賞ナシ罰アリ猫もいる 〈底 本〉文春文庫 平成四年四月十日刊  (C) Jouji Abe 2002  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次    現住所あり……    白面の貴公子とボクシング    高利貸しとゴロツキ    もうしません、御免なさい    TBSの木口小平さん    朝日新聞の人間奈良漬    丸にAの字の腕自慢    若手大臣との“黒い関係”    幻の右が映画を作る    命運尽きたサンダース軍曹    ガツンときた巨女の一発    元女房の書いた呆れた本    フィリピン拳闘界の大立者    鯖猫も宙に舞う仰天電話    そこらの男とは違う男    「ニコッ」が|曲者《くせもの》の大投手    ひやぁ、ナオヤちゃまッ    得意の絶頂に詠む漢詩    東京ドームのトランペッター    二式大艇生き残りの機長殿    さりげなさが男の素晴らしさ    怪傑ゾロ目    ソフトボールでバズッ!    貴方のビッグ・ボス    神様、お釣りを下さい    わが家はネコ年!?    ローマの休日なのだ    電話は小説より奇なり    タイソンがやって来る    大学に行かないか    好奇心が強すぎる私    わたくし流プロ野球改造案    野球と映画が輝いていた時    バンクで流した涙    ペテンにかけられた話    ノルのが好きです    涙のメモリー    万里の長城にタマげた    なんだ逮捕かよ    私の腕時計コレクション    たくさんのアリガトウ    ジープとサザエの壺焼き    出発前にひと騒動    サカナ釣りしあの頃    アロハとフグ鍋    焼酎党宣言だぜ    南の島で夏休み    ロスの夜は更けて    ペットを舳先で吹かないで    もしやあの娘は    『鉄道大バザール』出発前夜    十三年目の再会    父のダッフル・コート    万年筆の思い出    わが心のJ・F・K    チュー・チュー・オン・ザ・ビーチ    カン・カン・カン    あ と が き      章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    賞ナシ罰アリ猫もいる [#改ページ]      現住所あり……

 
白面の貴公子とボクシング  混んでからでは大変だと思って、川崎の家を朝の六時に、赤い小さな車で出掛けた私は、一時間足らずで多磨霊園に着きました。  初めての多磨霊園ですが、その広大なのには仰天したのです。  十区の一種地域と、アドレスのようなものを教わっていたのですが、その十区にしても、ほぼ昔の麻布谷町ぐらいはありそうで、|朝靄《あさもや》のたちこめる墓地には、|誰《だれ》ひとりいませんでしたから、訊くこともならず、私はひとつひとつ、しらみ|潰《つぶ》しに、そのエリアのお墓を見て歩きました。  目的のお墓を見付ける前に、私は、あきれたぼういずの川田晴久や、北原白秋のを先に見付けて、ちょっと頭を下げたりと、一時間以上もお墓の中を歩きまわったのです。  三島由紀夫先生のお墓には、白くて丸い菊が供えてあって、私は、その前で柏手を打ち手を合わせ、しばらく頭を垂れていました。  先生が亡くなられてから、刑務所に入れられるまでは、修羅場を辛うじてしのぐだけの毎日で、それからの四年間は|籠《かご》の鳥です。  そして出所してから今までというものは、慣れない暮らしに苦しんで、あがき続けた私でしたから、恥ずかしいことですが、これが初めてのお墓参りでした。  先生に初めてお目にかかったのは、銀座のはずれにあったゲイ・バーで、昭和三十年か三十一年のことでしたから、三十年も前のことです。  私は、もうその頃はいっぱしのヤクザで、まだマスコミにものらず、東京にも四、五軒しかなかったゲイ・バーを仕事場にしていました。  外国人の客が多かったので、そんなことには足りる程度の英語が使えた私は、用心棒をしていたのですが、先生は|勿論《もちろん》お客で、細身で|華奢《きやしや》な、白面の貴公子でした。  酒の酔いとゲイ・ボーイの色香に狂ってしまった毛むくじゃらと、渡り合って取り静めるのが私の仕事でしたが、ある晩そんな私を御覧になった先生は、 「君は、なんの術を使うのだ」  と、大きな目を見開くようになさって、お訊きになり、ヤクザのくせにたまに文芸誌ぐらいは読んでいた私ですので、敬意を|籠《こ》めて、 「ボクシングの初歩を、ほんの少々です」  と、お答えすると、すぐ先生が、 「キミ、私も教わりたい。|稽古《けいこ》をつけてくれるところを、紹介してくれたまえ」  とおっしゃったのには、すっかり|擦《す》れ枯らして、たいていのことには驚きもあわてもしない私なのに、頭を抱えてしまいました。  その頃は、まだボクシングは不良のものでしたし、先生はどこから拝見しても、ボクシングには似つかわしくなかったのです。  けど、たってという御希望でしたので、懇意にしていたボクシング・ジムにお連れすると、先生は目をキッと張られて、真剣な御様子で、入門の用紙に平岡公威とお書きになりました。 「オイ、あの方はお若いけど、頭を使って大層な仕事をなさってるんだ。いいか、頭だけは|叩《たた》くなよ。これだけは頼んどくぜ」  先生に聴こえないところで、私がジムのコーチに念を押すと、 「なんだそりゃ、ここに来て月謝払うのは、選手になって試合に出たいからだろうに」  私の連れて来たひ弱で、大分とうのたった入門者が、作家の三島由紀夫先生ということなど、恐らく今でも知らないジムのコーチは、結局、私の無理を聴いてくれました。  それからというもの、先生は店にみえるたびに、たいそう機嫌よく、 「構え方と、パンチの種類を教わっている」 「縄跳びも、専門的なのは大変難しいのだ」 「バンデージを巻き、グラブをつけたのだが、少し経つと随分重く感じ出したのだ」  なんて、私にお話しになっていたのですが、半年ほど経った頃……。 「ジムの人たちに、手加減をされているのが分って、とても不愉快千万だ。|堪《たま》らないのだ」  と、青ざめた顔でおっしゃったのには、私は困り果てました。  |防具《ヘツドギア》をつけていても、弾みで、どんなことでも起こるのがボクシングです。まんいち、先生が、口を開け放して、ヨダレを垂らすようになってしまわれたら、私が指を詰め懲役に行っても御|詫《わ》びにはとてもなりません。  私に不快を申されても、コーチやパートナーのパンチは、せいぜいボディ・ブローなのは変わらず、間もなく先生は、ボディ・ビルに転向しておしまいになりました。  筋肉だらけになって、素人目にはとても|逞《たくま》しく強そうになっても、|喧嘩《けんか》や闘いには、役になんかまるで立たないのです。  それから永い年月が過ぎ、先生は、隆々となったお身体で、映画や舞台でも御活躍になり、ノーベル文学賞の声もしきりでした。  あれは昭和四十一年頃のことです。先生は、私の二十八歳までの半生記を、『複雑な彼』と題されて、女性週刊誌に連載なさったのですが、街の|噂《うわさ》によれば、楯の会というスタイリッシュな私兵の制服代を、この小説で工面なさったということです。  私は、当代超一流の先生に書いていただいたのを、内心では|嬉《うれ》しく思ったのですが、実家の父親安部正夫は違いました。  父は、実直で誠実一筋に年功を積んだ、文学にはまったく縁遠い勤め人で、常日頃は畑違いの他人の仕事に、滅多に批判はおろか、感想も口にはしないのですが、なぜかこの小説に限って、 「ノーベル賞だなんて、とんでもない。これは小説ではなく、ぐれた二男のロクでもない行状を、知る限り、そのまま書いただけのものだ。文学なものか……」  独り言い放つと、|憮然《ぶぜん》としていたと、後日姉に聞きました。  私はそのころ、勘当同然で、実家には寄りつかなかったのです。  お墓の横にあった墓誌には、行年四十五歳とありました。  先生は天才でしたから、この若さで全部すまされたけど、私は御覧のとおりなので、とっくにその歳は超えましたが、まだまだ恥を重ねて生きつづけないと、しなくちゃならないことがいっぱい残ってます。  先生、サヨナラ、また参ります。 [#改ページ]

 
高利貸しとゴロツキ 『塀の中の懲りない面々』が、おかげさまで順調に売れて、四月にはTBSでテレビ・ドラマになるのが決まりました。  映画化の話も進行中と嬉しいことばかりで、それまでは、千円札が二枚も入っていれば、オンの字だった私の財布にも、|ヤクザの女《ヤツカイモン》から昇格した女房殿の、「外で恥をかかないように……」なんて、ご大層な大義名分と共に、|凄味《すごみ》と魅力にあふれた万札が、一枚だけ入るようになったのです。  環八の外車屋セントラル・オートの水島清治は、古い友人ですが、今はなぜか女房殿のコンサルタントで、先日二人の愚かな会議を盗み聴いた私は、仰天したのでした。 「安部も、もう歳だから、そうモテもしまい」  ということで、決まった小遣いが一万五千円で、二万円もたせておくと、あるいは女が出来るかもしれないというのですから、これには|呆《あき》れて、開いた口がふさがりませんでした。  そんな次第で、私の懐ろは、どうにか一杯飲める程度に、けど女にはモテないほどに、温かくなったのですが、逆に表は冬になって、急に冷え込んで来たのです。  私は、これでもう七年、いくら貧乏でも部屋には|炬燵《こたつ》があって、欲しい時には熱いお茶がいただけるという暮らしをしています。  けど、こう寒くなって来ると、あの塀の中の、なんとも|非道《ひど》い冷たさが思い出されてしまうのは、これが|前科者《マエモン》の哀れさでしょう。 「この寒さで、森脇老人は大丈夫だろうか」  私は堪らなくなって、赤い小さな車に乗込むと、八王子に向かいました。  八王子にある医療刑務所は、帝銀事件の平沢老人を収監しているので有名ですが、全国の、病気の重い懲役と老人とを集めています。  知り合いの看守に頼んで、森脇老人を冬の間、日当りのいい病舎に入れてもらうのと、それに、他の悪い爺様や使役の懲役が、病人食につく卵や牛乳を、|やりくり《ヽヽヽヽ》しないように目を配ってもらえば、それだけで随分楽に厳しい冬が過ごせるはずです。  森脇老人といったのは、森脇将光さんのことで、今年でたしか、もう八十七歳でしょう。  森脇老人と私の御縁は、高利貸しとゴロツキのそれでした。高利貸しとゴロツキの関係は、ある時は敵になって闘い、またある時は味方同士になるという、自民党の派閥と同じです。  悪く言えば|同《ツ》じ穴|の《ル》ムジ|ナ《ミ》で、良く言うのには、ちょっと考えつくのに間のいるような、そんな仲でした。  それが、三十年近くも暗黒街に|棲《す》んだ私なのに、森脇老人とはなぜかいつでも反対側で、同じサイドで仕事をしたり、闘ったことがないのです。  ですから森脇老人には、きっと「コン畜生、あの腐れ小僧メ」と思われていたのに違いなく、事実、毎度|可成手強《かなりてごわ》く闘ったのでした。  昭和五十四年に、私が四年の刑をつとめて懲役から帰るとすぐ、都心にあった私の友人の土地を|狙《ねら》った森脇老人軍団の|戦闘計画《エズメン》に、私は巻き込まれてしまったのです。  四年間看守にいたぶられたウサ晴らしとばかりに、分の悪い闘いを威勢よくやったので、 「あの糞タレ餓鬼は、いつでも|悪い方《ヽヽヽ》から牙をむきやがる。今度こそ思い知らせてやれ」  と、敵側のオン大将の森脇老人は、怒って|吠《ほ》えたのに違いありません。  たちまち|大絵図面《ヽヽヽヽ》が描かれ、私は、まんまとひとたまりもなく、おとし穴に、つむじから先に落ちてしまいました。  森脇老人の配下の挑発にのって、出て来たばかりの塀の中に、まず二年|六月《ロクゲツ》は、再び逆戻りというほど手下をぶん殴ってしまったので、森脇老人は余程嬉しかったのでしょう。絶体絶命の私を前にすると、滅多にないどころか、これがおそらく初めてのことでしょうが、|能書《ヽヽ》と身の上|噺《ばなし》を始めたのでした。  それはちょうど、壁の隅に|多羅尾伴内《たらおばんない》を追いつめた悪者が、拳銃を突きつけながらやるのと同じような場面です。ホラ、撃つ直前にパトカーのサイレンが聴こえ出したりなんかするでしょう。  森脇老人は、「|失敗《しま》った」とホゾを|噛《か》んだ私が、冷たく暗い塀の中を想って、目をつむっている前で、 「出雲の田舎から上京したオレが、書生をしながら慶応に通い、その頃もうひとりいた書生は帝大に行っていて、それが後で法務大臣になった木村篤太郎だった……」  と、問わず語りを始め、書生をしていたのが当時の大弁護士の、岸清一先生だったと言った途端、私は最後の気力を振りしぼって、 「そりゃあ俺の大伯父だ。金貸しってのは恩義もへちまもねえもんかい」  と叫んだのでした。パトカーのサイレンが鳴ったのです。  私の母玉枝の姉春枝、つまり伯母が、この岸清一先生のドラ息子、岸偉一のところに嫁にいっていたのです。  女学生の頃の母は、姉の嫁ぎ先の逗子の別荘に行くと、書生だった森脇老人にエスコートしてもらって、海岸をお散歩したものだと、私に話したことを、そんな場面で|咄嗟《とつさ》に思い出したのでした。  森脇老人は、あまりのことに目をしばたたかせ、それにつれて総入歯をフガフガさせて、 「玉チャンの息子が、なんで|悪い《ヽヽ》ゴロツキをやってるんだ。この阿呆のろくでなし」  とモグモグ言ったのでした。  なんといっても日本一の高利貸しですから、そんな場面をむかえてしまった自分のミスを恥じたのでしょうか、私は勘弁してもらうと、勝まで譲ってもらったのです。  それからは私も老人を目上として敬しました。  八王子に着いた私は、勤務明けで官舎に戻って来た知り合いの看守に頼んだのですが、看守は無表情な顔の細い目をさらに細めて、 「森脇さんは、もうここにはいないよ」 「………」  森脇老人は、どちらにおいでなのでしょう。  木枯しがピーッと、吹き抜けて行きました。 [#改ページ]

 
もうしません、御免なさい  去年の暮れに文藝春秋の忘年会に行くと、十年とちょっとぶりに、藤島泰輔さんにお目にかかったのですが、これは私にとって、なんともバツの悪いことでした。 「ナオちゃん(私の本名は直也)、もう忘れたよ。昔どおりの仲になろう」  とおっしゃって下さったのですが、穴があれば……、といっても、百七十六センチ、百四キロの私ですから、スポッと入ってしまえるような穴なんて、忘年会の会場にあるわけもありません。  その時に、許していただいて、年賀状までちょうだいした私ですから、年が明けると、仕事場に伺って御|挨拶《あいさつ》でも申し上げようと思ったわけなのですが……。  藤島泰輔さんの仕事場のある六本木にやって来た私は、冷たい風の吹きぬける街で、|米国水兵外套《ピー・コート》の襟を立て、深いポケットに両手を入れたまま、のっそりと立っていました。  伺おうとして来たものなら、サッサとすればいいようなものの、いかな私でも、いざそのビルの前まで来ると、そう簡単に入って行けるようなものではありません。  というのも、いかに許してもらったとはいっても、この藤島泰輔さんには、前刑をつとめる前の、今から十年ちょっと前に、私は非道い|不義理《チヨンボ》をしてしまっていたからです。  いくらその当時の私が、堅気を喰って生きていたゴロツキだったとはいえ、昔|馴染《なじ》みの、それも仲良くしていただいていた目上の方を、喰ってしまったのは、なんとも申し訳の立たないことでした。  刑期をつとめ終った前科者のことを、よく、「償いはすんだ」なんて、そんなことを言う人がいたり、当人も言ったりしますが、私には、そんな連中が化物のように見えます。  喰らった刑なんて、非常識の権化のような裁判官が、勝手に申し渡したもので、阿呆の寝言と変わりません。  そんなことより、捕まりもぶち込まれもしなかったことで、思い出すたびに、申し訳なくて気が狂いそうになることが、永くヤクザをした私には沢山あります。  私が藤島泰輔さんにやってしまったことも、|官《ヽ》の罰は喰いませんでしたが、十年以上経った今でも思い出すたびに、叫んで頭を抱えてしまうほどの、申し訳のないことでした。  藤島泰輔さんは、私の仲良しの中でも、一番育ちの良い方なので、私は時々、心ならずも苦しまぎれに、不義理をやってしまうのです。こんなこともありました。  あれは、もう今から、たっぷりふた昔も前のことになります。  私は、結婚する相手が、キリスト教のシンパだったので、神谷町のセント・オーバンス教会で式をあげることになりました。 「神父さんはこれが稼業の|おひと《ヽヽヽ》だし、間違いがあっても、予定より少し早目に神様んとこへ着くだけだけんど……、子供を巻添えにしちまうと、これは後生が悪りいぜ」 「そうだな、歌は皆で|唱《うた》うとして、聖歌隊とやらは断わっちまうべえ」  こんな、なんとも奇怪な相談のあと、新郎の私と仲間のゴロツキが、鼻に|皺《しわ》を寄せながら、おごそかな聖歌を覚える破目になったのには、わけがありました。  私が、結婚に際して身辺を整理したのは、いかにヤクザだったとはいっても、これは当然だったのですが、悪いことに、この中に同業者の可成な大物の娘がいたのです。  整理された娘の|親爺《おやじ》とその子分衆は、これも当然ですが、面白いわけがありません。だから日本侠客史にも稀な、教会への殴り込みだって、充分に予想されたのでした。  聖歌隊の少年たちの危険は、|烏《からす》の大合唱で解決しましたが、困ったのは、バージン・ロードを私の|袖《そで》をとって一緒に歩いてくれる男の、いないことだったのです。  教会の入口に背を向けて、神父様のところまで、しずしずと歩くのですから、殴り込んで来た連中の弾丸を、よけようもありません。  抜き合せる間もなく、全部背中にメリ込んでしまいます。  新郎の私は往生しても、いくら兄弟分だといったって、この時ばかりは、 「生れた時は別々でも、死ぬときゃ一緒」  というわけにもいかなかったようです。  |真逆《まさか》ひとりで教会の真ん中の通路を、プロ・フットボールのランニング・バックのように、物凄い勢いで走るわけにもいきません。  人の悪いこと、今思い出しても汗が噴き出ますが、困り果てた私は、事情を何も知らない藤島泰輔さんに、その私の袖をとって、入口に背を向けて歩くベスト・マンの役を、お願いしてしまったのです。  左手に聖歌の歌詞カードを持ち、半身で構える仲間の居並ぶ中を、私たちは、しずしずと歩いて、式は無事に終りました。  その途端、嫁側の親類や友人たち、それに神父様の呆れるのを尻目に、教会の裏庭に飛び出した新郎の私と仲間たちは、そのまま芝生にあお向けに伸びてしまったのです。  五月というのに、シルクのスーツは、下に着込んだフリルのついたシャツを通した汗で、背中が|濡《ぬ》れていました。  懐ろのホルスターに指を伸すと、拳銃もニチャッと汗をかいていたのです。  食あたりでもしたヤクザの群れ、といった私たちの有様を、いつもの大きな目で見降した藤島泰輔さんは、 「皆、いったいどうしたの……」  と無邪気な声でおっしゃったのでしたが、ようやく上体を起こした私の兄弟分がわけを話すと、矢張り、そのまま脳溢血で倒れないかと心配になるほど、真っ赤になって、お怒りになりました。   「お陰で、まっとうになりましたから、もう御迷惑はかけません。スミマセンデシタ」  心の中で|呟《つぶや》きながら、私はそのまま立ちつくして動きませんでした。 [#改ページ]

 
TBSの木口小平さん  これは、赤坂にあるテレビ局のTBSで、もう伝説のようになっている話ですが、随分以前のある夏の晩に、可成な地震がありました。  地震ですから、赤坂に限らず東京中が、グラリグラリと揺れたのです。  その時は、ちょうどどのテレビ局でも、ニュースの時間だったというのですが、とても残念なことに、私は何をしていたのでしょうか、その歴史的な瞬間を、自分の目では見ていません。  NHKでニュースを読んでいた|爺様《サマジイ》は、普段はとても貫禄をつけているのですが、その時ばかりはうろたえて、テーブルから離れると、|矢鱈《やたら》とオロオロしてしまったのだそうです。  その時、幸運にも目撃していた者の語ったところによると、我等の料治直矢は、TBSのマイクロフォンを、さざえのような拳で握ったまま、逃げもせずに、怖い地顔でテレビ・カメラを|睨《にら》みつけて、ニュースを読み続けたのでした。  それはまるで、「死んでもラッパを放さなかった木口小平」のように伝えられて、テレビマンの|鑑《かがみ》と、もてはやされたのです。 「素敵だわあ、TBSの料治直矢って、男だわあ、ああゆうのが本当の牡だわよ」  若いいい女が、ウットリとそんなことを言うたびに、私は|密告《チツクリ》したい浅ましい自分の心を押えるのに、大変な苦労をしたものです。  こんなこと、今だから|本当《ヽヽ》のことが話せるのですが、すべて美しい誤解でした。  その時にはぶちまけられなかったことでも、時が経って伝説になってしまえば、なんでも話せるというものです。  今から何年か前に、美しい「お天気|姐《ねえ》さん」と世帯を持って、驚くほど、別人のように身綺麗になった料治直矢ですが、まだその頃は、もうまるでお話にもならないほどの、呆れかえった|非道《ひど》さでした。  仕事が、テレビの画面に写るアナウンサーだというのに、番組の前になると、TBSの中を走りまわって、ネクタイを借りたり、自分に合う上着を着ている同僚を探したりしていたのでした。  東大でラグビーをやっていたのですから、走りまわるのは、苦にならなかったのに違いありません。  それでもワイシャツとズボンだけは、どうやら自分のを着ていたというのですが、これは当り前で、そうでもなければ、下宿からTBSまで来られないでしょう。  今のお|洒落《しやれ》な、若いアナウンサー連中からは、とても想像もつかないようなテレビ局の野蛮人といった若き日の料治直矢でした。  この地震の時にしても、夏の暑い頃の昔のスタジオですから、我等の料治直矢は、辛うじて自分のワイシャツに、勿論のこと同僚のネクタイを結んで、いつものようにテレビ・カメラを睨みつけて、ニュースを読んでいたのです。  そして、これもいつものことですが、ニュース番組で、胸から上しか写らない画面ですから、自前のズボンは脱ぎ捨てて、机の下は、ステテコに下駄だったと聴いています。  くどいようですが、私はその頃ヤクザもんで、現場になんか行く道理もありませんから、この話はすべて、TBSの方たちからの伝聞です。  これでは、いくら激しい地震が来ても、立ちあがるわけにはいきません。  いくら我等の料治直矢でもです。  この話を|肴《さかな》に酒を呑む時、もしかすると、他の素晴らしい男の伝説も、本当のところは、こんなことではないだろうか、という疑いが心の隅から|湧《わ》いて来て、私も含めて一緒に呑んでいる男たちの顔が、随分と微妙に複雑になってしまうのでした。  私の素敵な女の友人田宮光代は、もうこれで二十年近く、TBSの前で小さなバーをやっていて、TBSの方たちがよく見えます。  私と料治直矢が知り合ったのも、このバーで、もう随分古い友人です。考え深い鬼のような顔をした中年男で、立板に水と、まくしたてもしなければ、空しい口先だけのお|追従《ついしよう》も、若者やお主婦さまに迎合するようなことも口にしません。  そんな、|つちのこ《ヽヽヽヽ》の重戦車のような男なのに、週日には毎日、夜の十一時になると、あのテレビに写る女のアナウンサーの中では、とびきり上品で美しい三雲孝江と一緒に画面に登場するのです。  友人である私の|贔屓目《ひいきめ》ではなく、あの武骨極まる男が、嬉しいことに、随分と視聴者の方々の人気を得ているのだと、これは同じテレビ業界の方からうかがいました。  薄っぺらで、内容の無いかろやかさがもてはやされる現代でも、チャンとこの手の男が評価されているのを知ると、なぜかホッとしてしまうのです。  ついこのあいだまで、街のゴロツキだった私ですから、こんなことを申し上げるのは、不遜かもしれません。  けど傍目だから見えるということも、碁に限らず、なんにでもあることだとおぼしめして、どうぞ私の不思議に思うところを、お聴きになって下さい。  いったい何時の頃からでしょうか、日本ではどの世界でも分野でも、人間の品位についての評価が、まるでされなくなってしまいました。 「あの女は、品がいい」  とか、 「あの男は、頭もいいし金もあるけど、なんて|下司《げす》な奴だ」  なんて、そんな言葉が、まったく聴かれなくなってしまったのです。  たぐい稀な三雲孝江の、品の良さと美しさを、褒めたたえて飽きない私に、料治直矢は、それじゃ今度一緒に皆で呑もうと言ってくれました。  田宮光代の小さなバーに入って行くと、奥の席に坐っていた料治直矢は、目尻に皺を寄せると|微笑《ほほえ》んで、右手をあげたのですが、隣りにはあこがれの三雲孝江さんがいらしたのです。素晴らしい晩でした。 [#改ページ]

 
朝日新聞の人間奈良漬 「まだ十六だというのに、この小僧は、女郎買いはするボ|キ《ヽ》シングはやるだから、ほんとに、行く末が思いやられるッ」  昭和二十八年のロンドンでした。  もうその頃から、決して豊かではなかった髪の毛を、ふり乱して怒鳴っていたのは、朝日新聞の斎藤信也さんです。  私は、当時まだ十六歳の少年で、エリザベス女王の戴冠式の間だけ、朝日新聞のロンドン支局で働いていたのです。  斎藤信也さんは、東京から特派されて来た大記者でしたが、これが驚いたことに、人間奈良漬のようなのんべでした。  戦争に負けて、まだ八年しか経っていない東京から、このスカッチの本場へやって来たので、のんべなら無理のないことかもしれませんが、毎晩、お付きの私が呆れかえるほど呑んだのです。  |飲んだ《ヽヽヽ》、なんて書くより、むしろ|呑んだ《ヽヽヽ》と書きたいほどの召し上がり方でした。  この、私が怒鳴られていた日の前の晩も、したたかスカッチをお呑みになったので、いくら私が起こそうとしても駄目だったのです。  困り果てた少年の私は、仕方なく|A  ・  P《アソシエイテツド・プレス》にひとりで行って、東京に送る写真原稿と、その一枚ずつに、キャプションを付けました。 「アソール公と、領地を見下す岩上に立つ皇太子殿下。  右側のスカート着用が、アソール公。  左側の頭ふたつ小さくて黒いのが、日本の皇太子殿下」  という具合です。  今は、どうやっているか知りませんが、当時の電送写真は、黒い回転軸の上に、写真を貼りつける式で、一枚ずつこんなキャプションを付けて送らないと、鮮明ではありませんから、受取った東京でも困ってしまうのでした。  鮮明でないことに加えて、写真の白いところは、あくまで白くぬけてしまい、黒いところは真っ黒に潰れてしまうのですから、送られた東京も、さぞ大変だったと思うのですが、送る方だって大苦心だったのです。  当時の新聞写真は、たいてい四インチ掛ける五インチという大きな画面の、スピード・グラフィック、通称スピグラで撮るのですが、このカメラには今のストロボではなくて、乾電池が五個も入るフラッシュ・ガンがついていました。  これを真正面から、ボンッとやって写真を撮ると、目と鼻の穴だけ残って、あとは真っ白になってしまいます。  ただでさえ鮮明ではない電送写真ですから、こんなのを送ったのでは、いくらほとんどイラストでも画くように、東京でリタッチするとはいっても、困ってしまうに違いありません。  そんな時には、暗室の赤いランプの下で、|なめ出し《ヽヽヽヽ》というのをやるのです。  現像液に浸した印画紙に、だんだん人の顔が浮びあがって来ると、そこを、私がバットの中から|摘《つま》み出して、自分の舌で、ペロリペロリとなめるのでした。  なめると、印画紙のそこだけ温まりますから、どんどん鼻すじとか口もとなんて線が、浮びあがって来るのです。  せめていくらかでも、クッキリとした写真を、電送の機械にかけようとして、このなめ出しをやるのでした。  コダックもアグファも、最初からこんな場面を考えてなんかいないので、現像液には|美味《おい》しい味付けなんてしてありません。  D76もDK20も、これがその頃流行の現像液でしたが、いずれも|非道《ひど》い味でした。  そんな思いをして、やっと締切時間に間に合わせ、東京に電送写真とそのキャプションを送った私が、ホテルに帰って来ると、斎藤信也さんは、少ない髪の毛を天に向けて怒っていました。  旅先とはいっても、電送の締切時間に遅れたのが、自分でもイマイマしく、そして照れ臭かったのに違いありません。  週刊朝日の企画で、戸塚のお宅に伺うと、三十三年ぶりの斎藤信也さんは、すっかり穏やかな爺様になっておいででした。  素敵な奥様にかしずかれて、昼間から悠々と、炬燵でビールをやっておいでです。 「オー、君の本、読んだぞ。よく書けてる」  最後の大記者、と呼ばれる斎藤信也さんのお言葉ですから、持ったグラスのビールの黄色が、にじんでしまったほど嬉しかったのです。  奥様が、皇太子殿下に随行して、アメリカからイギリス・ヨーロッパを歴訪した、その当時のアルバムを、出して来て下さいました。もう色の脱けてしまった写真も多いのに、イギリスで撮ったのだけは、ピクリともしていません。  私が、水洗にたっぷり時間をかけて、念入りに仕上げた写真だからでした。  私は心の中で、その当時の写真の師匠熊崎タマキさんに、 「あんなに厳しく、念を入れて教えていただいたので、三十年以上も経って、他の人の仕上げた写真と一緒に貼ってあるアルバムで、こんな差が出ているのです」  と、心からお礼を言ったのでした。 「あれからすぐに、どうしたことかヤクザになってしまって、ついこの間まで、大変な道草を喰ってしまいました」  私が申し上げると、斎藤信也さんは、とても七十一歳の御老人とは思えない威勢の良さで、グイグイと召し上がりながら、 「終り良ければ、すべて良し、なんとも言うよ。これからドンドン良い物を書けば、まだタップリ時間はあるんだから……。けど、本当に良かったな」  と、おっしゃって下さったのでした。  なんとも言えず良い感じの奥様も、 「今度は、奥様と一緒に、ゆっくり遊びにいらっしゃい」  うかがった私の目から、嬉し涙があふれました。  末が思いやられる、と|叱《しか》られてから三十三年経って、その大予言のとおり、さんざん暗黒街をさまよい歩いた私です。  恐るおそる参上したのですが、斎藤信也さん御夫妻は、有難いことに、とても私にナイスだったのでした。 [#改ページ]

 
丸にAの字の腕自慢 「文藝春秋」の対談で、久し振りにお目に掛った安藤昇は、グレイのヘリンボーンの上等なツィードの上着を着て、その下は洒落た白地のワイシャツの、上のボタンをふたつだけ、形よくはずしたノー・ネクタイでした。  ワイシャツのボタンをはずす時は、こうして思い切って、上からふたつはずさないと、ひとつだけでは田舎臭くなってしまいます。  そのなんともさりげなく、けど素晴らしく洗練された様子を見た私は、 「|流石《さすが》に、俺の親分だ」  と、あらためて息を呑んだのですから、昭和二十六年からずっと、私はこの人に|惚《ほ》れているのです。  左の頬に、目立つ刀傷のある安藤昇は、何年経ってお目にかかっても、そのたびにほとんど見てくれが変わらないという、不思議な人でした。  顔も姿も、そして声まで、まるで変わらないのですから、頭の毛が見る見る薄くなって、腹がふくれ、差し歯のせいで語尾が怪しくなってしまった自分とどんどん差が詰まり、ついには私の方が歳を追い越してしまったようなのには、呆れてからくさってしまうのでした。  子分で最年少だった私が、今年でもう五十歳になったのですから、終戦直後の渋谷は、もう昔|噺《ばなし》になってしまったようです。  親分の安藤昇にしても、もう還暦はとっくに過ぎたはずなのです。  去年の八月中旬でしたが、出版された『塀の中の懲りない面々』を、安藤昇に一部送ると、すぐ電話がかかって来ました。  その時も、電話に出た|家の元極道の妻《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、顔を真紅にさせると、電話を耳にあてたまま、床から両足の裏が離れるほど、驚いて跳ねたのです。  というのは、女房の奴、掛った電話の声が、きっと「安藤だけど……」みたいなことを言われたのに違いなくて、それを私の若い衆だった安藤と思ってしまったらしく、 「どうなの、あんたチャンとやってんの」  かなんか言ってしまったのですが、そう言われた親分は、「安藤昇だけど、姐さんお蔭でチャンとやってますよ」と、含み笑いで答えたので、真紅になってバタバタしたわけでした。  声だって、そんなように、|家《うち》の女房が危うく心臓麻痺を起こしかねないほど、若くて張りがあるのです。  安藤昇は、電話にかわって出た私に、 「お前の本、いっきに読んだけど、よく書けてるぞ、大したもんだ。永くお前を子分にしてたけど、こんな能があったとは、まるで気がつかなかった」  こんな褒められようをしたなんて、永くこの人の子分をしましたけど、今までに覚えがありません。  安藤組が解散したのが、あれは昭和三十九年ですから、もう二十年以上も経つというのに、安藤昇に褒められると、嬉し涙が電話機の上に、ポタポタ落ちたのです。  そしてその年の十月末にやっていただいた「安部譲二の新出発を祝う会」には、安藤昇としては随分やつれた顔で見えたな、と思ったら、 「ナオ、顔を見せたら今日はすぐ失礼するぞ。風邪で熱が出て寝てたんだ」  集っていた昔の子分は、お帰りになってから顔を見合わせると口々に、 「親爺さんも人並みに風邪をひくんだね」 「ヘエ、寝てたのは女とじゃなくて、風邪でねえ」 「今頃、風邪が安藤組のバッジつけてらあ」  なんて言ったのですが、皆久し振りに親分に会えて、とても嬉しそうで機嫌がよかったのです。  私たちが子分になった渋谷の安藤組は、ヤクザの中でも、博徒・テキ屋、それに愚連隊とある中の愚連隊でした。  これは、自然発生的に出来たゴロツキの集団のことで、なぜか伝統を貴ぶヤクザの世界では、最下位に位置したのです。  それでも、位と力が別な物であるのは、どの世界でも同じで、渋谷の安藤組は安藤昇に惚れた腕っこきが集っていて、これは滅茶苦茶に喧嘩が強かったのでした。  最年少で最末端の私ですら、後年は「腕自慢」と言われたほどです。  たちまち渋谷の街を完全に占拠して、既成の大組織にグウも言わせませんでした。  あれは、昭和二十九年でしたが、私は捕まえられてぶち込まれた少年鑑別所の壁に、 「渋谷 東京宣伝社 阿部錦吾舎弟 安部直也」  と、しっかり彫り込んだのでした。  安藤組というのは通称で、最初は東京宣伝社というのが、正式な呼び方だったのです。  これはサンドイッチ・マンの手配が、その頃のかくれみのというか、表看板だったからで、後には、東興業と変わりました。  私は、昭和二十六年十四歳の時に見習いを始めて、二年後に正式採用となって丸にAのデザインの、バッジをいただいたのです。 「あのバッジ、三百個作ったらバッジ屋が三十個おまけしてくれたんだけど、それで足りないんで作り増したんだ」  安藤昇は、当時のことを嬉しそうに話してくれたのですが、うかがった私はあらためて心の中で|魂消《たまげ》ていました。  三十四年前、まだ二十代だった安藤昇は、こんなに沢山の子分を持っていたのです。  それも、まだこの頃のように、暗黒街が平和になってなんかいなくて、毎晩のように撃ったり切ったり、やったりやられたりしていた頃でした。  命懸けの子分がそれだけいたということで、わが親分ながら、あの若さでこれだけの人間に惚れられたというのは、驚くべきことです。  ヤクザではなく、もし政治の道を志していらっしゃったらと思うと、これは残念です。  同じような人間のやっている世界ですから、安藤昇は、間違いなく総理大臣になったでしょうし、私だって法務大臣ぐらいにはなれただろうと思います。 「ナオや、お互いに歳をとったな」  親分はそうおっしゃると、ニコッとなさいました。 [#改ページ]

 
若手大臣との“黒い関係”  秘書官に案内された私が、大臣室に入って行くと、上着を脱いだシャツ姿の大臣は、嬉しそうに笑って、 「ヨー、ナオちゃんよく来てくれたね」  と、言ってくれました。  少年時代からずっと、永く無頼な渡世を過ごしてしまった私は、哀しい術ですが、他人の顔色や仕草から、その心の内を可成なところまで的確に読みとります。  宿屋の番頭は、客の履物を見て品定めをするのだそうですが、同じように、ヤクザは相手の胸の内を睨んで生きているのです。  この時大臣が、私に見せてくれた笑顔と嬉しそうな様子は、これは間違いなく見たとおりのものでした。  私のような男は、友人に歓迎されることや、好かれたい人に好かれることが、堪らなく嬉しいのです。  歩み寄って握手をすると、私の目の奥は熱くなり始めて、すぐ視界がにじみました。  三十年以上の空白の時が流れたのに、私は、この友人を失ってはいなかったのです。  ただ固く手を握りしめ、目を見詰め合うだけで、声も詰ったようになってよくは出ません。  私は、裏街道を歩いている間、まっとうな友人に会うのを、出来るだけ避けていたのです。  身を持ち崩した自分の姿を恥じるところもありましたが、それよりむしろ、会ったことで友人を失うことになるのを、怖れたからでした。  ヤクザは、どう綺麗ごとを言ったところで、堅気を喰って生きている街の肉食獣です。友人に限らず誰でも、チャンスに恵まれれば、頭からガブリと喰ってしまうのがヤクザで、追い詰められたり空腹だったら尚更でした。  喰われて喜ぶのは、釣の餌ぐらいのもので、友情も恋心も、こんなことになれば、煙のように消えて、後には憎しみと恨みだけが残るのです。  会わなければ喰えない。  喰わなければ、友人は失わない。  だから、出来るだけ会わない。  というのが、ヤクザの頃の三段論法です。  それでも永くヤクザをするうちに、随分友人や良い関係を失くしました。  だから、この中学に入学する頃からの、古い友人の大臣を失わなかったことが、こんなに嬉しかった私だったのです。  この友人が慶応大学に進んで、剣道部の主将として大活躍したことも、人から聴いて知っていました。  足を洗ったついこの間まで、私は中学の同窓会にも行かなかったのです。  大臣だった父親を継いで、若くして衆議院議員になったのも、忘れもしません、塀の中で読んだ新聞で知りました。  自分にはまったく興味のない分野でも、友人が頭角を現わしていく様子に、他のことでは異常なほど嫉妬心の強烈な私ですが、なぜかこの時ばかりは、我ながらとても素直に胸を躍らせたのです。  選挙の時に、この友人の選挙区をたまたま通りかかった時には、せめて宣伝カーの運転手でも申し出ようか、なんて思ったのですが、それもなりませんでした。  もし政敵が、運転する私がヤクザだと知ったら、たちまち「黒い関係」なんてことにもなりかねません。  麻布の制服のボタンは、黒だったから、黒い関係で当り前だ。私はこんな時にすぐ馬鹿なことを考え出して、独り苦笑いをするのでした。  こうでもしなければ、友人の戦争に手を貸すこともならない|身状《みじよう》が、せつなく思えて堪らないからで、こんなこともくだらないけど術なのです。  正面に国会議事堂、右手に美しい宮城のお堀が見えるという、それは素晴らしい眺めに、私が見惚れていると、 「空港とそれに国鉄の問題を抱えているから、俺は一番ホットな大臣なのさ。もう二発もロケット弾が、この美しい景色の中から俺に向かって飛んで来たんだ」  一発目は狙いがちょっと近過ぎたようで、二階下の三階の建設省に命中し、友人は、 「どうも御迷惑を掛けまして……」  と謝りに行き、二発目は弾着を修正し過ぎたらしく、飛び越すと外務省に当ったのだそうです。 「この時も|挨拶《あいさつ》に行ったんだけど、敵の狙いが悪いのを、なんで俺が詫びて歩かなきゃいけないんだよなあ」  元ヤクザと運輸大臣の中学の同級生は、秘書官が|覗《のぞ》きに来るほど、大笑いをしたのですが、私は無邪気な顔で笑い続ける友人が、身体を張っているのを知って感動しました。  橋本龍太郎と私は、受験番号が並んでいたので、麻布中学の入学試験の日から口を利くようになった仲なのです。  育ちの良さが一目で分る|華奢《きやしや》な都会の少年でしたが、合格して中学生になると、見掛けよりはずっとヤンチャな奴だと分りました。  あの日から三十年以上経って、橋本龍太郎は運輸大臣という要職に就いています。  見るからに野卑で、無神経なのが|揃《そろ》っている自民党の代議士たちです。私もほとんど似たような連中に囲まれて、ついこの間までヤクザをしていましたから、友人である橋本龍太郎のこれまでの我慢と努力がしのばれるのでした。  友人というものは、私にとっては理屈を超えた存在なので、今はひたすら三発目のロケットが、はずれるか不発なことを願っています。 [#改ページ]

 
幻の右が映画を作る  元世界ライト級チャンピオンのガッツ石松は、声に特徴がありますから、留守番電話の最初の方を聴き逃しても、すぐ誰だか分るのです。  野太い北関東弁で、 「北海道の富良野から、倉本先生が上京されるので、白金の都ホテルの地下のバーで一杯どうですか、自分からお二人にお願いがあるんす」  倉本先生とガッツが言ったのは、脚本家の倉本聰先生のことで、私の中学の先輩です。  あれは一昨年の暮れでした。  四谷の「F」というバーでお目に掛って、御挨拶しただけなのですが、私の尊敬する先輩です。  ガッツとの付きあいは、私が前刑をつとめる前からなので、もう十六、七年にもなるでしょう。  なんでも一杯やる話なら、とても素早い私ですが、この時はメンバーが素敵でしたから、約束の三十分前には、もう都ホテルの地下にあるバーの、カウンターに坐っていたのです。  酒はどこで飲んでも|美味《うま》いのですが、とくに、良く訓練されたバー・マンのいるところは格別でした。キャプテンというよりシップ・マスター、フロント・ガラスというよりウィンド・シールド、バーテンダーよりバー・マンと言うほうが、私はなぜか気に入っているのです。ラジオをワイヤレス、これはキザに過ぎます。  三杯バーボン・ソーダを飲むと、ガッツ石松と倉本先輩が一緒にみえました。 「やあ、今日はガッツに口説かれてね」  挨拶がすむと、倉本先輩は笑いながら、そうおっしゃったのです。  倉本聰、ガッツ石松、そして私という異色の顔ぶれが、仲良く笑いながら、男ばかりの三人で、ウイスキーをグイグイッとやっていたのは、可成豪快な眺めでした。  ガッツ石松は、だいたいがとても真面目な、人生を一所懸命生きるタイプの男なのですが、この晩はとくに気合が入っていたのです。 「いやね、ガッツのボクシング映画の脚本を、俺に書けっていうんでね。君も原作を書いてやっておくれよ。忙しいだろうから五十枚でもいいんだ」  ボクシング映画っていったって、私の横に坐ってグイグイ飲んでいるガッツ石松は、もう十年以上も前に引退した今ではライト・ヘヴィー級もありそうな男です。 「エエ、自分は今八十五キロあるんですけど、二十キロ減量します」  ガッツは目を輝かせてそう言いました。  ひと口に二十キロと言っても、これは大変な減量で、それも現役を引退してから十年以上も経ったボクサーが、それをやろうというのです。  この映画が撮りたいばかりに、十年間も芸能界で恥をかき我慢を続けて来たのだと言って、ガッツは、輝かせていた|瞳《ひとみ》をうるませたのでした。 「俺のとこに来て、こう言ったから、『それじゃ原作は安部だ』ってことになったんだよ」  倉本聰さんは、微笑みながらそうおっしゃったのです。 「光栄です。五十枚と言わず、何枚でも、ガッツの望む話を書きましょう。先輩、これは本当に光栄です」  私は、本当に嬉しくて堪りませんでした。  どんなテーマなんだ、と私が訊くと、ガッツは、引退した元世界チャンピオンが、三十六歳でカムバックする話なのだと言ったのです。カムバックする理由は、小説家なんだから考えて欲しいと言いました。  そして、再び挑戦者として世界タイトル・マッチを闘って……と、後はまだ今は書けませんけど、ガッツ石松は、自分の胸の内を、北関東|訛《なま》りで語ったのです。 「ボクシングって、そんな甘ったるいもんじゃねえんです。四十歳に近くなってカムバックして上手くいくような、そんなもんじゃねえんです」  試合以外で、こんなに激した様子のガッツを見るのは初めてでした。  ガッツ石松は、下積みの長かったボクサーで、ある時私に、キック・ボクシングに変わりたいと、こぼしたことがありました。  今から十五年ほど前のことです。 「四、五年も経たねえうちに、キックなんてなくなっちまうさ。我慢してやってろよ。そのうち花も咲こうってもんさ」  私が言うと、夜の街の黒い舗道を、こけた頬を震わせて眺めていたガッツ石松でした。  それがある時、ノック・アウトされたチャンピオンが、 「奴の右のパンチは見えなかった」  と|喚《わめ》いたので、“幻の右”と異名をとったパンチを放ってから芽を出して、ライト級の世界タイトルを取ると、なんと五回も防衛したというのです。  日本では、ジュニア・フライでもジュニア・バンタムでも一緒ですが、日本以外の国ではウェートによって価値が断然違います。  ボクシングのチャンピオンは、クラスにジュニアが付かない方が、これは間違いなく格上でした。ガッツ石松は、ライト級のチャンピオンでしたから、日本のボクシング黄金時代に何人もいた世界チャンピオンの中でも、一際格が上の王者だったのです。  第一、ファイト・マネーが違いました。  海外で一番高いファイト・マネーを取ったのは、このガッツ石松だったのです。  引退すると、この元世界チャンピオンは、栄光のタイトルを鼻にもかけず、それに|溺《おぼ》れもしないで芸能界に転じました。  それも御面相が御面相ですから、最初からスターなんてわけにはいきません。  最初は、テレビで見るのが痛々しいほどでした。 「どうして世界チャンピオンにまでなった男が、あんな役で笑いものになって……」  と、関係者からもサンザンに言われたのに違いありません。 「おい、ガッツ、今の歳で二十キロも大丈夫かよ」  私が言うと、ガッツ石松は、平べったい顔をグイとあげると、 「安部さん、自分は死ぬ気でやる」  倉本聰さんは、そんな場面を御覧になりながら、御満足そうにウイスキーを呑んでおいでになりました。 [#改ページ]

