阿川 弘之 南蛮阿房第2列車 [#表紙(表紙.jpg)] 目 次  最終オリエント急行  カンガルー阿房列車  ニュージーランド幽霊列車  東方紅阿房快車  マッキンレー阿房列車  ニューヨーク国際阿房急行  夕暮特急  アステカの鷲  チワーワ太平洋鉄道  欧州モザイク特急 [#改ページ]  最終オリエント急行 「御存じでしょうが、オリエント急行がいよいよ廃止になります」  と、突然の電話が掛って来た。実はこれを機会に、うちで「オリエント・エクスプレス」の特集をやることになりまして、どうでしょう、乗ってごらんになる気はありませんか。——行って下さるなら、旅費は当方で負担しますがと言う。  耳よりな話と思ったろうと、人が思うのは御勝手だが、私は思わなかった。 「君、オリエント急行がなぜ廃止になるか知ってるんですか」  昔の「オリエント・エクスプレス」は確かに豪華な列車でした。詩人も音楽家も、ヨーロッパの富商、外交官、皇族やお姫さま、みんなが欧亜連絡のあの国際寝台列車に憧《あこが》れてイスタンブールへの旅をしました。文学にも映画にも取り上げられて世界にその名が高いんだけど、 「現実のオリエント・エクスプレスは、過去の栄光の残りかすなんだよ。食堂車もつけないぼろ汽車になり下っている。そうとは知らぬ阿呆《あほう》が、アガサ・クリスティやグレアム・グリーンの小説に惹《ひ》かれて時々乗りに行く。その種の物好きと東欧圏の難民だけ相手にしていても、採算採れないからやめてしまうんです。ぼろ汽車の最後を見届けるのも、企画としては面白いかも知れませんが、僕は鉄道に無知な阿呆と同列に見られたくないね。折角だが、乗ってみる気はありません」 「ちがうんです」  と、電話の主が言った。 「何がちがう?」 「時刻表に記載されてるオリエント・エクスプレスに乗ろうとは言っておりません」 「じゃあ何に乗るんですか」  聞いてみると、この五月下旬、オリエント急行が九十四年の歴史を閉じる日、スイスの旅行社が「郷愁のオリエント急行」なる特別列車を、チューリッヒからイスタンブールまで別に走らせる。 「昔ながらの一等寝台車食堂車を連結して、一九二〇年代そのままの華やかな姿によみがえらせて、客も全世界から募集した百人だけで」 「へえ」 「途中、大きな蒸気機関車にこいつを曳《ひ》っぱらせたりしてですね」 「ふうん」 「三人分すでに予約を入れてあるのですが、どうしても気が進まないと仰有《おつしや》るなら止《や》むを得ませんが」 「ちょっと待ちなさい、君」  |だぼはぜ《ヽヽヽヽ》と思われたくないけれど、餌《えさ》を見て気が変った。  次の日、電話の主の若い編集者が打ち合せにやって来た。名前を名のるのが「砂糖」に聞える。 「行くとして、砂糖君ともう一人は?」 「海苔《のり》です。カメラマンです」 「君とカメラマンの海苔と、一体どんな恰好でその列車に乗りこむつもりかね」 「恰好と言いますと?」 「服装ですよ。これは、君たちが考えてるより厄介な旅行かも知れないよ。一九二〇年代の再現ということになると、ジーパンで晩めしとは行かんかもしれん。車内で正装を要求される可能性がある」  スイスの旅行社へテレックスを打ってもらったら、果して背広では不可、夕食はブラック・タイと返信が来た。面倒な話だが仕方がない、砂糖と海苔はタキシードを用意し、私はその上羽織|袴《はかま》を用意し、かくて指定の五月某日空路チューリッヒへ到着した。  翌朝、時差ぼけの寝ぼけまなこで駅に行ってみると、乗客、報道陣、野次馬、プラットフォームはお祭り騒ぎの大|賑《にぎわ》いであった。燕尾服《えんびふく》の肩に赤いインコをとまらせた男が、古風な手廻しオルガンでブーカブーカとなつかしのメロディを奏でているのは、一九二〇年代のオリエント急行発車風景再現のつもりらしいが、くたびれた燕尾服の裾にインコの白い糞《ふん》がくっついていて、うんこしたインコが大男の襟首《えりくび》をかじる。  ニューヨークのCBS、ロンドンのBBC、フランス国営テレビのスタッフに日本のテレビ会社も一社加わって、しきりにこの光景を撮影中である。掲示板に「一〇時一〇分発、臨時列車。ベオグラード、ソフィア、イスタンブール行、特別オリエント・エクスプレス」と出ている。どんな華やかな特別列車かと待っていたら、間もなくのろりのろり後ろ向きで入って来たのは、一見して、道化楽師の燕尾服同様相当くたびれた代物であった。  博物館行きの国際寝台車がブルーの胴体に由緒ある「ワゴン・リー」の金文字を飾っているけれど、その金色文字は剥落《はくらく》しかかっていた。一とかけこそげ落して、記念に財布へしまいこんだ。九時から十時半にかけてこの駅を出るスイス国鉄のほかの列車の方が、ずっと清潔である。 「君の名前がお砂糖だからな。どうも話が甘くてきれいすぎると思ったよ。ずいぶん薄ぎたないねえ」  しかし、ヨーロッパの人々にとっては、明治村をきょうチューリッヒ駅頭に見るような一種特別の感慨があるらしかった。誰も彼もが、嬉しげになつかしげに笑顔で言葉を交していた。  東洋人の乗客は、首にカメラをたくさんぶら下げた海苔と、砂糖、私の三人しかいない。往年のオリエント急行を曳いたというあご髭禿《ひげは》げ頭の老機関士が一九三三年スイス製の電気機関車を運転する。やがて一同乗り終り、全|車輛《しやりよう》車齢四十年以上の姥桜《うばざくら》エクスプレスは、観衆の見送りをうけて定刻五分おくれの十時十五分、ピーともポーとも言わずにチューリッヒを発車した。  オリエント急行の歴史を書けば、イスタンブールが未《ま》だコンスタンチノープルと呼ばれていた時代に溯《さかのぼ》って長い長い話になるから、私自身の古い記憶だけでいうと、かつて二つのオリエント・エクスプレスがあった。シンプロンのトンネルを抜けてイタリア領を経由する「シンプロン・オリエント・エクスプレス」と、オーストリーのチロル地方を通る「アールベルク・オリエント・エクスプレス」。少年のころ、名前の響きの美しい「シンプロン急行」に憧れていたが、後年実際に乗ったのは「アールベルク」の方である。 「何だ、乗ったことがあるんですか」  と砂糖が言った。 「二十一年前、インスブルックまで、ほんの一部分だが乗った」 「そのころは立派でしたか」 「当時から薄ぎたなかったね。食堂車の窓にすき間風防ぎのねずみ色の毛布がぶら下げてあったよ。その後二系統の運転はやめになり、食堂車もつながなくなって、辛うじて命脈を保っていたのが、今度廃止される時刻表の『オリエント急行』——『ダイレクト・オリエント・エクスプレス』です。現行時刻表に載ってるのはシンプロン越えの奴で、この特別列車が『アールベルク急行』の道を走ってる。分りますか」  列車は美しくないけれど、チューリッヒ湖に沿うて走る沿線の景色は美しかった。ヨットが出ている。ライラックの花が咲いて、山に雪があって、首に鈴をつけた牛がいて、金色時計の教会の尖塔《せんとう》が見えて、しかし、あんまり見ているとチョコレートの箱のような気がして来る。線路わきのキロ・ポストで時速を計算してみるに、目下一〇五キロ、バアでアペリチーフを飲んでいたら、早くもスイスとオーストリーの国境駅であった。旅券の検査も何もしないけど、機関車がオーストリー国鉄の電気機関車に替る。  昼めしのテーブルにフランス国営テレビのサラが同席した。若いアメリカ娘だが、パリで働いている。父親がノールウエー系、母親がイタリア系、英仏独伊ノールウエーと、五カ国語に不自由がない。海苔と砂糖と私と三人共同で、こちらは二カ国語が怪しい。 「あ、いた」  と、サラが窓外を指さした。  フランス・テレビの雇ったヘリコプターが、谷間の空き地を離陸してオリエント急行を追いかけていた。雪の山々の間を列車にスピードを合せて飛ぶので、空中に静止しているように見える。一度、牧場の上をあまりに低く飛んで、びっくりした牛の群が四方へ逃げ出し、食事中の客を笑わせた。食事といってもイタリアのサラミ、生ハム、フエトチーネに始ってゴーゴンゾラのチーズ、菓子、エスプレッソで終る葡萄酒《ぶどうしゆ》つきの二時間コースだから、会社の昼めしを十五分ですませているお砂糖は、 「昔のヨーロッパ生活とはこういうもんですかね。映画では知ってたけどなあ」  文化ショックを受けたらしい。食べ終るころには間もなくインスブルック着であった。  ここで大部分の報道陣が下りる。下りてフィルムと原稿を本国へ急送する。空中撮影隊を収容したフランス・テレビ組だけが、イスタンブールまで全線同行する。  インスブルックは、チロルのまん中、山気の澄んだ古いきれいな町だが、二時間四十五分の停車中、さてすることもないので、市電で町を一と廻りして駅へ戻って来たら、となりのフォームにミュンヘン発ミラノ行のTEE(欧州国際特急)「メディオラヌム」85列車が、ドイツ国鉄の機関車に曳かれて到着するのが見えた。三分停車で十七時三十分発車。「メディオラヌム」はイタリア古代都市の名前で、さしずめ特急「あすか」号というところだろうが、装備は近代的、性能がよくて、時速一七〇キロ出す。一緒に見ていたレイルファンのドイツ青年が、にやッとして、 「ほんとはあちらの方がよっぽど豪華列車なんだ」  と言った。 「郷愁のオリエント急行」の客車は、フランス製あり英国製あり、ドイツ製イタリア製、第二次大戦前に使っていた中古の寄せ集めである。そのころ汽車の水洗便所などというものは無かったから、台車のはしっこに糞尿がひっかかっていてくさい。インスブルックを出たらぼつぼつ晩めし用のこしらえをしてなくてはならぬので、私たちも、一九三〇年英国メトロポリタン・キャリエージ社製造の七号車へ帰った。帰る途々《みちみち》、 「郷愁のということは、要するに古くさくてとろいということだな」  私は砂糖に言った。 「気に入りませんか。僕は面白いですがね。こりゃ、やっぱり相当豪華なもんです。興奮するですよ」 「いや、気に入らないわけでもない。面白いさ。しかしデッキのこの鉄板なんか御覧なさい。銹《さび》だらけで、銹落しをしたら穴があきそうだ。横浜岸壁の氷川丸のエンジンに火入れをして、郷愁の太平洋航路と称して走らせているような、多少そういう気がするだけです」  コンパートメントの扉をあけると、私一人の寝室で、床は赤い絨緞《じゆうたん》、壁板は古風なマホガニー材、花模様を描いた上にニスで艶出《つやだ》しがしてある。洗面器、洗面器の下に小便用のおまる入れ、大小の鏡、小型の扇風機。ただし扇風機は廻らないし、絨緞はすり切れているし、寄る年波の貴婦人といった趣がある。スイスの旅行社が差し入れてくれたカーネーションの花活けは代用のサイダー瓶《びん》であった。  ヴォルグルという田舎駅にとまって揺れなくなったのを|しお《ヽヽ》に、山間《やまあい》の小鳥の囀《さえず》りを聞きながら着替えにかかったが、探偵アルキュール・ポアロが乗ったのと同じ造りのヴィクトリア朝風コンパートメントで袴の着つけに苦労しているのは、やはり少しくお芝居のような感じがした。  ヴォルグルを出て、ようやく日が暮れる。シグナルの強い緑の光が車窓に迫って、赤に変ってうしろへ消えて行く。ケタトンタンタン、ケタトンタンタンと、列車はオーストリー領をユーゴの国境へ向って走っていた。夕食会に出る砂糖の恰好は、ホテルのボーイか貸衣装の花婿さん、私は羽織袴、海苔はタキシードの胸に仇討《かたきう》ちよろしく二台のカメラをたすきがけに掛けて、相当珍妙な光景だろうと思うが、こういう時ヨーロッパ人は「オオ」とか「ワァ」とか声を掛けたりしない。興味があっても知らん顔をしている。アメリカ娘のサラだけが、 「これ、何? これ、どうやって結ぶの?」  と寄って来て、私の袖《そで》や袴の紐《ひも》を引っ張った。  食堂車は二台のプルマン・カーを含む三輛編成で、正装の老若男女それぞれの席に白いナプキンを垂らして、メニューには物々しくイタリア人の料理長ファリチオーラ、主任ブリガッティの署名が入っていて、なるほど半世紀前の栄華の夢かと思うが、私は電気を消して蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》で物々しく食事をするのが苦が手である。 「先生は文句ばっかりで、ムードの無い人だなあ。折角乗ったんだからもう少し楽しんで下さいよ」  と砂糖が言った。  寄る年波とはいえプルマンの食堂車は立派なものだし、クリーム・スープ、鮭《さけ》の姿作りタルタル・ソース添え、ローストビーフ、味もよろしくなかなかの御馳走で、デザートのスフレにコックが青い炎を立てて見せると拍手がわくけれど、何ぶん羽織袴に英会話では食欲が減退する。コーヒーを断ってひとり早目にバアへ引揚げ、煙草を吸っていたら、 「気分が悪いんですか」  と聞いて通り過ぎたお婆さんがあった。  夜半、ユーゴスラビア領最初の駅イェーゼニッツェに停車した。入国管理官が乗りこんで来た。特別お祭り列車のせいか、それほどきびしくないけれど、海苔は、砂糖とちがい、ヨーロッパ撮影旅行も何度目かで、色んな経験をしている。 「この前僕が、取材で定期のオリエント急行に乗った時は、とてもとてもこんなもんじゃなかったですよ。共産圏の駅には、しばしばマシーン・ガンを構えたのが立ってますからね」  そうだろう。フォーム反対側の、これから自由圏へ向う夜行列車の中では、乗客が一人一人、眼つきの鋭いのに厳重な検問を受けていた。国境駅を発車し、リューブリヤーナというユーゴ西部の小都市を通過するまで起きていて、ベッドへ入った。  一夜明けると、沿線の眺めがすっかり変っている。清楚《せいそ》な木造の家々が軒に草花をかざって、なだらかな牧場があって、道路はよく舗装されて、如何《いか》にも豊かそうだったスイス、オーストリーの田園風景は、もうどこにも見られない。一望の平野だが、畑は雑草が生い茂っているし、民家は粗末な煉瓦《れんが》小屋だし、農夫たちの服装も貧しい。案山子《かがし》まで貧しい。ユーゴの案山子は、ビニールの切れっぱしが風に揺れているだけであった。鍬《くわ》を持った男女が畑を耕していた。たまに荷馬車がいたり、すきを曳く馬がいたり、やせこけた羊がいたり、東欧圏を通るのは初めてだから、朝のコーヒーを飲みながら熱心に、窓外を移り行く風景を観察していると、 「どうお思いになりますか」  と声をかけられた。ビヤ樽《だる》のように肥った二人のドイツ女性で、顔立ちがよく似ている。年とった姉妹かと思ったら、 「私たち母娘《おやこ》なんです。母はもう八十」娘の方が笑って、「東欧でもっとも豊かなもっとも自由な国と言われているユーゴスラビアでこれですよ。トラクターが全然いないでしょ。みんな人力」 「しかし、東独はどうなんですか」  トラクターのような機械工業なら、東ドイツの方が進んでいるんじゃありませんか、経済的にも東独はユーゴより豊かになって来てると聞いてますがね、そう言うと、 「ノオ、ノオ。あすこは牢獄《ろうごく》。東ドイツはほんとの牢獄」  母娘で大袈裟《おおげさ》に手を振った。  チューリッヒを出て一昼夜近く経ち、これまでよそよそしかった乗客たちの気分が、何となく解け始めている。不平半分食欲不振でぎごちなかった私の気持も、よほどほぐれて来た。 「いや、東ドイツにも一ついいものがあるよ」と、五十年輩の英国紳士タングさんが口を出した。「それはね、蒸気機関車です」  鉄道の歴史に興味があって、日本へもこの十月に行くという。  八時三十分、貧しい原野の果てに都会があらわれた。列車はサーバ河の鉄橋を渡ってベオグラードへ入って行くところであった。  ベオグラードは、頭から到着した列車を尻から曳き出す上野式の駅である。ただし、上野に較べてはるかに粗末できたない。キオスクで売っている品物は貧相だし、外出中の新兵さんは身丈に合わぬラシャの軍服を着ている。いかつい顔の警備兵が六、七人、駅の構内に眼を光らせていて、カメラを向けると、 「ノオノオ」  はげしい勢いで制止する。  この薄ぎたない御連中をフィルムにおさめてどういう不都合がおこるのかよく分らないが、海苔も私も写真機をひっこめた。 「郷愁のオリエント急行」は一種の観光列車だから、ここでまた二時間三十分の停車、その間にスイスの旅行社が用意した観光バスが出る。私たちもベオグラード市内一見と出かけることにした。大して見るものも無いけれど、古い城砦《じようさい》のあるカレメグダンという丘の上の公園に上れば、サーバ河がダニューブ河と合流する景観を、眼下に遠く望むことが出来る。  ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」——、ダニューブ河が泥色をしているのが砂糖には不審らしいので、説明してやった。 「あのね、昔から言い伝えがあるんだ。ドナウは恋をしている人にだけ青く見える。青く見えませんか、君」  駅へ戻って来たら、別のフォームに「サラエボ行」と書いた列車がとまっていた。何となく「ははあ」と私は納得した。オリエント急行最後の日、ニューヨークから、ロンドン、パリから、報道陣が押しかけて、あんなに大袈裟だった理由が分ったような気がした。  サラエボは、一九一四年オーストリー・ハンガリーの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺されて第一次世界大戦の導火地点となった町である。乗客たちの中で、英国人タングさんの奥さんは、ハンガリー生れのブダペスト育ち、サラエボ事件の話は出なかったが、 「子供のころ家の窓から、ブダペスト経由のオリエント・エクスプレスが通るのを毎日眺めていました。だから、今度の汽車旅はほんとに楽しいんです」  と私に話したし、もう一人、スイス人の爺さんは、 「五十数年前、当時豪華列車だったオリエント・エクスプレスに乗ったことがある。わしにとって、これは思い出の旅なんだよ」  と言った。  野次馬のわれわれ日本人とちがい、彼らにしてみれば、バルカン諸国を抜けてトルコまで行くオリエント急行は、第一次大戦と第二次世界大戦の谷間、風雲をはらんだ、この人たちの若かりし日、今となっては古くなつかしい時代の象徴なのではないだろうか。  十一時ちょうど、列車はベオグラードを発車した。すぐ貧しい田園風景が始まる。はねつるべ、ちょろちょろ水の手押しポンプ、雑草だらけの蔬菜《そさい》畑、黄色のあやめがちらほら咲いていて、それだけがわずかに眼を慰めてくれる。  間もなく昼めしで、きょうはイタリア人のシェフが腕をふるってオリエント風オードブルを食わす。サフランのたくさん入ったピラフも出る。美味《おい》しいけど、車内がだんだん暑くほこりっぽくなって来た。「なつかしの」はすなわち「古くさの」で、「豪華特別列車」に冷房がついていない。食後、単調な窓外の景色を眺めているうちに睡気を催して来、額に汗をうかべて居眠りをしていたら、十四時二十六分ニーシに着いた。  ここで電気機関車が待望(?)の蒸気機関車に替る。フランス国営テレビの一行は、これよりブルガリア国境のディミトロフグラードまで、汽車を捨ててタクシーを雇い、カメラを構えてオリエント急行を追いかけて来る。海苔が同じことをやる。1—5—0型式——導輪一軸動輪五軸後輪ナシ——のJZ(ユーゴ国鉄の略号)33型340号SL。黒煙を吹き上げ、馬のいななくような長い汽笛を鳴らして勇ましくニーシを発車した。巨大な機関車のくせに馬鹿に甲高い声を出す。  ジェイムズ・ジョイスが『ユリシーズ』の中に、機関車のいななきを描写して「frseeeeeeee fronnnng」と書いているところがある。『ユリシーズ』なぞろくに読んでいないし、まして英語の原文には眼を通していないのだが、こういうことだけ知っている。あれはなかなか正確な擬声音《ぎせいおん》だと分った。  やがて鉄路に沿う国道を、フランス・テレビの車と海苔の車が追いすがって来た。お海苔が自動車から身を乗り出し、命がけで急行にカメラを向けている。 「こっちも窓から顔を出して手を振って下さい」  お砂糖が註文《ちゆうもん》するが、 「いやだ。主役は蒸気機関車なんだから、僕を写さなくたっていいだろ」  とは言うものの、コンパートメントに寝そべっていると、むやみに暑い。窓をあけておけば煤煙《ばいえん》が吹きこむし、窓をしめればますます暑い。SLも、見ている分にはいいけれどと、結局、涼みかたがた通路側の窓から言われた通りのポーズを取ってみせたら、小さな石炭かすにピシピシ手の甲を叩かれた。  列車はユーゴスラビア東部の峡谷地帯にかかっていた。寝覚めの床の如き絶景があって、釣師が川に釣糸を垂れているかと思うと、忽《たちま》ち青の洞門《どうもん》みたいな古い長いトンネルに入る。トンネルの闇の中を宇宙ぼたるのように赤く無数の火の粉が飛んでいるのが見えて、プーンと煤煙の匂いがする。窓は乳色にくもってガタガタ鳴る。少年時代の汽車旅を思い出してなつかしいと言えばなつかしいけど、顔も髪の毛の中も煤《すす》だらけになった。  タング氏流に言うと、この姥桜エクスプレスにもいいものが二つある。一つは食堂のイタリア料理でもう一つは浴室車、五十年前の古い客車だが、内装を近代的にあらためて、きれいなシャワー・ルームが七つついている。海苔の撮影に協力したあと、イタリア人の三助に石鹸《せつけん》とタオルをもらい、シャワー室へ入った。  煤を洗い落し、さっぱりしてコンパートメントへ帰って来た時、海苔の車はもう見えなかった。山間のピロトという駅で蒸気機関車を離し、ディーゼル機関車につけかえたので、列車と並進しての撮影を終了、先へ走り去って行ったらしい。ユーゴ空軍の双発ジェット戦闘機が、夕空に二条の飛行雲を曳いて急上昇して行く。それにひきくらべ、われらがオリエント急行は、「カタリンコトン、カタリンコトン」と、水車のようなテンポで走っていた。  日の暮れるころ、国境の駅ディミトロフグラードでようやく海苔と落ち合えた。カメラの下でシャツも下着も汗みずくになっていた。 「無事でよかったよ。すぐシャワーを浴びていらっしゃい」 「そうします。昔のオリエント急行には美容室までついてたそうですね」  と答えたが、何だか口が上ずって少し興奮している。実は「無事」でなかったのだ。列車とあとになり先になり、見通しのいい高台の橋のたもとにさしかかってカメラを構えようとしていたら、ユーゴ警察のパトロールカーがつけて来た。いきなり海苔はカメラをひったくられたそうである。連行するつもりらしく、パトカーに乗れというのを、通じない言葉で押問答しているうち、フランス・テレビの連中がやって来た。タクシーの運転手と一緒になって弁明してくれ、どうにか放免されたが、 「ここの駅へ着いて待っている間も、銃を持った兵隊が取り巻いて、国境だ、一切カメラにさわるなと言うんです」  ほっとして早くシャワーを浴びたそうだが、停車中浴室へ入ることは出来なかった。車内にすごい面相のユーゴの係官が乗りこんで来、次にブルガリアの警官が乗りこんで来、旅券と通過査証の厳重な検査が始まっていた。プラットフォームへ下りることも許さない。 「国境ったって、となりも同じ共産国でしょう。ブルガリアと戦争でもするつもりですかネ」 「資本主義国の汽車の乗客は、みんな社会主義に憧れていて、隙あらば亡命するかも知れない。きっとそう信じて警戒してるんだろ」  やっと動き出し、国境を越えると、名もおどろおどろしいドラゴマンという駅で、それより先はブルガリアの夜になり、ソフィアへ着いたのは午後十時近くであった。二年前に完成した何とも壮麗な駅で、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港のターミナルと似ている。人気の少い地下の商店街をぶらついてみると、電気を消した酒屋のショーウィンドウがあって、おやと、私は眼を疑った。東欧の酒、ロシアのウオツカばかりで、スコッチもフランスの葡萄酒も一本もないのに、日本の「サントリー・ゴールド」が並んでいた。 「変な国だねえ、日本は」  手帖《てちよう》に書きとめているところへ、 「コラ。何をしておるか。スパイとして逮捕するぞ」  と英語の声が聞えた。振り向くと、乗客仲間の一人が笑っていた。  ソフィアで、機関車はチェコ製スコダの新しい電機に替った。発車後最後の晩餐《ばんさん》会が始まり、賑やかに話の花が咲いて、みんなもうすっかり馴染《なじ》みになっている。汽車の大好きなマールブルク大学教授クロード先生は、 「ソフィア駅の建物を見てブルガリアの経済を想像したら大まちがいだ。ユーゴよりはるかに貧しい。官僚統制がきびしくて経済的に行きづまっている国ほど、ああいう壮大な公共建築物を造りたがる傾向がある。うちの学生どもにそのことをいくら言ってやっても理解せんのがおる」  口角泡を飛ばして話していたが、海苔が写真を撮らせてもらっていいかと聞くと、急に声が小さくなり、 「ヨーロッパでは公表せんだろうね」 「公表しませんが、何故《なぜ》ですか、先生」 「実は学生に、風邪をひいたと嘘をついてこの汽車に乗りに来てるんでな」  シャンペン、葡萄酒、食後のリキュール、わいわいがやがや、白服白帽子、見るからに美味しそうに肥った料理長が挨拶に廻って来て、素人《しろうと》も玄人《くろうと》もカメラを向ける、拍手をする。食堂車の中だけが明るく、窓外は真の闇、ブルガリアが貧しいか貧しくないか分らぬまま、酔って部屋へ帰って熟睡して、翌早朝、 「パスコントローレ、ビッテ。パスコントローレ、ビッテ」  と、ドイツ語で叩き起された。スイス以来四度目の国境越えで、オリエント急行はいよいよアジアの|とば《ヽヽ》口トルコへ入る。国境駅の反対側フォームに、ゆうべイスタンブールを出た定期の最終オリエント・エクスプレスがとまっていた。  トルコもそんなに豊かな国ではないし、それほど自由な国でもないが、何となく空気が明るくなった。金歯だらけの黒服のトルコ人車掌が乗って来て、にやッとする。鉄道の駅では珍しい免税品店のあるエディルネのプラットフォームには、ブラスバンドが出ていて、特別オリエント急行御到着歓迎のブカブカドンドンを演じてみせる。エディルネは古《いにし》えのアドリアノープルである。バスを列《つら》ねて十六世紀に出来た名高いモスクを見物に行くと、案内人が、 「内陣へは靴を脱いで入っていただきます。見学後同じ口から出て来てもらえば、|たいてい《ヽヽヽヽ》の場合御自分の靴がみつかります」  と言ってみなを笑わせた。泥棒がいないはずの国から、こそ泥のいることを認めている国、泥色のものを青いと言わなくてすむ国へ入ったのだナと思った。  もっとも、イスタンブールまで未だ八時間かかる。エディルネより先、景色は平板で、相変らず五月とは思えぬくらい暑い。あけ放った窓から蜂蜜《はちみつ》の匂いが流れこんで来た。白、黄、紫と色とりどりの野花が咲いていて、要するに草花の匂いであった。退屈している私に、 「やっぱりずいぶん長いですねえ」と、シカゴの中年夫婦が話しかけた。「ところで一つ日本語の意味を説明してほしいんだけど、『ダルマサンダルマサン一二三』というのは何のことですか」 「それは、途中が抜けてますよ。『ダルマさんダルマさん、にらめっこしましょ、一、二、三』」私はダルマさんのむつかしい顔をして見せた。「子供の遊びですが、本物のダルマさんは禅の聖者でした。長いねえとおっしゃいますけど、ダルマさんは壁の前に九年坐って修行して、脚が腐って無くなってしまったそうです」  暑い陽がようやく西に傾いて、イスタンブールへ二十八キロのハルカリという駅へ着いたのは午後四時五十八分。乗客が大勢駆け出して行くので何ごとかと思ったら、再び機関車が大きなSLに替るのであった。昔なつかしのオリエント急行である以上、最終区間は蒸気機関車に曳かせなくては様にならないのであろう。赤いトルコ国旗と緑の檜葉《ひば》で飾り立てたドイツ製2—4—0型の機関車が連結されると、カメラ片手に構わず運転台へ乗りこむのがいる。録音器のマイクを突き出して馬のいななきを録音するのがいる。金歯の車掌が発車合図の笛を吹いても、なかなか客車へ戻らない。 「好きだねえ、みんな」 「あんなこと言って、自分は棚に上げて」  と砂糖が笑った。 「棚に上げてやしないけど、まる二昼夜半、疲れましたよもう」  frseeeeeeee fronnnng と、ハルカリを出た列車は、ゆるい上り勾配《こうばい》を猛烈な煤煙を吐き出しながら進み始めた。  トルコ人は日本人と同様、西欧から来た者に過剰歓待をする傾きがあるようである。列車がイスタンブール郊外にさしかかると、往《ゆ》きかう自動車が一斉に警笛を鳴らし、民家の窓からは老若男女がハンカチを振る、投げキッスをする、すれちがう電車も汽笛で挨拶する。知らん顔をしているのは、左手に見えて来たイスタンブール国際空港の飛行機だけであった。  右に美しいマルマラ海の眺めがあらわれた。半月刀のかたちをしたカヤク(トルコ舟)がいる。各国各種の貨物船が舫《もや》っている。イスタンブールには鉄道の駅が二つあって、私たちが着くのはヨーロッパ側のシルケシ駅だが、連絡船でボスポラス海峡をウシクダルへ渡ればハイダルパシャ駅、そこからアジアが始まる。  トプカピ・サライの宮殿、青の寺院、二千年の古都コンスタンチノープルに林立する回教のモスク堂塔|伽藍《がらん》がその数五百六十、どれが何やらよく分らないうちに、特別オリエント・エクスプレスは一時間少々のおくれで、六時十五分夕暮れの終着シルケシ駅へ辷《すべ》りこんだ。  トルコの民族舞踊団がフォームで待っていた。車輪のきしみが消えると同時に、はげしい楽の音に合せて踊り出した。男女互いちがいに腕を組んで半円を描いて、女の踊り子がみな美しい。それはもう、スイスともオーストリーとも、ユーゴ、ブルガリアとも、アメリカ娘のサラともちがう深目高鼻、昔々天山南路天山北路を遠く長安の都まで来ていた西域の美女たちの顔であった。 [#改ページ]  カンガルー阿房列車  左舷《さげん》の窓に血のような朝焼けが見えている。あと一時間足らずで飛行機は濠洲《ごうしゆう》大陸の北端にさしかかる。航路図を開いて地点を按《あん》ずるに、未《ま》だ暗い綿雲の下は天水|茫々《ぼうぼう》たる珊瑚海《さんごかい》で、これより真東約六百|浬《カイリ》のところにブーゲンビル島がある。川新さんから預って来た品物をどこへしまったか、ちょっと考えた。  旅をする時、ものを書く時、近年よく高等学校の先輩川新さんの世話になる。元々面倒見のいい性《たち》で、今回も亦《また》、私は川新先輩に紹介状を渡されて旅に出た。「サー・チャールス・コート様」と表に書いてある。  昭和二十年八月、ブーゲンビル島のブインで、佐世保《させぼ》第六特別陸戦隊主計長として敗戦の日を迎えた川新さんは、降伏武装解除に際し、英語が出来るからと、参謀の某中佐と共に軍使の役を仰せつけられた。  蝉《せみ》、とかげ、鼠、戦死者の肉まで食って生きつないでいた瘴癘《しようれい》の島の暮しに、川新さんは終始部下と現地民の信望を失わなかった人だと別の筋から聞いているけれども、敗戦後部隊の自活に関しては、主計長の立場で全く自信が持てなかった。勝者の濠洲軍がどんな復讐心《ふくしゆうしん》を以《もつ》て臨んで来るか知れたものでなかった。  やがて、オーストラリア陸軍の中佐の軍服を着た降伏受領使が、彼らの前に姿をあらわした。 「それがサー・チャールス・コートだったんだよ。まことに礼儀正しい穏かな紳士でね、この人なら大丈夫と我々安心したんだ」  現地における停戦、武装解除、仮抑留の措置が平穏|裡《り》に進み、任務を果した降伏受領使は、三カ月後、敗軍の捕虜に別れを告げて本国へ去って行った。六カ月後、ブーゲンビル島方面海軍部隊の復員輸送が始った。  それから長い年月が経った。軍服を脱いだ川新さんは、あるお固い出版社へ入って、のち取締役編集局長になり、同じく軍服を脱いだ濠洲軍の中佐は、西オーストラリア政庁の偉い人になっていたのだが、お互いそのことを知る機会が無かった。  戦争終結から二十六年目の昭和四十六年春、お忍びのかたちで何度目かの訪日をしたサー・チャールスは、 「この海軍士官たちがもし健在でいるなら会いたいのだが」  と、昔ブーゲンビル島の密林のほとりで撮った一枚のスナップ写真を関係者に見せた。画面に、若き日の敵味方三人の軍使が写っていた。  調べてくれる人があって、二十六年ぶりの再会が実現し、以後双方の交りが始り、クリスマス・カードの交換はもとより、レディ・コートもまじえ、折ある毎に友誼《ゆうぎ》をあたため直す次第となった。それで、 「君、オーストラリアで汽車に乗るんだったら、パースへ行って彼に会って来いよ」  と、私は川新さんから土産物を托《たく》されている。  ただ、この度オーストラリア横断の汽車旅をするについては同行者が多数あり、中の一人は幽霊である。常々、 「ははア、そうですか。いやア、あれはなるほど、つまり、それがあれだねえ」  |あれ《ヽヽ》ずくめで色々しゃべるけれど、物事がろくに分っていない。海外旅行の場合この性癖は特別顕著になる。いっそ私と川新さんの関係、川新主計少佐とサー・チャールスの関係、一切理解してくれなければいいのだが、旅の出がけに口を辷《すべ》らせたため、パースという町へ着いたら私が何だか西オーストラリア政庁の偉い人に会うつもりらしいと、おぼろに分っているのが困る。  幽霊が半玄人の腕前とかねて御自慢なのは写真の特技であって、きのうの敵はきょうの友、この会見場面をカメラに収め録音するつもりで器材を持って来ていた。私としては、ブインの昔話は聞きたいけれど、|英語で《ヽヽヽ》しゃべっているところを録音などされたくないし、対談中カメラを提げたちょんぼ幽霊にあまりうろちょろしてもらいたくない。 「しかし、それはあれですよ」 「何ですか」 「そのサー何とかとあれする時、サー何でしたっけ」 「さあ、何でしょうと言いたくなるな」 「洒落《しやれ》を言っちゃいかんです。それはやっぱり、僕の何で、ちゃんと記念にあれしておかないと、僕としてもあれだからね」  夜がすっかり明けて、飛行機はシドニーのキングスフォード・スミス空港に着陸した。十一月末のニュー・サウス・ウエールズは、紫のジャカランダが満開の風|爽《さわや》かな初夏であった。  私どもの乗る濠洲横断列車は、あす水曜日の午後シドニーを発車し、三日三晩走りつづけて土曜日の朝西岸のパースに着く。土曜日はすべてのオフィスが休みだから、あらかじめ連絡を取っておいた方がいいだろう。  町へ出て電話を申込むと、三千二百キロ向うのパースにすぐつながったけれど、 「サー・チャールスは只今ニュージーランド出張中で、残念ながらお目にかかることが出来ません。レディ・コートも御一緒です」  と、秘書官に言われた。 「それでは、日本からのことづかり物をどうしましょうか」 「休日でも政庁の一階に守衛がおります。それに渡しておいて下さい」  折角紹介してくれた川新さんには悪いが、気落ちと同時に多少ほっとした。  同行の青井夫人と赤井夫人が、コアラ・パークへ行ってみたいと言う。私は汽車に乗れさえすればよろしいので、遊園地のコアラなぞどうでもいいのだが、暇つぶしにお供をし、さて、翌朝一同シドニー駅で勢揃《せいぞろ》いした時には、ジュラルミン色の長い長い「インディアン・パシフィック」号がもう一番線へ入っていた。太平洋と印度《インド》洋を結ぶこの贅沢《ぜいたく》列車が営業を開始してから、今年で九年になる。「オリエント・エクスプレス」や「ゴールデン・アロウ」に較べれば浅い歴史だが、その九年間に、車内でお産があり、自殺者が出、色々の物語がくっついているそうだ。  フォームは大きな荷物をかかえた人々で雑踏しているけれど、見廻したところ、日本人乗客はわれわれ以外いない。青井夫人、赤井夫人、お葱《ねぎ》、幽霊、私と一行五人、それぞれの寝台車へ乗りこんだ。  今まで見たことのない珍しい造りで、中央に絨緞《じゆうたん》を敷いた通路が蛇行しており、蛇行通路の両側に各個室がある。私の十一号室の向いが青井夫人、斜め向いが幽霊の部屋、赤井夫人と葱は夫婦だから、隣の車輛《しやりよう》のシャワーつきコンパートメントに入っている。 「ホホウ、これはあれですねえ」  幽霊が感心した。 「何があれですか」 「きれいな汽車だねえ」  広い窓、大きな鏡、ふっかりした椅子、たしかに近代的なきれいな列車だが、この変った構造の寝台車がどこで出来たかということに誰も関心を示さない。葱と赤井夫人は、 「あなたが馬鹿だから手荷物がごたごたするんじゃないの」 「そんなこと言ったって、時間ぎりぎりで仕方がなかったんじゃないか」  と、コンパートメントの中で何やら夫婦|喧嘩《げんか》の最中である。私は独り、発車前のプラットフォームへ下りた。「インディアン・パシフィック」を外側から全車輛検分して歩く。すべてオーストラリア製の客車だが、米国フィラデルフィアの鉄道車輛メーカーを本家とするライセンス生産であった。  現代風の銀色寝台車に較べ、先頭の電気機関車はいやに古めかしかった。鋲《びよう》のゴツゴツした銹色《さびいろ》の、一九五六年英国はマンチェスターで製造された四角な電機が重連になっている。 「電化区間はどこまでですか」  機関士に聞いたら、地名の綴《つづ》りを示し、 「Lithgow まで。これより約三時間」  と教えてくれた。  二号車の十一番個室に戻ると間もなく、ガクンと衝撃があって、定刻十五時十五分、列車はシドニーを発車した。  高層建築群の影絵が小さく次第に遠ざかって行く。青い制服の大男が運んで来た午後の茶を啜《すす》りながら窓外を眺めていると、風景がだんだん郊外らしくなって、草ッ原に放牧の牛が見える。ユーカリ並木の向うに赤煉瓦《あかれんが》の家。二階建の通勤電車。柳の木。ジャカランダが咲いている。粗末なガソリン・スタンドのわきにハイビスカスも咲いている。  茶を飲み終って、食堂車の一輛手前、ピアノのあるラウンジ・カーへ出かけた。青井夫人が、膝《ひざ》に本と手帖《てちよう》を置いて景色を見ていた。  赤井夫人がまるまっちくて|だるま《ヽヽヽ》ウイスキーの瓶《びん》だとすると、青井夫人はペパーミントの瓶である。美人だが、すらりと背が高くて眼鏡をかけているから大変生真面目な感じを受ける。 「この汽車の沿線に、やはりカンガルーなんかいるんでしょうか」  と質問なさった。 「さあて」  これより三晩四日がかりで西岸のパースへ何をしに行くかといえば、目的は何も無い。サー・チャールスに会えぬこともはっきりしたし、汽車だけがお目あてで、パースに着いたら、空路すぐシドニーへ引返して来る。内田|百鬼園《ひやつきえん》先生以来それが鉄道を愛する者の伝統であって、私自身はそれで満足だが、人の道楽に旅費自前でつき合って下さる青井夫人、赤井夫人たちには感謝すべきであろう。御質問があれば薀蓄《うんちく》を傾けてお答えすべきところであるが、カンガルーの件、私は答えられなかった。 「野生のカンガルーなんて、見られないんじゃないですかね」  と言うと、 「はい」  青井夫人は先生の説明を聞いた女学生のような返事をした。  見られないだろうと思うのは、アフリカ旅行の経験からである。先年、ダル・エス・サラームよりキリマンジャロの山麓《さんろく》まで一昼夜の汽車旅をしたが、期待に反しライオンもジラフもあらわれなかった。見かけたのは黒犬と|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》だけ、考えてみれば、汽車の窓から動物を見たいと人間がいくら思ったって、野生動物の方では汽車の通過なんぞ別段見たくない。唯一の例外は海のいるかで、彼らは人の走らせる船を見物に来る。  とは言うものの、これより先「インディアン・パシフィック」号の車窓にどんな眺望が展開するか、何も分っていない。ヨーロッパはむろんのこと、カナダ、アメリカ、未だ乗っていないシベリア横断鉄道でも、沿線の眺めは大体想像がつく。オーストラリア内陸部の景観だけは見当がつかない。  青井夫人と話しているうちに、お葱と赤井夫人と幽霊が入って来た。白人の乗客たちも入って来、食前酒が始り賑《にぎや》かになった。赤井夫人青井夫人あたりが若い方で、あとは爺さん婆さんばかり、ピアノを奏でてみようという人もいないけれど、汽車に乗れて嬉しいらしく、みんな多少はしゃぎ気味である。  銀髪、白い口髭《くちひげ》、運動靴、半ズボンにストッキングといういでたちの六十男が、うしろから婆さん女房をかかえてソファに倒れてみせたりする。はしゃいでいるくせ、このオーストラリア人は、我々と眼が合いそうになると視線をそらすのに気づいた。  失敬な奴だと思っているうち、一杯のシェリーで頬を染めた幽霊が、 「発《た》つ前、何にあれしましたら、何故《なぜ》もっと早くあれしないかと言われましてねえ」  としゃべり出した。  例によって何のことだかよく分らないが、だんだん聞いてみると、 「小松さんですよ。彼の何が、ずっとこちらであれしているから」  小松左京の友人がパースにいる、早く何してくれればあれして上げたのにという話である。  それで思い出した。差別用語はよろしくない。盲人をめくらと言ってはいけない。つんぼをつんぼと言ってはいけない。 「俺のことをデブと呼ぶな。胴まわりの不自由な方と言え」  と小松左京が怒っているそうだ。それなら、心中「あのジャップども」と思っているらしい銀髪に、我々のことを何と呼ばせたらいいかも教えてもらいたい。  列車は初めてのトンネルに入る。架線の火花が暗闇の中で青く光る。トンネルを出ると、相変らず柳は緑ハイビスカスはくれないの、ニュー・サウス・ウエールズの初夏である。ゴムボートを持った少年が走っている。少し行くと夕暮の沼が見えて来る。しかし、沿線の大人も子供も、通過する「インディアン・パシフィック」の方を見ようとはしない。オーストラリア人というのは、頑《かたく》なで好奇心の薄い国民なのかと思う。  そのうち「ファースト・シッティング」のアナウンスがあって、食堂車に一回目の夕食を予約した人たちがぞろぞろラウンジから立ち上った時、列車は駅ともいえぬ駅に停った。駅名を見ると「Lithgow」と書いてあった。  私がフォームへ下りて機関車の方へ歩き始めると、幽霊がデッキの手すりをつかんで心配そうに身を乗り出した。 「大丈夫ですかね」 「何が」 「あれでしょ。汽車が故障したんでしょう」 「どうも、話が一々食いちがう。故障なんかしてません。ここで電化区間が終って機関車をつけ替えるから、ちょっと見て来るんだよ」  マンチェスター製の電気機関車が離れて行き、側線を斜めにディーゼルの重連が入って来た。英国風の紋章を獅子《しし》とカンガルーが両側から支えている——そういうマークが機関車についている。  リスゴー発車後、雨になり、私どもがセカンド・シッティングで食堂車の席へ坐るころには日が暮れた。  故あって私らより先にオーストラリア入りした赤井夫人は、この数日間、気の張りづめで忙しかったらしい。仕事の疲れか、多忙の果ての夫婦喧嘩のせいか、気分が悪くて食が進まない。葱に附き添われてコンパートメントへ帰る赤井夫人を見ならって、その晩は私どもも早目に部屋へ引揚げた。  一人部屋にはシャワーがついていないけれど、個室寝台車のはしにシャワー・ルームがある。一と風呂浴びて、用意の出来た狭い清潔なベッドへもぐりこんだ。  老人性で夜明け前に眼がさめる。