阿刀田高 詭弁の話術————即応する頭の回転———— 目 次  はじめに  1 人間関係の矛と盾●詭弁とは何だろう   常識にとらわれない頭の回転◆才と知の詭弁の応酬   いんちきくさい論理の展開◆人は�思いたい�ことを思う   すりかえ式詭弁◆問題点をぼかしてしまう   虫眼鏡式詭弁◆一つの真実を十に拡大する   時間差攻撃による詭弁◆スピードとタイミングのアタック   笑い・笑わせる詭弁◆変化球の妙味   西洋詭弁術のすすめ◆�腹と腹�から�口と口�へ    ●コーヒーブレイク㈵  2 詭弁の実例と応用●ルールなき舌戦録   トーナメント理論による大予想◆的中率百パーセントの恐怖   国会式詭弁術◆政治家はうまいなあ   統計を見たら�?�と思え◆あいまい数字の操作法   売り文句のすれすれ◆広告における詭弁の分類   故事名言に偽りあり◆一面の真理なのです   職業的詭弁の基礎◆言葉と心理の見事な結合    ●コーヒーブレイク㈼  3 詭弁だらけの世界史●奇人・変人・天才集   ギリシャ式詭弁術◆辻説法のタレントたち   中国式詭弁術◆戦国時代の政治家コンサルサント   世界的大発見のいんちき◆コロンブスとマゼランの詭弁性   パスカルのギャンブル的哲学◆信仰を決めた幸福方程式   イギリス人の悪口作戦◆世界支配の言語的陰謀   最後のことばに嘘はない?◆死者をだしに使った方法   エスペラント語の不完全さ◆�世界�の美名に誤魔化されるな   平賀源内の�屁�理屈◆洒落と皮肉の詭弁時評   スウィフトの人食い理論◆本気なのか? 不真面目なのか?    ●コーヒーブレイク㈽ 詭弁史を飾る20人  4 エレガントな詭弁●とくに男と女の場合   男と女の�危ない�会話◆愛があるから大丈夫か?    ●コーヒーブレイク㈿  5 悪意のソフィストたち●古典的人間攻略法   伝家の宝刀を抜く◆リンカーンと三島由紀夫の切っ先   権謀術数の原典◆マキャベリ『君主論』の応用法   狂気の宣伝魔◆ヒトラーの殺し文句    ●コーヒーブレイク㈸  6 試作・なぜなぜ詭弁術●私のやぶにらみ論   1——露出的傾向はなぜ民主的か   2——新潟県人はなぜ首相に適さないか   3——プロ野球はなぜピーゴロで走らなくてよいか   4——コウノトリがなぜ赤ん坊を運ぶと思うか   5——水の犠牲者がなぜもっと多いほうがよいか   6——人間のモラルにはなぜ二種類あるか   7——一月生まれはなぜ親不孝になるか   8——週刊誌はなぜ低俗でよいか   9——民主主義はなぜすぐれているか   10——公務員はなぜ働かないか    ●コーヒーブレイク� [#改ページ]   はじめに  私は昭和三十六年四月から四十七年三月まで国立国会図書館に務めながら雑文書きを兼業していた。考えるところがあって十一年間務めた職場を退職し、文筆業専業となったのだが、この「詭弁の話術」は、そうした身分になって初めて執筆した本である。  心はプロフェッショナル、ということであろうか。今、読み返してみると、稚拙ではあるが、  ——頑張っているなあ——  と、なにほどかのなつかしさを覚えずにはいられない。  とりわけ第一章は、この世に実在する矛盾をうまく摘出しているように思う。  詭弁とは、ひとことで言えば、誤魔化しの話術である。人を誤魔化しておいて、それがよいことであるはずがない。  だが、本書では、私はかならずしも詭弁をわるいこととして扱わなかった。その理由は、一つには詭弁的な言動は程度の差こそあれ、どんな会話の中にもかならず含まれているからである。私たちが自分の意志を他人に訴え、他人を説得しようとするとき、そこにはきっと詭弁的なものが介入する。これをやみくもに否定することは、人間の精神活動を制限することになりかねないし、現実的でもない。また、詭弁を考えることは、正しい論理性を身につけることとも無縁ではない。それはギリシアの哲学が詭弁とともに発達したことからもよく理解できる。  だから詭弁は、その善悪を問うより先に、まずその実像をよく見きわめることが大切である、と私は考えた。そしてどこが詭弁か、鋭く峻別する知性を養うと同時に、どこまでが許される詭弁か、どこからが許されない詭弁か、それを判断する良識を持たなければなるまい、と思った。  こうした判断の背景には、詭弁の定義にかかわる部分があり……つまり、なにをもって詭弁とするのか、その線引きによってことのよしあしも変ってくるわけだが、本書では、詭弁の定義を可能のかぎり広めにとって、私たちの周辺にある詭弁的なものをいっさい俎上に載せてみようと試みた。  その視点に立って眺めてみると、詭弁は人間の精神活動にとって欠くことのできないものとなり、また弁舌で他人を動かすことが許されている以上、詭弁についてはそれに操られるほうにも責任がないとは言えないだろう。ささやかながら本書は詭弁的な言動の見本帖といった性格を持つものだ、と言ってもよいだろう。  なにぶんにも二十年前の著述である。あらたに文庫本として出版することには、著者としてためらいがないでもなかった。論旨そのものはともかく、引用されている事件や実例がいかにも古い。古くさい。しかし、論旨に適合する用例を今日に求めるとなると、これがなかなかむつかしい。松川事件や田中首相など、かならずしも若い読者にはなじみにくい引用もないではないが、あえてそのままとした。昭和四十九年KKベストセラーズより出版された新書版に、ほんの少々の加筆と削除をほどこして角川文庫の一冊に加えることとした次第である。お許しをいただきたいと思う。     平成五年秋 [#地付き]著 者   [#改ページ]   1 人間関係の矛と盾●詭弁とは何だろう   常識にとらわれない頭の回転◆才と知の詭弁の応酬  �矛盾�の語源的研究 �矛盾�という言葉の語源については、きっと一度は聞いたことがあるにちがいない。出典は中国の戦国時代の名著『韓非子《かんぴし》』である。  昔、大道で矛《ほこ》と盾《たて》を売る者があった。 「さあ、ご用とお急ぎのない方はお立ち会い。ここに取り出《い》だしたる盾は、世界で一番丈夫な盾だ。どんな鋭い矛で突いたって、こればかりは突き通すことができやしない」  これだけでやめておけばいいものを、この商人は生まれつき知能指数が少し低目にできているものだから、 「さあ、お立ち会い。今度はこっちの矛だ。驚くなかれ、これも世界で一番鋭い矛だ。どんな丈夫な盾だって、バキューンと突き通さずにおくものか」  これを聞いて見物人の一人が、 「おい、大将。それじゃあ、その矛でその盾を突いたらどうなるんだ?」  たちまち商人はまっ青、ぐっと答に窮してしまった。このエピソードから�矛盾�という言葉が生まれたという。  この話を聞いて大道商人を嘲笑《あざわら》うのはやさしいけれど、その笑いはすぐに消えてしまうだろう。世の中にはもっとショッキングな�矛と盾�の実話がいくらでも転がっているからだ。ある意味では、そんな馬鹿らしい情況の中で、私たちはさしたる抵抗もなく生き続けていると言ってよい。これに比べれば、超能力者たちがフォークを曲げたからって、そう驚くに当たらない。  正論は二つ、だが真実は一つ  論より証拠、例えば松川裁判などはいかがだろうか? いや、手垢《てあか》のついた裁判批判をここでもう一度蒸し返すわけではない。古い話で恐縮だが、昭和三十八年の九月、最高裁判所の第一法廷は、松川事件の被告十七名に対して、最終的に無罪の判決を言い渡した。裁判は複雑怪奇な化け物だから、すべて要約はむつかしいけれど、一言で言えばこの最終判決は「疑わしきは罰せず」であった。素人には、そう見える。十四年もかけての結論がこれではちと情けないけれど、それはまァ、いい。  私がここで注目したいのは、判決は最終的に全員無罪となったが、一方では�全員有罪論�が最後まで根強く残っていたことである。  例えば田中耕太郎さん。最高裁の長官で、司法界の重鎮で、キリスト教徒で、文化勲章かなんかもらっちゃって、とにかく日本を代表する�偉い人�であった。同じ�田中さん�でも角栄さんよりは、人間的にははるかに信頼ができそうな気がするけれども、この田中耕太郎さんは、昭和三十四年の最高裁大法廷の判決で�全員有罪�を主張していた(この判決は最高裁判事十二名のうち、無罪派七名、有罪派五名、つまり七対五で裁判のやり直しを仙台高裁に命じた)。最高裁の判事が有罪を主張するのは、そこらのご隠居さんが、 「わたしゃ、松川事件はあの人たちが犯人だと思うよ。なんとなくそんな気がするね」  なんて言うのとは訳がちがう。今までの一さいの捜査結果をふまえた上で細かい考察をおこない、どのように犯罪が構成され、なぜ被告たちが有罪なのか、�論理的な�推論がちゃんと背後にあってのことである。  一方、被告の無罪を主張する人たちの中には、例えば広津和郎さんがいた。持病のリウマチにもめげす、原稿用紙で何百枚、何千枚という精力的な推論を重ねて、被告たちの無罪を�論理的�に主張した。  話を単純にするためにあえて大胆な図式化をするならば、かたや田中耕太郎さんを代表とする�有罪派�、こなた広津和郎さんを代表とする�無罪派�である。いずれの主張も、頭のくらい人、鼻垂れ小僧、イモねえちゃんのたわ言というわけではなく、社会的に十分その知識と判断を信頼され、それなりの権威と敬意を托《たく》された人たちの推論である。  だが、お立ち会い。松川事件の(かつての)被告たちが真犯人かどうか、これは実に単純なことなのだ。列車転覆を�やった�か、�やらなかった�か、その二つに一つ、妥協の余地は全くない。田中さんが正しいか、広津さんが正しいか、どちらかである。  もし被告たちが真犯人だったならば、広津さんの、あの莫大な論証はすべて詭弁《きべん》である。どんなに真実らしく書いてあっても、自動的にまやかしの屁理屈《へりくつ》となる。  また、もし逆に被告たちが真犯人でなかったならば、田中耕太郎さんの学識経験をすべて動員して下した論証はすべて詭弁である。背後にどんなギンギラギンの権威を背負っていても、なんの意味もない。すべてまやかしの屁理屈となる。  しかも、この二つの理屈は、矛と盾とが両立しなかったと同じように、絶対に並び立つことができない。ただ残念なことに、この事件に関しては、 「おい、大将。その矛でその盾を突いたら、どうなるんだ?」  と、問いただすことができないだけである。  意志と欲望の表現  二つの立場のうち、一つは確実にいんちきであるはずなのに、世間はその正体がわからないばかりに勲章をあげたり、賞讚の拍手を送ったりしている。どちらかが詭弁であることは、死にたくなるほど確実なのに、私たちはそこにさほど奇異の念を抱かずに生活し続けている。不思議と言えば不思議である。これではとても矛と盾を売る商人を嘲笑うことができない。  詭弁と聞くと「兎は亀に追いつけない」とか「飛んでいる矢は止まっている」とか、古典的で、どこか馬鹿らしい論理をすぐに思い浮かべてしまうが、ことはそれほど簡単ではない。松川裁判の例をあげたのは、詭弁が私たちの周囲で大手を振って闊歩《かつぽ》していることを示すためである。  松川裁判はあくまで一例にしかすぎない。似たような裁判事例はいくらでもある。また政治の場でもビジネスの場でも、はたまた恋愛の場でも、およそ人間の意志と欲望が言葉となって表現されるときには、かならずそこに詭弁の入り込む余地がある。  詭弁が意志と欲望を実現するための武器である以上、これをただちに不道徳と言って非難することはできない。よく吟味もせずにやみくもに非難するのは、単細胞人間がやりたがることである。  一定の社会的ルールの中で、人間が自分の意志と欲望を実現しようとして精いっぱい努力することは善でこそあれ、悪ではない。もちろん、詭弁《きべん》は一くせも二くせもある怪物だから、素知らぬ顔をして、一定のルールを踏みにじり暗躍することも、おおいにありうるだろう。  いずれにせよ、この武器に相当なパワーが秘められていることだけは間違いない。本書の第一章を矛と盾の寓話《ぐうわ》から始めたのは、決して偶然ではない。詭弁を知ることは、身を守る盾であると同時に、意志と欲望を実現するための矛でもあるのだから。   いんちきくさい論理の展開◆人は�思いたい�ことを思う  �だます�意志はないのに  広辞苑《こうじえん》で�詭弁�の項を引いてみると、 「相手の思考の混乱・不正確または感情の激昂《げつこう》などを利用して、相手をだますために行われる、外見上はもっともらしい虚偽の推論」  という懇切丁寧な説明があった。これで概《おおむ》ね見当がつく。だが、少し気に入らないところもある。重箱の隅をつつくつもりはさらさらないのだが、まず�相手をだますために�というところが気がかりである。最後の�虚偽の推論�と断定している点も少し問題がある。  話はまたしても旧聞になってしまうが、昭和四十八年の石油危機が始まる少し前、田中首相は、 「日本経済はインフレではない」  と主張していた。物価が毎月うなぎ登りに上昇していたのに、である。首相担当の新聞記者によれば、 「首相自身、本気でそう思っているんだから始末がわるい」  ということであった。  人間はだれしも自分の�思いたい�方向でものを考える癖があるし、自分の立場を�守りたい�方向でものを眺める癖がある。だから詭弁を考えるとき、その言葉を吐いた当人に�だます�意志があったかどうかは、さして問題ではない。  当人は他人をだますつもりなんか露ほどもないのに、自分の意志を主張するのに熱心のあまり、いつの間にやらいんちきな理屈を駆使し、結果として詭弁となることはいくらでも世の中にある。当人が詭弁を使う意志があろうがなかろうが、詭弁の流す害毒にはなんら変わりがないし、ある意味では当人が意識していない分だけ、真実味が増え、伝染力が強く、始末におえないところさえある。  詭弁の受け手のほうから言えば、送り手のほうに�だます�気持ちがあったかどうかは、どの道はっきりとはわからないし、これがはっきりとわかるような詭弁はたちまち魔力を失い、詭弁ですらなくなってしまう。私の眼から見れば、広告業なんかは相当に詭弁的産業であり、何パーセントかはお客を�だます�意志があると思うけれども、関係者はこういう見方に断固反対するだろう。議論してみても結局は水かけ論に終わるのが落ちである。  美辞麗句に動かされる心理  恋愛の場で用いられる詭弁に至っては、受け手のほうに�だまされたい�という心理が働いていたりして、こうなるとますますわけがわからなくなる。  昔、丸尾長顕氏の随筆で読んだことだが、ある月の美しい夜の浜辺で若い男女が出会ったと思召《おぼしめ》せ。  男は波間に躍る銀の光をながめていたが、急にぽつりと、 「あんなに遠くにいる月が、波を渚《なぎさ》に誘うのですね」  なんとロマンチックなせりふだろう。女が少し胸をときめかせたとき、男の二の矢がグサリ! 「近くにいるあなたが、僕の心を誘うのは当然のことですね」  口説き文句はすべてこのくらい見事に吐くと、人生はよほど楽しいと思うけれども、それはともかく、これも広い意味での詭弁である。  月の引力が潮の満干に関係しているのは科学的な真実である。しかし、だからと言って、そのことと、�近くにいるあなたが、僕の心を誘う�こととは、なんら因果関係がない。男は�相手の感情の激昂を利用してだまそう�としたのであり、女に�だまされたい�気持ちがあるならば、この詭弁はきっと成功したにちがいない。  話が少し横道にそれた。広辞苑の定義に戻ろう。詭弁にとって送り手の�だます�意志は、それほど本質的な問題とならないことはいま見た通りだが、もう一つのポイント——�外見上はもっともらしい虚偽の推論�という、その�虚偽の�も本質的な条件ではない。  詭弁の中には明らかにいんちきとわかるものもたくさんあるが、どこがどういんちきなのか、なかなか断定できないものも、けっして少なくない。それだからこそ詭弁なのである。先にあげた松川裁判の例だって、どちらが�虚偽�なのかは依然としてわからない。だが、どちらかがまやかしの理論であることは間違いない。  もう少し馬鹿らしい例をあげれば、 「人間の耳が二つ、口が一つなのは、より多く聞き、話すことは控え目にせよ、ということなのである」  なんていう教訓はどうであろうか。相当にいかがわしい。にわかには信じがたい。しかし、これを�嘘《うそ》�だと証明することはかなり困難である。造物主、進化論、人生訓、いろいろ持ち出して一日議論したって、らちがあきそうもない。要はそう信ずるかどうか、良識の問題である。  私たちが現実に直面する�詭弁らしきもの�は、その場ですぐ嘘とわかるものばかりではないし、あとでゆっくり考えても嘘と断定できないものもある。さらに弁証法的な考え方などという、厄介なものもあって、ある条件の下で�嘘�だったことが、別な条件の下では嘘ではなくなったりする。そのことについてはまた後で触れることにしよう。  ごちゃごちゃとややこしいことを言ったけれども、じゃあ一体�詭弁�とはなんなんだ? �外見上はいかにももっともらしいけれど、どこかいんちきくさい論理�本書ではこのくらい広い意味に採って、いろいろな詭弁的現象を考えていってみよう。   すりかえ式詭弁◆問題点をぼかしてしまう  兄と妹のルールなき闘い  七歳になる男の子と五歳になる女の子が口喧嘩《くちげんか》をしていた。二人は兄妹である。兄は総領の甚六で、どこか人のいい、ぼけっとしたところがある。妹は肝心なことはさっぱり覚えないのに口だけは達者である。世の中によくある組合せである。  喧嘩の原因は、冷蔵庫にたった一本しかないコーヒー牛乳をどちらが飲むか、ということらしい。子どもの喧嘩なんてものは、理屈が通りにくい。それでも兄貴は、少しどもりながら四苦八苦して、妹が昨日コーヒー牛乳を二本飲んだこと、そのため今日はコーヒー牛乳が一本しかないこと、自分は昨日一本しか飲まなかったのだから、当然この一本は自分のものであると説得した。理屈は通っている。甚六としては上できのほうである。  だが、窮地に追い込まれた妹は、ここで急遽《きゆうきよ》珍妙な理屈を持ち出した。 「だって、お兄ちゃんは妹にやさしくしなくちゃいけないのよ」  女は、子どものときからこういう逆襲が巧みなものらしい。  兄貴は明らかに狼狽《ろうばい》の色を見せた。  さもあろう、戦運われに利あり、コーヒー牛乳はもはや目前と思ったとたん、急に旗色がわるくなったのである。  それでも彼は必死になって考えた。どうもおかしい。�兄貴が妹にやさしくしなければならない�という命題は、このように理不尽な場合にも遵守《じゆんしゆ》しなければならないモラルなのだろうか。  そこに気がついて兄貴は少し元気を取り戻した。そこでまた少しどもりながら四苦八苦して、おやつには公平な取り分があるのだから、この一本を飲むのは自分の権利であり、兄貴の思いやりが第一義的に問題となる情況ではないことを述べた。もちろん、こんなむつかしいことを言ったわけではない。やさしい言葉で、こういう内容のことを言うのだから、その苦労たるや大変なものである。  それでもなんとか理屈が通り、今度は妹としても譲るよりほかに仕方がないと思ったとたん、またしても議論の方向は転換し、 「お兄ちゃんの食いしんぼ。コーヒー牛乳ばかり飲んでると、デブになって死んでしまうんだから……」  人のいい兄貴は、ここでまた一瞬狼狽した。甘いものばかり食べていると、肥満児になって早死するとは、つね日頃から母親に言われていることである。  だが、これもどこかおかしい。ああ、そうか。少なくとも�コーヒー牛乳ばかり飲んでいる�というのは、実情を正確に反映していないではないか。  そこで、またしても気を取りなおし反論にかかった。そして反論が成功しかけたとたんに、またまた妹が、 「もう六時過ぎてるじゃない。早くオルガンの練習しないと、またママに叱られるわよ」  兄貴が時計を見つめ、狼狽の色を浮かべたことは、もちろんである。 「情を通じ」を強調する  すでに、私が言わんとすることは、おわかりだろう。たかが子どもの喧嘩と思ってはいけない。議論が同じ土俵の上で�イエス�か�ノウ�か、対峙《たいじ》しているときは、まだ論理のすじ道を捜しやすい。どちらに理があるか、判断もある程度、可能である。始末がわるいのは、当面の議論とはぜんぜん次元の違うことでありながら、その問題を考える上でやっぱり必要のことを急に持ち出され、おかげで議論のすじ道は目茶苦茶になり、是非の判断がむつかしくなってしまうことがある。  これも古い話だが、記憶にある読者諸賢もおられることだろう。昭和四十七年に起きた外務省秘密漏えい事件、あれは盗まれた秘密が、秘密に値するものであったかどうかそこが一番肝心なところなのに、どこのどいつか知らないけれど、 「西山記者は、蓮見さんと情を通じて情報を盗んだらしい。けしからん」  なんて、事件とけっして無関係ではないが、当面の論点にはさして役に立たない理屈を持ち出し、世の中には外交上の秘密より、三面記事のほうが好きな人が大勢いるものだから、 「西山記者というのは、第一顔がふてぶてしいよ。名前も太吉なんていって、太い野郎だ。俺の田舎に太吉って男がいたが、あいつもひどい奴だった」  いやはや、こうなっては、まともな議論なんかできるものではない。  そういう効果を十分承知のうえで、ことさらに、「西山記者は蓮見さんと情を通じ」と喧伝《けんでん》する人がいるのだから、これはやっぱり詭弁の一種であろう。  議論にうまくなろうと思ったら、こういう�すりかえ式�詭弁術を絶対に身につけなければならない。どうすれば身につくか。うれしいことにNHKテレビでは毎週一回この講座を放映している。初心者はぜひこの�詭弁講座�をお聞きになるとよい。講座の名前は……そう、たしか�国会討論会�だったと思うのだが……。政治家がもっとも得意とするテクニックの一つである。   虫眼鏡式詭弁◆一つの真実を十に拡大する  写真が詭弁の道具になるとき  日中国交回復のため北京を訪れた田中総理の顔には、自信満々の笑みが浮かんでいた。  一方、反日運動の渦巻くジャカルタでは、田中総理の顔は痛ましくゆがんでいた。  少なくとも新聞の報道写真では、そうなっていた。だが、私には北京滞在中の田中総理が四六時中にこにこしていたとは思わないし、ジャカルタの田中総理が朝から晩まで渋い顔をしていたとは思わない。一日という長さでとらえてみれば、人間は喜怒哀楽さまざまな表情をしているはずであり、まして政治家はその商売がら気持ちの転換がすばやく、一つのことにいつまでもこだわっていられない。田中総理は北京でも顔をゆがめたことがあったであろうし、ジャカルタでも呵々《かか》大笑したことがあったであろう。カメラマンもきっとそういう写真をフィルムに収めたはずである。  だが、新聞社では数多い写真の中から北京の田中総理を紙面に載せるときには、やっぱり意気|軒昂《けんこう》たる写真を選ぶし、ジャカルタの田中総理の場合には憮然《ぶぜん》たる表情のものを選ぶ。これが常識である。  その結果、読者は、田中総理は北京ではいつもにこにこしていたような印象を持ち、ジャカルタではいつも仏頂面《ぶつちようづら》をしていたような印象をうける。写真に写されたものは真実であるが、どの真実を選んで載せるかという操作が加わったとたん、その�真実�は新聞社が読者に信じさせたいと思っている�真実�、つまり本当の真実とは、少し違ったものとなってしまう。真実の一部を虫眼鏡で拡大しているのであって、これもまた、広い意味での詭弁的構造である。  もちろん、私はそれがいけないと言うのではない。それはやむをえないことであり、またある意味では当然のことである。  カメラマンが無数に撮った写真を全部紙面に載せることはとてもできない相談だし、その必要もない。  当然であると言ったのは、人間がいろいろなテクニックを駆使して、他人を自分の信じさせたい方向へ誘導するのは、ごく、ごく自然なことだからである。そのテクニックがどこまでが許され、どこからが許されないのか、その判断は大変むつかしい。むしろ新聞の報道写真のような、単純明快なものの中にも詭弁的メカニズムが介入できること、それを知っておくことのほうが大切である。  自民党用リポートと共産党用リポート  もう少し質《たち》のわるい例をあげてみよう。  私は十数年間、国立国会図書館に勤務していたが、この図書館では議員の要求に応じて立法資料を提示する仕事がある。  たとえば「諸外国の公害規制立法の要点を調査せよ」とか「諸外国の奨学金制度、とくに未返済金の取り立て法について調査せよ」とか、種々雑多な質問が飛び込んで来る。質問の分野により専門の職員が調査資料をまとめてリポートを提出するわけだが、かりにある日ある時、自民党議員と共産党議員とから同じ質問が寄せられたと思召《おぼしめ》せ。  図書館のほうで同じリポートを提出したとしても、その利用のされ方は、まったく異なる。  自民党議員はリポートの中から自分に都合のいい部分だけピック・アップして、それだけを大声で主張するし、共産党議員もまた同様である。図書館のほうでは、最初からそのことがよくわかっているから、提出するリポートも、自民党議員用と共産党議員用と、それぞれお好みに合うように調整して提出する、なんて、そんな噂《うわさ》もちらほらある。  ゆるぎない事実の上に立ってなにかを主張しているように見えるときでも、多くの場合その事実は、多くの事実の中から、自分の主張に都合のいい事実を選んだだけのことであって、そう額面通りに信じてはいけない。化粧品のセールスマンが、 「神田さんの奥さんも、田端さんのお嬢さんも、大塚さんの奥さんも、渋谷さんの奥さんも、大崎さんのお嬢さんも、みんな、このクリームを使ってから色が白くなったとおっしゃってます」  と主張したとしても、そしてたとえそれが真実だとしても、その化粧品の効果をそう高く評価してはいけない。  目黒さんの奥さんや駒込さんのお嬢さんは、ぜんぜん効き目がないと言っているかもしれないし、新橋さんのお手伝いさんは、逆に肌が黒くなったといって自殺をしているかもしれないのだ。そういう事実があったとしても、セールスマンが話すはずはない。  ことのついでに、もう少し質のいい実例をあげれば、毎年三月頃になると週刊誌などで、�わが落第の弁�を特集する。著名人のところへ電話を掛け、「あなたも、きっと学校を落第したことがあるでしょう。そのときの気持ちと、それがその後の人生にどう影響したかお聞かせください」と、アンケートを取って、これに適当な見出しをつけて並べる。答は大同小異で「私も落第したことがあるが、それは長い目で見ると、人生のプラスになった」ということである。  三月というのは世の中に試験で落ちた人がうじゃうじゃいる季節だから、みんなこれを見て安心する。大勢の中には、デパートの屋上から飛びおりるつもりだったのが、急に気を取り直す人もいるだろう。  私も結論としては「人生落第なんか目じゃない」と思うけれど、雑誌社がおこなうこの特集の組み方はかなり詭弁的である。アンケートに答えるのは著名人であり、著名人というのは、なんらかの意味で人生に成功している人たちである。この人たちにとっては、ごく自然に「落第もいい薬になった」と言えるわけだ。  落第したために著名人にもなれず、もし落第しなかったらどんな薔薇色の人生が自分に用意されていたか、それを知ることがとてもできない人が、理論的には世の中にたくさんいるはずである。しかし、雑誌社は親切だから——いや、三月には落第生が全国的に満ちあふれ、この特集はその人たちの購買欲をそそるにふさわしいから、かな——こういう詭弁を使って�落第なんか目じゃない�という、それ自体正しそうな主張を掲げるのである。注意して眺めれば、ほとんどの主張に、この虫眼鏡式詭弁が用いられているだろう。   時間差攻撃による詭弁◆スピードとタイミングのアタック  第一声の効果を狙え  ある著名な評論家は、テレビの討論会などで、 「先生は、この問題についてどうお考えですか?」  と尋ねられると、即座に、 「その問題については三つのポイントがあります」  と答えるという。  その問題についてポイントが三つあろうがなかろうが、そんなことはぜんぜん関係なくそう言うのである。  テレビを見ているほうとしては�三つ�と言われたとたん聞き耳を立てる。�なんと頭の中が整理されている人だろう�と感心する。信頼感が湧《わ》き、たとえ月並みな発言であっても、どことなく霊験あらたかに聞こえてくる。もちろん、それが評論家氏の狙いである。頭がいい。彼は咄嗟《とつさ》に思い浮かんだ一つのポイントをしゃべりながら、心の中で�あとの二つは何にしようか?�と考えるのである。テレビは時間の制約が非常に厳しいメディアである。どんなすばらしい意見でも、だらだらと時間を取って、しまりがないのは価値がない。それだけに、この�三つのポイントがあります�が生きてくるのだ。だからこそ、この人は著名な評論家になれたのである。余談ながら、このテクニックはサラリーマンが上役に意見を求められたときにも使えそうである。  この評論家の話術を詭弁であるとするのは拡大解釈が過ぎるかもしれないが、全貌《ぜんぼう》がまだよくわからない段階で、とにかくスピーディに反応して、相手を自分の意図する方向へ引き込む、という方法は、かなり詭弁的である。  例えば、障害児が生まれ、その原因がサリドマイドだという声が高まる。そうすると製薬会社では、しかるべき学者を動かして、とにもかくにも「障害児の原因はサリドマイドではない」という意見を主張させる。  学説というものは本来多様なものだから、学者が大勢いれば真実�障害児の原因はサリドマイドではない�と考える人もいるだろうし、その学者がおこなった実験の条件の中では�かならずしも原因をサリドマイドに求めることはできない�という、含みの多い結論を出すケースもきっとあるだろう。  そういう意見を集めて、とにかく一声、 「障害児の原因はサリドマイドではない」  と発言させるのである。  大衆の中には、それを聞いて、 「ああ、そうなのか」  と思う人もたくさんいるにちがいない。  それから先のことは、発言の効果を確かめながらゆっくり考えればそれでいい。まず最初の一撃で確実にポイントを稼いでおくと、その効果は高い。あとで「あれは間違いでした。すみません」と言わなければならなくなったとしても、最初の一撃があげた効果はけっして消えることはない。そこがこの詭弁の恐ろしいところである。  この手の第一声は、急場しのぎに発せられるものだから、その中身はかなりいい加減のこともある。まるで辻つまのあわない論理や、こじつけ以外のなにものでもないものもある。それでも背に腹は替えられない。黙っていては自分がますます不利になるから、一言発するわけである。そして、そのあとで辻つまをあわせようとする。こうなれば、立派に詭弁のメカニズムである。まず第一声で攻撃を仕掛け、その間に第二、第三の攻撃の準備をするのだから、これは時間差攻撃である。またしても松川事件の話になるが、事件が起きた翌日、まだ事故の原因究明が始まったばかりだというのに、内閣官房長官は、「今回の事件は、三鷹事件などと思想的底流は同一である」と、左翼労働者の犯罪であることを暗示する談話を発表した。この暗示が�国民をあざむいてやろう�という意図を心中に持ったものかどうかは知らない。だが、この「なぜそう確信できるのだ?」と聞かれれば、いっぺんで答に窮してしまうような�お粗末な�第一声が、どれほど効力を持ったかは今さら指摘するまでもあるまい。   笑い・笑わせる詭弁◆変化球の妙味  全裸の美女に罪はない  ある高級レストランで美人のほまれ高いレジスター・ガールが支配人に退職を申し出た。お客の中には彼女を目当てに、わざわざ遠くから食事に来る客もいるくらいだったから、支配人は早速引き止めにかかった。 「どうして急にそんなことを言い出すのかね。なにか仕事に気に入らないことでもあるのかな」  するとレジスター・ガールが答えて、 「私ももう年です。いつまでも人前に立つ自信がありません」 「とんでもない。君は相変らず美しい。五年前この店に来たときと少しも変わっていやしない」  だが、彼女はかたくなに首を振った。 「でも、このごろでは、お客さまがみんな釣り銭を数えるようになりました」  つまり、それだけ容姿が衰えたということなのだろう。  紳士は、すばらしい美女の前では、丹念に釣り銭を数えるような、野暮《やぼ》な真似はできない。「やあ、元気」とかなんとか言ってにっこり笑い、釣り銭はそのままポケットへ収めて帰るはずである。  美しいものを見せられると、人間はその美しさに感嘆するあまり、ほかのことを厳密に吟味する余裕を失ってしまう。一言で言えば、�おそれ入ってしまう�のである。  古代ギリシャの高級娼婦にフリュネという女がいた。その頃の娼婦は学識豊かでタイースやサフォのように今日まで名を残す才女がたくさんいたのだが、フリュネも才能がついついほとばしりすぎて、ある日ある時ギリシャの神を冒涜《ぼうとく》し、これがもとで裁判にかけられてしまった。  ボーイフレンドの雄弁家ヒュペリデスが一生懸命弁護をしたが、陪審員《ばいしんいん》たちの心証はさっぱりよくならない。思いあまったフリュネは、 「じゃあ、みなさん、ちょっとご覧ください」  と、衆人環視の中でさっと衣服を脱いで全裸になった。  この風景はよく油絵の画題になっているので、法廷らしいところでなぜか一糸まとわぬ美女が立っていたら、フリュネと思って間違いはない。  すると陪審員たちは、 「ああ、こんな美しい人に罪があろうはずがない」  フリュネはたちまち無罪となってしまったのである。  ギリシャ人は�真・善・美は一体�と考える傾向があったから「美しいものは、善であり、真である」と考えたのであろうが、それにしてもかなり無茶な話である。この場合も陪審員たちは美しいものを見せられて、�おそれ入ってしまった�のであろう。  �切り返し�のテクニック  この原則は会話の中にも生きている。ジョークの中には、とてつもなく楽しい、よくできたジョークがある。こういうジョークをタイミングよく切り出されると、相手はすっかり�おそれ入ってしまう�。それが論理としては相当にいんちきだとわかっていても、あまりよくできているために、いちいちとがめだてすることができない。 「君、そんなこと言って誤魔化しちゃずるいぞ」  と言うのは、いかにも野暮である。今日のところは一まずニヤリと笑って矛を収めようという気持ちになってしまう。 「君、ぼくのこと初めっからきらいだったのかい?」 「そうよ。気がつかなかった?」 「しかし……それじゃあ、なぜ、ぼくのプレゼントをあんなに喜んでくれたんだい?」 「だって、プレゼントはきらいじゃないもの」  こう見事に切り返されてしまっては、苦笑して退散するよりほかに道はない。好きでもない男から高価なプレゼントをもらって大喜びしていいものかどうか、そのへんのモラルを追究して、この女に反論することはやさしいだろうが、そういうことをやっては野暮になる。  ジョークもまた�外見上はいかにももっともらしいけれど、どこかいかがわしい論理�の一種であり、用いかたによっては相手の反論を押さえ、こちらの主張を訴えるという、詭弁的な機能を持っている。 「大臣、政府は所得税減税について、なに一つやってないじゃないですか」 「いや。アヒルはなにもしてないように見えるが、水の中では足を一生懸命動かしているんだ」  こんな答弁もジョーク的詭弁の一例だろう。  人間関係は残念ながらきれいごとではすまされない。時には相手を牽制《けんせい》したり、討ち倒したりすることも必要である。逆な面から言えば、ジョークにうかうか笑っているうちに、相手に逃げられたり、点数を稼がれたりすることも多いのである。   西洋詭弁術のすすめ◆�腹と腹�から�口と口�へ  たつまきの如くデマは襲う  寺田寅彦が『流言蜚語《りゆうげんひご》』という随筆の中でこんなことを述べている。 「東京に大地震が起こったとき、暴徒が東京中の井戸に毒薬を投げ込んで大虐殺を図るといううわさが流れたとする。東京の井戸の一割に毒を入れるとしていったいどのくらいの量の毒物が必要か。毒物の種類、井戸の水量、一日の飲水量などによって大分違ってくるだろうが、大ざっぱな科学的常識からいってもそれが相当な量のことがわかる。それだけの量の毒薬を暴徒があらかじめ用意して持っていることは、ないとはいえないが、あまりありそうではない。もしかりに毒薬を持っていたとしても地震の直後にこの暴徒を組織し各方面にもれなく毒薬を配ることが楽ではあるまい。井戸を捜し、人の見ていない機会をねらって投入する。投入したうえでよく混ぜあわせる……。こんなことを考えると毒薬投入の流言を相当な確信を持って打ち消すことができるはずだ。科学的常識とは、なにも天王星までの距離やビタミンの種類を暗記していることではなく、もっと手近な判断の基準を与えるものでなくてはならない」  関東大震災の直後にはこんな噂が実際に流れ、あわてふためいた人も大分いたらしい。あわてふためくだけならまだしも、このデマのため韓国人が暴徒とみなされ、五千人近く殺されたというから痛ましい。デマというものは、加速度つきの伝播《でんぱ》力を持っていて、いったん広がり始めると、その運動エネルギーのすさまじさで人を巻き込み、信じ込ませてしまうものだが、少し冷静に考えてみると、どうにも辻つまのあわない、おかしなところがあるものだ。それだけにデマは、こちらが冷静でさえあれば、そうたやすく乗ぜられるものではない。  ところが詭弁はいかにももっともらしい。筋道が一応通っているから、デマよりもはるかに見破りにくいところがある。すでに述べてきたように�嘘か、誠か�その当座見分けができないのはもちろんのこと、いつまでたっても正体の明らかにならない�詭弁くさいもの�がたくさんあるし、�すりかえ�や�時間差攻撃�もある。それだけに詭弁のメカニズムをよく理解しておいて、�手近な判断の基準�を備えておかなければならない。  いまこそ応用の時代だ  日本人は話し下手の民族である。と言うよりも、話にあまり重きを置かない民族である。人間関係の基盤は信頼であり�腹と腹�とで話し合いがなされる。「あいつならば、いちいち口で言わなくても、わかってくれるはずだ」と考えている。言葉の効果をそれほど信じていないから、政治家は無口でもつとまる。契約をきちんとしなくてもビジネスは大過なく進むし、目と目をじっと見合えば「アイ・ラブ・ユー」などと、キザなことを言わなくてもちゃんと恋愛はできるのである。  けれども外国人の中には、これとは大分|趣《おもむき》を異にする民族がたくさんいる。詭弁《ソフイズム》という言葉が、古代ギリシャで発生したのは偶然ではあるまい、ギリシャ人は�話す�ことの効果を信じていたからこそ、�巧みに話す�術や�うまく言いくるめる�術が発達したのである。この伝統は今でも根強く西洋文明の中に生きている。また中国人は外交の巧みな民族であり、弁舌もさわやかである。ユダヤ人は理屈を言わせれば、ちょっと敵がないほど巧みな民族である。  大ざっぱに言えば、文明国の国民の中で、日本人ほど意識的に詭弁を用いない——用いることのできない民族はめずらしい。西欧人の愛の告白を聞いていると、どうしてあんな歯の浮くようなことが言えるのか、不思議になってくるが、あれはなにも恋愛の場だけのことではない。ほかの場面でも、相手を自分の主張に同意させるため、さまざまなテクニックを意識的に用いているのである。  日本では詭弁の伝統が乏しい。少なくとも、意識的に詭弁を弄《ろう》するという伝統は乏しかったと言ってよい。詭弁を考えるときに送り手のほうに�だます�意志があるかないか、その点が本質的な問題とならないことはすでに述べたが、歴史的に見れば日本人の詭弁はせいぜい�だます�意志のない詭弁、つまり無意識的結果的詭弁ばかりが目立つ。だが、現代ではもはやそうとばかりも言っていられない。コミュニケーションが大きな力を持っていることは、だれ疑うものもない現実であるし、言葉によって相手を動かす習慣も定着して来た。日本の文化が西欧の物真似である以上、詭弁もまた西欧なみに市民権を得て当然なのである。そう言えば、若い人たちの愛の告白も、ずいぶん雄弁で、甘ったるくなってきたと思う。  詭弁は、好むと好まざるとにかかわらず、また、ことの善悪を越えて、人間が必ず用いるものだと考えるほうが正しい。そのためにも詭弁のメカニズムを熟知しておく必要がある。 [#改ページ]   コーヒーブレイク㈵ ★[#底本ではクローバ・マーク(以下同様)]アイウエオは結婚にも役立つ教えだ。初めはアイ(愛)があっても、最後はン(運)である。 ★麻雀はとても健康的なゲームである。徹夜麻雀なんて、健康でなければできるものではない。 ★飛行機事故の原因はほとんどパイロットの操縦ミスである。パイロットはいつも死んでいて、弁明することができないからである。 ★君が代は逆コースの歌である。小石《さざれいし》が巌《いわお》となるのは、歴史を逆にさかのぼらなければありえないことだ。 ★忘年会の花形は若いOLである。だからハイ・ミスはとても�年�を忘れることはできない。 ★先生とは�先に生まれた�人のことである。先に生まれた人が先に死ぬのは自然の摂理だ。だから「先生」と呼ぶことは「早く死ね」と言うに等しい。 ★音楽家はみんなこの世に音痴はいないと言う。なぜならば、だれしも自分の商売の損になることは言わないものだ。 ★日本国民法では、男は十八歳、女は十六歳にならなければ結婚ができない。これは若い人は結婚にとらわれず、のびのびとセックスを楽しめという主旨である。 ★自殺者はいつも履き物を脱ぐ。それは幽霊に足がないからである。 ★これからのゴミ対策はガールハントの要領でやらなくてはなるまい。作るときから捨てることを考えておこう。 ★ホワイト・ゴールドは白金ではない。手袋はハンド・バッグと言わない。日米間に多少意思の疎通を欠くところがあっても仕方あるまい。 ★女子大生といえば、大部分文学部の学生である。それは女が現実的だからだ。文学が現実的な学問というわけではなく、文学部が一番楽だからである。 ★妊娠をすると急に嗜好《しこう》が変わることがある。今までさして好きでもなかった男と、急に結婚したくなるのもそのせいである。 ★ホステスの武器は�化粧、衣裳、微笑�の三ショウである。しかし、もっとも効果的な秘密兵器は�寝ましょう�である。 ★禿頭だからといって理髪料が安くなるわけではない。髪の毛の捜し賃が加わるからだ。 ★総選挙はパンドラの箱に似ている。解散になったとたん、諸悪の根源が全国津々浦々に散って、あとにはわずかな希望が残るだけである。 ★�一盗二婢三妾四妓五妻�とは奥さまにとってもチャーミングな教えである。ランキングが五位から一気に一位になるとすれば、とてもじっとしてはいられない。 ★人間になぜしっぽがないか? すり切れるほどよく振ったやつが、生存競争で生き残ったのである。 ★郵便配達人はいそがしければ、郵便を途中で捨ててもかまわない。本当に大切な手紙ならもう一度書くだろうし、いらない手紙なら届ける必要はない。 ★牽牛星と織女星が一年にたった一回しかデートできないからといって、そう同情することはない。宇宙の寿命を考えれば、二人はずいぶんよく会っているほうである。 ★善行はそれほどりっぱなことではない。無理してやっているのなら、たかがしれているし、平気でやっているのなら、傍で感心するほど苦しくはあるまい。 ★コンピューターを入れたからと言って、急に経営が能率化できるものではない。オメガの時計を買ったからと言って、持ち主が急に時間に正しくなるものではないのだから。 ★いつでも一番おいしいものを食べたいと思ったら、食卓ではおいしいものから順に食べるのがよい。目の前にある皿の中ではつねにそれが一番おいしい。  退化する  テレビのワイドショウで、司会者が学者に尋ねた。 「二十一世紀の性生活はどんなふうになっておりましょうか?」 「二十一世紀の性生活? さよう、男も女もありませんな」 「ほう! モノセックス時代ですね」 「栄養状態によって、男になったり、女になったり……」 「まさか、そんなに変化することはないでしょう」 「いや、本当。人類は滅亡し、よほど下等な生物しかおらんでしょう、二十一世紀には」    新恋愛論  若い女が二人で話していた。 「結婚相手を選ぶとき、お金と心とどっちを重視する?」 「きまっているじゃない。もちろん心よ。好きな人じゃなきゃとても結婚する気になれないわ」 「じゃあ、あなた、手鍋さげても平気なわけね」 「そんなことはないわ。あたし、お金のない人、好きにならないもン」    出世のさまたげ  外出から帰った課長が、渋い顔をして部下に尋ねた。 「僕の留守中に、また田中君が酒を飲んで暴れたんだって?」 「はあ。いつものように机の上に足をのせ、だれかれの見さかいもなく威張りちらし」 「馬鹿な奴だ。酒さえ飲まなければ、とうに係長になっているはずなのに」  部下がおずおずと答えて、 「しかし……あの人は酒さえ飲めば社長になれるらしいんです」    ビフテキどきよ  乞食がレストランでビフテキを食べているのを見て、金持ちの奥さまが目をまるくして叫んだ。 「まあ、あなた。ビフテキなんか食べてどういうつもりなんです」  だが、乞食は少しも騒がず、 「しかし、奥さま。お金がないときにはビフテキは食べられないし、お金があっても食べられないとなれば、いったい、いつ私はビフテキを食べたらいいのですか」    自慢話  イタリヤ人とユダヤ人が、ご多分に洩れず先祖の自慢話に花を咲かせていた。  イタリヤ人「このあいだローマの遺跡を発掘していたらさびついた銅線が出て来てね」 「ほう、それがどうした?」 「わからんかね。私どもの祖先が電話を発明していた証拠でさァ」  するとユダヤ人も負けていない。 「先日エルサレムの発掘をしたが、なにも出てこなかった」 「ああ、やっぱりねェ」 「わからん人だナ。われわれの先祖はすでに無線を発明していたのじゃて」    死に場所  ある男が船乗りに尋ねた。 「あなたのおじいさんも、お父さんもみんな船の事故で死んだというじゃありませんか」 「ええ」 「それでよくあなたは、船乗りになる気がしますな」 「しかし、あなたの家にも畳の部屋があるでしょう」 「ええ」 「あなたのおじいさんも、お父さんも畳の上で死んだんじゃありませんか」    ハゲの原則 「ねえ、ママ。パパの頭はどうしてはげているの?」 「いろいろむつかしいことを考えるからでしょう」 「ああ、わかった。ママはなにも考えないもんね」    読者サービス  ある出版社へ読者から投書が来た。 「貴社の出版物は広告ばかりがすばらしい。買って読んで見るとかならずがっかりする。もう二度と買う気がしない」  出版社では早速返信を書いた。 「ぜひ来月発行の弊社出版物をお買い求めください。著者はすべて弊社広告コピイの作成者です」    約束が違う 「この病人を治しても殺しても、たっぷりお礼を差しあげますから、全力をあげて治療してください」  こう言われてドクトルが精一ぱい努力したけれど、薬石効なく病人は死んでしまった。  それから数週間、待てど暮らせど約束のお礼が届かない。ドクトルがさりげなく催促をすると、相手が、 「あなたは病人を治しましたか?」 「いえ、残念ながら……」 「では、病人を殺したのですか?」 「とんでもない」 「私は�治しても殺しても�と言ったはずですが」 [#改ページ]   2 詭弁の実例と応用●ルールなき舌戦録   トーナメント理論による大予想◆的中率百パーセントの恐怖  �奇蹟�を起こす仕掛け  たとえば、東京都主催で一日に一回公営の丁半|賭博《とばく》が開催されるとしよう。  するとギャンブル・ファンのあなたのところへ予想屋から早速電話が掛かってきて、 「今日は丁に賭《か》けなさい」  指示通りに丁に賭けたところ、ずばり適中、丁の目が来た。  その翌日、また同じ予想屋から電話が掛かってきて、 「今日は半の目に賭けなさい」  そこで半の目を買ってみると、これも適中である。  三日目にも電話が掛かってきて、 「今日は半の目を買いなさい」  半信半疑で半の目に賭けると、またも予想通りのさいの目が出た。  四日目、五日目、六日目……同じようなことが起きたとしたら、あなたはどう思うだろうか?  八百長? いやいや、この公営賭博は現実の日本中央競馬会などと違って、八百長の入り込む余地は全くない。あなたは、いやが応でも予想屋の霊感を信じないわけにはいかないだろう。金銭がからむだけに、この霊感はスプーン曲げどころの騒ぎではない。  しかし、これは理論的に考えれば、少しも不思議のないことなのである。  まず初めに予想屋が相当数のお客を選んで、その半分に「今日は丁に賭けなさい」と指示し、残り半分に「今日は半に賭けなさい」と指示する。  一日目に丁の目が来れば、半の目を指示した客は切り捨て、二日目は、第一日目に丁の目を適中させた客のみを対象にして、これを二つに分け、一方には「今日は丁の目を買いなさい」、もう一方には「今日は半の目を買いなさい」と指示するのだ。  三日目は、二日目に適中させた客のみを相手にして、これを二つに分け……以下同様の操作を繰り返していけばいい。  つまりトーナメント形式の勝ち抜き戦をやっているようなものだ。  全貌《ぜんぼう》を鳥瞰《ちようかん》できる位置から眺めれば、何日も通して予想の適中する�一人�がいることは少しも不思議ではないが、その�一人�の側から見れば奇蹟と考えるよりほかにない。  現実にこんな手の込んだことをする予想屋がいるかどうかはこの際問題ではない。こういう現象は、これほど典型的な形ではないまでも、日常生活の中で起こりうることなのである。  例えば、友人が真顔で打ち明けて、 「あの占い師はものすごくよく当たるんだ。親父が病気になることも、不動産で大儲けをすることも、俺が転勤することも、みんなぴったり言い当てたぜ」  と言ったとしよう。占い師に運勢を見てもらう客の数は多い。原則的には第一回目にうまく占いを当ててもらった人が第二回目にも来る。第二回目にうまく言い当ててもらった人が、第三回目にもまた来る。占いが当たらなかった人は、「あれはいんちきだ」と思ってその時点で自動的に切り捨てられていく。  この友人の場合も、まず一回目に父親の病気を言い当てられ、驚きながらもまた占いを立ててもらうと、二回目には不動産で儲けることを言い当てられ、気をよくして三回目に行ったところ、またまた転勤の卦《け》が出てそれが適中したわけだが、これは高校野球のトーナメントでどこかの高校が勝ち進むのと同じように、彼がたまたま�当たり進んだ�のかもしれない。  自分がいつも、その�当たり進む�当人になることは不可能だが、占い師に運勢を見てもらう人が十分に大勢いて、しかも先に述べたように一回目に当たった人だけが二回目も見てもらい、二回目に当たった人だけが三回目も見てもらう、という原則が一応妥当であることを考えれば、どこかにだれか連続的に�当たり続ける人�がいても、ちっともおかしくはない。そして、その人が恐れおののき、声を大にして占いの奇蹟を宣伝することも、また十分にあり得ることである。  このような分析法を、私はここでトーナメント理論と名づけよう。  江戸時代にもあった�世紀の予言書�  ひところ大流行を見た『ノストラダムスの大予言』だって、トーナメント理論の例外ではなかろう。予言書などというものは、歴史をさかのぼれば無数といってよいほどたくさんあったのである。適中しない予言書は次々に抹殺され、忘却され、この世から消えてしまった。�結果的に�適中している予言書だけが命を長らえることができたのであって、もしあの本が、現時点の世相と少しも合致していなければ、縁もゆかりもない東洋の国で突如リバイバルするはずがない。 『ノストラダムスの大予言』には、かなりこじつけ的な解釈もあるようだが、それはともかく、一応適中していたからこそ日本の出版社の企画として採用されたのである。だから皮肉な言い方をすれば、適中しているものを捜してきたのだから適中しているのが当然であり、あれを見て、死にたくなるほど怖くなるのはよほどの過敏症か、カボチャ頭のすかすか。トーナメント理論を知っていれば、恐れる必要なんか少しもない。少なくとも一九九九年が来ると『ノストラダムスの大予言』は第何回目かの試練を受けなければなるまい。この本は、この年に人類が滅亡の危機にさらされる、と予言しているのだ。ここで人類の滅亡が適中しなければ、この大予言も、その他の予言書が歩んだと同じ運命をたどって見捨てられ、二十一世紀にはまたべつな予言書が発見されてベストセラーとなるだろう。  ちなみに言えば、作家の佐木隆三氏が『問題小説』誌の昭和四十九年五月号で、今から二百四十年前に出版された『おこの草紙』という予言書を紹介しておられた。その一節を借用すれば、  ——今より五代二百五十年を経て世の様の変り果てなむ。切支丹《キリシタン》の法いよいよ盛んになりて空飛ぶ人も現はれなむ。地にもぐる人も出で来るべし。風雨を駆り雷電を投ずる者もあらん。死したるを起す術も成りなん。さるままには人の心|漸《ようや》く悪《あ》しくなりて恐ろしき世の相を見つべし。親は子をはぐくめども子は親をかへり見ず。夫は妻を養へども妻は夫に従はず。男は髪長く色青白くやせ細りて、戦の場などに出て立つこと難きに至らむ。女は髪短く色赤黒く袂《たもと》なき衣も着、淫《みだ》り狂ひて父母をも夫をも其子をも顧みぬ者多からむ。よろず南蛮の風をまねて忠孝節義は固《もと》より仁も義も軽んぜらるべし——。 『ノストラダムスの大予言』風にこじつければ、ここには神風特攻隊もテルアビブ襲撃事件も、心臓移植も、若者の長髪風俗も、自衛隊の人手不足も体力不足も、ヘップバーン刈りも、フリーセックスも、みんな予言していることになる、と佐木氏は苦笑しながら解説している。  今世紀の予言書の大トーナメント合戦は、さしずめこの『おこの草紙』と『ノストラダムスの大予言』との間で争われると考えたらずいぶん楽しいではないか。一九九九年に人類滅亡がなければ『おこの草紙』が生き残る資格を確保し、二十一世紀にまた別な予言書のチャレンジを受けることになるだろう。  私はすべての�予言�が出鱈目《でたらめ》だと断定するつもりはないけれど、予言的現象を見たときには、心のもう一方の隅にトーナメントの理論を抱いていたほうが無難である。少なくとも適中率の高い予言の詭弁性を攻撃するには、トーナメント理論が一番有力な手段であると言ってよい。  成功があったから人生訓がある  トーナメント理論が適用できるのは、なにもギャンブルや占いの世界ばかりではない。人生訓の詭弁性を攻めるのにも役に立つ。  例えば画家の岡本太郎氏は、 「私は人生の岐路に立ったとき、いつも困難なほうの道を選んできた。それが私の人生訓だ」  という意味のことを述べておられる。痛快無比な岡本太郎氏が、きっとそのように生きて来られたことを、私は少しも疑わないし、この座右訓はそれ自体すこぶる男性的で、格調の高いものだと思う。だが、人生の岐路に立ったときいつも困難な道を選んで、しかもいつも勝ち抜いて来たからこそ今日の岡本太郎氏が存在しているのであって、威勢よく困難な道を選んだけれどぺしゃんこにつぶれてしまった人は、岡本太郎氏のような、はなばなしいスターダムに登り着くことができなかったはずである。  だから�岐路に立ったとき、いつも困難なほうの道を選べ�というのは、生き方のモラルとしてはすばらしいけれど、だからといってこの教訓は�岐路に立ったときいつも困難なほうの道を選べば、みんながみんな〈岡本太郎〉になれる�と言っているわけではない。人生に成功した人は、自分の人生を顧みて、そこから成功のコツを引き出して、とくとくと述べる。そこには事実の重みがあるから強烈な説得力があるし、もちろん、なにほどかの真理もあるだろう。けれども、それはあくまで結果のほうから眺めたノウ・ハウであり、トーナメント理論を当てはめてみれば、そこに必ず詭弁性が介入している。  つまり「その方法であなたは成功しただろうが、それでは成功できない人がたくさんいる」という推論がごく自然に展開できる場合が多いのだ。叩《たた》き上げの社長が太鼓腹をゆすりながら、 「俺が若い頃にはこうやったものだよ、カンラカンラ」  と笑いながら語るお得意の苦労話も、半分の真理と半分のトーナメント理論を含むものと思えば間違いあるまい。  話がややこしくなった。もう少し愉快な例をあげてみよう。銀座の高級クラブ�J�のママであり、有名人キラーとしても艶名の高いJさんは、大変な�福マン�の持ち主だと言う。 「私が親しくご交際させていただいた男の方は、みなさん初めは日の当たらないところにいらっしゃるんですが、すぐにめきめきと売り出して大成功なさるんですのよ」  と彼女は豪語する。Jママと親しくなった男は不思議と運が向いて来ると言うのだ。�福マン�と言う以上�親しい交際�がどういう内容かおのずと明らかであろう。  彼女には、成功しそうな人間を鑑別するユニークな嗅覚《きゆうかく》が備わっているのだろうか? だが、ここにもトーナメントの理論が介入する余地がある。  J女史は�結果として�そういう男を選んで恋人として来たのであり、それをトレード・マークとして利用しているふしさえある。もし彼女の過去に、取るに足りない恋人がたくさんいたとしたら、彼女に有名人キラーというレッテルが貼られるわけもないし�福マン�を誇示することもなかったろう。  その場合にはアイデア豊富な彼女は、もっとべつなトレード・マークを考え出していただろう。野球のトーナメントで負けたらバレーのトーナメントに出場すればいいし、それも駄目なら将棋のトーナメントもある。自分が勝ち抜いたトーナメントだけを取りあげ、そこに結果のほうから理論づけをすれば大ていすばらしい理屈が作れる。だからこそ、この世で成功した人はみんな立派な人生訓を持っているのだ。  不幸を正当化する強い味方  トーナメント理論が、結果のほうから人生を眺めて下す断定の詭弁性を曝露《ばくろ》する武器ならば�人間万事|塞翁《さいおう》が馬�はそれを弁護する、詭弁的な防具である。 �人間万事塞翁が馬�というのは、中国の前漢時代の書『淮南子《えなんじ》』にあるエピソードで、昔、国境の城塞の近くに老人が住んでいた。飼っていた馬がある日縄を切って逃げて行ったが、老人は、 「これがかえって幸福になることもあるでしょう」  と涼しい顔。すると数日後、その逃げて行った馬が、ガールフレンドかボーイフレンドか、そのへんはよくわからないけれど、もう一頭の馬を連れて帰って来た。まる儲《もう》けである。だが近所の人がお祝いにやって来ても、このへそ曲がりじいさんは、 「これがかえって、不幸になることもあるでしょう」  と渋い顔。果たせるかな、老人の息子が新しい馬に乗っているうちに落馬して足の骨を折ってしまった。この時も老人は少しも騒がず、 「これが幸福になることもあるでしょう」  やがて戦争が起こり、村の若者たちはことごとく徴用され、十人のうち九人までは死んでしまったが、足を折った息子は徴用をまぬがれ命拾いをした——。  というお話。ここから�人間万事塞翁が馬�という箴言《しんげん》が生まれ、�この世のことはすべて城塞の老人の馬と同じように何が幸福の原因となり、何が不幸の原因となるかわからない�という意味に使われている。  結果のほうから眺めれば、人生は確かに�塞翁が馬�のごとく、幸福が不幸の原因となることもあるし、不幸が幸福の原因となることもあるだろう。  しかし、この塞翁のようなケースは数多い例の中のごく少数の例であって、馬に逃げられたためにそのまま損をした人は山ほどいるし、その馬がもう一頭馬を連れて帰って来れば、まる儲けとなるほうが普通のケースである。結果のほうから見て都合のいい特殊例を取り出し、それがすべてであるように主張するのは、いかにそのこと自体が事実であっても一般的な真実とはなりえない。そのことはすでにトーナメントの理論で説明した。  だから�人間万事塞翁が馬�は明らかに詭弁だが、それにもかかわらず不幸にある人を慰めるとき、あるいは、幸福に浮かれている人に忠告を与えるときに、この言葉を出せば、なにやら格好がつく。これは�塞翁が馬�のプラス面の効用である。  もちろん詭弁は両刃の剣だから�塞翁が馬�も悪用が可能である。詭弁と言われようと言われまいと、とにかく結果を証拠に�不幸が幸福�であることや、�幸福が不幸�であることを遮二無二《しやにむに》主張したいときにも、「人間万事塞翁が馬さ」とやれば、これまたもっともらしい雰囲気が出る。その実用例を一つ挙げよう。 「人間万事塞翁が馬だよ。不幸が幸福をもたらすことなんかいくらでもあるんだ。太平洋戦争のおかげで日本に民主政治が生まれ、アジアの国が独立できたんだから、あれはやっぱり聖戦だったな」  本気でこういうことを主張する人がいるのだから、まことに物は言いようである。   国会式詭弁術◆政治家はうまいなあ  名文句�あれは軍隊ではない�  出世魚と呼ばれる魚がいる。  例えばブリがそうである。幼魚のときがハマチ、少し大きくなるとイナダ、成魚がブリである。タイの中にも出世魚がいて、一番小さいときがケイサツヨビタイ、次がホアンタイ、ジエイタイ、間もなく海外派兵もできる本式のグンタイになる、という噂《うわさ》もちらほら聞こえてくる。  このジエイタイの成長の過程で、再三再四詭弁が使われたことは日本の常識、わざわざここで解説して原稿料をいただくのが申し訳なくなるほど周知の事実である。詭弁を使う側から言えば、みんながあまりの屁理屈ぶりにすっかり阿呆《あほ》らしくなり、わざわざ問題にするのが厭《いや》になってくれれば、本懐成就。これにまさる喜びはない。吉田茂首相このかた「あれは軍隊ではない」と言い続けてきた甲斐《かい》があったというものだ。  自衛隊をなんとか憲法違反者にしないよう言いくるめてきた歴史の中で、技能賞をあげていいくらい巧みな詭弁は、憲法第九条誤訳説である。 �窮すれば通ず�と言うが、あれは一体そもそもだれが一番最初に言い出したことなのだろうか?  こういう歴史的な詭弁は、いきなり幕をあけて読者にクライマックスをお目に掛けるのはもったいない。まず前座にちょっと準備運動をやってもらおう。  昔、�ママの思い出�という外国映画があった。この看板を見て、当時中学生であった私は友人と二人で首をかしげた。 「どんな映画だろう? 子どもたちがお母さんのことを思い出す映画だろうか」 「いや、ちがう。きっとお母さんの若い頃のことを子どもたちに話す映画だ」 「英語の原題を見たらわかるかもしれないな」  結局、英語の原題を調べなかったので、果たしてどちらが正解かわからない。あなたは�ママの思い出�と聞いて、どちらを考えたであろうか。  憲法九条の問題部分  さて、話を元に戻して憲法第九条である。ご存知とは思うが全文を正しくここに引用すれば、  第九条 [#ここから2字下げ] 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇《いかく》又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 [#ここで字下げ終わり]  すんなり読めば、まったく誤解の起きそうもない文章だが、下心を持って読めばいちゃもんがつけられないこともない。問題は第二項の�前項の目的を達するため……保持しない�という係り結びの解釈である。�前項の目的を達するため……保持しない�のだから、�前項の目的を達するため�でなければ保持したっていいではないか、となる。  ここから�侵略のための軍備でなければ保持していいんだ�という主張が出て来たのは、ご存知の通りである。  第二項の条文を見て、こう解釈することは文法的に見て、まったく根も葉もない出鱈目とは言えないが、かなり無理がある。そこで自衛隊合憲派は考えた。もっと頼りになる助っ人はいないものか。そこで�ママの思い出�と同様に英文に助けを求めたのである。  日本国憲法は�マッカーサーの命により�作られたものだ。だから、まず英文があってそれから訳された。そこで、そもそもの原典たる英文のほうを見て、疑義を明らかにしようと思ったのである。なーに、実を言えばそれほど謙虚な態度で英文を見たわけではなく、英文を見たところどうやら自分たちに都合よく利用ができそうだから、英文をことさらに採りあげたというのが真相だろう。  その英文はと言えば、  In order to accomplish the aim of the preceding paragraph[#ここまでアンダーライン], land, sea, and air forces, as well as the other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.  となっている。問題はアンダーラインの部分だ。特に"ln order to"をなんと訳すか? 「〜ため」と訳せば、現行の憲法第九条と同じになって、自衛隊は持ちにくい。 「〜ために」と訳せば、ちょっと持ちやすくなる。 「〜ためには」と訳せば、「前項の目的を達するためには……戦力を保持しない」のであるから、それ以外の目的(例えば自衛のため)ならば保持してよいことになり、自衛隊バンザーイ! である。  英文解釈の常識から言って、この三つのうちどれが正しいかは即断できないだろう。少なくとも第三番目の「〜ためには」という解釈だけが絶対に正しいとする根拠はないのだが、詭弁を駆使する側にとっては、第三番目のように解釈することもできるとなれば、それだけでも有力な論拠になる。  しかも、それに呼応するように、憲法制定時に憲法改正委員会の委員長だった芦田均氏が、 「あの部分は(英文のアンダーラインの部分は)将来自衛力を持てるように滑り込ませておいたものです」  という意味のことを述懐するに至っては、ますます好都合である。国際世論を気遣って�死んだふり�をしたのであって、将来生きかえる根拠をちゃんとアンダーラインの部分に托して残しておいたと言うのだ。かくて自衛隊合憲派は、 「日本語訳では意味が曖昧《あいまい》だが、そもそもこの憲法が作られたときの主旨を英文に求めれば、明らかに�侵略のためには軍隊を持たない�と言っているにすぎない。ゆえに侵略を意図していない自衛隊は違憲ではない」  と頑張る。あとは第一章で触れた時間差攻撃だ。時間をかせいで既成事実を積み重ね、今さら問題とするのが阿呆らしくなれば、結構毛だらけ、猫灰だらけ、目的は達成される。  もっとも最近では、今述べたような、第九条の�言語学的�解釈はあまりはやらないらしい。あの手が駄目なら、「この手があるよ」と次々に繰り出すのが詭弁の常套《じようとう》手段なのだから、時の推移、時代の変遷とともに新しい手だてが必要となる。  砂川事件の最高裁判決では「統治行為については司法権の判断はなじまない」とかなんとか、素人にはあまりよくわからないけれど、平たく言えば、極度に政治性の高い問題は、国民の総意を結集した国会で承認されてさえいれば、多少憲法にはずれていてもかまわない、という意味の主張が昨今は目立っている。憲法は必ずしも絶対の金科玉条ではないのである。  詭弁がエスカレートするプロセス  この際、詭弁派のために少しサービスをするならば、憲法がきちんと守られていないのはなにも第九条ばかりではない。例えば、国民の将来に重大な影響を持つ条約や、法案を審議する必要が迫っているときなど、世の識者たちは�内閣はその前に国会を解散して民意を問え�なんて、盛んにおっしゃるし、事実、今までに何回となくそんなことがおこなわれて来た。だが……、驚くなかれ、これが憲法のどこにも根拠がないのである。  