 
命運尽きたサンダース軍曹  東京ライタースという準硬式の野球チームがあります。  劇作家のキノトール先生が主宰しておられるので、ドクトル・チエコさんが、自動的にチーム・ドクターでした。  私は、あれはたしか昭和四十八年頃ですが、当時11PMの「悪役」として有名だった俳優の小林昭男に紹介されて、入れていただいたのです。  その頃の私は、|二率《にびき》会小金井一家のピカピカのヤクザでしたが、週に一度はグラウンドに出掛けて行って、一所懸命、投げたり打ったり走ったりしていました。  私たちの世代は、瀬戸内少年野球団と同じですから、私も含めて野球狂が多いのです。  ピッチャーをやって、ウィニング・ショットを狙ったところにほうり込んで、バッターをまんまと打ちとる楽しみ。  キャッチャーをやって、ランナーを油断させ、いきなりロケット噴射のような牽制球を、思い切って投げつける快感。  内野でも外野でも、野手をして、難しい小飛球を、突っ込んで突っ込んで、地上寸前でグラブに納めた時の嬉しさ。  バッターの喜びは、これは申し上げるまでもありません。  野球というスポーツは、とにかく、やっても、見ても、語っても面白いのです。  他に滅多にこんなスポーツはありません。  この東京ライタースには、いわゆる有名人も沢山参加していたのですが、これは結成された時に、テレビ・マスコミ関係者を中心にしたからでした。  キノトール先生と小林昭男の他にも、ジャズの笈田敏夫さん、ルイジアナ・ママの飯田久彦さん、それに刑事コジャックのあの素晴らしい声をおやりになる森山周一郎さん。  それに作家の神吉拓郎先生や、永六輔さんといった面々ですが、他にも元プロ野球の名手が何人か、専属コーチのようにして参加しておられました。  人気番組のプロ野球ニュースの佐々木信也さん、元巨人軍の五番打者だった南村侑広さん、それに私がプレーした頃は、たしかオリオンズに出向? されていて、草野球は休んでいらっしゃった沼沢康一郎さんといった方たちだったのです。  佐々木信也さんは、テレビでお見受けするとおりの、とても温厚で、しかも気さくな方でした。子供の頃からの自己流で、体力にまかせるばかりの私に、親切にいろいろと、野球を教えて下さったのです。  人間というのは、私に限らずヒョンなことを、なぜかとても印象的に、いつまでも覚えているものなのですが、私も、 「英語では四球のことを、フォア・ボールとは言わずに、ベース・オン・ボールズと言って、だからスコア・ブックにBBと書くんだ」  と、佐々木信也さんが教えて下さったのを、今でもハッキリ覚えています。  有名人ではない他のメンバーも、それはいい方ばかりの東京ライタースでしたから、ヤクザの私も、気をつけて行儀よくしていました。それでも皆さんは、ウスウス御存知だったと思います。  私も親分や兄貴には内緒で、子分たちには呆れられながら、毎週試合に出掛けていました。  そして子分や女にはさわらせず、スパイクでもグラブでも、これだけは拳銃と一緒で、ものぐさな私が、自分で手入れをしたのです。  そうするうちに、私の悪運も擦り切れて来たらしく、まず子分のひとりが、私の拳銃で敵のヤクザを撃ってしまいました。  この時は、どうにか永い五年の執行猶予で戻れたのですが、東京ライタースでの私の|綽名《あだな》は、たちまち「サンダース軍曹」になってしまったのです。  そしてそれから二年もすると、こんどは事務所や自宅に|家《ガ》宅捜|査《サ》をかけられ、命運尽き果てて、私は刑務所に行きました。  あれは、昭和五十年の春のことです。  それからの四年間、私は、府中刑務所の塀の中であえぎ、あえぐうちに四十歳を越えました。そして、長くやってしまった無頼な暮らしを、この刑が終って塀の外に出たら、もうやめにしようと心に決めたのです。  若い時に取っておいた大型自動車免許証だけが、足を洗う私の頼みの綱でした。  |落ちて《ヽヽヽ》来たトラック・ドライバーをつかまえては、仕事のコツを、あれこれ訊いたりしたのです。  落ちるとか、落ちたというのは、懲役の隠語で、刑務所に入れられてしまうことなのですが、他にも同じことを、|吸い込まれる《ヽヽヽヽヽヽ》なんて言うこともありました。  四十過ぎては、決して|まっとう《ヽヽヽヽ》にはなれない、という暗黒街の格言が、あらためて身に染みたのです。これは当り前なのですが、いざ足を洗うとなると、まっとうな世界で飯の喰える技術を、まったく持っていない自分に呆れました。  拳銃が上手でも、手本引きに自信を持っていても、そんなものなんの役にも立ちはしません。  だから大型の自動車免許証だけが、まっとうな世界の隅で、なんとか飯を喰っていく切り札か、ワイルド・カードのようなものでした。  昭和五十四年に出所した私は、スポーツ新聞の求人広告を見て、運送屋に出掛けて行き、そしてまっとうな社会の壁を思い知ったのです。  三十年間もヤクザをしてしまった私は、自分でもウンザリするほどの前科前歴にまみれていましたから、誰も雇ってくれませんでした。  男が決めたことですから、それでも私は懸命にあがき続けたのですが、そんなある日のこと、赤坂のホテルの前に立っていた私は、前から佐々木信也さんがやってこられるのを見付けて、身体を|捻《ひね》ったのです。  尾羽うち枯らしていた私なので、以前の知り合いとは顔を合わせたくありませんでした。  そんな私に構わず、真直ぐ近寄っていらした佐々木信也さんは、前に立つと優しい顔をほころばせて、 「戻って来たんだね、誰もなんとも思っていないよ。野球に出ておいでよ」  と、そうおっしゃって下さったのです。  不覚にも涙があふれて道路に落ちました。  私が作家の修業を始めたのは、それから間もなくのことです。 [#改ページ]

 
ガツンときた巨女の一発  和田アキ子は、とても|巨《おお》きな女でした。  低いヒールの靴を履いて、百七十六センチの私よりいつでも少し高いのですから、芸能界に進まずにスポーツをやっていれば、きっとオリンピックで旗の一本もあげてくれただろうと思います。  あれは昭和四十五年ぐらいのことでした。  当時私が女にやらせていた「青山ロブロイ」というジャズ・クラブに、まだアイドル・スターだった和田アキ子が、誰だかは忘れましたけど、テレビ局の男に連れられてやって来たのです。  夜中の二時過ぎまで、美味しそうにウイスキーを呑んでいましたが、身体のわりには小さな声でした。  それに、いくら呑んでも、まだ若いというのにハシャギもせず、 「あれ、これは別れ話かな」  なんて私が思ったほどでした。  その頃の私はヤクザでしたから、女の状態には、作家になった今よりずっと敏感だったのです。  例を酒場のママやホステスにとっても、女が倖せな時は、男がつけ込んで助平をするチャンスはそうありません。何かうまくいかない時や、駄目になった瞬間こそ、男が喰らいつくチャンスなのです。  その頃は私も、今のように頭のてっぺんの毛が薄くなった五十歳ではなく、三十もなかばのピカピカの都会派ヤクザでした。  ブラウン管の上では、毎日ごく陽気にハシャイでいる美しい少女が、愁いに満ちた様子で、クイックイッと水割りをやっているのを見て、黙って見逃すわけがないのです。  ヤクザというものは、傍若無人で図々しくなければ、とてもつとまりません。  男とふたりで坐っているテーブルに、 「あ、和田アキ子さんですね。この店の親爺ですが、御一緒してよろしゅござんすか」  みたいなことを言いなから、坐り込むと、つれの男が気の小さいのをいいことに、手を変え品を変えて、ぬけぬけと口説いたのでした。  |睫毛《まつげ》の長い玉子型の顔をした巨きな少女は、それでも芸能界に棲んでいるので、ヤクザなんて見慣れています。  実に巧妙に、さりげなく言葉少なに私の口説をかわすと、呑むだけ呑んで、少しもフット・ワークさえ乱さず、その詰らないテレビ局の男と帰って行きました。狙い込んだ|雀《すずめ》に、高く飛んで逃げられてしまったドラ猫と、その時の私は一緒だったのです。 「親爺、どうもうまくいきませんでしたね」  ニヤニヤ笑った子分共に、 「ナアニ、あんな薄デカイのも珍しいから、ちょっとからかってみただけよ」  なんて、そんなことを言った私でしたが、今になって本心を白状すると、随分、心が動いていたのです。  すくんで黙っているエスコートの若い男を尻目に、いろいろお世辞を言ったり歯の浮くようなことばかり言い続けた私でした。  そして、そのいずれも、この物憂げな少女には利き目のないことを知ると、ヤケになって、 「ねえ、お国のためになることをしないか、貴女と俺で、ウンと巨きな子を作って、オリンピックで日本のために金メダルを取らせるんだ。どうだい」  その頃から人並みはずれた大男だった私は、最後にはそんなことを言ったというのですから、これは巨きくても多感な少女に言うようなことではありません。  とにかくそんなわけで、まったく相手にされずに、夜中の三時頃には、和田アキ子は帰ってしまいました。  そしてそれからしばらくして、私は四年間の懲役に行き、帰って足を洗うと、それから永い|くすぶり《ヽヽヽヽ》の八年間が過ぎたのです。私もいつの間にか、五十歳になっていました。  ついこの間まで未成年で、捕まっても少年房や家庭裁判所ですんでいたのに、どうしてもうこんな歳なのでしょう。暗黒街をさまよう間に、青春もなしで、こんなに永い年月が過ぎてしまったのです。  ああ、なんということだ。どうすれば過ぎてしまった時間が取戻せるのだと、六畳ひと間のアパートの壁に問いかけても、答えの返って来る道理もありません。  泣いても泣き切れない想いでした。  そして、これは自分自身の強運に驚くことなのか、それとも御先祖様の御遺徳なのか、私は、チャンスに恵まれると、元ヤクザの|くすぶり《ヽヽヽヽ》から作家になれたのです。  マッチ箱より小さいので、それなら麻雀のパイかキャラメルだろうと笑ったのですが、とにかく小さな家に引っ越して六畳ひと間の生活も終りました。  |髯剃《ひげそ》りの刃も、切れなくなれば惜しみなく替えられるようになり、くすぶっていた頃は、そうは乗れなかった首都高速にも、ためらわずスイと入れるようになって、私の大貧乏は終ったのです。  単行本が良く売れると、テレビやラジオの出演依頼も増えました。  男がこの歳になると、たいてい自分のことは、多少|贔屓目《ひいきめ》でも、全部知り尽しているものなのですが、私に限ってそうでもなかったのです。  承知していないことが、これまで少しも知らなかったことが、体内の奥深くひそんでいたのを知りませんでした。  私は、とんでもない「出たがり虫」だったのです。放送局からお呼びがあると、どんな番組にでも、喜んでいそいそと出掛けて行って、まるで飽きるということを知りませんでした。  そして、十数年ぶりの和田アキ子に再会したのです。  テレビ局のスタジオで顔を合わせると、和田アキ子は、いきなり、 「安部さん、あんた出過ぎよ、本当に」  と、笑いながら言ったのです。  あの物憂げで美しかった少女は、巨きさはそのままでしたが、なんともいえず、とてもいい感じに変わっていました。  女は誰でも、少女時代が輝くように美しいと思っていた私は、この和田アキ子の変わりようを見て、偉大な例外のあることを知ったのです。年増になった和田アキ子は、女の倖せと余裕で、辺りを圧していました。 「アッコ、いい歳をとったね。本当に素敵だし綺麗だよ」  私が声を上ずらせて言うと、 「そんなことばっかり言ってないで、作家の先生、本番をとちりなさんなよ」  相手にしてもらえないのは、いくら年月が流れても一緒でした。 [#改ページ]

 
元女房の書いた呆れた本  スタジオには、「青山ロブロイ」がそっくり作ってあったのですから、私はしばらくテーブルに坐って、感無量でした。  毎度テレビの美術さんが作るセットには、驚かされます。 『塀の中の懲りない面々』の時には、TBSの美術の昔|馴染《なじ》み、和田一郎が、 「安部さん、これならどうだい」  と、そこには、なんと府中刑務所がありましたから、スタジオに入った私は棒立ちになって、 「一郎チャン、これは見事というより俺にしたら、悪夢だ」  と、うめいたのでした。  この「青山ロブロイ」は、昭和四十三年から五十年まで、その頃私の女房だった遠藤|瓔子《ようこ》に、やらせていたジャズ・クラブです。  これもTBSの番組で、今晩はこのセットにその当時の客やジャズ・メンが集って、賑やかにやろうということでした。  その頃このジャズ・クラブでは、今ではすっかり大物になったプレーヤーが、まだ知る人ぞ知るといった程度で、毎晩ジャズをやっていたのです。  今日はその中から、サックスの中村誠一とトロンボーンの福村博、それにピアノの山本剛という昔の「中村誠一とゲス・マイ・ファインズ」が、やって来るのだと、私は聴いていました。 「他にも、プレーヤーもお客さんも、貴方には涙の出るような方たちが見えるわよ。もっとお呼びしたかったんだけど、とにかく席数が少ないのよ」  電話で昔の女房の遠藤瓔子は、そういつものように、威勢よく叫んだのです。  なんでこんな番組を撮ることになったかというと、それは遠藤瓔子がこの夏の終りに、『青山ロブロイ物語、安部譲二と過した七年間』という呆れた本を出版したからでした。  とにかく、かけてある帯で著者の名前が隠れてしまって、表紙に巨きく「青山ロブロイ物語」とある横に、安部譲二だけ白抜きで、後は目立たない黒の字が、よく見ると、「と過した七年間」と書いてある本です。  これでは誰でも私の本だと思って、お買上げになってしまいます。  慰謝料も払えず、養育費も送れないまま、ふたりの息子を大きくしてもらった義理があるので、他の奴にこんなことをされたら、お里を出して非道い目に遭わすのですが、相手が遠藤瓔子では、そんなわけにもいきません。  まえがきと、それにあとがきまで私は書いたのでした。  この番組に出るジャズ・メンが、それぞれ遅くまで仕事をしているので、収録は深夜の十二時からというのですから、私も夜の九時から対談を一本すませて、このスタジオにやって来たのです。  スタジオには私が一番乗りで、セットのテーブルに坐って、私が懲役に行くと潰れてしまった「青山ロブロイ」をしのんでいると、 「ウオーッ」  と大声を出して、髪を短く刈った西宮正明さんが、スタジオに入って来ました。  この偉大なカメラマンは、私の前回の裁判で、弁護側の情状証人として出廷して下さって、 「寛大な処置をいただければ、私が……」  なんて、おっしゃって下さった方です。  もっとも肝心の裁判官は、そっぽを向いて知らん顔をしていたのですが……。  俳優のハッポンこと山谷初男が、ハンサムな中丸新将と一緒にやって来ました。  そしてノッシノッシと小松左京先生。  文藝春秋の田さんに続いて、デザイナーの浅葉克己が、そして随分肥った三上寛も、セットに入って来たのです。  黒の|潮垂《しおた》れた上下を着込んだ山下洋輔が、これは昔からの円い眼鏡で入って来ると、皆に「ヤア」と言い、それに続いて、中村誠一とゲス・マイ・ファインズも賑やかにやって来ました。  この変てこな名前のバンドは、いつどこにいても分るほど賑やかなのです。  この店で働いていた本明徹も渋谷俊徳も、それに紅一点のオセキもやって来たと言ったら、わたしがいるのに……と遠藤瓔子は、昔のようにブンむくれるでしょうか……。  私は、そんなひとりひとりと、手を握り合い、抱き合いました。  なんと、なんと嬉しい面々なのでしょう。  十二年も以前は、こんな素晴らしい人たちと、私は毎晩ジャズを聴いて、酒を酌みかわし朝まで話をしていたのです。 「矢作俊彦を|招《よ》んでやんないと、あいつこの番組を見るとブンむくれるぞ」  誰かが叫ぶと、 「そんなの矢作だけじゃねえさ、この店の客はゴマンといたんだ」  と叫び返したのがいて、店のママだった遠藤瓔子は、 「アラ、困ったわねえ」  なんて、昔のとおり白々しい困り方をして見せました。  私や瓔子とは、もう三十年近い仲の、この参った本を出版した|世界文化社《セコイブンカシヤ》の重松祥司も、一番後からやって来ると、 「アラ直チャン、随分肥っちゃって、糖尿病には気を付けないと……」  自分は頭の毛に気を付けたら良いんだと、私は毒付いてから、 「心配要らない。甘い物を喰べたらすぐ、塩をなめて中和してるから」  と言ったら、重松祥司はそれが癖で、ただ目をパチクリさせ、聴いていた小松左京さんは、呆れかえると水割りを一息で呑み干して、セットに入ってから二箱目の煙草を|咥《くわ》え、 「直チャン煙草はなんで中和するんだ」  なんておっしゃったのです。  中村誠一は、十年以上も聴かない間に、とてもいい歳をとって、素晴らしい音を出しました。  そして山本剛がピアノを譲ると、山下洋輔が、まず「枯葉」、そしてアンコールに応えて、「ラプソディー・イン・ブルー」のさわりを弾き、これには、そのセットにいた皆が酔いしれたのです。  まだ呑みたい。まだ話をしたい。まだ聴きたいと思ったのに、二時半に収録は終りました。  私は、なんと素敵な友達を持っていることかと、その倖せを思ったのです。 [#改ページ]

 
フィリピン拳闘界の大立者  本当に久し振りに訪れたマニラでしたが、十数年前と少しも変わりません。  新しいビルが何軒か建ったのと、戒厳令が解けて、夜中でも自由に歩きまわれるようになったぐらいのものです。  毎度のことながら、なんともケタタマシイ街で、それぞれ独自の南国風のデザインで飾りたてたジープニーが、その騒音源でした。  満員といっても、せいぜい七、八人の客を乗せたジープニーが、一台ずつ大音響をたてながら、街の中をひしめき合って走りまわるのです。  一台ずつが、目一杯ボリュームをあげて鳴らしまくるポータブル・プレーヤーとクラクション、そしてドライバーの張りあげる怒声を載せているのですから、街は右翼の宣伝車が集ったのと同じで、これは堪りません。  私が訪ねたフィリピン・ボクシング界の大立者、ロッペ・サリエルの住んでいる家は、マニラの高級住宅地のマカティにありました。  家の前には、息子さんや部下が、私の来るのを待ち構えていてくれて、その中には、懐しいレオ・エスピノサの真っ黒な顔もあったのです。  私が、待っていてくれた皆と、家の前で、抱き合ったり握手したりしていると、家の中から現われた銀髪を角刈りにしたロッペ・サリエルは、 「おおナオ、|どうしたらそんなに肥るんだ。牛飼いに教えてやれ《ハウ・カム・ソー・フアツト・テイーチ・カウボーイズ・ハウ・トウ・メイク・イツト》」  私の手を握りながら、何十年経っても少しも上手にならない英語を、大音声で叫んだのは、もう八十四歳で耳がすっかり遠くなっているからです。  私が最初に、この大柄で陽気なフィリピンのオッサンに会ったのは、まだ私が十五歳でしたから、あれは昭和二十七年のことでした。まだとても貧乏な日本でしたが、その頃はそれでも朝鮮戦争のお蔭で、いくらか景気が良くなって来た頃です。  そんな日本に、フィリピンのロッペ・サリエルは、プロ・ボクサーを連れて乗り込んで来ました。  思い出すままにそんなボクサーたちの名前をあげると、タニー・カンポ、フラッシュ・エロルデ、レオ・エスピノサ、ラリー・バターンといった連中で、いずれも実力充分で顔がなめし皮のような、鍛えぬかれた選手です。  まだホンの|駆け出し《ヽヽヽヽ》の|部屋住み《チンピラ》だった私ですが、この頃の不良少年が皆そうだったように、ボクシングが大好きでした。  その晩、亡くなったフラッシュ・エロルデの未亡人に招ばれて、夕食をいただいたのですが、その時盛んに昔噺に花を咲かせたロッペ・サリエルも、レオ・エスピノサと私も、この目黒の月光町に滞在していたフィリピン連中と、私が知り合ったきっかけが思い出せなかったのです。  とにかく皆熱心なカソリック教徒だったので、日曜には教会に連れて行ってあげたりしているうちに、好きなら教えてやるさ、ということになって、そのうちに使えるようになると、私はいつの間にか、無給のスパーリング・パートナーにされてしまったのでした。  その頃が、日本のプロ・ボクシングの興隆期で、|凄《すご》い選手がドンドン育ったのです。  マニラのロッペ・サリエルと並び称されたハワイのサッド・サム・一ノ瀬が発揮した愛国心で、白井義男が機会を得て、日本初の世界タイトルを握ったのは、昭和二十七年でした。  まだこの頃は、テレビ局が金を持っていなかったので、プロ・ボクシングはテレビの害に遭うこともなく、純粋に順調に強くて上手なボクサーが、いい試合を見せて、人気を集め発展していったのです。  昭和四十年を過ぎてからです。ボクシングを愛するでもなく、ただ視聴率を稼ごうとして金をバラ|撒《ま》くテレビ局の若僧に、金に目のくらんだジムの会長たちが絡んで、日本のプロ・ボクシングが狂ってしまうのは……。 「俺、十六の時はトランペッターで、帝国ホテルで吹いてたよ。関東大震災も吹いてた時だったから、トランペットを持ったまま宮城に逃げこもうとして、入れてもらえなかったのを覚えているよ」  夕食の時に、大きな円いテーブルで、私の隣りに坐ったロッペ・サリエルは、大声でそんな昔噺をしてくれました。  フラッシュ・エロルデ未亡人は、五十がらみの機嫌のいいオバサンで、ロッペ・サリエルの娘なのです。  つまり、元世界ジュニア・ライト級チャンピオンのフラッシュ・エロルデは、ロッペ・サリエルの娘婿でした。  夕食が終ると、屋敷の隣りにあるボクシング会場では、その晩は試合が行なわれていたので、私とロッペ・サリエルはリング・サイドに陣取って見物したのです。  五百席ほどのこぢんまりとした試合場に、三、四百人入っている客は、皆大っぴらに賭をしていて、ロッペ・サリエルも試合ごとにいくらか賭けていました。  タイプで打ってある今晩の|試合《カード》を見ていると、メイン・エベントの十回戦が、日本人だと分ったので、私は控室に行ってみたのです。減量を終った肉のそげ落ちた顔の日本青年は、セコンドも連れずに独りで来ていると語り、「長内秀人です」と胸を張りました。  まだ戦後の日本そのままといった様子の、貧しいフィリピンで、しかもテレビもなしの試合ですから、ファイト・マネーなんて|僅《わず》かなものに決まっています。 「皆賭けてるんで、目一杯やんないと二度と使ってもらえません。だからキツイ試合なのでいい修業になります。ただみたいなファイト・マネーだけど、当分ここでやりますよ」  今の豊か過ぎる日本にも、まだこんな若者がいるのです。  臨時のライセンスを出してもらうと、私はセコンドをつとめ、奥の手を伝授して、三回TKOで長内秀人は見事に勝ちました。  興奮の|醒《さ》めない私に、ロッペ・サリエルは、もう日本は金持になり過ぎて駄目だけど、まだフィリピンは大丈夫だから、ボクシングをやりに越して来いと言ったのですが、私は黙って微笑むと、首を横に振ったのです。 [#改ページ]

 
鯖猫も宙に舞う仰天電話  私の師匠山本夏彦は、それは身だしなみのいい方です。  その日も、飯田橋のホテル・エドモントの入口で、私がお待ちしていると、素晴らしい仕立てでなんともいえぬいい色合いの、茶色のオーヴァー・コートをお召しになって、機嫌よく入って見えました。 「小説現代」で今年十二回にわたってやらせていただく対談の、その日は二回目で、一回目は丸谷才一先生でした。  新米の私が、偉大な先達にお話をうかがうということなので、今年は毎月一度必ず、私は柄になく威儀を正さなければなりません。  私の以前過ごした世界でいえば、いずれも親分か総長級の方々なのですから、人気だけはあっても、まだほんのチンピラか駆け出しの三下のような私には、とても|お晴れ《ヽヽヽ》ですが、こんなに気の張ることはありません。  その日対談をして下さる、今は押しかけ弟子の私が、「師匠、師匠」と連呼する山本夏彦から、最初に電話をいただいたのは、昭和五十九年の春先のことです。  昭和五十八年の年末に、初めての短篇小説が、講談社の「イン・ポケット」という雑誌に載ると、それから昭和五十九年の春にかけて、その雑誌に毎月のように使っていただきました。  それが山本夏彦のお目にとまって、お電話をいただいたのです。  電話の向うで「山本です」とおっしゃった方が、なんと山本夏彦その人であることを知った私は、仰天して座布団から尻を浮かすと中腰になってしまいました。  |股《また》の間で|睡《ねむ》っていた|鯖猫《さばねこ》の「みいみ」も、宙に浮いて目を醒ましたのです。  昭和五十九年のその頃といえば、それまでやっていた競馬の予想屋を、初めて短篇小説が活字になったのを機会に、思い切って止めてしまったので、|逼塞《ひつそく》していたというより、まさに呆れ返った貧乏の底でした。  刑務所の懲役をテーマにしている作家は、他にあまりいないので、忙しくなるにちがいないと、皮算用どころか|狸汁《たぬきじる》の味噌加減まで舌なめずりしていたというのに、なんとしたことかそれが外れてしまったのです。  短篇小説を、一冊の月刊誌に載せていただくのでは、いくら六畳ひと間のアパートでやっている暮らしでも、とても成りゆくわけもありません。あての外れた私は、毎週末には生活費のためのセコイ馬券を狙い、女房は近くのスナックに働きに行きました。  そんな時に、今の師匠の山本夏彦は、私に電話を下さったのです。  中腰のまま電話に向かって、上ずった声をあげる私を見ると、六畳で鼻を突き合わすように暮らしていた女房と三匹の猫は、これが「|慌《あわ》てずの……」と異名をとった四十七歳になる元ヤクザなのか、みたいな|怪訝《けげん》な顔をしたのでした。  山本夏彦は、もとより私のことは、目にとめた短篇小説の作者としか、御存知なかったのですが、私は良く存じ上げていたので、そんなに驚いたり感激したりしたのです。  山本夏彦の主宰する月刊誌「室内」は、三十年以上の歴史を誇る家具とインテリアの専門誌で、私が服役していた府中刑務所の北部第五工場という木工場でも、この雑誌を教材として、毎月官費で定期講読していました。  工場の事務室の棚に、ズラリと並べてある「室内」を、私は端から読んで、巻末のエッセイで山本夏彦を知ったのです。 「皆が声を揃えて唱える正義は、いつでも怪しい」  と、喝破するのに、目を見張る思いをした獄中の私は、それから山本夏彦の著書を手に入れて、刑期の間読み|耽《ふけ》りました。  その頃の日記にも、|叔母《ヽヽ》に出した手紙にも、今回の刑をつとめる間に知った山本夏彦のことが、驚きと共に記されています。  その鋭く確かな人間を見る目、ことの本質を見極める眼力と、真実を言ってはばからない度胸のよさに、木工場で木の粉にまみれて、苦役をつとめていた私は、しびれてしまったのです。  新橋にある「室内」の編集部にうかがって、山本夏彦にお目にかかった私は、すぐ翌月からの連載をいただきました。  嬉しくて、帰り|途《みち》は、物がにじんで見えて困ったのを覚えています。  それから昭和六十一年の夏に、初めての単行本が出版されるまでの二年と少しの間を、私は、この「室内」の連載に支えられて過ごしました。  それというのは、「単行本のない作家なんて、名刺のないサラリーマンと同じだ」と、私は言ったのですが、その初出版までの間というもの、なにしろもう五十歳に近かったので、焦りも激しかったし、暮らしも苦しかったから、精神的に参ってしまいかけたのです。  とにかく心が弱いので三十年もゴロツキをしてしまった私なので、この連載にすがって、辛うじて、俺は作家なんだ、という心の張りが保てたのでした。  そんな間も、押しかけ弟子の私が新橋の会社にうかがうと、師匠にされた山本夏彦は、いつでも優しく温かく迎えてくれたのです。  社員の方も、若いお嬢さんのような方にいたるまで、誰も私を、この前科者の、ゴロツキの成れの果てめ、という目で見る方がいなかったのですから、私にすれば、こんな居心地のいいところなんて、そう滅多にあるものではありません。 「文章を見て、書いた者の過去は見ない」  という山本夏彦の主義が、社においでの方皆に染みているのは、私のような男にとって、もう言葉がないほどの嬉しさでした。  入り浸っているうちに、 「分り易い文章を、第一に心掛けなさい」 「登場人物に名前を付けるのは、本当に必要な者に限りなさい」  時々ですが師匠は、新米の私にそんな文章のコツを、豊富な例と共に話して下さったのです。  対談を|了《お》えて、山本夏彦のお乗りになった車が見えなくなるまで、ホテルの玄関の前でお見送りをした私は、 「ああ、こんな方と御縁が持てて、弟子にしていただけたなんて……」  と、毎度のことながら、自分の幸運を思ったのでした。 [#改ページ]

 
そこらの男とは違う男  電話から聴こえて来た声は、私とは古い仲の、年長の友人米倉健志でした。  私たちが最後に会ったのは、たしか昭和五十年頃で、それからずっとこの電話までの間、連絡が途絶えていたのですが、すべての原因は私にあったのです。  昭和五十年から五十四年までは、塀の中にいて、出て来てからも昭和六十一年の暮れ頃まで、私には以前の友人たちに、会ったり声をかけたりする心のゆとりが、とてもありませんでした。  まっとうな堅気を目差したものの、見通しは明るくならず、焦りと貧乏の中で、あがき続けて試行錯誤を繰り返すばかりの年月だったのです。  そんな時に友人に会って、苦しまぎれに、いい関係を壊すようなことになるのを、貧すれば鈍す、というのでしょうが、私は、そうなることを怖れたのと、矢張り自分の|くすぶって《ヽヽヽヽヽ》いる姿なんか、友人に見られたくないという気取りがありました。  米倉健志は、昭和三十年代の日本を代表するボクサーで、世界バンタム級のタイトル・マッチを、チャンピオンだったジョー・ベセラと闘って、最終ラウンドの終了のゴングが鳴った時、見ていた誰もが挑戦者の勝利と思ったのです。  十五回戦の十回が終るまでに、スピードとパンチの正確さに優った米倉健志は、チャンピオンに鋭いパンチを浴びせると、接近戦に持ち込もうとするのを、早い左のジャブで出鼻をくじき、鮮やかなフット・ワークでかわしました。  そして終盤に試合が入ると、米倉健志は、衰えない足を使って、距離を置いてジャブを打ち、ポイント・アウトする作戦に徹したのです。  ジャッジの採点を集計したレフェリーは、チャンピオンを指差して、それを見た米倉健志の顔から、血の気が失せると、すぐに悪夢から目が醒めたような、不信と失意、それに怒りの混った表情になったのです。  米倉健志の勝利を信じた観衆の怒声は、試合場にいつまでも渦を巻いていました。  更衣室に押しかけた記者たちに、米倉健志は、言葉少なく、 「あの回までに、充分ポイントをリードしたと思ったので……」  と言ったのですが、それがセコンドの指示だったか、終盤もそれまでと同じように闘っていれば……というようなことは、ついに何も言いませんでした。  こうして、不運にも米倉健志は、世界チャンピオンという大魚を逸したのですが、全力を使い果たしてのことではなく、終盤のラウンドを、意識的に流してしまった甘い判断の結果なので、|口惜《くや》しさや後悔で堪らなかったと思うと、今になっても胸が痛むのです。  逃した獲物の大きさに打ちひしがれて、無念の涙と怒りに溺れたままで、それからの人生を過ごしてしまっても、なんの不思議もないほどの深い傷に違いありません。  けど、私の古い友人の米倉健志は、そこらの男とは違いました。  引退すると、すぐ国電から見える所にジムを作って、屋根に巨きな看板を乗せたのですが、これを見てガッツ石松が入門するのですから、これは大成功だったのです。  米倉健志は選手たちに、同じ口惜しさだけは味わわせたくないと、思ったのでしょう。ヨネクラ・ジムのボクサーたちは、いずれも個性を生かした特徴のあるファイトをしたのも、とかく同じ型にはめてしまう日本のジムが多い中で、とてもユニークで新鮮でした。  そして、どの選手にも共通したのは、チャンスを|掴《つか》むと打ちまくる積極的なボクシングと、怖れを知らない闘志だったのです。  そんな素晴らしい選手たちの中でも、特筆に価いするのは、柴田国明とガッツ石松でした。  日本の選手には稀なことでしたが、このふたりは、海外に遠征するとチャンピオンを破って、世界タイトルを奪い取ったのです。  今でも私は、羽田に帰って来た柴田国明が、税関から出て来ると、巨きなソンブレロをかむって、南米の陽気なリズムをステップしながら、出迎えの人たちに嬉しそうに両手を挙げて見せたのを、ハッキリ覚えています。続いて出て来た米倉健志も、なんとも言えない良い顔で、嬉しそうに笑っていました。  ヨネクラ・ジムと金平ジムを双璧に、全盛を誇った昭和四十年代半ばまでの日本のプロ・ボクシング界でしたが、目先の視聴率しか頭になく、ボクシングを知らず愛してもいなかったテレビ局に、|飴《あめ》をしゃぶらされると、すぐ見限られてしまったのです。  経験を積まなければならない新人なのに、テレビで放送する試合がどんどん少なくなると、それに従ってリングに登る機会も減ってしまいました。  米倉健志から、プロ・ボクシングの危機を説かれた私は、採算の取れない四回戦だけの興行を、新人のために月一回やることにして、赤字はふたりで折半と決めたのです。  新聞でこの興行の記事を読んだ元四回戦ボーイのある社長が、試合数と同じ数のトロフィーを下さって、男らしく闘って負けた選手に、敢闘賞としてあげてほしいと、涙が出るようなことをおっしゃったのです。  キング・クレオールの渡辺正典は、メンバーを率いて後楽園ホールに来ると、開場から最初の試合までの間、凄い演奏をしてくれました。  東京12チャンネルの吉原運動部長は、私と米倉健志の負担する赤字を知って、三十万円で収録することにして下さったのです。  ボクシングを愛する人たちが、こんなに協力を申し出てくれたのも、米倉健志の実績と、それに人柄の良さだったと思います。  米倉健志は、ジムの二十五周年のパーティーに、私を誘ってくれると、もう一度、私が作家になれたことを喜んでくれたのです。  懐しさに雑談を続けるうちに、私は米倉健志が、プロ・ボクシング協会の会長の要職にあることを知りました。  この困難な時代を乗り切るのに、これ以上の適材はいないと私が思ったのは、米倉健志の栄光に満ちた実績と、それにもまして、ボクシングに対する愛と情熱が、|漲《みなぎ》っているのを知っていたからです。 [#改ページ]

 
「ニコッ」が|曲者《くせもの》の大投手  新しく出来た後楽園球場に屋根がついたのは結構なのですが、煙草を吸ってはいけないというのですから、こんな変な話はありません。  今までどこの野球場でも、自由に吸えた煙草を、エア・ドームだけ吸ってはいけないというのなら、観客の楽しみを奪った分だけ料金を割引かなければ、私はいけないと思うのです。 「なぜいけないんだ」  と訊いたら、仏頂面をした職員が、 「エア・ドームは、運動場ではなくて劇場ですから、劇場法で……」  なんて答えたのですが、本当に劇場法とやらには、煙草を吸ってはいけない、と書いてあるのでしょうか。  コンクリのスタジアムが、煙草の火、それも観客のいる野球の最中に、そんなことが原因で火災になるとは、私には決して思えないのです。  それなら競馬場も競輪場も、禁煙でなければいけないはずで、法は常識だと聴いていますから、私はまったく納得がいきません。  それでも煙草はいけない、と言うのなら、 「分った、ここは劇場で、だから巨人軍の野球はスポーツではなくて、芝居なんだな」  と喚くだけなのです。  その日も、エア・ドームの記者席で、煙草を吸えずお茶も呑めずに、ぶんむくれて観戦記を書こうとしていたら、前の通路を「江夏ザ・グレート」(私は江夏豊のことを、敬意を籠めてこう呼ぶのです)がやって来て、私と目が合うと、ニコッと笑いました。  現役を引退して評論家になると決まった時、不明にも私は「駄目だ」と思ったのですが、案に相違して、江夏豊が大成功を収めた秘密に、この「ニコッ」があったのです。  野球の評論家はおろか、テレビのタレントとしても引っ張り凧なのは、あのヤキの入った不敵なマスクに、一瞬見せるこの微笑があるからでした。  あの東シナ海のジャンクに乗った海賊のような、ドスの利いた面構えが、その途端になんともいえず可愛らしくなって、目が優しくなると白い歯がチラリと見えるのです。  この「ニコッ」は、マウンドの上で、百四十五キロの速球を、打者のアウト・コーナーの、しかも低目に投げ込んでいた「江夏ザ・グレート」が突然|抛《ほう》ったチェンジ・アップのようなものでしたから、私も含めて、皆メロメロにされてしまったのでした。  現役の頃の江夏豊は、私が申し上げるまでもないほどの、偉大な投手で、しかもいつでも無法者のにおいが、その太目の身体のまわりに、立ち籠めていたのです。  三振の奪取記録を立て、オール・スター・ゲームで、連続九三振の快記録を残しました。  あの巨人軍の江川が、連続八三振で終った時ほど、私は普段は信じてもいない神様に、御加護を願ったことはありません。  あの江川卓に、「江夏ザ・グレート」と同じ記録を残されたら、私は日本のプロ野球が嫌になってしまいます。  そうなれば、この歳なのに、どこかに移民にでも行かなければならなくなってしまったでしょう。  同じ連続九三振を、オール・スター・ゲームの|檜《ひのき》舞台でやってもいい投手は、私には決まっているのですが、その投手たちの中に、江川卓は入っていないのです。  江夏豊が、引退試合を多摩市の一本杉球場でやることになった時、私は、阪神タイガースの経営者たちを、終生どんな場面でも、決して共に語らず、酒を酌み交わさない相手と決めました。  たとえ阪神タイガースを辞める時に、どんな感情のもつれがあったとしても、あれほどの大投手が現役を去るに際して、甲子園球場を貸し、|縦縞《たてじま》のユニフォームを着せるセンスがなければ、プロ野球の経営者なんてしてはいけない、と私は思ったのです。  江夏ザ・グレートは、突然思いつくと、ひとりでアメリカに出掛けて、メイジャー・リーグに挑戦しましたが、オープン戦の終り頃に、スタミナを失って打たれたので、ついに失敗して日本に戻って解説者になりました。 「なんでキチンと身体を作って、挑戦しなかったの……」  と、残念に思った私が訊ねたら、江夏ザ・グレートは、急な話でその時間がなかったと言いました。  それからは、誰も、おそらく江夏ザ・グレートのごく近い身内の者しか知らなかったあの「ニコッ」というチェンジ・アップを、凄い決め球にして、最近の活躍は、読者の皆様の御存知のとおりです。  先日ボケッとテレビを見ていたら、江夏ザ・グレートが、あの必殺仕掛人の菅井きん婆様とふたりで、汽車に乗って北陸の冬を旅する番組をやっていました。  江夏ザ・グレートは、巨きな身体で菅井きんのバッグを持ち、いたわりながら旅をするのですが、見ていた家の女房殿は感に堪えた声で、 「江夏さんて、優しい方ねえ……」  と言って、私をなぜかとても慌てさせたのですが、その時私は、江夏ザ・グレートの成功の秘密を知りました。  先日雑誌の仕事で顔を合わせた時に、私が、 「本当にこの頃の日本のキャッチャーの、肩が平均して弱いのには、呆れてしまう」  と言ったら、江夏ザ・グレートは、それでもここしばらくの間に、肩はともかく、キャッチャーのモーションは早くなったと答えて、私をキョトンとさせました。 「たったひとり、福本という偉大な走者がいたから、まずパシフィックのキャッチャーのモーションが早くなって、それと一緒にセントラルのキャッチャーも早くなった」  野球ってそんなもんだ、と、江夏ザ・グレートは、いつもの調子で、|顎《あご》と鼻をフンとあげながら言ったのです。全体のレベルを、刺激して引き揚げた選手なんて、そう何人もいるものではないから、あの阪急の福本は、凄い選手なのだと江夏ザ・グレートは語り、私は深く|頷《うなず》いて納得したのでした。 「オウ、この煙草の吸えない劇場には参ったぜ、本当に……」  私が、通路の江夏ザ・グレートに叫ぶと、 「早く書いて外においでよ」  ニコッと笑ったのでした。 [#改ページ]

