TITLE : 異形の地図 異《い》形《ぎよう》の地図 阿刀田 高 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 菱《ひし》形《がた》慕情 火《ほ》垂《た》るの海 檜《ひ》原《ばら》湖《こ》まで 踊る指 ゆらめく湖《うみ》 マングローブ樹林 雪惑い 鈍《にび》色《いろ》の雨 午後の潮《しお》騒《さい》 鳥《ちよう》瞰《かん》図《ず》 分《ぶん》水《すい》嶺《れい》 瑠《る》璃《り》色《いろ》の底 菱《ひし》形《がた》慕情 〓“サバ〓”と言われれば、だれでも魚の鯖《さば》を思い浮かべるだろう。しかし、本当はフランス語の〓“サ・バ?〓”、つまり〓“お元気ですか〓”という意味らしい。  酒場の名前にしては少しヘンテコな命名なので記憶によく残っていた。  甲《こう》府《ふ》ホテルから電話をすると、ママが電話口で声を弾ませ、 「ぜひ、ぜひ、立ち寄ってほしい」  と、言う。  もとよりそのつもりだった。  道順を聞いて、行ってみることにした。  地方都市を訪ねると、いつも夜の盛り場が意外に大きいことに驚かされる。外来者がそれほど多いとは思えない。ほとんど地元の人だけでこれだけの店舗を養っているとすれば、酒飲み人口というものは、どこへ行ってもずいぶんと多いものらしい。  甲府へ来たのは、これが三度目。愉快な思い出と、悲惨な思い出とが一つずつある。  いや、それは違うかな。悲惨な思い出に比べれば、愉快な記憶のほうはずっと小さい。二つを並べて対比させるのはあまり適切ではあるまい。  私が甲府の町を多少なりとも知っているのは、友人の箱《はこ》崎《ざき》が新聞社の支局員としてこの地に住んでいたからだ。  もう二十年近くも昔のことになる。箱崎も私も独身生活を謳《おう》歌《か》していた頃で、 「たまには遊びに来い」 「ああ、行こう」  と、約束がまとまって一夜甲府に赴いて痛飲した。  何軒目かの店で幸《さち》恵《え》という名のホステスを紹介された。色白の、ちょっとバタ臭《くさ》い面《おも》差《ざ》しの女である。日本舞踊をやったからとか言って、肢体に細い弾力があった。 「彼女とは、ちょっと仲がいいんだ」  店を出たところで箱崎が言った。  雰囲気から察して、おおかたそんなところだろうとは思っていた。 「なるほど。いい仲ってわけか」 「まだわからない。深入りしそうな予感もする」  箱崎は生《き》真《ま》面《じ》目《め》な男で、東京にいた頃はまだ〓“女を知らない〓”はずだった。  私がそのことを尋ねると、 「アハハハ、相変わらずまだなんだ。あんたと違って、手は遅いほうでね。しかし、近々かもしれない」  と、顎《あご》をスルリと撫《な》でて照れくさそうに、それからちょっと深刻な面差しで言った。 「ありうることだな」 「まあな」 「しかし、転勤先で深入りすると、東京に戻って後悔するぞ」 「うん。それを思うと気軽に手が出ない」  その女が今〓“サ・バ〓”のマダムをやっている人である。  あの夜は何軒ハシゴをしただろう? 全部箱崎のおごりだった。  翌日は昼近くまで箱崎の下宿で眠っていた。  枕《まくら》もとで箱崎がネクタイを締めている。 「おい、俺《おれ》は今日の午後仕事があるんで、支局のほうへ行かなきゃいけない」 「なんだ。つきあってくれるんじゃなかったのか」  と、私が布《ふ》団《とん》から首を出して言うと、 「すまん。何時の列車で帰る?」 「えーと、たしか七時二十分発。帰りのキップを用意して来た」 「うん。じゃあ夕めしを一緒に食おう」 「それまでどうしてたらいい?」 「昇《しよう》 仙《せん》 峡《きよう》はつまらんし……そうだな。湯《ゆ》村《むら》温泉に行ったらいい。混浴風《ぶ》呂《ろ》があるぞ」  宿酔が体のあちこちに残っていて風呂にでも入りたい気分だった。 「いきなり行って入れるのか」 「ああ、昼間からあいている。行って来いよ。話のタネに」 「じゃあ、そうしよう」  私は箱崎から混浴風呂のありかを聞いて、また布団を頭の上まで引いた。カーテンから零《こぼ》れる日の光が眩《まぶ》しい。 「夕方六時に社のほうへ電話をしてくれ。夕めしくらいつきあえると思うから」 「わかった」  箱崎はそそくさと出て行った。  私はしばらく布団の中にうずくまっていたが、もう眠ることはできない。  枕もとに散っている新聞に目を通し、それから緩慢な動作で身を起こした。  混浴風呂に着いたのは、午後の二時近くだったろう。  その浴場は温泉宿が本業らしいが、宿泊客以外の者にも料金を取って風呂を貸していた。  薄暗い廊下を渡ると、男湯と女湯と、二つの出入口がある。 「あれ? 混浴じゃないのかな」  いくぶん失望して中へ入ると男女べつべつに分れているのは脱衣場だけで、それから先は広い共同浴場になっている。  時間が早いせいもあってか、入浴客はほかにだれもいない。水音だけがやけに高く響く。どこから忍び込んで来たのか、水のおもてにわくら葉が一つ、二つ浮いている。午後の日射しが湯気の白さを映していた。  共同浴場には、大小とりどりの湯船が六つほど掘ってあった。壁にかかった説明書を読むと、それぞれの湯船の温度が少しずつ違っていて、ぬるいほうから順次熱いほうへと入っていくと、最後は相当に温度の高いお湯の中にも入れて、それが体にいいのだ、と言う。  効能書きの文句をそれほど信頼したわけではないけれど、どうせ時間はタップリある。私は店主敬白の指示通り一番ぬるいお湯の中に身を沈めた。  季節は秋であった。  窓越しに見る紅葉の色も、どこか鄙《ひな》びた印象を載せている。  脱衣場のほうで物音が響き、中年夫婦が入って来た。それを追うようにして、老婆が現われた。  ——混浴と言っても、入って来る女は年寄りばかりだな——  われながら馬鹿らしい。 〓“混浴風呂があるぞ〓”と言ったときの、箱崎の笑い顔が脳裏に甦《よみがえ》った。彼もそのへんの事情を充分に承知していたのだろう。  しかし、今さら風呂を出てみてもほかへ行く当てもない。  私はせめて多少なりとも混浴風呂の雰囲気を味わおうと考えて、中年夫婦の——とりわけ奥さんのほうの裸形へ時折目を送った。  まるい肩。大きな尻《しり》。恥毛が、あるべきところにあるべき形で繁《しげ》っている。  なんの感興も湧《わ》かない。  夫婦はたがいに背を流しあっている。その風景はすこぶる牧歌的で、エロチックな匂《にお》いはかすかにさえ感じられない。  私はもう一つ熱い湯船に身を沈めた。 「あ」  その時である。  甲《かん》高《だか》い、小さな声が響いて、若い娘が母親らしい女と、それから弟らしい幼い男の子と一緒に現われた。  十六、七歳だろうか。  娘は浴場のほうが混浴になっているのを知らなかったのかもしれない。  中へ入ってみれば、男が湯船につかっている。  しかし、母親も弟もいっこうに無《む》頓《とん》着《じやく》である。いったんは驚いたものの、彼女自身も〓“それほど驚くことではあるまい〓”と考えたのだろう。  タオルを体の前に長く垂らしたまま湯船に近づいた。  肌は水をはじくように滑らかな小麦色。贅《ぜい》肉《にく》のない若い肢体は、細くまっすぐに伸びている。狼《ろう》狽《ばい》したのは、むしろ私のほうであった。  しかし、なにはともあれ好奇心の赴く眺めである。私はもう一度ぬるい湯船に身を移してゆっくりと鑑賞することにした。  彼女は格別に私を意識しているふうな素振りは見せなかったが——次第に温度の移る湯船に飛び込んで子どもみたいにはしゃいでいたが——それでも長いタオルを体の前から動かそうとしない。その防御の堅さは私の瞥《べつ》見《けん》を許そうとさえしない。  ——若い女性が現われただけでも、めっけものかな——  と、あきらめるよりほかにない。  だが、タオル一枚の防御力にはおのずと限界がある。彼女が湯船から立ち上がったとき、スックとうしろ姿が私の目の前に映った。  彼女の脚は若い動物のようにしなやかで、細かった。背後から見た太《ふと》腿《もも》は形よくふくらみ、それが臀《でん》部《ぶ》に続く上限のところで少し内側にくぼみ、そのくぼみと臀部の肉とでそこに小さな菱《ひし》形《がた》の空間を作っていた。空間の存在は、そのまま無駄のない肉の締まりぐあいを連想させた。  湯船を出た女は心もち体を前にかがめた。すると、その〓“菱形の空間〓”は、少し歪《いびつ》に形をゆがめ、その間《かん》隙《げき》から、かすかに——本当にかすかに淫《いん》靡《び》な部分の褶《しゆう》 曲《きよく》が窺《うかが》えた。  熱い血が走り抜ける。  まだ年若かった私は、女体の隠れた部分がこの方向からこんなふうに見えるものとは知らなかった。おそらく彼女自身も知らなかっただろう。  思いがけないところからほのかに蠢《うごめ》いた肉片だけに、その印象は鮮烈であった。恥毛が疎《まば》らに生えるさまも極度にエロチックであった。 「どうだった?」  駅の近くのレストランで私は列車の時間を待ちながら箱崎とビールを飲んだ。  箱崎はニヤニヤ笑っている。〓“どうせ婆さんだけだったろう〓”と、その顔は告げている。 「眼の保養になった」 「嘘《うそ》をつけ」 「いや、本当だ。若い娘が……若いと言っても十六、七の、子どもにちょっと毛が生えたくらいだけど……きれいな体だった」 「本当かよ」 「嘘をついても仕方ない。彼女は前から見られちゃ損だと思ったらしく、必死にタオルで隠していたけど……うしろを向いたとき……」 「うん?」 「少し見えたんだ」 「なにが?」  私は鼻先を蠢かしながらさぞや嬉《うれ》しそうに〓“菱形の空間〓”について語ったことだろう。  初めは作り話だと思って聞いていた箱崎も、途中から私の話の信《しん》憑《ぴよう》性《せい》に耳をそばだてた。 「へえー、若い娘が来ることもあるんだな」 「日頃の心掛けのせいだな」 「そうらしい。俺は三度も行ったけど、婆さんばっかりだった」 「あんな角度から、あんなふうに見えるとは知らなかった」 「うん。俺も知らない」 「あんたが知ってるはずはない。まだ清い体のままなんだから」 「そうだよなあ」  箱崎は愉快と苦笑の入り混じった顔で笑った。  二十五歳を過ぎた男にとって〓“清い体〓”はさして自慢のできるシロモノではない。  しかし、私は箱崎の苦笑の中に微妙に揺れ動くものを見た。  ——清い体もそう長いことではあるまい——  なぜかそう直感した。確信と言ってもいいほどに……。  昨夜紹介された幸恵という名の女が心に浮かんだ。  ——彼女も細身の体だったが——  と、とりとめもなく思った。  やがて列車の時間が近づいた。 「まだ今晩仕事があるのか」 「地方局でも新聞屋は結構忙しい。今夜は夜中まで。明日は通産大臣が来るし、公害の訴訟が始まるし、朝から大変だ」 「早く東京に戻れるといいな」 「ま、二、三年は駄目だろう」 「待ってるよ」  箱崎は忙しそうだったが、それでも駅のホームまで見送りに来てくれた。 「ありがとう。ご馳《ち》走《そう》になったな」 「もっとひまな時に来てくれ」 「ああ、そうしよう。彼女によろしく」  髭《ひげ》づらが笑った。  席に着くと、もう箱崎は改札口に向かううしろ姿になっていた。  ——だいぶ忙しいらしいな——  私は小走りに立ち去って行く縞《しま》模《も》様《よう》の背広姿を眼の端で追った。  ——ずいぶん派手な背広だな——  などと思いながら。  それが生きている箱崎を見た最後だった。  東京へ帰って翌々日の朝、箱崎の父親という人から電話がかかって来た。  箱崎が任地先で事故死をした、と言う。 「えっ、本当に」  私は電話口で声を呑《の》んだ。  つい一昨日別れたばかりなのに……なんということだ。 「いつですか」 「昨日の、夜十時頃でしょう」 「原因は? 自動車事故かなにか……」  私は彼がちっぽけな車を自分で運転していたのをとっさに思い出した。 「いえ、ガス風呂の事故です。ガス漏れらしいんだが……支局の風呂場で……」  電話の声は、重く、苦しそうに響く。  私もなにをどう尋ねていいかわからない。  声は続いた。 「情けないことに私は体が不自由なので甲府まで行けそうもない。まことに恐縮ですが、現地まで遺体を引き取りに行っていただけませんか。一番親しい友人と聞いておりましたので」 「承知しました。まいりましょう」  新聞社の廻してくれた車に乗って私は甲州街道を急いだ。  事故のあらましについては車の中で聞いた。  前夜箱崎が支局に戻ったのは、九時過ぎのこと。通産大臣の来訪やら地元工場の公害訴訟やらがあって、甲府支局の記者たちはおおいに多忙だった。  支局には、そこを宿舎にしている支局長だけが残っていた。 「ご苦労さん、風呂に入ったらいいじゃないか。沸いてるぞ」 「支局長は?」 「俺はあとにする。先に入れ」 「じゃあ、お先に」  箱崎は風呂場へ消えた。  支局長はデスクにすわって新聞を読んでいた。  ——長っ風呂だな——  と、思わぬでもなかったらしい。  しかし、不運なことにこの支局長は甲府支局に赴任して来てから日が浅かった。若い記者連中となんの遠慮もなく気軽につきあうほどの間柄には至っていなかった。つまり風呂場を覗《のぞ》くほど〓“裸〓”の交際ではなかったのである。  ——疲れているだろうし、風呂くらいゆっくり入れてやろう。俺が覗いたら〓“早く出ろ〓”と催促しているみたいで、気を使うだろうし——  そう考えたのも無理からぬ事情だった。  ——それにしても長過ぎる——  そう思って支局長が浴室の外から声をかけたのは、箱崎が事務室を出てから一時間以上もたった時だった。  返事はない。  不思議に思ってドアを開けると、洗い場に箱崎が転がっていた。  あわてて一一九番に飛びついたが、もう息はなかった。  湯船のお湯は手が入れられないほど熱くたぎっていた。  ガスのバーナーは、事故と気がついた瞬間に元栓を閉じたのでパトカーが着いたときにはもう完全に消えていたが、支局長が見たときにはたしかに細く灯《とも》っていた、と言う。湯船の湯が熱かったことから考えても、それは本当だろう。 「ガスの匂いは?」  と、私は車の中の男に尋ねた。  商売柄本社のほうにも詳細な情報が入っているようだった。 「それもたいしたことなかったらしいですよ。窓も少し開いていたというし……」 「ガス中毒で死んだことは間違いないんですね」 「それははっきりしている。死体解剖の必要もないらしい」  私たちが支局に到着したときには事務所の掃除などを受け持つおばさんが一人いるだけで、遺体はもう下宿のほうに運ばれたあとだった。  私は浴室を覗いてみた。  どこといって変哲もない、事務所の風呂場である。つい十数時間前、一人の男の命を——私の親しい知人の命を奪った場所とは到底信じられない。  ガス・バーナーはすでに検査のために取りはずされていて、木製の湯船だけが無愛想に残っているだけだった。一メートル四方ほどの窓のほかに、小さな空気抜きの窓があった。 「事故のとき開いていたのは、こっちの窓ですね」  私が小さな窓のほうを指して尋ねると、おばさんが頷《うなず》く。 「そうらしかったのう」  間のびした抑揚がこの場の雰囲気にそぐわない。  小窓を押してみると三センチくらい開いた。  あとで支局長の話も聞いてみたのだが、浴室内は少なくとも完全な密閉状態ではなかったらしい。  私たちはすぐに箱崎の下宿へ向かった。  見覚えのある花柄の布団に彼は眠っていた。  相変わらず殺風景な部屋の中だ。駅で最後に見た縞の背広が壁にさがっている。  くすんだ色調の中で、死者の頬《ほお》と胸もとだけがやけに明るく鮮やかな薔《ば》薇《ら》色《いろ》に映えている。 「これが一酸化炭素中毒の特徴なんですよ」  私の視線に気づいて、だれかがそう説明してくれた。  手を触れると、堅く、冷たい。薔薇色の感触ではなかった。  簡単な読経のあとで遺体はワゴン車に積まれ、夜の甲州街道を東京に向けひた走りに走り続けた。  世田谷の実家では通《つ》夜《や》が待っていた。 「あいつは女も知らずに死んじまって」  息子に先立たれた父親は、式のあいまにふとそう呟《つぶや》いた。  ——父親はそんなことを心残りに思うものなのだろうか——  箱崎は、少なくとも大学を卒業するまでは勉強一筋の男だった。むつかしい新聞社の入社試験を突破できたのも、そのせいだ。酒はよく飲んだが、女性関係の噂《うわさ》は皆無に近かった。 〓“親《おや》父《じ》は遊び人だったんだけどな〓”と、彼が苦笑まじりに述懐していたのをふと思い出した。  父親は息子の〓“清い体〓”を私に否定してほしかったのかもしれなかった。 〓“サ・バ〓”という名の酒場を見つけるのは、さほど困難ではなかった。 「なつかしいわ」  と、ママは長いつけまつげの視線を遠くに送って言う。  この人には、箱崎に初めて紹介された夜のほか、一周忌のときに顔を合わせている。久しぶりに会って、一瞬、  ——少し老《ふ》けたな——  と、思ったが、すぐに昔の印象は消えてしまい、水商売の女らしい、年齢よりずっと若い顔立ちがそこにあった。 「お墓にはいらっしゃる?」 「いや、残念ながら、ここしばらくは行ってない」 「そう。ずいぶん昔のことですものね」 「親父さんもお袋さんも死んでしまったしね」 「あら、そうなの。知らなかったわ」  声の調子は、どことなくよそよそしい。  彼女にとっても、箱崎は遠い昔の人になってしまったのだろう。もともとそれほど深い関係ではなかったのかもしれないし……。  店は思ったより広く、豪華である。彼女は彼女なりに目端のきく人生を歩いているのだろう。どういう生い立ちの女か知らないが、箱崎が死んだくらいで自分の人生までおかしくなってしまうほど、そんな甘っちょろい生活感を持っている人ではなさそうだ。 「こちらへはお仕事で?」 「うん、まあ。出張で」 「そう。昔と比べてどう? 甲府は変わった?」 「いや、どうかな。あんまり変わらないような気もするし、ビルが多くなったような気もするし」 「そうね、私だけ年を取っちゃって……」 「あなたは若いですよ。昔とおんなしだ。俺はおっさんになってしまったけど……。ああ、そうだ。あの、湯村温泉てのがあったけど、どうなった」  箱崎のことを除けば、甲府の思い出はそれに尽きる。 「あるわよ」 「たしか混浴風呂があったはずだが……」 「そうなんですってね。箱崎さんも言ってたわ。今でもあるのかしら……」  ママはグラスを取って自分のための水割りを作った。  店には、ほかの客が一組だけ。そちらのほうは若いホステスが相手をしている。 「そう言えば、おもしろい話を聞いたわ、箱崎さんから」 「ほう?」  ママはくすぐったそうに笑う。  突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もないことを言い出すときの、それでいて相手の気を引かずにはおかない、そんなときの、独特な笑顔だ。 「厭《いや》ねえ。エッチな話なのよ」  指先でテーブルの上の水《みず》溜《た》まりを広げた。 「なんだい? 箱崎の思い出話ならなんでも聞いておきたい」 「そう。箱崎さん、湯村温泉の、たぶんその混浴風呂だと思うけど、そこで若い女の人、見たんですって」 「へえー、聞かなかった」  私はぼんやりとした予感を覚えながら首を振った。 「十六、七の、小《こ》鹿《じか》みたいにきれいな体の人で、贅肉なんかぜんぜんついていないのよね。若いときの体って、ホント、押せば弾ねかえるくらいピンピン張ってるじゃない」 「ああ」 「箱崎さんがお風呂につかっていたら、そんな女のコが入って来て、恥ずかしいからヤッパリ体の前のほうは隠すでしょ。でも、うしろのほうまで注意が廻らないの。湯船から立ち上がったとき、箱崎さん、うしろ姿をすっかり拝見しちゃったんだって」 「うしろ姿だけじゃ、それほどおもしろくない」 「それが違うのよ。そうでもなかったらしいわ。くわしく説明してくれたのよ。なんて言ったらいいのかしら。照れちゃうわ。年《とし》甲《が》斐《い》もなく」 「そこまで話したんなら全部話さなくちゃいけない」 「あのね……余分な肉がついてないから、腿《もも》のつけねのところが内側にくびれているわけね、うしろから見て。そこヘカッコいいヒップが割れてるでしょ。だから、菱形の小さなすきまができちゃうの。わかります?」 「わかる」 「で、女のコ、湯船から出て少し前に体を曲げたのね。いやあねえー、箱崎さんたら……。菱形のすきまが少しゆがんで、女のコの大切な部分がチラッと見えたんですって……」 「なるほど。想像はつくな」 「箱崎さん、言ってたわ。〓“女の人のアレってものは、あんな角度からも見えるんだなあ〓”なんて、しみじみ感心して」 「フーン」 「そりゃ見えるかもしれないわ。もう、いやッ。こんな話……あ、いらっしゃいませ」  話が一段落したところで、新しい客が店に入って来た。物腰から察してお馴《な》染《じ》みの客らしい。 「ごめんなさい。ちょっと……」 「ああ、どうぞ、私には構わずに」  ママは泳ぐような手つきでテーブルのあいだを立ち去った。  残された私の中で思考がめまぐるしく走る。  箱崎が彼女に話した話は、間違いなく私自身が箱崎に話したものだ。だれかから聞いた話を、さも自分に起こった出来事のように受け売りすることはけっしてまれではない。  だが問題はいつ箱崎がその話を彼女に語ったか、ということだ。  私は遠い記憶をたぐった。  まず第一日目。私が甲府に来て箱崎と二人で痛飲した。今、目の前にいる女に紹介してもらったのは、この夜だった。  二日目。昼過ぎに箱崎の下宿で目を醒《さ》まし、午後に湯村温泉へ行った。〓“菱形の空間〓”を見たのは、この時だ。それから新宿行きの列車を待ちながら箱崎と夕めしをとった。彼に湯村温泉の話をしたのはこの時だった。箱崎はそのあとも仕事があるらしかった。  三日目。甲府支局の記者たちは終日忙しかった。通産大臣がやって来たり、公害事件の訴訟が始まったりしていた。箱崎が支局へ帰ったのが夜の九時過ぎ。彼はクタクタに疲れて風呂に入った。そして死んだ……。  となると、箱崎が彼女に会って〓“菱形の空間〓”の話ができるのは、二日目の夜、それもおそらく夜半に近い頃しかなかったのではあるまいか。  眼の奥に遠い日の風景が浮かんだ。  箱崎は疲れた様子でバーのドアを押す。もう閉店に近い頃だったろう。店にはその頃急速に親しくなったホステスがいた。 「どうしたの。ひどい様子じゃない」 「ああ、へばった。店が終わったら、めしでも食いに行こうか」 「いいわよ。東京のお友だち帰ったの?」 「ああ、帰った」 「でも、すごく疲れてるみたい」 「平気、平気」  二人は連れだって店を出た。  ビールを飲み、お茶《ちや》漬《づ》けかなにかを食べ、車に乗り、車の中で唇が重なり、 「どこか静かなところへ行きたい」  と、そう言い出したのは、女のほうではあるまいか。  いずれそうなるものと箱崎も考えていた。  東京の友だちにも〓“清い体〓”をからかわれたばかりだった。  湯村温泉の、エロチックな光景の話も彼の心になにほどかの刺激を与えていたことだろう。  車は方向を変え市内の旅荘に滑り込む。  あとは男と女の、自然な関係が待っているだけだった……。 〓“菱形の空間〓”について話すのは——話題が話題であるだけに、やはりべッドの中がふさわしい。  箱崎は女のししむらを撫《な》でながら、いくぶん照れ隠しでもするようにそんな話をしたのではなかったか。そんなやり口がいかにもあの男にふさわしい。  女は死の前夜、箱崎に会ったことをひとことも言わなかった。私にも、他のだれにも。  しかし〓“菱形の空間〓”のことを彼女が知っている以上、二人がきわどいタイミングで会ったことは間違いない。  そのことをひとことも言わなかったのは、二人の出会いがなにか特別なものであったことの証拠ではあるまいか。  二人が別れたのは、何時頃だったろう?  三時か、四時か、朝もそれほど遠くない時刻だったろう。  翌日は朝から新聞記者は忙しかった。  箱崎は駈《か》けずり廻った。  そして疲弊した体で湯船につかった。  睡魔が静かに忍び寄る。  浴室は完全な密閉状態ではなかった。ガス・バーナーが、とにかく炎をあげて燃えていたのだから、ガス漏れの度合いもそれほど激しくはなかっただろう。  目醒めていたら、異常に気づいたにちがいない。  しかし前夜からの疲労が彼を深く、深く眠らせた。  ガスはその間も音もなく室内に溢《あふ》れ、彼の肺に染み込む。  突然、さながら本能の知らせを聞くように彼は目を醒まし、あわてて湯船を出る。  だが、もう遅かった。  一酸化炭素中毒は、まず運動中枢を犯すとか……。彼は床に倒れ込み、おぼろな意識の中で死を知ったのではなかったか。  女の裸形が……話に聞いた〓“菱形の空間〓”と、前夜垣《かい》間《ま》見たものとが、わけがたいほどに重なって脳裏に交錯して……。  女も箱崎の死後うすうすとそのへんの事情を察したのかもしれない。箱崎との一夜をことさらに語らないのは〓“自分が彼を疲れさせた〓”といううしろめたさがあったからではなかったか。 「どうなさったの? 怖い顔をして考え込んじゃって」  ママが新しい水割りを揺らしながら戻って来た。 「いや、べつに……。あなたに会ったら一つだけ聞きたいことがあったんだ」 「なーに? なんでもお話しするわ。箱崎さんのこと?」 「そうだ」  私は女の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込みながら尋ねた。 「彼とは……あったの?」 「なにが?」 「なにって……男と女のことが……」 「ああ、それは言えないわ。忘れちゃった。ずいぶん昔のことだから」  女は今でも充分に弾力の残っていそうな、細い体を揺すって笑った。 火《ほ》垂《た》るの海  伊《い》豆《ず》の下《しも》田《だ》まで来たついでに石《い》廊《ろう》崎《ざき》まで足を伸ばしてみようと思った。  私には奇妙な癖があり、高層ホテルに泊まれば是《ぜ》非《ひ》とも屋上まで昇ってみたくなる。崖《がけ》があれば縁まで行って下を覗《のぞ》いてみたくなる。なにかの洞穴があれば、一応その中へ入って行き止まりの地点まで確かめてみたい。ただ意味もなく末端を窮めたいと思う、そんな愚かな情熱があった。  下田で時間をもてあまし、伊豆半島の果てまで赴いてみようと考えたのも、どこか日頃のこの習癖と関係があったに相違あるまい。  石廊崎のバス停から岬の突端までは思いのほか距離があった。  道の両側に栄螺《 さ ざ え》の壺《つぼ》焼《や》きを売る店があって、香ばしい匂《にお》いが漂って来る。漁村の女たちの呼び声が聞こえる。そんな家並みがなくなってからもしばらく細い道が続いていた。  ——ここまで来た以上、なにがなんでも半島の先端まで窮めなければ気がすまない——  相変わらず奇妙な願望に唆《そそのか》されて私はゆるい坂道を急いだ。  季節は残りの春。  暮れなずむ空には暗色の雲が垂れ込めている。時折雲のあいまから斜光が零《こぼ》れて太陽のありかを伝える。  左手に見える海は地峡の陰となり、陽の零れを直接に受けることはない。黒色を帯びた藍《あい》の色が足下の入江を豊満に充たしていた。  不思議なことに、岬から帰る人にはたくさん出会うのだが、私と同じ道を行く人はいない。  ——変だな——  とは思ったが、すぐにはその理由がわからなかった。  二十分ほど歩いて、ようやく岬の突端にたどり着いた。  そこはなんの変哲もない、ただの赤茶けた空地で、小さな灯台が一つ、無愛想に建っているだけだ。その白い建物もいったい灯台としての本来の仕事を真《ま》面《じ》目《め》に営んでいるのかどうか、それさえも疑いたくなるような、ひっそりとしたたたずまいである。海鳥が数羽屋根の上に群がっていた。  だが海の眺望だけは一見の価値がある。  見渡す限りに続く水平線が私の視界を七・三の高さで上下に峻《しゆん》別《べつ》し、海はただ青く、おごそかに広がっていた。  つぶさに眺めれば、一色に映る海の青さにもなにほどかの濃淡がある。遠く黒ずんで蛇行する帯は潮の流れであろうか。  一瞬、光が海面に注ぐと、海はたちまち表情を変え、鮮やかな碧《みどり》の色を呈する。海と言うより、微妙に蠢《うごめ》く広大な布地に似ている。あまりの大きさのために染色の作業に失敗して、ところどころに色調のむらができている……。  沖合に船が見えた。  動いているのかどうか、おぼつかない。  私は片眼を閉じ、人差指を立ててみた。  船の動きを指の線を規準にして確かめてみようと思った。  だが、船は遅々として進まない。さりとてあんなところに碇《てい》泊《はく》しているはずもない。やはりそれなりの速度で動いているにちがいない。時間の経過が船の運びを教えてくれるだろう。  周囲に人の姿はなかった。  ——石廊崎まで来たら、ここに来るよりほかにないはずだが——  訝《いぶか》しく思ったが、その理由も間もなく判明した。  いや、それほどもったいぶることもあるまい。最終バスの時間が迫っていて、他の人たちはみんなもう帰路についていたのである。  私だけがそれを知らずに際限もなく時間を潰《つぶ》し、海の青さに見とれていたのだった。  小一時間もそこに佇《たたず》んでいただろうか。  人気のないのをいいことにして、はやり歌の一つくらい気分よく口ずさんでいたかもしれない。  海面にまで降りてみたいと思ったが、岬の果てにはそんな手頃な道もなさそうだ。  私は石を一つ取って投げ、それがほんの足下の海に落ちるのを見とどけてから、ゆるりゆるりと道を戻り始めた。  一片の詩歌が描く光景が心に昇って来た。  荒涼たる海。潮《しお》騒《さい》の響き。雲は渦巻いておどろおどろしく流れている……。その海のほとりに立った墓一つ。  だれの詩か思い出せない。  詩の文句も思い出せない。  ああ、そうか。松本清張の〓“ゼロの焦点〓”の最後にあった詩だ。In her tomb by the sounding sea……。だれか外国の詩人がうたったもの……。  もし私が死んで墓が建てられるならば、こんな荒れ果てた海浜の、崖の中腹あたりがいいと思う。  待てよ。このあたりの海に黙って墓を建てたら、叱《しか》られるのだろうか。  連想はとめどなく続く。  眼底に一人の女のイメージが浮かんだ。  ほの白いこめかみ。静脈の網目模様。桂《けい》子《こ》という女。いつも横顔ばかりが浮かぶのはいつも横顔ばかり見ていたせいなのだろうか。  あの人とは海へ行ったことがあったな。  そうだ、あれも伊豆の海だった。  初《はつ》島《しま》——そう、熱《あた》海《み》の海上にあるちっぽけな島。  漁船を改造したような連絡船が一日に何本か通っているだけだった。岩と荒波以外になにもない島。バンガローは暑苦しく、眠りかけると蚊《か》の鳴き声が耳もとに聞こえる。 「海へ出てみようか」 「ええ」  眠っている仲間たちを残して二人で船着場のあたりまで散歩に出た。  黒いだけの海があった。 「私、死んだらね……」 「ああ」 「お骨を海に撒《ま》いてほしいの」 「フーン」 「壺に入れられて、お墓の中に置かれるのなんか厭《いや》だわ」 「じゃあ、空から撒いてやろう」 「本当? 約束してくれる」 「ああ、いいよ。俺《おれ》のほうが生きていたらな」 「お願いするわよ」  まさか冗談だと思っていたが、それから数年後に彼女は自殺した。  原因のわからない自殺だった。  私が彼女の急死を知ったのは、もう葬儀もすっかりすんでしまってからのことだ。約束は忘れていなかったが、まさか他《よ》所《そ》様《さま》の墓を掘り返して骨を盗み出すわけにもいかない。  桂子は墓の中で私を恨んでいるだろうか。  ——馬鹿らしい——  彼女自身だって、どれほど本気で言ったことかわからない。  カサッ。  私の行く手のブッシュが割れて黒い男の影が現われた。そのあたりに崖を降りる細道があるらしく、男は海のほうから登って来たようだ。 「こんばんは」  男が声を掛けた。  白い歯が人なつこそうに笑っている。  男の顔に見覚えがあった。  石廊崎のバス停の近くで、私が町の案内板を見ながら栄螺《 さ ざ え》の壺焼きを貪《むさぼ》っていたとき、ワゴン車がかたわらに止まった。大きなトランクを苦労して引き出そうとしているのを見て、手伝ってやった。  ——行商人だろうか。まさか家財道具を持って夜逃げをして来たんじゃあるまいな——  旅館の玄関まで一緒にトランクを運んでやった。 「あ、こんばんは」  私は唐突な返事を返した。 「さっきはどうも……」  言《こと》葉《ば》尻《じり》を飲み込んでから、 「お散歩ですか」  と、尋ねる。 「ええ。その道、海のへりまで行けるんですか」 「はあ。ひどい道だけど、まあ、なんとか」  男の年齢は四十歳前後。頭を五分刈りに刈り込んでいる。 「今日はあいにく島が見えませんね」  男はちょっと海のほうを振り返るようにして言った。  私は伊豆半島から見えるはずの島のことなんかすっかり忘れていた。忘れていたこと自体島が見えなかったなによりの証拠だろう。  それでも一、二歩動いて足の位置を変え、生い繁った草の間から東の方角を望み見た。 「晴れてれば、大島があのあたり、それから利《と》島《しま》、新《にい》島《じま》、式《しき》根《ね》島《じま》と、みんな並んで見えるはずなんですがね。明日は雨にならなければいいが……」 「この土地のお生まれですか」 「いや、そうでもないんですがね。どうです一服、ハイライトだけど」  男はかたわらの石の上に腰を落とし、残り少なになったタバコの箱を突き出した。 「どうもすみません」 「ここへは……魚釣りですか」 「いや、ただなんとなく海が見たくてね。本物の海が」 「本物の海ですか」  男はフン、フンと頷《うなず》くように首を振って、 「今晩はどこへお泊まりです?」 「下田まで引き返そうかと思って」 「最終バスは出てしまいましたよ」 「えっ」  私は腕時計を見た。  まだ六時だと言うのに……。 「本当ですか」 「たしか間違いないでしょ。五時ちょっと過ぎが最終のはずだから。もう間に合わない」 「仕方ない。じゃあ、ここで泊まりましょう。下田の宿がきまっているわけじゃないから」 「N荘がよろしいんじゃないですか。さっきのところ……」  その男が荷物を置いた宿、それがN荘という名なのだろう。 「ええ、まあ」  私は曖《あい》昧《まい》に答えた。  行きあたりばったりに泊まってみるのもわるくない。  西の雲が切れて、海が急に明るくなった。  水は光を吸い込んで即座に透明の度合いを増す。 「いい色ですな。いつ見ても飽きない」  男が目をしばたたきながら言う。  さっき見えていた船はもう痕《こん》跡《せき》さえない。やはり動いていたらしい。 「エメラルドって石がありますな」  その連想がどこに由来するものか水の色を見ればすぐにわかる。 「はい」 「家内がこの色を見ると気分が休まるって、そう言ってましたよ」  私の〓“人を見る目〓”もあながち狂ってはいなかったようだ。人なつこそうな印象だと思ったが、案の定彼は人なつこい質《たち》らしい。見ず知らずの人間に細君の話をするなんて……。  どうせバスには乗り遅れてしまったのだ。ポケットには、もう読了も間近い文庫本が一冊あるだけ。旅館の夜は退屈なものになりそうだ。  つまり……私のほうも話し相手があってもいいと、そんな心境になりかけていた。 「緑は人の心を休める色なんでしょ」 「ああ、そうですか。しかし、私のほうは気を休めるどころじゃなかったなあ、フッフッフ」  私は怪《け》訝《げん》な顔つきで男の表情を窺《うかが》ったにちがいない。 「家内が、そのエメラルドっちゅう石の、えらい立派な……あれ、なんて言いましたかな、首にぶらさげるもの」 「ペンダントですか」 「はい、はい、それを持ってましてな。私らの暮らしから言えば、ひどく贅《ぜい》沢《たく》な品物だから〓“どしたんだ?〓”って聞いたら、〓“あたし、子どもの頃、海を見ながら育ったでしょ。この色を見てると気分が休まるの〓”って……。へえー、そんなものかな、と思いましたよ、あの時は」 「お住まいは東京ですか」 「はあ。大森の、少し足を伸ばせば海の見えるあたりに住んでましたけれど、あのへんの海は海じゃないね。いつ見たって薄茶けた色ばっかしで、ドブ川と変わりがありませんよ」 「まあ、そうですね。海育ちの奥さんとしちゃあ、あんな灰色の海だけじゃ我慢ができなかったわけでしょう」 「さあ、本心はどうだったかわかりゃしません。〓“いくらしたんだ?〓”って聞けば、〓“イミテーションだから安いのよ〓”って……。私ゃ暢《のん》気《き》者《もの》だから〓“この頃は造り物も上等になったものだ〓”なんて、一人勝手に思っていたけれど、今考えるとそうじゃなかったんでしょうな」 「…………」  私は相《あい》槌《づち》も打ちかねて、視線を沖のほうへと移した。  雲は茜《あかね》色《いろ》を帯び、海もまた西のほうからひとときの変《へん》化《げ》のドラマを演じ始めていた。 「知らぬは亭主ばかりなりって、そう言うじゃありませんか」 「さあ、そこまで疑っていいものかどうか……」  私がそう言ったのは、見知らぬ女の弁護をするというより、目の前にいる男に対するサービスのようなものだったろう。 「いえ、いまさら咎《とが》めるつもりなんかありゃしません。私なんかと一緒にならなきゃ、もっといい思いをしてたでしょうしね」 「奥さんは?」  私は男の顔を覗《のぞ》き込んだ。相手もすぐに質問の意味がわかったらしい。 「死にましたよ。たあいなく。まあ、正式には私の家内じゃなかったけど、最後は私のところへ帰って来ましたね、やっぱり」 「そうですか」 「伊《い》東《とう》の、奥のほうの生まれでね。二《は》十《た》歳《ち》をちょっと過ぎた頃に旅館の若《わか》旦《だん》那《な》に見初められて、それで結婚したんですけど、これはあんまりいい結婚じゃなかった。