阿久 悠 続・瀬戸内少年野球団 紅顔期 目 次  病みあがりの送春曲   1 トビウオの悲劇   2 復員ボケ   3 大人の匂い   4 悪い春   5 栄養失調   6 老兵は死なず   7 純情詩集   8 猫と蜜柑   9 乙女の性典   10 卒業  くらやみの恋夏曲   1 暗闇紳士録   2 烏   3 軍隊ラッパのオッサン   4 インキンと結婚   5 ボケの小百合   6 夏のあらし 秋ヘ   7 忘却とは  |空《から》まわりの思秋曲   1 恋文屋   2 泥仕合   3 兄弟   4 紙飛行機   5 秋鯖と赤とんぼ  それぞれの感冬曲   1 三ノ宮幻想   2 冬の前に   3 大みそか   4 海の宴   5 早春苦   6 急行銀河  あ と が き  病みあがりの送春曲   1 トビウオの悲劇  そういえば、あの頃、後頭部の絶壁のあたりで両手を組み合せ、ちょうどビールの栓抜きのような形のポーズをとる少年が多かった。塀や壁にもたれかかる時もそうだし、校庭などで何気なく立っている時でもそうである。その場の主役の立場にある少年は、さすがにそんなポーズはとっていないが、何気ない脇役、もしくは傍観者の中の何人かは、きまってビールの栓抜きの形をしているのだ。  少年小説の挿絵や、少年画といわれるものを見てみると、常識として、あるいは定型として、そんなポーズの少年が描かれていた。  頭が重かったのかもしれない。  いや、それは頭を支える肉体との比較の問題で、極度に貧弱な肉体では、とても頭を支えきれないという不安感が、きっと両手を添えさせたのであろう。  あの頃、誰も彼もが程度の差こそあれ栄養失調であったことは否めない。だから、少年たちは、常に何かに寄りかかっていたし、頭を手で支えたり、右足を左足にからませたりして、頼りない気分を解消していたように思える。  そう、何がということでなく頼りなかったのだ。自分の肉体のどこかを、自分自身で支えるなり掴むなりしていないと、くずおれてしまいそうな頼りなさを潜在的に持ちつづけていた。肉体の機能が|脆弱《ぜいじやく》になると、人間は、それを補うために自然の知恵を働かせる。  食糧事情がよくなって来た昭和三十年代以降の少年たちには、このビールの栓抜きポーズは全く見られない。だから、時代のポーズであり、忘れられたポーズなのである。  あの頃──昭和二十五年である。  今ここで溺れて死んだら、新聞には何と出るだろうかと足柄竜太は思った。  トビウオの悲劇。  いやいや、フジヤマのトビウオといわれた古橋広之進選手ならそう書かれるかもしれないが、淡路島の片田舎の名もない中学生に、そのような映画の題名になりそうな見出しは付けてくれるわけがないと、竜太は、正確に自分の立場を見きわめていた。  少し疲れて来た。平泳ぎのストロークが鈍くなり、何度も水を呑んだ。  さっきまで、西瓜畑で日照りを満喫している西瓜のように、幾つもの坊主頭が群がっていたが、今や点々と見えるだけである。そのどれもが、竜太と同じように、泳ぐというよりは浮いているという感じで見えかくれしている。  江坂中学夏の恒例の二千|米《メートル》遠泳競技会が行われていた。  恒例とはいっても、正しくは復活第一回である。終戦の年の昭和二十年に中止になり、戦後は思い出す人もなく忘れられていた。たとえ思い出す人がいたとしても、あの欠食児童の筋ばった裸を見たなら、とても口に出すことは出来なかっただろう。  二千カロリー少々しか摂取していない|澱粉《でんぷん》ばかりの民主主義の子には、二千米を泳ぎきる体力もスタミナもなかったのだ。  それが復活したのは、世の中やや豊かさを取り戻して来た結果といえるかもしれない。  |玉蜀黍《とうもろこし》や|高梁《コーリヤン》を雑炊ですする時代から、ポン煎餅で楽しむ時代に変っていたし、飢餓の度合もやや薄れ、栄養失調という感覚で肉体を見るまでに復活していた。生きるか死ぬかが、健やかか否かぐらいにまでもり返して来ていたのだ。  そして、直接のきっかけとなったのは、日本人としての意欲と自信の復活で、それは、古橋広之進や橋爪四郎や浜口喜博といった日本大学水泳部の選手が、アメリカ選手をおさえて勝利をおさめたという快事に発している。アメリカに勝った。アメリカに勝てる。まさに真珠湾以来の身ぶるいする興奮に、 「諸君。諸君の頭上をおおっていた劣等の暗雲はいまや晴れた。やれば出来る。やらねばならぬ。我らは古橋に続かねばならぬ」  と枯れかけていた中学校長を蘇生させ、但し校長はその興奮で血圧を上げ、しばらく寝こんでしまったが、とにかく恒例の二千米遠泳競技会が復活したのである。  早朝、その校長に見送られて、三十|艘《そう》の漁船に分乗した男子生徒二百名は、沖合の出発地点を目ざした。  校長は、興奮のあげくの演説が、進駐軍筋に対してやや穏当を欠くという注意を受けたため、その時はとり立てて何もいわなかった。思えば熱い|目差《まなざ》しかと感じられる程の目をしただけである。  二百名の男子生徒たちは、沖合二キロの地点で投げこまれ、岸を目ざして泳ぐのである。スピードは問われない。完泳すればいい。どういう形であれ岸に泳ぎつけば、大釜で煮立っている|飴湯《あめゆ》と、二千米遠泳合格之証という証書が貰えることになっている。  三十艘の漁船は、廃棄物でも捨てるように少年たちを投げこむと、 「|鱶《ふか》に気いつけよ。迷い鱶がいるかもしれんよってな。ええか。足食われてもチンポ食われるなよ」  そんなことをいってからかいながら、そのまま漁に出かけて行った。  瀬戸の海に二百の坊主頭が浮いた。  但し、万一の場合を気づかって、体育の先生と校医の乗った船が監視と救助の役目で|尾《つ》いて来ている筈である。  船の姿は見えない。しかし、大太鼓の単調で眠けを誘うもの憂い音はきこえている。士気を鼓舞するつもりだろうが、あれでは昼下りの肩叩きのようなもので逆に眠くなり、波にのまれてしまうと竜太は思っていた。  それでも、もう半分は泳いだだろう。  真夏の光の中で薄紫色にぼやけていた江坂の町が、家並まではっきりと見えるようになり、今もバスが一台、時々窓ガラスをキラリと光らせながら、七曲りの道を北へ走っているのが見えている。  そのバスの玩具のようにのろい動きを見ながら、そうやなあ、かつぎ屋のオバハンが五人、座席の下に米袋をかくしながら乗ってるやろ、他のお客いうたら一人か二人、もしかしたら祖父の足柄忠勇巡査が乗りこみ、闇のかつぎ屋のオバハンと息づまる神経戦を展開しているかもしれへんな、と妙なことを考えていた。  また水を呑んだ。塩分を喉の奥深いところに残して胃袋に流れこんだ。|咳《せき》が出た。はげしく咳きこむと、あらたに水を呑んだ。  腕の力がなくなり、鈍い一かき二かきぐらいでは進まなくなっていた。  竜太は、ごろりと仰向けになり、波の上に寝た。泳法を背泳にきりかえたということではなく、浮袋の調整を誤った鯛のように浮くことにしたのだ。  夏の太陽がまともに目を射た。  そして、青空だった。  この青空から、B29の姿が消えてもう五年が過ぎていた。  もしも、ここで溺れて死んだら、新聞は何と書くだろうかと、また思った。 「少年水死」  多分この四文字で終りだろう。まさか、少年野球江坂タイガースの名三塁手というふうには書いてくれないだろう。やはり、少年水死以上のことは思い浮かばなかった。  美空ひばりならどうだろう。あの天才少女歌手、「悲しき口笛」や「私は街の子」の美空ひばりが、同じように瀬戸の海で溺れ死んだら、少女水死の四文字では済まないだろう。  ひばりはひばり。魚は魚。  なんて見出しになるかもしれない。  おそらく新聞の一頁ぐらいはついやして、この偉大な天才少女の誕生からの足跡、戦後の荒廃を如何に救ったかという業績、そして、各分野の著名人の最大級の哀悼の辞で埋めつくすに違いない。笠置シヅ子も何かいうだろう。岡晴夫も、田端義夫も、小畑実も。そればかりじゃない、大下弘や川上哲治や、もしかしたら、吉田茂総理大臣や、あのマッカーサー元帥も一言あるかもしれない。   丘のホテルの赤い灯も   胸のあかりも消えるころ   ………  瀬戸の海に浮かんで、というよりは、わずかに顔の部分だけ残して沈みながら、竜太は馬鹿馬鹿しいことを考えていた。  美空ひばりも昭和十二年生れ。足柄竜太も昭和十二年生れ。  同じ|年齢《とし》やのに、えらい違いや。  シルクハットにタキシード、ステッキを脇にかかえて斜めに傾いた「悲しき口笛」の美空ひばりを思い浮かべながら、竜太は小便をした。  海水パンツの中が生あたたかくなり、 「あああ……」  竜太はのどかな|欠伸《あくび》をもらした。  太鼓の音が近づいて来た。  水につかっている耳の鼓膜に、クイックイッという|櫓《ろ》の音も響いて来て、 「足柄ッ、大丈夫か?」  と監視の先生の声がすぐ近くでした。 「大丈夫です」 「ほんなら、しっかり泳がんかい。こんなこっちゃ瀬戸内のトビウオにはなれんど」 「ファーイ」  瀬戸内のトビウオかいな。ベラか、キスか、カモジャコぐらいにはがんばってみます。  竜太はふたたび泳ぎはじめた。  淡路島西海岸、通称西浦の中程に位置する江坂町が北から南まで全部見渡せた。時々小さいうねりや波頭が小さくもあり大きくもある江坂町を見えかくれさせたが、竜太は目をこらして、その風景を見つめていた。  エッホッ、エッホッ、エッホ。  竜太は、ゆっくりと掛け声をかけながら、蛙泳ぎをつづけている。  もうちょっとや。もうちょっとや。  北の七曲りの先に、宿敵大宮ジャイアンツのある大宮町がかすみ、南の天狗の鼻のかげには、山名ドラゴンズの山名村があった。  江坂町は夏景色の中に眠っていた。  岸に向って竜太は泳ぎつづけた。  その右前方に八の字に伸びた突堤と赤い灯台が見え、その奥に連絡船が発着する桟橋がある。漁船はいない。日の暮れには港内うずまりそうになるが、今や機帆船が何艘か夏の陽をあびているだけだ。  港のはずれに松林、その中に唯一の観光旅館が見え、その背の崖上が墓地、そして、新田寺につづく。  半農半漁、人口七千の江坂町はやはり眠っていた。時の嵐も知らぬげに、高いびきともいえる不敵な熟睡をつづけている。  町並が見えた。瓦の屋根がまぶしく光った。小学校が見え、そして、中学校も見えた。太い煙突からのどかな煙をたなびかせているのは、ソース工場に違いない。  竜太たちが泳ぎつく砂浜は、海水浴場とよばれていて、それは隣町の大宮松原にくらべるとはるかに小規模であったが松林もあった。  一度は姿をかくしていた級友たちの坊主頭が、波打ちぎわ近くなって、また群がって来た。  波にもまれて頭が鉢合せしそうになった顔々を見ると、すべて江坂タイガースのメンバーばかりだった。 「懐しいのう」  バラケツこと正木三郎が野太い声を出し、ウヒャウヒャと笑った。  ガンチャもいた。照国も、アノネも、ニンジンも、ボラも、ダン吉もいた。全員そろって、ガボガボと塩水を呑みながら、目に友情の光をたたえて微笑み合った。  疲労を忘れ、いい気持になった。  チームワークちゅうもんや。  いや、似たりよったりちゅうことか、どんぐりの背くらべちゅうことか。  飴湯が煮立っているであろう大釜も見えて来た。それをとり囲む世話係の女生徒の顔も誰と識別出来る近さになった。  古橋、ゴールまで後十メートル。  古橋! 橋爪! 古橋! 橋爪!  |嗚呼《ああ》! 感激はよみがえる!  昭和二十四年八月十六日、ロサンゼルスの全米水上選手権大会で、自由形一五〇〇、八〇〇、四〇〇メートルに世界新記録で優勝したフジヤマのトビウオ古橋広之進。そして、その僚友の橋爪四郎を想いながら、瀬戸内のカモジャコ足柄竜太は、最後の力をふりしぼって水を叩いた。 「少年水死」は忘れていた。 「ひばりはひばり。魚は魚」もだ。  竜太は、朝出がけに生卵を二個呑んでいた。滋養の塊、栄養の宝の生卵を二個も呑んだのだから、がんばらないわけにはいかなかった。  陸に上ると初めて体の冷えがわかった。  真夏の陽を受けながら寒気にふるえた。  コップ一杯の飴湯が生命の水のように思えて、両の掌でつつみこむようにして呑んだ。 「うまいなあ。もう一杯あかんけ?」  バラケツ正木三郎は、世話係にねだってみたが、 「あかん」  とにべもなくはねつけられた。 「おヘチャ。お多福の土左衛門」  バラケツは、女生徒たちに毒づいたが、江坂タイガースのメンバーがそろって完泳したことにごきげんだった。 「さあ。証書をもろて行こうやないけ」  一行は、テントの下で、校長から、「二千米遠泳合格之証」を貰い、意気揚々と松林に入って行った。  誰いうとなく、極くごく自然の段取りで海水パンツを脱ぎ捨て素ッ裸になった。そしてふりチンで陽の下へ寝そべった。背中から砂の熱が伝わり、冷えきっていた体の芯が溶けて来、ふりそそぐ夏の陽が表側から体をあたためた。  それぞれの股間に縮み上った大事な物がへばりつき、その周辺には少々の個人差はあったが、何やらもやもやしたものも生えて来ていた。 「ええ気持や」 「けどようやったなあ。八人がそろうて海から上った時は熱血感動やったで」  バラケツはごきげんだった。  体がポカポカして来ると股間がムクムクしはじめて、松並木のはずれの陽だまりに、奇妙なきのこ畑が出来た。 「健康な肉体に健康なチンポが宿る」 「健康な子供は健康なチンポから」 「ウヒャヒャヒャ」  などと馬鹿げた話をしている時に、たまたまこの光景を目撃した女生徒が一人、砂浜で失神した。  しかし、暑気あたりか、テンカン持ちかということで、その女生徒もついに失神の原因は話さなかった。  昭和二十五年の夏のことであり、足柄竜太たちのアホな季節は、終戦の日からひきつづき生きていた。   2 復員ボケ  巨人軍の水原茂がシベリヤから復員して来たのが、昭和二十四年の七月二十日、四日後の七月二十四日には、満員の後楽園球場で、 「水原、ただいま帰ってまいりました」  と挨拶をし万雷の拍手を受けた。  それと同じ日に、淡路島の西海岸にある江坂町に、バラケツ正木三郎の父正木一平が復員して来たが、こちらの方は、 「さあ。闇でもやって、成金になってこましたろかいのォ」 とうそぶいて|顰蹙《ひんしゆく》を買った。  水原茂と正木一平の間には別にかかわりはない。ただ息子のバラケツが、 「なあ。どうせ同じ日に帰って来るんやったら、阪神タイガースの選手にしてくれんかい。水原は巨人やで」  といわれて、そんなもんかいの、世の中変ったもんやと思っただけの話である。  親が復員して来たちゅうのに、巨人たら、阪神たらどういうこっちゃと目を|剥《む》いたら、 「父ちゃん。民主主義やで」  とバラケツに時代の変化を教えられた。 「そや。やっぱり闇や」  正木一平は、民主主義から何の脈絡もなく発想を展開させ、そんな決意を示した。  正木家は、長男の二郎と長女の葉子が、ブキウギトンボと赤パンパンと|称《よ》ばれるような気ままぐらしで、しばらく行方をくらましてはいるが、久しぶりに当主を迎えて活気づいた。老いたる祖父、病いの母との三人ぐらしだったバラケツも、父を加えて、 「またブイブイいわせたろかいの」  と張りきった。  バラケツにとって、二郎、葉子の兄姉とともに過した短い月日は、思い出してもゾクゾクするくらいの甘美な夢だった。  町の連中は、ブギウギトンボだの赤パンパンだのといって軽蔑していたが、そんなことが何じゃい、兄ちゃんも姉ちゃんも手品使いみたいに、ガムや、キャンデーや、アメリカ煙草や、毛布までとり出して見せたやないけ。みんな、それがほしさに、軽蔑しているブギウギトンボと赤パンパンの|尻《ケツ》を|尾《つ》けまわしたやないけ。  物だけやない。兄ちゃんと姉ちゃんからは、まぎれもなく活力に満ちた都会の風が吹いたし、進駐軍もご免ちゅうほどの民主主義の匂いをプンプンとさせていた。  それがたまらんのや。  とバラケツ正木三郎は思っている。  嗚呼! 兄ちゃん。いとしのブギウギトンボよ。  ぜいたくが油性化したチックとポマードのあの匂い。整然と櫛目が入り、春の嵐にも形くずれのしないあのオールバック。喉元にくらいついた蝶のようなネクタイ。太縞の背広の派手やかさ。爪先から降りて|踵《かかと》へ体重がおさまる時に鳴るキュッという音色。そして、ピラピラとよく動く唇。デロッと流し目のきくあの目。何から何まで垢ぬけて、江坂のオッサン、オバハンどもとはくらべようがないハイカラさ。  懐しいなあ、とバラケツは思った。  商事会社(株式会社やで)の社長になるちゅうたけど、その後どうやろか。  嗚呼! 姉ちゃん。美わしの赤パンパンよ。  らくだ色の髪のなまめかしいゆらめき。「或る夜の接吻」もかくやというあの真赤でふくよかな唇。鳩胸、出ッ尻、民主主義。それから、戦後解放は真紅からというくらいにドギツイ赤ずくめ。  女優になるちゅうてたけど、一体どないなってんのやろ。「初夜ふたたび」にも、「君待てども」にも「朱唇いまだ消えず」にも出てへんかったけど、とバラケツは少々心配に思った。  ブギウギトンボ、赤パンパン、一時は詐欺で指名手配になったという話もきいたが、それもどうにかなったらしい。竜太の祖父の足柄忠勇巡査が、 「どないや。帰ってえへんか」  とたずねて来ることもなくなった。  但し、葉子は一日だけ帰って来て、お土産代りに赤ん坊を置いて行ったことはある。 「お母ちゃん。ええな。子供だけはしっかり育ててな。一生不自由させへんからな。うちも花の都会でがんばっとるんよ」  と葉子は、なりだけは女優のようなきらびやかさでいい、 「名前は、ええな。山本や。山本と呼んどいて」  といういい加減さで、バラケツも、その後、甥のことを山本と呼んでいるのだ。但し、これは、葉子の知恵だということは後でわかる。  兄ちゃん。姉ちゃん。あの感激の日々よ、とバラケツは思った。  それにくらべたら、父ちゃんはちょっと落ちる。第一、巨人の水原茂と同じ日に復員して来るちゅうのんが、ボケとる証拠やと、父一平を見つめた。  一平は、ドラム缶の風呂に入り、外地の垢を洗い流そうとしていた。 「どないや。父ちゃん」 「ええ風呂や。天国や。星も綺麗やし、風もええ。瀬戸の潮風も昔のままや」 「ちゃう。ちゃう。そんなこっちゃない。何ぞやって、ドカッともうけてくれや。わいも中学生や。高校も行くし、大学も行く。銭かかるで。兄ちゃんや、姉ちゃんみたいに派手にやってんか」 「まあ、ボチボチやったろかい」 「そやな。世の中変ったしな」  正木一平の帰国第一夜はそんなふうに|更《ふ》けて行った。  どこかのラジオがきこえていた。岡晴夫の歌う「憧れのハワイ航路」が、ゆるやかに吹く潮風に乗り、へちまのつるにからんで、バラケツの父正木一平の耳に流れこんだ。 「闇やったろかい」  一平は、|可成《かな》りの決意をこめてつぶやきながら、ドラム缶の湯をすくって顔を洗った。 「くそガキめ。まあ、あんなガキ持っとったら、ボケる暇もないけどな」  風呂番をつとめていたバラケツは、いつの間にか闇の中で、藤村ァ、土井垣ィと叫びながらバットを振っていた。  それから、しばらく正木一平は静かにしていた。外地ボケを調整しているようだった。  えらい奴が帰って来よった、と足柄忠勇巡査を神経質にさせていたが、何事も起らなかった。  一平はそもそもは百姓であるが、農閑期にはやとわれて舟にも乗る。その故か、|小博打《こばくち》は打つ、喧嘩はするの札つきだったのだ。  年も変ると、何やらモソモソ動き始めたが、まだ忠勇巡査が目くじら立てる程のことでもなかった。  こんな世の中じゃ。  飢えとる。|萎《な》えとる。欠けとる。  みんなが、ちっとずつの悪いことを許し合わなきゃしゃあないやろ。  と足柄忠勇巡査は、寛容というよりは|諦観《ていかん》から出た怠慢とでもいうべき目付きで、世の中と江坂の人々と正木一平とを見ていた。  忠勇巡査は、毎晩二合の安酒を飲み、日曜日に用水池に釣りに行き、そして、「日曜娯楽版」をきいては、成程成程とうなずいている毎日だった。  剣道二段の一徹巡査も、今は、時代の風を生暖かく受けとめながら生欠伸を噛み殺しているように見えた。  正木一平が本格的に動き始め、復員第一声の公約通りに闇で成金になって行ったのは、昭和二十五年の六月二十五日以後である。  その日、北緯三八度線を北朝鮮軍が突破し、朝鮮戦争が始まった。  何やら日本中に好景気の風が吹き始めた。  人々は、まだそのことに関して何のうしろめたさも感じていなかった。   3 大人の匂い  ある朝──  里芋の葉っぱに朝露の白い玉が無邪気と見える軽やかさで転がり、のどかな朝日が山の端にようやく顔を出して、それは、夏の日曜日の朝だった。  足柄竜太は、江坂タイガースのユニホームを着て自転車にまたがり、   若くあかるい歌声に   雪崩は消える 花も咲く   ………   ………  といった青春讃歌そのものという気分で、飲み屋の「猫」の前を通りかかった。  まだ早い時間だった。  夜は完全に明けているものの、どこかに朝霧の名残りがただよい、すべての風景が|曖昧《あいまい》な色で見えている。そんな色調の中に、猫屋のオバハンこと穴吹トメがしゃがみこんで、煙草を吸っていた。  あれッ、と竜太は思った。  どこか異様だった。  飲み屋の|女将《おかみ》がこんなに早起きしていることも解せないが、オバハンの様子そのものが、竜太の目から見ても異様だった。  猫屋のオバハンといっても、それ程の年齢ではない。それどころか、年増の色気したたる三十代の後家である。  そもそも亭主はこの町唯一の床屋であったが、相当に腕が悪かったと見えてトラ屋といわれていた。虎刈りのトラだ。その亭主が戦死した後、女房のトメが引きついだが、これが亭主に輪をかけたヘボで、これじゃ虎にもとどかん、猫や、ということで猫屋とよばれ、したがって穴吹トメも必然的に猫屋のオバハンになったものである。  猫屋のオバハンは、その後、実にあざやかな決断で床屋をたたんだ。戦後の自由な風に乗って、大層にひらけた気分の飲み屋を開店、屋号を「猫」として大繁昌している。  確かに彼女もまた戦争未亡人であろうが、彼女に限ってそのようなかげりは、マグネシウムを焚いた写真ほどにも見えない。色気したたる器量よしは、民主主義と婦人解放を後家という立場で満喫し、一時は旅役者池田新太郎と組んで町の文化さえリードしたほどである。  その猫屋のオバハンの様子がおかしい。  猫屋の真前。どぶ川に渡した踏み板の上に、こめかみでも突き刺されたような顔をしてしゃがみこんでいる。浴衣に伊達巻をしめ、素足に赤い鼻緒の下駄。浴衣の胸ははだけ気味で、大きめの乳房が半分見える。煙草をふいごみたいにスパスパふかして、どこか、「どぶろくの辰」の水戸光子みたいだと竜太は思った。  泣いとるのとちゃうやろか。  猫屋のオバハンが泣くちゅうたら、よっぽどのこっちゃ。  竜太は、そう思い、挨拶代りにチリリンと自転車のベルを鳴らして通り過ぎようとすると、 「竜太ちゃん。ちょっと待って」  と呼びとめられた。 「試合や。急ぐんや」  と何やらいやな予感がして、竜太がすり抜けようとすると、 「ちょっと。ちょっと。ええやんけ」  オバハンが荷台にしがみついて来た。 「しゃあないなあ。何やの一体?」  自転車からおりると、待ち受けていたかのように女の匂いがした。それは、唇の間からもれるかすかな酒の匂いと、皮膚からたちのぼる化粧水と白粉の匂い、そして、肌の毛穴が息づくたびに発散する、まぎれもない強烈な女の匂いだった。  竜太は気持顔をそむけた。 「刺激が強過ぎる。試合前の大事な体や」 「よういうわ」 「ぼく、行くで」 「あかん。ちょっと相談にのってほしいんや。竜太ちゃんと見こんでの話や」 「無茶いうたらあかん。人生経験豊富なオバハンの相談に、子供のぼくがのれるわけないやんけ」 「意地悪いわんと、この町で一番頼りになるのんは竜太ちゃんや。あとはアホとボケばっかりやもん」 「おおきに。けど恋愛問題はあかんで」 「何でえな。うちが、教育問題の相談するわけないやないの。恋愛問題よ。男と女の悲しい|絆《きずな》としがらみよ」 「さいなら」  朝っぱらから、年増に玩具にされてたら、わやくちゃや、試合に身も入らんし、熱も入らん、平均打率三割切るのもかなわんし、山名ドラゴンズに負けるわけにはいかん、ほなら行かしてもらいまっせと自転車にまたがろうとすると、 「なあ。うちのさっきの姿見てたやろ。人生の深い悩みに沈んどる女の姿見てたやろ。その女が助けていうてるのに、竜太ちゃん、あんたはさいならいうて逃げ出す気か」  と腕をつかまれた。  また女の匂いが首にまきつき、鼻孔をくすぐり、咳きこみそうになった。 「かなわんなあ」  竜太は、猫屋のオバハンの迫力と粘着力は充分に承知していたから|諦《あきら》めた。  何や知らんけどしゃあないわ。しばらく話きいたったら気がすむやろ、と自転車を立てかけた。 「ここへ来て。こうやってうちと並んでしゃがんでみて」  オバハンはそういうと、どぶ川の踏み板の上に、また「どぶろくの辰」の水戸光子のようにしゃがみこんだ。竜太もならった。 「臭いやろ。どぶ川や。人生や」 「そうやなあ。臭いわ」  竜太には、どぶの匂いより、オバハンのむせかえるような女の匂いの方が気になっていた。横目で見ると、白い乳房が、ここに女ありという感じで見えた。 「うち、昨夜から、ここで煙草吸うてたんや。クシュン。風邪もひくわ。アホなこっちゃ。月もない晩でなあ。波の音ばかりきこえて来て悲しかったわ。何でそないなことしてたと思う? 人間がいやになったんや。女が情のうなったんや。煙草何本吸うたかいなあ。クシュン。新田寺の明けの鐘が鳴って、山の上からお日さんが出て、そんでも家の中へ入る気がせえへん。どないしたらええんやと思うてたら、竜太ちゃんが通りかかったというわけやねん」 「誰かおるんか? 家の中に」 「いやあ。さすが級長。江坂の秀才。ようわかったなあ。頼り甲斐があるわ」 「おちょくったら、アカン」 「なあ、竜太ちゃん。何ぼになった?」 「|年齢《とし》か? 十三半や」 「足袋の文数みたいやな。女の気持わかる?」 「わかるかいな」 「そやろか」 「わからへん」 「けど、あんた秀才やんか」 「関係あるかいな」  竜太はあきれた。そして、そろそろ行かなプレイボールやとあせっていた。  猫屋のオバハンは立ち上ると、「猫」の裏手の方へ竜太をひっぱって行った。そのうしろ姿を見ながら、女の体は丸いもんやなと、竜太は思っていた。  オバハンは、外から窓を細目にあけた。  そして、手招きして竜太を呼び、そこから中をのぞいて見るようにいった。 「誰がいるねん」  竜太はのび上って中をのぞいた。そして、アッと叫んだ。  部屋の中には蒲団が敷かれてあり、その上で、裸の腹に薄い夏掛けをのせただけの男が眠っていた。枕もとに、「りべらる」と「ロマンス」があり、二合瓶が二本空っぽになって転がっていた。  男の顔に見覚えがあった。無精ひげが生え、何やら老けこんだような感じがしたが、何やらムニャムニャいった時に、前歯の総金歯が朝日にギラリと光った。 「池田新太郎や」  ふたたび猫屋のオバハンと竜太は、どぶ川を見つめて座りこんだ。朝霧はすっかり晴れ、暑くなりそうだった。どぶ川が匂った。人生の匂いやろか。これが…… 「帰って来たんよ。池田新太郎が帰って来よったんよ。どないしたらええのやろ」  猫屋のオバハンは泣きそうな声を出した。  池田新太郎かあ。ド厚かましいと竜太は思った。  池田新太郎は戦後間もなく、この地方で人気絶頂だった旅の一座の座長だった。不思議なことにやくざ芝居でありながら、金歯が|粋《いき》やわあ、と人気であった。それがどこでどうなったのか、猫屋のオバハンのところに居ついてしまったのだ。  ベタベタとじゃれ合いながら二人は、村芝居素人芝居の指導的立場になり、戦後地域文化に貢献もした。  池田新太郎の最初のドロンは、町の文化振興基金を持ち逃げした時である。オバハンは狂乱したが、それをきっかけに飲み屋をやるという立ち直りを見せた。  だが、色男はすぐに平気な顔で帰って来た。そして、二度目のドロンは、「猫」で働いていた節ちゃんという女の子との駈け落ちである。  その時は、さすがの猫屋のオバハンも落胆がはげしかった。竜太の頭を、久々に持ち出したバリカンで刈りながら泣いたりもした。  何ちゅうこっちゃ。  その池田新太郎がまた帰って来て、オバハンの蒲団で眠っとる。  竜太は義憤を覚えた。 「なあ。どないしたらええ?」 「何が?」 「あの人をどないしたらええんやろ。何度も何度も裏切った憎い男や。寝てる間に何べんチョン切ったろ思うたことか。阿部定やったろと思うたことか。けどあかんのやなあ。時代は変っても女は女やなあ。女はいややとつくづく思うわ。こんなうちのところへ帰って来るからには、よくよく困ってのことやろ。なあ。あの人かて意地もあれば、見栄もある。恥も知っとるやろ。それをやで、転がりこんで来たんや。そんな男に復讐して何になるやろ。一度ならず二度までも愛をかわした仲やないけ、と思うてしまうんやなあ。けど、昨夜は許さへんかったよ。蒲団敷いて寝かしただけよ」 「オバハン」 「何?」 「今日は、ぼく三振ばっかりやで」  というと、オバハンは、いつものようにイッヒッヒッと笑い、 「悪かったなあ。ひきとめて。おおきに。グダグダ話してたら、何や楽になって来たわ。ほなら、早よ行き。試合に遅れるで」  と勝手なことをいった。  竜太は自転車にまたがり、 「オバハン。地田新太郎好きなんやろ」  といった。  オバハンは、ニヤリと笑って、 「帰りに寄り。西瓜ひやしとくわ」  と手を振った。  竜太は自転車を走らせた。たしか出がけは「青い山脈」の気分で駈けて来たが、今は、   夜の銀座は七色ネオン   誰にあげよか唇を   ………   ………  といった、ちょっと野球の試合の直前とは思えない気分になっていた。  案の定、その日の足柄竜太の不振はひどかった。  だが、大人の匂いを嗅ぎ、人生のどぶ泥を見つめ、男と女の不可思議さを知ったことは、竜太にとって、三打数三安打より貴重だったかもしれないのだ。   4 悪い春 『科学、美術、宗教、文化などの発展の上から見て、アングロ・サクソンは四十五歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年輩である。しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まず十二歳の少年である。ドイツ人が現代の道徳や国際道義を怠けたのは、それを意識してやったものである。国際情勢に関する無知識の故ではなく、その失敗は日本人の犯した失敗とは、少し趣きを異にする。ドイツ人は、自分がこれと信ずることにふたたび向って行くだろう。日本人はこのドイツ人とは違うのである』 ダグラス・マッカーサー元帥  その年、昭和二十六年は、足柄竜太にとっては最悪の年となった。  前兆は、正月早々の食|中《あた》りであり、二月の猫の死だった。  殊更寒い冬で、小砂利をまきあげて吹き|荒《すさ》ぶ季節風に身を縮めながら、終戦以来のアホな季節との|訣別《けつべつ》の予感を竜太は感じていた。  そろそろそういう年齢には達していたのだ。  正月の食中りは、久々に|美味《うま》い物を食べた故だった。いや、竜太にとっては、生れて初めてのというのが正しいいい方かもしれない。何しろ、スイトンや芋で物心つき、麦飯や豆飯や菜ッぱ飯、はては、|高梁《コーリヤン》、|玉蜀黍《とうもろこし》、フスマで成長して来た竜太の胃袋や腸は、悲しいかな美味という感覚には、怖れを抱いていたに違いない。豪華な|絨毯《じゆうたん》に蹴つまずく田舎者の足のように、ご馳走に|痙攣《けいれん》を起してしまったのだ。  芋食うてプッ、豆食うてピー、内緒でスー、三人そろうて、プッピースーなどという食糧事情に慣れて来た竜太たちの内臓は、何よりも悲しく淋しかった。  朝鮮戦争で持ちなおした景気は、まわりまわって足柄家の正月の料理をも豊かにしていた。  小鯛の塩焼き、|蒲鉾《かまぼこ》、こぶ巻き、|田作《たづくり》、黒豆、人参の|酢煮《すだ》き、卵焼き、鶏肉と|牛蒡《ごぼう》の煮付け、|鰤《ぶり》の照焼き、ベラの甘露煮、大根なます。それに、小海老のかき揚げ天婦羅。  特需景気が巡査の財布を重くする筈もなかったが、何となくそのようなぜいたくが許されてもいいという時の風が吹いていたのだ。  竜太は、興奮にうちふるえながら食べまくり、松の内を高熱で過した。 「正月早々縁起でもない」  と天井を見つめて思っていた。  しかし、あの夢見るようなご馳走を|怨《うら》むなどということはさらさらなかった。  そして、二月に、飼い猫のプッチャーが姿をかくした。  プッチャーというのは、横井福次郎が少年クラブに連載した漫画「ふしぎな国のプッチャー」から名付けたものである。元々はソース工場に飼われていてタマと呼ばれていた。竜太の家に来て二年目であるが四歳ぐらいにはなっている筈である。  猫は自らの死期を悟ると姿をかくすという。そのいわれ通りにプッチャーは、何軒も先の農家の納屋の中で硬く冷たくなっていた。  竜太は泣きながら葬った。余りに泣きじゃくるので、 「おかしい子やな。自分のお父ちゃんの葬式にはクスクス笑うてたくせに」  といって祖母のはるの|顰蹙《ひんしゆく》を買った。  そういえば、歯ブラシ一本入っただけの遺骨箱を祭壇に置いての父公一の葬式では、竜太は何故かおかしさがこみ上げて来て困ったものだ。しかし、あれは、あくまで坊主の経が下手であったからだと思っている。  プッチャーの死骸を蜜柑箱に入れ、小高い山の中腹に埋めながら、小手をかざして瀬戸内の海を見ると悲しいような灰色だった。  足柄竜太は十四歳になっていた。  そして、何やら面白くない前兆がつづいた後、竜太は発病した。  後何日かで春休みが終り、いよいよ中学も三年生になるという時だった。  いや、突然というのはあたっていないのかもしれない。何日か前から微熱がつづき、|盗汗《ねあせ》をかき、妙だ妙だと思っていたら急に高い熱が出たのである。体がだるかった。食欲もなかった。そして、胸も背も痛かった。  三月二十一日、日本初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」が封切りになっていたが、それどころではなかった。  とりあえずということで、近所の老医師の往診を受けると、 「栄養失調でんな」  と軽くいわれた。  懐しくもあり、いまわしくもある言葉であった。ほんの二三年前まで、それは充分に死因になり得た。しかし、その言葉が自分自身に向けていわれるとは思わなかったので、竜太は呆然とした顔を上げた。  どういうことやろ。  祖父の足柄忠勇巡査と祖母のはるも、可愛い孫を戦災孤児と同様のいわれ方をして、|憮然《ぶぜん》とした顔をすると、 「つまりでんな。食うもの食わせとらんちゅう意味やのうて、急激な発育に見合うだけの栄養が摂取出来ていなかった。こういうことでんな。急に背が伸びたもんやから、栄養の方が追いつけんかったんや。ほら、あばらも出とるし、背中の貝殻骨もとび出しとる」  老医師にそう説明されて、 「栄養失調とはなあ」  忠勇は恥じ入り、同時に、死んだ竜太の両親、つまり忠勇には息子の公一と嫁の良枝に対して申し訳ないという気持を抱いた。 「時代や。珍しいこっちゃない。誰かてちっとずつは栄養失調や。吉田茂はどうか知らんけどな。ありゃ福々しい」  老医師はいった。 「近頃裸になったとこ見たこともないよって、こないにやせとるとは知らなんだなあ」  とはるは嘆いた。 「色気づく年頃や。親でも裸は見せてもらえんわ」 「で、どないしたら、よろしいのや?」 「そうでんなあ。食わせて、寝かせて、太らせたらよろし」  この医師のいうことは何とも医学的でない。それやったら豚と同じやないけ、と竜太が不満に思っていると、忠勇も同様のことを思ったか、 「何ぞ薬でも?」  と訊いた。しかし、老医師は、 「奮発して、|鶏肉《かしわ》でも食わせてやんなはれ。牛でも、豚でも、赤犬でもええ」  要するに、食わせて、寝かせて、太らせてということを具体的に説明しただけで、至極楽天的な見立てをして帰って行った。 「今年の春は遅いな」  玄関でつぶやく老医師の声がきこえた。 「坊主は心配ない。それより巡査はん。渦巻正宗で一杯やりまひょか」 「渦巻正宗」  忠勇の声がした。 「目がまわる酒や。ハハハ。ああ寒い」  そういえば雪でも降りそうだった。  アホな病気や、と竜太は思った。  栄養失調などということが、バラケツたちに知れたら何といわれるだろう。恥かしいと竜太は蒲団の中で身をすくめていた。しかし、何の何病という仰々しい病気でなかったことにほっとしていたのだ。  半月も食って寝てたら太るやろ。  遅ればせながら北上している桜前線が通り過ぎ、青葉若葉が江坂の町をつつむ頃、田の|畦《あぜ》から|雲雀《ひばり》が一直線に舞い上るように、健康にはちきれそうになった体でとび出せるだろう、と竜太は思っていた。  江坂タイガースから、鉄壁の守備の三塁手と不動の三番打者を欠くことは出来ない。  そやろ!? バラケツ。  ぐずぐず微熱を出しながら、何とも不快な日々ではあったが、劇的な妄想をくり返すには、程よい病状であった。  竜太は、怪我や病気で無念ながら戦列を離れなければならなかった名選手たちの気持になり、甘ずっぱい悲壮感にひたっていた。  別当や。別当薫や。  竜太は、阪神タイガースの新しい英雄として登場した時の別当薫と自分とを重ねてみて陶然としていた。  今から三年前。  昭和二十三年に、全大阪の四番打者別当薫は阪神タイガースに入団した。開幕前に甲子園、鳴海、後楽園で三つのトーナメントが行われたが、阪神タイガースは三大会ともに優勝、その最大の殊勲選手は、九試合で六本塁打を打った別当であった。  別当の快打は、公式戦に入ってもとどまるところを知らず、猛将とも闘将ともいわれた藤村富美男とともに本塁打を量産していた。当然阪神タイガースは首位争いに加わっていた。しかし、悲劇が待ちかまえていたのだ。  豪腕別所、バカ肩木塚[#底本では旁が「冢」]、快足河西らの南海ホークスと猛烈な首位争いを演じていた六月二十七日、別当薫は二塁にすべりこんで左足を骨折した。そして、別当は二カ月間戦線を離脱、阪神タイガースも首位争いから転落した。  その別当薫に寝床の竜太はなっている。  病床で夏蝉の声をききながら無念と思ったであろう別当薫に自分を重ねているのだ。  