オフィス街のエロス 阿部 牧郎 著 1  朝、島崎俊彦《しまざきとしひこ》はいつものように午前八時半に出勤した。  女子社員のいれてくれたお茶を飲んだ。昨夜おそくまで飲んだので、睡眠不足で体がだるい。つとめて笑顔になって、出勤してくる課員たちと挨拶《あいさつ》をかわした。上司が朝、不機嫌な顔をしていると、それだけで課員は気が重くなる。朝は明るい顔でいなければならないと、自分にノルマを課している。  島崎は三十六歳。総合商社P商事の化学品第二部一課の課長である。三ヵ月まえの異動で課長に昇進した。全社で約二百名の同期生のうち、課長職になった者はまだ二十名あまりである。  会社としては、いちばん使いでのある年齢だった。八面六臂《はちめんろつぴ》という感じの、多忙な毎日を送っている。男子十名、女子三名の課を動かしてゆくことがこれほど大変だとは思わなかった。課員一人一人の業務の内容と現状を知りつくしていなければならない。  若い社員が小さな事柄にも一々指示をもとめてくる。本部長や部長はとほうもなく大きな課題をおしつけて、それとなくこちらを見まもっている。管理部門から要求される書類も多い。いやでも頑張《がんば》らざるを得ない。マスコミがお題目のように唱える「ゆとりある暮し」など、外国の話としか思えなかった。  始業のベルが鳴った。海外から入るテレックスに目を通すことからはじまって、いつものようにあわただしい日になった。課員との打合せを済ませ、三十分刻みで来客に会う。十一時にやっと自分の席にもどった。 「相変らず騒々しい課だな。元気か」  声をかけられて島崎は顔をあげた。  人事部一課の課長が島崎の横に立っていた。色白で太った男である。  人事一課長は島崎の大学の六年先輩にあたる。その縁で心安かった。P商事内の同窓会でときおりいっしょに飲むことがある。  オフィスのすみの打合せ用のテーブルを田辺《たなべ》はあごで指した。島崎は席を立ち、人事一課長と向かいあって腰をおろした。 「泉正雄《いずみまさお》という人を知っているか。もと化学品第二部の次長だった人だ」  いきなり人事一課長は訊《き》いた。  P商事には一万名あまりの社員がいる。人事課長であっても、全員の名前と顔はとてもおぼえきれない。 「知っています。三年まえ定年になった人です。最近の消息はきいていませんが」  泉さんがどうかしたんですか。島崎は訊きかえした。  泉は化学品部の大先輩だった。島崎がまだ生まれていない昭和二十年末の入社だったはずである。島崎が入社したころ、泉は化学品第一部の課長をしていた。  部がちがうので、島崎は泉とあまり口をきいたことがなかった。社員旅行のおりいっしょに麻雀をしたり、ビジネスのうえで何度か彼の指示をあおいだりした程度の間柄だった。泉は商社の営業マンにしてはめずらしく、温厚で控え目な人物だった。  そのぶんバイタリティに欠ける向きがあったらしい。定年まえの数年は、窓ぎわといってよい立場におかれていた。長い経験を生かして、若手の社員の業務にアドバイスするといった役どころだった。だが、みんな彼にはあまり相談にいかなかったようだ。島崎もその点では同様だった。泉について訊かれても、答える材料がほとんどないのだ。 「泉元次長は亡くなったらしいんだ。さっき警察から連絡が入った」  眉《まゆ》をひそめて人事一課長はささやいた。 「亡くなった——。病気だったんですか」 「いや、変死なんだ。話の様子では殺されたらしい。在職中の彼のことを訊きたいと警察がいってきた」 「殺された——。あの人がどうして」  島崎は声が高くなった。殺害されるなど泉はおよそ考えられない人物だった。 「まだわからないよ。けさ隅田川の河口に死体が浮いていたらしいんだ。砂利船《じやりぶね》が発見したという話だった」  人事一課長は眉をひそめていた。  泉が殺されたのは昨夜の八時前後。死体の流れる速度からいって殺害現場は浅草の隅田公園あたりということである。  いまから事情聴取にゆく。泉正雄のことをよく知っている人物を、何人かえらんでおいてほしい。警察は人事部へそういってきたのだ。このいそがしいときにろくでもない用事ができた、と人事一課長は思っているようだ。 「泉さんとはおれ、あまり接触がなかったんです。話すことなんてありませんよ。本部長や部長なら知っているんじゃないですか」 「どちらもちょうど留守なんだよ。山岡《やまおか》次長も適任だと思うんだが、彼は出張中だ。年寄りが少いと、こんなときに困る」  苦笑して人事一課長は周囲を見まわした。  P商事の社員の定年は六十歳である。だが五十歳を越すと、課長以上になれない者、なる可能性のない者は一人二人と関係会社へ転出してゆく。いま化学品第一、第二部のなかで五十代の社員は、重役である部長をのぞくと、二人の部長と山岡次長だけである。中高年の社員にはきびしい会社だった。 「退職したOBとか、関係会社へ出た人から話をきいてもらうしかないですよ。警察にそういえばどうですか」 「もちろんだ。でも、一人だけ適任者がいる。おたくの課のお坊ちゃまさ。彼、泉正雄氏を個人的に知っているはずだよ」 「そうか。泉さんは高田《たかだ》専務と同郷の後輩でしたね。なるほど、うちのお坊ちゃまと面識があってもふしぎはないな」  島崎は自分の課の高田|健一《けんいち》の席へ目をやった。本人はいま外回りに出ている。  高田健一はP商事の筆頭専務、高田|浩介《こうすけ》の長男である。二十八歳だった。一流大学を出て入社してきた。当時、父親はエネルギー部門の責任者をしていたが、高田健一は最初から化学品部門を志望したということだった。  死んだ泉正雄は高田浩介と同じ鳥取県Y市の出身である。大学は別だが、高校では高田の一年後輩だということだった。  高田浩介はもう五年も筆頭専務の座にあった。次期社長の最有力候補だといわれている。泉正雄が窓ぎわながら、定年まで本社の部次長職にとどまることができたのは、高田専務の引きがあったせいだという噂《うわさ》だった。  本人も高田の後輩であることを自慢していた。個人的に高田専務宅へ出入りして、雑用を引受けたりしていたらしい。  島崎は席を立って課の女子社員のそばへいった。取引先を訪問中の高田健一に電話して、昼はかならず社にかえるよう伝言しろと指示する。人事一課長がまだ腰をあげないので、しばらく彼と話をつづけた。 「専務の御曹司《おんぞうし》なんかあずかると、なにかとやりにくいだろう。前任の森川《もりかわ》くんはあつかいに困ったこともあるらしいぜ」  人事一課長は丸い目で島崎をみつめた。本音を訊きだしたがっている。 「いや、いまのところ問題はありません。育ちが良すぎて食い足りない点はありますが、ソツなくやっていますよ」 「親父の威光をかさに着ることはないだろうな。二世によくあることなんだ」 「高田はそんなバカではありません。気を使いすぎるくらい使っていますよ。積極的にビジネスを開拓してゆくタイプではないが、それは高田にかぎったことではないし——」 「森川くんは気にいらなかったらしいな。低い考課をつけていた。仕事ぶりに誠実味が欠けると見ていたらしい」 「おれもそれは読みました。高田には裏表があるのかもしれませんが、まだわかりません。なにしろ新米課長ですからね。もう少したつと見かたが変るかもしれません」  専務の息子だからうかつに悪口はいえないという意識は、島崎にはない。  次期社長候補といっても、高田専務は所管がちがう。一々気をつかう必要はない。またそんな配慮が必要となるほど、P商事は甘い会社ではなかった。  出先にいる高田健一と連絡がついた。昼までに社へもどる予定だという。すぐ人事部を訪問させると島崎は一課長に約束した。 「お坊ちゃまの件でなにか問題があったら、遠慮なくいってきてくれ。それから、泉さんのことで情報が入ったら流してくれよな」  いい残して太った人事一課長は去った。  島崎は席にもどって、しばらくぼんやりしていた。泉正雄の殺害事件でそれほどショックをうけたわけではなかった。なんといっても他人《ひと》事《ごと》である。  高田健一のことのほうが気になった。島崎の前任者の森川|里志《さとし》は、人事一課長のいったとおり高田を快く思っていなかった。  森川里志はこの三月末まで、化学品第二部一課の課長をしていた。島崎とは同期入社である。よく切れる頭脳と、頑健《がんけん》な体力と、機敏な実行力をあわせもった男だった。  島崎より一年早く課長になった。この春の異動で森川は大阪へ転勤し、島崎が後任にえらばれたのである。それまで島崎は、化学品第二部二課の勤務だった。高田の顔はよく知っていたが、あまり口をきいたことがない。同じ職場の社員がだれの息子だろうと、島崎には関心がなかった。 「要領が良すぎるんだ。ずるいんだよ。うわべはテキパキ働いて、裏で良からぬ策謀をするタイプだ。おまえも気をつけたほうがいいぞ。ヤバいお坊ちゃまだ」  引継ぎのとき森川はそういっていた。  めったに他人の悪口をいわない森川にしてはめずらしいことだった。高田健一とのあいだになにかあったのか。島崎は訊いてみた。 「いや、とくに揉《も》めたわけじゃない。正面切って反抗してくるタイプでもないからね。しかし、いやなやつだよ。問題を起しても責任をとらない。すべて他人のせいにする」 「良家の息子ってそんなものかな」 「なにが良家なもんか。高田専務はいまでこそときめいているが、もともとおれたちと同じサラリーマンだったんだ。もとをただせば高田もおれたちの息子も似たようなものさ」  森川は顔をしかめていた。憎悪で目が暗く光っているようだった。  よほど相性が悪かったらしい。大阪へ転勤させられたのは、高田健一が父親に悪口を吹きこんだせいだと考えたのかもしれない。森川は大阪本社化学品一課の課長に横すべりした。ランク上は横すべりだが、東京本社勤務の社員の感覚では、やはり左遷《させん》とうけとらずにはいられない。  森川が課長になってから、課の業績が悪化したわけではなかった。わずか一年で大阪へ飛ばされた理由が、島崎にはよくわからない。復権の気運みなぎる大阪の陣容強化だという説明が上からあったが、そんなきれいごとはだれも信用しなかった。  昼まえに高田健一がかえってきた。机に書類入れをおき、島崎のまえに立った。  高田は色白で、丸顔である。一流大卒らしく眼鏡をかけていた。眉のあたりに上品で繊細《せんさい》な感じがただよっている。中肉中背で、ひよわそうな体つきをしていた。ブランド物らしいソフトスーツを身につけ、ネクタイの色合はあざやかである。若者の血の気や活力よりも、人工的で優雅な雰囲気を感じさせる。最近彼は自分の企画したプロジェクトの推進のため香港へ出張してきた。意外に有望な市場を彼は見つけだしたようである。 「泉正雄さんを知っているだろう。亡くなったんだ。けさ隅田川で——」  島崎は事情を話した。  高田は顔をこわばらせ、青ざめていた。しばらくことばもなかった。 「以前はときどきおいでになりました。でも、定年になられてからは、ほとんどお見えになっていません」  父とときどきゴルフにいっていた。祖母が亡くなったときや、家の引越しのときには献身的に世話をやいてくれた。母が心臓病で入院したときも、こまかく雑用を手伝ってくれた。恩義のある人物だったという。 「定年後、どうして縁が切れたんだ。お父さんとのあいだになにかあったのか」 「わかりません。事業に失敗して、行方不明になったときいています」  定年後、泉はプラスチック成型加工の仲介業のような仕事をはじめたらしい。  うまくゆかずに倒産した。以後、高田家には顔を出さなくなったという。 「では刑事もあまり参考にならんだろうな。ともかく人事部へ顔を出して、刑事に話をしてやってくれ。なるべくお父さんの手間をとらせないように、きみからできるだけ多く情報をくれてやるほうがいい」 「わかりました。いってきます。しかし、おどろきました。人の恨みを買うような人じゃないから、強盗にでもやられたんでしょう」  高田健一は去っていった。  昼休みになった。島崎は席を立って社員食堂へ向かった。とくに暗い気分でもない。人生、一寸さきは闇だ。なにが起るかわからないと平凡な感想が湧いただけだった。  魚フライ定食を島崎はとった。すみの席で箸《はし》を動かしはじめた。 「島崎課長、ここにすわってもいいですか」  となりの課の西尾典子《にしおのりこ》が、盆に食事を乗せてテーブルの前に立っていた。  ああどうぞ。島崎が答えると、肩をすぼめる仕草《しぐさ》をして典子は腰をおろした。  典子は化学品第二部二課の所属である。三ヵ月まえまで、島崎は典子と同じ課で働いていたのだ。仕事のうえで直接の関係はなかったが、コピー、電話受け、旅費の精算、資料整理など、なにかと世話になったものだ。  典子はもう二十五歳である。名門女子大の英文科を出ている。笑顔が愛くるしいので、短大を出たばかりの女の子にみえた。仕事ぶりは気がきいて、しかも正確だった。酒も飲むし、歌もうたう。典子がいるおかげで課内が明るかった。典子を自分の課へ引抜きたいと島崎はひそかに考えている。 「そんなメニューでよく腹がもつなあ。カロリー不足でバテるんじゃないの」  島崎は典子の盆のうえに目をやった。  野菜サラダ、チーズ二切れ、ミルクが盆に乗っている。パンは食べないらしい。 「ダイエット中なんです。最近ちょっと太ってきたので」 「そうかなあ。全然変らないと思うけどね。本人だけが気にしているんじゃないの」 「体重って、女にとっては大きな問題なんですよ。二、三キロ増えると、ボディラインが全然変ってくるんですから。すごく無神経な女になったような気がします」 「わかったぞ。好きな男性がいて、その人の目を意識しているんだ。うらやましい男だな、きみに惚《ほ》れられるなんて」 「ちがいます。いませんそんな人」  典子は赧《あか》くなった。ユニホームの半袖からのびた二の腕がふっくらと美しい。 「島崎課長、そんなにカロリー不足を心配してくださるんだったら、ステーキをごちそうしてください。フランス料理のフルコースでもいいわ」  サラダを口に運んで典子はいった。非難の目になっていた。 「済まない。約束はおぼえているよ。気にはなっていたんだ。忙しすぎてゆっくり計画するひまがなかった」  頭をかいて島崎は詫《わ》びをいった。  化学品一課へ移るとき、二課では歓送会をやってくれた。カラオケ大会のさなか、島崎はとなりにすわった典子に、デラックスなディナーへ招待する約束をしたのだ。  典子にはいちばん世話になった。それだけでなく島崎は典子に魅《ひ》かれている。利口《りこう》なくせに典子は愛らしい。矛盾した二つの要素が彼女のなかでバランスよく並立している。顔立ちも体つきも魅力的である。一課へ移って、これまでとやや距離をおいて典子を見ると、二課にいるあいだに典子とデートしなかったことが悔まれてならない。  二人は食事を終えた。ビルの地階にある喫茶店へコーヒーを飲みにいった。  うす暗い店内へ入ると、ほっと気分がおちついた。一日の仕事を終えて、典子とくつろいでいるような気持になる。島崎は手帖を出してスケジュールをチェックした。  きょうは火曜である。週末まで夜はスケジュールがつまっていた。土曜または来週の月曜日しか時間がない。 「土曜日、ごちそうしてください。月曜日だと、課長またきっとなにか用事ができるわ」 「わかった。土曜日の七時に六本木のSホテルのロビーで会おう。でも、きみ、せっかくの休日に大変だな。家は遠いんだろう」  典子の家は三鷹《みたか》である。島崎のほうは練馬《ねりま》でマンション暮しをしている。 「いいんです。島崎課長とデートするためだったら、どこへでも飛んでいくわ。九州でも北海道でもいいですよ」  目に力をこめて典子は島崎をみつめた。  島崎は胸が甘くしびれた。典子が以前から好意を寄せてくれているのはわかっている。さそえばたぶん応じてくれるだろう。  だが、島崎は課長になったばかりだった。サラリーマンとして正念場に立っている。スキャンダルのたねになるのはいかにもまずい。上からも下からも信用をうしなう恐れがあった。  P商事には一万名近い社員がいる。社内結婚がけっこう多い。妻子ある社員と女子社員の恋愛の噂もときどき耳に入った。  不倫が大きなマイナスになる社風ではなかった。別れ話がこじれたり、妊娠の後始末で揉めたり、トラブルが表沙汰《おもてざた》になった場合は別だが、少々の不品行で社員が咎《とが》められることはなかった。能力主義、実力主義が徹底していて、私生活がどうあろうと問題にされないのだ。おたがい忙しい。女のことでとやかくいうひまはないという空気が全社にある。  だが、新米課長としては、万事に神経質にならざるを得なかった。スキャンダルが流れたら、もちろん上司はいい顔をしない。さらにまずいのは課員である。島崎に彼らは敬意を払わなくなるだろう。男としての弱点をさらけだした課長に管理されるのが、おもしろいわけがない。嫉妬《しつと》もあるはずだ。うわべはともかく、本心から島崎を信頼する者が一人もいなくなるにちがいない。  こんなことなら、管理職になるまえに典子とデートしておくんだった。後悔の念にかられて島崎は苦笑いした。だが、さきに典子と親密になっていたら、いま時分はスキャンダルになやまされていたかもしれない。どちらにしても、社内不倫には後悔がつきまとうのかもしれない。  午後一時が近づいた。二人は喫茶店を出てエレベーターに乗った。  典子は心が浮き立っている様子だった。ひとりでに笑えてきて仕方がない。そんな表情で島崎を見あげる。人に押されて二人の体が密着しあった。典子は中肉中背で、美しい脚をしている。化学品部のある六階でエレベーターをおり、さきに立って歩く典子のうしろ姿に島崎は見惚《みほ》れた。優雅な脚線がきょうはとくになまめかしく島崎を刺戟《しげき》する。  典子と深い関係になってしまうかどうか、まだ島崎は決心がつかなかった。ともかく土曜日には二人きりで会ってみる。結ばれるも結ばれないも、そのときの気分しだいだ。とりあえず島崎は自分にいいきかせる。  午後の就業時間に入った。島崎はまたビジネスの渦中に投げこまれた。高田健一はまだもどらない。事情聴取が長びいているのかもしれない。刑事を昂奮《こうふん》させるだけの材料を、高田はもっているのだろうか。  二時半ごろ、高田健一はオフィスへもどってきた。島崎から机三つへだった位置にある席へ、疲れた様子で腰をおろした。 「どうだった。しつこく訊かれたか」  島崎は高田に声をかけた。  男の課員は全員が外へ出ている。女子課員は三人とも受話器を耳にあてていた。  高田は島崎のそばへやってきた。先輩の課員の椅子《いす》をひきよせる。背もたれを腹へおしあてるようにして、うしろ向きにまたがった。背もたれに肘《ひじ》をついて顔を寄せてくる。妙になれなれしい態度だった。本人は善意にあふれた笑顔をしている。 「いやあ、まいりました。根掘り葉掘りなんだから。昼めしぬきなんですよ」  前おきして高田健一は事件のいきさつから説明をはじめた。  隅田川の河口で、けさ水面にただよっている死体を砂利船が発見した。身もとをかくすためなのだろう、死体は上衣を着ておらず、ズボンのポケットには財布も証明書類も入っていなかった。だが、ポケットに丸めて入っていた喫茶店の領収書で、泉正雄であることがわかった。  喫茶店は御徒町《おかちまち》にあった。現在の泉正雄のつとめさきが入居しているビルの一階で営業している。泉はそこの常連だった。顔を出すたびに、几帳面《きちようめん》に領収書をもらっていた。刑事たちはその店をたずね、マスターに死体の写真を見せて身もとを割り出したのだ。  死体の後頭部には、鈍器で撲《なぐ》られた痕跡《こんせき》があった。泉正雄は頭を一撃されて倒れたあと、上衣をぬがされ、名刺入れなどもぬきとられて河へ投げこまれたらしい。すでに息絶えていたらしく、死体は水を飲んでいなかった。死亡推定時刻は昨夜の午後八時前後。殺害現場と見なされていた隅田公園の河岸の灌木《かんぼく》の植え込みのなかから泉正雄の眼鏡が発見された。まちがいなく彼はそこで死んだのだ。 「ゆうべはひどい雨でしたからねえ。河畔を散歩する酔狂者もいなかっただろう。目撃者も出るまいという話でした」  淡々と高田健一は報告した。  泉正雄のつとめていたのは、一種の人材派遣会社だった。各企業の求めに応じて、社員教育用の講師を派遣する会社である。営業、経理、人事、広告宣伝、労務、コンピュータ関係など専門別の講師がその会社には登録されていて、注文があれば社員教育に出向くのである。有力企業の退職者が、長年のキャリアを生かして講師になっている。  泉正雄は営業部門の講師として、その会社に登録されていた。つとめていた、といっても、講師派遣の注文がなければ出勤する必要はない。せいぜい週一度か二度、どこかの中小企業の社員教育にゆくのがせいぜいだったらしい。 「社員教育の講師を一日やって、ギャラは三万円だったといいますよ。わびしいなあ。長年P商事でキャリアをつんでも、定年後事業に失敗すればそれでお終《しま》いですよね」  わびしい、というのは口さきだけである。高田健一の声は明るかった。  無理もない。まだ二十代の御曹司に、こんな話が実感できるはずがないのだ。 「事業になんか手を出さずに、年金生活をすれば良かったんだ。おれが泉さんの立場だったら、そうすると思うよ」 「父も泉さんは引退すると思っていたようです。事業をはじめたときいて、びっくりしていました。案外意欲的な男だって」 「お父さんは当然、泉さんを援助されたんだろう。それでも事業がだめだったとすると、泉さんに能力がなかったんだろうな」 「よくわかりません。刑事にもそのへんを訊かれましたが、父と泉さんの問題ですから。結局父も事情聴取されるようです」 「トップは忙しいのに、とんだ災難だな。泉さんも思わぬ罪をつくったものだ」  それで島崎はこの話を切りあげた。  定年後の泉にたいして、高田専務は大した援助をしなかったのではないか。そんな疑問が残った。専務が冷酷な男だというわけではない。巨大商社のトップは、三十分刻みのスケジュールに追われて暮している。取組まねばならない課題が山ほどある。定年後の一社員の生活にまで目をくばるなど、たんに時間の点からいっても無理な話なのだ。 「課長、××商事の件はどう処理しましょうか。先例にならうべきですか。それとも新しい形で要求を容《い》れましょうか」  高田が書類を手に、あらためて島崎の机のまえにやってきた。  商品の品質に些細《ささい》なクレームのついた一件である。メーカーに十万円も補償させれば済む話だ。昨今の若い社員は、その程度のクレームさえ自力で片づけようとしない。 「新しい形って、どんなことだ」 「今後商品が品不足になったとき、今回のクレーム分だけ××商事に優先的におさめてほしいそうです。値段は据えおきで」 「バカいうな。商売とクレーム処理は全然別の話だぞ。バーターできるわけがない。それも値段をいまのままでなんて」 「そうですよね。ぼくもそう思ったんですが、いちおう課長のご意向を——」  首をちぢめて高田は頭をかいた。一礼して席へもどった。 「きみも入社六年になるんだろう。小さなことで一々おれの意見をきく必要はない。きみの企画した事業なんかは、きみの判断でどんどんすすめろよ」  追いかけて島崎はいいきかせた。  高田健一をお坊ちゃまのままでおいて、島崎には指導力がないと高田専務に判定されても困る。なんとか一人前に育成したい。  以後、捜査になんの進展もないまま三日たった。刑事たちは連日人事部へやってきて、関係者から話をきいているようだった。だが、目ぼしい事実は出なかったようだ。  化学品部のOBといっても、泉正雄と親しかった者は数えるほどしかいない。事件当日こそ話題になったが、翌日になると、化学品一、二部とも、泉のことを口に出す者はいなくなった。事件と泉正雄の両方を、みんなわすれたような顔をしている。わすれっぽいのが大企業の特徴である。航空部隊の攻撃にさらされた軍艦さながら、乗組員が血まなこで持場を死守している。風景をながめるひまはもちろん、振り落された仲間に目を向ける余裕もなかった。  金曜日の夜、八時まで島崎は会議だった。終ってデスクワークを行なった。  あすの午後は西尾典子とデートである。そう思うと、仕事に力が入った。十時ごろまでがんばる予定である。女子社員と内密なつきあいをするうしろめたさを、残業することでごまかす気なのかもしれない。  九時になった。化学品一、二部のフロアでは、四、五人の社員が残業しているだけになった。彼らの机のうえにだけ蛍光灯がともり、あとの空間はうす暗い。ひろびろとしたフロアのなかで、残業する社員の姿が点々と、影のようにさびしくみえた。ビルの内部はしずまりかえっている。たまにかかる電話の音が、フロアのすみずみまでひびきわたった。  化学品第二部一課の直通電話が鳴った。課に三台ある直通電話の、島崎の席からいちばん遠くにある電話機だった。立っていって島崎は受話器をとった。 「P商事の化学品第二部やな。高田健一がおったら、呼んでくれんかい」  関西弁で男が話しかけてきた。  まともな職業の人間とは思えないことばづかいである。 「高田は帰りましたよ。電話をいただくお約束だったんですか」  ていねいに島崎は応対した。  こんな時間に電話してくるなんて、あきれた非常識である。なにを考えているのか。 「いや、約束したわけやない。家に電話してみたら留守やさかい、ひょっとしたらまだ会社かと思うてな」 「どういうご用件ですか。月曜日でもよければ伝言しておきますが」 「おまえだれや。名前いえ」 「島崎という者です。高田の直属の課長ですが——」 「健一の上役かいな。ほな、伝言をたのもうか。例のもんに五千万の値がついた、いうといてくれ。ええな、五千万やぞ。早うせんことには取返しのつかんことになる」 「五千万ですか。で、あなたのお名前は」 「大東洋産業の者や。そういえばわかる」  一方的に相手は電話を切った。  顔をしかめて島崎は受話器をおいた。自分たちの職場に無法者が押し入ってきたような気分である。五千万だなんて、高田は不動産にでも係わりあっているのだろうか。  手近な女子社員の机のひきだしに、課員の自宅の電話番号のリストが入っている。とりだして島崎は高田健一の番号をしらべた。  高田はもう結婚している。王子《おうじ》のマンションで新婚生活を送っているらしい。念のため島崎は電話をいれてみた。  さっきの男のいったとおり応答はなかった。金曜日の夜なのだ、妻と食事にでも出かけたのだろう。なんとなく島崎は安心した。席にもどってデスクワークを再開した。 2  土曜日の午後七時、島崎は六本木のホテルのロビーで西尾典子と待ちあわせた。  典子は配色のあざやかなアズディン・アライアのスーツを着ていた。スカートはミニである。美しい脚が、ひざ上十センチあたりからあらわになっていた。会社にいるときよりも、典子は十センチ背丈が高くみえた。  ホテルのそばのイタリアン・レストランへ入った。赤ワインをとり、海産物のサラダ、バジリコのスパゲティ、仔牛のカツで食事をはじめた。とりとめのない会話をつづける。  典子はたのしそうだった。ワインを三杯お代りした。だが、あまり食欲はなさそうだ。島崎もそれは同様である。典子がどんなつもりでいるのか。ホテルへさそえばついてくるだろうか。そのことばかり気になって、もう一つ食がすすまないのだ。  典子が同じことを考えているかどうかはわからない。仔牛のカツにほとんど手をつけず、ワイングラスを離さなかった。赤ワインのボトルを一つカラにしたあと、ハーフボトルを追加してもらった。 「いつもはあまり飲めないんです。今夜は例外。つぎはいつ島崎課長とデートできるか、わからないんだから」 「そんなことはないよ。きみとなら毎週でも会いたいよ。きみさえよければそうしよう。毎週土曜の七時、Sホテルで——」 「ほんとですかあ。やったァ。でも、土曜日ごとに出てくるのって大変ですよ。課長、奥さまになんと説明されるんですか」 「ゴルフとかなんとかいえば済むさ。でも、たしかに毎週は大変だな。隔週にしようか。あとはウイークデーに都合がつきしだい声をかけることにするよ」 「やったァ。私、そうなることを期待してたんです。二課にいるとき、課長、私を全然さそってくれなかったでしょう。私はしきりにゴーサインを出していたんだけど」 「気がつかなかったなあ。そんなこと、あるわけがないと思っていた。仕事仕事で余裕がなかったよ。でも、これからはきみとすばらしい息ぬきの時間がもてるわけだ」  二人は手のグラスを触れあわせた。  グラスのぶつかりあう甘いひびきが心臓につたわった。緊張がとけて、島崎はゆったりとワインを味わった。  今後定期的にデートをつづけるということは、恋人どうしになることを意味している。典子は心の準備をしてきたらしい。あれこれ気をまわす必要はなかった。食事のあとはSホテルの部屋へ入ればよいのだ。  島崎は現金に食欲が旺盛になった。スパゲティもカツもたいらげた。久しぶりで心の底からくつろいだ気分になった。 「最近亡くなった泉次長のこと、課長はよくご存知なんですか」  典子はやがて泉正雄の事件を話題にした。  泉が社をやめた年に典子は入社した。泉の退社が夏だったので、三、四ヵ月典子は泉と同じフロアで働いたことになる。顔はおぼえているらしい。 「約十年、同じ部にいた勘定になるんだ。でも、ほとんどつきあいはなかった。向うは三十年近く先輩だからね。話も合わないし、仕事でも直接関係がなかった」 「泉次長って暗い感じの人でしたね。いつもぼんやり席にすわって。そばの部長が一日中忙しそうだったから、対照的だったわ」 「彼は窓ぎわだったからな。でも、定年まで次長でいられたんだからラッキーだよ」 「そうなんですか。私はあの人の暗い顔だけが印象に残っているんです。亡くなったときいて、ああやっぱり、と思いました。不幸な亡くなりかたをする人だって、私、なんとなく感じていたみたい」  苦そうに典子はエスプレッソを飲んだ。記憶をたどって話しはじめた。  入社したころ、典子らは天気のよい日の昼休み、近くの日比谷公園へバレーボールをしにゆく習慣だった。新入社員の女の子ばかり七、八人で輪になって球を打ちあげた。  近くのベンチで泉正雄がじっとそれを見ていることがあった。いつも一人だった。バレーボールがはじまったあとベンチにあらわれ、終るまえに去っていった。ながめるだけで声をかけてはこなかった。  彼の足もとにボールがころがると、立ってひろい、恥ずかしそうに打ち返してきた。すみませーん。典子たちがさけぶと、いやいやというように手を横に振った。あらためて暗い顔になって典子らをながめた。 「ピチピチギャルのバレーボールをまぶしい思いで見ていたんだろうな。いつも一人だったのか。たしかに明るくないな」 「変なおじさん、と私たち噂してたんです。じっと見ているだけなんだもの。気味がわるかったわ。痴漢《ちかん》みたいで」 「痴漢は気の毒だよ。べつに妙なそぶりはなかったんだろう。窓ぎわにおかれて、あの人は希望がなかったんだ」 「バレーボールの場所を変えようかって、私たち真剣に話しあったんです。そのうちあの人が退社して、問題は消えましたけど」 「そんなことがあったのか。女の子にしかわからない側面が男にはあるんだなあ」  しばらく島崎は考えこんだ。これまでろくに思い出しもしなかった泉正雄の姿が、急にはっきり脳裡《のうり》によみがえった。  定年まぎわ、泉がそんなに暗い顔で暮していたとは気がつかなかった。退職後泉は事業をはじめた。失敗して不安定な仕事につき、最後は殺されてしまった。  不幸を目標にしたような人生だった。「大過なく」という語を絵に描いたような彼のサラリーマン人生がなぜそんな方向に傾いてしまったのか。くわしく調べてみたいと島崎は思う。なにかがはっきりすれば、島崎自身の指針にもなるはずだった。 「泉さんは高田専務の後輩なんでしょう。息子を監督しろって専務にいわれてたみたいですね。ときどき高田健一さんをつれて食事にいったりしてましたよ」  記憶をたどる面持《おももち》で典子は話した。酔いで顔がかすかに赧くなっている。 「そうらしいな。うちのお坊ちゃまは、めいわくがっていたんだろうが」 「泉さんがおやめになったとき、高田さんったら、化学品部の同期生五、六人とお祝いのパーティをやったんですよ。厄払《やくばら》いだって。スパイがいなくなったって」  泉正雄は高田健一の勤務ぶりを逐一《ちくいち》高田専務に報告していたらしい。健一にすれば、わずらわしくて仕方がなかったのだろう。  典子はまだ新入社員だったので、そのパーティには招待されなかった。先輩の女子社員が三、四人参加してあそんできた。羽目《はめ》をはずしたパーティだったらしい。銀座の酒場で飲んだりうたったりしたあと、会社の近くのホテルの部屋をいくつか借りて、みんなで泊った。当時、高田健一はまだ独身だったので、そんなバカさわぎも思いのままだった。 「なるほど、好ききらいは別にして、お坊ちゃまと泉さんは若殿と教育係の老臣のような関係だったんだな。どうりであいつ、ショックをうけていたよ」  泉が死んだときいて、みるみる血の気をなくした健一の顔が脳裡にうかんだ。  ひょっとすると、P商事の社内で、泉の死にいちばん衝撃をうけたのは、高田健一だったかもしれない。  二人は食事を終えた。ショーパブのような店へいってみるか、ワインバーがいいか、ホテルのバーでしずかに飲むのがいいか、島崎は典子に訊いてみた。 「ホテルのバーがいいわ。大人のムードのある店で飲みたい」  愛らしく首をかしげて典子はいった。  島崎は心臓が甘くふるえた。典子が島崎と二人きりになりたがっているのがわかる。  二人はSホテルへもどった。地階のバーのカウンター席へ腰をおろした。バーボンの水割りを注文して語りあった。  典子にはいま恋人がいない。学生時代には一つ年上の恋人がいたが、彼が卒業して銀行へ勤務してから、どちらからともなく遠ざかった。典子が商社へ入ってからは、完全に切れた。向うには新しい恋人ができたらしい。それを知っても、典子はとくに打撃をうけなかった。もう想いが冷えていた。島崎とデートしたいと思うようになった。 「おれはツイているんだなあ。きみと仲良くなれるなんて、信じられないよ。でも、独身の若い社員がたくさんいるのに、どうしておれのようなオジサンと——」 「私、仕事のよくできる人にしか魅力を感じないんです。それに島崎さんはルックスが良くて背が高いし——。たのしくあそばせてもらえそうな気がする」 「わかった。楽しくやろう。きみはいま人生でいちばん美しい時期にある。それにふさわしい経験がつめるようにお手伝いするよ」 「女は結婚すると自由でなくなるでしょ。いまのうち冒険がしたいんです。いろいろ教えてくださいね。島崎課長となら、きっとすばらしい想い出がつくれると思うわ」  乾盃して二人は水割りを飲みほした。  島崎は席を立ち、典子を残してバーを出た。  フロントテーブルで部屋をとった。  土曜日のせいか、ダブルベッドの部屋はふさがっている。十五階のツインベッドの部屋へ島崎はチェックインした。  キーをもって島崎はバーへもどった。典子をうながして立たせ、そこを出る。エレベーターで十五階へのぼった。ほかに人がいなかったので、島崎はエレベーターのなかで典子の肩に腕をまわしていた。さわやかな典子の化粧品の香りが急に濃くなったようだった。  二人は部屋へ入った。窓辺に立って夜景を見おろした。六本木の街の灯々《ひび》が、足もとへかき寄せられたようにせまい範囲にあつまっている。車の灯が虫のように動いていた。二人きりで飛行機に乗っている気分である。仕事も家庭も遠い夢のようだった。  島崎は典子をこちらに向かせた。抱き寄せてくちづけにゆく。ため息をついて典子は応じた。島崎は舌で典子の舌をさぐりにゆく。されるままに典子はまかせていた。すこしずつ呼吸が早くなっていった。  耳に島崎はくちづけした。舌で耳孔《じこう》をさぐると、典子は声をあげて体をすぼませる。首すじを舌でなぞったときも、典子は同じような反応をみせた。すばらしく敏感な肌をしている。長年さがしていた宝物にめぐり会ったよろこびに島崎はかられた。  ベッドに典子を腰かけさせて、島崎はバスルームへ入った。入浴の支度をする。外へ出て、冷蔵庫の缶ビールを二つ出して典子のとなりに腰をおろした。ビールを一口ずつ飲んでから、あらためて抱きあった。 「ああ、もう私、島崎課長のものなのね。私、課長の恋人なのね」 「そうだよ。もうだれにもわたさないぞ。なにがあっても絶対離さない」 「うれしい。