相手は十五も年上だし、あいつももともと浮気っぽい質《たち》だったし……。私はその旅館で板前をやってましてね」 「なるほど」 「ね、世間によくある話でしょう。若奥さんと板前が顔を合わせているうちに、だんだんわりない仲になり、手に手を取って逐電……」 「いい話じゃないですか」 「いい話? ああ、そりゃ考えようによってはね。世間の眼《め》にそむいて、おたがいにもう相手しか頼るものがいない。そりゃたしかにわるいものじゃないけれど、男はつらいですよ。旅館のほうじゃカンカンになって怒るし、お袋には泣きつかれるし、兄貴分には縁を切られるし、板前の仕事もできないからしばらくはあちこち逃げ廻りながら、スーパーマーケットの店員をやったり、パチンコ屋のタマ洗いをやったりしてましたよ。一番こたえたのは、若いときからずっと世話になった兄貴分の男にどやされ〓“もう勝手にしろ〓”って縁を切られたときでしたがね。そのうちにこの兄貴が逆になんとか周囲を取りなしてくれて……」 「それはよかった」 「ええ、私もそう思いましたよ。しかし、これもあとになって考えてみれば、あいつが色仕掛けで兄貴をうまーくまるめ込んじゃったんだね」 「奥さんが……?」 「そう」 「そりゃ、ひどい」 「初めっからまるめ込むつもりでそうなったのかどうかはわかりません。兄貴のほうが私よりカッコよく見えたんじゃないですか、あいつの眼には。それで、ちょいとネ、水を向けて……。兄貴のほうだって〓“しまった〓”と思ったでしょうが、いったん関係ができちゃったら、もう私たちを弁護しないわけにはいかない。ま、おかげで当座の鉾《ほこ》先《さき》だけはかわすことができましたがね」 「あなたはなにも知らなかったってわけだ?」 「そりゃそうでしょう。手に手を取って逃げ出した当の相手が、そうはやばやとよその男とできちゃうなんて……」 「その兄貴分の人もタチがわるい」 「恨む気持ちは、不思議とないねえ。事情がわかったのはずうーっとあとのことだし、わるいのは多分あいつのほうだったと思いますからね」 「そう簡単に思えるものかなあ」 「思えますとも。それから何度も同じようなことやってるんですからね、あいつは。いちいち恨んでたらきりがない……」  男は自《じ》嘲《ちよう》気《ぎ》味《み》に笑った。 「よほどチャーミングな人だったらしい」 「うん、まあ、いい女の部類じゃないですかねえ。その気になると、たいていの男が引っかかって来るんだから。楽しくてしょうがなかったんじゃないですか。でもね、憎めないやつなんですよ。ケロッとした顔で嘘《うそ》をつく。辻《つじ》褄《つま》のあわないところがあるものだから、こっちがそこを突っ込むと、急に不機嫌になってすねちゃってね。〓“あたしのこと好きなら、そんな疑い持つこと自体がおかしい〓”って、そんな顔をするんですよね。意気地のない話だけど、こっちは、そうされると、もう嘘なんかどうでもよくなってしまって……」 「なるほどね」  私自身のとぼしい体験から言っても、女は男ほど用意周到な嘘をつかないものだ。穴だらけの嘘を言って〓“さあ、これを信じてください〓”とばかりに眼を潤《うる》ませる。矛盾を指摘されると〓“そうよ、今のはみんな嘘。じゃあ、本当の話をするわ〓”と言ってふてくされ、またしても下《へ》手《た》糞《くそ》な嘘を言う。さらに追及すれば〓“もう二人の関係も終わりね〓”といった様子で押し黙る。気まずい雰囲気を避けるためには、結局その嘘を信じたように振舞うよりほかにない。この男の細君も、きっとそんな手口だったのだろう。  太陽はすでに西の海に落ち、海鳥たちの姿が妙にものさびしくなった。  無駄話もぽつぽつ退屈になり始めた。 「でも、結局奥さんは、最後にあなたのところへ帰って来たわけですな」  私は話の結論を求めるようにそう告げた。  男は無邪気に笑って、 「ええ、まあ。それでいいんですよ。いろいろあったけど、人生なんかそれでなくちゃあおもしろくない。終わりよければすべてよし。私の腕の中で小さくなって死にましたわ」 「それは結構でした」  時計を見ると、もう七時を過ぎている。 「さて、じゃあ、私はちょっとこの下の海を見てから帰ります」  細い道を降りると海の際に出る、という話だった。海の水に手を触れてみたい。 「あ、そう。では、お先に」  男は肩をまるめるようにして立ち去った。  私は崖を下った。  崖の下は三畳間ほどの平板な岩場で、入江の波がしきりに海面を上下させて揺れていた。  宿はN荘に取った。ほかにめぼしい旅館がないのだから仕方がない。  旅館の夕食の時刻はとうに過ぎていたが、簡単な料理ならばできると言う。  鰺《あじ》の干物を肴《さかな》にして独り酒を飲んだ。岬であった男はどうやら隣室にいるらしい。女中の話では、今夜はほかに客もないとか。  ゴロリと寝転がり、とりとめもなく初島へいっしょに行った桂子のことを思い浮かべた。  彼女も男と駈け落ちをしたはずだ。  自殺をしたのは、そのあとのことだ。  なにが不足で自殺をしたのかわからない。その頃にはあまり親しい間柄ではなかった。自殺したと聞かされたときも、 〓“ああ、そうですか〓”  そう思っただけだった。  肌の白い女だったな。  バンガローに泊まったときのこと、私は押入れの中でカメラのフィルムを取り替えていた。旧式のカメラだったので、そうでもしないとフィルムが感光するおそれがあった。  外から一人帰って来た桂子が衣服を脱ぎ、水着に着替えた。  突然のことだったので、私は声を掛けるひまもなく、そのまま板戸の節穴から一部始終を眺めていた。  二十歳をちょっと過ぎた女の裸形。白い肌が一層白く見えた。  桂子の思い出はなにもかもすっかり稀《き》薄《はく》になってしまったが、それでもあの白い姿だけは時折心に昇って来る。  正確に思い出せるはずもない。ただ、なんとなく白い女が脳裏に浮かび、それを〓“桂子だ〓”と、勝手に考えるだけなのだが……。  退屈しのぎにテレビのスウィッチをひねったが、青年たちがやたらに怒鳴りあっているドラマを映しているだけだ。  ——どういう筋なのだろう——  思案しているうちに眠くなった。  まどろみの中にぼやけた風景が浮かぶ。 「私が死んだらね、お骨を海に撒いてほしいの」  岬の上の岩場に女が白い裸のままで横たわっている。 「壺に入れられて、お墓の中に置かれるのなんか厭だわ」 「じゃあ、空から撒いてやろう」 「本当? 約束してくれる」 「ああ、いいよ」  私は、  ——どうやったら空から骨が撒けるものだろうか——  その手だてもわからぬままに、とにかく瀕《ひん》死《し》の女に向かって承諾の合図を送った。  女は桂子なのだろうか。  顔立ちはなんだか桂子とは違っているような気がする。しかし、それも十五年以上も昔のことだから、自信がない。  くびれた腰と白い肌の色合いは、なんだか桂子のような気がする。しかし、それも十五年以上も昔のことだから、確信が持てない。 「海ってきれいね」  気がつくと、緑を帯びた鯖《さば》のような海原が眼下に広がっている。 「ああ、とてもきれいだ」 「まわりがみんな海なんて、すてきね」  岬に立っているはずなのに、周囲はぐるりと見渡す限り海ばかりだ。 「まるでエメラルドみたい」 「うん、まるでエメラルドだ」 「私ね、海の色を見ていると、とても気分が休まるの」  ああ、これは岬で出会った男から聞いた話だ。彼の細君が、そう言っていたという……。  ——すると、この女は桂子ではなく、その細君なのかもしれない—— 「ほら、これで見てご覧なさいよ」  いつの間にか女は手に望遠鏡を持っている。  女が望遠鏡をさかさにしたまま差し出すので、それを覗《のぞ》いて見ると、レンズのむこうに小さな海が光っている。 「ね、こうすればいいのよ」  女は私の手から望遠鏡を取り戻し、同じように筒の太いほうに眼を当てていたが、すぐに筒の細いほうに手を伸ばし、指を差し込んだ。  たった今見たばかりの青い海がポロリと宝石に変わって、その筒の中から出て来た。 「あなた、私のこと疑っていたんでしょう。ほかの男と寝たんだろうって……。それで高い宝石を買ってもらったんだろうって……」 「そうでもないさ」 「そうよ、きっとそうよ。そんなふうに思われたまま死ぬのは厭だわ」 「わかったよ。今見た通りだ。簡単に手に入るんだなあ、エメラルドってものは」 「そうよ。エメラルドの花言葉は〓“魂のやすらぎ〓”って言うの」  宝石に花言葉があるのは少しおかしいと思ったが、意味はよくわかる。宝石には宝石なりに、それぞれの石が暗示する〓“言葉〓”があるのだろう。 「だから、海に捨ててほしいのよ」 「本当に死ぬのかい?」  女の体には豊満な肉がタップリとついていて、とても死にそうには見えない。 「嘘を言っても仕方がないわ。じゃあね。約束を守ってくださいね」  そう言ったかと思うと、女は眼を閉じ、もう死んでいた。  私は激しい恐怖を覚えた。  ——とても守れそうもない約束をしてしまった、死者を相手に——  それが恐ろしい。  だが、途中から夢を見ているらしいと、うすうす気づいていた。  もうこうなったら、目を開けるよりほかにない。  粗い畳の六畳間に座布団を枕《まくら》にして転がっていた。  時刻は午前三時。  黄ばんだ電灯がボンヤリと部屋の中を照らし出している。  眼を開けると同時に恐怖はどこかへ飛んで行ってしまい、恐怖を感じたという記憶だけが頭のどこかに残っていた。 「桂子の骨を捨ててやらなかったな」  約束を守らなかった負い目が、やはり心に淀《よど》んでいたのだろう。それが私に奇妙な夢を見させたらしい。  いったん目を醒《さ》ますと、もうなかなか寝つかれない。ポケットから文庫本を取り出してみたが、読む気にもなれない。  ——もう一度海を見に行ってみようか——  夜の海はまた風情があるにちがいない。  旅館の玄関は、鍵《かぎ》もかけずに細く開いたままになっていた。  岬への道は暗かったが、行く手を見失うほどのことはなかった。夕暮れに歩いたばかりだから多少は勝手がわかっている。  陸から海へと向かってかなり強い風が吹いている。いわゆる陸《おか》風《かぜ》というやつだろう。  やがて岬の突端に着いた。  海も黒、空も黒。どこもかしこも無窮の黒さが支配している。  ただ、潮《しお》騒《さい》の音。漁《いさり》火《び》ひとつ見えない。  ——この黒さは、いったいなんだろう——  闇《やみ》の底を見定めるように凝視しているとき、突然、左手の崖《がけ》下《した》あたりでなにかが輝いた。  光の位置から判断して、そこはおそらくあの男が——岬で会った男が——登って来たところ、そのあとで私が降りて行った三畳間ほどの岩場、そう推察できた。  ——だれかいるのかな——  直感的にあの男だと思った。  ——なにをしているのだろう——  二、三歩あゆみかけたが、すぐに私は足を止めた。  足下に見おろす黒い海に、ほんのりと明るい光が映った。  そして、その光《こう》芒《ぼう》が水の面を滑るように動いて行く。火があかあかと燃えている。  ——なんだろう——  定かにはわからない。  だが、光の動きから推察して——光の大きさから考えて——小さな筏《いかだ》が帆をあげてゆっくりと進んで行くようだ。  しかもその筏は炎をあげて燃えている。  筏にはガソリンかなにかが撒いてあるにちがいない。炎の勢いは筏が海の中へ進むにつれて一層激しくなる。その様子が崖の上から見ていてもよくわかった。  まっ黒い海。そのまっただ中を火焔に包まれながら小さな船が滑って行く……。  陸から吹く風にあおられて炎はさらに激しく燃えあがる。筏はさらに速度を増したようだ。  みるみるうちに火は遠くなる。  それでもなお消えようとしない。  ——もうどれほど海岸を離れたのだろうか——  蠢《うごめ》く火焔は糸を引きながら小さくなり、さながらさかさに覗いた望遠鏡の中の画像のように小粒になり、点になったかと思うと、フッと闇に飲まれた。  あとは、ただ黒い海、黒い空。  あの男がカサカサと草をかきわけて崖下の道から現われたのは、それから少し後のことだった。  男は私の姿には気づかず、そのまま揺れるような足取りで帰って行った。  私はこの時になって、男の荷物が——車からおろしたトランクがひどく大きく、ひどく重かったことを思い出した。男は妻を海に葬ったのだろうか。  それからまた何年かたった。  私は今でもはっきりと黒い海を貫く光の軌跡を眼の奥に呼び戻すことができる。  しかし、それがいつのことだったのか、本当に自分が見たことだったのか、それを明《めい》晰《せき》に思い出すことができない。  この話をすると、妻は怪訝な笑いを載せながら言うのである。 「あら、いつのこと? あなた、石廊崎になんか行ったことがないじゃない」と。 檜《ひ》原《ばら》湖《こ》まで 「明日、檜《ひ》原《ばら》湖《こ》まで行ってみませんか」  薄《うす》闇《やみ》の中で夏《なつ》目《め》さんが遠慮がちな声で言う。 「近いんですか」  私は寝返りをひとつ打って答えた。 「はい。車で二時間足らずです。そのあと猪《い》苗《なわ》代《しろ》に出て、そこから東京へ帰られたら、いかがです? 朝少し早目に出れば、充分時間があると思いますから」 「結構です。よろしくお願いします」  さっきまで聞こえていた酔客たちの歌声も途絶え、温泉宿はひっそりと静まり返っている。 「枕《まくら》が堅いですか」 「いえ、そんなことはありませんけど……布《ふ》団《とん》が変わると眠られないほうで」 「そりゃいけない」  いつものことながら旅先の夜は心のどの部分かが昂《たか》ぶっている。話相手がほしい気分だった。 「なにかおもしろい話、ありませんか」  と、水を向けると、 「さあ、あるかな」  夏目さんは小さく笑った。  米《よね》沢《ざわ》織《おり》の歴史を調べる必要があって、米沢まで赴いた。東京を出るとき「商工会の夏目さんをお訪ねなさい」と勧められ、紹介状を持って訪ねると、夏目さんは心から歓待してくれた。夏目さんはこの地方の素封家の生まれだが、若い頃に東京で大学生活を送っているので〓“半都会人〓”といった趣きがある。  なにくれとなく世話をやいてくれたうえ、最後の日には、 「温泉で骨休めをしていらっしゃい。私もお供しますから」  そう言って、この白《しら》布《ぶ》温泉にまで同行してくれた。  田舎《 い な か》の人らしい至れり尽せりの親切心もあわせて持っている。  布団の中から首を伸ばして、 「じゃあ、むかし、むかしのお話でもしましょうか」  と、言う。 「ええ」  私は枕をポンと一つ叩《たた》いて、夏目さんのほうへ首を廻した。 「この近くにサナトリウムを兼ねた病院がありましてね、私、若い頃に入院していたんですよ」 「ほう? 肺結核ですか」 「はい」  いくぶん意外な気がしないでもない。  夏目さんは肩幅も広く、学生時代にはなにかハードなスポーツでもやったような体つきだ。 「もうすっかりよろしいんですか」 「ええ、お蔭《かげ》さまで。もう三十年もたちますから、再発はないでしょう。私は東京の大学で勉強してたんですがね、集団検診でひっかかり、キチンと癒《なお》しておいたほうがよかろうということで、病院に入れられちまったんですよ」 「重かったんですか」 「重かありません。自覚症状なんかまるでなかったんですから。もうストレプトマイシンも出廻っておりましたし……。退屈なことを除けば湯治場に来ているのと同じですよ。それでも初めのうちは神妙に安静にしてましたがね。三か月たって、化学療法の効果がてきめんとわかると、それからはあまり模範的とは言えない患者に成り変わって、ゾロゾロ遊び廻っておりましたわ」 「なるほど」 「でも遊ぶたって、病院の中じゃ特別な遊びがあるわけじゃない。せいぜい同じ軽症患者と碁を打つとか、ラジオを聴くとか、あとは散歩だけですよ」 「はい」 「病院でも退院が近くなると、散歩を勧めましてね。何か月も寝ていると、体がすっかりなまっちゃって、そのままじゃ退院後の社会復帰が進まない。それで毎日一、二時間散歩をするわけなんです」 「ええ」  私は曖《あい》昧《まい》な相《あい》槌《づち》を打った。  部屋の外を浪《なに》花《わ》節《ぶし》を唸《うな》りながら通り過ぎて行く人がいる。岩《いわ》風《ぶ》呂《ろ》にでも行くつもりなのだろうか。 「初めは病院の近所から始めて、だんだん距離を伸ばして行くんです。一日に五、六キロは歩きましたかね、最後の頃には。市街地のあたりまで行って、ちょっと銭湯に入ったり、駄菓子を買ったり……。病院では週に二回しか風呂に入れませんでしたから」 「ああ、そうか」 「散歩のコースに花をたくさん植えている家がありましてね」 「はい」 「花なんかそれまであんまり興味もなかったんですけど、病気になると、やっぱり自然の美しさなんかに心が引かれるんじゃないんですか。白壁の、和洋折衷の作りで……いえ、このへんの家ですから、それほどモダンてわけじゃないけれど、鉄柵の壁のあいだから、庭いっぱいに咲いてる季節の花が見えるんですね。いつ通っても、みごとと言っていいほどに。八《や》重《え》山《やま》吹《ぶき》、小《こ》手《で》毬《まり》、沈《じん》丁《ちよう》花《げ》、パンジィ、ヒヤシンス、金《きん》盞《せん》花《か》、プリムラ……雪国は春が遅いぶんだけ、一《いつ》斉《せい》に咲き始めましてね」 「おくわしいですね。私はチューリップと薔《ば》薇《ら》くらいしかわからない」 「あはは。私だって初めから花の名を知っていたわけじゃない。みんな教えてもらったんですよ」 「だれに?」 「その家に二十八、九のきれいな女の人が住んでいたんです」 「ああ、なるほど。花と美女ですか」  私は茶化すように言った。  夏目さんが〓“おもしろい昔話〓”と言った、その話の方向がいくらか見えてきた。  私は布団の中で腹《はら》這《ば》いになり、タバコに火をともした。夏目さんは間を刻むようにとつとつと話す——。  坂道を登りつめると、今度は下り坂になった。  道は杉林のトンネルを抜けてポッカリと視界が開く。盆地を囲む山塊にところどころ名残りの雪があった。  白壁の家はその下り坂の途中にある。  網目模様の蔓《つる》が壁いっぱいにへばりつき、新しい芽が鮮やかな緑の色をあちこちに小さく散らしていた。  付近は鄙《ひな》びた田舎の家ばかり。  そんな群落の中にあって白壁の家だけはどこか取り澄ました、都会風な様子を見せていた。  病院の夕食は午後五時。それより早いことはあっても遅いことはない。賄《まかな》い婦たちがみんな帰りを急ぐからだ。  だから、N青年がこの坂道にさしかかるのは、いつも六時近く。春の斜光が轍《わだち》の道に長く影法師を落とす時刻だった。  塀越しに白い、こまかい花がたわわに垂れ、細い枝をクルクルと風に揺らしている。 「きれいだな」  ふと足を留め、庭の中を覗《のぞ》くと、桃の花がふくよかな色調を光の中に伸ばしていた。  ——どんな人が住んでいるのだろう——  この疑問は間もなく解けた。  N青年が花の家を意識するようになってから十日ほどもたった頃、西日の当たる窓辺に水色の衣《い》裳《しよう》が見えた。  ひょいと首を伸ばすと、女のほの白い顔が蠢《うごめ》いた。  女は眼をすぼめるようにして、男を凝視する。  そして、すぐに部屋の中へ消えた。  草食動物のようなやさしい眼。朱を帯びた古風な唇の色。時間にすれば、ほんの一瞬の出来事だったが、端整な面《おも》差《ざ》しが鮮烈にN青年の心に残った。  女の姿はそれからもたびたび庭の内外にあった。  花に水をやっている時もあったし、小さくハミングを流している時もあった。  こうなると男は散歩のコースを変更するわけにいかない。  ——今日はいるかな——  期待に胸を弾ませ、人影を認めては奇妙な安心感を覚えた。  何度か顔を合わせるうちに、女も男を意識するようになった。そのことは、女のどこかぎこちない——足音の方角を見るわけでもないが、さりとてけっして外の通行人に気づいていないでもない、そんな仕ぐさからもわかった。  夕食が終わると、N青年はせっせと同じ道を急ぐ。女も心なしかその時刻になると、道路に近いあたりに立っているように思えた。  ある日のこと、また塀越しに視線が合い、N青年は瞬時ためらったのち、なかなか滑らかに喉《のど》を通り抜けてくれない強《こわ》張《ば》った声で言った。 「花が……」 〓“きれいですね〓”と言うつもりだったが、声より先に女は二、三歩庭の奥へと退いた。  N青年の頬《ほお》が火《ほ》照《て》った。バツの悪さが胸に込み上げて来る。  しかし、女の聴覚はもとの位置に残っていたにちがいない。小さく輪を描くように草花の周囲を廻って塀に近づき、 「花は……お好きですか」  と、取りつくろってくれた。  その心遣いがうれしい。 「ええ」 「どんな花が?」  と、畳みかける。 「名前は知らないんです。でも、この白い花なんか……」 「これは小手毬。でも、もう盛りが過ぎてしまって」  女は含み笑っている。  男の次の言葉をゆったりとした表情で待っている。  だが、うまい台詞《 せ り ふ》が浮かばない。 「毎日お散歩ですの?」  また女が取りつくろってくれた。 「ええ。病院に入院しているんです。結核で。もうすっかりいいんだけど」  近所の人は、肺結核の患者を嫌うと聞いていたが、相手はそんなことなど少しも気にかけるふうもなく、 「ああ」  と、頷《うなず》いて、またひとつ花のように微《ほほ》笑《え》んだ。  ——東京の人だな——  声の抑揚からもわかった。垢《あか》抜《ぬ》けた身のこなしからもわかった。  彼自身はもともと米沢の生まれだから田舎の人をとりわけ毛嫌いする意識はなかったが、北国の淀んだ空の下では、この女の爽《さわ》やかさがひときわ尊いものに映った。  病院の単調な生活の中に、ほんのりと華麗な花を見る思いだった。  翌日もN青年は散歩道を急いだ。  女は昨日と同じように塀のかたわらに佇《たたず》んでいる。 「よろしかったら、お入りなさいな」  目顔で木戸のありかを言う。  庭の手入れはけっして行き届いているとは言いかねたが、乱調の中にも花々が愛されて生きているのがよくわかった。 「病院はもう長いの?」 「九か月です」 「退院は?」 「もうすぐです」 「退院したら?」 「東京へ戻ります。K大の学生なんです。父はこちらにいますが」 「じゃあ、もうすぐお別れですのね」  女はなんの屈託もない。ずいぶん前から知り合っていたようなことを言う。  N青年のほうがむしろ狼《ろう》狽《ばい》した。  そんな気持ちを押し隠すように、 「花がよほどお好きなんですね」  と、言えば、 「ほかに楽しみがないから」  と、答える。  ——なにか事情があるのかな——  と思ったが、それ以上聞きただすのも失礼と考えて口をつぐんだ。  女は帰りがけにおみやげだと言ってチーズをくれた。  N青年はチーズなどちっとも好きではなかったが、この時から急に好物になって病院の仲間たちを驚かせた。  二人の仲は急速に進んだ。  親しさが増すにつれ、女の立場が少しずつ明らかになった。  案に相違して彼女は人妻だった。  夫は絵かきで、土地の高校の教師をしていたが、二年前に突然家出をしてしまった。現代風に言えば、いわゆる蒸発である。八方手をつくしたが、いっこうに消息がわからない。生きているのか死んでいるのか、それも見当がつかない。  女の実家は、N青年が考えた通り東京だったが、そこにはなにか帰りにくい事情があって、夫がいなくなった後もそのままこの土地に留まっているのだ、と言う。  夫の母に当たる人がいっしょに暮らしているが、その人は洋裁学校の教師をしていて、いつも帰りが遅いらしい。女は花作りに精を出すよりほかに無《ぶ》聊《りよう》を慰める手段がなかったのかもしれない。 「ご主人はどうされたんでしょうね」 「わかりませんわ。ただ……」 「ただ……?」 「もう帰らないんじゃないかしら」 「どうして?」 「なんとなく。そんな気がするの」 「はっきりそうとわかったら、あなたはどうするんですか?」  その点を聞かずにはいられない。 「義《は》母《は》に頼まれたの。三年だけ待ってほしいって……。それで駄目ならあきらめるからって」 「承知したんですね」 「ええ」 「あと一年……ですね」 「そう」 「東京へ帰るんですね」 「そう。ほかに行くとこ、ないもン。なにしにこんなところへ来たのか、わからない」  彼女にしてはめずらしく捨て鉢な調子で言った。  それから覗《うかが》うようにそっとN青年を見あげて、 「磐《ばん》梯《だい》高原て、この近くなんですか」 「ええ、そう遠くはない。どうして?」 「景色のきれいなところなんでしょ」 「まあ、悪くない」 「一度行ってみたかったわ。十《と》和《わ》田《だ》へは行ったけど、あとどこへも行ってないの」  N青年は〓“ボクが案内しましょう〓”と言いたかったが、相手が人妻であることを思えば言葉に出しかねた。  だが女は男よりはるかに大胆であった。  いつしか家の中にN青年を招じ入れるようになり、なにかの折に膝《ひざ》を寄せたり、手に触れたりする。男は電気にでも触れたようにその部分がしびれ、病院のベッドへ戻っても甘い疼《うず》きが消えなかった。  とうとう唇を重ねるようになった。  窓辺に長い茎の花が揺れ、女はその花と同じように頭をクラクラと、まるで理性の働きを尋ねるように激しく揺すったが、次の瞬間には魂の飛《ひ》翔《しよう》を求めて静かに眼を閉じていた。  病院では眠られぬ夜が続いた。  豊満に熟した女の体が、病床の夢に何度現われたことか。  もう退院の日も間近くなったとき、N青年は疼きに耐えかねて、女の体を求めた。  女は崩れた膝を閉じ、いたいけな子どもをさとすように呟《つぶや》いた。 「駄目なの。今は駄目なの。来年、きっと来年になったら……。山の上に湖があるんでしょ。行きたいわ。この土地に来て、〓“よかった〓”って、そんな、いい思い出となるようなとこ。ね、どこかへ連れてって……」  男は相手の立場も考えずに無謀な行動に出たことを恥じていた。後悔が胸を刺す。  弾《は》ねるように退いて、手を腿《もも》の上に揃《そろ》え、 「わかった。来年の春……その時になったらいいんですね」 「あなたもしっかり勉強して。今から学校へ戻ればきっと卒業できるんでしょう?」 「うん、まあ」 「その時まで……ごめんなさい」 「なにも謝まることなんかないじゃないか」  二人は同じ姿勢のまま寡黙にすわり続けていた。  一週間後にN青年はサナトリウムを去った。  いったん米沢の父のもとに帰り、すぐに東京へ帰って夏休みの直前から復学した。  病臥ののちの学校生活は体にこたえたが、なんとか休まずに学校へ通うことはできた。  週に一度は女宛《あ》ての手紙を書いた。  女からは几《き》帳《ちよう》面《めん》な文字で綴《つづ》った返信が届いた。  秋がゆっくりと動いて冬になり冬が春に変わると、春は日を追って熟した。  北国でも雪が解け、カラカラと明るい水音が野に響いているだろう。  男は夜ごとに女を思った。連想はともすれば女の淫《いん》靡《び》な部分へと移った。まだしかと確かめたことのない、その部分の熱さを——やわらかさを心に描いた。 「檜原湖まで行こう。そこで、あなたを抱きたい」  と、手紙に記した。  女からは言葉少なに返事があった。 「ええ。きっと、その日に」  夏目さんはここまで話すと、生あくびをひとつ噛《か》み殺した。そしてしみじみと述懐する。 「若い頃の恋なんてヘンテコなものですね」 「そうですか」 「ええ。私はその女の人柄に惚《ほ》れ込んだつもりでいましたが、ゆっくり考えてみると、どんな性質の女かサッパリわかっちゃいなかった」 「悪い人だったんですね」 「いや、そういうわけじゃない。ただの、普通の女だったと思います。気のやさしい、花の好きな……」 「ええ」 「ただ、人柄なんか今考えてみると、どうでもよかったような気もするんですよ。特別悪くなきゃ。毎日毎晩、彼女のことを考えていたけれど、思っていたのは体のことばっかりで……」 「わかります」 「特に私の場合は〓“檜原湖まで行けば彼女が抱ける〓”そのことだけだったんですから。ちょっと口ではお話できないような卑《ひ》猥《わい》なことばっかり妄《もう》想《そう》していたわけですね」 「なるほど」 「五月の末に女から連絡があって、六月の初めに市内の〓“エル〓”という喫茶店で会う約束になりました。手紙にはなにも書いてなかったけれど彼女のほうは三年の待ち時間が過ぎて、おそらく東京へ帰る直前だったと思います。あの頃、大学には秋に卒業する制度があって、私は単位を三つほど落として春に卒業ができず、ちょうど卒業論文の準備をするために忙しい最中でしたが、もうそれどころではありません。胸弾ませて、頭の中に妄想だけをいっぱい詰め込んで上野を出発しました。その時の心境を思い出すと〓“若かったなあ〓”って、甘酸っぱいような感激がこみあげて来るんですね、フフフ」  夏目さんははにかむように言って、そのまま唐突に口をつぐんだ。  そのままいっこうに話を続けようとしない。 「で、お会いになったんですね、彼女と」 「それがなんと言ったらいいのか……なんだかやけに眠くなってきました。もう一時に近いんじゃないですか。明朝は出発もいくらか早いことですし……。話の続きは、ご興味があればまた明日にして」 「ええ」  夏目さんがそのつもりなら、私のほうには否も応もない。  私は布団の襟を口もとまで引きながら、ふと〓“千夜一夜物語〓”の故事などを思い浮かべた。  シャーラザッドは自分の命を永らえるために、いつも物語を途中で罷《や》めたと言うではないか。 「じゃあ、眠りましょう」 「眠れそうですか」 「ええ、なんとか」  口ではそう言ったが、いっこうに睡魔はやって来ない。とりとめもない連想が広がった。  私にもなにがしかの青春の思い出がある。西日の射す四畳半で抗《あらが》う女の膝を割った。ふくよかな肉の谷あいにサラリと赤い、暗色の亀裂があった。  そんな記憶が——遠い記憶が心に昇って来る。  夏目さんはもう寝息をたてていた。  翌朝は快晴。  北国の空にもほのぼのと漂う暖気があった。  朝食前にタクシーを予約して、西《にし》吾《あ》妻《ずま》スカイバレーを西南へ走った。  夏目さんはドブ鼠《ねずみ》色の背広。頬にはくっきりと皺《しわ》が凹んで、文字通り田舎の商工会の世話人といった風《ふう》采《さい》。昨夜の恋物語の印象は薄い。 「このへんは、おいしい茸《きのこ》が取れるんですよ」  と、案内に余念がない。  山が切れると、右手に灰色の檜原湖が見えて来た。 「ここは南北に長い湖でね。もともと川だったのが噴火で堰《せき》止《と》められてできたんだから」  さして感動もない調子で言う。  昨夜の話の続きを語る様子もない。  正面に裏磐梯の雄姿が浮かんだ。  灰白色の山肌には繁《しげ》る草もないようだ。  車は湖畔を二十分ほど走って、ドライブ・インやバンガローの点在する地点に停《とま》った。  まだシーズン・オフらしく人の影も少ない。 「あんまり時間もないけれど、ちょっとボートに乗ってみませんか」 「ええ」  一軒だけ開いているボート屋から夏目さんがボートを借りて来て桟橋に着いた。  湖上にはほかのボートもない。  冷たい風が時折湖上を吹き抜ける。  ボートはたちまち岸を離れた。 「右が磐梯山、左が櫛《くし》ケ峰《みね》」  裏磐梯の二つの山塊が、空の中に並んで突き出している。  荒涼たる火山の肌、人《ひと》気《け》ない湖の面、風景は寂《せき》寥《りよう》として嶮《けわ》しい。 「ときどきいらっしゃるんですか、ここへは?」 「ええ、まあ、年に一度くらいは」 「思い出があるんですね」 「あはは」  笑い声が風に切れた。 「昨夜の話ですが……どうなりました?」 「ええ、私は意馬心猿の思いで約束の場所まで行きましたが、女は来ませんでした。待てども、待てども」 「はあ?」  いくらか拍子抜けがした。  それだけの話だったのだろうか。 「来られないわけなんです」 「どうして?」 「ドラマチックと言えば、ドラマチックなんですけど、彼女は私に手紙を書いたあとに急性の肝炎に罹《かか》って急死しましてね」  夏目さんは漕ぐ手を止めずに言う。 「あ、それは……」 「ああいうときに待つ気持ちって、厭なものですね」 「ええ……?」 「待てどくらせど彼女はやって来ない。もう我慢できなくなって、例の花の家まで行ってみると、どことなく様子がおかしいんです。それで、近所の雑貨屋で聞くと、〓“急病で死んだ〓”って……。驚いたなあ、あの時は、本当に……」 「…………?」 「お葬式も済んだあとでした。まさか線香をあげに行くわけにもいかないし……。人目を忍ぶ仲だったわけでしょ。夜通し花の荒れた庭を覗《のぞ》いていましたよ。表の道を行ったり来たりしながら……」 「なにか伝言のようなものは?」 「わかりません。なにか言ったとしても、私にまで届くはずもなかったし」 「なるほどね」 「張りつめていた糸が切れたような情けない気分でしたね」 「人間って、そんなに簡単に死んじゃうものなんですかね」 「現に死んじゃったんだから……」 「ええ」  私は漠然と〓“殺人〓”のようなものを心に思い浮かべたのだが、それでは連想が突飛過ぎる。  となると、夏目さんの話は、どこか焦点がぼやけているような気がしてならない。  たしかに夏目さんにとっては切実な、若い日の恋物語かもしれないが、とりたてて人に話すほどめずらしい内容でもない。  夏目さんも私のそんな気持ちを察したらしく、 「ただ、それだけの話なんですがね」  と、申し訳なさそうに言う。 「結局、檜原湖までの旅はご破算になったわけですね」  夏目さんがゆるやかな動作で首を振った。 「いや、そのまま帰るんじゃ、とてもやりきれなくて……。翌日予定通り一人で檜原湖行きのバスに乗りましたよ。彼女の家の庭に咲いていた花を一枝だけ盗んで、それを持って」 「いいじゃないですか、ロマンチックで」 「ええ」  ボートはいつのまにか湖のまっただ中にまで到達していた。  夏目さんがオールを置いた。  そして眼をすぼめるようにして、遠い視線を投げかけながら、 「その時もボートを借りて、このあたりまで漕ぎ出しましてね」 「はい」 「いろいろ妄想に耽《ふけ》っていたら……」  夏目さんが急に言葉を切った。  今度は風のせいではないらしい。 「ええ……?」 「急に彼女が現われたんですよ」  すぐには夏目さんの言葉の意味が呑《の》み込めない。 「えっ……?」 「私の眼の前に彼女が身を横たえ、体を開いて見せてくれたんです」  私は首を振った。  夏目さんの言っていることがよくわからない。 「あなた、女の体を見たことがありますね」  夏目さんはことさらに〓“体〓”の部分に力を入れて言う。  今度はもちろん言葉の意味がわかった。 「ええ」 「それを見せてくれたんですよ。この場所であの人が……。約束通りに」  夏目さんはオールを取って舟を廻した。  二人の位置が入れ替り、私の眼の前にふたたび裏磐梯の白い山塊が広がった。  右に磐梯山、左に櫛ケ峰。  さながら女が膝を立て、足を開いたように。  そして、その二つの峰の間に、火口が歪《いびつ》な亀裂をくっきりと開いていた。 「ほら、あの通り」  私は呆《ぼう》然《ぜん》として宏《こう》大《だい》な自然の異形を仰いだ。 踊る指 「苫《とま》小《こ》牧《まい》は根っからの製紙業の町なんですよ。紙、紙、紙、カミサマばかりでほかにお見せするものはなんもなくって」  木《き》田《だ》さんは車の助手席から体を捻《ひね》りながら生《き》真《ま》面《じ》目《め》な声で言った。  千《ち》歳《とせ》の飛行場に着いたときにも同じ台詞《 せ り ふ》を聞かされた。謙《けん》遜《そん》と自負とが半分ずつ入り混じっている。  たしかにこの町には、旅人の目を慰めるような名勝史跡はほとんどなにもないようだ。景色の美しい場所なら、これから先北海道の到るところにあるだろう。蟹《かに》のうまさもトウモロコシの甘さも本来は苫小牧のものではあるまい。 「ですが、まあ、そうおもしろいところじゃないですけど、製紙工場は一見の価値がありますです」  木田さんは控え目な身ぶりではあったが、語気のほうは、どうしてもこれを見てもらわなければ気がすまぬ、といった調子だった。 「ぜひ拝見させてください」  車の外は折あしく雨。それも並大抵の降りではない。ワイパーの動きが用をなさないほどに水の膜を作って雨が流れる。  おびただしい銀の糸を透かして見る町には人の姿もない。苫小牧はどんな町かと尋ねられても、ただ〓“雨〓”としか答えられないような、そんな激しい驟《しゆう》雨《う》だった。 「今ごろこんな雨はめずらしいんですがね」 「はあ」 「すみません」  天気が悪いのは木田さんの責任ではあるまい。  むしろ激雨にもかかわらず案内の労を取ってくれた木田さんに、こちらのほうが恐縮してしまう。  車がザザッと人の丈よりも高い水しぶきをあげて舗装の道から泥の道へと入った。  工場が近くなったらしい。 「この工場なんですがね」  木田さんが灰色の塀を指差してからも、まだしばらく車は走った。厭《いや》でも工場の大きさが実感させられる。  門をくぐると、あちこちに小山のような古紙の堆《たい》積《せき》があった。 「ここでは古紙を再生して新聞紙を作っていますです」 「チリ紙交換で集めて来たやつですね」 「はい。初めのうちは北海道の古紙を使っていたんですけど、それじゃ間にあわなくて内地の紙を集め、今じゃアメリカやカナダから来てるんです」  なるほど。よくみると、外国雑誌のけばけばしい色の表紙が散っている。  木田さんが傘をかざして雨の中に飛び出し、守衛の詰め所らしいところへ駈《か》け込んだ。  