列車は急ぐ様子もなく、「ケタカタコットン、カタケトコットン」と、西へ西へのんびり走っていた。ブラインドをあけてみても、全くの闇で何も見えない。  文庫本を読みながら二時間ほど我慢しているうちにようやく外が明るくなり、大男の車掌が沸したてのモーニング・ティーとビスケットを持って来た。 「さっきカンガルーが何百頭も群でいましたよ」 「え」私は聞き返した。「列車のどちら側でした?」 「向う側です」  ならば進行方向に向って左、青井夫人と幽霊の個室のある側だが、二人とも未だ眠っているらしい。青井夫人にだけ知らせようかと思ったが、早朝御婦人部屋をノックするのは気がひけ、紅茶もそこそこに、靴をつっかけて自分一人ラウンジ・カーへ入った。ここだと列車の両サイドが見渡せる。  窓外は赤土の大草原に変っていた。アフリカのサバンナに似て、もっと荒涼とした茫々漠々《ぼうぼうばくばく》たる景色である。ぽつんぽつんと立っている樹木以外、地の果ての果てまで、枯草色の|ぼさ《ヽヽ》と赤い土のまだら禿《は》げ、山も無ければ川も無く、人家はもとより、明け行く空に一片の雲も無い。史跡名勝天然記念物そんなもの絶無、人間の匂いを拒否するような眺めで、きのうの午後「初夏の緑のオーストラリア」と感じたけれど、この乾燥し切った赤い大|曠野《こうや》には四季の別すら無いのではないかという気がする。  こんな所にも、ある種の野生動物は棲《す》めるらしく、最初に眼に入ったのはエミューであった。駝鳥《だちよう》とそっくりの長い首をしたのが二羽、|ぼさ《ヽヽ》の中を駈けていた。  と、列車のわきから何やら跳びはねる物があった。赤犬の色をした大小二匹のカンガルーで、鉄路と直角にいいかげん遠くまで逃げ了《お》えると、立ちどまってちょこんと前肢《まえあし》を垂らし、「インディアン・パシフィック」の通過を見ている。  つづけて又四頭。朝日が昇り、はねて行く姿がくっきりシルエットになって、カンタス濠洲航空のマークとそっくりである。彼らにすれば、美味《おい》しい朝の草を食べているところを列車に驚かされて甚だ心外であるにちがいない。  七時すぎ、幽霊がラウンジへやって来たので、 「カンガルー見たかね」  訊《たず》ねたら、 「いや、見ません。ほんとですか。そいつはあれだなあ。じゃあすぐ何しなくちゃ」  老眼鏡かけて写真機の目盛をいじり始めたけれど、どういうものかそれっきりカンガルーはあらわれなかった。  青井夫人が入って来た。 「奥さん、カンガルーがいるんです」  と言うと、 「うわア、見たかったア」  夫人は悲しそうな声を出した。 「さっきまでいたのに残念ですがね、この男があらわれると他のものは姿を消すんですよ。物事が常にそういう風になるんです」  サー・チャールス・コートだって、幽霊が来ると知ってニュージーランドへ逃げ出しましたと説明しているところへ、 「お早うございます」  気分のなおった赤井夫人と一緒に葱があらわれ、 「カンガルーがいたって? 作り話じゃないんですか」  と目をまるくした。 「作り話なもんか。車掌は数百頭の大群を見たと言ってましたよ。ほんとは幽霊のせいじゃなくて、朝うんと早いうちしか姿を見せないんだろうと思う。葱のくせに人の言うことを信用しないのはけしからんな」 「信用しないわけじゃないけど、一人だけそんなもの見ちゃずるいよ」  カンガルーが出ないまま、七時半、列車は Menindee という町に入る。町といっても駅を中心にした小村落だが、テレビのアンテナが見え、ユーカリの木があり、オレンジ畑がある。オレンジ畑のそばで、黒人(?)の男が蜜蜂の箱を並べていた。 「アボリジニです」  と、品のいいオーストラリア人の婆さんに教えられた。 「オーストラリアン・アボリジニは黒人ではありません。ニュージーランドのマオリ族ともむろんちがいます。祖先が岐《わか》れたのは何万年も何十万年も昔でしょうが、本来インド系の種族なのです」  今世紀、特に第二次大戦後、オーストラリアにはインドからの移民がたくさん入って来ている。祭の時新移住者の彼らがインドの古い民謡だか宗教歌だかを合唱すると、濠洲原住民のアボリジニが聞いて、 「この歌なら知ってる」  と言うそうである。意識の中か血の中に眠っていた何万年前の記憶がよみがえるらしいと——。  このお婆さんをはじめ、ラウンジ・カーで朝食の順番を待つ人が増え、みんな笑顔で「グッド・モーニング」とか、「ビューティフル・|ダイ《ヽヽ》。イズント・イット」とか私どもに声をかける。  汽車の長旅の場合、初めよそよそしかった乗客たちが、一夜明けると必ずこういう風に打ちとけて来る。例の半ズボン白口髭だけが、依然知らん顔をしていた。  食堂車へ入ってオートミールを食べながらも、草原に眼をこらしつづけているうち、やっと灰色の小さなカンガルーが見つかった。多分ワラビーだろう。大変な速さではるか彼方《かなた》の木立の方へはねて行く。エミューもいて、葱と幽霊と二人の御婦人は一応満足してくれたけれど、あと、|ぼさ《ヽヽ》の曠野に陽が高くなるにつれ、一切の野生動物がいなくなった。  時差修正の車内放送にしたがって「|ダイ《ヽヽ》ライト・|サイ《ヽヽ》ビング・タイム」の時計を三十分おくらすと、荒涼とした風景の中での長い一日が、ますます長く退屈に思われて来た。  午後、私は自分の個室で長い居睡りをした。そのため一つ小さな失敗をするのだが、眼がさめるまで失敗に気づかなかった。  オーストラリアは、この横断鉄道の沿線だけで三つの国(州)に分れている。国境を越えてニュー・サウス・ウエールズから南オーストラリアへ入ると、鉄道の管轄が全く別になるだけでなく、機関車も機関士も客室乗務員も替り、その風俗も一新する。  青い制服を着ていた客室車掌が、いつか顔のちがう黒タキシード姿に変って、 「南オーストラリア分の乗車券を頂戴します」  とあらわれた時、うたた寝からさめて私は「あッ」と思った。 「そうすると、グラッドストンはもう過ぎましたか」 「過ぎました。間もなくポート・ピリーに到着します。アデレイド行の方はお乗換えです」  前の制服車掌はカンガルーのことを教えてくれた。空気が乾燥しているせいか、朝夕持って来る紅茶とビスケットも大層|美味《うま》かった。彼に心づけを渡さなかった。——それはともかく、この「インディアン・パシフィック」はポート・ピリーの二つ手前、グラッドストンで、西から来たシドニー行「インディアン・パシフィック」号とすれちがう。その時、双方の乗員が交替したのである。知っていながら何故起きなかったか。濠洲の大平原で二本の銀色豪華列車が行き逢うただ一度の光景を見そこなった。「インディアン・パシフィック」は週四回の運行だから、ここをのがすとパースまでもうすれちがうことは無い。——実はあと一回すれちがうのだが、その時はすれちがわないと信じていた。無念である上、平素鉄道の知識をひけらかしている手前、道連れ一同に甚だ具合が悪い。  しかしまあ、幽霊はこういうことに神経のまわらない性《たち》だ。葱もおそらく気づかなかっただろう。女性が鉄道のダイヤグラム理解の能力に乏しいのはレーニンが証明ずみだし、いいやと思い直した。誰も知らなければ、ひとりこっそり口惜《くや》しさを噛《か》みしめて黙っていればいい。  列車はポート・ピリーに着いた。隣の線に南オーストラリアの首府アデレイド行の古ぼけた一二等普通列車が停っていた。「インディアン・パシフィック」は、この駅で前部の機関車を離し、新しく後尾に機関車をつないで、四十分停車ののち逆向きに動き出す。  さきほどの失敗を別にすれば、汽車に関するかぎり、色んなことが実によく分る。天才ではないかと思う。今度の機関車は、一と目見て米国製、グレート・ノーザンやユニオン・パシフィック鉄道が使っていたのと同じ巨人型のディーゼル・エレクトリックである。  入れ替え作業を見学していたら、青井夫人が傍《そば》へ寄って来た。 「あのう、わたくし、さっきの駅で同じ色したきれいな列車が行きちがうのを見たんですけど」  私は横眼で青井夫人の顔をうかがった。 「あれ、シドニーへ帰る『インディアン・パシフィック』号でしょうか」 「そうです」 「とても素敵でしたわ。御覧になりましたでしょ」  意地悪で言っているのではないようだが、心なしか少し意地悪げに、少し嬉しそうに見える。渋々白状をした。  その晩食堂車で、この話を伝え聞いて葱と幽霊がひどく喜んだ。献立はトマト・スープに鯛《たい》のムニエール、子羊のステーキ、旧英領植民地の料理にしては割に美味《おい》しいのだけれど、 「まあまあ、そう不機嫌な顔をせずに一杯」 「いやア、それはやっぱり相当のあれだな。何があれされたのに、専門家が何したとはあれですよ。まあ一杯」  と、交々《こもごも》濠洲産の赤葡萄酒をついでくれる。 「別に慰めてくれなくてもいいです。汽車がすれちがってもすれちがわなくても、どうってことは無い。眠かったものはしようがないじゃないですか」  と言っているうち、宵闇の窓外にちらりと小動物の姿が見えたので話題が変った。 「あら、カンガルーがいたわ」  赤井夫人が言うと、 「いや、あれは鹿だよ」  葱が反対し、 「いいえ、カンガルーでした。あなた、ほんとに馬鹿みたい。こんなとこに鹿がいるわけないでしょ。絶対カンガルーです」 「馬鹿ったって、ありゃ鹿の一種だよ」  と、お互いゆずらない。  私にも分らなかった。 「カンガルーだったわよねえ、幽霊さん」  応援を求められて、幽霊が困惑の表情を泛《うか》べた。 「そう。しかし、それはあれですね。どっちとも言えないな。もしかするとあれじゃなかったですか。ほら、何、カモノシカ」  私は幽霊と二十年近いつき合いで、たいていのことに驚かなくなっているけれど、夫婦論争の調停用として「カモノシカ」という動物が登場したのにはびっくりした。  幽霊と今度が初対面の青井夫人は、昨日来その言行に興味津々の様子だったが、たまっていたものが爆発し、面を伏せて笑い出した。食事中はしたないと思うらしく、声を殺し、忍んで笑おうとするから余計おかしくなり、女学生がすすり泣いているような具合でとまらない。  幽霊はきょとんとした顔をしている。 「そうか。カモシカ、カモノハシ、カモノシカ、ちがったかな、カモノシカ」  どうにか発作がおさまり、デザートもすんで、ラウンジへ席を移してから、 「失礼いたしました。でも、幽霊さんてほんとにいい方なのね」  と、彼女は小声で私に感想を述べた。  三日目の朝は、みんなが早起きをした。カンガルーが見たいからでもあるが、六時前、列車は Ooldea と Watson という小駅の間で、全長四百五十キロメートルに及ぶ世界一の直線区間に入る。  ここが名高いナラバー平原であって、単線の軌条が地平の彼方へただまっすぐ延びており、地の果てまで行きついても未だ地平の彼方へまっすぐ延びている。もっとも二重窓の車内から、その様相ははっきり見えない。パンフレットの写真で想像する。  風景が一層荒涼として来て、木々も姿を消した。木無く山無く丘無く川無く、したがってトンネルも無ければ鉄橋も無い、小鳥も飛ばず、枯草色の|ぼさ《ヽヽ》すらまばらになって、列車は赤っぽいような白っぽいような土ぼこりを捲《ま》き上げ、自分の捲き上げた土煙に包まれてひたすら突き進む。たまに駅と称するものがあるが、古い材木と銹びた鉄材が打ち捨ててあるだけであった。  青井夫人持参の案内書に、 「ナラバー平原では、あちこちに風雨の侵食のために出来た浅い陥没地があり、地下の洞穴《ほらあな》から地上へ通ずる穴が異様なうなり声を立てている」  と書いてある。 「つまり、地球が退屈しておならするんですな」  カンガルーもこれでは棲みにくかろうと思うのだが、乏しい|ぼさ《ヽヽ》の中に時々二頭三頭といた。赤土色の野兎《のうさぎ》を見たと言う人もあった。  一つ、新幹線の国から来た人間にとって理解しがたいのは、世界最長の直線区間をどうしてこうのろのろ走るかということで、車輪の音を聞けば「ケタタントントン、ケタタントントン」、山奥のローカル列車さながら、これでも時速八〇キロぐらいは出しているらしいけど、不毛の大平原に相対するスピードがのろいため、この景観は一日中ほとんど変らなかった。シドニーを去る千五百五十一マイル地点、砂漠の中のオアシスに似たクック駅で、また一人アボリジニを見かけたのと、物憂いひるさがり、幽霊が、 「ついにやりました。出来ました。成功しました」  と頓狂《とんきよう》な声を上げたのとが、砂漠の旅の単調を破る僅かな慰めであった。  テキサス人のような帽子をかぶった濠洲先住民の男は、クック駅の売店わきにぼそッと立っていた。カメラに収ってくれと頼み、あとでチップを渡そうとしたら、首を振って受け取らなかった。 「握手をしなさい。握手してやればいい」  と助言してくれる乗客があり、手を握り礼を言って列車に戻ったが、厚い唇、チョコレート色の肌、どう見てもアフリカの黒人で、インド系の人種とは思いにくかった。  幽霊の方は、奇声を発して何に成功したかというと、食堂車のボーイにチップを握らせ、真空パックの赤飯をふかさせるという番外の珍挙をやってのけたのである。  元来西欧の言語習俗食物をきらう和朝の幽霊が、シドニーを出て以来朝昼晩の洋食と英語のメニューを押しつけられること六回にわたり、我慢の限界に達していた。よほどたっぷりつかませたと見え、ほかほかの赤飯は銀色の皿へきれいに盛りつけられて、レモンとパセリまで添えてあった。 「よくこんなことやってくれたね。何と言って頼んだ?」 「簡単でしたよ。ああ、ジス・パック、ああ、ノー・ブレーク。ああ、ボイル、テン・ミニッツ、ボイル。それで通じましてね。さあ食べて下さい」  興奮して指先を震わせている。しかし、人のことをからかえた義理ではなかった。幽霊が和朝の幽霊ならこちらも和朝の文士で、オーストラリア横断列車の車中味う赤飯のおやつはまことに美味かった。  おやつのあと、奇妙な物が見えて来た。遥《はる》かな地平線すれすれに湖があり、湖のほとりをジラフのようなものが群を成して走っている。濠洲にジラフはいないはずだからカンガルーかと思うが、カンガルーにしては大き過ぎる。 「木みたいな恰好してるわね」  と、赤井夫人が言った。 「そう。喬木《きようぼく》みたいに見えるけど、やはり何か動物の移動でしょうね」  不思議なのは、その動物の群が、いつまでも「インディアン・パシフィック」と並行して同じ速さで走ることであった。 「分った」葱が叫んだ。「蜃気楼《しんきろう》だ」  なるほど、言われてみればそれにちがい無い。昔濠洲大陸横断の鉄路建設に従事した人々が、飲み水にかつえ、しばしば幻の湖に悩まされたというのがこれであろう。蜃気楼の水と木立は、一時間ぐらい列車の右側につづいていた。  カルグーリーの手前でようやく四百五十キロの直線区間が終り、ナラバー平原も尽きた。地平の雲をこがねに染めて曠野に大きな太陽が沈む。行き逢いの貨物列車を待たされたので大分到着が遅れたが、カルグーリーは人口二万、砂漠のはずれにしては大都会である。駅舎も立派であった。  停車中「インディアン・パシフィック」の乗客たちは、売店で絵はがきを買ったり、フォームを散歩したり、ちょっと駅前の通りに出てみたりする。表へ出るには、待合室を抜けなくてはならない。例の半ズボンの銀髪が、親切に扉をおさえて白人の爺さん婆さんを通してやっていた。私も通ろうとしたら、半ズボンはこちらを見もせず、眼の前でパッと手を離した。おかげでドアにおでこをぶっつけそうになった。  こん畜生と思った。この田舎者のオーストラリア野郎が、視線をそらすのをかねておかしいおかしいと思っていたらやっぱりそういうつもりだったのか。田舎者と判断するには根拠があって、食堂車で奴がメニューを指し、 「ロックフォート・チーズとはどんなものか」  とウエーターに訊ねたのを聞いている。ヨーロッパもニューヨークも東京も知らず、カンガルーの国から外へ出たことが無いんだろう。カンガルー野郎、必ず仕返しをしてやると決心した。  駅前通りを散歩するのはやめ、待合室のドアのこちら側にひそんで、奴が帰って来るのを待つ。戻って来たら、同じようにおでこのまん前で、おさえていた扉をパッと離してやる。銀髪は待合室の中で、女房と一緒にポスターなぞ眺めていた。なかなか列車へ戻ろうとしない。発車時刻ぎりぎりまで待ったが、ついに戻って来ず、姿を見失った。要するにこの駅で下りてしまったらしかった。  がっかりして、ゆっくり動き出した二号車のステップに飛び乗り、個室へ帰ろうとするところを、車掌に呼びとめられた。カルグーリーにおいて乗務員が再度交替し、西オーストラリア鉄道の新顔車掌、やはりタキシードに黒の蝶《ちよう》ネクタイを結んでいる。私の名前を確かめ、 「これが届いております」  と、分厚い角封筒を手渡した。サー・チャールス・コートからの手紙であった。  むしゃくしゃの治まり切らぬ気分で開封してみると、 「川新氏よりの書信によって、貴下が十二月二日パース着の旨を承知しているけれど、残念ながら自分はその日国外にいてお目にかかることが出来ない。係の者に車を用意させて駅へお迎えに出させるので、何なりともお申しつけの上、短時間のパース滞在を充分楽しんで頂きたい。貴下の西オーストラリア滞在が余りに短いのは遺憾であるが、お知りになりたい事があれば、係の者が自分に代ってすべてお答えする。三十三年前、自分が濠洲側の責任者としてブインで初めて川新氏らに会い、それまでの敵対関係解消につとめた物語については、既にお聞き及びの通りである云々《うんぬん》」  と、鄭重《ていちよう》な文面で、読んでいるうち、銀髪のカンガルーに対する不愉快と敵愾心《てきがいしん》が少し薄れて行くのを感じた。 「インディアン・パシフィック」号最後の一夜が明けると、窓外は再び花咲く緑のオーストラリアに変っていた。川が流れ、線路は複線になり、低い山なみの斜面に羊、牛、小馬が遊んでいる。  南オーストラリアの曠野では、国道沿いに「この先二十キロメートル、カンガルーが横切る。注意」の道路標識をよく見かけたが、もうカンガルーも出ないし、そんな標識も無い。葡萄畑、紫のジャカランダ、橙色《だいだいいろ》の花をたくさんつけた樹は、「西オーストラリアのクリスマス・ツリー」と、濠洲人の老夫婦に教えられた。この国では皆が夏のさかりにクリスマスを祝う。  あちこちの部屋で下り支度が始った。私の個室から四つ向うに、カソリックの僧衣を着た中年の尼さんが乗っていた。シドニー以来ずっと一緒だが、無口な人で、朝夕の挨拶に会釈を交すほか特に話したことは無かった。私がスーツケースを拡げているところへ、不意にこの尼さんがあらわれた。何も言わず、密書でも渡すように、クリスマス・カードを半分にちぎった物を私の手に握らせてそっと立ち去った。カードの裏に、 「私たち、お互い言葉が分らず、旅の間充分お知り合いになれなかったのが残念です。どうか楽しいクリスマス休暇をお過しになるように、そして皆さんの上に常に神の平和がありますように。 [#地付き]シスター・アンドリア」  とペンでしたためてあった。  ははあと思った。このシスター・アンドリアは、私と銀髪の半ズボンが敵意を燃やし合っているのを、それとなく見ていたにちがいない。  部屋をノックして、 「ノートしかと拝見しました。皆にも伝えます。どうもありがとうございました」  と言うと、尼さんがにっこりした。  遅れを取り戻した「インディアン・パシフィック」号は、定刻午前七時、パースの駅へ辷《すべ》りこんだ。プラットフォームに、サムソン氏とローソン氏と名のる二人の役人が待っていた。 「サー・チャールスに言いつかって来ております。表に運転手つきの車を二台待たせてありますから、御友人ともども、御覧になりたい物、なさりたい事、遠慮なく仰有《おつしや》って下さい。はるばるよくおいで下さいました」  これはまた、どういうわけでこれほどの厚遇を受けるのか、私自身がよく分らないし、昨夜カルグーリーで受け取った手紙のことは未だ話してなかったから、青赤両夫人も葱も、狐《きつね》につままれたような顔をした。幽霊だけが英語の会話を避けて、口を固く結び、遠くでカメラをいじっている。  われわれの大部分が文筆に関係ある稼業《かぎよう》にちがいないけれど、日本の文士によくしておくと西オーストラリアが得をするとも思えない。強いてこれを言えば、北半球と南半球とを捲きこんで互いに憎み合い殺し合ったあの大戦争の果てが、めぐりめぐってこういうことになったのだとしか考えられなかった。  お葱はしかし、あまり物に動じないたちで、 「まず朝飯は食わせてもらわなくちゃあ」  と、日本語で図々《ずうずう》しいことを言った。私が通訳をした。 「食堂車で朝食が出ませんでしたので、みんなまず食事をしたいようです。それから私は、パースの町もですが、出来ればフリマントルの港を見せていただきたいと思います。私自身海軍の予備士官ですが、フリマントルは、戦前帝国海軍の練習艦隊が遠洋航海の途上、度々入港したところですから」  サムソン氏は微笑をうかべた。 「むろんその予定にしております。戦前だけではありません。今も日本海軍の練習艦隊は、何年おきかに一度、フリマントルを訪れます。近く南極行のふじも入港します」  幽霊は私の英語だと、ところどころ聞き取れる。濠洲の役人に向って私が「Imperial Japanese Navy」という言葉を使ったので、妙な目つきをした。 「だけどね、幽霊さん。昔そう呼ばれていたものをそうでないように言い換えるのは、僕はきらいだ。Imperial Japanese Navy が Imperialism の手先だったかどうかとは別のことです。胴まわりの不自由な方と言ってみたって、小松左京が痩《や》せてスマートになるわけじゃないでしょ」 「いや、それはあれです。何が確かにあれという面も何だから」  と幽霊は半分賛成した。 「やめて下さいよ」赤井夫人が抗議した。「私たち夫婦、いいかげん胴まわりが不自由なのを気にしてるのに、失礼ですよ」  整然としたパースの目抜き通りは、土曜日で車も人影も少かった。町角のレストランで朝食を御馳走になり、スワン・リヴァのほとりで黒いスワンにパンを与えてしばらく遊んだあと、私たちは二台の車を列《つら》ねてパースの外港フリマントルへ向った。  軍艦|磐手《いわて》の艦長|米内《よない》光政が、五十五年前、若い候補生たちを率いて入港し、ここで正月を迎えた港に、第八富久丸という焼津《やいづ》籍の漁船が一隻|碇泊《ていはく》していた。  突堤の外、白波の騒ぐ印度洋に面して眺望台のようなものがあった。砂にくだける怒濤《どとう》が美しく、赤井夫人が少し寒そうに、お葱と身体《からだ》を寄せ合うようにしながら、強風の海に向って、 「これ、印度洋なんだわ。そう、とうとう印度洋の岸まで来たのねえ」  と嘆声を発した。 「イエース、マム。印度洋でございますよ」  ローソン氏がちょっと小腰をかがめるような仕種《しぐさ》をして見せた。  伊藤|左千夫《さちお》に、   人の住む国辺を出でて白波が大地|両分《ふたわ》けしはてに来にけり  という歌がある。  左千夫が見た九十九里浜《くじゆうくりはま》の海と、フリマントルで見る印度洋とはちがうけれど、あと三時間ほどでシドニー行の飛行機がパース空港を発つ。汽車に乗って、人の住まぬ曠野を通って、白波が天地を二つに分ける光景を見ましたと、機上で川新さんに報告の手紙を書こうと思う。 [#改ページ]  ニュージーランド幽霊列車  汽車を求めて雲烟万里《うんえんばんり》、はるばる濠洲まで来たからには、ついでのことにタスマン海を越え、皆でニュージーランドの鉄道も試乗してみたい。初めその心づもりだったが、都合がつくのは結局私のほかに葱《ねぎ》と奇人幽霊だけ、青井夫人、赤井夫人の御両名は先々の予定があってまっすぐ日本へ帰る。  お名残惜しく思わぬでもないけれど、北へ去る女性たちと別れて同じシドニー空港でウエリントン行「エア・ニュージーランド」の機内に入った三人は、何となく顔を見合せた。葱が、 「お疲れになったでしょう」  にやりとし、 「やっぱりあれですよ」幽霊が言った。「こういうあれは、何だけの方が気持がずっとあれだからねえ」  同感であるが、ずっとあれなはずの男道中も、旅衣《たびごろも》日を経《ふ》るにつれてとかくお互いの仲がとげとげしくなって来る。葱は感情のあまり激さぬ君子だからいいとして、私がそうでない。自己抑制の必要があり、今後むやみに幽霊をからかったり露骨にいやな顔をしたりするのはよそうと思う。さもないと、旅の思い出があとで苦がいものになる。  思ったけど、決心は二十分|保《も》たなかった。シドニーを離陸した飛行機が巡航高度に達して機内食のサービスが始った。幽霊はスープをすする時、肉を食う時、紅茶を飲む時、一種独特の幽霊音を発する。しかもその間、「あッ、ああ、ああァ」と、温泉につかった爺の如き無意味な溜《た》め息が混り、最後が爪楊子《つまようじ》音の「チッチッ」で終る。癇《かん》にさわり出すと、これはひどく癇にさわる。癇にさわって叱言《こごと》を言ってみても不協和音が消えるわけでなく、幽霊の形相がおどろおどろしくなるだけだから、「またか」と窓の方を向いて顔をしかめるに留めたが、幸か不幸か気づいてくれなかった。  それではしかし、我が友幽霊、無教養で不作法な人物かというと然《さ》にあらず、庄内《しようない》地方に十何代つづく旧家の出で、茶の湯、生け花、謡曲をよくし、遠く新田義貞公の血をひくと称している。ほんとうなら源ノ幽霊である。要するに西欧の風俗習慣に適応しにくいだけなのだが、適応しないことは自分で承知しているから、旅行中何かにつけて、「日本人としてのアイデンティティ」を示したがる傾向があり、今回もワインの酔いがまわるほどに、あろうことか国際線のジェット機上、 「頃ははや。弥生《やよい》なかばの春の空。影も長閑《のどか》に廻《めぐ》る日の」  と、宝生《ほうしよう》流の謡《うたい》をうなり出した。 「およしよ、おい」  びっくりしてとめたが、「イヨーッ」と膝《ひざ》を叩いて拍子を取りながら、いっかなやめようとしない。おまけに謡曲習い立ての葱が、これも一杯機嫌で、 「霞《かす》む其方《そなた》や音羽山。滝の響きも静かなる」  と唱和した。 「頼む、やめてくれんかね」 「何故《なぜ》ですか」 「スチュワーデスが、その羊の鳴き声みたいなものは何ですかと聞きに来るよ。聞かれたら、僕の英語では説明に困る」  葱と幽霊がうなっているうちに早くも「禁煙、ベルトをおしめ下さい」のサインがついてウエリントン着陸であるが、ニュージーランドは人口|稀薄《きはく》、観光客も少く、宿や乗り物の手配なぞ必要あるまいと考えていたのは、大いにあてがちがった。  大体この便が、エコノミー満席で高い差額を払ってファーストを買わされた上、ウエリントン空港の案内所へホテルの世話を頼みに行くと、 「上等なとこは全部ふさがっています」  電話であちこちあたった末、やっと取ってくれたのが駅前の三流ホテルであった。 「それもまあいいじゃないか。汽車が目的なんだから、駅前旅館の方が便利でいいよ」  タクシーで乗りつけ、部屋に荷物を置いて早速切符を買いに出た。広場を向うへ渡れば英国風の宏壮《こうそう》な停車場で、構内の一角に長距離列車の予約窓口がある。 「あしたの『シルバー・ファーン』、オークランドまで三枚」  註文《ちゆうもん》したら、 「さっき売り切れました」  総人口三百万の国で、そんなに大勢誰が汽車に乗るのか驚くべき話だと思ったが、こちらは「いいじゃないか」ですまされない。 「何とかなりませんか、三人ぐらい」  掛け合ってみたけれど、 「何ともなりません」  私は幽霊を顧みた。 「売り切れだとサ」 「はあ?」 「切符が売り切れなんだよ。弱ったねえ、君。どうしよう」  どうしようと言っても、こういう場合幽霊がどうかしてくれるだけの才覚を持ち合せているようなら、もっと気楽な旅が出来る。幽霊は「すべてお委《まか》せ」といった曖昧模糊《あいまいもこ》たる顔つきで、ただ突っ立っていた。 「景色が見られないけど、ホテルをキャンセルして今晩の夜行に乗ってしまおうか」  ウエリントンとオークランドの間は、東京大阪間に相当するニュージーランド国鉄随一の幹線で、昼間の急行「シルバー・ファーン」、夜の寝台列車「シルバー・スター」が、それぞれ一日一本ずつ走っている。  やむを得ず夜行の寝台を予約するつもりになって、じゃあ「シルバー・スター」の方をと言いかけるより早く、 「それも満員なんです」  窓口の女性が気の毒そうに答えた。 「全部満員じゃしようがないや。今、クリスマス前の旅行シーズンで混《こ》むんですよ」  葱がさっさと君子のあきらめを示したが、かかる事態に遭遇すると私は闘志が湧《わ》いて来る。しかし簡単にはあきらめない。はばかりながら、満員ですかああ左様ですかと引き下るほど安直な執念で汽車に乗りに来ていない。堅き心の一徹は石に立つ矢のためしあり。 「あのね、すみませんがね」  と食い下った。 「その台帳、もう一度調べ直してもらえないでしょうか」  日本国有鉄道みどりの窓口のコンピューター方式とちがう。台帳の席割りは売れた分から鉛筆で消して行くという、前近代的な手仕事で予約をさばいている。人間はコンピューターより融通がきくはずだ。うしろに少々行列が出来たが、幸い「小父《おじ》さんしつこいぞ」と不平を鳴らす人もいなかった。 「私たちは、遠いニュージーランドへ、日本から何しに来たかというと、ただこの国の汽車に乗りたいためだけで来ているのです。一つでもいい、空席がありませんか。一つあれば、代りばんこに腰かけて、あとの二人は立ったままオークランドまで行ったっていいんです」  流暢《りゆうちよう》ならざる英語で弁じ立てていたら、列の中から同情の笑いと思える笑い声が起った。窓口の女史がしげしげと私の顔を見た。それから予約台帳に視線を落した。 「途中の駅まででも構いませんか」 「構いませんとも」 「ちょっと待って」  それ見ろ、窓口女史は、座席表を鉛筆の先で丹念にあたり出した。 「ええと……、ハミルトンまでなら二枚あるわ。タウマルヌイまでが一枚。それでよければあしたの『シルバー・ファーン』を取って上げられますけど」 「取って下さい」  ハミルトンが何処《どこ》でタウマルヌイが何処かよく分らないのだけれど、切符に何と書きこまれようと、乗ってしまえばしめこの兎《うさぎ》、車掌が文句を言いに来たら幽霊同様|牡蠣《かき》になる。知らん、読めん、分らん、誰がむざむざ途中で下ろされたりするものか。  ただ、取れたとなると、途端に新田義貞公のことが癪《しやく》にさわって来た。私は幽霊の秘書ではない。幽霊が私のお供なのに、其処《そこ》でぼやあッとでくの坊みたいに立ってるな。 「おい、幽霊、金」  割り前を出させ、三人分の乗車券を購入した上で、私は壁の大きなニュージーランド国鉄全路線図を眺めながら、しないはずのいやがらせを始めた。 「なるほど、此処《ここ》がハミルトンだ。いいですか、君。僕と葱とはハミルトンまで行けるが、君はそれより手前のタウマルヌイ、この駅で下りてもらうことになる。近くに国立公園なぞあって景色のよさそうなところだから、まあ、一人で適当におやりなさい。大体の約束だけ決めておいて、後日オークランドで落ち合うことにしよう」  真顔で言うと、幽霊が恐怖の表情をうかべた。 「そりゃ、そういうことはあれですよ、いかんです。非常にいかんですよ」 「非常にいかんですったって、切符の取れないものは仕方がない」 「そんな目にあわすんなら、僕は汽車の便所へ入ってあれしてしまう」 「首をくくる気ですか」 「首なんかくくりませんが、便所の中にあれして、鍵《かぎ》かけて出て来ないよ、僕は」  ウエリントンの港は、世界何大美港かの一つだそうである。他にすることも無いから、タクシーを雇って、港を見下すビクトリア山の眺望台に登ったら、世界主要都市の方位を示す青銅の円盤が置いてあった。「南極、三三〇〇マイル」と書いてあり、夏の初めだというのに吹き上げて来る南風がひどくつめたかった。  幽霊が港の方を指さして、葱と何か話している。 「寒いから先に行くよ」  待たせてあるタクシーの方へ、襟元《えりもと》を合せて戻りかけると、君子葱が何げなく追いついて来て、 「あのね」  小声で言った。 「幽霊さんはやはり相当変ってますがね」 「どうかしましたか」 「どうもしませんけど、変ってる分だけ純真素朴ないい人なんだから、あまりあんな風にいじめちゃ可哀《かわい》そうでしょ」 「うん」 「あの人、きょう何処にいてあす何処へ行くか、はっきり分らないらしいんです。今も、さすがオーストラリアで広々とした海の眺めだなあって言われるから、困りましてね。まあ、総称は濠洲ニュージーランドですし、特に訂正もしませんでしたが——、あれこれ言い過ぎると余計混乱するんだと思いますよ」 「それはよく分ってるけどね、因果な性分で、分ってることがやめられないんだ」  南緯四十二度のウエリントンは、初夏の十二月の日がなかなか暮れなかった。港湾施設沿いの大通りまで下りて来ても、夕暮の町に人影閑散としていて、如何《いか》にもわびしい北の——、つまり南の都会という感じがする。そのくせ、此処が美味《うま》いと教えられた「ヤンツェ」(揚子江)という支那《シナ》料理屋へ晩飯を食いに入ると、又々満席で断られた。 「変な国だなあ」  別の店で不味《まず》い中華料理にありついたものの、甚だ以て釈然としない。 「実際変な国らしいです」  幽霊が賛成し、何やらしゃべり出したが、とんちんかんな話につき合っていると不味い飯が一層不味くなる。相手にならずにいたら、 「聞いてるんですか」  と膝を叩かれた。 「この国には何が、ほら、あれが全然いないんだそうですよ」 「この国って、オーストラリアのことかニュージーランドのことか」 「勿論《もちろん》ニュージーランドです。今われわれはニュージーランドにいます。しっかりして下さい。ニュージーランドには、夜のあれが全然いない。自由圏で夜の女が町に全くあれしないのはこの国だけ。世界七不思議の一つだと案内記に書いてありますねえ」  案内記を読みすぎるので物事が混乱するのか、混乱するから案内記に頼るのか、そこらへんがよく分らないけれど、何しろ幽霊は旅のガイドブック類を実によく読んでいる。案内記の記述、虚か実か試してみようということになり、食後然るべき町すじを散策し始めたら、忽《たちま》ち、 「日本のお兄さん、遊ばない」  といった調子で大女が言い寄って来た。 「何だい、いるじゃないか」  値段を聞くと、時間で四十ドル、濃い化粧をした六尺ゆたかの——、しわがれ声より察するに多分大男だったろう。ロートレックの絵から抜け出したような、一種味のある奇ッ怪きわまる容貌をしていた。 「どうかね、幽霊。旅の土産話に」 「いやですよ、僕ァ」  退屈なニュージーランドの首都で最も印象に残った景物はこの娼婦(夫?)だったが、勇を奮ってみようという者もおらず、バスで駅前ホテルへ帰って、怪しげな夢も見ぬまま一夜明ければ、八時二十分、待望のオークランド行急行が発車する。  予約の取りにくかったわけは、翌朝ウエリントン駅のフォームへ出て、ジュラルミン色の「シルバー・ファーン」を見て分った。昼間たった一本の幹線急行が、二|輛《りよう》のディーゼル車なのである。しかもうしろの客車は半分荷物室だから実質一輛半、日本国鉄の略号で言えば「キロ、キロニ」の短い一等編成で、全席ふさがっても百名足らず、私ども三人、別々の席を与えられていた。  私の隣には、中年の白人女性が坐った。定刻より三分おくれて、すうッと動き出す。右手にしばらくウエリントン湾が見えていたが、トンネルを一つ抜けると海の眺めは左になった。ヨットがたくさん泛《うか》んでいる。緑の牧場があって、針葉樹の林があって、郊外住宅がある。左後方、海のかなたにぼんやり霞《かす》む山影は、ニュージーランド南島らしい。  赤塗りの小型通勤電車とすれちがう。そうだ、ニュージーランドの鉄道は日本と同じ狭軌だったナと気がついた。同じ島国で、街道の松も、入江や小川のたたずまいも、川に架る鉄橋を「コオッ」と音を立ててすぐ渡り切ってしまう趣も、すべて日本と似ている。列車の構造まで似ている。二列に並んだ角型の蛍光灯、ステンレスの網棚、「御使用後」青い水の流れる溜《た》めこみ式の便所、日本の車輛技術を真似したのではないかと思うくらい似ていた。座席だけ茶色のレザー張りでちがうけれど、日本のグリーン車そっくりの「シルバー・ファーン」号が、こぢんまりした日本風の景色の中を一三〇キロ近いスピードで健気《けなげ》によく走る。  一体この風景、似ているとして日本の何処に似ているか。ちょっと考えて出て来たのは、北海道の一部か、昔々の大昔、人があまり住んでいなかった伊豆《いず》の西海岸という答であった。  赤いミニスカートの列車ホステスが、無料サービスの紅茶とビスケットを盆に載せて運んで来た。なかなかの美人である。天気はいいしビスケットは美味い。車内車外、共に眺めがいい。亡き旧友の若いころ作った詩の一節に、 「陽はさんさんと真昼のしじま」  というのがあったが、沿線の国道沿い、花、果物、野菜、産地直売の小店があり、ジャムの瓶《びん》に初夏の陽光がさんさんと降っている。レザーのリクライニング・シートにもたれて、物静かなニュージーランド風景が時速一三〇キロであとへあとへと飛んで行くのを眺めているのが、まことに楽しい。  九時四十五分、レヴィン通過。ウエリントンを去る約九十キロの平凡な田舎町だが、此処は急行列車で通過するだけでなく、出来れば一度来てみたかった。今から五十五年前、関東大震災の翌年、当時練習艦隊旗艦磐手の艦長だった米内光政提督が、この町に小さな逸聞《いつぶん》を残している。  ウエリントンへ入港した遠洋航海途上の若い候補生たちは、一日米内艦長に引率されてレヴィンの町を訪れ、農事試験場を見学したあと、小学校で児童たちの歓迎を受けた。日英同盟の名残で、そのころニュージーランドの対日感情はたいへんよろしかった。校長先生が、日本の国情、大震災の被害のこと、紹介を兼ねた長い挨拶をし、 「さあ、それでは次に、日本海軍のキャプテンからお話をしていただきましょう」  と米内大佐を指名した。  米内さんは、若い時分から極端な無口、口下手な人として知られていた。「うちの艦長、英語で即席のスピーチなんかやれるのかな」、候補生一同心配そうに見守っている中を、ゆっくり正面へ進み出て、 「Boys and girls, I am very glad to see you.」  と言ったけれど、あとは何ンにも言わない。「それで何のお話?」という顔つきで待っている生徒たちに、 「Thank you.」  一つ、日本流のお辞儀をして壇を下りた。子供らはあっけに取られ、一瞬|間《ま》をおいて笑い出した。「もっとも短い英語演説」として、後年までこれは海軍部内の語り草になった。「みなさんこんにちは。おしまい」——あんまり短かかったから印象に残っただろう。笑った小学生たちがもし健在なら、もう六十半ばのはずである。  其処《そこ》の家具工場、あすこの果樹園で、米内さんのことを記憶に留《とど》めるニュージーランド人が老眼鏡かけて働いているかも知れないと思っているうちに、列車はレヴィンの町を通り過ぎてしまった。  最初の停車駅パーマーストン・ノースへは十分の延着。フォームへ下りて、 「この銀色の列車はニュージーランド製ですかアメリカ製ですか」  訊《たず》ねてみたら、駅員が珍しくもなさそうな顔で、 「日本製です」  迂闊《うかつ》であった。見れば、車輛の裾に「川崎重工業・神戸」と書いてあるし、運転台をのぞくと「東芝」の横文字が読める。幽霊の席へ行って、 「おい、この汽車、日本製だぜ」  と教えてやった。 「ほほウ、ほんとですか。こんなところに日本製の何があれしてますかねえ、へえ」  独りビールを飲んでいた幽霊が馬鹿に感心し、 「それじゃ何の、機関車の写真を撮っておかなくてはあれだな」  と、特技のカメラを持ち上げた。  折角のお志であるけれども、ディーゼル急行に機関車はついていない。 「いくら君の腕がよくても、そればかりは無理でしょ」 「何故?」 「あのね、幽霊の脚が写真に写せないのと同じだと思えば分るよ」  と言ったが、分らないらしかった。 「まあいいや。時に、朝っぱらからビールかい」 「ホステスに頼んだら持って来てくれました。しかし、このビール、これでも大瓶でしょうかね」  ラベルに印刷した「Lager Beer」の文字を示して見せる。 「それは君、キリン・ビールの小瓶にだってそう書いてあります。だけど、それもいいです」  きのうの午後葱に忠告されたばかりだ。これ以上幽霊と話しているとまた癇《かん》が立って来る。 「そりゃそうと何はどうしますか、お昼のあれは。この汽車の食堂車はどこにあれしてるんですかね」  変な質問ばかりなさるのを聞き流して、自席へ引揚げることにした。  僅か二輛の急行列車が、半輛荷物室で一輛食堂車だったら、客の居場所は無い勘定だから、昼飯の一件どうするかというに、車掌が註文を聞いて廻る。まとめた註文を、途中から駅食堂のある駅へ申し送る。  ついでに車掌は、 「ハミルトン、オークランドでタクシーまたはレンタカーを御希望の方」  と、それも聞いて歩いている。  日本の新幹線と同じで、乗ってみれば結構空席があった。タウマルヌイで幽霊を便所に閉じこめなくてもよさそうだし、三人揃ってオークランドまで乗り越しを認めてもらえそうだったが、地図を見ているうちに私は、ハミルトンが温泉郷ロトルアへの最寄《もより》駅だということに気づいた。  大正十三年夏(日本の冬)、米内さんたち練習艦隊乗組の一行がやはり此処《ここ》を訪れている。ロトルア温泉郷は観光地であると同時にマオリ族の保護区であって、司令官斎藤七五郎中将の手でマオリ族記念塔の除幕式をおこなった記録も残っている。 「いいとこだという説とつまらんとこだという説と両方あるようで、うちの女房は面白くもないってけなしてましたがね」  葱が言うけれど、私としてはちょっと寄ってみたい。切符の指定通りハミルトンで下りることに決め、レンタカーの予約をした。 「ロトルアへいらっしゃるのですか」  隣席の中年婦人に話しかけられた。 「ロトルアでは、見事な野生のシルバー・ファーンをたくさん御覧になれますよ」  この急行の愛称「シルバー・ファーン」(Silver Fern)を、私は単に「銀の羊歯《しだ》」号の意味だと思っていた。幽霊が「シルバー・ファン」だと思いこんでいるのは論外だが、いずれにしても誤りで、「シルバー・ファーン」というニュージーランド独特の植物があるらしい。 「あれがそうです」  中年婦人に教えられて注意していると、根株《ねかぶ》を持った、葉裏が白い巨大な羊歯みたいなものが、沿線の茂みの中に時々見えた。 「日本の方でしょう」  と、ニュージーランド婦人が話をつづける。 「私の娘は日本へ行って、四週間、とても楽しい思いをして帰って来たことがあります」 「最近ですか」 「いいえ。十二年前、彼女が十五の時でした。娘は結婚して、今オークランドに住んでいます。孫が生れたので、私は初孫の顔を見にオークランドへ行くところなんです」  星霜《せいそう》移り人は老い、第二次大戦を経験した世代の多くが孫を持つ齢《とし》にさしかかっている。