまくいかないもんだな」  律子の髪を柚木はなでた。  律子は起きあがった。柚木の両脚のあいだへうずくまった。奉仕をはじめる。しばらくして若さがもどってきた。律子は馬乗りになって受けいれにかかる。すこし手間どった。柚木はあせってきた。ようやく律子のなかへ入る。あっけなく柚木は終った。 「よかった。終ってくれたものね。安心したわ。私の一人相撲じゃなかった」  倒れこんできて律子はささやいた。  一休みしたあと、律子は台所に立った。たくさん料理をつくった。  良質のワインを味わった。快い虚脱感のなかで、酔いに身をまかせた。楽器の上達の心得をいくつか律子は話してくれた。思い出話や噂話もつきなかった。  柚木はみちたりた気分になりきれなかった。ときおり笑みが消えた。新幹線の大阪ゆき最終列車は二十時五十分浜松発である。東京ゆきはその一時間後のはずだった。  浜松駅までここから一時間かかる。家へかえるには、レンタカーを返す手間などを見て、七時半には出発しなければならない。もう七時すぎだった。かえろう、と切りだす勇気が柚木にはなかった。  夕食のまえに律子は化粧をした。幸福そうな笑顔が、柚木にはしだいに大きくみえてきた。七時半が近づくにつれて、笑顔は柚木の視界をふさいでしまうまでになった。柚木は伏目がちになった。腕時計に目がいきそうになるのを懸命にこらえた。  小さな翅虫《はむし》がワイングラスへ飛びこんだ。赤い液のなかでもがきはじめる。柚木は決心がついて顔をあげた。きょうはこれでおひらきにしよう。のどまで声が出かかった。 「ああいい気持。雨が降っても最高の夜だわ。ショパンを弾《ひ》きましょうか」  律子が立って窓をしめた。  ピアノのまえにすわって譜面をひらいた。そのうしろ姿に柚木はほとんど憎悪を感じた。翅虫が浮かんだままのワインを飲んだ。  律子が演奏をはじめた。美しい音で、たちまち柚木の内臓がふるえてくる。ため息をついて柚木は椅子に背中をあずけた。   4 「柚木さんの声をきくと泣いてしまうので手紙を書きます。いまQという店で働いています。恥ずかしい仕事ですが、借金を返すために三ヵ月がんばります。もし気が向いたらあそびにきてください」  小林あゆみの手紙が、会社へ舞いこんできた。八月末になっていた。  しばらく柚木はぼんやりしていた。あゆみの住所は滋賀県下のある温泉町になっていた。特殊浴場がそこにはあつまっている。  店を清算して、取立屋に借金ができたのだろう。関口洋酒店への仕入れ代金の未払分などもなかにふくまれたにちがいない。夜の世界の酷薄な仕組みをはじめて柚木は知らされた。  近いうち訪ねてみる気になった。だが、すぐには時間の工面がつかない。あゆみに会っても、経済的な援助ができるわけもなかった。めいわくをかけた人々の肩替りをして、五十万円ばかり柚木は取立屋に払っている。駈けつけてやれないことのいいわけは、十二分にあった。あゆみも取立屋の件を知っているから、助けを求められないのだろう。  怒りにまかせて、柚木は関口洋酒店へ電話をいれた。あゆみの境遇を知っているだろう、助けてやらないのか。詰問した。 「あゆみでっかいな。もうわし関係おまへんねん。あの子に店やらせたばっかりに、ごっつい損しましてな。あんさんにもなんかごめいわくがかかったんとちがいますか」  のれんに腕押しというやつだった。  柚木とはまったくちがう感性の男である。話合いにもなにもならない。  秋の決算に備えなければならない時期にきていた。残業がつづいた。オーボエの練習時間がなかなかとれない。菊枝の深酒はつづいている。最近は外出することが多いようだ。あゆみのことでときおり柚木にあてこすりをいった。帰宅がおそいのは仕事のせいだけではないときめこんでいる。