[#表紙(表紙.jpg)] 笑ってケツカッチン 阿川佐和子 目 次   ㈵[#「㈵」はゴシック体]  半額娘の父  わすれ涙  消えた財布  友と語らば  名づけ墓  お父ちゃんコール  天気予報と雨女  笑ってケツカッチン  起床せざるは  食べさせ甲斐  おんぶ赤鬼  通勤フレンド  無礼せんべい  おしゃべり一家  鉄の下駄  命のゴマ塩  カラスと一緒  遅刻コンサート  買物上手  蛸とオバサン  夢見鳥  隣家の香り  自意識過剰  おだてのススメ  今夜も溜息   ㈼[#「㈼」はゴシック体]  足拡げのマリア  乳母少女  先取り涙  留守番電話考  黙れ、娘  頷き役のとまどい  都会の愛想  山と健康  編物と天現寺  迷える織り婆  思い出から  ピンクのパジャマと三角眼  車中見合い談義  あとがき [#改ページ]     ㈵[#「㈵」はゴシック体] [#改ページ]   半額娘の父  この間、久しぶりに父と一緒に電車で出かけた。駅で切符を買おうとすると、 「切符ぐらい俺が買ってやろう」と、父は自動券売機の前に立ち、フッと考えてから手をとめて、私の方に向きなおった。 「えーっと、お前は半額じゃあなかったよな」  当り前ですよ。三十歳の娘をつかまえて、半額かどうか迷う方がおかしい。ほんの一瞬の出来事だったが、私にとっても父にとっても、これはちょっとした事件だった。  娘も三十になれば、本来、結婚して子供の一人や二人いても、おかしくない年である。ときどきは孫をつれて実家に戻り、キャッキャと家中を走りまわる子供を叱りながら、海苔、ティーバッグ、鍋釜まで、もらえるものは何でも喜んで持って帰る。  ところが、どういうわけか、そうならなかった。別に、私に結婚する意思がなかったわけではない。父が、むりやりひきとめていたわけでもない。なんとなく、なりゆきで、この年になるまで結婚しないままにきてしまっただけである。勿論、どこの父親もがそうであるように、私が二十代の初めの頃は、異性とのつきあいに関して父は神経過敏になっていた。  夏の炎天下に一日中テニスをして、しかも帰りに氷を食べたのがいけなかったのか、お腹をこわし、這うようにして家にたどりついたことがある。「どうした、どうした」と両親が心配して玄関まで迎えてくれたが、私は返事もできず、お手洗いにかけこんだ。  ベッドに横になり、お腹をさすりながら朦朧としていると、廊下から父のわめき声が聞えた。 「産婦人科だ。産婦人科に連れて行け」  私は痛さのあまり、よく意味がつかめないまま黙って聞いていた。 「だから、言わないこっちゃない。大体、お前の監督が悪いんだ」  今度は母に向って怒鳴っている。 「まさか、そんなことはないと思いますけど」 「わからんじゃないか。とにかく産婦人科だ」  どうやら、私の腹痛をツワリと決めつけているらしい。冗談ではなく、本気で怒っている。何ということ。身に覚えのないことで勝手に判断されては、大迷惑もいいところだ。だんだん怒りがこみあげてきたが、とにかく痛い、寝返りをうつのさえ辛い。とても起きあがって、父に談判する元気はないとあきらめた。  数日後、私はすっかり回復した。お医者(内科)の診断は、単なる熱射病ということだった。父が、少しは私にすまなそうにしているかと思ったが、全くそんな気配はない。思いあまって、父の前に立ちはだかり、「ひどいじゃない、娘を全く信用してないの」と、つっかかっていった。  父は私に一瞥をあたえると、フンと鼻で笑って、こう言った。 「女がハラが痛いと言えば、相場は決っとる」  この時ばかりは、何も言い返す言葉がみつからなかった。  それからしばらくして、私にも人並にボーイフレンドができた。父は、その男性がどんな人間かということはさておき、私が男の子と二人で出かけたりして、楽しそうにしていることが、まず気にくわなかったらしい。その人がビール会社に勤めたときくと、その会社のビールだけは極力飲まないようにして、他社のビールを飲んでは、大声で「うまい、うまい」と、聞えよがしに言ってみせる。私がその人の家へ遊びに行ったと知ると、すぐさま電話をかけてきて、「ただちに帰って来い」と、わめきたてる。電話口を通して、こちらのご家族に聞えはしないかとヒヤヒヤし、そんなに怒鳴らないでよと頼めば、いやがらせのように、ますます声を張り上げる。あまり反対が厳しかったので(本当は父だけのせいではないのだが)、結局、その人とは会わないようになった。  大学を卒業し、数々のお見合いもうまくいかず、このままでは娘が売れ残るのではと急に心配になったのか、私が二十四、五歳になると、父の態度がコロッと変りはじめた。ある日突然、「そういえば、お前がつきあっていたナントカ君ってのはどうした」と聞く。結婚したらしいと答えると、「そうか、残念だったな。いい青年だったのに」と呟いた。  何が、いい青年だったのにですか。本当に勝手なものである。呆れて、ものが言えない。いや、あの頃は早すぎると思ったんだよ、しかし、もうアセらないとな、まずいぞ、ということらしい。  こうなると誰でもよくなるものなのか、男と聞くだけで、「そら、どうだ」とけしかける。たとえその人が私より年下であろうとも、「いいよ。もう、この際だ。手を打とう」である。友だちのご主人がすてきな人だという話をすれば、「その亭主に弟はいないのか」ときた。あげくのはてに、この頃では、「ズボンはいてりゃ、何でもいいから結婚して、何とか出てってもらいたいと思ってるんですよ」と、あちこちで吹聴しはじめた。  小さい頃、私は父に遊んでもらったという記憶が殆どない。ごく幼い赤ん坊の時は別にして、父に甘えて抱きついたり、物をねだったりした覚えもあまりない。いつも怒鳴られ、口答えをすると、さらに怒鳴られ、泣きながら布団に入った思い出ばかりが鮮明に残っている。 「うるさい」「帰りが遅い」「親に対する態度が悪い」「時間を守らない」などが、父が叱る時の主な決り文句であった。門限は十一時なのだから十一時五分前なら叱られないとたかをくくっていると、とんでもないカミナリが落ちることもあるし、十一時三十分になってしまって、大慌てで帰ると、何事もない時もある。ここまでなら大丈夫だろうと線を引いておいても、油断はならない。虫の居所が悪ければ、溜息ひとつが原因で「出て行け」ということになる。 「わかったか」「わからなければ出て行け」「お前が出て行かないのなら、俺が出て行く」  言うことに納得がいかなくても、養われているうちは俺の意に反することは許さん。従うつもりがないのなら親子の縁を切る。学校へ行っている間は経済的援助をしてやるが、卒業したら自分で稼いで勝手に生きていけ。あとは、のたれ死にしようが女郎屋へ行こうが、俺の知ったことではない。これが父の論理だった。子供側の都合や人間関係などは、おかまいなし。父の用事ができれば、友だちとの約束も変更させられた。  父の逆鱗に触れ、「出て行け」と言われたのは、私だけではなかったが、性格が似ているせいか何かと衝突するので、四人兄弟の中では、私がいちばん言われた回数が多いような気がする。そのたびに、こんなムチャクチャな父親はいない、本当に出てやるぞと、おこづかいを勘定してみるのだが、これだけでは三日と生きられないとわかると、すぐにあきらめた。  もっとも、悪いことばかりあったわけでは勿論ない。旅行や食べることなど父の好きなことに関しては、年には不相応なほどの贅沢をさせてもらった。勉強しろとうるさく言われたこともない。「学校はジャンジャン休め」派だった。中学の頃に、「学校やめて、料理屋にでも奉公に出ろ。その方が、よほどお前の役に立つし、俺も毎日うまい物が食える」と言われ、たいそう困ったことがある。  年とともに父との争いは少なくなった。父が穏やかになったのか、私の方が要領よくなったのかはわからないが、怒鳴ったり泣いたりは確かに減った。そのかわりに最近は、イヤミの応酬が激しくなった。 「お前も仕事が忙しくなって、とても父親の世話などする暇はおありにならないでしょうが、スマンが、一杯だけ、お茶を入れてもらえるだろうか」やら、「疲れているんだろう。さあさ、ゆっくり寝てなさい。腰の痛い母さんと、心臓病でヨレヨレの父親が、お前の食事の支度をしてやるから、安心して寝てればいい」やらの台詞を、こちらも黙って聞いているわけではない。 「いえいえ、私もまだ二時間しか寝てないんですが、大切なお父様のためですから、これ以上、惰眠を貪ろうなんて滅相もない。さっ、起きましたよ、起きました。ええ、もう、どんどん起きちゃった。ああ、爽快だ」 「テレビの仕事をしているおかげで、口ばっかり達者になりやがって、俺が一言いうと、三言返してくる」と、父は嘆いているようだ。  先日、さんざん父とイヤミを言い合ったあとで、母と買物に出掛けた。どうして父さんは人の顔を見ればイヤミしか言わないのかしら、と母にやつあたりすると、「お互いさまじゃない。そっくりよ。二人とも車の運転の仕方から、突然、怒るところまで本当によく似てるんだから。アーア、両方から文句言われて、私にどうしろって言うのよ」と、母は笑いだした。 「いや、つい半額かと思っちゃって」と、会う人ごとに例の話をしているところを見れば、父もやっぱり気にしているらしい。歌舞伎の世界で三十といえばもう老女だぞと、ふだん人のことを売れ残り呼ばわりしているくせに、実際は、娘はまだ半人前だという気持が残っていたことに、父自身驚いたのだろう。  私が結婚し、家を出て、子の親にでもなれば、「お前もようやく、親の苦労がわかったろう」と、娘に対する見方が変るかもしれないが、ずっとこのままの状態でいては、父娘の関係に何の変化も生れない危険性がある。幾つになっても、父親にとって、娘はあくまで娘であり、一人前には見えないものなのか。ひょっとすると、私が四十、父が七十、いや、私が五十、父が八十になった時も、まだ、 「えーと、お前は半額だっけ」  すると、白髪だらけの娘の方も、 「そうね、どうだったかしら、お父さん」  と、答えているのだろうか。(85・8「婦人画報」) [#改ページ]   わすれ涙  現在(一九八五年)、私は夜遅いテレビの情報番組に出演している。ちょうど丸二年が過ぎたところだが、未だにカメラの前に座り、五、四、三、二、一という秒読みの声を聞くと、胸がドキドキしはじめる。いい加減に慣れてもよさそうなものなのに、どうしたものか、いっこうに慣れないし上達しない。黙って|頷《うなず》いているばかりで、時たま口を開ければつっかえ、慌て、とんでもない間違いを繰返す。図の説明をしようと思うと手が震え、震える手を押えるために、もう片方の手をのせると、それも震えているという、いわゆる初期の症状がまだ続いている。  つい先日も、本番中に四万八千円のコンピュータの値段を言う時、「これは、二百三十四万円です」と言ってしまった。次に紹介すべき、もっと大型のコンピュータと順序をまちがえたのだが、なぜ瞬間的にそう思い込んだのか、自分でもよく分らない。誰が見ても、それが二百万円もするような品でないことは明らかなのに、私は平然と、しかもそこだけ特にはっきり発音してしまったから、周りは大慌て。そこが生番組の恐ろしさで、取り返しがつかない。メイン・キャスターの秋元秀雄氏は驚きのあまり咳が止まらなくなり、ゲストの方は言葉につまる。アナウンサーの小島一慶さんは何とか取り繕おうと躍起になっているのに、言った本人が気がついていないのだから始末におえず、この一言を機に番組進行のリズムがすべて乱れ、とちりが続く。さすがベテランの一慶さんの力をもってしても、補うことは不可能になり、四十分間の番組は何だか滅茶苦茶のうちに終了した。  スタジオのライトが消され、終ったと思った途端に事の重大さに気づき怖くなった。あちこちに謝って回っているうちに、身体中が熱くなり涙が出てきた。泣きゃ許されると思ってるんだからと叱られそうなので、止めようと思うのだが、あとからあとからポロポロ流れてくる。あきらめたのか、あきれたのか、優しいプロデューサー氏は「そんなに気にすることないよ。もう忘れなさい」と慰めてくれた。「それにしても、最近、コンピュータっていうと涙を流してるんじゃない? コンピュータに何か弱みでもあるの。この間だって……」  やはり番組の仕事で、映画の試写会に行った時のことである。「2010年宇宙の旅」。ソ連とアメリカが協力して広大な宇宙への旅に出る。なんやらかんやらでどうにか旅の目的も達成し、いざ地球へ帰ろうという段になって、トラブルが起る。人間たちが助かるためには、それまで主力になって活躍していた優秀なコンピュータ「ハル」を、宇宙空間にひとり(と言いたくなるほど人間に近い)置き去りにしなければならない。しかし、「ハル」を恋人のように愛していたコンピュータ技師は苦しみ悩む。責務を遂行するために「ハル」に指示を与えながら、どうしても「これは、お前を置いていくためのプログラミングなんだ」とは言い出せない。それを察知した「ハル」は技師に向って、「あなたは私に何か隠しごとをしていませんか。データに不明瞭な部分があって指示に従えません。正直に話して下さい」と問う。技師は仕方なく一部始終を伝える。するとコンピュータは「分りました」と答えてセットを完了する。そして最後に「話してくれてありがとう」と言葉を残す。こうして人間たちを乗せた宇宙船は無事地球へ向ってめでたしめでたしとなるのだが、私はこのコンピュータと技師の別れのシーンに感動して、オイオイ泣き出した。  映画が終って場内が明るくなると、隣で見ていた一慶さんとディレクターが、私の顔を見てびっくりしたように叫んだ。「どこが悲しかったの、泣くとこなんてあったっけ」  局に帰って他のスタッフに面白かったかと聞かれる度に、二人は「面白かったよー。佐和子さんが泣いたのが面白かった。コンピュータに感動して泣いたんだって。珍しい人だね」と言って回るものだから、しばらく私はどこへ行ってもからかわれる羽目に陥った。  コンピュータに弱みはないが、確かにもともと涙もろい方である。私が小さい頃、父はしょっちゅうカンシャクをおこして、怒鳴っていることが多かった。母が父に怒鳴られていると、それを見た兄が「母がかわいそうだ」と言ってしくしく泣き出す。そんな周りの様子を見ているうちに、何だか悲しくなってきて、私も貰い泣きを始める。「うるさい、いい加減にしろ。言うことが聞けないのなら、出て行け」と、父の怒りがますます激しくなるので、こちらもますます悲しくなる。泣きながら寝てしまい、朝起きたときには、目がはれて、学校へ行くのが恥ずかしかった覚えがある。  自分が直接、父に叱られることも多かった。怒られている最中より、むしろ、「分ったなら、もうよろしい。気をつけるようにしなさい」と父の怒りが和らいだ頃に、決って涙が溢れ出たものだ。  大きくなるにつれて泣く回数が減ったかといえば、そうでもなく、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、事あるごとにハンカチを手に目をはらしている。友だちの結婚披露宴に出席すれば、やれキャンドル・サービス、花束贈呈と、わざとらしいことを……とブツブツ文句を言いながら、結局、花嫁以上に感動の涙を流すので、周りから呆れられる。  テレビドラマを途中から見はじめても簡単にのめりこんでしまい、弟に、話の筋が分らなくて、よく器用に泣けるねえとバカにされる。そこまで涙腺に締りがないのは更年期障害の兆候よと、友人たちが半ば本気で心配しはじめた。  いったい、どうして私はこう簡単に泣けるのか。私だけではない。兄と弟二人を含め、兄弟四人とも、どちらかというと気が弱い方で、ちょっと叱るられてはすぐ泣いていた。それに、いちいち泣くなといって嘆いていた父自身が、実は小学校時代あまりに泣き虫だったので「ミソ」というあだ名がついていたというから、これは遺伝と思ってあきらめるより他ないのだろう。  世の中には涙とあまり縁のない人もいる。また人によって、涙腺を刺激する材料がまちまちで、必ずしも、「悲しい」が理由で泣くとは限らないらしい。学生時代の友人に、悲しい嬉しいが理由で泣いたことはないという人がいた。じゃ、いつ泣くのと聞くと「くやしいとき」に限るのだそうだ。かと思えば、私同様、よく泣く友人は、「泣く理由なんて決ってないの。要は私の涙袋が一杯になれば、いつでも泣けるんだ」と言う。  大学のテニス・クラブで、一度お酒が入ると涙を流しはじめる後輩がいた。生れて初めて「泣き上戸」に出会った感激で、しばらく観察していると、彼は顔をくしゃくしゃにして「僕、いつもこうなんです。何だか悲しくって」と言いながら、いつまでも泣いている。ところがその後輩が、二度目のコンパでは泣いていない。どうしたのと聞くと、「今日は、どうもうまく酔えません」と、本人も少々不満気な様子だった。 「こんなに人によって泣く基準が違うんだから、泣く泣かないだけで、その人の感動の深さや心の豊かさを、他人が勝手に判断できるもんじゃないわねえ」  夜中、テレビ局から帰って来て友だちと長電話をしていた。久しぶりにまじめな話になってきたなと半分寝ながら思っていると、急に彼女が「そうよ」と大きな声を出すので、目が覚めてしまった。 「そうよ。それなのに、最近のテレビときたら、泣いている人ばかりを追いかけて、むりやり感想を求めたり、誰それさんの離婚記者会見だっていうと、サァ泣けとばかりに、顔のアップを映してみせる。あげくのはてに、泣けば、かわいそう。泣かなきゃ、可愛げない。泣きすぎると、いやらしいときた。いったい、どういうつもりなの」 「どういうつもりって、私に言われても」 「だって、あなたも今やテレビの世界で仕事してるんでしょ。責任はあるのよ」  つい先日も、テレビ局が安易な番組の作り方をして、新聞種になるような事件をおこしたばかりである。各局の視聴率合戦が激しくなるにつれて、より刺激的なものを放映しようという傾向が強くなっているようだ。 「確かに、作る側に問題はあるけど、でも、それを面白がって見ている方にも責任はあると思うわよ」 「そんなこと言ったって、ついてりゃ目に入るわよ。大体あなただって……」  彼女のテレビ批判は、だんだんきびしさを増してきた。 「ホラ、よく悲惨なニュースを伝えながら悲しそうな顔しておいて、次に明るい話題があると急にニコニコしはじめる。あれはよくない」 「いや、あれは……」 「節操がなさすぎます」  これ以上抵抗しても無駄らしい。 「反省してる?」 「してます、してます。毎日、反省しては泣いてる」 「そういえば、この間、OAのこと番組でやってたけど、あんなひどいまちがいして、メーカーからクレーム出ないの」 「へ? 何だっけ、何かやったっけ」  少し間があった。それから彼女は静かに言った。 「泣くと忘れるタイプなのね」 [#改ページ]   消えた財布 「ない、ないないない、やだ、どうして」  地下鉄の切符を買おうと思ってバッグの中に手を突っ込んでみると、財布が見当らない。そんなバカな。もう一度バッグの隅から隅まで、丁寧に見直してみる。身体中が熱くなってきた。やっぱり、ない。 「あのー、買うんですか、買わないんですか。早くして下さいよ」  券売機の前でガサゴソやっていると、後ろで中年の紳士が苛立たしそうに言った。 「あっ、すみません。買えないんです。お財布がなくて……」  その人は、世にも哀れな私のせりふなど、まったく聞えないといった様子で、さっさと切符を買って、改札口へ行ってしまった。  それにしても、ゆっくり捜している時間はない。三時までに渋谷へ行かなければならない。幸い小銭をすこし、別に持っていたので、とりあえず切符は買える。たぶん財布はユウコの車の中に置き忘れたんだろう。あとで電話すれば、バカね、私が預かってるわよなんて言ってくれるに違いない。  そう信じることにして、電車に乗ってから改めて頭の中を整理してみた。  ユウコの車を降りる直前までは確かにあった。財布をダッシュボードの上に置いた覚えがある。そろそろ池尻大橋だから、バッグにしまわなくてはと思い、いったん財布を膝の上に置いてコートをはおった。それで、「サンキュー。じゃあまたね」と言って、車を降りた……ム、もしかして、降りるときに車の外に落ちたかもしれない。路上だとしたら、もう誰かの目にとまっているに違いない。親切な人ならいいけれど。  渋谷での仕事を早々に切り上げると、まず銀行に電話して、キャッシュカードの使用停止の手続きをしてもらった。まだ預金は無事。ユウコの方は、出掛けたきりなので連絡がとれない。万が一の期待をかけて、もう一度池尻大橋に戻ってみたが、駅で聞いても、路上を捜しても、奇跡はおこらなかった。  そのあと交番へ行き、財布が届いていないか尋ねてみた。「ああ、もうこの時間じゃ、遺失物係は帰っちゃってるなあ。とりあえず、紛失届を出してください」と、住所、氏名、職業、財布の特徴、中身について聞かれた。  えんじ、八×十センチ大  金額 五千円(千円札で五枚)と小銭少々  免許証、キャッシュカード一枚  バス回数券、テレホンカード、領収書  今すぐ、調べる方法はないんでしょうかと、しつこく聞くと、「見つかり次第、こちらから連絡しますので」という冷たい返事である。仕方なく、情けない思いで交番を出ると、いつのまにか、あたりは真っ暗になっていた。  実のところ、この財布をなくすのは、これで三回目なのである。  一回目は、バスの中。ポカポカ日和の春の日に座席で揺られていたら、何ともいえずいい気持になって、ついウトウトと居眠りをしてしまい、寝ぼけ眼でバスを降りてから、財布がないことに気がついた。すぐにそのバスの終点である目黒営業所へ行き、血相を変えて事情を説明すると、営業所の人が車庫へ行って見つけてくれた。 「それなんです。よかったー」 「まだまだ。慌てちゃだめなの」  私の前で丹念に財布を点検し、中から免許証を取り出すと、写真と私の顔を見比べながら、「ちいっと顔が違わないかい」とからかう。お礼を言って帰ろうとすると、大きな声で「今度から居眠りしちゃだめだよ」と言われる。恥ずかしさのあまり、小さくなって帰ってきた。  薄汚れた懐かしい財布を撫でながら、もう二度とお前を手放さないからねと誓ったのに、それから数カ月後に、またやってしまったのである。  二回目。  夕方電話が鳴った。 「阿川さん? 〇〇銀行のものですが、お財布なくしたでしょ」 「ヘッ、私? ちょっと待ってください」。バッグを調べてみると、確かにない。 「本当だ、おっしゃる通りです。でも」 「タクシー会社からうちに電話がかかってきて。お財布にキャッシュカードが入っていたんですよ」  すぐさま教えられたタクシー会社に飛んで行き、「ちっとも気がつきませんで、ご迷惑をおかけしました」と言うと、「気がつきゃ、忘れないですよ。よくあること」と慰められた。  二度は命拾いをしたこの財布も、三度目の何とやらで、今度こそ出てこないのだろうか。最後の頼みの綱のユウコとようやく連絡がとれたのは、夜遅くなってからのことだった。 「あった?」 「なにが?」 「…………」  思えば、あの財布は七年前、両親と一緒に初めて香港に行ったとき買ったものである。落ち着いた赤の色と手ごろな大きさ。そして何より、小銭入れのところのデザインが気に入った。口が大きく開いて、中が見やすくできているので、とても使いやすそうである。ちょっと値は張るが、思い切って買っちゃおうかしら、どうしようと、グズグズ悩んでいたのだが、店員さんが「買わなきゃ、ため[#「ため」に傍点]よ。香港、買物、世界一」と、みごとな勧め方をするのに感心して心が決った。  昔、「何かが欲しいと思ったら、三日考えて、それでも欲しければ買いなさい」と母に教えられた。たいていのものは三日もたてば熱がさめて、それほど欲しくなくなるのだから、衝動買いはしなさんなということである。買物をする度に、なんとなくこの言葉が頭に浮んでくる。その効果あってか、ものを買うとき、なかなか決められない。三日まではかけないが、迷いに迷ったあげく、ようやく決心して売場に戻ると、すでに売り切れていたり、迷い疲れて余計なものを買ってしまったりする。しかし気に入った場合はしつこい。ボロボロになるまで使って、人から、「もう、いい加減買い換えたら」と言われ、初めてその汚さに気づくことが多い。  物を大切にするというと聞えはいいが、要はケチなのである。骨相学的にみても、私のようにエラの張っている顔の人間は意地っ張りでケチなのだそうだ。意地っ張りかどうかはわからないが、ケチは自分でも認める。  マーケットのビニール袋や発泡スチロールの容器をもったいなくて捨てられない。いつか何かの役に立つのではないかと思って残しておくのでどんどんたまる。狭い部屋の中で、包装紙や紙袋の占める面積は大きくなる一方。使用済みの原稿用紙、コピー用紙も、裏をメモに使えるといって取っておく。  そんな私のためこみ癖を見た友だちは「よく、そういうおばあさん、いるじゃない。なんでも捨てきれずに、毎日包み紙の整理ばっかりしている人。あんなふうになっちゃうわよ」と言う。  数年前の誕生日に家族そろって車で都内のレストランに食事に出かけ、帰りは私が運転することになった。そのころは横浜に住んでいたので、首都高速を使えば便利だったのだが、いつもの倹約精神を発揮して一般道路を利用したら、ねずみ取り[#「ねずみ取り」に傍点]にあってしまった。制限速度二十キロオーバー。おまわりさんは免許証を見て、「ほうー、今日は誕生日ですか」と聞く。しめた、これは許してくれそうだと思い、「ハイッ!」と元気よく答えたら、「一生忘れない、いーい思い出になるでしょう」と言われて、一万円の罰金を科せられた。「変なところでケチをするから、かえって高くつくんだよ」と、父に笑われた。  ケチなために大切にしてきた財布も、とうとうなくしてしまったようだ。七年間、毎日のように持ち歩いているうちに、赤い色は沈んで黒光りしはじめ、ホックも磨滅して馬鹿になってきた。角が取れて丸みを帯び、机の上に置いたときに、ベタンと疲れたようなだらしのない表情をするところが、いかにも私になついているようで、愛着が湧いていたのに。  でもこうなる運命だったのかもしれない。お蔭でしばらくは身の回りに気をつけるだろうし、取り返しのつかないような大失敗をする前に、これくらいのチョンボをしておくことは、かえっていい薬になる。人を傷つけたとか、火事を出してしまうとか、そんなことに比べれば、愛用の財布と五千円の損失なんて、大したことはないではないか。  と、自分に言い聞かせて、眠りについた。 「あったわよ、お財布!」  ユウコの電話に起された。なんと感激的な目覚めだろう。車のドアと座席の間にはさまっていたのだそうだ。 「あなたも本当にドジな人ね。すぐ忘れるし、だらしない。ケチなんだけど、抜けてんのよね」  何を言われても仕方ない。おっしゃるとおりです。私はドジで間抜けでグズなのです。ただ感謝あるのみ。返す言葉はございません。 「その上、見栄っぱりなんだから」 「ありがとう、ありがとうの感謝の心……なに、見栄っぱり?」 「だってお財布の中、二千円しか入ってなかったわよ」 [#改ページ]   友と語らば  いじめ問題を番組で取り上げた。生徒の自殺事件がおこった学校へ訪ねていき、先生や友だちの声を集め、残された家族へのインタビューをスタジオで報告した。さらに、最近のいじめの手口にはどのようなものがあるかを、マンガにして番組で紹介した。  バイ菌ゲーム——たとえば「阿川菌」というように名前の後ろに菌をつけて呼び、汚い、病気がうつるといって、毛嫌いする。  シカト——特定の子を皆で無視する。  茶巾絞り——女の子のスカートをまくって頭の上で縛る。  生中継——お手洗いに入っている子を上から覗いて、「はい、今〇〇しています」などと、大きな声で叫んでいやがらせをする。  カステラ一番——コマーシャルソングに合せて、ひとりを取り囲み、蹴る。  悪質な手口はまだまだ続いた。聞けば聞くほど、気分が重くなってくる。  考えてみれば、いじめなんて昔からあったではないか。小公女もシンデレラも、にんじんも忠臣蔵も、みんないじめがテーマである。人間生きている限り他人とのつきあいが続くのだから、一度や二度、いじめたりいじめられたりの経験があるのはあたりまえのこと。その経験を通して人は自分の性格を再認識し、生き方を学び、強くなっていくものではないだろうか。しかし、最近はいじめが社会的問題にまで発展してしまった。テレビ、新聞、週刊誌、常にどこかでこの問題を取り上げ、いじめという言葉自体が、特殊な響きをもつ流行語になっているようだ。今のいじめと昔のいじめは、そんなに異質なものなのだろうか。  この間、久しぶりに昔の仲間と集まった。中学一年から始まって、つかず離れず、なんとなく仲よくしてきた七人グループも、高校卒業後はそれぞれ別の道を歩み、私を含む二人を除いて、全員結婚し、しあわせな家庭を築いている。その日は総勢五人で、新宿へ天ぷらを食べに行くことにした。  女同士のつきあいが二十年も続くと、遠慮も気取りも可愛げも、羞恥心も何もなくなってしまうものらしい。 「あら、御無沙汰。お元気?」なんて心やさしい挨拶はなく、「遅いじゃないの」「悪かったって言ってるでしょ」と、交す会話は辛辣そのもの。「あなた、髪切ったの」と聞けば、「あら、あなた、足切ったの」と、すかさず返ってくる。「急いで来たから、ひどい顔してるでしょ」と言えば、みんな一斉に「いつもと変んないじゃない」となる。それが習慣になっているから、誰も気にせず好き勝手に言い合っているが、慣れないうちはずいぶん傷ついた。  このグループとは、中学、高校時代を私立の女子校で一緒にすごした仲である。  その前に通っていた小学校で、私はよくいじめられて悩んだ。背が低いくせにいばった歩き方をして生意気だ。ちょっとからかうとすぐムキになる。先生と仲よくして良い子ぶっているなど、周りにはカチンとくる要素が多かったらしい。しかし、私にしてみれば何も悪いことをしていないのにどうして友だちとうまくいかないのか理解できず、毎日のように泣いていた。なるべく人によく思われよう、生意気に見えないようにしようとばかり気を遣い、新しい人間関係ができるたびに、「この人とはうまくいきますように」と心の中で祈るのが癖になっていった。  このままの人間関係で中学へ進んでもまれるより、ホンワカ育ってきた女の子ばかりがいる私立の学校に入って、のんびり暮すほうが性格に合っているかもしれないという両親の勧めもあって、受験したのである。  ところがどっこい。憧れの私立中学へいざ入学してみると、ちっともホンワカしていない。  ここでも私はいじめられる役だった。友だちは、私の肉体的、性格的欠陥をみごとに言い当てたあだ名を、次々につけて楽しんでいた。「長い髪の少女」という当時はやっていた曲の替歌を作り、私が通りかかると、「胴の、長い、少女は、いつも夢見てたー」と、大きな声で歌う。  手の込んだいたずらも数々あった。  昼休みに机からお弁当箱を取り出したら、やけに軽い。ふたをあけてみると、中には二つ割りにしたミカンが入っているだけ。スッカラカンなのである。猛烈にお腹がすいていたので、カーッと頭に血が上り、血相を変えて周りを見渡すと、教室の隅に四、五人が集まってクスクス笑っている。 「あんまりじゃない、人のお弁当食べちゃうなんて」と半泣きになって訴えると、 「そんなムキにならなくたって。食べちゃいないわよ、ほら」と、ミカン以外はちゃんと中身の入っている弁当箱を差し出しながら、笑いころげていた。私と全く同じ弁当箱を持っていた友だちが、わざわざ空の箱を持ってきて仕組んだのである。  電話連絡があった。 「あしたの大掃除では、名簿の一番から五番までの人がお手洗いの係になりましたので、たわし、ゴム長、ゴム手袋、雑巾を忘れずに持ってくるようにとの連絡です」  翌日、私は学校へ着くと、さっそくゴム長、たわしを手にお手洗いへ向った。後から誰も来ないのでおかしいと思っていると、廊下でみんなが大笑いをしている声が聞えてきた。  人のスカートをまくって上で結ぶ「茶巾絞り」も、誰かがお手洗いに入ると、上から雑巾やモップを投げ入れていやがらせをする「生中継」も、当時そんな名前はついていなかったが、同じようなことをやっていた。 「あなたたちのように、お行儀の悪い学年は、初めてです」と、先生方はいつも嘆いていらしたが、私たちはちっとも言うことを聞かず、次から次へとんでもないことを思いついては騒いでいた。  その頃、私たちの世代はみんなグループサウンズに夢中だった。タイガースのジュリーに、テンプターズのショーケンと、毎日そんな話題で持ちきりだったが、私は騒ぐ気になれず、むしろ外国のミュージカルが好きで、英語の歌ばかりを覚えていた。ある日、一通の手紙を受け取った。 「アガワさん、落ち着いて読んで下さい。あなた、最近変ったみたい。前の方がよかったって、みんな言ってるのよ。別に私たちあなたをいじめようとか、コケにしようなんてつもりはないの。でも最近、あなたといるとシラケちゃうんだ。話しててもスカッとしないし。好みも相当かけはなれてるんだな。好みを変えろなんて言わないけど、もっと素直につきあってもらいたいな。 [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  追伸…この手紙を読んで私たちから離れていくようじゃ、あなたの負けよ。友だちじゃない、ネ」 [#ここで字下げ終わり]  最後の行には、仲よしだと思っていた友だち数人の名前が連ねられていた。ショックだった。なんで私だけが、どこへいってもいじめられるんだろう。よほど協調性がないのだろうか。そんなに性格が悪いのかしら、と情けなくなった。  しかし、そのうちに周りに気を遣うことが面倒くさくなってきた。人に何か言われるたびに、いちいち反応する私のほうに問題があるんだ、どこ吹く風と受け流していれば、どうということはない。開き直りの心境になったら、急に友だちとの関係がうまくいきはじめて、学校が楽しくなった。  あの手紙を書いた張本人が、私のとなりに座り、揚げたての海老を箸でつまんで、「一度でいいからアツアツの天ぷらを食べたいと思っていたのよ」と主婦の悲哀をもらし、そのとなりで弁当箱事件の火つけ役が、「天かすを、子供のお土産に持って帰ろうかしら」と話している。 「あなたがおつりを多く取りすぎたのよ」 「いいえ、取ってません」 「取りました」  食べ終ってお勘定を払う段になって、また言い争いが始まった。お店の人が呆れている。  いつ会っても、どんなに長く御無沙汰してもこんな調子なので、我が家では「とてもお前たちのきついやりとりにはついていけない」と言われ、「ボンヤリおっとりした性格になるようにと思ってあの学校に入れたのに、まちがった」と父は嘆いている。しかし、私たちはこれでけっこう楽しんでいるのであって、こうしていつも本音を出し、気取らないでいられることが何よりうれしいのである。生活環境がそれぞれに分れていくほど、共通の話題が少なくなっていくのは、特に女の場合、避けがたいことだけれど、だからといって、「あの人、最近変ったと思わない? 話がぜんぜん合わないわ」とは、もう誰も言わない。趣味も性格も関心事も、違うことは重々承知の上でのつき合いである。すれ違いで結構。言いたいことははっきり言って、大いに笑って大いに食べて、会いたい時に会う。 「ところで、いつまでテレビの仕事続けるの。あなた、あの番組でぜんぜん役にたってないわよ」 「政治、経済に詳しくなったんだって? やっと私たちと対等に話ができるわね」  言いたいことをズケズケと、言わせておけばいい気になって、とても友だちとは思えない。思いやりがなさすぎる。もう、当分この連中とは会わないことに決めた。 [#改ページ]   名づけ墓  二歳年上の兄が生れたとき、父はなぜか女の子の名前しか用意していなかった。父の師である志賀直哉先生の『暗夜行路』に出てくる「直子」の音をいただいて、奈保子とつけるつもりだったらしい。しかし実際に生れたのは男の子。さて、慌てて名前を考えたけれど、いいものがなかなか見つからない。  当時、我が家は青山にあり、父はそこから青山墓地の近くの立山墓地を抜けて、母の入院している日赤病院に通っていた。いい名前はないかと考えながら自転車をこいでいるうちに、目に入った立派なお墓に、南尚之之墓と書いてある。よし、これはいい。初めにつけようと思っていた「直子」と音は同じだし、しかも自分の名前、弘之の之の字までついていてぴったりだ。  さっそく父は区役所へ手続きをしに行った。しかし、尚も之も当用漢字にはないので受け付けられないと言われる。 「そんなバカな話がありますか。姓のほうはいくら難しい字を使っていてもいいというのに、名のほうは当用漢字以外使ってならんとは、理屈に合わないじゃないですか」と、憤慨興奮すると、係の人は「私に言われても困ります」と答えた。  