 
ひやぁ、ナオヤちゃまッ  私は、将棋の勝浦修九段のことを、若先生と呼ぶのですが、それを聴くと誰でも、とてもいぶかしげな顔をなさいます。  五十一歳になった私はともかく、若先生と呼ばれた勝浦修さんが、もう四十のなかばなのですから、これは聴いた方には、可成奇怪に思えたのに違いないのです。  それでも、もうすっかり額の|禿《は》げあがった勝浦修九段は、私にとってはいつまでも若先生なのでした。  巨きくなったムク犬を、いつまでもチビと呼んでいる方もおいでだし、明菜もキョンキョンも、たとえ七十になっても「アキナ婆さん」と「キョンキョン婆ぁ」です。  私の場合にも、同じようなことで、けど、それはなんとも言いようのないほど、非道い話がありました。  私がほんの赤ん坊の頃から、私の母親を救けてくれた雪は、今だとお手伝いさんなんて、そんな気味の悪い言葉で呼ぶのでしょうが、その頃は女中さんです。  幼い私はずっと「ユキ」と呼んでいましたが、それから三十年ほどの戦争を挟んだ永い年月が流れて、バッタリ出会ったのは、新宿の|要《かなめ》通りで、昭和五十年でした。道の遥か向うから、 「ナオヤちゃま、ナオヤちゃま」  と、ホーム・ドラマの俳優が、必死の場面で出すような声が聴こえて来たので、ヒョイと首を伸して見たら雪でした。  その当時はまだピカピカのヤクザでしたから、これには私も参りました。  子分を三人も連れている縄張り内の往来で、幼い頃の女中が五十歳を過ぎて、いい婆様になっているというのに、 「ナオヤちゃま……」  とやられたのでは、素直に返事するわけにはいきません。  怪訝な顔をしている若い衆の前で、ヤクザだというのに、散々ヘドモドさせられてしまった私でしたが、もうそれから十年以上も経ったにもかかわらず、私のその当時の子分は、何人か寄って私の話になると、 「ナオヤちゃま、ハッハハハハ」 「ひやぁ、ナオヤちゃまッ、ゲハハハハ」  なんて、今でもやっているのですから、これは堪ったものではありません。  けど、雪にとっては、私は五十歳になろうが、ヤクザをしていても作家になっても、 「ナオヤちゃま」  でしょうし、私には勝浦修九段が、七十歳になっても名人になっても、「若先生」なのです。勝浦修九段は、まだそれこそ白面の青年で、四段か五段の頃、私の縄張り内にあった「二上八段将棋センター」で師範代をしておられました。その将棋センターは、一日の入場料が、昭和四十四年当時、百五十円で、十日通うと師範代の若先生と、一局|稽古《けいこ》将棋を指していただけたのです。  二枚落ちという飛車と角を引いた手合いで、勝浦青年に、手もなく負かされた私が、 「どうしたら、いくらかでも強くなれますかね、若先生」  と、申し上げたら、土地のヤクザの大幹部のそんな様子に、しばらく考えていた若先生は、 「安部さん、もう少し考えることです」  それは真にそのとおりだったので、今思い出してもおかしくて堪りません。  |曲り《ヽヽ》始めれば、アッという間に部屋の中のテレビや家財道具まで、質屋の倉庫に入ってしまうのが、その頃の|博奕《ばくち》打ちでした。  浮き沈みの激しい渡世です。  悪くなれば、ツキが巡って来るまで、あがかずにジーッと|死んで《ヽヽヽ》いるのが、博奕打ちのセオリーでしたから、毎日昼頃になると、 「オイ、将棋センターに行って来るぞ」  そう言って私は、将棋センターに出掛けて行ったのですが、席料の他に煙草とラーメン代でも持っていれば、一日遊んでいられたのです。|くすぶった《ヽヽヽヽヽ》博奕打ちが、ツキの来るのを待つ間を過ごすのには、理想的なところでした。  そんな私を、その頃私の|女《バシタ》だった遠藤瓔子は、テンから信用していなくて、まだ三十歳を少し過ぎたばかりの私が、他の女のところに行っていると思っていたようです。  遠藤瓔子というのは、元十七期の日本航空のスチュワデスで、つい最近、副題に「安部譲二と過した七年間」とついている天を恐れない驚くべき本を出版して、十万部も売った女です。そんなハシタないことは、まず決してしない女なのに、よくよく思い詰めたからだったのでしょうが、ある日突然将棋センターにやって来ると、入口に立って辺りを睨みまわしました。  広い部屋の中ほどで、大勢の人に混って将棋を指していた私は、一緒に住んでいた女が、初めて将棋センターに来たのを喜んで、無邪気に手を振ったりしたのです。  すぐ盤の横までやって来た遠藤瓔子は、高校生を相手にして、苦しんでいた私を驚いて見ていました。  そして私が最後にハメ手もどきの手で、逆転して、高校生が真っ赤な顔で口惜しがるのを尻目に、彼女の肩を抱くように出口に行くと、私の耳に口を寄せて、 「本当に、将棋を指していたのね……」  と、言ってから、 「貴方も誰も、何も賭けていないのね」  高校生を相手に、一銭も賭けないで一所懸命将棋を指していた私の姿は、きっと、とても痛々しく見えたのでしょう。  私の女になるような奴ですから、人並みはずれてしぶとく、強情我慢な女なのに、その時遠藤瓔子の目からツルツルと、涙が頬を滑って床に落ちたのです。  それから十年経って、府中刑務所の木工場で新聞を見ていた私は、あの若先生が、今では九段になっておられるのを知ると、わが身の情けなさに、気が遠くなってしまいました。  そして出所した私は、昭和五十八年から文章を書き始めて、今年で五年経ったので、恩人やお世話になった方をお招きして、パーティーをやったのです。  その席で、若先生勝浦修九段は、私に二段の免状と、それに将棋の駒を下さいました。 「若先生有難う存じます。少し考えて指すようにいたします」  と、私は心からお礼を申し上げたのでした。 [#改ページ]

 
得意の絶頂に詠む漢詩  その日は|推敲《すいこう》という言葉の由来を、中村|璋八《しようはち》教授は、教えて下さいました。  私は、駒澤大学・仏教学部の聴講生にしていただいて、毎週木曜日の朝十時四十分から十二時十分まで、一時間半、中村璋八教授から漢文を学んでいます。 「現住所あり 職業・作家」となったら、せめて漢詩が読めるようになりたいと思った私が、去年酒を呑んでいて、友人の川上信定さんに、 「俺、漢文が習いてえ……」  と、|呟《つぶや》いたら、この教養のある友人は、 「俺もだ」  まかせておけと言ってしばらく経ったら、駒澤大学で教えていただく話を、すっかりまとめてくれたのです。  私はなんでも、こんな願望を喚き散らすだけなのですが、この川上信定さんは行動力のある方ですから、どんどん現実にして下さいます。  中村璋八教授は、お見かけしたところ、六十歳を僅かに過ぎておられるお年頃の、それは穏やかな方でした。  いつでも微笑をお絶やしになりません。  夜学の高校を、昭和三十五年に卒業して以来、まったく学問から遠ざかって、もっぱら博奕打ちをしていた私に、それは懇切丁寧に漢文を教えて下さるのです。  漢文の読み方や解釈だけにとどまりません。  中国思想哲学が御専門で、「菜根譚」の解釈(講談社学術文庫)をされている中村璋八教授は、漢文を教えて下さりながら、中国三千年の歴史と思想を説いて下さるのでした。  学問とはこんなことなのか……と、生れて初めて大学の授業を受講した私は、魂が遠く東シナ海を越えて、中国大陸に飛んでしまったのです。  勉強って、こんな素晴らしい物だったのか、と、胸が温かくふくらみ、体温が二度ほど昇ってしまったようになった私は、たちまち前妻の息子共に電話をしました。  二十一歳と十八歳になる息子共は、ふたり共私と一緒で、大学に行かずに世に出ようとしています。  私はこれまでにも、このふたりには、いろいろ言葉を変えて、若い間に教養を身に付ける必要を説いたのですが、三十年も博奕打ちをした父親で、しかも自分たちの母親と離婚すると、懲役に行ってしまった男の言うことは、残念なことにあまり聴いてもらえませんでした。  それでも月に一度くらいは、母親の前妻やなぜかとても仲のいい現妻と一緒に、御飯を喰べたりしています。  先日長男の太郎は、見聞を広めたいと、アメリカに出掛けて行きましたが、母親似で華奢な男ですから、 「お前のような男は、アメリカに行くと、必ずオッサンに強姦されてしまう。拳銃を買うかお尻にバンドエイドを貼れ」  と教えた私の言葉だけはまともに聴いて、数カ月のニューヨークからロサンジェルス、そしてインディアン居留区に至る大旅行を、どうやらアメリカのオッサンには犯されずに、了えたようです。  私がアメリカに取材に行った折、太郎はまだロサンジェルスの元舎弟、由佐嘉邦のところに厄介になっていて、メキシコのティファナまで出掛けた私を、いろいろ手伝ってくれました。 「オイ息子共、初めて大学に行って授業を受けたけど、なんとも素晴らしいものだ。お前たちも、もう一度考えてみたらどうだ」  初めてステーキを喰べた時のことを思い出してみろ、と私は言って、学問というものは、それよりずっと感動的なものだと、付け加えたのですが、どうも息子共は飽食の時代の落し子なので、あまりピンとは来なかったようです。  |賈島《かとう》が明月を詠もうとして、「僧推月下門」とするか、「僧敲月下門」としようかと悩み、そうこうするうちに|韓愈《かんゆ》の行列に当ってしまいます。わけを聴いたこれも詩人の韓愈は、|敲《たた》く、の方がよかろうと言いました。  中村璋八教授は、韓愈の詩「左遷せられて|藍関《らんかん》に至り|姪孫《てつそん》の湘に示す」を、 「安部君は、詩が読みたくて受講しているのだから」  とおっしゃって、夏休み前の最後の授業でこの詩をやって下さると、この推敲の由来まで教えて下さったのです。  そして中村璋八教授は、私に微笑んで下さると、この左遷されて行く時に詠ったこの韓愈の詩が、大変いい出来栄えだとおっしゃって、韓愈に限らず、白楽天も李白も杜甫も、失意の時に詠んだ詩に、秀れたものが多いと言われました。  私が、 「得意の絶頂、|追風《おいて》に帆かけてシュラシュシュシュ、という時は、駄目ですか」  と申し上げたら、中村璋八教授は笑って、中国の詩人たちに限ってどうもそのようだと、おっしゃったのでした。 「俺は違うぞ、俺は日本人だから、得意の絶頂で、素晴らしい韻を踏んだ、読む人が二、三日ほどは涙ぐんでしまうような、そんな漢詩を詠むぞ」  と、隣りで、授業を聴いていた川上信定さんに、私がそう言ったら、その途端にベルが鳴ったのです。 「そんな……まだロクに誰の詩も読めないのに……大丈夫だよ、ナオちゃんが漢詩を作れるようになる頃は、安部譲二ブームも終息して、失意の人になってるさ」  川上信定さんは、そんな悪タレをついて、真っ白な巨きな歯を見せると、カカカと笑ったのです。  この方も自分自身が、明治大学で教鞭を執っておいでなので、私から見れば大学の専門家でした。 「大したもんだ|流石《さすが》だ。よくぞ漢文の講座を探す時に、こんな素晴らしい先生のを見付け出してくれたもんだ」  中村璋八教授の講義を受ける喜びは、今現在私にとって、何にも替え難いのです。  五年も経てば、それでもどうにか漢詩が、読みも詠めもするようになると思うのです。  そうしたら女優石田えりさんに、思いのたけを籠めた漢詩を差し上げると、決めています。 [#改ページ]

 
東京ドームのトランペッター  私たちの年代は、小学校の頃に戦争が終りました。  それまでの悲惨で苛酷な毎日の反動で、私たちは、解放してくれたアメリカに憧れたのです。  阿久悠さんの「瀬戸内少年野球団」を見て、四十年も前のあの頃のことを、私は懐しく思い出したのでした。  野球に熱中し、手に入れた一枚のリグレーのガムを、三人で分けたりして、けど、小さなガムを口に入れると、なんとも言えないアメリカの香りが、口一杯に広がったのです。  鼻から息を出すと、その香りが逃げてしまうようで、堪らなくなるまで息を詰めていました。  アメリカ映画では、どの父親もよく家族と話すので、私たちは|羨《うらや》ましく思うよりも、むしろ首を捻ったのです。  どの映画を見ても、とくにお喋りな父親という役柄ではないのに、出て来る父親は、妻や子供たちに、いろんなことをよく|喋《しやべ》るのですから、きっとアメリカの父親は、皆こんなによく喋るのだろうと思うと、初めて見たインド象のインディラちゃんを見た時と、同じ感動にしびれたのでした。  こんな象が沢山歩きまわっている南の国。  妻や子供に、計画や夢を語る父親が当り前なアメリカ。  そして軍歌とNHKの詰まらない歌ばかり聴かされていた私たちは、ハワイアン、ウェスタン、そしてラテンやジャズを知って、目くるめく想いで身体を弾ませたのです。  アメリカ映画「アメリカ交響楽」でラプソディー・イン・ブルーを聴いた私は、言いようのない衝撃に打たれて、映画館の椅子に尻をずらせて埋ってしまいました。  そんなアメリカに憧れた世代の私たちでも、時と共に脱皮していった者も沢山いて、いまだにアメリカ志向のままなのは、むしろ少数派になったのですから、時の流れとはそんなものなのでしょう。  私は成長しないのか、それとも生れつきのものぐさの故か、依然としてキャメルの両切りを好み、ジャック・ダニエルスのハイボールを呑んで、ダイアン・レインとベッドを共にする夢を見ては、密かに大喜びをしたりしているのです。  都心のホテルの喫茶室で、キング・クレオールのバンド・マスターをしていた渡辺正典に会ったのは、つい二週間ほど前のことでした。  このトランペットを吹いて、しゃがれた声で唱いもするディキシーランド・ジャズの主のような男は、私と同じアメリカ志向のままで来てしまった少数派の一人で、私とは古い仲なのです。  あれは昭和四十六年頃でしたか、テレビの放映が激減して、四回戦ボーイたちが実戦の経験を積む機会が減ったのは、日本プロ・ボクシングの危機だと、これも古い友人の米倉健志が言って来たので、それなら赤字は俺たちで埋めて、四回戦だけの興行をしようということになったのは前にも書いた通りです。  その時この渡辺正典は、開場してから最初の試合が始まるまでの間、俺のキング・クレオールが、ディキシーを聴かせてあげようと言いました。  当日スタンドに設けたバンド・スタンドには、ストロー・ハットをかぶったキング・クレオールの面々が、トランペットを握った渡辺正典に率いられて陣取ると、素晴らしい演奏をしてくれたのです。  中村ジムの会長は、当時のボクシング界の大長老でしたが、興行主の私のそばにみえると言ったのです。 「今日の日記に『ボクシング会場に、今日初めてジャズが入った』と俺は書くよ」  嬉しくて目に|霞《かすみ》がかかった私のところに、ビデオ採りをするテレビ局の若いディレクターが、飛んで来ました。 「決めておいた|合図《キユー》をしても、渡辺さんは、演奏を止めてくれません」  半べそをかいて言うと、バンド・スタンドに走って行き、しばらくして帰って来ました。キング・クレオールの演奏は止まって、リングに登って来た若い四回戦ボーイに、客の声援と拍手が沸き起こりました。 「あれじゃ合図しても駄目なわけです。渡辺さんは、しっかり目をつむってトランペットを吹き鳴らしていました」  若いディレクターは、楽しそうな声で言ったのです。  いかにも渡辺正典らしい話なのですが、とにかく芸歴の古いトランペッターですから、エピソードは沢山あります。  偏屈な男や、つきあい切れないほどの変わり者が群れているようなジャズ・プレーヤーの中では、この渡辺正典は穏やかで人柄のいい男でしたから、陰口や悪口を言われたことがありません。  ヤクザだった私は、相手を見て接し方を変えます。  渡辺正典には、行儀良く朗らかにしていましたから、知ってはいたでしょうが、相手も私をヤクザ扱いにはせずに、永くいい仲が続いたのです。  一般にも広く知られたトランペッターで、ジャズ・プレーヤーの大長老だった南里文雄が亡くなった時、仲間や弟子が担いだ|柩《ひつぎ》の前を、浅川マキが唱いながら歩き、後ろに渡辺正典がトランペットを吹いて続き、その「主よ、みもとに近づかん」と共に、葬列は霊柩車まで行きました。  浅川マキが唱い、渡辺正典がトランペットを吹いたこの時の演奏の素晴らしさは、今でも語り草なのです。  十五年振りに再会した陽気なトランペッターは、今はエア・ドーム球場が仕事場だと言って、私を仰天させたのでした。  楽しそうに取り出して、私にくれたカセットのラベルには、「中畑のテーマ」とか「篠塚のテーマ」といった巨人軍の選手たちのテーマ・メロディーが、ズラリと書いてあって、 「これね、全部俺が作曲したんだ」  渡辺正典は、屈託のない声で、エア・ドームに来たら、外野席でトランペットを吹いている自分のところに、必ず来ておくれと言いました。  ゲームが終ると、「戦いすんで……」をソロで吹くのだそうです。  正力さんが仕事をくれたから、自分は一所懸命やっている。つまり巨人軍の悪口は言わないでくれと、渡辺正典が言ったので、 「あんまりね……」  私が答えると、渡辺正典は笑い出し、私も一緒になっていつまでも笑っていました。 [#改ページ]

 
二式大艇生き残りの機長殿 「わあッ越田さん。永いことお目に掛らなかったのが、お目に掛ったとなると、続けて何度でもお目に掛るんですね」  私がそう叫んだのは、去年の暮れのことで、場所は、横浜のホテル・ニューグランドでした。  バーで呑んでいた私が、手洗いに行こうと思って外に出ると、二階から二十五年ほど前のままの、|鯔背《いなせ》な足どりで、越田さんが降りておいでになったのです。  もう六十歳を少し越したはずの越田さんは、とても小柄な丸顔の方で、ただヌーッと立っていたりすれば、そんなには素敵に見えるとは思えないのです。  それが、二階から降りておいでになるとか、動いたり笑ったり話したりなさると、なんともいえない粋な味や磨きあげた男の気合いが、潜んでいる奥の方からにじみ出て来るのでした。私の存じあげていた二十六年も前から変わっていないように見える越田さんでした。  大宮の立派なホールで、クイズ番組の収録があったのは、去年の暮れのことでした。  このクイズには、御対面の趣向があって、その時舞台の|袖《そで》からニコニコと、素敵なフットワークで出ていらしたのが、越田さんだったのに驚いた私は、司会の落語の師匠の、 「分りますか安部さん、この方が……」  と言うのに、大きく頷きながら越田さんに近づいて手を固く握ると、頭を下げて、 「越田さん、御無沙汰申し上げました。本当に可愛がっていただいたのに、御挨拶もしないであがっちまって、すみませんでした」  と、お詫びを申し上げたら、越田さんは、 「安部君、そんなこといいさ。それより本当によくなったのは、良かったなあ。嬉しいよ、どうかな二十五年振りぐらいかな」  と、ニコニコしておっしゃると、すぐ司会をしている落語の師匠が、貴方が御存知の頃の安部譲二は、仕事振りはどうでしたと訊いたのに、越田さんは、ツと胸を張って、 「これはお世辞ではありません。当時の安部君は、私が一番信頼する極めて優秀な男でした」  と張りのある声で、おっしゃったのをうかがったら、その途端に私は、目の奥が熱くなって来ました。  それでも、この私の場合は特別で、その当時の上司だった越田さんに、こんなに褒めていただいたのは、他に誰もいなければ、声を出して泣きたいほど嬉しかったのです。  越田さんは、昭和三十六年の一月から丸四年間、私が潜り込んで働いていた日本航空で、機長をしておいでになりました。  パーサーの私とは、よくダグラスDC‐8で、御一緒に乗務しましたが、どこを気に入っていただいたのか、とても親しくして下さり、仲良くしていただいては面白い話も、沢山うかがったものです。  どうもその頃から私は、出る釘だったようで、|手非道《てひど》く打たれたのは、四半世紀も前も同じでした。  嫌な想いをして日本航空をやめると、またゴロツキに戻った私なので、二十五年振りでお目に掛った越田さんに、たとえ番組のステージの上でも、当時の自分を褒めていただいたのは、泣きたいほど嬉しかったのです。  番組が終ると、越田さんと私は再会を約束して別れたのですが、すぐ十日も経たずに、またお目に掛ったのでした。  ホテル・ニューグランドのバーは、いつも、その前に行ったとおりに思えます。  私が初めてここで飲んだのは、昭和三十四年でしたから、あれは日本航空に入る一年ちょっと前でしたが。  それから三十年近く、いつ来てもこのバーは、初めての時と同じように思えるのです。 「キャプテン、貴方はこのバーと同じで、ほとんど変わらないように見えますよ。お世辞ではありません」  君は肥って頭の毛が抜けた、と越田さんは言って、楽しそうに笑いました。 「俺は定年になってから、三千フィートから落っこっても、思い出せる数で女は止まったままだよ」  越田さんが言うと、私はおかしくて堪らず、ゲラゲラ笑い出してしまうのを押えるのに、涙をこぼしたのですが、この言葉は昭和三十七年頃、キャプテンの話して下さったことを、御存知ないと、なんのことだか分りません。  太平洋戦争の末期、まだ二十歳になったばかりの越田海軍上等兵曹は、二式大艇で小笠原の上空を、艦載機を避けて高々度で飛んでいて、エンジンと翼を凍結させてしまいました。  エンジンと翼が凍りついてしまえば、飛行艇もただの氷と同じで、そのまま艇首を真下に向けて落ちて行くと、高々度を飛んでいたから、ドンドン落ちるスピードは増して行ったのだそうです。  もうエンジンが掛っても、このスピードで落ちて行く飛行艇だと、艇首を起こすことは出来なくて、助からなくなったということでした。  真下の小笠原島は見る見る巨きくなって、二十歳の越田上等兵曹は戦死の覚悟を決めたのだそうです。 「俺はな、断わっとくが、近親相姦なんて気はないんだ。分ったか」  越田さんがなぜそんなことをおっしゃったのか、話の続きをうかがって分りました。  もう引き起こしようもなく、物凄い早さで小笠原島に向かって、落ちて行く越田さんの頭の中に、まずお母様が浮ぶと、そしてまだ二十歳だったので、ほんの九人ほどの女たちが|わけ《ヽヽ》のあった順に浮んだのです。  十七時間違いでも、チャンと前に寝た女は、先に浮んだと越田さんはおっしゃいました。  まだ機長の大尉は、重い身体で必死にエンジンの始動を試みていました。  バッバッブルッブルッと、温かい低空まで落ちて氷のはげ落ちたエンジンが、|咳《せき》をした時です。低空を風速三十メートル以上で吹き荒れていた突風が、巨きな飛行艇に絶妙な角度とタイミングで吹きつけると艇首が振れて、エンジンも四基のうち三基だけ同時に動き始めました。  大尉は必死に操縦して、二式大艇は小笠原島の熱帯樹に、底をこすって脱出したのです。  命拾いをしたと思った途端に、越田上等兵曹の頭の中で、お母様を除いた九人の女が、こんどは寝た順ではなくて、綺麗な順に浮び始めたのだと、数少ない二式大艇の生き残りの機長は、そう言って笑ったのです。 [#改ページ]

 
さりげなさが男の素晴らしさ  銀座の料理屋で、吉行淳之介さんにお目に掛った私は、なぜか御挨拶も、先日お約束していたのを、自分の都合で取り止めにしていただいたお詫びも、どうにも上手く申し上げられなくて、自分でも嫌になってしまいました。  どうしたことか、すっかりアガってしまったのです。  女の方だと、ごく稀にこんなこともあったのですが、どんなに偉い人でも、男ではこれまでまったく覚えがありません。  そんな私の様子を御覧になった吉行淳之介さんは、しばらく仲居を相手に、冗談をおっしゃって、御自分でも楽しそうに、笑っておいででした。  座談の達人と|謳《うた》われる方ですから、この時も、柄にもなくヘドモドしていた私に、平静さを取り戻す時間を、さりげなく与えて下さったのです。  このさりげなさが、日本の男の素晴らしさだと、自分のやってのける下卑たえげつなさや、何をしても恩着せがましくなるのには、随分ウンザリしている私なので、こんな場面のたびに、感じ入ってしまうのでした。  師匠の山本夏彦も、なんでもさりげなくなさる方です。  この頃では、こんなことが身についていて、自然に出来る男がとても少なくなったと、していただくばかりの私なので、とくによく分るのでした。  そう心掛けても、なかなか出来かねている私なので、このさりげなく出来る美しさに限って、敏感なのかもしれません。  おかげでどうにか、板のようになっていた背中も、軟かくなって、頭の中の温度も大分下った私でした。  吉行淳之介さんは、私の書いた文章の中から、懲役が親孝行なんてしないでもいいのだ、誰でも五つまでの可愛らしさで、先払いですんでいるのだと、奇怪な理屈を言い立てるところを、 「あれは面白かった……」  と、褒めて下さったので、こんどは胸の奥から喉を噴き昇って来たものが、頭の中で渦を巻いて、また温度が上ってしまいました。  誰に褒められても嬉しいのに、吉行淳之介さんなのですから、私はこのまま時が停まって、この嬉しさに浸っていられたらと、五十一歳の擦れ枯らしが、女学生のようなことを想ったのです。  吉行淳之介さんは、時々ハイライトに火をお|点《つ》けになって、機嫌よく新米の私に、いろいろな面白い話をして下さいました。  何か自分も、喜んでいただけることを、お話ししなければと思った私は、麻布中学の先輩でいらっしゃるので、近くにあった女学校の秘密を教えてさしあげたのです。  その女学校は、どの時代の先輩に伺っても、勉強の出来はともかく、綺麗な生徒が揃っていることで、昔から有名でした。  なんでそんなに、いつの時代でもその女学校だけいい女が群れているのか、私にはとても不思議でしたが、最近になって、その謎が解けたのだと、私が申し上げたら、吉行淳之介さんは、なぜか考え込まれてしまったのです。  私の昔の子分が、年子の娘を、ふたり続けてその女学校に入れたので、二年連続して入学祝いを包んだら、 「あの女学校では、入学試験の答案なんて、集めると採点もしないで、納屋に放り込むんでさ。面接で器量のいい順に合格させると聴けば、驚いちまいまさぁ」  それがこの女学校の創立者の、|婆様《サマバア》の凄いところで、いい女は玉の|輿《こし》に乗るから、卒業生が金持のところに嫁にいけば寄付も集るし、生れる娘も遺伝で器量良しに違いない。  金持の娘は、入学金や月謝も払いっぷりがいいし、いいことずくめなのだと言って、昔の子分も自分の娘たちが器量のいいのが自慢のようで、得意そうだったと申し上げました。  吉行淳之介先生は、 「なるほどねえ、それは凄い婆様だな……」  と、おっしゃったのですが、目を輝かせて、身体を乗り出すようになさると、 「凄いッ、これで金太郎の謎も、小沢昭一の|冤罪《えんざい》もすべて晴れたんだ。驚いたぞ……」  そうおっしゃると、それは愉快そうにお笑いになりました。  吉行淳之介さんの頃には、その女学校に、美しいどころか巨大で非道い御面相の、金太郎という|綽名《あだな》の物凄いのがいて、麻布中学のハンサムな生徒を見ると、「待テーッ」と叫んで、追いかけて来たそうです。 「その時は必死に逃げたのだが、後になって、あの金太郎に掴まったら、どんなことをされたのだろうと考えるとおかしかった」  と、お笑いになって、それを聴いた小沢昭一さんが、自分もその金太郎なら知ってる、と言ったので、六年も先輩だからそんなことはない、|嘘《うそ》を言うなと叱ったら、 「小沢昭一は泣かんばかりに、自分たちの頃も、同じような金太郎がいたと言うのには、どうも合点がいかなかったのだが、君に会ってすべて分ったのだ」  綺麗な娘が、より美しく見えるように、チャンと毎年、とくに器量の悪いのも何人か合格させて、引立役にするらしい。だから俺の時も小沢昭一の頃も、金太郎はいたのだと吉行淳之介さんは、目もとだけで微笑むと、そうおっしゃいました。  そう言えば私たちの頃も、綽名は金太郎ではなくヤマンバという、それは怖ろしげな猛女がいたのを、私は思い出したのです。  これは怖ろしくも無残なことでしたから、吉行淳之介さんは、さりげなく話題をお変えになりました。  綺麗な娘を揃えるというところまでは、なんともおかしくて、感心もした創立者の婆様の知恵ですが、金太郎とヤマンバを、美しい娘たちの引立役として採るというのは、教育者としては信じたくないほどの冷酷無残な非情です。  歴代の猛女たちは、縁故で入学した創立者婆様の孫なのに違いありません。  婆様は|樽《たる》型の雄大な御体格で、鬼のような御面相でしたから、あの金太郎とヤマンバは気の毒にも、その遺伝をモロに受けたというのが、その時|捻《ひね》り出した私の仮説でした。 [#改ページ]      怪傑ゾロ目

 
ソフトボールでバズッ!  神宮外苑の絵画館の前に、チャンとバックネットも、小さいながら観客席もある野球場が、六面も出来たのはいつのことだったのでしょう。  私が飯倉片町にある麻布小学校に通っていて、野球に明け野球に暮れていた昭和二十三、四年頃は、この辺りは小砂利混りの原っぱでした。  日曜日には、早朝に起き出すと、まず雨が降っていないとホッとして、そこで初めて大あくびをしたりするのです。  雨だと野球は出来ないので、長くて退屈な日曜日になるのですが、その頃|流行《はや》っていたダミアの唄う「暗い日曜日」は、野球の出来ない日曜日の歌だと思っていました。  とにかく、小鳥と同じぐらいに起きて、雨ではないとなると、二本の竹に巻きつけたバックネットを|担《かつ》いで、藤原歌劇団よりの三河台のはずれにあった家を出ると、竜土町を抜け、乃木坂、青山一丁目を通って、権田原から神宮外苑に入るのでした。  歩き続ける間に、仲間の子供が横丁から飛び出して来て、私の担いでいた竹竿に肩を入れ、賑やかに野球の話をしながら歩いて行くのです。  そしてこの絵画館の前から、ラグビー場の裏にかけての原っぱの、ここぞという隅に、竹竿を押し立ててバックネットを張るのでした。  大人も子供も入り乱れての早い者勝ちでしたから、こんなに早く、着いてからやっと朝日が差して来るような時間に、バックネットを押し立てなければならなかったのです。  それからたっぷり陽の暮れるまで、何試合でもやりました。  あの食糧事情の悪い頃ですから、いったいお昼御飯はどうしていたのか、今になると、どう考えても思い出せません。    整備された六面のグラウンドを眺めて、私が四十年も昔のことを思い出していると、一番奥のグラウンドで、こちらに向かって何か叫びながら、しきりと手を振っている男がいました。  遠目にも、あまり格好のよくない灰色の上下を着ているその男は、よくよく目をこらして見ると、どうやらガッツ石松のようでした。  私は、松竹映画「塀の中のプレイ・ボール」の宣伝活動で、このグラウンドにソフトボールの試合をしに来たのです。  この映画に出演した俳優のチームが、横浜のママさんチーム、それに元六大学リーグの選手を集めたクラブ・チームを相手に、北部第五工場ルールでやるのでした。  五回まではママさんチーム、六回からは、これは|手強《てごわ》い元大学野球の|本チャン《ヽヽヽヽ》を相手にして、私たちのチームは九回続けて闘うのです。  私たちのチームのエースの草刈正雄は、学生の頃選手だったそうで、まだ若いハンサムですから、体力にも自信があるのでしょう。  この話を松竹の宣伝部から聴いた時も、ケロリとしていたのですが、私は内心随分とあやぶんでいました。  とにかくもう五十歳で、いくらこの頃十キロほど|痩《や》せて、九十キロ台になったとはいっても、もうボテボテの身体なのです。  どこを守るにしても、試合と名の付くソフトボールを、とても九回なんてやれそうには思えません。  それでも、どんなことだって、なんとかなるさ、やるだけやってみようというのが、私のあまり自慢にはならない主義なので、こうしてノソノソと出掛けて来たわけです。  投手・草刈正雄、捕手・長門勇、一塁手・安部譲二、二塁手・森山潤久、三塁手・ガッツ石松、遊撃手・黒田アーサーというのが「塀の中のプレイ・ボール」の懲役を演じた俳優の、オール・スター・チームでした。  外野は、応援に来たマスコミの方が、やって下さるのだそうです。  放送席がチャンとあって、大杉勝男と|長田左《おさだなぎさ》が現われたのには、私は、ガッツ石松が、怪しそうに眉をひそめたほど、無邪気に喜んでしまいました。  大杉勝男は、素晴らしい選手で、私は昭和四十年代の初めから、とても気に入っていたのです。  とにかく、ごく平凡な内野フライを捕って、こんなにファンの拍手を受けた選手は、私は他に知りません。  たまになんでもないフライを、ポトリと落とす不器用なところのあった選手ですが、ファンは大杉勝男のその器用ではないところを愛したのです。  小才の利く抜け目のない|狐《きつね》のような男に、皆ウンザリしていたので、人柄がよくて不器用な、そしてなんとも言えず可愛げのある大杉勝男に、ファンは魅了されたのでした。  長田左は、こんなに美しくチャーミングで、しかも頭のいい女なんて、そう滅多にはいないほどです。東京12チャンネルの競馬中継は、昔からフジテレビより面白いのですが、この長田左が出なくなって、ちょっと魅力が落ちました。  私の大好きなふたりが、思いがけず姿を見せたので、私は、ガッツ石松がいぶかるほど、すっかり機嫌がよくなったのですが、後でこれが裏目と出ます。  ママさんチームの面々は、この方たちの亭主になったら、どんな毎日になったことだろうと、想像しただけで手がかじかむほどの、猛烈なハッスル・プレーをなさいました。  一塁手の私は、塁審の目をかすめて、走者のママさんのユニフォームのお尻のポケットに、指を突っ込んで引っ張りましたから、二塁に走ろうとしたママさんは、仰天して|喚《わめ》くだけで、まるでトリモチにかかったアヒルのようです。  綺麗な方が走者になると、私は、ポケットに指を少し深目に入れたのですが、塁審には見付かりませんでした。  試合は、私たちの大善戦でクロス・ゲームになり、後半に入って相手は強敵の元六大学野球連中に替ったのです。 「勝負はなんでも勝たなきゃ駄目だ」  と、ガッツ石松が絶えず|発破《はつぱ》をかけ続けたので、その気合いに、皆殴られては大変と必死にプレーしたのです。  ツー・ストライクで三振、スリー・ボールで四球という省時間のルールなので、三つボールを選んで一塁に出た私に、放送席の大杉勝男の悪魔の声が聴こえました。 「安部譲二の盗塁が見たいですね」  美しい声で長田左が、|相槌《あいづち》を打ったので、私は|堪《たま》らず猛然とスタートを切りました。  その途端に、バズッという音と拳銃で撃たれたようなショックがして、激痛がふくらはぎから脳天まで走ったのです。  そのまま退場した私は、ふくらはぎの筋肉が一本切れてしまって、三週間ほど、足の御不自由な方になってしまいました。  けど試合は、十対九で勝ったのです。  懲りたりなんかするものですか、また治ったら試合に出て、今度こそ鮮やかな盗塁を決めてやるのです。 [#改ページ]

 
貴方のビッグ・ボス  ギリシャ人の記者が、私にインタビューがしたいと言って来ました。  この丸一年は、とても忙しく過ごした私なので、それはいろんなことがありましたが、外国人記者からインタビューを受けるのは、これが初めてのことです。  私の本で、外国語に翻訳されたのはありませんし、このギリシャ人の記者は、十日前に日本に来たのですから、私の本を読んでいるわけはありません。  きっと|誰《だれ》かから、私の本がよく売れたことと、それに著者の私が元ヤクザで前科者と聴いたので、会ってみようと思ったのでしょう。  ジャン・ジュネとか、ジョゼ・ジョバンニといった|凄《すご》いのも、いることはいるのですが、それでも元ヤクザとか前科者の作家は少ないのです。  ヤクザをしたり懲役に行ったりしていると、いろんな人生を見ますから、本当はもっと作家がいてもいいと思うのに、それがなぜかあまりいません。  余程根気があるか辛抱強くなければ、作家なんてなかなかつとまらないということが、自分でやってみてよく分りました。  面倒なことが出来ないから、ヤクザをしている者も多いし、辛抱や我慢が利かないので、懲役ばかりやっているというのも沢山います。  ヤクザや懲役といった税金の掛らない|稼業《シノギ》をしていると、医者や政治家ならともかく、作家なんて|非道《ひど》い税金を巻きあげられる仕事なんか、誰もやろうとしないということもあるのです。  そんなわけで、日本はおろか世界でも割合と珍しい、元ヤクザで前科者の作家がいると聴いて、そのギリシャ人の記者は、仕事をする気になったのに違いありません。  そう滅多にいないということでは、人間のトイレでちゃんと御用を足す猫とか、|茹《ゆ》で卵を続けて三十八個も喰べた婦人警官と、私は同じなのでしょう。  人間は誰でも、好奇心の|固《かたま》りのようなものですから、それを満足させる仕事も作家に限らず多いのです。  だからギリシャ人の記者も私も、これは同業者のようなもので、インタビューがしたいと言われれば、受けてあげるのが仁義でしょう。  考えてみると、私とギリシャの御縁は、それでもいくらかありました。  幼い頃から私は、船会社に勤めていた父に連れられて、国内国外のいろいろな港に行ったものです。  ギリシャは、海運業の盛んな国なので、船乗りも多くて、どこの港にもひと目でギリシャ人と分る男たちが、沢山いました。  ギリシャ人は、皆やや面長の顔にひっこんだ目がついていて、|巨《おお》きな鼻から煙草の煙を吹き出し、|髯《ひげ》を生やしているのです。そして誰もが、とても彫りの深い顔をしていて、ハンサムというよりむしろ立派な異相でした。  港でそんなギリシャ人を見ているうちに、日本は負けいくさを始めて、子供だった私は|芋《いも》を|齧《かじ》りながら、それでもグングン大きくなったのです。  あれはまだ十七歳でしたが、私は腕ッ節が強くて、英語がどうにか|喋《しやべ》れたので、銀座のはずれにあったゲイ・バーに、用心棒として雇われました。  ゲイ・バーが今のように、一般に知られていなかった頃なので、客も外国人が七割、日本人が三割ほどの割合でした。  そして外国人の中で一番多かったのが、ギリシャ人だったので、この頃私は頭の中に「ギリシャ人はホモ」と、刻み込んでしまって、今でも取れません。  三十歳を少し過ぎた頃に、アテネに旅した時も、まわりが皆ギリシャ人なので、ハンサムな青年だった私は、とても警戒し気をつけました。  けど、どうやらギリシャ人のホモの好みではなかったようで、私は、オリーブ・オイルをまぶした料理に胸を焼き、アクロポリスを見物すると、無事に日本に帰りました。  ふたりきりで、狭い部屋だったらどうしようと、五十歳の私は、まだそんな心配をしていたのですが、新聞協会は綺麗なお嬢さんを通訳に付けてくれて、場所も、プレス・センターの広いバーでした。  ステリオス・クログルーと名乗った記者は、三十なかばのギリシャ美男です。  矢張り元ヤクザの前科者の作家ということに、興味があるようで、盛んにヤクザのことばかり訊くのでした。 「貴方は、指が全部付いているけど……」 「指は自分の不始末で詰めるものじゃなくて、親分や兄貴それに兄弟分のために詰めるのだが、幸い私の|上目《ウワメ》の者は、皆行儀が良かったから、落とさずにすんだ」 「ヤクザと作家とどちらが好きか」 「俺はヤクザは下手糞だったけど、作家はまあまあだ。誰でも上手に出来る物の方が、好きなんじゃないの」  ギリシャ人の記者は、とても面白いらしく熱心に訊くのですが、私は散々苦しんだ世界のことなので、少しも面白くないから、|憮然《ぶぜん》としてしまいました。  通訳をしてくれたお嬢さんも、とてもまともな方でしたから、私は出来るだけ隠語を使わなかったのですが、それでもヤクザのことなので、苦労なさったようです。  なにかの拍子で、私が、 「それは、渡世の義理ってもんで……」  と言ってしまうと、通訳のお嬢さんは、その途端に息が詰まったように、目を白黒させたのですが、本当にお気の毒なことを言ってしまいました。  こんなこと、|咄嗟《とつさ》に訳せる方なんて、滅多にいるもんではありません。  喉が乾いて、飲物のお代りが欲しくなった私が、目でウェイターを探していると、なんと遠くの席に、私の師匠の山本夏彦がいるのが見えました。  夕刊フジの金田|浩一呂《こういちろう》さんも御一緒でしたが、私はこの方にも、ひとかたならぬお世話になっているのです。  ステリオス・クログルーと通訳のお嬢さんに、ちょっと失礼と断わって、私は山本夏彦の席に行くと、おふたりに頭を下げました。  その時私がしたような、頭を下げるお辞儀は、外国人にはとても珍しく見えるようです。 「どうも失礼しました」  すぐ席に戻った私が、坐りながらそう言うと、ステリオス・クログルーは、ビー玉のような|瞳《ひとみ》を輝かせて、 「今貴方が、お辞儀をした方は、貴方のビッグ・ボスなのですか」  遠目にも師匠の山本夏彦は、立派な戦前の男の面構えをしていたので、私の親分に見られてしまったらしくて、これは弟子としては随分うろたえるようなことでした。  ドラム缶のような私が、昔の標準寸法の師匠に、深々とお辞儀をしていたのも、ギリシャ人の記者にそう思わせてしまったようです。 「違う、違う、あの方は私の文章の師匠だ」  私のような柄の悪い弟子をもつと、師匠も大変でしょうが、弟子も結構大変なのです。 [#改ページ]

 
神様、お釣りを下さい  あれは、たしか私が十七歳でした。  クリスマスの頃になると、必ず思い出す、なんとも自分では言いようのない出来ごとなのです。  今もとても仲良くしてくれているのですが、その頃、チンピラをするのが楽しくて|堪《たま》らず、親類が|揃《そろ》って眉をしかめた中で、おない歳のいとこがひとり、とてもナイスにしてくれていました。  それが電話をくれて言うのには、 「長原教会の熊沢神父様が、貴方のために、クリスマス・イヴのミサで、お説教をするから、連れていらっしゃいっておっしゃってるわ」  その頃私は、日本に来ているフィリピンのボクサーたちが、ゴングが鳴って、リングのコーナーから出て行く時、コーナー・ポストに向かって、素早く十字を切るのが、とても気に入っていました。  そして、フィリピンのボクサーは、クルリと相手に向き直ると、もう神様のことはすっかり忘れたようで、南の島の黒豹のように、日本のボクサーに襲いかかるのです。 「これは格好がいい………」  まだほんの子供だった私は、ボクシングをやる時に、自分もあれがやりたいと思ったのです。  そう思って、いろいろ訊いてみると、矢張りあれは、カソリック信徒でなければ、どうもいけないようでしたから、私は仕方なく、信者になる手ほどきを受けに、長原教会に行くと、|公教要理《ヽヽヽヽ》というのを教えてもらっていました。  勉強の大嫌いな私ですが、これをやらないと信者にはなれず、なれなければ、リングの上で十字を切るのは、やって出来ないことはなくても、随分うしろめたいのです。  そんな時に、長原教会の司祭という、その教会の親分か|頭《カシラ》のような熊沢神父が、クリスマス・イヴの深夜にやるミサのお説教を、私のためにやって下さるとおっしゃったのですから、これは行かなければ、義理にも仁義にもなりません。  渋谷のチンピラだった私は、まだ雙葉女学校の女学生だった美しいいとこに連れられて、一張羅の背広を着込むと、教会に行きました。  そして心ならずも、大騒ぎを起こしてしまったのです。  女の子が長い柄の|柄杓《ひしやく》を、前に伸して来ると、皆その中に寄付のお金を入れるのですが、私は、その時千円札を一枚だけしか持っていませんでした。昭和二十九年のことですから、千円札の値打が今とではまるで違います。  その虎の子の千円札を、柄杓の中に入れっ放しにしてしまったら、タクシー代もなくなって、渋谷まで歩いて帰らなければなりません。  柄杓の中から、百円札を五枚だけ、お釣りを取ろうと思った私は、一枚|摘《つま》んだところで、柄杓がそのまま動いてしまいそうでしたから、柄を左手に握ったのです。  驚いたのは、通路に立って柄杓を伸していた少女でした。  チンピラの私に柄杓の柄を握られて、中の百円札を盗られると思ったのでしょう。 「キャーッ」  と思い切り叫ぶと、その金切り声は、教会の中に響き渡ってしまいました。  悪いことに、教会というのは、そんな設計になっているのですから堪りません。 「俺は、俺は千円札を入れて、お釣りをもらってるんだ。こん畜生、なにが悪いんだ。こんな声出しやがって……」  私が叫ぶと、混乱はさらに輪を掛けてしまったのです。  その晩、いとこに千円札を百円札に崩して来なかったことを、散々に|叱《しか》られた私は、心の中で「|ブルー《淋しい》・クリスマス」を唄っていました。  そんなクリスマスから、二十年とちょっとの長い年月が流れて、私が府中刑務所にいた頃のことです。  いたといっても、看守や|教誨師《きようかいし》をしていたわけではなくて、少しも自慢にはなりませんけど、懲役をさせられていたのでした。  この府中刑務所には、あまり一般には知られていないことですが、多少の増減はあっても、ほぼ百人ほどの外国人が服役していたのです。  黒人も白人も、そして東洋人もいましたし、南米のインディオもネパール人だっていました。  まるで人種の展示会でもやっているような府中刑務所でしたが、この外人懲役たちは、日本の法律にふれて、実刑判決を喰らってしまった連中で、それこそ世界中の人種が揃っていたのです。  喋る言葉もさまざまで、英語は勿論のこと、スペイン語、フランス語、そして広東語の他にも、日本には通訳がいるのかしらと思うような、特殊な言葉しか話せない懲役もいました。  私たち日本人の懲役とは、まるで違った扱いを、この外人懲役は受けていたのですから、これはとても|羨《うらや》ましいことだったのです。  髪もクリクリの坊主刈りにはされず、朝夕の二回、素っ裸にされる屈辱的な|裸検身《カンカンオドリ》もありません。  それに三度のご飯も、私たちのとは|桁《けた》違いの、脂肪と動物性蛋白質の豊かな外人食でした。  こうしなければ、先進国の大使館から、キツイ抗議が出かねないからでしょうが、それはそのまま、今の日本の刑務所でやっていることは、非人道的だということにもなります。  ま、それはさておき。  毎年、サンクス・ギビング・デイの十一月頃と、それにクリスマス、そして七月四日の独立記念日には、この外人懲役にアメリカ大使館から、特別食が担ぎ込まれると決まっていました。  アメリカ人の懲役にだけではなくて、その時在監しているすべての外人懲役に、アメリカ大使館は、スペシャル・ディナーを配るのです。  昭和五十三年のクリスマスは、こんなメニューでした。ロースト・チキンが半羽、そして三インチほどのバタ・クリームのクリスマス・ケーキ。  このふた品がメインで、後は白い大きな箱に、カップに入ったサラダとか、フワフワの丸いパンやいろんなものが、|美味《おい》しそうに詰まっていました。  日本人懲役の私たちには、アメリカ大使館も配ってはくれなかったのですが、なぜ私が中身まで知っているかというと、全部そっくりではなくても、その一部を、親しくしていた外人懲役が|密輸《ヽヽ》してくれたからです。  アメリカ人が好んでクリスマスに喰べる、あの大味な|七面鳥《ターキー》ではなく、ロースト・チキンだったのは、その方が他の国の連中が喜ぶからで、アメリカン・ホスピタリティーだと、アメリカ人の懲役が自慢したので、 「ロシア人の懲役がいたら、そいつにもアメリカ大使館は、このスペシャル・ディナーを配るかな」  と私が首をかしげて言うと、当り前だとアメリカ人の懲役たちは、胸を張って見せたのでした。 [#改ページ]