あれをきっかけに阪神タイガースは首位争いからすべり落ちた。江坂タイガースは大丈夫だろうか。  と思うとまた胸が痛み咳が出た。  わかるでえ。あの時の別当の気持。  あの時のと竜太は力をこめていった。あの時でなければならなかった。それは、悲劇の設定を思えば当然のことであったが、もう一つ理由があった。  プロ野球は、昭和二十五年に二リーグに分裂したが、その時誕生した新球団の毎日オリオンズに、阪神タイガースの主力選手がごっそり引き抜かれ、その中に別当薫も入っているから、今の竜太は決して快く思っていないのだった。   5 栄養失調  やがて新学期が始まったが、竜太の病状は相変らずだった。というよりは、明らかに悪化していた。  何やただの栄養失調かいな、ちょっとカッコ悪いだけや、と気楽に考えていたが、そうでもなく思えて来た。  折角の栄養料理も極度に食欲が減退しては無念なだけであった。塩昆布のお茶潰だけがどうやら喉を越した。  それに、こまかい咳がたえず出るようになり、朝夕の微熱、午後の高熱、夜の盗汗というのが、規則正しくくり返されるようになった。  とりあえず学校には長期病気欠席の届けを出した。突然高校入学のことが心配になったりしたが、今は思っても仕方がないことであった。  まあ何とかなるやろ。  そう思いながら日に日にやせていった。  栄養失調と診断した近所の老医師には二度と診て貰う気にならなかった。気がいいだけのオッサンだった。  隣町の大宮町の医師の診断を受けると、肺門リンパ腺炎だといわれた。 「肺門リンパ腺炎というと肺病の一種ですかいな」  祖父の忠勇が訊ねた。  忠勇にとって、栄養失調は屈辱であったが、肺病は恐怖であった。不治の病いという思いが強かった。  駐在巡査の務めでいえば、それは、共産党、三国人、と同等に充分注意すべき事柄であった。  現に、肺病患者のいる家の近くには寄りつかない、遠まわりしてでもそこを避けるという習慣さえあったのだ。  その夜、忠勇は二合の晩酌を三合にした。  |小鰯《こいわし》の塩辛を口にしながら、何故か敗戦の日の八歳の竜太を思い出していた。   のろのろと人が歩いている   病人みたいに歩いている   空気がないみたいにパクパクしている   ぼくだけが大声で泣いている   泣きながら走っている   みんながのろのろしている   なんで泣かんのや   日本負けたんやで   それなのにみんなのろのろしている   昭和二十年八月十五日 快晴            足柄竜太 八歳  あの日、竜太は泣いた。どの大人よりも泣き、涙も声も|涸《か》らした。  それは何の脈絡もない連想であったが、忠勇は、|不憫《ふびん》なだけでない孫の、それなりに波乱に満ちた戦後を見た気がした。  足柄竜太 十四歳か……  ふと手を伸ばしてラジオをつけると、内海突破、並木一路が漫才で笑わせていた。  ともすれば沈みがちの茶の間の空気が、一瞬ふっとやわらいだが、それだけのことだった。  内海突破も並木一路も、しょせんは遠い人で、一人一人の気持に対して何かの思いやりを見せるということが出来る筈もなかった。 「突破ちゅうのんはおもろい」 「ようしゃべるわ」  老夫婦の会話はそれで又とぎれた。  こりゃアカンと竜太は思った。  祖父母が嘆くような不治の業病とも思えなかったが、少なくともプロ野球選手の夢はあきらめなければならないかもしれない。そうだとすると、これは横光利一という線も考えてみなければならないかと考えた。  竜太は、横光利一が何者なのか知らなかった。小説家といえば、夏目漱石、尾崎紅葉、島崎藤村(これは阪神タイガース藤村富美男を連想させるから)、後は、江戸川乱歩、横溝正史、海野十三、南洋一郎、富田常雄、佐々木邦といった少年クラブでおなじみの顔ぶれぐらいである。  何故ここに横光利一の名前が唐突に出て来たかというと、中学一年の時、竜太が書いた作文に対して若い国語の先生が、 「光っとる。横光利一を思わせる」  と|大仰《おおぎよう》にうなっていったことに発しているのである。 「へ?」  と竜太が面喰っていると、 「横光利一知らんのか?」 「知りません」 「新感覚派の作家や。新感覚派いうても当然わからんだろうが、横光利一や川端康成や中河与一や片岡鉄兵らが興した文学運動やな。文学表現かもしれんが、まあそういうもんや。その横光利一や。見てみい。竜太の作文のここが横光利一を思わせる」  そういって先生が指さしたところには、 �知っているのは、|米櫃《こめびつ》の米だけだった�  と書いてあった。  竜太自身、そういわれて読んでみても大して感心もしなかったが、 「どや。嬉しいか。胸が高鳴るやろ」  と激しくいわれるので、 「光栄です」  と答えておいた。先生の|口吻《くちぶり》は絶讃とか激賞といったものに近かったから、何はともあれ不機嫌になる理由はなかったのだ。  しかし、大して重要だとも思わなかったし、嬉しくもなかった。しょせんは興味の外のことであり、それなら、まだ、君のペン画は樺島勝一を思わせる、の方が興奮したであろう。もっと興奮するとすれば、それは野球に関わりのあることで、竜太の逆シングルは白石並みだとか、木塚[#底本では旁が「冢」]忠助の鉄砲肩もかくや、ぐらいのことをいわれたら、北の大宮町、南の山名村までふれまわったかもしれないが、新感覚派の横光利一ではそうもいかない。 「そりゃ何するオッサンや」  ぐらいのこといわれかねないので、自分の胸のどうでもいい場所ヘポンと投げこんでおいたのだ。  だが、プロ野球選手が絶望かもしれないと思えて来た今となっては別である。横光利一の方向を向かなければならないかもしれないぞ、と竜太は思ったのだ。  そうしている間にも、あのいやな勢いのない咳は出つづけた。|盗汗《ねあせ》もびっしょりとかいて、体に不快なだるさが残った。しかし、竜太の思考は、どこまでも楽天的でありつづけようと、アホの努力をつづけていた。  ぼくにはアホが欠けとる。  竜太はそんなふうには意味づけて考えていなかったかもしれないが、終戦の日を境にして、繊細で鋭利な神経を持ったこの少年が、一貫して求めつづけて来たのは、アホの馬力であったかもしれないのだ。それは本能がそうさせたのかもしれない。  もしかしたら──  と盗汗を拭きとりながら竜太は考える。  もしかしたら、野球より作文の方が才能があるのかもしれない。何故なら、作文では横光利一という全国的に名の売れた作家が引き合いに出されたが、野球では、たかだか江坂町民野球倶楽部の未来の三塁手だといわれたくらいである。  翌日──  竜太は祖父母につきそわれ、三人目の医者を訪れた。江坂町の診療所だった。  ここの笹山医師と祖父の忠勇は旧知の間柄であり、本来なら真先に駈けつける筈なのだがと竜太は不思議に思っていた。  診療所は川堤にあり、桜の木に埋もれるように老朽の木造が傾いていた。  遅い桜が咲きかけていた。しかし、やはり寒い春だった。川面に|縮緬《ちりめん》の波を立てて風が走っていた。  診察のあと笹山医師は、 「栄養失調に肺門リンパ腺炎か」  と前の医者の診断をくり返した。 「誤診やろ」  と忠勇がいった。 「当らずといえども遠からず。肺浸潤やな」 「肺病か」  忠勇は腰を落し、はるは膝をついた。 「肺病かといわれると、そうではないともいえんな。まあ、叔父、甥の関係みたいなもんやろ」 「気楽なこというな」 「心配ない。まかしとけ。なおしたる。それにしても何や、|剛毅《ごうき》で鳴る足柄忠勇巡査が、孫のこととなると取り乱しおって。肺浸潤ぐらいでおろおろしなさんな。病気ちゅうのんはな、迎え撃つ方がビクついとったら、何ぼでも来よる。大したこっちゃないという気合が大事やで」 「気合で勝てるか。しかし、なあ、警察手帳で勝てんものにはお手上げとは、わしもあかん。|年齢《とし》とった」 「しっかりせえ。大丈夫やて。その代り、この病気は銭食うでえ。退職金食いつぶされるちゅうこともあるかもしれん」 「構わん」 「それは冗談やが。よっしゃ、そんなら、ストレプトマイシンやら、パスやらちゅう新薬も手に入れたるわ。後は、絶対安静を守って、栄養価の高い物を食べてたらなおる。食っちゃ寝、食っちゃ寝でええわけや。夢みたいや。竜太。お前はこれからしばらく天国みたいな暮しが出来るぞ」  笹山医師は笑った。  竜太も笑ってみせたが、それとわかる程顔はひきつっていた。それは、病状が思っているより重いらしいということもあったが、祖父の退職金まで食いつぶす程の病気だということで胸が痛んだのだ。  祖父の忠勇は、ずっと以前から、さかのぼれば終戦の日以来、巡査を辞めたいと思っていた筈である。風呂屋でもやるかなと冗談めかしていったこともある。竜太から見ても、新しい時代になっても巡査をつづけていることは屈託の多いことのように思えた。その祖父が、わずかながらに期待している心おだやかな生活の夢まで奪ってしまう病気をしたかと思うと、涙があふれそうになった。  看護婦がお茶を運んで来て、四人はめいめいの茶碗の底に視線を落しながら、熱いお茶をズルズルとすすった。  祖父母が急に老けこんだ気がした。 「やっと咲いたな」  忠勇が、窓の外の桜の枝に数少ない花が咲いているのを見ていった。 「こう貧弱やと花見の気も起きん。世の中の景気に水さしとる感じやな」  笹山医師も窓外に目をやりながらそういい、 「それにしても、なあ巡査」  と話題を変えた。 「どういうわけで、最初にわしのところへ連れて来なんだ」 「それが。あんたには、終戦後、酒の代りに薬用アルコールをまわしてもろたことがあるな。気やすくアルコールを横流しするような医者は|碌《ろく》でもないと思うとった」 「何を勝手なことをぬかしてけつかるねん」 「しかし、ほんまに大丈夫やろな」 「腕か。まかしとけ。何とか退職金は手つかずに残してやるわい。しかし、アルコールは二度とまわさんぞ」  医者を信じることによって、祖父母のおびえはなくなった。  その日から、竜太は、入浴禁止、運動禁止、読書禁止、ラジオ禁止、午睡厳守という絶対安静を守らされることになった。  開幕したプロ野球の状況も知らずに過すことになった。  そして、入浴はおろか、体を拭くことさえ禁じられたため、五月の空に鯉のぼりが元気よく泳ぐ頃、竜太の足の裏には一面の|青黴《あおかび》が生えたのだった。   6 老兵は死なず  竜太が、文字通りの絶対安静を強制されている間の大きな出来事といったら、マッカーサー元帥が|全《すべ》ての権限を解任され日本を去ったことであろう。  極東軍最高司令官マッカーサー元帥は、四月十一日、トルーマン大統領から、全ての指揮官としての権限を剥奪され、四月十六日には二十万の都民に見送られて帰国している。  |松毬《まつかさ》大明神の首を電報一通でチョン切るんやから、アメリカの大統領も大したもんやな、と竜太たちは思っていた。  彼らにとって、マッカーサー元帥というのは、最も有名なアメリカ人だった。そして、最も権力のある人間だった。マ元帥は、というとハハアッとおそれいらなければならない存在だった。  日本という国は、ダグラス・マッカーサーという初老の大男の掌中にあり、くしゃみをすれば前に飛び、|放屁《ほうひ》すれば後へ飛ぶというくらいだった。絶対であった。  その絶対が首になったのだ。  世の中変る。何かが終ったんや。  と竜太は感じた。  マッカーサー元帥は、トルーマン大統領の解任通告を受け取った時、 「五十二年間陸軍に勤務したのちに、私は、|公《おおやけ》に屈辱を与えられた」  と語ったという。そして、小旗を持って見送る二十万の東京都民を見ながら、 「日本人は他のすべての東洋人と同じように、勝者にへつらい、敗者を軽視する傾向がある」  と冷ややかに見下していたらしい。  とにかく、マッカーサーという尊大で、|不遜《ふそん》、そして、どこか圧倒的な男の魅力をも感じさせたアメリカ人は、長く竜太たちの胸の中でアメリカそのものでありつづけるのである。  とにかく、五年八カ月のマッカーサー時代は終ったのだ。 「老兵は死なず。ただ消え行くのみ」  マッカーサーは、そういって去ったと伝えられているが、 「ええ|台詞《せりふ》いうやんけ。ちょっとした国定忠治やな」  バラケツ正木三郎たちには、そんなふうに受けとめられていた。  大仰な絶対安静はほぼ二カ月で解けた。  微熱もおさまり、盗汗もかかなくなった。食欲も徐々にではあるが回復し、顔や体に丸みが感じられるようになった。不快な自覚症状がなくなり、遅ればせながら笹山医師のいった天国の暮しというのが実感出来るようになっていた。  まさに食っちゃ寝、食っちゃ寝だった。  敗戦日本。建国途上の日本で、食っちゃ寝が許される人間が如何程いるだろうかと竜太は思った。そう思うと申し訳ないという気持もこみ上げて来たが、心地よい怠惰はたとえようもない程快適であり、大仰でなくそれは天国といえた。  季節がよかった。  薄ら寒い春が過ぎると、その埋め合せをするかのように晴れ晴れとした初夏の兆が見え始めた。手をのばして窓を細目に開けて見ると、植えたばかりの稲の細い苗が、サヤサヤと鳴りながら風にそよぎ、燕が小虫を追いながら低く地をかすめていた。  大仰な絶対安静は解けたというものの、絶対安静には違いなかった。一日はきちんと時間割通りに過さなければならなかった。  時間によって、ラジオを聴くことと、本を読むことと、体を拭くことを許されたぐらいであったが、それでも当初にくらべたら大いなる自由であることには違いなかった。  相変らず少々子供っぽいとは思いながら、少年クラブを拾い読みしたりしていた。  毛が生えて来てから少年クラブでもあるまい、という自責は可成り前から起っていたが、なかなか離れ難かった。山岡荘八の「この鐘を打て」を読めば、少年たちの友情と光り輝く正義感に胸は熱くなったし、横溝正史の「大迷宮」を読めば、さて次号はとたちまち期待の気持が湧き起って来るのである。どうやら少年クラブとの訣別が竜太の新しい時代への突入となりそうだった。  神戸へ転校している|波多野武女《はたのむめ》から手紙が来たのはそんな頃である。  ちょうど猫屋のオバハンが来て、昔とった|杵《きね》づかで頭を刈ってくれている時であったが、封筒の裏を返して、波多野武女という字が目に入った時、竜太は、猫屋のオバハンと交していた程度の低い馬鹿話を後悔する程厳粛な気持になった。  竜太は、ムメに対してはいつもそうだった。何故かわけ知らず緊張してしまうのである。退役軍人の娘で、|矜持《きようじ》に満ちた美少女であるムメは、江坂タイガースのメンバーであったが、小学校六年生の夏に転校していた。父親の仕事の関係でそうなったのであるが、その後一通の便りもなかった。竜太の中に甘ずっぱい想いだけを残して、波多野武女は既に幻の人に近くなっていたのだ。  一度だけ、竜太は、ムメを訪ねてみようかと思ったことがあった。一年前の夏休みの終り頃のことである。  竜太は、たった一人で連絡船に乗り、明石まで「青い山脈・前後篇大会」というのを見に行った。祖父母は難色を示したが、これだけはどうしても見たいとがんばって許可を得たものである。その頃の竜太には、野球に加えて映画というのが、平和と文化と民主主義の象徴として深く入りこんでいたのだ。  初めての一人旅は、足柄竜太の心の中の目を一瞬開かせた。淡路という島の外に息づいている活力のようなものを発見したといっていい。「青い山脈」のたとえようのない明るさもそれにふさわしかったし、同時上映のニュース映画のパンパン狩りの恐ろしさも、活力であった。  竜太は、港近くで、|塩《しよ》っぱいうどんを食べながら、淡路島を出る日のことを思ったりしていた。そんな時、ムメのことを思ったのである。  何故かムメに会ってみたいという衝動に頭を熱くしたが、神戸というだけではどうにもならなかった。それでも、神戸駅まで行って無意味に引き返して来たりした。  無意味ではあったが、そのことはそれで納得していたのだ。  しかし、島へ戻って、島の日常が始まると、島の外の活力も、ムメのことも忘れてしまっていた。  その波多野武女から手紙が来た。  足柄竜太は、ムメの如何にもシャッキリした男っぽい文字を見つめながら、女王のようにふるまっていた、しかし、竜太にだけはある種の敬意を示してくれていた美少女のことを思い出していた。  |河豚《ふぐ》にあたった父親を砂に埋めて|救《たす》けたムメ。長くよく伸びた|脛《すね》に吸いついた|蛭《ひる》を、当然のことのように男の子にとらせていたムメ。江坂タイガース第一号のランニング・ホームランを打ったムメ。祭の夜の浴衣を着た少女クラブの表紙のようなムメ。  そのどれもが、戦争中から戦後にかけての、極度に空腹にあえいだ時期の、そして、虚無の子供という不気味な存在であった竜太たちの生活の中で一点きらめいて見える、だからこそ、なだれこんで来た自由を満喫出来たともいえる、そんな想い出の象徴であった。  竜太は、息苦しい思いにさいなまれながら、しかし心地よくムメの手紙を読んだ。  拝啓 足柄竜太様。  竜太君の一家が、まだ江坂町にいるものと信じて、この手紙を書きます。もしかしたら、どこか他所の駐在所へ転勤しているかもしれませんが、その時は、きっと警察の力で届けてもらえるでしょう。  ごぶさたしました。  とうとう中学時代一度も逢うことなく過してしまいそうです。残念です。しかし、それは、初めからそう思っていたことで、高校になったら、親たちが眉をひそめる程逢いましょう。  竜太君は覚えていますか。あのお別れの日のことです。私たち一家が神戸へ向う日。江坂港の桟橋で、私は竜太君を呼んでこういいました。 「うちと竜太君は同じ高校へ入るんよ。中学は別れ別れやけど、高校は同じところへ行くんよ」  この約束は守れそうにはありません。  多分、私は、芦屋にある有名なお嬢さん学校へ行かされるでしょう。  竜太君は|自凝《おのころ》高校でしょう。  というわけで、同じ高校へという幼い日の夢は破れましたが、でも、それと同じくらいに逢うべきだと決心したのです。  いつって? 今です。  何故って? 運命だからです。  六甲の中腹にあるわが家から、少しぼやけた淡路島を見つめていたら、なぜか神の啓示のようにそう思えて来ました。  頭がクラクラしています。それは、悪戯にふかしてみた煙草のせいかもしれません。ケントというアメリカ煙草、もちろん父のものです。空腹のせいかもしれません。退屈のせいかもしれません。しかし、このクラクラは、運命のきらめきのせいだと思います。  ここでわが家のことを少々。父も母も大変に元気です。恥かしいくらい元気で、幸福そうだとだけ書いておきます。  さて、この手紙は、高校へ入ったら、竜太君と私とは出来るだけ逢うべきだという決心を伝えるために書いています。  偉大なる予告篇です。  私は、本当に小さい時から竜太君のことが好きで、じっと見ていました。そして、終戦の日を境にして、竜太君が、懸命にアホになる努力をしていたことも知っていました。  いや、本当のところは、今、そうに違いないと気づいたのですが……  それもいいと思います。よかったことだと思います。でも、竜太君は、アホになれません。竜太君のアホは痛々しいのです。もうなれないと気づいて下さい。  竜太君のことだから、とうの昔に気づいているかもしれませんが……  後九カ月です。私たちの時代が始まります。今度逢う時は、父のケントを山程持って行きます。プカプカやりながら、運命について語りましょう。                    波多野武女  竜太は、長い手紙に対して、ごくさりげない葉書の返事を書いた。何故か今、ムメには逢いたくなかった。  拝啓 波多野武女様。  大変元気です。残り少なくなった江坂タイガースとの日々に懸命になっています。  ぼくらが見つけたあの民主主義とも、やがて別れなければならないのです。  現在まで42勝29敗3分です。  目標50勝に向ってがんばります。  あの桜の花散る第一戦の、14対〇、一回コールド負けという惨めなスタートを思えば、大したチームになったものでしょう。  江坂は相変らずです。眠っています。でも、やはり、それぞれ動いているのだなあと感じることはあります。  人の顔ぶれが、いつも、少しずつ変っているからです。  アホの話。努力しているわけではありません。アホなのです。  追伸  ぼくが選んだ映画ベストテン  野良犬。青い山脈。石中先生行状記。エデンの海。獄門島。静かなる決闘。銀座カンカン娘。人生選手。大学の虎。暁の脱走。  その夜、竜太は久々に熱を出し、盗汗をかいた。切れ長の大きな目をつり上げて怒っているムメの顔が、何度も夢の中に出て来た。   7 純情詩集  午睡から目覚めて、特効薬パスを二十錠、死ぬ思いで飲み下した時、コツコツとガラス窓を叩く音がした。開けてみると、  ジャーン。  江坂タイガースのメンバーが、ユニホーム姿で勢ぞろいしていた。  懐しい汗の匂いと、そろそろ生臭くなり始めた男の匂いが、九人分一塊となってとびこんで来た。  竜太は、わけもなく涙ぐみそうになった。 「どないや?」  バラケツ正木三郎が訊いた。バラケツの鼻下には、一本一本は相当たくましげな髭がまばらに生え、汗の玉がぶら下っている。絶対安静とは無縁の男の顔をクシャクシャにして、竜太を見つめた。  竜太は、蒲団から這い出し、窓に寄った。 「元気そうやないけ」 「大丈夫や」 「ええもん持って来たで。精がつくこと間違いなしや」 「何や?」 「烏蛇の粉末や。これ毎日|一匙《ひとさじ》ずつ飲んどったらモリモリや」  烏蛇といわれる黒っぽい蛇を棒のように乾燥させ、それを|擂鉢《すりばち》で粉末にしたものだという。体力強化、精力増進にはこれ以上の物はない、とバラケツはいうのだ。 「まじりもんなし。正真正銘の烏蛇だけ。わいが自分でつくって来たんやからな」  竜太は、紙の包みをひろげて、枯葉色の少々生臭い粉末をなめてみた。 「うまいやろ」  バラケツがいった。  |花鰹《はながつお》の味がした。それ以上にバラケツの友情の味がして、蛇という不気味さも意識の外にとんでいた。 「うまい。バラケツもなめてみい」 「アホか。わいがなめたら、鼻血出るわ」  そういうと、江坂タイガース全員がフニャフニャと笑った。 「おおきに。毎日飲むわ」 「そうせえ。そうせえ。のうなったらいうてくれや。今二匹乾燥してあるよってな。それでも足りんかったら、みんなで蛇とりや」 「ウヘーッ」  こりゃかなわん。竜太に早よなおってもらわんと、西山、奥山駈け巡り、昨日も今日も蛇さがし、てなことになってしまう。早いとこ全快頼んまっせ、と全員が口々にいった。  そして、またそろって、ムヒッムヒッムヒッとしゃくり上げながら笑った。 「ほなら、竜太。ちょいちょい来るわ。元気出せよ。あッ、そやそや、これみんなの慰問袋や」  といいながら、昔懐しい慰問袋を窓から投げこんだ。 「何が入っとるか知らん。江坂タイガースの全員の心や。それからな、今度来る時には、アノネが、歌笑純情詩集やるよってな。楽しみにしとったれや」 「ほんまか」 「ほんまや」  アノネこと高瀬守が、珍顔の持ち主三遊亭歌笑のように目を寄せ、歯をむき出して、予告篇をやってみせた。  そして、予告通り、三日後の日暮れ時に、今度は何故かバラケツと二人だけでやって来た。  またぞろ、窓の外でええというのを、 「|黄昏《たそがれ》の刑務所で面会しているみたいでいやや」  と竜太が無理に座敷へ通したのだ。  窓が紫に染まり、夏の夕景は思ったより淋しいと感じさせた。  竜太の枕頭にベタリと座ると、バラケツとアノネは意味もなく笑った。つられて竜太もフニャッとした笑いを返した。 「飲んどるけ?」 「飲んどる」 「朝、パンツを持ち上げとるやろ」 「そやな」 「イッヒッヒッ」  烏蛇の粉末の効用は絶大だった。バラケツが自信に満ちて確認したように、竜太のパンツは朝のピラミッドだったのだ。 「もう大丈夫や」  バラケツがいった。 「思春期の誇りが戻って来たら、肺病もヘチマもあるかいな。ほなら、アノネ、ぼちぼちやってみよか」  と歌笑純情詩集を催促した。   アオタと呼べば アオタと答える   山のコダマの嬉しさよ   アオタ ナーンカイ   空は青空 二人はワカバヤシ   彼と彼女はアベックで   手と手つないで行きました   カワカミめざしてシラサカのぼり   おチバちるちるコマツバラ   ニシエ行こうか東にしようか   それともいっそミナミムラ   フジムラあたりのマツキの下で   ナカオよいこといたしましょう   足をヒライて ズロース ナイトウ   オオシタことかスタルヒン 「アノネ純情詩集より」  パチパチ、と竜太は盛大な拍手をしたが、バラケツは、アホか、という冷ややかな顔でにらみつけていた。 「何がおもろいねん」 「おもろいやろ。苦労したんやでこれつくるのに。ええか。青田、児玉、南海、若林、川上、白坂、千葉、小松原、西江、南村、藤村、松木、中尾、平井、内藤、大下、スタルヒンと、これだけの名前が入っとるんやで」 「アホ。野球中継やっとるんとちゃうんや。おもろなかったら、しゃあないやないけ。こんなもんで、竜太の病気がなおると思うとるんかい」 「あかんけ?」 「あかんにきまっとるやないけ。アホ」 「ちょっと待ってくれよ。バラケツ」  竜太が口をはさんだ。二人の真情はわかり過ぎる程わかったのだ。何とか病床の竜太の気を引き立たせようと、二人で額をつき合せ乏しい知恵をしぼったに違いない。教科書さえ持って帰ったことのないアノネが、鉛筆なめなめ書き上げた「アノネ純情詩集」は、ストレプトマイシンに勝るし、烏蛇の粉末とは甲乙つけ難いと竜太は胸を熱くした。  バラケツ、ありがとう。  アノネ、ありがとう。  おもろかったよ。ほんまにおもろかった。 「うまいもんや」 「ほんまか」 「おもろかったよ」 「ほうか。ほなら、ええ。アノネ。合格」  バラケツは我がことのように相好を崩し、まだ珍顔のままで硬直しているアノネの肩をどやしつけた。 「そやろ。ようでけたと思うてたんや」  アノネの顔に自信がよみがえって来た。 「けどな。アノネ。足をヒライて、ズロース、ナイトウちゅうのんは何となくわかるけどやな。オオシタことかスタルヒンちゅうのんは何や」 「深いこと考えたらあかん。オオシタことかスタルヒンや、そやなあ、と感心してたらええねん」 「感心出来るか」 「ケケケケ」  三人は大笑いをした。  久しぶりの大笑いだった。クスッと笑うことはあっても、こんなに腹の底から揺さぶられるように笑うということはなかった。アノネ純情詩集は正直少しも面白くなかったが、それでも笑えることはあったのだ。  しかし、久々の興奮がいけなかったらしい。バラケツとアノネが帰ってしばらくすると、竜太は可成り高い熱を出した。  診療所から毎日通って来ている看護婦の中田絹代は、腕にビタミンとカルシウム、尻にストレプトマイシンを荒っぽく|射《う》ちながら、 「しゃあないなあ。アホと同じようにはしゃいだら、あかんやないの。ええか、あの子らはやな、いや、あのガキはやな、江坂のバイ菌全部引き受けてるようなもんやから、もう部屋へ上げたらあかんよ」 「痛てッ」 「ごめん。手許狂うたわ」  と竜太の裸の尻をポンと叩いた。  竜太の日課の中で、この中田絹代という女優のような名前を持った若い看護婦の前で、尻を出すのが一番つらいことだった。 「はい。大丈夫。お尻も大分丸うなって来たし、あとは忍耐あるのみや」  と中田絹代はいった。   8 猫と蜜柑  二学期に入るや、足柄竜太は、祖父母の反対を強引に押しきって登校した。  中田絹代は忍耐あるのみと|丁稚《でつち》の説教のようなことをいっていたが、何もしないで寝てるのはもう沢山だった。  体重も元以上になり、どちらかというと太った少年になっていた。完全に何の自覚症状も感じられなくなっていた。それどころか、体の中に理不尽な熱のようなものが溜り、天国どころか地獄のようになっていた。  竜太は、一日に一度は、 「オオッ、鰯コ。オオッ、鰯コ」  と狂ったような大声を出し、祖父母をおびえさせていた。しかし、そうすることによって、幾分でも|悶々《もんもん》が発散して、楽になることは確かだった。  どうしても学校へ行きたいと思った。  学校へ行くことによって、肺浸潤は再発するかもしれないが、気が狂うよりは数段望ましいと思ったのだ。  奇跡の回復といえた。もしかしたら、そもそも肺浸潤などという病気ではなかったのじゃないかと疑えた程だ。  祖父母も半分はその気になって、笹山医師に相談すると、 「まあ、ええやろ。その代り」  と運動厳禁、注射の継続等を条件にして許可を出した。運動厳禁、とうとう江坂タイガースには復帰出来ないかと淋しくなったが、それは覚悟していることだった。苦になるのは、もう一つの方、注射の継続の方である。あの若い、ちょっと美人の中田絹代に尻を見せつづけるのかと思うと気が重かった。 「竜太ちゃんとはシリ合いの仲や」  中田絹代はそんなこともいっていたのだ。  妙になまめいた声で、息苦しく思えたのを竜太は記憶している。  学校へ行くと、校庭が倍の広さになっていた。 「えらいことやったで。あそこは無縁墓地の跡でな、骸骨がゴロゴロ出て来よった。人夫のオッサンら大喜びや。頭蓋骨一つで酒一升やからな」 「そうか。そやったのか」  何の変化もなく過ぎて行ってるようであっても、やはりどこかで動いているもののようであった。  竜太は、ちょっとした浦島太郎のような気持で、久々の学校を眺めていた。  松井富士子はどうしているかな、とふと気になった。しかし、新学期早々だというのに欠席していた。  松井富士子は、翌日も欠席し、翌々日も来なかった。訊ねると、長期欠席の届けが出ているということだった。  竜太は、何故か受けとり手のない手紙を書いたような、空まわりする気持になった。  松井富士子という同級生の女の子が、突然竜太君のお見舞いといって江坂町巡査駐在所にやって来たのは、夏休みに入って間もなくの頃である。  殊の外暑い日で、富士子は、太り気味の体を汗で濡らして、赤くなりながら部屋の隅に座った。そして、顔一面愛くるしい笑みをあふれさせながらだまっていた。  竜太は、なぜ松井富士子が訪ねて来たのかわからなかった。目立たない子で、教室でもほとんど口をきいたこともなかったからだ。  富士子は、茶色の縞の子猫を抱いていたが、しばらくの沈黙の後、やっと決心がついたというように、しかし、決心の割には不明瞭に口ごもりながら、 「猫。お見舞いに持って来たんやけど。もろてくれる?」  といった。 「おおきに。前のが死んだばっかりやったんや。可愛がるわ」 「嬉しいわ」  結局大した話もしないで、富士子は帰って行った。  祖母のはるは、見送ったあと、 「肥えてるけど可愛い子やな」  といい、 「けど、余程好きなんやね。出した蜜柑全部食べて行ったわ」  と不思議がったのだ。   9 乙女の性典  松井富士子が、玉のような男の子を出産したというニュースが伝わったのは、その二学期の終り頃、すなわち、昭和二十六年の十二月のことである。  なんでもないチリメンジャコのような中学生の中の、もう一つ何でもなかった女の子が、いつの間にやら子供の出来るようなことをして、しかも大胆不敵にも産み落したという出来事は、無邪気が|取得《とりえ》の少年たちにとって、これ以上はない衝撃だった。  おそらく、クラスの誰かが、第二の美空ひばりといわれる程の活躍をして、松竹映画で鶴田浩二や川田晴久と共演しても、これ程の衝撃は受けなかっただろうし、いわれのない嫉妬も感じなかったに違いない。  ふたたび寒々とした単調な冬景色の中にあった江坂町に、時ならぬ青葉の息苦しさや、|南瓜《かぼちや》の花の暑苦しさを感じさせて、醜聞は人々を勢いづかせた。 「まあ。まあ。十五でなあ」 「中学生やて。うちの子供らまだ少年クラブ読んでるちゅうのに、えらいこっちゃね」  と|鼠花火《ねずみはなび》のように走りまわり、焼夷弾のように燃えさかった。  富士子出産のニュースを伝えきいた時、一瞬、|朦朧《もうろう》とした頭の中で竜太は、小糸のぶ原作、大庭秀雄監督、桂木洋子主演の「乙女の性典」と、巡回教育映画「お産の映画」と、もう一本「ホルスタイン物語」というのを同時に思い出していた。  そして、アホなことを思うたらあかん、という自戒のあとは、見舞いに訪れた時の不思議に丸みを帯びた体と、出された蜜柑を全部食べてしまったという祖母の言葉を、厳粛に思い出した。 「ああ。いやらしい。いやらし。いやらし。やらしッ」  女の子たちは、そのようなことをしでかした同性に対して極度にきびしい。その日も、朝から教室は騒然となって、ナフタリン臭いセーラー服の聖女たちは、弁当の中身をアルミニウムの蓋でかくしながら、唇は食事よりも饒舌《おしやべり》に費やしていた。  とにかく彼女らは、自らの胸の中で矛盾が膨張し過ぎると、いやらしいと一言で片づけてしまう。それも、言葉自体に|昂《たかぶ》りが加わって来ると、いやらしいが、「やらしッ」となってしまうのだ。  竜太は、早々に弁当を切り上げ、窓ぎわに寄り、校庭を見つめていた。  熱っぽい話題の渦は背中にあった。  師走の風が、傘ほどの竜巻をつくりながら、人骨の出た校庭で戯れていた。  あの日、富士子は何しに来たのだろうかと思った。貰った猫は、ベーブという名でもう大分大きくなっている。 「勉強も出来んのになあ。ほんまに」  女の子たちは、やらしッ、の理由をそんな言葉で説明づけていた。 「アホか。お前ら」  バラケツの声がした。  バラケツ正木三郎は、中学生とは思えない図抜けた体躯をゆすりながら、女の子たちの話題の輪へ入って行った。  勉強もできんのに、という言葉にバラケツは少々逆上していた。  本を開かずに股を開いたのがけしからんちゅうのかい。それともや、子供つくるには、義務教育程度の学力を必要とするちゅう意味かいな。 「何やの。バラケツちゃん。文句あるの」  受けて立ったのは、アナタハンという仇名の藪田春江だった。  この年の七月六日。アナタハン島より日本兵十九人が帰還しているが、その時、同時に帰国した女王という女性にどことなく似ているということで、アナタハンが藪田春江の仇名になったものである。  これとは別に、藪田を分解して、「やあ豚さん」ともいわれているが、とにかく、相当に強く大きい女の子である。 「文句あるの」  アナタハンがまたいった。 「勉強と何の関係があるねん。百点とったからちゅうて子供が出来るか」 「何いうてんね。アホラシ」 「ええか。プスプス悪口いうとらんと、将来のために、わいの話をきいとけよ」 「聴かしてもらいまひょいな」 「ええか。教えたるで。�ジャック・アンド・ベティ�の何処を読んでも、子供の作り方は出てへん」 「当り前やないの」 「そんなんは、勉強のうちに入らへんのや。勉強ちゅうたらな、人間やわらこうになるよう努力するこっちゃ。同じ本を読むんなら、�りべらる��アベック��デカメロン��あまとりあ��夫婦生活��猟奇�そういうためになる本を読んどらんとあかんね」 「何やの、それ?」 「君らも、そろそろ少女クラブとさよならせんとあかんな」  竜太は、ぎくりとしてふり向いた。少年クラブとの訣別が大問題に思えていた時だったからだ。  アナタハンは、いい負かされて、部厚い唇をブウとふくらませていたが、 「正木君」  と妙にあらたまり、 「あんた。行儀悪いで。人と話する時、ズボンのポケットヘ手え入れたままちゅうのんはやめてほしいわ。さっきから、ポケットの中で何握っとるの」 「あッ、これか? ムヒヒヒヒ。�りべらる�や�夫婦生活�やいうてたら、興奮して来たからに」 「キャアッ、やらしッ」 「やらしッ、あればっかりや」  バラケツは、ポケットから手を出し、何やら握っていた手をピラピラやりながら、女の子たちをキャアキャアいわせていた。  竜太の目に、校庭を過ぎて行く数多くの小さな竜巻が見えていた。  翌日から、図書室へ入る男子生徒が極端に多くなった。  アノネや照国やニンジンもそうだった。  とにかく、松井富士子のニュースは、学校中を騒然とさせるに充分だった。  ちょうど、東京では、デパートの三越がストライキに入り、「三越にはストライキもございます」といって話題になっていたが、江坂中学も、また、「中学には赤ん坊もございます」ぐらいの騒ぎであった。  しかし、その騒然さは、どこか夏の嵐のような感じで、吹き荒れるだけ吹き荒れたら後はケロリという状態で、決して、社会問題、教育問題、道徳問題に流れこんだり、膨張したりという気配はなかった。  嵐は嵐であり、秋雨前線に引きつぐものではないのだ。  騒然は、問題に結実することなく、性に目覚める年頃の少年たちの、決して豊かとはいえない妄想を刺激したに過ぎないのかもしれない。  めんどう見るわけやなし。  他人のことやんけ。ほっといたり。  そうなりそうだった。  しかし、図書室へ入りこんだアノネや、照国や、ニンジンたちは、明解国語辞典をひもときながら、知る限りの単語を解明しようと努めていたのだ。   『性交』 男女両性の交わり。交接。   『性器』 生殖に関係する器官。生殖器。   『精子』 雄の体内に出来る生殖細胞。卵子と結合して新個体をつくる。ふつう、べん毛やせん毛を持ちそれにより運動する。=精虫。   『射精』 精液を排出すること。   『卵子』 女性の性細胞。卵巣の卵母細胞から作られ、人体中最大の細胞で直径約〇・二ミリメートル。原形質と核に相当する卵黄と胚胞とからなる。   『受胎』 受精卵が子宮壁に着床して母体と組織的に結合すること。  これでは明解どころか、益々疑惑の淵に落ちこみ、妄想の林に踏み迷うことになり、「明解国語辞典」という名称を、「妄想国語辞典」にあらためて貰いたいと、アノネたちは思っていた。 �りべらる�だとか�猟奇�だとか、少年たちにとって隠微で、めくるめく魅惑を秘めたカストリ雑誌の名前を、さもさも慣れ親しんだふうに並べ立てたバラケツにしてからが、そこでの難解語句の解明を、妄想国語辞典に頼っていたのであるから、どれ程のこともない。  要するに何もわかってはいなかったので、だからこそ、松井富士子の出産は快挙であり、驚異であり、彼女は|先達《せんだつ》であったのだ。 「あのチビがなあ」  ということになり、 「チビやけど、身体検査で見た時は、|乳《ちち》は大きかったで」 「ちゃんと発達しとったわけやな」  というところで納得していたのだ。  松井富士子はチビであるだけでなく、性格的にもおよそ目立たない子だった。