すぐに戻って来て、 「まっすぐ行って直接工場の中へ車を入れてください。そのほうが濡れませんから」  前半は運転手に言い、後半は私に告げた。  工場の中も古紙の山ばかり。  そのかたわらで幅十メートルほどの、エスカレーターみたいな幅広いコンベイヤーが古紙を平らに乗せてゆっくりと昇っている。  ——今日は日曜日だったかな——  そう疑ってみたくなるほど人影は少ない。  町に人の姿が見られなかったのは雨のせいだろうが、工場のほうはどの工程もおおむね機械の作業に委《ゆだ》ねられている。人間が少ないのはべつにあやしむこともない、平常の姿なのだろう。 「まあ、これからこの古紙を細かく裁断して繊維にして、それを紙に漉《す》くわけなんですがね」  削断機の音がものすごいので木田さんの声は途切れ途切れにしか聞こえない。 「古紙だけで新しい紙を作るんですか」 「いや、新しい繊維も混ぜますです」  木田さんはあちらこちらを指差しながら足早に進む。  私は聞こえぬ声に頷《うなず》きながら機械の脇《わき》の細い通路を進んだが、もとよりなにをやっているのかよくわからない。古紙はドロドロの粘液となり暗《あん》渠《きよ》の中をどんよりと流れ動いて行く。 どんな不満があるのかブツブツと灰色の泡を立てながら。  私は最前、幅広いコンベイヤーを見たときに、  ——もしこの古紙の上にゴロリと寝転がっていたらどうなるのかな——  と、埒《らち》もない想像を抱いたのだったが、さしずめ今ごろは削断機でグダグダにくだかれ、なにもかも正体のわからない溶解物となって気泡をあげている頃だろう。 「古紙はみんな印刷物だから、染料が塗ってあるわけですよ。それをきれいに取り除くのが大変なんですね」  暗渠が長々と続いているのはどうやらその作業のためらしい。  広い工場の中を歩き廻り、ようやく紙らしいものの見えるところにまでたどりついた。漂白した繊維を薄く伸ばしてローラーにかけながら火熱で乾かす。十畳間ほどの紙がゆっくりと流れ出て来て、それがまたローラーに巻かれて製品となる。 「ただそれだけのことなんですがね。日本で使う新聞紙の大半はここで作られているんですよ」 「ああ、そうですか」  私はわかったような、わからないような気分で相《あい》槌《づち》を打った。チリ紙交換の古紙がこんな形で再生されるのだと、その現実をまのあたりに見ただけでも収穫だろう。素《しろ》人《うと》の見学はどの道その程度のものだ。 「ああ、これは……」 「ご存知ですか」 「ええ」  工場の片隅に紙を所定の大きさに切り落とす裁断機が鋭利な刃を光らせていた。  私も図書館に勤めていたことがあるのでこの機械にはいくらか馴《な》染《じ》みがある。製本室で使っていた。大きさにはだいぶ差があるが銀色の刃が滑るように降りて来て、さながらバターでも切るようにサクリと紙の束を切り落とす。  ウッカリ指でも出していようものなら、機械はなんのためらいもなく小気味よく骨を切り落とすだろう。  じっと見ていると、 「おいで、おいで」  と呼んでいるようで、あまり気持ちのいい風景ではない。 「ありがとうございました」 「まあ、こんなところですな」  外に出ると相変わらずの雨。  小一時間ほどの見学だったが、北国はやはり日没が早いのだろうか。空はすでに雨の上で黒く染まっていた。  木田さんから夕食をご馳《ち》走《そう》になり、傘をさして少しだけ夜の町を歩いた。 「札《さつ》幌《ぽろ》とちがって、たいした遊び場もないんですよ」  一軒だけバーを覗《のぞ》いてみたが、木田さんの言葉通り格別に楽しい雰囲気ではない。そもそも酒場なんてところは、いくらか顔馴染みになって初めておもしろさが湧《わ》いてくるものだ。そのうえ胃袋のほうは、蟹と烏《い》賊《か》そうめんと——どちらも腹に入るとやけに量《かさ》の脹《ふく》れる食べ物だが——その他さまざまな料理で、もう飲み物だってあまり受けつけたくない状態だった。  よほどの美形でもいなければ、ゆきずりのバーで長居はできない。苫小牧にけっして美人がいないわけではあるまいが、少なくともその酒場はそうだった。運がなかったのだろう。  私の知人の物《もの》識《しり》博士の言うところでは、 「若い女が五百三十八人いると、その中に一人衆目の認める美人がいる率なんだ」  とか。 「ヘーえ、そんなものかな」 「うん。だから女学校の二学年に一人いるかいないかの確率だな」 「しかし、どうして五百三十八人なのかな。だれが調査したのだろう」  こう尋ねると、博士は悪《いた》戯《ずら》っぽく笑って、 「嘘《うそ》の五《ご》・三《さん》・八《ぱち》と言うじゃないか」 「なんだ、それは」 「知らんのか、人間にデタラメの数字を言わせると、5と3と8を挙げる確率が高いんだ。これは真《ま》面《じ》目《め》な話。心理学の実験結果だぞ」 「なーんだ、そういうことか」  この話を聞いたのも新宿のバーだったろう。酒場とは、こういう無駄話をして初めて楽しい場所である。木田さんと私は水割り一ぱいずつで店を出た。  木田さんはホテルまで送ってきてくれて、 「どうもお楽しみの場所がなくて、すみません」  と、この点に関しても、彼はおおいに恐縮している。苫小牧市が悪い印象を与えるものなら、天気の悪いことから、酒場に美人のいないことまで彼は責任を感じるつもりらしい。田舎の人らしい実直さだが、そうまで気を使ってもらうと、こちらがかえって心苦しい。 「札幌より千歳空港に近いから、航空会社の人は苫小牧に泊まるケースが多いんです。あ、そうです、このホテルにはスチュアデスが泊まってますよ。よくコーヒーを飲んでます」  私がよほど物ほしげな顔をしていたのだろうか、木田さんはまだ〓“美人〓”にこだわっているふうである。  お言葉ですが、昨今はあまりスチュアデスの中に美女はおりませぬ。それこそ五百三十八人並べておいて、一人くらいの率ではありますまいか。 「どうぞご心配なく。疲れてますから今晩はもう寝ます。ありがとうございました。おやすみなさい」 「おやすみなさい」  木田さんは明朝の予定を私に伝えて帰った。  私は部屋に入ってシャワーを浴び、テレビのスウィッチをひねったが、そのまま眠り込んでしまったのだろう。  次に目を醒《さ》ましたときには、テレビは赤紫の走査線だけの画面に変わっていた。  頭が重い。  体がだるい。  飛行機に乗るために日頃のスケジュールを崩して早起きしたうえに、急に北海道の涼気に打たれ、風《か》邪《ぜ》を引いたのかもしれない。  およそ医学的には納得のできない話だが、私には、  ——ああ、今、風邪の黴《ばい》菌《きん》が入ったな——  と思う一瞬がある。  人混みの中から私の喉《のど》まで点線を描いて病原菌が飛んで来る経路が見えるような時がある。  今朝の羽田空港でもそんなことがあった。あの時に感染したとなると、ぽつぽつ症状の現われる時期ではないか。  ボストンバッグから愛用の薬を取り出して飲んだ。この薬はただの売薬だが、飲むと眠くなり意識がトロンと水《みず》飴《あめ》みたいに不定形になる。  そんな時には、夢ともうつつともつかぬ状態に陥り、なにかしら頭に浮かぶものがある。それが、まれには小説の材料になったりする。  私はベッドに転がったまましばらくの間、半睡状態のやって来るのを待ったが、今夜に限っていっこうに効果が現われない。薬が古くなっていたのかもしれない。  それとも……私は旅に出ると、かすかに興奮するところがあって、長くは眠っていられない。限られた時間の中で、できるだけたくさん旅先の町の雰囲気を味わっておきたいという欲望があって——そうでもしないと少し損をしたように思う心理が、平常の意識と深層心理の間くらいのところに蠢《うごめ》いていて——旅の宿では早々と目を醒まして自転車で町を駈《か》けずり廻ったりすることも珍しくない。 「ホテル内の散歩でもしようか」  雨ばかりが打つ狭い部屋に閉じ込められているのは、どうも酸素が少なくなるようで息苦しい。  服を着替えて最上階のカクテル・ラウンジまで昇ってみた。  ——スチュアデスがいるかな——  まさかそんなことを思ったわけではあるまいが……。  もとよりとうに営業時間を過ぎていて人影はない。だが、中へ入ってクッションに腰を落とすくらいのことはできる。  私は窓際の席にすわって緞《どん》帳《ちよう》のような重いカーテンを細目に開いた。  外はただ闇《やみ》。  おびただしい雨がガラス戸に当たって弾ねている。  私はソファに背を預け、タバコをふかした。  ラウンジは私のいるところを除いて光はない。もともとそういう仕掛けになっていたのか、それともボーイが電気を消し忘れたのか、目の前のテーブルに、一筋のスポット・ライトが射している。そのテーブルの脇のカーテンがテーブルの木《もく》目《め》をなかば覆うように掛かっている。  ——なにやらミニチュア・サイズの劇場みたいだな——  そう思ったのは、その時だったのか、もっと後のことだったのか……。いずれにせよ、意識が少しぼやけていたのは本当だ。  スペインの酒倉で奇妙な人形劇を見たことがあったっけ。酔客はほかにも何人かいたのだろうが、ひどく陰影の深い、薄暗い酒場だった。  ホテルのカクテル・ラウンジはあの酒倉よりずっと瀟《しよう》洒《しや》に作ってあったが、影の深さが——テーブルの上にたった一つだけ明るい光が落ちているさまが、どこかあの時の雰囲気に似ている。  東洋人とも西洋人ともつかない面《おも》差《ざ》しの男が黒い蜜《み》柑《かん》箱のようなものを粗木造りのテーブルの上に置いて器用に人形劇を演じていた。  スペイン語なので、物語のこまかいやりとりはわからなかった。〓“赤《あか》頭《ず》巾《きん》〓”のパロディみたいなものらしく、赤装束の人形と狼《おおかみ》とが猥《わい》褻《せつ》なやりとりを演じていた。  スペインには、あんな古風な人形芝居が今でもちょいちょい残っているのかと思ったが、そうでもなかったらしい。スペイン通の人に聞いても思い当たるものはないと言う。あそこの酒場にだけ現われる、奇態な芸人だったのだろう。人形の動作にはそれなりにソフィスティケートされた愛敬があって、結構見られる演《だし》物《もの》だった。  そんなことをぼんやりと思い出しているとエレベーターからラウンジへと続く廊下に足音が聞こえて、人影が現われた。 「今晩は」  なんとなくスペインの人形使いを連想したが、そんなはずはない。紛れもない日本人。初老の男で、どこかで見たような面差しだが、だれだったろう。 「今晩は」  私は挨《あい》拶《さつ》を返した。 「雨がひどいですね」 「ええ」 「これじゃあ一日中どこへ出るわけにもいきませんわ。陸の孤島ですな、まったく」  その男も眠られぬ夜をもてあまして出て来たのだった。 「失礼」  そう言って、私の前のソファに腰かけた。  尻《しり》を半分だけ載せたのは、先客である私にいくらか遠慮をしたためかな。 「なかなかいいホテルじゃありませんか」  男は暗いラウンジを見廻しながら言う。 「ええ」 「昔はなんにもない町でしたがね。ここ十年ばかりでえらく変わりました。飛行場は近いし、港はアメリカやカナダあたりから船が入るし、大分賑《にぎ》やかになってきましたな」 「そうですか。初めて来たものですから」 「おや、おや」  相手は口先だけで驚いてから、 「このホテルも以前は製紙工場の敷地でしてね、私ゃこの近所の工場で働いていたんですよ」 「紙会社の景気がよかった頃ですか」  私が大学を卒業する頃、求人広告の貼《は》り紙では製紙会社が一きわ高い初任給を掲げていたのを覚えている。 「いや、それより前ですな。ダンスのはやっていた頃ですから」  ダンスの流行と製紙業の隆盛と、時代的にどういう年月をへだてているものか、私には記憶がない。  男の表情は若く見えたが——と言うよりいったい何歳くらいなのか、見当のつけにくい風《ふう》貌《ぼう》だったが、話から察して私より十数年は上、おそらく六十に届くのではあるまいか。 「ダンスですか」 「はい。私ゃ内地のほうで仕事をしくじってしまって、まあ、就職口があったものだから、こっちへ渡って来ましてね」 「はあ」 「楽しみのなんにもない土地でしたからねえ。社交ダンスを覚えたんですよ」 「なるほど」  私は作家の新《につ》田《た》次《じ》郎《ろう》さんが富士山の気象観測所で帚《ほうき》を相手にダンスを覚えたというエピソードなどを思い出した。  苫小牧ではまさか帚をパートナーにするほどではなかっただろうが、娯楽設備の少ない地方都市で、社交ダンスが若い人たちの恰《かつ》好《こう》な楽しみとなった話は、ほかでも聞いたことがある。 「あなたは踊れますか」 「いえ、駄目なんです」 「それは残念。やってみるとなかなかおもしろいものですよ」 「ええ、たぶん……」 「私はすっかり夢中になっちまいましてね。一時はプロのダンサーになろうかと思ったほどですよ」 「そりゃあ……」  私は曖《あい》昧《まい》に言い、さりげなく男の体恰好を観察した。  年を取っていくぶん背筋は彎《わん》曲《きよく》しているが、脚は長く、若い頃にはおそらくスタイルのいい男だったろう。 「でも、途中でダンスのできない体になってしまいましてね」 「なんですか」 「骨の病気ですよ。それでもダンスは忘れられない。それで、ベッドに寝ているうちに、しようがない、指のダンスを研究しましてね」 「指のダンス……ですか」 「はい。ほら、見てごらんなさい」  男はそう言いながら私の目の前についと両手の指を差し出した。 「私の指はちょっと変わっているでしょう。生まれつき人差指と中指の長さが同じなんですよね」  言われてみると、その通り。二本の指の丈がほとんど変わらない。私はあらためて自分の掌を見たが、ほぼ一センチほど中指のほうが長い。これが普通の手というものだろう。 「野球のピッチャーでもいましたよね。指が他の人と少し違っているために特別なボールを投げられる人が」 「ええ」 「私も、この指、なんかの役に立たんかいなって思ってたんですが、急に思いつきましてね。よし、この指にダンスを踊らせてやれ」 「おもしろそうですね」 「はい。右の指二本が男の足、左の二本が女の足。ズボンを穿《は》かせスカートを穿かせ、ナーニ、上半身なんかなくたってダンスの気分は充分に出せますからね」 「練習なさったわけですね」 「そう。毎日鏡の前で練習して……」 「ええ……」 「お見せしましょうか」  男の指はもう膝《ひざ》の上で軽くステップを踏み始めていた。 「はい、是《ぜ》非《ひ》」 「じゃあ、ちょっとあなたの上着を貸してくださいな」 「どうぞ」  男はカーテンの裂け目に椅《い》子《す》を置き、椅子の上に私の黒い上着をかけ、膝を落として椅子の背から腕を出した。男の姿はカーテンの中にすっぽりと隠れてしまった。  四本の指はすでに白いズボンと赤いスカートをはいている。 「なにを踊りましょうかな」  カーテンのうしろから男の声が響いた。 「一番得意のものを」 「じゃあ、一番ポピュラーなところで、ラ・クンパルシータを」 「ええ」  細い口笛が鳴り、椅子の上で指が踊り始めた。  本当のところさして期待もしていなかったのだが、踊りが始まったとたん、私はたちまち目を見張らなければいけなかった。  カーテンが緞帳のように垂れている。黒い上着が手首を隠している。ラウンジのスポット・ライトがほどよい大きさで光《こう》芒《ぼう》を広げている。  椅子の台は木製で、さながら舞台のフロアーにふさわしい。  四本の指は彼の口笛にあわせてみごとなステップを踏みだした。とても指のようには見えない。なにやら天井桟敷から遠く、小さな舞台を眺めているような風景だ。  曲が止み、脚も止まった。 「いかがですか」 「すばらしい」 「じゃあ、もう一曲」 「なんですか」 「そうね。〓“浪《なみ》路《じ》はるかに〓”をフォックス・トロットでやってみましょうか」 「はい」  ダンスを踊れない私には、フォックス・トロットがどんなステップかわからなかったが、曲のほうならよく知っている。ずっと昔、どこかの深夜放送がテーマ音楽に使っていた。原題はたしか〓“ Sail along silvery moon 〓”ではなかったか。いかにも銀色の海に帆船が一つ、なめらかに滑って行くようなメロディだ。  雨は降りやんだのだろうか。  さっきから窓を打っていた激しい響きは消えてしまった。聞こえるのは彼の細い口笛の音色だけ……。  四本の指は軽く、歯切れよく、楽しそうに弾んでいる。人気ないフロアーで、一組の男女が心地よさそうに戯れてる……。  曲が終わったとき、私は小さく手を叩《たた》いた。 「うまいものですね」 「おそれいります」  こんな芸があるとは知らなかった。まったく世間にはどんな奇特な人がいるかわからない。  それにしてもこれだけ熟練するには、どれほどの練習が必要なんだろう。中指と人差指と、二本の指の長さが似通っているという身体的な条件をべつにしても、そうそうだれにでもできることではあるまい。 「気に入りましたか」 「ええ」 「じゃあ、わる乗りをして、もう少し」  口笛は〓“魅惑のワルツ〓”を奏で、足の動きは——いや、指の動きは、ゆるやかな、床《ゆか》を掃《は》くようなステップを取った。  曲の題名から察して、これはワルツなのだろう。メロディにつれ映画のシーンが浮かぶ。ゲーリー・クーパー、オードリイ・ヘップバーン、それからモーリス・シュバリエだったな。シナリオもよくできていたが、音楽の美しさが抜群だった。  本来ならば、クーパーが私立探偵の役を、シュバリエが女《おんな》蕩《たら》しの役を演ずるのが普通なのだろうが、それを逆にしたところがおもしろかった。逢《あい》引《び》きの場面には、かならずお抱えの楽団がついて来て、甘い音楽を奏でる。ラブ・シーンそのものが典雅なダンスのようだった。連想はとめどなく広がる。そのうちにステップが急にすばやい動きに変じ、音楽も変わった。  これは……このリズムは、私にも見当がつく。  たぶんサンバだろう。  曲名は……そう、〓“エル・クンバチェロ〓”と言うんだ。カーニバルのリズム。激しい動き。汗の臭《にお》い。  こちらもつい指で拍子を取りたくなる。 「あれ?」  思わず独りごちた。  私は最前からただひたすら感心して呆《ぼう》然《ぜん》と指の動きに見とれていたのだが、ふと奇妙なことに気づいた。  サンバが始まった頃から指の動きがおかしい。  狂気のように激しく乱舞している。  相変わらず指の動きは見事なものだ。  だが……見事過ぎやしないか。  四本の指がまるで独立した生き物のように踊っている。  ——そんな馬鹿な——  私は凝視した。  指は右に動き、左に跳び、クルリと回転して複雑な運動を描く。  ——手の指にこんな動きができるはずがない——  そう思ったとき、口笛の音が遠のいた。  遠のいたのではなく、もともとその音色は私の頭の中でのみ響いていたのではないか。 「あの……」  声を掛けたが返事はない。  自分でもよく理由のわからない恐怖が走った。  私は立ちあがり、舞台を——椅子の舞台を覆っている上着をサッと払いのけた。  男の姿はなかった。  それだけではない。その瞬間、私はたしかに見たのだった。  四本の指が——手首のない指が、さながら演技を終えたバレリーナたちのようにススッと小走りに走りながら緞帳の中へ引き退がるのを……。  すぐにカーテンを払った。  男の影も、四本の指もなかった。ただ、青いスポット・ライトがカーテンの一角を照らしているだけ。静寂が途切れ急に聞き慣れた雨の音が戻ってきた。雨は激しく打って窓を濡らしている。 「もし」  もう一度声をあげたが、ラウンジはひっそりとしている。カーテンをくまなくたぐってみても、なにもない。  ——なにかブラック・マジックのようなものを見ていたのだろうか——  私はまどろんだのだろうか。  翌朝は林業研究所を見学して、それから札幌へ入るスケジュールだった。  雨は降りやまない。  木田さんは、 「また雨ですね」  と、くやしそうに言う。 「いつやむのかな」 「すみません」  私は今朝目醒めたときからずっとサマセット・モームの〓“雨〓”という短篇のことを思っていた。  孤島の雨。何日も何日も降り続ける雨。そのうっとうしさが一人の宣教師の理性を狂わせてしまう小説だった。  ——少し似てるかな——  旅先のホテルで雨に降りこめられるのも、ひどく滅入った気分になるものだ。私にはちょっと閉所恐怖症のところがある。〓“閉じ込められる〓”ということが好きになれない。体調がわるければなおさらのことだ。 「よく眠られましたか」 「はい、まあ」 〓“寝つきが悪かった〓”と言えば、木田さんはそれもまた自分の責任だとばかりに恐縮するだろう。 「夢を見ましてね」  私は自分の戸惑いに結論を下すように木田さんに告げた。 「いい夢でしたか」 「ヘンテコな夢でした。夢の中にネ……」 「はい」 「指が出て来ましてね」 「ええ」 「ダンスを踊るんですよ。とても上《じよう》手《ず》に。まるで一本一本が生きた生き物みたいに」 「ああ」  木田さんは小さく呟《つぶや》いてから、 「本当に夢でしたか」  思いがけない質問に私は驚いた。 「ええ、でも……」  思わず口ごもってしまう。  助手席の肩が笑いながら言った。 「製紙工場では紙の裁断機を使うでしょう。よく事故を起こして指を切ってしまう人がいたんです。最近は機械もすっかり改善されましたけど、昔はよく」 「…………」 「その指が幽霊になって出て来るんだそうです。私ゃまだ見ませんですけど。製紙会社の町じゃよく聞く怪談なんです」  木田さんは含み笑う。  私はさぞかし珍妙な表情を作っていただろう。前日見学した工場の、鋭い裁断機の印象が甦《よみがえ》った。  もし誤って手を出したら、五本の指が棒チーズのようにサクリと切り落とされてしまう。  ——しかし、その指の幽霊が出るなんて——  雨がまた強くなった。車の中は息苦しい。  ——それにしても——  とりとめもない思考をまとめようとして窓の外に目を移すと、雨の歩道を相合傘の脚が急ぐ。上体を傘の中に隠して、四本の脚がしなやかに踊って消えた……。 ゆらめく湖《うみ》  闇《やみ》の中でスウィッチをさぐり当てベッド・サイドの灯《あか》りにかざして腕時計を見ると、5と6のあいだで針が重なっていた。  昨夜は名《な》古《ご》屋《や》の放送局で遅くまで仕事をしてホテルへ入った。相変わらず旅先では熟睡ができない。  ——昨夜は強い雨だったが——  厚いカーテンを開く。  思いがけず眩《まば》ゆい光が射し込み、闇がたちまち消えた。  レースのカーテンを手《た》繰《ぐ》ると、天守閣のむこうにセルレアン・ブルーの空が広がっている。雨あがりの初夏は眼を貫くほどに鮮やかな色調で輝いている。  ——湖北まで行ってみようか——  急にそう思った。琵《び》琶《わ》湖《こ》のことが奇妙に頭の隅に宿っている。  今日の旅程はとにかく深夜までに京都へ辿《たど》り着けばよい。時間はたっぷりとある。こだま号で米《まい》原《ばら》まで行き北陸線に乗り換え、あとは長《なが》浜《はま》か高《たか》月《つき》か、あるいはもう少し先まで行ってタクシーを雇えばいいだろう。時刻表を取り出し、ほどよい列車の接続を確かめた。  琵琶湖は実際にめぐってみると想像以上に大きい湖である。何年か前に大《おお》津《つ》から今《いま》津《づ》まで車を走らせてつくづくそう思った。湖西線に沿って変化の乏しい湖岸の風景が続いている。そうだ、白《しら》鬚《ひげ》神社では、水量の減少のため湖中からすっかり足を出してしまった大鳥居を再び水の中に戻す大工事にかかっていた。あの鳥居は無事に足を湖中に埋めただろうか。宮《みや》島《じま》の大鳥居のように……。  湖南から湖西にかけての名勝は何度か訪ねたことがあるけれど、北の湖岸までとなるとなかなか足を伸ばしにくい。今日を逃すと、もうわざわざ訪ねる機会もやって来ないかもしれない。 「湖北は本当になにもないところよ。でも穏やかで、水もきれいで、とても美しいわ。とりわけ四月から五月にかけてがすばらしいの。嶮《けわ》しい風景の中に本当にほのぼのと春がめぐって来たみたいで。いつかきっといらしてみて」  三十年も昔に言われた声の響きが心に残っている。その人は言葉使いも面《おも》差《ざ》しもきれいな人だった。  もちろんその人の名は覚えているのだが、私はその名で呼んだことがない。いつも〓“お姉さん〓”と呼んでいた。  お姉さんの消息はわからない。終戦後、家出をして……幸福に暮らしているだろうか。  私より十数歳年長のはずだから、もうそれなりのお婆さんになっているだろう。今でも美しいのだろうか。まあ、そこまでは望むまい。上品な顔立ちの媼《おうな》を想うだけに留めておこう。もうめぐりあうこともあるまいが……。  新幹線の中で食べた弁当に諸《もろ》子《こ》の甘煮が入っていた。それが潜在意識となってお姉さんを思い出し、湖北へ行ってみようと考えたのかもしれない。お姉さんの家では食糧事情の一番悪かったときでも食卓にいつも諸子の甘い佃《つくだ》煮《に》が載っていた。琵琶湖の名産で、細身の鮒《ふな》のような小魚だ。そのことから考えても、ご両親の故郷は湖の周辺のどこかの町だったのだろう。お父さんは陸軍少将。いっときはとても羽振りがよかった。  大《おお》谷《や》石《いし》の塀に花《か》崗《こう》岩《がん》の門柱。黒褐色の門構えは普段はたいてい閉じていて、子どもたちはその脇《わき》の通用門か、あるいはずっと裏手の勝手口から出入りしていた。路地のあたりには、眼《め》つきの鋭い、部下の兵隊が見張りに立っていた。  事情があって私の家にいた婆やがお姉さんの家で働くようになったのだ。婆やは「いつでも遊びにいらっしゃい」と言って引っ越して行った。向こうの奥さんも気のやさしい人だった。私にとってはどこか親しい親《しん》戚《せき》の家へ遊びに行くような気分だった。子ども心にも多少の遠慮はあったけれども。  お姉さんの顔立ちは——残念ながらはっきりとは思い出せない。あれだけ親しくしていたのに一枚の写真も残っていない。むしろ声の響きのほうが思い出せそうな気がする。ゆっくり話す、弾んだ声……。  お姉さんは色白だったように思う。  鼻《び》梁《りよう》がまっすぐに伸びていたように思う。  お姉さんについて話すときには、だれもがきまって〓“きれいな人〓”といったふうな枕《まくら》言《こと》葉《ば》をそえていたから、間違いなく端整な面差しだったのだろう。夢の中に現われるときなどは、顔立ちは少しもわからないのに〓“あ、お姉さんだな〓”と、すぐに私はわかってしまう。気配だけでわかってしまう。  お姉さんはいつもキチンと着飾っていた。和服を着ていることも多かった。奇妙な連想だがテレビ・ドラマに登場する女たちは、家にいるときでも髪を整え、化粧をほどこし、いつも小ぎれいに装っている。あれを見るたびに〓“現実はこうはいかんな〓”と思うのだが、ことお姉さんの身だしなみについて言えば、ああしたヒロインたちとそっくりだった。まれには乱れた様子のときもあったのだろうが、遠い記憶の中にはそれはない。  そしてお姉さんはお座敷で独り静かに笛を吹く。鼓を打つ。曲の名はわからない。メロディも思い出せない。ただ古風な笛の音が聞こえると、糸を引くようにあのお屋敷のさまざまな風景が連なって心に昇って来る。パンと心地よく弾む音を聞くと、たちまち脳裏に一つなぎの過去が甦る。  お姉さんは白い和紙にくるんだ菓子の包みを開きながら、よくお話を聞かせてくれた。グリム童話やアラビアン・ナイトの物語もあったけれど、一番たくさん話してくれたのは琵琶湖にまつわる古い伝説。なにしろ本などあまり買えない時代のことだからお姉さんは〓“近江《 お う み》の伝説〓”という本をたね本にして、何度も何度もいろいろな伝説を教えてくれたのだった。 「琵琶湖の西側には比《ひ》良《ら》山といって、とても嶮しい山があるの。春先にはこの山からひどく冷たい風が湖に吹きおろしてくるのね」  そう言ったのは、きっと比《ひ》良《ら》八《はつ》荒《こう》のことだったろう。 「むかし、むかし、湖の東側の町に宿屋があって、そこにお花さんというとても働き者の女中さんがいたのよ。朝も暗いうちから起き出して、炊事やら拭《ふ》き掃除やら洗濯やら少しも骨惜しみをせずに働いていたの。ところが、ある日のこと……」  お姉さんはこんなときにはきまって話を止め、なにやら気を持たせるような表情を作ってから次に進むのだった。 「この宿屋にある日、湖の西側の山で修行するお坊さんが泊まったのね。八荒坊という名前のお坊さんだったわ。お花さんはそのお坊さんを一目見て、すっかり好きになってしまったのね。一《ひと》目《め》惚《ぼ》れ。わかる? それで〓“どうか私をお嫁さんにしてください〓”〓“いや、私は仏に仕える身だから、そんなことはできません〓”〓“せめておそばに置いて、身のまわりのお世話だけでもさせてくださいませ〓”〓“それもならぬ〓”〓“どうか、どうかお願いします〓”お花さんのお願いがあまり熱心なものだから、お坊さんのほうもつい、つい言ってしまったのね。〓“私は湖の西にある竜神堂で夜通し灯をつけて修行をしております。湖に出ればその灯が見えるでしょう。もし百夜続けて私のもとに通ってくだされば、あなたの願いを聞き入れてあげましょう〓”お坊さんは、まさかお花さんが女の身で夜ごとに湖を渡って来るなんて思わなかったのね。だから、こういう無理をわざと言って、あきらめてもらおうとしたの。でも、お花さんはそのお坊さんのことを好きだったから、それから毎晩毎晩たらいに乗って手で水をかいて、それで湖を渡ってお坊さんのところへ通ったの。琵琶湖はとても大きな湖なのよ。夜はまっ暗で死ぬほど恐ろしかったけれど、お花さんは波のあいだからチラチラ見える竜神堂の光を頼りに一生懸命水を掻《か》いたわ。十日が過ぎ、三十日が過ぎ、五十日も終わって八十日が来ると、お坊さんはだんだん心配になってきたのね。〓“あの時は苦しまぎれに百夜通えと言ったけど、本当に百夜通って来たらどうしようか〓”むかしのお坊さんは、女の人と仲よくしたりしちゃいけないきまりになっていたし、でも今さらお花さんに〓“あれは嘘《うそ》だった〓”と言ったのでは、どんな仕打ちに出られるか恐ろしいでしょ。お坊さんは困りきってしまったのね。とうとう百夜目がきて、その日は山から吹きおろす八荒あらしが特別に激しい夜だったわ。耳を切るような風が湖に吹いて来て、波も白い歯をむき出しにして荒れていたの。それでもお花さんは〓“今日こそ百夜目〓”と思ったから、期待で胸をいっぱいに脹《ふく》らませてたらいの舟を出したの。でも、お坊さんは、そうまでして通って来るお花さんの気持ちがなんだか魔物のように思え、とても怖くなってしまって、フッ……竜神堂の灯を吹き消してしまったの。〓“あっ〓”お花さんは目当てにしていた灯が急に消えてしまってどんなに驚いたかしら。でも、湖の向こうはまっ暗、どう見まわしてもまわりはまっ黒い夜ばかり。どこへどう行っていいかわかんない。冷たい風はピュー、ピューと容赦なく吹きつけるし、波はたらいを木の葉のように揺らして水をかぶせるの。突然強い山《やま》嵐《あらし》がヒュヒューと湖面を走って来たかと思うと、白い波がザザーンとお花さんの上に襲いかかり、そのままブクブクブク……。お花さんの声も風に吹き飛ばされてしまったわ。翌朝、こなごなに崩れたたらいが浜に吹き寄せられて来たけれど、お花さんの姿は水の底に沈んだらしく見つからなかったのね。村の人たちはお花さんをあわれに思って、たらいの破片をこまかく割り、仏様にお供えするお灯明の替りにして、いつまでも灯を絶やさないようにしましたとさ。おしまい。おもしろかった?」  手ぶり身ぶりで話すお姉さんを見ているうちに、私はいつしかお花さんをお姉さんに置き換えて想像を広げていた。灯が消える。闇が走る。お姉さんが黒い湖に白く乱れながら沈んでいく……と。  予定通り米原で新幹線を捨て、北陸線の各駅停車に乗った。椅子の背がやけに堅い。この列車で湖北まで行くつもりだったが、小さな駅ではタクシーの便がないかもしれない。長浜で降り、駅前で見つけた車に交渉して湖の北端にまで行ってもらうことにした。長浜港から竹《ちく》生《ぶ》島まで行く船の便もあるらしいが、今日はとりあえず陸路のほうから葛籠《つ づ ら》尾《お》崎まで行ってみようと思った。 「お客さん、こっちにはろくな名所もないですよ。どうせなら近江八景でも見物すればいいのに」  と、運転手はいささか困惑のてい。 「古戦場がたくさんあるんじゃないの」 「あることはあるけど、行ってみたって石碑がポツンと建ってるくらいのもんだからねえ。がっかりするだけだね。ま、渡《どう》岸《がん》寺くらいかな。あそこの十一面観音は有名だね。檜《ひのき》の一木彫りでいいお顔をしているわ。いろんな人が小説なんかに書いてるね」 「それはどの辺?」 「高《たか》月《つき》。これから行く途中だよ。この道からちょっと入ったとこ。寄りますかね」 「どうするかな。時間があんまりなさそうだから、とにかく湖の北の果てまで行ってくれないかな。それが先だ」 「北ってったって、賤《しず》ケ岳《たけ》のあたりかね」 「小さい湖があるじゃない」 「余《よ》呉《ご》湖かね」 「うん、それ、それ。そこから琵琶湖の岸辺に降りて」 「賤ケ岳からの景色は悪かあないけど、琵琶湖はどこで見ても同じだね」 「竹生島は見える?」 「今日の天気ならどこからでも見えるわ」 「あ、そう。名所見物はどうでもいいから、とにかく湖北から竹生島が見えるあたりまで連れていってくれないかな」 「はいよ」  運転手は奇妙な観光客だと思ったらしいが、それがお客の注文ならば仕方あるまい。くわえタバコで北陸自動車道を北へ向かった。  運転手の話にあった十一面観音は、きっと水《みな》上《かみ》勉《つとむ》が〓“湖《うみ》の琴《こと》〓”に書いているものだろう。鄙《ひな》にはまれな名品らしい。帰り道に時間があったら立ち寄ってみよう。 「むかし、たらいに乗って琵琶湖を渡った女の人の伝説があったね」  私は背後の席から運転手に問いかけた。 「ああ、そうかね」  この男は比良八荒の悲話を知らないのだろうか。 「娘さんがお堂の光を頼りに湖を渡ったところ、お坊さんがその灯を消してしまって」 「ああ、そりゃもっと南のほうの話でしょ。堅《かた》田《た》のあたりじゃないの。水路の狭いところじゃなきゃ、いくらお話だってたらいの舟じゃ無理だよ」 「そりゃそうだな」  私はなんとなくお花さんが琵琶湖の一番太いあたりを横断して男に会いに行ったと想像していたのだが、それでは遠過ぎる。せいぜい琵琶湖大橋くらいの距離だったのかもしれない。 「湖北のほうなら余呉湖の天女の話が有名だわね」 「ほう?」 「天女が余呉湖の岸に降りて来て、水浴びをしたんだね。漁師が柳の枝にかけた羽衣を奪って隠してしまったから、もう空に帰れんわ」  なんだ、三《み》保《ほ》の松原と同じじゃないかと思ったが、黙って傾聴していた。 「天女は結局漁師の女房になり、そこで生まれたのが菅《すが》原《わらの》道《みち》真《ざね》 だね。今でも余呉湖のそばに柳が立っている。まあ、何代目かの柳だろうけれど」 「琵琶湖に話を戻すけど、竹生島のあたりが一番深いんでしょ」 「そうらしいね」  地図を眺めると、勾《まが》玉《たま》のような形の湖、その北端に半島が垂れている。この半島の先端が葛籠尾崎。その岬から真南の湖上三キロのあたりに竹生島が浮いている。半島の東側は深い湾になっていて、私が望み見たいのは、その付近の湖の風情である。水深は七、八十メートルを越え、どういう水脈があるのか零度に近い冷水が湧《わ》き出していて、生物を腐敗させるバクテリアの活動もにぶい。遭難者の死体は生きていたときと同じような姿で湖底にゆらめき、時折なにかの拍子でふっと浮き上って来るのだと言う。さまざまな時代の土器が漁師の網に引っかかってあがるのも、このあたりの水底の不思議な特徴である。  ぜひとも湖北まで行ってみようと考えたのは、お姉さんの言葉のせいだけではない。私にはもう一つ、奇妙な記憶があった。  その話を聞いたのは——たしかサラリーマンになって間もない頃だったろう。高原のキャンプ場でたき火を囲みながら聞いたものだった。  話し手は痩《や》せぎすの中年男で、あまり風《ふう》采《さい》のよろしいタイプではなかった。その男がボソボソと低い声で語り始めるまで、私は自分の隣にそんな男がいることさえ気づかなかった。一人で来ていたのか、それとも家族連れで遊びに来ていたのか、それもわからない。乾いた杉木の薪がパリパリと威勢のいい音をあげて燃えると、炎がゆらゆらと立ち、そのゆらめきを受けて男の顔が陰影の深い朱の色に染まる。白い灰が油気の少ない髪にかかって、こまかい斑《ふ》を作っていた。 「私自身の体験じゃないんですがね。つい一年ほど前、実際に体験した人から聞いた話なんですよ」 「ええ」  キャンプ・ファイアを囲んで七、八人の男女が群がっていたが、ある者は火の世話に余念がない。一組の若いカップルは火の明るさもかまわずに体を寄せあって意味ありげな目配せを交わしていた。話を聞いていたのは、私ともう一人二人いたのだろうか。 「琵琶湖の北の端っこに竹生島って島があるんですがね。知ってますか」 「いえ、知りません」  島の名を聞いたのはこの時が初めてだった。 「北のほうへ行く人はいないですからね。まあ、付近は貧しい漁師の村でね。湖の魚を獲《と》って細々と暮らしているんですけど……以前から時々妙なものが湖の底から浮かんで来るって噂《うわさ》はあったんですよ」 「なんですか」 「水死人です。ずーっと底のほうから上って来るんですよ」 「琵琶湖ってあんまり深くはないんじゃないですか」 「南のほうはね。でも北の方には結構深いところもあるんですよ。