阿井景子 西郷家の女たち 目 次  第一章 上之園《うえんそん》  第二章 出 陣  第三章 武 村  第四章 父と子  第五章 密 偵  第六章 戦 火  第七章 城 山  第八章 留 学  あ と が き  参 考 文 献 [#改ページ]   第一章 上之園《うえんそん》 「奥《こい》さあ」  いとは、老婆せいに呼ばれて機《はた》を織る手を止めた。 「お座敷のお客さあが、褌《ふんどし》を頂戴したいと言うておられます」 「えッ?」  いとは一瞬、首をかしげた。せいの言葉が呑み込めなかったからである。 「旦那さあの使い古しでよかと……」 「まあ」 「よほどお困りの御様子ごあんど」  客人は夫が京から伴ってきた。名を坂本竜馬という。  勝海舟の海軍塾が閉鎖になった竜馬は、経済的に逼迫《ひつぱく》していた。しかしいとは知らない。  寡黙な夫は何も語らず、いともまた問わなかったからである。  薩摩には「男は三年|片頬《かたふ》」のことわざがあった。男は三年に一度だけ片頬で笑えば充分という意味で、男だけでなく女も言葉の少なきを美徳とした。  いともそのように躾《しつ》けられてきている。しかも彼女は夫に馴れていない。祝言をあげたものの、藩命で出張した夫は昨夕帰ってきた。そして今日も朝餉《あさげ》がすむと下僕熊吉を連れて出かけた。 「困ることがあれば、遠慮なく言うてたもんせ」  出がけに夫は竜馬に言ったが、まさか褌の所望になろうとは……。せいが言う如くよほど困っているにちがいない。  昨夕到着したとき、竜馬の衣服が垢《あか》じみていたので、襦袢《じゆばん》と単衣《ひとえ》は義弟のものを借りて出した。  身長五尺九寸、体重二十九貫の夫の着物は身長五尺八寸やせ型の竜馬には大きすぎる。  いとは、立ち上がると母屋へ行き、夫の古い褌を取り出した。深く考えずにせいに渡す。  しかし帰宅した夫にこのことを告げると、たちまち叱られた。 「未来のある男に使い古しの褌をやるとは何ごつ。早う新しいのと取りかえてやりなさい」  いと二十三歳、竜馬三十一歳、吉之助三十九歳であった。  いとが上之園《うえんそん》の西郷吉之助のもとへ嫁《とつ》いだのは、三月《みつき》前の慶応元年一月二十八日である。  婚礼はあっというまに整った。  人々に妻帯を勧められても耳を貸さぬ吉之助に、縁戚の有川矢九郎がいとを連れて行き、承諾させてしまったからである。  いとの母と矢九郎の妻とはいとこどうしであった。有川家と西郷家もまた姻戚関係にあり、矢九郎の兄十右衛門は吉之助を信奉、信頼していた。それゆえ島津久光は西郷といえば有川十右衛門を連想したといわれる。  いとは家老座|書役《かきやく》・岩山八郎太|直温《なおあつ》・栄の次女として天保十四年に生れた。  姉・妹二人、弟の五人兄弟で、姉は伊木氏に、上の妹は肥後氏に、下の妹は相良氏に嫁ぎ、弟直方が家を襲っている。  岩山家は西郷家より裕福で家格も上であった。  薩摩藩では鹿児島城下に住む城下士の家格を一門、一所持、一所持格、寄合、寄合並、小番《こばん》、新番、小姓|与《ぐみ》、与力の九階層にわけているが、岩山家は小番、西郷家は小姓与である。  城下士のなかで岩山家は中級、西郷家は下級であった。しかし薩摩藩全体からみれば小姓与は中に位置する。城下士の下に外《と》城士(城の外に住む)、在村郷士の武士階級があったからで、その身分差はきびしく、もし外城士、在村郷士が城下士にたてつき斬り殺されても、紙一枚の届出ですんだ。  城下に住み、藩の軍事力の基幹をなす城下士は、武士階級のなかでは�支配者�であった。  矢九郎が、いとを西郷家に連れて行き、吉之助にいきなり対面させたのは、彼の妻と八郎太の妻に頼まれていたからであろう。  吉之助は時々、岩山家に将棋をさしにきていた。吉之助も結婚に失敗しているが、いとも許婚者のもとへ嫁ぎ、すぐにもどされている。上役の息子というから、我儘《わがまま》であったのかも知れない。  吉之助はこの前年|側役《そばやく》に昇進し、家格も代々《だいだい》小番(岩山家と同じ)になっていた。 「吉之助どんは、情《じよう》んあるお人じゃ。それにやかましか舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》もおりもはん」  そう言って八郎太も栄もこの縁談をよろこんだ。  しかし誰よりも嬉しかったのはいとである。彼女は吉之助を見た時から忘れられなくなっていた。吉之助はよか若者《にせ》である。濃い眉、高い鼻梁、黒々と光る大きな瞳。  吉之助に一目惚れしたいとは、吉之助のためなら、どんな苦労もいとわぬと心に誓っていた。婚礼は、藩家老小松|帯刀《たてわき》の媒酌で盛大に行なわれる。  しかし西郷家に入ったいとは、その貧しさに驚く。家は借家で薩摩特有の田の字型に仕切られた部屋が六、六、八、四畳と四間あるのみ。しかも大家族で次弟吉二郎夫妻、その子みつと勇袈裟《ゆうげさ》、三弟|慎吾《しんご》(従道)、四弟小兵衛、老婆せい、下僕|小三《しようぞう》、宗太郎、熊吉。  吉之助といとが加わると総計十二人になる。下僕二人は庭の隅の納屋に起居し、熊吉は通いであったが、狭い家には客間もなく、空いた部屋が客間に変じた。  西郷家が貧しいのは、吉之助の父吉兵衛の借金があったからである。  家族の数だけ食器もなく、弟妹たちは長兄夫婦の膳が終らねば箸もとれない。だが吉兵衛の代から奉公しているせいは、これでも一頃に比べるとましだと言う。 「いまは麦飯、米の飯が食べられますが、下加治屋町におりますときには、唐芋《からいも》と粟飯《あわめし》でごわした。一枚のおふとんに御兄弟が足を突込んで寝て、寒かもんでつい引っぱっては笑ったり、あやまったり……」 「まあ」 「ある夜お勤めから帰って来られた吉之助さあが、めしがないと言わるっので、お櫃《ひつ》のなかをみるとなかはからっぽ。三弟慎吾さあが兄さあの分まで食べてしまわれていたのでごわす。そのことを申しあげ、おわびしますと、よかよかと笑っておいででごわした」 「お腹が空いておられたでしょうに」 「吉之助さあは、そげんお方でごわす」  せいは吉之助の人となりを語り、彼等兄弟が如何に助けあってきたかを口にした。  慶応元年のこの年、次弟吉二郎は三十三歳、三弟慎吾は二十三歳、四弟小兵衛は十九歳であった。 「義姉《あね》さあ、兄さあが呼んでおられもす」  今日も機《はた》にむかったいとは、吉二郎の妻ますの声で立ち上がった。  厨《くりや》の仕事はますが行なっている。文久二年吉二郎のもとへ嫁いだますは、いとが来るまでこの家の女主人であった。それゆえいとは、彼女にきりもりをまかせ、衣の作業に没頭した。  大家族の西郷家は衣を整えるのに追われる。糸くり、機織り、仕立て、繕い……、仕事は山ほどあった。  養蚕は、家族全員で行なっているが、いとは寸暇を惜しんで、機に向う。 「すんもはんなあ」  頭を下げるますに、いとは首をふった。春蚕《はるご》の時期で、いとは昨夜ほとんど寝ていない。  しかし、兄吉之助に代わり家を支えてきた吉二郎夫婦を想うと、いとは弱音が吐けない。  嘉永六年。  誠忠組の同志から東下催促の手紙をもらった吉之助は、江戸へ行きたいと希《ねが》うが、貧しい暮らしゆえに言い出せずにいる。 「あとのことは、わたしが引き受けます。兄さあは、どうぞ江戸へ行ってたもんせ」  兄の胸中を察した吉二郎は、兄を促す。 「おいは、よか弟をもって幸せじゃ。今後はお前《まん》さあを弟とは思うまい。兄として仕えよう」  吉之助は吉二郎の手をとって泣いたといわれる。  勤勉で心根の優しい吉二郎は、兄吉之助を心から敬い、その妻であるいとをたてた。おかげでますも、慎吾も、小兵衛も、 「義姉さあ、義姉さあ」  といとをたて、心を砕く。  いとは吉之助が居らずとも、自然にこの家に溶け込んだ。 「なんのお話でごあんそ」 「本日、大番頭《おおばんがしら》に御役替えを仰せ付けられ、御家老組に入ることになった」  居間へ坐したいとに、吉之助は紙をみせた。紙には「長賊御征討に付き、参謀粉骨いたし……」とある。御役料高百八十石が付されていた。 「おめでとうござりもす」  いとは祝いの言葉を述べながらも、夢をみている気がした。大番頭といえば家老、若年寄、大目付《おおめつけ》に次ぐ上級職である。  そのせいか昇進を告げられても、いとは慶《よろこ》びが実感とならない。だが伝えてくれる夫の気持が嬉しかった。 「ますどんに、こん紙をみせてもよしゅごわすか」  いとは吉之助の承諾を得ると座を離れた。吉二郎は城からまだ戻らない。せめてますに紙をみせ、これまでの労苦を謝したかった。  吉之助兄弟は、嘉永五年九月二十七日父吉兵衛が死亡してからは、嫡男吉之助の運命に翻弄されてきている。  島津久光の逆鱗《げきりん》にふれ、吉之助が沖永良部《おきのえらぶ》島に遠島になると、次弟吉二郎、四弟小兵衛は遠慮、三弟慎吾は謹慎処分になり、知行・家財はことごとく没収された。  家は借家なので免れたが、元治元年——吉之助が遠島を解かれるまでは苦難の日々であった。 「ますどん」  いとは、縁先に出ると庭のかまどの前にいるますを呼んだ。 「なんぞ?」 「これをみてたもんせ」  ますは前掛で手を拭くと、いとの差し出した紙に目を走らせた。 「まあ、義兄《あに》さあが……」 「御役替えを仰せ付けられもした」 「おめでとうござりもす」 「あいがとう。これも吉二郎さあやお前《まん》さあのおかげでごわす」 「とんでもありませぬ。義兄さあのお力がお殿さまに認められたのでごわす」  いとは目頭を拭うますに、一枚の紙のよろこびが、はじめて実惑となっていた。  吉之助は、文政十年十二月七日鹿児島城下|下《しも》加治屋町で生れている。四男三女の第一子で父西郷吉兵衛は小姓|与《ぐみ》勘定方|小頭《こがしら》であった。母は藩士椎原権右衛門の女《むすめ》まさ。  十八歳で|郡方書役 助《こおりかたかきやくたすけ》に任用された吉之助は、県下を巡見して、藩政の実務にたずさわる。幾人かの郡奉行に仕えるが、もっとも影響を受けたのは、初代の迫田太次右衛門《さこだたじうえもん》であった。  彼は学問もあったが、なかなかの硬骨漢で、凶作の年に、農民の困窮をみて年貢軽減を願い出る。しかし藩庁はきき入れなかった。  腹を立てた迫田は、役所の壁に一首を書きつけて辞職する。  虫よ虫よ五|節《ふし》草の根を絶つな 絶たばおのれも共に枯れなん  迫田は為政者を虫に、農民を五節草(稲)にたとえた。  この事件は、青年吉之助に深い感銘を与える。彼も弱い者や不幸な人々を黙過できぬ性質《たち》であった。郡内を巡視して、病気や貧困に苦しんでいる家をみると、自分の貧しさも顧みず、扶持《ふち》米を投げ出した。  父吉兵衛は清廉の士で、まさは温和な人柄であったという。しかし、嘉永五年祖父、父、母を相次いで亡くした吉之助は貧苦のどん底に陥る。兄弟が一枚のふとんに足を突っ込んで寝たのもこの頃のことであった。  慶応元年|閏《うるう》五月五日。  今日も朝から激しい雨足が屋根をたたいている。 「水だ!」 「甲突《こうつき》川の堤防がきれたぞお」  朝の片付けが終った直後である。いとは男たちの叫ぶ声を耳にして、ますと顔を見合わせた。  薩摩藩の下級武士たちは甲突川下流沿岸の低地に住んでいる。下加治屋、高麗、上之園、荒田、塩屋……、この辺りは川が氾濫するたびに被害を蒙った。  西郷家は上之園の台地にあったが、それでも川が決壊すると水が押し寄せた。 「ここは、あたしがいたします」  ますの言葉が終らぬうちに土間に一筋の水が流れ込んできた。けたたましい半鐘の音。  いとは居間へ飛び込むと大事な衣類を風呂敷に包んだ。 「宗太郎!」  いとは、包みが出来ると下男を呼んだ。夜具と風呂敷包みだけは、天井に運び上げたい。 「宗太郎は、いま畳を運びよっ」  隣室から夫の声がした。吉之助はさかんに畳をはがしている。  いとは気が動転していた。いとの生家岩山家は左衛門《せもん》坂にあるので水害にあったことがない。浄光明寺の小高い森が左手にのぞめる地点で、坂を海にむかって上ると大竜寺、下ると福昌寺に至る。  岩山家の先祖は足利氏であった。  四代直朝のとき島津光久(第十九代。家久の次男・元和二年に生れる)に仕え、五代直通は鹿児島で生れている。七代直治のときに御記録奉行となり、家格も代々小番となった。  だが、いとの家は分家である。  四郎太|直郷《なおさと》の次男である八郎太は、指が黒ずむほど書やそろばんに励み、第二十八代藩主島津|斉彬《なりあきら》に認められて、別家を許された。家は本家の裏手に建てられている。  いとは吉之助とは異なり、小柄で華奢《きやしや》であった。下男に運ばせるつもりで大きな包みをつくったが、自分が担ぐとなると重すぎる。いとは包みをほどき、なかの衣類を減らした。  家族が多くとも危急のときは人手が足りない。吉二郎と慎吾は会所に詰めていた。  いとは包みを抱きあげ、板の間から天井へ掛けられた梯子《はしご》をのぼる。ますが上から手をのばして包みを受け取った。彼女は、当座の穀類を天井裏へ運びあげていた。 「いくらも置けぬのう」  天井板はぶあついが、四間のうち二間しか張られていない。 「織り機は、小兵衛どんが納屋の天井にあげたそうでごわす」 「繭《め》は?」 「熊吉と小三が水の来《こ》んところに運ぶと……」  いとは、うなずくと梯子を下りた。  水はじりじりと水位を増している。 「せい!」  居間に戻ったいとは、せいに子供たちを高台の正念寺に連れて行くよう命じた。いまなら、まだ歩ける。いとは二歳の勇袈裟《ゆうげさ》を老婆の背に結わえつけると、もう一本の帯で三歳のみつとせいの体を結んだ。 「さ、早よっ!」  いとはせいを促すと、再び風呂敷包みを抱えあげた。  幾往復かして外をみると、幸いにも雨は止んでいる。いとは残った夜具を肩へかつごうとした。 「義姉さあ、俺《おい》がやりもす」  水をかきわけ、庭から小兵衛が近づいてきた。 「よか具合に、止みましたのう」 「雨は止んでん、水はこれからのほうが危《あぶ》のうごわす」  小兵衛は、いとの手から夜具を奪うと、高い背に軽々とかつぎあげた。  その夜、女と子供たちは五町先の正念寺で夜を過した。水は床上二尺で止まり、夕刻には引きはじめたが、水を吸ったゆかに夜具はのべられない。 「あらよ(まあ)!」  夜のあけぬうちに寺を出たいとは、家近くに来ると驚きの声をあげた。人々の列が井戸端まで続いていたからである。いとが坪庭に入ると数人がいっせいに頭を下げた。 「お世話になりもす」 「何でごあんそ」 「こんあたりの井戸は、きっさね川の水がはいって使うことができもはん。じゃっどん、お宅の井戸は旦那さあが油紙と畳でふたをなされていたそうでごわす」 「うちの人が?」 「そいで、もらい水に参上《めあ》げもした」  いとは村人の言葉をきき、畳をはがしていた夫の姿を思い出していた。あの畳は井筒にふたをするためであったのか。  増水すると下水や雪隠《せつちん》の汚水、汚物が川の水と入れまじる。吉之助は飲み水を思い、宗太郎にふたをさせたのであろう。  現在の公衆衛生の知識から考えれば、西郷家の井戸とて汚染されているわけだが、そのような知識のない時代である。人々は吉之助の処置をほめ、できることをよろこんだ。 「存外の洪水、弊屋《へいおく》すべて浸《ひた》り、頓《とん》と|難渋 仕《なんじゆうつかまつ》り候」。この日の模様を吉之助は藩家老小松|帯刀《たてわき》に書き送る。汚水にまみれた家の中は、復するのに日数を要した。  いとにとって衝撃だったのは、ますの死である。彼女は洪水のあと夏風邪で寝込んだが、回復することなく十月十六日に永眠した。いとは支柱を失った気分に陥る。運命《さだめ》とはいえ、あっけなくもはかないますの死……、いとは二人の遺児を抱きしめながら、肩を落して茫然自失している吉二郎の姿に、せめて吉之助がいてくれればと、率兵上京した夫がうらめしかった。 「奥《こい》さあ、お客さあでごわす」  西郷家は来客が多い。せいの声で姉さんかぶりの手拭をとったいとは下《しも》の間の戸を開けた。下の間は土間に面している。  だがいとは土間に佇《たたず》む男に目をみはった。蓬髪《ほうはつ》、あごひげ、よれよれの着物……、寒中というのに羽織はなく、着ながしの袷《あわせ》に古びた兵児《へこ》帯を巻きつけている。 「どなたさあごあんそ?」  いとは不審気に問うた。竜馬も垢じみていたが、この男はもっとひどい。 「川口量次郎という者《もん》でごわす」 「ああ」  いとはうなずいた。川口の名は吉之助からきいている。彼は吉之助より九歳年上で、江戸居付馬廻役・川口仲左衛門の四男であった。  陽明学に通じ能書家で、島津久光の書学生をつとめていた川口は、ある日久光の蔵書を質に入れ酒を購う。激怒した久光は遠島を命じた。文久二年のことである。  その年の秋、吉之助も久光の逆鱗《げきりん》にふれ、沖永良部島に流された。吉之助の流罪《るざい》を耳にした川口は、和泊村の吉之助の囲い——獄舎——を訪れる。川口は同じ島の西原村に居を構え、村童たちに読み書きを教えていた。  二人は初対面であったが、一見すると胸襟《きようきん》を開き、旧知の如く語りあう。  同じ遠島でも川口に自由があったのは、彼が吉之助ほど久光に憎まれておらず、しかも政治犯でなかったからであろう。  吉之助の囲いはわずか二坪の広さで、板で仕切られた後の一坪が厠《かわや》、前の一坪が起居の場になっていた。戸も壁もなく、巨大な鶏小屋を思わせる獄舎は、風や雨が容赦なく吹き込む。  その囲いの内と外から二人は史を談じ、趣味を述べあい、酒を酌みかわして時を忘れた。酔うて日向《ひなた》でうたたねをする川口に吉之助は睡眠先生の号を呈する。すると川口は、 「どうせなら、睡を酔に改めて下さらんか」  と申し出、吉之助を笑わせた。  川口が毎日のように訪れて来るので、間切横目《まぎりよこめ》(郷中監視役)の土持政照は、うるさくないかと考え、吉之助に問うた。 「面会を制限しましょうか」 「いや。川口どんは和漢の学に通じ、語るに足るお人じゃ。こんままでよか」  吉之助は、対面をのぞんだ。  和泊と西原の距離は一里弱。呑んべえの川口はある朝酒を飲んで寓居を出たが、道に迷ったのか行けども行けども和泊に着かぬ。  彼は酔眠《ヽヽ》先生の号にふさわしく、大地に仰臥し、ねむり込んでしまった。通りかかった漁夫に呼び起され、漁夫に案内されて夕刻近くようよう吉之助の囲いに辿《たど》りつく。  朝住いを出たと言う川口に、吉之助は、 「そりゃ狐にばかされたのじゃ。白昼狐にばかされるとは前代未聞の珍事。これからは酔眠先生を改めて迂闊《うかつ》先生と呼びもそ」  と手をたたいてよろこんだ。  いとは川口を招じあげた。吉之助の書状をもっていたからである。 「吉之助どんのおかげでわしも島から帰ることが出来もした。手紙を読んでみて下され」  いとは、川口に促されて夫の手紙に目を通した。川口が言うように書状には彼の内地召喚が記され、鹿児島の土を踏んだら、上之園へたずねて来るよう書かれてあった。日付が二年前なのは、内地に戻ってきた川口が、親類の家を転々としていたからである。 「わかりもした。うちの人は京へ上りましたが、弟の吉二郎どんがおいもす。もうじき城から帰ると思いますゆえ、どうぞごゆっくりなさってたもんせ」  いとは川口に一礼すると座敷を出た。  翌日。  川口はいとに巻紙と筆硯《ひつけん》を所望した。  和漢の事蹟に通じ能書家の川口は、筆を手にすると、たちまち一本の手紙を書きあげた。 「おついでのとき、便船にことづけて下さらんか」  手紙の宛名は吉之助になっている。いとは川口の心遣いが嬉しかった。京へ上った吉之助は国事に忙殺されているのか、家信はもたらされない。  昨夜、たずねられるままに、そのことを口にしたいとに、川口は、 「そんなら、こっちから様子を知らせもんそ」  と答えている。  いとは、この時代の大半の女たちがそうであるように手紙を書くのが苦手であった。一通りの読み書きはできるものの、文字を綴《つづ》るとなるとむずかしい。  しかし、いとは此度《こたび》はたどたどしくとも自分の文を添えようと思った。いとは妊《みごも》っていた。そのせいか無性に夫が恋しく、しばしば夢をみる。  一目惚れの夫であるだけに、離れていると夫のことが頭から離れない。  吉之助はうるめの刺身が好きである。いとは茶碗三杯の飯を食べ終ると几帳面に箸をおく夫を思い起していた。  彼は意志の人であった。  沖永良部島に流された当座の吉之助は、二か月間昼夜の別なく囲いの中に端座していたといわれる。  ひげはのび、衣服は垢にまみれ、肉は削《そ》げおち、それでも坐り続ける吉之助に土持は感嘆する。いや見兼ねて風呂を用意し、浴後の運動をすすめた。  しかし吉之助は入浴がすむと、 「牢にいるのが藩命ごあんど」  と、さっさと囲いの中に入った。  二食のきめられた食事——冷飯《ひやめし》と焼塩——以外は湯水すら要求せぬ吉之助……。土持の心は同情から尊敬にかわっていく。  彼は代官|黒葛《つづら》原源助《ばるげんすけ》を訪れ、流謫《るたく》命令書をみせてもらった。命令書には「囲いに召し込み」とあり、「牢舎」とは書かれていない。  土持は西郷のいる牢舎《ヽヽ》を|囲い《ヽヽ》に改めたいと黒葛原に願い出る。そして許可を得ると早速新しい囲いの建設にとりかかり、わざと工事を遅延させ、その間吉之助が室外で静養できるよう心を砕いた。  四週間後に、新しい囲いは出来あがり、吉之助は北風の吹き荒《すさ》ぶ日に移転する。  だが新しい囲いは数室を備えた家であった。  四囲に厳重な格子をめぐらし、流謫命令書を守っているが、壁も戸もある。暖かく清潔であった。  しかも土持は吉之助の食事・入浴を自分の費用でまかなう許可までとっていた。 「お前《まん》さあの恩義は忘れはしもはん」  土持の好意を深謝した吉之助は、彼と義兄弟の契《ちぎ》りを結ぶ。  吉之助は、どのような逆境にあろうとも人々の好意で生かされる自分に天命を感じた。沖永良部遠島は吉之助にとって死を招くやも知れぬ過酷な刑であった。久光は島で吉之助が牢死するのをのぞんだふしがある。  彼は、先主斉彬を敬慕し久光を「田舎者《じごろ》」と軽んずる吉之助を嫌悪し、憎んでいた。  死する環境におかれても、生かされるおのれ。天は吉之助を見捨ててはいない。吉之助は天の意志、人の情けをこのとき全身で感じとり、「敬天愛人」の思想を抱くに至る。  いとは、筆をとるのも忘れ、あれこれ思いに浸りつつ、木綿の筒袖に木綿の袴、腰に煙草入れを差した夫の姿を焦がれる思いで手繰《たぐ》っていた。  慶応二年七月十二日、いとは男子を出産した。吉之助は嫡男の誕生をよろこび寅太郎と名付ける。  吉之助は三月四日に、小松帯刀、吉井幸輔らと帰国したが健康がすぐれない。彼は南島の風土病であるフィラリヤにかかっていた。  フィラリヤは寄生虫病で、フィラリヤをもった蚊に剌されると感染、発病する。  発赤《はつか》とはれ、悪寒《おかん》と発作があり、痛みがはげしく、手足がむくんで太くなる。男の場合は陰嚢《いんのう》に炎症を起して水がたまることが多い。根治不可能な難病であった。  何年かの潜伏期間があるために感染してもわからぬが、吉之助の場合は肥満が罹病を告げていた。  しかし吉之助もいとも病とは思わず、肥満は体質と考えた。 「ばあや」  八月はじめ産褥を離れたいとは、夫の激しい熱発作に狼狽《ろうばい》する。  吉之助は五月にも不調を訴え、軽い発作を起しているが、寝込むには至らなかった。 「いけんしたのでごわすか?」 「旦那さあが……」  せいは、吉之助の発作を目にすると、熊吉を医者のもとへ走らせた。  吉之助は草ぶるいの症状を呈していた。  歯を鳴らし、頬をひきつらせ、肩を小刻みにふるわせがたがたと痙攣《けいれん》している。せいは手早く床をのべると、ありたけの夜具を吉之助の上に着せかけた。 「こん病は、高か熱の出もす」  せいは、前に草ぶるいの人をみたことがあるという川口に指図を仰いだ。  川口はあの日以来、家族の一員としてこの家に居ついている。彼は子供たちに読み書きを教え、吉之助の来客をさばいていた。 「象皮病にかかっておられますな」 「象皮?」 「皮膚が肥厚してくるので、そう言うておりもすが、島の人に多か病気でごわす」  医者も川口と同じことを言った。医者は下熱剤をおいていったが、高熱を発した吉之助に効き目はみられない。いとは手拭を幾度もとりかえ、火のように熱い夫の頭を冷やした。 「義姉さあ、わたしが代わりもんそ」  二日目に安がやってきた。安は吉之助の末妹で、いとこの大山成美(巌《いわお》の兄)に嫁いでいる。  彼女はいとより三歳上で、慶応二年のこの年二十七歳であった。明るく気さくな性格で瑣事《さじ》にこだわらない。 「義姉さあは寅どん(寅太郎)にお乳をやらねばならぬ大事な体でごわす。どうぞゆっくりねむってたもんせ」  安は、一睡もしていないいとを居室へ追いやると、吉之助に付き添った。  吉之助には、安の他に琴、鷹の二妹がある。長妹の琴は吉之助より五歳下、吉二郎より一歳年上で、家老座書役|市来《いちき》正之丞に嫁いでいた。次妹の鷹は三原家に嫁いだが、安政の終りに死亡している。  安は一日おきにやってきて、吉之助が快方に向うとみつと勇袈裟を伴って帰宅した。 「子供たちは、しばらくわたしが預りもそ。淋しゅうなるでしょうが、その間に疲れを休めったもんせ」 「すんもはんなあ」  いとは安に感謝した。  床を離れた吉之助が医者のすすめで、小松帯刀と日当山《ひなたやま》温泉に出かけたのは八月十五日である。  日当山は隼人《はやと》の北方にあり、湯治場は村の中央を流れる天降《あもり》川の両岸にあった。泉質は重曹泉で皮膚病、胃腸病、切りきずによいといわれる。  当時は鹿児島から船で加治木浜に渡り、そこから歩いて日当山に入った。 「旦那さあが無理をせぬよう、くれぐれも注意してくいやい」  いとは下僕熊吉にくどいほど繰り返し、湯治に行く夫を裏門から見送った。薩摩では女の表門の通用を禁じられている。  いとは、草鞋を踏みしめて彼女から遠ざかった夫に安堵の胸をなでおろしていた。夫の回復が嬉しい。  草ぶるいを見たことがないいとは、最初、夫が死ぬのではないかと脅えた。高熱の下らぬ夫に心痛した。  いとは、夫の姿が視界から消えると、母屋へ入り、久しぶりに寅太郎を腕に抱いた。安が来てくれたお蔭で、乳の出は悪くならずに済んだものの、ここ数日、わが子とゆっくり過したことがない。  いとは、乳のにおいのする寅太郎に頬ずりし、口に垂れているよだれを拭った。柔らかな嬰児の感触が掌《てのひら》に快い。  雲の翳《かげ》が秋を告げていた。 「寅どんな、お利口さんでごわす」  いとは、父と同じ黒い瞳のわが子に飽きることなく語りかけた。みつ・勇袈裟がいないため、家の中は鎮もっている。  うっわん!  いとは、犬の声で目を醒ました。気のゆるみと看病疲れで、寅太郎を腕にしたまま、とろとろとまどろんだようである。  寅太郎を寝かして庭へ出てみると、宗太郎が白い犬を梅の木に繋いでいた。 「こん犬は?」 「旦那さあが、きのう散歩の折に荒田の百姓からもらい受けられたもんでごわす」  荒田村は上之園町の西方にある。片側町の上之園とは異なり、田園地帯であった。犬は百姓家の少年が連れてきたという。 「よか犬じゃと旦那さあは言うておられもした」  犬は宗太郎が頭をなでると、尻尾をふり、彼の手をなめた。場所がかわったにもかかわらず落ちついている。 「ほんなこつ、よか犬じゃ。みつどん、勇どんが戻ってきたら、よろこんで遊《あす》っもそ」  いとは、白い犬を眺めながら明日は子供たちを迎えに行こうと思った。 「義姉《あね》さあ、よか話でごわす」  安が勢い込んでやってきたのは、慶応二年も押しつまった十二月上旬である。  吉之助のすぐ下の妹琴は身長五尺八寸の横たて堂々たる女丈夫であるが、末妹の安は細くて小さい。  背丈がいとより一寸高いだけで華奢な体つきをしていた。末子辰之助に手がかからなくなった安は、気軽に兄の家を訪う。 「吉二郎兄さあのことでごあんが……」 「よか嫁女《よめじよ》でも?」 「はい」  二人の間では、吉之助が寝込んだ頃から、吉二郎の後添えが話題になっていた。  四歳のみつ、三歳の勇袈裟を育てあげるには母親がいる。武士の家では子供の教育は母親にまかされていた。外に出る父親に代わり、母親が全責任を負い、男子は六歳頃になると郷中《ごじゆう》に出す。  郷中に出られない男子を育てては母親の恥とし、子もまた言うことをきかぬとき、母親が「郷中に持ち出す」と言えばおとなしくなった。  郷中とは�方限《ほうぎり》�ともいい、組のことである。薩摩藩では各地域ごとに青少年を集めて自発的に「町内教育」を行なった。  郷中教育であるが、彼等はそこで島津日新斎(忠良・第十五代貴久の父)の『いろは歌』や戦国期の勇将新納忠元の『二才《にせ》(青年)咄格式定目《ばなしかくしきじようもく》』をおぼえ、文武を鍛錬した。  日新斎の『いろは歌』が教養の経典となったのは、以後の島津家が彼の治教を手本にしたからである。名君のほまれ高い日新斎は児孫《じそん》・家臣たちを薫陶し、名将・賢臣を輩出させている。  文教の治で武を陶冶し「恵政撫民」を家訓《かきん》とした。薩摩藩の士風・博愛仁慈の精神は彼の遺法といわれる。  祖父日新斎の薫育を受けた第十七代島津義弘(関ヶ原の退《の》き口で有名)は、家臣に男子が生れると一か月後に必ず父子に対面し、 「おおよう父に似ている。父に似てお前も忠誠を尽してくれるであろう」  と言葉をかけた。  女子の場合は、婚礼の前後に父兄同伴で召し出し、 「女子は幼にして親に仕え、長じては夫に仕え、老いては子に養われるのが習いである。まずは心を和らげ、辞をしとやかにし操を守ることが肝要じゃ。決して婦道にそむいてはならぬ」  と訓戒した。  如何なる軽輩でも御目見得《おめみえ》は許され、この風習は歴代の藩主に受け継がれて、その訓《おし》えは藩の道徳律となる。  父母は男子であれば士道(忠誠)を、女子であれば婦道を叩き込んだ。  それゆえ幼児が石につまずいて転ぶと、母親は抱き起す前に、 「石に負けて弱虫《やつせんぼ》が。石を打ってかえっしゃんせ」  と叱った。  柱に頭をぶっつけて「痛い!」と言えば、 「刀を抜いて柱を斬れ」と|叱※[#「口+它」]《しつた》し、泣き顔をみせると、 「武士《おさむれ》の父上に似あわぬ無気力者《ずしただれ》」  と叱りつける。  いたずらや乱暴はかまわぬが「卑怯者《ひつかぶい》にはなるな」と教育した。  