めったにしゃべっているのもきいたことがない。但し、陰気ではなく、いつもニコニコと邪魔にならない存在ではあった。  成績も悪かった。特に国語の朗読が大の苦手で気の毒なくらい難儀する。それでも、悲しそうな顔をするでもなく、真赤になりながら完読しようと努めるのだ。  この朗読に関連していえば、印象的なことが一つある。  いつだったか、中学生になって間もなくの頃だと思うが、竜太は、松井富士子の思いがけない一面を見ているのである。  たしか、秋祭だったと思うが、竜太とバラケツは、小屋掛けの人形芝居をのぞいたことがあった。  そこで、「|伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》・政岡忠義の段」を語り、多くの観客の紅涙をしぼっている娘浄瑠璃語りが、松井富士子だったのだ。  松井富士子は生き生きとしていた。  |裃《かみしも》の肩をゆすりながら、恍惚として人形浄瑠璃の世界を|翔《と》んでいた。  薄暗い|小舎《こや》の、むしろの壁を割って射しこむ光の筋を掴むかのように、富士子の手も、また宙に踊っていた。  そこには、教室の中で、顔を真赤にして教科書ととり組んでいる富士子の姿はなかった。同じように顔は真赤にしているが、それは難儀と|羞恥《しゆうち》のためではなく、熱と昂揚と恍惚のためであることは明らかだった。 「何でやねん。何で本も読めん奴が、こないな|辛気《しんき》くさいもん覚えられるねん」  バラケツは、奇跡に出会ったような顔をした。  竜太にもそれは理解出来ないことだった。  しかし、竜太は、その時、松井富士子のことを少し見なおしていた。  浄瑠璃語りの名手であることを証明してからも、教室での富士子は同じだった。  相変らず教科書を捧げ持ったまま立ち往生をくり返していた。  ある時などは、見かねたバラケツが、 「こら。富士子。節つけてやってみい。太功記十段目や。朝顔日記や」  とはやし立て、デデンデデンと|太棹《ふとざお》の三味線の口真似を|合《あい》に入れてみたが、同じことで、富士子は申し訳なさそうに笑っただけだった。  竜太は、松井富士子が十五歳で出産したという話をきいた時、あの浄瑠璃の名手ぶりと重ねて、もしかしたら、どえらいことをやるというのは、富士子のようなタイプであるかもしれない、知恵の竜太、力のバラケツなどといって、ブイブイいわせてる奴は、大したことをしないのではないかと思ったほどだ。  やがて、年が変った。  昭和二十七年になり、竜太たちは、中学生としては最後の学期に入った。  北西の風が瀬戸内に常に鉛色の三角波を立て、淡路島の西海岸を削りとるように吹き荒れていたが、それも峠を越し、水仙の白い花弁がチラホラとしはじめると、風はやみ、底冷えだけが残った。  三月に入った。  誰も松井富士子のことを話さなくなった。  卒業式が目前に来ていた。  富士子は卒業式にやってくるだろうか、と竜太は思った。  おそらく来ないだろう。  とすると、卒業の前に、一度富士子を見舞いに行かなければいけないなと考えていた。  竜太には、そうしなければならない縁と、そして、義理があるように思えていた。   10 卒業  足柄竜太は、島内一の名門校といわれている|自凝《おのころ》高校を受験した。  高校進学を希望する者はほんのわずかであったが、江坂タイガースのメンバーでは、竜太、バラケツ、アノネ、ニンジンと四人がいた。他は家業をつぐか、大阪、神戸に出て働くかだった。  竜太は、試験はともかく、三年生の一学期を肺浸潤で全休していることが気がかりだった。  しかし、試験は終ったのだ。  なるようになるよりしゃあないわと腹をくくった。  それにくらべてバラケツは、えらく自信がありげだった。西浦の別所とか、淡路の真田とかいわれて、投手としての力量が高く評価されていることが自信の因のようである。その昔、男女同権を男女同毛と書いた学力が、自信につながるとは思えなかった。 「いよいよ高校生や。竜太。また二人の青春が始まるのう」  とバラケツはもうごきげんだった。  卒業式が明日という日。  螢の光と江坂健児の唄の練習をすませると、竜太は松井富士子の家へ向った。  バラケツはさそわなかった。  松井富士子の家は、江坂町も南のはずれ、山名村に近いあたりにあった。南浜とよばれる漁師の集落のあるところで、富士子の家もその中の一軒かと思ったら違っていた。そこを通り過ぎ、さらに天狗の鼻に寄った海っぺりに、ポツンと一軒だけ、世間ぎらいの老人のような姿で富士子の家はあった。  遠かった。こんな遠くから学校へ通っていたのかと今更のように驚いた。  南浜自体が|崖下《がけした》にあるような集落で、そこすら世間と隔絶されているような気がしたが、それよりなおはずれにあるのだから、不便この上なかった。  途中に、|石蕗《つわぶき》の群生しているところがあった。そして、右はすぐに海、もう何年も前の難破船が半分砂に埋まっていた。  珍しく暖かい日で、とげとげしい表情だった海ものっぺりとして、小豆島が曖昧な距離で見えていた。  富士子の家が近づくにつれて、空地のいたるところに素焼きの瓦が乾燥させてあるのが目につくようになった。  彼女の家が瓦屋であることを、竜太は初めて知った。  敷地に入ると、鼻の赤い白犬の親子がけたたましく吠えたて、屋根の上からは、年老いた猫がにらんでいた。これが、ベーブの母猫かと思い、チッチッと舌を鳴らすと、鶏小舎のトタン屋根を大きな音をさせて逃げた。 「何やの。どないしたん」  出て来たのは松井富士子だった。 「まあ。竜太君」  富士子は一瞬顔をあからめた。  すりへった敷居をまたいだまま、富士子は意外な訪問者にとまどっていた。しかし、当惑ではなさそうで、たちまち懐しさを顔一面に表わし、 「よう来てくれたわ」  と竜太の手をとった。  そんなところも、以前の富士子からは考えられないことだった。竜太は、富士子に手をとられて家の中へ誘われながら、妙に緊張する思いで息苦しくなっていた。  山側の広縁のある座敷に通すと、 「ほんまに、よう来てくれました。どないしょ。嬉しいわ」  とあらためて、きちんとした挨拶をした。  富士子は、ピンク色の徳利セーターを着、その上から綿入れの|半纏《はんてん》を羽織っていた。下は|飛白《かすり》のもんぺだった。どう見ても中学の同級生とは思えなかった。三つも、四つも年上に見えた。何もかもが丸みを帯び、匂うようだった。心持ち細めて見る目許に自信のようなものが漂い、全体からも何ともいいようのない落着きが感じられた。セーターを押し上げている大きく丸い乳房もまぶしかった。  教室の中での立場は完全に逆転していた。  大人と子供の違いを痛感させられた。  女は魔物や。  と竜太は思っていた。 「明日、卒業式や」  と竜太はいった。 「卒業式は出た方がええ。一生の想い出や。誰も何ともいえへん。螢の光を歌うて、卒業証書もろうて来たらどないや」 「おおきに」 「行こ」 「うちなあ。もうええねん。もう中学生に見えへんやろ。オバハンに見えるやろ。うち、オバハンが気に入ってるねん。何や、うちも大した女やと思えて来てなあ。毎日が楽しいねん。そやから、卒業式へ行くのはやめにするわ。ごめんね。折角誘いに来てくれたのに」 「そやないねん。別に誘いに来たわけやないねん」 「わかってる。竜太君は、お返しに来てくれたんやろ。うちが病気の見舞いに行ったさかいに」 「それもある」 「あの時なあ。うち、ようけ蜜柑を食べてしもうて」  富士子は思い出してか、肩をよじって笑った。 「猫元気か?」 「大きゅうなった。ベーブいう名や」 「何やの。それ」 「ベーブ・ルースのベーブや」 「ふうん」  家の中に、他に誰もいなかった。両親と、それから、富士子がうちのオッサンと呼んでいる亭主がいるのだが、今は三人とも、瓦焼きに出かけているということだった。  竜太は、だんだん富士子と一緒にいることが息苦しくなって来ていた。  富士子はそうでもないようだった。結構楽しそうだった。もんぺの膝をくずして、ペタリと座りこみ、級友たちの噂話では、中学三年生の顔をして笑った。 「嬉しいわ。竜太君が来てくれて」  何かの話の|継穂《つぎほ》に富士子は必ずそういった。  時間は他愛なく過ぎた。  |渚《なぎさ》が近く、春の潮が間のびした間隔で打ち寄せる音がきこえていた。  途中で赤ん坊が一度泣き、 「うちの子、見てくれる?」  というと奥から連れて来て、竜太の目の前で乳房をふくませた。 「ちょっとごめんね」  というや、セーターを裾からたくし上げ、白く丸く張りのある乳房をひっぱり出すと、赤ん坊の口にふくませたのだ。そして、目を閉じた。富士子と赤ん坊が一体になっているように見えた。  午後の陽ざしが、富士子の滑らかな腹から乳房まで、やわらかく照らした。  竜太は、思わず正座をして、その光景を見つめていた。目が寄りそうだった。  そして、バラケツを連れて来なくて本当によかったと思っていた。  バラケツだったら、 「わいにも、ちょっと吸わしてんか」  ぐらいのことはいいかねないからだ。 「ええ気持やのん。竜太君にはわからへんやろけど」 「わかるかい」  いいながら、竜太は赤くなった。  富士子の家の者はなかなか帰って来なかった。  そろそろ帰ろうと思い、そういうと、 「多分、もう逢うことないやろね」  と富士子はいった。 「瓦屋のオバハンやよってなあ」 「元気でな」 「おおきに。竜太君も病み上りやよって、無理せんとな」 「大丈夫や」  外に出ると、そろそろ黄昏の色合いに染まりかけていた。肌寒くなった。鼻の赤い白犬は今度は吠えなかった。親子でじゃれていた。年老いた猫はまた屋根にのぼっている。 「ええ想い出になるわ」  富士子はいい、 「うち、中学の想い出を一つだけつくりとうて、一番好きやった竜太君のところへ行ったんよ。結局何もしゃべらんと、蜜柑だけ食べて帰って来てしもうたけど」  そういって、遥かな昔でも思うように、フフと笑った。 「さいなら」  竜太がいった。 「ベーブ、やったかいな。猫、可愛がってやってね。それから、皆さんに、よろしゅういうてね」 「わかった。いうとくわ」  それじゃ、と行きかけると、富士子は、あっちょっと、ちょっと待って、と竜太の前へまわり、両手を掴んだ。 「うちの浄瑠璃聴きながら帰ってくれる? お願い。ちょっとでもいいから、聴いて帰ってほしいの。ええね。ええね」  冷たい手だった。そして、熱い息だった。富士子の目が涙で濡れているのを見て、竜太は大きくうなずいた。 「おおきに」  富士子は、これ以上はない嬉しい顔をすると、手の甲で涙を拭いながら、バタバタと家の中へ駈けこんだ。綿入れの半纏と飛白のもんぺでつつまれた、小さく丸っこい体が躍ったように見えた。  しばらくすると、太棹の三味線の、腹をゆするような音色が響いて来て、何かが乗り移ったような松井富士子の浄瑠璃がきこえて来た。  ふる里をはるばるここに紀三井寺。 「巡礼にご報謝」  というもやさしき国なまり。てもしおらしい巡礼衆。  竜太は、体中がふるえて来るような思いに耐えながら、それを聴いていた。  そして、やがてゆっくりと、素焼きの瓦が並べてある間を縫いながら帰って行った。  静かだった。  のたりとした波音だけがあって、相当遠くはなれても、富士子の浄瑠璃「|傾城《けいせい》阿波の鳴門・巡礼唄の段」は聴こえていた。 「ムム、して親達の名は何というぞいの」 「アイ。ととさんの名は阿波の十郎兵衛。かかさんの名はお弓と申します」  足柄竜太は、少年クラブを捨てようと不意に思った。  あれっきりの波多野武女に、今度は長い手紙を書こうとも思った。  日が暮れた。  明日は卒業式だった。  くらやみの恋夏曲   1 暗闇紳士録  その頃、ほんの短い間ではあったが、足柄竜太には不思議な仲間があった。  竜太が、高校生になったばかりの何カ月、季節にして春から夏という駈け足のように過ぎて行く時の流れの中で、思いがけなくふれあった人々である。  年齢からいっても、生活環境からいっても、全くつながりを持つ筈のない人々であったが、竜太にとっては、鮮明な季節のように、あるいは、忘れ難い映画の奇妙に印象的な脇役のように、記憶の|襞《ひだ》に刻まれている。  後になって、竜太は、その不思議な仲間のことを、「くらやみ紳士録」と呼んだものである。  昭和二十七年春。  高校生になるや、足柄竜太の毎日の生活は、映画という暗闇にうずもれていた。  午前中の授業が終りに近づく頃から、足柄竜太の心は映画館に翔んでいた。  それは禁断症状のような激しさで襲い、午後の授業は抵抗することもなく駆逐されていた。  そんなことが週に二日や三日はあった。  思いたつとおさえがきかない。他のことでは充分に良識をわきまえた少年であったが、映画の衝動にだけはだらしなく、又寛容であった。  罪悪感はなかった。魅力の比較の問題だと思っていた。  比較の問題といえば、秀才という言葉が単なる比較によって成立しているものだということを、高校生になった次の日から、竜太は実感した。  秀才は、確固たる意味合いを持つ絶対のものではなく、一群の中の突起、もしくは突出という程度の確かさしかないということである。  竜太が江坂の秀才と呼ばれていたのは、バラケツやアノネやニンジンや、又、ガンチャやダン吉や照国やボラといった江坂の少年たちが鈍才であったからに過ぎない。  比較する一群のレベルが高くなると、竜太もその中に埋もれてしまい、秀才の名を返上するどころか、新たな秀才を成立させるための要員となるという現実を、最初の授業から痛感したのである。  しかし、そのことで絶望はしなかった。  そして、映画に心を奪われるということが、そのことと関係あるとも思っていなかった。  あくまでも魅力の比較の問題だった。  映画には、麻薬に似た魅力がある。  午後の授業をエスケープすることにきめた竜太は、急いで生徒食堂で一杯十円のきざみうどん(生の油揚げが刻んで入っている)で弁当を食べ、裏門から脱出した。  雨が降りはじめていた。  学校をとり巻く一帯の風景が黒雲に明度は奪われていたが、春もしくは初夏というあたたかさまでは消していなかった。  裏門のあたりで、趣味で食堂主任を引き受けているという老美術教師とすれ違った時、なぜか、高校の入学式の夜、 「わしは、お前を見ているだけや。父親やないから、男の見本を見せたるわけにいかん。見本見せるにゃ年齢とり過ぎとる。ええな。そのつもりでやるんやど」  といった祖父の足柄忠勇の言葉を、黒雲の中の雷鳴のようにきいたが、竜太の足をひきとめるほどのものでもなかった。  ズックの手提鞄を頭の上にのせ、傘のかわりにして気持ばかり|驟雨《しゆうう》を避けながら、竜太は|自凝《おのころ》市の繁華街を駈けぬけ、その中央に位置する唯一の洋画上映館ハリウッド座の窓口ヘ右手をつっこんだ。  大人六十円。学生五十五円。 「早よ」  竜太は、上映時間表と時計を見比べながら券売りの女の子をせかせる。  これには理由があって、学校を早退するというのもそのためであるが、この回の上映を見ないことには、江坂行きの終バスに間に合わなくなるのである。 「早よ。ムービイトーン・ニュースが始まっとるやないけ」 「大丈夫や。フィルム未着につき、少々お待ち下さいの最中や」 「そうか」 「えらい雨や。フィルム運びのニイちゃん難儀してるやろ。今頃は大橋渡って街ん中へ入った頃やろ」 「フィルム未着かいな」 「はい。お釣り四十五円。それにしても、あんたもようつづくなあ」 「五十円にならんかなあ。百円で二回見れるのになあ」  入場券を手にして、何故かとてつもなく貴重なものを、たとえば、その昔の配給切符を人にさきがけて入手した時のような思いで一息つくと、竜太の目に、六月の雨にうたれながら猛々しいともいえる豊満な太腿を露出させたシルバーナ・マンガーノの大看板がとびこんで来た。  竜太は生唾をのみこんだ。  生唾自体が口の中でふくれ上り、まるで固い塊のようになっているように思え、喉をのみ下すのに苦労した。  特別興行。 「にがい米」「荒野の決闘」豪華二本立。  シルバーナ・マンガーノの唇には、野菊のような白い花がくわえられていたが、それは竜太に花の知識がないために野菊のようなと思っただけで、絶対に野菊であるわけがなかった。色も匂いも、もっと生臭くなければシルバーナ・マンガーノの唇にはふさわしくない筈であった。そう思える程、雨にうたれたマンガーノの看板は獣めいて人々を圧倒していた。胸はベスビアス火山をさえ思わせた。 「えらいこっちゃ」  竜太は意味不明の感嘆語を、それでも充分に感極まった思いでつぶやくと、息苦しさから逃れようとするかのように詰襟の制服の第一ボタンを気ぜわしく外した。  いつものことだった。  種類は違っているとはいえ、竜太は、この映画館という甘美な暗闇に足を踏み入れようとする時、必ずこのような息苦しさを感じるのである。それは期待ともいえたし、そのための興奮ともいえた。  そして、この気分が、今の竜太にとって最大最高の|昂《たかぶ》りでもあった。  雑誌「平凡」を膝の上にひろげて、歌手の人気投票の票数を真剣に数えていたモギリの女の子が、上目づかいに竜太を見て、 「皆勤賞」  と笑った。  ロビーとよべる代物ではないが、それでも何人かの観客がうろうろと歩きまわれる程の空間はあった。皮が破れて、そこからバネのとび出した長椅子が置かれてあり、その前には、ちょっとした駄菓子やジュースを売っている売店もあった。  フィルム未着を知らされているとみえ、いつもより大勢の観客が、そのロビーに出て、煙草をすったり、壁にはられた近日上映のポスターを眺めたりしていた。 「サムソンとデリラ」「黄色いリボン」「わが谷は緑なりき」「自転車泥棒」「腰抜け二挺拳銃」「二人でお茶を」「ガンガディン」「打撃王」  それらには、いずれも近日上映と麗々しいたすきがかかっているが、それは当てにならない。近日が一年ということもあり得るのを竜太は知っていた。しかし、だからといってしらけることもなく、充分に期待に満ちて、ジョン・ウェインやゲーリー・クーパーや、ドリス・デイの輝きに満ちた表情と対面していた。  足柄竜太は二階へ上った。  このハリウッド座は、他の二つの映画館、松竹・東映系の白鳥座、大映・東宝・新東宝系の|自凝《おのころ》座同様に、元々は芝居小舎であったため、いまだに二階は座敷席であった。竜太はどの映画館でも二階の、映写室の下を指定席にしていた。何故かすっぽりとつつまれる気分で落着けたのだ。  暗闇に身を沈めると、あたかも竜太を待ち受けていたかのように、汗臭い湿気と、埃の満ちた生ぬるい風がまとわりついて来た。  また誰かが便所の戸を半開きのまま帰って来たとみえて、アンモニアの鼻をつく匂いもかすかにまじっていた。  しかし、竜太は気にならなかった。  むしろ、それらの不快ともいえる匂いをも含めて、この場所は竜太の極楽であるといえた。  映画館。  その暗闇は奇跡にも似たからくりで、竜太の魂を自由奔放に飛翔させてくれる。  ハリウッド座の映写幕は、銀幕と呼ぶには少々悲しげな風情で、ところどころに赤茶けたしみなどが残されているが──だから、イングリッド・バーグマンや、バージニア・メイヨという美女の顔面に、時として|赤痣《あかあざ》をつくるという大失態もあったが──一たび光条が指すと、見果てぬ夢の世界を現出する。  映画には、現実と夢幻の間の枠をとりはらう力があるらしい。  カラカラと映写機のまわりはじめる音が、金属の羽を持った昆虫の羽音のようにきこえ、それが自然な雑音として耳になじむと、壁穴から、如何なる光よりも誇りに満ちた唐突さで白っぽい光が映写幕に向って躍りかかる。その光に群がる埃の粒さえが、竜太のときめきを誘うのだ。  来た。行け。  竜太は息をつめ、身を固くする。  竜太の魂は、その瞬間から竜太の体をはなれ、銀幕の中の光と影のからくりの中に誘いこまれて行くのだ。  映画館の暗闇は、足柄竜太にとっては、無限の旅に誘う巨大な船だった。  しかし、それは竜太に限ったことではなかったのかもしれない。  仮に、特にという部分が竜太にあったとしても、映画館という暗闇におさえ難い魅惑を感じて足を運ぶ人々の誰もが、多かれ少なかれ持っていた気持であると思う。  誰もが何処かへ旅立つ船を欲していた。  それは、潜在的であるからこそいじらしく、また涙ぐましく、闇の中に背を丸めて安い菓子など遠慮がちにかじりながら、揺れて揺れて心地よく数時間の船旅をしていたのだ。  とにかく、足柄竜太は、ここへ来るとうっとりする。  そして、帰りには恍惚感さえともなった疲労にぐったりしてしまう。旅の長さと重さを物語っている。だから、竜太はくり返しくり返し暗闇に足を運ぶ。  暗闇の船に身をゆだねている限り、淡路島の西海岸を吹き荒れる冬の西風の音をきくことはない。そこにへばりついている江坂町という小さな町の小さな世界に身をかがめていることもない。いまいましい肺浸潤という病いの後遣症でけだるい咳をくり返しているひ弱な自らと対面していることもない。いや、そんな現実逃避の思いよりももっと積極的に、そこには、幸福感といえるものがあった。  黄昏の摩天楼の窓々に一せいに灯がともる一瞬に、ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」が流れたら、それは竜太にとって進駐軍以外のアメリカである。  少年の心に根強く巣食っていたアメリカに対する憎悪や嫌悪も、紫の夕まぐれのニューヨークに林立するビルのシルエットを見る時、そして、そこで恋する男と女を見る時、何か別物のように氷解しそうな気分にさえなる。人々の暮しの中で、愛と自由という言葉は、たとえば淡路島で、どないや、元気か、もうかるか、という程度の気軽さで使われ、誰も顔を赤らめない平然さに驚愕するのも不快なことではない。それは、接吻という愛の行為にしても同様である。  アイ ラブ ユー  なんとまあスムーズに語られることか。  別世界である。別世界ではあるが異なる世界ではない。何故なら、竜太の胸は心地よくそれらにひたれるからだ。  地平線がある。  天と地の真中に一本くっきりと横線をひいたように、それだけの地平線がある。アメリカは広い。  摩天楼と西部の荒野を同じ地つづきの中に持つアメリカはとてつもなく広い。  あれなら人の動きも大づかみにしかわからないだろう。ちょっとした目のくばりや唇のゆがめ方で騒動も起きかねない日本とは大分違う筈だ。  人間。男。女。  誰もが胸をはって大きい。何故。  足柄竜太は、アメリカ映画を見て初めて、女の尻というものが脚の最上部に位置してそびえているものであることを知った。それまでは、胴体の最下部にぶら下っているものだと思っていたのだ。  銀幕のからくりに魂を奪われるのは、何もアメリカ映画に限らない。  セーヌの河畔であろうが、ロンドン橋であろうが、いや、隅田河畔の柳並木の散歩道でさえ甘ずっぱい感傷と、おさえ難い憧憬をもって迫って来たし、もっと現実的にいうと、冷蔵庫やトースターや、フォルクスワーゲンをも、魔法のランプを見る驚きで見つめていたのだ。   都が恋しい 早く行きましょう   帰りたいわ あなた   にぎやかな   ボタンズ アンド ボウ   指輪と飾りと   ボタンズ アンド ボウ  近日上映の「腰抜け二挺拳銃」の景気づけのためか、場内に「ボタンとリボン」のレコードが鳴り響きはじめた。  どうやらフィルムはまだ未着であるらしい。雨の中をフィルム缶を荷台にくくりつけて懸命に自転車を走らせているであろう運び屋のニイちゃんの姿を思いうかべて、   ほんとに ほんとに   ご苦労さん  と竜太は本気で思っていた。今の竜太にとっては、このフィルム運びのニイちゃんも、大仰でなく�幸福の使者�であったのだ。  それにしても、「ボタンとリボン」の、ボタンズ アンド ボウと歌うくだりは、何度きいてもバッテンボーとしかきこえない。  NHKの「とんち教室」に、長崎抜天という漫画家が出演していたが、どうしてもそれを思ってしまう。抜天坊だ。もしくは、罰天棒ということもある。  その昔、カム カム エブリバディというのが、噛む 噛む えんぶり棒と歌っていた連中の親友だから、秀才だったとはいえ、バッテンボー程度の英語の感覚であるのかもしれない。  そんなことを思いながら、竜太は、モギリの女の子から受けとった豪華二本立、「にがい米」と「荒野の決闘」のチラシに目を通すことにした。  主演者は、イタリア最大の人気女優で、すでに我が国にも「シーラ山の狼」でデビューし、その野性的官能美と姿態美を示したシルバーナ・マンガーノ。  彼女は、監督ジュゼッペ・デ・サンティスに発見され、「にがい米」に初出演して一躍世界のスターとなったものだけに、本映画に於けるマンガーノの魅力は圧倒的である。  野性的官能美と姿態美か。成程なあと竜太は思った。  それは、雨にうたれた大看板を見ただけでも充分うかがい知ることが出来た。  それに、あの看板には、マンガーノの|腋《わき》の下にこれ見よがしの腋毛が描かれていたが、野性的官能美とはあのことかと思った。今までは、看板屋の少々はしゃぎ過ぎたいたずらだろうと思っていたが、もしかしたら、事実がそうなのかもしれない。何しろ野性的官能美やからと納得もした。  もう一本の「荒野の決闘」については、ヘンリー・フォンダとヴィクター・マチュアとリンダ・ダーネルについて、極く生真面目な紹介が書いてあるだけだった。  ヴィクター・マチュア  アメリカの映画界は、この映画に主演する彼に、「ようこそ、お帰りなさい。ヴィクター・マチュアさん」と挨拶を贈っています。  それは、マチュアの復員後の最初の映画出演であるからです。彼は戦時中は沿岸警備隊の任務に服していました。  ようやくフィルムが到着したのか、ロビーや廊下に散らばっていた客が、少しばかり声高にしゃべりながら場内に戻って来はじめた。只それだけのことで、つまり、やがて映画と対面出来るという思いだけで|昂《たかぶ》るものらしい。  男たちは、先日、五月十九日に、ダド・マリノを破って世界フライ級チャンピオンになった白井義男のことを、そして、彼の勝利は、アルビィン・カーン博士の指導による科学的ボクシングによるものだといった知識まで織りまぜながら語り合っていたし、女たちは、四月から始まって大評判の連続放送劇「君の名は」について、春樹と真知子は会えるやろかと、まるで身内の運命でも気づかうように話し合っていたが、いずれも何か上っ調子が感じられた。  ブザーが鳴り、一度明るくなっていた場内が気を持たせながら徐々に闇の世界をつくって行った。  竜太は、映写室の壁に背をもたせかけ、ちょうどその頭上を光条が通り抜けて行く位置で、畳に足をのばし、雨に濡れて重くなったズックの鞄を抱きしめた。 「本日は、ヒルム未着のため大変長らくお待たせ致しました。ヒルム只今到着。それでは、ムービイトーン・ニュース、予告にひきつづき、イタリア映画官能大作、ネオ・リアリズム『にがい米』と、アメリカ映画西部劇大作『荒野の決闘』を上映致します。最後までごゆるりとご観覧下さい」  微笑を含んだ低いどよめきが場内に満ち、いくつかの拍手も起った。誰もみな映画に対しては無条件に寛容であった。  カタカタと映写機の始動が竜太の背中に伝わって来た。  ふと何気なく二階席を見渡すと、ここを指定席としているいつもの常連、竜太とも既になじみの顔が目に入った。  二階の一番前、手すりにつかまるようにしてのぞきこんでいるのは、軍隊ラッパのオッサンと呼ばれている老人で、理由は知らないがいつもラッパをたすきにかけている。  その横にいるのは狸御殿の後家はんで、これは、�たぬき�というお好み焼き屋をやっているところからついた仇名であるらしい。  竜太には、女の人の年齢の判別はむずかしいが、江坂町の猫屋のオバハンより二つ三つ上に思えるから四十歳というところだろうか。いつも小ざっぱりと粋ななりをしている。  そして、竜太と同じように映写室の壁に背をもたせかけて、ボケの小百合とむっつり五郎と呼び合っている二人がいた。  ボケとは随分な仇名だと思うが理由はきいたこともない。ただし、ボケといわれるようなところはどこにも見られない。むしろ、勝気だし、機転のききそうな感じがする娘である。まだ若い。化粧をした顔を一度も見たことがないが、美しいと竜太は思っている。  むっつり五郎も二十歳ぐらいに見える。余りしゃべったのをきいたことがないから、多分そのせいで、むっつりと呼ばれているのだろうが、むっつり右門に由来しているのかもわからない。  わからないといえば、狸御殿の後家はんだけが多少正体が知れているが、他の三人が何を職業としているのか、竜太には見当もつかないのである。  わかっているのは、この暗闇を巨大な船にしているのは竜太だけではないということである。  この四人も、いつも暗闇に身を沈めており、いつしか竜太とも、年齢こそ違え何やら共通する匂いを嗅ぎ合い、時々は言葉も交し合う関係になっていた。 「ほら。やっぱり来てたやないの。うちの思うた通りや」  とボケの小百合は嬉しそうに笑うと、はいと黄色い森永キャラメルを投げてくれた。竜太は、せいいっぱいの親愛の情を示して目礼を返した。しかし、横にいるむっつり五郎は笑いもしなかった。  スクリーンには、イタリアの水田風景がうつっていた。シルバーナ・マンガーノの田植え女の野性的官能美が、徐々にではあるが場内を圧倒し始めた。  同じ田植え女でも、日本の早乙女とは肉と野菜ほどにも違っていた。風情というよりは存在で、風物というには生々し過ぎた。  竜太は、森永キャラメルを口に含んだ。喉のあたりに渇きを感じ始めていたのだ。  狸御殿の後家はんの悲鳴が、館内いっぱいに響き渡ったのは、映画が半ばに達した頃である。勿論悲鳴の段階では、その声の主が狸御殿の後家はんかどうかわかるはずもなかったが、悲鳴にひきつづき、あたりをはばからない怒声をあびせかけたものだから、そうと知れたのである。 「何するねんな。このオッサンは」  それから始まって、 「どないなつもりやの。ええ|年齢《とし》して。いやらしいこと仕掛けて来てからに。うちを何のつもりでいるねんな。この手何やのん。この手今何をしたん」  怒鳴られているのは、軍隊ラッパのオッサンであるらしい。どうやら、暗闇で並んで映画を見ているうちに、愛情を示そうとしたのか、野性的官能美に刺激されたのか、軍隊ラッパのオッサンの手が狸御殿の後家はんのどこかを求めたもののようである。 「つけ上ったらあかんで、オッサン。うちがこうやって並んで映画見てやったんは、淋しい淋しい年寄りやと思えばこそや。それを何やの。一人前に手え出して来よって。けったくそ悪い。うちもなめられたもんや」  誰も映画を見ていなかった。  広々とひろがるイタリアの水田風景も、シルバーナ・マンガーノも、色男のヴィットリオ・ガスマンも、しばらくは忘れられた存在になり、ネオ・リアリズムも、官能大作も空念仏に等しくなっていた。  女に仁王立ちという言葉は酷かもしれないが、狸御殿の後家はんの姿はまさにそれで、見方を変えれば、バルコニーから演説するシーザーにも見えた。  相手がそうだから、軍隊ラッパのオッサンは、座っているわけにも行かなくなったのか、のろのろ立ち上り、 「すまんなあ」  と気弱くいった。 「すまんですんだら警察いらんわ」 「雨が降ってなあ。雨が。それでなあ」 「アホ。何が雨や。雨降ったら女にさわってもええんかいな」 「犬が」  軍隊ラッパのオッサンのいうことは支離滅裂になって来た。  竜太は気の毒に思えて来た。  何もあそこまでののしることはない。気にさわるところに触れた手なら、はらいのければすむことではないか。そして、場所をかわればいいことだ。  恥をかかせて平気な奴は醜いもんや、と竜太は思っていた。  それより、何故か二人に映画館を|冒涜《ぼうとく》されたようで腹が立った。そして、不意に現在行われているであろう生物の授業を思ったりしていた。  狸御殿の後家はんと軍隊ラッパのオッサンの表情はシルエットでわからなかったが、それは不思議な影絵だった。  後家はんの怒りがおさまらないとわかると、オッサンの口から、|嗚咽《おえつ》がもれ始めた。そればかりではない。オッサンは奇妙な行動に出たのだ。ラッパを吹き始めたのである。 「にがい米」はめちゃめちゃだった。  最初は面白がっていた観客もさすがに騒然となって、 「ええかげんにせんかい。アホ」 「ラッパ吹いて何するねんな」  等々怒鳴り始めた。 「ああ、アホらし。いやや。いやや」  ボケの小百合の声がきこえた。  これは怒鳴ったのではなく、つぶやいた風で、竜太には悲痛な思いのようにきこえた。  軍隊ラッパのオッサンの進軍ラッパが、シルバーナ・マンガーノとヴィットリオ・ガスマンの抱擁に重なっていた。   出て来る敵は   みなみな殺せ  足柄竜太は、そのラッパのメロディをたどりながら、まだ日本が戦争をしていた頃、そんな風に歌っていたことを思い出していた。   2 烏  神戸の米問屋へ就職した照国こと長谷川照夫から初めて便りがとどいた。  中学を卒業して島外へ就職した江坂タイガースのメンバーの消息が初めてうかがえたのである。  大阪堺の料理屋へ板前の見習いとして行ったボラこと折原金介。徳島の製薬工場へ入ったダン吉こと吉沢孝行。高知の遠洋漁船に乗ったガンチャこと神田春雄からは、まだ一本の葉書も来ていない。  季節が少し動いただけで、実は一つの大きな時代、足柄竜太たちにとっては江坂タイガースの時代、が終ったことを感じさせられていた。  もう誰も野球をしていないのではないか。  バラケツこと正木三郎は、|自凝《おのころ》高校入学と同時に野球部に入部、将来を期待されてはいるが、彼の野球も江坂タイガース時代の野球とは違っている筈である。  感傷はカラカラと音たてて遠ざかり、何やらすべてが、その野球すらが遠い景色のように思えていた。  だから、照国の手紙は、いわば過去からの手紙であった。懐しさはあっても、今心がそちらへ揺らぐというものでもなかった。  拝啓 足柄竜太様  元気ですか。小生も神戸一という米問屋ではりきっています。重労働の毎日ですが、恵まれた肉体と、江坂タイガースで鍛えた根性でがんばってます。  でも、米屋にいながら、なかなか米の飯を食べさせてもらえないのでまいります。犬がおあずけくらっているみたいで殺生な話や。  けど、これも修業や。  けど、ムチャクチャでござりまする。  くず米クチャクチャ噛みながら、腹のたしにしています。  今日、初めて休みを貰ったので、神戸の街を市電で見てまわりました。  ハイカラな街や。三ノ宮や元町は、まるで外国みたいやと思いました。  竜太は市電に乗ったことあるけ?  デパートヘ入ったことあるけ?  新開地で映画を見ました。  松竹映画「お景ちゃんと鞍馬先生」と「父帰る」の二本立。「お景ちゃんと鞍馬先生」は、淡島千景と若原雅夫の主演でした。  封切やから、淡路で見るのはもっと後になるやろけど、面白いから見て下さい。  帰りに、初めてザルソバというものを食べました。  山盛りのソバを見た時は嬉しさで涙が出そうになりました。ところがや、何ちゅうこっちゃ。驚くではありませんか。これが恐しい程の上げ底だったのです。おまけに、ツユをかけると底までぬけていて、都会の連中のすることは油断も隙もならん。  こんな人間のいる中で、これから先、生きて行かなければならないかと思うと、身のひきしまる思いがしました。  ではごきげんよう                    長谷川照夫  竜太は、毎朝七時のバスに乗る。  この七時のバスに乗り遅れると次は九時であるから、午前中の授業二課目流してしまうことになる。どうしても七時に乗らなければならないのだが、そのためには六時に起きて朝食を済ませなければならないから可成りつらい。苦行である。  四月四日に、何年かつづいたサマータイムが廃止されたからよかったものの、そうでなかったらもう一時間早く起きなければならなくなるところだった。  高校生活が始まって二カ月が経過した。  大した変化もないようであるし、また、どのような高校時代になるのか既にその色合いぐらいは出てしまったような気もする。  ここのところ、毎朝、江坂町巡査駐在所の正面にある火の見|櫓《やぐら》のてっぺんに大きな烏がとまっているのが目に入る。  薄紅の朝もやを背景にしても、ざらついた雨雲を背景にしても、大きな烏の存在は気持のいいものではない。  竜太は、何故かこの烏に見はられているような思いがしていた。竜太の一挙手一投足、竜太の心の揺らめき、果ては健康状態から高校に於ける成績に至るまで熟知していて、時にあたたかく、時に批判がましく見下しているょうな気がしてならなかった。  もしかしたら、あの烏は死んだ両親かもしれない。父の公一と母の良枝が、どこか頼りない息子に心を痛めて、この世に復活して来たのではあるまいか、と思うこともある程であったが、それは、竜太のある種のやましさ、被害妄想であった。  しかし、不思議なことに、烏が火の見櫓にとまっているのは、六時の起床時から七時の出発時までの一時間だけなのである。 「行って来ます」  と竜太が玄関を出て、反射的に正面の空を見上げた時、烏もアアと一声高く鳴いて、とび立って行く。それは、あたかも竜太の姿に|安堵《あんど》してそうするとさえ思える間合いなのである。  やっぱりと思い、そんなアホな、と竜太は毎朝打ち消している。  既にして、高校生活への期待感や緊張感が稀薄になっているから、七時のバスに乗ることはつらいことである。  しかし、田舎とは有難いもので、乗るべき人が乗らないとバスも発車しない。しばらくは、クラクションを連続的に鳴らしながら待っていてくれる。その代り、風邪とか発熱とかで学校を休むことになった時は、祖母のはるが小走りに駈けて、 「すんまへん。今日は休みますねん」  とことわりをいわなければならない。  足柄竜太は、自凝高校までバスで通学しているが、これは、この辺りの高校生の待遇としては異例のことである。  贅沢である。この贅沢が竜太に許されているのは、肺浸潤の予後処置というに過ぎない。病状といえる程のものが表だって見えるということはなくなったが、それでも少し体を動かした日などは熱っぽく感じることがある。いや、体だけに限らず興奮した日なども同じで、多分に気のせいもあるのだろうが、微熱を感じたり、|盗汗《ねあせ》の不快感を味わったりする。  その故か、竜太は近頃何ごとにも激さなくなっている。