阿部 牧郎 オフィスラブ——甘い誘惑 目 次  §1 オフィスラブ講座  §2 オフィスラブ——甘い誘惑   First Night  聖夜の仔猫   Second Night 二人だけの忘年会   Third Night  二人だけの晴着   Last Night  成人式——パエリアの日 [#改ページ]  §1 オフィスラブ講座   Lesson1 サラリーマンにとってオフィスは花園である  週に一、二度、私は大阪|北新地《きたしんち》の酒場街へ出向く。もう二十年来の習慣である。  酒場から酒場へ移動する途中、通りをぶらつく大勢の人々とすれちがう。おどろくほど人通りが多い。私の若いころ、北新地は高級クラブ、高級料亭が軒《のき》なみで、足をふみいれるのさえ恐れ多かったものだった。いまはラウンジバー、カラオケバーが増えた。手軽なスナックバーが数多くある。偉い人だけでなく、若いサラリーマンも大勢出入りしている。時代は変った。  人通りのなかにギャルがたくさんいる。ふつうの会社のOLである。男性社員とグループで飲みにきた子がほとんどである。ほんの十年まえは、夜、北新地で見かける女性は九十九パーセントが酒場のホステスだった。通りを歩く女性にかぎっての話だが、いまはOLのほうがはるかに多い。しかも美人の率が高いのである。すれちがう瞬間、ふっと足をとめて眺めたくなる女性の圧倒的多数がふつうの女の子なのだ。  酒場へ入って、なかで働く女性を見てがっかりすることがある。この程度の女を相手になんで高価《たか》い酒を飲まなくてはならないのかという気になる。夜の世界へ入ってくる女性が少くなって、業界全体がレベルダウンしたことははっきりしている。だが、私のような書斎労働者は、一般社会のふつうの女の子に接するチャンスがまったくない。酒場のホステス以外、ゆっくりことばをかわせる女性がいないのである。やむをえず酒場でおろかな時間をすごす。深夜タクシー乗り場の行列に加わり、前後に立つ酒場勤務の女たちを眺めて、美しい顔立ちが少いのにあらためてため息をついたりするのである。  私がいいたいのは、若い女性と日ごろ気軽に接触できる点において、サラリーマンはきわめてめぐまれた立場にいるということである。じっさい、たまに取材などで一般企業のオフィスを訪問すると、私はまるで花畑に足をふみいれたような気持になる。ほうぼうに美女がいる。  生き生きと働いている。私がサラリーマンだったころにくらべて、いかにも一言ありげな、我の強そうなOLが増えたが、それでもあの華やかさはまぶしいほどのものである。ちょっと身を乗りだせば、すでに妻子のあるオジサンでも、絢爛《けんらん》たる恋愛情事で自分の半生史のページを飾ることができるのである。なぜこのすばらしいシチュエーションをみんな活用しないのだろう。  仕事はきびしく、人生はつらい。だが、野の花を一輪折って自分のデスクの花瓶に飾れば、それで世界は一変する。野山のそよ風が机上にあふれ、花の香りが鼻孔にしのびこんで、囚《とら》われの身をなぐさめてくれる。人生、仕事だけではないよなあ。しみじみ納得できるのである。権力をもつ横柄《おうへい》な老人たちが大して羨《うらや》ましくなくなる。自分固有の生活というやつがゆっくり固まってくる。  こういうと、反論の声がいくつか私の耳にきこえてくる。 「花畑だなんて、そんないいもんじゃないスよ。うちの会社なんかブスばかり。仕事はできないし、気立ても最悪。プライドだけは一人前というアホバカが多いんです」 「となりの芝生が青くみえるということじゃないんですか。じっさい企業に身をおいてごらんなさい。この子と苦労してみたいという気になれる女なんて、ほとんど皆無ですよ」  OLもプライドは高いが、サラリーマンもけっして低くない。  なかなか本音が出てこない。自分がオフィスラブと無縁でいることを合理づけようとすることばばかりきこえてくる。企業人として私生活の乱れは好ましくない、職場の秩序をかきみだすモトにもなる——そうした建て前に縛られて身動きできないのだ。女の子に手を出して出世のさまたげになっては大変だという意識があるのはもちろんである。そういう自分の姿をみとめたくないので、女の子に責任を転嫁してプライドをまもる。ブスだの性格が悪いだのといい立てて、「平穏無事」を正当化しようとするわけだ。  べつに絶世の美女でなくてもいいではないか。天女の人柄でなくともかまわないではないか。ふつうの顔、ふつうの性格で充分ではないか。OLには若々しい肢体がある。オジサンには思いもおよばぬ新鮮な価値観や文化をもっている。それらに親しくふれるだけで単調できびしい日々の暮しに、どれだけ豊富な色どりが加わるか、測り知れない。 「ブスだのアホだのというけど、オジサンたちは何なのよ。あぶらっぽくて、ダサくて、説教好きなだけじゃん」  オジサンたちがプライドにこだわるかぎり、OLの反応もこうならざるを得ない。  これではおたがい不幸である。時代や境遇は変っても、男と女は本来求めあうはずの関係なのである。建て前や損得勘定の壁をとっ払って、底にある自分の本心を覗きこんでみようではないか。充実した暮しというのは、人がどれだけ本心のまま行動できるかにかかっている。よけいなプライドをすて、謙虚になることからそれははじまるのだ。  私は約十年間、サラリーマン生活をした。独身時代は女の子を追いかけて、フラれたりフッたりしていた。単純な欲求不満の状態であった。性の意識が複雑になったのは、むしろ結婚して以後のことだった。  結婚三、四年もたつと、近くにいる女の子に目がいくようになる。私のつとめていた会社には可愛い女の子が多かったので、いつも彼女らの姿が視界にちらついた。だが、私はすでに世帯持ちである。上司や周囲への気がねもある。うっかり女の子をさそったりはできない。なに食わぬ顔で働いていた。息苦しい欺瞞《ぎまん》の日々であった。  午後三時をすぎると、仕事に疲れてぼんやりすることがある。そんなとき、机のまえを女の子が通りすぎる。思わず私はその女の子のヒップや脚を視線で追っていた。裸身のさまを脳裡に描きだした。徹夜麻雀のあとのように、衰弱した欲望にかられた。束縛から解放されたい願望、横になって一休みしたい願望、上司に気をつかいながら働くいまいましさ、単純な運動不足——さまざまな要因が集約されてセックスの欲望になっている感覚があった。切実で暗い衝動だった。  女の子が上体を折ってキャビネットのなかの書類をさがしにかかったりする。気がつくと私はいやらしい目でその女の子の下半身をみつめている。はっとわれにかえり、あわてて仕事を再開する。神聖なビジネスの場でこんな気持を起す。おれはなんと好色な人間かと自責の念にかられたりした。  私は近くにいる同僚たちをそれとなく観察するようになった。やがて安心した。同僚たちもけっこういやらしい目で女子社員のヒップや脚を見ていた。中年になるほどそうだった。じろじろ鑑賞する者は少い。ことのついでにちらと目を走らせ、いそいで書類に視線をもどすような行動が多い。そういう男たちが、こと女の話になると、 「わが社にはもう一つハッと目のさめるような女の子はおらんな。もっと美人を採れと人事にハッパかけとかなあかんワ」  などと恰好《かつこう》をつけるのであった。  身近な女の子と私はあやしい仲になった。仕事に疲れると、私はその女の子を抱きたい衝動にかられた。堅牢《けんろう》なビルの壁。きびしい数字。わずらわしい人間関係。それらに圧倒され、疲れきった神経に、女の子の若々しい肌は大きな救いだった。会社の応接室とか会議室で女の子を抱いたら、どんなに晴れ晴れした気持になるかと思った。女の子の肌によって、あらゆる抑圧に対抗できるような気がした。  さすがに実行するチャンスはなかった。後年物書きになり、好色物の注文をうけたとき、私はその体験を物語化してみようと思った。会社や応接室でポルノシーンを展開する『金曜日の寝室』というのを書いた。びっくりするほどこれが受けた。スポーツ紙に連載中から街で人に呼びとめられ、 「アベさん。あれいつ本になるんですか」  と質問されたくらいだった。みんな抑圧されているのだなあ。しみじみ私は納得した。以来、その手のものを数多く書いた。  サラリーマンは花園のなかにいるのだ。ふりかえって、私はあらためてそう思うのである。現在進行中のオフィスラブの事例をあつめて、なおその思いが強くなる。多少のコツがわかれば、だれでも大過なくそれを楽しめる。   Lesson2 性の側面から見る限りエリートは貧困な人間  どこの職場にもOLのあこがれの的となる男性が一人ぐらいはいるものである。  有能、一流大卒、長身、ハンサム、人柄も良いといった人物である。当然の帰結として同期のトップを走っている。まわりの信望も厚く、家庭も円満。そんなエリートに酒場へさそわれたら、OLはよろこんでついてゆく。飲みながら彼が愛の言葉をささやく。さほど月日がたたないうちに、二人は男と女の仲になるだろう。  だが、そんなエリートは社内で一分の隙《すき》もみせまいとして、身構えて暮している。身近なOLへかんたんに手をのばしたりしない。心理的、生理的に浮気の衝動にかられたとき、彼は酒場の女などを相手にえらぶ。会社とは別の世界で衝動をみたそうとする。モテる条件をそなえているからそれができやすい。  エリート面で冷然とかまえていれば別だが、近くにいるOLの気をひいたりしないので、ますます彼のファンは増える。 「彼となら私、ソクOKなんだけど、そんな人にかぎってこちら向かないのよねえ」  OLたちはそう噂《うわさ》する。周囲に良い印象をあたえたまま彼は順調に昇進してゆく。  はた目にはうらやましい人物である。だが、内面は必ずしもそうではない。  職場で良いイメージを保持してゆくためには、それなりの無理をしなければならない。エリートも男である。身近な若い女の子たちに無関心でいられるわけがない。彼女らの姿がつねに目にちらつく。よその世界の女と知りあうチャンスがない期間など、とくにそうなる。  仕事の能率をあげるため、彼はOLににこやかな顔を向けなければならない。だが、ある一線を越えてはならない。タブーの意識が強いほど、それをやぶりたい衝動も強くなる。情念と自己規制の葛藤《かつとう》は大変なものである。そのストレスをうまく解消しないと、気短かになったり、妙に内攻的になったり、せっかくつくりあげたエリートのイメージを知らず知らず破壊することになる。ゴルフやカラオケではその種のストレスは発散できない。蓄積するいっぽうである。  私のインタビューしたある食品会社の若手課長は、手淫によって性的ストレスを解消しているということだった。 「結婚七年もたつと、女房にそんな気も起りませんからねえ。風呂場なんかでこっそりオナっています。思い描く女の子ですか。同じ部の女の子をかたっぱしから」  照れくさそうに彼は告白した。  まあもったいない。職場のOLたちの声がきこえてくるような話である。 「ソープを利用しています。爽快ですが、あとが空しいですな。欲望の解消だけでは物足りない。やはり恋愛がありませんと」  ある総合商社の課長はいっていた。  忘年会などで酔って、部下の女の子の尻などについさわりそうになる。抑制して、翌日ほっとする。いつかボロを出しそうで、OLと酒を飲むのが怖いのだという。  私自身、物書きになってから、場末のストリップ小屋でかつての同僚だったエリート社員に偶然出会っておどろいたことがある。出世志向のかたまりで、会社ではいつも神経をピリピリさせている男だった。みんな欲望をなだめるのに苦労しているのだ。私はその男に同情した。  性の側面から見るかぎり、エリートは貧困な人間である。雄として、多大の犠牲をはらって、社内的に良好なイメージを保持している。性的貧困の代償に地位と権力をもとめている向きさえある。私にいわせれば不健全だ。人格的にいい影響のあるわけがない。抑圧された性の衝動がビジネスや人間関係にどう影響するか、私の今後の研究課題である。  社内における地位や権力は、女からみると、男の性能力とかさなりあっている。OLたちは社内で羽ぶりのよい男に魅《ひ》かれる。彼女にはそれなりのプライドがあって、ビジネスで実績をあげ、まわりの評価も高い男でないと、自分の恋人にはふさわしくないと思っている。 「不倫の相手って、やっぱり仕事ができなくてはね。無能な男って見るのもいや」 「私もそう。男はやっぱり仕事が基本よね。できる相手でないと意味がないわ」  OLたちは異口同音にいっている。  職場という一つの文化圏で彼女らは一日の大部分をすごしている。その文化圏の価値尺度にかなった男にまず目がいくのは当然である。エリートに彼女らはあこがれる。有能な男は恋愛やセックスの面でも有能だと信じこんでいるのだ。  だが、エリートたちは彼女らを避ける。一部のめぐまれた者をのぞき、さきに書いたような悲惨な性的内面をかかえて呻吟《しんぎん》しているのだ。OLたちの恋愛志向は宙に浮いてしまう。ある者は社外に相手をもとめ、ある者は手近な人材で折りあいをつける。エリートならざるオジサンたちの存在が、ここで重みを増してくるわけだ。  世の中には社内結婚するOLが数多くいる。だが、同じ会社の独身男性には興味を感じないというOLはさらに多い。理由は、同じ職場の男性には夢が感じられないということにある。彼と結婚しても将来はせいぜい部長夫人。収入はこの程度。家をもつのは四十すぎ。残業が多く、単身赴任もある——さきゆきがすべて見えてしまうのだという。  現代の若い女は自己評価が高い。自分についてのイメージを大きくふくらませて生きている。自分ほどの女には、さきのさきまで見えすいた人生はふさわしくないと感じている。かわいそうに、独身男性はアッシーだのメッシーだのという奉仕を際限なく強要される。  不倫を志すオジサンたちは、このあたりの事情を深く考察しなければならない。見えすいてしまうのが致命傷なのだ。ノルマに追われてフウフウいっている姿。カラオケで憂《う》さを晴らし、酔った勢いでホテルへさそったりする姿。麻雀をやるため、残業だと家に嘘《うそ》の電話をかける姿。ふつうのサラリーマンの日常は、非エリートのイメージをせっせとふりまいているようなものである。それがオジサンのすべてだと思われたら、オジサンに夢を感じるOLはいなくなる。愛を感じてくれるOLなど皆無になってしまう。  現在、上司と不倫進行中のあるOLの証言をここでご紹介したい。 「私、ミステリーファンなの。ある日、昼休みにアガサ・クリスティを読んでいたら、彼が声をかけてきて——」  彼はとなりの課の課長代理。それまでほとんど口をきいたことがなかった。三十七歳。そんなに出世の早いほうではない。やさしそうだが、平凡な人と思っていた。  彼女の読んでいるのがクリスティだと知ると、課長代理はそばの椅子に腰をおろした。クリスティの諸作について語りはじめた。おそろしく博識だった。偉そうに批評するのではなく、諸作の面白さについて熱をこめてしゃべった。シムノン、グリーン、フランシス……。他の作家についてもくわしい。彼女もミステリーに関しては自信がある。たちまち話がはずんだ。 「うれしいなあ。同好の士が見つかった。こんど二人でミステリーを語る会をやろうよ」  それがきっかけになった。彼女は目を洗われたような思いで課長代理を見送った。 「会社とは別の世界をもっている人だという気がしたの。ミステリーの話をしているときの、目のかがやきが素敵だった」  彼女の述懐は示唆に富んでいる。たんに共通の趣味というのではない。オジサンの内面にある他人の知らない教養、知識、なにかの財産。そこに彼女らは魅かれるのである。   Lesson3 自分だけの城を持てば�水先案内人�になれる  サラリーマン時代私が一番つらかったのは、毎日の単調さと窮屈《きゆうくつ》さだった。  満員電車で出勤。いつに変らぬ上司や同僚と顔をあわせる。仕事をはじめる。夕刻までオフィスに縛りつけられる。また電車で家路につく。  麻雀屋や赤提灯へ寄る日もあったが、原則的には毎日が同じような内容だった。ときおり、どこかへ逃亡したくなった。大阪駅で「金沢行特急 加賀」などという標識を見ると、無性に旅に出たかった。「遠くへ行きたい」という歌が心にしみたりした。  こんなのは大なり小なりサラリーマンに共通の心情だろう。高度の仕事をまかされ、権限をあたえられるにつれて、毎日が単調だというなやみは薄れてゆく。仕事が日々おもしろくなったりする。それでも束縛された感覚は消えない。家へ帰っても、その感覚をいやすことはできない。同じ職場のOLとの情事を夢見たりしながら空しく年をとってゆく。  だが、なにもオジサンたちだけがそんな状態におかれているわけではない。OLだって似たようなものだ。いや、仕事の単調さ、束縛の強さからいうと、彼女らのほうがむしろつらい状況におかれている。一般にOLは補助業務しかやらせてもらえない。男の営業マンのように外出もできない。彼女らの離席をきびしくチェックする職場は多い。彼女らも「遠くへ行きたい」と思っている。じっさい、海外旅行へしばしば出かけてゆく。  趣味のミステリーを語りあうことで同じ職場のOLと親しくなった課長代理の事例を前の項でご紹介した。そのOLは課長代理のことを平凡なオジサンとしか思っていなかった。だが、ミステリーを語る彼を見て、目を洗われる思いを味わったのだ。 「自分の世界をもっている人だという気がしたの。目のかがやきが素敵だった。彼以外のオジサンはぜんぶ見えすいているからつまんない」  一人の男からどれほどの性的|倖《しあわ》せを得られるかは、ほんとうは寝てみないとわからないのだが、OLはそうは思わない。見えすいたオジサンは雄としてもつまらないときめこんでいる。  自分の世界をもっている男にたいしてOLは夢を感じる。いまいる現実とはちがうよその世界の匂《にお》いをただよわせた男に彼女らは魅《ひ》かれる。「遠くへ行きたい」種族だからである。  バーやディスコへ女の子をつれてゆくのはだれにでもできる。不倫願望のあるオジサンは、自分以外の男には案内できない独自の領域をもつべきである。前述の課長代理氏は、たまたま同好のOLと出会ってミステリーについての博識を開花させた。OLにとっては彼は、ミステリーを語りあった瞬間から、その世界の水先案内人となった。会社であくせくしているだけの男ではなく、旅の匂いをただよわせた男になったのだ。  平凡なオジサンだと思っていた男が、じつはしっかりした独自なライフスタイルをもった男だった——その発見は若い女に新鮮なショックをあたえる。単調で窮屈なOL生活を生き生きした、波乱に富んだ暮しに変えるヒントをあたえられたと彼女らは感じる。 「あら、この人、フツーの人と違うじゃん」  女の子が身近な男性社員をみつめなおす——それがすべての始まりである。  オフィスラブを志すかぎりにおいて、登山家サラリーマンは有利な立場にある。  ふだんは黙々と働く。切れ者というわけではないが、誠実な人柄でみんなに信頼されている。その男が冬になると雪山へ消える。数日後、まっくろに雪焼けして帰ってくる。 「最後のビバークは暖くてらくだった。夜中に何度も雪崩《なだれ》の音をきいたよ」  登山の模様を訊《き》かれてポツリと答える。  なんとなくみんな感動する。ビジネス用語と無関係な別世界の話だからだ。きいている女の子が全員これだけでしびれるわけではない。だが、現実臭以外になにもない男よりも彼女らの印象に残るのはたしかである。その登山家にさそわれたら、初心者向きの夏山へ同行するOLも出てくるだろう。  スポーツマンは一般に有利である。草野球などはダサイし、男だけのものだからあまり武器にならないが、大学野球の経験者となると話はちがってくる。スキー、テニス、ヨットなどの名手は、直接的なセックスアピールになる。国体などで活躍した実績があれば申し分ない。それほどでなくとも、女の子といっしょにたのしめる種目だから、それらの名手は良い水先案内人になれる。  音楽に強いのもよい。ふだん目立たないオジサンが、酒場のピアノでサラリとショパンを弾《ひ》いたりすると、OLの目つきは変る。口をひらけば会社の話、仕事の話しかしないやつにはない文化の香りを感じる。ギターでもヴァイオリンでもかまわない。演奏が無理なら、徹底した鑑賞家であっても良い。ジャズにしろクラシックにしろ、いやみでなく博識を示したら、女の子はその男に案内されて音楽の世界へ入りこもうとするだろう。  ここで注意すべきは、付焼刃《つけやきば》はダメだということである。妙な工合にマーケティング精神を発揮して、ウケる種目にあわてて身を挺《てい》しても下心《したごころ》が見えすくだけである。本心から好きな種目で自分なりの城を築き、その迫力でアピールしないと女の子は乗ってこない。 「おれさア、最近のカラオケはチェッカーズと安全地帯なんだ。もう十曲モノにしたぜ。若いってみんないってくれてさア」  OLに受けたい一心で売りこむバカなオジサンがいる。下心が丸見えである。  自分だけの世界があったとしても、トクトクと吹聴《ふいちよう》するのは下の下である。自慢話はきき苦しいし、安っぽい。みずから宣伝することで、固有なその領域自体が底の浅いものに見えてしまう。アピールはさりげなく、できれば人の口を介して行わねばならない。 「あいつ、ああ見えてもミュージシャンなんだ。弾き語りをやらせると、ちょっとしたもんだぜ」  親しい同僚にたのんで、目あての女の子に吹聴してもらうほうが望ましい。  スポーツ、音楽、絵画——。女の子に受けそうな種目が全然ない野暮なオジサンもけっして落胆する必要はない。例のミステリー好きの女の子の証言を思いだしてもらいたい。 「ミステリーについて語るときの、彼の目のかがやきが素敵だった」  そうなのだ。なにも女の子好みの上品な種目である必要はない。しんそこ大事にしている領域があるかどうかが問題なのだ。  競馬にくわしい上司に魅かれ、競馬場で彼とデートするようになったOLがいる。パドックを見て二人で議論をかわす。共通の推奨馬が先頭を切ってゴールへ入ったとき、いいようのない一体感で二人は結ばれる。  魚釣り名人。麻雀名人。料理名人。名所|旧蹟《きゆうせき》の探訪者。ワイン研究家。固有の世界はいくらでもある。なんでもいい、一つをモノにすることだ。その姿勢の純粋さが女の子の胸を打つ。ただのサラリーマンでないことを知って惹《ひ》かれる者がかならず出てくる。ニーズにあわせて種目をえらぶのでなく、自分の領域を固めてニーズをつくりだすのである。要はその人の生きかたにかかっている。   Lesson4 日陰の花  四月、新入社員の女の子たちが配属されてくる。職場はいっぺんに明るくなる。男の独身社員はもちろん、窓ぎわの冴えないオジサンまでがなんとなく落着かない気分になる。みんなあまり関心のないような顔で、彼女らの一人一人をくわしく点検している。  新人のOLたちは緊張と好奇心のまじりあった顔で働いている。呼ばれると、勢いよく返事をする。キビキビと動く。(そうでないのもいるけれど、一般論として)とても可愛い。さっそく飲みにさそいたいのが人情である。新入社員歓迎会などのどさくさに、デートを申しこむ者が出てくる。  だが、あせってはいけない。志を抱く者は、まず相手を知ることが肝心である。新入社員の女の子たちは、職場に好もしい男性がいたとしても、さそわれてすぐ応じられる心境にない。仕事のこと、職場のことで頭がいっぱいである。だれかに叱られはすまいかとおびえている。評判を落すような行動にすぐ踏み切れるわけがない。彼女らの気持が落着くのは、入社後半年というのが相場である。  もちろん女の子たちは、素敵な男性との出会いを夢見て会社へ入ってくる。学校時代にはできなかったような恋愛、情事を期待している。金融、保険、百貨店など、女性が圧倒的に多い職場では、入社式早々夢やぶれた心境になる女の子が数多くいるらしい。 「ホールにいる人の九割が女性なの。男性の新入社員はすみのほうにチョコッと集まってるだけなんだもの。ああ、私なんのために就職したのかと思ったわ」  保険会社のOLが入社式の思い出をそう話していた。これが本音なのだ。  こうした女性優位の職場では、男性社員は大モテで手当りしだいかというと、事情は反対である。女性相互の監視がきびしく、オフィスラブの当事者は四面楚歌になるので、めったなことで行動を起せない。男性社員の多くは空しく宝の山に埋もれているわけだ。  私がつとめていた会社では、新人OLは美女ほど早く結婚退職する傾向があった。  入社後半年もたつと、美女につきまとう若い社員が出てくる。二、三度デートしたあと「結婚を前提とした交際」となる。美女はまもなく結婚退職する。射止めた男はべつに有能でもない、単純な男が多かった。 「なんであの程度のニイちゃんが、あんな別嬪《べつぴん》さんをイワしてしまうんかいな」  周囲のオジサンたちが嘆いていた。  有名女優などへ果敢に接近し、人もうらやむ成果をあげる身のほど知らずな男が世の中にはいるものだが、それと似た展開だった。向う見ずも男の武器になることがある。  だが、これはもう二十年もむかしの話である。当時の若い女は恋愛、結婚にあこがれて会社へ入ってきた。「売れ残り」の恐怖にさらされてもいた。もらってくれる相手がいると、すぐお嫁にいった。  いまはちがう。若い男が余っている。結婚なんかいつでもできる。条件の良い相手があらわれるのを待つ一方で、楽しい経験を積みたがっている。一人前の社会人としての恋愛、情事を期待している。とくべつなウリもない結婚願望だけの若い男なんて、うっとうしいだけである。  そろそろオジサンたちの出番である。狙った相手のいる人はさりげなく優雅に出陣してもかまわない。だが、成果を確実にしたい人や、四十代、五十代のオジサンは、ここでもう一度彼女らを観察しなおす必要がある。  新人OLも職場に馴《な》れた。先輩社員と気軽に冗談をいいかわすようになった。パブやスナックバーの雰囲気も知った。素敵な男性の出現を待つばかり、の状態である。  だが、彼女らはまだ幼い。男の中身よりも外見に魅かれがちだ。しかも、人生で一番美しい時期にいるので、自己評価が高い。学歴、収入、身長の三拍子がそろった白馬の騎士の出現を待っている。陽《ひ》のあたる恋愛を期待している。妻子ある男性との人目をしのぶ恋にはまだ尻ごみする者が多い。  管理職のオジサンなどは肩書がかえってマイナスになる。会社へ入ったばかりの女の子には、課長は権力のかたまりである。とほうもなく偉いのである。男の匂《にお》いなど感じない。四十代、五十代のオジサンとなると、校長先生と同年輩の老人にすぎない。校長先生に食事にさそわれた女子高校生が性のときめきをおぼえるものかどうか、想像するまでもない。情勢はオジサンに不利なのである。  あらためて身辺をふり返ってみよう。何人かの不遇なOLが目にとまるはずである。入社して数年を経ながら、恋人もなく単調に暮している女子社員たちである。  女子新入社員が配属されてくると、男たちの目はそちらへ向いてしまう。男の側は意識していないのだが、先輩OLに注がれる男たちの視線は急に冷めたものになるらしい。 「新入社員の子に場をさらわれたって感じになるの。ちょっと落ちこむわ。男ってどうしてあんなに新しいものが好きなの」  入社二年目の女の子がいっていた。三年目、四年目になるとなおさらだろう。  たしかに男の性は新しいもの好きである。同じ金をかけるなら、ソープの一人の女と馴染《なじ》みになるより、二人三人とべつの女を知りたいのがふつうである。課の一人のOLをマークしていても、新人の女の子が入ってくるとつい目移りする。その気配は古くからいるOLを深く傷つけるわけである。  こちら側のOLにこそオジサンたちの道はひらける。新入りをわざと無視して、先輩OLにやさしく接する。 「どんな子が入ってこようと関係ない。おれはきみの変らぬファンなのさ」  態度でそんな気持をあらわすのだ。  そのOLのオジサンを見る表情はやさしく変るはずである。飲みにさそうための条件がととのってゆく。オフィスラブは日陰の花である。職場のスターがあびるスポットライトから離れた暗い場所でひっそりと咲くのが原則である。その意味で、まぶしくも愛らしい新入社員のギャルの群れは、人目をしのぶ恋人たちに、巧まざる陽動作戦を可能にする。みんなが新鮮なギャルに目を奪われている期間をうまく利用しなければならない。  新入社員の女の子たちは、いわば一過性のスターである。入社半年を過ぎると鮮度がうすれ、先輩OLとあまり変らなくなる。二年目には彼女らもフツーのOLになる。  これとはちがって、ほんもののスターOLのいる職場がある。容姿、能力とも彼女は並外れた存在で、男性社員の視線を一人じめしている。さきにのべた日陰の花の原則はこうしたオフィスでこそ有効に生きる。野心あるオジサンは、スターの光彩の陰でワリを食っているOLにこそ着眼しなければならない。けっこう美しいのに彼女は不遇である。ナミの球団なら三、四番を打てる選手が西武ライオンズで代打に甘んじているようなことだ。 「A子ちゃんにはおれ、そんなに魅力を感じないんだ。彼女は華やかだけど、ほかに特別なものがないよ。きみは人柄が良い。美しさも彼女に負けない。引き寄せられるのは、彼女よりもきみのほうさ」  スターOLを引合いに出して、不遇なOLを力づけてやるべきである。  不遇なOLも、自分だってスターにさほどひけをとらぬ魅力の持主だと思っている。それをみとめられたら、心は揺れる。オジサンの顔に理解者の面影を見るようになる。  くり返しになるが、オフィスラブは日陰に咲く花なのだ。二流の恋である。スポットライトをあびるのは他にまかせておけばよい。   Lesson5 さまざまなアプローチ  目標とする女の子がきまったら、いよいよオジサンの出動である。  相手が同じ課、同じ部で働いている場合、最初のアプローチは比較的らくである。