仕方なく父は、片仮名なら受け付けるのかと訊ねる。 「受け付けますけど、将来、子供さんが困りますよ」 「余計なお世話だ、受け付けるというからそうするんだ」  父は申請書に「ナホユキ」と書いて提出する。再び係の人が「ナオユキじゃなくていいんですか」と聞くので、またしても父は「大きなお世話だ。新仮名遣いは嫌いだから、旧仮名しか使わない」と、不機嫌になって帰ってきたという。  今から三十五年前、東京都港区役所赤坂支所での出来事である。  かくして兄の名は「ナホユキ」と戸籍に記されることになった。  生れたばかりの兄は、病院の看護婦さんから「ナホユキちゃん」「ナホユキちゃん」と呼ばれていたそうだが、母はそれが恥ずかしいより、「おかしかった」という。  その後まもなく、尚も之も、人名用漢字として認められることになったので、兄は無事、尚之を名乗ることができたが、戸籍には今でも「阿川ナホユキ改め、尚之」と書かれているはずである。  兄が生れて二年後、今度は毛むくじゃらの猿のような女の赤ん坊が生れた。父は「ものはついで」と思い、再び、同じ墓地へ行き、尚之の隣に南佐和子之墓を見つけた。これが私の名前の由来である。  ついでにお話ししてしまえば、私には弟がふたりいる。上の弟が生れたとき、父は、子供ふたりまでお墓から名前をいただいたのだから、今度もいただかなきゃ悪いような気がした。すでに家は青山から中野の方へ越していたのだが、父はわざわざ訪ねて行ったらしい。しかし、南家の墓で残っている男の名前は「徳太郎」というものだけだった。徳太郎さんには申し訳ないが、これはちょっと似合わないと思い、しかたなく家に帰って初めて、子供の名前を考えた。私はそのとき小学校三年だったが、父が原稿用紙の上にたくさんの漢字を書き出して、その下に「之」の字をつけ、「どれにしようかね」と家族に相談していたのを覚えている。勿論それから後、さらに歳の離れた末の弟が生れたときは、立山墓地に行くこともなく、初めから〇之方式で決められた。  自分の名前がお墓からとられたことを、厭だと思ったことはない。「気持悪くないの」「変ってるね」と人に言われても、たいして気にならなかったし、むしろ珍しい由来を誇らしく思っていた。ただ「佐和子」という名前自体は、いかにも古くさい感じがして、子供の頃、あまり好きではなかった。  当時、私のまわりには、ジュン、マリ、ユカ、ルリ、ひろみと、片仮名や、下に「子」をつけない名前の女の子が増えつつある時代だった。斬新でしゃれた名前の子が、「あら、ルリじゃない」「やだ、ユカ」と呼び合っていると、その頃、愛読していた少女マンガの主人公たちのようで、うらやましいと思ったものである。それに比べて「佐和子ってあだ名になりにくいね。でも、歳をとったらきっと似合ってくるわよ。お佐和バアサンなんてさ」と友だちにからかわれた。ふだんから私が叱りとばしている弟どもは、「どうも、怖い、怖いと思ってたら、名前がいけないんだ。逆さから読むと、コワサじゃない」と、ばかな発見をして母を笑わせるので、本人としてはまことに快くない。そんなひがみが根づいているせいか、両親以外の人に「佐和子さん」と呼ばれるのは、なんだか落ち着かなくて苦手だった。  しかし不思議なことに歳をとるにつれて、自分の名前に愛着が湧いてきた。考えてみれば、話ばかりで、一度もそのお墓を訪れたことがない。年が明けたら、父に正確な場所を聞いてお参りに行ってみようかしら、と思っていた矢先、テレビで名前の特集番組を作ることになった。  人名、地名、社名、商品名など、名前にまつわる話題を数多く集めての企画だが、その中に、墓からとった名前の持主が、そのお墓を訪れるシーンを加えたいという。これはよい機会だと思い、レポーターをお引き受けすることにした。  取材用のバスで現地に到着すると、ディレクター氏は「君はまだ来ちゃだめ。カメラの用意ができたら呼びにくるから、ここで待っててよ」と、感激のご対面カットを撮るために、細心の注意を払って下さる始末。なにやら私も少々緊張ぎみに、墓参り用の水桶と花をさげて待っていた。 「じゃ、ゆっくり喋りながら歩いてきて」  ディレクター氏から合図があった。 「はい、カメラ回りました。五秒前、四、三、二、……」 「実は私、これからお墓参りに行くところなんです。というのも私の名前は……」  私は歩き出した。カメラに向って、ことのいきさつを説明しながら、一歩ずつ足を進めていくのだが、どの辺で目的の墓が出現するのかわからない。それにしても初めてのはずのこの小径には、なんとなく懐かしさが感じられる。  車がやっと通れるくらいの狭い道の片方に住宅が建ち並び、もう片方に人の背丈ほどのフェンスが続き、その中が墓地になっている。父や母から南家のお墓の話を聞く度に、思い描いていた情景はまさにこんな感じだった。もしかして、幼い頃に来たことがあったのだろうか。そのかすかな記憶が頭のどこかに残っているのかもしれない。  不思議な感覚を持ちながら、フェンス越しに目をやると、すぐ前に「南」と書かれたお墓がいくつか並んでいた。なかでもいちばん立派なお墓が南尚之墓。そのとなりに南静子之墓。そして徳太郎と佐和子之墓という順に建っていた。 「あー、ありました。はあ、徳太郎さんと佐和子さん、一つのお墓にはいっているところを見ると、夫婦だったようですね」  カメラに向って相変らず、ひとりで喋りながら、お墓の前へ行き、水をかけ、花を供えて手を合せると、変な気分になった。自分の先祖の墓参りすら、いつも怠けていて、この歳になるまで数えるほどしかしたことのない不信心な私が、赤の他人であるはずの「南家」の墓の前で、少しセンチメンタルな、くすぐったい感じがしたのである。  と、「尚之墓」に目をやって、妙なことに気がついた。尚之の墓なら、之の字が二つ続いていなければおかしい。それなのに、この墓には之がひとつしか書かれていない。  念のため、その隣の静子之墓の裏を調べてみると、「南尚夫人、静子之墓」とある。つまり、父が「尚之」と思った墓の持主は、本当は「ヒサシ」サンだったわけである。私は急におかしくなってきた。見回してみると、どのお墓にも之がついている。静子之墓、徳太郎之墓、〇〇家之墓。之がつくという点においては、子之、郎之、家之の、どれをとってもよかったんじゃないの。極端なことを言えば、どの墓地のどのお墓からとっても、兄の名に成り得たことになる。  さっそく翌日、父に電話をしてこの一件を報告すると、「へえー、そりゃ新発見だ。俺は三十五年の間、ずっと尚之之墓だとばかり信じていたよ」と、悪びれる様子もなく喜んでいた。他人のお墓からとったというだけで、十分いい加減だと思っていたが、いい加減さにおまけがついた。  これだけいわく因縁がついてしまうと、自分の名前が、前にもまして愛しくなってくる。この世に生れてきて、「ついで」とは言うものの、両親と「南家」の不可思議な出会いのおかげで授かった大切な名前なんだから、この後どんなに辛い半生が待ちうけようとも、おそらく改名する気はおこらないと思う。しっかりお墓まで持って行って、〇〇佐和子之墓を建ててもらうのがいい。〇〇家も決らないうちに勝手なことを言うのはおかしいが、なるべくなら外の通りに面したよく目立つ場所に、しかし奥ゆかしく、感じよく建ててもらいたい。そうすれば、またどこかの安易なお父さんが、生れた娘のために「佐和子」という名をつけてくれるかもしれない。 [#改ページ]   お父ちゃんコール  とうとう留守番電話を買った。便利だという話は聞いていたが、あまり必要とは思っていなかったし、第一、こちらが電話をしたときに電話口から録音された無味乾燥な声が聞えるのは、どうも快くない。その上「ピーという発信音が聞えたら用件を言え」とは、一方的すぎる。いくら憤慨してみてもピーッと鳴るので、仕方ないから慌てて何やら喋る。自分が喋っている時に他人の相槌が入らないというのは、実に話しにくいものだし、どのくらい長く録音できるのかもわからない。言いたいことは言えず、シドロモドロのうちに電話を切ってから、自分の名前を言い忘れたことに気づく。だから留守番電話って嫌いよと、半ば嫌悪に近い感情を抱いていたにもかかわらず、とうとう買ってしまったのである。  その理由のひとつは、私の仕事が不規則な上に、ひとり暮しをしているため「なかなかつかまらない」「急な用事が伝わらない」と、周りから苦情が続出し、「留守番電話をつけるとか、ポケットベルを持つとか、早急に何とかして下さい」とプロデューサー氏から言い渡されたこと。  ポケットベルなんか身につけて、しょっちゅうピーピー呼び出されるのはたまらないから、買うとしたら留守番電話の方だなと思ったが、カタログを集めて研究する機会もなかなか見つからないまま、時が過ぎていった。  そうこうしているうちに、いたずら電話が鳴るようになった。それも一回や二回ではない。ほとんど毎晩、決って明け方の四時過ぎに鳴る。初めはびっくりして飛び起き、寝ぼけ眼で受話器を取ったが、こちらがいくら「もしもし」を繰返しても、ウンともスンとも返事がない。ただ「シャー」という、ちょうど放映時間の終了したあとのテレビ画面のような機械音が聞えるだけで、しばらくするとガチャガチャといって切れる。腹立たしく思いながらまたうとうとすると、三十分ほどでまた鳴る。出ると何も言わない。気味が悪いので、一切出ないことにしたが、もしかして誰かが倒れたとか、亡くなられたとかの急用かもしれないと思うと、気になる。出ようかどうしようかと迷いながら、布団の中で勘定していると、二十回鳴らしてまだ切れず、二十八、二十九と、とうとう三十回目にようやく静かになる。かけている側も、さぞや腕が疲れるだろうと、余計な心配をしたくなるほど長い。  そんなことが数週間続いた。  たまらなくなって友だちに相談すると、最近は、いたずら電話を防止できる電話機があると教えてくれた。セットしておけば、暗証番号を知っている人からの電話以外はベルが鳴らないようにできる。受話器を取らずに相手の声だけを先に確認し、出たくない場合は、あらかじめ録音しておいた声に応えさせることのできるものもあるという。  ほうほう、それは便利そうだ。買って損はないだろうと、さっそく秋葉原に行ってみて驚いた。電話機だけでコーナーが作れるほど、種類が豊富。色、形、機能と、あらゆる電機メーカーが、競い合って新機種を出している。その競争ぶりは、まるでテレビや冷蔵庫、洗濯機のそれと変らない。問題の留守番電話も、電話機と接続させて使う四角い箱形のものだけでなく、いまや電話機本体に留守番機能が内蔵されているものまで現れた。店員の説明を聞いているうち、わけがわからなくなって、ただ科学の進歩に恐れ入ってしまった。  初めて電話というものを見たのは、三、四歳のときである。大きな四角い木製の壁掛け式のもので、横にハンドルがついていた。そのハンドルを回すと交換手が出てくるので、電話とは、ぐるぐる回して温めると声が聞えるものなのかと思っていた記憶がある。その後、黒くて重い電話機の時代が長く続いたが、ベルの音がけたたましく、父が、仕事で気が立っているときや寝ている間は、母がよく毛布に包んで音を小さくするのに苦労していた。私が電話を頻繁に使うようになったのは中学生になってからで、昼間、学校で会っている友だちと、夜は電話でくだらないお喋りをするので、いいかげんにしなさいと叱られたものである。  大学一年のときのことだった。夏休み前の前期試験が間近に迫っていたある夜、父は晩酌の相手をしろと言い、すでに食事をすませていた私を引きとめた。 「だって、来週から試験なのよ。勉強しなきゃ間に合わないんだから、勘弁してよ」 「父親の相手を五分する時間もないというのか」 「お酌くらい自分でできるじゃない」 「いったい誰のおかげで大学まで行けたと思ってるんだ。ふだんはテニスばかりやってるくせに、あわてて一夜漬けの勉強なんかしたって、何にもならん」  父の小言を無視して、私は二階に上がったが、しばらくすると、かなり酔っ払った父が階下から大声で叫んでいる。 「さわこぉー、さわこぉー、聞えないのか。吉田ってバカから電話だー」  ふだんから子供の長電話を嫌う父は、長話をしなくても、「子供が電話をする」というだけで、たいそう不機嫌になる。 「なにもバカって言うことないじゃない、聞えたら失礼よ」  父とすれ違いざまに言って、受話器を取ると、「もしもしィ、あっカズコ、史学概論のノートね。明日持ってく、うん、じゃ」  電話を切って振り向くと、父が真っ赤な顔をして立ちはだかっていた。  娘が給仕をするのを拒絶した、テレビの野球中継を見ていたら電話に邪魔された、出てみたら娘の友だちからだったというだけで、父の怒りの構図では、爆発するのに十分な条件が揃っていた。それでも我慢して娘を呼んでやったのに、何という口のききかただ。  かくして父親は娘を、靴を履く暇すら与えずに玄関から叩き出し、可愛げのない娘の方は、出て行けと言われたからには出て行きましょうと、裸足のまま電車に乗って友だちの家へ行っちゃった。  なぜ電車賃を持っていたか、その結末はどうなったかなど詳細に関しては、また後日何かの機会にお話しすることにして、とにかく私の歴史に残る「裸足家出事件」の発端は、電話だったのである。  その後、「電話使用禁止令」が子供に発令され、兄と私は十円玉をかき集めて、始終近くの公衆電話へ飛んでいかなければならなかった。  かかってくる電話に関してどう対処したかは、はっきり記憶にないが、少なくとも長電話は決して許されず、三分以内。そのうちに、友だちの方が怖がってかけてこなくなったように思う。  父の友人で、お嬢さんに男の人から電話があると、不愉快さを露骨に表して応対する方があった。 「もしもし、〇子さんいらっしゃいますか」 「おらん」と、いやみたっぷりに答え、 「どちらへお出かけでしょうか」 「知らん」と、わざとゆっくり言い、 「いつごろお帰りになりますか」 「わからん」  と言い捨てて切るんだそうだ。こりゃいい、俺もやってやると、父は急に張り切り出して、私にかかる電話を心待ちにしはじめた。そんなことを実行されてはたまらない。おかげで私は、電話のベルが鳴る度に飛び上がって、父より先に受話器を取るために走らなければならなくなった。しかし、その元祖オラン氏が、一度、お嬢さんの学校の先生にそれをやってしまったという失敗談を聞いて以来、父の熱もさめ、大事には至らずにすんだ。  ひとり暮しを始めてからは、親子の電話トラブルも懐しい思い出になった。キャッチホンにしてあるから、「いつかけても話し中だな」と叱られる心配はないし、この留守番電話のおかげで、「お忙しいご様子で、ちっとも連絡がつかん」とイヤミを言われなくてもすむようになった。  今、私の電話機には、自分の電話番号に続いて、「これは留守番電話です。恐れ入りますが、お名前、電話番号を残しておいて下さい」とだけメッセージを入れてある。周りからは、何で名前を言わないのとか、愛想も色気もないとか不評の声も多いが、名前を言ってしまってはいたずら電話防止の意味がなくなるし、こちらのメッセージが必要以上に長いと、急いでいる人や長距離電話の場合、かえって失礼にあたるだろうと思ったからである。世の中にはこのメッセージ作りを楽しんでいる人が多いらしく、BGMを入れたり、日本語と英語の二カ国語だったり、中には夫婦ゲンカの声を聞かせ、「というわけでただいま手が離せません。またかけなおして下さい」というのまで、さまざまあるという話を聞いた。はじめは私もいろいろ企んでみようと思っていたのだが、結局、簡単なのが一番という結論に達した。長崎からかけようと札幌からかけようと、十円玉一個で電話がすませられることを自慢にしている短気な父を、以前はキザねと批判的に見ていたけれど、私も似たりよったりなのかもしれない。  最近は仕事から帰って来て、留守中に録音された電話メッセージを聞くのが一番の楽しみになっている。人の留守番電話に入れるのは嫌いでも、人の伝言を聞くのは好きという勝手な論理である。慌てていたり、おどけていたり、そうかと思えば私同様、機械に向ってしゃべるのが苦手らしく、何も言わずに切る人もいる。  そんな中にひとつだけ、いやに聞き取りにくい、短いメッセージがあった。また新しいいたずら電話かと思い、巻き戻してよく聞いてみると、たった一言「お父ちゃんだよ」で、ガチャンであった。  留守番メッセージを限りなく簡潔にしたつもりだったが、あれでも父には待ち切れなかったらしい。愛想なしの私も、父の気の短さには、まだまだ追いつきそうにない。 [#改ページ]   天気予報と雨女  テレビ番組で天気予報を担当するようになって以来、毎日の天気が気になるようになってきた。気象学としての関心が高くなったというよりは、前日私が言った予報が当っているかどうかが心配なのである。毎朝ベッドから出ると、恐る恐るカーテンを開けて外の様子を窺ってみる。ギャー、雨。確か昨日は「夜になって雨の降り出すところもありそうです」と言ったはず。きっと、低気圧の進み方が予想以上に速かったのだろうが、そんな言訳を言ったところで誰も納得してはくれない。 「日中は晴れるって言ったの誰よ」 「どうも、あなたの天気予報が一番外れる傾向があるなぁ」  言いたい放題けなされるので、外れた日は人前で天気の話はしないことにしている。  そもそも天気コメントというものをどうやって決めるかというと、私の番組では気象協会からファックスで送られてくるデータ、すなわち翌日の予想天気図と全国主要都市の天気、最低・最高気温、そして概説がもとになる。それを約四十秒から五十秒のコメントにまとめ直す。追加で新しい情報が欲しい場合は、気象協会に直接電話をして聞くこともある。あとは、前もって各局の天気予報を見てその日の動きを大体つかんでおき、それらを参考にして最終稿を作るわけである。  月に数回、大手町の気象協会に伺って基礎知識の講義を受けるというのも、にわか天気勉強のひとつである。と言っても、これ如きで独自に予報ができるほど見識が身につくものではないし、第一素人が簡単にできるのなら、予報官の方々も苦労しないであろう。その上、本番では一分足らずで全国の天気を伝えなければならず、どうしても大雑把になりがちで、「だいたい」とか「所によっては〜となりそうです」とか、曖昧な受売り的言い回しが多くなる。そのせいか、頭から「天気予報は当らないもの」と思い込んでいる人が、私の周りにはたくさんいる。  しかし、そんなに外れてばかりいるわけではない。気象庁でも「短期予報に関して言うと、八〇パーセントは当っているんですけどね。どうも外れるというご意見が多いので辛いところです」とおっしゃる。別に気象庁や気象協会の肩を持とうというつもりはないが、やはり毎日伝える立場にいると、なんとなく責任のようなものを感じるようになる。  これは私に限ったことではないらしく、夕方の天気予報を担当している女性アナウンサーは、「周りのスタッフが『どうせ当らないとは思うけど、明日の天気どうなりそう?』って聞きにくるの、感じ悪いと思いません?」と憤慨し、たとえ雲ひとつない晴天であろうとも、前日、自分の予報で「午後には雨」と言ったら、意地でも傘を持って出かけ、降り出したときは「あーら、みんな傘どうしたんですか。降るって言ったじゃない」とやりかえしてやるんだそうな。  日本のお天気おねえさんに比べると、アメリカのウェザーマンは実に独断的なのだそうで、ワンマンショーよろしく、手振り身振りもあざやかに、素頓狂な声で「明日は雨ー」と叫ぶと後ろでザーッ、「風が強い」と言えばヒュウーッ、という具合に効果音までつけて視聴者を楽しませてくれると聞いた。 「で、当るの」  アメリカにしばらく住んでいたことのある友人に訊ねると、 「さぁ、どうかしら。なにせ国土が大きいからね。全国の天気なんて雑なもんよ。東部は大雪。中部は竜巻にご注意って調子。でも、おもしろいからものすごい人気なの」  当るほうがいいのに決まってはいるけれど、たとえ外れても反感を買わないような、魅力的な天気予報ができたらいい。そう思いながらいいアイディアも浮ばないまま、相変らず「巻き」(時間がない)サインに追い立てられて、超早口で天気をお伝えしているというのが現状である。  ところで番組で一緒に仕事をしているスタッフの中に、晴れ男がひとりいる。彼と取材に出かけると、いつなん時でも必ず晴れる。天気予報が雨と言っても晴れる。本人も自信があるから、周りが「さすがに明日は降られそうだぜ」とからかい半分心配しても、「いや、大丈夫です」と余裕綽々。本当に翌日はよい取材日和になってしまう。  一度、この晴れ男くんと一緒に都内を取材して回った。カメラについての特集で、メーカーや街の声を集めた後、きれいな景色を撮ることになっていたので、晴天はその日の取材にとって絶対必要条件だった。しかし、お昼を過ぎた頃から雲行きが怪しくなり、遠くの空に黒々とした大きな雨雲が現れた。 「こりゃ、あぶないぞ、さすがの晴れ男くんも、今日はちょっと威力不足かな」  仕事がつぶれりゃいいと望んでいるわけではないが、たまには外れてもいいじゃないと、鬼の首を取った気分になり、ニタニタ笑いがこみあげてきた。  そのあと、カメラマンの篠山紀信氏にお話を伺いに、六本木のスタジオをお訪ねした。小一時間のインタビューを終えて外に出てみると、驚いたことに道路がすっかり濡れているではないか。一方、空は真っ青に晴れ渡り、さっきの雨雲は跡形もなく消えていた。 「どういうこっちゃ」 「どういうこっちゃって、僕たちがスタジオの中にいる間にひと雨あったんですよ。だから言ったでしょ、僕といれば必ず晴れるの」  得意満面に大股で歩き出した晴れ男くんを横目で見上げながら、私はムカッときた。  なんでムカッときたかと言うと、悔しいからである。なぜ悔しいか。それは、私が、雨女だからである。  小学五年生の春だった。友だちと新宿御苑へピクニックに出かけようとしたら、雨が降り出した。仕方ないので翌週に延期すると、また雨だった。これが雨女の始まりである。それ以来、何かしようとする度に雨が降る。友だちの間でも有名になり、遊びの計画があってもぎりぎりまで私だけ参加を許されなかった。  中学の修学旅行で京都へ行った時、四泊五日のほぼ全日程が雨だった。風邪気味で体調がすぐれない上に冷たい秋雨にたたられて、どんな名所旧跡も同じように見え、早く旅館へ帰って寝ることだけが楽しみになっていた。しかし、苔寺だけは好きで是非見ておきたかったので、元気を取り戻してバスを降りた。時まさに観光シーズンたけなわである。辺りは黒山の人だかり。付き添いの先生方は二百人のダラダラゾロゾロ女生徒の統率にだいぶ気が立っていらっしゃる。他の人たちの迷惑にならぬよう「前の人との間をあけないでサッサと歩きなさい」と厳しく叱られた。  サッサと歩きなさいと言われても雨が降っているのである。右手にカサ、左手に鞄を持って、二列縦隊で隣の子とお尻をぶつけ合いながら、つるつる滑る苔むした石畳の上をサッサと歩くのは至難の業である。「キャ、こわい」「押さないでよ」と、足元ばかりに気をとられて歩き進んでいくうちに、やっと難所を越えたとホッとひと息、初めて顔を上げると、そこはすでにお寺の外だった。家へ帰ってから家族に、「苔寺、きれいだったでしょう」と聞かれても、何も答えられなかった。  数年前の五月、初めてアメリカへ行った時も例にもれず、律儀な雨雲はずっと私につき合ってくれた。サンフランシスコ、ミルウォーキー、ニューヨークと、どこへ行っても、「昨日まで晴れていたのに」とか、「五月にこんな大雨が降るのは珍しいことだ」と言われ、ますます自分が雨女であることを自覚した。特にニューヨークでは、五番街を歩き始めた途端に雨足が激しくなり、またたく間に靴の中はボッチャンボッチャン音を立てはじめ、ズボンは膝の上まで吸取紙のように水を吸い上げてしまった。そんな恰好で店に入るわけにはいかない。買物する気力をすっかり失って、百メートル歩かないうちに、地下鉄に乗って宿に戻った。  雨が嫌いなわけではない。真夏の夕方に地面を叩きつけるように突然降り出すどしゃぶり雨に出会うのも、大きなガラス窓にあとからあとから落ちては流れ、合流しては分れて行く雨の粒の行先をたどるのも、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」も、みんな大好きである。しかし、旅行中の雨はいただけない。その町の印象を薄暗いものにしてしまう。特にこれといってすることのない町でも、抜けるような青空とそよ風だけで、すばらしい思い出をつくることができる。  アメリカ旅行で最後に訪れたシアトルがまさしくそうだった。ここだけは晴天に恵まれ、陰鬱になっていた気分もすっかり晴れた。森と湖と雪山と海とを一望に見渡せる町に、花が咲き乱れ、緑はキラキラ光り、リスやカモが目の前を走り回っている。お世話になった日系人ご夫婦のお宅の庭でのんびりひなたぼっこをしながら、私は決心した。「よし、いつかきっとこの町に住むんだ」と。帰国後も、あちこちでシアトルの美しさを吹聴して回ったのだが、ある時、アメリカ人の友だちに「あなたは、たいへんラッキーです。一年中ほとんど雨ばかりのシアトルで、そんなよい天気に恵まれるなんて」と言われ、愕然とした。  いっそのこと、天気予報をこんな風にしてみてはどうだろう。 「えー、天気予報をお伝えいたします。明日は、わたくし、大阪に参りますので、東京は晴れるでしょう。夕方五時に新幹線で帰ってくるので、夜には西から下り坂の見込みです」 [#改ページ]   笑ってケツカッチン  先日、番組のゲストがスタジオに入るや否や、スタッフ一同から「おはようございます」と挨拶をされて、ひどくびっくりしていらした。 「まぁ、ここでは夜でもおはようございますって言うんですか」  どう返事をしたものか戸惑ってしまったというご様子である。 「はあ、なにしろ時間の観念が、普通とはずれていて、不規則な業界なもので」 「でもなんだか変な感じねぇ」  確かに変なものである。その日初めて会ったときには「おはようございます」と言い、別れるときは「さようなら」ではなく「お疲れさまでした」と声を掛け合う。  そもそも、この「おはようございます」は舞台の世界からテレビ界に入ってきたものだそうだ。お天道様がどこの位置にあろうとも、時計の針が何時を指していようとも、さてこれから仕事を始めましょうという瞬間が、一日の始まりなのである。たくさんの人々が集まって一つの仕事を成しとげなければならない仕事場では、この挨拶が世間一般のそれとは別の意味合いを持ってくる。そう考えてみると、何となく納得のいくところもあり、慣れてしまえば違和感なく使うことができるようになる。むしろ今では、この「おはよう」「お疲れさま」で、仕事の始まりと終りを元気よく区切るのは気持のいいものだと思うようになってきた。ただテレビ局の建物の中で使う分には支障ないが、いったん外に出たらそうはいかない。  とっぷり日が暮れてしまっているというのに、道で局の人とすれ違うとき、「おはようー」と、大きな声を掛け合う。近くで聞いていた商店街のおばちゃんに、「いったいあんたたちは何時まで寝てたんだい」と、けげんな目つきで見られることがある。また取材先で、テレビ業界の人間同士で使い合うのも、他の職業の人たちの前では失礼になろう。外に出たら気をつけなければならない、いわゆる業界用語のひとつである。  挨拶に限らず、一般的でない言葉がテレビの世界にはまだたくさんある。 「時間が押す」とは、予定時間より遅れていることを意味し、その時間を取り戻すために「まき」のサインが出る。「まいて、まいて」と言えば、「急げ」ということである。  初めてレポーターとしてフランスへ取材に行くことが決ったとき、プロデューサー氏との打合せの席で、「スーパー」という言葉があまり度々出てくるので、私はその旅行が終るまで、「この番組のスポンサーはスーパーマーケットなんだ」と思い込んでいた。これくらいの言葉は誰でも知っているらしいが、スーパーとは、字幕のことだった。 「明日、取材に行って貰いたいんだけど、君はケツカッチン何時?」と聞かれたときも驚いた。これは何時まで時間があいているかという意味。「嫌う」「笑う」は、カメラのレンズを覗いたとき、不要と思われるものを画面の外に退けること。「その椅子、笑って」とカメラマンに言われた新米のAD(アシスタントディレクター)さんが、椅子を抱えてニコニコ立っていたら、たいそう叱られたという有名な話もある。  ところで、私の弟は大学生の頃、アルバイトで近所のファミリーレストランのウェイターをしていた。アルバイトといってもけっこう厳しい特訓を受けるらしく、お客様に対する挨拶から注文の受け方、食器の運搬、皿洗い、レジの打ち方と次々に教え込まれて、我が家では想像もつかないが、毎日キビキビ働いているらしかった。その弟があるとき、お客様に「ちょっと、おあいそ」と声をかけられた。一瞬戸惑ったが、なんたってお客様は神様である。テーブルに近づいて行き、満面に笑みを浮べて、持っている限りの「おあいそ」をふりまいたそうだ。 「無知もそこまでくると情けないね」 「なんだよぉ。人のこと言えないだろ。自分だってテレビじゃ『はい、そうですわね』とか気取りまくって、知ったかぶりしてるけど、本当は何もわかっちゃいないくせに」 「うるさい。黙れ」 「ほら、そういう喋り方をテレビでもしてみてよ。僕なんか会社で迷惑してるぜ。女子社員から『お姉さまって上品ねぇ』って言われる度に、『冗談じゃありません。うちじゃベランメエで怒鳴りちらしているから、家族全員恐れおののいています』って言うと、『えー、うっそー』だって。どうすりゃいいんだ」 「余計なこと言わずに黙ってりゃいいんだ」  何も好き好んでこんな風になったわけではない。兄と二人の弟に挟まれた娘ひとりが、軟弱な我が家の男どもを叱咤激励しているうちに、否応なしに身につけた生活の知恵である。もちろんいったん外に出れば、両親兄弟の恥にならぬよう、言葉遣いには気をつけているつもりである。誰だって|内面《うちづら》と|外面《そとづら》はあるもの。私の場合は、その差が人より少し激しいだけだと解釈していただきたい。ただ、ときどき内外をまちがえることがないわけではない。  仕事場で、まだ少し「猫を被っていた」時期に、急いでいて机の角に腰をぶつけ、思わずいつもの調子で「いてぇ」と叫んでしまった。はっと気がつくと、全員の視線が私に向けられている。慌てて「でございます」とつけ加えたが後の祭り。「阿川さんってけっこう乱暴な言葉使うんだね」。それまでどう思って下さっていたか知らないが、少なくともその後は、いくら私が上品にふるまってみても、それが本性だと思う人はいなくなった。  しかし、本来言葉というものは一朝一夕で身につくものではない。ふだんから使い慣れていなければ、急に美しく喋ろうと思ってもかえって聞き苦しいだけになってしまう。  私なんぞは、気をつけているつもりでも、ふだんの生活態度がそんな具合であるから、いざ目上の方にお礼状を書こうなんてときは惨めな思いをする。お礼の言葉だけを並べたて、まるで丁寧語、謙譲語の品評会のような「結局何が言いたいのかまるっきりわからん」手紙が出来上がる。読みかえすだに情けなく、目をつぶって封をすることが多い。これが言葉を自分のものにしている人の場合は、書き言葉であろうと喋り言葉であろうと、実にみごとな使い方をされる。そういう人は少々乱れた言葉を使っても、逆に粋に聞えるから不思議である。  例に挙げるのも畏れ多いが、すでに故人になられた志賀直哉夫人は、本当に魅力的な話し方をなさった。数年前、まだお元気でいらした頃に、父に連れられて新年のご挨拶に、渋谷のお宅まで伺ったことがある。よく来て下さったことねと、にこやかに迎えて下さった志賀おばあちゃまは、「今カナリアを飼っているの。お見せするわ」とおっしゃって、お腰がご不自由にもかかわらず、私の手を引き、奥の和室へ案内して下さった。部屋には、志賀家のお嬢様(といっても私の母より少しお若いくらいの)お二人がいらした。 「ちょっとごめんあそばせ、佐和子ちゃんにカナリアを見せて差し上げたいと思って」 「あら、おかあちゃま。でも、このカナリア、今日はちっとも鳴かないことよ」  田鶴子さんと貴美子さんは、私のために一所懸命口笛を吹いて下さるが、カナリアはいっこうに鳴こうとしない。 「あら、どうしちまったんでしょう。これ、これ」  と、おばあちゃまは籠を軽く叩いて、今度はご自身でピーピーと吹いてごらんになった。すると、たちまちカナリアはピルルピルルと元気よく鳴き出したのである。と、お嬢様お二人、 「まあ、やっぱりおかあちゃまの口笛は、わたくしたちのと違って|汚《けが》れてないことねぇ」  これが実の親子の会話である。私は大変ショックを受けた。  家に帰ってからもしばらくは話題になり、「私も少し反省しようかしら」と珍しく娘が殊勝なことを言い出したから、親はたいそう喜んで、「そうか、そうか、やってみるとよい」と、なんだか家中が物々しい雰囲気につつまれはじめた。夕食の時、お酒のおかわりを求める父に、 「あら、お父様、もう、およしになったほうがおよろしいわ」 「文句言うな、うるせえ」 「いやねえ、そんなおっしゃり方、下品でらしてよ」 「何でもいいから、持ってこい」 「だめって言ってることよ」  心意気は結構だけれど、そりゃ、お前、極端というものだ。借り物の言葉が丁寧なだけで、内容はふだんとちっとも変らない。お前が喋ると気持悪いから、もういいかげんにやめてくれというわけで、結局、三日と続かなかった。  それでも言葉について、親からうるさく言われ続けてきたことは幾つかある。 (一)「とんでもございません」という日本語はございません。「とんでもないことでございます」と言いなさい。 (二)店に入って「すみませーん」と謝る必要はない。「お願いします」と言えばいい。謝るときはやたらに「すみません」を連発しないで、「申し訳ございません」を使うようにしなさい。 (三)世の中に絶対ということはないのだから、「絶対」という言葉は絶対に[#「絶対に」に傍点]使うな。  チラッとでもこれらの注意に反する言葉を発すると同じお説教が始まるので、さすがにこれだけは、いやでも身についてしまった。  言葉はその人の性格、育ち方、考え方、仕事とあらゆるものを反映して、外に表してしまうから怖い。私が外では「おあいそ」をふりまきながら、「いえいえ、とんでもないことでございます。今日は仕事が三十分押しですので、ケツカッチンは七時で大丈夫ですわ」などといったやりとりを涼しい顔で繰返していると知ったら、親兄弟は今まで以上に呆れ返るだろう。これからは、外面より内面に気を配るようにしなければならなくなりそうである。 [#改ページ]   起床せざるは  ある朝、目が覚めたら、巨大な虫になっていた——というのは、カフカの『変身』だけれど、自分がゴキブリか何かになってしまったかと思われるような、恐ろしい目覚めを体験することは時々ある。  あの瞬間の気持はなんとも表現のしようがない。今の今まで、幸せ一杯に友だちと喋っていたのに、突然スーッと誰もいなくなり、ひとり取り残されたあげく、何者かに崖から突き落される。いわばそんな感じである。  つい先日もそうだった。初めのうちは気がつかない。いつもと変らぬ朝である。誰に起されたわけでもなく、自然に夢の中に入り込んでくる遠い車の騒音や改築中の隣家のトンカチで叩く音、カラスの鳴声、子供たちの遊び声などを心地よく頭の隅で感じながら、おだやかな目覚めを迎える。つむっている瞼の向う側に明るい陽の光を感じて、ようやく薄目を開け、時計に目をやると、 「八時半か……」  この幸福感を誰にも奪われたくないという思いで、いま一度、瞼を閉じる。  閉じたまま、考える。  八時半、八時半、なに、八時半!?  あっというまに崖の底である。一瞬にして眠気は消え失せ、ベッドから跳ね起きる。心臓がトクトク音を立て、体中がカッカと熱くなる。ゴキブリよりまし、ゴキブリよりましなんだと自分に言い聞かせ、落ち着きを取り戻そうとするのだが、何から手をつけるべきか整理できないまま、部屋をうろつくばかり。なにしろ私が乗るべき新幹線は、一時間半も前に東京駅を出てしまっているのである。  なんとか気を取り直して、他のスタッフが乗っているはずの、私も乗る予定だった列車に電話をしてみた。ほどなくつながり、カメラマン氏の声が聞えた。感度が悪い上、こちらは興奮気味なので、ごめんなさい、申し訳ありませんと繰返す声が、どなり声になっている。取材先の詳細を唯ひとり知っているディレクター氏はひと足先に京都に着いているので、彼と会ってからでないと対処のしようがない。結局、私の乗る列車が決ったらまたそちらに電話しますと言って、受話器を置いた。  