TITLE : 時速十四ノット、東へ 講談社電子文庫 時速十四ノット、東へ 安部 譲二    目 次 1 ツェッペリン飛行船 2 いよいよ八坂丸、神戸へ 3 マルセイユに向かって 4 ジブラルタルの鮫 5 釜焚きと料理人たち 6 勝負の前に 7 八十八は降りなかった 8 八坂丸の乗客たち 9 見えぬUボートに脅えて…… 10 ケイト・マスタスン 11 シシリー島に沿って 12 八坂丸対Uボート 13 智恵と度胸の激闘 14 魚形水雷命中 15 ラボリュー号はまだか…… 16 フランス海軍万歳 17 助かった 全員無事だ 18 アレキサンドリア  あとがき 『時速十四ノット、東へ』 主な登場人物 (八坂丸乗組員) 山脇武夫船長(キャプテン) 沈着果断。英仏語に堪能。 草刈一郎一等運転士(チオッサー) 船長の片腕。 大河原三等運転士(サード・メイト) その夜の当直士官 。 竹内操舵手(クォーター・マスター) 舵を握って三十年。 真鍋水夫長(ボースン) 福西機関長(チーフ・エンジニア) 足立無線局長(チーフ・オペレーター) 片山良三通信士 Uボートの暗号を解読する。 河田欣也事務長(パーサー) 美男。ケイトに愛される。 小俣兵介船庫番(ストーキー) 甲板部の老練水夫。 大橋捨吉・倉田英輔 水夫。 山野熊五郎 火夫。児雷也の刺青《いれずみ》をしている。 木島八十八 火夫。フランソワーズの恋人。 生田磯吉総料理長(シェフ) 四人の料理長《チーフ・コツク》を指揮する。 山崎省一コック 生田の弟子。ひとまわりを命じられる。 竹下少年 コック見習。数え年十五歳。山崎の弟《おとうと》弟子。 皆川 ボーイ ピストルの名手。 (主な乗客) クレイ 日本人に好意的な仏国人男爵。 チャールズ・リゲット夫妻 英国人退役船長。 ジェイムス・マカラ カルカッタ郵便局次長。 デイヴィス・トンプソン夫妻 英国人商社員。 マルコ 中年のイタリア人ワイン商。 ロジャー・ケイン アメリカの青年。 ケイト・マスタスン 美貌の英国陸軍中尉夫人。 玉城勇民 沖縄出身の唐手家。 小泉誠太 カイゼル髭の柔道家。 石田堅之介 日本外務省外交官。 藤本大吉 沖仲士。ロンドンに留学。 (その他) フランソワーズ マルセイユの娼婦。 一九一五年十二月十三日、日本郵船所属の商船、八坂丸一二〇〇〇トンは乗客・乗組(クルー)計二八二名を乗せ、ロンドンを出港した。 時速十四ノット、東へ 1 ツェッペリン飛行船 「おい見ろ、ありゃあなんだ」  二番船倉の木蓋《きぶた》の上に張ってあるカンバスを点検していた水夫の大橋捨吉が、上空を覆っていた黒灰色の雲を指差して、同僚の倉田英輔に叫んだ。 「珍しくもないよ。イングランドの空は、一年のうちの二百五十日ほども、あんな雲ばかりだ」  自分より五年も早く船乗りになった大橋捨吉が、声を弾ませて雲を指差したのに、怪訝《けげん》な顔をした倉田英輔は、それでも気の優しい男だから、毒づきもしないで笑いながらそう答えた。 「何を寝呆けたこと言ってるんだ。雲のことなんか言ってるんじゃないぜ。ホラ、今は本船に向かっているんで、鼻しか見えないから小さな丸だけど、さっきまでは少し横を向いてたから細長いように見えた」  真剣な大橋捨吉の声と様子に、倉田英輔も首を伸ばして指差した方面を見詰めていると、 「ブロブロブロ、ブロブロ」  かすかだが、絶え間なく続いている音が空から聞こえて来る。  雲の中で光った物があって、倉田英輔が目をこらすと、円い物が浮かんでいた。  雲の色より少し白いし、光った物は硝子《ガラス》か鏡で、角度によってキラリとする。 「ブルルル、ブルルルルル」  聞こえて来た音も、段々大きくなって近づいて来る。  白っぽく見えた円は、横に長く伸びて行くと、どんどん葉巻のような形になる。 「右舷上空に飛行船、コースを変えて近づきます」  船橋《ブリツジ》の中で掃除をしていた水夫が、大声で叫んだ。  八坂丸はロンドン港内のウエスト・インディア・ドックに入って、ちょうど荷役を了《お》えたところだった。  海図室《チヤート・ルーム》にでも居たのだろう。水夫の声に船橋の張り出しへ士官がふたり出て来て、双眼鏡で飛行船を見上げている。 「ブルブルブル、ブルブルブル」  一度すっかり八坂丸と平行になって、薄い灰色のヘチマのような姿を見せていた飛行船は、またコースを変えると、真っ直ぐこちらに向かって来た。  巨《おお》きな船体の下に、硝子の光る船室が貼りついていて、プロペラの音も僅《わず》かの間に随分大きくなっている。 「隠れろ、身を隠せ、ツェッペリンだ。本船を襲う気だぞ」  船橋から山脇武夫船長が、上半身を乗り出して、メガホンで叫ぶ。  ツェッペリン……。ドイツの飛行船だ。初めて見た倉田英輔と大橋捨吉は、急に巨きく見え始めたのを、仰ぎ見ながら甲板を走った。 「タッタッタッタ」  頭の上で軽い銃声が、エンジンの爆音と一緒に聞こえて来た。話に聞いた機関銃だ、と船橋の下に走り込んだ倉田英輔は思った。  日露戦争でロシヤ軍が、この続けて一分間に百発以上の弾丸を発射する機関銃を撃ちまくって、部下がバタバタと倒されたのに、乃木将軍は天を仰いで、 「この機関銃と共に、戦場の武士道は消えた」  と、嘆いたと伝えられる殺戮《さつりく》兵器だ。  魚を獲る時だって「釣すれど網せず」という格言がある。獲る魚を定めてする釣に比べて、獲れる魚は何でも……という網を、士たる者は行ってはならない浅ましいことと、蔑《さげす》んだのだ。  機関銃は雨アラレと弾丸を撃ち、戦場を横に払って誰にでも当たれ、というようなものだから、そんなものに命を取られては、往生出来ないと倉田英輔は思った。  世の中が進むに連れて、この機関銃のような外道《げどう》の武器が、次々と創り出された。  野戦では、吸い込むと息が止まって死ぬという毒ガスが使われ、海の底には追いはぎのような潜水艇が、獲物の通るのを待って、魚形水雷で闇撃ちする。  名乗りもあげないどころか、海面下に潜《ひそ》んだまま姿さえ見せないのだから、魚形水雷を喰らって沈没した船の乗組《クルー》は、夜盗に寝首をかかれたのと同じだ。  海軍軍人を志した倉田英輔は、ひとり息子の跡取りだったので、諦めて商船の水夫になって、親を喜ばせたのだが、戦争になってしまえば軍人と危険は変わらない。闘う武器を持たない商船は、ただ耐えるだけだから、これはせつなかった。  倉田英輔は、どうせなら隠れたりするより男らしく闘って命を落としたかったのだが、小銃ぐらいしか本船にはないのだから、隠れ、逃げ、我慢するしか出来ることはない。  倉田英輔と大橋捨吉が楯にした鉄板に、激しい音を発《た》てて機関銃弾が当たった。  穴を開けて突き抜けて行くのもある。耳の横を熱い風が吹いて、弾丸は鉄板の囲いの中を、けたたましい音を発てながら、跳ねまわった。  硝子の割れる音が混ったと思ったら、端艇甲板《ボート・デツキ》の辺りで大爆発音が轟《とどろ》き渡って、しっかり舫《もや》いを結んである八坂丸が、左右にグラリと揺れた。 「爆弾、ボート甲板に命中ッ、損傷軽微であります」  見習士官《アプレンテイス》(現在では職員なんていっているそうだが、つい十五年前までは、正しくは商船士官といっていた)の若い声が怒鳴ったら、船橋《ブリツジ》から船長が、 「火災の恐れはないか、点検せよ」  落ち着いた声で命じた。 「アイ、アイ、サー」  火薬の臭いが風に乗って鼻の奥に染みる。  ツェッペリンは八坂丸の上を越えて、臀鰭《しりびれ》を見せながら遠ざかって行く。  主翼が三葉の英国空軍戦闘機ソッピーが二機、素晴らしいスピードで飛行船を追いかけて、八坂丸の煙突の上を、車輪をこするような低空で飛び越えて行った。 「頼むぜ」「やっつけろ」爆弾の煙が漂っている船内から、乗組達の声が弾けた。  一九一四年(大正三年)に始まった第一次世界大戦は、たちまちヨーロッパを戦火に巻き込んでしまったのだが、日本も一九〇二年(明治三十五年)に締結した日英同盟に従って参戦した。  同盟国側はドイツを中心に、オーストリア、ハンガリア、ブルガリア、それにトルコの諸国で、協商国側はイギリス、フランス、ロシヤ、イタリア、日本など、そして一九一七年(大正六年)には、アメリカも参戦しての大戦争になった。  この第一次大戦から、飛行機、戦車、潜水艦といった近代兵器が登場する。  飛行機はドイツ、イギリス、フランスが競争でより性能のいいものを開発したから、たちまち急速な進歩を見せて、戦闘機による空中戦は多くの伝説的な英雄を生んだ。  戦車は一九一六年(大正五年)のベルギー領、ソンム川の戦闘で、イギリス軍が初めて戦場に登場させたのだが、現在でもタンクと呼ばれているのは、イギリスの工場で製造中に、ドイツスパイに知られるのを恐れて、水タンクを作っているのだと偽ったからだという。  ドイツ海軍は、強大なイギリス海軍に対して劣勢を挽回しようと、潜水艇Uボートを完成したのだが、この小型潜水艇はイギリス沿岸から、遠く地中海の最奥まで出撃して、商船を雷撃し通商破壊に猛威を振るった。  日本の商船は、東洋とイギリス、ヨーロッパ間の貨物と船客を、Uボートに脅かされながらも、運び続けていた。  この日本郵船会社の八坂丸は、これが二度目のイギリス航路という新造船で、今回の航海では大役を命じられている。  往航の地中海では、クレタ島沖の波間に、日章旗がはためいていたのを見付けて、乗組達は意外な眺めに驚いたのだが、近づくに従ってそれまで笑って陽気にしていた者も、沈痛な表情に変わってしまった。  Uボートに撃沈された日本船のマストの先が、海面に出ていたと知ったからだ。  この八坂丸にしても、いつ波の底に潜んでいるUボートに、魚形水雷を見舞われないとも限らない。  三十サンチ砲の砲弾の数倍の破壊力を持つという魚形水雷だから、命中すれば沈没は、軍艦ならともかく普通の貨物船だと、免れようがなかった。  命中して一分以内に沈没してしまった商船の話も珍しくはないのだが、これでは救命艇を降すことも出来ない。  船内に居た乗組も大多数は、海に飛び込む間もなく、沈没する本船と一緒に海の底に葬られてしまう。  一番船底に近いところで働く機関部員や、釜焚《かまた》きは、どうしても甲板に出るまでに五分は要るから、魚形水雷が命中すれば、まずほとんどは助かるまい。  大役というのは、ロンドンで特別貴重貨物庫《シ ル ク ・ ル ー ム》に積み込まれた十万ポンドのイギリス、ソヴリン金貨(この時点での為替レートは一ポンドが十二円だった。十万ポンドは百二十万円となる。当時は土地三十坪付き一戸建ての立派な家作が、平均して二千円で建ったというから、現在の邦貨に換算すると約三百億円くらいだろうか)を、神戸まで運ぶことだった。  日本の経済や戦費をまかなう大事な金貨だ。  往航の西に向かう時も、復航で東を目指す航海でも、地中海が難所だった。  地中海は西の端がジブラルタルで、東の端がスエズ運河でくびれていて、どうしてもそこを通過しなければならないのだ。  ドイツのスパイは、この両側で見張っていて、船名や特徴を地中海の中に潜んでいるUボートに打電する。  両端が極端に狭くなっているのだから、どちらに向かうにしても、そんなにコースは多くないので、Uボートは待伏せが容易なのだ。  それに地中海を通過する商船は、東の端のアレキサンドリアか、西の入り口近くにある南仏のマルセイユで、飲料水や食料、石炭や部品の補給をする。  協商国の駆逐艦や海防艦も、この港の近海やジブラルタルとスエズ運河は、重点的に警備しているのだが、とにかく相手は海の忍者Uボートだから、始末が悪い。  八坂丸はロンドンを出港すると、南イングランドのミドルズブローに寄港してから、地中海に向かう。  ジブラルタル海峡を通過すると、地中海に入りマルセイユに寄港して、補給をする。  それから一気にエジプトのポートサイドを目指すのだ。  ここまで無事に着けば、復航の危険は七割か八割ほどは乗り越えたと思って、間違いない。  スエズ運河を通って紅海をひた走り、インド洋を横断して、シンガポールに寄港すると、そこから真直ぐ神戸に向かう。  Uボートに比べれば、バシー海峡の荒天など、ベンガル虎に噛《か》まれるのと、三味線の師匠の飼っているタマに、ひっかかれるほども違う。  ミドルズブローで、カロリーの高い良質の石炭を積めば、新造船の八坂丸は平均スピードで十四ノットは維持出来るから、浮上したUボートでも振り切れるだろう。  急角度で上昇しながら、イギリス海峡を覆っている厚い灰色の雲の中に、逃げ込もうとするツェッペリンだ。  小さな戦闘機は、騎手に拍車を当てられた競走馬のように、機体を振って追いかけて行くと、グイグイ差を詰めて行く。  ツェッペリンが雲の中に入ってしまうまでに、二機のソッピーは巨きな飛行船に機関銃弾を、たっぷり撃ち込めるだろうか。  入港していて機関を動かしていない時の釜焚きは、航海中のあの厳しい作業の疲れを、ゆっくり癒して次の航海に備える。  八坂丸の一番下の甲板に、ふたりの釜焚きが出て来ると、手摺《てすり》に腹を当てて手を額にかざして、船首を上げて雲に突っ込もうとしているツェッぺリンを、目を細めて見詰めている。 「オイ、ハチ、戦闘機がやっつける方から五十銭張んないか。俺は飛行船が逃げ切る方だ」  熊五郎が吠えると、八十八《やそはち》は顔をしかめた。 2 いよいよ八坂丸、神戸へ 「トントン」  船長室のドアがノックされた時、八坂丸の山脇武夫船長は、デスクの肘掛椅子に坐って思いをこらしていた。  このイングランドのミドルズブローを出港すると、いよいよ神戸を目的港とする復航が始まる。  ただでさえ地球を半周する永い航海なのに、ここから北アフリカのポートサイドまでの間は、Uボートの脅威に曝《さら》され続けることになる。  新造船に積み込まれた十万ポンドのソヴリン金貨、百六十二人の乗組員と、恐らく三、四十人と思われる乗客の運命が、自分にゆだねられているのだから、最善を尽くすことは勿論、瞬間に判断を誤ることがないようにと、これは祈るしかない山脇船長だった。 「お入りなさい」  ノックに応えて、そう言った山脇船長は、そのままドアが開かないのを見ると、訪れた者が日本人ではないのに気がついた。 「カム・イン」  すぐドアが開いて、長身の英国海軍大尉が、身体を折って赤い顔から先に中に入り、靴の踵《かかと》を合わせると、山脇船長の目を見詰めて敬礼する。  まだ三十歳そこそこという若さで、陽に焼けた顔は、白人というより紅人とでも呼びたいほど、綺麗《きれい》な赤に染まっていた。  日本人だと余程恥ずかしいか、かなりきこしめしたと思われてしまうだろうと、酒の好きな山脇船長は、そんなことをチラリと頭に浮かべた。  同盟国の海軍士官に敬意を表した山脇船長は、立って出迎えると、船長室のソファに案内して、自分は向かい合った安楽椅子に腰を降ろす。 「あ、お寒いかな……」  山脇船長は、冬だというのに舷窓をひとつ開けていたのを指差して、そう訊いた。  円い舷窓から、鉄錆《さび》とオイル、それに石炭の燃えた臭いが混じった港の潮風が、船長室に流れ込んでいる。  どこかでペンキを塗っているな……と、山脇船長は思った。  本船かもしれない。  ロンドンでツェッペリンに爆撃されて、直撃弾を喰らったのだが、幸いに応急修理で済むほどの被害で、神戸までの復航には支障はなかった。  そこを塗っているのかもしれない。  山脇船長は寒いところでも、冷たい風が適当に頬やうなじに当たるのが好きだったので、余程寒いところでなければ、いつでも舷窓を少し開けておいた。 「いえ、自分にはとても快適です」  閉め切った暖か過ぎる部屋は苦手で、脳味噌も筋肉も皆ゆるんでしまうと、若い大尉はさえずるような早口で言った。  それまでに交わした僅かな会話が、あまり滑らかだったので、つい同国人の仲間と話す時のように、喋《しやべ》ってしまったのだけど、この東洋人の船長には、早過ぎて分からなかっただろうと、英国海軍大尉は思った。  それにしても、思わずそうしてしまったのは、この中年の日本人船長が、上手な英語を話すからで、そんなことはまず珍しくて、永くこの任務に就いている大尉なのに、覚えがない。  大尉はミドルズブローを出港して行く同盟国や友好国の艦船に、海軍司令部の指示を確認してまわるのが任務だ。  日本船は勿論、世界中のありとあらゆる国の商船が、イギリスに物資を積んで来る。  ドイツのUボートが、遂にイギリス近海に限らず、戦闘海域と勝手に判断したところでは、国籍にかかわらず無差別攻撃を行うと宣言して、本当に攻撃を始めたので大尉は忙しくなった。  いろんな国の船長に会って、海軍司令部の指示を確認するのだが、同じ英語国でも、カナダやオーストラリアならともかく、アメリカだともう駄目だ。  随分ゆっくり喋ったり、使う言葉を選ばなければ、話がなかなか通じない。 「それならよかった。私は時々南の国の連中だけではなく、この窓のせいで風邪をひいたと、ノルウェー人にまで文句を言われます」  港のどこかで生まれた時のままになって、大汗をかいた揚げ句に、そのまま睡り込んでしまって風邪を引いたのまで、どうもこの窓のせいにされているらしいと言って、船長は謹厳な顔をほころばせた。  アクセントはたまに少し怪しかったが、格調が高くて言葉の選び方が的確な英語だったので、大尉はそれだけでこの日本人の船長に好意を持った。  達者でも下卑た英語を得意に喋る船長は、植民地の商船に多かったのだが、大尉は内心軽蔑するばかりで好意なんて抱きもしなかった。 「船長、貴船は、当ミドルズブローを出港して、マルセイユ、ポートサイド、アデンを経てシンガポールに至るまでの間、英国海軍司令部の指示に従われたい」  大尉は自分の任務を思い出して、大英帝国の威信を一身に背負った声を出した。 「承知いたしました」  山脇船長は、顎《あご》を引いて頷《うなず》く。 「その必要のある事態に於ては、暗号等機密とされるものは、敵側の手に渡ることのない様、確実な処理を最優先に行うことを、船長以下乗組員に徹底励行されたい」  心得ました……と、肩に力の入った若者に穏やかに微笑《ほほえ》んで見せた船長は、御安心いただきたい……と言い添えたのだった。  開けた窓から汽笛が聞こえて来た。  ミドルズブローを出発しようとしている商船の船長に、英国海軍司令部の指示を確認して、平たく言えば念を押すのが、この若くて長身の海軍大尉の任務だった。  他の外国船の船長に対してだと、もっと分かり易い言葉で言うのだが、これまで交わした会話で、大尉は山脇船長の英語が程度の高いことを感じ取っていたから、噛み砕かずに指示文書のとおりに話した。  好意を持った相手には、この方が言い易かった。  つまり、ドイツ潜水艇Uボートに雷撃された時とか、通商破壊の目的で、太平洋にまで出没しているエムデンのようなドイツ艦に攻撃を受けた時は、機密書類を相手に奪われるな……、ということだった。  機密書類といえば、暗号の乱数表とか略号の一覧表、それに機雷の敷設図や港の防潜網の設置図といったものだ。  この機密書類の始末を、船長が、自分が死んだり重傷を負った場合に備えて、部下に徹底しておくことを英国海軍は要求していた。  山脇船長は、言いにくいことを一気に話して、普段でも紅い顔を一層赤く染めている青年をなだめるように、 「御安心下さい。そんな事態に見舞われても、私達八坂丸の乗組は同盟国の機密を守るために、出来得る最善を尽くします」  と言ったのだが、言葉には誠意が籠《こも》っていたので、英国海軍大尉は感動した。  英語の達者な外国船の船長には、自動的に美辞麗句が口から流れ出る奴が多い。  そんな手合いとこの中年の日本人船長は、同じ外国商船の船長でも、まるで人間が違う。  戦闘員ではない商船の船長でも、一緒に敵と対している味方に、こんな信頼出来る男がいるのは嬉しいことだ。  この船長が居るだけでも、我が大英帝国は、日本と同盟を結んでよかったと、若い大尉は思ったのだが、どうやら同じことを相手の中年の日本人も思っていたらしい。 「もうこの歳になると、長い時間の海水浴は身体に毒なので、そんなことにはなりたくありませんな……」  大尉と山脇船長は顔を見合わせて、船長室を笑い声で一杯にした。  笑い声の静まるのを聞いていたように、船長付きボーイの若林が、グラスをふたつとビール壜《びん》を二本載せた銀盆を、胸の高さに構えて入って来る。  長く尾を曳《ひ》いた汽笛が、舷窓から港の潮風と一緒に,船長室に入って来た。 「ほう、これは日本のビールですね」  テーブルに置かれた濃茶色のビール壜を見て、大尉は顔をほころばす。 「左様、大分美味《う ま》いのが出来るようになりました。任務も終わったのだから、私達の復航のために、乾杯をして下さい」  なんにでもかこつけて、日本人はビールを呑むのだと船長が笑うと、大尉も楽しそうに巨きくて白い歯を見せた。  よく冷えたビールは、注がれるとたちまちグラスの表面を曇らせる。 「やあ船長、折角の初めていただく日本のビールが、私には、ちょっと冷た過ぎます。おさしつかえなければ、自分の温度になるまでの僅かな間、待たせていただきたいのですが……」  大尉は困った顔で、けれど頑固なことを言った。 「そうだった、英国の方はアメリカ人と違って、ビールをあまり冷たくしないのだ。何年も英国で操船を習って、それこそバス・タブに百杯も、恐らく二百杯ほどもビールを呑んだというのに、ほかのことは忘れないのだが、ビールに限って英国流を忘れてしまう」  船長は大尉に詫《わ》びて、一服するうちにいい温度になるだろうと、立って舷窓を閉めながら言った。  船長と大尉はそれぞれのミクスチュアを、パイプに詰めた。  パイプのボウルと唇の端から、淡い紫色の煙が昇って、大尉の訊いたインド洋の航路のことに、船長が丁寧に答え終わると、グラスの霜は水滴に変わっていたので、ふたりはグラスを掴《つか》んで立ちあがった。 「貴官の武運長久を祈る」 「貴船の復航の御無事を祈ります」  ふたりは一息でグラスを干す。  大尉はいたずらっぽい顔をすると、 「英国海峡からビスケ湾を通って、地中海を横切ってスエズ運河に入ってしまえば、もう大丈夫です。そして次の八坂丸のロンドン航路で、地中海に入る頃までには、ドイツ軍は皆ソーセージになってます」  その頃は降参したUボートを、イタリア人が買って地面に埋めて、浄化槽にしているだろうと言って、大尉は笑った。  同盟国が不潔では困るのだと言う。 「そうなっていると航海が楽しくて、よくぞ船乗りになったと思うでしょうな。  どうぞ一隻でも多くUボートを退治して下さい。そして次のロンドン航路でも、復航ではここで石炭を積んで、貴官とビールを呑みたいものです」  大尉は港内での任務がない時は、自分のランチに爆雷を積んで、この近海をパトロールするのだという。  山脇船長は手を伸ばして、伸びて来た大尉の右手をしっかりと握る。  赤銅色《しやくどういろ》の肌に太い血管の浮き出た船長の拳と、栗色の産毛《うぶげ》が光る大尉の拳が、結び合ってひとつになった。  大正四年(一九一五年)十二月十三日のことである。  今から七十五年ほど前のこの頃に、ヨーロッパを主戦場に闘われていた第一次世界大戦では、日本はアメリカやイギリスとは味方で、協商国側として、帝政ドイツを中心とする同盟国側と、しのぎを削っていた。  当時のイギリスは、現在のように、アメリカとソビエトを頂点とする国家の中で、一歩退いた印象ではなく、世界最強の海軍国だった。  日清・日露のふたつの大戦争を、極東の端にある小国日本は、僅か四千万人ほどの人口なのに、大善戦して勝利したので、全世界の注目を集めたのだが、まだ一流国としての評価はない。  この新造船の八坂丸も、川崎造船所で建造された国産だが、残念なことにその頃は、日本製の艦船や日本人の海員の、国際的な評価は全く低く、ほとんど認識されていなかった。  日本といえば、東洋の端にある小さな島で、木と紙と、そして竹で作った家に棲み、竹槍《やり》と細い刀を握って、楯も持たずに首狩りをし合っている野蛮国、ぐらいの認識しか、ヨーロッパの人達にはなかった頃のことだ。  だから、この若いイギリス人の海軍士官が、初めて日本船の八坂丸を訪れて、山脇船長と会った時に、あまり自分の考えていた様子と違うのに、驚いたのも無理はない。  もしかすると、まるで英語なんて通じないかもしれない。大尉はアフリカの奥地の丸木舟の渡しの親爺《おやじ》に、海軍司令部の指示を、徹底しに来たような気がしていたのだ。  ところが意外にも口を開いた途端に、随分、格調の高い自分の国の言葉を、淀みなく話したのだから、もうそれだけで若い大尉は驚いてしまった。  任務は済ませたし、仲間や家族の土産噺《ばなし》に、この東洋人の船長から少し話を訊いておきたいと、大尉はイギリス青年らしい旺盛な好奇心を起こした。  船長室の調度を見まわした大尉は、 「このヤサカマリュは、どこの造船所《シツプ・ヤード》で建造されたのですか、まだ新造船のようですが」  と、訊ねた。 「まだピカピカの新品で、神戸の川崎という造船所です。乗組《クルー》も全員日本人です」  山脇船長は、一度日本においでになるといい……と言って、目尻で微笑む。 「船長はその見事な英語をどこで覚えたのですか。奥様や御家族も英語を話されますか」 「私は日本で船長免状を取ると、郵船会社が貴国の商船学校に、三年間留学させてくれたので、そこで英語も学びました。授業が全部英語ですから、覚えないと何も覚えられません」  覚えなければ、何も覚えられない……と言ったのが、自分でもおかしくて、山脇船長は朗らかに笑った。  八坂丸はゆっくり港の中央に出て行く。  八坂丸の船橋《ブリツジ》に立つイギリス人の水先案内人《パ イ ロ ツ ト》が、港外に出るまで山脇船長に代わって、指揮を採る。  船長を永くつとめた白髪の老人で、潮にさらされた不敵な顔には、深い皺《しわ》が寄っていたが、曳き船《タグ・ボート》に向かってメガホンで叫び、両腕を振りまわす。  舳先《へさき》が港の外を向くと、曳き船がロープをはずし、水先案内人は、 「デッド・スロー・アヘッド」  と、号令を下す。最微速前進だ。  三等運転士《サード・メイト》が復唱すると、八坂丸のスクリューが港の水を掻《か》いて、静かに港外に出て行った。  ついて来たランチが、高いうねりの中で停船した八坂丸に接舷する。  水先案内人は船橋で山脇船長と、固く握手して、歳とは思えない確かな足どりで、タラップを降りて行く。  舷側から海面に向かって垂れている縄梯子《ジヤコツブ》を、易々と降りて行くと、うねりに大きく横揺れ《ローリング》しているランチの甲板に、靴の底に吸盤でもついているかと思うほど、ピョンと降りてよろけもしなかった。  水先案内人は、船橋の山脇船長を仰ぎ見て、 「来年の春に、会うのを楽しみにしてる」  太くて低いが良く通る声で叫ぶと、港に向かって帰って行くランチの船内に姿を消す。  再び動き出した八坂丸は、次第に速力をあげて、高くなったうねりを押し潰し、舳先で切り裂くと、白い飛沫《しぶき》を海面に撒《ま》き散らしながら、針路《コース》を南に採った。  左舷の前方から、青灰色に塗った英国海軍のランチが、高いうねりとひとつずつ格闘しているように揉《も》みあげられて、見え隠れしながら少しずつ近づいて来る。 「大変だろうな、今のように荒れ始めると、あの小さな船で外海を行くのは、御苦労様だ、本当に……」  山脇船長が、脇に立っていた当直の三等運転士にそう呟くと、双眼鏡でランチを見ていた見張りの水夫が、 「あのランチは、さっき本船に接舷して、士官《オフイサー》を乗船させたのと、同じ番号です」  と、艇首に黒く記してある番号を、うねりに揉まれているのに、読み取ったのだから、この見張りは素晴らしい目をしていた。  うねりの底にランチは艇首から落ちて行くと、操舵室の窓の厚い硝子が、海水に浸って暫《しばら》くは何も見えない。  ようやく艇首が持ちあがると、窓から暗灰色の雲とうねりが見えて、ランチはうねりの頂上に乗る。  この瞬間に大尉はコースを確かめて、周囲に目を配るのだが、すぐ艇首はうねりの底に突っ込んで行く。  大尉は前方百メートルに、八坂丸を見た。 3 マルセイユに向かって 「驚いたよ、本当に俺は四十ヤードのドロップ・ゴールを見た時より、もっと驚いたな」  右手で天井の出っ張りを握り、左手で窓の下の木製のバーを握って、うねりで揉まれゆすりたてられているランチの操舵室で、出港前の八坂丸を訪れた長身の大尉は、舵輪を握っていた中年の下士官に、そう叫んだ。 「上等なイングリッシュを話す日本人の船長が、日本製の船を日本人の乗組《クルー》だけで、地球の裏の小さな島からやって来て、これから帰って行くんだ。ビスケ湾を抜けてジブラルタルを通過すると、地中海を横断しスエズと紅海で砂嵐に吹かれ、インド洋で照りつけられても、まだ自分の島には着かない。時化《しけ》のバシー海峡でがぶられて、東シナ海を小舟に気を使って何日も航海すれば、やっと日本だ。  そんな気の遠くなるほど遠くから、あの船長はやって来て、そして今から帰って行くんだから、大したもんだぞ日本人は……」  感激した若い大尉は、八坂丸から戻ってからずっと同じようなことばかり、ほかには三人しかいない乗組に、熱に浮かされたように話した。 「日本人の作った船なら、船底は紙で、竜骨《キール》は竹でしょう。船長は失敗した乗組に、罰として自分で腹を切らせるんですよ」  中年の下士官は、顔をしかめて言った。  黒い煙を煙突からなびかせて、八坂丸は円い船尾を上下左右に揺らせながら、南に向かって遠ざかって行く。 「いや、そんな馬鹿にしたもんじゃない。船長はイギリスの商船学校で学んだ男だし、船だって、とにかく往きはちゃんとここまで、はるばる着いたんだ」 「それじゃ潜水艇《ユー・ボート》も、髭《ひげ》が剃れるほどよく切れるという刀で、輪切りにされるかもしれませんぜ。ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》も輪切りにされれば、懲りるでしょうて……」  追い風《テール・ウインド》なのは結構でも、程度による。  北風が段々強くなって来て、鉛色の海面が、風にうねりの頂上を吹き千切られると、白くささくれ立つ。  船乗りの言う「白兎《うさぎ》の跳ぶ……」時化《しけ》になって、風が八坂丸のアンテナに悲鳴をあげさせている。  トントントンとタラップを、当直と交替する一等運転士《チーフ・メイト》の草刈が登って来て、船橋に無線局長《チーフ・オペレーター》の足立と、一緒に入って来た。 「船長、今こんな入電がございました」  山脇船長は、三等運転士と見張りの甲板員と三人で、八坂丸の針路を見詰めていたが、足立の声に振り向くと、 「読んでくれ、足立君」  と言う。  イギリス海峡は一面、白兎が群れ跳んでいた。  八坂丸の舳先《へさき》がせりあがって、甲板が急坂になると、次の瞬間沈み込んで行く。  無線局長の足立は、胡麻塩もこの頃ではすっかり塩の方が増えた頭を、短く角刈にしている小肥りの男だ。  この角刈は、十四日にいっぺん、ボーイの皆川が四十分ほどかけて丹念に鋏《はさみ》を入れる。  四十に近い痩せた皆川は、足立に言わせると、商売人としてもかなり上等な腕だそうで、事実とても鮮やかで鯔背《いなせ》な形に刈った。  どこで年季を入れたのだと訊いても、皆川は、見よう見真似だと答えるだけだった。 「発信者、大英帝国海軍作戦司令室、暗号A一〇六、通信文“Uボート”は、ウエールズ沖に限定されず、イギリス海峡全海域に出没。貴船、コードネーム、“エイト”は、日没までジグザグ航法で航行し、薄暮より灯火管制を厳重に励行されたし。以上」  足立は老練で腕のいい腹の据わった男として、知られていたのだが、この電文を読み了えると、豊かな頬が二、三度ピクピクとふるえた。  ミドルズブローを出港したばかりなのに、もう自分達の足もとの海の中には、ドイツ海軍の暗殺者《ユー・ボート》が、毒槍を構えて潜んでいるというのだ。  いつその毒槍が投げられて、白兎が跳ぶ間を縫って八坂丸に魚形水雷が突き進んで来るかと思うと、理不尽で一方的な脅しをかけられているようで乗組は恐怖より先に腹立たしかった。 「胡麻《ごま》の蠅《はえ》か、小栗栖《おぐるす》の長兵衛のような奴が、はやばやともう出よったか……。  足立君御苦労。これからマルセイユを経由してポートサイドまでの航行中は、無線電信の受信報告は全部、受信した局員が伝声管《ボイス・チユーブ》で伝えてくれ。わざわざ来てくれるより君達には耳を澄ませていてもらいたいからだ」  船長はそう言うと、船橋を出て自室に戻った。  三等運転士と当直を代わった一等運転士《チーフ・メイト》の草刈は、操舵手《クオーター・マスター》に号令して、白兎の跳ぶ海を、八坂丸を稲妻形に走らせる。  草刈は伝声管の蓋を取ると、水夫長に「荒天準備」と命じた。圧力計の針がジリジリと下って行ったので、本格的な時化《しけ》になると見たからだ。  甲板では水夫が命綱を張ると、それをたどりながらふたり一組で、船倉蓋のカバーのカンバスが留めてある楔《くさび》を、ハンマーで叩いて確かめている。  稲妻形に走らせるジグザグ航法では、うねりと風が横から当たることが、避けられなかったので、その度に八坂丸はひどく横揺れ《ローリング》して、甲板で作業していた水夫は、よろけて命綱を掴んだ。  舳先が巨きなうねりに、とりわけ高くグググとそそり立つと、その途端に急に下って海面を激しく叩いたから、船尾が宙に浮きスクリューが空転して嫌な音をたてた。  水夫がひとり宙に浮いて、甲板に背中から落ちて転がってしまう。 「セーラーが甲板に倒れて、動けません」  見張りの若い水夫が、指差して叫んだので、草刈が見たら、二番船倉と舷側の間に水夫がひとり倒れていた。  横揺れ《ローリング》で甲板が傾くと、その水夫のハンマーが、先に甲板を滑って行って、続けて倒れていた身体が一回転する。  一緒に組んで、船倉のカバーを点検していた水夫が、甲板の上を転がる同僚に飛びつく。  水夫長の真鍋が走り出て行くと、素早く倒れているのを肩に担いで、よろけながら生命綱をつたって、船橋の下に逃げ込んだ。 「気を失っていたようだが……」  草刈が顔を曇らせて呟いた時、チンッと伝声管が鳴って、水夫長の真鍋の野太い声が聴こえて来た。 「一等運転士《チオツサー》、もう気がついています。命に別条はないようですが、船医《ド ク》に診《み》てもらって報告してもらいます」 「分かった水夫長《ボースン》。もう一度人を出して、二番船倉だけ点検しろ」 「了解、すぐにかかります」  肥った頑丈な水夫長が、また甲板に現れて、二番船倉のまわりを点検するうちに、辺りはどんどん暗くなって行った。  横風とうねりを喰う角度によっては、暮れかかる海を行く八坂丸は大きくかしいで、船室では思いがけないものが、転がり出して壁に当たって止まったりした。  ロンドンから乗船した復航の船客は、十七人全員が日本人で、その中のひとりがシンガポールで降りるのだが、他の十六人は神戸までの長い船旅をする。  一万トンを僅かに超える八坂丸でも、時化がこの程度まで非道くなると、四ヵ所もある調理場だが、まともな献立の夕食は作れない。  四ヵ所の調理場は、士官用・水夫用・外人船客用・邦人船客用と、別れていた。  時化になって、船体の揺れが激しくなると、仕方なくおむすびを握って竹の皮に包んでいる。  外人船客には、こんな時にはサンドイッチを作るのだが、幸いなことにひとりもいなかったから、コック達も他の調理場に応援に出掛けて、慣れない手つきで、おむすびを作っていた。  どす黒い雲が、鉛色に空をふさいだ高い雲の下を、風に追われて八坂丸を追い越して、南に向かって飛んで行く。  海と空は生命のある巨大な怪物のように、荒れ狂って、時化は滅多にはないほど、凄まじくなった。 