あした東京でまた一つ結婚式がある。欠席のお詫《わ》びに祝電を打つ約束だから、忘れないようにしようと思う。 「行ったことのない私には想像がつきませんが、人々がみな親切で、日本はすばらしい国だそうですね」  それは相手と場合によりけりでしょうと言いたかったが、黙っていた。私にしても、来て見るまで、ニュージーランドがどんな国か、はっきりした想像はつかなかった。オーストラリアと一緒くたにして考えているとずいぶんちがう。ニュージーランドにはカンガルーもコアラもエミューもいないし、肌が漆黒のアボリジニもいない。蜃気楼《しんきろう》の燃える暑熱の砂漠も無い。  十九世紀半ばに欧州から大量の植民が始るまで、住んでいたのはマオリ族と小鳥ばかりであった、——と案内記に書いてある。英国人たちが其処で牧畜の業を興し、処々方々に牧場を拓《ひら》いた。だから、この急行列車の二重窓越しに眺めているかぎり、ニュージーランドは全島これゴルフ場かと思える緑の国である。  なだらかな緑の斜面に緬羊《めんよう》がいる。すっぽり毛におおわれた防寒型の羊、毛を刈り取られて因幡《いなば》の白兎《しろうさぎ》みたいな羊。どうかすると胡麻《ごま》を撒《ま》きちらしたようにいる。牧場の中に農事用の飛行場があって、羊の大群の上へ小型機が下りて来る。  土地の起伏はおだやかで、オーストラリアに較べると少しも荒々しいところが無く、すべてよく整っていて——、牧草地の広大さにもかかわらず、何も彼《か》も小ぶりな印象を受ける。  十二時過ぎ、十二分の遅れで駅食堂のあるタイハペ駅へ着いた。三十分停車の間に、みんな粗末な駅舎の中の食堂で簡単な昼食を取る。幽霊の幽霊音を気にしながら食っていると、色浅黒いウエイトレスが早目にデザートを持って来た。 「マオリですかね」  葱が言った。 「多分そうだと思う」 「マオリはポリネシア系の民族でしょう。ということは、結局アジア系ですよね」 「うん」 「宗教はどんな宗教だろう」 「知りませんなあ。それは知りませんが、言葉がハワイの言葉に似ているそうだし、マオリと日本人と祖先は同じって、彼らが言うという話は読んだことがある」 「だからね、もしかして日本の古神道《こしんとう》に似た宗教を持ってるかも知れないでしょ。持ってるとするとですよ、日本の神社はみんな南面して建ってるんだけど、そのへんのところがどんなものだかね」  葱は神道学の素養のある珍しい文筆家だが、今何を言わんとしているかというと、日本の神社に神々を合祀《ごうし》する時、上席は拝殿に向って右側になる。 「つまり、陽の昇る東の方に位の高い神様をお据え申し上げるんです」  ところがニュージーランドは南半球だ。マオリ族のお社《やしろ》は果して北面しているだろうか。彼らの神様は位の順に西側から着席なさるかどうか——。 「ははあ。そいつはちょっと面白いね。ロトルアにマオリの民族博物館でもあったら、あした聞いてみましょう。それから、僕はあした日本へ電報を一本打たなくちゃならない。すぐ忘れるから、両方とも憶《おぼ》えておいてくれよ、幽霊さん」  初夏の陽光に満ちたプラットフォームで、幽霊に記念写真を一枚撮ってもらい、三人それぞれ元の座席へ戻ると、間もなくタイハペ発車、線路は北島中部の山岳地帯へ上り勾配《こうばい》になった。  箱根路へかかった時のように、草木の緑が少しずつ淡くなり、新芽の色を呈し始める。いい景色だけれど、それを言うならニュージーランド中がいい景色である。食事はすんだしスピードは落ちたし、景色がよすぎて少々眠気を催す。まわりの乗客もみな物憂げで、退屈した子供がむずかり出す。二十二、三の若い父親が、言うことを諾《き》かぬ幼児の尻をピシピシ叩いていた。  一時間後、ウエリントン・オークランド間の海抜最高地点を通過するころ、天気が崩れて小雨が降り出した。列車は信号所みたいなところで臨時停車をした。杭《くい》につながれた馬が、線路わきの草を食っている。馬のせいで停ったのかと思っていたら、向うからオークランド発ウエリントン行の「シルバー・ファーン」が、二本のワイパーを幽霊の手のように振りながら待避線へ入って来た。  離れて眺めると、一段と優美な、いい姿をした列車だが、隣の小母《おば》さんや鉄道員に、日本製の車輛を讃《ほ》めるのも変なものだから、黙ってつくづく観察する。乗務員全員が此処で交替した。上り下りの順で動き出し、午後の紅茶を配って歩く今度の列車ホステスも、脚のすんなりした超ミニスカートの美女で、しばらく眠気を払ってくれたけれど、すぐまた眠くなる。高度のせいもあるらしかった。  これより先、国立公園の火山地帯で、窓外にきれいなお花畑があらわれる。厚い雲の層の中に、三合目あたりまで雪をかぶったトンガリロ火山がぼんやり見える。トンネルを抜けてはトンネルに入り、名所の二重ループを弧を描いて走り下るころには、幽霊を下ろすはずだったタウマルヌイがもう近い。  タウマルヌイの手前から、私は眠ってしまった。ハミルトンに着いたのは六時五分、ウエリントンより五百四十三キロ、ほぼ東京大阪間の狭軌路線、三十五分の遅延をふくめて九時間三十七分で走った計算であった。 「オークランドのお嬢さんによろしく」  隣席の御婦人に挨拶してフォームへ降り立つと、駅前にハーツのステーションワゴンが待っていた。  葱は国際免許証を持っているけれど、幽霊は運転が出来ない。されても困る。 「夜道にかかるから、きょうは僕がやります。だけど、どう考えたって殿様はそちらで、僕は運転手兼旅行ガイドね」 「何ですか」 「損な役廻りだし、我ながら損な性分だと言ってるんだ」 「あした日本へ電報を打つんでしょ」  と、幽霊が話をそらした。 「誰に打つんですか」 「志賀直哉先生のお孫さん」 「お孫さんがどうしたんですか」 「結婚するんだよ」  途中、沛然《はいぜん》たる豪雨が来た。そうでなくても両側から鬱蒼《うつそう》と樹々のおおいかぶさる化け物の出そうな道の、十メートル先がよく見えない。幽霊が口をきかなくなった。 「代りましょうか。僕は老眼鏡が要らないから」  と、葱がいやなことを言った。 「代ってもらってもいいが、今停ると却《かえ》って危険でしょう」  ライトを上向きにして、おそるおそる、緊張しながらの運転だったが、ロトルア温泉郷へ入った時には、雨が上って宵闇の中に小鳥が鳴いていた。  静かな湖水のほとり、あちこち湯煙が上って、いいとこだと言えば風情《ふぜい》のあるいい所だけれど、ホテルに硫黄《いおう》の薫る岩風呂があるでなし、カジノが店を開いているわけでなし、つまらないと言えば確かにつまらない。  汽車旅九時間の疲れでその晩は早く寝、次の朝私は売店で英マオリ対訳のコンサイス辞典を買った。あちこち開いて見るに、ハワイと似た言葉がたくさんある。海、湖を意味するハワイ語の moana はそのまま moana だし、aroha はハワイの aloha と音が一つちがうだけである。これを頼りにマオリ語のお祝い電文を組立てようというつもりだったが、辞書一つでうまく行くわけが無く、結局食堂のマオリ娘にわけを話して文章をこしらえてもらうことにした。  先年カナダはアガワ峡谷の紅葉列車につき合ってくれたトロントの古番頭が、昔志賀直哉先生の四女|田鶴子《たずこ》さんに憧れていた。豈《あに》昔のみならんや、豈古番頭のみならんや。山田田鶴子夫人は私どもの心の中に未《ま》だ若い。若い田鶴子さんのおめでたなら感覚的に納得出来るのだが、いつの間にこんなに歳月が経ってしまったのだろう。結婚するのは田鶴子さんの娘である。志賀先生の美しいお嬢さんのそのまたお嬢さんが結婚するということは納得しがたいのだが、納得しがたくても結婚する。祝宴に御招待を受けたのに列席出来ないから電報を打つ。  マオリ娘のウエイトレスが、 「私では駄目だから母に聞いてみます」  と、親切に家へ電話をかけ、私が朝食を食べているテーブルへ、 「Nga aroha kia korua. Arohanui.」  と書いた紙片を届けてくれた。「お二人に心からのよろこびを。ニュージーランドより愛をこめて」というほどの意味だそうである。  これはマオリ語の祝詞ですと、解説つきのローマ字電報をホテルのフロントに頼んでいるところへ、幽霊と葱が起きて来た。 「お早うございます。きょうは、どういうあれで何するんですかね」  汽車に乗ってしまった以上、どういうあれをする気も無いけれど、ロトルアの温泉郷を一とめぐりしたら車でオークランドへ向おうと思う。その途中にワイトモの鍾乳洞《しようにゆうどう》というものがある。鍾乳洞は珍しくないが、洞窟《どうくつ》の天井に光を発する虫がたくさん棲《す》みついていて、バーナード・ショウが世界八不思議の一つに数えたところだそうだ。幽霊のような不思議な人物と旅をしているおかげで、世界の何不思議と称するものに度々ぶつかる。 「あんた方の朝飯がすんだら、ぼつぼつ出かけようや。ワイトモの洞窟を見て、日が暮れるまでにオークランドへ着くようにしよう」  ただし、ウエリントンでこりたから、オークランドの宿を手配しておいた方がいい。葱が頼みに行った。テレックスの返事を長い間待たされた末、オークランドのホテルは一流も二流も三流も全部満員ですと断られた。  取れたのは、オークランドを去る二十キロの郊外、パパトエトエという町の小さなホテルである。パパトエトエ——。到底幽霊が憶えてくれそうもない地名で、苦労の種がまた一つ増えた。  私は齢に免じて毎晩一人にしてもらっているが、葱は幽霊と相部屋で寝る。それで、夜毎に葱が幽霊の愚痴を聞かされる。葱の話によると、幽霊は嘆いている。嘆きかつ憤慨している。「僕が主役の幽霊列車だなんて、御本人の道楽のいらいら列車じゃないですか。僕は何も、無理にあれして汽車で何しなくてもいいんだからねえ」  幽霊の最大関心事は、娘さんに頼まれたシープ・スキンのチョッキを何処で買ったらいいかということと、いつ私から解放されて日本へ帰れるかということの二つだそうである。「汽車以外一切興味が無いんだから、買物も出来やしない」——。  そんなこともないので、現にロトルアの温泉めぐりを始めるところであった。入場料を払って順路をたどって行くと、茂みの中に例の大きな「銀羊歯」が生えていて、あちこちに色んなかたちで湯が噴出していた。別府の坊主地獄とそっくりなのが、此処では「蛙《かわず》温泉」である。泥土が飛び散る様は、無数の蛙《かえる》が跳ねているように見えた。  世界一の間歇泉《かんけつせん》が吹き上げるのも眺めたいと思ったが、マオリ族の案内人の話では、 「何時に吹くか、誰にも分りません」 「そうかなあ」  と、幽霊が残念そうに言った。 「日本なら、正確に吹くのになあ」  葱と私は笑い出したが、幽霊は笑わなかった。私のいらいらが昂《こう》じて来るにつれて、幽霊の不機嫌と望郷の思いがつのって来る。  マオリ族の記念碑は幾つかあったが、大正十三年日本海軍の練習艦隊司令官が除幕をおこなったというのは見つからなかった。或は第二次大戦中にこわしてしまったのかも知れない。  マオリの民族博物館があったら、彼らのお社《やしろ》が北面して建っているかどうか聞くはずだったが、これも見つからないまま省略して、私たちは葱の運転する車で湖水のほとりの温泉郷を去った。  幽霊は自動車で走っている間も案内記を読む。 「鍾乳洞の中にケーブルカーがあるんですねえ」 「鍾乳洞にケーブルカー。そんな物無いだろ」 「だってこの本にちゃんと書いてある。ワイトモ・ケーブルと書いてある」 「どれどれ。——君、それはWaitomo Cave。洞窟の意味ですよ」  ロトルアから田舎道を通って約二時間、ケーブルカーは無かったけれど、鍾乳洞の中に舟があった。  青い冷光を放つ土ボタルは、物音に極度に敏感な生き物だそうである。音がすると光を消してしまう。ガイドが沈黙を要請した。  見物客を乗せた小舟の、水を切る音だけが響いて、暗い洞穴の中へ静かに進んで行くと、なるほどバーナード・ショウも感心しただろうと思われる奇観が展《ひら》けた。満天星をちりばめたように、何万匹とも知れぬ虫が光っていた。プラネタリウムへ入った感じがした。みんな首を仰向《あおむ》けて、一面に妖《あや》しく光る鍾乳洞の天井を黙々と眺めている。  美しいというか気味が悪いというか、一種異様な別世界で、次第に畏敬《いけい》の念におそわれて来、「幽公幽光を見るの図」という洒落《しやれ》を思いついたが、口にするのを慎んだ。幽霊が何と感じているか、どのぐらい不機嫌か、暗くてその表情は分らない。そろそろ旅を打ち切りにして、お互い日本へ帰った方がよさそうである。 [#改ページ]  東方紅阿房快車  中華人民共和国製のずんぐりした乗用車「上海《シヤンハイ》」は、路上の人民どもに向けてむやみにクラクションを鳴らしながら、斯大林《スターリン》大路を大連埠頭《だいれんふとう》の方へ走っていた。  埠頭には「クイーン・エリザベス2」が舫《もや》っていて、船へ帰れば自分たちの部屋と、ゆったりしたバア、食堂、読書室がある。船客一同、碇泊《ていはく》中二日間大連見物の予定で、ただし私と遠藤|狐狸庵《こりあん》とは別行動、今その初日が暮れようとするところであった。 「王さん、きょうはたいへんでしたね。いろいろお骨折りありがとう」  人民服の青年通訳に私は礼を言った。 「おかげでそれぞれの家も探しあてたし、遠藤は母校を訪問することが出来たし、来た甲斐《かい》がありましたよ。よかった、ほんとうに。——なあ遠藤」 「不要客気《プーヤオカーチー》、不要客気。どういたしまして」  助手席の王通訳が振り向いてにっこりした。 「中日友好のためですから、すべて」  折角の御挨拶だけれど、そう言われるとひっかかる。「クイーン・エリザベス2」が今年度のクルーズで処女航海以来初めて大連へ入港すると人に教えられ、遠藤と二人|香港《ホンコン》から乗船したのは、別に日中友好のためではない。  小学校五年までこの町で育った狐狸庵、幼児のころから故あって度々夏の休みを満洲《まんしゆう》で過した私、どちらにとっても四十年前のわれらが少年期、日本領有時代の大連は、ライラックとアカシアのよく似合う、帝政ロシアの面影を留《とど》めたハイカラな美しい都会で、南山麓《なんざんろく》、鏡ケ池、連鎖街、大広場、沙河口《さかこう》、星ケ浦、老虎灘《ろうこたん》——、町々の角にも鉄路の沿線にも海べにも、たくさんのなつかしい思い出がある。なかんずく、昔住んでいたわが家がもし崩れずに残っているものなら、お互い是非見て来たい。来航目的の大半はそれであった。  王青年が古い大連市街図の町名と現在の地名町名とを照らし合せて、苦心服務の末、その望みを叶《かな》えさせてくれたのだから、あとは中日友好も日中非友好もしたくない。友好は疲れる。船へ戻ってグラス片手にぼんやりしている方が気が楽で、変り果てた薄ぎたない大連市そのものには未練が無いのだけれど、 「お骨折ついでに、もう一つ註文《ちゆうもん》していいかな」  私は言った。 「どうぞどうぞ。何でしょうか」 「これは僕一人だけの頼みですが、汽車に乗りたいんです」 「汽車?」 「中国語では火車でしたね。昔の満鉄線の火車に乗ってどこかへ行ってみたい」 「どこ行きたいのですか」 「どこだっていい。かつての『あじあ』号みたいな特急が今も走っているとすれば、大石橋、瀋陽《しんよう》ぐらい日帰りで行って来るのはわけ無いでしょう」 「無理です、それは」  王青年が受けつけかねる口調になった。 「何故《なぜ》ですか」  第一に、大連瀋陽間、特快(特急)は運行していません。普通列車だと軟席車(一等車)がついていないかも知れない。食堂車が無いから食事を差し上げられないかも知れない、外賓に対して失礼でしょ。列車によっては相当きたない列車があって、これも外賓に対して失礼です。——無理な理由を列挙するので、 「僕は構いませんがね。無ければ特快でなくたっていいし、軟席車がついていなくても一向構わない。外賓扱いされるほどの御身分じゃないから、いくらきたなくても平気だし、一食抜くのも平気です。大体、昼は食わない主義だ」  こちらも一つ一つ反論を並べ立てたら、王通訳は困惑の様子で、 「とにかく、時間がありません、もう」  と言った。 「だから、今乗ろうとは言ってない。あした乗る」 「でも、あした『クイーン・エリザベス』号は出帆します」 「そう。ただし午後七時の出港です。朝早くの汽車で出かければ、夕方までにかなり遠くへ行って来られるはずだと思いますがね」  黙って聞いていた遠藤が、 「お前、また汽車で駄々こねとるんか」  あきれたと言いながら、こっそり私の肘《ひじ》をつついた。「若い通訳をそういじめるなよ」という意味だったろう。  王青年の困る所以《ゆえん》は、私にも大概察しがついている。日本を発《た》つ時、三浦朱門、別名エンサイクロペディアのミウラニカに懇々と言いふくめられて来た。 「共産圏においては鉄道は軍事施設だからね。あんまり無鉄砲なことするんじゃないよ。収容所もんだよ。連れが遠藤じゃ、もしかの時頼りにならないよ」  外国船でやって来て漫然観光上陸した異邦の小説家が、いきなり汽車に乗りたいと言い出して、簡単に事が運ぶようなお国柄とはやはりちがうらしかった。  しかし、通訳をいじめるつもりは無いけれど、このままあきらめてしまうつもりも無い。大連まで来ながら昔の満鉄に乗れないとは如何《いか》にも残念で、 「あのね、王さん」  多少|猫撫《ねこな》で声になった。 「僕は汽車に乗るのが趣味なんです。ただ乗ってればいいんで、誰にも迷惑をかけるようなことはしません。乗せてさえもらえば、一人でどこかまで行って、一人でおとなしく帰って来ますよ」 「それ、いけません。私、先生たちのお世話しなくてはならない」  なるほど。これも察しはつく。二十七歳の人なつこい若者だが、肩書は国営中国国際旅行社の服務員である。通弁役案内役のほかに、外賓保護監察の役目を負わされているにちがいなかった。 「そりゃ、王さんの立場もあると思うけどね、僕が自分の責任において、勝手に切符を買って、朝早く汽車に乗って行ってしまったことにすればいいじゃないですか」 「駄目です。いけません。ちゃんと手配してみないと、お世話出来るかどうか分らない」  軍事施設かも知れないが、たかだか半日汽車のピクニックをしようというのに御大層な話で、少し癇《かん》にさわって来た。 「むつかしいんだなあ。君、日本の諺《ことわざ》で『食い物の恨みは恐ろしい』というの、知ってますか」 「知りません」 「僕を汽車に乗せないと、汽車の恨みで、どんな中国の悪口書くか分らないぜ」 「四人組追放後」  と、王青年は真面目な顔をして言った。 「中国は建設的な批判を歓迎しています」 「何だか話が食いちがってるけど、まあいいや。とにかくあんた案内役一人で身二つにはなれないんだから、僕のことはほっといて、——この人汽車に全然興味ないからね、あしたは遠藤について、工場でも人民公社でも充分見せてやって」  |お世話《ヽヽヽ》の鉾先《ほこさき》を何とかそらそうとするのを、 「こら、お前、無茶言うな」  狐狸庵がさえぎった。 「ずるいぞ、お前。そんなら俺も汽車に乗る」 「乗るかい」 「乗るかいて、乗りたいことないけど、人民公社見学させられるぐらいやったら、汽車に乗ってた方が未《ま》だましや」 「そうか、そいつは都合がよくなって来た」  じゃあ、このまま船へ帰らないでちょっと大連駅に寄って下さい、時刻表を確めておきたいし、万々一乗れなかった場合、駅のたたずまいだけでも見ておきたいからと言うと、当惑顔の王青年が中国語で運転手に何か告げた。「上海」は斯大林大路、昔の山県通りを駅の方へ大きくUターンした。  大連|站《たん》の構造は上野駅に似ている。設計時の御手本はおそらく上野駅である。それにしても薄よごれてきたなくなったなあと思って眺めていたら、 「立派な駅でしょう」  王通訳が言った。  日帝資本主義の遺産を自慢するのは変じゃないですかと言いたかったが、黙って中央コンコースの旅客列車発着案内を仰ぎ見る。聞かされた通り、特快は無い。北京《ペキン》行の直快(直通急行)が一日一本、佳木斯《チヤムス》行の直快が一本、大連瀋陽間の普快(普通急行)が一本、優等列車はそれだけであった。  一体「あじあ」はどこへ行ってしまったのか。戦後生れの王君は御存じないだろうが、昔、満鉄の各等特別急行新京行「あじあ」号(のちにハルビンまで延長された)は、世界の最先端を行くほんとうに大した列車だった、一九三〇年代すでに全車輛二重窓完全冷暖房の設備を持っていて、三等車が内地の二等に劣らず快適で美しかった、展望車も古風なオープン・デッキを廃し、まるくストリーム・ラインで密閉したアメリカのラウンジ・カー式展望室で、流線形の巨大な「パシナ」型蒸気機関車に牽引《けんいん》されて疾駆する姿を今も眼にうかべることが出来る。  朝九時大連を発車するのが下りの「あじあ」11列車、新京まで途中停車駅は、大石橋、奉天(瀋陽)、四平《しへい》街の三つ、全区間七百一キロを八時間と三十分で走破した。食堂車で白系のロシア娘が運んで来るボルシチかなんかすすりながら眺めていると、車窓を飛び去る電信柱の速度が日本の「つばめ」「かもめ」に較べて異様に速かった。 「ああ満洲の大平野」を、二条の鉄路が「蜿蜒《えんえん》北に三百里」——、土井晩翠《つちいばんすい》作詞独立守備隊の隊歌だけれど、日露戦役後日本がこの地に興した事業の中で鉄道だけはよかったよ、終戦時のどさくさにソ聯《れん》が根こそぎ持って行ってしまったのかねエと、少々感慨にふけっていると、 「先生々々、こっち来て」  一度姿を消した王青年の声がした。  連れて行かれたのは駅長事務室みたいな部屋である。何の主任か分らないが人民服の主任という人が立ち上って挨拶をした。 「今、上の方と電話で交渉しています」  電話のやりとり、主任と王通訳の会話の中に、「同志《トンチー》、同志」と言うのだけが聞き取れる。狐狸庵は、汽車面白からず人民公社|尚《なお》面白からずというすこぶるつきの仏頂面でわきに突っ立っていた。  そのうちどうやら結論が出たらしく、王青年が少し晴れやかな顔になって、 「大連駅の同志が、先生たち汽車に乗ること承認してくれました。あした十時二十分発の急行に瓦房店《がぼうてん》まで乗車してよろしいそうです」  と言った。 「へえ、瓦房店ね」  瓦房店は、昭和の初年満鉄職員だった私の亡兄が、一年ばかり地方事務所長をつとめた思い出の町であった。 「しかし、最終的には」  と、王通訳はかさねて言った。外事何トカ課の承認が要ります。許可が下り次第、船の方へお知らせするようにしましょう。——どうしてこう厄介なのか、自分の金で汽車に乗るのに礼を言うのは馬鹿々々しいと思ったけれど、仕方が無い、主任さんに礼を述べ、ついでに、 「構内の売店で時刻表が買えるでしょうか」  通訳を介して聞くと、 「時刻表は売ってません。これ、差し上げます」  と、豆本のような物をくれた。粗末な表紙に人民中国式略字で、  「鉄路客車時刻表   自一九七八年八月一日起実行   瀋陽鉄路局編印」  と印刷してある。  繰ってみるに、直快普快とも瀋陽まで六時間十分を要する。列車のスピードに関するかぎり、「あじあ」時代に較べて大幅な非近代化現象ということになりそうであった。往時、「あじあ」号の大連奉天間所要時間は四時間四十七分である。  翌朝、王通訳が例の「上海」号で「クイーン・エリザベス2」の舷側《げんそく》まで迎えに来てくれた。外事何トカ課の許可も取れました、車中昼食の手配もすませました、さあ行きましょう。私ども両名を乗せて斯大林大路を一と走り、西広場で右へ折れて、あれと思った時、運転手は車を大連站の脇玄関、貴賓室入口に着けていた。 「何だい、こりゃ。王さん、何故こんなことをするんですか」  不平を言ったけど通じない。 「大丈夫々々々。御遠慮要りません」 「大丈夫々々々って、僕ら、一般の旅客と同じに切符買って、同じ改札口を通って汽車に乗りたいんだがね」 「大丈夫。ほんとに御遠慮要らない。先生たち、大切な中国の外賓」  遠慮しているのではない。要人扱いされる分だけ自由な眼を奪われるからいやなのだが、それは通じても通じない振りをする主義らしかった。  貴賓室には、麻のカバーをかぶせた立派なソファが置いてあって、壁に中華料理店にありそうな聯《れん》が掛っている。ほかに人はいない。人民鉄路の下級服務員が、恭々しく蓋《ふた》つきの茶器で茶を運んで来る。いい気分かというに、ちっともいい気分でない。個人の資格の私どもがこれなら、何とか代表団で中国を訪れる日本の文士たちはみんなこれ以上のことをやられているにちがいないが、あの人たちいい気分なのかしら。いい気分の「裸の王様」かね。 「まあまあ、そうムキになるな、お前」  と遠藤がとめた。  やがて発車時刻が迫り、駅長に先導されて貴賓通路をプラットフォームへ下りると、濃緑塗装の普快201列車瀋陽行が停車していた。機関車は青島《チンタオ》機関車工場一九七七年製「東方紅」号三千馬力、ディーゼル・エンジンの唸《うな》りを発しているのを見てやっと少し気持が和んだ。  日本流に言えばDD型の機関車「東方紅」を先頭に、荷物車一輛、硬席車九輛、食堂車、軟臥車《なんがしや》(一等寝台車)、硬臥車(二等寝台車)各一輛の十三輛編成である。昼間の急行だから、寝台車は座席として使われている。一般旅客はすでに乗り終っていた。  われわれ三人が軟臥車のコンパートメントへ入ると同時に、フォームのベルが鳴り始めた。 「一路平安《イールーピンアン》、一路平安」 「では気をつけて行ってらっしゃい」  駅長や助役やきのうの主任さんや、四、五人の人に見送られて、列車は定時より四分おくれの十時二十四分、ゴトリと動き出した。  四人用のコンパートメントの中を見廻すに、電気スタンドがあって鉢植えの花が飾ってあって、小テーブルに清潔な白布が掛けてあり、ふわりとしたブルーの座席の背もたせは中国民芸品のレース編み、 「ははあ、こりゃいいや。共産国だって汽車はいいな」  思わず口にして、 「馬鹿。お前、馬鹿とちゃうか」  狐狸庵に言われた。 「王君、気にせんで下さい。革命後の中国にもおるやろ。ここがちょっとこれなん、おるやろ」と、薄くなった自分のおつむを指して見せる。「とにかくお前、少し黙っとれ。僕は景色眺めながら瞑想《めいそう》にふけりたいんやから静かにしててくれ」  機関庫のある沙河口通過、次に周水子《しゆうすいし》通過。周水子で旅順《りよじゆん》行の線が岐《わか》れる。大連飛行場があってソ聯製の旅客機がいる。禿山《はげやま》、セメント工場、右手に入江、陽はうらうらと三月半ばの春日和で、私は黙っていてもいいけれど、車内のスピーカーがしゃべり出した。 「次の停車駅は金州でございます」  というようなことを言っているのかと思ったら、どうもそうでない。人民日報の社説を紹介する北京放送の如き調子で、阿呆陀羅経《あほだらきよう》に似た抑揚をつけて長々といつまででもしゃべっている。 「何ですか、あれ」 「あれはですね」  と、王通訳が説明した。 「乗客のみなさん、四つの近代化を達成するため、党の指示にしたがって規律をよく守りと、そんなことを物語風に言って聞かせているのです」 「聞いて楽しいですか」 「楽しいとか楽しくないとかより、祖国の近代化のためですから」  綿入れ人民服を着た小柄な女性が、コンパートメントを一つ一つ、笑顔でのぞき歩いていた。列車長であった。何か御要望はとのことなので、この201列車の最高時速を質問すると、 「八〇キロから一〇〇キロの間」  と答えた。  列車長の次に、給仕がお茶の無料サービスに廻って来た。台湾の特快でも同じだが、茶の小袋をくれて、それをコップにあけると上から熱湯をそそいでくれる。茉莉花《まつりか》茶入りの紙袋に中国語で何かスローガンのようなものが印刷してあった。ただし、スローガンの一部が三文字ばかり墨で塗りつぶされていた。  今から三十数年前、日本でも国の方針に大変化が起って、子供たちがこんな風にあちこち墨で塗りつぶした教科書を使わされた時代があるのだから、よそ様のことを言えた義理ではないけれど、「党の指示」が変る度に墨汁の必要が生じるのではお茶の係もたいへんだろうと思う。  十時四十八分、金州に着いた。 「ここはあれやろ、『征馬ススマズ人語ラズ、金州城外斜陽ニ立ツ』、あの金州やろ」  狐狸庵が言う。 「珍しく正確に覚えてるね。しかし、日本の軍人の作った漢詩という奴、僕は好かんな。乃木《のぎ》大将という人自体もあんまり好きじゃない」 「そうかてお前、乃木大将程度の漢詩でもお前に作れるか」 「そりゃ作れっこないけど」  二人がやり合っているのを聞いて、 「私、詩作ってみましょうか」  王青年が申し出た。  汽車の旅には人の心を解きほぐす作用がある。青年通訳も大分打ち解けて来た様子に見えた。  四分停車で発車。線路わきの未だ薄氷の張ったどぶ池であひるが遊んでいる。みみずをたくさん食べてよく肥りましたという感じの、美味《うま》そうな|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》も親子づれで遊んでいる。  ボールペンを手に考えていた王通訳は、 「これでどうですか」  私のノートに五言絶句(?)を書きつけて示した。しまいの二句が、  「風光天限好   中日増友情」  というのだが、平仄《ひようそく》もととのっていないようだし、大層結構とは申しかねる。 「じゃあ、僕も一つ作ってみせる」  どうせお笑い草だ、しばらく書いたり消したりの末、「新中国|阿房列車之賦《あほうれつしやのふ》」と題し、  「東方紅上車窓歓   両友回来有深感   四十年歳月如夢   遼東半島春色淡」  どうだいと渡したら、王君が、 「お上手です」  と世辞を言い、遠藤が、 「何がお上手なもんか。よし、俺がそれに日本語訳つけたるわ」  ノートをひったくって、題を「旧中国狂人列車之賦」と改め、  「きちがいれっしゃのさわがしさ   おのれわくわくつれめいわく   しらがのおっさんありゃなんじゃ   はるかぜまでがわろうとる」  横にきたない仮名文字を書きつらねた。  窓外は桃畑、林檎《りんご》畑、二十里台を通過して次の停車駅は三十里|堡《ほ》、この一帯果物の産地で、昔は売子が歯ごたえのカリッとした酸っぱい林檎をよく売りに来た。  便所へ行くふりをして、私はそっと車室を出た。王通訳の「お世話」無しで列車を検分して歩こうという魂胆である。  通路の壁に「秋園佳色」とした大連特産貝殻細工の工芸品が飾ってあった。客車の端まで行くと、鍋炉室と書いた小室があって、ボイラーに暖房用の石炭が赤く燃えていた。駅の側線に、蒸気機関車の「解放号」がいる。 「こりゃ中々面白い」  デッキに立ち、過ぎ去る風景を独り悦に入って眺めていたら、 「先生、どこ行ったか、心配した」  王青年が探しに来、 「危いから、危いから」  と、無理矢理コンパートメントへ連れ戻された。 「あと四十分ほどで瓦房店です。私、昼食早く持って来るように催促して来る。この部屋から出ないで下さい。危いです」  昼を食うなら食堂車で食いたいが、「外賓」はそれも許してもらえないらしい。王君が席を立ったあと、 「危い危いって、何が危いのかね」  私は疑問を呈した。 「通訳から離れてあんまり勝手な行動してると、収容所に入れられんでも病院へ入れられるちゅう噂《うわさ》やで」遠藤が言った。「あの日本の作家、旅行中精神に異常来たしました、それで目下病院に収容して手厚く治療を施してます言うて、いつまでたっても出してもらえへん」 「要するに、あてがった物以外、見るな聞くなということかね。見たら身が危いということか」 「知らん。俺に文句言うたかて俺の責任やない」  通訳が食堂車の給仕を引き連れて戻って来た。車中の昼食にしては盛たくさんな中華料理が運びこまれた。ビールは生ぬるいし、前菜も乾焼明蝦も不出来だが、それより何より量が多過ぎる。|偉い人《ヽヽヽ》の食べ残したもので下々がうるおうという封建中国の遺風が生きているならいいけれど、勿体《もつたい》ない気がする。  車内放送は、阿呆陀羅経の説経節がいつかやんで、西洋風の音楽に変っていた。 「祖国を讃《たた》えるオペラです。聞きながら食べましょう」  王青年が言うが、そんなに食べられはしない。半分以上余したところで列車は瓦房店に到着した。三分おくれの十二時五分であった。  あと十一分の待合せで、瀋陽発の普快202列車大連行が入って来る。それまでフォームをぶらぶら歩いてみることにする。ほんとうは駅の外へ出たいのだけれど、「汽車すぐ来ます、危いです」と、どうせまた煩《うるさ》いだろう。  広い操車場があって、大きな駅舎があって、春の野花が咲いていて、瓦房店は私の少年期の記憶よりずっと立派な駅であった。それでもかすかに思い出がある。「五族協和、王道楽土」の標語が「偉大的中国共産党万才」に変っているところだけがちがう。  プラットフォームをぶらぶらしていて、オヤと気がついた。大連駅頭で見送ってくれたはずの「主任さん」がそこに立っていた。 「出張で瓦房店へ来られたのですか」  出張という言葉は出なかったが、たどたどしい中国語で、その含みをこめて会釈すると、 「不是《プーシー》。先生たちと一緒に大連へ帰ります」  向うも軽く会釈を返した。  これでは王青年が気をもむわけだ。通訳が私どもを保護監察する、そのうしろに通訳を保護監察する別の人がいる、そうとしか考えられない。  瀋陽行が発車した。  最後尾の硬臥車のステップに飛び乗った女列車長が、 「再見《ツアイチエン》々々」  と手を振った。  すぐ大連行202列車が入って来、私たちは同じ型式の軟臥車コンパートメントに乗りこむ、主任さんはどこか別の客車に姿をかくす。五分停車でこちらも発車、さっき来た道を大連へ、再び一時間四十分百五キロの汽車旅が始った。 「王さん、ちょっと硬席車の方へ行ってみるというのは、やはり駄目ですか」 「何しに」 「中国人民の間に坐ってしばらく話をしたいんだ」 「いけません。きょうは日曜日で、とても混《こ》んでて坐ること出来ない」 「坐れなくたっていいんだが」 「いけません」 「ただ通るだけなら?」 「先生、そんなに硬席車見たいか」 「別に硬席車が好きなわけじゃないよ。三等より二等の方が好きで、二等より一等の方がもっと好きだけどね」 「それでも見学したいですか」 「見学したいね」  じゃあ列車長に相談して来ると、王青年は部屋を出て行った。車掌の許可、もしかすると「主任」の許可も要るのだろう。やがて列車長(今度は男)が、 「御案内します」  とにこやかにあらわれ、遠藤はいやだと言い、私一人でおぞましきことになった。何しろ列車長が先導に立つ、うしろに通訳と赤い襟章《えりしよう》の警乗兵がつき従う、さながら周総理の車内巡視である。  食堂車に、亡き周恩来が幼児を抱いて微笑している戦争中の「家の光」の表紙みたいな絵が掛っていた。食堂を抜けて硬席車へ入ると、なるほど満員だ。座席の人、通路に立った人がみんな私を見る。私の方は照れくさくて乗客の顔をまともに見られない。ドアをあけてデッキ、又ドアをあけて通路、十輛の車内を歩きながら気づいたのは、車輛に長春《ちようしゆん》工場製のものと上海工場製のものとがあること、ほとんどの旅客が人民服だが、中に赤の上着緑の襟巻の若い女性もいたこと、トランプに興じている一と組を見かけたことぐらいであった。荷物車の手前まで来た時、ちょうど普蘭店《ふらんてん》に停車したので、ほうほうの態でフォームを一等コンパートメントへ逃げ帰った。そのせいで列車に一、二分の遅れが生じた。 「どうや、おもろかったか」 「おもろくないね。閉口した」  王青年も閉口の面持ちで、未だ息をはずませながら、 「私、これまで日本人の旅行者三百人以上お世話したけど、こんな我儘《わがまま》な人たち、見たことない」  と言った。  実は昨日来、向うが見せたがる物を私ども二人は見たがらない。見せたくなさそうな物ばかり見たがる。恨み言を言われるのも尤《もつと》もだが、 「君、しかしなあ」  狐狸庵が質問した。 「君はきのうから工場々々て、しきりに工場見学させようとするけど、そないに工場好きなんか。好きなんなら、今度君が日本へ来た時」  王君は、近いうち中日友好の船で日本を訪れる機会があるかも知れないと言っていた。 「今度来た時、東芝、日立、日産、ソニー、新日鉄、三菱、全部見せたるで」 「ありがとうございます。でも」と、王青年は首を振った。「私、個人としては工場あまり興味ない。好きなのは日本語と日本文学です」 「それ見てみい」  瓦房店到着直前あわただしく飲んだビールで、三人とも多少酔いが廻っている。遠藤はだんだん饒舌《じようぜつ》にぞんざいになって来た。 「それで君ら、日本語勉強して大学卒業して、国際旅行社に就職して、偉うなって行くためには次々試験があるんか」 「あります。ありますけど、今は出世のためでなくて、みんな祖国の四つの近代化のために試験受けます」 「分った分った、分りました。君の言うことは全部、二たす二イクオール四ちゅう公式論や。近代化のためであろうと何であろうと、試験があるんでしょ」 「あります」  列車は三十里堡を出た。二軸四輪の可愛らしい気動車がいる。線路の上を老人が山羊《やぎ》を曳《ひ》いて歩いている。  王君の話では、日本文学の方ももっと勉強したいのだが、教科書以外日本語の本はなかなか手に入りませんとのことであった。 「失礼ですが、先生たちの作品も未だ読んでません。その代り私、録音機買ってテープで勉強してる」 「何を」 「歌です。日本の歌大好きです。たくさん知ってる」  突然、青年は、  「あなたがその気で言うのなら   思い切ります別れます」  と、私の知らない歌謡曲を大きな声で歌い出した。何を思ったか、狐狸庵が「アラ、エッサッサア」と合の手を入れた。 「先生、真面目に聞いて下さい。泥鰌《どじよう》すくいとちがう。これ、私の勉強だから真面目に歌ってる」  王君の言うところは私にも思いあたる節がある。旧制高等学校の時文乙で、ドイツ語をみっちり仕込まれた。みっちり仕込まれたにもかかわらず、きれいさっぱり忘れてしまい、Fahne が男性か女性か、文法上のめんどくさい規則なぞ憶《おぼ》えているはずがないのに、旗は女性名詞だと今も即座に言いあてることが出来るのは、 「Die Fahne hoch, die Reihen dicht geschlossen」  というナチス突撃隊の歌のおかげである。ナチスとナチスかぶれの日本人はきらいだったけれど、歌はきらいでなかった。  王青年は次に「南の花嫁さん」を歌ってみせた。これは私も知っている。もともと中国の旋律らしい。  「花なら赤いカンナの花か   散りそで散らぬ花びら風情」  真面目に聞いてくれと言われた遠藤が、また口を出した。 「王君、その歌の意味分ってるのか。それはやね、色っぽい女の子が、処女をくれそうで嫁に来るまでなかなか処女をくれんちゅう意味やで」 「はあ?」 「はあって、そうだよ。君かて二十七歳の独身で、恋愛がしたいやろが。可愛い女の子を早う抱きたいやろが。抱かせてくれなんだらいらいらするやろが」 「四人組追放後」  と、王青年は答えた。 「中国においても個人の恋愛は自由です。しかし祖国の四つの近代化のために……」 「この人、少し思想改造の必要があるな」  私が言うと、——冗談のつもりだったが、 「この人って、誰の思想改造ですか」  王通訳がいささか気色ばんだ。で、こちらもちとムキになった。 「君のに決ってるよ。王君の齢《とし》で女が欲しい、美味《おい》しい物をたっぷり食いたいは、健康な人間の自然の生理だろ。遠藤じゃないけど、君は二たす二ばかり言ってて、ちっとも本音を吐かない。ほんとのことをほんとと認めないで、三つでも四つでも近代化なんか出来るのかね。小平《とうしようへい》さんはそれほど分らず屋ではなさそうだがな。それとも、このコンパートメントに反派の盗聴マイクでも仕掛けてありますか」 「そうやそうや、もっとほんとのことを言え、君」  と狐狸庵が私を声援し、 「盗聴マイクなんか仕掛けてないです」  王青年は憮然《ぶぜん》として歌を歌わなくなった。  列車は周水子まで帰って来ていた。向うの線路に、蒸気機関車に曳かれた長い旅客列車が見える。主任さんのくれた袖珍本《しゆうちんぼん》時刻表で調べてみると、周水子十三時四十四分発の市郊(近郊列車)553旅順行らしい。私たちの普快202列車は、周水子にとまらない。 「ケタタントントン、ケタタントントン」と万国共通の車輪の音を響かせながら走りつづけている。もっと乗っていたいけど、大連まであと二十分足らずであった。 [#改ページ]  マッキンレー阿房列車 「大兄、お元気ですか」  と、開高健が電話をかけて来た。 「小生はまたまた片雲《へんうん》の風にさそわれて、この夏から長い風狂の旅に出ることになりましてな」 「釣だろ」 「釣です。アラスカを振り出しに、南米の南端火の国フエゴまで。さらには南極大陸へも足のばします。熊の危険に蚊に毒蛇。えらいこっちゃで、これ」  日本製の自動車二台を列《つら》ね、参謀だか従者だかを数名引き連れ、奇魚大魚幻の名魚を求めて八カ月がかりで南北アメリカを縦断するのだという。 「ついては大兄、一度どうです。寝袋その他装具の用意はしておきますが、アラスカだけでも小生の道楽につき合うてみる気、ありませんか」 「ありません」私は答えた。「そんな、熊の出そうな異国の森の中で藪蚊《やぶか》に攻められながら野宿なんて、考えただけで閉口だ」 「開高閉口ですか」 「洒落《しやれ》はどうでもよろしいけど、蚊に弱いし、君ほどもう若くない。あんまりお元気でない上、もともと不器用で釣は駄目だよ」 「汽車に乗りまっせ」 「汽車?」  つい聞き返した。|あたり《ヽヽヽ》があったと感じたのだろう。閉口先生は委細説明を始めた。  これだけの大旅行を試みるには、そこに相当な資金を必要とする。売文をしてまかない切れるものでなく、数十年来深い御縁のあるウイスキー会社の親分に、費用の一部負担してもらえないだろうかと相談を持ちかけたところ、関西三ケチの一人と言われる親分が、意外にも二つ返事で承諾した。ただし、帰りがけ、 「開高、ちょっと待った」と呼びとめられたそうである。「金は出したるけどなあ、世の中何ごともギブ・アンド・テイクやで。当社の製品の宣伝も忘れんといてや」  それで、閉口先生は旅行中、テレビ用コマーシャル・フィルムの撮影に協力せざるを得ぬ仕儀となった。アラスカの原野に列車を停め、釣師たちがウイスキー瓶《びん》片手に乗りこむ爽昧《そうまい》清涼効果充分なる場面、資金援助の見返りとして無料出演するのである。 「いわゆるフラッグ・ストップですわ。コマーシャルとはいえ、秋草の花乱れ咲くアラスカの湿原で、氷の山背景に小生が日の丸の旗振って長い長い汽車停めてみせるんやで。大兄、興味あるんとちゃうか」  フラッグ・ストップぐらい承知しているし、やったこともある。しかしアラスカの列車には未だ乗った経験が無い。 「そりゃあ、あれかネ、アメリカの鉄道が全部民営の中で、アラスカ州だけは国有鉄道なんだが」 「そうそう」 「それにアラスカの鉄道という奴は、あすこだけ孤立していて、カナダともアメリカ本土とも線路がつながっていない」 「そうそう」 「どんな汽車を走らせてるんだかネ」 「そうそう、そうです。