黙殺する以外、柚木には対処の方法がなかった。  ある朝、出勤してすぐ柚木は社長室に呼びだされた。新製品の現状について説明をもとめられるのだろう。さいわい関係者一同の涙ぐましい努力が実りはじめていた。自信をもって柚木は社長室の扉をたたいた。  営業担当の専務が社長と向かいあって応接用のソファに腰かけていた。二人とも機嫌よく柚木に椅子をすすめた。新製品の成功について、こもごもに労をねぎらってくれる。  社長があらたまった口調になった。 「知ってのとおり、ニューヨークの伊沢くんが倒れた。心臓をやられている。どうやら再起不能らしいんだ」  柚木は緊張した。数日まえ、ニューヨーク支店長の伊沢常務が倒れたことはきいている。戦死だと同僚たちは噂していた。 「後任人事の話なんだ。きみ、いく気はないか。取締役になってまだ日が浅いから、いまのランクのまま横すべりになるが」 「それはご命令でしょうか。私のほうにも選択の余地のあるお話ですか」  柚木は声をおさえるのに苦労した。  家庭のこと、律子のこと、あゆみのことが頭のなかを駈けめぐった。 「命令ではないのや。あくまできみの意志を尊重すると社長はいうておられる。ことわってもきみのマイナスにはならんぞ」 「専務がきみを放したがらんのだよ。本社の営業にきみが必要な男であることはわかる。しかし、アメリカの拠点も大事だ。向うとの関係がむずかしい時期だけにな」  専務と社長がこもごもに説明した。  柚木は意欲が体にあふれてきた。ニューヨーク支店長はこの会社では格別に栄光あるポストではない。だが、実績をあげれば、一気に頂上へ近づくことができる。 「家族とも相談してみます。あしたご返事申しあげたいと思いますが——」  柚木は社長をみつめた。即答するのは安っぽい。ひそかに計算した。  社長は了承してくれた。柚木は社長室を出た。律子ともう会えなくなる。はじめて悲哀がこみあげてきた。どんなに律子はがっかりするだろうか。  柚木は自宅へ電話をいれた。大事な話がある。家族そろって夕食をとる用意をしておくように。菊枝にいいわたした。 「いわれなくても、みんな夕食にはかえってきます。こないのはあなただけですよ」  菊枝はこたえた。まだ酔っていなかった。  夕刻、柚木は自宅へ帰った。食事しながらニューヨークゆきの話をした。 「お母さんと二人で赴任したい。裕子と進には協力して家をまもってほしいんだ。これがおれの希望だが、みんなの意見をききたい」 「私もいくの。いやあ。ニューヨークって恐いところなんでしょう。心細いわ」  いちおう菊枝は苦情をいった。  顔に赤みがさしている。もう菊枝は深酒をしなくて済むはずである。 「進のめんどうを私が見るの。まいったなあ。何年いってるの、二年ぐらい」 「夏休みにあそびにいってもいいのやろ。おれ、賛成。塾にはきちんといくから、お母さん、心配しなくていいよ」  話がまとまった。暗い家庭から解放されるのを子供たちは歓迎していた。  前任者の休職が急だっただけ、赴任もいそがなければならなかった。二週間後に柚木はとりあえず単身で出発することにきめた。これまでにも増して毎日があわただしくなる。一時間刻みで柚木は動きまわった。  律子に事情を話さなければならない。だが、電話するのが苦痛だった。向うから電話が入るのを待つことにした。以前ほど頻繁ではなくなったが、週に一度か二度は彼女から電話してくる習慣である。  京都の得意先へ挨拶まわりにいった。夕刻にすべての予定を済ませた。柚木は同行した社員と車を大阪へかえした。タクシーであゆみの働いている温泉町へ出かけていった。  Qという特殊浴場はすぐに見つかった。駐車場のすみに白いソアラが停まっていた。