テレビの仕事では、遅刻は致命傷になりうる。ことに契約で仕事をしている私のような人間が番組に迷惑をかけた場合は、その場は「ごめんなさい」ですむかもしれないが、翌日、首になっていたとしても不思議ではない。幸い私が出ている番組は深夜物なので、本番に遅れるほど寝過した経験はないが、朝の生番組に出演する人は、寝坊に対して極度の神経を遣っていると聞いた。朝四時、五時に起きるからといって、毎晩規則正しく九時に寝られるものではない。つきあいだ、残業だ、何だかんだで、結局、毎日四、五時間睡眠で真っ暗な朝を迎える。朝の番組から離れて数年経つのに、未だに寝坊して青くなっている夢を見るという女性アナウンサーもいらっしゃる。  中には私同様に粗忽な人もいて、知合いのカメラマン氏は、やはり早朝生番組に遅刻したそうだ。目が覚めたときには、すでに番組が終っていたという。スタジオでは、急遽先輩のカメラマンが代理を務めたので、番組に穴をあけることはなかったらしいが、そうとは知らず、番組を見ていた別の先輩たちは、「あいつ、ずいぶんうまくなったなあ」と|褒《ほ》めてくれていたという。  恐怖の目覚めから二十分後には、タクシーに乗って東京駅に向っていた。 「勝手を言って悪いんですが、できるだけ速くお願いします」 「何時の新幹線に乗るの」 「決ってないんです。寝過しちゃって」 「何時のに乗るはずだったの」 「聞かないで下さい」  信号が赤になるたびに、「あーあ」と半泣きの声を漏らし、「何分くらいで着きます?」「そっちの道、込んでません?」と、騒々しい乗客にしばらく黙ってつき合ったあと、運転手さんはボソッと呟いた。 「九時前が多いんだよね」 「何が?」 「こういうお客さん。たいてい寝坊ね。『運転手さん、急いで』って言われるもんだから、こっちもついお客さんと同じ気持になってさ。焦っちゃうの。ストレスたまるよ。九時過ぎるとパタッといなくなるけどね」  世の中には私同様、ゴキブリの恐怖を味わっている人は多いらしい。  なりふり構わず、東京駅の構内に全速力で走り込み、前に進行を遮る人あらば、迷惑なヤツだと|睨《にら》みつけ、世の中で最も急いでいるのは我なりというような、さぞや傲慢な形相をしているに違いないから、こういうときはできる限り、知合いには会いたくない。「落ちましたよ」と、大事なメモを拾って後ろから声をかけてくれた若い女性の顔を見る余裕もなく、ペコちゃん人形のように繰返し頭を下げながら、ひたすら走る。ただ走る。  切符を無事買い終えると、残る数分のうちに、そろそろ名古屋を過ぎた頃であろうカメラマン氏に電話をかけるため、また構内をひた走りに走る。が、新幹線に通じる公衆電話はまだ使える時間になっていない。「乗ってからでもかけられるよ」という駅員さんの言葉を信じて、列車に乗り込んだ。  早速車掌さんを掴まえて、「ひかり〇〇号に電話をしたいんですが」と申し出ると、五十代ぐらいのその車掌さんは呆れ返ったように私を見た。 「あのね、いくら世の中進んだって言っても、まだ、ここから走ってる列車に電話するなんてことはできないのよ」  だって東京駅で、と説明するのにも耳を貸してはくれず、検札が終るまでそこで待ってなさいと戒められた。周りの乗客にはじろじろ見られるし、先行の新幹線が京都駅に着いてからでは間に合わないと思うと、気が気ではない。ようやく車掌さんが、自分について来いと合図をして車掌室まで案内してくれた。そこには業務用の専用電話がある。胸のポケットから時刻表を取り出すと、車掌さんは時計と見比べながら、「あー、もう間に合わないな」と呟いて受話器を手に取った。 「TBSのMさんを」と、|急《せ》き込んで言うと、車掌さんは私の方を振返って、 「あんたテレビ局の人?」と訊ねた。 「ええ、まあ、そんなもんで」 「呆れた人だね。化粧にばっかり時間かけるから、乗り遅れるんだよ」と、からかいながら車掌さんは京都駅を呼び出して、新幹線がつき次第、到着ホームにアナウンスをしてくれるよう手配して下さった。  口は悪いがとても親切な車掌さんのおかげで無事、ディレクター氏とは連絡がつき、ひと安心して、ようやく自分の席に戻った。しばらくうつらうつらして、ハッと目が覚めた。またしてもゴキブリの恐怖である。  本がない!  京都での取材の資料として、ディレクター氏から借りておいた大切な本が見当らない。 「えー、毎度お騒がせして……」と、愛想笑いをしながら車掌室を覗くと、例の車掌さんが溜息まじりに私を見上げた。 「はい、今度は何ですかね」  各車両のゴミ箱をあさり、他の乗務員に聞いて回ったあげく、とうとう車内放送をして下さることになる。 「お客さまにご案内をいたします。ただいま、大切な本をなくしてたいへんお困りの方がいらっしゃいます。日本茶に関する雑誌です。お心あたりの方がいらっしゃいましたら、至急、車掌室までご連絡下さい」  車内放送を頼んだのは初めてだったが、こんな内容のものは、する側も初めてだったに違いない。五分とたたないうちに、本は無事手元に返ってきた。私が米つきバッタのように何度も頭を下げてお礼を言うと、車掌さんが答えた。 「お礼はいいから、それより早く降りてちょうだいよ」  昔から寝られなくて困ったという経験が殆どない。眠いと思ったら、部屋が明るかろうが、枕がなかろうが、他人の家だろうが、車の中だろうが、苦労せずに寝ることができる。  学生時代は授業中、居眠りをするのが得意だったので、友だちから「カメ」とあだ名をつけられた。普通、人間が目を閉じるときは上の瞼がかぶさるものなのに、カメの場合は、上と下の両方の瞼を徐々に近づけていくという。私の眠たそうな目はまさにカメそっくりだと友だちが言う。  眠くなったら、自分よりもっと眠たそうな人の顔を見ると目が覚める、と母が教えてくれたので、何度も試してみるのだが、未だ成功したことがない。第一、うたた寝している人を見つけると、私だけじゃないんだと安心してなおさら眠くなるのである。  悩みがあると、食欲が増すという人の話はよく聞くが、私の場合は、食欲はなくなる方である。そのかわりひたすら眠くなる。今まで、失恋したときは一日中布団の中に潜っていた。寝れば直る。そう信じるから布団に潜り込むのかもしれない。  乗物に乗るとすぐ寝るというのは、天性の特技である。小さい頃、父の運転する車で家族いっしょによく出かけたが、私はいつも「ほら、佐和子、着いたわよ」と起されるまで、ぐっすり寝ていた。 「あのときに、お兄ちゃんは外の景色を見ていろいろな知識を身につけたのに、あんたの方はずっと寝ていたから、未だに物を知らないのよ」と、アリとキリギリスの喩え話のようなことを、後々まで言われる羽目になる。 「身体|髪膚《はつぷ》これを父母に受く、|敢《あえ》て|毀傷《きしよう》せざるは孝の始めなり」を、「朝寝坊は親孝行になる」と思い込んだ人がいる。「毀傷」を「起床」とまちがえたものだが、私はそうよみとってしまう人の気持がよくわかる。  酒で身を滅ぼすとか、女で人生を踏み誤るとか言われるが、私の場合は、過眠で職を失いそうな予感がしてならない。 [#改ページ]   食べさせ甲斐  ある女性雑誌から、カレー特集を組むので、ひとつ阿川家秘伝のカレーを紹介して下さいという依頼を受けた。秘伝なんてものはないけれど、インド風簡単カレーならよく作りますと答えると、「それそれ、簡単なのが一番です」と担当のH嬢。  もともとは知り合いの|賀来《かく》さんという方から教わったので、うちでは「賀来カレー」と呼んでいるが、長年のうちに母や私が自己流に味を変えてきているから、原形をどれほど保っているものかはっきりしない。骨付きの鶏肉、じゃがいも、にんじん、玉葱に、すりおろした生姜、にんにくとカレー粉、赤唐辛子を加えてバターでよく炒め、そこへ牛乳をひたひたになるまで注ぐ。あとはトマトを入れ、塩、胡椒で味を調え、小一時間煮込めば出来上がり。実に簡単、手頃なので、ひと夏に何回かは思い出して作っている。  撮影の当日は総勢六人が、狭いわがアパートにカメラ機材から食器、テーブルクロス、材料、飾り用の南国風葉っぱまで持ち込んで、みるみる足の踏み場もなくなった。では、さっそく始めて下さいという号令と同時に、私は台所に立ってトントン、ジャーッと切ったり炒めたり。後ろではカメラマンがシャカ、シャカ、とシャッターを切る。パッ、パッとフラッシュをたく。隣でアシスタント嬢は赤唐がらしの匂いにむせかえり、もうひとりのアシスタントさんは足りなくなったお米を買いに走る。  カレーの匂いと熱気で部屋中ムンムン、汗みどろの大混乱で気が転倒し、何を作っているのやら訳がわからなくなってきた。が、職務に忠実なるH嬢は、「カレー粉の分量は大匙何杯ですか」「じゃがいもと鶏肉は同じ鍋で炒めるんですか」と次々に質問される。改めてそう聞かれると、ふだんきちんと意識して作っていないので、即座に答えられないことに気がついた。私の料理はいつもその場しのぎで適当に作ることが多い。大雑把、手抜き、ごまかしだらけなのである。分量だってきちんと量ったことがない。「大体」ばかりじゃ雑誌向きではないなと思ったら、だんだん自信がなくなってきた。  兄が小学校入学の時の身体検査で、「|食物《たべもの》の中で何が一番好き?」と聞かれ、「タン」と答えて、先生をびっくりさせたという話を母から聞いたことがある。「当時は、牛の舌なんてもの、食べる人が少なかったんでしょうね、わりに安かったのよ」  だからこそ、貧乏生活をしていた我が家でも食べられたのだろう。  そのタンがどんどん高くなって、最近スーパーで見かけたところでは、百グラム四、五百円している。需要が増えて値が上がったということらしい。しかし、三十年近く前、小学一年坊主が好物はタンと答えたら、誰だって可愛くないと感じるのも無理はない。  どこで教えてもらってきたか知らないが、タンに限らず、父は若い頃からヘンチクリンなものを覚えてきては、母に注文して調理させ、必然的に子供たちも幼い頃から、奇妙なものをおいしい、おいしいと言って食べていた。  これも三十年ほど昔のこと。父は突然、仔牛の脳味噌が食べたいと言い出した。いやがる母に、「うまいんだぞ。ふぐの白子みたいにうまいぞ」と説得し、とうとう肉屋に注文した。母が不気味な塊と格闘していると、男子たる父、楽しみなあまりチラッと厨房を覗き、見てしまった。途端に気分が悪くなり、とてもそんな気持悪いもの食べられないと急に変節し、近所のフランス帰りのご家族に差し上げて、たいへん喜ばれたそうである。  父は食通とかグルメとかいった類ではない。単に食べることがこよなく好きなのである。生きていく上で必要ないろいろな事柄の中でも、「食べる」という引き出しが頭の中に普通の人の五、六倍の大きさを占めているんじゃないかと思うほど、執着が強い。  兄が小学生のときの作文に書いている。 「このあいだ、お父さんは知合いの結婚式に出席しました。ご馳走がたくさん出て、お土産に持って帰れるように折りの箱まで用意されていたそうです。他のお客さんはみんな折りにつめて持って帰ったのに、うちのお父さんはまずい、まずいと言いながら全部食べてしまったので、お土産を持って帰りませんでした」  父と遊園地やハイキングへ行った思い出は全くと言ってよいほどないけれど、食べに連れて行ってもらうことは多かった。誕生日には、ものを買うより何より、「何かうまいものをご馳走してやろう」と言うのが父の口癖である。  結婚前、ひどく機嫌の悪い父を見て、母がなぜ怒っているのか訊ねたことがある。父は「まだ昼飯を食っていない。腹が減ってイライラするんだ」と答えたという。この時、母が早期発見、早期治療をしていれば、もしかすると今ほどの苦労はせずにすんだかもしれないのに、はあ、そういうものなんだなと素直に父の言うことを聞いて、その異常なまでの欲求をひたすら満足させようと努めてきてしまった。そのおかげで六十をとうに過ぎた今もって、父の食欲は衰えることなく、四六時中お腹をすかせている。  朝、起きた途端に「腹が減った」で始まって、朝御飯を食べながら、「今夜は何を食おうかな」と呟く。母と私は顔を見合せ、「せめて、晩のことは夕方になってから考えたいわよね」と言うと、 「何かうまーいもんが食いたいな」 「今夜くらいはカンターンなものですませましょうよ」と切り返すと、 「そんな情けないこと言わんでくれ。俺ももう老い先短いんだから、あと何食食えることか、数えるほどなんだ。一食たりともまずいものを食いたくない」と、悲痛な叫び声を上げる。  たまにおいしいものを食べるから感激もひとしおだと思うのだが、父の場合は、毎日欠かさずおいしいものを食べていないと気がすまないらしい。おいしい時は、箸を右手に掲げ、しばし無言で顔を伏せてから、「うまい、泣きたいほどうまい」と唸る。家族の者が次々にお皿に手をのばすと、「おい、全部食うな。それは俺のだ」と、むきになって怒るが、まずいとなったら親切そのもの。「さあさ、みんなどんどん食べなさい」と、しきりに勧める時は、怪しいと思ったほうがいい。  最近、「お元気ですか」と挨拶される度に、父は待ってましたとばかり、 「いや、実は元気じゃないんです。糖尿病の気が出てしまいまして、食事制限をしておるのです。もう先は知れております。生前お世話になりました」と言って回っている。 「ほう、なるほど、大分おやつれになりましたな」と、はっきり指摘されるといやな顔をするが、「何言ってんの、顔色つやつや、元気そうじゃない」と言われれば、それも不満なのである。  制限されると量が減るから、台所方としては少しは楽になるだろうと思いきや、とんでもない。少ないからこそ、以前にましてうまいものでないといやだと言い張って、母を困らせる。「三十五年間、うまいものうまいものってせめたてられて、ほとほとくたびれましたあ」  なんとか無事にカレーは出来上がり、「じゃ、最後に阿川さんの顔を入れて写真撮りますので、着替えて来て下さい」と言われた。隣の部屋でカレーに似合うブラウスに着替え、簡単にお化粧をして出て行くと、わがカレーの方も、用意された器にきれいに盛られ、トロピカルな即席セットの真ん中で見違えるように立派になっていた。作者、作品ともに、まさに馬子にも衣装の晴れの舞台である。 「では、カレーのスプーンを持ち上げて、レンズに向ってニコッと。ハイ、ありがとうございました」  この、ありがとうございましたが合図かのように、一斉に片付けが始まった。瞬く間に荷物はまとめられ、皆さん、帰り支度を整えはじめている。 「あのー、召し上がらないんですか」 「ごめんなさい。次の撮影が控えていて、いただいている暇がないので、持っていきます」 「持っていきます?」 「あっ、もちろんご自分の分は取って下さいね」 「はぁ」  一瞬のうちに、大量に作ったカレーも、付け合せのタイ風春雨サラダもフルーツカクテルも、器ごと消え失せた。  学生時代、料理好きの友だちから「結婚するなら、食物にうるさい人がいい。作り甲斐があるもん」という大胆な発言を聞いた時、酔狂なことを言う人がいると驚き呆れたことがある。冗談じゃない。私は極力、何も文句を言わない亭主がいいと反論した。しかし、ひとり暮しを始めて、うるさい父から解放され、作るとなると自分自身のためという毎日では、確かに作る気力が薄れていく。どうせ私だけと思うと、面倒くさくなって、レパートリーも狭くなる。  料理というものは元来、食べてくれる人がいるから作るもの。何か言ってくれるから、また作る元気が出るのかもしれない。  撮影隊が嵐のごとく立ち去ったあと、鍋の底のカレーの残りをこそげ落しながら、私は気の抜けた気分になっていた。あれこれとうるさく言われ過ぎるのも困りものだけれど、一所懸命作って何にも反応がないと、なんだか空しいのである。 [#改ページ]   おんぶ赤鬼  都内のアパートを借りてひとり暮しを始めてから一年半経ったが、未だに心底淋しいと思ったことはない。こんな告白をすると、そもそも未婚の女のひとり暮しに反対を唱えている親戚の叔母や保守的な友だちに、「意地張っちゃって」と非難されかねないから大きな声では言いたくないのだが、でも実際、ちっとも淋しくないのである。  ひとり暮しに関して数年先輩である友だちが、引っ越しをすませたばかりの私に向って、「初めはもの珍しくて平気だけれど、一カ月もすれば淋しくなるものよ」と、したり顔で教えてくれたので、案外そういうものなのかもしれないと覚悟していたが、私は二カ月経っても半年経ってもいっこうにもの珍しさが消えず、侘しくも悲しくもならなかった。  病気をすれば淋しくなるかと思うのだが、幸か不幸か、泣きたくなるほど辛い病に倒れたこともない。一度だけ風邪をひいて三十八度の熱を出した時も、睡魔に襲われはしたが、殺伐たる思いに至る前に治ってしまった。  淋しさを感じない最も大きな理由は、深夜のテレビ番組を仕事にしているからだと思う。普通の人は朝出かけて夕方帰宅するので、夜の暗闇の中に数時間一人でいるうちに、もの悲しくなるのも無理はない。しかし私の場合は、さてもの悲しくなろうかという時間に出かけて行く。夜中の二時頃、狭いわがアパートに帰ってきても、あとは寝るだけだから、暗闇の恐怖を感じる間もなく、いとも簡単に深い眠りについてしまう。  ところが近頃、月に一度か二度くらいのわりで、夜中スーッと体中が寒くなるような思いをすることがある。うまく表現できないが、淋しいという感情とは違う。ただ、とても不安定で、あまり愉快とは言えない不思議な感覚である。  この感覚は、以前に何度か経験したものとよく似ているような気がする。  一つはごく幼い頃、病気で高熱が出る度に感じたものだった。熱いな、辛いなと思いながらウツラウツラしていると、必ず同じ夢を見た。鬼に追いかけられている夢である。鬼は決って赤鬼で、トゲトゲのついた棍棒を手に全速力で追ってきた。私は泣きながら、それでも追っ手から逃れようと懸命に走っている。ところがフッと気がつくと、恐ろしい赤鬼はいつのまにか、私の背中に乗っかっているのである。私はますます恐怖をつのらせ、鬼の重さに耐えながら、おんぶしたまま走り続ける。たまに、赤鬼と私がベルトコンベアーの上を逆方向に走っている日もあった。逃げても逃げても前に進まず、ほとほと疲れる夢だった。しかも、この夢には必ず付録がついていて、最後に自分が剣山の上に立たされているシーンが加えられていた。鋭い針の先が足の裏に食い込むか、食い込まぬかの瀬戸際で、私は異常な恐怖を覚えたものである。  いやだ、怖い、と叫びながら、意識が半分戻ってくる頃には、台所で母が何かをトントン切っている音が聞えてきた。まな板と包丁のトントンが、朦朧とした頭の中にどんどん拡がって反響しはじめ、とてつもなく大きくなっていく。これ以上トントンを聞いていると、途方もないことが起きそうな気がして、泣きながら母を呼ぶのである。  いかにも情けない顔で恐怖の夢の顛末を話し終えると、母は「おかしな夢を見る子ね。なんで鬼をおんぶしなきゃならないの」と、いつも笑った。  おんぶ鬼の夢は成長するにつれて、いつのまにか見なくなったが、剣山に立たされている恐怖はその後、昼間でも感じてゾッとすることがあった。兄が「そういうの、尖端恐怖症って言うんだよ」と教えてくれたが、家族で尖ったものを怖がるのは私だけだった。  まだ横浜で両親と一緒に住んでいた頃のある夏、家に泥棒が入ったことがある。たまたま父は留守、大学生の弟は、ちょうど我が家にホームステイしていた筋骨逞しいハワイの留学生と一緒に、その日の朝早く旅行に出たばかりで、家にいたのは母と私、それに年の離れた弟の三人だけだった。  例年になく涼しい夏だった。寝苦しさも感じず、おとなしく二階の自分の部屋で寝ていると、突然、ガタガタッという音で目が覚めた。寝たままの状態で薄目を開けると、廊下に面した小窓を開け閉めしている男の影が見えた。ああ、父かな。一瞬、そう思った。夜中に原稿を書く父が、家族の寝静まった後、家中をウロウロするのには慣れている。また何か資料でも探しに二階へ来たのだろうと思った。しかし、まてよ。父は留守なんだ。あと大人の男はいないはず。じゃ、ありゃ誰だ、泥棒? まさか。  そこまで考えが及んだ時、男の影と懐中電灯の光の輪が、部屋のドアを開けて中に入ってきた。この|期《ご》に及んで逃げ道もない。落ち着け、落ち着けと自分に言いきかせながら、小さい頃、もし熊に出会ったら死んだふりをするんだよと教えられたことを思い出していた。  男があちこち物色した後、私の部屋を出て階下へ下りていったのを確認してから、二階の電話で一一〇番へ通報した。数分後、お巡りさんや刑事さんが次々にやって来て、早速私の事情聴取が始まった。六、七人のお巡りさんたちが入れ替わり立ち替わり自分のメモ帳を手に、「悪いけど、もう一度初めから聞かせてよ」と言うので、その度に私は、泥棒さんはここから入ってきて階段を上がり、この窓を開けてと、一から話し始めなければならなかった。こうして何度も繰返すことが事情聴取の方法の一つだとは、後になって知ったが、その時は「何遍も同じこと言っているうちに、だんだん話が大きくなっちゃいそうです」などと冗談を言ったら、刑事さんに「あんた、気丈な人だねぇ」と感心された。  結局二カ月後に泥棒は捕まった。警察で、百枚ほどの写真と「お見合い」をした挙句、私が選んだベスト・ファイブのうちの一人が犯人だった。横浜だけでなく東京都内も合せて、ひと夏で五十軒近くの家に忍び込んでいたという、かなりのベテラン、プロの泥棒だったのである。  雨がしとしと降る晩に、二人連れの刑事さんが犯人を捕まえたという報告にやって来た。「車に乗っけてきてるんですが、会いますか」。冗談じゃない、いくら気丈と言われた私でもそれはご遠慮します、と答えると、「じゃ、もう一度だけ、あの日の状況を話して下さい」と頼まれた。  多分この話をするのも今度こそ最後になるのだろうと思い、二カ月前の事件を思い出しながら話し始めると、おしまいに刑事さんが、 「で、被害総額は?」 「えーっと、私のお財布からだけなんですが、はっきり金額がわからなくって。でも一応、一万から二万円の間くらいって申し上げておいたはずですが……」  それまで黙って私の話を聞いていた刑事さんは、ここで初めて首をかしげた。 「おかしいなあ、合いませんなあ。いや、犯人はここの家からは六、七千円しかとってないって言うとるんですがねぇ」 「気丈な娘」の評判が近所に広まり、道を歩いていると、近くの奥さんからときどき声を掛けられた。「怖くなかったの」と訊かれる度に、「いやー、それほどでも」と照れつつ、調子にのってペラペラ喋ってくるので、母は大いに心配していた。「いい気になって。お礼参りにでもこられたらどうするの」  私だって全く怖くなかったわけではない。口では何でもないように言っていたが、身体の方には恐怖感が残っていた。あの事件の日以来、長い間、決って毎朝三時半に目が覚めた。泥棒が入ってきた時間である。ガタガタッという小窓のきしむ音を聞き、男の影を見る。ハッとして暗闇に目を凝らして見ると、何もない。ようやく安心してまた眠りにつく。そんなことを何度も繰返した。薄ら寒いような心細いような、言いようのない不安な気持だった。ちょうど幼い頃、剣山の上に立たされている夢を見た時と、同じ恐怖だった。  しばらく忘れていた感覚が、なぜまた最近復活したのか、初めはわからなかった。時刻は定まっていないが、月に一、二度、突然眠りから覚める。体中が安定せず、皮膚感覚が異常なほど鋭敏になって、何かにしっかりつかまっていないと奈落の底に突き落されてしまいそうな不安感に襲われる。  母親を呼びたくても、好き好んで家を出てしまった以上近くにいるわけもなく、第一そんな年ではない。気を落ち着かせるために、自分で自分をなだめてみる。「大丈夫。どうってことないんだぞ」「よしよし、大きく息を吸ってー」  この奇妙な感覚を数度経験するうちに、原因がわかってきた。つまり、原稿の見通しがつかない時に限って恐怖の夜はやってくるが、それが解決しはじめると、発作はぱったり起らなくなるのだった。 「売れっ子作家じゃあるまいし、月に何枚書いているって言うの。バカねぇ」  この話をしたら、友人は呆れ返ったように笑い転げ、「バカねぇ」を何度も繰返した。私は内心ちょっとムッとしたものの、反論の余地はない。 「でもねぇ、引き受けてしまった原稿の締切が刻々と近づいてくるのに、何も書くことが頭に浮んでこない時って、本当に怖いものなのよ。たとえて言うなら、剣山の上に立っている最中に、泥棒に襲われて、慌てたついでに赤鬼を背中に背負って逃げる。そんな感じなんだから」。いくら説明しても到底理解してもらえないだろう。結局私は、友人の正当なる指摘の前に屈するしかなかった。 [#改ページ]   通勤フレンド  久しぶりに満員電車に乗った。朝早く大宮まで行かなければならない用事があり、新宿駅から初めて埼京線を利用した。ホームのまん中にボーッと立っていたら、いつのまにやら横に人の列が出来ており、列からはみ出ている私は、「あんた、乗る気があるんなら、ちゃんと並んで頂戴よ」といった冷たい目つきで睨まれた。誰もが不機嫌そうに押し黙ったまま、しかし朝のラッシュのマナーやコツに関しては、暗黙の了解ができているように一定のリズムを保ちながら、人の流れが構成されていく。  ホームに電車が入る。ドアが開いて人々の塊が押し出され、全員出終るか終らないうちに、今度はホームに並んで待っていた人たちの列が、一斉に小さな箱めざしてなだれ込む。ひと言も声を立てず、しかし誰もが足早に席を争う。  えらいこっちゃという気持と同時に、懐かしさが込み上げてきた。今でこそ深夜の仕事が生活の中心になり、ラッシュの時間に電車に乗る機会は殆どなくなってしまったが、数年前までは私もこの激烈なる朝夕の沈黙の戦いに、エネルギーの大半を費やしていた時代があったのを思い出したからだ。  中学二年の終りに横浜に引っ越して以来、現在の仕事を始めるまでは、学校もアルバイト先も都内にあったので、毎日満員電車に乗って、自宅から一時間余りの道のりを通っていた。横浜といってもいわゆる港横浜ではなく、住民の大半が通勤・通学先を東京に持っているベッドタウン、新興住宅地であるから、朝夕の電車の込み方は尋常のさたではない。朝のピークは七時過ぎから始まる。この時間帯の電車に乗りたいと思ったら、よほどの覚悟と体力をもっていないと、とうてい太刀打ちできない。それならもっと早い、電車が確実にすいている時間に乗ればいいと思うが、とてもそんなに余裕をもって起きられないから、結局込む時間になってしまう。  毎日のことなので次第に要領を得て、どうすれば込んだ電車の中で生き延びることができるかを学んでいく。例えば、階段の近くのドアから乗るのは避ける。やっとの思いで乗り込んでも、発車寸前に駆け込んでくる若いサラリーマンに後ろから押されて、危うく腕の骨を折られそうになったことがある。  次に車内での位置。生半可な場所に陣を取ると、電車が動き出してから死ぬ思いをする。しっかり垂直に立っているつもりが、いつの間にやら手と足とがそれぞれ逆の方向に引っ張られ、もし、今この恰好を写真に撮られたら、決して嫁にはいけないだろうと思うほどの不様な体勢になっていて、辛いと感じながらも笑いが込み上げてくる。  私は背が低いので、ちょうど男性諸氏の身体の中では一番面積を取る、肩の位置に顔がくることになり、息ができなくなる。おまけにその肩を急に近づけられたりすると、うっかり口紅が背広についてしまい、「つきましたよ」とも報告できず、「家へ帰ってもめなきゃいいけれど」と、ひそかに心配したりする。  そんなわけで私の場合、一番立ち心地のいいのがドアの横である。駅に着く度にいったん降りなければならないのは少々面倒ではあるが、人と人の間に埋まって左右にゆすぶられるよりは、はるかに安定感があっていい。それに慣れてくると背の低いことを利用して、とてもこれ以上乗れないと思われるほどの込み具合でも、両の足を置くスペースさえ確保すれば、身を縮めて楽々と乗り込むという特技を会得できる。  ハワイから来た十六歳の男の子を、ひと夏だけ我が家で預かっていたことがある。夏休みを利用しての短期留学生プログラムで、日本の家庭に滞在させて、日本を肌で理解させようという趣旨のものらしかった。我々家族が預かったロッド君は金髪でなかなかの美少年。いつもジョバーンのオーデコロンをプンプンさせて、かなり女の子にもてそうな感じの男の子だった。  特別なもてなしをするのはその子のためにもなるまいと、できるだけ家族同様に接するつもりではいたのだが、半分英語、半分日本語の生活を続けていると、家族同士の会話もだんだんヘンチクリンになっていき、いつもと調子が狂う。あげく、母や私に対する態度はさすがにレディファーストの国に育っただけあって、「今日の洋服はとてもすてきです」とか、「その髪型、好きです」なんて聞き慣れないお世辞をジャンジャン言ってくれるから、悪くない気分になる。「生意気ねぇ」と言いながら、母と私はいい機嫌になる。我が家の日本男児どもはますます調子が狂う。  さてロッド君は、毎朝家から都内の高校まで、日本語の勉強をするために電車で通わなければならなかった。ハワイに通勤ラッシュはないだろうから、あの混雑に耐えられるかどうかが心配である。慣れるまで私が一緒についていくことになった。  母に「バーイ」と言って玄関を出た彼は、駅までの道すがら、すれ違う人すべてに、「ハーイ」と愛想よく声をかけながら歩いていく。かけられた方は一瞬とまどい、うつむきかげんに遠ざかる。一緒に歩いている私は少々気恥ずかしくなる。  そして問題の満員電車である。よせばいいのにロッド君は、人に触れる度に「エクスキューズ・ミー」と謝りはじめた。右に謝り左に謝り、前に後ろに謝りまくって、哀れにも、それだけでくたびれ果てた様子だった。「きりがないからやめなさい」と言う私の忠告も聞かず、初日はずいぶん頑張っていたが、三日目くらいになると諦めたらしく、何も言わなくなった。せっかくの好意と礼儀が日本では通用しないと彼が納得してしまったのが、私にはちょっと寂しく思われた。  ロッド君には理解しにくいかも知れないが、いかにも退屈そうに押し黙ったまま通う毎朝の通勤時間の中にも、ちょっとした楽しみを見出すことはできる。  朝の電車に乗る人は、大抵誰もが自分の乗る時間を決めているから、いつのまにかお馴染みの顔を覚えていく。口をきいたこともないのになんとなく親しみを感じはじめ、たまにその人の顔が見あたらないと風邪でもひいたんじゃないかと心配になる。  その上、不思議なことに、私は電車の中で知合いに出会う機会が多かった。友だちのご亭主だったり学生時代の友だちだったり、滅多なことでは会いそうにない人に限って、こういう落ち着きのない会いかたをする。 「いつもこの電車?」  返事をしようとすると、電車が揺れて友だちが遠ざかる。 「だいたいね。寝坊しないかぎり」  ようやく人と人との隙間を縫って答える。 「じゃ、これからなるべくこの車両に乗るようにするわよ」  そんなこと言われても、これだけ込んでいてはまたいつ会えるかわからない。そう思いながらも、けっこう翌日からその人の姿を必死で探すようになる。  駅を出てからアルバイト先までの十分足らずの道のりで、決ってすれ違う女の人がいた。その人は私とほぼ同世代のように見えた。決して派手ではないが、何気なくしゃれた服装をしている魅力的な人で、毎朝、その人とどの辺ですれ違うかによって、「ああ、今日は私が遅刻気味だ」だの、「あちらが遅い」だのと勝手な目安をつけていた。  ちょうどその頃、周りでは友だちの結婚が次々に決っていき、週末になると、私は人の結婚式に出席するか、自分自身のお見合いをしているかのどちらかというふうだった。幸せ一杯の友だちを送り出し、今ひとつはっきりしない見合い相手とのデートをすませて週が明ける。  満員電車を降りて機械的に歩を進めていると、またその女性に会う。「ああ、きっとこの人も結婚しないで仕事に生きているにちがいない」  こんなすてきな人だってひとりで頑張っているのだから、何も焦るこたあない。口をきいたこともなかったし、挨拶を交したわけでもないから一方的に極めつける根拠は何もなかったのだが、いつの間にかそう信じていた。  しばらく見かけなくなったので、どうしたのかしらと思っていたら、ある日、ばったり新宿駅で行き合った。「あっ」と一瞬声を上げ、お互いに「こんにちは」と挨拶をした。長い間の知合いのように思えたから自然にそうなったのだが、考えてみればきちんと目を合せてお辞儀をするのも、口をきくのも初めてのことだった。喋らない関係が習いになっていて、急に無声映画の中から音が出たような驚きだった。変にあがってしまい、それ以上、話をする勇気も名前を名乗るきっかけも掴めないまま、愛想笑いを浮べながらその場を去ろうとした。去り際に何気なく彼女のお腹を見て、私は再び声を上げた。その人はもうすぐお母さんになるところだったのだ。  それっきり会うこともなくなってしまったが、今頃どうしていられるか、気になる「通勤フレンド」である。 [#改ページ]   無礼せんべい  いたって筆不精である。書かなければならないお礼状を次々に溜め込んで書くべき時期を逃してしまうから、いざ実際に不承不承書きはじめるときは、まず何故こんなに遅れてしまったかの言訳とお詫びから始めなければならなくなる。申し訳ありませんでした、恐縮です、ありがとうございましたの連発で、面白くもおかしくもない。しゃれた言葉ひとつ出てこないわりには時間がかかり、面倒くさくなって、まぁいいかと途中で妥協する。投函する。後悔する。忘れることにする。忘れる。この繰返しでいっこうに進歩がない。  昔はこれほど、億劫がっていなかったように思う。と言っても、手紙を書くのはもっぱら同年代の友だちが対象だから、気軽になるのは当然のことかもしれない。遠くへ転校してしまった友だち宛やら、旅行先からの絵葉書やらを楽しんで書いていた。一時期は上級生、下級生同士の文通が盛んだったことがあり、私も二学年下の女の子と週一、二回ずつ、文通のような日記交換のようなことをやっていた。  女ばかりの学校で、手紙のやりとりをしていたと言うと、男の人は気持悪く思うらしいが、聞くところによれば、母の学生時代にもあったと言うから、歴史は古いし、特に異常なことではないようだ。中身はたわいのないことばかりで、授業中に起った出来事や、先生の悪口、テレビの話、人気グループサウンズの噂から宿題、試験の話など、時には途中で読むのが面倒くさくなるほど、長々とくだらないことをお互いに書いていた。出だしは、ディア〇〇とか、〇〇ちゃんへ。本文は「いま、十時半、宿題やっと終ったところです。うれしいよぉ」という調子だった。  いまの子供たちの漫画字や丸文字がとかく世間で話題にされるが、考えてみると十年以上前の我々の中学・高校時代から、すでにそういった丸文字の人は結構いたような気がする。また、文通をしているうちに友だち同士がお互いに影響を与え合い、流行の字体に近づいていくので、そのうちに誰もが同じような字を書くようになっていた。自分で見ても他の人の字と区別がつきにくいと思ったことさえある。古いノートをひっくり返してみると、小学生の頃の字のほうがよほど素直で個性的なのに、学年が進むにつれ、だんだん字が小さく、丸っこくなっている。とても「いまの若者は字に個性がない」などと、偉そうに非難できる立場にはない。  手紙というのは不思議なもので、自分が書くのは億劫がるくせに、たまに書くと、今度は一刻も早く返事がほしいと心待ちにする。なかなか返事が届かないと、もしかして着かなかったんじゃないかとか、読んで不愉快になったのかしらと、妙に気になるものである。かといって、相手のところに電話して、着いたかどうかを確認するのも恩着せがましい。第一、せっかく手紙に|認《したた》めた意味がなくなってしまう。手紙には手紙で応答してもらうのが、いちばん嬉しいと感じるものではないだろうか。  何も、離れたところにいる人に手紙を書くだけが能じゃない。毎日のように顔をつき合せている人に対しても、たまには手紙を使ってコミュニケーションをはかるのはよいものである。昔、母親と激しく喧嘩した後、仲直りをする手段として手紙を使うという友だちがいた。おまけに「うまくいった時はふたりで抱き合って泣いちゃうの」と告白され、何とドラマチックな気持悪い親子かと、仰天したことがある。ちょうど私が、父としょっちゅう衝突して悩んでいた頃だったので、その友だちは親切にも解決策を示してくれていたのだが、とてもそんな勇気は起らず、結局、一度も実行しなかった。  その後、大学時代に仲のよい友だちとけんかをしてたいそう気まずくなったことがある。無視していればそのまま時は過ぎていくけれど、どうも頭に引っ掛かってすっきりしない。