憲法六九条には、衆議院で内閣不信任案が議決されたときには、内閣が衆議院に解散を命じることができるらしいことが記してあるけれど、それ以外の場合に(例えば、現在の政治について国民が満足しているかどうか問うために)内閣が衆議院を解散する権利など、ぜんぜん認められていないのである。社会党も、共産党も、今までに何回となく衆議院解散の要求を内閣につきつけているのだから、憲法を額面通りに解釈すれば、自民党同様、憲法違反の常習犯ということになる(この条文が憲法の中にないのは、憲法作成者の初歩的なミスのためらしい。だが、法律はいったん成立すれば条文がすべてである)。  もちろん現在の政治の仕組みの中で、内閣に衆議院解散権があるのは、望ましいことであり、必要なことだろう。�民意を問うために衆議院を解散する�ことは、よい政治をおこなっていくうえで必要なことだろう。  しかし、よい政治をおこなうために憲法に違反してよい、という論理がそこで成り立つものならば、第九条だって政治的判断により拡張解釈がおこなわれたっていいではないか、ということになる。  憲法第九条と自衛力の問題は、まず「警察予備隊は戦力ではない」という牽強附会《けんきようふかい》から始まって、次に、「第九条のままでも自衛戦力は持てる」という�言語学的�解釈が現われ、今後は「政治判断により、第九条を多少逸脱してもよい」という方向に進んで来た。詭弁のメカニズムを学ぶうえで、これほどすばらしい例は、そう滅多にお目にかかれるものではあるまい。  �豚は太らせて……�の研究  ところで、今述べたような討論がおこなわれたのは、国会およびその周辺である。国会というところは詭弁の宝庫であるらしい。国会中継を聞いていると、守るも攻めるも詭弁の応酬で、その楽しさといったら、昨今めっきり下手くそになった漫才や落語の比ではない。  詭弁はなにも政府側の答弁にだけあるわけではなく、野党のほうにもちゃんとある。なにしろ政治家の論理感覚は「知事の四選、五選はいかん」と叫んでいても、それはたまたまその時の選挙で、敵の候補者が四選目か五選目に当たるからそう言っているだけであって、場所が移り時が移り、立場が逆になれば今度は昨日まで非難されていたほうが同じ理由で相手を非難し、昨日まで非難していたほうは平気で頬《ほお》かむりをする。論理が首尾一貫していない点では与党も野党も大差はない。  先日国会づめの記者に、「なにか最近おもしろい詭弁はないか?」と尋ねたら、 「詭弁かどうかわからんが、�豚は太らせてから料理せよ�は完全なこじつけだったな。こじつけを承知で言ってんじゃなかったら、あの代議士の日本語読解能力を疑うよ」  と言う。  時は昭和四十九年二月の末、衆院予算委員会では�買いだめ、便乗値上げ�の元凶、商社の社長を呼んで、野党議員がつるしあげ。大むこうの拍手|喝采《かつさい》をあびたことがあったが、なーに、こういう派手なお芝居は一応|眉《まゆ》に唾《つば》をつけて眺めたほうがいいのである。あの場合も、仕掛け花火のように華やかで景気がよかったけれどその実追究している中身はかなりお粗末であった。  その一例が、この�豚は太らせてから料理せよ�という事件。これは野党議員が三菱商事の社内報の中から、タイ国で合弁事業を指揮した商社マンのエッセイを取りあげ、 「文中にある�豚は太らせてから料理せよ�とあるのはなにごとか。タイ国およびタイ人を蔑視《べつし》している」  と迫って三菱商事の社長が陳謝した事件である。その当座は、新聞にも報道されたことだから、ご記憶の読者もおられることだろう。  野党議員は正義の味方、悪徳商法を糾弾《きゆうだん》する姿は、はなはだかっこよかったが、これが親分大笑い、日本語の読み違いであったらなんとしよう。  社内報�菱和�一九七一年九月号から問題の部分を引用すれば、 「プラント輸出あるいはジョイント・ベンチャ(合弁事業)は、これはもう不可欠の問題です。あくまでもその土地の、その国の商権を獲得していくと同時にその会社の経営に参画していくことなんですね。そういう意味からすれば�売ればいいんだ�という従来からあった風潮は、自分が何割かの株式を保有しているんだ、ということを忘れ、どうしてもその会社への扱いを伸ばし、利潤を早くあげたいということになり、近視眼的な物の見方になってしまうことなのです。新会社がつぶれても構わん、という考え方ですよ。まったく痛感するね。�豚は太らせてから料理せよ�ということわざがあるが、鶏はひねったら終わりで、たくさん卵を生ませたほうがいいに決まっている。タイでもビルマ(現・ミャンマー)でもこんな言葉をよく聞かされました……」  まず一読してわかることだが、そうたいした内容のある談話ではない。国会でわざわざ取りあげるほどの中身ではない。  野党議員の追究は、この商社マンがタイ人を豚にたとえ�豚は太らせてから料理せよ�と言ったという点にあったようだが、この談話の主はちっともそんなことを言っていないではないか。  当節はやりの受験塾ならば、右の文章で�豚�にたとえられているのは、次のうちのどれか。  ㈰合弁事業  ㈪タイ国人  ㈫商社  正解は㈰であって、㈪と答えた野党議員は、�残念でした、落第です�となるだろう。文章の主旨は�目先の利潤さえあげればそれでいいという従来の考え方ではなく、プラント輸出や合弁事業などの形で資本を現地に投下して企業を育て上げ、十分強化されてから利潤をあげるという態度で臨まなければいけない�ということである。むしろ悪徳商法を反省し、現地人の望む方向で援助をしなければ成功しない、という主張である。  ただ惜しむらくは、この商社マンはことわざに善意を感じさせることわざと、悪意を感じさせることわざとがあることを知らなかった。�豚は太らせてから料理せよ�などと言わず、�果樹は大きく育てて、大きな収穫を待て�とでも言えば無難だったろう。もっとも、この文章をよく読むと、そのことわざも商社マン自身が言ったものではないらしい。タイやビルマ(ミャンマー)の現地人が言ったともとれるのである。いずれにせよ、国会でわざわざ取りあげてどうこういうほどの内容では全くなかった。  しかし、先にも触れたように政治家先生の論理構造は独特である。私は国立国会図書館に十数年勤務していたから、よくわかるのである。今がチャンスと思えば、なりふりをかまっていられない。論理なんかどうだっていいのである。  だから三菱側としても、そう簡単に陳謝するのではなく、あることないこと述べたてて、とりあえず弁明すべきであった。少なくとも�豚は太らせて�の一件については、世間は古い社内報を知らない。だから社長がすなおに謝ったところを見れば「商社マンの中にはタイ人を豚と思った人がいるのか」と思って野党議員に拍手を送ったにちがいない。げに詭弁の効力は絶大である。   統計を見たら�?�と思え◆あいまい数字の操作法  浮気情報のつくられ方  団地妻の浮気度は二十四%だという。週刊誌の記事にそう書いてある。  二十四%と言えば約四人に一人である。団地の奥さまの中には、どう贔屓目《ひいきめ》に見ても浮気と縁遠そうな人相風体の人もいるし、新婚ほやほやのミセスならば、これも、常識的な判断では、浮気の可能性が低いだろう。となれば四人に一人というのは、実質的には三人に一人、あるいは二人に一人くらいの率かもしれない。団地亭主はとたんに心配になる。今晩は麻雀などをせずにまっすぐ家に帰ろうか。  いったい団地の奥さまたちはいつどこで、どんな男と知りあって浮気をするのだろう? なにはともあれ、その週刊誌を買って読んでみようと思う。  世の中にはふとどきな紳士も多いことだから「へーえ、そんなに浮気が盛んなのか。じゃあ、俺もチャンスがあるかもしれない。どうすれば団地のマダムたちとお近づきになれるのかな」こう思って、この人もやっぱりその雑誌を買う。団地妻の浮気度が高ければ高いほど、その雑誌が売れることは間違いない。  だが二十四%という数字は、どうやってはじき出したものだろう? こんな統計が全国の団地妻を対象に公平なサンプルを作って実施されるはずがないし、また、どんな精密な調査が実施されたにせよ、回答者がどれほど正確に答えてくれるか疑問である。それに�浮気度�という言葉も気がかりだ。これは�目下浮気をしている�ということなのか、それともこれまでの結婚生活の中で�ただ一度でも夫以外の男性と恋愛関係または肉体関係をもった�ということなのか、そのへんもあまりよくわからない。二十四%という数値が根拠を持つものであったとしても、前者と後者とではその意味内容がずい分違うだろう。  少し質《たち》の悪い邪推をすれば、この雑誌の記事を書くライター氏が、夕餉《ゆうげ》のあとで、 「おい、団地のこのブロックで浮気している人妻は何人くらいいるかな」  井戸端情報にくわしいライター夫人が、 「そうねえ、秋田さんの奥さん、千葉さんの奥さん……」 「長崎さんの奥さんが、若い男と歩いてるの見たぞ」 「あとは静岡さんの奥さんもあやしいわ」 「合計四人か。あと俺たちの知らないのが、二人くらいいるだろう」 「そのくらいはいるわね」 「このブロックは二十五世帯だから……二十五分の六……二十四%にしておこうかな」  こんなところかもしれないのである。  だが、たとえそうであったとしてもこのライター氏をそう向きになって非難してはならない。  統計というものは、十分に根拠のありそうな数値でも、つねにいんちきが介入する余地があるからだ。週刊誌の浮気情報などは読むほうも、あらかじめ眉に唾をつけて読むからまだましだけれど、もっと深刻ないんちきがいくらでも闊歩している。  例えば、昭和四十六年の十一月に通産省は、 「東京は世界で八番目に暮しよい都市だ」と発表した。これは世界の主要三十一都市の物価を調べあげ、それを各都市の所得水準に照らしあわせてバランスを取り、その結果、「東京は所得のわりには物価が安いほうだ」と結論を下したものである。経済統計の仕組みは複雑で、素人にはなかなか実体が理解できない。日本人は善意の国民だから、お上《かみ》を信じ込み、 「通産省が言うことなのだから、きっと正しいのだろう。東京の生活も苦しいけれど、世界の人はもっともっと苦しい生活をしているんだな。頑張らなくちゃ」  などと、ついつい思ってしまう。  ところが、この調査をつらつら眺めてみると、世界の各都市の物価を調べるのに、地代、家賃、生鮮食料品など庶民の生活と密接に関係していて、しかも日本の物価高・暮しにくさと一番関係の深いものの数値をみんな除外しているのだ。  こんな比較の方法が許されるならば、どんなイモねえちゃんだって、美人女優より美しくすることができる。目、鼻、口、スタイルなど、美人の条件として重要なポイントは全部除外し、イモねえちゃんがきっと自信を持っているにちがいない、バスト、肌の色つや、まつ毛だけを取り上げて採点すればよい。美人女優にもペチャパイはいるし、女優の肌は大てい荒れているものだし、まつ毛は多分つけまつ毛だし、こういう点だけを比較すればイモねえちゃんに向かって、 「君のほうが断然美人だよ」  と、晴れて統計的に断定することができるはずである。  通産省が、なぜこんないんちきくさい統計操作をしてまで�東京は暮しよい�という結論を出したか、その意図は明らかである。行政当局としては、世論を自分たちに都合のいい方向へ——つまり、東京が暮しにくいのは行政当局が無能のせいではなく、みなさんの誤解のせいであって、本当は東京は暮しいいほうなのだ、という方向へ操作するデータが必要だったからであり、そのために、まことしやかな統計の数値が利用されたにすぎない。週刊誌のライター氏が、�売れる原稿�を作るために適当な�浮気度�をはじき出したのとその心情は大差ない。  いまあげた例は、だれの目にもすぐ�いかがわしさ�の理解できるケースだが、いつもこう単純明快にいくとは限らない。私たちは概《おおむ》ね統計のテクニックに関しては素人だし、しかも統計の基礎となった情報を、十分に与えられているケースはめずらしい。だから�そうですか�と信ずるよりほかにない、巧妙な統計的�詭弁�がいくらでも世間にはあるのだ。結論から先に言えば、統計を元にして、なにか普通では気がつかないことを主張している人がいたら、その統計をあまり信じないほうが無難である。その主張を納得させるのに都合のいいように統計は処理され、都合のいい統計だけがそこに例示されているにすぎないと考えるほうが正しいのである。  飛行機は自動車より安全か?  統計の詭弁性を物語る著名な例をもう少しあげてみよう。  むかし、アメリカの海軍が�ニューヨーク市民になるより海軍に所属するほうが死亡率が低い�ことを強調して、入隊を呼びかける広告を出したことがあった。  その根拠は、当時ニューヨーク市民の死亡率が千人につき十六人であったのに対し、米西戦争の間の海軍の死亡率は千人につき九人であったからだ。ニューヨーク市民となるときに生命の危険を考える人は、まずほとんどいないだろう。そのニューヨークに住むより海軍の死亡率が低いというのだから、海軍は安全なところであり、入隊に当たって生命の危険を考えるのは馬鹿げている——と思わせるところが、この広告の狙《ねら》いである。  だが、少し冷静になって考えてみれば、この二つの数値は、本来対等な位置において比較されるべきものでないことがすぐわかる。  死亡率というのは、赤ん坊と老人が高めるものである。ニューヨーク市民の中には、当然相当数の赤ん坊と老人がいるだろう。それを全部こみにして、ニューヨークでは千人につき十六人死んでいるのだ。一方、海軍に入隊するものは、みんな屈強の若者で、そう簡単に死ぬような人たちではない。こういう健康な若者が千人に九人死ぬという環境は、果たしてニューヨークより安全と言えるかどうか。もしどうしてもこんな比較がしたいのならば、ニューヨーク市民の中から、海軍の兵隊と同じ程度の年齢層の健康者を選ばなければなるまい。その結果は、多分海軍当局が満足するようなものにはならないであろうし、したがってこういう統計は、世間の耳目に触れることがなかったわけである。  次の例はご記憶のかたも多いことだろう。数年前までは飛行機の墜落事故が起きると、必ずと言ってよいほど「飛行機は自動車よりも安全である」という意見が航空機業界の人から出された。その根拠は、例えば飛行機は一億キロ走って一人死亡する率だが、自動車は五千万キロ走って、一人死亡する率であるということである。一見まことしやかに思える意見だが、スピードの全く異なる乗物を運行距離単位で比較してどういう意味があるのだろうか。  その乗り物に乗っている�時間�単位で比較されるほうが、まだしも私たちが具体的に抱いている安全感に近いだろう。自動車の平均時速を二十五キロ、飛行機の平均時速を五百キロとすれば、先にあげた統計的根拠は「飛行機は二十万時間走って一人死亡する率だが、自動車は二百万時間走って一人死亡する率である」と書き変えられ、この文章に見る限り、航空業界の思惑とは正反対に「自動車は飛行機より安全」となってしまう。  運行距離単位の死亡率から、もっとも危険な乗り物を求めるならば、子どもの三輪車がこの世で一番おそろしい乗り物、となるのではあるまいか。三輪車に乗っている子どもが自動車にはねられて死ぬ事故は一年に数件はあるだろうし、三輪車の路上走行距離は、全部合計してもそうたいしたものではあるまいから。  最近の飛行機事故で、運行距離単位の死亡率があまり持ち出されなくなったのは、その詭弁性を新聞雑誌などで叩かれたせいだ。飛行機なんてものは、あの重い図体《ずうたい》で空気の中を飛ぶのだから、落ちて当然、と私は思うけれど、航空事業関係者としては、なにがなんでもわが子の安全を主張したかったにちがいない。ここでもまた�普通気がつかないことを主張するために用いられた統計は、信じないほうがいい�という原則が生きている。  飛行機の話が出たついでに、もう一つ笑い話めいた統計的詭弁を紹介しよう。  航空会社の重役が、ハイジャックを心配する乗客に言った。 「ご心配はありません。所持品の検査は厳重にやっております。わが社の統計によりますと、乗客の中に銃砲、ダイナマイトなど危険物を持った人が一人含まれている確率は、せいぜい百万分の一以下ですから」  だが、その乗客は首を振って、 「百万分の一? もっと少なければ安心なんだが……」  重役は少し考えていたが、 「では、あなたご自身がピストルを持ってお乗りになったらいかがです。乗客の中に危険物を持った者が二人含まれている可能性は、一兆分の一になりますから」  統計はすべて�人間の作為が入らない�という前提で集計され、利用されるものなのだから、この話の馬鹿馬鹿しさは説明を要しない。ところが現実には、集計の過程でも利用の過程でも、作為が活発に介入するのだから、このジョークを笑ってばかりはいられない。  ゴルフと離婚率  子どもの教育に熱心な両親のために、話題を提供すれば、大部分の教育パパや教育ママは、 「子どもを日比谷高校に入学させるよりは、灘高校に入学させるほうが、はるかに東京大学に入りやすい」  と信じているふしがある。昭和四十九年度の実績を見れば、灘高校の出身者は百二十名東大に入学し、かつての名門日比谷高はたった二十七名しかパスしていない。灘高と日比谷高の学生数がほぼ同じだとすれば、教育ペアレントの�統計的�判断は一応正しいように思える。しかし、賢明なる読者諸兄はすでにお気づきの通り、東大合格者の数だけを見てそう判断するのは早計である。日比谷高の東大入学者の数が減ったのは主として、東京都が学校群制度を実施したため、優秀な生徒たちが国立高校や私立高校へ流れたせいである。日比谷高の受験指導が特に悪化したためではない。本来優秀な子どもならば、どちらの高校へ入れたって東大入試にパスする可能性は高いのだ。百二十名対二十七名という数を見て、 「この子を灘高に入れないで日比谷高に入れてしまったら、東大に入る可能性が四分の一減ってしまう」  と感じる必要はさらさらない。もしそんな不安を両親が抱いているようならば、遺伝の法則から言って、その子は確実に東大へ入ることはできないだろう。  統計を用いた詭弁の例は日常生活のなにげない判断の中にも存在する。サラリーマンの生活と結びついた例を拾えば、数年前あるゴルフ・ファンがテレビの座談会で、 「ゴルフ・ウイドウなんて言葉があるでしょう。だからゴルフ狂は女房を大事にしないんじゃないかと思われますが、とんでもない。ゴルフを趣味とする人は、離婚率が低いって結果が出てるんですよ。アハハハハ」  と言っているのを聞いた。  この意見は三重の意味で胡散《うさん》くさい。まずなにやら統計的事実を踏まえて言っているようだが、果たして本当に話し手自身がそういう事実を持っているのかどうか、疑わしい。「アハハハ」と笑っているところを見ると、ますますあやしい。  世間には、なんら根拠となるような統計的事実を持っているわけでもないのに、日常会話の中で時折そんな匂《にお》いを漂わせる癖のある人がいるからだ。  第二に、たとえ統計的事実を持っていたとしても、統計はその集計法や分析法が明らかにされない限り、なんの意味も持たないものである。いつ、だれがどういう方法で、その結論を引き出したか、それが大切なのだ。古い統計は役に立たない。サンプルの小さすぎる統計は実態を反映しない。分析の方法によっては、同じ統計から全く別な結論も出せる。  以上のことを考えれば、会話の中にちょっと挟み込まれる�統計らしきもの�は、話の調子を整える彩りみたいなものだと思えばいい。�非常に�とか�ぜんぜん�とかいう強めの言葉の代りに、統計らしきものを引き合いに出しているのだと思えばよろしいのである。  三番目の問題点は——これが一番詭弁としておもしろいところなのだが——ゴルフを趣味とするサラリーマンは、年齢層が比較的高いということだ。最近では、大分若い人のゴルフ・ファンも増えて来たので、ゴルフを壮年以後のスポーツと言いきれるかどうか若干疑念は湧《わ》くけれど、この談話のあった時点では、ゴルフは明らかに壮年のスポーツであり、四十歳以降の、比較的恵まれた環境にある人の趣味であった。一方離婚は、結婚後五、六年までが年々増加し、十年を越えるとめっきり離婚率は落ちてしまう。結婚後十年以上もたち、経済的にも恵まれている夫婦が離婚に踏みきる率は、当然一般的な離婚率と比べて高かろうはずはなく、それは亭主がゴルフ・クラブを振ろうと振るまいと、さして関係のないことなのである。ゴルフをやったから離婚しないのではなく、離婚しないような環境だからゴルフができたのである。  数字で口説く三つの操作  話は少し変わるが、シャネル五番という香水がある。マリリン・モンローが愛用した香水である。これはフランスのココ・シャネル女史の実験室で、何種類かの香水の調合をやっていたとき、たまたま五番目に並べた容器の香水がよい匂いを放った。そこで「ボン。商品名もそのまま、シャネルの五番でいいではないか」とすんなり決まってしまったと言う。  実験室でいくつかの実験を同時進行させて、その中で一番目的に適《かな》った例を採用することはよくあることだが、統計の場合にも、意図的にこれをおこなう場合がある。例えば「全校生徒の七十二%が××社の百科事典を使っています」などという広告コピイがあっても「そんなにみんなが使っているのか。それではウチの坊主にも買ってやろうか」と思うことはない。その出版社でいくつかの学校を対象にして調査し、その中で�一番すばらしい匂いを放つ�シャネル五番を選んだだけなのである。  標本調査をするときには、全体を正確に反映するようなサンプルを選ばなければならないのは、統計学の第一ページに書いてある常識だが、このサンプルを意図的に不正確なものに求めて、自分に都合のいい結果を引き出すのは、これまた統計操作の第一ページにある常識である。  まったく統計というしろものは油断もすきもない。  いわば統計は生《なま》の社会現象を料理した加工品だ。だから味付けや包丁の入れ方におのずと料理人の意志が入る。あなたが統計を使って相手を説得する立場ならば、統計には必ずあなたに都合のいい調理法があるはずだし、逆にあなたが説得される側ならば、必ず調理法にいちゃもんをつけるすべがあるはずだ。いちゃもんの一例をあげれば、テレビの視聴率を重視するスポンサーに、あるディレクターが、次のように反論したことがあった。 「私の番組は農村向きです。農村は所帯人員が多く、一台のテレビを大勢で見ますからね。実質視聴率は二倍強になると思いますよ」  視聴率測定の元となるビデオメーターは、テレビ受像機がどの番組を映したか記録することはできるが、その番組を何人で見たかは記録できない。ディレクター氏の意見にもなにほどかの根拠があるだろう。  詭弁家のためにこの章の要点を整理すれば、 [#ここから0字下げ、折り返して1字下げ] ㈰会話の中には、できるだけ�統計らしきもの�を含ませるべし。「サラリーマンの六十三%はなんとかだと言うけれど……」などという発言は、いかにも根拠がありそうで説得力に富んでいる。その�統計らしきもの�は、どこかでちらりと見聞きしたものでもよいし、時には自分で捏造《ねつぞう》してもかまわない。いちいちそれを聞きただすほど当節の世の中はのんびりしていない。 ㈪根拠のある統計が必要なときには、自分に都合のいいサンプルを作るべし。都合のいいサンプルが作れないときは、いくつかのサンプルを作って統計を取り、一番都合のいい結果だけを選び取ればよい。 ㈫気に入らない統計にはトリックをほどこしたり(通産省の例)、いちゃもんをつけたり(テレビ・ディレクターの例)して、結果を都合よく修正すべし。 [#ここで字下げ終わり]  そして、統計的詭弁にだまされないコツもまた、この三つの要点の裏側にあることは言うまでもあるまい。   売り文句のすれすれ◆広告における詭弁の分類  大衆は新しいものを好む 「君の会社の冷蔵庫は�新型、新型�と宣伝しているけれど、三年前の製品とどこが違うんだ。ずいぶん古い�新型�だな」 「うん。しかし……新約聖書と言っても二千年も昔のものじゃないか」  これはアメリカのジョークである。広告業の関係者はニヤリとほほえむにちがいない。 「ああ、このジョークは使えるな」と。  テレビ広告にせよ新聞広告にせよ、広告を見ていて一番よく目に触れるのは、この�新しい�という概念である。�新しいなんとか��ニュータイプのなんとか��新鮮ななんとか�などなどである。理由は簡単、広告の受け手はつねに新しい情報を求めているからだ。         けれども、天《あめ》が下にそう新しいものはたくさんない。そこで広告の作成者はいろいろと苦心する。少しも新しいところがないのに�ナウな感覚!�と叫ぶ。少しでも改良があれば�堂々ニュータイプで登場�である。正真正銘の新製品が現われようものなら太陽が西から出たくらいの大騒ぎだ。最近ではテキサス育ちの�新しい�飲料水が盛んにテレビに現われているが、なーに、飲んでみれば今までの飲料水とそう大きな違いはない。インディアンの酋長《しゆうちよう》が「テキサス育ちは、ちょっと違う。それだけが言いたい」とCMで気取るほどのことはないのである。  だが、こんなことを言っていたのでは広告マンは失格である。必要とあれば、なりふりかまわず�新しい�とか、�すばらしい�とか叫ばなければならない。いや、この頃では�広告倫理規定�とか、あるいは世論とか、うるさいものがたくさんあるので、そうそう目茶苦茶な嘘をつくわけにはいかない。そこで嘘と紙一重のところで踏みとどまったり、あるいは嘘のごとく嘘であらざるがごとく、曖昧模糊《あいまいもこ》としたものを作ったり、さまざまな努力をする。そこで�新約聖書に比べれば新型だ�というジョークも生きてくる。広告産業は本質的に詭弁産業だと断定する理由もそのへんにある。  もちろん私は広告が徹頭徹尾信用がならず、広告産業が意味のない産業だと言うのではない。現実問題として広告によって情報の提供を受け、それによって便利な生活を営んでいる部分があることは疑いようがない。また、すでに述べたように、人間が他人になにかを訴えるときには、かならずそこに�詭弁的なもの�が介入するのであって、広告だけを責めるわけにいかない。  ただ、広告は商品を売るために莫大《ばくだい》な経費をかけているのであって、大衆に必要な情報を提供することは二義的、三義的な目的にしかすぎない。商品を売ることと、大衆に必要な情報を提供することとが共存できるときは問題ないが、この二つが対立するときには遠慮なく�大衆に必要な情報�のほうが斬り捨てられる。そこで時折珍妙なことが起きる。  テレビ・タレントの藤岡琢也さんが、即席ラーメンを食べながら、 「こんなにうまい物、こんなにうまい物」  と叫んでいるのを聞いて、子どもが、 「この人、あんまり売れないタレントなんだね」 「どうして?」 「即席メン食べて、いつも�こんなにうまい、こんなにうまい�って言ってるもん」  と評したという話があるが、このCMの目的は大衆に�即席メンのおいしさについて科学的な情報を提供すること�ではない。それはわざわざ指摘する必要もないほど自明なことである。  嘘つき広告の�いけない�限界  広告に現われる�詭弁的なもの�は、概《おおむ》ね次のように分類することができる。  1 嘘つき型  2 データ利用型  3 錯覚利用型  4 虫眼鏡型  5 ナンセンス型  嘘つき型は、その名の通り明らかな嘘をついている場合である。  むかし�一粒三百メートル�というグリコの広告があった。あれは一粒で三百メートルがどうなるということなのだろう? 子ども心にも不思議に思った記憶がある。ランニング・シャツを着て走っている人の絵がかいてあったところを思うと、一粒で三百メートル走るだけの養分があるということなのだろうか? にわかには信じがたい。  このくらいのコピイならば、まだ愛敬がある。目くじらは立てまい。だが�灘《なだ》の生《き》一本�というから本当に灘の水を使って灘で醸造しているのかと思えば、これがかならずしもそうではない、神戸に出張所が一つあるだけだったりする。広告に蝮《まむし》の絵がかいてあるから、本当に蝮入りの強精飲料なのかと思えば、蝮はおろか蛇の子一匹入っていない。�格安土地!�と大見出しをつけ、その下に確かに格安な土地のサンプルが載っているから、てっきりそんな土地が売り出されているのかと思えば、不思議なことにこれがいつも「ああ、あれはもう売れました」となったりする。こまかく調査すればこの種の例は相当にあるらしい。油断がならない。  もっとも昨今では広告に対する内外のチェックが厳しく、原則としては嘘つき広告はテレビとか新聞とか、由緒ある広告メディアには現われないたてまえになっている。  ちなみに昭和四十八年度に東京都衛生局がチェックした、医薬品関係の違反広告のコピイを見てみよう。 �生理不順、月経困難は三カ月で治る!(女性保健薬)� �奇跡の若返り薬をあなたに!(ビタミン剤)� �ドイツより直輸入(胃腸薬)�  などなどが�いけない�文案なのだ。どこがわるいのか? ちょっと首をかしげるかもしれない。  女性保健薬は�効果が確実であるように表現している�点がわるく、またビタミン剤は�効能について最大級の表現を用いている�点が不適当であり、そして胃腸薬の場合は�製造方法や優秀性について事実に反する認識を得させる�点があるから、医薬品広告適性規準に違反すると認定された。なかなか手厳しいのである。  しかし、今あげたような例は医薬品という特殊な商品だから、これほど厳しいのであって、ほかの分野では、まだまだ虚偽の表示、虚偽の広告はまかり通っている。ただ、嘘つきの広告は受け手のほうでそれを嘘と断定するだけの情報を持つことがむつかしい。送り手のほうも、その情報が漏れないよう防衛する。したがってそれが詭弁かどうか疑うことさえむつかしいのが現実である。それだけにこの種の広告は悪質なのだが、先に述べた広告本来の意義から考えて、二、三流の広告メディアに(一流メディアにもないとは言わないが)さまざまな嘘つき広告が潜入していることは、ほぼ間違いない。  いま流行の「錯覚利用型」  広告の中で、机にすわってながめているだけで�詭弁くさいな�とわかるのは、データ利用型と錯覚利用型である。データ利用型はなにやらもっともらしい数字、図表、学術用語を使って説得するケースであり、錯覚利用型は関係のないことを結びつけて錯覚を起こさせるケースである。  例えば一九七二年の『コピイ』年鑑をながめていると、 �毎年オフィスは十二%狭くなる�  というコピイがあって、この文案作成者は新人賞を受けている。専門家の目で見ればきっとすぐれたコピイなのだろう。スポンサーはオフィス用家具のメーカーで、このコピイの意味は、社員の増員や保存する情報の増大でオフィスは�毎年十二%も狭く�なるから、わが社に相談して効率的なオフィス計画をせよ、という主旨である。  だが統計の詭弁性のところでも述べたように�十二%�などという、この手の数字は原則的にあまり当てにならない。文案作成者は、なにか根拠をもってこの数値をはじき出したのだろうが、いつ、どこで、どのような方法で得た数値か、それが明記されていない以上まったく意味がないのである。もし社員の増大でオフィスが毎年実質的に十二%ずつ狭くなっていくとすると、五年後には約半分の狭さになり、十年後には四分の一になる計算だ。オフィスの狭さに悩んでいる会社は多いが、五年ごとに社屋を二倍にしていかなければやっていけないほど全国の会社が平均的に困っているとは、私は思わない。  言うまでもなく、こういう数値はスポンサーにとって都合のいいものだけが利用される。都合のわるい数値は奥のほうへ�ない、ない�されてしまうのだから、相当に割引きして考えなければなるまい。  また素性のあまりはっきりしない学術用語も、一応眉に唾をつけて考えたほうがよい。かつて——ご記憶の方もおられると思うのだが�新強力美肌素�を配合したクリームがあったが、あれはいったいいかなる化学成分だったのか、私はもの好きにも二、三の化学辞典を調べてみたのだが、さっぱりわからなかった。  錯覚利用型、つまり関係のないことを結びつけて錯覚を起こさせるのは、最近の広告がもっとも得意とするパターンである。 �野生の声が聞こえる、カゴメトマトジュース��野生の朝がはじまる、カゴメトマトジュース�などと言う。そして野生の原野でたくましく活動している裸の男が現われる。だがこのトマトジュースは、べつに野生のトマトから作るわけではないだろうし、このジュースを飲めば画面の男のように筋肉もりもりとなるわけではない。また、広告文案もそんなことは一言も言っていない。一方に野生の男がいて、一方にトマトジュースがある。それを結びつけてなにやら�野生的世界�の錯覚を起こすのは広告を見る側の責任である。  それにつけてもよくわからないのは、化粧品関係の広告には、なぜ白人の女性がよく現われるのだろう。その化粧品を愛用すれば、白人のような肌になると言うのだろうか? いや、いや、これも広告文案はそんなことを少しも言っていない。一方に白人の白い肌があって、もう一方に化粧品があるだけなのだ。人間の肌は人種によって色合いも性質もずいぶん異なるものなのだから、本来ならば、日本人を対象とした化粧品に、外国人のモデルが登場すること自体が場違いのはずである。だが、なにやら錯覚の効果は絶大らしく、いつも白い肌の女性が現われる。不思議といえば不思議である。  コカ・コーラの広告では、みんなでコーラを飲みながらがやがや、にこにこ、楽しそうにやって�コカ・コーラ、うるおいの世界�と歌うのだが、これはもちろんコーラがあるから人生が楽しくなるわけではない。親しい仲間がみんなで集まって仲よく歓談をすれば、コーラがなくても�うるおいの世界�になるし、その反対に一人住まいの安アパートにコーラ一本買って帰ったところで、べつに�うるおいの世界�と興奮するほどのことは決して起きない。  広告を見る側にとって�うるおいの世界�は錯覚であり、確実に�うるおいの世界�を謳歌《おうか》できるのは、スポンサーのほうなのである。  