予感がして、柚木はナンバープレートを見にいった。あゆみの車だった。車を手離すほどは困窮していないようだ。拍子ぬけをおぼえながら、柚木は特殊浴場へ入った。  めぐみという名であゆみは働いていた。待合室にいるあいだ、柚木は胸がときめいた。まさか訪ねてくるとは思っていないだろう。あゆみのおどろく顔が見たかった。  受付番号を呼ばれて、柚木は浴場の出入口のほうへいった。あゆみが迎えに出ていた。水着をきて、肩をタオルで覆っている。柚木を見て、笑って頭をさげた。「いるか」で柚木を迎えた態度と変りはなかった。 「元気そうだな。陣中見舞にきたぞ」  廊下を歩きながら柚木は話しかけた。 「ありがとう。柚木さんはきてくれると思うてたわ。カンが当った」  ふりむいてあゆみはこたえた。さっきより明るい笑いをみせた。  二人は個室へ入った。柚木の服をぬがせてから、あゆみは裸になった。日に何度も入浴して脂がぬけるせいか、肌に艶がなくなっている。体の線も少しゆるんだようだ。美しい体であることに変りはなかった。  柚木は湯につかった。あゆみに近況を訊いた。月に二百万円近い収入になる。三ヵ月で借金を返済できるはずだと彼女はいった。 「身軽になってからはどうするんだ。北新地へ復帰するのか」 「田舎へかえるわ。もう大阪はこりごり。田舎で猫をかぶってお嫁にいくねん。そのほうが固いと思うわ」  柚木は気がらくになった。あゆみの境遇について、やはり責任を感じていた。  柚木は浴槽から出た。あゆみに体を洗ってもらう。あゆみはうしろにまわった。 「けど、ここで二年ほどがんばってみよかとも思うねん。一財産できるやろ。田舎で商売ができる。いま迷ってるとこなの」 「すぐかえるほうがいいよ。あゆみは案外いいお嫁さんになるかもしれない」 「もし、がんばるようになったら応援してね。月二回ぐらいでいいし」 「それができないんだ。転勤でね。アメリカへいくことになった」  柚木は事情を話した。 「なんや。いってしまうの。そうやろね。サラリーマンはみんな転勤するわ」  柚木の体にあゆみは湯をかけた。  投げやりな手つきだった。さほど傷ついた様子はない。にぶい感じの女になった。この商売ではそうならざるを得ないのだろう。  マットに横たわって柚木はあゆみの奉仕をうけた。すみずみまであゆみはさらけだした。柚木は体に力がみなぎってこない。あゆみの体を尊いものに感じなくなった。律子のときとちがって焦燥はなかった。反対に満足していた。未練がなくなった。 「柚木さん、疲れてるのやわ。働きすぎとちがうの。こんな人ほかにおれへんよ」  あゆみはさじを投げた。うなずいて柚木は起きあがった。  別れぎわ柚木は三十万円の小切手にサインしてあゆみに手わたした。 「高額所得者にははした金だろうけど、これで精一杯なんだ。おれの気持だよ」  あゆみは無表情に小切手をみつめた。  すみません。いろいろごめいわくかけて。蚊の鳴くような声でつぶやいた。  翌日、律子から電話が入った。柚木は交換手にたのんで応接室に電話をまわしてもらった。しずかな部屋で話したかった。  つぎの土曜日——。いいかける律子を制止して柚木は転勤のことを告げた。連絡がおくれたわけも説明した。  しばらく律子はだまっていた。柚木は受話器を耳におしあてて沈黙に耐えた。 「そうなの。いってしまうの。男の人の愛はつねにビジネスの敵ではないのね」  律子の声はかすれていた。目まいがしてきたわ。彼女はつけ加えた。  来週の土曜日に発つ予定だ。東京に寄って成田で飛行機に乗る。万障くりあわせて会ってほしい。柚木は申しいれた。また律子はだまりこんだ。 「一時にOホテルで会おう。飛行機は夜十時発なんだ。二人で送別パーティをやろう」 「私、いかないわ。さびしすぎるもの。