 
わが家はネコ年!?  静かに暮れていく昭和六十二年、一九八七年と書きたいのですが、私の周囲は、とてもそんな様子ではありません。  マッチ箱より小さい感じなので、それなら麻雀のパイかキャラメルだろうと、キャラメル・ハウスなんて呼んでいる川崎のわが家です。  そのすぐ向いのアパートにある私の仕事部屋では、ファクシミリから怖ろしい音がしています。 「ジッジッジッ……」  機械から催促の紙が、ジリジリッとせりあがって出て来ると、それに合わせたように電話が鳴るのです。  もっともその電話には、私が今世紀最高の発明品と信じている|居留守番電話《ヽヽヽヽヽヽ》が、仕掛けてあるので、女の編集者のいらだった険しい声が聴こえて来ても、私は平チャラでした。 「まああの|女《ひと》ったら、俺にだけこんな非道い声を出して……恋人と一緒にいる時の声と、いったいどっちが地声なんだ。いい加減にしやがれ……」  遅れている原稿のせいで、卑怯な居留守を決めている自分のことは、すっかり棚にあげて、しきりとそんなことをブツブツ言っている私です。  去年の秋の深まった頃から、これでもう一年以上も、こんな状態が休みなく続いています。  この忙しさも、すべて最初に出した単行本『塀の中の懲りない面々』が、おかげさまで、とてもよく売れたからでした。  それまでの、毎日が休暇のようだった頃を思い出すと、矢張り仕事がないのよりは、あり過ぎる方がずっと結構なのですから、|贅沢《ぜいたく》は言えません。  三十年も無頼に過ごしてしまった私なのに、こうして作家として、暮らしが立つようになったのも、これには無数に近いほど沢山の、恩人がいて下さったからです。  恩人に、足を向けて寝られない、なんて言えば、|鴨居《かもい》にぶら下がらなければなりませんが、極小最新超安値建売連棟式住宅のわが家には、なんと鴨居がありません。  超過密の年末の予定に追われながら、私がこの一年と、作家になれた倖せを思って、感に堪えていたらその途端に、|炬燵《こたつ》の中で足を|噛《か》んだ奴がいました。八匹飼っている猫たちの、どれか一匹なのに間違いありません。  二年半前に、二トンのトラック一台で間に合う引っ越しをして、このキャラメル邸に落着いた時は、たった三匹しかいなかった猫なのに、今では大小取り混ぜ八匹もいるのです。  足を噛んだのは、三匹の仔猫の中では一番大きなやつで、牝猫のミミでした。  猫は、電話番もしなければ、玄関の靴も揃えないし、だから関西では兄弟の沢山いる末ッ子を、「猫の尻尾」なんて呼ぶのです。  なぜ……と訊いたら、上方の兄弟分は、 「そんなもん、あってもなくても、なんの違いもあらへんのや」  なんて、四人兄弟の離れた末ッ子の私を、逆上させるようなことを言いました。  猫は、そんなふうに、関東でも関西でも、まるで何もしない厄介者のように扱われて、人間の言葉が喋れないので、黙って我慢しているのです。けど、この際、作家になれた私は、日本中にアナウンスしたいのです。 「金持は知らないけど、猫は私と、私の暮らしを支えてくれた」  と……。  作家を目指しての永い貧乏暮らしの間、私の猫たちはそれぞれ一匹ずつ、私の暮らしを充分に救けてくれたのでした。  猫が何も役に立たないなんて、誰が言ったことでしょう。  自分の猫だと、ただ座布団の上で丸くなっていても、何をしていても、そいつが家の中にいるだけで、と言うよりも、同じ生活圏に仲間としているだけの、それだけのことで心がなごむのです。  貧乏な暮らしをしていて、狭いアパートやキャラメル・ハウスで、人間同士鼻をつき合わせていると、どうしても、悲しいことですが余裕のなさから、どんなに愛し合っていてもキシミ音が出てしまいます。  そんな時に猫がいてくれて、昼寝から目覚めて伸びでもしてくれると、その途端に、貧乏所帯のトゲが丸くなってしまうのでした。  作家になろうと志した私が、あえぐ間に、家の猫たちは、どんなに家の雰囲気を和やかにしてくれたことでしょう。  八匹目の最近来た仔猫は、足の御不自由な|縞猫《しまねこ》で、だからテレビの上にも飛びあがれません。  小学六年生の息子が、大好きでのぼせあがっているクラスの女王様から、 「ハイ、君この猫を飼っておあげ……」  と|厳《おごそ》かに渡されて、連れて帰って来たというのですから、女房殿は、 「本当に、親父も息子も……」  と、情けなさそうに言いました。  貧乏所帯の時だけ、猫たちは必要不可欠な仲間であったのかもしれないのですが、たとえ、まっとうな暮らしで手間のかかる、私たちの昔の言葉で言えば、 「|背負《しよ》い込み」  でも、永く|つるんで《ヽヽヽヽ》過ごした猫たちと、もう私と女房、それに息子の三人の一家は別れられません。  私たちは、猫に限らず生き物が好きなのです。  猫は、犬と違って自分で運動してくれるし、甘えたり人恋しくなって、大声で鳴いたりしませんから、一家で一所懸命に働かなければならない所帯でも、どうにか一緒にやっていけるのでした。  可愛いヤモリの白い子供が、天井にやって来たのを、|掴《つか》まえて掌に乗せた女房が、私と初めて寝た時のような声を出して、 「貴方、ヤモリの子供のなんて可愛いこと、この目、この指……」  と叫んだのです。  生き物というものは、カマキリ以外は皆可愛いのだと、私が言ったら、女房は目を細めて、 「小さいものは、とくに可愛い、なんでも小さいのは、蛇でもトカゲでも……」  ヤモリの仔の白く半透明の頭を|撫《な》でながら、言ったのでした。  今年は、何冊かの単行本を出していただいて、いずれも読者の皆様のおかげで、可成な売上げでしたから、ブームのような人気を来年につなげることが出来たように思える私です。  この一年というもの、突然噴きあがったような忙しさに、舞いあがり夢中になっている間に過ぎてしまったようにも思えます。  いい仕事をしなければ……と、この年末になって、つくづくと思うのです。  女房を籍に入れて七年、猫と暮らして二十五年、そして足を洗って七回目の暮れですが、今回は、女房と息子に、初めて人並みのクリスマス・プレゼントがしてやれます。 [#改ページ]

 
ローマの休日なのだ  旅行社が手配してくれたローマのホテルは、私にはとても懐しいホテル・メトロポールでした。  その昔、ジェニファー・ジョーンズの映画で、日本でも有名になった「|終着駅《テルミニ》」のすぐ近くにあるこのホテルは、日本航空が南回りヨーロッパ線の、|乗組み《クルー》の宿舎にしていたので、私もその頃に、何度も泊ったことがあったのです。  伝統と、それなりの格式を大事にしていたホテルで、私にはとても好ましい印象が、二十五年経っても残っていました。  タクシーでレオナルド・ダ・ヴィンチ空港から、そのホテル・メトロポールに向かった私は、段々近づいて来るローマの街の灯りを見ていると、胸の奥が熱くなって、それが喉と鼻にせりあがって来たのです。  こうして、またローマに来られるなんてことは、|大袈裟《おおげさ》ではなく、私にはまるで夢のようなことでした。  それというのも、四十なかばで渡世の足を洗った私は、当然のことですが前科前歴が災いして、永く|逼塞し《クスブリ》ましたから、これにはいかに強気で楽天的な私でも、一度はもうすっかり|諦《あきら》めてしまっていたのです。  必死に細々と喰うのが精一杯で、再び外国、それもローマやパリに出掛けて行けるようになろうとは、思いもしませんでした。  後はただ、世間様にお目こぼしをいただいて、ひっそり貧しく、くたばるまで生きるだけだと、諦めていたのです。  この頃は、よくそんな想いに浸るのですが、この時も近づいて来る私の好きなローマの街の灯りを見て、 「ああ……、機会に恵まれて、作家になれたなんて、俺はなんて幸運なんだろう」  と、しみじみ思ったのでした。  幼い頃から四十歳近くまで、国内だけではなく世界中を転々とした私ですから、永く住んだ故郷のようなところが無い代りに、このローマのように、とくに気に入っている街が、いくつかあります。  渋谷、神戸、そしてサンフランシスコが、ローマと同じ私の好きな街でした。  どうも男というものは、私に限らずたいてい|誰方《どなた》でも、いい記憶や思い出のあるところが好きで、嫌な目に遭ったところや恥をかいた街が嫌いなように思います。  どんなに気候が悪くて、飯が|不味《まず》く、猿のように下卑た獣のような人たちが群れている街でも、そこでいい女に惚れられたりすれば、何年経っても、男は決して|非道《ひど》く言ったりはしないようです。  このローマは、私がまだ幼い頃、船会社に勤めていた父に連れられて、二年住んだのが初めで、その頃は両親の愛を一身に集めていた私ですから、楽しくなかったわけがありません。  そして十六歳の時に、日本にいられなくなってしまい、親に逃がしてもらって行ったのが二度目で、二十四歳になると日本航空のパーサーに変身して、何度も飛んで行ったのです。  |博奕《ばくち》打ちの頃も、指名手配のほとぼりを冷ますのは、ローマかスペインと決めていたので、何度も来たものです。楽しかったし、それに若かったからよくもてもしました。  だから私は、ローマが好きなのです。  何年経って訪れても、良くも悪くもちっとも変わっていないのが、私のお気に入りのローマのはずなのに、タクシーから降りた私は、ホテル・メトロポールのあまりに変わり果てた様子を見ると、心のしぼむ思いがしました。  入口も狭くなって薄汚れていたし、入ってみると、私の泊っていた頃とはまるで変わっていて、見覚えのない安手なカウンターには、|下司《げす》な顔の中年男が、いかにも|胡散《うさん》臭く立っていたのです。  荘重な身のこなしの銀髪のコンサージュ(副支配人格接客係)もいなければ、髪を結いあげた娘さんのフロントもいません。  ヨレッとして色の|褪《あ》せた制服を、なんともだらしなく着た中年のボーイが、不精|髭《ひげ》を生やして、ひとりだけノッソリと立っているのです。 「驚いたぜ、なんてことだ。二十年ほど来ないうちに、俺の思い出の|籠《こも》っているこのホテルは、どうなっちまったんだ」  私は、普通の日本人のように、行儀よく感情を|納《しま》い込んだりはしません。  失望と怒りを全身で表わすと、イタリア風に両手を振りまわしながらまくしたてて、肩をすくめて見せました。  すると、その品のない普通の背広を着た初老の男は、悲しそうにすれば許してやったかもしれないのに、|不貞腐《ふてくさ》った声で、 「二十年も経てば、娘も婆ぁだ」  と言ったので、これは|喧嘩《けんか》です。 「婆ぁならまだ上等だ。このホテルは、まるでお前の面と一緒で、腐った豚の餌のようだ」  私は指を差して|罵《ののし》りながら、こんな|潮垂《しおた》れた宿屋の番頭づれに、平気で喧嘩を売られた自分の器量を思い知ると気が狂いそうになったのです。  ほんの数年前なら、こんな男に|舐《な》められたりはしなかったのではなかろうか、と思うと、尚更堪らなくなって、平手で張り飛ばしたいのを一所懸命耐えました。  昔と違って、今の私が、ローマでホテルの男を張り飛ばして、もし警察に捕まりでもすれば、たちまち仕事を失うかもしれません。  どんなに相手が無礼でも、日本のまっとうなお方たちは、警察に捕まったという事実だけで、私を決して許してくれたり、理解して下さったりはしないでしょう。  日本人は決して怒らないと思っていたらしいその男は、猛然と怒った私を見て、目を丸くしたのですが、すぐ開き直った態度で、カードとペンと、それに鍵を、次々とカウンターの上に投げたのです。  きっとそんなところが見透かされて、舐められるのに違いないのですが、五十歳の、それもやっと作家になれた私に出来たのは、鍵を掴むと、カーペットの擦り切れているロビーの奥へ思い切りほうり投げてから、 「見損なうな死にぞこないの豚爺ィめ、ただの上にお前の娘を添えても、そんなもん臭くてどうにもならねえ。こんなとこ泊ってなんかやるもんか。このトグロを巻いた牛のウンチ野郎め」  とにかくイタリア語の罵り言葉は、他のどこの国のそれより猛烈に汚くて、表現が多彩なのです。  予約していた日本人の男に、こんなことを言われるのは、信じられない悪夢のようなことだったのに違いありません。  薄汚い印象のホテルの男は、真っ赤な顔を震わすだけで、何も言い返せずに立ち尽していました。  私は、またバッグを提げると表に出て、タクシーを拾って乗込み、 「ホテル・ヒルトン、|に《プ》や|っ《レ》て|お《ゴ》く|れ《ー》」  と叫ぶと、まだ新しい小型のオペルは、ストック・カー・レースのように、タイヤを鳴らして飛び出しました。  ローマのタクシーは、こうなのです。    このローマの街を見降ろす丘に建っているホテルには、私は昭和四十八年に一週間泊ったので、よく覚えています。  丘の斜面にある自然の木立ちを、そのまま生かしたこのホテルの庭は、遠景のローマの街と美しく調和していました。  客室の窓からは、右側の端にサン・ピエトロ寺院の円い屋根が見えて、夕方になると森に帰る小鳥の大群が、暮れかかる空に濃いグレイの帯を流したように、街の上を細くなり太くなって舞うのです。  これは密集して飛ぶ小鳥の大群が、旋回する時に、重なり合ったりバラけたりするので、こう見えるのですが、この美しい眺めの中に、あのイタリア人たちが暮らしていると思うと、私は思わず笑い出してしまったのでした。  それというのもイタリア人が、ヨーロッパでは随分特殊な評価をされている人たちだったからです。  今から四十年近く前に、私が英語を教わっていたイギリス人は、見るからにイタリア人だと思える人に会った時でも、決して、 「貴方は、イタリア人ですか」  と、訊いてはいけないと言いました。  もしそうならいいけど、違ったら相手が腹を立てるようなことだから、と教えてくれたのを、他のもっと大事なことは忘れたのに、それだけハッキリ覚えています。  陽気で身体を響かせて唱う男たちと、見詰めたまま立ち尽してしまうほど綺麗で艶っぽい女たちなのですが、図々しくて手前勝手なことも、またイタリア人の特質でした。それというのも、このイタリア人たちは、いつでも自分の本心をさらけだしてしまうので、特別それが目立つのです。  平たく言えば、とても行儀が悪いのですが、それがいっそむき出しなので、私はとってもイタリア人が好きでした。  同じ性根なら隠していられるより、むき出しになっていた方が、私は安心していられるのです。  少なくともイタリア人は、決して陰険な人たちではありません。  けど、驚いたことには、イタリア人は郵便局の窓口にいる多分公務員なのでしょうが、そんな男でも相手が日本人や寝呆けた奴だと、釣銭を胡麻化す奴がいるのです。  小銭から順に釣銭を渡していって、最後の一番高額な札を出す前に、手を止めると、終ったと言わんばかりにそっぽを向いたり、意味不明なことを|呟《つぶや》くのです。  つまり日本のお金だと、たとえば七千六百六十円のお釣りの時に、十円玉から五十円玉と順に出して、最後の五千円札を出さないで、相手にそれまでで全部だと思わせるのでした。  日本人の旅行者だと、四人のうち三人は、最後の一枚を受取らないで、行ってしまうのではないかと思います。  こんな時には、日本語で構いませんから、「オイ」とか「コラァ」なんて、決して微笑んだりせずに言って、掌を顔の前に突き出してやれば、イタズラを見付けられたような顔で、ニッと目尻に|皺《しわ》を寄せながら、残りの札を出すのです。  バレても平気なのは、他人の女房でも釣銭でも同じで、だからイタリア人は嫌われるのでした。それに泥棒やひったくりに、チャチなペテン師といった怪し気な連中が、ローマの街にはウヨウヨいて、主に日本人の旅行者に狙いを定めています。  けどそれが見るからに怪しい男たちなので、こんなのにやられるようでは、とても常識のある大人とは思えません。  私は、日本や他の外国の悪党共に比べて、素朴で悪知恵の発達していないそんな男たちを、むしろいとおしくさえ思っていました。  ローマの漫画のようなゴロツキの話はさておき。  私の乗ったタクシーは、石畳のローマの道を弾みながら突っ走ると、ホテルの建っている丘に登る坂道にさしかかったのですが、途中から急に道が混み始めて、たちまち坂は車が数珠つなぎになったのです。  時々少しずつ動くので、イタリア人の運転者たちは、前の車との間に出来た隙間に、すごい音でエンジンの回転をあげると、にじり出るのでした。  まわりの車を見ていた私は、そのたびにどの車も、ズズズと後ろに下がるのに気がついたのです。  この街ではどんなことを見ても、滅多には驚いたりしない私ですが、どうやらイタリア人は、坂道発進で、ハンド・ブレーキを使わないと知ると、これには口を開けて驚いてしまいました。  私の乗っていたタクシーの運転手も、そんな物には、さわりもしません。  おまけに、すぐ前の車が止まっても、ずっと前の方が動いていると、|可成《かなり》な坂だというのにエンジンをふかして、ハーフ・クラッチで、小刻みに前後に動きながら、いつまでもそうしているのです。  これがこの街ではごく普通らしくて、他の車も皆そうしているようでした。  これではクラッチが堪りません。  世界を制した日本の自動車だというのに、なぜかこの国ではほとんど見かけないのですが、他はともかくクラッチだけを、|矢鱈《やたら》と強化した車を輸出すれば、アッという間もなく市場を独占するのに決まっています。  私が呆れ返っていたら、まるでこんなこと|嘘《うそ》みたいなのですが、前の前にいた車が後ろに下がるばかりになって、ついにはグシャッと前の車に当ると止まってしまったのは、クラッチが壊れたのです。  前の車はホーンを押しっ放しにすると、窓から男が上半身を乗り出して、拳固を振りまわして|喚《わめ》き立てました。  坂の上の方はずっと空いたのに、こちら側の車は、くっついていて動けません。  私の乗ったタクシーの運転手も、怒り狂ってホーンを鳴らし続けました。  もうその坂道は、悪魔の|遠吠《とおぼ》えのようなホーンと、翻訳したりすれば、イタリア人の神様の罰をその途端に喰らうほどの、気絶しそうに汚い罵声の二重唱が、いつ終るともなく続けられたのです。  私は久し振りで訪れたローマの、相変わらずのこの街らしい様子に、すっかり嬉しくなっていたのは、こんなイタリア人とローマを愛していたからでした。  それにしても、いつになったら私はホテル・ヒルトンに着けるのでしょうか。  坂道発進で、なぜか決してハンド・ブレーキを使わない、イタリア流運転法のために、三十分以上も余計にかかって、丘の上のホテル・ヒルトンに着いた私です。  とても歓迎してくれて、すぐ景色のいい側に部屋をとってくれたのですが、突然予約もなしでやって来たのを不審に思ったようで、フロントから離れたところが自分の持場のコンサージュまで集って来ると、どうしたことかと訊くのでした。  成田からモスクワ経由で飛んで来て、|流石《さすが》にとても疲れていた私ですが、同じ旺盛な好奇心を持つ同士とあっては、むげにも出来ません。  私は手短かに、予約してあったホテル・メトロポールの惨状を、肩をすくめて両手を拡げるイタリア風のポーズをしながら、集って来た連中に話してやりました。  すると白髪のコンサージュは、微笑を浮べながらも、私と同じ日本人のせいだと、意外なことを言ったのです。  いくら疲れていて早く部屋に落着きたいといっても、これは聴き流せません。  私は、口ごもる初老のコンサージュを掴まえると、時間をかけて、そのわけを訊き出しました。  十五年ほど前から、日本の団体旅行を泊めるようになったローマのホテルは、みんな私の呆れたホテル・メトロポールのようになってしまったのだと、コンサージュは言ったのです。  大声でホテルに繰り込んで来るや、忙しそうに買物をして、バスで名所をグルグルッとまわると、写真をとってすぐ次の目的地に発って行く日本のパック・ツアーの客は、ホテルのことはあまり気にしないのだそうです。  だから、それを専門のようにしてしまったホテルは、選んで来て下さるお客ではないので、伝統や格式を守るための経費なんて無駄なことだし、心利いたホテル・マンも要りません。  旅行会社が指定を取消さない程度に、やっていればよくて、おまけに他の国の団体客に比べると、日本人のそれは、ホテルに対する要求度が低いのだと、コンサージュは言ったのです。  豊かになった日本は、大金を懐ろにした大声の大群を送り込んで、私の若かった頃の思い出の詰まっているローマの素敵なホテルを、無惨なベッド・ハウスにしてしまったようでした。  その晩はホテルのバーで、ソーダ割りを四杯ひっかけると、部屋に戻ってパタンと寝てしまった私ですが、翌日起きてから、なんともイタリア的としか言いようのない騒ぎに、巻き込まれてしまったのです。  朝の十時に東京から電話があるはずだったのに、私が目を|醒《さ》ましたのは十時半でした。  それならこっちから、国際電話をかけようと思った私が、枕もとの電話をとると、これがなぜか、ツーッともプーッとも音がしないのです。  電話機をガチャガチャやって、付いているボタンを突っついても、ウンともスンともいわないのが、呆れたことに、どうやらまったく機能していないからだと、いろいろやった揚句に私は、ようやく気が付いたのでした。  急いでロビーに降りて行った私は、昨晩の白髪と交代していた|禿頭《はげあたま》のコンサージュに、 「俺の部屋の電話は、壊れているぞ」  と言ってやると、私の見幕にたじろいだ禿頭は、事務所の中に姿を消しましたが、すぐ出て来ると私に向き直って、こんな場面だというのに、ニッコリ笑いました。 「原因は簡単で、このボーイが一緒に行けばすぐ直ります。大丈夫です」  なんて言ったのには、私はなんのことやら分らないまま、けど猛烈に腹が立ったのです。 「簡単だろうがなんだろうが、俺が十時にかかるはずの電話を、それでミスしたんだ。訴えるぞ。お前も次の仕事を探しておけ、クビにしてやらあコン畜生」  私がイタリア風に怒鳴ると、怒った日本人は初めて見たらしいコンサージュは、途端に脅えた顔になりました。  私と一緒について来たボーイは、なんとバスルームに入り込むと、バスタブに下がっていた|紐《ひも》を、ゴチョゴチョッといじって、直ったと言ったのですから、そんな馬鹿なと言うようなことでした。  ボーイの下手糞な英語から察すると、このホテルを建てた時に電話工事をした男が、具合でも悪くなった時に、メイドを呼ぶためのその紐を引くと、部屋の電話の回路が切れてしまうような配線をしてしまったらしいのです。  なぜ、そしてどんな配線をすれば、そうなるのかも興味はあったのですが、 「そんな馬鹿な、それでそのまま二十年も、直さないでいたというのか」  と、私は呆れ果てたのです。  寝呆けて、ふくらんだ顔で起きて来た女房殿は、昨晩お風呂に入った時に、あまり湯気が籠ったので、換気扇の紐だろうと思って引っぱったけど……と、モジモジしながら言いました。  これは、バスタブの壁に付いていたメイドのマークを見落したとしても、私の可愛いチンコロ|姐《ねえ》ちゃんに、責任なんてあるものですか。  大変な見幕で、ロビーに降りて行った私に、禿頭のコンサージュは、十一人いる孫たちと、まだふたつの娘のためにも、どうか勘弁して欲しいと言いました。  こんな場面になるとイタリア人は、それまで二十年ほども、この呆れた奇怪な配線を、直さずに放っておいた図太さと、とても同じ人間とは思えないほど、名優のような必死の願いを顔と瞳、それに身体中一杯にして、許しと憐れみを求めるのです。  なにごとかとそばに寄って来たロサンジェルスの品のいい夫婦は、私がかい摘んで話したのを聴いて、信じられない話だとデュエットしました。  あまりのことにウンザリした私が、 「すぐ直すのなら、娘に免じて……」  と呟いたのを聴くと、その途端に、パッと晴れやかな顔になったコンサージュは、 「八十五歳になる、おふくろの頭に賭けて、この年末年始の休みが終ったら、すぐに、ただちに……」  と言ったのですが、けど今でもあの部屋の信じられない仕掛けと配線は、そのままで直ってなんかいない方に、私はいくらでも賭けたいのです。  もしかすると、こんなイタリア人たちだから、ローマの街の素晴らしい古代の遺跡も、今まで残っていて、世界中からやって来る観光客を楽しませ、しびれさせているのかもしれません。  そしてローマとイタリア人が好きな私は、よく考えてみると、似た者同士だからだと思い当って、苦笑したのです。 [#改ページ]

 
電話は小説より奇なり  対談の相手をして下さった石田えりさんは、今まで私が見たこともないほど、美しい女優さんだったので、私は不覚にも|可成《かなり》酔っ払ってしまったのです。  勿論、|俄《にわ》かプロフェッショナルでも、作家ですから、対談をしている間は、チャンとやっていたつもりですが、終ると途端にドッと酔っ払ってしまいました。  表に出ると、見あげた空には、星が沢山またたいていて、「安部譲二、御苦労さん。今日はいい女に会えて良かったね」と言ってくれたのです。  石田えりさんの|類《たぐい》稀れな瞳の輝きに、すっかりしびれあがって、平静を失ってしまった私ですが、それでも、マッチ箱より小さいキャラメル・ハウスに、女房と息子、それに猫八匹を養っている一家の長ですから、思いついて電話をしました。  こんな時でも、石田えりさんの余韻にひたろうと、|叔母《ヽヽ》のやっているバーに出掛けたりする前に、家に電話をしておこうと思いたったのですから、私は女房殿の言うほど、だらしのない亭主ではありません。  公衆電話の十円玉が、カシャッと落ちると、電話が川崎のわが家につながりました。  それにしても、細い電話線の中で、よく電話がチャンとつながって、しかも他とゴチャゴチャにならないものだと、普段はそんなこと少しも不思議に思わないのに、酔っ払うと考えてしまいます。  |叔母《ヽヽ》の田宮光代のバーに、電話局の男か、そうでもなければ詳しい奴が来ていれば、そこんところを訊いてやろうと思った途端、電話に出た声に私は驚いてしまいました。 「ハイ、アベでございます」  という女の人の声が、もう昭和五十四年以来ずっと一緒に暮らしている、家のチンコロ|姐《ねえ》ちゃんとは違ったからです。  ハハン、これは「お茶呑み」をしているな、とすぐ分りました。  私のキャラメル・ハウスのある、川崎の|久末《ひさすえ》といえば、竹やぶを切り開いた造成地で、しかも私鉄の開発からは取り残されてしまった、密集極小建売住宅地帯です。  そして、軒を接している近所のお内儀さんたちが、集ってコーヒーや番茶を呑みながら、いつまでも雑談するのを、「お茶呑み」と称しているようでした。  今晩はそれが、私の家で開催されていて、電話のそばにいた近所の小母さんが、電話に出たのに違いないと、私は思いましたから、 「私、アベですけど、ウチの女房をお願いします」  と、少しイラつきはじめた心を押えて、そう言ったのですが、|呆《あき》れたことに、電話に出た女の人は、 「わたしですけど……」  なんて、少しもふざけた様子ではなしに、むしろいくらか不審そうに言ったのには、狐に摘まれたというより少し腹を立てた私でした。 「分りました、分りました、とても面白い冗談です、奥サン。けど急いでいるので、家の女房を早く出して下さい」  私の声がいくらか険しくなると、電話の向うの女の方も、声の不審さが増幅されたようで、 「わたしがアベの女房です」  と、おっしゃいましたから、もう命には別条ないものの、すっかり混乱してしまった私は、矢張り、美しい花には毒があるのか……なんて思ったりしました。  石田えりさんの、あまりの魅力に、自分がすっかり錯乱してしまったのに違いないと、一瞬思ったのです。 「奥さん、安部譲二の女房は、失礼ですがもうほんの少しだけ若い女ですよ。どうぞ電話を替って下さい」  私が、これは冗談ではないという声を出すと、電話の向うの女の方は、一声高く、 「アベ・ジョージ」  と、お叫びになったのです。 「決まってるでしょう、奥さん。今日はコーヒーやお茶じゃなくて、ビールでも召しあがっておいでなんですか、そこは安部譲二の家なんですから、本人が電話して来ても、そんなに驚いたり叫んだりすることはありません。すぐ家の女房に替って下さい。冗談じゃなくて用事があるんで電話してるんです」  この|婆様《サマバア》め、とその時私が思ったのは、今になってみると、申しわけなくて仕方がありません。  どうぞ西蒲田のアベさんの奥さん、勘弁して下さい。というのは、電話の向うの女の方は少し憮然とした声をお出しになると、 「安部譲二さん、あなた川崎でいらっしゃいましょ、〇四四とダイヤルなさいましたか……」  と、おっしゃったのです。  水虫の爪先から背筋を通って、酔った頭の脳天まで、寒波のような衝撃が走り抜けました。  なんと東京の同じ番号もアベさんだったのですから、この頃はノンフィクションが売れるわけです。  石田えりさんに、すっかり頭も目も指先もすべていかれた私は、〇四四と川崎の市外局番を先にまわさず、喚きたてていたのですが、東京は西蒲田のアベさん宅になんか、家のチンコロ姐ちゃんがいるわけもありません。  それにしても、安部も阿部も安倍も、全部ひっくるめたって、佐藤や鈴木なんて苗字とは、比べものにならないほど少ない姓だというのに、東京の同じ電話番号のお宅がアベさんだったというのですから、こんなこと小説に書けば、読者にたちまち呆れられてしまうようなことです。  東京のアベさんの奥様に、随分ヘドモドしながら、一所懸命お詫びした私は、すっかり酔いも石田えりさんの余韻も|醒《さ》め果ててしまいました。  東京のアベさんの奥様は、川崎の安部さんの奥様より、とても優しく寛大な方で、こころよく許して下さったのです。  赤坂の夜空に輝いている星を、公衆電話を切って見あげたら、 「まあ、なんてそそっかしい、貴方が帆船時代の船乗りなら、私たちを見間違えて、|あさって《ヽヽヽヽ》の方に行ってしまったのに違いないわ」  と、口々に言ったのですから、私の酔いは、すっかり醒めていたわけではなかったようです。  |叔母《ヽヽ》のやっている赤坂のロブロイに行った私は、電話に詳しい男を探すことも、石田えりさんの、ダイアン・レインをはるかに超える美しさを語ることも忘れて、東京も川崎も同じ電話番号がアベさんなのだと話しまくりました。  聴かされた|叔母《ヽヽ》も店のお客も、その神秘的な偶然に感じ入っていたように、私には思えたのですが、家に戻って女房殿に話したら、 「アラ、それで分った、この前アベさんですかって変テコな電話があったの」  と言ったのですが、どうやら東京のアベさん側にも、ご自分が川崎にいることを忘れて〇三を回さないそそっかしい方が、おいでのようで……。 [#改ページ]

 
タイソンがやって来る  その日は神奈川県の南林間にある中学校の父兄に、お話をしていました。 「人生は結果で評価されるべきではなく、努力の過程なのだ。私のように四十なかばまでゴロツキをして、五十歳で作家になったのは、地面を掘ったら石油が出たアラビア人と同じで、幸運なだけなのです」  というのが、いつでも私のお話しする内容で、事実私は、心の底からそう思っているのです。  講演がどうやら無事に終って、川崎の家に戻ったら、報知新聞の御厚意で、わたしがお話ししている間に、東京12チャンネルで放映された世界ヘヴィー級タイトル・マッチのビデオ・テープが届いていました。  去年私が、ニューヨークの近郊にあるキャッツキルという街まで取材に行って、会って来たチャンピオンのマイク・タイソンと、三十八歳でカムバックした元チャンピオンのラリー・ホームズの試合です。  もうまったく機械と方向には弱い私なので、多分絶対に、ビデオのタイム予約なんて、出来るわけがないと報知新聞の方たちは、思って下さったのに違いありません。  実にそのとおりだったので、とても喜んだ私は、すぐテレビの前に坐り込むとスイッチを入れました。  CMが終ると、まずリングに挑戦者のラリー・ホームズが登り、続いて観衆の大喚声に迎えられて、まだ二十一歳という若いチャンピオンのマイク・タイソンが、ガウンも着ずに元気に登場したのです。  リングの中には、逆立てた銀髪で有名な黒人のプロモーター、ドン・キングが立っていました。  そしてテレビ・カメラがニュートラル・コーナーを写すと、そこには黒い眼鏡をかけたモハメッド・アリが、能面のように無表情で立っていたのです。  こんな世界タイトル・マッチでは、よく往年のチャンピオンが、リングに登って、青コーナーの挑戦者と赤コーナーのチャンピオンを激励してファンを喜ばせるのです。  カシアス・クレイからモハメッド・アリとリング・ネームを変えて、一世を|風靡《ふうび》した元チャンピオンは、二人の男に付添われてぎこちなく、リングの中を歩きました。  挑戦者ラリー・ホームズのコーナーに行くと、軽く手を握りましたが、|噂《うわさ》で聴いていたように、どうやら上手くは喋れないようです。  あんなに|防 御《デイフエンス》の上手だったモハメッド・アリなのに、矢張りヘヴィー級の強烈なパンチを喰って、試合を続けるうちにこうなってしまったのでしょうか。黒い眼鏡を取らないのは、目にも障害があるからかもしれません。  あの強く、そして華麗なモハメッド・アリの現役当時を知っているだけに、私は、何故か胸が詰まって、目を伏せました。  モハメッド・アリは、両側を男たちに支えられるように、ソロソロとリングを斜めに歩くと、チャンピオンのマイク・タイソンに近付き、右手を伸しました。  栄光に輝く先輩の伸した手を、軽くグラブをはめている手でさわると、マイク・タイソンは、ごくそっけない表情で、サッとすぐ横を向いてしまったのです。  見る人によっては、それは若いチャンピオンの思い上がった非礼と、映ったかもしれません。  モハメッド・アリは、顔をクシャクシャにして喜んでいるドン・キングの前を、表情をまったく動かさずに通り過ぎて、おぼつかない身のこなしでリングから降りていったのです。  私は、観衆やテレビの視聴者に誤解されかねないこの時の素振りを、マイク・タイソンがなぜしたのかがよく分るように思いました。それは、私自身が、そんな場面に今でもしょっちゅう出喰わすからなのです。  若いチャンピオンのマイク・タイソンは、決して偉大な先輩に対して無礼だったのではなくて、おそらく見ているのが嫌だったのだと私は思います。  永くゴロツキをした私が、作家になり、テレビや映画に出演して、ニコニコしたり笑ったりしている様子を見ると、今が|売り出し《ヽヽヽヽ》という威勢のいい現役たちは、揃って目をそむけるのです。  あんな姿にはなりたくないと思う気持と、もし自分が将来……という恐怖があるからに違いありません。  私自身、若くて突っ張っていた頃は、尾羽打ち枯らして、妙に愛想がよくなった|年寄《ヨリトシ》を見ると、同情するより先に、嫌なものを見てしまった思いがしたものです。  ましてやゴロツキとかボクサー、それに芸人といったマイナー世界では、周囲にそんな例がほとんど無数にあるのですから……。  若いチャンピオンのマイク・タイソンは、悲惨な姿の大先輩を見て、心の内を正直に出してしまいましたが、同じリングの中にいてその場面を見ていたドン・キングは、なぜかとても|嬉《うれ》しそうでした。  ボクサーを闘わせて|儲《もう》けているドン・キングは、廃兵院を慰問して|微笑《ほほえ》む大統領か将軍と同じなのです。  試合が始まると、三十八歳の元チャンピオンは、マイク・タイソンを徹底的に長い腕で押え込んで、得意の猛打を爆発させませんでした。  そして焦って突っ込む若いチャンピオンに、三ラウンドからは、右でストレートを狙い撃ちしたのですが、哀しいことに当りません。  マイク・タイソンの|作戦参謀《セコンド》は、すぐ突っ込ますのを止めさせて、右のストレートを主武器に切替えさせました。  四ラウンドになると若いチャンピオンの強打は、続けて当り始め、三回目のダウンで、老雄はリングのキャンバスの上に、倒れたままになってしまったのです。  私は一回目と二回目のダウンで、ラリー・ホームズが、背中をキャンバスに打ちつけながら、|顎《あご》をしっかり引いて、後頭部をリングに叩きつけられないようにしているのを見ました。  現役時代には、滅多にというよりほとんどナック・ダウンされたことのないラリー・ホームズなのに、初めて若いチャンピオンの強打を浴びて、倒された場面で本能的にそんなことが、二度までも出来たのには舌を巻きました。  けどついに三度目には、激しく後頭部をキャンバスに弾ませて、そのまま伸びてしまったのです。  勝ったマイク・タイソンは、次の防衛戦を三月二十一日に日本でやるそうです。  好きな中国料理を|御馳走《ごちそう》しながら、あのラリー・ホームズの素晴らしい技術や、モハメッド・アリの哀しさを話し、最後に、今持っている青いロールスロイスだけは、手放してはいけないと、私は言ってやろうと思っています。  あの車さえあれば、いつでも店の一軒ぐらいは買えるのですから、マイナーな世界に生きた先輩として、仲良くなったマイク・タイソンに、 「黙って俺の言ったとおりにしなよ」  と言うつもりですが、もし怒ったらどうしましょう。 [#改ページ]

 
大学に行かないか  今から二十年も前のことですから、私がまだ三十歳ぐらいの頃のことです。  乗務で東京に来たエール・フランスのスチュワデス、マドモワゼル・ケルビズィックは、友人の田宮光代と麻布十番の永坂更科で、大好物の天ぷらそばを召し上がりながら、 「ところで、あのナオって、日本人の純血種なの?」  と訊いたので、日本航空のスチュワデスだった田宮光代は、 「ナオの先祖は、九州の北部だと聞いたから、あるいは東洋系の何かが、何代か前に混っているかもしれないけど、どうしてそんなこと訊くの」  私の、決して欧州系との混血の名残りなどは、毛ほどもない顔を思い出しながら、|怪訝《けげん》な顔でそう答えると、|栗色の髪《ブルネツト》のフランス娘は、 「私も永く飛んでいるから、乗客として|算《かぞ》え切れないほど、男としては三人だけ、日本人を知っているけど、あのナオのように、どんな意味でも劣等感のないのは、知らないからよ」  と、そんなことを言ったので、何年か私と生活を共にしたことのある田宮光代ですから、たしかに、それはそうだといちいち思い当って、おかしくて噴き出してしまったと言いました。 「劣等感が、まるでないように見えるのは、本当にないからではなくて、ナオは図々しく恥知らずだからなのよ、と言ったら、彼女、しきりと|頷《うなず》きながら、天ぷらそばを喰べていたわ」  きっとマドモワゼル・ケルビズィックも、いちいち思い当ったのに違いないと、田宮光代は言って、コロコロ笑ったのでした。  矢張り、束の間の情事の相手と、一緒に暮らした女とでは違います。  私は、田宮光代の分析したように、自慢にもなりませんが、可成豊富に劣等感を抱いて生きているのです。  けど、それが表にあまり出ないとすれば、それは図々しくて恥知らずだからだけではありません。きっと、あっけらかんとした性格だからで、これは遺伝ですから、私のせいだと言われても困るばかりです。  父系の遺伝か、それとも母系かということは、研究していないのでハッキリとは言えませんが、私に限らず血を分けた姉の福久子も、兄の博也も、随分とユニークな子供でした。  姉は幼い時に、壁に何か留めたりする時に使う、上に飾りの花文様の付いている|画鋲《がびよう》を、素足で踏んづけて、足の裏に刺してしまうと、たいていの幼児なら泣き出すところなのに、喜んで見せながら、 「花あんよ」  と、叫んだというのです。  兄の話は、姉のよりもっと呆れてしまうようなことでした。  兄が三歳の時のこと、なにかの拍子で泣き出したのですが、昔のスパルタンな子育ての頃ですから、いくら泣いていても、誰も機嫌を取ったりなんかしません。  兄の博也は座敷の隅に立ったまま、盛んにワアワア声を放って、涙をポロポロこぼしていたのですが、そのうちに誰かが泣き声に、何か言葉が混っているのに気がつきました。  すねたか、叱られたかしたことを、御免なさいと言っているのなら、許してやらなければと、そばに行って耳を近づけて聴いたら、 「目々ハチマキ、メメハチマキ」  何回も聴き返して、やっと分った大人たちは、デングリ返って驚いてしまったのですが、なんと幼かりしわが兄は、涙を手で|拭《ぬぐ》うのが面倒なので、目に鉢巻をして欲しいと、しゃくりあげながら要求していたのです。  こんな呆れたエピソードを持つ、驚くべき姉と兄の弟なのですから、私だって変わっていないわけがありません。  だから劣等感を表には出さないことも、何年も一緒に暮らした田宮光代にさえ、図々しくて恥知らずなだけだと、思われてしまうのです。  私の劣等感には、小さなのから|巨《おお》きいのまで、豊富なレパートリイがあって、実は自転車に乗れないとか、まったくのリズム音痴だとかいうことは、これも大変なことではあるのですが、最大級の物ではありません。  前科や前歴も、それは随分ひけ目に思えることですが、想像されるほどでもないのです。  白状すると、私の持っている最大の劣等感は、致命的なほどの教養と学問の足りなさなのでした。  口に出せば、聴いた方は、作家になって本も売れたではないか……とおっしゃって下さるでしょうが、当の本人の私が、どうしようもなく参っているのですから、優しく慰めていただいても駄目なのです。  毎年今頃の大学受験の季節になると、まだ若い頃に、ヤクザを止めて教育を受けようと試みて、意志の弱さから挫折したことを思い出します。  先日お目にかからせていただいた鶴見俊輔先生は、そんな私を御覧になると、 「僕も、小学校の途中で追い出されてしまった」  とおっしゃって下さったのですが、向かい会ってお話ししているだけで、マイク・タイソンと私のパンチの違い以上の、どうしようもない教養と学問の差を、私は感じ取ってしまったのです。  あんなに豊かな教養と学問を身に付けられたら、どんなに素晴らしい人生が過ごせるかと思うと、若ければともかく、いつの間にか五十歳になってしまった自分の、残り時間の少なさに、滅入り込んでしまいました。  私は今まで、どんな絶望的な場面でも、花あんよ、目々ハチマキの精神で懸命に、あがき続けて生きて来たのです。  足を洗って幸運に恵まれ続けて作家になった私には、なってみて、それまでは沢山ある劣等感のうちの、大きくはあっても、他のもろもろと同じ程度であったものが、最大級の飛び切りになってしまいました。  そんな時に、私の最初に雑誌に載った短篇小説を、褒めて下さって以来お近しく願っている評論家の川上信定先生から、 「以前から、漢文を習って、漢詩が読めるようになりたいと言っていただろう。新学期から大学に行かないか」  口を利いて下さる方がいらっしゃって、ある大学で私を聴講生にして下さるというのです。  私は、日本の控え目でシャイな昔の男たちが、手紙を書く時に限って使った候文の鮮烈な表現と、それに漢詩にしびれていました。  かねがねこのふたつを、機会があれば習って身に付けたいと思っていたので、川上信定先生のお話が、嬉しくて|堪《たま》りません。  私の祖父、安部正也は九十六歳まで生きたのですから、それまでには、私はまだ四十六年もあるのです。  受験生の皆さん、キャンパスで会いましょう。 [#改ページ]