ああ、私、ふるえてきた。止らないわ。ねえ、どうして。どうして私、ふるえるのかしら」 「期待しているからさ。大丈夫だよ。かならず期待にこたえる。いいセックスをする」 「そんなつもりじゃないのに。ああ、そんなつもりじゃないのよ。私、うれしいの。こうしているだけでもう——」  典子の口を島崎はキスで覆《おお》った。  服をぬがせにかかる。典子は人形のようにぐったりしてすべてを島崎にまかせた。上衣とスカートを島崎はぬがせ、パンストへ手をかける。典子は目をあけ、両ひざを折って体をすぼめた。いそいで起きあがり、ベッドをおりた。スーツを抱きかかえる。 「ねえ、シャワーあびてきていい」  ふりかえって彼女は訊いた。  もちろん。島崎はうなずいた。スーツを抱いて体をかくしながら、典子は小走りにバスルームへ近づいた。クロゼットにスーツをおいて、バスルームのなかへ消えた。扉に鍵をかける音がきこえた。  島崎はほっと息をついた。ぶじここまで漕《こ》ぎつけたという安堵《あんど》の吐息《といき》だった。  服をぬいでパンツ一つになる。ベッドに寝そべって残りのビールを飲んだ。典子はなかなかバスルームから出てこない。もったいをつけているのかもしれない。典子のぶんまで残りのビールを飲みほした。時計を見ると、典子がバスルームへ消えてから、まだ十分あまりしかたっていなかった。  やっと典子がバスルームから出てきた。裸身にバスタオルを巻きつけている。壁鏡のまえに腰をおろして化粧をはじめた。室内の灯のおかげで、典子の肩や腕や脚は青白く、湿ったようにみえた。  島崎はうしろから典子に近づき、青白い首すじと肩にくちづけした。典子はみだれた表情になって身悶《みもだ》えする。ふりかえって両手をのばしてきた。  抱きしめたい衝動を島崎は自制した。逃げるようにバスルームへ入った。手早くシャワーをあびて外へ出る。部屋は暗くなっていた。ベッドのそばのスタンドの一つにだけ、光量を小さくしぼって灯がついている。オレンジ色の光が、横たわった典子の顔をぼんやりと染めていた。島崎は近づいていって、典子のそばに腰をおろした。 「どうして暗くしたんだ。典子のヌードをしっかり見たかったのに」  典子の体から島崎は毛布を剥《は》ぎとった。  均整のとれた裸身が、黒いヴェールをすかしたような感じで目に映った。かすかに笑って典子は片ひざを立てる。下腹の黒い翳《かげ》を島崎の視線からさえぎろうとしていた。 「そんな——。私のヌードなんか平凡ですよ。とても鑑賞に値いしないわ」 「平凡なもんか。すばらしいプロポーションだ。暗くてもちゃんとわかる。背がそんなに高くないのに脚が長い。お尻が男の子のように小さい。胸はBカップ。最高だよ」 「当ってるゥ。どうしてわかるんですか。いつも観察してたんですか」 「そうさ。会社で立ち働いているきみの姿をいやらしい目で盗み見ていたんだ。いつの日かこうしてキスしてやろうと思って」  典子の耳と首すじに島崎はキスした。  舌さきでなぞって、ゆっくりと下降する。肩からわき腹、そして乳房へ移った。指とくちびるで愛撫《あいぶ》をつづける。典子はかぼそい声をあげはじめた。島崎は乳房を吸いながら、右手で典子のふとももの内側をさぐりにゆく。湿った、なめらかな肌の感触を指さきでたしかめた。くすぐるように指を使う。  ああ、ああ良い。こんなのはじめて。典子はつぶやいた。島崎の指が新しい箇所にふれるたび、ぴくんと痙攣《けいれん》する。指が女の部分に近づいても、同じように痙攣した。島崎が舌で乳首を刺戟してやると、ブリッジのように反《そ》って典子は悶える。女の部分への愛撫を欲しがっているのがわかった。  知らん顔で島崎は乳房にこだわりつづけた。指ではふとももをさぐるにとどめる。典子はやがて赤ん坊がむずかるような声をあげはじめた。ねえ。声をあげて催促する。乳房で島崎の顔をおしのける仕草をした。  典子は島崎の右手首をつかんだ。そのまま島崎の手を女の部分へ誘導する。島崎の指は草むらにふれ、やがて、あたたかく濡れたやわらかな肉のなかへ沈みこんだ。  典子は声をあげ、あごを突きだした。呼吸が切迫してくる。 「これでいいんだな典子。こうしてほしかったんだろう」  島崎は指を動かしはじめた。  甘い声をあげて典子はうなずいた。いじわる。笑いのこもった声でいった。島崎の指の動きがいそがしくなると、さそいこむように両脚をひらいた。下腹をもちあげる。女の部分のやわらかな肉のなかから、暖い液がじわじわと湧き出している。  島崎は指さきで液を掬《すく》って、典子の女の部分から顔を出している真珠の粒に塗りつけた。すこしたつと、真珠の粒は磨き立てられたようにすべすべしてくる。かすかに指さきでふれるだけで、典子の体が痙攣した。甘い声がしだいに苦しそうになってくる。  島崎は典子が可愛くてたまらなくなった。じっとしていられない。下降して典子の両脚のあいだへうずくまった。吸いこまれるように女の部分へくちづけにゆく。舌をおどらせて典子の体へ快感をおくりこんだ。  典子の声が悲鳴に近くなった。上体が揺れる。腹のあたりだけが静止している。島崎の舌が移動するたび、典子の粘膜はふるえ、暖い液があふれ出てくる。  くちびると舌を使いながら、島崎は職場の典子の姿を脳裡に描きだした。端末機を操作する典子、電卓のキーを叩く典子、電話をかける典子、書き物をする典子、書類をかかえてコピー室のほうへ歩いてゆく典子。  さまざまな典子が島崎の頭のなかで生きていた。どの姿にもひそかに島崎はあこがれていた。一度でいい、典子の服をぬがせて思いきり愛撫したいと夢に見ていた。  その典子がいま島崎のまえに横たわっている。思いきり体をひらいて淫《みだ》らなキスをうけとめ、悶えながら泣いていた。典子の粘膜を島崎はむさぼっている。草むらに鼻をくすぐられている。夢のようだった。自分ほど幸福な男は世の中にいないと信じられる。  そのことを島崎はたしかめたい気持にかられた。上体を起し、男性を典子の女の部分にあてがった。ゆっくりとなかへ入る。典子は反って、苦しそうな声をあげた。快楽が強すぎて、甘い声にはならないらしい。  上体を起したまま、島崎は動きだした。典子が両脚で腰をはさみつけてくる。典子は呻《うめ》いていた。しきりに頭を左右にふっている。快楽を拒んでいるようにみえる。  自分といま一体になっているのがまちがいなく西尾典子であることを確認したい欲求に島崎はかられた。右腕をのばして、枕もとのスイッチの釦《ボタン》をおした。部屋が明るくなる。悲鳴をあげて典子は両手で顔を覆った。島崎は動きをつづける。両手を顔にあてたまま、典子は反りかえり、頭をふって悶えた。また悲鳴をあげた。こんどのは快楽の頂上にいきついたしるしの悲鳴だった。  午後十一時に二人はSホテルを出た。  入ったときとちがって、典子はぴったりと島崎に寄りそい、手を握りしめている。  まだ人通りは多い。おびただしいネオンの下を、三々五々人影がゆききしている。車のクラクションが騒々しかった。硝子《ガラス》張りのカフェバーにはまだ客がひしめいている。 「どこかで一杯やっていこうか。土曜だから、遅くなってもいいんだろう」  歩きながら島崎は訊いた。  帰って眠りたいのが本音だが、口に出すのはかわいそうだ。どうせこの時間はかんたんにタクシーがつかまらないだろう。一、二時間道草を食うより仕方がない。 「このへんに私、知ってる店があるの。寄ってみましょうか」  典子が訊いた。相変らず、島崎の肩へ頭をあずけている。  その店へいってみることにした。島崎は彼女について裏通りへ入った。ビルの一階にある酒場へ典子は島崎を案内した。  円形のカウンターと、テーブル席のある店だった。ニューヨークあたりの酒場がモデルらしい、メタリックな内装である。女のピアニストがジャズを弾《ひ》き語りしていた。身のおき場もないほど隙間なく椅子がならべられ、客がひしめきあっている。白人や黒人のグループもいた。アメリカかぶれの若者が好みそうな酒場である。  人をかきわけるようにして、島崎と典子はすみの席に腰をおろした。やってきたボーイにビールを注文した。 「カウンター席で男性のグループと話している人がママなの。ここのオーナーなのよ。若いころニューヨークで暮したんだって。きれいな人でしょ」  典子が島崎に顔を寄せて説明した。  ママは四十歳前後の、小造《こづく》りな目鼻立ちの女である。酔っているのか、ねむそうな顔をしている。むかしはキビキビした、小粋《こいき》な女だったのだろう。笑うと、急に溌剌《はつらつ》とした感じになる。しばらくすると、またねむそうな顔になってタバコをくゆらせた。  島崎は首をかしげた。どこかで見たような顔の女だ。銀座のスナックバーあたりで働いていたことがあるのだろうか。いや、これだけの店のオーナーである女性が、島崎の出入りできる程度の店で働いていたとは、ちょっと考えられない。  典子とママの視線が合った。典子が会釈《えしやく》すると、ママはワイングラスをもちあげてみせ、一瞬、生き生きした笑顔になった。 「きみはけっこう顔なんだな。見直したよ。ときどき飲みにくるのか」  感心して島崎は訊いた。  最近のOLはまったくよくあそぶ。会社からまっすぐ帰宅する日は週に一、二度しかないような者も多い。典子も案外、盛り場になじんでいるのかもしれない。 「いえ。一度だけきたことがあるんです。四月の新入社員の歓迎会の流れで。七、八名いたかな。高田さんが引率してくれたんです」 「お坊ちゃまが。なるほど、ここはあいつのテリトリーだったのか」 「ママとは長いおつきあいみたい。高田さんは学生時代から出入りしてたみたいですよ」  歓迎会の流れで、高田健一は同僚や女子社員をひきつれてここへ乗りこんだらしい。  高田の奢《おご》りで、みんなで羽目を外した。会社では高田はソツのない勤務だけを心掛けている弱々しい社員である。だが、プライベートの時間は、けっこう親分気取りで行動しているらしい。良家の息子だからそれができる。泉が退職したときといい、歓迎会の流れといい、高田は気前よく同僚たちに豪遊させて一種の権力を保持しているのだ。 「なるほど、高田健一にはわれわれの知らない顔があるんだな。ただのお坊ちゃまだとあなどってはいけないらしい」  あいつは狡《ずる》い。言動に裏表がある——同期生の森川里志がいっていたことを、島崎は思いだした。  親の金で親分を気取っているだけのことである。問題にするには当らないのかもしれない。だが、高田健一のことが島崎は妙に気がかりだった。昨夜会社に妙な電話が入ったことにも原因があるようだ。  ママが島崎のそばにやってきた。典子に紹介されて名刺を交換した。「杉本《すぎもと》こずえ」と水平に活字が並んでいる。「ムーンリバー」というのが店の名前だった。 「P商事の課長さんなんですか。じゃ、ケンちゃんの上司にあたるかたですね」 「直接の上司なの。ママ、大事にしてあげてね。高田さんが出世するもしないも、島崎課長の胸一つなんだから」  典子が横合から口をはさんだ。  ことばに棘《とげ》があった。高田健一と杉本こずえの仲を疑っているらしい。そのことを島崎に知らせようとして、ここへつれてきたのかもしれない。 「よろしくおねがいいたします。ケンちゃんはもう長いお客さまなんです」  如才《じよさい》なくこずえは頭をさげた。  一杯いただいていいかしら。島崎にことわってからこずえはボーイを呼び、グラスに入ったブランデーをとりよせた。あらためて島崎らはこずえとグラスを合わせた。 「島崎さん、失礼ですけど、入社は何年でいらっしゃるんですか」  とりとめのない会話のあと、杉本こずえが訊いた。  昭和五十二年。島崎はこたえた。日本経済の規模がかなり大きくなっていた。とくに苦労もなく島崎はP商事へ入った。 「あ、五十二年。そうなんですか」  二、三度こずえはうなずいた。記憶をたどるような表情になった。  島崎は胸をつかれた。記憶がよみがえった。杉本こずえは当時、P商事のOLだった。化学品部ではない。一階上のエネルギー部門に籍があった。二十代の終りぐらいの年齢にみえた。明るい顔の、頭の回転の早そうな、キビキビしたOLだった。英語が堪能《たんのう》のようだった。エレベーターのなかで外人と話している彼女を見たことがある。  彼女の姿はまもなく会社から消えた。結婚したのだろう。名前をたしかめるひまもないまま、島崎はそう解釈した。すぐに彼女のことをわすれた。記憶にとどまるにしては、あまりに淡い縁だった。 「ママはむかし、うちの会社におつとめだったんじゃないんですか。見おぼえがあるんだ。たしかエネルギー事業部に——」  こずえをみつめて島崎は訊いた。  エーッと典子がさけんだ。初耳だったらしい。 「ちがうわ。人ちがいですよ。私、P商事なんて大企業におつとめしたことはありません。小さな貿易会社で働いたことはあるけど」  こずえは笑ってかぶりをふった。  正面から島崎をみつめた。よく観察して人ちがいを訂正してもらいたいという態度である。島崎は自信がなくなった。もう十三年も以前のことなのだ。 「そうかなあ。似ているように思うんだけど。美人で仕事もできそうな人だった」 「課長、その人に片想いだったんですね。いまでもわすれられないんでしょう。だからママの顔とイメージがダブったのよ」  典子が笑って島崎を睨《にら》んだ。  典子とただの仲でないことを、こずえはとうに見ぬいているだろう。噂はかならず高田健一に伝わる。なにか対策を考えなければならない。島崎は自分にいいきかせた。 「私、島崎さんのあこがれのOLに似ているってことなのね。ああ、今夜はハッピー。久しぶりでいい話をきかせてもらった」  杉本こずえは席を立った。ほかの客の相手をしに、別のテーブルへ移っていった。 「あのママ、高田さんとふつうの関係じゃないんですよ。私たちの一致した意見。だって高田さんったら、ママ、ママってメロメロなんですもの。歓迎会の晩、私たち、見せつけられたんです」  こずえの姿を目で追って典子がささやいた。いくぶん嫉妬もあったらしい。 「でも高田は新婚だろう。若い奥さんをほうっておいて、あんなおばさんとつきあうとは思えないけどなあ」 「結婚まえからつづいていたんじゃないの。よくあるケース。清算できないまま、ずるずると尾をひく恋愛って、多いんですよ」 「それよりおれ、あのママが気になるね。たしかに彼女、むかしP商事にいたんだ。どうして嘘《うそ》をつくのかな。水商売をしていることをもとの同僚に知られたくないのだろうか」 「だとすれば、私、ママに恨まれるわ。なにもむかしの自分を知っている人をつれてこなくても、と思っているのよ、きっと」  ピアノ演奏のテンポが早くなった。  黒人が一人ピアノのそばに出て、手拍子を打って歌いはじめた。長い脚をおどらせてステップを踏んだ。客の外人たちがいっしょに歌いだした。踊り出す者もいる。まるで米軍基地のそばの酒場だ。 「わけがわからない店だな。堅気《かたぎ》のサラリーマンには似合わないバーだよ。高田のやつ、妙なところが好きなんだな」 「学生時代から彼、よくあそんでいたみたいですよ。留学もしていたんでしょう。ふつうのバーが物足りないのかもしれませんね」 「まあいい、私生活がどうあろうと、仕事さえしっかりやってくれれば文句はいわないよ。私生活はこっちも似たようなものだから」  島崎は典子の手を握りしめた。肩をすくめて典子は握りかえしてくる。 「おれとのセックス、どうだった。まあまあの線だったかい」  典子の耳に島崎は顔を寄せた。反射的に典子は顔を遠ざけて笑った。 「最高。最高でしたよ」  すぐに顔を寄せて典子はささやいた。  目がうるんでいる。魅力的だった。島崎がいま二十代だったら、ホテルの部屋に入りなおす気になったかもしれない。  もうすぐ午前一時である。もうタクシーがひろえるはずだ。二人は「ムーンリバー」を出た。杉本こずえは席についたまま、会釈をよこしただけだった。 3  翌週の月曜日の朝、島崎俊彦は出勤してきた高田健一を机のそばへ呼んだ。  金曜の夜、大東洋産業というところから電話があり、例のものに五千万円の値がついたという伝言があったことを告げた。  目をふせて、ほほえんで高田はきいていた。あ、そうですか。あっさり答えた。まったく動揺の色はなかった。 「なんだね例のものというのは。P商事の扱い品目じゃないんだろう」 「ちがいます。個人的にちょっと関係しているビジネスがあるもので」 「アルバイトにマンション転がしでもやっているのか。少々のことは干渉《かんしよう》しないが、本業に影響のないようにしろよ」 「はい。無茶《むちや》はしません」 「大東洋産業というのは地上げ屋かなにかなのか。電話してきたのはガラの悪い男だったぞ。暴力団みたいな口をきいていた」  高田が急に眉根を寄せた。  神経質に眉がふるえた。質問されるのを極度にいやがっている様子だった。 「暴力団ではありませんが、まあ似たような連中です。深いつきあいがあるわけではないので、ご心配なく」  やがて、おだやかに高田は答えた。顔にはいつもの微笑がもどっている。  二、三業務上の打合せをしたあと、高田は席にもどった。さっきの彼の、ひどく苛立《いらだ》った表情が島崎は印象に残った。妙な電話の一件といい、派手な夜あそびといい、お坊ちゃまはどうもただ者ではなさそうである。  いつものように始業ベルが鳴った。ビジネスの渦中に島崎は投げこまれた。電話したり、部下に指示したり、資料を読んだり、来客に会ったり、あわただしい時間が経過した。  多忙のなかで、新しいよろこびを島崎は味わえるようになった。  二課の西尾典子のほうへときおり視線がいった。向いあって二列に並んだ十ばかりの机の、右の列のまんなかに典子の席はあった。デスクワークする典子の顔をななめ左から島崎は見ることになる。  きまじめな顔で典子は働いていた。端末機を操作したり、電話に受け応えしたりする。課長になにか指示されたり、男の課員に依頼をうけたり、いつも忙しそうだった。  典子の裸身がいやでも島崎は脳裡にうかんだ。ベッドのうえであえぐ表情や、甘い泣き声が思い出される。いま仕事に追われている典子を見ると、他人が見たことのないベッドのうえの典子を知っていることが、しみじみと幸福に感じられた。サラリーマンになってはじめてこんなよろこびを知った。  職場で毎日顔を合わせながら、島崎は同僚の私生活についてほとんどなにも知らない。同僚も島崎のことは知らない。島崎と職場の同僚たちは、業務の面ではひどく密接で、私生活の面ではおそろしく疎遠な人間関係のうちにあった。だが、女子社員とは、公私ともに親密になれる。体で求めあうことができるからだ。企業内において、ほんとうに分け隔てのない人間関係は、競争に明け暮れる男どうしよりも、男と女のあいだにこそ成立するのではないかという気がした。  ときおり典子と視線の合うことがあった。典子はすばやく周囲をうかがい、だれも見ていないのをたしかめてかすかに笑う。目に力をこめることもある。それだけのことで島崎は心が浮き立った。土曜日まで待ちきれない。今夜にも典子に会いたかった。  午後になった。島崎は課員の一人につきそって取引先を訪問する予定があった。外出の支度をしていると、机のうえの電話が鳴った。人事一課長からだった。 「ちょっとこちらへきてくれんか。警察の人がきみの話をききたいといってるんだ」 「おれに——。なんの用ですか。例の泉正雄さんの事件でしょうか」 「そうらしいよ。捜査の過程で、きみに関係のある話が出てきたそうだ」 「変なこといわないでくださいよ。泉さんが定年になってから、おれ、一度も会ったことがないのに。関係だなんてとんでもない」 「おれに説明しても仕様がないよ。ちょっときてくれ。長くはかからないはずだ」  忙しいのに、なんとも迷惑な話だった。舌打ちして島崎は受話器をおいた。  約束の取引先には、さきに課員をいかせることにした。腹立ちをおさえて島崎は上りのエレベーターに乗った。  P商事の管理部門は十二階、十三階にオフィスをおいている。人事部は十二階にあった。年に幾度も足をふみいれる場所ではない。  応接室で刑事が二人待っていた。一人は中年、一人はまだ二十代のようだった。中年の刑事は長野《ながの》、若いほうは林《はやし》と名乗った。 「お忙しいところをまことに恐縮です」  長野には東北|訛《なまり》があった。  重苦しい口調でいって頭を下げた。商社マンがどれだけ多忙な人種なのか、理解している様子ではなかった。 「島崎さんは亡くなった泉正雄さんと懇意でおられたようですな。どういうおつきあいだったか、お話しねがえませんか」  上目づかいに長野刑事はいった。島崎は不愉快で背すじがさむくなった。 「きめつけてものをいわないでください。私は定年後の泉さんと会ったことはないんです。年賀状のやりとりもしていない。在職中もけっして懇意なほうではなかった」  腹立ちまぎれに島崎は早口になった。  一年まえから島崎は禁煙している。だが、久しぶりでタバコがほしくなった。それだけいらいらしていたのだ。 「そうですか。じつは泉さんは、事件の日、島崎さんに会うといって家を出られたようなんですがね」  長野刑事はぽつりといった。林刑事のほうは背すじをのばして島崎を睨みつける。 「私に——。泉さんが。冗談じゃない。私は知りませんよ。だれがそんなことを」 「泉さんの奥さんです。そういって家を出たらしいですよ」  泉正雄は妻と三女の三人暮しだった。三女は製薬会社につとめている。  板橋のマンションに泉一家は住んでいた。以前は練馬で建売住宅暮しだったが、事業に失敗したとき手離してしまった。  泉正雄の三女は毎朝八時に家を出る。泉が出勤しない日も、七時半に三人そろって朝食をとる習慣だった。  その朝、食事の最中に電話が入った。泉が受話器をとり、話しはじめた。ひどく緊張していた。相手は男のようだった。 「そういうことなら、私の口座へ振りこんでいただきましょうか。××銀行の板橋支店。口座番号は——」  どこからか振込みの連絡があったらしい。  では本日かならず。まちがいありません。約束して泉は受話器をおいた。ハンカチでひたいの汗をふいた。 「お父さんにも運が向いてきたぞ。もう一旗あげられるかもしれない。いま考えている事業にスポンサーがついたんだ」  晴れ晴れした面持で泉はそう説明した。  妻と三女は半信半疑だった。これまで何度もそんな話をきかされてきたのだ。  三女はそのまま出勤した。十時ごろから泉は電話でだれかと連絡をとりあっていた。  十一時に泉は自宅を出た。スポンサーがついて浮き浮きしていた。新しい事業の関係者のあいだをまわる予定だという。 「事務所には寄らないんですか」  妻は訊いた。講師登録のある人材派遣会社へ、これまで泉は、外出のつど仕事をもとめて顔出しする習慣だったのだ。 「もうあんなケチな商売、足を洗うよ。でかいことをやるんだ。でかいことをな」  泉は意気ごんでいた。  P商事の島崎という人から電話があったら、夕刻かならずうかがいますと伝えてくれ。玄関で彼は妻にそういい残した。 「P商事へいらっしゃるんですか」 「用ができたので、久しぶりで顔を出してみる。おれを知ってる人間は少いだろうが」  そういって泉は出ていった。  化学品部の後輩に島崎という社員がいることを、泉の妻は以前夫からきいたことがある。なんの疑問もなく夫を送りだした。島崎から電話はなかった。その夜泉は帰宅せず、翌日になって訃報《ふほう》がとどいたのだ。 「こんないきさつなんです。島崎さん、事件当日、泉正雄と会う約束だったんでしょう」  上目づかいに長野刑事は訊いた。いやな光りかたをする目だった。 「とんでもない。さっきいったとおり、定年後の泉さんと会ったことも話したこともありませんよ。OBだという以外、なんの関係もない人なんだ。約束なんてありません」 「しかし、本人はそういって家を出た。奥さんに嘘をつく必要もないわけでして」 「冗談じゃない。こっちはひどい迷惑ですよ。なんだって私の名前が。泉さんとはなんの接点もないのに」  島崎は背中に汗がにじんできた。  刑事たちは冷静に島崎の表情を観察している。そうされると島崎は、まるで自分にうしろ暗い点があるような気持におちいる。 「事件当日——先週の月曜ですな、島崎さんは夕方、どこにおられましたか」  若い林刑事が訊いた。メモ帳と鉛筆をとりだして島崎をみつめる。 「先週の月曜ですか。待ってください」  島崎は手帖をとりだした。毎日のスケジュールが書きこんである。 「月曜は一時から五時半まで会議でした。六時から築地《つきじ》の××という料理屋で得意先と会食しています。出席者は何名——」  手帖を見て島崎は説明した。  泉と会う約束などなかった。手帖を島崎は刑事たちに見せてやった。 「会食のあと、八時から十時ごろまでどこにおられましたか。いや、けっしてアリバイ捜査などではなくて、ただ参考までに——」  長野刑事が発言した。島崎の顔色をうかがう表情だった。 「銀座のRというクラブにいました。メンバーは別ですがね。しらべていただけば、すぐにわかりますよ」  どうして私が泉さんを殺さなくてはならないんですか。なんの接点もないのに。追いかけて島崎は質問を投げつけた。この忙しいのに、なんという目に遭《あ》わされるのだ。 「済みません。被害者の奥さんの証言があるので、われわれとしては役目柄、裏をとらざるを得ないのです」  恐縮する長野刑事のそばで、林刑事はことわりなく島崎の手帖のページを繰っていた。  電話番号の欄に目を通している。泉正雄の住所の番号がメモされていないか、調べているらしい。そんなものがあるわけがない。 「いや、どうもお手間をとらせました。どうぞお引取りください」  やっと解放されて島崎は応接室を出た。  人事部の電話を借りて、訪問する予定だった取引先に連絡してみる。さきに先方へ着いた課員が電話に出た。用件はほとんどかたづいた、いまからきてもらう必要はないという。島崎は先方の担当者に電話に出てもらって、訪問できなかった詫びをいった。 「後日事情をご説明しますが、どうにも避けられない急用ができたものですから——」  受話器をおくと、あらためて腹が立ってきた。泉正雄の妻に、一言文句をいってやらないと気持がおさまらない。  島崎は課へもどった。一〇四番へ泉正雄の番号を問いあわせてみる。板橋、としか住所がわからなかったが、案内係は泉の番号をさがしだしてくれた。  泉宅を島崎は呼び出してみた。弱々しい女の声で応答があった。泉の妻だった。夫の急死から事情聴取、葬儀、埋葬とつづいて、疲れと悲しみに沈み切っているらしい。 「P商事の島崎です。このたびは不慮のできごとで、さぞご心痛のことかと——」  島崎は怒りをぶっつけるわけにいかなくなった。とりあえず悔みをのべた。  蚊《か》の鳴くような声で泉の妻は応じた。何度も頭をさげている気配だった。 「じつはさっき刑事からきいたんですが、ご主人は事件の日、私と会う予定だといって家を出られたそうですね。ほんとうですか」  島崎は用件を切りだした。おだやかに話すよう心がけた。 「島崎さんからお電話が入ると申しておりました。今夜かならずおうかがいするとお答えしろと——」 「おかしいですね。私はまったく心当りがないんです。第一、泉さんがおやめになってから、私は泉さんと電話で話したこともない。お会いする約束なんかするわけがない」 「そうなんですか。でも、私はそのようにきいたものですから。たしか島崎さんと——」 「迷惑ですよ。まったく事実無根です。別の名前とききちがえたんじゃないんですか」 「P商事時代、主人はときどき島崎さんと麻雀をしたと申しておりましたから。私、こんどもそのようなことかと思って」 「参ったなあ。ま、私が無関係であることは刑事もわかってくれたようですがね。以後は私の名前なんか出さないでください」  島崎は電話を切ろうとした。が、思いなおして一つ質問してみた。 「泉さんはこんどどんな事業を計画されておられたんですか。やはりなにか合成樹脂に関係のある仕事でしょうか」  OBの仕事ぶりはやはり気になる。自分の将来と係わりあっているからだ。 「私、よく知らないんです。屋外広告のデザインルームのようなことを申しておりましたが、具体的には——」 「デザインルームですか。なるほど」  島崎は拍子ぬけした。  プラスチック製の看板、標識、ネオンなどのデザイン製作業務を泉はやる気だったのだろう。めずらしくもない商売である。しかも泉は専門のデザイナーではない。人をやとって絵を描かす気だったのだろう。大して儲《もう》かるとも思えない。そんな会社を後援する人間がほんとうにいるのだろうか。 「スポンサーがついたと泉さんはいっておられたそうですね。それ、どんな人ですか」 「ほんとうに私、よく知らないのです。資金面の面倒を見てもらえると泉はいっておりました。五千万円ほど——」 「五千万。なるほど、それだけあればデザインルームぐらいかんたんにひらけますね」  島崎は首をかしげた。  要領を得ない話だが、泉の側では、計画はかなり煮つまっていたようだ。事件の日彼は張り切って家を出ている。  いろいろ失礼しました。未亡人に挨拶《あいさつ》して島崎は電話を切った。ふっと先夜、高田健一にかかってきた電話のことが頭にうかんだ。例のものに五千万円の値がついたと電話の男はいっていた。泉正雄が後援者からうける融資の額と同じである。  だが、双方に関連があるとも思えない。偶然の一致なのだろう。最近の物価の動向からすると、五千万円というのは、まとまった取引の基本単位なのかもしれない。  別の取引先訪問のためオフィスを出ようとして、島崎はもう一つ用事を思いついた。  人事一課長のもとへ彼はいった。刑事の事情聴取の模様をかんたんに報告したあと、エネルギー部門の古い社員名簿を見せてほしいと申しいれた。「ムーンリバー」の杉本こずえがむかしP商事の社員だったかどうかをたしかめておきたい。 「昭和五十二年の社員名簿ならあるよ。でも、やめた人間の現住所まで追跡できるかどうかはわからないぞ。定年退職者の場合は年金やOB会の関係でほぼ百パーセント、住所をつきとめられるけどね」  一課長は資料室から名簿をもってきてくれた。島崎はもどかしくそれを繰った。 「あったぞ。やっぱり——」  島崎はさけんだ。エネルギー事業本部付スタッフのなかに杉本こずえの名があった。  こずえは昭和二十二年生れ。P商事には昭和四十四年入社である。一流私大の英文科卒。昭和五十二年九月、ちょうど三十歳で退社した勘定だった。住所は世田谷区《せたがやく》経堂《きようどう》となっている。もちろんいまはちがうのだろう。  つぎに島崎は高田健一の父、高田浩介の名をさがした。すぐに見つかった。当時高田はヒラ取締役で、エネルギー事業部の部長をしていた。以後十年あまりのうちに彼は本部長となり、常務、専務と昇進して次期社長の本命といわれるまでになった。  石油、天然ガスなどの取扱量が昭和五十年代には飛躍的に増加した。並行して高田浩介の地位も向上したといってよい。現在の彼はエネルギー部門のほか化学品、電子機器、宇宙航空部門なども管轄下におさめて、事実上P商事の舵取《かじと》りをしている。 「なんだね、その杉本こずえというのは」  人事一課長が横合から名簿を覗《のぞ》きこんだ。  人事担当者は、社員についての些細な情報にも神経をとがらせる。大きな目で島崎と名簿を見くらべた。 「六本木でバーをやってる女なんです。どこかで見たことがあると思ったら、やっぱりエネルギー部門のOLだった」 「ムーンリバー」でこずえに会ったときの模様を島崎は話した。西尾典子といっしょだったことはいわなかった。 「そういうケースでは、P商事出身であることをかくさないのがふつうなんだがね。P商事の名はキャリアとして悪くない。むしろ宣伝して、現役のP商事の社員に利用してもらおうとするものだが」 「なにか触れられたくない過去があるのかもしれませんね。スキャンダルでP商事をやめた形跡はありませんか」 「懲戒免職になったのならともかく、ふつうは退職の事情なんかくわしく記録されないからね。杉本こずえは依願退職、理由は自己都合だ。これだけではなにがあったか、見当もつかないよ」  礼をいって島崎は人事部をあとにした。思案をめぐらせながら化学品部へ帰った。  杉本こずえはむかしP商事の社員だった。直属の責任者が高田浩介だった。その一人息子の健一がいま「ムーンリバー」に出入りしている。健一は古い馴染《なじ》みだとこずえはいっていたが、高田親子とこずえにはそれ以上に深いつながりがあるのではないか。ひょっとするとP商事時代、こずえは高田浩介の愛人だったのかもしれない。  その日は夕刻から化学品第二部の部課長会議がはじまった。七時半に会議が終った。オフィスへもどってみると、高田健一が一人で残業をしていた。めずらしいことだった。彼に担当させたアクリル樹脂の一種の開発が順調にすすみそうな気配なので、意欲にかられはじめたのかもしれない。 「ご苦労さん。一区切りついたらビールでも飲みにいかないか」  島崎は声をかけた。まだ健一と二人きりで話しあったことがない。  二つ返事で健一は了承した。いそいそと机のうえをかたづける。  二人は外へ出た。タクシーで銀座八丁目へ出る。ビルの五階にある、島崎のいきつけの酒場へ入った。  とりあえずビールを注文した。二人とも夕食は会社で出前で済ませている。 「例のアクリル樹脂ですが、看板、標識用のルートが快調なんです。K工業所の現地法人の製品がなかなか好評なものですから」  ジョッキをふれあわせたあと、たかぶった声で高田健一は報告した。  そのアクリル樹脂は、P商事の系列の大手化学会社の製品である。プレート状に加工して、看板、標識などの材料に使う。台東区のK工業所へP商事は樹脂を卸し、プレートに加工させていた。そのプレートをK工業所の子会社である香港Kへ輸出し、看板、標識などに二次加工する。それを日本へ逆輸入すると、低価格でユーザーへ売ることができた。香港Kは健一が企画し、P商事が資金を出して設立させた。最近そのプロジェクトが軌道に乗りかなりの利益があがっている。 「春さきに香港へ出張して、現地の事情をくわしく調べたのが良かったんです。課長に出張をみとめていただいたおかげです」  気弱そうにまばたきして健一はいった。  島崎が一課の課長になってすぐ、健一は香港出張を願い出てきた。くわしく事情がわからないまま、島崎はOKを出した。健一のやる気を削《そ》いではならないと思ったのだ。お坊ちゃまが消極的な性格で、戦力にならないという噂はさんざん耳に入っていた。 「なによりだったな。このへんで一旗あげないと、お父さんの手前もある。いつまでも息子が芽を出さないと、次期社長の威信にかかわるということがあるから」  すなおに島崎は祝福した。  じっさい健一には一人前になってもらいたい。島崎の指導力が、次期社長の高田浩介に高く評価されることになる。健一が島崎の課長の座をおびやかすまでに成長すれば、自動的に島崎にも部長の目が出てくる。課長と課員はもちつもたれつなのだ。 「五年計画でプロジェクトを組もうじゃないか。きみは実績をつんで課長になる。おれは押しあげられて部長になる。それが目標だ。おたがい、助けあっていこう」 「ほんとうですか。よろしくお願いします。すばらしいプロジェクトですね。親父が社長でいるあいだに、ぜひ——」  ありがたいなあ、こんなにやさしい課長がきてくれて。前任の森川課長にはずいぶんいじめられました。健一は声を落した。 「いじめられたって、どんなふうに」 「ぼくのやることに一々干渉するんです。自主性をもたせてくれない。うるさくてたまらなかったです。ああいう人っているんですね。ぼくが専務の息子なので、必要以上に辛《つら》く当らずにはいられないんです」  お坊ちゃまは自主的判断ができない。些細なことまで一々指示をあおぎにくる。  前任者の森川のことばを島崎は思い出した。健一の自主性に関して、本人と森川はまったく正反対の見解をもっている。本人の自己診断は当てにならないのが通例である。森川のいうことのほうを、島崎は信じるべきなのだろう。 「おれ、一々こまかく干渉されると、弱いんです。いらいらしてヤル気がなくなる。信頼して自由にさせてもらうほうが、ファイトが湧きます。課長、その線でやらせてもらえないでしょうか」 「歓迎だな。大いに創意工夫を働かせてやってもらいたい。このあいだのクレーム処理なんかも、一々おれの意見をきく必要はなかった。好きにやるべきだったんだ」 「前任の課長にいわれたんです。放っておくとおまえは暴走するおそれがある。マメに相談にこいって」 「森川もきみを一人前にしようと思って必死だったのさ。要するに呼吸が合わなかったんだ。