おいしい文句は苦心の味つけ  虫めがね型は、取るに足りない点を盛んに取りあげて、企業サイドの狙いや商品の短所を隠し、それがさもすばらしい商品のように思わせる場合だ。話は少し旧聞になるが銀行で普通預金と定期預金を混ぜ合わせた、いわゆる�総合預金�がスタートした頃、ある市中銀行は、 �万能預金。一冊で五つの使いみち——預ける、受け取る、支払う、殖《ふ》やす、借りる�  と宣伝していた。�受け取る�というのは、ほかの銀行などから入金されたものをその通帳に入れることであり、�支払う�というのは、水道料金など支払事務を代行することである。どちらも今まで普通預金でやっていたことだ。めずらしくもない。�殖やす�というのは、総合預金の中の定期として固定した部分を定期の利率で殖やすということであって、これは当然のこと。�借りる�というのは、要するに自分の預金に見合う額を限度として、定期預金の金利以上の利子を払って�借りる�ことである。普通預金のままなら、ただ引きおろせばよかったものを、今度は利ざやを銀行へ払って自分の金を自分で借りるのである。銀行側の狙いはただ一つ、普通預金の一部を定期化することであり、もともと預金者の便利を考えてのことではない。だから当然預金者は便利ではないし、一般預金者の預金額では一部定期預金化したところで、あっと驚くほど利子が殖えるわけでもない。これで�万能預金五つの使いみち�とは相当に詭弁的表現である。  しかし、これなどはまだなにやら特長らしい点を訴えているからいいほうである。特に訴えるようなすばらしい特長もなく、コピイライターが四苦八苦してなんとかセリング・ポイントを創造しているケースも少なくない。このウィスキーはなぜかオンザロックによいとか、電気製品のスイッチがピアノタッチで押すのが楽しみになったとか……苦心の一例である。  だから、ある男がコピイライター氏に尋ねて、 「�すばらしい性能�って書いてあるけれど、どこがどうすばらしい性能なの?」 「それがちゃんとあるくらいならば、はっきり文案の中に書くよ」  その通り。�未来を先取りする�とか�専門家も舌をまく�とか、おいしい文句が書いてあるわりには、どういう点で未来を先取りしているか、どこに専門家が舌をまいているのか、あまりつまびらかに書いていないときは、広告作成者が文学的あるいは芸術的判断によって、そういうややこしい記述を省略したわけではないのだ。書くべき事実がなかった、と考えるほうが、広告作成の実態に近い場合が多い。  ナンセンス型は、理屈にならない理屈をつけて訴えるコピイである。これは、どこかユーモラスである。罪のない屁理屈である。 �給料袋は立たなくても、貯金はしゃんと立っている�  この文句のかたわらに立たない給料袋と、少し開いて立った預金通帳が写っている。だから銀行に預金せよ、ということなのだろうが、つらつら熟慮するまでもなく、預金通帳ががっしり立っているからといって、それが貯金の堅実さを示すことにはならない。ああ、それなのに、頼りない給料袋と一本立ちしている預金通帳を並べて、視覚的に、貯金の堅実さを訴えている。論理にならない論理で訴えるのだから、これも広い意味での詭弁だろう。ただ相手が気を許したすきに、するりと滑り込むエレガントな詭弁である。  このようなジョーク風な広告はともかくとして、広告の詭弁性を本格的に究明することは、なかなかむつかしい。企業の内側から情報を集めなければ、それが詭弁であることを論証するのが困難だからだ。ただ少し思慮を働かせて眺めれば、本書のような公けなスペースでこそ断定はできないが、あやしい広告はたくさんある。この項の冒頭で述べたように、広告は商品を売るために莫大な経費をかけるのであって、大衆に正しい情報を与えることは余業なのだ。  むしろ現代人は広告を見ることによって、この世に巧みに仕組まれた詭弁のあることを本能的に知るのであって、これが広告の隠された教育的価値である。   故事名言に偽りあり◆一面の真理なのです  �五十歩百歩�は迷文句だ �五十歩百歩�という言葉がある。これは中国の戦国時代の思想家・孟子(BC三九〇〜BC三〇五)のエピソードから始まっている。  梁《りよう》の国の恵王は、自分では相当にいい政治をやっているつもりなのに国の人口がさっぱり増えない。その頃の中国では「角さんのところは物価が上がってひどいから、どこかよその国に移ろうか」なんて言って、あちこち国を移動する人もいたのだろう。善政をしけば人口が増加し、人口が増加すればそれが善政の度合いを計るバロメーターになった。思い悩んだ恵王は、政治コンサルタントの孟子を呼び寄せて尋ねた。 「隣近所を見まわしたって、俺の国ほどいい政治をやっている国はない。それなのになぜ人口が増えないのかねえ?」  すると孟先生が小鼻をひくひくと得意そうに動かして、 「戦場で戦いが始まりました。その時ひとりの兵卒は五十歩逃げて止まり、もうひとりの兵卒は百歩逃げて止まりました。そこで五十歩逃げたものが、百歩逃げたものを見て�あははは、あいつ、臆病《おくびよう》だなあ�と笑ったとしたら、あなたはどう思いますか」  察するにこの恵王はあまり知能指数の高い王さまではなかったらしい。簡単に孟子の誘導訊問《じんもん》にひっかかってしまい、 「それはおかしい。五十歩でも百歩でも逃げたことには変わりがないだろう」  そこで孟先生、得たりとばかり、 「そうでしょう。隣の国と比べて少しばかりいい政治をしたって、似たようなものですよ」  と相手を説得してしまった。  だが、この孟子の論理が相当に詭弁くさいことは確かである。戦争体験のある人に言わせれば、 「孟子は自分で戦争の経験がないからそんなことを言うんだよ。戦場で五十歩逃げるのと百歩逃げるのとは、まるで勇気の度合いが違うんだ」  私も多分そうだと思う。 �五十歩百歩�の背後にあるのは�オール・オア・ナッシング�つまり�満点か零点か�の思想である。逃げなかったグループが満点であり、一歩でも逃げたのは、みんな不合格、零点のほうに入れられてしまう。  世の中には�オール・オア・ナッシング�の理論がそのまま適用できる情況もあるが、これはむしろ例外で、オールとナッシングの間には無数の段階的レベルが存在するケースのほうがよほど多い。  昔の娘は一度|操《みさお》を穢《けが》されたら、それでもう�きずもの�であって、まともな娘として世間に顔を出すことができなかった。だから「どうせ一度穢された体なのだから」なんて自暴自棄になり、人生を台なしにしてしまうことがよくあった。�オール・オア・ナッシング�の犠牲者である。頭のいいプレイボーイは孟子の教えを指差し、 「孟子も五十歩逃げるのも百歩逃げるのも同じだと言っているじゃないか。一回も十回も破れちまえば同じことだよ」  と�儒教の教え�に従って口説くことも可能だった(?)はずである。  若い女性の性体験をどう考えるかは、人によって大分意見が異なるだろうけれど、性体験の有無だけで二分されていいものではあるまい。「一、二回あり」と「十数回あり」とでは、やはり違ったタイプの女性だと思うし「十数回あり」と「数十回あり」とでは、アマとプロの差くらいありそうである。  政治献金が話題になると、財界からは何十億円という献金を受けている自民党は「社会党だって諸団体から献金を受けているではないか」と反論するが、その額は自民党のせいぜい四十分の一程度で、その内容も労組からの寄付が多い。これでは、献金を受けているからと言って同一に論じることはできない。五十歩と百歩が異なるのは自明の理だが、一方では、�オール・オア・ナッシング�という物の見方も存在するので、時として五十歩と百歩とを、同じものと思わせることも可能である。そこに詭弁が活躍する余地がある。 �五十歩百歩�という言葉そのものの詭弁性を知ることは、ただの国語科の知識にしかすぎないが、この慣用句の背後にある�オール・オア・ナッシング�の思想の持つ詭弁性を見抜くことはもっと大きな意味を持つ。この項では、故事名言の詭弁性を取り上げるが、いずれもそういう広がりを持って考えてみたいと思う。  �剣はペンより強い�現実  むかし、朝日新聞社の入社試験で�ペンは剣より強し�というテーマで作文を書かせたところ、受験生はただ一人の例外もなく�ペンは剣より強い�ことを例証する作文を書いたという。採点官はどれもこれも、似たような主旨の作文ばかりなのであきあきしてしまい、もし�ペンは剣より弱い�ことを書いた作文があったら、それだけで合格点をつけようかと思ったほどであった。 �ペンは剣より強し�という言葉の意味は明白である。新聞社はペンの強さを命綱とする事業だから、受験生がみんなお世辞を使って�ペンは剣より強し�と書いたのは一応うなずけるが、歴史をつらつら眺めてみれば、ペンが剣より強かったことはそうめったにあるものではなく、その逆にペンが剣の前でもろくも折れたほうの例ならば、うじゃうじゃ、ごろごろいくらでも転がっている。論より証拠、そう遠い歴史を振り返る必要もない。太平洋戦争の最中の新聞が軍部の圧力を受けてどれほどいんちきな記事を載せたかは、まだ記憶に新しいはずだ。あるいはまた世界のどこかで戦争が起きると、ノーベル賞の受賞者や世界の良心みたいな著名人が平和を願う声明を発表したりするけれど、これで戦争が収まったという例はほとんど聞いたことがない。�ペンは剣より強し�というのは錯覚であり、�そうあれかし�という願望を表現したものである。故事名言の中には、事実から遠い命題を与えて、いかにもこれが真理だという顔をしているものもいるから、だまされてはなるまい。 �健全なる精神は健全なる身体に宿る�という言葉もその一つの例である。渡辺紳一郎氏が『西洋古語辞典』に書いておられるところによれば、この言葉の出典は古代ローマの詩人ユベナリスの詩の一節で、そこには�健全なる身体の中に健全な心�だけしかなく�宿る�の部分がない。詩全体から判断すればユベナリスの言っていることは�賢者が神に願うものは、健全な身体に宿った健全な精神であって、この二つさえあれば、それだけで人間は満足すべきだ�らしい。身体さえ丈夫ならば心も丈夫である、と主張しているわけではない。  さもあろう。婦女暴行の常習者として知られた大久保清さんなんて人は、ずい分体はタフのようだったし、世間には五体満足、元気ぴんぴんでもねじけた心の人はたくさんいる。逆に身体は虚弱でも、精神は健全そのものという人もめずらしくはない。だから、この成句のように、身体さえ丈夫ならば精神も自動的に丈夫になる、といった妄想を抱かせるものは、詭弁と断定しても差しつかえあるまい。  私は小学生の頃、今から思うととても円満な人格とは思えない体操教師に、「懸垂《けんすい》のできないやつは、ろくな人間になれない。健全なる精神は健全なる身体に宿る、だ」と、まるで鉄棒のできないものは人間として価値がないようにしごかれたので、少なからずこの言葉には恨みを持っている。  �目には目を�の不本意な使われ方  まぼろしの評論家イザヤ・ベンダサンは『日本人とユダヤ人』の中で�目には目を�という言葉を�なぐられたらなぐり返せ。殺されたら殺し返せ�という攻撃的な報復思想と解するのは、大変な誤解だと述べている。�目には目を�の本来の意味は�なぐったら、なぐられることで償いをなせ�という受け身のものであり、相手のいかんを問わず、正当な損害賠償をなせということだという。�目には目を�という言葉は西暦前十七世紀頃に作られたハムラビ法典に初めて見られるもので、それがメソポタミア文明の影響を受けたユダヤ人の中にも浸透し、やがてイエス・キリストが、 「目には目をと言われるが、むしろ右の頬《ほお》を打たれたら左の頬を出しなさい」  と教え、暗にユダヤ教の報復主義を批判し、キリスト教の慈悲と犠牲の思想を強調したことから、このキリスト教式の解釈が広く世界に普及してしまった。つまり歴史的に眺めれば、キリストが、血で血を洗う復讐《ふくしゆう》が横行した時代に、 「みなさん、復讐はいけません。慈悲です。隣人を愛しましょう」  と大見えをきったのである。おかげで�目には目を�は復讐肯定の言葉としてのみ、世界的に通用するようになってしまった。  しかし�右の頬を打たれたら左の頬を出せ�ばかりでは、合理的な人間関係はなに一つとして成立するはずもなく、人間関係の基本はつねに�目なら目で償う�相互に対等な規範で律せられるべきだ。これは当然のことである。  ただ人間関係というものは、そうそう杓子《しやくし》定規にばかり行くものではない。いつも相互に対等であることをのみ主張していたのでは、うまくことが運ぶものではなく、時には当然の理を十分に承知したうえで、愛と譲歩の思想が必要なこともあるだろう。キリストは詭弁的方便を用いてこのことを述べたのである。  人を動かし人を感動させるためには、昔からよくあるような、ありきたりの物の見方や表現法ではむつかしい。なんらかの意味でショッキングでなければならないのは当然であろう。  故事名言のたぐいは、思想家や政治家の思想宣伝用のキャッチフレーズだから、その言葉の中には個々の思想が凝縮されていることは確かだが、凝縮のプロセスで、いろいろ付随する条件をみんな切り落としてしまうので、どうしても極端な断定になってしまう。  ところが、それが故事名言として定着すると、そこに必ず呪文的な効果が生じ、極端な断定がどこでもいつでも通用する、普遍的真理であるような錯覚を聞き手に与えるようになる。  現代フランスの思想家ボーヴォワール女史は、「人は女に生まれない。女になるのだ」という名文句を掲げた。女は生まれながらに�女�という状態にあるわけではなく、今日までの全文明が�女�という状態をつくりあげた、という主張である。  例えば、親父が男の子に向かって、 「さァ、男はこうやっておしっこをするんだ。穴ぼこからやる女とは違うんだ」  と言って、誇らしげに噴水をあげる。これが男の子に優越感を与え、一方、穴ぼこしかない女の子は劣等感を抱き、それをカバーするために愛敬よく振舞ってみんなに好かれようとする。生まれ落ちたときは白紙なのだが、それを育てる社会のほうに�男は強く、賢く、女はひかえめで、美しく�というモラルがある以上、女はどうしても�女�に作られてしまうというのがボーヴォワール女史の主張である。  生理学的に言えば�人は女に生まれない�はナンセンスであり、産婆さんが困って困って死にたくなるような珍言だが、ボーヴォワール女史はショックと呪文の効果をよく知っていたので、こう唱えたのである。  日本人のウィーク・ポイント  故事名言とよく似たものに諺《ことわざ》がある。諺の中には、相互に矛盾するものがたくさんあることはよくご存知であろう。 �人を見たら泥棒と思え�と言うから、眼を三角にして用心していると�渡る世間に鬼はなし�と言う。�初めが肝心�と言うから、スタートに全力を注いで、あとはのんびり行こうとすれば�終りよければすべてよし�と尻を叩《たた》かれる。�果報は寝て待て�と言うから、ゴロ寝をしてテレビを見ていると�虎穴に入らずんば虎児を得ず�と言う。  エトセトラ、エトセトラ、相反する内容のものがいくらでもある。  諺は日常生活の中から生まれた、これも一種の人生訓には違いないけれど、ものごとの一面の事実を見ているにすぎないから、別の面から見れば、またもう一つの事実が現われ、そこからもう一つの諺が生まれても少しもおかしくないわけである。このことは故事名言だって、少しも変わりがない。ただ、故事名言のほうがショッキングで、華麗で、説得力があるから、より一層|呪術的《じゆじゆつてき》 効果が高い。  それに日本人は�ゲーテいわく�とか�マクルーハンが言うには……�と、世界的著名人の名を引きあいに出すと、眠っていた学生もあわててノートを取り始めるほど、著名人の言葉をありがたがる癖があるから、本来は一面の真理にしかすぎない名言故事も、どんどん引きあいに出せば、さながら普遍的真理が君臨したような、呪術的効果をもたらすことが多い。詭弁家はこの効能を忘れてはならない。  �世に伯楽あり�の逆説的利用法  どこか汚職っぽい代議士が、 「水清ければ大魚なしだ。あっはははは」  と笑えば、胡散《うさん》くささはみんな古典が責任を背負ってくれそうな雰囲気になるし、また無能のサラリーマンは、 「世に伯楽あり、しかる後に千里の馬あり」  と言って、すべて上役の管理能力のなさのせいにすることができる。  伯楽は馬の名調教師のことで、こういう目の確かな伯楽がいて、はじめて千里を走る名馬が誕生するのであって、名馬は初めから名馬として存在するわけではない、というたとえ話である。  建設工事が遅々としてはかどらなければ、 「ローマは一日にしてならず、と言いますからなァ」  と、追及の矛先を一瞬そらすこともできるし、上役の悪口を言いたくなったら、 「顔がわるいよ、あの人は。リンカーンも言ってるだろう。四十過ぎたら自分の顔に責任を持てと。あの顔はろくなこと考えてる人相じゃないね」  と言えば、上役の品性の悪さを、アメリカの名大統領が保証してくれるのである。   職業的詭弁の基礎◆言葉と心理の見事な結合  誰にでもフィットする靴  靴屋の論理というのがある。  お客が靴を買いに来る。もし靴が少しきついようならば、 「あ、それでちょうどいいんです。よい革は履いているうちに適当に伸びますからね。すぐにぴったりとフィットしますよ」  もし靴が少しゆるいようならば、 「あ、それでちょうどいいんです。よい革は履いているうちに足になじんで締まってきます。すぐにぴったりとフィットしますよ」  もし靴がきつくもゆるくもなければ、 「あ、ぴったりですね。よい革は伸びもちぢみもしませんから、いつまでもフィットして形がくずれませんよ」  どう転んでも商売ができるようになっている。この台詞《せりふ》を三つ並べて聞けば、これはおかしいと気がつくけれど、一つ一つばらばらに言われれば、 「なるほど。よい革ってそんなものなのかなあ」  と思ってしまう。そこがみそである。商売人である以上この種の詭弁を使わない人はめずらしい。  デパートのネクタイ売り場なども軽度の詭弁がやたら横行するところである。売り子たちはお客が手に取ったり、目をつけたりしたネクタイは一応勧めるように教育されているのだが、若い男が派手なネクタイを見ていれば、 「若い方には、やはりそのくらい華やかな柄のほうがよく映ります」  と言い、逆に地味なネクタイが気に入っているようならば、 「若い方には、かえってそのくらいシックな柄のほうが落ち着いて映ります」  と言う。年配の客が派手なネクタイを選べば、 「ぜんぜん派手ではございませんわ。お客さまくらいの年配のかたがお召しになると、とても豪華に映って品がよろしゅうございます」  逆に年齢相応の地味な柄を選べば、 「ちょうどお客様のご年配によろしゅうございます。あまりお派手な柄は重みがございませんから……はい」  となる。善意に解釈すれば、お客の趣味に自信を持たせてくれるのであって、これもサービスの一つなのかもしれない。  言葉というのは、言っている内容が同じであっても、言い方によってずいぶん印象が違うものだ。 「大阪の糸ですが、京都で織らせております」 「京都で織らせてますが、原料は大阪の糸でございます」  前のほうのせりふは京都の人を相手に言うときであり、後のほうのせりふは大阪の人を相手にして言うときである。つらつら考えるまでもなく、この二つのせりふの意味内容はほとんど変わりがないのだが、言葉から受ける印象は確かに違っている。相手の心理や欲望に適った表現をさりげなく覗かせると、人間はそれに飛びつく性質があるからだ。  だから優秀なセールスマンは、相手の表情を見つめながら臨機応変に言葉を使いわけるすべを心得ている。  高い商品を勧めるときには、 「結局おとくでございますから……」  と言い、安い商品を勧めるときには、 「飽きがくるものですから、あまり高い物はどうかと思います」  とかなんとか、もっともらしいことを言う。  流行にのった商品を勧めるときは、 「新しいものには、やはり若さがありますからね」  であり、古い型の商品ならば、 「長年親しまれてきたものには、やはりそれだけの味がありますから、はい」  と言えば、それでよい。  女と医者だけが知っている  職業上の詭弁と言えば、医者の世界には�ムンテラ�がある。ドイツ語でムントと言えば口。テラピイは治療。ムント・テラピイ、略してムンテラは、口先一つで患者を適当に誤魔化してしまう治療法(?)のことだ。 「ああ、それは風邪のいたずらですよ」  などと言って、胃痛も耳鳴りも神経痛も、みんな風邪のせいにするドクトル・バンブーも世間には少なくない。  あるご婦人がある産婦人科医で中絶のオペラチオンを受けた。だがその後体調その他から判断して、どうもうまく堕《お》りてくれたような気がしない。そこでもう一度診察を受けると、胎内にまだちゃんといるのである。 「高い手術料を取っておきながら、これはどういうことですか!」  と文句の一つも言いたくなる。だがドクトルは少しもあわてず、 「これはめずらしい。双子だったんですね。一つはうまく成功したんですが……」  これは東京都内の某病院で本当にあった話である。  患者はもう一度手術を受け、退院のときに、 「先生、今度は本当に大丈夫なんでしょうね」 「もちろんですとも。ただ……」 「ただ……?」 「ただ、まれに、三つ子ということもありますから」  失礼、失礼。これは嘘。まさかここまでは言わなかっただろうけれど、ドクトルのほうは専門知識をがっちり持っているのだから、患者をまるめ込むくらい、お茶の子さいさい、さぞかしやさしいことだろう。  私自身も昔�軽い�肺結核にかかったことがあるのだが、三カ月に一度レントゲン写真を撮ると、そのたびに主治医がフィルムを眺め、 「ああ、すっかりよくなりましたね。薬がよく効いてますよ、これは」  明日にも退院の許可が出るのではないか、と、その都度《つど》思ったものだが、現実には�すっかりよくなりましたね�が七、八回続き、本当に�すっかり�よくなるまでに二年近くかかった。  後年、知合いのドクトルにこの話をしたら、ドクトルのいわく、 「アナトール・フランスの言葉にもあるんですね。�男にとってどれほど嘘が必要なもので、しかも助けとなるか、女と医者だけが知っている�って……」  ムンテラにも、よいムンテラとわるいムンテラがあるのだろう。胃が重苦しい禿《はげ》頭氏は、 「禿頭は胃ガンになりませんよ」  と言われたほうが、 「金語楼さんは胃ガンでしたからなあ」  と言われるより、ずっとうれしい。開業医はムンテラが巧みでなければ、あまりはやらないということだ。  �お世辞語読み換え辞典�  身のまわりにある小さな詭弁といえば、仲人口もその一つだ。世の中には若い男や若い女が独身でいるのを見ると、とたんに結婚をさせたくなる趣味の人がたくさんいる。一種の整理癖のようなものであって、電気釜の底にご飯が残っているのが気になるのと同じように、人間が独りで生きているのが気になるのだ。  そこで若い男のほうへ行って、 「それはもう美しいお嬢さんで……おつむのほうも小学校から大学まで優等ばっかり」  女のほうへ行っては、 「会社ではエリート中のエリート。そのくせそんなことはちっとも顔に出さないで、いつも清潔で、いたわりがあって……」  とにかく�まとめる�のが趣味なのだから悪く言うはずがない。  こういう手合いにかかっては、太っていればグラマー、美人でなければ個性的、わがままは�いかにも良家の方らしい性格�であり、家が貧乏なら「お父さまもお母さまも、見えを張ることが大きらい。堅実な家風でございますのよ」と相成る。知能指数が多少低くたって目じゃない。男なら大器晩成型で、女ならばおっとりとした娘さん。浮気者は、女ならば現代的で活発なお嬢さんであり、男ならば交際が広く、だれにでも好かれる青年なのだ。�お世辞語読み換え辞典�でも用意して聞いていないと、とても話が満足に解釈できない。  すでに結婚されたかたのために、一言だけ蛇足をつけ加えるならば、遊び場のホステスさんにも、この種のお世辞の研究はちゃんと行き届いている。にやけたお客ならば「甘いムードのかた」とか、エッチなお客ならば「ここではそれが一番いいの。遊びなれていらっしゃるわ」とか、けちなお客には「けじめがきちんとしてらして、現代的なのね」となるのだ。こう言われて、お客はいい気分になる。  なるほど、アナトール・フランスが言う通り�男にとってどれほど嘘が必要なものか、女はよく知っている�ものらしい。  過日あるキャバレーのミーティング風景を見学したのだが、支配人が、 「勘定が九千五百円で、お客さんが一万円払いました。おつりは五百円です。�取っておけよ�と言われたら、みなさん、どうしますか?」  ホステス諸嬢が黄色い声をあげて、 「もらっちゃう!」 「そう。それでいいんです。もらっちゃいましょう。ただし……いいですか、ただし、ただもらってはいけません。�キャーッうれしい!�と言ってお客さんに飛びついて、大喜びをしましょう。そうすると、いいですか。お客さんは思いますね�五百円でこんなに喜ぶのだから、五千円あげたらどんなにいいことがあるだろう�こう思ってもう一度店に来ますね、お客さんも楽しみです。みなさんもうれしいですね。もちろんお店も、とてもうれしいです……」  この手の詭弁は、あまり種を知らないほうが人生楽しく渡れるのかもしれない。 [#改ページ]   コーヒーブレイク㈼  コーヒーを無料で飲む法  論より証拠。あなたがサラリーマンならば、迷わずに仕事の手を休めて地下の喫茶店へ行ってみるがよい。コーヒーはちゃんとただで飲めるのである。その理由は——。  あなたが、かりに年収四百八十万円のサラリーマンだったとしよう。月給三十万円、ボーナスが一期六十万円でこうなる。この四百八十万円を十二カ月で割り二十五日で割り、さらに八時間で割ると、ちょうど二千円になる。これがあなたの一時間の労働のお値段である。  だから一時間仕事をさぼれば二千円得をした勘定になり、コーヒー代三百円也を得するためには九分間仕事をさぼればそれでよい。勤務時間中に地下の喫茶店へ行って、大急ぎでコーヒーを飲んで帰っても、あなたは多分ただのコーヒーを飲んだことになるはずである。  風邪は責任感の尺度  風邪を引いたらただちに会社を休むべきである。これが本当に責任感のある、りっぱなサラリーマンなのだ。  風邪を引いているのに無理に出勤すると、周囲のものに感染し、全体の能率がいちじるしく低下する。そんなことなら、初めの一人がきれいさっぱり休んでくれたほうが、どれほど効率がいいかわからない。  ああ、それなのに、無能なサラリーマンに限って、自分一人にだけ�怠け者�のレッテルが貼られるのではないか、上役の覚えが悪くなって出世が遅れるのではないか、いっそのことみんなに風邪を移して足を引っ張ってやれ……結果としてはそう考えたと言われても仕方のない行動をとる。  これに引き替え、家でぬくぬくと寝ているサラリーマンはなんと志の高いことか。おのれ一人を犠牲にして、世のため人のため、みんなの幸福を願っているのだ。  そしてそのことをことさら誇らしげに語るわけでもない。むしろ申し訳なさそうな顔をしていることが多い。なんたる奥ゆかしさ、なんたる男らしさ。サラリーマンは風邪をひいたら、会社を休むべし、となる。  遅刻は美徳である  どこの会社でも遅刻をする社員は評判がよくない。しかし遅刻はそんなに恥ずべきことなのだろうか?  民間会社では二日遅刻をすると一日休暇を差し引くところがあるそうだが、遅刻とはせいぜい遅れても一時間くらいのものである。だから遅刻者は二時間たらずしか仕事を休んでいないのに八時間の労働時間をまるまる休んだと同じ扱いにされてしまう。  それを承知で彼は遅刻をするのだから、「私はみなさんの八分の二の休暇で結構です」と、みずから態度で表明しているのに等しい。やたら休暇をほしがる人が多い今日この頃、これはなんと見上げた態度であろうか。遅刻は美徳であり遅刻をする者は会社に対する真の貢献度が高いのである。  一枚の歯車  サラリーマンは嘆く。 「俺たちは巨大な組織の歯車だからなァ。毎日ギスギス、ギスギス、同じことばかり繰り返して、まったく情けないよ」  だが、ちょっと待て。歯車はたった一枚欠けても機械はたちまち動かなくなる。サラリーマンは一人くらい欠けたって、大勢にはまるで関係なし。一枚の歯車なら、これはものすごく有能なサラリーマンなのです。  蟻《あり》のように働く  動物学者の研究によれば、蟻はそれほど働き者ではない。たしかにいつもうろちょろうろちょろいそがしそうに動いているが、労働に従事しているのは、せいぜい活動時間の三十%弱。あとの七十%は隣のマンションをのぞいたり、女王のベッドルームをながめたり、適当に油を売っているのだ。ところが、実験的にうろちょろ遊びをしない蟻を作ってみると、これが、たちまち無能力者になって、巣に帰れなくなったり、外敵にあってもどうしていいかわからなくなったりする。サラリーマンもレジャーをたっぷりと取って、�蟻のように�働かなければ、いい仕事はできない……?  野獣のように犯す  こんなことを言われては、動物たちがはなはだ迷惑する、動物のセックスはすべて合意のうえでなされる。人間のように無理に押し倒して、ひんむいて……そういうことは、まず絶対と言っていいほどありえない。論より証拠。あの背後位というスタイルは雌が逃げようとすれば、いつでも逃げることができるのであって、雌がしっかりふん張っていてくれなければ、どうにも形にならないのだ。人間のスタイルのほうがよほど暴力的である。恋人とは�野獣のように�仲よく愛しあいたいものです。  ことわざ反対表  善は急げ←→急がばまわれ  初めが肝心←→終わりよければすべてよし  瓜のつるにはなすびはならぬ←→鳶《とび》が鷹を生む  虎穴に入らずんば虎児を得ず←→君子危うきに近寄らず  朱に交われば赤くなる←→掃きだめに鶴  武士は食わねど高楊子←→腹が減っては戦さができぬ  総領の甚六←→賢兄愚弟  大器晩成←→栴檀《せんだん》は双葉よりかんばし  嘘も方便←→嘘は泥棒の始まり  亀の甲より年の功←→麒麟《きりん》も老いては駑馬《どば》に劣る  すまじきものは宮仕え←→寄らば大樹の蔭  あとは野となれ山となれ←→立つ鳥はあとを濁さず  喉《のど》もと過ぎれば熱さを忘れる←→羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹く  待てば海路の日和《ひより》あり←→株を守って兎《うさぎ》を待つ  好きこそものの上手なれ←→下手の横好き [#改ページ] 3 詭弁だらけの世界史●奇人・変人・天才集   ギリシャ式詭弁術◆辻説法のタレントたち  プロの屁理屈屋|大繁昌《だいはんじよう》  古代ギリシャには、ソフィスト、すなわち詭弁家と呼ばれる一群の哲学者たちがいた。例えばプロタゴラス、ゴルギアス、ヒビアスなどである。  ソフィストという言葉の本来の意味は�知恵のある人�、あるいは�知恵を授ける人�であって、当初は必ずしも悪い意味で用いられたものではない。プロタゴラス(BC五〇〇頃〜BC四三〇頃)は、自分がソフィストであることを認めていたし、自分の仕事の目的は、個人として、あるいは国家の一員として、真にすぐれた人間を育てることにあると考えて、概ねその通り実践していた。  しかし時の経過とともに、ソフィストの意味が変わった。当時のギリシャは——特にソフィストと呼ばれる人たちが活躍したアテナイは、民主政治の勃興《ぼつこう》期に当たり、沈黙よりも雄弁がもてはやされた時代であった。  市民は国家の一員として平等な権利を持っていたから、人間のよしあしを判断する規準は、氏素姓ではなく、その人の持つ徳性や才能に求められた。しかもこの徳性や才能の判断には、ギリシャ人の競技を好む性質が反映され、大衆の前で弁論をし、雌雄を決するという方法がよく用いられた。つまり、よく弁じ、よく相手を打ち負かす者が、知恵の勇者と考えられたのである。  このため�知恵を授ける人�ソフィストの役割は少しずつ変化し、報酬を得て弁論に勝つ術を教える仕事に成り下がり、ついには嘘でも屁理屈でもかまわない、とにかく口先一つで相手を打ち負かす術に巧みな人を、ソフィストと称するようになった。クセノホン(BC四三〇頃〜BC三五四頃)によれば、「ソフィストというものは、欺くために語り、自己の利益のために書くだけで、だれのためにも役立つことのない者たちである。彼等の中には本当の知者は一人もいないのであって、ソフィストと呼ばれることは恥辱以外のなにものでもない」と思われるほどになった。  伝説の美女を弁護する  それではいったい、ソフィストたちの弁論はどんなものだったのか? ゴルギアス(BC四八三頃〜BC三七五頃)の『ヘレネ論』を見てみよう。  ヘレネはギリシャの伝説上の美女で、スパルタ王メネラオスの妻であったが、トロイの王子パリスに誘惑されてトロイに走り、これが原因でトロイ戦争が起きた、といういわく因縁のある美女である。国を売り、不貞を働いた女としてギリシャでは古来評判が悪かったが、ゴルギアスが新解釈を与えて弁明したのである。  ゴルギアスによれば、ヘレネがあのような行為に走ったのは、㈰運命や神々の意志であった、㈪暴力によって奪い去られた、㈫言葉によって説得された、㈬愛欲の虜《とりこ》となった、のいずれかである。  しかし、運命や神々の意志は人間に防ぎがたく、また暴力によって拉致《らち》されたのならば、暴力を用いた者を憎むべきであって、ヘレネはむしろ同情されてしかるべき存在である。  言葉による説得について言えば、私たちの主観的な思考はきわめて不安定なものであり、文学作品や科学者哲学者の論理によって、たやすく動かされることからも明らかなように、そう確かなものではない。だから説得も、強制の形こそ取らないが、実際には暴力による強制と同じ効果を持つものであって、これも説得した者に罪こそあれ、説得された者に罪はない。  