「これだけ荒れればツェッペリンも、飛べないでしょうが、一等運転士《チオツサー》、潜水艇《ユー・ボート》はどうなんでしょう……」  操舵手《クオーター・マスター》の竹内が草刈に話しかける。  帆船時代の操舵手は、船長《シツプ・マスター》の四分の一の給料だったので、今でもクォーター・マスターと呼ぶのだ。  一等運転士のことをチオッサーと言うのは、チーフ・オフィサーが訛《なま》ったのだ。 「チオッサー、こんな時化でも潜水艇は、魚形水雷の狙いが、つくもんでしょうか……」  郵船会社では、航行中の船橋で私語は慎むのが、不文律とされていた。  黒い髪と張って艶のある顔や肌を見ると、とてもそんな歳とは思えない操舵手の竹内だが、二十五のときに内航の材木船の舵《かじ》を採ってから、今年で三十年過ぎたというベテランだ。  草刈がまだ見習《アプレンテイス》からやっと三等運転士になったころからの仲間で、年は違っても気が合った。  港ではよく一緒に呑みに出掛けた仲だ。  不文律とは言っても、操船に支障のないこの程度の話は、許すも許されないもないようなことで、常識にまかされている。 「ウン、それだが……。以前、佐世保の料理屋で、海軍の潜水艇乗りと一杯やったことがあって、その連中の話では、海面がどんなに時化といっても、下に潜っていれば少しもがぶらないんだそうだ」  それでも潜望鏡がうねりに邪魔されて、見にくくなることはあるようだと、草刈が言ったら、夕闇の迫って来た荒れる針路を見詰めたまま、竹内は眉の間に深い皺を縦に刻んで、不機嫌な顔になってしまう。 「いくら時化でがぶらんでも、あんなもんには孫子《まごこ》の代まで、我が竹内のもんは、乗らんわ」  船乗りは永い航海を狭い船内で一緒に過ごすのだから、一度気まずくなると、これは耐えられないことになる。  だから自然と余計なことは、口にしなくなるし、興が乗って大話になった時でも、話題や言葉に気を使うようになるものだ。  草刈にしても、その辺の心得は承知だから、普段はまず思ってもこんなことは口から出さないのだが、この時は虫の居どころが悪かったのか、それとも知らない間に、潜水艇《ユー・ボート》にいら立っていたのかもしれない。 「戦争になれば、そうも言ってはいられなくなるさ。上官……、いや天子様が潜水艇に乗れと命じられたら、これは乗るしかないだろう」  と、中学生の議論のようなことを言ってしまったのだが、竹内は針路を見詰めたまま、それには返事をしなかった。  往航のアルジェリア沖で、マストの先の日章旗だけ波間に出して、沈没していた靖国丸を見ていたから、海の下に潜むドイツ潜水艇が、八坂丸の乗組全員の心に、濃い灰色の影になってのしかかっている。  その当時は、世界の海運界をリードしていたイギリスの船員たちでさえ、地中海でドイツ潜水艇に雷撃されると、それまでの恐怖が爆発するのか、乗客は放っておいて、我れ先に逃げてしまうことが多かった。  ドイツ潜水艇に脅えながら、航海を続けているうちに、船乗りの心の中で恐怖と不安がふくれあがってしまうから、雷撃を喰うと狂乱してしまうようだ。  八坂丸の乗組にしても、いざその時になって、自分が取り乱さずに、最善を尽くせるかと考えたりすると、目の前が暗くなってしまう。  自分の命を失うことより、遂にU《ユー》ボートに雷撃された場面で、一生思い出す度にくびれ死にしたくなるほどの恥ずかしいことをしでかしてしまうことを、乗組達は何よりも恐れていたのだ。  この当時の日本の男は、軍人ではなくても、自分の命を失うことより、恥を曝すことを恐れた。 「灯火管制ッ。見張り《ワ ツ チ》は配置につけ」  草刈は伝声管に叫んだ。  灯火管制となると、マストの航海灯も、船橋や海図室《チヤート・ルーム》の電気も、全部消される。  甲板で作業する必要があっても、作業灯のまわりを厚地の黒い布で光が漏れないように囲う。  舷窓には黒い布が貼られて、乗客の船室の外には、念のために見張りが何人も立つ。  満月の夜でならともかく、今日のような闇夜の海を、灯火管制で航行するのは、幸運を金比羅《こんぴら》様に祈るようなことだった。  たとえて言うなら、すべての街灯、灯火やそれに電飾看板《ネオン・サイン》を消した闇夜の盛り場を、黒装束で懐中電灯も提灯《ちようちん》も持たずに、自転車を走らせるようなことだ。  八坂丸は、普段の夜間航海の倍の人数に見張りを増やしたのだが、こんなことではとても安心なんかいかない。  英国海軍の指令を受けた同盟国や友好国の船は八坂丸だけではなく、どの艦船も灯火管制をしてこの海域を航行している。  暗闇の海を走っていて、前から真っ黒なものが現れたら、気がついた時にすぐ、お互いに全速後進《ゴー・アスターン》をかけてもまず間に合わず激突してしまうだろう。  平時では考えられないほどこれは危険なことだったが、戦争だから仕方がない。  戦争という、それ以上危ないことはない殺し合いをしているのだから、危険や非常識なんて言葉はナンセンスなのだ。八坂丸の当直は、全身をふたつの目にしていた。 4 ジブラルタルの鮫  ジブラルタル——イベリア半島の南端にある港で、幅十四キロのジブラルタル海峡に臨み、一七〇四年以来イギリス直轄の軍港として、地中海を制圧している。  八坂丸の船底にある機関室では、中央に据えてあるボイラーの釜の蓋が、火夫が石炭を投げ入れる度に、オレンジ色の眩《まぶ》しい光を輝かせていた。  炭庫から釜の前まで、四人の火夫が六尺褌《ふんどし》ひとつの身体に、汗をしたたらせながら、先の平たく切ってあるスコップで、燃料の石炭をリレーしている。  炭庫の中から掬《すく》い取られた石炭は、ひと固まりずつキラリと輝いていたが、釜までの間に立っていたふたりの火夫の前に、小山を作って送られ、最後に釜の前に立っていた熊五郎の足もとに積まれた。  熊五郎は自分の足もとに積まれた石炭を、平スコで掬うと、七枚コハゼの地下足袋《じかたび》を履いた左足で、釜の火口を開ける踏板を踏んだ。  釜の蓋が開くと、中でオレンジ色の炎をあげているのに向かって、熊五郎は平スコを差し入れて、手首でクルリと振る。石炭が見事に釜の中に拡がった。  熊五郎の額から汗の玉が飛び、胸板をツルツルと汗が流れて行く。  機関室にかけてある温度計は、航海中はどこを本船が走っていても、摂氏四十五度より下がったことはない。  北の海をアメリカのシアトルまで往く、大圏航路でも、炎熱のインド洋でも変わらない機関室の暑さだ。  ここで働く機関員、特に火夫は、見事な彫物《ほりもの》を背中と腕に彫り込んでいる。  今、釜の前でスコップを振るい、汗にまみれている熊五郎も、桜の花吹雪の両腕の間に、背中で蟇《がま》の上に巻物を銜《くわ》えた児雷也《じらいや》小僧が、両手を組んで印を結んでいた。  炎の眩しい釜の前で、彫物がない白瓜《うり》だと、石炭をリレーするのに狙いが狂うというのだが、それは訊かれた時の理屈というものだ。  火消しやトビ職と同じように、貨物船の火夫も、鉄火な仕事をしている男伊達《おとこだて》という気風があったのに違いない。  何回か釜の蓋を開け、見事な熟練したスコップ捌《さば》きで石炭を抛《ほう》り込むと、熊五郎は後ずさりして、ざるに盛ってあった粗塩《あらじお》を指でひと摘《つま》みして舌の上に載せた。  時々こうして塩分を補給しないと、火夫は身体が消耗してしまう。  当直の二等機関士《セカンド・エンジニア》が、注油係《オイラー》を相手に小声で話しているところに、機関室で働いていた男達が群がって来て、聴き耳を立てていた。  どうしてまだ回転があげられるのに、山脇船長は、Uボートの潜んでいるこの海域を往く時に、最高速を出さないのかと、注油係《オイラー》が訊いたからだ。 「まだ何回転かあげられるのに、どうして一杯まで出さんのでしょうか……」  と訊いた機関員に、当直の二等機関士は、それが山脇船長の作戦だと答えた。  どうして釜を全部、一杯に焚いているのに、本船はバルブを締めて、全速力を出さないのか……。船底で汗まみれになっていた機関員は、不思議に思っていたのだった。  八坂丸の機関室には、火夫の熊五郎が、前に頑張っていたような釜が七缶も並んでいて、出航してから今まで全部がフルに焚かれている。  そして発生した水蒸気を全部利用すれば、スクリューを一分間に八十八回転までまわせるのに、八坂丸は出力のバルブを締めて、七十回転にして走っていた。  ドイツ潜水艇《ユー・ボート》の潜むイギリス海峡を、ずっとジグザグ航法で走り抜けた八坂丸は、水平線に朝日が顔を出すと、ビスケ湾をジブラルタル目指して、時速十三ノットで走り続けている。  釜の蓋が開くと、中の炎に裸の火夫達の肌が、湧き出した汗に濡れて、橙《だいだい》色に輝く。  普段でも石炭を焚く釜が七缶もある機関室は、猛烈な暑さで、辛い仕事場なのだが、この第一次大戦が始まって、辛いだけではなく、危険なことは曲馬団《サーカス》の猛獣使い以上になった。  ドイツ潜水艇に、吃水《きつすい》線の下を雷撃された商船は、そのほとんどが一分も経たずに轟沈《ごうちん》してしまう。  船橋や甲板にいる乗組だって助からないのに、船底にいる機関員が逃れられるわけもなかった。  魚形水雷を喰らって、撃沈された商船の乗組で、当直で船底に居た者の助かったことは稀だったのだから、英国船で機関員の就労拒否が起きたのも当たり前だと、船乗り同士なら分かることだ。  誰でも自分の仕事に誇りを持ち、乗組んでいる船を愛しているとは言っても、四方を鉄板で囲まれた焦熱地獄にいるまま、こんどは水責めに合わされるのでは堪らないと思うのは人情だが、他の国の機関員はともかく、八坂丸の連中は怖れてはいなかった。  潜水艇の魚形水雷を喰らえば、まず助からないとは思っていたが、だからと言って逃げるわけにも、避けるわけにも行かない。  避けたりかわしたりするのは船橋にいる連中にまかせ、Uボートと闘うのは連合国の海軍にまかせて、自分達は命じられたとおり、持ち場を守って釜を焚き、ボイラーの圧力を保ち、本船のスクリューをまわし続けることだと、それだけで納得もし、往生もしていた。 「それはだな……」  二等機関士は、火夫から叩きあげて、免状を取った五十男だったが、額に浮かんだ汗の玉を拭いもせずに説明し始めた。 「たとえば、このビスケ湾に潜んでいる潜水艇は、潜望鏡という波の間から洋上を覗《のぞ》く棒で、やって来た軍艦や商船を認めると、魚形水雷を発射する。  潜水艇は海面下で止まっているが、狙った相手はドンドン走っているから、速度と針路、それに距離を見定めて、少し前に向かってぶっ放す」  二等機関士は肘《ひじ》を曲げた右手の掌を、胸の前に伸ばして少しずつ前に進めて、潜水艇に狙われた艦船になぞらえた。  そしてその進行方向に向かって、左手を魚形水雷だと言いながら、伸ばして行くと……。  右手の掌に左手の先が当たった。 「こうなると命中してしまう」  二等機関士がそう言ったら、周りで聴いていた褌だけのコロッパスと呼ばれている石炭運びや、機関員から言葉にならないどよめきが起こる。 「命中させられて堪るもんか、コン畜生ッ」  熊五郎が吠えた。 「八十八《やそはち》が、マルセイユまでどうにでも着かねえと、フランソワーズ姐《ねえ》ちゃんが荒れ狂って、みんな大迷惑すらあ」  誰かが、マルセイユで有名な娼婦と、恋仲の木島八十八をからかって、裸の胸に生えている黒い毛をひっぱる。 「俺は何が何でも神戸まで帰る。子供が神戸一中に受かったのよ」  爆笑の中で、誰かがそう言うと、皆がシンとなった。  ゲートルを巻いて、馬糞《ばふん》色の制服を着た神戸一中の生徒と言えば、その当時は、日本でもエリート中のエリートだった。  機関員の息子が受かったとなれば、皆がシンとなるようなことだった。  二等機関士は、また左右の手を構えて、これが本船でこっちが魚形水雷と、構えたのを動かし始める。左手の魚形水雷が、右手の本船に命中しそうになると、 「ここで魚形水雷を発見した本船は、山脇船長が“全速前進《フルスピード・アヘツド》”をかけて……ホラ」  右手を急に早めたので、手首のところを、左手の魚形水雷が通り過ぎて行く。  また機関員達は、どよめいた。 「魚形水雷は、本船のスピードが変わっても、針路も変えられなければ、スピードも変えられないから、狙いが外れて本船の後ろを通り過ぎてしまう」  だから余裕を一割ほど持って走っているのだと、二等機関士が説明する。 「なるほど、見張りがしっかりせんと、いかんばい」  誰かが九州弁で言った。  この頃の蒸気エンジンだと、ボイラーの圧力さえ一杯に高めておけば、命令があればすぐにスピードがあげられた。  陽が昇って、波はまだ高くて一面白兎が跳んでいたが、雲は吹き払われていい天気だった。  八坂丸は、見張りを普段の倍に増やして、真っしぐらにジブラルタルを目指していた。  船中が巨きな両眼になって、右舷と左舷の海面を睨《にら》みつけている。  波の間に黒い潜望鏡を見つけるか、うねりの中を本船に向かって、白く伸びて来る魚形水雷の航跡を見つけたら、見張りは船橋の当直士官に、大声で報告することになっていた。  当直士官は、魚形水雷の報告を受けたら、すぐ機関室にチェーンで連動している手動速力指示器《テ レ グ ラ フ》で、全速前進《フルスピード・アヘツド》を命じることになっている。  釜を全部、一杯に焚いて蒸気圧をあげておけば、すぐ回転があがって全速の八十八回転までスクリューをまわせる。 「おい八十八、もうすぐマルセイユだぞ。どうするんだ」  非番の山野熊五郎と木島八十八は、一番下の甲板に出ると、手摺に身体をもたれさせて、目の前に盛りあがる藍色のうねりを見詰めていた。 「手は足りるから、マルセイユで降りたらどうだ。女と惚れ合うことなんか、そう滅多にはねえことだろう」  自分が機関長《チーフ・エンジニア》に言ってやろうか……と、仲間の熊五郎が言ってくれたのに、木島八十八は礼を言いながら首を振った。  三十二歳になった八十八と、ちょうど四十歳の熊五郎は、コロッパスと呼ばれる石炭運びから叩きあげた、腕のいい火夫、釜焚きだ。  勤務《シフト》が一緒ということもあるが、このふたりは兄弟同様の仲の良さだった。  熊五郎は神戸に女房と三人の娘が待っているのだが、明石の浜育ちの八十八は、二年前にたったひとりの姉をジフテリアで亡くして、天涯孤独の身になってしまっていた。  その八十八が、南仏の港街マルセイユで、恋に陥ちた。  相手は毎晩港のカフェか街に立って、水夫や水兵を客にしているフランソワーズ。  八十八の話では、まだ二十六だけど、気の毒なことに、客を取るのはこれでもう十年になるという。  フランス娘としては小柄で、五尺六寸(百七十センチ)の八十八と並ぶと、ほぼ同じ背の高さなのだが、高い踵の可愛い靴を履いているから、素足になると二寸(六センチ)は低いと八十八は言った。  つい先頃までは、総理大臣が芸者を妻にする時代だったから、郵船会社の腕っこきの火夫が、マルセイユの港で一番繁盛している娼婦と恋に陥ちても、目くじらを立てる奴はいない。  むしろ、あのいつでも石炭の粉と汗にまみれている八十八が、あの売れっ子のいい女と……と、八坂丸の乗組は舌を巻いた。  明石の漁師の伜《せがれ》だった八十八は、盛りあがった肩をした筋肉質の、太い眉の男だが、決して色男ではない。  火夫の仕事場は船底の機関室の釜の前だから、船乗りとは言っても、陽に当たることは当直明けに甲板に出た時ぐらいのことだ。  普段は石炭の粉にまみれて、黒い汗が毛穴に染みているが、真水の風呂でシャボンの泡を立てて念入りに洗うと、八十八は見違えるほど肌の色白な、美男というのではなくても、苦味走った精悍《せいかん》な男になった。  両腕には叢雲《むらくも》の中を龍が天を望み、背中では坂田の金時《きんとき》が、熊を抛《ほう》り投げている。  八坂丸は新造船で、これが二度目のイギリス航路だ。  処女航海の往航で、八十八と熊五郎はマルセイユで上陸すると女を買った。 「不思議だな八十八、この辺りの連中は懐の中身が見透かせるようだ」  熊五郎は自分は大年増を選ぶと、その時初めてフランソワーズの肩を抱いた八十八に、笑ってそう言ったのだ。  金を沢山持っていると、自分のフランス語は自在に通じて、孟宗竹の笛まで吹かせるのだが、段々懐が淋《さび》しくなれば、それに従って通じにくくなると言う。 「ハチ、お前さんそんな小娘みたいなのを、喜んで買っていると、肥後の足軽……って言われちまうぞ。外国女は年増なほど床上手で値打があるんだ」  熊五郎は大年増にはコニャックを御馳走すると、カルバドスとラムを半々に割って、ライムを絞り込んだ「スターン・ホイーラー」という飲み物を、うまそうに呑みながら、歳下の八十八に、そんなことを言った。  肥後の足軽は大名行列の時に、槍の穂先に黒皮の鞘をかぶせたので、皮かむりの初心者のことを、こんなふうに呼んだのだ。 「肥後の足軽だろうが、明石の蛸《たこ》だろうが構いません。俺はこの娘が可愛くて、何をしてくれないでも、マグロの昼寝のようにしているだけで、十分ですよ。心配しないでおくんなさい」  八十八が言うと、ふたりの火夫は顔を見合わせて、カラカラと笑った。  大年増とフランソワーズも、何か分からなかったが、客が機嫌のいいのは大歓迎だから、一緒になってコロコロと笑ったのだ。  それでなくても日本人の船乗りは、助平たらしくなくて、マルセイユの女にしたら、それ以上はない最高の客だった。  他の国の船乗りには、港の女を買いに来る前に、わざわざシャボンで身体を洗いたてて、髭まで剃って来る清潔な男なんていない。  十六の時に初めてイギリス人の船長に、身体を売ってから、これで十年仕事をして来たフランソワーズが、八十八を客にして、思わず真底から惚れてしまった。 5 釜焚きと料理人たち  女郎が客に真底惚れるなんてことは、まずそう滅多にあることではなかった。  もっとも商売女が、身も世もなくなれば客は大喜びなので、芝居で、生きるとか、死ぬとか大騒ぎすることは、これは専門技術のうちなのだ。  その晩のフランソワーズは違った。  筋肉質の日本人の船乗りが、自分の上で動き始めると、フランス語は通じなくても、そんなときの声はたいていどこの国でもいっしょだから、フランソワーズは、鼻声で、「死にそう」なんていっていた。  フランソワーズも、これで十年も商売をしている二十六歳の女盛りだから、恋人と商売抜きでしているときは、神様のつくってくださった女なので、当然のことながら、気持ちがよくなる。  客を相手にそんなことをしていれば、一晩に三人も客は取れない。  だから、港の娼婦がまず最初に身につける技術が、よくなったふりをすることなのは、洋の東西を問わない。吉原でもパリのサン・ドニでも、いっしょだ。  この晩の八十八も、フランソワーズが普通の晩で三人、忙しければ十人も相手にするごく普通の船乗りだった。  ストッキングを取ってやったら、それだけで特別扱いというぐらいの、チョンの間の客だ。  フランソワーズは、南仏育ちの気のいい娘だったから、はっきり日本がどこかは知らずに、多分インドシナのまだ遠くだろうと思ったぐらいだったが、それでもはるばるやってきた船乗りだと思ったので、ストッキングも取って丸裸になった。  はるか東の果てから来たという体の締まった船乗りも、くるくると素早く着ていたものを脱ぎ捨てて、下には紐《ひも》に布のついた下着を着ていたのを見せたのだが、今では日本人に慣れたフランソワーズだけど、最初のときは両腕を突っ張って逆らった。  大事なところの病気で、包帯を当てているからだと、褌《ふんどし》のことを思ってしまったからだった。  ベッドに仰向けに横たわって、両手を伸ばすと、手招きしてみせたフランソワーズに、日本人の船乗りは、腕の中に身をもたせてはこずに、下腹に頬を押し当てると、手を伸ばして両脇腹から胸を愛おし気に撫でまわした。  フランソワーズが、東から来たのかと尋ねると、あごでへその下をつつかれたのは、きっと、そうだと頷いたからだろう。  アラビアか地中海の女を買ったのかと尋ねたら、へその下をあごが横にこすったので、フランソワーズは、この熊とレスリングをしている刺青《いれずみ》の日本人が、なぜかとてもかわいく思えた。  そうするうちに、日本人の船乗りの尖ったあごが、へそから胸の間をこすって自分の鼻の頭をかすめて、額の毛の生え際で止まると、応接間に硬い杭が打ち込まれた。  頃合いやよし……とみて、フランソワーズは得意のよがり泣きを始めたのだが、しかめた顔を左右に振ったら、腕のドラゴンと顔が合ってしまった。  それからは何としたことか、日本人の船乗りのひと打ちひと打ちが頭の中を霞ませて、銀色の火花が腰ではじけて背中で散った。  十年鍛えた術が通じずに、こんなことになるのも、そもそもが女の体を使っての仕事だから、まるでないわけではない。  それでも、だんだんひと打ちごとに、芝居が芝居でなくなるのを、フランソワーズは、これは今まで客にとっぱずされたときとまるで違うと、今では銀色にめくるめく頭の中で、思っていた。  思っていた……というより身体の芯で感じていたのだ。  南仏の言い伝えで、神様は泥の塊を両手でふたつに割って、右手の分で男を、左手の分で女を創ったという。  神様は右利きなので、右手のほうが泥が多くて、だから男のほうが体格がいいのだというのだが。  この神様が同じ泥の塊から創った男と女が巡り会うと、これ以上幸せなことはないと、フランソワーズは幼いころに聞かされたのだが、この年になって、幸せになるという意味が、とても性的なニュアンスだということがわかった。  日本人の船乗りを受け止めている間に、だんだん仕事でなくなって、歓びに変わってきたフランソワーズは、心地好いうねりに身をまかせながら、このあごの尖った男が、神様が自分といっしょの泥から創ったやつだと確信した。  神様は左手の泥で創った女から、下界に投げると聞いているが、それでもときどき右手の分を先に投げたりもなさる。  それにしても神様は肩がお強い。  右手の分ははるか東洋のはずれまでお投げになったと、フランソワーズは思った。  次の日も八坂丸は、荷揚げが続いていたので、腕っこきの火夫は釜焚きをコロッパスと呼ぶ新米にまかせて、上陸することができた。  八十八は、フランソワーズと愛し合ってから、港を見下ろす丘の上にのぼって、肩を寄せて坐ると、下に美しい八坂丸が見えた。  フランソワーズは八十八のシャツのポケットに、札のたたんだのを落とし込むと、 「愛してしまったから、あなたはお客ではないの」  と、ささやいた。  口数が少ないというより、むしろ、ほとんど無口な八十八だったので、フランス語が話せないのだろうと思っていたのだが、 「おれもだ、フランソワーズ」  と、思いがけず、かなり流暢《りゆうちよう》な返事が戻ってきたのに、フランソワーズは驚きといとしさに胸が詰まった。  ジブラルタルは、ヨーロッパ大陸とアフリカが、ほんの十四キロのところまですり寄ってきている海峡だ。  八坂丸が差しかかると、丘の上にある砦《とりで》の旗柱に信号旗が揚がる。 「最微速前進“デッド・スロー・アヘッド”、臨検です」  操舵手《クオーター・マスター》の榊原が、船橋《ブリツジ》で横に並んで立っていた山脇船長に言った。  左舷前方から英国海軍の高速艇が、八坂丸めがけてやってくる。  高速艇は最微速でゆらゆら走る八坂丸と並ぶと操舵室の窓から、白い制服の士官がメガホンで叫んだ。 「船長、乗員・船客・積荷・船体等に、何か異状はありませんか。敵の情報、あるいは目的地等にも何かあればおっしゃってください」  船橋の端に出た山脇船長も、メガホンで叫び返す。 「お役目ごくろうさまです。異状や変更は何もありません。おかげさまでUボートにも襲われずにここまで来ました」 「貴船の目的港であるマルセイユまではまずUボートの危険はありません。ほぼ大丈夫と思われますが、それでもどうぞ充分に気をつけてください」  高速艇は、グイと左に舵を切ると、八坂丸から離れていった。  ここからが地中海で、イギリス海峡のあの時化《しけ》がうそのように、空は抜けたように青く、吹くそよ風も南欧の香りがするように思えた。 「朝食は味噌汁だけでいいよ。チーフ・コック」  船長は伝声管でそう言った。  船内に四つも調理場のある八坂丸で、それぞれ料理長《チーフ・コツク》がいるのだが、生田磯吉はその四人を指揮する総料理長《シ エ フ》なのだ。  普段は外人客用洋食調理場で、白くて高い帽子をかぶって、伝声管の下にある机に坐っている。  この調理場にはコック服を着た調理人が九人も配置されていて、ほかの三つの調理場より人数が多い。  日本人船客に比べて、ずっと少ない外人船客だが、郵船会社はサービスに努め、外人船客の比率を上げることに全力を傾けていた。  喰べるのが、長い船旅では最大の楽しみだから、船客には、まずうまいものを鱈腹《たらふく》喰べさせることだ。  コックを横浜につくった訓練所でみっちり修業させたのは勿論、食堂のボーイにも作法といっしょに英語とフランス語までしっかり教育したというのだから、これは徹底している。  まだこの頃、大正四年といえば、日本船にわざわざ乗ってくる外人なんて、いれば物好きか、女房が日本人ぐらいのことだった。 「船長、取っときの干物がありますが、それでも御膳は召し上がりませんか」 「いやあシェフ、気を悪くしなさるなよ。もう間もなくマルセイユだから、あそこで魚のフライを喰べて、白ワインを呑もうと思っているのだ。どうだ、いい考えだろう」 「呆れた、何をおっしゃることだか……。あとマルセイユまでは、たっぷり十時間もありますでしょう。それに船長が上陸できるようになるのは、それから三時間はかかるのです。魚のフライと白ワインは、私も喜んでお相伴させていただきますが、今は矢っ張り朝食を召し上がらなければいけません。身体に毒でございますよ」 「なるほど、言われてみればそのとおりだ。それじゃあ、いり卵で飯を喰べるとしよう」  陽気な船長の声を聞いて、顔をほころばせた生田磯吉は、マルセイユでのお相伴の話を取り決めると、弾みをつけて伝声管に蓋をした。 「本当に子供のような方だ。マルセイユに着いたら、すぐ魚のフライを喰べに行けるつもりなんだから、船長だというのに……」  生田磯吉は、自分で船長のいり卵を作りながら、口の中でぶつぶつとつぶやく。  包丁を取らせたら、自他ともに許す名人だった。  調理場の鉄の床に盥《たらい》を置いて、真っ赤な頬をした新米の竹下が、セッセとジャガ芋の皮をむき、芽をえぐっている。  まだ数えの十五歳だから、満でいえば十四歳という今では信じられない若さだが、この頃は大正四年で、労働基準法も児童福祉法もない時代だ。  八坂丸の乗組で最年少は、邦人客用の調理場で修業している板前見習いの水野で、まだ数えの十四歳だった。  コックのなかでは古株の二十八歳になる山崎は、そんな竹下に目をとめると、 「おい、竹下。きさま、マルセイユが最後の機会かもしれんぞ。ほんとだぞ」  脅すように言ったのだ。  竹下は、オヴンの前に立っていた山崎をチラと見ただけで、返事はしない。  自分の握り拳より大きそうなジャガ芋の皮を、セッセとむき続けている。 「なあ、竹下よ。こんどは普段の航海と違って、潜水艦のウジャウジャしている地中海を、マルセイユからポートサイドまで走ろうっていうんだ。おまえさんも、いつまでも田舎の娘に義理立てしていると、女も知らずに仏さんになっちまうぞ。どうだ、おれが連れていってやるから、マルセイユで女を買え。それを田舎のえみとやらだと思えば、女なんてみんな同じだ」  竹下は返事もせずに下を向いたきりだったが、いつも真っ赤な顔がさらに赤く、熟れきったトマトのように変わって、ジャガ芋を握っていた手が小きざみに揺れはじめた。  オヴンの前を離れた山崎は、ロンドンで積み込んだ塩漬けのヒラメを、念入りに調べていた。 「どうなんだ竹下。本船で女を知らないのはおまえだけなんじゃないの。約束をしたと聞いた田舎のえみだって、おまえさんが仏さんになったらどうしようもなかんべい」  山崎が言い終わらないうちに、立ち上がった竹下少年の手からジャガ芋が離れ、しゃがみ込んで塩漬け魚を調べていた山崎の横面に命中する。  グズッと音がした。  後ろに尻もちをつきながら山崎は、 「ギャッ」  とわめいた。  次の瞬間、床の油光りしている黒い鉄板を、尻でドンと鳴らした。 「コラアッ。おまえたち、仕事場で何を騒いどるか」  外人客用調理場の料理長が、竹下と山崎の間に素早く入ると、太い腹を突き出して仁王立ちになる。  シェフの生田磯吉も作ったいり卵を皿に移していたところだったが、それをオヴンの上に置くと、竹下の前に立ちふさがった。  素早く跳ね起きた山崎は、隣の箱の太刀魚の尻尾《しつぽ》を刀のように握って、真っ赤な顔をして構えた。 「山崎、おまえがようない。若い竹下が田舎の娘に、義理を通そうが、通すまいが、おまえの知ったことか。ばかもん、いいかげんにせい」  と、生田磯吉に怒鳴られると、山崎は空いた手を後頭部に当てて、すみませんとつぶやいた。 「山崎さんのド阿呆、山脇船長さんの乗っておられる本船が、潜水艇なんかに沈められて、沈められてたまるもんか」  叫びながら竹下が、ポロポロ涙をこぼしながら、右手に自分の拳より巨きいジャガ芋を握って向かっていくのを、生田磯吉は、太い腹で受け止めると、両腕でしっかり抱え込む。  竹下はシェフの腹に顔を当てて泣きじゃくった。  山崎は、外人客用調理場の料理長に、これでは喧嘩《けんか》をしてもさまになりませんと、苦笑いして、太刀魚を箱に戻した。  前掛けで手を拭きながら、泣きじゃくる竹下の後ろに近づくと、 「気にさわることを言っちまったらしい。かんべんして機嫌よくしておくれ」  と、優しく肩に手を置いて言った。 「山崎、おまえ、昼の仕事を終えたら、マルセイユ入港前におれの部屋に来い」  生田磯吉にそう言われると、山崎の白くて華奢《きやしや》な首から血の気が退いた。  三十がらみの山崎にしても、生田磯吉の弟子で修業中の身だ。弟弟子をいじめたあとで師匠の部屋に呼ばれてろくなことはあるわけがなかった。  航海中に作った自家製の豆腐を小さなサイコロに切り、味噌汁の身にして、生田磯吉はそれにお新香を添え船長の朝飯を調《ととの》えると、自分で船長室まで出前をした。 6 勝負の前に  山脇船長は、生田磯吉の持ってきてくれた朝ごはんを喰べはじめる前に、 「シェフ、二十分後にもう一度来てくれないか。事務長の河田くんもその時間に呼んでおく」  驚いたことに、マルセイユからの目的地がポートサイドからアレキサンドリアに変更になって、しかも船客が全部で百二十人の満員になるのだという。 「郵船会社のヨーロッパ航路で、どの港の間でも、船客が満員になるのは、おそらくこれが初めてのことではないか」  と、山脇船長は言うと、味噌汁をすすり込んだ。  詳しいことは朝飯を喰い終わったら事務長《パーサー》とシェフには、いちばん先に知っておいてもらいたい……山脇船長はいり卵を飯の上にのせながらそう言った。  二十分たって、生田磯吉が船長室に行くと、ドアの前で事務長の河田欣也に出会ったので、いっしょに入っていく。 「マルセイユから乗ってくる船客は、全部外国人で、日本人は一人もいない。だから、地中海を横断するアレキサンドリアまでの航海は、外人船客百三人、邦人船客十七人ということになる」  山脇船長は、事務長と総料理長の二人に椅子を勧めるとそう言った。  激増するドイツ潜水艇の被害に、損害保険業者は、イギリスやフランス、それにギリシャやアメリカの船会社には、しばらくの間、旅客の運送を中止するように要請していた。  死亡する船客の保険金支払いが急増したからである。  その当時、日本船の乗客はほとんどが日本人で、数量的にはごく少なかった。  だから、損害保険会社は、日本船には何の要請もしなかったというのだが、これは問題にされていなかったからだ。 「マルセイユの代理店から打電してきたのだが、港にはアラビア、インド、それにシンガポールやインドシナに向かうイギリス人とフランス人が、たまってしまっているのだそうだ」  保険会社の要請外だった八坂丸に、予約が殺到したのだが、乗りたくて乗ってくるのではない。  八坂丸しかUボートの群れている地中海を、東に向かう船がないからだ。  日本の造船所で造られ、日本人の乗組だけで運航する八坂丸を、イギリス人やフランス人の船客たちは、狸《たぬき》の泥舟ぐらいにしか思っていない。  山脇船長はパイプを取ると、たばこを詰めながら、事務長と総料理長にも、どうぞ吸ってくれと手真似をしてみせた。 「正直なところ、ドイツ潜水艇の魚形水雷を喰らわずに、アレキサンドリアに入港できるのは五分五分だろう。しかし、もしやられたらやられたときの話で、おれたちはお国のために尽くすチャンスがある」  無事に着くよりも、むしろ金貨もいっしょに撃沈されてしまったほうがいいのだと、山脇船長が言ったから、事務長と総料理長はびっくりした。  山脇船長は、 「それはまあ言葉のあやだが、無事に着けばよし、もし万一撃沈されても、満員の百二十人の乗客を一人も犠牲にせず救えたとしたら、日本船と日本人のおれたち船乗りの評価は、世界的に見直されることになる。今は保険会社が問題にしないほどなのだ」  もし、山脇船長の言うように、乗客全員を救助できたら、これは世界中にセンセーションを巻き起こすにちがいないことだった。  しかし、そんなことができるだろうか……。  事務長の河田欣也は、端整な顔を曇らせた。 「甲板部、機関部にも徹底するが、直接船客に対する事務部に、まずこの事態を呑み込んでもらいたい。とにかく、万一雷撃されたときには、全乗組挙げて乗客の命を助けるのだ」  代理店で、そこまで気をきかせてくれるとは思えないから、きっとマルセイユからの客のなかには老人や子供もいるだろうが、この乗客たちを救えるか救えないかに、日本の海運業全体の将来がかかっているのだと、山脇船長は事務長と総料理長に話した。 「船長のお考えはよくわかりました。事務部一同にその旨徹底いたします」  河田欣也は、四十になったばかりで、五尺八寸(百七十六センチ)もある外国人のような長い足をした映画俳優のような男だ。これほどの美男は外国映画でも滅多には出てこない。  そのうえ、この私立大学の文学部を卒業した男は、英語とフランス語を自在に話した。  ほかにスペイン語とドイツ語も通じる程度にはしゃべれる。  事務を取る書記《クラーク》のほかに、調理人たちやボーイもみんな事務長の指揮下にある。  百六十二人の八坂丸の乗組のうち、半分以上の九十二人がこの河田欣也の部下だった。 「当直以外の者はできるだけ甲板に近いところで寝るようにして、寝る時間と飯を喰べるとき以外は甲板に出て、総員見張りだ。アレキサンドリアに着くまでは、私も含めて、全員が潜望鏡と魚形水雷の航跡に目を凝《こ》らそう」  救助訓練は、これまでに繰り返し十分に積んでいた八坂丸の乗組《クルー》だ。  しかし、満員の、それもほとんどが外国人の船客を相手にして、訓練どおり行えるかといえば、これはまず可能性のないことだった。  Uボートに雷撃されたパニックで、救助訓練と違った事態が次々と起きたときに、いかに臨機応変の処置が取れるかどうか、それにすべてはかかっていた。  当直以外の乗組を、少しでも甲板に近いところで……、と山脇船長が言ったのは、こうしておけば、雷撃されたときに助かる率も多いと思ったからだ。  ツァイスの双眼鏡で、港の外をじっと見詰めていたリゲット船長は、 「あれだ……」  と、短く呟いた。  白い鬚《ひげ》が潮風にそよぐ。  五年前に現役を退いていたリゲット船長だが、インドのマドラスに出来た船員学校の教授に招かれて、赴任するところだ。 