あいつは誠実で実行力もある。見習って損になる男じゃなかったぞ」 「ぼくはだめです。子供のころから一々干渉されつけて育ちましたから。もうご免です。指図されたくないんですよ」  健一のかかえている苛立ちを、島崎はいくぶん理解できた気分だった。  なにしろ父親は一万名のP商事の社員切ってのやり手である。洞察力、判断力、識見、闘争心、統率力。どの点をとっても並ぶ者がいない。周囲に号令を発しながら、重戦車のように巨大組織の階段をのぼりつめた。商社の世界だけでなく、将来は日本の財界のリーダーとなるだろう人材なのだ。  健一はその一人息子である。どんな若者かと学生時代から人に注目されてきた。大観衆が見まもる球場のグラウンドへ登場する感じで、P商事へ入ってきた。 「あれが高田専務のお坊ちゃまか。なるほど、顔も体つきもそっくりだな」 「なんだか頼りないねえ。頭は良いんだろうが、おやじほどバイタリティはなさそうだ。育ちが良すぎるんだろうな」 「あんなのが入ると、上はやりにくいだろうな。へたに怒鳴るわけにいかない。ヘマをやるとおやじに筒ぬけだ。どう仕様もない」 「お坊ちゃまが下手に張り切ると、まわりはやりにくいよ。早く嫁をもたせて、文化活動か何かやってもらうのが一番だよ」  社内のどの部門へいっても、健一はそんなささやきに囲まれたはずである。  ことごとに父親と比較される。一人前以上の働きを要求される。そして父親ほど有能でないとされてバカにされ、人々を安心させるのである。おやじはおやじ、おれはおれ。胸のうちで健一はさけびつづけてきたにちがいない。やることに一々干渉されると、感情が爆発しそうになる——健一のいいぶんは、彼の側に立つと当然のことかもしれない。  語りあいながら二人は飲んだ。本音で語りあう機会をつくって良かったと島崎は思う。健一に放任主義を適用する決心をした。前任者の森川は、素材に磨きをかけようとあせりすぎて、かえって反撥《はんぱつ》されたのだろう。 「ああ酔った。じつにいい気分です。見ててくださいよ課長、とりあえずK工業所を一課のドル箱にしてみせますからね。つぎの月次決算からかなりの黒字になります」  ビールは最初の一杯だけで、健一はバーボンのオンザロックスを飲んでいた。  体は大きくないが、酒は強いらしい。顔が艶《つや》やかなピンク色になった。風呂あがりのように汗ばんでいる。 「このあいだ、六本木のムーンリバーへいったよ。西尾典子に案内してもらった。二課にいるころ、あの子には世話になったから、謝恩パーティをやったんだ」  島崎は話題を変えた。報告と、典子といっしょだったことの弁解を同時にやった。  土曜日だったことはわざとぼかした。休日にわざわざ待ちあわせたとなると、それだけで立派なスキャンダルだ。 「ああ、ムーンリバー。一度みんなをつれていったことがありますよ」  健一はべつに意外そうでもなかった。  あの店は学生時代から行ってるんです。カウンターの内側にいる女の子に目をやったまま、彼は説明した。 「あそこのママ、杉本こずえという人、むかしP商事にいたんだろう。どこかで見た顔だと思ったよ」  島崎がいうと、健一はおどろいた顔を島崎へ向けた。 「彼女、自分からそういったんですか」 「いや、P商事にいたことはないといっていた。きょう人事部へいったついでに、古い社員名簿を調べてみたんだ。エネルギー事業本部付に彼女の名前があったよ」 「そうなんですか。彼女、びっくりしただろうな。まさか自分の顔を知っているP商事マンが店へくるとは」  世間はせまいな。目をふせて健一はしのび笑った。 「杉本こずえはきみのお父さんの知合いなのか。おれが彼女をマークしていたころ、お父さんはエネルギー事業部長だった」  用心しながら島崎は訊いた。立入りすぎた質問かもしれないのだ。 「もちろん父はあのママを知っています。でも、個人的なつきあいはありません。六本木で店をやっていることはぼくが話しましたが、一度もいったことはないはずです」  学生時代、健一は同級生につれられて「ムーンリバー」へ足をふみいれた。  気にいってときどき出入りするようになった。そのうち杉本こずえがもとP商事の女子社員だったこと、健一の父が高田浩介であることをたがいに知るようになった。 「あのママはアメリカに四、五年いて、帰ってあの店をはじめたんです。人生体験豊富だから、話すと楽しいですよ。ときどき課長も利用してあげてください」 「そうしよう。あの人はP商事をやめて、アメリカでなにをしていたのかな」 「ニューヨークでファッション関係の仕事をしてたみたいです。向うのファッションをかなり日本へもちこんだそうですよ」  大切な人物の噂をする表情で、健一は杉本こずえのことを話した。  若者らしいあこがれの情を抱いているらしい。杉本こずえは高田浩介の愛人だったのかと島崎は疑ったが、思いすごしだったようだ。島崎自身はこずえにさほど魅力は感じていなかった。なんといっても島崎よりも十歳近く年上の女である。西尾典子と並べて見たせいもあるが、先夜の杉本こずえは崩れた不健康な雰囲気があって、島崎は顔をそむけたい気分になったものだ。張りつめた、さわやかな雰囲気の女に島崎は惹《ひ》かれる。  健一が席を立ってトイレへ消えた。しばらくもどってこなかった。十五分ばかりして、妙にはしゃいでもどってきた。 「ああ、じつに愉快だ。やっとぼくを理解してくれる上司にめぐり会った。まえの課長もそのまえの課長もだめだったなあ。小物でしたよ。人間が小さかった。ああいうのは屑《くず》だ。せいぜい部次長どまり」  大声で健一は笑った。へたりこむようにスツールに腰をおろした。  おどろいて島崎は彼を凝視した。健一の顔が青い。血の気がないのではなく、文字どおり青かった。青銅の彫像の顔のようだ。  それでいて気分はいいらしい。笑っている。カウンターの内にいる女の子に冗談をいって、可笑《おか》しくもないのにケラケラ笑った。 「課長、まあ、まかせておいてください。ドル箱ですよドル箱、K工業所は」  島崎の肩を叩《たた》いて哄笑《こうしよう》した。  なんという妙な酔いかたをする男なのだろう。島崎はあきれてしまった。だが、からみ酒や泣き上戸よりは我慢しやすい。店の女の子と雑談しながらビールを飲んだ。健一はほとんど一人でしゃべって笑いつづけた。  そろそろ帰ろうか。十時に島崎は腕時計に目をやった。いまならタクシーがひろえる。 「まだ十時じゃないスか。だらしないぞ課長。そんなに奥さんに弱いんですか。朝までやりましょう朝まで。どんなに飲んでも、仕事はちゃんとやるんだから」  相変らず青い顔で健一はいきまいた。  島崎はもてあました。店にいって車を呼んでもらった。まわり道になるが、健一を送って帰るつもりである。  案外早く迎えの車がきた。健一をひきずるようにして島崎は乗りこんだ。  王子経由で練馬。運転手に島崎が告げると、健一は顔をあげてさけんだ。 「ちがいますよ。運転手さん、白山《はくさん》へいって。白山経由で練馬——」  車はすぐに動きだした。ケラケラ笑って、健一は説明をはじめた。  半年まえに王子のマンションをひきはらって妻と別居した。五ヵ月あまりの結婚生活だった。白山の両親の家でいまは暮している。目下弁護士が話合いをしているが、妻とはいずれ離婚になるだろうということである。 「五ヵ月か。ずいぶん早く見切ったものだな。原因はなんだ」 「平凡ですが、性格の不一致です。理屈の多い女でね。毎日|喧嘩《けんか》です。英語みたいにペラペラまくし立てるんです。どこが顔やら口やらという感じで——」  ほんと、女って昂奮《こうふん》すると、話しかたが英語になりますよ。意味はどうでもいい。舌を動かしてりゃいいんだ。健一はまた、ひとりで腹をかかえて笑った。 「奥さんはたしか、M銀行の会長のお孫さんだったな。両方とも毛並が良すぎたんだ。似た者どうし相容《あいい》れなかったんだろう」 「別れるなら子供のいないうちがいいと思うんです。でも、結婚式を盛大にやりすぎたもんで、恰好《かつこう》がつかないんですよ。親父の顔で五百人も呼んだものだから」  政財界の大物が披露宴に顔をそろえた。大手ではないが、マスコミも取材にきた。親が親のためにやった結婚式だった。もともと健一は親のすすめで、別れた妻とつきあうようになったのだ。  親への義理でできた家庭だから、壊れても全然惜しくない。妻のほうもやりなおす気はないようだ。早く離婚を成立させて、青春時代の暮しにもどりたいと健一は考えているらしい。 「良家の娘なんて妻にするもんじゃないですよ。うちの会社のギャルのほうがよっぽどましです。気立てがいいし、飾り気がない。亭主を立ててくれますよ」 「そうかな。しかし、最近はあつかいにくい女の子も多いぞ。自分勝手で、会社のために献身する気が全然ない」 「西尾典子なんかはちがうでしょう。彼女は良い子ですよ。美人で性格もいい。課長、さすがにお目が高いですな」 「いや、彼女とはメシを食っただけだよ。デキてるわけじゃないんだ」  あわてて島崎は弁解した。立場上、絶対に否認しなければならない。  健一は哄笑した。人が変ったようにあつかましくなっている。大丈夫、おれ、口が堅いですから。彼は島崎の肩を叩いた。  車はやがて白山へ入った。白い塀をめぐらせた邸宅のまえで健一は停車を命じた。 「寄ってお茶を飲んでいってください。親父にも紹介します」  強くいわれて島崎は車をおりた。  次期社長を噂される高田専務と親しく話ができるなんて、願ってもないチャンスである。お坊ちゃまの私生活を覗いてみたい好奇心もあった。  邸内でさかんに犬が吠えた。威嚇《いかく》を耳に叩きつけるようなドーベルマンの声だった。健一がチャイムの釦《ボタン》をおすと、玄関に灯がついて戸があいた。小柄な人影が近づいてきて門扉をあけた。 「またお酒を飲んできたの。もっと早く帰らないと朝が大変でしょ。ああお酒くさい。いいかげんにしないと体をこわしますよ」  健一の母親、高田専務夫人だった。島崎に気づいて、彼女はおどろいた顔になった。 「うちの課長。島崎さんだよ。送ってくれたんだ。お茶だしてあげてよ」  健一は母親をおしのけるようにして門のなかへ入った。  島崎はためらった。濃厚な肉親の情愛の気配がガス体のように健一と専務夫人を包みこんでいるのを感じていた。邪魔《じやま》するべきではない。時間も時間だ。これで失礼しますと島崎は母親へ告げた。 「そんなことおっしゃらずに。いろいろきかせていただきたいことがあるの。さ、遠慮なさらずに。主人もまだ起きていますから」  主人、を出されると、抵抗がしにくくなった。島崎は一礼して邸内へ入った。  応接室へ案内された。健一は奥へ消え、しばらくしてガウンに着替えて出てきた。ビールとグラスを盆に乗せている。 「ケンちゃん、まだ飲むのォ。仕様がないわねえ。じゃお母さんがオードブルつくってあげる。そのまえにお風呂は——」  母親の声が奥からきこえた。  健一は答えない。淡々とした面持でビールを注いだ。顔色がすこし良くなっている。 「ケンちゃん、課長さんにお風呂へ入っていただいたら。はい夕刊。課長さんにもなにか着替えをお出ししましょうか。ケンちゃん、ほら、これを飲みなさいよ」  母親が応接室へ入ってきた。夕刊とビタミン剤の瓶をテーブルへおいた。  健一の眉根がかすかにふるえた。母親のお節介に苛立っているのがわかる。母親は五十代のなかばだろう。太って、年齢より老けてみえる。目じりに何本もしわの刻まれた目をうっとりと一人息子に向けている。 「課長、今夜泊っていってくださいよ。奥の座敷で、ならんで寝ましょう。朝はおやじの車に便乗すればいい。そうしましょうよ」  顔をあげて健一がいいだした。 「まさか、そんなわけにはいかないよ」  島崎はあわてて手を横に振った。その瞬間、すがるような健一の表情が目に入った。強く辞退できなくなった。まとわりつく母親を健一はもてあましている。島崎がいなくなったら、口やかましい母親とまともに対面しなければならないだろう。 「よろしかったら、どうぞ健一のいうようになすってくださいませよ。うちへお泊りになるのなら、奥さまもお怒りにならないはずよ。電話なさってはいかが。電話機をおもちしましょうか」 「いや、いくらなんでもあつかましすぎます。家がそんなに遠いわけでもないのに」 「泊ってくださいよ課長。たまにいいじゃないですか。おふくろの味噌汁、案外うまいんです。飲んでみてやってくださいよ」  ケラケラと健一は笑った。疲れてきたらしい。元気がなくなってきている。 「電話機をもってきますわ。早く連絡しないと、奥さまがご心配になる」  専務夫人は応接室を出ていった。  有無をいわさぬ自信がうしろ姿にこもっている。たかが一課長、という専務夫人の自信なのだろう。 「どうして家へ帰ってきたんだ。奥さんと別居したら、一人暮しをすればいいのに」  島崎は訊かずにいられなかった。 「カミサンのいないマンションに一人残るって、暗くていやだったんです。いかにも未練をもってるみたいで」 「別にマンションを借りればいいじゃないか。それこそ青春の復活だろう」 「おやじがうるさいんですよ。一人でおいておくと、なにをやらかすかわからんというわけです。社の女の子をひっぱりこんで乱痴気《らんちき》パーティでもやらかされたら、経営者生命にかかわると思っているんでしょう」  家にいれば面倒がなくていいんです。食事洗濯つきですから。健一はつけ加えた。ぐったりとソファに体を投げだしている。  母親が携帯電話機を手にもどってきた。覚悟をきめて島崎は自宅を呼びだした。午前零時である。妻の綾子《あやこ》はまだ起きていた。 「高田専務のお宅へ泊めていただくことになったんだ。明日はまっすぐ出勤するから」  いわれて綾子はおどろいていた。  綾子と島崎は職場結婚である。高田専務が次期社長の最有力候補であることは、よく知っていた。  母親がオードブルの皿を運んできた。雑談しながらビールを飲んだ。健一は笑い上戸らしくよく笑う。だが、もう哄笑はしない。たえず忍び笑っている。  高田専務が応接室を覗いた。ガウン姿である。書斎にこもっていたらしい。 「きみが島崎くんか。よろしく頼みますよ。ドラ息子を鍛えてやってください」  かしこまって挨拶する島崎へ、おだやかに専務はこたえた。  会社で見かける専務は、きびしい顔で全身から殺気をただよわせている。眼鏡のレンズが冷たく光っている。近寄りがたい印象だった。いま島崎のまえにいる専務は、おだやかで気さくな紳士である。想像していたより五つ六つ老けてみえた。 「あなたもここでお飲みなさいな。たまに若い人たちの話をきいたほうがいいわ」  専務夫人がすすめた。  笑って専務はかぶりをふった。明日にさしつかえるからもう寝るという。毎朝六時に起きて、内外の新聞雑誌にじっくりと目を通す習慣らしかった。  専務はすぐに去った。寝床の世話をするため、夫人があとを追った。 「バカみたいですよ。親父は晩めしのあと、ずっと書斎でお勉強です。経済やら経営の勉強をしている。酒は飲むが、よほどのことがないかぎり銀座なんかには出ません。まったくなにが楽しみで生きているんだか」  健一は閉口した顔で笑った。一つ、大きなあくびをする。 「大企業の経営者はそんなものなんだろうな。生きることは経営することなんだ。喜怒哀楽のすべてが経営のなかにある」 「バカバカしいと思いませんか。檻《おり》のなかにいるような人生じゃないですか。おれ、もっと自由に生きたいですよ」 「具体的になにをやりたいんだ。芸術活動のようなことか」 「そういわれると弱るんだなあ。おれ、音楽も絵も才能がないんです。文学もだめ。やれるのはナンパぐらいのものだな」  二人のグラスに健一はビールを注いだ。自分のぶんを一息に飲みほした。 「蛙《かえる》の子は蛙ってことがあるよ。このへんで肚《はら》をきめて、優秀なビジネスマンを志すべきだ。きみはめぐまれているんだぞ。身近にいい手本がある」 「みんなそういいます。でもおれ、おやじを手本とは思わないな。経営者としては優秀かもしれないけど、いやな人間ですよ。権力で人を威圧するくせがある」 「パワーというもんだろう。やさしいだけでは経営はできないさ」 「他人にたいする要求がきびしすぎるんですよ。おれ、子供のころから威圧されてきたからよくわかるんです。他人がすべて自分の思うとおりの人間でないと気にいらないんだ」  母親がもどってきた。  奥の間に並べて布団を敷いた。風呂の用意もできている。疲れたらいつでも眠ってほしいと島崎に告げた。 「ケンちゃんも、いつまでも学生気分でいてはだめよ。お父さんの後継者になるぐらいでなくては。お父さんにくらべたら、仕事との取組みかたがやっぱり甘いと思う」 「後継者なんて意味ないよ。おやじは社長になったとしてもサラリーマン社長なんだぜ。たいした財産があるわけじゃなし」 「ケンちゃんがしっかりしてくれなくては、お父さんだって困るのよ。息子を一人前のビジネスマンに育成できない人間に、総合商社の社長がつとまるか、ということになる。現にそういっている人がいるのよ」 「わかってるよ。うるせえな。おれ、もう二十八なんだぜ。一々干渉するなよ」 「健一くんがいま担当しているプロジェクトがなかなか有望なんです。いまに実績があがりますよ。私も楽しみにしています」  見かねて島崎は助け舟を出した。ほっとしたように健一はあくびをする。 「そうなんですか。よろしくお願いしますよ。この子にせめて課長になってもらわないと、主人も肩身がせまいんです。大学までは期待どおりに伸びてくれたんだけど、そのあとがもう一つなので」  ケンちゃん、ビールはそろそろ終りにしなさい。レタスとトマトをもっとおたべ。新しいスーツがきょう届いたから、あとで着てみなさい。あ、もう十二時半よ。そろそろ眠らなくてはいけないわ。  会話のあいま、母親はたえず健一に干渉した。可愛くてたまらないらしい。視線を健一にからませつづけている。 「そろそろ休ませていただきます。きょうは少し飲みすぎました」  島崎は申し出た。専務夫人とこれ以上同席するのには耐えられなかった。  お手伝いがやってきて、島崎を浴室へ案内した。一風呂あびて出ると、脱衣場へ着替えが用意してあった。奥の間へ案内される。布団が並べて敷いてあった。健一は代って浴室へ入ったようだった。  島崎は横になった。すぐ眠気におそわれる。寝入る寸前、健一が部屋へ入ってきた。母親がうしろについている。水はいらないか。目覚時計はセットしたか。なにか雑誌をもってこようか。相変らずこまかく世話をやいた。地ひびきを立てて健一は横たわった。 「課長、もうおやすみですか。トイレの場所わかるかなあ」  健一が声をかけてきた。答えるのがめんどうで、島崎は狸寝入りをきめこんだ。  翌朝、七時に目覚時計のベルが鳴った。島崎は起きて身支度をする。健一は布団をかぶって、安息を一秒でも長くむさぼろうとしていた。島崎に起されて、しぶしぶ起きあがって背のびをした。 「あーあ、人生つらいですねえ。定年まで毎朝こうして起されるんですかね」 「きみは人生に期待しすぎなのさ。朝のつらいのは社長もヒラもみんな同じだよ」  苦笑して島崎はいいきかせた。  健一に奇妙な親しみを感じた。弟にたいするような感情だった。島崎には妹が二人いるが、男のきょうだいはいない。潜在していた兄弟愛が、その対象を健一に見つけだしたのかもしれない。  お坊ちゃまにはお坊ちゃまの苦労がある。そのことが島崎にはわかってきた。島崎はお坊ちゃまではないが、高校の教員だった父と世間体ばかり気にする母から、さまざまな干渉をうけて育った。故郷の秋田の田舎町は、町中の人間がたがいに監視しあっているような、息のつまる風土に支配されていた。学校をサボって映画を見たり、女の子と城跡を散歩したりする程度のことで、法律をおかしたような非難にさらされたものだ。毎日が耐えがたく窮屈だった。早く高校を卒業して東京の大学へ入りたい——そればかり考えて島崎は暮した。やがて三十だというのに親からうるさく干渉され、会社では物見高い視線にさらされている健一を見ると、当時の自分を思い出さないわけにはいかなかったのだ。  洗面のあと、島崎はダイニングルームで朝食をごちそうになった。高田浩介夫妻と健一がいっしょにテーブルを囲んだ。  高田浩介はもうネクタイをつけ、上衣を着ればすぐ出かけられる服装だった。昨夜の気さくな雰囲気はない。なにか考えごとをしながら箸をつかった。夫人や健一が話しかけても、短くうなずくだけである。健一はつとめて明るくふるまっているのだが、なにかにびくついている気配がうかがわれた。 「化学品部は最近どうだ。第一、第二とも風通しは良くなっているかね」  とつぜん高田専務は島崎に話しかけた。一瞬、島崎は質問の意味がわからなかった。 「本部長の個室の扉がいつも開いているかということさ。若い社員が自由に出入りしてものがいえる雰囲気がないと、組織が機能しなくなる。官僚化の弊害が生じるわけだ」 「その点は大丈夫だと思います。下から本部長の部屋へおしかけるケースは少いですが、本部長はよく若い社員に声をかけておられますよ。若い社員はあまり遠慮しないでものをいっているはずです」  緊張して島崎は答えた。へたをすると、直属の上司を誹謗《ひぼう》することになる。 「それならいい。うちの会社は上意下達《じよういかたつ》は徹底しているが、下からの声がストレートに上ってこない向きがあって気になるんだ。本部長ではなくて、きみたちミドルに責任のある場合が多いんだがね」 「————」 「ミドルが保身に走ると、情報を取捨選択するんだな。自分に都合のいいことしか上に報告しなくなる。おかげで糞《ふん》づまりがおこる。上は裸の王様というわけだ」 「保身の念から離れられるかどうかでミドルの評価がきまるというわけですね。わかりました。そうなれるよう努力します」  できるだけ明瞭に島崎は答えた。朝食の味どころではなかった。 「うちの課長は風通しがいいよ。ゴマスリと大威張りを使いわけるタイプじゃないもの。いままでの課長のなかでは最高ですよ」  健一が助け舟を出してくれた。照れくさかったが、やはりありがたい。 「そうかんたんにいうものじゃない。保身の念から離れるのは大変なことなんだ。断腸の思いを味わう場合だってある」  苦笑して高田浩介は息子にいいきかせた。  健一は赧くなって横目で島崎を見た。他人のまえで子供あつかいされたくないのだ。  迎えの車がきたとお手伝いが告げにきた。うなずいて高田浩介は食事をつづける。 「きょうは課長がいっしょだから便乗させてよ。たまにはベンツで出勤したい」  健一がおそるおそる申し出た。母親も横合から夫に頼んだ。 「いや、それはいかん。役員の特権を私的に分配することはゆるされないよ。ベンツに乗りたかったら、努力して早く役員になればいいんだ。おまえたちは電車でいきなさい」 「ちぇッ、杓子定規《しやくしじようぎ》なんだから。たまに情のあるところを見せてもいいだろう」 「これが父親の情というものなんだ。妥協を排して息子を一人前に育てるのが、父親に課せられた義務だ。わしはそう考えている」 「いいんだ高田くん。お父さんのおっしゃるとおりだよ。電車でいこう。われわれにはまだベンツに乗る資格はない」  いそいで島崎はとりなした。 「そうよケンちゃん。電車になさいよ。車だと道路が混んで遅刻するかもしれないわ」  母親が健一をなだめた。最初は健一の味方だったのに、豹変《ひようへん》している。 「いいよ。もう頼まないよ。けっこうだ。なんだよ、小さなことに勿体《もつたい》つけやがって」  健一は叩きつけるように箸をおいた。  立ってダイニングルームを出ていった。母親があわててあとを追った。 「仕様のないやつだ。母親が甘やかして、あんなにしてしまった」  高田浩介は苦りきって、吐きだした。  顔をあげて正面から島崎をみつめた。熱気が島崎へおしよせてくる。 「頼むぞ島崎くん。あいつを一人前にしてやってくれ。どうしてもモノにならないなら、ほかの道を歩ませるしかないが、なるべくそうさせたくないんだ。男にとって、総合商社ほど働き甲斐《がい》のある職場がほかにあるとは思えない」  高田浩介は頭をさげた。狼狽《ろうばい》して島崎は制止する以外になかった。  高田浩介の親心は身にしみた。巨大商社の次期社長といわれる男が組織のはるか裾野《すその》にいる一課長へ頭をさげたのである。人の親でないかぎり、あり得ないことだった。 「健一くんはちょっとしたプロジェクトを担当しているんです。彼の企画した事業ですが、これが有望でしてね。今月あたりから成果が出そうで、楽しみにしているんです」  K工業所の件を島崎は説明した。  何度もうなずいて高田浩介はきいていた。目がかがやいている。どこにもいる父親の表情である。あらためて島崎は、健一の育成係として責任を感じた。なんとか高田浩介の期待にこたえなければならない。保身の念は二の次にして、そう思った。  高田浩介はやがて出勤していった。島崎と健一も高田邸を出た。健一はフェラーリをもっているが、通勤には使わない。地下鉄とJR線を乗りついで都心へ向かった。 「うちの親父、冷酷非情だっていわれてますけど、無理ないですよね。あれじゃ人はついていかない。人間味がなさすぎます」  満員電車のなかで健一は父親を批判した。悟りきったような淡々とした面持である。 「経営者に冷酷非情はつきものさ。でも、きみのお父さんは鬼じゃない。ずいぶんきみのことを心配しているぞ。おれにはよくわかった。きみにきびしく当るのは、お父さん流の愛情表現なんだ。わかってあげなくては」 「ある程度、こっちはわかっています。わかっていないのは向うなんですよ。息子の気持なんかどうでもいい。ひたすら一つの型を押しつけてくるだけなんです。こっちもけっこう親父を助けている部分があるのに」  島崎は横目で健一をうかがった。どんな点で彼が父を助けているのか見当もつかない。  車内の混雑がひどくなった。周囲の人の体にしめつけられる状態がつづいた。  しばらくして、右どなりの女子高校生の様子がおかしいのに島崎は気づいた。その女の子は上気してうなだれている。ときおり小さく身をもだえた。かるく口をあけて呼吸している。ときおり目をつぶった。動こうとしても、混雑で身動きもできないらしい。  女の子のまえには高田健一が立っていた。澄ました顔で向かいあっている。電車が揺れるたびに女の子へ体を密着させてゆく。ときおり女の子の表情をうかがった。右手の位置はわからないが、いたずらしていることはたしかである。大胆にやっている。  仕様のないやつだ。島崎は舌打ちし、苦笑いした。高田健一という若者がますます理解できなくなってくる。教育されなければならないのは島崎のほうかもしれない。  数日後の夜、島崎はデスクワークで残業していた。  五時すぎに外回りから帰ってデスクワークをはじめた。気がつくと、午後七時すぎだった。化学品第二部一課にはもう課員はだれもいない。高田健一も出先から直帰するむね連絡してきた。  二課では男子二人と女子一人が残業していた。女子は西尾典子である。かるく首をかしげて、真剣な顔で電卓を操作していた。  甘い感情が島崎はこみあげてきた。典子は島崎のさそいを待っているのだ。そのために大して忙しくないこの時期に残業しているのだろう。彼女のほうからは声をかけてこない。島崎の負担になってはいけないと、遠慮しているのだ。  島崎は直通電話をとった。典子の机のうえの直通電話を呼びだした。  島崎の声をきいて、あ、と典子はさけんだ。受話器を耳にあて、背を丸くした。顔を見られまいとしているようだ。  まだ仕事は終らないのか。島崎は訊いた。 「いえ、もうお終いですけど」  声をおさえて典子は答えた。息のはずんでいるのがわかる。 「では一杯やりにいこう。一階の通用門のそばで待っているよ」  背を丸くしたまま、あわただしく典子はうなずいた。  受話器をおいて机のうえをかたづける。終って、すばやく島崎へ笑いかけた。 「おさきに失礼しまーす」  同僚へ典子は声をかけた。跳ねるようにオフィスを出ていった。  島崎も帰り支度をした。オフィスを出ると、化学品本部長と鉢あわせした。本部長はまだ自室で執務していて、手洗いに出てきたところだった。 「あ、島崎くん、××化工の融資の件、納得がいかないところがあるんだ。部屋へきて説明してくれんか」  声をかけて本部長は手洗いへ向かった。  十分後にうかがいます。とっさに島崎は返事をした。まずいことになった。彼は舌打ちした。本部長の稟議書《りんぎしよ》チェックは執拗《しつよう》である。一時間は解放してもらえないだろう。  島崎は一階へおりた。ビルの正面玄関はもうしまっている。横手の社員用通用門から外へ出た。そこは駐車場になっている。通用門の左手に人影がひっそりと立っていた。  人影は近づいてきた。島崎は足をとめて、ため息をついた。 「本部長につかまってしまったんだ。いまから書類の説明をさせられる」 「だめなの。何だ、だめなの。せっかく張り切ってたのにィ」  典子は泣きそうな声をあげた。 「ツイてないよ。あと二、三分早く腰をあげればつかまらずに済んだのに」  典子の両肩を島崎はつかんだ。  引寄せるまえに典子は体を倒してきた。島崎の胸にひたいをすり寄せる。典子の体の重みとぬくもりが島崎の欲望を揺さぶった。  島崎は典子の下腹部を右手でさぐった。腹と左右のふとももが形づくる逆三角形の部分へ、掌《てのひら》がぴったりと吸いついた。  典子はかるく両ひざを折った。すぐに伸ばして、両手で抱きついてくる。駄々をこねる子供のように苛立たしげな声をあげ、上体を揺さぶった。化粧品の香りがただよう。 「よし、どこかで飲んで待っててくれ。できるだけ早く本部長を撒《ま》いてくるから。一時間あれば片がつくと思う」  島崎は典子の体を離した。欲望をかかえて、まっすぐ帰宅できるものではない。 「ほんとう。じゃこのあいだの店で待っている。六本木のムーンリバー」  典子は顔をあげ、声をはずませた。  ムーンリバーか。一瞬島崎はためらった。ママの杉本こずえは、むかしの話をされてシラを切った。些細《ささい》なことかもしれないが、気分のよいことではなかった。  だが、とっさに適当な待ちあわせ場所を思いつかなかった。典子のいうとおり、「ムーンリバー」で待っていてもらうことにした。できるだけ早く駈《か》けつけるから。約束して島崎は会社にもどった。  約三十分質問に受け答えして、島崎は本部長を納得させることができた。まだ八時すぎである。飛び立つ思いで彼はタクシーに乗り、六本木へ駈けつけた。  店は六分《ぶ》の入りだった。日本人と外国人が半々ぐらいの割合である。典子はカウンター席に杉本こずえと並んで腰をおろしていた。典子が外国人の男から声をかけられたりしないよう、こずえは気をきかせて相手をしてくれていたらしい。 「こんばんは。先日はどうも——」  こずえは困ったような笑みをうかべた。嘘をついたのが気になるのだろう。 「さっきまでお坊ちゃまがきていたんだって。危いところだったわ」  典子は肩をすくめた。島崎との関係をやはり知られたくないのだろう。 「心配しなくていいわ。こういう商売をしている者は口が堅いのよ。あなたがたのこと、絶対ケンちゃんにはだまっている」  こずえは島崎と典子にうなずいてみせた。  島崎はだまってバーボンの水割りを飲んだ。先日典子とここへきたことは、もう高田健一に話した。二人がただならぬ仲であることに、健一はもう感づいている。こずえが秘密をまもろうとまもるまいと、たいして変りはなかった。だが、話してもかまわないとわざわざ表明する必要もない。 「お坊ちゃまはきょう、得意先からまっすぐ家へ帰ると連絡してきたんだぞ。こんなところで道草を食っていやがったのか」  島崎は高田邸の模様を思いうかべた。  健一が道草を食いたくなる気持がよくわかる。いっそ一人暮しをすれば良いと思うのだが、健一はそれをしない。両親の意向に逆らえないらしい。家で暮せば万事がらくだなどと健一はいっていた。あれだけ干渉されても、結局両親のひざもとにいるのがお坊ちゃまは好きなのかもしれない。 「島崎さん、先日ケンちゃんのお宅へ泊ったんですって。さっききいたわ」  たばこの烟《けむり》を吐いてこずえが訊《き》いた。 「ほんとう。お坊ちゃまのお城へ。どうしてまた——」  典子は目を丸くした。  高田邸へ泊ったいきさつを島崎は話した。豪邸にはちがいないが、健一の家はお城とか御殿というほどの規模ではなかった。内装や家具調度も思ったよりずっと質素だった。 「巨大商社のトップといっても、結局はサラリーマンなんだ。不動産業者とか地上げ屋のほうが金持かもしれないよ」  島崎がいうと、女二人は信じられないような面持になった。むりもない。島崎自身がそのことを意外に思ったくらいだ。  高田健一の家庭の様子を島崎は話した。勤勉で意志的で偉大な父親。息もつかせず一人息子の世話をやく母親。両者にふりまわされ、耐えているとしかみえない健一。しかも健一には家を出る気がない。二人の女は身を乗りだしてききいっていた。 「高田さんが奥さんと別居中だなんて知らなかったわ。お坊ちゃまとお嬢ちゃんの結婚って、それなりに難しいんだろうな」 「おふくろが口うるさいとケンちゃんがいっているのはほんとうなのね。豪邸に住んでもそれでは息苦しいだろうなあ」  健一が別居中であることをこずえはとうに知っているらしかった。なにかと相談に乗っていたのだろう。  典子が手洗いに立った。よその席へ移ろうとするこずえを制止して島崎は訊いた。 「ママはやはりむかしP商事にいたんじゃないか。人事部で名簿を調べたよ。おれが入社した年の秋に退職している」 「そう。わざわざ人事部へいったの」  仕方なさそうにこずえは笑った。お節介な男だと思っているらしい。 「どうして嘘をついたんだ。なにか他人に知られたくないことでもあるのか」 「別に。深い意味はないわ。むかしの話をするのが面倒《めんどう》だったの」 「あのころエネルギー事業本部長はいまの高田専務だった。あなたのもとへその高田専務の息子がよくあそびにくる。どうもふつうじゃない感じがするな」  ママはむかし高田専務の恋人だったんじゃないのか。二人の関係が周囲にバレそうになったから、ママは会社をやめたんだろう。  島崎はこずえの顔を覗《のぞ》きこんだ。  こずえは目をそらせてタバコの烟を吐きだした。ふっと苦笑いした。動揺の色を見せまいとしているのがわかる。 「どうしてそんなことに興味をもつの。放っといてよ。他人事《ひとごと》でしょ」 「おれは健一の上司だからね。息子の教育をたのむと専務にいわれてもいる。彼についていろいろ知らなくてはならないんだ」  ひょっとすると健一はきみと専務のあいだにできた息子じゃないのか。はんぶんは冗談で島崎は訊いてみた。  こずえは吹きだした。笑いながら、島崎の背中を一つ叩《たた》いた。 「変なこといわないでよ。ケンちゃんはもうすぐ二十九なのよ。私はいま四十三歳。十五のとき子供を生んだというの——」 「お坊ちゃまはママになついているんだろう。なにか特別な事情があるのかと思って」 「別にないわ。ただの酒場のママとお客の関係にすぎないんだから。私がもとP商事のOLで、ケンちゃんのお父さんが高田浩介だというのはあくまで偶然なの」 「ほんとうかなあ。お坊ちゃまが最初この店へきたきっかけはなんだったの」 「ケンちゃんの学生時代のお友達がつれてきたのよ。もう五、六年まえになるわ」 「その友達、なんという男。仕事はなに」 「なんといったかなあ。わすれたわ。もう何年も顔を見せていないから」  店内に流れていたピアノ演奏のスタイルが変った。  これまでの男のピアニストに変って、二十歳ぐらいの女がスタンダードの弾《ひ》き語りをはじめていた。髪の長い、野性的な顔立ちの女の子だった。杉本こずえに印象が似ている。島崎は大発見をした気分でさけんだ。 「わかった。あの子はママのお嬢さんだろう。高田専務とのあいだにできた子なんだ」  杉本こずえは否定も肯定もしなかった。ゆっくりとブランデーを飲んだ。 「週に二日、バイトで出ているの。音大へいっているんだけど、本人はジャズが好きで、アメリカへいくっていってるわ」 「そうか。健一はあの子に会いにくるんだ。そうだろう。腹ちがいの妹だものな」 「だれにもいわないでね。ケンちゃんのお父さんの信用に傷がつくから。おねがいよ、絶対に秘密にして」  それでなくとも——。娘のほうを見ながらこずえはつぶやいた。 「それでなくとも、どうしたんだ」 「スキャンダルを嗅《か》ぎまわるやつがいるのよ。ゴロ新聞の記者みたいな男。脅《おど》して金にする気なのかしら」 「そんなのがいるのか。厄介《やつかい》だな」  典子が手洗いからもどってきた。  