乗ってみないことには分りませんな」  妙に調子を合せてすすめる。おまけに、来てくれるなら旅費を自分に持たせてほしいと言い出した。 「そんなことまでしてもらわなくたっていいけど」 「いやいや。僕かて森の中で川とにらめっこの毎日で、好きな道とは言いながら淋しいやないですか。あわれな淋しい開高を慰める思うて来て下さい。大兄が小生の釣につき合う。小生が大兄の汽車に奉仕する。万事|辻褄《つじつま》が合うてる。大兄はこの夏もハワイ御滞在でしょ。ウイスキーの親分が気前よう金出してくれたから、ホノルル・アンカレッジ間の飛行機賃ぐらい安いもんや。一生に一ぺん、後輩よりのささやかな贈り物として、四の五の言わんとこの御招待受けて下さいよ」  そのへんで気がつかなくてはいけなかった。辻褄なんかちっとも合っていない、開高閉口の口車にうまく乗せられたのではないかと疑い始めたのは、八月初め現地に到着してのちである。  信濃路《しなのじ》遠き旅衣《たびごろも》、旅費向う持ちで北辺の汽車に乗れるとは悪くない。森と氷河の国アラスカが昔々の信州より近くなっているし、身軽ないでたちであさはかにも指定の日、いそいそとアンカレッジ空港へ下り立った。約束の宿に、釣師一行誰もいなかった。連絡係の話では、目下魚を追うて渓谷の中をさまよい歩いているらしいという。 「例の御無理お願いしている一件もありますので、もうそろそろ切り上げて出て来るころだと思うんですが」 「御無理お願いしてる一件て、何ですか」 「確か、御一緒に当地の汽車にお乗りいただいて……」 「汽車は乗りますよ。そのために来たんだから。しかしそれが——、何だか変だな」  連絡係の名刺にはウイスキー会社の社名が印刷してある。困ったような顔をして、 「詳しいことは私も知りませんのです」  と言った。  むなしく待たされた末、次の日の夕刻になってやっと彼らが繰りこんで来た。声で知れた。閉口先生のとてつもない胴間声《どうまごえ》が、ホテルのそのフロア中鳴り響き出した。顔を出すと、 「いよウ」  閉口は手を差しのべながら立ち上った。 「これはこれは、大兄。今お知らせしようかと思うてたとこや。さすが海軍の元情報将校、早くも小生の着いたこと察知して、訪ねていただいたとは恐縮。部屋、よう分りましたなあ」 「馬鹿なこと言っちゃいけませんよ、君。察知しなくたって全部筒抜けだよ」  参謀がいてカメラがいて、そのほか宣伝映画の撮影隊らしき日本人男女が七、八人いて、部屋の中、不思議な熱気がたちこめていた。仕事を別に、それぞれ釣好きで、川瀬の音に聞き惚《ほ》れるが如く主役の熱弁を拝聴の最中であったらしい。ニューヨークから東京からサンフランシスコから、ここ一両日の間に続々アンカレッジへ集結して来た撮影隊のスタッフは、釣糸を垂れる機会に未だ恵まれず、みな心を逸《はや》らせているのだと、あとで分った。  アラスカ入り後すでに旬余に及ぶ閉口先生の方は、白毛のまじるもじゃもじゃ髭《ひげ》を生やし、よく陽に灼《や》けて元気そうで、しばらく見ぬ間にエスキモー族の詩人か哲学者といった風格を帯びている。 「ええか、野糞《のぐそ》の話や」  と、私の出現に中断された苦心談を大音声《だいおんじよう》で再開した。 「どない手早うやっても、尻にわっと蚊がたかって来よる。お尻デコデコ、到るところに熊のウンコが落ちとるし、食べるもんいうたら罐詰《かんづめ》ばっかり。川下っては魚を釣る、釣ってはまた川下る、毎日々々これに明け暮れとったんや。難行苦行のわが修験《しゆげん》の道、察してよ。そやけど釣れるなあ、釣れましたでえ。広大な国です、何ぼでも釣れよるわ」 「何がそんなに釣れるのかネ」  私は質問した。 「キング・サーモン、レインボウ・トラウト。その日その場所によってお目あてがちがいます」 「グレイリングというのは?」  飛行機の中でアラスカの徒歩旅行に出かけるアメリカ人と識《し》り合いになった。今回の旅の話をしたところ、汽車には関心を示さなかったけれど開高の釣|行脚《あんぎや》に大層興味を示し、そのお友達に差上げてくれと、『Coming Into The Country』と題するペーパーバックを一冊預かって来ている。著者はジョン・マックフィーという紀行作家で、ぱらぱら読んでみるに、しばしば grayling なる魚の名前が出て来る。川の描写も魚の描写もきれいだが、さてどんな魚なのか見当がつきかねた——。  聞いた閉口先生は、 「それです、それ」  と、いきなり私の鼻先へこぶしを突き出した。 「川魚の中のプリンセスと呼ばれてる魚です。気位が高い。すばらしく美しい。あしたから大兄待望の汽車に乗って、マッキンレー山麓《さんろく》へそのグレイリング釣りに出発するんやがな」  するんやがなと言われても、私は今後の予定を何も教えられていない。少し変な顔をしたのだろう。誰かが、 「大体こんな風なスケジュールになっておりまして」  そっと刷り物を渡してくれた。見て驚いた。 「第一日、アンカレッジよりカントウエルへ移動。アラスカ鉄道車中場面撮影。カントウエル泊。第二日、カントウエル南方湿原にてフラッグ・ストップ場面撮影。終了後アンカレッジへ移動。アンカレッジ泊」  それはいいけれど、役柄をしるした人名一覧表が添えてあって、一、プロデューサー某、二、ディレクター某、三、助監督某、以下照明とかメイクアップとか色々あり、十一番が「タレント、開高健」、次の十二番は「タレント友人、賛助出演」として私の名が挙げてある。 「どうもおかしいおかしいと思ってた。何だい、こりゃ」  異議を申し立てようと呼びかけたが、閉口先生は釣の話に夢中で、聞えたのか聞えないのか、一段と声が高くなる。  まともに相手になってくれないから、自分の部屋へ引揚げ、もう一度人員表をあらためてみた。プロデューサーが東条、メイクアップが山下、カメラが杉山で照明が板垣。全部陸軍大将の名前じゃないか、東条どもの発意か閉口のたくらみか知らぬが、まんまと彼らの術中に陥《お》ちたと思った。甚だ以《もつ》て釈然としない。  原則としてテレビには出ないことにしている。出て人さまに顔を覚えられるのがいやだし、関係者の「出してあげる」と言わんばかりの態度がいやである。事と次第によって今夜の飛行機でハワイへ帰ってしまうべきところだが、刷り物を眺めながらとつおいつ考えてもなかなか踏ンぎりはつかず、そのうち胸のもやもやがおさまってだんだんあきらめの心境に達して来た。  何故《なぜ》踏ンぎりをつけかねるかというと、第一がアラスカの鉄道に未練がある。第二に往復の航空運賃を負担してもらっている。これについては身の不明を恥ずるほかないけれど、恥じても手遅れだ。第三に東条以下のスタッフが、あとで夕食も共にしたが、仕事熱心な好青年|揃《ぞろ》いで感じがよろしい。あすからアラスカの原野での撮影と川釣りを前にして、活き活きと楽しそうに張り切っていた。  胡麻塩髭《ごましおひげ》の中年男は閉口一人だが、熊の森から出て来たこのエスキモーの哲学者みたいなのがまた、あっけらかんと上機嫌で人なつっこげで、座頭《ざがしら》のエスキモーよりさらに十|齢上《としうえ》の自分がここでつむじを曲げたら、一つの目的に向って結束している皆の活き活きした気分は、少くとも当座ぶちこわしになるだろう。あきらめようと思った。  それでも、一と晩寝ていま一つ釈然としないところが残るから、朝食のテーブルで閉口先生をつかまえ、不服を言った。 「仕方がない。僕はもうあきらめて、何でも言われた通りする。好きなようにしてくれ。しかし、こんな話、全然聞いてませんよ。君みたいに、料理で舌を鍛え、ウイスキー会社の宣伝部で舌を鍛え、講演で舌を鍛えてる人にはとてもかなわない。みごとにひっかけられた」 「それ、ちがう」  ハムエッグスを食いかけていた閉口がナイフを置いた。 「それは大兄の誤解や。ささやかな旅費を差し上げたのは、小生ほんまに心持だけのことで、他意はありません。コマーシャルに出るのいややったら、断って下さって結構です。どうかわれわれを無視して、アラスカ鉄道の車窓風景充分に楽しんで下さい」 「いやな言い方をするな」 「いやな言い方してません。そのうちもし大兄の気が変って、あわれな開高と一緒にテレビ・カメラの前に立ってみたろかと思われたら、そら又その時のことやないか。要するに、どっちでもよろしいねん」 「昔、広津さんに」と、閉口先生はつづけた。「すぐれた芸術の特徴は君ネ、押しつけがましくないことだよと言われた。後年フランスへ行ってシャルトルの寺院見て、つくづくそれ思い出した。あの壮麗なるものが、全く押しつけがましいところを持っていない」 「何を言わんとしているのですか」 「小生も、押しつけがましくはなりたくないと言わんとしてる。この件、決して押しつけは致しません。完全に大兄の自由や」 「それにしては、ずいぶん押しつけがましい大きな声だ」 「まあまあ」と、閉口は残ったコーヒーを飲み乾した。「川と魚と汽車が待ってるがな。機嫌直して、そろそろ行きましょう」  アンカレッジはアラスカ州最大の都会なのだが、繁華街を歩いても駅前広場へ来てみても、人影薄く荒涼とした北の果ての感じがする。駅の裏手に目黒川ほどのきたない川が流れていた。すぐ先は海である。この川へ鮭《さけ》がのぼっているというので、列車の入線を待つ間、みんなで見に行った。 「いる」 「ほら、いますよ、其処《そこ》に」  なるほど、浅瀬に背鰭《せびれ》を見せて、赤黒い錦鯉《にしきごい》みたいなものがうようよ泳いでいた。 「ほほう。こんなアンカレッジの市内でねえ。しかも赤い鮭とは珍しい」  私が感心すると、東条の部下が、 「これでもキング・サーモンです。産卵期で婚姻色を呈してるんです」  鮭は全部銀色と信じている最年長者をあわれむように言った。釣と魚に関し、私はこのグループの中で全くの異分子らしかった。  時々、水しぶきを上げて赤い鮭がはねる。鴎《かもめ》が悲痛な声で鳴き立てる。彼らは、すきあらばと鮭の目をねらっている。鯛《たい》の目玉が美味《おい》しいように、鴎にとって鮭の目玉は御馳走なのだ。浅瀬のごろた石の上で小ぶりな奴が身をくねらせ始めると、忽《たちま》ち襲いかかって目の玉だけでなく丸ごと呑みこんでしまう。 「輪廻転生《りんねてんしよう》、エネルギー不滅の法則、徹底的唯物論の世界。あわれな風景や」  と、開高哲学者が感想を洩《もら》した。  われらの乗る列車は、九時三十分発「オーロラ」号フェアバンクス行。アンカレッジより途中マッキンレー国立公園の麓《ふもと》を通って北極圏油田地帯への入口フェアバンクスまで三百五十六マイル、ほぼ東京神戸間の距離を十時間半かけて走る。列車番号は6列車。6列車と称するからには、2列車、4列車、8列車があるかというと、あるかも知れないけど客扱いをしない。アラスカ随一の幹線に、旅客列車はこの「オーロラ」号が一日一本だけ。  魚のことは分らなくても、こういうことならすぐ分る。駅へ帰り着くと間もなく、6列車「オーロラ」がのろりのろりとうしろ向きで入線して来た。  プラットフォームは一面片側だけなので、「二番線に『オーロラ』号が入ります。危険ですから白線の内側へ下って」というようなアナウンスなぞ一切無い。日本人の世話係ひとりが、 「撮影隊のみなさんは最後尾の二|輛《りよう》。一番うしろの二輛に乗車して下さい」  と叫んでいた。  私は鞄《かばん》を若い衆に托《たく》して、列車の編成と駅のたたずまいとを見て歩く。国有鉄道だからといって格別変ったところも無さそうだが、「サンタ・フェ」とか「グレート・ノーザン」とかお馴染《なじ》みの民営鉄道のマークの代りに、合衆国運輸省のマークが眼についた。  待合室の前で、「わしの一生はアラスカの砂金さがしに費《つか》い果した」という趣のみすぼらしい白人の老人がぼんやり列車を眺めている。この線路の建設が始った一九一〇年代は、アラスカに黄金さがしの夢が未《ま》だ盛んだった時代で、爺さんは多分はたち前後の若者であったろう。乗ろうとはせず、ただ眺めていた。  列車はずいぶんと長い。新旧重連のディーゼル機関車のうしろに荷物車を二輛、それから客車を十一輛つないでいて、内二輛は食堂車、二輛が二階建の展望ドーム・カーである。列車の屋根に鴎がとまって鳴いている。  端から端まで検分し終って、乗れと言われた最後尾の客車に乗りこんで、またまた驚いた。その二輛は、ウイスキー・フィルム撮影隊の専用貸切り増結車であった。  増結車内あちこちにアメリカ人男女の顔が見えるのは、いつどこで集めて来たのか現地雇いのエキストラ連中である。一体、アメリカ国鉄から鉄道車輛二台借り上げ、十六人の日本人スタッフに加うるに「その他大勢」の米人まで使って、どれだけの宣伝フィルムを作るのですかと東条の部下に訊《たず》ねてみると、きょうあすで三十秒のが一本、一分のが一本だと言う。えらいことをやるものだ、あの琥珀色《こはくいろ》の液体にその費用が全部溶けこませてあるのかと思う。  閉口先生は前垂れを掛けられ、神妙に椅子に坐って、早くもお化粧の最中であった。サンフランシスコから来た小柄な可愛い日本女性、メイクアップのヤマシタが、てきぱきと胡麻塩髭のトリミングをし、ドーランを塗り、爪の手入れをしてやっている。 「大兄、気にせんで下さいよ。大兄には拒否権があります。未だ未だ拒否する権利があるのですぞ」  閉口が言うけれど、今ごろそんなことを言われてもどうなるものでなく、一丁仕立て上げた可愛い山下将軍は、 「はい次、そちらの先生」  と、有無を言わさず私の首に前垂れをしめつけた。  その時、ゴトリと長い列車が動き出した。  何度か経験があるが、映画撮影テレビ撮影というのはむやみに時間がかかる。平然と、いくらでも人を待たせる。化粧がすんでもカメラの廻り始める気配はさらに無く、本日東条の指揮するスタッフも、三十秒もののフィルムを四時間ぐらいかけて撮るつもりらしかった。  顔にドーランを塗られた閉口先生と私とは、手持無沙汰のまま、ウイスキーを舐《な》めながらもっぱら車窓に移る景色を眺めている。その景色が、アンカレッジの町を出離れたあとは行けど進めど白樺林《しらかばばやし》エゾ松の森ばかりで、単調なことおびただしい。 「大兄、アラスカの州花は何か知ってますか」 「知らんな」 「フォーゲット・ミー・ノット、忘れな草。これには、俺たちのこと忘れんといてやという意味もあるらしい。アラスカが四十九番目の州に昇格したのは近々二十年ほど前のことやからね」 「ふうん」 「タッチ・ミー・ノットが鳳仙花。線路のわきに小さな赤い野花が咲いてるやろ。あれはファイアウィード——、ウィロウアーブとも言います」  森と渓谷の中で明け暮れていただけあって、閉口は草木に詳しい。 「日本名やなぎらん。この藤色の花が咲き出すと、アラスカの秋が近いねん」 「なるほど」 「それにしても大兄。大兄の大好きな大きなゆったりした汽車でアラスカの大原野を旅してて、もうちょっと機嫌のええ顔出来ませんか」 「今さら機嫌を悪くしても仕方がありますまいが。退屈なだけだ。大きくゆったりって、この汽車、殺風景で古くさいよ」  殺風景な原因の一つは、さっき客車内を検分して廻って気がついた。国有鉄道のため、しかるべき規制があって華やいだ商業広告が取れないのである。各車輛の通路はしには、官製絵ハガキみたいな、面白くもおかしくもない山と湖の写真が貼《は》り出してあった。 「しかし、『オーロラ』号てなかなかええ名前やないか」 「ええ名前——かな」  窓ガラスに指で AuRoRa と私は書いてみせた。 「大文字三つで ARR。悪い名前でもないけど、アラスカ・レイルロードにひっかけたつもり。つまらん洒落ですよ」  持て余したように、閉口先生は黙ってしまった。其処へ、アメリカ人のエキストラ夫婦が、「同席させてもらっていいか」と寄って来た。 「あんたたちは日本の作家だそうだが、アラスカをどう思う?」  と聞く。 「田舎の新聞記者みたいな質問しやがるな」  私が日本語で言うと、閉口が、 「英語で『しがない』て何やろ」  と言った。  六十年輩の夫婦者で、タータン・チェックのシャツを着た夫の方が、 「自分は二十八年前に」  と、構わずしゃべり出した。  二十八年前にニューヨークからアラスカへ移住して来た。アラスカ鉄道に就職し、コックとして働いているうち、この女と識《し》り合って結婚した。以来、アラスカを出たいと思ったことは一度も無い。実にすばらしい国だ。あんたたち、そう思わないか。学者の説によると、鳥獣を解剖してみて水銀の汚染を受けていないのは、アラスカの鮭と禿鷲《はげわし》ぐらいだそうだ。アメリカの大自然がここにだけ未だ残っている。アラスカの景色を眺めていて、自分は一日として飽きることがない——。  手放しのアラスカ讃歌《さんか》だから、 「そうですかね。私なら三日で飽きると思いますがね」  つたない英語で反論したら、エキストラ氏は、 「天気が悪くてマウント・マッキンレーが見えそうもないのは残念だが、マッキンレー山やユーコン河を見たら、あんたもきっと考えを変える」  と言った。 「いや、それはやな」と、閉口先生が割って入った。「山川の景色より、大兄が釣の趣味を解さんからやで。小生、このオッサンに賛成するなあ。釣師にとってアラスカは、汲《く》めども尽きぬ、神がこの世に残し賜うた最後の天国の一つです。諺《ことわざ》があるねん」  一時間|倖《しあわ》せになりたかったら酒を飲みなさい。三日間幸福になりたかったら若い娘と結婚しなさい。一週間なら豚を殺して食べなさい。一生幸福になりたかったら釣を覚えなさい——。 「これ言うと、男笑いよる。女しゅんとなりよるけど」  閉口がヴェトナムなまりの英語で翻訳して聞かせると、予言通り夫婦者の片方は笑い出し、片方は少しこだわった顔をした。  ああでもないこうでもないと、忙しげにやっていた東条以下のスタッフが、ようやく配置についた。 「たいへんお待たせしましたが、テスト行きます」  この増結車は、アラスカ鉄道に三台しか無いパーラー・カーの一つで、前半分が食堂車風のテーブル席、うしろ半分がバアのしつらえになっている。もう一輛は撮影用の電源を取る動力車である。  ディレクターの指示で、閉口先生はテーブルの窓ぎわにカメラの方を向いて坐り、エキストラの男女がその左右となりへ坐る。卓上にはむろん、ウイスキーの瓶が置いてある。私はバアの止まり木に腰かけてエキストラ相手にブラック・ジャックの御開帳に及ぶ(ふりをさせられる)。カメラの位置から見ると、ウイスキー・グラスを手にアメリカ人乗客と談笑中の開高健が前景、その奥の方で「タレント友人」がカードを配っていることになる。  最高時速四九マイルの「オーロラ」号は、ゴトトンゴトトンとあまり快くない揺れ方をしながらのんびり走っていた。広大なアラスカで何故こんなにカーブのある線路を敷いたのだろうと思うほどカーブが多い。きついカーブを曲る時、車窓に機関車と長い客車群がよく見える。車掌が撮影見物に入って来て、スタッフに何か言っていた。 「開高さん、この車掌、さっきから色気があって、ちょい役で出たいらしいんですがね。どうしますかネ」 「出てもろたらええやないか。車掌も山の賑《にぎわ》いや」 「そんならバアのうしろの通路でも歩かすか。キュー出すからね、誰か通訳して」 「物好きがいるな」  私が言ったのを聞きとがめて閉口先生が振り向き、 「大兄、辛抱々々。トランプ切るその手つき、なかなか大したもんやないですか。年季入ってるなあ」  と、むずかる子役をあやすような言い方をした。  テストが何遍となく繰返される。それは東条たちの仕事熱心の故だから悪く思うわけには行かないけれど、強烈なライトに照らされてドーランの上を汗が流れる。アラスカらしく白い手織りのとっくりセーターを着せられているので、暑くてしようがない。 「誰か水を一杯くれませんかね」  註文《ちゆうもん》したら、照明の板垣が、 「ハイ、水」  これまた子役をあやすようにすぐ氷水を差し出した。 「それでは本番参りましょう」  機関車がラッパのような警笛を鳴らして、列車は悠々たる大河の上にさしかかる。 「いい川ですね、いますかね」  東条が一瞬手を休め、釣りたそうな眼つきをした。 「いますぞ、いますぞ。岩のかげに鱒《ます》とイワナがおりますぞ」  閉口先生は武者ぶるいなのか、もぞもぞ身体《からだ》を動かした。 「ハイ、それでは本番」  こうしてともかく撮影が終了した時、時刻はとっくに正午を廻っていた。私はヤマシタにドーランを落してもらい、四輛先のドーム・カーへ逃げ出した。  どの車輛にも、一般旅客の姿はまばらである。天井までガラス張りの二階展望室は空いていて涼しかった。厚い雨雲のせいでマッキンレーの山容は見えないけれど、列車が上り勾配《こうばい》にかかり、近くの山裾《やますそ》に雪があって、雲さえ霽《は》れれば確かに雄大な眺めであろう。  二十分ばかり心地よく居眠りをし、さめたら腹が空いていることに思い及んだ。展望室を下りて食堂車へ行ってみると、閉口先生を囲んで四、五人のスタッフがハンバーガーを肴《さかな》にビールを飲んでいた。 「お疲れさまです」 「お疲れさまです」  と言われた。  仲間に加わってビールを飲みながら、私は時刻表を読む。演技(?)に夢中で気がつかなかったが、ヒューストンとかモンタナとかカレー(カレーライスのCurry)とか、シャーマン、ホノルル、この五時間ほどの間にずいぶんたくさん奇妙な名前の駅を通過している。もっともその大部分は、駅といってもただのフラッグ・ストップである。その日の客に乗り降りの要求があれば列車を停めるので、駅舎も改札口もプラットフォームも何ンにも無い。考えてみたが、ヒューストンやカレーに停車したかどうかも定かでなかった。時刻表の欄外にはこのほか、フラッグ・ストップに応ずる場所として「マイル・ポスト二三三・五」「マイル・ポスト二六九」「マイル・ポスト三四二・七」等々、名無しの地点が十挙げてあった。  さきほど通路通行のちょい役で出演させてもらった車掌が食堂車へあらわれ、 「あんた方にいい物を見せてやろうか」  と、ハンカチ包みを開いた。いびつな形をした小さな金塊が三つ入っていた。 「自分の採って来た砂金だ。天然の金だよ。休みの日、自分は川へ行く。アラスカの川では鮭釣りと砂金採りと両方が楽しめる」 「車掌さん」  私は時刻表を示した。砂金の川を教えてくれという意味に取ったらしく、地名を指さそうとするので、 「そうじゃない。この列車はそろそろアンカレッジ行の5列車とすれちがうころだと思うんだが、何処《どこ》ですれちがうんですか」  濠洲《ごうしゆう》やカナダでもそうだが、アラスカのような広漠たる大自然の中で一日一回列車の行き逢う風景が私は好きだ。人気の無い荒野に、その時だけ上り下り大勢の旅人同士が、見知らぬ顔を見合せて別れて行く。二度と会うことはない。 「それは」と、車掌は車掌の本業に戻り、間もなくこの6列車が進路をゆずって側線に停る、そこへ南行きの5列車が入って来ると答えた。 「ちょっと失礼」  ハンバーガーを食い残して私は席を立った。ドーム・カーの二階へ上って見ていると、言われた通りやがて列車のスピードが落ち、ゴトリゴトリと森の中の側線に停止した。待つほどもなく、反対側から同じ編成同じ塗り色の5列車が進入して来た。機関車が廻転式のヘッドライトを二つ光らせて、客車は胴体が黄色、窓の上下がブルーの塗装で、外観だけの方がずっと美しい。向うのドーム・カーにもいくつか人の顔が並んでいる。ガラス越しに視線が合うと照れくさそうな表情をする。役目を果した日帰りの米人エキストラたちがこれに移乗した。  あとで着いた本線5列車の方が先に発車する。動き出すと照れくささが消えるらしく、手を振っている人がある。つづいてこちらも側線から動き出す。至極満足して食堂車の席へ帰って来たら、 「大兄も不思議なお方ですなあ。汽車がすれちがうの見ただけで御機嫌がころりと変るんやねえ」  と閉口先生が言った。  われわれの下車駅カントウエルまでは、それから三十分足らずであった。  村とも言えない村の、ジャック・リヴァ・インなる旅人宿へ入った。西部劇に出て来そうな木造二階建の安普請で、階段はギシギシいう、設備は悪い、共用の便所はきたない。玄関正面の上に、下手な木彫りの熊と、カリブーの角とムースの角が飾ってある。  住所標示からして「アラスカ州カントウエル、国道三号線二〇九・六マイル地点」という、このうらぶれたような旅籠《はたご》が結構|繁昌《はんじよう》していた。釣道具を積んだ車が始終出入りする。東条チーム別働隊の赤い自動車もアンカレッジより到着した。釣情報と食糧に用の無いトラックや乗用車は、前の国道三号線をすさまじいスピードで走り過ぎる。 「さてさて、一と休みするか。大兄、疲れたでしょう」  と、閉口先生がねぎらってくれた。 「そうでもないけど、僕は痔《じ》持ちなんでね。部屋に便所とシャワーの無いのは苦が手だがな。釣旅行の間はいつもこれですか」 「いつもこれですかてあなた、釣師がこんな宿に泊れたら、その日は極上とび切りの豪華版やで。痔がお悪いかも知れませんが、大兄、近来ちと柔弱になり過ぎておられるのとちがいますか」  世話係に割りあててもらった二人部屋の、しめっぽいベッドに靴のまま寝そべって煙草をふかしながら、 「アメリカ人を見てごらん」  と、閉口先生はつづけた。奇異なことだが、大旅行家を以て自任する開高健が、アメリカを未だほとんど知らないのである。すべてのものが新鮮で珍しいらしかった。 「森の中で出逢うた奴らに訊ねてみると、ルイジアナがおる、テキサスがおる、カリフォルニアから来てるのがおる。あいつらホモ・モーベンスやな。家は仮の住まいと心得、粗衣粗食|粗曼《そまん》に耐えて、何千マイルをものともせずに動きまわってよる。大方の予想とちがうけれど、この国は未だ未だ発展する思うで」  しばらく大きな声でしゃべっていたが、やがて閉口はむっくり起き上った。 「日が暮れるまで、うちの若いもん連れ出して少し川の手ほどきしたろ。大兄、行きますか」  行くことにした。  希望者を十人ばかり乗せた赤塗りのヴァンは、濛々《もうもう》たる砂塵《さじん》を捲《ま》き上げて広い砂利道を走ること三十分ばかり、何か目印を見つけると森の中へ乗り入れた。岩の露出した道幅一メートル少々の急坂《きゆうはん》が、其処から谷底へ通じていた。岩に腹をこすり、バンパーをぶっつけ、木の枝に車体を引っかかれ、大揺れに揺れて下って行くと、川瀬の音が聞えて来た。  美しい川であった。師範格の閉口先生はじめみんなは、早速道具箱を開いて釣支度にかかった。きれいな水が、浅く早くさざれ石の上を流れている。糸先につけて投げこむのは、ルアーと称する蓑虫《みのむし》か蝶々《ちようちよう》みたいな擬餌《ぎじ》である。 「何がいるのかネ」 「グレイリング。必ずグレイリングがおります。大兄、試してみるか」 「いや。師匠が一尾釣り上げるのを拝見してから」  私は要領も分らないし釣竿《つりざお》も持っていない。しかし見るだけも楽ではなかった。アメリカ製の蚊よけローションをもらって塗っているのに、猛然と藪蚊が襲って来る。 「平素は樹液吸うて生きてるらしいけど、御馳走が十人もあらわれたら、そら美味《おい》しい血の方吸いに来るわな。すさまじいもんやろ。小生の苦難の道理解していただけますかね」 「理解するから、早く一尾見せてもらいたいな」  と言っているうちに、 「やった」  下手《しもて》の方で声がした。東条の竿がしなっていた。リールを捲く軽い音が聞えて、水面に十五センチくらいの銀色の魚が躍り出た。  grayling を辞書で引くと「カワヒメマス」と説明してあるけれど、こんな魚を私は日本で見たことがない。草の上へ投げ出されたグレイリングは、こまかい亀甲紋《きつこうもん》のうろこがキラキラ輝いていて、背鰭《せびれ》が大きく、姿はすんなり優美で、なるほど川のプリンセスかと思わせた。  つづいて、 「やった」  竿がしない、今度は板垣が釣り上げた。 「君、駄目じゃないか」 「そうせかれても困ります。ええ川やけどなかなかむつかしい」閉口先生は言った。「焚火《たきび》のあとがあるやろ。深山幽谷みたいに見えても、大分人が荒しとるねん」  ふだんより声が小さい。 「しかし、釣れんかてええのです。こうして大自然の中へ融《と》けこんで心静かに楽しんでる。魚はそのプラス・アルファに過ぎません。第一、釣れた釣れたの話は読者が喜ばん。一つには文章が浮くんやね。釣竿叩き折って国へ帰ってしまおうかと思いつめるくらいになった時、初めて文も人も渋うに光って来る」 「だけど、——あ、また東条が上げた。彼らは釣ってるぜ」 「ですから、ビギナーズ・ラックということはあります。大兄もやってごらん」  竿を貸してくれたが、開高健に釣れないものが私に釣れるわけはなく、根がかりばかりさせている間に、谷間は夕暮の色に染まり始めた。 「帰ろうか」  閉口先生が物憂《ものう》げに言い、木の枝に通した五尾のグレイリングを提げて、一同藪蚊の森から抜け出し、日没後は赤狐《あかぎつね》が出るという砂利道を帰路についた。  ジャック・リヴァ・インの食堂兼バアは、土地の若者と諸国の釣師とで賑っていた。 「このアメリカ人ったら、口を開くなり、今夜自分とセックスしないかって言うのよ」  と、ヤマシタが閉口先生に訴えた。腕も胸も毛だらけの熊みたいな青年である。身体つきは獰猛《どうもう》そうなのに眼が愛らしいところまで熊と似ている。 「熊怒らせたらあかんで。適当にあしろうときや、山下さん」 「大丈夫です。旅興行で馴れてますから」  スケジュールの相談も兼ねて皆が代る代る何か言いに来るが、思いなしか閉口先生は憂鬱そうであった。マルティニ・グラスを横に、ステーキ定食の皿の上へかがみこんで、 「俺は昔の俺ならず、あわれな開高クン」  と呟《つぶや》く。 「粗衣粗食もいいけど、おそろしく不味《まず》いね」  肉はかたく、山盛りのフライド・ポテトはむっと匂う。釣ったグレイリングのバター焼きレモン添えだけが美味しいのだが、閉口はそれも食べ残して、 「昔の小生ならこんなことなかった。何でも平らげた。エルバ島を見るまでは我力ありき」  と、ノートに横文字を書いて見せた。 「Able was I ere I saw Elba.——ナポレオン・ボナパルトの言葉や。ere は before の古語です。さかさから読んでも同じになります。エルバ島がもう見えて来てるわ」 「君、どうしたの、一体」  魚が釣れなかったからですかとは聞きにくいが、持ち前の大音声はやはり大音声でないと気になる。 「どうもしませんけど」  メルヴィル作『白鯨』の主人公の、「自殺する代りに海へ出るんだ」というせりふが気に入っているとも言った。  生酔いの閉口をさそって、早目に部屋へ引取ることにした。肩から下げた鞄に、神田明神の紫色したお守袋がぶら下っていた。 「連れはあっても孤独な旅やからねえ。本業小説家やのに、俺一体こんなとこで何してるんやろ。——あれを思いこれを思うて眠れん夜がありますなあ」  閉口も私もパジャマに着替え、 「睡眠剤使うのかネ」 「なるべく用いんようにしてるけど、不眠症気味やねん」 「本でも読もうや」 「そうしましょう」  背中を向け合ってベッドに入り、閉口先生は『Coming Into The Country』を、私は持参の推理小説を開いた。二ページも読み進んだか、作中人物の動きが面白くなりそうだナと私が思ったその時、突如嵐のようないびきが聞え出した。  翌日、一行と別れて私はカントウエルを発《た》った。朝から雨であった。撮影は中止になるらしい。フラッグ・ストップに興味があるけれど、雨天繰延べまでして見る気は無い。見ようと思えば、もう一度「タレント友人」の役をつとめさせられる。それに、今夜半アンカレッジ発ホノルル行の便が予約してある。  東条の部下が駅まで送ってくれた。 「雨が小やみになりそうですので、僕たちはこれからロケハンかたがたフラッグ・ストップの現場へ出かけます」  と言い置いて、車で走り去った。  長い間待たされた。閉口に教えてもらった藤色のウィロウアーブが咲いている。線路わきの草に坐ってレイルを眺めると、一九四八年イリノイ工場製の刻印が読める。三十一年間レイルを取替えていないものと見える。カントウエルはフラッグ・ストップでなく正規の駅だが、倉庫が一つ、側線が一本、転轍機《てんてつき》が一つあるだけであった。駅員もいないし切符売り場も無い。  アンカレッジ行5列車は、二十五分おくれで入って来た。乗降客は私一人であった。きのうの車掌が乗っていて、 「おや、日本人撮影隊の仲間だろ。あんただけ帰るのか」  と、運賃を受け取った。  列車は南をさしてゆっくり動き出した。マッキンレー国立公園は、これより約三十マイル北になる。北米最高の氷の峯《みね》はとうとう一度も姿を見せなかった。  撮影現場はマイル・ポスト三〇五地点の踏切のところと聞いていた。頃合いを見計って、私は最後尾のデッキに立った。進行中デッキに立つと煩《うるさ》いのだが、車掌がきのうの志願エキストラだから何も言わなかった。  赤いヴァンが見えて来た。カメラを構えた杉山がいる。東条がいて板垣がいて、エスキモー憂愁詩人の髭づらが手を挙げるのがちらりと見えて、時速四九マイルでもなかなか速い、たちまち小さく遠く、見えなくなった。 [#改ページ]  ニューヨーク国際阿房急行  アラスカに閉口先生と別れてからずいぶん日が経った。 「御縁があったらまたトロントで」  と言ってマッキンレー山麓《さんろく》の木賃宿を出たのが、八月の初めである。  私が今いるホノルルは、薫風常に吹き来って、花の香にも海の色にもほとんど季節を覚えないけれど、カナダはもう秋の闌《た》け行く気配であろう。  ぼろ車に器材一式積みこんで、現在北米大陸のどの辺を釣り歩いているのか知らないが、ともかく彼ら一行がカナダ東部へあらわれたら知らせてもらうことになっている。日が経つほどに、あの髭面《ひげづら》と破れ太鼓のような大音声が多少なつかしくなくもない。  もっとも、行くとすれば、髭の釣師と旧情を温め直すのが私のお目あてではなかった。閉口が執念燃やしている大魚とのつき合いをほどほどにして、この機会にモントリオール・ニューヨーク間の国際急行列車に乗ってみようと思う。  待つともなくハワイで荏苒《じんぜん》日を過ごしていると、九月中旬のある日、トロントの古番頭より電話がかかった。先年私が長男甚六を連れてオンタリオ州アガワ峡谷探訪の紅葉狩列車に乗る時、至れり尽せりの世話をしてもらったカナダ在住十六年の大番頭で、もとをただせば三十六年前|久里浜《くりはま》の通信学校時代、一緒にカッターを漕《こ》ぎ一緒に暗号を勉強した海軍のクラスメイトである。 「開高先生一行、あさって車でトロントに入る。紅葉もそろそろ見頃になるし」  と、四千マイル向うの声が聞えて来た。 「君、来るだろ。来給え。すぐ支度をしてそちら発ちなさい」  足かけ二年に及ぶ南北アメリカ釣魚大行脚《ちようぎよだいあんぎや》で、閉口が一つの焦点と考えているのは、カナダの湖に棲《す》む幻の名魚マスキーだそうだ。釣り場は米国東部との国境地帯、シーズンは初秋以後と、企画段階のころ日本で話を聞いて、 「そんなら彼に頼むといい」  私は古番頭の名を挙げた。 「紹介します。彼だったら、自身釣もするし、必要なことすべてきちんとやってくれる人だから」 「そやけど」  と、最初閉口先生は信用しかねる口ぶりであった。 「旦那衆の趣味の釣とちょっとちがうねん。準備いうても素人に分らん厄介な問題があって、見知らぬ番頭さんにそれ全部お願いするのもどんなもんやろか」 「厄介な問題があっても、頼めば必ずやってくれますよ」 「大兄、えらい一方的に言うなあ。帝国海軍のめし食うた仲間同士て、そんなもんですか」  全部が全部そうではない。再び見たくない顔がいくつもあります。しかし何割かの同期生とは今もまあ「そんなもん」だ。いくさに負けて三十四年、一緒に「めし食うた」期間は半年か一年、変に思うだろうけどネと私は答えておいた。  承知した古番頭は、果して幻の大魚に関するあらゆる情報を集め、ガイドの雇用、釣宿の手配、一切|了《お》えて待っていた。トロント空港に私を出迎え、 「合戦準備よろしい。ただし、これは戦果期待出来ませんぜ」  と言った。 「大体、先生たち、アラスカ以来の道中、口で仰有《おつしや》るほど釣れてないと思うね。あしたは欲求不満解消のため、お子様向けのスケジュールを用意しといたよ」  トロント郊外の古番頭の家には、りんごの大木がある。りんごの実が散り敷くにまかせた裏庭の芝生にカクテルの支度がととのっていた。  やがて閉口先生を隊長とする釣師一行五人が到着し、 「やあやあ、ようこそ」 「御配慮の数々、感謝します。大兄にはまた、ハワイより遠路恐縮」 「なに、僕は汽車に乗りに来ただけだ」  と、皆で賑《にぎや》かに盃《さかずき》を挙げたが、見れば隊長も隊員たちも、一別以来大分面やつれしている。彼らの自動車同様うすぎたなく埃《ほこり》っぽくなっている。男ばかりの長旅で神経もささくれ立つらしく、カナディアン・ウイスキーのまわるほどに、隊員中最俊鋭の若い黒髭《くろひげ》が、 「いくら大声で言われても僕は承服しない。開高さんの説はいつもどうも……」  と突っかかったりした。 「こんなとこで君、そんなこと今言い出さんかてええやろ。やめとき」  胡麻塩髭の隊長が表情をかたくする。空気いささか険悪にして、「曇りがちなる旅の空」という感じだが、それでも奇魚大魚をめぐって話がはずみ、マスキーは至難の相手でトロント市内にマスキー釣り専門の夜学校があること、古番頭が夜学へ研修にかよったことが分ると、閉口先生は居ずまいを正した。 「知らなんだ。そこまでやって下さったか。これは感謝恐縮を通り越す。帝国海軍に脱帽」  それ見ろと、私は思うけれど、俊秀黒髭にすれば又々面白く思わないかも知れない。大音声で帝国海軍の亡霊に脱帽したりするのは、当節|流行《はや》らない。 「大丈夫かね、おい。僕にも何度か経験があるが」  私は小声で聞いた。 「魚と同ンなじでなかなか難しいねん。しかし大丈夫や。小生が毎日道化役つとめて何とかしのいでます」  と閉口は答えた。 「みなさん、お寒くございませんか」  番頭夫人が言いに来た。 「日が暮れると急に冷えて参りますし、何ですか主人、お目にかけたい物もあるようですから、よろしかったらそろそろ中で」  二階へ上ると、立派な北極熊の毛皮を敷いた寝室に、古番頭|香港《ホンコン》在勤時の記念品、中国人書家に書いてもらった魯迅《ろじん》の詩が扁額《へんがく》になって掛っていた。  「破帽顔ヲ遮《サエギ》ッテ閙市《ドウシ》ヲ過《ヨ》ギリ   漏船ニ酒ヲ載《サイ》シテ中流ニ泛《ウカ》ブ」  大番頭はグラス片手に一節を読み上げ、  「眉ヲ横タエテ冷ヤカニ対ス千夫ノ指   首《コウベ》ヲ俯《フ》シテ甘ンジテ為《ナ》ル孺子《ジユシ》ノ牛」  異国に暮して十六年、これ正しく小生の心境ですなと言い、 「いや、よう分ります。小生の心境でもありますわ」  閉口先生が言った。  私はもう一度隊長の耳もとに口を寄せた。 「あのね、君たちの精神衛生上、あしたは全員で楽しめるお子様献立が用意してあるそうだよ」  お子様献立とは、フィッシング・クラブでの鱒釣りであった。トロントから車で二十分ばかり走ると、人里離れた森の中の湖に着く。クラブ・ハウスがあり、番人がいて、会員の共有私有財産である湖水を管理している。 「ははあ、おママゴトですか」  それもまたええやろと、閉口は気の乗らぬ顔をした。規模雄大な半自然の釣り堀みたいなものにちがいないけれど、湖は色づいた楓《かえで》や白樺《しらかば》、樅《もみ》の木ヒマラヤ杉に深々と囲まれて、静まりかえっていた。岸べに緑色の箱舟が四、五|艘《そう》つないである。 「此処《ここ》でもさっぱり釣れないことはありますが、気が向かれたらお慰みにどうぞ」  古番頭にすすめられ、隊長も隊員たちも道具をたずさえて、それぞれ湖心へ漕ぎ出して行った。  ファスナーさんという釣好きの若い奥さんが、われわれ一行に加わっていた。古番頭夫婦の識《し》り合いで、日本からカナダの魚を釣りに来ているのだと紹介され、竿の手ほどきをしてもらうため、私はファスナーさんのボートに同乗した。  秋晴れの美しい日だが、時折雲がかかって森の色を暗く染める。水門近く碇《いかり》を入れ、教わった通り竿を振っていると、尾に青い縞《しま》のあるとんぼが来て箱舟のふちにとまる。薄い翅《はね》が陽にすき透って見える。何の物音も聞えない。夢の景色のようだと思っているうち、森の彼方《かなた》で地響きがし出した。規則正しい重い機械音が、次第に大きく近づいて来た。 「何かしら」 「汽車ですね」  私は言った。 「カナダ国鉄の線路があるらしい。ディーゼルが曳《ひ》いてます。多分長い貨物列車でしょう」 「音だけでお分りになるの?」ファスナーさんが私の顔を見た。「お好きなこと聞いてますけど、でも、汽車に乗って何をなさるんですか」  この質問は困る。閉口の話だと、釣師だって玄人《くろうと》は、「レリース」と称して釣った大魚をしばしば水へ還《かえ》すそうだ。汽車とちがい、魚なら食ったらよさそうなものだと思うのに、釣るだけで食わない。 「何もしません。それは、魚を釣って何になさるんですかと言うのと同じことでして」  答えた途端、ぐッと引きがあって竿が弓にしなった。急いでリールを捲《ま》くと十五センチぐらいの銀色の魚が水面へ躍り出た。ファスナー夫人が上手に網ですくい取ってくれた。 「そう。今の要領でいいんですが、少し場所変えてみましょうか。向うの方でしきりに叫んでらっしゃるわ。もっと大きなのが釣れてるのかも知れません」  長い貨物列車が行ってしまったあと、別の騒音が水を渡って来る。閉口先生の大声であるが、何を言っているのかは分らない。漕いで行くと、小川が湖へ流れこむところに木橋があって、閉口が餌《えさ》にありつきそこなった熊みたいに橋の上を右往左往していた。  釣り堀の魚とでも四つに組むのが玄人の作法なのか、おママゴトがうまく行かなくて癇《かん》が立つのか、 「ちょっと私にその何とかフライ振らせてみて下さい。そっちやない、それ」 「これはミネソタの釣師が作った何とかのルアーやから」  と、横文字の術語混じりで口も手も忙しそうにしているけれど、 「釣れたのかい」  聞いたら、 「あかん。一つも釣れへん」  橋の上から答えた。  岸で番頭夫人がバーベキューの用意をしていた。釣果《ちようか》全員合せて鱒三尾、厚切りの牛肉とその鱒を炭火で焼き、森にいい匂いの煙をたなびかせて昼めしが始った時、 「僕の釣れたはファスナー夫人御指導の賜《たまもの》だが、君釣れないのは、声で魚が逃げるんじゃないだろうか。あんな大声でわめいて平気なのかな」  真面目に私は疑問を呈した。俊秀の黒髭がにやりとし、 「この前もアメリカはユタ州の砂漠の川で、開高さん、『おおい、今から釣るでえ。みな静かにせえやあ』と、砂漠中にとどろきわたるような声を出されましてね」  と言った。  食後、女性二人はトロントへ帰る。古番頭をふくめた私ども男七人は、二台の車に分乗していよいよマスキーの本場へ向うことになった。  