気になると他のことも手につかないので、思い切って話し合いをしましょうという段取りまではこぎつけた。しかし約束の喫茶店でいざ面と向ってみると、なじり合うほどの怒りは湧いてこない。かといって、笑ってすませる雰囲気でもない。しばらく沈黙が続き、やっぱり会わなきゃよかったかしらと情けなくなってきた。  しばらく黙っているうちに、ふと、目の前の人間宛に手紙を書いてみようかという考えが頭に浮んだ。持っていたノートにひと言書いて前に突き出す。相手が渋々返事を書く。初めはぎごちなく不自然だったが、何度かやりとりしているうちに、お互い調子に乗ってきた。口では気恥ずかしくて言えないようなお詫びの言葉から、「ちょっと、お手洗いへ行ってくるからね」に至るまで、何でも書けたのである。  この作戦は大成功を収め、お互いに一語も発することなく、仲直りできた。ただ、そのあと一緒に店を出て、電車に乗っても黙っている癖がしばらく抜けず、声を出すきっかけを掴むのに少しだけ苦労した。  以前、開高健氏の奥様で詩人の牧羊子さんから、両親宛にお手紙を頂戴した。「ほら、あなたも後学のために、こういうすばらしいものは見ておきなさい」。母は、私の前にその手紙を拡げてくれた。  薄い和紙の便箋に品のいい、美しい字が毛筆で書かれていた。文章には一切の無駄がなく、丁寧でありながら決して堅苦しくない。人生の経験を積んでいけば、いつかこんなみごとな手紙が書けるようになるのかなあと溜息をついたら、そう言われると返事が書きにくくなるじゃないのと母が睨んだ。  開高夫人の手紙文には、変体仮名が巧みに交ぜられている。 「変体仮名っていうものは、多すぎても嫌みだし、少なすぎても妙だから難しいのよ。なかなかこんな風に使いこなせるもんじゃないんだから」と言う母の解説に、「はぁ、なるほど」と改めて読み返してみると、文末のところどころに「万寿」という文字が使われている。何々でござい万寿、有難うござい万寿、元気にしており万寿。 「何、このマンジュって」と、母に尋ねると、 「ばかね、『ます』のことよ」  小さい頃、私は「|万寿姫《まんじゆひめ》」という絵本が好きだった。室町時代に書かれた「御伽草子」のなかの「唐糸草子」の話がもとである。万寿姫の母、唐糸は主君木曾義仲の命を受け、鎌倉へ行って源頼朝を殺そうとするが、失敗して石牢に入れられてしまう。報せを受けた幼い万寿姫は何とか母親を救おうと、乳母の更科を伴って鎌倉に上り、素性を隠して頼朝に仕える。何カ月もかかってようやく母の居所を突き止めるのだが、救い出すことができない。そのうち、頼朝が鶴岡八幡宮で祭を行うために舞姫を募集していることを耳にし、万寿は早速立候補する。 「もし、殿様の前で上手に舞えば、母上の赦しを乞うことができるかもしれない」  たった十二歳の万寿姫は、母を救うために懸命に舞うのである。  とうとう思い叶って、万寿姫の舞が頼朝の目に留まり、前へ呼ばれることになった。 「すばらしい舞を見せてくれた礼だ。何でも望みのものを申すがよい」 「では、唐糸を石牢から出してくださいませ。唐糸は私の母でございます」  親孝行な娘のおかげで、唐糸は無事釈放され、寛大なる頼朝の前で、母と子は涙の対面をするのである。私はいつもここでジーンときて、もらい泣きをした。しかし、何と言っても好きだったのは、やつれきった母と牢屋の柵ごしに手を取り合っている万寿姫の横顔と、十二単を身にまとい一心不乱に舞う万寿の晴れ姿のページだった。かわいらしいプクッとふくれ気味のほっぺたがとても魅力的に感じられたのを、いまでもはっきりと覚えている。絵本の上に薄紙をのせて、かすかに写る万寿姫の姿を鉛筆でなぞってよく遊んだ。  万寿と聞くと、必ずこの万寿姫の顔を思い出す。可憐で悲しく、プクッと丸いイメージが湧いてくる。そんな懐かしい万寿姫の思い出と重なって、私は開高夫人の万寿がたいそう気に入ってしまった。  それ以来、家の中では、「ます」と言うところを皆、万寿に変えて、「行ってきマンジュ」「日本酒にしマンジュ?」と面白がって、流行語のように連発した。  それからまもなく、開高夫人が私宛に本を送ってくださった。早速お礼状をと思ってはみるのだが、あのすばらしいお手紙を拝見した後では、緊張してなかなか書けない。いくら気に入っていると言っても夫人の真似をして、「万寿」を使うわけにもいかない。思いついて最後にひと言、「どうぞまた、うちへもお遊びにいらしてくださいまセンベイ」と書き加えてみた。これはいい。面白いぞと、得意になって母のところへ持っていき、「どう」と見せると、母はケラケラ笑いながら「何やってるの」とは言ったが、特によしなさいと止める様子はなかった。そこでますます自信を深め、意気揚々とその手紙に封をしてポストに入れた。  投函したあとで、ちょっと軽薄だったかしらと気になりはじめたら、ひどく不安になってきた。同年代の友だちではないのだから、やはりたいそう失礼なことだったろう。でも、もしかして「面白かったわ」とおっしゃってくださるかもしれないと、かすかな希望を捨てないことにした。  一週間ほどして、開高夫人から電話をいただいた。母が応対していたので、私は横に座り込んでじっと聞き耳を立てる。いつものように笑いながらの話が続いており、雰囲気はまずまずである。しかし、いくら待っても、「いいえ、娘がばかな手紙を出しまして」という言葉は出てこない。そのうちに「御免くださいませ」で受話器が置かれた。母は私のほうに向き直って言った。 「あまり受けなかったみたいよ」 [#改ページ]   おしゃべり一家  日曜日。「お昼御飯食べにこない? おいしい卵とじうどん、作ってあげる」という電話に釣られて出掛けることにした。彼女は結婚して十年、最近、子供たちの手が離れたからと言って、自宅でできるアルバイトを始めたらしいが、一応は専業と名のつく主婦である。中学以来の友人で、もう二十年近いつきあいになる。学生時代は格別お喋りなほうではなく、周りの友だちの聞き役になりながら、時々グサッと鋭い意見を発するのを得意としていた。しかし、久しぶりに会って、ご亭主様に対する様子を傍からうかがっていると、どうも昔のイメージとは違う。散歩から帰ってきたダンナに私の近況などを細かく報告したり、タレントの噂話に見解を述べたりと、うどんを作りながら食べながら、よく話す。ご亭主のほうは、「うん」「ああ」「ふーん」といった音を出すばかりで、殆ど文章になる言葉を発していない。  二人の仲が悪いわけではない。妻はそれ以上の答えを亭主に期待していないようだし、夫は夫で、妻のひとり解説をうるさがっている様子も感じられないのである。 「あなたって、そんなに喋るほうだっけ」と感心して訊ねると、 「ダンナと友だちに挟まれて、気を遣ってるだけよ」との答え。  しかし、二人が結婚したばかりのころ、新居に遊びに行くと、一所懸命会話を盛り立てようと気を遣っていたのはご主人のほうで、新妻はもっぱら台所で立ち働きながら、「うん、うん」と頷いてばかりいた。相変らず静かな人だなあと思ったのを記憶している。  長年連れ添っているうちに会話の役割分担は、それなりのバランスを保ちながら変化するものなのだろうか。他人には通じない二人だけのリズムがあるのかもしれない。世の亭主族、夫婦像の実態を垣間見たような気がして、面白かった。  我が家では二人いる弟のうち、上のほうが「無類のお喋り」である。いったい、いつからあんなに喋るようになったかと思い返してみるのだが、どうもオギャアと生れた時から騒々しかったようだ。兄や私とは少し歳が離れているせいか、小さい頃から母親にベッタリくっついて、一日中口を開いていた。朝起きるとその日見た夢の話から始まって、歯を磨いた時の感想、朝御飯の味、友だちの話など。また、それらを話している最中に感じたこと、起ったことまでつけ加え、いちいち全部報告する。一度話し始めると、ひとつのテーマが終るまでに異常なほどの時間がかかるので、短気な父にいい加減にしろと怒鳴られて、部屋から追い出されることになる。  話半分でむりやり中断させられた弟は不満が鬱積し、父が書斎に入った隙をみて母の部屋に潜り込み、また話をぶり返す。部屋の片付けや書類の整理をしながら、母は止めどなく続く弟の声を、まるでつけっぱなしのラジオを聞くかのごとくに耳に入れ、時々「ふーん」「そう」と適当に相槌を打つ。その無関心さがまた、弟の癇に触り、 「ねえ、聞いてんの、聞いてないの」 「聞いてるわよ。もう、いい。分った」 「まだ、全部話が終ってないんだから」 「いい加減にして頂戴。しつこい」 「しつこくない」  しょっちゅう言い争っている。  ひとりで喋り続けている弟に、「お小遣いあげるから、一時間黙っててくれない?」と提案したことがある。驚いたことに弟は、「黙ってるくらいなら死んだほうがましだよ。こっちがお金払っても喋りたい」と反論し、「何のために口があると思ってんの。どうしてそういうくだらないこと言い出すわけ?」とたたみかけるように言って怒りはじめたので、大いに閉口した。  一般に男の子は、年頃になると極端に無口になるものだそうである。知合いのお宅でも、ここ二、三年、父親と高校生の息子との関係は、廊下ですれ違った時などに「おう」と父親が声をかけ、息子が「ああ」と返事をする「オーアー会話」だけで続いているという。  我が家のお喋り弟が中学の頃、校内で起きたもめごとについて、PTAで報告があった。殆どの親にとっては寝耳に水の話で、びっくり仰天のチンプンカンプン。 「まあ、いったい何があったっていうんですの」  報告屋の息子からすでに事の経緯を聞いていた母だけは驚かず、他のお母様方に詳しく説明して差しあげたそうである。と、皆さん、口々に「お宅が羨しいわ。うちの息子なんて、学校から帰ってくるとさっさと部屋に閉じ籠って鍵までかけちゃうんですよ。何考えてるのか、何してるのか全く分りゃしない」  そういう心配は弟の場合、皆無と言っていい。本人もその点を十分に自覚しているらしく、「たとえ、どんなに悩むことがあっても、僕の場合は黙って自殺はしないよ。事前にちゃんと報告するから」とたいそう親孝行なことを言って、母を複雑に喜ばせていた。  この弟に限らず、我が家には無口な人間がいない。皆がみな、自分の喋ることを聞いてもらえないと不満に思い、自分以外の人間を「喋り過ぎる」と非難する。総ての情報は五分以内に家中を駆け巡り、いくら口止めしても秘密の守られたためしがない。秘密を知った人間は嬉々として張本人に話を戻し、「お皿、割ったんだって」「また、マージャンするんだって」と|暴《あば》くから、終いには、互いに「お喋り!」と罵りあうことになる。  兄も小さい頃、父からよく「チャック」と怒鳴られていた。「口のチャックを閉めろ」という意味である。その度に兄が口を一文字に固く閉ざし、じっと耐えていたのを思い出す。学校では友だちから「ガチョウさん」と呼ばれて親しまれていたそうだが、「親しまれていた」と言っているのは本人だけであり、実際はガチョウのように「がーがー」よく喋ったというのが命名の理由だと推察される。  四人兄弟の中では、中学二年になる末の弟だけが比較的口数が少なく、会話が交錯している夕食事の混乱状態の中で、ひとり黙々と食べている。たまに「おいしい」とか「おかわり」とか、ボソッと呟く他はただ黙々と食べる。別世界で空想に耽っているわけではなく、一応周りの話題に耳は傾けているらしい。深く頷いたりケラケラ笑ったりはする。「一生に一度でいいから静かーに食事がしたい」と、不満を述べている父も、この弟の寡黙さ加減は我が家で異例のことと感じたようだ。 「おい、何か悩みでもあるのか、体の調子が悪いのか」と妙に気を遣って話しかけるのだが、淡々とした弟のほうは、「いや、別に。元気です」と最小限の言葉で返事をする。 「あいつ自閉症じゃないかな」と父があまり真剣に心配するので、とうとう母は弟の小学校へ行き、担任の先生に相談することになった。 「問題ありません。教室では決して無口な子じゃないですから」と先生は笑っておっしゃったそうだ。  お喋りな家族に囲まれて、喋ろうにもチャンスが掴めなかっただけなのである。  周りがお喋りばかりだと、父ならずとも、せめて|一時《いつとき》でも静かに心安らぐ人のそばにいたいと願うようになる。私も昔から無口な男性に憧れるところがあった。  そんな憧れの人が近所に住んでいた。ちょうど私が中学生、あちらが高校生で、通学路もほぼ同じだったので、最寄りのバス停で会えれば小一時間は一緒にいられる。「おはよう」と言う時の恥ずかしそうな笑顔といい、ニヒルな目許といい、我が家の男どもには決して見られない謎めいた魅力に満ちていて、「ステキ!」だと思った。  しかし、駅に着いてホームで電車を待ち、電車に乗り込んでも、「おはよう」以上に進展がない。一緒にいるのがいやなら、「僕はあっちの車両に乗るのでバイバイ」と言ってくれれば諦めもつくが、そういう風でもない。隣にいる人間と長い間黙ったままでいるなど、我が家ではついぞ経験したことのなかった私には、とても辛く思われた。が、ここで女のほうから声を掛けてなるものか。女がすたる。じっと我慢して待とうと、半ば意地になって耐えた。  二十分後。突然、テキは声を発したのである。 「試験、いつから?」  きた、きた、きた、と思った。ようやく会話が始まりそうである。胸が高鳴った。二十分の我慢が一気に爆発しそうな気持を辛うじて押えた。きっとテキもきっかけが掴めなかったのだろう。焦らず、寛大に、あくまでも謙虚に受け止めなければならない。  私は、さも何気ないふりを装って、 「来週からです」と答えた。  そして、しおらしげに|俯《うつむ》くと、肩ごしに次の質問のくるのをじっと待った。  が、それっきりまた沈黙だったのである。結局、それから四十分後の別れ際に、「じゃあ」と言われるまで、ひと言も質問されずに終った。  その後、私は十年以上、ひそかにその人を慕い続けた。何故、そんなに長い間憧れていたのかと聞かれるが、なにしろ年月が長いわりには会った絶対日数が少ない上、会っても交す会話が一、二語では、魅力も欠点も分りゃしない。未知の部分が増すばかりで、思いは募る一方だったわけである。  その人も風の便りでは、結婚して父親になっているという。相変らず無口のままなのか、それとも奥さんがもっと無口なら、逆にお喋りなご主人になっているかもしれない。しかし、いずれにしても、私と結婚しなくてよかったと思っている。もし、饒舌な家系に生れついた私が奥さんになっていたら、きっとダンナは今まで以上に喋らなくなり、反動で私は一日中がなり立てていなければならなかったに違いない。 [#改ページ]   鉄の下駄  このところ、私の周りで年下の男の子との「浮いた話」がいやに多い。一番衝撃的だったのは、つい二カ月前まで「どこかにイーイ男いないかしら」と一緒にぼやいていたはずの友だちが、七歳年下の男の子(いや男の人)と結婚が決ったという事実を、最近になって他の人からもれ聞いてしまったこと。そんなとき、露骨に「くやしい」とか、「裏切ったな」とかいう台詞を口にすると見苦しいので、「まあ、羨しいわあ」くらいに止めておくのだが、ほんとうはやっぱり「ズシン」とお腹にこたえるのである。こういう話は不思議に続くもので、同じ時期に別の友人は、「今、私まんざら悪くない気分でして。彼、八歳年下なんだけど」と刺激的な告白をしてくれるし、それを聞いていたもうひとりの友だちも、「年下っていいもんよお」と、ひとり思い出に耽りながら同調している。  いったい世の中は年下ブームなのだろうか。昔から「若い恋人を連れた熟女」については小説で読んだり噂を耳にしたりしたものだが、それにしても結婚となれば、まあ一歳か、せいぜい二歳下が限度と思っていた。現にひとつ年下の人と結婚した私の友人も何人かいるが、今から十年近く前は年下というだけでちょっとしたセンセイションだったから、本人たちが気にして、結婚式の日取りを決めるにも、相手の誕生日の後で自分の誕生日の前という、二人が同じ年齢になるわずかな期間を狙ったりと、何かと気を遣っているようだった。ところが、このところの年下志向現象は五歳以下がザラで、そんな小細工も努力もしようがない。こうなると、一つ二つ年齢が下なんて話を聞いても、「あっ、そう」ってくらいで話題にもならなくなる。 「固定観念をとっぱらって、視点を少しずらしてごらんなさいよ」 「年の差なんて、会っているときは全然感じないって。おじさん連中より純粋で夢を持ってるし、束縛しないでくれるから楽よ」  ハア、そんなものですかねえと感心してはみるが、悔しいかな、私は一度もそういうチャンスに恵まれたことがない。 「年上女房はキンのわらじを履いて探せ、という言葉があるでしょう?」  そんな話題を持ち出した私に、 「えっ、あれってキンのわらじなの、僕はまた、カネのわらじだと思ってたよ」  仕事仲間のプロデューサー氏が叫んだ。 「違いますよ。年上の女房は値打ちがあるから、十分な投資をして探しなさいって意味で、キンでしょう」と反論すると、 「へぇ、僕はまた、丈夫なカネのわらじを履いて探せという意味だと思ってた」 「やだ、それじゃまるで鉄人28号じゃない」  年上プロデューサー氏をさんざん非難したあとで多少不安になり、こっそり国語辞典で調べてみたところ、果して答はカネであった。「根気よく探し歩くの意」と出ている。お金をかけてよく吟味しろというのと、なかなか見当らないとでは、大分印象が違うけれど、いずれも姉さん女房を尊重していることに変りはない。「金」の読み方ひとつで随分イメージが違うのには驚いた。  兄とは二歳違いで、小さい頃、兄の友だちがうちに遊びにくると、妹の私はこの「お兄ちゃんたち」に相手をしてもらうのが楽しみだった。というより、無視されると非常に不機嫌になった。だから、そのまま年頃に突入して、その人たちの中から意中の君を見出していれば、「この度、わたくし、兄の親友である〇〇さんと結婚することになりまして」と、具合よくいったかもしれない。  ところが現実はうまくいかないもので、兄は中学二年のときに大病を患って、長く入院生活を続けたため、ようやく中学に復学できたときは学年が三年遅れていた。つまり、私より一学年下になってしまったのである。こうなっても兄自身の交友関係に支障はなく、クラスでは皆が「よう、阿川」と呼び捨てて同年代扱いをしてくれたので、親しい友だちもたくさんできた。  が、その友だちがいったん我が家に遊びにきて私と顔を合せると、困ったことになる。果してこいつを「友だちの妹」と解釈すべきか、「女の上級生」と敬して遠ざけるべきか、皆さん悩んでいたらしい。  二階で「阿川、レコード貸せよ」などと言っている兄の友人が、階下に下りてくるなり、「あのう、佐和子さん、お水、いただけますか」と馬鹿丁寧な物腰になる。私としてもどう答えてよいのかわからず、照れ隠しに「はいよ、何人分いるのっ」と結局、姐御肌にならざるをえない。いっこうに、兄の友だちとの間に「ほのかな」感情が生れるわけもなく、もっぱら「こわいお姉さんだね」という評判がたち、なおさらこちらは無愛想になる。  かくして、弟二人を含め、うちにやってくる兄弟の友人は、だいたい自分より年下だと思ってまちがいないから、たとえ、一見「ステキだな」と心ひそかに思っても、口からはつい、 「おお、ゆっくりしていきなさい」と保護者のような言葉が出てしまう。  長い間の癖が身について、時にカッコいい男性に出会っても、「弟たちと同年代」とわかった途端、この人は私が高校生の頃、ランドセル背負っていたのか、まだオシメをしていたのかとよからぬ想像をして、すっかり気分が醒めてしまうのである。  大学卒業後しばらくの間、小学校の図書室に勤めていた。アルバイトなので、もっぱら先生や司書の助手として、カード書きをしたり、壊れた本の修理、展示物の掛け替えなど、言い付けられるままに仕事をし、後は子供たちと遊んでと、いたって気楽なものだった。  生徒たちと毎日のように顔を合せているうちに「二十四の瞳」か「サウンド・オブ・ミュージック」の主人公になったような気持になり、子供たちに慕われることに陶酔していた。  そんな中で、仲よくしていた男の子に四年生のK君がいた。休み時間になると「おーい、阿川さん」と図書室へ来ては、クラスでの出来事やサッカーの話などいろいろ報告してくれる。  ある日、掲示板の貼り替えをしていると、「阿川さんってボーイフレンドいないの」と突然聞かれ、危うく私は踏み台にしていた椅子から落ちそうになった。 「何でそんなこと聞くの」 「だってさ。もう二十五過ぎてるんでしょ。そろそろ結婚しないと売れ残っちゃうよ」  今の小学生はませたことを言うものである。しかし、ここで大人の私が動揺してはよろしくない。 「うーん、いないのよ。困ったもんだ」  彼は少し小さめの目をなおさら細め、フーッと溜息をつくと、決心したように言った。 「なら、僕が紹介してあげるよ」 「なに、君が? 誰を?」 「僕の従兄にとってもやさしい人がいるの。女の子にはチョコレートくれるよ。前、僕が紹介した女の子にあげてたもの」  その後、K君は図書室に毎日のようにやってきては、「いつにしようか」「運動会に呼んでこようか」と真剣に、大きな声で悩むので、この話は図書室中で有名になり、一緒に仕事をしていた仲間からも、「今度はまとまるかもよ」とからかわれる。「やーね」と答えながら、私自身、まんざら期待していないわけでもなかったので、少し緊張ぎみの毎日を送ることになった。  しかし二週間もすると、K君は全くその件について触れなくなってしまった。まさか、私から「どうなりましたでしょうか」と聞き出すわけにもいかない。こちらも黙っていると、同僚の女性が、何気ない調子でK君に声をかけてくれた。 「どうしたの。阿川さんにボーイフレンド、紹介するんじゃなかったの」  すると、K君はさりげなく答えたのである。 「ああ、聞いてみたんだけどね。もっと若いのがいいってさ」  そのK君から久しぶりに電話があり、デートすることにした。高校二年になって、すっかり立派になっているので、私の方が照れてしまったが、K君は「いやあ、阿川さん、ずいぶん小さかったんですねぇ」とあっけらかんとしていた。 「もちろん、ガールフレンドはいるんでしょ」 「今はね。いる」とニヤッと笑う。 「東京の子じゃないので、しょっちゅう会えなくて。もっぱら電話なんだけど、あまり長電話するから、うちで叱られてね。試験中は勉強に障るから、電話しないよと彼女に宣言したら、『じゃ、お守りです』って人形送ってくれた。おかげで成績はバッチリ。お礼に『何が欲しい』と聞いたら『結婚』と言われちゃった」 「経済的にまだまだだからなあ」と、腕を組んで、K君は溜息をつく。もうそんなことを考える年頃になったのかと、私は唖然とした。  一緒にお昼御飯を食べ、しばらく散歩をした後、じゃあと別れる段になってK君は、「まあ、阿川さんも決ったら連絡して下さい。僕もしますから」とニコニコしながら手を振って去っていった。 「年上ばかり見てターゲットが減っていくと嘆かず、視点をガラッと変えてみる」か。  ちょうど、K君は仲人の才能もありそうだし、この際、お願いして彼の周りの友だちあたりから始めてみるのもいいかもしれない。その時は忘れずに「鉄の下駄」でも履いていくことにしよう。 [#改ページ]   命のゴマ塩 「ヤッホー、お久しぶりです」  仲よしのミッポちゃんが、ニコニコしながら飛んできた。 「こないだの休みにね、台湾へ行って来たの。よかったあ。やっぱり旅行はいいね。リフレッシュされた気分です」  休み前は身体の調子が悪いとか、仕事が忙しすぎるとか言って冴えない顔をしていたくせに、打って変って生き生きしている。 「旅行か、いいなあ」  そういえば、久しくのんびりとした旅行をしていないような気がする。たまにどこかへ行っても、とんぼ返りのことが多いので、結局、目的地の駅周辺とホテルの部屋の印象しかなく、感激も新鮮味もほど遠い、旅とはいえないものばかり。仕事でも遊びでもいいけれど、せめて一、二週間くらいの、じっくりと心に残る旅をしてみたい。慣れ親しみ過ぎている環境から一時的に脱出して、違った空気のシャワーを浴びたら、さぞや気持がいいだろう。と、書いているうち、本当にどこか遠くへ行きたくなってきた。  旅の必需品は人によって違うだろうが、私の場合は、まず、ノート。ふだん、日記をつける習慣はないのだが、限られた日数の旅行中だけでも、泊った宿、食べたもの、失敗談など書き留めておきたいので、どこにでも入るような小さくて安価なものを、必ず一冊持っていくことにしている。  筆記用具は、ペンダントのように首からさげられる紐付きボールペンが便利である。これならバッグの中をゴソゴソ探さずにすむから助かる。  磁石。見知らぬ町を歩くときに利用する。小学生向き理科雑誌の付録についているようなちゃちなものを長年使っているが、それで十分役に立つ。  おばあさんみたいだねと友だちに笑われながら、意志強固に使い続けている趣味の悪い風呂敷は、衣類を分類し、トランクの中を整理するにはもってこいだし、失くしても未練がない。しかし、そう思うと失くならないから不思議である。  そして、ゴマ塩。  その昔、父がどなたかから教えていただいて以来、うちではゴマ塩がお馴染みの「旅の友」になっている。そもそも、食べることに関してあさましいほどの興味を示すわが家族だが、ボリュームのあるフランス料理が続くと、皆いっせいに同じ苦しみを訴える。  調理師学校の校長で毎日のようにフランス料理を食べている辻静雄さんでさえ、この洋食拒絶症にかかることがあるという話を聞いたことがある。「生徒の作品を毎日試食していると、もう限界ということはありますよ。そうなったら、おいしい料理は家族に食べてもらって、私はその隣で冷やしそうめんをいただきます」のだそうだ。  そのお話を聞いて、阪田寛夫さんの「コックのポルカ」という詩を思い出した。  何でも上手なコックさん、ハンバーグにビーフシチュー、凝ったフランス料理からケーキまで、次々おいしい御馳走をつくるので、お店は大繁盛。朝から晩まで忙しく働きます。  小さい頃のうろ覚えで正確ではないけれど、たしかこんな内容の詩だった。そして最後に、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  お腹の空いたコックさん  お店を閉めたあと  急いで家へ帰って  お茶漬け食べたとさ [#ここで字下げ終わり]  いったいバターのせいなのか、ワインが原因か、よくわからないけれど、何かが限度を超えるとたちまち日本人の胃袋に反乱が起きるらしい。高価な鴨料理の皿を前にし、脂汗を拭きつつ、気が遠くなりかけながら、愛想笑いをする辛さ。しまいに、朝のクロワッサンひとつさえ見るのもいやになる。 「だから、そういうときにいいんだよ」 「ゴマ塩が? これを嘗めるわけ?」 「三週間ならひと瓶で足りるな」 「あたりまえですよ。こんなもん、ガバガバ食べるって種類のものじゃないでしょ」 「ガバガバ食べろなんて言っちゃいない。口答えしないで、とにかく持って行きなさい」  と、なかばむりやり、父に押しつけられたかたちで、バッグの中に入れ、フランスへ旅立った。数年前の秋、テレビの仕事でレポーターを仰せつかったときのことである。  スポンサーが国立コニャック協会だったので、「コニャック酒のできるまで」が取材のメインテーマだった。パリから南西へ五百キロほどのところにあるコニャック市は、人口二万人の小さな町。市のあちらこちらにマーテル、クルボアジェ、レミー・マルタンなどの工場が建ち並び、市内を走っているタンクローリーは油でなくコニャックを運んでいる。人々はコニャックのことをオー・ド・ヴィー、「生命の水」と呼んで大事にし、いわば、町全体がコニャックの香りとともに生活しているようなところである。  コニャックとは二度蒸溜のブランデーのことだが、この地域でできる特定の葡萄を使い、ここの風土の中で寝かせたものしか、その名を名乗ることはできないという。したがって、由緒正しいこの高級酒の製造、出荷はコニャック市だけでまかなわれているわけで、その意味でも、コニャックは、こののどかな小都市にとって「生命の水」なのかもしれない。  さて、それぞれのコニャック会社に取材を申し込みにいくと、決って豪華な来賓室に通される。そして「まあ、どうぞ」と出てくるのが、一杯の、お茶ではなく、コニャック。 「ようこそ、コニャック市へ」 「はあ、いただきます」  せっかくの機会だし、残してはもったいないとケチ精神を発揮して、一所懸命いただいちゃう。あら、なんだかポーッとしてきたわと言いながら工場見学をさせてもらい、「では、細かい打合せはお昼を食べながら」なんてご招待をいただくと、今度はワインが待っている。午後は次の場所を訪問し、また「ようこそ、乾杯」し、ますます、ポーッとした顔で撮影を終え、夕食で、さらにバターたっぷりの料理とワイン攻勢に会う。かくして、一日中、お酒とフランス料理が身体から抜ける暇のない、贅沢な毎日を過したのだった。 「コニャックの街の郵便屋さんはですね」  通訳のクロード君が話してくれた。 「郵便物を道端に落していくので有名なんです」 「なぜ」 「配達先で『御苦労様、どう? 一杯』とコニャックを勧められる。『じゃ、ちょっとだけ』ってひっかけるんだけれども、なにしろ強いお酒でしょ。四、五軒も回っているうちにベロンベロンに酔っ払って、自転車はヨロヨロ。籠から郵便物が落っこちたって気がつかないわけさ」 「ほんとかしら」 「ほんとだよ。郵便屋さんの後をつけてりゃ、すぐわかる。ときどきいるから」  そう聞いてから、気をつけて観察していると、デコボコ道を自転車に乗っていく郵便屋さんの後ろ姿がなんとなくヨロヨロしているようで、ユーモラスに見えてきた。  しかし、本当にヨロヨロしているのは我ら取材バス陣のほうで、私をはじめ、カメラマンさん、ビデオ・エンジニアさん、ディレクター氏、さらに運転をしていたクロード君までが赤い顔で、お酒臭い息を吐いている。  初めの二、三日は、皆口々に「こういう取材旅行はいいよね。いやー、うまかった」などと言っているのだが、しだいに楽しみは苦しみへと移行して、生牡蠣やフォアグラの話題が、いつしか「ざるそば」「海苔茶漬け」へと変化する。「あと、八日か」と残りの日数を指折り数える人が出てくると、かなり危険。交す会話にトゲが出はじめ、お互いへの思いやりも薄れる。 「そうそう、こんなもの持ってきたんですけど」  バッグの奥に入れっぱなしで忘れていたゴマ塩のことを思い出し、皆さんに勧めてみる。が、答えは一様に「いや、今は結構です」 「そうですか、それでは」と、ひとり手のひらに振り出して嘗める。すると、日本では感じたことのないような温かく奥深い味が、口全体に拡がった。  少しずつ溶けていく塩と、噛む度にプチンと音を立てて中から香ばしい油を出す黒ゴマが絶妙に混ざり合って、疲れ果てた胃袋を「よし、よし」と介抱してくれる。 「これは、なかなか、いけますですよ」  再度、提案すると、「では、少しだけ、あ、あー、もう結構」  信用していないのか、意地を張っているのか、皆さん遠慮がちである。  しかし、それもつかの間のこと。そのうち、ひと仕事終って車に戻る度に「阿川さん、アレ」と、まるで芸を無事やりとげた後、餌をねだるオットセイ。差し出された手のひらにひと振りずつのせて差し上げると、皆「うまいっ」と喜びの声をあげる。日本で食卓に置いてあっても、二、三カ月はもつだろうと思われるゴマ塩ひと瓶が、またたくうちに減っていき、こんなことならもっと持ってくるんだったと後悔した。  コニャック取材後二カ月ほどは、ワインもフランス料理もまったく受けつけなくなってしまったが、もしゴマ塩がなかったら、拒絶期間はとても二カ月ではすまなかったろう。ゴマ塩は、以来、わが命の恩人として、評価が急速に高まることとなった。 [#改ページ]   カラスと一緒 「肩書はどうしましょうか」という質問は苦手である。たまたまテレビの情報番組に出演しているからといってニュース・キャスターと言われることがあるが、実際にはニュースを解説しているわけではない。じゃ、ニュースを読んでいるからアナウンサー? 外に出て取材をするからレポーター? 人に話を聞きに行くのでインタビュアー? はたまた随筆を二つ三つ書いただけでエッセイストとつけられたこともあるが、冗談じゃない。それほど簡単にエッセイストになれるなら、月一つの原稿締切で悲鳴を上げていらりょうか。  確かに種々雑多な仕事にかかわっているし、それぞれの繰返しでお給金をいただき、暮しを立てている。しかし、どこを本拠地にするかというと自分でも分らない。  最近は、横文字の職名の人が増えて、一度聞いても何をする人なのか、とんと理解できないことが多い。不思議な時代だなあと、今までは半ば批判的に見ていたのだが、他人のことをとやかく言えなくなってきた。  英語で名前を聞くときは「Who are you?」で、職業を訊ねるときは「What are you?」だとは、中学一年の最初に習った基本文型であるが、私は「何か」という問いにもスムーズに答えられない人種なのだろうか。何だか、自分が得体の知れない不安定分子のような気がしてきて情けない。  こんな私に、雑誌社の人は、ときどきいろいろなテーマを取り上げて、コメントが欲しいとおっしゃる。「今年は何が流行し、何が廃れていくか」とか、「女の時代と言われていることに関して」等々。つい先日は美容について、ある婦人雑誌からの取材があり、「ふだんはどんな化粧品を使っていますか」「テレビに出るときは、どこにポイントをおきますか」とたてつづけに訊ねられ、大して主義主張のない私としては、ほとほと返事に困った。 「頂き物とか、母の使い残しとか、手近にあるものですませているので……。パック? あまりやらないんです」 「あら、少しなさったほうがいいんじゃないかしら。だいぶお肌が乾燥してるみたい」  と私の荒れた顔を熱心に覗き込み、じゃ、アイ・クリームは? クレンジングは? 「はあ、あんまり」「いえ、別に」  なんとか記事に仕立て上げなければならないのに、話がいっこうに盛り上がる気配もないのを悟ったか、とうとう、 「わっかりました。このへんでまとめさせていただきます」  どこらへんでお分りいただけたのか、こちらにはよく分らなかったのだが、取りあえず、顔写真を二、三枚撮られ、お茶をご馳走になって、インタビューは終了した。  だからお話しすることはないと言ったのに。だいたい、何で私がこういう記事に載ることになるのだろう。化粧品について研究をしているわけでもなし、人並以下にしか関心がない。無頓着な人間のひと言が、人様のお役に立つとは到底思えない、と、ひとりブツブツ呟く。でも、文句を言うなら初めから引き受けず、毅然とした態度ではっきりお断りするべきだったのである。要するに自分がバカなんだと自己嫌悪に陥りながら歩いていると、上でカラスが鳴いていた。カー、カー、カー、カー。  二年前、生れて初めて不動産屋巡りを体験し、自分の思い描いているような住まいを見つけることがいかに大変か、思い知らされた。 「あの、マンション探してるんですが。駅から歩いて五分以内くらいで、買物に便利で、女ひとりでも安全なところ。日当りがよくて静かで、できれば新築で、オートロックがついていると安心なんですけど。広さは二DKかな。ワンルームっていうのは、あんまり好きじゃないんです。予算? まあ、五万ぐらいまででなんとか……」 「あんたさ、こういうとこ来るの、初めて? 都内で、そんなスンバラシイとこ見つけられたら、僕にも教えてちょうだい」 「へ?」 「どれか妥協しなきゃってこと。結婚だってそうでしょ」  何も結婚の話を比喩に持ち出さなくったって。でも幾つか見て歩くうち、確かに、お見合いと似たところがあることに気がついた。「見取り図だけでは分らないでしょうから、一度ごらんになってみますか」「ふーん。なるほど。だいたい気に入りましたが、ちょっと考えさせて下さい」で、二、三日後に行くと、「もう他の方に決りました」となるところなんか、実によく似ている。  お見合いのほうはうまく行かずじまいで今に至っているが、アパート探しは、だんだん条件や図面を見るポイントが掴めるようになるにつれて、楽しくなってきた。  何を取り、何に目をつむるかということは、人によってまちまちだと思うけれど、私の場合、結果的に言えば、日当りと静かさを重視した。そのかわり、新築とは程遠く築十三年、駅から歩いて十三分という場所である。なにより驚いたのは、窓から公園の森と同時に、カラスの大群を観賞できること。鳥の嫌いな人には到底、住めるような環境ではない。  以前、新宿御苑の裏に住んでいたときもカラスがよく飛んでいたが、その頃は、近くの慶応病院から来る凶暴なハト軍団がベランダを汚すので、ハトが平和のシンボルだなんて嘘じゃないかと思ったことのほうが印象深い。