かなり酔っている。島崎より三十分以上さきに飲みはじめたのだから、無理もない。甘えて島崎にもたれかかってくる。 「そろそろ失礼しよう。さっきの件は心配しないで。秘密厳守だ」  典子とこずえの双方に声をかけて、島崎はスツールから腰をあげた。  山王下《さんのうした》のほうへ二人は歩いた。裏道へ折れ、ファッションホテルへ入った。三十ばかりの部屋のうち、二室が空いていた。円型ベッドのある部屋を二人はえらんだ。  部屋へ入ってすぐ二人は抱きあった。くちづけをかわした。典子は息をはずませ、軟体動物のようにからみついてくる。隙間《すきま》のないほど二人は体を密着させあった。  さっき会社のそばで抱きあったときのように、島崎はいきなり典子の下腹部へ手をのばしたりはしなかった。ホテルの部屋へ入った余裕がある。典子の細い腰を抱きしめ、背中や尻やふともものかたちを 掌《てのひら》でさぐった。二人のふとももが密着しあうと、甘くしびれる感覚がそのあたりから流れこんでくる。 「ああ、うれしい。やっと会えた」  典子はため息をついた。よろめきながら、窓辺の椅子に腰をおろした。  島崎は浴室で湯の支度をした。壁も扉も硝子《ガラス》張りの浴室である。最近のギャルは、平気でこんな風呂に入るらしい。  部屋にもどると、典子は椅子に腰かけてウーロン茶を飲んでいた。島崎はまだ飲みたりない。ビールを飲んだ。 「最近、すごく安心して働けるんです。会社のなかに強い味方ができたから。島崎課長に愛されてると思うと、私、恐いものがないような気持になれるわ」 「おれなんか、大して強い味方じゃないよ。たかが課長だ。なんの力もない」 「そんなことないわ。私たちから見たら課長は大権力者ですよ。島崎課長とこうなって、私元気が出たわ。いままでは心細かった」 「どうして。典子はみんなとうまくやっているんじゃないのか。孤立しているのか」 「そうでもないけど、ほんとうに心をゆるせる人はいないもの。会社のお友達なんて、うわべだけのおつきあいなんですよ。おたがい私生活のことはなにも知らないわ。うっかり本音をいって祟《たた》ることも多いし」 「そういえばそうだな。男だって同期生の一部ぐらいしか気のおけないやつはいない。毎日机を並べている同僚だって、おたがいの家族のことなんかほとんど知らないものな」  高田健一の私生活を覗き見たのがどんなに異例のことだったかを、あらためて島崎は噛《か》みしめた。  ヒラ社員にとって一般に課長はうっとうしい存在である。その課長を健一はひっぱりこむようにして自宅へ泊めたのだ。それだけ島崎を味方にしたいのだろう。 「高田健一さんが奥さんと別居していたなんてねえ。私、全然知りませんでした」  典子も同じことを考えていたらしい。  なにをするつもりでホテルへ入ったのかをわすれたような面持である。 「お坊ちゃまは、女にたいして案外横暴なのかもしれないぞ。親に圧迫されるイライラを女にぶつけるのはよくあるパターンだからな。表面おとなしいやつが、そうなりやすい」 「でも、高田さんは別居するまで夫婦だけで住んでたんでしょう。イライラするほど親の圧迫を感じていたかしら」 「そうだったな。でも、あいつの場合は会社へいけば親父のプレッシャーを感じるんだ。どこへいってもあれが高田浩介の息子だといわれる。やはり焦るんじゃないかな」 「私、親が平凡なサラリーマンでラッキーだったのかもしれませんね。ダレソレの娘、ということでプレッシャーを感じたことなんか一度もないんだから」 「おれもそうさ。平凡な市民万歳だな。ふつうの市民がいちばん自由なんだ。だれにも注目されずに、こんな恋愛もできる」  ビールとウーロン茶で二人は乾盃した。  典子は脚《あし》を組んでいる。スカートをたくしあげたい衝動に島崎はかられた。 「彼が別居中だって井上裕子《いのうえゆうこ》さんに教えてやろうかな。知ってるでしょ、化学品第一部二課の女性。彼女、高田さんのファンなんです。奥さまがいてもいいからつきあってみたい、なんていってた」  肩をすくめて典子は笑った。  井上裕子は白人のような目鼻立ちの大柄な女子社員である。気が強そうだった。健一のような柔和《にゆうわ》で上品な感じの若者は、あんな女に好かれるのかもしれない。 「それもいいだろう。ガールフレンドがいるほうが、お坊ちゃまも気持が安定する」  島崎はビールを飲みほした。これ以上、健一になどかまっていられない。彼は立って、円型ベッドに腰をおろした。 「さ、ここへおいで。おたがい大事な味方であることをたしかめあうんだ」  島崎はシーツを叩いてうながした。  鼻を鳴らして典子は立ち、島崎のとなりにやってくる。二人は抱きあって、息をはずませてくちづけをかわした。  ベッドに島崎は典子を押し倒した。上衣をぬがせにかかる。典子は制止して体を起こし、浴室のほうへ歩いていった。 「なにこれ。まる見えじゃないの」  硝子張りの浴室のまえで典子はさけんだ。  しばらくためらっていたが、決心したように服をぬぎはじめた。  円型ベッドに横たわって島崎は典子を見ていた。典子はこちらに背を向けている。ブラジャーをはずし、まえかがみになってパンストをとった。つぎにしゃがんでショーツをずりさげ、立って足からぬきとった。  かたちの良い尻《しり》が島崎に笑いかけてくる。測ったように均整のとれた裸身である。典子はタオルで下腹部をかくし、扉に手をかけた。島崎を一瞥《いちべつ》して浴室へ入った。  浴室のあかりは赤だった。典子の裸身が夕焼に染まったように、硝子越しにうかびあがった。背すじをのばして典子は立ち、湯ぶねのまえで、横顔をこちらへ向けてしゃがんだ。乳房のふくらみの下弦の線が優雅である。腰から尻にかけての線が、うっとりするほどまろやかだった。  典子はタライに湯をくんで、女の部分を洗いはじめた。さわやかな色香にあふれていた典子の姿が一転して淫《みだ》らになった。島崎は痛いほどの欲望にかられる。服をぬぎすてて、浴室へ入っていった。  湯に典子は体を沈めている。体をねじって島崎のためにスペースをとった。白い脚が湯のなかでひるがえるように動いた。尻が急に大きく映った。  典子と並んで島崎は湯につかった。典子の肩を左手で抱き、ゆったりと両脚をのばす。一日の疲れが急速に湯に溶けていった。まず彼は休息をむさぼった。  しばらくして島崎は右手で典子の乳房を愛撫しはじめた。ちょうどよい大きさの、敏感な乳房である。典子はあおむいて、大きなため息をついた。右手を島崎の男性にのばしてくる。指をからませて、動かしてきた。ぎこちない手つきだった。これでいいのかしら。問いかけるように横目で島崎を見て、甘えるように笑った。島崎のそこには、痛いほど力がみなぎっている。  島崎も典子の下腹部へ右手をのばした。女の部分をさぐる。やわらかな肉の表面に、湯よりも濃い液体がたまっている。指を動かすと、典子は甘い声をあげ、男性をとらえている右手に力をこめた。  のけぞって典子は両脚をとじる。島崎の手が窮屈《きゆうくつ》になるのを恐れるように、すぐ両脚をかるくひらいた。 「外へ出よう。湯のなかでは感じがにぶくなるから」  典子の腕をとって島崎は立ちあがった。  プラスチックの腰掛に典子の尻をおかせる。うしろへまわり、典子の体に石鹸《せつけん》を塗って両手でこすってやる。寒さに耐えるように典子は上体をちぢめた。乳房、わき腹とすすむにつれて典子は上体を反りかえらせる。島崎に体をあずけてきた。典子の肩ごしに島崎は彼女の下腹部のあたりをながめる。  草むらが濡《ぬ》れて縮んでいた。その下の部分は見えない。窪《くぼ》みの気配だけがただよっている。ひどく淫らな印象である。思わずそこへ島崎は右手をのばした。濡れたやわらかな肉のひだを指でかきわける。すぐに小さな真珠の粒をさぐりあてた。  典子は声をあげた。あごを突きだして、全身で島崎の胸にもたれかかる。島崎は左手で典子の乳房を愛撫し、右手で女の部分をさぐった。真珠の粒を中心に、指や掌で甘い神経を刺戟してやる。快感を掘りだし、敏感な粒に向かってかき寄せる心地である。  典子の胸が波打ちはじめた。ひきつったように彼女はあえいだ。やがて大きな声をあげ、全身でのけぞった。体をねじり、足をばたつかせる。はずみにプラスチックの腰掛け台が横へ飛んでころがった。無我夢中で典子はそれを蹴とばしたらしい。  扉口にあったバスタオルをとって、島崎はタイル貼りの床に敷いた。ぐったりした典子をそのうえに寝かせる。たがいちがいに折りかさなって、女の部分へ顔を近づけた。  指で彼は複雑な肉のひだをひらいた。顔を出した真珠の粒へ吸いついていった。吸ったり舌でころがしたりする。しばらくして、やや下方の、暖い液があふれている箇所へ移った。典子の下半身は最初のうち、おずおずと彼の意向にしたがった。いまは思いきりひらいて、送りこまれる快楽のほんの一片でも逃さずに吸収しようとしている。  愛撫をつづけながら、島崎のほうも下腹部に快感をおぼえた。男性が典子の口のなかへひきこまれているのを彼は知った。典子は口をすぼませて吸ったり、頭を動かしたり、舌をおどらせたりして快楽を送りこんでくる。ときおり指で、下方を揉《も》んでくる。舌をつかいながら島崎は呻《うめ》いた。二度目で馴《な》れたせいか、典子の愛撫はのびのびしている。  典子は両ひざを折って立てている。島崎の顔のすぐ前に、白い左右のふとももがV字型に立っていた。ふっくらした内ももが、陽をあびているように白くかがやいている。ときおりV字型は広くなったり、せまくなったりした。左右どちらかの脚がまっすぐ伸ばされ、またひざを折ることもあった。  典子の腹が前後に小さく揺れはじめた。おさえようとしても、停《と》まらないらしい。苦しそうな声がきこえ、島崎の男性を包んでいた快感が消えた。快楽の送り手であることを彼女はやめ、受け手に専念しはじめる。  典子の声が切れ切れになった。快楽の頂点にたっしたことを彼女は告げた。つぎに呻き声がつづいた。典子はこまかく上下に動き、やがてぐったりと静止する。  島崎は顔をあげて典子から離れた。あおむけに横たわった典子を、タイルにすわって見おろした。幸福そうな典子を見て、島崎も満ちたりた気持になる。ただ体はたかぶっていた。痛いほど男性に力がみなぎっている。  典子がねむそうに目をあけた。 「ああ良かった。最高だった」  右手を典子はのばして男性をさぐる。いかないの。彼女は訊いた。  欲望を島崎は自制できなくなった。だが、若者とちがって余裕のあるところを見せなければならない。タライに湯をくんで典子の裸身から石鹸を洗い落とした。自分の体も洗った。典子を横抱きにかかえあげて浴室を出る。円型ベッドのうえに典子を投げだした。  島崎も並んで横たわった。典子を抱き寄せて、のしかかろうとする。 「私にさせて、私に——」  典子は島崎の胸を両手で突いて、あおむけに寝かせた。  島崎に馬乗りになった。男性を右手でおさえ、体を沈めてくる。典子のなかへ深々と突き立った自分を島崎は感じた。  両手を典子は島崎の胸に突いた。動きだした。たちまち顔をしかめる。典子の指に力がこもり、動きがあわただしくなった。 「愛してます。課長、愛してますよう」  典子は呻いた。島崎の胸に倒れこんできて、腰だけが揺れ動いた。 4  週明けの月曜日、午前中は会議でつぶれた。島崎俊彦は昼食のあと、応接室で来客と話しこんだ。終ると二時半だった。 「この調子だと、すぐに五時じゃないか。一日が三十時間になってほしいよ」  席に腰をおろして、ななめ前の席の女子課員に向かって愚痴《ぐち》をいった。  苛立《いらだ》たしい顔つきになっているのがわかる。愚痴をいってやや気持がおちついた。  島崎の机の電話が鳴った。受話器をとると人事部一課長だった。 「ご多忙中|手間《てま》をとらせるが、ちょっときてくれ。刑事が会いたいといっている」 「刑事が。なんの用ですか。このまえで用は済んだはずですよ」  島崎はわれながら尖《とが》った声になった。  例の事件の捜査をまだやっているのかといってやりたい。この忙しいときに、なんともめいわくな話である。 「おれにいわれても困るよ。向うさまのご指名なんだ。ちょっと顔を出してくれ。ほかにも事情聴取された者が三、四人いるんだぞ。きみのところのお坊ちゃまもな」  人事部一課長はさっさと電話を切った。  高田健一は外出中である。事情聴取をすませて外回りに出たらしい。  顔をしかめて島崎は立ちあがった。その瞬間、となりの課の西尾典子と視線が合った。典子が怯《おび》えた顔になったので、自分がかなりけわしい表情でいるのがわかった。いそいで典子に笑いかえしてやる。ほっとしたように典子はデスクワークにもどった。  人事部のフロアに島崎はのぼった。先日と同じ長野、林の両刑事が応接室で待っていた。挨拶をかわし、腰をおろしてから、島崎は自分がおそろしく無愛想な顔つきでいるのに気づいた。若い林刑事が敵意をむきだしにして控えているからだ。  島崎は表情をやわらげるようつとめた。刑事たちの反感を買って三十分も一時間も拘束されては、たまったものではない。 「先日は失礼しました。島崎さんをお呼び立てしたのはまちがいでした。それがはっきりしたので、まずご報告をと思いまして」  中年の長野刑事が切り出した。たいして恐縮した様子ではなかった。 「アリバイを調べていただいたんですね。ご苦労さまでした」 「アリバイよりなにより大事なことがあります。泉正雄さんのご遺族の証言がまちがっていたんです。捜査の結果、それが判明いたしましてな」 「証言がまちがっていた——。それ、どういうことなんですか」 「泉正雄さんが事件の日に会う予定でいたのは、島崎さんではなく篠崎《しのざき》さんという人だったんですよ。先入観があって、ご遺族がききちがいをされたというわけですなあ」  長野刑事が無表情に説明をつづけた。  P商事の篠崎さんから電話が入ったら、夕刻かならずおうかがいすると返事するように。事件の日の朝、泉正雄は妻にそう告げて家を出た。  泉の妻は篠崎を島崎とききちがえた。夫がもと勤務していたP商事化学品事業部に島崎という男がいるのを知っていたからだった。ゆうべは島崎君たちといっしょに麻雀だったと夫から何度かきかされたことがある。P商事の、という肩書が誤解をたすけた向きもあった。篠崎という名を、それまで泉の妻は夫の口からきいたことがなかった。 「御社の鉄鋼事業部に篠崎|敦夫《あつお》さんというかたがおられます。役職は鉄鋼第一部次長、となっている。泉さんは事件の日の夕刻、その人に会われるつもりだったんですな」 「そうだったんですか。鉄鋼第一部の次長。私もはじめてきく名前ですよ」  島崎は刑事たちへうなずいてみせた。  一万名近い社員のいる総合商社では、よその事業部はよその会社と同じようなものだ。部長まではともかく、それ以下の役職者の名前はとてもおぼえきれない。 「ご迷惑をかけて申しわけないことをしたと泉さんの奥さんがいっておられました。われわれも同じように思っております」 「いや、理解していただければいいんです。でも、島崎ではなくて篠崎だったとどうしてわかったんですか。泉さんの奥さんが思い出してくれたんですか」 「ちがいます。われわれが推理しました。まず社員名簿をチェックして——」  刑事たちはP商事の社員名簿から島崎という名の人間をひろいだした。  男子三名、女子一名の該当者がいた。だが、面接してみたところ、泉正雄に関係のある者は一人もいなかった。事件当日のアリバイも全員がたしかだった。  刑事たちはついで、泉正雄の妻のききちがえの線から名簿をチェックした。島崎のザキをききちがえる可能性は小さい。シマのほうならその可能性はある。塩、下、城などとともに篠がうかんだ。個別に面接していって、鉄鋼第一部次長篠崎敦夫へめぐり会った。  事件の日、篠崎は午後八時に銀座のホテルのロビーで泉に会う予定だった。連絡がないので帰宅し、そのまま泉のことをわすれた。彼が死んだこともきょうまで知らなかったという。マスコミにとってはありふれた殺人事件だったらしく、泉の死は新聞のかたすみに小さく報じられただけだった。それもすべての新聞というわけではなかった。 「ふしぎなんですよ。篠崎さんは、泉さんと面識がなかったらしいんです。事件の日、もし会っていればそれが初対面だったそうです」 「初対面——。すると、泉さんはなにが目的で篠崎さんと会うはずだったんですか」 「よくわからないんです。篠崎さんの説明がもう一つあいまいでしてね」  二人の刑事は顔を見あわせた。若い林刑事がこんどは説明をはじめた。  事件の約一週間まえ、P商事化学品事業部OBの泉正雄という男から電話が入った。ある人物の私生活に関する貴重な資料をもっている。現品を見たうえで、しかるべき値段で買いあげてもらえないだろうか。泉はそういった。篠崎には寝耳に水だった。なんの話なのか、見当もつかなかった。 「ある人物ってだれのことです。それがわからないと返事のしようがありません」 「現物を見ればわかりますよ。この資料をうまく利用すれば、あなたの大手柄《おおてがら》になる。重役の目だって出てくるかもしれませんよ」 「なにをバカな。あなた少しおかしいんじゃないの。見ず知らずの人間にそんな話を」  篠崎は電話を切ってしまおうかと思った。  だが、相手はP商事のOBである。邪慳《じやけん》にするに忍びなかった。結局、彼のいう資料を見ることにした。事件の日の午後八時に会う約束ができた。 「あの資料を印刷して要所々々にバラまけば大さわぎになりますよ。ある新聞社は五千万円で買おうといっているんです」  そういって泉は電話を切った。  約束の夜、待ちあわせの場所に泉があらわれなかったので、篠崎はキツネにつままれた思いだった。どうせ根も葉もない話だったのだろうと解釈した。刑事から事情をきいて彼は度胆をぬかれた。 「五千万ですか。五千万円の資料——」  林刑事の説明が終って、島崎はつぶやいた。事件の数日後の夜、高田健一にかかってきた電話のことを思いだした。 「どうかしたんですか」  林刑事の目が光った。  だまって島崎はかぶりをふった。うっかりしたことは話せない。 「しかし、妙な話ですね。泉さんは篠崎さんになにを見せようとしたのかな」  独り言めかして島崎はつぶやいた。  おぼろげに事情がわかりはじめている。泉正雄は筆頭専務の高田浩介の側近だった。高田の私生活を熟知している。ゴロ新聞が五千万円もの大金を出して買う値打のある私生活資料があるとすれば、それは高田専務のものにちがいない。なんといっても高田はP商事の次期社長といわれている男なのだ。  高田はしかし、絶対的な本命というわけではない。鉄鋼事業部担当の豊口保次《とよぐちやすじ》副社長が対抗馬と目されていた。豊口は高田よりも年齢が高く、社歴も長い。鉄鋼、造船、機械など重厚長大産業が全盛のころは、それらの部門をひきいてP商事に大きな貢献をした。人柄は温厚だが、冷徹な判断力と果敢な実行力をもっているという噂である。社内の人望は高田浩介におとらず厚かった。もし豊口が燃料、化学品などの花形部門を担当し、高田が重厚長大産業部門を担当していたら、次期社長は確実に豊口だったろうといわれている。 「島崎さんは明敏なかただ。おおよそ事情はおわかりでしょう」  長野刑事がのどの奥で笑った。島崎は表情を変えずに沈黙をまもった。 「泉正雄は高田浩介専務のスキャンダルをなにか握ったんですよ。それを篠崎に売りわたそうとしたんだ。五千万円でね」  林刑事が苛立たしげに口をはさんだ。  高田浩介がスキャンダルで社会的信用を失えば、次期社長は豊口保次以外に考えられなくなる。豊口には野心があるはずだった。高田にとってそれが致命的な情報であれば、五千万円出しても入手する気になるだろう。 「しかし、それなら泉さんは直接豊口副社長と交渉するはずです。なにも部次長クラスに話をもちこまなくても」  島崎は異論をとなえた。  かつての上司のスキャンダルを上司のライバルに売りわたす——P商事のOBがそんなことをするとはちょっと考えられない。 「篠崎さんはなんというか、豊口副社長の秘書のような人らしいですよ。むかし豊口さんが部長だった時代にその下にいて、ことばは悪いが腰巾着のように仕えたそうです。篠崎さんはいま五十六歳だが、おかげで関係会社へ出向しないで済んでいるようです」 「調べていくうちに、私は因果を感じましたなあ。化学品事業部におけるかつての泉さんと同じ立場に篠崎さんはいたようですよ。いまも豊口邸によく出入りしているらしい。豊口副社長のお供でときどき魚釣りにもいくそうです。P商事のような大企業では、そんな生きかたをする人もいるんですなあ」  豊口と篠崎のつながりは、双方の妻が高校の先輩後輩の間柄であることから生じた。  横浜の女子高校の同窓会で、篠崎の妻は十歳ばかり先輩にあたる女性が、夫の上司に嫁いでいることを知った。以来、篠崎の妻は積極的に豊口の妻へ接近したらしい。やがて夫婦で豊口邸へ出入りするようになった。篠崎の妻は夫の昇進のためにすすんで行動するタイプの女だったわけだ。  泉正雄は最初、高田浩介についてのスキャンダルを提供したいと直接豊口副社長に申しいれたにちがいない。豊口は篠崎を呼んで、泉から話をきいてみろと指示したのだろう。篠崎は副社長側の窓口になって泉正雄と交渉にあたるつもりだった。泉が高田専務のひそかな雑務係だったのと同様、篠崎も豊口副社長の雑務をひきうけていたのだ。  二人の刑事は代る代る説明してくれた。ここまで打ちあけても捜査に支障を生じる心配はないのか。島崎は気がかりになった。 「しかし、どうして私にこれほどくわしく話してくださったんですか。私になにかお訊きになりたいことでも——」  島崎は刑事たちをみつめた。  苛立っていた。とんでもない嫌疑をかけられているのかもしれない。 「ひょっとしたら島崎さんは、高田専務の私生活についてなにかご存知かと思いましてな。世間に公表されると、高田専務が非常に痛手をこうむるというようなことを」 「絶対にご迷惑はおかけしません。真相糾明のためにご協力いただけませんか」  刑事たちは猫なで声になった。島崎はあとじさりたい心境だった。 「知りませんよそんな話。高田専務は雲の上の人です。一課長にすぎない私に、あの人の私生活のことがわかるわけがない」  腹が立って島崎は口調が強くなった。  高田専務のプライバシーについて最近、多少のことを知った。だが、島崎はP商事の社員である。会社の不利益になることを外部の人間に洩《も》らすわけがない。第三者に上司の悪口をいうのも、趣味に合わない。 「しかし、島崎さんは高田健一の上司でおられる。健一の身の上相談に乗ってやることがあるんでしょう」 「いや、プライベートな問題についてはなにも話しません。仕事のことではしばしば相談に乗りますがね」  高田専務のことが知りたければ、直接本人に当ってみたらどうなんですか。健一君に訊いてみる手もある。島崎はつけ加えた。 「本人が話してくれる気遣いはありません。健一は午前中に事情聴取しましたが、父のことはなにも知らないといっています」  長野は苦笑いした。捜査が進展しないので困っているらしい。 「健一君が知らないのに、私が知っているわけがないでしょう。刑事さんたち、目のつけどころがまちがっていますよ」 「そうですかねえ。島崎さんは先週、高田邸に泊られたんでしょう。あの一家にかなり食いこんでおられるわけだ」 「たしかに泊りました。でも、あんなの初めてなんですよ。私が健一君の上司になってからまだ三ヵ月です。食いこむだなんて、とてもそんな状態じゃない」 「健一君をどう思いますか。ちょっと毛色の変った男にみえるんですが」 「偉い父親をもって、いろいろ苦労があるらしいですよ。われわれにはわからない重荷を背負っています。しかし最近はよくやっています。成績があがってきた」  話しながら島崎は、こんどは別の面で苛立ってきた。  やらなければならない仕事が山ほどある。なぜこんなことで時間をつぶされなければならないのか。いいかげんにしてもらいたい。 「そろそろ失礼します。予定がありますので」  島崎は腕時計を見て腰をあげようとした。  林刑事がいそいで制止した。事件の夜、午後八時前後の一時間どこでなにをしていたか、くわしく説明してほしいという。 「アリバイですか。前回ちゃんとご説明したはずですが」 「済みません。念のためにお訊きしたいんです。べつに疑っているわけでは——」  長野刑事が笑顔で島崎をなだめた。  争うのも面倒だった。築地の料理店で六時から食事し、あとは八丁目のRというクラブへ入った。食事も酒も取引先の男といっしょだった。店側の証言もあったはずだ。 「料理店を出たのは八時すぎでしたね。つぎにRへ入られたのは九時まえだった。移動に三十分以上かかっていますね」  メモをとりながら林刑事が訊いた。ていねいだが、底意地わるい口調である。 「歩いたんです。築地から八丁目といえば車に乗るほどの距離ではないから」 「三丁目の店ではA工業の人といっしょだったんですね。八時すぎに別れて八丁目の店へ向かわれた。そこでL化工の人と待ちあわせた。まちがいありませんね」 「そのとおりです。証人もいます」 「築地から八丁目へ向かうあいだ、島崎さんは一人だったんですね。三十分以上ものあいだ、一人でなにをしておられたんですか。ただ歩いたにしては時間がかかりすぎるし」 「待ってください。そうだ、レコード店へ寄ったんです。酒場へ入るにはまだ早いので、七丁目の××堂へ入りました。CDは買いませんでしたが」  いそいで島崎は思いだした。  ひまなときはレコード店に寄る習慣である。クラシック音楽のCDを主に冷やかす。店も証言してくれるはずだ。 「わかりました。ちょっと気になったものですから。お手間をとらせました」  長野刑事がうすら笑いをうかべて頭をさげた。腹に一物《いちもつ》ある笑顔にみえた。 「私に嫌疑がかかっているんですか。妙な話だな。どうして私が泉正雄さんを——」  質問の尻のほうが消えてしまった。  高田専務へ忠義立てするために泉正雄を殺害し、彼のもっていた「資料」を奪った——そう考えると島崎が犯人である可能性が出てくる。殺害の動機が成立するのだ。刑事たちへ文句をいいかけて、それがわかった。 「いや、形式的に手順をふんだだけですよ。あなたが犯人だなんて思っていません。三十分やそこらで隅田河畔へいって、泉さんを殺して銀座へもどれるわけがない。ましてあの晩は雨で道路が混んでいましたから」 「それならいいんです。おことわりしておきますが、私には人を殺してまで高田専務を守らなければならない義理はありません。これまでろくに口をきいたことのない人ですからね。それに、そんな裏工作をやってまで上司に恩を売ろうとも思いません」  島崎は腰をあげた。  刑事たちもこんどは制止しなかった。島崎は化学品第二部のオフィスへもどった。  席について、しばらくぼんやりしていた。自分には無関係だと思っていた殺人事件が、急に身近なものになった。高田専務のスキャンダルで泉正雄が一儲《ひともう》けを企んでいたとは意外だった。スキャンダルはたぶん杉本こずえの一件なのだろう。P商事の女子社員とのあいだに子供までつくっていたとあっては、いい噂話《うわさばなし》のたねになる。  企業のトップに、妻以外の女とのあいだにできた子供がいるというのはよくある話だ。経営者にとってその手のスキャンダルが致命傷になるものかどうか、島崎にはよくわからない。経営の手腕さえしっかりしていれば、私生活に多少問題があってもかまわないではないかという気もする。  だが、高田専務は近い将来社長になろうとしているのだ。ライバルがその気になってさわぎ立てれば、私生活上の汚点が拡大されて社長就任が難しくなることもあるだろう。P商事のような巨大企業のトップは、つねにさまざまな方角から照明をあてられ、人々の好奇心の対象とされる。巨大企業の顔として、社長の私生活には一点のくもりもあってはならない。人間わざとも思えぬ、清廉潔白《せいれんけつぱく》な私生活が要求されるのである。  それにしても泉正雄は、なぜ高田専務のスキャンダルを豊口副社長へ売りわたす気になどなったのだろう。事業に失敗して困窮していたにしても、やることが汚なすぎる。高田専務を恨んでいたとしか思えない。借金の申し込みでもして、ことわられたのを根にもったのだろうか。高田専務の力で定年までP商事に在籍できたのに、本人はさほど恩に着ていなかったのかもしれない。  泉正雄はだれに殺されたのか。篠崎敦夫が泉を殺し、金を払わずに「資料」を奪った可能性はある。だが、その程度のことが刑事たちの頭にうかばないはずはない。篠崎はさんざん追及されたはずである。まだ逮捕されていないところを見ると、事件の夜のアリバイが成立したにちがいない。  泉正雄は最初から豊口副社長へ「資料」を売りこんだとは思えない。まずその件で高田専務を脅したのではないだろうか。五千万円で「資料」を買ってほしい。さもないと豊口副社長へ売ることになる。もちかけたものの彼は高田に拒否されてしまった。仕方なく豊口のほうへ話をもっていった。  高田専務は泉を抹殺する必要にかられた。もちろん自分の手にかけるわけにはいかない。腹心の男に命じて実行させたのだ。自分でやったのか、他人を使ったのかはわからないが、腹心の男は泉を殺して「資料」を奪った。「資料」は廃棄《はいき》され、もう二度と日の目を見ることはないだろう。  もう一つ、高田健一が泉を殺した可能性もなくはなかった。父親から健一はいきさつをきいて泉を殺そうと決心した。実行して「資料」を泉から奪った。父を窮地から救いだすことで、一人前の男であることを父にみとめさせたかったのかもしれない。 「あいつが殺《や》ったのだろうか。だとすると、えらいことになるぞ」  不安にかられて島崎は、高田健一の机に目をやった。  机の上はきちんと片づいている。十名の男子課員のなかで、机の整理整頓にかけては健一はいちばんだった。育ちの良さは争われない。女子社員たちはそう噂しあっている。  課員のうちから殺人犯を出したとなると、課長は当然責任を問われる。いや、そんな保身の算段はぬきにして、課内から刑事犯の出ること自体が衝撃だった。そばにいながらなにも気づかなかった、転落から健一を救ってやれなかった——そのことで自分を責めなければならないだろう。管理職としての能力にも自信がなくなる。結局サラリーマン人生から脱落することになるのではないか。 「——健一に伝言しとけ。例の物件に五千万の値がついた、いうてな」  事件の数日後、健一あてにかかってきた電話の男の声が島崎の耳によみがえった。「大東洋産業の者」と向うは名乗っていた。  島崎は胸のつかえがおりて笑いだした。お坊ちゃまが犯人だなんて、なにをバカなことを考えるのか。あの坊やに人殺しができるわけがない。  物件とは、泉のもっていた「資料」のことではないだろうか。たぶんそうだ。電話の男がそれをもっていた。豊口副社長と高田専務の双方を天秤にかけて、高値をつけたほうへ売ろうとしていたのではないか。  父の代理人のような恰好で健一が売買交渉の窓口になっていた。豊口側の窓口は、例の篠崎敦夫だったのだろう。健一が犯人だなんて、とんでもない。頼りないが、健一はバカではなかった。一つまちがうと父親も自分も破滅の道をたどるしかない殺人を、実行するわけがない。第一彼にそれだけの実行力とバイタリティがあれば、とうに主任の肩書をもらっていたにちがいないのだ。 「はい。ありがとうございます。アクリルプレート二百ケースでございますね。納期は今月末。さっそく手配を——」  一人の女子社員が電話に向かってしゃべっている。目をかがやかせていた。 「課長、K工業所のプレートがすごく好調なんです。香港向けにまたオーダーがありました。今週はこれでもう五百ケースになります。ほかにも引合いが」  メモを見ながら女子社員が報告した。  K工業所製のアクリルプレートが香港へつぎつぎに出荷されてゆく。六年後に中国返還をひかえて、同地の経済は奇妙な活況をていしているらしい。資本主義の最後の一花を咲かせようというのだろうか。 「お坊ちゃまもやっと一山あててくれたな。良かったよ。こうやって少しずつ箔《はく》をつけてくれればいいんだ」  意外なほど島崎は声がはずんだ。ついさっき、健一を殺人犯ではないかと疑ったのが、自分でも信じられなかった。  午後五時すぎ、高田健一は外回りから帰ってきた。島崎は彼を廊下に呼びだして夕食にさそった。ほかの課員がいるまえで、彼だけに声をかけるわけにはいかない。  双方とも仕事がまだ残っていた。七時に会社の近くのすし屋で落ちあうことにした。K工業所のプロジェクトが好調だと教えてやったが、健一は淡々とした面持だった。酔ったときでないと、感情をあらわにしない男のようだ。  七時に島崎は約束のすし屋へ入った。ヒラメの刺身でビールを飲んでいると、健一がやってきた。二人でかるくすしをつまんだ。店内がしずかで、相客の話し声がはっきり耳に入る。殺人事件などについて、くわしい話のできる環境ではなかった。  三十分後二人は銀座へ出た。八丁目のスナックバーのカウンター席へ腰をおろした。ウイスキーの水割りを注文した。 「警察はきみのお父さんの私生活に興味をもっているみたいだな。きょう刑事に呼ばれて、しつこく訊かれたよ」  島崎は事情聴取のいきさつを話した。うなずいて健一はきいていた。 「済みません、ご迷惑をかけて。ぼくもけさ同じことを訊かれました」  健一は頭をさげた。かすかな笑みが顔にうかんでいる。 「杉本こずえさんのことは、警察はまだつかんでいないようだな。べつに警察に義理はないから、彼女のことはだまっていたよ」 「済みません。でも、早晩警察は杉本のママのことを嗅《か》ぎだすにきまっています。こんど追及されるようなことがあったら、彼女のこと、話してやってください」 「彼女はお父さんの愛人だったんだろう。音大へいっている娘もいる。このあいだ、こずえさんからおおよそのことをきいたよ。でも、よくある話じゃないか。大さわぎするほどのスキャンダルとも思えないけどね」 「いや、突っつかれると、やっぱりまずいらしいです。証拠の写真が妙な新聞に載る。いろんなことを書かれます」  健一は目をふせて、つぶやいた。切れ切れの口調で説明をはじめた。  高田浩介と杉本こずえの仲は、高田がエネルギー事業部の取締役・営業本部長になってまもなくはじまった。高田はまだ四十代、こずえも二十四歳だった。  二人が親密になってすぐこずえは妊娠した。高田は処置させようとしたが、きかずにこずえは女の子を生んだ。現在音大へ通っている奈津子《なつこ》という娘である。こずえはいっさい高田の世話にならずに奈津子を育てる決心で、認知もうけていない。 「ケンちゃんのお父さんほどの人物に、一生のうち二度と会えると思わない。ほかの男性と結婚する気になんかなれないわ」  こずえは健一にそういったことがある。自立した女、の先駆けだった。  三十歳のときこずえはP商事を退職した。子供を育てながらのOL生活は想像以上に苛酷《かこく》だった。結核にかかってこずえは会社をやめざるを得なかったのである。  高田浩介はこずえに資金を出してやって、六本木に喫茶店をひらかせた。それを機会にこずえと別れた恰好になった。三年後、こずえは喫茶店をラウンジバーに切り替えた。健康が回復し、夜の労働に耐えられる自信がついたので、利益率の高い業種に移ったのだ。  こずえは学生時代、二年間休学してニューヨークのカレッジへ通学していた。その経験をもとに、ニューヨークファッションのラウンジバーをつくった。成功していまの「ムーンリバー」になった。  高田浩介に愛人と娘がいることを健一に教えたのは死んだ泉正雄だった。学生時代、健一は泉にたのんで相撲見物につれていってもらったことがある。その帰り立寄ったレストランで、こずえと奈津子のことを知った。泉はこずえたちのことを健一に教えるよう、高田浩介から指示された気配だった。  日をあらためて健一はこずえ親子と会食をした。「ムーンリバー」へ出入りするようになった。奈津子は当時まだ中学生だった。兄ができたことを無邪気《むじやき》によろこんでいた。  家で父とはときおりこずえたちの噂をする。父、健一、奈津子の三人で年に二、三度会食する習慣になった。だが、母のまえでこずえ親子の話はしないようにしている。二人のことを母はとうに知っているのだが、表沙汰にされるのはいやがっていた。 「お父さんは悪い女にひっかかったのよ。勝手に子供を生まれてしまって」  母は健一にそう洩《も》らしたことがある。  こずえを弁護すれば母は逆上するだろう。健一は沈黙しているより仕方がなかった。  