 
好奇心が強すぎる私  私は子供の頃から、とても好奇心や知識欲が旺盛でした。  それが今でも尾を|曳《ひ》いていて、五十歳になったこの頃でも、何か不思議で|堪《たま》らないことがあったり、どうにも分らないことがあると、随分精力的に、原因を探り、研究や調査をするのです。  けど、よく考えてみると、自分でも人並みを少し超えている、と思うほどのこの特質が、いつもどうでもいいことに、発揮されていたということに気が付きました。  この好奇心と知識欲が、まともな方向に向けられていたら、今頃は、本物の医学博士の安部教授に、なっていたかもしれません。  私が中学に入ったのは、昭和二十五年でした。  男子生徒だけの中学だということは、受験する前から承知していた私なのに、入学して、同級生が皆自分と同じ男の子だったのを見ると、すっかり不機嫌になってしまったのです。  女の子がいないと、先生に告げ口をされる心配はないのですが、けど、知りたいことが急に沢山出来たというのに、これでは訊くことも調べることも、簡単には出来ません。  詰襟の制服を着た|痩《や》せて背の高い私は、「性に|目醒《めざ》める頃」だったのです。  こんな男ばっかりの中学に入るのなら、なんであの頃、もっとシッカリ診察をしておかなかったんだろうと、患者たちとそれに看護婦を思い出して、医学博士気取りだった私は、しきりと溜息をつきました。  小学校の頃は、クラスの半分は女の子だったので、私のまだ幼かった異性に対する興味は、完璧に満たされていました。  医学博士で大学病院の安部教授のつもりだった私は、一番気に入っていた女の子を、看護婦にしておいて、他の子は全部伝染病の患者と決めてしまうのです。  バレて|非道《ひど》く叱られたこともありましたが、子供の頃から簡単に懲りたりはしませんでした。  お医者さんごっこをやったと叱られると、次は病院ごっこ、その次は身体検査ごっこというように、同じことを、名前だけ変えて続けました。  シュバイツァー博士だって、決して困難には負けなかったと、私は思ったのですから、それから十年も経たないうちに、チンピラになってしまったのも、これは当り前かもしれません。  この資質を生かして、日本の政治家になっていれば、時流に乗って今頃は、大変だったとも思うのですが、それはさておき……。  冬は、冷たい隙間風が吹き込む、跳び箱や体操の道具が|納《しま》ってある部屋が、安部教授の診察室でした。  いろんな色の毛糸で編んだ|横縞《よこじま》のパンツを脱いで、寒いから早く……と、文句を言う患者を叱りつけながら、皆ひと通り診察して、投薬をすませてしまうと安部教授は、 「看護婦ッ、君にも伝染してしまった」  と叫んで、その子をとくに念入りに診察したのは、コレラに加えて、ペストまで感染している疑いが、濃厚だったからでした。  あれはたしか、小学三年生か四年生でしたが、このまま放っておくと、あの中に虫が湧いてしまう患者に、ドイツ製の特効薬「青木の実」を、試しに投薬してみたら、驚いたことに難なく入ったのです。  青木というのは、緑の厚い葉の常緑樹で、小指の先ほどの大きさの、艶のある赤や緑をした実がなるのですが、昔はどこの家の庭にも、この木が植えてありました。  診察を|了《お》えて安部教授が家に帰って、末っ子の直也になっていると、|猪《いのしし》が怒ったような母親がその患者を連れて、憤然とやって来たのです。  母にこっぴどく叱られた私ですが、母も具体的なことを口にするのは、その時代の女ですから、ためらわれたらしくて、ただ猛烈に、悪い子だ、こんなことでは先が思いやられると、怒りまくったものでした。  いつになく激しく叱られた私は、何カ月か休診したのですが、その間に、あんなに非道く怒られた原因を、青木の実の大きさだと思ったのです。  休診している間に、パラチフスと日本脳炎が猛威をふるっていたので、安部教授は、休診中に発見した新薬「八ツ手の実」を、これは青木の実より随分小さかったから、看護婦にまで入れてあげました。  美人薄命という言葉を、八歳年長の姉から、教えてもらったばかりだったし、この看護婦は、伝染病に感染し易い体質だったのです。  今の社会党の|頭《カシラ》に似ている女が、猛々しい顔をして家の玄関で吠えました。  後で聴いたら、あの可愛くて綺麗な看護婦の母だということでしたが、その時の私は、「あ、感染し易いのは、母親の遺伝ではない」と思ったほど、強そうで少しも美しくない女だったのです。  怒り狂った私の母は、一間差しという長い物差しで、くたびれるまで私の尻を叩きました。  もうシュバイツァーも、野口英世もありません。痛くて泣き叫んだ私は、こんな目に遭わされているのが、特効薬のサイズではないらしいことを、知ったのでした。  中学の同級生には勿論のこと、学校中を探しても、どこにも女の子なんていないので、仕方なく新入生の私たちは、集っては乏しい知識を交換し合ったり、想像をめぐらしたりしたのです。  高校に入ったら、ガール・フレンドに自分で作った花をあげるのだと、園芸部に入って、皆に呆れられた同級生が、 「女は、泳いでいる時やお風呂では、水が中に入っちゃうのかしら」  と言って首をかしげたら、 「クロールなら平気だけど、平泳ぎだと駄目だ。足のあおりで水がドンドン中に入っちまう」  まるで裁判官のように、断定した同級生は、今では弁護士になっています。 「そうさ、だからオリンピックでも、平泳ぎは二百メートルまでなのさ。それより長いと、女子選手は皆|溺《おぼ》れちゃう、というより沈んじゃうんだ。きっと……」  そんなことを、真面目な顔で言ったのは、私の一番仲良くしていた学者の|倅《せがれ》で、今は本物の医学博士です。  中学の同級生たちは、こんな程度から早ばやと抜け出すと、知識欲をもっと高度なところに向けたようなのですが、私は今もって、同じ次元をさまよっています。  私は二月になってからずっと、なぜ、この二月だけが、今年は二十九日で、他の年は二十八日と半端なのを、三十一日ある月から、一日ずつ削って三十日にしないのだろうと、そればかり考えているのです。どうぞ|誰方《どなた》か教えて下さい。 [#改ページ]

 
わたくし流プロ野球改造案  毎年この頃になると、私は落着かなくなってどうにもなりません。  同好の友人と出喰わすと、所構わず、「オイ、長島の倅さんが、規定打数に達して、二割五分打てるか打てないか」とか、「加藤初が六勝する方に賭けたいんだが」受けないか、なんてもちかけているのですから、これはこの段階で、もう賭博未遂罪なのでしょうか。  矢張り今年の広島は、まるで打てそうもないと思ったら、もうそれだけで、すっかり沈んだ顔になってしまって、家のチンコロ姐ちゃんに、何か食べ過ぎたかと、訊かれたりします。  そうかと思うと、仕事場にかかって来た電話で、 「桑田は十七勝するというのと、オール・スター・ゲームまでに、八勝するというのに賭けて年に二度大喜びをしたいんだが、君なら喜んで受けるだろう」  と、悪魔の挑戦を受けた私は、ウーンと|唸《うな》ったきりしばらく受話器を握ったまま、必死に考え勘を働かせても、年に二度ベソをかかせてやれそうもなくて、 「コラ、足を洗った男に、みだりに|博奕《ばくち》を誘いかけると、北朝鮮のスパイだとバレてしまうぞ。懲役刑でも罰金刑でもなくて、アミン式の宮刑だぞ」  と、意味不明のことを喚きたてて、煙に巻いて胡麻化したりしています。  老いたりとはいえ、元博奕打ちですから、巨人が嫌いというだけで、負けそうな方へ張ったりは出来ません。  こんな私たちの狂乱を見るたびに、師匠の山本夏彦は苦笑して、アメリカの欠陥選手ふたりの活躍次第で、優勝が左右されるのは「二流の愉しみ」である、と、おっしゃるのです。  日本人は、楽しみは一流でないと承知しないのに、なんで野球の好きなお前たちは……と、鼻に皺を寄せて、嬉しそうな顔でおっしゃられると、仕方がないから、「ジャズと一緒ですよ。『超一流のレコードより、二流の生演奏』っていうでしょう」  なんて私はうそぶくのですが、師匠が背を伸すようにして、オヤという顔をなさったのも道理で、実はそんな格言なんてありもしません。  私のオリジナルですから……。  師匠のおっしゃることは、いちおう置いておくとして、小学三年の頃から熱狂しているプロ野球のことですから、いろいろ言いたいことはあるのです。  お金を取って見せるプロ野球は、見に来た客を、素人には真似の出来ない凄いプレーと、思わずスタンドで首をすくめさせるほどの闘志を見せて、感動を与えてくれなければいけません。  私がプロ野球に求めているのは、最終的には感動なので、だから加藤初や西武の、それに何年か前にクビになった広島にいたアイルランドに、私はしびれたのです。  |矢鱈《やたら》と飛ぶボールを使って、狭い球場で、チョンと合わせて手首を利かすだけのホームランを、いくらポンポン打ち合っても、感動なんて生れようもありません。  思い切って、フル・スイングしなければ、スタンドに入らないぐらいの飛ばないボールに戻すことです。  せめて昭和三十八年のボールにすれば、日本のプロ野球は、力感も増すし小兵の技も冴えるのに違いありません。  とにかくコミッショナーにセンスがないから、駄目なのです。  たとえば外野手を免許制にすれば、プロ野球は確実に迫力を増します。  遠投九十メートル以上、百メートルを十二秒八以内、そしてライトは定位置の五メートル後ろから、サードヘ、ダイレクトかワン・バウンドで、三球のうち二球は野手のグラブに入れること。  センターとレフトは、それぞれ定位置の三メートルと、二メートル後ろから、ホームへ投げて三球のうち二球は、ベース上で構えているキャッチのミットに、入れなければ駄目です。  いずれもあまり山なりの送球は、届いても無効で、そのかわり一回だけ追試が出来るというのはどうでしょう。  開幕前と球宴の間の年に二回、この外野手ライセンスのテストをやって、合格しないと外野は守れません。  ライトはどこでも守れますが、センターは、他にはレフトしか守れず、レフトはレフトだけの限定免許です。  こうすれば、浅いレフト・フライで、三塁走者が悠々とホーム・インしたり、定位置から二塁にボールを返すのがやっとという、草野球以下の外野手はいなくなって、スリリングなプレーが増えるでしょう。  キャッチのライセンス制は、三年後から実施としないと、今すぐやるとほとんどのチームが、キャッチなしで試合をすることになって、これでは審判がストライキを始めるに違いありません。  個人記録を争い始めるシーズン末期になって、恥ずかしくて目をそむけるのが、打たせまいとして乱発する敬遠の四球です。  あんなスポーツ以前の浅ましいことを、毎年お客からお金を取るプロ野球の球場で、やっているのを平気でいるコミッショナーや、それに両リーグの会長と、各球団のオーナーや社長にも、ライセンス制が必要でしょう。むしろ外野手やキャッチのライセンスより、この方が先かもしれません。  毎シーズン、球宴を過ぎてからのストレートの四球は、二塁打扱いにしてしまうのです。  二塁と三塁の走者は、ホーム・インするので、二死で一塁が空いているといった場面でも、塁を埋めたり強打者や当り屋を嫌えませんから、ちょっと荒っぽいルールかもしれません。  けどそんなマイナスより、あのなんとも寒ざむとした場面を見せられるよりは、まだましなのです。  ボールを、異常に弾む今のから、ごく当り前のに換えるだけで、プロ野球は確実に魅力を取り戻します。  ホームラン・ヒッターは、中西や青田、それにホーナーのしたように、空振りしてもスタンドから嘆声の沸くような、力感に満ちたフル・スイングで、打球を外野席にぶち込むでしょう。  非力な打者は、飛ぶボールの時の色気を捨てると、シャープなスイングに徹して、技とスピードにすべてを賭けるようになります。  ファンを唸らせる好走塁や、必死のプレーが多くなって、一点が今よりずっと値打が出るので、見事で確実な「これがプロだ」という守りの妙技も、今よりずっと増えるでしょう。  この辺で、磨き抜かれた技術と体力が、激しい闘志でぶつかり合う本来の姿に戻らないと、私の愛したプロ野球は、もう本当に危ないのです。  私の息子の学校では、サッカーは四軍まで編成出来るのに、野球はメンバーが揃わない現実を、コミッショナーやプロ野球の首脳は御存知でしょうか。  渋谷のタネ馬と呼ばれた私も、今では髪も脱け落ちて、歯も駄目になり、老眼鏡も手放せません。プロ野球もそうなったら、もうこの世の終りです。 [#改ページ]

 
野球と映画が輝いていた時  小学二年の夏に戦争が終ったので、喰べる物は薩摩芋ばかりでしたが、凄い楽しみが増えました。  野球と、そして映画です。  なにしろ今の豊かな日本からは、想像もつかないほど、衣食住のすべてが|逼迫《ひつぱく》していた時代です。  野球の道具も、小学校のクラスで、親から新しいのを買ってもらえるのは、ほんの数人でしたから、クラス対抗の試合になると、グラブを貸し合わなければならなかったのです。  今でも覚えているのですが、私がチャンスで打ったバットがしなって、ボールが銀色の糸を|曳《ひ》いたようなライナーを、ショートのチビが素晴らしいジャンプで、私のグラブで捕っちゃいました。  丹念にオイルを塗って、中のアンコも捕り易いように型を整え、全体のバランスをとるために、指先には小さな袋に砂を詰めたのが入れてあったという特製のグラブです。  このグラブも新品ではなくて、母方の伯母様の家で、納戸の中でカビだらけになってひしゃげていたのを、いただいて来た戦前の品でした。 「畜生ーッ。ショートになんか貸すんじゃなかった。なんでセカンドにしなかったんだろう」  と、その頃からプル・ヒッターで、セカンド・ベースより右には、打ったことがない、なんて馬鹿な自慢をしていた頃の私ですから、試合が終ってからも、こんなことをクチュクチュ言っていたのです。  野球は、こうして道具のやりくりをして、なんとか楽しめたのですが、映画はそうもいきません。  戦争が終って、最初に見た映画は、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」だったと思うのですが、とにかく四十年以上も前の記憶なので、もしかすると「|アメリカ交響楽《ラプソデイー・イン・ブルー》」だったかもしれません。  とにかく幼い私はアメリカ映画にしびれてしまいました。  街の映画館にかかった映画は、なんでも片っ端から見たのです。 「追憶」「恋の十日間」「鉄腕ジム」「最後の地獄船」「荒野の決闘」「旋風大尉」、そして「駅馬車」に「大平原」と、思い出せばキリがありません。  名作と言われたビビアン・リーとロバート・テイラーの「哀愁」を見ても、なんといっても小学生ですから、何も分らなかったのですが、中学生の終りになって、もう一度見て、どうにも合点がいきませんでした。  戦争中のロンドンで、恋人のロバート・テイラーが戦死したと聴いて、すっかり気を落としてしまったビビアン・リーは、友達に誘われてコール・ガールになってしまいます。  けど、生きて帰って来た恋人と、ビビアン・リーは倖せな結婚をするのです。ところが、不運にも昔の客に出喰わしてしまって、絶望してウォータールーの陸橋で、トラックに身を投げてしまうのです。 「馬鹿だなあ、『自分じゃないわ、良く似た女でしょう』って、なぜとぼけられないんだ」  そんな性根もすえないで、よく嫁にいけたものだと、当時既に充分ゴロツキ思想を持っていた私は、映画館の闇の中でしきりと思ったものでした。  こんな毎日でしたが、父親がシンガポールで抑留されていて、帰って来ても、戦争で商売道具の船を、ほとんど全部沈められてしまった船会社の勤め人ですから、暮らしが楽なわけがありません。母親の苦しいやりくりを見ていると、いくら幼かった私でも、そうそうは映画代なんてねだれませんでした。  だから、今から思うと、「まあ、なんてことをやったんだろう」と呆れてしまうのですが、ふたつ秘術を編み出して、ただで映画を見ていたのは、あの頃既に絵図師の才が芽を出していたのでしょうか……。  その頃は、なんといっても暇でしたから、顔見知りの子が、映画を見にやって来るまで、映画館の前でメンコかなんかやりながらジッと待つのです。  そして|掴《つか》まえると、ちょっと怖い顔をしたりして、切符を買って中に入ったその子に、映画館の非常口のカンヌキを、外してもらうのですが、この手口は、何人でも入れる革命的なものでした。  どこの映画館でも、非常口のある所は隣りとの壁の間の湿った露路だったり、雑草の生い繁った、ジュースの空壜の入っている木箱や、壊れた椅子が転がっている裏庭です。  いくら待っても、知った顔がやって来なければ、仕方がないから個人プレーに切り替えます。  映画が終って、お客がドッと出て来た時を狙って、人波を逆に|遡 《さかのぼ》ると、まんまと映画館の中に入ってしまうのでした。  トリック・プレーをやる時には、充分研究しなければ、失敗すると野球でも映画館でも、これは目も当てられません。  どっとお客が出て来た時に、アメラグのディフェンスのタックルのような、頭からの突進では駄目で、お客と同じように入口に背を向けて、後ろ向きに人波を割って行くのです。  それも、心理的についモギリの反対側に、寄ってしまうのですが、ここはたいていその映画館の支配人の守備位置なので、逆にモギリの側に寄るようにしなければ、やるたびに成功するというわけには、とてもいきません。  子供の頃の恥を、いろいろ書いてしまいましたが、謝ろうにも私がそんなことをやった映画館は、今ではひとつもないのです。 「見逃していただいたおかげで、あの頃外国映画を見たことが、いろんな意味で私の素養になっています。どうも御迷惑をかけました。どうもすみませんでした。そして、有難うございました」  と、せめてそんな映画館の関係者に、お詫びと御礼を申し上げたいのです。  私に限らず私たちの世代は、外国映画からいろんな物を感じ取ったので、受けた影響も大きいし、覚えたことも沢山あります。  たとえば英語は、その最初のステップを、映画と歌で身につけました。  だから私たちの年代のオッサンには、たまにスタンダード・ナンバーを、正確に英語の歌詞で|唱《うた》って、若い方たちをのけぞらすのがいるのです。  映画にしても、同じのを五回だって六回だって飽きずに見るのですから、英語の|台詞《せりふ》を、自然に覚えてしまうのでした。  私がこの頃よく使う『ヤクザはやめても、女になった覚えはねえ』というのや、それに『ウン、そう聴けば、|いちいち思い当る《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……』という言葉は、実は私のオリジナルではなくて、それぞれ「汚れた顔の天使」と「栄光の都」の台詞の意訳なのだと種あかしをすると、呆れられてしまうでしょうか……。 [#改ページ]

 
バンクで流した涙  あれは芹沢博文さんが、お亡くなりになるほんのひと月ほど前のことでした。  川崎の家のすぐ前に建っているアパートに、私の仕事部屋があるのですが、そこに電話をかけていらした芹沢さんは、 「直ちゃん、すぐ来れば第七レースに間に合うぜ。早くおいでよ」  と、おっしゃったので、どこにおいでなのかとうかがったら、 「川崎競輪さ、だから貴君を誘ったんだ。アハハハハ、地元だろう」  芹沢さんは、男ばかりだから髭なんか剃らずに、すぐ飛んで来いよとおっしゃって、「詰将棋と競輪場へ行くのは、なんでも早い方がいいんだ」と、楽しそうに、お笑いになりました。  私が作家になってから、お知り合いになった芹沢さんとそのグループの方たちは、皆さん私の前歴を気にかけたりはなさらずに、知らぬ顔をして下さるのです。  あからさまに眉をひそめられたり、いびられたりする場面も、これは足を洗うと決めた時に、覚悟したことでした。  それなのに、予期していなかったほどの爽やかさで、仲良くしていただくと、私ももう五十歳ですから、相手の方の優しいお心遣いを知って、なんとも言えないほど有難く思うのです。  そんな時に、 「私の|非道《ひど》い過去を知らぬ顔で、仲良くして下さる貴方のお心遣いを、心から有難く存じております」  なんて、そんなことを申し上げたら、相手の方がさりげなく自然になさって下さっている御厚意が、その瞬間にとても野暮ったくて、|垢《あか》抜けないものになってしまうと、私は思うのです。  その芹沢さんが誘って下さった時も、私は毎度のことながら締切りに追われて、寝不足で目が自然と閉じそうになるのを、ゴムの入ったヘア・バンドで頭を縛り、無理に|目蓋《まぶた》を上に引っ張りあげている非道い姿で、仕事をしていました。 「折角誘っていただいたのに、どうしても今日は参れません。|くすぶって《ヽヽヽヽヽ》いた間は、金がなくて行けず、こうして印税が入り出すと、こんどは仕事に追われて時間がなくて出来ないというんです」  博奕が好きだから、博奕打ちになってしまったような私なのに、うめくようにそういうと、芹沢さんは 「これはバチだな。きっと貴君は、こんな目に遭わされるほどの、余程非道いことをしたのに違いない。仕事地獄に落とされて、好きなことが何も出来ないのだから、バチだよ」  芹沢さんは、そんな非道いことを、けどとても朗らかにおっしゃると、ガハハと笑って、電話をお切りになったのです。  考えてみると、昭和五十年の正月に、京王閣競輪に行って以来、競輪をやっていないのに気がついて、私は驚くより|茫然《ぼうぜん》としてしまいました。  競輪の面白さは、詳しく御説明するのには紙数がとても足りませんが、公営ギャンブルでは競輪が博奕打ち好きを魅了する魔力を秘めているのです。  もうこの分では、一生競輪には行けないかもしれないなんて、私が暗い顔をしていたら、立川競輪場から日本選手権競輪の招待状を、いただきました。  私の家から立川競輪場は、近くの溝ノ口から南武線で、乗換なしという便利の良さでした。  競輪場に着いた私は、立派なスタンドや近代化された車券売場を見て、その変わり様に驚いたのです。  三階の特別席には、芹沢博文ゆかりの面々が、十人以上も先にいらしていて、私を見ると口々に、珍しいのが来たぜ、と鼻に皺を寄せて嬉しそうに言いました。 「十三年ぶりの競輪だから、初めての刑務所にでも|落ちた《ヽヽヽ》みたいだな」  と私が答えたら、浦島太郎の博奕打ちだなと言った方がいて、皆歯を見せて笑ったのですが、このグループの方たちは、日本では珍しいほど陽気で根アカな方が揃っているのです。  第二レースから車券を買い始めた私は、第六レースで初めて千三百七十円の配当を取りました。  私は競馬でも競輪でも、馬券や車券の種類をしぼりにしぼるので、一日に一レース当れば、ほぼ損はありません。  それに本命は買わずに、好配当の穴を狙うのですから、当り出せば大変です。  第九レースでは、八千八百円もつく四─五を一番沢山買って、四の一着からもう二点万車券を狙ったのに、なんと五─四と裏目で決ると七千八百円もの配当でしたから、私はもうほとんど半狂乱にされてしまいました。  第十レースも車券ははずれて、ついに最終の第十一レースになったのです。  もう泣いても笑っても、これが今日最後の勝負なので、私は車券を売る「穴場」と呼ぶ窓口の横に立って、慎重に予想を組み立てていました。 「安部さん、俺、あんたの本読んでるよ。テレビも見てる。ところで何を狙うのさ、一番の地元選手かい」  皮ジャンを着て、陽焼けの染みたいかつい面構えの中年男は、そう言うと私の予想新聞を|覗《のぞ》き込んだのですが、それを見てトッポイあんちゃんも、 「一番が初日に凡走したのは、身体の具合じゃなくて、仕掛けるタイミングの失敗だから、今日はまず大丈夫。情報だよ」  と声をひそめて教えてくれたのですが、情報というのは、特別の信頼出来るということで、それを他人の私に教えてくれるのですから、有難い厚意でした。  肩を振りながら、|雪駄《せつた》を鳴らしてやって来た坊主刈りの男は、見た顔でしたが、 「アレ、安部先生も競輪なんてやるの」  と、口を開け放して、呆れたポーズをして見せました。  最終レースで、私は一─二を一番沢山買って勝負すると、一─三と一─六をその半分ほど買ったのですが、レースは一─二─六の順でゴール・インして、九百五十円もつきました。  過労と寝不足で上手く言葉を思い出せず、舌もまわらないというのに、しばらくは自慢|噺《ばなし》で周囲をウンザリさせた私が行った頃には、もう払戻し窓口に長い行列が出来ていたのです。  行列の尻に並ぶと、小一時間はかかりそうで、ハタと立ちすくんでいたら、行列の中の背の高いハンサムが、ニコッと笑うと右手を差し出してくれました。  あの演出家の伊集院静さんが、行列の前の方に並んでいて、私の当り券も一緒に現金にして下さったのです。  私に好意をもって下さっている方たちに、取り囲まれるようにして、生きていける自分を、しかしなんと倖せな男だと思うたびに、仕事地獄はそのままなのでこれはなんの御褒美なのかと私は首を|捻《ひね》るのでした。 [#改ページ]

 
ペテンにかけられた話  あれはたしか、昭和三十年のことでした。  渋谷の街でチンピラをしていた私のところに、かかって来た電話は、神奈川県警逗子警察署の捜査丸暴ナントカ刑事、と抑揚のない無愛想な声で言ったので、聴いていた私はニタリとしたのです。  朝っぱらから、誰かふざけているのだろう、と思ったからですが、 「お前は、安部直也か……」  続けてそう訊いた声なんて、誰だか知らないけど、声優以上の素晴らしさで、 「ハテ、こんな芸の細かなふざけ方をするのは、誰だろう」  なんて、まだ私は、しきりと心当りのある悪童連中を、ひとりずつ思い出しながら、誰の仕業か考えていました。  誰が本物なんて思うものですか。 「たしかに俺は、渋谷安藤組の若いもんで、アベナオってんだけど、どこの誰だが知らねえが、|売り出し《ヽヽヽヽ》の兄イを呼び捨てたあ、いい度胸じゃねえか」  効果音に、指をポキポキ、受話器を顎と肩で挟むと、聴かせてやったのですが、相手も一筋縄ではいかない芸達者で、 「どこの誰だか教えてやる。逗子警察署のナントカ刑事だ。二度言うと風邪をひくというから、そうなったらテメエのせいだぞ」  なんて言うのですから、こんな|洒落《しやれ》た言葉のやりとりが出来る刑事なんて、昭和三十年には、そう滅多にはいませんでした。  いまでこそ所轄の警察署の|刑事部屋《デカベヤ》には、「これが刑事か……こんなのが俺たちの時代にいたら、ひとたまりもなかったぜ」と、思わず首をすくめるような、どこから見ても遊び人という刑事が、必ずいます。  けど、まだあの頃の刑事といったら、本当に垢抜けなくて、どこにまぎれようとしても、その野暮ったさで、堅気にもすぐ分ってしまうような、そんなのばかりでした。  靴だって黒の官給品で、コートの|裾《すそ》からは、制服の紺のズボンが出ています。  こんな私服に、あえなく御用を喰らうようでは、生き馬の目をバタ・ソテーにしようという、東京の盛り場で、|男を売る稼業《ヽヽヽヽヽヽ》なんて、とてもやってはいられません。 「おう、アベナオ、なんでもいいからよ、渡さなきゃなんないもんがあるから、ハンコ持って署に来いや。いつ来れる」  私が、逗子なんて、そんな草深くて磯臭いところには、夏ぐらいしか行かないもんだと、吠えたら、相手はちょっと気色ばんだのですが、本物の刑事だなんて最初から思ってはいない私なので、驚きも怖れもしなかったのです。  受話器の向うのナントカ刑事は、電話番号を言うと、これが逗子警察署の番号だから、嘘や冗談だと思っているなら掛けてこい、すぐにだぞ、と無愛想な声で言いました。  妙な電話にいぶかる一緒に寝そべっていた女学生に、私も首をかしげて見せながら、教えられた番号に、それでもすぐ掛けてみると、「ハイ、逗子警察署」と胴間声が聴こえたので、「ア、こいつら随分と芸が細かい」と思った私は、ゲラゲラ笑い出して、 「分った。分ったから、もう止めにすんべい、この遊びは……。誰なんだ、番号は確かに逗子なんだから……なんだい、今晩博奕なのかい」  その時の私の頭の中は、忙しく逗子に葉山、それに鎌倉や横須賀の、少年ギャングたちの顔がフラッシュして、この凝ったいたずらの主を、探していたのです。 「ナニイ、博奕だあ」  電話番をしていたこの巡査は、途端に随分と険悪な声を張りあげたので、これは冗談にしては念が入り過ぎていると、もう昼頃なのに布団に寝そべって電話していた私の背中から尻にかけて、不吉な予感がピクピクと走ったのです。  ようやく電話番の若い巡査を、まるめ込んで、捜査丸暴につないでもらった私は、その頃になると、もうこれは友達のいたずらではなくて、本物の警察だと分っていました。  こうなると、もうそんな若さでもそれまでに、警察には散々な目に遭わされていた私ですから、顔と声は、引き|攣《つ》っていたのに違いありません。  電話に出たナントカ刑事は、さっきと同じ声でしたから、もうこれはいたずらなんかではなくて、大変なことです。  とにかく丸暴はマングースで、私たちチンピラは、街のハブのような関係ですから、しばらく必死に闘っても、せいぜいが善戦するのが精一杯でした。  見付けられたり狙われたりしたら、もう最後で、こうなれば少年院や少年刑務所の様子が、チンピラの頭の中でフラッシュどころか、ストップ・モーションになってしまいます。 「世話を焼かせるな、渡すもんがあるから取りに来いと言ってるんだ。ハンコ持って来いよ。いつ来れるんだ」  ナントカ刑事は、同じことをさりげなくまた言いました。  警察で、俺にくれるものって……心当りがまるでなかった私は、くぐもった|怪訝《けげん》な声を出すと、刑事はとても爽やかな声で言ったのです。 「警察でも|身体を取る《ヽヽヽヽヽ》ばかりじゃなくて、タマにはお前にも、やんなくちゃいけないさ。ハンコは認めでいいそうだ。それじゃ明日の三時な。俺もいるようにするよ」  ハテ、誰か子分のチンピラが、逗子で財布でも拾って、届けたことでもあったのだろうかと、そんなことまで思ったのです。  ピンクのシャツに黒無地の細いタイを結んで、クリーム色のフラノのスーツを着て、黒のコードバンの靴を履いた私は、ハンコ屋で三文判を買うと、渋谷の駅から国電で品川に行き、横須賀線に乗換えました。  まだ昭和三十年といえば、チンピラのモーターリゼイションは、発達していなかったのです。  何をくれるのかと訊いた私に、楽しみにしていろ、結構な物だと答えた刑事の言葉が、窓の外の神奈川県の景色にダブりました。  逗子署の丸暴の部屋に行くと、背の高い三十|搦《がら》みの刑事が待っていて、私に紙を見せたのですが、なんと逮捕状でしたから、私は跳びあがってしまったのです。 「ペテンにかけやがって、ハンコなんて要らねえじゃねえか、この|刑事《デコスケ》め」  私が|怒鳴《ウナ》ると、刑事はニヤッと笑って、これから私をぶち込む留置場の貴重品預り証を出したのですが、この預り証には留置される当人のハンコが要る規則でした。  なんと経費のかからない、鮮やかな仕事をなさった刑事だった、と毎年エイプリル・フールの頃になると、私は必ず思い出して苦笑するのです。  三十年経って神奈川県民になった私は、この伝統が低額の地方税になっているのを、密かに期待していたのですが……。 [#改ページ]

 
ノルのが好きです  国鉄が民営化されて、もう一年経ったと聴くと、 「ヘエ、もうそんなにね……」  と私は思うのですが、これは最近何を聴いても、そう感じてしまうので、国鉄の民営化に限ったことではありません。  たとえば、シンボリルドルフが引退してからでも、グリコの社長がお風呂に入っているところを襲われてからでも同じで、あれからもう何年だと聴かされると、もうそんなになるのか、と思うのですが、これはなぜでしょう。  若かった頃も、同じように感じたのでしょうか、それとも、もう五十歳になって、人生の残り時間の少なさを、私が意識し始めたからなのでしょうか。  こんど心理学を御存知の方にお目にかかったら、うかがってみようと思うのですが、それはさておき……。  思い出してみると、私はこの歳までに、そう滅多にはいないほど、いろんな乗物で永い距離の旅をしています。  昭和十三年の初めには、生れるとすぐ、母に抱かれると、その当時の欧州航路の花形客船だった伏見丸で、はるばる父の任地のロンドンまで行きました。  神戸からシンガポールを越えて、インド洋を横切り、アラビアのスエズ運河を通ると、地中海を通り抜け、やっと英国に着くのですから、これは大航海です。  そして満五歳の時には、住んでいたイタリアのローマから、ドイツのベルリンに行って、そこから汽車でソヴィエトを横断すると、日本へ帰ったのですが、このシベリヤ鉄道の旅も、戦争の危機におびえながらの大旅行でした。  十五歳になった私は、昭和二十七年にプロペラの旅客機に乗って、羽田からローマ、そしてロンドンへと、いったい何十時間かかったのでしょう。  そして二年経つと、こんども|往《ゆ》きと同じ独り旅で、ハンブルク港から貨物船に乗って、赤ん坊の頃とは逆に、ヨーロッパから神戸までの永い船旅を、私は心配もせず嬉々としていたのです。  二十三歳から二十七歳までの四年間は、私は日本航空の客室乗務員に潜り込むと、世界中をあちこち飛びまわる楽しみを、ついに仕事にしてしまったのでした。  この自分の楽しみを、まんまと仕事にしてしまった時に、私は自分が人並みはずれた乗物好きなのを、自覚したのです  どうやら生れつきの私の放浪癖も、ただ歩くのではなく、何か乗物に乗らなければ満たされません。  だから放浪癖と乗物好きとの間には、切っても切れない関係があるのです。  今でも旅と乗物が大好きな私は、地方や外国にはイソイソと出掛けて、どんな苛酷な日程でも泣いたりしません。  汽車に乗れば、日本の駅弁の量の少なさを、毎度喰べるごとに、 「こんなもんひとつで、どこのモデルさんが、おなか一杯になるというんだい」  と毒づきながらも、ふたつ喰べて上機嫌ですし、飛行機に乗ると、ショックの少ない着陸をすれば、ひとりでパチパチ拍手をして、嬉しそうにしています。  この頃は、ベッドにシャワーやトイレもついた車を手に入れて、自分で運転して日本をまわり、紀行文を書きたいと、そんなことを真剣に考えているのですから、これはもう生れついての|旅烏《たびがらす》なのかもしれません。  汽車に乗ると、なぜか食欲が湧いて来て、なんでもよく喰べるのですが、イタリアの駅弁は絶品でした。  紙箱の中に、ロースト・チキンが片足と、それに油でこんがり表面が濃茶になるほど揚げた、タドンぐらいの大きさのおむすびがふたつ入っていて、この中にはトマト味のミート・ソースが、封じこめてあります。  それに赤ワインの小壜と、何か果物がひとつ入って、他にはゴーゴンゾラというイタリアのブルー・チーズが、銀紙に包んでひとかけら、隅に入っていました。  そのミート・ソースの入っている揚げおむすびは、自分でやると、なぜか油の中で破裂してしまって、うまく出来ないのですが、何か秘法があるのに違いありません。  食堂車にも思い出は沢山あります。  英国のスコットランドからロンドンまで、たしかゴールデン・アローという名前の急行に乗って、|兎《うさぎ》の煮込みを喰べていたのは、まだ英国で牛肉が配給制だった頃の一九五三年でした。  生意気盛りの私が、独りで悠々と喰べていたら、ふと見た線路際の野原に、巨きな茶色の野生の兎がいたのです。  年輩のいかめしい食堂車のウェイターに、 「おい見ろよ、|兎 《ラビツト》だぜ。喰ってたら出たんだから、リタ・ヘイワースのブロマイドも喰ってみようか。本物が現われるかもしれないぜ」  と、気の利いた冗談を言ったつもりで、鼻を得意げにうごめかした私が、きっと可愛くなかったのでしょう。  笑いもせずに顔を能面のようにしたそのウェイターの爺様に、 「ノー・サー、あれは|飼い兎《ラビツト》ではなくて、|野生兎《ヘアー》であります」  と、ニベもなく頑張られて、参って白けてしまったのも、今になってみれば、若くて生意気だった私の懐しくも|塩っぱい《ヽヽヽヽ》場面です。  昭和三十一年の初夏、私は男を売る稼業を夢みていた威勢のいい盛りでした。西海という急行の車中で、酒を喰らった三人のゴロツキが、乗客に|のたくり《ヽヽヽヽ》、|いたぶって《ヽヽヽヽヽ》いるのを見ると、ためらわず向かっていったのです。三人ともやっつけて、静岡で叩き出したまではよかったのですが、自分も左腕を|非道《ひど》く骨折してしまいました。  そんな私と、その急行の食堂車でウェイトレスをしていたトシちゃんは、知り合うとたちまち恋に落ちたのです。同い歳でしたから、今ではあの方も五十歳におなりのはずですが、三十年以上も前のその頃は、えくぼのかわいい、採れたての輝いているサクランボのような、美しくてチャーミングな娘でした。  折れた腕をギプスで固めて、夏なのに身体も洗えず、垢まみれの私を、トシちゃんは綺麗に拭くと、患者に恋した看護婦のように、私の望んだことは恥ずかしさに耐えて、なんでもしてくれたのです。  そして私が堅気になったら、小さくても一軒家に住んで、隣りや二階に気兼ねせずに、思い切り喜びたいと言っていたトシちゃんでしたが……。  根がとても真面目だったトシちゃんは、チンピラを|廃《や》めなかった私が、事件を起こして逮捕されると、絶望してしまいました。  私が足を洗おうと決めたのは、それから二十年以上も経った昭和五十二年で、財産も家族もすべて失くした塀の中です。  その頃の日記に、当時のベスト・セラー『鉄道大バザール』を読んだ私は、「旅に出れば、このくらいは俺でも書ける」と、必死にうそぶいていたのですが、旅と乗物に憧れた私の人生は、駅弁や名物を喰べながら、懲りずにまだまだ続きそうです。 [#改ページ]

 
涙のメモリー  疲れがたまって、くたびれ切った身体に、おでんと一緒に四合足らずの日本酒を流し込んだら、私はもう、歩いてホテルまで帰るのが、辛くて嫌になるほど、酔っ払ってしまいました。  テレビに出るのと、それに今度直木賞をお取りになった阿部牧郎先生に、対談をお願いしたので、大阪にやって来た私です。  お若い頃は硬球で、そして今でも軟式の野球を楽しんでいらっしゃる阿部牧郎先生は、とても気さくで、なんでも話して下さいました。  先輩に、こんなにしていただくと、新米としては、なんとも言えないほど、嬉しいものです。  そして大阪で予定していた最後の仕事だったテレビの生放送が終ったのは、夜中の一時でした。  もう翌日の朝、新幹線に乗れば、それでいいということになったので、気の張る作家の先輩との対談も、なんとかうまく|了《お》えた私は、本当にホッとすると、寝酒を呑もうと思って、新地に出掛けたのです。  無事に終った大阪での仕事と、新米の私を相手に、終始朗らかに優しく語って下さった阿部牧郎先生を思いながら、酔った私は、まだ人通りの絶えない新地の中を、ホテルに向かって歩いていました。  その時、一瞬ですが、確かに鎌倉お春を、見たのです。 「あ、お春」  と声を出した私は、角を曲って姿を消した女を追って急いで行くと、露路を見渡しました。とにかく酔いがまわっていたので、フラリフラリと、時間がかかったのでしょう。  もうお春の、昭和三十五年当時のままだった金髪の頭は、その露路の街燈の下には見当りませんでした。  私は、本当にお春を見たのかと、細い通りの交叉した真ん中で、日本酒の染みた髪の脱けた頭を、しきりと振って考えたのです。  見た瞬間は、なぜかもう三十年も会っていないのに、お春だと疑いもなく思ったのですが、そうして考えると、アヤフヤになったので、すっかり自分が嫌になった私でした。  恥の多い永い年月を過ごした後で、自分でも信じられないほどの幸運と、恩人に恵まれて、作家になれた私です。  心の中で、私はこの鎌倉お春に限らず、一緒にこの幸運を|掴《つか》むことの出来なかった人たちのことが、いつでも気になっているのに、違いありませんでした。  私がお春と初めて会ったのは、昭和三十年のことです。  私はまだ十八歳の荒れ狂っていたチンピラで、逗子の小さなバーで働いていたお春は、私よりふたつ歳下でしたから、きっとその店のママに、嘘をついていたのに違いありません。  思い出すと自分でも、身の毛のよだつほどだったその頃の私にひっかけられたお春は、チンピラの女ですから、髪も金髪に染めてしまいました。  若い娘は、良くも悪くも男次第で変わるものです。  私の子分をひとりお供に連れて、拘置所に面会に来たお春が、すぐ後ろにいた私の母親を知らずに、係官に関係を訊かれると、 「安部の内妻です」  と答えたのを聴いて、続けて面会した母は、あの金髪の物凄いのが、内妻なのかと、仰天して私に訊いたものです。  私を愛したお春の様子に、チンピラの私はすっかり安心して、勝手放題を続けました。  地方に腕貸しに行っては、その土地の娘と仲良くなって、鎌倉の友人のバーに預けてあるお春を、待たせっ放しにするのです。思い出すたびに、自分のことながらウンザリとしてしまうような私でした。  どんな仕打ちをしても、私を愛しているお春は、いつまでも我慢すると、たかをくくっていた私です。  昭和三十五年の秋に、私は思い立って鎌倉に出掛けて行くと、お春に向かって、 「永く待たせたけど、一緒になって籍を入れてやるぜ」  と言ったのですが、これもそれまで一緒にいた女と、事情があって別れたからで、永く|塩っぱい《ヽヽヽヽ》思いをさせたお春に、この際義理を返してやろうと思ったのです。  お春は、顔を赤くしてうるんだ目で、ジッと私を見詰めると、 「お願いだから、丸一日だけ考えさせてちょうだい」  と言ったのは、思いあがっていた私には意外でした。  そして、その晩逗子のなぎさホテルに一緒に泊ったお春は、翌日私を駅まで送って来ると、 「言ってくれたのは、とても嬉しいの……。けど、あたし止めておくわ」  鼻白んだ私に、お春は、涙をポロポロこぼしながら、ハタチ過ぎて考えが変わって、どうしてもゴロツキの女房にはなりたくないのだと言って、 「だからって、堅気になってくれる貴方でもないでしょ。愛しているから死にたいほどよ」  と、マスカラが融けて、顔がパンダのようになるほど、駅の前で泣いたのです。二十三歳の私はなんと嫌な奴だったことかと、身震いがするのですが、そんなお春の哀しい心を思うよりも、私は、他人の目を気にしていたのです。  なら、好きにしろ、と私は言い捨てると、横須賀線に乗って、それでお春との縁は切れてしまいました。  あれは昭和四十五年頃だったと思いますが、私の親分だった安藤昇さんは、パッタリ会った私に、 「銀座のクラブで呑んでたら、年増の一杯機嫌のホステスに『貴方の子分だったアベナオに、あたしは十六の時に女にされたのよ。親分さんどうしてくれる』と絡まれたのには、本気じゃなくて、からかい半分なのは分っても、参ったぞ、この野郎」  と|叱言《こごと》を言われて、その年増の様子を訊くと、間違いなくお春だったのが、最後に聴いた消息です。  前刑を了えたのが昭和五十四年で、それからも私は、湘南地方の古い友人に会うたびに、鎌倉のお春のことを訊くのですが、誰も知る者がいません。  そのうちにきっと私の心の中に、無意識ですが、これだけ訊いて分らないのだから、どこか知る者のいない地方へ、嫁にいったのだろうとか、そんな考えが湧いて、こびりついていたのでしょう。  本物の鎌倉お春だったのか、それとも酔った私が、心の底からひっぱり出した幻だったのか、分りようもありません。  けど、ひとつだけハッキリと思い知るのは、自信満々だった二十三歳の私は、その時はお春の心を認めようともしないどころか、考えもしなかったのです。  私は、あの時逗子の駅前で、お春に|手非道《てひど》くふられたのです。  泣きながらお春は、ヤクザな私を、思い切ったのでした。  大事なものを失ってみないと、わからないのはなんという阿呆でしょう。 [#改ページ]