どうにもならなくなる。あなたを殺したくなる」 「そういうなよ。逢わずには出発できないよ。たのむ。笑って送りだしてくれ」 「いやです。私、もうお会いしません。耐えられないもの。頭が変になる」  律子は電話を切った。しばらく柚木は腰をあげる気にならなかった。  気をとりなおして柚木は席にもどった。まさかこのままではあるまい。律子は一時の感情に走っただけだ。自分にいいきかせた。書類をひらいて、強引に目を通した。  電話が鳴った。つねになく柚木は心臓がふるえた。受話器をとると、律子だった。 「さっきはごめんなさい。取乱してしまって。来週の土曜日、Oホテルで一時ですね。なにがあってもうかがいます」  律子の声は明るかった。  殺さないでほしい。柚木は軽口を叩いた。 「お別れの原因が転勤で良かった、と気がついたの。仕方のないことですものね。倦《あ》きられたのだったら、私、耐えられない」 「倦きるわけがないよ。きみの伴奏でモーツァルトを吹けるようになる気なのに」 「でも、このあいだ浜松で家にかえりたがっていたでしょう。わかっていたのよ。ショパンを弾《ひ》いていじわるしてやったんだ」 「あれはちがうよ。家庭がちょっと危機的な状況にあって——」 「いいの。私も当分家庭的になるわ。浮気亭主がかえってくるの。半年は日本にいるといっている。女と別れたらしいわ」 「それはよかった。ほっとしたよ。浮気亭主をやさしく迎えてあげなさい」  挨拶をかわして電話を終えた。律子の弾くピアノの音が消えたような気がする。浮気亭主云々の話が律子の贈り物であることは察していた。  出発の日になった。午前十一時の飛行機で柚木は大阪を発った。菊枝と子供たちが空港へ見送りにきた。裕子が柚木の頬にお別れのキスをした。進のほうは目を赤くして、裕子にからかわれていた。  羽田からタクシーで柚木はOホテルへ向かった。不安にかられていた。ホテルを予約するのをわすれていたのだ。飛行機が離陸してからそのことに気づいた。極度に多忙になると、個人的な用件を気にしながらわすれるという状態に柚木はおちいる。  Oホテルのロビーに律子が立っていた。淡いブルーの着物姿だった。思ったとおり、土曜日のホテルは混みあっている。フロントテーブルに訊いたが、空室はなかった。  とりあえずレストランへ入った。食事を注文したあと、柚木は電話をかけに立った。ほうぼうのホテルへ当ってみる。どこも満室である。顔をしかめて席にもどった。 「ひどいドジをやってしまった。若者用のホテルへいくより仕方がないな」 「私はどこでもいいのよ。むかしは若者の一人だったんだから」  食事のあいだ柚木は欲望にかられていた。律子の体が意識されて仕方なかった。  情事のまえは食事が上の空になるのがふつうである。たべながら性を意識できたのは、何十年もむかしのことだった。別れのせいなのだろう。せっぱつまっている。日本へかえったらまた逢うつもりだが、何年さきになるか見当もつかない。おたがいの気持が変らない保証もなかった。  食事が終った。二人はタクシーに乗った。御徒町《おかちまち》と柚木は運転手に告げた。学生時代、柚木は池之端《いけのはた》に下宿したことがある。付近に品のわるいホテルが何軒かあった。  車のなかで律子はそっとノートを手わたした。楽譜だった。「サイレントナイト」につづいて三十曲が書きだしてある。最後の曲は「嘆きのセレナーデ」だった。  不忍《しのばずの》池《いけ》のそばでその種のホテルが目についた。近くで車をおりた。身を寄せあってホテルへたどりついた。満室だった。  歩いてつぎのホテルをさがした。残暑がきびしかった。和服の律子は歩きにくそうだ。何度もハンカチで汗をふいた。池の水が、学生時代そのままに匂った。 