泉正雄は高田浩介の腰巾着をつとめ、私邸にも出入りしたおかげで、定年までP商事に残ることができた。だが、部次長止りだったのが不満だったらしい。自分にもじゅうぶん部長職がつとまると彼は考えていた。  定年後彼はプラスチックの看板、標識などを製作する会社をはじめた。自前の工場はもたず、仲介業の体裁《ていさい》をとった。ものの一年でその会社はつぶれてしまった。高田浩介は五百万円出資したのだが、ドブに捨てたのと同じ結果になった。  泉はたびたび高田に援助をもとめてきた。二度、高田は彼に職を紹介した。だが、二度とも泉は一ヵ月もたたないうちに経営者と喧嘩《けんか》して辞めてしまった。もとP商事の部次長、という意識を泉は捨てきれなかった。  高田浩介は泉を相手にしなくなった。半年まえ、泉は酔って高田邸をおとずれ、 「あんたはろくな会社に紹介してくれないじゃないか。長年仕えてきた後輩に、なんという仕打ちなんだ。冷酷非情じゃないか。このままではおれにも覚悟がある」  と、居直ってわめきちらした。  高田浩介は激怒した。邸内に住居のある運転手に命じて泉をつまみ出した。健一は当時まだ王子のマンションで暮していた。健一の結婚式に招待されなかったことも泉は不満だったらしい。それ以降、泉は一度も高田邸にあらわれたことがない。 「人間の評価って、立場によってちがうものなんですねえ。父はずいぶん泉さんの面倒をみたつもりでいました。ところが泉さんから見れば、父は冷酷非情だった」  健一はため息をついて水割りを飲んだ。  さほど深刻な面持ではない。いつものように口もとに笑みをうかべている。 「そのうち泉正雄は、お父さんのスキャンダルをあばくといってきたんだな。総会屋の発行する新聞へネタを売るとかなんとか」 「そうなんです。弱りましたよ。こんなことで父の社長就任に待ったがかかったりしたら、みっともない話ですからね。なんとかなだめようと思ったんですが」  健一は眼鏡のずれを手でなおした。かすかに眉をひそめて話した。  泉正雄が最初取引を申しいれてきたのは、健一のところへだった。一ヵ月ばかりまえの午後、会社へとつぜん電話が入った。 「ある新聞社が私の撮った写真を買いたいといってきているんだ。なんの写真かって。きまっているじゃないか。きみのお父さんと、こずえママと奈津ちゃんがいっしょに写っている。奈津ちゃんが赤ん坊のときのも、幼稚園へ入ったときのもあるよ」  杉本こずえがまだP商事に在職し、高田浩介と関係をつづけたころの写真だった。  ヒラ取締役だった高田が部下のOLに手をつけ、子供までつくったことが一目瞭然の写真である。これがあやしげな新聞に掲載されたら、たしかに問題になる。 「ほかにも売れるネタはあるんだ。こずえママは会社をやめたあと、六本木に喫茶店を出した。表通りではなかったが、開店には五千万円近い金がかかった。もちろん彼女にそんな金はない。きみのお父さんが援助したんだ」 「————」 「お父さんだってサラリーマンだ。いくらP商事の重役でも、右から左へそんな金が捻出できるわけがない。どうやって金をつくったと思う。私が財テクでかせいだんだ」  健一が高校へ入るころまで、高田浩介一家は武蔵野《むさしの》市に住んでいた。ローンで買った一戸建ての住宅だった。  その家を担保に高田は銀行から五千万円を借り出し、株式投資に注ぎこんだのだ。当時P商事の系列企業である化学品メーカーが、厖大《ぼうだい》な需要の見込める建築資材の開発に成功したところだった。立場上、高田はすでにその情報をつかんでいた。親戚などの名義でその化学品メーカーの株を買いにまわり、ものの二ヵ月で資金を倍に殖やした。売買の実務にあたったのが泉正雄だった。  職務上の特権によって得た情報で個人の利益をはかってはならない——上場企業の役員の守秘義務に高田は明らかに違反したのだ。そのときの株式の売買記録を泉正雄は保管しているということだった。泉との取引に応じないと、これらの事実がすべて明るみに出るだろうというわけである。  五千万、と泉は値をつけた。写真および売買記録の値打プラスこれまでの個人的奉仕にたいするボーナスだという。高田浩介の五千万円の資金づくりに協力して、泉が得た謝礼はたった五十万円だった。そのときの「貸し」もこのさい回収するという話だった。 「——泉正雄はノイローゼ気味だったのかもしれないな。常軌を逸しているよ。そんな取引が成立すると本気で思っていたとは」  うそ寒い思いを島崎は味わった。  人間、追いつめられるとなにを考えるかわからない。泉正雄の場合、定年後そうなったのが悲惨である。 「ぼくもそう思いました。いちおう父に相談したんです。父は問題にもしませんでした。こんどいってきたら脅迫罪で告訴するといってやれ。そういって笑っていました」 「当然だよ。まともに取合う必要はない」 「二度目に泉さんから電話があったとき、告訴するといってやりました。すぐに泉さんは電話を切りました。以後、なんの音沙汰《おとさた》もなかったんです。それが二週間まえ——」 「殺されてしまったというわけか。豊口副社長のラインにも働きかけたらしいから、だれかに狙われたんだろうな。いかがわしい新聞社あたりと揉めたのかもしれない」  島崎は安堵《あんど》の息をついていた。  いまの健一の話に不審な点はまったくなかった。健一はやはり犯人ではなかった。過剰なほどの分別をそなえている。 「泉さんが死んだのは自業自得だとぼくも思います。ただ——」  健一はいいよどんだ。眉をひそめて水割りを飲みほした。 「ただ、どうしたんだ」 「気になるんです。問題の写真や株の取引の記録をだれがもっているのか——」  お代りの水割りのタンブラーを健一は手にとった。首をかしげながら飲んだ。 「なるほど。そのことがあったな。泉さんを殺した犯人の手もとにあるんだ」 「いや、もうだれかの手にわたったかもしれません。犯人は泉さんがやったように、各方面へセールスしているようだから」 「五千万の値がついたという電話があったな。大東洋産業の者だと称していた。まさかそんな値段で売れるとは思わないが」 「ぼくもそう思います。でも、なんだか心配なんですよ。ある朝父の名前と写真が、ドカンとどこかの新聞に載るような気がして。そうなったら取返しがつかない」 「そこまで考えているのか。やはり親子だな。まあ心配はないと思うけどね。たとえ記事が出たとしても、権威のある新聞じゃないんだから。だれも信用しないよ」 「そうでしょうか。そうですよね。新聞といっても、ビラみたいなものなんだから」  それでこの話題は一段落した。  カウンターの向う側にいた女の子がほっとしたように島崎らへ笑いかけてきた。二人が難しい顔で話しこんでいたので、いままで声をかけられなかったようだ。  二人はやがてそのスナックバーを出た。  雨が降りはじめている。スナックバーへひき返して、白いビニール傘を二本借りだした。三丁目のほうへ歩きだした。午後九時である。通りが車で埋まりかけていた。酔漢のダミ声と客を送る女たちの笑声がほうぼうできこえる。島崎はホロ酔いだった。まだ家へかえる気になれない。 「刑事にしつこくアリバイを訊かれたよ。泉さんが殺された夜、おれはこのあたりをうろついていたんだ。三十分ばかり空白があったので、突っこまれた」  きょうの事情聴取のいきさつを、島崎は歩きながら物語った。  三十分あまりのうちに隅田河畔で泉を殺し、また銀座へ舞いもどる放れわざができるわけがない。それでも刑事は三十分のあいだ島崎がなにをしていたのか、根掘り葉掘り追及してきた。重箱のすみを突っついて思わぬ収穫にぶつかることもあるのだろう。 「ぼくもアリバイを追及されました。あの晩、王子のマンションへいっていたんです。必要な資料がおきっ放しだったし、久しぶりに掃除もしようと思って」  健一と妻は別居して、それぞれの実家で暮すようになった。  マンションは高田浩介が若夫婦に買いあたえたものだった。正式に離婚が成立したあと処分する予定である。いま都内ではマンションの値下りがひどいので、ある程度値がもどるまで放置せざるを得なくなっている。  五時すぎに会社を出て、健一はまっすぐマンションへ向かった。六時半ごろから一時間かかって掃除をした。あとはタクシーで新宿へ出て、スナックバーで一杯やって家へ帰った。午後十時半ごろだった。 「六時半にマンションへ着いたことは証明できるんです。管理人へ挨拶にいきました」 「では問題ないよ。死体が発見されたのは隅田川大橋の下流だから、犯行現場は隅田公園あたりだと見られているんだろう。王子から隅田公園まで、三十分ではとてもいけないよ。ましてあの晩は雨で道路が混んでいた」 「帰りぎわにも管理人に挨拶しておいたんです。あれが良かった。完全にアリバイが成立しましたからね。人間、なにが倖《しあわ》せになるかわからないものです」  話しながら八丁目の酒場へ二人は入った。事件の夜、島崎の立ち寄った店だった。 「新しい課長が島崎さんで良かったとつくづく思いますよ。これだけフランクに話ができる上司ははじめてです。これまでの上司はみんなぼくを警戒しました。高田浩介の息子であるばかりに、だれもうちとけてくれなかったんです」  客席で健一は恥ずかしそうに告白した。  ホステスが客席にやってくると、人が変ったように陽気になった。先夜と同じように、青みがかった顔色に変わっている。 「うちの次期社長になるかたの息子さんなんだ。大事におもてなししろよ」  女たちに島崎は健一を紹介する。色めき立って女たちは健一をみつめた。 「それをいわないでくださいよ課長。親の七光でモテるみたいになってしまうじゃないですか。実力でぼくはモテるんですよ」  まんざらでもない顔で健一は抗議した。  父親が大物であることを、場合によって誇らしく思ったり、迷惑に感じたりするらしい。どっちが多いのか見当がつかない。お坊ちゃまにもなやみがあることはわかったが、平凡な家に生れた島崎には、やはり贅沢《ぜいたく》ななやみとしか思われなかった。  一時間ばかりで二人はその店を出た。表通りでタクシーをひろった。 「いまから六本木へ寄りましょう。課長、またうちへ泊っていってください」  健一は意気さかんだった。  なだめて島崎は白山の高田邸まで彼を送っていった。家が近づくにつれて健一はおとなしくなった。泊っていってくれませんか。最後は哀願の口調だった。  高田邸のまえで健一をおろした。すぐに車を発進させた。今夜も甘えたりしたら、高田浩介の不興を買うにきまっている。それに、他人の家では熟睡できない。せまくとも自宅の寝室がいちばんの安息場所だった。  練馬のマンションの三階にある自宅へ島崎は帰りついた。午後十一時まえだった。  妻の綾子がテレビを見ながら待っていた。お茶漬《ちやづけ》の用意がしてある。腹が減っているわけではないが、島崎はたべることにした。  子供部屋を覗いてみた。小学校一年生の正弘《まさひろ》が大の字になってベッドで寝ている。ひざに繃帯《ほうたい》を巻いている。歩道を走っていてころんだらしい。 「近所の奥さんどうしが犬をつれてすれちがったんだって。ところが犬が喧嘩《けんか》をはじめたの。ちょうどそこへ正弘が通りかかって」 「噛《か》まれたのか、犬に」 「いえ、一本の縄が足にからんで、ころんでしまったらしいの。飼主の奥さんはあやまりもしなかったんだって。アタマにきて、犬を蹴とばしてかえってきたらしいわ」 「よしよし、それでいい。男の子は感情を抑圧してはいけないんだ。好きなようにさせよう。のびのび育てなくては」  島崎は笑って食卓のまえにすわった。  偉大な父と口やかましい母親のまえでじっと耐えている高田健一の姿が脳裡にあった。会社でも彼は社員たちの好奇心、反感、嫉妬《しつと》の重圧にさらされている。元気になるのは、家と会社を離れて酒を飲むときだけだ。  あんな思いを正弘にさせたくない。もっとも、重圧をあたえられるほどこっちは偉大な父親になれそうもないが。箸《はし》をつかいながら島崎は苦笑いした。正弘の教育を綾子にまかせきっているいまの暮しが、最近うしろめたく思われるようになった。 5  土曜日、島崎俊彦は朝から千葉県八千代市のゴルフ場へ出かけた。  化学品事業部と主要な取引先の親睦《しんぼく》コンペだった。P商事からは本部長以下、化学品第一、第二部の部課長ら十二名が参加した。  島崎は可もなく不可もないデキだった。トータル80台の後半でまわった。終ってクラブハウスで懇親会、ついで有志が銀座に出て二次会ということになった。土曜日も営業しているパブが予約してあった。  都心へもどったのが午後六時だった。島崎は七時に六本木のSホテルで西尾典子と待ちあわせる予定だった。まだ少し時間がある。ほんの一杯のつもりでパブに立ち寄った。  それが裏目に出た。取引先の加工メーカーの老社長が酔って、自社の創設から成長、東証二部上場にいたる自慢話をはじめた。昭和二十年代、まだ日本が米軍の駐留下にあった当時のことから彼は語りはじめた。  同僚二人とともに島崎は聴き役をつとめた。示唆《しさ》に富む話なのでひきこまれたし、中座できる雰囲気でもなかった。あっというまに七時になった。島崎は店の電話でSホテルのロビーにいる典子を呼びだし、一時間ばかり遅れるとことわりをいれた。 「またァ。不便ねえ宮仕えは。いいわ、私またムーンリバーへいってるから」  典子はあっさり了承してくれた。  オフィスラブのありがたさである。管理職は休日も体が自由になりにくいことを典子はよく知っていた。ちがう職場の女の子ならとてもこうはいかないだろう。  島崎は席にもどって、老社長の自慢話に耳をかたむけた。八時にやっと話が終った。まだ二次会はつづいていたが、島崎はさきに会場をぬけだして六本木へ向かった。  時間が早いせいか、店は空《す》いていた。典子はカウンター席で、黒人のバーテンダーと片言で談笑していた。奈津子がジャズの弾き語りをしている。杉本こずえはまだ店に出ていなかった。 「やだもう。毎度毎度お待たせなんだからァ。私、燃えてるのよ。心はともかくとして、体がいうことをきかないの」  典子はご機嫌だった。  となりに腰をおろした島崎の肩へ、くずれるようにもたれかかってくる。 「済まない。埋めあわせはするぜ」  島崎も酒が入っている。人目を気にせず、典子のひざへ手をおいた。  典子は嬌声をあげた。くすぐったくてたまらない様子で腰をうかせる。 「感じる。ああ、困ってしまう。失神したら島崎課長どうしてくれるんですかァ」  島崎はビールを注文した。  あらためて典子をみつめた。彼は息をのんだ。典子の顔が奇妙に白い。目のまわりが青みがかっている。重病人の顔のようだ。高田健一が二度ばかりこんな顔色になったことを島崎は思いだした。 「どうしたんだ、気分が悪いのか」 「とんでもない。最高ですよう。なんにもいらないくらい最高。感度良好なの。島崎課長とこうしてるだけで、いきそうになる」 「恐れいったな。きみ、この子になにを飲ませたんだ。ラムか、ウオツカか」  黒人のバーテンダーに島崎は訊いた。  黒人は肩をすくめ、かぶりをふった。ビールしか飲ませていないという。やはり典子は体調が悪いのかもしれない。  長居する必要もなかった。典子の肩を抱いてささえながら、島崎は「ムーンリバー」をあとにした。弾き語りをつづけながら、奈津子が会釈して送ってくれる。  近くでタクシーをひろった。赤坂のファッションホテルへ運んでもらった。  部屋へ入るなり、典子は島崎にとびついてきた。両手を島崎の首にまわし、ぶらさがってくる。かん高い声で笑ってくる。むさぼるようにキスをもとめた。くちびるを離すと、甘い声をあげてあえぎはじめた。すでにセックスのさなかにいるような声である。 「待ってくれ。一休みしよう。息つくひまもないよ」  苦笑して島崎は典子をベッドに寝かせる。  あおむけに寝たまま、典子は服をぬぎはじめる。すぐ全裸になった。風呂の支度に立とうとする島崎の腕をとって引止める。 「いいの。私、きれいな体なのよう。出がけにシャワーあびたんだから」  島崎もゴルフ場で汗は流してきた。ベッドのうえで彼も服をぬいだ。  二人は抱きあった。脚をからみあわせる。かわいた二人の体がぶつかりあって、甘いひびきを立てた。どちらの肌もすべすべしている。いつもより刺激が強い。  あらためてくちづけをかわした。典子はまた、セックスのさなかであるかのように声をあげてあえぎはじめた。  島崎は典子の耳や首すじにキスを這わせる。島崎のくちびるが移動するたび、体をふるわせて典子はのけぞった。指さきでわき腹をなぞられると、典子はほとんど跳びあがりそうに反応する。乳房を島崎は吸ってみた。人魚のように典子の裸身がうねった。声が、さけび声に近くなった。 「きょうはものすごく敏感なんだな。酔って完全に抑圧がとれたのかな」 「恐いわ典子。自分の体が自分のでないみたい。ああ、気が変になりそう。島崎課長、セックスって、こんなにいいものなの」 「おれもびっくりしているよ。きみが感じてくれるのはうれしいけど」 「ああ。みて。もうこんなになってる。どうしよう私。死んでしまうかもしれない」  典子は島崎の手首をとって、自分の下腹部へ誘導した。  あたたかい液が女の部分にあふれている。それは流れ出て、ふともものつけねや合せ目を濡らしていた。満足しつくしたあとのようだ。身を寄せあっているだけでいってしまいそう。「ムーンリバー」で典子のいったことは、誇張ではなかったのだ。 「きて。早くきて。早く」  典子はベッドに這った。  丸い尻を突き出して、苛立《いらだ》たしげに上下に揺すった。それでも待ちきれないらしい。右手の指で女の部分をさぐりはじめた。丸い尻の合せ目の下方で、指が別の生き物のように妖しくうごめいた。  いっさいの前戯をきょうの典子は必要としていなかった。島崎はうずくまって典子に近づき、両手で典子の尻をかかえた。バスケットボールの使用球をかかえたように、掌《てのひら》がいっぱいにひろがって球型の肉へ吸いついた。何秒か島崎は恍惚《こうこつ》となった。  位置をきめて島崎は典子のなかへ入った。大声をあげて典子はのけぞった。すぐに布団へ顔をふせる。くぐもった声が洩《も》れてくるだけになった。両手で典子は布団をわしづかみにしている。島崎が動きだすと、頭を左右に振り、こぶしで布団を叩きはじめた。  たちまち典子は頂上にたっした。典子のものとは思えない太い呻《うめ》き声を発して、布団に上体を投げだしてしまう。尻だけが高く掲げられていた。島崎は両手で典子の腰をおさえ、彼女の体をしっかりと固定する。あらためて、荒々しく動きだした。  二度、三度と典子は頂上にたっした。信じられないほど速く、立てつづけだった。何度目かに頂上を越えたあと、やめてほしい、休ませてほしいと典子は懇願しはじめた。島崎は典子の腰をかかえた両手を離してやる。典子は横にころがった。両ひざをかかえ、丸くなって息をととのえる。 「すごく感じたみたいだな典子。悶《もだ》えている姿が最高だったぞ」  これほど女をよろこばせたのは初めてである。満足して彼は典子の髪をなでた。  典子は全身を痙攣《けいれん》させた。逃げるようにベッドの端へ移動する。 「恐いわ。感じすぎるのよ私。さっきはもう少しで気が遠くなりそうだった」  典子はあえいでいた。  どうしたんだ、なにか理由があるのか。島崎は訊いてみた。典子はなにかいいたそうにしたが、結局は口をつぐんだ。  とつぜん典子は起きてベッドからおりた。こちらに向きなおった。 「ねえ、ここへ腰かけて。私、課長にしてあげたいの。いいことしてあげたい」  ベッドの端を典子は叩いた。  いわれるまま島崎はベッドのふちに腰をおろした。足もとへ典子がうずくまる。島崎の両脚をひらかせて近寄ってきた。男性を手にとり、頬《ほお》ずりする。しばらくして口にふくんだ。ゆっくりと頭を前後に動かし始める。  島崎は息を吸いこんだ。快感が体へ流れこんでくる。典子はひどく真剣な面持《おももち》で、口をとがらせていた。ときおり指で、男性の下方のものをさぐりにくる。快感が毛糸の球のようにもつれあって、島崎の体内でおどりはじめた。島崎は呻いた。 「感じますか、課長」  顔をあげて典子が訊いた。両手を使って愛撫をつづけている。 「すばらしいよ。きみは最高だ」 「私ね、一度会社で課長にこうしてあげたいの。課長は机に向かって仕事している。私は机の下にしゃがんで、課長のズボンのファスナーをそっとおろして、食べてあげるの」 「すごいイメージだな。ぜひ頼むよ。こんどいっしょに残業して。すばらしいだろうな」 「ねえ、私っておかしい。そんなエッチなこと考えながら仕事するときがあるのよ。課長の顔見てて、ふっと濡れてきたりして——」 「おかしくないよ。だれだってそんなことはある。抑圧されてるからなおれたちは。一日中抑圧されているんだ」 「ねえ、感じる。こんなふうに会社でしてほしい。そうなの。こんどしようね」  典子の声がとぎれた。  湿った快感がまた島崎の男性を包みこんだ。典子の口のなかに吸いこまれている。口を典子はすぼめていた。島崎の男性には、痛いほど力がみなぎった。  典子が立ちあがった。うしろを向いて島崎の腹のうえに乗ってきた。男性を体内に迎えいれて馬乗りになる。動きだすまえからあえいで、声をもらしていた。  典子は動きだした。たちまち頂上へたっして大きな声をあげた。何秒か休んで、また動きだした。頂上へ駈けのぼってゆく。いまにも息がとまりそうだ、という意味のことばを彼女は口走った。  三度か四度、典子は快楽の頂上をきわめた。島崎のほうも持続の限界へきていた。早く終って。動きながら典子は口走って、自分の脚のあいだから右手をのばし、島崎の急所をまさぐりにきた。  それが最後になった。島崎は快楽の渦に呑みこまれて、目が見えなくなった。呻きながらスタミナを放出していた。これほど深い快楽を味わったのは初めてである。典子も泣きながら、島崎の体から床へすべり落ちた。絨毯《じゆうたん》のうえに横向きに寝て、身動きもしない。島崎はベッドにあおむけになった。生命を削るようなセックスだった。強すぎる快楽は死につながるものらしい。驚嘆しながら、ゆっくりと彼は息をととのえた。  絨毯のうえに横たわったまま、典子は相変らずぴくりともしなかった。呼吸しているのかどうかさえ、はっきりしない。心配になって島崎はベッドをおり、典子のそばにかがみこんだ。近づくと、かすかな呼吸のあるのがわかる。すべてをさらけだして彼女は倒れている。相変らず顔は蒼白だった。ふともものあいだに咲いている秘密の花が、対照的に生き生きしたピンク色を呈している。 「典子、大丈夫か、典子」  島崎は典子の肩に手をおいて揺すった。  ゆっくりと典子はあおむけになった。目をあけて、おどろいたように島崎を見る。かすかにほほえんだ。青みがかっていた目のまわりやくちびるに生気がもどってきている。 「さあ起きなさい。ベッドに寝るんだ」  腕をとって起そうとしたが、典子はできない。骨が溶けたような状態である。  島崎は典子を横抱きにしてかかえあげる。ベッドに寝かせた。並んで横たわって抱きよせる。背中やわき腹をなでてやると、よみがえったように典子は身ぶるいした。 「どうして今夜はそんなに敏感なんだ。なにか薬でも嚥《の》んだのか」  典子の背中をなでながら島崎は訊いた。また典子は身ぶるいした。 「どうしてかなあ。変なタバコを吸ったんだけど、あのせいかしら」  天井をみつめて典子はつぶやいた。  なんとなく笑った。愉快な気分がもどってきたらしい。明らかに変だ。 「タバコって、どんな。アメリカ物か」 「かわいた草を紙で巻いたようなの。ムーンリバーの更衣室で何人かが吸ってたわ。すすめられて私も吸ったの」 「草を紙で巻いた——。ひょっとするとそれ大麻じゃないのか。大麻だぞ、それは」 「わからない。あれ吸ったらすごくいい気持になって。頭はぼうっとして、肌だけが敏感なの。課長の指が体に近づいただけで、さわられたように感じるわ」  典子はケラケラ笑った。こんなにうわずった笑い声はきいたことがない。 「ヤバいなあ。ムーンリバーは大麻を吸うやつのたまり場なのか。どうりで外人が多い。バイ人もきているんだろうな」  島崎は典子をうながして、どんな状況で大麻を吸ったのか話してもらった。 「ムーンリバー」のカウンター席で典子は黒人のバーテンダーと話しながらビールを飲んだ。そのうちトイレへいきたくなった。  トイレの場所を典子は知らなかった。見当をつけて階段をおりた。客用のではなく従業員用のトイレがあった。更衣室の扉があけ放たれ、薬品のような匂いがただよった。四、五人の黒人と日本人が立って、タバコのようなものを吸っていた。典子の姿を見ても、彼らは平気な顔をしていた。  典子がトイレから出ると、更衣室にいた日本人が手招きした。店の支配人だった。 「一服吸うてみるか、お嬢さん。別に悪いもんやないよ。ものすごう楽しゅうなるよ」  三十四、五歳の関西|訛《なま》りの男だった。紙に巻いた、乾燥した葉っぱをさしだした。  これがマリファナというものなのだろう。典子にも見当がついた。好奇心が疼《うず》いた。紙に巻いた葉をうけとって火をつける。 「思いきり吸いこむんや。すうっと、思いきり、肺のすみずみまで」  支配人にいわれるまま、肺をふくらませて煙を吸いこんだ。  何度か吸ううち頭がくらくらしてきた。かるい吐き気があり、顔から血の気のひくのがわかった。支配人に助けられて典子は階段をのぼり、カウンター席へもどった。  一休みするうち、気分が回復した。頭はぼんやりしているが、理由もなく気持が浮き立った。黒人のバーテンダーが典子に近づくたび、肌が甘い刺戟《しげき》をうける。白人と視線が合い、向うが笑いかけてくると、下腹のあたりが甘くしびれた。こんな気分になったのは生れてはじめてである。島崎が待ち遠しかった。あと三十分も島崎の到着が遅れたら、自分が自分でなくなったかもしれない。 「黒人がその葉っぱを分けてくれたわ。気にいったらいつでもプレゼントするって」  典子は思いだしたように、テーブルのうえの彼女のバッグをあごで指した。  島崎は立っていってバッグをあけた。  乾燥して原型もとどめない何枚かの葉のきれっぱしがセロハンに包んで入っていた。島崎は匂いをかいでみたり、掌に乗せて手ざわりをしらべたりする。よくわからないが、たぶん大麻なのだろう。  高田健一は常習者なのだろうか。鳥肌立つ思いで島崎は考えた。厄介《やつかい》な事件に巻きこまれそうな予感がおそってきた。  会社へ出勤すると、個人的な問題はすべて二の次、三の次になった。  翌週の月曜日、島崎俊彦は朝から会議や来客への応対で忙殺された。  朝の挨拶《あいさつ》以外、高田健一とことばをかわすひまもなかった。西尾典子とも一度だけ視線を合わせ、うなずきあっただけである。  ビジネスの渦中にいると、殺人事件もオフィスラブも遠い夢のなかのできごとのように思われた。つぎつぎに突き出される目さきの問題をかたづけるだけで手一杯だった。日本人はもっと生活に余裕をもたねばならない、といった論議にまるで実感がなくなる。  働くことが商社マンの人生だった。島崎は自分の生活をべつに不幸だとは思っていない。反対に、目まぐるしく動きまわることに生甲斐《いきがい》と陶酔を感じていた。自分は社会に必要とされている人間だという意識が支えになっている。夢中で走りつづけ、とつぜん定年に直面しても、島崎は大して後悔なく人生を回顧できるだろうと思っている。  午後三時、来客との面談を終えて島崎は自分の席へもどった。やっと一息つく余裕ができた。課には女子社員のほか、三人の課員が机に向かっている。  高田健一が電話で商談をしていた。上気して声をはずませている。例のK工業所のプロジェクトがますます好調なのだ。同工業所関連の売上げは、今月三億円を上まわる予定である。高田は台北《タイペイ》やバンコクにもK工業所の現地法人をつくって、売上げをさらに増やす計画をもっている。  高田健一は商談を終え、受話器をおいた。島崎の視線を感じたらしく、こちらを向いた。うなずいてみせて島崎は席を立ち、オフィスの外へ出た。エレベーターホールで待っていると、すぐに健一がやってきた。 「ちょっとつきあえ。話がある」  声をかけて島崎はエレベーターに乗った。だまって健一はついてきた。  ビルの地階にある喫茶店へ二人は入った。コーヒーはきょう五杯も飲んだので、島崎はオレンジジュースを注文した。うなずいて健一もそれにならった。 「土曜日にまたムーンリバーへいったんだ。西尾典子と待ちあわせてな」  バツの悪さをこらえて島崎は切り出した。当然のような面持で健一はうなずいた。 「あの店では大麻が売買されているらしいな。典子が吸わされた。えらく陽気になったのでびっくりしたよ」  セックスが感じやすくなったとはとてもいえない。だが、ベッドのうえの典子の姿が脳裡《のうり》にうかんで、一瞬妙な気分になった。 「ああ、客どうしでやっているみたいです。アメリカ人にとっては、マリファナはふつうのタバコのようなものですからね。罪の意識なんか全然ありませんよ」  杉本こずえも客が階下でマリファナを吸っているのは知っている。アメリカではふつうのことなので、咎《とが》め立てはしないという。 「でも、警察にマークされるだろう。手入れを食ったりしないのか」 「大丈夫。外人の客どうしが葉っぱを売り買いしているだけですからね。暴力団の資金源と無関係なので、マーク外なんです。店が仕入れているわけでもないし」  六本木にはディスコなど、もっと大がかりな大麻の取引場所がいくらでもある。 「ムーンリバー」程度の小口の店に、警察は目をつけたりしない。だが、プロのブローカーが出入りしはじめると、マークがきつくなる。そうならないよう店側は、客の顔ぶれを厳重にチェックしているという。 「きみも大麻をやるんだろう。顔が青くなるからわかる。典子もそうだった」  島崎は正面から健一をみつめた。  口もとに健一は笑みをうかべた。何度かまばたきしたのが眼鏡を透《とお》してわかった。 「たまにいたずらする程度ですよ。大麻には副作用はありません。平気ですよ」 「でも、法律違反なんだぞ。万一警察沙汰になったら、ただでは済まない。そのあたりのことを考えたことはあるのか」 「大丈夫ですよ。日本の警察がいくらヒマでも、大麻までは追及しませんよ。コカインやヘロインならうるさいけど」 「万一の場合をいっているんだ。警察につかまったらきみは当然クビになる。お父さんも引責辞任せざるを得ない」 「わかってますよ。一々念を押されなくても、そのくらいのこと、承知しています。うまくやってますからご心配なく」  いらいらするなあ。健一は眼鏡をはずして、指で瞼《まぶた》をマッサージした。  肩がふるえている。癇癪《かんしやく》をおさえているらしい。干渉されると、カッとなって見境いがつかなくなるのかもしれない。副作用はないというが、大麻の影響ではないのか。 「心配しないわけにはいかないよ。表沙汰になったら、きみ個人の問題では済まなくなるんだ。P商事ぜんたいの信用にかかわる」 「P商事よりも自分の身が心配なんでしょう。バレたら課長もただでは済まない」 「当然だ。こんなバカなことで管理責任を問われてはかなわないよ。きみが大麻をやめないなら、それなりの対応をする」 「ぼくにどうしろというんですか。会社をやめろとでも——」 「大麻をやめればいいんだよ。いうことをきかないなら、問題を上にあげざるを得ない。お父さんにも報告する」  バネ仕掛けの人形のように健一は立ちあがった。蒼白《そうはく》になって島崎を睨《にら》んだ。 「父に告げ口するんですか。そんなことをしたら課長もお終《しま》いですよ。スキャンダルを表に出しますからね。課長は西尾典子を誘惑して玩具《おもちや》にしてるじゃないですか」  島崎は何秒か絶句した。気を呑《の》まれた。  玩具、という語に虚をつかれてもいた。そんな見方もあるのかと思った。 「お坊ちゃまにしてはいうことが汚いな。そんな次元の話じゃないだろう。へたをするときみは破滅するんだぞ」 「説教はたくさんです。いいですね課長、告げ口したら課長のクビも飛びます。バーターでいきましょう。おたがいに気をつけて」  健一はきびすを返した。荒々しい足音を立てて喫茶店を出ていった。  なんというやつだ。島崎はあきれて健一のうしろ姿を見送った。親切で忠告したつもりだったが、一方的な攻撃をうけたとしか彼は思えなかったらしい。正当防衛、といった感じで刃向《はむか》ってきた。大麻を常用すると、正常な判断力が失われるのかもしれない。  健一をたしなめはしたものの、島崎はすぐに問題を表面化させる気はなかった。しばらく彼の行動を見まもることにした。大麻を吸引するといっても、中毒しているとは思えない。彼もいっていたとおり、たまにいたずらする程度なのだろう。子供でないのだから、彼は自制できるはずだ。この上さらに深入りするようなら、部長に相談するようなことはせず、高田専務に直訴するつもりである。そのほうが健一に傷をつけないままで事態を改善できるはずだった。  数日後、その月の締切日がきた。高田健一は十名の課員のうちで最大の売買利益を島崎の課にもたらした。先月は三位に浮上し、今月一気にナンバーワンになったのだ。  K工業所関係の実績が信じられないほど良かった。売上高はさほどでもないのに、利益率がきわめて高い。いい商売を見つけたものだ。会議で健一は称讃をあびた。健一は例によって口もとに笑みをうかべ、当然のような面持で目をふせていた。  月が変ってまもなく、朝九時の直前に島崎の机の電話が鳴った。 「島崎くんですか。高田ですが」  何秒か島崎はぼんやりしていた。やっと高田専務だとわかって姿勢を正した。 「化学品の本部長からききました。健一がやっとモノになってきたようですね。よく鍛えてくれた。お礼をいいます」 「いえ、私はなにも役に立っていません。K工業所のプロジェクトは、あくまで彼一人で企画、推進したことです」  書類を見ている健一に目をやって、島崎は返事をした。  先日対立してから健一とは仕事に関係あること以外、口をきいていない。こちらから機嫌をとる必要も感じなかった。 「それだけ任せてもらえるのが、親としてはありがたいことですよ。迷惑をかけますが、今後もよろしくたのみます」 「わざわざ恐縮です。できるだけのことはするつもりでおります」  それで電話は終った。  筆頭専務も人の親なのだ。息子に関しては教育ママと似たような行動をとる。暖い感情が島崎の胸にあふれた。会社というコンクリートの城のなかに、いままで知らなかった小さな花畑を見つけだした気分だった。  昼休み、健一が島崎の席のそばを通りかかった。島崎は彼に話しかけた。 「今月のきみの成績を知って、お父さんがよろこんでおられたぞ。この調子で実績をつみかさねていけよ」  健一は足をとめて島崎をみつめた。  そうですか。無感動に彼は答えた。そのまま離れていこうとする。 「例のもの、もうやっていないんだろうな。親不孝をするんじゃないぞ」  健一の背中に島崎は声をかけた。  健一はふりかえった。足はとめない。うなずきもせず、頭を横に振るでもなかった。そのまま彼はオフィスを出ていった。健一の眼鏡が冷たく光ったようにみえたが、島崎は気にもとめなかった。専務から感謝の電話をもらって、やはり幸福な気持だった。  三日後の昼休み、島崎は部長に昼食にさそわれた。いっしょに自社ビルの外へ出た。部長は陽気で冗談好きの男だが、その日は口数が少く、表情にも生気がとぼしかった。なにかろくでもないことが起ったらしい。身構えて島崎はレストランへ入った。  すみのテーブルをはさんで二人は向かいあった。日替りランチを注文したあと、部長は苦笑して、小声で訊いた。 「二課の西尾典子のことなんだがね、きみ、あの子と関係があるのか」  島崎は頭を竹刀《しない》で一撃されたような衝撃をうけて、顔をしかめた。  いい逃れはしないほうがいい。とっさに覚悟をきめた。部長がこうして正面から斬《き》りこんでくる以上、証拠はあがっているのだ。 「済みません。最近デキてしまって」  島崎は頭をさげた。  顔が火照《ほて》っている。オフィスラブを悪事だとは思わないが、やはり恥ずかしい。 「やっぱりそうか。やってくれますなあ、島崎くんも」  上衣の内ポケットから部長は封筒を出してテーブルのうえにおいた。  部長あてに会社へ郵送された封書だった。ワープロで宛先が書いてある。  ランチが運ばれてきた。部長は食事にとりかかった。封筒をとって、島崎はなかから手紙をひきだした。 「一言ご注意申しあげます。化学品第二部の島崎一課長は、二課の西尾典子と不倫の関係があります。何人かの社員が、銀座や六本木を睦《むつま》じく歩いている二人の姿を目撃しました。