ただ、学校への行き帰りに、黒光りした巨大なカラスが低空飛行をしながら近づいてくると、とても怖かったのを覚えている。  あのガラの悪い、間の抜けた調子で「カーカー」と鳴く声が、私にはいつも「アガワァー、バカァー」と聞えた。学校で嫌なことがあったり、悲しい気分の日は特に、この憎たらしい鳴声がいっそう大きく響き、まるで私の悪口を皆に言いふらしている|質《たち》の悪い告げ口魔のように思われて、嫌いだった。  この二年、観察したところによると、カラスは季節にも天気にもかかわりなく、ほぼ一日中鳴いている。朝はカラスに起されることもあるし、夜中の二時、三時に仕事から帰ってきたときも、寝そびれたカラスが思い出したように一声、挨拶をしてくれる。  しかし、一番のピークは何といっても夕方四時から五時にかけて。ちょうどオーケストラが演奏前に音合せをするのと同じように、初めのうちは、個々のカラスが公園の木々にとまり、一羽ずつないしグループごとに発声練習をしながら、メンバーが揃うのを待っている。次第に声が重なり合い、機が熟したと思われたとき、リーダーらしきひと鳴きの合図と共に、一瞬にして大合唱が始まる。そして、ひとしきり鳴くと、一斉に夕日に向けて飛び立つのである。いったい何羽ぐらいいるのか、見当もつかないが、多分二、三百は下らないであろう。その光景はなかなか壮観で、嫌いなカラスだが、この眺めだけは気に入っている。  ビッグセレモニーが終了し、カラスの鳴声が間遠になると、日はそろそろ暮れていく。  雑誌からの取材というのは不思議にテーマが重なることが多い。特に流行ものを取り上げていなくても、申し合せたかのように同じ時期に同じような特集を組んでいる。まあ、婦人雑誌の場合は、女の三大関心事であるファッション、美容、食物と、加えて恋愛、結婚を盛り込めば売れるという事情があるだろうから、むしろ不思議でも何でもないかもしれない。しかし、質問される側としては、たとえ雑誌が違っても、同じ話を三回、四回繰返すのはさすがに気がひける。まして、苦い経験をして三週間も経たないうちに、「また、化粧品ですか」 「いえ、私共の企画のコンセプトは、ちょっと違うんです。阿川さんが何を使っていらっしゃるかには一切関係なく、売場に関するご意見を体験レポート風に少しだけ……」  説明を聞いているうちに、「毅然とした態度で断る」機会を逸し、またしても引き受けてしまった。  美しくお化粧をした指導員から、「お肌チェック」をしてもらい、こと細かに商品の説明や使い方の講義を受け、「こちらでは、お客様にサンプルを無料で差し上げます。一週間使って頂いた上で、気に入られた場合だけ、それも、初めは必要な最低限の化粧品しかお売りしないという方針です」  そんなこと言っても、いずれ不必要な高いものを買わされることになるんでしょう。専門用語を並べられると説得されちゃうし。大体、化粧品の値段って原料費と比較すると高すぎますよ。  なんで急に自分が強気の発言をする気になったのか。きっと取材そのものを引き受けてしまったことに対する手前勝手な反動が出たのだろう。さんざん言いたい放題のことをまくしたてた。帰り際に「いろいろ、ご不満もおありでしょうが、まあ、使ってみて下さい」と、高価な化粧品がたくさん入った紙袋を差し出された。  いや、そういうつもりはないのですが、そうですか。じゃ、と、結局頂いたが、なんとも後ろめたさが残り、気分が重い。重い気分と紙袋をぶらさげてアパートにたどり着くと、郵便受けの中に、前回の化粧品インタビューの掲載誌が届いていた。  タイトルは、「ズボラな阿川さん、たまには華やかに」  いじわるカラスがせせら笑うかのように、タイミングよく鳴いている。 「カッ、カッ、カッ、アガワァー、バカァー」 [#改ページ]   遅刻コンサート  六本木の新名所と言われるインテリジェント・ビル群、アークヒルズの中に、サントリーのコンサートホールが完成した。内外の有名音楽家によるオープニング記念音楽会が次々に催されて話題になっているが、 「おい、今度、内田光子のピアノコンサートがあるぞ。二十五日と二十七日の券が二枚ずつあるんだが、行く気があるなら連れてってやろう」  と、父から電話があった。 「へぇ、お珍しい。どうしたの」  あらゆることを面倒くさがる父は、還暦を過ぎてますますその傾向が強くなっている。食物、乗物、マージャンなど、特別に関心の高いもの以外の用事で人込みに出掛けることを極端に嫌う。 「母さんとお前と、日取りの調整をして片方ずつ行けばいいだろ」 「じゃ、父さんは二回行くわけ?」 「悪いか、文句があるなら、無理にお誘いしませんよ」 「別に文句なんか言ってないです。行きたい、行きたい、ぜひ行ってみたい」  そう言えば、父は最近、毎日のように愛用のCDプレーヤーで、クラシック音楽を聴いているようだ。父の声の後ろから、かすかにヴァイオリンの調べが聞え、どこの喫茶店から電話をしてきたのかとまちがえたことがある。 「何も、急に目覚めたわけじゃあないよ。子供の時分から好きで、バッハ、ヘンデル、モーツァルトなんかのレコードをけっこう集めて持ってたんだけど、全部広島で焼けたからね。しかし、その後、お前たちにもずいぶん聞かせてるぜ。覚えてないかねえ」  私が小学生の頃、我が家で初めて箱形ステレオを買った。それまであった、冷蔵庫の上の小さなレコードプレーヤーとは大違いで、針が自動的に落ちる、数枚のレコードを重ねてセットできるなど、当時としては最新式で、すごいものが来たもんだと子供心に興奮したのを覚えている。父はそれを書斎に置き、子供がちょっとでも勝手に触ろうものなら、ひどく機嫌が悪かった。その代り、ときどき新しい盤を買ってくると、家族を集めて聞かせてくれた。バッハやモーツァルトなどのクラシックのほかに、父が好んでいたのはフォスターやアメリカのミュージカル音楽。ひとつ凝り始めると、しばらくは同じ曲をかけ続けるので、いつのまにか聴き覚えてしまい、私は筋も知らない「南太平洋」「オクラホマ」「マイ・フェア・レディ」などのミュージカルの場面を勝手に想像して楽しんでいた。  その後引っ越して、ステレオが居間に移された頃、頻繁にかけられたのは軍歌のレコードだった。夕食の時に家族全員が食卓を囲むと、父は、 「おい、何かかけようか。お前たち、何が聴きたい」  一応こちらに顔を向けながら、手元では「海軍軍歌名曲集」というレコードを、ジャケットから出しはじめている。当時、父は海軍についての長篇に取りかかっていたので、気持を常にその時代に持っていかなければならない。神経を集中させるためには、どうしても必要なんだと言いながら、ボリュームをいっぱいに上げて聴いていた。 「ジャン、ジャン、ジャン、チャカチャッチャー、ズンチャーチャッチャァチャーン」と、軍艦マーチの鳴り響く中、人の声もお皿の音もすべてかき消され、何を食べているのか、話しているのか、全くわからなくなった。  ボリュームが大きいという点は今も昔と変りないが、軍艦マーチより、優しいピアノやオーケストラの音のほうが、家族にとって精神的にはずっと楽だろう。少なくともご近所から、我が家が、パチンコ屋か新装開店の商店にまちがえられる心配はなくなる。  居間の椅子に座って気に入りの音楽を聴きながら、庭に集まるメジロ、シジュウカラなどの小鳥を眺めているときが、いちばん心が和むと父は言う。 「開演は七時だから、ホールの入口に六時四十五分に来ていなさい。俺は五十分に行く」  常日頃から、帝国海軍の「五分前精神」を徹底させている父と待ち合せをするときは、よほど心してかからなければならない。先に父が到着した場合、約束の時間から時計を睨み始め、秒単位で遅刻時間を計るほどである。双方、過去に何度となく苦い経験をしているからこそ、今回も父はあえて五分遅れると娘に申し渡し、娘は五分早めにアパートを出たつもりが、甘かった。タクシーに乗ったのがまちがいで、猛烈な渋滞に巻き込まれ、殆ど先に進まない。 「今日は無理だよ、お客さん。だって月末の金曜日で、給料日でしょ。しかも、こうあちこちで工事してるんじゃあね。諦めたほうがいいよ」  運転手さんが、無愛想に呟いた。 「そうはいかないんです。何とかそこを」 「これだけひどい渋滞なら、誰だって許してくれるって。誰と待ち合せしてんの」 「父ですけど」  ここで、運転手さんはガーッと笑い出した。お父さんなら許してくれるに決ってんじゃないの。いや、父だからだめなんですと言い合っているうちに、また信号が赤になる。気分は重くなり、不安が募ってきた。  ホール入口にたどりついたのが六時五十七分。父の姿が見当らない。焦ってあたりを捜し回ったが、影も形もない。公衆電話にもいない。券は父が持っているのでホールに入ることもできず、建物の中に目をやると、受付の男の人が懸命になって手招きしている。たまたま顔見知りのサントリーホールの人で、「もう、先にお入りですよ。席は一階の中央ドアからね」と、チケットを手渡して下さった。私と同じぐらい慌てている様子から、父がどれほど不機嫌そうな顔つきで切符をことづけたか想像される。  席は難なく見つかった。怒りに紅潮した顔でじっとこちらを睨みつけている父の姿が、整然と並んでいる人の頭の列の中でひときわ目立っていた。舞台の上では、楽団のメンバーがちょうど席につくところである。 「いやあ、すみません。すごい渋滞でね。父さんも巻き込まれたんじゃないかと思って、今、外でちょっと待ってたんだけど」  口にしたこの一言が余計だった。父の堪忍袋はこの瞬間、コッパミジンに爆発した。 「待ってたとは何だ。寒風の中、人を二十分も待たせて」  前列の男性客の頭が、ピクッと動く。 「二十分? いや、そんなに? だって……」 「言訳は一切聞かん。とにかく俺は二十分待った」  前前列の女性客が、いぶかしげに振返る。拍手が起り、内田光子と指揮のジェフリー・テイトが舞台中央に立った。 「三十年、時間にうるさい父親とつき合ってきて、まだわからんか」  ピアニストは座席の高さを調節している。 「第一、待っていたとは何だ。待っていたとは。ふざけるのも……」  指揮棒がふり下ろされ、一曲目が始まった。モーツァルトのピアノ協奏曲第十二番イ長調K414。軽やかでいて繊細なピアノとオーケストラが、絶妙なコンビネーションで絡み合う。コロコロと葉っぱの上を転がる水滴を思わせるような心地よさで、少しずつ気持が落ち着いてくる。内田さんは、全身でオーケストラの音を感じとろうとしているのか、時々、体中をブルブルッと震わせる。そのブルブルが、まるで「まだ怒ってるぞぉ、怖い、怖い」と私に向って警告しているように見える。こっそり隣を盗み見ると、はたして、怒りの巨体は何度も大きな深呼吸をしていた。  一曲目が終った。あちこちから咳払いが聞える。視線を舞台から天井経由で父の方向に向け、何か言おうかな、と思う間もなく、父はヌーッと立ち上がり、黙って通路へ出ていった。  再び指揮者の入場。二曲目はピアノ抜きで、オーケストラのイギリス室内管弦楽団による演奏である。父、戻らず。まさか娘に腹を立てた余り、お手洗いで倒れたんじゃないでしょうね。それとも、この娘の隣に座るのは不愉快だと思って席を移ったのだろうか。  多少心配になる。いや、もしかして、家に帰ってしまったのかもしれない。常識では考えられないが、わが父の場合なら十分ありうる行動だと、気がついたときに曲が終った。  休憩時間に席を立ち、公衆電話を探す。母の情けなさそうな声が聞えた。 「まったく、面倒を起してくれるわね。あと十五分ほどでお父上はご帰宅だそうよ。これから急遽、御飯の支度です」  受話器をおいて周りを見渡すと、グラスを片手にしゃれた恰好の夫婦連れ、楽しそうに笑い合う親子連れ。颯爽と通り過ぎるタキシード姿の外国人。誰もが華やかに見え、なおさら自分がみすぼらしく感じられる。チラチラと知合いらしき人影も見かけたが、とても近づいていって挨拶する気分にはなれない。アラ、いらしてたの、おひとり? なんて聞かれて、いえ、父と来たんですが、私に腹を立てて帰りましたなどと答えられますか。悔しまぎれにジュースを一本、一気に飲み干して席に戻ると、最後のピアノ協奏曲が始まった。 [#改ページ]   買物上手  先日、電子レンジを購入した。何を今頃と思われる人も多いだろう。実際、友だちに言わせると、「えっ、まだ持ってなかったの、遅れてるわねえ。今や台所の必需品よ。ひとり暮しなら、なおさら利用価値あるのに」とくる。なるほど、あたりに聞き回ってみると既婚、未婚に限らず、思いの外、持っている人が多いのには驚いた。  結婚した友だちの家に遊びに行くと、赤ん坊が「チン、チン」と母親に訴える。何事かと思って見ていたら、お母さんは「ハイハイ、すぐチンしますからね」となだめながら、ミルクの入ったカップを電子レンジの中に置き、ボタンを押す。赤ん坊は急に機嫌を直して、キャッキャッとはしゃぎ、喜びの瞬間を待ちうけている。 「加熱終了の合図に鳴るチーンって音を聴くと、何かもらえるって知ってるのよ」  最近の赤ん坊は、マンマではなく、チンが食事のサインなのか。世の中、変るものである。  電子レンジなんぞという代物は何十万もする超高価な電化製品という観念があるから、そうそう誰もが持てるものではないと思い続けてきた。第一、念願叶って買ったところで、本当に使いこなしている人がどれくらいいるだろう。結局、冷えたご飯を温めるのと日本酒のお燗のときにチンだかピーだか鳴らして使うだけで、付属のマニュアル通りに駆使できるとは考えられない。余計な電化製品を増やして狭い家をいっそう物置小屋にするくらいなら、持たないに越したことはない。鍋ひとつあれば事足りるところを大枚はたいて買う気にはなれません。そんなものに頼るから応用が利かず、ますます女は料理が下手になると言われるのです。いらん、いらん主義で徹しようと半ば意地になって買わずにいた。  しかし実際、ひとり暮しというのは、食生活にいろいろと不便を生じるものである。手間を考えると面倒臭さが先立って、どうしても外食になることが多いし、食事時間は不規則で、健康に悪いと思いながらも、つい簡便なもので済ませてしまう。休日くらいはなるべく自分で作ろうと心掛けるのだが、急に出かける約束ができたりして予定が狂う。かといって、たくさん食料品を買い置くわけにもいかない。いざ作ろうとすると、長年、家族と一緒に生活していた習慣が抜けず、多く作り過ぎて、何日も残りものの整理をすることになる。  これはたまらんと、食料品や余った料理はできるだけ冷凍にしてみたが、今度は、いざ食べたいと思うときに、なかなかとけてくれない。どうも効率が悪くて困るのよと、友だちに相談したところ、「遅れてるう」発言になった。  さっそく調べてみたところ、最近の電子レンジは価格も手頃だし、オーブン機能のついているタイプがあって、ローストビーフやケーキを焼くこともできるらしい。それなら買っても無駄にはならないだろうと、だんだん心が動きはじめたわけである。  思い立って、また秋葉原へ行ってみた。風邪ぎみの店員さんがくしゃみをこらえながら、一所懸命説明してくれるのを聞いているうちに、予算を少々超えることになりそうだが、断るのは悪いような気がしてくる。 「そうね、高いけど、どうしようかな」と迷っている私に向ってすかさず、 「ほんと。商売抜きにして、こんな……ハッハァ、お買得ないです、ハクション、よ」  そして、「これ以上は値引きできませんが、かわりに耐熱鍋を特別、サービスしちゃいます」ときたから、それはいい、と簡単に決心がついた。どうも私はこういうことに弱い。おまけがつくとか、ぐっとお安くしておきますとか、限定処分品だとか言われただけで、すぐその気になる。本体そのものの性能より、どうでもよろしいような部分で大いに得した気分になってしまう。たいがいあとで、必ずしも得にはなっていなかったことに気づくのだが、まあ、いいや、店員さんが感じよかったからなどと自分を納得させるきらいがある。買物に対する厳しさがないのか、主義主張があいまいなのか、初志貫徹しない結果に終ることが多い。決して買物上手とはいえない。しかし、そもそも買物なんて、物と金銭を交換する以外のそういう所にも楽しみがあるのだと思う。  買物は、時に絶好の気分転換になる。誰かと喧嘩したあとや、生活が単調になったりしたら、気晴らしに何か買うのがよい。財布の中身は少々傷つくが、ストレスで胃を壊したり、人に八つ当りして、落ち込みの度合を増すよりはマシというもの。  こういうストレス解消は女特有のものだろうか。そういえば、会社の上役に怒鳴られて「頭に来たから、僕、ネクタイ買っちゃった」とか、「なんだか気分が重いので、デパート行ってくるぞ」なんて台詞を男の人から聞いたことはない。  男の買物の仕方をみていると、何かが欲しいときは、まず資料集めから始めるらしい。仕事場でタバコをくゆらせ、一所懸命カタログに見入りながら、「いや、実はこんどCDを買おうかと思ってんの」などと、ニンマリする男性をよく見かける。しかし、いちど買うものを決めてしまえば、売場に行く、お金を払うといった段取りに対しては殆ど興味がないらしく、サッサと買物を済ませ、ようやく自分の手元に届いたときになって、またひとりニンマリが始まるのである。  わが父などは、カタログ集めさえ面倒臭がり、欲しいとなったら、思い立ったが吉日の勢いで、まっしぐらに目的の売場に向っていく。脇目もふらず、寄り道もせず、目的地が近づくと歩くスピードは倍加する。売場では、懇切丁寧に説明されても嫌がるが、無愛想な店員さんの場合はもっと不機嫌になる。買物の所要時間は極力短いことを好む。だから、たまに、 「今日はおまえにつき合ってやろう。何でも好きなもの買ってやるぞ」  と、滅多にないお言葉を頂戴しても、その瞬間に、 「そうですか。では、銀座のあの店のあれが欲しい」  と即答しなければ、話は没になる。たとえ、出かけるときはなごやかであろうとも、図にのってどれにしようかと長時間迷ったり、試着を繰返したり、ついでにあの店も覗きたいなどというわがままはいっさい許されない。  高校時代、ワンピースを買ってやると言われ、あちこち回ったがなかなか決められずにいると、だんだんと父の苛立ちが伝わってきた。これは危いと思い、 「また、今度でいいよ」  小声で提案すると、 「なんだ。つき合ってやったのに」  かえって嫌な顔をする。仕方がないので、エイヤッと選んだものが、あとでどうしても似合わなく思われ、あまり着ないでいたら、「せっかく買ってやったのに気に食わないのか」とさんざん親不孝呼ばわりをされた。  女の買物は、買って物を手にいれるという結果ではなく、所有物にするまでの過程に楽しみを見出すところがある。ここが、男と根本的にちがう。だから、「ちょっと買物に行ってきます」という言葉の中には、繁華街に出かける、ブラブラする、たくさんの商品群の中を抜ける、ディスプレイを眺めるという意味も当然含まれる。ついでに、迷う、おだてられる、安く買うなども、楽しみのうち。無駄な部分があるから、気分転換になり満足度が高まる。そんな半日を過した結果、くたくたになって家にたどり着いても、床に座り込んで包みをひとつずつ開け、戦果を確認するのが、また心地よい。  これほど男女で買物の仕方が違うのに、カップルで品定めしている姿をよく見かける。時間が経つにつれて、お互いにイライラが昂じ、しまいには必ず喧嘩になるだろう。たまに、「僕、全然気にならないんだ。人の買物につき合うの、好きだから」と、珍しい趣味の男性に会うこともあるけれど、そうなると、かえってこちらが落ち着かずイライラが始まり、購買意欲が鈍る。やはり買物は、ひとりゆっくりと自分のペースで楽しむのが理想的である。  秋葉原からやっとの思いで戦勝品を持ち帰り、冷蔵庫の上にのせると、台所がぐっと引き締って見えた。説明書をめくり、ははあ、こんな事もできるの、なになに、この食器は使えないのかと、まるで、理科の実験道具を買ってもらった小学生のごとく、食べもしない料理を温めては喜んでいる。すでに電子レンジに関して先輩の友人から、「卵はだめよ、破裂するから」「レンジの中でふきこぼすとあとの掃除がけっこう大変よ」と親切なアドバイスが続々入ってくるので、一度、不適当なお皿を入れて青い火花を散らした以外は、とんでもない馬鹿な失敗はせずに済んでいるけれど、スイッチを入れる度におっかなびっくり、爆発しないかと、ヒヤヒヤしている。  一方、電子レンジのお蔭でオーブントースターを置く場所がなくなった。ひとつ、調理棚を買わなくてはならないかしら。耐熱食器も足りないし、ケーキを焼くとなれば、ケーキ型やゴムへらも必要なんだった。  電子レンジがなけりゃ、買わずに済んだものが次々頭に浮び、買物熱が無限に高まりつつある。あな、恐ろしや。自分のペースで買物をするのはいいけれど、いい加減にしなさいとブレーキをかける人間がいないというのも問題かもしれない。道具類をどんどん買って料理のレパートリーを拡げるか、冷やご飯温め専用の加熱箱にとどめるか、どっちが得か、よく考えてみよう。 [#改ページ]   蛸とオバサン  子供の頃、将来ああはなるまいと思う大人をよく見かけた。込んだ電車で座席のわずかなすき間を見つけると、すみませんねえ、悪いねえと言いながら、むりやりお尻を突っ込んでくるおばさん。やはり電車の中で、全体重を隣人に委ね、口と足を開けたまま居眠りをしておきながら、突然目覚めたかと思うと、澄ましてお化粧を直し始めるご婦人。病院の待合室で隣合せた人を捕まえて、相手が気分悪そうにしているのも顧みず、とめどなくお喋りをするおばあさん。スーパーマーケットで平身低頭している店員に向って不良品を振りかざし、かん高い声で文句を言い続ける主婦。それぞれ理由があるのはわからないでもないけれど、周囲の迷惑を無視し、堂々とやってのける無神経さには耐えられないと思った。  女性に限らない。ふた言目には「近頃の若いのは……」という台詞が出てくる偉そうなおじさん。お客さんが来ると急に奥さんに対して空威張りするダンナさん。テレビのクイズ番組を見る度に「バカ、バッカだねえ、この女。こんな簡単な問題がわからんかねえ、本当に女は常識に欠ける」と画面に向ってけなし続ける一家の主。そんなに不愉快なら見なければいいでしょうに。 「うちの父もそう。スパイ大作戦(古いかしら)なんか見てて、どれが悪者だ、どっちが味方だって、場面が変るごとに聞くの。で、説明するじゃない。そうすると、お前が喋ってたから筋がわからなくなっただって。まったく頭にくるよね」  十代の頃、友だちと互いに父親批判をしては嘆いていた。  どうして人間は年をとると羞恥心を失い、自己中心の排他主義になるのだろう。なぜ文句ばかり言うのだろう。自分にだって若い時代があったことを忘れてしまっているように見える。  ところが、最近はどうも、こういった年輩者に対する攻撃に勢いがなくなってきた。同時に、「溜息と文句が多くなったねえ」と指摘される。そんなつもりはないのだけれど、確かに腹立たしいことばかり目につくのはどうしたものだろう。  数カ月前に中古車を買い、休みの日などに乗っている。スポーツや車の運転でその人の性格がわかるというが、ことに女は運転中よく喋るので、危っかしくていけないと、以前誰かが話していた。なるほど、ハンドルを握りながら口を動かし続けている自分に気がついて、おかしくなることがある。 「ちょっと、前の人、信号青でしょ。早く行ってよ、グズ」とか、「そんなにせっつかなくたって、今退きますよ」「何で、ウィンカー出してるのに、入れてくれないの。ケチ」などと、勿論、外に向って怒鳴る勇気はないので、車内のひとり言で済ませるが、言い始めるとリズムがついて、窓さえ閉めておけば、大声を張り上げても他人には聞えず、恰好のウサ晴らしになる。ただ、ひとりで乗っている分にはいいのだけれど、隣に誰かを乗せておいてこれをやると、やや問題あり。「わたくし、車ですから、よろしかったらどこかまでお送りいたしましょうか。いいえ、迷惑だなんてとんでもない。命の保証はありませんけど。さあ、どうぞ」と、精一杯気取ってお乗せする。が、ハンドルを握って発進したとたんに本性が現れ、「グズ」「ケチ」発言を連発する。いつのまにか同乗者は黙りこんでいた。  先日、仕事場で若いAD(アシスタント・ディレクター)さん数人が歌謡番組を見ているところを通りかかった。テレビの仕事をしていると、かえってテレビを見なくなる。社内のいたる所にあるモニターから常に各局の番組が流れているのでチラチラと目には入るが、じっくり腰をすえて見る機会は少ない。まして変転きわまりない歌謡界についてなど、ちょっと御無沙汰しているうちにチンプンカンプンになる。「今、何が流行ってんの」と聞くと、 「これこれ、いい歌でしょ。このフレーズ、僕好きなんだよね」  仲間内で一番芸能通と言われているS君が、腰でリズムをとりながら答えた。 「誰、これ」 「えーっ、佐和子さん、〇〇ミナヨを知らないの、遅れてんな」と呆れた様子。ああ、この間、ドラマにも出たっていうあの歌手ね。無理して話を合せようとしたのが藪蛇になった。 「やだな。あれは〇〇ミホ。ぜーんぜん違うじゃん。僕はこっちの方がいいと思うな」 「どこが違うわけ? 顔も声も、私にゃまったく同じに思えるんですけど。ほら、このチャラチャラした振り付けも喋り方もみーんな同じよ。こういうのが今は受けるんですかねえ」  その場にいた若者たちが、一斉にこちらを振返る。そして、哀れみとも軽蔑とも取れる表情を浮べ、異口同音に叫んだ。 「出た、出た。オバサンの発想。人気歌手の区別がつかなくなったら、若くないですね」  女は何歳からオバサンになるものだろう。友だちの子供に「おかあさーん、阿川のオバサンが来たよ」と言われ、ギクッとしたのがすでに五、六年も前のことである。 「やーだ、おねえさんって呼んでよ」  子供はキョトンとして、何がいけなかったのかと困惑した顔をする。  確かにおねえさんと呼ばれるほど初々しい年ではなくなったと自覚はしているけれど、お世辞にも「ちょいと、そこのおねえさん」と声をかけられれば、こっちだって「ハーイ」とやさしく答えたくもなる。ところが、無神経に「おい、おばはん」とくりゃ、「なにさ」と反応するのは、犬が骨を見るとヨダレをたらすという、あの条件反射の原理と同じであろう。  一旦、自他共に「オバサン」を認めてしまうと、世の中すべてに対する目が違ってくる。今まで見えたものが見えなくなり、気にならなかったものが気に障るようになる。  電車に乗ると、学校帰りの女子高校生がキャアキャアと大声でお喋りをしては、笑いころげている。「箸が転げてもおかしい年頃なのねえ」と担任の先生に呆れられ、そのことがまたおかしくて、涙を流しながら笑っていた自分の学生時代を思い出しながら、彼女たちをチラッと睨む。楽しいのはわかるけど、もう少しボリュームを下げなさいな。いくら睨んでみても効果が現れないので、しかたなく場所を移動すると、今度は後ろから耳障りな機械音。なんじゃと振り向いたら、元凶はウォークマンから漏れるロックの音楽だった。曲そのものがはっきり聞えるのならいいが、何の曲かもわからず、ただ「シャーン、シャーン」では、うるさいだけで落ち着いて本も読めない。と、イヤホーンに嫌味な目つきを向ける顔が、もう、オバサンになっている。  電車を降りて改札を抜ける。駅員さんやお巡りさんという職業の人はみな、自分より年上で頼もしいものだと思っていたのは過去の幻想なのか、今や、三人に二人くらいの割合で、自分よりも明らかに若い。 「お客さーん、渋谷からお乗りのかたぁ」 「ヘッ、あたし?」  たくさんの乗客が行きかう改札口でひとり、呼び止められるという屈辱的な目にあっても、あまり動揺しない。 「二十円、不足ですよ」 「あーら、ごめんなさい。二十円ね、ハイ」  昔なら、蚊の鳴くような声で「すみません」と謝っていた。恥ずかしさのあまり、下を向いたまま、お金を払ってその場を走り去ったはずである。駅員さんに無愛想にされればされるだけ気弱になったのに、今では「何も、悪気でやったんじゃないのよ。もっと感じよく応対したらどうかしら」と、心の中で文句を言っている。  新橋にある京都料理のお店から、おいしい明石の蛸が届いたという知らせをいただき、早速家族で出かけて行った。店のご主人は生粋の京都人。高下駄をカラカラ鳴らして店中を走り回り、お客さんの相手をしたり、若い見習い衆を「なんや、この切り方。何べん言うたらわかるねん」「こら、ボーッとせんと、新しいお皿出しなさい」などと叱りつけるのに忙しい。  叱られる方も「ヘェッ、ヘェッ」と威勢よく応えている。その風情は、|傍目《はため》にも気持がいい。 「それにしても、大将、よう文句ばっかり言うなあ。いまに嫌われまっせ」  いい機嫌に酔っ払った父が京都弁を真似てからかうと、 「おかげさんで、みんなが私のこと、蛸の足やって言うてます」とご主人。 「なんで?」 「蛸の足、ブツブツでっしゃろ」  そりゃいい、まったくだ。大将は蛸の足かと、父が|他人《ひと》|事《ごと》のように喜んでいたら、当のご主人は茹で上がったばかりの蛸を庖丁でブツ切りにしながら呟いた。 「でも、私はこのポチポチも小さい、足の先っちょのほうですけど、阿川さんのは、こっちの太いとこ。ブツブツが多くて可愛げのないほうや」  今度は母娘が大喜び。そうです、そうです、よく言って下さいましたとパチパチ手を叩いて同調するが、考えてみれば蛸の子は蛸。今はまだイイダコ程度の私も、いずれ蛸入道になるだろう。将来「ああはなりたくない大人」のひとりに数えられないためにも、多少の自覚があるうちに文句の数を押えておかなければいけない。  と、殊勝なことを言うのは今のうちだけで、本当はそんなこと無理だという自信がある。正真正銘のオバサンになる頃には、他人の忠告も自戒の念もどこへやら。ひたすら文句だけを言い続け、自分の非など認めるわけがない。それならいっそ、みごとな「文句言いオバサン」になって世の|顰蹙《ひんしゆく》を買うことを日々の楽しみにしようかと思う。だって、文句を言わないオバサンなんて、ブツブツのない蛸と同じで、味もそっけもないではないか。 [#改ページ]   夢見鳥 「もしもーし」  朝早くから元気のいい女性の声。目をつむったまま、起きたばかりだということを悟られないよう、あえて高い声で返事をする。 「はい、もしもし」 「あー、今井ですけどー」  突然、目が覚めた。  電話の主は、数日前、雑誌の仕事でお会いした登山家の今井通子さんだった。急遽、頭の中を今井さんチャンネルに切り替え、インタビュー当日の記憶を呼び戻す。何か失礼なこと伺ったんだっけ。カチャ。頼まれていたことがあったっけ。カチャ、カチャ。 「このあいだ、話した件なんですけどねぇ」  このあいだ話した件? 「本気でやってみる気あるなら……」  本気で? カチャ。 「ああ、あの、例のパラ、パラボラアンテナじゃなくて、えーと」 「パラパント。今週末に箱根でやろうって計画があるの。お宅から近いからどうかなと思って」 「またメシおじさん」と呼ばれている人がいる。いつ会っても、にこやかに手をふって、「よう、元気にやってる? 少し痩せたんじゃないの。よくないよ」と優しい。 「ええ。そちらもお元気そうですね」 「今度、ゆっくりメシでも食おうよ」 「わぉー、是非」 「また、連絡するよ。近々ね。じゃ、また」  期待しております、と答えて別れるが、実現したためしがない。こちらから電話して「おごって」と催促できるほどの間柄ではないので、そのままにしているうちに、日は過ぎていく。で、忘れた頃にまた、ばったり会う。 「久し振りだね、元気? メシ、食おうよ」 「はあ……」 「電話するよ、こっちから。じゃ、またね」  私と同じく、話だけでなかなか、「メシ」にありつけない同僚の女性が、「またメシおじさん」の命名者である。  もっとも、人のことは言えない。この忙しい時代に、気持はあってもゆっくり会える人の数は限られてくるのが現実で、私とて、しょっちゅう「口先女」「またサケおばさん」をやっている。「来週は暇になるから、必ず連絡するわ」とか、「一度、お酒でも飲みに行きましょう」と連発しながらちっとも実現させないので、「では、また来年にでも」という友だちからの反撃の言葉が定着しつつある。嘘をつく気はさらさらないけれど、マア、この手の挨拶は、一種の社交辞令だからと、自己弁護する。  まして、インタビューでお会いする人の場合は初対面のことが多い。年来の友人のごとく、和やかに歓談するが、どんなに意気投合して「今度、飲みに行きましょうよ」式の話になったとしても、実現することは稀である。  だから、今井通子さんとお会いしたときに、 「最近、パラパントを始めたんです。パラシュートを背負って、空を飛ぶの」 「うわぁ、おもしろそう」と身を乗り出したのは誓って本気だったけれど、 「今度、一緒に行こうよ。誘いますから」  と言われて、まさか一週間も経たないうちに誘ってもらえるとは思わなかった。  日曜日の夕方、東京を出発して、夜は箱根の今井家別荘に泊めていただき、翌朝、飛ぶという計画である。パラパントには早朝の風が具合がよいのだそうだ。  今まで眠れなくて困った経験など殆どないこの私が、その晩だけはいつまでも寝つかれずに苦労した。隣のベッドからはスースーと安らかな寝息が聞える。困ったぞ。目をつむれば、数時間前に車で通った箱根の山景が瞼に浮ぶ。  ……崖の縁に立っている。両手をはばたかせて、はるか眼下の田んぼを見下ろすと、スウーッと身体が軽くなり、足が地面から離れた。なんだ、飛べるじゃない。そうか。脇の締めが大切なんだ。肩の力は抜いて、なるほど、こうすれば人間だって飛べるんだ。何で今まで気がつかなかったんだろう。おっと、危い。カラスにぶつかりそう。こっちは空に慣れてないんだから、そう迫ってこないでちょうだい。それにしても快適である。不思議に疲れないし、今度から急ぐときは、この手を使うことにしよう。駅までなら、軽く三回ジャンプで着いちゃうもんね。あー、ちょっと、風が急に強くなったぞ。しまった、下降気流だ。キャー、どんどん落ちていく。助けてぇー……。  夢だった。朝六時。窓の外はすっかり明るくなって、カッコウや鶯、山鳩の鳴声が聞える。少々、寝不足気味だが、何となく今日は身体が軽い。  長ズボンに長袖シャツ、足首の隠れる登山靴をはき、手には軍手という出立ちである。怪我防止のため、なるべく肌を外に出さないようにしたほうが安全だそうだ。  メンバーは、今井さんと、やはり登山家であるご主人の高橋さん、今井さんと北朝鮮の白頭山登頂をなし遂げた登山仲間の早川君と近藤君、カメラマンの古谷さん、そして今井事務所で働いているマリさんと私の総勢七人だった。 「はじめまして、よろしくお願いします」  久しく太陽のもとで身体を動かしたことのない深夜労働者は、爽かな早朝の空気を吸いながら、逞しい六つの健康体を前にしているだけで、活力が補給されていくような感じがする。  中でも高橋氏は、色黒のがっしりした体格で、見るからに山男風。みんなからダンプさんと呼ばれているのを聞いて、なるほどと納得した。これ以上、お似合いのあだ名は誰も思いつかなかったに違いない。 「主人と一緒に山を登ることは殆どないんです。登山の経験は互角なんだけれど、山に対する考え方が少し違うから喧嘩になっちゃうんですよ。でも、パラパントは完全に主人のほうが先輩なので、衝突せずに済む。素直に言うことが聞けるんです」  対談の日に今井さんからお聞きした話を思い出してダンプさんに伝えると、「そうかなあ、ちっとも素直じゃないけどなあ」  ダンプさんは豪快に笑った。  八時半。いよいよ現地到着。箱根山の中腹あたりの国道沿いに車を停め、ブッシュの少ない広々とした緩斜面に出る。ふだん、ハング・グライダーの練習用に使うフィールドらしいが、その日は私たち以外の人影は見当らない。深く立ちこめていた霧も次第に晴れ、太陽が出てくる。ダンプさんが厳しい表情で、風の吹き具合をチェック。 「よーし。今日は絶好の風だぞ」  初体験のマリさんと私は、皆さんの協力をあおぎながらベルトを装着し、地面に拡げたパラシュートの先端とドッキングする。まさしく人間凧の態。心臓がドキドキし、ふいに高校のときに習った、I wish I were a bird. というセンテンスが頭に浮ぶ。 「これはブレークコード。舵取りだから絶対離さないように。こっちのフロントライザーは浮力がついたらすぐ離す。まちがえないでよ」 「はあ、なんとか」  パラシュートと人間を繋いでいる、このややこしい紐のことを覚えるのが難儀。 「じゃ、合図したら、両方の紐をしっかり握って前へ出るんだ、いいね」  ダンプさんは斜面の下へ駆け下りて、メガホン片手に大声で指示する。 