「本当に日本人ばかりで、往ったり来たりしているのだろうか……信じられない」  肩のところで喋りかけて来たイタリア人のマルコには、返事もせずに、リゲット船長はじっと、入港して来る八坂丸を見詰めている。  マルコは中年のローマ人で、シンガポールにイタリアのワインを、売りに行くところだ。  シンガポールを中心に、香港から東京まで足を伸ばそうとしている。  とにかくインド洋の暑さを、自分で経験しないと、商品管理が出来ないというのが、製造している醸造元の意見で、契約の条件だから、仕方なくマルコは東洋に行こうとしていた。  マルコの売っているワインのメーカーは、ほとんどフランス人のような北部イタリア人だから、契約が厳しい。  なんでドイツ潜水艇が猛威を振るっている地中海を、日本船に乗って越さなければならないのだ……とマルコは何度も天を仰いで神様に愚痴をこぼした。  イスタンブールまで行くオリエント・エクスプレスも、トルコが敵側なのだから、東洋に行くのは海路しかない。  醸造元との契約どおり東洋に着任するのには、マルコは八坂丸に乗るしかなかった。 「何かこれは、神様の罰だ」  マルコの呟いたのを聴いたリゲット船長は、不安そうに栗色の睫毛《まつげ》をしばたかせていた妻のメアリーに、 「それほど心配したものでもない。見事な操船だ。それに、はるばる日本からロンドンまで行って、また帰って行くのだから、そんなに馬鹿にしたものでもない」  と、そう言ったのだが、長身に白い顎鬚を蓄えたリゲット船長には、たとえそれが日本人だとは言っても、同じ船乗りに対する信頼があるようだった。 「プルプルプル」  単葉のブレリオ機が、入港して来る八坂丸に向かって飛んで行く。  青い空には、高いところに薄い白雲がたなびいている。  港には大勢の見物人が群がっていたが、このマルセイユから乗り込む船客達の不安な顔も混っていた。  フランソワーズも、ハンカチを握りしめて、入港して来る八坂丸を見詰めていた。  一等運転士の草刈が、舳先《へさき》に立って、水先案内人の号令を確認しながら、八坂丸は岸壁に詰めかけた見物達の前で桟橋に接岸する。  出入港の時は、一等運転士が颯爽《さつそう》と舳先に立つのだが、これぞ船乗りの晴れ姿という場面なのだ。  船橋《ブリツジ》には東洋人の船長が、水先案内人と並んで立ち、水夫長《ボースン》は舫《もや》い綱《づな》を鮮やかに桟橋に投げる。  一等運転士を筆頭に、皆それぞれ男の仕事をする美しさが滲《にじ》み出ている姿だった。  八十八《やそはち》は、フランソワーズが包帯かと思った下着だけの裸になり、蒸し風呂より暑い船底で、誰にも見られずに、釜を焚いている。  岸壁に集まっている見物は、八十八のような男が、働き続けていることも知らない。  美しい彫物と優しい心を持った男が、大事な役目を果たしている姿は、人目にふれることはないのだと、フランソワーズは残念に思った。  あの八十八が、自分の仕事に励んでいる姿は、甲板で働くどの男達にも負けないほど、美しいのに違いないとフランソワーズは思う。 「奥さん、日本人は、料理しない生魚を常食にしている野蛮人なので、おそらく船客にも朝から晩まで魚と、それに味もつけない煮た米を出すでしょう。私は缶詰と軍用ビスケットを行李《こうり》一杯持って行きますよ」  マルコはリゲット船長の横に並んで、不安そうな表情をして、目の前に接岸した八坂丸を見詰めていた夫人のメアリーに、下卑た訛《なまり》の非道い英語で話しかけた。 「なまの魚《ロウ・フイツシユ》を……」  メアリーは、顎をあげながら呻《うめ》くように呟くと、夫の腕に両手でとりすがってしまう。  接岸した八坂丸の舷門から、タラップが降ろされると、検疫官や税関吏が小走りに駆けあがって行く。  続いて乗船して来た代理店の若いフランス人は、舷門で出迎えた正装の三等運転士に、 「ここからは船客も満員の百二十人で、積み荷も満船だよ」  と、目を見張って叫んだ。  機関長と事務長に、総料理長の三人を連れて上陸した山脇船長は、町の高台にある代理店の本社に行くと、入念な打ち合わせをした。  今日すぐに満員の乗客のための食料品を積み込んで、明後日の午後二時迄に準備を了える。  三時には百三人の乗客が乗船を始める予定を決めた。  機関長と事務長を残して、山脇船長は生田磯吉と一緒に事務所を出ると、丘の道から港を見降ろした。 「さあシェフ、ここからが勝負だ」  八坂丸のウインチが白い蒸気を噴きながら、忙しく動いて、馬車で運ばれて桟橋に積みあげられた木箱や梱包《こんぽう》を、次々と船内に吊りあげる。  陽が沈むと作業灯が点《つ》けられて、主に船客用の食料品の荷役が続けられた。  網袋に入った玉葱《たまねぎ》と、木箱に詰められた緑色のキャベツも、甲板に立った水夫長の手がシグナルを送ると、それを見たウインチ・マンがレバーと蒸気バルブのハンドルをまわして、桟橋から吊りあげ、ブームが動いて八坂丸の中に納められる。  ボーイ達は船室の支度を整え、食器を磨き、コック達は下ごしらえをしながら、冷蔵庫に肉や魚を納めた。 「救命艇の備品と電動ウインチを点検しろ」  山脇船長は二等運転士に命じると、事務長から受け取った船客名簿に目を通す。  日本人は、ロンドンから乗船した十七人だけで、マルセイユからの乗客は皆外国籍だ。  イギリス人が四十八人で、フランス国籍の者は二十七人。  そしてアメリカ国籍が八人と、イタリア人が六人で、百二十人の乗客中八十九人が白人だ。  有色人種は、中国人が六人と、インド人とエジプト人が四人ずつだったが、そのうちインド人の夫婦と中国の官吏ふたり以外は、イギリス人とフランス人の乗客の召使いで、備考の欄に、誰それのSVNTと記入されている。  最年少はインド人の少女で、十七歳。  最年長は、チャールズ・リゲットとタイプしてある次に、CAPTと称号が打ってある。  船長免状の所持者に違いない。  軍人であれば海軍《 R.N.》とか 陸軍《 R.A.》と備考欄に記されている筈だ。  男が八十八人に、女が三十二人という構成で、幸いなことに子供と幼児はいなかったし、病名を特記してある乗客も居ない。  夜九時に山脇船長は、夜食の済んだ乗組を後甲板に集めて、訓示を行った。 「明後日の午後四時に、北アフリカのアレキサンドリア港に向けて出港する。  乗客は既に承知しているように、百二十人の満員で、そのうち日本人は僅か十七人である。  最善を尽くしてなお、不幸にもドイツ潜水艇の雷撃を受けた時は、乗組は全力を挙げて乗客の救助に専念する。  乗客をひとりでも犠牲にしてはならない」  山脇船長は、ここで顎を引くと、言葉を下級船員によく理解させようと考えて、思い切って平易に変えた。 「命令を守って、客を助けることを第一に考えるのだ。ひとりも殺してはいけない。  アレキサンドリアに無事入港するのが、一番結構なことではあるが、もし万一魚形水雷を喰らってしまっても、これは天の与え給うた絶好の機会と考えるのだ」  山脇船長は、そう言うと、前に整列している乗組を、睨みまわしたのだが、中には驚いて口を開けてしまった男もいる。  ドイツの潜水艇の魚形水雷を喰らうのが、天の与え給うたことだなんて、そんな天なんて願い下げだと、怪訝《けげん》な顔で乗組員達は、山脇船長を見詰めていた。 「我々は、そんな時でもお国のためになれるのだから、皆、よく聴いておけ……。  イギリスやフランスの船でも、そんな時には乗組が先を争って逃げて、乗客は置き去りにされることが多い。  我々は、まず乗客を救助する。  自分のことも、積み荷のことも全て忘れて、上官の命令に従って乗客を逃がし、救助することを何よりも最初に考えるのだ」  不幸にも撃沈されたとしても、乗客を全員救助出来れば、日本の船乗りの性根は、世界中に知られると、山脇船長はわかり易い言葉で、ゆっくり話した。  これまで全く知られていなかった自分達のことが、世界中に知られて、客も荷物も増えて、それに保険料だって引き下げられるに違いない……。  日本の船乗りの根性を、知らない人達に知らせられるのだから、これは天の神様のお与え下さった絶好の機会だと思うと、山脇船長は言った。  乗組達は、目を輝かして大きく頷く。 「万一雷撃されたら、命令に従って、これまでの訓練どおりやるんだ。うろたえたり慌てたりする者は、八坂丸の乗組にはひとりもおらん。そうだろう……」  山脇船長が訊くと、最前列にいた熊五郎が、 「船長ッ、まかしておくんなさいまし。男になりたい者ばかりでさ……」  普段の上方訛が、なぜか歯切れのいい関東弁になっていた。  後甲板に集まっていた乗組は、もう一度作業灯の下で、大きく頭を縦に振った。  機関長と一等運転士、それに事務長を呼んだ山脇船長は、明後日の午後一時まで、乗組を交代で上陸させてやれと命じる。  マルセイユ港の物音は絶えて、夜は更けて行った。  犬の鳴き声と、笑い声が時々街の方から聴こえて来る。  上陸を許された熊五郎と八十八は、行きつけのバーのカウンターで、額を寄せ合っていた。  入り口から小柄なフランソワーズが入って来ると、店の中を見渡して、普段なら微笑み返す男の視線を、知らぬ顔で店の中を見まわしたのだが、八十八を見付けると小さく跳ねてから駆け寄って来る。 7 八十八《やそはち》は降りなかった  そのバーのカウンターにはストゥールが置いてなくて、熊五郎と八十八は立ったまま肘《ひじ》をついてもたれかかっていた。 「ヤソアチ……」  フランソワーズが低い声で呻《うめ》くように言ったのは、こんな場面になると叫び声なんて、逆に出なかったからだ。  小柄なフランソワーズは、カウンターから体を起こした八十八の首に、伸びあがるようにして両手を回すと、体を揉みながらしがみついた。  カウンターの角にいたイギリス人の水夫が、 「フランソワーズ、いくら払えばそんなに歓迎してくれるんだい」  と下手なフランス語で野次をとばした。 「フランソワーズはきのうの泊まりで嫁入り支度が調った。今からはたとえモンテ・クリスト伯でも、客にはなれない」  熊五郎が、はっきりした南仏訛で怒鳴った。  カウンターの中にいたムッシュが、冷やしてあったシャンペンを何本も抜いて、カウンターの上に並べた。 「フランソワーズが嫁に行く祝い酒を、ここにいる友達のムッシュと、それにウチの店と半々で皆さんに振る舞います」  バーにいた船乗りと娼婦たちは、カウンターに集まってくると、フランソワーズと八十八に口々に、 「おめでとう」  とか、 「どこに住んで、何をするんだ」 「おまえさん、あまり長い航海には出ないことだ。フランソワーズのよさを知ってるやつは、大勢いるんだぜ」  そんなことを言った水夫を、熊五郎は恐ろしい顔で睨みつけた。 「ポルトガルに行くの、オリーブ畑を買うのよ。八十八もオリーブの実をつんで、時々はお水と肥やしをやるのよ」  フランソワーズがうれしそうに叫ぶと、 「ついでにヤソアチはオリーブの木の下で、フランソワーズにもお水をやるんだろうな」  と言った者がいて、うらやましい、それもただだぜ、と頓狂な声を出したのがいて、バーの中は笑い声でいっぱいになった。  いつの間にか、大年増の娼婦が、熊五郎の横にきて胸を寄せていた。 「フランソワーズは十年やってて、こんな日が来たけど、あたいは二十五年たっても、金で買われるだけなのさ」  声のさびしさに振り向いた熊五郎は、たたんだ札《さつ》を大年増の胸に差し込んだ。 「これはプレゼントだ。今晩は俺達も恋人同士のように過ごそう」  大年増の手が下にさがって、熊五郎のズボンの前をやさしくつかんだ。 「うれしい。けどこんな大きなのが入るかしら……」  そんなころが自分にもあったのだと、大年増は微笑んでみせた。  八十八とフランソワーズは、いつものように、ベッドと洗面器だけがあるホテルの部屋には行かなかった。  ロンドンから戻ってきたら、日本に連れて帰るか、八十八がフランスに来るか、いずれにせよいっしょになると、二人は決めていた。  八坂丸が西から港に入ってきて、八十八がタラップから降りたときから、二人は夫婦なのだと、この前別れるときに誓い合っていた。  フランソワーズは、これまで十年続けた仕事の足を、それまでにキリリと洗って、死ぬまで二度と八十八以外の男には抱かれないと、声を詰まらせて言ったのだが……。  八十八は、自分は船乗りだから、そういうわけにもいきかねると、困った声でつぶやいたのだが、それを聞いたフランソワーズは、うれしがらせを言わないでそんなことを口走った男をなおさら好きだと思ったものだ。  惚れればどんなことでもよく思えるし、憎めば逆に、天使の羽根でも薄汚れてみえる。  いつでもそこで客を拾った港のバーで、八十八と待ち合わせたフランソワーズは、はじめて自分の部屋に連れて帰った。  バスルームもトイレも、階下の家主のを使う小さな部屋だ。  一人用の狭い華奢なベッドと、洋服だんすがあるだけで、壁の鏡の下に洗面台だけついている。 「あまり激しく愛してくれると、このあたしのベッド、壊れてしまうかもしれない」  けどそれが、この長く自分を休ませてくれたベッドの、役目が終わるときにはふさわしいことかもしれないと、フランソワーズはつぶやいた。  こういう心理的な描写になると、八十八には正確な意味がわからなかったが、ニュアンスは感じ取れたので、頷きながらフランソワーズが裸になるのを手伝った。  華奢なベッドが西アフリカの黒人が使う素朴な楽器のように、リズムにのってきしんだ。 「ヤソアチ、貴方はわたしの夫なの、なんでも望むことを言ってほしいの。あたし、貴方に歓ばれたい」  フランス人はHの発音をはぶくから、ハワイはアワイだし、八十八もヤソアチになる。 「あたしも、恥ずかしいけど惚れた夫には、ベッドでしてもらいたいことは、小さな声で言いたいのだけど、かまわないかしら」  何でもかまわず言っておくれと、見事な彫物のフランソワーズの夫は答えて、忙しくしているときは小さな声じゃ聞こえない、と動きながら言ったので、妻が笑ったとたんに、夫婦の絆《きずな》がはずれてしまった。  次の瞬間、すぐ硬い絆を取り戻した夫は、 「ドミノをやると、熊五郎にぐずだなんて言われるおれだが、こんなときはわれながら素早い」  と言ったので、フランソワーズは、こんなときにおかしいことはいわないでくれ、気が散ってしかたがないと叫んだ。  フランソワーズは、芝居や自分に暗示をかけてのことではなく、自然にわいてくる心地良さに仔猫のように鳴き続けた。  そして、野鳥の啼き声を二度続けると、そりかえってから身体をゆるめた。  湿りを含んだ夫の肌を、フランソワーズは彫物の図柄にそって指先を走らせる。 「地中海にはドイツ人“クラウツ”の潜水艇が、夜の街道で馬車を待ち伏せる強盗のように隠れていて、商船を片っ端から沈めてしまうと聞いているわ。  積荷を獲るのでもなければ、身代金を巻き上げるのでもなく、いきなりただ船を沈めて人を殺すのだから……。そんなこと首狩り族やライオンだってしはしない」  とフランソワーズは眉をひそめて言う。 「あなた、このまま船には戻らずに、ここにいて、戦争の終わるのを待ったら」  勿論、自分自身のことだから、そう決めているのだろうと言ったのだが、八十八は裸で狭いベッドいっぱいにうつ伏せになったまま、頭を横に振ってみせた。 「これからおまえといっしょになって、どうするかは別として、おれはこの航海だけは八坂丸に乗る。アレキサンドリアで下船して引っ返してくるかもしれないが、この港で降りてしまうわけにはいかない」  怪訝《けげん》な顔で自分を見つめたフランソワーズに、八十八は、危険な航海に挑む八坂丸の事情を、一所懸命ことばをさがしながら話して聴かせた。  長い話を、狭いベッドの縁に身体を横にして、フランソワーズは、大事な男が命をかけるというのだから、わからないところは訊き返しながら熱心に耳を傾けた。  自分があえて危険を冒す理由を、惚れてくれている女にわからせるのには、八十八のフランス語は十分とは言い難い。  なれそめのときに八十八は、自分が寅だと口に出して、仰天したフランソワーズに、十二支の説明をする破目になったのだが、この時よりも今度の方が難儀だった。途中でもう一度、フランソワーズは仔猫と野鳥になって一時間ほど八十八の話は中断したのだが、始めたときから三時間もかかって、ついに説明しつくした。  ただでさえ女にはわかりにくい男の心意気だが、それを何度も訊き返してわかってくれたフランソワーズを、八十八は、自分の選んだ女だ、と思ったとたんに、目の裏が熱くなってしまった。 「フランソワーズ、わかってくれて、どんなにおれはうれしいことか……。アレキサンドリアから先は安全だから、おれは必ずそこから引っ返してくる。おれを男にしてくれ」  しっかり抱き締めて八十八はフランソワーズの耳にそうささやいたのだが、最後のところを誤解したフランス女は、微笑んで、日本人の夫の脚の付け根に顔を寄せて、おだやかに横たわったものを口に含んだ。  違う、と八十八はうろたえた。  出ていった八十八は、曲がり角で振り返ると、二階の窓から見送っていたフランソワーズに、両足を揃えて両手を脇につけると、黒い髪の頭を膝に当たるかと思うほど深く下げてみせた。  フランス人の男なら、手を振るか、投げキッスをするところだろう。  日本人の船乗り八十八は、フランソワーズが写真で見たことのある、おじぎというのをしてみせた。  桟橋には、八十八がみんな乗客だと知って魂消《たまげ》たほど、大勢の外国人が集まっていた。  乗船はまだだったが、手荷物の搭載は始まっていて、大型の旅行かばんや、磨いた木の箍《たが》が巻いてある行李を積み上げた手押し車を、波止場労働者が人ごみのなかを掻《か》き分け、大声で叫びながら押していく。  船尾の居住区の舷窓から、そんな様子をぼんやり見ていた熊五郎は、なんと八十八が本船に向かってやってきたのを見つけた。  白い木綿ズボンに薄茶のセーターを着て、首にこげ茶のハンカチを結んだ八十八が、はずむ足取りでタラップを上がってきたので、それを見た熊五郎は、顔をしかめた。 「このばか」  とつぶやく。船内の通路を小走りに駆けてきた八十八は、機嫌の悪い顔をしていた熊五郎に、 「ここで降りたりしたら、一生八坂丸の仲間には顔が合わせられなくなるし、船乗りだったなんて昔話もできなくなる」  フランソワーズも話したらわかってくれたと、永い付き合いの熊五郎も、今まで見たこともないようなよく輝く瞳で、叫ぶように言ったのだ。  八十八の黒い瞳のなかの、きらめくものを見た熊五郎は、何も訊かないでも、心の内が分かった。 「こんな場面の男の気持ちは、西洋人でもいっしょなんだろうな……。それにしても、ハチ、おまえ、いい女と惚れ合ったものよ」  妙ながんばりすぎで、当直が明けても船底に腰を据えたりなんてするなと、歳下の八十八を心配して熊五郎が言ったら、もうそんな歳でもない、できるだけ上のほうにいるようにすると答えて、八十八は愉快そうに鼻に皺を寄せて笑った。  正装に身をかためた司厨《しちゆう》長が、舷門をゆっくり通り過ぎながら、銅鑼《どら》を鳴らす。  事務長の河田が舷門に立って、乗船してくる客を出迎えていた。 「ようこそ本船にご乗船くださいました」  とか、 「事務長の河田でございます。お供できますのを光栄に存じます」  と、英語とフランス語で一人ずつていねいに、河田はあいさつをしたのだが、返事をする者はまれだった。  硬い表情でいぶかし気な目を船内に走らすだけで、これから美しい地中海の船旅を始める乗客達とは、とても思えない余裕のなさだ。  マルセイユからアレキサンドリアに向かう八坂丸には、百三人の乗客が予約されていた。受け付けた代理店は、病人や妊婦、それに子供を同伴する申込者に、この航海の危険なことを説明して、遠慮してもらっている。  さらに、敵側に捕獲されたときのトラブルを考えて、軍人と連合国側の要職にある者も遠慮願ったのだが、百三人の定員いっぱいの予約のほかに、二十四人のキャンセル待ちを用意していたのだ。  百三人の予約客が全員揃って乗船してくるとは思わなかったからだが、案に相違して、桟橋に荷物を持って集まっていた二十人ほどのキャンセル待ちの者は、ついに一人も八坂丸には乗れなかった。  どの予約客も、ドイツ潜水艇に地中海の底に沈められる危険をあえて冒さねばならない事情があった。  舳先と船尾の舫《もや》い綱《づな》が解かれて、曳船《タグ・ボート》に曳かれた八坂丸は、少しずつ桟橋から離れていく。桟橋に群がっていた見送り人から投げられたテープが、いっぱいに張って、次々に切れる。  倉庫の屋上に陣取っていたバンドが、それまでより音を張り上げると、「ラ・マルセイエーズ」を演奏しはじめた。  切れたテープを握ったまま桟橋の見送り人も、端艇甲板《ボート・デツキ》に群がっていた乗客も、何事か絶叫しながら手を振り合っている。  港を見下ろす丘にのぼったフランソワーズは、港の中央で船首を沖に向けると、曳船から離れてゆっくりと動きはじめた八坂丸を、手も振らず、叫びもせずに、じっと見つめていた。  あの日本船の船底にあるボイラーの前で、自分の夫が働いていると思うと、フランソワーズは、八坂丸の吃水線のあたりの舷側だけを見据えたまま、ほかには目も向けない。どうぞ無事で戻ってきてほしい……。夫の八十八にとって、命を失うことより、この船に乗ってアレキサンドリアに向かうことのほうが、大事だということは、フランソワーズにもよくわかっていた。心配だし、やってもらいたくないことだったが、もし、ここで下船して、自分といっしょに出港していく八坂丸を、見送ったとしたら、八十八は残りの人生を、しなびて皺のよった心で生きることになる。  無事を祈って、行かせるしかなかった。  やさしさと鉄火な気合いがみなぎっていた船乗りだから、自分は心奪われて妻になったのだが、肩をすくめて、しなびた心を抱えて生きる男に変われば、神様を恨むことになる。  どうぞ、神様、あたしの夫をドイツ人に殺させないでください……。そう祈りながら八坂丸を睨み続けていたフランソワーズは、見えていたものが突然にじんで、涙があふれてきた。 8 八坂丸の乗客たち  ゆっくりとマルセイユを出港していく八坂丸を追い掛けるように、波止場の石畳を雑種の犬と走る栗色の髪の少年。  誰か親類でも八坂丸に乗船したのだろうか。  八坂丸は港を出て汽笛を鳴らすと、針路《コース》を東南東に採り、スクリューの回転を上げた。  少年と犬は突堤の端まで走ると、少年はだんだん小さくなっていく八坂丸の船尾を見つめて手を振り続ける。  八坂丸の船尾には、白地の中央に赤い丸のついた旗が、強い風にあおられてはためいていた。  手を振り続ける少年に合わせて、毛足の長い犬も薄茶色のしっぽを振り続ける。  八坂丸は水平線に浮かぶ雲のなかに姿を消した。 「ふむ。どうやら船の形はしておるようだな」  ジェイムス・マカラはひねり上げた髭をふるわせて、従者のスティーヴに語りかけた。  二人とも白髪が薄くなって、頭の地肌が隠しようもなく光ってみえる初老というほどの年配だ。 「ふむ。日本で日本人がこしらえた船だという話だったが……これはイギリス人が指導して造った船にちがいない」 「そうでございましょうとも、ご主人さま。あんな黄色くて小さな人間どもに、鉄の船が造れる道理はございません。だいたいあの連中は、生の魚を喰べて、紙と竹で家を造るのが関の山なのでございます」  従者のスティーヴは、これから始まる永い船旅を、口やかましい主人と同じ船室で過ごさなければならないのが、憂鬱だった。  個室を二部屋取れるはずが、だめになって、機嫌のいいときが週に合わせて一時間もない主人と、寝起きをともにするのだから、これでは週に二ポンドの給料はいかにも安すぎる。 「船長も英国人ではなくて、なにやらという日本ネイティヴだ。  この船はドイツ人にやられてしまうに決まっている。おれは地中海の底に沈んで魚の餌《えさ》になってしまう。地獄だ。なんて死に方だ。これは悪魔の仕掛けた罠だ」  ジェイムス・マカラの充血した目は、吊り上がって鬼のようにみえた。  ノックしてドアを開けたボーイの池田は一瞬、鬼がいた、と肝をつぶしたのだが、すぐに気を取り直すと、 「失礼いたします、マカラ様」  と、声をかけた。  白い詰襟服を着たボーイの池田は、涼しい目もとの美少年だった。 「皆さまに船長の山脇よりお伝えしたいことがございますので、恐れ入りますが、船首がわの突き当たりにございますラウンジに、すぐお集まりくださいませ」  池田は正確な発音の英語を話した。  ジェイムス・マカラはわざとらしく耳を池田のほうへ傾けて、手まで耳にそえてみせた。 「なにぃ。今、なんといった。おれには英語のようではあっても、何をいったかまるでわからん。  スティーヴ、おまえにはこいつが今なんと吐《ぬ》かしたか、わかったか」  従者のスティーヴも、開けたトランクの中をさぐっていた手を止めると、主人に合わせて肩をすくめて手を広げてみせ、首を左右に振った。  ボーイの池田はそれを見ると、端整な顔を赤く染めたのだが、腹に力を入れて息を吸うと、同じことばをゆっくりとくり返した。 「ご理解いただけたでございましょうか」  これが十八歳の少年とは信じられない微笑まで浮かべて、ボーイの池田は、ジェイムス・マカラの血走った目を見つめてそう言った。 「ふむ。そのなにやらという日本ネイティヴの船長は、カルカッタ郵便局次長であるわたしをラウンジに呼びつけておるのだな」  ジェイムス・マカラは、いっそう血走った大きな目を見開いて睨みつけた。  ボーイの池田は、これは赤鬼だ……と思ったのだが、ここで脅えた様子は決してみせたりはすまいと必死に自分を励ましたのだ。 「はい、山脇船長でございます、マカラ様」  落ち着いた声でそれだけ言うと、返事を待たずに池田は船室のドアを閉めた。  スティーヴはその間中、首を伸ばしてじっと池田を見ていたのだが、首を一度横に振り、革製の大トランクを自分のベッドの下にしまうと、 「わたしの見たかぎりでは、この船のボーイはかなりよくしつけてございますな」  マカラは不快そうな顔のまま、スティーヴには返事をしなかった。  ズボンのポケットから出したカプスタンの箱が、からなのを知ると握りつぶして、船室の壁にたたきつける。 「ちくしょうめ、この船におれの好きなジョン・ヘイグとカプスタンが積んでなかったりしたら、あのボーイの尻の穴をスペインのざくろのようにしてやるのだ」  寄木細工の床と錦で張った壁の八坂丸のラウンジは、この一万トンクラスの貨客船としてはとびきり上品で格式があった。  入り口に事務長《チーフ・パーサー》の河田欣也が立ち、奥の正面には機関長《チーフ・エンジニア》の福西と山脇船長が、制帽を脇に抱えて立っている。  船客名簿を見て、まだ姿を見せない乗客を確かめると、ボーイたちがその船室に呼びにいく。  最後にさかんに手を振り回して、激しくボーイに文句をいいながら、イタリア人のマルコがラウンジに入ってきた。 「あなたがみんなを待たせたのですよ」  鋭い声で誰か女の乗客が英語で言う。  百二十人の乗客全員が集まると、山脇船長は軽く会釈をしてから話しはじめた。  ラウンジに集まった乗客たちは、女を椅子にかけさせて、男たちは飲物の入ったグラスを手に立ったまま、船長の話に耳を傾ける。  それまで口々に話し合っていた声が、潮の退くように小さくなり、乗客の半数ほどは顔を船長のほうに向けた。 「乗客の皆さま、今回は日本郵船会社の八坂丸を、お選びいただきまして、わたしをはじめ、乗組員一同、心より感謝し歓迎申し上げます。  ご乗船間もないところをさっそくお集まりいただいて、恐縮至極に存じます」  ここまで話して山脇船長が息をつくと、それを測っていたように、年のいった女の声で、 「謝ってあたりまえよ」  と野次がとんだ。  山脇船長はその声のほうには目もくれず、一節ずつ日本語、英語の順で話していく。  乗客のほとんどは、日本人の船長が正確な発音の英語を話すと知って、意外な面もちで次のことばを待っていた。 「皆さまご承知のとおり、現在の地中海航路は、憎むべきドイツUボート潜水艇のために、未曾有《みぞう》の危機にさらされております。  八坂丸は大英帝国海軍の指示のもとに、アレキサンドリアを目指して出港いたしましたが、今後の針路等、操船上の諸問題は、大英帝国海軍の協力を得て、情報に照らして、最善の策を取りたいと、存じておる次第です。  わたしを含めて、本船の乗組《クルー》は全員非常事態に関する充分な訓練を受けており、生命を賭して乗客の皆さまの安全を、お護りする覚悟であります」  ラウンジの隅にひと塊になっていた十七人の日本人乗客が、力のこもった拍手をした。  その拍手を割るように、巨きな赤い鼻をした中年男が、 「当然極まることだ」  と、大声でわめいたが、山脇船長は目もくれない。 「今からごゆっくり夕食をお楽しみいただき、その後は担当士官の指示にしたがって、乗客全員、退船訓練をしていただきます」  山脇船長がそう言い終わると、 「船長のお言葉を、わたしは訓練を夕食後に行なうと、そのように理解したのですが、もしそうであるとすれば、わたしと家内は遠慮申し上げる。  船長は、ご存じないようなので申し添えるが、すべての英国家庭においては、夕食の後の運動はいたさぬものであります」  おそらく退役陸軍士官ででもあろうか、野太い声が響きわたった。  訓練を拒絶したその発言に同調する声が、外国人乗客の塊ごとに沸き上がって、皆、同じような三つ揃えの背広を着て、葬儀屋の番頭のように見える日本人乗客たちは、普段でも表情のない顔を硬くした。 「マルセイユの我が社代理店が、皆さまに何と申し上げて切符を売ったものかは存じません。しかし、このような状況下にあっては、乗客と乗組員が一致団結して困難に当たらねば、目的を全うすることはかないません。  目的とは、目的地に無事到着することと、万一の際に命を落とさないことです。  私ども乗組が最善をつくすことはもちろんのこと、乗客の皆さまもできうる限りの努力をなさらねばなりません。今回の航海にかぎって、残念ながら皆さまには、“楽しい地中海の旅”というけっこうなものではまったくなく、“目的のために、何でもやらなければならない航海”なのであります。  これはたいへんわたしにとっても残念なことであるのですが……」  ここまで話すと、山脇船長は乗客を見つめながら息を吸い込んで、 「この不幸な航海の船長として申し上げなければならないことは、もし、乗客のなかにわたしの命令と指示に従えぬ方がおられれば、その方を下船させるために、本船をマルセイユに戻すのにやぶさかではありません」  山脇船長は、一語一語を噛みしめるように話したのだが、そのたくましい顔からは微笑をたやさなかった。乗客は私語さえも交わさずに息を呑んで沈黙する。 「よろしい。わたしは夕食後の訓練に参加する。マルセイユに戻ってもほかに当分東行きの船には乗れないのだ。  どうですか。皆さんも、とりあえず最悪の場面に備えてわたしといっしょに訓練をなさいませんか。腹ごなしにはなるし、あとの酒がうまいですよ」  ジェイムス・マカラは大声で叫ぶと、無遠慮な笑い声をたてた。 「どなたか、“船をマルセイユに戻せ”とおっしゃる方はおられますかな」  船長は目を少し細めて乗客たちを見渡した。  誰もなにも言わないとみると、山脇船長は微笑んで頷いた。 「わざわざお集まりいただいて恐縮でした。どうぞ夕食をお楽しみください。なお、アレキサンドリア入港までは、夕食にかぎらずいつでも服装はご自由《コスチユーム・インフオーマル》とさせていただきます」 「いやいや船長、地中海の間の不自由と不安は、紅海に入ってUボートがいなくなってからたっぷり元を取らせていただきます。ハハハ、わたしは神戸まで行くのですよ」  フランス人のクレイがそう言うと、ラウンジの中は笑いの渦になったのだが、しかし、その笑いはどこかひきつったように乾いていた。船長は乗客に会釈すると、機関長を従えてラウンジから出ていく。残った事務長の河田は、フランス語しか話さない乗客に、船長のことばを伝えていた。 「目をつぶっていればまるでパリ野郎だわ」  フランス女の声がした。  事務長の河田欣也を見て、女のいたずら心をこめてそうつぶやいたのは年増のフランス女だ。 「あら、体つきだってバスク人あたりよりはだんぜんすてきだわよ。あの事務長はほかの乗組と同じ中国人とは思えない。おじいさんかおばあさんはスコットランド人よ、きっと」  と、たどたどしいフランス語で、そう相槌《あいづち》を打ったイギリス女は、どうやらスコットランド系らしかった。  事務長の河田欣也は、その当時の日本人の男としては珍しく、五尺八寸もある背の高い男だ。  学生時代にボートをやったので、外国人なみの上背があっても、ひょろひょろののっぽではない。  全身にしっかりとした筋肉がついているが、けれど無骨でも田舎くさくもないのは、好きで今でもレッスンを取っているダンスのおかげで、フットワークが軽やかだから、ということもある。  洗練された男がそろっている日本郵船の事務長のなかでも、八坂丸の河田欣也は際立っていた。  ラウンジの窓は水平線に沈んでいく夕日でばら色に染まり、人が去って静かになると、機関の立てる単調なリズムがかすかに聞こえてくる。  航海灯も消して、黒い鉄の塊のようになった八坂丸は、夜の訪れようとしている地中海を、アレキサンドリアに向けてただひたすら走り続けた。  見る間に陽は沈み、地中海は夜になった。  潜んでいるドイツ潜水艇を思うと、乗客もなかなか眠れないようで、遅くまで船室の灯は消えなかったし、船内のバーからも人声が絶えなかったのだが、それでも河田欣也が午前一時に船内を見回ったときは、静まりかえって乗組の姿しか見えなかった。  ふだんの三倍の人数に増やした見張りは、月明かりの海をじっと見つめていた。  眠気を振り払おうと苦しむ者もいない。百六十二人の乗組が、合体して一つの命にでもなったように、海に潜むドイツ潜水艇に対していたのだ。  地中海の水平線を濃いオレンジ色に染めながら、朝日が昇って大正四年十二月十八日になった。  八坂丸は十四ノット(時速約二六キロメートル)の速度で、舳先で波を蹴散らし、美しい白い飛沫を海面にとばしながら、針路を東南にとってアレキサンドリアを目指している。  北に暗緑色に見えるのは、サルジニアの海岸だ。  無線局長《チーフ・オペレーター》の足立は、狭い無線室を出ると朝日に向かって柏手《かしわで》を打った。  乗客がまだ甲板に出ていないと見極めると、足立は思いきって両手を上げて、出っ張った腹を海と朝日に向かって突き出した。 「ああーっ」  思いきってのびをする。  昇る朝日に向かって思いきり大あくびをした局長の平和は、通信士の大川の呼ぶ声で終わってしまう。 「局長っ。おかしな無線を受信しました。イタリア語の平文で、わたしには意味がわかりませんが、電文の中に英語の“潜水艇”や、“危険”に似たことばがあります」 「へえ、イタリア語ね」  足立は額を押さえて考え込む。 「そうだ、書記《クラーク》の栗原が、あれは外語学校のスペイン語だ、スペイン語とイタリア語なら、きんつばと最中《もなか》みたいなものだから、事務長をわずらわせずに、あのにきび面をたたき起こせ」  通信士の大川は電文を握って、船尾にある乗組の居住区へ急いだ。天体望遠鏡で覗いた月のように、顔中がにきびだらけの栗原は、大川に揺り起こされると寝ぼけて叫んだ。 「なんだ、なんだい。もう飯ですか……。ゲハッ、それとも潜水艇ですか」  山脇船長は上着のボタンを、念入りに下から順にとめると、船長付きボーイの若林が盆に載せて差し出したコップを取ると胃散を呑んだ。  入り口に立って待っていた足立を振り返ると、 「足立君。いっしょに海図室《チヤート・ルーム》に行こう」  船長は自分の部屋を出て通路を急いだ。  海図室で待っていた一等運転士の草刈に、椅子に坐るようにうながすと、山脇船長は足立の持ってきた電報の訳文を見せる。 