私、専門家じゃないからよくわかりませんけど、底のほうに冷たい水流が巻いていて、そこまで潜ると水死人もなかなか浮いて来ない。そのうえ水が冷たいから腐らない。なんかの拍子でヒョイと浮いて来ると、昔のまんまの恰《かつ》好《こう》なんですよ」 「十《と》和《わ》田《だ》湖《こ》あたりでもそんな話を聞いたことありますね」 「あ、そうですか。私もいっぺん五年前に死んだ京都の大学生を見たことがあります。脱色したみたいにまっ白い肌だったけど、たしかにどこも腐っていない。人間を冷凍にしたらあんな感じになるのと違いますか」 「気味がわるいなあ」 「ええ。で、私の知っている漁師の人なんですけど、今でも竹生島の向かい岸で漁業をやってますよ。六十近い年寄りでね。ちょっとボケてるかもしれんがねえ。琵琶湖の魚もめっきり数が減ってしまったけど、この年《と》齢《し》じゃ今さらほかの仕事に変わるわけにもいかんでしょうが」 「ええ」 「気ままに舟を出して、鮎《あゆ》、鱒《ます》、諸《もろ》子《こ》、鯉《こい》なんか獲ってたわけなんですね。琵琶湖も南のほうはトロンとした穏やかな湖だけど、北のほうはまるで違うからね。交通の便は悪いし、気候も厳しいし、それに景色まですっかり違いますわ。溺《おぼ》れ谷《だに》って言うんですか、山から急斜面でいきなり湖へ落ち込んで、ろくな浜辺もないですよ」 「はあ」 「漁師は湖に〓《えり》を仕掛けて……〓と言っても知らないかもしれんけど、魚の通り路に細い竹籠《かご》を置いておいて、入ったら最後逃げられないようになっているんですよ。私の知合いの年寄りもそんなことやって暮らしてたんですがね。ときどき魚の通り路が変わってしまう。そうなるとまるで獲れない。あれくらい大きな湖となると、結構複雑な水の流れみたいなものがあってねえ、魚の居場所も少しずつ変わるんですよ」 「ええ」  たき火を囲んでいる人の数も一人二人と減って行く。 「で、その年寄りの漁師から聞いた話なんだけど、これがヘンテコな話でね」  と、男は首を振り振り語り始めた。  その日の〓には一匹の小魚もかからなかった。水の流れがよほど急激に変わっているらしい。  ここ十日ばかり不順な天候が続いている。湖の様子もどこか違っていた。 「あかん」  老人は午後遅くなって舟を出してみた。〓が駄目なら釣《つり》竿《ざお》を使ってさぐりを入れてみようと思ったのだった。  釣糸にもいっこうに魚がかからない。 「あかん」  同じ言葉を独りごちた。  いつもに比べて水が少し濁っているように見えた。  しかし、舟を漕ぐうちに水はかえって澄んでいるようにも見えた。  長い年月、湖水を見つめてきた漁師には、かすかな変化もよくわかる。見あやまるはずもない。今日の湖は、あるところは濁り、あるところは澄んでいるのだと合点した。湖の底で局部的な水流の動きが起きているのだと判断した。こんなときには魚の釣れたためしがない。老人は櫓《ろ》を止めて、ぼんやりと周囲の風景を眺めた。  日の暮れも迫っていた。  西側の山《さん》稜《りよう》に茜《あかね》色《いろ》の雲が飛んでいる。雲の切れ目から幾筋もの光が漏れて水面を染めている。日が翳《かげ》ると湖面はたちまちもの寂しい灰色に変わってしまう。波がさわさわと水底の意志を伝えるように蠢《うごめ》く。  老人は格別な感動もなく暮色の湖を眺めていた。子どもの頃からずっと見て暮らした風景だ。日が照ろうと翳ろうと、ことさらに美しいとも寂しいとも思わなかった。  彼の日課はおおむね決まっている。早朝と午後に魚を撈《と》り、二合の酒を飲んで眠る。時折テレビで歌謡番組や野球中継を見る。風色の変化をことさらに賞味する習慣は彼の中にはなかった。  ただ、この時だけはなにかしらかすかに——自分では説明できなかったが——いつもと違うものが心の中に流れていた。  岬の向こうに竹生島が浮いている。神々の住む島だと聞かされたことがあった。  さらに遠くを望むと、比良の山々が幾重にも重なって続いている。あの向こうに京都がある。首をめぐらせば東に伊吹山脈の山々がそびえ立ち、その山《さん》麓《ろく》は古戦場に欠くことがない。  年老いた漁師の頭の中では、源平の争いも関《せき》ケ原《はら》の戦いも、その他この湖を囲むあちこちで血を流した数《あま》多《た》の決戦も明確に区別できなかったけれども、この一瞬、彼はつねになく歴史の流れというものに対してぼんやりとした感慨を馳《は》せたのは本当だった。  ——大昔からいろんな人間が、いろんなことを考えながらこの景色を見てたんだろうなあ——  言葉で表わせば、こんなところだったろう。  そう思ったこと自体が奇っ怪な出来事の前ぶれだったのかもしれない。  どこかで梵《ぼん》鐘《しよう》が鳴ったように思った。  しかし、この近くにそんな鐘はない。  人声のざわめきを聞いたように思ったが、もとより湖上に人の声のあろうはずがない。  水面の波がざわめく。  老人は驚いて水中を透かして見た。  水の濁りがただごとではない。なにかが水底から蠢くように浮かび上がって来る。  漁師は当然のことながらこの付近の水の深さを知っていた。湖底に冷たい水が巻いていることも知っていた。このあたりで遭難した舟人は湖底深く引き込まれ、冷水の湧く谷間で生けるがごとく佇《たたず》んでいるということも……。  その深い水底からうねるように水流が盛り上がって来たのだろうか。なにかが見える。一つ、二つ、三つ……大きなものが湖底から昇って来る。……なんと人の姿ではないか。  たちまち舟を囲む浅い水の中にさながら魚群が群がるように死者の群が漂い、ある者はさらに浮き上り、ある者はそのまま深みに沈み、ゆらめきながら舞っている。  驚いたことに、死者たちは甲《かつ》冑《ちゆう》を身に帯び苦しげに眼を見開いている。その眼は白く濁っている。腕のない者、胸を矢で貫かれている者、腹わたが帯のようになびいている者、阿《あ》鼻《び》叫《きよう》喚《かん》の戦場の姿そのままに、ただ顔色だけがまっ白く脱色されて蠢いている。  その中にただひとり女の姿があった。女は華麗な衣《い》裳《しよう》をまとい、水際まで浮かび上がり、檜《ひ》扇《おうぎ》の水跡を残してまた水底へと落ちて行った。  老人は茫《ぼう》然《ぜん》として舟べりに首を垂れていた。  声も出なかった。  ——これは……なんだ——  そう思ううちにも死者の群は湖底に向かう水の流れに誘われて沈み始めた。つぎつぎに姿を消し、あとには褐色の幕を引くように水の濁りが盛りあがり、湖面を覆ってしまった。  老人は初めてわれに返り、急いで舟を漕いだ。村へ帰ってたった今自分が見た変異を告げた。 「じいちゃん、馬鹿なこと言うんじゃないよ。沖で寝ぼけたんじゃないの」 「耄《もう》碌《ろく》がひどくなったな」  それが村人たちの反応だった……。  高原でキャンプ・ファイアを囲みながら知らない男から聞いたのは、以上のような話だった。 「まあ、だれだって信じやしないだろうけど」  話し手の結論も村人たちと同じだった。  もとより私もそうたやすく漁師の見たものを信ずるわけにはいかない。  ——おそらくただの作り話だろう——  そう思いながらも、夢幻な風景が私の脳裏に像を結び、それが簡単に払《ふつ》拭《しよく》できない。むしろ時間の経過とともに話のイメージが私の中で成長して〓“ありうべきこと〓”となり〓“あってもいいこと〓”に変わってしまった。一度はその水辺に立ってみたい。なにも現われなくたってかまわない。現われるはずもないだろう。ただ水底を透かして湖の濁りを眺め、想像の中の光景を広げてみたい。  タクシーの運転手に尋ねてみたが、彼はこの奇っ怪なエピソードについてはなにも知らないふうであった。  余呉湖を半周し、賤ケ岳の山頂まで登って眺望を楽しんだのち、湖畔にまで降りた。 「運転手さん、一時間ばかり時間をつぶしていてくれないかな」 「いいですけど……どうしますね」 「舟を出してもらうから」 「釣ですか」 「いや、ちょっと」  漁師の家を見つけて頼み込むと、中学生くらいの少年が応じてくれた。  おあつらえ向きの夕暮れどきである。 「何年生?」 「二年生」  少年の櫓《ろ》さばきはなかなか巧みだった。 「適当に沖のほうまで出してくれないかな」 「うん」  竹生島は岬の陰になって見えない。 「このへんでは水の底から死体が浮き上って来るんだって?」 「…………」  田舎の少年ははにかむように首を振る。  私は舟べりから上半身を乗り出して水の中を透かしてみた。  櫓の音だけが響く。水面にはなんの変化もない。  苦笑が頬《ほお》に浮かぶ。初めから予測のできたことばかりだ。となると……なんのためにわざわざこんなところまで来たのかわからない。タクシーの運転手が怪しむのも無理がない。  仕方なく水の中に漂う青白い面差しの美姫を想像してみた。わけもなくお姉さんのイメージと重なった。思い浮かべることのできない、ただ白いだけの顔立ちを水の中に想ってみた。  湖面に霞《かすみ》がかかり始めたのか、気がつくと視界が急に狭くなっている。夜の気配が刻々と濃くなって来る。 「もうこのへんでいい」  少年は無言で櫓を止め、舟底に腰をおろした。  ——待てよ——  水底でなにかが動いているようだ。  そんなはずはない。  ただの気のせいだろう。  しばらくは湖の底を覗《のぞ》き見ていた。水は思いのほか暖かい。底のほうだけが冷たいというのは本当かもしれない。  どこかで鐘の音が鳴ったように思った。  ——馬鹿な——  これもまた気のせいだろう。 「さあ、帰ろうか」  湖上に駈《か》け足で闇が迫り始めるころ舟の舳《へ》先《さき》を戻してもらった。  村の灯がポツンと見える。  ——あれが消えたら帰れなくなるだろうか——  まさかそんなこともあるまい。  坊さんのもとに通いつめた女の執念を思った。  お姉さんも終戦直後に激しい恋をして家を出たと聞いた。  そんな風聞なんかとても信じられないほど静かな様子の人だったが……。私もぼんやりと時の流れを思った。人間たちの営みはみんな時間の水底に沈んでしまうのだろう。  どこかで笛が鳴った。遠い風の音だろうか。いや、そうでもなさそうだ。  かすかに鼓の音が響いた。 マングローブ樹林  初めてその女を見たのは石《いし》垣《がき》島《じま》の桟橋付近で船を待っているときだった。  暦のうえでは秋に入っていたが、南国の日射しは強い。烈しい日照に晒《さら》され波止場の風景はなにもかも白ずみ、色《いろ》褪《あ》せて見えた。この土地に住む人はそんな色調ともよく馴《な》染《じ》んでなんの異和感もなく映ったが、観光客の放つ色彩はどこか違っている。その女の衣《い》裳《しよう》も色鮮やかであった。  女は船の案内所で電話を借り、赤いコードを指先にからめながら声だけの相手にしきりになにかを訴えていた。 「じゃあ、きっとよ」  念を押して電話を切ったのを覚えている。  年齢は二十八、九歳。  Gパンに花柄をあしらったシャツ・ブラウス。年齢よりいくらか若向きの服装だが、容姿が美しいのでことさら若造りという印象はなかった。  どうやら一人旅らしい。 「小《こ》浜《はま》島行きの人、乗船してください」  声を掛けられ、女はスーツケースを持って立ち上がる。乗客はほんの四、五人。私は列の一番うしろについて桟橋へ向かった。  スーツケースが大きいので女の体が〓“く〓”の字に傾いている。細い腰が左右に揺れ、張りつめた肉の弾力が伝わって来る。  ——男を充分に知っている体だな——  そう思ったのは、やはり先ほどの電話の印象が心に残っているからだろう。電話の相手は男友だちであろうと、強い根拠もなく私は考えていた。 「出発しますよオ——」  緩慢な動きで岸を離れた船はたちまち速度をあげ海の青さを割って二条の白い航跡を引く。私は船べりから首を伸ばしてどこまでも広がって伸びて行く波の流れを追った。  私もまた一人旅である。初秋の数日を小浜島のリゾートでのんびりと過ごすつもりであった。  小浜島は西《いり》表《おもて》島の東側に位置する小島で、その西表島は、天然記念物のイリオモテヤマネコの棲《せい》息《そく》地として知られる秘境である。どちらも琉《りゆう》 球《きゆう》 諸島の西はずれにあって、あとは西表島の西側に与《よ》那《な》国《くに》島を置いてそのむこうは台《たい》湾《わん》本島となる。本州よりもはるかに中国に近い。丈《ますら》夫《お》の肌は黒く、海は一段と青い。  船の左手に扁《へん》平《ぺい》な島が現われ、竹《たけ》富《とみ》島だと教えられた。 「島の一番高いところで海抜十メートルくらいなんですよ」 「潮が満ちて来ても大丈夫なんですか」 「まあ、なんとか顔を出してますわ」  飛行場の滑走路にでもしたらよさそうな島であった。  花柄のブラウスの女も視線を長く伸ばして、まったいらな島を眺めていた。白い肌が紫外線の濃い日射しに射されてほんのりと赤味を帯びている。時折長い髪を掻《か》き撫《な》でるようにして束ねる。碧《みどり》の耳飾り、深紅のマニキュア。単純な色彩が海の風景によく似合った。  小一時間ほど海上を走って小浜島の港に着くと、すでに無線で連絡がしてあったのだろう。ホテルのバスが出迎えに来ていた。この島には旅荘がたった一つしかない。だがその旅荘は特別上等のリゾート・ホテルで、宿泊客たちは島の海域をほとんど貸しきりのようにして親しむことができる。広い敷地の中にコテージ風の客室が点在している。芝草の庭を孔《く》雀《じやく》が走りまわり、なんの挨《あい》拶《さつ》のつもりか、 「ミャオー、ミャオー」  と、鋭い叫び声をあげてバスを迎えた。  フロントで宿泊の手続きをすまし、私は29号室に、女はその隣の30号室に泊まることとなった。  泊まり客の数はそう多くはなさそうだ。人間たちの夏はもう通り過ぎてしまったらしい。北緯二十五度の南国では、まだ太陽は燦《さん》然《ぜん》と夏の日射しを放っていたけれど、なにぶんにももう九月のなかばに近い。南の島で放《ほう》恣《し》に戯れた人間たちも今はそれぞれの栖《すみか》へ帰って、気持ちを引き締めていることだろう。夏の散財を補うためにも財《さい》布《ふ》の紐《ひも》を引き締めなければなるまいし。今ごろこの瀟《しよう》洒《しや》なリゾートを訪れるのは、よほど風変わりな、普通の人々とは異なった生活様式を持っている人間なのではあるまいか。  ——あの女は何者かな——  一人で泊まるにしては贅《ぜい》沢《たく》すぎるほど広いツイン・ベッドの部屋に私はドサンと寝転がってとりとめもない想像をめぐらした。  水商売の女のような気がする。  それもホステスではなく、小さな店のママかもしれない。あるいは、どこか都会の小《こ》奇《ぎ》麗《れい》なコーヒー店の女主人。アクセサリイ店の経営者。ファッション・デザイナー。一通りの美人にはちがいないが、大勢の中で一きわ目立つような顔立ちではない。そっと静かに控えていて声を掛ける男がいるならば、初めてそのときに「はい?」とばかりに戸惑いがちな視線をあげる。そんな様子が横顔にも、肩の表情にもうかがわれる。  男たちはこうしたタイプの女におおいに興味をそそられるものなんだ。  学校にせよ、職場にせよ、男たちが集まるところでは、一見華やかな印象を放つ美女が人気を集めるように見えるけれど、案外大多数が狙《ねら》っているのはほかのところにある。〓“オレだけはみんなとちょっと違うのが好みだぞ〓”と、独り悦に入っているのだが、それぞれが胸のうちを明かしてみると、みんな同じ清《せい》楚《そ》な女を思っていたりして……。  この手の女は、男のそうした好みをよく知っている。だから、ある年齢を過ぎれば演技としてでも楚々と振舞っているのが得策だと合点する。見かけほど性格の中身がおとなしく、控え目というわけではない。 「さて」  寝転がってばかりいたのではわざわざ離島の海浜にまで足を伸ばした意味がない。時刻は午後五時をほんの少し過ぎたところ。日没までにはまだ少々時間が残っているだろう。水泳ぎのできる服装に着替えランドカーを駈《か》ってホテル専属のプライベート・ビーチに出た。  文字通りだれもいない海。昼日中には水上スキーやらパラセールやら豪華な水遊びの用具が備えてあるらしいが、もうそれもない。海は波も立てずにただとんろりと青く広がっている。掌に掬《すく》ってみてもまだなにほどかの青の色が残っているのではあるまいか。しかし、どう掬いあげてみても、水は透明な雫《しずく》となって零《こぼ》れる。  背後に人の足音が聞こえた。  振り返ると、ホテルの従業員らしい男が海岸の塵《ちり》を集めに来たところだった。  また想像が隣室の女へと飛んだ。  こんな海には親しい女と、親しさの盛りに訪ねて来るのが一番ふさわしいだろう。  南の島の朝は早い。  おまけに孔雀が「ミャオー、ミャオー」と盛りのついた猫みたいに騒がしい声をあげてドアの外に集まって来る。  いったん目を醒《さ》ましNHKテレビの天気概況などを見ているうちにまたまどろんだ。  朝食は洋食と和食それぞれを取り揃《そろ》えたヴァイキング・スタイル。  味噌汁を飲み干したあとでコーヒーをすすっていると、 「西表島に行く船を出しますが、いかがですか」  と、ホテルのマネジャーが伝えに来た。 「行ってどうするの?」 「川があるんです。仲間川って言って。それを溯《さかのぼ》って島の中ほどまで行きます。周囲は密林ばかりで、ちょっと内地じゃ見られない風景ですよ」 「うん、行ってみよう」 「十時にバスが出ますから」  マネジャーは同じことを隣室の女にも勧めたらしい。指定の時刻にホテルの正面玄関へ行ってみると、女は昨日と同じGパンに緑のTシャツを着て突っ立っていた。 「こんにちは」  挨拶を送ると、女も軽く会釈を返して、 「あんまり行く人がいないみたい」  と、笑う。 「もう、オフ・シーズンなんですね」 「ええ」  ほかには十歳くらいの女の子を連れた夫婦がいるだけだった。  地図を見て得た知識だが、沖縄本島以西の島《とう》嶼《しよ》の中では、宮《みや》古《こ》島、石垣島、西表島の三つが大きい。小浜島から西表島までは、直線距離を取れば泳いででも渡れる長さだろうが、船は南下して島をめぐり、西表島の東南部の港で停《と》まった。  そのあたりに停泊していた小さなモーター・ボートが近づいて来て、一行五人はこれに乗り替える。子ども連れの家族が船尾に席を取り、私と女とが舳《へ》先《さき》のほうへすわった。 「ずいぶん大きな川があるんですね」 「本当に」 「このへんは初めてですか」 「はい」  どちらにとっても話相手は他にいない。会話はごく自然に始まった。  とたんに奇妙な連想が浮かんだ。  知合いの女子大生に男を品定めするときいつも〓“無人島に行ったとき〓”という物差しを使う女の子がいたっけ。彼女の口癖によれば、 「ああ、あの人? 無人島に二人だけで流されたら、そのときは仕方ないわ。恋人になってあげてもいいくらいね」と言うのが、並の男の場合。「厭《いや》っ! 嫌いよ、あのタイプ。無人島に行っても絶対に一緒に寝ないわ」という範《はん》疇《ちゆう》も当然あるわけだ。  西表島の仲間川流域は、やや無人島に近い。河口にかかる大きな橋を通り抜けてしまえば、もうどこを見まわしても人間の手が加わった痕《こん》跡《せき》を見つけ出すのがむつかしい。〓“準無人島〓”状態だから相手も気安く口をきいてくれたのだろうか。  島を流れる川にしては水の量が豊富だ。しかも満潮の時刻なのだろうか。川の流れはむしろ海から川の奥へと動いて見える。ちょっと手に汲んで嘗《な》めてみると、かすかに塩からい。  川幅がせばまるにつれて岸に密生する不思議な木の幹が見えて来た。 「マングローブでしゅ」  船頭さんがかすかに訛《なま》りのある調子で言う。  さながら蛸《たこ》の足のように、と表現したらよいのだろうか。川岸の湿地帯にところ狭しと幹を並べている木々は、みんな地表から二、三十センチのところで幹が何十本かの枝状の根となって分かれ泥地の中に突き刺さっている。枯木の幹をさかさにして枝を土の中に差し込んだ、と言えばいくらか想像が届くだろうか。  細い足のようになって地中に根を張っているさまがどこか異様である。木はみんな——杉でも松でも楓《かえで》でも土の下では同じように根を張りめぐらして地中の養分を吸いあげているのだろうが、その養分補給のメカニズムが地上にまではっきりと宙に浮き出し姿をあらわにしているのは、奇妙になまなましい。植物が動物に近い存在に感じられる。それともあの無数に生えた〓“足〓”の姿が、グロテスクな軟体動物たちを心に浮かばせるのだろうか。 「なんだか気味がわるいわ」  と、彼女が呟《つぶや》く。 「そこらへんにある養分をあるだけ吸いあげるつもりらしい」  船頭さんが舟を岸に寄せた。そして舳先からマングローブの枝に手を伸ばして、赤い、細長い木の実を取った。 「これがマングローブの実《み》でしゅ」  長さは十センチほど。最初は緑色だったものが熟すにつれ少しずつ赤を帯びるのだろう。両端は細く尖《とが》っている。 「木の上からボトンと落ちるでしょ。そのまま土に刺さってそこで根を張るんでしゅ」  船頭さんはマングローブの実をまっすぐに立てて、落ちて根を張る様子を実演して見せてくれた。  水に落ちたマングローブの実は、魚釣りの浮きのように垂直に立つ。こうして水に流れて行き、浅瀬に辿《たど》りついて先端が川底の泥に触れればそこでも根をおろして一本の樹に育とうとする。まず泥土に突き刺さって根を伸ばし、それから幹を作り枝を伸ばし、やがて蛸足のような根を四方八方に広げて地中の養分を集めるのだろう。  川は思いのほか奥行きがある。全長八キロと聞いた。途中に一か所だけ船着場があって、そこから熱帯林のブッシュを抜けて小高い展望台にまで出ることができる。人工の気配があるのはこの山道だけだ。 「お一人でいらしたんですか」  急な坂道を登りながら私が尋ねた。 「ええ……いえ」  女は曖《あい》昧《まい》に答えた。  今日は長い髪を引っつめにして束ねている。頭の形がいいのでこんな無造作な髪形もよく似合う。肩の線も腰の線もやさしく、やわらかい。骨の細い、だが細いなりに丸味を帯びた大和《やまと》撫《なでし》子《こ》の体形だ。近くで見ると、肌の白さが、かすかにぬめりを帯びた滑らかな肌の白さが、尊いほどにエロチックだ。時折ふっと漂う香水の匂《にお》いが私の官能を刺激したのかもしれない。  仲間川は八キロの行程を尽すと、急に行き止まりになる。湖沼の果てのように岸が迫り急な渓流が流れ込んでいる。もう舟は進めない。浅瀬の土に舟底を接するようにして方向を変え、今来た水路を戻った。 「ホテルのビーチにお出になりましたか」 「いいえ、まだ」 「静かな海で、すばらしいですよ」 「ああ、もうご覧になったの」 「昨日の夕がた。結構日が長かったから」 「そうですか」  女は今日の午後もずっとホテルの部屋に閉じこもっているつもりなのだろうか。 「私、泳げないから」 「どこまで行っても遠浅の海ですよ」 「そうみたい」  港には今日もまたホテルの小さなバスが迎えに来ていた。  遅い昼食をすませてビーチに出たのは三時過ぎだったろう。相変わらず人影は少ない。  沖に向かって二、三百メートルほど泳ぎ、ブイに掴《つか》まって休もうとすると、なーんだ、そこでもまだ足が底に着く。どこまで行けば足が立たなくなるのか。どこまで行けば溺《おぼ》れることができるのか、それほど遠くまで浅いままの海である。  女が現われたのは、太陽がはっきりと西に傾き始めた頃だったろう。  黒地に多彩な花の模様をあしらった水着をまとっている。肌の白さが一層明らかになった。 「やあ、とうとう来ましたね」 「ほんと、いい海ね」  女はビーチ・チェアーに寝転がり、片《かた》膝《ひざ》を立てた恰《かつ》好《こう》で私に言う。 「小人数で独占するのはもったいないみたいだ」 「そうねえ」 「ブイのあたりまで行くと、結構奇《き》麗《れい》な熱帯魚が泳いでますよ」 「そう」  女は気《け》怠《だる》そうに言って目を閉じる。あまりしつこく話しかけては礼儀を失するだろうか。無人島ならいざ知らず……。  時間までもがもの憂く、緩慢に過ぎて行く。  太陽が海のむこうに落ち、私が一泳ぎをして戻って来ると、もう女の姿はなかった。  いくらか話らしい話を交わしたのは、食後のラウンジで水割りを飲んだときだったろうか。 「お独りなんでしょ」 「ええ、売れ残り」 「それは違うんじゃないかな」  女は肯定も否定もしなかった。 「私、景色のいいとこって、あんまり好きじゃないんです」  と、奇妙なことを呟く。 「ほう?」  なぜそうなのか、理由を説明してもらうまでには何分か待たなければいけなかった。コップの中の氷はすっかり溶けてしまって、水割りはひどく水っぽい。 「景色のいいところでだれかに会うと、その人までいい人に見えてきちゃって」  小声で言って口をつぐんだ。目尻がかすかに笑っている。いくぶん自《じ》嘲《ちよう》するように。  女の説明は舌足らずで曖昧であったが、私にはその意味がそれなりに呑《の》み込めた。もしかしたら見当違いかもしれないけれど。  あまり景色のいいところで新しい人にめぐりあうと、気分が爽《そう》快《かい》になっているものだから、そのめぐりあった相手までもが景色と同じように快い人格だと思ってしまう。本当に快い人柄と出会ったのならいいけれど、その実つまらない人だったりすると、これが誤解のもととなる。女は過去にそんな経験を持っているのだろうか。それとも暗に、私とこうして出会ったことについて言っているのだろうか。 「そういうこと、あるかもしれませんな」  私は中途半端な相《あい》槌《づち》を打った。  ——それにしても彼女はなぜこんなことを言い出したのか——  その理由もいろいろな意味に解釈することができそうだ。〓“あまり誘いかけないでくださいな〓”と遠まわしに言っているようにも取れる。〓“あなたのことがすてきな人に見えてきちゃったの〓”と考えるのは、自《うぬ》惚《ぼ》れが過ぎるかな。それとも、ただなんとなく、そのままの意味で過去の体験を語ったのかもしれないし……。わからない。  ラウンジの舞台でギターの弾き語りが始まり、一曲終わったところで女が席を立った。 「おやすみなさい」 「あ、おやすみなさい」  女が部屋に戻ったあと、私はギターの演奏が終わるまでラウンジに留まって、それから部屋へ戻った。空は澄みきっているらしい。星が大きく、近くにあった。  なかなか寝つかれない。冷蔵庫のビールを二本ほど飲んだだろうか。ようやくまどろんだとき、女のうめき声を聞いて目を醒ました。隣室のベッドは壁一枚へだてて私のベッドと隣り合っているのではなかろうか。声がよく聞こえる。どうやらうなされているらしい。  私は起きあがり、壁越しに声を掛けた。  うめき声は一層苦しそうになる。壁をコツコツと叩《たた》いてみた。 「どうしました?」  大声で呼びかけてみた。  ——隣の部屋へ行ってみようか——  だが……ドアには当然鍵《かぎ》がかかっているだろう。まさか男を誘い込むための演技ではあるまい。  ためらううちに声は小さくなり、そのまま静かになった。  私は寝入るまでにまたしばらく読書をしなければいけなかった。 「昨夜うなされてましたよ」  昼食時のレストランで女がサンドウィッチをつまんでいるのを見つけ、私は席に近づいて声を掛けた。小浜島にはこのホテルを除けばほかに観光客を接待する設備はない。朝食も昼食も夕食も旅人はみんな同じところで食べるよりほかにない。 「ああ」  女は困惑したように顔をあげた。 「なにか聞こえました?」 「ええ。うなされている声が。壁ぎわにベッドがあるんじゃないかな」 「ごめんなさい。なにを言ってましたか」  女は頬を赤く染めながら真顔で尋ねた。 「いや、言葉はなんにも。悪い夢でも見たんじゃないですか」 「何時頃でしょう」 「十二時過ぎかな」 「じゃあ、あのときかしら。怖い夢を見たわ」 「ほう? どんな」 「よく思い出せないけど……たしか、私、海の波打際で体を焼いていたの。そのうちに眠ってしまって……」 「ええ?」 「厭あね。昨日、ほら、西表島へ行ってマングローブの樹を見たでしょう」 「はい」 「それが頭の中に残っていたのね。木の実がポトンと私の体の中に刺さって、どんどん根を張り始めたの。動こうにも動けないわ。あの木の根っこ、人間の大きな指みたいだったでしょ。木の幹から指みたいな根がいっぱい這《は》い出して来て私の体にズブズブ入り込むの。ジュウジュウって音をあげて養分を吸い取ってたみたい。夢の中で聞こえたわ」  女は指を鉤《かぎ》形に曲げ首をすくめて恐怖の表情を作った。 「それは気味がわるい」 「でも私、死にもしないで下から木を見あげていたわ。そしたらいつのまにかマングローブの木が人間の顔に変わって」 「だれでした?」 「…………」  女は〓“そこまでは答えられない〓”とばかりに薄く笑った。  女の見た夢は私の午睡の中にまで忍び込んで来た。昨夜よく眠れなかったので午後には海に出ず冷房の効いた室内で一寝入りを貪《むさぼ》ったのである。夢はまどろみと同時にやって来た。  ——あの女が眠っている——  見たはずもない裸形が水辺に横たわっている。まっ白い肌は食欲をそそるほどにやわらかい。恥毛の中に赤い亀裂がサクリと割れている。  ポトン。  マングローブの実がその亀裂の中に突き刺さる。女は目を閉じたまま陶然として眠り続ける。  たちまち女陰の中から木の芽が育ちスクスクと伸びる。木が一メートルほどの高さになったとき下枝が不思議な足を伸ばすように一本、二本、三本、四本と出て来て、それが女体の中に根を張り始めた。女の体は、なま乾きの石《せつ》膏《こう》のようにやわらかい。一本は右の乳房をまさぐり、その軟質の肉をズブンと貫いて潜った。もう一本はみずおちのあたりに、さらにもう一本は堅い膝《ひざ》頭《がしら》をうがつようにして。根は鉤形の指となってしっかりと女を固定してしまった。  女はこの時になってようやく目を開いた。愕《がく》然《ぜん》として恐怖の声をあげたが、もうどうにも身動きができない。もがけばもがくほどマングローブの指は一層深く女の中に食い込む。そうするうちにもさらに根は何本も伸びて体中の穴という穴に潜り込む。  ツヅーン、ツヅーン。  養分が音をあげ、ぐんぐんと私の中に入って来る。どうやら私自身がマングローブの木になってしまったらしい。  私に組み敷かれ、女のせつない表情が私の下にある。女の体液のなんと甘味なことか。  私は痺《しび》れるほどの快感を覚えた。  女の連れがホテルに来たのは、その日の夕刻だった。一目見たときから印象のいい男ではなかった。私はやきもちを焼いていたのだろうか。まさかそんなこともあるまい。  年齢は女よりいくつか若い。一通りの美男にはちがいないが、いい男だという自意識が鼻の先にぶらさがっている。大《おお》袈《げ》裟《さ》なペンダントを浅黒い胸にぶらさげていることからして気に入らない。女には横柄なくせに、ホテルの支配人などと話すときにはとたんに上《うわ》目《め》使いになり、オドオドした表情が見え隠れする。  私はまたしても想像をめぐらした。女は、この男と一緒に小浜島で数日を過ごす計画を立てていたのだろう。ところが間ぎわになって男が〓“ちょっと都合がわるくなった。行けない〓”と言い出したのだろう。女は〓“一日でも二日でもいいから来て〓”と願った。石垣島でかけていた電話もその一つではなかったのか。  男が現われてからは、見るも無惨なほど女の人柄が変わった。うれしそうではあったが、なんの味わいもなさそうな人柄に変《へん》貌《ぼう》してしまった。それまでは南国のリゾートに独り優雅に遊びに来たレディであったものが、いちいち男のご機嫌をうかがう婢《はした》女《め》に変わってしまった。器量までが男にあわせて賤《いや》しくなって見えたのは、私の側の気のせいなのだろうか。  その夜は、昨夜のうめき声とは違う、もう一つのうめき声に悩まされた。  ことさらに聞き耳を立てるつもりはなかったが、 「ケンちゃん、ケンちゃん」  と、男の名を呼ぶ声が壁を抜けて響いて来る。  女は——それほど馬鹿な女には見えなかったから——おそらく〓“ケンちゃん〓”がつまらない男だと知ってはいるのだろう。知っていながら関係を続けているのだろう。もし初めからそうとはっきりわかっていたならば、こうまで深くはつきあわなかったものを……。ところが、〓“ケンちゃん〓”とめぐりあったのは、すばらしく景色のいい自然のまっただ中だった。  身も心も清められるような美しい景色の中では、そこで出会った人間がみんなすてきに見えてくるものだ。出会いそのものからしてロマンチックなものに思えてくるものだ。  ついつい深入りしてしまい、あとで〓“しまった〓”と思ったが、その時にはもう離れられなくなっていた。  女がラウンジで、 「景色のいいとこって、あんまり好きじゃないんです」  と言ったのは、こんな経過が過去にあってのことではなかったのか。  マングローブの根に組み敷かれ、ジュウジュウと養分を吸い取られたという夢も、そんな男女の関係を考えてみれば、すこぶる単純明快な内容だ。女が下から見あげた木は当然あの男の顔をつけて横柄に女体を見おろしていただろう。女は自分の体液を吸われながら、それを喜びとしている部分もあるらしい。  なにもかも自覚していながら、なおつまらない男に入れあげているのなら、傍からとやかく感想を述べてみたところでなんの意味もあるまい。  男が現われてから隣室はとたんににぎやかになった。  女が海に出る回数も多くなった。夜は夜で騒がしい。  私はカップルを遠ざけるようにして離島の風光を楽しんだ。シュノーケルをつけて珊《さん》瑚《ご》礁《しよう》に潜ると、チョウチョウウオ、ツノダシ、コバルトスズメ、その他名も知らない美麗な熱帯魚たちが、水族館の水槽の中そのものとなって目の前に揺らめいている。カヌーを借りて終日無《む》垢《く》の海に漂うのも爽快であった。  やがて五日間の滞在予定が尽きて私は小浜島を離れた。ホバークラフトで石垣島へ渡りそこから南西航空で那《な》覇《は》へ。  那覇では飛行機の乗り継ぎに少々時間があったので土産《 み や げ》物を買いに繁華街まで車を走らせた。  繁華街は沖縄も東京も変わりばえがしない。 「おや?」  あの女の姿を認めたのは、市内のショッピング・センターの広い売場の中だった。男が小ずるそうな表情で女の脇に立っていた。  女は男の腕を取り、おもねるように相手の顔をのぞき込んで話しかけている。  終日海に出ていたせいか、女の白い肌が日焼けしている。皮もむけ始めたようだ。そのせいかどうか女の様子はひどく老《ふ》け込んで見えた。みすぼらしくなっていた。  ——もう少し奇麗な人ではなかったかなあ——  真実これが同じ人かと思うほど、女は魅力を失って私の眼に映った。  私は小浜島の海と、そこで初めて女を見たときのことを思った。やはり美しい自然の中で眺めるとこちらの心も惑わされてしまうのか。それともよく似た別人だったのか。  東京へ帰り喧《けん》騒《そう》の中で日時がたってしまえば、なにもかも遠い記憶の中の出来事となって風化してしまう。女の顔形も忘れてしまった。わずかに密生するマングローブの樹々が目の奥に鮮烈な印象を保っているだけだ。それからもう一つ、女陰をうがち、根を伸ばし、女体に這い込むマングローブのイメージが、私の夢の新しいレパートリイとして加わった。 雪惑い  律《りつ》子《こ》は「雪国へ行ってみたい」と言う。  彼女の両親は北国の生まれらしかったが、律子自身は幼い時に東京に来たので、まだ一度も一面の銀世界を見たことがない。 「めずらしい人がいるんだな」 「だって、見たことないんだもン、仕方ないでしょ」  と、口を尖《とが》らせる。  雪国ならば私はいくらか知っている。暮らしたこともある。 「じゃあ案内しようか」  と、気軽く誘ったら、 「ええ。いつ?」  と、真顔で問い返した。 「いつでもかまわない。あなたの都合のいいとき。雪がたくさん見れれば、それでいいのかい」 「いいわ。あんまり時間のかかるところは駄目。東京から近いとこ」  律子はある商業劇団の研究生で夜はスナックで働いている。自由な時間がふんだんにある身分ではなかった。 「上《じよう》越《えつ》線の沿線だな」 「温泉のあるとこ。おいしい物食べられるとこ」 「贅《ぜい》沢《たく》を言うな。温泉くらいはあるだろうけど、食い物のほうまでは保証できない」 「いいわ。我慢する」 「本当に行く気か」 「ええ。どうして?」 「いや、いい」  月並みながら行先を湯《ゆ》沢《ざわ》温泉と決め、日曜日の午後に出発した。  奇妙な旅だった。  律子とは格別に親しい間柄ではない。スナックの客とウェイトレス。たまに芝居のキップを売りつけられる。横顔の美しい女。性格も明るくて、私の好きなタイプだが、ただそれだけのこと。  だが、さして親しくもない男女が温泉地まで泊まりがけの旅をするものだろうか。また逆に、男と女はそんな旅をしてはいけないものなのだろうか。  ホテルには部屋を二つ予約しておいた。それが自然な仲だった。 「今朝のニュースだと雪はたっぷりと降っているらしいぞ」 「そう、よかった。せっかく雪見に行くんだから山ほど積もってるほうがいいわ。旅館までは歩かなくちゃいけないの?」 「いや、車で行けるらしい。電話で確かめておいた」 「一応はブーツを履いて来たけど」 「こっちだってたいした装備じゃない」  上野駅で週刊誌を買い、しばらくは読み耽《ふけ》った。  車窓に映る民家の数が疎《まば》らになり、冬枯れの畑地が広くなる。低いブッシュは桑《くわ》畑だろうか。今でもこのあたりでは蚕を飼育しているのだろうか。ふたたび民家の数が増え始め、スーパーマーケットらしい派手な色彩の建物が見えると、列車はまたサッと小さな駅を通過した。