二人で世間話や打合せをしながら、 「ところできみ、アフターファイブはどうしてるの。週に一度や二度はパーッとやっているんだろうね」  と、もちかけることができる。  この種のきっかけづくりは、敵状調査をかねている。いまつきあっている男性がいるかどうか、社内にライバルがいるかどうかを把握しなければならない。相手が目下空き家だったら、ただちに飲みにさそうべきである。  ほんとうに空き家なのかどうか、まじめに詮索する必要はない。特定の男性がいないという答は、あなたのさそいに乗ってもよいという気持のあらわれだからである。とりあえず二人きりで飲むチャンスをつくるのが先決。親しい男性がそのOLにいるとしても、恋にのぼせあがっていたら、オジサンのさそいにすぐ応じたりはしないだろう。最初はたんに社の先輩とOLの間柄であっても、ときおり飲んで気心が通じあえば、風向きが変る可能性は大いにある。  標的のOLと気軽に世間話などができない状況にある男性は、忘年会、歓送迎会など宴会を利用するのが一般的である。一次会は上司の目があったりして行動が制約されるが、二次会の会場へ移動する途中とか、二次会のカラオケコンサートのあいだとか、どさくさのうちに数多くのチャンスがころがっている。 「A子さん、けっこう飲めるんだなあ。見直したよ。こんどおれとつきあってくれない。銀座にちょっと感じのいい店があるんだ」  酔っているから、気の弱いオジサンも大胆に誘惑の手をのばせる。  向うも酔っている。気前よく応じる。ここで安心してはいけない。今週の金曜とか、来週の月曜とか、きっちりした詰めが必要である。あくる日にもそっと確認をとる。酒のうえのシャレでないことを印象づけておく。  だが、こうした「正式」の宴会は年に幾度もない。まわりに人が大勢いて、意図した成果があがらない場合も多い。そんな状態にある人は残業を利用するべきである。じっさい私が取材した十八組のカップルのうち八組は残業を機会に仲よくなっている。  意中のOLと二人きりで残業するチャンスがあれば申しぶんない。だが、男女数人ずつで残業した場合にも細工はできる。 「ご苦労さん。打上げにビールを一杯やって帰ろうじゃないか」  小規模な宴会に流れこんでチャンスをつかみ、次回の予約をとるのである。  所属部門が離れた相手に接近するのは、世間話のついでとか、宴会に乗じてとかいうわけにはいかない。一見きわめて困難にみえる。だが、事実は逆である。遠くにいるOLほど、アプローチは容易なのだ。ただしオジサンに勇気があればの話である。  化学会社営業部勤務のB子は入社三年目。男友達が二人いたが、どちらも食いたりず、深い関係にはなっていなかった。  ある日B子はコピー室で書類を機械にかけていた。ほかに人はいなかった。作業中、業務部の石川主任が入ってきた。三十七歳。背の高い、感じのいい人物である。だが、職場が離れていて、まだ口をきいたことがない。 「佐々木さんは英会話を勉強しているんだってね。感心だな。海外旅行用なの。それとも輸出部門で仕事をする気なの」  近づいてきて石川は声をかけた。佐々木というのはB子の姓である。  B子はびっくりした。石川主任が自分の名を知っているとは思わなかった。まして英会話教室へ通っていることまで——。自分に関心をもっていてくれたのだ。石川主任ってどんな男性なのだろう。 「遠くからきみのことマークしていたんだ。ゆっくり話したいな。一度食事しないか」  すこし話したあと、石川はもちかけた。吸いこまれるようにB子はうなずいた。  証券会社総務部勤務のC子は、ある日、帰宅する途中の電車のなかで、うしろから声をかけられた。 「長井さん、きみも××線だったのか。ふしぎにいままで会わなかったな」  ふりかえると、営業第二課の吉岡課長代理が立っていた。人なつこく笑いかけてくる。  C子はびっくりした。吉岡は四十前後。入社五年目のC子もまだ口をきいたことがない。長井というC子の姓を、吉岡がおぼえていてくれたなんて、考えてもいなかった。 「きみ、出身は静岡なんだって。おれ、何度かあそびにいったことがあるよ。学生時代の友人が静岡に住んでいるので」  またC子はおどろいた。だれから私の出身地のことを訊きだしたのだろう。  悪い気はしない。この人、私に関心があるのだ。すこし上気してC子は吉岡との会話に応じる。お茶にさそってくれないかしら。すでに期待と好奇心が芽を出している。  きっかけづくりは、ふだん接触のない相手のほうがむしろらくなのだ。相手の女子社員の身辺について多少の情報を仕入れておくだけで効果的なアプローチができる。思わぬ人が遠くから私を見まもっていた——よほど冴えない男性でないかぎり、その意外性が女子社員には大きなよろこびである。自信にもつながる。最初から彼女は漠然《ばくぜん》とした好意を下地にしてオジサンと対することになる。  恋愛、情事にあこがれながら、標的を定めかねている女子社員は数多い。素敵だと思う男性がこちらを向いてくれなかったり、周囲からさっぱりさそいの声がかからなかったり、近づいてくるのはエッチむきだしのオジサンだけだったりする。自分に人気のないのをみとめたくないから、彼女らは、 「うちの会社、不作なのよねえ。会って胸のときめく男なんて一人もいない」  などとイキがってみせる。  周囲の男性を無視しよう、魅力を感じないようにしようと無意識にそうした女子社員はつとめている。そこへこれまで気にもとめなかった男性から声がかかる。やっと彼女はとくべつな関心をもって対するべき男性にめぐり会ったわけである。これまで縁のなさそうだった不特定多数の男性のなかから、とつぜん一人、縁のありそうな男性の姿がくっきりと浮かびあがったわけだ。その男性に向かって感情が動きだす可能性はきわめて高い。  周囲の男性にたやすく好意を抱くまいという心情は、ほとんどの女子社員に共通している。快楽への期待と同じくらい、傷つくことへの恐れも大きいからだ。男性への関心を彼女らは抑圧している。男がほしい、などという本音を意識にのぼらせないで暮している。なんとなくモヤモヤしているわけだ。  男性からのアプローチによって彼女らのモヤモヤは一定の方向づけを得る。声をかけられてから、はじめて相手に目を向け、美点をさがしにかかるのである。さそわれてから愛は目ざめる。志あるオジサンは、たとえば前述の吉岡代理の事例のように、身辺調査、待ちぶせなどによって、目ざす相手のまえにおどり出なくてはいけないのである。 「いい年コイて待ちぶせなんかできるか。そんな愚行は自尊心がゆるさん」  そうおっしゃるオジサンもいるだろう。  だが、恋愛や情事はもともと原始次元の愚行なのである。知性ではなく本能に属する行為なのだ。バカになれなくてはなんにもできない。企業戦士のかかえこんでいるストレスが多くは本能の抑圧に起因することを考えると、愚行にこそ意味がある。   Lesson6 弱敵をあなどるな  標的とした女子社員にどうやって接近するかについて、前回は語った。ある程度の事前調査のあと、勇気と才覚をもって接触する。世間話ののち、敢然と飲みにさそえば、栄光の情事の道がひらけるだろう。  だが、男女の仲はシナリオどおり進まないこともある。相手の女子社員にとってオジサンが好みのタイプだったとしても、さそわれた日たまたま別の独身男性とディスコへゆく約束があったり、ハンサムな若者から最近プロポーズされたところだったり、金持のオジサンから高価な品物を贈られた直後だったりする。いろいろ都合があるのだ。  その日女子社員が風邪《かぜ》気味《ぎみ》だったり、家に用事があったりすることもある。もちろんオジサンが彼女の「タイプ」でないケースもありうる。そんなとき女子社員はさまざまな表現で謝絶するだろう。 「すみません、私、きょうダメなんです。お友達と先約があるの」 「夜はまっすぐ帰ることにしてるんです。親がうるさいので」 「いとこが今夜あそびにくるの。いっしょに晩ごはんをたべるので」  気弱でプライドの高いオジサンは、これらの台詞《せりふ》にグサリと心臓を刺されてよろめく。立ちなおる気力もなくする人が少くない。 「あ、そうなの。それは残念。ではまた機会があったら——」  そそくさと彼は逃げ出す。傷つくことをなにより恐れる性格である。  あとで述べるが、いやがられているのを無理に押し返すのは最悪のマナーである。にしても、一発食っただけでひきさがるのは、あまりに意気地がない。口さきでチョッカイを出しただけかと思われる恐れもある。 「では、あしたはどう。いや、今週中に都合のつく日はないの」  この程度は踏ん張ってみるべきだろう。  それでだめなら後退。男らしくさっさとしりぞく。標的を切り替えたほうがいい。決心のつかない向きは、彼女の辞退の弁を分析してみればよい。招待に応じられない理由が一過性の事柄であればまだ見込みはある。友達とコンサートへいくとか、風邪だとかいう場合である。日が変れば都合がつくことを意味しているからだ。親がうるさいとか、酒が飲めないとかいわれたらまず絶望。戦線の立てなおしをはかるべきだ。  鉄鋼会社勤務のY子は、別の課の主任から声をかけられた。三十八歳。小才のきいた軽薄な男で、Y子の「タイプ」ではなかった。 「親がうるさいんです。早く帰らないと」  Y子は恐縮したふりで拒絶をした。  主任はむっとした顔で追及してきた。 「きみ、長野出身で一人暮しなんだろう。親なんか関係ないじゃないか」  しまった、とY子は思った。だが、こんな場合の答弁は用意してある。 「毎晩父か母が電話してくるんです。私がいないと、翌日上京してくるの」  主任は鼻白んで立ち去った。  Y子にいわせれば主任はあまりに単純である。まだ気心の知れあわない男女は、話すとき論理よりも相手の感情に気をくばらなければならない。やんわりとY子は拒んだ。主任は感情をむきだしに、論理にケチをつけた。 「せっかく傷つけまいとしてるのにねえ。あの一言であの人の全性格が見えてしまった」  Y子はそういっていた。反射神経がにぶいばかりに主任は男をさげた。  ことわられても未練がましくつきまとう男がいる。誠意で彼女の心を溶かしてみせる、などとそんな男は考えている。じつは救いがたい自惚《うぬぼ》れ屋で、拒絶されるという現実を受容できなかったり、勝手なイメージで相手に接し、現実の相手の姿がまったく見えなかったりする性格の男なのだ。こんな人間にはもちろん自分自身の姿は見えない。毎日エレベーターのそばで相手の女子社員を待ったり、家まで尾行したり、恥知らずの行動をとる。 「彼、変質者じゃないの。気持わるーい」  こういわれたら彼の社会的生命は終りである。  気の弱そうな若者のなかにときおりこんな人格の男がいる。一番きらわれるタイプである。引きぎわはなにをおいてもいさぎよくありたい。オフィスラブにおいてはラッシュ一本槍のファイターよりも、進退自在のアウトボクサーこそ望ましいのである。  女子社員を飲み屋にさそうときは、表面はさりげなく、内心は全力投球でなければならない。相手がさほど美女でない場合も、手をぬくことは絶対にゆるされない。  証券会社営業部の木村課長は、かねてから総務部のR子に目をつけていた。  R子は総務一の美女で、性格は明るい。仕事もよくできた。木村が小当りに当ったところ、反応も悪くなかった。チャンスをつかんで彼はR子を酒場にさそった。 「私、会社の男性とそういう場所へいかないことにしてるんです。噂になると困るから」  R子ははっきりしていた。自信の鼻をヘシ折られて木村は退散した。  木村はむしゃくしゃしていた。夜八時まで残業したが、気がおさまらない。同じ課のT子をさそって銀座へ飲みに出た。T子はR子とは比較にならない不美人である。気立ては良いが、仕事のミスも多い。木村に好意をもっているらしく、マメに世話をやいてくれる。さそえば楽勝の相手だった。  二軒、酒場をまわった。カラオケで楽しんだ。木村は酔って、しだいにT子が美女に見えてきた。妻の体調がすぐれず、最近セックスをしていない。つくづく見ると、やや太目ながらT子は良い体をしている。 「ホテルへいこうよ、T子ちゃん。おれ、上手いんだぞ。やらせろよ。いい気持にさせてやるぞ」  木村はT子の手をとった。 「いやあ。冗談いわないでください」  木村の手をT子は払った。ふくれ面をしている。  なおも木村はせまった。T子が頑《かたく》ななので真剣になった。両手をとって口説《くど》いた。一気にくちづけをもとめる。突きとばされた。バッグを手にT子は立ちあがった。 「課長ってそんな人だったんですか。私、いや。尊敬してたのに」  T子は走って酒場を出ていった。  木村は酔いもさめはてた。翌日、T子を別室へ呼んで詫びをいれた。酒のせいにした。仲直りはしたが、しこりは残った。以後T子は木村の世話をしてくれなくなった。  ブスをあなどってはいけないのである。客観的には不美人でも、すべての女子社員はそれぞれの主観における美女なのだ。もっとも謙虚な不美人でも、私はまあ人並だと思っている。現実が苛酷《かこく》であればあるほど、女子社員はセルフイメージを美しく保ち、それにすがる。セルフイメージを破壊する者にたいしては、殺意に近いほどの憎悪を抱く。  二流三流の女子社員でも、接近をはかるなら、オジサンは相手をお姫様としてあつかわねばならない。レディとして遇さねばならない。軽視する気配を、毛ほども見せてはならない。美人は相手が尊重してくれるものと信じて育っているから鷹揚《おうよう》なものだが、不美人は近づいてくる男性を、神経をギラギラさせて観察している。手をぬくオジサンは、へたをするとセクハラとしての告発をうける。 「××さんったら、私を飲みにさそうのよ。タイプじゃないからことわったけどさ」  顔立ちも性格も美しからざる女子社員に吹聴されて、面目《めんもく》失墜した男は数多くいる。  オフィスラブも一面では勝負である。弱敵をあなどっては痛い目にあう。できれば不美人には近づかないほうが良い。   Lesson7 グルメ  都市ホテルのロビーで女性と待ちあわせることがある。  ソファに腰をおろして女性を待つ。周囲には同じように人待ち顔の男女が立ったり腰かけたりしている。当方の目は自然に女性に注がれる。あまり美しい女はいない。都市ホテルのロビーには目じりのシワ隠しのサングラスをかけたオバタリアンが多い。一流ホテルであることを意識して、中年太りの女性がボディの美を強調するアゼディン・アライアを着たりしている。  約束した女性がやってくる。私の経験ではほとんどの場合、かるい失望に見舞われる。思っていたよりその女性が貧弱に見えるのだ。とくに水商売の人がそうである。夜、酔った目でその女性を見て美女だと思っても、昼間明るい場所で見ると、たいていがっかりする。まして一流ホテルのロビーは背景が豪華、壮麗《そうれい》である。よほどのタマでないと、容姿が舞台装置に拮抗《きつこう》できないのだ。サングラスのオバタリアンなど、わざわざ自分がいちばん醜く見える場所をえらんで人と待ちあわせていることになる。  これからなんとかしようという女性に、最初から多少ともがっかりするようでは意欲に翳《かげ》りが出る。場所としては便利だが、せっかくデートに漕《こ》ぎつけた相手との最初の待ちあわせに都市ホテルをえらぶのは得策ではない。会った瞬間、オジサンの顔にあらわれたかすかな失望の色を、女性はけっして見逃さないのだ。はっきり意識しないにしろ、彼女の心の底には不信感が刷りこまれる。  第一、オジサン自身が一流ホテルのロビーで相手の女性にどう映るかを考えてみる必要がある。だれしもセルフイメージは良好である。だが、みずからの容姿に関しては、主観と客観はだいたい正反対であることを心に刻んでおくほうが良い。オジサンがかすかに失望した以上に、向うはオジサンに失望するかもしれないのだ。  社会的地位、仕事における能力などは、まったく容姿に反映されないことを覚悟すべきである。写真で見た自分、ビデオや8ミリで見た自分に一度でも落胆したおぼえのある人は、都市ホテルを待ちあわせの場所にえらぶべきではない。  あまり小さくない、うす暗い喫茶店などが待ちあわせの場所として好適である。昼間は喫茶店、夕刻からスナックバーに切り替る店など好ましい。会社と同じビルの喫茶店などというのはまずいが、私の経験では、百メートルも離れた店であれば、同僚や上司と顔をあわせる可能性はほとんどゼロである。会社から離れたい一心で、遠くの盛り場の喫茶店を指定するのは感心しない。わずかでも面倒な気持を起させてはならない。まだ訪れたことのない喫茶店へ、彼女が地図を頼りに胸をおどらせて駆けつけるなどという展開は、恋人どうしになってからのことである。  それでもなおホテルに執着する向きは、バーを利用すべきだろう。適度な暗さが保たれていて、おたがい良好なイメージを保持できる。もっとも最近は都市ホテルのバーも、パンチパーマ人種とか、二十歳そこそこのお子様ランチが少くない。席がない場合のことも頭にいれておく必要がある。  ぶじに顔をあわせたあとは食事である。  オフィスラブの相手は、こっちの収入がどの程度のものかほぼ把握している。一流レストランへ案内しても、感謝されるより気の毒がられるのが関の山である。無理してもらってわるい気はしないだろうが、それで好意がかき立てられるというものでもない。むしろオジサンの下心が見えすいて、安っぽく映ってしまったりする。せっかく気張っても逆効果なのだ。  街のちょっとした、洒落《しやれ》たレストランへ案内するのは悪くない。だが、そんなことはだれでもやる。とくに若い男のなかには、女の子をグルメぶった店へつれていって、 「どう。なかなか良い店だろ」  と鼻をうごめかすのを生甲斐《いきがい》にしているバカがいる。いっしょにされては困る。  私の見るところ、若い女性と食事——一流レストランというのは、支払いをする側のまちがった固定観念にすぎない。肩のこる高級レストランは彼女らもやはり肩がこるのだし、グルメぶった店も、好奇心の満足以上のものはもたらさない場合が多い。ごちそうしてやった、よろこんでいるはずだと金を払った側が思いこんでいるだけで、向うは感激していない。  十年ばかりまえに書いた私のオフィスラブ小説には、OLを高級レストランへ案内して急速に親しくなる場面がよく出てくる。一昔まえまではそれでも現実味があった。いまはちがう。OLたちはその手の場面を読んでよく苦情をいうのだ。 「オジサン社員とお食事にいくのは、良い店でごちそうしてくれるからですよ。それ以外の関心なんて全然ないわ」  多くのオジサンはたんにメッシーなのである。  若い女は自分たちがいっしょに食事するだけで、オジサンにたいするサービスになると思っている。つきあってやるのだから、ごちそうは当然の見返りだというわけだ。しかも、この贅沢な世の中である。若い女は家族との外食経験などで、洒落たレストランには馴《な》れてしまっている。少々の店ではおどろかないのだ。  デートは高級レストランで——。固定観念にとらわれているため、オジサンたちはみんな同じことをやる。早く彼女をうっとりさせたい焦りから、現実の彼女らの姿が見えなくなっている。メシぐらいで女子社員は陶酔《とうすい》しない。無理して張りこんで、交際費で落すのだろうと思われたらそれこそ身も蓋《ふた》もない。  昼休みにメシを食う程度の店よりもやや高い店。そのあたりが妥当だろう。おすすめなのは和食の店。女子社員たちのスリム願望は、男には想像もつかないほどのものがある。ほとんど生命がけで彼女らは見てくれを良くしようとしている。それが彼女らの自己評価の基本なのだから、当然である。 「ここの神戸牛は最高だぜ。レアで赤ワインをつけると、感激の涙が出る」  などと高級店を張りこんでも、内心めいわくがられたりする。とくに少々太目の女の子には、ステーキは鬼門である。  その点和食はいい。安心して彼女らはたべる。京料理ふうのきれいな料理なら、けっこうロマンチックな気分にもなる。なによりも「安心感」が貴重なのだ。和食にはボーイに見守られてナイフとフォークを使う緊張がない。女子社員は心をひらいて、いろいろ本音で話してくれる。いまは季節外れだが、個室で鍋物を突っつくのなどなかなか気がきいている。帰り、腹がへったら男は一人でラーメンをたべればよい。家でお茶漬の支度をして待っている女房の顔も、夕食が和食なら立てることができる。  といっても、たまにはレストランも必要だろう。最小限度、ワインの心得もあるほうが良い。ブルゴーニュの各村名ぐらい、おぼえておくと恰好がつく。私の推奨する参考書はヨクスオール著「ワインの王様」(早川書房)。これ一冊でブルゴーニュ産ならドンとこいということになる。  日本の男の不馴れなのはエスコート。つい最近まで男性優位の社会だったから、仕方ないことである。私などもレストランなどでつい上席にすわってしまうことが多い。  クロークで彼女のコートをぬがせてやろう。ボーイや仲居さんの手を借りずにこれをやると、無条件で女子社員の心はなごむ。相手が上役なら、なおさらである。自分がコートをぬぐよりさき、ぬがせればよいのだ。テーブルでは椅子をひいてすわらせてやる。道では車のゆききから彼女をかばってやる。気遣いこそ最高のグルメである。   Lesson8 酒場(その1)  食事でお腹がいっぱいになった。適度に酒も入った。つぎはいよいよ酒場である。二人の間柄がたんなる職場の知合いから特別な仲に変るための第一歩だ。オジサンはじゅうぶんな配慮のうえで行動を起さねばならない。  オジサンの八割はカラオケ派だろう。目ざす彼女をまえにして、得意ののどを披露《ひろう》したい気持はよくわかる。今夜のため、ひそかに新曲をレパートリーに加えた人もいるにちがいない。  だが、相手の女子社員がカラオケ派であるとはかぎらない。おちついたロマンチックな雰囲気の酒場でしずかにブランデーでも舐めるのが好きな女性であるかもしれない。食事のさい、彼女の希望を訊きだしておく必要がある。  同じ部、同じ課の女子社員だから、彼女の好みがオジサンには見当がついているはずである。だが、速断してはいけない。職場関係のカラオケ大会は、ふつう五、六人づれだろう。もっと大勢の場合もある。そんな席ではワッと盛りあがるのが主眼になる。カラオケ大会で彼女が楽しそうに歌ったからといって、オジサンと二人のときも歌いたがるとはかぎらない。反対に大勢のとき引っ込み思案でモジモジしていた女子社員が、二人だけのときも臆病《おくびよう》だとはきまっていない。度胸と自信をつけて、人前で堂々と歌えるようになりたいと思っている場合もある。 「きみは唄が上手だったな。歌える店へいってみる気はあるかい」  念のため質問しておこう。  上司や同僚とやるカラオケ大会は、女子社員にとっていわば「公」の場である。オジサンと二人のときは「私」の場にいるのだ。公私とも同じ顔の女子社員は少い。むしろ「公」の場では見せない彼女の「私」の顔を見つけ出す努力が必要である。  彼女がカラオケ愛好者だとわかったとしても、オジサンはいそいそとそこへ出向くほど単純であってはならない。 「そうか。ではラストは唄でしめよう。そのまえに一軒——」  彼女の腕をさりげなくとるなどして、しずかで上品な酒場へ案内するべきである。もちろんホステスのいる酒場は避ける。  カラオケで歌ったあとは爽快《そうかい》である。かるくジョギングしたあとに似ている。何曲か歌い、胸のモヤモヤを発散させて外へ出る。 「ああ、今夜は楽しかった」  倖せそうに彼女はつぶやく。  そのかぎりではデートは成功である。だが、さわやかな気分でいる彼女をホテルへさそって、いい結果が出るものだろうか。だめにきまっている。ホテルどころか立ちどまってキスをもとめるのさえ難しい。カラオケ酒場というところは、 「ああ楽しかった。また来週も飲もうね」  余韻をもってバイバイする雰囲気をつくるための施設なのだ。  食事のあとの酒場は、したがってピアノの弾き語りなどの流れる比較的広い店が良い。相客やバーテンダーとの会話を楽しむたぐいの店は、若い女子社員には向かない。ショットバーはガサツであるし、ワインバーなどではオジサンは浮きあがる。小さな店も、二人の存在が際立ちすぎて窮屈《きゆうくつ》である。 「まあお久しぶり。お元気ィ」  入るなりママが声をかけてくる馴染みの店へ女子社員をつれてゆくのは悪くない。  オジサンの顔のきく店だと思えば、女子社員も安心する。オジサンが頼もしくみえるという効果もある。ただし会社の上司や同僚が出入りする店は、いくらオジサンの顔がきいても最悪。二人だけの秘密、ひそかな逢瀬《おうせ》という空気が消えてしまう。なんだこの人、飲むだけが目的で下心はないのかと、女子社員は拍子ぬけするのである。タダ酒狙いのあばずれでないかぎり、なびくなびかぬは別として、アバンチュールへの期待はどの女子社員にもある。いったんそれをしぼませると、復元するのにひどく手間がかかる。 「酔わせて口説こうなんて気はないんだ。安心して飲んでくれよ」  女子社員と二人で飲みながら、きれいな口をききたがる男がよくいる。  それで女子社員の信頼をかちとる気でいるのだが、実状は攻撃の失敗を恐れて、事なかれ主義におちいっているにすぎない。すぐに見すかされる。第一そんなに道徳家ぶったら、攻撃に切りかえるのが困難になる。エッチむきだしと同じくらい、オジサンのぶりっ子は醜悪なのである。  甘い音楽をバックに、楽しい語らいに入る。おじさんはまず聴き役にまわらねばならない。女子社員のなやみをきいてやる。父のごとくおおらかに彼女のいいぶんをききいれ、兄のごとくやさしく力づける。彼女に同情し、共感し、必要な情報をあたえる。徹底的にオジサンは彼女の味方であらねばならない。  気をつけなければならないのは、酩酊《めいてい》である。酔うと、男はしばしば自分を大きくみせたい衝動にかられる。 「部長がこういうからさァ、そうじゃない、こうですとおれいってやったんだ。困って目を白黒させていたよ。大した男じゃないんだ。あれで部長だから、下は苦労するよな」 「××商事の件、課長がいくら足を運んでもまとまらないんだ。見かねて助太刀したら一発で通ったよ。先月もそうだったんだ」  自慢話ほどきき苦しいものはない。それが他人の悪口になると、もう救いようがない。  相手の女子社員との共通の敵を批判するのはまだゆるされる。だが、共通の敵のはずの人物にその女子社員がさほど敵意をもっていない場合、男をさげるのは批判者のほうだ。その種の本音を吐くのは、相手の女子社員とねんごろになってからにしたい。  自慢話がきき苦しいのは、仕事関係の話題のときばかりではない。オジサンは仕事以外の独自の世界をもつべきだと以前書いたが、スポーツのことにしろ、音楽や美術のことにしろ、偉そうな話はしないほうがよい。熱意をもって語るのと、自分を大きく見せようとして語るのはまったくちがう。酔ってそれを混同するオジサンがけっこう多いのである。  女子社員にくらべてオジサンは人生経験が豊富である。女子社員の話すことに至らぬ点があると、いらいらする。酒で自制心がなくなるにつれ、説教口調になってしまう。 「きみ、それはちがうよ。そんなことをいってるようじゃまだ若いな。いいかいきみ、企業ってものはだね……」  せっかく固まりつつある相手の好意を粉砕するようなことを口走る。  なあんだこいつ、本音はこれなの。ただの説教好きのオジンじゃないの。女子社員がシラけているのに、酔いのせいで気づかない。ついでにオジサンは女子社員の肩に手をおいたりする。事態は絶望である。  女子社員よりさきに酔ってはいけないのだ。人格の至らぬ部分がむきだしになる。最近はギャルも酒に馴れていて、相当飲んでも平然としている子が多い。油断はできない。酒量に自信のない向きは、「肝太郎」「黒丸」「グロンサン」の錠剤などを事前に飲んでおかれるようおすすめしたい。二日酔い防止以上に、あの種の薬は酔余の失敗防止に効果がある。  世の中には酒の飲めないオジサンもいる。そういう人も愛の成就のためには酒場へゆくほうがいい。女性にとって酒の酔いと恋の酔いは至近距離にある。語らいの場の雰囲気は大切である。下戸《げこ》のオジサンはウーロン茶を飲みながら健闘されたい。   Lesson9 酒場(その2)  前回述べたとおり、最初のデートでは、食事のあとすぐカラオケ酒場へ足を運ばないほうが良い。  カラオケで何曲か歌うとすっきりする。彼女もすっきりしている。ホテルへさそうのにふさわしい雰囲気ではない。時間も遅くなっている。 「ああ、きょうは愉快《ゆかい》だった。来週またいっしょに飲もうね。では送っていこう」  余韻をもってサヨナラをするためにこそカラオケ酒場は存在する。そこへ立ち寄るまえに甘い語らいの時間をもつべきである。  おちついた酒場で飲んだあと、おもむろにカラオケ酒場へ足を向ける。率先してオジサンは歌わねばならない。この夜のためになにか一つ新曲を仕込んでおくぐらいの下準備は必要である。彼女のリクエストでもないかぎり、同僚とのカラオケ大会でいつも披露する持唄などを出してはならないのだ。 「きみと飲むときのためにおぼえてきたよ。きみに捧げる歌というわけだな」  ニューミュージック系の唄など一発カマしてやろう。井上陽水《いのうえようすい》、矢沢永吉《やざわえいきち》、長渕剛《ながぶちつよし》、鈴木聖美《すずききよみ》、内藤《ないとう》やす子《こ》、高橋真梨子《たかはしまりこ》あたりがよろしい。チェッカーズだの明菜などになると少々やりすぎの印象になる。  団塊世代以上のオジサンは、演歌の愛好者が多いはずである。残念ながら、彼女とねんごろになるまではあれは控えたほうが良い。昨今の若い世代の音感は、オジサンには想像もつかないほど洗錬されている。たんに古い新しいの問題ではない。音楽の質としてド演歌は劣等なのである。ギャルにとってド演歌は音楽でなく音苦である。説教がましい両親だの、いじわるな先輩OLだの、小綺麗《こぎれい》だが内容のまずしい暮しだの、彼女らが逃避したがっているダサい現実社会の音そのものなのである。