熱血の思いは点火のささやかさで、炎となる直前で竜太自らが消してしまうようなところがある。  終戦の日に芽ばえた虚無は、楽天のしたたかさを導入することによって、それはそれなりに竜太たちにとって華やかな季節をおくることが出来たのだが、今こうして病気によって楽天をとりはらってしまうと、可愛げのない虚無だけが残る。  肉体を躍動させることを怖れ、心が激することを怖れるとしたら、傍観者であるしかない。しかし、本来が熱血の少年であるから、もしかしたら、映画という暗闇に潜りこむのも代償の行為なのかもしれないのだ。  とにかく、竜太がバス通学をしているのは、病弱故の贅沢で、他の子から見れば、 「ええなあ。肺病は」  ということになる。  彼らは当然自転車通学である。現に、アノネこと高瀬守も、ニンジンこと新田仁も自転車で淡路島を横断している。  自転車での行程は、�苦あれば楽あり�という格言そのままで、ささやかとはいえ淡路島を縦貫している山脈を越えて行くのであるから、行きはほとんど上り、その代り帰りはまるまる下りということになる。   船を見つめていた   ハマのキャバレーにいた   風の噂はリル   上海帰りのリル リル  などと心の中でがなり立てながら坂道を自転車を押して上る。分水嶺というのは大仰に過ぎるが、彼らの気持としてはまさにその通りの頂上にトンネルがあって、そこで、汗をふいたり、湧き水を飲んだりして一服する。  上級生の連中にとっては文字通りの一服で、クシャクシャによごれた煙草をていねいにひきのばしながら、プカリとやるのだ。  その頃、竜太の乗ったバスが追いぬいて行く。  但し、�苦あれば楽あり�、下り坂の自転車は、気管支炎を病んだように咳きこみつづけるバスよりもはるかに速く、たちまち|九十九折《つづらお》りの坂道で追い抜き返してしまうのだ。  その時の彼らの晴れやかな笑顔を竜太はなぜかうらやましく思うのである。歌も、いささか沈痛な「上海帰りのリル」から、   雲が行く 雲が行く   アルプスの牧場よ   鈴蘭の花咲けば   レイホー レイホー  といった調子に変っているに違いない。  朝七時江坂町発自凝市行のバスには、学生は竜太一人である。女子生徒はすべて自凝市内に下宿しているから、週末と週初めに顔を合せるだけだ。  他の乗客は、市内に勤務先を持つ勤め人と、常習の米のかつぎ屋のオバハンたちで、彼女たちは毎朝のことながら竜太を見ると居心地の悪そうな顔をする。竜太が、江坂町巡査駐在所、足柄忠勇巡査の孫であることを知っているからである。  しかし、そんなことはどうでもいい。  竜太は、文庫本に目を落しているか、時々窓外に目をやって、自転車の勇士たちを見ているかのどちらかだからである。  銀色の車体にところどころに|赤錆《あかさび》を浮かせたオンボロバスが、淡路島の背骨の|腰椎《ようつい》に近い辺りを越えると東浦になる。  表といっていい。  同じ淡路島であってもこちらは、冬でも季節風が荒れることもなく、いつものたりとした大阪湾のベタ|凪《な》ぎである。  東浦の空気は、神戸にも大阪にも、そして東京にもつづいている気がするが、西浦の空気は流れることはない。|澱《よど》んでいるというのではない。つながる道を持たないのである。  淡路島の中で西から東へ行っただけでこの違いであるから、東京へ行ったりしたらどうなるだろうと竜太は思うのである。  初夏の日ざしが新緑の山道を一きわ美しく染め上げている中をバスは砂煙を立てながら走り、やがて、人口三万五千の自凝市へ入って行く。  どこまでものどかで、そして、その癖どこまでもせせこましい景色でもあった。  竜太は、いつも高校前というバス停留所ではおりずに、終点の自凝駅前まで行く。  自凝駅は、鳴門海峡の渡り口の町まで通じている自凝鉄道の始発駅である。二輛連結の軽便といっていい程の単線鉄道で、大相撲の巨漢力士|大起《おおだち》だか大内山だかが、入口を通らなかったという噂がのこる程の小さいものである。その鉄道もやがて廃止になり、バス路線に統一されるといわれている。  竜太が、その駅前までわざわざ行くのは、デイリースポーツと、スポーツニッポンを買うためである。  そして、竜太は、それらを読みながら歩いても、誰にもぶつからずに行くという特技があった。 「けったいな奴っちゃで」  誰もがそんなふうにいっていたようだ。  火の見櫓のてっぺんにとまっている大きな烏に見送られてからちょうど一時間後に、足柄竜太は、自凝高校の校門をくぐるのであった。  拝啓 長谷川照夫様  ぼくの毎日はこのようなものです。別に変ったこともありません。  江坂町には相変らずのどかな風が吹いています。目をみはるような民主主義、たとえば、ブギウギトンボや赤パンパンといった人々の登場ものぞめません。ふたたび眠いだけの町に戻ったようです。  それにくらべて、照国は、大都会の嵐の中で生きているのだから偉い。  フレー! フレー! 照国!  日本一の米屋になって下さい。                    足柄竜太   3 軍隊ラッパのオッサン  ハリウッド座での騒ぎの後、軍隊ラッパのオッサンの姿はどこの映画館の暗闇でも見かけることはなくなった。  もう一人の主役狸御殿の後家はんの方は、何事もなかったようにシャラシャラと現われている。 「この前は、えらいおやかましゅうさん」  と、ボケの小百合にとも、むっつり五郎にとも、竜太にともなくいっただけで、後はヒッヒッヒと笑いとばし、真顔に戻った時は、すべてが白紙になるというしたたかさであった。 「軍隊ラッパのオッサン、どないした?」  日頃無口なむっつり五郎も、さすがに腹に据えかねるものがあったのか、珍しく気色ばんで訊ねてみたが、 「さあ何してるやろ。首でもくくって死んだんとちゃうやろか」  とさらりと薄情にいってのけただけであった。 「軍隊ラッパのオッサン、おばちゃんに惚れてたんとちゃうやろか。そやのに、首くくって死んだんとちゃうやろかいうのは、あんまりとちがう?」  ボケの小百合も黙っていられないというように口をはさむ。  誰もみな、狸御殿の後家はんにののしられている時の羞恥と後悔の入りまじった軍隊ラッパのオッサンの悲しげな顔を思い浮かべ、そして、耳の奥には、嗚咽の果てに逆上して吹き鳴らした進軍ラッパの音色を復活させながら、同情していたのだ。   出て来る敵は   みなみな殺せ  軍隊ラッパのオッサンは、確かにあの時は破廉恥漢であったが、竜太には、むしろ狸御殿の後家はんの方に破廉恥を感じていた。 「惚れてたんやわ」 「やめてえな。小百合ちゃん。うちのお好みは佐田啓二やいうこと知ってるやないの」  狸御殿の後家はんは、さも心外だというようにそうまくし立てると、やめまひょ、やめまひょ、あんなオッサンどないでもええやないの、と話題を切り替えた。  その日、白鳥座の上映プログラムは、松竹映画「華やかな夜景」「女のいのち」、東映映画「続・赤穂城」の三本立であったが、「華やかな夜景」の佐田啓二が、何故か憎々しく、うす汚れて見えたものである。  それにしても、竜太たちと軍隊ラッパのオッサンの関係は、そんな風に少しばかり気遣うという程度のもので、それ以上深くたずねるというものでもなかった。  次に別の映画館で顔を合せた時は、誰もそのことを口に出さなかった。  しかし、竜太は、首くくって死んだとちゃうやろか、といった狸御殿の後家はんの言葉を気にしていた。  冗談ではあったが、冗談と思えないところもあの軍隊ラッパのオッサンにはあったのである。  バラケツ正木三郎の下宿は、自凝高校よりさらに山手にあった。  その辺りは、自凝市とはいっても郡部の雰囲気で、変電所の鉄塔がうなりを上げている以外は都会らしいものは何もない。  下駄ばきで街へ行くというには少々の距離があって、バラケツをくさらせていたようである。  何故なら、バラケツは下宿生活の効用を、赤い灯、青い灯、巷、などという言葉からくみとれる自由とのふれ合いに求めていたからだ。  但し、高校へはランニングのトレーニングを兼ねて行けば二十分で着く。  バラケツが下宿したのは、野球部に入部したためで、早朝と薄暮までの練習を考えると西浦からの通学は無理なのである。  小学校から中学にかけて、足柄竜太と正木三郎はほとんどつるんで過して来たが、高校へ入ったと同時に顔を合せることがなくなった。  組が違うということもあったが、生活のありようのすべてが違ってしまったからである。  バラケツが校庭の泥にまみれながら白球を追っている時、竜太は大抵映画館の闇で息をひそめていたし、竜太がバスの最終便で山を越えている頃には、バラケツは疲労にうちのめされて本も読まずに下宿の畳にのびている筈である。 「また二人の青春がはじまるのう」  高校入学がきまった時、バラケツは晴れやかな笑顔を浮かべて竜太の肩を抱いたものであるが、今のところ二人の青春は二人三脚とは行っていない。いや、完全に二本の道を別々に歩んでいるといっていいかもしれない。  高校入学以来、竜太がはっきりとバラケツの姿を見たのは、城内球場で行われた商業高校との練習試合に、一年生正木三郎が初登板した時である。  硬球を手にして二カ月にしかならないのにバラケツは堂々のピッチングで商業高校を零封した。  あっぱれであった。  バラケツがとてつもなくまぶしく見えたことを覚えている。  竜太は、観客席で、時々力の弱い咳をしながら見つめていたのだ。  そのバラケツが珍しく教室を訪ねて来て、 「一ぺん、わいの下宿へ来いへんか」  と唐突に誘ったのだ。 「そりゃええけど、何でや、急に」 「相談したいことがあんね。わいの心の支えはやっぱり竜太やよってのう」 「何のこっちゃ」 「いや、ほんま」 「いつがええねん?」 「今日。突然ながら今日がええ。授業終ったら一緒に行こかいのう」 「野球の練習あるんやろ。サボってもええのか」 「ええにきまっとるやろ」  バラケツは、およそ一年生とは思えない|不遜《ふそん》な態度で竜太の心配を一蹴した。 「練習たらもの、わいより下手な奴がやったらええんや。屁みたいなもんやで野球部ちゅうのんは。なあ、竜太、一年生やけど、わいはもうブイブイいわせとるで」  と胸を張ったのだ。  そして、今、竜太はバラケツと肩を並べて、青葉や夏草がむせかえるように匂う中を、下宿に向って歩いていた。 「久しぶりやのう」  バラケツがいった。  それ以前の五六年が余りに親密に過ぎたために、わずかな空白でさえ、何年ぶりの再会のような思いになったのだろう。  バラケツの口ぶりにはたとえようもない程の喜びがあふれていたし、口だけではなく身体全部が躍って見えた。  ええやっちゃ。バラケツはええやっちゃ。  と竜太は思っていた。   しばし別れの夜汽車の窓よ   いわず語らず心とこころ   またの逢う日を目と目でちかい   涙見せずにさようなら 「|股《また》の会う日っちゅうのは感じさせられるのう」  と馬鹿なことをいって、バラケツはウヒャウヒャ笑った。  何年か前、こんな風に歌いながら、隣の大宮町までハーモニカ合戦に出かけたことがあった。そして、あの時は、アコーデオンを駆使する藤山一郎少年に惨敗を喫した。  遠い。遠い。遠いなあ。 「照国から手紙が来たで」  思いついて竜太がいった。 「わいのところへも来た。けど、あいつ、アホとちゃうか。市電に乗ったことがあるかとか、デパートヘ入ったことがあるかとか、何たら映画は見た方がええとか、自慢しとるつもりや。ザルソバの食い方も知らんと、都会の人間は油断ならんとはあきれるわ」  どうやら全く同じ文面であるらしい。そう思っていると、 「あいつはあかんで。米屋の辛抱つとまらんで。二年もしたら、デンコ(不良)の手下になって、けったいな服着て戻って来るわ」  とバラケツは吐き捨てるようにいった。 「失礼やないけ。市電に乗ったことあるけ? ちゅうのんは」  どうやらこの腹立たしさが本音らしい。  しかし、竜太には、何となくバラケツのいったことが予言のように思えたのだ。  今は、梅雨の晴れ間ということになるのかもしれない。空気が揺れているのか風景がゆがんで見える。  夏雲と思える雲が空に浮かび、湿気でむせかえった草の香があたりにたちこめ、まぶしさと草いきれにクラクラしながら、二人は汗ばんだ体を急がせていた。 「草の匂いはセンズリの匂い。たまらん」  バラケツは空に向ってウォーと絶叫した。  本当に体の中に精気があふれ、爆発しそうになっているらしい。バラケツなら、あの官能的野性美のシルバーナ・マンガーノを組み敷く男になるかもしれないと、竜太は少々嫉妬をも感じながら思っていた。  バラケツの下宿がもう少しというところで、竜太は、思いがけない人の姿を見かけて、足をとめた。 「あッ」  と声を出した。  軍隊ラッパのオッサンだった。  オッサンは、相変らず軍隊ラッパを斜めたすきに掛けていたが、いつもと違うのは、三匹の雑種犬の綱をひっぱっていることだった。まぶし過ぎる日の光を浴びても、映画館の暗闇にいるのと同様にはかなく悲しげに見えた。  |麦藁《むぎわら》帽子、ランニングシャツ、半ズボン、そして、ゴム草履という姿だった。  竜太は、声をかけようとしたが、軍隊ラッパのオッサンが背を向けて逆の方へ歩き始めたので黙って見送った。 「知っとるんか。あのオッサン」 「うん。誰や?」 「わいの下宿のおばはんのおやっさんや。けったいなオッサンやで」  バラケツが答えた。  けったいなオッサンとバラケツはいう。  けったいは、文字に書くと希代であるが、得体の知れない人という意味よりは、常人でないと解釈した方が適当であるかもしれない。その証拠に、 「異常やな。あのオッサンは」  とバラケツは付け加えるのである。  しかし、竜太には、軍隊ラッパのオッサンが精神異常であるとは思えない。  それは、ラッパをいつもたすきに掛けているというのも普通ではないし、映画館の暗闇で狸御殿の後家はんにけしからんふるまいに及ぼうとしたり、とがめられると嗚咽したり、あげくは進軍ラッパを吹き鳴らしたり、竜太が知る限りでも、正常でないと思えるところがいくつもあるが、だからといって、異常で片づけてしまっては気の毒に思えるところがあるのだ。  何故だか、竜太は、この軍隊ラッパのオッサンが気にかかるのである。  もしかしたら、祖父の足柄忠勇とほぼ同年齢に思えるからかもしれない。 「娘も困っとるんや。もて余しもんや」  バラケツがいった。 「可哀想な気もするけどな」  そうなんや、と竜太はうなずき、 「どういう人なんや。あのオッサンは」  と訊ねた。  軍隊ラッパのオッサンは、新田春吉といい、年齢はやがて六十かというところらしい。  元巡査であったときいて、竜太は、何となく思っていた祖父との符合に胸をつかれた。  オッサンには娘が一人いる。これが現在のバラケツの下宿の家主で、市役所に勤める男を婿にしている。これだけなら、何もけったいなところはない。極く平凡だが恵まれた家庭といえるだろう。  しかし、とバラケツはいう。 「けど、ようもめごとのある家でな。めちゃくちゃや。娘がおやっさんをヒイヒイいうまでいじめぬくんや。嘘ちゃうで。信じられんやろけどな。民主主義をはき違えとるところが娘にはちいっとあるなあ」  バラケツの批判はともかくとして、もめごとの種になるのは、オッサンが飼っている三匹の駄犬である。  ろくに飯を食わせてないから、やわらかそうなものなら何にでも食いつく。花であろうが、洗濯物であろうが、人間の足であろうが、目の前の形あるものには何でも意地汚く食いつくのだ。  そうすると、娘の昌江が|箒《ほうき》を持って来て、 「このガキゃ。死にぞこないが。老いぼれめが」  まるでオッサンに向っていっているようにののしりながら撲る。  昌江は、普段は、市役所勤務の公務員の奥さんで、ニコニコとやさしいし、下宿人のバラケツにも愛想よく、小まめに世話をやいてくれるらしいが、こと父親と父親の飼い犬のことになったら、人が変ってしまうのだ。大仰でなく悪鬼の形相になるという。 「役立たず。出て行け。行きさらせ」  どう見ても犬に向ってではなくて、オッサンに向って憎悪を投げつけているように思える。  キャンキャンと犬は悲鳴をあげるし、そのうちオッサンは泣き出すし、 「とてもやないけど、勉強なんかしてられへんで。いやほんま」  それがあろうがなかろうが、勉強するバラケツでないことはわかっている。バラケツの唯一の読書は山手樹一郎の小説で、後は「夫婦生活」の類を読むぐらいで、とても教科書参考書に目が行くとは思えない。 「許したれや。昌江。そないにいじめんでもええやないけ。出て行けいうたかて、老いぼれには気の毒や。もうちいっと美味いもん食わせて、もうちいっとやさしいにしてやってくれや。そんなら、悪いこともせえへん。大人しゅうしてる。な、頼むわ」  大抵は、オッサンの哀願で折檻は終る。 「すまんなあ。よういうてきかせるよってにな」  オッサンは、ペコペコ娘に頭を下げながら、皮膚病でまだらに|禿《は》げた三匹の老犬を連れて出かけて行く。  と、しばらくすると、少しはなれたところから、悲壮な響きを持った進軍ラッパの音色がきこえて来る。|雄叫《おたけ》びというよりは、断末魔とも思えるという。 「オッサン、不始末をしでかした犬を連れ出して、訓練をするらしいんや」 「ふうん」 「けったいやろ」 「何でここのおばはんは、そこまで犬をいじめるんや」 「わいもきいてみたんや。ほたら、|気色《きしよく》悪いやないの、というとった」 「犬が気色悪いのか」 「犬は平気や。犬の名前が気色悪いいいよるねん」  軍隊ラッパのオッサンは、三匹の老犬に、ヒロシ、タケシ、キヨシという名前をつけているが、これは全部戦死した息子、昌江にとっては兄の名前であるらしい。  三人の息子を全部戦死させた不幸な老人が、孤独のあまりに息子の名前を犬につけ、可愛がっているのなら話はわかるのだが、昌江にいわせると違うという。  愛情のための結果ではなく、憎悪をひきついで生きる|糧《かて》にしているようなところが、何とも悲しく、気色悪いというらしい。  オッサンたち親子は決して仲の良い親子ではなかった。いや、むしろ、憎悪によってつながれていたといっていいという。  オッサンと息子たちは、オッサンが巡査である時から、ののしり合って暮していた。頑固一徹の巡査を、息子たちはことごとく裏切っていたらしい。  だから、戦死したからといって悲しむ間柄ではないという。現にオッサンは、息子の名前をつけた三匹の老犬を可愛がっているわけではなく、一匹一匹に、不良とか、親不孝とか、非国民とかいって、毎日毎日いじめぬいているというのだ。 「そやったのか。あのオッサン、そやったのか」  竜太は、バラケツから軍隊ラッパのオッサンの話をききながら、何故か飲み下せない大きな塊を喉の奥に入れてしまったような息苦しさを覚えた。それは、悲しみの大きな塊といってよかった。そして、その塊が果して溶けるものやらどうやら竜太にはわからなかった。  映画館の暗い闇の中で、体を丸めてスクリーンに見入っている老人の背中に、とても竜太にはうかがいしれない重い物が、覆いかぶさっていることに気がついたのである。  憎悪でしかものを語れない親子の愛情もあるのかもしれない。  また、脈絡なく祖父の足柄忠勇のことを思った。  おじいちゃんが、軍隊ラッパのオッサンにならずに済んだのは、何だったのだろうか。  ぼんやりとしている竜太の顔に、火の見櫓のてっぺんの烏が鮮やかに浮かんだ。  と、進軍ラッパがきこえて来た。 「帰って来よった」  バラケツが笑った。  竜太はバラケツの下宿の、そこは二階座敷であったが、何となく下の視線から逃れられる位置に立ってのぞき見た。  三匹の老いさらばえた雑種犬の綱をじゃけんにひっぱりながら、軍隊ラッパのオッサンが散歩から戻ってきたところだった。 「ヒロシ。お前にゃつくづく愛想がつきた。好きなようにせえ。人の気持踏みにじることしかでけへん男やったら、どこへでも行って死ぬなと生きるなとせえ。わしゃ知らん」  ヒロシと呼ばれた犬は、オッサンの切々たるお説教をきく筈もなく、相変らず腹がへっているのか地面を嗅ぎまわっていた。 「親不孝者」  軍隊ラッパのオッサンの一蹴りを老犬たちは、毎度のことで心得ているのか、さっと身をかわした。 「糞ッ、アホんだらが」  老犬は、目やにのたまった目でオッサンを見上げる。その目には、おびえがないように竜太には思えた。   新兵さんは 可哀想だね   また寝て泣くのかよ  軍隊ラッパのオッサン、新田春吉のラッパは、進軍ラッパから消灯ラッパに変って行った。 「そや。オッサン、何やエロなことをしたらしいな。おばはん、わが親ながら情ないいうて泣いとったな」 「違うんや」  と竜太がいった。   4 インキンと結婚  バラケツの部屋は二階の四畳半であるが、どこか半屋根裏という感じがする。  それは、天井がなくて、いきなり|梁《はり》が露出して見えるせいかもしれない。斜めに走る屋根の裏からは古い藁が何筋かぶら下っている。多少|三角錐《さんかくすい》の中に住んでいるという感じがしないでもない。 「平衡感覚がのうなって、コントロールが悪なる心配があるなあ」  バラケツが笑った。  部屋の中には、古物屋で見つけて来たに違いない座り机があり、その上に、バラケツ自慢の、五球スーパー・オールウェーブ・マジックアイ付きのラジオがピカピカにみがかれてのっている。他には本一冊とてない。  壁には、春先に城内球場で行われた巨人・南海の二軍戦のポスターと、「陽気な渡り鳥」の美空ひばりのポスターがはってあり、野球のユニホームと制服がぶら下っている。  感心なことに、蒲団は押し入れに入れてあるらしい。  総体的にきちんと片づいている。案外バラケツにはそういうところがあるのかもしれない。 「マジックアイ付きや。オールウェーブや。ヘルシンキ・オリンピックをこれで聴こう思うとるんや」  バラケツは、ピカピカのラジオをなぜながら嬉しそうにいった。 「お姉ちゃんの土産や」  赤パンパンか?  竜太は思わずそういいそうになった。  バラケツ正木三郎には、ブギウギトンボと呼ばれている兄の二郎と、赤パンパンといわれている姉の葉子がいる。二人とも浮草根なし草で、しかし、戦後の激流の中を器用に泳ぎまわっていると見えて、結構羽振りのよさそうな|身装《みなり》で時々帰って来る。  特に赤パンパンの方は年に一度の定期便で、その都度父親の違う子供に莫大な持参金をつけて置いて行く。混乱するといけないからといって、山本とか、鈴木とか、高橋とか、その父親の姓をそのまま呼んでいる孫を三人も、バラケツの母親は育てているのである。 「猫に付ける鰹節みたいなもんやな。この五球スーパーは高橋の時の鰹節や」  赤パンパンの葉子は何をして暮しているのかわからない。女優になるなどといっていたが、女給か|妾《めかけ》かというところだろう。  何をしているかわからないのは、ブギウギトンボの二郎も同じことで、ただし、こちらの方は一応は名刺に商事会社社長を名乗っている。  はっきりしているのは父親の一平で、これは明らかに闇屋をやっている。 「傷ついてたら金もうけもでけへん。人間傷ついたら負けや。何があっても平気でいられる鉄の心臓と鉄の体を持っとらんとあかん。父ちゃん闇屋で、兄ちゃん詐欺師で、姉ちゃんパンパンと来たら、こりゃ大抵は傷つくかぐれるかするで。竜太やったら、煮つまって煮つまって、|佃煮《つくだに》みたいになっとるやろ。けどわいは平気や。父ちゃん、兄ちゃん、姉ちゃん、ようやっとるやないけ。そう思っとるよ。そう思わんと、ここの軍隊ラッパのオッサンみたいになってしまう。けどや、けどや、竜太よ。うちの兄ちゃんも、姉ちゃんも、父ちゃんも、何ぼ銭稼いでも底辺や。底辺の人間や。何で底辺かちゅうたら、取るべきところの責任とっとらんちゅうこっちゃ。わいは底辺はいやや。野球でもう一つ上へ行ったろ思うとるんや。そのためには、ええかげんなところ残しといたらあかん。責任とるべきところは取っとかんとあかん。それが今日の相談や」  といった時、下宿のおばはん、軍隊ラッパのオッサンの娘の新田昌江が、お茶とお菓子を持って入って来た。バラケツが頼んでおいたものらしい。バラケツは、このように竜太には礼をつくすし、そして、気もきく。  先程からの話では、鬼神か鬼婆かと思っていたが、まだ若く、おばはんと呼ぶのさえ気の毒なくらいに綺麗な人だった。親と子とか、肉親というのは違う心の動きをするものらしい。 「おばちゃん。よう憶えといてや。未来の沢村栄治と夏目漱石にお茶出しとるんやで」 「まあまあ。それは光栄なことや。正木君が沢村栄治で」 「ほや」 「こちらが夏目漱石。ホホホ」  コロコロとよく転がる声を残して昌江は部屋を出て行った。 「夏目漱石にしといた。横光利一いうても知らんかもしれんよってな」  バラケツが真面目にいった。 「何や。相談ちゅうのは」  竜太が訊ねた。 「ほい。それやが。わい、責任をとってな。結婚の約束しとこうかと思うとるんや」 「結婚?」  何ちゅうことをと竜太は思った。  高校一年生、十六歳。だいたい竜太の頭の中で結婚の文字がひらめいたこともない。松井富士子のように中学三年生で子供を産んだ実例が無いでもないが、バラケツとなると驚きは別だった。 「ほや。男らしゅうにやっとかんとな」 「責任って、バラケツ、お前何をしたんや」 「何をいうても」 「やったんか」 「やるって、あれか。やれへん、やれへん」 「そんなら、何をしたんや」 「何したわけでもないんやけどなあ」  バラケツの口調は、前置きの人生哲学にくらべてはるかに勢いが弱かった。  決意を示しながらも、どこかに馬鹿らしさを感じていたに違いない。  事実、バラケツの相談というのは馬鹿馬鹿しい話だった。  如何にもバラケツらしいといおうか、信じ難い程の大らかさで、竜太は、またバラケツ正木三郎が好きになった。  ハタケやタムシというものは、戦後の子供であるから驚かない。  シラクモなどというものもあって、顔にハタケ、襟首に銭型タムシ、頭はシラクモという三重苦を背負っていた子供などざらである。しかし、インキンとなるとまた別だ。  出来る場所にもかかわりがあるが、何ともいまいましい。  バラケツ正木三郎が、この不届きな侵略者を背負いこんだのは、水泳部のパンツを借りて泳いだからである。  全くあの連中と来たら、何代もつづいた由緒正しいインキンを飼っている。|碌《ろく》な伝統もない部で、受けつぐものは何もないから、インキンを家宝といおうか、部宝といおうか、大切に残して行っている。  そういうインキンだから、市井の荒波にもみしだかれ、息もたえだえになっているような|脆弱《ぜいじやく》な菌とはまるで面構えが違う。もっとも、インキンの面など見たこともないが、何しろ何代もヌクヌクと、水泳部の連中の股ぐらとパンツとを往復しながら生きつづけて来た奴だから、無作法なことおびただしい。  パンツをはいた翌朝にはもうバラケツの股間に根を下して、ジクジクと侵略をはじめたのだ。 「糞ッ、あのガキら」  と怒鳴りこんでみたが、そこは一年生の弱味で、三年生の副将というピストン堀口みたいな男が出て来て、 「勲章や。ありがとう|貰《も》ろとかんかい」  といわれると、 「ヘッ、おおきに」  といわざるを得なかった。  それにしても、何とも不愉快にかゆい。それに、時と場所をわきまえずに活動されるのには困ってしまう。ポリポリかきむしるしか方法はないのだが、人前で股間に手を入れるわけにも行かないし、もだえ苦しむ。  この前読んだエロ小説に、若い女がカンチョーされて、あぶら汗を流しながら耐えているのが、たまらなく、いいわ、いいわ、と書いてあったが、もしかしたら、それに近い気分かもしれない。  こちらも、あぶら汗を流して必死に耐えていると、最後には半失神状態になりながら、ええ気持や、と思うことがないでもないからだ。  運動選手の股間は、インキンにとって、またとない一等地であるらしい。毎日毎日激しい練習をして、汗ばんだ体は、インキンの勢力拡大にこれ以上はない条件を与えていると見えて、たちまちのうちに、パンツで見えない部分のほとんどを侵略されてしまった。  ほうっておくわけには行かない。知らんふりしていればあきらめて逃げてくれるなら、それでもいいが、そんな生やさしい奴ではないのだ。  襟首にタムシが出来た時、外輪から中へと墨を塗って行くと効果があったことに気がつき、神妙に墨をすり、股間をぬりたくった。  まるで真黒なパンツをはいたようになったが、これは全く効き目がなかった。風呂で墨を落すのに難儀しただけである。  インキンには、懐柔やおまじないが効かないことがわかったので、正統的に攻めることにした。タムシチンキである。  火箸をあてられたような激痛が走る。 「火事やあ」  と叫びたくなる。  この熱さと激痛から逃れるためには、タムシチンキを塗ったと思うや、|団扇《うちわ》であおぐことである。自分の股間をのぞきこみながら、パタパタと団扇で風を送っている姿は人に見せられたものではない。  ところが、バラケツ正木三郎のその姿を見たものがいるのである。  その日も、バラケツは、ズボンもパンツも脱ぎ捨て、タムシチンキを塗った股間を、だるま薬局と刷りこんだ|団扇《うちわ》であおぎながら、 「ああ。ええ気持や」  とだらしない歓声をもらしていた。  焼けつくような肌のきしみに、団扇から送られた風がからむと、嘘のように痛みが去り、じんじんとしみ渡る爽快感だけが残るのである。快感といっていい。患部の状態が好転しているかどうかは別として、タムシチンキ中毒、タムチン中毒といっていいほどバラケツの|秘《ひそ》かな楽しみになっていた。  それはともかくとして、そんな姿でいるところへ、 「正木君。いるう?」  と木田通子がいきなりとびこんで来たのである。  木田通子というのは同じ一年生で、テニス部に所属している。バラケツの押しかけガール・フレンドのようなところがあって、その日も前ぶれなく下宿を訪れて来たのであった。  木田通子が、引き戸をガラリと開け、まず最初にどの部分を見たかは、本人に訊いてみなければわからない。しかし、まともにバラケツの股間の、充分に発達している男性が目に入ったことは確かである。  木田通子は、一瞬硬直したように立っていたが、そのうちガタガタとふるえ出し、充分に事態が確認出来たところで、 「いやあ。もう、いやあ」  と可成り意識を明確に示した悲鳴を上げてから、階段を落下して行った。  木田通子は、階段下で仰向けになり失神していた。失神していながら、 「いやあ。もう、いやあ」  と叫んだから、余程の衝撃であったに違いない。  失神は何ということはなかったが、右脚を骨折した。しばらくはテニスも出来ない。もっとも骨折といっても軽度のものであったから、木田通子は松葉杖をついて登校して来ているが、その姿を見る度に、バラケツの心はうずくのである。  もしあのまま木田通子の足の骨折がなおらないということにでもなったら。  その原因をつくった自分が責任をとらなければしようがないと思うのである。  責任とは結婚である。  男やないけ。女の不幸を見捨てられるけ。  女の子を不幸にしてしもうた。女の子に、そないな辛い人生歩ませて、黙ってるわけに行かんやろ。男やないけ。責任とらんけ。そや、結婚や。 「通子。何も心配することあらへん。わいが嫁に貰ろたる」  男らしくそういうと、 「正木さん。三郎さん。あんたってほんまに男らしい。その言葉を聞くだけで、どうなってもええ」  と泣きながらセーラー服を脱ぎ、シュミーズも脱ぎ、ズロースも脱いで横になるかもしれない。  バラケツの責任感はいつしかその辺まで脱線して、ここのところ、千々に乱れているのである。  それにしても、人生ちゅうのはおかしなもんやなあ、とバラケツは思うのだ。  もしも、あの五月の終りの一日が夏を思わせる馬鹿陽気でなかったら、プールで泳いでみたいなどと思わなかっただろう。そして、水泳パンツを借りようなどと思わずに、フリチンでなり、猿股でなり泳いでいたら、インキンになることもなかったろう。インキンにさえならなければ、通子が脚を折ることもなかったのだから、当然結婚することもなかった筈である。  そうや。何故結婚したかと問われたら、インキンは恥かしいから、五月の陽気が暑過ぎたから、と答えてやろやないけ。  木田通子は特別好きなわけではない。特別好きといえば神戸へ行ったムメこと波多野武女であるが、この際男の責任のためには、あきらめるより仕方がないだろうと思うのである。  それに、時たま学校で顔を合せる木田通子が、顔を染めてうつむく姿を見ると、いじらしさも芽ばえて来るのである。  木田通子が顔を染めるわけは、バラケツの股間を直視してしまったことにあるということを、バラケツは知らない。  とにもかくにも考えあぐねた末、足柄竜太と相談し、賛成を得られたら、竜太を証人にして結婚の約束をしようと思っていたのだ。 「アホか」  竜太が笑った。 「何がアホやねん。真剣やで」 「骨折がなおったらどないするねん」 「そりゃ困る」 「なおるように祈った方がええ」 「そやなあ」 「もうちいっと順序よう悩んだらどうや」 「順序ようするために竜太がおるんやないけ。な、そうやろ」 「知らんで」 「ということはや。木田通子は、わいのあれを|見得《みどく》ちゅうことになるんか」 「そや」 「幸福な娘やなあ」  バラケツは、屈託なくケッケッと笑い、後頭部で指を組み合せた姿勢で、ごろりと畳にひっくり返った。  夏が近づいていた。西日がまともにさしこんで|灼《や》けるようだった。 「いやあ。もう、いやあ」  バラケツは、妙になまめいた木田通子の悲鳴を思い出していた。  第三十四回全国高等学校野球大会兵庫県予選で、自凝高校は一回戦を、一年生正木三郎投手の力投でものにしたが、二回戦は三年生のエースが乱打されて姿を消した。 「わいが投げてたらなあ」  とバラケツがいったことで、野球部内には少々のもめごとがあったが、その感想は一般の感想でもあった。  その年の兵庫県は、植村・石本のバッテリー、土河、本屋敷らの野手を擁する芦屋高校と、中田・藤尾のバッテリーの鳴尾高校が圧倒的な強さを発揮していたが、結局芦屋高校が代表になり、全国大会でも優勝している。  二回戦で敗退した日、バラケツの五球スーパー・オールウェーブ・マジックアイ付きのラジオは、はるか北欧のヘルシンキから、フジヤマのトビウオ古橋広之進選手の力泳を伝えたが、残念ながら敗れ去った。  世界新記録をつくってから三年が経過していて、全盛はとうに過ぎていたのだ。  このヘルシンキ・オリンピックは、戦後初めての参加であったが、全体に空白の大きさを知らされただけの大会で、レスリング・バンタム級優勝の石井庄八選手だけが光った。   5 ボケの小百合  いつだったか、森永キャラメルを一箱、好意のような微笑とともにくれたことがあった。  そして、ある時、ひんやりとした掌の感触と、そこはかとなくただよう女の匂いを嗅がせてくれた。  その夏、足柄竜太が、ボケの小百合とよばれる年上の女に、季節のすべてを費やして心を奪われたのは、そもそも、その程度の出来事からだった。  小百合にどのようないたずら心があったのか、竜太にはわからない。  映画館の暗闇の中で、その小さな|華奢《きやしや》な手は、揺れ動く風のようにのびて来て、竜太の手をとったのだ。唐突とも思えたし、逆に自然な行為であるようにも思えた。 「しっ」  何かいおうとする竜太を、小百合は軽く制した。手はそのままだった。  竜太は、一瞬目をとじた。そして、周囲に気づかれぬように気を配りながら呼吸を整えると、大胆になった。  映画館は真夏の午後の熱と人いきれに蒸され、背骨にそって汗が流れ落ちるような暑さであったが、竜太の手を握りしめた小百合の掌は、不思議なことにいつまでもつめたかった。そして、化粧品のまじらない本物の女の匂いを、すぐ間近に嗅いだ気がしていた。  小百合のすぐ横に、いつものようにむっつり五郎が座っていたが、何もいわなかった。気がつかない筈はないのだが、二三度竜太の顔を盗み見ただけで、「イヴの総て」の画面に集中していた。  むっつり五郎が何もいわないのは、無口のせいなのか、それとも他に理由があるのか、これまた竜太にはわからなかった。  すべてのことがわからないままに、竜太は小百合に手を握られたまま「イヴの総て」を見終ったのだ。  小百合は、竜太の手を放す時、どういうわけか、素早く口に持って行ってカリッと噛んだ。そして、 「氷でも食べて帰ろうか」  と誘った。 「それはええなあ」  と答えたのはむっつり五郎だったが、 「あんたも?」  と小百合は露骨にいやな顔をしたのだ。  ハリウッド座の前の小さなかき氷屋で、竜太と小百合は氷金時、むっつり五郎は氷いちごを注文した。小百合は、はじめ氷いちごといっていたが、五郎がいちごだというと、急に金時に変更した。  ガラスの玉すだれに午後の日が当り、きらきらきらめいて如何にも暑そうだった。青地に真赤で氷と染めぬいた旗が、あるかなしかの風にゆっくりと揺れている。  民間放送ラジオが、コマーシャルを連呼しているのが尚更暑苦しく聴こえ、その後、春日八郎の「赤いランプの終列車」が流れた。  店内では、油のきれた扇風機がキイキイと|軋《きし》みながら、けだるく首をふっている。やせた三毛猫が、しめった|三和土《たたき》の上を爪先立つようにして歩いていた。  一息に氷金時を食べると、小百合は煙草に火をつけ、如何にもうまそうにふかしながら、 「なあ。うちと竜太ちゃんがこうやってたら、何に見える?」  と竜太に頬をすり寄せた。 「アホ」  むっつり五郎は不機嫌な声を吐き出したので、竜太は慌てて身をひいた程だ。 「あんたが怒ることないやないの」  と小百合もしらけていった。 「ご馳走さん」  竜太がいった。  その店の代金は、当然のことのようにむっつり五郎が払った。  竜太は何故か悪い気がした。  小百合が、海水浴場へ行きたい、つきおうてくれる? というので、竜太は一も二もなく承知した。  次の日曜日だった。  竜太の方は夏休みであるから、いつでもいいようなものだが、小百合の方に都合があるらしかった。  土曜日は雨が降った。  竜太は、終日江坂町巡査駐在所で過した。  窓から見ると、火の見櫓にあの烏はいなかった。祖父の忠勇が、目が悪くなったせいで拳銃の的中率が落ちた、特に右目はあかんな、と話していた。  畳の上に寝そべって、時々うつらうつらと眠りに沈みながら、一頁二頁と「肉体の悪魔」を読んでいた。しかし、おおむねは小百合のことを考えていた。  雨はなかなか上らなかった。  