最後に、愛欲の虜となった場合であるが、愛欲が人間の意志を盲目にすることは周知の事実である。このような魔力から弱い人間が身を守ることは不可能であって、愛欲にさいなまれた人の罪を責めるより、むしろ不幸な人としてあわれむべきである。  以上いずれの場合にもヘレネに責めはないのだから、ヘレネを非難するのは不当である。  ゴルギアスは、こんなヘレネ弁護論を必ずしも本気でやったわけではない。どうせヘレネは伝説上の人物だ。ただのジョークにしかすぎない。  ただ、こういうまことしやかな弁論術を展開することによって、弁論術の効果と自分が弁論術に巧みであることを宣伝したかったのであろう。ゴルギアスの弁論術は「これだけ知っていれば、ほかの知識がなくても、専門家と議論しても負けない」というものであり、とにかく「ああだ、こうだ」と屁理屈を述べて、相手を打ち負かす術なのである。  負けを知らない弁論術  当時の弁論術が具体的に、どのようにおこなわれていたか、それを示す一例をプラトンの『エウチュデモス』から拾ってみれば、  弁論家のエウチュデモス(BC五世紀頃)が少年に問いかけて、 「ものを学ぶのは賢い人か愚かな人か」 「賢い人です」 「しかし、ものを学ぶときには、その人は学ぶことを知っていて学ぶのか」 「いえ、知らないで学ぶのです」 「では、知らない人が賢い人と言えるだろうか」 「賢い人ではありません」 「賢い人でなければ、愚かな人ではないか」 「そうです」 「だから、ものを学ぶのは賢い人ではなくて、愚かな人なのだ。君の最初の答は間違っていた」  エウチュデモスの手にかかれば、少年がたとえ最初に「ものを学ぶ人は愚かな人です」と答えたとしても、やっぱり屁理屈をこねられて、最後は「君の最初の答は間違っていた」となることだろう。こんな問答ばかりをやっていたのでは、弁論家の評判も落ちて、ソフィストに悪い意味が加えられたのも無理はない。  哲学史的に見れば、ソフィストに分類される哲学者の数はそう多くはないが、ギリシャの哲学者たちはみんな弁論術に巧みで、エピソードを探してみると詭弁的な言辞が少なくない。  例えばソクラテス。ある男がソクラテスに、 「結婚したほうがいいか、しないほうがいいか」  と尋ねたところ、ソクラテスは、ある時は、 「どのみち後悔するさ」  と答えているし、またある時は、 「ぜひやりたまえ。よい結婚をすれば、これほど幸福なことはない。わるい結婚をすれば君もりっぱな哲学者になれる」  ケース・バイ・ケース、どのような答だって用意されていたわけである。ソクラテスの妻クザンテッペは大変な悪妻だったというから「わるい結婚をすれば、君もりっぱな哲学者になれる」というのは、半分までは、ソクラテスの本心だったのかもしれない。 「なぜあんな人を妻にしているのですか?」  と尋ねられてソクラテスは、 「馬を上手に扱おうとする者は、おとなしい馬よりも、むしろ荒れ馬を選んで自分の馬とするものだ。荒れ馬を御することができれば、ほかのどんな馬だってやすやすと扱うことができる。私も上手に人とつきあいたいと思うので、あの女を妻にしたわけだ。あの女で我慢できれば、ほかのどんな人間とも、やすやすつきあっていけると確信したからだよ」  と答えている。これもちょっぴり詭弁くさいけどネ。  ゴルギアスの弟子のアンティステネス(BC四五五頃〜BC三六〇頃)も、さすが先生の愛弟子だけあって、詭弁的言辞は巧みであった。町の無頼漢や悪党たちと平気で交際しているので、ある男が、 「どうして、あんな品行のわるい人たちとつきあうのだ。あなたの人格まで疑われますぞ」  と忠告をしたところ、アンティステネス先生は少しも騒がず、 「なーに。医者は病人に取り囲まれて暮らしていても、熱病にかかりゃしません」  この理屈は私たちの日常生活でも使えぬこともない。  また、べつな男がアンティステネスに、 「どんな女と結婚したらよいか?」  と尋ねれば、 「もし、美しい女なら、いずれ君の独占とはいかなくなるだろう。醜い女なら、浮気をするから相当に遊興費がかさむよ」  と答えている。当意即妙、さすが舌先三寸のプロフェッショナルであった。  ソクラテスの弟子アリスティッポス(BC四三五頃〜BC三五五頃)は、だれがなんと言おうと�わが道を行く�快楽主義の哲学者であったが、この人もなかなか屁理屈がうまい。多額の金銭を取って、人にものを教えるので、ある男が、 「ソクラテスの弟子なのに、教授料を取るのはけしからん」(ソクラテスは教授料を取らなかった)  と言えば、アリスティッポスは、 「なに、僕は自分で使うために金を取るのではない。なんのために人は金を使うべきか、それを教えているのだ」  学問のため、弁論のため、人格|陶冶《とうや》のために使えということか。  こうして集めた金銭で、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活をしていたのでは、非難の声も起きるだろう。だが、この哲学者は平気、平気。 「もし贅沢がわるいことならば、神々の祭礼にも贅沢がなされるはずがない」  この男、反骨精神もなかなか旺盛で、王に「今すぐ哲学を教えよ」と迫られたが、どうもその気になれない。そこでお得意の屁理屈を使って、 「なにを語るべきかを、私から学ぼうとする王さまが、いつ語るべきかを私に指示するとは、おかしいじゃありませんか」  また、あるお金持ちの大臣の家に招かれたときは、大臣の顔に唾を吐きかけ、 「あまり豪華なお屋敷で、ほかに唾を吐く適当な場所がなかったので……」  いやはや、とても口先の勝負ではこういう手合いに勝てるはずがない。  飛ぶ矢を止めたゼノンの逆説  古代ギリシャの詭弁について述べるならば、どうしてもゼノン(BC四九〇頃〜BC四三〇頃)のパラドックスについて触れておかなければなるまい。  ゼノンの名前は知らなくても「アキレスは亀に追いつくことはできない」とか、あるいは「飛んでいる矢は止まっている」とかいう、奇妙な話を聞いたことがきっとあるだろう。パラドックスとは、一見真理に反するように見えるが、それなりの根拠を持った論理のことである。  ゼノンのパラドックスは四つあるが、これはゼノン自身が文献に記して伝えたものではなく、アリストテレスが�ゼノンのパラドックス�として、自分の文献の中に引用しているものである。したがって、ゼノンが正確になんと言い、なんのためにそれを言ったのかは必ずしもはっきりしていない。しかも、アリストテレスの引用だけでは、よく理解できない部分もあって、相当に厄介なしろものである。  ここでは四つのパラドックスのうち、比較的理解しやすい第二と第三のパラドックスについてのみ述べよう。  第二のパラドックスは�アキレス�と呼ばれるもので、 「最も速い走者でも、最も遅い走者に追いつくことはできない。それは、追うほうは追われるほうの出発点に着かなければならず、従って遅いほうは、つねにいくらか先に進んでいるはずだからである」という内容である。この文章だけでは、すこぶる分かりにくいが、図を見ていただこう。スタート地点で亀はアキレスより何歩か前にいる。足の速いアキレスが亀の出発したところ、つまりA点に着く。亀はその間に少し進んでB点にいるだろう。アキレスがB点に着いたときには亀はまた少し進んでC点にいるだろう。アキレスがC点に着いたときには亀はD点にいるだろう。こういう無限の繰り返しがあっても、亀はつねに少し先に進んでいるはずであり、したがってアキレスは亀に追いつけない、とゼノンは言うのである。  第三のパラドックスは�飛ぶ矢�と呼ばれるもので、その内容は、 「何物も、それが自分自身と等しい場所を占めているときは、つねに静止している。ところが運動体はつねに今という瞬間において存在している。したがって飛ぶ矢は不動である」  ……さあ、わからない。このパラドックスについては、古来さまざまな説明がほどこされているが、一番わかりやすい解釈は、この文章から、「飛んでいる矢の運動をこまかく区切って考えれば、矢は静止したものとなり、静止の状態をいくら集めても運動にはならない。だから飛んでいる矢は止まっている」という意味を汲《く》み取ろうというものである。  ゼノンの意図とは食い違っているかもしれないが、今となっては仕方がない。一応そう考えておこう。  ギリシャの乞食哲学者として名高い噂のデオゲネスは、ゼノンの説を聞いて、自分で立ちあがって歩いてみせて、ゼノンを嘲笑《ちようしよう》したということだが、今あげた二つのパラドックスも、デオゲネスのような方法で反論するのなら楽なものである。アキレスは簡単に亀に追いつくはずだし、静止しているはずの矢がゼノンの心臓を射ち抜くことも可能であろう。ゼノンもそんなことがわからなかったわけではあるまい。  現代では、ゼノンのパラドックスは、だれかが運動について、何か定義をしたのに対して、ゼノンが「あなたのように運動というものを考えると、こういう難問が生ずるが、それをどう説明するか」と問いかけたものと考える人が多い。  これは、例えて言えば、だれかが「同じ両親から、同年同月同日に生まれた兄弟は双子である」と定義したのに対し、ゼノンが「では、三つの子のうちの一人は人間ではないのですね」と反論したようなものである。三つ子だって�同じ両親から同年同月同日に生まれた兄弟�にちがいないが、それがこの定義によって�双子�と呼ばれるならば、�三人のうち一人は人間でない�と考えなければ論理的におかしい。「三つ子のうちの一人は人間ではない」と信じていたわけではなく、相手の論理的欠陥を突いて、アンチ・テーゼを提出したのである。  だからゼノンのパラドックスを聞いて、これこそ非を理にこじつける詭弁の典型と思うのは、あまり正確ではない。むしろゼノンは弁証法的な考え方で、運動の定義や時間と空間の理論を求めていたのであり、このパラドックスを乗り越えることによって、一つのジン・テーゼを得ようと考えていたのである。  哲学者としてのデモンストレーション �弁証法�と聞くと、なにやら七面倒くさいようで、ちょっとジンマシンが出そうになるけれどナーニ、それほどしかつめらしいものではない。  今、例に挙げた双子と三つ子のケースで考えれば、まず最初に、 「同じ両親から、同年同月同日に生まれた兄弟は双子である」  という、元になる文章がある。これをテーゼと呼んでいる。ところが、このテーゼには少しおかしいところがあるから、へそ曲がりが現われ、 「三つ子も、同じ両親から生まれた兄弟である」  と言う。  テーゼの矛盾を明らかにした文章がアンチ・テーゼである。テーゼとアンチ・テーゼはまっこうから対立する。そこで、この対立を統合し、 「同じ両親から、同年同月同日に生まれた二人の兄弟は双子であり、三人の兄弟は三つ子である」  とすれば、テーゼとアンチ・テーゼの矛盾は解消する。この文章がジン・テーゼだ。  もう少し身近なところに例を求めれば、近ごろはやりの超能力。なぜ念力をこめてスプーンを投げると曲がるのか? 超能力にはいんちきが多いというから、どこまで信頼してよいのかわからないけれど、もしあの現象が額面通り事実ならば、現在の物理学(これがテーゼである)に対するアンチ・テーゼである。しかるべき物理学者が研究し、現在の物理学と超能力との間に、相互に矛盾のない理論が打ち立てられれば、それがジン・テーゼである。  話を元に戻して、ゼノンはこういう弁証法的な物の考え方の元祖と考えられている人であり、�飛ぶ矢�や�アキレス�のパラドックスも、ただの屁理屈やパズルではなく、そういう試行錯誤の一つの環として考えなければなるまい。  最後に、ギリシャ哲学と詭弁の関係について整理をすれば、この時代の哲学者は弁論術の教師であり、辻説法のタレントであったから、多かれ少なかれ詭弁的であった。弁論で相手をやりこめることは、哲学者の有力なデモンストレーションであり、それができないようでは哲学者としての資質を疑われた。  ソクラテスやアンティステネスの例のように、哲学者たちは日常生活でも、巧みに詭弁的言辞を弄して大衆をうならせたり、喜ばせたりしていたにちがいない。この、相手の論理の矛盾をあばいてやりこめるという方法の中から、一方では弁証法のような論理的思考法が生まれ、一方では、正邪もなく、ただ相手を打ち負かせばよいという屁理屈が生れた。  この屁理屈一派が、特に�ソフィスト�(詭弁家)と呼ばれ、後世ではこの悪い意味だけが強調して伝えられるようになった。大ざっぱに言えばそういうことであろう。   中国式詭弁術◆戦国時代の政治コンサルタント  口先一つで渡り歩く  昔、鄭《てい》の国で金持ちが溺《おぼ》れ死んだ。この金持ちの遺族が死体を拾った男のところへ来て、死体を買い取ろうという。ところが死体を拾った男は、相手の足元を見て法外の金額を吹っかけて寄こした。  困った金持ちは、|※[#「登+おおざと」]析《とうせき》(BC五五〇頃〜BC五〇一)先生のところへ相談に来た。そこで※[#「登+おおざと」]析は、 「心配なさるな。あなたが買わなければ、ほかに売るところがあるわけじゃない」  金持ちの態度が消極的になったので、死体を拾った男は心配になってきた。そこで、この男もまた※[#「登+おおざと」]析先生に相談すると、※[#「登+おおざと」]析は、 「心配なさるな。あなたが売らなければ、べつな死体を買って間に合わすわけにはいかない」  これは中国|秦《しん》時代の歴史書『呂氏春秋《りよししゆんじゆう》』にある説話だ。この取引きの結果がどうなったか、それはわからない。※[#「登+おおざと」]析先生は両方から謝金などを受け取って、最高に御機嫌だったのではあるまいか。現代に生まれていれば、きっと名のある経営コンサルタントになっていたにちがいない。  ジョークはさておき、※[#「登+おおざと」]析は名家の先駆者と見なされている人である。名家というのは、中国の春秋戦国時代の諸子百家の一派である。この時代は儒家、道家、墨家、法家エトセトラ、さまざまな思想家が学派を作って活躍していたが、名家もその中の一学派で、どちらかと言えば屁理屈専門、中国におけるソフィスト集団であった。  古代ギリシャでは民主制度を基盤として雄弁術が盛んになり、相手を打ち負かすためにソフィズムが起こり、その道のスペシャリストとして、例えばゴルギアス、ヒビアスなどのソフィストが一派をなしたのだが、中国の戦国時代は諸国に群雄が割拠し、諸侯たちは国を治め、民を導く政治理念を得ようとして、有能な政治コンサルタントを求めていた。  この要望に答えて登場したのが、諸子百家であり、彼等はもちろん、教示するに足るだけの政治理念を持っている必要はあっただろうが、なにはともあれ、政治コンサルタントとは口先が頼りの商売である。諸侯を納得させ、ライバルを打ち負かすだけの雄弁術を心得ていなければならなかった。雄弁術と詭弁術は双子の兄弟だから、一方が用いられれば、必ずもう一方も影のように寄ってついて来る。  この時代の中国で詭弁が広く用いられ、詭弁のスペシャリストとしての名家が現われたのも当然である。  公孫竜の珍説  名家の代表的な学者と言えば、まず公孫竜《こうそんりゆう》である。  この人の言うことは、後世の学者がいろいろ頭をひねっているけれど、本当のところはあまりよくわかってはいない。例えば、公孫竜は「白馬は馬にあらず」と言う。なぜか? 「馬は形に命ずる所以《ゆえん》なり。白は色に命ずる所以なり。色に命ずる者は、形に命ずるにあらざるなり。ゆえにいわく、白馬は馬にあらず」  さあ、わからない。  文面だけから解釈すれば、�馬�というのは形を言ったものであり�白�は色を言ったのである。形と色とは違うものだから�白馬は馬にあらず�ということになる。だがこの解釈では�白(という色)は、馬ではない�という説明にはなるだろうが、�白馬は馬ではない�という結論は出てこない。  べつな解釈では、公孫竜が言いたかったことは�白馬イコール馬ではない�ということであって、馬の中には黒い馬もいれば茶色の馬もいる。白馬は馬の一部分であり、したがって�白馬イコール馬ではない�。�白馬イコール馬�が成り立つならば、その逆の命題、つまり�馬は白馬である�という命題も成り立つだろうか。  公孫竜は�白馬は馬ではない�という詭弁めいた発言をすることにより�甲は乙である�と一口で言っても、�甲イコール乙�の場合と�甲は乙の部分である�場合と、二つあることを指摘したかったのではないか、という解釈もある。  公孫竜には、このほか�鶏の足は三つなり�という珍説もあって、これは�鶏の足�という総合概念で一つ、左右の足を数えて二つ、合計三つになる、という、なんだか落語のような学説なのだが、彼は彼なりに論理学の基礎を一生懸命考えていたふしもあるのだから、笑っちゃあいけない。もっとも、 「鶏の足が三つだというのはわかったが、だからどうなのだ?」  と聞かれれば、公孫竜の学説も袋小路に入ってしまいそうな気もする。こういう珍説はギリシャのゴルギアスが�ヘレネ論�を展開したのと同様、一種の見本の品であって、 「私はこんなに上手に論理をあやつって、相手をへこますことができますよ」  というデモンストレーションの要素もあったのだろう。  常識の盲点をつく論法  あるいはまた別な観点から言えば、詭弁は反体制の理論として、有力な武器となることがある。体制側にある者は、現在広く通用している物の考え方に対して、懐疑的になる必要はほとんどない。いろいろ無駄なことを考えていると、頭が痛くなるばかりか出世のさまたげとなる。  ところが体制からはみ出した連中は、この既存の考え方をぶち壊さなければ、自分たちの立つ瀬がない。どうしても古い考え方を倒さなければならない。ぶち壊したあとに何を新しく建てるか、善後策までちゃんと計算してあれば理想的だが、とてもそこまでは手が廻らないことが多い。  そこでとにかくぶち壊すことに専念する。ひところの全学連みたいなもので�ぶち壊すことに意義がある�のだ。  わけのわからない詭弁を盛んに乱発して、既存の考え方にゆさぶりをかけ、ぶち壊し、そのあとでゆっくり自分たちの建設的プランを持ち出そうという魂胆である。名家の詭弁は、当時すでに広く勢力を張っていた儒家の思想に対して、 「あなたはそうおっしゃいますがねえ……」  と開きなおって、ゆさぶりをかける意図もあったはずである。  もっとも現実の場面では、公孫竜も�白馬は馬にあらず�なんて高踏的な言辞ばかり弄《ろう》していたわけではなく、もっと素人受けのする詭弁を使ってコンサルタント的役割を果たしていたらしい。  例えば、これも『呂氏春秋』の中にあるエピソードだが——  秦《しん》の国と趙《ちよう》の国とが条約を結んだ。その条約の内容は�今後、秦がやろうとすることは趙が援助をする。趙がやろうとすることは秦が援助する�ということであった。条約を結んで間もなく秦が兵を起こして魏《ぎ》の国を攻めた。ところが趙は魏を救おうとしている。秦の国王は断然おもしろくない。早速使者を趙の国王のところへ送って、 「おかしいじゃないか。条約では�秦がやろうとすることは趙が援助する。趙がやろうとすることは秦が援助する�となっているはずだ。今、秦が魏を攻めようとしているのに、どうして趙は魏を救おうとするんだ。条約違反だぞ」  こうねじ込まれて困惑した趙王が、人を介して公孫竜に相談を持ちかけた。公孫竜はお得意の詭弁で、 「こちらからも使者を出して、秦の国王にねじ込みなさい。�趙が魏を救おうとしているのになんで秦は救おうとしないのですか。条約違反だぞ�と——」  これは私たちの日常生活でも利用できそうな詭弁である。  �無用の有用�を説いた荘子  古代ギリシャの場合もそうであるが、名家たちの弁舌は、時代の例外的な産物ではない。詭弁のスペシャリストが一派をなす時代は、ほかの思想家たちも、多かれ少なかれ詭弁的である。  古代中国の場合について言えば、道家の四番バッター的存在、荘子(BC三〇〇年頃)は、名家顔負けの詭弁を弄して、相手を煙にまくのが巧みであった。  例えば、ある日、ある時、恵施《けいし》(荘子の友人。名家の一人)が荘子に言った。 「君の言うことはさっぱり役に立たない」  すると荘子は、 「この大地は広くて大きいが、人間が役に立てられるのは、せいぜい足を置く部分だけだ。だからと言って、足を置く部分だけ残して、あとを全部削り取って地の底まで穴を掘ったら、人間は大地に立つことができるだろうか」 「それは無理だ」 「そうだろう。つまり、役に立たないものが役に立つのだ」  無用の物が、実は役に立つというのは、荘子の思想の根幹をなすものだが、その論証はすべてこの例え話のレベルであり、論理としては相当にいんちきくさい。長屋のご隠居さんが八つぁん、熊さんを恐れ入らせる程度の理屈であって、現代人が読めば論理としては目茶苦茶なことがすぐにわかる。  例えば、なんの役にも立たない大木があれば、荘子は「役に立たないから、斧《おの》やまさかりで伐られて若死することがなかった。役に立たないことがいいことなのだ」と主張するし、また、 「猿に、木の実を朝三つ暮れに四つ与えると言うと猿は怒るが、朝四つ暮れに三つ、と言うと喜ぶ。見かけは違っても本質は同じだ、ということを凡人は見抜けない。世の中のものはすべて一つなのだ」  と飛躍した論理を展開する。猿がそんなことを言うものか。自分の主張に都合のいい例え話なんか、いくらでもあるのだから、これを使えば理屈はどうにでもつけられる。荘子の思想の価値評価はともかくとして、例え話は詭弁の身うちと考えてまず間違いない。  同じようなことは荘子の同時代の儒家・孟子についても言うことができる。この人の詭弁性は先に�五十歩百歩�のエピソードで紹介したが、似たような話は山ほどある。  例えば、孟子と反対の立場にある告子が、 「人間の本性は渦巻く水のようなものだ。渦巻く水は東に口をあければ東に流れ、西に口をあければ西に流れる。人間の本性は善とも悪とも言えない」  と言えば、孟子は反論して、 「水には確かに東西はないが、上下の別はある。必ず上から下に流れるのであって、人間の性が善であることは、ちょうど水が上から下に流れるようなものだ。手で打って水を上にあげることもできるし、水をせき止めて逆流させることもできる。しかし、水の本性は変わらないし、人間の本性も変わらない」  と、お得意の性善説を例え話で力説する。例え話はどんなにもっともらしく語られていても、中身が空疎なことは今も述べたが、この孟子の主張は、例え話としても相当にお粗末だ。水が上から下へ流れるのは、心理的に言ってもむしろ性悪説の感じではないのか。  いかに孟子が聖人君子であっても、こういうお粗末な例え話や、不確実な昔話ばかり語られていたのでは、頭に来る人が出てもおかしくはあるまい。  �孟母三遷�の変な教訓  その一人が韓非子(BC二三三没)で、韓非子は戦国の諸子百家のうちでは時代的には一番新しく、しかもその思想は机上の空論ではなく、秦の統一国家建設の理念として実践的に利用されている。現代人の眼から見れば、一番近代的であり、論旨も通っている。彼は孟子たちを批判して、 「|毛※[#「女+嗇」]《もうしよう》や西施《せいし》など、昔の美女の美しさをいくらほめたからといって、自分がきれいになるわけではない。口紅、髪油、白粉、眉墨《びぼく》を使って化粧をすれば、前よりずっと美しくなる。同じように昔の王さまの仁義をどう説いてみたところで、政治がよくなるわけではない。法律を整え、賞罰を確実におこなうことが国家の化粧である。だから名君は法律や賞罰に心を配るべきであり、昔の王をやたらに賞讚したり、仁義のことをあれこれ言ったりする必要はない」  と、これも例え話を使っているが、説得力はある。  韓非子の中にも詭弁はたくさんあるけれど、韓非子を読んでいると、儒家や墨家の詭弁性が小気味よく指摘されていて愉快である。  話が少し堅くなったので、ちょっと余談を入れれば、�孟母三遷の教え�をご存知であろう。  孟子が子どもの頃、家が墓地の近くにあった。孟子の孟ちゃんはひまさえあれば、墓掘人のまねばかりしているので孟ママは、 「こんなことでは、将来ろくな人間になれないよ」  と思って引っ越しをしたところ、今度は家が市場の近くだから、孟ちゃんはお店やさんごっこばかりしている。実業家はなぜか、孟ママの趣味にあわなかったらしく、また引っ越し。江戸川柳では�おっかさんまた引っ越しかと孟子言い�と野次っているが、無理もない。結局三回目は学校の近くに引っ越し、今度は孟ちゃんも学校ごっこをするようになり、孟ママも安心した、という話である。  教育ママの元祖として、この話は名高いのだが、つらつら考えてみると、この話には決定的に馬鹿げたところがある。その意味において、まさしく�教育ママ�の元祖と呼ぶにふさわしい。  生活環境がわるいと、子どもの教育に悪影響を及ぼすというのは、一応確かなことだから、そこは孟ママの行動をよしとするとしても、こう何度も引っ越す必要があったのか? 二度目の引っ越しは無駄ではなかったのか。墓地の近くが教育上わるいと思ったら、慎重に考えて引っ越しすればいいものを、ただ漫然と引っ越して、また「環境がわるいわ」で、引っ越しのやりなおし。三度目で偶然学校の近所をめぐり当てたからいいようなものの、もしも病院の近くだったら、「孟ちゃんときたら、お医者さんごっこなんかして……」となってまたまた引っ越し。いくらやってもきりがない。  失敗の原因を熟慮反省する気配がなく、ただ現状に不満だからといって、ヒステリックに行動に移る。これは現代の教育ママにもよく見られる傾向である。子どもの成績が少しさがると、担任を替えてほしい、転校させようかしら、塾へ入れなくては、と心配のあまり熟慮反省することを忘れてやみくもに行動を起こすところがある。�孟母三遷の教え�は、むしろこういう傾向に反省を与えるという意味で、すばらしい教訓のようだ。  中国の諸子百家について触れた以上、孔子についても述べなくてはならないのだろうが、論理という点から言えば、孔子の言葉には詭弁としてほとんど見るべきものがない。先に引用した韓非子の批判は孔子にも当てはまるし、また孔子は、むしろ個人のモラルを実践的に身につけることを説いたのであって、体系化された論理はほとんどなにもないのである。りっぱなご隠居さんの、りっぱなお話を聞かせられているようで、詭弁としても秀逸なものはあまり見当たらないように思う。   世界的大発見のいんちき◆コロンブスとマゼランの詭弁性  白人だけが人類じゃない  世界史に燦然《さんぜん》たる地理上の発見と言えば、かたや世界一周のマゼラン、こなたアメリカ発見のコロンブス、この二人が断然知名度が高い。だが、この二人の業績には、二つながらちょっと値引きをしたくなるようないんちきがある。  まずマゼラン(一四八〇頃〜一五二一)の場合。彼はポルトガル人であったが、スペイン王カルロス一世の援助を受けて、一五一九年に五隻の船に二七〇名の乗組員を乗せてサン・ルカル港を出帆した。マゼラン海峡を発見し、たまたま穏やかであった海を太平洋と命名し、フィリッピン群島までたどりついたのが一五二一年のこと。ここでマゼランは原住民と戦って戦死し、それ以後は部下のカノが指揮を執って航海を続け、一五二二年に、たった一隻の船にわずか一八名の乗組員を乗せてサン・ルカル港に戻って来た。  となれば、史上初めて世界一周を果たしたのはカノとその他の船員たちであって、マゼランではない。  もっとも、これには反論もあって、「いやそう考えるのは歴史を知らない素人の浅はかさ。マゼランは若い頃インド経由でモルッカ諸島にまで来ているので、やっぱり彼が史上初めて世界を一周したのだ」と言う。  おわかりだろうか。マゼランはまだ青年の頃、アフリカをまわってインドへ行き、そこからフィリッピン群島の南にあるモルッカ諸島へ渡ったことがあった。それから一たん帰国して数年後、今度は船団を率いて大西洋を南西に下り、太平洋を横断してフィリッピンに到着。かくてマゼランは、若い頃とあわせて地球上のすべての経度を通過したこととなり、一生がかりで世界一周を果たしたのだという説である。  ちょっと変てこな世界一周だが、理屈は一応通っている。ただもしこの説を採用するならば、マゼランの世界一周は一五一九年に始まったことにはならないし、また世界一周が完成したのは、カノがサン・ルカル港に到着した一五二二年でもない。世界一周の旅は、マゼランが揺り籃《かご》から出て初めて東へ向って一歩はいはいをした時から始まり、完成したのはマゼランがフィリッピン群島をはるか洋上に望み見た頃、つまり一五二一年であった、と訂正されるべきであろう。マゼランの壮挙を認めるにやぶさかではないが、ちょっぴりけちをつけて�十円安�だ。  次にコロンブス(一四四六頃〜一五〇六)の場合だが、残念ながら彼はアメリカ大陸の最初の発見者ではなかった。十世紀の頃、北欧のヴァイキングが、グリーンランドを経て北アメリカに到達したことは、文献的にも明らかである。そればかりではない。そもそもアメリカ大陸の�発見�とはなにごとか。土着のアメリカ・インディアンに言わせれば、 「あの人たち、なにサ発見しただね?」 「この国サ発見しただと」 「馬鹿こくでねえ。なにが発見だべ。ここはオラがのじいさんの、そのまたじいさんの時から、ずーッとここサあっただ」  その通り。コロンブスの�アメリカ発見�という表現自体が一つの詭弁である。徹頭徹尾白人中心の物の見方であり、この表現を使うたびにいつの間にやら魔術にかけられ、白人の世界支配を当然のことと思ってしまう。まことに危険な�発見�であった。   パスカルのギャンブル的哲学◆信仰を決めた幸福方程式  薔薇色の日々への賭《か》け 「ねえ、あなた、あたしと賭けをしてみない?」  ある日ある時、クラブの美しいホステスにこう誘われたと思召《おぼしめ》せ。 「賭け?」 「そうよ。サイコロを投げて一の目が出たら……ウフフ、あなたの好きなときに、いつでもあたしのアパートへ遊びに来ていいわ」 「本当かい」 「ええ。でも一以外の目が出たら、千円出すのよ」 「サイコロにいんちきがあるんじゃないのか」 「失礼ね。普通のサイコロよ」  あなたは心の中で計算をする。思わずにんまりと頬《ほお》がゆるむ。一の目が出る確率は、一以外のどれかが出る確率に比べれば、ずっと小さい。だから公平な賭けではない。しかし、どう転んでも損をするのは千円だけではないか。もしうまいぐあいに一の目が出れば……一人寝のわびしさとは今日でお別れ、今晩からずーっと薔薇色の日々が続くのだ。こんなうれしい賭けがあるものか。「よし、やろう!」と身を乗り出すにちがいない。これ、なんの話かと言えば、フランスの哲学者パスカル(一六二三〜一六六二)は、こんなふうに考えて神を信じることに決めたという。  わからない? うん。凡人にはこの理屈がそう簡単にはわからない。なにしろパスカルという人は一方で「人間は考える葦《あし》だ」なんて、哲学的名せりふを残しているかと思えば、物理学の分野でも、これまた有名な�液体の圧力に関するパスカルの法則�をちゃんと発見している。子どもの頃には、頭痛がすると数学の勉強をして治した、というくらいだから、頭のできがそのへんのカボチャとはまるで違うのである。  神がいなくてもともとだ  科学者のパスカルは�神さま�なんてものが果たして本当に存在するかどうか、そのことを真剣に考えてみた。当然いくら首をひねってもわかりっこない。そこでパスカルは、この問題を一つのギャンブルに置き換えてみた。 「神がいるか、いないか、どちらの可能性が大きいか、それはわからない。もし、かりに神がいる可能性を1とすれば、神のいない可能性は、いったいどれほどだろう? もちろん、これもわからない。しかし、いずれにせよ、それは有限な数で表わすことができる。それをかりにnとしよう。つまり、神がいるかいないか、その可能性は�1:n�である。  ところで、神がもし存在するならば、これほどしあわせなことはない。限りない幸福が俺たちに約束されている。この幸福は無限大(∞)である。もし神が存在しなければ、せいぜい地上の幸福を味わうだけだ。俺たちがそこで見出す幸福は、有限な幸福にしかすぎない。この有限な幸福の量をaで表わそう。つまり神がいるか、いないか、それによって、俺たちが受ける幸福の量の比率は�∞:a�で表わされる。  そこで、神がいる、いないの確率と、そこから得られる幸福の量とを総合的に考えれば神がいる確率は1で、幸福の量は無限大、つまり�1×∞�である。神がいない場合は、�n×a�である。前者は無限であり、後者は有限である。となれば、だれだって前者を、つまり�神が存在する�ほうを選ぶはずではないか」 �毎晩でもホステスのアパートへ行ける�という�無限の�幸福と、千円札で得られる�有限の幸福�と、あなたはどちらを選ぶかと聞かれて、答がすぐに出たのと同様に、この問題はパスカルにはすんなりと解けたのである。  パスカルの考えたことを、もっと日本的な、極楽と地獄の思想に翻案して考えるならば——死後の世界があるか、どうか、それはどの道わからない。ただ極楽があって、そこへ赴《おもむ》くことができるならば、これほど幸福なことはない。地獄があって、そこへ突き落とされたら、これほどの災難はない。死後の世界を信じて信仰し、それで死んだときに死後の世界がなくたって、べつにどうということもない。一生が終わって土の中に埋められて、ただそれだけのこと。また死後の世界がないと信じていて、事実その通り死後の世界がなかったとしても、ピタリ賞が出るわけではなく、なんの利益もない。この場合もやっぱり一生が終わって土に埋められ、はい、それまでよ、である。  ところが「極楽? 地獄? そんなものあるものか」なんて言っちゃって不信心、悪徳の限りをつくして死んだとたん、どっこい極楽や地獄がそこにあったらどうなるか。たちまち血の池、針の山、難行苦行が未来|永劫《えいごう》に続くことになる。  こうとわかれば、仏を信じ、神を信じ、天国を信じたほうが、得でーす、と相成る。  