「済まないな。こんな思いをさせて」 「いいえ。若いころを思いだすわ。安ホテルをさがしてうろついたことがある」 「ききずてならないな。どこの男と」 「主人と、といっても白々しいだけね。柚木さん。焼餅をやいてください」  ようやくつぎのホテルにめぐり会った。  部屋があった。柚木は律子の背中に腕をまわして、赤絨毯《じゆうたん》の廊下を歩いた。二階の部屋へ入って料金を支払った。  貧弱な部屋である。ベッドと合成樹脂貼りのテーブル、テレビがひしめいて、ろくに身動きできないほどだった。粗末な鏡台と箪笥《たんす》がある。性具のパンフレットと石臼のような灰皿がテーブルにおいてあった。まっさきに柚木はカーテンをひいて陽光をしめ出した。  もどかしく二人は抱きあった。くちびるをあわせ、手でさぐりあった。心と体の双方を律子はたかぶらせている。恥ずかしがっている余裕はなかった。キスをやめると、あえぎながら帯をときはじめる。  柚木は手伝って律子の帯をといた。律子が下着姿になってから、浴室へ入った。シャワーはない。浴槽は古びて小さかった。湯の蛇口をひねって柚木は浴槽のなかにすわった。たちまち湯は柚木の腰をひたしはじめる。  律子を柚木は呼んだ。これまで二人で入浴したことがなかった。たがいに相手の視線を恐れていたのが嘘のようだ。ぜひとも律子の体を正視したい。欲望のおとろえない自信はある。すでに柚木は勃起《ぼつき》していた。  律子が浴室へ入ってきた。タオルをもっていない。すなおに全身をさらしていた。向かいあって湯につかった。柚木は律子を抱きしめて頬ずりする。中身のない袋のような乳房も、くろずんだ乳首も、かすかに肋骨《ろつこつ》の浮きでたわき腹も、目じりのしわもみんないとしく思われた。おとろえているからこそ、いとしかった。貧弱なホテルに似合っていた。これまでがおろかだった。自分を偽《いつわ》り、老いから逃げようとして躍起だった。もうこれが最後だと思うと、そんなことをしているひまもない。 「見てくれよ、この腹。ほとんど三段腹だろう。すわるとよくわかる。体操をしてもひっこまないんだ」 「私もこのおっぱい。笑いたくなるわ。それにダイエットしたら体じゅうしわだらけ」 「おたがい、年齢をとったなあ。よくがんばってきたというべきだろうな」 「柚木さん、きれいよ。素敵なんだから。私が太鼓判おしてあげる。信じて頂戴」 「きみはもっときれいだよ。直径一メートルの太鼓判をおそう。ドーンとおしてやる」  二人はたかぶってきた。あらためて力いっぱい抱きあった。何年かさきにモーツァルトを合奏しよう。約束をかわした。  二人は浴室から出てベッドに横たわった。天井と横の壁が鏡張りになっている。いやでも自分たちの姿を見なければならない。 「みっともないなあ。おれたちはみっともないよ。でも、おれは惚れているぞ」 「ねえ、見て。もう私、恥ずかしくないわ。脚のほうから思いきり見て。きたないでしょう私。これが私なのよ」  体がふるえてきた。律子の脚のほうから柚木は覗きこんだ。たしかに美しいとはいえない。だからいとしかった。その柚木を天井の鏡で律子はみつめている。律子の手が柚木の視線のさきにのびてきた。ゆっくりと指が動きはじめる。  柚木は獣になった。あえぎながら律子のふとももに抱きついた。しわに頬ずりする。自分も硬いものをさぐりはじめた。  冷房がきいていない。二人は汗まみれになった。部屋は深夜のようにしずかである。あえぎと呻《うめ》きが交錯する。律子と合奏したときのように、柚木は自分の体が浮きあがるのを感じた。あらゆるものから解き放たれた。 本作品は一九八九年一二月、小社より単行本として刊行され、一九九二年一二月、講談社文庫に収録されました。