「イタリア語の平文で“Uボートがシシリー島とチュニスの間に一隻。フリート島とサイプラス島の間に一隻”いると知らせてきた。  英国海軍からは、まだこんな情報は知らせてこないが、わたしの考えるのには、この電信はイタリアの内航船用のためのもので、情報としては相当に信頼度の高いものだと思えるのだ」  そうとなれば、いちばん八坂丸にとって安全と思われるのは、シシリー島とイタリア本土との間のメッシナ海峡を抜ける航路なのだが、今からどう急いでもメッシナ海峡にかかるのは深夜になってしまう。 「悪いことにメッシナ海峡は、夜間の航行がイギリス海軍から禁じられている」  山脇船長は指で海図を押さえながらそういった。 「この際ですから、イギリス海軍から特別許可が得られませんでしょうか」  草刈が握りこぶしに力を入れてそう言うと、足立も山脇船長の横顔をじっと見つめた。 「うむ、それも考えたのだが……。そうしてメッシナ海峡を抜けても、そこに潜水艇がいないという保証はない。この電信も手のこんだ罠《わな》かもしれないのだ。思いきってマルタ海峡を通って、シシリー島に沿って走ろうと決めた」  山脇船長は、八坂丸を思いきってシシリー島の海岸に近寄せて走り、もし雷撃を受けたら、そのままシシリー島にのし上げてやろうと思っていた。  これなら魚形水雷の命中したところにいた不運な人間以外は、ほとんど命が助かるはずだ。  それにこうして沿岸にぎりぎりまで寄って走れば、島の側から潜水艇に雷撃されることは絶対にない。 「だからその分の見張りを海側に集中できるし、魚形水雷の航跡を発見したと同時に、全速前進《フルスピード・アヘツド》を掛ければ、すぐ八十八回転まで上がるから、発見が早ければかわすこともできるだろう」  山脇船長は自分の考えを確認するように話したのだ。 「なるほど、それはいいですな」  草刈も足立も、頷いてみせた。 「草刈君、舳先に立て。とにかくぎりぎりまでシシリー島に寄るのだ。今の速力で走るから、測深綱《レ ツ ド》は打てない。海図にある水深を信じるだけだ。漁船と漁網のブイにはとくに気をつけてくれ」  こんな非常事態では、平時のように万全を尽くすことはできなかった。どこかで危険には目をつむらなければならない。  山脇船長は速度を落として、測深綱で水深を確かめながら走るより、海図には載っていない浅瀬や海底の沈船に乗り上げる危険をあえて冒して、十四ノットで走り続けると決めた。  乗客の昼食が終わったころ、八坂丸はマルタ海峡を抜けようとしていた。  草刈は舳先に急ぎ、山脇船長は船橋に三等運転士といっしょに立った。  船尾には二等運転士が立ち、八坂丸の右  舷《スターボード・サイド》にはふだんの六倍の見張りの目が集中される。  見張りは、遠くと中程、それに近くを専門に見張る三つの組に分けられて、視力のよい者が選ばれると、遠くを専門に見つめる。  マルタ海峡を抜けた八坂丸は、風が吹きだして白兎の跳びだした海面を押さえつけるように、東南に船首を向けた。 「マルセイユにいるドイツの軍事探偵から、もうきっと、とっくに報告が送られているだろう。 “不敵にも日本船、八坂丸は満船《フル・ロード・フル・パツセンジヤー》で出港しました”、これはUボートにすれば、ずい分なめられたと思うだろうから、意地になって本船を沈めにかかるだろう。  だが、こっちは沈められないし、もし魚形水雷を喰らっても、だれも死んでなんかやるものか」  山脇船長は、八坂丸の針路をにらみながら、まだ若い三等運転士にそう言った。  その頃、八坂丸のいちばん高いところにある無線室では、通信士の大川が続けて入電する無電を一言も漏らすまいと、真剣な表情で書きとめていた。  背後に立った無線局長の足立は、次々と単語になっていくローマ字を見つめている。  今、受信しているのはどうやらギリシャ語のようだ。  その前のはイタリア語、そしてその前のは、これはまちがいなくイギリス海軍司令室からのもので、なぜかといえば、これだけが指定された暗号電文によるものだった。  しかし、解読して平文に直すと、足立はがっかりしてため息をついた。Uボートの位置については新しい情報は現在なし、という内容だったからで、そんなことなら暗号になんかしないでもいいのに、と内心毒づいた。  ギリシャ語らしい入電が終わると、それまで輻輳《ふくそう》していた無線がぱたりと切れた。  八坂丸でギリシャ語の電文が英語に直せるのは、事務長の河田だけだが、これも字引を引き引き、ずい分時間がかかる。  足立は電文をつかんで、小太りの身体をゆすって河田の部屋に急いだ。  きょうはこれでもう山脇船長に届ける入電は八本目で、そのうち六本はUボートの所在を知らせる内容だった。  訳文を見ただけでUボートがひそむという位置がさまざまで、ぜんぶが本当ならこの海域には十隻以上の潜水艇が、波の下に隠れているはずだ。まさかそんなたくさんいるわけはない。  地中海全体でも、作戦行動中のUボートは二十隻もいないというのが、イギリス海軍の見解だった。  足立の読み上げた電文を聞くと、伝声管《ボイス・チユーブ》に蓋をした山脇船長は、当直だった一等運転士の草刈に、いろんな電信がくるものだと言って微笑んだ。 「平時の時化《しけ》や氷山なんてものが、今ではかわいくて懐かしいですな」  草刈は針路を見つめたままそう言ったのだが、これは士官にかぎらず、八坂丸の乗組全員の想いにちがいなかった。 「ほんとうだ、草刈君、おまけにこの電信のなかには、Uボートからまことしやかに打ってきているやつもあるのだから、どれが本物なのか確かめられないだけに、考えはじめると頭がおかしくなる」  山脇船長はいまいましそうな声でそう言ったのだが、顔には苦笑いを浮かべている。  平文の電信は何回か関係先に打電すれば、確認できるかもしれないが、八坂丸の位置はそれでUボートに、ほぼ確実に察知されてしまう。  満船のうえに十万ポンドのソヴリン金貨を積んだ八坂丸が、マルセイユを出港してアレキサンドリアに向かったことは、スパイがすでに知らせているはずだ。  海図室《チヤート・ルーム》に入った山脇船長は、テーブルに載せてある海図に、電文を見ながらバツ印をいくつかつけた。  その海図にこれで十個以上のバツ印がついたのを見て、 「話半分でもずい分いやがるものだ」  と、山脇船長は独り言を漏らす。  十六ミリの鋼板を使っている商船は、魚形水雷を一発命中させられると、まず沈没させられてしまうと決まっていて、ほとんど助かった船はいない。  第一次大戦が潜水艇の実戦に使われた最初なのだが、海軍力に劣るドイツは、これが切り札だった。  ドイツ海軍の潜水艇乗りたちは、北海のキール港からはるばるこの地中海まで、煙突ほどの太さの恐ろしく居心地の悪いしろものを運んできたうえに、じっと波の下にひそんで待っているのだから、敵ながらその忍耐力と敢闘精神は驚くべきものだと、山脇船長は舌をまいている。  話に聞いたところでは、狭い潜水艇の中では、横になって寝ることが精一杯で、風呂に入ることはおろか、洗濯さえままならないから、下着だって着たきりすずめだという。  おそらく異臭のたちこめる艇内で、ドイツ海軍軍人たちは、汗まみれの髭ぼうぼうで、敵の来るのを待っているのだろうが、これも考えただけでどんなにたいへんかわかるというものだ。  沈められるほうもたいへんなら、沈めるほうもなおたいへんなのだから、戦争というものはよほどの得がなければ、やらないことだと現場にいればよくわかる。  日本はこの第一次大戦で勝てばどれほどの得があるのか、とこのとき山脇船長は思った。 「自分は万一Uボートに雷撃されてしまったら、必ずその不運を逆にお国のためにしてみせる。災い転じて福と為《な》す……だ」  と、そう思っていれば、いつ波の下にひそむドイツ潜水艇に、一発喰らってしまうか……という逃れようのない不快が、それでもいくらかまぎらわせられる。  マルセイユを出港する前に、乗組を集めてこのことはすでに話しておいたのだが、航海中の今は全員を集めることはできないから、士官にもう一度伝えさせ、徹底させようと山脇船長は思った。  こうしている間にも、ひそんでいるUボートの鼻先を八坂丸は走っているのかもしれない。  いつ大音響がして、魚形水雷を喰らっても何のふしぎもない。 「一七・〇〇時に、当直以外の士官は全員海図室に集合」  山脇船長は伝声管で見習士官《アプレンテイス》にそう告げた。  海面にはわずかなうねりがあるだけで、油でも流したようにおだやかだった。  地中海を真ん中に、ふたつに割るようにイタリア半島が長靴のような形で延びていて、その先に巨きな石がひとつあるのは、シシリー島だ。  マルセイユを出港してアレキサンドリアを目指す八坂丸を、Uボートが待ち伏せしようとすれば、それはこのイタリアとシシリー島を躱《かわ》す時だった。  三つほど考えられるコースのどれを山脇船長が選ぶかで、八坂丸の運命は決まる。  二隻のUボートを、三つのコースにそれぞれ配置するほどの余裕は、ドイツ海軍にもないようだ。  だからこんなに怪しげな電信が打たれるのだと山脇船長は見抜いていた。  この何本かのUボートの所在を知らせて来た電信の中には、何本かはおびき寄せようとして、敵が打って来たものが混じっている。  確かめることは自分の位置を、Uボートに知らせてしまうことになるので、出来なかった。  船橋の海図室に、続々と士官達が集まって来る。  日本海軍には、「五分前」という習慣があって、集合時間に限らず何でも、定められた時刻の五分前に、準備を了えることになっていた。  この習慣は民間にも伝えられ、日本郵船会社でも規定にこそなってはいなかったが、この時でも山脇船長の命じた一七・〇〇時の五分前には、当直の者は除いて士官は全員、海図室に集まった。  三十畳敷きほどの広さの海図室は、船長室のすぐ並びにある。  周囲は世界中の海図を納めてある棚に囲まれていて、中央には海図を置く巨きなテーブルが作りつけになっていた。  そのテーブルを取り巻いた士官達に、山脇船長は頷いて見せてから、海図を指差して話し出す。 「沢山電信が届くのだが、全部の情報を総合すると、この海域だけで十隻以上もUボートが潜んでいることになる。  こことここと、それにこの辺りと……」  山脇船長は地中海をふたつに区切るように突き出しているイタリア半島と、それにシシリー島の周囲を、太い指でトントン突つきながら、皆に言った。 「出来るだけギリギリまで沿岸に近寄って、シシリー島を躱《かわ》すところまで突っ走る。  ギリギリまで岸に寄せれば、Uボートは片側しか狙えないだろう。本船は海側に見張りを集めて、今までどおりのスピードで行く。  シシリー島を躱せば、そこからアレキサンドリアまで、最短距離をジグザグで走る。明朝もう一度、乗客の避難訓練をやって欲しい」  頼むぞ……と、山脇船長が腹から絞り出したような、低くて力強い声で言ったのに、全員が声を揃えて頷いた。 「船長、まかせて下さい」  百二十人の乗客達は、マルセイユを出港すると、「楽しい地中海の船旅」ではないことを、すぐに思い知らされた。  日、英、仏の三ヵ国語で書かれた指示文書《インストラクション》が配られて、サロンで説明会が行われた。  救命胴衣のつけ方、自分の乗る救命ボートの番号と位置、貴重品の処置、望ましい服装、命令系統と号令の確認と、乗客は覚えなければならないことが沢山あった。 「こんなことをやったって無駄だよ。魚形水雷を喰らえばこんな船はひとたまりもなく沈んでしまう。救命ボートなんかに乗り移れるものか」  途中でイタリア人のマルコが、下卑た巻舌の英語でわめき出した。  事務長の河田にたしなめられると、自分はもうこんな訓練や講義は受けないと叫んで、両手を拡げて上下に激しく振る。  教官役をつとめていた一等運転士の草刈が、額に青筋を立てて両方の拳を握りしめたのを見て、小泉誠太という日本人乗客が二、三歩前に出た。  太い首に角張った顔が載っている肩の張ったいかつい中年男だ。  立派なカイゼル髭をたくわえた武道館流の柔道家で、ロンドンに道場を開いている。  先日ウエリントン将軍の前で演武をやって、イギリス陸軍の猛者《もさ》六人を、次々と宙に抛《ほう》りマットに叩きつけ、動けぬように押さえ込んで男を挙げて新聞に大きく出た男だ。  膝を左右に開いて腰を沈めた小泉誠太が、細い目のついた表情のない顔で、自分の方に迫る構えなのを見ると、マルコはうろたえた。 「この野蛮人め、俺は連発拳銃を持っているぞ。近寄るな……」  椅子から弾けたように立つと、マルコは青い顔をして懐に手を入れる。  唇が震えて、後ろから叩いたら前に落ちそうなほど、血走った目は一杯に見開かれていた。 「貴様が魚の餌《えさ》になるのは構わんが、足手まといになっては他の者の生命にかかわる。訓練を受けぬとあれば、いっそ邪魔にならぬように、手足の関節をはずしてくれようか」  小泉誠太が、正確だが半世紀ほど以前の英語でそう叫ぶと、誰か日本人の乗客が、 「蛸《たこ》のようにしてやる。イタリア蛸だ」  と、低い抑揚のない声で言った。 「最善を尽して自分の命を守るのが、戦時の国民の義務だ。訓練を受けない者は逮捕して縛りあげておけ」  リゲット老船長が言うと、一瞬静まりかえったところだったので、サロンの隅までよく響いた。 「皆と一緒に非常事態の手順を覚えなさい。マルコさん」  草刈一等運転士にそう言われると、マルコは白くなった顔で、また椅子に坐った。  八坂丸が雷撃された時に、乗客のとらなければならない行動を、順に記すと次のようになる。  魚形水雷は船首と船尾を、正面から直撃することはまずあり得ない。  ほぼ必ず左右両舷のどちらかに、命中する筈だ。  ズシンかドカンか、とにかく一万トンもある本船が、運が悪ければそのまま、ほとんど瞬間的に轟沈《ごうちん》してしまうのだから、魚形水雷が命中すれば、かなりな衝撃があるに違いなかった。  寝ていて気がつかなかった……というようなものではない筈だ。  乗客は命中した衝撃を感じたら、どこに居てもすぐ自分の乗り込むと定められた救命ボートのところに、急行する。  あらかじめ宝石等の特別な貴重品は身につけていて、決して通路や甲板から、船室に取りに戻ったりしてはならない。  眠る時も昼食の時も、雷撃されて漂流するのに備えて、厚地の衣類で行動が自由なものを着ているように、特に御婦人方には指示されていた。  ハンサムな事務長の河田が、御婦人方をサロンに集めて、このことを話したとき、 「それではアレキサンドリアに着くまでは、生まれたままの姿で愛を交わすわけには参りませんのね。なんてことでしょう」  と言ったのはアイリッシュのクレアで、三十過ぎの玄人《くろうと》と見える女だった。 「貴女のズボンとセーターを、救命ボートの中に入れておいて、生まれたままの姿で走っておいでになれば、潜望鏡で覗いているドイツ人は、魂消《たまげ》てしまうことよ」  婦人刑務所の看守のような印象のある、いかつい中年のイギリス女が、そう皮肉な口調で言うと、サロンに集まって居た婦人乗客は乾いた笑い声をたてた。  いつ雷撃を喰らうか分からない八坂丸の乗客は、どんな場合でも素直に心から笑うということはなかった。  いつでもUボートの黒い影が、乗客の頭の中にうずくまっている。 「いいわ、あたし、この男前の事務長の船室から、神様のお創りになったままの姿で、救命ボートまでフォックス・トロットで行ってみせる……」  クレアが笑いながらそう言ったのを聞いた、夫の任地の香港に向かうイギリス陸軍中尉の若妻が、神様がお創りになったままなら、その猛々しい胸と尻はどうするのだと、まぜっかえした。 「すっかり私の船室が舞台と決められたようですが、客船の事務長には選択権がないのでしょうか……」  河田が苦笑してそう言うと、久し振りで軽やかな笑い声が、サロンで弾ける。  八坂丸はイタリアに近づいていた。 9 見えぬUボートに脅えて……  イタリアの西岸に達した八坂丸は、海岸線に沿って南下する。  肉眼でハッキリ海岸の家並みが見えるほど、陸に近寄ることは、浅瀬にのしあげたり魚網や小舟をひっかけてしまうことも多い。  山脇船長は進行方向と海側の見張りを強化して、Uボートと障害物に備えた。  船長室の舷窓から陸を見たら、朝日で教会の茶色の瓦が美しく見える。  鐘のついた塔の先端に立った十字架に、飛んで来た鳥が両足で掴むようにとまったのが見えた。  このまま南下して行くと、メッシナ海峡なのだが、そこを通過する頃はちょうど夜中になる。  この海峡を夜間に通過することは、英国海軍から禁じられていた。  もし狭い海峡で座礁してしまう船があると、重要な航路が閉鎖されてしまうからに違いないので、戦時夜間航行の禁止ということになったのだろうが、そそっかしい操船をする船乗りがこの辺には多いからだ。  山脇船長はそう思うと苦笑したのだが、今から回転をあげて、フル・スピードで南下しても、とても日没までにメッシナ海峡に着くことは出来ない。  そうかと言って、速力を落として明朝に着くようにすれば、Uボートの魚形水雷の餌食になってしまう。  時速六〜七ノットで走るのと、十二ノット以上では、潜水艇が狙いを定めるのに、大きな違いがあると聞いている。  それなら、このままの速力で行き、メッシナ海峡は通らずに、ぐるりとシシリー島をまわる以外にない。  他に選択はなかった。  山脇船長は立って神棚の水を新しくすると、二度柏手《かしわで》を打って、合わせた手に額をつけて頭《こうべ》を垂れた。  いつまでも山脇船長は神棚の前で、頭を垂れたきり動かない。  船長室に入って来たシェフの生田磯吉は、その様子を見ると、自分も入ったところで両手を合わせて拝んだのだった。  八坂丸に祭ってあるのは、京都の八坂神社で、今回も神戸港を出港する前に神主に来てもらっている。  拝んでいる山脇船長の額とうなじに、汗の玉が浮かんでいるのを、シェフは見た。 「人事を尽して天命を待つ……」  正にそんな場面で、百二十人の乗客と百六十二人の乗組《クルー》を無事にアレキサンドリアに着かせたまえ……と、山脇船長は、懸命に八坂神社に祈っていた。  朝食の支度が出来て、船内の食堂には乗客の姿が見え始め、一日が始まったのだが、岸を近くに見た乗客はその美しさに目を見張る。  八坂丸は、舳先で緑の海を切り裂いて、白い飛沫にすると、辺りの海面にはじき飛ばす。  飛沫は瞬間的に虹をかけ、その下の濃い青と緑に分かれた海面には、空に浮かぶ白い雲が映っている。  早起きの漁師が操る小舟が、強い北風が作る三角波で、何艘《そう》も大きく揺れていた。八坂丸の航跡《ウエーキ》に揺すられて、甲板の漁師が懸命に命綱を掴んでいる漁船もいる。  地中海の朝日は、雲間から現れるとたちまち下界を照り輝かせてしまう。  八坂丸が通り過ぎて行くのに向かって、赤いシャツを着た漁師が、首に巻いていた赤い布をはずすと、振りまわして見せる。  赤黒い顔の中の白い歯に、朝日が当たってキラリと光った。  端艇甲板《ボート・デツキ》に出ていた髪の赤い女客が、ハンドバッグから白いハンカチを出して、漁師に向かって振って応えている。  赤いシャツを着て、手に握った赤い布を振り続ける漁師の小舟は、八坂丸に追い抜かれ、航跡を横から喰らって大きく揺れた。  鴎《かもめ》が何羽も、八坂丸とその漁船の間を、高く低く飛んでいる。  赤いシャツの漁師は、身体でバランスを取りながら、いつまでも白い歯を輝かせて赤い布を振り続けていた。  当直の草刈一等運転士と一緒に、船橋に立っていた山脇船長は、船長室の神棚の前で祈っていた時にはつむっていた目を、今はきらめかせて八坂丸の針路前方を見詰めている。 「右舷前方約五百メートルに浮遊物」  見張りの大橋捨吉が、船橋の張り出した端から叫んだ。 「魚網のブイではありません。流木のようです」  草刈は山脇船長と同じ双眼鏡を使っている。  倍率は六倍だが、視野が広くて軽量だから、このドイツのツァイス製の双眼鏡は、敵味方を問わず愛用されている。 「なんとあれはイルカの群です。流木ではありません」  大橋捨吉が大型の望遠鏡を、片目で覗きながら大声で叫ぶ。  八坂丸が近づくと、イルカ達も興味を持ったらしい。  右舷二十メートルほど近いところを、同じスピードで泳ぎ続けている。  黒光りのする流線形の身体を、海面で縦に上下させながら、三角の鎌の刃のような背鰭《せびれ》を朝日に輝かせて、イルカ達はどこまでも一緒について来る気らしい。 「右舷じゃなくて左舷を泳げ、潜水艇の魚形水雷を喰らってしまうぞ」  山脇船長が呟くと、操舵手の竹内が肩で笑った。  船内にある四ヵ所の調理場では、コック達が忙しく働いていた。  早番は朝の三時に起きて、三時半には調理場に入って仕込みにかからなければ、間に合わない。  乗客は退屈だしUボートの恐怖で睡りが浅いので、朝食時間と決めてある七時前から、食堂に出かけて来る。  乗組は六時間交替のシフト勤務だから、朝食の時間はまちまちだが、火夫の山野熊五郎と木島八十八は、船首にある食堂で丼飯を食べていた。  外人船客用の調理場で働いている山崎が、鮭《さけ》の腹身を砂糖醤油《じようゆ》で煮たのを、乗組の食堂に配って歩く。 「オッ、凄えな。毛唐は馬鹿だな、こんな美味《う ま》いところを喰わねえのか……」  熊五郎が早速テーブルの上に置かれた丼から、白い鮭の砂摺《すなず》りのところを箸《はし》で摘むと口に入れて、目を細めて、そう叫んだ。 「いや、筒切りにする料理だと、この美味いところは出ないんだが、今日の昼は三枚にしたのとフライだからだよ」  白いコック服に縞《しま》のズボンを穿《は》き、首には白い大判のハンカチを巻いて、コック帽をかむっている山崎は、喜ぶ火夫のふたりにニコリと笑ってそう言った。 「毎日、フライにしろ」  八十八が言ったら、船首の食堂で朝食を喰べていた十人ほどの乗組が、皆嬉しそうに天井を見上げて笑う。 「それにしても色男、お前少し痩せて顔色が悪いぞ。肺病じゃねえか、気をつけろよ」  熊五郎が、いつでも美味いものを乗組達に振舞ってくれるコックの山崎に、感謝を籠めて、そう言った。 「いやあ肺病じゃねえんだけど……」  色白の山崎が眉をひそめてそう答えると、 「そいじゃマルセイユで、アフリカ人用の安い奴をまとめて買って、患らったな」  当直を了えて朝食を喰べていた水夫の倉田英輔が、船医さん《ド   ク》のところに行って、早く手当してもらえ……と、顔をしかめて言う。 「早く手当をしねえと、子種がなくなっちまうぞ。それに淋病のコックに飯を作られたんじゃ、俺達は平気でも客はたまらねえだろう」  倉田英輔がそう言ったら、食堂の中で笑い声が破裂して弾けた。 「そんなことなら痩せもしないさ。俺、師匠に、ひとまわりを喰らっちまった」  山崎が哀しそうに顔を曇らせて呟くと、それまでの笑い声が、その途端に静まりかえってしまう。 「ひとまわり……かあ」  自分も十年ほど前に釜焚きの親方から、ひとまわりを喰らって、ふた航海だけ北海道の材木船に乗ったと、熊五郎が呟いた。  山崎は生田磯吉の弟子だった。  山崎省一は二十八歳になる。  十四歳で料理人を志すと、最初は板前を目指したのだが、十七歳の時に日本郵船会社の「洋食料理人研修生」に合格して、洋食のコックの修業を始めた。  生田磯吉は研修生達の教官だったから、そのまま山崎省一の師匠になって、これで十年になる。  師匠の生田磯吉の見たところ、弟子の山崎省一は、なかなか筋が良かった。  物覚えが良いということもあったし、同じ皿を作らせても、出来あがった時の姿がよく見える。  これはコックには大事な資質だった。  板前としての下地があって、その上に生田磯吉の下で十年修業をしたのだから、たいていの店なら充分チーフ・コックのつとまる腕前なのだ。  それがUボートの恐怖におののいている船内で、それもまだ数えで十五歳の竹下をつかまえて、いびるようにしていたのを見て、師匠の生田磯吉は顔をしかめた。  こんな心の持ち方では、いくら腕はよくてもいい料理人にはなれない。  山崎省一に、マルセイユに入港する前に自分の部屋に来いと、生田磯吉は言ったのだった。  マルセイユ入港の二時間ほど前に、ノックをして部屋に入って来た山崎省一に向かって、師匠のチーフ・コックは静かに言い渡した。 「ひとまわりだ。この航海が終わって神戸に着いたら、お前は本船を降りて旅に出ろ」  生田磯吉は、それまで吸っていた煙管《きせる》を置くと、自分の前に頭を下げて立っている山崎に、噛んで含めるように言って聴かせる。 「お前、俺の弟子になって、もう十年にもなるだろう。いつでも俺が教え続けて来たが、お前にはまだ分からない」  料理は腕の助けで、心が創るのだと言った。 「もう一度だけ言ってやる。料理というものは、喰べる人に喜んでもらいたいという心がなければ、何年修業しても本当のものは出来ない」  黙ってはいても皆が内心、潜水艇のことで心を傷めている時に、冗談にしろ歳のいかない目下の者を掴まえて、八坂丸が沈むだの、仏になるのと言い出すようでは、まともな料理が出来るかと、シェフは叱った。  山崎はポロッと涙をこぼす。 「他人の飯を喰って、大事な心を練って来い。そして自分に、思いやりのある心が出来たと思ったら、何時でも戻って来い」 「そう致します。悪うございました」  山崎省一が深く頭を下げて部屋から出て行くのを、生田磯吉はジッと見送っていた。  そんなことがマルセイユ入港前にあったので、山崎省一は沈んだ顔をしていたのだ。  前の晩、サロンの隣にあるバーで、水平線の白みかけるまで水割りのスカッチを、それこそ鯨のように呑み続けたイギリス人のトンプソンが、ようやく目を開けたのは、もう昼に近い頃だった。  舷窓から差して来た地中海の強い日が、顔に当たったので、ヘルメットのテッペンに一本角《つの》の生えているドイツ兵に、強いライトを正面から当てられて、訊問されている夢を見ていた。 「何も喋るもんか、ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》め」  トンプソンは、大声で叫んで目を覚ました。  クラウツという罵り言葉は、酢漬けキャベツ《サワー・クラウツ》ばかり喰べているということで、ドイツ人に対して他のヨーロッパ人が、あざけりと憎しみを籠めて使っている。  喰べものがあざけりを籠めて呼ばれる例は他にもある。  イタリア人は、同じようにマカロニと呼ばれるし、フランス人は蛙なのだ。  トンプソンは、昨日が四十一歳の誕生日だったので、 「なんという日に生まれたのだ……」  ということになって、イギリス人ばかり六人ほど集まると、ヘベレケになるまでバーでスカッチを呑んだ。  頭を起こすと、後頭部がズキンとして、胃から食道にかけて不快なものが、湧きあがって来る。  トンプソンの妻のバーバラは、とっくに起きると栗色《ブルネツト》の髪を高く結いあげて、開けた舷窓から入って来る汐風に、おくれ毛をそよがせていた。  イギリスの女流作家の書いたインドの紀行文を読んでいる。  十六歳になる息子のチャールズは、イートン校の寄宿舎に入れて来たのだが、妻のバーバラは初めての外国暮しだ。  象にまたがって草原を行く漆黒の肌の少年と、夕陽の丘に建つ古代の遺跡……。アデンはどんなところなのだろう。 「お早よう、デイヴィス……」  トンプソンの起きあがった気配に、バーバラは本から顔をあげるとそう言った。 「お早よう、バーバラ。  目が開いても水が入って来ないところを見ると、まだこのヤサカマリュは沈められていないらしい……。ゲッ、あれを見ろ」  トンプソンは舷窓の外を指差して仰天した。  船室の舷窓から外を見て、驚いている亭主には気がつかない妻のバーバラは、どうか昨晩のようには酒を呑み過ぎないでくれと言う。 「ね、デイヴィス。  これでアデンに住むようになっても、少しお身体のことを考えて、昨夜みたいには召しあがらないでちょうだい」  亭主の貴方が元気で働いてくれるから、息子のチャールズも、イートンで勉強が続けられると、バーバラは静かな声で続けた。 「分かった。分かったバーバラ、もう昨夜のようには呑まないし、それにもう呑めそうもない。見ろ黄色い小人達は、こんなに岸に寄ってヤサカマリュを、とてつもないスピードで走らせている。暗礁でもあればひとたまりもない。Uボートの魚形水雷を喰らう前に、イタリアの魚の餌になっちまうぞ」  こんな船に乗っていれば、スカッチでも呑んでいないと、とても神経がもたないとトンプソンは,両手で真中が薄くなった灰色の髪の毛をかきあげる。 「日本人の船だって知らなかったわけじゃないんだし、後のことはあのヤマワキって船長と部下にまかせるしかないわ」  バーバラが言うと、 「あの黄色の焦げたような色をした小人達に、私達の命もチャールズの将来も、全部まかせてしまうというのか……」  トンプソンは鼻と口を押えて、ガスが胃から逆流して来るのをバーバラの前で辛うじて耐えた。 「ほら、貴方ごらんなさい。呑み過ぎよ。  それにねデイヴィス、そう絶望的になることもないと思うわよ。先日のヤマワキの演説も立派だったし、事務長も他の士官も、ビックリするほどキチンとした人達よ」  バーバラはそう言いながら、読んでいた本に紙をはさむと、立ちあがって胃散を探す。 「俺はちょっとリゲット船長に、御意見をうかがいに行って来る。  とにかくこのスピードで、こんなに沿岸に寄って走るなんて、非常識で危険千万だ」  トンプソンは、着ていたパジャマを脱ぎ捨てると、急いでシャツとズボンを身につけた。  バーバラがコップの水と一緒に差し出した胃散を、少し胸にこぼしながら呑み下すと、 「ヤマワキって赤黒い小人は、このヤサカマリュをUボートより先にぶっこわしてしまうぞ。あまりとはいえ岸に近過ぎる。漁師町の屋根の風見鶏までハッキリ見えるのだ」  船室から飛び出したトンプソンは、チャールズ・リゲット船長夫妻の船室のドアをノックしたのだが、中から返事はなかった。 「リゲット様御夫妻は、ラウンジにおいでです。トンプソン様」  後ろに近づいたボーイの池田が、静かな声で言う。 「ヤマワキを呼んで来い。すぐにだ。今すぐにだ」  イタリア人のマルコがわめき立てる声が、サロンの人混みの中から聞こえて来る。  サロンには七、八十人の乗客が集まっていた。  その中央に、立っている乗客に囲まれてリゲット船長が、肘掛椅子に坐って眉を顰《ひそ》めている。  その前に立って両手を振りまわして喚きたてているのが、ワイン商人のマルコだ。  乗客が集まっていると聴いて、宿酔のトンプソンの後からサロンにやって来る乗客もいる。 「失礼ながらマルコさん、ヤマワキとおっしゃるのが、本船の山脇船長のことなら、どうぞ敬称をつけてお呼び下さい」  事務長の河田が整った顔立ちを朱く染めて言い放った。 「そうだ、そのマカロニは、性根の据わっていないくせに、いつまでも先頭切って大騒ぎをする無礼者だ」  人混みの中から柔道家の小泉誠太が、ズイと割って出て、身体と同じ武骨な英語でそう言いながら、両方の拳をグリグリと揉んだ。  小泉誠太に続いて睫毛《まつげ》の長い青年も、肩をそびやかして、人混みを割って前に出る。  沖縄出身の玉城勇民で、幼い頃から唐手を習って、三十歳になった今では随一の実力者だった。  この丸三年というものは、諸国をめぐって相手を撰ばず試合をしている。  自分より体重が倍もある拳闘家のドイツ人を、ベルリンの公園の特設リングで、目にもとまらぬ跳び蹴りで倒し、それを見ていた皇帝《カイゼル》の側近に、少佐に任命するから、その術をドイツ軍兵士に教えろと頼まれたが、玉城勇民は固辞して旅を続けている。  ロンドンから八坂丸に乗って、エジプトの処刑人と異名をとる、ハッサンという力士と試合をしにカイロまで行くところだった。  年長の柔道家小泉誠太と同じ船室になって、若い玉城勇民は学ぶところが多かった。  小泉誠太は、武術は勝ち負けではなく、闘う心構えだと言ったので、若い玉城勇民はいぶかしく思ったのだが、素直に訊き返して、すぐ真意を知った。  結果を怖れず、勝負を推測せずに、男が闘う場面では決して後に退かない勇気こそ、武術家の心掛けて磨くべきものだと、小泉誠太は教えてくれた。  目の前二十メートルに一個分隊の兵隊が、小銃を構えていても、闘うべき場面であれば、単身敵に向かわなければならない。  勝敗よりも闘う気合を武術家は問われるのだと言われて、玉城勇民は、目の覚めた思いがした。  外人乗客に山脇船長と日本人の乗組達が圧迫されている場面は、闘う気合を見せるところだと小泉誠太は見てとったらしい。  自分に向かって人混みを割って現れた柔道家の小泉誠太と、唐手の達人玉城勇民を見て、イタリア人のマルコは顔から血の気が失せてしまった。  自分のことを無礼だと言って、身体の割には異常に巨きい拳を揉んでいる日本人は、先日「蛸にするぞ……」と威嚇《いかく》した野蛮人で、その後から続いて出て来た奴も、ただのチビではない。  全身から自分への敵意が滲み出しているような奴等だと、ワイン商人のマルコは思った。 「すぐ戻る。すぐここに戻って来る……」  青い顔で呻くと、マルコは急ぎ足でサロンを出て自分の船室に行ったが、それを見たフランス人のクレイは、戻って来ない方がいいと言って苦笑する。 「あのイタリア人には本当に参ってしまう」  同じキリスト教徒だと思うと、神の慈愛の大きさを改めて知る想いがする……とリゲット夫人が呟く。  自分の船室に戻ったマルコは、商売物のワインの小壜が入っているトランクの中から、布でくるんだものを取り出して、ベッドの上であけると、中から大型の回転式拳銃《レ ボ ル バ ー》が二丁出て来た。  マルコは一丁ずつ手に取って、撃鉄を起こして空撃ちをしてから、巨きな弾を六発ずつ籠める。  マルセイユで東に向かう船を待つ間に、この拳銃を手に入れたのだが、異教徒の群れている野蛮国では、必要だと思ったからで、真逆《まさか》こんなに早いうちに使う機会が来るなんて、マルコは思ってもいなかった。 「野蛮人の船に乗ってしまったのだから、これも神の御聖寵《ごせいちよう》だ」  マルコはそう呟くと、装填《そうてん》した拳銃をズボンのベルトに差す。  強い風の吹きつける日に、こんなに岸に寄って船を走らせるなんて、とんでもないことで、乗客は団結してあのヤマワキから指揮権を奪わなければいけないと、マルコは決めていた。  そして名高いイギリス人のリゲット船長に、このヤサカマリュを、せめてアレキサンドリアに着くまで、ヤマワキに代わって動かしてもらうのが、この際は最善なのだ。  あの狂犬のようなジュードーを、この拳銃で撃ち殺せば、イギリス人やフランス人も自分の考えに賛成するに決まっていると、マルコは思っている。  キリスト教徒以外の人間は、牛や豚と同じことだから、射殺して魚の餌にしても、神はお褒め下さるだけだ。  このアメリカ製の大型拳銃は、西部でカウ・ボーイや拳銃遣い達が、牛を撃ったり、インディアンを殺したりしている奴だから心強いと、マルコは上着の上から押えてみた。  拳銃を二丁、上着の下に隠すと、マルコはまた乗客が集まっているサロンに戻った。  もういくら、あのほとんど縦横がなくて、四角い箱に短い足をつけたような日本人の化物が、両方の拳を揉んで脅かしても大丈夫だ。  いざとなったら鼻先に拳銃の銃口を押しつけてやれば、腰を抜かして命乞いをするのに決まっていると、マルコは思った。  それにもうひとり、妙に睫毛が長く、眉毛の濃い若い男も、あの化物と一緒だったが、あいつも懲《こ》らしめてやろうと思ったら、嬉しくてマルコは胸が弾む。  サロンに肩をそびやかしてマルコが入って行くと、出て行った時と同じように、肘掛椅子に坐っているリゲット船長を、乗客達が取り囲んで、しきりと何か話し合っている。  目にものを見せてくれようと思っていたのに、なぜか日本人の乗客は、ひとりもサロンには居なかった。  