オンタリオ湖に沿う国道は、紅葉の始った周囲の野山も美しく、広々としたいい眺めだが、私は幾分釈然としない。この国道と並行して東へ、鉄路がキングストン、オタワ、モントリオールまで通じている。むろん旅客列車がある。釣り人の都合でそれを無視させられたのが少し面白くない。 「あといくつ寝ると」  と指を折ったら、 「汽車ですか」  閉口が見とがめた。 「そない汽車恋しがらんかて、汽車は逃げへんで。小生が生涯夢のマスキー釣りに、せめて二た晩ぐらいつき合うてくれてもええやないか」 「だからつき合ってる」 「大番頭さんがこれだけお膳立てして下さったんやし、けさの鱒《ます》と同じで、大兄の竿に四十ポンドの大物が来んとはかぎらんのよ」 「一体、どんな魚なのかネ。飛行機の中でカナダ人の乗客つかまえて聞いてみたが、みんな、名前は知ってるけど見たことないと言うね」 「そうです。生きた本物のマスキーを見た人は少い」  閉口先生はもともと雄弁だが、魚に関して不用意な質問すると雄弁が二倍になる。 「マスキー、パイク、ピカレル。これみな川カマスの仲間やけど、中でもマスキーは幻の名魚、われら釣師に言わせたら湖の虎ですな。孤独、巨大、貪欲《どんよく》。すごい大食漢で、前を横切るもの何でも食らいつくくせに気まぐれ。きょう赤いルアーが効いても明日は駄目。その選択の基準は全然分らない。剽悍《ひようかん》無類、猛烈な勢いでジャンプするが、めったなことで人間に姿は見せない。魚の種族としては鮭《さけ》より古いです。東部カナダとアメリカの国境地帯にしか棲んでいない。専門のガイドですら、一年に何度その姿を見ているか」 「ガイドの件と汽車の件ですがね」  古番頭が言った。 「しあさってオタワで開高さんたちと別れて僕がトロントへ帰る時、よかったら君も一緒に汽車に乗ろう。それまで辛抱して下さい。ガイドの方は、マスキー・ジェイクとボブ・ジョーンズという練達者を頼んであります。初日と二日目、ガナノックではマスキー・ジェイクが、オタワヘ移動して三日目以後はボブ・ジョーンズがお供します。どちらもアングロサクソン系のカナダ人でして」  と、大番頭はそれからカナダの人種問題について話し始めた。 「アメリカが人種のるつぼならカナダは人種の寄せ木細工とよく言われるが、一番大きくてぴったり合わない二つの寄せ木は、御承知の通りフランス系と英国系です。実を言えば、僕は学生時代フランス映画とフランスの小説が好きで、フランスに憧《あこが》れを抱いていた。フランスの物なら何でも小粋《こいき》で洒落《しやれ》てて、美しくて——、だから十六年前初めてカナダへ赴任する時、フレンチ・カナディアンという人種にある種のイリュージョンを持った。日本から来られる方の多くもそうではないかな。だが、此《こ》の土地で実際に仕事を始めてみて、その期待はことごとく幻滅に終ったね」  よほどひょんな目にあっているのか、古番頭の話しぶりには苦がい響きがあった。 「少くともビジネスには向かない。われわれの間で、フランス語の手紙に返事を出すなと言うくらいでしてね。食い物は美味《うま》いし女はきれいだし、陽気で面白くて、すぐ友だちになれたような気がするけれど、長つづきしない。万事がいい加減なんです。その点アングロサクソン系は、初め取りつきにくいけど長つづきする。頼んだだけのことは、必ずきちんと果してくれる。カナダにおける僕の信頼すべき友人は、みな英国系ですよ」 「なるほど。分りました。つまり帝国海軍の伝統が英国系やねん」  閉口が言ったので、 「そこださ」  今度は私が口をはさんだ。 「その海軍が何故|亡《ほろ》んだかといえば、部内部外の威勢のいい声に惑わされて英国流であることを捨てたからですよ。反動とか保守とか国家革新の癌《がん》とか、弱虫、腰抜けとまで大声で罵《ののし》られ、とうとう長年の伝統を破ってアングロサクソン敵にまわし、そうして亡んでしまった。声の大きな奴の言うこと諾《き》いたらろくなことがない」 「悪かったなあ」  閉口先生が言い、 「それは君、失礼だろ。しかし」  と、古番頭がつづけた。  昔、ケベックを戦場とした英仏戦争の際、フランス本国で狩り集められた娼婦が大勢カナダへ送りこまれて来た。船が着くなり、娼婦たちは待ち構えていた兵士と到るところで交って、やがて子を孕《はら》んだ。それがこんにちのフランス系カナダ人の祖先であることは、アンドレ・モーロアが『フランス史』に書いている——。 「落つるのは、どうにも仕方ないんだよ。口に出さないだけで、英国系のカナダ人は決して彼らを対等のパートナーと考えていないね」 「うん。僕にも経験がある。思い出した。先年カナダ横断の寝台列車の中で」 「大兄の話は、常に汽車の中や」  と、閉口が意趣返しのように言った。 「黙って聞きなさい。トロント発の『スーパー・コンチネンタル』は、翌朝小さな田舎駅でモントリオール発の『スーパー・コンチネンタル』と合流して一本のヴァンクーバー行大陸横断急行になるんだが、両方の編成に食堂車がついてるから、僕はフランス語圏から来た食堂車の方がパンなぞ美味いんじゃあるまいかと思って、朝飯食いに行ってみたよ。ハムエッグスをアムエッグス、アムエッグスというだけで別に美味くもなかったけどね、それで戻って来たら、ラウンジ・カーで本を読んでいた如何にもアングロサクソン風の爺さんが、『何処へ行ったか』と聞くんだ。これこれですと説明すると、『ふうん』、ちょっと考えて、『あっちの車輛にはあんまり立ち入らん方がいい』——、黒人街へ行くのを戒めるような口調だったな」  車はキングストンを通り過ぎて、ガナノックの市内へ入っていた。セント・ローレンス河がオンタリオ湖へそそぐ河口の、あまり聞いたことのない此の小さな町が、釣師の間で世界的に名高いマスキー釣りの本山であった。  翌朝——。桟橋に舫《もや》ったマスキー・ジェイクの白い快速艇が、エンジンを始動して船体を小きざみに震わせている。船尾へ坐りこんだ閉口先生は、 「ええぞ、ええぞ」  天突き体操のように腕を振り廻して独り言を言っていた。 「大分くもって来よった。もっともっと曇れ。雨も降れ、波も立て。我に七難八苦を与え給え」  七難八苦の状況になれば、マスキーの釣れる可能性が増すという意味らしい。きのうに変る曇天である。  ガナノックの宿で、私は早く眼がさめた。薄ら寒い風の中を散歩に出て、四|辻《つじ》のホテルの壁に、一九五五年以来賞を得た大物マスキーのリストが貼り出してあるのを見つけた。最大、世界記録の六十九ポンドから、最小二十九ポンドまで二十数件、釣師の名前とともに番付のようにずらりと並んでいるけれど、それは二十四年間で大物がこれだけしか釣れていませんということでもあった。古番頭が「戦果期待出来ぬ」と言ったのを、なるほどと納得した。  マスキー・ジェイクは、七十年輩の痩《や》せた無口な男である。閉口先生の如く興奮はしていないし愛想も悪いが、「日本人がいきなり来てマスキーなんかとてもとても」といったぞんざいな態度ではない。念入りに出発前の点検をやっていた。  古番頭は仕残したお店《たな》の仕事があって宿へ残る。黒髭隊員とカメラの隊員が、もう一艘のボートでわれわれを追うて来る。桟橋を離す時、私が舫い綱をさばくのを見て、ジェイクは一と言、 「海軍?」  と聞いた。 「そう」  ほんとうは艦載艇のチャージなどろくにやっていない。結索法も大方忘れてしまった。信用されても困るのだが、ガイドは負けた日本海軍を何と思ったか、船だまりを出離れて間もなく、 「では自分が釣道具の支度をするから、これ頼む」  と、舵輪《だりん》を私に預けた。 「向うの島の左はしの大きな岩へ向けてまっすぐ」  セント・ローレンス河の河口といっても、一望千里海に似た眺めで、こちらはカナダ領あの島から先は合衆国領と、広い水域に奇岩|突兀《とつこつ》とした島また島がつらなっている。地名のサウザンド・アイランズを直訳すれば千島になるが、寝覚めの床と奥州松島と瀬戸内海を一緒にしたような風景であった。  目ざす地点まで来て、艇は行き脚を落した。船尾左側に閉口先生、右側に私、ジェイクの指示にしたがって太い竿を立て、さてそれから、微速でうしろへ流れ去る水面をしみじみと、いくら見つめていても何事も起らない。いきなり大袈裟《おおげさ》なことが起ると期待する方が心得ちがいかも知れないけれど、波と風に糸がただチリチリ震えているだけである。  生き餌《え》を使えば釣れる確率は十倍になるという話なので、何故|擬餌《ぎじ》のルアーに固執するか、閉口先生の説明を求めてみた。 「大体、湖の虎と称する大魚を、美味い餌一つ与えずにこんなブリキみたいな物で釣り上げるとしたら、残酷無礼じゃないのかネ」 「ちがう」閉口は首を振った。「これは魚と人間の知恵くらべやねん。美味《おい》しいもん食べたと思うた途端に殺されるのと、初めからだますぞだますぞと言うてだましだまされるのと、どちらが残酷ですか。釣れさえしたらええちゅうもんやないんです。易《やす》きにつかぬ精神というものがあって」  と、色々哲学的なことを並べ立てられるけれど、よく分らない。  それに、一時間二時間と空しく時が経つうち、閉口がだんだん無口になって来る。それにつられて、こちらの気分も陰々滅々として来る。 「君は、僕の眼の前で魚を釣って見せたためしがないナ」 「うん」 「どうも、僕がいるといかんのじゃないか」 「そんなこともありませんけど」 「僕のことを君、疫病神《やくびようがみ》だと思い始めてるだろう」 「そんなこと思うてないけど」 「けどけどって、何だい」 「いや味言われても困るやないの。この前も申しました。釣れん時の方が、文章はしまった渋いええ文章が書けるのです」 「それはまた別問題だ。いや味で言うんじゃない。疫病神は早々に、もう汽車に乗って退散しようと思うよ」 「まあまあ、そない、大兄」  二日目も同じことであった。  風が強く雲行きは怪しく、湖水に白波が立って、波がしらの上を鴎《かもめ》が舞っている。時々波間に魚がはねる。潮の香はしないけれど、流し釣の合間々々にジェイクから操舵を委《まか》されて海軍ごっこをやっていれば、悪い気分ではない。しかし幻の名魚は姿をあらわさない。  一度だけ、私が午後の出動を断って宿で昼寝をしていたら、閉口がパイクというマスキーの弟分みたいなのを釣り上げて帰って来た。 「小物ですけどね」  と、生きて躍る血だらけの魚を見せ、 「釣師は皆ほら吹きやと思われてるから、これかて写真に撮っとかなあかん。三十五センチはある。——あのですなあ、ある川で片腕の男が釣をしておりました。おッさん腕一本やのにようやるやないか、どのぐらいのが釣れると聞きますと、『このぐらい』、男が腕をひろげて見せました」  アラスカ仕込みのジョークを披露して機嫌がよかったけれど、私はいやな気がした。私がいなければ釣れるらしい。自分は釣師開高健にとって真実運命的に貧乏神なのではあるまいか。相手も内心そう思っているにちがいない。トロントで再会した直後、 「大兄、二週間ばかり小生と一緒にカナダの旅しませんか。あんまり先を急がんかてええやろが」  と人恋しげに言っていたのが、そんな誘いをもうかけて来なくなった。  三日目、一同車で首都オタワへ移動し、ガイドがマスキー・ジェイクからボブ・ジョーンズに替り、閉口たちは再び河と湖のマスキーに挑戦するのだが、私は別れることにした。 「人間それぞれ、やってサマになる遊びもあればサマにならない遊びもある。笑われたって構わない。僕にはやっぱり汽車の方が向いてるらしい。『眉ヲ横タエテ冷ヤカニ対ス千夫ノ指』だね。汽車でニューヨークへ出て日本へ帰りますから、君、まあ元気でおやりなさい」 「言う勿《なか》れ君よ別れを、やな」  と、閉口先生は大木|惇夫《あつお》のいくさの詩を口にした。 「満月を盃に砕きて、でしたか。わが行くはバタビヤの町、君はよくバンドンを衝《つ》け。見よ空と水相打つところ、黙々と雲は行き雲は行けるを。——大兄こそもうちょっと元気出しなさいよ。釣れんのは大兄のせいやないし、大兄が汽車に乗るからて、誰も笑うたりうしろ指さしたりしてません。何が『冷ヤカニ対ス』ですか。ひがみの強いお齢《とし》ごろにさしかかっておられるようですなあ」  カナダ東部の大都市間は鉄道を利用して大体半日行程だから、列車が便利で割に本数が多い。黒鉄骨を組み上げた近代機械工場まがいのオタワ中央駅で、古番頭が十六時三十五分発トロント行急行45列車の席を取ってくれた。  一番|贅沢《ぜいたく》なクラブ・カーのレザー張りシートであったにもかかわらず、私は気が滅入《めい》っていて、この汽車旅があまり面白くなかった。紅葉の大平原に夕映えだけが美しかった。 「秋の空澄み菊の香高き、昔は日本にも空気の澄み切ったこういう秋景色があったように思うが、それもひがみの強いお齢ごろのせいかな」  と言うと、 「カナダの紅葉が美しいのは、一つには射す光線の角度のためだと聞いてる」  古番頭が言った。  次の日、トロントとモントリオールの間のターボ66列車は、車中ほとんど眠っていた。古番頭夫婦とチャイナ・タウンの極めて支那《シナ》くさい店へ昼飯を食いに行き、気兼ねが無くなって白乾児《パイカル》を飲みすぎた。 「君、あれでも開高先生と一緒の時は気兼ねしてるのかね」 「してますよ、釣れないもん」  古番頭に見送ってもらい、発車と同時に寝てしまった。時々|朦朧《もうろう》と薄眼をあけてみると、中国人の列車ボーイが大勢立ち働いていて、未《ま》だトロントの中華街にいるような気がした。  待望のモントリオール発ニューヨーク行国際急行「アディロンダック」号に乗りこんだのは、ハワイを出てから七日目の朝である。  アメリカはかつての鉄道王国でありながら、ヨーロッパと事情がちがって昔からろくな国際列車が無い。この「アディロンダック」は貴重な一本で、カナダ側を基点にいうと、モントリオールを出て間もなく国境を越え、シャンプレイン湖に沿って一路ニューヨークへ向け南下する。  古い昔のことになってしまったけれど、一九四一年の暮、日本が米英との戦争に突入した時、シンガポールのセレター軍港に、シャンプレイン湖の名を取った「レイク・シャンプレイン」なる英国船がいた。年が明けてシンガポール陥落が迫り、「レイク・シャンプレイン」号は英軍の手で港内に自沈させられた。それを、占領後日本海軍が押収浮揚させ、輸送船として使うことになったが、ついては新しい船名が要る。分捕船を丸シップに改める際、元の名前のニュアンスを残しておく習慣があって、現地の工作部に働いている若い造船士官が「連勝丸」というのを思いついた。大方それに決り、図面も「連勝丸」で復旧作業にかかろうとしているところへ、たまたま出張中だった責任者の中佐が帰って来た。書類を見るなり、 「なんだ、『レイク・シャンプレイン』のもじりで連勝丸だ?」  と、中佐は怒り出した。 「こんなみっともない名前をつける奴があるか。考え直せ」  若い部員は、命名基準の片方だけ知っていて、もう一つの不文律を知らなかった。海軍は伝統として、勇壮すぎる艦船名がきらいだったのである。陸軍のように「プレジデント・ハリソン」号を捕獲して「勝鬨丸《かちどきまる》」、そういう名前は、戦時中といえども戦艦航空母艦巡洋艦駆逐艦、分捕船まで含めて一度も使われていない。  叱られた造船士官は、後年私と親しい関係になる人である。再度頭をひねって「麗昭丸《れいしようまる》」と具申し、どうやら認めてもらったころ、中央から「本船|朝嵐丸《ちようらんまる》と命名せよ」という指示が来た。三度び名前の変った「レイク・シャンプレイン」は、戦争中の四年間、シンガポールを基地として油輸送に従事し、敗戦後は英国に返還されるまでしばらく、佐世保と南方の間で復員船として働いたから、イギリス製の特設輸送船朝嵐丸に乗って日本へ帰って来た兵隊さんがたくさんいるはずである。 「レイク・シャンプレイン」号自体は、とっくにスクラップになってもう見ることが出来ないけれど、この船の運命を聞かされて以来、シャンプレイン湖とはどんな湖だろうと長らく思っていた。シャンプレイン湖に沿うて走る国際急行に私が乗りたかった理由の半分はそれであった。  モントリオールの駅——、ウィンゾル・ステーション、ガール・ド・ウィンゾルは、たたずまいが何となくフランス風で、つまり豪壮華麗が色あせて非能率の標本みたいな建造物で、改札口を通り長いプラットフォームをいやになるくらい先まで歩いて行くと、やっと近代的な「アディロンダック」68列車がとまっていた。  前後にターボ・エンジンの動力車をつけているから、出発態勢に入ったジェット機のような音と匂いがする。定刻九時十五分、ケロシンの匂いを撒《ま》きちらしてガラ空きのまま動き出した。十二分後モントリオール西駅を出ると、十時十七分まで停車しない。その間に国境を越す。  ごとりごとりと鉄橋へさしかかり、広々した湖の景が見えて来た。緑の激流が渦巻いて、遠く灯標があって、船がいて、少し早すぎるけど湖としか思えないから、 「シャンプレイン湖ですか」  うしろの席を振り返って、子連れの夫婦に訊《たず》ねてみた。 「いいえ。これはセント・ローレンス河の一部です。レイク・シャンプレインはもっと先です。左側にあらわれます。教えて上げます」  どうやら此の国では、湖に見えれば河で、大海原と見えるのが湖らしい。事実、先だってトロントよりガナノックへの途中、自動車の窓から見たオンタリオ湖は太平洋の趣があった。 「次の停車駅何とかポイントで、税関とパスポートの検査があります。旅券と手荷物の御用意を願います」  と、車掌がアメリカ入国用の書類を配りに来た。  好きな列車に乗ると、私は知りたがりやのジョージになる。 「この列車の最高速度は?」 「時速八五マイル」 「アディロンダックとは何の意味ですか」 「沿線の山の名前。アパラチア山系に属する山地の名だ」  車掌は答え、それよりあんた、入国用と帰国用と、どっちの書式が要るんだ、カナダ人なのかアメリカ人なのかと聞いた。 「どっちでもない。日本人です」 「日本人か中国人だろうということは、見れば分る。どちらの国籍かと聞いてる」 「だから、どちらでもない。日本からの旅行者なんだ」  そういう客はあまり乗らぬらしく、車掌は戸惑ったような顔をして「入国」の方の書類をよこした。  古番頭がロータリー・クラブか何処かの午餐《ごさん》会へカナダ駐在日本大使のスピーチを聞きに行って、「本日は中国大使閣下の御臨席を賜り」、司会者が紹介したので驚いたという話を思い出した。  いつ国境を越えたのかは分らなかった。アメリカ側最初の駅に着くと、官憲が乗りこんで来た。一人は肥った陽気な出入国管理官で、もう一人は痩せた黒眼鏡の税関吏である。 「こちらのスーツケースをあらためさせて頂けますか」  サーづけで一見|鄭重《ていちよう》なのに、黒眼鏡は態度が鋭く、麻薬を警戒しているらしかった。  列車は長い間とまっていた。タンク・ローリーがターボ・エンジンに燃料を補給中で、ちょっと飛行場のような風景だが、駅そのものは黒ずんだ赤煉瓦《あかれんが》のさびれ切った建物である。Rouses Point NY と、壁に書いてある。つまり、さびれ切っているけれど、此処はもうニューヨーク州であった。  これより先私は、「ニューヨーク」がとてつもなく広大な田舎であることに、驚嘆かつ退屈させられるはめになる。ニューヨーク市とニューヨーク州とは別物だと、頭では理解しているけれど、感覚が納得しない。ニューヨークと聞けば、マンハッタンの光まばゆい摩天楼群と饐《す》えた匂いのする人|混《ご》みとが間近いような感じを持たざるを得ない。  実際は、この国境駅でニューヨーク州に入ってからニューヨーク市の一角が車窓にあらわれて来るまで八時間、行けども行けども、ただ人跡|稀《まれ》な茫漠《ぼうばく》とした景色がつづく。白塗りのサイロや牛、向日葵《ひまわり》畑、十九世紀風赤煉瓦積みの田舎駅舎が眼につけばいい方で、あとは湖と森、草の枯れそめた淋しい平原、低い山並み、それがニューヨーク州であった。  戦時中風船爆弾を考案した科学者や軍人は、私と同じ錯覚に取りつかれていたのではないかと、ふと思った。和紙で張った大型の風船を、偏西風に乗せて太平洋の向う側へ飛ばす着想は、スポーツとしてなら面白いけれど、こんな土地に風船爆弾の五つや六つ落ちて山火事が起ったところで、別にどうということはない。アメリカ東部に達した物はあんまり無かったが、仮に相当数達したとしても、「風船爆弾ニューヨーク州を直撃、敵国民は恐慌を来して続々避難しつつあり」、そんなことは起り得なかった。あの人たちは、この国の広さが実感としてつかめていなかったのではないだろうか。 「イクスキューズ・ミー」  うしろの席の奥さんに声を掛けられて、私は物思いからさめた。 「シャンプレイン湖が見えて来ましたよ」  子連れの夫婦はアメリカ人で、三つくらいの娘を抱き上げ、 「この小父《おじ》ちゃんに『ハジメマシテ』を仰有《おつしや》い」  と、「ハジメマシテ」の部分だけ日本語で言った。さっきの車掌とちがい、日本についてたくさん知ってますと告げたげであった。 「日本へいらしたことがあるのですか」 「薬品会社につとめているので、中外製薬と提携の話が起り、この夏行って来たばかりです」  左の窓に湖が見えていた。 「大きな湖ですね」 「そう。はるかに霞《かす》んでますが、対岸はバーモント州です。列車はこれから百数十マイル、この湖に沿うて走ります」  実はレイク・シャンプレインのことを作品に書いたことがある。朝嵐丸に関連して、「その名のもとは北米大陸のシャンプレイン湖、アメリカのバーモント州からカナダへつづく細長い湖で」と書いた。地図で確かめたのだから「細長い」に嘘はないけれど、またしても感覚的にちがっていた。今列車の窓から眺めるレイク・シャンプレインは、地図で細長いと見たその横幅だけでも、眼路《まなじ》はるかな洋々たる大湖であった。  湖岸の岩を波が洗っている。近くに保養地でもあるのか、点々とモーターボートやヨットが出ている。松、白樺、楓、赤いうるしの雑木林に遮《さえぎ》られて、見えなくなったと思うとまたあらわれる。此の湖にも大魚がいそうであった。「とんぼ釣きょうはどこまで行ったやら」、閉口一行のマスキーは釣れたろうかと思う。  列車は切り立った断崖《だんがい》の上を走っていた。カーブが急なため、青塗り赤帯の車体がよく見える。望みの列車に乗って望みの湖を眺めて、満足だけれど、走れど走れど同じ風景だから、うとうと眠くなる。  眼をさましたところは、ニューヨーク州ウエストポート。冬季オリンピックが開かれるレイク・プラシッドへの最寄《もより》駅で、列車は時刻表より四十分ばかり遅れていた。初めのうち、駅へ停る度、 「五分遅れてます。ソリー」 「十分遅れです。ソリー」  と車掌がスピーカーで詫《わ》びを言っていたが、遅延がひどくなるにつれて何も言わなくなった。  十三時五十分、ホワイトホール。十四時三十分、こちらの「アディロンダック」は野中の待避線に入り、ニューヨーク発の同じ「アディロンダック」遅れの69列車モントリオール行が、「パアーン」と警笛を鳴らしてすれちがって行った。  列車の動力としては世界最新のターボ・エンジンに、カリフォルニア製の軽量客車をつなぎ合せて、何故こう遅れるのか分らないが、線路の保守、列車交換、燃料補給の段取り、すべてがうまく行っていないらしかった。  十五時二十分、約一時間半の遅れでサラトガ・スプリングス。側線のレイルは赤銹《あかさ》び、転轍機《てんてつき》も赤鰯《あかいわし》、薄よごれた古いラッセル車がおり、線路に雑草が生い茂っている。うしろの中外製薬さんが、 「ダメネエ」  と言った。  ニューヨークのグランド・セントラル・ステーションに着いたら、地下の「オイスター・バア」で生牡蠣《なまがき》と生蛤《なまはまぐり》を食えと、閉口先生にすすめられていた。「オイスター・バア」は某推理小説にも登場する名高い老舗《しにせ》である。それに備えて昼を食っていないのだが、この調子では閉店時間までに着くかどうか、怪しかった。  退屈と空腹で眠気が去らず、また少し眠った。  眠っている間に、窓外は雨になった。「アディロンダック」はいささか元気を取戻したようで、遅延がちぢまって来、雨の夕闇の中に、マイル・ポストの数字が「116」「114」「108」とだんだん減ってニューヨークが近くなる。  もはやシャンプレイン湖は遠く、右手にハドソン河があらわれた。未だかなり上流のはずだが、これ亦《また》悠々たる大河で、中流に白い灯台が見え、力持ちの曳船《ひきふね》が巨《おお》きなバージを三隻引っぱって溯江《そこう》していた。  中外製薬さん夫婦は、東北本線なら大宮という感じの駅で、雨の中、子供をかかえて下りて行った。通勤電車が走り出し、ニューヨークまであと一時間、どうやら牡蠣と蛤にありつけそうであった。 「モントリオールから汽車でお着きになったとは、珍しい旅をなさいましたね」 「はあ」 「それで今回、御予定は? 何かニューヨークで御覧になりたいものがありますか」  ニューヨークで何かを見ようと思い出したら際限が無いだろう。 「いや。汽車にも乗りましたし、『オイスター・バア』へも行きましたし、何もせず、このままもう日本へ帰ります」 「そうですか。残念ですね。じゃあ、せめてあした飛行場までうちの車で——」  うちの車とは某商社の公用車である。私はあわてて首を振った。 「御遠慮要りませんのですよ」  遠慮しているのではない。高価な日本食もこうして遠慮せず御馳走になっているけれど、それは困る。何故困るかと言えば、最近セントラル・パーク近くの五十七丁目から、「JFKエクスプレス」と称するケネディ国際空港行の急行地下鉄が運転を始めた。ニューヨークに三年来なくても、こういうことは分る。一人の時ぐらい、好きなものに自由に乗せてもらいたい。  で、次の朝希望通り「JFKエクスプレス」に乗りこんだ。ニューヨーク名物落書だらけの地下鉄ではなく、塗り色もきれいな新しい電車であった。尻に一丁ぶら下げた赤髭の警官が、ドア(一カ所しかあけない)のところで眼を光らせていた。三輛編成の急行に客は二十人足らず、マンハッタンを離れるまで七つの駅にとまって、あとは無停車になる。  いい心持だったが、ブルックリンの通過駅という通過駅、フォームに立っている人間は黒人ばかり、白人も東洋人も全くおらずひたすら黒一色、アフリカの大都会で郊外電車に乗っているような気がした。  ケネディ空港の出発ロビーに、風の便りが届いていた。閉口が、私と別れて二日後、三十二ポンドの大物マスキーを釣り上げたそうである。上ずった大声で、嬉しそうにトロントの古番頭家へ長距離電話をかけて来たとのことであった。 [#改ページ]  夕暮特急  近ごろ幽霊が私の身辺にあらわれない。  この数年、北は英国エジンバラ、南は濠洲《ごうしゆう》ニュージーランド、鉄路の上に消えのこる風情《ふぜい》の、曖昧模糊《あいまいもこ》たる幽霊と同道で度々異国の汽車に乗りに出かけた。老眼鏡を掛けて案内書なぞ眺めているが、 「あ、あれがあれだな。いや、ちがった。何をあれしてないからやっぱり何はあれだ」  と、英語はもとより日本語もはっきりしないし、旅路の供の友として頼りなきこと甚しく、同道のつどいらいらさせられた。あんまりいらいらさせられたせいか、あらわれなくなって日が経つと次第に不思議になつかしい。しかし、いくらなつかしがっても、事情あって幽霊はデスクに脚を生やしてしまい、二度ともう下界へ下りて来ない。  代りのお供をみつけたいと思うけれど、まんぼうは鬱である。狐狸庵《こりあん》は鼻を切って療養中、閉口先生は南北アメリカ釣魚大旅行から帰国したばかりで旅のタの字を聞くのもいやだと言う。思案の末、ふと思いついて上野毛《かみのげ》の毛虫に白羽の矢を立ててみる気になった。  めんどくさがり屋の毛虫がもしかしたら乗って来るかも知れないと考えたには、それなりの理由があって、 「あのね、君の御名作と同じ名前の汽車があるんだがな」  話を持ちかけると、 「ほう。サンセット・エクスプレスとでも言うかね」  果して興味を示した。 「ほぼ近い。正しくはサンセット・リミティッド。訳せば夕暮特急」 「どこを走ってますか」 「ロサンゼルスからニューオルリンズまで走ってる。古い由緒ある特急列車です。ニューオルリンズは君の好みに合いそうな町だし、それもめんどくさければ、寝台車に寝ているとそのまま別の列車に連結して、通しでニューヨークへ連れてってくれる」 「それがサンセット特急かい。面白いね。そういう言葉の何は、不思議にかさなるもんだね」  と毛虫が言った。  何がどうかさなったのか説明を聞いてみるに、上野毛の毛虫は季節の変り目毎に身体《からだ》の調子を悪くする。季節の変り目は年中訪れるから、したがって年中身体の調子が悪い。銀座へ出て、バアでトマトジュースばかり註文《ちゆうもん》していたら、 「でも、それじゃあんまり味気ないでしょ。少しビールを混ぜて飲んでごらんなさいよ」  とすすめてくれる女の子があった。  気味の悪い気がしたが、言われた通り四分六の割合でビールとトマトジュースのカクテルを作ってもらい、口にしたところ、 「案外|美味《うま》いんだ。ただし、色が二日目のあれを連想させるいやな色でね、如何《いか》にも酒飲みの反感を買いそうなものなんだが、僕は月経ビールと名づけて爾来《じらい》愛用するようになった」  月経ビールも少々露骨過ぎるかと、その後研ナオコ「アンネ」のコマーシャルにちなんで「チャーム・ナップ・ミニ」と改名し、独り愛用しているうち、知り合いの米人がバアで眼をとめた。 「それ、悪酔いのあとにとてもいい飲み物。レッド・アイといって、今、アメリカで流行《はや》ってます」  海の向うに同好の士がいたか、しかしアメリカ人も昔日の荒くれ気質を失って衰えたるもの哉《かな》と思ったそうだ。辞書で見るかぎり、「レッド・アイ」とは開拓時代彼らが愛飲した、忽《たちま》ち眼のまっ赤になる下等なばくだんウイスキーの謂《いい》である。一世紀足らずの間に、アメリカはばくだんをビールのトマトジュース割へ退化させてしまった。  それから二、三年して、つい先ごろ、上野毛の毛虫が調子の悪い重い腰を上げ、久方ぶりのアメリカへ出かけることになった。サンフランシスコに着いて、ホテルの酒場で例の如くトマトジュースとビールを註文し、グラスに混ぜ合せながら、 「レッド・アイというそうだね、これ」  訊《たず》ねると、 「いや。自分たちはカナディアン・サンセットと呼んでる」  バーテンダーが答えた。  ちょうど夕暮を題名にした小説本が出て、売れて評判になっている時だったから、毛虫はサンセット・カクテルの名前にしたしみを覚えて帰って来た——にちがいない。そこへ、私のサンセット・リミティッドがかさなった。 「面白いだろう」 「面白いのは分った。ついては、行く気がありますかありませんか」 「ありません」  と言う。 「サンセット・リミティッドの中でカナディアン・サンセットを飲みながら眺めるテキサスの日没。きっと、乾き切った壮大な風景だよ。アレルギー体質の治療にもなるし、どうだい」 「美辞を列《つら》ねたって駄目。さそっても無駄。二回つづけてのアメリカ旅行なんか、到底無理。第一、出国とか入国とか税関とか、色んな手続きがめんどくさくて」  いつか、上野毛の毛虫を中心に、めんどくさがり屋が集ってめんどくさがりの会を作ろうという相談をおこしたことがあった。結論は、「めんどくさいからよそう」  朽木ハ雕《エ》ル可《ベ》カラズ糞土ノ牆《シヨウ》ハ|※[#「木+(号の口を一にかえたもの)」、unicode6747]《ヌ》ル可カラズ、解説書を見ると、「精神の惰弱な者には教の施しようがない」と書いてある。宰予《さいよ》みたいな人を誘ったのが間違いのもととあきらめ、それで今度の汽車旅は残念ながら一人で出かけることになった。  旅装をととのえ、自宅から渋谷、渋谷から地下鉄で上野、上野から成田、成田からはるばる太平洋を越えてたどり着いたのが、ロサンゼルス下町のユニオン・ステーション。かつて各社の大陸横断列車縦断列車が豪奢《ごうしや》をきそうて発着し、賑《にぎや》かに華やかだった駅は、馴れにし昔と様変り、さびれ果てていた。  サマー・タイムの日が暮れて、大時計が八時をさす。空の長旅に疲労|困憊《こんぱい》、何をする気もしないので、こうして早目に来て坐っているのだが、こんな所で発車まであと二時間半、汽車の物好きもいい加減|止《や》めにしようかしらと思う。待たされている間は、いつもそう思う。  構内不潔で薄暗く、乗る前からくたぶれ切ったような大荷物の黒人夫婦、ヒッピー、浮浪者、口の中で絶えずブツブツ言っているアルコール中毒らしい婆さん、饐《す》えたような異臭が匂う。アメリカの良き時代に出来た宏壮な石造建築であるだけに、幽霊が出そうな感じがする。大時計の針は遅々として進まない。  それでも、やがて時移って、 「サンセット・リミティッド号 二十二時三十分発、フェニックス、ツーソン、エル・パソ、サン・アントニオ、ヒューストン、ニューオルリンズ方面行の乗客は、ゲートEより地下道を通って七番線へお進み下さい。ゲートから先、見送り人はお断りいたします」  と、改札を告げる英語のアナウンスが聞えて来たら、ようやく気持がしゃきっとした。 「エル・カピタン」とか「スーパー・チーフ」とか、ロサンゼルス始発往年の名高い長距離列車の中で、なつかしい古い名称を残しているのは、この「サンセット・リミティッド」だけだ。貧乏留学生当時は、ガソリンが安く車の方が安上りで、こういう贅沢《ぜいたく》な寝台列車に乗れなかった。アメリカの鉄道がすっかり衰微してしまった今ごろ、二十四年ぶりの恨みを晴らそうつもりではないけれど、刮目《かつもく》してプラットフォームへ上ってみると、アムトラック(全米旅客列車運営公社)のマークをつけたジュラルミン色の夕暮特急が、長々と七番線にとまっていた。  黒人給仕に案内されて予約済の寝台車の個室へ入り、スーツケースの始末をしているうちに、定刻じわりじわりと動き出す。電灯の暗いフォームを出離れれば、まばゆい都会の夜景が望めるかと期待したが、大ロサンゼルスの中とは思えないほど、窓外漆黒の闇であった。ただ、ロス名物のフリーウェイの一つが線路と並行しているらしく、車の赤い尾灯ばかり次から次へ音も無く列車を追い抜いて行く。こちらは、汽笛一声東京駅を発車した新幹線特急と大ちがいの低速運転だが、床の下に「カタカタケットン、コトコトカッタン」と、ゆるやかな軽い車輪の響きが聞えて、何だかひどく嬉しくなって来た。毛虫も馬鹿だねえ。  コーチを幾つか抜け、ラウンジ・カーの方へ歩いて行くと、驚いたことに各車輛ほぼ満員の混みようである。あのさびれた汚い駅のどこからこれだけの人が乗りこんだか、不思議な気がした。むやみと黒人が多い。日本人を含めて東洋系の顔は一つも見あたらない。コーヒーとドーナッツを註文して席へ着く時、となりのソファの男(私と同年輩の白人)と眼が合ったので、会釈をし、 「アメリカの汽車もずいぶん混んでますね」  と言うと、 「自分はカナダ人だが、カナダでもアメリカでも、最近旅行者が鉄道へ戻って来る傾向が見られる。原因はガソリンの値上りだ。あんたも一人旅ですか。どちらまで?」  と聞き返した。 「あさっての朝、サン・アントニオで下ります。あなたは?」 「自分は」  マッカリー氏という名前であった。マッカリー氏はちょっと口ごもり、 「どこでも構わないのだが、エル・パソあたりで下りてニュー・メキシコの砂漠を旅してみるつもりだ。実は、アルバータ州のエドモントンに家がある。友人もたくさんいる。ポテト・キングで百万長者の日本人も識《し》っているし、住み馴れた町なんだけど、三人の子供が成人したのを機会に、三十五年前のミステイクにけりをつけようと思って家を出て来た。汽車の旅はいいですね」  と、少し淋しげな顔をして笑った。  エドモントンの家でヒステリーをおこしているミセス・マッカリーの顔が想像され、分りますよ、汽車の一人旅には心の浄化作用がありますからと言おうと思ったが、頭の中にうまく作文が成り立たないし、これ以上英語の身の上話を聞かされると困るので、 「そうでしたか」  腕時計を見て、コーヒーを飲み乾《ほ》し、 「私はもう寝ます。おやすみなさい」  と立ち上った。  白|上衣《うわぎ》に威儀を正した黒人の列車ボーイが大勢乗っているくせ、寝台の用意はしてくれない。自分で重いベッドを下ろし、ドアをしめ、パジャマに着替えて横になると、いつかスピードの加わった夕暮特急は、「カタケチャトット、カタケチャトット」とカリフォルニアの闇の中を南東へ南東へ走っていた。  この寝台車のスプリングが上等なのか、スプリングのたわみ具合のいい位置に私の個室があるのか、縦ゆれ横ゆれ、やわらかでまことに快い。これだから疲れても待たされても又汽車に乗りに来たくなる。特製の揺り籠《かご》に揺られている感じで、「カタケチャトット」を子守唄に聞きながら、間もなく眠ってしまった。  朝五時前、時差が生じたはずだから、多分六時少し前だろう。眼をさまして窓のブラインドを上げてみると、地平の果てが朱ににじんでいた。風景の輪郭が次第にはっきりして来、——と言っても、風景らしき輪郭の一切無いことがはっきり見えて来たのだが、地平の朱は微妙に変化しつつ輝くオレンジ色になって、やがて大きな日が昇る。  山も無く川も無く雲も無く、灰色の土がセージブラッシュにおおわれて何処《どこ》までも何処までもつづいている。その不毛の土地の上へ朝の太陽が強烈な熱と光を放射し始める。  太陽は水素爆弾の化け物だと、日本で考えたことはなかったけれど、今車窓に荒野の荒々しい日の出を見ていてそう思う。荒野というか砂漠というか、アリゾナの途方もない大平原であった。  昔、漫画家で俳人の清水|崑《こん》さんから、「アメリカ旅行をしたんだが、俳句がちっとも出来なくてね」という話を聞かされた。 「梅が香にのっと日の出る山路かな」  なるほど、アリゾナにのっと日が出たって、これは俳句になりそうもない。  ジャズの名手のような顔した列車ボーイが朝のコーヒーを運んで来るころ、俳味を絶した太陽は早くも空に高くかかって、ぎらりぎらりと我が車室を照らし出した。食堂車へ遁《のが》れると暑さがいくらかましになったが、何だかきつい酒が一杯飲みたい。原因は西部劇風大平原の光景と、誘惑的な印刷文字の両方である。メニューに、 「朝の気分一新。御朝食をブラディ・メリーかスクリュードライバーでお始めになってはいかが?」  と、小さく記してある。  隣りの席に、夜半カリフォルニア州ユマで乗車したという八十年輩の夫婦が坐っていた。途中下りて休息、乗換えては下りてまた休息、十日がかりでワシントンまで行くのだそうだ。飲みたかったけど、老夫婦がつつましやかにトーストをかじっているのを横眼で見て、朝酒の註文はやめにした。  アムトラックも、モーニング・コーヒーの無料サービスをしたり、朝からカクテルを出したり、戻って来た旅客をもっと鉄道に引き戻そうとなかなか頑張っているらしい。しかし、いくら頑張っても、万事大ざっぱなお国柄はどうしようもなく、卵の中に殻のかけらがザラザラ入っている、トーストは焦げすぎ、生ぬるいジュースがあとから運ばれて来る、ベーコンは忘れている。  車窓の眺めも、同様依然として大ざっぱであった。セージブラッシュはよもぎ科の植物と聞くが、草木が極度に水分を節して生きようとするとこんな色になるかと思うような鈍いきたない緑色をしている。その中に、点々とサボテンが見える。列車は時々、轟々《ごうごう》と音を立てて鉄橋を渡るが、河床《かしよう》に一すじの水も流れていない。多分年に一度か二年に一度か、豪雨が来て、突然これが濁水渦巻く大激流に変るのだろう。  美しい国土とは義理にも申せないけれど、それで楽しくないかと言われれば、結構楽しかった。駅が近づいて夾竹桃《きようちくとう》のほっとするような赤い色が見えて来、遠く田舎道をトラックが走っており、トラックのうしろに一キロぐらい砂ぼこりの雲が見える。この広漠とした風景の中では、大型トラックも民家も工場も、みな玩具《おもちや》売場の模型だが、空から見た平板な動かぬミニアチュアとはちがう。機関車が通過し先頭の荷物車が通過するころ、線路わきの腕木シグナルがコトンと頭を上げる。  十七分おくれでアリゾナの首府フェニックスを発車、次がツーソン。暑さはだんだんひどくなり、都市の近くの道路では車がどれも窓を密閉して走っていた。個室の中も、小さな裸扇風機が熱気をかき廻しているだけで、太陽の前に冷房はあんまり効果が上らない。  ひる前、列車は州境を越した。本を読む気もせず、ニュー・メキシコへ入ってもちっとも変らぬ荒野の景色を眺めているか、居眠りをするか、食いたくない食事をしに食堂車へ立つか、それより他にすることが無い。咽《のど》ばかり乾く。  けさから二度目の食堂車で、今度は、いないと思った東洋系の女性二人と相席になった。一人が大柄な色の黒い四十女、連れはトンボ眼鏡をかけた顔も鼻も平べったい二十六、七の小柄な女、見たところ中国人かタイ人か、それともアメリカ・インディアンか分らなかった。  給仕が註文を取りに来、飲み物はと聞くから、毛虫の話を思い出して、試みに、 「カナディアン・サンセットというカクテルが作れるか」  と訊ねたら、 「そんなカクテルは聞いたことも見たこともない」  説明しようとするのを無愛想に振り切って行ってしまった。 「日本人ですか」  相席の女性が、私の英語の訛《なま》りで見当をつけたらしく、話しかけて来た。 「そうです。あなたたちは?」  マニラに住むフィリッピン人だと言う。親戚《しんせき》をたずねてヒューストンまで行くのだが、東京で飛行機待ちのため一と晩ホテルに泊った、朝、日本食を頼んだら塩っからい豆のスープと黒い海草を出されて閉口した——。 「二人で観光旅行?」 「少しちがう。あなたは何する人?」 「あててごらんなさい」  顔を見合せ、ちょっと考えて、 「パナソニックか何か売って歩いてるんじゃないの」 「ちがうね」 「じゃあ、鉄道関係の仕事? 技師」 「近いけど少しちがう」  あたらないので「二十の扉」をやめにして、若いトンボ眼鏡の方が真顔になり、 「あなたたち日本人は、今でもヒロヒトを神と思ってますか」  と質問した。 「思ってません」私は答えた。こういう御質問は厄介である。「あなた、それは大文字のゴッドのことを言ってるんでしょう。その意味でなら、昔も今もヒロヒトを神だと、少くとも私は思ったことがない。しかし、日本のカミとゴッドとは別のものなんです。日本の古代史や神話には、たくさんの神があらわれます。いたずら者のカミもいれば、乱暴なカミ、好色なカミもいた。シャーマン首長の一族みたいなもんで、それがヒロヒトの直系の祖先にあたります。だから、カミとゴッドとをミックス・アップさえしなければ、思うも思わないも、ヒロヒトは明らかに神の末裔《まつえい》ですよ。神の子イエスというような意味の神でないだけでね」  ハム・サンドイッチをかじりながら天皇さまが神であるかないかの議論をするのはむつかしい。相手はうさん臭そうな顔をして聞いていた。  昔々、日本英文学界の泰斗と言われた某教授が、渡米してバークレーの加州大学で英語の講演をなさった。講演終了後、教授を囲んで自由討議の座談会になり、 「きょうの私の話について、批判感想質問等あれば、どうぞ何なりと御遠慮なく」  促すと、一人の学生が手を挙げた。 