大丈夫かなと気に病んでいたが、翌朝は快晴だった。  早朝からけたたましく鳴く蝉の声に起された。窓が既に金色に見えていた。  九時のバスに乗った。  家を出る時、祖母のはるが、海へ行っても泳いだらあかんよ、|成可《なるべ》く日陰にいるんよ、といった。 「うん。わかってる」  と竜太は答えた。  運動の中でも水泳は特に過激で、厳禁をいい渡されていた。しかし、竜太は泳ぐつもりだった。  自凝市の海水浴場は、松林が見事なことと、水がきれいなことでは関西でも有数で、神戸、大阪方面からも客が来て、盛りには相当ににぎわう。  港と城山下の小さな岬にはさまれた海岸は、弓形に湾曲して、その背を松林が|屏風《びようぶ》のようにとり囲んでいる。  真夏日に照りつけられた熱い風も、この松林の枝にかかると一気に熱をさまし、涼風となって吹きおりて来る気がする。  海は凪いでいた。海は青というより、光の粒を敷きつめたようで、オレンジ色か黄金色かに見えた。神戸へ向う定期船が港を出たところだった。はるか水平線のあたりに、大阪か、和歌山かと思える陸がかすんでいた。  砂浜はほとんど人で埋まっていた。濡れそぼった人間を乾しているようだった。足の踏み場もないと思えたが、中へ踏みこんでみるとそれ程でもなく、一人や二人が寝そべる場所はすぐにでもとれた。  竜太と小百合もキャアキャアはしゃぎながら、人の頭をとびこえるようにして、そんな隙間を見つけ、ペタリと座った。砂が灼けていて、とび上る程熱かった。  小百合は、黒い水着を着、同じ色の布で髪を束ねていた。陽に灼けたことのない肌は、痛々しい程白かった。既に何度か陽に灼き|珈緋色《コーヒーいろ》の肌を持った海水浴客の中では、小百合は異邦人のように思えた。  考えていたより太っているなと竜太は思った。決して他人とくらべて太っているということではないが、洋服を着ている時には、もっとやせていると思っていた。だから、胸のあたりも何かしら丸く、竜太はまぶしく感じた。右の肩と左の胸の上に大きな|黒子《ほくろ》があった。  フフッと小百合が笑った。  ああと竜太が答えた。適当な言葉が思い浮かばなかった。  小百合は、赤い縁どりのある日傘と、バスケットを持って来ていた。バスケットの中には、煙草とキャラメルと文庫本と財布、それに、小物入れとタオルが入っていた。  見渡すと、何人か知った顔が目に入った。誰ということはわからなかったが、同じ学校の生徒のようであった。男と女の組もいたし、男だけ、女だけという組み合せもあった。  竜太は、何となくその目を気にしている自分を嫌った。  水に入ると、小百合は、キャアキャア悲鳴を上げた。 「海は初めてなんよ」  と小百合はいった。  徳島の山奥で生れ育ったからと付け加えた。しかし、泳ぎは結構うまかった。  竜太と小百合は、波打ちぎわでたわむれている親子づれや、女の子たちの間を急いでぬけると、深さを感じさせる色合いのところで、沖へ向って泳ぎ出した。  オレンジ色や黄金色に見えた海も、自分がその中に入ってみると、やはり深い緑か青だった。  竜太の少し前、一身長ぐらい先を小百合が泳いでいたが、平泳ぎで閉じたり開いたりする脚が、妙になまめいて見えた。殊に太腿の白さは、水の中ということもあってエロチックだった。  一旦沖に向って泳ぎ、それから途中で|鉤《かぎ》に折れ、海岸線と平行に泳ぎながら、二人は小さな岬の岩場に上った。  岬というほど大仰でもないが、そこは旅館の私有の|磯《いそ》になり、誰も来ないところだった。  岩場に上ると、小百合は仰向けに寝て荒い息をした。竜太も並んで空を見た。  青過ぎる空がぐらぐら揺れていた。  目を閉じると、小百合の呼吸が荒く、そして、規則正しくきこえて来た。眠りそうになった。やはり泳ぐということは、疲れる作業だった。何もしゃべることがないので黙っていると、本当に眠りそうになった。  腹の上に冷たさと重さを感じたのは、そんな時だった。  小百合が、体の向きを変えて、竜太の腹を枕にしたのだ。濡れた髪の毛が最初不快だったが、そうでもなくなった。竜太はじっとしていた。  少しばかり|動悸《どうき》が激しくなり、体の芯がしびれる感覚にとらわれた。やはり、不快ではなかった。  やがて、小百合は腹ばいになり、ために、竜太に重なるようになって唇を吸った。  しかし、それは、ほんの一瞬で、小百合はすぐに体をおこし、膝小僧をかかえて、にぎわいの浜辺を見つめた。  竜太にとっては、とても現実と思えない程の唐突さと素早さで、反復さえ出来ない短い経験だった。だが、まぎれもない接吻であり、耳鳴りがする程の衝撃だった。 「好きや」  と竜太はかすれた声でいった。  何かいわなければと思った。ありがとうというのが一番正直だと思ったが、それでは如何にも変だった。 「うちも、好きよ」  小百合が微笑で答えた。  二人は並んで、同じように両膝をそろえて立てたポーズで、光と音とが分離してのたうつ夏の昼さがりの海を見ていた。そうしている間も、小百合の手は軽く竜太の腰にまわされていた。  そして、しばらくは、くだらない話をした。主に映画の話で──二人とも病気のように映画が好きだということは、毎日のように映画館で顔を合せることで知っていた──小百合は、「摩天楼」のパトリシア・ニールが好きだと話した。  そんな話も楽しくなくはなかったが、今、竜太が話してみたいこと、訊ねてみたいこととは、最も遠いことに思えた。肝心のところで目をそらせながら、ぐるぐると周囲を巡っている気がしたのだ。それで、 「ぼくに、小百合さんのことをいろいろ教えてほしいんや」  と思いきっていった。 「何を? うちの何を?」 「何も知らんのやから、何でもええ。名前も、年齢も、仕事も、それから、ぼくのことをどう思うてるかということも」 「ボケの小百合じゃあかんの?」 「あかん」 「恐い顔したらあかん。楽しゅう過してるのにしらけるやないの」 「ボケって何や?」 「アホのこと。ぼんやりしていること。頭が|足《た》らんこと」 「嘘や。そんな筈ないわ」 「おおきに」  小百合は笑った。そして、うちも好きよ、いうたんやから、それだけ信じてくれたらええのになあ、と嘆きながら、 「ボケいうのはな。うちの生れたところ。徳島県の山奥に|大歩危小歩危《おおぼけこぼけ》いうところがあるの。うちは、その近くで生れたんよ。それでボケの小百合。本当は坂東小百合いうんよ。これでええ?」  といった。 「何で淡路島へ来たん?」 「淡路へ来たんやないの。淡路は途中やったの。まだ先へ行くつもりやったんが、ここでとまってしもうたんよ」 「何でここでとまってるんや?」 「アホやなあ。真剣になって。何もかも知ることないんよ。目の前にあるものだけ信じて、惚れたり、嫌うたりしたらええんよ」 「そんなんつまらん。何もかも知りたい。そう思うわ」 「がっかりしても知らんよ」 「せえへん」 「徳島で男と知りおうて駈け落ちしたんよ。淡路で一泊して、大阪へ行って、東京まで行くつもりやったの。それが、最初の淡路で、男に何もかも持って逃げられたんよ。そやから、ほんまは、ぼんやりのボケなんよ」 「それで?」 「それでってしゃあないやないの。一銭もないんやもん。わけを話して働かせてもらってるわけ。何をして働いているかは、あんた、きかん方がええ」  それは、二度と質問を許さない強い口調だった。  元の砂浜に戻ると、パラソルとバスケットが盗まれていた。  大したものも入ってないけど、一応届けとこうか、と立ち上りかける小百合に、ぼくが行って来るわと竜太がいうと、 「ええわ。あんたでは説明つかん物も入ってるから」  と警官詰所の方へ駈けて行った。  竜太は砂に寝ころんだ。冷えた体をあたためるために、腹の上にまで砂をかけた。  小百合の接吻と、小百合の身の上話が、光の中を駈けおりて来るナイフのように、竜太の|昂《たかぶ》った神経にささった。息苦しくなった。幸福感と何ともいえない重圧感が、夏の昼さがりに踊って見えた。  人の気配に起き上ると、自凝高校の上級生とおぼしき顔ぶれが四つとり囲んでいた。 「名前きかせてもらおうかいのう」  上級生がいった。 「何でや?」 「記憶しときたいんや。何ぞのことがあるよってな」 「足柄竜太。一年B組。江坂中学出身。これでええか」 「度胸あるやんけ」 「そうでもないわ。名前ぐらい幼稚園でもいえるわ」 「まあええわ。ほんじゃまあ。また逢おうかいのう」  上級生どもが肩をゆすって立ち去るのと、小百合が帰って来るのとほぼ同時だった。 「友だち?」 「ああ」  竜太は不機嫌に答えた。  突然の無作法な訪問者に胸がざらついていた。理不尽な程腹が立って、撲りかかろうかと思っていた後だった。  小百合は、アイスクリームと煙草を買って来た。財布の入ったバスケットが見つかったのかと思うと、 「置いとく方が悪いんやて。けど、バスケット持って泳ぐことでけへんわな。ハイ、アイスクリーム」  竜太は、それを受けとりながら、これを買う金をどうしたんだろうと思っていた。   6 夏のあらし 秋ヘ  家へ帰ると、ムメこと波多野武女が来ていた。  祖父の忠勇と祖母のはるの間で、可愛がられて育った孫娘のように振舞っていた。  日暮れたばかりで、ムメの浴衣が夕顔に見えた。その昔、ムメの浴衣姿を見て、少女クラブみたいやといったことがあるが、今は背も伸びて、|それいゆ《ヽヽヽヽ》か、もしかしたら婦人倶楽部と思える程だった。  ムメが神戸へ転校して行ったのが小学校六年生であるから、四年ぶりの再会だった。美少女は美女になっていた。ボケの小百合を美しいと思っていたが、ムメの美しさは格別だった。 「来てたんか」  竜太は無愛想にいった。 「びっくりした?」  ムメがいった。 「手紙くれたらええのに」  と竜太は、突然の訪れをとがめるようにいった。何故か無防備で対決の場に立たされたようなおののきがあった。 「高校へ入ったら、あきれられる程逢いましょうって手紙に書いたやないの」 「一年前のことや」  それから竜太は、珍しく不機嫌に、 「お腹すいた。飯や」  とどなった。ムメが笑った。  ご馳走だった。祖父母がこの美しい娘を歓待していることがよくわかった。食後のところてんがうまかった。西瓜も食べた。  ムメは、楽しげによくしゃべり、よく笑い、そして、よく食べた。  それに比べて竜太はひどく無口だった。  久しぶりにムメに会えた嬉しさも、居心地の悪さの方が勝っていた。それに昼間泳いだせいか、体もだるかった。  二人だけになった。ムメは、いきなりハァッと竜太に息をはきかけ、 「煙草匂う?」  といった。 「ほんまに吸うてるのか?」 「吸うてる。うち、四分の一くらい不良なんよ」  とムメは自分のことをいった。  四分の一とはよく自分を知っていると、竜太は思った。ムメは決して不良に見えなかった。しかし、どこかに油断のならないところと、わがままのところがあり、それが四分の一くらいだった。 「それやったら、ぼくも四分の一不良や」 「何で?」 「何ででも」  竜太は、年上の女の小百合との短い接吻のことをいっていた。あれは充分に魅力的で、そして不良的だった。  ムメが風呂へ入るので、焚き口で少し燃やしてやれと祖父の忠勇にいわれた。竜太は外に出て闇の中にうずくまり、薪をくべていた。蚊におそわれた。たえずピシャピシャと肌を叩いていなければならなかった。またボケの小百合のことを思っていた。どこかムメに対してよそよそしくなるのは、ボケの小百合のせいかとも思った。  湯の音がしていた。ムメの動く気配もした。一人なのに時々笑い声がきこえたりして、何をしているのだろうと考えさせられた。そのうち、ムメは、「オー マイダーリン クレメンタイン」を歌い出した。 「『荒野の決闘』、見たんか?」  竜太は思わず声をかけた。 「オー マイダーリン クレメンタイン」は、映画「荒野の決闘」の中で歌われている歌だった。 「見たわ。ヴィクター・マチュアはよくなかったけど、ヘンリー・フォンダのワイアット・アープはよかったわ。うち、ああいう人に|魅《ひ》かれそうになるところがあるみたいやの。そう思えへん?」 「知らんわ」  映画の話からそれて行ったので、竜太は不機嫌な声を出した。会話はそこまでで、竜太はふたたび闇の中にうずくまり、薪をくべる作業に専心した。 「風呂、どないや?」  竜太が訊ねた。返事がないので、 「熱いか? ぬるいか?」  と怒鳴るようにいうと、風呂場の窓が開いて、ムメが顔を出した。窓の敷居に|顎《あご》をのせるようにして、下を見やり、 「石川五右衛門ちゃうんよ。釜ゆでする気?」  と笑った。窓から入りこんだ外気が、風呂場にこもっていた湯気をとり払った。赤茶けた豆電球の光が、頼りなげに辛うじて闇との区別をつけていた。  ムメが立ち上った。竜太の目の前に、まだ少年のようにさえ思えるムメの裸があった。  たしかに乳房にふくらみはあったが、どこか固く薄い体の印象だった。肩も、そして腹にかけての線も細いペンのクロッキーのように繊細で鋭く、小百合に感じた丸いという思いとは全く別の裸だった。  竜太も立ち上った。四分の一不良や、とムメのことを思っていたし、同時に自分自身のことも思っていた。  黒雲が月にかかったようだった。風が通り過ぎ、風鈴が鳴った。ラジオから、「山の|端《は》に月の出る頃」がきこえていた。  風呂場の窓からムメは裸の上半身をのり出すようにして、 「不良や。不良になりたいんよ」  といい、つられたように竜太もかすれた声で、 「不良や」  そして、ムメの唇が闇の中に硬直している竜太のそれにふれた。  一日に二度も接吻を経験した。  今日は何ちゅう日や。月や星がパラパラと落ちて来るかもしれないと竜太は思った。  しかし、小百合との経験と違って、今度は一瞬でなかった。接吻とは何かを充分知ることが出来た。ムメの濡れた手が竜太の頭をかかえるようにしている。  風鈴がチリチリと鳴りつづけた。  風もないのに、嵐の中の風鈴のように鳴りつづけている。  竜太の目の前に、ポタポタとしずくを垂らしているムメの乳房があった。竜太は大胆になり耐え難い誘惑に負けて、そのわずかなふくらみに手をふれた。  ムメの平手打ちが竜太の頬をうったのは、同時といっていい早さだった。 「きらい」  ムメは、キラキラと光る切れ長の大きな目に軽蔑の暗い炎を燃やして竜太を見下した。 「カッコ悪い」  窓がしめられた。はげしい湯音、桶で乱暴に湯をくみ出し体にかけている音が響いた。 「ムメ」  返事はなかった。風呂場は静かになり、やがて灯りも消えた。  竜太は、のろのろと焚き口の始末をした。  何十カ所かを蚊にさされ、竜太は、そのむずがゆい個所を荒々しく叩いた。  それは、ムメの平手打ちの反復であるようにも思えた。  その夜竜太は微熱を出した。  翌朝、遅くに目をさますと、もうムメ、波多野武女はいなかった。一人で四国八十八個所札所巡りに出かけたということだった。  負けや、と竜太は思った。それは魅力的な登場と退場だった。 「オー マイダーリン クレメンタイン」を口ずさみながら、竜太は、ムメの置き手紙を読んだ。 「慌てることはありません。私は絶対に竜太君のものです。いい日、いい時に……」   オー マイダーリン   オー マイダーリン   オー マイダーリン クレメンタイン  台風が接近しているとのことで、今日は雲が多く、空全体が移動しているような速さで流れていた。  夏休みが終るまでに台風が二つやって来た。相当の大型で、一度などは床下から吹き上げた風が畳を持ち上げた程で、竜太は祖母のはるの肩を抱きながら、猛威をふるう嵐が通り過ぎるのを待っていた。  何年か前、アメリカの艦載機、グラマンだがカーチスだかの機銃掃射を受けた時、今とは逆にはるに肩を抱かれて、災厄のすむのを待っていたことを思い出していた。  その時も今も祖父の忠勇はいない。巡査はこういうとき家にいることを許されない。 「おじいちゃん。もうつらいやろな」 「そやなあ。警察で一番の年齢になってしもたから」  はるが答えた。そして、 「竜太が大学へ入ったら、おばあちゃんたち生れ故郷へ帰るで。巡査辞めて、巡査やってた土地にいたらあかんね。九州の田舎で鶏でも飼うてのんびり暮させてもらうわ。竜太には、一人で生きる自由が必要や、おじいちゃんは、そうもいうてるねん」  そんな話を嵐の中でしていた。  一人で生きる自由か、竜太は身のひきしまる思いがした。  しかし嵐が去ると、また自凝市へ出かけて行った。映画も見たし、ボケの小百合とも何度か会った。  接吻はあの時限りであったが、手はいつも握り合っていたし、何かをいって笑い合ったりすると、小百合はよく竜太を抱きしめた。  小百合と一緒の時には、「夜も昼も」「レベッカ」「若草の頃」「マルタの鷹」「リオグランデの砦」といった洋画を主に見たが、一人の時は、「娘はかく抗議する」「思春期」「若き日のあやまち」「ボート八人娘」といった思春期ものといわれるものを、まとめて見ていた。  そんな時ムメのことを何度か思い出した。  あの清潔なクロッキーのような裸や、湯気の匂いにつつまれた接吻も勿論思い出す大きな要素であったが、竜太にとってムメは、どこか緊張を強いられる重い存在でもあった。  今は小百合と過す他愛ない時間の中に幸福感を感じていた。  その日、竜太は、小百合と夏休み最後の遊びに行くために約束の場所へ出かけたが、小百合は来なかった。その代り、むっつり五郎がやって来て、 「病気でな。来られんのや。それに、もう会えんかもしれんというてた」  と、伝言を受けたのだ。 「見舞いに行くわ」  と竜太がそういうと、 「アホ。子供の行くようなとこやないわ」  むっつり五郎は珍しく恐しい顔をした。 「さあ。うどんでも食べよか。おごるわ」  うどん屋で、竜太はきつねうどんと氷白玉を、むっつり五郎はビールを飲みながらの話の中で、むっつりの由来めいたものを話し始めたのだ。 「どういうわけか刑事になりとうてな。子供の頃から思いつづけてたんや。それで高校出るとすぐ警察官採用試験を受けた」 「ぼくは、何になるかわからへんけど、警官にだけはならんということは決めてるんや」 「まあ、わいの話きけ。自分でいうのもおかしいけど学校の成績もよかった。そんで、試験はええ点とった。体力検査みたいなもんも、陸上の選手やったから軽いもんや。試験官のお偉いさんも、試験の途中で何やけど、あんただけは間違いない。いや、むしろ、是非警官になってほしい。戦後警官の質が落ちたといわれて来たけど、君みたいな人がどんどん志願してくれるようになったら、そんな不評も一ペんに消えるやろ、というてくれたくらいや」 「ようしゃべるんやな。全然しゃべらん人や思うてた」 「いちいち口はさみないな。あん時ゃ嬉しかったなあ。これで警官になれる。刑事にもなれる。そう思うと目の前がパアッと開けたように思えたわ」 「よかったな」 「ええことあるかい。ええんやったら、今頃こんなところでウロウロしてるかい。毎日映画館でジメジメしてたりするかい」  むっつり五郎は本当によくしゃべった。ビールの泡を唇のはしにつけたまま、余程くやしい思い出があるのか、アホ、ボケといいながら、握りしめた拳で卓を叩いた。 「不採用や」 「何でやねん?」 「親父が共産党やったからや。親父は共産党やけどわいは違う。わいは共産党大嫌いや。親父と縁切れいうんやったら今すぐにでも切ります。いうて泣いて頼んだけどあかんかった。そういうたんは嘘やない。わいは、共産党の親父が嫌いで、それで刑事が好きになったようなもんや。むっつり五郎ちゅうのにも、むっつり右門からとって、自分からいい出して仇名にさせてたくらいや。丸山五郎ちゅうのんがほんまの名前やけどな」  世の中には、いろんな人がいるもんや、と竜太は、きつねうどんの油揚げを噛みしめながら思っていた。 「警官があかんのやったら、趣味は捨てて、制服の仕事やと思うた。そして、消防官の試験受けた。今度も試験はでけた。わいも前の時でこりとるから、身許調べの前に近所に手え打って、誰か家のことを調べに来ても、共産党やらいうことはいわんといてほしいと頼みこんだんや。念のため思うて、土地の駐在所の巡査にもわけを話した。よっしゃ、よっしゃ、青年の前途をそないなことでつぶせるかい、いうて巡査は胸を叩いてくれた。けどやっぱりあかんかった。誰かがペロッとしゃべったに違いない。あの巡査が口と腹と違うこと思うてて、ピシッとやったのかもしれん。そんな気いもする」 「もしかしたら、その巡査、軍隊ラッパのオッサンとちゃうか」 「そや。あのオッサン、いつか海へ蹴とばしたらなあかんな。何がよっしゃや」 「やめときいな」 「嘘や」  むっつり五郎はにがく笑うと、ほなら行こか、と立ち上り、 「ボケの小百合のことは忘れた方がええ。子供のお前が、どないこないいう相手とちゃうんや」  とピシャリといった。  うどん屋を出た。残暑がきびしかった。その町をぶらりぶらりと歩きながら、 「小百合はもう映画館へ来いへんで」 「何でや?」 「弁天さんになったんや」 「弁天さん?」 「子供は知らんでもええ。夏も終りや。お前も、きれいなやさしいネエちゃんと一夏遊んだんや。それでええやんけ」  とまるで自分自身にいいきかせるようにいい、目を細めて、少し高くなって来た季節の青空を見上げた。 「好きやったんやな」 「アホぬかせ」 「そや。好きやったんや」 「もうええやないけ。それから、わいももうハリウッド座も、白鳥座も、自凝座もお別れや。保安隊に入ることになったんや」  保安隊は身許調べ大丈夫なんやろか、それとも別の手え打ったんやろか、と竜太は思った。  どうやら映画館のあの暗闇では、秋の訪れとともに竜太一人になりそうだった。ボケの小百合も、むっつり五郎も、軍隊ラッパのオッサンも、陽の当る場所へ向ったのか、それとも、もっと暗い闇に向ったのかわからないが、とにかくあの居心地のいいほどほどの闇の中には帰って来そうにもなかった。  むっつり五郎が歩いていた。やや長くなった影が彼のあとを追っていた。五郎は既に制服を着た気持で歩調正しく歩き町角を曲って行った。  竜太は、夏の終りのただ中で一人立ちつくし、さまざまのめまいがする思いに耐えながら、多くの人や多くのものを見送っていた。  始業式の日に、上級生に呼び出され、ただ生意気だという理由で撲られた。海水浴場で名前を訊いていった連中だった。  自凝高校の裏手にある神社の森で、一人に二三発ずつぐらい撲られたが竜太は無抵抗でいた。相手は六人もいて、到底喧嘩にならないとわかっていたからだ。  飽きるまで撲らせて終らせるつもりであったが、中の一人が小百合のことを持ち出し、 「どや。商売女の味は?」  といった時にそのつもりが変った。  黒っぽい激情がこみ上げて来て、体に悪寒が走り、その上級生をめちゃめちゃに撲りつけていた。但し、お返しもたっぷりで、完全にのびるまで撲られた。  神社の森の、そこだけひんやりとした土の上に大の字になって、千年杉といわれている老木の上にひろがる空を見上げて、竜太は、肉や骨の軋み以上に爽快な思いにひたっていた。  何故かわからない。強いていうなら、何かがほとばしった満足感であったかもしれない。   オー マイダーリン   オー マイダーリン   オー マイダーリン クレメンタイン  傷つきはれ上った唇で歌っていると涙が出て来た。  確かにあの中の一人は、仲間の肩を借りなければ歩けない程にまいっていた。  激情は、小百合を侮辱されたためのものか、それとも他の理由によるものかわからなかったが、とにかく、竜太の熱血の弁を開いたことだけは確かだった。  赤とんぼが舞っていた。彼岸花がしめっぽい草むらに咲いていた。  足柄竜太は、急をきいたバラケツ正木三郎が、野球のユニホームのまま駈けつけて来るまで、そうして寝転がっていた。   7 忘却とは  ある日、何気なく港へ行ったら、ボケの小百合に会った。 「久しぶり」  小百合は、珍しく浴衣を着ていた。紺地の浴衣に赤い帯で、どこか違った小百合の印象になっていた。相変らず化粧のない顔であったが、それも気のせいか違って見えた。匂いもそうだった。  あの夏の終りの日に、竜太が思った通り、映画館でも会うことがなかった。  午後というより、日暮れに近い時間だった。秋だが港はまだまぶしかった。潮の香りにまじって、油と、そして、積荷を待つ玉ねぎの匂いがただよっていた。  竜太は鞄をかかえていた。バスの発車時間までまだ一時間もあった。その時間をつぶすために港へ来たのだが、小百合に会ったのは全くの偶然だった。小百合もちょっと驚いた顔をした。 「病気は?」  大丈夫かと竜太は訊ねた。あの病気という理由が嘘だとはわかっていたが、それ以外に話のきっかけがなかった。 「おおきに」 「むっつり五郎が保安隊へ入った」 「そうやてねぇ」 「むっつり五郎のむっつりは、やっぱり、むっつり右門からとったんやて」 「そう」  小百合は浴衣の袖をちょっとたくし上げ、煙草をとり出して唇にくわえた。目を細めて煙をはき出すと、何ということなしにしゃがみこんだ。  岸壁だった。竜太も並んでしゃがみこんだ。胸と膝の間に鞄をはさみこんでいた。  二人の目の下に油を浮かべた海があった。  のたりとしていた。下駄と人形が浮いていたが、澄んでいるところもあった。  定期船からはき出された人波が、二人の背中を通り過ぎて行った。野球の話をしていた。巨人は強い、また優勝やでかなわんな。与那嶺やら、広田やらいうて、ハワイから選手輸入して、相変らずやることが汚いのう、といっていた。 「今年の夏は、ええ弟がでけて楽しかったわ。夢みたいやった。ほんまよ」  小百合がいった。立て膝という感じの膝に肘をつき、その手の先には何本目かの煙草が煙を立てていた。 「初めて海で泳いで嬉しかったわ」 「むっつり五郎は」  竜太は、何をいうつもりだったのか自分でもわからずに、むっつり五郎の名前を出した。もっということがあった。手の感触のこと、接吻のこと、そして、小百合の名誉のために血を流して上級生と喧嘩したこと、しかし、何故かそれらの輝かしい言葉は出て来なかった。 「むっつり五郎のことはいいやないの。あの人は、制服が着たかったんや。ほやから、保安隊へ入ったんや」  ボケの小百合は遠い日を語るように、のたりとした波の動きに合せるようにいった。 「水平線が見えるなあ」  突然そんなことをいった。 「竜太ちゃんも、やがて淡路島を出るんやろねえ」 「出る」 「出られてええねえ」 「いややな。そないな悲しい声出したら」 「そやなあ。海水浴の話でもしようか」  小百合が、あのつめたい手で竜太の手をとった。忘れていたものを思い出しそうになる。胸が熱くなった。 「好きや。弟でもええ。好きや。むっつり五郎へのあてつけでもええ」 「アホいうたらあかん」 「アホやない。むっつり五郎は逃げたけど、ぼくやったら逃げへん」 「アホ」  日暮れが追っていた。|鴎《かもめ》が群れていた。定期船が出て行くところだった。風景は|全《すべ》て紫だった。  小百合の足もとの吸い殻が五本になった。  不意に、全く不意に、小百合が竜太の鞄を奪って走り出した。  竜太は、一瞬、何が起ったのかわからずにいた。小百合が何をしようとしているのかさえわからずにポカンとしていると、既に、浴衣の裾をさばきながら小走りに駈けて行く小百合の後姿は小さくなっていた。  竜太はやっと後を追う姿勢になった。  小百合は一度立ちどまり、ふり向くと、鞄を高くかかげて見せた。とりに来いといってるようだった。  小百合が角を曲った。姿が見えなくなった。その時竜太の体がカッと熱くなった。  その曲った先の通り一帯が、どういう町であるかを、おぼろげながら知っていたからだ。それは、竜太たちにとっては立ち入り禁止の町だった。  小百合は、そこへ、日暮れの悲しみの色を身にまとったまま入って行った。特飲街だった。かもめの町と呼ばれていた。  しかし、竜太は追って行った。角を曲ると、ちょうど小百合が、その中の一軒へ入るところだった。そこでも、小百合はふり向き、鞄を頭より高くあげて見せた。  町にはまだ色がなかった。とっぷりと日暮れたら、その辺りがどういう色で塗られ、どういう音や匂いで飾られるのか、映画の知識で竜太には想像がついた。  色のない町は、だから、まだ歩いて行けた。制服の高校一年生が、あやつり人形のようにギクシャクしながら一軒の前へ立った。 「何や?」  やくざのような男にとがめられた。 「鞄を」 「鞄屋へ行かんかい」  頭上から小百合の声がして助かった。やくざのような男は、何じゃいこのガキは、といいながらひっこんだ。 「上っておいで。鞄返してほしかったら、勇気を出して上っておいで。ほうびを上げるわ。ほら、竜太ちゃん。どないしたん」  竜太は首が痛くなる程顎を上向けた。 「返して下さい。お願いしまあす」 「おいでいうてるやないの。何も恐いことあらへん。鞄返してほしいんやろ」  そういうと小百合は、二階の窓から姿をかくした。 「返して下さい。お願いしまあす」  竜太は上って行くつもりはなかった。小百合が本気でそんなことをいってるとは思えなかった。小百合の気持はわからなかったが、小百合のしようとしていることはわかっていた。  竜太は直立不動のまま、顎を上向けてお願いしつづけるつもりだった。涙が出そうになった。いろんな理由が入りまじっていた。悲しさと、くやしさと、はずかしさと、哀れさと、そのどれもが一つ一つ意志を持って、体の中を駈け巡っていた。  人だかりがして来た。いずれも、かもめの町の女たちだった。面白がっていた。竜太をとり囲みケラケラ笑った。 「上ったらええやないの。あの新入りさん、なかなかのもんやいうでえ」 「新入りですか」 「ほや。キャバレーからの転校生や」 「そうですか。新入りですか」 「どないなってんね。この子」  また女たちが笑った。 「返して下さあい。お願いしまあす」  竜太は、一きわ高く連呼し始めた。 「小百合さん。お願いしまあす」  またやくざのような男が出て来て、 「こら。小百合。この救世軍何とかしたらんかい」  と怒鳴った。  二階の窓にふたたび小百合が姿を現わした。 「返してあげるわな。鞄手にしたら目えつぶって走って帰るんやで。さいなら」  小百合がいった。同時に鞄が落ちて来た。  ボケの小百合の顔は、あの化粧っけのないさらりとした顔ではなく、素顔を塗りつぶした、いつかむっつり五郎がいった弁天様の顔になっていた。  もう本当に秋だった。  涙の出やすい季節だった。  その帰り、お好み焼きを食べに、狸御殿の後家はんの店へ入ったら、軍隊ラッパのオッサンがいた。客としてではなく、店の男主人としていて、 「父ちゃん。なあ、父ちゃん」  と大事にされていた。壁に軍隊ラッパがかかっていた。  竜太は、卵入りの牛肉お好みを食べながら、男と女はわからんなあ、と思っていた。あれ程満座の中で恥をかかせた女が、男を迎え入れて結構幸福そうに暮している。  ふと、あのヒロシ、タケシ、キヨシと名付けられ、憎悪のかぎりの言葉を受けていた犬たちはどうしたのかと思った。  軍隊ラッパのオッサンは、喜々としてキャベツを刻んでいた。 「肩こるで。ほどほどにしとき」  狸御殿の元後家はんがいった。  なあ。オッサン。むっつり五郎は、オッサンのこと海へ蹴とばすいうてたで。  とは勿論いわなかった。  NHKの連続放送劇、女湯が空になると評判の「君の名は」がきこえて来た。  作、菊田一夫。音楽、古関裕而。出演、北沢彪。阿里道子。臼井正明。七尾伶子。  もの悲しいハモンドオルガンの音楽が流れていた。   忘却とは忘れ去ることなり   忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ 「遅いんやね。今日は」 「バス乗り遅れたんや」  今夜はバラケツのところへ泊るつもりだった。  そのバラケツの下宿の親父さんである軍隊ラッパのオッサンが、ここで、父ちゃんと呼ばれていることも不思議な符合のように思えた。  外へ出ると赤い月が出ていた。  風も少しあった。  足柄竜太の微熱つづきの季節は終った。  |空《から》まわりの思秋曲   1 恋文屋  昭和二十九年二月一日。  元ニューヨーク・ヤンキースの強打者ジョー・ディマジオが、新妻のマリリン・モンローを伴って来日した。朝鮮戦線の将兵慰問を兼ねた新婚旅行だった。  各地での歓迎は絶大で、あの「ナイアガラ」のマリリン・モンローは、半開きの唇に指をからませ盛大に投げキッスをふりまいた。  足柄竜太は、ニュース映画のザラついた画面に、あでやかに舞うモンローの蝶のような姿態を追いながら、それでも、時代が、ギブ・ミーから、ウェルカムに変ったことを感じていた。  それはともかく、ホテルのベッドの上から、モンローの金色の陰毛が数多く発見されたという噂話に、竜太たちは、しばらく口もきけないくらいに興奮した。 「金色やて!」  その部分から、あたかも金色の光がさすような神秘を彼らは感じていた。 「天の岩戸やないけ!」 「よういうた」  二月十九日。  元関脇力士の力道山がプロレスラーとして変身、ベン・シャープ、マイク・シャープのシャープ兄弟を、木村政彦と組んでマットの上に叩き伏せ、太平洋戦争以来の屈託が爽快に晴れて行く快感に興奮した。  竜太たちは、それを町の電機屋のショウウインドウに鎮座したテレビで見た。  間違いなくそこから新しい時代が始まろうとしていた。  テレビという灰色の画像は、どこかはかなく、時に幻の正体を露呈することもあったが、黒山の人だかりの|息吹《いぶ》きは、そのまま時代の息吹きであるとも思えた。  一皮一皮、薄皮をはぐような慎重さで、戦後は変貌しようとしていた。  そして、足柄竜太は高校三年生になった。  何となく、関西弁がきこえないところで生きてみたいなどと思っていた。  今年は東大があるかもしれん、そんな声がきこえた。三年ぶりの快挙ちゅうやっちゃな、京大、阪大も三人ぐらいはあるやろ、と誰かが相槌を打った。声がはしゃいでいた。  別のところでは、保安庁技術研究所員夫妻をカービン銃で脅迫して二千万円の小切手を奪った大津健一のことを話題にしていた。  情婦は何ちゅうたかな、中田、それ、中田なんとかいうたがな、そんな|合《あい》の手も入り、昼休みの教員室は比較的のんびりしているようだった。  夏に近い日ざしがさしこんでいた。  近くの神社の森で鳴きたてる油蝉の声にまじって、NHKの「昼のいこい」のメロディがきこえていた。  足柄竜太は引き戸をあけて入ると、目当ての国語教師の所在を確かめた。  国語教師の荒川は、窓ぎわの席で弁当を使い終ったところで、アルミニウムの弁当箱をひろげたまま、新生に火をつけた。漫才の横山エンタツに似ている。  荒川は、東大を目ざす生徒の話にも、カービン銃事件にも話題に入らず、煙草の煙を机上の花に吹きかけていた。花は牛乳瓶にいけてあった。  竜太が近づいて行くと、何や、何の用やといった。 「芸者小夏のレポートを持って来ました」  と竜太がいうと、お前、アホかとあきれ、冗談真に受けて貴重な時間をつぶす奴があるか、赤尾の豆単でも暗記せんかいといった。  竜太は、徹夜してやっとの思いで書き上げた四百字詰原稿用紙二十枚のレポートをくるくる丸めて、 「冗談ですか」  とがっかりした声を出した。 「当り前やろ」  困った奴ちゃ、授業中にそんなもん読んどるさかい、ちょっとこらしめのためにいうただけやないか、と荒川は少々具合悪そうにいい、慌ててひろげたままの弁当箱を新聞紙で包んだ。  新聞に、労働白書、潜在失業者二百八十二万人と出ていた。 「どないする気や」 「何がです?」 「大学行くんやろ」 「まあ」 「まあやない。東大ねらえる奴もおるんやで。ちゃんとした目的立てて、しっかりせんとあかんやないか」 「レポートは?」 「まあ、せっかく書いたんや。冗談ですましてしまうのも悪いやろ。読んだる」  教員室を出て、渡り廊下の掲示板の前へ来ると、入試模擬テストの結果がはり出してあった。人だかりがしていた。のぞいて見ると、竜太は四十二番だった。  秀才が|只《ただ》の人になって行く具体例が、墨痕鮮やかに恥の位置づけをしていた。  驚いたことに四十二番という順位は、江坂中学の鈍才アノネの高瀬守、ニンジンの新田仁より下位だった。アノネは四十番、ニンジンは三十八番だった。  そのアノネとニンジンがふやけそうな顔をして、 「夢や。これは夢や!」 「竜太の上を行くやて、夢みたいや」  とはしゃいだ声を出した。 「悪い夢や」  竜太もさすがにぶぜんとした。  季節はもはや夏で、その頃になると、昼休みの一時間の使い方で、それぞれの現状認識と将来への意欲のようなものが知れ、画然と色分けが出来ていた。  進学に対する危機感や、逆にそれ故の希望を感じるものは、一時間といえども無駄には過すまいと、旺文社と抱き合い心中のような形で、陽光の下に埋もれていた。  また、劣等故に進学を断念したものは、校門前のお好み焼き屋に入りびたり、 「オッちゃん。ピースや。出世払いやで」  ぐらいのことをいいながらオダを上げ、時折気に食わぬ下級生を呼びこんで、小遣銭を巻き上げたりしていた。  燃えるでもなし、沈むでもなし、ただ成り行きに身をまかせるタイプは教室にいた。  どちらかというと、竜太もその部類で、昼休みは昼休みで、特別の意味を特たない一時間だった。  しかし、竜太にしてみれば、それも精いっぱいの|気障《きざ》のあらわれだった。  アノネやニンジンと別れ教室へ帰ると、竜太は頼まれていた恋文を書き始めた。  |欠伸《あくび》が出た。芸者小夏で徹夜したたたりだった。アホなこっちゃと竜太は思った。  他の連中はというと、ガラスの粉でもふりまいたようにまぶしい教室の窓に鈴なりになって、下を通る下級生の女の子をはやしたてていた。  制服を着ない季節であるから、誰もがワイシャツの袖まくりに黒のズボンで、|猥褻《わいせつ》な匂いを発散させていた。  その背景は七月の青空だった。  祭に似た季節の訪れは、がなりたてる歌にも似て容赦のない暑さだった。  柱や窓枠につかまった猥褻な猿たちは、それよりもなお理不尽な体内のもやもやに躍らされて、大合唱をくり返していた。   向う通る女学生   三人並んだその中で   一番ビューティで目につくは   色はホワイト 目はパチリ   口許キリリと|紅《くれない》の   あふれるばかりの愛らしさ   ぼくのフラウとなるならば   ぼくもこれから勉強して   ロンドン パリーを股にかけ   フィラデルフィアの大学を   優等で卒業した時は   彼女は他人の妻だった   残念か!? 残念だ!   残念ならまた探せ!  