汗を流して力唱した結果、やっぱりねえ、この人うちの父とそんなに年齢が変らないんだ、などとよけいな感慨を招いては悲劇である。  ほんとうはド演歌愛好者だと彼女が知っていてもかまわない。一、二曲は彼女の好む曲をやるべきである。私のため努力しておぼえてくれた——彼女はオジサンをカワユく感じるだろう。彼にこんな面があったのかと再発見させる効果もある。つねに新鮮な一面をあらわすことが肝要なのだ。 「彼は演歌が好きなの。でも、私と最初に飲んだとき、高橋真梨子の『For You』を歌ってくれたの。私が好きなのを知っていて勉強してきたのね。感激したわやっぱり」  証券会社勤務のM代の述懐である。ただし、M代の唯一の持唄をさきどりするようなことがないよう心掛けたい。  歌に自信のない向きも、カラオケ酒場にきた以上、引っこみ思案でいてはならない。 「歌うよ。きみのために恥かいてくる」  決然とステージに立つべきである。音程を気にせず、彼女の好きな歌を吠える。  反対に歌に自信のあるオジサンは、乗りすぎを警戒しなければならない。どんな美声の持主でも、しょせんは素人。歌で他人を感動させられるわけがない。プロの歌手でもその魅力のかなりの部分を演出や知名度や容姿などに負っている。歌唱力だけで勝負はしていない。ましてオジサンは裸一貫。歌声に陶酔しているのは本人だけである。歌えば歌うほど他人をうんざりさせる。  彼女だって例外ではない。乗りまくり歌いまくるオジサンを見て、なんて無神経な男かとため息をつく。好意がしぼんでしまう。  彼女をうっとりさせるためのデートなのに、自分がさきにいい気持になっては話にならない。自己陶酔がなぜいけないか。彼女よりも自分に関心が向いてしまうからである。私はさほど大事にされていない、と彼女は感じる。こうならないためにオジサンはたえず彼女に注意を向けていなければならない。水割りをすすめ、会話をはさみ、タバコに火をつけてやり、一秒でも彼女のことをわすれないようにつとめれば、冷静でいられる。みっともない地金をさらけださずに済むのである。彼女のほうも、そこに愛の証《あか》しを見てくれるにちがいない。  夜がふけてくる。家で待っている女房に電話する必要も出てくるだろう。 「ちょっと家に連絡してくる。きみといっしょにいる時間を守るためにね」  ことわってから電話をかけにゆく。不倫中のOLに取材して、私がいちばん感心したオジサンの台詞はこれであった。  新曲をおぼえたのもきみのため、へたな歌で恥をかくのもきみのため、家に電話するのもきみのためなのだ。総力をあげて言外に愛を語る。今夜は奉仕の一夜である。  歌い終えてカラオケ酒場を出る。最初に書いたように、よっぽど彼女がその気になっていないかぎり、今夜はホテルへさそわないほうが良い。だが、一夜の奉仕の成果をたしかめる必要はある。虎視眈々《こしたんたん》、キスを狙おうではないか。  身を寄せあってカラオケ酒場を出る。彼女も酔っている。人通りのない路地でふと足をとめ、彼女の顔を覗きこむ。ほほえんで彼女は見かえしてくる——。これなら問題はない。しずかに顔を近づければよい。  身を寄せあって歩きながら彼女の背中に腕をまわす。彼女がいやがるそぶりを見せないからといって楽観はできない。おたがい飲んでいるのだし、まあ背中に腕ぐらいは。そう考えている場合もあるのだ。  背中にまわした腕をさらにまわして彼女の肩や二の腕をつかんでみよう。筋肉がゆるんでいたらほぼOK。こわばっていたら拒絶である。ぜんたいに彼女の体がやわらかく、こちらへなびいてくる感じがあれば、前述のようにすぐキスに移る。彼女の体が硬く感じたら攻撃はさしひかえる。強引に行動するのはリスクが大きい。成功すれば華々しいが、失敗すると反撥《はんぱつ》を招く。ダメモトの覚悟がないかぎり無理強いはするものではない。  彼女の体がこわばっているとき、オジサンは独り言のようにつぶやくべきである。 「今夜は帰ってすぐバタングーだ。おかげさまで完全にストレスが発散できたからね」  この一言で彼女の体がやわらかくなる場合があるのだ。  キスぐらいなら応じてもよい。だが、セックスはまだ心の準備はできていない。そんな心境にあるとき彼女はキスを怖れる。くちづけで心身がグニャグニャになり、そのままホテルへなだれこむという事態を警戒しているのである。キスが蟻《あり》の一穴になり、防波堤が崩れるのを恐がっている。いまからまっすぐ帰る気だという宣言は、そんな彼女の緊張をほぐす効果がある。  それでも彼女が硬い場合、最後のチャンスはタクシーのなかにもとめられる。座席に並んで腰をおろす。タクシーが停ったり曲ったりするたび、二人の体がぶつかりあう。彼女が体を遠ざける気配があれば、今夜はまず絶望。別れぎわの握手だけであきらめよう。  接触をさける気配がなければ手を握ろう。しばらくして彼女の肩に腕をまわす。体がこわばっていなければ、彼女のあごの下に指をあててこちらを向かせる。この場合、多少強引でもよい。運転手への遠慮があるので、女の子たちは、一般にさほどあからさまに拒絶はしない。  最初のキスは初々しいほうがよい。彼女の前歯の裏側を舌さきでこねまわすなどという高等技術は後日にとっておくべきである。キスそれ自体よりもあとの感想が大事。うれしいよ。夢みたいだ——。一言ささやくだけでよい。  キスのあと歓喜のあまりワーイとさけんで駈《か》けだした男がいた。いつまでも彼女の記憶に残った。   Lesson10 ホテルへの誘い  最初のデートと二度目のデートの間隔は一週間が適当だろう。  二、三日後また、というのはいかにも性急である。十日も間があくと、前回の余韻が消えてしまう。最初のデートでキスをせしめたオジサンの場合は一気|呵成《かせい》に勝負をつけたいところだろうが、優雅な態度で一週間待ち、若者とのちがいを彼女に認識させたほうが良い。そうすることで相手の期待も高まるはずだ。職場ではときおり彼女に視線を向け、熱い思いをさりげなく伝達すべきである。  ふつうは二、三回、難航しても四、五回のデートでオジサンはキスに成功するだろう。二度目のデートに彼女が応じた時点でオジサンは八十パーセント自信をもって良いのである。おちついて前進しよう。  キスのあと、正念場がやってくる。どうやって彼女をホテルへ誘うべきか。なんといってもちかけるべきか。すべてのオジサンがいちばん苦心するところである。  相手が酒場の女だったり、偶然知りあった女だったりする場合は、ダメモトで攻撃をかけてもかまわない。失敗したら頭をかいて退散すれば済むからである。だが、オジサンは同じ職場の女子社員を攻撃しようとしているのだ。失敗はゆるされない。もしヘマをやって拒絶されたら、いうまでもなく、あとがきわめてまずいことになる。 「ねえねえ、××主任ったら、あの顔でけっこう自信もってるのよ。メッシーのノリでつきあってやったのに、飲んでるうちに、きみ、今夜は帰さないぞって、これだもんね」 「気持わるーい。よくいうよ。ギャルを口説こうと思ったら、鼻毛ぐらいきちんと切って、服もブランド物でキメてこいってのよね」  女子社員は得意になって触れてまわる。  職場で彼女らはどうがんばっても社長賞などをもらえる立場にはない。手に入る勲章はモテたこと、だれかを振ったことくらいのものだ。かわいそうなオジサンを情容赦《なさけようしや》なく踏み台にして勲章を見せびらかすだろう。たちまち噂は広まる。オジサンの権威は地に墜ちる。あばずれを口説いたみずからの不明を悔んでも、すでに手遅れである。  もちろん、ホテルへ誘うまえに愛の告白が必要である。若者のプロポーズとはわけがちがうのだから、正面切って、 「まえからきみが好きだったんだ。やっと打ちあける勇気が出たよ。もうおさえられない。おれの気持、受けいれてくれないか」  などとせまる必要はない。  オジサンは世馴れている。ここにいたるまでの会話のなかに、適度に愛のことばを混ぜておくぐらいの芸当はできたはずだ。 「仕事はつらいけど、会社へいくのは楽しいよ。きみを見るとハッピーになるから」 「毎日きみを見ると、心臓がキュンとなる。自分を見直したよ。いい年コイて、こんな気持になれるなんて」 「成績があがらないと、会社へいくのがつくづくいやになるよ。でも、きみの顔が目にうかぶと、がんばろうって気になるんだ。きみにだけは軽蔑されたくないからね」  以上が不倫中のOLに取材して、私が感心したオジサンの台詞《せりふ》である。  なにか熱心に話している途中、ふっとわれに返った雰囲気でささやくのが効果的である。相手が無警戒でいるところへグサリと愛のことばを突き刺すわけだ。さあこれからいよいよ愛の告白——というあらたまった空気になると、彼女のほうも身構えてしまう。分別のプロテクターをつける。せっかくの剛速球が彼女の心臓にひびかない結果になる。  性の領域へ彼女の関心を近づけるため、セックスを話題にするのも悪くない。昨今のギャルはすすんでいて、上手に誘導すればいそいそと乗ってくる場合が多い。ただし性豪ぶるのは下の下。クリトリスがどうの、Gスポットがどうのと医学的に語るのもまだ早い。少年時代|早漏《そうろう》でなやんだとか、初体験はどうだったとか、初心者のころの話がよろしい。笑える要素が必要である。  ほとんどの女子社員は、オジサンの夫婦生活がいまどんな状態なのかを訊きたがるだろう。毎週金曜の夜だとか、月五だとか、バカ正直に答えてはならない。彼女はシラける。そんなにせっせとやっていて、なんで私が必要なのかと思う。 「結婚×年もたつと、女房にはもう女を感じないね。いまや共同経営者だ」  この程度の答えが無難である。女を感じるのはきみにだけだとつけ加えても良い。 「夫婦ってそんなものですかア。夢がなくなるなあ。結婚なんてつまらないわ」 「職場にきみがいるのが悪いんだ。きみにばかり気をとられてしまうからな」  同情をひくつもりで女房の悪口をいうオジサンがいる。逆効果である。  悪妻になやまされている男に女は同情しない。女房も御《ぎよ》せない男なのかと軽蔑されるのがオチである。女房のことは一度は話題にしなければならないが、オジサンとしてはできるだけあっさり切りあげるべきだろう。  ときおり愛のことばを洩《も》らしたり、かるく性を語ったりしながら、オジサンは注意深く彼女を観察しなければならない。ホテルへさそって良いかどうか、彼女のそぶりで判別がつく。ことばに出さなくとも、無意識の動作で彼女はGOやSTOPのサインを出す。  彼女がときおり腕時計を見るようなら今夜はだめ。さそうのは止そう。酒を控えているのもSTOPのサイン。帰りの足を心配したり、翌朝のことを口に出すのもSTOP。なにかほかのことを考えている表情も良くないサインである。無理は禁物。後日を期して、ひきあげの用意をしよう。  さりげなく体を寄せてくる。GOである。楽しそうにしている。現在以外、なにも関心がないような表情。元気良く飲む。ああ酔ったとため息をつく。すべてGOサインだ。酔いを強調するときはとくに有望。私はそんなに軽くないんだけど、お酒が入ったものでつい——。自分にたいするそんな口実を彼女はつくろうとしている。かすかに呼吸のみだれがあれば、オジサンの勝利は確実である。 「ああ酔っぱらった。ひと休みしていこうよ」 「しずかなところへいこう。差向いでゆっくり飲みたいよ。朝までゆっくり」 「きみにキスしたいな。ここにも、ここにも、ここにも。ね、いいだろう」  彼女のくちびる、胸、脚にさわりながらささやく。手を握りしめる。 「抱かせてくれ。夢を見させてくれ」 「ホテルへいこう。おちついて話そう」  最後の勝負に出たオジサンたちの台詞である。いこうか、と一言いっただけの勇士もいた。私の取材したOLたちは、これらのことばにうなずいて腰をあげた。  一見すれば傾向と対策がはっきりする。以上の五つの台詞に共通の雰囲気はない。格別うまい表現もない。ホテルへいってセックスしたい。その気持だけがあらわれている。いろんな体裁をとりながら、要するに、やらせてくれといっているのだ。  ここまでくると、ことばはもうどうでもよいのである。彼女はセックスに応じる気になっている。どんな表現だろうと、やりたいという意味が伝われば彼女は腰をあげる。国語力の貧困なギャルに「夜明けのコーヒー」などといってもかえって通用しにくい。  男がいちばん口にしにくい台詞、勝負のかかった台詞は、じつはいちばん工夫の要らない台詞なのである。ことばはただの合図にすぎない。それまでに勝負はついている。GOサインが出たら、無言で彼女の腕をとって歩きだすだけでかまわない。   Lesson11 部屋への流れ  何度か彼女とデートしたのに、最後のツメが甘くて目的をはたせないオジサンには、都市ホテルの有効利用をおすすめしたい。  以前にも書いたとおり、待合せの場所はうす暗い喫茶店などのほうが望ましい。だが、二、三度いっしょに飲んで気心を知りあったあとなら、堂々と都市ホテルのロビーを使用してもかまわない。最初とちがって双方に馴れが生じている。豪華な場所で会っても、おたがいさほどみすぼらしくは映らない。  あらかじめ部屋を予約しておく。彼女よりさきに着いてチェックインを済ませる。ロビーへもどって彼女を待つ。彼女がきたら、見晴しのよい最上階のレストランへ案内する。最上階にレストランがなければ、せめてラウンジバーのあるホテルを選ばねばならない。ともかく、きょうこそキメようという夜は、絶対に最上階が必要となる。  ワインを飲み、フルコースの料理をたべる。場所がホテルである以上、和食にこだわる必要はない。適当に酔って親密な空気をつくる。彼女が酒豪なら、食事のあとラウンジバーへ入る。一階、二階などのレストランで食事した場合も、終ったら最上階のラウンジバーへゆく。甘い雰囲気を盛りあげるために夜景が必要なだけではない。部屋へ彼女を招き入れるには、高い場所にいるほうが絶対に有利なのだ。  二人とも満腹した。快く酔った。いよいよ勝負である。部屋へいこう、と正面切って交渉する必要はない。オジサンは彼女をつれてレストランを出る。たまたまエレベーターの扉があいても、あわてて駈けこむ必要はない。ゆっくりと次のを待つべきである。  二人はエレベーターに乗る。目的のフロアの釦《ボタン》をオジサンは押す。おや、という顔で彼女はオジサンを見るだろう。オジサンはほほえんで、うなずいてみせる。きみの考えていることはわかっている、万事まかせておきなさいと言外に伝えるわけである。  この場合、ほかに人が乗りあわせているほうが良い。そばに人がいると、苦情をいいたい心境に彼女があっても、とっさにことばが出にくいものだからだ。すぐに扉がしまり、二人は下降をはじめる。  最上階から下降するのは自然の流れである。人間だれしも流れに逆らうのを負担に感じる。まあいいや、と意識の底で彼女は妥協する。面倒なことはあとまわしだ。エレベーターを出てから文句をいえば良い。  だから最上階は有利なのだ。一階のレストランで食事し、十階の部屋へ到達するのは、かなり意志的な行為である。おたがいはっきりした合意がないと実行しにくい。エレベーターへ乗ろうとするだけで、どこへいくの、と彼女は訊くだろう。十階の部屋、という答をきいたら、まともなギャルは尻ごみする。 「私、そんなつもりじゃないわ」 「いやよ私。外で飲みましょうよ」  こうなったらオジサンは逆らえない。たとえその気があっても、ギャルはもったいをつける習性があると知るべきである。  下降してエレベーターはすぐに目的の階へ着く。彼女にうなずいてみせてオジサンはおりる。ほかに人がいる場合、まず例外なく彼女はついてくる。いない場合、彼女はためらいのそぶりをみせるだろう。腕をとってうながす程度の強要はゆるされる。  エレベーターの扉がしまる。オジサンはさっさと歩きだすにかぎる。 「部屋へいくのオ。いやあ私」  彼女はいうかもしれない。オジサンはやさしくいいきかせる。 「ちょっと寄っていこう。心配するなよ。若い男とはちがうんだ。きみのいやがること、無理にするわけがないだろ」  オジサンは余裕を見せなければならない。  ここで逃げられたら部屋代がむだになる——。内心あせっていても、絶対に顔に出さないことだ。ガツガツしないのがオジサン最大の美徳であることをわすれてはならない。 「きみがその気になれないなら、それでもいいよ。ビールを一杯やって出よう」  具体的にそう保証しても良い。あとはだまって歩く。余裕ある背中を見せる。  オフィスラブの有利な点はここにある。オジサンの氏素姓を彼女は知りつくしている。毎日職場で顔をあわす相手にそう無茶なまねはしないだろう。安心感が彼女にはある。自分の信用度にオジサンは自信をもつべきだ。 「××課長って、やり手なのねえ」  部屋へ入り、ベッドに腰かけてキスをかわしたあと、広告代理店の××課長は、同じ会社のS子にそういわれた。やり手とはもちろん女に関してのことだ。  理想的に流れに乗った事例である。すべて既定の事実であるかのようにふるまって、××課長はS子を暗示にかけたわけだ。ふらふらと彼女はついていって、気がつくと部屋のなかだった。いうまでもなく部屋へ入ってしまえば、展開は圧倒的にオジサン有利である。おちついて仕上げにかかれば良い。  失敗した場合を考えて、あらかじめ部屋へチェックインするのをためらうオジサンがいる。部屋代を損するのが恐いのだ。部屋の予約だけをしておき、食事中、彼女の様子をみて、成功しそうならチェックインしようというのである。だが、食事しながら、部屋をとってよいかとはなかなか訊きにくい。GO、STOPのサインが判別できない場合もある。  セックスに応じるか応じないか、はっきり談合するのを一般にギャルはいやがる。最後までその気がないような顔でいたがるのが、彼女らのプライドと羞恥心《しゆうちしん》なのである。流れを重視するほうが良い。そのための都市ホテルなのだ。逃げられて三万円ばかり損をしても、勉強代だと考えることにしたい。それこそがオジサンの余裕である。モトをかけておくほうが、行動に一種の気迫がこもる利点もある。  都市ホテルで気取るのはどうも苦手だという庶民派のオジサンもいるだろう。そうした人たちはファッションホテル街の近くに適当なレストランをさがしておくべきである。 「美味《うま》い店があるんだ。いってみよう」  彼女をそこへつれてゆく。  酒を飲み、食事をする。適当に酔って外へ出る。ホテルのネオンが並んでいる。彼女の背中へ腕をまわしてそちらへ近づく。多少のやりとりを経て一軒の玄関へ入ってしまう。  この場合も流れである。レストラン、酒場、ホテルは一本のレールのうえにつながっている。心理的に乗せてしまえば、案外スムーズに終着駅へ到達することができる。  建築会社の××主任は、どうやってこの流れをつくるか熟考して、一つの方法を思いついた。彼女とデートを約束した日、きょうは九州へ出張だと妻に告げて家を出た。都市ホテルの部屋を予約する。夕刻そこのロビーで相手の彼女と待ちあわせることにした。彼女は同じ部のOLである。  約束の時間より早目に××主任はホテルへ着いた。部屋へ入り、持参のジャケットに着替えた。ノータイにクロード・モンタナかなにか。せいぜいシックで砕けた姿に変る。  彼女がやってきた。職場にいるときとは別人のような主任の姿に目を見張る。 「あした朝一番で九州へいくんだ。便利だから今夜ここに泊ることにしたよ」  主任は説明して彼女を納得させる。  最上階のレストランへ入る。楽しい食事のあと、エレベーターまえで彼はささやく。 「ちょっと部屋を見にこないか。思ったより良い雰囲気なんだ」  もし彼女が拒んだら、主任はホテルのそばで飲むつもりでいた。酔ってからあらためてさそえば良い。基地をもつ者の強みである。  すんなり彼女は部屋へついてきた。   Lesson12 強気と弱気  ギャルはどんなきっかけで恋人をつくるのだろうか。アンケートをとった結果、グループ交際という答が意外に多かった。  男女各五人ずつぐらいのグループでパーティをやる。名目はなんでもよい。集まって酒を飲み、ディスコへくりこむ。ホテルの部屋をいくつかとって雑魚寝《ざこね》をする。  意気投合した男女がいれば、結ばれるようみんなで仕向ける。雑魚寝でとなりどうしにさせたり、二人だけ別室に寝かせたりする。スキー場のホテルではありきたりの風俗だというし、大都市でもクリスマスやバレンタインデーにこの種のパーティが流行する。気のおけない集団見合のようなものだ。好意を抱きあった男女は、その晩すぐベッドをともにできなくとも、後日待ちあわせて想いをとげる。あぶれた者はただちに別のグループとのパーティの企画をはじめることになる。  チームプレーと個人プレーを混合させた野球のようなシステムである。モテない男女でも、回をかさねるうちに相手が見つかる。だが、残念ながらこのシステムを活用できるのは学生や若いサラリーマンにかぎられる。オジサンには馴染《なじ》まない方式である。  考えてもごらん。おじさん四、五人のグループがホテルでパーティをやるからといってギャルのグループが合流するわけがない。男女とも勤務先が同じなら、なおさらである。つきあってくれるのはせいぜいパートのおばさんたちだろう。そうなるとパーティは集団見合よりもスワッピングの雰囲気になる。栄光のオフィスラブとは無縁である。  オジサンは妻帯者だから、若者のように大っぴらに仲間の助けを借りるわけにはいかない。彼女の心をほぐすのも、彼女をホテルへさそうのも孤立無援の行動である。とくに彼女をホテルへさそうタイミングが難しい。前項につづいてそれを追求することにする。  電器会社の秋山課長は、受付ガールのS子と三度デートをかさねた。食事、酒、カラオケを楽しんだ。三度目、思いきってキスを試みたが、はぐらかされてしまった。だめならだめで撤退するしかない。時間と金をむだにしたくない。タクシーでS子を送る途中、度胸をきめて彼は宣言した。 「来週の金曜日、きょうと同じ場所で待ちあわせよう。まえもっていっておくが、来週はきみをホテルへさそうつもりでいる。いやなら最初からこないでほしい。受けいれてくれるなら、会いにきてくれ」  S子はうなずいた。くる気があるのかどうか、秋山課長にはわからなかった。  金曜日の夕刻、約束の喫茶店で秋山課長は待った。何本もタバコを吸い、貧乏揺すりをした。あんな啖呵《たんか》を切るのではなかったと後悔した。喫茶店の扉をあけて入ってくるS子を見て、彼は失神しそうになった。  製薬会社の吉野係長は、同じ部のE子とのデートに成功した。だが、キスを求める度胸のないまま、週一度ずつ四度デートをくり返してしまった。四度目、彼は五万円を奮発してE子にバッグをプレゼントした。 「なぜこんなことをするかわかるだろう。下心があるからなんだぞ」  よろこんでいるE子に彼はいった。まじめな顔でE子はうなずいた。その夜二人はホテルの部屋へ入った。  造船会社の橋本主任は、同じ課のM美との四度目のデートにあたって宣告した。 「前回までとちがって、きょうは途中から大人向きのコースに切り替えたいんだ。どの時点で切り替えるかはきみの気分にまかせる。ときどき訊くから答えてくれ」 「最後まで気分にならないかもしれませんよ。それでもいいのですか」  いじわるく笑ってM美は訊いた。  お利口な返事をきいて橋本主任はむしろほっとした。そんなのイヤ、私帰りますといわれるのを恐れていたのだ。もちろんかまわない。きみの気分しだいだと彼は答えた。  食事、酒のコースを二人はたどった。三十分おきに主任は彼女の顔を覗きこんで、 「どう。そろそろ大人のコースへ切り替えないか。時間も残り少いことだし」  と提案した。できるだけさりげなく申し出た。 「そうね。切り替えましょうか」  四度目の提案をM美は受けいれた。  橋本主任のつくった流れに乗ったわけだ。前項で述べたとおり、人間流れに沿うのはやさしく逆らうのはむずかしい。たびかさなる提案をしりぞけるのがM美は面倒になった。  以上三つはオジサンが比較的強気に出て成功した例である。だが、この強気はもちろん見せかけにすぎない。彼女がセックスに応じてくれるかどうか、オジサンたちは不安でたまらなかった。一刻も早く保証が欲しかった。それがないと安心して時間と金を投資できない心境であった。保証をもとめてオジサンたちは伸《の》るか反《そ》るかの勝負に出たのだ。  秋山課長は彼女が喫茶店にあらわれないかもしれない危険をおかし、吉野係長は贈物がムダ弾に終るかもしれない危険をおかした。橋本主任は彼女が帰ってしまう恐れのある宣告をした。早く保証を得て安心しようと思ったら、それなりのリスクを覚悟せねばならない。三人のオジサンたちは幸い好結果を得たが、賭けが裏目に出たオジサンの事例は、調査の表面に出てこないまま、死屍累々であるにきまっている。手間をかけても成功の確率を高めるか、危険を覚悟で一発勝負をかけるかはオジサンの性格によってきまる。だが、同じ職場のギャルが相手の場合は、失敗すると事後処理がきわめて厄介だから、やはり慎重安全な道をえらぶべきではないか。 「若い人って、ガツガツするのがいやなのよねえ。アレしか頭にないんだから」  異口同音にギャルはいう。「待ちの性」の強みで彼女らは冷静に男を観察する。  オジサンの場合、若者とちがってギャルと身を寄せあったとたん勃起するということはないだろう。それなのにオジサンはなぜあせるのか。身についた経済主義、能率主義のせいである。貴重な金と時間を投資して、もし彼女に逃げられたらどうしようか。強迫神経症におちいってあせってしまう。次回はやらせろ、やらせないのなら最初からくるな。まるで組合の団交のように、性急に回答をせまる。  下ごしらえがよほどうまくいっていないかぎり、ギャルは逃げ腰になるだろう。彼女らは自分のなかの道徳心、自尊心、打算などと正面から向かいあい、それらを克服してホテルへ同行するのではない。向かいあうこと自体、面倒なのである。いつのまにか乗せられて、うかうかと部屋へつれこまれることを彼女らは期待している。検討のすえ、セックスに応じるという結論を出しました——そんな回答を期待するのは、男の側の論理にすぎない。 「××課長って、二人で飲んでみると、案外セコいのよねえ。ケチというより、なんとなくいらいらしておちつかないの。当てが外れたわ。彼といっしょならホッとした気分になれるかと思ったんだけど」  ある上司をこんなふうに評したギャルがいた。能率主義、経済主義がオジサンを小さく見せてしまったのだ。  オジサンはゆったりと構えてなくてはならない。逃げられてもいいではないか。ギャルと楽しい時間をすごしただけで望外の倖せ。勉強にもなった——そんな心境になってこそ、ギャルを惹《ひ》きこむテレパシーも出てくる。せまられると逃げたくなり、逃げられると追いたくなる心理は男も女も変らない。  愛情がたっぷりあることだけ認識させ、代償はゆっくり、それとなく要求する。これこそオジサンの栄光への早道である。   Lesson13 男と女の間  ついにオジサンは彼女とともにホテルの部屋へたどりついた。  ふるえそうな手で扉をあける。壁のスイッチを押して部屋のあかりをつける。彼女の背中を押して室内へ送りこむ。自分もつづいてなかへ入る。うしろで扉がしまり、オジサンは安堵と感動にひたる。わがこと成れり。成せばなる。断固として行えば鬼神もこれを避く。さまざまな感慨が胸に去来する。  部屋へ入った瞬間から、主導権はオジサンのものとなる。いくら昨今のギャルが解放的だといっても、相手はふつうのOLなのだ。性のキャリアがさほど豊富であるわけがない。オジサンはやさしく、余裕をもって物語を進行させれば良いのである。  寄りそって窓から夜景を眺める。二言三言ことばをかわしたあと、オジサンはやさしく彼女の肩を抱き寄せる。じっくりくちづけをかわしたあと、ベッドへ彼女を誘導する——まあこれが正統的な展開である。ベッドに腰かけてふたたびキスをかわし、あとは組んずほぐれつの世界へなだれこむ。  部屋へ入ってすぐ窓辺に立つようなギャルは、ある程度経験をつんでいる。さっさとバスルームへ消えたり、テレビのスイッチをいれたり、冷蔵庫から飲み物を出したりするギャルはさらに物馴れている。相手がこうしたツワモノである場合は、オジサンはゆったりと椅子に腰をおろしてサービスにあずかれば良い。もっと強引にさそっても良かった、案外かんたんに部屋へ入れたかもしれない、などと作戦の反省の時間になる。  あまり経験のないギャルは、部屋へ入って茫然としている。どう行動して良いかわからないのである。このときこそオジサンは人生経験にものをいわせなければならない。いきなり抱きしめにいったりして彼女をおどろかせてはいけない。まず彼女に椅子をすすめる。  あとは小マメに動くのである。バスタブに湯を注ぎ、テレビをつけ、あるいはBGMを流し、冷蔵庫からビールを出して注いでやる。浴衣を出してやる。なるほどホテルではこんなふうに行動するべきなのか。彼女は学習する。経験豊富なオジサンにたいして、信頼の念を抱くにいたる。くれぐれも性急に彼女の服をぬがせようとしてはならない。ゆっくりとビールを味わったあと、椅子から立ってベッドに腰をおろし、 「ここへおいで。いっしょに飲もう」  布団を叩いて誘導するのが順序である。  あとはキスと揉みあいになる。オジサンは彼女の服をぬがせにかかる。性感帯をこの時点で攻撃したりすると、事態はかえってなめらかに進行しなくなるだろう。私ってそんなに軽い女じゃない——この期におよんでもギャルはそう思いたがるのである。  上衣をぬがせたあたりで、彼女は体勢を立てなおすだろう。私、お風呂へ入ってきます、などと表明する。ギャルは一般に下着姿を見られるのをいやがる。ブラジャーにパンストの恰好を公開するくらいなら、スッポンポンになるほうがましだと思っている。そのほうが美しく見えるからだ。