 
万里の長城にタマげた  午後四時に北京空港を出発するJALで、私たちは帰国する予定になっていたのですが、その日の朝の九時半に、荷物を全部持って北京飯店を出ると、万里の長城を見に出掛けたのです。  カメラマンの柴田三雄さんは、とてもダイナミックで親切な方でした。  まだ万里の長城を見たことがないどころか、中国が初めてという私と、それにフジテレビ系のテレワークの古賀さんを連れて、一緒に行って下さったのです。  これまで旅行者が、万里の長城を見物するといえば、|八達嶺《バーターリン》というところからだったのに、柴田三雄さんは、とても情報の早い方なので、私たちを|慕田峪《ムーテイエン》というロープウェイのあるところへ案内して下さいました。  北京から片側二車線の自動車道路を、一時間と少し走ったところなのです。  少し減量に成功したとはいえ、まだ九十六キロもある私ですから、高い山の尾根に沿ってあると聴いている万里の長城を見物するのには、ロープウェイがあるのにこしたことはありません。  旧型のセドリックを、ごく慎重に走らせるタクシー運転手の若い中国人は、珍しいことに、|可成《かなり》内容のあることを、相手に分らせることが出来る片ことの英語を喋りました。  これはフジテレビの仕事で、四日間いた北京では、随分と恵まれた事態だったと、言わなければなりません。  泊っていた北京飯店は、超一流のホテルでしたから、ともかくとして、一歩外に出たら、通訳の方なしではまったくのチンプンカンプンで、私は得意の身ぶりと手ぶり、それに筆談と漫画を描くよりありませんでした。  英語は勿論、日本語もほとんどの北京市民は駄目ですし、私は、北京語はフランス語よりも、まだ下手糞で……というより、むしろまるで出来ないのです。  北京飯店の前にいたその若い中国人の運転手は、案内して下さった柴田さんが、 「もう十五年ほどして、北京に来ると、このアンちゃんは、小さなタクシー会社の|親爺《おやじ》にでもなっているかもね」  と、おっしゃって、私たちがしきりと賛成したほど、一所懸命古いセドリックを運転し、英語を喋ったのでした。  ロープウェイの駅に着いた私は、険しい山のはるか頂上に、澄んだ大陸の初夏の陽差しに照らされて、クッキリと見えた万里の長城を、仰ぎ見た途端に度肝を抜かれる思いがしたのです。  その遠目にも、厳然と見えた長くて高い城壁は、険しい連山の尾根に沿って、どこまでも連なっていました。 「グエーッ、俺が北京に攻め込もうと思って、ここまでやって来た蛮族の親分でも、これは、見ただけで兵をまとめて引き返すほどのもんだよ」  私は、はるか下のロープウェイの駅から、万里の長城を仰ぎ見て、こんなことを|呻《うめ》くように言ったのでした。  本当に、そびえ立った山の上にあるあの城壁から、たとえパチンコの玉でも、ふたつみっつぶつけられれば、いかな私でも駄目だと思えたのです。  生きてふたたび、川崎のいとしいチンコロ姐ちゃんに、お目にかかれるとも思えません。  男というものは、その時の私のように、自分の極限の状態を想った時、本当に|愛《いと》しい女が分るのではないでしょうか。と、そんなのろけたことはさておき……。  連れて行って下さったカメラマンの柴田さんは、陽に焼けて|逞《たくま》しいバスケット・ボールの半ズボンを|穿《は》いた強そうな男です。  テレビマンの古賀さんは、鋭くてスリムな百八十センチもあろうかという、|フランス暗黒街映画《フイルム・ノワール》の俳優のような男でした。  そして九十六キロで、頭のテッペンの髪を失った私という可成異様な日本の中年男の三人組です。  八達嶺には、日本人の観光客が群れていると聴きましたが、ロープウェイのある慕田峪は、中国政府が外人観光客のために開発したばかりの場所なので、まだあまり旅行社に知られていないらしくて、アメリカ人の爺婆の団体がチラホラしているだけでした。  日本人の、それもとくに御婦人方の目がなかったので、私は気取らなくてすみましたから、自由にヨチヨチとそこいらを歩きまわれたのです。  ロープウェイが日本製だったのには、なぜか三人共、とても喜んでしまったのでしたが、グー・ゴトン、ゴトンと、ゴンドラが万里の長城に近づくにつれて、迫って来る城壁は威容を増しました。  切り立った険しい山の尾根に沿って、はるか見えなくなってしまうほどの遠くまで、高く石を積みあげた城壁が、どこまでも連なっているのです。  城壁の上には幅が十メートルほどの回廊があって、これまでの何百何千何万回の風雨にさらされても、その石畳が傾きもひび割れもしていません。  見渡す限り万里の長城の倒れているところはないのですから、この城壁には凄いシッカリとした基礎が、下の尾根の中に埋められているのでしょう。  私は、昭和二十八年にエジプトで、ピラミッドを見物し、大変なショックを受けたのでした。 「こんなとてつもない物を……」  と、当時十六歳だった私は、ピラミッドを創った王様と、当時の自分の親分だった安藤昇を、心の中で密かに比べて、溜息をついたりしたのです。  あの時、ピラミッドとスフィンクスの前で、|僅《わず》かな金を取って、ラクダに乗せるエジプト人がいました。  若かった私も、金を払ってラクダに乗ると、同行の男に写真を撮ってもらったりしたのですが、いざ降りようとしたら、エジプト人はこすからい顔をして、「降り賃を払え」と言ったのです。  立っているラクダの背中の上は、地面から随分な高さですから、足を折ってうずくまらせなければ、とても降りられるわけがありません。  安い乗り賃なので、うっかり乗ってしまった観光客は、まんまとひっかかって、ラクダの足の折り賃を巻きあげられてしまうのです。  まだ鉄火だった少年の頃の私です。そんな絵図にはまったのでは、渋谷に帰ってもヤクザの飯は喰えないと……驚くこすからい顔のアラビア爺ィを尻目に、ラクダの背中から、広い砂漠に向けて、ヒラリと市川雷蔵か梅若正二のように飛びました。  そして足首を|捻挫《ねんざ》してしまって、しばらく足を引きずっていたっけ……と、私は三十五年も前のエジプトを、思い出していたのです。  王様のお墓に建てられたピラミッドに比べて、皇帝が外敵から守るために建てた万里の長城は、私には比べものにならないほどのインパクトを与えたのでした。  衝撃を受けた私は、城壁にもたれてボンヤリと眺めるばかりでしたが、これを創った時代に、命令する立場ならいいけど、もし下働きで、石や土を下から運びあげる人足だったら、これはエライことだと思ったものです。 [#改ページ]

 
なんだ逮捕かよ  身辺に、いいことばかり続いていたので、それならきっと、今晩も巨人は負けているのに違いないと思って、私は御機嫌でホンダを走らせていました。  ホンダのフュージョンという二百五十ccのスクーターに、可愛いプラスティックの側車を付けた私の愛車です。  けど、乗用車と違ってスクーターにはラジオがついていないので、街を走っていてもナイターの結果が分りません。  交叉点で並んだ時に、タクシーの運転手さんにでも訊けばいいのですが、私のヘルメットは、フルフェイスというスッポリかぶって、口も顎も隠れてしまうタイプですから、そう滅多には口も利けない不自由なやつでした。  五月十九日の夜の十時頃、 「早く帰ってテレビのプロ野球ニュースを見よう」  そう思った私は、気持よくスクーターを走らせていました。  この日で三日続けて上天気でしたから、私は送り迎えの車を断わって、連日上機嫌で、スクーターに乗ってどこへでも出掛けていたのです。  この可愛いサイドカーは、なんといっても大変な運動不足の私が、少しでも風に当ろうとして、昨年の十月中旬に納車になったものですが、|相不変《あいかわらず》の忙しさで、まだ五十キロしか積算距離計が出ていませんでした。  それがこの三日で一挙に百八十キロになったのですから、これだけでも私の機嫌の良さが分ります。  星の見えない夜空を、交叉点に停まった時に見あげながら、明日も、今日のようないいお天気が続くか、私はとても心配でした。  晴れだったら明日こそ、川崎のチベットにあるわが家から、ほんの十五分ほどのところにある横浜の妙蓮寺に、走って行こうと思っていたのです。  そしてTBSの三雲孝江さんちのまわりをブンブン走りまわって、あわよくば、散歩に出たあの方に出喰わしたりしたら……。  そんなことをフムフムと考えながら、五反田から中原街道に乗って、川崎のチベットに帰ろうとしていた私は、山手通りとの交叉点を越えました。  平日のこの時間なのに、この大きな交叉点を越える時、左右にも前後にも一台の車もなくて、私の可愛いサイドカーだけだったのです。  たとえば宮本武蔵や塚原卜伝のような達人なら、この怪しい気配に気付いたのかもしれませんが……と、それはさておき……。  山手通りの交叉点を過ぎた私は、軽い左カーブの上りを、アクセルを心もち握り加減で、ちょうどその頃始まっているはずのTBSのプライムタイムを想いながら、快調に走っていました。  その時、広い三車線の道路の左側の歩道から、姿を現わした巨きな縞猫が、私のサイドカーのすぐ前を、ノソノソノソッと横切ろうとしたのです。  私のサイドカーしか走っていませんでしたから、そのドラ猫の奴は、広い道を渡って女にでも会いに行く気に、なったのに違いありません。  間違いなく牡猫でした。  八匹も猫を飼っている私ですから、一瞬でもジロリと見れば、性別はおろかその猫の性根の善し悪しまで、ひと|睨《にら》みで分ってしまいます。  他に車が走っていないのを、知っていた私ですから、ついハンドルを|捻《ひね》って、その牡猫をかわそうとしてしまったのですが、それが大失敗でした。  私の人生は、いつでも大失敗が未然に防げないと決まっているのです。  二十五年前に、アラスカのアンカレッジで受けたアメリカの免許の筆記試験では、 「自動車道路に、首輪をつけた飼犬が出てきた。次の三つの答えのうち、正しい物にマークをしろ」  という問題があって、(A)ハンドルとブレーキでかわす。(B)後続車と対向車等を充分確認して、ハンドルかアクセルでかわす。(C)構わずそのまま進行する。  と答えがありました。  たいていの日本人は、(B)にシルシをつけてしまうのですが、それは誤りで、(C)が正解だったのです。  私の運転していたサイドカーは、一瞬コントロールを失って、目の前に首都高速の壁のような|橋桁《はしげた》が迫りました。  覚えているのはそこまでです。私は、首都高速の橋桁に、ナック・アウトされてしまいました。  気が付いたら私は、白いヘルメットにお上のマークをつけた小父さんに、両肩をしっかり押えつけられていたのです。 「なんだ逮捕かよ」  うろたえた私は、おもわず、叫んでしまったのですが、お里というものはこんなところで、バレてしまうものなのです。 「救急病院に急行中であります」  小父さんは、きっと呆れたに違いないのですが、そう言ってくれたので、私は救急車の中にいて、そうだサイドカーで事故を起こしたのだと分りました。  広尾病院に着くと、救急車から病院のスタッフに私はリレーされて、全身のレントゲンを撮してもらい、CTスキャンで頭の中を調べていただいたのです。  脳内出血も骨折もなかったのですが、驚いたことに、脳の中に虫がいました。よくみたら「文学の虫」だったというのは、その時に手術室で私の創ったステキなジョークです。  フルフェイスのヘルメットが吹っ飛びサイドカーが全壊になるほどだったのに、首の骨もどこも折れなかったのは、たいしたものだと、広尾病院のお若くて美しい当直の菊地先生に、私は妙な褒められ方をしました。  痛かったら言いなさい、とおっしゃって、|膝《ひざ》のパックリ開いた傷を、先生は縫い始めたらしいのですが、私は手術台の上に寝かされているので、見えません。 「イテ、イテーッ」  と、ヤクザの頃だったらとても恥ずかしくて出せない悲鳴を、私は心おきなく盛大に喚けたのですが、後から考えると、あまり格好がよかったとは言えないように思います。  目のまわりは、ボクシングの試合で、|手非道《てひど》く殴られて負けた時のように、真っ黒になっていて、左腕から胸と脇腹にかけても、紫色になっていました。  こりゃあ巨人は、今晩は勝っちまっただろうな、なんて思ったのですから、我ながらとんでもない馬鹿野郎でしたが、これも、他人様を巻き添えにしなかったという安心があったからなのに違いありません。  大崎署の交通課の方にうかがったところでは、どうやらあのふざけた巨きな縞猫の牡も、無事だったようです。  それにしても、財布も腕時計もすべてそのままだったのには、あらためて日本の素晴らしさに、私はしびれてしまったのでした。 [#改ページ]

 
私の腕時計コレクション  私は腕時計が大好きです。  最初に自分の時計を手に入れたのは、中学に入った時ですから、あれは昭和二十五年のことで、母が買ってくれました。  セイコーの七石で、中三針の秒針が赤く塗ってあったのは、ハッキリ覚えているのですが、これを書いていて、手捲きだったのか、それともオートマティックだったのか、どうしても思い出せないのです。  その頃五歳年上の兄は、ヨーロッパで父に買ってもらったモバードをしていたのですが、それがとても|羨《うらや》ましかったのを、今でも覚えているのですから、私の人生は|嫉妬《しつと》で支えられて来たと言っても、そんなに|大袈裟《おおげさ》ではありません。  十四歳でチンピラになると、その頃のヤクザのユニフォームだった黒のシングルのスーツを作って、次は腕時計を漁りました。  買うんじゃありません。  弱そうな奴が、私の目を引くような腕時計をしていると、露路に引っ張り込んで恐喝するのです。  昭和二十年代のその頃は、今よりずっと世の中が|荒《すさ》んでいて、弱肉強食の時代でした。  相手から巻きあげるだけではなくて、もっと強い奴に目をつけられると、ぶん殴られて奪い取られてしまうのですから、これはもうアフリカのサバンナや海の底と少しも変わりません。  ベンラス、ウォルサム、ブロバーといった、アメリカ系の腕時計が、チンピラの私には、とても素敵に見えたのです。  まだ日本がアメリカ軍に進駐されていた時代ですから、腕時計にしても、煙草や他の雑貨と一緒で、アメリカ文化が主流でした。  日本が豊かになって、街にヨーロッパの香りがし始めるのは、昭和三十年代のなかばからでしょう。それまでは、アメリカ一色でした。  それが、ヨーロッパ系の腕時計のエニカー、シーマの時代を経て、インターナショナルとオメガの全盛になります。  |G ・ P《ジエラール・ペルゴー》とかエテルナ、それにローレックスが登場して来たのは、昭和三十年代の終り頃ではなかったでしょうか……。  その頃になると、風呂に入っても泳いでも平気という完全防水の腕時計も|流行《はや》り出して、キザな奴がしたままで、都心のホテルのプールを泳ぐようになりました。  昭和三十六年の一月に、日本航空に潜り込んだ私は、高給取りですから、もうその頃は恐喝も辻強盗も、しなくても充分暮らしていけたのです。  こういうのを「衣食足りて礼節を知る」というのだと思うのですが、|真逆《まさか》こんなことを今駒澤大学で漢文を教えていただいている中村|璋八《しようはち》先生に、うかがうわけにもいきません。  ホテルのプールで、これ見よがしに、腕時計をしたまま、飛び込んだり泳ぎまわったりしている男を、パラソルの下に招いて、 「ヘェ、|凄《すご》いな、水ん中に入れても平気なんだな」  と、女を連れていた私が、感嘆の声をあげてみせたら、浅はかなその小僧は、まんまと私の絵図にはまって、テーブルの上にあった水の入ったコップの中に、その腕時計をはずして入れたのです。  水……と思ったのは、そいつの勝手で、実はボーイに、ジンをストレートで入れさせて、運ばせておいたのですから|堪《たま》りません。  アルコールはたちまち機械に染み込んで、見ている間に、コップの中で腕時計は止まってしまいました。 「なんだ、プールの水では平気でも、ジンだと止まっちまうのか……」  私が手を|叩《たた》いて喜んだら、持主は青黒い顔になって、コップの底の止まった自慢の腕時計を|睨《にら》んでいましたっけ。  いくら嫉妬が、これまでの人生を支えて来たと言っても、こんなことばかりやっていたのですから、他人の恨みだって随分買っているのに違いありません。  だから時々、|手非道《てひど》いシッペ返しにも遭うことになるのです。  前刑を四年と少しの間つとめている間に、私の腕時計のコレクションと、それにオイル・ライターの逸品は、すべて消えてしまいました。  当時の愛人だった若い女優が、全部売り飛ばして白いポルシェを買うと、若い男と逃げてしまったのです。なにしろ相手はポルシェですから、パトカーだって簡単には捕まえられません。  それからずっと、ピアジェともパテック・フィリップとも御縁のない、大変な貧乏が続いたのですが、有難いことに、懲役をつとめている間に時代が変わっていました。  千五百円も出せば、可愛げのないほどよく時間の合う腕時計が、いくらでも買えるのです。これは文明の驚異というべきでした。  初めての単行本『塀の中の懲りない面々』が、三十万部を超えた時、文藝春秋から電話をいただきました。  何か記念品を……と言って下さったので、私はしていたディズニー・ウォッチを見ながら、小さな声で「腕時計を」と|呟《つぶや》いたのです。  文藝春秋の担当者の方は御親切に、 「角か丸か、金か銀か、文字盤は……」  と、私が腕時計が好きだと知っていらっしゃったのか、細かく訊いて下さったのですが、その電話の時に一緒に|炬燵《こたつ》に入っていた元極道の妻の奴は、一声高く、 「ペア・ウォッチッ」  と叫んだのです。  どうやら予算は、その一声で半分になってしまったようですが、おかげで今では夫婦|揃《そろ》いの素敵なセイコーを、私はしているのです。 [#改ページ]

 
たくさんのアリガトウ  初めての短篇小説が、活字になって雑誌に載ったのは、昭和五十八年の年末も押しせまった頃でした。  そうして単行本が出たのが、昭和六十一年の真夏で、敗戦記念日の八月十五日です。  縁起の悪い日かな、と思っていたら、幸いなことに驚くほどこの『塀の中の懲りない面々』が売れて、思いもかけなかった忙しさになりました。  勤勉でないどころか、横着でグウタラなので、永く無頼に過ごしてしまった私です。  本当に寝る暇もないほどの滅茶苦茶な忙しさになってしまったのには、|嬉《うれ》しい悲鳴をあげていました。  ついこの間まで府中刑務所の木工場で、整理|箪笥《だんす》を作っていた無法者が、こんなに忙しくなったのですから、これは並大抵のことではありません。  |筋っぽく《ヽヽヽヽ》、「恩義のある方へ、足を向けて寝られない」なんて言えば、それこそ|蝙蝠《こうもり》のように、なげしにでも吊り下がって寝なければならないほどです。  恩人やお世話になった方が、とても沢山いて下さったから、私のような男でも、文章を書いて三度の御飯がいただけるようになれたのです。  それなら、お礼を申し上げなければ……と思うのは、当り前のことなのですが、これが突然の夜も昼もない忙しさで、とても思うにまかせません。 「ああ、あの方にもお礼を申し上げなければ、あの方にも、あの方にも……」  思ってイラ立つうちに、日ばかりどんどん過ぎていき、そのうち私は、柄にもなくヒステリー状態になってしまいました。  伺ってお礼を申し上げるのが筋ですが、事情が事情だから、皆様をお招きして、一遍にお礼を申し上げようと思いついた私は、 「安部譲二、御礼言上パーティー」  というのを、ついにやったのです。  御案内状を書いている段階で、もう困ったことが続出しました。  京王プラザホテルの会場は、定員が二百五十人だというのに、出版関係と放送関係だけで、三百人を超えてしまったのです。  それに雑な私がやることですから、ついうっかりリストから落としてしまった方も、沢山おいでなのに違いありません。  始まる前に半ベソをかいてしまった亭主の私に比べて、ウチのチンコロ|姐《ねえ》さんは、意気軒昂としていました。 「貴方は、何をお召しになるの……」  という御下問があったので、黒のシングルの略礼服に、隠しボタンの胸前に飾りのついたシャツ、それに大きな蝶タイをしますと答えたら、有難いことにイヴニングやゾロリとしたドレスではなく、和服をお召しになるとのことでした。  昭和三十三年以来、急に女房が強くなってどこの亭主も、堅気はみんな私のようにオドオド卑屈に暮らしているようで、矢張り売春防止法というのは、稀に見るほどの悪法ですが、それはさておき……。  定刻になると、私とチンコロ姐さんは、会場の入口に立ちました。  マネジメントの赤尾の健ちゃんも、脇に立っていてくれたのですが、私にはウチの女房の介添えかセコンドのように見えたのです。堅気の家庭では、どこでも女房がこんなに強いのでしょうか……。  有難い顔、懐しい顔、そして怖いお顔が、続々とおいでになりました。  怖い顔といっても、私の昔棲んでいた世界の連中ではなく、講談社の宮田昭宏さん、文藝春秋の新井信さん、それに集英社の治田明彦さんといった点数の辛い編集者諸公です。  胡桃沢耕史先生、丸谷才一先生、神吉拓郎先生、笹沢左保先生、それに師匠の山本夏彦といった大先達。  ウチのチンコロ姐さんが、喜んで跳びあがったのは矢野誠一さんで、昔からのファンなのですが、その晩もう一度、短いアヒルのあんよでピョンと跳んだのは、サックスのマルタが来てくれた時でした。  諸井薫さんは矢作俊彦と、時代を分ける文壇のダンディなのですが、ウチの女房はこのお二人を高嶺の花と心得ているのか、飛んだり跳ねたりはしないので、亭主としては安心なのです。  この歳で、いかに足が短かろうが、鼻が丸くて背が小さかろうが、味噌汁の加減を心得た女房殿を、他の男に盗まれたら、自動車と違って、そうおいそれとは補充が利きません。  私は矢野誠一先輩と、それにマルタを二百人のお客の中で、しっかりと気をつけていたのですが、ふたり共私の心配には気付かぬ振りをして、盛んに呑んだり喰べたりしていたのは、|流石《さすが》でした。  もうプライムタイムだというのに、素敵な三雲孝江さんが、チラリと会場に現われたので、皆の目が集中したのには、ホストの私は|慌《あわ》ててしまったのです。  私の大事な人は、出来ることなら皆の目には|晒《さら》さずに、自分だけのものにしておきたい。  本当ならプライムタイムも、アイ・マスクで、それこそ「怪傑ゾロ江」のようにして、出てもらいたいのです。 「正しいプライムタイムの見方」  というチラシを、以前私はファックスで友達や仲間に送ろうとしたことがあって、マネジメントに阻止されてしまいました。  どんな|巨《おお》きなテレビでも、すぐ前に坐って、三雲孝江さんが出ている時は、ウットリと見ているのですが、他の奴が画面に映ると、パッと右手の掌で、そこのところだけ押えて隠してしまうのです。  テレビにウンと近づいて、いつでも掌で画面が押えられる。これが正しいプライムタイムの見方なのですが、これもさておき……。  麻布中学の同級生だった橋本龍太郎さんに続いて、|前《ヽ》と|前々《ヽヽ》の面々、遠藤瓔子と田宮光代が会場に見えたので、私のピンチは、もうそれこそマイク・タイソンに、コーナーに詰められて乱打されているほどの、非道い場面になりました。  この前妻と前々妻は、ふたり共私と同じ世代なので、二十歳近く年の違う現妻のチンコロ姐さんを、妹か娘のように思ってくれているのです。  仲良くしてくれるのは、亭主としても嬉しいのですが、ふたりが永年かかって覚えた私の癖や手口を、チンコロ姐さんに伝授するのに、私は参っています。  可愛い高見恭子ちゃんが、困り果てている私を見てケロケロ笑うと、将棋の勝浦九段が現われて、やっつけられるばかりでは、ホストが|逃《フ》けてしまうといけない、とおっしゃって、将棋連盟の二段の免状を下さいました。 「将棋でもなんでも、安部さん、もう少し考えてやるといいよ」  まだ四段の頃から、私の以前の縄張り内にあった将棋センターの師範代をしておられて、だから今でも私が「若先生」とお呼びしている勝浦九段は、その時そうおっしゃいました。  塀の中で甘く煮た豆を賭けて指せば、四段はあるぜ、と言ったら、また女房殿に叱られてしまったのです。 [#改ページ]

 
ジープとサザエの壺焼き  側車付きのスクーターで、得意になって走り回っていたら、首都高速の|橋桁《はしげた》にぶつかってナック・アウトされてしまいました。  五日間ほどは頭の中にオカラでも詰ったようになってしまって、何も書けず、仕事がそれだけ溜まってしまったし、「諸君!」の連載も初めて休載になってしまったのです。 「仕事のことはさておいて、危ないことをさせるわけにはいかない。もう二輪車や三輪を安全に乗りこなすほど若くはないと思い知ってほしい」  肋骨の肉離れを掌で押えながら、しかめ面をしている私に、マネジメントの健ちゃんは、珍しく見せる厳しい顔で言いました。  二輪と三輪に懲りずに乗るようなら、マネジメントの契約は継続できないとまで、元高校同級生の健ちゃんは、この時ばかりは企業の経営者の顔をして言ったのです。  閉口してたちまち降参した私でしたが、何といってもローティーンの頃からグレっ放しのマイナー育ちですから、そう言われてハイと言っても、頭の中はアレコレ必死にフル回転していました。 「ここで、逆らったり、アレコレ言い出したりすると、今は二輪と三輪なのが、どんどん色々考えつく。ヘリコプター、ハングライダー、それにうっかりすればスケボーとローラースケートまで、健ちゃんは危ないと言い出すかもしれない」  今までの経験がそう教えてくれたのです。  それならここは素直に降参して、すぐ何か手に入れてしまうことです。 「さあ、それなら何をサイドカーの代りにしてくれるべい」  私は考え込みました。  道路の凹凸がモロに運転している私に伝わって、裸馬の背で荒野を行くようでなければいけません。  風は正面から私の端整な顔に吹きつけてくれなければ、そんなもの女房の運転する乗用車の助手席に坐っているのと変わらないのです。 「それならジープだ。それも幌付きでフロント・ガラスの前に倒れるやつでなければいけない」  仕事部屋にしているアパートのベランダで、私が大声で独り言をいったら、うちの猫頭のジミーが表の道から不審そうな顔で私を見ました。  健ちゃんがジープも駄目だと、気がついて言い出す前に手に入れられるかが勝負です。  私は溜まった原稿を片づける合い間に、環八のセントラル・オートの社長、水島清治や、思い出す限りの車に詳しい友人や業者に電話を掛けまくりました。  それに、こうして電話をどこかに掛けていれば、催促の電話も掛ってはきません。グフフフ。  素敵なジープを手に入れて、|颯爽《さつそう》と川崎のチベットを走り回る|蒼《あお》い狼のような自分を想うと、もうそれだけで脳が麻痺してしまう私でした。  考えてみれば、ずいぶん以前の若い頃から、私はジープが大好きだったのです。  あれは確か昭和三十七年だったと思います。  ホノルルを離陸して羽田に向かった私の乗務していた日本航空のダグラスDC‐8は、まず三番エンジンが止まってしまい、続いて二番エンジンも動かなくなってしまいました。  プロペラの旅客機だと、お客にも事態がすぐ分ってしまうのですが、ジェット機はこんな時に、客に気づかれないので具合のいいこともあるのです。  元帝国海軍航空隊の生き残りのキャプテンは、落着いてウェーキ島に不時着陸しました。  その便には百三十人ほどの乗客が乗っていました。  羽田に向かう他社の便に、ウェーキ島に次々に降りてもらって、空いた席の人数だけ引き取って乗せてもらったのです。  五機ぐらい寄ってもらうと、お客は全部移し終って、パーサーの私はホッとひと息つきました。  ちょうど帰った次の日がお見合いだといって、ベソをかいたスチュワデスも客と一緒に乗せましたから、あとは飛行機の修理が終るのを待つだけでした。  ウェーキ島は太平洋の真ん中にある小さな島で、それこそ職員の施設があるだけで、酒場もディスコも何もない所です。  パン・アメリカンの職員が連絡用に使っていたのが、もう車というより鉄屑に近い軍用のジープでした。  本来は幌付きなのでしょうが、そんな物、もうとっくになくて、鉄骨さえ残っていません。  戦争に使う武器なのですから、少々のことでは壊れなくて当り前なのでしょうが、鉄のきしむ音を派手に|発《た》てながら島の砂浜を八十キロほどで突っ走るのには、運転していた私は満足しながらも舌を巻いたものです。  ジープを貸してくれた御礼に、海に入った私は、サザエを二十個ほど獲ってきて焚火で|焙《あぶ》り、修理中の飛行機から持ってきた醤油を、開きかけた|蓋《ふた》から注ぎ込みました。  ウェーキ島にいたパン・アメリカンの職員に、私はサザエの壺焼きを|御馳走《ごちそう》したのです。  三つ葉がないのが残念でしたが、 「おい、こんな物、本当に喰えるのか」  と、最初は気味悪がっていたアメリカ人も、 「最後の黒いところも、|橙 色《だいだいいろ》のところもみんな喰えよ。うまいぞ」  私が言うと、恐る恐る口に入れて頬張ると、声を揃えて、 「ジーザス! イッツ・ファッキン・グッド!」  と叫んだのでした。  この頃から御婦人のいない所では、可成な教養のあるアメリカ人でも、ファッキンという卑猥な形容詞を使うようになっていたと思うのですが、それはさておき……。  それから二年近くたって、向い風のひどい日に、給油のためにウェーキ島に降りると、浜辺に巨きな貝塚ができていたのには驚きました。  私が教えた時には、せいぜい|膝《ひざ》まで入ればサザエがゴロゴロ転がっていたのに、パン・アメリカンの顔馴染みに訊いたら、もうアクアラングで潜らなければ、あの貝は獲れないと答えたのです。  健ちゃんに気づかれない間に、めでたく私のジープは、六月の二十六日に納車と決まりました。  懐しいジープが手許に着くまでの間に、私は四半世紀も前のジープとウェーキ島を思い出していたのです。  さて、|誰《だれ》を乗せようか……三雲孝江さん、石田えりさん、それに岡田奈々ちゃんも、日に焼けるからと断わられるに決まっています。  これはもう、隣りに坐ってもらうのは、山田詠美さんしかいませんよ、ねッ。 [#改ページ]

 
出発前にひと騒動  アメリカに世界ヘヴィー級のタイトル・マッチを見に行くことになった私は、日曜日に出発すると、ニューヨークとアトランティック・シティに、一泊ずつして、水曜日の昼過ぎには、もう東京に帰って来たのです。毎度のことですが、飛脚の旅でした。  出発前の忙しさがただのあわただしさではなく、パニックになってしまったのは、ウチのチンコロ|姐《ねえ》さんにすべての原因があります。  四月に私がテレビの仕事で北京に行ったのを、自分を連れずに誰かと一緒に出掛けたと、根も葉も幹もない推理を展開したチンコロ姐さんは、 「エイッ、こんなもの、|稼業の患い《ヽヽヽヽヽ》だわ」  と、私のまだ三年以上も有効期限のある数次旅券を、どこかにぶん投げてしまったらしいのです。  ウチのチンコロ姐さんがぶん投げないのは、八匹の猫と息子だけで、他の物はなんでも、邪推したり腹を立てたりすると、四方八方へ、思い切りぶん投げてしまいます。  医者と結託して、しきりと私にダイエットを奨めるのも、九十八キロでは無理でも八十キロなら、ぶん投げられると思っているのを、|盆の見える《ヽヽヽヽヽ》私は察知しているので、|鱈腹《たらふく》喰べ続けているのですが、それはさておき……。  先日も、その薬を続けて呑んだ将棋の米長さんが、対局中にあの厚くて重い将棋盤を、手でも膝でもなくて、ひっくり返しそうになったという大変な秘薬を二壜いただきました。  アシタバの粉末と、それに何か重金属を混ぜた錠剤なのですが、それまで私が呑んでいた|沖永良部《おきのえらぶ》島の海蛇の粉より、それはずっと効くというのです。  血圧の薬も定期的には呑まず、水虫の薬だって、決して三日は続けて塗らない私なのに、その薬だけは、情熱を燃やして毎日呑んで、四日目に朝帰りしたら、その秘薬は二壜共、夜の児童公園にぶん投げられてしまいました。  そういえば、ウチのチンコロ姐さんは、毎朝その錠剤を大騒ぎして呑む私を、随分ウロンな、お上のような顔をして見ていたのです。  アシタバの粉末ぐらいなら、昔のロシアの誇った砲丸投げのタマラ・プレスのように、ぶん投げられてしまってもどうってこともないのですが、旅券となるとおおごとでした。  こんなことには、必ず追い打ちのような事態があるもので、今回の飛脚の旅は出版社の仕事だけだったのが、急にテレビの仕事も加わったのです。  アメリカのビザは、今回は業務用のビザを取らなければなりません。  二十日に旅券の再交付を受けた私は、一日おいた二十二日の水曜日に、赤坂のアメリカ大使館に行きました。  観光ビザは旅行社が取ってくれるのですが、業務用のとなると、本人が出頭しなければなりません。  ビザ発給の窓口に行ったら、日本人の小母ちゃんの職員が、ニッコリしました。  守衛の小父さんも、ヤアと言いましたから、どうやら大使館の皆さんは「出たがり譲二」の私を、よく御存知だったようです。 「ここんとこ違いますね」  前科があるかという設問に「いいえ」というところにシルシをつけたのを、窓口の青年は指で突ついて、 「裁判所の判決謄本を、全部取って、英訳して持って来なさい」  と言ったのですが、私はその途端に頭を抱えてしまったのです。  一回や二回の有罪判決ではありません。  自慢じゃないけど、十回以上もあるのですから、ギリギリの二十四日がタイム・リミットでは、そんなことはとても不可能に思えたからです。  私はすぐ東京地検に走り、翻訳屋さんに飛んで行って、七重の膝を八重に折りました。  こうして書類を揃えても、その後にある領事の面接次第で、ビザは発給されるかどうか分らないのです。  観光ビザなら、顔と名前が一緒にならないので、チョンボが見逃されたかもしれないのですが、大使館に出頭させられたのでは堪りません。  大変なことになりました。  その二十二日の時点で、あと二日弱ですべてを|了《お》えなければならないのですから、これはもうほぼ不可能と思われたのです。  アメリカ大使館は、土曜と日曜はお休みだし、週日だってビザの発給業務は午前中しかやりません。  翻訳してタイプにするのだって、とにかく昭和三十二年が初犯で、机の上に立派な書類の山が出来るほどの前科ですから、二十四日の午前中までに、とても間に合うとは思えませんでした。  領事のジメロースキさんは、イエス様のような|髭《ひげ》を生やした方で、とにかく最善を尽しなさいと、言ってくれたのです。  翻訳屋さんは徹夜でやってくれて、大使館は、金曜の午後まで特別に時間を延して下さいました。  私の担ぎ込んだ膨大な判決謄本の英訳を、時間をかけてゆっくり読んだジメロースキ領事に、私は持って来た沢山の資料から一冊の雑誌を出すと、立合いの日本人職員の前で、 「領事殿、どうぞこれを見て下さい」  と叫んで、雑誌の頁を開いて机に載せたのですが、それは、 「ドルが百円になったら……」  というアンケートの特集で、各界の方が、プールとテニス・コートのついた家をカリフォルニアに買うとか、ハリウッドで映画が撮りたいとおっしゃっているのに、私は、 「アメリカを仲間か友達だと思っている。弱味に乗じてダイアン・レインを妾にしようなんて思わない。税金を払って余裕があれば、アメリカの国債を買いたい」  と、これは本心で言っていたのです。 「貴方の沢山の前科の中で、アメリカで破廉恥罪に当るかもしれないのは、ふたつだけです。アメリカでは|博 奕《ギヤンブリング》と|喧  嘩《フエア・フアイト》はいいのです。ふたつについて説明なさい」  微笑んだジメロースキ領事に、私は、児童福祉法違反が少女売春なんかではなく、履歴書に|嘘《うそ》を書いた少年を、ウェイターとして使ったこと、それに昭和四十一年に、ぶん殴ってから相手の髪を刈った傷害罪は、相手が無礼な同業のヤクザだったからだと申し上げると、 「それならフェア・ファイトです」  ジメロースキ領事は、素晴らしい外交官の|鑑《かがみ》のような方でした。  私は特別の処置で業務用のビザがいただけたのですが、丁重に礼を言って背中を見せた私に、 「それで勝つのはどっちですか……」  と領事殿の陽気な声がしたので、 「賭け率はどうでもタイソンの勝ちです。前科の半分以上が博奕の私を信じて下さい」  振り向いた私はそう申し上げたのです。素敵な領事殿は|儲《もう》けられたでしょうか。 [#改ページ]

 
サカナ釣りしあの頃  まだ博奕打ちを志す以前の少年の頃、私は一時期ですが釣に熱中しました。  まだ戦争に負けて何年も経っていなかった頃ですし、その頃から喰い意地の張っていた私ですから、喰べて|美味《おい》しい魚しか釣らなかったのです。  へら|鮒《ぶな》なんて、だからいくら誘われてもやらなかったし、今でも興味がありません。  まだ中学に入ったばかりだった私ですが、それはいろんな釣をやりました。その中から、今ではあまり|流行《はや》らなくなった釣を、ふたつ御紹介しましょう。  寒くなると、横浜の山下町の貯木場でやるのがボラのギャング釣でした。  これはタイヤのチューブを細く切って、房のようにしたものの下に、爪の三本ついた|碇《いかり》のようなギャング針をつけたのを、水の中で上下させていると、ボラが餌だと思って飛びついてきて引っかかってしまうのです。  これは冬になると脂が乗っておいしくなったボラの目に、薄い膜が張って視力が落ちるのを利用した釣でしたが、五間(約九メートル)ほどもある、太い竹竿のいちばん尻のところに鉄道のレールを切ったのをつけて、|太腿《ふともも》を支点にして上下させようというのですから、一日それをやるのにはかなりな体力が要りました。  |鯰《なまず》のポカン釣というのは多摩川べりの|砧《きぬた》のあたりでやりましたが、こんな釣は今でもやっているのでしょうか。  |朴《ほお》の木を蛙の形に彫刻刀や切り出しナイフで削った、今でいえばルアーを作って、それを緑色のペンキで塗ります。糸の先に、その手製の青蛙ちゃんをつけて、|芦《あし》の生えている水面のあたりをポチャンポチャンと叩いていると、|大鯰《おおなまず》がガブリとくるのです。  先日、足立区の公園の池で、このポカン釣で雷魚を釣っているおっさんがいて、とても懐しく思いました。  それっきり博奕打ちになってしまって、釣をするのもせいぜい|鰺《あじ》や|鯖《さば》釣の船をたまに鎌倉の腰越から出すぐらいになってしまったのですが、あれは昭和四十八年でした。夏の競馬で福島に行き、飯坂温泉に泊ったときのことです。  朝早く起きて、宿屋の前を流れている川を見ていたら、釣をしているおっさんがいました。  どうやらハヤを釣っているようなのですが、合わせるタイミングがまるで|鈍《どん》くさかったのでした。  玉|浮木《うき》が止まって、それから水中に消し込むのですが、夏のハヤ釣に限って、止まったところで合わさないと釣れるものではありません。玉浮木が消し込んでから合わせたのでは遅すぎるのです。  自分でも嫌になるほどお節介な私ですから、そのおっさんが二回に一回は合わせそこなうのを見ているうちに、ついたまりかねて、 「駄目だよ、それじゃ遅すぎる。流れてきた玉浮木が止まったところで合わせなきゃ……」  と、宿屋の窓の手すりから|浴衣《ゆかた》のままで川岸のおっさんに、 「それっ」  とか、 「そこだ!」  なんて叫び続けたのでした。  渋茶色に日焼けしたそのおっさんは、そんな私をうるさそうに一度だけ振り向いてにらんだきり、あとは下手糞な釣を私を無視して黙々と続けたのです。  今思い出しても汗が出るほど恥ずかしいのですが、まだ若くて|売り出し《ヽヽヽヽ》の博奕打ちだった私でしたから、 「こらっ、素直に俺の言った通りにやれっ」  と、|苛立《いらだ》って叫ぶと、たまらず宿屋の下駄を突っかけて川原に降りて行ったのです。  代って手本を見せようとした私に、そのおっさんは頑強に抵抗しました。朝の川原にわき起こった時ならぬ騒ぎに、宿屋の窓からは泊り客の顔がワラワラと現われたのです。一億総密告人の日本のことですから、誰かが呼んだパトカーが橋の上に到着すると、浴衣姿の私は福島県警の手に落ちました。  調べ室で、係長さんがあきれたように、 「お前、漁師に釣を教えようというのか」  と言ったので、私は、あの下手糞なおっさんがハヤと|鮎《あゆ》を釣って飯坂温泉の宿屋に売る、その辺りの川漁師だということを知ったのでした。  夏も今頃になると、まだ東京の川の河口が汚れていなかった、昭和二十五年頃のウナギ釣を懐しく思い出します。  これは夜釣でした。  糸枠に巻いたウナギ釣の仕掛けに、針には太くて大きいドバミミズというのをつけて、川の流れに思いきって放り込みます。そして、|鯨《くじら》の|髭《ひげ》を削って作った、五十センチほどの棒の先に鈴をふたつつけたのに結びつけておくのでした。  そんなのを六、七本、自分の坐っている前に並べると、当時のことですからカーバイド・ランプをつけて、ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』なんかを読んでいると鈴がチリチリと鳴ります。  これはウナギがドバミミズに喰らいついたということなので、私は文庫本を閉じると、糸巻きの糸を一所懸命にたぐるのでした。  こうして釣ったウナギは、まだ東京の川も汚れていなくて、しかも天然ウナギなのですから、これは貴重なタンパク源でもあったし、うまいことは、大げさでも何でもなく目のくらむほどでした。  まだステーキの喰えるようになるには、それから十年もかかった、貧しい頃だったのですから……。  私の師匠の山本夏彦が事務所を構えている西新橋に、「鐵五郎」というウナ丼の専門店があります。道路に面したガラス張りの中で、男衆が威勢よくウナギを焼いていて、いい香りが街に流れ出すと、昼飯時にはサラリーマンの行列ができます。  ここのウナ丼は、普通のが七百円で、「ダブル」という名物になると、何と驚いたことに、御飯の量は変わりませんが、ウナギが倍、重なりあって載るのでした。  飯時に師匠のところを訪ねると、私はその「鐵五郎」で昼飯に「ダブル・ウナ丼」を喰べるのが楽しみだったのです。  私の母、安部玉枝は今年で八十一歳になった|婆様《サマバア》ですが、これが血統というもので、つい去年までは私に負けないほど何でもよく喰べました。  去年の今頃、たまたま昼飯時に母と一緒にその辺りにいたので、「鐵五郎」に行って、 「俺はダブルにするよ」  と言いましたら、安部玉枝は目を輝かせて、 「私も……」  と言いました。  そしてペロリと平らげたのにはお店の人たちもびっくりしたのですが、今年はちょっと体の具合が思わしくないので、喰べに出かけることは無理そうです。  得意のジープで私が出前をしてあげようかと思っているこの頃です。 [#改ページ]