駅前には置き自転車が群がり、家々の屋根には物干し竿《ざお》をまっすぐに立てたほどの高いテレビ・アンテナが乱立して見える。  車内販売の売り子がワゴンを押して通り過ぎると、律子が、 「あの人たち、毎日旅行をしているのかしら」  と、首を傾《かし》げる。 「この線では新潟で採用された人が多いらしいね。朝の列車で上野に行き、午後の列車で帰る。一日一往復がノルマなんだ」 「くわしいのね」 「年中旅先で外泊するのかと思って、一度聞いてみたことがあるんだ」  無駄話を交わして、また窓の外に目を向けると、畑地にところどころうっすらと雪が散りはじめている。その白の配合が時間の経過とともに広くなり、いつのまにか大地がまっ白く埋まった。  水《みな》上《かみ》駅はもうすっかり白一色に塗り込められていて、律子は、 「もっと先まで行くの?」  と、不思議そうに私の顔を覗《のぞ》き込む。 「本物の雪国はこんなものじゃない」 「だって、雪がいっぱいあるじゃない」  たしかに国境の山々は厚い雪に覆われ、町並みも余すところなく雪をかぶって寒そうにうずくまっている。  しかし、私の認識では〓“国境の長いトンネル〓”を越えなければ、けっして雪国はありえない。  そのことは律子にもすぐわかっただろう。  トンネルの手前では白い平面でしかなかった雪景色が、トンネルを越えるとたちまち立体感を持って脹《ふく》れあがる。屋根も野も白く厚く、丸味を帯びて盛りあがり、いっさいが純白の綿地の中に包み込まれてしまう。  人間たちの営みは、なにもかもここでは白い土の下の土竜《 も ぐ ら》の生活に変わってしまうのだ。  列車の速度がにぶり、ガクンと一揺れしたかと思うと雪のまっただ中で止まった。 「どうしたの?」 「立ち往生かもしれんぞ」 「本当?」 「まあ、大丈夫だ。この程度の雪なら。今降ってるわけじゃないんだから」 「明日、無事に帰れるかしら」 「そこまではなんとも言えない」 「脅かさないでよ」  白い視界の中を、ちっぽけな黒い影が緩慢な足取りで動いて行く。どうやら男が独り道を捜して迷っているらしい。 「あの人、どこへ行くのかしら。向こうに家なんかないじゃない」 「なに、雪の下にちゃんと家があるんだ。見えないだけだ」 「迷わないの」 「迷うさ。たしかにあったはずの家が雪の下に隠れちゃって見つからないこともよくある。雪惑いって言うんだけどね」  列車はなかなか動き出さない。車内アナウンスは〓“前の列車がつかえておりますので、しばらくお待ちください〓”と、あまり要領をえない報告を繰り返すだけだ。雪の中の男はどうやら道を発見したらしく、いつの間にか遠くの点に変わっていた。 「そうだ、おもしろい話を思い出したよ」 「なーに」 「俺《おれ》の友だちの恋愛談なんだけど」 「ええ……?」 「その友だちが新潟にいた頃、土地の旧家の娘と知り合いになったんだよ。彼女の親《しん》戚《せき》を見廻すと新潟の名士がぞろぞろいるような、そんな家の娘さ。奴《やつこ》さんのほうは、ただの安サラリーマンの息子だし、自分も一流企業のエリートってわけじゃないし、まあ、初めっからあんまり釣り合いのとれた仲じゃなかったんだな」 「ええ」 「でも、一時はかなり親しかったんだ」 「どのくらい?」 「どのくらい? ああ、ガールフレンドより少し親しく、恋人と呼ぶにはまだちょっと距離があるくらいのとこかな。奴《やつこ》さんのほうはぞっこん惚《ほ》れ込んでいたんだけど、女のほうがね、逃げ腰になってしまい〓“もう会わないでください〓”って宣告されてしまった。奴さんのほうも東京の本社へ転勤になり、まあ、傷心の思いを抱いて泣く泣く東京へ帰って来た」 「よくある話じゃない」 「ここまではな。しばらくはその女のことが忘れられなかったみたいだな。〓“もう駄目だよ、あれは〓”なんてしきりに言ってたけど、未練たらたらでね。やけ酒なんかを盛んに飲んでいたよ。ところが、ある晩アパートへ帰ろうとして駅の改札口を抜けると、なんだか見たような女が立っている。他人のそら似かなと思いながら、無《ぶ》躾《しつけ》にジロッと見たら、そら似なんかじゃない。間違いなく当人なんだ。〓“なんでこんなところへ?〓”〓“待ってたの〓”〓“だれを〓”〓“あなたを〓”〓“どうして?〓”。いろいろ尋ねてみると、田舎《 い な か》のほうで結婚の話が進み、式も間近になったけど、どうしても相手が好きになれない。いたたまれず奴さんを頼って東京へ逃げ出して来たって、そういうことらしいんだな」 「結婚直前になって厭《いや》になるケースって、わりとあるんじゃない。あたしのお友だちにもいたわよ」 「いよいよ結婚の時が近づくと、初めて自分の問題として実感が湧《わ》いてきて、なんでこの人と一緒に暮らさなきゃいかんのか、自信がなくなるんじゃないのかな」 「そうかもね」 「とにかく奴さんは駅で彼女に会って、真実有《う》頂《ちよう》天《てん》だったと思うよ。もう駄目だと思っていた女が自分を頼って、わざわざ東京まで逃げて来てくれたんだから。彼女は東京をよく知っているわけじゃない。もちろん男のアパートがどこにあるかも知らなかったはずだ。住所だけを頼りに最《も》寄《よ》りの駅の見当をつけて、いつ帰るかわからない男をじっと改札口の脇《わき》で待ち続けていたらしいんだ。そのことひとつ考えても相当な覚悟で出て来たことはわかるよな」 「ええ……」  律子がセーターの襟に首を埋めるようにして頷《うなず》く。  暮色が寒々と雪の曠《こう》野《や》を覆い始め、列車はようやくそろそろと雪の道を動きだした。  男はその感動をどう表現していいかわからなかった。  そう。人生七十年、その中でこれほどの感激を覚える機会は何度めぐって来るのだろうか。これほど突然の歓喜に見舞われることがたびたびあっていいものだろうか。  ——もう二度とありえない。こんな喜びを味わった以上、死んでもいい——  とさえ考えたが、彼には死ぬ必要など少しもなかった。それどころか夜の暗さがぼっと白ずむほど明るい明日が彼の前に揺らめいていた。 「長い時間待っていたのかい」 「ううん。そうでもない。六時過ぎから」  時計はとうに八時を過ぎていた。 「よくこの駅がわかったなあ」 「地図を見たわ。この駅しかないと思ったの。でも、よかった」  女は掬《すく》いあげるような目《まな》差《ざ》しで男の横顔を覗く。女のいっさいの動作が、  ——あなたを頼って来たのです。私が好きなのは、あなたなんです。そのことがしみじみわかったのです——  と、伝えていた。  彼女が親に勧められたという結婚の話など深く詮《せん》索《さく》する必要もなかった。しかるべき相手と、しかるべき結婚の話が進んでいるだろうと、男はこれまでに何度か苦い思いで想像していた。その想像は九割がた適中していたと言うべきだろう。  だが、一番大切なところが違っていた。  彼女がその結婚を望まなかったという点だ。  ——ぎりぎり最後のところで俺のほうを選んでくれたんだ——  涙がこぼれるほど嬉《うれ》しかった。 「ご飯は?」 「まだ」 「じゃあ、なにか食べよう」  駅前の中華料理店で簡単な食事をとり、それから二人はアパートへ向かう路地をゆっくりと歩いた。 「ここは東京のどのへんなの?」 「どのへんて言われても困る。渋《しぶ》谷《や》にわりと近い」 「そう」 「何回くらい来たんだ、東京へは?」 「五、六回。知ってるのは、東京タワーと池《いけ》袋《ぶくろ》と新《しん》宿《じゆく》と……」  会話はとりとめもない。  男がアパートの階段を昇り、女はなんの躊《ちゆう》躇《ちよ》もなくあとに続いた。 「汚いところだよ。男の独り暮らしだからなあ」 「失礼します」  女はアパートの狭い玄関にハイヒールを脱いで揃《そろ》えた。女の靴の華《きや》奢《しや》な曲線がひどく尊いものに映った。ついぞこの玄関にこんな優雅な履き物が脱がれたことはなかった。  男の部屋は思いのほかきれいに片づいていた。テレビの上には、何年か前に女が贈った花《か》壜《びん》が置いてある。女はそれを認めて、照れるように満足するように笑いかけた。 「お茶をいれようか」 「あたしがいれるわ」 「まあ、いい。お客さんはすわっていてくれ」  茶《ちや》碗《わん》を挟んでぎこちない会話が続いた。  女は肝《かん》腎《じん》なことを話そうとしない。何か月か前にたしかに〓“別れましょう〓”と告げたはずなのに、その気持ちがどう変わったのか、語ろうとしない。  男もことさらに尋ねようとはしなかった。  聞きたくなかったわけではない。その心根をなんと説明したらいいものか。女がこうしてそばに来てくれた以上、いまさら尋ねる必要もないことのようにも思えた。無理に尋ねると、聞きたくもない答が飛び出して来るような、そんな不安もかすかにあった。  それよりも男はただ嬉しかった。女と向かいあってアパートにすわっているという現実がわけもなく無上に嬉しかった。余計なものをそこに介在させる気には到底なれなかった。 「家にはなんて言って来たんだ?」 「なにも言わないわ」 「じゃあ、心配しているだろう」 「そりゃ……してるでしょうけど」  女は哀《あい》艶《えん》な笑顔で笑った。 「ここに来たことはわかるかな」 「さあ。どうかしら」  時間がたちまち飛び去って夜が更けていた。疲労が女の眼のふちに黒く宿っている。 「もう寝ようか」 「ええ……」  寝具はなんとか二人分あった。 「女の寝巻までは用意してないぞ」 「あったら怒っちゃう」 「そりゃそうだな」  女はスリップ一枚の姿で布《ふ》団《とん》の中に潜り込んだ。 「明日は何時に会社へ出るの?」 「そうだなあ。少しくらい遅刻したっていいけど……」 「いけないわ」 「八時半ごろ出る」 「そう」  電気を消してからも二人はしばらく闇《やみ》の中で話し続けた。初めて会った頃の話や共通の知人の話などだった。そのうちに女の軽い寝息が聞こえた。ここ数日の心労と今日一日の冒険で女はすっかり疲れ果てていたにちがいない。  男はなかなか寝つかれない。しかし、それが少しもつらくはなかった。何度思い返してみても歓喜が胸に込みあげて来る。頬《ほお》が思わず知らずゆるんでしまう。  ——彼女が来てくれたんだ。隣に寝ているんだ——  そのうちに男もまどろんだらしい。夢は忌わしいものであったが、目を醒《さ》ますと隣に彼女が眠っていた。  男はそっと首を伸ばして覗き見た。  薄闇の中の寝顔がなににも増して高貴なものに映った。周囲には女の匂《にお》いが立ちこめている。ついと足を伸ばすと、布団の中で女の肌がかすかに触れた。  女の父親が彼の会社へ訪ねて来たのは三日あとの午後だった。  男は会社の近くの喫茶店で、あまり歓迎のできない客と対面した。 「娘がお世話になっていると思いますが」  父親は男の顔を覗き込むようにして言う。  その表情にはゆるぎない確信が宿っていた。  娘が家出をして身を預けるとしたら彼のところ以外にはないと、堅く信じている様子であった。  男は戸惑った。  相手は追い討ちをかけるように、 「いるんですね」  と、念を押す。  男はせめて返事をしないことで抵抗を示したが、父親がそれを〓“イエス〓”の答と受け取ったのは、その場の成行きから考えて当然だっただろう。 「じゃあ、会わしてくださいな」 「しかし、真《ま》理《り》子《こ》さんがどう言うか」  相手は首を振った。 「父親に会わん娘はおりませんわ。まあ、そりゃ、私のほうもちょっといけなかった。反省してますわ。真理子の気持ちをもう少し聞いてやればよかったんじゃがね。あんまり思い切ったことやるもんだから、母親も心配して、夜も眠れんでおりますわ」 「…………」 「そんなに厭なものなら、わしらにもうちょいと話してくれればいいものを」 「話したんじゃないんですか」  男は、女から〓“父は無理解なので困る〓”と聞かされていた。 「いやあー、ここまで厭がっているとは思わんかったねえ」  さまざまな思考が彼の心に昇って来る。なにをどう言ったらいいのか、考えがまとまらない。急に狼《ろう》狽《ばい》と後悔が込みあげて来た。  ——どうしてもう少し対策を相談しておかなかったのだろうか——  父親が訪ねて来るのは充分に予測できたことだ。予測をしておきながら、その時にどう対応したらよいか、なんの方策も考えておかなかったのは愚かだった。  この二日間、男は仕事が終わるとただ大急ぎでアパートへ駈《か》けて帰り、そこに女が待っているのを見て安《あん》堵《ど》の胸を撫《な》でおろした。ややこしいことは考えるのも厭だった。  女は、 「あなたと一緒に暮らしたい」  と、言った。 「もちろん、そのつもりだ」  と、答えた。  それだけでなにもかも解決すると考えていた。  女の家族がどう出るか、その不安がけっして心に浮かばぬわけではなかったが、歓喜のひとときをそんな雑念で濁らしたくはなかった。女もその話題を望まぬふうであった。気に掛けながら〓“あとで、あとで〓”と少しずつ思案のときを先に伸ばしてきたのだった。 「真理子さんには結婚のお話がおありだとか」  男は精いっぱい下腹に力を入れて父親に尋ねた。 「はあ。ありましたです。でも、これはもうやめですわ。向こうさんにも申し訳が立ちませんし……。真理子がそれほど厭なものを進めるわけにはいきません」  そうとわかれば、男にも自信が湧いてくる。 「真理子さんを私にください。結婚させてください」  男はさらに下腹に力を入れて唐突に叫んだ。相手はその声がまるで聞こえなかったように下を向いたまま、しばらく思案してから緩慢な動作で首をあげ、 「真理子がどう言うてるか……」  と、呟《つぶや》く。 「真理子さんもそのつもりだと思います」 「直接聞いてみないことには……いや、疑うわけじゃないけど、親の立場としては……」 「ええ、それはわかります」 「ま、いずれにせよ、猫の子を差しあげるのとは違いますでしょう。ください、はい、あげます、ちゅうわけにはいきませんわ。差しあげるなら差しあげるように、ちゃんと手続きを踏まなくちゃあ。べつにあなたに反対して言っとるわけじゃありませんよ。あの娘《こ》があなたのところへ行きたい。本当にそう思っとるなら止められませんわ。ですが、ま、このままというわけにはいかんでしょうが。いったん故《く》郷《に》へ帰していただいて、その上であの娘の考えも聞いてみよう。私の考えや母親の考えも伝えてみよう。そのあとで正式に結婚式をあげる、これがやっぱりしきたりでしょうが」 「…………」 「違いますか」  言われてみれば、相手の言い分にも充分な説得力があった。  なにも妻となる女の両親とことさらに喧《けん》嘩《か》をしたいわけではなかった。行く末のことを考えれば、円満に運べるものならそれに越したことはない。女の家出が引き金となって当面の婚約は破棄されたということだし、女が自分との結婚を望んでいる以上、事態ははっきりと好転の色を見せ始めている。鉾《ほこ》をおさめる時期が近づいていた。 「わかりました。とにかく今夜真理子さんと相談してみます。そのうえでお返事をします。お宿の電話番号を教えてください」 「くれぐれもよろしくお願いしますよ。あなたにも真理子にもわるいようにはしませんから。母親がとにかくえらい心配しておってのう」  相手は肩をまるめるようにして哀願した。  男はその夜、女にことの次第を伝えた。  女は初め父親に会うのを渋ったが、結局は、 「いつまでもこうしてても仕方がないわね。いったん帰って、今度は晴れて戻って来ます。ね、そうしましょ」  と、明るく笑った。  翌日、男は父親に女を預け、上野駅まで見送った。 「じゃあ、さよなら」  女はデッキで爽《さわ》やかに告げて手を振った。その笑顔の中に〓“遠からずまた帰って来る〓”という意志がはっきりと宿っていた。父親もまたそのかたわらで満足そうに微《ほほ》笑《え》んで男へ手を振っていた。 「それからどうなったの?」  私が買いおきのジュースで喉《のど》を潤《うる》おすのを待って律子が尋ね返した。 「でも、彼女は二度と男のところへ帰って来なかったよ」 「ああ、そう。そんな気がしたわ」 「どうして」 「なんとなく。で、なにが起きたの」 「よくはわからん。男は女から朗報が届くものとばかり思っていたのに、いっこうに音《おと》沙《さ》汰《た》がない。心配になって手紙を送ったが返事も来ない。おかしいぞと思って、わざわざ休暇をとって雪国まで行ってみた。雪の深いときでね。ちょうど今頃みたいに」 「ええ」 「女は家にいなかった。母親が出て来て〓“今はここにいない。娘はヤッパリあなたとは一緒になれないからって、そう言ってます。だから、なにもなかったことにして忘れてやってください〓”の一点張り。男は怒ったけれど、どうしても娘に会わせてもらえない。女の親戚の家とか友だちの家とか、女が隠されていそうなところを次々に捜してみたけど、見つからなかった。雪の中をあちこち気狂いみたいになって歩いて捜したらしい。町は白いばっかりでなにも答えてくれなかった」 「雪惑い、ってわけ?」 「まあ、そうだ。さっき雪の原っぱをよろよろ歩いている男を見て、ちょっと昔のことを思い出したんだよ」 「どうなっちゃったのかしら」 「男は、初めのうちは両親が邪魔をしているのだと思った。しかし、だんだん日時がたってみると、どうもそれだけではないらしい。女自身の意志も変わったのではないかって思うようになった」 「どうしてそう思ったのかしら?」 「なんとなく勘でわかるさ。親が邪魔しているだけなら、また逃げ出すことだってできるじゃないか。まさか座《ざ》敷《しき》牢《ろう》に入れられてるわけじゃあるまいし。もう一度逃げて来ないのは、女自身に逃げる意志のない証拠さ。そりゃ彼女も上野駅を発《た》つときには、また男のアパートへ戻って来るつもりだったと思うけど、田舎へ帰って両親にいろいろ言われているうちに、気が変わった。多分そういうことだろうと思うよ。一年ほどたって、彼女はまたべつの、ぜんぜん新しい相手と結婚したらしいね」 「フーン」  律子は気のない声で頷いた。 「しかし、この話にはもう少しおもしろいおまけがついているんだよ」 「へえー、まだ続きがあるの」 「ああ。彼女は男の家に四晩泊まったわけだけど、そのあいだに体の関係はなかったんだよ」 「ああ、そう」 「ああ、そうって、不思議じゃないかい」 「でも、それ、嘘《うそ》でしょ」 「いや、本当だ。奴さんは私に嘘をつかない。奴さんの性格から考えても頷ける。手を出さなかったのは本当だ。布団の中で抱き合うくらいのことまではしただろうけど、それ以上のことはできなかった」 「うぶだったのね」 「そうじゃない。一通りの女遊びをしていた男だ。童貞なんかじゃない。立派な経験者だ」 「じゃあ、どうして?」 「自分を頼って来てくれたのが嬉しかったからだろ。ただ、ただ、来てくれたのが嬉しくて、それ以上のことをしなくてもよかったんだ。もちろん男としては、ものすごくつらい我慢だったと思うよ。なにしろ一つ部屋に一緒に寝ているんだから。だけど、ここで手を出しては、相手の弱味につけ込んだことにもなりかねない。身ひとつで逃げて来た女を大切にしてあげなくちゃいけない。とことんいたわってあげなくちゃいけない。行きがけの駄賃みたいなことは金《こん》輪《りん》際《ざい》やるまい、とそう思って我慢した。一生懸命我慢したのが奴さんの最大の好意であり、心意気だったんだな。わからないかなあ」 「わからないこともないけど……。もし体の関係があったら、二人のその後は違ってたかもしれないって言いたいんでしょ」 「いや、単純にそうは思わない。体の関係があってもやっぱり別れたかもしれないさ」 「そうよね」 「ただね、俺はこの話を今まで何人かの女の人に話したことがあるんだよ。すると、女の人はかならずしも奴さんのことをほめないんだな……。逆にわりと非難が厳しいんだよ。つまり、女の立場から言えば、そこまで行って、なお男が手を出さないのは愛情のなさだと考えるって……そう言うんだな、女性軍は」 「ああ、それは思うかもしれないわね」 「やっぱりあんたもそう思うかい。フーン、なるほどね。彼女は家族を捨てて男のところへ飛び込んで来たわけだからな。〓“さあ、私を背中に背負って、私の家族と戦ってください。私をすっかり丸ごと引き受けてください〓”そういう気持ちだったんだもんな。だからそういう女を抱けなかったのは、男のほうに戦う勇気がなかったから。現代ふうに言えば、ビビッたから。つまり愛情が乏しかったからだ、とこういう意見が圧倒的に多いんだよ」 「ええ……」 「田舎へ帰って女はあらためて男の弱気に気がついた。家柄に差があるって言っただろ。そのために男は弱気になった部分もあっただろうし。女にはそれがまた醜く見えただろうし。女にしてみれば〓“一番大切なときに、あの人は戦う勇気を捨てて、妥協することばかり考えた〓”と感じたんじゃないのかな。だから、体の関係があったら、も少し事情が変わっていたかもしれないと、俺は思うわけ」 「そうね。一概には言えないでしょうけど」 「もちろんそうだ。ただ、俺がおもしろいのは、男と女と感じ方が違うってことさ」 「当たり前じゃない」 「まあ、そうだ。それを知らなかったばっかりに奴さんは必死に我慢をし、そのうえ馬鹿な奴だと言われ、踏んだり蹴《け》ったりさ」 「半分はあなたご自身のお話みたい」  と、律子はさぐるように言って薄笑う。  私は驚いた。 「どうしてそう思う?」 「だって……感情のこまかいところまでよくわかっているから。他人のことじゃ、そこまでは感じられないわ。あなたが雪の中を夢中になって訪ね歩いてる恰《かつ》好《こう》が目に浮かぶみたい」 「そうかな」 「そうなんでしょ」 「さあ」  曖《あい》昧《まい》に告げて首を振ったとき、列車が湯沢駅へ到着するというアナウンスが響いた。  ホテルは駅から車で七、八分の距離にあった。タクシーは鈍いチェーンの音を引きずりながら雪間の高い壁を縫って走った。  ホテルの建物もすっぽりと白い褶《しゆう》 曲《きよく》の中に埋まって、わずかに窓辺の黄ばんだ光が窺《うかが》えるだけだ。いっさいの音が雪綿の中に吸い込まれて、あたりには深い静寂が漲《みなぎ》っている。 「頑丈なホテルね」 「ああ。このぶんならちょっとやそっとの雪で潰《つぶ》れそうもない」  一休みしていると、すぐに夕食の時間になった。  酒を汲《く》み鮭《さけ》と山菜の鍋《なべ》をつついた。味つけがやけに塩辛い。残念ながら美味とは申しかねる料理だ。 「ご馳《ち》走《そう》のほうは案の定駄目だったな」 「まあ、そうね」  律子の箸《はし》も滞りがちだ。  カーテンをあけると眼下に雪の曠野が続いている。はるか遠くに列車の線路らしい凹みが点々と灯りの列をともしていた。 「でもすっごく満足よ。こんなにたくさん雪が見られたから」 「あと数か月はなにもかも雪の下になってしまう。それだけに春がやってくるときは楽しい。雪の下から水音がチョロチョロ聞こえてきたりしてね」 「ええ」 「でも雪解け頃の町はそれほどきれいじゃないんだ。雪の上に捨てたものが残っていて雪のほうだけ消えちゃうからな。何層にもなっていた塵《ちり》がいっきに現われてくるんだ」  律子があくびを噛《か》み殺した。 「眠いのかい」 「ええ。先週忙しかったから。ちょっとだけ眠い」 「じゃあ、温泉に入って寝たらいい」 「そうね。寒いわ」  タオルを肩にかけて部屋を出た。廊下の角で左右に別れ、 「そっちが女湯だ」 「はい」  浴室はうすら寒く、湯の中に入っていないとたちまち体が冷えてくる。充分に体を温めてから大急ぎで丹《たん》前《ぜん》に着替えて部屋へ戻った。  隣室に物音が響いて律子も戻ったらしい。  小さな苦笑が浮かんだ。  ——半分はあなたご自身のお話みたい——  と、律子はさっき言っていたっけ。  いったい律子はどういうつもりでこの旅にやって来たのだろうか。  私は隣室の音に耳を傾けながら窓の外を見た。夜の底がまっ白くうねっている。なにも答えてくれない白の世界だ。  カーテンを引く音が聞こえて、律子も今、白いうねりを見つめているらしい。もう眠気はどこかへ行ってしまったのだろうか。しばらくは起きているつもりなのだろうか。  私はなおも耳をそばだてながら女の心を計り続けていた。 鈍《にび》色《いろ》の雨  長崎の街は雨の中で烟《けむ》っていた。  タクシーの窓から見ると、町の灯がかなり高い位置にまで広がって煌《かがや》いている。丘陵が繁華街のすぐ近くにまで迫っていて、どこへ行っても坂のあるのがこの街の特徴だ。  思《し》案《あん》橋《ばし》の近くで車を捨て裏通りへ一本入ると、小料理店〓“たちばな〓”が黄ばんだ光を路面に投げかけている。  店の位置はこのへんと、自信は充分にあったのだが、それでも予想通りの角地に以前と同じ店の灯を見て心が和んだ。  ——どうやら潰《つぶ》れもせずに無事にやっているらしい——  ガラス戸がコトコトと音をあげて歪《いびつ》に開く。 「いらっしゃいませ」  カウンターの中の女が、視線をしばたたくようにして私を見た。一瞬だれかわからぬふうであったが、すぐに花のように大きく笑って、 「ああ……めずらしい」  と、言う。 「お元気?」 「ええ、おかげさまで。いついらしたの」 「今日。たった今」 「そう。何年ぶりかしら」 「二年半ぶりだ」 「もうそんなになる? お仕事?」 「島の発電所を見に来た帰り道だ」 「ほんと。お飲物は」 「酒を。熱《あつ》燗《かん》で頼む。思ったより寒い」 「今年は寒いみたい」  同じ九州の中でも長崎は裏日本型の気候で、宮崎や鹿児島とはよほど様子が違っている。十一月ともなれば冷たい北風の吹く日もあった。  客は八分通りの入り。どこといって特徴のない一杯飲み屋だが、それなりに繁《はん》昌《じよう》しているらしい。  店にはもう一人婆やがいて、つき出しを整えたり、するめを焼いたりしている。 「さみしくなったね」  やはり私は〓“そのこと〓”に触れずにはいられない。ガラス戸を開く、その一瞬にも〓“もしかしたら朋《とも》子《こ》がいるのではないか〓”などと、けっしてありえない想像が心をよぎった。 「そうねえ。仕方ないわ。はい、どうぞ」 「ありがとう」  一ぱい飲み干してから、 「どう、姉さんも?」  と勧める。  朋子が死んでしまった今、目の前にいる女を〓“姉さん〓”と呼ぶのは、あまり適切な言い方ではないのだろうが、いったん呼び慣れた呼称を急に改める気にもなれない。 「どうもすみません」 「飲める口だったよな」 「そう。妹と違って」 「朋ちゃんは……苦しんだのかい」 「それほどのことはなかったわ」 「かわいそうに。せっかくいい結婚をしたばかりだったのに」 「はい、ご返盃」  婆やと二人だけの店はママもなかなかいそがしい。私に盃を返すと、彼女はほかのお客へのサービスへ戻った。  このママの妹、朋子は新宿のクラブのホステスだった。  私が知り合ったのは、その時である。飛び抜けて美人というほどではなかったが、好感の持てるファニイ・フェースで、とりわけ歯並びが美しかった。だから、笑顔がわるくない。  水商売の女は笑顔がきれいなほうがいい。  姉さんも十人並みの器量にはちがいないし、表情も朋子によく似ているが、笑顔にそれほどの魅力はない。そのうえ垢《あか》抜《ぬ》けの度合いに少し差があって、やはり総合点では朋子のほうが上だろう。  あの頃、新宿のクラブには、仕事の関係で月に二、三度は通っていた。朋子は私担当のホステスというわけである。店が終わったあと彼女を食事に誘い出したり、ゴーゴー・クラブへ踊りに行ったりもした。それ以上の深い関係はなかった。ごくありふれた客とホステスの間柄——まあ、そんなところだったろう。屈託のない性格を私が好んでいたのは本当だったけれども……。  一年ほど友だちづきあいが続いたところで、 「長崎へ帰らなければいけないの」  と、言う。 「ほう、どうして?」 「姉と約束があるの。三年東京で暮らしたら帰る、って」 「帰ってどうする?」 「姉さんが市内で小料理屋をやってるわ。そこで手伝うの」 「なるほど」 「ねえ、長崎へは用がないの?〓“たちばな〓”って言うの。橘《たちばな》湾《わん》ってのがあるでしょ。そこから名前を取ったの。長崎に来たら絶対遊びに来て。歓迎するから」 「ああ」  指切りげんまんまでさせられた。  その時は中途半端な気持ちだったが、朋子が長崎へ帰って間もなく、本当に長崎へ行く用ができた。店の名は忘れていたが、地図を見て〓“橘湾〓”を思い出した。  それが二年半昔のこと。私は〓“たちばな〓”で痛飲してホテルへ戻ったが、朋子は店が終わったあと姉さんと一緒にホテルへ遊びに来てくれた。旅先の無《ぶ》聊《りよう》は充分に慰められた、と言うべきだろう。  ああ、そうだ。朋子の結婚の話を聞いたのは、その時だった。 「あのね、いい話があるの」 「なんだ」 「結婚するの」 「ほう。それは……おめでとう」  私は、彼女が長崎へ戻ったのは姉の店を手伝うためではなく、そのためだったんだな、と判断した。そのほうが納得がいく。  新宿にいた頃の朋子は身持ちの堅いホステスで——もう少しはっきり言えば、簡単には口説けそうもない感触のホステスで、その理由の一つとして、だれか親しい男がいるのではないかと私はかなり強い確信を持って想像していたのだが、その点でも間近な結婚はよく符合している。 「喜んでくれる?」 「ああ」 「本当に」 「もちろんだ」 「もう少しガッカリするかと思ったのに」 「そのほうがよかったのか」 「まあね」  そう言いながらも、朋子は自分の結婚について少しのろけた。  のろけながらの笑顔がまた一段とよろしい。  結婚が決まったときの女はおおむねすばらしい笑顔を作るものだが、朋子の場合はひときわ幸福そうだった。  私と話をしながらも彼女はふいと、しあわせを夢見るように中空を見据える。姉さんのほうもそれを満足そうに見守っている。  ——どうやら本当にいい結婚らしい——  と、私は感じ取った。  東京から祝いの品を送り、朋子からも挨《あい》拶《さつ》状が届いた。  それから一年ほどたって、私は所用で諫《いさ》早《はや》まで赴いた。諫早から長崎までならたいした距離ではない。〓“たちばな〓”へ行ってみたくなり——と言うより、その後の朋子の様子を聞いてみたくなり〓“たちばな〓”へ電話を掛けたのだが、姉さんの声は暗かった。 「あの……朋子、死んでしまったんです」 「えっ」 「急性の肺炎で死んでしまったんです」 「本当かい。いつ?」 「二週間ほど前に」 「知らなかった」  電話口で様子を聞いたが、姉の返事はたどたどしい。私と話をすることすら気が重い様子だった。 「そう。気を落とさないでください。お悔み申し上げます」  私は手短かに告げて電話を切った。  それ以来今日まで九州へは縁がなかった。  朋子の死から数えれば、ほぼ一年ほどの月日が流れた計算になる。  姉さんも穏やかに客の相手をしていて、少なくとも表面的には心の痛手を回復したように見えた。  ——妹の死なんか、当座はともかく、しばらく時間がたってしまったら、それほどショッキングな出来事ではないのかもしらん——  などと思いながら、私は盃の酒を汲《く》んだ。 「ホテルはどちら?」 「Tホテル」 「グラバー園のそばね」 「そうらしい」  三人連れの客が来たのをしおに私は席を立った。 「もうお帰り?」 「うん。ホテルでチェック・インをしなけりゃいけないし」 「ごめんなさい。おかまいできなくて」 「いや、ありがとう。またいつか来るかもしれない」 「お待ちしてます」  外に出ると、こまかい鈍《にび》色《いろ》の雨が立ち籠《こ》めている。  ——なんのためにこの店へ来たのかな——  そんな思いがふと心をかすめた。  寝入りばなを電話のベルで起こされた。 「もし、もし」 「フロントですが、大《おお》月《つき》様がお見えになっておられますが」  大月が朋子の姓だと理解するまでに一、二秒かかった。  朋子が訪ねて来るはずがないのだから、姉さんのほうだろう。 「すぐに降りて行きます」 「はい」  サイド・テーブルの時計を見ると、一時半を示している。店を終わり、それからふらりと遊びに来たのだろう。以前に朋子と一緒に現われたときと同じように。  私は手早く衣装を着換えてエレベーターを降りた。  女はフロントの前側のソファに少し体を崩すようにして待っていた。 「もうお休みでした?」 「うん、まあ」 「ごめんなさい。ご迷惑だったわね」 「そうでもない」 「すみません。ちょっとだけお邪魔をしたくなって」 「飲むかい」 「どこか開いてます?」 「バーが二時まで」 「じゃあ、一ぱいだけ」 「あなた、お名前はなんて言うんだったっけ」 「恭《きよう》子《こ》でーす」 「大月って言ってたけど、結婚はしなかったのか」 「ええ、売れ残り」 「まだそんな年じゃない」 「結婚って、こわいわ」 「そうかな」  二階のバーまで階段を昇ったが、女の足はもつれていた。だいぶ酔っているらしい。  バーには宿泊客が一組いるだけ。  バーテンが戸惑うような表情で、 「間もなく閉店ですが」 「うん。ほんの一ぱいだけ……。なにを飲む?」 「水割りをいただくわ」 「じゃあ、水割りを二つ」 「もう一つ、おねだりしていいかしら」 「いいよ。なんだ」 「オレンジ・ジュースを一つ」 「そんなものを飲むのか」 「ううん。これは朋子のぶん」 「なるほど」  カウンターの上にオレンジ・ジュースのグラスを置き、水割りのグラスをチンとぶつけて、 「久しぶり」 「本当ね」  恭子は水でも飲むように、グイとグラスの中身を半分ほど飲み干した。そして体を左右に揺すっている。 「雨はまだ降ってた?」 「ええ、まだ。長崎は雨が多いのよ」 「この前のときもそうだった」 「晴れてるときもあるのよ」 「そりゃそうだろう。しかし、流行歌の中ではいつも雨が降っている」 「そうかしら」 「うん」  私は小さく口ずさんで、 「こぬか雨降る港の町の青いガス灯のオランダ坂で……。少し違ったかな」 「古い歌ね」 「知らない?」 「聞いたことあるわ。私が知っているのはね……」 「ああ」  今度は恭子が低く唄《うた》った。 「赤い花なら曼《まん》珠《じゆ》沙《しや》華《げ》、阿《お》蘭《らん》陀《だ》屋敷に雨が降る、濡《ぬ》れて泣いてる、じゃがたらお春」 「やっぱり雨が降っている」 「ええ、朋子も唄ってたでしょ」 「うん、聞いたことあるな。好きな歌だったのか」  あの頃はまだカラオケはなかっただろう。歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》の、ピアノのある店へ飲みに行くと、朋子は幼い子どもが唄うようにポツン、ポツンと歌詞を区切り、音程をさぐるようにして口ずさむのだった。 「もう一ぱいだけいただいていい」 「どうぞ」 「じゃあ、ウイスキー。ストレートで」  恭子はオレンジ・ジュースに乾杯して、またグイと飲む。  眼もとが脹《ふく》らんでいる。  酔いのせいかと思ったが、それだけではなかったらしい。 「今日ここへ来たのはねえ……」 「うん?」 「ひとことお話ししたいことがあったの」 「なんだ」 「朋子は病気で死んだんじゃないわ」 「ほう」 「自殺よ。首を吊《つ》って死んだの」  バーテンがかすかに視線を動かした。 「知らなかった。どうして」 「男が悪かったのよ」 「幸福な結婚じゃなかったのか。朋ちゃんはやけにしあわせそうだったけど」  私は、のろけ話を聞かされたときの朋子の、あの中空を見据えるような夢見心地の顔を思い出した。 「だから余計ショックが大きかったのよ。朋子は結婚したつもりでいたけど、相手はそうじゃなかったわ。結婚式を挙げたわけじゃないわ」 「新婚旅行の旅先から絵葉書をもらったような気がするけど」 「新婚旅行じゃないわ。ただの旅行よ。親がいないから馬鹿にされたのよ。朋子はお金まで送ってたのよ、その男に」 「結婚詐欺みたいなものか」 「まあ、そうねえ。なにもかも賭《か》けていたのに」 「自殺までするとは思わなかった」 「表面は陽気だけど、そういうとこ、あるのよ。気がつかなかった?」 「フーン。一瞬、奇妙に寂しそうな表情を見せるときはあったな」  これは本当だ。  一年ほどのつきあいだったから——それほど深い交際ではなかったから、朋子の生い立ちについて私はほとんどなにも知らなかった。たとえおいしい話を一つ二つ聞かされたとしても、ホステスのこの種の話は額面通り信ずるわけにはいかない。  ただ、なにかの拍子にサッと表情に宿る、怖いほどの寂しさを見て、私は〓“この人は、あまり幸福な半生を背負った人じゃないな〓”と思ったことが何度かあった。 「首吊りなんて、みじめなものよ」 「見たのか」 「見ないわけにいかないわ。顔はね、もうきれいに直してあったけれど、足がね……」 「うん?」 「足が、とてもかわいそうなの。悲しいのよ、足が」  涙でマスカラが黒く広がっている。 「…………」 「ダランとさがったまま堅くなっていたわ。空に跳ぼうとして、跳びそこねたみたいに」  突飛な連想が心に昇って来た。  二十数年前、私の父も——脳溢血の発作で死んだのだったが——やはり足先を長く伸ばしたまま堅くなって眠っていた。  布《ふ》団《とん》の裾《すそ》からのぞいた不自然な足の形状が一きわ強く父の死を私に実感させてくれた。  棺に納めようとしても伸びきった足の分だけ長過ぎて、入らない。無理に入れようとすると、首のほうが窮屈に曲がって無《ぶ》様《ざま》になってしまう。  長い棺を特別に注文したが、それでは焼き場のほうに入らない、と言う。  仕方なしに足を何度もさすって柔らかくしようとしたが、それもうまくいかず結局脛《すね》の骨を折って納めた。  異態な足のイメージは私の中にもあったのである。 「跳びそこねた足か」 「そう」 「朋ちゃんはそんな気持ちだったかもしれないな」 「そうよ。それがわかるから余計にせつなかったの。熱いタオルを当てて、自然な形に戻してあげようとしたけど、駄目だったわ」  バーはもう閉店の時間を過ぎていた。 