化物のようなのもいるが、おおむねは人間の干物のような連中で、日本人というのは薄気味の悪いことおびただしいから、きっと何か妙な占いでもやって、自分が拳銃を持って戻って来ると知ったのに違いないと、サロンの中を見渡してマルコは思った。 「とにかくこんな風のある日に、このスピードで岸に寄って走るのは、無謀というか異常なことでしょう……。どうですかリゲット船長」  トンプソンが永く話し合ったことの結論を出そうとして、リゲット船長に迫る。  ヨーロッパでは名前の知られた老練な船長だったから、外国人の乗客はいつでもリゲット船長の意見を求めたのだ。 「左様、今八坂丸の採っている航法は、普通の定期航路を運航している定期船《ライナー》のそれではないことは確かだ」  白い顎鬚のリゲット船長は、落ち着いて控え目な言葉を撰んで答えたのだが、トンプソンはそんな返事では満足しない。 「ヤマワキを呼んで、すぐ説明させて、馬鹿な航法をすぐ止めさせましょう」  灰色の髪を両手で押えると、トンプソンは爪先立って事務長の河田を探す。 「説明なんてさせることはない。そんなことをしている間に、このボロ船が浅瀬にのしあげたらどうするんだ」  すぐこの船の指揮権をリゲット船長にゆだねて、最善の操船をしてもらうのがいいと、マルコはまくし立てた。 「リゲット船長、皆で応援しますから、今から船橋《ブリツジ》に行って、この船を指揮して下さい」  そんなわけには行かないと、リゲット船長はマルコを睨みあげて言う。 「知らないわけじゃあるまい。そういうことを反乱というのだ」  言われたマルコは、上着の裾をまくって拳銃の台尻を見せた。  その頃、十六人の日本人乗客は、端艇甲板《ボート・デツキ》の救命ボートの下に集まっていた。 「外交官の石田堅之介さんだけは、非道い船酔いで船室に残っている」  と、陸軍省からイギリス陸軍の兵隊靴の研究に派遣されていた靴職人の留吉が言ったら、他の十五人の日本人は声をたてて笑った。 「外交官が船酔いじゃ、相撲取りが風邪をひいたみたいなものだな……」  と誰かが言うと、またひとしきり朗らかな笑い声が弾けた。 「毛唐共が、岸に寄り過ぎて危ないと、しきりに騒いでおる」 「悪いことに、イギリス人の老船長が客で乗っているから、その男を担ぎ出そう……つまり本船の指揮権を奪おうという考えが白人達の心に潜んでいる」 「しかし流石《さすが》に永く船長をつとめただけあって、あのリゲットという老人は、理屈は分かっている男だよ。山脇船長を充分に評価しておると、わしは見ておるが……」 「扇動者は、あの不愉快極まるイタ公だ」 「もうひとりおるぞ。あの毛糸のような髪の毛をしたイギリス人だ。何と言ったかな……機関銃のような名前だったな。ホッチキス……いや違う」 「トンプソンだろう」 「そう、それだ」  救命ボートの下で、十六人の日本人乗客が話し合っていたら、血の気の失せた顔で石田堅之介がやって来た。 「寝ていなさい。話し合ったことは知らせるから……」  誰かが言うと、外交官の石田は頭を僅かに横に振って、そうするとまた気持ちが悪くなったのか、眉の間に深い縦皺を寄せる。 「普段はこんな醜態は決して見せないのだが、悪いことに風邪をひいていたので、こんな不様なことになってしまった」  と、石田堅之介は渋い顔で弁解したのだが、皆の顔を見まわして、 「あのマルコというイタリア人は、拳銃を二丁持っておる」  拳銃か……と、小泉誠太が目をむいた。  バーで飲んでいたら、自分がイタリア語が分かるとは思いもしなかったようで、あのマルコがイタリア人達に、「イザという時は、俺の二丁拳銃がものを言う」と、胸を張って大噺をしていたと石田堅之介が言った。 「それは山脇船長の耳に入れておいた方がいい」  誰かがそう言うと、外交官の石田は、 「その前に誰かが取りあげてしまうのが最善だと、俺は思っていたのだが、事態が煮詰まってしまった」  今からでも知らせなければ、と言う。  それにしても流石に外交官だ。よく探り出したものだと言われて、石田は尚更顔をしかめた。  正面からのんびりやって来た漁船に、八坂丸は「ブオーッ」と汽笛を鳴らす。  ツァイスの六倍の双眼鏡で睨んでいた山脇船長は、それまで仲間と猛烈に喋り合っていて、自分の船の針路もロクに見ていなかったイタリア人の舵取りが、汽笛を聞いて仰天したのを見た。  まだ距離は充分あるのに、漁船の舵取りは慌てて舵を切ったので、モロに横波を喰って、見ている方がヒヤッとするほど、大きく横揺れする。  続いて前方に、これは手漕ぎのボートにふたり乗った釣り舟が見えたので、八坂丸は仕方なくやや海側に針路を変えて、当直の二等運転士は船長に断ると、手動速力指示器《テ レ グ ラ フ》をガラガラと動かして速度を落とした。  このままの十四ノットで走って行けば、航跡《ウエーキ》であの釣り舟はひっくり返ってしまうだろう。 「数分間減速する。しっかり見張れ……」  船橋の端まで行った山脇船長が、メガホンで叫ぶと、 「減速する間、一層注意して見張りますッ」  見張りについている水夫が、次々に答えた。  八坂丸の曳き波にあおられた釣り舟のふたりは、中腰になると拳を振りあげ振りまわして、何か怒鳴っている。 「暢気《のんき》なもんですな、イタリアの漁師達は……」  二等運転士が双眼鏡を針路に戻して、そう呟いた。 「ブオーッ」  左舷前方からまっしぐらにやって来る大型の漁船に向かって、二等運転士は汽笛を鳴らす。その汽笛の音はサロンの中にも聴こえて来たので、肘掛椅子に坐っていたリゲット船長は、自分を取り囲んでいる乗客達の間から、舷窓に目をやった。 「小船が多いので、乗組は大変らしいな」  そう呟いた老船長の前にマルコが仁王立ちになる。 「そんなことを言っている場合ではないでしょう。リゲット船長、今すぐヤマワキに代わってこの船の指揮を取って下さい。これは全乗客の問題ですよ」  マルコはズボンのベルトに差してある拳銃を、上着の上から叩いて見せた。 「本船の船長は警察権を持っているし、銃器だって何丁か持っている。貴君は勝てないし、私はヤマワキ船長に代わって指揮を取る気はない」  現在、八坂丸が岸辺に寄って走っているのも、これは何か意図があってのことに違いないと、リゲット船長は言った。 「何を考えているのかヤマワキに説明させよう」  トンプソンが叫んだ。  エキサイトしてリゲット船長を取り囲んでいた外人乗客に、さりげない様子でサロンの隅にたたずんで御婦人方と話を交わしながら、注意を払っていた事務長を見つけると、トンプソンとマルコが横柄に呼び立てる。 「オイ事務長、すぐ船長を呼んで来い」 「サロンに来て乗客皆に、この危険な航法を、納得が行くように説明しろと言え……」  事務長の河田は端整な顔を一瞬厳しく引き締めたが、すぐまた目尻の皺を深くして微笑を取り戻した。 「操船は乗組員にまかせて、皆さん地中海の美しい眺めを楽しみながら、お茶でもめしあがりませんか……。遊歩甲板《プロムナード・デツキ》で……」  河田が指さした舷窓から外を見た金髪の女が、 「まあ、なんて美しい……」  と叫んだので、何人か外人乗客が舷窓に近づいて行って外を眺めた。  目の前に小さな漁港があって、白い帆を張った漁船が出入りしている。  白い壁と青や赤の瓦を載せた屋根の家並が美しい。  護岸の上には子供と女が何人か、八坂丸に向かって手を振っていたのだが、航路をはずれてこんな巨きな汽船が岸に沿って走るのは、村人にとっても滅多には見られない光景に違いなかった。 「教会があるわ。ああ神様、この船に乗っている私達を、どうぞお守り下さい」  栗色の毛を結いあげたフランス人の中年女が、片膝つくと十字を切りながらそう呟いた。 「なあに、神様に頼むまでもない。この拳銃を喰らわせてヤマワキを追っ払ってやる」  マルコが上着の裾をまくって、ズボンのベルトに差してあった大型拳銃の台尻を見せると、リゲット船長を取り囲んでいた人垣がどよめく。  その人垣を割って玉城勇民が、凄まじい気合いを漲《みなぎ》らせてマルコを両手で突き飛ばす。 「表に出ろ、このイタ公。そんな飛道具をちらつかせて、とんでもない野郎だ。玉城勇民が相手になる。他の方々の御迷惑にならないように、端艇甲板に出ろ。これは決闘だ」  手袋の代わりだと言って、玉城勇民は自分より二十センチも高いマルコの顔面に、下から痰唾を吐きつけた。 「おやめなさい」  事務長の河田が人垣の外から叫んだが、振り向く者もいない。 「小僧、お前も拳銃を持っているのか……」  サロンを出て端艇甲板に向かう人の流れの中で、誰か非道いイタリア訛りの英語でそう訊くと、玉城勇民はこれだけで充分だと固めた拳固を高くかざして見せた。  先を行くマルコは振り返ってその様子を見ると、薄笑いを浮かべる。  サロンから男の乗客達が、マルコと玉城勇民を囲んで端艇甲板に向かって出て行くと、事務長の河田は船長室に急いだ。  神経の昂ぶっている外人乗客達だから、いかにリゲット船長が冷静で、山脇船長に好感を抱いているらしいとはいっても、ここでマルコが拳銃を撃って日本人乗客を倒せば、一気に感情が破裂して暴動に発展してしまう。  喧嘩《けんか》と呼ぶか決闘と呼ぶかはともかくとして、やめさせなければならないと河田は思った。  船長室に駆け込んで来た事務長から報告を受けた山脇船長は、ストーキーの小俣兵介に、一等運転士の草刈が保管している武器を持って来させた。  ストーキーとはストア・キーパーのことで、船庫番をつとめる老練の水夫だ。  甲板部と機関部にひとりずついるのだが、小俣兵介は甲板部の水夫で、水夫長の指揮下にある。  山脇船長は小俣兵介が部下の水夫とふたりで、船長室に運び込んで来た武器の中から、回転式の拳銃を一丁取ると手早く弾を籠めて、ズボンのベルトの後ろ、背中の方に差し込んだ。  小俣兵介と事務長の河田には、水平二連の散弾銃を、大風呂敷にくるんで持たせた。  こうすると乗客を刺激しないし、万一の時は風呂敷の上から引きがねが引ける。  船長室から用意を了えた山脇船長達が、通路に出た時、端艇甲板では両手に大型拳銃を握って仁王立ちのマルコに、柔道家の小泉誠太が詰め寄っていた。 「お前、丸腰のこの若者と二丁拳銃で決闘をするつもりか。卑怯という言葉はイタリア語にはないのか」  小泉誠太のすぐ後ろには、濃い眉を吊りあげた若い玉城勇民が立っていた。  外人乗客はイタリア人を中心に三十人ほど、日本人乗客は全員が端艇甲板に集まっていたのだが、その中から痩せた背の高い藤本大吉が出て、玉城勇民のそばに寄る。 「これをお使いなさい」  上着の内ポケットから掴み出した小型拳銃を、藤本大吉は玉城勇民に勧めた。 「二発しか撃てませんが、巨きな弾ですから近づいて撃てば相手は吹っ飛んでしまいます」  藤本大吉は親方から命じられて、ロンドン港で荷役の技術を丸二年実習した横浜港の沖仲仕だ。  港にはどこの国でも荒くれ男が集まっているものだが、ロンドンも御多分に漏れなかったので、この二年間で藤本大吉も随分揉まれて、殴り合いとナイフにピストルの修羅場を、何度もくぐって来た。  掌の中に入ってしまうほどの小さな拳銃には、短いが太い銃身が二本、縦に並んでついている。  それを見て玉城勇民は、微笑んで会釈すると頭を振って断った。 「玉城さん。貴方があのイタリア人に撃たれたりすると、毛唐達は勢いづいて暴動を起こします。見てごらんなさい」  藤本大吉が顎で示した方を見ると、両手に大型拳銃を握っているマルコの後ろには、獰猛な赤ら顔を引き攣《つ》らせたイタリア人乗客達が、腕をまくって舌なめずりでもするように群れていた。  その横には、しかめた顔に暗い瞳を光らせて、マカラとトンプソンを中心にしたイギリス人達が、ひと固まりになっている。 「大丈夫です。以前にも拳銃を構えた無頼漢と闘ったことがあります。小泉さんも、この場はどうぞ自分におまかせ下さい」  長い睫毛の玉城勇民の目が、じっと自分を見詰めているのを見ると、年長者の小泉誠太としては、この場は心配でも若い唐手遣いにまかせなければいけないと思った。  この場はひとまずこの若者にまかせるしかない……と、小泉誠太は決めると、後ろにスッと退った。  横浜港の沖仲仕の中から選ばれて、最新の荷役をロンドン港まで教わりに行った藤本大吉も、玉城勇民に渡そうとした上下二連の小型拳銃を、そのまま自分の上着のポケットに、握った拳ごと突っ込んでしまう。  もし玉城勇民がマルコに撃たれてしまったら、藤本大吉はためらわず身体を相手に押しつけて、ポケットの中で引きがねを引くつもりだ。  銃身の極端に短い護身用の拳銃だから、弾は巨きいのだが、少し離れればどこに飛んで行くか分からない。  藤本大吉は、 「分かりました、玉城さん。骨はこの大吉が拾います。存分におやんなせえ」  と囁《ささや》いて横に退いた。  マルコの後ろには、玉城勇民が素手なので、気おい立ったイタリア人達と、イギリス系の乗客が集まっていたのだが、マルコの相対した玉城勇民の真後ろには誰も居ない。  マルコは拳銃を握った両手を前に突き出した。  両方の親指で撃鉄を、ガチリと音を発《た》てて起こすと、マルコは目を細める。  五メートルほど前に、両手を垂らして立っている玉城勇民の姿は、外人乗客達には絶体絶命に見えた。  素手の男が不意を打つのならともかく、拳銃を構えている相手に、どうしたって勝てる道理がない……と、白人達は皆そう思った。  両脇にどいていた十七人の日本人乗客にしても、玉城勇民が唐手の達人とは知っていたのだが、飛び道具を相手の勝負は分が悪い。悪過ぎると顔を曇らして、額に汗の玉を浮かべている。  海の方に目を外らした玉城勇民が、眉をビクンとさせて目を見張った。  それを見てマルコの細めた目が海の方を見た途端、玉城勇民の身体が沈んだ。  玉城勇民は、自分に向けられていたふたつの拳銃の銃口の前で、目のフェイントをかけた。  向かい合って立っていた相手から、視線を海の方に移すと、何か驚いた物でも見たような顔をして見せたので、釣られてイタリア人のマルコも、一瞬そちらの方に目をやってしまう。  沖縄で育った少年時代から、玉城勇民は、刃物を持って構えている相手に、よくこの手を使った。  マルコの視線が釣られて海の方に動いた途端、玉城勇民は電気仕掛のような早さで間合を詰めると、膝が深く折れて身体が沈んだ。  白いキャンバス・シューズが凄いスピードで、マルコの両手に握っていた拳銃を、横に払って跳ね飛ばした。  玉城勇民のまわし蹴りは、マルコの腕や手首をなぎ払ったのではなく、正確に両手の拳銃に当たっていたので、黒い巨きな拳銃は宙に高く舞うと、地中海の中に落ちて行く。  マルコが引きがねを引く間もなく、握っていた拳銃を二丁共、弾き飛ばしてしまった玉城勇民の技の冴えに、イタリア人の乗客まで嘆声をもらした。  赤かったマルコの顔は、自分の手から突風にでも吹かれたように、拳銃が舞い飛んでしまうと、その途端に青ざめたのだが、後ろに飛びすさった玉城勇民を見て、また顔に血のけが戻る。  電飾看板《ネオン・サイン》のような奴だ……と玉城勇民の一番近くに居た藤本大吉は思った。  この男は沖縄出身の唐手遣い玉城勇民が、イタリア人のマルコに撃たれたら、すぐ自分が身体を押しつけて射殺するつもりで、ポケットの中で小型拳銃を握りしめていた。  マルコが日本人乗客と決闘して倒したら、それがきっかけになって外国人の乗客は、暴動を起こして、八坂丸の指揮権を山脇船長から奪おうとするのに違いないからだ。  真っ赤な顔になったマルコが、赤鬼のようになって殴りかかると、玉城勇民は頬をほころばせて微笑んで、 「エイッ」  と、爽《さわ》やかな気合をかけて、右の拳をイタリア人の胃袋にめり込ませた。 「いい薬だろう」  玉城勇民は言いながら小泉誠太に目礼して、胃を両手で押えて膝を甲板につきポロポロと涙をこぼしているイタリア人に、そう言った。  その頃、山脇船長は、事務長の河田と船庫番《ストーキー》の小俣、それにもうひとり正装した水夫を連れて、乗客達の集まっているサロンに入って行った。  奥の正面の椅子に坐った山脇船長に、外人乗客が詰めかける。 「甲板で拳銃を持ったイタリア人と、素手の日本人が決闘をしていますよ」  誰かがそう叫んだ。  その時、サロンの入り口から、男達が興奮した顔で入って来た。 「船長、御心配なく、素手の日本人がイタリア人の拳銃を、二丁共地中海の底に沈めてしまいました」  先頭でサロンに入って来た中年の日本人乗客が、髭を震わせて言った。  サロンの奥にある舷窓の開いた壁を背にして、山脇船長は肘掛椅子に坐っている。  入って来た日本人乗客は、そのまま船長の脇や後ろを固めた。  玉城勇民が鮮やかに二丁拳銃のマルコを退治したと言っても、外人乗客の不安や、いらだちが解消したわけではない。  サロンに来た山脇船長と外人乗客のやりとりが紛糾すれば、すぐ反乱が起こりかねないと、日本人の乗客達にも分かっていた。  皆ヨーロッパの白人達の中で過ごして来た人達だから、今の場面が爆発の危機をはらんでいるものだと、よく読めている。  イギリス人のジェイムス・マカラは、テーブルの上にあった灰皿から、よく捻《ひね》り潰してない煙草が煙を昇らせているのを見ると、そばに行って念入りに消した。 「マルコさん。これは貴方の吸っていた煙草ですね。船の中では火の始末が一番大切なのですよ」  と、わざと普段より丁寧な言葉を使って注意する。  マルコはとぼけて、 「いや、マカラさん。今この船に乗っていて心配しなければいけないのは、Uボートでしょう」  呟くと眉をひそめて、掌で胃の上を押えたのは、まだ玉城勇民に打たれた胃が痛むと見える。  ジェイムス・マカラは、話にならんといった顔をすると、山脇船長に向き直った。 「船長。お忙しいところをお呼びたてしたのは、ここに集まった乗客全員の意志で、ひとつの質問と、それに続いてひとつの提案が致したいからです」  マカラがそう言うと、すぐ日本人の声がした。 「全員ではない……」  と叫んだのだが、山脇船長は微笑んで、 「結構です。うかがいましょう。その前に、御婦人方に私のパイプをお許し願いたいのだが……」  と言う。 「どうぞ」  リゲット夫人がそう答えると、山脇船長はポケットからブライヤーと煙草の袋を取り出して、ゆうゆうと詰める。  事務長の河田は、横に立つ藤本大吉が、自分に向かって片目をつむって見せたのが気になった。 「山脇船長、なぜこんなに岸に近寄って走るのだ」 「リゲット船長は、こんな非常識な航法は危険だ……と、おっしゃっている」 「座礁したら、皆溺《おぼ》れてしまうじゃないか」  外人乗客は口々に喚き、喚いている間に興奮してサロンの空気は異様に熱くなる。 「まずいな……」  幼い頃から数え切れないほど修羅場をくぐり抜けて来た藤本大吉は、段々激しく目を吊り上げ、顔を歪め、髭を震わせる外人乗客達を見て、覚悟を決めた。  山脇船長と部下の乗組達は、土性骨の据わった立派な男達と見たのだが、それでも所詮は堅気の衆だ。  外人乗客が爆発しそうになったら、先手を取って度肝を抜くのは自分の役だと、藤本大吉はポケットの中で握っていた拳銃の撃鉄を起こした。 「お答えしましょう」  山脇船長は肘掛椅子の背にもたせかけていた背中を離すと、上体を前に伸ばしてそう言った。  外人乗客達は攣《ひきつ》った顔の輪を縮めて、 「さあ、黄色い人間メ、何でも言ってみろ」  といった様子をあらわにしていた。 「このように沿岸をギリギリに寄って走ることは、勿論、航法の常識ではありません。  今日は特に南風が強くて危険が高いことも御指摘のとおりですが、私は八坂丸の船長として、この航法を採ることが最善と信じております」  山脇船長は、ここで話を区切ると周囲を睨みまわした。 「どうして……」 「なぜ」  一斉に外人乗客達は呻き声をあげる。 「まさか船長、貴方は、我々乗客の生命と財産、それに将来の幸せまで賭けて、イタリア見物を楽しんでいるのではないでしょうね」  ジェイムス・マカラは、右手に持っていた紙巻煙草を、灰皿に押しつけて消しながら、そう吠えるように叫んだ。  その声と同時にサロンの中には、外人乗客達の不安な呟きが籠って、熊蜂の羽音のようになる。  山脇船長はその中で、何も言わずに坐っていた。  銀盤に飲物の入ったグラスを沢山載せて、乗客達の間をまわっていたボーイの若林が、山脇船長の坐っている椅子の後ろに立っていた事務長の河田のところに来ると、耳に口を寄せて言う。 「ボーイもコックも仕度して、配膳室《パントリー》にひかえております」  仕度と若林が言ったのは喧嘩仕度のことで、八坂丸の乗組達も、不安の昂じた外人乗客の不穏な様子は、よく分かっていた。 「心配ないから、皆を通常の配置に戻せと司厨長に言ってくれ」  事務長の河田が近づいて来たボーイの若林に、小声でそう言って目をあげると、イギリス陸軍中尉の若妻ケイトと目が合った。  ケイトは夫の駐屯地、香港に行く。  マルセイユから満船で出港した八坂丸は、ひとり旅の客は相部屋にしていたのだが、ケイトだけは個室だった。  イギリス帝国陸軍士官の妻を、まさかインド人のメイドと相部屋には出来ない。  まだ子供がなくて二十三歳だというケイトは、背筋の真直ぐに伸びた典型的なイギリス美人だ。  河田と目が合うと、瞳の深いところに灯がともって妖しくきらめく。  水際だった男前の河田だから、これまでの航海でも婦人客に色目を使われたことは数えきれないほどだった。  しかし、この時のケイトの瞳は、今までのものとは比べようがないほどで、吸い込まれるような、焼かれるような激しさが籠められていた。  ジェイムス・マカラが山脇船長に向かって、自分達の生命と財産、それに将来の倖せを賭けて危険を楽しんでいるのかと詰問すると、それを聴いた外人乗客達は口々に喚いたので、サロン全体に不穏な声が漲《みなぎ》った。  山脇船長は黙ってマカラの顔を睨みつけている。 「山脇船長。貴方は東洋人で地中海には経験が乏しいが、たまたま船客の中に、この航路を熟知しておられる高名なリゲット船長がおいでなので、これは私達の提案なのだが、アレキサンドリアまでの間、操船を交替したらいかがなものか……」  マカラがそう言い了えると、山脇船長はパイプを左手に持ちかえて、周囲の乗客達を睨み渡した。 「まず航法の御質問にお答えしなければなりますまい」  山脇船長は静かに話し続ける。 「なぜイタリアにこれほど近寄って走らなければならないかというと、無用な御心配を乗客におかけしては……と存じて、お知らせ申しあげなかったのですが、信ずべき筋からの無電、それに情報を総合して考えると、この近海には、数隻のドイツ潜水艇Uボートが潜んでおります」  そしてそのUボートは、ドイツ海軍の面目にかけても、満船でマルセイユを出港した八坂丸を、アレキサンドリアには着かせまいとしているのだと、山脇船長は話した。  着かせまいと……と言ったのは、はっきり言えば撃沈しようとしているのだと、山脇船長が言った時、呻き声をあげながら、顔と腕にしみを沢山浮かべたイギリスの老婦人が、気を失った。  隣に坐っていたフランス人のクレイが、掌で手首を叩き、ボーイを呼んでブランデーを言いつける。  事務長の河田は人混みをスルリと躱《かわ》して、船医を呼びに行ったのだが、戻って来るより先にブランデーが届いた。  クレイに首を支えられて、肌がしみだらけのイギリスの老婦人は、目を閉じたまま唇を僅かに開ける。  含まされたブランデーを喉《のど》を震わせて呑み込むのを見て、玉城勇民は鼻を鳴らした。 「あんなもん仮病だ」  本当に気を失ったのなら、あんなに具合よく口を開けるものか、と言うと柔道家の小泉誠太がなだめるように、若い唐手遣いの肩を叩いた。 「毛唐の女は皆ああだ。おぬし知らんな女を……」  中年の柔道家が小声でからかうと、 「あんなしみだらけの白壁より厚塗りの化物を、抱いたりすれば拳の汚れです」  沖縄出身の唐手遣いは肩をそびやかす。 「それを言うなら、へのこの汚れだろう」  小泉誠太が呟くと、背後で交わされていたふたりのやりとりが耳に入っていたらしくて、前の肘掛椅子に坐っていた山脇船長の頬がほころんだ。 「フーム、ドイツ潜水艇が数隻も……か」  リゲット船長は顔を曇らせて、白い顎鬚を掴んで呟く。 「いかにもリゲット船長。数隻の敵潜水艇Uボートが、アレキサンドリアまでの間に、我々を海の底に葬ろうと潜んでおります」  最善の航路《コース》は、メッシナ海峡を通過することだが、イギリス海軍から商船の夜間航行が禁じられている。  特例を求めて無電を打てば、本船の位置が敵に察知されてしまう。  そうとなれば、突風を喰らおうと海図にない浅瀬や沈船があろうと、ギリギリまでイタリア本土とシシリー島の岸に本船を寄せて、走り抜けるしかないのだと山脇船長は語った。 「そして普段の三倍に増員した見張りに、しっかり波の間を見させているのです」 「なるほど、なるほど山脇船長。岸にギリギリまで近寄って走れば、敵の潜水艇が雷撃出来るのは、本船の右舷だけというわけですな。なるほど。そしてもし魚形水雷を見張りが見付けたら、銃撃して爆破するのですか」  リゲット船長は顔を紅潮させて、山脇船長に訊いた。 「いいえ、すぐ最高回転まであげれば、おそらく後部発射管からの雷撃ですから、躱《かわ》せると思います」  海底のUボートは、おそらく八坂丸が沖合を通るに違いないと思っているから、艇首を沖に向けている筈で、艇尾には発射管が一門しかないのだと、山脇船長は説明した。  海の底でジッと待っていたUボートは、沖を通るとばかり思っていた八坂丸が、自分の艇尾の方の岸に沿って走って来ても、そうすぐには回転出来ない。  艇首には二門から四門の魚雷発射管があっても、艇尾には一門か、せいぜい二門だ。  これなら転舵と増速で躱《かわ》せると思う、と山脇船長はリゲット船長に自分の考えを打ち明けた。 「さて、私が乗客のリゲット船長に指揮権を渡しては……という提案には、八坂丸の船長として、全く問題外である……と、御断り申しあげる」  自分には船長として、この事態にあって最善を尽くせる自信と、それに判断力があると、山脇船長は言い放った。 「乗客の貴方達は、本船の乗組が私以下全員、日本人であると御存知で乗船しておいでになった。あとは万一の雷撃に備えて、救難訓練に精を出されることが、貴方達の尽くせる最善です」  山脇船長は初めて見せる力の籠もった鋭い瞳で、乗客達を睨みまわす。  その視線がちょっとの間とまったので、マルコの額に汗が滲み出したほどだ。  山脇船長の瞳は、厳しく澄んで黒かった。 「ウム。現在採っている航路と航法を、私は全て完璧《かんぺき》に理解した」  リゲット船長は立ちあがって微笑んだ。 「おっしゃるとおりだ。山脇船長。船の客になるということは、船長と乗組を信じて全てをゆだねるのだということを、私達は忘れてしまっていたらしい」  同じ船乗りとして、血迷った者と一緒になって騒いだ自分を深く恥じていると、リゲット船長は言った。 「私の失礼と貴殿の時間を無駄にした愚かさを、どうかお許し願いたい」  山脇船長も微笑んで椅子から立ちあがると、ふたりの船長は同時に手を伸してしっかりと握り合う。  外国の礼法を知らない日本人は、握手の仕方を心得ていないので、時々誤解される。  先に手を出す方が目上なのだ。  先に伸された手を握ったら、自分が目下か格下であることを自ら認めたことになってしまう。  イギリスとフランスの首相が握手をする時は、ふたりは目を見詰め合うと、同じタイミングで手を伸して握り合う。 「皆様、ちょっと風はございますが、お茶は遊歩甲板《プロムナード・デツキ》で召しあがったらいかがでしょう。こういう機会でなければ、イタリアの美しい海岸を、こんなに長く御覧になれることもありますまい」  山脇船長はそう言うと、一同に目礼してサロンを出て行った。 10 ケイト・マスタスン  サロンを出て行く山脇船長の後ろ姿を、細い首を伸して見送っていたフランス人のクレイは、椅子から立ちあがったイギリス陸軍士官の若妻と目を合わせると、訛りの強い英語で呟いた。 「私達の乗った日本船八坂丸の船長は、真に立派な、私の英語では言葉が見付けられないほどの男だったと、アレキサンドリアに着いたらすぐに、パリに居る日本好きの息子に絵葉書を出すとしましょう」  微笑んだケイト・マスタスンは、 「フランス語だったら、どんな表現をなさるのでしょう」  そう言ってクレイの返事を待たずに、会釈してサロンから出て行った。 「クレイさん、東洋でも船乗りの性根は同じらしいですな。あの船長は喉のところまで、“往生して、デカイ口を結んで黙って乗っていろ”という言葉が、昇って来ていたに違いないようです」  リゲット船長は珍しく大きく口を開けると、頭をそらして愉快そうな笑い声をたてる。 「ちょうど今から三十五年前だったが、まだ船長に昇格して五年ほどの若い私は、アムステルダムからロンドンに向かう途中で大時化《しけ》に見舞われて、今と同じように年功を経た船長が客で乗っていたから堪らない。一等運転士まで一緒になって反乱を起こしそうになった」  クレイはリゲット船長の昔噺を、丁寧に頷きながら聞いていた。 「当時の私は山脇船長より若かったので、喉のところまで昇った言葉を耐えたりはしなかったし、乗客の前歯をへし折ると一等運転士は樽詰めにして、船底に抛り込んでやりましたよ」  リゲット船長は上機嫌で、ツイードの上着の腹の辺りを、右手で押えながら、また頭をそらせて笑った。 「偉そうなことを言っても、いざ魚形水雷を喰らったとなると、船乗り共は客を放ったらかして逃げてしまうんだ。ついこの前、サルジニア島の沖でやられたイギリス船だって、救助されたのは乗組だけで、客は魚の餌にされてしまったのさ」  イタリア語訛りの英語で、喚き散らした男がいて、 「聞き苦しいぞ。顎をはじめに関節を全部はずして蛸《たこ》のようにして、イタリアまで投げ飛ばしてくれようか……」  小泉誠太が太い声で脅すと、 「まあ怖ろしい、タコ、タコ、タコですって」  皺と染みだらけのイギリスの老婦人が、叫ぶとまた気を失って肘掛椅子からずり落ちてしまう。  事務長の河田は仕方なく、また船医を呼びに走ったのだが、通路に居たケイト・マスタスンが通せんぼをした。 「またおばあさんが甘えて見せているのでしょう。放っておけば、すぐ自分で起きるから、知らん顔をしていればいいのです。心が歪《ゆが》んでいるから誰にもかまってもらえないので、目をまわして見せるのですが、イングランドの老婆には珍しくもありません」  ケイトは河田の制服の袖を、両手で掴んでいたから、曳《ひ》き摺《ず》って行くわけにもいかず、困っていると、袖をグッと引いて身体を寄せて来た。 「事務長に急いで御相談したいことがあります。私の船室に来ていただけますか」  ケイトは胸のふくらみを河田の腕に押しつけて、そう言ったのだが、細身な割には豊かな胸だった。 「御婦人がおひとりの船室には、余程の事態でなければ参りかねます」  河田が固い口調で言うと、ケイトはドアを開けておけば構わないと言い返して、極く個人的な、しかし重大なことなので、他人には絶対に聞かれたくないのだと厳しい顔になる。  河田は、それでは夕食の三十分前にうかがう。十分あればお話をうけたまわるのには充分だろうと言ったのだが、ケイトは顔を横に振った。 「それでは夕食後にラウンジにしましょう。聴き耳を立てる方もいらっしゃらないと思います」  河田は通路の前からやって来たボーイに、船客の老婆がまた気を失ったから、すぐ船医を呼べと命じた。  ケイトは微笑んで、これで貴方は呼びに行かないでも良くなったから、落ち着いて自分のことを考えて欲しいと言う。  日本語で命じたのに、ケイトは察しをつけたらしい。  ドク……と言ったからかな、と河田は思ったのだが、こうなってはケイトから離れられなくなった。  夕食の終わるのは九時頃で、ラウンジで貴女の御相談をうかがえるのは、それからだと河田が言うと、ケイトは自分の船室にしてくれなければ駄目だと眉をひそめる。 「イギリスの年寄りは嵐の中で、二十ヤード離れたところで恋人達が囁《ささや》いているのを、神様のように聴き取ってしまうのよ」  そんな凄い能力も人の声だけで、ツェッペリンの爆音も、潜水艇のスクリュー音も聞こえないのだから呆れてしまうとケイトは言って喉で笑った。  ケイトがひとりで入っている船室は、普段は病室に用意してある部屋で、通路の突き当りにある。  ドアを開けておいても、外人乗客に見られたら何を言われるか分からないと、河田が拒んだら、ケイトは、そんな可能性より自分の問題は重大で、生命にかかわると言う。  ケイトはウェールズの炭鉱町で、貧しい炭鉱夫の家に生まれた気の強い女だ。 「貴方は、とるに足りない噂を怖れて、私の相談を受けにドアを開けた船室に来ないとおっしゃるのですか。あの老婆の仮病とは違って、生命の問題なのです」  ケイトはキツい口調でそう言うと、悲しそうに微笑んで見せると、日本の紳士は苦しんでいる女を、きっと救けて下さるでしょうと呟きながら床に目を落した。 「救けて下さい。貴方しか相談出来る方がいないのです。私、今すぐにでも海に身を投げてしまいそう。どうぞ貴方、力になって下さい。お困りになるようなことではありませんが、誰に知られてもいけないのです」  ケイトは、前歯で下唇を噛むと、どうか夕食が済んだら自分の船室にいらして下さい。後生ですからと声を詰らせる。 「明日の朝食後なら士官食堂を人払い出来ますから、そうしませんか。いくらドアを開けておいても、貴女のような美しい方だと、私は風がドアを閉めないかと願ったりするようになって、職を失いかねません」  河田はお世辞と冗談を一緒に言って、若いイギリス女の沈んだ気持ちを、明るく変えようと思った。ケイトは顔をほころばすと、急に朗らかな声で、至急と申しあげたのを忘れてしまったようね……と言って、夕食の後までだって手遅れになりかねないのだと声をひそめる。 「本当に誰にも知られたくない大変なことなの。恥ずかしいけど貴方にだけは申しあげておかないといけないわ。なんとか出来るのは貴方の他に誰もいないのよ。相談に乗って力になって下さい。救けて下さい。お願いです」  河田は、自分に出来ることであれば、お力になるのが職務だと答えたので、ケイトはちょっと膝を折って、心から有難く思うと呟いたのだが、涙がひと粒、目からこぼれると、頬で弾んで通路の床に落ちた。ケイトはくるりと後ろを向くと、急ぎ足で通路を遠ざかって行く。  サロンに戻りながら河田は、ケイトの相談の内容を考えたのだが、思い当たることがなくはなかった。ケイトの船室は一番離れた端にあって、隣はもう一室病室になっている。  病人が出た時のために二室用意してあるのだが、病室だから鍵《かぎ》は普段から掛けてない。  パイプ・ベッドが三台置いてあるこの病室に、誰か外人乗客、それもケイトと同国人のイギリス人が、女を連れ込んだのだろうと河田は思った。  インド人や中国人の可愛い少女のメイドが何人か一緒に乗船しているのだが、主人も他のイギリス人乗客も、無愛想に命令するか叱りつけるだけで、河田の目には人間扱いをしていないように見えた。  日本の主従の関係とは全く異質な、人間離れのした冷酷さが感じられて、不気味に思えて背筋が寒くなったほどだ。  船底の機関室から伝わって来るゴトゴトゴトという音が、夜の地中海を往く八坂丸の隅々まで響いている。  船内の他の音が消えた夜間は、昼間に比べて蒸気機関の響きが、ずっとハッキリ聞こえる。  船室にいても夜になれば、大型の掛け時計のそばにいるほどの大きさで聞こえるのだが、単調な音だから乗客の睡眠を妨げることはない。  事務長の河田は、右手に柄の細くて長目の木槌を握って、灯火を減らした暗い船内を歩いていた。  玉城勇民が外人乗客の扇動者、イタリア人のマルコを倒して、持っていた二丁の大型拳銃を、海の中に弾き飛ばしてしまった日の前の晩のことだ。  