明治初年鹿児島に来た本富安四郎の『薩摩見聞記』によれば、足を踏みはずして溝に落ちた十歳ばかりの少年が、泣きもせず這いあがり、鯉口を握りしめ、肩をそびやかして立ち去ったとある。  少年は、ずぶ濡れになりながらも卑怯者《ひつかぶい》にはなるまいと、涙をこらえていたのであろう。  子供の教育を行なう母親は、大事な存在であった。それゆえいとも安も密《ひそ》かにみつ・勇袈裟の母になれる女性を物色していた。 「仁礼《にれ》平蔵どんの妹さあでごわす」 「年齢《とし》は?」 「わたしより一歳下の二十六歳、義姉さあよりは二歳上でごわす」 「若すぎず、よしゅごあんが」 「芯のしっかりしたしんぶゆ(大人しい)|おご女《ヽヽじよ》で、名は園と言《ゆ》もす」  安は仁礼家に行き、園と会ってきたと告げた。 「兄さあはいつお戻りで?」 「さあ、便りが来ぬのでわかりもはんが、よか話ゆえ、川口先生にお願いして、手紙を書いてもらいもそ」 「そげんしてたもんせ、こういうことは早かほうがよか」  安は、吉之助が承知すれば、吉二郎は反対せぬと言った。というのも、いつか安が後妻のことを口にした時、吉二郎が、 「ますの一年祭(神式)も済んでおりもさんのに」  と首を振ったからである。だが、吉二郎とてみつや勇袈裟に母親が必要なことはわかっている。一年祭も済んだ。いとは、吉之助の返事を待つ。  慶応三年二月。  吉二郎、園の婚礼は、吉之助の帰国を待って行なわれた。吉之助は二月一日に帰麑《きげい》し、十三日夜には鹿児島を出帆している。  園は安の言葉通り、大人しい女性で目も眉も細く、雛人形の官女を思わせた。いとは、目鼻立ちがはっきりしていて、意志的な容貌をしている。 「新しい御母上でごわす。さあ、ごあいさつをしやんせ」  身内だけのささやかな盃事《さかずきごと》が終ると、いとは子供たちを園に引きあわせた。彼等は素直に頭を下げたが、戸惑いとはじらいでばたばたと襖《ふすま》のかげに逃げた。  だがすぐに顔を出し、ちらちらと園を眺める。園が手招きするとはにかみながら、まずみつが近寄ってきた。 「勇どん」  首をふる弟を、みつが引っぱる。 「お前《まん》さあがきてくれて、わたしも安心でごわす」  継母の気を引こうと近付いては離れ、きゃっきゃっと走りまわる子供たちに視線を当てながら、いとは一つ肩の荷が下りたと思った。 [#改ページ]   第二章 出 陣  慶応四年が明けた。 「三田の藩邸が焼打ちにあったそうでごわす」  松の内というのに人々は寄るとさわると江戸藩邸焼打ちを噂《うわさ》しあっている。  薩摩藩邸と支藩の佐土原藩邸が、徳川方の庄内藩兵および五藩の兵に焼打ちされたのは十二月二十五日である。その第一報は元旦に鹿児島にもたらされた。  幕府は、徳川|慶喜《よしのぶ》の大政奉還で消滅したが、その勢力は残存している。 「戦《ゆつさ》になるのでごあんそか」 「さあ」 「まちの人々は京が戦場になるというておりもす」  せいは耳にしたことをいとに告げた。一触即発の緊迫した空気は、国元にも伝わってくる。いとは京にいる夫や義弟たちのことを想っていた。  一旦帰国した吉之助らが藩主島津忠義に従い、鹿児島を出帆したのは、昨慶応三年十一月十三日である。  薩摩藩はこれ以前の十月、大久保利通を通して討幕の密勅を入手していた。しかし忠義が軍勢を率いて京へ着く前に慶喜は大政を奉還し、討幕派は先手をとられてしまった。  武力討幕のきっかけを失った吉之助は、江戸に浪士や無頼漢を潜入させて騒乱状態をつくり出す。そして庄内藩屯所に発砲させ、彼等を挑発した。戦《いく》さの口実をつくるためである。  武力で国内を平定せぬかぎり、新しい国づくりはできない。彼我の衝突を仕掛けた吉之助は、元旦に大坂城の慶喜が「討薩の表」を草したときき、会心の笑みを洩らす。  しかしいとや女たちに政情がわかるはずもない。一月三日鳥羽伏見で戦線の火蓋がきられたときき、いとはひたすら戦勝を祈った。  此度は、吉之助兄弟だけではなく、親族のほとんどが藩主忠義に従い、上洛している。  吉之助の叔父(母まさの弟)椎原国幹、分家の椎原小弥太、安の夫大山成美、巌、誠之助の兄弟。琴の夫市来正之丞と政雄・宗介の父子。川村与十郎(純義。国幹の女婿)など。  なかでも府下小銃八番隊監軍を命じられ、初めて出征を許された吉二郎は張り切っていた。が、敵はわれに三倍する大軍であるという。いとは、砲煙弾雨の中を突撃する男たちを思い浮かべ、あわてて首をふった。  空はどんよりと曇り、寒の水があかぎれの指を切る。  いとは、風邪で寝込んだ寅太郎が食べものを吐いたので、井戸端へやってきた。  寅太郎は脆弱《ぜいじやく》である。暮れにも熱を出し、いとを慌てさせた。幸い風邪はひどくならずにすんだが、胃腸が弱っているのか食物を受けつけない。  いとは、水をかえて洗濯物をすすぎ終えると、竿を拭くために雑巾を絞った。 「義姉《あね》さあ」  霜柱を踏みしだきながら、園が近づいてきた。鹿児島の冬は南国にもかかわらず寒さがきびしい。桜島の火山のせいか二寸ばかりの霜柱が立つ。うっかりすると足をとられた。 「川口先生がお呼びでごわす」 「寅太郎に何ぞ?」 「いえ、義兄《あに》さあからのお手紙ごあんど」  いとは、あとを園に頼むと母屋へ駆け入った。 「先生!」 「読むから、おききなされ」  川口は、漢字に手間どるいとを慮《おもんぱか》り、巻紙を手にした。  吉之助は戦勝を報じたあと、 �慎吾は敵地に進み入り、耳の下より首へかけ射抜けられたが、格別のこともなく……弥助(大山巌)は耳を射切られたが、引き取らず戦い通し……疵《きず》を蒙《こうむ》らずば家から追い出すと両人に申しつけておいたが、十分に働き、疵を蒙ったのは誠によろこばしく、もう勘当はせずに可愛がってやろうと考えている�  と記していた。  吉之助兄弟は出征するとき、戦死を第一の功、負傷を第二の功、無事生還を第三の功として、いかに戦功があっても分捕《ぶんぽ》したる者は兄弟の義を絶つと誓約した。  それゆえ吉之助は�疵を蒙ったのは誠によろこばしく、もう勘当はするまい�と冗談を言っている。  一月六日の八幡の戦いでは、小兵衛が疵を負わずに、めざましい働きをした。しかし二弟吉二郎は、病気のため戦場に出ることが出来なかった。  吉之助は�気の毒のことでござ候�と書いているが、張り切っていた吉二郎を想い、いとはなんとなくもの哀しい気分になっていた。  鳥羽伏見で大勝利を博した政府軍は、錦旗を押したて東征の途につく。戦端が開かれたとき彼等は、朝廷の軍勢であることを示すために、いち早く錦旗を掲げている。  朝敵の汚名をおそれた慶喜は江戸へ逃げ帰った。取り残された徳川勢も慶喜のあとを追う。 「こんどは江戸が戦場になるようじゃ」  いとは川口から、政府軍の東征を告げられ、落胆した。四十二歳の吉之助は正月十六日の手紙に、�もう自分も老人の仲間入りをしたので軍《いくさ》は出来ぬ。戦いが静まったら官職を辞し、隠居と決めている�  と書いていたからである。  だが園の反応は違っていた。いとが江戸攻めを口にすると、 「それをきいて安堵いたしもした。あんまま戦《ゆつさ》が終っていたら、うちの人は義兄さあや慎吾どん、小兵衛どんに顔むけができもはん」  と顔をほころばせた。  園は、感情を表に出さなかったが、吉二郎が鳥羽伏見で参戦できなかったことを気に病んでいたのである。大人しいが園もやはり薩摩の女であった。武士の娘たちは父母から�婦道�を叩き込まれている。男たちの志を大切にした。  継母の園は、勇袈裟《ゆうげさ》を父の名に恥じぬ少年にしたいと願っている。新年から川口について素読と剣を学ばせていた。 「サワ!」  庭で犬を呼ぶみつの声がした。  犬は吉之助が狩りをはじめてから急速に増えている。シロ、ゴン、サワ、テツ、クロ。荒田村の少年が連れてきた犬は、勇袈裟が「シロ」と呼んでから、シロの名になった。  そのシロは昨春吉之助が京へ伴っている。いま頃シロも主人とともに江戸をめざしているのであろうか。  いとは、東征大総督府下参謀に任じられた夫を想っていた。吉之助は名古屋でこの辞令を受け取っている。京を発《た》つときの吉之助は東海道先鋒軍・薩摩藩諸隊の差引《さしひき》(総指揮官)でしかなかった。 「江戸の人々は、お味方をシャグマと呼んでいるそうでごわす」  せいは何処できいてきたのか、耳にしたことをいとに告げる。  大総督|有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王の指揮する官軍は、東海、東山、北陸の三道から、錦旗をひるがえして江戸をめざし、鼓笛にあわせて入府した。  兵は肩に錦ぎれを、将は頭にふさふさとした毛のかぶりものをつけ、その色は土州が赤、長州が白、薩摩が黒であった。  江戸総攻撃が中止され、江戸無血開城が成ったのは四月十一日である。吉之助は総攻撃の命令が出されると、高輪の薩摩藩邸で勝海舟とひそかに会見し、江戸無血開城の交渉を行なっている。  そして五月、上野の山に立籠る彰義隊を征伐すると、京にいる藩主忠義に戦況を報告するため西上した。  吉之助は東下を主張する忠義をなだめて、六月十四日忠義と共に帰国する。忠義が東下をのぞんだのは、奥羽越の地で彼我の激しい攻防戦が展開されていたからであった。  禁闕《きんけつ》を守衛していた吉二郎が、北越鎮撫軍府下小銃八番隊監軍として京都を出発したのは五月十日である。  長岡藩はこの日戦端を開く。  吉之助が京へ到着したときは、吉二郎はすでに越後の山野を転戦し、出雲崎の北東・北野村で苦戦中であった。 「吉二郎さあとごいっしょではなかったのでごわすか」 「吉二郎は越後じゃ」  慎吾は越後口に、小兵衛は奥羽に出撃していた。戦さも洪水と同じく親しき者をばらばらにするようである。  吉之助は睾丸が肥腫して馬に乗れなくなっていた。持病の悪化に、いとは湯治をすすめる。湯に浸り、好きな釣りや狩りをしてのんびり過せば、病もいくらか楽になるかも知れない。  だが、日当山に出かけた吉之助は、長逗留を許されず、北陸出征軍総差引として八月六日鹿児島を出帆する。  越後口の戦況を視察した小銃二番隊監軍村田新八が、増兵を請いに鹿児島へ急行してきたからである。  官軍は長岡城を陥れたにもかかわらず、戦局は進展せず、膠着《こうちやく》状態が続いていた。事態を好転させるには、兵を強化するしかない。  官軍は、越後に足を踏み入れたときから苦戦を強いられていた。彼等が越後の地理、大小十一藩の状況、家中の人物について調査を怠っていたからである。  ※[#歌記号]花は白河、難儀は越後、  陣中歌が唄われるほど、官軍は多くの死傷者を出し、広大な山野に釘付けされて、�上冬《じようとう》�を迎えようとしていた。  閏《うるう》があったこの年は、冬の訪れが早く、九月といっても、風が沁みる。新暦では十一月の気候であった。  満二歳になった寅太郎は、剣術の稽古をする勇袈裟を真似て、棒をふりまわす。そのため、いとは障子の切り張りをするのが日課となった。 「義姉さあは、|けんびき《ヽヽヽヽ》だから」  几帳面に切り張りするいとを園は笑うが、いとは放置しておけない。  |けんびき《ヽヽヽヽ》とは鹿児島弁で、神経質なまでにきれい好きなことをいう。いとは他人に強制はせぬが、たしかにけんびきであった。便所から出てくると、腕から手先までを丹念にたわしでこすり、幾度も水をかける。入るときも上着《きもの》をぬいだ。  園は井戸端で唐芋を洗っている。  収穫が終った直後の唐芋はうまい。女たちは季節になると唐芋を食べて、貧しい家計をやりくりした。  晩年中風を病んだいとに、嫁の|ひで《ヽヽ》が、 「何を食事に差し上げましょうか」  と問うと、いとは、 「唐芋の御飯でよか」  と答え、毎日続く唐芋御飯を「幸せ」と言って食した。  いとは、園の姿を目端に入れながら、寅太郎の破いた桝目《ますめ》を切りとり、障子の桟に糊をたたく。  隣室では川口が客と話し込んでいた。磊落《らいらく》な川口にしては珍しく声の調子が低い。 「おいとどん」  客が立ち去ると、川口はいとを招いた。彼は吉之助の妻であるいとにだけ、�お�をつけて呼ぶ。 「何かござりもしたか」  いとは、寅太郎がいたずらをせぬよう糊《のり》と鋏《はさみ》を戸棚にしまうと、川口の前に坐った。 「早いものじゃのう。吉之助さあが越後に行かれて、そろそろ二か月になる」  川口は一旦言葉をきると、煙草盆を引き寄せ、煙管《きせる》に火をつけた。思いなしか表情に翳がある。 「もしや、うちの人が?」 「いや」  川口はゆっくり煙を吐き出すと、いとの目に視線を当てた。 「心を落ちつけてききやんせ。吉二郎さあが越後の病院で亡くなられもした」 「えッ」 「負傷して入院しておられたそうでごわす」 「いつのことでごわんそ」  いとは、問い返しつつ、川口の言葉が信じられなかった。 「御使者は、八月二日と言うておられた」 「そんなら、うちの人が鹿児島を発つときにはもう……」 「これが遺髪でごわす。お前《まん》さあから園どんに渡してやってたもんせ」  いとは川口の差し出した包みをみて声が出なかった。 �まさか吉二郎が……、まさか……�  いとは、油紙に覆われた細長い包みを凝視《みつ》めたまま首をふっていた。  吉二郎が八番隊員百十八名とともに敦賀から英国船に搭乗して越後今町(直江津)に上陸したのは五月二十二日である。  高田を経て、小千谷、長岡、与板と転戦し、出雲崎に着陣したのは六月一日であった。翌二日藤巻、乙芝、島崎(いずれも三島郡)と進撃した八番隊は、島崎側面の北野村の敵陣を攻撃する。  だが高地に保塁を築き、眼下を一望できる敵勢は、水田に露出した八番隊に銃弾を浴びせ、支隊に後方を襲わせた。進むも退くもならず、八番隊は苦戦に陥る。  悪戦苦闘の末、日没に戦場を逃れたときは、所々の人家に火の手があがり、武器弾薬は敵勢に奪いとられ、隊長以下半隊が討死していた。  幸い吉二郎は無事であったが、八番隊は潰滅的な打撃を受ける。  出雲崎に退却した吉二郎は、七月十二日藩家老島津伊勢の率いる番兵二番隊が到着するに及んで、その監軍に転じた。  そして、  七月二十九日長岡城の完全攻略が成ると、吉二郎は番兵二番隊監軍として、外城二番隊、府下十四番小銃隊と共に前進を開始する。  見附、大面、月岡、曲淵(三条市)と進み、対岸の丘陵に敵軍を認め、渡船場から五十嵐川を渡ろうとした。  しかし舟がなく、ようよう一隻みつけて乗ろうとすると、敵勢は対岸の水際に競い来たって、銃弾を浴びせかけた。  両軍は川を挟んで激戦となる。  いや岸上に露出した味方は不利であった。地の利を占めた敵軍の標的となり、死傷者が相次ぐ。長州の奇兵隊十人ばかりが加勢にきたが、たちまち六人が斃れた。 「進め、怯《ひる》むな!」  兵を督励叱咤していた吉二郎の腰にも銃弾は命中した。八月二日のことである。  重創の吉二郎は柏崎の病院に運ばれたが、治療の甲斐もなく、十四日に没した。三十六歳。遺骸は高田(官軍は最初ここに本営を置いた)に葬られた。  翌九月二十九日いとは、川口や園とともに西郷家代々の墓所である南林寺に行き、遺髪をおさめた。  海に近い南林寺は汐の香りが漂っている。いとは、海を遮るようにそびえたつ桜島に視線をあてながら、遠い越後へ思いを馳せていた。  敵地とはいえ、遺髪のとどくのがあまりにも遅い。初めて出征した吉二郎が、越後の野に果てたかと思うと哀れで哀れで涙をおさえることが出来ない。  昨夜は、遺髪をみて泣き崩れた園と涙にむせびながら炉端で過した。悲しみと衝撃が手応えのないままに、繰り言《ごと》と涙を募らせ、眠ることが出来なかった。  園にとって吉二郎との生活は、わずか十か月で終熄したのである。みつ・勇袈裟が父の死をきき、神妙にしているのも痛々しい。 「吉之助さあは、八月十日に柏崎に上陸したそうでごわす。きっと吉二郎さあを見舞っておらるるに違いなか」  いとは、川口の言葉を思い出し、胸にこみあげる熱いものを押えた。  だが、いとや川口の想像を裏切り、吉之助は目と鼻の先にいながら、吉二郎を訪うことなく永訣している。  吉之助の船が柏崎ではなく、新潟に入港したからであった。官軍は長岡城を奪回した七月二十九日、別隊が新潟を占拠している。吉之助が到着したときには越後の平定は終っていた。  吉之助は戦後処理を見届けるため九月九日まで松ヶ崎(新潟市)に滞陣する。参謀黒田了介に懇請されたからで、その陣中に悲報はもたらされた。  悲嘆号泣した吉之助は、吉二郎の墓を預かる高田日枝神社に祭祀料三千|疋《びき》を遣す。そして頭を丸めた。  九月二十九日(この日庄内藩降伏)、黒田とともに庄内に入った吉之助は、 「西郷という官軍の大入道が来た」  とたちまち城下の評判になる。五尺九寸の堂々たる体躯であれば無理もないが、悲しみは時として可笑しさをもたらすようである。 「義姉さあ、疱瘡勧進《ほうそうかんじん》に行きもはんか」  いとは、安に誘われて家を出た。  疱瘡勧進は疱瘡踊りともいわれ、疫病が流行《はや》るとその方限《ほうぎり》で催される。良家の婦女子が揃いの衣裳に角帯を締め、盲縞《めくらじま》の股引きを穿き、男の風俗をして各戸を踊り廻る。  そして得た纏頭《てんとう》(祝儀)を産土《うぶすな》神に献じて、疫病退散の神楽《かぐら》を奏してもらう。  西南戦争後この踊りを目撃した東京のある新聞記者は、十露盤絞《そろばんしぼ》りの手拭を被って三味線を弾き、�ああ、軽いとな�と狂気の如く市中を歩行するさまは�奇態だ�と記している。  踊りは明治十一年を最後に禁じられた。 「ついでごわんで(ついでですから)……」  安は途中で有馬家に立ち寄り、有馬糺右衛門の妻国と娘の松をも誘い出した。  国は大山成美の妹で、成美の妻安とは義姉妹になる。いとこどうしでもあった。  踊りは上之園の隣村下荒田村で行なわれていた。  いや軽いとな軽いとなー  村に入ると三味線太鼓の音もにぎやかに囃子《はやし》ことばが響いてきた。近郷近在からやってきたのか、狭い田舎道は人で溢れている。  いとは義妹たちと見物の群に加わった。  いや軽いとな軽いとなー  踊り踊ればお疱瘡が軽し  お神は踊りが好きで、  流行るお疱瘡  いや軽いとな軽いとなー  髪を島田に結い、揃いの単衣《ひとえ》に緋縮緬《ひぢりめん》のたすきをかけ、花染め十露盤絞りの手拭を首に巻き、白足袋を穿いた踊りの行列は軽快である。  彼女らは手拍子足拍子を揃えて進み、音頭役の唄にあわせて「軽いとな軽いとなー」と和す。  いとも「軽いとなー」と呟きつつ、寅太郎の疫病退散を願って、踊る一人に銅貨のおひねりを渡した。  寅太郎は虚弱である。死は突然にやってきて人々を悲嘆の底に突き落す。いとは吉二郎の訃《ふ》に接して以来、ひそかに死に脅え、家族の無事を祈ってきた。  疱瘡勧進に来たのも、踊りを見るというより、勧進をして家族の息災を祈念したかったからである。 「あれ……」 �松どんは、何処をみているのでごあんそ�  言いかけていとは言葉を呑んだ。十三歳の松が前方を喰い入るように凝視《みつ》めていたからである。  視線を追うと、良家の子女とおぼしき令嬢が、女中を従えて佇んでいる。彼女は多勢の見物人のなかで一きわ目立った。  清楚でにおうように美しい。  いとは、道を横切りさりげなく近づくと、女中の背に負われた赤子に傘を差しかけながら、彼女を子細に観察した。容姿といい品格といい申し分ない。 「どちらのお嬢《ごい》さあごあんど」 「まあ、松どんだけでなく義姉さあまで、どうなされたのでごわす。私たちは義姉さあがあんお嬢さあを頭の天辺《てつぺん》から足の先まで眺めておられたので、はらはらいたしもした」  いとの心を知らぬ安と国は笑いながら顔を見合わせた。  だが、いとは義妹たちが踊りをみている間に村人から令嬢の身元をきき出していた。 「慎吾どんの嫁女にどげんでござりもそ」  いとは帰宅するとさっそく自分の考えを吉之助に話した。 「下荒田村の得能《とくのう》良介さあの長女《むすめ》で、清子さあと言います」 「なに、得能氏、それなら昵懇《じつこん》じゃ」 「御存知で……」 「ともに国事に奔走してきた」  吉之助によると、得能とは青年の頃から深く交り、肝胆相照らす仲だという。得能は明治三年七月新政府に出仕して民部兼大蔵大丞となるが、この頃は御側役用人・書役であった。 「それなら話は早うござりもす。お前《まん》さあから、あちらさあへ申し込んではくださりませぬか」 「よし、わかった」  吉之助の直談判で縁談はたちまち整った。明治二年六月十二日のことで、得能は、この二日前アメリカから帰朝していた。吉之助も江戸から帰国したばかりである。彼は新政府から残留の命令を受けたが、病気を口実に浦賀を出帆した。 「何分にも急なことで……」  いとは、花嫁の父母に詫びた。  婚礼は池上四郎(薩摩藩侍医の息子で、西南戦争では西郷と行を共にする)夫妻の媒酌で行なわれたが、ばたばたと決まった婚約、婚礼では、新郎の衣裳もままならなかった。慎吾の長崎出港が目前に迫っていたからである。  慎吾はこの年(明治二年)の三月六日、ロンドン留学の朝命を受けていた。視察をかねた一年の留学であるが、長州の山県《やまがた》狂介(有朋)もいっしょであった。  赤貧洗うが如き状態では日数があったとしても、慎吾の衣裳を購入することは出来なかったであろう。  いとは、吉之助がかつて黒田|斉溥《なりひろ》(島津斉彬の大叔父で筑前藩主)から拝領した木綿小倉の白布を染めて紋服に仕立てた。 「おかげさまで、なんとかすみもした」 「きれいなお方でごわすなあ」  宴席のあと、園が感嘆の呟《つぶや》きを洩らす。清子は園とは異なり瞳が大きい。こんもりと中高で彫りの深い顔立ちをしていた。  祝言をおえた花婿・花嫁は吉之助が用意した部屋へ移る。だがせっかくの部屋も蚊帳《かや》がないため、花嫁は一晩中扇子で蚊を追い払い、朝を迎えた。  蚊帳だけでなく、西郷家には人数分の食器もなかった。清子は里帰りの折、このことを父母に話し、蚊帳と十人分の食器を届けてもらう。  慎吾二十七歳、清子十六歳であった。  この年の二月吉之助は薩摩藩参政(家格は一代寄合)に、慎吾は監察に、小兵衛は分隊長に任じられている。  明治二年七月中旬。  いとをはじめ西郷家の人々は、上之園から寿国寺に近い武村に移転した。吉之助が屋敷を購入したからである。 「広か家でごあんが」  屋敷をみた|せい《ヽヽ》が、まず感嘆の声をあげた。  敷地六百九十坪の新しい家は、母屋の他に長屋、厩屋《うまや》、米倉、納屋が備わっているだけでなく、広い菜園地があった。  部屋数も十二畳の客間、四畳半の茶室、四畳の下女部屋の他に、八畳が七つもあり、どの部屋も縁がめぐらされている。  厨も上之園とは異なり、屋内にあった。 「寺のようにひろびろとした厨屋でござりもす」 「それに外井戸まで付いていて……」  園も珍しく昂奮して、せいと語りあっている。  いとも家の内外を見て廻ったが、とにかく広い。 「小兵衛は玄関脇の八畳がよかろ」 「お前《まん》さあはどのお部屋を?」 「奥の八畳にしよう」  吉之助は自分と小兵衛の部屋を決めた。それでもまだ八畳は五つ残っている。  いとは吉之助の諒解を得て炉のある部屋を居間とし、一つを川口に、一つを園・みつ・勇袈裟に、一つを清子に、残りの一つを自分と寅太郎・菊次郎の部屋に当てた。  だが菊次郎は父の部屋にいることが多い。  彼は島の女|愛加那《あいかな》と吉之助との間に生れた子供で今年九歳になる。吉之助の意志で、六月はじめに上之園の家にやってきた。  安政五年十一月。  吉之助は、幕府の追捕《ついぶ》を逃れて薩摩にやってきた勤皇僧・月照と入水《じゆすい》自殺をはかり、彼だけが蘇生した。  幕府の咎めをおそれた藩庁は、吉之助に大島潜居を命じる。沖永良部遠島以前のことで、彼は約三年大島で暮らした。  愛加那は竜郷《たつごう》村竜一族|佐栄志《さえし》の娘で、六歳で父をなくし、以後は女手一つで育てられている。母の名は枝加那(加那は愛称、敬称)。  吉之助は、竜佐民《りゆうさみん》(竜一族の長・佐運の弟)のすすめで美貌の愛加那を娶《めと》る。安政六年十一月のことで吉之助三十三歳、愛加那は二十六歳であった。  当時は島にやってきた役人や遠島人が、在島中に島の女を娶って家庭を営むのは、当り前のことであった。  この時期の吉之助には妻がいない。  彼は嘉永五年伊集院兼寛の妹を妻に迎えたが、留守中(斉彬の参勤に従い江戸へ行く)に離別させられている。  祖母と兄弟だけの貧しい家、しかも夫吉之助が不在とあっては花嫁も辛抱できなかったのであろう。  吉之助は「両親より娶《め》とらせ候妻を(両親の死)滅後に追い出し」と書いているが、離別は妻の実家から申し入れてきた。  吉之助は愛加那との間に菊次郎と菊草(のちの菊子)をもうける。だが島の女を内地に伴って帰ることは許されない。内地の人々は島民を蔑視し、自分たちより一段、低い人間とみていたからである。  それゆえ召還状が到着した時、吉之助は母子を島役人(間切横目)の得藤長《とくふじなが》や、吉之助と入れかわるように大島に赴任した桂《かつら》久武(桂はのちに薩摩藩家老として財務方を受け持つ)に託した。  島の女の生んだ子——如何に愛する夫の子供とはいえ、引き取って育てるにはそれなりの覚悟と勇気がいる。  現代とは異なり、当時子供は家——父親に属するものと考えられていたが、島民は異人種で、内地人とは一線を画する。  しかし、いとは菊次郎だけでなく、明治九年になると菊草までも引き取り、撫育した。  四歳の寅太郎、六歳の勇袈裟、七歳のみつ、九歳の菊次郎。  四人の子供がいるせいか、広い家もにぎやかである。いや腕白ざかりの三人の男子は一刻もじっとしていない。その男子たちの輪に時々熊吉がまじり、さらに活気が漲《みなぎ》る。 「さ、みんなしてかかってきやんせ」  二十七歳の熊吉は、大きな体で庭に立ち、相撲や撃剣の相手をつとめる。子供たちは闘志を燃やして彼に襲いかかった。  子供たちは小兵衛がいなくなってから、熊吉を小兵衛の代わりにしている。  吉之助は、不在の小兵衛に一間を当てがったが、彼は京の儒者・春日潜庵の門に留学中であった。  それゆえ清子はまだ小兵衛を知らない。小兵衛に次いで慎吾の留学……。 「清子さあは、慎吾どんが帰られるまで、お実家《さと》におられてもよかが」  いとは、慎吾が長崎に出発した日清子にすすめた。  祝言をあげたとはいえ、十六歳の何不自由なく育った清子が、夫も居らぬ貧しい婚家にいるのは気の毒である。清子の父得能良介もそれを望んでいた。 「いいえ、わたくしはここに居りもす」  嫋々《じようじよう》たる外形に似ず、清子はきっぱりと首をふった。慣例の里帰りを済ませると、彼女は粗衣をまとい、一家のなかに溶け込んだ。  かつてのいとと同じように、糸をつむぎ、機を織る。  チャクチャンチャン、チャクチャンチャン……。  厨にいると、リズミカルな清子の機織りの音が聞こえる。感覚のよい清子は同じ糸を使っても着映えのする布地に仕上げた。  季節は秋を迎えていた。  吉之助が正三位に叙せられたのはこの年(明治二年)の九月二十六日である。しかし吉之助は位記返上を願い出、藩主忠義の名で案文を書く。 �官位があってこそ位階があるのに、無官のものが高位を授けられては理にもとる。王事多難に身をもって尽すのは臣下としての義であって、殊遇《とくぐう》を受けては地下の同志の霊に申し訳ない。どうぞ以後隆盛の一門には位階下賜の典を止められますよう�  再三に渡って辞退した吉之助は東京の大久保にも手紙を出す。�この田舎者に何の役にも立たぬものを、無理に押しつけられるのは片腹痛い�。  そして吉之助は二千石の賞典禄を学校づくりにそっくり寄付した。賞典禄とは戊辰戦争の論功行賞で、吉之助は最高の二千石を、大久保は千八百石を、慎吾は賞典米八石を下賜されている。  明治三年が明けると、吉之助は薩摩藩参政までも辞退した。  三月十八日。  いとは二人目の男子を出産し幸せを噛みしめる。武士の家では女子より男子の出生をよろこんだ。藩の戦力になることと、嫡男が早世した場合、跡を襲えるからであろう。  長州から帰国した吉之助も次男の誕生を喜び、午次郎《ごじろう》と名付ける。午《うま》の年に生れたからで、彼は子供の名に凝ることなく、生年の干支《えと》を一、二、三の数字に冠し、三人の男子に寅太郎、午次郎、酉三と命名している。 「おれの弟じゃ」  寅太郎は、みつや勇袈裟が赤児をのぞきに来ると、得意げに言う。だが菊次郎は他の人々と同じように�午《うま》どん�としか言わない。  菊次郎は、いとを�母上�と呼びながらも、距離をおいている。子供心にも我儘を言ってはならぬと思っているのか、おのれを主張しない。いとはそんな菊次郎が哀れでもあり、もどかしくもあった。  いとの怯《ひる》みが、菊次郎に伝わるのであろうか。  いとは菊次郎が上之園にやってきた日から、よき母親を装ってきている。血を分けた子供でないゆえ、遠慮があった。 「奥《こい》さあは、菊次郎|坊《ぼん》に優しか」  せいは、いとの態度を批判するが、いとは改めることが出来ない。いとは園がうらやましかった。  彼女は実子がいないので、みつ・勇袈裟に継母として公平に接することができる。だがいとの場合は、感情に公平さを期することはむずかしい。  理屈ではわかっていても、血が本能的に寅太郎と菊次郎を区別する。いとは心から菊次郎をいとおしみつつも、隙間を感じて当惑していた。 「菊次郎を伊作《いざく》に連れて行《ゆ》っ」  いとの気持を知ってか知らずか、四月になると、吉之助は伊作温泉(日置郡吹上町)に菊次郎を伴った。  犬たちもいっしょである。犬のなかに一匹洋犬がまじっていた。  小兵衛が戊辰戦役後江戸から連れてきたオランダ種のトラで、東征の前、京でこの犬を入手した吉之助は祇園の茶亭でトラと食事を摂《と》るのが例であったという。 「旦那さあは投網《とあみ》も上手ですが、狩りも名人でごわす。けもの道をよう知っておられて、その道の要所要所に罠《わな》を入れ、犬に追い出させるので、獲物を逃すことがありませぬ」  いとは吉之助らを送り出したあと、熊吉の話を思い浮かべていた。  熊吉はいつも吉之助の供をする。  日当山では、湯小屋に近い竜宝家に滞在し、天降《あもり》川で投網を、溝辺、隼人、加治木の山野で兎狩りを行なった。                         犬を追い山野を跋渉《ばつしよう》する吉之助は、勢子《せこ》たちが驚くほど敏捷であるという。  いとは、揃いの狩笠を冠り、股引きを着け、鷹野足袋に山草履を穿いた吉之助と菊次郎の姿を想い、血を意識せずにすむ彼等の関係が嫉《ねたま》しかった。  