その大合唱は、愛の言葉をひねり出すために苦心している竜太の頭を真空にした。  女の子の|嬌声《きようせい》がたてつづけにきこえた。  それは、|媚《こび》を含んだ太腿と乳房のあげる嬌声だった。  書き上げた恋文を渡すと、水泳部の中山は顔面を紅潮させ、一通り文面に目を走らせると、うまいもんやないけとうめき、それから、申し訳なさそうな声で、 「これ何ちゅう字や?」  と訊ねた。  見ると、|夥《おびただ》しいという字だった。   わだつみは数々の真珠を持ち   おおぞらは夥しき星を持つ   されど わが心は わが心は   わが心は 愛を持つ  サービスとして、ハイネの「夜の船室にて」を引用したのだが、夥しいが読めないようでは効用も疑問であった。竜太は、顧客をあしらう商人のように、オビタダシイと答え代書料金の六十円を受けとった。  これで、明日は映画に行けると思った。  洋画上映館のハリウッド座では、シド・チャリシーとフレッド・アステアの「バンドワゴン」と、エスター・ウィリアムスの「百万|弗《ドル》の人魚」を上映している。 「六十円か。けど高いんとちゃうか。うどんなら六杯、お好み焼きなら三枚やないけ」 「ほなら、彼女の目の前にうどん六杯並べたらどうや」 「そりゃあかん」 「あかんやろが」 「けど、ラブレータが六十円とはなあ」 「ラブレータやない。ラブレター」 「六十円とはなあ」 「ほなら、まあ、成功を祈る」 「性交まで行くやろか」 「アホか」  水泳部の中山は、ケッケと笑い、それでも有難そうに恋文をワイシャツの胸ポケットにさしこんで出て行った。  短躯だが逆三角形に肉の付いた中山の、人より長い手の揺れ動きが、発情期のゴリラを思わせた。  竜太は、その恋文の相手を知らない。  今までに何十通と書き、六十円の料金を稼いでいたが、相手の女の子を考えて書いたことはなかった。  竜太にとって恋文書きは、映画館の暗闇と同様に未知の世界へ旅する船であった。陶然と意識を飛翔させ、恍惚の空間でのびのびと呼吸する瞬間を、ささやかながら竜太は手に入れた。  限りないイメージを字に凝縮して万年筆を走らせる時、隔絶された島から翔び出ることが出来る。  愛や恋という言葉が宝石のようにきらめきを持つのも、この一瞬だけで、それは現実と無縁のものとして|対《むか》い合えるからである。  映画館は荒波のように竜太を運び、恋文書きは小さい風のように扉を開いた。  関西弁はきこえない。水平線もない。  だから、竜太は、恋文書きを引き受ける時、相手の名前を訊くことはなかった。  ニキビの吹き出たあから顔や、安産型の骨盤や、大地の母という感じの二本の足を思い浮かべて、陶酔の作業でもない。  竜太は常に暗闇の先導者であるパイパー・ローリーや、ジャネット・リーや、レスリー・キャロンや、時にマリリン・モンローや、今新たに奇跡として微笑みかけて来たオードリー・ヘップバーンを想い筆を走らせた。  ただ一つ例外は波多野武女であった。  武女を想うことは現実に醒めることではなかった。そういえば、近頃、波多野武女に語りかけるようにして、汗臭い級友たちの恋文を書くことが多い。  教室の窓ぎわでは、まだワイシャツに黒ズボンの猿たちが、汗みどろになりながら大合唱をくり返していた。   向う通る女学生   三人並んだその中で  大合唱は、くり返しくり返し歌われることによって、少年たちの心に巣食う猛々しいまでの性的欲求を心地よさに変えた。  無邪気とさえ思える軽やかさを備えて来て、彼らから息苦しさを感じることはなくなっていたが、実はそのような気安げなものでないことを竜太は知っていた。 「もう一丁ッ」 「ソウレー」  新たな女学生の一団が通りかかったらしい。大合唱は頭に戻ってまた始まった。  カワイソウニナア!  漫才師のきまり文句を竜太は思い出した。  ほんまに、カワイソウニナア!  たまたま今、竜太は傍観者のように机にもたれて級友たちを眺めてはいるが、彼の中にも猥褻な大合唱に加わりたい思いはある。  彼らの目の中では、既に女学生たちの白いブラウスも、紺のジャンパースカートも、はぎとられているに違いない。  ブルーマの太腿にうっすらとにじんで光るスポーツの汗や、黒の競泳用水着の胸の荒々しく上下する息づかいや、それから、「十代の性典」の若尾文子のスカートが、有刺鉄線にひっかかってこぼれて見えた純白のシュミーズや、それぞれの幼稚な想念の中で、出来得る限りの具体的な絵をつくって、がなりたてている。  高橋鐵の「あるす・あまとりあ」を彼らと五十円ずつ出し合って買った。まわし読みして竜太のところに来た頃には、もの悲しい書きこみでいっぱいになっていた。  東京ストリップのメリー松原の大看板が、肉体の門という感じで白鳥座の前にそびえ、日に一度は必ずそれを仰ぎ見てためいきをついた連中も、結局当日竜太のほかは誰も行かなかった。  だから、向う通る女学生は、限りなく可哀想な真昼の狂宴でもあった。  竜太は、今手に入れたばかりの六十円を机上に並べ、オハジキのようにはじいた。  指先からはじき出される硬貨が、傷だらけの机の上を滑る時、「バンドワゴン」と「百万弗の人魚」が期待に満ちてひろがった。  気持が晴れた。  目を上げると、汚れたガラス窓の隅々に青空があった。  そして、不意にムメのことを想った。  そして、近頃の波多野武女は、敬意や憧憬の対象として、むしろ遠ざけていた過去と違って、猥褻な歌を聴かせたいほど近間に想っていることに気づいて、竜太は慌てた。  昼休みが終って、それぞれの一時間を過した大勢が教室に戻って来た。 「手紙頼まれてくれへんか」  お好み焼きのソースと青海苔を口のまわりに付けた相撲部の副将が、竜太の体を丸がかえにするようにしていった。 「六十円や」  竜太は答えた。   2 泥仕合  バラケツこと正木三郎が敗れた日、豪雨だった。  正しくは、|自凝《おのころ》高校野球部が、兵庫県予選の三回戦で敗退した日というべきだろうが、実情も、また心情的にもバラケツの敗れた日であった。  第一試合の半ば頃から、パラパラし始めた雨は、その試合終了頃には本降りになった。  梅雨あけかと思わせる暑い日が何日かつづいていたが、本格的にはあけていなかった。  予選が行われる明石球場は、明石城をとり囲む公園の|一劃《いつかく》にあった。  その明石城の天守閣が、乳白色のもやにつつまれたと思うと、樹々の緑がざわついた音をたてはじめ、そして、雨になった。  バラケツは、スタンドで前試合を見ていたが、突如周辺で開いた傘の花に視界をさえぎられ、何ちゅうこっちゃい、と舌打ちした。  早朝の連絡船に乗り、淡路島北端の岩屋港からこの明石へ渡る時、妙に毒々しい朝焼けが空の一部分だけを染めていたのを思い出した。  明石海峡から見てそれは大阪のあたりの空で、|小豆《あずき》色とも思える空の一部分が破れて、紅色がカッとのぞいていた。バラケツは、なぜかその時胸さわぎのようなものを感じた。  だから、舌打ちは、それも同時に思い出したいまいましさであった。  何でもないわい。  バラケツは強がって上向けた顔を、|睥睨《へいげい》するといった|傲慢《ごうまん》さで左右に振った。そこには、既にユニホームに着がえた自凝高校野球部員が並んでいたが、誰もこの雨の中で小さく貧しく見えた。 「しゃんとせえ」  バラケツが怒鳴った。 「オウ」  と野球部員は声をそろえたが、必ずしも堂々とはいい難かった。  しかし、バラケツ正木三郎は、今日の試合に負けるとは思えなかった。胸さわぎがし、どんなに|苛立《いらだ》ち、また不安がかすめても、敗戦とは結びつかなかった。  今日の相手は、日本海側の|但馬《たじま》の高校だった。  野球が違うわい。  バラケツは、そう思って、激しくなって来た雨の中で、ユニホームの胸をそらした。  この三年間で、バラケツの投手としての評価は、高校球児としては最高点を得るところまで上っていた。  オノコロの火の玉といわれ、毎試合十以上の三振は確実に奪っていた。兵庫県下では勿論屈指であったが、全国的に見ても、中京商の中山、米子東の義原、小倉の畑、岐阜の木下、新宮の前岡等と並び称される実力を備えていた。  にもかかわらず、自凝高校が兵庫県ですら優勝候補の筆頭に上げられないのは、攻撃力の弱さ、極端な正木三郎のワンマン・チームであったからである。  試合はまさに、その評価と不安通りの展開になった。  バラケツは、八回まで毎回三振の十五を奪い、安打も二本だけで零封していたが、味方も凡打をくり返し、九回表の攻撃を終っても得点を奪えなかった。  雨は、五回を過ぎたあたりから土砂降りといっていい状態になっていた。どちらかでも一点をあげれば、すぐにもコールド・ゲームが宣せられる危機をはらんでいたが、それさえなし得ず、果てしない|泥濘《ぬかるみ》の試合がつづけられていた。  スタンドの傘の数も、回を重ねるごとに減って行き、忍耐強い何十人かがうずくまっているだけになった。  そして、九回裏、自凝高校は最後の守りについた。  バラケツはマウンド上からナインを見渡した。  灰色の風景の中に点在する自軍の選手は、七月の雨に体の芯まで叩かれて弱々しく、戦国の落武者かと思える哀れさだった。  外野には既にもやが降りて来て、ゆっくりと横に流れ、心細げな外野手を尚更みすぼらしく見せた。  グラウンドの土がはね上っていた。ところどころに水たまりが出来、それ以外のところも光った表面の薄皮一枚下は泥田であった。 「エラーしたら、殺すぞ」  バラケツは三塁手を呼んでいった。 「ええな。ほんまに殺すぞ」  三塁手は、大丈夫やがな、と笑ったが、その口許のあたりは、死刑を宣告されたようにこわばっていた。  場違いな燕が一羽、マウンドの上を低くかすめ、今はもやの彼方の天守閣の方向に飛んで行った。   故郷見たさに もどってくれば   春の伊豆路は 月おぼろ   ………  燕の行方を目で追っていると、なぜか「伊豆の佐太郎」の一節が浮かんで来た。  余裕あるやないけ。よっしゃ。  と、バラケツは、水を含んで倍の重さになったユニホームを持ち上げるようにして、第一球を投げた。  壁一枚向うで響くような鈍い音がして、球は泥水をすすりながら三塁手の前に転がって行った。 「取れ。取らんかい」  バラケツは怒鳴った。  エラーしたら殺すぞといわれたばかりの三塁手は、自らを選んで転がって来る球と運命を呪いながら、それでも必死の形相でつっこむと、辛うじてすくい上げた。 「よう取った!」  三塁手の耳に、バラケツの声がきこえたとたんに緊張の糸が切れたのか、一塁にとんでもない高い球を投げてしまった。 「アホッ」  バラケツの目に、一塁側スタンド方向へ転々とする赤茶けた球と、カバーに走る右翼手の姿が、遠い昔のニュース映画の一コマのように、ギクシャクと、そして、ぼやけて見えた。  念の入ったことに、右翼手が水たまりの中で転倒し、泥田を泳ぐようにして球に追いついた時は、打者は三塁塁上に立っていた。無死走者三塁。しかも九回裏。  何ちゅうこっちゃい。こんな日本海の高校の少年野球みたいなチームに負けそうになっとるやて。  わいは、がまんでけんで、とバラケツはうなった。 「しまって行こう。ドンマイ! ドンマイ!」  捕手が、役目と心得てか、全軍に向って手を上げた。  何がドンマイじゃい。アホの一つ覚えみたいに怒鳴りおって。ちったあ、人の心ちゅうもんを考えんかい。場所柄、時節柄を考えんかい。頭のどこを押したら、ドンマイたら言葉が出て来るんじゃい。こっちの身いにもなってみい。  それでも、バラケツは気をとり直し、曾我兄弟の仇討ちのような顔して構えている次打者に向って、第一球を投げこんだ。  気合がこもったか、充分にスピードの乗った球だった。  三塁走者が本塁に向ってつっこんで来るのが見えた。  しかし、オノコロの火の玉の決め球は、スクイズ・バントを試みた打者のバットをはじきとばすくらいに威力のある球で、打球は小フライとなって三塁手の前へ飛んだ。  ゲッツーや。ざまみさらせ。  バラケツが、バンと右手の拳をグラブに打ちつけて、感極まった歓びを示した瞬間、硬直した三塁手は、球をグラブの土手にあててポロリと落した。  ワアッという悲鳴に近い声を上げて、走者が本塁ベースを踏んだ。  負けてもた。負けてもたやないけ。  土砂降りのグラウンドにサイレンが響き、勝った高校の選手が整列のために本塁へ集って来るのが見えた。自軍の選手も、それぞれのもやの彼方から幽鬼のように力なく走って来るのが見えた。  只一人、二つのエラーをしでかした三塁手だけが、三本間で立ちつくしていた。そして、泥濘の足許を見、グラブの土手を見、仕方がないとでもいうように首をふった。 「このガキゃ」  バラケツは、まだマウンドの上に仁王立ちになって、滑稽とも悲惨ともつかない終幕の光景を睨みつけていた。  このままで終れば、「泣くな 正木 明日がある」といった見出しの記事になり、美談で終る筈であった。  そのためには、バラケツがマウンドを駈け降り、敗戦につながる大きな失策を演じた球友の肩を抱き、泣くな、気にするな、といわなければならなかった。  その嘘が、高校野球の美学とされていたが、バラケツには到底出来ないことだった。  既に両軍の選手は、バラケツと三塁手をのぞいて本塁に整列していた。勝った、負けたより、早くこの豪雨の地獄から逃れたいという気持が、そのしかめた顔や、こまかく足踏みする体にあらわれていた。 「整列。急いで」  審判が声をはり上げた。  バラケツは、その審判をも睨みつけた。  オッサン。これも人生やで。人生の節やで。節には余韻ちゅうもんもあるやないけ。終りました、へえ、ご苦労はんてな具合にいかんこともあるわい。どうせびしょ濡れやないけ。もうちいと待ったれや。  やっと気をとり直したかに見えたバラケツが、マウンドを降りてきたが、突如方向を変えて、まだノロノロしている三塁手に向って襲いかかった。 「おんどれ。アホンダラ」  泥まみれのスパイクが、三塁手の尻のあたりを思いきり蹴りあげた。  ギャアという悲鳴をあげて、三塁手はとび上り、更にそれ以上の危険を察したのか外野へ向って逃げた。 「待たんかい」  泥を蹴立てながらバラケツはそれを追った。  試合終了の挨拶どころではなかった。  野球部長と監督がベンチからとび出し、呆然と立ちつくしている野球部員に、 「何をしとるんじゃ。お前ら行って止めんかい」  とヒステリックに命じた。  その間に、審判は、試合終了を宣し、さっさと本部へ引き上げて行った。  スタンドの客は数少なくなっていたが、それでも騒然となった。傘が揺れた。そのたびに激しい雨は周辺に撒きちらされた。  無人の外野を、湿地帯を突進する|犀《さい》のように、バラケツは三塁手を追いまわした。そのはるか後を小動物のように臆病なその他の野球部員が、濡れて重くなったユニホームとスパイクを呪いながら走っていた。  近景の豪雨と遠景のもやが、それらを奇妙に静かな絵に仕上げていた。  そして、追うバラケツも、追われる三塁手も、ともに力つきて大の字に倒れたのは、バラケツが死守していたマウンドの上であった。  ONOKOROとローマ字で校名を書いたユニホームの胸を波立たせながら、二人は雨に打たれていた。 「助けてくれ」  三塁手が手をのばした。 「野球もういやや」  三塁手は幼児がむずかるようにいやいやをした。泥染めの壺につけられたような泥まみれだった。 「甲子園や。甲子園が消えたやないけ」  バラケツが、うめきながら目を開けた。  いくつかの顔が、当惑に表情をこわばらせながらのぞきこんでいた。その帽子の|庇《ひさし》から、雨が軒を伝うように流れていた。誰もが無言であったが、アホといっているのがよくわかった。  たかが野球やないけ。高校野球やないけ。  野球部員のおびえを含んだ目は、裏側に|憐憫《れんびん》の情もかくしながらそう語っていた。  彼らの背景に厚ぼったい雨雲が垂れこめ、そこから針のような鋭さで降って来る雨の線が見えた。線の判別が出来る層がきまった高さにあるとみえて、そこだけが短い針のようだった。  |嗚呼《ああ》、高校野球が終った。アホな幕の閉め方をしたとバラケツは思った。  朝、連絡船の上から見た毒々しいまでの紅色の朝焼けが頭をかすめた。 「いつまで寝とるんじゃい。アホなことをしおって。ただじゃ済まんことやど。これは」  野球部の監督の声がきこえた。 「前代未聞。空前絶後」  野球部長のお題目がきこえた。  マナーかいな。わかってます。精神かいな。わかってます。けど、やせがまんで、ええカッコして、心にどでかい傷を残すちゅうアホなことだけは、しとうないんですわ。  バラケツは、尻の穴までしみこんで来たグラウンドの泥水を不快に思いながら、手をのばすと、横に投げ出されている三塁手の頭を思いきりどやしつけた。  それで終りだった。  自凝高校は、兵庫県予選三回戦で敗退。新宮高校の前岡とどちらが速いかと噂されていた正木三郎投手の豪腕も、ついに比べることが出来なくなった。   3 兄弟  敗者の帰還に七月の雨は哀れに過ぎた。  明石港から連絡船に乗りこむ自凝高校野球部員の姿は、首うなだれて、足重く、どこから見ても影のようだった。  中でも、バラケツの落胆ははげしく、ただ一人群れをはなれて岸壁に立つ姿は、   母は来ました 今日も来た   この岸壁に 今日も来た  という菊池章子が歌う「岸壁の母」の年老いた母を思い描かせるほどだった。  雨に煙るとはいえ、瀬戸内ののどかな海に向いながら、まるで日本海の荒波に向って祈りをこめる舞鶴港の母のようであった。  黄昏近く、突堤の先端の灯台に灯が入った。いつもなら眼前に寝そべる筈の淡路島も、今日は遠くに去ったかのようで、かすんで見えなかった。  嗚呼! 故郷も|ののしり《ヽヽヽヽ》給うのけ。  とバラケツは思っていた。 「正木」  野球部長の声がした。  ふり向くと、他の部員は、既に連絡船のペンキ臭い船室に姿をかくしていた。  船が出るぞう、というように野球部長はせわしなく手招きをくり返していた。  つい先程まで、いや今でも、あの部長は、高校野球のマナーと精神について悩んでいる筈である。  鍛えぬかれた若人の肉体と精神を試合という場で、純粋に、美しく、昇華させ得たか否か。すぐれたスポーツ技能を体得し、人から尊敬されるに足るスポーツマンとしての人間完成がなし得たか否か。勝敗にこだわることなく、厳格なアマチュアリズムの下で、自己の最善をつくし得たか否か。技術の優劣より品性を優先させ得たか否か。高校野球は教育の一環であるという一条を貫き得たか否か。  それらが活字の形で駈け巡り、野球部長の胸は千々に乱れている筈であった。  けど部長。とバラケツは腹で思った。  本心いうてみたらどうなるやろ。アホなエラーをしでかして、あたら勝利を蹴とばした奴をこのガキゃと思うやないけ。  勝ちたいと思うのが純粋や。勝って|驕《おご》らんのが品性や。しくじった奴に、人生しくじったらこないに恐いことがあると教えてやるのが厳格ちゅうもんやないけ。  失敗許したり、泣いて美談にしてしもうたり、そんなんじゃ教育にも何にもならんのとちゃうけ。  港に近い町の屋根に、色鉛筆のいたずら描きのようなネオンサインが|灯《とも》りはじめた。  雨にうたれながら、連絡船は岸壁でのたりと揺れていた。黒いゴムの雨合羽を着た船員が、もやい綱をはずし、アイスキャンデー売りのような鐘を鳴らした。  ゆっくり近づいて行くと、野球部長と対い合うようにして立っていたコウモリ傘がくるりとふり返った。 「兄ちゃんやないけ!」  意外な人の登場にバラケツは声を上げた。  兄の正木二郎だった。  ブギウギトンボと仇名され、戦後間もなくの淡路島江坂町に軽薄に染め上げた民主主義をふんだんに持ちこみ、敬意と軽侮を同時に受けた名物男は、今も大して変りなく、白のダブルの背広に真赤なネクタイ、靴は白とチョコレートのツートーン・カラーといういでたちで立っていた。さらに、その肩にハラリとレインコートをかけ、いわば「霧の波止場」という姿であった。  ブギウギトンボは、芝居がかった動きで、傘をさしかけ、もう一方の手をバラケツの体にまわして、 「大きゅうなったなあ」  と鼻をつまらせた。  百八十センチ、八十キロのバラケツの巨体に寄りそうと、軽いだけが取得のようなブギウギトンボは、|蔓草《つるくさ》のように見えた。 「先生にもお願いした。傷心の身は肉親のふところでいやすのが一番や。さあ、わいの邸へ行こう」 「夏休みに入ることやし。持別に許可を出した。まあ、兄さんのところでしばらく頭を冷やし、今日のことも充分反省してみい」  野球部長の顔に、先程とくらべると安堵の色が浮かんでいるのは、問題の種と同時に帰らなくて済むということだろうか。  しかし、そうは思いながらもバラケツは、こだわることなく、 「そうさせてもらいますわ」  と頭を下げた。そして、今日のことはどないでもして下さい、とつけ加えた。  連絡船が岸壁をはなれた。  スクリューで|攪拌《かくはん》された淀んだ水が、白く泡立つ航跡に変り、魚の死骸が波頭に持ち上げられたまま岸に叩きつけられた。  灰色の風景の中を咳きこむようなエンジン音を響かせて遠ざかって行く。  甲板に野球部長と監督が並び、船室から部員たちが手をふった。  ふと、このまま永の別れになるのではないかとバラケツは思った。  そんな、アホな。  けど、お前らと一緒に野球やることはないやろ。わいの野球とはレベルが違うさけな。  バラケツは、ブギウギトンボのさしかける傘の中で胸をそらした。  雨はやむことなく降りつづけ、その、時に銀色にも見える幕の中に連絡船は消えた。 「船は出て行く。煙は残る。残る煙がシャクの種」  ブギウギトンボがいった。  邸といったが、ブギウギトンボの家はアパートだった。それでも、高級の部類に入る|洒落《しやれ》たつくりで、台所と応接間と寝室と三間もあり、軽薄ながらも文化の香りがたちこめていた。しかも、それは、住む人間の感性と等しく、ケバケバしく大仰なほどだった。 「映画みたいやないけ」  バラケツは、眼前にひろがる広告写真のような部屋に感嘆の声をもらした。バラケツの知る家の観念とはどこでも結びつかなかった。 「文化生活ちゅうもんやな」  ブギウギトンボが誇らしげに胸をそらした。久々の弟に晴れ姿を見せるという|昂《たかぶ》りが、流し目のきくトロけた目や、羽のようにヒラヒラ動く唇に表われていた。 「えらい出世やないけ」 「まあまあ」 「|流石《さすが》、兄ちゃんや」 「まあゆっくりせえや。何の気がねがいるもんぞい。血肉わけた兄弟やないけ」 「おおきに」  とバラケツが、応接間のソファーに腰を下すと、尻がまるまるもぐりこんだ。だらしなく傾いたままで、目の高さで見渡すと、テレビと電蓄が主人のような顔をしておさまり、壁の棚にはホームバーがあって、見たこともない洋酒がズラリと並んでいた。 「テレビやな」 「シャープや。十四万円や」 「ごつい値段やなあ」 「風呂場へ行ってみい。洗濯機があるわ。台所へ行ってみい。冷蔵庫がある。この冷蔵庫は、美空ひばりや市川右太衛門と同じ物やで。日本で何台ちゅうもんや」 「そりゃ、えらいこっちゃ」  バラケツは、相槌を打ちながら、その声がどこか沈んでいることに気がついていた。  ブギウギトンボの正木二郎が饒舌になればなるほど、深い海の底で遠くからの伝音を聴いているような、妙に耳鳴りのする違和感を感じつづけていた。  それは、一別以来のブギウギトンボの奮闘談や、成功談を聴かされている時も同じだった。  口八丁手八丁。舌先三寸の千三つで、ブギウギトンボは、戦後をたくみに泳ぎきって来たらしい。何度か詐欺に問われるような危い橋を渡りながらも、現在は名刺の肩書き通りの商事会社社長におさまっているようである。もっとも、この商事会社というのはキャバレーで、資金を持った朝鮮人との共同経営で「朝鮮のオッサンは金を出す。わいは知恵を出す。今はやりのタッグマッチちゅうやつやな」  ということで、これがうまくあたっての文化生活なのだ。  そんな経過を活弁まがいに語る兄の口許を見ながら、バラケツは半ば呆然としていた。  なあ、兄ちゃん。いろいろ面倒みてもろて、偉そうなことをいうのは気がひけるけど、わいの生き方とはちょっと違う。男がまぶしゅうなる生き方ちゅうもんも、あるんとちゃうやろか。花畑の蝶のように、浮いた浮いたと風に乗り、蜜を求めてヒラヒラと、ちゅうのんは|儚《はかな》いもんやと思うけどどないやろ。  バラケツはそう思っていた。  立ち上って、応接間の窓を開けると、眼下に街の灯がビーズ細工のようにきらめいて広がっていた。そして、まだ雨だった。  街の灯がきれるあたり、海と思える墨色のところに赤い灯がいくつも明滅し、その手前を列車がゆっくりと走り過ぎるのが見えた。 「ここはどこや?」 「神戸やがな。港神戸や」 「神戸か。神戸の山の手やな」  といいながら、バラケツは、何処かこのあたりに住んでいる筈のムメこと波多野武女のことを想った。  バラケツは、窓から体を乗り出し、顔をねじ曲げて降りそそぐ雨を受けた。ムメのことを想うと、たまらなく気持の奥に圧力が加わる苦しさを、バラケツはそんな愚行で誤魔化していた。  泣いたろかい。切のうてかなわん。泣いたろかい。  そんな弟を背中から見つめながら、兄のブギウギトンボは、 「傷心やなあ」  とつぶやいたが、それは雨中の一戦に敗れた衝撃によるものであろうと思ったことで、柄にもなく純愛を貫く悩みや、久々の肉親との不調和にとまどった結果だとは、思ってもみなかった。  そのような、珍しく静かな心と心の動きの時間を引き裂き、元通りの軽薄な生活力に満ちた空気に引き戻したのは、女の登場によってであった。  女は、真赤なレインコートを雨滴で光らせながら、けたたましく玄関の扉を押し開けてとびこんで来たが、針のように|尖《とが》ったハイヒールを脱ぐのももどかしく、 「いやあ、遅うなってしもてごめんねえ。折角弟はん来てくれたのに、遅なってしもて。まあ、あんたが三郎ちゃん。えらい肉体美。ごっつう男らしい。初めまして。うち、二郎さんの女房で、美春です。よろしゅう」  美春という白痴美とも見える八頭身の美女は、如何にもブギウギトンボの好みに合いそうなピカピカの化粧と服装で、それでも、亭主の肉親への礼のつもりか、|絨毯《じゆうたん》の上にペタリと座って、三つ指をついた。 「兄ちゃん。嫁はん、もろてたのけ?」 「似たようなもんや。べっぴんやろ。元宝塚やで。星組や。丹後の宮津の生れで、芸名を丹後カルメンいうたんや」 「ほんまか」 「嘘や」 「そやろ。丹後チリメンみたいやもんな」 「宝塚の温泉入って帰って来たんやろ」 「ケケケ」  と丹後カルメンが笑った。 「二三日、やっかいになりますわ」  バラケツも、三つ指に対する礼のつもりで、膝を折り神妙に頭を下げた。 「いやあ。二三日やて。そんなこといわんとゆっくりして行って。あんたが、明石の球場へ来るいうて、うちの人いうたら昨日からソワソワして。ほんで、今朝も、雨になりそやのに、濡れるぐらいが何ぞいの。血肉わけた弟の活躍を、スタンドの隅からでも見守ってやるわいのういうて。ほんまに兄弟愛は美わしい思うて、うちも、瞼をジンとさせてましたんえ」  この夫婦は一体どういう毎日を送っているのだろうか。似た者といえばそれまでだが、こんな間にはさまれて何日も暮したら、気がおかしゅうなると、バラケツは思った。 「ゆっくりしていって。大事な人の弟やもん。精一杯気いつかわせてもらいます」  と丹後カルメンはいいながら、気をつかうどころか、その夜、応接間で眠るバラケツを不眠にするほど、自慢のダブルベッドを|軋《きし》ませ、殺人事件があったのかと思うほどの悲鳴と嬌声をあげて、悩ましたのだった。  やがて、それもおさまり、息絶えたかのように静かになったかと思うと、雨の音が耳につきはじめた。  珍しく、バラケツは眠れなかった。いつもなら瞼を閉じるまでもなく眠りに落ちて行くのに、妙にさえざえとして、悶々とソファーの上で寝返りをうちつづけた。  隣室のはばからない狂宴から受けた刺激か、それとも、思いがけない形で高校時代の野球を終了させた衝撃か、ムメと同じ神戸にいるのだという昂りか、バラケツにはわからなかったが、硬くなった股間をしっかりと握りしめていた。  夜明けのまどろみの中で、ムメの夢を見ていた。   4 紙飛行機  男の体の中に腰をおろした悶々は、梅雨時の|黴《かび》のように厚みを増し、重さまで伴って来るものだと、バラケツは思った。  百八十センチ、八十キロ。十八歳のはちきれそうな肉体と、屈託を知らない精神をもっていても、この黴のけだるさを追い払うことは出来ない。  ブギウギトンボにいわせれば、それは傷心の姿であるということだが、そんな透明感を伴ったものではなく、バラケツの感じるのは、出口のないトンネルに踏み迷う湿気の多い気分だった。  だから、ブギウギトンボと丹後カルメンが、過剰とも思えるサービスで、分刻みの|演《だ》し物を次々と目の前に提出しても、バラケツの気分はもう一つ乗りきれなかった。  宝塚、OSKの少女歌劇。中田ダイマル・ラケットや、ミス・ワカサ、島ひろしらの漫才。甲子園球場での阪神タイガース。有馬温泉や六甲山のドライブ。四ツ橋の電気館のプラネタリウム、はては、王子動物園まで、阪神観光地図をそのままに、翌日からひっぱりまわされ、肉親の情愛をたっぷり示されたが、バラケツは憂鬱だった。  あの試合当日の豪雨を最後に、閉会式を告げる大きな雷とともにすっかり夏になっていた。  バラケツは、緑にきらめく六甲の|山脈《やまなみ》を見つめ、そして、ようやく彩ることを覚えた神戸湾内の水と、明石海峡の潮流を眺め、いっそのことムメを訪ね、  やってこましたろか。  乙女の花を散らしてこましたろか。  などということを思ってみたが、それは出来ないことだった。  してはいけないという制御が、ムメこと波多野武女に対してだけは、いつの日も働きつづけていた。  三日目になって、バラケツは、ブギウギトンボを、ちょっとと呼んだ。  さあ、今日は何処へ案内しましょう、と丹後カルメンが張り切って双肌脱ぎの化粧を始めたところであったから、目の前で話すには少々はばかられた。 「何や?」  台所の片隅の、美空ひばりや市川右太衛門の家と同型だという冷蔵庫に押しつけられるようにして、ブギウギトンボは訊ねた。 「兄ちゃん。わいも、この際、大人になって帰ろう思うんやけど、面倒見てくれへんけ?」  ブギウギトンボは、象牙のパイプにさしこんだ洋モクを、前歯で噛んで上下させながら、珍しく思いつめた表情の弟を見つめていたが、大仰にポンと胸を叩いた。はずみで鼻孔から煙の輪が一つとび出した。 「ヒヒヒヒ……」 「どないやねん?」 「結構やないけ」 「ほんまけ!?」 「兄ちゃんに委せとけ。ちゃんと童貞に花飾って捨てさせたるわ」 「頼むわ。今が捨て時、変り時やさかいな」 「よっしゃ。よっしゃ」  ブギウギトンボは、手に余る大きさに育った巨大な弟の体を抱きかかえ、ヒヒヒ、ヒヒヒと何度も喉の奥で笑った。  それは、鏡台の前から、ズロース一枚でとんで来た丹後カルメンが、 「ヒヤッ、男同士で、ヤラシッ」  と思わず目をむくほどのじゃれ合いだった。  ブギウギトンボが、初登板は此処がええ、と案内したところは、神戸市とはいっても漁師町の風情のたたずまいで、そのゴチャゴチャと入り組んだ町に、通り一本だけケバケバしく染めて息づいているロマンス通りだった。そこに近づくにつれて都会の色は消え、道路もアスファルトの舗装が|断《き》れて、三日前の水たまりにマッチの小箱が浮いていた。  潮の匂いが流れこみ、空気も全体にしめっぽかった。  ブギウギトンボは、その通りの入口で、自家用車のヒルマンを停めた。  ロマンス通りと紅色のネオンを光らせたアーチがあった。その色は、風船ヨーヨーに入っている氷菓子の色を思わせ、アーチは運動会をも思わせた。「お富さん」が、ひしゃげた音で流れていた。  入口近くの街灯の下に屋台のところてん屋が出ていて、風鈴があるかないかの風に、時々巡礼の鈴のような音をたてた。そして、通りそのものは意外に暗かった。 「ほんじゃまあ。兄ちゃん。行ってくるわ」  バラケツがいった。  学生ズボンに開襟シャツでも何やろということで、ブギウギトンボが調達して来た背広を着ていたが、気恥かしくなるような大柄で、腹話術の人形のように見えた。好意的に見ても|丁稚《でつち》の里帰りだった。 「わいは、このまま一晩泊って、淡路へ帰るよってな」 「ほうか」 「兄ちゃん。肉親愛ようわかるで」 「泣かせたらあかん」 「けど、これからは別々やろな。別々の人生やろな」 「嵐の兄弟やさけえな」 「ほんじゃ」  バラケツは、ユニホームとグラブと学生ズボンの詰ったボストンバッグをさげて、ヒルマンをおりた。 「ちょっと待て」 「何や?」 「これ持って行けや」  ブギウギトンボがさし出したものは、両掌で抱えるほどの紙包みだった。湿りを帯びてやわらかかった。 「何やねん? これ」 「三笠山や。ドラ焼きや」 「こんなもん何するねん?」 「ええか。通りへ入ったら、女がパッとイナゴみたいに飛びついて来よる。けど、近間で手え打たんと一通り見て歩けよ。冷静な観察と的確な判断が必要や。女いうても、原節子や月丘夢路もおれば、松登や三根山もおるわい。松登が来たら、パッとこれ出すんや。ご免。カンニン。これで通して。三笠山は通行手形や。ええな、三根山にはお引き取り願うんやで。男の門出や。夢見るような原節子で行こうやないけ」 「それも知恵やな」  バラケツは感心して、三笠山の包みを受けとったが、知恵を働かすどころではなかった。  腐りかけたどぶ板を渡り、真赤な光が|雫《しずく》のように降りそそいでいるアーチをくぐって、薄い闇に身を置いたとたん、何やら厚ぼったい白粉の匂いを押しつけられたと思うと、ヒャア、ヒャアという奇声とともに女の部屋に連れこまれていた。  この通りの中に原節子や月丘夢路がいるとも思えなかったが、それにしてもいきなりのぶちかましで、どちらかというと松登であった。  バラケツは、左手に三笠山の入った紙包みをかかえ、右手にボストンバッグを下げて呆然としていた。  そのままの姿勢でぐるりと見渡すと、潮気を含んだ壁がはがれかかった、普通のみすぼらしい部屋で、低い天井からぶら下った裸電球に、カナブンが悲しい旋回を試みていた。  押し入れの|襖《ふすま》に、佐田啓二と岸恵子のブロマイドがはってあるところを見ると、「君の名は」のファンらしい。あと目につくものは、茶箪笥と季節外れの大火鉢と、雑誌「平凡」と「婦人生活」ぐらいのもので、|緋色《ひいろ》の蒲団だけが場違いなほどきらびやかだった。  女はヒヒヒと笑った。  浴衣を着た太った女で、母親といっていいくらいの大年増だった。 「何や。親孝行しに来たみたいやないけ」  バラケツがいうと、 「よういうわ。このボンは」  女は大仰に手をふり上げた。 「土産や」  とバラケツは、三笠山の包みを渡し、 「これがわいの甲子園かいの」  と、あらためて部屋と女を見渡した。  パチッと音立てて裸電球のスイッチをひねると、すぐ耳の下で波の音がした。窓の下は浜辺なしの海のようだった。  月が出ているのか、海に映えた淡い光が天井で揺れていた。部屋のあらましも、女の輪郭も、目をこらせばわかるほどだった。  白粉の匂いがした。同時に、部屋の隅でくすぶりつづける蚊取線香の匂いもした。  バラケツは、横に寝そべっている太った年増女が気に入っていた。  初登板の相手としては、原節子や月丘夢路よりずっと似合いで、これ以上はないと思っていた。彼女になら、見栄をはることもなく、元服の見届人を頼めるだろう。  そして、気分は、例えば、船に揺られ、小春日和の海でうたた寝の夢を見るような、そんな夜になるかもしれない。 「あんた」 「何や?」 「間違うても、ええ時になって、お母ちゃんてなこというんやないで」 「アホな」 「ほなら、おいで。わからんでもええから、無茶苦茶おいで。ちゃんと男にしてあげるわ」  促されて体を起し、|狛犬《こまいぬ》のように両手をつくと、女は太った体をその下にもぐりこませて来て、 「ここが肝心や。立派にせなあかん。ほら」  と体を抱きしめて来た。 「よっしゃ。行くでえ」 「おいで。故郷の道や。ちゃんと覚えてる筈や」 「プレイボール」 「ストライク」  バラケツの体は、確かに故郷の道をたずねあてた。  闇の中で、女のほの白い顔がかすかに笑った。  それは、やがて、乳白色のもやのように溶けて、バラケツの鉄のように硬くなった体に巻きついて来た。白粉の匂いが消え、女の匂いがただよい始めた。  わずかなところで触れ合っている女の体は、想像通りにやさしく、やわらかく、幸福といえる思いやりを、うねりながら示していた。  ワッセ ワッセ ワッセ  バラケツは大声で笑い出したいような解放感と爽快感を感じ、何だ坂、こんな坂と太った年増女の体を登って行ったが、その登りつめた無意識の中で、悲鳴にも似た絶叫で、 「ムメーッ」  と叫んでいた。そして、もう一度、小さくムメとつぶやくと、女の汗ばんだ乳房の上に倒れこんだ。  女の両手がやさしく背にまわり、それから後頭部を|賞《め》でるように撫ぜた。 「おめでとはん」 「おおきに」  二人は、闇の中で笑い合った。  正木三郎。十八歳。元服やとバラケツは思った。  波の音がきこえていた。ポチャッと石垣にぶち当り、駈け登ろうとするかのような音だった。そして、それにまじって、遠く女の嬌声と、くり返し鳴りつづけている「お富さん」もきこえて来た。   粋な黒塀 見越しの松に   仇な姿の洗い髪   死んだ筈だよ お富さん   ……… 「大したもんや。立派なもんや」  と女は満更お世辞でもないようにいい、 「それにしても、マミムメモたらいう、よがり声初めてきいたわ」  とあきれた声を出した。  バラケツは返事をしなかった。ましてや、ムメーッの説明など出来る筈もなかった。第一、バラケツ自身が、あのような非常時に、ムメの名前を叫ぶことになろうとは思ってもいなかった。  バラケツは、窓により、月明に鈍く光る海を見つめていた。遠くに|漁火《いさりび》のまたたきと、小さい集落を思わせる淡路島の灯が見えた。  風が流れ、裸の胸から汗と女の匂いを奪って行くようだった。 「さらば、ムメよ」  突然、わけもなく大声をあげて泣きたいような思いが襲って来た。  その夜、それからの時間、バラケツは、太った年増の女と三笠山を食べ、女の趣味の紙飛行機づくりに精を出し、いくつも、いくつも海に飛ばした。  飛行機には、今一番欲しい物を書くのがきまりだそうで、女は、ミシンとハイヒールを書き、バラケツは、阪神タイガースと波多野武女を書いた。  