下着があらわになると、ギャルはバスルームへ逃げこみたがるのである。  彼女といっしょに入浴したいのがオジサン一般の願望であろう。だが、はじめてベッドをともにする男を残してバスルームへ入り、扉に鍵をかけないギャルはほとんどいない。男が入ってくるのがいやだというより、自尊心の防禦《ぼうぎよ》のために鍵をかけるのである。一人でほっと一息つきたい気持もあるようだ。オジサンはテレビでも見て待つ以外にない。おたがいの体に石鹸を塗りたくり、洗いっこなどする楽しみは、もっと逢う瀬をかさねたあとにとっておくべきである。  ファッションホテルでは多少事情が変ってくる。バスルームに鍵がかからない。扉や壁が硝子《ガラス》張りになっていて、部屋からバスルームの内部が丸見えの構造のところも多い。彼女が入浴中のところへ押し入ろうとすればできるのである。だが、初回は強行してはならない。男の視線に体をなでまわされて、ストレスを感じるギャルもけっこう多いのだ。 「入ってよろしいでしょうか。お背中をお流ししたいのでありますが」  バスルームの扉をあけて、おうかがいを立てる程度の儀礼は不可欠である。  拒絶されたら、おとなしくひきさがろう。硝子張りの扉や壁はこんなときのためにあるのだ。ビールを飲みながら、いやらしい目で彼女の裸身を鑑賞にかかる。おあずけを食ったぶん、あとの楽しみが数倍になる。  筆者も含めての話だが、情事のまえの入浴にこだわるのは旧世代のオジサンの特徴である。ゆっくり湯につかり、ていねいに洗わないと気が済まない。だが、最近はシャワーの時代である。サッと汗を流し、サッと拭《ふ》いて部屋へもどるのが一般的な風潮のようだ。部屋へ入るなりバスルームへ入り、蛇口をひねってバスタブに湯を注ぐのは、おれはジイサンだぞと強調するのも同様の行為である。できれば彼女が入浴派かシャワー派かを事前にたしかめておいて、オジサンはそれに準じるのがよろしい。もっとも、オジサンが入浴派だからといって急に嫌悪にかられるギャルもいないから、あまり気にすることはない。 「シャワーもかならずしも必要ないわ。ちゃんと朝シャンしてくるんだから」 「携帯用ビデもあるもんねえ。その方面はきちんと準備してますわよ」  私の取材したギャルはそういっていた。  小説のベッドシーンの様相も時代に応じて変らねばならない。私は勉強になった。  ベッドワークにおけるオジサンの長所はなにか。不倫実行中の二十名のOLに回答をもとめた。 「自分中心でないこと。大事にあつかってくれること」 「平たくいうと、自分がイクまえに私をイカセてくれること。これにつきるわねえ」  答はほとんど一致していた。オジサンたちのために私は祝盃をあげたかった。  若いときはだれでも発射欲のかたまりである。前戯もそこそこに射精の満足を味わおうとする。頭では前戯の重要性を理解しても、実感はできていない。もともと生理の構造がちがうのだから、男には女の性的感性のありかたがわからない。せいぜい想像をめぐらせて見当をつける以外にないのである。  若者の想像は自分を尺度にする。こんなふうにするとおれは気持がいいのだから、相手もいいのだろうと速断してしまう。これに反してオジサンは、男と女がどんなにちがう種族であるかを知っている。幾多《いくた》の愛の挫折を味わい、夫婦生活の苦渋《くじゆう》を乗り越えて、男女のちがいを骨身にしみて認識している。自分を尺度にして相手を測る度合が、若者にくらべて低くなっているわけだ。  オジサンは自分のおしつけをやらない。練達の士ほど白紙で彼女に向かいあう。どうすれば彼女がよろこぶか、一から探求する姿勢でベッドにのぼる。彼女の性的感性のありようを謙虚に学習する。発射の満足はほんの一瞬だが、彼女をオルガスムスに追いこむよろこびは長く複雑だと心得ているわけだ。  ギャルはお姫様幻想のもとで生きている。第三者にはブスとしかみえないギャルでも、客観情勢には目をつぶり、私はいい女なのだという幻想にすがって生きている。お姫さまだから奉仕の心はない。相手がなにをしてくれるか、ということだけが頭にある。若者はそれに合わせてアッシー、メッシーをつとめるのだが、ベッドで彼女らの要求をみたせるだけの経験がない。ここにおいてオジサンの活躍の場が保証されるのである。   Lesson14 改造  性愛の場面で、自分の経験をギャルに押しつけるオジサンがいる。こうした男は、本人は名コーチのつもりでも、実態は相手を困らせて逃げ腰にさせていることが多い。  オフィスラブにおいては、オジサンがギャルよりも一まわり以上年長なのがふつうである。オジサンのほうがはるかに人生経験に富んでいる。ギャルと深い関係になったとたんに安心して、自己流を通そうとする。 「ほら、このへんをこうすると感じるだろ。いい気持だろ。あまり感じない? 大丈夫だよ。そのうち効いてくるんだから」  相手が反応していないのに、自信をもってオジサンははげむ。  何分か奉仕をつづけたあと、充分に効果があったと一人ぎめしてのしかかってゆく。うちの女房はいつもこれで満足する。この子もこれでいいはずだと信じている。経験から得た観念にすがって、現実のギャルの性的感性のありかたを無視するわけである。 「男の人って、どうしてクリちゃんばかりしつこくいじるの。痛いことだってあるのに、わからないのかしら」 「クンニでかならずイクとはかぎらないのに、それが万能だと思ってるの。感じないと変な顔するんだから、困ってしまう」  上司と交際中の何人かのギャルが、そんな不満をもらしていた。  オジサンの性的テクニックも、本人が自信をもっているほど効果をあげていない場合があるのだ。ふだんお茶だのコピーだのと気やすく使っているギャルが相手だと、男はつい自信過剰になるのだろう。  たしかにオジサンはギャルよりもはるかに多くの性経験をもっている。だが、その大部分は女房との営みだったはずである。経験豊富なのは回数の面だけであって、相手の人数はかならずしも多くない。平均的なオジサンの場合、たまに接触する風俗産業の女をのぞくと、これまで不倫した相手はせいぜい三、四人というところだろう。  つまりオジサンの性経験は継続的であってもさほど多彩ではないのである。一方、ギャルのほうは意外に場数をふんでいる。二十二、三歳のギャルなら平均三、四人の男性経験があると見るべきであろう。二十代のうちに三十名の男を知ったというツワモノもいた。へたをすると、相手の多様性という点ではオジサンの体験はギャルにおよばないかもしれないのだ。口惜しい話ではあるが、現実はそうなっている。しかも「中年紳士のテクニック」の神話はまだ生きていて、とほうもない快感を期待しつつオジサンのそばに横たわるギャルが多い。経験についてのオジサンの自信は、だから、とかく一人よがりになる。  いうまでもなく女体の構造と、性的感性のありかたはまことに多様である。A子のクリトリスが敏感だったからといって、B子もそうとはかぎらない。C子にGスポットがあり、D子にはなかったりする。男の体と性感にそれほどの差がないのに反して、女は一人一人がちがう。女体はもともと探索されるべく造られているのだといってよい。  オジサンは自分を空《むな》しくして相手の体と感覚のありかたを探らなければならない。うちの女房はこうすればよろこぶから、この子もこうしておけばまちがいない——その思いこみが食いちがいのもとになる。一をもって他を測るのは危険であり、愚劣でもある。  ギャルのほうは、これはもう遠慮なくこれまでの男を基準にしてオジサンの性能力の査定をやる。いままで経験した男性のうち、一番よろこびの大きかった相手とのセックスが彼女らの判断基準となる。あの人にくらべてこのオジサンは指の使いかたが粗《あら》いとか、持続時間が短いとか、さまざまなポイントから評価を行なうのである。オジサンは負けてはいられない。この点からも謙虚になって、一からギャルを知らねばならない。ギャルに接近するまえには周到な市場調査が必要だが、ベッドに入ってからのそれは、性的成功のためさらに重要なプロセスとなる。  ギャルは評価の基準だけに前の男の影をひきずっているわけではない。セックスの実技においてもその影響のうちにある。前の男があまり前戯に熱心でなく、一途なピストン型だった場合、ギャルも単調なピストン運動でオルガスムスにたっしやすくなる。前の男が口唇感覚こだわり型だったりすると、そのギャルには口による奉仕が絶対必要だし、サディスティックな嗜好《しこう》の持主とつきあっていたギャルは、うしろから犯されるのを好む。  つまりオジサンはベッドのうえで、ギャルの以前の恋人と顔をつきあわせねばならないのである。ギャルの体と性感には、その男の性的嗜好のデータが入力されている。もうこれはおれの女だという気持でその男をおしのけ、自分のデータを押し込もうとしても、たいていの場合ギャルは準備ができていない。違和感をおぼえるだけである。  オジサンは性急に自己主張してはならない。くそ面白くもないことだが、当分は先人の顔を立ててやらなければならない。前の男が単純ピストン型だった場合、オジサンはあまり前戯にこだわらず、ピストン運動に力をいれる。前の男がくちびる執着型だったと判断したら、オジサンは三十分も一時間もかけて舌技にものをいわせるべきである。回数をかさねるうちにしだいに自分の色を出してゆく。それがオジサンのつとめである。  なぜ最初から自分の色を強く打ち出してはいけないのか。それをやるとギャルがオルガスムスに到達できにくくなるからである。ベッドをともにする以上、一分でも早く彼女を頂上に押しあげてやらねばならない。そうなってはじめてギャルは納得し、オジサンにたいする愛を深める。先人を尊重することで、オジサンは地歩を固めなければならない。すこしずつギャルをオジサン好みに仕立てあげる。二、三ヵ月もたつと、ギャルは完全にオジサン好みのセックスに陶酔し、悶《もだ》え、泣きさけぶようになる。オジサンの愛の事業はこのとき、はじめて完成を見ることになる。  最近、フェラチオをいやがるギャルが増えたという情報があった。十名あまりの不倫実行中のオジサンに訊いてみた。 「そうなんですよ。いやがるんだ。手でするのはいいけど、フェラは汚いといいやがる」 「頭へきますよ。自分のはさんざん舐めさせておいて、相手のはお断わりですからね。あいつらの神経はどうなっているんだ」  怒っているオジサンが三人いた。  ギャルの側にも筆者は訊いてみた。びっくりした。十名中四人がお断わりだった。してもらうのはいいけど、するのはイヤ。胸を張って彼女らはいい張った。  いろいろ質問してみた。わかってきたのは彼女らが相当のナルシシストだということだった。大して美人でもないのにお姫様幻想が強い。自分をひどく小綺麗な存在だと思っている。動物としての側面が自分にあることを無視しようと努めている。極端な話、自分がトイレで大小便を排泄《はいせつ》する存在であることを彼女らはなるべく意識すまいとする。生れたときからテレビばかり見て、生臭い現実から無意識に逃避しつつ育ってきたのが、こんな性格をつくる大きな原因なのだろう。  ともかく彼女らは、してもらいたいが、するのはいやなのである。私の体を自由にさせてあげてるのに、この上なにをしなければいけないのかと思っている。前の恋人だった若者は、こんなギャルの思いあがりを全面的に受けいれて、やらせてもらっていた。  こんなギャルを徐々に改造していこう。オジサンの崇高《すうこう》な使命である。   Lesson15 お助け爺《じい》さん  オジサンとベッドをともにするとき、ギャルは大きな期待に心臓をふるわせている。圧倒的なオルガスムスを待っているのだ。  そもそもオジサンと親しくなったのは、豊富な人生体験をもつ中年男に楽しくあそばせてもらうためだった。美味《おい》しいレストランや雰囲気の良い酒場をオジサンは知っている。贅沢なホテルを平気で利用する。タクシーのチケットを切ってくれる。趣味、教養の点でも、つきあっていて多少の勉強になる。おまけに職場の上司であれば、仕事のうえでもさまざまな恩典を得ることもできる。  要するにギャルはなにかを「してもらう」ことを期待してオジサンと仲良くなるのである。オジサンの人柄や教養知識に惹《ひ》かれて(まあそれらの要素がゼロでないにしても)仲良くなってくれるわけではない。悲しい話だが、それがオジサンの現実である。若者とちがって、オジサンは彼女らに愛など期待するべきではない。ひたすら彼女らの願望をみたすことにつとめ、代償に性的充足を手にいれれば良いのである。  オジサンにたいするギャルの期待には、当然セックスの分野も含まれる。ベテランのオジサンの手にかかれば、若者とのセックスにはない巨大なオルガスムスを味わえるものと彼女らは期待している。性急な若者は複雑微妙な痒《かゆ》いところへ手のとどきかねる場合が多い。それを物足りなく感じているギャルが、オジサンに期待をかけるのである。  じっさい、自分の得ているオルガスムスを充分なものと感じていないギャルが、世の中には案外たくさんいる。こんなものなのかしら。セックスってもっと気持のいい行為ではないのかしら。彼女らは若者とつきあいながら、たえず自問自答している。AVや漫画本の女が快楽にのたうちまわるのを見て、損をしているような気分になる。人生から当然得られるべきよろこびを、自分は得ていないと感じるわけだ。彼女らはお姫様幻想に生きているから、不満足の原因は自分にもあるなどとは絶対に思わない。すべて相手の男がダメなせいだと考えるのである。  いうまでもなくセックスのよろこびの大小は主観に影響される。感情のよろこびのともなうセックスは快楽も大きく、ともなわないセックスは快楽も小さい。同じ射精するにしても、惚《ほ》れた女が相手の場合と風俗ギャルが相手の場合とは、味わう感動が大ちがいである。男ならだれでもそれを知っている。だが、ギャルはかならずしもそうではない。  お姫様はプライドが高い。すすんで愛し、自主的に抱きあうことをしたがらない。ちやほやされ、拝み倒されてやっと服をお脱ぎになる。奉仕されることだけ期待して、ベッドに体を投げだすのである。くだらないプライドの満足はあるかもしれないが、大きな感情のよろこびを彼女らは知らない。恋い焦がれた男とようやくベッドをともにした感動など、薬にしたくともないのが通例である。ギャルの得ているオルガスムスは、性の自由化とむしろ反比例して貧困になっているわけだ。  こうして彼女らはオジサンに目を向ける。不足気味のオルガスムスの埋めあわせをはかるのである。性的貧困のなかにいるギャルほど尻軽なのは、いまもむかしも同じなのだ。くり返しになるが、オジサンは愛なんか彼女らに期待するべきではない。はなからそれをあきらめて奉仕に徹するほうが、せめて愛に近い感情を彼女らから得る近道である。 「ああ部長、部長がこんなことをしてくれるの。ああ私、最高にハッピー。最高よ」  上司とオフィスラブのさなかにあるM子は感きわまるとこう口走る。  部長はそのときM子の下腹部に顔を埋めている。見おろすと、頭髪のうすい部長の頭がせっせと動いている。このときM子は自分が王女になったように感じるのである。  万事にM子は「してもらいたい」女である。当然、いろいろしてくれそうな男、なにかの点で権力をもっている男に惹かれる。上司の部長など、もっとも希望にかなう相手だ。  部長は練達の人である。上手にM子をあそばせる。ベッドでは奉仕に徹する。会社であんなに威張っている人が、いま私のあの部分にキスしてくれている——M子のナルシシズムはここで満足の頂点にいたる。私を王女さまにしてくれた男性。部長はM子にとって「別れても好きな人」となるだろう。  オジサンは万難を排してギャルのオルガスムスの期待に応えなければならない。前に述べたとおり、自分を白紙にして、彼女の体の性感帯のありかを探求するべきである。何回かかけて徐々にさぐり出してゆく。ギャル本人にも自分の性感の特徴がわかっていないから、手のこんだ仕事になる。  ある精神分析医の話によると、ギャル自身に自分の体の各部分の感性の度合を採点させるのも一つの方法なのだそうだ。  ギャルをベッドに寝かせる。部屋を暗くしておちついた気分にさせる。おもむろに、重々しく声をかける。 「いまからオジサンがきみの体を舌で可愛がってあげるからね。その様子を想像しなさい。いいかい、最初は耳にキスする——」  ギャルは想像の世界に入る。しばらくしていま味わっている快楽の度合を採点させる。耳にキスされると70点という具合だ。  こうしてギャルの全身を想像上のキスでめぐる。じっさいキスされたときにはさまざまな雑念でくもらされる感性が、想像上のキスでは、邪魔されずストレートに反応して意外な点数をあらわすことがあるらしい。腰のうしろだの尻の窪みだのに、女の部分よりも高い点数があらわれてオジサンをおどろかせたりする。そこが新しい性感帯になる。もっともこれは筆者がみずから実験しておすすめする方法というわけではない。効果のほどは保証できない。アホらしいと思わない人は、ためしてみてください。  じっさいの話、オルガスムスをまだ知らない不幸なギャルが案外多い。彼女らが救いをもとめてオジサンに接近してくることがある。モテたと勘ちがいして有頂天になることなく、状況を正しく認識してもらいたい。必死の思いで彼女は近づいてきているのだ。  化学会社の中森課長のもとへ、以前アシスタントだったU子から電話が入った。  相談したいことがある。食事をつきあってくれという。中森課長はOKした。U子は一年半前に結婚退社、銀行マン夫人となった。  久しぶりに中森課長はU子と会った。食事しながら、相談ごととはなにかと訊いたが、U子は答えない。セックスに関係のある話だと中森課長は見当をつけた。胸がおどった。  食事のあと酒場へ入った。酔ってU子はやっと口をひらいた。セックスによろこびを感じない。私は変なのだろうかという。 「大丈夫だよ。そんなもの、すぐなおるよ。おれにまかせてくれ。でも、うれしいよ。よくおれに相談してくれたね」  中森課長は自信たっぷりだった。  二人はホテルへ入った。中森課長は大汗をかいて奮戦した。だが、U子は無感動だった。 「だめなのね、私って、やっぱり」  U子は泣きだした。中森課長はすごすごと帰り支度をする以外になかった。  U子の場合は、精神分析の専門家にまかせるより治療の方法がない。オジサンに可能なのは親身になって話をきいてやることだけである。彼女の心の底に抑圧された事柄の話をきいてやる。くり返すうちに症状が軽減されることもある。オジサンはときには「お助け爺さん」でなければならない。少なくとも、つねにその心構えは必要である。   Lesson16 禁断の木の実  かつて私はダメなサラリーマンだった。  愛嬌《あいきよう》がないので、営業は苦手だった。計数に弱いため、経理などは最初から無理だった。なんとかつとまったのは宣伝、販売促進、市場調査などの業務。そのうち経理の勉強でもやろうと思っているうちに、会社をやめて文筆でメシを食うようになった。  サラリーマン時代、いちばん苦痛だったのは朝九時から夕方五時までオフィスに拘束《こうそく》されることだった。営業をやったころは自由に外出できたが、夕刻には社にもどらねばならないから、束縛感には大差なかった。業務そのものや人間関係のやりくり以上に、囚《とら》われの身であることがつらかった。どこかへ旅行することばかり夢見て暮していた。  朝からオフィスで働く。午後三時ごろには疲れてくる。タバコをふかしたり、机に頬杖《ほおづえ》をついたりして休息をとる。そんなとき、女子社員が書類を手に前を通りかかる。  吸いこまれるように私はその女子社員の尻や脚へ目をやっていた。さりげなく観察していた。あまり鮮明ではないが、性的な妄想にかられた。その女子社員がベッドであられもない姿勢をとるさまを思い描いたりした。  やがて私はわれに返る。神聖な職場でなんということか。みんなが真剣に働いているとき、妙な妄想にかられるなんて、異常におれは好色ではないのか。反省して私は仕事にもどった。業務中の春情なんて、自分だけのものと思っていた。  だが、やがて私は周囲の上司や同僚が、似たような好色な視線を女子社員たちへ向けるのに気づいた。歩いたり、かたづけ物をしたりする彼女らの尻や脚に、男たちはなでまわすような視線を向ける。無遠慮に見入る者もいれば、一瞬のうちに鑑賞する者もいる。  午前中や午後の早い時間にこんな行動をとる者は少ない。疲労のおそってくる午後三時から四時すぎにかけて、男たちは周辺の女の子に欲望を覚える。五時が近づくと、外からどっと電話が入ったりして、みんなそれどころではなくなるのだった。  だれもが束縛されている。疲れてくると、逃げだしたくなる。それができないから、近くの女体に救いを求めるのだ。漠然と私にはわかってきた。  オフィスはコンクリートの壁と天井のあいだにある。男たちはきびしい管理とノルマにあえいでいる。苦しくなり、人とのふれあいに救いを求めたくなる。一番手っとり早い救いは、女子社員の若い肌だ。しかし、彼女らに飛びかかって服をぬがせるわけにはいかない。男たちは欲望に焦げるような視線で彼女らの体をなでまわすようになるわけだ。  このことがわかってから、私は応接室や会議室で若い女と情事をたのしむのを夢見るようになった。みんながオフィスで働いているとき、応接室あたりで女とセックスしたら、さぞ快感が大きいだろう。人間、してはならないことをするのが一番楽しい。私の場合、会社にたいする腹いせの意味もあった。だれだって大なり小なりそうだろうが、会社から正当に評価されていないという意識があったのだ。  だが、同じ職場の女子社員に、応接室でやらせろ、などとせまるわけにはいかない。私は何人か、飲み屋の女の子にたのんだ。 「会社へ集金にきたとき、一度でいいから応接室でセックスさせてくれよ。会社をやめるまえに、ぜひ体験してみたいんや」 「応接室でエ。アベちゃん、なにアホなこというてるのよ」  だれも本気で受けとらなかった。私の夢はついに実現せずに終った。  後年、オフィスラブを材料に小説を書けという注文をうけた。果たせなかった夢にもとづいて私は書いてみた。登場する男女が残業のついでに役員会議室だの応接室だのでセックスする場面をいくつもとりいれた。  これが受けた。びっくりするほど反響が大きく、本も売れた。オフィスに束縛され、女子社員の脚や尻に救いを求める人がずいぶん多いのをあらためて知った。コンクリートの壁に囲まれて、みんな女の肌のぬくもりを欲している。してはならないことをやって、抑圧から解放されたいと願っている。  以後、私は数多くその種のオフィスラブ物語を手がけた。べつに取材はしなかった。オフィスで女を抱くようなことが頻々《ひんぴん》と行われるわけがない。お話はお話。私および読者の潜在意識のなかにある性的イメージを汲《く》みあげて書いているだけのつもりだった。  ところがある日、某紙をつうじて某総合商社の広報から問いあわせがあった。 「わが社の内情について、どのような線から取材されたのでしょうか。差しつかえなかったらお教えねがいたい」  というわけである。  私は仰天した。その新聞に私は総合商社を舞台にしたオフィスラブ物語を連載していた。いつものとおり登場人物も舞台も、私がつくりあげたものだった。どのような線からもなにも、取材区域は私の潜在意識のエッチな側面のみだったのである。某商社にはそのように返事する以外になかった。  仰天がおさまったあと、私はため息をついて考えこんだ。某商社の広報マンは、小説の商社の所在地などが自社と似ていたことなどから、わが社がモデルだと速断したのかもしれない。それにしても、火のないところに煙は立たぬということがある。小説に出てくるような物語や場面が、その商社ではしばしば噂となって流れていたにちがいないのだ。  私がサラリーマンをやめてから、十年あまりたったころだった。お話のなかでしか起り得ないはずだった事柄が、十年のうちに現実性をもって取沙汰《とりざた》されるようになった。性の解放、自由化に向かう世の中の流れは予想以上に急である。あと十年たったら性の風俗習慣はどう変るのか。私の書くオフィスラブ小説など通用しなくなるのではないか。  そして、その十年が経過した。トシのせいもあって、私はあまりその種の小説を書かなくなった。だが、引退してしまうと性衝動のおとろえに拍車がかかるような気もする。お求めに応じてたまに手を出している。  現実のオフィスラブのほうはどうなったか。この連載のために取材をした。 「残業のとき、資料室で彼女とやったことがあります。こっちに合わせて、大いそぎで彼女もイッてくれた。状況にたいする適応力の高い子なんだなあと見直しましたね」  製薬会社の原田課長がいっていた。適応力とは憎い云い草ではないか。 「ビルの非常階段でペッティングしました。夜デートするはずだったんですが、急に会議で私がいけなくなったんです。仕方なくおたがい欲望をなだめあいました」  化学会社の森主任の告白。彼の場合は、人がくるのではないかと不安で、なかなか完遂《かんすい》できなかった。だが、最後は極楽だった。 「夜、人気のない会議室で、私、靴と下着をぬいで裸足。机につかまって、うしろから彼をお迎えしたんです。冷たく硬い床に足の裏がふれるのって、とても刺戟的でした」  アパレル商社のギャルC子の話。ビルのなかの裸足は、それは刺戟的だろう。  オフィス内でやっちまうのを経験した人は案外多いのである。してはならないことをするオフィスラブのよろこびは、社内セックスで頂点にたっするもののようだ。  だが、さすがに常習者はいない。ためしに一、二度試みただけという人ばかりだった。危険すぎる、ということのほか、職場を神聖視する気持がまだ生きているのだろう。   Lesson17 機密保持(その1)  私のサラリーマン時代のある時期、同じ職場にオフィスラブ実行中の男女がいた。  男はA氏。三十七歳のヒラ社員だった。女はB子。高卒四年目の可愛い盛りである。  どんないきさつで二人の関係が明るみに出たのかはわからない。ともかく噂が流れていた。A氏は色白でハンサムだったが、仕事ができるほうではなかった。B子のような美人を射止めたのは、できすぎであった。  ある日私は、ビルの階段の踊り場で二人が立話をしているところへ行きあわせた。手をとりあわんばかりに二人は睦《むつ》まじくみえた。私を見て、あわてて離れた。噂はほんとうだったのだと私は納得したものだった。  あわてて離れるようなことがなければ、二人の仲について私は半信半疑だっただろう。自己防衛の行動を起したばかりに、二人はかえって秘密をさらけだしてしまった。ビクビクすると男女の仲はかえって人目につきやすい。  しばらくして部長と飲む機会があった。私のほか三人の社員が同席した。酒がまわってから、だれかがA氏B子のことを話題にした。口火を切る人間さえいれば、あとは気らくに他人の足をひっぱれる。恥ずかしながら私も尻馬に乗った。先日二人があわてて体を離したいきさつを公表したのだ。 「しゃあないやっちゃなAは。ろくな仕事もようせんくせに——」  部長は苦虫を噛《か》みつぶした顔になった。心の底から嫌悪にかられた表情だった。  私は部長の気持がよくわかった。だれとだれがデキているという話をきいて、同じようにくそ面白くない気分を味わったことが何度かあったからだ。  独身の男女が恋愛関係にあるという噂をきいても、べつに不愉快ではなかった。女の子が特別美人で、男のほうがボンクラだった場合、なにか理不尽な感じをうけたが、だいたいすなおに二人を祝福できた。結婚するなら仕方ないと思っていた。  問題は不倫の噂をきいたときだった。男が優秀な男であれば、やるもんだなあ、と思うだけだった。あいつにもそんな不道徳な一面があるのか。うれしくなったりした。  男が有能でない場合、私はその男にたいして嫌悪を感じた。仕事が半人前のくせに、女だけは一人前に泣かせやがる——A氏のことを知ったときの部長とまったく同じ気持だった。その男が爬虫類《はちゆうるい》のようにヌルヌルした感じにみえた。要は嫉妬《しつと》なのである。自分よりもデキが悪い人間が自分よりもいい思いをしているときに、男は焼餅《やきもち》をやくのだ。女が美しい場合、嫉妬はもっとも強烈になる。 「けしからんではないか。あの程度の男があの可愛い女にマタをひらかせるとは」  部下の不倫の噂をきいて、一般に上司はそう感じるのである。  高く評価し可愛がっている部下が不倫をやらかした場合も、まずそんな感情がさきに立つ。上司は一般に部下を、自分より有能ではないと見ている。そんなやつが自分よりいい思いをするのをゆるすわけにはいかない。 「神聖な職場の空気をあいつは汚した。放《ほう》っておくわけにはいかん」 「会社でイチャイチャされては、ほかの者が迷惑する。会社は働きにくるとこなんや」 「不義はお家の法度とか、商品に手ェつけるなとか昔からいわれとったんは、それなりの理由があるんや。男女関係の乱れは組織の乱れにつながる。周囲の士気を低下させる。あの二人はうちの会社のガンやで」  さまざまな理由をつけて、上司たちは不倫の部下を排除しにかかる。  昔とちがってオフィスラブが、それだけで左遷の理由になることは少くなった。だが、不倫社員が上司の不興を買うのは、いまも昔も同じである。オフィスラブの事実を知ったとたん、上司はらんらんと目を光らせて不倫社員のミスを待つようになる。その社員がなにか失敗すると、いそいそと上司は彼を飛ばしにかかるだろう。ふつうなら処罰に値しないような些細《ささい》なミスでも見逃してもらえない。彼女と別れて彼はどこか地方の支店へ転勤ということになる。  職場の秩序、ひいては会社の利益を考えて不届き者を切ったのだと、こうした場合上司は信じこんでいる。じっさいは嫉妬心から色男いじめをやったにすぎない。ことは感情の問題なのだから、その部下が、 「プライベートがどうあろうと、仕事に関係ないでしょう。