伊作に着いた吉之助は麓《ふもと》の田部家に滞在した。湯小屋を持つ田部家は隠居部屋が空いていた。明治三年を皮切りに吉之助は幾度か伊作を訪れ、田尻、湯浦、与倉、和田等で狩りをし、島津日新斎の生誕地|殿《との》城に登っている。  彼は、狩りをする前に必ず絵図面をとった。近辺の一ばん高い山に上り、四方をみて山、川、道、目標《めじるし》になるものを熊吉に書き込ませる。  村落の地図などない時代であれば、自分で図面をとるしかない。けもの道を吉之助がよく知っていたのも、こういう作業を行なっていたからであろう。図面をとる紙は掛軸用の二尺四方の広さのものであった。  田部家の老母つるは、 「西郷《せご》どんという方が、うちの隠居に来《こ》らるっが、よか人だそうで昼も夜もお客がある。鹿児島から帰られよと使いも手紙も来る」  と語っているが、客がないときは、村の青年たちが集まってきた。  吉之助が面白い話をするからで、日当山でも、伊作でも、のちに行く坊野、指宿《いぶすき》などでも、吉之助のそばには人々が蝟集《いしゆう》した。 「目のふとか、相撲取りのような人が、何頭も犬をつれて来《き》とっ」  吉之助の堂々たる体躯はまず村童たちの目をひいた。彼等は、口から口に語り継ぎ、吉之助が文旦《ぼんたん》の木の下で帯を締め直した姿や、百姓家で水を飲むさま、入浴の光景を目にして、|見に行く《ヽヽヽヽ》仲間を増やしている。  吉之助は村人が茶渋のついたきたない土瓶で茶を出しても、床が地に着きそうな破れ小屋に泊めても、決して不平を言わなかった。  彼に人を愛する気持があったこともあるが、もう一つには、武人であることを常に心に刻んでいたからであろう。  大島|竜郷《たつごう》に潜居中のことである。  吉之助は愛加那の兄|富謙《ふけん》と釣りに出たが、昼食の頃になると、舟の水を汲み出す道具・ユトリに糞便をした。  そしてユトリをよく洗いもせずに魚をおろしはじめたので、吉之助の意を察した富謙は腹が痛いと言い出す。 「そうか。そいは気の毒じゃ。俺《おい》だけで飯を済ますから、いっとばっかい辛抱せよ」  吉之助はそう言って、ユトリに入れた刺身を一切れ残らず食べてしまった。漁を終え舟が岸辺につくと吉之助は富謙に問うた。 「痛みはとれたか」 「はい。もうすっかり治りもした」 「はははは……。富謙、俺《おい》はお前《はん》を試してみたと。ユトリの肴がいやさに腹痛を言い出したくらいわかっていた。そげなことでは戦《ゆつさ》はできもはん」  明治五年御親兵の演習が行なわれた時、吉之助が地べたに転がった握り飯を拾いあげ、砂を払って食べたのも、彼の裡《うち》に「戦場」があったからであろう。 「わたしがやりますゆえ、義姉さあは午《うま》どんのそばにいてたもんせ」  毎年晩春から初夏にかけて味噌づくりをする。水に浸した大豆を蒸し、つき砕いて麹《こうじ》と塩をまぜ、桶に入れてゆっくりと発酵させた。  大豆と麹の割合、麹の種類——米、麦、大豆——によって味噌の色、味が違ってくる。 「義兄さあが居られぬのが残念でごわす」 �せめて、火の番をしよう�と言ういとに、園は告げた。  吉之助は味噌づくりが上手である。いとも園も彼にコツを教わった。手先の器用な吉之助は本棚、下駄、草履などをつくっては家族に与える。 「さ、履いてみやい」  出来たての下駄をはかされ、鼻緒の具合を手でたしかめる兄に、亡き吉二郎が恐縮したこともあった。 「トラが獲物をとるのを楽しみにしておられたゆえ、戻いやったら、トラの手柄話がきけもそ」  いとは園に語りかけながら、菊次郎の不在でほっとしているおのれをみていた。  菊次郎は島が恋しいのか、時々ひっそりと庭を眺めていることがある。十歳であれば郷愁に陥るのも無理はないが、いとは実母でないだけに胸を衝かれる。  七年間父と隔てられた菊次郎は、父を慕いながらも、寅太郎のように父に甘えることができない。小さな体に孤愁を滲ませている菊次郎をみると、いとはなさぬ仲だけに気を遣い優しくしてしまう。  その気遣いが、いとに自己嫌悪と疲労をもたらしていた。 「あれ、犬の鳴き声がしますが、義兄さあがお戻いやったのではありませぬか」  園の声で厨を出ると、金竹《きんちく》の垣根の角をまがる熊吉と吉之助の姿が認められた。菊次郎と犬は垣根にかくれてみえぬが、犬の鳴き声が彼等の帰宅を告げていた。  武家屋敷は、何処も細くしなやかな金竹で囲われている。この竹を垣根としたのは、すっと引き抜いて火を点ければ、火縄になるからであった。 「早いお帰りで。狩りはいかがでごわした」  いとは、門をくぐった夫にたずねた。 「トラはまったく役に立たん」 「まあ」  数日を父と水いらずで過したせいか、菊次郎が明るい表情をしている。彼は郷中《ごじゆう》教育を受けている少年《ちご》にふさわしく礼儀正しい帰宅の挨拶をした。  いとは、日焼けした菊次郎の前にかがみ込み、狩笠をとってやりながら、澄み切った彼の瞳がまぶしかった。 [#改ページ]   第三章 武 村 「よう、もどっおじゃした」  慎吾が武村の家に姿をあらわしたのは、明治三年十月下旬のことである。  昨年六月、ヨーロッパへむけて出港した慎吾は三年七月には帰朝していたが、帰朝報告や兵部省の仕事で東京に留まっていた。 「ここがすぐにわかりもしたか」  いとは、何の前ぶれもなく戻ってきた義弟に問うた。一家は彼の留守中に移転している。 「松が目印になりもした」  武村の家には赤松黒松の四本の大樹がある。田園地帯のなかでいつのまにか松が「武村の吉どん」の目印になっていた。  武岡山麓に位置する武村は、裾野のなだらかな傾斜地に人家がかたまっている。田をうるおしてきた水がせせらぎとなり、西郷家の門前でも音をたてていた。 「清子どんが、お待ちかねでごわす」 「留守中はお世話になりもした」 「いいえ、よう働いてくれて、助かりもした」  いとは慎吾をねぎらい、清子を呼んだ。  帰朝後兵部大丞・陸軍掛となった慎吾は、人間がひとまわり大きくなったような気がする。フランス仕立ての軍服がよく似合った。  むかし茶坊主であった慎吾は清潔好きでおしゃれで、兄のような悲壮感を持たない。人を回避せず何人とも談笑し、酒を飲むと陽気になって裸踊りを披露した。 「義姉《あね》さあ、あいがとござりもす」  吉之助が、吉二郎の遺児勇袈裟の分家を藩庁に願い出、許されたのは閏十月十四日のことである。  そのことをいとから告げられた園は、涙を流してよろこんだ。別家といってもまだ七歳の子供なので、住いは吉之助といっしょである。 「義兄《あに》さあにお礼を申し上げねば……」  勇袈裟を連れて、吉之助の部屋へいく園を眺めながら、いとは園がつくづく羨《うらや》ましかった。  彼女は勇袈裟・みつのまたとないよき母親となっている。勇袈裟の成長を生甲斐としてひたすら働く。いとは裡《うち》なる菊次郎を想い、彼に踏み込めぬおのれがなさけなかった。 「手をきれいに洗いやんせ」  |けんびき《ヽヽヽヽ》のいとは、寅太郎にやかましく言っても、菊次郎には繰り返すことが出来ない。  菊次郎の何気ない仕ぐさや表情に島の女の影をみて、異質のものを感じてしまう。彼は大久保利通の次男伸熊(のちの牧野伸顕)と仲がよかった。  共に文久元年に生れたせいか郷中《ごじゆう》は異なるのに、行き来をして語りあっている。伸熊の家は新照院にあった。  城山の南麓新照院と武村の間は約一・五キロで、少年の足でも三十分もあれば行ける。彼等は吉之助のつくった土俵で相撲をとることもあったが、たいていは玄関脇の空部屋——小兵衛の部屋——で過すことが多い。  いとはわざと近づかなかった。  郷中に行くようになると、子供たちは互に切磋琢磨し、母親といえども女の介入を許さない。彼等には刀傷を受けても傷口は女にみせてはならぬという習慣があった。 「弥太郎!」  いとは、下男を呼ぶと、おやつの唐芋の鉢を子供たちの所へ持っていくよう命じた。  午次郎が生れてから、若い弥太郎、すえ、ゆきを雇い入れた。宗太郎、熊吉、せい……。使用人たちに家族——慎吾夫婦、園・みつ・勇袈裟、川口、吉之助夫婦と子供たちを加えると、総計十七人になる。  大家族であった。  だがいとは小兵衛がいないことを残念に思う。小兵衛が帰郷すれば全員で正月が迎えられる。あと六日で明治三年が暮れようとしていた。 「菊次郎を東京へ連れて行く」  いとが、吉之助に告げられたのはその夜のことである。 「よか機会じゃ」 「じゃどん、小兵衛どんと違うて菊次郎はまだ十歳でごわす」 「心配せんでよか。伸熊どんも共に行っ」 「大久保どんと話されたのでごわすか」  吉之助はうなずいた。  吉之助が、勅使岩倉|具視《ともみ》から上京を促す宣旨《せんじ》を下されたのは五日前の十二月二十日である。岩倉は大久保、山県、川村純義(妻ハルは吉之助のいとこ)を従えて来麑《らいげい》していた。  岩倉はこのあと久光から「自分の朝勤に先立ち、吉之助を上京させる」の回答を引き出す。久光の同意がなければ、吉之助が上京できぬと考えたからである。 「年があけたら、鹿児島を発つ。菊次郎が困らぬよう身支度をしてやってくれ」  いとは、夫の言葉に驚きながらも、彼に従った。夫の意志であれば逆らうことはできない。菊次郎の年齢を思うと不憫になるが、吉之助は父親である。わが子の将来を考え、学問をさせようと思っているのであろう。  吉之助は人材養成を第一と考えていた。二十三歳の小兵衛をはじめ数人の子弟を春日潜庵の門に送ったのも、小兵衛の希望というより、吉之助の意志であった。  吉之助はぴたりといかぬ母子の関係をみて、手元に置こうとしているのかも知れない。  最近のいとは、よちよち歩きをはじめた午次郎に心を奪われ、寅太郎にすら注意を怠っている。  快・不快、こまかい表情をみせる午次郎は、いまが一ばん可愛い。「オツムテンテン」「ばんざい」などをして人々を笑わせ、母親を誰よりも慕った。 「東京は鹿児島と違《ちご》て、寒かところでごわす。綿入れもいると……」  慎吾から東京の事情をきいた清子が、衣服の用意をし、いとの荷造りを手伝った。  あわただしい正月二日が過ぎ去り、吉之助が慎吾、菊次郎を伴い、鹿児島を出帆したのは明治四年一月三日である。  彼は日向細島で勅使一行と合流し、長州、土州を訪れ、「政風一新」をはかるための�薩長土同盟�を成立させた。浦戸(高知県)から大坂に行き、大坂から上京した吉之助は、兵を三藩から献上して、親兵を組織することを提案する。  新政府は明治二年頃から不平士族の反抗と農商工民の一揆に悩まされていた。しかも版籍奉還したといえ、藩・諸侯は依然として存在し、租税収入はそのほとんどが列藩の管轄下にある。  新政府は国権の面からも財政の面からも危機にひんしていた。廃藩をせねば政府の存立さえ危い。 「御親兵をもって、政府に反抗する者は鎮圧いたしもそ」  吉之助は武力《ヽヽ》をもって廃藩を実現しようとしていた。 「じゃが、それは薩州から出された兵も、一朝事ある時は薩摩守《さつまのかみ》(島津久光父子)に弓を引く決心がなければできませぬぞ」 「もちろんでごわす」  朝議は一決し、吉之助は親兵徴集のために帰藩する。 「少し早かが、|まき《ヽヽ》をつくりもそか」  帰藩した吉之助から、小兵衛も東上したことをきき、いとは園に相談した。  |まき《ヽヽ》とは|ちまき《ヽヽヽ》のことである。しかし鹿児島のまきは、ふつうのちまきとは異なる。戦国のむかし兵の腰兵糧として発達したまきは、もち米を灰汁《あく》で炊き、竹の皮に包んで縛る。  竹の皮に入るだけの飯を入れるので、形はかなり大きく、小さいものでも握り飯二個分くらいはあった。  竹の皮にくるまれた飯は茶色のゼリー状になりひと月くらいは保存がきく。鹿児島では黒砂糖をつけて食べた。  他国の者にはグロテスクな|しろもの《ヽヽヽヽ》だが、国の人間にはなつかしい。いとは小兵衛や菊次郎に故郷の味を届けようと思った。  あとひと月もすれば五月である。  いとは午次郎の守《も》りをせいに頼むと、井戸端に出た。  吉之助は寅太郎を連れて、斉彬を祀った照国神社に詣でている。いとは田園に燃えたつ陽炎《かげろう》をながめながら、まきを開く小兵衛、菊次郎の笑顔を想い浮かべ、水を汲み上げる手に力をこめた。  明治四年四月二十一日。  吉之助は、久光が病気のため忠義とともに常備兵四大隊を率いて上京、市谷の兵営に入った。三藩の兵が出揃ったのは六月中旬である。  廃藩置県を前提とした大幅な人事異動が行なわれ、従来の参議すべてが辞任し、新たに吉之助と木戸の二人が参議となる。そして七月十四日電光石火に廃藩置県(のクーデター)は断行された。  だが鹿児島ではこの改革に不服を唱える一派があった。久光らである。 「反対派を鎮撫してもらいたい」  旧藩権大参事|伊地知正治《いじちまさはる》の依頼をうけた吉之助は、大久保と相談して、従道と吉井幸輔を帰県させた。  慎吾(従道)が帰ってきたせいか、清子が生き生きとしている。  白い肌、長い項《うなじ》、艶の増した黒髪……、慎吾に抱かれて、一段と美しくなった清子がいとにはまぶしい。  帰県した慎吾は、反対派をなだめつつ、一方ではポリス要員を募集していた。パリの街角でポリスを目にした慎吾は警察制度の必要を痛感し、兄に語り創設の同意を得る。吉之助は邏卒《らそつ》総長に同郷の川路利良《かわじとしなが》を推薦した。  廃藩置県後、吉之助は慎吾の屋敷に泊っていた。久光の詰問を避けるためで、慎吾の屋敷は麹町永田町にあった。  明治二年、政府は維新の功労者たちに旧大名屋敷を払い下げている。  大久保は麹町三年町に約二千五百坪、桐野利秋は本郷湯島切通しに約二千坪、板垣退助は京橋木挽町に千坪、吉之助は日本橋小網町に千坪といった具合である。  だが吉之助はそんなに広い敷地はいらぬと伊地知正治と二分した。慎吾の敷地は千八百坪ある。  小兵衛や書生たちを連れてやってきた吉之助は、所有地の区切さえ定かでない草木の繁茂する土地に、彼等を指揮して竹柵を結わせた。その竹柵が敷地の境界となった。  さらに明治六年になると吉之助は慎吾の邸内に人材養成のための「集義塾」を開いている。 「義姉さあ、長い間お世話になりましたが、ここを引き払い、東京に住もうと思います」  慎吾が、膝を正していとに申し出たのは十月になってからである。 「清子どんも東京に?」 「連れていきもす。妻がおらぬのは不便でごわす。得能《とくのう》どんもあちらでござれば……」 「お仕事のほうは済みもしたか」 「はい。ポリスになるという者が百名ばかり集まりもした。十八日には鹿児島を発《た》ちます」 「それはまた急なことで……」 「兄さあが待っておりもす」  いとは慎吾の言葉をきくと、翌日から使用人を指揮して荷造りにかかった。  吉之助は恐らく慎吾の言う通り、彼の帰りを待っているにちがいない。いとは父母なきあと、慎吾の五月の節句に武者人形が買えず、吉之助が藁半紙に武者絵を画き、壁に貼ったというせいの話を思い出していた。  吉二郎が没してから、十六歳年少の慎吾が兄を支えている。  清子との別れは辛いが、才色兼備の清子は慎吾の妻として内助の功を発揮するであろう。  わずか三百トンの汽船で品川まで行くという清子に、いとは航海安全のお守りを渡した。ポリス要員を乗せた船、慎吾がいるとはいえ、長い船旅を思うと無事を祈らずにはいられない。 「飲み水にはくれぐれも気を付けてたもんせ」 「義姉さあも、お体をいとわれますよう……」  別れを惜しむ清子を見送りながら、いとは娘を奪われた母親の気分になっていた。  吉之助、菊次郎、小兵衛、慎吾夫婦、熊吉……、皆、家から出て行く。せっかく全員が揃うと楽しみにしていたのに、また戊辰の役のときのように川口と女子供たちだけになってしまった。清子の道具・衣裳がなくなり、家のなかから色彩が消えた。ぽっかり穴があいたようである。 「清子どんがおられんと、淋しゅうござりもすなあ」  園も同じ思いなのか、清子のことを口にした。 「いま頃、船はどの辺りごあんど」 「小さな汽船というから、まだ湾内ではなかどかいなあ」 「慎吾どんといっしょに旅のでくっ清子どんは幸せでござりもす」  園が、ぽつんと本音を洩らした。  だが清子にとって航海は慎吾と二人きりになれたにもかかわらず、愉快なものではなかった。  薪水も食糧も充分に搭載せず、あわただしく出港した船は、すぐに山川港に寄港する。しかも湾外に出た船は遅々として進まず、木の葉のように波に揉まれた。  ざざざざっと波に突きあげられては地底に沈むかと思われる船……、清子も女中も船酔に苦しむ。彼女は一人だけ女中を伴っていた。  船酔から解放されても、船室の窓から水と空をながめて過す日々……、百名のポリス要員を運ぶ船であれば、うっかり船内を歩くことも出来ない。  馴れぬ船旅に疲労|困憊《こんぱい》した清子は、品川港に出迎えの菊次郎をみた時は、思わず涙がこぼれた。  鹿児島人で妻を伴って上京したのは、慎吾が最初であった。それだけに清子は鹿児島と異なる東京の生活に戸惑う。まず言葉が通じない。清子の困惑をみた吉之助は彼女の父得能良介と相談して樋口抱月画伯の妻良子を家政顧問にする。  得能良介は明治三年七月に新政府に出仕し、民部兼大蔵大丞に任じられていた。  上京して間もなく、山県ら政府の要人たちが屋敷を訪れると夫に告げられた清子は、義弟小兵衛に相談する。彼は慎吾の家に同居していた。 「食事を用意するように言われもしたが、何がよかでしょう。他県の方はどんなものがお好きでしょうか」 「さざえのツボヤキとおでんなら誰もが好みます。下男に十円持たせて買いにやらせればようごあんそ」  独身の小兵衛は気楽に答える。  清子はさっそくその通りにした。ところがなんとまあ、下男はツボヤキとおでんを荷車に満載して帰ってきたではないか。 「小兵衛どん!」  仰天した清子は思わず小兵衛を呼んでいた。  明治五年二月。  いともまた茫然としていた。菊次郎がこの二日、農業修業のため正院より米国留学を命じられたと川口に告げられたからである。  吉之助は、川口あてに家信を寄越す。  昨年十一月十二日、岩倉を特命全権大使とする使節団が横浜を出港したのはいとも耳にしていた。が、その洋行隊に大久保の二子彦熊、伸熊がまじっているとは知らない。  五人の女子留学生、なかでも八歳の津田梅子、十一歳の山川|捨松《すてまつ》があわれで、いとも世間の人々と同じように彼女らに同情した。 「こんな幼児を異国に旅立たせる親は鬼か」  見送り人のなかには、声高に批難する者もいたという。  想像もつかぬ遠い異国……。山川捨松の母|唐衣《とい》は、娘咲子を捨てるつもりで外国行きを承諾したが、心の裡では待つ思いを断てずに捨松と改名させたときく。  人材養成のためとはいえ、十二歳の菊次郎を想うと、いとも不安が先に立つ。果して無事に戻れるのであろうか。 「うちの人も、いっしょでごわすか」  いとは川口に問うていた。 「いや、吉之助どんは行きもはん」 「そんなら誰と?」 「市来宗介どんがいっしょじゃと」  市来宗介は、吉之助のすぐ下の妹琴の次男であった。今年二十四歳になる。いとは宗介が共に留学するときき、いくらかほっとした。  不安がとれたわけではないが、宗介の父・市来正之丞と吉之助とが留学を望んでいる以上|抗《あらが》えない。母が息子に指図できるのは郷中に行くまでであった。  いや女は夫に従うことしか教えられてはいない。いとは菊次郎のことになるとはらはらと案じ、周章するおのれがなさけなかった。 「我儘《わがまま》を言うのなら、たべんでよかが」  菊次郎のことが頭にあるせいか、いとは焼いた鰯に箸をつけぬ寅太郎を叱った。体の弱い寅太郎は好き嫌いをする。 「なまくさか」 「菊次郎どんはどげんすっと。好き嫌いをしておったら、異国のくらしはできもはんが」 「じゃっどん、俺《おい》は異国におるとじゃなか」 「寅太郎!」  七歳の寅太郎は時々|議《ぎ》(へりくつ)を言う。いとは声を荒らげると、すえに命じて昼餉の膳を下げさせた。鰯は値の安い魚だが、それでも女たちは節約して食べない。昼食に魚がつくのは嫡男の寅太郎と勇袈裟、川口だけである。  この時代の家は戸主、嫡男が特別扱いを受け、次いで次男以下の男たち、婦女子、使用人とおかずの区別だけでなく、食する順序も決まっていた。  西郷家では吉之助の考えで、家族はかなり平等であったが、それでも男と女の区別はある。兄夫婦を重んずる園は、いとの食事が終らなければ箸をとらない。  大きな魚の場合は、頭や腹の美味なところを男たちに配り、女児や妻たちは尻尾をとる。婦女子と使用人は、ほとんど残りもので済ませた。大家族であれば、飯も汁も煮物もあえものもどっさり拵《こしら》える。  かつて慎吾は、兄吉之助の飯まで食べてしまったが、いとが嫁に来てからの西郷家は、空腹をもてあますほど貧しくはなくなっていた。 「昼の御膳をそのまま寅太郎にやってたもんせ」  夕食のあたたかい飯と惣菜を盛付けたすえに、いとは命じる。寅太郎の我儘を放置するわけにはいかない。  薩摩藩士の母たちは、戦さを念頭において男子を育てる。男子は藩主からの預りもの——国の宝という考えがあった。一朝事あるとき、男子は生命を賭して国のために戦う。武人として戦陣にあるとき我儘が許されようか。  いとは夫を想い、菊次郎を想い、心を鬼にしていた。 「すえ、俺《おい》の御膳は?」  自分の席についた寅太郎は、いつもある足高の膳がないのをみて不審気に問うた。  西郷家は、吉之助の命令で勉強の時間、食事の時間がきまっている。その時間が来るといとは遊びにいっているわが子を迎えにやり、家に来ている近所の子供たちを帰した。 「これが、夕べの御膳でござりもす」  すえは、いとに命じられた通り、昼餉の膳を寅太郎の前にならべた。 「母上」  寅太郎は、母の差金《さしがね》と知り唇を噛む。その様子をみた勇袈裟は、一旦手にした箸を膳にもどした。 「勇どん、お前さあは好き嫌いをしたのではごわはん。どうぞ寅太郎にかまわず食べったもんせ」 「いいえ」  二人の少年は空腹にもかかわらず膳を前にしたまま手をつけない。  沈黙が続いた。川口だけがうまそうに汁を啜《すす》っている。彼はいとの心中を察し、わざと音をたてて食べ、茶を喫し終えると座を立った。  寅太郎の目にくやし涙が光る。彼は母に膳を奪われ昼食も食べ損ねている。その膳を前にして意地を張っているが、腹の虫が鳴いていた。 「園どんらに、先に食べてくれるよう言うておくれ」  いとは、すえに午次郎を預けると、勇袈裟には済まないが、根くらべだと思った。  いつのまにか黄昏《たそがれ》が闇にかわっている。  すえが戻ってきて、灯を点《とも》した。  勇袈裟はまっすぐに顔を立てているが、寅太郎はうつむいている。肩先がふるえているのは声を殺して泣いているからであろう。 �弱虫《やつせんぼ》が!�  いとは心中で毒づき、許してやりたい思いを懸命にこらえた。  声を立てずに泣くわが子をみると、意気地なしと思いつつも、不憫《ふびん》さが湧く。十三歳の吉之助とわが子の姿がいとの裡で重なりあっていた。  郷中では、島津義弘の関ヶ原の�退《の》き口(敵中突破)�を記念して、合戦前夜の九月十四日、甲冑《かつちゆう》姿の青少年が徹宵して義弘の廟所・妙円寺(伊集院にある)に行く。  妙円寺|詣《もう》でであるが、この夜、他郷中の青年に喧嘩を売られた吉之助は、相撲の腕で青年を投げ飛ばした。  恨みに思った青年は、吉之助に報復する。  聖堂の帰途、物かげから飛び出してきた青年に右腕を深く斬りつけられた吉之助は、負傷した腕を手拭でしばりわが家へ急ぐ。  だが、夕闇のなかに母まさの姿を認めると泣き出してしまった。 「お前《はん》も意気地のない奴《やつ》じゃ。母を見て泣いたと言《ゆ》じゃねか」 「俺《おい》は痛うて泣いたとじゃなか。甘えて泣いたとでもなか。途中まで出て心配顔で俺を待っとる母上をみたとき、ああ、不孝なこつをした、済まんこつをしたと、自分を責めて泣いたとじゃ」  郷中の仲間に泣いたことを咎められた吉之助は強がりを言って切り抜ける。吉之助の母まさは小事にこだわらぬ温容な人柄であった。  傷口は癒えたが、吉之助の右腕は自由がきかなくなっていた。  吉之助は以後「武道」を語らなくなり、人が変ったように苦学精励する。�少暇を得れば読書に勉み、筆跡を習練して……深更に至るも止まず�の日を送る。  文武両道の�武�を、右腕のために断念せざるを得なくなった吉之助は、悲壮な決意をしていた。 �これからは筆硯《ひつけん》をもって槍刀に代え、文を励んで精神を練り、もって士道を尽すの外なし�と。  右腕に生涯消えぬキズを負った十三歳の少年は、闇に佇む母の姿に緊張と安堵がいっきに堰《せき》を切ったのであろう。 �弱虫《やつせんぼ》��糞無駄《くそむで》(意気地なし)�を忌む藩風であれば、少年たちは泣きべそをかいても肩をそびやかしているが、まだ母に甘えたい年齢である。  十二歳の菊次郎も……。  いとは、愛息を手放した島の女の心中を想い遣っていた。  島の女は内地の土を踏むことは許されない。父の家に入った息子は、もはや彼女のものではなかった。  いとはこれまで自分の立場からしか菊次郎をみてこなかったが、永訣を承知で息子を父にゆだねたのは、彼女が子供の将来を考えたからであろう。  事実愛加那は孤独な晩年を送り、畑で倒れて村人に戸板で運ばれたが、蘇生することなく六十六年の生涯を閉じた。  母は子の幸せを願い、子は�名高き父�の子ゆえに、わずか十二歳で遠い異国へ旅立とうとしている。  父、庶兄に比べてなんと軟弱なわが子であろうか。 「母上……」  いとが吉之助を、菊次郎を想い、情におぼれそうな気持をたて直したとき、寅太郎が低く呟いた。 「もう好き嫌いはいたしませぬ」 「そんなら、まず勇どんにあやまりなされ」  頭を下げるわが子を見届けると、いとは自らも勇袈裟に礼を述べた。彼はいとが止めたにもかかわらず、寅太郎と行を共にしている。  いとには勇袈裟の優しさが嬉しかった。  子供たちの冷えきった椀を、すえに命じてあつい汁ととりかえさせたいとは、寅太郎が魚を口にすると、夜の惣菜にかえてやる。  いとの|甘さ《ヽヽ》かも知れぬが、懲罰は七歳の子にこたえたはずである。嫌な魚を一口食べれば、食べ尽さずとも許してやりたい。  いとは、長い根《こん》くらべをしたあとだけに、ひたすら咀嚼《そしやく》音をひびかせ、空腹を満たす子供たちにいじらしさといとおしさを募らせていた。  吉之助が、天皇の西国巡幸に供奉《ぐぶ》して帰麑《きげい》したのは、四か月後の六月二十二日である。  御召艦「竜驤《りゆうしよう》」と鳳輦《ほうれん》を乗りついでの巡幸に、陸軍からは慎吾(陸軍少輔)が、海軍からは川村純義(海軍少輔)が警衛を仰せつかった。  巡幸は、廃藩置県に不満をもつ西国の諸侯・士族を慰撫するためで、鹿児島の反対派久光は、廃藩置県を知ると花火を打ちあげて鬱憤をはらした。  それゆえ、吉之助の意図した�久光の融和、及び上京促進�は、行幸を仰いだにもかかわらず、効を奏さなかった。  久光は徳大寺実則宮内卿に十四か条にわたる建白書を奉呈、吉之助・大久保を批判して徳大寺と論争しただけでなく、謀臣海江田信義を上京させて、建白の趣旨が生かされているかどうかをさぐらせる。  帰麑《きげい》した翌日、慎吾と相談した吉之助は亡父吉兵衛の旧債を返済した。  吉兵衛は、百両ずつ二度にわたって板垣与右衛門から借用していた。  板垣は、薩摩郡水引村(川内市)の油問屋で、「川内川の水は干《ひ》上がっても、板垣家の金は減らぬ」といわれた富豪である。吉兵衛は、最初の百両を借りるとき、二十一歳の吉之助を伴った。  吉兵衛の二度にわたる申し出を快く承知した板垣は、息子休右衛門が鹿児島城下へ出た折、追加の百両を届けさせる。  だが、吉之助が返済を思いたったこの年、与右衛門はすでに没していた。吉之助は元金二百円(明治になって一両は一円になる)に利息二百円、合計四百円を添えて、与右衛門の嗣子与三次に返済する。与三次は四百円は過分だとして元金二百円のみを受けとり、あとは吉之助に返した。 「旦那さあも慎吾どんも、肩の荷をおろされ、さぞ晴ればれなさっておらるっでしょう」  いとは荷物をとりにきた熊吉から、旧債返済をきき、自分も桎梏《しつこく》から解放された気分になっていた。  これで大手を振って歩ける。吉之助も同じ思いであろう。  吉兵衛は借金を気にかけ、子供たちに板垣の好意を折あるごとに話していたというが、吉之助をはじめ西郷家の人々は、なんとか借金を返済したいと願ってきた。  借金がなければ、貧しさもいくらか緩和される。兄弟が昇進し役料が増えても衣食住を切りつめたのは、借金が念頭から離れぬからであった。  いとは、亡き吉二郎のぼろぼろの野良着、死んだますのかさかさに乾いた皮膚を瞼《まぶた》によみがえらせ、二人が生きていたら嬉し泣きしたかも知れぬと思っていた。  天皇と共に鶴丸城に入っていた吉之助が、鹿児島を出帆したのは七月二日である。御召艦「竜驤」に陪乗した吉之助は、軍艦七隻を従え、四国多度津に向う。だが東京からの飛脚便で近衛将校たちの紛騒《ふんそう》を知り、行幸の列から離れる。  薩長土から献じられた御親兵は、この年兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省にわかれると、近衛兵に改められた。初代近衛都督は山県有朋である。  しかし彼は兵部省の御用商人山城屋和助に公金を流用し、不正を働いていた。山城屋は山県の旧部下奇兵隊員である。  憤激した近衛将校たちは、山県が辞任せねば兵を連れて帰ると騒ぎ出す。世に言う「山城屋事件」であるが、急ぎ上京した吉之助は彼等をなだめ、説諭した。  七月二十日吉之助は参議兼元帥となり、辞職した山県の代わりに近衛都督をも兼務する。  明治五年九月十九日、川口がそれまでの俊作を雪篷《せつほう》と改める。彼は明治元年十二月二十五日量次郎を俊作に改名している。名替えは二度目であった。  あごひげも頭髪も、連獅子の白毛のようにまっ白になった雪篷は今年五十五歳になる。吉之助四十六歳、慎吾三十歳(いとと同年)、小兵衛は二十六歳であった。  七歳の寅太郎、三歳の午次郎、いずれも父に似て犬が好きである。寅太郎は時々自分の生卵を食べずに犬にやる。吉之助がよく生卵を飯にまぜて犬にやっていたからであろう。  吉之助は、十二頭に増えた犬のために市三を雇い入れた。彼は毎日魚を買い出しに行き、麦飯に炊き込んで犬に与えている。  吉之助は、犬に目がなかった。家にいると毎日|櫛《くし》で犬の毛を梳《す》いてやり、朝起きると、市三に卵を買いに行かせる。 