個人の恋愛は自由ですが、管理職と女子社員の情事は周囲に大きな影響をおよぼします。職場の風紀の乱れが、業績低下につながるのはもちろんです。至急、善処されるよう要望いたします。妻子ある身で、独身の若い女子社員を誘惑した島崎課長の罪は、とくに大きいと思われます——」  手紙もワープロで書かれていた。  健一のしわざだな。島崎は胸のうちでうなずいた。島崎と典子の関係を知る者は、彼以外にはいないはずだ。このあいだ高田専務の電話のことを告げたのが、彼には脅《おど》しときこえたのだろう。島崎をクビにする気なのかもしれない。  それにしても汚いまねをするものだ。投書だなんて、男の屑《くず》のやることではないか。フランクに話しあえる上司を得て倖《しあわ》せだといった舌の根のかわかぬうちにこんなことをやる。いったいどんな神経をしているのか。島崎は無性に腹が立ってきた。 「たべなさい。シチューがさめるぞ」  部長にいわれて島崎はナイフとフォークを手にとった。  食欲がない。味も上の空だった。まったく腹が立つ。この始末をどうつけるべきか。典子もさぞ困惑するだろう。 「この投書にはきみと西尾典子のことがかなり噂《うわさ》になっているように書いてあるが、じっさいはそんなこともないようだよ。かなり誇張してある」  とりなすように部長はいった。  きのう部長は投書をうけとった。何人かの女子社員に、二人についての噂を知っているかどうか、それとなく訊《き》いてみた。みんな心当りがないと答えた。この種の噂話に女子社員はくわしい。彼女らが知らないのは、まだ噂がひろがっていないということだ。 「しかし、放っておくと、みんなに知れるだろう。問題になるかもしれん。いまのうちにきみ、始末をつける必要があるぞ」 「わかりました。なんとか決着をつけます」 「急に別れ話を出したりするなよ。女は逆上する。トラブルが表面化することになる。過去、それで失敗した社員もいるんだ」 「慎重にやります。あの子は性格が良いから、こっちの立場をわかってくれるはずです」 「たしかに西尾典子はいい子だな。美人でもあるし。正直いって妬《や》けるぜ」  未練があるんだろう、きみ。部長は笑って島崎の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「仲良くなってまだ一ヵ月ですから。三回しかデートしてないんです」  また島崎は顔が熱くなった。典子の裸身が目の奥にちらついた。 「だったら彼女に転職させるんだな。よその会社につとめさせて、デートをつづける手がある。うちの女子社員でなければ、きみがどこの女の子とつきあおうと、きみ個人の問題だ。会社は干渉できない」 「なるほど。彼女に一度相談してみます。しかし、いいにくいですね。うちのように待遇もステイタスも一流の職場から転職させるなんて、残酷ですよ」 「仕方がないさ。きみのほうが会社をやめるわけにはいかないんだから。もし彼女が不承知なら、きみたちの仲もそれまでにするより仕方がない。踏み絵のようなものだな。きみたちの愛の踏み絵だ」  ともかく問題が表面化するまでにケリをつけておくように。部長は念をおした。  だまって島崎は頭をさげた。課長になって四ヵ月。サラリーマン人生のなかで、いまが一番大事な時期である。重役への道がとざされるか、ひらかれるか、この二、三年が勝負だといってよい。  オフィスラブで将来の道をとざすわけにはいかなかった。なんとか典子に理解してもらわなければならない。もし彼女が転職に応じてくれたら、妻と別れて典子と結婚するわけにはいかないにしろ、目いっぱい大事にしてやるつもりである。  食事を終えて二人はコーヒーを飲んだ。二、三仕事に関係のある話をした。 「しかし、こんな投書がくるなんて、いやな世の中になったなあ。むかしは他人の情事なんか、みんな見て見ぬふりだったのに」  封書を部長はあごで指して、大きなため息をついた。  きみの前任の課長も投書で飛ばされたんだ。舌打ちして部長はつぶやいた。 「前任の課長——。森川里志のことですか。知りませんでした。彼も投書でなにかバラされてしまったんですか」  おどろいて島崎はさけんだ。お坊ちゃまに気をつけろ。彼のことばを思いだした。  森川里志は島崎の同期生である。口八丁手八丁で、人格も誠実だった。同期のトップを切って課長になった。  だが、一年で大阪へ転勤になった。表面的には横すべりだが、実質は左遷である。課の業績が低下したわけでもないのに、なぜそんな目に遭《あ》ったのか。以前から島崎は疑問に思っていた。 「きみと同じケースなのさ。森川君は化学品第一部の女の子とデキていた。二年ごしのオフィスラブだったらしい」  ここだけの話にしてくれ。ことわって部長はいきさつを教えてくれた。  森川の相手は今井玲子《いまいれいこ》という女子社員だった。大卒で、しっかりした女だった。  二年越しの恋愛で玲子は森川の子をみごもった。生む、生まないで二人は対立した。森川が頭をさげて頼んでも、玲子は自分の手で育てるといい張った。森川と妻のあいだには子供がいない。玲子は子供を武器に、森川との結婚を夢見ていた気配だった。  ある日二人は、会社の近くの喫茶店で派手な喧嘩《けんか》をした。玲子は逆上して、森川の顔にグラスの水をあびせかけて立ち去った。たまたま、その現場を見ていた者がいて、部長あてに投書したのだ。きょうの手紙と同様、ワープロで文が書いてあった。同じ人間による投書なのかどうかはわからないという。 「前の手紙を保管していれば、文章を比較検討することもできたんだろうけど。あんなものを残しておくはずもないし——」  部長は仕方なさそうに笑った。  それも高田健一のしわざだったのだろうか。島崎は考えこんだ。以前話したときの口調からいって、森川は健一が犯人だと考えているらしい。一度森川へ電話して、いきさつをたしかめてみる必要がある。  意地で子どもを生むのは止《よ》せと部長は今井玲子を説得した。総合商社へ勤務しながらの子育てなど、できるわけがない。冷静になって、玲子も部長の意見にしたがった。  以前のまま玲子は化学品第一部に勤務している。女子社員とのトラブルの責任を問われた恰好で、森川は大阪へ移った。 「そんなことがあったんですか。全然知りませんでした」  島崎はほとんど茫然《ぼうぜん》としていた。  森川とは毎日オフィスで顔をあわせた。ときおりいっしょに酒を飲んだ。それでも彼と今井玲子が愛人どうしだったなんて、夢にも思わなかった。森川のほうも、まったくそんなそぶりを見せなかった。  同期生などといっても水臭いものなのだ。同僚は半面ライバルである。たがいに本音をかくしてつきあっている。大勢の社員がいるのだが、企業は孤独な人間の集団だった。投書で足をひっぱられたら、ひっぱられた人間のほうが甘いのである。 「お、噂をすればなんとやらだ」  窓の外を見て、部長がつぶやいた。  レストランのまえの歩道を今井玲子が通っていった。同じ課の女の子たちと三人づれで、談笑しながら歩いてゆく。  玲子は色白で、さわやかな目鼻立ちをしている。マリンブルーのユニホームがよく似合った。不倫の修羅場をくぐりぬけてきた女には、とても見えない。 「恐いですねえ。女は恐いですよ」  島崎は心の底からつぶやいた。  大麻で酩酊《めいてい》状態にあった典子の顔が目にうかんだ。このまま島崎との恋愛に深入りしたら、彼女もどう豹変《ひようへん》するかわからない。  その夕刻、島崎は大阪本社の森川里志に電話をいれた。課員に話をきかれないよう、応接室の電話を使った。 「せっかく彼女ができたのに、投書でバラされてしまったんだ。まいったよ。部長にきいたんだが、おまえも被害に遭ったんだって」  自分のほうの事情から島崎は話した。  森川は警戒心をといたようだった。苦い経験を打ちあけてくれた。部長からきいたのとだいたい同じ内容だった。 「投書したやつは、おまえが喫茶店で女と揉《も》めたとき、たまたま居合せたそうだな。ツイていなかったな」  島崎がいうと、いやそれはちがうんだ、と森川はムキになった。  喧嘩したのは事実である。だが、そのとき店に客はいなかった。投書した人間は、店の従業員から話をきいて書いたのだ。化学品事業部の者がよく利用する喫茶店だった。従業員は森川と玲子がそんな仲だったのにおどろいて、だれかに噂を流したのだろう。 「お坊ちゃまがやったとおれは睨《にら》んでいる。あいつ、おれを恨んでいたからな。本人のためを思ってきびしく当ったんだが、本人はいじめとしか受けとらなかった」 「やっぱりそうか。お坊ちゃまか。おれをチクッたのもあいつにちがいない」  島崎は苦笑してうなずいた。  大麻のことを知られて、健一は島崎が煙たくなったのだ。できれば森川のように転勤させたい。悪くても島崎にたいする牽制《けんせい》にはなる。そんな算段だったのだろう。 「あの野郎、なんとか始末をつけなくてはならないな。うちの課のガン」 「しかし、なんといっても次期社長のお坊ちゃまだからな。へたにさわると火傷《やけど》をする。気をつけてやれよ」  それで二人の話は終った。久しぶりで島崎は同僚と本音を交換しあった。  オフィスへかえると、健一が外回りから帰って電話で商談をしていた。  K工業所の製品のほか、彼の担当する得意先の製品の売れゆきが好調らしい。元気よく彼は受け答えしている。 「その線で一つおねがいします。ではまたよろしく。よろしくどうぞ」  練達した商社マンの口調だった。商売が順調だと、だれでもそうなる。 「課長、おかげさまで今月もいい線をいきそうです。ご指導のたまものです」  ぬけぬけと健一は声をかけてきた。表情は相変らずおだやかである。  健一を張り倒してやりたい衝動に島崎はかられた。だまって彼は席についた。課長が暗い顔をすると、課員の気分も暗くなる。つとめてなごやかな表情をつくった。  あくる日の午後六時、島崎は銀座のホテルのロビーで西尾典子と待ちあわせた。  金曜日だった。取引先の接待の予定があったのだが、課員にまかせることにした。典子と早く話しあっておかなければならない。へたをすると森川里志の二の舞いになる。  六時ちょうどに島崎はホテルへ入った。典子はさきにきていた。ベンチから腰をあげ、舞うように近づいてきた。赤、藍《あい》、黄などのあざやかなストライプの服を着ている。  島崎は目を洗われる心地だった。前日からデートの約束をしていた。それにふさわしい装いを典子はしてきたのだ。 「すごいな。眩《まぶ》しいくらいだよ。DCブランドだろう。アズディン・アライアか」 「よくご存知ですね。この日にそなえて用意したの。奮発した甲斐があったわ」  スクエアダンスのように回転して典子は島崎と肩をならべ、腕をからませてきた。  少女のように胸をはずませているのがわかる。島崎は典子の顔を正視できなかった。こんなに倖《しあわ》せそうな典子へ、いやな話をしなければならないのだ。  並木通りのビルのなかにあるフレンチレストランへ入った。フルコースの料理を注文する。ワインはアロックス・コルトンにした。こんな日に豪華なディナーをとるのは場ちがいだったが、なりゆき上仕方がなかった。  二人は乾盃しあった。典子の服のあざやかな配色が、ワインの複雑な赤によく似合った。愛らしく首をかしげて典子はワインを飲んだ。ますます島崎は切り出しにくくなる。口数が少くなった。 「どうしたんですか。いそがしすぎて疲れているみたい」  やがて典子は目を大きくして島崎をみつめた。 「いや、ちがうんだ。じつはなんとも不愉快なことが起ってね」  上衣のポケットから島崎は例の投書を出してみせた。部長からもらってきたのだ。 「なんですかこれ。うちの部長あての——」  典子は手紙をとりだして読んだ。  みるみる表情がくもった。手紙をたたんでテーブルにおいた。島崎をみつめる。怒りで目に力がこもっている。 「なんていやなやつがいるんだろう。こんなことをして、なんの役に立つんですか」  ワインを典子は飲みほした。グラスをもつ手がふるえている。 「たぶんお坊ちゃまのしわざなんだ。おれたち二人のこと、知っているのはあいつだけだろう。あいつしかいない」 「でも、どうして高田さんが。課長、彼には良くしてあげているんでしょう」 「大麻のことで注意したんだ。あいつは常用しているらしいからね。やめないとお父さんに報告するといったら、逆上した——」  島崎はいきさつを物語った。  茫然として典子はきいていた。島崎にうながされて料理に手をつけたが、すぐにナイフとフォークをおいてしまった。 「ごめんなさい。私がうっかり大麻なんか吸ったから。おまけに酔ってしまって」 「いや、きみが実験したから健一が常用者だとわかったんだ。ときどき彼は、あのときのきみと同じように青い顔をしている。やたらとよく笑うようになる」 「恥ずかしいわ。大麻って、煙をみんなお腹に送りこむような吸いかたをするんです。煙は少しずつしか吐きだしてはいけないの。そのうち私、目まいがしてきて」 「ムーンリバー」の地階の更衣室で、いあわせた常用者が寄ってたかって典子に吸いかたを指導したらしい。  おもしろ半分、典子はやってみた。島崎に待たされて、腹立ちまぎれに実行した向きもある。島崎にも責任があるのだ。 「おれの前任者の森川も、あいつの投書で大阪へ転勤させられたらしいんだ。きのうはじめて知ったよ。あいつ、化学品第一部の今井玲子とデキていたんだってな」 「それなら私も知っています。噂をきいてエーッと思ったわ。でも、投書が原因で転勤したなんて知りませんでした」  うちの会社はオフィスラブにきびしいんですね。典子はつぶやいた。窓のあたりにじっと目を注いで考えこんでいる。 「投書なんかするやつのほうが人間的にずっと下劣だと思うんだが、密告者を処罰する規定はないからな。第一、投書したのがお坊ちゃまだという証拠がない」 「密告した男はお咎《とが》めなしで、恋愛した側が左遷されたりするんですね。企業っておかしな社会ですね。人を愛してはいけないの」 「不義はお家の法度《はつと》という封建道徳がまだ生きているんだ。それに、愛しあう男女にたいする嫉妬《しつと》。総合商社でさえこれなんだから、日本の現代化も高が知れているよ」  暗い気持なのに、ワインは美味《うま》かった。  島崎は香りを吸いこみ、液体を口中でころがした。ほんの一瞬でもいい、ワインのなかに逃亡していたかった。 「ムーンリバーになんかいったのが悪かったのね。私、軽率でした」 「いろいろ曰《いわ》くのある店だとは知らなかったんだから仕方ないさ。それより今後の対策を考える必要がある。いまのままだと、おれもどこかへ飛ばされるかもしれない」 「いやです。そんなのいや。私のせいで島崎課長がエリートコースを外されたら、一生後悔しなければならないわ」  激しい口調で典子はいった。さっきとは一変して、泣きそうな顔になっている。 「おれだってそんなのは困る。まだ野心があるからね。かといって、外圧に屈してきみと別れるのもいやだ。おれ、ほんとうに典子が好きだから。毎日きみと顔を合わせながらデートはしないなんて、とても無理だ」 「私もよ。まえから島崎課長が好きだったんだから。やっと思いがかなったのに、どうしてすぐ別れなければならないの」  二人とも勢いよくワインを飲んだ。  ボトルがカラになった。以後はブランデーを飲むことにした。 「一つだけ解決策があるんだ。部長がアドバイスしてくれたよ。とても身勝手な話なんだが、怒らずにきいてくれないか」  決心して島崎は切りだした。  典子が勤務先を変えてくれれば、だれにも気がねなく関係をつづけていける。島崎の昇進と恋愛を両立させるためには、典子がP商事の女子社員でなくなる以外、道はない。 「要するにきみを犠牲にして、おれが生き残るということなんだ。虫のいい話だが、そうしてくれると、おれ、どんなに助かるかわからない。いや、おれの立場だけではなく、おれたちの恋愛の生命も助かる」 「辞めるの私、P商事を——」 「ほかに手段がないんだ。独立する手段があれば、おれが会社をやめるんだが」 「そんなの、いけないわ。仕事は男性の生命なんだから。女のことで仕事をほうりだすなんて、男にはゆるされない」  典子は頬に手をあてて考えこんだ。  きれいな目をしている。島崎の提案に、男のエゴイズムしか見ない女ではなかった。島崎の苦渋にすなおに感応してくれている。典子を見ていると、それがわかった。島崎は愛《いと》しくて胸がいっぱいになる。 「いいわ。私、会社をやめます。どこか新しい勤め先をさがすわ」  やがて、典子は島崎に笑いかけた。 「ほんとうか。それでもいいのか」 「このまま会社にいて、島崎課長がよそへ転勤させられたりしたら、私たち会えなくなるんだもの。それぐらいならお勤めを変えるわ。私、島崎課長と別れたくないもの」 「済まないな。転職は苦労が多い。収入だって減るかもしれないのに」 「いいの。大企業のパーツみたいな生活にも疑問を感じていたところなんです。しばらく休んで、いろいろ考えてみるのもいいわ。さいわい私は自宅通勤だから、やめても食べていけないことはないし——。きめました。あしたにでも辞表を出します」  グラスを典子はもちあげた。  二人はグラスをふれあわせた。島崎は肩の荷をおろした解放感よりも、典子に済まない気持のほうが大きかった。 「きみの好意は絶対に無にしないよ。精一杯きみを大事にする。なにがあっても離さない。男の約束だ」 「私、島崎課長のお役に立ててうれしい。人を愛するって、こういうことなのね。犠牲だともなんとも思わない。とてもハッピーよ。わりにいい女なんだなあ、と自分にうっとりしたりして」  かなり酔っているのに、二人とも食欲が出てきた。  たべはじめた。九分どおり残さずにたいらげた。食後のケーキがすばらしかった。酔いと飽食で、席を立つのが面倒だった。  いつものように赤坂のファッションホテルへ二人は入った。  もうすぐ典子が会社をやめる。朝出勤してもおたがいの姿が見られなくなる。その思いが二人をたかぶらせた。部屋へ入るなり二人は抱きあい、むさぼるようにくちづけをかわした。ときおり呼吸をととのえて、長いキスを反復した。酔っていたので、抱きあったまま、何度もよろめいた。  立って抱きあったまま、二人はおたがいの服をぬがせていった。全裸になり、双方の体のかたちをたしかめあう。島崎はやがて典子を横抱きにかかえあげて浴室へ運んだ。  いっしょにシャワーをあびた。おたがいの体に石鹸を塗りたくり、肌をこすりつけあう。シャワートップを典子の女の部分に近づけてぬるま湯の雨を降らせると、しばらくして典子は大きな声をあげた。 「どうして。どうしてこんなに感じるの」  島崎にすがりついて典子は訊いた。  一人でシャワーであそんだ経験はある。だが、われをわすれるほどの快感はなかったという。愛情のせいだと解説しながら、あらためて島崎はシャワーを典子に注いだ。秘密の花のような部分があたたかい雨に打たれ、ふるえつづけて、やがて光った液を湧《わ》きださせるさまが、夢のように美しかった。  外へ出て、島崎は典子を椅子に腰かけさせた。典子の足もとにひざまずき、思いきって下肢をひらかせる。中心部の秘密の花に顔をふせ、ゆっくりと時間をかけてくちづけをつづけた。舌と指を思いきり微妙に駆使した。何度も典子は悲鳴をあげ、やがて絨毯《じゆうたん》のうえにころがり落ちてしまった。  島崎は典子をベッドに運んだ。目をとじて典子はぐったりしている。そばに島崎はすわって髪や胸を愛撫したり、下半身に見入ったり、典子を裏返しにして尻にキスを送ったりした。どれほどやさしくしても、まだ不足しているような気持だった。  典子が目をあけた。島崎をみつめたあと、天井へ視線を移した。 「投書したの、高田健一よね。あいつ絶対にゆるせない。いつかお返ししてやろう」  吐きすてるように典子はいった。  あらためて島崎をみつめ、抱きついてくる。あおむけに寝て体をひらいた。島崎は典子のなかへ入った。両脚で典子は島崎の胴をはさみつける。挑むように揺すりあげる。  つづけざまに典子は快楽の頂上にたっした。島崎もひきずりこまれそうになる。そのたびに典子に制止された。  終らないで。朝まで終らないで。いじめて。典子は口走った。いわれるたびに島崎は歯を食いしばって快楽からあとじさる。そのときはつらいが、苦悶《くもん》する典子の顔を見ると、よろこびで胸が一杯になった。  典子を退職させることに、さほどひけ目を感じなくなった。将来にわたって誠実をつくす決心がついていた。 6  数日後、西尾典子は辞表を出した。理由は型どおり「一身上の都合」である。  現実にあったさまざまな事情が、この一語に吸収されてしまった。典子の上司である課長も、人事部のスタッフも、彼女がやめるほんとうの理由を知らないのだが、なにも追及しなかったらしい。 「一身上の都合」という一語以外、典子の退職について彼らは情報を必要としないのである。典子にとっても、会社に残る島崎俊彦にとってもこれはありがたいことだった。サラリーマンの先輩たちの智恵というものだった。なにか不都合を働いて会社を追われる人間が、この一語でどれだけ救われたか、計り知れないのだ。  P商事では、退職の発令は原則として辞表提出の一ヵ月後となっている。典子もその例にならって月末まであと三週間会社へ出てくることになった。  その間に後任者への引継ぎを済ませる。人事関係の手続も終る。課の送別会もやってもらう。けっこう多忙である。見たところ、これまでと変りなく典子は出勤していた。 「また一人美女が嫁にいくのか。残るのはブスばかりだよなあ」  典子の退職を知って男たちはいいあった。  部長はほっとした面持で、ひそかに島崎を祝福してくれた。高田健一のほうは相変らずおだやかな面持で業務にはげんでいた。業務上必要なこと以外、島崎は健一と口をきかないようにしている。  どうやら迷宮入りしたらしかった。  刑事は社にあらわれなくなった。新聞に関連記事も出ない。社内で事件の噂をする者もいなかった。  どこかのゴロ新聞に高田浩介のスキャンダルがあばかれた形跡もない。ほぼ完全に事件はわすれられた。オフィスはわき目もふらぬ利潤追求の活動で、十年一日のように沸きかえっていた。  七月中旬のその夜、島崎はオフィスでデスクワークしていた。二人の男子課員がいっしょに残業している。午後八時だった。化学品事業部のオフィスは天井の蛍光灯が八分《ぶ》どおり消え、ほとんど物音もない。多忙な時期ではないので、第一、第二部をあわせても残業中の社員は十名あまりだった。  課のまんなかにある直通電話が鳴った。課員が受話器をとって応対する。 「高田ですか。もう帰りましたよ」  健一にかかってきた電話だった。またK工業所関係の商談なのだろう。 「課長、お電話です」  課員が呼んだ。健一の担当の取引先からだと見当をつけて島崎は受話器をとった。 「島崎さんですか。私、杉本こずえ」  意外な相手からだった。  受話器を通すと、こずえの声はハスキーだった。背後からジャズピアノの演奏がきこえる。こずえは店にいるらしい。 「ケンちゃんはいないんでしょう。そのほうが都合がいいわ。話があるの」  疲れたような口調だった。訴えるような気配があった。 「どういうこと。彼に関係のある話か」 「そうなの。困ったことになったわ。彼、この店を滅茶滅茶《めちやめちや》にしてしまった」 「ママの店を。どうして」 「K工業所ってあるでしょ。あれがヤバいのよ。へたをすると大変なことになる」  ここではくわしい話ができない。いまから店へこないか、とこずえはいった。  島崎は考えこんだ。もうすぐ残業は終る。だが、今夜は妻の綾子の父親が、静岡の実家から孫の顔を見に出てきている。なるべく早く帰って相手をしてほしいといわれていた。綾子の父親は、あすは静岡へ帰ってしまう。島崎とゆっくり話す時間がないと、がっかりするにちがいない。 「悪いけど、きょうは家に欠かせない用事があるんだ。あしたでもいいだろう。あしたなら店へいけるよ」  あすは水曜である。めずらしく夜が空いていた。ついでに典子とデートすればよい。  健一のこともあるし大麻の問題もある。「ムーンリバー」には出入りするまいと典子と先日話しあった。だが、典子が辞表を出したので、事情が変った。もうスキャンダルを恐れる必要はない。外人が大麻を吸うさまを見物してみたい好奇心もある。 「そう。早いほうがいいんだけどなあ。ま、仕方ないか。かならずきてね、あしたは」  こずえはため息をついて電話を切った。首をかしげて島崎は席にもどった。  翌日、島崎は午後六時に西尾典子と六本木のSホテルで落ちあった。ホテル内の和風レストランで食事をとった。典子はクリーム色の、ゆったりしたデザインの服を着ていた。 「やめるときめたら、すっかり気がらくになったわ。もう残業する必要はないし、遅刻しても平気だもの。さっそくきのう遅刻してやった」  華やかな声を立てて典子は笑った。  いままで自分がどんなに窮屈な、時間に縛られた生活をしていたか、よくわかったという。正式に退職したら、しばらくつぎの職場をさがさずに休日を満喫するつもりでいるらしい。 「一人で北海道や沖縄に旅行してみようかと思うの。できたら海外へも——」 「うらやましいな。おれ、アメリカとヨーロッパへいったことがあるけど、いつも仕事がからんでろくに見物するひまもない。のんびり旅をしてみたいよ」 「でも、二ヵ月も休みがつづくと、やっぱり倦《あ》きるでしょうね。そうなってから仕事をさがします。なるべくデートに便利なところがいいな」 「この界隈《かいわい》がいいかもしれないな。しかし、あまり盛り場に近いと、仕事のあと毎晩飲みにいきたくなる。健康を害する」 「それは島崎課長の場合でしょ。私、課長といっしょでなかったら、ネオン街へ出たいなんて思いません。毎日きちんと家へ帰って、読書と音楽鑑賞をするの。ほんとうですよ」 「わかったわかった。おとなしくしていてくれ。そのぶん、デートのときはお祭りさわぎにしよう。うんとたべて、飲んで、思いきりセックスして——」 「週に一度はデートしてくださいね。私、そんなくせがついてしまった。放っておかれたら、神経がおかしくなる」 「放っておくわけがないだろう。きみには大きな犠牲を払わせてしまったんだ。ないがしろにしたら罰《ばち》があたる。週に一度は徹底的に可愛がってあげるからね」  二人は冷酒を飲んでいた。  快く酔いがまわって典子は目がうるんでいる。襟《えり》もとから覗いている肌がかすかに赤らんで、クリーム色のスーツとの対照でとても色っぽくみえた。ホテルに部屋は予約してある。早く食事を切りあげて、典子と二人きりになりたい衝動に彼はかられた。  食事が終って二人は和風レストランを出た。杉本こずえに会いにゆく約束が、島崎はわずらわしくなった。 「ムーンリバーへいかなくてはならないんだ。健一のことで話があるらしい」  杉本こずえからの電話のことを、手短かに島崎は説明した。  典子は顔をしかめた。投書の一件があって以来、健一の名前をきくのも汚《けが》らわしいという心境のようだ。 「さきに部屋へ入って、帰りにあの店へ寄ろうか。それとも、あの店へ顔を出してから部屋へ入ろうか」 「いやなことはさきに済ませましょうよ。島崎課長、ほんとうに災難ですね。偉い人の息子なんか部下にもつと、いろいろわずらわしいことに巻きこまれるわ」  二人はホテルを出て「ムーンリバー」へ向かった。  通りはひどく混んでいた。歩道から人があふれそうになっている。カジュアルウェアを着た若い男女が多い。みんな、あそぶことしか念頭にない表情である。人混みをかきわけて歩きながら、島崎はますますこずえに会うのをわずらわしく感じた。 「ムーンリバー」へ二人は入った。まだ午後八時まえなのに、客席は八分どおり埋まっていた。先日よりも日本人の客が多い。黒人の男のピアニストが、にぎやかなジャズを演奏している。  杉本こずえはまだ出勤していなかった。時間が早すぎたようだ。島崎と典子はカウンター席でビールを飲むことにした。 「化学品一部の井上裕子《いのうえゆうこ》さん、知ってるでしょ。ほら、背のスラリとした、外人みたいな顔の女性」  思いだしたように典子が訊いた。 「ああ、お坊ちゃまのファンだとかいう女の子だろう。あの子がどうかしたのか」 「高田健一さんが離婚しそうだって教えてあげたら、張り切っていたわ。玉の輿《こし》に乗るんだって。もう仲良くなったみたいよ」 「玉の輿か。昨今のギャルはえらく割り切りがいいんだな。結婚して半年もたたないうちに別居したんだから、お坊ちゃまには人格的な問題があるはずだ。それをなんとも思わないのかな」 「裕子さん、母子家庭でハングリーに育ったんだって。ハイソサエティにあこがれがあるみたいなの。結婚相手はお金持でないといやだって、以前からいっていたわ」 「ハイソサエティにもそれなりの苦労があるんだが、外からはわからないものな。彼女、後悔するぞ、きっと」 「私もそんな気がするわ。お止《よ》しなさいって忠告したら憎まれるだけだから、なんにもいわないようにしているけど」  話しながら典子は島崎に体をあずけてくる。  幸福そうな笑顔である。オフィスラブの犠牲になって会社をやめることを、すこしも苦にしていない。ほんとうに島崎が好きなのだろう。抱きしめてやりたい衝動に島崎はかられる。この娘を不幸にするようなことは絶対にしてはならない。心に誓った。  店の奥から人影が一つ出てきた。典子の笑顔が消えた。  人影は店の支配人だった。典子に会釈する。まだ若いのに、妙に脂ぎった感じのする男だった。そばにいた三人づれの黒人と、流暢《りゆうちよう》な英語で話をはじめた。 「あの男か。きみに大麻を吸わせたのは」 「そうなの。私もバカだったわ。つい好奇心にかられて」 「セックスの反応がすごかったじゃないか。またやってみたいと思わないか」 「いや。くせになったら恐いもの。私、大麻の世話にならなくてもよく感じます。とくに島崎課長はテクニシャンだから」  典子は赧《あか》くなった。セックスをうながすように体をぶっつけてくる。  九時になった。まだ杉本こずえはあらわれない。島崎はいらいらしてきた。  こずえの娘の奈津子が楽譜のバッグをもって外から店へ入ってきた。今夜は出演する日なのだろう。  島崎は奈津子を手招きした。ママはどうしたのかと訊いてみる。 「今夜ここで会うことになっているんだ。ママのほうから連絡があったんだぞ」 「変だなあ。私、なにもきいてません。どうして出てこないのかしら」  奈津子はピアノ教師のもとで個人レッスンをうけてここへきた。  九時から午前二時まで三十分ずつ七回出演する予定になっている。朝、大学へゆくために家を出てから母とは顔をあわせていない。  奈津子は支配人を呼んで、母からなにか連絡がなかったか訊いた。 「いえ、電話は入っていません。どこへいかはったんかなあ」  支配人はかぶりをふった。ことばに関西|訛《なまり》があった。  奈津子は家へ電話をかけにいった。もどってきて、かぶりをふった。応答がないという。こずえと奈津子は中野のマンションで暮している。マンションの管理人にも訊いてみたが、こずえの愛車のBMWは駐車場には見あたらないそうだ。車で彼女は出かけたらしい。  時間が惜しくなった。奈津子の演奏をきいてから、ホテルへ向かうことにした。あとでここへ電話をいれ、こずえが店へ出てきていれば、また訪問しても良い。  奈津子がピアノ演奏をはじめた。歯切れのよい、若々しい演奏だった。黒人の客が口笛を吹き、体を揺すった。缶ビールをもちあげて、歓声をあげる者もいる。 「ニューヨークの雰囲気だな。ダンスフロアのないのが惜しいよ」  島崎はビールのお代りをした。黒人たちのように体を揺すりたくなる。  しばらくして島崎は尿意をもよおした。店の奥にトイレの標示がある。そちらへ向かうと、地下へおりる階段が目にとまった。更衣室で客が大麻を吸っていたという典子の話を島崎は思いだした。  階段をおりてみた。下に黒人の若者が一人立っていた。地階に入ってはいけない。オフリミットだと彼はかぶりをふった。 「どうしていけないんだ。トイレはこっちじゃないのか」  いいながら島崎は目をこらした。  左手に更衣室がある。正面は事務所だった。右側は倉庫であるらしい。 「トイレは上だよ。上の左側だ」  若者がさけんだ。  更衣室の扉がひらいた。日本人の長髪の若者が出てきた。ねむそうな目をしている。Tシャツにジーンズという恰好だった。バンドマンかなにからしい。 「やあ、あんた事務所の人。おそかったじゃないの。なんだようネクタイなんかしちゃってさ。そんな恰好でトリップしにきたのかい。まるで銀行マンじゃないの」  若者はケラケラ笑って、コーラを一ダースもってこいと黒人に命じた。  島崎と若者を見くらべながら黒人は階段をのぼっていった。  更衣室のなかを島崎は覗いた。半裸の男が五人、ベッドや床にごろごろしている。タオルで顔を覆《おお》ったり、うっとりと目をとじたり、頭をかかえこんだりしていた。「ムーンリバー」の電飾が、どういうわけか部屋のすみにおいてある。  白人と黒人が一人ずつ、あとは日本人だった。香の匂いがただよっている。しずかなムード音楽が流れていた。  黒人は部屋のすみにうずくまって泣いている。声をおし殺してしゃくりあげていた。ほかの者は無関心である。自分の世界にひたりきっていた。 「彼はなにを泣いているんだ」  外にいる若者に島崎は訊いてみた。 「なにって、あいつはきょうバッド・トリップなんだ。仕方ないよ。だれだってそんな日はある。ミゼラブルさ。おれはきょうグッド・トリップ。ハッピー。とてもハッピー」  トリップというのは、マリファナ愛用者の用語である。現実を離れ、幻想の世界をさまようことをいうらしい。  黒人の若者が、コーラの瓶《びん》をバケツにいれて運んできた。 「入んなよ。遠慮すんなよ。鮮度のいいグラスが山ほどあるんだ。ハッピーになろうぜ」  長髪の若者が更衣室のなかを指した。  島崎は手をふってことわった。 「もうすこし酒を飲んでからにするよ。あとでまたくる」  階段をのぼって客席へもどった。  典子のそばに支配人が立ってなにか話しこんでいる。島崎が席につくと、愛想笑いをうかべて支配人は話しかけてきた。 「健一さんの上司でおられるそうですな。今後もご贔屓《ひいき》におねがいします」 「いま地階へいってきたぞ。マリファナ・パーティをやっていた。大丈夫なのか。警察に踏みこまれたらどうするんだ」  島崎は支配人に訊いた。 「いえ、お客さまがやっておられることで、うちは関知しません。うちにはバイ人は出入りしないから、警察もマークはしないんですよ。このへんのディスコやパブには、大がかりな取引場所がいくらでもありますし」 「この子にきみ、このあいだ大麻を吸わせたんだろう。素人を悪の世界へひきずりこむようなまねはするなよ」 「いやあ、悪だなんておおげさな。マリファナは中毒しないんですよ。アメリカじゃとうに市民権を得ているんです」 「しかし、ここは日本なんだ。麻薬取締法というれっきとした法律があるんだからな。甘く見ていると、えらいことになるぞ」 「もちろん一般のお客さまにすすめたりはしません。このお嬢さまは健一さんのお友達だから、とくべつにテストを——」 「ごめんなさい。私が軽率だったの。もう吸ったりしない。逮捕されたら困るもん」  典子がいったので、島崎と支配人の議論は終った。  会釈して支配人は去っていった。杉本こずえからはまだ連絡がない。これ以上時間をむだにするわけにはいかなかった。  二人は「ムーンリバー」を出た。Sホテルへ向かった。二十五階の部屋へ入った。窓から見える夜景がすばらしい。宇宙船に乗って夜空に浮かんでいるような気分である。 「ああ、やっと二人きりになった。自分をとりもどしたという感じ」  典子が抱きついてきた。  二人はくちづけをかわした。キスしたまま島崎は典子を抱きあげてやる。典子は足をばたつかせ、息をはずませた。  典子の体重はさほどでもないはずだが、酒のせいで島崎は息切れがした。すぐに典子を下におろした。 「ああ暑い。シャワーをあびたいわ」  クロゼットのまえで典子は服をぬぎはじめた。  すぐに全裸になった。均整のとれた裸身が、ろうを塗ったようにかがやいた。典子は両手で乳房を掬《すく》いあげるようにして、島崎のほうを見て笑う。もう少しバストがほしい。典子はいつもそういっていた。  島崎も服をぬいだ。二人はバスルームへ入った。ぬるま湯のシャワーをあびながら、おたがいの体に石鹸を塗って、掌《てのひら》でこすりあったり体をすりあわせたりした。  島崎の男性に典子は指をからませた。うれしそうに笑った。手を動かしはじめる。