「むろん何も分りませんでしたが、日本語は割に英語とよく似た言葉だと思いました」  フィリッピンの女性二人も、私が英語まじりの日本語で説明していると思ったのかも知れない。説明してやったのに黙っている。癪《しやく》だから、私は反撃に出た。 「神ではないだろうが、フィリッピンの統治者マルコス大統領夫妻を、あなたたちどう思う? 尊敬してますかしてませんか」  二人はもう一度顔を見合せ、 「尊敬してないわ」 「大きらいよ」  異口同音に答えた。  部屋へ帰ってしばらく昼寝をする。「コトコトカッタン」でも「カタケチャトット」でも、列車が一定のリズムで走っている間はよく眠れる。それが狂って来ると眼がさめる。「トンタン、コトリ」「カタリ、トントン」と、鈍くなった車輪の響きに起され、汗びっしょりのシャツを風に打たせようとデッキへ出てみたら、列車の右手に泥色の川が見え、川向うの丘に貧しげな村落があり、どこかの駅へ着くところらしかった。  川で素っ裸の黒い子供たちが泳いでいる。こちら側の道路はよく舗装されたインターステイト・ハイウェイだが、川向うは未舗装で、おんぼろ車の白い砂塵《さじん》を上げて丘を下って行くのが見える。粗末な家々のたたずまいが粗末ながらも妙に洒落《しやれ》ていて、スペインのジプシー村のような——、「ああ、そうか」と気がついた。  着く駅はテキサス州エル・パソ、対岸はメキシコの国であった。例のジャズの名手顔した列車ボーイが昇降口をあけに来、 「イエース、サー」  いやに長く引っ張って、 「その川がリオ・グランデ、向うはもうメキシコ」  と、教えてくれた。  夕暮特急のあと私はメキシコの汽車に乗る予定だが、この線のメキシコ国鉄への連絡口が二つあって、一つはエル・パソ下車、リオ・グランデを渡ってシゥダド・ファレス始発のメキシコ・シティ行をつかまえる。もう一つはサン・アントニオ下車、ラレドで国境を越えてヌエボ・ラレド始発のをつかまえる。私はサン・アントニオ廻りと決めてある。  それにしても、名にし負うリオ・グランデがこんなに小さな川で、アメリカ領の町とメキシコ領の村とがこれほど間近に鼻を接していようとは想像していなかった。  メキシコ観光に出かける客が大分下りた。姿を見かけなかったが、エドモントンの家出男も下りただろう。二十分停車、四十五分おくれで「サンセット・リミティッド」はエル・パソを発車した。  エル・パソを出ると、泥色のリオ・グランデ川の恵みで、風景が和らかになった。畑があり民家が多く緑が多い。汽車の音に驚いて、草むらの中を野兎《のうさぎ》が走る。一日中一とかけらの雲も無かった空に、午後五時半、入道雲まであらわれた。あらわれたとなると、これが物凄《ものすご》い入道雲で、裾を赤く染め遥《はる》かな山並みの上へ人を威嚇《いかく》するようにそそり立っている。距離が遠くてこちらの野面《のづら》までは影響して来ないが、山沿いは土砂降りにちがいない。  沿線の畑では、ポンプ車が消防自動車の如き勢いで、高々と四方へ放水をしている。その水が西陽に映えて美しかった。そろそろ日没が近い。サンセット特急のサンセット特急たる所以《ゆえん》を眺めたいと思うのだが、西がまうしろにあたり、二重ガラスの窓へ骨折しそうなほど首を押しつけても太陽は直接見えなかった。  用便も退屈しのぎのうちで、私は備えつけの便器にしゃがんだ。個室の鍵《かぎ》は掛けたけれど、窓のブラインドはあけっ放しである。日本やヨーロッパの汽車旅では致しかねる不作法だが、民家は遠く道路も遠く、その道の上を通る車もめったに無い。眼が合いそうな気がするのは、牧場で未だ草を食んでいる牛だけであった。  列車がゆるいカーブにかかって、西へ沈む赤い夕陽が見えて来た。きょう一日頭上にぎらついていた日輪は、刻一刻朱に衰えて紺鼠色の遠い山並みの向うへかくれ始め、これがテキサスの日没、しばし半月のかたちに残った、と思う間もなくスルスルと落ちて行った。用を足し終るより早かった。空と雲の色がすぐ変り出した。  何時ごろ晩めしを食おうかと考えている。  食事をするについて、美味《うま》いだろうとあてにしたのが不味《まず》かったら「期待外れ」、美味ければ「期待通り」。不味いと承知で行って不味ければ「期待通り」でなくて「案の定」。不味い覚悟で食べてみて美味かった場合、何と言うか。「案外だった」は両様の意味に取れそうだし、「案の外」は馴染《なじ》まない。一番ふさわしいのは結局「思いの外に」だろうが、そうすると、「期待」と「案」と「思い」とどこがちがうか。よく分らないけど、アムトラックの料理はどうせ三番目である。「案の定」を食いに行くのに急ぐことはない、腹を空かせて遅目にと思っていたら、食堂車へ入った途端、 「もう終りました」  と木戸を突かれた。 「変だな。未だ七時二十分だよ」 「八時二十分です」  給仕頭が私の腕時計をのぞきこんだ。 「あなたは二度目の時差修正をしていない。中部標準時八時半で食堂車はしめます」  そんな|にべ《ヽヽ》もないことを言ったって、駅弁を売っているわけではなし、どうしてくれるんだ。 「どうも出来ません。時計の針を一時間進めて下さいと、夕方アナウンスして歩きました」  アナウンスなんか聞いていない、聞いてなくても告げて廻った、告げて廻っても聞いてない。押問答の末、給仕頭は不承々々、 「あすこへ坐れ」  と、一人だけ残って食っている頭の薄いアメリカ人のテーブルを指した。 「失礼します」  英語で断って席についたら、そのアメリカ人が、おやというように顔を上げて、 「ゴキゲンイカガデスカ」  日本語で言った。 「ワタクシノオクサン、ニホンジンデス」  御機嫌はあまりよくなかったのだが、お相客が日本女性の亭主で、しかも大の鉄道好きで、文学に関心があると分って、 「これはまた奇縁だ」  すっかり気持がくつろいでしまった。 「さっきまで部屋でスタインベックの『チャーリーを連れて』を読んでいて、自分も危うく食事をし損ねるところだった。そうか、あなた小説家か。家内はきっとあなたの名前を知ってるだろう。ミシマ、カワバタなら自分も知っているが」  サン・アントニオで従業員八人の小さな印刷インキの会社を経営している。名前はローレンス・センシバ。サン・アントニオで下りるんだったら、ちょっと家へ寄らないか——。  センシバというような変った名前は、英語をしゃべっているうち、どっこいしょで忘れそうだから、漢字に直して仙柴さんと記憶した。  それから、仙柴さんと二人でビールのお代りをしながら談大いに鉄道のことに及んだ。仏頂面した食堂車の給仕どもは無視である。汽車の話なら飽きないし、それにローストビーフとサラダ、じゃがいもと豆の夕食が、「思いの外」の四番目で美味《おい》しい。  ロサンゼルスの往復にいつもこの「サンセット・リミティッド」を利用している。貨車の追突事故があってエル・パソからバス連絡になり、一と晩バスに揺られて帰って来たこともあるし、サン・アントニオ着が十七時間おくれの夜十時になったこともあるが、それでも汽車はいい。 「昔はもっとよかったでしょ。このサンセット特急も本来サザン・パシフィック鉄道の列車なんだが、僕はサザン・パシフィックのあの塗り色が好きでした。サンフランシスコ・ロス間の『コースト・デイライト』号、列車番号が99列車」 「古いことをよく知ってますね」 「知ってますよ。だけど、私の仲間の小説家たちは、いくら教えてやっても汽車のよさを理解しない」 「そうだろう。彼らはみんな飛行機で飛びまわる。飛行機で飛びまわっていては、こうしてお互い識《し》り合う機会も生じないんだが」 「ポール・セルーという汽車好きのアメリカ人作家が同じことを言ってますな」 「ミスター・アガワは、日本国内でも専ら汽車ですか」 「それが、実はそうでありません。日本では飛行機で出かける方が多い」 「何故《なぜ》?」 「つまらんことで忙しいからですよ。外国へ出てしまえば、私は忙しくなくなる」 「一体日本人は、あんな立派な鉄道を持ちながら、汽車の趣味も解せず、少し働き過ぎるんではないだろうか」 「賛成です」 「ともあれ、今のアメリカの汽車だって汽車はやっぱりすばらしいと思う」 「そうですとも。鉄道というものが十九世紀の初めに」  もしもし、もうやめてくれませんかと、給仕頭が言いに来た。  窓外はすっかり暮れてしまった。「カタケチャトット」を子守唄に眠る夕暮特急二日目の晩である。衣片敷《ころもかたし》き一人寝るのが、にやにや笑いの出るほど嬉しいのは、よほど面白い推理小説を見つけた時か、スプリングの上等な寝台列車のベッドへもぐりこむ時ぐらいしかあるまい。  仙柴氏と別れ、ビールのほろ酔い機嫌で部屋へ戻って、青い毛布白いシーツの揺り籠に入ると、「サンセット・リミティッド」は「カタケチャトット、カタケチャトット」と同じ音を立てて東へ東へ走りつづけていた。  ロサンゼルスからおよそ千七百キロ遠ざかった勘定になる。サン・アントニオ着は時刻表で明朝五時十八分だが、エル・パソ通過時の四十五分|延《えん》を取戻せないとすれば、六時をちょっと過ぎるだろう。  夢も見ず熟睡した。ただし、食堂車で時差の失敗をやったのが気になっているせいか、四時半には眼がさめた。仮りにも乗り越しなぞしないよう、寝台をたたみ、荷造りをし、着替えもすませて待っていたが、五時十八分が六時になっても六時半になっても、一向町へ近づく様子が無い。通りかかったボーイを呼びとめて聞くと、 「二時間以上おくれてますよ」  テキサスの夜が明けて、車窓に広大な玉蜀黍《とうもろこし》畑が見えている。見はるかす限り未耕の畑に「売地」と立札が立っているのも見える。同じ売るなら、いっそテキサス州の半分ぐらい売ってくれたらどんなものかと思う。アメリカだって、昔アラスカをロシアから買いルイジアナをフランスから買ったんじゃないか。そうしてその土地は、元々アメリカ・インディアンの持ち物だったんじゃないか。御使用中でない荒野を日本人に委せれば、二時間もおくれたりしない快適正確な鉄道を建設してみせるがなあ。  ようやく七時三十五分、列車は二時間十七分の遅延で、珍しく「ポアー、ポアー」と警笛を鳴らしながらサン・アントニオ駅構内へ進入を開始した。サン・アントニオはメキシコに近いテキサス州南部の田舎町、たしかデイビー・クロケットとアラモの砦《とりで》で有名なところ、その程度の知識しか持ち合せていなかったので、古い駅の周辺、高層ビルの林立する景観にほうと眼を見張った。  フォームへ下りて待っていると、 「さあ行こう。駐車場にぼろ車が一台置いてある」  と、仙柴さんが寄って来た。  夕暮特急はここを出てさらに東行し、ヒューストン、ニューオルリンズへと向うのだが、私の旅はこれで終った。あとはついでの物語である。  百万都市だというサン・アントニオの町なかを抜けて、郊外の林間にある仙柴邸まで一と走り、 「ハニー、帰ったよ。お客さんを連れて来た。日本人の小説家だ」  夫が呼ばわると、庭で花いじりをしていた中年の日本女性が、別に驚いた様子でもなく、 「ああ、いらっしゃい」  とあらわれた。  二人で抱き合ってキスをして、エドモントンのマッカリー氏とちがい、三十何年前のミステイク家庭ではないらしかった。土佐の人だが、青森県の三沢基地でタイピストをしていたころ——、「遠い昔の話よネ」、駐留軍の将校として来日中のローレンスと識り合い、結婚した。三人の子供が出来て、みんなもう大きい。娘は嫁いでいる。孫は未だ。  室内に日本趣味の品物が色々飾ってあった。手動式のパチンコも一台置いてあった。朝のコーヒーと果物を御馳走になり、シャワーで汽車旅のよごれを洗い落し、さっぱりしたけれど、メキシコの汽車に乗りに行く手順があって、時間があまり無い。アラモの砦は見られそうもない。  仙柴夫人は、ぶっきら棒だが親切な人であった。 「それは、又のことにしたらええわ。今度又来て、うちへ泊ったらええ。土佐の妹が『小説新潮』送ってくれるから時々読むけど、あんたどんな小説書いてるの」  と言った。  ヒロヒトは神かというのと同じくらい具合の悪い御質問で、ためらった末、私はまんぼうと狐狸庵《こりあん》の名を挙げ、御存じですかと聞いてみた。 「そら、狐狸庵先生やドクトルまんぼうやったら、誰かて読むから知っとるわな。私ら、あんまり小むずかしいもんはよう読まんけど」  小むずかしいものなんか書いてません、あいつら、年齢の上からも多少後輩にあたるんですとは、どうも言いにくかった。言っても信用してもらえないだろう。実は今回、中の一匹お供に連れて来たかったんですがと言えば、余計疑われるかも知れない。御亭主の方は、汽車に関する私の素養を認めて、ほんものと信じている。しかし、奥さんが名前を知らなかった。ほんものか贋《にせ》作家か、あとで夫婦論争の種になっても困るし、損な話だと思ったが、 「つまり、まんぼうや狐狸庵は私の友達でして、まあ、彼らと似たり寄ったりの物を書いているわけでして、『小説新潮』に発表したことも何度かありますし、今度の旅のあれも、多分『小説新潮』の」  と、私はしどろもどろで自己主張を始めた。ここは自己主張の国なんだ、もっとはっきり、押し強くと思うけれど、なかなかそう言えるものではない。そのうち、仙柴夫人が、 「そう言えば、何や見たことある名前のような気もするなあ」  と、あらためて私の名刺を取り上げてくれたのでほッとした。  もっとも、彼女は疑っているわけでもなかった。相手が無名であろうとなかろうと構わないようで、 「ほんとに又来なさい」 「こんな田舎やけど、又来たらええ」  何度も言われ、私は厚く御礼を言上、夫妻に見送ってもらって、メキシコの汽車に乗るべくサン・アントニオを去った。 [#改ページ]  アステカの鷲  閉口先生開高健がしゃべりにしゃべっている。閉口先生の話術にかかると、中南米というのはよほど面白いところのように思えて来る。事情があって従来行くのを避けていたラテン・アメリカの汽車に、一つぐらいは乗ってみたいような気持になって来る。彼《か》の地の鉄道について少し聞きたいと思うのだが、閉口は古今の学識に法螺《ほら》を織りまぜ、持ち前の大音声《だいおんじよう》で土産の長話、語りつづけしゃべりつづけてやめない。閉口がこういう風に独演会を始めた時は、途中で口がはさめない。「あのね、君」と穏かに言っても通じるものでない。 「おい、おッさん」  と言ったら初めて反応を示した。 「大兄、おッさんはひどいやろ。セニョールと呼んでいただきたいですな」  昔、フランスにかぶれて人のことを「ムッシュウ」と呼ぶ友だちがいた。再度の釣魚大旅行でラテン新大陸の文物にすっかり惚《ほ》れて帰って来たと見える。 「じゃあ伺いますが、セニョールのおッさん、中南米の国々はほんとにそんなに面白いかね」 「中南米の国々と簡単に仰有《おつしや》いましても、まことに広大なとこでしてな。メキシコ以南に独立国の数がなんぼあるか御存じなんですか」  と、新たに又弁じ立てそうな勢いで閉口先生が言った。 「国によりますし、何に関心をお持ちかにもよりますけど、総じて言えば概して面白い。想像を絶して大変非常に面白い。どこがどう面白いかと申しますと」  それはもういいよ、関心を持ってるのは汽車に決っている、想像を絶するほど面白い国なら、きっと面白い汽車がある。ただ、僕は腹下しがこわい。どうせ面白さが不潔と同居してるんだろ。風呂もシャワーも無いきたない汽車の中で消化器が故障を起すと、僕の場合消化器の末端が故障を起して甚だ面白くないことになり、人に告げかねる苦しみが始る。印度《インド》の汽車と「メキシコ以南」の汽車を試みていない内々の事情はそれなんだが、大丈夫だろうかと訊《たず》ねると、 「いや、必ず一度盛大にやりますな」  閉口は保証した。 「小生、神経性下痢常習の大家ですが、あんな猛烈なのは経験したこと無い。メキシコで『モンテスマの復讐《ふくしゆう》』と呼んでます。モンテスマは、十六世紀の初めスペインに滅ぼされたアステカ王朝最後の王様です。爾来《じらい》、怨念常《おんねんとこ》しなえに生き残って、王の魂魄《こんぱく》大腸荒しの細菌と化し、異邦から来る奴来る奴、取りついては下す取りついては下す」  分った、俺やっぱりやめにする、いや、ちょっと待ちなさいと、閉口が言った。 「この猛烈なモンテスマの復讐にも、対抗する手はあるねん。メキシコ・シティの薬屋で小生が見つけて来た。ぴたりの特効薬や。使い残し進呈するから乗りに行ったらええやないか。鉄道かて、必ずおそらく面白い。それに、中南米の|とば《ヽヽ》口メキシコの列車ぐらいは知っておかんと、百鬼園《ひやつきえん》先生の後進、南蛮汽車の筆者として面目相立たんで」  熱心にすすめてくれるけど、鉄道事情の方はろくろく御存じないらしいので、次の日私は東京のメキシコ政府観光局へ電話をかけた。 「初めてのメキシコ旅行ですか」  と、女の職員が親切に応対してくれた。 「それでしたら先《ま》ず、空港へお着きになって一と通りメキシコ・シティの市内見物。それから郊外のテオティワカンのピラミッド。観光の宝庫のような国でございますから、アカプルコの海岸でしばらく静養なさるのも素晴しいですし、ユカタン半島にマヤ文明の遺跡をお訪ねになると……」 「もしもし。お話の途中ですが」と、私は遮《さえぎ》った。「そんなものは、どうでもよくもないけど二の次なんでして、行くとすれば空港へ着かないのです。伺いたいのはメキシコ国有鉄道の……」 「もしもし」と女の人が言った。「汽車でメキシコへ入るおつもりですか。それは、こちらとしては少々賛成致しかねますね。メキシコの汽車旅はあんまりおすすめ出来ないんです」 「何故《なぜ》ですか。案内書を見ると、英語で『アズテック・イーグル』——、『アステカの鷲《わし》』号という立派な名前の急行列車が、ヌエボ・ラレド始発で毎日メキシコ・シティまで走っているようですが」 「走ってます。走ってることは色々走ってますよ。でも、そうねえ、『アズテック・イーグル』ねえ。まあ、あの列車なら——、さて、どうでしょう」  どんなに「まあ」で「さて」なのか、これが事の始まりになって、今日思い立つ旅衣、成田からロサンゼルス、ロサンゼルスから「サンセット・リミティッド」でテキサス州サン・アントニオ、サン・アントニオからラレドヘ出て米墨の国境を越えたのが今年六月の初め、暑い日であったとは、前の「夕暮特急」にもう書いた。  二十四年前の秋、汽笛一声ウイーンを発ち、ヴェニス行の国際列車で雪のイタリア国境を越えたことがある。粉雪の降りしきる中、煤煙《ばいえん》を吹き上げる蒸気機関車に曳《ひ》かれて国ざかいを越すということに興趣を覚えていた。  しかし、ヨーロッパの国々はほとんどが地つづきであって、鹿や兎に国境越えの興趣などありはしない。人の定めた境界を無視して勝手に往《ゆ》き来している。人間はけだものほど勝手に振舞えないけれど、それでも自由圏であるかぎり大した面倒は無く、おやと思ったらもう隣りの国であった。此《こ》の森と彼の山とがつづいていて、風景にどんな変化も生じなかった。国境越えで緊迫感や情緒をいだくのは、島国育ちの特性かもしれんと考えているうち、再びおやと気づかされた。オーストリー領最後の駅を出て、列車がのろりのろり、すぐ次のイタリア領最初の駅へ着いた途端、風景を除くすべてが変ってしまったのである。  芸術の都ウイーンのドイツ語は京言葉のようなもので、北のドイツからオーストリーに来ると、万事が優雅にやわらかくなる——、そうウイーン在住の日本人に聞かされていたにもかかわらず、ドナウ河の橋の上で道を問うた警官の制帽長靴はナチス陸軍の軍装を思わせたし、人々の言動は秩序立っていて静かに重々しく、時に堅苦しかった。それが国境の一と駅でがらりと変り、 「プレーゴ、プレーゴ、シ、シ、シ。何とかヌート何とかナーレ。シ、シ、チンカ・チェント・リラ」  駅員も駅弁売りも車掌も、騒々しきことかぎり無く、肩をすくめたりウィンクをしたり釣銭をごまかそうとしたり、秩序滅茶苦茶、雪の降る寒い夕暮時だというのに、おそろしく陽気で軽々しく、何故こうもちがうかとびっくりした。現在メキシコを知らないように、当時私はドイツもイタリアも知らなかった。  メキシコ領ヌエボ・ラレドは、米領ラレドに対する新ラレド町の意味だろう。ラレドで雇ったテキサス・ナンバーのタクシーがリオ・グランデの鉄橋を越して一と走り、ヌエボ・ラレド市内に入った時、昔のその経験を思い出した。墨田川を渡るのと変りないのに、忽《たちま》ちすべてが変って無茶苦茶の無秩序の訳の分らぬことになった。  メキシコ国有鉄道ヌエボ・ラレド駅の構内に群衆が屯《たむ》ろしている。目つきの悪い若者がいる。白布に大荷物を包みこんで石段に腰かけているインディオの老人がいる。あと六時間、午後六時五十五分発の「アステカの鷲」まで出る列車は無いはずなのに、何を待っているのだか分らない。第一、言葉が通じない。向う岸べにアメリカ合衆国の見える墨田川みたいな川一つ渡って来ただけで意思の疎通が全く不可能になるというようなことがあるかと思うけれど、アメリカ人のタクシー運転手が行ってしまったあと、誰に何を聞いても一切通じない。 「メキシコを独り旅なさるんですか」  と、閉口先生でない別の人に忠告されていた。 「それは、かなりの覚悟が必要ですな。事前によほど確実なすじで予約をしておかないと、ホテルも汽車も、泊めてくれるか乗せてくれるか、分ったもんじゃないですよ。もっとも、予約しといたって|あて《ヽヽ》にはならないんだから、同じことですがね」  鉄道でメキシコ入りをしようという人はめったに無いらしく、「アステカの鷲」号寝台車の事前予約は日本で取れなかった。それで六時間も前にこうして駅へやって来たのだが、窓口は閉っている。あっちへ行けこっちへ行けと盥《たらい》まわしにされた末、やっと髭《ひげ》の渉外係をつかまえて、私は談判を始めた。 「私、今夜、『アステカの鷲』——、アステカ、分りますか、『アズテック・イーグル』乗ってメキシコ・シティ行きたい。一等寝台車、コンパートメント欲しい。それ、予約したい」  いい齢して馬鹿々々しいと我ながら思うけれど、機関車の動輪がシャッシャッシャッと廻転するところを擬音《ぎおん》入りで真似てみせ、寝台に眠る身ぶりをして、どうせスペイン語以外通じないのだから日本語で談じているのだが、奇妙なことにその日本語が外人|訛《なま》りになる。  髭の渉外係は、粗末な紙切れに「5.30」と書いて示した。 「五時三十分にもう一度来いという意味?」 「シ、シ、セニョール」 「五時半に来れば、あの窓口があいて、私金払う、あんたカチャンカチャンとこう、寝台車の切符売ってくれるわけですね」 「シ、セニョール」 「しかと大丈夫か。ほんとに乗せてもらえるんだろうな」 「シ、シ、シ」  引き下ることにした。  狭いきたない駅の構内は、相変らず人が屯ろしていて、みんな、面白いようなうさんくさいような顔でぼやあッと私の方を眺めていて、誰もがぼやあッとなって当然のたいへんな暑さである。子供が二人、掻《か》き氷に赤いシロップをかけた氷いちごそっくりの物を買って来て、つめたそうに食べていた。お相伴したいけど、食ったら即日モンテスマ王の復讐だろう。ポケットから私は手帖《てちよう》を取り出した。 「seafood restaurant Jean Lafittes, Nuevo Laredo. 時間の余裕あらば行ってみること。ジャン・ラフィッテは有名な海賊の名前。清潔」  と、日英両語で覚え書がしるしてあった。サン・アントニオの仙柴さんに教わった海鮮料理店だが、木蔭《こかげ》で暑苦しげに客待ちをしているタクシーの運転手に見せると、これはすぐ分った。  店内、十九世紀のスペインを思わせるような落ちついた造りで、冷房がきいていて、英語が通じる。黒服に金歯、妖《あや》しげな容貌の痩《や》せたマネージャーが海賊の頭領みたいな目つきで寄って来て、 「日本からの旅行者か。何を召し上るか」  と訊ねた。  日本人の客など一人も入っていないけれど、差し出されたメニューの表紙に伊勢海老《いせえび》の絵が印刷してあり、白鳥|瑞恵《みずえ》と漢字の署名がある。どういう経歴の画家か存じ上げないが、こんなところで不思議な気がした。  メキシコへ行ったら是非ワチナンゴを食べなさいと、閉口に言われている。ざっとメニューを見て、海老のスープと塩焼きのワチナンゴを註文した。  最初に、薄いカリカリの煎餅《せんべい》とバターと生野菜と緑色のマヨネーズ・ソースみたいな物が出て来た。ソースが緑色をしているのは、サボテンの実だか茎だかが入れてあるからだという。みずみずしい色の生野菜を、私は恨めしい思いで眺めた。停車場で大汗をかいて、何でもいい、生の野菜か果物か水が欲しいのだが、本日以後生水生野菜厳禁のことと、自分に申し聞かせてある。しばらく我慢していたが、まあ一つだけと思って、生葱《なまねぎ》をサボテン・ソースに浸けて食ったら、まことに美味《うま》かった。日本でも、昔は畑のこやしのよくきいたこんな葱があったと思い出すそういう味で、もう一本だけと、つい手が出る。  閉口のくれた特効薬の小瓶《こびん》を、お守り代りに卓上へ置き、それを横眼で見ながら、モンテスマの魂魄が宿っていそうな白い美しい生葱を三本かじり終った時、錫《すず》の皿、ギヤマンの盃《さかずき》、スープとパンと地酒のメキシコ・ワインが運ばれて来た。牡蠣《かき》、小海老、ロブスターの身、野菜入りのスープに、ライムの半割りをしぼり落して飲むと、またまた美味い。あまり醗酵《はつこう》していないあったかな固いパンも美味い。ビタミン添加と称するアメリカのふにゃふにゃパンは嫌いだ。特に、アメリカでもすぐ川向うのテキサスは、名にし負う味覚粗野の土地だから、こんなパンもこんなスープも到底食わせてくれないだろう。天は二物を与えず、墨田川を渡っただけで、あらゆる物が無秩序にきたなく埃《ほこり》っぽくなり、同時にあらゆる物が美味くなった。辛口の地酒の白ワインも結構だし、これはゆっくり飲んでゆっくり食べようと思う。いつ汽車の話をするのかと聞かれては困る。案内記に、 「メキシコのお国柄は『アスタ・マニャーナ』——、『またあした』、『のんびりやろう』、この言葉に象徴されています。日本流に急いでは、メキシコの魅力が失われます」  と書いてある。  これからワチナンゴを賞味して、二時間半がかりで昼飯をすませたら、黒服の金歯にスーツケースを預けて、市内一見、食後の散歩をして、もう一度ラフィッテスへ戻って、氷抜きのコーラで咽《のど》でもうるおして、それでも未《ま》だ時間を持て余す。  ワチナンゴは、多少姿がほっそりしているだけで真鯛《まだい》そっくりの魚であった。新鮮な身が塩焼きにされて、ぷりぷりしまっていた。ライムをしぼりかけ、緑のサボテン・ソースと赤の唐辛子《とうがらし》ソースと、交互に少量ずつつけ、ゆっくり眼玉から骨までしゃぶるのをそれとなく眺めていた金歯のマネージャーが、妖気《ようき》ただよう無表情な顔に、初めてかすかな親しみの笑みを浮かべた。  長い暑い午後が過ぎ、ようやくメキシコの旅客列車に見参の時刻が来た。夕陽を浴びて、きたない大きな「アステカの鷲」がとまっていた。金色の鷲のマークでもついているかと思ったが、そんなものはついていない。列車はただ薄ぎたなく、枕木《まくらぎ》の上には人糞《じんぷん》と紙屑《かみくず》と機械油がべっとりこびりついていて、その辺一帯小便の匂いがする。  ヒッピー、若いアメリカ娘、安背広の小父《おじ》さんにショールの小母《おば》さん、皺《しわ》だらけのインディオの老人、ソンブレロをかぶった黒い男、さまざまな人種が乗りこむ。メキシコ・シティまで約千二百キロ、二十五時間と九分、一等寝台車で寝て行って日本金の七千四百円、飛行機よりはるかに安く長距離バスよりはるかにのろいから、富や権力に縁のありそうな乗客は一人も見かけなかった。  私の寝台車は最後尾の110号車、米国製プルマンのお古である。ダーク・グリーンのペイントがでこでこ塗りなのを見ただけで、かなりの古物と察しがつく。連結部の標示を検分するに、「一九七〇年再塗装」「一九七九年再々塗装」、鷲は何度も禿《はげ》を化粧し直して働かされているらしいが、これでもメキシコ国鉄を代表する最高の贅沢《ぜいたく》列車であった。  クーラーが作動中だが、個室の二重窓に西陽があたっておそろしく暑い。ハンカチで汗を拭っていると、カーテンを引いて白服の列車給仕が顔を出した。「自分、アントニオ」と胸の金ボタンを指し、扇風機を廻しなさいとスイッチを指さした。廻るものならとっくに廻している、押してもひねっても動きませんぜ、故障だよと、身振りで答えたら、 「オーッ」  アントニオは大袈裟《おおげさ》に両手を拡げて感心した。じゃあ水が飲みたいでしょ、冷水器で水飲めるよ。それも試した、水なんか出ない、出ても飲むわけ行かない。 「オーッ」  ただし、どちらの故障も修理してみせるとは言わない。乗車券のことが気になっている。五時半、駅の窓口が開くのを待ちかねて購入した切符が、まる一カ月前の五月の日附だと、乗りこんでから気づいた。改札を通れたのだからこれで構わないのだろうと思うけれど、念のため切符を見せてそこを指で示したら、 「オーッ」  と、アントニオがまた両手を拡げた。  オーケー、セニョール、オーケー、日附のことなんか気にするな、自分が承っておく、この国でそう細かく神経を使っていたら頭が変になる、それよりセニョール、あんた早く食堂車へ行ってらっしゃい、シ、シ、あっちの食堂車、行かなくてはいけない——と、大体そのようなことを言われていると思うのだが、何ぶん「オーケー」と「セニョール」と「食堂車《リストランテ・カー》」以外分らないから、何しに食堂車へ行かされるのかが分らない。  食堂車では、外国人旅行者(といっても殆どアメリカ人だが)に対する入国審査パスポート検査が行われていた。実は、タクシーでリオ・グランデの鉄橋を渡る時、橋のたもとの警備所が旅券を見せろと言わないのを変に思った。多分、テキサス州ラレドとメキシコ領ヌエボ・ラレドの間は往き来自由、ヌエボ・ラレド以遠へ出る場合、道路にも鉄路にも検問の網が張られているのだろう。  全員の手続きが終るのを待って、「アステカの鷲」はゴトリと動き出した。動き出したけど、すぐ駅でもないところに停る。停ると天井の蛍光灯が消える。動き出すとつく。とまる。すうッと消える。動き出す。またつく。これを三分おきか五分おきに繰返す。牽引《けんいん》の機関車はディーゼルだから、送電線と無関係に走っているはずなのに、何故停電するのか分らないし、これが一体急行列車かどうかも分らなくなった。この調子だと、夜になっての読書は到底無理である。 「中南米では時刻表通り汽車が走るかどうかは話の種にならない。ちゃんと終着駅に着くかどうかが問題なんだ」  と、鉄道好きのアメリカ人に聞かされたことがあるが、なるほどそんな気がして来た。これはアスタ・マニャーナ、あさってメキシコ・シティへ着いてくれればいいというぐらいの覚悟でいないと駄目らしいぞと思う。  もっとも、万事あてにならぬメキシコのでたらめ列車にも、一つ結構なことがあった。ヨーロッパやアメリカで走行中のデッキに立っていると、乗務員が必ず叱言《こごと》を言いに来る。「アステカの鷲」では、誰も文句なぞ言わない。日は暮れた。最後尾寝台車の暗いデッキを展望ラウンジに見たてて、しばらく風に吹かれていることにする。風が時々アンモニア臭い霧みたいなものを吹きつけて来るのさえ我慢すれば、冷房のよくきかない室内よりずっと涼しくて気持がいい。  いつか列車はあまり停らなくなり、したがってあまり停電しなくなり、幌《ほろ》のわきに赤いテール・ランプをぶら下げて、鈍く光る単線の線路をうしろへうしろへ繰り出しながら、「ケタタットット、ケタタットット」と走っていた。乾燥した大気が澄み切っているせいか、闇の曠野《こうや》の上におびただしい数の星が見える。  展望台仲間がだんだん増えて来た。若い小肥りのアメリカ娘は、わたしラレドの小学校の先生ですと言う。唇の右わきに大きなイボのある禿頭《はげあたま》の親爺《おやじ》は、片言の英語で、昔バスの運転手をしてた、もっと昔ロサンゼルスの日本食堂で働いてた、グヮダラハラに「タナカ」という日本人のアミゴがいると言う。背が五尺足らず、すべて小造りで胸ばかり豊かな多少|畸型《きけい》の感じのメキシコ娘も、仲間に加わった。黙ってにこッとするだけで、英語は出来ないらしいが、ある種のサーカス女に似て妙に妖しい色気があった。  これだけ集ると、日英墨の会話に不自由しない。 「スペイン語でスープは何と言いますか?」 「ソパ」 「ディナーは」 「コミーダ」 「牛肉」 「カルネ・デ・バカ」 「ビール」 「セルベッサ」 「ウイスキーは?」 「ウイスキーはウイスキーよ。そうでなくちゃ不公平よ。テキラは英語でもテキラですもの」  と、アメリカ娘が笑った。この小学教師は、美人でないけど愛嬌《あいきよう》があってたいへん人なつっこい。  しゃべっているところへ、ドアを半分あけて車掌が顔をのぞかせ、みんな車室へ戻ってくれと言う。やはりデッキに出るとうるさいのかと思ったら、税関(?)の所持品検査であった。腰に拳銃手に懐中電灯の官憲が二人、にこりともせず寝台車の廊下に立っていた。万事いい加減なお国柄なのに、こういうことは厳重で少しもいい加減でない。私は旅券の提示を求められただけで、スーツケースもあけず事済みになったけれど、前のコンパートメントのイボの小父さん夫婦は、鞄《かばん》の中、買物袋の底、座席の下まで徹底的に調べられた。客車給仕のアントニオも例外にはしてもらえず、掃除用の要具入れの中を懐中電灯で照らして念入りにさぐられた。 「武器と麻薬をさがしてるのよ」  と、アメリカ娘が小声で言った。  二人の官憲が行ってしまったあと、其処此処《そこここ》で個室のカーテンが開き、メキシコ人の乗客たちがお互い顔を見合せて、にやッとしたり「ふうッ」と溜息《ためいき》をついたりした。  さっき教わった「セルベッサ」と「ソパ」で夕食にしようと、私は食堂車の方へ歩き出した。乳房が大きくて小柄で色っぽい例のメキシコ娘が、ちょうどドアをしめて端っこの自室へこもるところであった。娘は片眼をつぶってみせた。 「禁制品持ってるんだけど、見つからずにすんだわ」  そんな意味だろうと解して、「よかったネ」、眼顔でうなずき返し、その品物はピストルかヘロインかと、二三歩行きかけて、「待てよ、しかし」と思った時、「勘ちがいしないでね」と言わんばかりに内側からカチリと鍵《かぎ》のかかる音が聞えた。  食堂車の晩めしは、セルベッサにまでライムが添えてある、つまりビールにもライム・ジュースをしぼり落して飲む、それが珍しかっただけで、ラフィッテスとちがい不味《まず》かった。簡単にすませ、独り、部屋へ帰って来た。早々とみんな、扉を閉じて寝しずまっている。靴を脱ぎ、パジャマに着替え、中古でもプルマンはプルマン、かつて栄光を誇ったプルマン一等寝台車の揺れ心地を味いつつ、「ケタタントントン、カタケチャトントン」の響きを聞いて私ももう寝ようと思うのに、ベッドの中にけしからぬものが潜んでいた。「蚤《のみ》しらみ馬の尿《しと》する枕もと」、何だか知らないけど、あちらでちくり、こちらでちくりと、身体中《からだじゆう》がかゆくなって来る。  家にいても、眠りながら眠れない眠れないと苦にしている晩がある。「メキシコの汽車はいかがですか」「メキシコの汽車はかゆいです」、夢ともうつつともつかず思いつづけているうち、いつか時が経って、シロフォンの音で眼をさました。窓外は朝で、腕も脚も処々方々虫にさされて小さく腫《は》れて赤かった。  シロフォンの旋律が、「山田で白湯《さゆ》だ」と聞える。何の連想か分らないけど、寝足りぬ頭にそう聞える。「山田で白湯だ、山田で白湯だ」と、朝食の用意が出来たことを告げて廻っていた。  朝の食堂車で、アメリカ人の老女二人と同席になった。テキサスに住む未亡人で、中の一人がよくしゃべる。気はいいらしいが、鬼みたいないかつい赤ら顔にうっすら金髪の口髭を生やしていて、メキシコ旅行これで十回目、 「そりゃあなた、メキシコへ来るならスペイン語を勉強して来なくちゃ駄目よ。中世スペイン騎士の末裔《まつえい》にあたる誇り高き国民ですからね。その代りスペイン語を使えば、親切にとってもよくしてくれる。日本? 日本もいいけど、日本語は世界中で一番むつかしい言葉でしょ。日本もヨーロッパも行ったことない。テキサスの次に素晴しい国はメキシコだと信じて愛してる」  と、メキシコ製錫のポットからコーヒーを注ぎ、アメリカではお目にかかりにくいホーム・メイド風つぶつぶの苺《いちご》ジャムをトーストに塗る。 「メキシコ・シティで何処へ泊るの。シェラトン? シェラトンなんか高いだけで駄目。インポリアに変えたら? わたしたちが『うちのホテル』と呼んでるホテル。従業員が親切で、何でも自由がきいて、自分のうちへ帰ったような気がするから。でも、それもスペイン語が出来なくちゃあね。次の機会には、スペイン語習って来て、忘れずにインポリアに泊んなさいよ。その手帖に書いとくといいわ」  テキサス流儀のアメリカ人たちは、ヴェトナムでもイランでも、こういう風に極めて親切《ヽヽ》だったにちがいない。御説|御尤《ごもつと》も、善意は感謝するけれど、「次の機会」に恵まれたいかどうかは分らないと思って席を立った。  列車はサボテンの原野を驀進《ばくしん》中であった。最後尾展望台に、例の寝台車仲間が集っている。歯抜けの車掌もいる。メキシコ・シティへ560キロの標識が見える。それが557になり553になり540台になっても未だサボテンの原野がつづく。日本ならサボテン自然大公園と名所になりそうな景観だが、羊飼いの少年以外人影は無い。  うちわサボテンの大木がある。お釈迦《しやか》様の頭みたいなのがある。仏足石《ぶつそくせき》に棘《とげ》のささったようなのもある。珊瑚《さんご》の枝に似たのや、柱状に林立したのもある。  あとでものの本を見たら、中米に生育するサボテンは千種類に及ぶと書いてあったが、感心して眺めている私に、 「シ、カクトス」  と、歯抜けの車掌が言った。 「全部カクトスなんですか」 「ノー、ノー」  イボの親爺が車掌と相談して、スペイン語(メキシコ語?)でサボテンの名称を数え始めた。 「カクトス、ノパル、ガランブイヨ、ピタヤ、マゲイ、ビスナガ、オルガノ、ホコノストレ」  アフリカのある種族は、バナナをあらわす語彙《ごい》を二十くらい持っていると聞くが、 「英語にもカクタス以外何か呼び方がありますかね」  小学教師のアメリカ娘に訊ねると、ちょっと考えて、 「カクタスしか思いつかない」  と答えた。  多分、食うか食わないか、食料としてどの程度大切かに係《かかわ》っていることだろうと思う。  サボテンの林の中に脱線転覆した貨車の打ち棄ててあるのが過ぎ、大|竜舌蘭《りゆうぜつらん》の畑が過ぎ、ひる前列車はかなり大きな都会へ近づいた。  引込線のようなところで一旦停ったと思ったら、私たちのいる後部デッキへ車掌が妙な器具を取りつけに来、「アステカの鷲」はうしろ向きに構内へ進入を開始した。取りつけた器具は移動式警笛吹鳴器で、馬のいななくような声を発しながら、のろりのろりとあとしざりで進む。線路の両側、貨車を改造した家が並んでいて、鉢植えの花が軒先(?)に吊《つる》してあって、赤児を抱いた女、豚、|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》、裸の子供、それとすれすれに列車が通るから、車掌は警笛を鳴らしづめに鳴らさざるを得ない。 「どこかしら、この町?」 「遅れてるけど、地図と時刻表で見るとサン・ルイス・ポトシですね」  私が言うと、 「あら、ここがサン・ルイス・ポトシ」  と、アメリカ娘は嬉しそうな顔をした。 「わたしのクラスに、サン・ルイス・ポトシ出身の生徒がいるのよ。両親がテキサスへ移住したので転校して来たんです。帰ったら、先生汽車でサン・ルイス・ポトシを通ったわよって話してやろう」  都会とはいうものの、街路に※[#「奚+隹」、unicode96de]が遊んでいて、ぼろ車が砂ぼこりを上げて走っていて、崩れ落ちそうな白壁に描かれた赤や緑のけばけばしい広告が剥《は》げかかっていて、食い物の屋台店があって、九龍《きゆうりゆう》半島新界のどこかに似ている。メキシコの、乃至《ないし》ラテン系の田舎町は、どうも中国人の住む町と似たところがある。  サン・ルイス・ポトシの駅で、きのうやらなかった列車編成の検分をすることにした。尻から到着したので最前部の機関車がすなわち最後尾だが、米国製ディーゼル機関車の次に貨車三|輛《りよう》、小荷物車四輛、三等車(もしかしたら四等車)が二輛、プラットフォームに立って見渡せば、そのあと未だ未だ長い。要するに貨客混合のつぎはぎ列車じゃないか、ちょっと中を拝見と、きたない三等客車に乗りこんだら、誰もいなかった。  そのうち、誰もいない客車が動き出した。遅れを取戻すため、停車時分を切りつめて発車したのだろう。ちょうどよかった、車内を歩いて自分の部屋に帰ろうと、客車の廊下を先へ見通してあッと思った。貫通部の幌の向うがからっぽで、線路と青空が見える。「アステカの鷲」号本体は、プラットフォームの突きあたりに停っていて、こちらだけ動いている。のろいようでも早く、切り離された無人の三等車は見る見る本体との間隔をひろげて、うしろへ引かれて行く。近い方のデッキへ突進し、フォームのはずれにえいやッと飛び下りた。その拍子に足をくじいた。  昔、海軍のころ、 「痛いからといってそういう情なさそうな顔をするな。打ち身の少々痛いぐらい、しれッとしとれ」  と教官に叱られたことがある。メキシコ人の駅員が不思議そうに見ているし、しれッとしようと思うけれど痛い。痛いし情ない。今度やったら、もう飛び下りは致しかねる。いつ発車しても構わないように、前後をよく確かめて乗客のいる三等車に乗りこみ、足を曳きずりながら列車の検分を続行した。  毛むくじゃらで赤銅色《しやくどういろ》の何とも奇怪な顔をしたインディオの爺がいた。額にも頬にも刀傷のような深い横皺縦皺《よこじわたてじわ》が刻みこまれていて、濃い剛毛が顔の半ばをおおい、黒熊に近い感じがする。小学教師のアメリカ娘でも、イボの小父さんでも、口髭を生やしたテキサスの未亡人でも、よく見ていれば誰かの顔を思い出す。この爺は、私が知っている限りの如何《いか》なる人物とも似ていなかった。ヒマラヤの雪男がいるならこんな形相かと思うような形相で、一種の感動を覚え、めったに使わぬ写真機を向けたら、黒熊爺がぶつぶつ何かつぶやいた。 「腹がへってる、食い物をくれと言ってる」  と、英語の出来るメキシコ人が通訳してくれた。パンもチョコレートも持っていないし、金でもやろうかとためらっていると、別のメキシコ人が、 「いいから行け行け」  と、手を振って私を追い立てた。  この車輛の次が普通二等車、それより先は柵《さく》で仕切って「一般客立入り禁止」の特別二等車、食堂車、三輛の一等寝台車とつづく。三等には銃を持った警乗の兵士が五、六人乗っていたが、冷房のある特別二等車以上の優等車にそういう者はいない。小便くさくても客種がお粗末でも、これが「アステカの鷲」の特権コーナーで、車内の階級差別ははっきりしているようであった。  