「行こうか」 「ええ」 「部屋で話そうか」 「ううん。もういいの。朋子のことをちょっと話したかっただけなの。ごめんなさい」 「いや、それで気が安まれば、いい」  私はもう一度部屋へ誘ったが、恭子はかたくなに首を振った。  男の寝室へ入るのは、それ自体またべつな意味が加わりかねない、無理に誘えることではなかった。 「なにかほかに……」 「えっ?」 「ほかに注文はなかったのか」 「ないわ。たまには朋子のこと思い出してあげて」 「わかった。送ってあげようか」 「いらない。車を拾えば、すぐだから」 「じゃあ、さよなら」  帰り足になると、思いのほかシャンとしている。 「さよなら」 「ああ、また機会があったら顔を出す」  雨を割って車が遠ざかった。  私は部屋へ戻って、とりとめもなく〓“長崎物語〓”の歌を口ずさんだ。気分がひどく感傷的になっている。この歌はやはり長崎という土地で唄うのが一番ふさわしい。 「そぞろ恋しい出《で》島《じま》の沖に、母の精《しよう》霊《ろ》がああ流れ行く、流れ行く」  と、唄ってカーテンを開いた。  朋子の精霊も濁った闇《やみ》の中に流れているのかもしれない。  翌日も曇天。雨と言うより霧に近い、こまかい雨滴が視界を濡らしている。町は積木箱を覆したように小さな家並みが複雑な起伏を作って密集していた。  窓際でタバコを一本ふかしたあと朝食をとりに出た。まだ朝が早いせいか、宿泊客の姿も疎《まば》らである。若いカップルが目立つ。  前夜タクシーの運転手から得た情報では、長崎には男の遊び場が少ない。同じ観光地でもそのへんが他《よ》所《そ》と違っている。 「男の団体旅行なんか、まず来ませんな。女学生ばかりですよ。さもなきゃ新婚さんか」  ということだった。  そんな事情は、食堂の風景からも充分に頷《うなず》けた。  私は背広のポケットからキップを取り出して列車の出発時刻を確認した。旅程の次の目的地は広島。長崎本線で博多まで出て新幹線に乗り継ぐ予定である。所要時間は四時間ばかり。飛行機で東京から来るほうが、よほど時間が短い。  けっして先を急ぐ旅ではないのだが、空路を利用する習慣が身についてしまうと、列車の旅は迂《う》遠《えん》に思えてならない。  列車の発車まで一時間ほどゆとりがあった。  ホテルの部屋に閉じ籠《こも》っていてもつまらないので、一つくらい名所を見物して行こうと思った。  西坂公園に立ち寄ってみようか。  あそこなら駅に近いし、前回来たときに見過ごしている。  タクシーが細長い町を走る。  修学旅行の女学生たちが朝早くから歩道を満たし、雨傘をかざして小走りに横断歩道を駈けて行く。限られた時間のうちにできるだけたくさんの史《し》蹟《せき》を見学しようというスケジュールなのだろう。  大通りをめずらしい市電が走り抜ける。 「今どき市電の走るとこって、少ないんじゃないですか」  と、運転手が言う。 「そうだね」 「長崎は他所で廃止になった市電の車両をいろんなところからもらって来たんですよ。だから、全部べつべつの電車が走っているでしょう」  そう言われてみると、色とりどりの電車が次々にやって来る。車両一つがまるごとデパートや名品店の広告となっていた。  表通りで車を降り、公園に向かった。  広葉樹の落葉が階段をいっぱいに満たして、晩秋の風情が美しい。  小広い空地の奥に二十六聖人のレリーフがひっそりと浮いている。  私の記憶が正しければ、これは豊《とよ》臣《とみ》秀《ひで》吉《よし》がキリスト教禁止のさきがけとして宣教師たち二十六人を処刑した、その殉教者たちの彫像である。外国人が六人、日本人が二十人、だったろうか。  子どもも何人かいたはずだが、近づいてみるとすぐにその数はわかった。横に並んだ一列の中で三つだけ背の低いのがある。  このレリーフは以前になにかの写真集で見たことがあって、その印象は青空の下で小ざっぱりと、明るく写っていたように思うのだが、やはり曇天のせいもあるのだろう、今日は雨に染み薄汚れた壁を背にいかにも非運な殉教者たちらしく暗黒に、重々しく立ち並んでいた。  つぶさに眺めると、それぞれの表情がわるくない。  二十六人のうち、中央から少し右に寄った一人だけが、視線を地上に向け、両手を開き、さながら説教でもしているようなポーズである。  ——これが一番偉い人なのかな——  などと思う。  それ以外の二十五人はみんな手を胸のあたりで合わせ、はるか中空を見つめて天国を夢見る表情である。  さもあろう。  彼らの思考はもはや地上になかったにちがいない。  どのように苛《か》酷《こく》な責め苦を受けようとも〓“私たちは神のみもとに行くのだ〓”という、強固な確信があったにちがいない。燃えさかる火刑の熱さも、超越していたのではなかったのか。  大人《 お と な》たちの面《おも》差《ざ》しが、どこか理性的に天国を望み見ているのに対して、子どもたちはむしろ感性的に神の国を見ているようにも思えた。その無邪気な眼《まな》差《ざ》しが、いたいたしくもあり、神々しくもある。  突然、朋子のことが心に甦《よみがえ》って来た。  その理由はすぐにわかった。  一つには、彼女もまた中空に視線を据えて未来の幸運を夢見ていた時期があったのだから……。朋子の場合は華やかに明るく、目前のレリーフたちは荘厳に暗く、陽と陰との差は明白であったが、視線の赴く高さが似通っているように思えた。  だが、朋子を思い出させたのは、それだけではない。  私の眼は殉教者たちの顔を離れて足先に移っていた。  冷たいものが体の中を通り抜けて行く。  ダンラリと垂れさがっている足、足、足。  大地を踏んでいる足ではない。  虚空に浮かぶ筋肉は弛《し》緩《かん》し、そのまま冷たく固まった足の姿である。  恭子は昨夜、妹の足が〓“悲しかった〓”と言っていたっけ。  朋子の足もまた、ここに並んだ彫像たちのようではなかったのか。  私は遠い記憶を呼び戻してみた。  私の父の足も、このように冷たく、堅く伸びきっていた。  ——それにしても、このレリーフはおもしろい——  夢見る眼差しと奇っ怪な足の表情。彫刻家はなにを語ろうとしたのだろうか。  私は殉教者たちの死にざまを知らない。記録を読んだことがない。だが、おそらく磔《はりつけ》のあとで刺し殺されたか、火にあぶられたか、そのどちらかではなかったのか。足の形は明らかにそうした推測に符合している。リアリズムと言えば、一種のリアリズムなのかもしれない。  上半身で神の国への道を髣《ほう》髴《ふつ》させ、裳《も》裾《すそ》にこぼれた足先で惨酷な現実をかすかに暗示した作者の手腕を——私にはそのように受け取れたのだが——私は非凡なものだと感じた。  この二つの側面がなければ、殉教というものの実態を正しく表現しえないのではあるまいか。  私はふたたび目をあげて彫像たちの顔を熟視した。  そして、合掌のあとで、サッと踵《くびす》を返した。  だが、目の端はもう一度意地わるく宙に並ぶ数《あま》多《た》の足を瞥《べつ》見《けん》したらしい。死者たちの足首を切り離し、これ見よがしに干し並べたような、おぞましい印象が心に残った。  だれもがこのレリーフの前でこんな感慨を抱くとは思わない。  昨夜来、足首のイメージが私の心の裡《うち》にわだかまっていて、それがことさらに特別な見方を私に強いたのだろう。  公園には人影もなく、奇妙に蕭《しよう》然《ぜん》と雨を受けていた。  列車に揺られながら、朋子のことを思った。  もし朋子のレリーフを刻むとしたら、殉教者たちと同じようなポーズがふさわしい。  もとより朋子は、それほど崇高な意志を持って死んだわけではない。  新聞の社会面をのぞけば、いつでも載っているような、ちっぽけな死でしかなかった。  だが、遠いどこかに幸福を夢見ながら跳びきれなかった女——そんな朋子には、やはりあのポーズを借用するのが一番似つかわしいのではないか。  面差しには、朋子のあの爽《そう》快《かい》な明るさをふんだんに盛り込もう。結婚を目前にした娘たちが、きっと表情に宿している、あの清《せい》冽《れつ》な歓喜をあますところなく刻み込もう。  そして足首には——死者に対してはいくぶん非礼かもしれないが——かすかにグロテスクな、無惨に跳びそこなった足のイメージを忍び込ませよう。  私たちの人生だって、いつも理想を夢見ながら、まかり間違えば宙吊りになりかねない危険をはらんでいるんだ。  車窓には海が映った。  雨雲が重く垂れ込め、鈍色の雨が間断なく水の面に降り落ちている。  旅はいつでも私の心を思いがけないところへと運んで行く。  長崎は遠ざかり、朋子も少しずつ遠くなった。 午後の潮《しお》騒《さい》  恥ずかしい話だが、松江、高松、松山の区別がよくできない。一つは山陰地方、二つは四国地方と、そこまではずっと昔から知っているのだが、名前を一つ言われて「さあ、どこだ」と尋ねられると、すぐには返事ができない。三つ全部を思い出して順を追って考えないとわからない。  所用で高松まで行くことになり、地図を開いて眺めていると右隣りに徳島があった。頭の中でなにかが弾けた。  ——徳島なら智《とも》子《こ》のいるところだ——と、思う。  毎年、年賀状が届いている。日程ではちょうど日曜日があいている。住所を頼りに電話番号を調べ、連絡をとってみた。 「だれかと思ったら……」 「変わりない?」 「そう。変わりばえもしないわ」 「高松まで行くんだが会えないかな。十八日の日曜日がまるまるあいている」 「高松と徳島じゃ結構遠いのよ」 「なに、それほどでもない。時刻表で調べた」 「そうねえ、どうしようかしら」  智子は戸惑っている。  戸惑いの理由がわからないでもない。六年の歳月が二人の感情をなにもかも風化させてしまったと、男は勝手に考えるけれど、もう一つの性はまた別な思考を持つものかもしれない。  しかし、いったん切り出した以上、途中で退いてはかえって気まずいものが残る。相手を傷つけることにもなりかねない。ひとたび智子の様子を思い浮かべ、こうして声を聞くと、会いたいことはたしかに会いたかった。 「なんとか時間をさいてくれないかな。僕が徳島まで行くから」 「すごい熱意なのね」 「午前十一時には着ける。Pホテルというのがあるだろう。そこのロビイで」 「いいわ。十八日の十一時ね」  約束は短く決まった。  四国に足を踏み入れるのもこれが初めてのことだ。ホバークラフトで宇《う》野《の》から高松へ。海は思いのほか幅広く、水底も深い。  ——瀬戸内海って水がタップリあるんだなあ——  と、子どもじみた感銘を覚えた。  高松で一晩泊まった。いつものことながら旅先の宿では眠りが浅い。どんなに遅く眠っても朝は早々と目を醒《さ》ましてしまう。こんな悪癖も朝の列車で徳島まで足を伸ばすとなれば少しは役に立つ。夜来の雨はきれいにあがって、山陵のむこうに穢《けが》れのない青の色があった。 「あれはなにかね。ずいぶん木が枯れてるねえ」  車両の響きを縫って中年の男の話し声が聞こえる。私も気づいていた。山壁のあちこちに見苦しいほどに枯れた茶褐色の枝が窺《うかが》える。周囲の紅葉とは色合いが大分違っている。 「ああ、松食い虫よ」 「ひどいもんだねえ」 「本当はすぐに切らんといかんのだがね。なかなか手が廻らなくて。今に山じゅう松食い虫にやられるわ」 「焼いてしまえばいいのかね」 「それしか手はないねえ。四、五年前まではなんで松が枯れるか、理由もわからなかった。悪いのは松食い虫じゃなくて、松食い虫の中にいる寄生虫なんだね。それがようやくわかったばっかりだから、まだなかなかうまい対策はたたん。そのうちに山は丸坊主にされちまうわな」  聞いているうちに眠くなり、次に目を醒ましたときには列車はもう徳島の市街地へ駈《か》け込んでいた。私は夢ともうつつともつかない、おぼろな光景を心の中で反《はん》芻《すう》していた。  闇《やみ》の中で太い薪が快い音をあげて燃えている。炎が空気を揺がしてコーッと乾いた響きを伝えている。群衆の顔が赤々と映え、寒気の中で体の半分だけが熱かった。  そんな記憶がさっと頭に射し込んだのは、やはり松食い虫にやられた枝を焼く話が心に残っていたからだろうか。  篝《かがり》火《び》の緋《ひ》の色が記憶の中で色《いろ》褪《あ》せている。玉砂利を踏む音も遠い。まるでいったん消え去った響きを脳《のう》味《み》噌《そ》の操作で甦《よみがえ》らせたみたいに……。 「すごい人混みだな」 「ええ」  あのときはなんのためらいもなくたやすく智子の手が握れた。  初《はつ》詣《もう》でに行こうと言い出したのはどちらだったろう。智子か、私か。いずれにせよ実際に初詣でに行ってみるまで、私たちは二人だけで初詣でに出かけるほど親しい仲ではなかったはずだった。  智子のほうの事情はよくわからない。なにか聞かされたような気もするのだが、忘れてしまった。いつもの正月は徳島へ帰っていたはずなのに、あの年はどうしたのだろう。のっぴきならない仕事があったのか、それとも故郷に帰りにくい理由があったのか。智子は東京のアパートで独り年末年始を過ごす予定になっていた。  そのアパートは参宮橋の駅の近くにあって、窓からは風呂屋の煙突が見えて、時折小田急のロマンス・カーの警笛がホワン、ホワンと涼しい音色で聞こえて来る。 「どうしてこうなったのかしら」 「わからん」  年末年始アパートで独り過ごすのはとてもわびしい。私自身も独り者の頃はそうだった。  家族の絆《きずな》なんて、現代ではもうそれほど力強いものではあるまい。子どもの頃はいざ知らず大人になってしまえばむしろ邪魔になることのほうが多いくらいだ。ただ一年に一度だけ、人々はまるで古風な儀式でも再現するように、家族の親しみに身を委《ゆだ》ねる。  いったん巣箱を離れた家族たちの団《だん》欒《らん》など十日も続けばたちまちとげとげしい諍《いさか》いに変わってしまうのだが、そうと知っていながら人間たちはほんのひとときだけ睦まじい血族の歌を謳《うた》いあげようとする。  独り歌の輪からはずれたものは寂しい。人生そのものの寂しさまでもが、独り除《の》け者にされた寂しさに加わって、逆にいっさいの寂しさが、ただ帰省もできずにアパートに蟄《ちつ》居《きよ》しているせいのように思われてくる。  親しい友だちもこの時期はそれぞれに忙しい。なにがしかの予定を持っている。誘いかけても断わられるだろう。それがまたいつもにもましてみじめである。  そんな寂《せき》寥《りよう》 感に追いうちをかけるように新年はたいていの商店が休みになる。とりわけ食事をとる店はそうだ。この時期に都会の小部屋で独り卵焼きなどを巻いて食べる粗《そ》餐《さん》はことのほかつらい。舌よりも腹よりも、まず胸にとって貧しい味がする。  ずっとあとになって智子は言っていた。 「逢《おう》魔《ま》が時《とき》って、あるでしょう」 「ああ。昼と夜との境目あたりだろ。うっかりしていると、魔物にばったり会ってしまう」 「一日のうちだけじゃなくって、長い年月の中にも〓“逢魔が時〓”ってあるみたいね」  智子はことさらに〓“逢う・魔が・とき〓”と区切って言った。言葉の本来の意味をなぞるように。  本当だ。たしかにそんな時がある。〓“逢魔が時〓”というのは、なぜかその時刻になると、あたりにまがまがしいものが跳《ちよう》梁《りよう》跋《ばつ》扈《こ》して、さながら出会い頭《がしら》といったふうにそんな魔物にめぐりあってしまう。そんな無気味な時刻が存在することを人間が漠然と感じ取って命名したものだろう。  あの頃は、智子にとって人生の逢魔が時だったのだろうか。私としてはそう考えたくはないけれど。  智子はいっぷう変わった女だった。  薬科大学を卒業して病院の薬局で働いていた。面《おも》差《ざ》しも性格も、あの白い衣《い》裳《しよう》に——理知的で、かすかに冷たい印象の衣裳によく似合っていた。  智子はなんによらず好き嫌いの好みが激しい。まず食べ物、衣服、それから厭《いや》なことは絶対にやらない。〓“わがまま〓”と〓“わがままでない〓”と、二つのグループに分類するならば、智子はなんのためらいもなく前者のほうに分けられるだろう。もう一つ〓“普通〓”を加えて三つに分けても〓“わがまま〓”の部類に属する。いや、五段階法を用いて〓“とてもわがまま〓”から順に五つのグレードを作っても、智子はやはり最上級の〓“わがまま〓”に入るのではなかろうか。  無理にわがままぶっているわけではない。ちょっと見た限りでは、ごく普通のお嬢さんだ。言葉使いも丁寧だし、礼儀作法もわきまえている。学校や職場で特に他人に迷惑をかけることはなかっただろう。わがままとだらしないのとは、別のことだ。  ただ、性格の芯《しん》の部分にどうしても自分流のやり方でなければ我慢のできない、頑《かたく》ななところがある。男だったら一つの個性として珍重されるのかもしれないが、男中心の社会に女として生まれ落ちてしまったばっかりに〓“生《なま》意《い》気《き》〓”だの〓“わがまま〓”だの、いわれない評価を受けているのかもしれない。 「別にいいのよ。だれにも頼らずに好きなように生きて行くつもりだから」  なにも結婚ばかりが女の幸福ではあるまい。智子にはたしかにそんな生き方のほうが似合っている。そのほうがよほどすがすがしくて美しい。  そうだ、やっぱり初詣でに行ってみようと誘ったのは彼女のほうだった。 「火が燃えるときって美しいわ。じっと見ていると怖いほど身が引き締まるの。最高にきれいね。昔は火事のたびにそう思ったの。でも、このごろ碌《ろく》な火事がないでしょ。すぐに消防車が来てしまうし」  それが一緒に初詣でに行きたいと告げた理由だった。  私のほうもあの年末年始は無《ぶ》聊《りよう》を託《かこ》っていた。それに……奇妙な趣味かもしれないが、私はもともとわがままな女や生意気な女がそれほど嫌いではない。  その嗜《し》好《こう》をどう説明したらいいのだろうか。  もとより〓“わがまま〓”とか〓“生意気〓”とかいう性格は長所に属するものではない。私だって〓“わがまま〓”より〓“わがままでない〓”ほうがいいと思うし、〓“生意気〓”より〓“生意気でない〓”ほうがいい。  ただ人間の性格というものは、一つの特徴だけがポンと独立して備わっているものではあるまい。いくつかの特徴がたいていセットになって嵌《はめ》込《こ》んである。私はわがままな女や生意気な女が、それと一緒にあわせ持っている他の特質が好きなのだ、と思う。とりわけ自分自身で〓“わがままだ〓”〓“生意気だ〓”と自覚している女は憎めない。そんな女はたいてい美しかったり、才能があったり、自由だったり、いさぎよかったり、都会的であったり、おしゃれ上手であったり、自立心があったり、よきライバルであったり、なにかしら短所を補って余りある美点を持っている。そうでもなければ〓“わがまま〓”や〓“生意気〓”を一生抱きかかえてこの世で生き続けるのはむつかしい。智子もそうした女の一人ではなかったのか。少なくとも私はそう感じ取っていた。  初詣での人波にもまれて智子のアパートへ戻ったのは朝の三時ごろだった。 「疲れた」 「大勢来るわねえ。疲れるばっかりで……馬鹿みたい」 「人のことは言えないさ」 「でも私たちは家が近いんだから」 「あなたは近いかもしれないが、僕はそう近くはない」 「じゃあ、ゆっくりしていらしたら、朝まで」  白葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》を一本抜いてビールのジョッキに注いだ。 「やっぱりおめでとうございますって言うのかしら」 「まあ、そうだろ。もう一月元旦なんだから」 「じゃあ、おめでとうございます」 「おめでとう」  どちらからともなく体を倒し、電気炬《ご》燵《たつ》の中に足を伸ばしたまままどろんだ。  それから先はさらに智子の意志であったかどうか……。  私が目を醒ますと智子の体がからみつくように近くにあった。さながら幼い兄と妹が暖めあって眠っているように。  かすかに頬《ほお》にかかった掌を、さっき篝火の火照りの中で握ったと同じように捕らえた。智子は目を開け、小さく笑って握り返した。薄い灯り。ガス・ストーブの音。闇と赤との中に浮かんだのは無邪気な、それでいて極度に艶《なまめ》かしい笑顔だった。  私は手を伸ばし力を加えた。智子は抗わない。  私は大胆であった。智子はけっして厭《いや》なことをする女ではない。その確信が私のためらいを払い去った。熱い火がふたたび私たちの体をあぶり、血のぬくもりは炎となって二つの体を嘗《な》め尽した。  ホテルのラウンジには私のほうが先に着いた。智子は時間きっかりに現われ、なんの屈託もなく自然な動作でソファに腰をおろした。昨日も一昨日もその前の日も出会っているような、そんなさりげない様子である。 「久しぶりね」 「六年ぶりだ」 「六年と二か月かしら」  きっかりと数えて来たのは、最後の頃の記憶がぼやけていないからだろう。  昨今は地方の都市でも豪華なホテルが見られるようになった。Pホテルはそんな水準に比べれば少し劣るかもしれないが、場所がらがいいのか、人の出入りは激しい。結婚式でもあったのだろうか。黒い衣《い》裳《しよう》に薄桃色の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》を持った人の姿が目立つ。 「相変わらず……独り?」 「そう」  年賀状の苗《みよう》字《じ》が変わっていないから多分そうだろうなとは察していたが……。 「仕事は?」 「ちょっと製薬会社に勤めていたけど、今はドラッグ・ストア」 「経営者か」 「ううん。まかせられているだけ」 「日曜日は? 忙しかったんじゃないのか」 「そう」  弾んだ声で受けてから、 「忙しかったけど、来たの」  と繋《つな》ぐ。 「申し訳ない。せっかく近くまで来たものだから」  話題はすぐに途切れた。  会話というものは毎日会って話しているときのほうが話題が尽きない。とりとめのない話は、いろいろな前提を抜きにしては通じにくいし、わざわざ前提を説いてから話すほどの内容でもない。久しぶりに顔を合わすと、どうしてもこの手の話題は弾まない。一方、ぜひとも話したい深刻な話は、時間を置いているだけに切り出しにくい。智子は所在なさそうに言う。 「今日はいい秋晴れね」 「うん。四国に来たのはこれが初めてなんだ」 「本当? そういう人ってわりと多いのね。文化果つるところだから」 「そんなことはない。街は東京と変わらない」 「そう? ずっと田舎よ。でも少し案内をしましょうか」 「どこが見れるの?」 「そう。鳴《なる》門《と》の渦潮なんかどうかしら。あのへんから見る瀬戸内海もわるくないわ」 「なんで行く?」 「車で。運転して来たわ」 「じゃあ案内してもらう」  車はアイボリイ・カラーのハードトップ。朱色のシート・カバーは智子の持ち物にふさわしい。いつも原色の鮮やかな色調が好きだった。まだ新しい車のようだ。適当に豊かな生活を楽しんでいるのだろう。 「近いの?」 「なにと比較したらいいのかしら。二十五キロくらい」 「一時間くらいかな」 「そうね。途中に飛行場があって、その先が鳴門市なの」 「ふーん。渦は毎日見られるのかい」 「一日に二度あるわ。満潮のときと干潮のときと。でも、なんか特別に大きな渦を巻く時期があるみたい」 「人見知りをするのかな」 「もっと科学的なものらしいわね。あらかじめ予想ができるみたいよ」 「今日はどうだろう」 「わからない」 「そばまで行けるの」 「船でなら、まあ、わりと近くまで。今、淡《あわ》路《じ》島《しま》と繋ぐ橋を作っていると思うわ。これができると、それこそ真上から見ることができるでしょうけれど」 「なるほど。真上から見れば絶景かもしれない」  私はアラン・ポーの〓“メエルストルムの渦〓”を思い出していた。あれは実在する渦なのだろうか。まったく根拠のない話ではあるまいが少し話が大き過ぎる。ポー一流の想像力の賜物だろう。  それにしてもあの作品の中で嵐《あらし》のあとポッカリと黒雲を割って覗《のぞ》いた満月を、渦の底から眺める描写は魂が凍るほど美しいものだった。鳴門の渦潮はいくらかでも私の想像力を掻《か》き立ててくれるだろうか。 「どうしたの、急に静かになって」 「いや、考えごとをしていた」 「なにを?」  律《りち》義《ぎ》に〓“アラン・ポーの小説〓”と答える必要もあるまい。 「昔のこと。あなたのこと」 「そう。どんなこと」 「いつの間にか病院を罷《や》めて故郷へ帰ってしまった……」 「そうだったわね。驚いた?」 「うん。なにか僕がわるいことをしたみたいで」 「わるいことしなかった?」 「したかなあ。わからん。思いつくことはなにもないぜ。それにあなたは人にわるいことをされたくらいで簡単に尻《しつ》尾《ぽ》を巻いて故郷へ逃げて行く人じゃない」 「そうかしら。そんなに強い女じゃないわ。まあ、家のほうでちょっとゴタゴタがあって……」 「それなら、そう言えばいいのに」 「ええ……。もうすぐよ。橋が見えるでしょう。小鳴門橋。この橋を渡ると……なんて言う島だったかしら。半島みたいな島があってその先っぽが鳴門海峡。渦が巻くところよ」  話すうちにも道はぐるりと半円を描いて堤を登り、長い小鳴門橋にかかった。眼下の水は豊かに波打っている。 「でも、それだけではないわ」 「えっ?」  すぐには智子の言った言葉の意味がわからない。  ——小鳴門橋以外にもう一つの橋があるのだろうか。それとも鳴門海峡以外に渦を巻くところがあるのだろうか——  智子はかすかに首を捻《ひね》って助手席の私を見たが、含み笑うだけでそれ以上はなにも言わなかった。  左手に見える海は群青に染まり、潮流が幾条もの帯を作って走っている。鳴門と淡路を結ぶ大架橋の建造工事は、今まっ最中。 「あれが淡路島。一番近いところで二千メートルくらいかな。すごい工事ね」  橋《きよう》 梁《りよう》を吊《つ》る鉄塔の工事が進んでいて、見上げるほどに高い鉄の柱が徳島側に一つ、淡路島側に一つ建っている。その間に蜘《く》蛛《も》の糸ほどに細いケーブルが弓を描いて垂れている。あのケーブルに吊られた荷箱から眼下の大渦を眺めたら、どれほどのすさまじさだろうか。  車を停《と》め、茶店に様子を聞きに行った智子が戻って来て、 「あと一時間くらいあるんですって。今日は大潮時ではないけれど、まあ、中くらいのは見られるそうよ」 「船で見るんじゃないのか」 「ここからでも少しは見えるの。でも船で見たい?」 「いや、それほどでもない」 「時間潰《つぶ》しにそのへんを走って来ましょうか」 「うん」 「わりといい景色のはずよ」  なるほどここは瀬戸内海国立公園の一部だけの資格はある。海岸線の傾斜を縫ってスカイラインが走り、あるときは遠く、あるときは近く、また高く低くとりどりの海が窓に浮かぶ。陸路は急に細くなり、右手に満々と水をたたえた瀬戸内の海。そして左手にのどかに広がる入江。これは二つの小さな島に囲まれ、いくつかの細い水路で外海に続く、小さな内海とあとでわかった。瀬戸内に点在する島影にも素朴な情緒がある。 「さっき言いかけたんだけど……」  ハンドルを握り正面を見つめたまま智子が呟《つぶや》く。 「うん」 「やっぱり言わないわ」 「あなたらしくもない」  「うまく言えそうもないの」  私はこの時になってようやく智子が最前〓“それだけではないわ〓”と言ったのが、なんのことか理解できた。故郷の家でなにかゴタゴタがあって、それで東京を引き払ったと言っていたが、理由は〓“それだけではなかった〓”のだろう。  初詣での朝のあと、智子との関係は半年ほど続いた。いつの間にか始まってしまったような愛であったが、少なくとも智子にとってはかけがえのない一つの愛ではなかったのか。女は滅多にかりそめの恋などを楽しまないものだ。  ただ智子は最初から私に家族があることを知っていた。それを壊そうなどとは少しも考えていなかった。 「あたし、変わっているのよ。ほかの女の人とぜんぜん違うみたい。結婚より自由が好きだし、自分の好みの方法で生きたり愛したりするより仕方がないの」  いつもそう言っていたが、あれはほとんど本音だったろう。今でもその確信は私の中で変わらない。  二人の関係は、それなりにうまく運んでいると思ったのに、急に東京を離れてしまったのはどうしてだったのか。なにもかも納得ずくの大人の関係ではなかったのか。世間は男にとってのみ都合のいい関係だと責めるかもしれないが、それも智子は充分に知っていて、しかも、 「私なりに計算はあっているのよ」  と、納得していたのではなかったのか。  しばらくは連絡もなかった。智子のアパートを訪ねると管理人が怪《け》訝《げん》な顔で、 「故郷《 お く に》にお帰りになったんですよ。病院を罷めて。たしか徳島のほうだと聞いたけど、住所は主人が書き留めてたわ、でも、どこへメモ帳を置いたか」  と、頼りない。  いずれ智子自身から連絡があるだろうと思っているうちに何か月かがたってしまい、今度は、  ——厭なことは絶対にやらない人だ。なにか気にそまないところがあって決断をしたのだろう——  と、推測した。  もともと人に公開できる関係ではないのだし、とりわけ女のほうに迷いが生じたら深追いをしてはいけない。呼び戻しておいて、あとで不幸に陥し込んだら罪が深い——そんな配慮もあって私はそのままなにもせず、心にだけ懸けていた。消息が絶え、突然年賀状が届いたのはさらにそれから二、三年あとだったろう。  智子はハンドルを廻して、 「もうぽつぽつ戻らなくちゃ」 「そうだな。きっかり一時間たった」  時間を計って観潮台に戻ると、すでに何組かの人の群が石の手すりから首を伸ばして海を見ている。観潮船らしい船が潮の流れに逆らって揺れている。 「この中に落ちたら死ぬなあ」  酒を飲んでいるらしい中年男が連れの男に尋ねている。 「ああ、死ぬとも。潮の流れは速いし、水は深いし、死《し》骸《がい》はあがりやしねえ。こないだ溺《おぼ》れた人なんか半年もあとになって和歌山のほうであがった」 「へえー、和歌山まで持って行かれるのか」  干潮の時刻が近づき始めたらしい。  はっきりとはわからないが、水の帯の動きが速くなったようだ。 「水の高さに一メートル半も差ができてしまうんだから恐ろしいもんだ。時速二十キロの速さだとよ」  待ち時間は思いのほか長かった。じっと見ていると潮の流れはたしかに刻々と速くなるが、さりとて渦の姿は見えない。 「お、始まるぞ」  白波がまたたくまに海面のあちこちに流れ、波音とは違うざわめきが響き始めた。 「あそこだ」  なにやら海面に白い円が蠢《うごめ》く。渦は期待したほど大きくはない。しかも岸からはおよそ四、五百メートルの距離があるので、メエルストルムのイメージとはおおいに違っている。  だが、海峡全体の光景は、やはり尋常のものではなかった。明らかにこれは川ではない。おびただしい水を抱いた底深い海なのだ。右手には紀《き》伊《い》水道に続く海が、左手には播《はり》磨《ま》灘《なだ》に続く海が一面に水をたたえて控えている。「さあ、いくらでも水を送るぞ」とばかりに。その二つの海がくびれるところで、波と潮とがざわめき、複雑なうねりを示し、白い歯を剥《む》く。そして突如白い水煙をあげて渦を巻く。渦一つの光景がすさまじいのではなく、海峡の猛り狂うさまが恐ろしい。さっきまでは、よし潮流の流れがあったにせよ清明な水の面であったというのに……。また今もなお周囲の風景は秋空の下でとんろりとなごやいでいるというのに……。のどかさと怒りの対比が異様である。 「やはりすごいね」  私は月並みな感想を漏らした。智子は身を堅くして海を見据えている。 「どうしたんだ?」  なにも答えない。  潮の流れが見る見る緩慢になり、私たちは車へ戻った。潮《しお》騒《さい》も細くなった。 「どうしたんだ?」  もう一度尋ねると、智子は乾いた声で答えた。 「変ね。あの頃のこと少し思い出したりして」 「ほう、どうして?」 「心の中があんなふうに荒れて騒いでいたから」  と、薄く笑う。 「あなたでも、か」 「人並みにね。なつかしいわ、あの頃の自分が……。あなたなんかと見に来るんじゃなかったわ」 「じゃあ、もう一度荒れ狂ってみたらいいじゃないか。あの頃みたいに」 「駄目。もう潮はおさまってしまったから」  海を振り返りながら言う。 「なんの。渦は一日に二回は騒ぐんだろう」 「さっきもだれかが言ってたじゃない。一度で打ちのめされて、遠い知らないところまで流されてしまう人だっているわ」  私は曖《あい》昧《まい》な動作で首を振った。 「わからない。あの頃あなたはなにを望んでいたんだ?」 「なんにも」 「そう見えたよな。じゃあ、どうして急に黙って故郷へ帰ったんだ?」  その質問に答が返るまでには、長い時間待たなければいけなかった。二分、三分、四分、五分……十分くらいも。だが、黙っていればきっと答えてくれそうな気配なので、私は智子の横顔を凝視したまま待ち続けた。 「赤ちゃんができたことがあったわ」  それはあとになって智子自身から聞かされた。彼女はそれほど強くこだわっている様子はなかったが……。 「それがいつまでも心に引っかかっていたってわけか」 「そうじゃないわ。子どもなんてべつにほしくはないし、幸福にしてあげる自信がなけりゃとても産めないわ。そのことは気にしてないの。あの時もそう言ったじゃない」 「うん?」 「ただ、あなた」  また沈黙に変じ、私は待ち続けた。 「うっかり口をすべらしたわね。同じ頃、奥さんにも赤ちゃんができて……ウフフフ、かわいい盛りでしょう? もう幼稚園かしら」  道が屈曲して正面に海が見えた。潮流はもうすっかり収まったのだろうか。  ——智子は、私が彼女と関係のあったあいだ、ずっと妻を抱かないものと考えていたのだろうか。それほど幼い判断の持ち主だったのだろうか——  私は智子の薄笑いを計りかねていた。その困惑を相手は察したらしい。 「とにかく厭だったの。奥さんとはそれなりに親しくしてらっしゃると思っていたのよ。それはかまわないんだけど、ただ、なんて言うのかしら、はっきりした形になって見えるのは……困ります」  唇をきゅっと引き締め、それから急に思い出したように、 「和歌山はあの先よ」  と、細い指をしなわせて差す。潮騒はもうすっかり聞こえない。 「うん。あそこまで流されたら、もうもとには戻れないかもしれない」  私は智子の心をたぐるように呟いた。 鳥《ちよう》瞰《かん》図《ず》  薫《かおる》のことはあまり思い出したくない。思い出すたびにかすかに苛《いら》立《だ》つものを覚える。今となっては薫が厭《いや》なのではなく、さながら四《し》六《ろく》の蝦《が》蟇《ま》がおのれの醜い姿を鏡に映して脂汗を流すように私自身の矮《わい》小《しよう》な部分が見えて来る。甘っちょろさや気弱さや、そのくせ恰《かつ》好《こう》だけはつけたがるところなどが……。  トラブルの原因は単純だ。薫に懇願されて私が金《きん》子《す》を用立てたこと、彼女がそれを返さなかったこと、それが私にとってかなり高額な金額であったこと。  それにしても金銭の貸借というのは不思議なものではないか。いったん貸してしまうと、貸したほうが弱い立場になる。なんとか返してもらおうとして、つい、つい卑屈な態度さえ取りかねない。相手は困っているのだし、「返せ、返せ」と無理に催促するのは情知らずのような気分にもなる。薫はそんな心の力学をほどよく利用した。そうとわかっていながら強い態度に出られなかった自分が歯《は》痒《がゆ》い。初めから「やるよ」と言って渡すべきお金だったのかもしれない。どの道返って来るはずはなかった。根っから悪い女じゃあるまいし。今ごろどうしているのか。もうそれほど若くはあるまい。ちょっと特徴のある体の持ち主だった……。  日時がたってしまうと、過去の出来事はみんな悪い面より良い面のほうが鮮明に思い出される。これも人間心理の一つの防衛本能だろうか。戦争中の記憶だって薔《ば》薇《ら》色の部分がなくもない。まして薫とのことは〓“おいしい〓”部分がたしかにあったのだから、できるだけ楽しく考えることにしよう。久しぶりに古都金《かな》沢《ざわ》を訪ねて私はそう思った。 「これ、犀《さい》川でしょう」  あのとき、薫は水辺まで降りて枯枝で水面を叩《たた》いていた。水はおだやかに澄んで、周辺の風景もひどく鄙《ひな》びていた。町が変われば、川もまた変《へん》貌《ぼう》してしまう。無理もない。あのときの水はもう十数年も向こうの海へ運ばれてしまったのだから。  遠い日の出来事だが、こまかい部分まできっかりと記憶に残っている。  兵《ひよう》藤《どう》さんの自伝の出版記念会が金沢で開かれたのだった。自画自賛の多い、あまり趣味のいい自伝とは言いかねたが、兵藤さんは政界に打って出る意志があって、その下工作の一つだった。パーティは盛大で、東京や大阪からも大勢の客が参加していた。  私は父が兵藤さんと親しかった縁で招かれたのだが、どちらかと言えば場違いの招待を受け、出席はしたものの終始戸惑い続けていた。薫のほうはと言えば、これはバンケット・ガール。会場のサービス係として呼ばれたのだが、なぜ東京からわざわざそうした役廻りの女を数人招いたのか、そのへんの事情まではわからない。  世話役の寺《てら》田《だ》さんと東京駅で待ち合わせ、寺田さんが連れて来たバンケット・ガールたちと一緒に合計四人で列車の一ブロックを占めることになった。悪くはない。金沢までの列車は長旅である。女たちは仕事がら気さくな質《たち》で、すぐに親しくなった。  薫のほうは小麦色の肌で、もう一人は——たしか雅《まさ》美《み》と名のったが——色白だった。黒いほうは活発で、白いほうは控え目である。寺田さんと雅美とはいくらか面識があったようだ。