正面からとらえているので、動きはぎこちない。右手を突きだしたり引いたりする。 「へたねえ私、いらいらする」  シャワートップを典子は突きだして、島崎の男性から石鹸の泡を洗い落した。  島崎の足もとへうずくまった。男性を両手でとらえ、かるくキスする。すぐに口にふくんだ。頭を動かしはじめる。  典子は目をとじていた。眉をひそめている。愛撫に集中する表情だった。右手でときおり男性の下方のものを揉《も》んでくれる。快感が複雑になった。典子の表情に見入っていると、切ないほど典子が可愛くなる。  しばらく島崎は典子の奉仕に身をまかせた。やがて、じっとしていられなくなった。 「ありがとう。ちょっと休ませてくれ」  典子の腕をとって立ちあがらせる。  シャワーをあびて、双方の体から石鹸を洗い落した。典子は息をはずませている。立っていられないほどたかぶっていた。自分のした奉仕に刺戟《しげき》されたのだ。  島崎は典子を横抱きにかかえあげてバスルームを出た。そのままベッドへ運んだ。  ベッドの端に典子を腰かけさせる。彼女の足もとへ島崎はひざまずいた。接近して大きくひらかせる。女の部分へ顔を埋めた。舌とくちびるで典子のなかへ快感を送りこんでやる。典子の声が尾をひいて流れた。  たっぷりと時間をかけて島崎は典子の体の小さな沼地で舌を泳がせた。典子の声がふるえ、暖い液が際限もなくあふれ出てくる。それが島崎には張り合いになった。一秒も休まずに技巧のかぎりをつくした。  三度ばかり典子は快楽の頂上へたっした。島崎は典子の体の快美な神経をどう掘りおこせば良いのかがわかってきて、すばやく彼女を押しあげられるようになった。敏感な真珠の粒をくちびると舌で代る代る刺戟され、その下方のやや右寄りを指でくすぐられるのを典子は好んだ。もっとも感じやすいかたちで刺戟が加えられると、典子は太鼓橋のように反ってするどい声をあげた。  なかへ入ってきてほしい。三度目の頂上を越えてから典子は要求した。島崎は応じなかった。まだ終りたくない。もっと時間をかけてたのしみたかった。ぐったりした典子のそばに横たわって休息をとった。 「ああ、のどがかわいた」  やがて典子はつぶやいた。  ベッドをおりて冷蔵庫に近づき、コーラを二本とりだした。裸のまま典子は窓ぎわの椅子にすわり、テーブルにボトルをおいた。  島崎も寝台をおりた。椅子にかけた典子のそばに立って夜景を見ながらコーラを飲んだ。快感が下腹部に流れこんだ。典子が手をのばして男性をまさぐっている。 「こうしてると、すごくふしぎな気がするわ。東京には一千万人の人がいるわけでしょ。そのなかからよりによって私と課長が結ばれたなんて。どうしてなの」 「おれはラッキーだったよ。典子とめぐり会ったんだから。おかげで結婚後も恋愛ができた。典子と会わなかったら、浮気はしたかもしれないが恋愛はできなかっただろう」 「私も課長と出会わなかったら、こんなに切実な恋はできなかったわ。私、課長に感謝してるのよ。どんなに恥ずかしいことでも、課長となら平気。なんでもしてあげる」  典子は上体をのばして、男性にくちづけした。かるく舌を這《は》わせた。  島崎を見て笑った。目が濡れている。大きなため息をついた。  典子の腕をとって立たせた。体をさぐってみる。欲望のしるしがあふれていた。  窓に向かって典子を立たせる。窓わくに典子は両手をついた。丸い尻が突き出される。合せ目が細い一本の条《すじ》にみえた。  うしろから島崎は典子を抱いた。ゆっくりとなかへ入った。 「すばらしい夜景だな。今夜はおれたちが東京でいちばん高い場所でセックスしているのかもしれないぞ」 「いちばんではないかも——。でも、百番以内ぐらいなら——」  典子は呻いた。歯をくいしばりながら、夜景に目をこらしている。  この広大な夜景のなかでいったい何人の男女がセックスの饗宴《きようえん》をくりひろげているのだろうか。  高田健一と井上裕子もその一組なのかもしれない。ふっと島崎は考えた。愉快な連想ではなかった。いそいで彼は頭をふって、健一らの姿を頭から追いはらった。  典子の背中と腰をみつめた。彼女の尻は島崎の下腹に貼《は》りついていて見えない。それが残念でならなかった。視覚と皮膚感覚を同時にたのしむ方法はないのだろうか。  午前零時に二人は帰り支度をはじめた。島崎は電話で「ムーンリバー」を呼びだし、杉本こずえがきているかどうかを訊いた。 「ママはきていません。連絡も入っていないみたいです」  ボーイが素気《そつけ》なく答えた。  島崎は首をかしげて受話器をおいた。 「あの人もどこかで男性と逢《あ》っているのよ。まだ若くてきれいだもの。恋人がいてもおかしくないわ」  典子が明るく断定した。  島崎もその解釈にしたがうことにした。  翌日の午前十一時、島崎俊彦は机に向かって決算用の資料に目を通していた。  高田健一の机の電話が鳴った。健一は外回りに出ている。となりの席の女子課員が受話器をとった。二言三言話しあったのち、女子課員は受話器に掌でふたをして、 「課長、高田さんの妹さんだそうです」  と声をかけてきた。  女子課員は不審そうな面持だった。健一は一人っ子だとみんな思っている。  島崎はいやな予感にかられた。立っていって、受話器を耳にあてた。 「島崎さんですか。私、杉本奈津子です。ムーンリバーの——」  予感の的中したのを島崎は知った。奈津子はすすり泣いていた。  お母さんが——。しゃくりあげながら奈津子は説明した。死体となって杉本こずえは発見された。泉正雄と同じように、隅田川の河口のあたりにただよっていたのだ。  杉本こずえはけさになっても家へ帰らなかった。連絡も入らない。奈津子は不安でいたたまれなくなり、もよりの警察署へ捜索願を出しにいった。こずえの年齢、体格、顔立ちの特徴などをきいた係官が、すぐに警視庁と連絡をとってくれた。けさ六時すぎ、隅田川で発見された身許不明の中年女の死体が、たぶんこずえだということになった。  遺体は警察病院に保管されていた。その足で奈津子は病院へ出かけ、遺体が母であることを確認して健一へ電話してきたのだ。 「大変なことになったな。きみ、気をしっかりもちなさい。で、お母さんの死因はなんだったんだ。溺死《できし》か」 「殺されたんです。首をしめられて——」 「そうだったのか。亡くなったのはきのうか。何時ごろ」 「午後七時ごろだそうです。ゆうべ島崎さんとお会いしたころはもう死んでいたんです」 「お母さん、だれかに恨まれていたようなことはあるの。たとえば、つきあっている男性がいたりして」 「そんなことはないと思います。私の知ってるかぎりでは、ありません」  兄にこちらへきてもらいたいんです。連絡はとれないでしょうか。奈津子は訊いた。 「とれると思う。出さきはわかっているんだ。連絡がつきしだい、そちらへ電話させよう。電話番号は——」  島崎はメモをとった。くじけないように。強くはげまして受話器をおいた。  健一のアシスタントの女子課員が彼の出さきをメモしていた。台東区のK工業所となっている。島崎はそこへ電話をいれた。  健一はK工業所の事務所にいた。いつものように、冷静な声で応答する。 「いま奈津ちゃんから電話があったんだ。おちついてきけよ。杉本こずえさんが亡くなったんだ。けさ遺体で発見された」 「杉本のママが——。どうして」  健一は息をのんだ気配だった。  だが、島崎の予想よりも彼の反応は小さかった。考えてみると杉本こずえは奈津子にとってはじつの母親であっても、健一にとっては赤の他人である。彼が悲嘆にくれなくともそんなにふしぎではないのかもしれない。  手短かに島崎は事情を説明した。すぐに健一は奈津子と連絡をとることになった。  島崎は受話器をおき、席へもどった。  ケンちゃんのことでご相談したい。彼は店を滅茶滅茶にしてしまった。K工業所がヤバい。杉本こずえのことばが、とつぜん頭によみがえった。彼女はなにをいいたかったのか。健一のなにが問題なのだろう。  杉本こずえの死と健一が、漠然とした結びつきをもって島崎の頭にうかんだ。こずえを殺した犯人は健一ではないのか。直接ではなくとも、他人の手を借りて殺《や》ったのではないか。  ついで泉正雄のことが頭にうかんだ。死体の発見された状況が、こずえの場合とあまりにも似ている。ひょっとすると、あれも健一の関係したことなのか。二つの死にはつながりがありそうだ。こずえが殺されたことで泉正雄の事件も、急に身近な、きわめて切実な色合をおびてきた。  島崎は自分の顔にだれかの視線が注がれているのを意識した。愛情のこもった、やさしい視線である。彼はななめ右を向いた。西尾典子が机のうえで伝票類をチェックする手を休めて、こちらをみつめていた。  視線が合った瞬間、典子は目をふせた。だが、すぐに顔をあげてほほえみかけてくる。辞表を出して典子は大胆になった。もうこそこそする必要はないのだ。  その点は島崎も同様である。あごで合図して彼は席を立ち、オフィスの外へ出ていった。エレベーターホールで待っていると、典子がやってきた。照れたような、うれしいような顔で、いそいで足を運んでくる。 「コーヒーを飲みにいこう。話があるんだ」  エレベーターに二人は乗った。  夜景をながめながらたのしんだ昨夜のことが思いだされた。典子のユニホームのスカートを透して、丸い尻が見えるような気がする。が、典子の尻にさわりたい衝動は起らなかった。こずえの死を知った衝撃のなごりがまだ体から消えていなかった。  自社ビルの地階の喫茶店へ入った。島崎は事件のことを典子に告げた。 「あのママが。どうして——」  典子はさけんだ。恐怖と同情がまじりあったような面持である。 「ここだけの話だが、どうもおれ、お坊ちゃまが事件に関係ありそうな気がするんだ」  島崎は身を乗りだした。  健一のことで相談がある、店を滅茶滅茶にされた、K工業所がヤバいなどとこずえがいっていたことを島崎は話した。  健一が直接手をかけたのかどうかはわからない。だが、なにかのかたちで事件に関与していた可能性はある。それでないと、こずえのことばの意味がわからない。 「こずえママが島崎課長にいおうとしていたことを、高田さんはきかれたくなかったのかもしれませんね。だから、課長に会うまえにママを殺してしまった——」  目を大きくして典子はいった。  島崎はびっくりした。健一を犯人と考えることには抵抗がある。なんといっても彼はP商事の社員であり、島崎の部下であり、高田専務の御曹司《おんぞうし》なのだ。殺人犯などであってほしくないし、もしそうだとすれば、上司として島崎も大きな失点になる。それなのに典子はあっさり彼を犯人にしてしまった。 「まさか、お坊ちゃまが直接手にかけたとは思えないけどね。汚れ役をしないのが、お坊ちゃまのお坊ちゃまであるゆえんだよ」 「いえ、私、彼ならやりそうな気がするわ。投書の件もそうだけど、あの人、どこか不気味な感じがあるもの。なんというのかな、痴漢みたいな雰囲気があるんです。女にはわかるの」  真剣な顔で典子は力説した。  いつか通勤電車のなかで健一が女の子の体にさわっていたのを島崎は思いだした。典子のカンはほんものかもしれない。健一の身辺をさぐってみる必要がある。 「あいつ、井上裕子とつきあっているんだろう。きのうもいっしょだったのか、それとなく裕子に訊いてみてくれないか」 「わかりました。裕子ちゃん、私にならなんでも情報をくれるわ。高田さんが離婚することを教えてあげたの、私なんだもの」 「あと、彼について情報があったら、なんでもあつめてきてくれ。おれも心配になってきた。もしあいつがあやしいとなったら、一日も早く手を打たなくては」 「私、彼が投書の犯人である証拠がつかみたいわ。投書のことを考えると、腹が立って夜も眠れなくなるんです」  典子の目が暗く光った。  かんたんに会社をやめる決心をしたわけではなかったのだ。気をしずめるように、典子は砂糖をたくさんいれてコーヒーを飲んだ。  二人がオフィスへもどってまもなく、昼休みになった。化学品第一部のほうへ典子は歩いていった。井上裕子を食事につれだす気なのだろう。なにか情報をつかんで帰ってくるかもしれない。  午後一時になった。高田健一からはなんの連絡もない。K工業所からまっすぐ警察病院へ向かったのだろう。  K工業所について島崎はしらべることにした。健一のアシスタントの女子課員から関係資料をもってきてもらった。  系列メーカーの製品であるアクリル樹脂をP商事はK工業所へ販売してきた。K工業所はそれをプレートに加工し、香港にある現地法人、香港Kへ輸出している。  香港Kは本社から送られてきたプレートを看板、電飾、標識などに二次加工する。人件費が低いので、日本国内で製造するよりはるかに低コストで製品ができる。P商事はそれを逆輸入してユーザーに販売する。樹脂とプレートおよび最終製品の段階で口銭《こうせん》をかせいでいるのだ。  この商権は順調に伸びていた。今月も三億円近い売上げになりそうだ。お坊ちゃまにしては上々の成果だった。次回のボーナス査定では、Aランクの評価になるだろう。  だが、資料を読むうち島崎は妙なことに気づいた。香港Kへ輸出されるプレートの数量にくらべて、輸入される看板、標識などの数量が少なすぎるのである。月に何十トンもプレートが出てゆくわりに、入ってくる最終製品の量が少い。現地で消化されるぶんがあるのかもしれない。だが、香港で東京以上に大量のアクリル製品の需要があるとはとても思えない。  輸入される最終製品の価格も、不自然なほど安かった。いくら現地生産は低コストだといっても、限度があるはずだ。その限度をかなり下まわっているはずの安値で、看板や電飾が入ってきている。P商事はこれを通常の相場なみの価格でユーザーへ売っている。利益率が高いのは当然である。 「おかしいな。どこかインチキくさいぞ。プレートの輸出は多すぎるし、入ってくる製品は少くて安い」  腕組みして島崎は考えこんだ。健一が帰るのを待って説明させなければならない。  机のうえの電話がなった。受話器をとると、西尾典子の声がきこえた。近くの席に同僚がいなくなったので電話してきたらしい。 「裕子ちゃんとお昼ごはんをたべたんです。きいてみたら彼女、やっぱり昨夜は高田さんといっしょだったそうです。王子のマンションで会っていたんですって」 「王子の——。最近まで奥さんと住んでいた例のところか」 「七時に王子の駅で待ちあわせたんですって。彼が車で迎えにきて、マンションへ入った。十時までいっしょにいたそうですよ」 「立派なアリバイだな。泉さんのときと同じだ。やっぱり彼は直接の犯人じゃないな。やったとすれば、だれか人を使ったんだ」  小声で二人は話しあった。うなずきあって受話器をおいた。  島崎は安堵《あんど》したような、落胆したような気分だった。安堵のほうが少し濃かった。やはり健一には犯人であってもらいたくない。  健一の帰りを島崎は待ちきれなくなった。直接K工業所へ出向いて、疑問点をしらべてみることにした。島崎は会社を出て、タクシーでK工業所へ向かった。台東区の柳橋《やなぎばし》の近くにあるその工場は、健一といっしょに二、三度訪問したことがある。  隅田川の堤防から五十メートルばかり離れた場所にその工場はあった。三十名ばかりの従業員が二交代制で働いている。  予告なしで島崎が訪れたので、社長がおどろいた顔で出迎えた。五十歳前後の、前歯をむきだして笑うこすからい男である。  応接室で島崎は社長と向かいあった。K工業所製のプレートの輸出量と、二次加工された看板、標識の輸入量のアンバランスの理由を問いただした。 「そりゃ課長、看板や標識の需要が現地でも大きいからですよ。プレートは現地でどんどん消化されています。一度出張して、向うの様子をお調べになったらいかがです」  社長は前歯をむきだした。少々の追及でボロを出すような男ではなかった。  輸入される看板、標識の価格が異常に安いわけを島崎は訊いた。 「それこそ現地生産の強味ではないですか。向うの人件費は国内の十分の一ですよ。こちらは香港Kに強力なプレッシャーをかけているから、なお安くなるんです」  最終製品の倉庫を島崎は見せてもらうことにした。  香港から最終製品は船で運ばれ、横浜で陸揚げされる。税関などの手つづきを経て、K工業所の倉庫へ運びこまれる。ここから国内の各ユーザーへ送られてゆく。P商事は実務にはほとんど関与しない。伝票の操作だけで口銭が入る仕組みになっていた。  三百坪ばかりの敷地のすみに倉庫があった。最近着いたばかりの、タイヤメーカーの特約店の看板がストックの八割をしめていた。タイヤメーカーの看板はデザインは共通だが、一つ一つに特約店の名が入っている。メーカーの指示によって、ここから全国のそれぞれの特約店へ送られてゆくわけだ。  ほかに一個ずつ注文生産される電飾が二十個ばかりおいてあった。酒場××とか、パブ××とかの電飾である。とりつけの準備ができしだい、これらは個々の注文主のもとへ運ばれてゆくことになる。  島崎は足をとめた。「ムーンリバー」の電飾があった。青地に黄色で文字の浮き出たデザインである。新しいのを注文したのだろうか。島崎は電飾をみつめた。  急に心臓がふるえた。「ムーンリバー」の地階で見たマリファナパーティの模様が目にうかんだ。更衣室のすみにこれと同じ青地に黄文字の電飾がおいてあった。  あの店はなにも新しい電飾を仕入れる必要はない。店頭にちゃんと「ムーンリバー」の電飾が掲げられている。更衣室にも一つあった。ここにもある。あの店は趣味でいくつも電飾を香港Kにつくらせているのか。 「ムーンリバーという店は、たびたび電飾をつくり変えるんですか。あの店にはちゃんとしたのがついているはずなんだが」  島崎は訊いてみた。  社長の顔が赤くなった。足をとめて彼は電飾と島崎の顔を見くらべた。 「その店をご存知なんですか。よくわかりませんが、チェーン店ではありませんかね。同じデザインでよく注文が入ります」 「けさ、高田健一がおじゃましていたようですな。なんの用事だったんです」 「さあ、大した用件ではなかったようです。電飾の送りさきをチェックするとかいっていたようですが」  社長のことばをきき流して、島崎は「ムーンリバー」の電飾のそばにしゃがんだ。ドライバーを借りて分解してみた。  思ったとおりだった。二重底になっている。覚醒剤やビニール袋にいれた大麻をかくすのにはもってこいだ。  輸入品に覚醒剤や大麻が入っていないか、税関ではエックス線などによる検査が行われる。民芸品や家具にかくしたり、食料品や薬品にまぎれこませるのが、麻薬類の密輸の常套手段だとなにかで読んだことがあった。電飾を使うのは新手である。アクリル樹脂の製品は、エックス線を通しにくいということもあるはずだった。健一はP商事の事業の仮面のもとで、たぶんヘロインや大麻の密輸をやってのけたのだ。  杉本こずえはたぶんこのことに気づいた。それを島崎に相談しようとした。健一はそれを察知した。こずえの口を封じるため、だれかの手を借りて彼女を殺したにちがいない。K工業所の社長も、うすうす事情を察しているのだろう。 「ムーンリバーの電飾の納品伝票を見せてください。いますぐですよ」  応接室へもどって彼は社長に命じた。  K工業所は経営不振におちいったのをP商事のテコ入れで救われたのだ。島崎は担当課長である。たいていのことは命令できる。 「同じデザインの電飾が、船が着くたびに納入されておりますなあ。どういうことですかな。すべて高田さんのご指示でやっておりますので、私にはわからんのですが」  伝票を繰りながら社長はいった。  香港からの船便はK工業所の現地法人の発足以降、十度にわたって到着している。そのいずれの便にも「ムーンリバー」の看板が二、三個ずつ積んであった。かなりの量の麻薬類を健一は日本へもちこんだらしい。  伝票のコピーをもって島崎はタクシーで帰途についた。  とんでもないことになった。P商事から麻薬ビジネスの関係者が出た。それも自分の部下、筆頭専務の息子なのだ。ことが表沙汰になったら、P商事のイメージダウンは計り知れないほどのものになる。もちろん高田浩介の社長就任はなくなるだろう。 「健一のやつ、どうしてこんなまねをしたんだ。金が必要な境遇でもないのに」  島崎はつぶやいた。そのことばとはうらはらに健一の気持が理解されてくる。  ことごとに健一は父親と比較される。お坊ちゃまだとバカにされる。サラリーマンとして彼は一旗あげなければならなかった。金目あてではない。実績目あてなのだ。いい成績だけが彼には必要だった。  現地法人香港Kは、麻薬供給の役割をはたしていたにちがいない。そちらで莫大な利益を計上できるから、最終製品の看板や標識を安値で日本へ輸出できたのだ。売上げは伸び、利益も順調に増えた。健一は課でいちばんの成績をあげる。高田浩介の息子として、はじめて胸を張って社内を歩けるのだ。 「かわいそうなやつだなあ。あいつは商社になんかくるべきではなかった。公務員か教師が似合いだった。お坊ちゃまは、生き馬の目をぬく世界では生きられないよ」  島崎は独り言をいった。  やりきれないほど帰りの道が遠かった。今後の対応をどうすべきか考えながら彼は車に揺られた。社へ帰りつくころには、考えがはっきり固まっていた。  高田健一はまだ社へもどっていなかった。杉本こずえの死のあとしまつに忙しいのだろう。すでに警察の取調べをうけているのかもしれない。もし健一がこずえの殺害にかかわりあっていたとしたら、いったいどんな気持で事後処理をしているのだろう。  K工業所に関する不祥事については、すぐ上に報告しなければならない。まず部長、それから本部長、常務会と情報が組織の階段をのぼるのが常識である。  だが、それでは健一の救いようがない。いったん事件が表面化したら、専務の息子だろうとなんだろうと、懲戒解雇は確実である。健一は二度とまともな企業で働くことはできなくなる。  この場合は、まず高田浩介専務に報告するべきだった。専務なら事件を明るみに出さず、健一も傷つけない方法で事態を処理できるかもしれない。そうしてもらうほうが、正直いって島崎自身にもありがたかった。K工業所の件については、島崎は監督不行届の責任を問われても仕方のない立場である。同社関係の取引にもっときびしいチェックの目を注いでいれば、事件をここまで大きくせずに処理できたはずだ。指示待ち社員であるくせに、上からうるさく干渉されるのを極度に恐れるお坊ちゃまの顔を立てたのが、新米課長島崎俊彦の失敗である。  ビルの十階にある高田専務の部屋へ島崎は出向いた。  高田専務は外出中だった。 「お帰りは五時の予定です。その直後、××専務と打合せ、六時からは通産省の局長と会食の予定になっていますが」  女性秘書がにこやかに説明した。専務室の扉のそばに彼女のデスクはある。 「ご子息のことで大事な話があります。お帰りになったらすぐご連絡をいただくよう伝えてください」  島崎は女性秘書に自分の名と肩書を告げ、内線電話の番号をメモしてもらった。  彼は化学品事業部のオフィスへもどった。資料室へいって、麻薬のことを調べた。杉本こずえの事件は、とりあえず意識の外へ追いはらった。  午後五時、健一から連絡が入った。杉本こずえの遺体の解剖が終った。マンションへ引取って通夜を行なうつもりだという。こずえの殺されたのはやはり隅田公園だった。彼女の愛車のBMWが公園近くの路上に放置されていたのがわかった。彼女は犯人に公園へ呼び出され、河岸で扼殺《やくさつ》されたらしい。「ムーンリバー」はとりあえず休業。従業員全員が通夜に参加する予定のようだ。 「このまま奈津子につきそっていてやりたいんです。社にはもどれないので、よろしくおねがいいたします」  特徴である淡々としたいいかたで、健一は報告を終えようとした。  ちょっと待て。島崎は制止した。 「きょうK工業所へいってきた。倉庫にムーンリバーの電飾があったな。これまで船が入るたびに、あれが入荷するそうじゃないか」  健一が息をのむ気配が伝わってきた。何秒間か彼は一語も発しなかった。 「あの電飾の内部も調べたぞ。二重底になっていた。K工業所関係の商売がなぜ異常に順調だったか、よくわかったよ。麻薬の利益があるから、香港Kはいくらでもプレートを引取ってくれていたんだ」 「課長、待ってください。ぼくは個人では一銭も儲《もう》けていません。すべて会社の業績に寄与するために——」  健一はさけんだ。声がふるえている。めずらしくとり乱していた。 「きれいごとをいうな。なにが会社のためだ。自分の成績をあげたかっただけじゃないか。インチキをやってでも成績をあげて、親と会社に認めてもらいたかったんだろう」  もしこの件が明るみに出たら、P商事の信用は失墜する。どう処理すべきか、お父さんに相談するつもりだ。島崎は告げた。  健一は悲鳴に近い声をあげた。 「待ってください。それだけはやめてください。いまから帰ってご説明します。課長、どうか父には内密に——」 「では部長や本部長に報告してもいいのか。どっちにしても、握りつぶすことは技術的にも不可能だ。お父さんに報告して指示をあおぐのが一番良い方法だと思う」  島崎は受話器をおいた。  健一を狼狽《ろうばい》させたものの、少しもたのしくなかった。投書の仇を討った、という気にもなれない。彼の上司として、P商事の一員として、ことはあまりに重大だった。なんとかこの一件は、極秘のうちにかたをつけなければならなかった。  また机のうえの電話が鳴った。高田専務の女性秘書の声がきこえた。 「すぐ専務室へおいでくださいと高田専務が申されております」  高田浩介の分刻みのスケジュールのなかで異例のあつかいだった。  お坊ちゃまが帰ってきたら、専務室へこいと伝えてくれ。女子社員に告げて島崎はオフィスを出た。 「やあ、どうした。健一のやつがなにか」  大型のデスクのまえに腰をおろして、高田浩介はきびしい表情で島崎を迎えた。  用件は息子のことであっても、会社にいるかぎりたやすく父親の顔は見せられない。そう思いきめている気配だった。  高田のまえに突っ立って、彼を正視しながら島崎は切り出した。 「杉本こずえさんが急死されました。健一くんが通夜の手配などをしているようです」 「杉本こずえが死んだ——。どうして。健一はあの女と、まだ?」  こずえが六本木で酒場を経営していることは、高田浩介は知っていた。だが、こずえ親子と健一の交流について、くわしくはなにも知らなかった。  高田は忙しすぎる。家族に目を向ける余裕のまったくない暮しをしてきたのだ。手短かに島崎は事情を説明した。 「こずえはそんな死にかたをしたのか。意地っ張りな女だったから、だれかの恨みを買ったんだろう。その奈津子という娘には、今後力になってやらなくてはならないな」  沈痛な面持で高田はつぶやいた。さまざまな思い出が脳裡を去来するのだろう。  が、まもなく高田は問いただすような目つきになった。こずえのことはよい、健一の問題を話してくれ。表情で彼は命じた。 「お耳にいれるに忍びないのですが、困ったことになりました。健一君が麻薬の密輸に手をそめていた気配なんです」  島崎はできるだけ事務的に告げた。 「麻薬——。健一のやつが」  高田の目が大きくなった。拳銃を突きつけられたような表情である。  K工業所にからむビジネスにまぎれてヘロインや大麻を香港から健一は密輸していた。香港にはタイ、ビルマ、ラオス三国からの麻薬が流れこむ。アジア最大のけしの産地が近くにあるので、ヘロイン、大麻などが容易に手に入る。運び屋が飛行機で日本へもちこみ、得た金で秋葉原などでカメラ、時計、電化製品などを仕入れて帰ってゆく。さっき資料室で得たばかりの知識だった。健一はその点画期的な密輸手段を開発したのだ。 「なんだってこんなまねを。麻薬で儲けてなにをしようというのだ」  島崎の持参した伝票のコピーをチェックして高田はさけんだ。K工業所から「ムーンリバー」へ電飾が送られるたびに発行された送り状である。  高田は蒼白になっていた。目のまわりが紫色がかっている。大麻を吸引したあとの健一の顔のようだった。 「健一君は金は一銭もポケットにいれてないようです。彼は実績がほしかったんです。成績をあげて早く管理職になりたかった」 「————」 「偉大な父親をもった悲劇です。ことごとに彼はお父さんと比較されてきた。高田専務にくらべたらダメだといわれつづけてきた。なんとかそこから脱したかったんですよ。実績をつくって自己主張したかったんです」  口ごもりながら島崎は話した。  高田浩介に、説教口調でものをいっている。われながらいい度胸である。  高田は沈黙していた。頭のなかでコンピュータが作動し、事態をどうやって収束させるべきかを模索する気配だった。しばらく時間がたった。ようやく高田は口を切った。 「K工業所との取引を即時停止しなさい。投下資金の回収は損金で処理するように。きみのところの本部長へあとでいっておく」 「わかりました。しかし、停止の理由はなんと説明しましょうか」 「先方には方針が変ったとだけいっておけばよい。投下資金の引揚げをやらないのだから文句はなかろう。社内的には、K工業所の輸入業務に麻薬がからんでいたと説明すればよい。健一にそういわせよう」 「わかりました。その線でいきます。健一君に傷がつかずに済みます」 「きみには申しわけないことをした。今回のことでつくづくわかったよ。健一に商社勤務は無理だ。なにか資格でもとらせて——」  高田はことばを切った。  彼の机のうえのブザーが鳴った。高田健一さまがお見えです。インターホンをつうじて女性秘書の声がきこえた。  健一が部屋へ入ってきた。こわばった青い顔をしている。おびえた目で父と島崎を見くらべた。ふるえはじめた。すべてを島崎が話し終えたとわかったようだ。 「健一、きさま。なんということを。きさまはおれのガンだ。とりついて親を食い殺すガンのようなやつだ」  おさえつけた声で高田浩介がいった。  蒼白な高田の顔に憎悪の色がみなぎっている。父親の顔でも専務の顔でもない。危険な敵をまえにした初老の男の顔だった。 「きさまはもう会社へこなくていい。わしは見放した。すべて終りだ。なにからなにまできさまには失望してしまった」 「なにをいうんだよう。おれだって——」健一はさけんだ。「おやじの役に立ってるんだぞ。なんにも知らないんだ。おれが防いでやったんだ。おやじのスキャンダルの証拠写真や、むかしの株の取引報告書をおれ、もっているんだぞ。泉正雄から分捕ったんだから。親孝行はしているんだ」 「なにが親孝行だ。きさま、頭がおかしいんじゃないか。きさまのどこが——」  高田浩介は大声をあげた。  咎《とが》めるように島崎を見た。こんな場面を社員に見られたくないのだ。  会釈して島崎は専務室を出た。扉をしめると、親子の怒鳴り声がぴたりと消えた。  暗い気分で島崎はそこを去った。関西弁の男の声で妙な売りこみ電話がかかったりしたのは、健一の小細工だったらしい。  杉本こずえ殺害事件について、台東署に捜査本部が設置された。  こずえの死亡推定時刻は午後七時だった。死体が釣り船によって発見されたのは翌日の午前五時、永代橋のやや南寄りの河面《かわも》である。死体は水を飲んでいなかった。首をしめられた痕跡が残っていた。  河の水量、流れの速さからいって、死体が午前五時に永代橋へ流れつくためには、殺された直後、浅草の隅田公園あたりから河に投げこまれたものと見るのが妥当だった。泉正雄の事件とすべてがよく似ている。この二つの殺人事件の犯人は同一人と推定され、台東署に捜査本部がおかれたのだ。  どちらの事件にも目撃者はいなかった。夜の隅田公園には、散歩者はほとんどいない。犯人は公園へ泉正雄と杉本こずえをつれだし、河岸で殺害したあと死体を水へ投げこんだ。単純な手口なので、かえって手掛りが残らなかったようだ。  高田健一は何度か捜査本部へ呼ばれた。どちらの事件に関しても彼はアリバイがあった。事件の起った時刻、彼は王子のマンションにいた。杉本こずえの殺された日のアリバイはとくにはっきりしていた。井上裕子が部屋へきていた。七時に待ちあわせて十時まで二人はいっしょにいたのだ。  K工業所の一件は、社内では闇から闇へ、のかたちで処理された。おかげで健一は、麻薬に関して警察の追及をうけずに済んでいた。もし麻薬の一件が警察の耳に入っていれば、かんたんには家へ帰してもらえなかったはずだ。  つぎつぎに参考人が捜査本部へ呼ばれた。みんなアリバイがあった。二人を殺害する動機をもった者もいなかった。明らかに捜査はゆきづまっていた。  その土曜日、島崎敏彦は午後二時にいつもの六本木のホテルで典子と待ちあわせた。  晴天だった。排気ガスでくすんだビル街の上に青空がひろがっていた。綿雲が白い波のようにうかんでいる。  ホテルの喫茶店の窓から外を見あげて、島崎は海をながめたい衝動にかられた。いつもホテルで抱きあって、食事して帰るだけでは物足りない。もう夏である。たまには海の香りを吸って健康な気分になりたい。  典子がやってきた。浦安のほうへいってみないか。島崎は提案した。よろこんで典子は応じた。浦安の海辺のホテルで泳ぎたいと以前から思っていたという。 「遠出するんだったら、車でくるんだったなあ。ゆっくりドライブできたのに」  島崎は残念だった。  ふだんは電車で通勤している。家族ドライブのときだけ、愛車のプレリュードを運転することにしていた。きょうは休日出勤という口実で家を出て、電車でやってきた。 「でも、運転があるとお酒が飲めないわよ。それもつまらないのじゃないの」 「そうだな。飲めないほうがつらいかもしれない。人生万事一長一短ということだろうな。のんびりタクシーに揺られるか」  浦安のホテルへ予約の電話をいれてみる。  さいわい部屋があった。ちょうどキャンセルの出たあとだったらしい。モーテルを利用してもかまわないのだが、食事などの都合を考えると、デートの場所は一流ホテルであるに越したことはなかった。  ホテルのまえで二人はタクシーに乗った。首都高速をへて浦安へ向かった。土曜日なのでトラックなどは少い。だが、家族づれの車がたくさん目についた。差引きして平日より少し道路は空《す》いている。  車に揺られながら島崎はうとうとした。仕事が多忙であるうえ高田健一の事件がかさなって、最近疲労気味である。典子といっしょにいると、ストレスが消えたような気分になるが、結局は疲れを濃くしているのかもしれない。それでも典子の肩にもたれてうとうとするのは快かった。やはりきょうは車でなくて良かったのだ。  三時に浦安へ着いた。十二階の部屋へチェックインした。汚れた海なのだが、高所から見おろすとけっこう美しい。西陽で水面がまぶしくかがやいている。風景はひろびろとしていた。貨物船が何隻も沖に浮かんでいる。 「東京湾もこうして見ると捨てたもんじゃないな。ヨーロッパの雰囲気があるよ」 「ほんとうね。旅に出たような気がするわ。浦安へきただけで旅のムードになるんだから、私たち安あがりの人間ですね」  景色をながめてから、二人は抱きあってくちづけをかわした。  そのままベッドへ倒れこみたい衝動にかられる。だが、せっかく遠出してきたのだ。ふだんとはちがう内容のデートにしたい。  二人は部屋を出て、エレベーターで地階へおりた。ブティックで水着を買い、プールへいった。さきに島崎は着替えをすませてプールサイドへ出る。澄んだ青い水をたたえた二十五メートルプールで人々が泳いだり、デッキチェアに寝そべったりしている。  島崎はかるく水につかった。全身に涼気がしみわたって、生きかえったような気分だった。水から出て待っていると、典子が更衣室から出てきた。あざやかなブルーのハイレグの水着を来ている。腰のあたりまであらわなふとももが、ひどくなやましく映った。 「きれいだな典子。見たところ、きみほどプロポーションの良い女はいない。おれ、惚れなおしてしまったよ」 「賞《ほ》めすぎよ、そんなの。私、泳ぎは下手《へた》なのよ。笑わないで」  入浴するときのように、典子はそっと水に入った。  平泳ぎで十メートルばかり泳いだ。ターンしてもとの位置へもどってくる。ほんとうに泳ぎは得意でないらしい。  島崎は水に飛びこんだ。涼味に包まれて、生き生きした気分になる。クロールで二十五メートル泳ぎ、折り返してスタート地点にもどった。さらに一往復して水からあがった。一人で泳いでばかりいては、典子が退屈するだろう。  典子はあれからまた少し泳いだらしい。プールサイドのデッキチェアに寝そべって待っている。パラソルを借りず、直接陽光に肌をさらしていた。まぶしそうに笑って島崎を手招きする。若々しい笑顔だった。  となりのデッキチェアに島崎は横たわった。ビールが飲みたかったが、自制した。