「この家《や》は、人よりか犬のほうがよかもんを食うとる」  川口がいつかそう言うと、吉之助は苦笑していた。  離郷するときの吉之助は、一頭一頭の頭を撫でて別れを惜しむ。犬も出立《しゆつたつ》を気配で感じとるのか吉之助を慕ってないた。  伊作《いざく》でオランダ種の洋犬が狩りに適さぬことを知った吉之助は、和犬ばかりを揃えている。耳が立ち、口が尖り、痩躯だが温和で敏捷な薩摩犬であった。  上野の山に西郷銅像が完成した時、人々は、 「あれはツンだ」 「いや、テツだ」  と、吉之助の連れていた猟犬の名を口にしてかまびすしかった。  しかし、犬のモデルは仁礼景雄(枢密顧問官景範の子)所有の純種の薩摩犬「サワ」。製作者高村光雲が銅像の原型をとったのが明治二十六年(完成は三十一年)であるから、もはや吉之助の犬をみることはできなかった。せいぜい十四、五年といわれる犬たちの寿命は尽きていた。  生命もいらず、名もいらず、金もいらず、官位もいらぬといった吉之助だが猟犬にだけは執着している。  国分に狩りに行った時のことであった。 「敷根村の大庭定次郎がよか犬を持っとっ」  村人に告げられた吉之助は、矢も楯もたまらず大庭の家を訪れ、犬を借り受けた。狩りをしてみると、なるほど噂にたがわぬ猟犬である。 「俺《おい》にあん犬をくれまいか」 「馬なら上げもすが、あん犬ばかりは……」 「そこを何とか……」  吉之助は是非ともと懇願し、大庭から犬をもらい受ける。よほど嬉しかったのかのちに吉之助は奉書と礼状と金十円を大庭に送った。  以後彼はしばしば大庭と狩りに行くが、どうしたわけか犬が追い込んだ獲物を逃してばかりいる。いまいましくなった大庭は吉之助を叱った。 「お前《まん》さあも、よくよく鈍《にぶ》かお人じゃ、それでも兵を指揮する大将《てしよ》でごわすか」  これには吉之助も参ったらしく、大きな体を縮めていたという。  吉之助は、目下《めした》の彼等から叱られても、地位をかさに着て叱りつけたりはしない。藩の士風である博愛仁慈の精神を弱い者に対しては遺憾なく発揮した。  長州征伐の戦後処理もそうだが、庄内藩降伏の折には、降将をはずかしめてはならぬと、城を出る藩主酒井|忠篤《ただずみ》のために、兵の宿所の戸を閉めさせ、路上の将兵には背をむけるよう指図した。  黒田をはじめ隊長たちが、 「藩主が降伏したとて、油断はできもはん。監視軍を駐屯させもそ」  と吉之助に進言したが、彼は、 「勝者はうしろを見んもんでごわす。武士が一旦|兜《かぶと》をぬいで降伏した以上、それを信じるのが武士でごわす」  と寛大な処置をとるよう命じた。  犬と遊んでいる午次郎を見遣りながら、いとは裏庭で灰をつくるために藁を焼いていた。  やがて霜の季節である。  家中の手あぶりや火鉢の灰を半分だけ取り除き、上に新灰を足す作業は寒さが来てからでは遅い。  古い灰を全部とりかえぬのは、火鉢にひびを入れたり、割ったりしないためである。焼きたての灰は水分が少ない。いとは手にした棒切れで藁を起しつつ、炎の色にみとれていた。  目に沁みる赤は晩秋の色である。煙にも思いなしか朽葉のにおいが感じられる。犬の吼《ほ》える声で顔をあげると、安が佇んでいた。 「御精《ごせい》がでますのう」 「お久しぶりで……」  いとは姉さんかぶりをとって、膝を折った。安とは慎吾の婚礼以来、会っていない。いとはすえを呼び、火の始末を頼むと午次郎を安に預けて手を洗った。  |けんびき《ヽヽヽヽ》のいとは丹念に手を洗う。ついでに顔も洗い、肩や腕の灰をぱっぱっと手拭で払った。 「お待たせいたしもした」 「椎原(国幹)の叔父さあにきいてはい申《も》したが、広か家でごわすなあ。上之園と比べると御殿のようでごわす」 「ほんなこつ、御殿ごあんど……」 「じゃっどん、東京の一蔵(大久保)さあ、慎吾どん、弥助(大山巌)どんは、それはそれは広か御屋敷におらるっと……参議の兄さあを思えば、こん家は狭か」 「あんまり広か家では、掃除に困りもそ」 「それもそうでごわすな」  二人は、声を立てて笑った。  安は屋内をみて廻ると、炉端に落ちつき、いとが藁を焼きながらつくった焼芋を旨そうに食べた。午次郎は安が持参した芋飴をしゃぶっている。客の好きな午次郎は安に甘え、彼女のそばから離れない。 「ほかでもありませぬが、そろそろ小兵衛どんも年齢《とし》じゃっち思うて……」  安は、一旦言葉を切ると、芋のつっかえを押し流すように渋茶を飲み干した。 「誰ぞ、よか嫁女《よめじよ》の心当りでも?」  いとも、小兵衛のことは気になっていたので、思わず膝を進める。心にかけながらも武村にきてからは何かと忙しく、小兵衛が不在を幸いに、家事にかまけてきた。 「国どんの娘子《むすめ》でごわす」 「松どんでごわすか」 「十六歳になりもした」  いとは、安の声をききながら、三年前の疱瘡勧進の光景を思い起していた。清子を認めたのは松である。十三歳の彼女は前方の道端に佇む麗人に心を奪われていた。いとはその視線を追い、清子に近づき、彼女を慎吾の嫁に迎えることができた。  松を見たのはあの時だけだが、いとには怜悧な松の瞳が忘れられない。小兵衛も二十六歳、身を固めるには早すぎぬ年齢である。 「うちの人がきいたら、よろこびもそ」 「じゃっどん、小兵衛どんはいつ鹿児島に帰ってきやっとやろか」 「さあ」  いとは首をかしげながらも、安の夫大山成美(巌の兄)と、松の母、国(有馬糺右衛門の妻)が兄弟であることを想い、この縁談は決まったも同じだと思っていた。  十一月九日、太政大臣三条|実美《さねとみ》あての島津久光の書簡をみた吉之助は驚きあわてて帰省する。  久光が激怒し、吉之助を責めていたからである。鹿児島行幸の折、吉之助は久光のもとに伺候しなかった。 �公務中ゆえ、天皇のおそばを離れられぬ�  吉之助はそう考えたのだが、久光は挨拶に来ぬ吉之助を、主君を|ないがしろ《ヽヽヽヽヽ》にする「不忠者」とみた。  鹿児島に帰った吉之助は、久光の執事あてに詫び状を書く。出頭を命じられた吉之助が県参事大山|綱良《つなよし》(七年県令となる)を同伴、伺候すると、久光は罪状をつきつけ、 �そもそも維新の大業は、わが藩の力に与《あず》かるものである。それなのに予(久光)をないがしろにし廃藩置県を断行し、最近に至っては一人として「大政」を報告してくれる者がいない。予が薩、隅、日三州を犠牲にして、一身をかえりみず、天下に尽したことを忘れたのか�  と叱責した。  磯御殿(久光の邸)から戻ってきた吉之助は何も語らぬが、噂はいとの耳にも入っていた。 「副城公(久光)が、ごっつう御立腹じゃ。西郷《せご》どんを廟堂から退けぬ限り、上京はせぬと天子さまに言上したそうな」  噂は、夏から囁《ささや》かれている。  来客を断わり、書きもの、読書、菜園の手入れなどで日々を送っている夫をみると、いとは正月の準備にとりかかった。  噂がどうであれ、女は家を守るしかない。いとは夫と共にゆっくり新年を迎えられるのが嬉しかった。昨年は勅使と合流するために吉之助は正月三日に出発しており、今年は留守内閣の参議として、東京で過している。 「暦《こよん》が変わるち、ほんなこつでござりもすか」  大掃除に取りかかったいとに、せいがたずねた。太陽暦採用はすでに区長を通して公示されていた。 「五年の十二月三日が六年の元旦になるそうじゃちっ」 「まあ、百姓たちはいけんすっとでござりもそ。冬が春では種をまくのも難儀と思われますに。じゃっどん、正月だけは早う来てほしか」 「ないごて?」 「また旦那さあが、東京へ行きやったら淋しゅないもんどなあ」  いとはうなずきつつ、明治四年の春の思い出を手繰っていた。  上京した吉之助が親兵徴集のため帰藩を命じられた時のことである。感冒にかかった寅太郎を案じた吉之助は、彼が病床を離れると、いとに湯治を勧めた。  いとは、女子供たちを連れて指宿《いぶすき》温泉に出かける。寅太郎、午次郎、園、みつ、勇袈裟、清子、安、せい、川口、力士岩船……。岩船を随伴させたのは、荷物や子供たちを託すのに都合がよいからであった。  薩摩半島の南端指宿は、鹿児島よりも暖かい。文政二年第二十七代藩主斉興が二月田に湯殿を設けてからは、斉彬も久光も忠義も湯治に出かけ、「殿さま湯」として知られている。  気候不順な春に、二月田で過すのは寅太郎だけでなく、いとにも快かった。晴天の日には、菜の花畠のむこうに薩摩富士とよばれる開聞岳《かいもんだけ》がのぞめる。  花から花へ飛びまわる蝶、小鳥たちのさえずり、新緑の木々、絹布をひろげたような凪《な》ぎの海……。  だが、熊吉の来訪でのどかな湯治場の生活に終止符が打たれる。 「旦那さあが、東京に行かれもす」 「何日《いつ》?」 「あさっての二十一日でごわす。旦那さあは、此度は戦《ゆつさ》ではないゆえ、わざわざ湯治先まで知らすこつはなかと申《も》されたのでごわすが、椎原の御隠居さあ(国幹)が、行って来いと仰せられたもんで……」 「よう知らせてくいやった。すぐ発つゆえ、お前《はん》も手伝うておくれ」  いとは空模様が気になったが、皆に帰宅を告げ、船を用意させると心|急《せ》くままに乗船した。  いつまた会えるかわからぬ夫を想うと、一刻も早く家に帰りつきたい。惚れた夫だけにいとの心は吉之助に飛ぶ。 「船頭さん、急いでたもんせ」  帰途についたいとは、空を見上げて催促した。波立つ海をみて船頭が「颶風《あらし》になっ」と言っていたからである。  雨雲が低く垂れこめ、風が船をゆする。険悪な天候に船頭は喜入《きいれ》(揖宿《いぶすき》郡)入港をすすめた。 「まだ暴風雨《あらし》になってはおりもはん。行けるところまで行ってたもんせ」 「義姉さあ!」  安が批難をこめて叫んだ。 「難破したら、いけんすっと?」 「もう、港に引き返すことはできもはん」 「じゃっどん……」  安の言葉が終らぬうちに風雨がうなりをあげて襲ってきた。大波が船をゆすぶり、海底に引き込む。みつが悲鳴をあげた。 「大丈夫じゃ、荷を捨てれば……」  いとはずぶ濡れになりながら、船頭の命じるままに人々を指揮し、荷物のすべてを海中へ投じさせた。  風、雨、波との戦い。かろうじて谷山の平川海岸に上陸できたときは、さすがのいとも涙がこぼれた。懐中から財布をとりだし、船賃を払おうとしたが、紙幣も水を吸い込み密着して離れない。  生きた心地のせぬ数時間であった。  家に帰り、改めて皆の無事を祝ったが、いま想えばおのれの無謀さに戦慄《せんりつ》が走る。いとは、寅太郎を呼ぶ夫の声に幸せを噛みしめながら、今宵は夫の好物である豚骨《とんこつ》料理にしようと叩《はたき》の手を弾ませていた。 [#改ページ]   第四章 父と子  征韓論に破れた吉之助が帰郷したのは明治六年十一月十日である。小兵衛も兄と共に帰宅した。 「みんな大きゅうなったなあ」  四年ぶりに家にくつろいだ小兵衛は、子供たちの成長に目をみはる。勇袈裟《ゆうげさ》は一昨年から、寅太郎は今年から武小学校へ通いはじめている。みつはこの秋、女学校に入った。勇袈裟は十歳、寅太郎は八歳、午次郎は四歳、みつは十一歳になる。  小兵衛は、清子がことづけたたくさんの土産物を差し出すと、東京の話をした。 「文明開化の世になって、帽子が流行っておりもす」 「ざんぎり頭ではなうて、帽子でござりもすか」 「帽子は、ちょんまげをかくすためでごわす」 「まッ」 「機敏な商人は、長崎に帽子ば買付けに走ったそうで……」  いとは、小兵衛の話に笑い出しながら、東京にも旧弊な人々がいるのだと思った。    ざんぎり頭を叩いてみれば   文明開化の音がする  東京から流行ってきたという歌が、城下でも盛んに口ずさまれている。いや、ちょんまげ、大小をたばさんだ人々は、鹿児島行幸の折の天皇や吉之助のフロックコート姿を「毛唐かぶれ」と批難した。  しかし吉之助はふだんは着物である。  厚司《あつし》のようなラシャの上着、狩笠、股引《ももひ》きに鷹野足袋を穿《うが》ち、山草履を付けて、 「客の来んうちに……」  と、帰宅するとすぐに伊作へむけて出発した。  いとは午次郎を連れて庭に出た小兵衛を見遣りながら、彼の帰宅が嬉しくてならなかった。小兵衛はどちらかといえば三弟慎吾より長兄吉之助に似ている。  誠実で思いやりがあり、困難を嫌《いと》わない。慎吾のように清濁あわせのむ図太さはないが、情におぼれず物事を冷静に判断した。吉之助は小兵衛が何か言うと、二十歳も年少のせいか馬鹿にして真面目にとりあげようとせぬが、いとは「なるほど」と思うことが多い。  小兵衛が帰ってきて、吉之助の東京での暮らしぶりも知ることが出来た。熊吉と十余人の書生と三、四匹の犬。五百円の給料があるのに、吉之助は十五円で暮らしていた。  給料は必要なだけあればよいと、政府へ返納を申し出たが、きき入れてもらえぬので、居間の棚の上に袋ごと置いていたという。  休日に近衛兵たちが遊びに来ると、熊吉のつくった素麺《そうめん》を車座になって食し、彼等が小遣いをねだると、 「いるだけ持っていけ」  と棚を指した。  吉之助は常々「ケチは最もよくない」と言っている。 「そう言えば清子どんが困っておりもした。兄さあが毎月百円ぐらいは人のために使えと言ったらしく、心がけてはいるが、使い切るのに容易ではないと……」  いとは、小兵衛の言葉を思い返しながら、清子の困惑ぶりを目に浮かべた。清子は寡黙でおっとりしている。  五人家族で五円もあれば生活できる庶民の暮らしを思うと、百円は大金であった。ちなみに明治十一年の一人当り一月の平均所得は一円七十五銭である。  吉之助が帰郷するとき、慎吾は不在であったときくが、東京に移住した三弟夫婦を想うと、いとはなにやら淋しい。  慎吾夫婦が東京の人になってしまうようで、清子の心づくしの土産物を開きながらも、いとの心は弾まなかった。 「旦那さあは、慎吾さあに東京へ残るよう申されたようでごわす」  熊吉は、吉之助が東京を発つ前に一夜慎吾と語りあっていたと告げたが、いとの心は晴れない。  城下で吉之助と慎吾の不仲説が囁かれているせいであろうか。 「元気な坊《ぼん》でごわす」  いとが三男|酉三《とりぞう》を出産したのは明治六年十一月二十二日である。産湯《うぶゆ》を使い、新しい産着に包まれた赤子は安らかな寝息をたてている。昨二十四日吉之助は伊作からもどってきた。  だが家のなかは鎮もり、人の気配がしない。  寅太郎、午次郎がいないせいかも知れぬが、寅太郎の監視を命じたのは、いとである。  そのため下僕弥太郎は午次郎を背負い、寅太郎を学校へ連れて行く。弥太郎がついて行かぬと寅太郎がすぐに帰ってきてしまうからで、せいは、 「寅太郎|坊《ぼん》の勉強が終るまで、弥太は運動場で遊んでいるようでごわす」  といとに告げた。寅太郎は意地っ張りのくせに忍耐力がない。体の弱い嫡男を使用人たちは甘やかしている。  いとは産褥から離れたら、寅太郎を少しきびしくするよう彼等に言わねばと考えていた。 「義姉さあ、正之丞さあが亡くなられもした」  いとが園から市来正之丞の病死を知らされたのは、酉三のお七夜祝いが終ってからである。吉之助が突然伊作から戻ってきたのも、家のなかがいつになく鎮もっていたのも、通夜や葬儀で人々が、市来家へ駆けつけていたからであった。  いとにわざと告げなかったのは、血の道にさわると考えたからである。七日経てば身心も落ちつく。お七夜をさかいにお産の「忌《いみ》」も解かれる。  正之丞は、吉之助のすぐ下の妹琴の伴侶《つれあい》で、椎原国幹(吉之助の母の弟)とともに、吉之助を後見してきた。  正之丞は脳溢血で倒れている。  昨夏より病状は思わしくなかったが、いとはまさか正之丞が酉三の生れた翌日の二十三日に没するとは想像もしなかった。五十二歳で父に比べると八歳も若い。  いとの父岩山八郎太|直温《なおあつ》はこの年(六年)の八月十七日に没している。享年六十。指先がまっ黒になるほど算盤と書を練習して斉彬に認められた八郎太は、吉之助を上まわる努力の人であった。  いとは深更まで机にむかっていた父の後姿を忘れることができない。  八郎太を追うように逝った正之丞……、二人は旧藩時代、ともに家老座|書役《かきやく》であった。同じ病で倒れている。  いとは、彼女が見舞ったとき、かすかにうなずいたかにみえた正之丞に父の像をかさね、園に気取られぬよう涙を拭った。  西郷家はむかしから来客が多いが、明治七年の正月は、これまでになく次々と人々が訪れた。  叔父椎原国幹を皮切りに、桐野利秋、村田新八、別府晋介、池上四郎、野村|忍介《おしすけ》、篠原国幹等々……。彼等は征韓論で野に下った吉之助に従い、帰郷している。  一月九日には東京からはるばる旧庄内藩士酒井|了恒《のりつね》、栗田元輔、伊藤孝継ら三名がやってきた。  吉之助と庄内藩との交際《つきあい》は明治三年八月から始まっている。吉之助の寛大な戦後処置に感謝した藩主酒井|忠篤《ただずみ》が、謹慎が解けると親書を送り、親交を求めたからであった。  彼は明治三年十一月、朝廷の許可を得ると藩士七十名を従え、兵学修業のため鹿児島へやってきた。  翌四年四月、吉之助が常備兵四大隊率兵上京の折に、ともに帰京したが、藩校致道館の教師菅実秀(酒田県参事)は吉之助の東京の宿舎を訪れている。  菅との話のなかで、吉之助は後に『遺訓』になった言葉を吐く。 �命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬという者でなければ、ともに廟堂に立って天下の大政を議するは難《かた》し�と。  酒井了恒は菅の教え子であった。彼は野に下った吉之助の心事をきくため、東京からはるばる訪れてきた。了恒はかつて吉之助の推挙で兵部省へ出仕している。  この日吉之助から征韓論の顛末をきかされた了恒は、「心覚えの大意」(現在致道博物館所蔵)を書くが、肺患で明治九年二月に没した。三十三歳であった。  薩摩では主人とそれにふさわしい身分の者以外は表門の出入りを禁じられている。また武村の家には玄関がないので、馴れた訪客は庭伝いにまっすぐ吉之助の部屋へ行く。しかし初めての客は台所の続きの踏み込み——土間——に佇んだ。  応接は小兵衛が行なっているが、いとが吉之助へ取り次ぐこともある。上村彦之丞と山本権兵衛ら数人の青年たちは、いとが茶の用意をしているときに入来した。  吉之助のあとを追い、綿入れ一枚の着のみ着のままで東京を飛び出したという彼等は衣服も頭髪もほこりにまみれていた。懐ろの乏しい彼等は飢渇を忍びながら東海道を徒歩で下り、宮寺の泊りと野宿を重ねて大坂に辿りつく。  大坂で薩摩出身の実業家五代友厚(この頃政商として活躍)に船賃を借り、便船で鹿児島に上陸した。  吉之助は、彼に殉じるという青年たちを諭し、土間まで送って出た。上村はのちに海軍大将、山本は海相から首相となる。 「家に居《お》ると、体にもようなか」  正之丞の四十九日が済むと、吉之助は来客から逃れるように山川村(揖宿郡)の鰻温泉にむかった。  従者は市三と弥太郎と十三匹の犬。初めて狩りの供を命じられた弥太郎は昂奮をかくしきれずにいる。 「いいな、弥太は……」  幾度も草鞋のひもを改め、庭を往き来する弥太郎を、寅太郎はうらやましげに凝視《みつ》めた。 「若《わか》も早よう、大きゅうなりもせ」 「若者《にせ》にか」 「はい。じゃっどん、弥太が待っておらねば学校から戻ってくるようでは、よか若者にはなれもはん」 「もう、俺《おい》はそげなことはしとらん」 「左様でござりもした。きっと守ってたもんせ」  寅太郎は、素直にうなずいた。  西郷家では、元旦の朝子供たちが何か一つ誓いをたてる。 「俺は、算術を毎日一時間だけ長う勉強すっ」  勇袈裟の誓いをきいた寅太郎は、弥太の催促で、学校から中途で帰宅せぬことを誓った。弥太は�若�に甘い。だが、いとは弥太郎を咎めることが出来ない。  子供には味方が必要と思うからで、いとは産褥で反省したにもかかわらず、使用人たちに「きびしく」と言えなかった。  吉之助が、わが子に容赦しなかったからであろう。  動物の好きな寅太郎は、桜文鳥を大事に飼育していた。椎原国幹が一年前にくれたもので、寅太郎は手乗りでない雛をせっせと飼い馴らし、成鳥に育てあげた。だがその鳥が暮れに死んでしまった。  寅太郎は泣きながら、庭の隅に遺骸を埋めたが、愛鳥が忘れられず、いとに代わりの鳥を買ってくれるよう強請《せが》んだ。  いとも、小鳥の死を想うと、寅太郎の悲しみはわかる。しかし、だからと子の言いなりになっては躾《しつけ》はできない。欲しがるものを唯々諾々と与えていては、子は辛抱ができなくなる。 「小鳥を買うてたもんせ」  寅太郎はいとに付いて廻り、同じ言葉を繰り返す。いとが叱ると駄々をこねて泣き喚《わめ》いた。  菜園の手入れをしていた吉之助は、縁先にやってきて、寅太郎の様子を眺めていたが、いとが煙草盆を差出すと、何も言わずに煙管に火をつけた。 「ね、買うてたもんせ」 「なりませぬ」 「買うて、買うて、買うて……」  いとの後を追ってきた寅太郎は、縁側から座敷へ戻ろうとする母に縋《すが》りつき、膝を折った。進もうとすると全身で遮《さえぎ》り、母の着物の裾を捉えて離さない。 「寅太郎! いい加減にしなさい」  いとが声をはりあげ、わが子を振りほどこうとした時、吉之助の手が延びた。彼は長男の襟上を鷲《わし》づかみにすると、火のついた煙管を息子の首にぐいと押しつけた。 「あちッ」  寅太郎は反射的に叫び、父から逃れようともがく。その拍子に煙管の灰が落ち、首筋から背中へ入った。寅太郎はものも言わずに体をふるう。 「あんなに驚き、あんなに熱かったことはなかった」  のちに寅太郎は母に語ったが、いとも茫然とした一瞬であった。吉之助は大目玉でぎょろりと睨《にら》むだけで、めったに子を叱らない。  いとは狩りに行きたくて父を、弥太郎を凝視《みつ》めている長男をみると、 「お父上を、六地蔵のところまで見送ってきやんせ」  と熊吉を付けて出した。 「着丈は前と同じにいたしもすか」 「五分だけ短めにしてたもんせ」  園はうなずくと物指しを当て、へらを押した。  新しい薩摩|絣《がすり》を夫と小兵衛に着せたい。いとは呉服屋を呼ぶと、藍《あい》のにおう反物を三反購入した。二人とも大男ゆえ二反では足りない。借金返済が完了したので、いとも男たちの着物を買う気になった。  だが酉三と午次郎に手のかかるいとは、縫物にわずかしか時間がさけない。園が仕立てを引き受けた。 「みつが帰ってきたら、手伝わせもそ」 「みつどんには勉強がごあんそ」 「なんの。あん子は縫物や料理が好きでごわす」 「そう言えば、いつかみつどんが拵えてくれた�みつ豆�は美味しゅうごわした」 「神戸から来た家政の先生に教わったと」  園は女学校に入ったみつを自慢にしている。伯父に似たみつは手先が器用で、人形や小箱をつくり、母子の部屋を飾っていた。だが内向型のみつは人前に出るのを好まない。  弟勇袈裟とは対照的であった。  彼は姉とは異なり明るさ、にぎやかさを好み、すんなりと人の輪に溶け込む。雄々しく意志的だが、誠実で心優しく父吉二郎を想わせた。 「どなたでごわしどかい」  土間で訪う声をきいたいとが園に問いかけたとき、小兵衛が入ってきた。 「義姉《あね》さあ、ちょっと兄さあのところまでいって参ります」 「急な用でも?」 「副城公(久光)からの御使者でごわす」  小兵衛は熊吉を呼び何か囁くと、慌しく家を出た。使者は久光の次男忠経であるという。  いったい、何が起ったのであろうか。  いとは、ばたばたと旅支度をはじめた熊吉を凝視めながら、不安がよぎった。久光は吉之助を嫌い抜いている。明治五年の冬、謝罪に帰郷したにもかかわらず、よい結果は得られなかった。いとはあたかも待命服罪するが如く、家に籠っていた夫を想い、久光の咎めなきことを念じていた。  佐賀の乱はこの月の二月四日に起っている。乱を耳にした吉之助は武村を発った。来客が多いこともあったが、吉之助が兵を挙げるのではないか……との風評が流れていたからである。風評をもたらしたのは桐野利秋であった。  桐野は鹿児島城下に近い吉野村に生れた。吉之助より十一歳年少の桐野は、微禄の出であったが、吉之助に用いられて昇進する。  江戸開城の折は篠原国幹とともに「左右の隊長」となり、戊辰の役では会津征討軍の軍監として会津若松城受取りの任務を果した。  明治四年御親兵の大隊長として上京、陸軍少将に任ぜられ、五年には熊本鎮台司令長官、六年には陸軍裁判所長に転じている。  市三と弥太郎と十三匹の犬。  山川村鰻温泉に着いた吉之助は福村市左衛門の家に滞在した。  毎朝六時前後に起床し、入湯朝食を終えると、雨天以外の日は狩猟に出かけ、犬は四、五匹を交代させる。  吉之助は捕獲した兎を自ら料理して食べることもあったが、市左衛門に命じて缶詰、牛酪、鶏卵、魚類を山川のまちから取り寄せた。市左衛門はそれらを駄馬で運ぶ。  吉之助はかつて持病の激痛で朝の参殿を休んだことがある。心配した天皇はドイツ人医師ホフマンを派遣し、吉之助を診察させた。  ホフマンは灸《きゆう》を据えていた吉之助に下剤を与え、朝夕散歩すること、脂肪の少ない食品を摂《と》ることなどを申し渡した。  魚肉は犬たちにも与えられる。  吉之助は、開聞山麓まで遠出することもあったが、ふだんは付近の山野で狩猟を行ない、捕獲した獲物は市左衛門にも分けた。  毎夕温泉に浸り、少量の焼酎を晩酌に食事を済ませ、十一時頃就寝する。  小兵衛が忠経を伴い、兄をたずねてきたのは二月二十一日の夜であった。翌朝出発ぎわに熊吉が到着、吉之助の旅装をととのえる。忠経と鹿児島に戻った吉之助は久光に対面した。 「佐賀に赴き、乱を鎮圧せよ」 「わたくしごときが出る幕ではありませぬ。わが国には立派な陸海軍がおりもす」  吉之助は久光の命令を冷やかに断わり、鰻温泉に引き返す。  江藤新平が、鰻温泉に吉之助を訪ねてきたのは、明治七年三月一日である。  江藤は、征韓党の山中一郎他二名の部下と鹿児島から四台の人力車を連らねてやってきた。地元の人々は、この時初めて人力車をみたという。  指宿村十町秋元(指宿市十町)で車を帰した江藤らは、一軒の家で休憩し、その家の主人の案内で鰻にむかった。  午後七時頃、福村市左衛門(吉之助が滞在する)宅に着く。江藤は着流しで袴も着けず木履を穿《は》いていた。彼は小男だが目が大きくて鋭い。  吉之助と約三時間密談し、隣家の福村正左衛門の家に宿泊した。  翌朝八時頃、江藤は再び吉之助を訪れ、蹶起を懇請する。だが吉之助にその意志はない。話が進むにつれ、江藤は吉之助の膝下に迫り、次第に声高となる。吉之助もついに腕をまくりあげ、大声で、 「何度言うても、わたしの言うことをきかなければ、当てが違いもすぞ」  と江藤を叱責した。  会見はもの別れとなり、翌朝江藤らは鰻を去る。  四月。  南国鹿児島は樟《くす》の新芽が美しい。樟の木は城下のいたるところにみられ、武村の畠中にも枝をひろげている。 「慎吾から、兵隊を集めてくれと言うてきた」  吉之助は弟からの依頼が嬉しかったのか、いとに告げた。いとも兄弟の不仲を耳にしていただけにほっとする。  陸軍中将となった慎吾は、征討都督として台湾に赴こうとしていた。琉球漁民六十六人が台湾に漂着し、うち五十四人が蕃人に殺されたのは明治四年十一月のことである。  報復として政府は征討軍派遣を検討していたが、佐賀の乱で遅延した。  吉之助は士族兵約三百人を集めて、乗船地の長崎に送り、慎吾の要求にこたえる。 「もうそろそろ、屋根を直してもよろしゅうはごわはんどかい」  いとは、せっせと味噌玉をつくっている夫に問うた。味噌玉は煮た大豆を石臼で搗《つ》き、こねてまるめる。軒下に吊しておくと麹菌がつくので、それから桶に漬け込んだ。  吉之助は味噌作りが上手である。 「どげんで、ごわそ」  いとは催促した。  古い家ゆえ、雨もりがする。下男たちを屋根にあげ、応急処置をしてきたが、この辺りで一新したい。やがて梅雨である。これまでにもいとは訴えたが、借金の返済が終るまでは……といわれてきた。  吉之助は、下野するとき官職を辞したが、陸軍大将の身分は残されている。いとに家計はわからぬが、やがて給料が送られて来るにちがいない。  ちなみに木戸松子は、岩倉使節団の副使として欧米視察中の夫孝允に、�会計を教わり、いま自分が家の会計を行なっている�としたためているが、現代のように妻が一家の金銭を管理する時代ではなかった。それゆえ、大使《おおづか》いには夫の許可がいる。 「お前《はん》は、まだ俺《おい》のことがわからんか」  吉之助はぼそっと言って、押し黙った。思いがけぬ夫の言葉にいとはたじろぐ。虚を衝かれたようで、かえす言葉がみつからない。いや心底にひそむ驕恣《きようし》に鞭をあてられた思いで、いとは顔を赧《あか》らめた。  六月、吉之助は私学校を設立する。征韓論破裂で下野した吉之助を追って、数百名の軍人・文官が辞職帰郷していた。これら青年たちの士気を引きしめ、方向づけをする必要がある。  鶴丸城わきの旧|厩《うまや》跡に本校を置き、城下十二か所、各郷百二十四か所に分校を設け、他に賞典学校と吉野開墾社を設置した。これらを含めて広くは私学校と呼んでいる。  賞典学校は、明治六年四月弟慎吾の邸内に創設された集義塾を移したもので、薩摩出身者の賞典禄が資金になった。 「戊辰戦役の功は殊死憤戦《しゆしふんせん》した戦死者にあり、生き残った者が恩賜を有するのは忍びない。賞典禄は集めて人材養成の校費に当てよう」  吉之助のよびかけで人々が醵金《きよきん》した。吉之助は二千石(賞典禄では最高、大久保は千八百石、慎吾は賞典米八石)のすべてを寄付している。 「まあ菊次郎さあ」  七月上旬、アメリカから帰朝した菊次郎が帰宅した。 「よう、戻いやった……、さあ、早よう上がってたもんせ」  いとは土間に佇む菊次郎をまず、吉之助の居間へ誘った。足かけ三年見ぬまに背丈が伸び、むさい村童が凜々《りり》しい少年に変身している。  見馴れぬ背広姿は、十四歳の菊次郎をやや年上にみせるが、洋行帰りらしくびしっと決まっていた。 「午次郎と、酉三でごあんが」  かつて清子がいた部屋にくつろいだ庶長子に、いとは子供たちを紹介した。 「寅どんな?」 「学校に行っておりもす」  菊次郎はうなずくと、五歳の午次郎に視線を当てた。 「大きゅうなったなあ。僕が東京へ行くときは三歳でごわした。庶兄《にい》さあをおぼえとるか」 「はい」 「おお、そうか」  人なつこい午次郎に、菊次郎は鞄の中からキャラメルの箱を取り出した。 「キャンディというもんじゃ」 「あいがとう」  二歳の酉三は、菊次郎のズボン吊りをさわり、さかんに笑い声をたてている。