夜ふけの瀬戸の海を、娼家の窓から飛び出した紙飛行機は、翼いためた|鴎《かもめ》のように、わずかな飛翔を見せるだけで、次々に波に落ちて行った。   5 秋鯖と赤とんぼ  日曜日に秋が来た。  唐突だがそんな気がした。窓を開けると、空一面の赤とんぼだった。赤とんぼの群れは風景を赤く染めて、季節が移動するように流れていた。それは、足柄竜太にとって、|寂寥《せきりよう》といっていい眺めだった。  夏の名残りの積乱雲が、気球のように高く昇っていた。二度と地上に近づくことはないだろうと思わせるほどの高さだった。  時の彼方という思いが、その積乱雲より更に高い青空の深さに感じられた。  江坂タイガースで無邪気に過した時代から、カタリ、カタリ、カタリと歯車が三つ刻んだように三年が過ぎようとしていた。  その間、多くの人が去った。  季節があと二つ移ると、竜太もまた淡路島を出なければならない。しかし、希望の船出というには、何もかもが心もとない竜太の現状だった。  背中でラジオが鳴っていた。「乙女の祈り」のピアノのメロディと、化粧品のコマーシャルだった。  江坂町巡査駐在所の窓は古ぼけた額縁だった。秋の日を浴びると何もかもが尚更悲しげに見えて、たまらない午後だった。  油のきれた自転車をこぎながら、祖父の足柄忠勇巡査が戻って来るのが見えた。  きちんと制服を着て、規則通り腰には拳銃と警棒も付けていた。|鬢《びん》の白さが遠目でも目につき、だから祖父には拳銃は不似合いだった。老人と拳銃は、お互いを無口にし合う因果者同士であることを、孫の竜太は知っていた。  竜太は、軽く手を上げて老巡査の労をねぎらった。祖父の顔に微笑がひろがり、それすらが、秋の景色だった。  長過ぎた巡査生活が、祖父を極度に穏やかな人柄に変えた。  古い知人が時に訪れ、豪傑で鳴らした若かりし日を語り、 「忠勇無双の豪傑は」  といわれたものだと、数々の挿話を並べてみても、今の忠勇からはうかがうことは出来なかった。そういえば、小さい頃、確か父と母に手をひかれて祖父母の処へ訪れた時、切腹を命じる武士のように厳しく冷たい顔をした祖父が、記憶のどこかに残っているような気もするが、それだけである。  豪傑は、何処かで捨てたに違いない。  敗戦のせいかもしれない。息子夫婦の死ということもあるかもしれない。  激情に至ることを怖れるように、祖父は日々を送り、そして、竜太にも何もいわなかった。  それは、決心でもあるようだった。 「お前は、淡路島で育っても、淡路の子と違う。他の子には故郷でもお前には違うのや。何でやいうたら、わしが巡査やったからや。巡査ちゅうのは、その土地土地で決して故郷にならんように生きてるんや。十年たっても、二十年たっても、土地の人間にはならんし、故郷にもならん。そやから、巡査の孫のお前には故郷はない。早よ淡路島を忘れた方がお前のためや。東京へ行ったらええ。大学へ入ったらええ。そのくらいの|甲斐性《かいしよう》はわしにもあるやろ。けど、竜太。一人で暮すんやど。高校出たら一人やど」  季節が二つ移ると、という思いは竜太だけではなかった。  竜太が淡路島を出る時、祖父もまた記録的な永年勤続の巡査を辞めて、生れ故郷の宮崎へ帰ることになっていた。  結局、十何年しか暮さなかった故郷の方が、四十何年か過した土地より、帰るべきところになるというのが淋しく思えたが、一方では、竜太には、決して竜太と暮さないというのが、この老夫婦の|矜持《きようじ》に思えた。  祖父は、窓の下まで自転車を押して来て、荷台にくくりつけてあった新聞包みを開いて見せた。色のいい|秋鯖《あきさば》が三本入っていた。 「どや。うまそうやろ」  祖父は晴れた声を出した。  パトロールのついでに漁師の家へまわり、手に入れて来たものらしい。秋の日を浴びて、はちきれそうに肉付きのいい鯖は、静物画のようにきちんとおさまっていた。 「包丁|研《と》がんとあかんな」 「板前か?」 「そや。うまい酒にしよう」 「つきおうてもええで」 「アホぬかせ」  祖父の忠勇は、珍しく軽口を叩くと、鯖を三本ぶら下げて、勝手口の方へ走って行った。その腰で、拳銃が光り、警棒が踊った。  さっきより、赤とんぼは数を増し、群れというより層という厚さで、周囲を埋めていた。その影が稲穂の上や、乾ききった道路の上で揺れるほどだった。  さらに、その中の二匹が、竜太の顔をかすめるようにして部屋へ入った。  赤とんぼは、一旦天井へ舞い上り、不器用にぶつかりながら飛んでいたが、二匹羽をつなぎ合せたように水平になると、わずかばかり扉の開いた仏壇に入りこみ花にとまった。 「ようでけたとんぼや」  竜太は笑った。  仏壇には、竜太の父の公一と、母の良枝の位牌がある。とんぼに促されたわけでもないが、慌てて竜太も手を合せ、全ては順調だとつぶやいて、その後ごろりと畳に寝そべった。  その手の届くところには、形ばかり赤尾の豆単と赤鉛筆があった。  昭和二十九年九月二十六日。  台風十五号は、北海道南部を通過。その中を出航した青函連絡船洞爺丸は、函館港外の七重浜沖で座礁の上転覆した。死者、行方不明一千百五十五人。  映画は、「グレン・ミラー物語」だった。  この映画を最後に、しばらくは映画館から足を遠ざけようと遅ればせながら決心し、考えた末最後の一本に選んだのがこれだった。  形だけでも禁欲の態度を見せなければならない。  秋も深まりつつあった。  竜太は、そのラストシーンで少し泣いた。主のいないグレン・ミラー楽団の演奏がラジオから流れ、それを愛妻が聴いていた。妻に扮する女優は、ジューン・アリスンだった。  グレン・ミラーが戦死する直前の、彼に扮するジェームス・スチュアートのトレンチ・コート姿が目に残った。  竜太は、ハリウッド座の固い椅子に体を埋めたまま、心地よく揺さぶりつづけたグレン・ミラーの音楽を反復していた。 「ペンシルバニア65000」が微笑ましく、「茶色の小瓶」や「セントルイス・ブルース・マーチ」も印象的だった。  音楽もいいものだと思っていた。何か引きずられて行きそうな予感さえ感じていた。  呼び出しの声がかかったのは、そんな時だった。確かに自凝高校の足柄竜太様と呼んだ。  覚えがないことなので、|訝《いぶか》りながらロビーに出ると、モギリ嬢のところから、バラケツ正木三郎が手を振っていた。 「えらい探したで。白鳥座から、自凝座から一通り歩いて来たわ」 「どないしてん?」 「出えへんか。ちょっと話があるんや」  竜太は、もう一本の「リリー」にも未練があったが、しゃあない、レスリー・キャロンよりは親友や、と心にきめたが、それより、いつになく思いつめたバラケツの表情に、よっしゃ、と答えた。  バラケツとは久しぶりだった。  甲子園の夢破れ、しかも、エラーをした味方選手に暴行を加えたというので、ちょっと問題になり心配したが、幸いその件は不問になったようだった。  しばらく見ない間に、バラケツは一まわりも二まわりも大人びて、凄味さえ感じさせるようになっていた。  竜太は、ちょっと威圧を感じた。  バラケツは、学生服を脱ぎ、薄いセーターを着て、ボストンバッグを提げていた。 「何処かへ行くんか?」  竜太が訊ねた。 「そや。その件で、ちょっと告白や。まあ、海へでも行ってゆっくり話そうかいのう」  自凝市の繁華街を、二人はそれ以後無言でぬけた。気持が|急《せ》くのか、常に一歩バラケツが前を歩き、思案の竜太は遅れがちだった。  もはや影は長かった。それぞれが、それぞれの長い影を踏みながら歩いた。  松林に囲まれた海水浴場は、何人かのそぞろ歩きが見えるだけで、静かだった。にぎわいが去って、それは、既に終った映画のポスターが風雨にさらされているようであった。  二人は、砂の上に腰を下し、さあ話をきこうやないけ、というように竜太はバラケツの顔を見た。 「ウォーッ」  突如としてバラケツは獣のように吠えた。 「何や。びっくりするやないけ」  と竜太は咎めたが、バラケツの叫びが意外に悲しく秋の海に響くのを感じていた。 「すまん」  バラケツは、またしても唐突に頭を下げた。 「|恋患《こいわずら》いや。めちゃめちゃの恋患いや」  素直な告白だった。それだけに、その素直さは、竜太につき刺したナイフのように衝撃的だった。 「ムメか? ムメなんやな?」  竜太は、悲痛な声を出してバラケツに迫った。答えはきかなくてもわかっていた。バラケツが、わざわざ断わりをいうのは、ムメ、波多野武女をおいて他になかった。 「あかん」  今度は竜太が叫んだ。  気持の中の頼りない部分に感傷に満ちた風が吹いたということではなく、人をつつむ全てのものが、にぎわいの飾りを捨て、謙虚にうずくまる本当の秋になっていた。  つい何日か前まで、そこそこ楽天的に眺めていられた景色が、浮かれることを拒絶するかのように遠ざかっている。  例えば、ここから見渡せる水平線もどこか儚げで、通り過ぎる貨物船や客船の影も、|蜃気楼《しんきろう》のように浮いて見える。  背後にそびえる城山も、いつの間にか赤みを帯び、観光用に登り下りする馬の姿も、精気を欠いて淋しげであった。  風が吹き、足許の砂が揺れて顔を変えた。 「お化けや。恋はお化けや。切っても、切っても出て来よる。わいはなあ。竜太。松登みたいなオバちゃんに童貞捧げて、あきらめよう思うたんや。けど、あかん、あかんね」  バラケツは、|憑《つ》かれたようにしゃべりながら、あのロマンス通りの娼家の窓から海に向って飛ばした紙飛行機の白さを思っていた。  それには、一番欲しいものという願いで、波多野武女の名前を書いた。あっけらかんとした、それはそれで爽快な童貞喪失のあとの、思いもかけない息苦しい想いだった。  そして、子供の頃から、常に彼らの中で咲き誇り、矜持に満ちた美少女の硬質のきらめきを想い出していた。  脛に吸いついた蛭を、ひざまずいて取ってやったのは十歳の時であろうか。連絡船に乗り江坂町の桟橋から去って行ったのは十二歳の時であろうか。  そんな想い出が空白の時を置いて、今バラケツの体を揺り動かすほどの激情になったことに不思議を感じていた。  竜太は竜太で、二年前の夏、風呂場の窓から裸の上半身を乗り出すようにして接吻したムメと、その時見た少年のように薄い胸の、乳房ともよべないかすかなふくらみを想い出し、今また呆然としていた。  バラケツは立ち上った。神戸へ行くといった。行って、好きやというてみるといった。 「とめてもあかんで」 「行け。勝手に行け」 「なあ、竜太」 「何や?」 「男の友情はつづけたいのう」 「アホか」 「ほなら、行って来るわ。あかんといわれたら首くくる。ええといわれたら、抱いてこましたろかいのう」 「バラケツ」 「何や?」 「もしかしたら、これでお別れかもしれん」 「長い友情やったのにのう」  バラケツは連絡船に乗った。神戸行きの最終便だった。  黄昏に一とききらめいた自凝港から、船は出て行った。  友情の訣別を宣したにもかかわらず、バラケツは甲板に立って、手を振っていた。竜太も手を上げた。  汽笛の響きに、ふと、今見送る立場にいる自分にいいようのない嫌悪を感じた。  少なくともバラケツは向っている。滑稽を恐れずに向っている。  もしかしたら、ムメは、そのようなバラケツの直情に傾くかもしれないと思うと、取り返しのつかない思いに襲われた。  いつか会った時、ムメは、うち四分の一不良なんよ、といった。四分の一が二分の一になり、四分の三になっているとしたら、どうなるかわからない。  日暮れて、帰りのバスは空いていた。  竜太は、「グレン・ミラー物語」のチラシを読みながら、愛情に満ちあふれた場面と、それをあたたかく鼓舞した音楽を思い浮かべていた。  淡路島を縦断する山脈の、ちょうど東と西の分水嶺になるところのトンネルを越えたあたりで、胸が痛くなり、ムメと叫んだ。ガラガラの車内では誰にも聴かれることはなかった。  何故か、秋の訪れのように飛んだ空一面の赤とんぼが目に浮かび、淡路島を出るまで後四カ月だと思った。  それぞれの感冬曲   1 三ノ宮幻想 「戯夜伴」という喫茶店はすぐに見つかった。  国鉄三ノ宮駅から浜側へ歩いて四五分のところの、|洒落《しやれ》た洋品店とカメラ屋の間にあった。大して大きな店構えではなかったが、何となく一流を気どっているようなところが感じられた。  戯夜伴は、ギャバンと読み、フランスの俳優ジャン・ギャバンの名をもじっているらしく、店内には、畳一|帖《じよう》ほどもあるセピア色の「望郷」の写真が飾られ、シャンソンが流れていた。  竜太がよろこびそうな名前や、とバラケツ正木三郎は思った。  それにしても、|戯《たわむ》れの|夜《よる》のお|伴《とも》ちゅうのんは、劣情をそそるやないけ、のう、とウエイトレスに同意を求めると、 「ヤラシッ」  といったきり、そのウエイトレスは姿を見せなくなった。体の大きな高校生の、脂くさい雰囲気が不気味に思えるのであろう。事実、バラケツは心身ともにギラついていた。  代りのウエイトレスが注文をとりに来たので、珈琲を注文した。どうやら、この店では、珈琲というのが常識であると思えたからで、お好み焼きときつねうどんが無いのであれば、後は何でも同じだった。 「お砂糖。おいくつ?」  ウエイトレスがたずねた。 「砂糖は只やな?」 「はい」 「十ぐらい置いてけや」  バラケツは、珈琲の中に角砂糖を三つ入れ、残りをポリポリかじって食べた。  ウエイトレス二人が、体をつっつき合いながら笑っているのが見えた。 「詩人の魂」が流れていた。もちろん、バラケツはそんな曲名を知らない。ヒョーゴロ、ヒョーゴロ、屁みたいな歌やないけ、と思っていた。  甘ったるい珈琲を一杯飲み終っても、ムメこと波多野武女は現われなかった。約束は一時だったが、もう十分が過ぎていた。口の中がベトついて吐きそうになった。 「ゲェッ」といい、それが、「ギョウッ」という感じになると、隣のテーブルの客が明らかに不快な顔をした。  バラケツは、水を一息に飲みほし、 「おやかましゅう」  といった。  ついでに、店内を見渡すと、そこはそれ、何といっても三ノ宮の一流の喫茶店の客であるから、|自凝《おのころ》のうどん屋とは雰囲気が違う。  立居振舞い、もの言いが、どことなく洗練された風で、いってみればスマートだった。  どうやら、そういうことを意識した人種が集る喫茶店であるようで、文化的な匂いをプンプンと身につけたアベックやグループが、実感乏しい|気障《きざ》に陶酔しながら、映画や文学や音楽を語っている。  世の風潮は、M+Wの時代とかで、男と女の風俗が逆転したのが流行っているときいていたが、それらしく見えるおんな男や、おとこ女が何組かいた。  そんな骨ばった女を見ているうちに、バラケツは、何故かわけもなく唐突に、ロマンス通りの関脇松登に似た大年増の娼婦を思い出した。  童貞献上の相手で、その女は、母なる大地のようにあたたかく、やわらかかった。  そして、あの夜、行為が終ったあと、二人して、紙飛行機に願いごとを書いて、月明にゆらめく海に向って飛ばしたが、あれは、叶えられただろうかと思った。  女は、ミシンとハイヒールと書き、バラケツは、阪神タイガースと波多野武女と書いた。  バラケツの願いは、阪神タイガースにもう一息、波多野武女とは、今日これから次第というところだった。  二十分過ぎても、ムメは現われなかった。今更、角砂糖をかじる気にもならない。することのなくなった戯夜伴で、バラケツは異人のように居心地悪く座っていた。  三十分が過ぎた時、電話がかかった。 「自凝高校の正木三郎様。お電話がかかっております。レジ・カウンターまでおこし下さい」  と呼び出されて、出て行くと、さっきのヤラシッと叫んだウエイトレスが、 「あんた、ほんまに自凝高校の正木君?」  とたずねた。 「そや」 「ピッチャーの?」 「そやがな」 「ゲンメツやわあ」 「知るか」  とバラケツは怒鳴ったが、これでファンを一人|失《な》くしてしもうたな、と思っていた。  電話はムメからだった。  遅れてごめんでも、かんにんでもなく、ムメはいきなり待ち合せ場所の変更を伝えた。ハーバーライト・ホテルの一階ロビーに来てほしいという。場所は、戯夜伴の筋向いで、歩いてほんの五六分だからといって、一方的に電話はきれた。 「どういうこっちゃねん」  バラケツは、前途多難を覚えながら、戯夜伴を出た。珈琲代五十円をとられた。角砂糖十個分が含まれているのではないかと思った。ウエイトレスがまた笑っていた。  舗道には、深まりつつある秋の風が吹いていた。それに運ばれるように、華やかな色彩が軽やかに行き来している。晴れてはいるが、どことなくはかなげな陽ざしに人々の影が長くのびていた。  バラケツは、ボストンバッグをぶら下げ、背中にシャンソンを聴きながら歩き出した。坊主頭は大分伸びかけていたが、百八十センチもある巨体は、見ようによっては異様でもあった。セーターでは少し寒かった。六甲の連山が薄紫に稜線だけをきわ立たせて、背後にあった。  車道をつっきると突然にぎやかになり、どこからかレコードがきこえて来た。菊池章子の「春の舞妓」で、バラケツが今年見た数少ない映画の一本である「舞妓物語」の主題歌だった。   十六の 胸の傷みは 加茂川の   |蓬《よもぎ》の香より 来るという  バラケツは、それに合せて口ずさみ、若尾文子は可愛かったと思った。  雑踏の騒音にまじって、とぎれとぎれだが|台詞《せりふ》がきこえて来た。それは、劇中の可憐な舞妓である若尾文子の気持を伝える台詞である。   丘の上の白い校舎よ さようなら   私はとうとう舞妓になった あけて十六   あゝ私の胸にも   そして 加茂の河原にも   人の世の春は訪れて来たのだわ 「ええ台詞やんけ」  とバラケツはつぶやき、果してわいの春は訪れてくれるのやろかと、珍しく人生に懐疑的になりながら、なじみ難い雰囲気のハーバーライト・ホテルヘ入って行った。  それにしても、この際の一番の問題は、ロビーちゅうのんは何処じゃろかい、ということであった。  ロビーは、探すまでもなく、踏みこんだところがロビーであるとわかると、バラケツ正木三郎は、ムメの姿を求めてキョロキョロした。  真赤な絨毯を敷きつめた広大な空間に、体の全てが沈みこんでしまいそうなソファーが点在しており、やわらかい光の中で、何人ずつかが一塊になって談笑していた。  その塊の一つからムメが立ち上って、軽く手をあげた。ちょっと肩のあたりまで指先が来るかどうかという上げ方だった。  懐しさに我を忘れて手をうちふるという風でもなかったし、感涙にむせぶという様子もなかった。ただ微笑みだけは辛うじてうかがえた。 「ムメーッ」  と絶叫して走り寄り、むしゃぶりつきたい気持になっているバラケツの感情とは、相当に差があるようだった。  たとえば、ムメが、アアッと叫び、かすれた声で、 「バラケツちゃん!」  とでも呼んでくれたら、バラケツはたちまちに奮い立ち、人目もはばからず、ブチュッブチュッと接吻をし、その効果次第によっては、カーブの握り方を応用して乳房にも情熱を伝えたかもしれない。 「あれ。こんなところで」  などと叫んでも、知ったこっちゃない、わいは七年間の恋情を一気に爆発させるためにやって来たんや。ちょうど|按配《あんばい》よくフカフカのソファーもある。この上でとのしかかりもしただろうが、予想は見事に外れて、ムメは冷ややかではないまでも、静かにバラケツを迎えたのだ。  その上、ムメは一人ではなかった。バラケツの目から見れば軟派に過ぎる学生と、フィリピンのボクサーのフラッシュ・エロルデみたいな少年が一緒だった。  そういう状況にはがっかりしたが、ムメこと波多野武女自身に対しては、七年間、胸のうちで増幅しつづけて来た幻想が、まだまだ不足であると思えるくらいの美女ぶりで、バラケツは生唾を呑みこんだ。  竹のように細い体は、少女の時のそのままだが、背はそこそこの男をしのぐほどあり、全体のしなやかさが肉の薄さを補って、固い印象を与えない。胸も腰も丸いという感じとは程遠いが、それでも何やらエロチックにさえ思える。  髪は、ヘップバーン刈りというやつで、前髪だけをわずかに垂らして、全体には短く刈り上げている。この髪型は今年の圧倒的流行で、そもそもは、「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンを真似たものであるが、バラケツは、この髪型が似合った女を今までに見たことがない。枕のように大きな顔に、刈り上げた髪では、雪だるまに大根の葉っぱをのせて髪に模したのと大差ないからだ。  しかし、ムメは違った。  ひきしまった小さな顔に、やや吊り上り気味の大きな目と、充分に質感のある唇が、中寄りに集っている。そういう顔であるからこそ、シャキッと切りそろえた前髪が、額に斜めに走っているのも様になるのだ。 「ヘップバーンやな」  バラケツはいった。七年ぶりの対面にしては、いささか適当を欠いているように思えたが、ムメーッという激情の叫びが否定されてしまうと仕方がなかった。 「大きゅうなって」  ムメが微笑んだ。 「七年ぶりやね」 「そや」  必ずしも劇的な展開ではなかったが、それでも、自然に旧交が暖まるような空気が、二人の間に通い始めたのが、バラケツにはわかった。  バラケツを迎えるムメの態度は、決してよそよそしくも、冷ややかでもなかったのだ。バラケツの想像が度外れて自分に都合がよく、異常だったに過ぎない。  ムメは、同席の二人を紹介した。  二人とも素人演劇の俳優だということで、一人は関西学院、一人は甲南大学の学生だということだった。関西学院の方は演出もやるということで、劇団「|呆夢《ほうむ》」の中心人物だといった。バラケツは、名前を覚えても仕方がないので、関西学院を軟派、甲南大学をエロルデと呼ぶことにした。 「ムメも芝居やるんか?」 「ううん。うちは、パトロンなんよ」 「何や、それ?」 「お金出してあげてるの」 「へえ。高校生にお金出してもろて、大学生が芝居やっとるんか」 「そうやの。うちの無駄遣いの手伝いをしてもろうとるんよ」  ムメがいうと、軟派とエロルデは、ケッケッと卑屈に笑った。 「そうなんすよ。そうなんすよ」  何がケッケッじゃ。何がそうなんすよじゃ。お前ら、チンポひき抜いてこましたろか、とバラケツは腹の中で毒づいていた。  彼らは、女王を奉る輩下の感じがした。それも相当に卑しかった。考えてみれば、ムメに対しては、竜太もバラケツもいわば下僕のようなところがあったが、これほどヘラヘラと卑屈やなかったわい、とバラケツは思っていた。  ムメが慣れた手付きで煙草をくわえると、軟派とエロルデが競って、シュボッ、シュボッとライターをつけ、ムメはムメで、その二つの炎の中から一つを意味ありげに選んで、片方にためいきをつかせたりしていた。  バラケツはいやな気がした。  そういう状景を久しぶりの友だちに見せつけるムメは、偽悪なのか、本体なのかわからないが、バラケツの中にあるたとえようもなく美しいムメとは一致しないものだった。 「ちゃうなあ。ちゃう!」  と口に出していいたいほどだった。   十六の 胸の傷みは 加茂川の   蓬の香より 来るという  とても、そんな感じのいじらしさなどは求めようもなく、ハーバーライト・ホテルの豪勢なロビーにふんぞり返って女王然としているムメは、裸にむいてキイキイいわせてこましたろか、と思うほど腹が立った。  ムメに愛を告白すると宣言して自凝港を出る時、バラケツは足柄竜太にむかって、 「ほなら、行って来るわ。あかんといわれたら首くくる。ええといわれたら、抱いてこましたろかいのう」  と捨て台詞を残したが、この分では、首をくくるか、またロマンス通りの松登に似たオバちゃんの腹の上に乗るしかしゃあないな、と思っていた。 「帰るわ」  とバラケツがいった。 「何で?」  さすがにムメが驚いた声を出して、煙草の火をもみ消した。 「わいは、ムメに会いに来たんや。通りがかりについでに寄ったんとちゃうで。わざわざ学校休んでやって来たんや。大事な話があったからや。一生の問題や。なあ、ムメ。わいらの仲やないけ。何でも一緒にやった仲やないけ。脛に吸いついた蛭までとってやった仲やで。もうちいっと何とかならんけ。もうちいっと、懐しいとか、嬉しいとかならんもんけ。大体、何のつもりかしらんけど、妙なお伴つれて来とるのんも、わいは気にいらんで。帰るわ」 「ごめん」  ムメは素直だった。そして、 「ほら。あんたらがうろうろしてるよって、うちの友だち怒らせてしもうたやないの。帰って」  と軟派とエロルデに|矛先《ほこさき》を向けた。 「ええわい。ええわい。芝居せんかて」 「芝居やないのんよ。本心よ。ごめん。かんにん」  そうまでいって、ムメの黒々とした大きな目で見つめられると、バラケツの腹立たしさなどは、そんなことあったかいな、という程度の他愛なさで霧消しそうになる。  ムメは、二人の大学生に、 「ちゃんと、おわびしてほしいわ。うちが誤解されるの悲しいわ」  といい、その場で追い払って、あらためて、機嫌なおしてほしいわ、といった。  そして、くどいようだけど、あの二人がこの場にいたのも他意があってのことではない。劇団「呆夢」の次回公演の打合せを此処でしているうちに、戯夜伴へ行く時間に遅れてしまっただけで、久しぶりにバラケツちゃんに会えた嬉しさには変りないと、バラケツの手をひき寄せて弁解した。 「あかんなあ」 「まだ怒ってるの?」 「ちゃう。ムメにそないいわれたら、あかんなあ。昔のままや。バラケツちゃん。ハイッてなもんや」  バラケツはためいきをついた。 「よかった」  ムメは、いつの間にか、可愛い美少女に戻って胸をなでおろす。  そんな仕ぐさの一つ一つを見ながら、バラケツは、ふたたび、首くくるか、抱いてこますかの二筋道だと思い始めていた。  松登のオバちゃんに泣きつくこともないやろう。   2 冬の前に 「大事な話って何やのん?」  とムメがたずねた。  あの後すぐにハーバーライト・ホテルを出て、映画街で「掠奪された七人の花嫁」を見、その近くのレストランで、初めてのナイフとフォークで冷や汗の出る食事をして、元町を通り抜けふらりふらりと歩いて来たのだが、その間でも、ずっとムメの気持をとらえていたものらしかった。  神戸港の岸壁で、既に陽は落ち、肌寒い秋風が潮の香を含んで吹き過ぎていた。桟橋に高松からの客船が着いたばかりで、一気に人を吐き出す光景をやや遠くに見つめながら、バラケツとムメはちょっとした暗がりにいた。夜の港は、人声やざわめきまでも何故か固い金属音に変えてしまう。今も、その客船を中心にして冷えびえとした金属音を極く限られた周辺に伝えていた。汽笛だけが比較的あたたかかった。 「大事な話って……」  ムメがまたたずねた。 「いやあ」  とバラケツは奇声を発した。 「ケケケケ……」  とその後はけたたましく笑い、 「いやあ。いえんもんやなあ」  と頭を叩いた。  催促されるまでもなく、バラケツの方からずっと機会をうかがっているのだが、それが転がるような早さで逃げて行くのである。  要するに、ムメ、お前のことが好きなんや、この思い叶えてくれへんけ、といえばいいのだが、それにふさわしい機会が訪れない。  救世軍じゃないのだから、お願いしますと声はり上げるわけに行かないし、浪曲師のように、お時間まで、と時を区切るわけにも行かない。 「掠奪された七人の花嫁」を見ながら、そろそろと手をのばして行ったら、チョコレートを握らされ、映画が終ってみたら掌がグチャグチャになっていた。あの時、ムメの手でも握れたら、その饒舌な掌の力を借りて、わいの将来をムメに捧げたいんや、ぐらいのことはいえたかもしれない。  レストランでは、ナイフとフォークを持って、蛙の解剖でもやるような騒ぎだったから、それどころじゃない。第一何を食べたのかさえ定かでないのだ。ただひたすら、そんな場でも|毅然《きぜん》として臆するところのないムメの姿に敬意を払うばかりで、とても、 「わいと一ペん、せえへんけ」  などということはいえたものではない。  機会は、その都度|嘲笑《あざわら》うかのように逃げて行ったが、それをくり返すうちに、バラケツは、何も無理してそのことをムメに伝えることはないのじゃないかという不思議な気持になって来ていた。  |諦《あきら》めとか、弱気のなせるわざではない。異常に昂揚していたものが覚めて行き、知にも理にも叶った気持の整理が自然について来たということだろう。  だといって、バラケツ自身が、そのような整理に気がついていたわけではないのである。 「わざわざ来てくれたんやなかったのん? 大事な話のために学校休んで来たんやなかったの」 「そや」 「ホテルでは、あんなに怒ったやないの?」 「そや」 「ほなら、いうて」  二人はしゃがみこんで、闇のあいまにきらきら光る水面を見つめていた。  岸壁を叩く波音と、目でとらえる波のうねりが奇妙にずれていた。予想しない時にポチャッと音を立てた。港内を航行するランチの灯りが、光の虫のように黒い海を走っていた。汽笛が鳴った。  ムメの肩が、肌寒さに少しふるえているのを知ると、バラケツは、ゆっくりと大きな手をまわして抱いた。何かを言葉で伝えることにくらべて、体の動きにためらいはなかった。   泣いちゃ巻けない 出船の錨   さすが男よ 笑顔で巻いて  ムメは安心したように体を寄せて来てじっとしていた。女の匂いがした。それは強烈なものではなく、意識した人間にだけ感じさせる節度を持った匂いだった。  八十キロもあるバラケツの巨体につつみこまれて、ムメの竹のように|華奢《きやしや》な体は、すっぽりとおさまって居心地がよさそうだった。  バラケツの顔のすぐ下に、夜目にも紅くふくらんで見えるムメの唇があった。その気になればすぐだった。妄想に頼るまでもなく、ほんの何センチか顔をずらすだけで、夢見るような接吻は、バラケツのものになる筈だった。  娼婦の腹の上でムメーッと叫んで仰天させたほどの思いも、果そうと思えば果せる距離にムメはあった。  しかし、バラケツにはその気がなくなっていた。  何故だかわからない。理由をいえといわれれば、それは相手がムメだから、あのムメだからとしかいいようがなかった。あのムメを確認したことによって、全ては、極く普通の間柄の情欲に似たものはなくなってしまったのだ。  ムメはじっとしている。それは、男に身を委ねている女の安心ではなく、暖かい風よけの陰で寒さから逃れているという姿だった。  ええわい。わいは風よけや。ムメの風よけになったるわい。 「幸福やのう」  とバラケツが、グラウンドに響き渡るような声で絶叫すると、ムメがクスッと笑った。 「ああ、私の胸にも、加茂の河原にも、人の世の春は訪れて来たんだわ」 「何やの? それ」 「ええやんけ。ええやんけ」 「話は?」 「もうええ。もうええねん」 「バラケツちゃん」 「何や?」 「うち、見てくれよりは純情娘なんよ」  とムメは、港の灯りをうつした瞳を真直ぐにバラケツに向けて、まばたきもしないでいった。ハーバーライト・ホテルのロビーで、軟派の大学生に煙草の火のサービスまでさせていた|驕慢《きようまん》なムメと、同一人物とはとても思えなかった。  春の舞妓や。これやったら春の舞妓やと、バラケツは満足した。 「わかっとるがな」  ムメは、見かけより純情娘よといった。しかし、バラケツは、去年ムメが竜太に向って、うち四分の一は不良なんよ、と告げたことを知らない。そして、それが、同じ意味合いを含んでいるのかどうかということも、もちろん知らないのだ。 「処女よ」 「ウォーッ」  バラケツは、腹の底からしぼり出すような声で吠えると、一旦ムメの肩からはなした右手に力を入れ、折れる程の勢いで抱いた。ムメの華奢な体が軋るような音をたて、ヘップバーン刈りの前髪が浜風に少しゆれて、 「幸福やのう!」  と二人は同時に叫び、笑い転げた。  バラケツ正木三郎は、それから三日後に淡路島へ戻り、その足で平然と登校した。  あの日、ムメとは、国鉄三ノ宮駅で別れた。結局、好きやでとも、愛してるでともいわなかった。そもそも初めから、そんなことをいうつもりはなかったのかもしれない。通り過ぎる一つの道程の中で、確認しなければならないことの事柄が波多野武女であり、バラケツにしてみれば、首をくくるか、抱いてこますかの切羽つまった思いに至ったというだけでよかったのかもしれないのだ。  バラケツは、ムメとともに叫んだ「幸福やのう!」という言葉の方に感動した。  これで、この後、どんな女とでも平たい気分であれが出来るわい、と妙な納得の仕方をしていた。  改札口で手をふるムメの指先は、肩よりずっと高く上って、微笑も晴れやかさが加わっていると思った。  それにしても、何ちゅうべっぴんや! 「ムメーッ!」  何故か、抱いてこませなかった美少女に、バラケツは階段の途中から、人がふり返るほどの大声で呼んだ。  そして、ムメの日常といおうか、青春は、決して心楽しくも、幸福ででもないのではないかと思い、足柄竜太の責任は重大やぞ、と考えていた。  その足柄竜太には、亀井堂の瓦せんべいを土産に持って行って会った。  昼休みで、竜太は、陽だまりに足をのばし、膝の上に映画雑誌に掲載されているシナリオをひろげていた。 「単語でも暗記せんかい」  といきなり声をかけると、バラケツゥ! と相変らず少年クラブのような顔をしてふり向いた。 「ごめん。首もくくらず、抱きもせずや」  バラケツがそういうと、竜太は、さすがにほっとした顔をして、 「結構やないけ」  といった。  昼休みの校庭で無邪気にはしゃいでいるのは、さすがに一二年生だけで、三年生ともなると陽だまりに出ているものの、それぞれが小さな知識の塊と対い合い、寡黙な老人のように背を丸めている。 「ムメは?」  と竜太がたずねた。 「べっぴんやった」 「それだけか」 「処女や」 「何でわかるんねん?」 「自分でいうたんやから間違いないわ」 「何でそないなことをいうねん」 「アホか」 「何がアホや?」 「竜太に伝えるつもりやったんや。わいは、そないに思うとる」 「首もくくらずか……」 「抱きもせずや」 「おおきに」 「アホ。礼いうな。ムメは、竜太にまかせるわ。わいは松登がええ。松登の春の舞妓がもっとええ」 「何のこっちゃ」 「竜太。ムメとはマジメにせえよ」  というと、バラケツは|団扇《うちわ》ほどもある掌で竜太の背中をどやしつけた。痛さが表にまわって胸に応え、竜太は膝の上のシナリオを閉じた。  珍しく一点の雲もない青空だった。流しこんだ青が空気の隅々まで行きわたっていたが、それはもはや寒さをたたえた澄み方であった。  竜太は、バラケツが、ムメのところから一つの結論を持って帰って来たことに安堵していた。二人の間でどのような会話が交されたのか知る|術《すべ》もないが、ムメはムメでありつづけているようだった。 「そやそや」  バラケツが思いついたようにいい、 「わいな、今度のついでに大阪まで行って、南海ホークス入団をきめて来たで。阪神タイガースは、いつまでたっても色よい返事よこしおらんし、南海へ入るわ。夢と現実は、ムメと松登ほどちゃうけど、しゃあない」 「プロ野球の選手か」 「そや」 「あの江坂タイガースから、プロ野球選手が生れたのか」 「熱血感動やで、これは!」 「ほんまや」 「南海ホークスでは、さしあたって、今年26勝9敗の宅和本司。18歳や。門司東高や。こいつをぬかんとな」  と右腕をぶんまわした。  バラケツの胸の中には、もう既に見事なほどにムメの幻影も、阪神タイガースヘの憧憬もないように思えた。  足柄竜太は、そんなバラケツのたくましさに多少の圧迫を感じながら、卵の黄身がたっぷり入った亀井堂の瓦せんべいを、陽だまりの校舎にもたれて食べていた。  何故かムメの味のような気がした。  それと同時に、幼い日、ムメが竜太に向っていった、うちと竜太君は運命なんよ、という言葉を、寒気がするような思いで思い出していた。  少しでも陽がかげると、たちまち冬の顔になりそうな透明な昼休みであった。  ある日、国語教師の荒川に呼びとめられた。荒川は、いつか「芸者小夏」の読後レポートを原稿用紙二十枚も書かせておいて、冗談やがな、アホやなあとおちょくった教師で、横山エンタツに似ている。声をかけられた時、またぞろろくでもないことだろうと思って逃げ腰でいると、 「志望校はきまったか?」  と真剣な顔でたずねた。もっとも、真剣な顔であってもあてにはならない。「芸者小夏」のレポートを書けといった時も、真剣な顔はしていたのだ。それでも、 「明大の文学部」  と竜太はマジメに答えた。 「何で明大にきめたんや?」 「何でといわれても」 「理由があるやろ。何百ちゅう大学の中から明大を選ぶからには、それなりの」 「はあ」 「はあやない。いうてみい」 「校歌が」 「何やて? 何?」 「校歌が気に入りました。白雲なびく駿河台、眉秀でたる若人が……」 「真面目にやらんかい」  と荒川は怒鳴りつけ、そして、 「お前の家は何やっとるんや?」  とたずねた。 「警官です」  竜太が答えると、なぜか荒川は初めて満足げにうなずき、 「そやろ。そうやろと思うてた。このてのいい加減さ、このてのふらつき方は、警官の息子、坊主の息子、教師の息子に特有のものなんや」  とおそろしく独断的な結論を出して、志望校決定の動機については、それ以上の追及をしなかった。わざわざ教師の息子をつけ加えたところを見ると、荒川自身に身につまされる思いがあったのかもしれない。  竜太はためいきをつきながら、荒川の背を見送った。  神戸行きを境にして、バラケツが何故か晴れ晴れとした日常を送る頃、足柄竜太の方は何もかも曖昧なけだるさの中で、季節だけはきびしい冬を迎えようとしていた。  昭和二十九年十二月七日。吉田茂内閣が総辞職し、十日に鳩山一郎内閣が誕生した。   3 大みそか  大阪堺の料理屋へ板前の修業に行っているボラこと折原金介や、徳島の製薬工場につとめているダン吉こと吉沢孝行、神戸の米問屋にいる|筈《ヽ》の照国こと長谷川照夫も、年の暮には帰省し、それぞれが江坂町巡査駐在所へ足柄竜太をたずねて来た。  照国は、肥満体であることは、今も変りがなかったが、黒のダブルの背広といい、黒のソフトといい、何のつもりかいつもくわえている爪楊子といい、いつかバラケツが、 「あいつはあかんで。米屋の辛抱つとまらんで。二年もしたら、デンコ(不良)の手下になって、けったいな服着て戻って来るわ」  と予言したのが的中しているように思えたのだ。 「ほんまに米屋にいるのんか?」  