どこかだまされたような気がする? それもそのはず、この日本的翻案には相当の詭弁が含まれている。では、パスカルの場合はどうなのか、それを考えてほしい。  私としては、もっとほかに気掛りのことがある。キリスト教の神を信じて天国へ行ってみたら、そこへアラーの神がいたりして、これは真実ショックなんだなァ。   イギリス人の悪口作戦◆世界支配の言語的陰謀  なぜダッチワイフなのか?  英語の辞書で "Dutch"(オランダの)という項目を引いてみよう。この言葉を冠した慣用句にはろくなものがない。どことなくいんちきくさいものばかりだ。例えば、  Dutch comfort は直訳すれば�オランダ人の慰め�だが、これは口先ばかりで、さっぱりありがたくない慰めのことである。  Dutch courage は、�オランダ人の勇気�だが、これは酒の上の空《から》元気である。  Dutch party は、会費制の、みみっちいパーティのことだし、  Dutch treat は、�オランダ式勘定�で、いわゆる割り勘のことである。  Dutch wife は南極越冬隊が持参したと伝えられるビニール製人工妻、いわゆるダッチワイフである。  これだけいんちきくさいものを並べられると、だれだって「オランダ人は、よほどいかがわしい民族にちがいない」と思ってしまう。けちで、口先ばかりで、女にもてないものだからダッチワイフなどを発明したにちがいない、と思うのも無理からぬことだろう。だが、現実には世界のどの民族とも変わりなく、長所もあれば短所もある、ごく標準的な民族と見て間違いない。  ああ、それなのに、なぜこんなに悪口を言われるのかと言えば、これはイギリス人の言語的陰謀である。  十六世紀から十七世紀にかけてイギリスとオランダは、どちらが先に世界の海を支配するか、どちらが広く植民地を支配するか、たがいに競いあっていた。イギリスのほうから見れば、オランダは目の上のたんこぶ、憎いあん畜生である。  そこで、根拠があろうとなかろうと、いかがわしいものには、せっせと�オランダの�という形容詞をつけ、オランダ人の印象を低下させようと企んだにちがいない。  これも詭弁の一種である。その痕跡がそのまま今日の英語の中に残っている。  丁々発止! フランスの逆襲  この悪口作戦は、よほどイギリス人のお気に召すものらしく、オランダが衰え、フランスが擡頭《たいとう》してくると、またしても同じ手口を用いて、  French leave は�フランス式の別れ�だが、これは挨拶《あいさつ》をしないで、さっさと帰ってしまうことだし、  French letter は�フランスの手紙�だが、これはコンドームの、ごく一般的な呼び名である。  French picture はエロ写真のことで、あれは確かにフランスでもよく売っていたが、必ずしもフランスの特産物ではあるまい。  こう悪口を言われてフランスが黙っているはずもなく、同じ作戦でイギリスに逆襲(いや、フランスが先に悪口を言ったという説もあるのだが)をした。フランス語では、  S'en aller a l'anglaise は直訳すれば�イギリス式に立ち去る�ことだが、これは挨拶しないで、さっさと立ち去ることであり、  cape anglaise は�イギリスの頭巾《ずきん》�で、これがコンドームのことである。  d'arquement des anglais は�イギリス人の上陸�で、これはメンゼスの来潮のこと。イギリス兵の上陸用ユニフォームが真紅であったことから、この名が生まれたというが、ここにも、民族の悪口作戦を読み取ることができる。  私は英語とフランス語の知識しかないので他の国のことは言えないが、察するに言葉のトリックで、ライバルのイメージ・ダウンを図る心理は、世界中どこへ行っても見られることにちがいない。日本語の中にも�鬼畜米英��南京虫��台湾|禿《はげ》�など少数ながら用例がある。  ところで�エコノミック・アニマル�という言葉には�日本�を意味する要素は少しも含まれていないけれど、これが�日本人�の代名詞として用いられることは世界の常識だ。となれば、こういう呼び名できめつけることによって、日本人の経済進出を牽制《けんせい》しようという意図が白色人種の中にあるのではないのか。  歴史を眺めれば、近世ヨーロッパ諸国が残したアジアの植民地化、経済進出などは、エコノミック・アニマルどころか、まさに、エコノミック・モンスター(怪物)である。それをすっかり棚にあげて、口をぬぐい、日本人を�エコノミック・アニマル�と極めつけるのは——日本人のほうにも責任はあるけれど——白色人種お得意の悪口作戦かもしれない。ご用心、ご用心。  日本人も例えば、未婚の母は�アメリカのお母さん�、漁船を拿捕《だほ》するのは�ロシア式漁業�などと、おおいに応戦をしたほうがいいのかもしれない。   最後のことばに嘘はない?◆死者をだしに使った方法  謎めいたことばの重味  ドイツの文豪ゲーテ(一七四九〜一八三二)は死のベッドで、 「もっと光を!」  とつぶやいたという。これが文豪の臨終の言葉であったという。さすが人間愛を標榜《ひようぼう》した大文豪にふさわしい言葉だ、と言いたいがこれはぜんぜん見当ちがい。この言葉の前には、 「よろい戸をあけてくれ」  と言っているのだから、これはただ死を前にして視力が弱まり、 「もう少し明るくしてくれ」  と言ったにすぎない。ゲーテは残念ながら「よろい戸をあけてくれ」と余計なことを言ってしまったために本音がばれてしまったが、ただ一言「もっと光を!」と言ったのであれば、この言葉に随喜の涙を流すゲーテ・ファンが、さらに大勢現われたことだろう。死者の言葉はとかく後世の人に都合がいいようにゆがめられて伝えられるものだ。  日本人ならば自由民権運動の中心的人物、板垣退助が暗殺者の一撃を受け「板垣死すとも自由は死せず」なんて、最高にかっこいい言葉を残しているが、これは完全な作り話。周囲の者が、自由民権運動のキャッチフレーズとして捏造《ねつぞう》したまでのことである。  もう一人、昭和五年東京駅で軍縮政策に反対する右翼の凶漢に襲われた浜口雄幸首相は苦しい息の下で、 「男子の本懐だ」  とつぶやいたことになっているが、これもまた嘘っぱち。事件の直後、新聞記者が秘書官を囲み、 「総理はその時、なんとか言わなかったのか」 「いや、べつに……」 「例えば、男子の本懐とか……」 「まあ、そんな気持ちだったろうな」  これが翌日の新聞記事で、首相は「男子の本懐と叫んで倒れた」となったのである。  フランス革命の露と消えた王妃マリ・アントワネットは、ギロチン台のところで首切り人の足を踏みつけ、 「ごめんなさい。わざとやったんじゃなくってよ」  と言ったということだが、ドイツの伝記作家ツバイクに言わせれば、これはマリ・アントワネットの、フランス国民に対する謝罪の言葉と取れないこともない、と言っている。さすが伝記作家だけあって、理屈をつけるのがなかなかうまい。  マリ・アントワネットはオーストリアの女帝マリア・テレジアの娘である。パリ市民には評判がわるく、その奢侈《しやし》横暴ぶりを非難された。しかし革命に理解がないのは王妃として当然だし、パリ市民を裏切り、反革命に走ったのも彼女の立場としては無理からぬところもある。そう考えると、「ごめんなさい。わざとやったんじゃなくってよ」は、いかにもマリ・アントワネットの最後の言葉にふさわしい。  何が言いたいのか? つまり死者の言葉は生き残った者が適当に解釈し、それぞれを都合のいいように処理することが可能だということだ。これもまた他人をだしに使った詭弁術である。   エスペラント語の不完全さ◆�世界�の美名に誤魔化されるな  ほら吹きアリの痛烈な皮肉  エスペラント語の創始者はポーランドの眼科医ザメンホフである。これから述べることはザメンホフにはほとんど責任がない。私もこの禿《はげ》頭のおじさんに、なんの恨みもないし、いささかの他意もない。むしろ私自身は近年毛髪のおとろえがはなはだしく、それゆえにこの偉人の肖像を見ては「やっぱり禿頭には悪い人がいないんだな」と、ひとかたならぬ好感を彼に抱いているくらいである。だが、それとこれとは別問題。エスペラント語には歴然たる詭弁性が潜んでいるのだ。  ユダヤ系ポーランド人のザメンホフは、幼い時から異民族間の反目をまのあたりに見て育ったという。ザメンホフは「異民族が反感を抱きあうのは、言葉が違うので、おたがいに理解することができないからだ」と考えて、だれにも簡単に理解できる世界語を創りあげた。これがエスペラント語であることは、だれでも知っている。  言葉が通じあえば、民族間の反目がなくなるとは限らないが、相互の理解がなければ友好もへちまもありゃしない。ザメンホフの狙いは正鵠《せいこう》を射たものであった。  しかし、である。エスペラント語は本当に�だれにでも簡単に理解できる�言葉だろうか。エスペラント語はラテン語・フランス語・ドイツ語・英語などを基礎にして作られた言葉だが、そんな知識がなくたって一目|瞭然《りようぜん》、明らかにヨーロッパ語族一辺倒の人造語であって、すみからすみまで白人社会を中心にして作られた世界語である。  だからエスペラント語を苦もなく受け入れられるのは白人か、白人の言葉によく通じた人だけのこと。ヨーロッパ語にまったく縁のない人が学ぶとすれば、相当な負担を覚悟しなければならない。世界にはこういう人たちが山ほどいるのだから、もし本当に公平な世界語が作られるならば、アジアやアフリカの非ヨーロッパ語族の言葉だって、分相応に取り入れられてしかるべきではないか。  そんなごちゃ混ぜの世界語が誕生したとしても、それがエスペラント語のように普及するかどうか、もちろんその答は絶望的である。世界語が�白人的�でなければ通用しないのは、どうしようもない現実だからだ。  だが、黒人ボクサーのモハメッド・アリが言ったではないか。 「なぜ天使はいつも白い肌で、悪魔はいつも黒いのか。なぜ大統領の公邸はホワイト・ハウスなのか。なぜ黒い猫だけが不吉なのか」  こう問いかけて、アリは習慣の中に浸み込んだ�白人崇拝、黒人|蔑視《べつし》�の傾向を糾弾《きゆうだん》したではないか。この姿勢は正しいはずだ。  エスペラント語が有害な言語だと言うのではない。普及をやめたほうがいい、などと主張するつもりはさらさらない。  ここで言いたいのは�世界�という言葉が用いられるとき、その具体的内容が�白人社会�を意味することが、現実にしばしばあることだ。この詭弁性を肌の黄色い日本人がうかうかと見過ごしてはいけない。エスペラント語はすばらしい�世界語�だが、そこに白人社会をのみ�世界�と考える詭弁性が——たぶんザメンホフの志には反するのだろうが、現実問題として潜んでいることを、俺たち日本人は忘れてはならないはずである。   平賀源内の�屁�理屈◆洒落と皮肉の詭弁時評  おならの曲芸を見習うべし  日本人は意図的な詭弁が巧みな民族ではない。その中にあって平賀源内(一七二八〜一七七九)の『放屁論《ほうひろん》』は詭弁的時評の大傑作。すりかえの論理が巧みで、しかもその辛辣《しんらつ》な論調には十分な説得力が満ち満ちている。  平賀源内に『放屁論』を書かせた直接の動機は、安永年間に両国橋付近で、おならの曲芸を演ずる芸人が現われて大評判となった。その男の芸名は曲屁福平といい、舞台の上でおならをあやつり、犬の遠吠《とおぼ》え、水車の音、三味線の音色に鶏の鳴き声まで真似てしまうのである。好奇心旺盛の源内先生がわざわざ見物に出かけ、 「このような珍芸は、唐土《もろこし》朝鮮をはじめ天竺阿蘭陀《てんじくオランダ》、世界の諸国にもあるまい」  と感心したところ、これを聞いた田舎武士が青筋立てて怒り出し、 「これはにがにがしいことをおっしゃる。芝居見世物のたぐいといえども、忠義貞節の道を教えるものでなければなるまい。おならなどというものは、そもそも人の前で鳴らすものではない。もし人前で粗相をすれば、武士ならば切腹。遊女でさえも自害をしたという。それを人前で鳴らして金を儲《もう》けるとは不届き千万。それを見て感心する源内は大馬鹿者だ」  とののしった。  これに答えたのが、この『放屁論』の眼目で、 「あなたのおっしゃることは一応もっともだ。おならというものは、音があるとはいえ太鼓や鼓のように聞くこともできないし、匂いはあっても伽羅麝香《きやらじやこう》のように用いることはできない。さりとて糞尿のように肥料に役立てることもできない。だが、これほど徹頭徹尾役に立たないものを、この芸人がいろいろ研究して、まわりの小屋が及びもつかないほどの大盛況とした。これに引きかえ、近ごろの学者は古い重箱の隅ばかりほじくり返し、文章家も歌人も、古人の物真似ばかり。医者は無駄な議論ばかりして、はやり風邪一つ治すことができない。俳人は芭蕉のよだれをなめ、茶人は利休の糞をなめるよりほかに能がない。みんな古人の物真似ばかりして、その水準を抜くことができないのは、脳味噌を使わないからだ。ところがこの芸人は、今までだれも用いないオナラで曲屁の芸を発案したのであって、この心をあなどってはいけない」  これより先を、原文の調子のまま引用すれば、 「我もまたおもえらく。もし賢き人ありてこの屁のごとく工夫をこらし、天下の人を救いたまわば、その功大いならん。心を用いて修行すれば屁さえもかくのごとし。ああ済世に志す人、あるいは諸芸を学ぶ人、一心に務めれば天下に鳴らんこと、屁よりもまたはなばなし。我はかの屁の音を借りて自暴自棄未熟不出精の人々のねむりをさまさんためなりと、言うもまた理屈くさし。子《し》が論屁のごとしと言わば言え。我もまた屁とも思わず」  言うまでもなく平賀源内は、日本歴史上まれに見る独創的な学者であり、アイデアマンであったが、進歩と独創をいみきらう封建時代の風潮が、源内の才能を十分に評価することができなかった。こういった時勢に対する批判と憤りを、文字通り、取るに足りない放屁に托《たく》して洒落《しやれ》のめしたのが、このユニークな『放屁論』である。  洒落に地口に罵詈雑言《ばりぞうごん》、ペダンティスムも適度に織りまぜて、読者を楽しませながら、最後にはぴしりと締めて言いたいことをちゃんと言っている。詭弁的時評の古典的名作と称してよかろう。   スウィフトの人食い理論◆本気なのか? 不真面目なのか?  �生後一年�が食べごろ 『ガリバー旅行記』の作者として名高いスウィフト(一六六七〜一七四五)の作品に�貧乏人の子どもが、両親および国家の重荷となることを防ぎ、さらに彼等を社会のために役立たせる方法についての私論�という、厚生大臣が聞いたら泣いて喜びそうな題名の、すばらしい論文(?)がある。  当時アイルランドの首都ダブリンには、女乞食があふれ、そのうしろにきまって二、三人の子どもがついて歩いていた。これはみんな、子どもを扶養する力のない両親から生まれた子どもたちであり、愛国心旺盛なスウィフトは、こういう不幸な子どもたちを、社会から絶滅するためにはどうしたらよいか、その問題を慎重熟慮した結果、すばらしいアイデアを思いついた。  スウィフトは言う——。  アイルランドにはおよそ二十万組の出産可能の夫婦がいるが、このうち産んだ子を育てる能力のあるのは、せいぜい三万組くらいである。この三万組を二十万組から差し引いた、残りの十七万組が、子どもを産むことができても、育てることのできない夫婦の数となるが、このうち、早産、病気、事故などで子どもを一年以内に失う数を五万と見込むと、残る十二万組の夫婦が、毎年十二万人の子どもを生産することができる計算になる。  あるアメリカ人の説によると、生後丸一年の赤ん坊は、シチューにしても焼いてもゆでてもあぶっても、料理の材料としては最高級品であって、今述べた十二万人の子どものうち二万人を子孫繁殖用に残して、あと十万人をこの方面の用途に用いれば、まことに好都合である。  赤ん坊はまるまると太らせ、国中の貴族や金持ちのご用命を待つわけだが、これまでにさんざん親たちの膏血《こうけつ》を絞ってきたお金持ちたちが、ここでその親の子どもを食用に供したとしても、これは格別驚くほどのことではあるまい。  十二、三歳の少年少女を食べたほうがおいしいのではないか、という意見もあるが、この年齢の子どもたちは、よく運動するので概《おおむ》ねやせていて、肥らせるには費用がかかりすぎて、とても採算が取れない。それに少女のほうは、ここまで育ててからつぶしてしまうのでは、社会的損失も大きいだろう。  やはり満一歳の赤ん坊が一番効率的で、しかも味がよい。赤ん坊の養育費は、ボロ着も含めて一年約二シリング程度であり、これで目方が十二ポンドから二十八ポンドに増えて、一つ十シリングで確実に売れていくだろう。お金持ちはこれ一つあればすばらしい料理が四品も作れるし、貧乏人は八シリングの儲けを得ることができる。おたがいにとって好都合であり、これでこそお金持ちと貧乏人の人間関係が円滑にいくというものだ。  この提案を実現すれば、利益はまだまだほかにたくさんある。まず第一に有害無益のカトリック教徒を激減させることができる。カトリック教徒はものすごい多産種なので(教義として避妊や中絶を認めないから)やたらはびこって国政をかきまわし、危険この上ない。  第二に、貧乏人も財産を持つことができる。実際の話、貧乏人はすべて金目のものはみんな差し押さえられているので、これ以外に財産を持つ方法はまったく考えられない。  第三に、なにしろ、これは純粋に国内で作られ国内で消費されるものだから、お金が国中に流通して経済が活発になるだろう。  第四に、母親がながながと子どもを育てる手間がはぶけるし、第五に、新しいメニューのおかげで酒場がおおいにはやりだす。第六に、亭主は妊娠中の女房にやさしくなり、かりそめにもなぐったり蹴《け》ったりすることはあるまい。すべてすばらしいことばかりである。  これ以外の方法でアイルランドの窮状を救えるとおっしゃる人もいるらしいけれど、どうかそういうご意見は多少なりとも実行して、実現の可能性がはっきりとわかるまで、それを述べるのを差しひかえてほしい。  そういう意見を述べる人は、現在の情況の中でそのプランならば本当に十万人の子どもに食物と衣料を与えることができるかどうか、また、その子どもたちが成長して、今まで通り地主に苦しめられ、金も仕事もなく、地代も払えず、命をつなぐ食べ物もなく、住む家もなく、寒さをしのぐ着物もない——。  こういう�ないないづくし�の大人になることが本当に幸福かどうかよく考えてほしいものだ。  私は祖国の公共的利益のため商業を振興し、幼児のためにせめてもの幸福を考慮し、貧民を救済し、金持ちに快楽を与えるために、この私案を述べるのであって、それ以外になんの野心もない。  私の末の子は七歳、妻はもう子を産める年齢ではない——。  菜食と肉食の差  夏目漱石は初めてこの論文を読んだとき、 「まじめにこんなことを言っているなら狂人である」と真実驚いたらしいが、これは漱石らしくもない話だ。明治の人間はやっぱり頭が堅かった。  スウィフトが狂人に近い男であったことはともかくとして、この論文はまじめもまじめ、大まじめの論文である。  当時のアイルランドはイギリスの植民地政策によって、どうしようもないほど搾取《さくしゆ》され、失業者や乞食は町にあふれ、ちょっとした飢饉《ききん》が起きれば飢え死がうじゃうじゃ、貧乏人は文字通り夢も希望もなかった。  良識派をもって認ずる政治家や貴族は、時折この惨状を訴え、なにやらいい格好をするけれど、どうせ本気で取り組んでるわけではないのだから、効果はさっぱりあがらない。アイルランドの貧乏人は、とても寝言のような良識を待っているわけにはいかない。  そこで、スウィフトが「もうこれ以外に方法はありませんよ」と持ち出したのが、この提案であり、そこに「どうせ今までさんざん親たちをしゃぶっているのだから、今さら子どもを煮て食おうと焼いて食おうと、いいじゃありませんか」という皮肉がこめられているのは言うまでもない。小論ながら、全編にこりともしない緊迫感は、作者が大まじめでこの問題に——アイルランドの救済という問題に取り組んでいたことを証明している。  平賀源内はおならを材料にして社会時評をおこない、スウィフトは人食いをテーマとして政治批判を記した。前者は菜食民族にふさわしく、後者はいかにも肉食民族らしい。筆達者、口達者はどんなものを材料にしても、雄弁に理屈を展開することができるのだ。  東西の二大珍論として紹介した由縁《ゆえん》である。 [#改ページ]   コーヒーブレイク㈽ 詭弁史を飾る20人 *マホメット(五七一頃〜六三一)回教の創始者。十二人の妻があった。  マホメットが�山を動かす�と言うので、みんなが固唾《かたず》を飲んで見守っていた。だが山はさっぱり動かない。マホメットは山のほうへすたすたと歩み出し、 「山が動いて来たら危ない。それが神のお慈悲なのだ。私が山のそばへ行けば、同じことじゃ」 〈寸評〉英語でこっちへ来いは「カムヒヤー」。では「あっちへ行け」は、なんと言うか? 二、三歩向こうへ行って「カムヒヤー」。頭はいろいろ使い方があるのです。 *チャーチル(一八七四〜一九六五)イギリスの政治家。皮肉ばかり言っているので頭がはげた。 「政治家に必要な才能は?」  と聞かれて、チャーチルは答えた。 「政治家は明日なにが起こるか予見する才能がなければならない。そしてそれがなぜ起きなかったか、うまく説明する才能がなければならない」 〈寸評〉つまり本書をよく読め、ということです。 *フォード(一八六三〜一九四七)アメリカの自動車王。  あるパーティでフォードが言った。 「生活を続けるために必要な食べ物は、みなさんが毎日採る量の半分でいいでしょうな」 「では、あと半分はなにに使われるのです?」 「そう。きっと医者が生活を続けるためでしょう」 〈寸評〉ベルトの穴が一つ太いほうへ動くと、三年寿命がちぢまります。 *リヒテンベルグ(一七四二〜一七九九)ドイツの箴言家《しんげんか》。  大切なものはみんな細い管を通る。その証明→男子の生殖器、ペン、鉄砲。  そうだ、人間は錯綜《さくそう》した管の束以外のなにものでもない。 〈寸評〉つまらないものは、みんな細い管を通る。その証明→男子の生殖器、ペン、鉄砲。 *バーナード・ショウ(一八五六〜一九五〇)イギリスの劇作家。皮肉ばかり言っていたが、はげなかった。 「あなたがこれまでに、一番影響を受けた本はなんですか?」  こう尋ねられてショウが答えた。 「銀行の通帳だね」 〈寸評〉就職試験でこう答えたらパスするかどうか……。 *シュヴァリエ(一八八八〜一九七二)フランスの歌手、俳優。いつも粋なおじいさん。  中年のシュヴァリエが、ピチピチした娘たちのレビューを見たあとで友人に言った。 「ああ、もう二十年としを取っていたらなあ」  友人が驚いて、 「えっ、二十年若かったらじゃないのかい?」 「いや。二十年としを取っていたら、こんなに胸をときめかすこともないだろうに……」 〈寸評〉中途半端がいけないのです。 *マーク・トウェイン(一八三五〜一九一〇)アメリカの小説家。�トム・ソーヤの冒険�など。  説教を聞いた後でトウェインは皮肉な顔をして言った。 「たいへん感銘しました。ただ、一語一語みんな私の愛読している本に書いてあることでしたが」  説教者が「そんな馬鹿な!」とかんかんに怒るとトウェインは「では早速証拠の本を送りましょう」といって帰ってしまった。後日、説教者が手にしたのは一冊の国語辞書だった。 〈寸評〉説教好きの人をへこませるのによい。 *ヒトラー(一八八九〜一九四五)ドイツの政治家。  ヒトラーが占い師に尋ねた。 「私はいつ死ぬかね?」 「ユダヤ人の祝日の日におなくなりになるでしょう」 「ほう。どうしてそれがわかる?」 「いつ総統がなくなられても、その日はユダヤ人の祝日になりますから」 〈寸評〉これは作り話ですね。 *フローベル(一八二一〜一八八〇)フランスの小説家。�ボヴァリィ夫人�など。  十三人の食卓は縁起がわるいと言われるが、そんな席では「お腹の大きい人はいませんか」と冗談を飛ばすべし。�紋切型辞典�より。 〈寸評〉食卓が、かえって気まずい雰囲気になるかもしれない。 *大岡越前守忠相(一六七七〜一七五一)江戸町奉行。講談でおなじみ。  徳川吉宗が大岡忠相を召して尋ねた。 「これ、善とはどのようなものか。悪とはどのようなものか」  忠相は�起き上がりこぼし�を持参して吉宗の前で転がし、 「殿、ご覧くださいませ。いくら転がしても起きあがります。これが善でございます。いかに倒そうとしても倒れるものではございません。しかし……」  こう言いながら懐中から小判を一枚取り出し�起き上がりこぼし�の背中にゆわえた。 「しかし、これも黄金を背負って欲に迷うと悪に変わります。この通り、倒れて再び起きあがることがかないませぬ」 〈寸評〉少しよくできすぎている。作り話かも? *ナポレオン(一七六九〜一八二一)フランス皇帝。  エルバ島に流されていたナポレオンは、ルイ十八世が国民の人気を失うのを知って島を脱出した。ナポレオンが軍を率いてパリに近づくにつれ、パリの新聞の見出しは、次のように変化した。 「コルシカの怪物、ジュアン湾に上陸」 「食人鬼、グラッスに向かう」 「王位|簒奪《さんだつ》者、グルノーブルに入る」 「ボナパルト、リヨン占領」 「ナポレオン、フォンテンブローに近づく」 「皇帝陛下、明日忠誠なるパリにご帰還の予定」 〈寸評〉現代でも新聞の良識を過度に信じすぎてはいけない? *佐久間象山(一八一一〜一八六四)洋学者。NHKテレビ�勝海舟�でおなじみ。 「どうしたら金持ちになれますか」  と尋ねられて、象山は答えた。 「片足をあげて小便をしてごらん」  相手がけげんな顔をすると、 「さよう。犬のようじゃろう。人間らしくしていたんじゃ金持ちにはなれんさ」 〈寸評〉詭弁としては秀逸。 *レールモントフ(一八一四〜一八四一)ロシヤの小説家。�現代の英雄�など。 「普通の論理——この人は私を愛している。だが、私には夫がある。したがって私は、この人を愛してはいけない」 「女性の論理——私には夫がある。したがって私はこの人を愛してはいけない。だがこの人は私を愛している」 〈寸評〉同じ言葉でも配列によって意味が変わります。 *マリリン・モンロー(一九二六〜一九六二)アメリカの映画女優。B86W58H94。  なにを着て寝るか?——「シャネル・ナンバー5」  モンロー・ウォークについて?——「あたし、生後六カ月のときから歩きつづけているわ。あたしの歩き方は、あたしのものよ」  セックスをどう考えているか?——「自然の一部ですわ。あたしは自然にしたがいます」…… 〈寸評〉どうして、なかなかの知性派女優ではありませんか。 *クレマンソー(一八四一〜一九二九)フランスの政治家。 「あなたの知っている最悪の政治家は?」と聞かれて、晩年のクレマンソーは答えた。 「さよう。最悪の政治家をきめるのは実にむつかしい。これこそ最悪のやつと思ったとたん、もっと悪いやつが、かならず出てくる」 〈寸評〉日本国の首相もだんだん悪くなるとか……? *オスカー・ワイルド(一八五四〜一九〇〇)イギリスの作家。  流行とは大変醜いものです。だから毎年変わるのです。       ×     ×       民主主義とは、人民が、人民により、人民をなぐる政治だ。       ×     ×  結婚した男性の幸福は、ひとえに自分の結婚相手ではない女性にかかっている。 〈寸評〉スマートです。 *ウイルバー・ライト(一八六七〜一九一二)アメリカの飛行機技士。ライト兄弟の兄のほう。  ライト兄弟が初めて試験飛行に成功したとき祝賀会でスピーチを求められた。  ウイルバーは静かに立ちあがり、 「鳥の中で一番おしゃべりのオウムは、飛ぶことが下手です。よく飛ぶ鳥はおしゃべりをしません。私のスピーチもこれで終わります」 〈寸評〉もしや前の日に徹夜をして考えたのでは? *サミュエル・ジョンソン(一七〇九〜一七八四)イギリスの文学者。最初の英語辞典を作った。 「子どもに教育をするとき、なにを一番最初に教えたらよいか」  と尋ねられ、ジョンソン博士は答えた。 「それは、せいぜいどちらの足から先にズボンをはくか、といった程度の問題さ。議論するのも結構だが、そのあいだずーっと子どものお尻は出たままだ。どちらを先に教えようか、と考えているうちにほかの子どもは両方とも覚えてしまうよ」 〈寸評〉ただし、ズボンをうしろ前にはかせないよう教育する必要はある。 *フランクリン(一七〇六〜一七九〇)アメリカの政治家、科学者。  若い頃のフランクリンは貧乏暮らしで、食べるものは、いつもパンと水ばかり。ついぞビールのような贅沢《ぜいたく》品を口にすることがなかった。 「ビールの原料は麦と水じゃないか。パンと水だって同じことだよ」 〈寸評〉ごもっとも。   *クレオパトラ(BC六九〜BC三〇)エジプトの女王。世界の美女。三十八歳で自害した。女が魅力で男を動かせる限界は、ま、この年齢までかな?  クレオパトラは恋人のアントニオと魚釣りへ行った。アントニオの竿《さお》にばかり魚がかかるので不思議に思ってよく見ると潜水夫がアントニオの針に魚をかけている。狼狽《ろうばい》するアントニオに一言。 「魚釣りなんか漁師にまかせて、あなたは世界をお釣りあそばせ」 〈寸評〉男になんとなく自信を持たせるうまい言葉である。こう言われては男は引きさがれない。 [#改ページ]   4 エレガントな詭弁● とくに男と女の場合   男と女の�危ない�会話◆愛があるから大丈夫か?  花嫁の幸福や如何《いか》に   瀬戸は日暮れて 夕波小波   あなたの島へ お嫁に行くの   若いとだれもが 心配するけれど   愛があるから 大丈夫なの  これは小柳ルミ子さんの歌でヒットした�瀬戸の花嫁�(山上路夫氏作詞)の一節である。昭和四十七年度日本歌謡大賞の受賞曲である。この歌詞に詭弁があるとすれば、それはどこか? あなたはおわかりだろうか?  結婚にとって愛が大切なのは、今さらここでくどくど説明するほどのことではあるまい。それはその通りなのだが、つらつら世の中を眺めてみれば、失敗した結婚だって、初めはありあまるほどの愛があったはずである。それが途中から急におかしくなったのである。結婚とはそういうものなのだ。  だから、むしろ愛が薄れたときに、なにを歯止めとして考えているか、最悪の事態に至ったとき、その後の人生をどう生きていくつもりか、例えば「お金があるから大丈夫なの」とか「美容師の免状を持っているから大丈夫なの」とか、そのへんが問題の焦点とならなければいけない。  そこのところに思い至らず、ただ、ただ、「若いとだれもが心配するけれど、愛があるから大丈夫なの」とは……? まことに天下太平である。お日さまポカポカよい天気である。そんな甘っちょろいものだけを頼りにしているからこそ「若いとみんなが心配する」のである。愛は結婚の必要条件だが、それだけで生涯の幸福を約束する十分な条件ではない。「愛があるから大丈夫」ならば、恋愛結婚のほとんどは大丈夫のはずである。現実には恋愛結婚のほうが失敗例が多い、と言うではないか。  もちろん、お金があっても、美容師の免状があっても、大丈夫とはいえない。そんなものでは、とても花嫁の幸福を約束する十分な条件とはなりえない。はっきり言えばそんな便利な条件はどこにもないのである。だからこそだれもが心配するのであって、この娘にはそれがぜんぜんわかっていないのだから、とても、とても�大丈夫�ではあるまい、と私は思う。  いわば、送り狼が若い娘の肩に手をかけ、 「僕が送ってあげるから大丈夫だよ」  と言っているのと同じであって、�大丈夫�の理由として挙げているものが、実は一番心配なのだから、瀬戸の花嫁の論理はすこぶる詭弁的であると言わざるをえない。  だが、ちょっと待て。「だからそれがいけない」と私は主張するのではない。瀬戸の花嫁さんを�馬鹿だ�と言うつもりはないし、いわんや、作詞者を非難する気など露ほどもない。男女の愛というしろものは、本来|醒《さ》めやすいものである。遅かれ早かれ、また、多かれ少なかれ、必ず醒めるものである。だから、醒めたあとで、熱くポッポと燃えていた頃のことを思い返してみれば、愛の言葉は概《おおむ》ね論理もいんちきで、詭弁に満ち満ちている。空手形の乱発も多い。  それが厭《いや》だからと言って、論理を整え厳密を期し、 「この広い世界にいろいろな女の人がいて、その女の人にみんな会ったわけではないから、正確なことは言えないけれど、今まで会った中では、あなたが一番好きだ」  論旨は通っているが、こう言われて相手の女が、 「まあ! なんて頭のいい、すばらしい人なのでしょう」  と、思わず身悶《みもだ》えすることは、まず絶対にありえない。  ここはやっぱり……、 「人間は、元はと言えば男女一体だったんだ。それがべつべつに切り離されて、この世に生まれて来たんだ」 「あら、そうなの」 「うん。数多い異性の中から、離れ離れになった�半分�を見つけ出して一緒になるのが結婚なんだって……」 「ほんと?」 「英語で妻のことを�ベター・ハーフ�(よりよき半分)というのは、そのためなんだ。君は、僕がずっと捜し求めていた、その�半分�なんだ。ようやく見つけたんだ。僕の�ベター・ハーフ�になってください」  少し理屈っぽいけれど、この理屈はロマンチックである。  瀬戸の花嫁さんは、あの美しいメロディに乗せて「若いとだれもが心配するけれど、愛があるから大丈夫なのね」と、みずからも信じ、周囲のみんなを信じさせ、ついでに日本国中の人々に、そう信じさせれば、それでいいのである。  幸運をつかむジンクス  古いアメリカの映画で、こんな場面があったのを覚えている。  ヒロインがガラガラの列車に乗っている。そこへ男が現われる。男は車内を見渡し、美しい女がすわっているのを認めると、つかつかとそばへ寄って来て、 「この席あいてますか?」 「ええ……」 「じゃあ」と、荷物をおろす。