いとはその様子に顔をほころばせながら、幸せな気分に浸っていた。  遠い異国のなさぬ仲の子を想い、無事の帰宅を祈りつつも、心乱れる日々であったが、傍に坐す菊次郎はいとおしい。まぎれもなく午次郎、酉三の兄であった。  いとは、帰国後慎吾の家で旅装を解いた菊次郎から、清子の話をききながら、慎吾凱旋の日が一日も早からんことを祈っていた。  吉之助が、桐野利秋、篠原国幹ら二百九十名と共に給料返還の口上書を提出したのはこの年(七年)の十月末である。  台湾征討などで財政支出が多いときに、何も仕事をしていない非役《ひやく》の者(彼等は辞職願いを出したが非役扱いになっていた)が、給料だけもらうわけにはいかぬというもので、県庁を通して、陸海軍卿に提出された。  だが、この給料は一旦省庁に収められたが、受領者とのかねあいで後日、本人たちに戻された|ふし《ヽヽ》がある。  吉之助の居間は、表門から入ると右手の奥にあり、東と南に縁《えん》が巡らされている。床の間付きの八畳だが、彼はそこに大きな手提鞄と大小三、四張の投網を置いていた。  床柱にはさばいたままの筆十数本を吊るし、机の上には硯《すずり》がのせてある。吉之助は書を頼まれると、唐墨と和墨をまぜて摺り、毛氈《もうせん》に画仙紙をのべて、片膝を立て徐々に筆を下ろした。  装飾といえば二枚の扁額のみ。一つはリンカーンが列国の英雄と卓を囲んでいるもの、もう一つはむく犬が凍えた人を救おうとしている絵であった。  二枚の扁額《へんがく》は季節によってワシントン、ナポレオン、ピョートル大帝、ネルソンの四枚の肖像画に掛けかえられる。  その部屋に吉之助は冬になると二畳ばかりの熊の皮を敷き、火鉢に大きな鉄瓶をかけて胡坐《あぐら》をかいていた。 「いけませんよ」  いとがいくら注意しても、午次郎は父の部屋を遊び場にしている。叱られないのをよいことに飛んだり跳ねたりして、酉三までが真似をする。庭で午次郎とかくれんぼをしていた近所の子供たちが裸足で駆け上がるのは毎度のことで、寅太郎も時々父の机の上で手習いをする。  そんな弟たちを中学生の菊次郎は一線を画してながめていた。  日置郡永吉|毛角《けかど》村坊野(吹上町)に吉之助が狩猟に出かけたのは、十一月になってからである。  坊野には|よし《ヽヽ》がいる。  よしは、いとが嫁いだ頃女中奉公をしていたが、明治初年に暇《いとま》を乞うた。 「ぜひ、坊野にきてたもんせ」  よしは、そう言って迎えにきた父親と帰村した。 「いけんでごわしたか」  いとは、吉之助の早い帰宅によしのことをたずねる。彼は急用がない限り、狩りに行くと半月ぐらいは滞在する。それが此度は六日で帰ってきた。 「移転をすすめてきた」 「移転?」 「引越しじゃ。あげん家じゃ病気になる」  いとはそれ以上問わず、夫のそばから離れた。小兵衛の婚礼の準備をしなければならない。有馬家との話し合いで、日どりは明春二月と決まった。正月の用意もある。 「さしかぶい(久しぶりで)ごわしたな」  十二月にはいると、日当山の竜宝伝右衛門が訪れてきた。  彼は上之園の頃から時々やってきては、力士岩船と家の手伝いをしてくれる。樋《とい》掃除、屋根の修理、犬小屋作り、餅|搗《つ》き等々。  岩船と同じくらい大男で体格のよい伝右衛門は相撲が好きで、閑があると下男や子供たちに技を教える。  岩船は他国者だが、下加治屋町で紺屋を営んでいた。彼等がやって来ると家の中には活気が溢れる。伝右衛門は歳暮だと言って背中の袋から山芋を取り出した。 「伝右衛門が帰るゆえ、お前《はん》らを日当山に連れち行こう」 「じゃっどん……」 「留守番は小兵衛と菊次郎に頼む」  吉之助が、突然日当山行きを口にしたのは十二月も下旬になってからである。いとは当惑したが、子供たちのよろこぶさまを思い、夫の言葉に従った。寅太郎は狩りに行きたがっている。  園、みつ、勇袈裟、寅太郎、午次郎、酉三、川口、せい、弥太郎、仙太と十匹の犬。吉之助は子供たちの冬休みを待って出発した。  寅太郎と勇袈裟は瞳を輝かせ、昂奮をおさえきれずにいる。短袴をひるがえしては犬と走り、後から来る父母たちを待つ。  走り過ぎて疲れた二人に代わり、船のなかでは午次郎と酉三が騒いだ。加治木の浜に上陸し、夕刻竜宝家の門をくぐる。  名頭《みようず》である竜宝家は、一帯の家々のなかではひときわ大きく堂々としていた。薩摩藩では方限《ほうぎり》(組)を、いくつかの門《かど》と呼ばれる百姓のグループにわけているが、その頭《かしら》が名頭である。  家は薩摩独特の田の字型で、表が八畳六畳、奥が六畳四畳半で、八畳が座敷、四畳半が囲炉裏部屋(茶之間)になっていた。  いとたちは田の字の下半分・表八畳六畳に落ちつく。表の六畳を下之間といっているが、この部屋の右手が土間であった。  表二間は天降川(東むき)にむいている。だが前庭の垣根ぎわに常緑樹の|たぶ《ヽヽ》の大樹が青々と枝をのばし、遮蔽の役割を果していた。根を張った幹は、大人《おせ》二人が手を廻しても届かない。  この他に榎と椋《むく》の大木があり、三千坪の敷地には納屋、農具小屋、牛小屋、鶏小屋などが黒い影をつくっていた。 「足元の見ゆっうちに、湯に行ってきやんせ」  旅装を解いたいとは、伝右衛門にすすめられて園や子供たちと湯小屋へむかう。湯小屋は竜宝家から数十歩坂を下りた天降川原にあり、白い湯煙を吐き出していた。  村人が、川の水で菜や農具を洗っている。いとは竜宝家の下男新吉の案内で、うす暗い湯小屋へ入った。 「よか湯でごわすなあ」 「旅の疲れもいっぺんにとるっ気のすっ」 「まこつ、手も足ものびのびといたしもす」  寒さで体が冷えきっていただけに、湯の暖かさが快い。  いとは園と語りながら、湯のなかに首まで浸った。酉三をせいに預け、川瀬の音をきいていると、遠い昔がよみがえる。  慶応二年三月、妻りょうを伴い鹿児島に来た坂本竜馬は、吉之助に勧められて、この湯治場に滞在した。  彼等はさらに天降川を北上し、塩浸《しおびたし》温泉で数日遊び、霧島山にのぼっている。いとにとってりょう女は淡い印象でしかないが、前年に褌を所望した竜馬は忘れられない。  古い褌をそのまま渡して、いとは吉之助に大目玉をくった。おのれの若さがなつかしい。  翌日いとは、伝右衛門の案内で園やみつと天降川の土手を歩く。土手は花の季節になると山桜が点々と花をつけた。  新川と霧島川が合流して天降川となった川は、土砂を押し流し砂洲をつくる。その砂洲に土を入れ水を引き込み造成したのが島津新田であった。川の西に拡がっていた。 「新田に水を引き入るっために、こん先へ行くと、五里にわたる用水路がみられもす」 「あん山は?」 「姫城《ひめぎ》の丘と言うとります」 「山ではなうて、丘でごわすか」 「へい」 「つき出た巌《いわ》は、何という?」 「名はべつにございもはん。巌の下に妙見さあのありもすゆえ、妙見さあの巌と言うておりもす」  奇巌は、竜宝家の対岸の清水《きよみず》村にあった。猛禽《もうきん》の嘴《くちばし》にも頭にもみえる奇巌は、異様である。朝起きてたぶの巨木の傍《そば》に立ち、まず目にはいったのは、丘陵に突き出たこの巌であった。  平凡な山峡の村を、奇巌が凄寥《せいりよう》な風景にかえている。いとは湯の香の漂う河原に降りながら、何故か奇巌が気になり、明日は妙見さまへ詣でようと思った。  正月二日まで竜宝家に滞在したいとたちは、三日帰途につく。だが、訪客を避けた吉之助は帰宅したのも束の間、翌四日には西別府《にしのびう》の拘地《かけぢ》——所領地——ヘ出かけた。  所領地といってもわずかな畑と雑木林があるだけである。  父母亡きあと、吉之助は弟たちを連れてこの雑木林を開墾して芋・麦をつくり、それでも足りずに傘の竹骨けずりを内職にした。  城下から西別府までは約一里半。  吉之助兄弟は、「夜明の露を踏み、月影を踏んで」の往復であったが、時には農事小屋に泊った。小屋は粗末だが雨露はしのげる。  明治八年正月四日。  地元古老の話では、長い股引きをつけ、木綿の黒羽織に袷の裾をからげ、草履に笠姿《タカンバツ》の吉之助が、田上川(新川ともいう。新川上流の取添に小屋はあった)沿いの道を一人でとぼとぼと上っていくのがみられたという。  小屋は上取添の山腹にあり、吉之助は山番に飯をたかせ、三日滞在した。厳冬なので炉辺で下駄づくりをする。大工道具がないので、古畳の上で土下駄の寸法をとり、新しい木を割って、ありあわせの材料で下駄をつくった。  その一足を大山巌に進呈し、大山は教育参考館に寄贈したので、現在まで保存(鹿児島市西郷南洲顕彰館に)されている。 �そんな広いところに手をつけ、不成功に終っては物笑いの種になります�  帰宅した吉之助は、県令大山綱良に返事をしたためる。  大山県令が出水郡大野原(出水市)開墾地の払下げを通知してきたからで、吉之助は大野原より小規模の吉野開墾地の賦与を願う。 「こいを寅太郎が俺《おい》にくれた」  台所の板の間で魚のすり身をつくっていたいとは、夫の声でふり返る。  菜園の手入れをしていた吉之助は裸足のまま土間から入ってきていた。 「まあ、蕗《ふき》の薹《とう》……」 「俺のそばで遊んでおると思うていたら、こいばとっていたようじゃ」  吉之助は幼いわが子の贈物がよほど嬉しかったのか、笊《ざる》の中身をいとにみせ報告を終えると、自ら蕗の薹を茹《ゆ》でて刻んだ。 「きょうの味は格別じゃ」  吉之助は相好を崩し、晩酌をしながら舌鼓をうった。吉之助は蕗の薹が好きである。酢醤油に浸して食べる。寅太郎は父の好物を知っていた。 「お父上が、とってもよろこんでおりもした」  夕食後、いとが寅太郎に告げると、九歳の子ははずかし気に瞳を伏せた。  小兵衛と松の婚礼が終ったいとは、また一つ重荷をおろした気分である。疱瘡勧進のとき十三歳の松も十九歳になっていた。縁談が整ったにもかかわらず婚儀がのびたのは、「正之丞の一周忌があけて」という松の父・有馬糺右衛門の心遣いがあったからである。  糺右衛門は、婚礼に吉之助の長妹琴の出席をのぞんだ。市来家、椎原家、大山家の三家は西郷家にもっとも近い。 「松どんに押しつけて……すみもはんなあ」  いとは松に礼を述べた。松は子供が好きなのか暇があると三歳の酉三の面倒をみた。 「ま、どん」  酉三も松になついている。舌が充分にまわらぬ酉三は、いとや園の真似をして、叔母である松を「ま、どん」と呼ぶ。  松は本名を益《ます》と言った。だが吉二郎の先妻ますと同音なので、西郷家に入って松と改名する。松は寅太郎・ノブ夫婦が早世すると、その遺児を引き取って育て終生武村を動かなかった。  桃の季節が終り、花も二、三日で満開となる。いとは春霞に煙る桜島をながめながら、子供たちのよごれ物を洗っていた。井戸を背にすると、桜島は正面にのぞまれる。 「奥《こい》さあ、お安さあの赤児は、女子《おなご》でござりもした」  せいに告げられたいとは、下加治屋町の大山成美(巌の兄・安は成美の妻)の家へ出かける。いとは臨月を控えた安のために、せいを手伝いに行かせていた。吉兵衛の頃から仕えているせいがいれば、安も安心して子が生める。  出産は安にとって十四年ぶりの異変であった。いや女児とは珍しい。いとも男子ばかりだが、明治六年に出産した清子も男児(長男従理)であるときく。 「おめでとうごわす」  いとの言葉に安は笑顔をみせた。 「成美どんもおよろこびでござりもそ」 「女子《おなご》ゆえ、珍しがっておりもす」 「うちの人(吉之助)も、上巳《じようし》の節句には御祝をすると言うておりもした」 「あいがとうござりもす」  安の出産は四月はじめであったが、鹿児島は旧藩時代のまま旧暦が使われている。新暦四月中旬に当る上巳の節句(雛の節句)は、あと十一、二日もすればやってくる。  いとは安の穏やかで安らかな笑顔が嬉しかった。  安は十五年前、三男辰之助を出産するとき、不幸のどん底に突き落されていた。  兄吉之助が大島潜居中であっただけでなく、夫大山成美も幕府の嫌疑を受け、京都六角の獄舎につながれていたからである。  だが、此度は吉之助も成美もいる。この日成美は吉之助の吉野開墾社設立の仕事で不在であったが、夜になれば家に戻った。  不安は影すらも感じられない。  吉野開墾社は鹿児島北部の吉野村寺山の台地にすでにスタートし、建物の建設と開墾が開始されていた。 �おから汁と芋飯にも食馴《くいな》れ候�  吉之助は成美の弟巌に書き送っているが、吉之助も鋤《すき》を手に農作業を行なった。  そして四月二十六日社屋が完成すると、 �僻遠であるにもかかわらず工事が予定より早く完了したのは、大工たちが難儀を嫌《いと》わず気張ってくれたからだと思う。食費や疲れ癒《いや》しの晩酌代は差引くことなく賃金を払うように。また吉野まで見積りにきた四郎次にも日当を支払ってやって欲しい�  と吉之助は吉野から、武村の小兵衛に指図の手紙を出している。 「菊次郎、お前《はん》は辰之助と吉野村へ行け」  四月二十八日、吉野村から帰宅した吉之助は菊次郎に吉野開墾社行きを命じる。  アメリカで修業してきた菊次郎の農業知識を役立てるためだと吉之助は言うが、いとの心は複雑である。いとは世間の口を気にしていた。  島の女の子供ゆえ、いとが菊次郎との同居を嫌がっているように受取られかねない。内地の人々はそれほど島民を蔑視し、抜きがたい感情を持っていた。  だがいとがそれを口にすれば、吉之助は、 「まだ俺《おい》がわからんか」  と一喝するにちがいない。いとは、父の命令に従順な菊次郎を思い、何かつれない仕打ちをしているようで、彼のことになると|惑う《ヽヽ》おのれがうらめしかった。 [#改ページ]   第五章 密 偵  吉野開墾社を設立した吉之助は、西郷家の耕地を雀ヶ宮にもうけていた。ふだんは農夫が畑仕事をしていたが、吉之助も時々出かける。彼は市内広馬場の酒店で焼酎粕や酒粕を求め、馬の背に積み、自ら引いていく。弥太郎が供をした。 「寅太郎、川狩りに行こうか」  鮎の季節にはいると、吉之助は小学三年生のわが子を誘い、甲突川に出かけた。弥太郎が投網を担ぎ供をする。  当時の甲突川は現在のように汚染されておらず、水量も豊富で清冽であった。鮎がたくさん生息していた。饅頭笠に筒袖姿の吉之助は、単衣の裾を端折《はしよ》り、腰に小さなビクを吊るして、川瀬川瀬を伝って投網《とあみ》を打っていく。そして獲物《えもの》の集め方を寅太郎に教えた。  吉之助は、子供の絵本である『日本百将伝』を、三人の子に各一部ずつ与えたが、それぞれの表紙に肉太の字で「寅」「午」「酉」と書き入れ、間違わぬようにした。  子供たちが病気をすると、自分の居間に寝かせて養生させ、近所の子供たちが見舞いに来ると招じいれた。彼等は吉之助あるいはいとから面白い話をきかされたという。  吉之助は時々わが子の髪を梳《す》いてやる。櫛は角《つの》細工品で、床の間の鞄のなかから取り出した。  敷紙《しきがみ》に落ちた抜毛は、 「下の溝に流してくれ」  と紙をひねって、いとに渡した。  武士の頭のものを、そこらに捨てて踏まれたり、よごされたりしてはならぬからである。  それゆえ、母親はわが子といえども男児の枕元を通らず、散髪の毛も拾いとって、水に流すか木の下に埋めた。  薩摩藩では、男子は「国からの預りもの」という思想がある。廃藩になってもその考えはかわらず、慣習はごく最近(昭和二十年の敗戦時)まで温存されてきた。思想がすたれても、慣習が生活になっていたからであろう。  相撲の好きな吉之助は、庭の土俵で子供たちが相撲をとるのをにこにこと眺め、時に声をたてて笑った。  梅雨あけが近いせいか、日和雨の天気が続いている。 「うわっ、可笑《おか》しか犬じゃ」  午次郎の声で、いとは裏庭に出る。なるほど全体は黒毛だが、首の部分に白い斑点がある。 「犬をつれて参上《めあ》げもした」 「お前《はん》な、何処《どこ》ごあすか」 「川辺《かわなべ》郷の中条良正の家の者《もん》でごわす」 「暫く、お待ちやったもんせ」  いとは、引き返すと夫に取り次いだ。吉之助は何頭かの川辺産の犬を飼っている。二年前の明治六年十二月には、川辺郡万世町小松原・平川与左衛門から雪《ヽ》を譲り受けた。  吉之助は、犬を得るために小兵衛を小松原に行かせ、懇望して与左衛門の承諾を得ると、恩賜の拝領品——黄金づくりの縁頭《ふちがしら》と目貫《めぬき》——を置いてこさせている。  雪はききしにまさる名犬で、吉之助が狩りに伴うと一日に十一頭という前例のない獲物をもたらした。 「中条どんに、これを……」  吉之助は進呈された猟犬を大よろこびで受けとると、金子の包みを渡し、辞退する下男に駄賃を与えた。 「よか、犬じゃ」  吉之助は、午次郎と犬をなでながら呟く。  川辺郷には番犬を飼育する有名な牧場があった。良正の犬も牧場の出である。吉之助は、この黒毛の犬に「攘夷家《じよういか》」と名付けた。  洋服の人をみると居丈高になって吼えたてるからで、番犬として育てられた「攘夷家」は、後にいとたちを守り、立派にその役割を果す。  明治十年が明けた。  昨秋十一月頃より�吉之助暗殺�が囁かれている。刺客は政府が放ったもので、すでに鹿児島に潜入しているという。いとは狩猟に出かける夫を案じた。 「くれぐれも注意しやったもし」 「案ずることはなか」 「じゃっどん……」 「十郎太がおる」  来客を避けた吉之助は、辺見十郎太、弥太郎、三匹の犬を連れて大隅半島の小根占《こねじめ》村(肝属《きもつき》郡・根占町)へむかった。  吉之助にとって、小根占は三度目である。八年三月、九年二月にも訪れていた。平瀬十助の家を定宿とした。 「よか宿屋もありもすゆえ、移られては」  勧める人もあったが、十助を気に入った吉之助は、彼の家から動かなかった。  いとは、迎えにきた辺見をみてほっとする。戊辰戦争の折、白河攻撃で手柄をたてた辺見は、勇将のほまれ高い。  彼は鹿児島常備隊小隊長から、近衛陸軍大尉となったが、征韓論後、吉之助に従って帰郷した。勇猛で天真爛漫な辺見を吉之助は寵愛している。  率直で喜怒哀楽をかくしきれぬ辺見は、西南戦争中も、味方が敗れるとひどく不機嫌になったが、勝利すると自分の持っているものすべてを部下たちに分け与えて、子供のようによろこんだ。 「菊どん、それは男針でごわす」  いとは、菊草に注意した。菊次郎の妹である菊草が武村にやってきたのは、昨年の春である。  吉之助は、明治六年五月に彼女を引き取るつもりであったが、愛加那が拒んだためにおくれてしまった。  菊次郎より一歳年少の菊草は今年十六歳になる。みつより一歳年上であった。だが、十五歳の初春まで島で暮らし、小学校にもいかなかった菊草は、躾がむずかしい。  いや何を考えているのかわからぬところがある。言えば素直に従うが、心に止める風がない。いとは、娘を得たよろこびも束の間、深い失望を味わっていた。父の子を自覚し、勉学に励む菊次郎とは大いに異なる。  文字は川口が教えているので、いとは言葉遣い、立居振舞、生活習慣などを語りきかせ、注意を与える。わが娘であれば、看過《みすご》すわけにはいかない。  薩摩では衣類を洗うとき男物は男|盥《たらい》で、女物は女盥で洗うが、縫針も区別していた。 「この前も申《も》したように、女子《おなご》のもんは、女針を使いもす」 「はい」 「そっちの針山に刺してあるのが、女針でごわそ」  菊草は、何が可笑しいのか|にたっ《ヽヽヽ》と笑うと、緩慢な動作で針を取替えた。  逆らったり、ふくれたりせぬので助かるが、小兵衛の妻松は、時々いらいらして声高に言う。 「菊どんに合わせおれば、日の暮るっど」  怜悧な松は気性も勝っていて、てきぱきと物事を処理した。昨年、幸吉を生んだ。  いとは、菊草に彼女自身の着物を縫わせているのだが、針を間違えぬときは糸を間違え、なかなか出来上がらない。 「義姉さあ、私学校の方がおさいじゃして(おいでになって)おりもす」  松が敷居ぎわから、いとに告げた。 「小根占に行ったと言うてたもんせ」  松は、菊草のほうをちらと見たが、何も言わずに立ち去った。私学校の連中は毎日この家にやってくる。いとは深く心に止めなかった。  だが、内務卿大久保利通の意を|たい《ヽヽ》した大警視川路|利良《としなが》は、鹿児島県出身の警部、巡査、学生(私学校を止めて上京した者)二十一名を帰郷させていた。吉之助および私学校徒の内偵と離間をはかるためである。  反政府的な彼等は、いつ蜂起せぬとも限らない。事実、九年十月に起った熊本(神風連)、秋月、萩の乱では動揺し、吉之助に説諭されている。  大久保は私学校徒の蹶起を考え、これ以前の三月(九年)自分の醵出した賞典禄を私学校から引き揚げた。いや彼等を討つことを決意し、川路を起用して私学校徒を挑発する。  川路と警視庁の部下たちは、そのほとんどが諸郷士族であった。城下士の下に位置する彼等は、旧藩時代城下士に馬鹿にされ、支配され、牛馬視されてきている。表立たぬが対立があった。  それゆえ吉之助は、川路を邏卒総長に推薦し、彼の下に諸郷士族を置き、城下士の集団である御親兵と混じらぬように配慮した。明治五年三月、御親兵が近衛兵となり、新規に諸郷士族も採用したので対立は深まる。  諸郷士族の兵卒のなかには蔑視をくやしがり、近衛兵営から警視庁に移った者もいる。  しかし吉之助に偏見はない。彼が左右の将として信頼し、抜擢してきた桐野も、川路と同じ諸郷士族であった。桐野でさえ、城下士からさまざまな侮蔑、嫌がらせを受けて育っている。 �肥《こえ》たんご武士《さむらい》��一日《ひして》兵児《へこ》(一日は武士、一日は農民)��唐芋郷士�、城下士たちは諸郷士族をそう呼び、逆らえば斬り捨てることもできた。  大久保の腹心である川路は、反政府党である私学校徒の形勢《ヽヽ》を説き、彼等が兵を起せば賊軍だときめつけ、 「君らは旧城下士(私学校は城下士が中心)に欺かれ、牛馬視されてきた。それなのに今日になっても陋習《ろうしゆう》から脱しきれず、彼等に利害をゆだね、彼等の僕《ぼく》視に甘んじている。罪の至りではないか」  と帰郷する二十一名(一名は城下士)の感情を煽《あお》った。  小根占にも、川路の密命を帯びた一人が帰村する。それをキャッチした私学校は、吉之助の身辺警護に四人の青年たちを派遣した。  密偵は、小根占出身の権中警部松山信吾であった。  ある晩、  狩猟を終えた吉之助一行は、雄川橋のほとりで、松山と出会う。辺見は怪しい人間と思ったのか、松山を睨みつけて、村人に問うた。 「あいつは、誰か」 「名もなき者でごわす」 「うむ」  一行のなかの村人が、松山をかばったので辺見はそれ以上問わずに通り過ぎたが、松山は体が震えたにちがいない。  身の危険を感じた松山は、村人にすすめられて、やがて小根占を立ち去る。  西南戦争後、薩軍の遺族や子孫たちは彼等の父、兄、子を討った同県人を許さず、慎吾や大山巌でさえ帰国できなかったといわれる。松山も帰村しにくかったのであろう、岡山県の郡長になった。 「小兵衛どん、いけんしやったとな」 「私学校の者《もん》が、火薬庫を襲いもした」  いとの問いに、小兵衛は短く答えると、慌しく兄のいる小根占へ出発した。  政府は明治十年一月二十九日、赤竜丸を鹿児島に派遣し、ひそかに兵器弾薬を他へ移送しようとする。  それを耳にした私学校徒五十余名が、草牟田《そむた》の弾薬庫を襲い、弾薬六百箱(三十万発)を奪い取った。次いで磯、上之原の火薬庫を。襲撃は三十日から二月一日まで連日行なわれる。 「しもた!」  早船を仕立て小根占に着いた小兵衛から、私学校徒の掠奪を告げられると、吉之助は膝を叩いて叫んだ。  吉之助の給仕をしていた|ふね《ヽヽ》によれば、吉之助はこの時、恐ろしい顔をしていたという。ふねは十助の娘で十四歳であった。  吉之助はふねに獲った狸を与えたことがある。ふねが礼を述べると、吉之助は、 「また獲ったらやろう。あんと(あの狸)は、若者《にせ》どんじゃった」  と冗談を言った。  翌日、いつもの柔和な表情にもどった吉之助は、小根占を悠然と発つ。 「義姉さあ、何かあったのでごわそか」  石臼をひくいとに、園が不安げに問うた。昨夜から戸外が騒々しくなり、私学校の生徒たちが、西郷家を幾重にも包囲している。  いとも不安だが、それを顔にあらわすわけにはいかない。彼女が動揺すれば家中がパニックに陥るからである。 「旦那さあが、戻いやったら、何があったかわかりもそ。それまでは騒がんよう、お前《まん》さあから、使用人たちに言うてたもんせ」 「わかりもした」  園が去ると、いとは菊草を呼び、思慮の足りぬ彼女が戸外へ出ぬよう申し渡す。  火薬庫襲撃だけでなく、鹿児島北西部の伊集院でも事件は起っていた。  墓参の名目で帰郷した伊集院出身の少警部中原尚雄が、谷口登太に恐るべき計画を洩らしたからである。谷口は私学校徒ではない。  私学校では、中原と面識のある谷口に中原の動向をさぐらせていた。谷口は耳にしたことを報告書にまとめる。 �私学校を瓦解させるのは各郷においては手を下しやすいが、鹿児島の町ではむずかしい。だが秘中の秘策を用いてやるつもりだ。その第一は西郷を暗殺すること。彼を暗殺すれば必ず学校は瓦解する。桐野・篠原まで倒せば、後は「えりくず(屑)」に過ぎぬ。西郷は自分で面会して刺殺する覚悟でいる。この人と共に斃れれば、自分としては不足はない�  谷口の報告書を読んだ私学校徒は激昂する。口々に「斬れ」と叫んだ。 「事実は明らかになったが、直ちに斬るのは軽率だ。西郷先生に報告し指図を仰ごうではないか」  篠原は生徒たちを制した。  吉之助の左右の将の一人である篠原国幹は藩校造士館で国漢を学んだ城下士である。戊辰戦争では、薩藩三番小隊長として出征、奥羽各地を転戦した。明治二年鹿児島常備隊大隊長となり、廃藩置県では一大隊を率いて上京、万一の変に備え、廃藩後は吉之助の命令で帰郷し、県下の反動に備えた。  近衛局に出仕、陸軍少将となった篠原は、征韓論分裂後、帰郷して私学校の銃隊学校を主宰する。吉之助より九歳年少で、桐野より二歳年上であった。  美男の桐野とは異なり、頭髪は半ば禿げて顴骨《かんこつ》高く、眼光鋭く、謹厳剛直の風があり、極端に口数が少なかった。  吉之助が帰宅したのは二月三日の午前九時頃である。火薬庫襲撃の一部始終を生徒代表からくわしくきいた吉之助は、大声で彼等を叱責した。 「お前《はん》たちは、何ということを仕出かしてくれたのじゃ」  いや責任は自分にある。自分が狩りに行かなければ……、鹿児島に留まっていれば暴動は起させなかったであろう。  吉之助は、彼に蹶起を歎願する校徒たちを見遣りながら、それでも大久保が関与しているとは考えなかった。  この日の夕方、中原の一味が「事を起す」との風評が流れて、校徒たちは伊集院郷永平橋上で中原らを逮捕する。  さらに十一日、野村|綱《つなぐ》が県庁に自訴するに及んで、私学校徒の激昂は頂点に達した。もはや誰も彼等を押えることは出来ない。  野村は宮崎県の中属であった。県が廃止(一時鹿児島県となる)となったので、学校処分などの件で上京、大久保に面会を求める。  一月三日大久保から呼び出しがあったので邸へ行くと、岩倉同席で大久保は川路、中原のことを語った。 「何かあったら、ただちに報告せよ」  大久保に百円もらった野村は、密命を帯びて帰県する。  野村の供述で川路の後に大久保がいるのを知った吉之助は、ついに決断した。彼は胸中を県令大山綱良に洩らしている。 「自ら旧兵隊を率いて出京、大久保に尋問したい」と。  翌十二日、正式に県令宛届書を県庁で作成、提出する。届書は陸軍大将西郷隆盛、陸軍少将桐野利秋、陸軍少将篠原国幹の連名で、前に大山に洩らした「大久保に尋問」が「政府へ尋問」となっている。この日は旧暦の十二月三十一日であった。 「おめでとうござりもす」  二月十三日元旦、いとは吉之助をはじめ家族の者と祝いの膳についた。座敷は十二畳の客間である。  昨夕、私学校本営からもどってきた吉之助は、 「表座敷で雑煮を祝おう」  といとに告げた。  御殿造りの表座敷は縁側の内側に、一間幅の畳廊下がある。夫は何も言わぬが、いとは小兵衛の様子で出陣が近々であるのを感じとっていた。  吉之助の身の廻りは熊吉が行なっている。彼は京都、江戸、東京と吉之助の行くところに従い、一切の雑用を処理してきた。  熊吉の家は西郷家に近い山之口馬場にあり、彼はその家から通って来る。 「さ、遠慮せんで、箸をとってたもんせ」  いとは、隅にかしこまっている平瀬十助に声をかけた。彼は吉之助を追うように二月四日小根占からやってきた。  夜が明けたばかりなので、幸吉(小兵衛の嫡子・二歳)は眠っているが、全員の顔がある。いとは人々の顔を眺めながら、幸せと充足に浸っていた。  かつてこのような正月があったであろうか。  吉之助が戻ると小兵衛が欠け、二人が戻ると菊次郎が家を離れた。だがいまは小兵衛も、菊次郎も菊草もいる。 「私学校の連中に、生命を預けた」  いとが、吉之助から蹶起を告げられたのは、朝餉の片付けが終ってからである。 「ご出陣はいつでごわすか」 「二、三日のうちじゃ」  いとは、まさかそれが国中を揺るがす戦さになるとは思わなかった。吉之助が、政府へ尋問のための出京で、戦さが目的ではないと言ったからである。  いや途中、抵抗する鎮台があったとしても、薩摩軍団は蹴散らして行くにちがいない。彼等は精鋭を誇る士族団であった。  それゆえ、かつて山県や慎吾が徴兵制を断行しようとしたとき、 「農工商の子弟で立派な兵隊が出来るか」  と桐野は反対した。しかし明治六年徴兵令は施行され、六鎮台、十四営業所が設けられ、約三万二千の将兵が平時常備現役となっている。  無残な敗北を予想だにせぬいとは、夫の悠然たる姿になんの不安も抱かなかった。 「雪じゃあ」  縁側から寅太郎の声がした。声に誘われて障子を明けると白いものが舞っている。  子供たちのはしゃぐ声がし、彼等が解き放ったのか、勢よく|ハヤ《ヽヽ》が走り寄ってきた。  吉之助が立ち上がってきて、犬の頭を撫でる。 「ハヤ、お前《はん》も共に行くか」  霏々《ひひ》たる雪は、翌日になっても止まず、二月十五日は五十年来の大雪となった。この朝小兵衛は出陣の挨拶をすると家を出た。いとは幸吉を伴い、女たちと裏門から見送る。  小兵衛は一番大隊の一番小隊長であった。大隊長は篠原国幹。小隊は各大隊とも十番まである。  二番大隊長村田新八。三番大隊長永山弥一郎(一番小隊長辺見十郎太)。四番大隊長桐野利秋。五番大隊長池上四郎(慎吾の媒酌をした)。  二月十五日伊敷の旧練兵場に集合した一、二番大隊は、雪天を衝《つ》き、積雪を踏んで出陣する。同じ頃、別府晋介の率いる六、七番大隊(別府は六、七番連合大隊長)も、加治木から北上を開始していた。  