サン・ルイス・ポトシを出て、「カタカタケットン、カタカタケットン」の長い暑い三時間後、列車は海抜一八七〇メートルのサン・ミゲル・デ・アリェンデという駅へ着いた。降りた客の中に、紫のドレスをファッション・ショウのようになびかせてゆっくり歩いて行くきれいな四十女がいた。 「あの人、作家ですってよ」  気取ってるわねと言いたげに、ラレドの女教師が指さした。  二キロばかり先の丘の上に、聖堂が見え、こぢんまりしたヨーロッパ風の町が見える。史跡に富むメキシコ随一の美しい古都で、アメリカの芸術家が、或は自分で芸術家だと思っているアメリカ人たちが、よく長期滞在に来るところだそうだが、聖堂も芸術家の町も、色んなことがもうめんどくさくなって来た。  サボテンも見飽きたし、不味い食堂車へ何度も行く気はしないし、くじいた足はじんわり痛む。腹具合も少し変だ。メキシコ入国後すでに一昼夜以上、節食節水充分用心しているけれど、そろそろモンテスマ王の御挨拶があってもおかしくはない。早く終着駅へ着いて、ホテルのシャワーを浴びて、ラフィッテスなみのいいレストランを探して、美味い晩めしを食って安心して眠りたい。いくら汽車が好きでも、汽車によりけり、連れによりけり、かゆくて痛いこんなおんぼろ列車に独りで乗りに来るんじゃなかった——。  退屈な長い長い時が経って、日が暮れる。昼間は気にならなかった停電が、また始った。おまけに二列の蛍光灯の一列が故障して、停電でなくてもついたり消えたりをせわしく繰返す。列車が停ると全部消えて、個室の中が闇になる。動き出し、あるスピードに達すると、ぼおッと明るんでぱッと点《とも》って、片側が明滅する。停車回数が多いから、頻々《ひんぴん》とこれを繰返す。前の車室のカーテンのかげから、イボの小父さんが、 「ああ、メヒコ・トレン、ええ、ベリー・バッド・サービス」  と、慰め顔に言った。  全くバッド・サービスですなあ。本も読めやしない。閉口先生というラテン・アメリカかぶれの友だちがいるんですが、あいつ嘘つきだ。何が総じて概して大変に面白いものか。政府観光局の言うことの方が正しかった。メキシコの汽車旅は感心しませんな。  そんなこみ入ったことが話せるわけでも通じるわけでもないけれど、 「シ、セニョール。ベリー・バッド」  小父さんはもう一度慰め顔にうなずいて、しかしネ、もう間もなくですよと、安物の腕時計を見せた。  いや、そうは行きますまい。さっき通過した駅に、メキシコ・シティを去る73キロの標示があった。七十三キロを走破するのは、「アステカの鷲」にとって大仕事でしょう。  時刻表によると、メキシコ・シティ到着午後八時四分だが、時計の針はそんなところをとっくに過ぎている。私はイボの親爺を介して歯抜け車掌に詰問した。 「一体、何時になったら着くんだい?」 「多分、十一時ごろ」  と、車掌は肩をすくめた。 「きょうは、何か特別な理由があって遅れてるの?」 「ノオ、ノオ。毎日遅れる」  それなら何故八時|四分《ヽヽ》などと、もっともらしい数字を天下に公示するのかと言いたいが、言って下手な英語を分らせてみたところで仕方が無い。  雨が降り出し、窓をこまかな雨滴が斜めに濡らしている。時々民家の貧しげな灯が見えるだけで、行けど進めど窓外は闇、人口千二百万の大都会が近づく気配は全く無い。列車は停っては停電し、のろのろ動いてはまた長々と停る。  アメリカ娘とメキシコ娘は、悟ったのかあきらめたのか、部屋へこもったきり出て来なくなった。アントニオは乗務員席で居眠りをしている。半信半疑の半分信じていた「十一時ごろ」も、やがて過ぎた。昨晩ヌエボ・ラレド発車後、「アスタ・マニャーナ、あさって着の覚悟」と考えたのは、ただ心構えのつもりだったが、これではほんとうの「あさって」になる。きょう中にはもう、絶対着きっこない。メキシコ・シティ繁華街のレストランは、全部しまっているだろう。どうしてかくも不正確でかくもとろいのか。日本の私鉄国鉄の職員は、全員天才ではないかしらん。  蠅《はえ》が一匹忍びこんで来て、鏡に映る仏頂面のまわりをうるさくしつこく飛び廻っている。 [#改ページ]  チワーワ太平洋鉄道  昔、阿房《あほう》列車の連作を執筆中、内田百先生がふと考えた。先師漱石の『吾輩は猫である』を、人は普通、「夏目漱石の『吾輩は猫である』」と呼ばない。略して「漱石の猫」。そうすると自分の作品は後世どうなるか。「内田百の『阿房列車』」、「百の『阿房列車』」、「百の阿房」、これは少しまずくないか。  亡くなられて十年、この件|杞憂《きゆう》に終っているけれど、百、百鬼園《ひやつきえん》のほかにも「砂利場の大将フォン・ジャリ※[#「ワに濁点」、unicode30f7]ー」、「哈叭《かつぱ》入道」、その他たくさん雅号があったのだから、御心配とあらば先手を打って内田阿房堂と名のっておかれればよかった。「百の阿房」をいっそ「阿房堂の阿房」に——。御心配と言っても、「阿房」はもとより自負である。他人の思惑のことである。並の文士にあんな文章が書けるものではない。異国版我流の汽車物語を綴っていて、時々筆先が重くなる。  ただ、汽車が格別大好きという意味では、私が阿房堂の稀《まれ》なる後継者であって、左様な文筆家は百先生以後私まで飛ぶ。私のあとにも当分あらわれはしまい。将来もしあらわれるとしても、自分が中興の祖だ、不遜《ふそん》ながら内田阿房堂二代目元祖南蛮軒を僭称《せんしよう》するくらいの資格はあると、かねてそう思っていたら、最近人の鼻柱をくすぐるような、店の屋台骨をいたぶるような真似をするのがいる。  一人は元中央公論編集長元婦人公論編集長宮脇俊三。中年、職を投げ捨てて筆硯《ひつけん》を事となさるなら、編集長時代|溜《た》めこんだ学殖が国際政治、美学哲学経済学に始ってスポーツ、ファッション、女の生理に及ぶであろうから、もうちっと別の分野へ進出すればいいものを、もっぱら内外の汽車に乗って汽車のことを書く。  もう一人は斎藤茂太博士。本業が精神科医で趣味が飛行機なのだから、患者の世話と中古機の部品集めだけしていればいいのに、諸国を旅して鉄道にちょっかいを出す。御両所とは古い識《し》り合いであって、類が友を誘い、縁が縁につながり、百鬼園先生を始祖とする車運隆盛の花ざかりが訪れたのだと喜びたいけど、私が知らぬどこの国のどんな列車に乗って来た、よかった、面白かったと言われると、あんまり面白くない。乗りに行くについて御朱印が要るわけでなし、やめてくれとは申せないが、先《せん》を越されたような気がする。  ある日、斎藤神経科から電話がかかった。 「メキシコ旅行をして、きのう帰って来ました。あの汽車、すばらしいですな」 「どの汽車ですか」 「チワーワ太平洋鉄道。ほら、メキシコ北部の高原町チワーワから、雄大な峡谷地帯を縫って西海岸のロス・モチスまで走り下る例の山岳列車」 「知りませんね。僕はメキシコへ行ったことがないんです」 「メキシコを御存じない? あなたが? あのチワーワ太平洋鉄道に乗っていない? それはそれは。ほんとうにすばらしい汽車ですがナ、あれ」  はっはっはと奇妙な笑い声と共に斎藤博士の電話は切れた。以来、チワーワ太平洋鉄道の名が心にひっかかっている。  テキサス州対岸の国境町ヌエボ・ラレドを出て足かけ三日がかり、名前ばかり立派な「アステカの鷲《わし》」号で、蚤《のみ》に食われ停電に悩まされながら初のメキシコ・シティ入りをした時、私はメキシコの汽車もうこりごり、あとの旅程を変えてしまいたいぐらいの思いであった。しかし、ホテルで二た晩休養して、排気くさい大都市の賑《にぎわ》いとメキシコ古代文明の怪異な遺物とを一とわたり見てしまうと、何となくまた、鉄路の響きが恋しくなって来る。乗るとすれば、やはり斎藤博士御推奨のあの山岳列車、パンフレットに、途中米国のグランド・キャニヨンより壮大な眺めが楽しめると書いてある。グランド・キャニヨンより壮大とは大袈裟《おおげさ》なと、少々疑わしい気がしたが、それはこの国の広さに対する私の錯覚であった。  五十年前、パーレ・フルというデンマークの少年が新聞社の懸賞作文に当選して御褒美の世界一周旅行に出してもらい、少年版諸国見聞録を書いて評判になった。邦訳が出版され、愛読した覚えがある。フル少年は日本へも立ち寄り、日本海海戦の名将東郷平八郎提督と会見して感激したりしているのだが、日本の国土については、ホームランを打つとボールが向う側の海へ飛びこんでしまうくらい小さな国と思っていたそうだ。  北米大陸の裾へ先細りで狭くつづくメキシコ、心にかかっている汽車だから、飛行機でちょっと一と飛び、やっぱり乗りに行って来よう、そう思い定めた定め方が、どうやらパーレ・フル少年なみの勘ちがいであった。首都の空港を北へ向けて離陸すると、機の左右、太平洋と大西洋を振り分けに眺められるかと期待したのがまず大まちがいで、海なぞ全然見えはしない。次に、目的地のチワーワまで、——一と飛びといえば一と飛びだけれど、高度七千メートルで広漠たる大地を見下しながら、亜音速のDC9が一時間四十五分かけて飛ぶ。東京から釧路《くしろ》へ行くより遠い。  山々を望む高原の小都邑《しようとゆう》チワーワのホテルへ着いて、勘ちがい大怪我のもと、あまり簡単に考えていてはいけないと、私は思い直した。斎藤神経科がすばらしいすばらしいと言うのは、反語かも知れないしいやがらせだったかも知れない。そうでないにしても、沿線の景観がすばらしいという意味で、汽車そのものがすばらしいわけではないだろう。カーテンをあけて下界を眺めると、ホテルの前の公園に古い教会があって、教会の東西南北、薄ぎたない商店街がしばらくつづいてすぐ途切れてしまうつまらない町である。こんな所からそんなにすばらしい観光列車が出るとは到底思えない。どうせ相当なぼろ列車、メキシコの国土は想像以上に広大、人々はすべて「アスタ・マニャーナ」、もしかすると丸一日飲まず食わずの旅になる。十二分に警戒を要する。ともかく、明朝八時二十分ロス・モチス行の発車まで何もすることは無いし、思い患っても無駄だから、せめて犬でも見ようと、散歩に出かけた。  世界に名高い愛玩犬《あいがんけん》チワーワはメキシコの原産で、このチワーワ地方が産地だと承知している。犬のかたちに焼き上げた菓子パンみたいな犬。あいつがソンブレロをかぶった大男に曳《ひ》っぱられてチョコチョコ歩いて行く、店の奥で美しいメキシコ娘が名物の菓子パンを抱いている、そういう光景が頭にあったのだが、一匹も見かけなかった。犬はたくさんいるけれど、ひもじそうな面構えの野良犬ばかりである。  動物園のライオンを見て、歯磨はこのライオンで作るのかと言った子供がいた。芸者印の罐詰《かんづめ》を見て、中身はこの女の肉かと聞いたアフリカ新興国の紳士がいた。浅草|海苔《のり》は今浅草で採れはしないが、それにしてもと、私は戻って来てホテルの人に質問をした。 「チワーワの飼育場とか血統正しいチワーワを何匹も飼ってる家とか、この町に無いんですかね」 「さあ」  相手は首をかしげた。 「あまり聞いたことがありませんが、犬に特別興味をお持ちなら、何処《どこ》かへ問合せてみましょうか」 「そんなにまでしてもらわなくて結構です。時に、お宅の食堂では持ち出しの弁当をこしらえてくれるだろうか」 「作りますよ」 「あした僕は、ロス・モチスへ長い汽車旅をするんでね。生水が飲めないから、一食分たっぷりのボックス・ランチに、果物と、瓶詰《びんづ》めのジュースか何か二、三本添えといてもらいたいんだが」 「承知しました。それは賢明なお考えです」  と、ホテルの人は英語で答えた。  チワーワ・アル・パシィフィコ鉄道チワーワ州チワーワ駅は、三等郵便局のような小さな建物である。翌朝、この田舎駅にベージュ色七輛編成の「ヴィスタ・トレン」と称する窓も車体も大きな列車が停っていた。機関車はディーゼル、ちゃんと食堂車がついている。弁当のほかに念のためクラッカーやクリーネックスまで用意して来た私は、「何だ」と思った。制服の列車ホステスに迎えられて指定の特別一等車へ乗りこめば、車内冷房中、これも予想外、二重窓のガラスが外側の一枚ギザギザに割れていて、この国では一旦こわれた物は修理しない主義らしいが、特に困るというほどのことでもない。「アズテック・イーグル」の寝台車に較べてずっと立派で新しい。思いもかけぬ快適な旅になりそうだ、やれやれとふっかりしたシートに収って、汗を拭って、それから「はてな」と私は客車の中を見廻した。  天井の蛍光灯や冷房器、網棚の金具、ペダルの取りつけ具合、新幹線のグリーン車とよく似ている。一昨年、ニュージーランドで日本製の特急に乗せられた経験がある。「またやられたか」——、ちょっと失礼、通路の客をかき分けてプラットフォームへ下り、連結部のプレートを検《あらた》めてみたら、案の定、「KINKI OSAKA JAPON 1976」と鉄の文字がしるしてあった。  何とまあ、たずねたずねて三千里、御苦労なことに自分は、あれこれ考えあぐねた末、遠いメキシコの山中まで日本の汽車に乗りに来たのか。メイド・イン・ジャパンの土産物を買いこんだような気分になっていると、窓の割れた「ヴィスタ・トレン」がごとんと動き出した。  まるまっちくて愛想のいい制服の列車ホステスがあらわれ、スペイン語と英語で自己紹介並びに沿線の御案内を始める。 「私、セニョリータ・エランダと申します。皆さん、チワーワ太平洋鉄道の『ヴィスタ・トレン』へようこそ。食堂車では十一時まで朝食のサービスをしております。お昼は一時から三時まで。コッパー・キャニヨン(これがグランド・キャニヨンより雄大な名勝らしい)到着は午後四時の予定。それでは皆さん、ロス・モチスへ十四時間のすばらしい汽車旅を、どうか充分にお楽しみ下さい」  エランダの「御案内」をメモしているところへ、色眼鏡の若い男がやって来た。私の横に立って何か言うけど分らない。赤いワイシャツ、青上着、派手なネクタイ、暑いのにチョッキまで着こんだいなせなお兄さんで、からまれるのかと思ったら、検札の車掌であった。二百六十五ペソ、日本金で約四千円の切符にパンチを入れて、車掌が行ってしまったあと、今度は少年のアイスクリーム売りがあらわれる。髭《ひげ》の爺さんのタコス売り、「スケレ・ブランカ。スケレ・ブランカ」(箱の内容は不明)と呼んで歩く子供、次から次へあらわれる。赤茶けた頭髪が垢《あか》じみていて、彼らが通るとくさい。公認の物売りではないらしく、前の客車から戻って来た色眼鏡の検札がつかまえて小銭を徴収する。行商区間の運賃かも知れないが、賄賂《わいろ》かも知れなかった。  物ごとを円滑に運びたければ、まいないが必要なのは中南米の常識で、ある日本人商社員が急な用務を帯びてサンディエゴからメキシコへ入ろうとし、入国書類の不備でつかまった。「これで何とか通してもらえんか」と百ドル札をちらつかせると、「ノー」の一点張りだった官憲の口調が「オオ、ノー」に変り、「ノー、ノー」「オオ、ノー、ノー、ノー」と段々手が前へ伸びて来たそうである。論語に、「人ニシテ不仁ナル、之《コレ》ヲ疾《ニク》ムコト已甚《ハナハダ》シケレバ、乱ル」という言葉がある。メキシコへ客車を輸出するに際し、廉潔と正義が大好きな日本国の大新聞をあまり乱れさせないように、近畿《きんき》車輛株式会社はずいぶん苦労しただろうなと思いながら眺めていたが、何しろ騒々しい汽車だ。 「アイスクリン、アイスクリン」 「ええ、タコスはいかが、ええタコス」 「スケレ・ブランカ買っとくれ。スケレ・ブランカ」  戦前の場末の映画館を思い出す。  窓外はオリーブの木が茂る赤土の原野で、澄みきった青い空、輝く白い雲、車内の喧騒《けんそう》とちがい、森閑として爽かな眺めだが、それがどことなくスペインの高原地方を聯想《れんそう》させる。気のせいか、嶺《ね》に立つ雲のたたずまいまで、スペイン中世の油絵にそっくりであった。征服者は植民地を選ぶ時、無意識に本国と似たところを探しあてるのか、植民地の方が宗主国に似て来るのか、とにかく此《こ》の風土はスペイン人たちの気に入っただろうという気がする。 「メキシコ旅行初めてですか」  日本人でしょと、斜めうしろの席の夫婦者に声をかけられた。 「そうです。あなた方はアメリカ人?」 「自分はテキサス州ダラス出身のアメリカ人だが、女房のマリヤはメキシコ生れのメキシコ育ち。知りたいことがあれば何でも教える。彼女は製紙工場のカルチュアル・ディレクターをしている」  名前をベル夫妻といった。  カルチュアル・ディレクターさんは、胸豊かに髪黒く、小麦色の肌と肉感的な唇をした艶《えん》なる美人で、腹が大きかった。御亭主ミスター・ベルの商売は、競馬馬の輸送と売り買いだそうだ。 「マリヤの里はこの地方の名家で、七人きょうだいの内五人がドクター、みんな高度の教育を受けていて、交際範囲が広い。チワーワ太平洋鉄道の沿線にマリヤを知らない者はいない。列車の乗務員とも全部友だち」  製紙工場の文化指導員というのはどんなことをするのか、見当がつきかねるが、何しろ手放しの女房自慢で、自慢しておいてはマリヤの尻を撫《な》でる、膝《ひざ》をつかんで、肉感的な厚い唇にキスをする。マリヤが声を洩《も》らして、うるんだ眼つきになる。大甘の亭主だけれど、ベルのまなざしは妙に鋭かった。  軍隊経験があるらしいと思って聞いてみたら、果して合衆国海兵隊の元鬼兵曹である(鬼兵曹とは言わなかったけれど)。 「ヴェトナムのいくさに参加しましたか」 「むろん。こことここに砲弾の破片が残ってる」  ベルは、自分の腰のあたりを叩いてみせた。 「それは御愁傷さま。しかし、ヴェトナム料理は美味《うま》いですね」 「美味いかも知れないが、料理をふくめてヴェトナムのものは何も彼《か》もきらいだ」  と、元海兵隊員はいやな顔をした。  列車は青い岩をくり抜いたトンネルを抜けて、ゴトリコゴトリコと登って行く。全線で合計七十三のトンネルをくぐり抜ける。折々、一本の列車が同時に二つのトンネルへ入っている。いつか物売りの子供たちは姿を消し、窓外の眺めも赤土とオリーブの原野ではなくなった。  マリヤの説明によれば、これがシエラ・マドレ山系で、もうすぐ沿線の最高所にさしかかる。二輛先の食堂車へ行くのに息切れがした。ビールを買って来て持参の弁当を食いながら、マリヤの話を聞くことにする。 「ほら、白い煉瓦《れんが》の小屋が見えるでしょう。インディオの部落ですよ。タラフマラ族といって、文明に接触するのをいやがり、近代文明からもっとも隔絶した生活をしている人たちです」  マリヤ(現在はアメリカ国籍)の同国人だが、沿道にちらりと見かけるタラフマラ族の顔立ちは、日本人の方に近かった。出産の時湖のほとりへ行って、独り産んで独り臍《へそ》の緒《お》を切って洗って帰って来るという彼らの風習も、古来日本の僻村《へきそん》でやっていたことである。そう言えば、チワーワ・アル・パシィフィコ鉄道会社のシンボル・マークは、日本式の白い褌《ふんどし》をしめたインディオが韋駄天《いだてん》走りをしている図柄であった。  車内のあちこちで居眠りが始った。血色のいい顔に立派な口髭を生やしたセニョールは、日本製のリクライニング・シートを倒し、ソンブレロを笠にぐっすり眠っている。気圧のせいとビールの酔いで、私も眠くなって来た。セニョリータ・エランダが景色の説明をしにあらわれ、ついでにマリヤとスペイン語のおしゃべりをするのを、筋書不明のミュージカルでも聞くように聞いているうち、眠ってしまった。  夢うつつで時移って、あたりが再び騒々しくなったのに眼をさましたら、列車はエル・コブレ(コッパー・キャニヨン)の駅へ着いていた。カメラや双眼鏡を手に、大自然の驚異を眺めんものと、みながどやどや下りて行く。長さはグランド・キャニヨンの四倍、深さが二千|呎《フイート》深く、タラフマラ族のインディオ以外探険に入った者のいない未知未踏神秘の大峡谷だそうだが、いささか色彩と奇怪さに乏しい。展望台からはるか遠くに、もっと奇怪な部分があるらしかった。そのため、大地が織り成す白、茶、黒、緑の壮大な絶壁模様を近々と眺められるアリゾナ州グランド・キャニヨンほど、私は迫力を感じなかった。科学博物館の地質学模型を見せられているような気がした。  線路と崖《がけ》ふちの展望台の間は急な坂道で、道の両側に老幼男女のインディオが手芸品を並べていた。手編みの籠《かご》、首かざり、布地、小太鼓、民俗人形。素見《ひやか》しながら引返して来ると、振り仰ぐかたちで、土手の上に「ヴィスタ・トレン」の全貌が見える。最前部から、オレンジ色のディーゼル機関車三重連、二等車、二等車、食堂車、一等車、冷房つきの特別一等車三輛。交通公社発行の時刻表風に表記すれば、DL三台のうしろに「ハ、ハ、シ、ロ、特ロ、特ロ、特ロ」の七輛編成、坂道を自分の特ロの方へ戻ろうとして、ドイツ人観光客のグループと一緒になった。 「写真を撮りましたか」  グループの中の誰にともなく、私は英語で質問した。 「ヴァス?」  聞き返すなら「Wie bitte?」と言ったらどうだろう。大概忘れてしまったけど、これでも昔、一週十一時間正規のドイツ語を勉強したんだよ。 「写真」 「ヤア」  中年のドイツ女性が、にこりともせずに答えた。写真を撮った、それがどうした、余計な口をきくなといった固い表情で、取りつく島も無い。実は、こう来るだろうと思って、わざわざ無益の質問をしてみたのである。  けさチワーワを発車後間もなくから、この一行のことが気になっている。或は癇《かん》にさわっている。同じ客車の一番前に、八人分ほどの区劃《くかく》を占領して、仲間同士ではよくしゃべる。添乗員兼通訳のメキシコ人とも、笑ったり話し合ったりする。何かの説明を聞いて、 「Wunderschon.」  などと、ドイツ語で言うのが耳に入る。  しかし、それ以外の者とは一切言葉を交そうとしない。顔が合うと、途端につめたい表情になって視線をそらす。私を無視するだけなら、唯一の東洋人ということで未だ解釈のしようがあるが、そうでない。全員が一致団結、他の乗客全部を無視している。何者なのか分らなかった。  白い髪を引ッつめに結った質素と勤勉と頑固の見本のような老婦人、眼窩《がんか》が凹《くぼ》んで眼が小さく額が狭く、ある種の典型的ゲルマン顔をした dunkel な感じの小男。彼らの持っているカメラはすべてドイツ製、フィルムはすべてアグファ、「ドイチュラント、ドイチュラント、ユーバー、アレス」、ヨーロッパ生れのタラフマラ族。この徹底した排他性には、何か理由がある。もしかすると、素姓経歴を隠しつづけねばならぬ南米在住のドイツ人ではなかろうかと、不愉快半分興味半分観察しているうちに、列車がコッパー・キャニヨン駅を発車した。  これより先、汽車は一路太平洋岸の(正確に言えば Golfo de California 沿いの)町、ロス・モチスへ向けて走り下る。コッパー・キャニヨン発が大分遅れたが、この下りで取戻すのだろうと考えていたら、逆にのろくなった。キロ・ポストで計ってみると、一キロ下るのに一分二十秒、時速に換算して四五キロ。しかも忽《たちま》ちブレーキをかける。信号所みたいなところへ停って長々と動かなくなる。  信号所の側線に古い有蓋《ゆうがい》貨車が並んでおり、インディオが貨車を住まいにしていた。それでひどく貧しいのかと思えば、電気冷蔵庫が据えつけてあったりする。タラフマラ族とは別の種族かも知れなかった。汽車の窓からメキシコ見ても、そう簡単にこの国の事情が分りはしない。  陽は西に傾き、十九時五十分、薄暮の中、「ヴィスタ・トレン」は三重ループの名所を下り始めた。青みがかった山肌、奇岩、橙色《だいだいいろ》の鉄橋、川、村落、セニョリータ・エランダが、 「皆さん、ごらん下さい。線路の下に線路があって、そのまた下に線路があります。沿線でもっとも美しい場所です」  と言う通り、木曾谷《きそだに》と似たいい景色だが、もう日が暮れる。エランダは列車の遅延に関しては一と言も説明しない。この調子だと、何時ごろロス・モチスへ着けるか、目安が立たなかった。  昼をボックス・ランチですませたから、夜はロス・モチス到着後、美味い海鮮料理店でも探すつもりだったが、食堂車で食っておいた方が無難に思える。 「夕飯を御一緒しませんか」  ベル夫妻を誘うと、 「食堂はそろそろ店仕舞いじゃないかな」  ベルが言った。  眼つきがけわしくても、テキサス流の大袈裟《おおげさ》な女房自慢でも、マリーンの元鬼兵曹は例のドイツ人連中よりずっと気さくで親切であった。 「自分が見て来て上げる」  マリヤと私を残して食堂車へ偵察に出て行き、 「やっぱり駄目だ。晩めしは出さない。コーラも炭酸水もビールもテキラも、全部売り切れ。これだけあった」  と、ブランデーの小瓶を一本手に、戻って来た。 「マリヤはすばらしい女性だけど、マリヤの国は万事が効率的に運ばない国なんだよ。これでも廻し飲みしましょうや」  窓の外はもはや一面の闇だ。メキシコ人のセニョールたちが、コッパー・キャニヨンで買ったインディオの太鼓を叩き、手作りの白木のバイオリンを鳴らして合奏合唱をやり出した。夕食にありつけなくてやけくそなのか、早手廻しにテキラでも仕入れて酔っ払っているのか、  「ヴィバ・メヒコ、ファーイファイ、   ヴィバ・メヒコ、ファーイファイ」  と、馬鹿に陽気で景気がいい。  ドイツ人たちの席では、規定時間外の働きをした天井の冷房器から水が洩り出し、みんなが渋い顔をしている。色眼鏡の車掌、エランダを初め「効率的でない」乗務員が三、四人集り、肩をすくめてわいわいがやがや、機械を叩いたり、雑巾《ぞうきん》で拭ったりしてみるけど、水洩りはなおらない。まさか、「お前の国の製品だ」と私のところへ尻を持って来はしないだろう。安ブランデーを舐《な》めながら拝見するに、少々いいキビである。  列車は「カタケチャトット、カタケチャトット」と、闇の中を低速で走っていた。 「ホテルの予約はしてあるんですか」  腹の大きなマリヤが、気の毒そうに時計を見た。 「もうすぐ十一時だわ。私たちは親戚《しんせき》の家へ泊るからいいけど、十一時過ぎたら、ロス・モチスの町であけてる店なんか一軒もありません。田舎ですもの、ホテルの食堂もみんな閉めてしまいます」  弁当でも持ちこまねば飲まず食わずの目にあわされそうなぼろ列車を想像していたのは勘ちがいだったが、食堂車を見て安心したのも亦《また》勘ちがいであった。飲まず食わずの夜が、これから始るらしい。  午前〇時十五分、乗務中終始にこやかだったエランダが、殊の外にこやかな晴々した顔つきで最後の「御案内」に入って来た。 「皆さんにお知らせ致します。この列車はあと約十分で終点ロス・モチスに到着します。すばらしいチワーワ・アル・パシィフィコ鉄道の旅を、充分お楽しみいただけたでしょうか。どうかお忘れ物の無いように。それでは皆さん、アディオス、御機嫌よう」  ほぼ二時間三十分の遅れであった。私も手帖《てちよう》に最後のメモを書きつけることにした。 「メキシコの汽車の特色は、時刻表の次の日でないと目的地へ着かぬことなり」 [#改ページ]  欧州モザイク特急     第1列車「ボローニャの三紳士」  車輪の音は轣々鏗々《れきれきこうこう》と快く鳴り響いているのに、どうも気分が落ちつかない。相手がむやみやたらと質問をする。  この汽車特急なの? 特急がどうしてこう混《こ》んでるのかネ、みんな何処《どこ》へ行きなさるんだろう、やっぱり観光かしら、それともお仕事かネ。 「そういうことは一々お答え出来ません。異人さんだって片雲《へんうん》の春風にさそわれれば、旅に出てみたくもなるんでしょ」  だけど、欧州の汽車なんてもっと空いてるものかと思ったよ、次の駅はどこ? 私お腹《なか》がへって来ました、食堂車はついてないの? 何を、ほら、食堂車でスバケッティを——。 「スパゲッティです」 「ス、バ、ゲッティ」 「パ。スパゲッティ」  そうよ、そのス、パ、ケッティ食べにちょっと食堂車へ行ってみない?  四半世紀前、初めてヨーロッパを旅してヨーロッパの汽車に乗った。昔世界地理で習った川、西洋史で習った町や古城が窓外を過ぎて行くのはなかなか趣があったし、鉄道|車輛《しやりよう》そのものも、古いの新しいの取りまぜ、小型の蒸気機関車からワゴン・リーの寝台車まで、みな姿が優美で洒落《しやれ》ていて、天賞堂の精巧な模型と遊ぶ思いがした。爾来《じらい》度々訪れ来たって、お供は時に幽霊、時にまんぼう狐狸庵《こりあん》、お目あては専ら英独仏伊スイス、スペインの汽車ぽっぽだが、山妻を同伴したのは初回きりである。その後TEE(欧州国際特急)が誕生し、一方蒸機は無くなり、英仏連絡の「ゴールデン・アロウ」や欧亜連絡の「オリエント急行」は廃止になり、 「私、それを何ンにも知りません。買物なんかしなくてもいい。道楽のお供の繰返しでいいから、齢《とし》とるまでにもう一度ヨーロッパを見てみたい」  山の神が言うので、二十五年ぶりに連れて出ようと決めた途端、海の神が「私も行く」と言い出した。大婆さん中婆さん引き具して、只今こうしてミラノ行の特急に乗っているのはそういうわけであるけれど、七十二歳のこの大婆さんがすこぶるうるさい。 「食欲|旺盛《おうせい》好奇心旺盛なのは結構ですが、説明したところでどうせ片っ端から忘れてしまう。食堂車へ行くのも未だ早いです。少し黙っててくれないかな」 「いいえ、私黙りませんよ。ねえ」  と、中婆さんの同意を求める。 「この人に旅費を出してもらったわけじゃあるまいし、高い飛行機賃払ってイタリアくんだりまで来て、黙々と汽車の旅なんて面白くもない。何の義理があって黙ってなきゃならんのだろう」 「そんなら勝手にすればいいけど、しゃべり過ぎてはしゃぎ過ぎて、そのうち疲れて昔のように泣きべそかいても知らんぜ」  六十年前、お下げの田舎女学生だったころ、婆さんでなかった大婆さんは、夏休み、ねえやをお供に生れて初めて東京へ出て行くことになった。親が広島駅から急行に乗れとすすめるのが、どうしても理解出来ない。今は山中今は浜、楽しい物をいっぱい見たい折角の汽車旅、「高い急行賃払って、何の義理があって早く着いてしまわにゃならんのだろう」鈍行で行くと言い張り、糸崎、尾道、福山、岡山、姫路。明石《あかし》を過ぎ須磨《すま》を過ぎ、神戸大阪京都を過ぎ、大津、米原《まいばら》、大垣、名古屋までたどり着いた時、お尻は痛いし顔は煤煙《ばいえん》と汗でまっ黒けだし、あと十二時間と聞かされて、とうとう泣き出した。ねえやも困って泣き出した。 「往年のねえやンの役目をさせられるのは御免|蒙《こうむ》りたいからね」  列車はテベレ川かアルノ川の上流にあたる丘陵地帯を、北へ北へと走っている。間もなくフィレンツェだ。ローマ帝国二千年の歴史が染みついた山野を、大好きな汽車の窓越しに眺めながら、どうして気分が落ちつかないかというに、海の神の質問攻めでいらいらさせられるのともう一つ、イタリア国鉄自慢のTEE全車輛一等編成の電車特急「セッテベロ」が、御指摘通り前代未聞の混み方なのである。通路にもデッキにも人が立っている。新聞紙を敷いて、リュックサックにもたれ、あきらめたように坐りこんでいる学生もいる。この列車の最前部最後尾は小田急箱根特急(の方が真似たのだろうが)、あれと同じガラス張りの展望室で、走行中誰でも自由に利用出来る建前なのだが、満席で到底入りこめない。かつての「セッテベロ」はこんなではなかった。近代的な調度類、カーテンやソファの色彩デザインが美しく、飛びこみのヒッピーまがいなぞ乗っておらず、乗務員は陽気で親切、食堂車のイタリア料理は美味、新時代のイタリアを代表する豪華な特急列車であった。 「セッテベロ」とは七枚のカードが揃《そろ》ったトランプ遊びの大役(銀ねずみ色した客車の胴体にその図柄が描いてある)、麻雀《マージヤン》でいえば「九連宝灯《キユウレンポウトウ》」、花札ならさしずめ「猪鹿蝶《いのしかちよう》」だが、十年見ぬ間に「九連宝灯」は、すっかりお粗末な列車になり下ってしまった。標示板は銹《さび》だらけ、電話室はあるけど電話はついていない、車掌もボーイも無愛想、ローマ終着駅《テルミニ》の赤帽は朝から酔っ払っていたし、前日ローマ在住の商社員に、 「汽車でヴェニスへ? それでしたら、よほど早目に駅へ行って乗りこんでしまわれた方がいいですよ。今のイタリアじゃ、指定券なんか見せたって、先に坐ってる奴がいたら絶対立ってくれやしません。係に苦情を言っても肩すくめられるだけですから」  と言われたわけが分った。  三年ばかり前、欧州へ出かける江國|滋《しげる》宗匠にこの「セッテベロ」をすすめておいたら、帰国後「乗りましたがね」と少々変な顔をした。そのわけも分った。  大体、そう申しては悪いけど、ちょっと具合がよさそうに見えても長くはあてにならぬお国柄である。月日は百代の過客《かかく》にして、十年前、十五年前、二十五年前からだんだん話が溯《さかのぼ》り、今を去る四十二年昔の昭和十四年夏、欧州九カ国在勤の海軍武官たちがベルリンへ参集を命ぜられ、本省より諮問の来ている「日独伊三国同盟是か非か」の案件に答申を出す会議を開いたことがあった。ロンドンの近藤泰一郎大佐はじめ大多数の武官が、日本の国内論調新聞論説とちがう強い反対意見で、独伊に頼ってイギリス、アメリカと対抗しようとするのは危険が大きすぎる、特にイタリア頼むに足らず、たとい盟約を結んでいても、途中腰くだけになって早々と脱落してしまうのは、第一次大戦の戦訓が示している通り、イタリア人の乞食《こじき》根性がそう一朝一夕に改まるものではない、英米と事を構えて日本に勝ち目がない以上、これと協調し、時に利用されながら、国力の発展を将来に托《たく》すという海軍伝統の方針を堅持する必要があると主張する中に、ローマから来た平出英夫《ひらいでひでお》大佐一人、現代イタリアの素晴しい興隆ぶり、イタリア海軍の充実ぶりを讃美《さんび》し、三国同盟即時締結賛成論を述べ立てた。五期後輩のオランダ大使館附武官|渡名喜守定《となきもりさだ》中佐が、色をなして食ってかかった。 「平出さん、あなたはムッソリーニの武官ですか」  当時の日本には、愛国者を自称するムッソリーニの武官、ヒットラーの大使やヒットラーの陸軍大臣がたくさんいた。海の神が、 「イタリアまで来てまた戦争と海軍の話?」  と言うけれども、思い返してしゃべっていると、胸のへんがむず痒《がゆ》くなって来る。 「でも、平出英夫大佐って、ちょっとなつかしい名前じゃないかしら」  と、山の神が口をはさんだ。  それは、ある意味でそうだ。イタリアから帰朝後報道部第一課長に就任した平出大佐は、持ち前の美貌と「艨艟《もうどう》五百|海鷲《うみわし》四千」の名調子で、戦時下の国民を酔わせ沸き立たせた人である。歌舞伎座の幕が一人であけられる役者は海軍の平出報道課長だけと言われ、私ども世代の者はみな固睡《かたず》を呑む思いでこの人の大本営発表に聞き入った。堀|悌吉《ていきち》中将が古賀|峯一《みねいち》大将にあてた私信の中で「チンドン屋」と評していたなどとは、知るところでなかった。 「しかしこれ、海軍の話じゃないんだよ。一時|奇蹟《きせき》の復興をしたイタリアが、またまたおかしなことになって来ている。スパゲッティが美味《おい》しいのやアッピア旧街道が夢のように美しいのや、それとは別問題なんだから、懐中物に充分御用心と言ってるんです。現在のイタリアは、貧すりゃ鈍して一億総こそ泥の国と思っておいた方がいい。こう混んでては、列車の中だって油断出来やしない。一体女は、婆さんになっても、旅先で浮かれる癖があるからな」  一六〇キロで快走していた「セッテベロ」のスピードが突然落ちて来た。フィレンツェ到着かと思ったら、何処《どこ》か小さな田舎駅の構内を徐行通過中であった。露天のプラットフォームに春の小雨が降っていて、雨《あま》合羽《がつぱ》を着た男が三、四人、何かの検分をしている。写真機構えた雨合羽が地面へレンズを向けている。変だなと、見れば、線路わきに大きなローストビーフのような物がころがっていた。 「あ」と思った。自殺か事故死か、黒いゴム布をかぶせた塊も、レイルに沿うて点々と散らばっていて、多分千切れた手足だろう。構内を出はずれると、やっと特急がスピードを取り戻した。 「見ましたか」 「見たわよ」 「挽《ひ》き肉入りのスパゲッティ、未だ食べたいですか」 「いやなこと言わないでよ」  と、海の神が顔をしかめた。  欧州汽車旅行の初日に縁起でもない気がしたが、列車は何事も無かったかの様子で、やがてフィレンツェ着、五分で発車、次の停車駅がボローニャ、此処《ここ》で私どもはヴェニス行の普通急行に乗り換える。  ボローニャは、ヨーロッパで最も古い大学町の一つである。満員のミラノ行「セッテベロ」68列車が行ってしまうと、大学駅のプラットフォームはひっそり閑として、人気も無いし、「懐中物御用心」の感じもしなかった。駅の時計がちょうど十二時をさしていて、十七分の待合せでフィレンツェ始発の急行が入る。それまで退屈そのものといった恰好の、駅弁売りがフォームの端にいた。婆さんどものために弁当を二つ買うことにした。  粉チーズのかかったパスタ、ロースト・チキン、赤|葡萄酒《ぶどうしゆ》の小瓶《こびん》が一本、細長いパンとポテト・チップス、三角チーズの包み、りんごが一つ。 「こういうのが面白いのよね。これで五千リラ(約千円)なら安いわ。美味しそうじゃない」  さきほど春の雨に打たれて昇天したイタリア人のことなど忘れ、山の神と海の神が早く食べたそうに中身をのぞいているところへ、電気機関車に曳《ひ》かれたヴェニス行普通急行、ガラ空きの754列車が到着した。  婆さんどもを先に乗りこませ、小便くさい急なステップで重いスーツケースと格闘していたら、見かねて手を貸してくれる青年がいる。 「グラッツェ、グラッツェ」  イタリア語はそれしか出来ないけれど、徳利《とつくり》セーターの青年は、 「プレーゴ、プレーゴ」  と親切で、取り敢えずありがたい。旅行鞄四つ、助けてもらってどうにかデッキへ引きずり上げ、さて、一等コンパートメントの方へ入ろうとすると、其処《そこ》にも屈強な若い衆が二人いた。通路の窓へよりかかって、フォームの誰かに大声のイタリア語で何か叫んでいて、英語で「イクスキューズ・ミー・プリーズ」と言っても、気がつかない。立往生していると、叫びやめてチラと時計を見、「おや、汽車出るぞ、もう」というひどくあわてたそぶりで降り口へ突進して来たから、身体《からだ》がもつれ合うことになった。 「ビッテ、ビッテ」  イタリア人のくせにドイツ語で「ごめん、通してくれ」と言うのは、ボローニャ大学でドイツ哲学でも専攻の学生か。通してやりたいけれど、荷物が足元にあって、うしろに徳利セーターが頑張っていて、身動きが取れない。あとしざりに道をあけようとすれば、行け行けと徳利セーターが背中を押して来るし、前へ進もうとすれば、 「ビッテ、ビッテ」  大男が二人、通路をふさいでからみつく。どうすればいいか、途方に暮れた次の瞬間、いや、これはそうじゃない、いかんと、私は両腕で自分の胸を抱きかかえ、アルマジロよろしく固く身を丸めた。  その姿勢で何とか耐えているうちに、ゴトンと列車が動き出した。「ビッテ」の二青年はスーツケースをまたいでフォームへ飛び下りて行った。背後を見ると、親切な徳利セーターもすでに姿を消していた。 「どうなさったの」  コンパートメントの入口で、山の神が心配そうに迎えた。 「あんまり遅いからのぞいてみたら、何処かへ拉致《らち》されそうな恰好で揉《も》み合ってらっしゃるんだもの。喧嘩《けんか》かと思った」 「掏摸《すり》だ。三人組の抱きつき掏摸だよ」  初め何か分らなかったけど、すぐ気がついた、いや、すられてはいない、すらせるもんか、これこの通りと、左の内ポケットからリラ入りの財布、右の内ポケットからドルの紙幣ばさみ、二つ取り出して「どうだい」、汗を拭きながら私は婆さんたちに見せた。 「いやねえ。荷物も全部無事ですか」 「大丈夫、全部ある」 「それは御苦労さま。偉い偉い。被害が無くて結構でした。気つけに葡萄酒でも一杯どう?」  海の神が弁当をひらいた時、ノックの音がして、少女のような女車掌が車室へあらわれた。青い瞳《ひとみ》でじっと私を見つめ、 「これ、あなたのではありませんか」  たどたどしいけど、英語だから分る。英語でなくても分る。少女車掌は、文藝春秋が毎年くれる文藝手帖を手にしていた。 「まあ」と、大婆さんが嬉しそうな声を出した。「あんた、やっぱりすられてるじゃないの」  何処で拾ったか訊ねると、女車掌はついて来いと乗降口へ案内し、四人が揉み合っていた場所と離れたデッキの片隅を指さした。  半ば不愉快、半ば感心して、私はコンパートメントへ戻って来た。 「あれだけ身構えてたのに尚かつ抜いたかねえ。手品だね。この表紙の手ざわりが財布に似てるから、抜き取って、手帖と分って捨てたんだ。どじ踏みやがって、あいつら今ごろ親分に怒鳴られてるだろう」  中婆さんと大婆さんは、チーズのかかったパスタを食べている。何となく二人とも浮き浮きしている。連れが掏摸にあったのが何故《なぜ》嬉しい。 「だってねえ、お姉さま」 「そうよ」 「私たちが手帖一つでも取られたら、間抜け、女の馬鹿、はしゃぐのがいかん——。どんな悪口言われたか分らない。ああよかった」 「そうよ。それにあんた、掏摸のことを、最初親切な大学生かと思ったんだって?」  ボローニャから先は一面の平野部だ。密閉式の電車特急で山あいを走るのと、窓のあく普通急行で平地を走るのとでは、車輪の音がちがう。がら空きのヴェニス行754列車は、「カタケチャトット、カタケチャトット」と、のどかに北イタリアの野を疾駆していた。雨が上り気味で、空が大分明るくなって来た。     第2列車「アルプスの松」  大小百五十の運河、石畳の迷路、島々を結ぶ四百の木橋石橋大橋小橋、中世貴族の館《やかた》の中庭に残るものさびた天水井戸、やがて海没するマルコ・ポーロの故郷の水の都。 「石と水だらけの町の、こういう路地奥に大学があるとは知らなかったな。学生がフットボールでもしたい時はどうするんですか」  アドリアーナに私は質問した。 「でもねセンセイ、大学はフットボールしに来るところじゃありませんでしょう」  蒼鼠古瓦《ソウソコガ》ニ竄《カク》ルというのは玉華宮を詠《よ》んだ杜甫《とほ》の詩だが、黒猫がちらりと姿をかくす狭い石畳道の突きあたり、古いヴェネチア大学の第何校舎かに「日本文化研究所」があって、マルコ・ポーロ以来ヴェニスは東洋と縁が深い。アドリアーナ・ボスカーロは此処の教授である。教授といえばいかめしいけれど、実は旧知の面白いお姐《ねえ》さん先生で、しかしアドリアーナ姐さんも、髪に少し白いものが混じる齢ごろになっていた。  婆さんどもはお姐さん教授の案内で、たっぷりヴェニス見物がしたいらしい。出来ればゴンドラにも乗ってみたいらしいが、私はそういうことをあまりしたくない。ゴンドラなぞ以《もつ》ての外《ほか》である。大学はフットボールしに来るところでないと言うなら、私がヴェニスへ来たのは汽車に乗るためであって、見物や買物は本旨に反する。 『ヴェニス 光と影』なる書物の筆者|上野毛《かみのげ》の毛虫推薦で、由緒のある古いホテルが取ってあった。