Uボートは非道い時化ででもなければ、夜間でも、ほぼ昼間と変わらない精度で雷撃すると、ミドルズブローで八坂丸にやって来たイギリス海軍大尉が言った。  今晩のような月が雲に隠れている夜でも、決して気は抜けない。  八坂丸は陽が暮れると、沿岸の魚網を避けるために、昼間より八十ヤードから百ヤードほど沖に出て走った。  スクリューの回転数は昼間より更に十回転落とした七十回転だが、それでも潮の流れに乗っているので十四ノットは出ている。  船首の見張りは昼間の三人から、五人に強化されていた。  左右の斜め前方に一人ずつ、そして針路の正面に三人が配置されて、暗い海を見詰めている。  正面を睨んでいる三人は、一人が遠くを、もう一人はそこで浮遊物等を発見しても、何とか避けられるギリギリの近くの海面を受け持っていて、残る一人は全体に目を配っていた。  河田は清水の蛇口を点検するために書記《クラーク》と手分けして船内を巡回して、水が垂れているのがあれば、しっかりと締める。  総員二百八十二人の飲料水と、それに当直毎に全身汗まみれになる機関員達は、清水《せいすい》の風呂に入れてやらなければならない。  海水は八坂丸のまわりに無限にあるが、清水は貴重だった。  河田は、パッキングの甘い蛇口は、持っていた木槌で、軽く叩く。  電気をいくつかの豆電球だけにしてある夜中のラウンジは、洞窟のようだった。  奥にあるカウンターの中の蛇口を調べようと、椅子につまずかないように、静かに入って行った河田は、人の気配に気付いて立ちどまる。  隅の肘掛椅子に誰か坐っているらしい。  耳を澄ますと荒い息遣いと、猫がミルクを飲むような音が聞こえて来る。  なんだろう……と河田は思った。  目が慣れて来ると、隅の安楽椅子に大柄な男が坐っていて、もう一人、誰かいるらしいのが河田には分かった。  いきなりロンドンの下町訛りのある英語が聞こえて来た。 「もっと喉の奥まで入れるんだ。いいか、こんな仕事に限って、楽をしたり手抜きをすると、すぐ分かってしまうのだぞ」  食品問屋のクーパーだと、河田はすぐ思い当たる。  乗客名簿には六十一歳とある背の高い男で、秘書と称する四十五歳のイギリス女と、一等でも一番上等な船室に入っていた。  他にインド人の十五歳のメイドが、二等船室に他のメイドと同室している。  滅多に外人乗客の乗らなかった日本郵船だが、格式は高く保もとうとしていたので、女の秘書を同室にすることは、申し出があっても受け付けなかった。  マルセイユで代理店の持って来た満船の乗客名簿に目を通していた河田は、性別の違う社長と秘書が同じ船室に入れてあるのを見て、眉をひそめて怪訝《けげん》な顔をして見せた。  代理店のフランス人は、顎を引いて両手を拡げて見せると、イギリス領事がわざわざやって来て、ロンドンの陸軍次官から公用電報で要請されたと言ったので、断りようがなかったと言う。  戦争という殺し合いをしている時は、陸軍次官は普段の八倍も偉いのだと、フランス男は悲しそうな顔をしたのだが、すぐニヤリとして河田の前に指を一本立てて見せる。 「秘書はまるでイギリス語で鳴く蟇《がま》のようだ。何日もあんな非道い女と同じ船室にいるのは、快楽でも羨ましく思うようなことでもなくて、残酷なアメリカ・インディアンの処刑か、そうでもなければ地獄の罰のようなことでさ」  嬉しそうに目を輝かせて、まくしたてると、最後に糞《メルド》と言う。  この蟇を抱くのが趣味の男は、ロンドンの下町にある食料品店の小僧をしていたのが、独立すると、死んだ牛とジャガ芋の缶詰を作って、軍隊に納入して成功したのだと、代理店の男は河田に説明してくれた。  今では薬が進歩して病死する牛が少なくなったので、障害レースで脚を折った馬とか、池にはまって溺れた羊を集めて、片端から缶詰にしてしまうのだそうだ。  いくら兵隊でも、とても人間の喰えるような代物ではないのだが、イギリス人は何を喰っても分からないから、戦争になって兵隊が増えれば大儲《もう》けなのだと言う。 「もしかすると、そいつも蟇かもしれない」  その時、河田は教えてくれたフランス男にそう呟いた。  そのクーパーが、暗いラウンジでインド人の少女に仕事をさせている。  いくら電気を消して、他には誰も居ないラウンジの奥とはいっても、初老の缶詰屋クーパーのやっていたことは、傍若無人だった。  同じことを、フランス船やイギリス船に乗ってもこのクーパーはするだろうかと、事務長の河田はおぞましい生き物でも見るような想いで遠くから眺めていた。  八坂丸の夕食は毎晩アントレが三種類の中から、スープは二種類の中から選べる。  今日のスープは、冷たいジャガ芋のクリーム・スープと、エストラゴンの入ったコンソメだ。  エストラゴンは日本のじゅんさいのような、ツルリとしたものだが、冷たいジャガ芋のスープは、八坂丸自慢の製氷機で作った氷を、ふんだんに使って作る。  アントレはロースト・ビーフと雉《きじ》の赤葡萄酒《ぶどうしゆ》煮、それにドーヴァー海峡で獲れたドーヴァー・舌平目《ソ ー ル》のムニエールだ。  ロースト・ビーフは、いい香りに焼きあげた固まりをワゴンに載せて、シェフの生田磯吉が客の前で、紙のように薄く切って見せる。 「それはもしかしたら、噂に聞く日本刀か……」  と驚いたトンプソンに、生田磯吉が、日本刀はもっと切れると微笑んで答えた。 「シェフ、このジャガ芋のクリーム・スープは絶品だよ。下船するまでに作り方を教えて欲しい。私のコックに上手く伝えられると良いが……」  フランス人のクレイは、パリ郊外に城館《シヤトー》を持つ紳士で、爵位を持っている。  非常事態なので夕食に限らず服装はいつでも自由ということだったが、この初老のフランス紳士は、無雑作にディナー・ジャケットを着込んでいた。  万一雷撃を喰らった時に、一番動き易い服装ということだったのだが、クレイは礼服でも一緒のことだと言う。  入り口に近いテーブルで、アメリカ人の男ふたりと一緒に夕食を取っていたケイト・マスタスンは、時々潤んだ瞳を河田に投げる。  ふたりのアメリカ人は共に四十前の男だったが、丸顔の頬の赤い男はとりわけ陽気で、時々大声を出したり笑ったりして、近くのテーブルのイギリス人達に眉をひそめられていた。  遠くから見ていても分かるほど、そのアメリカ男は美しいイギリス人の若妻の歓心を買おうと、一所懸命になっている。 「喰い詰め者の子孫が、軍人の妻を……」  トンプソン夫人が周囲に聞こえるような声で、独り言を言ったのだが、アメリカは移民の国だと軽蔑しているのだ。  いつUボートに雷撃されるか分からないというのは、生命をかけて闘うのが職務の軍人でも、長く耐えられるようなことではない。 「昼寝をしている牡《おす》ライオンと同じ檻《おり》の中に居るのと同じことで、いつガブリと頭を噛まれるか、胴っ腹に喰いつかれるか分からない」  と、若いアメリカ人が言ったのを聞いた隣のテーブルのトンプソンは、聞こえよがしに悪たれをわめいた。 「インディアンやガラガラ蛇で慣れているだろう。可愛げなことを言うと臍《へそ》が茶を沸かすよ」  イギリス人のトンプソンは、内心で馬鹿にしているアメリカ人が、朗らかで開けっ拡げなので他の乗客達に人気がいいことを、面白くなく思っていたらしい。 「今何と言った。もう一遍言って見ろ」  ナプキンを左手に握って、アメリカ人の若い男が椅子から立ちあがる。  その勢いでナイフが一本、大きな音を発《た》てて寄木の床に落ちた。  河田は走らずに大股で、次の瞬間そのテーブルの間に立って微笑んでいる。  トンプソンは、アメリカ人の若い男が立ちあがったのを、一度ジロリと睨んだが、河田が来たのを見ると安心して、ロースト・ビーフの付け合わせのヨークシャー・プディングを喰べ続けた。  河田は金色の産毛が頬に光っている若い男に近づくと、アラモの砦でジム・ボウイが、仲間に腹を立てなかったら、歴史は変わっていたそうだと言う。  若いアメリカ人は、日本人の事務長がいきなり言ったことに驚いた。  初耳だったらしい。 「えーッ、ジム・ボウイが仲間喧嘩したって、僕は聞いていないぞ。学校でもそんなこと習わなかった」  ジム・ボウイというのは、デイヴィー・クロケットと共に、アラモの砦でメキシコ軍と闘って死んだ、アメリカ開拓史上のヒーローだ。 「冗談《ジョーク》です。そんなことはなかったでしょう。けど、この八坂丸は、あの時のアラモの砦と同じです。仲間同士で揉めている暇はありません」  河田が言うと、いきり立っていた若いアメリカ人も苦笑して、また椅子に坐った。 「貴方のロースト・ビーフは、シェフに言って、厚く切りましょうか……」  河田が言って片目をつむって見せると、若いアメリカ人は、 「是非そう頼む。しけたイギリス人の喜ぶカットは、百枚喰べても喰べた気がしない」  と、聞こえよがしに叫んだ。  皆、気が立っている……と、河田はとっくに承知していたのだが、だからといって解消する手はアレキサンドリアに着くしかなかった。  夕食を済ませて、河田はケイトの船室を訪ねた。  海の底に潜んで、八坂丸に魚形水雷を見舞おうとしているドイツ潜水艇Uボートに脅えた乗客が、平静で居られるわけがなかった。  ほとんどの乗客の目は睡眠不足で赤く濁っている。  感情もささくれ立っていて、中には八坂丸のボーイを怒鳴りつけたり、事務長の自分に、全く取るに足らぬことで、突っかかって来る乗客もいた。  夜になって清水タンクの蛇口を点検しに、乗客が寝静まっているはずの船内を巡回していると、船室の木製ドアを通して、男女の絶叫が漏れて来る。  野獣のような……と、河田は思った。  その絶叫は、人間の出している声とはとても思えない。  日本では、いくら山の中の一軒家でも、こんな声を張りあげる女はいないだろう。 「それとも、余程のことをしているのだろうか……」  河田は、暗い通路で今夜も漏れて来る声を聞きながら、ふと、そんなことを思って、自分を恥じて顔を赤らめてしまった。  二十五歳で妻の伊都子と結婚した河田には、小学六年の女の子を筆頭に、四年生と三年生の年子《としご》で三人の子供がいる。  皆、女の子だ。  妻の伊都子も色白の器量よしだったから、三人の娘は、それぞれとても綺麗で可愛く、内心、河田は自慢に思っている。  珠玉のような娘達だった。  伊都子は須磨の郵便局のひとり娘で、実家の敷地の端に家を建てて、三人娘を育てながら河田の乗組んだ八坂丸が神戸に帰港するのを待っている。  ロンドン航路は、積荷と寄港地によって少し違うが、往復でほぼ四、五ヵ月かかった。  だから神戸に戻ると、船底にこびりついたフジツボや海草をかき落とすために、数日間はドック入りする。  この間が河田と伊都子の時間だった。  三つ歳下の伊都子は、充分に自分とのことを歓んでいると、河田は思う。  長女を産んで暫く経った頃から、声をあげそうになると、自分で浴衣の袖を噛んで堪えたりして、それを見るのも夫として嬉しかった。  喜びが昂まると最後に背をそらせて、腰を震わせたのが全身に伝わって行く。  そんな妻の伊都子を想い出した河田は、目の底を熱くしたのだが、それもアレキサンドリアに着かなければ、全ては終わりになってしまうと思うと、暗い顔になってしまった。  河田は通路の端にあるケイト・マスタスンの船室のドアをノックする。  ドレッシング・ガウンを着た、美しいケイトがドアを開けた。  乗客と乗組の情事は、日本郵船では厳しい御法度になっていた。  外国人の乗客は稀だったが、日本人乗客には時々女も混る。  外交官や商社員の夫人や娘がほとんどだが、女優や学生もいた。  現場を目撃されなくとも、明らかにそう思われた乗組は、まず問答無用で職を追われる。  時には惚れっぽい尻軽女の、それらしい素振りで、濡れ衣を着せられた者もいたのだが、会社の方針は、事実があろうがなかろうが、疑われるのは心得が足りない……ということだった。  客扱いの専門家である以上、相手にそんな妄想を抱かせてはいけないというのだ。  河田は日本郵船の事務長の中でも、特に男振りがいい。  これまでにも何度となく女の乗客にその気を見せられたことがあったのだが、その度にはぐらかして来た。  女がその気配を見せた時、あからさまに横を向いたり拒絶すれば、相手を意地にしたり怒らせたりしてしまう。  そんな時は、あくまで丁寧に扱いながら、女の見せた気配には徹底して気がつかない野暮天になるのが一番だと、多年の経験で河田は知っていた。  そして、これが肝心なところだが、決してそんな女とは、ふたりきりにはならないことだ。  永い航海と蒸気エンジンの単調な響きは、男だけではなく、女も獣にすることがあるということも、河田はよく承知している。  普段の航海でも、そんなことが珍しくないのに、今回のマルセイユからアレキサンドリアまでの東行便には、人間の理性を消し飛ばしてしまう生命の恐怖があった。  それぞれ事情があって、乗客達はいずれもアラビア以遠の東へ、一日も早く行かなければならないので、この八坂丸に乗り込んで来た。  Uボートの危険も勿論承知の上だったのだが、マルセイユを出港してみると、程度はまちまちでも、乗客は皆、命を失う恐怖にさいなまれている。  乗客ばかりではない……と、河田は思った。  この航海を無事に乗り切れば、百三人の外人乗客は、日本船と日本人の乗組のことを、世界中に宣伝してくれるだろう。  万一雷撃されて沈没しても、それは神の与え給うた日本のチャンスだ……。乗客の命を全て救って、世界に日本船と乗組の名を知らしめろ……と、山脇船長は言った。  乗組は皆、気負い立っていたのだが、それでも正直な話は恐怖が時々こみあげて来る。  ケイトは自分の船室を訪れた河田に、椅子を勧めると、自分はツと立ってドアを閉めた。  思わず椅子から立ちあがった河田の前に、ケイトは跪《ひざまず》いてしまう。 「お願いです。わたしの話を聞いて下さい。ドアを閉めたのは、隣の病室へ来る連中に、私達のしている話を、ほんの少しでも聞かせたくないからです」  ケイトは下から見上げながら、そう言った。 「何はともあれ、奥さん、どうぞ立って椅子におかけ下さい。私は女の方とこんなふうにお話をするような、そんな人間ではありません」  ようやく立ちあがったケイトに、病室へ来る連中……とは、船医や乗組のことかと河田が訊いた。 「違うわ。御存知ないのですか」  河田に向かい合って坐ったケイトは、美しい緑色の瞳をきらめかす。  そんなケイトを見て河田は、隣の病室で行われていることが、自分の想像した通りなのだと察しをつけた。 「私の国の紳士方と、それにフランスやイタリアの男達も混って、中国人のメイドとアラビア人の娘を、ひと晩じゅう朝まで皆で犯すのです」  幸いなことに隣の病室との間には、浴室があるので、物音こそ聞こえて来ないのだが、一杯入った男達がドヤドヤと、ケイトの船室の前を通るのだと言う。 「ホラ、今晩もやって来たわ」  船室の前を何か声高に喋りながら、男達が通って行く。  ラウンジや甲板で男達が少女を交代で慰んでいたら、これは、はなはだしく風紀を乱すものとして、制止も出来ようし、従わなければ、船長の持っている警察権を行使することも出来る。 「病室なので緊急の場合に施錠してあったのでは、役に立たないことがあってはいけないと、鍵を掛けていなかったのですが、こんなことに使われているのではすぐ施錠しましょう」  河田が椅子から立ちあがろうとすると、ケイトは前ににじり出て押さえた。 「おやめなさい河田さん。今止めようとしたら暴動になります」  男達のこんな場面を制止しようとすれば、きっと大変なことになる……とケイトは言ったのだが、それはそのとおりだと河田も思った。  私もそうだが、乗客は皆Uボートに撃沈されて、魚の餌になる怖ろしさに、気も狂わんばかりなのだとケイトは言う。 「だからと言って、メイドの少女達を犯していいということにはなりません」  河田が通路から聞こえて来た少女の声に、堪らず出て行こうとすると、ケイトが胸をあずけて押さえた。 「駄目、今出て行って男達のしていることを止めたら、貴方が殺されてしまう」  ケイトは河田をしっかり押さえると、明日の昼間に鍵を掛けてしまうのが、とりあえず一番いいだろうと言う。 「けど、魚の餌になってしまう怖ろしさに、震えて気も狂いそうなのは、男達ばかりではなくて、女だってそうなのよ」  言うとケイトは押さえていた両手を離して、河田にあずけていた身体を起こすと、スルリとガウンを肩から滑らせた。  見降ろした河田の目を、下から斜めに、ケイトの乳房の先端についている桃色のものが射た。  細身のケイトに、斜め上を見あげている素晴しい乳房がついている。 「河田さん。たった一度でいいのです。どうぞ、わたしを抱いて下さい」  軍人の妻として、こんなはしたないことを口にするのは、どんなに思い余ってのことか察して欲しいと、ケイトは目を潤ませて言う。  たった一度でいい……とケイトは掌を合わせて、このまま魚の餌になるかと思うと、居ても立ってもいられなくなるし、それに自分が哀れで堪らなくなる。どうぞ事務長、何も言わずに自分を抱いて欲しいと頼んだ。  こんなことは、誰にでも頼めるようなものではない。  一番抱かれたいと思った河田に、自分の願いを断られたら、それ以上の恥は曝したくないので、持っている毒を呑むとケイトは呟いた。 「たった一度でいいのです」  ケイトはもう一度、同じことを繰り返す。  この女は、自分が断ったら本当に命を縮めるのに違いないと、河田は思った。  だからといって、美しい人妻で、しかも同盟国の軍人の若妻を、それでは……と抱くわけにはいかない。河田は目のくらむ想いだったが、ケイトは両手を伸して河田の手を掴んだ。 「貴方にも奥様がおいででしょう。わたしにも夫がいます。けど今のような魚の餌になってしまうかも知れない場面で、この世の限りを私達がしても、奥様もわたしの夫も愛があれば、私達を愛していてくれたら、分かってくれるし、許してくれると思うのです。  貴方、そう思いませんか……」  素裸のケイトの桃色の乳頭が、声と一緒に小刻みに揺れている。  神様だってきっと許して下さるし、もし許して下さらないで地獄に堕ちても、自分は構わないとケイトは言った。  言いながら掴んでいた片手を離すと、掌を河田のズボンの前に当てる。  八坂丸はシシリー島の僅か百五十ヤードほど沖を、夜間十二ノットぐらいのスピードで走っていた。  このシシリー島とイタリア半島の間にあるメッシナ海峡は、イギリス海軍から夜間の航行が禁じられている。  八坂丸は星明りだけを頼りに、この地中海最大の島を迂回しようとしていた。  視界が悪くなると、八坂丸はそれに合わせて減速する。  全裸のケイトに自分のものを掌で押さえられながら、立ち尽くしていた河田だが、本船がスクリューの回転を五回転も落とせば、船室の中に居ても敏感に察しをつけた。  船橋に居る当直士官と、ボーイまで動員している見張りの乗組は、自分が全裸のイギリス女に挑まれている今でも、懸命にUボートと闘っているのだ。  ケイトは、怪訝な顔をして河田の瞳を見詰めた。 「貴方、どうなさったの……」  空いていたもう片方の手で、ケイトが首を巻こうと伸して来るのを、河田はひっぱずすと、夢から醒めたようにドアに向かって身体をかわす。 「今、こうしている間にも、当直の乗組は一所懸命Uボートを見張って、釜を焚き操船しているのです。汐に痛む目を擦《こす》り、闇夜を見詰め汗まみれになって蒸気圧をあげているのですよ」  ドアを背にして河田は低い声で、全裸のケイトに向かってそう叫んだ。 「わたしのたった一度だけというお願いを、貴方は拒むの……。念入りにして下さっても、三十分とはかからないことなのよ」  そうしてくれれば、済んだ途端に雷撃されても自分は心残りなく死んで行けるのに、貴方は自分もそうしたかったのを押さえて、この部屋から出て行くのね……と、ケイトは喉から絞り出すような声で言った。  舷窓の下にある狭いベッドには、枕もとにサイド・テーブルが作りつけになっている。  素早くケイトはその抽き出しを開けて、中から金属のピル・ケースを出すと、カプセルをひとつ摘み出した。 「貴方、これは万一の時にと医者に作ってもらった毒薬です。呑み込んで三十秒も経たない間にわたしを地獄に運んでくれるのです」  キリスト教では、自殺者は天国には行けないという。  これは嘘や芝居ではないと、河田はケイトが摘み出したカプセルを唇に近寄せたのを見て思った。  乗客に毎日接している河田は、女に限らず、人間を見抜く術を自然に身につけている。  間違いなくケイトが持っているカプセルの中身は、本人の言っているように毒薬で、このまま自分が船室を出て行ったら、まず間違いなく呑み込んで、自ら命を断つということも河田には分かっていた。  ハッタリや脅しではない。  静かだが、必死の人間の気合が美しい全裸に籠められている。  斜め上に突き出ている乳房の先の薄桃色に染まっている綺麗な乳頭が、よく見ると小刻みに震えていた。 「貴方に拒まれて、煩悩のままに望まない男に抱かれる自分を想うと、そんな哀しいことになるのは、あんまり自分が惨めです。同じ魚の餌になるのなら、誇りだけは持ち続けたいと思います」  自分を抱くことは貴方にとって、恥ずかしいことや哀しいことなのかしら……とケイトは呟いた。  乳頭がまた何度か、吸い込んだ息で頷くように揺れる。 「そんな……、貴女は、私の見た女の方の中で、間違いなく一番美しい……」  嘘を言っているのでも、お世辞を言っているのでもないと、河田は思った。  イギリス陸軍中尉の若妻、ケイト・マスタスンは、映画女優より、美人芸者より美しい。  今までこんなに美しい女には、本当に遭ったことも見たこともないと、河田は思った。 「こんなことも客船の事務長のお仕事だとは思いません? 今にも命を失うかもしれない女と男同士で、この世の名残に愛し合いましょう。考えておいでのうちに、どんどん時が過ぎてしまいます」  ケイトは言いながら、カプセルをサイド・テーブルの上に置くと、河田に寄り添って首に手を伸ばしてネクタイをはずしにかかる。  河田は止めなかった。  目をつむって立ち尽くしていた。  ケイトの長くて白い腕は休みなく動き続けて、上着とシャツを脱がせると椅子にかけ、下着の裾をズボンの中から引っ張り出す。  ここで、それまで目をつむってされるままになっていた河田は、一度大きく息を吸って胸をふくらませると、目を開けた。 「ミセス・マスタスン……」  河田は低い声を絞り出すと、目の前にあった細身だが豊かな身体を両手で抱きしめ、一度強く抱いたのをゆるめると巨きな掌で、背中と脇腹を撫でさすった。 「ケイトと呼んでちょうだい。三十分間だけ……」  ケイトのするままにまかせていた河田だが、頭の中の三分の一は、まだこれから起こる美しいイギリス女との情事に、ブレーキをかける想いが残っていた。  神戸の留守宅で、三人の娘を育てながら自分の帰りを待っている妻。  万一、この情事が発覚した時に、自分の失うものの大きさと、致命的な信用の失墜。  それに、たとえ三十分といっても、その間に運悪くUボートの魚形水雷が、本船に命中してしまったら、全裸の自分はイギリス女と絡《から》み合ったまま、海の底に沈むことになる。  いや、沈んでしまえば、まだしものことで、絡み合ったまま海に浮かんで、浮上したUボートに写真でも撮られたら、娘達は嫁にも行けなくなってしまう。  ドイツの写真技術は大変発達しているから、闇夜でも自在にマグネシュームを焚いて、白昼同様の鮮明な写真をとることを、河田は知っている。  しかし、掌でケイトの肌をまさぐり、指先で尻のふくらみを撫でていると、河田の頭の中は突然灼熱して、そんな想いの全てが消え失せてしまった。 11 シシリー島に沿って  それから二十分も経たないうちに、ケイトは何度も繰り返して、ほとんど絶え間なく天国に遊んだ。  こんな甘美な時間を男に与えられたことは、今まで一度もなかった。 「ケイト、終わりにしてもいいか……」  河田の囁いた声が耳の中に入ると、それだけでケイトは、また身体がジステンパーにかかった仔犬のように、ガクガクと震え始めた。 「どうぞ、貴方……どうぞ」  それに続いたのは、声ではなくて叫びだった。 「神様が、神様が最後に自分にこれ以上はないものを与えて下さった」  と、ケイトは思ったのだが、優しく自分の耳たぶにふれて来た唇が、 「ケイト、俺達は決して魚の餌にはならない。ドイツ人には殺されないんだよ」  と囁いたのを聞いて、これも神様がおっしゃっているのに違いないと、涙が溢れて来た。  白く滲んで見えた河田のシルエットが、船室のドアから姿を消すのを、狭いベッドに横たわって、小さな息をしながら、ケイトは見送った。  河田は神様の遣わして下さった天使だと、ケイトは甘い臭いの羊毛の玉が詰まっているような頭で、しきりと考えていた。  通路ですれ違った見張りの水夫が、御苦労さんですと言いながら、会釈して通り過ぎたので、河田の顔は一層難しくなる。  普段は自分の家より落ち着けるぐらいの船内なのに、どうにも居心地が悪く感じられて仕方がなかった。  この後ろめたい気持ちは、どうしたら薄れてくれるのだろうと、今までに覚えのないことの後だけに、河田は苦しくて堪らない。  自分の船室に帰る前に甲板に出て見たら、東の空が白みかけている。  もう二時間ほどで日の出だった。  暫く東の空を仰ぎ見るようにしていた河田が、自分の船室に戻った頃、船橋では当直の草刈一等運転士が、額を窓硝子に押し当てるようにして、左舷に姿を見せて来たパレルモの街を見詰めていた。  まだ黒と白とグレイの世界で、色はついていない。  山脇船長は海図室のテーブルに、海図ではない一般の地図を拡げて、額を近づけていた。  朝日が水平線を赤く染めて昇り始めると、下から押しあげられているのか、それとも上から引っ張りあげられているのかと思うほど、グイグイと姿を現して海から離れる。  闇の中から浮かびあがったシシリー島の首都パレルモは、今では朝日を受けて輝いていた。  青や赤の瓦屋根と白い塗り壁の家並が美しい。  双眼鏡で見ると、早起きの主婦が洗濯物を干している。  どこの国でも一家の主婦の起きるのは早い、と草刈は思った。  垂水の家にいる妻の雅子も、毎朝早く起きていたと思い出すと、足立はいとおしくてならない。 「針路、西南西《ウエスト・バイ・サウス・ウエスト》……」  妻子への想いを振り払うように、草刈は一度胸をふくらませると、号令を叫んだ。 「針路、西南西、サー」  五人いる操舵手《クオーター・マスター》の中では一番若い榊原が、低いが気合の入った声で復誦すると、舵輪をまわす。  夜間は少し岸から離れて走っていた本船を、草刈はゆっくり岸に寄せて行く。  角度をつけた急な転舵をすると、本船が大きく揺れるので、客船では緊急事態か速力を落としている時しか、原則としてしない。  端艇甲板に姿を見せた小泉誠太と玉城勇民が、昇る朝日に柏手を打つ。  船尾で見張りに立っていた若い水夫は、漂って来た味噌汁の香りに鼻をうごめかす。 「コラァッ、あと一時間足らずで交代じゃい。いい若いもんが台所の臭いなんか嗅いでないで、しっかり見張らんかい」  船庫番《ストーキー》の小俣が船尾に向かって、野太い声で怒鳴った。  余程の追い風でないと、時速十ノット以上の速力で走る汽船では、臭いも音も船尾を抜けて行く。  小俣に怒鳴られた若い水夫は、往航のシンガポールでコルネットを買うと、船首で曲にならない音を吹き鳴らして、水夫長にこっぴどく叱られた。 「阿呆んだら、軍艦に乗っとんのとちゃうで、そげなもんは船尾《と も》で吹かんかい」  地図を睨んでいた山脇船長は、身体を起こすと腕組みして考え込んだ。  シシリー島の西端の街マルサラから、北アフリカのチュニジアから地中海に突き出ているボン岬の先端までは、二百キロもない。  全速力なら十二時間足らずで乗り切れる。  そして北アフリカにとりついたら、そのまま沿岸に寄って走る現在の航法で、陸地づたいでアレキサンドリアまで行くという手はどうだろうと、山脇船長は考えていた。  ボン岬はチュニスの近くにある。  チュニスは後年、演歌「カスバの女」で唱われた北アフリカの街だ。  ここから沿岸をハンマメット湾、ガベス湾とつたって行けば、「アラビアのロレンス」で有名になったトリポリがある。  この街にはいい港があるし補給も出来るだろう。  そして大きく凹んでいるシドラ湾を、地形に従って岸に寄って走り、ベンガジ、キレネ、トブルクと過ぎればエジプト領で、そこからアレキサンドリアまでは五百キロほどだ。  一度はシシリー島をかわしたあと、アレキサンドリアまでの最短距離のコースを、フルスピードで走ろうと決めた山脇船長だが、地図を睨んでいると迷いが出る。  距離はほとんど倍以上になるのだが、北アフリカの沿岸に寄って走る航法も捨て難く思われた。  Uボートの雷撃を海側からしか受けないし、万一魚形水雷を喰らっても、本船を岸に乗りあげれば、救命艇を降して漂流するのより、乗客を救うチャンスは大きいと思われる。  山脇船長は腕組をして、地中海の地図を見詰めていた。  無線局長の使いで通信士の大川が受信した電文の束を持って、海図室に入って来る。 「船長、こちらが各国の平文電報を訳したもので、こっちが暗号電報。そしてこの一本だけがイギリス海軍司令室からです」  山脇船長は、最初にイギリス海軍司令室から届いた電文に目を通した。 「十二月十日に行った偵察機による探査では、アドリア海最奥のトリエステにあるドイツ海軍Uボート基地には、僅か一隻のUボートが補給を受けているのを確認したのみで、他の約二十隻ほどのUボートは、いずれも地中海に於て作戦行動中と思われる。  地中海を航行中の連合国艦船は、警戒を一層厳重にして夜間は最小の灯火を心掛けられたい」  積み込んでいる莫大なソヴリン金貨のことも、マルセイユから乗り込んで来た満員の乗客のことも、当然ドイツの軍事探偵《ス  パ  イ》は通報しているのに違いなかった。  トリエステを基地にしているドイツ海軍のUボートは、八坂丸を狙って地中海に網を張って、撃沈しようとしている。  八坂丸を無事にアレキサンドリアに入港させることは、ドイツ海軍の面目にかかわることだと思っているに違いない。  本船が、イタリアとシシリー島の岸に近寄って走ったのを知ったUボートの艇長達で、潜水艇を北アフリカの沿岸に移動し、艇首を陸に向けて配置した者も多いだろうと、山脇船長は思った。  船長室に戻った山脇船長は、八坂神社を祭ってある神棚に額《ぬか》ずいて、二度柏手を打つと頭を垂れた。 「予定どおり、シシリー島をまわったら、最短距離を真っしぐらにアレキサンドリアに向かう」  当直以外の士官を全員、海図室に集めた山脇船長は、静かにそう話した。 「これからほぼ七十時間ほどで勝負が決まる。もう一度皆に確認しておくが、万一の時は乗客の命を救うのが最優先だ。特別貴重品船倉《シ ル ク ・ ル ー ム》にある金貨のことは忘れてしまえ」  蛸や海蛇が大仰天するだろうと、ニコリともせずに山脇船長が冗談を言ったので、それまで取り囲んでいた固い顔が、その途端にほぐれて、海図室の中は海の男達の笑い声で一杯になった。 「喰らってしまえば仕方がないが、無事にアレキサンドリアに着くのが最善なのは当たり前だ。銘々が最善を尽くして悔いのない仕事を心掛けてもらいたい」  山脇船長が、まわりを取り囲んでいる部下を見まわしながらそう言うと、皆深く頷いて、一等運転士の草刈が一同を代表して答えた。 「船長、最善を尽くして悔いのない仕事を心掛けます」  山脇船長は「ヨシ」と気合を籠めて顎を引くと、当直の機関長に伝えておけと言って、二等機関士に、 「手動速力指示器《テ レ グ ラ フ》より早いから、伝声管《ボイス・チユーブ》を開け放しにしておいて、『全速前進』がかかったら間髪を入れずに、フル回転まであげるのだ」  いいな……と念を押す。 「アイ、アイ、船長《サ ー》」  伝声管の前に、ひとり機関員を貼りつけておきますと、二等機関士が答えた。  山脇船長は一等運転士の草刈に、昼夜を通して見張りは現在の態勢でいくが、少々苦しくてももう七十時間の勝負だから、根を詰めて頑張って欲しいと言う。 「分かりました」  草刈は短く答えた。  昼間でも強い太陽光線が照り返す波間に、魚形水雷の雷跡を発見することは難しい。  夜間では尚更だった。  夜間避け得る距離で雷跡を見付けるのは、満月の夜でも奇跡に近いということは、山脇船長も乗組《クルー》達も承知している。  だからといって最善を尽くさずに不貞腐れていれば、万一最悪の事態に見舞われでもしたら、たとえ生き残っても一生悔いの残ることになると、誰もが知っていた。  待ち構えているドイツ潜水艇Uボートが、艇首を本船に向けていれば、四本の魚雷が扇形に発射されるから、命中してしまう可能性は高い。  それが北アフリカに寄って走ると想定して、艇尾を沖に向けているとしたら、魚雷発射管は多くて二門しかないので、助かる率は高かった。 「Uボートは海の底で、こちらに尻を向けている」  八坂丸の乗組は皆そう思っていた。思っていたというより信じたかった。  八坂丸には端艇甲板の両舷に、定員四十八名の救命艇が六隻ずつ白く塗ったダビットに吊ってある。  乗客と乗員の定員には、片舷の六隻で足りるのだが、本船が大きく傾いていると、持ちあがった側の救命艇は海面に降せなくなってしまうことがあるので、こうして両舷に六隻ずつ用意して万全を期していた。  船匠《カーペンター》の加藤は若い水夫をふたり助手にして、救命艇を点検している。  吊ってある救命艇に梯子をかけて、まずふたりの水夫が登ると、掛けてあったカンバスをまくって下に垂らす。  加藤は右手に木槌を握り、腰には釘袋とロープをほぐしたのを挟んで、救命艇の下にかがみ込んで底や側板を丹念に見詰める。  隙間や小穴があれば、地中海の強い陽差しが染み出て来るから、そこに細い竹ひごを差し込むか、外側から補修した方がいいと判断すると、小穴なら木釘を打ち込み、板の割れ目や隙間にはロープのほぐしたのを詰めて、上に濃いペンキを塗って塞ぐ。  カンバスを垂らすのも、救命艇の下を少しでも暗くしようという工夫だった。  補修個所のない救命艇は、助手のふたりがリストに従って、備品を確認する。  応急修理用の板やカンバス、金槌と小刀、それに釘と針金。  たまった水を汲み出す手桶も、ただあるなしではなく、使用出来る状態かよく確かめておかなければならない。  難破して漂流している時は、極く小さなことでも、それで乗客が平静を失ってパニック状態になることが、充分想定されるのだ。  救助を待つ間は、乗っている救命艇が頼みの綱だから、念には念を入れて点検する。  船医も助手を連れて医薬品を、見習士官《アプレンテイス》は飲料水と非常食。そして一等運転士はダビットの作動とロープを、二等機関士は電動ウインチを試運転して、救命艇を甲板に降したり吊りあげたりしていた。八坂丸には救命艇を昇降させるために、それまでの手動に代わって、新式の電動ウインチが装備されている。 「ほう、電気モーターか……」  端艇甲板を散歩していたリゲット船長は、まだ三十歳を少し越したばかりの若い二等機関士に、英語で話しかけた。 「従来の手動も併用しています」  と、英語で返事が戻ったのに、老船長はただ感じ入って舌を巻いてしまう。  つい三十年前までは、追い風でしか帆走出来ない原始的な帆掛舟しか持たなかったというのに、今では自分で作った蒸気エンジンの鉄船で、地球の裏側まで平気でやって来る連中だ。怖るべき国民だと、リゲット船長は眉をひそめた。  主力艦のほとんどはイギリスで建造されたものではあったが、ほんの十年前に日本海軍は、遥かに強大なロシヤのバルチック艦隊を、果敢に迎え撃って、一方的に壊滅させてしまった。  