売上は伸ばしてます。会社のなかでいちゃついて周囲の顰蹙《ひんしゆく》を買ったわけでもない。恋愛のどこが悪いんですか」  と正論をのべても通用しない。  一見話のわかる上司、噂を耳にしながら一言も注意しない上司がかえって危険である。彼らこそ嫉妬を内攻させていて、機会がくると、なにかほかの口実で色男に鉄槌《てつつい》をくだそうとする。彼女と別れるか、彼女に会社をやめさせるかしないと、上司の焼餅はおさまらないだろう。オフィスラブはサラリーマンの人間回復のための重要な営みなのであるが、よろこび大きいだけ、バレた場合の反動も大きい。不倫オジサンは完璧の機密保持を心がけなくてはならない。  なぜオフィスラブは露見するのか。私の見るところ、当事者の不注意、甘さが原因となる場合が一番多い。決定的にまずいのはラブホテルから二人で出てくるところや、ラブホテル街を二人で歩いているところを会社の人間に目撃されることである。  盛り場のラブホテルは便利である。彼女と飲んで、そのままシケこむことができる。だが、盛り場には上司や同僚がしばしばうろついている。出入業者や取引先の男も多い。だれと出会うかわかったものではない。東京、大阪など大都市でも、盛り場の数は案外かぎられているから、顔見知りと会う危険がないとはいえない。周辺によく目をくばってからホテルへ足を向ける。出るときは男女別々に出る。この程度の注意は当然であろう。  東京なら銀座、大阪なら北新地といった社用地帯で彼女と飲むのは、二人の仲を宣伝してまわるようなことだ。噂にならないほうが不自然である。最初に書いたように、社内のすみでこそこそとデートを打合せたりするのも、世間を舐めた行動という以外にない。オフィスラブの当事者は、社長なみにきびしい自己管理が要求される。はじめて彼女を抱いた瞬間から、社内には彼女以外に一人の味方もいなくなると知るべきである。  件数としては、彼女の口から秘密がもれる事例が圧倒的に多い。それでなくてもギャルはおしゃべりである。オフィスラブの相手とめぐり会って幸福な状態にいるとき、だれかに自慢したくて仕方がない。  ギャルには社内に一人か二人、仲のよい同僚がいる。仕事帰りにいっしょに飲む。幸福なギャルは酒でたちまち自制心をなくして、 「ねえねえ、絶対に内緒よ。ここだけの話。じつは私、山田課長とさア」  とお惚気《のろけ》をはじめる。ここだけの話、はたちまち社内の常識となる。 「きいてくれる。私いまなやんでいるんだ。じつは中村主任と——」  身の上相談のかたちでバラすことも多い。  ギャルはそういう種族である。噂がオジサンの迷惑になるのを承知しながら、自分がいまどんなに幸福かを宣伝せずにいられない。私の友達は口が堅いから大丈夫、という口実で彼女らは発表欲に妥協してしまう。 「噂になったらおれはクビだ。その時点できみと別れる。きみも嫁にいきにくくなるぞ」  オジサンはさりげなく、かつきびしく彼女を牽制《けんせい》しておかねばならない。   Lesson18 機密保持(その2)  オフィスラブの機密保持がどんなに大切であるかについて前項では語った。  くどいようだが、人間は嫉妬心のかたまりである。部下がいい目に遭っていると知ったら、あん畜生と上司は思う。その部下にたいして良い感情を抱かなくなる。人事考課などにさいして、知らず知らずその色男に不利な計らいをする。これが恐いのだ。表面立って素行が問題にされなくとも、他の面で祟《たた》る場合が多いことを肝に銘じてオジサンは行動しなければならない。  親しい同僚も似たようなものである。こいつはおれの味方だと信じられる相手に、ふと同じ職場の彼女のことを洩らしたりする。 「うまくやったなあ。A子はいい女だからな。でも、バレないように上手にやれよ。うちの偉いサンはうるさいから」  親友はそういってくれるだろう。そのときは秘密をまもる気でいる。  だが、人間は弱いのである。同僚がうまくやっている話をきいて、嫉妬|羨望《せんぼう》の念を抱かぬ者はいない。上司と飲んだときなど、抑制がとれて、ふっとそれが表に出る。 「Bのやつ、最近えらく張り切ってるな。今月の実績もダントツだったぞ」  上司のことばをきいて、親友はつい余計なことをいってしまう。 「あいつ、張り切る理由があるんですよ。モテてるんです。相手の名は伏せますが」  きいて上司は眉をひそめる。Bの相手がだれなのか、以後情報をあつめる。相手がわかって、こん畜生と思うわけだ。社内に愛人ができたら、オジサンは他人を信じてはならないのである。  機密保持の大切な理由はもう一つある。同じ職場に彼女ができるということは、忠実な情報源が新しく一つできることを意味している。  彼女はオジサンにいろんな噂話をきかせてくれるだろう。営業一課のC氏は二課のD子とデキているとか、E氏は家で嫁姑の確執になやんでいるとか、F子は最近恋人と別れたとかいう情報である。  経営とか社内政治に役立つ情報などは、ふつうのギャルはもっていない。その立場でもないし、関心もない。だが、男女社員の人間的側面に関してはじつにくわしく知っている。オジサンが課長である場合など、課員の動静の把握に役に立つことが多い。 「P子ったら最近ミスが多いでしょ。無理ないの。彼と一泊旅行したあと、しばらく生理が遅れてなやんでいたんだから」  こんな情報は、寝物語でもないかぎり、なかなか課長には入ってこない。 「松田のやつ、下にたいする当りが強いからなあ。あれでは下は萎縮《いしゆく》するよ。あの点さえなければあいつは伸びるんだが」  女子社員のG子のまえで、部下の主任のことをさりげなくこう評した課長がいた。  G子と松田主任がデキていることを、課長は知っていた。愛人であるH子の寝物語できいていたのだ。G子にきいた人物評はただちに松田主任に伝わり、彼は以後行いをあらためた。直言して本人を傷つけることなく、課長は目的をはたしたのである。  オフィスラブで社内の噂になったとたん、当事者二人にはこの種の役に立つ情報が入ってこなくなるだろう。無音地帯に二人はおかれることになる。ひどい場合は、自分たちの仲が噂になっているのにさえ気づかない。当事者の没落は音もなく進行しているわけだ。 「困ったもんやで山下課長の職人気質にも。社内PRが足らんさかい、あいつの仕事の価値をわかってない部課長が多い。フォローせないかんので、わしゃ疲れるワ」  女子社員たちとの雑談で山下課長のことをそう評した重役がいた。  女子社員たちのなかには山下課長の愛人がまじっていた。話はすぐ本人に伝わり、彼は適切な手を打つことができた。  重役は山下課長のオフィスラブを知ってそんなことをいったわけではない。偉い人というものは、女子社員のまえでとかく自分を大きくみせたがるものだ。しばしば率直に部下の人物評をやる。愛人のおかげで上司の本音を知ったという事例は多い。  デートの打合せをうまくやるのも機密保持の大切なポイントである。  彼女が単身アパート住いであれば問題はない。夜、電話して打合せをすればよい。電話する日時をきめておけばなお確実である。  私の取材したオフィスラブ実行中のOLの七割が職場の直通電話を利用していた。たいていの場合、恋人どうしの席は同一のフロアになる。相手が席にいて、そばに人がいないときを狙って電話するのだ。最近は交換台を通さない会社が増えて、この点では便利になった。離れた席でたがいに顔を見あわせながら打合せするのはオツなものだろう。  あるカップルは喫茶店を拠点にしていた。会社の人があまり利用しない店の常連となる。打合せのメモをこの店にあずけて受け渡しする。メモがおいてあるかどうか電話で問合せて読んでもらったり、メモがあると店から電話してもらったりする。夜スナックバーに切り替る店なので、待ちあわせもできる。  サイン交換の手もある。机のうえに『週刊現代』をおいておけば「今晩いかが」、彼女の机に『Hanako』があれば、「OK」という類である。だが、この方法は案外実用的ではない。「NO」の返事の場合など、相手は理由を知りたくていらいらする。一度「OK」したものの、キャンセルの必要が生じたり、サインが相手にとどかなかったり、問題が生じやすい。なによりも、サインを出しているあいだ、おちつかなくて困るようだ。 「ファッション時計の種類によってサインを送ることにしたの。たとえば金色の時計は、今夜いかが、という具合に。ところがだめなのよね。その時計にみんなが注目しているような気がしておちつかないの。すごく恥ずかしい。みんなが働いているとき、自分だけがセックスを考えているみたいで」  あるOLが告白していた。  そういうものかもしれない。やはり基本は電話連絡なのだろう。  いちばん確実なのは、デートのとき次回のデートの日時を打合せておくことである。これさえやっておけば、あとの連絡は変更があった場合だけで済む。  化成品メーカーの遠藤課長は巧妙な陽動作戦を実施した。彼は自分の課のI子と不倫の関係にあった。ほかに三人いる自課の女の子と平等にお茶を飲んだり食事したりした。  同じ部にハイミスのJ子がいる。遠藤課長はJ子と仲良くした。月に一度くらい、ビヤホールへつれてゆく。社内で公然とJ子と親しく口をきく。はた目にはJ子に気があるようにみえた。だが、J子は男たちの目をひくほどの器量ではない。 「遠藤課長はJ子とどうなのかしら」 「まさかア。それはないと思う。美女多数のわが社で、なんで選《よ》りに選ってJ子なのよ」 「わからないわよこの道ばかりは。J子、あれでベッドがすごいのかもしれないわ」  女子社員たちは真相を測りかねていた。  まさかI子が当事者だとは思わない。I子のいる場所でいろいろ取沙汰《とりざた》した。  噂されている本人たちに真相はどうかと直接質問できる者は少ない。それとなく訊きだしにかかる者もたまにいたが、 「冗談じゃない。J子とは通勤電車が同じだから、気らくにつきあっているだけだよ」  遠藤課長は笑いとばした。じっさい何もないのだから、対応はさわやかであった。  二年間、I子との仲はつづいた。この春I子はめでたく結婚退職していった。   Lesson19 可愛い女  ギャルとオジサンの世代差によるカルチャーギャップは想像以上に大きくなっている。あらかじめ肚《はら》をくくっておかないと、関係をつづけてゆく過程で、オジサンは何度も痛い目に遭うことになるだろう。  現在オフィスラブ進行中のオジサンたちから筆者はさまざまな嘆きの声をきいた。無理からぬ悩みを彼らはかかえていた。 「こっちがやっと時間をつくってさそっているのに、平気でことわるんです。きょうは友達の飲み会だとか、ショッピングがあるとか、くだらない理由でね」 「急にさそっても、まずだめですね。もう予定がきまっているといいやがる。そんなものキャンセルしろといってもきかない。全然こっちの都合にあわせる気がないんです」 「相手につくすという気持が皆無ですね。待合せは遅刻ばかり。プレゼントはねだる一方。ベッドでもサービスはほとんどしない。なんでこんなバカを甘やかさなければならないのかと、ときどきアホらしくなります」  オフィスラブもらくでないのである。性の欲望があるばかりに、オジサンたちはよけいな苦労をしなければならない。  オジサンたちの悩みが筆者にはよくわかる。まったく昨今のギャルはあつかいにくい。だが、非はオジサンのほうにもある。若い女についての幻想、一方的な思いこみにとらわれたままだから傷つくのだ。  愛した男に女はやさしい。今晩どうかと声をかければ、万障くりあわせて会いにくる。愛人との逢瀬を最優先する。約束の時間より早くきて待っている。毛糸のセーターを編んで贈ってくれる。ベッドでは精魂こめてフェラチオし、どんなポーズにもよろこんで応じてくれる。 「恋する女」についての以上のような幻想がオジサンにはあるのだ。勝手な理想像を描き、現実のギャルに接触してあまりの落差にガクゼンとする。あいつ、おれに惚れてなどいなかったのか。考えこんだりする。  オジサンの抱くイメージがさほど現実離れしていない時代も過去にはあった。セックスの関係ができると、女はたいてい可愛い女になった。デートには万障くりあわせ、遅刻せず、ベッドでは熱心に学び、毛糸のセーターを編んでくれた。具体的に実行しない場合でも心情はそうだった。  筆者の若いころなどは、女の最大の嫁入道具はその処女性だと信じられていた。いったんセックスに応じてしまうと、身分保証のため女性はせいぜい可愛い女にならなければならなかった。その風潮が一般化して、男に愛されるためには、女は自我をおさえてつくさねばならないという概念ができあがった。その概念に女性は忠実だった。むかしのオジサンはだから、不倫においても可愛い女を手中にできたのである。  人間、自分にとって都合のよい経験をなかなかわすれることができない。筆者のような五十男はもちろん、四十代後半の男性の多くもいまだにその幻想をかかえている。もっと若い男性でも、先行世代の文化を肌で吸収して似たような思いこみをしがちである。最近、某国立大学医学部卒の男性を敢然と袖《そで》にしてきたギャルがいっていた。 「もう自分を神さまだと思ってるみたい。痒《かゆ》いところに手のとどくサービスを要求するの。すべて思いどおりにならないと怒るのよ」  これなど母親の甘やかしで歪《ゆが》んで育った男の例だろう。母親は息子にたいして「可愛い女」でありつづけ、古めかしい幻想を息子に植えつけてしまった。  だが、いうまでもなく時代は変ったのである。むかし女の子は、敬愛する父親に愛される女になろうとして、可愛い女、つくす女に育った。だが、父親がたんに月給運搬人にすぎない現代では、あんな男に愛される女になってもつまらないと心の底で思いながら大きくなる。テレビCMなどの映像で頭がいっぱいになり、映像と現実が不分明な精神構造に育ってもいる。客観的にはブスであっても、テレビのなかの女と自分を知らず知らず同一視してお嬢様のつもりで生きている。  加えて若い男の人口過剰。就職は売り手市場。女は男ほどセックスの欲望に苛立たないから、学校時代はよく勉強して一般に男よりも成績が良い。経済水準が向上し、ローンながら洒落《しやれ》たマンションや住宅で暮している。自分を過大視する材料にはこと欠かない。さらにセックスと身分保証が分離されて、世はギャルの全盛時代である。オジサンの頭にある可愛い女などもう姿を消してしまった。  オジサンはギャルに自己犠牲をもとめてはならない。向うは地球が自分を中心に回転する気でいる種族なのだ。飲み会をキャンセルしろというのも、約束の時間を守れというのも、セーターを編めというのも恐れ多いことだと思わなくてはいけない。それでなくとも向うは、オジサンのまえで両脚をひらくだけで充分に恩をほどこした気でいる。明鏡止水《めいきようしすい》の心境がオジサンには要求されるのである。 「同じ部のA子とデキているんですが、あいつ若い社員とグループでスキーや海にいくんです。社外にもボーイフレンドがいるらしい。頭へくることがあります」  そうボヤいていたオジサンがいた。  これもまだ修行が足りない。オジサンには家庭がある。孤独ではない。ところが向うはひとりなのだ。日曜日に家族ドライブなどをしているオジサンのことを部屋でぼんやり考えている彼女の身を思いやらねばならない。A子が若い男とデキているなら、それはそれで良いではないか。いずれ訪れる別離も、そのほうがずっとらくになる。  あまりに身勝手な仕打ちに会うと、男たるもの、意地と闘志にかられることがある。いまにみろ、あいつを可愛い女にしてみせる。奉仕する女にさせてみせると誓ったりする。食品会社の亀田課長がそうだった。同じ部のC子とオフィスラブをはじめたが、C子が自己中心すぎるので頭へきたのだ。  以後、亀田課長は「可愛い男」になった。すべてをC子のペースに合わせた。あらゆる要求にニコニコと応じた。セックスでも奮励努力をした。仕事のうえでは、他にあやしまれる危険をおかしてC子の便宜をはかった。  至誠《しせい》天につうじるということがある。しだいにC子は軟化した。一年もたつと亀田課長好みの女になった。残業などでデートに亀田課長が遅れると、二時間も三時間も待っている。食事も以前は和食だけを望んだが、亀田課長の好む焼肉や中華料理にもつきあうように変った。ベッドですすり泣くようになった。亀田課長なしでは生きられないと告白した。 「このあいだ縁談があったの。条件は良かったけど、ことわったわ。ほかの男性とおつきあいするなんていまは考えられないもの」  ある日C子は告白した。亀田課長は満足だったが、やがて気が重くなった。  戦線離脱を亀田課長は考えはじめた。逢うのが間遠《まどお》になった。別れ話を出すとC子が絶望するから、徐々に撤退するつもりだった。  なんとC子は亀田課長の家へ電話してくるようになった。ほかにゆっくりお話しする機会がないからというわけである。二、三度こんなことがあって亀田課長の家庭は地獄になった。けりをつけるのにやせる思いをした。  ギャルが自分中心なのも、まるで可愛くないのも、こうした事態を回避する本能の働きでもあるのだ。オジサンのオフィスラブはどうせ一時の冒険である。相手もそのつもりでいる。多くを求めるなら、オジサンも多くを持ち出さねばならない。ギャルにたいするオジサンの不満は、逆にオジサンの身勝手であることを考えにいれるべきだろう。   Lesson20 服飾革命  男から見てもスーツの着こなしのうまいやつが世の中にはいるものである。  とくに高価な服を着ているわけでもない。ネクタイの趣味が抜群に良いわけでもない。それでいてキマっているのだ。ひきしまった、隙のない印象を他人にあたえる。こういう男はギャルに人気がある。むかしもいまもそれは変っていないようだ。  隙のない服装がなぜ女の子の関心をひくのか。立場を変えてみればわかることである。私たちは制服姿の女に惹かれる。それもひきしまった感じの制服であるほど、なにやら性的な刺戟をうける。スチュワーデスとか博覧会のコンパニオンとか女子高校生のセーラー服とかがそうである。  一般企業のOLのユニフォームも、私のような部外者が見るとかなり刺戟的である。だが、それをいうと、ほんとかなあ、と首をかしげるオジサンが多い。OLのユニフォームは一般に色合がソフトであり、デザインも適度に解放的で、スチュワーデスのそれほどひきしまった感じがないせいかもしれない。毎日見馴れてしまって、いまさら刺戟をうけないということもあるのだろう。  なぜ男は女の制服に惹かれるのか。制服姿には体の線がはっきりあらわれるということも理由の一つである。が、なにより大きな原因はそのよそよそしい印象にある。  セックスの欲望は、相手を裸にして結合したい欲望である。私たちはだから、肌の露出部分が通常より大きな女性にたいして強い関心をそそられる。ふつうより裸に近い女なのだから、容易に抱かせてくれるはずだという期待が心の底にあるわけだ。  制服の女はこの反対である。彼女らは肌を見せない。一分の隙もなく防備を固めている。いまは仕事中、セックスなんかとんでもないわ、と全身で彼女は表明しつづける。男たちが彼女にたいして抱くソコハカとない欲望を身も蓋《ふた》もなく拒絶していることになる。  これが逆に男の性の衝動をそそる。それでなくともセックスの欲望は、おたがい裸で抱きあって一体になりたい欲望である。相手が服を着ていると、ぬがせたくなる。一分の隙もない服装となれば、なおさらである。高価な衣裳をきた女の姿と、ぬぎすてて裸になった女の姿の落差をたしかめるのが、男には大きなよろこびである。ホテルでさんざんセックスをたのしんだあと、きちんと帰り支度を終えた女の姿を見てまた欲望にかられ、女におそいかかった——そんな経験のあるオジサンは多いのではなかろうか。  要するに、ピシリとキマった感じこそ、男のセックスアピールなのである。女とちがって男は肌の露出で女を刺戟することはできないから、「拒絶」の印象こそ大事にしなければならない。キマった感じの男を見て、一度裸にしてみたいわ、とか、澄ましていたって私にかかればメロメロだわよ、とか潜在意識のなかで彼女らは動揺する。ソコハカとなく刺戟されるわけだ。  この意味でサラリーマンのダークスーツは案外若い女の好みにかなっているのである。ドブネズミだなどといわれるが、地味なスーツをピシッと着こなした男にけっこうギャルはあこがれるのだ。新しいスーツをつぎつぎに着るのが一番だが、家計上そうもいかないから、オジサンはそれなりの工夫を必要とする。  クリーニングを怠らない。とっかえひっかえ着分けなくとも、ある程度の品物を手入れよく回転させて着るほうが得策である。制服効果を出すためには、やはり仕立てが必要。ぴったりと身についたスーツでなければならない。ワイシャツの襟《えり》、ネクタイの結びかたも大切である。いくら良い服を着ても、この一点の乱れですべてが台なしになる。  筆者の若いころは、服装に気をつかうなんて男の風上にもおけないといわれていた。男は外見でなく中身だと教えられた。物のない時代にかなった教育だった。マジメな若者はそれを信じて、着たきり雀で勉学にはげんだ。要領のよい若者は、まずしいなりにもお洒落をして、チャラチャラとダンスホールへ出入りした。女に関してどちらがハッピーだったかというと、もちろん後者である。中身の良し悪しなど、若い女には判断のしようがない。男と同様、あるいはそれ以上に彼女らは異性のセックスアピールに敏感なのだ。  ファッションセンスにおいて、オジサンはとても若い男に太刀打ちはできない。いま三十代から下の世代は子供のころからファッションに目ざめていた。母親にべったりつきまとわれ、女に好まれる服装とはどんなものか、こまごまと教えこまれてきている。センスがどうこうというより、外観によってモテかたがちがうことをよく知っている。これが大きい。オジサン族にはまだ「外見より中身」教育の名残りがあって、お洒落を心がけながら、つい手をぬいてしまうことが多い。  しかもオジサンにセンスがない。いまさらアルマーニやフェレを着ても身にそぐうわけがないのである。オジサンたちの心がけるべきことは、あくまで前述の「キマった」印象につきる。マメでなければならない。小ざっぱりしていることは、服装にたえず注意を払っていることでもある。ギャルはそこに自分たちの仲間を見出す。ルックスを向上させることばかり考えている自分を、わかってもらえそうな気がするのだ。  筆者もトシにめげず、しばしばDCブランドを着て外出する。幸か不幸か自由業なので、一分の隙もない服装にこだわる必要がない。型やぶりを狙ってみるわけだ。  女の子の評判はわるくない。もちろんお世辞もあるのだが、 「まあアベサン、おしゃれですね」  と一般的にはいってくれる。  おしゃれ、というのはこの場合、ファッションセンスにたいする讃辞ではない。そんなもの、筆者にあるわけがないのだ。いま書いたとおり、これは同類意識である。へえ、このオッサンがんばってるやないの。五十男のDCブランドを見て、憐《あわ》れみ、親しみを彼女らはおぼえる。さらにいえば激励もある。ダンディたるべく努力する男が彼女らは好きである。ネクタイ、ハンカチ、腕時計、靴。目立たなくともこまかく気をくばることで、オジサンがギャルにあたえる印象は一変するはずである。  フランスの男は一般に着こなしがうまい。洒落たスーツがぴたりと身についている。洋服文化の歴史の差だと私は思っていた。だが、それだけではなかった。ある高名なデザイナーの手記によると、フランスの男は外出まえ、おそろしく丹念に鏡のまえで身仕度をするらしい。とくにファッション産業の関係者となると、 「ジャケットもネクタイもシャツもとっかえひっかえ身につけて鏡で見て、結論が出るまで二時間もかかることがめずらしくない」  のだそうである。  これだけやれば、だれだって相当に垢《あか》ぬけるだろう。野暮天《やぼてん》オジサンもくじけることはない。せめて三十分早起きして服装をチェックすれば、周囲にあたえる印象は大いにちがってくる。センスでも金でもなく、マメであることから服飾革命ははじまるのだ。  ダンディで有名なある財界人と対談したことがある。向うはリュウとした英国ふうのスーツを着ていた。筆者はイッセイ・ミヤケを着こんでいた。私の服をどう思うかと訊いてみると、財界人は一瞬いいよどんだあと、 「洒落てるけど、品位に欠けるなあ」  と講評した。筆者はがっくりした。  企業人のファッションの尺度は、やはり隙がないかどうかが第一である。OLも企業人なのだ。ドブネズミではあっても優雅なドブネズミでさえあれば、オジサンにやさしい目を向けるだろう。   Lesson21 ダイエット  ファッションセンスに欠けるオジサンも、服装にマメに気配りさえすれば、ある程度ギャルの共感を得ることができる。たとえ身についていなくとも、お洒落に努力する人間はそれだけで彼女らの同類である。カワユクもあり、たまには素敵にも見えるわけだ。  だが、服を着る肉体となると、そうはかんたんに改造できない。四十すぎのオジサンの半数は出っ腹になる。胴まわりが厚くなり、短足が目立つ。首が太くなり、ぜんたいにずんぐりとあぶらぎった感じになる。ここで禿《は》げたりすると、もうオジサンはオフィスラブ界からの引退を覚悟しなければならないだろう。決心のつく人はそれで良い。だが、まだ現役に未練のある人は、まなじりを決して肉体の改造にとりかからねばならない。  といっても、人間はうぬぼれのかたまりである。はた目には出っ腹短足、頭髪もうすくなって、とてもギャルの関心の対象になりそうもないオジサンが、まだまだモテる気でいる事例は多い。セックスの衰えの自覚がないから、ルックスの衰えを自覚できないのである。モテるはずだと思っているのに現実はそうならないから、ギャルにお節介《せつかい》したり押しつけがましくなったり、ますます嫌われるオジサンと化してゆく。  筆者も四十代なかばのころ、まだまだ現役だと思っていた。二十歳前後のギャルから見て、関心の枠内にあると信じていた。ある日所用で大阪の某広告代理店へ出向いた。ビルの一階でエレベーターに乗った。  エレベーターには筆者のほかギャルが一人乗っていた。広告代理店のユニフォームを着た愛らしい女の子だった。束の間ではあるが、せまい空間のなかに私と女の子は二人きりでとじこめられたわけである。筆者は大いに意識して目のすみで彼女をうかがった。筆者がまだサラリーマンだった時分は、こうしてエレベーターで二人きりになると、相手の女の子もこちらを意識して、やや身構える感じになったものだった。雌と雄が個室のなかでたがいに相手をうかがう雰囲気であった。  そのときも同じようになるものと思っていた。ところが当てが外れた。女の子は全然こちらを意識しないのである。ひとりでエレベーターに乗っているような、すがすがしい表情である。当方が懸命に雄のテレパシーを発しつづけてもまったく反応がない。無視したまま十何階かで彼女はおりていった。  つくづく筆者はさとった。いつのまにか若い女の関心の外へハミ出ていた。彼女にとって筆者は「男」ではなく、人影のようなものにすぎなくなっていた。太って、頭髪もうすくなっていた。そんなにみっともなくないと自分では思っていたが、考えてみると酒場で最近モテたことがなかった。  それでもまだ筆者は自惚れからぬけきれずにいた。流行のサファリスーツを着こんで歩いていた。ある日所用で専門店ビルへ入った。エレベーターホールへ歩いてゆくと、向うから私同様サファリスーツを着た男が歩いてくる。太っていて、服が似合わない。あんな体型で臆面《おくめん》もなくサファリスーツを着るなんて。大いに軽蔑して筆者は歩いた。  エレベーターのまえで筆者はガク然となった。ホールの壁面が鏡張りになっている。あの体型であの服とは——。筆者があきれた相手は筆者自身の像だったのである。家の鏡では見えない客観的な自分の姿が、よその鏡では見える。これではエレベーターのなかで女の子に無視されるのも当然だと、しみじみ納得させられた。  そのころ筆者は身長百八十センチ、体重八十一、二キロだった。理想体重よりも約十キロ超過である。それでも酒場の女たちの、 「アベサンは背が高いから太目に見えないわ。いま程度でちょうどいいわよ」  という甘言に乗せられて、まあまあの体型だと思っていたのだ。  筆者はジョギングをはじめた。一日千メートルからはじめて徐々に距離をのばし、一日五千メートル走るようになった。体調はきわめて良い。こんな血色の良い小説家にははじめて会ったと編集者にいわれるほどになった。だが、走るとビールが美味い。腹も減る。元気良く筆者は飲み食いした。おかげで体重にはほとんど変化がなかった。モテることはほぼあきらめ、およそ十五年、約十キロオーバーのまま暮してきたのだ。  昨年の暮、病院で検査をうけた。血糖値が二百近いといわれた。糖尿病の玄関口へ入っていた。糖尿病の三大原因は遺伝、肥満、運動不足だといわれている。筆者には遺伝の心あたりがない。肥満は軽度、運動量は充分である。糖尿の心配だけはないと思っていたので、びっくりしてしまった。  まだ薬を使う必要はない。食餌療法をすることになった。一日千六百キロカロリー。朝ぬき、昼カケソバ一杯、夜はめし一ぜんに魚と野菜。あとは牛乳程度である。ジョギングはつづけた。みるみる体重がさがった。二ヵ月少々で十キロ減らした。血糖値も血圧も健康人とほぼ同じ水準にさがった。出っ腹がひっこみ、体がかるい。気がつくと、若いころ同様、威勢の良い歩きかたをしていた。  あまり急にやせたので、重病で入院中という噂が流れたらしい。見舞いの電話をくれた人がいるのには閉口した。スーツがダブダブになった。ソフトスーツはこんなとき便利だということを再確認した。  特筆大書すべきは、モテるようになったことである。といっても筆者なりに、なのであるが、ともかく以前にくらべて酒場における「当り」が良くなった。かるく口説いてみたりすると、太目のころとちがって、いくぶんマジメに応対されたりする。