別府隊は、二月十四日に出陣したと書かれたものが多いが、従軍者十五名の監獄で作成した供述書によれば、「十五日出立」「十五日郷出」になっている。  加治木で軍を編成した彼等は、その夜横川に宿泊した。鹿児島を出発した一、二番大隊が十五日夜加治木泊りであることを思いあわせると、「距離的には一日早い」。  明けて十六日には積雪地上八、九寸(三十センチ)、降り止まぬ雪のなかを三、四番大隊が鹿児島を後にした。桐野、村田が吉之助に随行するため、二番、四番大隊は各一番小隊長が指揮をとった。  彼等は、伊敷の旧練兵場を出ると、左右にわかれた。右の大隊は田ノ浦から東目《ひがしめ》(大隅、日向)街道へ、左の大隊は西田橋を経て西目《にしめ》(薩摩)街道に入る。  日を追って出陣したのは当時道幅も狭く、多くの軍団を、村々が宿泊させるだけの能力を持たぬからであった。 「お出かけでごわすか」 「小吉郎どんのところに行って来《く》っ」  十六日夜、吉之助は城下騎射場の桂久武邸に赴いた。  久武の生家日置島津家と西郷家は特別な関係にある。吉之助の父吉兵衛は、久武の兄赤山|靱負《ゆきえ》の家扶で、靱負がお由羅騒動に連座し切腹した時、介錯をつとめた。  吉兵衛は靱負の遺言により血染めの肌着を二十四歳の吉之助に与え、「わが志を継げ」の言葉を伝える。吉之助は、靱負の肌着を抱き終夜|慟哭《どうこく》したという。靱負は吉之助を非常に可愛がっていた。  そんな関係で吉之助は、少年時代から久武と交ってきている。藩の財政方であった久武は、陰に陽に吉之助を支援した。  吉之助は、久武に永年の友誼を謝し、別れを告げたかったのであろう。  久武の妻富貴によれば、二人はこの夜日頃と変ることなく静かに語っていたという。だが翌朝久武は急に、 「草履を出せ」  と妻に言い、富貴がその通りにすると、雪景色のなかを平服のまま出かけて行った。  後に連絡を受け、家扶の井上六郎が農夫に変装し、家紋入りの大小と、黒籐の弓を大口《おおくち》(大口市)あたりまで届けに行く。  吉之助を見送りに行った久武が、参戦する気になったのは、薩軍の輜重《しちよう》の手薄さを目にしたからであった。  事実彼は吉之助の叔父椎原国幹と兵站《へいたん》部を受け持ち、募兵、鉄砲の修理、弾薬・弾丸の製造などを監督した。 「吉之助どんの手紙や書類は大事にせよ」  募兵のために帰郷した久武は、妻に言い遺す。富貴は夫の言葉を守り、それらのものを妊婦のように腹に巻いて寝た。  そのため官軍は、彼女を妊婦だと思い込み、屋敷に踏み込んだものの、彼女の部屋へは入らなかった。  しかし、西南戦争で夫を失った富貴は、|もとゆい《ヽヽヽヽ》の内職をして、貧苦と戦い、末子九四郎(当時満二歳)を育てあげる。  吉之助の終生の友久武は日置島津十二代久風の五男、靱負は次男であった。  二月十七日曇のち晴。  未明に起き、朝食を済ませた吉之助を私学校の者が迎えに来る。 「御首尾を祈っておりもす」 「うむ」  吉之助は、和服と袴のいでたちで、川辺出身の吉《き》左衛門《ちぜ》と二匹の犬を供に、私学校徒と門を出た。犬は黒毛のハヤとかや毛のツマである。  その後を菊次郎が声をかける間もなく追う。いとは父子を裏口から見送った。 「雪が止んで、ようごわした」 「早う支度をせねば……」  いとは、園を促すと屋内に入り、午次郎、酉三を叩き起した。  吉之助の晴れ姿をみるために、女子供たちは御殿《ごてん》下(私学校本営付近)まで行くことになっている。吉之助が陸軍大将の軍服に着かえて出立するからで、いとは夫の許しを得ていた。  陸軍大将は日本に吉之助唯一人しかいない。  だが女たちが着物を改め、雪道を子供たちと御殿下に辿りついたときは、すでに吉之助の行列は出発したあとであった。  吉之助はこの日、桐野、村田を従え、池上五番大隊と共に営門を出た。 「せめて若たちだけでも、大将の御見送りを……」  落胆したいとをみて、弥太郎が申し出た。  彼は酉三を背にしばると、午次郎の手を引き、寅太郎と共に歩き出した。熊吉は吉之助の従者として、主人に随行している。 「辰、お前も行きやい」  いとは、難儀な雪道に目をやり、新入りの下男辰吉に命じていた。  田ノ浦を経て、磯の島津邸まで来ると吉之助は立ち止まった。明治八年久光は隠居して玉里御殿に移ったが、旧藩主忠義がいる。  吉之助は門前に佇むと軍帽を脱ぎ、邸内へむかって深々と頭を下げた。旧藩主父子に迷惑がかかってはならぬと、両御殿へ出軍の挨拶には行かなかった。  吉之助の胸中を察した忠義は、わざと塀の上にあがり、家令や侍女たちと「見物」の形で行列を見送る。  桂をはじめ将兵たちも吉之助に習い、敬礼をして通過した。この礼式のおかげで弥太郎は、動き出した行列に追いつく。馬に乗れぬ吉之助は徒歩であった。  十五日から三日にわたって出陣した私学校徒を主力とする本隊は一万三千人、内城下士千六百人。彼等の服装は将も兵もまちまちである。  吉之助、桐野、篠原ら旧陸海軍人は軍服を、警視庁出身者は警部、巡査の制服を、村田新八は燕尾服に山高帽(彼は岩倉使節団に加わり洋行した)であった。  その他詰襟服、背広、和服さまざまで、なかには上衣だけ、あるいはズボンだけを古着屋から買って着ている者もいた。  十六日までに出発した大隊は、大口と肥後の県境で積雪四尺の深さに悩まされるが、吉之助の隊は、雪溶け道に難渋する。吉之助は磯から加治木浜に上陸、人吉をめざした。 「磯で大将《てしよ》に追いつきもした」  昼近くに戻ってきた弥太郎は、いとに告げた。 「何ぞ、言われもしたか」 「気を付けて、戻れよと」 「それだけ?」 「へい」  吉之助は、行列に従《つ》いて歩く子供たちをみると、瞬時立ち止まって、優しい眼差しを注ぎ、 「父上!」  と駆け寄った午次郎の頭を撫で、歩み去ったという。  いとは、子供たちが父親に会えたことを知り、ほっとする。御殿下に遅参したので思いは残るが、可《よし》とせねばなるまい。幾か月かすれば夫は必ず戻って来る。留守居になれたいとは、いつものように待とうと思った。 「大坂までは行けても、その先へは行けまい」 「小倉までは無事通行できても、汽船がないから、先海《せんかい》は渡れまい」  吉之助の上京について、巷間では色々取沙汰されている。しかしいとは夫の出京・帰麑《きげい》を信じていた。 「おいとどん」  夕餉が終ったいとを、川口雪篷が呼んだのは、吉之助が出発して三日目のことであった。 「御存知かも知らんが、政府は吉之助さあらの官位をはぎとり、征討令を出したそうじゃ」 「征討令?」 「討つという命令じゃ」 「何《なあ》ごてでごわすか。うちの人は政府を問い糺しに行くと……」 「手まわしのよかとこをみると、内務卿大久保どんの御意志でごわそ」 「では、戦《ゆつさ》に?」 「なるじゃろうのう」  いとも、征韓諭で吉之助と大久保が対立したことは耳にしている。だがまさか彼が兵を差しむけ、吉之助を討つとは……。  征討令は昨二月十九日に出され、多くの兵が、九州へむけて動員されつつあるという。  いとは茫然とした。 「何の御用でごわしたか」  炉端に戻って来ると、園が問うた。いとより二歳年上の園は、このような時またとない話し相手となる。それに平瀬十助がいた。  彼は、武村にきて騒動を見ききし、吉之助に従者として従軍することを願い出ている。  だが吉之助は、 「お前《はん》は疝気《せんき》の病があるゆえ、連れていくわけにはいかん」  と退けた。  一家の大黒柱である十助に、万一のことがあってはならぬと考えたからであろう。  いとが、川口の話を伝えると、十助は密偵のことを口にして憤慨した。 「大久保さあは卑怯なことをしやる。じゃっどん薩軍は強うごわす。心配はいりもはん」 「義兄さあは、日頃から官位などいらんと言うておられもした」 「陸軍大将をはぎとったち、大将《てしよ》は大将でごわす」  十助の言葉に、園がうなずく。  男手の足りぬ家のなかで、十助は犬の世話、薪割り、菜園の手入れ、垣根の修理などして、二月二十四日武村を去った。 �薩軍は強うごわす�と十助は言ったが、たしかにこの日まで薩軍は勝っていた。 [#改ページ]   第六章 戦 火  戦闘は二月二十一日に始まる。  先鋒として熊本南方の川尻に到着した別府隊に熊本鎮台兵が夜襲をかけてきたからであった。  薩軍から戦端を開いたのではないことを知り、いとはやはり夫の言葉通りだと安堵する。いや楽観した。  吉之助は出発に当り、政府および各鎮台に「上京の次第」を通知していた。吉之助の自筆ではないが、政府へ尋問のため率兵上京するので、人民が動揺せぬよう保護ねがいたい、という内容である。  鎮台兵の夜襲は吉之助にとっても意外だったのか、彼はこのほかに、県令大山綱良を通して、宣戦布告書ともとれる別紙を有栖川宮あてに提出した。  かつて徳川慶喜追討令が発せられた時、東征の総裁であった親王(吉之助は参謀をつとめた)は、薩軍征討の総督となっていた。  別紙は、 �政府へ尋問のため出発したところ、熊本県は未然に庁下を焼き払い(十九日)、あまつさえ川尻駅まで鎮台兵が押し出し、砲撃に及んだ�  と開戦の理由を記し、 �去る十九日征討の厳令を下されたとのこと、非は官吏を使って隆盛を暗殺しようとした政府にあるのではないか。政府はまず暗殺計画の罪根を糺すべきである。それをいきなり征討令とは天子征討を私するもので、宮ともあろう御方が自ら征討将軍になられるとは意外千万。天子の御失徳にならぬよう、よく熟慮あられ、後悔これなきよう希望する�  と、中原の自白書が添えられた。  提出者は県令名になっているが、吉之助の政府に対する怒り、抗戦の固い決意がうかがえる。  だが、いとは知るよしもない。  三月八日、勅使の一行を迎えて鹿児島城下は緊迫した空気が流れた。彼等が艦船八隻、護衛の陸軍一大隊半、巡査七百を従えて上陸してきたからである。  勅使は十日久光父子に対面すると、薩軍に征討令が出されたこと、吉之助、桐野、篠原の官位|褫奪《ちだつ》、県民の帯刀禁止、中原らの引渡しを通告する。  そして随行の参議黒田清隆は庁下を検閲して砲架をこわし、火門を釘付けし、汽船三隻の機械を解体して、熊本輸送(薩軍へ)の源を絶った。  さらに中原ら三十五名を出獄させ、県令大山綱良を伴うと、十二日|離麑《りげい》する。薩軍の協力者であった大山はこの後九州臨時裁判所に送られ、首を刎《は》ねられた。 「まあ、いけんしたと?」  いとは、突然の熊吉の帰郷に驚く。  勅使一行は去ったが、まちは不穏な状態が続いている。 「辺見さあが、兵を集めに来られたので、従《つ》いて来もした。旦那さあも菊次郎さあもお元気でごわす」 「菊次郎どんも、うちの人といっしょの隊で?」  いとは、ろくろく話す間もなく、吉之助のあとを追うように出ていった菊次郎の姿を思い浮かべた。まごまごしていると、引き止められると考えたのかも知れぬ。  出京前夜いとが、十七歳の菊次郎の出陣を反対したからであった。 「菊次郎さあは、市来宗介(共に留学した)さあと共に本営付きで、兵卒でごわす」 「小兵衛どんな?」  いとは、当然のことを尋ねた。彼は一番大隊一番小隊長として、初日に出発している。 「それが……」  熊吉は口ごもり、やがて姿勢を正した。 「言うてたもんせ」 「はい」 「小兵衛どんの身に? 何ぞ……」 「高瀬で戦死なされもした」 「戦死……」 「そいで、お知らせに参上《めあ》げもした」  いとは、熊吉のあとの言葉がきこえなかった。  耳ががあーんと鳴り、視線が霞み、一瞬空となる。すべてが消し飛んだ。小兵衛が戦死……、まさか。咽喉に声がからまり、言葉が出ない。脳天をなぐられるとは、このようなことを言うのであろうか。  いとは、黙してうなだれた熊吉を凝視めながら、松の顔を思い浮かべていた。いや幸吉を、小兵衛を、吉之助を……。衝撃が、いとを砕き、考えることが出来ない。 �落ち着け�  いとはおのれに呟きながら、闇とも薄明ともつかぬ混沌たるなかを漂い、彷徨《ほうこう》した。  縁先の金竹《きんちく》のみどりが目に沁みる。 「先生のところに行きもそ」  辛うじて気持を整えたいとは、川口の部屋へ熊吉を誘った。  小兵衛の死は、川口から松に告げてもらったほうがよい。いとは心が乱れて、うまく話せない。いとは着座すると、川口に小兵衛の最期の模様を報じるよう促した。  鎮台兵に夜襲を受けた薩軍は、二月二十二日熊本城を包囲する。  一番大隊一番小隊長小兵衛も兵を指揮して三昼夜にわたって城攻めを行なう。二十六日、極度に疲労した将兵は、食糧も不足したので二番小隊と交代するべく熊本城西南の、新町に引き揚げた。  だが休憩をとろうとした時、 「政府軍の援軍博多に上陸、高瀬へむかって進撃開始」  の報に接する。  高瀬の戦いはすでに二十五日からはじまっていた。  二十六日夕刻、出撃命令の出た小兵衛は兵を率い、菊池川の下流に出て、左翼隊の村田新八の麾下《きか》に入る。  村田に朝からの苦戦を告げられた小兵衛は、 「どうぞ兵を休めてたもんせ、わたしが一戦してきもそ」  と高瀬に向った。  大浜から渡河した小兵衛は、北上の途中、道案内を申し出てきた屈強な若者を雇い、村の西方を迂回して、岩崎|原《ばる》の台上から観音丘に辿りつく。  政府軍は北方の玉名村の高地に砲一門を据え、前進する小兵衛隊を悩ました。だが彼等の前方には右翼隊の桐野隊が南下しつつある。  前後に薩軍をみた玉名村の政府軍は、自分の背後をおびやかす小兵衛隊の後を衝くべく、観音丘の南方・永徳寺村へ一隊を移動させた。  小兵衛隊は永徳寺村へ進撃する。  陣頭に立った小兵衛は指揮旗を振り、愛用の短筒を構えつつ、永徳寺境内へ突入した。が、銃弾が彼の胸部を貫いた。  倒れた小兵衛に隊員が駆け寄り、肩を貸す。戸板に乗せて後退の途中で小兵衛の息は絶えた。  激昂した兵士たちは翌日道案内の若者の首を刎《は》ねる。彼が危険な場所に誘導したと考えたからであろう。  二月二十七日小兵衛は三十一歳の生涯を閉じた。小兵衛の勇敢な指揮で永徳寺村の政府軍は逃げ散ったというが、いとは小兵衛の死がたまらなかった。  小兵衛は長兄思いで、風貌も性格も吉之助にもっともよく似ていた。いや若い小兵衛は吉之助より冷静で、物事を的確に捉えた。  いとは甲突川出水の折の明るい小兵衛の姿が忘れられない。  上之園、武村、共に暮らした歳月がよみがえり、胸がしめつけられた。  オランダ犬トラを江戸から連れ帰った小兵衛、東京のツボヤキの話、帽子の話、小松原から雪をもらいうけて誇らしげであった小兵衛……。鰻、小根占の兄のもとへ危急を告げに走った小兵衛……。  どの光景をとっても、いまは涙が溢れる。  吉二郎、そして小兵衛の死……。吉之助四人の兄弟は、戊辰戦争に従軍する時、誓いあって戦死を第一の功とした。だが四人のうち二人が死に、一人の弟慎吾は敵に廻っている。  誰が、あの時今日を予想したであろう。  いやいかに第一の功とて、死は残された者にとってあまりにも悲しい。わずか二年余で、後家となった松に、いとはなんと詫びればよいのか。  吉二郎戦死の報に接して、園と泣き明した秋の夜が思い出され、いとは男たちの戦いが恨めしかった。  全軍が、小兵衛の死を惜しんだというが、惜しんだとて、小兵衛は帰らない。いとは話をきき終え、瞑黙した瞼から雫《しずく》を滴《したた》らせている川口を見ると、耐えられなくなって袂《たもと》を顔にあてた。  しかし悲劇は出征した薩軍とその家族にとどまらなかった。  三月中旬、募兵に帰郷した辺見十郎太、淵辺高照、中山盛高ら私学校の幹部たちは、県官・区戸長たちに募兵を強要し、士農工商を問わず強誘した。  従わぬものには白刃をかざして迫り、それでも屈せぬ者はおびき出して斬殺している。四月四日大口郷の六か所で十二名が害にあった。  彼等反私学校派の士族たちは、戸長が出軍を勧誘しても、吉之助らの非挙を嗚らし、持論を吐いて断固退けた。  なかには積極的に薩軍の動静をさぐり、政府軍に通報した者もいる。  大口郷の郷士年寄・有村隼治もその一人であった。郷の有識者・隼治は私学校分校建設の時から賛成ではなく、戦いが始まると大口、出水方面の情報をとり、政府軍に流した。  そのことを知った大口の私学校徒は五月はじめ(旧暦三月二十一日)、夫婦を別々に呼び出す。  隼治の妻|すま《ヽヽ》は、出水郷の剣客野村家の出で、薙刀《なぎなた》の使い手であった。  夜道を誘導された彼女が、上青木の梨の木山の段付近にさしかかった時、刺客たちが襲いかかってきた。  気丈で気性の烈しいすまは、瞬間、一切をさとり、手にした番傘を閉じる。 「これが薙刀なら、お前《はん》たちにおめおめ討たれはしもはんが」  すまは叫び、握りしめた傘で白刃をよけ、切っ先を払う。  だがたちまち傘はばらばらに切り裂かれ、すまは雨の中に斃れた。夫隼治も同じ頃別の場所で刺客たちの手にかかっていた。  私学校派の旧県官が、地方に募兵に行き、拒否されたために郷の戸長、副戸長を殺すという事件も起きた。  女たちも負けてはいない。  三月二十五日私学校徒の母や妻たちが、西田村の川路利良の家を襲い、打ち毀《こわ》した。 「兄の仇」 �父の仇��息子の仇�と口々に叫んだ女たちは、父を兄を夫を子を戦さで失っていた。  鹿児島の打ち毀しを耳にした各郷の女たちも決起する。鍬、鎌、鉈《なた》などを手に持ち、肥桶《こえたんご》をかついだ女たちは、女人隊となって政府軍の留守宅を襲い、家を打ちこわし、傷つけ、あるいは糞尿を撒いて引き揚げた。 「打ちこわすなら、こわせっみれ!」  押し寄せた女人隊をはたと睨み、脇差しをふりあげて威嚇する姑もいれば、 「打ちこわすなら、半分毀しやったも」  と叫ぶ母親もいた。彼女の子供たちは敵味方に分かれている。  戦没者、負傷者が増えるにつれ、女たちの憎しみは深まり、官員・官軍の家族に道で出会うと、罵ったり、睨みつけたり、唾を吐きかける素振りをした。  辺見はこの時(三月中旬)千五百名の兵を集め、八代口政府軍の背後を衝くべく、球磨《くま》川を北上する。  だが募兵も回を重ねるにつれて質が落ち、武器もイラボウ(青竹)が多くなる。にわか仕立てでろくな訓練も受けず、充分な武器もないとあっては無理もないが、彼等は踏み止まって戦う術を知らない。  六月二十日大口を政府軍に奪われた辺見は、原田の松並木道まで来ると、老松に縋《すが》りつき、 「本隊の精兵が生きていれば……」  とくやしがって号泣した。  熊本城を抜けず、高瀬、田原坂の激闘に破れた薩軍は後退を余儀なくされる。吉之助は熊本の本営を引き払い、進路を東にとった。  桐野らに生命を預けた吉之助は、戦さの指揮も彼等に委せている。いやその姿すら、人々にみせなかった。  それゆえ政府軍は最初、薩軍のなかに吉之助はいないと考えた。 「いつ刺客が襲わぬとも限らん」  桐野はそう言って、吉之助の宿舎を転々と移し、宿舎によっては目かくしを付けさせている。  刺客もあろうが、吉之助の死をおそれたからである。もし前線に出て彼が戦死すれば、薩軍はたちまち崩壊する。将兵は吉之助を慕い、従軍してきた。  指揮をとらずとも、陣中に吉之助がいることで統率され、士気もふるう。  東肥後山中の矢部郷|浜町《はままち》まで後退した薩軍は、四月二十一日隊の編成をかえ、陣容を立て直す。田原坂の戦闘で、薩軍は篠原国幹以下多くの将兵を失った。  大隊小隊がなくなり、奇兵、振武、行進、正義、干城の諸隊が大隊に代わり、小隊が中隊になる。  一方、肥後平野から薩軍を駆逐した政府軍は、鹿児島占拠を決め、征討参軍川村|純義《すみよし》(海軍中将)を上陸させた。  川村は吉之助の叔父椎原国幹の女婿である。彼は戦役に先立ち、鹿児島から吉之助を連れ出そうとするが、私学校徒に阻まれ果せなかった。  四月二十七日県庁に入った川村は、薩軍に便宜をはかった県官首脳部を逮捕する。そして甲突川を哨兵線とし、武橋、高麗橋、西田橋に保塁を築いた。  東は軍艦で、西は水兵で固められた町の様子に、城下の人々は、 「戦《ゆつさ》じゃ」  と陸続と避難を開始する。当時の市街《まち》は甲突川の内側で、上之園、武、下荒田は田園地帯であった。  五月二日。  避難騒ぎのまっただなかに新県令岩村通俊(高俊の兄)が着任する。上陸してみると埠頭街路には番兵が立ち、山や保塁には砲台が築かれ、鹿児島のまちは戒厳下に置かれていた。 「二位様と旧知事公(久光と忠義)が避難なされようとしておられもす」  県吏の通報で、父子を止めるために岩村は島津邸に赴く。だが久光父子は桜島に逃れたあとであった。翌三日のことである。 「俺《おい》がこの家を守るゆえ、お前《はん》は皆を連れて田舎におさいじゃし」  城下の騒ぎを耳にした川口は、いとに避難をすすめた。すでに空家が目立ち、まちは人影がまばらであるという。  いとは川口の言葉に従うことにした。自分はともかく子供たちを守らねばならぬ。薩軍は、政府軍に占拠された鹿児島を必ず奪回しに来る。  まちは戦場となるにちがいない。  いとは、園と松を呼び、子供たちを連れて先に避難するように命じた。 「義姉さあは?」 「家の始末が終ったら、行きもす」 「早う、おさいじゃして(きて下さい)……」  園・松は、留まるいとの身を気遣いながら、坊野にむかって出発した。  弥太郎は、幸吉を背負っているので、めいめいが自分の荷を持つ。といってもごく身の廻りの品々で、五里の山道を思うと多くは持てない。  いとは、二人の兄の真似をして、小さな風呂敷包みを背に掛けた五歳の酉三がいじらしかった。  坊野にはよしがいる。  明治九年秋、吉之助は、女・子供たちを坊野に誘った。彼は七年秋、毛角《けかど》村坊野(日置郡吹上町)に狩猟に行き、よしの家に滞在している。  帰ってきた吉之助は、 「よしに移転をすすめてきた」  と、告げたが、いとは深く気に留めなかった。吉之助はその後も二度、坊野を訪れている。  明治初年西郷家を辞したよしは、同じ集落の仁太を夫に迎え、三人の子をなしていた。 「よう、来てくいやんした」  よしは、いとを見ると走り寄って、涙を浮かべてよろこんだ。八年ぶりの再会である。 「さ、なかに入ってたもんし」 「よか家じゃのう」  何も知らぬいとは、よしの立派な家を褒めた。|おだれ《ヽヽヽ》の廻る家は日当山の竜宝家と同じくらいの広さがあり、堂々としている。  |おだれ《ヽヽヽ》とは、茅葺の屋根の中間に瓦を挟んだもので、瓦は高価なせいか、村ではめったにみられない。竜宝家もおだれは廻っていた。しかしよしの家は梁も柱も太く、がっしりとしていて、いかにも堅牢である。南と北の両側に縁があり、一段高い座敷には仏壇までしつらえてあった。 「よか家ごあんど。旦那さあが建ててくいっやした」 「うちの人が……」 「あたいの家は、もとは高野《たかの》山のすそにありもした」  よしの語るところによれば、山の北側に家はあり、南むきであるにもかかわらず、南面を山に遮られ、ほとんど陽が射《さ》さなかったという。 「旦那さあがおさいじゃる晩秋から冬にかけては、十時頃にならねば朝日をみることができもさず、それも|いっき《ヽヽヽ》(すぐに)暗《くろ》うなりもした。それで旦那さあが、�こげん暗かとこじゃ、体に悪か。俺《おい》がよかとこ見付けて、家を建てて呉るっわい�と」 「そげんじゃったとな」  吉之助が捜した土地は、黒子川上流の南面の台地であった。  家はその台上にあり、さんさんと太陽が降りそそいでいる。眺望もよい。  いとは、よしの家に義妹や子供たちと六日滞在して帰宅した。よしの、 「ほんなこつ、旦那さあと奥さあは仲が良うて、村の衆は御二人をみておると、夫婦喧嘩もできもはんと言うておりもす」  の言葉がよみがえる。  夜になると、村の青年たちが集まってきて、吉之助に話をせがんだ。吉之助の話は冗談を言うので面白い。青年たちは手をたたいてよろこび、抱腹した。  いとをはじめ、園も清子も松も吉之助の冗談にどれほど笑ったことか。  吉之助の優しさ、誠実さ……、深い愛情を想うと、いとは家族を守らねばならぬと決意のようなものが湧いてくる。  いとは、一日のばしにしてきた犬の処分を力士岩船にまかせた。吉之助が二匹、園たちが五匹を連れて出たが、まだ八頭が残されている。  いとは番犬として優秀な「攘夷家《じよういか》」だけを手元におき、七頭の犬を断腸の思いで手放した。  犬を大事にしていた吉之助を想うと辛いが、避難先に十三頭も伴うわけにはいかぬ。  郷には猟犬を飼っている家が多いので、もらってくれるにちがいない。吉之助の犬は逸物揃いであった。  不用なものを焼き捨て、家のなかの整理を終えたいとは、使用人たちに暇を出す。だが坊野出身のすえは、 「奥《こい》さあが、坊野におさいじゃるときに、あたいもお供して帰りもす」  と弥太郎と留まった。園たちを坊野に送り込んだ弥太郎は武村に戻ってきていた。 「もう、逃げんとあぶのうごあんがあ」  園たちが出発した三日後の五月四日、いとは弥太郎にせきたてられて、川口、すえと武村を後にする。武岡の山襞《やまひだ》から地を揺るがす砲声が轟いたからであった。武岡は武村の西方にある。 「旦那さあの軍勢がやってきたのでごわす」  弥太郎が、「攘夷家」の綱を引きながら、瞳を輝かす。  外に出ぬのでわからなかったが、薩兵が要所要所に壕を掘り、保塁を築き、戦闘の準備をすすめている。  道を南にとったいとは蕨野から春山に入った。雨に洗われた新緑が目に沁みる。昨日は大雨であった。ぬかる道を平谷、野添と辿りながら、いとはこれが逃避行の出発とは思わなかった。  椎葉山中を南下した薩軍が人吉に戻ってきたのは四月二十八日である。  政府軍の鹿児島占拠を知った薩軍は、急ぎ振武大隊を鹿児島に派遣した。五月三日、鹿児島に入った薩軍は、砲隊本営を武岡の西方小野町に置き、玉里、草牟田、武村に布陣する。  緒戦の火蓋が切られたのは五月五日であった。甲突川へ進撃を開始した薩軍は、田上、荒田、塩浜で戦うが、政府軍の保塁を崩せぬままに退却する。以後小競合いと睨みあいが続く。  だが六月二十四日政府軍が陸海より大挙来攻するに及んで激戦となる。砲声は終日|殷々《いんいん》と天地をゆるがし、弾丸は雨となって地上に炸裂した。なかでも苦戦を強いられたのは涙橋(郡元と南郡元の間の新川にかかる橋)付近を守備していた今給黎久清《いまきいれひさきよ》隊である。  川辺《かわなべ》郡|鹿籠《かご》(枕崎)の出身である久清は、故郷に帰り二百十三人の募兵を得ていた。振武小隊二十五番である。  腹背に敵を受け、孤軍となった二十五番小隊は、銃弾を撃ちつくして、肉薄する政府軍に刀を揮って斬り込んだ。  だが衆寡敵せず、あとからあとから押し寄せる政府軍に、半隊長以下九十人が戦死する。  その知らせに久清は、 「一軍唯死あるのみ、生命を惜しむな!」  と兵を叱咤した。  久清は、指揮をとっているうちに誤って高崖から落ちるが、気絶しただけで死は免れる。  激闘六時間。  新川の水は戦死者の血で赤く染った。  林立する剣に突き刺される者、飛来する銃弾に臓腑を貫かれる者……、ようよう血路を開いて紫原《むらさきばる》に退却したときは、二百十三人が二、三人に減っていた。  この日の戦闘で鹿児島西部は焦土となり、武村の西郷家も焼失した。 「義姉さあ、あん煙は?」  いとは、黒子岳の頂上にあがると、鹿児島の方角へ目をむけた。  黒子岳は、よしの家の南東にある。「岳」と呼ばれているが、小高い山であった。しかしこの辺りでは一番高い。吉之助がよく登っていたので、自然と山に足が向う。  園、みつ、菊草、今日は四人で登ってきた。  重畳《ちようじよう》たる山々しか望めぬのに、女たちは山頂に着くと、鹿児島の方角を眺める。 「あいで、ごわす」  園の指差す方向をみると、黒い煙が遠い山陰から立ち昇っていた。 「もしや、鹿児島のまちが戦《ゆつさ》で……」 「わたしも、そげん思《おも》|かた《ヽヽ》ごわす」  雨期であれば山焼きや野焼きがあるとは思えない。煙の色も異なっていた。 「武村は……」  言いかけて、いとは言葉を呑んだ。口にすれば不安が的中するようで、恐ろしい。園も同じ思いなのか黙して佇んでいる。  風と瀬音しかきこえぬ山間《やまあい》の村。だが、ここでも募兵は行なわれ、三月から一番立ち、二番立ち、三番立ちと続き、一昨日の六月二十二日には四番立ちが出発した。  戦さを知らぬ彼らは、筒袖にメリヤスのズボン、めいめいの武器を携え、あるいは徒歩で、あるいは駄馬に跨《またが》り、威勢よく村をあとにしたという。  そこだけ暗い梅雨空をみつめていると、昨年までの平穏な暮らしがなつかしい。春蚕《はるご》の時期であった。 「いつもん年なら、繭《め》づくりに精を出している頃じゃっどなあ」  いとは思わず呟いた。  よしも仁太も、いとたちを懸命に遇してくれている。だが、吉之助を、戦さを想うと、いとは気持が沈んだ。薩軍は人吉、大口を奪われ宮崎に後退していた。 「奥さあ、たいへんでごわす」  いとが鹿児島の様子を知るのは七月になってからである。知らせはすえがもたらした。実家に帰ったすえは、時々よしの家を訪れてくる。 「戦さでお邸は焼けたそうでごわす」 「ほんなこつか」  仁太が信じられぬという声で問うた。 「嘘じゃなかが。辺見さあの奥さあが伊作に逃げておさいじゃしたと」  辺見の家は涙橋北西の荒田村にある。 「戦さに勝った官兵どもが、薩将の家を焼き払えと、火をつけて廻ったそうでごわす」 「ひどか事を……」 「それだけじゃごわはん。薩将の家族は皆殺しにすると言うので、逃げておさいじゃったと、ききもした」  辺見家は愛育していた珍鶏《ちんけい》まで焼かれてしまったという。  四歳の|わか《ヽヽ》を連れて、着のみ着のままで脱出した十郎太の妻|はや《ヽヽ》は、臨月に近い体であった。彼女はやがて男児(勇彦)を出産する。  いとは、すえのもたらした情報に茫然としていた。いや武村に残っていれば、はやと同じ運命に遇ったにちがいない。いとは、黒子岳から見た黒煙を思い浮かべていた。  悪い予感は的中した。  あの煙は武村と荒田村を焼く煙だったのである。たとえ兵火を免れたとて、薩軍の総大将西郷隆盛の邸であれば、官兵は看過しなかったであろう。  下荒田村騎射場の桂久武邸には、政府軍の兵が踏み込んでいた。  それにしても、安(吉之助の末妹)は無事であろうか。  甲突川が政府軍で渡れぬので、いとは下加治屋町の安に別れを告げぬまま坊野に来た。  彼女は、咋明治九年二月二十三日夫成美を失っている。  その夜、容態が急変した成美に、小兵衛が上村医院の門を叩いた。しかし医師が到着した時は、すでに成美の脈はなかった。 「あいがとごわした」  小兵衛は、夜更《よふけ》来診してくれた上村医師に頭を下げる。