これは驚くべきというより、むしろ警戒しなければならないことなのに、ヨーロッパの先進国の軍事専門家達は、バルチック艦隊の士気と練度の低さなど、マイナス面を指摘して結論としてしまったように思える。  日本人達が他の東洋人とは全く異質で、異様なほどの戦意と団結力を備えた怖ろしい連中だと、リゲット船長は、この日本海海戦の結果を見て判断していた。  それがマルセイユで、この八坂丸に乗船して以来、頭がよいうえに集中力と向上心に優れ、勇敢で骨惜しみをしないのを見ていると、感心するより、なぜか薄気味の悪さが先に立つ。  同じ人類というよりも、これは蟻《あり》だ。  日本人は蟻そのものだと気がついて、リゲット船長はいちいち思い当たる。  山脇船長には敬意さえ抱いてはいるが、日本人は頭がよくて奸智に長《た》けた礼儀正しい兵隊蟻だと、イギリス人の老船長は、この時ハッキリ思い知った。  敵にまわすと手子摺《てこず》るどころか、常識外の相手だから、意表を突かれて非道い目に遭わされかねない危険な集団だ。  リゲット船長は母国イギリスの指導者が、日本人の怖るべき実態を知らず、見くびって失敗する悲劇を想って、青い目を細めると難しい顔で、端艇甲板に立ち尽くしていた。  しかもこの巨大な蟻は、老獪《ろうかい》な陰謀家よりも周到な布石をして、完全な作戦を完成してから戦争を始めるのだから、清《しん》もロシヤも見事に負かされて涙を呑んだ。  国力の足りないことを知っているから、スタミナの切れたところで仲裁に入ってもらおうと、日本はまずイギリスに接近して、まんまと日英同盟を結んでしまう。  ロシヤと闘おうと決めると、ヨーロッパの力関係からイギリスが積極的に動かない場合を想定して、アメリカに接近して仲裁役を買って出てくれる心証を得ておいたという。  そうしておいて最初から全力を挙げて、ロシヤを攻めに攻めた。  力《スタミナ》が尽きそうになれば、強大なアメリカが介入して講和になるのだと知っているので、委細構わず無二無三に攻めまくる。  これから勝ちにかかろうとしていたロシヤも、懸命に我慢して相手の力が尽きるのを待っていたのだが、アメリカの圧力には逆らえずに、まんまと日本の作戦どおりになって、屈辱的な講和に応じなければならなかったのだから、これはただの蟻ではない。  通信士の桜木円児は、メイン・マストと前マストの間に張られたアンテナを、下から見あげたり船橋から見降ろしたり、煙突に上って取付部分を手で触って確かめたりしていた。  張ってある鋼線のアンテナを見上げると、地中海の青い空に、円い座布団のような灰色に見える雲が、重なって浮かんでいる。  局長の足立を含めて六人の通信士が無線室で働いているのだが、三十二歳の桜木が先任で、既に無線電信局長の資格を得ていた。  この航海を了えると、北米航路の貨物船の局長に昇進することに決まっている。  遭難して乗客や乗組が離船しなければならなくなった時、無線室の通信士は一番最後まで、沈没しかけている本船に踏みとどまらなければならないことが多い。  救難信号を発信すると、規定で決まっているわけではないが、それを受信した船からの応答を確認しなければ、無線室から通信士は離れ難い。  しかしそんな時は、救難信号のSOSを打ちっ放しで離船してしまうのが、イギリスやフランスという海運先進国の乗組の常だった。  そんなことは出来るわけがないと、桜木は思っていたし、他の五人だって同じ気持ちに違いない。  救命艇で漂流を始めても、イギリスやフランスの何々号が何浬《かいり》離れたところから救助に来ると具体的なことが分かっていれば、あてもなく波間で揉まれているのとは、まるで違う。  怪我をしたりショックを受けた者も、気を取り直すに違いない。  自分ひとりで充分だと言って局長の足立は、他の五人の部下に離船を命じるだろうが、そうはさせられないと桜木は思った。  局長は結婚が遅かったので、まだ子供は三人共小さい。  他の若い四人も、ふたりは新婚で、ひとりは病身の両親を養っている。  もうひとりは大阪の大店《おおだな》の跡取り息子で、船乗りは三十になるまでと約束させられている身だ。  自分しかいない……と桜木は思った。  満開の桜の木の下に捨てられていたから桜木で、まんまるな顔をしていたので円児と、孤児院の園長がつけたと聴いている。  天涯孤独の自分は、惚れ合っている女もいないのだから、雷撃された時に応答を受信するまで無線室で頑張る役目は、他の仲間にさせるわけにはいかないと、桜木は固く心に決めて、局長の船室に出掛けて行った。  桜木の申し出を聞くと、局長は、 「俺の体面も考えておくれ」  と呟いたので、そのままふたりは暫くの間、お互いの目を見詰めたまま向かい合っていた。 「雷撃されたら俺達ふたりで残ろう」  自分も家族も、戦争中の船乗りなんだから、たとえ本船と一緒に沈んでしまっても、そんなことは覚悟の上だと局長は言う。  その時、船底の機関室では、注油係《オイラー》の山田が蒸気エンジンや回転軸に、慎重に注油しグリスを塗り込んでいた。  エンジンが順調で蒸気圧がマキシマムを維持し続けていれば、雷跡を見付けた途端に、すぐ最高回転まで主軸をまわして、全速力が出せるから、魚形水雷をかわせるチャンスも出るわけだ。  蒸気漏れや主軸のぶれ、それにロッドの狂いといったことが生じれば、アフリカの草原で脚をくじいた仔鹿のようなことになる。  何か異状が生じるか、故障が起きて速度が落ちて、いざという時に速力があげられなくなれば、Uボートは傷ついた仔鹿を舌なめずりして襲うハイエナのように、八坂丸に魚形水雷を撃ち込むだろう。  舵が利かなくなったり、十ノット以下に速力が落ちれば、Uボートは浮上して拿捕《だほ》しようとするに違いない。  八坂丸が十万ポンドのソヴリン金貨を積み込んでいることは、とっくにドイツの軍事探偵《ス パ イ》は通報している。  そんな場合は、船底のキングストン・バルブを開けて、山脇船長は八坂丸を自沈させるだろうが、Uボートは離船する乗客と乗組に、腹いせをするのはまず間違いなかった。  そうでなくても、Uボートは撃沈した商船の乗組が、泳いだり救命艇に乗っているのを、浮上して銃撃したという噂が広まっている。  注油係は勿論のこと、機関部員は全員、これからの七十時間、エンジンとプロペラの回転を、最高の状態に保つことに目の色を変えていた。  それしか出来ることはなかったし、魚の餌になるのを免れる手は、思いつかなかった。  釜の蓋が開くと、石炭の燃える音が辺りの空気を灼熱させ、上下するロッドの轟音と回転するシャフトの響きが、摂氏五十度の機関室全体を共鳴させる。  釜の前で、炎の照り返しを受けた火夫の彫物が、勇ましく動き続けていた。  無線局長の船室では桜木が、 「分かりました局長、差しでがましいことを申しました。お許し下さい。そんな時には御一緒させていただきます」  そう言って頭を下げると、頼むぜ……と局長の足立が、肩をひとつパンと叩いて、あと七十時間だと呟いた。 12 八坂丸対Uボート  乗客用洋食調理場では、十五歳の見習の竹下が、ジャガ芋の詰まった巨《おお》きな麻袋と、水を張った桶を前にして、血の気を失った白い顔でジャガ芋の皮をむいていた。  ナイフを握った右手の拳が、小刻みにふるえている。  つい十分ほど前に、調理場の真ん中に立ったチーフ・コックがあと七十時間ほどでアレキサンドリアだから、昼食、夕食、夜食、そして朝食というのを、三回繰り返せばいいのだと叫んだのだ。  着かなければUボートに殺されるのだと思ったら、竹下は故郷と、可愛いえみを想い出して、その途端に怖しくて震えが止まらなくなった。 「どうでしょう。二等船客食堂で配膳係《パントリー》がもうひとり欲しいと、そう言っているのですが、こっちはどうにかなりますから、竹下を行かせてはいかがでしょう」  シェフのそばへやって来た山崎が、そう言った。  この二十八歳のコックは、生田磯吉の弟子で、年季の入った男なのだが、この航海を了えて神戸に着くと、ひとまわりになってしまう。  ひとまわりというのは、ひとまわりして修業を積み、他人の飯を喰って来るということだ。  破門とは根本的に違う。  八坂丸がマルセイユに入港する前に、シェフの生田磯吉は、自分の船室に山崎を呼ぶと申し渡した。 「お前、神戸に着いたら本船を降りて、ひとまわりして来い」  生田磯吉は、料理は腕で作るのではない。喰べる人に対する気持ち、つまり思いやりや愛で作るのだと説教して、それが分かったら、いつでも戻って来いと言った。  山崎がまだ幼さが残る数えで十五歳になったばかりの、見習の竹下をからかうのを見ていた生田磯吉は、他の船の料理長に推薦する前に、ひとまわりさせて、心を作らせなければいけないと思った。 「そうか。普段と違ってお客さん達が、同じ時間にやって来るから忙しいんだな。こっちの手が足りるのならいいだろう」  生田磯吉はそう言うと、すぐジャガ芋の皮をむいていた竹下を呼んだ。  まだ髭も生えていない少年は、前掛けで手を拭きながら小走りにやって来ると、コック帽を取って、生田磯吉の前で気を付けをする。 「竹下、今からすぐ二等船客食堂に行って、配膳係を手伝え。食事時間が終わってもここには戻らずに、先輩の配膳係からよく教わって、コースの順序やお客に出す間《ま》を覚えるのだ」  ウェイターが取って来た客の注文を、調理場のコックに伝えて、出来てきた料理を順にウェイターに渡すのが配膳係の仕事だ。  料理を出す順番を間違えないことは勿論だが、コックが渡した料理の載った皿を、忙しい中でもよく睨んで、ヘリについているソースを拭いたり、つけ合わせの野菜やパセリにクレソンの姿を整えたりもしなければいけない。  出来あがった皿を、注文を取って来たウェイターに、確実に持って行かせるように気をつけないと、コンソメを頼んだ客にポタージュが行ってしまったりする。  生田磯吉には、竹下を少しでも安全な上甲板にある食堂に移してやりたいという山崎の気持ちがよく分かっていた。神戸に着く前に山崎は、もう心掛けと修業を始めたようだ。 「潜望鏡ッ、右舷前方二時の方向、約二百メートル」  甲板の見張りが双眼鏡を目に当てたまま絶叫する。 「フルスピード・アヘッド」  見張りの水夫が報告した潜望鏡が、斜め前方の波間に垂直に出ているのを、双眼鏡で確認した草刈は、躊躇《ちゆうちよ》せず蓋をはずしたままになっていた伝声管《ボイス・チユーブ》に、号令をしっかりした声で吹き込んだ。  船底の機関室では、蓋を取った伝声管に見習士官が耳を寄せて立っていたが、草刈の号令が聞こえると、目を一杯に見開いた。  銜《くわ》えていた呼子笛を思い切り吹きながら、右手に持っていた柄のついた鐘を振る。 「ビリビリビリビリ、ガランガランガラン」  機関室の騒音の中で響いて来たその音を聞くと、操機長は弾かれたように、蒸気圧を調節するハンドルに跳びついて、力まかせに一杯までまわした。  すぐエンジンのロッドの動きが早くなって、回転計の針が動き始める。  号令を受けてから僅か二十秒ほどで、プロペラ・シャフトはそれまでの六十五回転から、グイグイあがって八十回転に達した。  まだ十回転ぐらいはあがるだろうが、そんなに長い時間は釜がもたない。  往航のシンガポールで還暦を祝った操機長の室伏は、それまで誰にも見せたことのなかった鋭い目で、圧力計を見詰めている。  流れた汗で縦に光っている喉仏が、一度大きく上下に動いた。  伝声管に耳を押しつけている見習士官の傾けた顔から、汗が玉になって落ちて行くと、電灯の光を反射して一瞬キラリときらめく。  それを横目で見た二等機関士は、船橋《ブリツジ》の連中も、機関室に状況を知らせる余裕は、とてもないに違いないと思った。  本船にUボートの危険が迫ったのは確かなのだが、それ以上のことは分かりようがない。  今は回転を出来るだけあげて、懸命に維持するしかないのだと、機関室にいる乗組は皆すぐ腹をくくったようだ。  うろたえてへたり込んだり、とり乱して持ち場を離れる男はひとりもいなかった。  石炭の粉にまみれた顔が流れる汗で縞になった石炭運び《コロツパス》達は、石炭庫から小走りで一輪車を押して来る。火夫はそれぞれ自慢の彫物から汗の玉を飛ばして、スコップを振るい続けた。  注油係は長い二本のシャフトに沿って、忙しく走りまわると、プロペラに続く狭いトンネルの中にも、躊躇《ためら》いもせずに油差しを握って潜り込んで、軸受けにオイルを注ぐ。  本船が大きく舵を切ったので、機関室の床が傾いた時、鉄の踏板を靴の踵で鳴らしながら、手摺を握った両手を滑らせて、落ちるように一等機関士がタラップを降りて来た。  すぐ続いて三等機関士と機関長も、船底の機関室に跳び降りて来る。 「どうぞ上にいて下さい」  当直の二等機関士が騒音の中で叫ぶと、機関長が微笑んで首を横に振って見せた。  プロペラ・シャフトの回転が上がるにつれて、機関室の大音響と振動が、八坂丸の隅々にまで伝わって行った。  回転計の針が七十八回転に届くと、そこからはジリジリ上がって、八十回転を越えた時は船橋の床までかすかに震えているのが、靴の裏を通して分かるようになる。  八坂丸は船室にいた乗客も気がついたほど、力強く加速して、舳先《へさき》が盛りあがって来るうねりを押し潰す度に、速度が上がるように思えた。  魚形水雷の速度を二十五ノットほどとすれば、潜望鏡の見えた位置と八坂丸の針路、それに速力から考えて、Uボートは既に何発かの魚形水雷を発射していると草刈は思ったので、発見しないうちに、機関室に全速前進を命じたのだ。  それまで八坂丸は、チュニジアのハンマメット湾の北を、東南に向かって流れる早い潮流に乗って、しかも強い追い風を受けていた。  六十回転でも十三ノットは出ていたから、それを八十八回転まで上げれば、加速のいい新造船なので、すぐ十七ノットから十八ノット近くの速力になる。  十三ノットの八坂丸に命中させようとした魚形水雷は、いくら三、四発を扇形に撃っても、皆後ろにはずれる筈で、この状況では、それが最善だと、草刈は判断したのだった。 「二発の魚形水雷ッ、右舷前方一時の方角より、本船の針路前方に向かいます」  船橋の上にいた見張りが叫んだので、草刈は爪先立つと双眼鏡を、その方角に向けた。  双眼鏡の中のうねりを縫って、白いかすかな線が二本並んで、少しずつ延びるのだが、初めて見る魚形水雷は思ったより遅いと、草刈は思った。  白い線のように見えるのは、スクリューの作る魚形水雷の航跡だ。  延びて来る二本の白い線を見詰めていた草刈は、頭をどやしつけられて、心臓を掴まれたような気になった。  速力を上げた八坂丸に、このままだと一分たらずで魚形水雷が命中してしまう。  草刈は目の前が暗くなったのだが、とっさに身をひるがえすと舵輪に跳びついて、反対側にいた操舵手の竹内が驚くのに構わず、力一杯ぐるぐるとまわした。  とても竹内に号令する余裕はなかった。  わけは分からなかった竹内だが、長く一緒に組んでいるので草刈の腕や判断を信頼している。  すぐ自分も手を貸して、船首に背を向けている草刈とふたりで、両側から舵輪を懸命にまわすと、動かなくなったところで押さえつけた。  速力のあがっていた八坂丸は、急に一杯に舵を切られて、大きく傾きながら右に曲がり始める。  全速力を出しているところで、一杯に舵を切ったら本船がどうなるかなんて、草刈は知らなかった。  北西風は強かったが、海面はうねりがある程度で、底荷も積んでいたから、途中であまり傾斜が非道くなれば、舵を戻してやれば転覆することはないだろうと、草刈は舵を押さえつけながら考えていた。  機関室に全速後進を命じれば、シャフトは一端止まってから逆に回転し始めて、本船の速力は急に落ちる。  魚形水雷が命中せずに本船の前を通り過ぎても、それはUボートの思う壺なのだと、傾きながら右にまわり始めた時に、草刈は敵の作戦を見抜いていた。  Uボートの狙っているのは、八坂丸の積荷で特別貴重品船倉《シ ル ク ・ ル ー ム》に詰まっている十万ポンドのソヴリン金貨なのだ。 「そうと分かれば、どうすればいいんだ」  草刈にはUボートの次の動きも分かっているのだが、船長に相談したり、あまり考えたりする時間はなかった。八坂丸の前に魚形水雷を通過させて威嚇すると、Uボートは必ず浮上して来る。  五インチ砲でも載せていたら、射程は長いし、乗客を乗せている八坂丸は、とても逃げられない。素直に停船しても、今までの例から考えると、乗客と乗組の生命は助かりそうもなかった。  草刈の華奢《きやしや》な身体に気合いが漲《みなぎ》って、黒い瞳の中に細く小さな炎が燃える。  やるしかなかった。ラウンジの安楽椅子に坐って、イギリス人の作家が書いたインドが舞台の冒険小説を読んでいたリゲット船長は、八坂丸が急加速しようとしているのに気がつくと、眉をひそめて難しい顔になる。ラウンジにいる他の乗客達は、まだ気がつかなかったのだが、中年のボーイは固い顔になって、用事ありげに出て行った。  すぐ、八坂丸は、これまでになく激しく船体を震わせたので、速力をあげたのが他の乗客達にも分かったらしい。  急いで様子を見にラウンジから出て行った者もいたが、十人ほどの外人乗客は不安な表情で、リゲット船長のまわりに集まって来る。 「こんなに急加速したのは、どんな原因が考えられますか……」 「ドイツの潜水艇に追いかけられているのかもしれないわ」 「ヤマワキに説明してもらいたいな」  その時フランス人のクレイが、全速運転のテストだろうと言ったら、頷いたり、同意の声を漏らした者が何人もいたのは、そうであって欲しいという願望からだったようだ。 「私は何か緊急の事態が起こり始めているのだと思う。皆さん、すぐ船室に戻って、一応の用意をなさることだ」  リゲット船長がそう言った時、八坂丸は急に右にまわり出して傾いた。  一杯に舵を切って傾きながら右にまわった八坂丸は、半円形の航跡を残して真後ろを向いたところでも舵を戻さず、そのまま右にまわり続けた。  キロで言うと三十キロ強のスピードだから、うねりのある海の上ではかなりな速さだ。  全速力でまわり続ける八坂丸の船首が、潜望鏡を見付けたところに向かって行くと、草刈は双眼鏡で海面を舐《な》めるように、素早く念入りにUボートを探した。  そんな草刈の姿を見た操舵手の竹内は、自分も首を伸して前方の海を睨む。  乗客と乗組の生命と八坂丸を、救えるかどうかの瀬戸際で、救えなければ殺されてしまうということが、ふたりで舵を切り続けているうちに、竹内にも分かって来た。  真後ろを向いたところで、来た方角に逃げるとしても、早い潮流に逆らいながら強い向かい風を受ければ、釜を壊したりしないで維持できるのは、せいぜい十五ノットだろう。  浮上して追いかけて来る潜水艇の、機関砲や速射砲の射程から逃げ切るのは、まず出来ない相談だと、一緒に舵輪を押えながら草刈は話した。  逃げられないとなれば、どうする気なのだろう。降参しても生かしておくと手がかかるというので、Uボートは機関銃で商船の乗組を射殺すると、生き残りが何人も証言している。  草刈は何を考えているのだと、竹内が思う間にも全速力の八坂丸は、船首をぐいぐい右にまわして行く。  ちょうど一回転して、船首がまわり出す以前の針路に向くと、斜め右前方四百メートルほどのところに、海面に白い泡を散らして潜水艇の黒い司令塔が浮かびあがって来る。 「Uボートだ。船首を真っ直ぐ司令塔に向けてくれ」  草刈が叫ぶと、竹内はすぐ舵輪を戻し始めて、Uボートの司令塔に船首を向けると、復唱した。  草刈が命じたことを、竹内はいつものように復唱したが、これはそんな簡単なことどころか、これほど難しい操舵もないというほどのことだった。  全速力で右にまわっていた八坂丸は、左に舵を切ると船首を振り始め、船体を左右に大きく横揺れ《ローリング》させて蛇行してしまう。  海水の抵抗を船体に受けている質量の巨きな一万トンの鉄船を、全速力で走らせながら、それまで右に急旋回していたのを僅か四百メートルほどの距離で直進に修正するのだ。  竹内は舵輪を激しく左右にまわして、当て舵を繰り返すと、野生の荒馬を乗りこなすカウ・ボーイのように、船首を左右に振りたがる八坂丸をなだめようとしていた。  司令塔に続いてUボートの艇首も海面に現れて来たのだが、その先端には防潜網を切るための三角形の鋸《のこぎり》の刃のようなものが付いている。  竹内が左右に振れて躍り出した八坂丸の船首を、懸命に舵輪を操って静めようとしている間に、Uボートはどんどん浮上して、海面に黒い凶悪な姿を現した。  司令塔がほとんど海面に出ると、それまで斜めに突き出ていた艇首が下がって、甲板が盛りあがって来る。  甲板から流れ落ちた海水が、Uボートのまわりの海面に白い泡になって流れ去って行く。 「敵は、十ノットがやっとだな……」  八坂丸をなだめていた竹内が、浮上して来たUボートを睨むと、そう呟いた。  ひとまわりして、もとのコースに戻った八坂丸は、潮流に乗って追い風を受けていたのだが、浮上して来たUボートはその逆だ。  もろに早い潮流と強い向かい風を受けていたから、普段だと浮上すれば十二、三ノットは出るものが、おそらく全速力なのだろうが十ノットも出ていない。  司令塔の前の甲板に大砲が一門載っていて、それを目掛けて水兵がハッチから飛び出して行く。  次々と水兵達が現れて、大砲に向かって走って行くのを、双眼鏡で見ていた草刈は、 「畜生ッ、あれは五インチ砲だ」  と珍しく汚い言葉で呻いた。  大砲に駆け寄った水兵達は、砲門の蓋を取ったり甲板のハッチを開けて、何かを引き揚げようとしている。きっと砲弾に違いないと草刈は思った。  水兵がふたりで、司令塔の上に二連装の機関銃を取り付けようとしているのが見える。  全速力で右にまわっていた八坂丸は、竹内がなだめている間に、惰性で大分船首が右にずれてしまった。  当て舵を繰り返して八坂丸を静めた竹内は、真っ直ぐには近づかずに、距離を取ろうとして左に舵を切りながら砲撃の準備をするUボートに、目を細めて狙いをつける。  ここまでは草刈が想定したとおりに、ほぼ進んでいたのだが、ここからが勝負なのだ。  魚形水雷を追うように潜航していたUボートは、八坂丸が急加速したのを見て、このままでは脅すつもりの魚形水雷が命中してしまうので参ってしまったに違いない。  草刈も、全速力を命じて八坂丸が加速し始めてから、針路を変えなければ、魚形水雷が命中してしまうことに気がついたのだ。  とっさに右に急転舵した草刈は、十三ノットで走っていた八坂丸の前に、魚形水雷を通過させようとしたUボートの狙いに気がついて、そのまま全速力で右に急旋回を続けた。  八坂丸が全速力で反対方向に逃げると思ったUボートは、必ずそれまで潜航していた針路を、九十度左に捻ると急いで浮上して来るだろうと草刈は読んだ。そして逃げずに全速力で右にまわり続けたら、思ったとおりUボートは浮上して来て、目の前にいる。  船長室で休憩していた山脇船長は、八坂丸がプロペラ・シャフトの回転を急に上げたのをすぐに感じて、横になっていたベッドに両手をつくと上体を起こした。  八坂丸が加速し始めた時は、シャツの裾をズボンに差し込みながら、靴に両足を揉み込むようにして履くと、船長室から走り出て、船橋に向かうタラップを猛然と駆けあがって行く。  上衣を着る暇はなかった。 「どけッ」  船橋から降りて来た若い見張りの水夫に叫んだ船長は、慌てて身体を横にしたのを擦り抜けてタラップを飛びあがって行った。  当直は一等運転士の草刈なので、判断は無条件で信頼出来ると、自分の船室で靴に足を納めながら、山脇船長は思ったのだが、だからと言って、八坂丸が何か大変な危険にさらされていることは変わりなかった。  長いタラップの中ほどまで山脇船長が駆け昇った時、速力のあがった八坂丸は、傾きながら右に急旋回し始めた。  不意を突かれて、急に身体を左に持っていかれた山脇船長は、タラップの手摺を両手で握り締めると、転落するのだけは辛うじて免れた。  真っ赤な顔になって、タラップの外に振り出された上半身を、内側に引き戻した船長は傾いて海面が近寄った右舷を覗き込む。  全速力で右に急旋回を続ける八坂丸のタラップを、両手で掴んだ山脇船長は、船橋に向かって一歩ずつ踏みしめるようにして、昇って行った。  まわり続けるうちに、船体の傾斜は段々に激しくなる。  積荷が滑り出したら、ひとたまりもなく転覆してしまうと、山脇船長は思った。  しかし当直の草刈にしても、そんな危険を考えていないわけがない。  それだけでも八坂丸に迫っている危険のほどが察しられたので、山脇船長は傾いたタラップと、高くなった左側に振られそうになる遠心力にさまたげられて、駆け上がれずに一歩ずつしか昇れない自分が、もどかしくて堪らなかった。  ちょうど八坂丸が一回転した時に、やっとタラップを昇り了えた船長は、傾いた船橋を泳ぐようにして、羅針盤を手で掴む。  その時、双眼鏡を目に当てたまま草刈が、操舵手の竹内に、舵輪を戻して船首をUボートの司令塔に向けろと叫んだ。 「Uボート……」  それなら急旋回して、本船が真後ろを向いたところで、舵を戻して逃げる筈だと思った山脇船長は、すぐ草刈の考えに気がついた。  左右に振れる船首の向こうを爪先だって見た船長は、眉の端を震わせると息を呑んだ。  Uボートが浮上しようとしている。  船首の左右に振れるのを止めた操舵手の竹内が、シャツ姿の船長が船橋にいるのに気がついた。 「船長《キヤプテン》ッ」  と叫んだのを聞いて、双眼鏡で、浮上したUボートが斜め左に舵を切ったのを睨んでいた草刈も、振り向いて船橋の中を見まわす。  船首の振れのおさまった八坂丸は、竹内の操舵で、Uボートの司令塔に向かって、全速力で走っていた。  浮上したUボートの司令塔の上には、ふたりの制帽をかむった士官と、ふたりの水兵がいる。  士官のひとりは双眼鏡で八坂丸を見たまま動かないが、もうひとりはUボートの針路を、中にいる操舵手に号令しているらしい。  八坂丸が自分の方に向かって来るのに、怪訝《けげん》な顔をした士官は、数秒睨んでから何か号令すると、Uボートは更に十度ほど左に針路を変えた。肉眼でもそんな様子がよく分かる。 「船長ッ」  草刈が叫ぶと、何か言いそうになったのを制して、 「草刈、決めたことを存分にやれい」  山脇船長が腹の底から絞り出したような声で、そう叫んだ。  草刈は頷くと、竹内に号令する。 「Uボートは本船と間隔を保とうとして、針路を変えているが、二百メートルに近づいた時に、本船の船首が相手の司令塔と直角になるように操舵しろ」  この速力だと本船は二百メートルを、二十秒あまりかかると草刈は言った。  八坂丸は転舵したUボートを、全速力で追いかけて行く。  見る見るうちに、Uボートがぐんぐん近づいて来たのだが、五インチ砲にとりついていた水兵は、ハッチから引きあげた砲弾を籠めると、他の水兵がハンドルをまわして砲身が下り始める。  針路を号令していた士官が、全速力で差を詰めて来る八坂丸を見て、何か叫ぶと、もうひとりの士官が何か言い返した。  司令塔に機関銃を付けて、引きがねに指をかけ丸い照準器を八坂丸の船橋に合わせていた水兵が、士官達のやりとりを聴くと、指を絞った。 「ダッ、ダダダダダ」  八坂丸の船橋の窓は硝子が下げてあったので割れなかったが、何発か窓枠に当たって木屑が弾け跳んだ。  船橋の天井に当たった機関銃弾は、銅鑼《どら》を思い切り叩いたような音をたてると、貫通して穴をあけた。 「Uボート沈みます」  船橋の上で見張りをしていた若い水夫は、急旋回した時は屋根のへりにしがみついて青い顔をしていたのだが、今は足の下からUボートの撃った機関銃弾が飛び出したというのに、落ち着いた声で叫んだ。 「Uボートが沈む……」  怪訝な声で呟いた竹内だったが、狙って操舵していたUボートの司令塔が少し下がったように思える。  もう双眼鏡は要らない距離に迫っていて、ふたりの士官に続いて司令塔の上にいた水兵も、一連射した機関銃もはずさずに、ハッチの中に跳び込んで行くのを草刈は見た。  五インチ砲を操作していた五人の水兵も、急に沈み始めて海水の流れ出した甲板を、慌てて走るとハッチの中に次々と姿を消す。  Uボートの艇長は全速力で突っ込んで来る八坂丸が、舳先《へさき》を自分の潜水艇にぶつけようとしているのに気がつくと、急速潜航を命じたのだ。  注水弁を一杯に開いたUボートに、どっと海水が流れ込んで、浮上した時とは逆に艇首から先に沈んで行く。  軍艦と変わらない速力で巧みに操船し、舳先をUボートの司令塔に直角になるように修正しながら突っ込んで来る八坂丸を見て、司令塔の上にいた艇長は、化け物でも見た想いでチリ毛立った。  この距離に迫られては、速力の差から考えても、とても転舵したのではかわしきれない。  五インチ砲を一発喰らわして、機関銃を撃ちまくっても、あれだけ速力の出ている一万トンの鉄船が、止められるものではなかった。  急速潜航しか逃れられる手はなかったので、艇長は舌打ちしながら艦橋から、すぐ潜り始めたUボートの中に飛び込んだ。  目の前で藍色の海に白い泡を立てて沈んで行くUボートを見て、船体を震わせ揺すりながら、全速力で突っ込んで行く八坂丸がもどかしくて、思わず地団駄を踏んだ草刈は、「神様ッ」と呟いてしまった。  ほぼ二十ノット近く出ている八坂丸は、一分で六百メートル、一秒でも十メートルという速さなのに、どんどん海の中に沈んで行くUボートを見ていると、草刈は気が遠くなるかと思ったほどだ。  Uボートの司令塔を本船の舳先で突き壊せずに、とり逃して海の中に潜られてしまったら、勝負はこちらの完敗で、それなら急旋回より四十度ほど右に転舵して、魚形水雷の後ろを走り抜けた方がよかった。  そして浮上して来たUボートの五インチ砲の射程距離を、早い潮流と強い追い風を頼みに逃げ切った方が良かったかと、もう僅かに司令塔の先が二尺(六十センチ)ほど、海面に出ているだけで、沈んで行く敵を見降ろして草刈は、そんなことが頭に浮かんでしまう。  ほとんど海の中に潜ってしまったUボートに、百メートルまで近づくと、それからは急に速力を増したように感じられて、グイグイてっぺんに海水がかかり始めた司令塔目掛けて突っ込んで行く。  船橋にいた三人は潜って行くUボートが、八坂丸の船首で見えなくなると、息を呑んで耳を澄ました。  潜航するUボートの速力を睨んだ竹内は、八坂丸の舳先を、司令塔に直角になるように操舵していたのだが、見えなくなってから交叉するまで五十メートルはあるはずだ。  時間にして約五秒。  Uボートの甲板に、せいぜい三メートル弱ほどの幅で立っている司令塔へ、八坂丸の舳先《へさき》を当てなければやっつけることは出来ない。 「当たってくれ、神様仏様、当てて下さい」  山脇船長と草刈は、本船の舳先がUボートの司令塔にぶつかる音を聞きたい、聞かせてくれと、水平線に目を据えていた。  耳を澄ませて、操舵手の竹内は舵輪をしっかり握ったまま、目をつむっている。  いかに舵輪をまわして三十年と、長い経験を誇る竹内でも、潜航しようとする潜水艇の司令塔に、真横から本船の舳先をぶち当てるなど、今までに似たようなことをやった覚えがなかった。  もしこのUボートを取り逃すと、ただでさえ危険な地中海の航海が、最悪の事態になってしまう。  取り逃がしたUボートに追いかけられることは、速力が違うので考えられなかったが、すぐ無電が打たれて八坂丸の位置と、隠していた全速力が敵に知られる。  味方の潜水艇を商船のくせに攻撃したとなれば、他のUボートはやっきになって、八坂丸に報復しようとかかる筈だ。  それにイタリア南部からシシリー島の北岸にかけて、八坂丸の採った沿岸にギリギリまで近寄って走る手を、シシリー島の西端をまわってからは止めたということも知られてしまう。  それまでの情報で、八坂丸が北アフリカの沿岸に寄って走ると思い、そちらに向かっていたUボートも、無電を受信すれば、クレタ島の沖あたりで待ち伏せするに違いない。  このUボートを逃してしまえば、手の内を全て知られて八坂丸は絶望的に不利になる。  どうしても舳先を司令塔にぶち当てたい。  軽くでも当たれば、Uボートは浸水を止められないから、ひとたまりもない筈だ。  竹内の顔に汗が滲み出すと、 「ガツッ、ゴキキ、ガリッ」  八坂丸の船首が跳ねあがると、船体に強い衝撃が伝わって来た。 「やったっ。やったぞ」  草刈は叫ぶと手動速力指示器《テ  レ  グ  ラ  フ》を全速後進に、ガラリと音をたてて入れると、竹内に「取り舵一杯」と号令する。  号令を復唱しながら舵輪をまわした竹内は、嬉しくて目に涙が溢れて、遠くの藍色の海も近くの船橋《ブリツジ》の窓枠も、皆滲んで見えた。 「船匠《カーペンター》は舳先を点検し応急処置の用意を整えろ」  伝声管で山脇船長は命令した。  八坂丸のふたつのスクリューは、一度止まってから凄い水煙りをたてて逆にまわり出したので、速力はすぐ落ちて、ゆっくりと右にまわり出す。  草刈は手動速力指示器を微速前進に入れた。 「舳先の鉄板に亀裂が入って浸水しています。応急処置をしていますが、間もなく……十五分以内に浸水は止まります」  伝声管から聞こえて来たのが、当直明けの二等運転士の声だったので、山脇船長は嬉しそうに微笑んだ。  衝撃を感じるとすぐ、休んでいた二等運転士は、舳先に走ったのに違いなかった。  部下達は皆素晴らしい働きを、気合を籠めてやってくれている。  そうするのが最善だと判断した草刈は、全速力で本船を突っ込ませて、Uボートに体当たりして沈めてしまった。  操舵手の竹内も考えてみれば、神技と言える腕の冴えで、本船の舳先を小さな的に当てたのだ。  皆よくやる……と山脇船長は思うと、こんな部下達をアレキサンドリアへ、どうしても無事に着かせなければいけないと思った。  ゆっくりまわって行った八坂丸の舳先に立っていた見張りが、 「右舷前方二時の方角に海中から泡が出ています。約二百メートル」  と、嬉しそうに叫んだ。  白い泡が出ているところに、八坂丸はゆっくりと近づいて行く。  草刈の双眼鏡の視野が突然白くなったので驚いて目から外すと、八坂丸のすぐそばを鴎《かもめ》が一羽ゆったりと翔《と》んでいた。  海面には木箱や缶が、玉虫色に光る重油の中に漂っていて、泡がその真中に続けて湧きあがっている。  司令塔を壊されたUボートが、地中海の底に沈んだことは確かだった。  海面から樽がひとつ浮かびあがると、一メートルも高く飛びあがったのは、余程深いところから浮いて来たのに違いない。  Uボートの乗組はひとりも助からなかったと思った操舵手の竹内は、慎重に舵輪をまわして、海の底から湧いて来る白い泡に近づきながら、口の中でお題目を唱えていた。  死んでしまえばドイツ人でも仏様だと、竹内は思ったのだ。 「停船して舳先を修理します」  草刈は山脇船長に断って、八坂丸を湧いて来る白い泡から百メートルのところで止めた。  甲板に群らがった乗客は、泡の湧く海面を指差すと、興奮した様子で口々に何か喋っていた。  海の底から湧いて来る泡と一緒に、Uボートのディーゼル・エンジンの燃料だった重油も、少しずつ海面に浮き上がって来る。  陽の光りが海面に当たる角度が、うねりによって変わるので、薄く拡がった重油は青や紫、それに鈍い銀色と、いろいろな色に変わり続けた。  うねりによって色が様々に変わるのは、美しい眺めに違いないと思われるのに、それどころか、おぞましく感じられる。  それは変わり続ける色が、いずれも、時間の経った鰹《かつお》の刺身のように、嫌な光りを発していたからだ。  拡がって行く不気味に光る油膜の中に、Uボートから浮いて来る木切れや木箱、空き壜《びん》とブリキの缶が漂っている。  八坂丸の舳先はUボートの司令塔に浸水を止められないほどの手傷を負わせた。  海図では、この辺りの水深は五十メートル以上となっていたが、これはそれ以上の深度は記入する必要がなかったからで、おそらく海底まではその数倍ある。  