「え、もう飛ぶわけですか、そりゃ、大変」 「グチャグチャ言わずに正面を向いて」  突然、下の方からヒューッと風が吹き上げてきた。 「よし、今だ。紐を引け」  ババッとパラシュートが開く。体中に猛烈な重みがかかり、後ろに引きずられそうになる。 「ギャー」 「右を引くんだ。慌てるな」  慌てるなと言われても、これが慌てずにいらりょうか。重くて、 「よぉーよいしょ。あ、ああぁー」  あっというまに大きなパラシュートが頭上に上がり、 「足が浮いちゃいました」 「よし、いいぞ。バンザイして。そのまま前へ進むんだ」  前? どうやって。足が地面から離れてしまっているのである。夢じゃない。現実に私は離陸しているのです。何という快感だろう。わずか十センチほど浮き上がっただけで、こんなに感激的だとは思わなかった。笑いがこみ上げてきて止まらない。見上げると、赤、紫、白、黄、ブルーに染め分けたパラシュートが輝いて、美しいこと。間もなく、ドスンとお尻で着陸し、茨のトゲが刺さったけれど、痛くも何とも感じなかった。 「なかなかいいぞ。今度はもう少し、上から飛んでみようか」とダンプさん。  皆、それぞれに自分のパラシュートを手繰り寄せ、背中にしょい込み、斜面を登り始める。まるで砂糖粒を抱えたアリの行列である。  それから約三時間、「えー、怖そうー」「ウッソー。できない」と、ひとり騒々しく叫びながら何回も挑戦した結果、最後には十五メートルほどの高さまで上昇できるようになった。もっとも、上手に飛ぶにはパラシュートと体重のバランスも大切なのだそうで、私は軽過ぎてどうしてもうまく前進できない。壊れたエレベーターのように上下しながら、ブッシュの中で見え隠れするので、今井さんに「野うさぎみたい」と笑われた。  今まで歩く、走る、泳ぐことしかできなかった人間が新たに「飛ぶ」魅力を知ってしまうと、急に世界が広く見えはじめる。実際、パラパント初飛行体験をして以来、都会への見方が変ったような気がする。  |街中《まちなか》を歩きながら、あのビル周辺の風向きはいいぞ、この建物の着陸空間は手頃だと、つい飛ぶことを基準にものを見る癖がついて、いつのまにか鳥になりきっている。こういう人間が、或る日、ビルの屋上から飛び降りても、どうか遺書を探さないで下さい。 [#改ページ]   隣家の香り 「あら、いい匂い、カレー作ってんの」  ついこの間まで、うちを訪れる友人は、大概この質問をしたものである。 「違うの。隣がバングラデシュの家族でね。いつもおいしそうなカレーの匂いがするの」  私がこのアパートに引っ越してきた日、荷物を担いで階段を上がり下りしていたら、どこからともなく異国の少女が二人現れて、ダンボール箱の隅を持ち上げてくれた。 「私はシュバーナ・カーン、十一歳。この子は妹のシャミーナ・カーン、六歳。紙と鉛筆貸して。書いてあげるよ」  重い荷物を床に下ろすと、少女は流暢な日本語で自己紹介を始めた。 「おねえさん、うちの隣に越してきたんでしょ。名前は? いくつなの」  大きな目をしたその子は、豆粒のような幼い妹を従えて、人なつこそうに微笑んだ。  その日以来、隣の家の姉妹はちょくちょく私の部屋に遊びに来るようになった。カーン家と私の部屋は、ちょうど直角に向き合う形で隣接しているので、ベランダに洗濯物を干しに出ると、シュバーナが窓から顔を出し、 「今、そっち行ってもいい?」と訊く。 「いいけど、少しだけよ」  すかさず、家の中からお母さんが歌を歌うような声で何やら叫ぶ。意味は分らないが、たぶん「迷惑にならないように」とか、「お昼までには帰ってきなさい」とか、そんなことらしい。娘もバングラデシュの言葉で答え、それから日本語で「お母さんがいいって。すぐ行くね。シャミーナ、行こう」  慌てるのはこちらである。なにしろこの二人、何にでも興味を示す年頃らしく、掃除をしたばかりの部屋をアッという間にひっくり返してくれる。 「うゎ、かわいい。ねぇねぇ、これ貸して」 「いいけど、壊さないでよ」 「あっ、こっちのほうがいいや」 「|Oh,《うわ、》 |look at this!《これみて》 おねえちゃん、来て」  やけに静かにしていると思っていたら、妹のシャミーナがアクセサリーの|抽斗《ひきだし》を開けている。姉妹はアメリカンスクールに通っているので、英語も達者だった。 「こら、そこはだめだぞ」と言うと、 「|Shamina,《シヤーミーナ、》 |don't touch it.《さわつちやだめ》」  姉が妹を叱る。妹がはんべそをかく。私は急いで別の抽斗から、花柄のノートやピンクのボールペンなどを探し出して、機嫌をとる。  騒ぎに騒いだあげく、しばらくすると突然思いついたようにシュバーナが立ち上がり、 「もう帰る。じゃね、バイバイ」  さっさと玄関に向っていく。 「待ってよお。じゃね、バイバイ」  小さなシャミーナはいつも姉のおしりにくっついて、真似ばかりしていた。  休日の夜、外から帰って部屋の明りをつけた途端、待ってましたとばかり窓をコツコツ叩く音がする。シュバーナがベランダの物干竿を使って合図を送ってくるのである。 「なーに?」  窓を開けて答えると、 「シーッ、静かに。シャミーナが起きちゃうよ。ねえ、ずいぶん遅かったね。どこに行ってたの」  ひとり暮しを始めたのには、この台詞から解放される自由を味わってみたいという目的があったはずなのに、こんな形で蘇るとは思いもよらなかった。 「明日、遊びに行っていい?」 「だめ。明日は仕事があるの」 「ケチ、じゃ、おやすみ」 「おやすみ」  私が幼稚園から小学校にかけて住んでいた公団住宅は二階建てで、二世帯が一つのユニットになっていた。お隣には、兄や私より少し年上の男の子が二人いたように記憶している。その頃、我が家にはまだテレビがなく、夕方になると私たち兄妹は隣家に上がり込んで、テレビを見せてもらうのを何より楽しみにしていたが、まもなくその一家はどこかへ引っ越してしまった。  その後、隣に越してきたのは、ひとりの若い女性だった。せっかく同年代の新しい友だちができるかもしれないと期待していたのに、大人の女の人じゃつまらないやと、私は大いに不満を述べたが、大人たちは関心を持っている様子だった。従兄のノッチャンは母と同じ年で、すでに結婚していたが、うちに遊びに来る度に、「お隣さん、どうしてる」と訊いていたし、隣の玄関のベルが鳴ると、誰だ誰だとみんなで騒いだりして、何かというと話題に上った。今から三十年近くも昔のことである。当時にしてみれば、若い女性のひとり暮しは珍しかったに違いない。父や従兄のそんな様子を見ながら、もしかして隣のおねえさんは、何かミステリアスな事件に関りがあるのではないかなどと、子供なりの想像を拡げたものである。  引っ越しをしてから数カ月経った夏の日の夕方、玄関のベルが鳴ったので出てみると、隣のカーン夫人だった。出掛けるところなのか、よそゆきらしい鮮やかな色のサリーを身にまとい、少しお化粧をしている。華奢で小柄な体型だが、目鼻立ちのはっきりした美しい若奥様は、片言の日本語と英語を使い、恥ずかしそうに言った。 「これ、バングラデシュのお菓子、私が作りました。どうぞ」  彼女は手に持っている小さなガラスのお皿を私の前に差し出した。 「それから……、うちへ来て下さい」 「今?」 「|No,《いえ、》 |Next Saturday.《こんどのどようび。》 |Lunch time,《おひるにね。》 OK?」 「オーケー、オーケー。サンキュー・ベリーマッチ」  夫人は、「いつも、娘たちがお世話になっているお礼です」と、おっしゃりたかったのだろうか。その種の台詞は何もなかったが、忙しい家事の合間をぬって、わざわざ私のためにお菓子を作って持ってきて下さっただけで、彼女の気持が身に沁みる。都会のアパート住まいで近所づきあいなど期待していなかった私は、予期せぬ心配りにいたく感激した。忙しいという理由をつけては子供たちを邪慳に扱っていたことが悔まれ、そのせいか、このところちっとも遊びに来なくなった二人が急に愛しくなる。その夜食べた猛烈に甘いライスプディングが、歯に沁みた。  土曜日の正午、私は花束を持って隣家を訪問した。シュバーナとシャミーナが玄関を開けてくれ、「はやく、上がって上がって」とはしゃいでいる。奥に入ると、ご主人のカーン氏がにこやかに迎え、家族を紹介して下さった。「これが私の家内と娘二人、もう知ってますね。そしてこれは、僕の弟。こっちは家内の兄です。それから、この人は留学生で弟の友だち。こっちが家内のおねえさん……みんな一緒に住んでいる」  あ、どうも。はじめまして。よろしく。次々に挨拶をしてみたものの、あまりたくさんで名前も関係も、とうてい覚え切れるものではない。 「私たち、バングラデシュ人は、家族や友だちがたくさん集まるの、大好きよ。いつでも遊びに来て下さい」  汗を拭き拭きいただいたカーン家のチキンカレーは、甘さと辛さと独特のスパイスのバランスが絶妙で、実においしかった。が、味の感想を言う暇がない。「そっちの家賃はいくらですか」「仕事は何してますか」「一人で住んでる?」などと次々に質問され、私が答える度、皆が一斉に頷き、続いてベンガル語でひとしきり討論が始まるのである。  お腹がいっぱいになると、男の人たちの討論会はますます盛り上がった。一方、ゲストの私を除く女性の食事は、男性が終ってから始まる。他の人たちが食べている間はもっぱらサービスにまわり、自分の食事は簡単に済ませ、皆にデザートを配ると、今度は片付けを始める。バングラデシュの主婦は実に働き者である。  片付けが終るとカーン夫人は、私にアルバムを見せてくれた。赤ん坊のシャミーナや、カーン夫妻の結婚式の写真もあった。  と、中に面白い写真が一枚ある。それは、この界隈一番の豪邸の前で、カーン夫人が、近所のバングラデシュ人の奥さんと並んで、にこやかに写っているもの。「この写真、どうしたんですか」と訊ねると、カーン夫人はケラケラと笑いながら、 「バングラデシュに帰ったら、みんなにこの写真見せます。これ、私たちが日本で住んでいた家だって言います」  翌年の春、カーン一家は本国へ帰って行った。出発の日は朝早くからバングラデシュの人たちがたくさん集まり、荷物運びにおおわらわの様子だった。お別れを言うために外に出ていこうとしたら、ちょうどカーン夫人が玄関のところに立っていた。とても悲しそうな顔をしている。 「もう、発つんですか。お元気でね」  声をかけると、夫人は目にいっぱい涙を浮べ、「オー、ノー」と言って私に抱きついてきた。びっくりしたけれど、何だか私も無性に悲しくなり、瞼が熱くなった。もっと親しくおつきあいをしておけばよかった。子供たちとたくさん遊んでおけばよかった。シュバーナたちもさぞや沈んでいるだろう。「行きたくない」なんて抱きつかれたら、涙もろい私のことだから、とても耐えられない。  という、こちらの勝手な期待はまんまと裏切られ、シュバーナもシャミーナもケロッとしていた。アパートの前でたくさんの見送り陣に囲まれて、まるで屈託がない。迎えの車が到着すると、感動の離別も抱擁もないまま、さっさと中に乗り込んでしまった。ようやく最後に、姉のシュバーナは私を振り返り、「じゃね、バイバイ」と言う。続いてシャミーナがいつものように姉の真似をして、嬉しそうに手を振った。 「じゃね、バイバイ」  隣の家からは、二度とあの食欲をそそるカレーの匂いが漂ってくることはなくなった。 [#改ページ]   自意識過剰  テレビの仕事を始めてまもなくのこと、ある広告代理店から、コマーシャル出演の話が舞い込んできた。  当時、私はコマーシャルというものが、どういう経緯で出来上がるのかなんてことを知らなかったので、お声がかかったらイコール出演決定なのかと理解していたのだが、実際はそんな単純なものではなかった。  まずスポンサー、つまり広告主がいて、今度新しいコマーシャルを作りたいので考えて下さい、と広告代理店に依頼する。と、代理店側はいろいろ考えるのだけれど、忙しい時は、「誰がいいかな」と幾つかの下請けの代理店に声をかける。すると、下請けさんが、このタレントを使って、こんなイメージでいかがでしょうと、それぞれのアイディアを提出するわけです。これをプレゼンテイションと呼ぶ。いかがでしょうと言うからには、いざ決定に備えて、前もって推薦したタレントさんの出演の可能性を把握しておかなければならない。もし、話がトントン拍子に進み、スポンサーから「よし、その案でいこう」と言われたはいいけれど、実はタレントの都合がつかない、では具合が悪い。そこで、電話がかかってくる。 「えー、コマーシャル出演の件ですが、〇〇食品の新しいコマーシャルに阿川さんの名前が挙がっておりまして。出演するお気持はあるでしょうか」  無知な私はそれに答え、 「へっ、私があの清涼飲料水のコマーシャルに。やー、恥ずかしそう。できるかしら。いつ、撮影ですか」  とミーハーっぽく興奮したら、 「いや、まだプレゼン[#「プレゼン」に傍点]の段階でして。では、阿川さんの場合、可能性ありということで話を進めますので、また後日ご連絡致します」  さては一大事とばかり、さっそく仕事仲間のところへ行って、 「ねえねえ、私にコマーシャルの話がきちゃった。〇〇食品だって」 「ほう、そりゃ結構ギャラいいぞ。それにきっと海外ロケだよ。みんなで応援に行こうか」 「あー、来て来て。もう、パーッとみんな、おごっちゃうから。グアムかな。サイパンって可能性もあるね」  こういうのを「取らぬ狸の皮算用」と言う。  その後、何度かコマーシャル出演の打診を受けたが、どれも実現に至ることはなかった。大概、出演する気があるかないかの問い合せの後、「残念ながら」と恐縮した様子の電話のかかることが多いが、中にはウンでもスンでもなく、そのまま数カ月が過ぎ、たぶんボツになったのだろうと推測する場合も少なくなかった。  そんなわけだから、次第に私のほうが「つぶれ慣れ」してくる。最初のように興奮しなくなり、たまに心優しい代理店から「たいへん申し上げにくいのですが、あのー」と恐縮されると、「ハハ、ボツですね。そんなに気になさらないで下さい。慣れてますから。お詫びなんて。ほんとに、いやいや」と、こちらが相手を慰めたりする。  ところが、どうしたことか、この度、ひとつ、ボツにならずに成立してしまった。調味料のコマーシャルである。  撮影現場は、都心からやや離れた住宅街の中にある、倉庫の再利用かと思われるような大きなスタジオだった。黒いカーテンをくぐって中に入ると、体育館ほどの広いスペースに、カメラ、照明機材がたくさん置かれ、あちこちから一斉に、「おはようございます」「阿川さんがお見えでーす」と、声が響く。映像カメラマン氏にスチールカメラマン。演出担当、照明さん、スタイリスト女史とメーキャップ係。それぞれに助手さんが数人つき、そのほか、代理店関係の人たちがワンサカ。ざっと挨拶しただけでも二十人以上の人間が、この日の撮影のために朝早くから待機しているのだから、驚いた。恐ろしいような、恥ずかしいような気分になる。  案内されるまま伏目がちに化粧室へ入り、まずは、メーキャップ係さんに念入りにお化粧をしてもらう。次は、着せ替え人形よろしく、スタイリスト嬢二人から、用意された服を着せられる。一世一代の変身を終え階段を下りていくと、どっと歓声が、とはいかなかった。  さて、今度は照明さんの出番である。スタジオ中央の所定位置に立つ私を真剣な表情で見つめながら、ライトの位置をひとつひとつ修正していく。続いてカメラマン氏がレンズを覗き、構図を設定。カメラ助手が露出計を何度も私の顔に近づけ、チェックを繰返す。隣には調味料の瓶磨き専門の係が立っている。時おり、メイクさんが、「入りまーす」と言って、私の額の汗を拭き、髪の毛を整えて去り、時おり、スタイリストさんが、「入りまーす」と言って、服の乱れを直しに来てくれる。 「じゃ、調味料をやさしく両手で持って、台詞を言って下さい」  カメラマン氏の指示に従い、私は瓶を受け取って、マニキュアまでしてもらった指先を、さも女らしく小瓶の上にあてがい、「おいしさは、いりませんか」と唱える。 「そう、その調子。いい感じですよ。じゃ、本番いきましょう」  ただひとりライトをあびている私の周りの暗闇からは、いくつもの目玉がこちらを睨んでいる。冷房が止められ、カメラがまわる。演出氏の合図に合せて小瓶を差し出し、「おいしさは、いりませんか」でニコッ。 「ハイ、もう一度」  自分の唇が自分のものではないような錯覚にとらわれはじめる。 「えーと、阿川さん、もう少し笑いを抑えて下さい。大人のムードでいきたいんで、ほほえむくらいの感じで」 「おいしさは、いりませんか」ニタッ。 「それから、もう気持ゆっくり[#「気持ゆっくり」に傍点]発音してみてくれますか」 「おい、しさは、いりま、せんか」ニタッ。  テキはプロなんだから、大丈夫。まかせておけばいい。きっと私の目じりの皺も、異様にひきつった口許の不自然な動きも、緊張のあまりアル中のように震える手先も、みんなうまーくごまかしてくれることだろう。ひたすら一言の演技に集中すればいい。 「はい、結構です。では、ちょっと休憩」  子供の頃、写真モデルをやっていた経験がある。幼稚園から小学校三年生くらいまでだったろうか、ある出版社の児童文学全集や子供向けの雑誌などのポスターのモデルだった。学校から帰ってくると、編集のおにいさんが私を待ち受けていた。兄とふたり、豪華にもハイヤーに乗せられて都内のスタジオへ向う。気のいい兄は、自分がモデルではなく、妹の付き添いだということを十分理解していたにもかかわらず、長時間の撮影にいつも黙ってつき合ってくれた。  お化粧こそしなかったが、一人前に撮影用衣裳に着替え、カメラの前に立たされると不安になり、すぐに兄の姿を探したものである。緊張してなかなかカメラマンの要望通りの表情をしない時は、決って兄がスタジオの隅から、「コチョコチョ」とくすぐる真似をする。耐えられなくなって私が噴き出した瞬間を狙い、フラッシュがたかれた。  無事、撮影が終ると、出版社の人が、いつもスタジオ近くの喫茶店でリーフパイをご馳走してくれた。  出来上がったポスターを見る時は、「なんと田舎臭い子供だろう」とがっかりすることが多かった。当時、私は髪の毛を腰に届くほどの長いおさげに編んでいて、前髪は眉毛の少し上でまっすぐ切り揃え、顔は赤ら顔。なぜかうぶ毛が人一倍濃く、特に鼻の下に多く生えていたために、友だちから「ヒゲ女」とからかわれるのが悩みの種だった。これじゃどうしたって「都会的センスに溢れる子」に写るはずはなかったのである。 「では、そろそろ始めましょうか」  今度は私の前に簡易ガス台が置かれている。もうもうと湯気を立てるお鍋に向って私が調味料を振るシーン。 「じゃ、お鍋の中を覗いて、パラパラッと振っていただいて、それから、『わあ、おいしそう』って感じで、よろしくお願いします」  口数の少なめな演出氏は、淡々と事もなげにおっしゃるけれど、これはけっこう大変である。なぜなら私の前に置かれたのは、おいしそうな料理の入ったお鍋ではない。大きな鉄のフライパンの中に、木綿の布巾と軍手二枚が煮えたぎっていた。 「すいませんねぇ。これが、一番湯気の出方がいいんです」  その日は朝から見るもの聞くものすべてが目新しくて驚きの連続だったが、なんといってもこの湯気には、恐れ入った。お湯だけではだめ。本物の食物では湯気の量が足りない。といって、ドライアイスでは出る方向も質も違い過ぎる、などといった試行錯誤の末、この布巾と軍手が選ばれたのかと思うと、感動的な気持になる。  瓶磨き専門だった男性が、「そろそろ本番です」の合図と共に、お箸で軍手を二枚、ひっくり返す。なるほど一気に湯気がムワアッと立ちのぼる。そのタイミングを逃すまいと私が、パラパラパラ。「ウーン」と唸ったのはおいしそうだからではなく、見事な湯気に敬意を表したためだった。  こうして何十回か繰返し、だんだん撮られる快感に浸りはじめた頃、すべてが終了した。  特に肉体労働したわけでもなく、至れり尽せり気を遣っていただき、「きれい」「すてき」と、ふだん言われ慣れぬお世辞を三言も四言も受けておきながら言いにくいけれど、我が家にたどりついた途端、どっと疲労感に襲われた。  所詮、よく見られたいと思うから肩に力が入り、おなかを引っ込ませようと息を殺して、筋肉痛になる。浅はかなこと。どうせ周りは当人が思うほど気にしちゃいまい。ただ、土鍋を抱えるシーンでは、ヘラヘラせずにもう少し締まった顔をすればよかった。  久し振りに買って帰ったリーフパイを食べながら、もう一度鏡に向ってほほえんでみる。 「おいしさは、いりませんか」 [#改ページ]   おだてのススメ 「今年は水玉がはやるそうですよ」  店の人の得意そうな声が聞えた。 「でも、なんかカルピスみたいじゃない?」  白地に紺の水玉模様のワンピースを着たその女性客は試着室から出てくるなり、鏡に映る自分の姿に熱心に見入りながら訊ねた。 「いやーだ。そんなことありませんよ。よくお似合いですわ、ねぇ」  まさに歩くカルピスだなと、感心して横から眺めていた私に、店員嬢が急に同意を求めてきたので慌てて、「ええ、まったく、よくお似合いで」と心にもないことを言ってしまう。 「ほんとぉ、じゃ、これに決めようかしら」  紙袋を抱え、嬉しそうに店を出ていく女性客の後ろ婆を見送りながら、無責任だったかと少しだけ反省した。しかし、あそこでもし、「そのままのし付ければ、まさにお歳暮ですねぇ」などと発言していたら、お店の人だけでなく、着ている当人もさぞや不愉快な気持になっただろう。  お客の心理なんてそんなものかもしれない。「変じゃないかしら」と逆説的な発言を投げかけるのは、他人に「そんなことないですよ」と太鼓判を押してもらいたいからである。決して、「変よ」と同意してもらいたいからではない。 「だから、女の人に服売るのって、コツさえ覚えちゃえば、結構簡単なの。特に中年のオバサンは素直よ」  以前、デパートの婦人服売場でアルバイトを経験したことのある友人が教えてくれた。一つのサイズしかない服を売るとき「ちょっと大きすぎない?」と聞かれたら、「今、ダボッと着るのがナウいんです」と答えれば、たいへん満足してお帰りいただけるという。同じ服を体の大きいお客さんに勧める場合は「この服は少しきつめの感じで着ていただく方がきれいですわ」と言うんだそうだ。  なるほど、いつもこの手で買わされているのかと驚いたが、店員さんにうまく誘導してもらうのを、客として期待していないわけでもない。  外国の店に入ると、日本とはずいぶん様子が違うのに当惑することがある。日本のような「おだて上手」な店員はあまり見かけない。店に入った途端、「何か、お探しですか」と聞かれるが、「いえいえ、見ているだけです」と答えれば、一切かまってくれなくなる。質問すれば答えるが、あえてお世辞は投げかけてくれない。かまわれない気楽さとかまって貰えない寂しさが混ざり合い、その上、優柔不断な心の内をうまく伝えられない言葉の壁にぶつかって、結局何も買わないで店を出るケースが多い。自己主張を美徳とする欧米人には、余計な押しつけや義理買いなどというものは成立しないのであろう。  しかし、アメリカ人夫婦の会話を聞いていると、他人の前であろうと、お互いに相手のことを「ビューティフル」「ワンダフル」と、本気なのかお世辞なのかは知らないが、しょっちゅう連発しているようだ。私なら、亭主がそんなことを言い出したら、何か下心があるにちがいないと、すぐ疑ってかかるだろう。  そういえば、プレイボーイで名の知られた友人がこぼしていた。 「日本の女性は褒め甲斐がないんで、やんなっちゃう」  なぜかと訊ねれば、 「例えば『今日の君、とてもきれいだよ』って言うでしょ。すかさず、『あら、昨日はきれいじゃなかったわけ?』とくるんだな。『そんなことないよ。いつもすてきだけど、今日は特にいいよ』って言うと、『うそ』だって。決して『ありがとう』とは言わない」  ふだん、身内から「足が短い」「何着ても似合わない」とけなされ続けている我ら日本人女性は、その手の美辞麗句を素直に喜ばない癖がある。本当は欲求不満が溜っているから、たまに買物に行って店員さんにチヤホヤされると、意志薄弱にも「ついフラフラッと」買ってしまうのではなかろうか。  世の中には、おだてられて元気の出る人とは正反対に、けなされて奮起する人間もいるらしい。テレビ局で、番組の出来不出来について、若いディレクターが上役にケチョンケチョンにけなされている光景をしばしば見かける。初めのうちは、穏やかに論理的な口調だが、次第にエスカレートして、「最初から、お前はこの仕事に向いていないと思ってたんだ」「要するに、お前の生き方がまちがっている」などといった極端な台詞まで飛び出すようになる。傍で聞いているだけでいたたまれない。あんなことまで言われて、思いつめた挙句に自殺でもしなきゃいいけれどと、小心者の私は心配になり、あとで様子を窺いに行った。ところが、本人は意外にケロッとして「大丈夫です。慣れてんだから。第一、僕はああいうふうにコテンパンに叱られたほうが、何クソって気持になるんです。なまじ褒められたりすると油断しちゃって、次の仕事がだいたい甘くなるんだ」  二十代そこそこにして、軍隊上がりか修身の教科書みたいなことを言う人だとびっくりしたが、私なんぞ、そうはいかない。あんなに徹底的にけなされでもしようものなら、即座に目頭が熱くなり、うなだれきって家へ逃げ帰ってしまうだろう。  先日、父のマージャン仲間である黒鉄ヒロシさんからのお誘いで、色川武大さん、井上陽水さんと、ある座談会に出掛けていった。お三人はふだんから仲よしらしく、和やかに、不真面目なような真面目なような雰囲気で話は展開したが、その中で、色川さんの持病であるナルコレプシーという珍しい病気が話題になった。時間、所構わず、突然眠りに陥る不思議な病気で、話には聞いたことがあったが、本物の患者を目の前にしたのは初めてだった。 「どんな感覚なんですか」と伺うと、 「どんなって、まず体中の関節が全部はずれちゃうんだ。で、脱力感に襲われて幻覚症状が出るの」 「どういう幻覚?」 「いろいろあります。怖いのもあるけど、いいのもある。花の香りが漂って、美女三人が僕の髪の毛を洗ってくれる幻覚とか。部屋に女房が入ってくるときだけ幻覚が中断するけど、女房が部屋を出ていくと、また続きが始まる」  なんだ、まんざらいやな病気じゃなさそうだなあと、黒鉄さんはからかわれたが、結局一日中そんな調子なので、長くても三時間くらいしか熟睡できないそうだ。「ああ、よく寝たぞ」といった満ち足りた気分には決してならないそうだから、やっぱり辛いだろうと思った。長年にわたって患ううちに色川さん自身は一種、病気への愛着を感じていられるようで、話しぶりは淡々と、いたって明るい。そして、しばらく静かだなと思うと、コクリコクリ舟を漕いでいらっしゃる。お酒のせいか、とても幸せそうな表情なので、きっと美女が三十人ほど登場しているのだろう。  明るいと言えば、初対面の井上さんも想像に反して陽気な方だった。先入観を持ってはいけないけれど、どうもフォークシンガーというと、モジャモジャの長髪に深刻な顔をしてギターを抱えるといったイメージがこびりついていたのだが、プロゴルファーかと思われるような、黒く日焼けした顔に真っ白い歯を覗かせ、微笑みつつ颯爽と現れたので驚いた。その井上さんが、色川さんの話を受けて言われるには、 「僕は、自分が不幸な状態にあると思ったとき、とても眠くなるんですけどねぇ」  作曲を明日までに仕上げなければならないときとか、心配事を抱えているときには、決って眠くなるそうだ。  キャッとうれしくなったのは、この私。自分と同じ性癖を持った方に初めてお目にかかった。 「何だか、一日中グダグダと」 「そうそう」 「ベッドから出る気力がなくて」 「まったく」  これはなんだろうねということになったら、黒鉄さんが、 「逃避ですな。拒絶症みたいなもんだ」  なんでも黒鉄さんの話によると、昔から怠け者、ものぐさという類の人はいるけれど、最近、それも病気の一種とする説があるそうだ。まして今のように世の中が忙しくストレスが溜りやすい時代には、精神が不安定になると、眠ることに逃げる人はますます増えるんじゃないか。とすると、井上さんや私は、時代の最先端の病気にかかっていることになる。  そこで考えたのだが、この病気を治すには、「おだてる」のが一番ではないか。時間が来ると、「大丈夫、大丈夫」「君はとってもすてき」「あなたならできる」、井上さんの場合なら「ヨッ、あなたの曲は世界一!」など、何でもいいから徹底的に褒めそやしてくれる機能を持った目覚まし時計を置くようにでもすれば、いっぺんに元気が出て、眠気もふっ飛ぶのではなかろうか。 「ねぇ、色川さん」と見ると、スースーまだお休み中であった。 「では、そろそろ閉会と致しましょうか」  座長の黒鉄さんの合図で皆が立ち上がり、口々に色川さんに向って「大丈夫ですか」  三十人の美女から現実に引き戻された氏は、大きな目をパッチリ開けて、 「ぜんぜん大丈夫じゃありません」  本気にする者は誰もいなかった。 [#改ページ]   今夜も溜息 「人間の運命って分んないもんね」  若い日を少しでも共有したことのある友人たちは、口を揃えて言う。 「あんなに文章書くのをいやがっていたあなたが、雑誌の連載を引き受けるんだからねえ」  そして、つけ加える。 「だいたい、あなたみたいな本嫌いが、物書いて原稿料もらえちゃうなんて、世の中、甘くなったもんよね」  実際、私の活字嫌いには定評があった。人は何歳ぐらいから本の好き嫌いを自覚するものなのか知らないが、もしかして私の場合は先天的な読書拒絶症ではないかと、ときどき思う。同じ兄妹でも、兄は幼い頃から本の虫であったので、私の本嫌いがなおさら目立つらしく、両親は何かにつけて、娘の無知な言動を「おにいちゃんみたいに本を読まないからだ」と非難した。娘は「だって……」と泣きながら、心の中で、「きっと、父さんの背が高い要素と母さんの本が好きという要素を、おにいちゃんにゴッソリ持っていかれたせいなんだ。妹の分は残っていなかったに違いない」と恨みがましく思った。  もちろん、本を読まないことが自慢にならないことは分っていたつもりである。 「一度でいいから、人に声をかけられても気づかないほど、本に没頭してみたい」  ほんのささやかな望みだというのに、これが私にはできなかった。電車に乗る。本を開く。「こうしてこれでもう二週間、私はツークシュピッツェのふもとの、濃い緑の水をたたえた、大きな湖のほとりで暮しています」と、一行読み終るか終らないうちに、「あーら、いやだ。うちの子供なんかだめよ。お宅は優秀でいらっしゃるから。いーえ」  にわかに大きな声が耳もとで響き、何を読んでいるのやら、いっさい頭に入らなくなる。横目でギッと隣のオバサンを睨みつけ、「もう少し静かにして下さい」と叫びたい衝動にかられるのだが、「まあ、これくらいの雑音で本が読めないんですの」とバカにされるのが落ちだから、仕方なく我慢する。  年が明けると、文庫本の後ろにある目録のページを開き、「よし、今年こそ英米文学のシェイクスピアから始めてパール・バックの『大地』まで挑戦してみよう。そして、読み終ったものは鉛筆で消していくんだ」などと、遠大な計画を立ててみる。こういうことは父や母に見つからないよう、こっそり行わねばならない。なぜなら、たとえ褒められたとしても、「そうか。ようやく本に興味を持つようになったか。それはいい。おい、母さん、めでたいぞ。佐和子がやっと本を読む気になったそうだ」と、大騒ぎになる。か、もしくは、「何? まさか、お前、森鴎外の一冊くらいは読んだことあるんだろうな」と突然の常識テストが始まって、ろくな結末にはならないから、極力、父の前で本の話題は持ち出したくない。  どうにか長い日数をかけ一冊読み終えて、「この本、すごくおもしろかった」などと口走ったとする。たとえば、中学時代に。すると、兄はあっさり、 「ああ、それか。ぼく小学校三年の時、読んだ」  この一言のために、私は何度、ひがみ、泣いたことだろう。  こうして、私は本となかなか親しくなれないまま大きくなっていった。  ところが、学校の先生の中には、物書きの家庭に育った子供は国語が得意なものと決め込む方がいらっしゃる。小学校の時は、しきりに新聞部や文芸部へ入るよう勧められ(新聞部に一カ月入部してやめた)、中学でも、ついに卒業するまで、ご期待にそえるような成績も作文も発表することができずじまいだったため、学校を去る日、先生は私の肩をゆっくりと叩きながら、おっしゃった。 「まあ、君もマイペースでいくことだね」  それだけではない。  高校に入学してまもなく、隣のクラスの先生が私を呼びとめ、 「あなたですか。加代子さん(父の私小説に登場する私の異名)っていうのは。丸の内松竹のことをマルノウチ、マツタケって読んだんでしょ」 「違います、先生。あれは私のイトコです」 「あら、でも大物のこと、ダイブツって言ったのは?」 「それも私じゃないです。友だちが言ったのを私のように父が書くから。誤解です」  それでも、熱心な先生は質問を続けられる。 「じゃ、さかな屋のことを、どうしてもウオ屋って言い張ったのは?」 「あれは、マア、私ですけど。とにかく、父の小説はあくまで作り物なんでして、全部事実と思わないで下さい」  私はムキになって主張した。小説家の子供だから国語に強い、文才があると思われるのは困りものである。そして、小説家の描く家族像がすべて事実と思い込まれるのは、もっと迷惑だった。夏目漱石の奥さんだって、世間には「悪妻」呼ばわりされているけれど、本当はとてもいい人だったに違いない。  周囲のこの手の質問に辟易して、「もし、私がお嫁に行けなかったら、父さんのせいだからね」と父を脅迫したこともある。  大人になったら何になりたいという確乎たる計画は持っていなかったが、少なくとも、なりたくない職種だけははっきりしていた。  物書きだけにはなるまい。昼夜なくイライラし、仕事場と家庭のけじめがつかない仕事なんて、健康にも美容にも家族の心の平安のためにも、よくないに決っている。小説家や出版関係の会社に勤めている人との結婚も、金輪際ご免こうむりますと宣言していた。  ところが、テレビの仕事を始めてまもなくのこと、ある雑誌社から、原稿依頼の手紙が届いた。内容は父についてとのこと。 「私に原稿の依頼が来ちゃった。『父親礼讃』だって。レイサンすることなんかないよ」と伝えると、 「バカ、お前、そりゃ、ライサンだ。情けないねえ。ちょっとその手紙、貸してみろ」  父は、娘の例によっての常識のなさを嘆いてから、「こりゃあ、原稿料いいぞ。生意気だなあ。俺よりいいかもしれん」と叫んだ。  長い間の誓いどおり、もちろんお断りするつもりでいたが、こういう話が私に舞い込んで来たこと、しかも父より原稿料がいいらしいことがおかしくて、友だちに電話で話した。すると、編集の仕事をしている彼女は、 「書いてみりゃいいじゃない。別に断る理由はないでしょうに」  と言う。 「何言ってんのよ。書けっこないわよ。文章書くの苦手だし、好きじゃないんだから。第一、世の中のたくらみは分っているんだ。要するに話題性なんでしょ。一度書かせて、あとはポイ。その手にゃ乗らんぞ」  断乎、拒絶するつもりだったのに、わが親友は、そりゃ、贅沢な考えだ、原稿依頼が来るということをもっと大切に考えなさい、うまく書けなくたって気にするこたぁないと、言葉巧みに、私をその気にさせおった。  さてしかし、実際に書くとなったら、父が黙って見過すはずはない。 「俺のことは気にせず、自由に書けばいい」と、初めは穏やかな様子だったが、いざ、原稿が出来上がったと知ると、私を呼んで、見せろと言う。 「俺の部屋から鉛筆を持って来なさい」  こういう時の父の様子は、ふだんとはガラッと変る。怒り心頭に発して、家族を怒鳴り散らす時の激しさとも違い、さりとて、マージャンに出かける前の嬉しそうな顔でもない。きちんと椅子に腰掛け、原稿に目を通し終ると、二、三度咳払いをしてから、少し鼻にかかった気取った声で、 「まず、名前の位置が悪い。それから、この『わたし』は、いらない」と言い、4Bの鉛筆で容赦なく消していく。 「次。だった、だった、だったって、安物の機関銃じゃあるまいし、多すぎます。それから、この『に』。続けて四回出てくる。ニイニイゼミじゃないんだから、こんなに続いても気にならないとは、無神経です」 「はあ。でも、そんなに直されちゃ、スンバラシクなりすぎちゃうから、ほどほどってとこで、何とか」 「スンバラシクなんか、ならない。マシにしているだけです」  こうして私は、本人の意思にも周りの予想にも反して、ボツボツと書く仕事を引き受けるようになった。