吉之助も礼を述べるが、彼は畳の部屋より一段低い縁側に手をつき、丁重に頭を下げた。  この謙虚な陸軍大将の姿に感動した上村剛造の門弟・前田盛也は、西南戦争が起ると、師剛造と共に薩軍医師として従軍した。  安は、夫を亡くしたにもかかわらず三男辰之助を、実姉琴(吉之助のすぐ下の妹)の次男市来宗介と共に、薩兵として出征させている。  政府軍の幹部大山巌(陸軍少将、別働第五旅団司令官)の義姉であれば、安の身に何か起るとは思えぬが、三歳の桃子、安、せいの女所帯を考えると案じずにはいられない。今となれば、せいを安の家の使用人にしてよかったと思う。 「もう、武村に戻れんのやなあ」 「そげんこつは、なか!」 「じゃっどん、家が焼けたっち」 「家がなんじゃい。父上が来れば官兵《ヽヽ》なんぞ、いっき逃ぐっわい」  不安を口にした弟を寅太郎がやり込めた時、攘夷家の吼える声がした。二頭がそれに和す。  坊野に連れてきた六頭の犬は、よしの家の迷惑を考え、三頭に減っていた。他の三頭は猟犬のいる家に引き取ってもらったからである。 「攘夷家!」  出て行こうとする午次郎をいとが制した。かわりに仁太が出て行く。だが、すぐに戻って来ると、顔色をかえて囁いた。 「官兵でごわす。かくれっちたもんし」  いとたちは、よしの案内で裏手の洞穴《ほらあな》にかくれる。 �薩将の家族は皆殺し�と、きいた直後だけに、人々は恐慌をきたしていた。仁太も、黒子川沿いの道を上ってくる県官を兵と見違えた。婿養子の仁太は善良で温《おとな》しく小心である。  後に大笑いとなったが、いとたちが知らぬだけで、鹿児島県はもはや政府軍の管轄下に置かれていた。 「逃げったもんせ!」  突然、すえが駆け込んできたのは八月下旬である。 「いけんしゃったとな」 「か、かん兵の奴らが、下《しも》の村まで来とりもす」  夕餉の箸をとっていたいとは、反射的に立ち上がった。狼狽するよしを押し止めて、女・子供たちをせきたて、裏山に逃れる。吉之助が建てた家は、前後が縁側なのでこのような時には逃げやすい。  いとは叢《くさむら》のなかに身をひそめると、子供たちを抱き寄せた。松は二歳の幸吉が声をたててはならぬと、帷子《かたびら》の袖をちぎって口に噛ませる。幸吉は生れて間もなく、脳膜炎を患い、病弱で障害があった。  坊野にきてからの松は、人々に迷惑をかけまいと、わが子の傍を離れない。外に出るときは、必ず背にくくりつけた。だが今宵は着の身着のままである。  いとはこの日あることを予期し、川口と逃げ道を話しあっていた。裏手の洞穴では踏み込まれたとき、脱出できない。先月仁太が県官を官兵と見間違えてから、いとは眠られぬ夜が続いていた。  よしも仁太も何も言わぬが、鹿児島から来た物売りが、 「官兵が西郷《せご》どんの家族を草の根分けても捜し出すと、いっぺこっぺ歩《さる》き廻っておるようでごわす」  と告げたからであった。  そして、それを追うように薩軍の敗報が伝わってきた。  おそらく政府軍から流されたものであろうが、薩軍は宮崎、延岡を捨て、北方の北川村にむかったというのである。 「攘夷家じゃ」 「しいッ」  犬の吼号《こうごう》を耳にした午次郎を勇袈裟が制した。攘夷家は洋服の人をみると吼えたてる。もし、遥かな崖の下の犬の声が攘夷家であれば、官兵はよしの家を訪れているにちがいない。  いとは藪蚊の唸りを払いのけながら、目と耳に全神経を集中した。子供たちも緊迫した空気のなかで、目を光らせ息を詰めている。  月が昇りはじめた。  あと七日もすれば旧暦の二十三夜である。この夕《ゆうべ》薩摩では、酒、団子、煮しめなどを供えて月を待つ。  二十三夜の月に祈れば、�思いの叶わぬことはない�と言われてきた。それゆえ女たちは空が暗くとも月を待ち、旅、戦さ、出稼ぎの男たちの無事を祈願した。  陰膳も、椀のふたについた露が消えぬうちは無事であるといい伝えられている。いとも毎日陰膳は欠かさない。  補給路を絶たれた薩軍は、食糧も弾丸も極端に不足しているという。  いとは陰膳をする度に薄い粥《かゆ》をすする夫の姿が浮かび、胸が痛んだ。薩軍が政府軍に敗けるとは思わぬが、故国から遠のいていく軍の動きは気になる。 「しいっ!」  草を揺する音がした。犬の声、人の声がする。と避ける間もなく黒いものが飛び込んできた。 「ああ……」  いとは、観念して目を閉じた。犬に踏み込まれては万事休すである。立ち上がれば兵があらわれるにちがいない。いや、うずくまっていようとも、彼等はここにやってくる……。 「うわっ、攘夷家じゃい」  瞬間、午次郎が嬉しげに叫んだ。  黒いいきものは鼻を鳴らし、前肢をたて、午次郎の顔を舐め、いとの手を砥めた。  草履の音が止まった。 「ここにおさいじゃしたか」 「官兵は?」 「うちの前の林道を通り東昌寺のほうへ上っていきもした。鹿児島《かごんま》にでも行くつもりごあんど」  よしの声に女たちは立ち上がる。  物売りの話からてっきり捜索隊だと思ったいとは蚊に刺されたあとを掻きながら、安堵の息を深々と吐いた。  だが胸をなでおろしたのも束の間、翌朝いとたちは追われるように坊野を後にする。  密偵が村に入ったという噂を耳にしたからである。中原事件を知る西郷家の女たちに、密偵は特別な響きをもつ。  今度の戦さも密偵事件から起った。もし政府が、密偵など潜入させねば、吉之助の率兵上京はなく、九州の山野が血で染まることもなかったであろう。 「洞穴にかくれれば、わかりはしもはん」  よしは、いとたちを引き止めたが、いとは振り切った。  よしには九歳のアサを頭に一女一男がいる。吉之助が膝の中に入れて可愛がった末の万次郎は三歳。子供たちが幼いだけに、よし夫婦に迷惑はかけられない。  密偵によって、いとたちが捕えられれば、かくまったよし夫婦も罪に処せられる。いとは、避難してきて四か月、心から尽してくれた夫婦を思うと、自分たちが捕えられようとも彼等を巻添えにしてはならぬと思った。 「西別府《にしのびう》の別荘へ行きもそ」  いとは、山道を歩く女・子供たちに告げた。  西別府は鹿児島の敵陣に近く、それだけ危険を伴うが、くよくよしてもはじまらない。  かつて颶風《ぐふう》の海で、一切の荷を惜しげもなく海へ投じたように、いとは捨身になっていた。彼女には度胸がある。  野添、平谷、春山、蕨野……、来た道を戻りながら、いとは前を行く子供たちを叱咤し、汗を拭った。馬の背に味噌樽を積み、犬五頭を従え、吉之助と往復した思い出が脳裡をかすめる。一瞬、野の風景が滲んだ。  再びこの地に来ることはあるまい。  いとは、猛宗竹の杖に力をこめると、四方に目を配り、炎暑の道を踏みしめていた。 [#改ページ]   第七章 城 山  鹿児島には竹藪が多い。  市内だけでなく、県内のあちこちに猛宗の竹藪がみられる。竹の植種《しよくしゆ》を奨励したのは、第二十一代島津|吉貴《よしたか》であるが、外来の珍木というだけでなく、竹がシラス(火山灰)台地の崩れを防ぐからであろう。  竹は地中に深く根を張る。  西別府の農事小屋に着いたいとたちは近くの竹藪から猛宗竹を伐《き》ることからはじめた。吉之助ら四人の兄弟が開墾のために宿泊した小屋は、家族十一人が身を横たえるにはあまりにも狭い。  座敷が六畳、下の間が三畳、囲炉裏部屋が二畳、奥の間が四畳である。  雑魚寝でもすれば別だが、子供たちの師である川口、年頃のみつ、菊草を想うとどうしても、もう一間欲しかった。 「そうじゃ、この土間に床を張りもそ」 「というても大工もおらんし、板もありもはんが……」 「竹を伐り、十文字に組めばようごあんが」  いとは、園を励ました。  竹を編む作業には川口も加わる。ようよう出来あがった竹の床には、古|茣蓙《ござ》、古|菰《こも》、古|蓆《むしろ》などを敷き詰めた。 「面白か、お前《はん》もやってみやい」  出来あがった床の上で、早速|逆立《さかだ》ちをした午次郎が酉三に勧める。  いとが、�西別府の別荘へ行く�と言ったので、午次郎は陋屋をみた時、 「|こんと《ヽヽヽ》が、別荘か」  と落胆の色を浮かべた。が、いち早く小屋の生活に馴染《なじ》んだ。物珍しいのか付近を駆け廻り、虻《あぶ》や藪蚊にさされて戻って来る。兄たちに従い水汲み、枯枝集めも行なった。  清水の湧く沢は遠い。  水を運んでくる午次郎は、いつも着物の裾をびしょびしょに濡らした。喘《あえ》ぎ喘ぎ坂道を登るうちに桶の水は揺れてこぼれる。  十四歳の勇袈裟《ゆうげさ》、十二歳の寅太郎は、八歳の午次郎を労《ねぎら》ったが、二人にとっても馴れぬ仕事である。五歩行っては休み、十歩進んでは息を切らして水桶を置く。山腹の小屋に辿りつくまでには時間がかかった。  だが困ったのは食糧である。よしの家からめいめいが少しずつ米を背負ってきたが、たちまち底をついた。いとは穀類を求めて付近の番小屋、木樵小屋、炭焼き小屋を訪れる。  人里離れた山中であればふだんでも米を得るのがむずかしいのに、戦さのせいでなかなか手に入らない。  いとは、危険をおかして田上や武岡の村落まで下りた。薄いかゆに塩と味噌。たまに鶏肉や卵が入ると、いとは体の弱い幸吉に与えた。 「俺《おい》も病人になりたか」  午次郎が、うらやましげに呟く。  秋になれば唐|芋《いも》の収穫があるので、それまでの辛抱であった。 「もうし、おじゃんどかい」  衣類の繕いをしていたいとは、訪う声で裏口に出た。百姓|髷《まげ》を結った青年が家の中を覗き込んでいる。 �密偵!�  いとは、一瞬戦慄した。 「お方さまで?」 「お前《はん》な?」 「昨年、旦那さあに字を書《け》っ貰《も》れもした小浜の弥三次でごわす」  青年は、いとをみると深々と頭を下げた。 「大|蛤良《あいら》村の」 「左様っござんす」  いとは、言われて思い出していた。昨年のいま頃、弥三次は突然やってきて、吉之助の書を乞うた。無遠慮な山出し口調であったが、いとは彼がはるばる大蛤良村(大隅・鹿屋市)の西端小浜の里から訪れてきたときき、吉之助に取り次いだ。  吉之助は、弥三次を慈愛の目でみつめ、やがて自ら墨をすり、「道義心肝を貫く」の揮毫《きごう》をして弥三次に渡す。弥三次はその書幅を頭上に押しいただき、いとに繰り返し礼を述べて去った。 「兎狩りにおじゃんした時、是非ともお供申しあげもそと思うていたのに……」  弥三次は吉之助の供が出来なかったことを残念がり、揮毫のお礼だと手どりの山芋二把、鮑《あわび》二つ、伊勢蝦《いせえび》三つ、胡瓜六本を取り出した。 「まあ、こげな立派なもんを」  いとは、弥三次の心尽しの品々を盆の上にのせながら、涙が溢れそうになる。早速、座敷に行って皆にみせた。  弥三次は、この時のいとの様子を、「夫人は非常に喜ばれ、表の間に携えて行きて、他の家人らと笑いさざめかれ」と語っている。  弥三次が去ると、いとは御馳走づくりに取りかかった。  鮑、伊勢蝦など何か月ぶりのことであろう。いや、この十日野草以外に、青い野菜も食したことはない。  鮑の刺身に胡瓜もみ……、伊勢蝦は塩茹でに。いとは子供たちのよろこぶさまを描き、胡瓜の皮をむき、たてに割って、なかのたねをとり除いた。  むかしの胡瓜は、現代《いま》のように小ぶりではない。夏も終りになると|とう《ヽヽ》がたち、種をとらねば食べられない。  だが、いとは半月型の胡瓜を細切りにしようとして唇を噛んだ。切った胡瓜を塩で揉んでも、味を付ける酢がなかった。  醤油も砂糖もなく、あるのは塩と味噌だけである。しかしその夜の西郷家は久しぶりの珍味に舌鼓をうつ。  午次郎は、鮑、伊勢蝦もさることながら、この日味噌をつけて食した胡瓜の味が終生忘れられず、折にふれ人々に語った。  いとが吉之助の帰還を耳にしたのは九月六日である。沢に洗濯に行った園が、汚れものを持ったまま駆けもどってきた。 「義姉《あね》さあ、義兄さあの軍勢が城山にもどって来もした」 「誰《だい》にそれを?」 「道で会うた猟師でごわす」  いとは嬉しさで体が震えた。園も昂奮し、細い目に涙を滲ませている。鹿児島のまちは、政府軍を憎む士族の女たちや兵士たちが、官とみるや役人・兵を問わず棍棒・天秤棒で撲殺しているという。彼等は奪いとった弾薬を争って薩軍に献じていた。  八月十六日延岡の北方・北川村|俵野《ひようの》で軍を解散した吉之助は、辺見ら四百の将兵に守られ、可愛岳《えのだけ》の敵中を突破した。三田井に出た薩軍はさらに日向の山々を踏破して、九月一日鹿児島に突入する。  彼等は吉野街道から岩崎谷に入り、私学校に姿をあらわす。疾風のようになだれ込んできた薩軍に、不意を衝かれた政府軍は、県庁(旧城内・私学校は城の脇の厩跡にある)前の米倉に逃げ込んだ。  薩軍は城山をも占拠する。  米倉に逃げ込んだ政府軍と薩軍のあいだには三日にわたって激しい市街戦が展開された。  だが物量を誇る政府軍に薩兵は破れ、城山に籠る。総勢三百五十人。うち五十人は非戦闘員であった。  そのわずかな薩軍を政府軍は五万余の兵で包囲した。彼等は可愛岳、鹿児島と二度も重囲を薩軍に突破されている。  塁を築き、壕を掘り、樹林を伐り払い、柵をめぐらし、蟻の這い出る隙間もないほど包囲網を固めた。  九月十四日、闇にまぎれて下僕仙太が戻ってきた。  すでに死を覚悟した吉之助は、仙太に脱出をすすめ、三本の刀のなかから一本を選び、自宅へ持って行くよう命じた。逃げ道を問う仙太に、吉之助は、 「こん山を西に向って草牟田に出《い》で、西田方面に脱がれれば、まだ道は空いておるようじゃ」  と教える。仙太は碁を打っている吉之助に別れを告げ、城山を脱出する。 「仙太、いま戻りもした」 「何用あって、戻ってきた」  応接に出た川口は、仙太の言葉をきくと、いきなり怒鳴りつけた。 「大将《てしよ》はどげんしとっ、戦《ゆつさ》の具合は?」 「戦はもはや困難《むつかしゆ》なりもした」 「何じゃっち」 「四面を官軍に囲まれて」 「そげんこつ言うためにお前《はん》は戻ってきたとか。なぜ大将のそばにおらん。ははあ、ひん逃げっ来たな」 「いえ、俺《おい》は刀を……」 「言いわけはきこごもねえ。お前のような匹夫はこの家《や》には要らん。帰れ。帰っせっ!」  奥の間にいたいとは、川口の怒声で表に出てきた。狭い家であれば何もかも筒抜けである。 「仙太、いっと待っちゃい」 「俺は大将に命じられて戻ったのでごわす」 「そいやっで、大将の御一身がわかるまでは、是非ともここにおいやんせ」  いとは、川口に罵られて立ち去ろうとする仙太を懸命に引き止めた。だが川口が、 「そげん卑怯者《ひつかぶい》を家に入るっわけにはいかん」  と譲らない。  仙太は悄然と立ち去った。  吉之助を想う川口は、主人と行を共にせぬ下僕が腹立たしかったのであろう。が、いとには、夫が刀を持たせ仙太を脱出させたことで彼の気持がわかった。吉之助は生還を考えてはいない。  砲声を耳にするようになったのは、九月十九日からである。閃光《せんこう》がぱっぱっと樹間を走り、日毎に数を増す。この当時の小銃は発射する度に火を噴いた。  西別府の小屋からは城山の背面が望める。直線にして約一里半(六キロ)くらいだが、視覚的には非常に近く感じられた。  新照院、岩崎谷……。吉之助の潜んでいる洞窟はみえぬが、山の背に軍勢が取りつけば、その動きは肉眼でも捉えられる。  仙太によれば吉之助は島津邸に近い洞窟(野村某の屋敷裏の)に起居し、読書したり、文字を書いたり、碁を打ったりしているという。  いとは、夫の様子を詳しく知りたかった。山中であれば、ろくろく戦況も耳に入らない。それゆえ家族が捕えられもせず、無事にいられるのかも知れぬが、地鳴りのような砲声が今宵は一段と激しい。  九月二十三日夜。  いとは、胸騒ぎがして眠れなかった。夜更になって砲声は止んだが、まどろんだと思うとすぐに目がさめ、強いて瞼を閉じると虫の音が耳朶《じだ》に刺さる。  輾転《てんてん》反側したいとは、ついに眠るのを諦め闇のなかに半身を起した。  何刻であろうか。  夜着の衿をかきあわせたいとは、子供たちのほうに目をむけた。運動の激しい午次郎が薄い衾《ふすま》を蹴飛ばし、腹を出して寝息をたてている。いとは手をのばした。  と、その時である。  轟音が静寂《しじま》を破った。一つ、二つ、三つ。いとは着物の袖を通すと、帯を結びつつ戸外に走った。女・子供たちも時ならぬ砲声に夢を破られ、後を追ってきた。前庭に佇んだ彼等はいとと同じように城山を凝視める。  閃光が明けぬ空を彩り、銃火が花火の火のように散っていた。砲声は間断なく轟き、豆を炒《い》るような小銃音がそれに和す。鈍い震動が足元から伝わってきた。  九月二十四日午前三時五十五分。三発の号砲を合図に政府軍は総攻撃を開始した。彼等は薩軍をいっきょに殲滅《せんめつ》するため、この日まで攻撃を押えてきている。  砲兵陣地を浄光明寺山に置き、攻撃隊は七方面から一斉に薩軍の各塁に襲いかかった。夏蔭の塁、城ヶ谷口の塁、岩崎谷口の塁、旧二の丸及び照国神社の塁、新照院越えの塁、私学校及び旧城稲荷堂の塁、大手口及び広谷二本松の塁。  十七夜の月が霞み、白々と夜が明けて行く。薄絹《うすぎぬ》を張ったような朝靄《あさもや》のなかに、城山が山容をあらわした。戦闘はまっただなかに入っていた。  にぶい炸裂音が絶えまなく響き、閃光が、燐火が、黒煙が城山に立ち昇る。海鳴りのように砲声が咆哮した。  だが、政府軍の猛射に対して、薩軍の射撃音のなんと小さなことか。なんと間遠であることか。 「あの松の木に登ればよう見ゆっ」  勇袈裟が寅太郎を誘った。二人は猿《ましら》の如く幹を伝い、枝にとりつく。 「俺《おい》も上りたか!」  八歳の午次郎が古木の根元から兄たちに叫んだ。しかし枝から枝へ上って高所に落ちついた二少年は、前方の戦況に喰い入り耳をかさない。手をかけ足をかけ幾度も登攀を試み、失敗した午次郎はついに泣き出した。 「俺も、俺も、戦《ゆつさ》ばみたかあ……、上にあがりたかあ」 「こっちへ、おじゃんせ」  菊草が午次郎の手を引き、突き出た石の上に立たせた。鈍《にぶ》い菊草にしては珍しい。 「あの火が城山ごあんど」 「父上は?」 「敵兵をやっつけておいやっ」  午次郎は泣きじゃくりながら、うなずいた。 「畜生!」  勇袈裟が悔しげに梢を揺すった。  ますます熾《さか》んになっていく官軍の砲火に対し、応射の砲火は暁天《あけ》の星光《ほし》のように減って行く。薩軍の銃声はほとんどききとれなかった。  その頃から、西別府にもっとも近い新照院の山に、うごめく人影が点々とみられる。点は面となり、やがて城山の背面を覆った。  海鳴りのような震動がなくなり、政府軍の攻撃が緩かになる。午前七時すぎ、数発の銃声をさいごに山は鎮もった。  しかしいとも川口も誰も動かない。  前方の山を睨み、山の一角から奇蹟が起ることを希っていた。  いとは、再び眠られぬ夜が続いている。  陣中より何の知らせももたらされぬからであった。  もし、吉之助が戦死していれば、政府軍は何らかの通知をよこすにちがいない。  陸軍の総帥は山県、海軍の総帥は川村で、かつて二人は、吉之助にさんざん世話になっている。彼等が知らせてくれずとも慎吾や大山巌がいた。二人は陸軍中将と少将である。  彼等が、その気で調べれば、遺族の居所など、たちどころに判明する。  吉之助は、危険な戦場をいち早く離脱したのであろうか。  いとは藁にも縋《すが》る思いで吉之助の生存を願い、凄まじかった戦さの光景を思い浮かべては溜息をついた。  死を想いつつも、信じたくない。たしかな情報を得たい。激戦の日から四日が経っている。峰や谷を渡る風の音がきかれ、叢の露も深くなった。  木の葉の擦れあい……、いや木の葉ではなかった。湿った土を踏むひめやかな気配はあきらかに跫音《あしおと》である。  二歩、三歩、四歩……、音は戸口の前で止まった。�もしや?�、いとは高鳴る動悸をおさえて、全身を耳にした。  戸外の主は屋内の様子を窺っている。やがて四辺《あたり》を憚《はばか》るように戸がたたかれ、 「奥《こじゆ》さあ、奥さあ」  といとを呼ぶ声がした。きき覚えのある川辺《かわなべ》訛り。声。市太郎、市太郎にちがいない。  いとは、燭を手にすると戸口へ行き、切窓から黒い影をたしかめ、戸を開いた。 「よう、無事でおじゃんした」  髯《ひげ》はのび、単衣は垢にまみれ、尻端折りの足は脚絆のみであったが、まぎれもなく市太郎であった。  彼は吉之助の下僕|吉《き》左衛門《ちぜ》の一子で、幾度か武村に来ている。市太郎は辺見に従い城山に籠っていたという。  炉部屋に市太郎を招じ入れたいとは、彼の時ならぬ訪れですべてを悟る。  総攻撃を開始した政府軍は夏蔭の塁を手はじめに各塁を次々と落し、午前六時には岩崎谷口の塁だけになってしまった。政府軍は岩崎谷の山上に砲を据え、三面からこの口めがけて砲火を浴びせる。  吉之助が洞窟を出たのは、その頃であった。  桐野、村田、池上、辺見、桂、別府(晋介)ら四十余名が、徒歩の吉之助を囲むようにして走り出す。  吉之助は火点になっている岩崎谷口へ行こうとしていた。彼はその保塁のなかで、将兵と共に戦い、死ぬつもりであったのであろう。  だが、坂を下りはじめると、飛来した銃弾に桂が斃れた。弾丸は四方から雨のようにふりそそぎ、火点に近づくにつれ、倍加していく。  一行が島津邸まで駆け下りてきた時である。  山上からの流弾が吉之助の股《もも》を貫き下腹部に命中した。 「晋どん、もうこの辺でよか」  吉之助は、地上に端座し、禁闕《きんけつ》のある東方を拝すと、背をのばした。吉之助はこの日あることを予期し、お気に入りの別府に介錯を依頼していた。  足に負傷した別府と辺見は駕籠で吉之助に従っている。 「そいごわすか」  駕籠を下りた別府は吉之助のそばにいざり寄り、 「ごめんなったもし」  と一刀のもとに首を刎ねた。 「吉《き》左衛門《ちぜ》、敵にみつからんように、大将の首を埋めよ」  別府は吉之助の首を吉左衛門に渡すと、保塁へ急いだ。保塁は島津邸の三軒下にある。別府だけでなく、残った将兵も坂を下り、保塁へ飛び込む。一塁三十九人。彼等は力の限り奮戦して、雨集する弾丸のなかで果てた。午前七時すぎであった。 「父親《おやじ》も死にもした」 「吉《き》左衛門《ちぜ》が……」  辺見の後を追った市太郎が島津邸まで来ると、邸前の溝のなかに吉左衛門が倒れていた。 「大将《てしよ》の首が横にあったので、持って走り、折田正助さあの邸《やしき》の前の土手に埋めもした」  岩崎島津と呼ばれる島津|応吉《まさよし》邸の周囲には武家屋敷がかたまっている。折田邸は島津邸の二軒下にあった。  市太郎は野刀《のがたな》で土手の土を掘り、吉之助の首を埋める。  だが午前八時頃降り出した豪雨のために土砂が押し流され、首の包みの端がのぞく。付近を捜していた官兵は布地の端を目にして土を掘り起した。  しかし追われるように城山を脱出した市太郎はこのことを知らない。  市太郎は城山の最期を語り終えた。  覚悟していたとはいえ、現実に首の話までされると、もはや吉之助の死は疑えない。一縷《いちる》の望みも絶たれた。いとは声を殺して泣いていた。出陣の朝、御殿下に遅れたことが悔まれ、涙があとからあとから溢れてくる。  数日前の城山の火が、吉之助との今生の別れになろうとは……。いとは改めて陰惨な閃光、絶えまない砲声、山を覆った黒煙を思い浮かべていた。  両軍の銃砲声は、耳を澄まさずともききわけられた。敵が百撃つ間に味方は数発。しかもそれも刻々と衰えていった。  いとは、闇のなかに歔欷《きよき》する園と松の声を耳にしながら、地底に引き込まれるような気分に陥っていた。  いとをはじめ、西郷家の人々は泣いて暮らした。極度な悲しみは、号泣を許さない。ほろほろと涙がこぼれ、さらに裡なる悲しみが眼前を滲ませた。  七か月にわたる戦乱に動員された彼我の兵数は政府軍が約五万二千人。薩軍が約四万人。うち戦没者は政府軍が六千八百人。薩軍が五千人。薩軍の中枢をなした私学校徒は五人に一人の割で戦死した。  征討に費した政府の金額は約四千二百万円。薩軍のそれは二十分の一にも満たなかったといわれる。  鹿児島のまちも五月からの官軍の猛攻で、一面の焼野原となった。  市太郎が去って十日後の夜半。  破れんばかりに戸を叩く者がいる。いとは緊張した。いや家族は全員夜具の上に身を起し、息をひそめた。  戸は依然として乱打され、止みそうにもない。いとは足音を忍ばせ戸口に行くと、意を決して声をかけた。 「何誰様《どなたさあ》でごあんそ?」 「き、き、吉《き》左衛門《ちぜ》でごわす。何卒、開けったもんし」  瞬間、いとは戦慄した。室内の空気もさっと恐怖にかわる。誰もが息を呑んでいた。  吉左衛門は死んだはずだからである。市太郎は、溝の中に父の屍体をみたと語り涙を拭いた。いとも家族も彼に同情し、吉之助に殉じた吉左衛門にさらに熱い涙を募らせている。  その吉左衛門が、訪れてくるとは……。しかもこの真夜中に。幻聴を、まぼろしを、いや夢をみているのであろう。深い悲しみは時として人を狂わす。  いとは黙したまま、戸を開けなかった。開ければ、吉左衛門の亡霊が佇んでいるようで、さすがのいとも体が凍る。 「決して怪しい者《もん》じゃござりもはん、き、吉左でごわす。奥《こじゆ》さあ……」  戸外の男は、なおも激しく戸を叩き、哀願するように叫ぶ。 「ほんなこつ、吉左衛門でごわす。開けっちたもんし」  夢かも知れぬが、声はあきらかに吉左衛門である。 �ままよ!�  いとは思い切って戸を開け、倒れ込むように入ってきた男を凝視めた。呼吸もあり、二本の足も揃っている。憔悴《しようすい》しきっているが、まさに正真正銘の吉左衛門であった。 「吉左衛門!」 「奥《こじゆ》さあ!」 「よう、戻いやっしたなあ」  あとは涙で声にならぬ。吉左衛門を見守っていた家族も一斉に立ち上がってきて、いとと老いた下僕を囲んだ。  別府晋介に吉之助の首を預けられた吉左衛門は、ありあわせの布で首を包み、いとのもとへ届けるべく脱出を考える。だが雨霰《あめあられ》とふりそそぐ弾丸に一歩も歩けない。島津邸の門前に首を埋めようと土を掘りはじめたが、動転した吉左衛門はうまく掘れなかった。  彼は、首を持ったままうろうろし、弾丸を避けるために、邸前の石橋の下に逃げ込む。彼を追うように溝の土手に砲弾が炸裂した。吉左衛門は気を失う。  正気を取戻したときには、首はなく、官兵に捕えられていた。 「俺《おい》の不注意で、大将《てしよ》の首を敵にとられてしまいもした」  吉左衛門は、おのれの腑甲斐なさを歎き、泣きながらいとに詫びた。 「首は、市太郎が持って走り、折田さあの門前に埋めたと……」 「市太郎が、ここに参上《めあ》げたのでごわすか」  いとは、吉左衛門に市太郎のことを語った。吉左衛門はわが子の無事をきき、ちらりと安堵の表情をみせたが、 「市来宗介さあも、夏蔭の塁でお果てなされたそうでごわす」  と、拳《こぶし》をふるわせた。 「宗介どんも」  いとは、唇を噛んでいた。琴(吉之助のすぐ下の妹)の次男市来宗介は菊次郎と米国留学をしている。不穏な国内の政局をきき、明治七年二月菊次郎を伴って帰国した。 「辺見さあは、さいごまで大将を助けようとなされました」  吉左衛門の話は続く。  辺見は、敵中を突破し伊集院へ行くことを考え、男女の虜囚に脚絆を縫わせた。城山の洞穴には一群の虜囚がいた。  二十一日夜、辺見は突囲の策を部下に授け、実行に移そうとするが、政府軍の砲撃で不可能となる。  それでも諦めず、翌日には吉之助の助命歎願を画策した。  海軍総帥川村(吉之助の縁者)に歎願に行った使者が不調を告げると、辺見は各塁より十二名ずつ岩崎谷に召集して、顛末《てんまつ》を語り、吉之助と行を共にすることを誓わせる。  彼は可愛岳突破以来、常に軍の先頭に立ち将兵を引きずってきた。  赭顔《しやがん》で髯も髪も赤く、豺目《さいもく》で雷のような声をもつ辺見が軍に臨むと、政府軍は戦慄し、味方の士気は大いにふるったといわれる。  吉之助五十一歳、桐野四十歳、別府三十一歳、辺見、市来宗介二十九歳であった。  彼等薩軍将兵の屍体は、検視が終ると、浄光明寺の墓地に葬られた。  吉左衛門と相前後して、菊次郎がもどってきた。 「そん足は……」  いとは、巨漢熊吉の背から下された菊次郎をみて絶句した。右足が膝下からすっぽりと切断されていたからである。 「高瀬の戦いで銃弾を受けもした」 「高瀬で?」 「母上が心配なさると思うて、熊吉には家に帰るまで言うてはならんと……」  いとは小兵衛の死を報せにきた熊吉を思い出していた。あの折、菊次郎のことをたずねたいとに、熊吉は元気だと答えている。 「なんと、むごい!」 「父上、叔父上(小兵衛)の死にくらべれば、俺《おい》の足なんぞ、物の数に入りもはん」  いとの涙をみた菊次郎は、母を慰めるように言い切った。  そして狭い家を目にすると、菊草と納屋に住むことを申し出る。  高瀬で負傷した菊次郎に吉之助は熊吉を付き添わせた。彼等は薩軍の移動に従い、病院——といっても民家だが——を転々とする。  軍の解散命令が出たのは八月十六日であった。可愛岳を突破し鹿児島に帰郷することを決定した吉之助は、 「万国公法があるゆえ、政府軍は負傷者に危害は加えまい。菊次郎を背負うて降伏せよ」  と熊吉に命じる。  彼等は日向長井(宮崎県北川村)で降伏した。菊次郎主従だけでなく、降伏した負傷者たちは宮崎に送られる。政府軍の宮崎出張臨時病院に収容された。 �そのほう賊徒に組し官兵に抵抗する科《とが》懲役三年を申し付くべきところ、情状酌量し、その罪を免ず�  九月一日菊次郎は放免される。  彼が、簡単に放免されたのは十七歳の年齢もあるが、叔父慎吾の尽力によるものであろう。慎吾は延岡まできていた。  帰郷した菊次郎は、城山の攻防で市中に入ることが出来ず、熊吉の知人の家で静養していたという。  いとは、菊次郎の姿に胸を抉《えぐ》られていた。いざり寄るか、何かにつかまらなければ立居の出来ぬわが子。これからの長い人生を不具者として送らなければならぬかと思うと、母ゆえに、暗い気分になる。  菊次郎が健気であればあるほど、いとは辛い。 「何も納屋に行かずとも」  いとは、菊次郎をなだめたが、彼は頑なに譲らなかった。  家族に囲まれて気兼ねするより、そのほうがよいのかも知れぬ……、いとはそう考え、熊吉と吉左衛門を呼び、納屋に猛宗竹の床を張らせた。  安がせいと西別府を訪れてきたのは十一月になってからである。彼女は稲荷川上流の七窪にのがれていたという。  安は、いとの顔をみるなり泣き伏した。 「兄さあも馬鹿《ばかたん》でごわすが、辰之助はそれ以上の大馬鹿《おおばかたん》でごわす」 「ないごち(なぜ)?」  