サン・マルコ広場の夕陽、大運河《カナル・グランデ》の朝靄《あさもや》、いずれも美しいけれど、ホテルそのものがいわば中世のヴェニスだから、波の音が聞えて壁に水の光がゆれる薄暗い葡萄酒倉みたいな部屋でなるべくぼんやりしていたい。  かくてまる二日間ぼんやり休養した結果、水の都に関する印象不鮮明なまま、朝早くホテルの脇玄関をきれいな水上タクシーで出て、ヴェネチア・サンタ・ルチア駅発ミラノ・ジェノバ行の列車に乗りこむことになった。私は元気だったが大婆さんは少し機嫌が悪かった。 「あんたも小説家なら、もうちょっと美術とか歴史に興味を持ったらどうだろうかネ」 「持たないわけじゃあない。ただし、それだったらこういう来方はしない。一カ月なり二カ月なりヴェニスに滞留する」 「とにかくボスカーロさんが何処か案内しようと言っても、要りません。買物は? しません。あんたと一緒だと何も見られない。好きなのは汽車だけ。汽車だって、私はこういう普通の汽車の方がいいよ。あんたのすすめる特急は目まぐるしくて」 「まあまあ、そう言いなさんな。ミラノで待ち時間が四時間あるから、美味《おい》しいスパゲッティを食べさせて上げる。今度の『シザルパン』はヨーロッパ国際特急の中でも特にいい列車です。『セッテベロ』とちがう」  道楽のお供で不平を言わないと一札入れて来た中婆さんは、仕方なしに黙っていた。  海の神山の神の眼には、ヴェニス七時二十四分発名無しの954列車が「普通の汽車」に見えるかも知れないが、これでも特に選んだ一等だけ四輛編成の特急であった。ただ、フランス国有鉄道のTEEに較べれば格を異にする。最高時速も一三〇キロと遅いけど、「シザルパン」がこの季節ヴェニスまで運行してくれないのだから止《や》むを得ない。所用時間三時間十分、道中|恙《つつが》なくミラノに着いてジェノバへ向う954列車と別れ、地下鉄で市心へ出、某名代の店のスパゲッティと小|海老《えび》を食ってミラノ中央停車場へ引返して、宏壮《こうそう》なドームの下の十六番線に待望のパリ行TEE「Le Cisalpin」が停っているのを見出《みいだ》したら、何ともどうもわくわくして来た。  かりに自分が中世の好きな歴史学者だとして、中世史の新資料を発見した場合、こういう気分を味うかと思う。荷物ごと婆さんたちを指定の四号車へ送りこんでおいて、プラットフォームの端から端へ列車の検閲をして歩く。スイス国境まで牽引《けんいん》する機関車はイタリア国鉄の電機だが、あとにつづくジュラルミン色の全車輛がフランス製、きれいに洗ってあるし、行先標示用の小窓には電灯がともっていて、「TEEシザルパン。ミラノ・ブリーク・ローザンヌ・パリ」の赤い文字が読める。  四号車のコンパートメントに一人先客がいた。綿《めん》の詰襟服《つめえりふく》を着た中年の印度《インド》人で、軽く会釈したが知らん顔をされた。脱いだコートと手廻り品を始末し終って、「どっこらしょ」、草色の深いソファに腰を下ろした山の神が、 「あら、何か洩って来る」  と、天井を見上げた。 「あらあら、ほんとだ。あんた背中も濡れてるよ」  シートの上の荷棚にプラスチックの水入れが置いてあって、それからぽとぽと水が垂れていた。 「そちらさんのですか、これ」印度人に私は英語で声をかけた。「床へ下ろさせてもらいますが、いいですね」  書見中だった印度人が、本から眼を離し、「よろしい」というようにゆっくり頷《うなず》いてみせた。海の神がハンカチで山の神の背中を拭いてやっているが、水入れの持主は全くの無感動無表情で、「失礼」とも「すみません」とも言わない。事に際してあわてず騒がずが印度人の国民性かも知れないから、こん畜生と思うのはよそうと思うけれど、こん畜生のおかげでパリまで八時間半の汽車旅が気ぶっせいなものになりはしまいかと、それが気になった。  十四時二十八分定時、パリ行「シザルパン」22列車はミラノを発車した。一時間後には、車窓風景がアルプスの山麓《さんろく》らしく変り始めた。雪が見え、つめたそうな清流が流れており、霧のかかった山々が鉄路の両側に迫って来る。地図を按《あん》ずるに、コモ湖、マジョーレ湖、ロカルノ条約のロカルノ、ローヌ川がみな近い。 「どうですか、歴史婆さん。こういう時こそもっとしゃべんなさいよ。この男が気が散って本を読めなくなって、むかッとするぐらいしゃべってみせたら?」 「そう言われても、むやみにおしゃべりの種も無いからね」  と、大婆さんは景色を眺めている。  十六時ちょうど、イタリア領最後の駅ドモドソーラに着いた。SBBのマークをつけた客車や機関車がたくさんいた。 「SBB・CFF・FSSは、それぞれ独仏伊三カ国語で『スイス連邦鉄道』の標示をしてるんです。此処から、スイスの機関車がこのTEEを引っ張ります」 「あ、そう」 「すぐシンプロンのトンネルで、トンネルを抜ければスイス領最初の駅のブリークになる」 「あ、そう」  婆さんが元気が無いのは印度人に気圧《けお》されてしまったせいかと、少し同情した。  ドモドソーラを出ると、スイス官憲のパスポート検査が始る。雪国の青年らしい赤い頬した車掌の区間検札も始る。車掌は制帽を眼深にかぶって、膝《ひざ》の下まである切符|鞄《かばん》をぶら下げていた。その手続きがすむころ、「ピョーッ」と登山鉄道のような汽笛を鳴らして、列車は長いトンネルに入った。ヨーロッパの汽車にずいぶん乗っているけれど、シンプロンを通過するのはこれが初めてである。トンネル内の作業灯がちらッちらッと規則正しく窓をかすめ、客車の照明で、暗い岩の壁に氷がはりついているのが見える。耳がツーンと痛い。 「思い出したよ」と、海の神が言った。「今度アルプスの下を汽車が通るようになったって、聞いたの思い出しました。これがそのトンネル?」 「そうだけど、何か勘ちがいしてるんじゃないですか。シンプロンのトンネルはずいぶん古いんだぜ。いつそんな話を聞いたんです?」 「だから、あれは大正の何年ごろかねえ。広島のおじいさんが私に新聞を読んでくれて……」  相手になるのをやめ、腕時計をにらんでいると、列車は八分三十秒でシンプロンを出抜け、あたりが深い雪景色に変った。山肌を縫うてツェルマットへ行く登山電車の道も雪におおわれているし、ブリークの駅も、町も畑もみな残雪におおわれていた。車内の暖房が強くなる。  晴れていれば左にマッターホルン、モンテローザ、右手に多分ユングフラウの秀峯《しゆうほう》を望めるはずだが、生憎《あいにく》の曇天だし、そろそろ日が暮れる。印度人とは相変らず無言の行がつづいている。私は中婆さんを通路へ誘い出し、雲の中のマッターホルンを指さす恰好で、 「あの印度野郎、気に入らん」と言った。「大婆さんも大分気持を滅入《めい》らせてるようだ。だけどああいう風に尊大なのが印度人の一つのタイプなんだから、あまり気にするなって、お前からそう言えよ」  山の神はちょっと考えていたが、 「お姉さま」  と、コンパートメントの海の神を呼んだ。立って来た大婆さんが、 「いいええ」  と首を振った。 「私はあんな者のこと、別に気にしてないよ。一番気にしてるのはあんたじゃないの。気にしてすぐ顔色に出すから、向うだって意識するわよね。彼は彼、我は我のつもりでいればいいのに。私それより、あんたが汽車のことばっかり言う方がよっぽど気になる。静かにスイスの雪景色を眺めていたいんだから、折角だけど汽車の説明はもう結構です」  さもあらんかというように、中婆さんが笑い出した。  しかし、説明するなと言われても、間もなくこの「シザルパン」22列車はミラノ行の「シザルパン」23列車とすれちがう。待つほどもなく、果してローザンヌの手前で、窓々に明るく灯をともしたジュラルミン色の23列車が、ちらちらちらと右側の線路を通り過ぎて行った。 「興味ないですか」 「あのねえ」と、大婆さんは答えた。「海外旅行をすれば、いい景色が見たい、美味しい物珍しい物が食べてみたい、買物もしたい、誰しもそれが普通でしょ。機関車がいたとか汽車がすれちがったとか、私、北さんがあんたと旅行して閉口しなさった気持分るよ」  ならば、まことにお気の毒だけれど、この先、今回欧州旅行の日程はすべて汽車に合せて組んである——。  霧のレマン湖に沿ってしばらく走るとローザンヌ着であった。フォームの反対側に、ぴかぴかのDB(ドイツ連邦鉄道)のマークも誇らしげな、溜《と》め塗りの「ラインゴールド」が停っていた。ドイツのTEE「ラインゴールド」は、けさ早くアムステルダムを発《た》ち、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、マインツ、フライブルクを経由してスイスへ入って来た列車で、「一と足お先に」と、終着ジュネーブさしていい感じですうッと出て行く。「シザルパン」は、此処で新しい食堂車とも四輛の増結をした。  夕食をしに食堂車へ行こうかと思うのだが、もし印度人も行くとすると、車室が空っぽになる。イタリア始発の列車だから、胡麻《ごま》の蠅《はえ》がまた乗っていないという保証は無い。不承不承私はもう一度詰襟服に声をかけた。 「私ども、食事に立ちたいんですが、あなたはずっと此のコンパートメントにおられますか」 「私は菜食主義者です」  と、印度人が初めてまともな口をきいた。 「食堂車の食事はしません。自分の食べ物を持っていますから、ずっと此処にいます」  水瓶持参はそのためであるらしかった。  ではよろしくと頼んで、食堂へ入り、婆さんたちと印度人の品定めをした。 「何なさる人だろうネ」 「愛想が悪いのは、大金持の宝石商で、人を警戒してるのかも知れないわよ」 「教師のようにも見えるがな」 「シザルパン」のステーキ定食は、不味《まず》くはなかったけれど、これがこの度最初のフランス料理の晩飯かと思うとがっかりであった。早目に切り上げて、部屋へ帰って来、一杯機嫌で聞いてみると、パリに住んで美術出版の仕事をしていると印度人は言った。印度美術、ルネッサンス絵画、日本の美術、東京へもよく行く。小学館に知り合いの編集者がいる——。  小学館なら当方多少の御縁が無くはない。ただし汽車と美術とでは美術の方が高尚だと、私は思わないが印度人が思いそうだから、余計なことを口にしたくないけれど、 「じゃあフランス語も出来るんでしょう」  かねて疑問の列車名、「シザルパン」とは何の意味か伺いたいと私は言った。  印度人は自信をもって答えた。 「英語のシサルパインです。イタリア瑞西《スイス》フランスのアルプス地方に生育する松の名前です」  あとで調べたら、これはちがっていた。フランス語で cisalpin 英語で cisalpine は、古代のローマ人から見てアルプスのこちら側、アルプス山嶺《さんれい》の南を指す地域の名前である。聞かれたことに対し知らないと言わないのも、印度人の特性の一つかも知れない。  大婆さんと中婆さんが、夕食の葡萄酒に酔って居眠りを始めた。フランス側のパス・コントロールがすんで、列車はフランス領へ入っており、雪は消え、小川に銀色の水が見える。パリのリヨン駅まであと三時間と少々、フランス国鉄の電機CC21007号機が今「シザルパン」を曳いている。スピードは速く、揺れは少く乗心地はよろしいが、私も少し眠くなって来た。     第3列車「村長の娘」  朝、洗面所で髭を剃《そ》っていると、鏡の中に異な物が異な動き方をする。眼鏡をかけ直してよく見れば、美容体操中の大婆さんの太い手足であった。膝《ひざ》を曲げて交互に脚を伸ばして一二、一二。ゆっくり腰をひねって左右、左右。  半剃りのまま、私は背後の寝室へ入って行った。 「あすこの鏡にまるごと映ってるよ。何だか、女相撲と同宿してるようで気味が悪い」 「まあ」  と、七十二歳の婆さんがベッドの上へ起き上った。 「足腰きたえて何のつもりですか。いよいよきょう、三越へ乗りこむんですか」  脇机の上に、三越パリ店店長の名で届いた果物籠《くだものかご》が置いてある。私ども夫婦に届いたのではない。出発前、大婆さんは三越の広島支店顧客係に専用のクレジット・カードを発行してもらった。 「奥様、これをお持ちになりますと、うちの海外店、何処でもキャッシュ無しで自由にお買物して頂けて、とっても御便利だと思います。むろん日本人の店員が日本語でお世話致します。ローマとパリへ早速テレックスを入れておきましょう」  だからホテルへ着けば果物の差入れが待っていて、豊かな気分で嬉しいらしいけれど、私は甚だしく気に入らない。三越で買物をしたいなら、横浜の我が家から地下鉄で二百九十円のところに本店《ヽヽ》がある。何のためにわざわざヨーロッパまで来て、そうでしょう、行きたきゃ一人で行って下さいと、ローマで婆さんの楽しみを無視した。 「だけど、今度もこうして洋梨やりんご沢山頂戴してるしね」 「洋梨やりんごは鴨《かも》の撒《ま》き餌《え》ですよ。パリで何がよろしゅうございました? はい、三越の買物が一番楽しゅうございました。馬鹿げてると思わんのかな」 「あんたは人さまの好意を何でもそうやって悪く取る。御親切に果物籠贈って下さったのを、まるきり全然顔出さんというわけにはいかんでしょ。あとは私だって、買物が目的で来てるんじゃない、ルーブルも見たい、ノットルダムのお寺の……」 「ノートルダムだよ」 「ねえ、ちょっと」  と、大婆さんはまた中婆さんの応援を求めた。 「この人、ほんとうにうるさいわね。ディズニーのあひるみたいにうるさいよ。寝てもさめても騒々しい。ゆうべなんか、ちょっとおとなしくなったと思えば大いびきかくし、あんた、こんな者とよく一緒に暮してるね。もっとも、子供のころからこうではあった。私が伯父ちゃんと結婚して、あの時分この人は小学校の二年生で」  十三年前心臓の発作で急逝した伯父ちゃんなる人物が生きていれば、とうに金婚式がすんでいるのだから、昔々のその昔の話だが、新夫婦婚礼の晩ホテル一泊という習慣は、広島あたりに当時無かった。ホテルそのものも無かった。家の二階で初夜を明かし、翌朝|未《ま》だ眠いところへ、齢のちがう弟が上って来て、ブーン、ブーン、ブーン、腕を傾け飛行機の恰好して、うるさくしつこく邪魔したと、そんなことを私は覚えていないけれど、大婆さんが覚えている。この調子ではどうしても一度、果物籠の義理を果させる必要がありそうであった。  しかし、婆さんの買物に熱が入ると、増えた荷を持つのは結局私である。地下鉄をオペラで出て、 「あれが三越」  一時間だけと申し渡し、きちんと時刻通り迎えに行ったら、 「あら、あんたもう来たの」  昔『自由を我等に』という映画があったのを思い出しますと、海の神は心外な顔をしたが、おかげで旅行鞄の個数変り無く、次の日ブラッセル行のTEE「ブラバン」に乗車することが出来た。  元マダガスカルの村長、元スペインの村長が今ブラッセルにいる。村長の可愛いちび娘どもは、アガワの小父さんが来れば汽車に乗るものと心得ているだろうから、学校の都合お母さんの都合次第でパリへ出て来なさい、新幹線東京名古屋間みたいなもんだ、一緒に乗ってブラッセルへ帰ろうと書き送っておいたのに、何故か音沙汰が無かった。  この区間は、欧州で最もTEEの本数が多い。先年「ブラバン」83列車と対の82列車「エトワール・デュ・ノール」に乗って、「ブラバン」とすれちがうのを見損って、 「失礼ですが、僕は汽車がすれちがってもすれちがわなくても大したこと無いような気がするですがなあ」  と、まんぼうにいや味を言われたのも、この線である。「ブラバン」や「ルーベンス」「エトワール・デュ・ノール」をはじめ、電気機関車牽引最高時速一六〇キロ、同じタイプのTEEが上下十二本運行していて、所要時間わずか二時間二十八分、途中ノン・ストップ、村長の娘たちもいないし、大して楽しめる汽車旅ではない。  パリ北駅を出て四十一分後コンピエーヌの駅を通るが、第一次世界大戦終結時、ドイツが停戦協定に調印した寝台車は何処に置いてあるのか、分らないまま「ケタコトカチャケト」と過ぎてしまった。  窓外は広々とした牧草地、畑、時々森があらわれ、白樺《しらかば》の林があり、水量豊かな川があり、何処で国境を越えたかも分らない。ただ、ベルギー領へ入ったと思われるころから、通過駅の側線に、妙な有蓋《ゆうがい》貨車がいるのを何度も見かける。車体に赤葡萄酒をなみなみついだワイングラスの絵が描いてあって、ワイン専用の貨車かと、珍しかった。  退屈する間も無くブラッセル到着で、線路が複々々線になり、速度の落ちた「ブラバン」の左側を、オステンデ発西独ケルン行の普通急行が並進する。二列車ほとんど同時にブラッセル・ミディ駅の高架フォームへ辷《すべ》りこむ。そう言えば、けさパリを発つ時も、フォームの反対側にカレー経由ロンドン行の一二等急行が停っていた。西ヨーロッパのこのあたり、鉄路と列車のダイヤは網の目のように入り組んでいるのである。  日曜日なので、丘の上の村長公邸に村長がいて、ガウン姿で、 「おウ」  と顔を出した。 「何だい、今度は」 「何でもない。婆さん孝行の漫遊旅行。ちびどもはいるのか」 「いるよ。いるけど、それが貴様、もうちびじゃないんだな。結構一人前に俺の批判なんかしやがって」  御挨拶にあらわれた娘たちは、なるほど見ちがえるように大きくなっていた。返事をくれなかったはずだ。小父さんと汽車ぽっぽに乗って嬉しい齢ではなくなっている。その分だけわれらの歳月は急ぎ足で、村長も、当地の村長役を終れば十中八九隠居の境涯へ入ることになるらしい。来る年の矢の生田川、まんぼうとマダガスカルへ行ったのがつい此の間だったのに、流れて早き月日|哉《かな》と、いささか無常の思いで部屋へこもって荷ほどきをしていたら、 「車を出して上げようかって仰有《おつしや》るんだけど、どうなさる」  と、山の神が入って来た。  お疲れでなければ買物と市内見物御一緒しましょうか、チョコレートの美味しい店があるし、レースも名物ですしと、村長夫人にさそわれて、 「お姉さま張り切ってらっしゃるわよ。何しろ、雑誌にハング・グライダーの写真が出てるのを見て、わたし一遍これしてみたいと言う方ですからね」 「やれやれ」  と、私は顔をしかめた。 「行くなら勝手に行って来なさい。俺は此の部屋で寝てる。同期のえにしで村長宅へ居候にころがりこむ機会も、これがもう最後かも知れんしな」  花は散りても香を残し、村長転勤して公邸を残す。マダガスカルでもスペインでも次期村長のために新しい立派な国有財産を残して去って、此処の村長、公邸造りの名人かと思うくらい、最後(?)の此の家の居心地がよろしい。  窓をあけると広い芝生があって、噴泉があって、菩提樹《ぼだいじゆ》と楡《にれ》の大木がそびえている。その向うは、大都会の中と思えぬ何万坪かの静かな森と池とが借景になっていて、眼下の池を子連れの白鳥が一列縦隊成して泳いで行く。お伽話《とぎばなし》の菓子の家のような赤い屋根々々も見え、十九世紀風の閑寂として典雅な住まいである。買物になぞ出かける人間の気が知れない。  もっとも、天候はよくなかった。村長夫人が、 「北ヨーロッパは五月までこういううっとうしいお天気がつづきます。時々、空をナイフで切り開いて太陽を取り出してやりたいような気分になります」  と言っていた通りだが、そのつぐないに、遠く「カタカタカタカタ」といい音立てて、姿の見えぬ列車が走り去る。  霧の中の小鳥の囀《さえず》りと、遠い通過列車の響きとを聞きながら昼寝した甲斐《かい》あって、夕飯の時、私はすっかり心身|爽快《そうかい》になっていた。公邸附コックの料理がまた、まことに結構であった。フォアグラとほうれん草と鮭《さけ》の詰め物、舌平目のヴィラ・ローレーヌ風——、「ヴィラ・ローレーヌ」はブラッセル名代の美味しいフランス料理店で、村長のコックは此の店へ修業に通っている。最後が鴨のオレンジ煮。葡萄酒が廻って次第に陶然として来、まず村長が歌い出した。私も立ち上って歌い出した。  「頃は菊月半ば過ぎ   我が帝国の艦隊は   大同江を船出して」  婆さんどもと村役場の書記諸君が、眼のやり場に困ったような不思議そうな顔をしているが、日清《につしん》の役《えき》黄海海戦|大捷《たいしよう》の際、明治天皇御製にかかる珍しい軍歌である。  「我が日の旗を黄海の   波路に高く輝かし」  高く輝かしてそれでどうしたと聞かれればどうもしないけれど、われらにとって涙の出そうな古い思い出が多々からまっているから止《や》むを得ないのであって、幸い、そういうことを全く知らぬ二人の稚《おさな》い批判娘たちは、食堂に同席していなかった。     第4列車「昔の光」 「ローマで始めた旅が、もう一週間以上経ちました。今、何処の上にいるか分りますか」 「飛行機の上でしょ」 「そうじゃなくて、何処の国のどの辺の上空か」 「それはだから、さっきブラッセルを飛び立ったんだから、ブラッセルは何処の国だっけ」 「いいですがねまあ。飛び立って何処へ向ってますか」 「もう一人、別の村長さんがいらっしゃるポルトガルよ」 「ポルトガルの首府は?」 「ええとね、ボストン、じゃあなくて、あれはリスボン。あんた私をテストするの」  と、大婆さんが言った。  ローマで泊ったのがホテル・ボストンである。それから「セッテベロ」に乗って「シザルパン」に乗って「ブラバン」に乗って、今ボーイングに乗ってリスボンへ向っている。海の神の記憶装置に障害が起っても無理はないし、殊に飛行機での移動が加わると、時間空間の感覚に違和が生じ、何が何処だったか分らなくなるのはよくある例で、テストのつもりはないけれど、物事の順序だけはっきりさせておきたかった。 「いいですか。先程までいた国はベルギー。ベルギーの首府がブラッセル。これはベルギー航空サベナのボーイング737というジェット機。高度約一万メートルですでにフランス領空へ入ってます。このあと、パリの東を通ってピレネー山脈を越えて、スペインの上を南西に横切ってポルトガルの首都リスボンへ着く。あんたのいう『もう一人の村長さん』、元チュニジアの村長が迎えに来てる、——多分来てるだろう。リスボン村長とブラッセル村長は、村長仲間で昭和十七年組と称する同期生で、僕は彼らと海軍が同期です」 「分ってるわよ」 「あんまり分ってないようだがなあ」  定刻リスボン空港着陸、税関を出たところに、役場の若い書記を随《したが》えた村長夫婦が待っていた。 「茶漬の材料持って来てくれたか」 「持って来たよ」  リスボンには日本の食料品を売る店が無い。ブラッセルの村長に托《たく》された高野豆腐《こうやどうふ》だの佃煮《つくだに》だのの包みを渡すと、 「これこれ」  嬉しそうな顔して、 「こいつ、どうせまた汽車に乗りに来やがったんだ。ちょっと君、あれ貸してごらん。二時間だけ乗せてやるからな」  と、書記の持っている予定表のコピーを開いて見せた。 「おい、それ、冗談だろう。俺はポルトガル初めてなんだ。勝手にそんな予定立てられちゃあ困る」  この前幽霊やまんぼう夫妻共々チュニスで世話になった時も、君は二時間と二分しか汽車に乗せてくれなかった、駄目だ駄目だと私が不服を唱えると、 「初めてだから、見るべき物が一杯あるんじゃないか。ポルトガルの汽車なんか二時間も乗りゃたくさんだい。ねえ、みよちゃん」  隣のみよちゃんじゃないでしょかという歌があるが、妙な偶然で村長夫人と山の神は同年同月生れの同名なのである。中婆さんの二人《ににん》みよちゃんが、 「はい」  と答えた。 「昔からこいつ、我儘《わがまま》でいけない。汽車ばかり乗ってたってつまんないよ、なあ、そっちのみよちゃん」 「いやだよ。困るんだから、ほんとに」 「ちょっと、それはあとになすったら」と、村長夫人が割って入った。「会うなり、二人とも一体どういうんでしょうかねえ、いい齢して」 「動物園のお猿電車の前で子供が言い争ってるみたいね。色々プランを考えていて下さるのに、汽車のことだとすぐむきになって、ごめんなさい」  と山の神が言っている。  こういうのがおりますと身内の者は苦労いたします。お友だちもさぞ御迷惑でございましょうと、初対面の大婆さんが特殊学級の父兄会のような世辞を使ったが、人に迷惑のかかることをしようと、私は言っていない。苦労というなら、頭以外全部頑丈な七十二歳を連れて歩く方が、よほど苦労が要る。  車で市内のホテルへ入り、予定表再検討の末、どう決着をつけたかというと、乗りたきゃ一人で乗れ、分った、一人で好きなだけ乗って来るということになった。婆さんどもまで、ポルトガルの汽車を拒否した。  村長はしかし、親切な生来の世話好きで、ただその親切が我儘と同居しているから、人を自分の思い通りに引き廻したがる。汽車に乗るまでの一日半、「見るべきもの」をたっぷり見学させられた。もっともそれで不愉快だったかと言えば、別に不愉快ではない。  ヨーロッパ大陸の最西端カボ・デ・ロカ(ロカ岬)がよかった。北緯三十八度四十七分西経九度三十分、碑に曰《いわ》く「此処で陸が尽き海が始まる」。五百年前、この茫々《ぼうぼう》たる海の向うには、未知で暗黒の世界が横たわっていた。それに光をあてたのは、ポルトガル海洋民族の智恵と勇気であった。  大西洋の怒濤《どとう》がこまかな霧になって崖上《がけうえ》の芝生を濡らし、風に逆らって海燕《うみつばめ》が舞っている岬を下り、東へ引返せばテージョ河の河口、リスボン港の入口の波が寄せるところに、アラブ風のベレンの塔がある。一四九七年、ヴァスコ・ダ・ガマは、この塔の上に立つ王族貴顕の盛大な見送りを受けて、印度へ船出した。ガマの東洋航路発見から五十年足らずで、鉄砲を積んだポルトガル商船が種子島《たねがしま》へやって来る。以後、室町末期|安土桃山《あずちももやま》の日本人は西欧近世の文物と接触を持つことになり、やがて伊曾保《イソホ》物語が伝わり日葡《につぽ》辞書が刊行される。 「というわけで、俺、目下南蛮展開催の準備をしてるんだ」と村長が言った。「北杜夫の奴、俺のことを雲古《うんこ》村長と書きやがって、この国では俺、文化村長だぞ」 「大航海時代のポルトガル人というのは、実際どうも、大したあれだったんだなあ」と、ベレンの塔を仰ぎながら私は感服した。「それが、どういう訳でこうなってしまったのかねえ。人柄はよさそうだけど、みんな薄ぎたない覇気の無さそうな顔して——、あの婆さんなんか見ろよ、口髭生やしてる」 「胸毛の生えた婆アもいるぜ。俺、いつか婆さんの胸毛見て驚いた」  寺の半鐘のくさるまで、女に胸毛の生えるまで、長い長い栄華と夢の歳月が経つと、人々の精神も国の風土も静かに美しく沈澱《ちんでん》して、古葡萄酒のように醗酵《はつこう》と熟成をやめてしまうものらしい。  ナザレの浜で昼飯を食った。この鄙《ひな》びた古い漁師町もよかった。運転手が「ここは村長の入るべきレストランではない」と難色を示した小さなきたない店の軒先へ、 「いいんだよ、鰯《いわし》のパタパタ食いたいんだから」  と、村長は車をとめさせた。  牛に地曳網《じびきあみ》を曳かせている下手なペンキ画が壁の装飾で、土間に木椅子が六、七脚、表では腰の太い黒衣のかみさんが、団扇《うちわ》をパタパタやりながら新鮮な鰯を塩焼きにしていた。地酒と共に焼き立てを食するに、あつあつでまことに美味《うま》かった。  北ヨーロッパとちがい、イベリア半島はもう春のさなか、桃が咲きレモンが咲き、到るところミモザの茂みが豊かに花を飾っていて、海ものどかな春の海である。  土産物屋で村長と私は、揃いの黒い布帽子を買った。邦価に換算して五百円、ナザレ特産の民芸品だが、正ちゃん帽の先を長くとんがらしたような面白いかたちをしている。何のために先をとんがらしてぶらんぶらんにしてあるかというと、ナザレの漁師が沖へ出漁する時、パンだのチーズだの弁当を此処へ詰めて出るのだそうだ。  翌日、村長夫人の握ってくれた梅干お握りを二つ漁師帽にしのばせて、リスボン港わきのサンタ・アポロニア駅から、私は一人ポルト行の列車に乗りこんだ。ポルト地方を流れる河の名を取った特急「ドウロ」号2列車、食堂車つき一等だけの編成、七時二十五分定時、「ポアアン」と長い間の抜けた汽笛を鳴らして発車した。しばらく石油タンクと高層アパート群が見えていたが、すぐ、ユーカリ、オリーブ、糸杉、ミモザ林の郊外風景に変る。  握り飯はあとの御用に残しておくこととし、食堂車へ行って朝食を頼むと、少年給仕がミルクコーヒーとパンを二つ持って来た。ボーイたちは、少年も中年もみんな、私どもにとって一種|馴染《なじ》み深い顔をしていた。つまり、南蛮|屏風《びようぶ》の伴天連《バテレン》の顔である。ただ、概して背は低い。検札に廻って来た小柄な車掌も、よれよれの紺背広によれよれのネクタイながら、髭の伴天連顔だし、コーヒーを飲み終って座席へ戻る途中、厠《かわや》へ入ればちぢれた紅毛が落ちているし、これぞ本物の南蛮阿房列車かと思いたくなる。  本物はしかし、くたびれていて、一等だというのにずいぶんきたない。肘《ひじ》かけが破れて|わた《ヽヽ》がはみ出していた。リスボンから北へ三百三十七キロ、ポルトガル第二の都会ポルトまで、線路はイベリアン・ゲージと呼ばれる超広軌であるが、超広軌の国にかぎってあまり上等の列車が無く、スピードもそう速くない。特急「ドウロ」号は、朝霧の中を「ポアアン、ポアアン」とまずまずの速度で走っている。  窓外の眺めだけがよかった。菜の花畑、オレンジの実、桃、椿、葡萄畑、白壁赤屋根の古い民家、おだやかなおだやかな風景で、この風土の中に少くとも今はすっかりおだやかになってしまった人々が九百七十万人住んでいて、 「ポルトガル人はですね」と、きのうポルトガル通の青年書記に教えられた。「闘牛でも牛を殺さないんですよ。その代り、男はみんな怠け者で、女がよく働きます。汽車にお乗りになるなら見ててごらんなさい。踏切番が踏切のそばに一家で暮しているのも変ってますが、旗を振ってるのは必ず女です」  だから、踏切を注意して見ている。言われた通り、線路わきに踏切番の家があった。娘が井戸端で洗濯をしていて、黒服のおかみさんが踏切|遮断《しやだん》合図の旗を振っていた。踏切番ではないけれど、生魚入りの大盥《おおだらい》を頭に載せて歩いている力の強そうな小母さんも見かけた。  織田信長の時代からの古い大学町コインブラを通過して一時間後、左手に怒濤逆巻く大西洋の絶景があらわれる。|ぼさ《ヽヽ》の生えた白い砂浜に潮しぶきが叩きつけていて、遠景はただただ天と水、今は牛も殺さぬポルトガル人が、往時この荒海を乗り越えて新大陸のブラジルを手に入れ、東洋航路を開拓して日本へ通商と布教の自由を求めに来た。ヴァスコ・ダ・ガマの印度での大|殺戮《さつりく》を知っていれば、もともと温和な民とは信じがたく、昔の彼らは若く猛々《たけだけ》しいエネルギーに充ち充ちていたのであろう。  トンネルを二つ抜けると、列車はのろのろ運転になって、終着ポルトの市街とドウロ河が見えて来る。河に、エッフェル塔を横倒しにしたような鉄橋が架っていた。エッフェル技師設計の橋だと、案内記に書いてあった。  さて、汽車を下りて駅を出たものの、何をしようというあてが無い。町には七堂|伽藍《がらん》がそびえていて、ポートワインの本場だから名高い醸造工場もあるだろうが、別に見たくない。市内の別の駅を起点に、一メートル・ゲージの狭軌鉄道があって、ヨーロッパでは数少い蒸気機関車の名所だそうだが、乗りに行く時間の余裕が無い。  実は、パイプオルガン奏者の児玉マリ女史が、ポルトガル国内を演奏旅行中で、今夜女史一行の歓迎レセプションを催す、貴様それまでに必ず帰って来いよと、村長に言われている。帰ることにした。さっきの「ドウロ」号が「サン・ジョルジェ」号と名前を変え、折返しのリスボン行5列車になって、あと十分ほどで発車する。 「サン・ジョルジェの指定券は売り切れました。午後のこの急行まで全列車満席です。あんた、乗れない。乗ったら何とか」  係が時刻表を叩いて手真似で言うのを無視し、強引に乗りこんだ。そのため、あとで悶着《もんちやく》が起った。検札の女車掌が、金をよこせ、それも相当高額の金よこせと察せられることを言い出した。金を払うにやぶさかではないけれど、いくら払えばいいのか、それは罰金なのか車掌のポケット用なのか、一等車の中に立っている人があるが、払えば坐らせてくれるのか、何ンにも分らず、日葡辞書などというものを誰がどうやって編纂《へんさん》したんだろうと考えていたら、傍《そば》から英語で助け舟出してくれる客があった。 「飛びこみ乗車の場合、ポルトガル国鉄の規定で、正規の料金のほかに五百エスクード取るんだそうです。五百エスクード払って、次の駅を出たあと席が空いていれば坐っていい、多分一号車に空席が見つかるだろうと言ってます」  けさホテル出立以来、ほとんど人間の言葉をしゃべっていなかった。こういう時の英語は、なつかしくて大層分り易《やす》い言語のように思える。四十年輩の英国人に、私はsirづけで礼を述べた。  礼を述べて、最前部の一号車まで歩いて行くのだが、ナザレ帽に詰めた握り飯が重くて、揺れる通路に頭がぐらぐらする。食べてしまうことにし、見つけた座席で重心を腹中へ移し変え、せめてポルト訪問の記念にと、バアへ立ってポートワインの小瓶を註文した。先ほどの英国人が入って来た。  私は、自分の英語がオックスフォード・イングリッシュやハーバード・イングリッシュでないのを忘れ、急におしゃべりになった。それでも、 「そうですか。汽車が好きなんですか」  と、鉄道発祥の国の男は、当家の婆さんたちよりずっと分りがよかった。  アメリカ人の女房と結婚して、ポルトガルに住んでもう十年になる、リスボン郊外のカスカイユに小さな酒場と自分の管絃楽団を持っていて、僕自身フレンチ・ホルンの奏者です、昨年うちの楽団を率いて中国を旅行した、中国には未だ蒸気機関車が一杯いましたよ。 「ポルトガル南部にも、蒸気機関車の走ってる線があります。ポルトガルの鉄道を建設したのは英国人ですがね」 「中国の往《ゆ》き返り、日本へ寄らなかったんですか」 「残念ながら、寄りませんでした」 「日本の国鉄も、初期に英国人技師の手で建設されました。日本で英国の強い影響下に発展成功したものが二つあって、一つは鉄道、もう一つは海軍です」 「なるほど。日本の鉄道が優秀で日本海軍が優秀だったわけが、それなら分る」  フレンチ・ホルン奏者は笑って、ウイスキー・グラスを眼の高さに上げ、乾杯の真似をしてみせた。  英国人と別れて、席で私は眠りに落ちた。眼をさました時は、もうリスボンが近かった。ポルトガルの南蛮特急は何処製で、どんな編成で、どんな機関車が曳いているか、未だ確かめていない。到着後、出口の方へ歩きながら見て行くと、薄黒くよごれたジュラルミン色の客車は、全部米国フィラデルフィア製のお古、橙色の電気機関車はドイツのジーメンス製であった。かつて日本に最初の西欧文明を伝えた国が、今では鉄道車輛一つ造れなくなっているらしかった。  その晩、村長主催のレセプションの席上、児玉マリ女史に紹介された。あすが首都リスボンにおける演奏会だそうで、聞きに行きたいけれど私どもは明早朝の汽車でスペインへ発つ。 「残念ですね」 「そう仰有《おつしや》って下さるんでしたら、このあと教会へ御案内致しましょうか。オルガンの調整を兼ねて三、四時間練習をしますから」  調律のむつかしい複雑な大楽器で、奏者は両手両足フルに使っての重労働です、聞いて上げて下さいと、女史に随行の人も言った。  おすすめに随《したが》い、散会後、もう夜ふけだったが、鍵番のあけてくれた裏口から、児玉女史と一緒にあす会場になる大聖堂の中へ入った。空気がひんやりしていた。劇場の奈落のような暗い鉄|梯子《はしご》をつたって祭壇の前へ出、海の神山の神と三人、祈祷《きとう》用のベンチに坐って神妙に待っていると、やがて人気の無い壮麗な大伽藍の中に、朗々とパイプオルガンの音が響き出した。練習曲は「荒城の月」である。十二世紀建立の古い底冷えのするカテドラルをとよもして、「昔の光今いずこ」が鳴り渡る。  「天上影は替らねど   栄枯は移る世の姿   写さんとてか今もなお」  と、おごそかにおごそかに鳴り渡る。     第5列車「リスボン・エクスプレス」  ヨーロッパには名前も優雅な由緒正しい古い国際列車がたくさんある。社交の舞台、恋の舞台、文学の素材にもなった「オリエント急行」(現在全線運行は休止)「アルペン急行」「急行ショパン」「急行ウィーナー・ワルツァー」——、年少のころからずいぶん憧《あこが》れていたが、実際に乗ってみるとあまり感心しない。栄枯は移る世の姿で、敗戦国の文士がちょいちょい実物検分に行けるようになった時、すでに多くはTEEに食われて落ちぶれていた。  マドリッド・リスボン間の「リスボン急行」もその一つだから、どうせ大したことはあるまいと、たかをくくって乗りこんだら、意外に美しい列車であった。ダークブルーの車体に白帯を一本巻いて、「RENFE」のマークをつけている。「RENFE」は何かと聞かれても舌が廻りかねるけれど、おしまいのEは「エスパニョーレス」のE、要するにスペイン国有鉄道の略号で、スペイン側の車輛を使って「リスボン・エクスプレス」を運行する。ただし、古くから世界に名高いこの国際急行が、たった二輛の編成なのにはびっくりした。一輛が二等車、もう一輛が一等、動力は床下のディーゼルで、ぶるるんぶるるんと自動車のような震え方をしていた。  それもそのはずで、プレートを見れば、製造会社はイタリアの自動車メーカー「フィアット」である。デザインも一般の鉄道概念と少しちがっていて、乗降口のドアをあけると自動的にステップが下がる。しめると自然に車内へたたみこまれる。  定刻七時三十分、きのうと同じサンタ・アポロニア駅をぶるんぶるんと発車後、 「あんた、そこまで鉄道に興味があるなら、一度印度の汽車に乗ってみるといいのに」  と、大婆さんが言った。  三年ばかり前、海の神は仏跡めぐりの印度旅行をした。印度はいいよ、印度の汽車も味があってね、わたしもう一遍印度へ行ってみたい。 「そりゃ僕だって行ってみたいですよ。行ってみたいけど、腹こわしが恐ろしい。ブラッセルのKさんが言ってたでしょう。印度在勤の者でも、あればかりは免疫になりません、一カ月でも二カ月でも下しつづけます、やっと治ったかと思うとまた始ります——。僕の場合、それをやられると、消化器末端の持病が大変なことになって、だから未《いま》だに印度の汽車に乗りに行っていない」 「Kさんの話は少しオーバーよ。わたし、印度で下痢なんかしなかった。どちらかと言えば、出なくて困った。生水飲んでみても駄目でね」 「信じられない猛烈伯母ちゃん」  と、山の神が笑い出した。  汽車好きの米国人作家ポール・セルーの旅行記に、印度で便秘する人の話が出て来る。ニューデリーのアメリカ大使館報道課に、ハリスという男がおりました。ハリスは医者へ出かけました。何の病気だと思う? それが便秘。印度で便秘だとよ。たちまち大使館中広まって、みんなハリスを見ちゃ腹をかかえて大笑い。これは誰しも、笑わずにいられまい。 「ほとほと感心する」私は言った。「日本女性の頑健さのシンボルだね。あんたのようなのやハリスのようなのが未だいるから、日本とアメリカは世界の隅々まで進出出来るんだ。ひやかしてやしない。ヴァスコ・ダ・ガマ時代のポルトガル人には、あんたみたいなのが大勢いて、印度へ行ってすぐ腹をこわすようなひ弱な民族じゃなかったんだな。恐れ入りました」  リスボン市街が遠くなり、列車はテージョ河に沿うて東へ東へ走っている。小さな田舎造船所が見える。朝の草を食《は》んでいる牛の姿が見える。南斜面一面ミモザの花で埋った丘がある。さくらんぼの林、桃の林、大婆さんが、 「マドリッドまで何時間? 十時間? フウ、長いねえ。あのテレビ、映さんのかしら」  と、客車の天井のテレビ受像機を指さして、靴を持参のスリッパにはき変えた。 「それ、ちょっと、いかんですね」  私は注意した。 「列車の中、船の公室で、靴を脱いではいけません。飛行機の中は構わないんだから、彼らが勝手に決めたお作法ですが、郷に入っては郷に従えで、スリッパばきは遠慮して下さい」  ヴァレンシア・デ・アルカンタラという駅で、スペイン領へ入った。時計を一時間進めて、スペイン時間の正午であった。スペイン領へ入って乗務員が交替すると、急に物ごとがてきぱきして来た。これは、ドイツやフランスからスペインへ着いた時の感じと逆である。  スペイン国鉄の車掌がイヤフォーンを配って歩く。ポルトガル国内走行中沈黙していた天井のテレビが、ちらちらと映って消えて、またついて、映画を映し出す。黄色の上っ張りを着た給仕が、 「ランチ? ランチ?」  と、各座席へ昼食の註文《ちゆうもん》を取りに来る。 「ここからスペインのお金でしょ。四千ペセタはいくら?」  海の神が聞いた。 「何ですか」 「いえね、牛を見ててそう思ったのよ。四千ペセタ出すと、上等の革コートが買えると、この本に書いてあります。わたし、あんたが何と言おうとマドリッドで革コート買うよ。ねえ、みよちゃん、買おう。あとは日本へ提げて帰るだけだもの」 「好きなようにして下さい。僕は牛を見れば食い気を催すが、あんたは牛を見て買い気を催すんだ。その代り、税関の申告すべて自分でやってもらう。買物の後始末はお断りする」  一等車と二等車の連結部にパントリーがあり、黄色の上っ張りが其処《そこ》から食事を運んで来た。飛行機の食事のように、まず座席の背のテーブルを起して葡萄酒置きの金枠《かなわく》を取りつけ、紙のテーブル・マットを敷いてナイフ、フォークを並べる。しつらえが大袈裟《おおげさ》な割に不味《まず》い粗末な料理であった。  トマト・ソースをかけた豚肉のソテーと人参のベーコン炒《いた》めを食い終るころ、「リスボン急行」は赤土の高原を走っていた。一本々々整然と並んだオリーブの植林があって、国全体、ポルトガルよりずっと豊かに見える。野菜畑には、スペインの風俗人形そっくりの案山子《かがし》が立っている。国境駅で乗車したスペイン娘の、網棚へ上げたミモザがかすかに匂う。  甘いミモザの香をかぎながら、私は食後の居眠りを始めた。葡萄酒の酔いが手伝って、ずいぶん眠ったらしい。 「この人寝かせといた方がうるさくなくていいんだけど、それにしてもよく寝るわねえ」  と言う大婆さんの声が聞えて眼をさましたら、四時半であった。 「汽車の中でスリッパはいたらいかんと仰有いますが、汽車の中で大いびきかくのは、西洋のお作法に反しないの?」 「いびきかいたかネ」 「お酒が入ると、いつもですよ。まわりの人が見てたわよ」 「汽車々々って、十時間の汽車旅、三時間半大いびきかいて寝てて、そんでもあんた、ほんとに汽車が好きなのかしら」  山の神と海の神が代りばんこに非難がましく言うのを聞き流し、洗面所へ立って顔を洗って席へ戻って天井を見ると、テレビがポパイの漫画をやっている。肘掛《ひじか》け横の差し込み口にイヤフォーンをつけて、音量のつまみをひねってみた。 「セニョリータ、何とかドンデ。コミーダ、何とかシーア」  と、ポパイがスペイン語をしゃべっていた。  この路線もイベリアン・ゲージの超広軌で、「リスボン急行」の脚は速からず、マドリッド・アトチャ駅まで余すところ百三十キロ。 「あと二時間か」  ああ、ああ、あと、如何《いか》に汽車が好きでもあくびは出る。 文中に引用した歌詞は、土井晩翠作「荒城の月」によるものです。 この作品は昭和五十六年十二月新潮社より刊行され、昭和六十年三月新潮文庫版が刊行された。