原稿チェックに関しては、高校時代、家庭科の宿題の浴衣縫いをこっそり母に手伝ってもらい、先生から「場所によってずいぶん縫い方が違いますねえ」と皮肉を言われて以来の教訓により、父にはお控えいただくことに決めた。  だが、活字になってから父の目にとまると、すぐに電話がかかってくる。「読んだ。まず〇ページの〇行目。論理が曖昧。それから『のである』の濫用はやめなさい」といった調子。  そして……。  そろそろ、弟どもから不満の声が漏れはじめ、「いくら書くことないからって、弟をエサにしないでよ。恥ずかしくて学校へ行けないよ」  また、友だちからも、 「みんなで協定結んだの。今度からはアガワが帰ったあと[#「あと」に傍点]、本当に心を割っておしゃべりしましょうねって」  自分が勝手に引き受けたことだから、なんでこういう羽目になったのだろうと嘆いてみたところで、誰も同情しちゃくれない。今夜も溜息をついている。(以上86・1〜87・12「婦人画報」) [#改ページ]     ㈼[#「㈼」はゴシック体] [#改ページ]   足拡げのマリア  今から三十年近く前、私は神奈川県の二宮に住んでおり、兄と二人でバスに乗って、隣町の大磯にあるミッション系の幼稚園に通っていた。その年のクリスマス会の劇では、数日後に東京へ引っ越すことが決っていた私たち兄妹に、園長先生が特別いい役をくださった。兄が「白雪姫」の王子様、私は聖母マリアである。まだ四歳になったばかりの私には、マリア様がだれなのか、このお話がどんな筋なのか、クリスマスと何の関係があるのか分るわけもなく、むしろ兄の出る「白雪姫」のほうがずっとおもしろそうに思われた。  しかし、当日になって頭に美しいヴェールをかぶせてもらうと、すっかりご機嫌になった。母がわざわざ東京の伊勢丹まで行って買ってきてくれたものである。こんなきれいなものは見たことがないと思った。張りのある白いレース地にキラキラ光る金糸が織り込まれていたのを、今でもはっきりと覚えている。もう白雪姫など問題ではない。  お姫様の気分で舞台の中央に据えられた椅子に座ると、いよいよキリスト降誕劇の始まりである。膝には自分と同じくらい大きな人形を抱いている。じっとしているのよと言われたので、うん、とうなずいた。しばらくすると、私の前に大きな風呂敷を頭にのせた年長組の男の子が次々に現れ、ひざまずく。私に向って何やら一言二言台詞を言うと、持っていた物を足元に置いて去っていく。何してるんだろうと思っているうちに拍手が起り、劇は終っていた。  数日たってその日の写真が出来てきた。たくさんの子供たちの中から、ちょうど真ん中へんに座っている私を見つけ出した父と母が、急に大声で笑い出した。きれいなヴェールと金の冠をかぶり、生れたばかりのイエス様を胸に抱いた可憐なはずの聖母マリアは、写真の中で大胆にも、両方の足を左右に大きく開いていたのである。  いまだに、この話は我が家の語り草になっている。母はときどき思い出してコロコロ笑い、まだあの写真あるわよと言って私を脅かす。(85・12「あけぼの」) [#改ページ]   乳母少女  少女という言葉を聞くと、どうしても瞳の中の星、花柄模様、少女小説と、乙女チックなものばかりが思い浮ぶ。そんな夢多き時代が自分にあったとは到底思えない。  学校から帰るとランドセルを放り出して、一日中トンボや蝶々を追いかけたり、崖っぷちで遊んでお巡りさんに怒鳴られたり、とっぷり日が暮れるまで缶蹴り、ゴム跳びに夢中になって母にたいそう叱られたりで、家の中で静かに本に読みふけっていた二歳上の兄とは対照的な「糸が切れたタコのような子だ」と言われていた。  ままごと遊びはあまり好きではなかったが、小鳥ごっこをした思い出がある。雛にエサを与えるとき、親鳥は一度エサを口に入れてから子に食べさせると学校で習ったので、やってみようよと、じゃんけんをしたら私が負けて雛になった。仕方なく友だちがなめたあとのドロップを、ピーピーと鳴きながら口で受け取るという何とも気持の悪い思いをした。  八歳の時、弟が生れた。それまで末っ子のわがままを通していた私は、急に姉としての役割に目覚める。両親が留守の間に、おしめを汚して泣きわめく弟をお風呂場に抱いていって、臭いおしりを手でじかに洗ってやったときは、すっかり母親気分だった。一カ月三百円のおこづかい契約で、弟の乳母を引き受け、ミルクを飲ませた後は背中をさすってゲップを出させるものだとか、昼間あまり興奮させると夜の寝つきが悪くなる、などという育児の知恵を身につけたのが小学三、四年の時である。  台所に入ってぬかみそに手を突っ込んでみたり、炒り卵作りに凝ったりしたのも、みんなこの頃だった。  せっかく早いうちから主婦の修業をしておいたのに、実践に移す機会がちっともやってこないので、コツを忘れてしまいそうである。(86・6「小説現代」) [#改ページ]   先取り涙 「いやあ、それにしてもあなたは実にふてぶてしい。感心しましたよ」  プロデューサー氏に、褒めるともけなすともつかない調子で言われた。  出演している番組で、ある悲しい事件を取り上げた時のことである。レポーターの取材報告やメイン・キャスターの熱のこもった解説を聞いているうちに、胸が一杯になってきた。今にも涙が……。と、隣で肩を震わせている気配がする。振り向くと、男性司会者が目を真っ赤にして泣いていた。驚いた途端に、こちらの涙が引っ込んでしまった。  翌日、「司会の方のリアクションがよかった」「見ていて心打たれました」という反響を多数いただき、その結果「それにしても、あなたは涙一つ浮べず、平然としたものだったね」ということになったわけである。  本来、私は弱虫で、いつでもどこでも大概のことに涙を流す。友人の結婚式では花束贈呈の段になり、「何故こういう下らないことをするのか」と文句を言いながら、人一倍貰い泣きするし、映画の予告篇を見ただけで簡単に目頭が熱くなる。にもかかわらず、男性が泣いている横で女の私が泣かなかったために、その後あちこちで、「フテエ女」と呼ばれることになった。  どうも、先を越されたというのがいけなかったようである。同じ対象物を前にして心が|昂《たかぶ》ってきても、人の後から感動を追いかけるのはむずかしい。 「私なんて、ボーイフレンドと映画を見に行ったらね」と友だちが言う。  自分が泣く前に彼がオイオイ泣き出した。困った、出遅れたと思い、泣こうと努力してみるがいっこうに涙は出てこない。気が散って映画はつまらなくなるし、終って場内が明るくなると、まるで男いじめをした女を見るような冷たい視線を感じる。慌ててお手洗いに駆け込み、水道の水で涙目をこしらえたそうである。 「帰りの電車の中で決心したんだ。今度はクールな男とつきあおうってね」  男と女のどちらがより泣くかという調査をしたら、一概に女だとは言えないのではないかと思う。それほど近頃は男性の泣く姿をよく見かけるし、泣く話を耳にする。お酒を飲んで泣き、女性にふられて泣き、子供の成長ぶりを見て泣いている。  昔から、男は人前で泣くのを恥だと教えられてきた。むやみに泣き顔を人に見せるものではない。見せないことになっている。だからたまたま男が泣いたとしたら、それは「よほどの理由」と判断され、多くの共感と同情を得る。まして最近は、花嫁の父の涙や、当選、受賞、引退などのスピーチの度、男の涙を「美しい」と変にもてはやす風潮があるから、ますます男は泣きやすい。男にとって、涙を流す甲斐のある社会的基盤が出来はじめているような気がする。  一方、女のほうはそもそもが泣く動物だと思われているので、涙に対する評価は低い。「おい、また泣いてんの。わかったよ。何とかするから泣きやめよ。みっともないなあ」とまるで厄介者扱い。この段階で止めない場合は「泣きゃすむと思ってるから、女はずるい」と軽蔑のまなざしを向けられ、かといって、一切泣かなければ、「可愛げがない」とくる。男性の前で泣くのにも、どうしてなかなか、技術と節度が必要なのである。  昔、ある男性に「おつきあいして下さい」と申し込まれたことがある。学校の先輩でなにかとお世話になっている手前、そっけなく断るわけにはいかない。いい人だとは思っていますが、そういう気持はですね……、ウジウジ言いながら歩いているうちに、あたりが暗くなってきた。風の冷たい冬の日で、ちょうど風邪気味だったため、しだいに鼻がぐずぐずしはじめる。気まずい空気の中で、さて何とお答えしたものか思案に暮れていると、突然、彼が呟いた。 「もう、いいんだよ。君は僕のために泣いてくれてるんだね。それだけでうれしいよ」 「ヘッ?」  泣いていたのではなく、鼻をすすりあげていたのである。でもまさか、「ちょっと風邪をひいて」とは言えない。困っている私に「やさしいんだな」と、か弱い声。「いや、まあ」。恐る恐る顔をあげてみたところ、そこには目に涙をいっぱい浮べている男の顔があった。  ふだん、自分のために涙を流してくれるような男性が現れたら、さぞ気分のいいものだろうと憧れていたのだが、このときばかりは、感激するよりもうしろめたさが先に立って、早々に退散した。  女の涙が武器なら、男の先取り涙は、女にとって凶器である。(87・3「オール読物」) [#改ページ]   留守番電話考  留守番電話を備えつけて一年以上になる。買うまでは、こんな感じの悪いものはないと嫌っていたのだが、実際に使ってみると、たいそう便利なので驚いた。特にひとり暮しをしている者にとっては、必需品とも思える。  深夜、仕事から帰ってくると、まず、電話を確認する。赤いランプが点滅しているのは、留守番メッセージが届いているというサイン。すぐさま再生ボタンを押して録音テープを聴くのが、目下何よりの楽しみなので、このランプが点滅していないと、なんとなく悲しい。残る楽しみといえば、台所の隅に仕掛けたゴキブリ捕獲箱を覗くことだが、ここにも収獲がない場合、寂しさは倍加する。  最近は留守番電話を持っている人が増えたので、かける側も慣れてきたせいか要領よく名前と電話番号を言い残し、手短に切る人が多いけれど、名前を言ったきり言葉につまったのか、しばらくの沈黙の後、「失敗したのでかけ直します」と慌てている声もときどきあって、おもしろい。  人と話をするときに、相手の相槌や頷きが全くないと、ひどく喋りにくいものである。と、誰もが感じるだろうと思っていたら、違うらしい。アメリカ人の場合、相手の話に同意する意味で「アーハー」とか「アイシー」と言葉を挟むことはあるが、意見が異なると、相槌も、まして頷くなんてことはしないそうである。頷くという行為は、「あなたの意見に賛成です」というときに限るという。  テレビの取材で、人にインタビューする場合、あとで映像を編集する都合上、話の合間にインタビュアーはできるだけ相槌を入れないよう教育されている。しかし、しっかり聞いておりますよという証拠を示さなければ相手の方が不安に思うだろうから、声は出さねど、ふだん以上に誇張して頷かなければならない。頷く習慣のないアメリカ人がこの様子を見ていたら、おかしなことをしていると思うだろうが、我々日本人には、これが会話のマナーのひとつなのである。  留守番電話になじみにくいのも、この相槌がないせいかもしれない。「相槌機能」をつけて、相手の話に合せて「ハイハイ、ホー、ナルホド」と、返事ができるようにしたら、どっと売れ行きが伸びると思いますが、いかがでしょう。  ところで、私の留守番電話に一度、聞き覚えのない男性の声で、「あー、俺だけど、またかける」というメッセージが、二日続けて入っていたことがある。二回目には名前も名乗っていたが、それでも誰だかわからない。記憶にないのだからこちらからかけ直すわけにもいかず、そのままにしていたら、数日後、同じ声の主から電話があった。「もしもし」と言うと、その声は「ああ、〇〇子?」と、親し気に見知らぬ女性の名を呼ぶ。 「ヘッ? どちらにおかけですか」 「えっ、〇〇さんのお宅じゃないんですか。はぁー」と不審気な声を発し、「失礼」の一言もなく切られたが、考えてみると、謝るべきは私の側だったかもしれない。  そもそも留守番電話を買ったのには、いたずら電話を防止する意味もあったので、私の応答メッセージでは、名前を名乗らないことにしている。つまり、本来なら「阿川ですが、今、留守をしていますので」と応えるところを、名前の代りに電話番号を言い、留守である旨を伝える。だから、かけた人はその家が何さんであるかを確認することはできない。この男性は間違い電話であることに気づかぬまま、他人の電話に二度もメッセージを残したのである。  使ってみて初めて気づくことは他にもある。プッシュホンの電話を利用すれば、出先でも留守番メッセージをチェックできるのだが、公衆電話でこのチェックをやっていると、周りの人に変な目で見られる。あの女は受話器を耳につけたまま、長い間一言も口をきいていない。ときどきメモをしているが、何をしているのだろう。話し中なら、さっさと切ったらどうだ。  人に迷惑をかけているつもりはないのだが、なんとなく悪いことをしているような気がするので、ペコペコ頭をさげ、「もう少しです。もう少し」と呟きながら、録音テープを聞き続けなければならない。  先日うちに帰って、いつものように電話のメッセージを聞いていたら、中にひどく慌てた声が入っていた。何事かと思って聞き直してみると、 「しまった、まずった、これも金がかかるのか」  明らかに父の声なのに、名前も用件も言わず、ただそれだけ。  よく考えると、その時、父はハワイにいたのだった。(87・7「中央公論」) [#改ページ]   黙れ、娘  先日、私の出演しているテレビ番組に父がゲストとして招かれた。テーマは親子についてではなかったが、いずれにしても父娘揃って、人前に曝されることには気乗りがしない。誰だってふだんの父との言い合いの様子など、外では見せたくないと思うだろう。或いは、仕事場で気取っている顔を身内には知られたくないと言う方が正確だろうか。仕方がない、我関せずの態度でいこうと決め、毅然と、かつ|傍目《はため》に不快感を与えない程度に和やかに、速やかにすませたいと願った。  ところが、娘の悩みをよそに、父親というものは、実にデリカシーに欠ける態度をとってくれる。家にいるとき以上に命令口調で私に用事を言いつけたり、「仕事場じゃ、ずいぶんよく働くなあ」とか、「慣れた手つきでマイクなんか持ちやがって」とか、何かにつけて口うるさい。  いよいよ本番が始まり、父が最近の若者についての見解を述べたのに対し、たった一言、「本当、文句が多いんですから」と言葉を挟んだ途端、すかさずゲストが叫んだ。 「今日は、お前は黙ってろ」  勤め人でない父は大抵、朝から晩まで家にいて、ふだんは夜中に仕事をするのだが、締切が近づくと、昼夜をわかたず、苛々している。家人の話し声や足音さえ癇にさわるらしく、小さい頃は、「夕方まで、どっかに出かけててくれ」と、母や兄と一緒に、靴を履く間も与えられず、追い出されることがしばしばだった。  今でも、母がお手洗いに行く度に(我が家の最大の設計ミスは、お手洗いを父の書斎の前に作ったことである)、書斎からわざわざ顔を出し、「お前はよく便所に行くなあ」と、うるさそうにいやがらせを言っているらしい。  幸いにして、私は二年程前、ひとり暮しを始めて以来、この種の難癖をつけられる回数は減った。それでもちょくちょく電話で小言を言われる。外から帰って留守番電話のメッセージを再生し、この世の不愉快を背負って立っているような、「また留守ですか。用事があるんだから、連絡してもらわないと困る」という父の声を聴くと、ドキッとする。娘が「あら、お父様、そうきつくおっしゃらないで」とかなんとか言えばいいのだろうが、父に劣らずきつい口調で、いちいち逆らうので、文句の数が倍増する。しかも、ちょっとした拍子に、限度を越えると一家離散の騒ぎを起しかねないから、細心の注意が必要である。  ところで、問題の番組から数日後、男性の視聴者からお手紙を戴いた。 「先日、阿川氏を招いての番組、興味深く拝見しました。しかし、僕の聴き間違いでなければ、阿川氏は司会者のあなたに対し、『黙れ』と発言されたようでしたが、もしかすると、あなたは、阿川弘之の娘なのでしょうか」  父だという紹介をせずに番組を始めたので、おわかりにならなかったのも当然のことだが、人前でこんな会話が成立するのだから、親子であることは間違いないようだ。(87・10「文藝春秋」) [#改ページ]   頷き役のとまどい  この十月で、私の出演している番組(情報デスクTODAY)が五年目を迎えることになった。四年前、ひょんなきっかけでテレビの世界に足を突っ込んだ私は、初めのうちは右を見ても左を見ても、驚くことだらけ。どういう顔をして画面に出ればよいのかさえわからなかった。上役に「さしあたり、座っていれば結構です」と言われて、なるほど、女性の役割とは所詮「飾り」の存在なんだなあと納得し、それに甘んじていた。 「いた」と書いたからには、四年たった今は「飾り」でないかと言えば、相変らず「飾り」である。家族は「無能な|頷《うなず》き役」と呼び、初対面の人は「静かな人かと思っていたら、案外お喋りなんですねえ」と驚かれる。そして「もっとバシバシ自分の意見を出したらどうですか」と叱られることが、最近とみに多くなってきた。  女性出演者が概してアシスタント扱いをされていた時代から、ここ数年のうちに、世の中の女性に対する認識が大きく変りはじめていることを感じる。テレビだけではない。どんな仕事においても当てはまることだろう。ただ、ここでしばし考える。もし、ご要望通り「バシバシ意見を述べる」ような逞しい女性になり得たとしても、多くの男性諸氏は「よくやった」と認めてくれる反面、「傍には置きたくない種類の女だ」と|宣《のたま》うだろう。では、黙ってフンフン頷いていればよいかというと、もう、それでは許してもらえないご時世である。  ある人が言われた。「男まさりに仕事をしようなんて考えが古いのです。男に負けまいと意地を張らず、女しか思いつかない発想を大切にすることです」  いつまでも「無能な頷き役」で終らないために、どんな戦略でスマートに魅力的に攻めるかが、目下の課題である。(87・10「パステル」) [#改ページ]   都会の愛想  金曜日の夜八時すぎ、私は地下鉄銀座駅のホームに立っていた。ようやく電車が入ってきたと思ったら、突然足元がふらつく。あれ、酔っぱらったかしら。いや、そんなに飲まなかったぞ。もしや、地震?  慌てた勢いで、「じし?……」と後ろに並んでいた中年男性に向って小声で問いかけた。もちろん「地震でしょうか」と丁寧に訊ねるつもりだったのだが、そのオジサンは私が振返っただけで不愉快そうな顔つきになり、地震の「ん」を言い終る前に、スーッと視線をそらしてしまった。仕方なく、「ん」の後の言葉を急遽変更し、「……かなあ」といかにもひとり言風にまとめざるをえなかった。別に長々とお喋りをしたいというのではない。一言の会話を求めただけなのに。  駅員さんがあちこち走り回り、乗客はみな不安げな表情である。が、誰もがそのオジサンと同様、他人と言葉を交そうとしていない。いくら他人同士といえども、現在ただ今の関心事は共通のはずなのだから、「結構ゆれましたね」とか「こりゃ、参りましたなあ」といった会話が聞えるのが自然だと思うのだが、あまり会話をしている様子はない。構内アナウンスが流れ、地震の影響でしばらく電車が動かないとわかると、乗客は一斉に無言のまま行動を開始。バタバタと階段を上がり改札を抜け、公衆電話に向う。そして、あれだけ沈黙を守っていた人たちが、電話口に向って大声で驚きを伝え始めた。「あ、もしもし、そっち大丈夫だった? うん、今、銀座。揺れた揺れた。怖かったね」  東京に生れ育った私自身、他人と必要以上にお喋りをするのは煩わしいと思う方である。家を出て目的地に着くまで、途中で買物をしても切符を買っても、口をきかずに用を足すことはいくらでもできるから、社会とのそういう関係が習慣になっていて気楽なのかもしれない。しかし、最低限の挨拶や礼儀くらい、もう少し愛想よくしたほうがいいんじゃないかと、反省することはある。  以前、アメリカから来た友だちが、人とすれ違う度に声を掛けるので、一緒に歩いていて恥ずかしいからやめてよと言うと、「僕の町では知らない人でもみんな挨拶するよ。いけないことかな」と反論されてしまった。もっともアメリカの中でも、ニューヨークの五番街に行ったときは、ニッコリ微笑んでくれる人が少なかった。都会はどこも人を無愛想にさせるものらしい。  人々が忙しく動き回る都会だからこそ、見知らぬ人とのささやかな交流が気持を和ませる。たとえば、電車で足を踏まれても「ごめんなさーい」と爽かに謝られれば、踏まれて嬉しい花いちもんめ。「どういたしまして」の言葉も軽やかに、その日一日が楽しくなる。それに引き換え、今日はあのオジサンのお蔭ですっかり気分が悪くなったもんだとひとり言を言いながら、地上へ出た。  数日後、仕事場で年輩の男性が私を呼び止め、曰く、 「この間の地震の時、銀座の地下を歩いてたでしょ。見かけたんだけどさ。ずいぶん怖い顔して歩くんだね、君って。とても恐ろしくて声をかけられる雰囲気じゃなかったよ。もうちょっと、にこやかにしてないと、ますます縁遠くなるぜ」(87・夏季号「東京人」) [#改ページ]   山と健康 「あなたはストレスの溜らないたちですね」  教授は私の顔を覗き込みながら、合点がいったという様子で微笑んだ。  あるお酒の席でお会いしたこの先生、余興にと「心理テスト」を始められた。「いいですか、紙と鉛筆を持って。これから僕のいうものを絵にして下さい。まず山」 「はいはい」 「次は川。そして、家とヘビ」  それぞれが提出した紙の上には、大きさも形も、おもしろいほど異なった山・川・家・ヘビが描かれていた。ある人は富士山のような山に細い川。ある人の家は立派で、もう一人は山小屋風といった具合。 「へえ、こんなに違いが出るものですかねえ」  何やらもっともらしき教授の説明によると、山は精神状態を、川はその人の運命、家は家庭で、ヘビはセックスを表すのだそうだ。  ネタが明された途端、みんなの興味は、ひたすらヘビに集中する。あら、この人のヘビ、ぜんぜん迫力ないとか、あなたのはとぐろを巻いているわとか、お酒の勢いも手伝って、勝手きわまりない分析が無限に拡がった。で、私の描いたヘビがどんなだったかということにはあえて触れませぬが、問題は山である。教授は、なだらかな二つの山が前後に重なっている私の絵をごらんになり、「こういう人は、悩みがあまりないのです」と断定なさったわけである。  そんなことないですよ。私なんか、日々悩み苦しんでいるのに、あんまりだ。この慌しい現代に生きていて「悩みがない」とレッテルを貼られるのは、まるで鈍感か、よほど仕事をしていないか、いずれにしても決して|褒《ほ》め言葉にならない。そうかなあと、少々不満に思いながら、絵をバッグにしまった。しかし、家に戻ってアルコールに冒されきった頭で、もう一度、つらつら考えてみたところ、教授の指摘もまったく外れてはいないような気がしてきた。確かに、些細なことで悩み、憂い、惑い、落ち込んではいるけれど、ほとんど同時に、不満やひがみをあたりかまわず訴え、慰められたあげく、よく寝ている。これだけ周りの迷惑を顧みず発散していれば、ストレスも溜る暇がないのではあるまいか。  ぐち一つこぼさず、いつ会っても笑顔を絶やさなかった友人がいたけれど、あるとき突然、円形脱毛症になってしまった。彼女は、友だちだけでなく家族の前でもあまり文句を言わなかったという。自分だけで悩みを解決しようとして、神経がくたびれてしまったのだろう。こういう人の描く山は、もしかしたら剣のように尖っているのかもしれない。やっぱり、文句や悪口は大いに言ったほうが健康のためにもいいのです。おかげで、ここ数年、風邪もひいていない。(87・11「グラフ TEPCO」) [#改ページ]   編物と天現寺  大学卒業後、しばらくの間、私は天現寺にある慶応大学の幼稚舎に勤めていた。勤めていたと言っても、正式にではない。アルバイトとして図書室のお手伝いをしていた。建ったばかりの新しい図書室棟は、まだ引っ越しが完全に済んでおらず、厖大な数の本が山積みされたままの状態だった。その整理に、二人の司書と先生方だけではとても手が回り切らないので、臨時にアルバイトを使うことになったのである。  友人の紹介で私がそこを訪れたときには、すでに六、七人の女の子がいた。私を含めて殆どが図書館学とは無縁な人間ばかりだったが、仕事はいたって気楽なもの。本の分類収納、カード作成、ハンコ押しから、標本、教材の掃除まで、その日によっていろいろな仕事を、先生の指示通りにやればよかった。時には司書の代りに、カウンター業務の手伝いを任せられることもある。  二年生ぐらいの男の子が来て「これについて調べたいんですが」と紙切れを差し出した。ちょうど司書が席を外していたので、代りに応対に出たアルバイトの一人がその紙を見ると、そこには大きな字で、「ほうじょうそう雲」と書かれている。「えーと、これはね」彼女は迷うことなく、その子を「科学」の書棚へ案内した。「ほら、この辺の本を見れば、雲のことは何でもわかるんですよ」と優しく教えると、子供は不審げな目つきで彼女を見上げて言った。 「ちがうんだけど。僕が探してんのは伝記なんだよ」  四年生の女の子が本を借りに来た。通常、本の貸し出しは一人一冊に限られていたのだが、しばらくするとその子はまたやってきて、さっきとは別の本を差し出しながら、涼しい顔で「この本借ります」と言う。「あら、あなた、さっき一冊借りていったじゃないの。一人一冊しか借りられないのよ」と注意するが、本人はまだ一冊も借りていないと言い張る。アルバイトだからみくびってるなと思い、厳しく叱りつけているところへ司書が戻ってきて「あっ、この子はいいんです」。さっきのがかおりちゃんで、今のはゆかりちゃん、つまり双子の姉妹だったのである。  毎日こんな調子で、おかしな事件ばかり起るので楽しくて仕方がない。お喋りに身が入りすぎ、よく先生から叱られた。ちょっと仕事をすると、すぐお茶の時間にし、キャーキャーワーワー。仕事場というよりむしろサロンである。以前から編物が好きだった私が周りから勧められ、とうとうこの小さなサロンで、編物教室まで開かれることになった。  ある日、図書室の先生が「子供たちに教えてみる気はないか」と言われた。  この図書室は、単に本を貸し出す部屋ではなく、子供たちが遊びながらも学べるように、さまざまな工夫が凝らされていた。公立の小学校で育った私には考えられないほどである。床には絨毯が敷きつめられ、機能的な椅子や作業台が置かれていた。「この学校は物質的にかなり恵まれている。できる限り多くのチャンスを子供たちに提供し、あらゆる可能性を試してもらいたい」と先生は言われる。  実際、図書室主催という名目でいろいろな催し物が企画された。専門の講師を外部から招いての講演会、シンセサイザーの会、英語会、低学年生のために、物語を耳からも学ばせようというお話会。また、全学年が参加できるかるた会、計算大会、漢字大会、将棋大会と、多種多様だった。  それらに加えて「編物会」を発足させようという話である。私にそんな大それたこと、できるかしらと不安だったが、ほこりにまみれて古い本の整理をするより、可愛い子供たちと一緒のほうが楽しそうに思われたので、とりあえず始めてみることにした。  まず、私ともう一人「編物おねえさん」が、図書室の隅に座って編んでいる。そこへ「何してんの」と子供が恐る恐る近づいてくる。「編物してんの」「おもしろそう」「やってみない? 簡単よ」「うん、あたしやる」と、一人が乗ればしめたものである。  五、六年の女子が中心になるだろうと予想していたが、実際に集まったのは低学年生の方が多かった。休み時間や放課後など自分の好きな時に来られるようにしてあったので、殺到すると、一ぺんに二十人以上の面倒を見なければならないこともあった。傍で見ていた人からは「砂糖にたかるアリのよう」と言われたが、私たちにとってはまさしく戦争だった。膝と背中に二人ずつ、汗でべたべたの子を抱え、周りからは「目が落ちた」「早く毛糸ちょうだい」「こんがらかっちゃった」と責めたてられ、中には「美容院ごっこしてあげる」と、私の髪の毛を引っ張り回す子もいる。とても静かな「編物会」など望めそうにない。「こら、編棒でチャンバラするんじゃありません」「お願いだから少し静かにして」と叱りつけるのが精一杯。  と、授業開始の鐘が鳴り、子供たちは、蜘蛛の子を散らすように消えていく。後に残された私たちは呆然としてしばらく口もきけない。こんな状態の中でも、子供たちの上達ぶりは驚くほど早く、コースター、財布、ポシェットと、少々形はいびつだが、なかなかの作品が続々と出来ていった。  そのうちに男の子の参加者も増えた。三年のたかし君はスポーツ万能の元気な子だったが、いくら周りから「お前、女みてえ」とからかわれても、平然と女の子に混じって編んでいる様子は頼もしく、たった一週間程のうちに大きな三角ショールを編み上げ、意気揚々とグラウンドに走って行った。  四年生のエミちゃんは、「男」というあだ名がつくほど威勢がよく、けんかをすれば大抵の男の子を負かしてしまう女番長のような子だった。そのエミちゃんが編物を始めた時は学校中の評判になり、先生方まで確かめに来られたほどだった。いつも「編物会」に来る時は、体中、泥だらけの汗みどろ。雑巾のようなびしょびしょのハンカチを振り回しながら「おー、早くやろうぜ」と言って入ってくるが、いざ座って編み出すと、まるで女の子らしくなってしまうから不思議である。  彼女が悪戦苦闘の末に難しい棒針編みのベストをようやく編み上げた時は、本人は勿論、私たちも大喜びしたが、しばらくして、エミちゃんと同じ顔をした一年生の男の子が、目の揃っていない紺のベストを着ている姿を発見した時はもっと感激した。  臨時のはずが、結局五年間、幼稚舎で仕事をさせてもらった。もう私の知っている生徒たちのほとんどは卒業し、中学生や高校生になってしまった。きっと今会っても、誰が誰やら分らないくらい大きくなっているだろう。(86・冬号「丘の上」) [#改ページ]   迷える織り婆  テレビの仕事を始める前、私は織物で身を立てようかと思ったことがある。小さい頃から毛糸をいじるのが好きで、押入れの中から使い古しの毛糸を出してきては細々したものを編んで遊んでいた。しだいに手袋、チョッキ、セーターと大物に挑戦し、高校時代には複雑な模様や色の組合せに夢中になった。そんなに好きならいっそ、美術系の学校に進んだらどうかと母に勧められたが、それほどの自信はなかった。美術大学に入るためには絵が上手でなければいけない、デザインの才能が必要である。そんなことは到底私には無理だと思った。  で、特に勉強したかったわけではないが、漠然と大学生活そのものに憧れて、普通の四年制大学文学部を受験した。「入学してから何をしたい」ではなく、入学そのものが目標だった。合格しさえすれば、新しい世界が開けるような気がしたのである。  大学合格というはっきりとした目標があるうちは、ただそれに向って突き進めばよかったけれど、お仕着せの勉強から解放され、急に自由になってみると、何をすればいいのか分らなくなっていた。適当に講義を受け、テニスやスキーに出掛け、友だちと喫茶店のはしごをしては他愛のないお喋りに明け暮れた。  ある日、近所の奥様が織物の仕事をしていられるという話を聞いたので、仕事場を見せていただくことにした。|梯子段《はしごだん》を登って屋根裏部屋に上がると、そこには大小二つの織り機が置いてあり、棚には色とりどりの毛糸が詰め込まれていた。簡易ガス台の上では染め糸の入ったバットがぐつぐつと煮えたぎり、草木染め独特の不思議な臭いを漂わせている。奥様は織り機に座って、バタンコバタンコとラグを織りながら、時々階下でケンカしている三人の子供たちを叱りつけていた。なんてすてきなんだろう。これこそ私が捜していた理想の姿だ。よし、織物にしよう。そう思った途端、それまでモヤモヤしていた不安定な気分が、いっぺんに吹き飛んでしまった。  すでに周りでは就職活動が盛んになりはじめていたが、私はちっとも関心が持てなかった。何の特殊技能も持たない私が会社に入ったところで、できることといえば、せいぜいお茶くみ、コピー取りだろう。それもどうせ、結婚するまでの三、四年のこと。貯蓄に徹するなら別だけれど、単調な仕事を毎日繰返すより、結婚後も続けられるような技能を身につけておく方が有意義に違いない。これからは手に職のある人間が求められる時代なんだと、自分勝手な結論を出し、本格的に織物を勉強することに決めた。  親にしてみれば、高い授業料を払って何のために大学へ行かせたのだろうという気持だったに違いない。ちょっとばかり罪悪感を感じたので、小遣い程度のお金はアルバイトで稼ぎ、織物教室に通い始めて、機を買い、工房を幾つか巡り、少しずつ織りや染めの技術を身につけていった。  数年後、通っていた工房の先生から「助手にならないか」というお誘いを受けた。「やっと、チャンスに巡り合ったの。長い間夢見ていたことだから、どうか反対しないで下さい」と両親を拝み倒して、しぶしぶ承諾を得た。適齢期をそろそろ越えようとしているのに、いったい結婚はどうするつもりなのと母は心配顔だったが、その時の私には結婚は二の次に思われた。いずれ縁があれば、結婚はできるものと信じていたし、頭の中は新しい生活のことで一杯だったのである。アルバイトも一切やめ、織物に専念することにした。  初めの一年間は全くの無収入。交通費も食費もなしだった。週五日、他の二人の弟子と一緒に朝早くから夜遅くまで工房にこもって仕事をする。お稽古に来る人たちの世話をし、先生の作品を織るのが弟子たちの主な仕事である。糸洗い、糸巻きだけで一日が終ることもあった。忙しい日には殆ど一日中、人と口をきく余裕もなく、ひたすら時計と糸とを代る代る|睨《にら》みつけながら、織りに織った。五分間に何寸織れるかの勝負となり、お手洗いに行く時間さえ惜しまれる時もある。  展示会が近づくと、自分の作品も作らなければならない。家に帰り、ようやく自分の機に座る。夜中まで織り続けて、朝また工房へ通う。ついつい糸を紡ぎながらうたたねをしてしまい、気づいた時には、使いものにならないうどんのような糸が出来ていたこともある。そんな毎日が続いた。眼の奥が痛くなり、肩がガチガチにこった。こりすぎて気持が悪くなる。行き帰りに、ハンドバッグを肩にかけるのさえ辛くなり、首にぶらさげて歩いたりした。  肉体的な辛さはまだ我慢できたが、精神的なトラブルが起きはじめたことが辛かった。小さな仕事場で、ごく小人数、しかも女性ばかりの世界の中で、殆ど外との接触を絶たれた状態が何日も何カ月も続いていると、取るに足りないような不満が積み重なり、ストレスとなっていく。下らないいざこざや、ちょっとしたすれ違いを解消する場がないので、不満はどんどん膨らむばかりである。  身も心も疲れ果てて家にたどりつき、辛い、疲れたと愚痴をこぼす。と、父から「お前には無理だよ。もういい加減にしたらどうだ。身体をこわすぞ」と言われる。意地を張って「続けたい」と答えてはみるものの、本当は自信がなかった。やりたいことを達成させるためには苦しみがつきものなんだから、我慢して乗り越えなきゃと自分自身に言い聞かせながら、どうすればいいか分らなくなっていた。  実際、両親に衣食住の負担をかけている上、家事の手伝いなど、家のことは何もしていない。あと何年この状態を続けることができるだろうか。たとえ今の状態は乗り切れたとしても、その先独立し、経済的に一本立ちできるほどの織り手になれるという保証は全くない。織物の世界の厳しさを知れば知るほど、それが並大抵のことではないと分ってきた。両親の言う通り、やっぱり私の考えが浅はかだったのか。いっそ何でもいいからお見合いで結婚し、寛大なるご亭主の下で、織物は趣味にした方が幸せかもしれない。このまま辛い辛いを繰返しているうちに、大好きだった織物自体が、嫌いになってしまいそうな気がして怖かった。  そんな頃、TBSの人から電話があり、テレビの仕事をしてみないかと誘われた。何の経験もない私に、新番組のアシスタントをしないかという突然の話である。  両親や友だちと相談した結果、数日後にはお引き受けすることに決めていた。しかしその時点で織物をやめようとは思っていなかったし、これをきっかけにテレビの世界で生きていこうという気もなかった。不遜な言い方かもしれないが、全く別の世界に自分を置いて、もう一度織物について考え直してみるには、よいチャンスだと思ったのである。もともとテレビの仕事をしたいと切望していたわけではないから、クビになればなった時のこと、それまで一所懸命やればよいぐらいの気持でいた。