東京からバンケット・ガールを連れて来るように命じられ、寺田さんは知人の雅美と、それから雅美の友人である薫を頼み、彼自身も長旅には女連れのほうが楽しかろうと一続きの指定席を取った、そこへ私が便乗した、そんな事情ではなかったのだろうか。 「バンケット・ガールってなにをするんですか」  当時の私はこの職業を知らなかった。無《ぶ》躾《しつけ》な質問かもしれないが、北陸線に乗り換える頃には、気軽にこんな質問が吐けるほどくつろいでいた。 「パーティに出席してお酒を運んだり、タバコに火をつけてあげたり」 「ああ、そうか。エージェントみたいなところがあるわけか」 「そう。登録しておいて、パーティがあると狩り出されるの」 「いい仕事ですか」 「あんまりよくない」  そう答えたのは大きな眼がよく動く南方系美女の薫のほうだった。 「どうして」 「衣《い》裳《しよう》代がかかるの。昔、水商売をやってて、今は罷《や》めてるみたいな人が多いわ」 「ああ、そう」 「でも、時間はわりと自由になるから。あたし、お芝居をやっているの」 「新劇?」 「そう」 「女優さんか。どこの劇団?」 「女優ってほどじゃないわ。ほんの卵。劇団〓“扉〓”って言うの」 「聞いたことない。どんな芝居をやるの」 「いろいろよ」  聞き耳を立てて待ったが、レパートリイの名前は出なかった。  役者志望の人は大勢いるし、劇団もたくさんある。しかし商業劇団としてなんとか採算が取れているのはほんの一握りだけ。あとは赤字を覚悟で、ただ劇団員の自己満足のために公演を打っている。こうしていればいつか芽も出るだろうと、はかない可能性を頼りに芝居を続けている。当然、糊《こ》口《こう》の糧はほかに求めなければいけない。東京のスナック・バーあたりにはよくこういう劇団の〓“女優〓”がいた。薫もそんな手合いの一人、多分あまり熱心ではない、すぐに脱落する一人だろうと私は想像した。女たちは外国の細いタバコをふかしていたが、 「ねえ、これ知ってる」  ヘンテコなマッチ棒遊びを教えてくれたのもあの連中だった。 「あのね、マッチ棒を三つの山に分けるの」  マッチ箱からマッチ棒を抜き出し、七本、五本、三本の山にわける。先手後手を決め、どれかの山から好きな本数だけマッチ棒を取る。何本取ってもかまわないが、二つ以上の山に跨《またが》って取ってはいけない。こうして取り合って行って、最後の一本を取らされたほうが負けになるというゲームだった。  どこかに骨《こつ》があるらしく、何度やっても私は薫に勝てない。 「フーン、おかしいな」 「いつもは賭《か》けるのよ」 「だいぶ巻き上げられそうだ。種はどこにあるんだ?」 「降参?」 「ああ、降参だ」 「じゃあ降参賃として、おいしいものをおごって」 「いいよ。金沢へ行ったらご馳《ち》走《そう》しよう」 「金沢っておいしいものある?」 「そりゃあるだろう。まず魚がうまい」  とはいえ私は初めて訪ねる土地だったから詳しくは知らない。寺田さんがじぶ煮、かぶら鮨《ずし》、ごり料理の講釈をしてくれたが、講義の内容はあらかた忘れてしまった。いずれにせよ昨今は材料不足で本物を食う機会は滅多にないらしい。  寺田さんが手まねで鍋《なべ》の形を作りながら、 「田舎料理だけど、とてもおいしい鍋を食べさせるところがある。パーティのあとでそこへ行こう」  と、誘った。  私はともかく、寺田さんやバンケット・ガールたちは会場で物を食べるのはむつかしい。私も立食パーティの料理より鍋物のほうが魅力的だ。 「じゃあ、僕がおごってもいい」  なんとなく口約束が成立した。  そしてその約束通りに私たちは古ぼけた割《かつ》烹《ぽう》店で寄せ鍋を突ついたのだが、あれは犀川のほとりだったか、それとも浅野川の川辺だったか……もう一度訪ねようと思ってもとても見つけられそうもない。店の名も忘れてしまった。  今回の旅は加賀友禅についての資料を集めること。金沢大学の図書館を訪ねればおおむね用は足りる。あとは紹介状をいただいて工房のほうまで足を伸ばす。日程には充分にゆとりがある。と言うより一日はたっぷり町の散策がとれるようにとスケジュールを組んで東京を出て来た。  羽田から小松空港までジェット機で一時間、高速道路を三、四十分走ればもう金沢の町に着く。車の中で左手に長い青色の屋根が続くと思ったら、それが海だった。 「荒れてるね」 「いえ、今日は静かなほうですよ」  道路の両側に潮風を防ぐ遮《しや》蔽《へい》があるので海はところどころしか見えない。灰色の雲が重く垂れ籠《こ》め、日本海は相変わらず沈《ちん》鬱《うつ》な表情で広がっている。金沢は思いのほか海に近い。尾《お》山《やま》神社の神門のてっぺんでは昔、火をともして灯台の替りにしたというのだから、これはよほど海浜に近い高台でなければ無理な話だ。今はもう高層のビルも散見されるようになり、どこかの屋上に昇ったら日本海が覗《うかが》えるのだろうか。曲りくねった道、古風な呉服屋、菓子舗ののれん、金沢は雅《みや》びと田舎くささの併存する町である。  ホテルに入って荷物を置き、ネクタイだけ解いて外へ出た。  兼《けん》六《ろく》園《えん》はやめておこう。それより前回訪ねそこなった妙《みよう》立《りつ》寺《じ》へ行ってみようか。  ここは別名を忍《にん》者《じや》寺と呼び、忍者とはなんの関係もないのだが、内部の造りに忍者屋敷並みの趣向が凝らしてあると言う。予約がないと見学できないのだが、無理に頼み込んで見学の小グループに加えてもらった。 「迷子にならないよう気をつけてくださいね」  と、眼鏡をかけたおばさんが言う。  まさか迷子にはなるまいが、案内人のあとをしっかり追って行かないと見損う場所ができてしまうのは本当だろう。小さな建物だがそれほどまでに入り組んでいる。入口の陥穴は今は賽《さい》銭《せん》箱になっている。板戸は右に開ければ地下へ、左に開ければ階上へと続いている。押入れの奥にはもう一つ戸があってそこに別室への通路がある。井戸は四、五十メートルも深く掘って水《みず》涸《が》れの心配はない。その縦穴の途中には金沢城へ続く横穴があったとか。あちこちに秘密の小部屋があって、どことどことが続きあっているのか、平面図がわからない。立体図もよくつかめない。もともとは前田家の祈願所として建立された寺だが、万一のときにはもう一つの居城として敵の攻略から殿様を守る目的を帯びていた。  しかし、見学してみれば、マニアックに過ぎて実用に耐えたかどうか疑わしい。手品のからくりを見るようでおもしろいことはたしかにおもしろいのだが、敵は中に攻めこむより外から火でも放ちやしまいか。そう考えると、この寺の目的はむしろ油断なき心を育てるためのシンボルとして存在したのではあるまいか。寺町を出て車の中から街を眺めていると〓“天《てん》狗《ぐ》の肉〓”と記した看板が見えた。これは私には特別に興味深い。 「このへんは天狗が多いの?」 「さあ、どうかね、山が近いから、昔は天狗くらいいたかもしれんね」  と、白髪の運転手は答えたが、途中で私の質問の理由を理解したらしく、 「ああ、天狗の肉かね。あれは牛肉だ」 「ただの屋号ですか」 「そうだね。昔、天狗の面をさかさにして、その凹みのところで酒を飲ませた店があったんだね」 「ええ」 「下に置くと面がひっくりかえるから、お客は全部飲まないうちは盃を置けない。それで酒が早くなくなり、店は儲《もう》かったんだな。その飲み屋が肉屋になって……あちこちに支店が百軒近くあるんじゃないの」 「そうですか」  天狗の面を盃にしたのは、やはり天狗の伝説がこのあたりに広く流《る》布《ふ》していたからだろう。山塊の迫った武士の町。鞍《くら》馬《ま》山からもそう遠くはあるまい。昏《くら》い時代にはこのあたりに天狗が徘《はい》徊《かい》していたとしても不思議はあるまい。  ——なるほどね——  さほど合理的とは思えない納得が胸に込みあげて来る。またしても薫のことを思い出す。あの時もひどく唐突に天狗のことが話題にのぼった。 「運転手さん、鍋料理を食べさせる古い店、知らんですか」 「なんていう店かね。金沢にはいっぱいあるからねえ」 「名前は忘れたけど、田舎くさい、あんまりきれいな店じゃなかった」 「川のそばかな」 「うん。たしかそばだった」 「じゃあ〓“太郎〓”かなあ」 「そこへ行ってくれませんか」  六時にはまだ少し時間を残していたが、北陸の秋は暮れやすい。鍋料理と熱い地酒が恋しくなった。 「この先ですよ」  浅野川の川沿いに歩いて四、五十メートル。教えられた店は私の記憶の中にあるものとは違っていた。 「いらっしゃいませ」 「一人だけど……座敷のほうあいてます」  と、首を伸ばす。 「どうぞ」  まだ時間が早いせいか、相客はいない。  女中が入って来て、早速卓上のコンロに火を入れた。 「メニューみたいなもの、ないの」 「ええ。うちは鍋だけなんです」  注文を聞かずに火を入れたのは、そのせいとわかった。ここでは店の玄関を通り抜けた以上、もうメニューは決まっているのだ。 「じゃあ、お酒をもらおう。地酒みたいなものがあったら、それがいい」 「はい」  皿に載った白身の魚は鯛《たい》だろう。大きな蛤《はまぐり》が艶《つや》やかな貝の色を覗《のぞ》かせている。茸《きのこ》は椎《しい》茸《たけ》と榎《えのき》茸《だけ》。いつか見たしめじのような茸はない。  ——薫はどうなったかな——  もう結婚をして、そこそこにコケテッシュな人妻になっているような気がする。嘘《うそ》がうまくて、愛敬があって……体に男を引きつける特徴があって。 「どうですか」  女中が鍋の出来ぐあいを尋ねる。 「ああ、おいしい」 「そうですか。これからは鍋が一番だねえ」 「あの……天狗きのこって知らない?」 「毒茸ですかね」  そう言えば、図鑑でベニテングダケなどという毒々しい色彩の絵を見たことがある。あれの仲間ではない。テングダケとテングキノコとは別のものだ。 「あれとは違う。テングダケじゃなくてテングキノコ。このへんで採れるんじゃないの」 「聞かないねえ」  女中は立ち去り、私は独りで酒を汲《く》んだ。  あの夜も鍋料理だけだったか。それともほかに刺身のようなものがそえてあったのか。特別に印象が残っていないところをみると、多少のお造りくらいはそえてあったのだろう。  薫はあまり飲める口ではなかった。おとなしそうな雅美のほうがよく飲んだ。  鍋料理を盛りつけた皿の中に、生椎茸と重なり合うようにして灰白色の、しめじを大型にしたような茸があった。 「なに、これ?」  子どもの頃に新潟で茸採りをしたことがあるけれど、こんな茸は見た覚えがない。しめじにしては傘が大き過ぎる。色も濃い。しめじは何本も塊状になって密生していることが多いが、これは一本一本独立して育ったような——言い替えれば、けっして仲間と一塊になってもたれあったりしない、そんな整った形である。 「なんかねえ。このへんで採れる茸かなあ」  中年の女中はかすかに訛《なま》りがあったが、それが金沢の訛りかどうかはわからなかった。 「しめじとも少し違うし」 「天狗きのこかもしれんねえ」  初めて聞く名前だった。茎は天狗の鼻、傘はその顔に見えないでもない。 「めずらしい。これが天狗の顔か」  食べてみると歯ごたえがあり、山の香りが口の中に脹《ふくら》んでとてもおいしい。 「うまい」  薫も箸《はし》を伸ばし、 「本当。おいしいわ」  と、言う。 「これが天狗の鼻か」  目の高さに茸を置いて眺めていると、女中が、 「天狗きのこは、食べるとどんどん高いところに登りたくなるんですって」  と、笑いながら呟《つぶや》いた。 「本当かいな」 「そう。酒に酔ったようないい気持ちになってしもうて、本人も知らないうちに木のてっぺんにまで登ってしまい、翌日降りられなくなって、木の上で〓“助けてくれ〓”って、そう叫ぶんですって……」 「なるほど。形を言ったんじゃないんだな。天狗に攫《さら》われたみたいになるから、それで天狗きのこか」 「そうかもしれんねえ」 「これがそうなの」  薫が心配そうに鍋の中を覗き込む。 「違いましょうて。そんな茸をお客さんに食べさせたら大《おお》事《ごと》だ。安心して食べなされ」 「でも笑い茸って本当にあるんでしょ」 「あれはあるらしい。昔、僕が病院に入院していた頃にサ、裏の林で鼠《ねずみ》茸《たけ》が採れたんだ。珊《さん》瑚《ご》樹《じゆ》みたいなやつ。先っぽが鼠の手みたいだからそう呼ぶんだ」 「ええ」 「それを煮て食べたらおいしくてねえ」 「平気なの?」 「もちろん平気だった。ただほかのやつに採られると損だから、一人笑ったやつがいたことにして……」 「盗まれないように?」 「そう。案外昔の笑い茸もそういう知恵だったかもしれないぞ。他のやつに採られないための……」  パーティの後片づけのために遅れていた寺田さんが入って来たのは、このあたりだったろう。 「お先に食べてましたよ」 「どうもすみません、遅くなっちゃって」  ビールを飲み干すのを見てから、 「天狗きのこって知っている?」  と、尋ねてみた。 「いや、知らない」 「これを食べると高いところへ登りたがるんだそうだ」 「僕は高所恐怖症のほうだから」 「でも無意識で登ってしまうんだから高所恐怖症は関係ないさ」 「やばいなあ、それは」 「しかし、うまいぞ」 「食べたんですか」 「うん」 「これがそうなんですか」 「アハハ、心配ないよ。毒のものなんか食べさせるわけがない」  寺田さんが匂《にお》いを嗅《か》ぎながら口に含むのを二人の女が薄く笑いながら覗き込んでいた。  鍋料理で満腹し、香《こう》林《りん》坊《ぼう》のあたりのバーでほんの一ぱいだけ水割りを飲んでホテルへ帰った。 「お休みなさい」 「お休み。明日は九時頃までには朝食をとってくださいよ」 「出発は?」 「あなたがたは十時」 「それまで寝ていたい」 「それは好き好きだな」  寺田さんと女たちのそんな会話を背中で聞きながら私は部屋へ帰った。  地酒がよく廻っている。ベッドに寝転がると、たちまち眠気に襲われた。  ——風《ふ》呂《ろ》に入ることもあるまい——  そのままズボンやワイシャツをベッド・サイドに投げ捨て、浴衣《 ゆ か た》を羽織って帯も捜さずに眠ってしまった。  ところが、なまじ早々と寝入ってしまったので妙な時間に目を醒《さ》ました。  四時四十三分。  眠ろうとして目を閉じても今度はいっこうに眠りがやって来ない。気分は苛《いら》立《だ》つし、酔いのしこりも体のあちこちに残っている。〓“ままよ〓”とばかり起き上ってバスに湯を入れて浸ると、体のしこりは取れたが目はすっかり醒めてしまった。  五時二十七分。  洋服に着替えて部屋を出た。  ——どこへ行こうか——  なにも当てなんかありゃしない。金沢の町がどういう構造になっているか、それもよく知らなかった。道はやたらに曲りくねっているような印象だったし、兼六園や金沢城跡はどっちのほうにあるのか。  とりあえず屋上に出て、町の鳥《ちよう》瞰《かん》図《ず》を眺めてみることにした。  涼気はあったが寒いというほどの気候ではなかった。  町はまだ眠っている。ホテルは明らかに町の中心部にあるのだが、眼の下には仕《し》舞《もた》屋《や》風の瓦屋根の家がいっぱい集まっている。ビルの数は極端に少ない。  東南の方向に山が連なり、北国特有の黒く、重い雲が、かすかに朝の光を受けて輪郭だけを朱色に染めている。すぐ近くに見える緑の一帯が城跡と兼六園らしく思えた。  背後でドアの揺れる音がした。  振り向くと、セーターを着た薫が立っている。 「どうしたんだ?」 「目が醒めちゃった。コーヒーでも飲めないかしら」 「そんなもの、この時間にありっこない」  頬《ほお》をさすりながら近づいて来て、女も町を見おろした。 「古いお家ばっかりね」 「城下町だからな。仙《せん》台《だい》と似た町かと思ってたけど、少し違うな。仙台のほうが開けている」 「言葉なんか京都に似てるじゃない」 「京都は近いから。だいたい裏日本は東京より京都のほうが近い。距離は遠くても山が途中にないから」 「あれがなんとか公園?」 「多分。兼六園だろ」 「ウフフフ」 「どうした?」 「天狗きのこって本当みたい」 「どうして?」 「二人とも高いところへ登って来たじゃない」 「なるほど」  しばらく話すうちに体が冷えて来た。湯あがりで風に吹かれては、体にいいこともあるまい。薫も、 「寒い」  と、言う。  肩を寄せ合うようにしてエレベーターへ戻った。 「まだ眠れそうもないわ」 「じゃあ、僕の部屋へ寄って行かないか。最《も》中《なか》とポケット・ウイスキーくらいある」  軽く誘ってみたのだが、薫は、 「甘いもの食べたい。それからお茶と……」  私の手を取り、先に立つようにして私の部屋の階でおりた。  部屋にはお茶を飲める程度の用意はしてあった。おみやげのつもりで買った最中は薫の好みにあったらしい。  薫は最中を頬張りながらベッドの上に体を横たえた。 「ここで眠ってもいい」 「ああ」  私もその隣に身を伸ばした。  体を重ねるまでにそう時間はかからなかった。小麦色の肌は、その色《いろ》艶《つや》と同じように弾力に富んでいた。濡れそぼる部分のどこかに、多分かすかな奇形なのだろう、小さな突起のようなものがあって抽《ちゆう》送《そう》のたびに独特の刺激を伝える。その感触が微妙に心地よい。遠のいていく感覚の中で、  ——なんだろう。よくあることなのかな——  と、考えた。  薫が帰ったのは、ホテルが生気を取り戻してからだったろう。私は二度目の眠りの中にあって知らなかった。  寺田さんは他のバンケット・ガールたちと能《の》登《と》に向かい、私は別行動で昼近くにホテルを出て新《にい》潟《がた》へ向かった。  車窓から見る旧都は相変わらず古風で、つつましやかであった。  ——しかし、この町でも男と女が暮らしている。どんな華やかな愛が繰り広げられているかわからない——  などと、私はいつまでも昨夜の感興を胸に呼び起こしていた。  東京に戻り、あのあと薫と何回会ったか正確に思い出すことはできない。確実に覚えているのは、金沢の夜を除いて三度抱き合っていることだ。  三度という数が微妙に気がかりだ。  彼女はだれに対してもそういう数に留めるようにしていたのだろうか、そんな気がしないでもない。偶然そうであったと言うより作意があったように思えて仕方がない。  薫は金沢から帰って間もなくバンケット・ガールを罷《や》めて銀座のクラブに勤めるようになった。劇団〓“扉〓”はどういう芝居をやっていたのか知らないが、劇団員の義務として売りさばかなければいけない切符を、彼女はサッパリ売ることができず、その支払いがかなりの金額に達していた。新しい職場では衣裳代がかかるし、お客のつけの立て替えもしなければいけない。そのほか当座の生活費やら別口の借金やら、夜も眠れないほどお金の工面で悩まされている、と私に告げた。  薫の話をそのまま信じたわけではなかったが、困っているのは真実のようであった。  おびえた眼《まな》差《ざ》しで、 「お願い、一か月だけでいいの」  と、哀願する。 「あげるわけにはいかないよ」 「もちろんよ」 「じゃあ」  迷いながらも首が先に頷《うなず》いてしまった。  予期した通り約束の日が来てもお金は返って来なかった。初めのうちこそ、 「ごめんなさい。ちょっと手違いがあったの。あと一週間だけ待ってほしいの。ううん、心配なんか少しもないのよ」 「わるいわ。今月の末にはばっちりお給料が入るじゃない、そしたら、ね」 「会わせる顔がないの。まるで嘘をついたと同じですものね。でも、大丈夫、当てがあるの。明後日、お会いしたいわ」  と、申し開きを次々に並べていたが、ついにはそれも言わなくなった。  こうなるとお金を返してもらおうとするほうが、みじめな心境になる。いや、むこうだって本当はみじめな気持ちなのだろうが、それはみずから選んだ道だ。こちらはただひたすら受身の立場に立たされ、自分の甘っちょろさや腑《ふ》甲《が》斐《い》なさに苛立つばかりだ。精神的にも実質的にも損害はこちらのほうがはるかに大きい。交渉が長びけば長びくほど滅入ってしまう。  ——仕方ない、あきらめよう——  結論はそれしかなかった。だれかに話したら、 「体の関係があったんだから、仕方ないだろう」  と、笑われるだろう。それもわかっている。金額の大小は——つまり数回の情事がその金額にふさわしいかどうかは、主観の問題だ。どの程度までが適当かといった基準はあるまい。  ——初めからそのつもりだったのかな——  これまでに何度か考えた疑問を心に繰り返すうちに一人でつつく卓上の鍋は終わりになっていた。 〓“太郎〓”の寄せ鍋は、私にはいくぶん塩味が濃いようだ。それを除けば、魚も肉も野菜もすべて申し分ない。  この夜も車を香林坊まで走らせ、酒場を二つ、三つ廻った。城下町は堅気の町だ。盛り場さえもどこかうら寂しい。ともすれば喧《けん》噪《そう》のさなかに「もう寝る時間ですよ」と、歓楽を閉じる気配が漂う。それに逆らってしたたかに飲み続け深夜を過ぎてホテルに戻った。  だが、脳味噌のどこかにもう一度朝早く屋上に昇ってみようと、そんな意志があったのだろう。五時過ぎに目を開いた。  屋上へのドアは鍵が掛っている。  最上階のラウンジ脇《わき》の窓から町を見た。町の様子は以前とたしかに変わっていたが、黒い瓦屋根が多いのはやはりこの町独特のものだろう。  ——天狗きのこか——  あのときはすっかり〓“もてた〓”つもりでいたけれど〓“思いあがるな〓”という教訓だったのかもしれない。〓“天狗きのこを食べて天狗になった〓”と考えるのは、比《ひ》喩《ゆ》が直《ちよく》截《せつ》に過ぎるだろうか。  ——不思議な体の女だった——  それを思わずにはいられない。隧《すい》道《どう》の中の小さな突起。体を重ねるたびにその存在を訝《いぶか》った。極度に淫《いん》靡《び》な関心にはちがいないのだが、むしろ科学的と言ってよいほどの興味が私の心をくすぐる。ほかにも金を融通した男はいただろう。その男たちも小さな突起に魅入られていたのかどうか。彼女はその特徴を自覚していたのだろうか。  わからない。  その特徴が彼女を幸福にしたかどうかも……。  背後でドアが開いた。 「お早うございます」  早番のウエイトレスが挨《あい》拶《さつ》をして通り過ぎた。生《き》真《ま》面《じ》目《め》な表情の娘である。しかし、心の襞《ひだ》や体の襞まではわからない。  城下町は黒い瓦屋根を連ね、まだしっかりとは目醒めてはいなかった。 分《ぶん》水《すい》嶺《れい》  列車の中でまどろんで、おもしろい夢を見た。  浅い居《い》睡《ねむ》りだったから、かすかに意識の醒《さ》めている部分があったのだろう。夢の中で〓“これは小説になるぞ〓”と思って歓喜した。  実際にはこうして得たアイデアが小説の題材になることは極度にめずらしい。目醒めておおいに落胆する。  しかし、夢の中では喜怒哀楽の感情が一オクターブくらい高く増幅されるから、欣《きん》喜《き》雀《じやく》躍《やく》した記憶だけは心のどこかに残っていて、しばらくは〓“はて、今日はなにかいいことがあったはずだが〓”と考えたりする。そして、またもう一度がっかりする。  この日の夢も例外ではなかった。  列車と言うのは伯《はく》備《び》線。岡《おか》山《やま》から出雲《 い ず も》市へ向かう途中だった。伯備線に乗るのはこれが初めてではない。十数年も前に山陰のほうから山陽へ向けて走ったことがある。あのときは糸《いと》子《こ》と一緒だった。列車の進む方向と反対に川が流れ、いつのまにか同じ方向へ変わるのがこの路線の特徴だ。糸子はそれがおもしろいと言って窓の外ばかり眺めていた。  今日は変わって向かいの席に同行の田《た》島《じま》保《やす》子《こ》がすわっている。PR誌の仕事で出雲大社まで取材に行く途中である。保子は案内役をかねたモデルで、社《やしろ》の前で写真を撮る予定になっていた。正面から見ると、下っぷくれの古典的な容《よう》貌《ぼう》だが、ちょっと角度をつけてななめから眺めれば、眼も大きいし、鼻も高いし、当世風のいくらかバタ臭《くさ》い表情になる。 「結構巫《み》女《こ》姿も絵になるかもしれないぞ」  などと、車中で私は彼女の容貌を分析してからかった。  保子とは三度目の旅なので気心は充分に知れている。  新《にい》見《み》を過ぎて間もなく保子が先に居睡りを始めた。それに誘われて私もとろとろと眠りかけた。車中の眠りはカクン、カクンと顎《あご》が弾んで心地よい。  背後の席から二色の男の声が聞こえる。二人は車中で知り合った仲らしい。ゴルフ談義をしていたが、いつのまにかソフト・ウエアがどうの、コボルがどうのと話題がコンピュータに変わっている。どちらかが専門の技師なのだろう。当節のサラリーマンはゴルフとコンピュータの話くらいできなくては様にならない。 「本社にはしばらくお戻りにならないんですか」 「ええ、そりゃやっぱり一、二年は……」 「出雲でどんな仕事をされるんですか」  このへんから私の聴覚も急速に夢の領域へ踏み込んだのではあるまいか。 「出雲大社に勤めるんですよ」 「だって神社で、なんでコンピュータの技師さんが必要なんですか」 「それが必要なんですねえ、この頃は」  見えない男がにんまりと笑う表情まではっきりと見たのだから、もう明らかに夢の中だ。 「そんなものですかな」 「なにしろ出雲大社は縁結びの神社ですからね。日本全国の男女を登録しなきゃいかんでしょう。一千万人いるか、二千万人いるか」 「なるほど」  相手は深く頷《うなず》く。毛皮の耳当てを頭上に折り上げた帽子をまぶかにかぶり、顔の色は赤茶けている。ローカル線に乗れば、きっと見られる顔立ちの男だ。 「昔は手仕事でやっていましたが、今はもうコンピュータですよ、縁結びのほうも」 「はあ」 「年齢、性格、学歴、職業、体格、容姿、収入、財産、人生観、趣味、みんな入力しておきましてね、どの男とどの女がほどよい縁か組み合わせるわけですね」 「テレビでやってますな。集団テレビ見合いとか言って」 「あんなちゃちなのとは比較になりませんよ。対象は日本全国の独身者ですからね。調査事項だって一人につき何千とある」 「そうやって出雲の神様が一番いい相手を選んでめぐりあわせてくれるわけですかねえ、この頃じゃ」 「まあ、そんなとこですね」 「そのわりには、いい結婚が少ないのと違いますか」 「そこですよ。出雲大社のコンピュータにはなにも独身者たちの情報だけが入力されているわけじゃない。神様たちの考え方というのかな、もっと大所高所に立った判断も入力されているんですよ」 「はあ」  赤茶顔の男はわからない。 「たとえば世間には、他人の結婚がうまくいってないほうが身入りがよろしいという職業もありますわ。弁護士、人生相談の回答者、占い師、精神科医、小説家だって不幸な結婚をしている人を読者にしている人はたくさんいますよ。芝居も映画も、それから酒場だって不幸な結婚と関係がある。どこの家のドアを叩《たた》いても、みんな幸福な結婚だけだったら、社会の様子はだいぶ変わってくるんじゃないですか。サラリーマンだって早く家に帰ろうとして、一生懸命仕事をしなくなりますよ。社会的にりっぱな仕事をした人の中には、悪妻を持つ人が多いと、これ、ご存知じゃないですか」 「ええ、聞いたことはありますけど」  いつのまにか聞き手は私自身に変わっている。技師の頭は前後左右に脹《ふく》れあがった才《さい》槌《づち》頭《あたま》で、いかにも中に脳《のう》味《み》噌《そ》がいっぱい詰まっているようだ。  ——ああ、こいつは藤《ふじ》川《かわ》だな——  と、私は高校時代にべらぼうに数学のよくできた男の名を思い出した。 「だからと言って、どの結婚もみんな不幸ではこれもまたうまくない。幸福な結婚と不幸な結婚との比率をどの程度にするか、この係数をKで表わし、これを年ごとの景気不景気、世界情勢などを勘案して、いくつにするか、それがむつかしいところなんだな」 「だいたいKはいくつなんだ、今年あたりは?」  技師の顔が藤川になったとたん、会話は急にぞんざいな学生言葉になった。 「今日現在で〇・八四六二五九だ」 「よくわからん」 「幸福な結婚一に対して、不幸な結婚がこれくらいある」 「質的な問題は関係ないのか。同じ不幸でもどえらい不幸と、ちょっとだけ不幸とがある」 「もちろんだ。だから積分値で捕らえてKを決めている。このへんは文科の頭にいくら説明してもわからんよ」 「それは言えるな。いずれにせよ演算はだいぶややこしそうだな」 「いや、基本的には一本の公式だ。これだよ」  藤川は駅弁の包み紙の裏に十五文字ほどの数式を書いて私の前に突き出した。Σ《シグマ》の記号があったような気がする。KとXとYとが朱色の文字で浮き出している。 「Xに男の名、Yに女の名をそれぞれ数値化して代入する。Kを決定して、あとは今日の日時を入れればコンピュータが演算してくれる」 「オレの場合はどうだ?」 「うん、奥さんの名前を教えてくれ」  藤川はすぐに私の名と妻の名を数値化したらしく、公式の中に代入し、計算を始めた。  藤川の頭の中がピッ、ピッ、ピッと金属的な音をあげる。脳味噌がすでにコンピュータに同化しているのがわかった。 「駄目だな」 「どうして」 「奥さんとはすでに結婚しているんだろ」 「当たり前だ」 「じゃあ、この公式じゃ出せない」 「嘘《うそ》をつけ。答は出たんだろ」 「いや、出ない」  藤川は鼻に小《こ》皺《じわ》を作って笑っている。どうやらよくない答が出たので黙っているらしい、私はそう想像した。  ——結婚が不幸でもよい小説が書ければいいじゃないか。今の程度の不幸なら充分堪えられそうだし……家庭が不幸のほうがよい仕事ができるって本当かもしれんぞ——  などと、私は相変わらず夢の中で小説の材料を見つけたと信じて悦に入っていたらしい。  まどろんだ時間は思いのほか短かった。ほんの十分くらいのものだったろう。  夢は時間を追うようにして順次情報を脳裏に映し出してくれるものではない。万《まん》華《げ》鏡《きよう》かなにかのようにいっぺんにさまざまな情報を映して、瞬間的に会得させる方法を採るのではあるまいか。  背後の席の男たちがいつの間にか私自身と藤川とに変わり、ずいぶん長い、饒舌な会話を交わしたように記したが、目醒めた直後の感触は、そうした時間的に推移のある出来事を夢に見たのではなく、すべてが重なり合い、ジグソー・パズルのように複雑な断片を示し、それを私が取捨選択して取り出し、時間を追い順序立てて認識したような印象だった。  ガクンと列車が揺れる。  保子も目を開き、恥ずかしそうに微《ほほ》笑《え》みかけた。 「こっちはまだ本物の冬なのね」  山陽地方では風の匂《にお》いも春めいて、わずかに日陰の山肌にのみ残雪を見る程度だったが、分《ぶん》水《すい》嶺《れい》を越えると窓の外は隈なく白の支配する領域となった。  雲は重い。そして低い。  伯《ほう》耆《き》大《だい》山《せん》は今日も姿を見せてはくれないだろう。 「この線は初めてですか」  保子が尋ねたのは、私があまり熱心に窓の外を眺めていたからだろう。 「いや、十何年か前にも乗っている。その時も若い女性と一緒だった」 「ああ」  と、甲《かん》高《だか》く言ってから、 「いいお話ですね」 「あまりいい話でもない。振られて帰る傷心の旅だった」 「それもいい話じゃないですか。思い出になってしまえば」  若いくせに保子は聞いたような台詞《 せ り ふ》を言う。そんな言いかたもこの人には似つかわしい。それになにを言っても、眼と眼の間隔が離れていて憎めない顔立ちだ。 「そうかもしらん」  私は頭の中で指を折る。  もう十四年もたってしまったのか。糸子との短い旅のくさぐさが心に帰って来る。とりわけ松《まつ》江《え》のホテルであった些《さ》細《さい》な出来事が……。  あの時も仕事の旅だった。同行者が数人いた。しかし私は一人勝手に糸子と二人だけで旅に出たような気分になって無邪気にはしゃいでいた。  保子がハンドバッグの中のパンフレットを取って、 「出雲大社って縁結びの神様ですよねえ」 「うん。日本中の若い男と若い女の名簿を作って、この男とこの女、あの男とあの女、そんなふうに運命を組み合わせて決めるんだな」 「私の名前も名簿にちゃんと載っているのかしら」 「そりゃ、一応は載っているだろう。しかし、神様も忙しいからな。来年まわし、再来年まわしになるケースも相当にある」 「厭《いや》だなあ。もう二十九になるんですよ」 「いいじゃないか。急ぐことはない。一生に一つ、いいのにめぐりあえばいいんだ」 「でも結婚って意外とむつかしそうですね。いい結婚をするか、悪い結婚をするかで一生がずいぶん違うわけでしょ、特に女の人は」 「男だって同じだよ」 「そんな大事なことを結局は勘みたいなものだけを頼りにして決めちゃうんですもンね。普通どうやって決めるんですか」 「うーん、どうやって決めたかなあ。惚《ほ》れてしまえばわけないんじゃないの」 「ええ。でも、あれも才能なんですよね。惚れる才能のある人と、あんまり惚れる才能に恵まれない人と……。私、駄目みたい」 「神様の悪《いた》戯《ずら》みたいなものが関与する部分もあるんだなあ」 「はあ?」 「たとえばちょっと親しい相手と初めてのデートなんかをするだろ」 「ええ」  私はなかば冗談でも言うような気分で話し始めたのだが、保子のほうは真顔で聞き耳を立てる。 「映画館へ入れば、隣の席で子連れのお客がパリパリ無遠慮に音をあげてせんべいなんか食べている。どうも気分が盛りあがらない。レストランへ行けば、ボーイがひどく突《つつ》慳《けん》貪《どん》でいらいらさせられちゃう。公園を散歩すればどうした風の加減かバキューム・カーの悪臭が匂《にお》って来る。いっこうに楽しいデートにならない。おかげでもう二度と会う気がしなくなる。もし一回目のデートがうまく運んでいたら、きっといい恋仲になったかもしれない二人が、こんな神様の悪戯のおかげで永遠に別れ別れになってしまう。あるんだよな」 「体験談ですか」 「なにもかも簡単に体験談と考えるのは、よくない趣味だ」 「はい、気をつけます」 「この反対のケースもあるよな、当然。本来ならそれほど親しくなるべき性格の二人じゃなかったのに、初めてのデートがついていた。ドライブをしたらその日に限って道路がすいていて、つい遠出をしてしまう。海辺のレストランは、ほかに客もいないしムードは最高だし、そのうえ夕日がとてつもなくきれいな風景を作って海へ落ちて行く。音楽も二人が好きな曲が次々に鳴る。帰りを惜しんでいるうちに夜が更け、さあ、大変。それで大急ぎで車を走らせていたら、道路の事故で渋滞。裏道を取ると、ムード満点のホテルがふっとフロント・ガラスの中に浮かんじゃって……一夜のうちに決定的に仲よくなってしまうわけ。これほど極端な例はめずらしいだろうけれど、なんかこんなことってあるような気がするなあ」 「それでうかうか結婚したりすると悲劇ですわね」 「うん。結婚して一、二か月たつと狐《きつね》つきが落ちたみたいにポカンとして〓“どうしてこの人だったのかしら〓”〓“俺《おれ》、本当にこのタイプが好きだったのかなあ〓”と、びっくりする」 「厭だなあ、なんだか私、それをやりそうな予感がする」  保子は首をすくめて笑った。 「世の中にはいくらか不幸な結婚があったほうがいいんだよ」 「どうしてですか」 「まず幸福な結婚をした夫婦が〓“ああ、俺たちは幸福なんだ〓”と、しみじみ実感することができる。幸福でも不幸でもない、普通の結婚をした連中が〓“私たちはあれほど不幸じゃない〓”と思って勇気づけられる。身上相談の記事を愛読するのと同じ心境だ。それに不幸な結婚がなければ、弁護士、占い師、ホステスの仕事が大幅に減ってしまう。ゴルフ場だってパチンコ屋だって経営が苦しくなるんじゃないのかな。家庭生活がうまくいっていないために、そのリアクションとして存在している人間の営みって案外多いんじゃないのかな。早い話、世の中に幸福な結婚ばかりしかないのなら出雲大社に参拝する人だって激減すると思うし、俺たちも取材になんか行かないな」  私は自分で話しながら、心の中に不思議な戸惑いを覚えていた。  今こうして保子に話している内容は、ほんの少し前、夢の中で見たことの受け売りだ。もしあんな夢を見なかったら、こんな話をしゃべりゃしなかっただろう。  しかし、夢というものは、本来はやっぱり私自身の脳味噌が考えたことのはずだ。  とすれば、私は日頃から〓“世の中には多少は不幸な結婚があったほうがいい。弁護士や占い師は不幸な結婚のおかげで収入を得ているところもある〓”などなどと、一連の屁《へ》理《り》屈《くつ》めいたものを心に抱いていて、それが夢の中に現われた、と考えるのが正当だろう。  ところが、私は今までそれほど明確にそんな屁理屈を脳裏に廻らした覚えがない。もちろんだれかに語った記憶もない。  となると、私の頭の中には、私のよく知っている脳味噌のほかに、もう一つ、陰に隠れて目立たない思考を続けている小さな異分子的脳味噌がいるのではないか。  私はとりたてて不幸な結婚をしたつもりはないけれど、これは主流派の脳味噌の判断であり、小さな脳味噌は、  ——もっといい結婚があったんじゃないですか。ま、しかし、悪い結婚も結構プラスの面もありますからね。仕事に打ち込めるのはそのせいですよ——  と、つね日頃から考えていたのかもしれない。小《こ》賢《ざか》しい奴《やつ》だ。 「出雲大社は不幸な結婚のおかげで賽《さい》銭《せん》を集めている」 「厭だあ。真《ま》面《じ》目《め》な話かと思ったら」 「いや、真面目な話だよ」 「そうなんですか」 「小説家だって、恋愛や結婚の話はしょっちゅうテーマにするだろ。世の中に幸福な結婚ばかりだったら商売あがったりだ。みんなが潜在的に男女の仲はうまくいかないものだって、そう考えているから小説の需要があるんじゃないのかなあ。そうでない小説もあるけど、少なめに見ても三分の一の小説はそうだな」 「本当ですね」  保子は釈然としない様子を示しながらも相《あい》槌《づち》だけは打った。  