以前は「男」の枠内に入っていなかったのが、いまはすみのほうに入れてもらった感じがある。太っていたころを知らない女の子の反応が、さらによろしい。原因は、ほかには考えられない。胴まわりが小さくなったことだけで世の中が一変した。  ダイエットにたいするギャルの執念は大変なものがある。ほっそりした体つきでいれば男の目を惹き、シアワセがおとずれるものと思っている。男からみれば、ある程度肉づきのよい女体のほうに性的魅力をおぼえるのだが、そんな現実はギャルの眼中にない。  プロポーションの良い同性の体に彼女らは美術的感動をおぼえる。自分もああなりたいと思う。ひたすらやせようとする。スリム偏重で美意識が固まっている。おかげで太目のオジサンは、不倫の世界において著しく不利な立場におかれることになる。スリムが倖《しあわ》せを呼ぶという彼女らの信念からすれば、オジサンの肥満体は不倖せの象徴なのである。  太目のオジサンにはジョギングをおすすめする。少々睡眠不足でも、走ってしまえばなににも代え難い爽快《そうかい》感が保証される。二週間もつづけて走ると中毒症状が出て、走らないと物足りなくなる。意志力など必要ない。あれは癖のものにすぎない。  本気で体重を落す場合は、まず走りぐせをつけて、それから食事を減らせば良い。私の場合は成人病関係の本をたくさん読んで、肥満者の短命ぶりをいやになるほど頭に叩きこんだ。恐怖心のおかげで、大して苦労せず飲み食いを控えることができた。糖尿病——不能の恐怖心も大きかった。空腹をしのぐのは肉類ぬきのおでんが最良である。  スリムになればギャルの当りが良くなるのはたしかである。だが、そんなのは副次的効果にすぎない。成人病の症状の消えるのが、オジサンには最大の収穫であろう。   Lesson22 営業部と経理部  経理、財務部門のオジサンたちは、一日のほとんどを机のまえですごす。会議や来客応対もあるが、仕事の基本はデスクワーク。冷徹に目を光らせて数字をみつめている。  この人たちには正義の士の印象がある。他部門との連絡会議などで、つねに数字的正義にもとづいて発言するからである。利益率がさがったとかコスト意識が低いとか、数字をあげてきめつける。営業マンが得意先にペコペコしたり、工場の人が汗まみれで機械を操作したりする苦労の実感がない。もっぱら抽象的に物事をきめつける習性がある。  一日机に拘束されると、だれだって息苦しくなる。午後三時四時には疲れて、神経がケバ立ってくる。まして経理、財務のオジサンは、体だけではなく頭脳までもさまざまな数式によって拘束されているのである。冷徹な顔の裏で心も体も痛切に解放を求めている。  だが、仕事を放りだすわけにはいかない。喫茶店で息ぬきするのもたかが知れている。こんなとき、人間はイメージの世界へ逃れるしかない。それも性的なイメージである。オフィスには魅力的なギャルがたくさんいる。オジサンはふっと仕事の手をとめて、立ち働くギャルの尻や脚を目で追ったり、胸のふくらみに見惚れたりする。ギャルの裸身をあからさまに思い描くほどではないだろうが、彼女らの姿からソコハカとない刺戟を吸収して、束縛の苦痛をまぎらわせようとする。  こんな事情は女子社員のほうも同じである。解放を彼女らは求めている。定時をすぎたあと、盛り場のネオンにいちばん心が揺れるのは、この部門のギャルである。とくに残業のあと、発散したい思いは痛切になる。  男女ともそうした状態にあるから、お堅い空気のわりに経理、財務部門のオフィスラブは多いのである。人間的なぬくもりを求めて肌をさぐりあうような、やむにやまれぬ不倫がつづく。一般に細く長く関係はつづく。経理マンは細心で緻密だから、他人にバレるようなヘマはやらない。 「セックスはわりとしつこいのよねえ。本番自体はそれほどじゃないけど、前戯がマメで複雑なの。私、くせになっちゃった」 「SMっぽいっていうのかなあ。奥さんとはしないようなことをするみたい。体力はないけど、ちょっと病的なところがあって、それがいいのよねえ」  以上はともに一流企業の経理部門のOLの証言。相手は彼女らの上司である。  双方とも二年以上関係がつづいている。駆け落ちした男女のようなひそかな愛らしい。  彼女らには不満もあった。第一に経理部門のオジサンはケチである。堅実で羽目を外すようなことはしない。食べるのも飲むのも懐工合と相談ずくで、夢が感じられない。  第二に経理、財務のオジサンは服装がダサイ。いつもドブネズミルック。キマってもいない。手堅いだけの雰囲気のオジサンと焼鳥屋などへ入ると、周囲のオジサンと自分の彼の区別がつかなくなりそうで、いやになることが多いという。だが、総じて経理マンは誠実で、ギャルを泣かせることが少ないようだ。  営業マンは対照的にオフィスを留守にすることが多い。  社内では陽《ひ》のあたる存在である。いつもオフィスにいる女子社員から見ると、彼らはカッコ良く行動的である。毎日いそがしく飛びまわっている。如才がなく、話がうまい。接待などで、良いレストランや酒場をいくつも知っている。営業部のオジサンは、OLに好かれる要素を数多くもっているわけだ。  だが、営業マンも社内で見られているような花形職種ではない。超一流企業の場合は別として、ノルマと得意先の無理難題に泣かされる日々がふつうである。ポケベルで管理されて、喫茶店などでのんびりサボる自由も制限される。夏は暑く、冬はさむい。努力の度合がすぐに実績に反映されるので、気の休まるひまもないのだ。  夜の接待などで営業マンは経理マンあたりにひどくねたまれる。交際費を湯水のようにつかって、飲み歩いているようなことをいわれる。だが、得意先と飲む酒なんて、気をつかうだけで美味くもなんともない。酔わずに座を盛りあげなければならない。得意先を帰したあと、スナックバーで一杯やる酒だけが美味いのが実情である。  ゴルフだって同じことだ。土曜日曜は家でゴロ寝したいのに、つきあいゴルフに駆り出される。得意先や上役を早朝から迎えにいかされたりする。スタートしても、あまり良いスコアを出すと憎まれる。のびのびとプレーできない。ゴルフなんかおぼえなければよかったと後悔する羽目になったりする。  夕刻営業マンはオフィスへ帰る。戦線から帰還した兵士の心境である。やさしく迎えてくれる女子社員たち。留守中のできごとをテキパキ報告する。出張の手配だの精算だのを済ませ、資料もつくっておいてくれる。営業マンには、女子社員がマリア様にみえる。そこまでいかなくとも、よほどアホな相手でないかぎり「戦友」の意識が生れる。向うもこちらを尊敬してくれている場合、仲よくならないほうがふしぎなのだ。  なにしろ営業マンは権謀術数に明け暮れている。女の子をいい気分にさせるぐらい、かんたんである。洒落たレストランやショーパブあたりでギャルを非日常の世界へさそいこんでしまう。サッとホテルへつれて入る。いかにも物馴れた感じがする。 「たのしくあそばせてくれるし、セックスもそこそこなんだけど、いそがしいのよねえ。なかなかデートの予定をとれないし、セックスが終るとさっさと帰ってしまうの」 「疲れてるのよねえ。早漏《そうろう》気味なの。酔うとなにもしないで寝てしまうこともあるわ。それはそれでいいと思ってるけど」  一流商社の営業部門のオジサンと不倫中のギャルの証言である。  銀行、証券関係の営業マンについても、ギャルは似たような感想をのべる。派手で元気は良いが、いそがしすぎるのだ。カラオケなどでたのしくあそばせてくれるが、酔っても仕事の話ばかり。案外内容は空疎である。四十歳以上になると、セックスも衰弱気味。気が多くて、誠実味が足りない。本気で愛するに値しない男が多い。  営業部門のオフィスラブは、太く短くの事例がよく目につく。パッと燃えあがり、比較的早く冷えるのである。おかげで関係が入り組んだりする場合も生じたりする。  某アパレルメーカー営業部のA子は、同じ部の二人のオジサンとオフィスラブを同時進行させている。いつも業務用の電話で連絡をとりあっている。ある日、相手をとりちがえて応答したため、同時進行が両方のオジサンにばれて一騒動起った。彼女は退職した。  オジサンのほうが二人のギャルを同時に手玉にとる事例もある。食品メーカーの営業部の事例である。この場合は長つづきしなかった。オジサンが疲れて心臓発作を起したのだ。モテるにまかせて無謀な愛を語りすぎたとオジサンは後悔していた。  同じ会社でも、所属部門が異ると、それぞれ保有される文化も異ってくる。大企業の場合などは、部門がちがうとよその会社ほどにも風土のちがう場合がめずらしくない。  営業マンと経理部のギャルのオフィスラブの事例は、独身男女の場合をのぞくと、ほとんど発生しないようだ。気心を知りあうチャンスがないせいだろうし、それぞれの部門の文化の差が愛のさまたげになるということもあるのだろう。   Lesson23 撤退  彼女との甘い交際が成立して、オジサンは二度目の青春を迎える。人目をしのぶ、だが、華やかな日々がやってくる。  週に一度彼女と待ちあわせて食事と酒をともにする。セックスにはげむ。会社のなかですばやく連絡をとりあって、急に待ちあわせることもある。  デートの約束をした日は仕事がはかどる。楽しい時間が待っているとなると、同じ働くのでも気持の張りがちがう。いそいそと業務にいそしめる。待ちあわせに遅刻しないよう、能率よく仕事をかたづけなければならぬということもある。  それでなくとも、同じ職場に恋人がいるのはいい気分のものである。働く彼女の姿をひそかにながめて、ベッドのうえの彼女の姿と比較する。自分だけが彼女のすべてを知っているという優越感にかられる。せち辛い競争の場であるオフィスに、秘密を共有する相手が一人いると思うだけで、きわめて心ゆたかである。男としての自信もつく。  彼女にみっともない姿を見せたくないから、仕事ぶりも真剣になる。オフィスラブ実践者の大部分が、働くうえでいい影響があったと証言している。偉いひとたちがいうのとちがって、オフィスラブは仕事のさまたげにならないのである。会社で彼女に会えるとなれば、出勤の足どりさえかろやかになる。  あっというまに月日が流れてゆく。半年もすると、オジサンと彼女の仲は安定期に入る。しだいにデートが習慣化するのである。  デートのまえの胸のときめきや、彼女の服をぬがせたときの血湧き肉おどる昂奮はしだいに薄くなってゆく。二人で飲んでも、以前のように話がはずまない。相手に良い印象をあたえるべく気を張りつめる必要もない。  その代り、会ってくつろぐようになる。格別の話題がなくとも、二人でぼんやりしているだけで倖せである。セックスの結びつきが強固になった安心感が根底にある。じっさい親密になって半年もたつと、いやでも二人のセックスは充実してくる。たがいの好みや手法がわかり、ためらいや遠慮も消えて快楽をむさぼりあえるようになる。性格やものの考えかたは別として、性の側面では彼女はオジサン好みの女になっている。  この時期がオジサンには問題である。彼女に会うことのよろこびは、もうさほど強くない。キマリだから週に一度会う、という気分である。とくに会いたくもないが、会わないと物足りないわけだ。しばらく間があくと、精液がタマって仕方がない。だから会いたくなるということもある。こうした点、男はいやになるほど即物的である。彼女にそれなりの愛情や誠意を向けているつもりでいても、「今夜会わないか」と彼女に電話するときの自分をふり返ってみると、単純な排泄《はいせつ》欲にかられただけのことが多い。  オジサンは撤退を考えなければならない。まだ別れるのは惜しいという時期こそ汐《しお》どきである。会えばセックスができる——その魅力を捨てきれずにずるずる関係をつづけることで、事態はしばしば厄介になる。  習慣化したデートをそのままつづけたとしよう。しだいに彼女の体に倦《あ》きてくる。裸身を見ても、あまりそそられなくなる。よほどタマっているときでないと、彼女と会うのがわずらわしくなってくる。いっしょにホテルへいっても、知りつくした女体に以前ほど激しい愛撫を加える情熱が湧かない。がんばったつもりでも、知らず知らず手ぬきをしている。早く帰らないと明日がしんどいとか、これで小遣いが足りなくなったとか、よけいなことが頭にうかんでくる。悪気がなくとも男はそうである。男の生理はなんといっても新鮮さが眼目だから、オジサンがたとえまれにみる善意の人であっても、馴染みつくした女体には性の衝動を揺さぶられなくなる。  こうなると彼女の欠点が目についてくる。時間にだらしがない。くだらないおしゃべりを長々とする。知的な向上心がない。つまらない見栄を張る。わがままでオジサンの立場を考えない、etc.。最初は美しいと思った顔も、さほどとも思えなくなる。  美しい女に男は惹かれる。が、それ以上に性の欲望が女を美しく見せるのである。男の欲望は、どんな化粧品よりも見事に女を「美」の幻想で包みこむ。欲望がみたされつくしてしまうと幻想は消え、男は現実の女と向かいあうことになる。顔や体だけでなく、精神的な領域でも同じことが起る。時間にだらしないのも、おしゃべりも、向上心がないのも以前は可愛く感じられたのに、欲望がさほどでもなくなると、欠点としか思えなくなる。オジサンは幻想からさめて、リアリストになってしまうわけだ。  オジサンは彼女に以前のようなやさしいまなざしを送らなくなる。会っても不機嫌である。つい不満が口に出る。口論がはじまり、もう別れようということになる。すっぱり話がつけば問題はない。だが、向うに未練が残っていると、事態は紛糾《ふんきゆう》する。オジサンのほうもつい弱気になったり、タマったものをもてあましてまた彼女を抱いたりする。  こうなると泥沼である。ののしりあい、傷つけあっての喧嘩《けんか》別れが待っている。彼女が上司に苦渋を訴え出てオジサンの社内的信用を失墜させたり、女房にすべてをバラしてオジサンを苦境におとしいれたり、苦い後悔にまみれた結末となる。社内不倫が裏目に出てひどい目に遭ったオジサンの話をきいてみると、みんな終戦処理にしくじっている。  総合商社の青山主任はアシスタントの女子社員と二年半つきあった。うっとうしくなって別れ話を出した。彼女は逆上して上司に訴え出た。妻と別れてきみと結婚すると約束したのに、青山主任は実行しなかったというのだ。 「寝物語でそういう願望を話しただけなんですよ。それを婚約|不履行《ふりこう》というんですからなあ。いや、まいりました」  青山主任は閉口していた。彼は上司に手ひどく叱られて左遷された。  広告代理店の山根氏は手近な女子社員と二年つきあった。倦きてきて別れ話を出した。すると彼女は山根氏の妻に手紙を書いた。 「あんな不誠実でつまらん男、奥さまにお返ししますという文面でした。まいったですよ。以来、家庭は半年ばかり地獄でした」  深入りしすぎたのがバカでした、山根氏は頭をかき、ため息をついた。  二年はどうやら長すぎるのである。習慣化されたデートやセックスが、彼女の生理に組みこまれてしまう。一度得た心地よいものを手放すのはだれでもつらい。まして女性は、男とちがって「愛」を体内にかかえこんでしまうところがある。新鮮さよりも馴れや安定に重きをおく。無理に突き放すと、彼女の自我は崩壊して分別がなくなる。オルガスムスのときと同じように乱れてしまう。  まだ別れるのが惜しい時期にこそ、オジサンは終戦を考えなければならない。彼女との別れというより、倦きて彼女を傷つける事態になるのを避けるのである。早いに越したことはない。オジサンとのセックスがまだ習慣化せず、彼女の生理に組みこまれていない時期なら、彼女は自我が崩壊するほどの深傷《ふかで》を負わずに事態を受けいれられるだろう。  彼女を深く傷つけてはいけない。後味のわるいオフィスラブはせっかく得たよろこびを帳消しにする。オジサンは彼女を誘惑するとき以上に戦略的であらねばならない。  だが、いきなり別れ話をもちだして、彼女にショックをあたえるようなことは避けるべきだ。薄紙《うすがみ》を剥《は》がすように遠ざかる工夫をするのが大人のつとめである。   Last Lesson 終り良ければ  職場に関係のない恋愛なら、手を切るときもオジサンはそんなに神経質になる必要はない。はっきりと自分の意志を伝えればよい。相手を傷つけるのはいやなものだが、悪役をつとめ終ればあとは青天白日の身である。  別れの時期には二人のあいだが大なり小なりギクシャクするから、ある程度向うも心の準備をしている。売りことばに買いことば、談合不成立のかたちで決着がつくだろう。あとは会わなければ済んでしまう。  オフィスラブはそうはいかない。別れたあとも毎日相手と顔を合わさなければならない。前回書いたとおり、終戦処理をあやまるとあとの祟《たた》りが恐い。禁煙パイポのオジサンと同じ道をたどらねばならなくなるだろう。充分に相手の顔を立てて平和共存する必要がある。  向うがオジサンに愛想をつかした場合は、話はかんたんである。だまって流れに身をまかせればよい。ここで泣いて彼女にすがるようでは、そもそもオフィスラブの栄光に値しない男なのである。なぜ嫌われたかを反省して、次回の糧《かて》とするべきであろう。  問題はオジサンが汐どきと判断し、向うがまだその気になっていない場合である。  別れようとオジサンは心にきめた。だが、いきなりそれを口に出すべきではない。 「これ以上深入りすると、おたがいのためにならないと思うんだ。もう会うのはよそう」  正直にこう宣言したオジサンがいる。  女の子は深く傷ついた。多少のやりとりのあと泣きながら帰っていった。けりはついたものの、オジサンも罪の意識になやまされた。後味の悪い別れは、それまで得たよろこびを帳消しにしてしまうのだと思い知った。  若いころは相手を思いやる能力がないから、女の子を傷つけても平然としていられる。だが、地位も分別もあるオジサンがこんな無神経な縁切りをして、気が重くならないわけがない。相手が泣き寝入りしてオジサンの身が安泰だったとしても、寝ざめは悪いはずである。いやおれは平気だという人もいるだろうが、そんな男はサラリーマンとして大成はおぼつかない。人の心に鈍感な人間が周囲から信頼されるわけがないのである。  徐々にオジサンは彼女から離れていかねばならない。デートが面倒になっても、当分はつきあいをつづける必要がある。もちろん回数は減らしてゆく。さそわれても三度に一度はことわる。やがて二度に一度、さらには三度に二度ことわるようにする。  さいわいオジサンは多忙である。残業、接待、上司や同僚とのつきあい、家庭の事情、逃げる口実はいくらでもあるだろう。すぐに彼女も事態を察して、別れにたいする心の準備をはじめる。なんといってもオジサンは、彼女が結婚を望んだ相手ではない。とつぜん逃げだした相手を追いかけたくなる心理は男も女も同じだが、徐々に一方が冷えると対抗上片方も徐々に冷える心理もある。別れの下地は順調につくられてゆくだろう。 「山川さん、このごろ前みたいに燃えないわね。もう私に倦きてきたの」  寝物語で彼女に訊かれるはずである。  山川氏の本音を彼女は知りたいわけではない。そうではない、といってほしいのだ。 「倦きたわけじゃないよ。ただ最近むやみにいそがしくてね。バテ気味なんだ」  当りさわりなく山川氏は答える。  これで良いのである。彼女は山川氏の本音に気づいている。ほうっておいても心の準備をはじめるだろう。つぎの相手を物色しはじめるかもしれない。準備がととのわぬうちダメを押されると、彼女は混乱してしまう。  自尊心の強いギャルなら、この段階で別れを決意するだろう。あ、そう。それなら終りにしましょう。男はオジサンだけじゃないんだから。弱いくせにしつこいセックスはもう倦きた。こんどは若い人と真剣な恋をしてやろう、というわけである。  再三書いたことだが、昨今のギャルの自己評価はむやみに高い。客観性をほとんど無視して、過大なセルフイメージを抱いている。ブスもアホも主観的にはお姫様である。いろんな原因があるのだろうが、権威の失墜した父親を見て育って男を尊敬しなくなったり、幼児のころ母親よりも自分のほうが父親に愛されているという自信をもったりしたことが根にあるようだ。自尊心を傷つけられるのをギャルはなによりも恐れる。破壊しない程度に刺戟すれば、プライドをまもるために彼女は向うから遠ざかってゆくだろう。 「フラれるよりさきにフッてやるわ。みじめな立場になりたくないもん」  こんな心境でいるギャルは多い。  オジサンは甘んじてフラれるべきである。面子《メンツ》にこだわるのはおろかである。未練にとらわれるのはもっとおろかである。 「きみがそういうなら仕方ないな。残念だがあきらめるよ。きみにはすばらしい思い出をつくってもらった。一生感謝しているよ」 「いつまでもきみをひきとめておくわけにはいかないと思っていたよ。いさぎよくひきさがろう。今後はきみが倖せになるよう、陰ながら見まもっているよ」  別れを経験したOLたちからきいた、オジサンたちの台詞《せりふ》である。  いいことをいうではないか。内心バンザイをさけびながら、悲しげにこんな台詞を口に出すオジサンたちに敬意を表したい。別れはこんなふうにありたいものだ。  徐々に下地をつくっても、彼女のほうから別れをいいださない場合がある。オジサンのセックスが彼女の生理にかなり深く組みこまれるとそうなる。こんな場合はオジサンのほうから切り出さねばならない。 「じつは女房にバレちまったんだ。いま家のなかはひどい状態でね。子供の手前もあるので自粛せざるを得ないんだ。当分会えなくなる。すまないが、わかってくれ」  これはまず基本形である。一時休戦のかたちで別れにもちこむ。  当分ではなく二度と会えなくなるのだが、真実を語る必要はない。きらいになったわけではないと強調するのが肝心である。 「じつはきょう部長に呼ばれて注意されちまったんだ。最近、おれたちのこと噂になっていたらしい。きみにも迷惑がかかる。自粛しよう」  すこし男はさがるが、やむを得ない。自粛は別れの代名詞である。サラリーマンの立場は彼女にもわかる。自分の評判にもかかわることだから、納得してくれるだろう。 「大阪へ転勤の内示をうけちまったよ。参ったな。きみとつきあっていたことをチクッたやつがいるらしいんだ」  電機メーカーの中村課長は、あおざめた顔で女子課員のT子にうちあけた。  T子と別れるなら転勤はとりやめにする。部長がそういっていたと、中村課長は苦しそうにつけ加えた。 「私、身を引きます。課長さんに悪いから」  T子は申し出た。中村課長の話がほんとうかどうか詮索する気はなかった。  商社の金沢課長は二年の交際をへて、女子社員のA子と別れ話をまとめた。 「申しわけないと思っている。せめてものプレゼントだ。気晴ししてきてくれ」  ヨーロッパ旅行のツアーに金沢課長はA子の名前で申しこんでおいた。費用はもちろん金沢課長の負担である。  A子は旅から帰って、以前と変りなく勤務している。金沢課長の悪口はいわない。  いたわりと感謝の念をもって別れよう。終り良ければすべて良し。軽薄にみえてもオフィスラブは結局誠意の問題である。 [#改ページ]  §2 オフィスラブ——甘い誘惑   First Night 聖夜の仔猫  ことしのクリスマス・イブは有名歌手のディナーショーの切符もあまり売れていない。ホテルの部屋も空《あ》いている。  バブル経済の破綻《はたん》で世の中の気分がひきしまった。女の子へのプレゼントを買うために若い男がブティックの店頭にむらがる光景もすでに過去のものとなった。  月曜日の朝、営業一課のミーティングで、課長がそんなことをいいだした。  小会議室で八時半からミーティングははじまる。課長以下男子十二名、女子五名の課員が全員顔をそろえる。一週間の仕事の打合せが建て前だが、後半はたわいのない雑談になるのが恒例である。 「すると、ことしのイブはひまなギャルが多いんだな。きみたちはどうなの」  井坂健一《いさかけんいち》は女子課員たちに訊《き》いた。  橋田文子《はしだふみこ》の予定を知るのに、ちょうどいい機会だった。  いやだあ。女子課員たちは首をすくめて笑声をあげた。彼女らはすみに固まっている。 「私、空いてまーす。バブル全盛のころからそうでした。ことしは完全に絶望だわ」  大沢三枝《おおさわみえ》が陽気に申告した。彼女は二十八歳。課長のアシスタントである。 「私、空き家です。去年からずっと」 「私もです。これ、ふつうなんですよ」 「ディナーショーなんてねえ。本命の彼とでなくては意味がないですよ。その本命がいないんだから」  女子課員たちはそれぞれ発言した。  橋田文子はほほえんでうなずいている。おとなしい子だった。小柄で、目の大きな、どこか淋《さび》しげな顔立ちである。  クリスマスの異様なブームは学生たちのファッションだった。マスコミのつくりあげた風俗にすぎない。サラリーマンやOLはせいぜいカラオケ大会の口実にイブを利用した程度だった。そんな結論になった。 「そうか。ではわが一課はイブに全員で食事会をやろうか。忘年会は部単位だから、課の食事会があってもいいだろう」  課長がいいだした。  男子課員はみんな一も二もなかった。女子課員はややためらったあと、全員が賛成した。二つ返事で承諾してはプライドにかかわるのだろう。  井坂健一はほくそ笑んだ。イブに食事会をやろうと課長を焚《た》きつけたのは井坂なのだ。 「幹事は井坂主任だ。いいだろう」  課長にいわれて井坂は胸を叩いた。  渋谷にいいイタリアンレストランがある。テーブルにろうそくを立てて食事させる。あそこならみんな満足するだろう。  ミーティングはそれで終った。小会議室を出て課へもどると、始業ベルが鳴った。オフィスが仕事のざわめきで満たされてゆく。  この会社は中堅の電子部品メーカーである。従業員は千五百名。青山のビルの五階に本社をおいている。井坂は三十六歳。課長まであと一息だった。男の子が一人いる。オフィスラブの経験はまだなかった。  橋田文子は去年井坂の課の所属になった。入社は四年まえで最初経理部にいたが、本人の希望で営業部へ移ってきた。最初から井坂は文子が気にいっていた。オフィスラブ初体験は彼女にしようとひそかにきめている。  文子は他人をおしのけてしゃしゃり出ることがない。おしゃべりでもない。仕事ぶりは誠実で正確である。まじめなのが難といえば難だった。ほとんど酒を飲まない。カラオケ酒場でもあまりさわがず、ひっそりとみんなの歌をきく。自分では歌わなかった。  井坂は文子に格別親切にしたことがない。むしろそっ気なくしてきた。そのほうがいざというとき効果的だという計算がある。好意を抱かれているかどうかはわからないが、嫌われてはいないはずだった。女子社員がいやがる下品な冗談をいわないように心がけている。  これまで社内には何組か不倫の噂の立ったカップルがいた。ご多分にもれずこの会社でも妻子ある男と女子社員の恋愛はタブーである。表面化すると男は左遷され、女は退職するのが通例だった。  だが、井坂の観察したところでは、結果の良し悪しは当事者の男が有能であるかどうかにかかっていた。社内不倫の噂を上司に追及されると、本人は当然事実を否定する。その男が仕事のできる人間であれば、上司は弁明をうけいれる。仕事のできない人間の場合は弁明を信じないで飛ばしてしまうのである。  不倫の噂が立ったとしても、当の二人がセックスしている場面を見た者はだれもいない。噂がたんに噂で終るか事実として問題化するかは、すべて上司のサジかげん一つできまる。必要な人間を、会社は女の噂ぐらいで切りすてたりしないのだった。  その点、井坂には自信があった。業績はしっかりあげている。課長との人間関係も良い。ばれても切りぬけられるだろう。ぐずぐずしていると、橋田文子をだれかに奪《と》られてしまうかもしれない。入社四年近くたって、文子にもアバンチュールの期待が芽生えているはずだ。いまがたぶん潮どきだった。  クリスマス・イブは来週の火曜である。レストランの予約を井坂は終えた。  文子を射止めるために百パーセント、イブを利用する気でいる。下ごしらえをしなければならない。井坂は機会をうかがった。  火曜日の午前中、井坂は会社の廊下で文子とすれちがった。ほかにだれもいないのをたしかめて、井坂は彼女を呼びとめた。  井坂は文子に近づいた。内緒話をする恰好《かつこう》で、文子の耳に顔を寄せてささやいた。 「いつ見てもきれいだね。きみが最高だ」  おどろいて文子は井坂を見あげた。  赧《あか》くなり、笑みを顔にあふれさせた。 「主任ったら急に——。びっくりするじゃないですかア」  別人のように明るい声だった。  井坂は自信を得た。手をふってみせて彼女から離れた。何歩か歩いてふり返ると、文子は笑顔のまま見送っていた。  以後、オフィスで井坂はそれとなく文子を観察した。筋向いの、左へ四人目の席に彼女はいる。椅子にかけるとき、逆に席を離れるとき、文子は井坂を意識するようになった。電話をかけるときや、課長のまえに書類をもってくるときも、井坂の目に美しく映るよう動いているのがわかった。井坂と視線が合うと、ほほえんで目を伏せる。  これまで気にとめなかった相手から好意を示されて、はじめて相手を意識するということがある。文子の場合がそれだった。内気なギャルの性は攻撃されてはじめて目をさます。みだりに男に関心を抱いてはならないとの意識にそれは抑えこまれている。  二日後、文子が一人でコピー室にいるとき、井坂は二度目の攻撃をかけた。作業中の彼女の手許を覗きこみながら、 「ミーティングで食事会の話が出て、しまったと思ったよ。きみに予定がなかったら食事にさそおうと思っていたんだ」  と、話しかけた。仕事の話をする口調でそれができた。  文子は赧くなった。機械から吐きだされる書類をそろえながら返事をした。 「早くさそってくだされば良かったのに。いまから断われないわ」 「食事会は仕方ないが、二次会はどうせカラオケだろう。