竜太が不思議に思ってたずねると、 「ちゃんとやってるがな」  と照国は|狡猾《こうかつ》な笑いを浮かべて答えた。  しかし、竜太はその言葉を信じなかった。  それはともかく、折角これだけの顔ぶれがそろったのだから、懐しの江坂タイガースの集いでもやろうということになった。  ボラ、ダン吉、照国の帰省組に、自凝高校に進学した竜太、バラケツ、アノネ、ニンジンが加われば七人、欠席は、遠洋漁業に出ているガンチャこと神田春雄と、ムメこと波多野武女だけになる。  集る場所は、ニンジンこと新田仁の家でもある新田寺で、時間はというと、 「大みそかや。それぞれの家のしきたりもあるやろ。それすませてから、ポチポチ集ろかい。紅白歌合戦きいて、除夜の鐘きいて、ゆっくりみんなで語ろうやないけ」  とバラケツがいい、特に集合時間もきめずに、三々五々、くすねた酒やスルメでも手土産にして、顔をそろえようということになった。  これだけのメンバーがそろうのは中学卒業以来で、竜太にとってみれば、やがて淡路島とも無縁になって行く最後の大みそかに、好都合なことでもあった。  それだけに、少々の気の重さもあったけれど、おおむねは楽しみにして、その時を待っていたのだ。  ムメこと波多野武女から速達がとどいたのは、大みそかの午前中だった。  竜太は、速達という血のにじんだような赤いスタンプに不吉なものを感じながらも、ときめきをかくしきれず、急いで封を切った。  相変らずムメらしい男っぽい文字と、さっぱりした文章で、  大宮町にいます。あの昔々の宿敵、大宮ジャイアンツの大宮町です。  松原旅館で、演劇グループ「呆夢」の合宿中です。  大みそかは|稽古《けいこ》もお休みです。逢いたいのです。逢いに来て下さい。  と書いてあった。 「速達やったけど、何ぞ変ったことでもあったんか?」  祖母のはるが気がかりそうにたずねた。 「何でもない。只の手紙や」 「そんならええけど」  火鉢の中から餅の焦げる匂いがして来た。竜太は、その香ばしいというには少々焦げ過ぎた餅をかじりながら、どうしたものかと思っていた。  ムメを訪ねれば、新田寺の集りに顔を出せなくなる。かといって、新田寺へ行ってムメの方を無視するというのは、今の竜太にとって問題が大き過ぎた。 「逢いたいのです」  というのはムメだけの気持ではなく、竜太のものでもあったからだ。  しばらくの思案の後、まずムメのところへ行き、二人だけで話す時間を持ってから、ムメと連れ立って新田寺へ行くことにした。  ムメも江坂タイガースのれっきとしたレギュラー・メンバーであり、他の連中も喜ぶだろうから、大した名案に思えた。  江坂町巡査駐在所の大みそかは、五時頃まで何やかやとにぎわって、庶民の年の瀬の慌しさと、もの悲しさを感じさせる訪問者が後を断たなかったが、日が落ちると、さすがに静かになった。  竜太は、時間を気にしながらも、祖父の忠勇が風呂上りに和服に着かえて、きちんと食卓につくのを待ち、年越しのささやかな儀式につき合った。  明日は、いよいよ、淡路島での最後の正月ということになるなあ、と忠勇は感傷的にいい、それに答えて、祖母のはるが、とうとう巡査で過ぎてしまいましたなと笑った。 「同窓会の準備があるねん。ちょっと早目に新田寺へ行くわ」  といって竜太が家を出たのは、六時になろうとしていた。  西風が強く吹き、家々の門松や|注連《しめ》飾りをカサカサといわせていた。いつもなら赤茶けた電灯の光をうつしている窓が、今日は華やいで明るく見えるのは、常の60ワットの電球を100ワットにとりかえて、越年の席を飾っているのかもしれない。  竜太は、白の徳利セーターの上に紺色のスプリング・コートを着て、浜側のバス停へと急いだ。  風に吹きとばされた竹馬が道に転がっていた。それを、近くの家の塀に立てかけた時、何故か悪寒のような寒さを背中に感じ、竜太は、スプリング・コートの大きな襟を立て、腰の太いベルトをキュッとしめた。  淡路島最北端の町岩屋へ行くバスの最終便のヘッドライトが見えた。  乗りこむと、日本髪の娘がキャッキャッはしゃぎながら三人乗っていた。他には、既に酔っぱらっている漁師風の男と、公務員か教師かというタイプの男客が三人で、空いていた。  車掌が来たので、「大宮まで」と竜太はいった。何故かうしろめたさのようなものを覚え、それと同時に、また背中の寒さを感じた。   4 海の宴  松原旅館は、淡路島の西海岸では少しは有名な海水浴場、大宮松原に面してあった。  海からの砂をまじえた季節風を受け、旅館自体がうなりを上げていた。師走の、しかも大みそかの凍てつく夕まぐれは、にぎわいの夏に栄える旅館を孤独に見せた。大きいから尚更だった。  竜太は、ここへ来る前に、バス停の近くで蜜柑を買った。 「今年最後の客や。ほれ」  と太ったオバハンが三つばかりおまけをしてくれた。 「甘いか?」 「数おまけしてもろて、味までぜいたくいうたらあかん」  オバハンは、出ッ歯を反り返らせて笑った。綺麗に着飾った女の子が奥から顔を出し、母ちゃんといい、店じまいを催促した。この八百屋も明るい灯の下で家族そろって、今年を送り、新しい年を迎える準備に入るようであった。  竜太は、紙袋いっぱいの蜜柑をかかえて、松原旅館の玄関に立った。宴会でもやっているのか嬌声がきこえて来た。少し緊張して来意を告げると、髪だけ綺麗に結って、下はブラウスに|半纏《はんてん》、それも綿入れという奇妙な格好をした娘が、どうぞと案内してくれた。二階だった。 「恋人か?」  娘は、ぞんざいな口のきき方をした。 「え?」 「えらいべっぴんの|女《ひと》やなあ。あの|女《ひと》恋人なん?」 「ちゃう」 「まあ、ええけどな。うちには関係ないことやよって」  娘が案内してくれたところは、宴会にでも使うような大座敷だった。竜太は、チップ代りに蜜柑を二つ、娘の手に握らせた。  娘は、おおきにといい、しっかりなとウインクして、二つの蜜柑をたくみにお手玉しながら、階段をおりて行った。日本髪の艶々した色合いと、綿入れ半纏にズボンのうしろ姿は、やはり奇妙だった。  大座敷から、少し酔いを含んだ嬌声をまじえた歌声がきこえて来た。襖ごしで、言葉ははっきりとききとれなかったが、その調子からいって猥歌のようだった。  竜太は、座敷へ入ることをためらっていた。ムメと猥歌は竜太の頭の中で結びつき難いものであり、あの娘が案内する座敷を間違えたのではないかと思っていた。  その時、襖がガラリと開いて、突然声高にきこえて来た猥歌に吹き出されるようにして、ムメが転がり出て来た。 「来てくれたんやね」  ムメがいった。 「来てくれる思うてたけど」  ムメの紅い唇がかすかに笑った。その唇の間からかすかに酒が匂い、心なしか瞼や頬が赤らんでいた。 「飲んどるんか?」 「忘年会なんよ。さあ、|入《はい》り」  ムメは竜太の腕をとり大座敷の中へ誘った。大座敷は酒席で、もう大分前から宴がはじまっているのか、座敷中に酒と若い男女の匂いが充満し、空気も煙草の煙でいがらっぽくもやっていた。何とはなしに一わたり目で追ってみると、ムメの他に、男五人、女三人がいて、いずれも若い学生風で、これが演劇グループ「呆夢」のメンバーであるらしかった。  膳の料理はほとんど手つかずであったが、その代り、ビール瓶や銚子が、座敷を海に見立てた流木のように、重なり合うくらいに数多く転がっていた。  猥歌を歌っているのは、フィリピンのボクサー、フラッシュ・エロルデに似た色の黒い小柄の男で、それに合せて、クレオパトラのように前髪を切りそろえた顔幅の広い女が、片側の乳房をむき出しにしてストリップを演じていた。髪型のせいか、女はジプシー・ローズに似ており、股をひろげ、裸足の爪先で踏んばるようにしてグラインドをはじめると、ヤンヤヤンヤと拍手が沸き起った。  座は、とりあえず、このジプシー・ローズが独占しているようであるが、一組の男女は、それとは無関係に、かたく抱き合って部屋の隅に転がっていた。  竜太は、少々強過ぎる刺激にへきえきしながら、軽く息をのみ、 「これ」  と袋いっぱいの蜜柑をムメにさし出した。 「カンパ!」  ムメは袋を受けとると、そう叫び、蜜柑を一つずつ、座敷の男や女に向って投げた。あたたかい色の黄色が、煙にもやった座敷を鮮やかに飛び、それぞれの掌におさまった。がなり立てていたエロルデも、グラインドに汗を流していたジプシー・ローズも、そのジプシー・ローズに卑猥な掛け声を送っていた男たちも、互いの体をまさぐり合いながら、小さな座蒲団の上に転がっていた一組の男女も、ムメが投げて寄こした蜜柑を手にして、しばらく静かになった。 「足柄竜太君」  ムメが紹介し、竜太はつられて、ペコリと頭を下げた。  拍手をしたのはジプシー・ローズだけで、他の男女は冷ややかとも思える|一瞥《いちべつ》を与えただけだった。  竜太は、演劇グループ「呆夢」にとっては、あまり歓迎されてない存在だということを感じた。その証拠に、紹介で生れた一瞬の静寂の時が過ぎると、彼らは、申し合せたように蜜柑を投げ出した。流木のようなビール瓶、銚子の間に、点々と黄色い蜜柑が転がり、それは彼らの挨拶に思えた。  竜太が、そのことをムメの耳許で告げると、 「気にせんでもええのんよ」  とムメはいい、 「うちと二人だけのつもりでいたらええのんよ」  と竜太に持たせた盃になみなみと酒を注いだ。 「さあ。飲んで」  やや赤らんだ瞼に縁どられたムメの大きな目に促され、竜太は盃を乾した。さめかげんの意外に甘い酒が、口中で一度とどまり、意を決して飲みこむと、軽い刺激を食道に与えながら、胃袋にすべりこんで行った。 「逢えて嬉しいわ」  ムメがいった。  座は再び猥雑になった。女三人がフレンチ・カンカンを踊り、男たちは口伴奏で「天国と地獄」をがなり立てた。  二十歳を過ぎたばかりの男女の、おさえきれないエネルギーの爆発というよりは、享楽に対するある種の憧憬といったものが、彼らにはあるように思えた。肉体が生物として生々しく息づく以前に、精神的作用で織りなした感覚が独特の雰囲気をつくり上げている。それは文化もどきであり、芸術もどきであり、思想もどきであり、本音と程遠い屈折を対極に置きながら、何をしても彼らは役者であるように思える。  その享楽の宴が、これみよがしに進行する中で、ムメは、いささかもそれに惑わされることなく、|凛《りん》としていた。  竜太は、酒の味にようやくなじんだ。クイックイッと盃を乾しながら、時々、決してくずれることのないムメの姿を盗み見ていた。  ムメは、白いセーターを着て、真赤なスカートをはいていた。白いセーターは、乳児をつつむおくるみのようにやわらかそうで、大きな襟がムメの細い首をうずめている。真赤なスカートは花が咲いたようにフワリとひろがり、横座りにした足首が竜太の方に向ってつき出されていた。  ムメは、座の狂乱に溺れて行くとか、溶けて行くということはなかったが、楽しそうに見えた。飲んで、飲んで、といいながら、竜太の盃を満たし、自分も結構チュッと音たてて飲んでいた。  竜太は、あかん、こないに飲んだら新田寺へ行けんようになると思いながら、ムメと二人の蜜なる味のような二級酒をかなりの速さで飲んだ。  座は、いつの間にか宴会から奇体な即興芝居に変り、吸血鬼が女の生き血を吸うさまを可成り真剣な面持ちで演じ始めていた。 「アホやと思うでしょ。けど、結構真剣なんよ」  とムメがいった。  竜太は、一体この演劇グループ「呆夢」の連中とムメはどういう関係──ムメの説明によれば、神戸の大学の有志で構成しているこのグループの、経済的パトロンだということだが──それはともかく精神的なつながりを知りたかった。  彼らといることが、ムメこと波多野武女にとって何になるのであろうか。  如何にも軟派学生に見える、近頃|流行《はや》りのイカレポンチを絵にしたような男が、「呆夢」のリーダーだと名乗って、竜太の前へ来て、しゃべりはじめた。その話によると、彼らは、左翼信奉の劇団の活況に対抗して結成したものであるらしい。だから、彼らは、「カチューシャ」も「赤いサラファン」も「トロイカ」も歌わないし、ルバシカも着ない。ロシヤの芝居は、帝政ロシヤの時代のものであろうが、ソビエト連邦の時代のものであろうが、完全に無視する。我々は思想革命のいかがわしさを知っている。もっと純粋に人間の享楽に目を向け、内なる革命を志しているとまくし立てた。 「どういうことですか?」  竜太は真面目にたずねた。 「性的解放!」 「はあ」 「人間の自由!」 「はあ」 「人間の性を拘束するいっさいのタブーからの解放を、芝居を通じて訴えたいんや!」 「どんな芝居になるんですか?」 「ふたなり!」 「へ?」 「二つの性を持った人間の話や。わからんか? チンポとオメコと両方を持って生れた人間ばかりの国の愛の物語や」 「けったいなもんですね」 「何がけったいや。君、芝居は?」 「いえ。映画なら好きですけど」 「あかんなあ。芝居は肉体や。映画は幻影や。幻影は幻影。あくまでまやかしや。カラクリや」  イカレポンチは、チリチリに縮れたパーマネントの髪に細い女のような指をさしこんで、じれったそうにかきむしった。そして、さも軽蔑したような目で竜太を見た。  竜太は竜太で、何でチンポとオメコの両方を持った人間の芝居をやるような奴に、軽蔑されんならんね、と腹の底で|憮然《ぶぜん》としていたのだ。 「あんたらも、まやかしやないの」  ムメが冷然といい、アホと小さくつぶやいて、酒をコップにトクトクとつぎ一気に飲み乾した。 「やめとけ」  竜太がいった。 「ええのんよ、うち強いよって。平気」  ムメは、コップをとり押えようとした竜太の手に軽くふれた。そして、やさしい目をして竜太を見た。 「ぼくらが、まやかしやなんて。ムメちゃんよ。それはないやんけ。ムメちゃんが、呆夢の一番の理解者やろ」 「アホらし。よういわんわ。うちは、パパが稼いだお金の、一番アホらしい無駄遣いの方法を見つけただけや。遊びや」 「きつい。きつい。きついなあ」 「きついことあらへんわ。これは、これで、楽しいおつき合いやわ」  吸血鬼の芝居はなおもつづいていた。ちょうど、ジプシー・ローズが襲われているところで、やせて肋骨の浮き出た裸の吸血鬼に組みしかれたローズは、大仰に悲鳴を上げながらのたうちまわり、浴衣の裾を割って両脚の奥まで公開していた。  竜太は、便所へ行こうと思って立ち上った。少しふらついた。酔っているらしかった。 「大丈夫?」  とムメが気づかわしそうに声をかけるのに、 「平気や。何でもないわ」  と強がって答えた。  便所で放尿すると、こめかみのあたりがキリキリと痛み、体中で脈を打ち始めた。その瞬間ぐらりと体が傾いて便器を少し汚した。  便所の小窓を開けた。寒い風が吹きこんで来て、酔った顔と気分を冷やした。  大みそかの夜の海が窓の外にひろがっていた。突堤の先端の灯台のまたたき以外に灯りは見えなかった。どこまでも黒々と寒い冬の海で、静寂だけが年の瀬の厳粛さだった。  そろそろ、新田寺の石段を江坂タイガースのメンバーがのぼっている頃だった。行かなければ、タクシーというものを奮発してでも駈けつけなければと気になった。  便所から出ると、フラッシュ・エロルデに似た男が待っていて、話しかけて来た。 「今日、泊るんか?」 「いいえ」 「その方がええ。ムメは処女やから」  とエロルデはいった。  竜太は、それには返事をしなかった。  大座敷に戻ろうとすると、外に立って待っていたムメが竜太の腕をとり、 「うちの部屋で、紅白歌合戦でもきこう」  といった。  昭和二十九年十二月三十一日放送の、第五回NHK紅白歌合戦の出場メンバーは、  紅組が、宮城まり子、奈良光枝、江利チエミ、川田孝子、松田トシ、雪村いづみ、菊池章子、神楽坂はん子、ペギー葉山、松島詩子、長門美保、淡谷のり子、美空ひばり、二葉あき子、渡辺はま子。  白組は、岡本敦郎、真木富士夫、浜口庫之助、河野ヨシユキ、藤山一郎、高英男、津村謙、春日八郎、笈田敏夫、近江俊郎、藤原義江、伊藤久男、小畑実、ディック・ミネ、霧島昇。  司会は、高橋圭三、福士夏江アナウンサーであった。   5 早春苦  その時、ムメはものすごい顔をした。怒りともとれたし、これ以上はない悲しみともとれた。 「竜太君。どういうつもりやのん?」  ムメはそういった。  大座敷をぬけ出して、ムメの部屋へ行き、二人でゆっくり紅白歌合戦でもききましょうという、いい気分の時だったからかもしれない。  ラジオをかけると、奈良光枝が「白いランプの灯る道」を歌っていた。  部屋はなかなか広かった。ムメはここを一人で使っているらしい。壁に兎の毛のついたコートがぶら下り、床の間のあたりに旅行鞄があった。  竜太は落着きなくうろうろしながら、新田寺で江坂タイガースのメンバーが顔をそろえることになっているから、これから行こう、きっとみんなも喜ぶに違いないからと、ずっと気にかかっていたことを口にしたのだ。 「いやッ」  とムメはにべもなくいい、そして、怒りとも、悲しみともつかぬ、しかし、充分に竜太に対して非難をこめた目で睨みつけたのだ。 「もう江坂タイガースは関係ないのんよ。あれは、うちらの想い出なんよ。想い出にヒョコヒョコ逢いに行ったらどないなると思う?  悲しいだけよ。淋しいだけよ。けど、うちと竜太君は想い出やない。これから長く長くつづくことよ。うちは、そう思うてる。ねッ、こんなうちを残して、新田寺へ行くなんていえへんわね。ねッ」  悲しみに見えたムメの目が、いつか赤く感じる程に燃えて、やがて、それに涙が重なり、何やら饒舌にきらめいた。  落着きなく部屋の中央につっ立っていた竜太は、それに|魅《ひ》き寄せられるように、ペタリと座りこむと、 「やめた!」  とかすれた声でいった。少々心もとない感じもしたが、それも決心だった。そのまま次の言葉が見つからないままに、|胡座《あぐら》を組んだ足のくぼみに目をやりながら、友情という美辞が他愛なくくずれて行く人間の心の仕組みに呆然としていた。  さらば! 江坂タイガース。さらば! 友情の日々よ。 「うれしい!」  とムメはいい、それから、 「裏切らせてしもうたのかしら?」 「そんなことはない。そんな問題やない」  竜太は慌てて否定した。 「うち、竜太君を愛してるんやわ」  ムメが唇を寄せて来た。  逃げたらあかんと思いながら、竜太は、その紅くやわらかそうな唇を吸った。酒の匂いがした。しばらくそうしていると動悸が激しくなり、酒の酔いがかけ巡り始めた。一度唇をはなし、お互いの目で多くのことを語り合ってから、今度はもっと情熱的に、そして、たくみに唇をふれ合い、どちらからともなく自然に畳の上へたおれこんだ。  風の音がきこえていた。それにまじって海鳴りもきこえた。紅白歌合戦は津村謙の順番になり、「待ちましょう」を歌っていた。  唇をはなすと、 「勉強してる?」  とムメがたずねた。場違いであるようだし、一番ふさわしいようでもあった。 「うん。ぼちぼち」 「あと少しやね?」 「もうちょっとで、淡路島ともお別れや。淡路島出るために、英単語覚えてるようなもんや」 「それでええのんと違う?」 「そやな」 「竜太君。アホなふりせんといてね。竜太君は、アホになれん人やとわかってるのに」 「ムメかて、そうやないか。ムメかて、無理せん方がええ」 「うち? 無理やないわ。高校生が札ビラきっていやらしいと思うやろけど。あんなケッタイな大学生と一緒に歩いて、堕落してると思うやろけど、うちの逃げ道なんよ」  そして、ムメは、毎日がつまらないのだといった。  女の子に武女とつけるような退役軍人の父は、いつの間にか、その硬質の美意識を捨て、それどころか思いがけない商才を発揮して財産家になった。それと同時に、人生を窮屈に生きていたあの神々しいような武骨さが姿を消し、俗悪でしたたかな男が誕生したのだという。母も同様で、しかし、彼らはムメを溺愛する。望むものは何でも与えてくれたし、何の拘束も加えない。俗悪俗物の掌でムメはヌクヌクと育ち、それがキリキリと生きたいムメを悲しくさせるのだという。  毎日がつまらない、とまたくり返した。 「甘えたら、あかん」 「そやね。竜太君は、うちの心の支えなんよ。だから、アホなふりはせんといてね。硬いところのある人でいてね」 「うん」  今度の接吻は長かった。  ジプシー・ローズが入って来たのにも気がつかなかった。声をかけられて慌てて体をはなし、真赤になった。  ジプシー・ローズは、ニヤッと笑い、運んで来たお膳と酒を二人の前に並べた。 「年越しの膳持って来てやったで。お酒もある。ええ大みそかや。未成年やけど、飲んだらええわ」  そういいながら、何となくぎこちなくかしこまっている二人に酌をして、ジプシー・ローズは、 「ムメちゃん。これ使いね」  と極彩色の|小函《こばこ》をムメの掌に残し、さあ、うちも年越しのアレをやったるでえ、と叫びながら出て行った。  二人の間に沈黙が訪れた。それは極彩色の小函のせいだった。二人は、それがコンドームであることを知っていた。 「せえへんでしょ」  ムメがいった。 「うん」  竜太が答えた。 「せえへんわね」  今度は返事をしないで立ち上った。窓に寄って、やがて新しい年を迎える時間になった暗い海を見つめた。何かがすごい勢いで動いているのが見えた気がした。 「竜太君は卑怯やわ」  その声にふり向くと、ムメが小函を開け、中からゴム製品をとり出しているところだった。 「やめとけ」 「ええやないの。面白いもん」  ムメは固い顔をすると、それをつまみあげ、口にあてがうと大きく息を吹きこんだ。 「アホなことするな」  ゴムは巨大な風船になってムメの顔をかくし、やがて、|心《しん》が裂けるような音を立てて破裂した。ムメがけたたましく笑った。  それから、二人は酒を飲んだ。  体が揺れはじめた頃、風にまじって除夜の鐘がきこえて来た。  昭和三十年の元旦を、足柄竜太は、波多野武女の蒲団の中で迎えた。  もう窓が白くなっていた。あたたかいムメの体からはなれて体を起すと、部屋いっぱいにたちこめた寒気にふるえた。 「おめでとう」  ムメがいった。竜太も答えた。 「帰るわ」 「そうやね。その方がええわね」 「頭、痛いことないか?」 「ちょっと……」  とムメが笑った。慣れない酒のせいで、相当に痛そうだった。 「勉強がんばってね」 「うん」  仕度をして部屋を出ようとした時、蒲団の中からムメが、 「もし、誰かにたずねられたら、うちと、したっていうてね」  竜太はそれには返事をしなかった。  廊下に出ると、演劇グループの男たちが歯をみがいていたが、白い眼を向けただけで、何ともいわなかった。  松原旅館の玄関で、昨日部屋まで案内してくれた娘が、 「嘘つき。恋人やないの」  といった。今朝は、日本髪にふさわしい晴れ着を着ていた。  正月だった。大宮の町の空に|凧《たこ》が上っていた。バス停へ急ぐ時、また寒気が背中を走った。  竜太は、正月三日間を風邪で寝こんでしまった。  祖父母は何ともいわなかった。ただ、何日か後に九州へ帰り、退職後の家をきめて来るという話を忠勇がした。いよいよ、淡路島をはなれる年になったのだ。  四日目になり、蒲団の中で英単語の暗記をしていると、ニンジンとアノネがたずねて来て、大みそかの江坂タイガースの集いの様子を話した。  二人とも、まず竜太の欠席を責めたが、それ以上は追及しなかった。 「悪かったな。ちょっとあってな」  と竜太がいうと、 「ほう。ちょっとな。ほう!」  といっただけで、大みそかの話を始めた。  あの夜の大事件は、最終的にバラケツと照国が血を流すような喧嘩をして、懐しの江坂タイガースも決裂したということであった。  喧嘩の原因はムメだった。  照国が何かのはずみで、 「ムメか。ありゃパンパンみたいな女やで。わいは三ノ宮うろうろしてるさかいよう知っとるんやけど、年中四五人の男を連れて遊び歩いてるわ。ありゃきっとオサセや。誰にでもさせるサセ子や」  といったのをバラケツが激怒し、デンコ(不良)ぶって凄む照国を、鼻血を流し、泡を吹くまでやっつけたのだという。そして、バラケツは、足の下に長くのびた肥満体の照国の、黒のダブルの背広を蹴とばしながら、 「わいは風よけや。ムメの風よけや。よう覚えとけ!」  と怒鳴ったと、ニンジンもアノネも不思議がっていた。  足柄竜太の悪性の風邪も二日後にはなおり、いよいよ最終学期が始まった。しかし、学校は行ったり、行かなかったりで、遅ればせながら受験勉強に精を出した。  一月の末、卒業式を待たずにバラケツ正木三郎は、南海ホークスのキャンプ入りするために、大阪|中《なか》|百《も》舌|鳥《ず》球場へと向った。  同じ頃、アノネこと高瀬守がたずねて来て、立命館大学受験を断念したと、沈痛な顔で話した。  同級生の島谷千鶴にアノネの子供が出来、結婚を強制されたのだという。 「ひっかかったんや。ひっかかったんや。母親が、二つ並べて蒲団しくから、おかしいと思うたんやけど」  アノネは大いに嘆いたが、玉ねぎ農業の労働力となる婿入りは決定的のようだった。  淡路島の西海岸は、季節風が吹き荒れ、一年で一番寒い時だった。   6 急行銀河  足柄竜太は、三月半ばに明治大学文学部の合格通知を受けとり、四月に入るとすぐに淡路島をはなれた。  金銭面以外のことは全部自分でやるという、祖父母との約束だったから、少し早目に上京し、入学手続きを済ませたり、そのための保証人を探したり、何より下宿を見つけなければならなかった。二三日は安い旅館に泊るにしても、それほど潤沢に金を持っているわけではないから、要領よくやらねばならない。竜太は、住んでみたいところの候補地を幾つか決めていた。それは映画から得た知識だった。  出発の前日雨が降った。春の雨だった。  夕食の時、祖父母は、ささやかながらも気持のこもった送別の宴を開いてくれ、竜太も何杯かの酒を飲んだ。 「好きなことをやったらええ。男は好きなことやらなあかん」  と忠勇がいった。 「おじいちゃんは、巡査好きやったんか?」 「さあ、どうやろ」  忠勇は言葉をにごし、曖昧に笑うと、チュッと音をたて盃をすすった。 「元気でな。体気いつけて」  祖母のはるが涙ぐんだ。  祖父は、六月に正式に退職、故郷の宮崎へ帰ることになっていた。元気があったら鶏か豚でも飼うが、元気がなかったら、なるべく金つかわんようにしてるわと二人は笑った。  その朝、父の公一と母の良枝に線香を上げて、簡単に報告し、決意をのべた。大それたことではなかった。東京では、という熱い思いより、むしろ、やっと淡路島をはなれられますという歓びの方が多かった。  バス停で、岩屋行きのバスを待っていると、猫屋のオバハンといわれている、器量自慢の後家さんの穴吹トメが、息せききって駈けて来て、|餞別《せんべつ》代りに卵をくれた。 「竜太ちゃん。あの頃がなつかしいねえ」  猫屋のオバハンは、江坂タイガースの時代を懐しがった。 「オバハンも花やったもんなあ」 「よういうわ」  バスの窓から、手を振ってくれる猫屋のオバハンを見ると、髪に大分白いものがまじっていた。  終戦直後の江坂町の華やかでけたたましい話題を独占していた猫屋のオバハンも、少しは年齢のせいか大人しく、近頃は元旅役者の池田新太郎とうまく行っているということだった。  昨夜の雨が上り、いい天気であったが、まだ寒かった。春には、まだ何日かかかりそうである。  それでも、ようやく青みを増して来た瀬戸の海を左に見ながら、バスは淡路島西海岸の狭く、曲りくねった道を走りつづけた。  足柄竜太は十八歳になっていた。十八年目にして、この淡路島をはなれようとしていた。多くのことが浮かびそうで、それは意外に嘘だということがわかったが、竜太の頭に浮かんだのは、ほんの限られた幾つかのことだけだった。  竜太にとって淡路島が何であったかを考えるには、まだ多くの時間が必要であるようだった。  岩屋に着き、明石への連絡船に乗る頃から雲が多くなり、本格的な冬に逆戻りしたような寒さになった。  しかし、海はおだやかであった。連絡船の窓の外で淡路島が遠ざかっていた。   思い出なつかし あのテネシーワルツ   今宵も流れ来る   別れたあの娘よ 今はいずこ   呼べど帰らない   去りにし夢 あのテネシーワルツ   なつかし愛の唄   面影しのんで 今宵も歌う   うるわし テネシーワルツ  竜太は、ペンキ臭い船室のガラス窓に額をすりつけるようにして、何故か「テネシーワルツ」を低く歌った。エンジンの音がこころよかった。しかし、惜別の涙は一向に浮かんで来なかった。竜太は、そんなもんやろ、泣くもんやないと思った。  ボストンバッグから、猫屋のオバハンにもらった卵をとり出し、コツンと額に打ちつけて割ろうとした。  グシャッといやな音がして卵は割れ、ドロリとした黄身と白身が顔の上を流れた。  ウヘエッ、どういうつもりなんや、あのオバハンは、ゆで卵やないんかいなと竜太は悲鳴を上げ、わずかながらに残っていた感傷の思いを吹きとばしてしまった。  神戸駅は底冷えがした。  この底冷えの中で、四時間も五時間も座っているのかと思うとうんざりしたが、既に何十人かが思い思いの格好で、風が吹きぬける広間に座っていた。  神戸始発の急行銀河は、夜の八時半の出発であったが、夜行列車で座席を占め、眠って東京に運ばれるためには、順番をとらなければならなかった。  竜太は、コンクリートに新聞を敷き、その上に腰を下して、四時間ばかりを耐えることにした。コンクリートの冷たさが、たちまち尻に伝わって来た。  ムメとはあのままになっていた。元旦の朝蒲団の中で別れたきり、一本の手紙のやりとりもない。ふと竜太の胸が熱くなり、そして、わずかながら傷んだ。  ムメとは、この先どうなるのだろうかと思った。  運命のようにからみ合い、常に互いを気づかったり、重くのしかかったりしながら大人になって行く気もするし、逆に、このままどうにもならない気もする。  しかし、美しい少女が占めた位置は間違いなく大きく、慕うにしろ、忘れるにしろ大変だろうと思った。  接吻の生々しい感触と、それにもまして抱きしめて眠ったあたたかさがよみがえって来たのは、あまりの神戸駅の寒さのせいであったかもしれない。  竜太は、次にポケットからバラケツの葉書を出して読んだ。練習の厳しさを書き、当分二軍ぐらしもしゃあないやろと結んであった。  みんなバラバラになるのかもしれないと、竜太は初めて感傷的になった。  八時に乗車が始まり、竜太は四時間の忍耐の甲斐があって、座席に座ることが出来た。  網棚に荷物を上げ、スプリング・コートを脱いで、これで眠ってても東京へ運んでくれると初めてホッとした。車内は暑かった。特に足許を通るスチームが顔まで|火照《ほて》らせた。  急行銀河は定時に神戸駅を出た。  窓の外に神戸の街の灯が、決してあたたまらない孤独のまたたきを見せて並んでいた。  さあ、いよいよやと思うと、江坂町巡査駐在所を祖父母に見送られて出たのが、遠いことのように思えた。  竜太は、映画雑誌をとり出し、シナリオが掲載されているページを開いた。楠田芳子脚本の「この広い空のどこかに」のあちらこちらには、既に竜太の手による書きこみが幾つかされていた。にもかかわらず、竜太は初めから熱心に読み始めた。  三ノ宮駅を過ぎ、しばらくした頃、竜太は不意に肩を叩かれて顔を上げた。 「何や? どないしたんや」  そこには、場違いな程に純白のコートを着たムメが、顔をやや上気させて立っていた。赤い皮の手袋をはめた手に、これも真赤な旅行鞄をさげていた。 「一緒に行くことにしたんよ」 「そんな」 「きめたんよ。もう」 「まあ、座れ」  竜太は、寒風にさらされながら四時間も耐え、やっとの思いで確保した急行銀河の座席をムメに譲った。 「悪いわ。そんなの」  といったが、ムメは、そうは思っていないらしく、座席に腰をおろすと初めてニッコリと笑った。  竜太は立っていた。このまま夜を徹して東京に向わなければ仕方がなかった。やがて、ムメは気持よさそうに眠った。美しい寝顔に今日はあどけなさもあった。  スチームが暑かった。竜太は汗を流しながら、「この広い空のどこかに」を読みつづけ、時々ムメの寝顔をうかがった。  急行銀河は、間違いなく東京に向って走っていた。  昭和三十年四月。春ではあったが、外はまだ冬のように寒かった。 その後の瀬戸内少年野球団   昭和56年1月現在(43・44歳) 足柄竜太  サラリーマン生活から、十五年前にテレビ作家として独立。現在は小説家。札幌在住。同棲二回。結婚・離婚各一回。独身。 正木三郎  (バラケツ)昭和36年に、肩痛のため南海ホークスを退団。七年間の成績は38勝42敗。その後、それ相応の波乱はあったが、現在は、名古屋で手広く運送店を経営。 波多野武女 (ムメ)行方不明。というよりは連絡不能。ハワイで独身の優雅なくらしをしているという噂もある。同棲一回、結婚・離婚各二回までは確認されている。 長谷川照夫 (照国)昭和46年、やくざ同士の抗争で死亡。 高瀬 守  (アノネ)農業協同組合理事。海の家経営。淡路島在住。 新田 仁  (ニンジン)新田寺住職。自凝高校社会科教師。淡路島在住。 折原金介  (ボラ)小料理屋経営。和歌山県白浜在住。 吉沢孝行  (ダン吉)製薬工場を退社。現在は徳島市で個人タクシー。 神田春雄  (ガンチャ)遠洋漁船乗組員から、現在フィジー島で、日本料理店を経営している。 以上、江坂タイガース初代メンバー九名のうち、死亡一名、音信不通一名。 現在、彼らの間の交流は全くといっていいほどない。  あ と が き  続篇では、時代が昭和24年から30年までと云うこともあるし、主人公たちが中学から高校卒業までの年代と云うこともあって、野球に代って映画が重大な要素として登場する。  映画とは何であったか、また、何であるのかと云った大テーマで、輪郭を無理矢理にはっきりさせて行くより、無秩序に映画の想い出を書いてみようかと思う。  その時代が、どんなもので埋められていたかと云うことに興味がある。背景を構成しているものである。  特に戦後の時代については、一つのテーマにしていることもあって、見過しに出来ない気持にさせられる。  テレビで、「野良犬」を放映していた時もそうで、メモ帖を傍に置きながら、場面の隅々、かすかに聴こえて来る街の音などに神経を集中していた。 「野良犬」は、昭和24年の黒沢明監督作品で、三船敏郎、志村喬、木村功、淡路恵子らが出ている。  拳銃をすられた刑事が、その行方を追って東京中を歩きまわる映画であるから、時代を埋めているものを発見するには、もって来いの素材である。  なぐり書きのメモ帖には次のようなことが書かれている。  射的場、パチンコ(単発)、復員服、アロハ、喫茶店、コルト、闇市、浮浪者、アイスキャンデー(十円)、四万円(強盗の被害金額)、リーゼント、巨人・南海戦、後楽園球場の広告(アクタミン、わかもと、クラブ歯磨、サロメチール、日本火災海上)、サクラホテル、バラック、ラインダンス、家庭用主要食糧購入書、アプレゲール、六千円で一月くらせる、裸電球の街灯、駅広告(アジア・ミシン、小田急クーポン) 「夜来香」「東京ブギウギ」「南の薔薇」「恋の曼珠沙華」「ブンガワン・ソロ」「ドリゴのセレナーデ」「アイレ可愛や」「セコハン娘」「ハバロフスク小唄」「蝶々」  こう云う項目を並べただけでも、一つの時代がプンプンと匂って来る。平面のモザイクではなく、臭気から、湿度まで感じとれるくらいである。  歌は、全て、街頭スピーカーや、ラジオや、電蓄を通じて聴こえて来た実音である。こう云う音の|氾濫《はんらん》も時代の猥雑さを証明している。  アイスキャンデーは長方型の物ではなく、丸い棒状の時代で、巨人・南海と云う今は見られないカードも、この年までプロ野球は一リーグで、これが黄金カードであったわけである。  実は、この「瀬戸内少年野球団」のシリーズは、これらの背景を構成するディテールを煩わしいくらいに書き込み、場合によっては、人物がそれに埋没してもいいくらいに思っていたのであるが、やはり、そこまでは出来なかったようである。  残念ながら、どこかでバランスを心掛けてしまったようである。但し、そう云う書き方を徹底させると千枚を超えていたかもしれないが……  初めて見た映画が何であったか記憶がない。幼児期に見ていたかもしれないし、戦意昂揚映画を見せられていたかもしれないが覚えていない。  戦後すぐに、さかんに無声映画が巡回して来た。勿論弁士付きである。レコードで音楽を流していて、これが何故か「インドの唄」であったように思う。  もしかしたら、この無声映画が最初かもしれない。「インドの唄」とは無縁の忍術映画であったと記憶している。  さすがに、無声映画と云うのはすぐに来なくなったが、常設の映画館の無いところで育ったから、しばらくは、映画文化を巡回映画と云うのに頼っていた。  学校の講堂で上映するのだが、夏には校庭の真中に白布のスクリーンを置き、裏表から見せられたこともある。  但し、これは、裏から見た人間にとっては、全ての登場人物が左ききで、妙な気分になったものである。  そう云う状態でも、町中の人が集まり、風に揺らぐスクリーンの、時に裏返しの虚構を見ながら、人々は陶酔していたし、少年たちは魅惑の萌芽を植えつけられていたのである,これが完全に芽吹く時期が、この小説の時代と云ってもいいだろう。  ぼくらにとって、野球が壮大な時代の祭礼であったとすると、その次に訪れて来た映画と云う魅惑の文化は、個人の|祈祷《きとう》のための|巫女《みこ》の役目を果していたように思う。  それは、映画と云う作品に魅せられたと云うより、映画をかくも華やかに存在させている時代に、映画と云うものが果す機能に魅せられていたようである。決して映画人になりたいと云った種類の魅せられ方ではなかった。もし、そうだとするなら、時代を構築する重大要素とはならなかったであろう。  その辺は、本文を読んで理解していただくしかない。  さて、「瀬戸内少年野球団」のめんめんも、いや、同時代を呼吸した少年少女たちも、今年、四十八歳か、四十九歳になる計算になる。  野球と云い、映画と云い、常に身近な神を選びながら生きて来た時代の孤児たちは、今、何を神として、中年と云われる世代を生きているのであろうか。                     阿久 悠 日本音楽著作権協会(出)許諾番号   第8465111-401号 ボタンとリボン 日本語詞:鈴木勝 (C)1948 FAMOUS MUSIC CORP. 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