列車は山嶺を抜け、米《よな》子《ご》平野に入っていた。山陰の風景はやはり山陽に比べて暗く、もの悲しく映る。  なぜ瀬戸内海に面するほうが〓“陽〓”で、日本海に面するほうが〓“陰〓”なのか。まさか分水嶺の陰になって山陰地方には日が当たらないというわけではあるまいし。さぞかし鳥取・島根地方に住む人にとっては不愉快な命名にちがいあるまい。〓“いわれなき差別〓”ではないのかな——と、かねてから私は思っていたのだが、現実に列車が山陰線に入ると、そこはやはり山陽とは異なった沈《ちん》鬱《うつ》な風情が漂っている。太陽はやはり山の向こうの国には少ない光しか与えないのだろうか。線路沿いの畑にはまだ厚い雪が残っている。 「もうすぐ米子ですね」 「米子から出雲市まではどれくらいかかるんだったっけ」  保子が時間表を取り出し、目をすぼめるようにして眺める。こんなときには目《め》尻《じり》に少し小皺が寄り、  ——ああ、この人もそれほど若くはないんだったなあ——  と、実感する。  よい仕事を持っているならば、なにも無理に急いで結婚する必要もあるまい。私の見たところ、人間の中には結婚に向かない人というのも相当数いるようだ。目の前にいる保子がそうだと言うのではない。そう断言できるほど、私は保子の人となりを知ってはいない。  世間は人が年ごろになれば、みんな配偶者を持つものだと考えている。そのあたりに間違いの基がある。  とりわけ女の人は大変だ。しかるべき年齢になると、 「もうボツボツですね。お決まりなんでしょ。まだ? 嘘ばっかり」  さながらトイレの外から戸を叩《たた》かれるようにせかされる。たまったものじゃない。 「ちょうど一時間ですね。十三時二十分に着きます。駅前にハイヤーが迎えに来ているはずですから」 「食事をしておいたほうがいいかな」 「食堂は混んでると思いますけど」 「駅弁が食べたい、米子に売ってるだろう」 「じゃあ買って来ます」  うなぎ弁当を食べているうちに列車は松江を過ぎる。宍道《 し ん じ》湖の水は濁っていて、噂《うわさ》に聞いた美しさをうかがうことはできない。  出雲市駅で降りて、そのまま出雲大社へ直行。神官と巫《み》女《こ》と、それから近くこの神社で結婚式を挙げるカップル二組に会って話を聞いた。  先に出雲に来ていたカメラマンが、古式の森と社を背景に保子をモデルにして写真を撮った。モデルを兼ねる編集者というのはめずらしい。たいていの編集者は器量のほうが及ばない。保子の場合はモデルが本業で、編集者のほうは三十以後の職業として、かな。少なくとも目下のところは経費の節減に役立つ稀《け》有《う》の編集者であることはまちがいない。  私自身も現地に足を踏み入れた証拠として四、五枚写真を撮られた。山陰の旅情と結婚の総本山の様子とを合わせて紹介するのが、今回の旅の目的である。  松江のホテルIに入ったのは、午後の七時頃だったろう。  十四年前に泊まったのもこのホテルだった。内装は少し変わっていたが、ホテルの位置とロビイの様子に遠い記憶がある。  部屋のドアの前に立ち鍵《かぎ》をあけるとき、私はドアの上辺にある覗《のぞ》き穴に目を寄せてみた。部屋の中が暗いので、なにも見えない。  この覗き穴には——ご存知のこととは思うけれど——特殊なレンズが嵌《は》め込んであって、部屋の中からドアの外に立つ人が見える仕掛けになっている。しかし、外からはただ部屋の中の明るさくらいがぼんやり見えるだけだ。昨今の新しいホテルなどでは、部屋の中のほうに、さらに遮《しや》蔽《へい》の蓋《ふた》をつけ、室内の明るささえも確かめられないようになっている。  ホテルIの覗き穴は、まだ蓋をつけるまでには改良されてはいなかった。昔のままに特殊なレンズが仕掛けてあるだけだった。  ——もしこんな覗き窓がなかったら——  と、私は思案する。  ——もしこの覗き窓に内側から蓋がついていたら——  と、私は考える。  人生には、いつだってこうした仮定の問題がつきまとうものだが、このホテルIに戻って来たとなると、私はやはりそのことを思ってなにがしかの感慨を抱かずにはいられない。  あの頃、私は大学を卒業して、あるテレビ局の臨時職員となり、プロデューサーの助手みたいな仕事をやっていた。  糸子はフリーのアナウンサー。私の関係する番組で、司会者の手助けをやったり、CM商品の紹介などをやっていた。根っからの東京っ子らしく歯切れがよく、明るい印象だった。スタジオでは、みんなが〓“糸公、糸公〓“と呼んで親しんでいた。 〓“糸公〓”と言われると、私は漱《そう》石《せき》の〓“虞《ぐ》美《び》人《じん》草《そう》〓”に登場する女を思い出してしまう。ヒロインの〓“藤《ふじ》尾《お》〓”ではない。バイプレヤーといった役どころだが、ヒロインを食うほどに印象的な登場人物だ。清《せい》楚《そ》な面《おも》差《ざ》しで、このうえなく無邪気で心根が優しい。  テレビ局の糸公も、小説の中の糸公とどこか似通っているような顔立ちで——漱石がどう表現していたかいちいち細かいところまで記憶していたはずもないのだが、たぶん色白で、細《ほそ》面《おもて》で、造作は穏やかで、いくらか朱色を帯びた口紅などが似合いそうな女と私は勝手に想像し、スタジオで顔を合わせる糸子もそんな感じだったので、  ——ちょっと古風な、温和な人柄だな——  と、毎日の出会いを楽しんでいた。  糸子は気さくな性格だから、コーヒーにでも誘えばいつでもついて来る。映画の試写を見に行ったり、飲み屋へ行ったり、私たちはその時代の若い男女が親しむように親しんでいた。  男と女はいつから恋人になるものなのか。  そんなことをいちいち考える恋は、もうすでに不毛への道を歩み始めているのかもしれない。うまく運ぶときは、おたがいにそんな疑問を抱くひまもなく、いつのまにか〓“恋人同士〓”であることを自覚しているのだから。  もし男と女のあいだに、〓“職場の仲間〓”から〓“恋人と名乗りうる仲〓”へと変《へん》貌《ぼう》する、ある一線があるとするならば、私と糸子との関係もどうやらその時期に近づいているらしい、と、相手はどうかわからない、少なくとも私が感じている頃に、私たちはロケーションのために山陰へ旅をしたのだった。  特別な旅であろうはずもない。数人の仲間たちと行く仕事の旅だった。だが、とにかく糸子と遠出をするのは初めてだった。なにかが起こりそうな予感を漠然と持っていた。  列車に乗ったとき、糸子が当然のように近づいて来て、私の隣の席を取った。その行動が彼女の側の意志を私に伝えているように思えてならない。私はさぞかし有《う》頂《ちよう》天《てん》だったろう。海の潮が満ちて来るような、不思議な高鳴りを今でも鮮明に思い出すことができる。  ホテルIに着いたのは午後四時過ぎ。いったんそれぞれの部屋へ入って休息を取り、六時に一階ロビイに集合して夜の松江城の撮影に向かう手はずだった。  糸子と私は同じ階の部屋だった。  エレベーターで昇り、ドアの前で、 「六時少し前に声をかけるよ」 「ええ。でも先にロビイに行っているかもしれないわよ」  私は風《ふ》呂《ろ》に入って一休みし、六時少し前に約束通り糸子の部屋のドアをノックした。  返事はない。ノブを廻したが動かない。  ——先に行ったんだな——  私はエレベーターのほうへ動きかけたが、自分でも理由のよくわからない衝動にかられ、ヒョイと覗き穴に目を寄せてみた。  中が見えるはずもない。見えないように作ってあるのだから。  だが、部屋の明るさくらいはレンズを通して見える。  たしかにその時もボッと白いものが——おそらく窓の白さが——窺《うかが》えた。  ところが次の瞬間、その白い視野を黒いものがスッと横切った。  ——動くものが部屋の中にいる——  私は咄《とつ》嗟《さ》に〓“泥棒!〓”と言おうとしたが、かろうじて声を飲んだ。  泥棒とはかぎらない。軽率に叫んでは取り返しのつかないことになる。二、三分覗き穴に眼を寄せていたが、もう部屋の中にはなんの変化も起こらなかった。  一階のロビイへ降りると、案の定、糸子は先に降りていた。他の仲間もみんな揃《そろ》っていた。  糸子の様子は屈託なく、いつもと少しも変わりがなかった。  仕事が終わるとすぐに糸子は、 「疲れたから今日は失礼します」  と、旅先の酒宴にも加わらずにホテルへ帰ってしまった。  もとより〓“泥棒に入られた〓”という報告はなかった。  私にも少しずつわかって来た。  ——あの黒い影は、男の洋服だった——  おそらくこの判断に間違いはあるまい。  糸子は仕事の旅先に、だれか親しい人を呼び寄せて秘かに会った。それがだれか。どうしてそんな会いかたをしなければならなかったのか、私にわかろうはずもない。  男は、糸子が部屋を出たあと、すぐにノックの音が聞こえたので、ついうっかり——糸子が戻って来たのかと思って——ドアに近づいたのだろう。その時に服地の色が覗き穴のぼんやりした視界をよぎったのだろう。息をつめて、なんの返事もしなかったのは、彼がここにいるべき人ではなかったからだ。  私の落胆は言うまでもあるまい。  糸子にそれほどまで親しい人がいては、とても私が立ち入る隙はない。  糸子は、漱石の描く糸公ほどには清純無《む》垢《く》ではなかった。恋の方法にも長《た》けていた。さもあろう。もう明治の頃から長い歳月が経っているのだから。  私の恋心は急速にしぼんだ。  いつの日か糸子の隠れた恋が姿を現わすだろうと私はそう予測して見守っていたのだが、その気配はいっこうになかった。結婚の噂《うわさ》も聞こえなかった。  私はテレビ局を去り、糸子との連絡は途絶えた。次に糸子の消息を聞いたのは、今から数えて七、八年前、山陰の旅から数えてもやはり七、八年後のことだ。 「知ってるだろ。アシスタントをやっていた糸公、乳《にゆう》癌《がん》で死んだんだって」 「へえー、驚いた。結婚はしたの、彼女?」 「いや、しなかった。いい子だったのに不思議と男の噂はなかった。乳癌てのは、男関係が少ないとなりやすい病気なんだってな。やっぱりたくさん愛《あい》撫《ぶ》してもらったほうがいいらしいぞ」  もう中年になった昔の仲間はいくぶん卑《ひ》猥《わい》に言って笑った。  ——あの日ドアの向こうに見たのは何だったのか——  男ではなかったのか。男であったとしても〓“情人〓”と呼ぶような男ではなかったのだろうか。  この答はもとより知るすべもない。  ただ、私がなにも見なかったなら、その後の私の行動も少し変わっていたのではなかったか。  ——あれも出雲の神様の悪戯だったのかな——  私はホテルのベッドに寝転がってそう思いめぐらす。  わずかなことが人間の運命を左右に振り分けるのは、べつにめずらしくもあるまい。分水嶺に降る雨は、いつもそんな運命にさらされている。瀬戸内へ落ちるか、出雲へ流れ込むか。  眠りの中で、また出雲大社に勤める藤川の夢を見た。 「昨日の公式を見せてくれ」 「ああ、これだ」 「俺と糸子を代入してくれよ」  藤川は笑い、夢はそのへんで深い眠りの中へ崩れた。 瑠《る》璃《り》色《いろ》の底  子どもの頃、どこかの小《お》母《ば》さんが猫の死《し》骸《がい》を近所の古池に投げ込むのを見た。猫は宙で身を震わせ、水の中で少し〓《もが》いた。かすかに生きていたのかもしれない。それとも目の錯覚だったろうか。すぐに水草と暗緑色の汚水の中に呑《の》まれ、そのまま浮かんで来なかった。  数日後、学校の遠足で山へ登り、古沼のほとりを探検した。水と汚泥のはざまに猫の死体が辿《たど》りついている。皮膚の文様もわからぬほどに腐りかけていたが、どことなく先日の猫に似ていた。  私がそう告げると、遊び仲間の一人がしたり顔で、 「沼っていうのはナ、みんな底のほうで繋《つなが》っているんだ」  と、小鼻を蠢《うごめ》かした。  科学少年の私はそんな箆《べら》棒《ぼう》な話をけっして信じやしなかったが、もしかしたらあの猫が沈んで地下の通路をくぐり、山の沼まで来たのではあるまいか、そんな奇態なイメージがいつまでも心に残った。もうあらかた骨になった猫は口を広げ歯を剥《む》き出し、二つの眼《がん》窩《か》はポッカリと虚空を睨《にら》んでいた。死骸は必死の形相でなにを求めていたのだろうか。  仙《せん》台《だい》からの帰り道に青《あお》根《ね》温泉に立ち寄った。  都会の騒がしさは常軌を逸している。時には鄙《ひな》びた辺境の温泉地に赴いてポカーンと頭の中を空にしてみたい。だれしもそんなことを思うものらしいが、さて実行するとなると「いずれそのうちに」となってしまう。  青根温泉は東北線の白《しろ》石《いし》駅から車で一時間ばかり。白石は特急の止まる駅なので、さして辺境の地とは言えないが、シーズン・オフならば湯治客もほとんどいないだろう。東京へは明日帰ればいい。列車が白石の駅へ滑り込んだとたんに心を決めた。  空は快晴。低い屋根の家並みを過ぎると山が近づき、霜枯れの丘陵の果てに蔵《ざ》王《おう》山が見えた。山頂にはかすかに白い斑《ふ》が散っている。車の窓を開ければ意外に冷たい空気が吹き込んで来る。山《さん》麓《ろく》はすでに冬を迎え始めていた。 「冬は混むんでしょ」  と、運転手に話しかけた。 「ああ、いいスキー場があるからね」 「今ごろは?」 「だれも来ないねえ。お客さんは東京からですか」 「仙台からの帰り道なんだけどね。温泉にでもつかってから帰ろうと思って」 「なんもないところだからね。一日いただけで厭《いや》んなっちゃう」 「蔵王には登れない?」 「タクシーで?」 「うん」 「道が閉鎖にならなきゃ行けるけど……。明日行きたいの?」 「うん。行ければ行ってみようかと思って」 「どうかな。危いとこだね。今晩あたり冷え込みが来そうだな」  山頂のすぐ近くまで立派な道が通っているけれど、このシーズンは利用者もいないので雪が降ったらもちろん通行止め。路面が少しでも凍りつくと危険が大きいので簡単に閉鎖してしまうらしい。 「運まかせだね」 「そうらしい」  宿に着いたのは五時過ぎだったろう。駅で「一番いいホテルは?」と尋ねたら、このF旅館を勧められた。パンフレットによれば、かつて伊《だ》達《て》七十万石の保養所であったとか。庭の一隅に桃《もも》山《やま》造りの楼閣が見えた。その楼閣にはなにがしかの陳列物が保存されているらしいが、普段は締めきってある。 「寒いねえ」  と、肩をすくめながら番頭さんに声をかけると、 「はい。今すぐストーブを入れますから。お風《ふ》呂《ろ》にでも入ってらしてください」  と、恐縮する。  湯槽は天《てん》文《もん》十五年に蔵王山からの転石を組み合わせて作ったもの。幼稚園のプールほどの広さはあるが、湯の温度は低い。充分につかってから出たものの長い廊下を歩いているうちすっかり冷えきってしまう。廊下は歩くたびにギイギイときしむ。ほかに泊まり客もないらしい。私が足を止めれば物音ひとつ響かない。  さいわいに今度は部屋のほうが温かくなっていた。 「湯加減はどうでしたか」 「うん、少しぬるかった」 「そうでしたか。お気の毒でした。いつもはそんなこともないんだけど」  若い番頭さんにはほとんど東北の訛《なま》りがない。 「夕食は何時ごろ?」 「もうすぐです。六時半ごろ」 「お酒をつけてもらおうかな」 「はい、どれくらい?」 「お銚《ちよう》子《し》を二、三本。それから……お酒のお相手をしてくれる人がいないかなあ」  この山の中に酌婦がいるかどうか。 「はい」  あまり簡単に返事をするので、こっちのほうが驚いて、 「芸者さんいるの?」  と、尋ねれば、 「ええ、まあ、ほんの少し」  と、笑う。 〓“ほんの少し〓”と言ったのは人数のことだろうが、笑いのほうは〓“あまり期待をしないように〓”と読めた。  だが、部屋を出て行った番頭さんは間もなく戻って来て、 「申し訳ありませんが、芸者衆はみんな予約がありまして」 「ああ、そう」  もの静かな湯治場だが、お客が私一人ということもあるまい。どこかで宴会の一つくらい開かれるのだろう。検番には五人ほど登録されているが、みんな他《よ》所《そ》の旅館のほうで声がかかっているのだと言う。 「じゃあ、仕方がない」 「お酌くらいならできる者がおりますが」 「ほう?」 「知合いの者ですが……ちょっと帰って来てまして」  なにやら〓“雪国〓”の中の駒《こま》子《こ》のような話ではないか。 「いいですよ。ひとりで酒を飲んでいてもおもしろくない」 「じゃあ、お相手をさせます」  どんな人が来るだろう。ちょっと期待をしてみたい。時計を見ると夕食の時刻までにはまだ三十分ほど時間が残っている。山は暮れ、冬枯れの疎《まば》らな衣《い》裳《しよう》がことさらに寒そうに映った。 「ずっと仙台のほうにいたから」  酒の相手に来てくれた女は純《じゆん》子《こ》と名乗った。年齢は三十歳を少し越えたくらいだろうか。食卓に並んだ茸《きのこ》の名を尋ねても川魚の種類を聞いても彼女はわからない。ばつが悪そうに笑っている。容姿が田舎《 い な か》くさくないのは、その言葉通り仙台で長く生活をしていたからだろう。細《ほそ》面《おもて》の顔と大きな眼とは本来、不均衡なものなのだろうが、この人の場合は際《きわ》どいところでバランスを保っていて、それが魅力の一つにもなっている。やはり美人のほうだろう。湯治場の芸者衆よりよほど上等なのではあるまいか。 「スキー・シーズンになると、予約を取るのが大変なんだろ」  と、尋ねても、女は、 「ええ、そうなんでしょうね」  と、首を傾《かし》げる。 「この温泉はなんに効くの」  と、水を向けても、 「婦人病かしら」  と、要領を得ない。  そのうちにクックッと大仰に笑いだし、 「もう聞かないでくださいな。なんにもこの土地のこと知らないんです。ここは母の知合いなの。ちょっと逃げて来ただけ。でも退屈してしまって……。東京へでも行こうかしら。お客さん東京のかたなんでしょ」  と、尋ね返す。 「ああ、そうだよ」 「いいところですか」 「行ったことないのか」 「あるけど。よくは知らないの」 「いいもわるいもない。僕は生まれたときからずっと東京だ。ほかの土地を知らない。どこの土地だって同じさ。いい人にはいいし、わるい人にはわるい」 「そうですね」  いくらか飲めるくちらしく、盃を勧めれば素直に受ける。酒が入ると大きな眼の周辺が薄く染まって、これもかわいらしい。言葉の抑揚にかすかに訛りがあるけれど、人柄は屈託がなく、日頃私が馴《な》染《じ》んでいる都会の女性と少しも感触に違いがない。どうしてこんな鄙びた湯治場にいるのだろうか。少し好奇心が湧《わ》いて来て、 「逃げて来たって言ったけど……」  と、さっきの気がかりの台詞を取り出して尋ねてみた。 「ああ……そんなこと言いました?」 「言った」 「厭あねえ」  視線が窓の外に流れる。  三本取ったお銚子をお替りする頃には、話題は身上話に変わっていた。どこまでが本当の話かわからない。温泉宿の座敷でたまたま出会った男と女。本来なら一生めぐりあうことのなかった間柄ではないか。真実を語らねばならない義理はなかろう。自分にとって一番おいしい話をするほうが似つかわしい。 「ずっとお勤めをしていたんですけどね」 「うん。どのくらい?」 「十年以上。年がわかっちゃう」 「ぎりぎり二十代くらいかと思ってた」 「嘘《うそ》よ。そんなには若くないわ」  女はお銚子を取って私の盃に注ぎ、それから自分の盃を満たした。お酌の慣れた手つきではなかった。 「同じところに勤めてたのか」 「そうよ」 「どこ?」 「どこって……中くらいの会社」 「どうなのかな。職場によってはなんとなく女の人が長く勤めていると居づらくなるようなとこがあるんだろ」 「うちはそうでもなかったわ。三十代の人も四十代の人もいたから」 「じゃあ罷《や》めることないじゃないか」 「そうよねえ。もったいないことしちゃった」  首をすくめてまたお銚子を取る。  静かな夜を割って宴席のさんざめきが聞こえて来た。あの節まわしは、たしか新《しん》相《そう》馬《ま》節《ぶし》だろう。 「お客さん、歌なんか歌うんですか」 「いや、僕は駄目だ」 「あたしも駄目なの」 「飲むだけしか能がない」 「わりと飲めるみたい」 「そうでもない。あんたのほうが強いんじゃないのかな」 「わあー、そんなことないわ。好きは好きだけどねえ」  宴会の歌の調子が高くなる。女は顎《あご》で拍子を取る。話が少し途絶えた。 「さっきの話だけど……」 「なんですか」 「なんで仕事を罷めたのさ」 「ああ、それ? 飽きちゃったから」  自分の言葉を楽しんでいるように頬《ほお》を崩しながら言う。 「飽きちゃった、か」 「だって学校出てからずーっと同じ職場で同じ仕事してたんだから」 「そりゃそうかもしらんけど、女はいいな、飽きれば罷めることができるんだから」 「でも、男の人はいろいろべつな仕事をさせてもらえるし……」 「まあ、そうだな。十年同じ仕事をやってたら飽きるかもしれない」 「それに……ヘンテコなこともあったから」 「なんだい?」 「お客さん、女の人好きになったこと……ありますよね」  と、急に表情を止めて尋ねる。思いのほか真剣な様子に誘われて、 「そりゃ、なくもない」 「男の人って、女の人を好きになったくらいで死ぬものですか」 「好きになって、それで振られての話かい?」 「そう」 「そりゃ人にもよるだろうなあ」  たしか〓“アルルの女〓”の終幕では、あばずれ女に心を弄《もてあそ》ばれた青年が自殺をする。村人がその死体を指差して「見てごらんなせえ。男が恋で死ぬものかどうか」と呟《つぶや》く有名な場面があった。男はめったに恋では死なない。だが、この男は死んだ。それだけ切実な恋慕だったのだ——そんな印象を訴える名台詞だった。  しかし、寒村の温泉宿で〓“アルルの女〓”を持ち出すのは面《おも》映《は》ゆい。一部始終説明するのは億《おつ》劫《くう》だ。それに……奇妙な感覚かもしれないが、なまじオペラの話をして相手がトンチンカンの応対をしたら、こちらに落胆が残る。ほんのひとときでも純子さんは知的な人でいてほしい。身上話のほうが無難だろう。 「まあ、男はめったに失恋だけの理由では死なないものだね」 「そうでしょ」 「罪作りをしたんだな。だれかを死なせたってわけか?」 「べつになんの関係もない男の人なんですよ。仕事で毎日顔を合わせていただけの……若い人。びっくりしちゃったわ」 「同じ会社の人?」 「違うの。取引き先の人。それが突然自殺をしちゃって」 「自殺はたいてい突然だけど……」  半畳を入れたが相手はそれにはかまわず話し続ける。 「遺書の中で私のこと好きだったって、さんざん書いてあったんですって」 「ぜんぜん覚えがないのか」 「ぜんぜん」 「やさしくくらいしてやったんだろう」 「そりゃ若い人だし、弟みたいだし」 「それがいけなかったんだ」 「でも……その人にだけ特別やさしくしたわけじゃないわ」 「手紙をもらったとか……そんなこともないのか」 「マフラーをもらったことあるけど」 「それだけ?」 「ええ。なんか気の弱い人だったらしいんですよね」 「そりゃそうだろう」 「でもまわりじゃ私が死なせたみたいなこと言う人がいて……」 「なるほど」 「初めはかわいそうだと思って泣いてあげたけど、それどころじゃないのよ。そりゃ死ぬのは本人の勝手でしょうけど、なんであんなこと書いたのか……わるいのは私だけみたいになってしまって」 「自殺の理由はほかにはないのか? 病気とか、仕事の失敗とか」 「ないみたい」 「フーン。〓“好きだ〓”って告白されたらどうした?」 「私ですか?」 「うん」 「厭だあ。年も違うし……好きじゃなかったわ」 「それがわかったんだな、むこうは」 「でも私はなんにも覚えがないのに、いろいろ厭なこと言われて」 「それで仙台から逃げて来たわけか」 「まあ、そんなとこ」  女は机にこぼれた酒を指先でとりとめもなく広げていたが、ふいと顔をあげ、 「信じますか」  と、聞く。 「ああ、信じる。世間にないことでもないさ」 「無理矢理死人を一人背中に背負わされたみたいな気がして」 「そこまで考えることはないさ」  追加で注文した酒も空になっていた。 「もっと取りますか」 「いや、もういい」  料理はあらかた酒の肴《さかな》にしてしまった。だが、お茶とお新香があれば充分だ。このあたりの米はたしかにうまい。  女は私の箸《はし》の行方を追って、 「この漬け物は知っている。野《の》沢《ざわ》菜《な》でしょう」 「このへんで野沢菜は採れるのか」 「あ、それはわかりませんけど」  と、相変わらず頼りない。  食事がすむと、女は、 「どうもお粗末さまでした。ありがとうございました」  と、告げて立ち去った。  所在なしにテレビを眺めていると番頭がやって来て、 「いかがでしたか」 「うん楽しめた。芸者さんよりよかったかもしれない。おもしろい話を聞いた」 「それは結構でした。お布《ふ》団《とん》を取らせていただきます」 「うん。明日蔵王の山頂まで行きたいんだがタクシーはどうだろう」 「道が閉鎖にならなきゃ行きますけど……予約だけしておきましょうか」 「そうしてください。山頂へ行って三時頃白石の駅へ着きたいな」 「承知しました。出発は九時くらいで?」 「うん」  布団に入ってテレビ・ドラマの続きを見ていたが酒の酔いのせいもあって少しまどろんだ。  次に目を醒ますと十一時過ぎ。読むべき本もない。布団の上に身を起こして丹《たん》前《ぜん》を羽織った。  電灯を消しても石油ストーブが赤く映えて奇妙な陰影を部屋のあちこちに作っている。  純子という女が話していたことが頭の中に残っていた。  あの話はあらかた本当のことだろう。  なぜ? そう信ずる強い根拠があるわけではない。  死んだ青年とさして深い関係がなかったのは本当かもしれないが、なんの親しさもなかったというのは嘘かもしれない。一度くらいは愛を告白されたことがあったのではないか。なにかしら彼女のほうから誘いかけたことがあったのではないか。男女の仲はもともと微妙なものだ。無意識のうちに相手の気を引いてることもおおいにあるだろう。それを恨んで気弱なピエロが死んでしまった。  しかし、残されたほうにしてみればたまったものじゃない。少なくとも死の責務を感じなければいけないほどの関係はなかった。相手がなんの断わりもなく死の切り札を使った。さして身に覚えのないことなのに、死人を一人背負って歩かなければいけなくなった。味のいいものではない。  ——身の不運と言うのかなあ、やっぱり——  私にも類似の体験がある。  純子の話を簡単に信じたのは、そのせいだろう。  女の名は梨《り》枝《え》と言った。友人の妹だった。けっして忘れられない名前だが、ここしばらく記憶の中から取り出したことがない。顔形も明《めい》瞭《りよう》に思い出せるが、それもめったに脳裏に映したことがない。  天地神明に誓ってなにもない間がらだった。しかし、かすかな気配くらいは感じないでもなかった。 「あなたが好きです」  と、言われたら、ためらいなく、 「それは困ります」  と、答えただろう。どう妥協を試みても好きになれる人ではなかった。それは私の中で明白であった。だから紛らわしい行動を採ったはずはない。自分のほうでまったく関心のない女の気を引くほど私は好色ではない。  彼女にもそのことはわかっていただろう。  ある日、突然女は死んだ。遺書は短いものだった。だから死の本当の原因はだれにもわからない。  兄貴が述懐していたっけ。 「なんで死んだのかわからん。あんたに夕飯をご馳《ち》走《そう》になって、文学の論争をしたのがものすごく楽しかったって言ってたけど、それくらいかな、最近ちょっと印象に残っているのは」  だが、私は彼女に夕飯をご馳走したこともないし、文学の話をしたこともない。彼女の側にそんな願望があって、それが幻想にまで育ったのだろうか。この幻想は悲しい。  気持ちのいい出来事ではなかった。できるだけ忘れるように努めてきた。あらかた忘れたつもりでいたのだが、急に心に舞い戻って来た。  布団に身を起こしていると、光の加減で影は私の背になにかを背負っているように見える。宴会の歌声もとうにやんでしまって、かすかに石油ストーブの息使いだけが薄《うす》闇《やみ》の中で揺れていた。  翌朝も鮮やかに晴れあがった。 「おはようございます。道は大丈夫らしいですよ」 「そう」  主も客も吐く息が白い。 「九時に迎えの車が来ます」 「ありがとう。四時間もあれば充分に見物ができるでしょ」 「ええ、充分です。運転手に列車の時間を言ってください」  こっくりと頷《うなず》き、庭に出ると空気がしみじみとおいしい。空の青さもどこか平地で見る色調と違っているようだ。  朝食をすまし、腕《うで》枕《まくら》でテレビのワイド・ショウを眺めているともう迎えの車が来たらしい。 「お客さん、ついてるねえ。今日は眺めがいいよ」  中年の、人のよさそうな運転手だ。 「そんな感じだね」 「今年最後じゃないかな。午後になると雲が出て来るかもしれんけど」 「じゃあ、早いうちに見て廻ろうか」  旅館の従業員たちに送られて出発すると、車はたちまち褐色の山の中にあった。  急な葛《つづら》折《お》りを一つ曲がるたびごとに視界がぐいと広くなる。目の位置がこれでもか、これでもかと高くなる。灰色のスカイラインは文字通り空を翔《か》ける行路と化して天を貫く。  山の衣裳も刻々と色を変える。黄ばんだ褐色は黒ずんだ茶色となり、木々は葉を失い、山は色を失う。峨《が》々《が》温泉の堅《けん》牢《ろう》なホテルを通り過ぎると周囲は灌《かん》木《ぼく》さえも疎らになった。大小さまざまな火山岩が山陵を満たし、風の中に地蔵尊が寥《りよう》乎《こ》として佇《たたず》んでいる。 「このへんを賽《さい》の磧《かわら》と言いましてな」 「なるほど」  いかにもその名にふさわしい。天は近づき、地は岩塊の果てに切り立ち、深く谷底まで落下している。一つ積んでは父のため、一つ積んでは母のため……風は石さえも吹き飛ばすのだろうか。岩塊たちは低くうずくまって声を殺している。生きる物の姿はない。色と言えば地蔵の千切れた赤い胸当てばかり。その毒々しい色彩が荒涼たる風景をさらに、悲しく際《きわ》立《だ》たせて映った。  不帰の滝を経て山頂にほど近い地点に至る。 「ここから先は車はいけません」 「この先どのくらいあるの?」 「お釜《かま》の見えるところまで五、六百メートルかな」  お釜というのは、山頂にある火口湖のことである。 「じゃあ、見て来る。待ってください」 「ああ気をつけて」  車の外に出ると風の冷たさが尋常ではない。雪も随所に積もっている。セーターの襟を立てジャンパーのジッパーを詰め、よろめきながら雪の凍りついた傾斜を踏んだ。  それにしてもなんという視界の大きさだろうか。  空は果てしない半球を頭上に広げ、どの方向を向いても遮るものがない。紺《こん》碧《ぺき》の天は裳《も》裾《すそ》に近づくにつれ色を薄くし、視線のようやく届く極みに山脈が輪状に連なって見えた。蔵王山は虚空を貫き、唯《ゆい》我《が》独《どく》尊《そん》とばかりに聳《そび》え立つ霊山なのだろう。峻《しゆん》烈《れつ》な風景は他の山塊さえも近づけようとしない。  気がつくと足元の枯れ草が歯ブラシのようになって揺れている。葉先に宿った水滴が風に飛ばされ、飛ばされながら凍りついたのだろうか。風の強いあたりでは歯ブラシの毛は長く、窪《くぼ》地《ち》では短い。  山頂のレスト・ハウスに着く。ドアも窓も厳重に鎖され、季節はずれの来訪者をかたくなに拒否している。冬囲いの板は厚く、丸太は太い。猛《たけ》々《だけ》しいまでの防御を凝らして山頂の城郭はすさまじい冬将軍の到来を静かに待ち構えているようだ。  突然眼下にまっ青な火口湖が見えた。  左に外輪山の馬の背が伸び、右の五《ご》色《しき》岳《だけ》をえぐるようにして瑠《る》璃《り》色の水面があった。粗い岩肌がそそり立ち、その底に場違いな色彩が沈んでいる。到底水の色とは思えない。巨大な宝石はその水底にこの荒涼たる風色の秘密を埋め隠しているのではあるまいか。そこまでの距離は三、四百メートル。水辺に近づく道もありそうだ。  見渡せばここもまた気の遠くなるほど広大な風景ばかりである。視界の届く果てまで山はうねり谷は裂け、峨《が》々《が》たる大地の襞《ひだ》が連なり群がっている。あのむこうは日本海か、あのむこうは関東平野か、孤高の峰《みね》は奥《おう》羽《う》の山々をことごとく一望の中に収めている。  急に凜《りん》然《ぜん》たる気配が込みあげて来た。  ——あの火口湖のほとりまで行ってみようか——  思い立ったときには、もう足は柵を越え岩とガレとの傾斜を下り始めていた。  行って戻るまで小一時間はかかるだろう。運転手は心配しないだろうか。帰りの登り坂は楽ではないぞ。皮靴は傷だらけになるだろうし……。  当然そんな配慮は胸の中にあった。  だが、体がなにかに誘われるようにとんとんと進んで行く。  ——もしかしたら、あの濁った瑠璃色がいけないのかもしれない——  寂《せき》寞《ばく》たる風景の中では意識までが風化して、機能を失いかけていた。事実、空気は稀《き》薄《はく》になっていた。周囲に漂う冷気もただごとではなかった。  なにかが湖のあたりで私を呼んでいる。  なにが……?  唐突に梨枝という女のことが浮かんだ。  梨枝とはなにもなかった。なんの親しい関係もなかった。それは確かなことだ。梨枝が私を恨んで死んだとしたら、それは見当違いというものだろう。私のほうにはなんの咎《とが》もない。  でも、本当にそうだろうか。  人間はだれしも背後に死人を背負って歩いているのではあるまいか。  昨夜の女も言っていた。「無理矢理死人を一人背中に背負わされているみたいな気がして」と……。かすかな東北訛りが耳の底に甦《よみがえ》って来る。  梨枝が死んだのは十《と》和《わ》田《だ》湖《こ》だった。梨枝の兄が水辺に残った遺品を取りに行った。「あんたに夕飯をご馳走になって、文学論争をしたんだって? それをひどく喜んでいたよ」  女はその幻影を引きずったまま死んだのかもしれない……。  そう気づいたとたんに——火口湖へ下りながらぼやけた記憶を呼び戻したとたんに——ずっと昔、猫の死骸を見たことが心に甦った。 「沼っていうのはナ、みんな底のほうで繋っているんだ」今度は少年の声が耳の底に響く。足は私の意志を無視するように弾んで行く。  愕《がく》然《ぜん》として私は踏み留まった。  あの瑠璃色の水の中から私を呼んでいるものがある。あの女だ。私が水辺に立ったとき、きっとまっ青な水の底から白い姿が浮かびあがるにちがいない。  それは確信に近かった。  この人気ない、寂寥たる風景の中で変異が起こらないとしたら、いったい変異はどこで起こるというのか。  女は私をあの緑の水底に引き込むだろう。  おぞましいイメージにはちがいないのだが、たしかに私を誘うものがある。招くものがいる。水辺にまで降りて、その変異の出《しゆつ》来《たい》を確かめてみたい欲望が胸に蠢く。  しかし……帰らなければなるまい。  私はほとんど身を振り切るように渾《こん》身《しん》の力をこめて踵《きびす》を返した。そうでもしなければ、とても戻れそうもなかった。  もう振り返ってはなるまい。  背後を向けばたちまちあの微妙な色合いに——奇妙なイメージに誘惑されてしまう。  白い手が追って来る。迫って来る。実感としてそれがはっきりとわかった。  急がねばならない。  とにかく柵の内側まで辿《たど》り着かなければいけない。  不思議に風は途絶えていた。冷気もさほどに意識されなかった。私を取り囲む周囲のいっさいが微妙なものに包まれているようであった。  初めは、ひとり途方もない妄《もう》想《そう》を描き、なかば楽しむようにその現実感を味わっているつもりだったが、いつの間にかそんな遊び心は消え失せていた。たしかに、たしかに、私の背後になにかがいる。それが私を引き寄せている。振り返ってはなるまい。  かろうじて柵に着いた。  息が荒い。動《どう》悸《き》が激しい。それほどまでに私は背後にあるものを信じていたのだ。  柵を越えると周囲の様子がふたたび生気を取り戻した。烈風が吹きすさび、耳は千切れるほどに冷たい。  ——なにが起きたというのだ——  初めて私は振り返った。  ただ無窮の空、蕭《しよう》 条《じよう》たる褶《しゆう》 曲《きよく》、瑠璃色の底。  火口湖はさながらなにかを呑《の》み隠したように寂として動こうとしない。 初出誌は「野性時代」の左記の各号 菱《ひし》形《がた》慕情 一九八〇年七月号 火《ほ》垂《た》るの海 一九八〇年九月号 檜《ひ》原《ばら》湖《こ》まで 一九八〇年五月号 踊る指 一九八〇年十一月号 ゆらめく湖《うみ》 一九八一年七月号 マングローブ樹林 一九八一年九月号 雪惑い 一九八一年三月号 鈍《にび》色《いろ》の雨 一九八一年一月号 午後の潮《しお》騒《さい》 一九八一年十一月号 鳥《ちよう》瞰《かん》図《ず》 一九八一年十二月号 分《ぶん》水《すい》嶺《れい》 一九八一年五月号 瑠《る》璃《り》色《いろ》の底 一九八二年一月号 異《い》形《ぎよう》の地《ち》図《ず》  阿《あ》刀《とう》田《だ》 高《たかし》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年10月11日 発行 発行者  福田峰夫 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Takashi ATODA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『異形の地図』昭和59年 5 月25日初版発行            平成 4 年11月30日15版発行