飲むともう泳げない。あと二、三百メートルは泳がないと、気が済まなかった。  島崎は目をとじた。陽光が瞼のうえではじける。典子の手が島崎の手を握りにきた。若いカップルのように二人は手をとりあって陽光に灼《や》かれる。くつろいで全身の力がぬけた。息つくまもなく働きづめの日々が、遠い悪夢のように思い出される。 「ムーンリバーのママ、そろそろ初七日ねえ。奈津子さん、どうしているかしら」  典子がつぶやいた。事件のことを考えているらしい。  島崎は苦笑した。彼自身もさっきから高田健一や杉本こずえの顔が頭にうかんだり消えたりしていた。せっかくの休日にいやなことは考えたくない。健一やこずえのイメージをつとめて追い払うようにしていたのだ。 「奈津ちゃん一人では店はやっていけないだろうな。マリファナパーティの会場になってもいることだし、店はたたんだほうがいい。彼女のめんどうは高田専務が見てくれるさ」  先日会ったさいの高田浩介の様子を島崎は思いうかべた。  奈津子は高田の娘である。どんなことをしてでも奈津子を援助せねばならない義務が高田にはあった。責任逃れをする気は、高田にはなさそうだ。母を亡くしても、奈津子はそんなに不幸にはならないだろう。 「私思うんだけど、高田さん、会社をやめてあの店のオーナーになったらどうかしら。彼、商社マンというガラじゃないわ。あんな世界のほうが似合いそうな気がする」 「お坊ちゃまがあの店を——。なるほどなあ。あいつ、あそびは一人前だから、経験を生かして水商売では成功するかもしれない」  感心して島崎は典子を見た。若い女の観察眼は、しばしば意表をついてするどい。  高田健一はあれ以来、とくに変った様子もなく会社へきている。K工業所の一件は、高田専務の指示どおりかたをつけた。外部にはもちろん、社内でもごくかぎられた者しかこの事件の真相をしらない。  おまえはもう会社へこなくていい——。専務室へ出向いたとき、高田浩介は健一にそう申しわたした。だが、いきなり健一が退職して、社内であれこれ原因を詮索されるのもおもしろくない。さいわいK工業所の一件が表沙汰にならない目途もたった。高田専務としてはもうすこし健一をいまのままでおき、おりを見て適当な口実をつけて辞めさせるつもりなのだろう。 「高田さんがマスター兼支配人で、奈津ちゃんがピアノを弾くの。わりと良い感じの店になるんじゃないかしら」 「しかし、お坊ちゃまはマリファナに凝っているからな。へたをするとムーンリバーは麻薬の取次店になってしまうぞ。お坊ちゃまは近い将来ムショ入りかもしれない」 「そうか。高田専務も大変ねえ。どんなに偉くなっても子供がそんなでは——」 「どんなに社会的地位が高くても、足もとがあやふやだと人間ハッピーになれないよ。高田専務を見てつくづくそう思った。一人息子はあのとおりだし、かくし子はいるし、かかえている問題が多すぎる」  そこまで話して島崎はだまりこんだ。  杉本こずえを殺したのは高田健一かもしれない。麻薬取引のことがこずえの口からもれるのを防ぐために殺した可能性は充分ある。もしそうだったら、高田浩介はなんと不幸な男だろう。働きづめに働いたあげく、自分のまいた種とはいいながら、彼は殺人犯の父となってしまうのである。  島崎らのすぐまえで、父親と男の子が水へ入った。父親は島崎と同年輩、男の子は小学校二、三年生だった。  親子は並んでクロールで泳ぎだした。男の子はほんの五、六メートルでおびえて父親に抱きついてゆく。父親は笑って抱きかかえてやり、しばらくしてまた男の子を水のうえにほうりだした。  男の子は懸命に五、六メートル泳ぎ、また父親に抱きついてゆく。父親は笑ってうけとめる。母親がプールサイドから声をかけた。まぶしいほど幸福そうな家族である。高田健一は父親と一度もこんな楽しい時間をもったことがないのではないか。  陽光が照りつけてくる。島崎は体がじりじりと音を立てて灼かれるような感覚におそわれて、立ちあがった。 「もう一泳ぎしてくるよ。終ったら部屋でビールを飲もう」  島崎は青い水へとびこんだ。  泳いでみると、前回より体がずっと軽快に動いた。さっきの一泳ぎがいいウォーミングアップになったのだ。クロールで彼はさっきよりもスピードをあげることにした。  典子も水に入って泳ぎはじめる。二十五メートルプールの往復を島崎はくり返した。かるく三百メートル泳いで水から出た。ほとんど呼吸のみだれがない。まだおれも若いのだ、自信が湧いてくる。  二人は更衣室で着替えをして、部屋へもどった。すぐに服をぬぎすてた。たったいままで水着姿だったので、部屋で服を着ているのがひどく不自然に感じられた。二人とも全裸になる。典子はベッドに横たわった。  島崎は冷蔵庫から缶ビールをとりだして、一本を典子にわたした。典子と並んで寝て、ビールを飲んだ。のどのかわきがおさまっておちついた気分になった。  二人は抱きあってくちづけをかわした。脚をからませあう。泳いだ名残りで双方とも肌がすこし冷たい。抱きあうと、いつもとはちがう刺戟があった。  典子の女の部分を島崎はさぐってみる。肌は冷えているのに、そこだけが熱く湧いていた。すぐに典子は顔をしかめ、甘い声をもらしはじめる。すんなりした脚を、爪さきまでぴんとのばしていた。  指をつかいながら、島崎は典子の乳房を口にふくんだ。舌さきでなぞったり、かるく噛んでみたりする。たちまち典子はあえいで体をくねらせる。いつもながら敏感な体である。確実に奉仕にこたえてくれるのが、典子のいちばんの美点である。 「ハイレグの典子はすばらしかったぞ。プールサイドにいる女の子のなかで一番だった。最高にかがやいていた」 「課長のクロールも素敵だったわ。オリンピックの選手みたいだった。私、うっとりしてしまった」 「水着姿の典子を見ていると、おれ、昂奮したよ。勃起しそうになった。典子はどうだった。クロールを見て濡れたか」 「うん。もうビショビショ。でも、水のなかにいるから平気——」  典子は顔をしかめて声を呑んだ。  島崎の指で頂上へのぼりつめる寸前らしい。指づかいを島崎はさらに微妙にする。典子の顔をながめながら愛撫をつづけた。  典子は声をあげる。自分で乳房にさわっている。その様子が可愛くて、島崎はじっとしていられなくなった。典子の足のほうへずりさがる。ひらかせてから、女の部分へ顔をふせていった。  濡れたやわらかなひだのあいだを舌でさぐった。敏感な粒をなぞったり吸ったりする。典子のその部分に島崎はすっかり馴染んだ。そこは掌ほどの広さで、複雑なひだが身を寄せあっている。目にみえない神経の糸が縦横に張りめぐらされていた。刺戟されると糸はさまざまに反応する。こまかくふるえたり、ゆるやかに波打ったり、切れそうに張りつめたりする。複雑な分布である。一つ一つをさぐっていると、まるで大きな地図のうえをさまよっているような気持になった。  すこしも倦きない。会うたびにいとしさが増してゆく。執拗に島崎は愛撫をつづけた。典子の声が高くなる。腹が大きく波を打ちはじめた。やがて、典子の両手が島崎の頭髪をかきむしった。快楽の頂上にたっしたと、あえぎながら彼女は告げた。  三度それをくりかえした。とつぜん典子は両手で島崎をおしのけた。好き、好き。うわごとのようにつぶやいて島崎を押し倒し、島崎の足のほうに顔を向けて体をかさねてくる。島崎の男性が典子の口のなかへ吸いこまれた。欲深い小さな生き物のように、典子の「女」が島崎の顔にせまってくる。  二人はくちびると舌で相手の体へ快楽を送り込む競争をはじめた。長い間それをつづけた。典子はやがて快楽に耐えきれなくなったようだった。島崎の体のうえからころがり落ちた。シーツに顔を伏せ、荒い息を吐いて動かなくなった。  ちょうど島崎も休息したいところだった。まだ終りたくない。もっといろいろ楽しんでから完了にもっていきたい。いくら典子の体が魅力的でも、二十代のころとちがって二度も三度も反復できる自信はなかった。  彼はベッドをおりた。冷蔵庫から缶ビールをとりだして窓ぎわのテーブルへもっていった。椅子に腰かけて冷たい液をのどへ流しこんだ。食道にしみわたるビールだった。  典子も起きて窓のそばへやってきた。島崎のまえに立ち、彼の両肩へ手をおいた。顔を近づけてきて、くちびるを突きだした。 「飲ませて、ビール」  島崎はうなずいてビールを口にふくんだ。  口移しに飲ませてやる。典子はのどを鳴らした。こんどは自分が口うつしにくる。ビールの味がかすかに甘かった。  典子は横向きになって、島崎のひざのうえに腰をおろした。横合からみると、典子の乳房は上向いていて、ふるいつきたくなるほど美しい。島崎は右手で典子の女の部分をさぐった。典子は島崎の首にすがって顔をしかめ、身をくねらせた。 「また欲しくなってしまうじゃん」  典子は泣き声をあげた。 「いいよ。いくらでもあげるよ。典子がいい気持になってくれるとうれしい」  島崎はあらためて指づかいを複雑にする。  たちまち典子は濡れてきた。 「外から見えるよ。お船が通るのに」  苦しそうに典子は訴えた。  窓ごしに見える海の沖合を貨物船が通りすぎてゆく。船から望遠鏡で覗けばこちらの様子が見えるかもしれない。だが、どうということはない。こっちがどんなに倖せな状態か見せつけてやりたいくらいだ。  かまわずに島崎は愛撫をつづけた。典子の横顔と乳房に、交互に見惚れた。典子は目をとじ、みだれた表情になっている。  視界のすみでなにかがちらついた。海のうえになにか小さなものがうかんでいる。愛撫をつづけながら彼は海に目をやった。べつに変ったことはない。夕闇が溶けはじめて、海は暗くなってきている。  島崎は典子の横顔に視線をもどした。また視界のすみになにかがうかんだ。暮れてゆく海上になにかがただよっている。死体がうかんでいるのではないか。目をこらすと、それらしい影は消えた。どうしたのか、自分でもわからない。あと一歩でなにかを把握できそうな焦燥に島崎はおそわれる。  典子は声をあげていた。島崎の体を迎えいれたがっている。  島崎は典子を立たせた。窓枠に両手をつかせる。もどかしそうに典子は応じた。上体を前傾させ、尻を突きだしてくる。  島崎はうしろから典子のなかへ入った。ゆっくりと動きだした。全身で典子の体に埋まった快楽を掘り起しにかかる。そうしながら海に目をやった。直視しなければならない。なにかがわかりかけているのだ。  まもなく典子はさけび声をあげた。窓枠にすがった両手の甲へひたいをすり寄せる。全身をふるわせたあと、その場へくずれ落ちそうになる。島崎は両手で典子の腰をはさみつけてささえてやった。彼は動きつづける。  白い二すじの線が右側から視界へ流れこんできた。みつめて島崎は胸をつかれた。ウォータージェットに乗った若者が二人海上を走ってゆく。みるみる正面へさしかかり、左へ遠ざかっていった。島崎は胸に電流が走ったような感覚をおぼえた。 「わかったぞ、ボートだ。ボートで健一は死体を運んだんだ。隅田公園で殺したんじゃない。王子のマンションで——」  そのとたん強烈な快楽が、下腹部から頭にかけて島崎をつらぬいた。  謎のとけた歓喜に呼応して、肉体の歓喜も湧き起ったのだ。島崎は目がくらみ、しばらくなにもわからなくなった。  気がつくと、島崎と典子はかさなりあって窓の下にうずくまっていた。典子は背を丸くして床に這っている。その背中に覆いかぶさって島崎は両手を床についていた。島崎はしばらく立ちあがる気力がなかった。  何分かのち、やっと島崎は立ちあがった。典子の腕をとって起してやる。いっしょにバスルームでシャワーをあびた。 「さっきなにをいったの。ボートがどうかしたとか——」  ぬるま湯の雨のなかで典子が訊いた。 「ウォータージェットを見て気がついたんだ。泉正雄と杉本こずえを健一は王子のマンションで殺した。そして、ボートで隅田公園まで運んだんだ」  泉正雄と杉本こずえの死体は、ともに事件の翌朝、永代橋付近の河面にうかんでいるのを発見された。  双方とも殺害時刻は午後七時から八時ごろと認定された。河の水量、流れの早さ、死体の重量などの要素から算出された殺害現場は隅田公園あたりだった。犯人はそこで泉およびこずえを殺して河へ投げこんだものとみられている。泉の場合は遺留品も河岸で発見された。死体は同公園から約四キロの距離を九時間から十時間かけて流れて、翌朝五時前後に永代橋付近でただよっていた。  高田健一は二人の殺されたどちらの日も、午後七時から八時にかけて王子のマンションにいた。その時刻に隅田公園で犯行におよぶのは不可能である。彼は警察からきびしい追及をうけずに済んだ。警察は健一と麻薬の関係にまだ気づいていないので、彼に泉正雄と杉本こずえを殺す動機があるとは知らずにいるのだ。なにしろ健一は高田浩介の一人息子である。お坊ちゃまが人を殺したりするはずがないとの予断もあるのだろう。 「お坊ちゃまは午後七時から十時にかけてたしかに王子のマンションにいた。そのころには泉とこずえを殺していた。真夜中にあいつはボートで死体を隅田川の王子の岸から隅田公園まで運んだんだ。公園のそばで死体を河へほうりこんだ。泉を殺ったときは、彼の眼鏡を水上から河岸へ投げて帰った。現場が隅田公園であると警察に思わせるためさ」  典子の体をタオルで拭いてやりながら島崎は説明した。  典子は体の力をぬいてまかせきっている。 「そうだったの——。やっぱり彼が犯人だったのか。でも、こずえママの場合はどうして公園のそばに車が——」 「車だけあとで運んだんだ。車があった以上、犯人はママといっしょに公園へきて、公園のなかで殺されたと見るのが当然だからな。手のこんだことをやったもんだよ」  島崎は自分の体も拭いた。  二人はバスルームを出て下着を身につけた。窓辺の椅子に向かいあって腰をおろし、海を見ながら話をつづけた。 「でも、まだすこしひっかかるわ。お坊ちゃまは死体を河まで運んでボートに乗せたんでしょ。そんなことをしなくても、まっすぐ車で隅田公園へいけばよかったのに」 「あそこは公園だから、河岸まで車で入れないんじゃないかな。たぶんそうだ。あとでいってたしかめてみよう」 「河岸までいけないとなると、車から死体をおろして、河まで死体を運ばなくてはならないものね。一人では無理だわ」 「第一、人目につくよ。泉さんが殺された晩は雨だったけど、公園にだれもいないとはかぎらないからな。死体をおんぶしてエッチラオッチラ運ぶなんて考えられない」 「問題はボートね。お坊ちゃまはボートをもっているのかしら。ボートを乗りまわしたなんていう話、彼はしなかったけど」 「自分でボートをもっていれば足がつきやすい。だれかのを借りたんじゃないか。やつの友達に一人ぐらいもっている男がいるんだ。きっとそうだ」 「学生時代のグループはお坊ちゃまばかりだものね。そうよ。きっとだれかもっていると思う。その線は有望よ」  島崎はじっとしていられなくなった。  典子をうながして身支度をはじめる。典子も壁鏡のまえに腰をおろした。  まもなく典子も帰り支度をととのえた。島崎は思いついて典子に訊いた。 「きみ、井上裕子の電話番号がわからないか。あの子とすぐ連絡をとりたいんだが」 「わかるわ。でも、どうして」 「こずえママの殺された晩、あの子はお坊ちゃまといっしょにマンションにいた。こずえママはもう殺されていたはずなんだ。なにか変ったことがなかったか、訊いてみたい」 「いいわ。私、直接訊いてみる。島崎課長には正直に話さないかもしれないから」  典子はバッグから手帳をとりだした。  電話の釦《ボタン》を押した。さいわい裕子は直接電話に出た模様だった。 「高田さんのことでちょっと気になることがあるの。水曜日の夜、あなた高田さんとデートしてたんしょ。どこで会ったの。教えてよ。めいわくはかけないから」  短いやりとりのあと、裕子は話しはじめた。受話器からかすかに声がもれてくる。 「会社の近くでお食事して、車で彼のマンションへいったのか。彼、車できていたのね。どんな車。そう。フェラーリなの」  話の内容が島崎にわかるように、典子はつとめて裕子のことばを反復していた。  島崎はうなずいてみせた。マンションでなにをしたか。メモ用紙に鉛筆で走り書きして典子に見せる。 「十時まで部屋でなにをしていたのよ。セックスはわかっているわ。そのあとのことよ。十時までしてたわけじゃないんでしょ」  受話器から裕子の笑い声がもれた。典子の不躾《ぶしつ》けをたしなめているらしい。 「いいから教えてよ。大事なことなんだから。そう、お酒を飲んでいたの。帰りは王子駅まで車で送ってもらった——。彼はマンションに泊ったわけね」  指示をあおぐように典子は島崎を見た。  酒ではなくマリファナ。島崎はメモしてみせた。典子はうなずいた。 「ほんとはお酒じゃなくてマリファナだったんでしょ。いいの、それが知りたかったの。私、六本木のムーンリバーで一度マリファナをやったのよ。また吸ってみたくて。高田さんにたのめばなんとかなるんでしょ」  安心して裕子は話しはじめたらしい。  島崎に典子はうなずいてみせた。真剣な顔になった。何度かあいづちを打ったあと、当りさわりのない話題に変えた。 「わかったわ。私から直接たのんだりしない。あなたから高田さんにたのんでおいてね」  それを最後に典子は電話を切った。  興奮した面持で彼女は島崎のほうへ向きなおった。せきこんで報告した。 「思ったとおりよ。二人でマリファナパーティをやってたらしいわ。警察にそうはいえないから、お酒を飲んだことにしたみたい」  水曜日、午後五時半に高田健一と井上裕子は会社の近くで待ちあわせた。  食事のあと健一の車で王子へ向かった。あの日健一はフェラーリで出勤し、近くの有料駐車場へあずけておいたらしい。  七時すぎにマンションへ入った。すぐにマリファナを吸った。裕子はトリップに入り、十時に目覚時計で目ざめた。健一もそばに横たわっていた。二人はセックスを楽しんだあとマンションを出た。  車で健一は裕子を駅まで送った。まだトリップから醒めきっていない。危険だから今夜はマンションへ泊るといっていたらしい。 「裕子はトリップしてたのよ。幻想の世界をさまよっていたわけ。その間、お坊ちゃまはなんでもできたはずよ。醒めていれば」 「そのとおりだ。彼はマリファナを吸うと見せて吸わなかったんだ。裕子がトリップしているあいだにこずえママを殺した。マンションへママがたずねてきたんだろう」  たぶん八時前後に杉本こずえは愛車のBMWでマンションへやってきた。  マンションの駐車場で健一は彼女を迎えた。口実をつけて彼女の車に乗りこみ、河の近くまで出て彼女を殺した。死体の乗った車を人目につかない場所に停めて、なに食わぬ顔でマンションへもどった。  十時すぎに健一は井上裕子を駅まで送ってマンションへ帰った。真夜中に河岸へゆき、ボートにこずえの死体を乗せて隅田公園へ運んで河へ捨てた。王子の河畔へもどり、こずえの車を隅田公園のそばへ運んで放置した。あとはタクシーで王子へもどり、マンションに泊ったのだ。あくる日彼はいつものようにおちついた顔で会社へやってきた。 「マリファナのことは絶対警察にいうな、酒盛りをしたことにしろとお坊ちゃまは井上裕子にいいふくめたんだ。マリファナがばれたら大変だから、裕子はいわれたとおりにした。結局それがアリバイづくりになった」 「お坊ちゃまがあの日にかぎってマンションに泊ったことも、お酒で説明がつくものね。酔って運転が危険だからって」 「問題はボートだ。お坊ちゃまがどこでボートを用意したかがわかれば事件は解決する。それだけだよ。あとはボートさがしだ」  昂奮して二人はうなずきあった。  ホテルを出て車で東京へ引き返した。まっすぐ隅田公園へいってみた。  同公園は隅田川の両岸にわかれている。西岸は約一・五キロにわたって河沿いにひらかれ、東岸も長さ五百メートルにおよんでいた。東西どちらの公園にも、車で乗りいれられる道はあった。だが、思ったとおり、水辺まで車を近づけるわけにはいかない。死体を河へ投げこもうとすれば、死体を背負って緑地を歩き、堤防へ上らなければならない。 「やっぱり車で死体を運んで河に捨てるのは無理だよ。可能だとすれば、共犯者のいる場合にかぎられる」 「共犯者の線はないと思うわ。お坊ちゃまにはそんなことのできる友達はいないもの。お金で人をやとうにしても、彼はそんな大金をもっているわけがないし——」  二人は公園を歩きまわった。  もう夜である。ところどころ街灯が闇にうかんで、弱いあかりを地上へ放射している。散歩道や、樹木や、緑地や、ベンチがぼんやりと闇の底にうかんでいた。  二人づれの男女とときおりすれちがった。ベンチにも木立のなかにも恋人たちのひそんでいる気配がある。泉正雄の殺された夜は雨だったが、杉本こずえの殺された夜は晴天だった。公園には何組もの恋人たちがきていたはずである。死体を背負って公園を横切り、堤防へのぼって河へ投げこむなどということは、いくら夜でも不可能である。  二人は堤防へのぼった。河の両岸には灯が並んでいるが、河面はまっ黒である。闇に塗りこめられたように、なにも見えない。流れの音もきこえなかった。夜の隅田川は流れを止めて、じっと朝を待っているようだ。 「すぐそのへんまでお坊ちゃまはボートできたんでしょうね。死体を投げこんで、上流へ引返していった。ああ恐い。人間って追いつめられるとなんでもやってしまうのね」 「かわいそうなやつだよ。偉い父親の一人息子として生れた運命を背負いきれなかったんだ。足掻《あが》けば足掻くほど泥沼にひきずりこまれた。あいつを見ていると、おれなんか平凡な親の子供に生まれて良かったと思うよ」 「私もそう。父が出世しないので母は不満がっているけど、あれはまちがいなんだわ。いいまかしてやらなくては」  堤防のうえを一組の恋人どうしが近づいてくる。  くちづけしたままゆっくり歩を運んできた。なにも目に入らないらしい。 「さあ帰ろう。送っていくよ。あした一日、事件の処理法をゆっくり考えてみるよ」  典子の背中に島崎は腕をまわした。二人はゆっくりと堤防の階段をおりた。  あくる日は日曜だった。午前十時に島崎敏彦は布団を離れた。  子供はもう朝食を済ませていた。食事をとらずに待っていてくれた妻とともに、味噌汁と焼魚とおひたしのブランチをとった。  ウイークデーの朝食はトーストとコーヒーが基本である。島崎の家では、和食は休日の象徴だった。茶碗に三杯、島崎はごはんをたべてしまった。  腹一杯になった。いつもなら居間にひっくりかえってテレビを見るか、もう一度布団にもぐりこむところである。すべての闘志を消し去って一日ごろごろする。おかげでまた一週間働き通す活力がもどってくる。  だが、きょうは落ちつくことができなかった。高田健一の犯した二つの殺人事件のことで頭がいっぱいである。八時半ごろ目がさめて、十時まで布団のなかであれこれ思案をかさねてきたのだ。  捜査本部へ出頭してこれまで知ったことを通報すれば、話はかんたんである。警察は麻薬取引の証拠をつかみ、健一の使用したモーターボートの所在もつきとめて彼を逮捕するだろう。本格的な訊問にさらされれば、健一はひとたまりもないはずだ。洗いざらい自白して事件は解決するだろう。  だが、島崎はP商事の社員である。事件が会社におよぼす影響を考えないわけにはいかなかった。警察に通報して市民の義務をはたすだけで満足できる立場ではないのだ。  巨大総合商社の社員の犯罪である。しかも犯人はトップの一人息子なのだ。事件は大きく報道されるだろう。健一は逮捕され、裁判にかけられる。高田浩介は辞任。財界人としてはもう再起できないにちがいない。P商事は有能な経営者を失うことになる。  P商事のこうむるイメージダウンも計り知れないほど大きい。殺人、麻薬取引、トップの女性スキャンダル、それを材料にしたOB社員の脅迫。まるで犯罪の百貨店である。品数が多すぎる。日常業務にさほど支障はないだろうが、社員の募集とか、女子社員の縁談とかにかなりの影響が出るはずである。いや、P商事の社員は裏でなにをやっているかわからないという偏見がひろがって、商談もやりにくくなるにちがいない。  島崎はいきなり捜査本部へ駈けこむわけにはいかなかった。まず高田専務をはじめとする社の上層部にいっさいを報告し、指示をあおがなければならない。警察に連絡するのは社の方針が出てからになるだろう。上層部がこの苦境をうまく乗り切れるように、正確でくわしい情報を提供する必要があった。企業組織の一員である者が当然やらなければならないことだし、うまくやれば島崎の能力を上にみとめさせる結果にもなる。  上司にあいまいな報告はできない。高田健一が二つの殺人事件をおかしたという証拠をつかむのが先決だった。麻薬取引の証拠となる伝票はおさえてある。泉正雄がスキャンダル公表をたねに高田浩介を脅した事実は、高田自身が証言するだろう。問題はモーターボートである。健一がどこでボートを手配したかをつきとめないかぎり、健一が殺人犯であることは憶測にすぎなくなる。  警察はやがて、麻薬の線から事件の核心にせまるだろう。そうなっては手遅れである。すべてが洗いざらい世間にさらけ出されてしまう。島崎は警察よりも一足早く証拠をつかんで、社の上層部の耳にいれる必要がある。ぐずぐずしているわけにはいかなかった。すぐに行動を開始しなければならない。  高田健一がモーターボートをもっているのか、運転はできるのか。そんなことを知っているのは彼の学生時代のあそび仲間だろう。だが、いますぐあそび仲間の名前や住所を調べる方法はない。ほかに適当な情報提供者がいるとすれば、いま健一と別居中の彼の妻だろう。新婚たった五ヵ月で、健一らの結婚生活は破綻してしまった。妻は健一に良い感情をもっていないはずだ。話をききにゆけば、案外協力してくれるのではないか。  健一の妻はM銀行の会長の孫娘だときいている。だが、名前も電話番号もわからない。高田浩介邸へ電話して問いあわせるわけにもいかないだろう。  ほかに健一の妻を知っていそうなのは杉本奈津子だった。彼女は健一の腹ちがいの妹である。認知されていない妹だといっても、健一は一度や二度は妻を奈津子にひきあわせたことがあるはずだった。奈津子に訊けば、健一の妻の電話番号がわかるかもしれない。ひょっとすると奈津子は、健一の友人にモーターボートの所有者がいるかどうかを知っていないともかぎらない。  奈津子の住居の電話番号は、杉本こずえの名でNTTに登録されているはずだった。島崎は居間で受話器をとり、一〇四番を呼びだした。住所不詳だが、杉本こずえ名儀の番号を教えてほしいと申しいれる。こずえは自宅からBMWで店へ出ていた。都内に住んでいることは確実だった。  こずえの電話番号がわかった。中野に彼女は住んでいるらしい。島崎は番号をプッシュした。緊張して応答を待った。 「もしもし——」  男の声で応答があった。一度もきいたことのない声だった。  虚をつかれて島崎は二、三秒沈黙していた。苛立たしげに相手は呼んでいる。島崎という者ですが、奈津子さんを呼んでください。一息ついてから島崎は申しいれた。  奈津子が出てきた。思ったより元気な声だった。こずえの葬儀にあたって、健一に託した香典の礼を奈津子はいった。あれ以来「ムーンリバー」は閉店している。このまま手離してしまうか、新装開店するかいま健一らと相談中だということだった。 「じつは健一君の奥さんの番号を知りたいんだが。そう。別居中の奥さんのだ。きみ、会ったことがあるんだろう」  やがて、島崎は切りだした。  健一に訊くべきことを妹に訊いている。われながら不自然な質問である。 「何度かお会いしたことはあります。でも、別居してからは会っていません。電話番号もきいていません」 「そうか——。奥さんの名前、なんというんだったかな」 「由紀子《ゆきこ》です。旧姓はたしか森口《もりぐち》——」  どうしたんですか。由紀子さんがなにか。奈津子は訊いた。不安にかられた声だった。 「いや、たいしたことじゃないんだ。健一くんについて奥さんの口から訊きたいことがあってね。人事部の依頼で——」  とっさに島崎は出鱈目《でたらめ》をいった。 「ところで、話は変るけど、健一くんはモーターボートをもっているのか。もしもっていたら、借りて釣りにいきたいんだけど」  さらに島崎は訊いた。奈津子をいじめるようだが、仕方のないことだ。 「モーターボートですか。いいえ、そんな話、きいていません」 「だれか健一くんの友達にもっている者はいないかな。きみ、知らないか」 「もってる人ですか——。さあ、知りません。でもどうして私に——。兄に直接お訊きになればいいのに」 「いま出張中でね。連絡がとれないんだよ。済みません。おじゃましました」  島崎は受話器をおいた。  わずかながら収穫はあった。本棚から会社四季報をとりだして、M銀行の会長の氏名を確認する。会長は森口重太郎だった。  もう一度一〇四番を呼びだした。森口重太郎の電話番号をしらべてもらった。すぐに番号がわかった。田園調布に森口の邸宅はあるらしい。  森口邸を島崎は呼びだした。高田由紀子さんはそちらにおいででしょうか。お手伝いらしい女に彼は訊いた。一か八かである。由紀子は森口重太郎の直系の孫でないかもしれない。だとすれば、重太郎とはちがうところに住んでいるはずだった。 「由紀子さまですか。あのう、そちらさまはどなたさまで——」 「P商事の島崎といいます。高田健一くんの上司だと伝えてください」  一か八かがうまく当った。由紀子は重太郎の長男の娘だったらしい。 「もしもし、由紀子ですが」  まもなく、電話がつながった。  硬い声だった。緊張しているらしい。  いそいで島崎は自己紹介した。健一くんのことで話を訊きたい。会ってくれないかと申しいれた。由紀子はためらった。 「どういうことなんでしょうか。私、健一にはもう会いたくないんです。あの人のことなんか思いだしたくもありません」 「会社として彼の身辺を洗う必要が出てきたんです。協力していただけませんか。絶対にごめいわくはおかけしません」 「困ります。係わりあいたくないんです。もう別れた人なんですから」  気の強そうな、きっぱりした口調だった。  健一のマリファナ嗜好《しこう》に気づいているらしい。警察沙汰になるのを恐れている。別居の最大の理由はそれなのだろう。 「健一くんのマリファナのことは私も知っています。しかし、訊きたいのはそれじゃない。モーターボートのことです」  島崎はいってみた。すがる思いだった。 「モーターボートのこと——」  由紀子は虚をつかれたらしかった。あわただしく思案をめぐらせている。 「健一くんの友人のなかにモーターボートをもっている者はいませんでしたか。大型のクルーザーでなく小型のボートです」 「ええ、いましたよ。大型のも小型のももっている人が。浅野《あさの》っていう人です」 「浅野——。浅野なんという人ですか。どういう仕事の——」  島崎はせきこんだ。やっと運の向いてきたのがわかって、胸がおどった。 「浅野淳っていう人です。健一の大学の同期生なの。銀座の老舗のケーキ屋さんの息子さんで、いま専務のはずです」  浅野さんは奈津子さんとつきあっているはずです。健一が二人を結婚させたがっていたから。由紀子はつづけて教えてくれた。 「奈津ちゃんの恋人。なるほど——」  奈津子の住居に電話したとき、男の声がまず応答したのを島崎は思いだした。  たぶん浅野だったのだろう。ゆうべ奈津子の家へ泊ったのだ。島崎がボートのことを訊いたので、あわてて浅野は口どめした。  浅野淳はケビンやトイレのついたクルーザーを一隻もっている。ほかに二人乗りの小型のモーターボートも所有していた。クルーザーは沖へ出るのに使う。モーターボートは島へ釣りにゆくときなどに利用する。  クルーザーを健一も欲しがっていた。だが、一千万円もする船が買えるほど彼は給料をもらっていない。年に一、二度、浅野のクルーザーに同乗して遠出をする。浅野に教わって、無免許で小型モーターボートの運転もしていたということだった。 「千葉県のK市のマリーナにあずけてあるんです。去年、私いっしょにいってクルーザーに乗せてもらいました。マリーナの名前はわすれたけど、大きな公園のそばの——」  そこまでわかれば大収穫だった。何度も礼をいって島崎は受話器をおいた。  房総半島の突端にあるK市に着いたのは、午後二時半をまわったころだった。  高田由紀子との電話が終ってすぐ、島崎は自宅を飛びだした。東京発十一時三十分の列車に乗った。一時半に館山《たてやま》へ着き、そこからK市までタクシーを走らせたのだ。  K市は港町だった。めずらしい形の岩礁が多く、海洋公園などもあって観光客が多い。公園のそばの岬にマリーナがあった。コンクリートの堤防で仕切られた水面に大小さまざまなモーターボートやヨットが浮んでいる。艇庫にもぎっしりとボートが格納してあった。門のまえで島崎はタクシーをおり、すぐ内側の事務所を訪問した。 「浅野淳さんの小型ボートの出航記録を見せてほしいんですが」  島崎は申し出た。  自分は浅野の友人である。K市へきたのでここへ寄ってきた。最近浅野があそびにきたか知りたい。そんな口実をいった。  事務所が伝票を繰ってくれた。大きなクルーザーが死体を運んで隅田川を走るわけがない。小型ボートの動向だけを知りたい。  すぐに記録があらわれた。浅野の小型ボートは最近五、六回艇庫を出ている。泉正雄の殺された日の前日も、杉本こずえの殺された日の前日もその五、六回にふくまれていた。事件の翌日、小型ボートはそれぞれマリーナへもどってきている。 「小型ボートはふつう出航した日のうちにマリーナへ帰ってくるんでしょう。この二件だけは出航した翌日まで帰っていない。どういうことなんでしょう」  事務員に島崎は訊いてみた。だいたい事情には察しがついている。 「東京へ運んで乗ったんでしょう。トラック便がうけとりにきています。もちろんオーナーの指示があったからです。つぎの日同じトラックの便が運んで帰りました」  予想どおりの答だった。  列車で三時間もかかる距離を小型ボートでぶっ飛ばすわけにはいかない。健一は小型ボートをトラック便で王子の隅田川の堤防付近へ運ばせたのだ。橋の下など目立たない水ぎわに夜までおいておく。犯行後、死体の運搬に活用する。翌朝早く、迎えのトラック便にボートを積みこませて出発させたのだ。警察がききこみ捜査をはじめれば、目撃者が出るにちがいない。  健一は浅野にことわってボートを借りだした。どんなふうに使うかはもちろん説明しなかった。自分がボートを借りだしたことは内密にしてほしいと頼みこんだのだろう。  出入庫の記録を島崎はカメラにおさめた。艇庫へ案内してもらい、浅野の小型ボートもカメラにおさめた。  礼をいってマリーナをあとにした。トラック便の事務所へゆき、運送の記録を見せてもらう。二度の事件当日、トラック便は小型ボートをマリーナから東京王子のT橋まで運んでいる。T橋は隅田川にかかっている。  着いたのは午後四時ごろだった。あのあたりは島崎にも多少土地カンがある。河岸は工場地帯で、車が多いわりに人通りは少い。ボートの置き場所には困らないはずだ。  翌朝九時にトラック便は同じ場所へボートの受けとりにいっている。昼すぎにぶじマリーナへとどけられた。荷物の受渡しの伝票に見馴れた健一のサインがある。島崎はそれもカメラにおさめた。  健一の写真を島崎はもってきていた。彼がボートを借りにマリーナへあらわれていたのなら、係員に写真を見せて確認してもらうつもりだったが、果せなかった。トラック便の運転手はボートの積みおろしのさい、健一の顔を見たはずである。だが、その運転手は現在仕事に出ていて、面通しに協力してもらうことはできなかった。  島崎はトラック便の事務所を出た。海をながめながら、駅のほうへ歩きだした。真実をつきとめたよろこびはなかった。むなしい気分と徒労感がまとわりついてくる。  高田健一は悪人ではない。病んでいるだけである。みんなの病んでいる部分、社会の病んでいる部分を集約して、ひとりで深く病んでいるとでもいうのだろうか。彼をつかまえてもなんにもならない。彼の病いをつかまえないかぎり、物事は改善されないのだ。  町角の魚店のまえで島崎は足をとめた。イキの良い鯛や平目やアジが商品台にひしめきあっている。海辺へいくならお魚買ってきてよ。子供に彼は注文されてきたのだ。 「おばさん、鯛を一匹。いちばん大きいのをたのむ。それから蛸《たこ》。生きているやつを」  生きた蛸を見て大さわぎする息子の顔を彼は思いうかべた。  高田浩介がやらなかったことをしなければならない。あらためて自分にいいきかせた。 本作品は一九九一年十月、講談社ノベルスとして刊行され、一九九四年六月、講談社文庫に詩収録されました。