第一、収入を得られるというのは魅力だった。これで少しは両親に顔向けができると思うとホッとした。  早いものであれから丸二年。小休止のつもりだった織物とはすっかり御無沙汰してしまい、一方テレビの方は辛うじてクビにならずに何とか続いている。シロウトだからと許される時期もとっくに過ぎたというのに、相変らず失敗の連続である。やっぱりこの世界でも才能がないのかしらと滅入ることもあるが、幸か不幸か、この仕事ではそう長く悩んでいる暇がない。何しろ、早く次のテーマに取りかからなければ、間に合わない。慌しい仕事だが、その分、数え切れないほど多くのさまざまな職種の人に会えることは、すばらしい経験になる。  評論家、実業家、ジャーナリスト、カメラマン、編集者、テレビ・ディレクター、アナウンサー、スタイリスト、会社社長から新入社員まで、仕事とはいえ短時間にすぐ親しくなろうとする図々しさが身についてきたのは恐ろしいが、それぞれの人の話を聞くのは何より面白い。そして、どんなに|傍《はた》からは美しく、恰好よく見える仕事でも、必ず辛い、嫌な面があることを知った。なんだ、この世界も同じことなんだと安心するが、その度に、その苦境を乗り越えて来た人たちが偉大に見えてくる。  私はやりたいと一度決めたことを自ら放棄してしまった、いわゆる「落ちこぼれ」である。しかし、そのお蔭で新しく獲得したものは多いし、かえって変な気負いや焦りが薄れたような気がする。  十代、二十代の頃は、何かに挑戦したくても、この年からでは遅すぎると、いつも思っていた。そのくせ何もできない自分が、友だちからひとり取り残されるのが怖くて、むりやりしたいことを見つけ、それを百パーセント仕事につなごうとして、|一途《いちず》になりすぎたような気がする。しかし最近は、全く考えてもみなかったことが面白くなることがあり、そんな発見を繰返すうちに、やりたいことが少しずつ形を変え、明らかになっていけばいいんじゃないかと思うようになってきた。  楽しいことも、悲しいことも今のうちにたくさん経験しておいて、歳をとってから屋根裏部屋にこもり、のんびり織物をしながら暮したい。子供たちを集めては毎日いろんなことを話して聞かせ、「お婆ちゃん、その話もう三回目だよ。他のにしてよ」なんて言われても、本人はすっかり思い出に浸り切って、「なんて私の人生は豊かだったんでしょうねえ」と満足している。  そんなお話バアサンになる日まで、私はずっと、模索しつづけるのではないかと思う。(85・12「PHP」) [#改ページ]   思い出から  生れは東京だが、二歳の時、両親がロックフェラー財団の招きでアメリカへ留学することになったので、二つ年上の兄と一緒に、広島の伯父の家に一年間預けられた。伯父は、弟である父と十九も離れており、そのうえ、伯母との間に子どもがいなかったから、私たち兄妹を孫のようにかわいがってくれた。  欲しいといえば何でも買って貰え、行きたいところには、「よしよし、連れていってやろう」「どうじゃ、うれしいか」といった調子で甘やかされ放題。すでに長男の自覚をもっていた兄のほうは、そんな誘惑には惑わされず、ことあるごとに「ここは、本当の家じゃないんだよ、本当のお父さんとお母さんは今、留守なんだ」と妹を諭していたようだが、幼かった私は両親のことなどケロッと忘れ、伯母を母親のように慕い、自由気ままな広島の生活にすっかり馴染んでしまった。  一年後、アメリカから帰国した両親の許に戻されても、私はしばらく広島を懐かしんでばかりいたそうである。 「お前を抱えて、庭でおしっこさせると蝶々が飛んできたんで『ほら、チョウチョだよ』っていうと、『広島にはもっとたくさん飛んでた』っていいやがって、なあ」  すると、決って母が、 「あら、佐和子を抱えておしっこなんかさせたこと、おありだったかしら。私には覚えがないわ。それより、私が|箒《ほうき》とはたきで掃除をしていると、『広島のおばちゃんは、こういう風にお掃除した』っていって、はたきを持ち替えさせられたのよ」  二人して私を親不孝者のように話すので、「悪かったわねぇ。別に、私が望んで広島に行ってたわけじゃないんですから」と娘はふてくされる。 「別にいけないっていってないだろう。面白いといいたいだけだよ」と父。  当時のことを思い出すたびに、親子で同じ会話を繰返す。  両親の手許にいったんは戻されたものの、伯父伯母の望みで、私だけ再び広島に預けられることになった。しかし、いつまでたっても帰ってくる気配のない娘を、ずっとそのままにしておくわけにもいかないと、とうとう父が連れ戻しにやってきた。  父親らしいとは薄々感じるけれど、なんとなく親しみの湧かない怖そうな男の人が、広島の家にやってきたかと思うと、私を抱いてタクシーに乗り込んだ。当然、伯母も一緒に来るのだろうと信じていた私の目の前で、ドアが閉められ、伯母は窓の外でニコニコと手を振っている。これはおかしいぞ。どうなっちゃうのかな。 「えっ、何でおばちゃん、乗らないの、おばちゃーん」と泣き出した私を父は押えつけ、そのまま車を出発させた。事情を知らない人が見たら、まるで誘拐事件のようだったろう。  私は大声で泣きわめき、暴れ回った。いやだ、おばちゃんのところへ帰りたいと叫んでいると、突然ものすごい轟音。何事かと慌てて身体を起したら、真っ黒い巨大な塊が近づいてくるのが目に入った。自分の泣声の数十倍の音を立てながら、機関車が猛烈な勢いで迫ってきたのだった。私はすっかり仰天し、涙がピタッと止まってしまった。その瞬間の感覚を、今でもはっきりと覚えている。そのあと寝台車に乗って、どうやって家にたどりついたかとか、母や兄と対面したときはどんな様子だったかなど、何も記憶にないのだけれど、あの踏切の前で泣きやんだ時の情景だけは、強烈な印象として頭の片隅に残った。  中学に上がる頃まで、私は父と面と向って話をしたり、冗談を言い合ったりすることができなかった。何か言い出せば、必ず叱られるような不安があったし、実際、父はしょっちゅう癇癪をおこしていた。  私が子どもの頃の父は、家で着物を着ていることが多かった。和室の書斎に小さな書き物机を置いて仕事をしていた姿を覚えている。兄と私が|襖《ふすま》一つ隔てた隣の部屋で遊んでいると、「うるさい、静かにしなさい」とよく怒鳴られた。原稿の締切間近には、ヒソヒソ声さえ癇にさわるらしく、そんな時は母が兄と私を連れて、当てもないのに日が暮れるまで外で時間を潰すこともあった。考えてみると、その頃は父に叱られた理由の中で一番多いのが、「うるさい」だったような気がする。  そんなわけで、子供の頃は叱られていた記憶ばかりが鮮明で、父に甘えたり、遊んでもらったりした覚えはあまりない。が、朝食がトーストのときだけは例外だった。不器用にバター・ナイフを使って、パンに穴をあけたりテーブルを汚したりするのを見かねてか、ふだん子供の世話などほとんどしない父が、バターぬりを引き受けてくれ、私は餌を待つ雛鳥よろしく、口をパクパクさせていた。このときばかりは、うれしいような照れくさいような、妙な気分がしたものだった。  たしか、小学校二年のときのことだったと思う。いつもの道を歩いて帰る途中、私は鼻の中に大きな魅力的な塊を見つけた。幸い人影はない。周りを気にしながら人差し指でゴソゴソやっていると、取れた。しばらくその塊をほれぼれしながらいじくっていたが、家まで持って帰るほどのものではない。どこに始末しようかなあと思いあぐねていたところ、ちょうど我が家より一棟手前のコンクリート壁の横に来た。壁の表面はザラザラしていて、いかにも手頃に思われた。誰も見ていないようだし、いいや。くっつけちゃえ。  何食わぬ顔で家に帰り着き、洗面所に向おうとしたら、二階から母の声がした。 「お帰り」  母は階段の踊り場に座り込んで、ニヤニヤ笑っている。 「こら、誰ですか。鼻くそを人の家の壁にこすりつけたのは」  なぜ、ばれちゃったのだろう。私は、母が魔法の水晶玉を持っているのではないかと思った。実際、母はなんでも知っていた。「|塵紙《ちりがみ》どこ」と聞けば、「和室の右の押し入れを開けて、中の|抽斗《ひきだし》の上から二番目」といった明確な答えが返ってくる。失くし物をしても母に聞けば必ず出てくるし、蚤を捕まえるのには、天下一品の才能を持っていた。  知っていた理由は単純で、二階で片付けものをしていた母が、窓からたまたま、娘の姿を目撃しただけのことだったのだが、それ以後、私は母に隠しごとをしても無駄だとあきらめるようになった。  私とは対照的に、兄は家の中で本を読むのが好きだった。声をかけてもなかなか聞えないほどに没頭していて、いつも「え、何か言った?」とか、「ああ」という生返事ばかりしていた。夏休みの兄の昆虫採集の宿題を妹がするかわりに、国語や歴史などは、兄に教えてもらうという契約が成立したこともある。その兄に比べて妹のほうは、どうしてこんなにモノを知らないのだろうか。私の本嫌いは両親の悩みの種だった。 「とにかく、これからはなるべく本を読むようにしなさい」  叱られる理由がまったく関係ない場合でも、最後には必ずこの台詞がくっついていた。  もっとも、父は「本を読め」とうるさかったが、「勉強しろ」と子供を叱ったことはほとんどなかった。むしろ学校の勉強を真面目にやろうとすると「重箱の隅をつつくような勉強の仕方は感心しない」といい、学校は「ドンドン休め」が口癖だった。|天邪鬼《あまのじやく》なもので、親に「ドンドン休め」なんていわれると、子供のほうは、ドンドン行きたくなる。少々風邪気味でも、学校で面白くないことがあっても、父に見つかって「ほい、休め、さあ、やめろ」などと喜ばれるくらいなら、頑張って行こうと思う。友だちにいじめられたりした時期もあったが、登校拒否症にかからずにすんだのは、父のお蔭かもしれない。  ただ、一度だけ、「勉強しろ」と叱られたことがある。  小学校六年生のとき、中学受験を目前に控えながら、のほほんとテレビのマンガを見ていたら、急に父が憤慨しはじめた。今頃そんなものを見ているとはどういう料簡だ。別にお前が受験しなくても、俺はいっこうにかまわんが、是非受けたいというから、進学教室にも通わせ、先生にも来ていただいているんだ。そんなにマンガが見たけりゃ、受験も学校もやめちまえ。  この一撃に慌ててチャンネルを変えたところ、ちょうどNHKで特派員報告という番組をやっていた。その日のテーマは「華僑」。テレビを見るなら、こういうものにしなさいと父に怒鳴られ、涙をしゃくり上げながら世にも悲しい思いでその番組を見たことが、まさか後々、功を奏するとは思いもよらなかった。受験の当日、志望中学の社会の問題に、「外国に移り住んで、経済的な力を持っている中国人のことを何というか」という設問を見つけたとき、私は初めて父に叱られたことを感謝した。  その後、弟が二人生れたが、一人は現在、サラリーマン、そして一番下は、まだ中学生である。育児からすっかり退いていてもおかしくない年齢の母が、相変らず息子の勉強の相手をし、お弁当を作っている。一方、父は、この孫のような年齢の息子と相性がいいらしく、学校で先生に褒められたそうだとか、あいつはなかなか|食物《くいもの》のセンスがいいとか、今夜スキーから帰ってくるので、駅まで迎えにいってやるんだとか、離れて暮している娘の私に、末息子の近況を細かく電話で報告してくる。 「へえー。私が小さかった頃とは、ずいぶん待遇が違うなあ。スキーに行くだけで反対されて怒鳴られた記憶はありますけど」 「下らんことですぐひがむんじゃないよ。お前にもいろいろしてやったぞ」  都合のいいことはどんどん忘れ、叱られたことばかりが心に残っているのだろう。ときどき母は、「私なんて、おじいちゃんとあんまりぶつからなかったせいか、思い出が少ないわねえ。佐和子はよかったわよ。これだけ衝突が多ければ、いやでも父親の印象が薄れないでしょう」と笑う。  学生時代からの友だちに言わせると、「相変らず、進展がない」親子で、昔から取るに足りないことで大騒ぎをしているそうだ。衝突している当人同士は、たいそう深刻だし、常に重要な問題を取り上げてきたつもりだが、あとで他人に話すと、いつも笑い話に変ってしまうのである。(87・7「PTA」) [#改ページ]   ピンクのパジャマと三角眼  私が幼い頃の父は、ただただ恐い人だった。厳格、頑固、冷徹といったものとも、ちょっと違う、なんと言うか、いつ爆発するかわからない火山のような恐さである。  確か私が六、七歳の時のことだったと思う。食べることの好きな父は、その頃、母、兄、私の三人を、日野ルノーという小さな車に乗せて、よく外へ食事に連れて出てくれた。父の運転する車に乗るやいなや、後部座席から飽きることなく外の景色を眺めはじめる兄とは対照的に、その兄の膝を枕にして、アッという間に寝てしまうのが私の特技だった。  ただ、交差点にさしかかると、突然、父が真剣な眼つきになり、人差し指を掲げながら「レフ、チェ!(Left check)」と怒鳴る。反射的に、残りの三人は、口を揃えて「クリアー(Clear)」と答える。次に父が「ライ、チェ!(Right check)」とくれば、三人は、これまた「クリアー」「よーし」  この緊張感はまんざら嫌いではなく、さすがの私もムクムクと起き上がり、身を乗り出して参加したものだった。父はよく、「初めて運転を覚えたのがアメリカだから、別にキザでやってるわけじゃないんだ」と言っていたが、私にとって、これが英語だとわかったのは、ずいぶんあとになってからのことである。  さて、その晩はおいしい中国料理をお腹一杯食べて、四人ともシアワセいっぱい。会計を済ませ、店を出ると、父は満足そうな笑みを湛えながら、私に声をかけた。 「おい、どうだ佐和子、うまかったか」  ところが、私の方はと言えば、暖かい店を出たとたん、頬を突き刺す冷たい北風にびっくりして、こう答えてしまった。 「うわあ、さむいー」 「なんだ、その答え方は。どういうつもりだ」  急に父の顔色が変った。 「それが、親にメシをごちそうになった時の態度か。甚だよろしくないね」  いつもそうだった。不幸は突然やってくる。ついさっきまで、あんなに機嫌がよかったのに……。母も兄も黙っている。寒さに恐ろしさが加わって、身体中、震えが止まらない。 「お前はどう思っているんだ、エー。大体お前のしつけがよろしくない」  しばらく黙って運転していた父が、今度は助手席の母に、的を移す。 「でも、何もそんな急にお怒りにならなくたって。佐和子だって、別に悪気があったわけじゃないんだし……」 「それじゃ、俺が悪いと言いたいのか。よし、わかった。車を降りろ」 「そんな……」 「降りろと言ったら降りろ」  とうとう母は、家から二、三キロ手前の暗い夜道に、ひとり降ろされてしまった。悲劇の母の身を案じて、兄が泣き出した。兄の泣き顔を見ると、ますます悲しくなって、私も泣きわめいた。 「うるさい! 泣きやまないなら、お前たちも降りろ」  たいていこの種の事件は、しばらくすると一応の解決がついた。 「ごめんなさい。もうしません」 「何がいけなかったのか、わかっているか」 「はい、あのー、佐和子がよくない態度をとった」 「わかればよろしい。もう寝なさい」  最後の一言で、それまでの緊張がすべて解け、私の顔はまたもや涙と鼻水でグシャグシャというのが、お決りのラストシーンだった。ただ「もうしません」と言ったものの、その頃には、いったい何が事件の発端だったのか、よく思い出せないことが多かった。  あれから二十年余り経った今も、父と私の状況はほとんど変っていないように思える。変ったことと言えば、癇癪に加えて、グチ、イヤミ、ヒガミが多くなったこと。着物姿のいじわる三角眼が、ピンクのパジャマ(最近、仕事のある時は、めんどくさがって、一日中こんな恰好でウロウロしている)のいじわる三角眼になったこと。そして、そんな父に、私もだいぶ慣れたことぐらい。 「ない、ない、ない。俺の探しているものは、絶対に見つからん!」とわめきながら、家中をひっくり返し、ここにあったわよ、と誰かが見つければ、「どうしてそんな所に隠すんだ」  夕食の時、もう少し酒をくれと言うので、持っていくと、そんなにたくさん入れて俺を殺す気か。ならば、もう好い加減におやめなさいと止めれば、俺の唯一の楽しみを奪う気か。お風呂に入ったらと勧めると、俺を追っ払いたいんだろう。じゃあ、みんなの後にする? と聞けば、俺は家族のしまい風呂か、とひがむ。そのあげく、 「アー、つらいねえ、つらい。俺は不幸な人間だ……さみしいなあ。このままコロッと、おっ|死《ち》んじまいたい。アー、世の中つらい、情けない」と言い続けるが、「Oさんから電話よー。麻雀のお誘いみたい」という声を聞いたとたん、ケロッと元気になり、ピョンピョン跳ぶようにして、電話口へ出て行く。現金なのか純粋なのか、それとも単なるわがままか。|主《あるじ》の面子、子供の手前、といった類のことを一切気にせず、家族の前に自分の正直な感情を包み隠さず表す父の性格は、生涯変ることがないと家族は諦めている。(84・4「Light up」) [#改ページ]   車中見合い談義  仕事仲間とスキー旅行へ行った帰り、列車のなかでM君夫婦と向いの席になった。テレビの仕事のない週末を利用して十数人で滑りに行くのが恒例となるにつれ、最近は、若いスタッフが奥さんやガールフレンドと一緒に加わるようになってきた。連れてきた本人は、仲間と最愛の女性に挟まれて何かと気を遣うことが多いらしいが、第三者にとっては、ふだんお目にかかれない同僚の内づらを見てその人となりを再認識できるし、からかう材料も増えるので楽しみである。  M君は番組のディレクターで、二十七歳。結婚一年目を迎えたところだ。夫婦同士がお互いを「おにいちゃん」「やっちゃん」と呼び合っているので、「どこへ行っても兄妹とまちがえられちゃうんです。ネッ」と二人、顔を見合せる。同い年の奥さんとは、大学時代、スキーバスで隣合せたのが、そもそものなれそめとのこと。前の晩にお酒を飲みすぎて、醜態の余韻を残したままバスに乗り込んできたM君に対する第一印象は「ただ臭かっただけ」と言うやっちゃん。よく結婚する気になったわねと、友だちからあきれられたほど非ロマンチックな出会いだったそうである。  初めに最低の状態を相手に見せてしまうというのもよい手かもしれないと、適齢期は越してしまったが、結婚への夢をまだ捨てていない私は、ひとり合点した。  お見合いではこうはいかない。きちんとした紹介者の推薦で、履歴書、写真を前もって交換し、会ってみたいという双方の合意のもとに、初めて顔合せをするのが通常のパターンだから、気乗りしようがしまいが、一応はちゃんと身なりを整えて行くのが常識である。初めて二人で行った場所が赤ちょうちんだったとか、すっかり意気投合して話し込んでしまい、一回目にして帰宅したのが午前様だったというケースは、たまに耳にしても、前の晩に飲んだくれ、盛り場から直行してお見合いの席に現れたという人の話は、まだ聞いたことがない。 「で、阿川さん、何回くらいお見合い経験あるんですか」。やっちゃんが、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。 「やーよ、そんな話。回を重ねたあげく、めでたく結婚できたっていうならいいけれど、結局数打って当っていないんだから、自慢にもなりゃしない」  でもお見合いってしたことないから興味ありますとか、上野まであと三時間、どうせ他にやることがないんだからとか、M君夫婦にむりやりせがまれて、渋々、昔の思い出をほじくりかえす羽目になってしまった。  私が何度お見合いをしたことになるのか、回数を数えていなかったので正確にはわからない。しかし、二十代の初めから終りにかけて、多い時は一カ月にひとりの割合で新しい人と会っていたから、合せて三十回ぐらいにはなるだろう。大学を卒業して二、三年後、二十四、五の春と秋は、週末になると友だちの結婚式か、自分のお見合いのどちらかに出掛けていたように思う。あの頃が、まさしく世にいう結婚適齢期だったのだろう。  友だちと集まれば、話題の中心は何といっても結婚だった。現在、恋人がいてもいなくても、見合いが好きでも嫌いでも、仕事を持っていようといまいと、誰もが、女はいずれ結婚をするものと信じていた。たとえ例外的に結婚しない女性がいたとしても、自分はああはならないと思い込んでいたのである。  ひとり決り、ふたり決り、私の周りが次々に結婚していく間、相変らず私はお見合いを続けていた。年賀状に、 「今年はお互い[#「お互い」に傍点]、よい人が見つかりますように」と書いてきた友だちが、翌年には、 「今年こそは吉報を」になり、そのうち、 「どうぞ、マイペースで。うちの子は今年、幼稚園です」  そして、いつのまにか、誰も私の前では遠慮してか、結婚の話題を持ち出さなくなっていた。  周りに取り残されたという焦りはなかったし、ひどく羨しいとも思わなかった。ただ、大学卒業後、どこにも就職せずに、手に職をつけるつもりで始めた織物の仕事が、たやすく収入につながらないことがわかり、もしこのまま結婚しないで、織物で身を立てるとしたら、あと何年、親に面倒をかけることになるだろうかという不安が、日に日に募っていった。織物は趣味に徹し、いいダンナさんを見つけ、早く孫の顔を見せてくれと両親から言われるたびに、自分だけが人生の選択を誤ってしまったような気がして辛かった。 「すげえな。三十回見合いして決らないなんて」とM君は、「僕も一度してみたかったな」 「一度見合いをしてみたかった」という台詞は、恋愛して早く結婚した人の決り文句のようなものである。|他人《ひと》|事《ごと》だと思うから羨しいのだろうが、当事者としては、ちっとも楽しいものではない。これだけ性懲りもなく繰返したのだから、そりゃあ一応は期待する。もう、金輪際お見合いはしないぞと、心に固く誓っても、「あら、そんなに堅苦しく考えないで、気楽に会ってみるだけでよろしくってよ」なんて勧められれば、そうかねぇと言いながらも、もしかすると今度こそステキな人かもしれないと思って、ついその気になってしまう。当時、我が家の家事手伝いをしてくれていた、ひとつ違いのミエちゃんは、お見合いに出掛けようとするたびに、「佐和ちゃん、大丈夫。今度こそ決りそうな予感がするの。頑張って」と元気づけてくれた。  何を頑張ったらいいのか、よくわからないけれど、とにかく私自身もその時ばかりは恋の予感などあったりして、ふだんは三分で終るお化粧に二十分くらいかけ、精一杯女らしくめかし込んで、いそいそと出掛ける。ご本人に会って、たとえ恋の予感は消し飛んでしまっても、知らない世界の新しい人と、おいしい食事をしながらお喋りするのはまんざら嫌いではないから、楽しかったなと満足して帰ってくることも多かった。  しかし、家の玄関を入るときが怖い。家族一同が私の顔色をうかがい、何を言い出すかと、かたずをのんで見守っている。 「どうだった?」  母が聞く。すぐさま父が、 「よせよ。あまり刺激しちゃいかん」と、私に聞える程度の小声でそれを制しながら、ニコニコ顔でじっと私を観察する。 「今度は結婚できそう?」と弟は単刀直入。 「佐和ちゃん、なんだかうれしそう」とミエちゃんが言うと、一斉に、そうだそうだということになり、父は、日取りや式場の心配をしはじめ、「スピーチは遠藤周作と北杜夫だけ。スッキリといこう」と張り切り出す。もし、私が浮かぬ顔をしているときは、「断るなら早いに越したことはない。すぐ電話しなさい」と、ゆっくり考える暇も与えてくれない。  �一目会ったその日から�といった「ひらめき」でもあれば別だろうが、前もってお互いに素性が知れている上、その「つもり」で会うくせに、本質の問題に触れることをなるべく避けながら、でもしっかりとお互いの一挙手一投足を観察し合う。その不自然さと矛盾の中で、一生の伴侶として〇か×を見定めなければならない。その上、返品のきくワンピースじゃあるまいし、一度決めたら簡単に「やめた」と言うわけにはいかないのだ。ましてや相手のことをはっきり「好き」とも「嫌い」とも感じない場合、何を判断の基準にしてよいのかわからなくなる。 「一度や二度ではわかりません。しばらくおつき合いしてみたいのですが」 「先方も同じご意見です」  こうして何回か、極力気楽な気持で会うよう努力するのだが、食事をして、お喋りをして、ちょっとお酒を飲んで、お喋りをして、という繰返しでは、結局何の進展もない。周りからの圧力は増す一方で、毎日のように「どうするつもりだ、どうなってるんだ」と詰問されれば、じゃあ、やめておこうかという結論になる。最後には「ご縁がなかったのよ」という言葉で、我と我が家族を慰めるのであった。  お見合い例の一つ。  A夫人に連れられて、あちら側の紹介者のお宅に伺う。聞きしにまさる大邸宅で、八階建てのビルの八階がワンフロアーまるごと、自宅になっている。どうぞと勧められるままに、大きなスリッパをはいてフカフカの絨毯の上を歩いたら、危うくつんのめりそうになった。「あら、足元お気をつけになって」と奥様に気づかれて、カーッと身体があつくなる。豪華な応接間で待つ間、おしゃべりが始まった。 「阿川さんのお父さまは海軍がお好きでいらっしゃるのよね」 「好きなんてどころじゃありませんで、私が小さい頃は、夕食の時にステレオをボリュームいっぱいにして軍艦マーチをかけるので、『パチンコ屋さんみたいで、恥ずかしいからやめてよ』ってよく……」  にわかに、奥様は驚いたようすで、 「んまあ、チンコ屋さんて、何ですの?」と素頓狂な声をお出しになった。すると、A夫人までが、「チンコ屋さんなんて、聞いたことございませんわ」 「まあ、何ざましょうね、チンコ屋」「あらチンコ屋なんて」  緊張のあまり、声が小さすぎたのか、上の一文字が抜け、突然、チンコ屋さん騒動が始まってしまった。 「いゃ、それは、パ、パ、パァー」  身体はカッカと燃え上がり、久しぶりに着たスーツのベルトはきついし、出されたコーラを飲みすぎて胸のあたりが苦しい。助けてくれぇと叫びたくなったところへ、「どうも、お待たせしました」とテキがようやく現れた。 「じゃ、おふたりでごゆっくり」  外に出ると、あたりはもう暗くなって、小雨が降りはじめていた。  駐車場に行き、これですと示された車は左ハンドル。暗がりで、車体にPの字で始まる文字が記されているのが、チラッと目に入る。ははぁ、これがテレビでよく宣伝しているホンダのプレリュードか。助手席に乗り込むと、ワイパーが動き出した。私は何気なく、「プレリュードって、ワイパーの動きかた、おもしろいんですね」  テキは答えた。 「いえ、プジョーです」 「ばかだなあ、国産車が左ハンドルのわけないじゃない」  M君が呆れたように笑った。 「でも、女は車のことなんか知らないものよ」。やっちゃんが私をかばう。 「そんなことないよ、それぐらい常識だぜ」 「やーだ、おにいちゃんって怒るとすぐ鼻の穴、大きくするんだから」 「うるさいな、いいだろ」 「わぁ、また大きくなったぁ」 「いいかげんにしろよ、やっちゃん」 「でも、そこがかわいいよぉ」  些細なことで、人前でもすぐケンカを始めるかと思うと、簡単に仲直りしてしまう。新婚一年目とはこんなものなのか。それともこの夫婦は、子供が生れてもずっとこの調子なのかもしれない。今度はこちらが呆れる番だと思い、黙って見ていると、 「で、その縁談はどうなったんですか」  M君が照れ隠しに話題を戻した。 「……断られた」  ものごころついた時から結婚に関心が高かったのか、着物を着た女の人を見かけると、ところかまわず人差し指をあげて「オヨメー」と大きな声でわめくので、母はそのたびに慌てて私の腕を押え込み、「オヨメじゃなくて、およめさん。それに人を指でさしてはいけません」と叱るのに苦労したそうである。台所に入るのが好きで、小学校の頃からお米をといだり、ぬかみそに手を突っ込んだりしていたから、よく「この子はきっと、いい嫁さんになるぞ」とおだてられて、本人もまんざら悪い気がしなかった。  中学・高校時代に仲のよかった七人グループの、どの家に遊びに行っても、いつも私が立ち働く役になり、その家の幼い弟妹とすぐいっしょに遊びはじめてしまうので、「この中では、阿川さんが一番早く結婚しそうねえ」とお母さま方が予言して下さった。にもかかわらず、今は最後の二人で六番目の結婚を譲り合っている。 「こんなはずじゃなかったのに。どこで狂ったのかしら」と母は嘆き、とてもあなたの子供が生れるまで待っていられないと言って、十九歳離れた弟が赤ん坊のときに使っていたベビー用品を、処分しはじめた。すぐに私が譲り受けるから取っておいてね、と頼んでおいた一式だったのに、その末の弟が今や中学生である。「せっかく、すぐ下に子分ができると楽しみにしてたのに。このままだとぼくの方が先かもね」と、その弟は呟いた。  理想が高すぎるのよ、ある程度は妥協しなきゃと、結婚して七、八年になる友だちは電話口で吐き捨てるように言う。 「亭主は丈夫で留守がちなのが一番なんだから。出張だって聞くと、あたしなんかホッとするわよ」 「よく言うわよ。結婚前は、『あたしが想い描いていた通りの人が現れたの』なんてのろけてたくせに」 「それは初めだけ。今じゃ、えくぼもあばたに見えてきた。ちょっと、だめって言ってるでしょ、何度言えばわかるの!」  彼女と電話で話していると、必ず何回かは子供を叱る声で話が中断させられる。母は強し。たいへんね、でもかわいいでしょと訊ねると、冗談じゃないわよ、一日中この調子でどなりまくってクタクタよ、自分の時間なんてありゃしない、危い!(ガチャーン、ギャーァ)だからいけないって……。 「もう切るわ。またかける。じゃあ」  数回目のお見合いで、とうとう結婚することにしたという友だちと、式の一週間ほど前に会ってお祝いの言葉を告げた。彼女は浮かぬ顔になった。 「あたし、ぜんぜんときめかないの」  予想外の一言だった。自分で決めたからには、幸せ一杯の時期だと思っていた。 「なによ、いまさら。まさかやめるって言い出すんじゃないでしょうね」 「さあ……」 「でも、嫌いじゃないんでしょ」 「まあね」 「会ってて楽しくないの」 「べつに……」  急に心配になり、家に戻ってからすぐ、もうひとりの友だちに電話をかけた。 「あの人、大丈夫かしら。すぐ離婚なんていうの、よくないわよ」  すると、その友だちは平然と答えた。 「心配ないって。あの人、中学の時から何かにときめいたってこと一度もないもの」  あれから六年になるが、彼女は離婚もせず二児の母親になって、相変らずときめかないらしいが、幸せに暮している。  そうかと思えば、大恋愛の末、駆け落ち同然のようにして結婚し、子供ふたりまで生れて、こんなに幸せそうな似たもの夫婦はいないと誰もが噂していたのに、うまくいかなくなった友だちもいる。  ときめくばかりが能じゃない。恋愛と結婚は別のもの。勢い、勢い! 結婚がすべてじゃない。同じ歯ブラシ使えたら結婚できる。女は結婚し、子供を育てて初めて女になる。結婚は忍耐。結婚は妥協。結婚は墓場。結婚は……。  そんなにたくさん見合いをして、恋愛だって経験ないわけでもあるまいし(人並にはあったつもり)、本人も家族も結婚願望を持ちながら、なぜ結婚しなかったのかと聞かれると、答えようがない。ただなんとなく縁がなかったから。しいて言えば、私が臆病だったから、構えすぎたからであって、もっと恰好つけて言うのなら、あれこれ迷う余地もないほど魅力ある男性に、まだ巡り合っていないからかもしれない。  こうして書いてくると、どんどん深みにはまりこんで結局「お前は結婚モラトリアムだ」というレッテルが貼られてしまいそうだ。しかし、私は、今の自分を幸せ者だと思っている。織物は挫折してしまったけれど、ヒョンなことからよい仕事に恵まれて、もし結婚していたら出会わなかったであろう数え切れないほど多くの人たちに囲まれて生きている。  きっと縁結びの神様が、私の名札をどこかに置き忘れて、今頃必死に捜しているところに違いない。誰かとうまく結んでもらえるまで、のんびり気負わずに待っていよう。しかし、もしかして結んでもらえないときのことを考えて、今のうちにかけがえのない友だちをいっぱい集め、おばあちゃんになっても淋しくないように準備しておこうとも思う。ただ、もうしばらくは、月並ではありますが、どこからともなく白馬に乗ったすばらしい王子様(おじさま、いや、おじいさま)が現れて、心ときめく[#「心ときめく」に傍点]結婚をしたいという夢を、持ち続けていたいのである。 「大丈夫ですよ。私の周りなんて、まだ結婚してない子ばっかりだもの」  心優しい若妻やっちゃんは、一所懸命に私を元気づけようとする。それを受けてM君が、 「そうなんですよ。もうすぐ三十だっていうのに、こいつの周り、売れ残りだらけでやんなっちゃう」  やっちゃんが小声で、「バカ」とM君に囁く。M君が慌てて口に手を当て、すまなそうに私にむかって会釈する。 「悪かったわねぇ」。怒ったふりをして私が答えると、その一言であちらは恐縮してしまい、ますます場が白けてしまった。  しばしの沈黙の後、突然やっちゃんが、 「阿川さんって、私の叔母によく似てる。きれいだって親戚中の評判だった人なんです」と言ってから、思ったほど話題が盛り上がらなかったのを見て、今度は自分のダンナのほうに向き直って囁いた。 「あんまりうまくいかなかったね、おにいちゃん」(86・5「婦人公論」) [#改ページ]   あとがき 『婦人画報』に最初に載ったのは、「半額娘の父」である。その後まもなく、銀座の千疋屋の喫茶室で編集長にお会いしたら、「随筆を連載しないか」とおっしゃる。即座に、そんな大それたこと、自信がありませんと答えたが、言葉とは裏腹に、ヘラヘラと笑いが込み上げてきて止まらない。書いたものが活字になって毎月雑誌に載るなんて他人事だと思っていたから、頬がゆるむのは当然だが、それよりもおかしかったのは、編集長の顔が俳優の細川俊之氏にそっくりだったせいである。斜にかまえるような座り方もコーヒーに砂糖を入れる仕草も、役者という雰囲気が出ていた。私は、口に手を当てたり咳をしたりして笑いをごまかすのに苦労したが、そのときの「嬉しそうな」顔が、承諾のしるしと受け取られ、二年間の苦しみが始まった。  書けない、書けないと騒いでいる時間のほうが長いから、いつも締切間近になって、新橋の婦人画報社まで原稿を届けにいく。担当の唐沢さんが目を通している間、近所の焼鳥屋で俊之編集長とビールを飲みながら待つ。「なかなか調子いいじゃない」と好意的な感想を述べる編集長は、酔いが回るにつれ、構成や表現についての批評を始め、最後には必ず「エッセイは日記じゃない」と叫んで寝てしまうのだった。  筑摩書房の村上さんから手紙をいただいてお会いしたのは、広尾の喫茶店である。『婦人画報』の連載を本にまとめてみませんかと言って下さった。いやあ、そんなと、またもや私はヘラヘラしてしまう。その上まだ連載中だったので、はっきりしたお返事もできない。村上さんは、「それでは気長にお待ちすることにします」と落ち着いた口調でおっしゃった。この人は誰に似ているかと考えたら、�ムーミン�に出てくる、いつも冷静沈着な細身の知恵者スナフキンが頭に浮んだ。  こうして初めての本が出ることになった。日記以上のものになったかどうかは怪しいが、とりあえず出来ましたと、夏休み明けに宿題を提出する小学生の心境である。読み返してみると、いかに自分が「木のぼりブタ」的性格であるかということに気がついた。ちょっと褒められては書き、書いては欠点を指摘されて気落ちし、「それほど変じゃないよ、大丈夫」と誰かに慰められるのを待っている。いつものように、布団をかぶって寝てしまいたい。  と、電話が鳴り、 「もしもし」スナフキンの声である。 「あとがきは如何でしょうか。締切は今日ですが」 「あら、今日でしたっけ。へへへ」 「その、へへへは余計です。布団かぶってないで、早くお願いします」  素人の私に連載のチャンスを与えて下さった婦人画報社の福地義彦さん、加筆、訂正の段階で、厳しい注文とおだてをうまく交えながら、辛抱強く助言して下さった筑摩書房の村上彩子さんに心からお礼申し上げます。    一九八八年二月十九日 [#地付き]阿川佐和子 阿川佐和子(あがわ・さわこ) 一九五三年東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。インタヴュアーやエッセイストとして活躍中。著書に『メダカの花嫁学校』『蛙の子は蛙の子』(父・弘之氏との共著)『ああ言えばこう食う』(壇ふみと共著・第15回講談社エッセイ賞受賞)『ウメ子』(第15回坪田譲治文学賞受賞)『いつもひとりで』など多数。 本作品は一九八八年四月、筑摩書房より刊行され、一九九三年十二月、ちくま文庫に収録された。