女は車内を見まわす。どこもかしこも空席だらけである。あきれ顔で男を見上げると、男は、 「いつもこの席にすわることにしているんです。幸運を掴《つか》むためのジンクスなんです」 「あら、そうですの。では、どうぞ」  女はバッグを持って立ちあがり、 「私はあちらの席に移りますから」  女が席を替えると、男ものこのこあとからついて来る。 「あら。幸運をつかむジンクスはどうなりましたの?」 「もう幸運をつかみましたから、あとは逃がさないことです」  現実にアメリカ人が、いつもこんなしゃれた会話を交わしているわけではあるまいが、こういう小さな詭弁を、色恋の中に滑り込ませて、自分の思いのたけを伝える習慣は、日本人より白色人種のほうがはるかに多く持ちあわせているようだ。  恋だから詭弁も許せる  つまり、男と女の間では、もっともっと嘘《うそ》のような本当のような、わけのわからない会話が用いられてよいのではあるまいか。  お目当ての恋人の帰り道を待ちぶせして、ばったりと顔をあわせ、 「あ、偶然ですねえ」  なにが偶然のものか、そのために待っていたのだから、これくらい必然的なことはない。だが、それでいいのである。翌日もまた顔をあわせ、 「あ、偶然ですねえ」  三日目もまたまた同じところで顔をあわせ、 「あ、偶然ですねえ。秋はメランコリックだから偶然の起きやすい季節なんですね」  メランコリックだと、どうして偶然が起きやすいのか、そんなことはどうでもいいのである。  春はファンタスティックで、偶然の起きやすい季節だし、夏は暑さのあまり偶然の起きやすい季節なのである。  こうして�偶然に�出会ったあとは、 「メランコリックな秋だから、お茶でも飲みましょう」  とでも言えばよい。細かいことだが、女性を誘うときには、「〜ませんか」と言ってはいけない。「〜ましょう」と、断定的に誘うのである。女性は断定に弱いところがある。それに「〜ましょう」と言われて「ええ」と答えた場合は、自分の意志というより男の強引さに押されたような気がして、女は自分の心に対して言いわけが立つのである。あとで「あなたが強引に行くと言うから、ついていっただけじゃない」と詭弁をふるう余地を残しておくのである。  もちろん「〜ましょう」と誘ったからと言って、相手が確実に「ええ」と答えるわけではない。相手が断わったならば、 「明日また偶然が起きてもいいですか?」  ともう一押し。その女性があなたに少しでも関心があるならば——そして、彼女がセンスのいい女性ならば——少しは色よい返事が返ってくるだろう。  もう少し詭弁らしい詭弁を捜せば、私の友人で、「茶道では一期一会《いちごいちえ》と言うではありませんか」こう言って、その日知りあったマドモアゼルと一夜の恋を楽しんだ男がいる。 �一期一会�というのは千利休の高弟、山上宗二が言った茶道の理念で、その意味は�客を迎えてする茶会は、生涯中この一回のほかあるべからずと観ずる信念�……なんていうひどくややこしいけれど、要するに一回一回の茶会が生涯にたった一度の出会いだと考えて、誠心誠意こころを尽くしておこなえ、という意味である。いい言葉ですね。明日はどうなるかわからない。しかし今日を限りとして、この出会いをいつくしみ最高に充実したひとときを賞味しよう。これは日本の芸術を貫く一つの思想である。  幸か不幸か、そのマドモアゼルは、この言葉を知っていた。初めて会って、ちょっと好感を持っている男から、�一期一会�と言われたのでジーンと胸に響いた。アルコールもちょっぴり入っていたという。甘い音楽も響いていたかもしれない。  そこへ、男の第二弾が耳元でささやくように、「花は散るために咲くと言います」これは華道の言葉である。茶道や華道は花嫁修業のためにだけ役立つものではないらしい。これで彼女の心は決まった。そうだ�一期一会�ではないか。ただ一度の出会いだっておろそかにはなるまい。花は散るために咲くのではないか——。  そのマドモアゼルに会って話を聞いてきたわけではないから、このへんはまさしく�講釈師見てきたような嘘を言い�のたとえ通り、あんまりあてにはならないけれど、私が女であったならば、なにやらこんな意味深な言葉で口説かれるほうがうれしい。そしてまた多くの女性の意見もそうである。  夜が更けて、デートの相手が帰宅の時間を気にするようなら、 「何時に帰ればいいの? 十時? じゃあ……」  腕時計の針をぐるぐると一時間逆へまわして、 「ほら、過去が戻って来た。まだ二時間はある」  と言えばよい。  遠出に誘って、相手が警戒の色を示すようならば、 「ホント、嘘は言わない。すぐ近くだよ」  と安心させ、相手が立ち上がったところで、 「宇宙の大きさに比べれば、ほんのすぐそこだよ」  これでいいのである。  彼女の唇が盗みたくなったら、 「ちょっと顔の寸法を計らせて……おもしろいことがあるんだ」  ハンカチを縦長に四つに折り、彼女の顔の縦の長さを計り、横の長さを計り……耳から耳までハンカチを当てれば、彼女は目隠しをされ、角度は絶好。そこで深紅の唇をそっと盗んで、 「ほら。おもしろいことがあっただろう」  これは詭弁というより悪戯かもしれない。詭弁という以上こんななまやさしいものばかりではなく、男女の間にも文字通り相手をだまし傷つけ、身ぐるみ剥《は》いでしまう、恐ろしい詭弁もおおいにありうる。だが、そのほうは結婚詐欺のスペシャリストにまかせ、ここでは触れない。 [#改ページ]   コーヒーブレイク㈿ *貧乏な羊  とても貧乏な羊がいました。明日の食べ物にも困るほどなので、無産党の役員に相談したところ、あした、町の広場にいらっしゃいと言われました。  翌日は五月一日。町の広場へ行くと、あたりは紙くずでいっぱいです。羊は大喜びで紙くずを食べ、「メーメー」と鳴いて、メーデーを祝いました。   *田舎の鼠と町の鼠  田舎の鼠が町の鼠のところへ遊びに来ました。  田舎の鼠は、町のあちらこちらにある、黒と黄色の縞《しま》模様を見て言いました。 「あ、あぶない。あそこに虎がいる」  すると町の鼠が笑いながら、 「あれは交通安全地帯だよ。平気、平気」  こう言って安全地帯に足を踏み入れたとたん、ジャリトラがものすごいスピードで走って来て、町の鼠を轢《ひ》きつぶしました。   *甲虫の自慢  甲虫がすばらしい角を振って言いました。 「どうだい、すごいだろう。いつ敵が攻めてきたってやっつけてみせるぞ」  その時、子どもたちが森へやって来て、 「おい、甲虫だ。かっこいいぞ」  こう叫んで甲虫を捕らえて行きました。残った虫たちは、 「なまじ武器なんか持たなくてよかった」  と喜びあいました。   *旅人と象  旅人が森を歩いていると、年老いた象が来ました。象はとても悲しそうな顔をしています。 「象さん、なにがそんなに悲しいのですか?」  旅人がたずねると年寄り象が答えました。 「象はとても長生きをします。でも若い象たちは、ちっとも、年寄りを大事にしてくれません」  また旅人が少し行くと、今度は若い象が来ました。若い象も悲しそうな顔です。 「象さん、なにがそんなに悲しいのですか?」  旅人がたずねると、若い象が答えました。 「象はとても長生きをします。年寄りが多くてやりきれません」 [#改ページ] 5 悪意のソフィストたち●古典的人間攻略法   伝家の宝刀を抜く◆リンカーンと三島由紀夫の切っ先  四十過ぎて�顔�がわるいのは?  ある男がリンカーンの秘書として一人の男を推薦した。だがリンカーンはその男を採用したがらない。 「なぜあの男は駄目なのですか」  こう聞かれてリンカーンが答えた。 「あの男は顔がわるい」 「しかし、顔がわるいのは本人の責任ではありません」 「いや。四十歳を過ぎた男は、自分の顔に責任を持たなければならない」  これは、リンカーンの言葉としては�人民の、人民による、人民のための政治�の次くらいに有名なせりふである。  だがこの言葉は正しいのだろうか? たしかに四十歳を過ぎる頃ともなると、だれしも前半生でなにを考え、なにをやってきたか、おのずとその歴史が顔に滲《にじ》み出て、人相を見れば人格が一目|瞭然《りようぜん》、ピーンとわかるような気がしないでもない。だからこそ�四十歳を過ぎた男は、自分の顔に責任を持たなくてはならない�という言葉が名言としてあまねく親しまれているのであろう。  ところが、この言葉はかならずしも科学的に正しくはない。犯罪学の分野では、今世紀の初めにイタリアの精神科学者ロンブローゾが、犯罪者は犯罪者らしい人相をしていることを唱え、一時はこの学説が世界を風靡《ふうび》したけれど、現在ではみごとに否定されている。  ロンブローゾの学説は、主として、持って生まれた人相について言ったものだが、後天的な変化についても、現在の犯罪科学は、犯罪者は必ずしも犯罪者らしい顔つきをしていない、という立場を支持している。悪人らしい顔というのは存在するが、悪人はみんなそんな顔をしているわけではないし、善人の中にもいくらでも悪人顔は存在する。  論より証拠、犯罪人と一般人とを同じ条件のもとでごちゃ混ぜにし、大勢の人に観察させ、どの人が犯罪者かを選ばせる実験をやってみても、その結果はけっして偶然の適中率以上には、ならないだろう。  犯罪者のように、その性格や過去の生活がいかにも人相に刻み込まれそうな人たちでさえ、見分けがむつかしいのだから、人相だけを頼りに人格を判断することは、当たるも八卦《はつけ》、当たらぬも八卦、かなり危険なことである。  と言われてみても、やっぱり顔はその人のなにかを表わしているような気がしてならない。これも、私たちが経験的に持っている、一面の真実である。結局のところ、人間の中身がどれほど人相に表われるか、真相はわからない。  だが事実はどうあれ、この曖昧《あいまい》なところが詭弁を使う側にとって、すこぶる好都合なのだ。  顔は人間のなにかを表わしているらしい。少なくとも多くの人はそう信じている。ところが、この顔というしろものは、本人の力ではそう簡単に変えることができない。ソクラテスは町の占い師に、「良識に欠け、欲望に流されやすい人相」と宣言され、これを聞いて驚く弟子たちに、 「よく当たっている。私にはもともとそういう性質があるのだが、一生懸命なおしているのだ」  と答えたという。哲人ソクラテスだって、自分の人相を変えることができなかったのだ。  しかも顔は、それが他人にどういう印象を与えるか、顔の持ち主が冷静に判断しにくいものであるし、また他人の下した判断に対して、みずから弁護することはむつかしい。甘んじて他人の判断に屈しなければならないものである。  だから、人格や才能の欠点を顔と結びつけて批判されても、当人としてはすこぶる抗弁がやりにくい。抗弁すればするほど、独りよがりの印象をばらまく。しかも、世間は顔が人格の�なにか�を表わすと信じているため、こういう批判を必ずしも不当なものとは思わない。さりとて当人は顔を変えるわけにもいかない!  リンカーンに顔が駄目だと判定された男が、その後どうなったか私は知らない。もしその男が、秘書になれなかった本当の理由を知らされたとしても、彼は多分ほとんど反論ができなかったであろう。そして世間は、リンカーンの言葉が広く人口に膾炙《かいしや》したことからも明らかなように、「うん。四十歳以上は顔に責任があるよ。悪い人相のやつは、今までずっとあまりいいことを考えてこなかった証拠だ」と信じてしまうのである。  詭弁をあやつるものにとってこんな好都合なことがあるだろうか。悪意をもって他人を誹謗《ひぼう》したいときには、根拠があろうがなかろうが、相手の欠点と顔とを結びつけて攻撃するのが効果的である。  世間は概《おおむ》ね軽佻浮薄《けいちようふはく》だから、えてして、論理的な批判よりこのほうを喜び�もっともだ、もっともだ�と会津磐梯山《あいづばんだいさん》を歌うがごとく、気易くうなずいてしまう。  超論理への招待  実例をあげよう。  切腹の文学者三島由紀夫は、情死の文学者・太宰治の文学を全然認めていなかった。  三島の随筆集『小説家の休暇』から太宰批判の一くだりを引用すれば、 「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は一種猛烈なものだ。第一に私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌《ふうぼう》をしていなければならない」  ということで、それでは�国を憂えて切腹する小説家は、三島由紀夫のような顔をしていればよいのか�と、ちょっと茶化してみたくなるけれど、それはともかく、文学の是非を論じようというときに、まず�第一に顔がきらいだ�と言うのだから、これは論理としては相当に目茶苦茶である。  もちろん文学作品は作家の人格の反映であり、人格は顔に表われる(かもしれない)のだから、顔がきらいだということがその文学を否定する理由になったとしても、心理的には納得がいくけれど、これは論証が可能なロジックではない。明らかに悪意を含んだ詭弁なのだが、それなりに説得力があるから恐ろしい。  太宰治が田舎者かどうか、風貌が厳粛でないかどうか、それが太宰の文学と結びついているかどうか。こういう説得はいっさい抜きにして、ただ太宰の文学は嫌悪すべきものだという断定だけが、印象に残る仕掛けになっている。なかなか巧みである。  似たような例をもう一つあげれば、歌手の美空ひばりさんが、昭和四十八年のNHK紅白歌合戦に出場できるかどうかが話題になっているとき、ある座談会で、 「今までさんざん弁護してきた弟が、その弁護に反して逮捕されたのだから、公共放送に出場するのはおかしい」 「いや、弟は弟、姉は姉。弟の責任を姉がかぶることは、筋からいって妥当じゃない」  とかんかんがくがく議論が進むなかで、記者の一人が、 「要するに美空は駄目だ」 「なぜだ」 「俺は顔がきらいだ」  アンチ美空派の面々から拍手が起こり、一方、美空擁護派のほうとしては、ただ、ただ苦笑するばかり。なんとなく気勢をそがれた格好になったのを覚えている。「顔がきらいだ」は、いわば超論理の世界だから、こういう伝家の宝刀をふるわれては、相手は論理では反駁《はんばく》するのが野暮になってしまうのだ。  これを日常生活に応用すれば……わが家はこのところ�赤旗�紙の勧誘が激しいので、 「新聞は取らない。宮本顕治さんの顔がきらいだから」  と言ってやろうかしらん。  運動員のみなさんは、セールスマン顔負けの腕達者、口達者ぞろいだから、いつも猫なで声でにこにこと物価がどうの、公害がどうのとおっしゃるのだが、 「宮本顕治の顔がきらいだから取らない」  と、超論理で終始一貫押し通せば、あきれて短時間で帰ってくれるのではあるまいか。  もう一つ、少し話は変わるが顔のよしあしにちなんだエピソードを紹介しよう。  今から数十年前、文藝春秋の池島信平氏が、早稲田大学で開かれた新入社員募集の説明会に出席されたことがあった。  文藝春秋の男子職員募集要項の中に�容姿の見苦しくないもの�という条件があって(あるいは池島氏が口頭で言ったのかもしれない)これを見た学生の一人が、 「男子の職員を募集するのに、容姿を問題にするとはなにごとぞ」  と食ってかかった。池島氏は少しも騒がず、 「出版社の職員は見ず知らずの人と会って、いろいろ情報を集めたり、教示を受けたりしなければならないので、やはり男性といえども容姿は端麗でなければならない」  と断固力説し、それから少し笑ってつけ加えた。 「ただし、わが社の容姿端麗は、私が社員でいられる程度のものですから……」  リンカーンの基準でいけば、文藝春秋の社員の諸氏の中にも少し気掛りな方が……いや、いや、みなまでは申しますまい。   権謀術数の原典◆マキャベリ『君主論』の応用法  キツネの狡智《こうち》とライオンの威力  この世の中では、あまり真正直《ましようじき》に本当のことを言う人は、きまって評判が悪くなる。  なぜかと言えば——この世の中はそう美しいものではなく、まあ、率直に言えば相当に醜悪である。ところが世間には善人と悪人がいて、善人はこの世の醜悪な姿を真正直に語られると、 「まさか。そんなことがあるものか。嘘にきまっている」  と思う。だからそういう醜悪な世の中を暴露する人間を非難する。これはごく自然な人間感情である。  悪人はと言えば、これは醜悪な姿をあまりはっきりと暴露されてしまうと、自分たちが悪事を働きにくくなる。そこで、 「この野郎! 引っ込んでろ」  と思って、そういう真正直な人間を抹殺しようとする。これもまた、ごく自然な人間感情である。悪事を働くやつに限って、道徳教育の普及に熱心なのはこのせいである。  善人にも悪人にも非難されるのだから、真正直に本当のことを言う人間の評判がよくなるはずがない。いわれのない中傷を受けることがあって当然である。  さて、マキャベリズムと言えば、目的のためには手段を選ばない権謀術数のこと。冷酷非情のアンチ・ヒューマニズムであり、弱者を罠《わな》におとしてはニタニタ笑っている思想である、と広く思われている。  マキャベリズムの由来は、十六世紀イタリアの政治思想家マキャベリが『君主論』を書き、その内容が冷酷無比で非人情で狡猾《こうかつ》で、悪だくみに満ち満ちているから——と一般に信じられているが、これは少しマキャベリに対してお気の毒である。マキャベリが『君主論』に書いていることは、どちらかと言えば、真正直のこんこんちき。一言で言えば、 「君主は国を維持し発展させるためには、正義と暴力とを併用する術を心得なければならない。キツネの狡智《こうち》とライオンの威力を必要とする」  という判断を、当時のヨーロッパの国際情勢をふまえて、具体的に説いているのであって、この判断は現実の歴史を少し注意深く観察すれば、むしろ常識的すぎるほど常識的な判断なのだが、なにぶんにも十六世紀のヨーロッパは偽善に満ちた時代であったため、マキャベリの『君主論』はいっせいに袋叩《ふくろだた》きにあい、�マキャベリズム�なるいまわしい言葉が誕生してしまったのである。  政治学の先生のご意見をうかがえば、マキャベリの『君主論』は、 「個人のモラルと、政治を動かす原理とは、当然異なるという立場で書かれた最初の政治論」  ということであり、歴史的価値はすこぶる高いのである。中国の孔子さまなんて人は、国王の徳が高ければ国がすべてうまく治まるようなことばかり言っているが、こんな理屈で近代国家がうまく治まっていくはずがない。  早い話が、ベトナム戦争やチェコ紛争など、大国は国連会議で大義名分をかかげ、われこそ正義の味方と宣伝するかたわら、その裏ではドカンドカンと武力を行使し、また行使しないまでも皆殺しの兵器で威嚇《いかく》する。まさにキツネの狡智とライオンの威力の二者併用ではないか。こういう政治のメカニズムをきちんと見抜いたのがマキャベリであり、そういう意味で彼の理論はすぐれていたのである。  運命の女神には力で押せ  だが、それはともかく、二十世紀の日本国もかなり偽善的な傾向があるから、マキャベリの言葉がいぜんとして�悪意�の言葉として受け取られるところがなくもない。  例えば、マキャベリは言う。 「昔から運命の神は女である。だから運命を支配するには(女と同じく)なぐったり突っついたりする必要がある。私が見たところ、運命は冷静に事を処理する人よりも、こういう人によく従うものらしい。だから運命は女と同じく、つねに若者の友である。若者というものは、思慮が浅く乱暴で、しかも大胆に運命を支配するからである」  女性を支配するには�なぐったり突っついたりする必要がある�と言われたのでは、女性軍はおだやかではいられない。 「だから、ほら、見なさい。やっぱり『君主論』は悪だくみがいっぱい書いてある本なんだわ」  という意見も聞こえてくる。だが、私の見たところでも、女性という性は、確かになぐったり突っついたりする男によく従う傾向があるのではないのか?  ヤクザのお兄さんは極端な例としても、例えば、ボーイフレンドに頬《ほ》っぺたをなぐられたりすると、 「彼ったら、あたしのこと、なぐるくらい愛しているのよ」  なんて、ぜんぜん見当ちがいのところで感激したりする人がいる。この反対に、冷静で思慮が深く、めったなことでは手を握ったりはせず、いわんや押し倒したりすることなどけっしてやらない男は、 「彼って、なに考えてるのかわからなくて、気味わるいわ」  となって、あまりもてることはない。どうです、ちがいますか?  男性ならば、だれでもこういう現実にぴんと思い当たるところがあるから、 「運命の神は女である。だから運命を支配するには女と同じく、なぐったり突っついたりする必要がある」  と言われたとたん、つい�なるほど�と思ってしまう。ゆっくり考えてみれば、運命の神が女かどうか、だれにもわかりゃしない。少しも�だから�ではないのである。こういう�すりかえ�の技術は、さすが歴史に名を残す文人だけあって巧みである。  この一節は、平たく言えば�運命や女性を支配するには暴力がよろしい�という内容であって、マキャベリ自身に悪意があったかどうかは別問題として、こういう論理をことさらに高く掲げ、錦の御旗として利用したいむきには、この名文句はすこぶる好都合である。  こうしてどんどん拡大解釈をすれば、『君主論』の中には、現代人のモラルをさか撫《な》でにする重宝な金言名句がたくさんあるのだから、権謀術数の原典と言われるのも、あるいは仕方ないのかもしれない。  人は手より眼で判断する  もう少しマキャベリの言葉を引用すれば、 「人間は総じて手よりも眼で判断するものだ。つまり、見ることならだれでもできるが、触れることができるのは、ほんのわずかな人たちである。見かけがどんな人物か知ることはだれにでもできるが、中身がどんな人物か、それを知る者はいない。人間の所業は白洲《しらす》で根掘り葉掘り調べられるものではないから、多くの人の�見たところ�が真実となる。だから、君主は人を欺《だま》し戦争に勝ち、国を維持することにのみ熱中すればいいのであって、君主の本当の人格がどうかなどということは問題ではない」  こういう真正直なことをすっぱ抜くから嫌われるのである。  みなさんの中にも、いわゆる有名人と称される人と直接接触する機会を持ち、 「あれ? 世間で言われている印象と大分違うなあ」  と思ったことのある人も、きっと大勢おられるにちがいない。差し障りがあるので、ちょっとここで実例をあげるわけにはいかないけれど、営業用の顔とプライベートの顔とはずい分違うものなのだ。プライベートの顔がいくらすばらしくても、営業用の顔がチャーミングでなければ、この世で有名人になることはありえない。このへんの事情がよくわかれば、 「人間は総じて、手より眼で判断するものだ」  とは、まことに重宝な名言。これを覚えておけば、中身より見せかけだけを取りつくろって、この世で大成するために、きっと役立つにちがいない。 「山の様子を描こうとする者は、低い平地に立って山や高原を眺める必要があるし、また平地を知るためには、高い山に立たなければいけない」  これは『君主論』の序文にある文句だが、これだけでは何を言っているのか、意味はよくわからない。  マキャベリの『君主論』は、イタリアの大貴族メジチ家の当主ロレンツォに捧《ささ》げられた就職論文のようなものであり、�私を採用すれば、こういうすばらしい助言をいたします�という見本帖《みほんちよう》である。しかし身分のそう高くないマキャベリが�君主の道�などを説くと、 「無礼者! お前たちになにがわかる。首を斬《き》れ」  こんなことを言われたら間尺にあわない。そこでお得意のレトリックを用いて「高い山を見るには低い平原に立つのがよい」と言って、身分の低い自分が君主道を論ずる理由を正当化し、ついでに君主はあくまで君主らしく「高いところから平原を見おろし、かりそめにも平原まで低くおりてくる必要はない」と、『君主論』の基本的なテーマを述べたのである。この文句は、平社員が上役を批判するときに用いることもできるし、また、平社員の実情をよく知らない上役が、自己弁護するためにも利用することができる、かもしれない。 『君主論』はよくその名を知られた本ではあるが、実際に読んだ人は少ない。だれもが読みもしないで、なにやらすばらしい悪だくみの方法がいっぱい書いてある、と(あまり正しい判断ではないが)信じている。  そして、悪だくみというものは、みんな口先では蛇蠍《だかつ》のごとく忌み嫌っているけれど、自分がそれを行使する分にはそう嫌悪すべきものではなく、内心あこがれさえ持っているものなのだ。特に現代は�悪�の強さがしみじみと実感されている時代である。だから、 「マキャベリも言ってるけれど……」  の一言で、とたんに権謀術数の秘伝を明かされたような気分になる。話し手は、鋭い知性の持ち主ではないかと恐れられる。詭弁家はこういう霊験あらたかな古典を、ちらりとのぞかせるすべを忘れてはならない。 �マキャベリも言っているけれど�食うか食われるかの世の中では「慕われるより恐がられるほうが、はるかに安全」なのである。   狂気の宣伝魔◆ヒトラーの殺し文句  その洗脳工作  人間の判断力をつかさどるのは大脳の新皮質と呼ばれる部分である。この新皮質を構成する細胞はほかの細胞と異なり、古くなったからと言って取り替えができない。一生大切に使ってやらなければいけない。  そのため、大脳新皮質は疲労すると、すぐに休みたがる。自己防衛上これはいたし方ない。  疲労とともに働きがにぶくなり、そんな状態のときに、リズムやアルコールの影響を受けると、とたんに新皮質は仕事をさぼりだす。したがって判断力が低下し、誘惑にのりやすくなる。  大脳生理学者の時実利彦氏が「ヒトラーはナチズムを広めるために、勤め人が夕方、仕事に疲れた頭をかかえて帰る途中をつかまえ、街頭演説をぶちまくったが、これは大脳生理学的にみて見事な洗脳工作であった」と書いていたのを記憶するが、ヒトラーが大脳生理学の原理を知っていたかどうかはともかく、経験的にその効果を知っていたことは多分間違いあるまい。  ヒトラーは、大衆の理性的判断などというものを少しも信じていなかったし、大衆の理性によって政治が動くとは少しも考えていなかった。  独断でも詭弁でもかまわない。精力的な宣伝活動と世論操作をおこなって大衆を駆り立て、動かし、一人の天才の判断によって政治を支配すること、それだけが彼の目的であった。  例えばヒトラーは『わが闘争』の中で、大衆に対する宣伝は�絶対に主観的で一方的�であるべきことを説き、 「ある新しい石ケンを宣伝するポスターに、ほかの石ケンも同じように�良質�であると書いたら、人々はあきれて頭を横に振るだろう。政治の広告も事情は全く同一である。宣伝の目的は、いろいろな権利についてあれこれ配慮することではなく、まさに宣伝によって代表するそのものを、ひたすら強調することにある。宣伝は、大衆に理論的な正しさを教えようとして、真理を客観的に述べる必要は、さらさらない。第一次大戦の責任について、イギリス人は�その責任はすべてドイツにある�と主張する。これに対して�ただドイツだけがこの勃発《ぼつぱつ》に責任があったわけではない�などと、消極的で中途半端な反論をするのは、宣伝の効果という観点からいって決定的に間違いであった。たとえ事実がその通りであっても、この責任はすべて敵に負わせるのが正しかったのだ。  こういう中途半端な宣伝の結果はなんであったか?  大衆は外交官でもなければ国際法の学者でもない。理性的判断の乏しい、すぐに動揺して疑惑や不安に傾きがちな、人類の子どもたちなのだ。民衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮よりも、むしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるといったふうな、女性的傾向を持つものなのだ」(第六章)  戦争という特殊な情況を考えれば「悪いのはみんな敵国であり、つねに正義はわがほうにあり」と宣伝することは一応許されるかもしれない。しかし、ヒトラーの政治的宣伝の原理は、平時でも右に述べたことと大差はない。いや、ヒトラーはドイツ民族が世界を制覇することが、人類の輝かしい目的だと堅く信じていたのだから、それが達成するまではすべての日々が戦争であった。  したがって、その日まで——つまりほとんど永遠といってよいほど長い期間にわたって、大衆を�主観的に一方的に�導いていけば、それでよいと考えたわけである。ことの是非はともかく、このような考え方に徹して大衆を宣伝教唆すれば、ナチスの狂気じみた行動に駆りたてうる、という歴史的事実は、宣伝、デマ、詭弁、謀略などの力の恐ろしさを語るための一つの証拠となるであろう。  世界一高級な民族の中身  ヒトラーの思想の根本にあるものは、アーリア人種(その中の特にドイツ民族)が世界で唯一の文化的創造的民族である、という考え方である。なぜアーリア人種のみが優秀なのか? これはヒトラーにとってはわざわざ説明を要しないほど自明のことだったろうが、さりとて、まるっきり説明をせずに通り過ぎるのは気がひける。その点『わが闘争』の第十一章で、アーリア人の優秀性を書いているくだりは、なかなかおもしろい。  ヒトラーはまず、「生存への意志は、主観的に見れば、どんな人種も(どんな生物も)同じように大きいのだが、その意志を具体化する形式が異なっている」と説く。  やさしくいえば、生きとし生けるもの、みんな生きながらえたいと思っているが、そのためにどういう方法を考えるか、そこのところが違っている、ということだ。  一番原始的な生物は、ただ自己保存の衝動だけで餌《えさ》を求め、自分の生存のためにだけ闘争する。ところが生物が高級になるにつれ、雄と雌との共同体が成立し、それに子どもが加わり、他のものの生存のために、自分を犠牲にする精神が見られるようになる。地上のもっとも劣等な人間は、この犠牲的精神が、家族の範囲を越さない程度のものである。つまり家族のためなら自己犠牲もいとわないが、より大きい共同体のために自己犠牲をおこなうほど意識が高まっていない。  民族が優等になるにしたがい、より大きな共同体を建設するために、個人的な所有や生命を犠牲にしようという意識が高くなり、アーリア人種において、あらゆる能力を共同体に喜んで奉仕させようという、その程度が最大となる。アーリア民族は知的天分がすぐれているばかりではなく、こういう犠牲的精神を持っているからこそ、優秀なのである。そしてヒトラーは�殺し文句�的決断を下す。 「自我の関心を共同体の繁栄のために押し殺し、犠牲にするという信念は、人類文化を築く第一の前提条件である。創始者はいつもほとんど報われることはないが、その信念によってのみ後世に豊かな繁栄をもたらす偉業が完成される。(ドイツの)あらゆる労働者、農民、科学者、公務員たちは、自分たち自身は相変らず幸福にもなれず、裕福にもなれず、日々営々と働いている。だが、たとえ自分ではその深い意味に気がついていなくても、みんながこの高い理念の担い手なのだ」  吹きこまれた名調子  私など素人の考えでは、ドイツ人が�より大きい共同体を建設するために犠牲になる�ことが大好きな優秀民族ならば、ユダヤ人を含めた、全世界的共同体を作るため奮励努力してくれればよかったのに、と思うけれど、ヒトラーのような天才的政治家ともなると、ぜんぜん考え方が違うのであって、 「もちろん全世界的共同体を建設するさ。しかしそれを作るためにはユダヤ民族なんか百害あって一利なし。不倶戴天《ふぐたいてん》の敵なんだ。だからまずこの敵を地球上から絶滅させることが急務であり、そのためには、普通の人間ならとても我慢できない残酷な行為も、あえて我慢するのがドイツ人のすばらしい犠牲的精神なんだ」と……平たく言えば、ヒトラーの考えはこういうことになるのだろう。  だが、それはともかく、ドイツ国民に対して、 「君たちは優秀なんだ。その理由は、大きな共同体を作るため犠牲になる精神を持っているからだ。生活が苦しいのは、それだけ強い犠牲的精神をもって耐えている証拠だ」  と言うのは、よく仕組まれた詭弁である。  ここで言う�大きな共同体�はドイツ民族がお山の大将になる、いわゆる�第三帝国�なのだから、他の民族から見ればちっとも優秀さを誇る理由にはならない。自分たちで自分たちを賞讚する宗教を作り、その宗教を信ずるから自分たちは優秀なんだ、と言っているのと同じである。  ただ、ドイツ人にしてみれば、共同体建設に参加するのが自分たちの優秀性の証拠となり、共同体の理念が自分たちの優秀性を保証してくれるのだから、大脳皮質の弱ったときに、名調子の演説で吹き込まれると、ついついこの論理を信じたくなったであろう。  そしてひとたびその渦中に身を置けば、深入りすればするほど�ドイツ人はこんな世界的な企てを果たすのだから優秀だ。この思想はそれを保証しているのだから真理だ�となって、ますます深入りする仕掛けになっている。  ヒトラーの理論が、独断と詭弁と歪曲《わいきよく》に満ち満ちていたことは、すでにいろいろな角度から指摘されているし、この問題はとうてい本書の数ページで扱うテーマでもない。彼の宣伝の理論を紹介することにより、ヒトラーが目的のために詭弁の利用など少しもためらわなかったことを述べ、それからヒトラーの思想の中核をなす�ドイツ主義�の詭弁性を指摘して、この項を終ろう。 [#改ページ]   コーヒーブレイク㈸  スナックバーの片隅。オレンジ色のシャツを着た男と、紫色のブラウスを着た女が語りあっていた。男がバーテンに向かって、 「ブルームーンを作ってくれないかな」  男はバーテンが差し出すブルームーンのおぼろな紫色を見つめていたが、やがて女の胸もとに目を落として言ったものだ。 「ケイちゃん、君を飲み干すんだぜ」  彼女のブラウスと同じ色の液体が、彼の喉《のど》をピクピクと動かして体の中へ入っていった。男は女の手を静かに取り、自分の厚い胸板にあてて、 「ほら、君がここにいる。