 
アロハとフグ鍋 「モロカイでフグを|漁《と》ったけえ、喰べにきんさい」  と、中国地方の方言で電話がかかってきたので、私はいそいそと出掛けて行きました。  昭和四十年頃のハワイのホノルルのことでしたが、電話をかけてきてくれた年寄りの友人の名前は、まだ御存命なので、書くことがはばかられます。  それというのも、ハワイでは、当時はフグを喰べることが禁じられていて、まだOKになったとは聴いていないので、うっかり調子に乗ってお名前を書いたりすると、とんだ御迷惑をかけてしまうかもしれないからです。  暑いホノルルで、ガレージのシャッターを降ろして、パンツ一枚になった日系の|爺様《サマジイ》たちが、汗まみれになって|鍋《なべ》を突っついていました。  こんなにしてまで喰べる|美味《おい》しいフグが、なんでハワイでは|非合法《イリーガル》になってしまったのか、という話を、以前日系人の年寄りから聴いたことがあります。  それによると、明治の頃に日系移民が働いていた|農  場《プランテーシヨン》に、それは横柄で残忍な白人の監督がいたのだそうです。  ある日、日系人たちが、漁ったフグを鍋にして喰べていたら、その白人の監督がやって来ました。  そして、あまり皆が|美味《うま》そうに喰べていたので、自分にも喰わせろと言ったのです。 「それが、そ奴の運のつきでありました」  と、私に話してくれた爺様は言いました。  その場に居合わせた日本人の誰かが、|咄嗟《とつさ》に、ここが一番美味いと、その白人の監督にフグの卵を喰べさせてしまったというのです。  たちまちアメリカ合衆国の悪い白人が、ひとり減ったのは良かったようなものの、毒の効き目の凄さに|魂消《たまげ》た白人の役人は、 「こんな危ないもの……|河   豚《バルーン・フイツシユ》は喰べてはいけない」  すぐ法律が施行されて、それ以来フグは非合法になってしまったというのですが、そう言えば今でも、あれほど沢山あるハワイの日本料理屋で、フグを看板にしている店はないようです。  ガレージのてっちりパーティーに|招《よ》ばれた私は、まだ二十歳代でしたから、キリリと細身のいい男でした。  オレンジ色と白の輝くようなアロハを着て、黒いズボンに黒い靴。まだ密生していた髪の毛も、スッキリ角刈りしていましたから、これはもう絵に描いたようなハワイの男伊達でした。  私がガレージの中に入って行くと、カンビールを片手に、一所懸命|身体を賭けて《ヽヽヽヽヽヽ》フグを喰べていた日系人連中は、 「よおナオ、よく来たの……」 「ハイ、ナオちゃん、レイトリイ・テンシサマハ・ウェルかいの……」 「お、ロング・タイム・ノー・スィーね」  と、口々に言いました。  語尾に、の……と付くのは、この人たちの祖先の|訛《なま》りです。 「最近天皇陛下は、御健勝でお過ごしか」 「永く会わなかったね」  翻訳すれば、こういうことになりますが、私はハワイの日系人の、それもお歳を召した方たちを、とても愛していたのです。  サッド・サム・一ノ瀬は、いつでも悲しそうな顔をしている小柄な老人ですが、世界的なボクシング・プロモーターで、白井義男さんが日本で初の世界タイトルを取るのに、愛国心を発揮し献身しました。  弟のレジナルド・一ノ瀬は、あのガッツ石松に、幻の右を教えたコーチです。  そしてベンジャミン・原田は、酔っ払うと必ず、「上野駅から九段まで……」と、ダミ声を張りあげる陽気な男でした。  ハロルド・中野は、その当時のボクシングやレスリング会場だったシヴィック・オーデトリアムの親方で、若い綺麗な奥さんを持っていました。  こんなトッツァマたちに共通しているのは、陽気で酒呑みで、ごく普通に助平なことと、それに天皇陛下と日本が大好きなことだったのです。  私がズボンを脱ぎ、汗まみれになる前に手早く得意のアロハを脱いでいたら、 「ナオ、そのアロハは、椎木んとこのかの……なかなかよう映っとる」  と、誰かが言いました。  椎木さんというのは、トロピカーナ・シャツというブランドで、アロハを作っていたお年寄りです。  いつでも私がホノルルに着くと、キャデラックのエル・ドラドで迎えに来て下さって、海の見えるバーで、昼間からバーボン・ソーダを呑みました。  ミディアム・レアのステーキの、|巨《おお》きくて厚いのをひとつ頼むと、椎木さんは、それを陽焼けして太い静脈の浮いた手の甲を見せながら、薄く切ってくれて、 「これをおかずに、海を見て呑むのが最高よ。ザ・ベリー・ベストよのお」  二世では一番歳のいっている方の椎木さんは、親が農場で働いても、子供たちの教育にはお金をかけたので、ハワイの日系人は成功した者が多いのだとおっしゃいました。 「ウチらの親は、野菜を醤油で煮たので飯を喰って、学資を払ってくれたのよ」  時々はフグを漁って、動物性蛋白質を補ったのでしょう。  その当時、昭和四十年頃までは、私はアロハは椎木さんのトロピカーナに決めていました。  アロハは図柄よりも、着る人間の雰囲気と、それに心意気で着るのです。  お役人が着ていない、とその一点が気に入ったのかもしれませんが、私はまだ少年の頃から、初夏になるのが待ち切れずに、春の終り頃にはもうアロハを着るのでした。  けど、少し早目から着出すのはいいのですが、秋風が吹く頃になってもアロハを着ているのは、どうもいけません。  何か|蟻《あり》んこの家の横で、ヴァイオリンを片手に立っているキリギリスのような、そんな哀しさが漂ってしまいます。  この頃は、仕事でチョクチョク、アメリカに行くのですが、いつでも日程に追われる旅行で、|往《ゆ》きも|復《かえ》りもハワイを飛び越してしまうばかりなのです。  あの頃のホノルルでは、腕時計なんて要りませんでした。  昭和三十六年から四十年頃といえば、まだDC‐8と707の時代ですから、太平洋を飛び越す便は全部ホノルルに寄るのです。  ホノルルの人たちは、時間の約束をする時に、 「|パンナメ《ヽヽヽヽ》の|東 行 便《イースト・バウンド》が着く頃……」  とか、 「BOACの|西 行 便《ウエスト・バウンド》が離陸する時どこそこで」  と言うのでした。  積乱雲の浮ぶハワイの空に、色とりどりの尾翼が、飛び上がり飛び降りていました。  あののどかだった島の日系のお年寄りたちは、お元気にお過ごしでしょうか……。 [#改ページ]

 
焼酎党宣言だぜ  初めての鹿児島は、|僅《わず》か二泊三日の旅でしたが、それは素晴らしいところでした。  この頃は和歌山、鹿児島と、ウットリしてしまうような旅が続いています。  旅の女神が私に惚れたのでしょうか。  |出水《いずみ》という熊本の県境に近い町で、 「これは、間違いなく日本一の鮎だ」  と、思わず叫んだ、なんとも|香《かぐわ》しい鮎を喰べ、細く切った刺身のひと切れずつが、口の中で跳ねるような鰺を喰べました。  こんなことを野坂昭如先生にお話ししたら、 「安部、お前はもう治しようもない、未来|永劫《えいごう》そのままの、完全なインポテントだ」  と、嬉しそうにおっしゃるのに違いないのですが、この頃の私は、これまで並以上だった助平パワーを、ほとんど失ってしまったのです。  女に接近し、かき口説くのが、なぜかとても面倒になってしまいました。  今では、呑むことと喰べること、それに映画を見たり本を読んだりするのが楽しみで、少しも面倒ではありません。  この南九州の旅は、まず|日奈久《ひなぐ》の竹輪から始まって、|米《こめ》ノ|津《つ》川の鮎、そして出水の鰺と鹿児島の鯛、とどめはきびなごという、どれを喰ってもそのたびに感に堪えて、 「|美味《うま》い」  と叫ぶようなおかずと、「泉の誉れ」という地の焼酎のお湯割りで過ごしたのです。  六対四の比率でお湯で割ってあったのをグイ呑みについで、大きく口を開けると一気に舌の奥に投げ込むのが私の流儀でした。  こうすると日本酒やワインとは違う独特の豊醇な味が、喉の奥から鼻と胃に拡がっていくのです。  もう、こんな美味いおかずと酒があれば、女を口説いてどうにかなろうなどとは思いもしません。  いい女を見るたびに、 「ああ、この女が俺に惚れて、さっさとホテルの部屋をとって、タクシーを呼んで連れて行ってくれないかな……」  そして風呂に湯を張って、俺を抱き上げると湯舟に沈めて、綺麗に洗ってくれないかななんて思うのですが……。  そんな虫のいいことなんて陣内孝則だってそう年に何度も起こりはしないでしょう。  だからそんなこと、いつでも思うだけで、色事は面倒臭がらずにマメにやらなければ、決して実現になるものではないようです。  南九州の友人で、あくまでタフで血の熱い、元水泳選手の松下さんと、驚くほど千代の富士関に似ている日置さんは、嬉しそうに飲んだり喰ったりしている私に、 「安部ェ、気に入ったんか」  気に入るなんてものではなくて、俺はもう東京には帰りたくねえ、と、私は急に威勢がよくなって叫んだのでした。  その焼酎のお湯割りは、何ともいえず美味かったのですが、それと同時に私は内心でホッとしていたこともあったのです。  それというのも、先日渋谷の餃子屋で棚にあった「|白乾《パイカル》」というシナ焼酎を見て、これは未成年の頃からネギ味噌を|肴《さかな》にさんざん飲んだ懐しい焼酎でしたから、顔馴染みの店の親爺に、 「ネギ味噌で、それを一杯」  と頼んだのです。  受け皿の上にのった厚手のコップになみなみと注がれたそのシナ焼酎を飲もうとして唇のところまで運んだら、 「うっ、グッ」  強烈な臭いが鼻から脳の芯と食道にしみて、思わず白眼をむいてしまった私でした。  若い頃、あんなにガブガブ、足をとられるまで飲んだシナ焼酎や泡盛が、この歳になると、なぜか体が受けつけなくなっていたのです。  それ以来、焼酎を飲めなくなったのでは……と心中、たいへん悲しく思っていた私ですから、|生《き》ではなくお湯割りにした焼酎のうまさに、喜ぶと同時にホッとしたのでした。  そういえば私の父、安部正夫は、今から思うと何とも不思議な晩年でした。  三年前、八十三歳で亡くなった父正夫は、業界で有名なウイスキー飲みでした。  若い頃からウイスキーの、氷を入れない水割りひと筋に呑み続けて、母玉枝の持参金もすべて空壜にしてしまったという男です。  これが、亡くなる四、五年前からピタリと、それまで好物だったスカッチのヘイグを呑むのをやめて、何と焼酎党になったのでした。  炭酸で割った焼酎を、歳をとって力の失せた目を心もちショボショボさせながら、それでもうまそうに、すするように呑んでいたのです。 「まだ六杯も七杯も召し上がるんだから」  母は心配そうに言ったのですが、八十を過ぎた年寄りが呑めれば、何杯呑んでも、これはおめでたいようなことです。  まだ小学校に上がる前のことでしたが、私は、八歳年上の母親代理のような姉と、母が台所で話しているのを確かに記憶しています。 「ほかのお宅のようにハムや缶詰の詰め合わせも、たまには頂いてみたいわ」  母がそう言うと、姉はしきりと|頷《うなず》いていました。  お中元もお歳暮も、私の家ではウイスキーしか届かなかったのです。  幼い私が台所の入口から聴いているのに気が付くと、母が何か妙にうろたえたのは、そんなはしたないことを聴かれたからだったのに違いありません。  押し入れを改造した酒倉にウイスキーをいっぱい詰めた父正夫が、焼酎のソーダ割りをしきりと呑んでいるのに、「それ、そんなに美味いですか」と私が訊くと、父はコクンと首を振って、 「これはなかなかのもので、決して馬鹿にするようなものではない。魚でいえば|鰯《いわし》だ。鯖だ」  と呟いたのです。  そんなことを思い出しながら、しみじみと、けど嬉しく呑んでいたら、南九州の友人は、 「佐川急便で二十本も送ってやらあ」  この人たちは何でも豪快なことを専一に心がける、チマチマとした日本人からはかなり異質な南国の男たちです。  五十一歳になった私は、お湯割りの焼酎と南九州の美味いものを楽しみながら、亡き父を|偲《しの》ぶのでした。明治三十五年生れの男としては、驚くほどの西洋志向だった父正夫ですが、最後は焼酎を美味そうに飲みながら、人生を|了《お》えました。  さて、息子の私はどうなるのでしょう……。 [#改ページ]

 
南の島で夏休み  私はテレビや映画が大好きです。  ずっと見るだけだったのが、二年ほど前から自分自身が出るようになって、すっかり味をしめていたのですが……。 「もうお|披露目《ひろめ》は終ったんだから、テレビや映画はいい加減にして、一所懸命小説をお書きなさい」  と、方々から同じように叱られて、首をすくめた私は、マネジメントに頼んで、俳優「出たがりジョージ」としての出演を、この頃は大幅に絞ったのです。  けど、ほそぼそとでもやっていれば、いい話もあるというもので、NTVの「追跡」で「安部譲二親子の夏休み」という特集をやってくれることになりました。  パラオのコロール島を中心に、私と中学一年の息子が夏休みを楽しむところを、撮影するのです。  息子はチンコロ姐さんに付き添われて、私より五日前に撮影隊と一緒に出発したので、見送った私は、思わずバンザイをしてしまいました。  五日間のチンコロ姐さんのお留守を楽しんだ私は、原稿用紙と資料を詰め込んだ重いバッグを提げて、成田に行ったのですが、けど行くたび着くたびに、本当に腹の立つ飛行場です。  千葉の人は大喜びでしょうが、都心からこんなに離れた国際空港なんて、滅多にあるものではありません。東京湾は充分広いのですから、なぜ羽田を拡張しなかったのでしょう。  空港でも新幹線でも、日本では何か大工事があると、市民の便宜や負担より政治屋|搦《がら》みの金儲けが、第一に考えられているように思えるのは、マイナーな世界に永く棲んだ私の|僻目《ひがめ》でしょうか。  その番組を制作する会社に出入りしている旅行社が、私の四泊する南の島の旅を段取りしたのですが、選んだエア・ラインは、コンチネンタル航空でした。  成田でチェック・インを受付けていたコンチネンタル航空の姐ちゃんに、喫煙席にしてくれと言ったら、全部そうだと答えたので、素晴らしいエア・ラインだと叫んだ私は、コンチネンタル航空の株を買おうと思ったのです。  出発する寸前だったので、買いたくても株が買えなかったのは、御先祖様の御遺徳だったのかもしれません。  往復このエア・ラインに乗った私は、株はよく調べて勝負するものだと思い知ったのでした。  全席|単一《モノ》クラスで喫煙席だと聴いていたのに、乗り込んでみたら、なんと私の席は禁煙席でしたから、すっかり機嫌が悪くなったのも、仕方のないことで、決して私が怒りん坊だからではありません。  野球場や地下鉄の駅、それに飛行機の中で煙草を吸うのは、私たち愛煙家の昔からの既得権です。勿論、女の方がそばにいたら、お断わりするとか、マナーは心得ています。  それをいきなり禁煙にした営団地下鉄や日本航空、それにエア・ドーム球場は、それが企業の体質でしょうが、ヒットラーと同じファッショで、次には何を言い出すか分らない危険な連中です。  それまで吸えたものを、お断わりするのなら、我慢していただく分として三〇パーセントでも五〇パーセントでも、値引きしてお願いするのが、客商売というものでしょう。  煙草は、|官《ヽ》がカスリを取る合法の嗜好品で、マリファナやヒロポンのような禁制品ではないのです。  したり顔で禁煙を強要する手合いへの文句は、さておき……。  グアム島で給油して、さらに一時間半ほど海の上を飛んだら、パラオのコロール島に着きました。  コロール島の高台には、日本陸軍の高射砲と機関砲が一門ずつ、|錆《さ》びて壊れたまま空を|睨《にら》んでいて、私はその脇に立つと、島の周囲の海に見惚れてしまったのです。  岸に寄ったところの浅い海は、透きとおったライト・ブルーですが、少し深くなると、海の底からその色がしみ出て来るような、深みのある輝きのネイヴィー・ブルーに変わります。  そして入江の中は、濃い緑色ですから、初めて見た海の色の美しさに、私は詩を書きたいなと、高校生に戻って女学生と一緒にいるような気持になりました。  感に堪えて海を見詰めている私に、この島の旅行社で働く日系のユリさんが、 「この島の|蟹《かに》がまた絶品なんですよ」  と言って、熱帯樹の根元に潜んでいるというマングローブ蟹と、|椰子《やし》の実の果肉を好んで喰べる椰子蟹、それに月夜の晩に海辺を埋めるほど現われる月夜蟹の、絶妙な美味さを、ニコニコと話してくれたのです。  丘の上に立って、色とりどりの海に囲まれた南の島と、澄んだ空に浮いている入道雲を、仲代達矢を真似たピントがうんと遠くに合っている目で、見詰めていた私でした。  こんな、これ以上は望めないロマンティックなポーズで、出たがりジョージがすっくと立っているというのに、若くてチャーミングなユリさんは、蟹の話ばかりするのです。  野坂昭如さんに、何度も、 「安部、お前は、もう完全なインポだ」  と、決めつけられても、決してめげなかった私ですが、この時ばかりは、自分の若さと性的魅力の失せたことを、思い知らされたのです。  その晩私は、気を取り直すと、猛然とユリさんの替りに、蟹に挑みかかりました。  月夜蟹は女学生の|拳骨《げんこつ》ぐらいの|巨《おお》きさですが、|唸《うな》りながら喰べたほどの味で、相撲取りかレスラーのような巨きな他の蟹も、どれも不思議に大味でなんかありません。  ひたすら蟹をむさぼる私の横で、息子の奴は、フルーツ・バットのスープ煮を睨みつけて拳骨を握りしめていました。  一学期の成績が|非道《ひど》かったので、元ヤクザの父親と、元極道の妻のチンコロ姐さんに、こっぴどく叱られ脅かされた息子です。  父親の私は、行け行けドンドンなのに、臆病で引込思案な息子なので、歯がゆくて堪らず、いつも私はもっと積極的に、戦闘的にと、尻を叩いていたのでした。  このスープの中で黒いゴムのような羽を拡げて、柄の悪い顔で歯をむき出している|蝙蝠《こうもり》を、ここは一番、男らしく喰べてやろうと、息子の奴は思ったのでしょう。  非道い成績で暴落した株を、蝙蝠を喰って挽回しようという息子ですから、大臣や博士は、とても無理のようです。  しばらく息を詰めて、深い大皿の中にいる黒い凶悪な顔の蝙蝠を、必死に見詰めていた息子は、ついに手を伸すと、黒い羽を千切って口に入れました。  目をつむって、眉の間に|縦皺《たてじわ》を寄せながら、|噛《か》んでいた息子は、 「美味いッ、パパも召し上がったら」  と、うめいたのですが、私はそんな挑発に乗るような無邪気なパパではありません。 「蝙蝠は子供にいいんだ」  息子の見せた勇気を、どのくらいの言葉で褒めようかと考えていた私でした。    禁煙席に坐らされた私が、仏頂面で飛んで来た南の島は、最近独立して「ベラウ共和国」というのです。  一万人を二、三千人超す国民のうち、九千人以上が集っているコロール島を、現地の旅行社のユリさんが、自分で運転して、私を案内してくれました。  ユリさんは、それは魅力的な娘さんでしたが、まだ新しい日本製の小型車をゆっくりと走らせたので、せっかちな私はまどろこしくて堪らず、揚句の果てに、 「もしかして、少しでも長く俺と一緒にいたいので、わざとゆっくり……」  なんて思いつくと、もしそうならこれは、最近では絶えて久しくなかったことですから、途端に色めき立った私でした。 「この島は、制限速度が二十五マイル(約四十キロ)なんですよ」  狭い島だから、この速さでも充分なのだとユリさんが言ったのを聴くと、私の浅ましくも哀れな希望は、その瞬間に消え失せてしまったのでした。そう言われてみると、たまに往き交う他の車も、みんなとてものどかに走っているのです。  それでも衝突したり、海に飛び込む車は珍しくもないと言って、ユリさんは笑ったのですが、スピードに限らずどんなことでも、暮らしている環境次第で変わることを私は知っていました。  東京だって四十年ほど前の昭和二十年代には、あのチンチン電車の都電に、|轢《ひ》かれてしまう人がいたのです。  刑務所で一番速いものは、看守の乗っている自転車なので、そんな世界に閉じこめられていた懲役は出所すると、出迎えの車やバスに乗った途端、その速さに仰天して、青くなってしまうと決まっています。  音も匂いも同じことで、価値観や常識、それに美意識だって同じことです。  ユリさんに案内されて登った丘には、四十数年前に日本陸軍の守備隊が据えつけたという、高射砲と機関砲が一門ずつ錆びるにまかせて空に筒先を向けていました。  この美しい南の島で、日本軍は守り、アメリカ軍は攻めて、激しい戦いがあったのです。  私の幼かった頃のことですが、昭和十二年生れというのは、軍歌と日本軍を知っている最後の世代なので、こんな物を見ると遊び気分が消えてしまうのでした。  丘の上から|藍《あい》色の海を見ていたら、沢山浮んでいる入道雲の中には、その平たい底と海面の間に、|靄《もや》か蚊柱のような灰色や黒灰色のものが、立ち|籠《こ》めているのに気が付いた私です。 「あれは、あの雲からスコールが降っているので、濃く見えるものほど激しい雨なのです」  この辺の島では、スコールを水槽に貯めておけば、生活に使う水はそれだけで充分なのだと教えてくれました。  その日の午後、私と息子は無人島のカヤンガル島に、撮影隊とモーター・ボートに乗って渡ったのですが、その途中でトローリングをしたら、ほんの一時間ほどの間に、一メートル近い巨きな|鬼かます《バラクーダ》を、私が二尾に息子が一尾釣りあげたのです。 「釣らないと、息子さんと焚火をして魚を焼いて喰べるシーンが、撮れなくなるから、安部さん、脅してでもなんでも釣ってくれないと困ります」  そんな無茶苦茶なことを言っていた撮影隊のディレクター氏が、見事な三尾の鬼かますを見ると、醤油は持ってきたけど、しまった、わさびを忘れた、と|喚《わめ》いたので、皆は、凶悪な顔になったのです。  刺身を|諦《あきら》めた私たちが、焼き魚にしようと流木を集めて、苦心して焚火を燃やしつけているうちに、陽は水平線に沈んで夜になりました。  皆見上げたまま息を呑んで立ち尽してしまったほど、夜空には一面に星が輝いて、それは見たこともない圧倒的な美しさだったのです。 「パパ、ほら、あれが南十字星で、あっちのがサソリ座です」  なぜか星座に詳しい息子は、首を直角に折って見上げたまま、弾んだ声で言ったのですが、この子よりほんのひとつだけ歳が上の中学二年生の時に、ヤクザに憧れてしまった私なので、星のことなんかまるで知りません。  それどころか、スキーもスケートも履いたことがないし、テニスもゴルフも知らないのですから、自分の惨めな青春を想うと、身から出た錆なのに、喜んでいるわが息子が|妬《ねた》ましく思えたのは、なんということでしょう。 「ウム、けどな、この空の星は今から八年前に、パパがそっくりみんなママにあげちまったから、お前の星はひとつもないんだぜ」  私が意地の悪いことを叫ぶと、息子は腹を立て砂の上で地団太を踏み、 「ああ、パパが小説家でよかった。総理大臣や大統領だったら大変だったぞ……」  と喚いたのですが、それを聴いた私は笑いながら、世界の国々の首相や大統領、それに書記長や元首といった方たちが、息子の信頼に応えてくれることを祈ったのでした。  翌日シュノーケルを着けた私と息子は、魚や|烏賊《いか》の泳ぐ綺麗な海を、一日中潜ったり浮いたりして、貝やヒトデを拾ったのですが、コロール島の入江の奥で、壊れて沈んでいた日本海軍の水上機を見たのです。  ボートに上がった私は、平和の大切なことと、その平和を守るために男が闘わなければならないことも、残念だが今の世の中ではあるかもしれないことを、息子に話して聴かせました。  息子は神妙な顔で聴くと、|頷《うなず》きはしたものの、どうもそんな事態を想像出来たようには思えなかったのです。  と、これは大事なことなのですが、ひとまずさておき……。  この旅行に出る前に、南太平洋を舞台にした『遠い海から来た|COO《クー》』で、直木賞を受賞されたほど、南の島にはお詳しい景山民夫さんにお目に掛ったら、 「パラオは、一番海が綺麗ですよ」  と、おっしゃったのですが、他の海は知らない私なのに、これは一番で間違いがない、と納得したほどの美しい海でした。  私は僅か数日のうちに、これまでの五十年間で泳いだ時間を合計したよりも、永いと思えるほど海に浸って、たちまち赤く陽に焼けると、すぐ黒こげになったのです。  そして、まず鼻の頭とおでこから皮がむけ始めたのですが、|流石《さすが》の私が息が詰まるほどのショックを受けたのは、なんの気なしに下を見たら、おなかの皮がむけていたことでした。  他の方よりも、いくらか太めだとは自分でも承知していましたが、顔と一緒におなかに陽を受けたのを知ると、慌てたり呆れたりしてしまったのです。 [#改ページ]

 
ロスの夜は更けて  取材でロサンジェルスに飛んで来た私を迎えてくれたのは、いつもながらの|可成《かなり》ユニークな仲間たちでした。  朝六時から海老の冷凍工場で働き、昼過ぎから夜七時半までは、レストラン「シーフード・アイチャンズ」で揚げた海老をメキシカンに喰わせ、週末と祝日も休まず、観世音寺の住職をつとめる元舎弟の由佐嘉邦。  この大変なお坊様の|梵妻《だいこく》は、鉄火で陽気な九州女の恭子ちゃん。  三十八口径の拳銃弾が二発当って、傷跡が凄味を増しているこの大男も、恭子ちゃんにはまるで|敵《かな》いません。  時々ブツブツ呟くのが精一杯なのだから、私は女房の方を手下にすれば、よかったと思ったのでした。そうしたら私も、親分・組長になれたかもしれないと思うと、それにしても人生は難しいと溜息が出ます。  そして九カ月の実刑判決が、控訴審で僅か二十日になったので、それまで半狂乱と虚脱を繰り返していたのに、途端に朗らかになって顔もふっくらとしたのは、後藤リッチーです。  昭和三十九年に解散した安藤組で、最年少だったこのおませな坊やを、先日お目に掛った元親分の安藤昇が、 「ああ覚えている。あいつは小学生なのに煙草を吸ってた呆れた坊主だ」  と叫んだのですから、ギネスブックに「ワースト」という項目があれば、必ず載るような、形容の仕様に困る男でした。  髪に白い物が混っている最年長のヨシ・中島は、これも私が驚いてしまうほどの経歴を秘めた怪人です。  関西系の大物総会屋で、会社関係者を震えあがらせた拳法の達人のヨシ・中島は、日本製カンフー映画に何本も出演して、鮮やかな必殺技を見せたものです。  私とは昭和四十七年に、一緒にニューヨークにジャズを聴きに行った仲なのですが、懲役に続く永い|雌伏《クスブリ》の間、音信が絶えていたのでした。  この長身でハンサムな元海軍特攻隊は、敢然として新天地をカリフォルニアに開こうとしていて、前回の取材旅行の時に出会った私たちは、跳びついて再会を喜びあったのです。  眼鏡を掛けた細くて黒い青年は、S社の都築さんで、私の一番信頼する編集者のひとりですが、なんと酒はまるで駄目でした。  野蛮な気合いをほとばしらせる四人に対して、ひとりだけ静かな都会の知性を漂わしていたのは、私立大学応援団OBの集りに、仕方なく部長をしている国文学の助教授が、心配を隠して列席しているといった印象だったのです。  日が暮れると集った五人の日本人の男と、ひとりの九州女は、これからイースト・ハリウッドの「マネー・トリー」という店に、繰り出そうとしていました。  日本デューク・エリントンの会の会長をしていたヨシ・中島は、ロサンジェルスに着いて一年も経たないうちに、ジャズ・クラブの主になり、プレーヤーたちと知り合い、マフィアの男たちとも顔馴染みになったのです。この歳の日本の男でこんなに気軽な社交家なんて、そう滅多にはいません。  二台の車に分乗して出発したのですが、由佐嘉邦の運転する自慢のキャデラックのハードトップには、私と恭子ちゃん、それに都築さんが乗りました。  日本脱出、国境突破失敗、拳銃弾二発命中、国外退去、強行入国、裁判、入獄、保釈金工面、昼夜無休労働、得度、観世音寺、猛妻、激闘、子分援助、兄貴再会と続いた由佐嘉邦の必死の奮闘も、どうやら|目処《めど》がついたようでした。  中古とはいっても三台の巨大なキャデラックと、パサディナの外れにある|洒落《しやれ》た二階建の家。怖ろしいけど頼りになる女房の恭子と、それに九州の実家で順調に成長している三人の子供たち。  仕送りを続けている由佐嘉邦は、円高に参っていて、小学校の用務員のような日本の総理大臣が、自分のように海外で稼いでいる国民のことを少しも考えないと、|俄《にわ》か作家の元兄貴が返事に困るようなことを、フロント・ガラスに向かって喚いたのでした。 「マネー・トリー」は、ステーキが名物だというジャズ・クラブで、片側は長いカウンターになっていて、反対側にはテーブル席とボックス席が、二列に並んでいる広い店です。  奥のキッチンの壁のところに、グランド・ピアノが据えてあって、その晩はジャック・シェルドンとハリウッド・ヒーローズが、出演していました。  トランペットを吹き鳴らし、渋い声で|唱《うた》うジャック・シェルドンは、ヨシ・中島の拳法の弟子で、ふたりは毎朝公園で|稽古《けいこ》をするのですが、 「可愛い娘が、通りかかって、わたしにも教えて……なんて映画みたいなことは、毎日待っているのに起こりもしない」  と言ってヨシ・中島は笑ったのですが、数年前までは豊かな日本でも、|贅沢《ぜいたく》の限りを尽した男なので、|裸足《はだし》でする公園の稽古は、なんとも|侘《わび》しく思えるのでしょう。  喉を鳴らして水割りを呑むと、グラスを置いて、一瞬淋しそうな顔をしたのですが、すぐ気力を取り戻して、 「今は道場もない。金もない。何もないけど、なあにナオちゃん、次に来た時は、楽しみにしていなさいよ」  と気合いが入ると、ヨシ・中島の顔が昔の|精悍《せいかん》さを取り戻したので、これなら大丈夫だと安心した私は、ひと息にハイ・ボールを呑み干して、二十年前はさぞや……と思わせるウェイトレスに、お代りを頼んだのでした。  ジャック・シェルドンの吹くトランペットは叫び、泣き、そして|咽《むせ》び、ピアノは唱い、ギターは弾み、ドラムスが響き渡り、ベースがうめき続けるうちに、若い黒人娘のヴォーカルが加わります。  前刑をつとめる前は、ジャズ好きが昂じて青山で、前妻にジャズ・クラブをやらせていた私です。本当に久し振りに聴いた素晴らしい|生演奏《ライブ》に、私は身体中が音に浸ってしまいました。 「あーッ、サラ・ヴォーンが来たぜ」  ヨシ・中島が嬉しそうな声を出すと、ちょうど曲の合間だったジャック・シェルドンも、マイクに近づいて、 「皆さん、ミス・サラ・ヴォーンです」  サラ・ヴォーンは、白人の運転手にエスコートされて、ふたり用の壁際の席に坐りました。  ジャック・シェルドンが、ミス・ヴォーン唱って下さいと叫んだので、私も席から立って顔を突き出すと、 「ミス・ヴォーン、プリーズ」  と、瞳と声に想いを籠めてお願いしました。  気軽にハリウッド・ヒーローズに加わったサラ・ヴォーンは二曲唱ってくれたのですが、感動した私の頬を涙が滑り落ちて行ったのです。  ヴォーカルを聴いて泣いたなんて、いつ以来のことでしょう。 [#改ページ]

 
ペットを舳先で吹かないで  あれは今から三十四年前の、昭和二十九年のことです。  その頃はまだ日本が貧乏で、外国に行きたくても外貨の枠が、高い壁のようにそびえていて、難しかったのです。  ほんのローティーンでぐれ始めた私は、そのままにしておけば、赤城の初等少年院に、|抛《ほう》り込まれるということになってしまいました。それでもまだいくらか私に希望を持ってくれた両親は、八方手を尽して、私を外国に逃がしてくれました。  十七歳になった私は、それまでしばらく住んでいたロンドンを引き払うと、働いて溜めた二百万円ほどの大金と一緒に、今度はハンブルクにプロペラの旅客機で飛んで行ったのです。  その一年半前に渋谷の安藤組の兄貴、阿部錦吾から学校の寄宿舎に、大袈裟な巻紙の手紙が届いて、私を正式に一家に加えると言って来ました。 「海外にあっても任侠道を守り、決して笑われることのないよう、渡世を心掛けて、一家一門の名誉を高められたい」  なんて筆で書いてあるのを読んでいたら、思わず嬉し涙が湧いて来て、それを見た隣りのベッドのイランから留学に来ていたパーレビの親族という青年は、 「なんだその縦に読む字の手紙は……、日本の女でも逃げたと書いてあるのか」  と、言いました。  十四歳で始めた修業が、やっと実を結んで、帰国したらすぐ|盃 事《さかずきごと》をして、安藤組の若いもんになるのです。  どうせ日本に帰るのなら、自動車で香港まで行って、そこからは船に乗って帰ろうと思った私は、働かせていただいていた朝日新聞のロンドン支局長、森恭三さんに、 「ボンからずっとヨーロッパ、東ヨーロッパ、そしてギリシャ、トルコにアラブ諸国、インド、ビルマ、タイ、中国と、ビザを取るのに力を貸して下さい」  友邦西ドイツの首府から、香港・東京までの大自動車旅行をやるのだと、私が言ったら森恭三さんは、世界地図に何カ所も赤いインクで丸を付けて、 「この印のとこから、写真と記事を送りなさい。それで旅費は出るだろう」  車は自分で買うと私が言うと、支局員のひとりが、車はワーゲンにすれば一番パーツが豊富で、困る場面が少ないと教えてくれました。  中で寝られるしパーツも積めるから、ワーゲンのワゴン車にしようと決めた私は、使う暇もなく働いて、二百万円も稼ぎ溜めました。その虎の子の大金を持って、西ドイツに着いたのですが、結果を先に言えば、結局私はその計画を止めにしたのです。  ハンブルクに来た私は、飾り窓や娼家に入り浸るうちに、ワゴン車の新車は買えなくなってしまったのです。  それなら中古でも充分だと遊び続けるうちに、ワゴン車の中古からビートルの中古に変わり、ついには三輪のメッサーシュミットになったのです。  その段階で、サッと女遊びを止めにして、車を買って出発していたら、きっと途中でくたばったと思います。  そうだとしたら作家安部譲二と、俳優「出たがりジョージ」は誕生していないのですから、トコトン続けた女郎買いも、あれはやって良かったのだと今になって分りました。  そしてついに、少し北アフリカの血が入った十代の若い女にのめり込んで、メッサーシュミットや極小のBMWやハインケルはおろか、自転車も買えない素っからかんになったのです。  仕方がないので、ハンブルク港に入港して来た日本郵船の貨物船、粟田丸に、船長に頼んで乗せてもらうと、私は雑用をさせてもらいながら、日本の神戸港に向かいました。  この航海は、ハンブルクを出港すると、英仏海峡を通って地中海に入り、マルセーユからアレキサンドリア、スエズに寄港して、スエズ運河から紅海に出ます。  そしてアデンに寄ると、暑いインド洋を渡ってマレー半島のポート・スエッテンハム、シンガポール、そしてマニラから香港に寄港して、最後が神戸港という大航海でした。  まだ十七歳だった私は、呆れられながら船員と花札を引いて、小遣をヤリクリしながら地球儀の上を、小さな虫が|這《は》うように日本に近づいて行ったのです。  若くても渋谷の安藤組だから、|素人《ネス》とは違うんだという気持が、|勝負を決めた《ヽヽヽヽヽヽ》のかもしれません。  勝った金で、マルセーユで安物のトランペットを買ったのです。  ピラミッドを見に行ったカイロでは、今の私を見たのでは信じられないかもしれませんが、大金持のエジプト|爺様《サマジイ》のところへ、十五歳の時に嫁に来て、もう未亡人になったという、十七歳の美しいインド娘と恋に|陥《お》ちてしまいました。  インド娘は、死んだ爺様に比べて、輝くような私の若さに仮死状態になると、硬度を|讃《たた》える言葉を詩のように、呟き続けたのです。暑さとそれに|愛《いと》しさに、私はこの時脳味噌が半熟になってしまったので、それからは数学がまったく駄目になりました。  アデンでは、有史前に作られたという壮大な上水道を見て、すっかり魅せられた私は、大学では民族学か考古学をやろうと決めたのです。  渋谷から巻紙は届いたものの、まだ発想がヤクザになっていなかったのでしょう。  ポート・スエッテンハムとシンガポール、それにマニラでは、命を賭けた女郎買いをしたのですが、自慢するようなことではありません。  今ではすっかり豊かになって、世界中の国から愛想笑いをされる日本なので、三十四年前のこんなことは、信じられないかもしれませんが、本当のことです。  当時この三つの港町の対日感情は、戦争中に日本兵のやった鬼のような蛮行のせいで、最悪でした。  日本人と分れば、土地ッ子は敵意をむき出しにして襲いかかって来るので、護衛なしでは船員の上陸は許されなかったのです。  香港を出港して母港の神戸に向かう粟田丸は、自然に機関の回転数があがるのも毎度のことで、予定より神戸港に入港するのが早くなります。  これをホーム・スピードと言うのですが、私は普段より激しく白い波を散らしている|舳先《へさき》に立つと、月明りの下でトランペットを吹き鳴らしました。  カイロで泣きながら諦めた自分とインド娘の、鎮魂曲のつもりだったのですが、しばらく吹いているとボーイがやって来て、船長室に来いと言ったのです。  何を叱られるのかと、首をすくめて入って来た私に、船長は、 「下手糞なラッパは舳先では吹くな。音が本船を縦に通り抜けるから、みんな堪らないんだ。ラッパは船尾で吹きなさい」  海に落ちた俺のトランペットの音は、潮に乗ってカイロまで届かないかな、と考えながら、私は船尾に急いだのでした。 [#改ページ]

 
もしやあの娘は  いよいよソウル・オリンピックが迫って来た頃から、テレビでは韓国の様子を伝える番組が多くなりました。  私は、韓国には昭和四十七年頃に、何度か旅行したことがあるのですが、地方はともかく、ソウルや他の都会が変わったのは、驚くほどです。  ビルが建ちスタジアムが出来て、私の知っている十五年ほど以前とでは、街の様子がまったくというぐらい変わっていました。  テレビでどこが映っても、見覚えのあるところがまるでなかったのですから、しばらくの間に、韓国の産業界がどんなに発展し、力をつけたかがこのことでも分ります。  人並みはずれて嫉妬深い私が、こんなに素直に、お隣りの国の繁栄を認めたのは、テレビに映った都会の|絵《ヽ》に見覚えがまるでないので、もしや健忘症では……という怖れが一瞬頭に浮んだからかもしれません。  五十歳を過ぎると、若い頃は気にならなかったこんなことが、急に衝撃的に感じられるようになるので、毎日ショックを受けながら暮らしているのですから、これは堪りません。  ちょっと物忘れをしたり、お目に掛った方のお名前が出て来なくて、ヘドモドすると、 「もう駄目だ。俺はボケた」  と、思ったりするのです。  そんなショックと怖れの反動が、自分でも苦笑するような現われ方をするのです。  他人に賭けを挑んで、巻きあげようとするのも、そんな現象のひとつです。  私は、放送局や出版社とか、自分の出没するところで、親しい人に会うと、必ず、 「ねえ、ソウルで、日本はいくつ金メダルを取れると思う……」  と持ちかけて、賭けようとしたのですが、戻って来た答えで最高だったのは、五個というのがひとりいただけで、他はみんな三個以下でした。  私は、良くて二個、悪ければナシ、と思っています。結局五個という|鴨《かも》を、一羽|掴《つか》まえただけだったのです。  いつもながら、私の周囲にいる人たちの目は、厳しく研ぎ澄まされていて、スポーツ新聞とはまるで評価が違いました。  スポーツ紙のはやし立てている自転車の娘さんにしても、世界のレベルとは大差があるし、シンクロナイズド・スイミングは、銀を取れば大殊勲で、銅でも大健闘というのが冷静な評価でしょう。  高層ビルが驚くほど増えていたことでも、韓国の繁栄と変貌がうかがえるのですが、それも韓国人の勤労意欲と向上心が大きく寄与したに違いないと、テレビを見ていた私は思ったのでした。  それというのも、昭和三十五年から十年間ほど、ヒョンなことで私は、東京でも在日韓国人の多い町に、住んでいたからです。  私の友人だった韓国人は、金さんも李さんも、とにかくよく働く方でした。  いつでも働いていて、けど社会の動向を探ることは忘れずに、より効率のいい仕事を研究していたのです。  研究し、検討して結論が出れば、在日韓国人たちは永く続けたそれまでの仕事でも、ためらったりはせずに、無造作に新しいことにかかるのでした。  |贅沢《ぜいたく》も控えて、古くて暗い狭い家に住んで、仕事となると、蓄えた金を注ぎ込むことに、ためらいも怖れもしないのを何度も見た私は、教えられることが多かったのです。  研究して結論を出せば、それを信じて全力をあげるのは、理屈では分っていても、なかなか決断し実行するのは難しいことでした。  それまで二十年以上も続けて来た廃品回収業でも、突然積み重ねられていた冷蔵庫の山が片付けられ、古タイヤがトラックで運び出されると、すぐチャチなお城のような建物が完成して、「ホテル〇×」なんてネオンが|点《つ》くのです。  未練もなく転業を即座に決断するのに感嘆していた、若い日本人の私を見て、戦争中に無理矢理日本に連れて来られると、九州の炭鉱で奴隷のように扱われたと、以前話したことのある金山の爺様は、 「なんでもその方がいいとなったら、すぐやらないといけないよ。贅沢は言えない、|選《え》り好みも好き嫌いも、言ってなんかいられないよ」  と、話してくれたのでした。    見覚えのある風景は、いつまで見ていても画面に映りません。  盛り場を行く人たちの服装にしても、私の好きなチマ・チョゴリを着ている方が、これは確実に少なくなっていて、垢抜けた洋装が目立ちました。  チマ・チョゴリは、ベトナムのアオザイと並んで、私のお気に入りです。  他の衣装だとすぐはぎ取ってしまうのに、このチマ・チョゴリとアオザイに限って、いつまでも着せたままで、ウットリ眺めていたものだ、と言ったら、信じてもらえるものだろうか、という考えが、その時フッと頭に浮んだのですが……。  韓国の陸上競技の選手が画面に映ると、私が以前密かに想った方に|クリソ《ヽヽヽ》だったのには、胸がキュンと鳴って、詰まったようになってしまったのです。  日本の大学を卒業したそのミス李は、それはチャーミングな方でした。  昭和四十五年頃のことでしたが、スラリとして姿のいい方で、お顔も美しくしかも知的で朗らかなのです。  話す時に選ぶ言葉も、適切で見事でしたから、これは吟遊詩人だと私は思ったのでした。  籍に入れた女房がいても、父親が丸暴の係長で、怒らせたら面倒で|不味《まず》いという愛人がいても、いい女に出会って惚れてしまえば、一切構わずに恋を打ち明け、愛を求める私です。  それなのにこの時に限って、私は、自分の恋心を忍びに忍んだのですから、これは|赤い雪でも降るような《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことでした。  だからこの稀に見るほど完璧で魅力的な韓国娘は、煙を噴きそうな私の恋心もついに知らないまま、ある日アメリカに行ってしまったのです。  たった一度、とても行儀のいいボサノバを一緒に踊ったことだけが、私の思い出なのは、私がその頃していた暮らしが、それまで相手の女を決して倖せにしなかったと、自分で知っていたからでした。  |もし《ヽヽ》と言い出したら、切りがないと承知していても、あのミス李を思い出すたびに、私は、もしあの時自分が堅気だったら……と、思ってしまうのです。  身体の中から静かに発光して、その光が肌を内側から照らしているように見えたのですから、あの方は、かぐや姫の子孫だったのかもしれません。  今頃どうしていらっしゃるのか、もしやあのトラックの選手は、娘さんかもしれないと思うと、私はアナウンスに耳を傾けたのです。 [#改ページ]