ぬけだして合流しよう。どこかいい店の予約をとっておくよ」 「主任って意外とプレイボーイなんですね。でも、そんなことをして変に思われないかしら」 「きみなら大丈夫さ。家でイブのパーティをするといえばいい。おれはどうにでもなる」  文子はだまりこんだ。しばらく考えてから、大きな目に力をこめて井坂をみつめた。 「主任、ほんとうにいいんですか。私、主任にさそわれるなんて夢にも——」 「去年もしようと思ってできなかったんだ。勇気がなかった。でも、ことしはちがう」 「どうしてことし変ったんですか」 「心配になったんだ。そろそろきみをだれかに奪《と》られそうでね。ずっとあせっていた」 「私まだ半信半疑です。うれしいけど」 「よし。これできまった。合流する場所はあとで連絡するからね。生れてはじめておれ、有意義なイブをすごせそうだな」  井坂はコピー室を出た。  顔が火照《ほて》っているのに気づいた。なんといってもはじめてのオフィスラブなのだ。  食事会はぶじに終った。クリスマスソングが流れ、テーブルでろうそくの火が揺れるレストランにみんな満足していた。  店を出て二次会のカラオケ酒場へ一同は向かった。文子だけがさきに帰った。家族パーティの話を疑う者はいなかった。  カラオケ酒場で課長はまっさきに井坂を指名した。子供が急に熱を出した。早く帰ってやらねばならないと、昼間のうちに課長へ申告してあった。 「調子が出ると子供のことなんかわすれますからね。ブレーキをかけてください」 「わかった。一曲歌ってすぐ帰ってやれ」  課長は子煩悩《こぼんのう》である。こういうときは子供をダシにするのが一番だった。 「夢の中へ」を井坂は歌った。つぎの歌がはじまったとき、そっと店をぬけだした。うなずいて課長は見送ってくれた。  タクシーで六本木のスナックバーへいった。馴染《なじ》みの店である。更衣室で、あずけてあったクロード・モンタナのスーツに着替えた。肩の張ったチャコールグレーの服である。ネクタイもシャツも華やかなものに変えた。ソフトをかぶり、アルマーニのコートを着た。われながらダンディになった。  近くのワインバーへ井坂は入った。すみのシートで橋田文子が待っていた。ちらとこちらを見たが、井坂だと気づかずにいる。  だまって井坂は文子のとなりに腰をおろした。咎《とが》める目つきで井坂を見て、文子は声をあげた。彼女に井坂は笑いかけて、立ってコートをぬいだ。 「わあびっくりした。どこで着替えてきたんですか。見ちがえるじゃないですかア」 「夜はおれ、人格が変るんだ。板につかないかもしれないけど、好きなことをやる」 「板についてますよオ。いいコーディネート。サラリーマンじゃないみたい」  井坂はふだん、あまり服装にかまわないほうである。  どうやって文子を魅きつけるか、考えたすえ思い切って面目《めんもく》を一新した。ファッション誌を参考に服装をととのえた。職場の自分とちがう自分を見せなければならない。新鮮さに魅かれるのは男も女も同じである。 「失敗したわ私。着替えてくるんだった」  文子は自分の服に目をやった。  淡いベージュのスーツを着ている。おだやかなトーンで一見目立たないが、洒落《しやれ》たデザインの服だった。 「いい服じゃないか。なんというブランド」  訊かれて文子はあるブランド名を答えた。井坂の知らないブランドだった。  ワインバーも今夜は予約制だった。例のミーティングの直後申しこんで席をとった。  料理とワインがセットになっていた。食事を控え目にしたので、すこしはたべられる。二人はグラスを合わせた。 「いまごろみんな盛りあがっているでしょうね。××さん、歌ってるかしら」 「会社のことはわすれよう。すばらしいイブだ。きみといるなんて夢みたいだよ」 「主任、スーツだけではなくて、会社にいるときとは別人みたい。会社ではもっと冷たい感じがするわ」 「仕事に追われて余裕がないからさ。でも、夜は自由人になる。自分ひとりのときにかぎってだけど」 「私、主任のかくれた面を知ったのね。うわあ楽しい。私、うちの会社の男性は型にはまった人ばかりだと思っていた」  文子は声をはずませた。たちまちグラスをあけ、二杯目にとりかかる。  井坂は井坂で他人の知らない文子を見た思いだった。会社で文子はいつも身構えている。どこか周囲に馴染めないものがあって、本音をかくしているのかもしれない。  しばらくとりとめのない話をした。恋人はいるの。井坂は訊いてみた。文子はかぶりをふった。男友達は何人かいる。だが、恋人といえるような相手はいないという。 「わが社にはこれはと思う男はいないの?よくさそいはかかるんだろう」 「私、職場の男性ってだめなんです。その人の将来がどうなるか、ぜんぶ見えてしまうところがあるでしょ。夢を感じないの」 「そうか。ではおれもだめなのか」 「主任はちがいますよう。職場にいるときと全然ちがう面をもっておられるもの。好奇心にかられるわ。私の知らない世界を見せてくれそうな感じがする」  文子はさらにワインを飲んだ。  グラスをもつ手がサマになっている。上手に料理をたべる。案外あそび馴れたギャルなのかもしれない。 「おれ、きみにも会社にいるときとちがう面があるような気がする。そこに魅かれたんだ。どこか神秘な香りがする」 「そうですかア。べつに猫をかぶってるわけじゃないんですよ。でも、会社ってきらい。男の人は型どおりだし、女性は人の陰口ばかりいっている」 「結婚したら辞めるのか」 「さきのことは考えてません。自分でなにか仕事ができれば一番いいんだけど」  すこし文子は酔ってきたらしい。  目がうるんできた。忘年会などでは飲まないのに、きょうはちがう。積極的に自分を解放したい気持になったようだ。  とつぜん文子は立ちあがった。 「主任。ディスコつきあってください。久しくいってないの。私、発散したくなった」  さっさと文子は出口のほうへ歩きだした。  いそいで井坂はあとを追った。文子は乗ってきたらしい。かるい足どりで歩いた。やがて、腕をからみあわせてくる。 「主任、スキーできますか」  文子に訊かれて、井坂はうなずいた。上手ではないが、人なみには滑れる。  高校と短大で文子はスキー部に所属していた。ほうぼうの雪山をめぐった。会社に入ってからも、冬は毎年十日間ずつ休みをとって滑りにゆく。 「そうなのか。こんどいっしょにいこう。教えてくれよ。最近、腕が落ちた」 「主任、私が営業部へ移ってきた理由、ご存知ですか。なにかきいていません?」  とつぜん文子は訊いた。  井坂はかぶりをふった。なにかわけがあるのか。訊いてみたが、あいまいに笑って文子は答えなかった。  ディスコは超満員だった。踊っている者よりギャラリーが多いくらいである。ライトが消え、チークタイムになってから、人混みをかきわけて二人は抱きあった。周囲のカップルはみんなキスしながら揺れている。  井坂は文子の腰を抱きよせた。二人の腕がぶつかりあって甘いひびきを立てる。  キスしていいか。訊くと彼女はうなずいた。くちづけをかわした。舌でさぐると、文子は舌でこたえてきた。文子の体は起伏がはっきりして、弾力にあふれている。  顔を離すと、文子はため息をついた。井坂の胸に頬をおしあてる。ああ、やっと安心できる人にめぐり会えた。彼女はつぶやいた。 「スキーってお金がかかるでしょう。私、この近くのパブでバイトしてたんです。週に三日。スイスへ滑りにいこうと思って」  とつぜん文子は告白をはじめた。  一年ばかりホステスをやった。ある日、偶然経理部の社員が三人店に入ってきた。かくれるひまもなかった。肚をきめて三人の相手をした。三人とも四十代の社員だった。 「だれにもいわないって彼ら約束してくれたわ。でも、代償を求められたの。順番に三人とつきあえっていうのよ。私、頭にきて会社なんかやめてしまおうと思った」  課長に事情を話すと、引きとめられた。  営業部へ籍を移してくれた。仕事ができるので、惜しまれたわけだ。 「そうだったのか。きみをよく経理部が手放したと思ったよ。しかし、経理のやつら最低だな。どう仕様もないな」 「やっぱり私、一度スイスへいってみたいの。がんばって資金をつくろうと思って」  暗闇《くらやみ》のなかから、猫のように大きな目が井坂を見あげている。  吸いこまれるようにまたくちづけした。文子の体から力がぬけていった。  一時間後、赤坂のファッションホテルの部屋に二人はいた。一泊分の前金を払って予約しておいた部屋である。  さきに井坂が風呂へ入った。ベッドで待っていると、文子が浴室から出てきた。裸身にバスタオルを巻きつけている。ベッドライトのあかりを文子は小さくした。  手をのばして井坂は文子の体からタオルを剥《は》ぎとった。起伏のはっきりした裸身が淡いライトに染まってあらわになった。スポーツギャルであるせいか、乳房は小さ目である。だが、腰がひきしまり、尻からふとももにかけての曲線がふるいつきたいほど美しい。  身をちぢめて文子は井坂のとなりへ飛びこんできた。両手両足で抱きついて、井坂の口へくちびるを押しつけてくる。昼間の彼女からは考えられないほど積極的だった。  文子のそこをさぐってみる。熱い泉があふれていた。望みのものへとうとう手がとどいた。部屋にクリスマスソングのBGMが流れている。これ以上の贈り物はない。  しばらく井坂は指をつかった。文子は声をあげてたちまち頂上にたっした。性を懸命におさえつけていた女の反応だった。  起きて井坂は文子のひそかな贈り物へくちづけしようとした。だが、文子は井坂をおさえつけた。自分のほうが起きて、きちんと正座して井坂の下腹へ顔をふせてくる。口にふくみ、ゆっくり頭を動かしはじめる。  井坂は文子に見惚れた。白い仔猫が一人であそんでいるようだと思った。  文子は愛撫《あいぶ》を中止して、大きな目でじっと井坂をみつめる。うれしいです。告げてからあらためて顔をふせてきた。   Second Night 二人だけの忘年会  一次会の会場は、梅田のKビル最上階にある中華レストランである。  忘年会は午後六時からだった。佐野英一《さのえいいち》は早目にKビルへ着き、近くの路地に身をひそめて表通りを見張った。  第一営業部の社員たちが三々五々やってくる。会社はここから歩いて五分の距離にある。みんな解放感にあふれた表情だった。  今村純子《いまむらじゆんこ》がやってきた。予想どおり仲のよい小川光代《おがわみつよ》と二人づれである。佐野は路地から出ていって、純子らと偶然いっしょになったような顔でKビルへ入った。 「この中華レストランは最近開店したばかりらしいね。きみたち、きたことがあるの」  中華レストランの専用エレベーターのまえで佐野は純子たちに話しかけた。  純子たちはかぶりをふった。おいしいんですか。小川光代が訊いた。 「味はともかくとして、お洒落な店なんだそうだ。中華料理というより、フランス料理という雰囲気らしいぞ」  話しながら三人でエレベーターに乗った。  まっすぐ最上階へ運ばれた。純子に近づくことができて、佐野はハードルを一つ越えた思いだった。  医薬品の専門商社、P商事の第一営業部二課に佐野は勤務している。今村純子は一課の所属だった。仕事に直接関係がないので、佐野は純子と口をきくことがめったにない。  純子はおとなしい子だった。口数がすくなく、はしゃいだり大声で笑ったりするところを佐野は見たことがない。昼休みはいつも二課の小川光代といっしょに外へ出てゆく。光代もおとなしい子である。二人して、まるで人目をしのぶように行動する。  純子はあまり目立たないが、ととのった上品な顔立ちである。ほっそりした体つきで、脚がとくにきれいだった。色白なのも佐野の好みである。なによりも、まだ男を寄せつけたことのないような清潔な雰囲気がある。  二年まえ、純子が入社してきたときから、佐野はひそかに彼女をマークしてきた。近づくチャンスがあれば、気軽に声をかけた。だが、たいていそばに小川光代がいた。純子と話をしたくとも、光代をつうじて話すかたちになることが多かった。  純子のほうは、まるで男を恐がってでもいるように佐野と視線を合わさなかった。彼女が一人のとき声をかけても、二言三言口をきいただけで逃げるように立ち去ってしまう。男の社員のだれに対しても、似たような態度である。男たちは鼻白んで、積極的に彼女をさそう者はいなくなった。  純子は男を意識しすぎている。関心がありすぎるから、男と向かいあうと緊張してしまうのだ。佐野はそう睨《にら》んでいる。  純子のような女は、いったん心をひらいてしまえば、人が変ったように貪欲《どんよく》にセックスをむさぼるにちがいない。口も固い。オフィスラブの相手としては絶好の女である。  ぜひ純子を抱いてみたい。忘年会はそのチャンスである。今夜こそ彼女に接近して、親しくなる手掛りをつかまなければならない。  佐野は三十九歳。営業二課の課長代理である。これまで二度、オフィスラブの経験がある。相手は二人とも、佐野とひそかな交際をつづけたあと、ぶじに結婚退職していった。  こんどもうまくやれるはずだ。佐野はことし課長に昇進できる心づもりだったのに、結局実現しなかった。新しい恋人をつくってゲンなおしをしたいところである。  クロークにコートをあずけて、佐野は純子らといっしょに会場へ入った。  会場の下見はしてあった。ひろいフロアに六人分のテーブルが十組用意されている。見晴しのよい窓ぎわのテーブルには、すでに二十人ばかりの社員が顔をそろえていた。 「ここにすわろう。窓ぎわは偉い人が多くて窮屈《きゆうくつ》だぞ」  純子らに佐野は椅子をすすめた。  二人は向きあって腰をおろした。だれといっしょのテーブルになるか、純子らは不安だったはずである。佐野のすすめは渡りに舟だった。純子のとなりに佐野は腰をおろした。  まもなく会場は、第一営業部の約六十名の社員でいっぱいになった。部長や課長は予想どおり窓のそばに陣どった。佐野のテーブルには、ほかに三十代、四十代の社員が三人、佐野に招かれて腰をおろした。  部長のスピーチのあと会食になった。ビール、ウイスキー、日本酒、紹興酒《しようこうしゆ》がそろっている。男の社員と談笑しながら、佐野はときおり純子らにビールを注いでやった。  男たちのなかで純子も光代も小さくなっている。彼女らが話に乗ってこないので、男どうしの会話が活発になった。 「きみ、こういう席は苦手なんだろう」  小声で佐野は純子に話しかけた。 「はい。なんとなく緊張します」  純子は答えた。それでもビールのせいで、表情は明るい。 「飲んでリラックスすればいいんだ。こういうときは早く酔ったほうが勝ちだよ」  熱い紹興酒を佐野は純子と光代に注いでやった。おそるおそる二人は飲んだ。 「今夜、おれすごくハッピーなんだ。きみのとなりにすわれたからな。以前からきみと飲みにいきたいと思っていた」  いきなり佐野は切りだした。  光代はとなりの男と話しあっている。ほかの男たちも会話に夢中である。まさか目の前で佐野が純子を口説いているとは思わない。 「私と——。信じられへんわ。ほかにきれいな人がたくさんいるのに」 「にぎやかなギャルにはうんざりしているんだ。しずかに話のできる人がいい。おれ、ずっとまえからきみを意識していた。仕事中、ふっと気づくときみに見惚れているんだ。知らないうちにぼんやり見ている。ああ、おれ惚《ほ》れているんだなあと思わされる」 「————」 「おれの視線に気づいていただろう。それとも全然意識しなかった?」 「いえ、多少は。けど、佐野代理は遠くの人やと思うてましたから。まさか私に」  純子は紹興酒を飲みほした。とつぜんの告白に動揺しきっている。  すかさず佐野は注いでやった。純子は飲んで、ちらと光代をうかがった。親友がじゃまな存在に思われだしたらしい。  しばらく佐野は男たちとの会話に加わった。ころあいを見てまた純子にささやいた。 「きみ、ほんとうは明るい人なんだろう。小川さんと話しているときは、たのしそうな顔をしているもの。おれにも素顔を見せてくれよ。飲んで、リラックスして」 「はい。すこしまわってきました」 「飲めるんだろう。こんどつきあってくれよ。カラオケのないしずかな店へいこう」 「はい。つれてってください。歌わなくてもいい店なら、いきたいです」  純子はカラオケが苦手である。  忘年会でも新年会でも歌を指名されて、泣きそうな顔になった。だれかといっしょでないと、けっして歌わない。音痴《おんち》ではないのに、萎縮《いしゆく》してうまく歌えないのだ。 「佐野代理、登山がお好きやそうですねえ。光代さんからききました」  やがて純子がいいだした。  佐野はうなずいた。とくに登山が好きというわけではない。山歩きの好きな友人にさそわれて二、三度信州へいったことがあるだけだ。光代にはいかにも山男のような話をしておいた。自分だけの世界をもつ男に若い女は魅かれることが多いのだ。 「山歩きなんて最近流行らないだろう。変人だといわれるよ。なにを好んでしんどい思いをするのかわからないって」 「佐野代理は男らしい人やって光代さんがいうてました。小さなことをうるさくいわないし、失敗したらちゃんと責任をとる人やて。山登りする男性ってそうなんでしょう」 「どうかな。そういわれて悪い気はしないけどね」  また佐野は紹興酒を注いでやった。  自分と同じ課の光代にはふだんから親切にしている。光代をつうじて良い噂《うわさ》が純子の耳に入るようにするためである。効果はあった。光代にときおり山の話をしたのも良かった。 「きみと志賀高原あたりを歩いたらいい気持だろうな。いつも夢見ているんだ。空気がきれいで、いろんな花が咲いている。仕事をわすれて、ゆっくりと歩く」 「いいですね。いってみたいわ。けど私、歩くの苦手なの」 「疲れたらおんぶしてやるよ。来年の春いこう。まじめに計画しておいてくれよな」  純子は答えずに酒を飲んだ。  夢を見る表情になっている。酔いとともに高原のイメージが浮んできたらしい。 「カラオケ大会、きみ苦手だろう。終ったら二人で飲みなおそうや。今夜はおそくなってもいいんだろう」  佐野はささやいた。北新地のZホテルのロビーで待ちあわせることにした。  午後十時、二次会のカラオケ大会が終った。三次会への部長のさそいをことわって、佐野は一人でZホテルへいった。  ロビーのソファで待っていると、今村純子がやってきた。佐野を見て、首をすくめて笑った。すでに二人は共犯者である。  光代と純子は帰りの方角がちがう。光代と別れるのにさほど苦労はなかったらしい。 「ミナミへいこう。このあたりをうろうろして、だれかに会うとまずいからな」  ホテルのまえでタクシーに乗った。まだタクシーのひろいやすい時刻である。  純子は酔っていた。二次会でめずらしく明るかった。カラオケの出番は光代との合唱でぶじに済ませた。純子に関心があるのを他人にさとられてはいけないので、佐野は彼女からやや離れた席にすわった。ときおり二人はみつめあって微笑をかわした。 「ほんとうに来年の春、いっしょに山へいこう。約束してくれ」  佐野がささやくと、純子はうなずいた。  佐野はひそかに力を得た。登山に同行しても良いということは、佐野と深い関係になっても良いということである。直接口説くよりも旅などにかこつけて口説くほうがうまくいきやすい。きょう、あすという話でないから、純子もOKしやすかったのだろう。  彼女の肩へ佐野は腕をまわした。すなおに純子は体をあずけてくる。しなやかな体の重みが佐野をあやしい気分にさせた。  佐野は純子にくちづけした。純子は応じてきた。運転手に気がねして、すぐに佐野は顔を離した。純子の呼吸が速くなっている。思ったとおり性に弱いギャルのようだ。  宗《そう》右衛門《えもん》町の堺《さかい》筋に近いあたりで二人は車をおりた。夜空のネオンが花畑のようだった。酒場ビルの地階にあるパブへ佐野は純子をつれていった。  カウンター席に腰をおろして、二人はブランデーを飲んだ。  忘年会の流れらしいグループの客が大きな声で談笑している。ふだんはしずかな店なのに、今夜はまるで情緒がなかった。 「ああ、酔うてしもた。私、会社へ入ってからこんなに酔うたの、はじめてです」  純子は目をおさえた。そのまま体をあずけてくる。  ほんとうに酔ったのか、ホテルへのゴーサインなのかまだわからない。 「会社の若い男にさそわれることがあるんだろう。たまには飲みにいくのか」 「若い人、私、だめなんです。ギラギラしてるから。話してて息がつまるわ。下心が見え見えやもん」 「おれはどうだ。ギラギラか」 「佐野代理なら私、安心できます。頼りになるもん。私、そういう人が欲しかったの」  純子には妹が一人いるだけである。  父親しか身近な男性がいない。父親は印刷所を経営している。金にこまかいし、娘たちの素行にうるさい。純子は反撥《はんぱつ》していた。  女子大の付属中学へ純子は入った。短大まで同級生はすべて女だった。二十歳になってから二度恋愛したが、うまくいかなかった。  最初の男は一流大学の学生だった。エリートを鼻にかけた、わがままで思いやりのない男だった。純子のほうから別れた。  二度目の男は広告代理店の営業マンだった。魅力はあるが、プレイボーイだった。夢中になってわれに返ると、相手には別の女ができていた。純子はひっこみ思案になった。 「私、不器用なんです。男の人の気持がよくわからないの。男の人って変るでしょ。関係ができるまえとあとと、いうことが全然ちがってくる。ついていけないわ」 「よし。いままでの男に欠けていたものをおれがカバーしてやる。精一杯きみを大事にするよ。今夜で過去をすべてわすれろ」  純子の手を佐野は握りしめた。 「佐野代理、いままで会社の女性とつきあったことあるんですか」  ねむそうな声で純子は訊いた。  ねむそうなのはうわべだけである。緊張して返事を待っているのがわかった。 「あるよ。きみみたいな、しずかな子だった。きみほどきれいではなかったけど」  一度しか経験のないようなことを佐野はいった。正直である必要はない。 「そのかた、どうしたんですか」 「会社をやめて結婚したよ。もう四年まえになる。倖せにやっているよ」  安心したように純子は体を寄せてくる。ああ酔うた。強調するようにつぶやいた。 「この店はうるさいな。しずかな場所でゆっくり話をしよう」  純子の腕をとって佐野は立った。  そこを出て、純子の肩を抱いてしばらく歩いた。日本橋のホテル街へ入る。暗い路地であらためてくちづけをかわした。こんどはていねいに舌で純子の口中をさぐった。立っていられないほど純子はあえいだ。  ホテルの部屋へ二人は入った。ソファに純子はくずれ落ちて、両手で顔を覆《おお》った。バッグを足もとに投げだしている。 「シャワーをあびておいで」  声をかけると、純子は両手を顔にあてたままかぶりをふった。あとにするという。  佐野は服をぬいでバスルームへ入った。いそいでシャワーをあびた。タオルのガウンを着て外へ出た。純子はソファに横向きにかけて、背もたれに顔を伏せている。  純子のとなりに佐野は腰をおろした。こちらを向かせて抱きしめる。純子はたちまちみだれた表情になってあえいだ。服の上から胸をさぐられて、純子はふるえはじめた。  佐野は純子の服をぬがせていった。まかせきって純子はぐったりしている。白い上半身があらわになった。ブラジャーをとりはずすと、双つの乳房がはじけて出た。乳首が小さなわりによく盛りあがった乳房だった。  佐野は乳房を口にふくもうとする。とつぜん純子は立ちあがった。ぬいだ衣服を抱いて小走りにバスルームへ消えた。しばらくしてシャワーの音がきこえてきた。  ガウンをぬぎすて、ベッドに横たわって佐野は待った。十分後に純子が出てきた。裸身にバスタオルを巻きつけている。小走りにベッドへ近づき、両手をのばして倒れこんでくる。やっとさがしだした母親へ、迷子になった幼児が抱きつく姿のようだった。  二人は抱きあって、むさぼるようにくちづけをかわした。脚と脚をからみあわせた。純子の背中や腰や尻のかたちを、両手で佐野はたしかめた。純子は着やせするたちだった。ふだんはほっそりしてみえるが、抱いてみると起伏のゆたかな体である。  純子の耳や首すじに佐野はやさしくキスを這《は》わせた。同時に胸をさぐった。  いままで純子は性急な若い男しか知らない。中年男の手管を堪能《たんのう》させてやる責務が佐野にはあった。あせってはならない。ゆっくりとくちびると舌で純子の上体をなぞった。腋《わき》から横腹に移った。純子は甘い声をあげて、たえず体のどこかを動かしている。  いつのまにか毛布が床へずり落ちていた。 「きれいな体だな。まぶしいくらいだ。いまがいちばん美しい時期だろうな」  佐野は乳房を口にふくんだ。  吸ったり舌でなぞったりする。純子は声をあげはじめた。キスをつづけながら、佐野は純子の腰やふとももを右手の指で掃《は》くようにさすってやる。念入りにつづけた。  純子の声が高くなったり、低くなったりするようになった。佐野の右手が純子の女の部分に近づくと声は高くなり、遠ざかると低くなるのだった。純子は焦《じ》れている。若者とのちがいを思い知ったようだ。  佐野は体の位置をずりさげた。投げだされた純子の脚をひらかせて、中央にうずくまった。ふとももにキスを這わせる。下から上へゆっくりと移動した。内側をなぞると、純子は体を揺すりはじめた。  小さな草むらが佐野のすぐ近くにあった。その下方にやわらかな肉が左右から盛りあがって、ふっくらとした溝をかたちづくっている。そこへ佐野は徐々に近づき、ふれそうになると遠ざかる。あらためて下方からさかのぼる。何度もくりかえした。溝がしだいに濡れ、やがて暖い泉があふれだした。 「きてください。ねえ、きてください」  体を揺すって純子はあえいだ。赤ん坊のように顔をしかめている。 「きてって、どこだ。どこへいけばいい」 「お願い。いじわるしないで、きて」 「だから、どこへいけばいいんだ。どのあたりがご希望かね」  ここ。消えいるように純子はいった。  指でしめした。人差指と中指がするりと溝へすべりこみ、ゆっくりと上へひきだされる。指を追いかけるように泉があふれた。ここ。もう一度純子はつぶやいた。  佐野は純子の下肢をおしひらいた。溝の上端へくちづけにいった。遠い笛の音のような声を純子はあげる。佐野の舌が動きだすと、笛の音は切れ切れになった。  佐野は奉仕をつづけた。純子は泣きさけび、もがきつづけた。三度、快楽の頂上にたっした。もう休ませて。純子は哀願する。  佐野は上体を起した。純子が起きて佐野の下腹をさぐりにくる。制止してあらためてあおむけに寝かせた。位置をきめる。 「いいんですか。私、しなくても」 「今夜はいいよ。きみはじっとしていろ」  佐野は純子のなかへ入った。反りかえって純子は呻《うめ》いた。二人はみつめあった。  三次会で歌っている同僚たちを佐野は思いうかべた。優越感にかられて動きだした。   Third Night 二人だけの晴着  大阪に本社のあるR薬品工業は、一月六日が初出勤だった。  約五十名の女子社員のうち、四十名近くが着物姿で出勤してきた。  最近では、初出の日、女子社員が着物姿で出勤する風習のなくなった企業も多い。証券、金融など初日から業務に入らねばならない会社はとくにそうである。  だが、R薬品では古い習慣が温存されていた。薬品の業界は老舗《しにせ》が多い。各企業のオフィスは道修町《どしようまち》界隈に集中している。年賀、初荷など業界が足なみをそろえて正月の縁起をかつぐ傾向があった。  初出の日は事実上、仕事はない。午前十時から社長が、約三百名の本社社員のまえでスピーチを行った。あとは各部門でかんたんなミーティングがあっただけである。  社員たちは上司に挨拶したり、得意先まわりに出向いたり、出入業者の年賀をうけたり、漠然《ばくぜん》と時間をすごした。着物姿の女子社員があちこちで記念写真をとっていた。スキーにいく相談をしたり、正月の海外旅行の土産話《みやげばなし》をする者もいた。昼まえにはほとんどの社員がオフィスから姿を消した。 「さあ、ぼつぼついこうか。この時間になると腹がへってきたよ」  総務課長の石田修介《いしだしゆうすけ》は、近くにいた課員たちに声をかけた。  午後一時から総務部の新年会である。総務、秘書、株式、人事の各課があつまって、かんたんなパーティをやるのが例年の習慣だった。四時ごろまで飲んだり歌ったりして解散する。あとは盛り場へくりだす者、二次会、三次会へ流れる者など、思い思いに正月休みのケリをつけることになる。  石田は男子課員一人と女子課員二人をつれて会社を出た。堺筋でタクシーをひろい、大阪駅まえのビルに向かった。新年会の会場は、ビルの地階にあるパブレストランだった。  会場のまえへいくと、秘書課の女子社員が三人、入口で記念写真をとっていた。三人とも華やかな振袖姿である。  同じ秘書課の河原真弓《かわはらまゆみ》がそばで見ていた。カメラをかまえた若い社員が撮影に加われとすすめたが、真弓はかぶりを振った。  笑顔がやや歪《ゆが》んでいる。真弓だけがスーツを着ている。そのことにこだわっているらしい。真弓は母子家庭の娘だった。着物を買うほど家計にゆとりがないのだろう。  石田は真弓の肩を叩いた。さきに入ろう。会場の入口をあごで指した。救われたように真弓は石田のあとにつづいた。  パーティはバイキング方式だった。中央のテーブルに料理と酒が並んでいる。五、六人の社員がすみのテーブル席についている。 「ここにしよう。たまにはよその課のお嬢さんと同席したいよ」  石田は真弓に椅子をすすめた。  となりあって二人は腰をおろした。しばらくして株式課の若い社員と人事課の女子社員が残り二つの椅子についた。その女子社員もスーツ姿だった。  午後一時すぎに部長がやってきて、全員の顔がそろった。幹事役の人事課員の司会でパーティがはじまった。部長が型どおりのスピーチをし、みんなで乾杯する。  十五名の女子社員のうち十二名までが振袖姿だった。おかげで会場は華やかである。