安は、顔をあげると手巾で顔《おもて》を覆いながら、涙声で語った。  辰之助は菊次郎と同年の十七歳である。彼は振武隊先鋒として、五月六日鹿児島で政府軍と戦う。  玉江橋の本営(攻撃隊の本営・砲隊はべつ)を発した先鋒は、原良、西田、武、田上を経て、午前三時荒田天保山の川尻(甲突川河口)に到着した。  彼等は対岸の政府軍保塁を突き崩すべく、増水した川を渡ろうとする。だが内通者によって薩軍の来襲を知らされていた政府軍は、照明代りに河堤の小屋を焼き払い、塁下に達した薩軍に猛射を浴びせた。 「退け!」  退却命令が出た時はすでに遅く、辰之助は股部に弾丸を受けていた。水中に溺れた辰之助を官兵がすくい上げる。  大山巌の甥と判明した辰之助は、巌のもとに送られた。 「早う、俺《おい》が首ば斬れ!」  陸軍少将の叔父にむかって叫んだ辰之助は翌七日、深手のために陣没した。  話をきき終えたいとは、安と手をとりあって泣いた。親子、兄弟が敵味方になって殺しあう。戦さとは何なのか。いとは吉之助の慈愛に満ちた黒い双眸を思い浮かべ、狂い出しそうな悲しみを味わっていた。  一方、浄光明寺境内では肉親をさがす女たちの姿がみられた。県令岩村は政府から、薩軍戦没者の埋葬許可をとり、寺庭に遺骸を集めさせていた。  女たちは地べたに横たわる死体の蓆や菰を捲《めく》り、肉親かどうかを確かめる。損傷のひどい惨死体には、指を切り、その血を塗りつけた。肉親であれば、屍が血を吸うと信じられていたからである。  県令岩村は、吉之助の遺体のみが棺に入れられ、桐野ら将校の屍が地べたに転がされているのをみると、県吏に毛布を持って来させ、丁寧に包ませた。  肥後や日向の戦場まで、肉親の遺骸を捜しに行く者もいる。  戦火で家を焼かれ、男たちを奪われた女たちには、糊口の道がない。寒冷の季節になっても襤褸《ぼろ》をまとい、手内職で露命をつないだ。春をひさぐ者が増えていた。  県では「窮民救助法」を実施するが、わずかな一時金では暮らしていけない。  官を憎む女たちのなかには、彼等のために泣かねばならぬと、道に倒れている官兵の死体を、 「みんな蹴っておじゃんせ(おやりなさい)」  と触れ廻った者もいる。 [#改ページ]   第八章 留 学  新しい年があけ、再び初春《はる》がやってきた。悲しみを心底に封じ込めた西郷家の女たちは一段と寡黙になった。何か言えば|ぐち《ヽヽ》や怒りになる。 �賊徒�  これが吉之助と薩軍に押された烙印《らくいん》である。菊次郎が放免されたとき持ち帰った九州臨時裁判所印の紙にも、�賊徒に組し�と書かれてあった。  政府は官に抵抗する者を賊というが、抵抗せねばならぬように仕向けたのは政府である。  密偵、吉之助暗殺。  吉之助を憎み、大久保を嫌悪する島津久光は、政府にも薩軍にも加担せず中立を保ったが、戦いが始まった四月に、太政大臣あてに建白書を提出した。 「吉之助が�訊問�と称して多勢兵器を携えて出行したのは臣道を失したるものだが、中原らの行動は大いに疑わしい。政府は中原らの行為を妄説といっているが、鹿児島人民は実際にこれを見ている。至急休戦の令を総督府に下し、吉之助ら私学校徒、大久保・川路の両方を召し出し、公平な裁判を開き、法律に照らして罰すべきである」と。  いとは、日を追うに従い怒りが湧いていた。賊と呼ばれる夫やその部下たちが気の毒でならない。  彼等は新生国家をつくるために鳥羽伏見、奥羽越で戦い、廃藩置県では出京・帰県して警戒に当った。  吉之助と部下たちの武力がなければ、討幕も、廃藩置県のクーデターも断行することはできなかったであろう。  政府は、吉之助らを�官に抗した賊徒�というが、官は吉之助と部下たちによって築かれ、その働きに負う所が大きい。  いや吉之助は戊辰戦争で多くの生命が失われたことを想い、大久保ら政府要人たちの権勢と「驕奢」を憎んだ。  吉之助が高額な給料の返上を申し出たのも、二千石の賞典禄を寄付したのも、失った生命を思うからであった。  朝令暮改、政治《まつりごと》の実は何一つあがらぬのに広い大名屋敷に住み、高給をむさぼるかつての同志を吉之助は「悪く申せば泥棒なり」「泥棒の仲間になれと申す事、甚だわれを賤《いやし》めし候事」と言っている。  その吉之助が、慎吾に出京を促され廃藩置県を断行し、留守内閣の参議となったのは、国のため人々のためになると考えたからであった。  吉之助は、鳥羽伏見の戦場から正月十六日、 �もう老人の仲間に入った。軍《いくさ》は出来ない。 ……戦いが静まれば、御暇(官職を辞し)を願出て、隠居ときめている�  と家信にしたためた。  討幕の軍を起した吉之助は、この頃から藩内外の権力争いに嫌気がさし、隠居をのぞんでいる。 「私学校の連中に生命を預けた」  いとには、夫の声がきこえてくる。政府が密偵を派遣し、彼の生命をねらおうとも吉之助に戦う意志はなかったのである。  しかし校徒が暴発したとき、夫は彼等に生命をゆだねる決心をした。政府は火薬庫襲撃の犯人引渡しを求めてくる。拒否すれば兵をもって校徒を討つであろう。  吉之助は、上に立つ者として彼等を見殺しにはできなかった。 「三千の兵を見殺しにして逃げて来るような男に情をかける必要はない」  かつて江藤新平に尽力せぬことで非難された吉之助は憤然と言い切っている。  そして吉之助は自分の言葉通り、生命を預けた部下たちと行を共にし、城山の露と消えた。  夫の志を思うと、いとは悲しみのなかにも一種の安らぎをおぼえる。  だが、共に回天の業を成し遂げ、国家のために尽してきた同志を同郷の将兵で討たせるとは、なんと心ないやり方であろう。  政府を、大久保を、同志を討った薩摩出身者をいとは許せない。いとだけでなく薩軍の妻や母は官を憎み、政府不信に陥っていた。 「義姉さあ、お客さあごあんど」  松が農作業をしているいとを呼びにきた。 「これを得能さあ(清子の父)が……」  客は、座敷に坐ったいとに悔みを述べ、七百円の香奠を差し出した。  いとは包みを開きもせず、客へもどす。  慎吾の岳父得能良介は、紙幣印刷局の局長で、官の人である。彼は吉之助と青年時代から深く交わり、肝胆相照らす仲であった。  それゆえ吉之助の死を悼み、困窮している遺族のために大金を包んだのであろうが、いとは官《ヽ》に拘泥《こだわ》る。吉之助を賊にした官、その官に仕える人から憐れみは受けぬ。 �口有りても食ろうことなかれ首陽《しゆよう》の蕨《わらび》�というではないか。  困窮しているのはいとたちばかりではない。いや吉之助の拘地《かけぢ》(所領地)がある西郷家は人々より恵まれている。全軍の将吉之助を想うとき、西郷家のみが大金を得て、亡き吉之助がよろこぶであろうか。 「それでは、預った私が困りもす」  困惑した客は、いとへ包みを押し返した。  いとは肯《がえん》じない。包みは二人の間を往復する。 「私の立場もお考えください」 「そんなら、わたしのほうから得能さあにお返しいたしもそ」  いとは客の迷惑を考え、一旦包みを受け取った。そして客が辞去すると、熊吉を呼んだ。 「お前《はん》、こいを得能さあに返してきてたもんせ」  いとは熊吉に東京《ヽヽ》行きを命じると、おのれの気持を語りきかせた。 �夫は戦死し、子(菊次郎)は廃人となり、家も道具類も焼けてしまったので、御救恤《ごきゆうじゆつ》くださるのは有難いが、吉之助生存中に開墾した土地があり、暮らしには困り申さぬ。後日何か御願いの筋があるかも知れませぬが、この包みは御辞退申しあげます�と。  淵辺高照(群平。薩軍本営付護衛隊長のち鵬翼隊長)の妻も、百円の香奠を拒否した。  彼女は、高照に世話になったという人がたずねて来ると、不快と怒りを露わにし、 「亡夫は賊名を負うて死んだものでごわす。何の交誼かは知らねど、官員より香火を恵まれる筋はござりもはん」  と言い放った。  得能はのちに、西郷家に吉之助の写真、肖像画がないことを耳にすると、印刷局のお傭い外人キヨソネに吉之助を描かせて西郷家に送っている。  明治十一年四月。  桐野、池上の両家で死骸を改葬したとき、いとも墳塋《ふんえい》を掘り起し、骨を集めて改葬を行なう。九月には身内でささやかな一年祭(仏式の一年忌)を営んだ。西郷家は神徒である。  それゆえいとは、市太郎から夫の死を告げられたとき、にわか造りの祭壇に灯明をあげ自生の榊《さかき》を切ってきて手向けた。 「菊次郎どん、ちょっと」  いとは、大島から来た男たちが帰島するときき、菊次郎を呼んだ。健康を取り戻した菊次郎は、傷口も完治し、杖をついて歩いている。義足をつくってやりたいが、よい職人がみつからない。  いとは、出征に際し吉之助からまとまった金額をもらっていた。そのおかげで飢えもせず収穫期まで食糧を購うことができたが、まだかなりの額が残っている。  自給自足であれば、金を使うことも少ない。 「こい(これ)を島の実母《はは》上にあげったもんせ」  いとは、十円を菊次郎に渡した。  愛加那はまだ吉之助の死も菊次郎の負傷も知らない。帰島する男たちは、製糖会社の仕事で鹿児島にやって来たからである。 「こげんときに……」 「心配せんでんよかが。御父上やお前《まん》さあのことをきけば、御実母上も悲しうごあんそ」  いとは、ためらう菊次郎に十円を押しつけた。  生前吉之助は、愛加那に米や金を送っている。彼女の暮らしを考えてのことだが、夫が戦死したいま、いとがその義務《つとめ》を果すべきであろう。  天を敬し、人を愛した吉之助。温潤《おんじゆん》、誠実、慈愛に溢れた夫を想うと、いとは、万分の一でも彼の気持に添いたいと希《ねが》う。  慎吾から、人を介して武村の邸を再建したいと申し出があったのは、翌十二年の春であった。大雪の日から二年が経っている。  吉之助が出陣した日とは異なり、野も山も暖気に満ちていた。浄光明寺の吉之助の墓前には香華が絶えず、慟哭する人の姿がみられるという。  吉之助を討った大久保は昨夏(五月)刺客に襲われ非業の死を遂げた。川路もまた欧州航路の船中で毒を盛られ発病したとの噂である。刺客を差しむけた人間が、刺客に殺されるとはなんと皮肉な運命か。  しかし、彼等が死んだとて、吉之助らに与えられた�賊徒�の汚名は消えない。いとは夫を滅ぼした城山の火を永久に忘れぬであろう。 「慎吾どんの申し出は有難くお受けいたしもそ。じゃっどん家は幸吉どんにやってたもんせ」  いとは、きっぱりと辞退した。  武村の家も土地も吉之助が、明治二年三崎平太左衛門から購入したものである。その家が焼失したからと、慎吾の恵みを受ける気にはなれない。  慎吾は吉之助の死をきき、庭に佇み、いつまでも泣いていたという。�官を辞す�と言って大久保に押し止められたとも伝えられる。  しかし彼は官軍の将として兄を討ち、いまも官の人である。 「幸吉さんに?」 「はい、小兵衛どんの嫡子《むすこ》でごわす」 「西郷閣下(慎吾)にお言葉を伝えます」  客は、西別府《にしのびう》を去った。  いとの発言を確かめるように慎吾から松に書状がもたらされたのは、半月後である。 「慎吾どんが、幸吉に家を建てっくるっそうでごわす」  何も知らぬ松は、目を輝かしていとに報じた。 「家が出来あがったら、義姉さあ、みんないっしょに住みもそ」  いとは、よろこぶ松を見遣りながら、これでよいのだとおのれに言いきかせた。いとより十四歳も若い松は、いとや園のように慎吾を官とは見ない。小兵衛が上京中、慎吾邸に世話になったこともあり、彼女は慎吾に好感を抱いていた。  いとが、�幸吉に家を�と言ったのは、その松の気持と、幸吉の未来を考えたからである。病弱で障害のある幸吉には、どうしても家がいる。持家があれば、万一のとき、それを売って糊口をしのぐこともできよう。  松は、いとのようにわが子を頼ることが出来ない。 「幸吉なら、良い家はいらんずあ、慎吾どんが、そげん言うたそうでごわす」  普請の成った家を見にいった松は、嬉しそうに語る。そして、移転を拒むいとを懸命に説得した。 「慎吾どんは、兄さあや小兵衛どんを討った仇。そいを思うのなら、尽すのが当り前ごあんど。わたしはもっともっと尽してもらいたか。いや大威張りで世話になりもす」  やはり松は、いとや園とは異なる。いとは二十三歳の松の意見に茫然としていた。いとや園はその矜持《きようじ》ゆえに仇の恵みは受けたくないと思うが、松は贖罪《しよくざい》ゆえ、もっと受けとるべきだという。  そして、いとが慎吾の家に拘泥《こだわ》るのなら、 「幸吉に建ててもろうた家ゆえ、売りもす。売って得たお金で新しい家を買えば、義姉さあも、園さあも来てくれもんそ」  松は泣き出した。  松は松なりに、一家のことを考えていたのである。言いつのり激して、肩をふるわせる松を凝視めながら、いとは彼女の無念の思いと悲しみが胸に痛かった。 「松どん、あいがとう」  いとは、瞳を濡らしながら、彼女に心から礼を言っていた。  新しい家に移ったいとは、安と相談して菊草と大山誠之助の縁組を進める。誠之助は巌の弟だが、安の義弟でもあった。  薩軍として出征した誠之助は、負傷して日向長井で降伏、懲役刑に服していた。婚礼は誠之助の出獄を待ち、明治十三年二月十二日に行なわれる。菊草十九歳、誠之助三十一歳、いと三十八歳、菊次郎二十歳であった。 「島の実母《はは》に報告してきとうごわす」  菊次郎が、竜郷に行くことを申し出たのは、菊草の婚礼が終った直後である。いとは菊次郎の気持を汲み、快諾した。 「ゆっくりしておさいじゃっし」  松葉杖をつく菊次郎の姿は痛々しい。義足は出来たものの具合がよくなかった。実母に対面することで菊次郎の心が慰められるのなら、いとは彼の願い通りにしてやりたい。  子とはいえ、父に従い負傷した菊次郎を思うと哀れでならない。愛加那の歎きが気になるが、菊次郎は父の名に恥じぬ青年であった。菊次郎は一年間実母と暮らし、いとのもとに戻って来る。  沈毅寡言、乃父《だいふ》の風ある菊次郎に比べて、寅太郎のなんと軽々しいことか。なんと苦労知らずであることか。  子弟の教育に熱心であった吉之助の心を汲み、いとは北条巻蔵を家塾の教師に招き、子供たちを学ばせていた。北条は優秀な成績で師範学校(第一回生)を卒業し、学校の指示によって明治九年二月、鹿児島に赴任している。  しかし十四年郷里新庄の中学校長に懇請されたので、寅太郎は城山下の三州義塾に入学した。  義塾は、政治結社三州社が人材養成のために開いたもので、三州社は旧薩軍の河野|主《しゆ》一郎と私学校残党によって創設されている。  薩軍五番大隊一番小隊長、破竹隊長であった河野は、川村純義のもとに吉之助の助命嘆願の使者として赴き捕えられた。十年の刑を申し渡され、福島監獄で服役するが、明治十四年末の恩赦で出獄する。  吉之助の嫡男寅太郎は、義塾で人気者になっていた。だが、鹿児島を訪れた中江兆民(政治家。のちに国民党を結成)と議論を戦わせ、中江が塾生を侮辱したとして、仲間たちと鉄拳の雨を降らせようとした。  義塾先輩の取りなしで事なきを得たが、寅太郎はどうも「旗振り(音頭とり)」でありすぎる。父の子を意識してのことであろうが、吉之助なら、まず議《ぎ》(生意気)を言わない。  明治十六年のこの年寅太郎は十八歳、いとは四十一歳になっていた。  顔立ちも体つきも母似でほっそりしているが、穏やかな午次郎に比べて、寅太郎は負けん気が強い。正義漢の彼は母と同じように官を憎んでいた。  その寅太郎にドイツ留学の内旨が下されたのはこの年の十二月である。学費は天皇の御手許金から一か年千二百円を賜うという。  吉之助の偉勲を追想した天皇は、侍講元田|永孚《ながざね》を通して吉井幸輔に隆盛遺族の近況をたずねられた。  勝海舟によれば、次のようになる。  明治十六年は吉之助の七回忌に当るので、なんとかしようという話が持ちあがっていた。もっとも心にかけ、心配したのは、伊地知正治、元田永孚、吉井幸輔、税所篤《さいしよあつし》で、彼等は海舟に気持をぶちまけた。 「遺族、遺児が気になるが、従道(慎吾)は弟ゆえに言い出せず、大山(巌)はいとこゆえに言い出せずに困っております。われわれも考えてはいるのですが、今回はとても言い出しかねるので、立太子の時にでもと思って……」 「そりゃだめだ。この機会をはずしてはならぬ」 「それなら勝さん、お願いします」 「よし、俺に任せなさい」  引き受けた海舟は薩軍征討総督となった有栖川宮に文を書き、宮から天皇に奏上してもらう。その結果の御下問・内旨であった。 「西郷の遺児に会おう」  天皇の御言葉で、吉井は鹿児島に人を派遣し、寅太郎を上京させる。  十七年四月、寅太郎は、叔父慎吾が用意した洋服を退《しりぞ》け、母が持たせた紺がすりに小倉の袴をはいて天皇に拝謁した。  だが宮中から退出した寅太郎は、慎吾や巌が如何にすすめても留学を承知しなかった。宮中参内の義務《つとめ》を果した以上、もはや官《ヽ》に用はない。いや父を討った慎吾や巌の話がきけようか。  吉井も伊地知も税所も元田も留学のお膳立てをした人々は、父の敵《かたき》である。薩軍遺族の憎む官《ヽ》であった。  寅太郎に手を焼いた慎吾と巌は、説得を吉井にゆだねる。だが寅太郎は、吉井にも、 「わたしが左様な思召しを蒙るより、亡父の事を願いあげもす」  と言って首をたてにふらない。困った吉井は寅太郎を海舟のもとに行かせる。だが、海舟にも寅太郎は同じことを言い、 「賊にされた恨みは消えもはん」  と肩をそびやかした。 「そうか。それなら仕方ねえ、お前さんも親父がやったように二、三千人もお集め。いやお前さんなら千人位だろうか。その千人を殺すのも可なりだ。それがよいと思うのならそうおし、国に帰ってもいいよ」  皮肉屋の海舟は、わざと寅太郎を突き放した。  帰麑《きげい》した寅太郎から、東京の報告を受けたいとは思い悩む。寅太郎の、 「わたしが思召しを蒙るより、亡父の事を願いあげもす」  の言葉をきき、涙が溢れた。官を憎む寅太郎が素直に上京したのは、父から賊の名をとり払いたかったからであろう。  彼は少年期の多感なときに、逃げまどい、賊将となった父の死をみてきている。中江兆民の言葉に短慮といわれても仕方がないほど激昂したのも、彼の裡《うち》に�賊�の名が巣喰っていたからと思われる。  昂然と胸を張り、賊と呼ぶ人々を罵ってみても、烙印は消えない。だが寅太郎が言うように、押された烙印を生涯そのまま付けていてよいものであろうか。  いとは明治六年皇居が炎上したとき、月給の半分二百五十円を復興費として、毎月差引かせた吉之助を想っていた。  巡幸の折には、鶴丸城から動かずに天皇を警衛した吉之助。禁闕を拝し終えて首《こうべ》をさしのべた吉之助。  彼は、猟犬ハヤの小鳥捕獲の妙技を御覧に供したこともある。「見たい」と仰せられた天皇のために、吉之助はわざわざ故郷の山野の狩姿となり、吹上御苑に黒犬を連れ出した。  天皇を敬愛し、生命を断つ寸前まで禁闕を忘れなかった吉之助を考えると、留学の下命を退けてはならぬという気がする。  天皇は、賊将の遺児と知りながら、留学を命じておられる。吉之助を�賊�と思っておられぬからではないか。もし賊と思われるなら、たとえまわりがどのようにお膳立てをしようとも天皇は、おきき入れにならなかったにちがいない。  天皇は留学を命ずることで、吉之助から賊名を取り払おうとなさっておられる……。  いとは、おのれの頑なな気持に鞭を当てられたようで落ち着かなかった。  翌日、吉之助の叔父椎原国幹を訪れたいとは自分の気持を率直に語り、彼の意見を問うた。  父母なきあと吉之助兄弟を後見し、親族帳に名を連ねてきた国幹は、いとにとっても肉親にまさる相談相手であった。  西南の役で薩軍大小荷駄隊の長であった国幹は、延岡で降伏し、二年の懲役刑を受けて宮城監獄で服役した。現在国幹は鹿児島学校長をつとめている。 「お前《まん》さあの言わる通りでごわす。恨みに拘泥《こだわ》っても何一つ益はごわはん。俺《おい》は恨みあるゆえ仕事にたずさわり、おのれの志を遂げようと決心いたしもした。せっかくの思召しを断わり、世をすねていては吉之助どんも嘆きもんそ。寅太郎によう話してやってたもんせ。留学の御命令に従うことが、吉之助どんをはじめ出征した人々の賊名を払うことになると」  明治十七年十二月。  いとや国幹、三州義塾の教師たちに説得された寅太郎は再び上京する。彼はまず海舟を訪れた。座敷に招じあげられた寅太郎は、黙している海舟に、 「よくよく考えてみましたところ、親父のしたような事をするより、洋行して軍人となり御奉公するほうが、ずっと大きいということがわかりました。どうぞ洋行のことお願い申しあげます」  と頭を下げた。  海舟はよろこび、吉之助のことを話す。海舟と吉之助は元治元年九月兵庫開港延期の談判委員になったときから、意見を交換してきている。  海舟は吉之助のことを、�西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。……西郷の至誠は、おれをしてあい欺くことができなかった。小|籌《ちゆう》浅略を事とするのは、かえってこの人のために|はらわた《ヽヽヽヽ》を見すかされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じた�と言っている。  しかしそれにしても、醒めた海舟には吉之助の行動がいま一つわからなかった。 「政府へ尋問」のためなら兵隊や兵器は不要である。一万三千の私学校徒を主力にした薩軍は砲隊まで備えた本格的な軍隊であった。 「お前さんの親父は、徳川を倒したように新政府を倒すつもりだったのかねえ」 「そげんこつでは……」 「じゃ、なんだい」 「親父は、部下たちを見殺しにできなかったのでごわす」  涙をこぼして父吉之助を弁護した寅太郎は、二時間ばかりいて勝邸を辞去した。 「俺も、寅どんといっしょに行きたか」  寅太郎が洋行を決めたことを知ると、勇袈裟も留学同行を願い出る。勇袈裟は明治十年一月|隆準《たかのり》と改名していた。  勇袈裟の願い出は聞き届けられ、二人の出発は翌十八年正月と決まる。  菊次郎は明治十七年、すでに外務省に入っていた。慎吾、巌、川村純義の努力によるもので、外務省御用掛となった彼は、十八年一月米国公使館在勤を申付けられ、二十年六月にはアメリカ留学を命じられている。  島人が再び西郷家を訪れた明治十二年に菊次郎は、 �私共は名高き父上さまの子なれば、ぜひ成るべきだけは学問でもして、父上さまの志を継ぐということがなければ、一は天下の人に、一は父上さまに相済まぬ�  と大島の実母へしたためた。  子供たちは、吉之助の志を汲み、大きく羽ばたこうとしている。いとは涙が流れて仕方がなかった。  寅太郎は上京中、 「親父の趣旨は、そげんこつではごわはん」  と海舟の言葉を訂正したようだが、子ゆえに父がもっともよく理解できるのであろう。  いとは、子供たちの旅立ちの準備をすすめながら、吉之助と過した日当山、坊野の風景を瞳に浮かべていた。あの頃の吉之助は別れを惜しむかの如く、女・子供たちを湯治場に誘った。  吉之助に愛された多くの犬たち。  彼は、最後の戦いに伴ったハヤとツマを、可愛岳突破を前にして、 「無事に帰って行けよ」  と解き放っている。  黒毛のハヤはもとの飼主押川甚五左衛門の家に帰りついたが、かや毛のツマは日向長井で政府軍の東条直太郎に拾われた。  吉之助の犬であることを知っていた東条は、城山陥落の日まで飼育し、後日、慎吾に乞われて、東京まで届けに行っている。  いとや子供たちに忠実であった黒毛の攘夷家は、西別府で死亡した。  菊次郎が言う如く、名高き父の子ゆえ、いとは母として子供たちの未来を閉ざすことができなかった。おのれの心にそまずとも色々な言いわけをして、寅太郎が留学の命を受けるよう説得した。  だが吉之助の妻であるいとは、生涯城山の火を忘れぬであろう。悲しみを苦しみを怨みを心底から取り除くことはできない。いとは浄化の歳月を想いつつ、貝になろうと誓っていた。  寅太郎は、明治二十七年十年間のドイツ留学を終えて帰国するが、その留学中の二十二年に憲法発布の大赦令で吉之助の賊名は除かれる。 「短い袴をはいた乱暴者が、よくまああんなに立派になった」  海舟は、寅太郎の帰朝をわが子|小鹿《ころく》のときよりもよろこんだ。  帰朝した寅太郎は一旦、鹿児島に帰り、母を伴って上京する。いとは明治三十四年五月にちょっと帰麑しただけで、以後は東京で暮らした。  大正八年一月五日寅太郎が五十四歳で病死するといとは、麹町区新竜土町の午次郎の家に移るが、終生、西南の役を語らず、孫たちがどのようにたずねても�苦労した�とは言わなかったという。中風で寝ついたいとが、心臓発作で八十年の生涯を閉じたのは大正十一年六月十一日|梅雨《つゆ》の夜であった。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   あ と が き 「そんなところに行っても、何もないのでは……」 �坊野(日置郡吹上町)に行く�という私に、鹿児島ではあやぶむ声もあった。  しかし私は鹿児島取材を思いたったときから、坊野・西別府《にしのびう》をコースに組み入れていた。  文献に|よし《ヽヽ》の話が出ていたからで、すでに吹上町役場の佐土原さんとは連絡ずみである。南日本新聞社(現文化部副部長)の高柳さんが同行してくださることになっていた。高柳さんは『西郷隆盛伝・終わりなき命』(南日本新聞社編)の筆者である。  私は高柳さんのおかげで、西田橋が参勤のときの橋であったこと、武家屋敷の金竹《きんちく》が火縄に用いられたこと、島津吉貴公が竹の植種をすすめたこと等を知った。  吹上町では佐土原さんが待っていて、よしの家に案内してくださる。  よしの子孫黒川ゆきえさんから吉之助や|いと《ヽヽ》の話をきくことが出来た。ゆきえさんは、いとが女・子供たちをつれて避難した当時の場所に住んでいた。  黒子川上流の南面台地で、左手前方に黒子岳がのぞめる。しかし家は吉之助が建て与えたものではなかった。西南戦争後、よし・仁太夫婦が売ってしまったからである。  その理由をゆきえさんは、 「広か家なので、西郷さんの魂が籠っているようで、こわかったとおばあちゃんが言うておりました」  と語った。  官《ヽ》をおそれたよし夫婦は、吉之助が持参した味噌樽、馬、道具類を裏手の洞穴にかくしている。 「よしさんが売った西郷さんの家は、この山の上のほうに残っていますよ」  前もって調べてくださっていた佐土原さんが、舗装の切れたデコボコ道を誘う。 「あの家でしょうか」  高柳さんの車を下りた私は、竹藪に囲まれた家を指差した。 「あんなものではないでしょう」  高柳さんは言下に否定し、 「西郷さんが建てた家ですから、きっと立派だと思いますよ」  と言う。  道路から細い坂道を上ると、山を切り開いた場所に二軒の家がみられた。佐土原さんがその一軒に近づいて行く。  なるほど高柳さんの言葉通り、吉之助がよしに与えた家は立派で堂々としていた。百十年の歳月が感じられぬほど真新しく、がっしりとしている。 「手を加えられたのですか」 「いいえ、土間を少しひろげただけで、むかしのままです」  住んでいる婦人は、西郷さんの家とは知らずに、私の問いに答えた。  吉之助・いとが歩いた道を辿り、西別府へ行く。  私は目にした城山の近さに驚いた。 「城山までどのくらいの距離でしょう」 「直線にして七百メートルくらいではありませんか」  高柳さんも同じ思いなのか小さな数字を口にした。しかし帰京後、地図をはかってみると、直線にして一里半——六キロあった。  鹿児島市に編入され西別府《にしのびう》は、最近�にしべっぷ�と字の通りに呼ばれているという。開発が進んで一面の団地であった。  吉之助は政府の公文書以外には、自らを吉之助と記している。変名した時期もあったが、沖永良部遠島を解かれてからは吉之助で通した。武村の表札も�隆盛�ではなく�吉之助�になっていたと伝えられる。  吉之助の末妹安は、西南戦争で辰之助を失うが、大山成美の跡は武次郎が襲っている。  武次郎は、安の年齢から推すと辰之助の兄と思われるが、私には手がかりが得られなかった。  この稿を起すに当り、村野先生(南洲顕彰会理事長)をはじめ多くの方々の御協力を得た。文末に御名前を掲げて深謝する次第である。  また形の定まらぬ私の話に耳をかたむけ、取材・原稿と暖かく見守り、御尽力してくださった文藝春秋出版局次長豊田健次氏、きっかけをつくってくださった週刊文春編集長上野徹氏、こまごまと気を配り、上梓の面倒をみてくださった出版部次長の加藤保栄氏に心から御礼を申しあげる。 [#2字下げ]昭和六十一年寒露 [#地付き]著 者   〈参 考 文 献〉 『西郷隆盛全集』(二、三、四、六巻)西郷隆盛全集編集委員会(代表者 村野守治)大和書房 『敬天愛人』(一〜三号)西郷南洲顕彰会専門委員会 西郷南洲顕彰会 『西郷隆盛』(一〜三巻)海音寺潮五郎 朝日新聞社 『西郷隆盛とその一族(2)』村野守治 鹿児島女子短大「紀要」16 『西南戦争の研究』村野守治 同右19・20 『オヤジ教育論—郷中の家庭教育』村野守治 MBCクオータリー 『鹿児島県の歴史』原口虎雄 山川出版社 『西郷隆盛』(上下)井上清 中公新書 『西南の役遺族会会報』(二〜九)西郷南洲顕彰館・児玉正志 『海舟座談』巌本善治編 勝部真長校注 岩波文庫 『岩山文書』岩山家 『大西郷終焉悲史』田中万逸 大日本皇道奉賛会 『大西郷全史』全編 大西郷全集刊行会編 『吹上郷土史』(現代編)町教育委員会 『薩南血涙史』加治木常樹 薩南血涙史発行所 『元帥西郷従道伝』西郷従宏 芙蓉書房 『西郷菊次郎小伝』(大隅8)築地健吉 大隈史談会 『翔ぶが如く』(六、七巻)司馬遼太郎 文藝春秋 『明治六年政変』毛利敏彦 中公新書 『大西郷全集』(第三巻)大西郷全集刊行会 平凡社 『西郷吉二郎大人』西郷従徳編発行 『南洲翁逸話』鹿児島県教育会編 南洲神社崇敬会 『大西郷兄弟』横山健堂 玄黄社 『西郷隆盛伝・終わりなき命』南日本新聞社編 新人物往来社 『女たちの薩摩』日高旺 春苑堂書店 『川口文書』川口雪篷 『回顧録』(上)牧野伸顕 中公文庫 〈協力してくださった方々〉  村野守治 児玉正志 三木原勝義 島津伊津子 若松秀隆 伊木正子 小堀智恵 吉原きよ 高柳毅 田口一夫 黒川肇 黒川ゆきえ 佐土原伸也 鶴田正義 中西あさえ 竜宝鉄馬 前村悦子 服部徹 上村和健 竹田栄和 宝田啓子 (敬称略・順不同)  単行本 昭和六十二年二月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成元年八月十日刊