 
『鉄道大バザール』出発前夜  途方もない御褒美をいただいたので、川崎のチベットにある安部家は、大袈裟ではなくパニック……それも|可成《かなり》漫画チックな、真っ只中にありました。  うちの百四十七センチのチンコロ姐さんは、あくびをしていないと〇・七センチ低くなってしまうので、正確に言えば百四十六センチと三ミリなのに、 「イヴニングは、要るのかしら……」  と呟きながら、マッチ箱より小さいキャラメル・ハウスの中を、昂揚した表情で、ウロウロしています。  その御褒美とは、パリからベルリンを経由して、モスクワからシベリヤを通って北京、そして香港までというオリエント・エクスプレスの、鉄道大旅行でした。  二万キロを二十二泊二十三日間で走るのですから、これはこんな機会でもなければ、一生御縁のなさそうなスケールです。  ペアで……と聴いた私は、その途端に、山田詠美さん、石田えりさん、三雲孝江さん、そして岡田奈々ちゃんと、|万華鏡《まんげきよう》(懐しいですね……)でも|覗《のぞ》いているように、頭の中は美女の乱舞になってしまったのでした。  さあ、ウチのチンコロ姐さんを、どう|欺くらかし《ヽヽヽヽヽ》て……なんて|絵図《ヽヽ》のトレースにかかろうとしたら、 「他の方は皆さん御夫婦で……」  と、阪急交通社に先制のパンチを喰らったので、もしやウチの奴の大作戦ではないかと、私は憮然としながら首を|捻《ひね》って、きらびやかな万華鏡も壊れてしまったのです。  ヤクザだった頃、前妻の遠藤|瓔子《ようこ》のことは、本宅がそこにあったことから「|鵜《う》の|木《き》の姐さん」、そして他にも「赤坂の……」とか「三茶の……」なんて方々もいて、私の部下はそんなふうに呼んでいたのですが、現在の正妻まゆみはなぜか「チンコロ姐さん」でした。  これは陽気で気のいいまゆみが、私に比べると、背がほぼ一尺ほども低くて、相対的にアンヨの長さも短く、アヒルさんのように見えたからに違いありません。  小さいものはチャボでも栃剣でも、なんでもみんな威勢がいいと決まっているので、それを正妻にしてしまった私は、しかも堅気になったのですから、毎日それは難儀な日々を過ごしています。  まゆみは元極道の妻ですから、気の強いことと勘の鋭いことは無類で、私にはわが家が、東京地方検察庁チベット支部ではないかと思えるほどです。  つい先日も、朝になって家に帰った私に、 「今まで、何をしていたの……」  と、ゴロツキ時代は決してしなかった詰問を、いきなりして来たのには面喰らってしまいました。  博奕打ちが仕事をするのは、おおむね夜ですから、朝になって家に帰るのは当り前です。こんなことを言われるのは、私たち夫婦の習慣にはまったくないことでしたから、いくら亭主が作家になったからといっても、これは欺し討ちです。  困った私ですが、けど|咄嗟《とつさ》に、 「お爺さんが二階で寝てから、下の仕事場で編上靴を一足作ってあげたら、朝になった」  と、まだぐれる前に、童話で読んだことを言ってみたら、まゆみは飛びあがって私のボディに、六十キロ級の選手のパンチを、思い切り打ち込んだのです。  六十キロ級といえば、ガッツ石松が現役の頃のクラスですから、五十歳を過ぎた私のしのげるパンチではありません。  こんな騒ぎの真っ最中に、二万キロの大旅行のお話をいただいたのです。  私は、その間の連載の書きだめとか、テレビのレギュラー番組を丸三週間どうするかといった問題で大変だったのですが、まゆみは、近所に住んでいる母親に、 「二十二日間、ここにお父さんと一緒に住んで、猫と息子の面倒を見てちょうだい。いいえ、一番手のかかるナオは、わたしが連れて行きますから、大丈夫よ」  と、一本電話をしたら、それで出発前の手配は全部すんでしまって、後は、イヴニングの心配だけでした。 「姐さん、肩を出したらロシア人が攻めて来て、日本が迷惑ですぜ」  とか、 「肩なんて出したら、そのままツルリと脱げちまうし、それに彫物が見えちまいませんか」  なんて、私の言いたいことを、かわりに言ってくれた若い衆は、みんな六十キロ級のパンチを必死にかわすことになりました。私のようにタフならともかく、普通の男では、もし当てられたら入院もののパンチです。  成田からパリまでは飛行機で行って、そこからオリエント・エクスプレスに乗るのですが、私には昭和十六年に通った懐しい道中でした。  その頃ローマに住んでいた私の家族は、日本に帰ろうとしたのですが、もう地中海を通ってインド洋を渡って行く海路は、危険だったので、ベルリンからシベリヤ鉄道に乗ったのです。  満州のマンチューリまで、たしか一週間は走り詰めだった汽車の旅でしたが、まだ幼かった私にも断片的な記憶は、沢山残っています。  |真逆《まさか》それから五十年近く経って、チンコロ姐さんに脅かされながら、同じコースを旅することになろうとは、いくら夢見勝ちな私でも、これは思いもしなかったことでした。  それもこれも作家になれたからで、博奕打ちとチンコロ姐さんの夫婦では、こんな豪華な汽車の旅なんて、出来たわけもありません。  四十五組の御夫婦に限定されていると、旅行社の言うこの大旅行に、私たち夫婦をやって下さるのにも、実は、わけのようなことがないわけではなかったのです。  前刑で府中刑務所に服役していた時、私は叔母と称していた前々妻の田宮光代に、差入れてもらった当時のベスト・セラー、ポール・セローの『鉄道大バザール』を読んで、 「このくらいなら、俺にも書けそうだ」  と、不遜なことを書いた手紙を田宮光代に出したのでした。御褒美を下さった方はそれを御存知だったのです。 「ムム、言ったことには報いがある、天にした|唾《つば》は、自分の脳天に落ちて来る」  私が顔を引き締めて気張っていると、愛妻のまゆみは、ニコニコとそばに寄って来て、 「矢張りイヴニングはやめにして、わたし和服にすることにしたわ、安心したでしょ」  生れて初めて書こうとしている紀行文に、まなじりを決している亭主の前で、チンコロ姐さんは、それは楽しそうでした。 「それがいい、オベベがいい……。肩も出ないし足の長さも全部隠れる」  ウッと息が詰まったのは、またボディ・ブローを打たれたからでした。 [#改ページ]

 
十三年目の再会  熊本に行って、昔の部下の吉村敬介に再会する日が近づくと、私は期待と不安が入り乱れて、落着かなくなりました。  あの男のことだ、何年か前に開店したレストランを、きっと繁盛させたに違いないと思いながらも、吉村敬介のやりきれなさそうな顔がすぐ頭の中に浮んだりするのです。  運命を分けあって過ごした女や部下は、私と別れてからも心豊かで幸せな暮らしをしてて欲しいので、久し振りで会うとなると、どうしているのか心配なのでした。  こんな私の落着かない様子を見れば、|家《うち》のチンコロ姐さんは熊本に女が出来たとか、女と一緒に行くのではないかと、あらぬ疑いを掛けるに決まっています。  けど、私が震えていたのに、なぜか厳しい追及は始まりませんでした。 「あれ、なんで普段だとすぐパクられるのに、変だな。|真逆《まさか》男が出来て、気がそっちに行ってるんじゃなかろうな……」  熊本に向かう機内で、急に慌てた私はそう呟いたのですが、どちらの御夫婦もこんな毎日をお過ごしなのでしょうか。  熊本に着くと、すぐに地元のテレビ局のアフタヌーン・ショーに出演しました。そして、講演とサイン会を|了《お》えると、もう夕飯の時間でした。  地元の放送局の方たちに連れて行っていただいたのは、吉村敬介が兄弟でやっている「ブロス・よしむら」というレストランです。  私が店に入って行くと、カウンターの中には十三年前と変わらない小柄な吉村敬介がいて、下から|顎《あご》を突き出すように、紅い顔を近づけながら、 「親爺さん……」  と|呻《うめ》くように言いました。  血の熱い男なので、すぐ目が潤んでしまったのです。  昭和五十年に、私が警察に逮捕されて、そのまま府中の塀の中に|吸い込まれ《ヽヽヽヽヽ》たので、部下だった吉村敬介は故郷の熊本に帰りました。  そして昭和五十四年に出所した私が、足を洗うと知らせると、吉村敬介もそれからは時々電話で、近況を知らせてきました。だから、ヒルトン・ホテルで年季を入れた弟と一緒に、六年前にこの店を開いたのを私は知っていたのです。 「ブロス・よしむら」はカウンターだけの細長い店で、入口に寄ったところに、ガラス張りの調理場があって、きちんとコック服と白くて高い帽子を身につけた弟さんが、私を迎えてくれました。  十人も客が坐れば満員という、兄弟ふたりだけでやっているレストランですが、私にはひと目で、|可成《かなり》な仕事をしていると、察しがついたのです。  弟さんの風格で、腕が分ります。  使っているグラスと、ナイフ・フォーク、そして壁に貼ってあるメニューを見て、私にはこの小さな店のやっている仕事の程度が分りました。  それに、いかに地方とはいえ、メニューの値段が格安なことも私には嬉しかったのです。  高ければ美味いのは当り前で、それをいろいろ工夫して、高い店と同じ味と内容で値段を安くするのが、いい仕事なのだ、というのが昔からの私の持論でした。  これは今まであまり書かなかったことですが、私の生れついての喰いしん坊が高じたのか、永く無頼に過ごす間にも、機会のあるたびにレストランのサーヴィス・マンとしての腕を磨いたのです。  夜学の高校に通っていた頃は、新丸ビルのポール・スターでベーカーの見習いをしながら、昼飯時になると、コック場のパントリーをつとめました。  ホテル学校も卒業していますし、日本航空に潜り込んで国際線のパーサーをしていた頃は、もっぱら外国の程度の高い仕事をしている店に喰べに行って、その技術を盗んだのです。  見よう見真似か、好きこそ物の上手なれなのか分りませんが、昭和四十年頃の私は、レストランのサーヴィス・マンとして、当時では可成高度な専門技術を、いつの間にか身につけていたのです。  だから、安藤組が解散した翌年の昭和四十年に、私は田宮光代と一緒になると、青山で「サウサリト」という小さなレストランを開店したのでした。  その店を作っていた途中で、調理場の設備に金を掛け過ぎて資金が足りなくなった私は、小佐野賢治さんに電話をすると、図々しくも百万円貸して下さいと言ったのです。  というのも、かねがね小佐野賢治さんが、私のことを、まともにやれば日本で五本の指に入るほどの腕だとおっしゃって下さっているのを、知っていたからでした。足を洗ったのを機会に、レストランをやるのだと言えば、面識もあることだし、貸して下さるかと思ったのです。  電話に出て下さった小佐野賢治さんはいきなり、貸さない、と最初に結論をおっしゃってから、 「そんな乏しい資金で仕事を始めても、ロクな仕事は出来ない。それより、豊富な資金でいい仕事をしている俺のハワイのホテルで、存分に腕をふるってみたらどうだ」  と言って下さったのに、私は牛の尻より鶏の頭になるのだと喚いたのです。  鶏ではなくて、ミミズの頭だろうと、小佐野賢治さんが呟いたのは、「ミミズの直ちゃん」という私の|綽名《あだな》を、からかわれたのに違いありません。  吉村敬介が、腕っこきの弟さんとふたりでやっていた小さな店は、間違いなく鶏の頭で、それも錦糸鶏か尾長鶏でした。  |鱚《きす》のマリネ、すっきりしたトマト・ソースの五色ムース、ほど良い大きさの|鮑《あわび》の蒸焼きは、丸ごと絶妙なバタ・ソースの海で泳いでいたのです。  そしてミディアム・レアのロースト・ビーフ、手で千切って酢油を混ぜたグリーン・サラダ、洋梨のタルトは勿論自家製で、デミタス・コーヒーは香り高いものでした。  身内|贔屓《びいき》ではなく、これほどの料理は、グルメ・ブームに沸きかえっている日本でも、そう滅多には喰べられません。  いい仕事をしていたのに喜んだ私が、心から褒めたので、吉村敬介はもうほとんど涙をこぼさんばかりでした。  閉店してから吉村敬介と私は、上月晃さんの弟さんが始められた、とても素敵な「新屋敷」という料理屋さんで、積る話で酒を呑んだのです。  吉村敬介は、一枚の絵葉書を出すと、覚えているかと私に訊きました。  前刑を了えた直後の日付けのその絵葉書には、私の字で、自分の体力と気力がまだ若い者に負けないかを確かめにしばらく旅に出たのだが、お前もしっかりやれ、と書いてあったのです。 「吉村敬介、君は充分しっかりやって、凄い仕事をしているぜ。嬉しいよ」  私が涙声で言うと、小柄な四十四歳の熊本人は、真っ赤な顔をクシャクシャにして、自分の真上の天井を睨んだのです。  そうしないと、涙がこぼれてしまうからでした。 [#改ページ]

 
父のダッフル・コート  |納《しま》ってあった冬の衣類を、今年もチンコロ姐さんが出して来る季節になりました。  ハンガーに掛けたコートやジャンパーが、どんどん鴨居に吊るされるのを見ていたら、なぜか私は九年前の昭和五十四年の秋に、前刑を|了《お》えて出所した時のことを思い出したのです。  帰って来てみると、私の残していった背広や衣類は、兄弟分が全部クリーニングに出してくれていて、一着ずつビニール袋に入れて|巨《おお》きなダンボール箱に、キチンと納めてありました。  クリーニング代だけで、結構の中古車が買えるほど払ったぞと、兄弟分が苦笑したほどの数だったのは、私の着道楽のせいだけではありません。  塀の中に|吸い込まれる《ヽヽヽヽヽヽ》までの私は、ゴロツキの他に可成な業績の会社をふたつ経営していた上に、徳光和夫アナウンサーとコンビで、テレビの番組にもレギュラーで出ていました。  だから着るものにしても暗黒街スタイルの他に、まともな柄の仕立てのものも揃えていたのです。  ダンボール箱は、十個以上もありましたが、懐しくてその中から最初に引っ張り出したイタリア製の生地のスーツに、小さな穴が開いているのを見付けて、私は眉をひそめました。  そしてその穴は虫が喰ったからだと分ると、一着ずつ箱から出してビニール袋を取って、私は|舐《な》めるように調べたのです。  なんと無事だったのは、化学繊維だけで出来ていた夏のスーツが一着と、冬物の黒いジャケットだけで、他のは全部、ポツンポツンと虫に喰われた穴が開いていました。  兄弟分の女房殿はそんな様子を見ると、気の毒に思ってくれたようです。  かけはぎで直るものもあるだろうと、言ってくれたのですが、すっかり滅入り込んだ私は、皆まとめてひと思いに捨ててしまいました。  順風満帆という状態なら、直せるものを選んだりも出来たのでしょうが、尾羽打ち枯らした想いの私には、かけはぎをするなんて尚更惨めに思えたのです。  そして足を洗った私は永い|くすぶり《ヽヽヽヽ》に突入してしまって、それからは背広やジャケットを着る場面とは、縁のない暮らしが続きました。  あれは昭和五十五年の暮れでしたが、秋葉原で三万円の黒いウェスト・レングスの皮ジャンパーを買うと、それだけ着て、冬を越したのです。  それから三年たって、文章を書いて暮らしを立てようと志した私は、身なりを整える必要に迫られました。  編集者に御挨拶したり目上の方にお目にかかるのには、矢張り一張羅でもそれなりのものを身につけないと失礼だし、それにただでさえ怪しい私なので、せめて上着にネクタイをして、キチンとしなければいけません。  私は青山一丁目のリージェンシーに、手頃な値段の巨大なサイズが揃っているのを知っていたので、出来合いのブレーザーを買いに行ったのです。  ブレーザーがズラリと掛けてある売場で、どれも三万円ぐらいの値札が付いていたのに安心して慎重に選んでいると、ひときわ素晴らしいのが見付かりました。  喜び勇んでレジに持って行ったら、良く見えたはずで、それはブランド物のランバンのものだったのです。  サイズが同じなので、それだけ一着混っていたのに違いないのですが、なんと七万五千円の正札がついていました。  変なところで気の弱い私なので、もうそれじゃやめるとは言えません。  持っていた家賃の中から足して払ったのですが、チンコロ姐さんにわけを言うのが辛くて、六畳ひと間のアパートに帰り難かったのを覚えています。  昭和五十四年に出所してから九年経つ間に、いろんなことがあったものだと思っていたら、ハンガーの先を握って運んで来るチンコロ姐さんが、顔を真っ赤にして両腕で抱えて来たのは、三年前に亡くなった父正夫の遺品のダッフル・コートでした。  冬の北洋でイギリス海軍の士官が、極太の毛糸で編んだ白いトックリのセーターの上に着ているやつで、父が昭和二十八年にイギリスで手に入れた本物なのです。チンコロ姐さんでは持ちあげるのも大変なほど、枯草色の厚い生地で作ってあるゴツくて重いコートでした。  ボタンの替りに洋菓子のエクレアほどもある白木の棒がついていて、それを片側にしっかり縫いつけてある麻のロープにとめるのです。  父は日本のラガーの草分けだったので、ラグビーの試合には歳をとってもよく出かけて行きました。  七十歳を過ぎてからも、その時に限ってこの重くてゴツいダッフル・コートを着て、楽しそうに出かけて行ったのです。  父が亡くなると、ラグビーを見に行くのは子供たちの中ではお前だけだということで、私がそのコートをもらったのです。  今年の冬は、これを着て何回ラグビー場に行けるかなと、私はそのダッフル・コートを、玄関のコート掛けに吊るしながら思ったのでした。  明治三十五年生れの父はその時代のダンディーで、着るものにはとても気を遣ったのです。  スーツはイギリス製の生地の三つ揃えで、ジャケットはハリスのツィードというイギリス好みに徹底していました。  かぶっている中折れが天井に当るような車は駄目だと言って、旧型のオースチン・ケンブリッジを褒めた父です。  私が蝶ネクタイをしているのを見た父は、そんな黒人の楽隊のような格好はするなと言い、私がバーボンは|美味《うま》いから試してみないか、とグラスを差し出したら、 「そんなベイラムみたいなものは、飲めるものか……」  と、言ったのですが、ベイラムというのは昔|流行《はや》ったヘアトニックでした。  私は四人|姉兄《きようだい》の末っ子で、父が三十五歳の時の子供でしたが、早々とぐれにぐれて、父とは十六歳の頃から縁が遠くなってしまったのです。  その時父は、今の私と同じ歳でした。  それでも思い出してみると、父は随分と|理屈《ヽヽ》や|急所《ヽヽ》を私に語ってくれています。  両切りの煙草をポンポンと何かに打ちつけてから、口に|銜《くわ》えるのは下卑ているとか、ウイスキーの水割りは、飲んだ時に甘く感じるのが自分の濃さだとか……。  そんな父の思い出に浸っていた私ですが、三人の息子は、ラグビーにまったく興味を示さないので、このダッフル・コートを渡す名目がないと思ったら、溜息が出てしまいました。  息子にいい物を教えるのは、父親の大事な役目なのに、私はその時期を逸してしまったのですから、なんということでしょう。 [#改ページ]

 
万年筆の思い出  私は普通の0.5ミリより太い、0.7ミリという水性ボールペンを使って原稿を書いているのですが、それは筆圧が高くて万年筆が使えないからです。  最近素敵な万年筆をよくいただくのですが、とても残念なことに、飾っておいて時々仕事場に見えた方を|掴《つか》まえて、お目にかけては自慢するだけで、使いようがありません。  こういうのを猫に小判とか、西洋では豚に真珠というらしいのですが、安部譲二に万年筆では語呂も悪いし、格言にもならないようです。  私が中学に入ったのは、昭和二十五年のことで、まだ戦争が終ってから五年しか経っていません  その当時は、万年筆と腕時計が今と比べると断然値打ちがありました。  パーカーの矢羽根のデザインのクリップが私たちの憧れのまとで、シェイファー、オノト、ウォーターマン、それにモンブランとペリカンなんて銘柄が、中学生には今のパソコンのように響いたのです。  腕時計も、飲屋で勘定が足りなければ、まず最初にはずして置いて行くアイテムだったし、昭和三十五年頃までは、どこの質屋でも万年筆を質草に取りました。  中学の二年生で早ばやとぐれにぐれた私ですから、高校を二年で追い出されてからずっと、筆記具に関しては、競馬新聞に赤鉛筆を使ったぐらいのことが永く続いてしまいました。  またペンを使うことになったのは、昭和五十八年に文章の修業を始めてからで、その頃にはなぜか異常に筆圧が高くなっていて、万年筆が使えなくなっていたのでした。  これは多分、苛酷だった暮らしのせいで、恨みや|妬《ねた》みがペン先に籠るようになったのだろうと思ったわけです。  けど、もしかするとそんなことではなくて、足を洗って人間が真面目になったから、字を書く時も一所懸命なので、力が入るのかもしれません。  いずれにしても、万年筆といえば、中学の二年生の時には、たしかまだスポイトでインクを入れる式のものを、二本も持っていたのでした。  麻布中学で生物を教えて下さった浜中先生は、大変な御老体でしたが、おつむの形が似ていらしたので、失礼ながら|綽名《あだな》をスポイトとお呼びしていたと、この文章を書いていて思い出したのです。  浜中先生は、その当時で七十歳は超えていらしたのではないでしょうか。  あれも筆圧というのでしょうか、白墨を黒板にこすりつける力がお弱くて、とても薄い字でお書きになったので、四つある牛の胃袋の名前を、難しい漢字で黒板にお書きになっても、ノッポで一番後ろに坐っていた私にはとても見えません。  一番前に坐っていた、今では富士通でコンピューターを設計している古丸の健ちゃんに、後からノートを見せてもらったのも懐しい思い出です。  その頃の中学生は万年筆を二本持つのが流行でした。  一本には黒かブルー・ブラックのインクを入れ、もう一本には赤インクを入れておくのです。  修学旅行の時、汽車の席で居眠りをしていた先生の眼鏡に、この万年筆の赤インクを塗りつけた悪い生徒がいました。  まだぐれる前ですから、私ではありません。  そうしておいて、|睡《ねむ》っていた先生のそばでいきなり、 「火事だあ、大変だあ」  と、叫んで、ごていねいにも何人か右往左往して見せたのです。  目の前が真っ赤に見えた先生は、『風と共に去りぬ』の燃えているアトランタの街の真っ只中にいたと思ったのでしょう。  跳ね起きた先生は、汽車の通路を裸足で十メートル以上も走ったのですが、その後学校に帰ってから、同じ車中に居合わせた生徒は大変な目に遭いました。  卒業後も、あの時やった奴は名乗り出ろと、同窓会のたびにその当時の学級委員と番長が二次会で怒鳴りたてても、いまだに犯人は自首しません。  私は、その中学に続いていた高校には行かせてもらえず、仕方なく高校は別の私立に入ったのですが、そこにとてもユニークな泥棒がいました。  言えば|誰方《どなた》でも仰天するような旧華族のご嫡男なのに、趣味か病気か分りませんが、このハンサム少年はまぎれもない|盗ッ人《ウカンムリ》だったのです。 「ナオちゃん、海老茶のウォーターマンの細軸で、最新タイプなんだけど、いくらなら買ってくれる」  と、この坊っちゃまがお訊ねになったので、千五百円なら買ってあげると私が答えたのは、昭和二十九年のことです。  まだお女郎屋さんで、一番安い|チョンの間《ヽヽヽヽヽ》という十五分ぐらいのプレイが、三百円だった頃の千五百円ですから、これは大変な値段でした。  坊っちゃま|窃盗犯《ウカンムリ》はその日のうちに新型のウォーターマンを届けてくれて、私から千五百円受取ったのです。  それからしばらく経った夏休みの前に、駅前の床屋に追いかけられて逃げて行く彼を見た私は、その驚くべき手口が分りました。  その日坊っちゃまは、ボクシング部の主将をしていた私に、夏の合宿に行くのに散髪の道具は要らないか……と言ったのでした。そしていくらだったかは忘れましたが、私と商談が成立していたのです。  なんとその坊っちゃん泥棒は、注文を取ってから盗むという効率のいい手口を使っていたのです。  後年私は塀の中に出入りするようになって、盗ッ人たちに興味を持ったので取材につとめましたが、こんな素晴らしい手口の奴はいませんでした。  目星をつけていた物を、注文を取ってから盗んでいれば、買い叩かれることも、売りそびれることもありませんから、こんな|塩梅《あんばい》のいいことはありません。  けど、そんなユニークな賢い泥棒をしていた坊っちゃまも、哀しいことに素人ですから、時々は掴まってしまうのですが、そうすると、それは美しくて上品な母様が学校においでになるのです。  ちょっと顔を曇らせて、教員室にお入りになると、|暫《しばら》くしてもっと憂いに満ちた御様子で、出ておいでになりました。  もうその頃は、いっぱしの男を売る稼業を気取っていた私ですから、その美しくて上品な御母堂様がおいたわしくて堪りませんでした。 「畜生、親爺が怒られればいいのに」  と、そのたびに思ったものですが、その坊っちゃんから買った、当時最新型のウォーターマンをどうしたのか、今となってはどう考えても思い出せません。  先日ある出版社にうかがったら、あの御母堂様のお孫さんに違いないと思ったほど、|よ《ク》く|似て《リ》|いる《ソ》女の方にお目にかかって、思わず私は息を呑んだのです。 [#改ページ]

 
わが心のJ・F・K  あれは昭和三十八年の今頃のことでした。  その当時、日本航空で国際線のパーサーをしていた私は、サンフランシスコ線に乗務するために、所属していた客室乗務員課にショウ・アップしました。  定められた時間に、定められた場所に出頭することを、飛行機の|乗組み《クルー》はこんなふうに言うのです。  他にも航空業界用語には、それを知らないとすぐ偽物だとばれてしまうのがあります。  もうひとつだけ御紹介しておきましょう。  デッド・ヘッドというのは、直訳すれば「死に頭」ですが、乗客の数を|算《かぞ》えることをヘッド・カウントということから、死んでいる頭……つまり任地に行くために、乗務ではなく飛行機に乗っている乗組みのことです。  たとえば、ホノルルから東京に向かう便のスチュワデスが、ひとり病気で乗務出来なくなると、すぐ補充が呼び出されて、駆けつけるのです。  私服を着て仕事をせずに乗っているので、客と区別がつきませんが、それでもよく見ていると、ちょっと揺れたりした時に、すぐ無意識にベルト・サインが|点《つ》いているかどうか、睨んだりするので分ってしまうのでした。  昭和三十八年の十一月に私の乗務したサンフランシスコ線にも、ホノルルまでのデッド・ヘッドがひとりいました。  とてもキザでハンサムなスチュワードでしたが、ショウ・アップした時から、ジャンパーのポケットに小さなトランジスタ・ラジオを入れていて、耳にイヤホンをはめると、しきりに目をつむったり|頷《うなず》いたりと、わざとらしくやっていたのです。  ダグラスDC‐8に乗務する私は、部下のスチュワードとスチュワデスを集めて、ブリーフィングという打合せと業務の確認のようなことを、規定に従ってやっていました。  そのスチュワードは|乗務《デユーテイー》ではありませんから、本当はこんなことにはつき合わなくてもいいのですが、慣習で同じ部屋の中で、ノッソリしていたのです。  ブリーフィングを|了《お》えると、こんどはオペレイションに行って、|運航乗務員《コツクピツト・クルー》との打合せをしなくてはなりません。  とにかくなにかあったら取返しのつかない航空会社なので、乗務員は、飛びあがる前から大変なのです。  長い廊下を歩いて行く途中で、一番後ろから私服でついて来たデッド・ヘッドの新米が、 「大変だ、J・F・Kが殺された」  と叫んだのですが、声が上ずって震えていました。  J・F・Kというのは、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディのことで、その当時のアメリカ大統領でした。  スチュワデスで、今では関西でラブ・ホテルのお内儀になっている気の強い娘が、青い顔をしているその坊やから小さなラジオを奪い取ったので、皆でそのショッキングな臨時ニュースを聴いたのです。  まだ国際線が羽田から飛んでいた頃ですから、あれは羽田のオペレイション・センター、通称オペセンの廊下でした。  当時は安藤組と二足のワラジを履いていた私ですが、親分の安藤昇が何かで命を落としたと聴かされても、この時ほどはショックを受けなかったのではないか……。  なんて言ったら次に会う時に怒られてしまうかもしれませんが、今から想うと本当に、|膝《ひざ》が崩れるような衝撃でした。  アメリカの青年大統領に、アメリカ|贔屓《びいき》の私は、熱い期待を持っていましたし、愛していたのです。  その二、三年後には、ジョン・F・ケネディの演説の入ったLPまで、買ったほど敬愛していました。  後にあの大統領は、稀に見るほどの助平だったとか、人相学的には|非道《ひど》い悪相だから、殺されたのも自由国家側には良かったなんて話を耳にすると、父か兄の悪口を言われた時と同じように、ゴロツキに戻っていた私は腹を立てたものです。  三年とちょっと前に亡くなった父正夫が、天皇陛下を愛したように、息子の私はJ・F・Kを愛したのでした。  いつか必ずワシントンのアーリントン墓地に、ケネディ大統領のお墓参りに行くと、私は決めていました。  でも、昭和三十八年といえば、まだ日本航空のアメリカ線は、ホノルルと西海岸のロサンジェルスと、サンフランシスコ、それに|不定期 便《チヤーター・フライト》と|貨 物 線《カーゴ・フライト》がシアトルまで飛んでいただけです。  乗務では行けないし、勿論デッド・ヘッドでも行けませんから、身銭を切って行こうと思ったのです。  いつもはタダで飛行機に乗っている航空会社の乗組みが、自分で切符を買って、どこかに行こうというのはよくよくのことなのでした。  でも、一年とちょっと経った昭和四十年の一月には、肝心の日本航空をクビになってしまったのですから、タダの切符も死に頭もあったものではありません。  それでも不死鳥のようによみがえった|渋谷のタネ馬《ヽヽヽヽヽヽ》は、昭和四十年の年末になると、東欧の共産圏の燃料油を売り買いして儲けたお金で、パリからTWAのファースト・クラスに乗って、ついに念願のワシントンに行ったのです。  アーリントン墓地の低いところにあったJ・F・Kのお墓は、神戸の須磨寺さんにある安部家のお墓よりずっとつつましやかでした。  ちいさな自然石をいくつか並べただけのそのお墓の真ん中には、青い炎がメラメラと燃えていました。  凶弾に倒れた西側自由諸国の期待の星だった青年大統領を悼んで、トレンチコートの襟を立てた私は、いつまでも墓前に立ち尽していたのです。  あれはJ・F・Kの二回目のご命日でしたが、今月の二十二日で、亡くなられてもう二十五年の月日が過ぎました。  法事をやれば精進落としをするのが、大和民族の輝かしい伝統というもので、これは堅気でもゴロツキでも変わりありません。  ワシントンの隣り町のバルティモアは、今とはまるで違っておとなしかったアメリカでも、スッポンポンのストリップをやっているので有名でした。  その隣り町にひとりでにぎにぎしく繰り込んだ私でしたが、中でも有名な特出し劇場・ゲイエッティで、次々に登場する金髪姐ちゃんの拡げて見せるお道具には、三人も見たら胸が悪くなってしまったのです。  あの夜、隣りの席でお尻を前にずらすようにして見ていたのは、入港していた日本のマドロスでした。その|年寄《ヨリトシ》は、 「なんと、ベコのボボのような……」  と、感に堪えない声で呟いたのですが、あれはどこの方言だったのでしょうか……。 [#改ページ]

 
チュー・チュー・オン・ザ・ビーチ  この「怪傑ゾロ目」も、最初は、なんと「全部バレれば二度死刑」というタイトルを編集部は用意していました。  始まる当時は、まだ母親も健在でしたから、 「まだ親が生きているんだから、その題は勘弁して下さい」  と、私は「週刊文春」の編集部で、赤くなったり青くなったりしてお願いしたのです。  そんなら良く考えて、いい題を出せ、ということになったのですが、こんな時に限っていい考えが浮びません。  恋焦がれた女に、想いのたけを上手な言葉で言おうとした時と同じでした。  助けを求めて、編集部の中を爪先立って見渡しても、ネイミングの天才糸井重里の顔は見当りません。  時間切れの寸前に、それも玄関に向かう階段を降りながら、私は、 「快傑ゾロじゃなくて、ゾロ目。カイは怪しいカイで、『怪傑ゾロ目』ってのはどう……」  と、叫んで、辛うじて母玉枝の目に、怖ろしいタイトルが触れるのを防いだのでした。  最近では、お辞儀をするのが気が進まないほど、私も頭のてっぺんの毛が薄くなりました。  何歳だ、|干支《えと》は何だと訊いたホステスがいたので、この頃は随分用心深くてセコくなった私ですから、 「何だったら貴女と俺は相性がいいんだ」  と、逆に訊いたら、そのホステスが、私が猿ならいいけど、豚も三蔵法師も干支にないと答えたのは、頭のてっぺんをみて私のことを河童だと言いたかったのでしょう。  まあ、モテなくなったものだと、|憮然《ぶぜん》としていたらホノルルから電話がかかりました。  日系三世の、今年四十になった可愛いジェニファーで、 「あのダウンタウンのスィアターで、ナオの懲役、見たよ。でもユーはなんでチャンバラをやらないの……」  私の懲役を見た、と言ったのは、映画の「塀の中の懲りない面々」のことなのですが、ボクシングとチャンバラ映画には若い頃から目のないジェニファーなのです。  あれはもう今から四分の一世紀も前のことでした。  時間潰しにホノルルのダウンタウンにある、日本映画をよく上映する映画館で、飛行機乗りの友人と一緒に、私はチャンバラ映画を見ていたのです。  アロハ一枚でも鼻の頭に汗の浮ぶハワイなのに、スクリーンでは、雪の舞い散る江戸の町で、若くてハンサムな侍がクルリパサリと敵役を斬りまくっています。 「あれ、なんて役者だい」  あまりチャンバラ映画とは縁のなかった私が、隣りの席にいたスチュワードに訊くと、その男は名前を思い出すのに苦しんで、 「雷蔵じゃなくて、友右衛門じゃなくて、エーッと……橋蔵じゃなくて……」  と、|呟《つぶや》いたのです。  せっかちな私は小声で、 「誰でもいいから早く思い出さなければ、映画が終っちまうぞ。ホラ、もう相手は皆斬られて、課長に似た一番悪い中年の蛙みたいなオッサンだけになっちゃったぞ」  と、せかしたのです。  すると、私たちの前の列に坐っていた女の子のひとりが、大変な見幕で振返って 「|やかましいわよ、お黙んなさいな。あれは伏見扇太郎よ《クワイアツト・ユーキープ・ヨービツグマウスシヤツト・ザツツフシミセンタローエ……》」  と、怒鳴ったのでした。  なんでも言った後に、「エ……」と付けるのは、ハワイの日系訛りなのですが、美しいジェニファーがそう叫ぶと、私には|天使《エンジエル》が遠吠えをしたように思えたのです。  叱られた私は、休憩時間にジェニファーとふたりの同級生に、|凍った《フローズン》コークをお詫びにさしあげると、たちまち仲良くなりました。  警官の娘ジェニファーも、その頃はまだ水蜜桃にコンデンス・ミルクをたらしたような女子高生で、私もピカピカの日本航空のパーサーです。  渋谷ではタネ馬と異名をとった私でも、南の島ではアマチュアの若い男でした。  ジェニファーは私に、航空会社のこと、チャンバラのこと、そして自分は綺麗かなんて訊いたのです。  オアフ島のワイキキのちょうど反対側に、|かがんだ《クラウチング》ライオンという名前の、素敵なナイト・クラブがあって、私たちはよくそこで忍び逢いました。  咲いている花や落ちている木の実、それに砂浜で拾った貝殻の名前を、私がいちいちこれは何か、とジェニファーに訊いたのは、まるで詩人の卵か生物学専攻の大学生のようだったのです。  けど、アロハとムームー、缶のプリモ・ビールとストロベリー・シェイクの、南の島の素晴らしい恋物語も、夜空に花火が消えるように、終ってしまったのです。  ビーチでの飲酒が禁じられているというのに、夜中のハナウマ・ベイで、助平で有名だったスチュワデスと、ウイスキーの壜を砂浜に埋めてマクドナルドの太いストローで吸っていたのを、ジェニファーの父親に見付けられてしまったのでした。  父親から私の行状を聞いたジェニファーは、可愛い顔で|カンスケ《ヽヽヽヽ》に怒ると、私に一発ビンタを張りました。  伏見扇太郎が縁結びの恋も、それで終ってしまいました。  でも、花火の消えた夜空には星は残ります。何年かして、ジェニファーと私との間には、恋は再び戻りませんでしたが、友情だけは甦ったのです。  ベトナム戦争でアメリカ軍が負ける直前、私は最後のギリギリまでサイゴンでゴソゴソやっていたのですが、だんだん解放軍の砲声が近くなって来て、たまらずパン・アメリカンの最終臨時便に、転げ込みました。  日本航空は危険なサイゴンには、もうとっくに寄らなくなっていたし、歩いて帰るのには日本は遠過ぎます。  タラップを駆け上って機内に入ると、床にしゃがみ込んでしまった私に、頭の上から懐しい声が落ちて来ました。 「ハイ、ナオッ。貴方ったらあたしの便が来るまで、こんなところで待っていたのね」  スチュワデスの制服を着込んだジェニファーでした。  誰が陥落するサイゴンで、悠長に昔の恋人が飛んで来るまで待っているものですか。  呆れて見あげたまま何も言えずにいた私に、ジェニファーは可愛い顔をして、 「座頭市なら、解放軍を皆やっつけたわ」  と、言ったのでした。 [#改ページ]

 
カン・カン・カン  三年前に亡くなった私の父正夫は、役人が嫌いでした。  中学に入ったばかりの私に、 「内務官僚どもが、日本をこんなにしてしまった」  と、言ったのですが、まだその頃は、戦争に負けたばかりの昭和二十年代で、内務官僚と言われても幼かった私にはなんのことか分りません。  父の役人嫌いは、十六歳で家出してしまった私にもしっかり受継がれたようで、私は役人と名が付けば、区役所の戸籍係から給食の小母さんまで皆嫌いでした。  その証拠に、延べ舎弟百人に若い衆千人、入籍した女は七人というのに、その中にひとりだって役人なんかいません。  縄のれんで隣りにいた、酔って絡んで来た農林省の係長を、シメタとばかりにズボンとパンツを脱がせて目黒川に捨ててしまったこともあったのです。  あれは、昭和三十年代に私がやった一番気持のいいことでした。  昭和三十六年から三十九年に日本航空をやめるまでは、制帽の中に入っているビニール製のチューブに、特殊口径の拳銃弾を一杯に詰め込んで、密輸に精を出していたのです。  これもあながち金儲けばかりではなくて、税関と警察のハナを明かしたかったからでした。  日本の暗黒街では、口径の一番|巨《おお》きな四十五口径と、一番小さな二十二口径は手に入ったのですが、九ミリとか二十五口径、それに三十二口径なんて拳銃弾はとても手に入り難くて、当時でも一発五千円もしたのです。  二発一万円で買った弾をもったいなくて撃てずに、拳銃の台尻でぶん殴っただけで帰って来た……なんて話だってよく聴いたものでした。  その頃は今と違って、まだまっとうな方たちはあくまで堅気で、ゴロツキはゴロツキ同士で闘っていて、トバッチリを堅気の方々にかけませんでした。だから、拳銃の弾を密輸して儲けても、罪悪感なんてなかったのです。  それにまだ、ハイジャック防止の装備が空港に取付けられていなかったので、制帽をピンとさせておくためのチューブが、拳銃弾の密輸にはもってこいなのでした。  制服制帽の|乗組み《クルー》は、税関のカウンターで係官に向かって、ちょっと会釈するのが慣行でしたが、私の場合は制帽のつばを指で摘んで、頭を軽く下げると、元に戻すのが重くて大変だったものです。  首が拳銃弾の重さに耐え兼ねて、ゴキッと音をたてたこともありました。  首を鍛えておくと、ナック・アウトされる率が低くなるので、若い頃にブリッジをやって徹底的に鍛えた私ですから、こんな手が使えたのです。  勿論、アメリカから羽田まで乗務している間は、こんな重い制帽なんてかぶってなんかいられません。  拳銃弾の詰まった私の日本航空の制帽は、フライト中はずっと、DC‐8のラウンジのハット・ラックの中に納まっていました。  足を洗って作家になったら、もうポルノ一冊だって密輸なんてしません。もし何か|密輸《スマグル》して掴まったら、須磨寺さんのお墓の中からおふくろが化けて出ます。  先日アメリカに取材に行った帰りに、とても機嫌よく成田の税関を通ろうとしたら、係官がガラス張りの部屋の中から私を手招きしたのです。  もう時効だとはいっても散々密輸をした私なので、そんな時には悲しいことに、青ざめてしまうのでした。  熱くなった頭の中では、しきりに、 「エーッと、何かヤバイ物を持っていたっけ……」  なんて、そんなことばかり思っているわけです。  怖るおそる税関の事務室の中に、私は顔を出しました。 「オッ安部、すまないけど色紙書いておくれ」  日本航空時代から顔馴染みの税関の係官たちがニコニコとそう言ったので、私はその場にしゃがみ込んでしまいそうになったのです。  こんなこと、息子たちには聴かせられません。  取材とカンヅメを兼ねて、北海道に出掛けて行ったら、そこでとても素敵な女の方にお目にかかりました。  実際のお歳よりも十も若く見えたのは、心が|瑞々《みずみず》しいからでしょう。  それはセンスのいいスーツをお召しになっていたその方は、例年より寒くなるのが遅いとおっしゃいました。  機嫌よくお酒を召し上がって微笑むと、目もとと可愛い鼻のつけ根になんとも言えないような愛くるしい|皺《しわ》を寄せる方です。そして、 「こんななま暖かい今頃よりも、真冬の冷たい空気が『ピンーッ』と張っている時に、またお目にかかりたいわ」  なんていう素晴らしい言葉に私は|痺《しび》れてしまったのでした。  ポーッとした私がお仕事をうかがったら、なんと北海道警のベテランだとわかって、それこそ大仰天してしまいました。 「もしこんど逮捕されるのなら、俺、貴女にしてもらうッ」  なんて、私はうろたえて叫んでしまったのです。  こんなことでは三十年ゴロツキをやっても、親分にはなれなかったのも道理です。  東京の憎々しげな、親の面が見てやりたいミニ・パトの婦人警官どもからは、北海道の警察にあんなチャーミングで素敵な方がいるなんて、とてもとても信じられません。  私はもしかすると、キタキツネに|欺《だま》されたので、今頃は外を吹雪の荒れ狂う穴の中で、牝狐たちが大笑いしているのかと思ったりしてしまいます。  けど、その北海道警のド素晴らしい方にお目に掛ってからは、欺されたのならそれでもいいとヤクザな性根をすえたのです。  高津警察署というのが、私の住んでいるところの所轄で、署長の佐々木安夫さんは、防犯畑で覚醒剤の鬼として有名な方でした。  機会があってお話ししたら、機嫌のいいとてもナイスなおっさんでした。  そんなことが重なって、調子にのった私が、 「どうだ、息子は|官《ヽ》にしようか……恩給もあるし」  と、家のチンコロ姐さんに|呟《つぶや》いたら、 「ばーか、前科もんの息子は官になんかなれませんよ」  元極道の妻は、私よりずっとシビアでした。 [#改ページ]

 
あ と が き  この『賞ナシ罰アリ猫もいる』は、「諸君!」と「週刊文春」に連載させていただいた「現住所あり 職業作家」(一九八七年一月号〜八八年十二月号)と、「怪傑ゾロ目」(一九八七年十二月十日号〜八八年十二月八日号)から選んで一冊としたものです。  私は、単行本や連載物の題をつけるのに、いつもとても苦しみます。  この「諸君!」の時も、苦しんだ挙句に余計なものを付けてしまって、「現住所あり……」だけのほうがずっとよかったと、連載の間中この題を見るたびに滅入り込んでしまいました。 「週刊文春」の時も、ギリギリまで、どうしてもよい題を思い着かず、「全部バレれば二度死刑」なんて、非道いのに決まりそうだったのです。  その頃は母がまだ元気だったので、こんな題ではきっと眉をひそめると思ったら、気が重くなって参りました。  もう時間切れで、いい知恵も出ないから仕方なく帰ろうと、「週刊文春」の編集部を出た私は、階段を降りていくうちに何の弾みか、「怪傑ゾロ目」という題が頭に浮かんだのです。  皆様に御買上げいただいて、それで私が文章を書いて暮らしが立てられるようになった、『塀の中の懲りない面々』も、長過ぎる……ということで、随分苦しみました。  塀の中の……というのを取ってみたり、懲りない……をはずしたりと、いろいろやってみたのですが、どうにもうまくいきません。  ついに短く出来ずに、そのまま出版したのですが、本の場合は、よく売れれば自然と題もよく見えてくるのだそうです。  この本もそうなって欲しいと思います。 「諸君!」の立林さん、「週刊文春」の今村さん、そして出版部の新井さん。  本当にいろいろ有り難うございました。  最後になりましたが、御買上げ下さいました皆様に、心より厚く御礼を申しあげます。    平成元年八月 [#地付き]安 部 譲 二    単行本   一九八九年九月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     賞ナシ罰アリ猫もいる     二〇〇二年二月二十日 第一版     著 者 安部譲二     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Jouji Abe 2002     bb020201