活発にみんなが談笑した。席を立つ者が多く、立食のパーティと似た光景になった。  カラオケのないパブだった。場内にはBGMが流れていた。昼間の酒はまわりが早い。何人かの社員がたちまち赤くなった。 「正月はどうだった。どこかへでかけた?」 「いえ、ずっと家にいました。元日には京都へ初詣でにいったけど。石田課長は」 「家族づれで四国へいってきた。二泊三日でね。車が混んで大変だったよ」 「お父さんはしんどいですね。でも、子供さんはよろこんではったでしょう」 「まあね。父親にどこかへつれていってもらったことが、子供には一番記憶に残るらしいからね。サービスせざるを得ないよ」 「いいですね。私、父についてはほとんど良い思い出がないわ。まだ小学校へ入るまえに家を出ましたから」  真弓は身の上話をはじめた。  真弓の父は証券会社へつとめていた。プレイボーイだったらしく、真弓が物心ついたころから母と喧嘩《けんか》ばかりしていた。  真弓が五歳のとき、父は会社をやめた。なにか事故を起こしたらしい。やがて家を去り、父母は離婚した。以後母親は小さな会社の事務員をして真弓を育てた。 「父の記憶って、タバコの匂《にお》いなんです。父に抱かれると、タバコの匂いがして、安心した気持になりました」  真弓はいって石田の手もとをみつめた。マイルドセブンを石田は吸っている。 「嫌煙権の時代にそういう子はありがたいな。きみは吸うの」 「吸いません。他人のタバコの匂いをかぐのが好きなんです」  真弓は赤くなった。ビールがまわったらしく、表情がゆるんでいる。  石田は胸のあたりがざわついた。真弓に好意をもたれているような気がした。  真弓は際立った美人ではない。だが、表情がいつも明るく、他人に良い印象をあたえる。常務の秘書をやっている。仕事ぶりは正確で、常務の気にいられていた。  短大を出て真弓は三年目である。母親と妹との三人暮しのせいか、仕事が終るとまっすぐ帰宅するようだ。昼休みには、一人で推理小説を読んでいることが多い。  石田は以前から真弓に関心をもっていた。真弓は背は中ぐらい。体のわりに頭が小さく、均整のとれた体つきである。オフィスのなかを歩く真弓の姿を見て、石田はふっと淫《みだ》らな想像をめぐらせることがある。  石田は四十歳である。まだオフィスラブの経験はない。容姿に自信がないし、バリバリのエリートというわけでもない。女子社員にモテる男でないのはわかっている。  まして真弓は常務秘書である。へたに声をかけて常務に告げ口されたりしては目もあてられない。とても食事にさそう度胸はなかった。忘年会などで口をきくことはあるが、ゆっくり話すのはきょうがはじめてだった。  若い社員も同じ恐れを感じるらしい。秘書課の女子社員にいい寄る者はめったにいない。おかげで重役秘書は婚期を逃しやすい。社長秘書はもう三十代の後半だし、専務秘書も三十代に入っている。  BGMがディスコ音楽に切り替った。若い男女社員が踊りはじめた。  着物姿の女子社員が競うように立って体を揺する。みんな晴着姿に自信をもっている。 「上手やわ。××さんなんか、ときどきディスコへいってるらしいですよ」  笑顔で真弓は見ていた。着物でない女子社員はすみのほうで踊っている。 「こういうの、おれ弱いよ。よっぽど酔わないと、あんなダンスはできない」 「私も。しずかに飲むほうがいいわ」 「では乾杯だ。きみとはフィーリングが合いそうだな」  二人は水割りのグラスをあわせた。 「終ったら、どこかで飲もうか」  思いきって石田はさそってみた。  グラスを口にあてたまま、真弓はうなずいた。飲み終って、明るく笑った。解放されたような面持だった。  二時間近くたった。会は流れ解散である。出ようか。小声で石田は声をかけた。真弓はうなずいた。目立たぬように会場をぬけだして、近くのビルのまえで落合う約束をした。  さきに石田が会場を出た。打合せた場所に立っていると、真弓がやってきた。 「まだ明るいですね。夜中と錯覚してたわ」  真弓はまぶしそうにしていた。  石田はうなずいた。どこへいこうかと思案しながら、タクシーに手をあげた。  心斎橋《しんさいばし》で二人は車をおりた。  南へ向かって心斎橋筋を歩いた。大変な人の波である。二人はしぜんに身を寄せあった。酒のせいで石田は大胆になっていた。  晴着のギャルが目についた。着物の似合う子はすくない。スーツのほうがよほど自然で美しくみえる。そのことを真弓にいおうとしたが、石田は思いとどまった。へたをすると真弓を傷つける恐れがある。  ブティックの専門店ビルがあった。石田はそこへ入っていった。日本人デザイナーの店のまえで足をとめた。 「バッグをプレゼントするよ。好きなのをえらびなさい。ただし予算は五万円以内」  ささやくと、真弓は目を大きくした。 「ほんまですかア。いいんですかそんな」 「大したことはできないけど、好意のしるしさ。うけとってくれよ」 「いいんですか。わあ私、夢みたい」  真弓はまっ赤になった。しばらく考えたすえ、店に入った。  十分ばかりかけて真弓はバッグをえらんだ。三万円のものだった。遠慮するな。けしかけて石田は五万円のに買い換えさせる。  店の袋に真弓はそれまでのバッグをいれた。新しいバッグを手に歩きだした。 「こんなん私、はじめてです。男の人にプレゼントされるなんて。ことしは素敵な年になりそうやわ」  真弓は腕をからませてくる。跳ねるような足どりだった。 「でも、若い男はクリスマスなんかにプレゼントするんだろう。おれたちオジサンは、そんなことに馴《な》れてないが」 「若い人って私、だめなんです。頼りないわ。デートしてプレゼントして食事してホテル。パターンのとおりなんやから」  道頓堀《どうとんぼり》に二人は出た。  もう充分歩いた。ビヤホールへ入ろうと石田は提案した。 「それより映画見ません。××××というの、評判いいらしいですよ」  映画館のほうへ真弓は目をやった。  まだ明るいから情事の雰囲気にはなりにくい。映画はすばらしいアイデアだった。  特別席へ二人は腰をおろした。正月のせいか、わりに混んでいる。アメリカの恋愛映画だった。途中なので物語がよくわからない。  しばらくして石田はあくびをした。 「やっぱり酔っている。寝るかもしれない」 「どうぞ。私も眠いわ」  二人は身を寄せあった。  腕と腕がふれあった。真弓は腕をひっこめない。石田は心臓がやぶれそうになった。そんなに眠いわけではない。体を寄せあう口実のためにあくびをしたのだ。 「手を握ってもいいか」  思い切って石田は訊いた。  真弓はしのび笑った。彼女のほうから握ってくる。暗闇《くらやみ》で大胆になっている。  映画が上の空になった。真弓の手だけで石田は頭がいっぱいになった。掌《てのひら》が汗ばんでくる。ひざとひざもふれあっている。抱き寄せたい衝動にかられたが、石田は思いとどまった。功をあせってすべてを失ってはならない。  しばらくして映画はベッドシーンになった。白人の男女が激しい愛撫を交換する。石田は真弓の手を握りしめた。真弓も応じてくる。息をつめて二人は映画をみつめた。  場面が変った。出ようか。石田はささやいた。真弓はうなずいた。二人は立って、明るいロビーを出た。まぶしい——。つぶやいて真弓は手をひたいにかざした。  表通りで二人はタクシーをひろった。鶴橋《つるはし》、と彼は運転手に告げた。まだ明るいうちからホテル街の名をいうのは気恥ずかしい。 「焼肉たべにいくんですかア」  笑いながら、声をひそめて真弓は訊いた。  鶴橋には焼肉の店が数多くある。 「あとでね。まだ腹はへっていないだろう。その前に寄るところがある」  真弓の肩へ石田は腕をまわした。  鶴橋のすこし手前で車をおりた。南寄りの裏通りにファッションホテルがある。通勤電車のなかから見えるホテルだった。  二人は部屋に入った。室内はしずかで、黄昏の明るさだった。 「ああ、やっとおちついたわ。昼間って、やっぱり照れくさいですね」  テーブルのうえに、真弓は新しいバッグをそっとおいた。表情がこわばっている。 「もう夜さ。さあ、われわれだけの新年会をやろう」  二人は抱きあってくちづけをかわした。  たちまち真弓はみだれた顔になった。そりかえって、あえいだ。くちづけを終えると、床へくずれ落ちてしまいそうになる。両手で石田は真弓の腰をささえてやった。二人の腹とふとももが密着して、甘美な音楽のような感触を伝えあった。  椅子に石田は真弓を腰かけさせた。バスルームで入浴の支度をする。入りなさい。すすめると真弓はすなおにドアのなかへ消えた。  気をおちつかせるために、石田はビールを飲んだ。夢を見ているような気分である。あらためて室内を見まわした。こんな幸運にめぐまれるなんて、つい三時間まえには夢にも思わなかった。  人生捨てたものではない。ことしはきっといいことがある。心の底からそう信じた。  真弓が湯をかぶる音がきこえた。石田はじっとしていられなくなった。服をぬいでバスルームへ入っていった。 「入ってきたんですかア」  真弓は湯のなかで石田を迎えた。ゆったりと脚をのばしている。  石田も湯のなかへ入った。真弓と並んで脚をのばし、肩を抱き寄せる。かるくくちづけした。耳にキスすると、真弓は目をとじて大きなため息をついた。 「以前からきみとデートしたいと思ってたんだ。気がついていただろう」 「はい。なんとなく。いつやったか、会社のそばでお会いしたでしょう。私ら三人やったのに、課長、私だけ見て笑わはったから」  一ヵ月ばかりまえ、石田は社用で外出して五時半ごろ会社へ帰った。  帰宅する三人の女子社員とすれちがった。笑って会釈をかわした。真弓のつれの二人がだれだったか思い出せない。 「会社の廊下で出会ったときもそうですよ。課長、いつでも私しか見ておられない。笑ってうなずかはるでしょ」 「気がつかなかったなあ。知らず知らずサインを送っていたのか」 「私、課長の笑顔好きですねん。飲みにつれていってほしいなあ思うてました。ほんまですよ」 「ありがたいね。おれなんかパッとしない男なのに、つきあってくれて」 「課長、まじめなかたやもん。きっと大事にしてくれると思うてました。私、そんな人がいいの。心をひらける人が」  石田は激しい感情にかられた。  あらためて抱きよせ、くちづけした。同時に胸をさぐった。ちょうど掌におさまる、やさしい形をしたふくらみだった。  抱きあっていると、暑くなった。二人は洗い場に出た。  腰かけに真弓の尻をおかせる。石田はうしろにまわって真弓の体に石鹸を塗った。両手でやさしくこすってやる。乳房を掬《すく》いとって愛撫すると、そり返って真弓は声をあげた。 「すばらしい体だな。バランスが良い。神さまの芸術品だ」  真弓のふとももへ石田は手をのばした。 「背はないけど、私、プロポーションにわりと自信があるんです。みんな晴着やったけど、服をぬいだら負けんと思うてました」 「それはわかっていたよ。きみは洋服のほうがいい。着物でかくすことはない」 「課長、きょう親切にしてくれはったでしょう。すごくうれしかった。救われたわ、晴着のないのってやっぱりみじめやったから——」  話し声が甘くくずれた。石田の指が、真弓の「女」をとらえた。  暖かい泉がそこにはあふれていた。石田の指の動きにつれて真弓の裸身がくねる。呼吸があわただしくなった。石田の肩に真弓は頭を乗せ、背中をあずけてくる。  終わってしまう、という意味のことを真弓は訴えた。かまわず石田は指を使った。やがて真弓は声をあげてあばれた。腰かけを跳ねとばしてタイルのうえに倒れる。  石田は彼女を抱き起した。体から石鹸を洗い流し、タオルで拭いてやる。よろめきながら立って真弓はバスルームから出ていった。石田は自分の体を洗った。  外へ出てみると、真弓はそなえつけのピンクのガウンを着て、椅子に腰かけていた。ビールを飲んでいる。石田はタオルを腰に巻いただけの恰好である。  石田はベッドに体を投げ出した。グラスをテーブルにおいて真弓は立ちあがった。 「似合うじゃないか。そのガウン。すごく可愛いぞ」  石田は真弓の全身をながめた。  短いガウンである。ふとももが半分しかかくれない。ふるいつきたいほど脚の線が優雅である。 「私の晴着ってこれね。これで充分やわ」  モデルのようなポーズを真弓はとった。  ベッドに近づき、倒れこんできた。夢中になって二人は抱きあった。  ガウンをぬがせるのが惜しかった。襟《えり》をひらいて石田は乳房を吸った。手をそえて丹念に快感をおくりこんだ。真弓は声をあげ、さっきと同じようにみだれた。  真弓の足もとへ石田はまわった。ひらかせると、ガウンのすそはひとりでに左右へすべり落ちた。真弓の「女」に彼は見惚れる。いつも想像していたものは、想像していたよりずっと美しくみえた。  石田は顔を伏せていった。くちびると舌で二度、真弓を頂上へ追いやった。  ガウンを着たまま、真弓は獣の姿勢をとった。晴着をおしわけて尻と美しい下肢がむきだしになる。晴着のおかげで、真弓の下半身にはなまなましい色香がただよった。  石田は真弓のなかへ入った。真弓の反応をさぐりながらゆっくりと動いた。  真弓は呻きはじめた。そのときになって石田は彼女の帯をとき、ガウンを剥《は》ぎとった。   Last Night 成人式——パエリアの日  正月休みが終って三日目の午後、中岡達夫《なかおかたつお》がふっと気づくと、営業一課には松本敦子《まつもとあつこ》がひとり残っているだけだった。  課長は会議中である。中岡をのぞく八名の営業マンは外まわりに出ていた。三名いる女子課員の二人は席を外している。いちばん若い敦子が机から机へ動きまわって、かかってくる電話に応対していた。  チャンスだった。以前から中岡は敦子と仲よくなりたいと思っていた。だが、同じ課で働いていても、他人に内緒で女子社員を食事などにさそうのはけっこう難しいものである。  機会がないまま、きょうまで一日のばしにしてきた。松本敦子は一昨年、高校を出て入社してきたギャルである。まだ虫はついていないらしい。  だが、敦子もやがて入社三年目を迎える。社会へ出た緊張感から解放されて、ギャルがつぎつぎに男性経験に走る時期である。ほうっておくと敦子も、だれか厚かましい社員に誘惑されてしまうだろう。このあたりで勇気を出して攻撃を開始しないと、後悔しなければならなくなる。  二年まえにもそんなことがあった。中岡は同じ営業一課のある女子社員に、ひそかに思いを寄せていた。一度飲みにさそって、せまってみるつもりだった。  だが、なかなかチャンスがなかった。たまに二人きりになるときがあると、こんどは度胸がなくなった。断わられそうで、気軽に声をかけることができない。三十五にもなって中岡は女に臆病《おくびよう》だった。好意を抱いている女とは緊張してうまく話せなくなる。  そのうち、その女子社員は恋人ができ、婚約して会社をやめてしまった。中岡はくやし涙にくれた。どうりでその女子社員は最初のうち中岡に親しげな笑顔を向けていたのに、途中から無視するようになった。あの時期に恋人ができたのだろう。中岡が早く行動を起していれば、婚約などせずにずっと中岡の恋人でいてくれたかもしれないのだ。  二の舞いを演じるようでは男でない。中岡は敦子が受話器をおくのを待って、 「松本さん、ちょっと」  と手招きした。  中岡は精密機械メーカー・K工業の営業一課の主任である。課長のすぐ前に机があった。松本敦子の机はいちばん下手《しもて》にある。席が離れているので、ふだんの二人はあまり口をきくことがなかった。  緊張した面持《おももち》で敦子は近づいてきた。目を大きくして中岡のまえに立った。敦子は小柄で、目の大きな、愛くるしい顔立ちをしている。セーラー服を着せたら、まだ女子高校生で通用するにちがいない。 「きみ、田舎《いなか》は長野県だったな。成人式はどうするの。帰って出席するの」  とっさに出た質問だった。ちょうど一週間後の水曜日が成人の日にあたる。 「いいえ、お正月に実家へ帰りましたから。成人の日が連休にでもなれば、帰ってスキーでもしてくるんですけど」  ぱっと笑顔になって敦子は答えた。  こんな気楽な話で呼ばれたとは思わなかったのだろう。  敦子は杉並区の叔父の家から通勤している。本人はマンションで一人暮ししたいのだが、親が許可しないらしい。敦子は長野県のある都市の大きな旅館の娘である。 「するときみ、成人のお祝いなしか。せっかく二十歳になろうというのに」 「そうなんです。友達もいないから、杉並区の式に出てもつまらないの。さびしい二十歳なんです」  敦子は手で涙をふくまねをして、しゃくりあげてみせた。  中岡は笑った。仔猫の愛らしい仕草を見たような気分だった。 「だったら、おれにお祝いさせてくれよ。当日招待する。コンサートにいって、食事して、楽しくやらないか」 「ほんとですか。うれしい。私、当日どうしようかと思って、なやんでいたの」  敦子は胸で両手を握りあわせて、おどりあがる仕草をした。  目を丸くして笑っている。感情表現がこれほど率直なギャルはめずらしい。おかげで敦子は子供っぽく見える。これまで男たちの標的になりにくかったのはそのせいだろう。 「でも、いいんですかア。中岡主任、お休みの日に家を出られるんですか」 「なんとかなるさ。それより一つ頼みがある。おれたちの成人式なんだから和服できてくれよ。きみの振袖姿が見たい」 「振袖だったら、初出の日に着ましたよ」 「もう一度見たいんだ。初出のときはきみの着物姿がいちばん可愛かったからな。それに着物をきていると、あの子は二十歳だと一目でわかる。いっしょにいるおれも、ちょっと肩身が広いじゃないか」  洋服をぬがせるより着物をぬがせるほうがスリリングだという魂胆《こんたん》はあった。  だが、正直いって実現させる自信はない。ぬがせるときのことは、あまり意識しないことにした。  女子課員の一人がコピー室からもどってきたので、二人は内緒話をやめた。敦子は大まじめな顔でパソコンを操作しはじめた。  中岡はすぐにプレイガイドに電話をいれた。十五日のコンサートの切符を当ってみた。手遅れだった。クラシック音楽の催しにわずかな空席があるだけで、ギャル好みのコンサートはどこも満員である。三ヵ所当ってみたが、結果は同じだった。  コンサートへ招待するといった以上、いまさら撤回もできない。出たとこ勝負で会うことにした。いざとなれば映画へゆけばよい。さきに食事して酒を飲ませてしまえば、あとはなんとかなる。中岡は決心した。  十五日になった。午後五時、二人は新宿駅東口の喫茶店で待ちあわせた。  約束通り敦子は振袖姿でやってきた。濃いグリーンの地に色とりどりの花をあしらった柄の着物である。祇園《ぎおん》の舞妓《まいこ》なんかよりはるかに美しいと中岡は思った。  付近のスペイン料理店の席を予約してあった。そこまでいっしょに表通りを歩いた。  街は賑わっていた。ゆききする人々が歩道からあふれそうだ。振袖姿のギャルにときおり出会った。彼女らはみんな数人づれである。若い男と二、三人ずつグループになっている者もいた。  振袖姿のギャルはみんな表情が明るい。きょうから大っぴらに好きなことができると思っている。人生、これからが大変だとは考えてもいない。 「みんな成人式の流れでグループなのよね。カップルなのは私たちだけ。ラッキー」  肩をすくめて敦子は笑った。 「おれはハッピーだよ。どのギャルよりも敦子がきれいだからな。鼻が高い」  人混みのなかで二人はしぜんに肩を寄せあっていた。  レストランへ入った。フラメンコギターの演奏の入る居酒屋ふうの店である。スペイン人の支配人が愛想をふりまいている。  パエリア、イカの墨煮、卵料理、肉料理を注文した。赤ワインで乾盃する。敦子は振袖をまくりあげてナイフとフォークを使った。いかにも意気ごんで食べている。 「まさか中岡主任にお祝いしてもらえるとは思いませんでした。最高の成人の日」 「おれもまさかきみとデートできるとは思っていなかった。ずっとまえからチャンスを待ってたんだ。気づいていたろう」 「なんとなくね。でも主任は女なんか問題じゃない、みたいな顔をいつもしてらっしゃるでしょ。さそってもらえるなんて、ありえないと思っていました」 「今後ときどきこうして会わないか。きみといっしょにいると、ほっとするよ。毎日の苦労が癒《いや》される」 「いつでもさそってください。私、田舎者でしょ。夜の東京ってほとんど知らないの。ほうぼう案内してくださいね」  敦子はパエリアを口に運んだ。  ああおいしい。幸福そうに咀嚼《そしやく》する。たしかに魚が新鮮で、味つけも良かった。 「パエリアってスペインのお赤飯みたいなものなんですか。見た目がきれいだわ」 「いや、ただの炊きこみごはんだよ。でも、きょうは赤飯と考えるほうがいいな。きみの大人になったお祝いの日なんだから」  ふっと中岡は食事の手をとめた。  女が初体験を済ませると、赤飯を炊いて祝うんだったかな。彼はつぶやいた。ほんとうにそんな錯覚にとらわれていた。 「いやだ。主任ったらなにを考えてるんですか。お赤飯を炊くのは初潮のとき——」 「ああ、そうだった。生理が大人の証明だった。初体験じゃなかった」  中岡は笑った。女のきょうだいがいないので、こんなことにはうとい。  敦子は赧《あか》くなって笑っている。ワインをお代りした。まだ赧くなろうとしているようだ。 「参考のため訊くけど、きみ、初体験は済んだんだろう。いつだったの。高校時代」  ごく自然に中岡は質問した。ちょうどいい工合に酔いがまわっている。 「いやあ、なにをいわせるんですか。気をつけてください主任。ほかの女性にそんなこと訊いたら、セクハラになりますよ」 「そうか。済まない。でも、敦子のこといろいろ知りたいんだ。おれ、敦子が好きだからな。毎朝きみの顔を見るのが楽しい」 「ほんとですか。嘘でしょう。××さんのような大人の色気のある人が好きなくせに」 「ああいう崩れた感じの女はいやだよ。あの子はあそびすぎだ。なにもかもこれから、というギャルがおれは好きだな。きみのような子がいちばん良い」  ほほえんで中岡は敦子をみつめた。  照れて敦子は肩をすくめた。勢いをつけてワインを飲みほした。  いってしまおうかな。敦子はつぶやいた。肩をすくめ、上目づかいに中岡を見る。 「なにをいうんだ。衝撃の告白か」 「そうなんです。でも、恥ずかしいわ」 「きかせてくれ。どんなことでもおれはおどろかないぞ。ひょっとするときみ、営業部長の愛人なのか」 「まさかあ。そんなんじゃないんです。じつは私——」  うつむいて敦子はしばらく間をとった。  やがて顔をあげた。中岡の耳に顔を寄せてくる。バージンなの。彼女はつぶやいた。 「なんだって——。ほんとか」  中岡は二の句が継げなかった。穴のあくほど敦子をみつめた。 「いやあ。そんな顔しないでください。穴があったら入りたいわ私。たまたまチャンスがなかっただけなんですから」  敦子は女子中学から女子高校へ入った。  男の子とつきあうチャンスがなかった。一人娘なので、両親の監視がきびしかったせいもある。卒業後も若い男性と親しくなったことがない。  男友達ができたとしても、地方都市は人目がうるさい。いっしょに街を歩くことさえはばかられる。敦子は高校を出ると、息のつまる地方都市から逃げだして東京へ出た。素敵な男性とのめぐりあいを期待して、いまの会社へ入った。だが、いままでは環境と仕事に馴染むのに手一杯で、男性と二人きりで食事をするチャンスもなかった。 「なるほど。そういうわけで未経験なのか。箱入り娘もつらいものなんだな」 「私、完全にバスに乗り遅れたんです。でも、こんなことって、女のほうから男性にお願いできるものでもないでしょ」 「そりゃそうだ。もしおれで良ければ、遠慮なく用命してくれ。よろこんでガイド役をつとめるよ。全力投球で実行する」  中岡はうわずっていた。とほうもないチャンスにめぐり会ったらしいのだ。  敦子はうつむいて笑った。うつむいたまま手をのばして、中岡の腕を二、三度叩いた。ガイド役に任命されたらしい。中岡は酒も料理も上の空になった。  二人とも食欲がなくなった。ワインをガブ飲みした。とりとめない会話をして、一時間以上そこにいた。話がついてすぐホテルへ向かうのも、恥知らずのような気がする。はやる心をおさえて中岡はねばった。  やがて二人は席を立った。よろめいて敦子はころびそうになった。中岡は腕をとってささえてやる。敦子の呼吸がみだれていた。酔いのせいか、期待と緊張のせいなのか、中岡は判断できなかった。  裏通りを二人は歩いた。ファッションホテルの立ち並ぶ一帯へ着いた。中岡は敦子の手を握りしめて一軒のホテルへ入った。  パネルで三階の部屋をえらび、エレベーターに乗った。部屋へ入ると、やっと中岡はおちついた。敦子の気が変るのではないかと、心配でたまらなかったのだ。  敦子はソファに腰かけて、上体をねじって背もたれに顔をふせている。着物が一分の隙もない感じをあたえる。早くぬがせてみたい。中岡は期待で息がつまりそうだった。向うははじめて。こちらは三十五歳。おちつかなければ、と自分にいいきかせる。  中岡はバスルームへ入った。蛇口をひねって湯を注いだ。外へ出て敦子のとなりに腰をおろした。彼女の肩へ腕をまわした。  敦子は顔をあげた。泣きそうな表情である。抱きしめると、ふるえはじめた。中岡はくちづけにゆく。無抵抗に敦子は応じた。舌をからみあわせても、口のなかをさぐっても、ただ茫然としている。  息づかいだけがあわただしい。くちづけをやめると、歯がカチカチ鳴っていた。身をちぢめている。少女のようにすくんでいた。 「さ、お風呂へ入っておいで。そしたら気持がおちつくから」  中岡はいいきかせた。敦子の手をとって立たせてやる。  着付けに心配はないということだった。敦子の帯を中岡はといてやる。くるくる回って敦子は帯から自由になった。  着物をぬいで、ソファにおいた。じゅばん姿になると、おどろくほど敦子は色っぽかった。表情はこわばっている。足もともふらついていた。さむそうに身をすくめて、敦子はバスルームの扉のなかへ消えた。  中岡は大きなため息をついた。さけびだしたいほど幸福な気持が湧いてくる。今夜の成功の原因を考えてみた。敦子を誘惑するために、ほとんど策はろうしていない。  成功の原因は、成人の日の休日をもてあましているギャルに声をかけたことだった。地方出身。まだあそび馴れていない。とくに親しい友達もいない。華やかな成人式の埒外《らちがい》にはじき出されて、さびしがっている。  しかも敦子はバスに乗り遅れたのを悔んでいるギャルだった。信頼のできる男性の近づいてくるのを待っていた。偶然、中岡はツボにはまったのだ。きょうを逃すと、永久にチャンスがなくなるような強迫感にかられて勇気を出したのが良かった。オフィスラブの成功は手練手管よりも、恋人を欲しがっているギャルをえらびだす嗅覚にかかっているらしい。  シャワーをあびる音がきこえてくる。バスルームへ入っていきたい衝動に中岡はかられた。だが、初体験の女の子には刺戟が強すぎるはずである。抑制するほうが無難だった。  中岡は服をぬぎ、浴衣に着替えた。そのときになって、アダルトビデオの装置があるのに気づいた。カセットをえらび、デッキに金をいれてスイッチを押してみる。中年の男と若い女の物語がはじまった。  画面の男と女はホテルへ入った。浴室のなかで、いちゃつきはじめた。  そのときバスルームの扉があいて敦子が出てきた。浴衣を着ている。顔をそむけてベッドへ向かった。アダルトビデオ上映中だとはまだ気づいていない。  中岡はバスルームへ入った。手早くシャワーをあび、体を拭いた。外へ出ると、部屋のあかりが消えていた。テレビのあかりが室内をぼんやり照らしだしている。敦子はベッドに横たわってビデオを見ていた。画面では男と女が全裸でからみあっている。  中岡は敦子のとなりに横たわった。すぐに敦子の浴衣をぬがせにかかる。起伏のはっきりした裸身が仄かに闇のなかにうかんだ。尻とふとももがよく発達した裸身である。 「下半身デブなの。私」  余裕をもって敦子はいったつもりらしい。だが、声がふるえている。 「ビデオをよく見ておきなさい。参考になるだろう」  中岡がささやくと、敦子はうなずいた。じっと画面に目をやっている。  敦子のわき腹、乳房、ふともも、と中岡はキスを這《は》わせていった。どこもさっぱりして、若々しく肌が張っている。乳房がとくに魅力的だった。乳首が小粒で固く、ふくらみにはゴムマリのような弾力がある。  女の部分へそろそろと中岡は手を這わせていった。敦子は足をとじようとして、おののきながらひらいた。ほどよくうるおっている。指で敏感な粒をころがすと、敦子はかぼそい声をあげた。しばらくつづけると、女の部分は小さな沼のようになった。 「痛いんでしょう。そっとしてね」  敦子の歯がまたカチカチ鳴った。 「大丈夫。これだけ濡れていたら、ほとんど痛みはないはずだ」  中岡は指で愛撫をつづけた。  ビデオ画面に目をやった。男と女が口で愛撫を交換している。肝心の部分にボカシが入っていた。敦子は凝視している。 「あれじゃ男の体がよくわからないだろう。さ、さわってごらん」  中岡は敦子の右手首をとって誘導した。  敦子の指がからみついてくる。しっとりと握った。じっとしている。中岡は手の動かしかたを教えてやる。下方のふくらみにもさわらせた。敦子は納得したようだった。 「ああ、馴れるとあんなに気持よくなるのね。あの女の人、泣いてるわ」 「敦子もすぐわかるようになるさ」  中岡は敦子のなかへ入っていった。ほとんど抵抗感なく、敦子は迎えいれてくれた。 ●初出=「オフィスラブ講座」は週刊現代'91年4月20日号〜10月12日号、「オフィスラブ——甘い誘惑」は週刊現代'91年12月28日号〜'92年1月25日号に「小説オフィスラブ講座」として連載。 ●本書は、一九九二年六月刊『オフィスラブ講座』(講談社ノベルス)を改題し、一九九五年五月に講談社文庫として刊行されました。