俺のからだを熱くしている」  それから男はまたバーテンに向かって、 「彼女には、スクリュー・ドライバーを」  鮮やかなオレンジ色の液体が、彼女の白い喉を通っていくと男は言ったものだ。彼女の胸にそっと手をそえて、 「わかる? 俺がここにいるんだ」        *  夕暮れ。だれもいない海。波の端を染めて夕日が落ちる。埠頭《ふとう》に車を停めて、 「ジューッて、音が聞こえるだろう」  女が耳を澄まして、 「聞こえないわ」 「いや、聞こえる」 「聞こえないわよ」 「そうかなあ。夕日が海に落ちる音がしたと思ったんだが……」 「まさか、ウフフ」 「よし。あの夕日が落ちるところまで行ってみようか」  ハンドルを握って車を走らせる。  行けども、行けども、夕日の落ちるところまではたどり着けない。 「まだかなあ、まだかなあ」  男はしきりに首をかしげる。夕日が落ちれば、夜の暗いとばりが二人をつつむ。 「ああ、こんなに来てしまった。もうとても帰れない……」        *  星くずは夜空の宝石たち。デートの帰り道を仰いでしめやかに語ろう。 「星座の名前を知っている?」 「オリオン、アンドロメダ、大熊座、カシオペア……」 「みんなギリシャ神話だな(さも思い出すように)むかし、むかし、アポロって神さまがいたんだよ。ダフネという美女に恋をしたんだけど、ダフネはおぼこだから、なかなかなびかない。だからアポロはダフネを追っかけて、強引に手ごめにしようとしたわけ」 「それで?」 「でもアポロの手がダフネの肩に掛かったとたん、ダフネはぱっと月桂樹に変わってしまった。それからというもの、アポロはいつも月桂樹を頭にかぶるようになったんだ」 「そうなの」 「でも、女って、どうして男が追いかけると逃げるのかな。君も僕が追いかけたら、逃げ出すかい? 肩に手が掛かったら? (と肩に手をのせる)あれ? 君も月桂樹になるのかな、身を堅くして(と抱く。そのままややあって)……いつまでも離さないぜ。アポロの月桂樹のように」 [#改ページ]   6 試作・なぜなぜ詭弁術●私のやぶにらみ論  1——露出的傾向はなぜ民主的か  女性用水着のモットーは、ここ数年来ずっと�より薄く、より小さく�であった。もはやそれも限界に来て、モノキニなどというビキニの下半分だけの水着もちらほら見られるようになっている。  水着の露出化が進むにつれ、タウン・ウエアのほうも、年々サービスがよくなる。ミニスカート、スケスケ・ルック、ホット・パンツ、トップレス。さらに、ホット・スカートというニュールックもあって、このスカートはもはやこれ以上どうにもならないぎりぎりの線らしい。  世の中には、まだまだ頭の堅い人がいて、女性が太腿《ふともも》をあらわにしたり、バストまる見えのブラウスを着たりすると、ひどく�はしたない�と思ったりするらしいが、これは大変な心得ちがいというもの。女性の露出的傾向は美の�民主化�であり、自由平等の精神にもよく適っている。  昔の人は�明眸皓歯《めいぼうこうし》�と言って、とかく顔の美しさだけを問題としたが、これは明らかにエリート化の思想であって、東大卒だけを優遇するに等しい。  顔は狸のあかんべえ、おかちめんこで印刷が少々ずれているけれど、ほかに美しいところを持った女性はたくさんいる。脚がすんなりと伸びて美しい人もいれば、バストのふくらみが、えも言われずチャーミングな人もいる。おへそのぐあいが妙にノーブルな女もいれば、ヒップのえくぼのかわいい娘もいる。  それぞれの長所に対して公平にチャンスを与え、すべての女性がみんな美人となるように考えるのが自由平等の精神ではないか。  十六世紀フランスの文人ブラントームによれば、本当の美女は次の三十の条件を満たさなければならないという。  三つは白い、肌、歯、手。  三つは黒い、瞳《ひとみ》、眉《まゆ》、まつ毛。  三つは赤い、唇、頬《ほお》、爪《つめ》。  三つは長い、身体、髪、四肢。  三つは短い、歯、耳、足首から先。  三つは広い、胸、額、眉と眉の間。  三つは狭い、口、腰、足首。  三つは太い、尻《しり》、太腿、ふくらはぎ。  三つは細い、指、首、鼻。  三つは小さい、乳首、鼻孔、頭。  自分の恋人や奥さまを思い浮かべて点数をつけてみると、失礼ながら、みなさん三十点満点で十五点以下。がっかりした人も多いかと思うが、そもそもこのリストは、落胆するために存在するのではない。むしろこれを見て女性の長所を捜すためのものなのだ。  どんな女性でも、このチェック・リストで調べれば、一つや二つ、いや、五つや六つ、十や十一、いいところがある。それを見つけ出してほめてあげるのが、自由平等・民主主義の精神にも通ずることになるのである。 「君、眉と眉の間が広くてかわいいよ。ふくらはぎもふっくらしてすばらしい」 「ほんと?」 「うん。乳首も小さいし……あ、大きくなった」  こういう評価が自由にできるためには、当然それぞれの部分が十分|人眼《ひとめ》に触れるような服装を一般化しなければなるまい。  露出的傾向が民主主義の精神にかなうのは、このような理由から明らかである。もっともどんなに露出的になっても、全裸が女性のファッションとなることはありえない。ファッションはつねにファッション・メーカーが作るものであり、全裸はメーカーの倒産を意味する。 �より薄く、より小さく�のモットーがゼロに収斂《しゆうれん》することは、とうていないだろう。民主化の波も商業主義の前ではおのずと限界を持つものである。  2——新潟県人はなぜ首相に適さないか  もしあなたが一日働いて五千円の収入をあげる労働者だったとしよう。そこへ知人がやって来て、 「今度の日曜日あいているんだろう?」 「うん」 「アルバイトやらないか。ペイは四千円だ」  こう言われたらどうするか?  その時の懐《ふところ》ぐあいやアルバイトの種類によって答は大分違ってくるだろうが、一般的な問題として考えてほしい。 「日曜日は休む日だ。いくらお金をもらっても働くのはいやだ」  こう答える人が最近は増えているようだが、これはレジャー型の人間。フランス人はまず例外なくこう答える民族である。 「俺の労働の価値は一日五千円だ。それ以下で働くのはどう考えてみても損だ。五千円以下では絶対に働かない」  と答える人もいて、これは冷静で、合理的で、理屈にうるさい人間である。日本列島を全国的に見渡せば、長野県人にはこういうタイプが多い。なにしろあそこは日本一の教育県。野沢菜を食べながらじっと動かず、日がな一日議論していても飽きない県民性である。  ところが、 「日曜日はどうせ一日中家でゴロゴロしているんだから一銭にもならない。四千円でも手に入れば、それだけ儲《もう》けじゃないか」  と思う人もいて、この代表例はさしずめ新潟県人である。  新潟県人は天下に隠れもない働き者ぞろい。理屈を言うひまがあったら、まず先に体を動かす。これはこれでもちろん一つの美徳であり、レジャーなんかそっちのけ、多少不合理な労働条件でもとにかくどんどん頑張って、いつの間にやら小金《こがね》を残してしまう。  昔、越後の国からお江戸まで、冬の出稼ぎが大勢やって来たけれど、これは貧乏だったせいばかりではない。  越後は平野も広く、当時の水準からいえば、絶望的に貧しい地方ではなかった。出稼ぎに行ったのは、雪の季節にぼけっとしていてはもったいない。少しでも働いてお金を稼ごうと思ったからであり、日曜出勤の思想と一脈相通じる。  人それぞれ、いろいろな考えがあっていっこうにさしつかえないけれど、総理大臣が新潟県人となると、少し気掛りである。  新潟県人には、金を稼ぐチャンスが多いということは決定的に�いいこと�なのだ。ぼけっとしていたり、一日中議論をしていたりするのは、あまりその価値を認めることができない。  かつて田中角栄さんが首相であった頃、私は思ったものである。GNP世界第二位、日本列島改造、インフレだって、じっと我慢のデフレよりは活気があっていい……私は、田中総理の郷里にほど近い長岡市に、十数年も住んでいたことがあるので、 「ああ、この人にはレジャーや福祉や怠け者のことは、本質的に理解できないだろうな」  と考えた。  どんなにレジャーや福祉のことを考えようと思っても、これは音痴に歌を作れというのと同じこと。本人はずいぶん努力したのだろうが……。結果はあまり思わしくなかった。  3——プロ野球はなぜピーゴロで走らなくてよいか  プロ野球の選手がピッチャーゴロを打って熱心に走らないと、解説者は鬼の首でも取ったように声をはずませて、 「ああいう態度はいけませんねえ。プロなんですから、力いっぱいやらなければ……」  とおっしゃる。そういう当人も現役選手時代、いつも力いっぱい走っていたとは思わないけれど、そこは、それ、評論家とか解説者とか呼ばれる人たちの特権。なぜか自分のことは棚にあげてしゃべってよい習慣になっている。めくじらは立てるまい。  だが、プロ野球の選手がピーゴロを打って全力疾走しないのは、いちいちとがめられるほど、悪いことなのだろうか。  一塁ベースまでの距離はたかだか二十数メートル。これくらいの距離を全力で走ったからと言って、次の回の守備に影響があるようでは、プロのスポーツマンとして情けない。  それはその通りだが、さりとてピーゴロを打ってくそ真面目に走っている選手を見ると、ひどくいい子ぶっているような気がして、私なんか少し気味がわるくなる。へそ曲がりなんですね。  サラリーマンの中にも、よくこういうタイプの人がいる。肝心なところでは何一つ役に立つことはしないくせに、どうでもいいことだけは向きになってする人が……。  たとえば、会社に来てもぼけっとしているだけなのに無遅刻・無欠勤、ストの日も朝まだき星を仰いで線路を歩いて来たり、あるいは会議中に何一つましなことを発言するわけでもないのに、他人の話の相槌《あいづち》だけは熱心に打ってみたりして、こういう手合いは道徳教育のたしにはなるかもしれないが、なんら会社の利益には結びつかない。  プロ野球はその名の通りアマチュアではないのだから、そんな末梢的《まつしようてき》なところで妙に律義になる必要はさらさらない。肝心なのは、ピーゴロなんか打たないこと。せっかくのチャンスにピーゴロなんか打ってしまったら、それだけでもう決定的に駄目。 「阿呆《あほ》! ドジ! まぬけ! 死んじまえ」なのであって、それからあわてて熱心に走ろうと走るまいと、そんなことは取るに足りない低次元の問題ではないか。それがプロというものでしょう。一塁まで一生懸命走るだけなら、私だってちゃんとできるのである。  プロとは結果がすべての世界。サラリーマンだって、プロを自認する以上同じことなんだけれど、現実のサラリーマンはせいぜいセミプロの世界。ピーゴロでも全力疾走すればほめられるところもあるようですね。  4——コウノトリがなぜ赤ん坊を運ぶと思うか  人間の赤ん坊はどこから来るかと言えば、これはコウノトリがえっさかえっさか運んで来るのである。男と女がベッドで重なりあって……とんでもない。そんな淫《みだ》らなことがこの世にあっていいものか。コウノトリが風呂敷包みに赤ん坊を入れ、口ばしにぶらさげて運んで来るのである。�ダンボー�の映画で見た通りだ。  私は根っからの現実主義者だから、残念ながらこういうロマンチックな考えを持つことはできない。だが、ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンのように、子どもの頃に聞いたトロイの�神話�を信じて、信じて、信じ抜いて、とうとう最後にトロイの遺跡を発掘して、神話を歴史に塗り替えてしまった人もいる。コウノトリの伝説を信じる人がこの世にいてもおかしくはない。  いや、おかしくないどころか、私が調査したところでは、コウノトリが赤ん坊を運んで来ると信じている人は、日本にもずい分たくさんいるようだ。もちろん子どもたちの話ではない。れっきとした大人の中にも大勢�コウノトリ赤ちゃん運搬説�の信者がいる。おや? あなたは�まさか?�と思っていらっしゃる。鼻でせせら笑っていらっしゃる。だが、あなたも案外コウノトリを信じている人かもしれない。  それと言うのは、この日本国では一年間に公式に八十万件の人工中絶がある。闇《やみ》から闇へ流されるのを含めれば、その数二百万件と言われている。原則的には一件につき二人の関係者がいるわけだから、四百万人は関係者となる計算である。  この中絶の大部分は「赤ちゃんなんかほしくないわ」という理由で抹殺されるのであり、時にはせっかくこの世の空を仰いだのに突如コインロッカーに預けられたりする子もあるらしい。  これはどういうことなのだろう? 「セックスをやれば赤ちゃんができる」という理屈が本当によくわかっているならば、セックスの後で子どもができても驚くはずはぜんぜんない、と私は思うけれども、それがさも天変地異でも起こったようにびっくり仰天して、 「ショックだなあ。早くなんとかしろよ」 「困ったわ。絶対こんなはずじゃなかったのよ」  悩んだすえ、大あわてで病院へ駆けこむ。  これが年間二百万件、四百万人となると、やっぱりこの人たちは�赤ん坊はセックスなんかとまるで関係なし。コウノトリが運んで来る�と信じていたのではないか、こう推定せざるをえない。  日本人はとかく身近な現実にばかりこだわって、ロマンチックな空想をえがく才能にとぼしいと言われているけれど、コウノトリの物語を信ずる人が、一年間に四百万人もいるとなると、この認識はよほど改めなければなるまい。  5——水の犠牲者がなぜもっと多いほうがよいか  あなたは泳げるか? 泳げれば結構。五体満足の男が、水に落とされてアップアップ、まっ青になってもがいているようでは情けない。 「それで……どこで水泳を覚えたか?」  こうたずねると、当節はプールで覚えた人ばかりである。これが私は気に入らない。  昨今はどこの小・中学校にもプールがあって、夏ともなれば�水泳教室�が開かれる。運動神経のあるやつもいるし、まるで�運痴�のやつもいるけれど、小学校を終える頃までには、クラスの九十%くらいはなんとか泳げるようになる。それはそれでいいのだが、残念なことにプールで覚えられるのは�泳ぐ�ことだけ。プラス・アルファがない。  手前味噌で恐縮だが、私は信濃川で水泳ぎを覚えた。  川っていうものはですね、当然のことながら流れがある。うっかりしているとさっと本流のほうへ引き込まれる。流れるプールとはわけが違って、真実恐ろしい。そのうえどこを見たって�水深一メートル�なんて、そんな親切なことは書いてない。背が立つと思っていても一歩先はがっくり深くなっていて、危険このうえない。�あっ�と思ったらこの世の終わり、救助員なんかどこからも走って来てくれない。親には内緒にしていたけれど、「いよいよ俺の一生も終わりか」と思ったことが二度ばかりあった。  これを考えればプールは安全もいいところ。よほどの間抜けでなければ溺《おぼ》れ死んだりしない仕掛けになっている。つまり海や川で覚える水泳は、いつだってのるかそるかのぶっつけ本番。おかげで流れの見方、大自然に対する警戒心、いざというときの冷静さ、ふん張り、いろいろなことを一緒に会得する。これがその実、貴重なことなのである。そりゃ運の悪いやつや、ドジを踏むやつはこの世とオサラバとなり、お母さんは嘆き悲しむだろう。  本当のことを言えば、水泳ぎのことなんかどうでもいいのだ。水泳はプールで覚えればそれでいいけれど、気になるのはこの頃の世の中、なにかと言えば安全第一、過保護第一。�肉を切らして骨を切る�という考えは激しい拒否反応に出会う。いつも安全が保障され、いざとなれば助けが飛んで来てくれそうな、そんな情況の中に首までどっぷり浸っていては、たいしたことができるはずがない。  プロ野球でも練習場でだけスピード・ボールをビュンビュン投げて、グラウンドでは簡単にノック・アウトという投手がいるけれど、あれは�いつも本番�の心意気が薄いからだろう。  志を立ててなにかをやる以上、本物に挑まなければ意味がない。終局的に安全が保障されている�革命ごっこ�をやった人はたくさんいたようだが、本当の革命はいつのことやらわからない。みんなプールで泳いでいるだけなんだ。  水の事故が少ないのは結構なことだが、一面にがにがしいことでもある。  6——人間のモラルにはなぜ二種類あるか 「人間同士助けあい、協力しあって生きていこう」というモラルがあるかと思えば、「他人に迷惑をかけず、独立して生きていこう」というモラルもある。  どちらも立派なモラルだが、この二つ、中身を吟味すれば、正反対のことを言っているのではないか。  世の中には、ときおり聖人君子もいるから、個人的な心がまえとしては「他人に迷惑をかけず、しかし他人から望まれれば協力の手を差しのべよう」という、二つのモラルを結合したような状態も可能ではあるけれど、日常生活の中でどちらのモラルに重きを置いて生きているかとなれば、おのずと人間は二つのグループに大別することができる。  おしなべて金持ちは「できるだけ他人に迷惑をかけない」というモラルの支持者。  貧乏人は「仲間同士できるだけ助けあっていこう」というモラルの持ち主である。  これは、まァ、当然のこと。金持ちが本気で助け合いばかり実践していたのでは、先行きが俄然危なくなってくる。  トルストイのように、全財産投げ出して家出をする人なんか滅多にいるものではない。一方、貧乏人は助けあいを主唱しても、得るものこそあれ失うものはそれほどない。�万国のプロレタリアート、団結せよ�である。  幸か不幸か、人間一生のうちに、そうそう金持ちになったり、貧乏人になったり、急激に変化するものではないから、自分の一生に限って言えば、どちらか一つのモラルをかたくなに守っていればそれでよし。主観的にはこれこそ万人のモラルと信じ込んでいて、いささかも不都合はない。 �万人のモラル�と信じていることでも、よくよく考えてみれば、自分の立場の反映でしかないことは世の中によくあること。  ストライキの時に世論が�迷惑派�と�協力派�に分かれるのもこのせいであって、�ドン・キホーテ�のサンチョ・パンサの意見を借りれば、 「オラのじいさまも言っていた。世の中には二種類の人間しかいねえ。持てる者と持たない者と……」  モラルも当然二種類あって不思議はない。その妥協点がなかなか見つからないことは——もう一つ古典の中から名言を借用すれば——シェークスピアは�ジョン王�の中で言っている。 「そうだ。俺は乞食をしている間は、金持ちだけが罪悪だとわめくだろうし、金持ちになれば、乞食だけが悪徳だと叫ぶだろう」  ずっと昔から人間のモラルはこういう仕掛けになっているのである。  7——一月生まれはなぜ親不孝になるか  当節流行の占星術によれば、一月生まれは山羊座か、水瓶《みずがめ》座に属する。山羊座や水瓶座がどういう運勢を持っているか、果たして親不孝かどうか、私は知らない。手元にある占星術の本を読んでみても、金を儲《もう》けるとか、愛情が深いとか、そんなことは書いてあるけれど、両親との関係についてはなにも書いてない。  さもあろう。一月生まれの子どもが将来親を馬鹿にし、兄弟をねたみ、人生に対してとかくひがみっぽくなるというのは、現代科学が広く普及した結果、生じた問題であって、こればかりはノストラダムスも予測できないことであった。  まず一月は子どもを生むのにはよい月かどうか? 答は当然�ノウ�である。どの育児書を見ても「寒い盛りの出産はよくない」と書いてる。風邪は引きやすいし、おしめの洗濯は大変だし、一月生まれでは年末調整で税金の返還を期待することもできない。ヘソクリ獲得のチャンスを逸するのは馬鹿なことだ。  これが少し昔のことならば、子どもは天のさずかりもの。一月生まれだろうが、四月生まれだろうが、あれこれぜいたくは言えなかったが、今は計画出産の時代である。なにも好き好んで、一月に生む親はいないと見るのが正しい。  では、どうして一月に生まれてしまったのかと言えば、大部分は親の�オー・ミステーク�である。作ろうと思って作ったのではなく、漏れたり、ゆるんだり、要するにうっかりしていたのである。一月生まれの子を持つ親はきっと身に覚えがあるはずだ。  べつに、作ろうと思って作ったからいい子ができるというわけではないけれど、子どもにしてみれば、 「ああ、俺はついうっかり間違ってできたのか」  と思うことは、あまりよい気持ちのものではない。性知識が広く行きわたっているので、子どもはいずれことの真相を自分でわかってしまうのだ。 「お兄ちゃんは、ちゃんと父さん母さんが初めから作ろうと思って作った子なのに、僕は余計ものなんだ」  とわかれば、ついついひがみっぽくもなるし、親のほうとしても、 「おまえは、どうもそそっかしいところがあっていけない」  と叱《しか》っても、子どもがキッと唇を噛《か》んで、 「お父さん、お母さんだって、うっかり作っちゃったんじゃないか。そそっかしいのは遺伝だよ」  と反論されれば二の句もつげず、子どもの反抗を許してしまう。  かくて一月生まれの子は、親を馬鹿にし、兄弟をねたみ、人生にひがみを持つようになるのである。  えっ、ひどい�こじつけ�だって? だが、占星術や姓名判断だって、もっとひどい�こじつけ�をやっている。お子さんの生まれ月を占ったり、名前をつけるときに字画数を調べたりしたことのある人は、この珍説を笑うことはできないはずである。  8——週刊誌はなぜ低俗でよいか  週刊誌を考えるとき、それがどこで読まれるかということを忘れてはいけない。  マホガニーの家具を飾った、豪華なリビングルームで週刊誌が読まれるということは、まあ、あまりない。冷房のきいたマイカーの助手席に美女をはべらせ、ハンドルを握りながら週刊誌を読むことは、心理的にも能力的にもありえない。  週刊誌が読まれるのは、もっぱら満員の通勤電車である。むっとする人いきれの中に、さながら家畜のようにぎっしりつめこまれ、サラリーマンは毎日一時間も、二時間もじっと我慢の子にならなければいけない。週刊誌はこういった環境を地盤として咲いた文化なのである。  ある日ある時、新聞社系の�良心的�週刊誌の記者がつくづく述懐したことがあった。 「俺たちはちゃんと取材をしてほぼ確実なことしか記事にしない。ところが出版社系の週刊誌の中には、ろくな取材もしないで、適当にでっちあげて書くのがいっぱいあるんだ。結果だけ見ると向こうのほうが、ずっと突っ込んだ取材をやったみたいに見えるから読者は喜ぶ。したがって部数も伸びる。連載小説だって、向こうは完全なポルノだよ。良識を疑うなあ」  しかし、これはまだまだ考えがたりないというものだ。  あるサラリーマンがこの話を聞いて、 「そりゃ、あんたの雑誌のほうが、多分本当のこと書いてるだろうってことは、俺たちにもよくわかるよ。しかし、出版社系の雑誌のほうが断然おもしろいからなあ。べつに俺たち、真実を求めてるわけじゃないんだし……」  記者殿、がっくりと首を垂れた。  もし良識というものを是が非でも問題にしたいならば、なによりも先に考えるべきはあの満員電車のほうである。家畜並みの電車の中で人間的なまともな思考を期待するのは無理な話だ。くそおもしろくもない現実なんか、なまじ思い出させられてはいら立ちがますますひどくなる。サラリーマンが求めているものは、一、二時間とにかく現実を忘れ、混雑を忘れ、気がついた時には目的地に着いているという、いわば�麻薬的な�効果なのである。  さりとて麻薬を用いることもできず……せめてその代償として麻薬級にセンセーショナルな記事か、ギャンブルの予想か、ポーノグラフィか、論より証拠、よく売れる週刊誌を見れば、この三つがちゃんと備わっていることがわかる。  ある外国人が日航機の中で、上品なスチュアーデスから日本の代表的週刊誌を渡され、グラビアの露骨さに愕然としたという話を聞いたことがあるが、それは週刊誌の読まれる環境を知らないからである。  最初から現実を忘れるためのフィクションとして読むのだから、おもしろくてセンセーショナルなものが受けるのは当然である。残念ながら、読者はそう熱心に良識ある真実を求めているわけではない。こういう読み方をする限り、嘘八百だってほとんど実害はない。もし実害があるとしても、その責めは国鉄総裁とか運輸大臣とかが負うべきものなのである。  9——民主主義はなぜすぐれているか �三人寄れば文殊《もんじゆ》の知恵�と言う。  文殊というのは釈尊の高弟で、知恵をつかさどる菩薩《ぼさつ》である。  人間が何人か集まって脳味噌を絞れば、この文殊菩薩に匹敵する知恵が浮かぶというのが、このことわざの意味だろうが、はて、このことはそう楽観的に行くものかどうか。私は根が疑い深いほうなのである。  たしかにたくさん脳味噌が集まれば、確率的にうまい知恵が出るのは当然だが、現実問題としてはそうすんなりとは行かない。せっかくいいアイデアが出ても、その他大勢のカボチャ頭が、それをいいアイデアと認めなければなんにもならない。少数意見として葬られてしまう。  カボチャ頭が世の中に大勢いることは、わざわざ例証することもあるまい。  こんなことを言い出したのはほかでもない。民主政治というのは、大変結構な政治形態のように言われているけれど、本当にそうなのだろうか、と、時おり疑問を抱くからである。  古代ギリシャの歴史家ポリビオスは、民主政治が簡単に衆愚政治になってしまうことをちゃんと看破していたけれど、これはそう邪険に扱われてよい意見ではない。�衆愚�とは馬鹿が大勢集まっていることだろう。日本国の政治なんて、言っちゃあ悪いが、有象無象《うぞうむぞう》が集まってがやがやがちゃがちゃ。そのうるさいこと、うるさいこと。時間はかかるし、金はかかるし、本当の卓見はいつの間にやら埋没されてしまうし、世の中にはせっかちの奴も大勢いるから、見るに見かねて頭に来て、ハイジャックが頻発《ひんぱつ》するのも無理はない。  だが、この民主政治には、ほかの政治形態にくらべて、絶対勝っている点が一つだけあるらしい。  それはどんなにひどい政治家が現われても、 「あいつは俺たちが選んだから仕方がないさ」  と、すなおにあきらめることができる点である。あきらめざるをえない点である。  自分たちと全然関係のないところから、なぜか急に変てこな為政者が現われ、 「余はなんじ等の王であるぞよ」  なんて宣言され、そいつに悪政をしかれたのでは、真実やりきれなくなってしまうけれど、天につばを吐いたのが自分たちなんだとわかれば、あきらめるよりほかに手がない。他人のおならは我慢できないが、みんなで芋を食ったのなら我慢しよう、という思想である。  三人寄って文殊の知恵が出るかどうか、そのへんはすこぶる懐疑的だが、この点だけは民主政治の長所として評価してよい。  だが、それにしても私は昨今はひどく悲観的な気分になることが多い。どうもおならの出やすい体質の人たちと同じ炬燵《こたつ》に入ってしまったのではないか、当分はまだまだ芋ばかり食べさせられるのではあるまいかと。  10——公務員はなぜ働かないか  お役人が勤勉でない——これはだれ疑うものもない日本の常識である。  もちろん、大勢の中には熱心に働く、奇特というか能天気というか、有能なお役人も何人かいて、この人たちのおかげでどうにかこうにか公務が進んでいるのだけれど、一方では箸《はし》にも棒にもかからないダラカン公務員が相当いることも事実である。なにしろ私は十数年間公務員をやっていたから、よくわかるんですね。  税金を払う身としては、こんなダラカンを大勢養っているのかと思えば、腹が立って腹が立って死にたくなるほど。霞《かすみ》が関に爆弾ドカーンと仕掛けたくなる気持ちもわかるけれど、まあ、あわてなさんな。人生なにごともそう短絡に判断してはいけない。  つらつら考えてみれば、人間だれもがみんな働き者というわけではなく、百人子どもが生まれれば、そのうちに何人かは生まれつきの怠け者がいてもいっこうに不思議ではない。  そこで、お立ち会い。どんな怠け者であっても、ひとたび日本人として生を享《う》けた以上、日本人として生き続ける権利がある。それが近代の文化国家のありがたさである。  日本国はなにしろ文化国家なのだから、当然政府としても怠け者が文化的で、かつ幸福な人生が送れるよう、いろいろ配慮してやらなければならない。  こういう怠け者を私企業に入れると、本人はたちまちノイローゼになって上役の頭をバットでなぐったり、周囲にサボタージュ菌をばら撒《ま》いて会社を倒産させたり、ろくなことが起きない。  さりとて、この怠け者を世の中に放り出して失業させておくと、泥棒をやったり、アル中になったり、ヒモになったり、爆弾を仕掛けたり、これまた社会不安を増大させるようなことばかり仕出かす。  そこで一見無駄のようであるけれど、なにやらもっともらしい公務などを与えて、適当に自己満足をさせ、適当に賃金を支払っておけば、根が怠け者のこと、積極的にどえらい悪事を働くということもなく、だらだら、ごろごろ大過なく人生を過ごして行くことになり、大局的に眺めればこれは結局国家と国民にとって大きなプラスとなるのである。  お役人が働くために役所に出勤し、その労働に対して賃金を受けていると考えるのは、発想の根底から間違っているのである。こういう間違った考えさえ捨てれば、あのダラカンぶりもよく理解できるし、無能ぶりもすんなりと納得がいく。  税金を払う側としてもいちいち目くじらを立てて、死にたくなるほど不愉快になることもなくなり、万事めでたし、めでたし、なのである。 [#改ページ]   コーヒーブレイク� 【あれ?】  豆腐製造株式会社の社長は困っていた。 「角豆腐一丁の大きさは、縦十センチ、横十センチ、高さ五センチ。一丁五十円として、一年間は値段も品質も変更しません」  と主婦連に約束したのも束の間。コストが二倍に跳ねあがりとてもこのままでは商売がやっていけない。  主婦連との約束を守りながら、なんとか安い豆腐を作る方法はないものか。社長のために詭弁的アドバイスを考えてあげてほしい。 【なーんだ!】  豆腐を見る角度を少しかえれば、約束通りの豆腐で、体積を半分にすることができる。  もっとも、こんなことで「はい、そうですか」と引きさがる主婦連ではないけれどね。  豆腐を見る角度を少しかえれば…? 【あれ?】  ×月×日 きのう兄さんと二人で魚釣りに行った。兄さんは僕よりずっと魚釣りがうまい。でも僕は、予定より半匹多く釣れたので、とてもうれしかった。  はて、「半匹多く釣れた」とは、どういうことなのだろう? 【なーんだ!】 �僕�は兄さんの半分だけ釣ろうと思って出かけたのだ。そして、兄さんの釣った魚の数が奇数ならば、なんの不思議もない。例えば、兄さんが七匹釣ったとしよう。七匹の半分は三・五匹。僕が四匹釣れば、予定より半匹多いことになる。 【あれ?】   a2- a2=a2- a2 左辺をaでくくり、右辺を因数分解すれば   a (a-a)= (a+a) (a-a) 両辺を (a-a)で割って   a=a+a   a=2a 【なーんだ!】  ほんのお遊びである。等式の両辺をゼロで割ってはいけない。これは数学の常識中の常識。因数分解までできる人が、こんな簡単なことでだまされるはずはないね。 【あれ?】  線は点の集まりである。次ページ左の図の長い線も無数の点からできている。今、長い線の上の一点aを取れば、それに対応する点が短い線のほうにある。bを取ればそれに対応する点nがあり、cを取ればoがあり、dを取ればpがある。つまり長い線の上のどの点を取っても、それに対応する点が必ず短い線の上にあるはずだ。となれば、長い線と短い線は同じ長さである……?  線とは点の運動の…? 【なーんだ!】  どう考えてもおかしい。屁理屈《へりくつ》である。だが、詭弁を打ち破るのは、なかなかむつかしい。  こんな説明はどうだろう。そもそも点というものは、鉛筆で書けば一定の面積を占めるが、本当は抽象的な概念であって、位置はあるけれど大きさのないものである。したがって、大きさのない点が同じ数だけあったとしても、二つの線の長さが同じとは言えない。  この説明で一応は納得がいく。だが、それでは�線は点の集まりである�という定義が嘘になってしまう。�線とは点の運動の軌跡である�とでも定義を言いかえれば、なんとかこの場はしのげるが、はて、これで完全な答になっているのか。簡単なことでも、詭弁にからまれると、説明はむつかしい。 【あれ?】  A図からB図に並べ替えたら、中央の二枡分面積が増えてしまった?  A図もB図も本当は…? 【なーんだ!】  A図もB図も本当は正しい三角形ではない。A図は左右の辺が内側に凹んでいるし、B図は外側にふくらんでいる。その凸凹の差が中央の枡目となって現われたわけ。もしA図やB図が正しい三角形ならば、切り離された大小二つの直角三角形は相似でなければならない。ところが直角を挟む二つの辺の比は大きい直角三角形では三対七、小さい直角三角形では二対五である。 【あれ?】   8÷4=10÷5 両辺を共通の約数でくくって   4(2÷1)=5(2÷1) 両辺を(2÷1)で割って   4=5 【なーんだ!】  たし算、引き算は共通の約数でくくっても元の数と変わらないが、掛け算、割り算の場合は、それができない。式の形が似ているので、つい錯覚をおこしてしまう。   〇 8+4=4(2+1)   〇 8−4=4(2−1)   × 8×4=4(2×1)   × 8÷4=4(2÷1) 【あれ?】  次の地名のうち共通点がないものを二つ選んでください。  三重、東京、静岡、岡山、青森、富山、福岡。 【なーんだ!】  これはある一流大学の社会科入試問題なのだ。そして驚くなかれ、その正解は静岡と福岡で、この二つだけが左右対称でない、というのがその理由。これが試験問題となると、巷間よくいわれる「キャバレー、バー、酒場にあってクラブにないものはなにか。正解は�バ�の発音」なんていうなぞなぞもりっぱに入試問題になりうるのかな。つらいなあ!