浸水を止められずに沈んで行ったUボートは、水圧で艇体を押し潰されてしまったのに違いなかった。  潜水艇の艇体が水圧に耐える限度は、深度三、四十メートルだと言われている。  咄嗟《とつさ》に選んだ手が適中して、積荷のソヴリン金貨を狙ったUボートを、返り討ちにしたことが、海面に浮いているものを見ているうちに草刈には実感になった。 「水夫長、機関部と事務部から選んで、停船して舳先の修理をする間、見張りを十名増員しろ、船匠《カーペンター》に全速力で一時間もつ程度に修理出来るまで、何時間かかるか分かり次第知らせるように」  草刈は伝声管で、そう命令すると、水夫長が復唱するのを聞いて、こんどは船橋の窓から上半身を乗り出して叫んだ。 「停船している間も、各自の分担している海面から目を離すなと伝達しろ」  船橋の上にいた見張りは復唱すると、船首と船尾に向けて、同じことを一度ずつ叫ぶ。 「見張りは分担する海面から目を離すな」  両舷の見張りは次々と同じことを隣に伝えて、草刈の命令は何分もかからずに、見張りの全員に伝わった。 「見ろよッ、ホラ、ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》だぜ」  マルコが浮遊物のある海面を指さして、下卑た声で叫ぶ。  草刈が双眼鏡で、マルコが指さした辺りを見ると、うつぶせの溺死体が背中を海面に出し、伸した手足の先を海の中に垂らしていた。 「最微速後進《デツド・スロー・アスターン》」  草刈の号令で八坂丸は静かに後ろに動き出して、浮遊物のある海面から遠ざかって行く。  乗客に見せるようなものではなかった。 「ホラあそこだ。畜生、なんで段々船を後ずさりさせるんだ。ホラ、あそこ……、ああ、畜生、街娼の私生児《サノバビツチ》メ、見えなくなっちまう」  マルコが喚きながら伸びあがって指さす方を、甲板の手摺から身を乗り出して、乗客達は見たのだが、どうやらドイツ水兵の溺死体を見たものは誰もいなかったようだ。  Uボートから浮いて来るものから、充分遠ざかると、草刈は強い風が舳先に当たらないように、船尾からシー・アンカーを海中に投げるように命じた。  シー・アンカーは布製の日傘を開いたようなもので、これにロープをつけて海に投げておくと、抵抗で自然に船尾が風上に向く。 「船長、御指示をいただく暇がありませんでした。本船と乗客、乗組の生命を、自分の判断で危険に曝《さら》したことを御詫びします」  一応の処置を了えた草刈は、船長の前に立ってそう言うと、深く頭を下げた。  頷いて見せた船長は、詫びることはない、当直士官として貴君は最善を行ったと自分は確信していると、心を籠めて言う。 「それにしても、上手く行った。竹内も腕の見せどころだったな」  大した腕だと船長に褒められて、舵輪に両手をかけたまま立っていた竹内は、顔を赤らめて会釈する。  その時、伝声管がチンと鳴って、水夫長から、全速力で一時間もつように修理するのに、船尾を重くして船首を上げれば一時間以内で、現在のままなら五時間くらいかかると報告があった。  草刈はチラと山脇船長の方に目をやったのだが、船長が今までに見たことのない厳しい表情をしていたのに、顔を上気させると、水夫長に急いで船尾の二重底になっている船底に海水を入れるように命じる。  山脇船長がおそろしい顔で自分を見詰めていたのは、怒っていたのではなくて、教え励ましてくれていたのだということが、草刈にはチラと見ただけで分かった。  山脇船長は初めて見せた厳しい顔で、たとえ船長の自分が、たまたまそばに居ても、意見を求めたりせずに、当直士官として早く判断する場面なのだと、教えてくれていた。  次の航海から船長に昇格して、上海・香港航路の貨物船の指揮を取る自分を、船長が励ましてくれたのは、それが厚い信頼によるものだと思うと草刈は嬉しくて堪らない。  自惚れではなく、チラと見た山脇船長の厳しい表情から、これだけのことを読み取った草刈は、その瞬間、目の奥が熱くなった。  尊敬する先輩に自分が信頼されていると知ることは、船乗りとして何よりも嬉しくて誇らしい。  伝声管の蓋をして草刈がふり返ると、船長は船橋《ブリツジ》の張り出しに出て、双眼鏡で海面を見詰めて見張りをしていた。  二重底の部分に海水が入って、船尾が少し沈むと、船底に溜まっていた海水が後ろに動き出す。  それで舳先があがって、Uボートの司令塔で裂けたところが、海面すれすれまであがった。舳先の底で船匠が作業を始めたようで、鉄板を叩く音が船橋まで響いて来る。  こうすれば修理は早く終わるが、もしもう一隻Uボートが近くに潜んでいて、襲われたら絶体絶命でまず逃げられない。  それでも同じ停船して修理するのなら、危険は時間が短い方が少ないと草刈は判断したのだ。  停船している本船が全速力を出せるまでには、十分以上も時間がかかる。  草刈が受けた報告では、浸水を止めただけの応急修理だと全速力はおろか、十四ノットの巡航速度でも、とても持ちそうもないという。  まだアレキサンドリアまで九百浬《かいり》(約一、六四〇キロメートル)ほどあるのだから、せめて雷撃された時に全速力を出せる程度には、修理しておかなければ航海は続けられない。乗客達は、八坂丸がUボートを返り討ちにしたのを無邪気に喜んで、バーに集まって祝杯をあげたりしているが、乗組は違う。  夢中で修理していた船匠と水夫以外の乗組は、停船している本船の危険で無抵抗な状態が不安で堪らず、無駄話をする者もいない。  顔を固くしてただ恐怖に耐えながら、動き出すのを待っていた。  船首から修理完了と伝声管で知らせて来ると、待ちかねていた草刈は続けざまに号令を下す。 「シー・アンカーあげろ。船底の水を排水せよ」 「微速前進」 「針路、東南東」 「回転数を六十回転まで、十回転に三分ずつかけて徐々にあげろ」  八坂丸が次第に速力をあげて、六十六回転で十三ノットに達すると、草刈は増やしてあった見張りを、もとに戻した。  夕陽を受けて絵のように見えるクレタ島が、左舷前方に近づいて来る。  八坂丸の船匠は修理した舳先の亀裂に、鼻がつくほど近寄って、作業灯を水夫に当てさせると睨んでいたが、速力があがって激しく波が当たり出すと、やっと満足そうに頷いた。 13 智恵と度胸の激闘  通信士の片山良三は、この航海から見習が取れた新参だが、もう二十八歳になるという変わり種だ。  郵船会社では新規に採用した通信士は、資格や他社での経験に関係なく、まず見習で乗務させる。  通信士は、特に緊急事態で本船と乗組の運命を左右するから、技能に加えて性質や度胸もよく見極めなければ、採用出来ない。  見習の通信士が一航海毎に神戸か横浜で下船すると、別な船に乗ることになっていたのは、その度に無線局長の査察を受けるからだ。  連続して二人の局長から適格と採点されると、本社の考査と面接が受けられる。  片山良三は見習で乗務した最初の二航海で、局長から適格と採点され、本社の方も一回でパスしたので、この制度が始まって以来のことと話題になった。  八坂丸に乗務することになった片山が、神戸で乗船して来ると、一等運転士の草刈と無線局長の足立が、本船のしきたりや客船の乗組としての心得を申し渡した。  その時、草刈が、郵船会社の通信士採用試験を受けるまでは、何をしていたかと訊いたら、片山良三は無線機ですと答えた。  足立が無線機の何だと、少し機嫌の悪い声で言ったら、小柄な片山は一層ちぢんだように思えたのだが、気を取り直して背を伸ばすと大きな声で「設計と試作であります」と叫んだ。 「ほお、どこでやってたんだ」  草刈が訊くと片山は、もう躊躇《ためら》わずに、通信機会社からドイツに留学生として派遣されて、三年過ごしたと答えた。  それで通信機会社の技師にならずに、本船の通信士になったのだから、何かしでかしたということは訊くまでもないが、草刈も足立もそんなことは訊くような不粋な男ではない。  その片山良三が往航の地中海から、受信するドイツ語と思われる暗号電信を、自室に持ち込んで一心不乱に考え込み、ロンドンやマルセイユは来たのも初めてだというのに、上陸もしなかった。  それがクレタ島を左舷に見たところで、 「分かったッ」  と叫んで、呆れた顔をしている足立に、Uボートはベルリン時間で乱数を変えていた、暗号が解読出来たと言って、訳文を見せた。 「応答せよ一九号、送信不能の時は僚艦に無事を確認させろ。繰り返す、一九号……」  驚いている足立に、どんどん端から平文に直して日本語にしましょうかと、片山が暢気《のんき》な声で言ったのは、どうも暗号を解いた途端に満足してしまったらしい。 「何で俺の顔なんか見てるんだ。すぐ始めろ片山、慌てて間違えるなよ」  片山は叫ぶ局長に頷いて、すぐとりかかった。  片山が日本文に直した最初の無電に、局長の足立はザッと目を通すと、出来次第すぐ船長室に届けろと言い置いて、小走りに無線室を出て行った。  船長室のドアがノックされると、返事を待たずにノブがまわって、誰か入って来るのに肘掛椅子に坐っていた山脇船長は、ちょっと眉をひそめて顎を引く。 「船長、これ御覧下さい」  声と一緒に差し出された紙を受け取った山脇船長が老眼鏡をかけると、足立はドイツ語の暗号を通信士の片山が、たった今解読したと言った。 「Uボートが打ったのと、トリエステの司令部からのがあるでしょうが、これは二十五分前に受信した一番新しい無電で、今片山が新しいのから順に、まずドイツ語の平文に直すと、日本語に訳すという順序で端からやっています」  足立が早口で言うのに、山脇船長は訳文をもう一度読み返しながら、それはしかし片山という男は大したやつだと呟く。 「一九号は七一号との定時連絡を、既に二度、行なって来ない。全艇は一九号を発見、または情報を得たら直接黒鷲に打電しろ。尚オクトがトリポリに入港は誤報。黒鷲」  訳文をテーブルに置いた山脇船長は、この大した男はしかし日本語は不得手のようだと、誤字をふたつ突ついて笑った。  一九号というのは本船に沈められたUボートで、七一号はおそらくイタリアかギリシャの商船か漁船で、ドイツ海軍への連絡を請負っている。  何時間か毎に地中海にいるUボートから、定時の無電連絡があって、それを黒鷲に報告しているのに違いない。  黒鷲はドイツ海軍の司令室で、オクトは数字の八だから、つまり八坂丸、本船のことだと、山脇船長が足立に話していると、ドアがノックされて次の訳文が届いた。 「全艇に告ぐ、オクトは拿捕《だほ》せずに雷・砲撃をもって、確実に撃沈せよ。七一号よりの積荷情報は誤報。繰り返す、オクトは拿捕せずに確実に撃沈せよ。尚、拿捕せんとした司令官は処罰の対象となる。黒鷲」  山脇船長の瞳が光って、奥歯がギリリと鳴る。 「積荷のソヴリン金貨を奪おうとするのはやめたらしい。拿捕してもアドリア海の一番奥にあるトリエステまで、持って行くのが容易じゃない」  山脇船長は、だからと言って確実に撃沈なんか、されて堪るものかと呟いた。 「裏切り者のイタ公が、余計な金貨のことをUボートに知らせたのを誤報だと言って、処罰の対象だなんて脅すから、それがわざとらしくて、やはり本当だってバレてしまうんだ」  ドイツ人は頭の中が利口と馬鹿に半分ずつ分かれているのだと、悪口を言わせたら足立が八坂丸の乗組では大関だった。  山脇船長は、今までに受信した暗号電文が訳されて、船長室に届けられるのを、片端から目を通した。  草刈も船長室に来ていて、船長が見たのを全部読むと、大きな溜息を漏らす。 「イギリス海軍の推定より、どうも地中海にいるUボートは多そうですね」  これだけの電文に出て来るのでも……、と言って、電文の数字を指で突つきながら、算《かぞ》える。 「この電文に出て来るだけで六艇もいます。どうでしょう、トリエステを基地にして、地中海で活動しているのは、四十艇はいそうですね」  山脇船長は頷いて、沢山いそうだと呟く。 「どうやらその中の大部分は、八坂丸がイタリアとシシリー島の沿岸にそって走ったので、シシリー島から北アフリカにとりついて、同じ手を使うと読んで、今頃は浮上して全速力で地中海を横切って北アフリカ沿岸に向っている」  八坂丸が海底に葬ったUボートは一九号で、連絡が途絶えたのを不審には思っているが、まだ漂流物も発見されていないから、無線の故障だと思っているのだと、山脇船長が言った。 「アレキサンドリアに百浬《かいり》(約百八十五キロ)のところまで来たら、そこからは舳先の様子を見ながら回転を上げよう」  船長が言うと、草刈は復唱して嬉しそうに笑う。  トリエステのドイツ海軍司令室と、それに七一号という多分洋上にある連絡船から、Uボートの間で交わされている電信によれば、八坂丸はうまく相手の裏をかいたようだ。 「もう全部北アフリカに近づいていて、遅れてやって来るUボートなんて、いないでくれればいいんですが……」  浮上しているUボートに、本船が見つけられたら、そんな運の悪いことは堪えられない、と足立は言って口を押える。まずいことは、口にするとそうなることがある。困ったなと足立が慌てたので、山脇船長と草刈は声を揃えて笑った。 「局長、そんな時はお祓《はら》いをするんですよ。そうすれば大丈夫だと聞いてます」  草刈がそう言ったら、足立はどんなお祓いをするのだ、塩でもかけるのかと顔をしかめたのが、なんとも言えずおかしくて、船長と一等運転士は、また笑い出す。 「いや、ビールを呑めばお祓いになると聞きましたよ」  草刈はまことしやかに言う。 「他人ごとだと思ってからかうんじゃないよ、一等運転士《チオツサー》。俺達は一緒の船に乗ってるんだぜ」  足立が目をむいてそう言うと、草刈は頭をかき、船長は本当の話にしておこう、と笑って、伝声管でビールを頼んだ。  久し振りでラウンジに降りて来た山脇船長を、居合わせた乗客達が取り囲む。 「船長、凄かったわよ、あの体当たり。Uボートは驚いたでしょうね。気味のいいこと……」 「どうです、他の船の乗組達にも、Uボートのやっつけ方を教えてやったら……」 「貴方の技術は世界一だ。わしには分かる。海の中では一粒の黒胡麻のようなUボートだ。そいつに全速力で船首をぶつけるなんて、そんなことが出来るなんて貴方だけだ」  皆、口々に褒めそやすので、あれは実は当直の草刈一等運転士が、やってくれた仕事だと、喉まで出掛ったのを呑みこんで、山脇船長は曖昧な日本人の笑顔《ジヤパニーズ・スマイル》をした。  この世界大戦も、そう長く続きはしない。  何人乗っていたか知らないが、潜水艇第一九号を撃沈したのが草刈だと、世界中に伝わったら、いかに戦争だったとは言っても、恨みに思う家族やドイツ人はいるかもしれない。 「八坂丸は平気だったんですか……」  美しいケイト・マスタスンが、よく輝く髪と同じ濃茶の瞳で、船長を正面から見詰めた。本当のことしか聞きたくない、という気合いが漲《みなぎ》っている。 「舳先が凹んで、鉄板の破れ……というより裂けたところから、海水が入って来るのを、全速力に耐えるように、一時停船して修理しました。もう大丈夫です」  山脇船長もケイトを見詰めて答える。 「もうUボートはやっつけたから、大丈夫ですね船長」  誰かが陽気な声で言うと、ケイトはまた船長を見詰めて、 「一隻や二隻ではないでしょう。Uボートは……。この地中海には何十隻もいるのだと聞いているわ」  何隻ぐらいUボートはいると貴方は思っているのか、とケイトに訊かれて、山脇船長が、イギリス海軍は二十隻ほどと推定している、と答えたら、外人客の老婆が烏の鳴き声のような悲鳴をあげた。  驚いた船長が振り返ってみたら、皺と染点《しみ》ばかりのような老婆が、肘掛椅子に坐ったまま気を失っていて、イギリス人なのだろう、同国人の乗客が集まって、手首を掌で叩いたりしていたが、誰かがバーから酒の壜《ビン》を片手に持って、走って来る。  抱えて頭を起こすと老婆は、目をつむったまま薄茶色の液体をすすって、皺が縦横に入っている喉を一度上下させると、目をあけて周囲を黒目だけ左右に動かして見まわす。 「何よ、これはウィスキーじゃないの。あたしが気を失った時は、一番上等のコニャックを持って来るのよ」  うろたえた声でそう叫んだイギリス人の老婆を、若い男とふたりで抱きかかえたリゲット船長は、苦笑して船室に連れて行く。  後ろ姿を見ているうちに、あの老婆はリゲット船長夫人だったと、山脇船長は思い出していた。  Uボートとドイツ海軍司令室の間で、交わされている無電を傍受したところによると、どうやら本船がシシリー島までの間に採った航法から、敵は本船が北アフリカの岸に沿って走っていると思い込んでいる。  とりあえず今のところは敵の裏をかいて、本船は地中海の真ん中を、アレキサンドリアへの最短距離を選んで時速十四ノットで走っていると、山脇船長は自分を取り囲んでいる乗客に告げた。 「それじゃUボートは、皆この船が来るのを馬鹿みたいに、北アフリカの岸辺に隠れて、今か今かと待っているのね」 「海の中に潜って待ってるんだから、煙草は吸えないだろうし、窮屈だし、いい気味、まったく……」 「その上に、いくら待っても八坂丸は来ないんだから、いいザマだって言うのさ、ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》メ」  乗客達が久し振りで、大声で笑う。  それまでずっと笑うことを忘れていたので、山脇船長を取り囲んでいた乗客達は、笑うことの楽しさを思い出したように、息をついでいつまでも笑い続ける。 「しかし船長、どうしてあの一九号というUボートは、すぐ撃沈しないで拿捕しようとしたのだろう」  取り乱した夫人を船室に送って、ラウンジに戻って来ていたリゲット船長が、取り囲んでいた乗客達の間から、首を伸して山脇船長に訊いた。 「マルセイユを満船で出港した本船を、無事にアレキサンドリアへ着かせたのでは、沽券《こけん》にかかわると思っている筈だから、難しい生け捕りより、雷撃して撃沈しようとするのが普通だと思う」  拿捕しても、Uボートが基地にしているアドリア海の奥にあるトリエステまで、八坂丸を回航するのは、容易なことではないと、流石にリゲット船長は良く知っている。 「それなのにあのUボートは、なぜこの八坂丸を拿捕しようとしたのだろう。そんな生け捕りにしたいほどの大物も、見渡したところ失礼ながらいないようだし……」  それならば、八坂丸が何か貴重な積荷でも積んでいるので、それを狙ったのだろうかと、リゲット船長は完璧な推理をした。  これは訊かれても、山脇船長は答えるわけにはいかない。  困っていると誰かアメリカ訛の英語で、 「スパイさ、スパイが乗ってるんだこの船に……」  と、無邪気な声で叫んだ。  ヨーロッパが舞台のこの第一次世界大戦では、同じ白人同士の闘いということもあって、お互いにスパイが活躍して情報を伝えあった。  そのスパイが八坂丸に乗っているから、Uボートは撃沈せずに、拿捕しようとしたのだと、アメリカ人の若い男が言う。 「どっちのスパイが、何のために本船に乗っていて、Uボートはなぜそいつを洋上で捕まえるんだ」  フランス人のクレイは、語尾のRがまるまったように発音される独特の訛で、無邪気な声でスパイ説を唱えた男に訊いた。  訊かれたアメリカ人の若い男が、辻褄の合うことを言おうと、真ッ赤な顔になって考え込んでしまったのが可愛い。 「こちら側のスパイに決まっているわよ、クレイさん。その、こちら側で一番優秀な軍事探偵《ス パ イ》で、これまでにも、ドイツの飛行機や飛行船、それに毒ガスや魚雷の秘密まで、全部調べ尽くした男がこの八坂丸で中近東に行って、ドイツのスパイ組織を粉砕するのよ」  そうされては堪らないから、ドイツ側は必死に守ろうとしているのだと、ケイトが笑いながら言う。  貴女は美しくてチャーミングだけど、探偵小説の書き手としては、女としての魅力ほどは優れてはいないようだと、フランス人のクレイが大真面目な顔で言った。  それがおかしくて、山脇船長を取り囲んでいた乗客達は、声をたてて笑う。 「そんな凄いスパイなら、乗っている船ごと沈めてしまえばいいでしょう」  クレイが言うと、リゲット船長も深く頷いた。 「貴方が、その凄いスパイだと、わたしは思っているのよ、クレイさん。いきなり海の底に沈められてしまっても、よろしいんですか……」  ドイツは、そんな偉大な軍事探偵は捕まえて、自分達の養成所の先生にするつもりなのだと、ケイトが言ったら、クレイは喜んで、額に手を当てるアラビア風の感謝の仕草をして見せる。  ラウンジに現れた無線局長の足立は、乗客に取り囲まれていた山脇船長を見付けると、にこやかに微笑みながら、ラウンジの外に連れ出した。 「船長、Uボートの僚艇が、一九号の沈没を確認しました」  浮遊物と海面に拡がった重油を、見つけたのだと言う。  北アフリカの沿岸へ浮上して急行していたUボート一六号が、洋上に漂っていた重油と、その中に浮かんでいた浮遊物を発見したらしい。  もう今となっては、そんなことが相手側に、知れても知られなくても、どうということはないのだが、Uボート一九号が何らかの手段で、八坂丸に沈められた疑いも出ていると、足立は船長室で電文を見せた。 「オクト、旋回して……」  とだけで、途中で切れてしまっていて、場所も日時も、それに発信者も入っていない電報を受信していたというUボートが数隻いて、それぞれの疑問を、司令室に打電している。 「オクトは旋回して逃げ出したのと同時に、一九号の無線がそこで切れるような、何か攻撃を行って沈没させたものと思われる」 「軍事探偵の報告では、オクトには武装はない。どうすれば無線を送信中の一九号を撃沈出来るのか……」 「浮遊物より一九号の沈没を確認、事態を総合して、一九号は、オクトを発見して送信中に、オクトもしくは居合わせた敵艦の攻撃を受けたものと思われる。黒鷲」  これが敵の結論らしいな……と、山脇船長は、そのドイツ海軍司令室の電報を見詰めていた。  他の海運先進国は乗客の取り扱いを止めているのに、十万ポンドのソヴリン金貨を積んだ上に満員の乗客を乗せて地中海を横断しようとしている八坂丸は、Uボートを刺激している。  Uボートの艇長達は、意地でも八坂丸を自分の魚形水雷で、地中海の底に葬ろうとしていた。  それに加えて、僚艇の一九号が、この八坂丸作戦の途中で、逆に返り討ちされたとなれば、エキサイトしているのに輪をかける。  一九号をやっつけたことが分かってしまうのは、望ましいことではなかった。 「それに船長、こんなのもあります」  足立は厚い電文の束の下の方から、一枚選り出すと船長に見せる。 「第一六号より黒鷲へ……。  一九号と確認した浮遊物のあった海面で、東より北西に向かうイタリア漁船を捕え、尋問したところ、オクトとおぼしきものが、この海域をほぼ目的港に向かう最短距離の方角に向かって、航行中との目撃者あり。イタリア漁民なるも信憑力A……」  浮上して浮遊物を調べていたUボート一六号は、イタリアの漁船を捕まえて、本船のコースを知ってしまったらしい。  夜間はギリギリまで灯火を絞っている八坂丸だが、船首に描いてある船名の漢字が随分遠くからでも見えるから、誰が見ても日本船だと分かる。  まだイギリス海軍司令部のこの報告に対する反応はなかったが、間もなくある筈だった。  八坂丸が、襲ってきたUボート一九号を返り討ちにして、北アフリカの沿岸ではなしに、地中海の真ん中を走っていると、ドイツ海軍に知られてしまったことは、間もなく本船の中に知れ渡った。  乗客は特別貴重品船倉《シ ル ク ・ ル ー ム》にある十万ポンドのソヴリン金貨のことは、何も知らないのだが、それでもUボートの八坂丸追及が一層厳しくなると、誰にでも想像がつく。  アレキサンドリアへ百浬《かいり》(約百八十五キロ)のところまで来たら、今までの無線封鎖を解いて、イギリス海軍へ迎えの軍艦を要請しようと考えていると、山脇船長は乗客に話した。 「あとどのくらいで、アレキサンドリアですか、船長」  訊いた外人乗客の婦人に、 「もう少しですマダム。もう少しでアレキサンドリアですよ」  山脇船長は何度も同じことを答える。  その頃、当直明けの草刈一等運転士の船室のドアが遠慮がちにノックされた。 「どなたかな、どうぞ……」  急いで襟のあるシャツを着て、草刈がそう返事をすると、ドアが開いて操舵手の竹内が顔を見せる。 「なんだ竹さんか、改まって何ですか、もう二時間で一緒に当直でしょう」  草刈は、ちょっと会釈して入って来た年長の竹内にそう言う。 「いえね、私用なんで、船橋《ブリツジ》じゃちょっと……」  竹内は右手に持っていた封書を、そっと差し出した。 「なんですか竹さん、これは……」  草刈は受け取らされた封書を、そう言いながら見て、表に角張った字で遺書と書いてあったので、いぶかしそうな顔になる。 「いえね。本船が万一の時に、もし自分がくたばっても、誰が一番生き残るだろうって、それを考えたら、一等運転士《チオツサー》だったので、頼まれてもらうことにしました」  誰にもこのことは内緒にして欲しいと、そう言って、日本郵船会社で一番だからおそらく世界でも何本かの指に入るこの舵取りは、顔をドス黒くした。陽に焼けたなめし皮のような顔だから、普通の人のように、パッと赤くなったりはしない。 「僕がそんな場面で一番しぶといなんて、眼鏡《めがね》違いでしょう」  草刈は笑い出してしまった。  船乗りとしては、華奢で小造りな草刈だ。  八坂丸の乗組には、他に強くてしぶとそうなのが、いくらでもいる。 「あの釜焚きの熊五郎なんて、何十日漂流してもケロリとしているだろうし、魚形水雷に馬乗りになってどこまでも行きそうに見えるよ」  草刈はそう言って笑った。 「いやそれがそういうものでもありません。誰が一番……その運気が強いかと、乗組をひとりずつ観察したのですが、一等運転士《チオツサー》、貴方が一番です。貴方が神戸へ帰れなければ、誰も帰れない」  どうかこの遺書を預って欲しいと、竹内は真剣な顔で頼んだ。 「本当に自分でいいんですか。本船に万一のことがあったら、とても助かろうなんて、思ってもいないんですよ」  草刈が苦笑して言うと、竹内は、そんなことになれば、生き永らえようとしてバタバタしても、どうにもなるものでもなくて、運気の強さが全てだと言う。 「自分はそんなに運気が強いと、竹内さんには見えましたかねえ……」  草刈が笑って、子供の頃からあまり運はよくなかったと言うと、竹内は、そんな縁日のクジ引きや試験の時にかけた山が当たるのと、こんな修羅場で生き残るのとでは同じ運でも運が違うと言った。 「もしかすると、小さな場面で運がいい男は、それで運を小出しにしてしまっているのでしょう。普段詰まらない時に運が悪い一等運転士《チオツサー》のような人が、大きな修羅場で断然なんですよ。きっと……」  竹内は用意して来た油紙で、遺書を丁寧に包むと、また草刈に渡した。 「分かりました竹内さん。こうして大事に肌身離さずお預りしますが、もし期待に反したら許して下さい」  それに自分はそんな場面にこそ、身を捨てて働きたいと思っているのだと、草刈は言った。  山脇船長のおっしゃることを守って、万一Uボートに雷撃されたら、他の海運先進国の客船がしたように、乗客を残して乗組が逃げたりせず、自分の命を賭けて乗客を助けるつもりでいると草刈は言ったのだが、そう言っているうちに気がついたことがある。  竹内も命を捨てていた。 「本船の乗組は、もう皆私と同じで、腹をくくっています。失礼ですが草刈さんもそれは一緒なのですが、その中でも私の見た目では運気の強さが一番なんですよ」  竹内は自分を見詰めながら、油紙で包んだ封書を白い毛糸の腹巻に納い込んだ草刈に、これは易者以上の直観だと言った。 「田舎に、弟夫婦と一緒にいるおふくろがいます。自分に万一のことがあった時おふくろにしてあげることを女房の奴に書き残したのです」  女房というものは、まず亭主で、子供が出来ればそれが全てだから、亭主のおふくろにまではなかなか考えがまわらないだろうと、竹内は言って苦笑する。 「そうだから人類がこれまで滅びずに、生き延びて来られたのかも知れない……」  草刈もそう言って、苦笑したのだった。  女房の狭いけれど深い愛の有難さは、たしかに一等運転士の言うとおりだ。  母のそんな一方的な愛がなければ、人間に限らずイルカでもクジラでも、もうとっくに絶滅していたと竹内も思う。  だから客船の船乗りは、男でなければ出来ない。  女の母性が持つ狭くて深い愛では、百二十人の乗客の命は救えないと、竹内が言ったら、草刈も、 「百二十人全部が自分の息子だったら、母親はUボートに噛みつくかもしれませんよ」  と言って、白い巨きな歯を見せて笑った。  舷窓から見える藍色の地中海は、水平線で抜けるような青い空と、一緒になっていたのだが、長く洋上に白く残った八坂丸の航跡の上に、白い毛玉のような雲が浮かんでいる。 「広いといっても地中海は内海だな。ご覧、かもめの他にも何か鳥が翔《と》んでいる」  同じ船室にいた若い玉城勇民に、柔道師範の小泉誠太は円い窓の外を指差して、そう叫んだ。  唐手遣いの玉城は、沖縄の石垣島の出身だから、似たような景色は見慣れているのだが、マルセイユから同じ船室に乗り合わせた小泉と、とても気が合う、というより年長者として尊敬していたので、黙って窓に近寄って外を見た。 「甲板に出てビールでも呑みませんか、小泉さん」  濃い眉毛の端を震わせて、アメリカ大陸を発見した時のコロンブスのように、上気して玉城が叫んだら小泉も、同じような松毛虫のはっているような、濃くて太い眉をビクビクさせる。 「ビールとな、ビールを呑みながら地中海を渡るか……」  小泉はロンドン郊外のパブで、ポーターと呼ばれる黒ビールを、その店の、小ぶりだがずんぐりしたジョッキに、次々と二十杯呑んでから、試合を挑んで来た二百ポンド以上もある地回りと対して、一本背負いで投げ飛ばしたという。  ロンドンのヴィクトリア駅の近くに柔道場を作って、師範代を招きに日本に帰るところだ。 「おい玉城君。Uボートの奴は、どうも仲間をこの八坂丸にやられたらしいと、もう覚《さと》った頃だろうな」 「どうでしょう。いくら自分の仲間のUボートが沈没したからといって、商船の八坂丸にやっつけられたと思うでしょうか……」  玉城は陽やけの染みた顔で、ボーイの運んで来た巨きなビヤ・タンブラーに入ったビールを受け取ると、小泉に目礼してから一気に半分ほどグッと呑んで、込みあげて来たガスを押さえて、顎を引きながらそう言った。 「ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》は、日本人は魔術を使うと思っている。貴公のせいだ」  小泉は言って、カラカラと笑った。髭にビールの泡がついている。 「あ、そんな話がお耳に入っていますか……この数年ヨーロッパ諸国をまわって武者修行をしましたが、素手の闘いでは怖れる相手には出喰わしませんでした」  玉城勇民は笑って、ボクシングの技で、利き腕を真っ直ぐ伸して撃ち込んで来るのと、それに接近して下から突きあげて来るのが、油断すると危ないくらいのものだと言う。  それにしても時々、ボクシングの遣い手の中には異常に打たれ強い男がいて、正拳を急所にめり込ませても、耐えるのには驚いたと話すのに、柔道師範の小泉誠太も覚えがあるようで、何度も深く頷いた。 「左舷十一時の方角に鯨です」  見張りが見つけた瞬間、Uボートかと肝を冷やした鯨を、事務長の河田と書記《クラーク》の吉川は、英語とフランス語で乗客にふれてまわる。  甲板に出た乗客達は、陽が波に照り返すのに目を細めて海面を見詰めると、藍色のうねりの中に黒い鯨の背を見付けた。 「一匹じゃない、二匹いるぞ」  誰かが叫んだ途端に、二頭の鯨が揃って白い潮を吹きあげる。 「凄い……」  パチパチと手を叩いた乗客がいて、甲板には久し振りで笑い声が湧きあがった。  小泉と玉城も坐っていたデッキ・チェアから立って、舷側の手摺に身体をもたせている。 「巨きさから見て、親子ではなくて夫婦だな……」  小泉が言った途端に、八坂丸の真横百メートルほどのところで、海面が盛りあがると二頭の鯨がほとんど尻鰭《しりびれ》が見えるほど、垂直に白い腹を合わせて直立した。 「オオッ」  乗客達は、陽を浴びて海面にそそり立った二頭の鯨を見て驚いた。 「あれは鯨がサカっているんだ」  マルコが大声で叫ぶ。  二頭の鯨は、すぐ身体を合わせたまま、八坂丸の逆側に倒れた。  藍色の海から白い飛沫《しぶき》があがるのが不思議だと、小泉の隣にいたフランス女が呟く。 「本当かい……」  アメリカ人の若い男がマルコに向かって喚くと、振り向いたイタリア男の鼻先にイギリス人のマカラが立っていて、御婦人方の前で口を慎め……と脅した。  船橋から甲板の様子を見ていた山脇船長は、八坂丸の乗組達が、命じられた方角から目を離さずに、見張りを続けているのに満足すると、当直だった二等運転士に、乗客を出来るだけ日中は甲板に出しておくのは、大変いい判断だと褒める。  藍色の地中海にいるのは、鯨の夫婦だけではなかったからだ。  八坂丸は時速十四ノットで、アレキサンドリアに向かっている。 「我輩も北海道の原住民が母親だから分かるのだが、玉城君もそれで海外に出たのだろう。なぜ日本に帰る」  小泉誠太はこの時初めて、自分の出自を口にして玉城勇民に訊いた。 「だから唐手を始めたということもあるのですよ。小泉さん。私は少年の頃から本土の人達が理由なく差別するのに、本当に口惜しく腹が立ったのです」 「皆、そんな人達をやっつけようと思ったのか……」 「いえ、そうでもなかったようです。幼い頃のことですからはっきりは覚えていません。疎外されたことを口惜しく思って、腹を立てたのですが、本土の人達に復讐しようという気持ちはなかったようです」  なんとか世に出ようと思ったら、手近には唐手しかなかったと、玉城勇民は笑った。 「ですからね、小泉さん。こうして何年も海外で過ごすと、石垣島には“帰る……”ですけど、日本には、ドイツやフランスと少しも変わらずに“行く……”なんですよ」  自分にとって、日本は外国と同じだと言い切る玉城を、いたいたしく思った小泉は、ボーイを呼んでビールをもう二杯言いつけた。 「失礼だが、このビールは私が差しあげるのを、お許し願いたい。おいボーイ君、三杯だよ」  フランス人のクレイがやって来ると、そうボーイに言いつけながら、小泉と玉城に、いいか……というように目で話す。  パリから馬車で十時間ほどの河沿いに、お城を持っているという初老のクレイは、日本で言ったら、お大名だろう。  それが小泉や玉城もふくめて、誰にでも対等な物言いをするのだ。  変わった気さくな殿様だと思っていたら、ヨーロッパでもこんな人は珍しいらしい。  イギリスの缶詰屋なんかは、眉をひそめて「爵位のある人なんだから、もう少し権威を持ってくれないと……」なんて言っている。 「喜んで御馳走になります。けど殿様、次の一杯は若い私が、ふたりの人生の先輩に差しあげる無礼を、お許し願いたい」  玉城がそう言うと、クレイは目を見張って頷き、小泉誠太は髭をこすった。 「貴君はドイツ皇帝《カイゼル》の前で、四人の男に厚い板や瓦を持たせて取り囲ませておいて、アッという間に拳骨と爪先で割ってしまったと聞いているよ」  クレイが子供のように、緑色の瞳を輝かせて言うと、そんなことがお耳に入っているのは恥ずかしいと答えて、玉城は浅黒い顔を紅くする。 「唐手はUボートには通じません」  玉城が言うと、クレイは闘う魂が通じるのだと呟いた。 「貴君はドイツ皇帝を驚かせ、ムッシュ小泉はイギリスの将軍を仰天させたのだから。しかし日本の武術は、素晴らしくて玄妙ですな」  クレイが言うと、玉城ははにかんだが、小泉は遠く水平線を見詰めて、目を細める。 「拳銃や機関銃の発達で、私の柔道も玉城君の唐手も、武術としては以前のような存在ではなくなりました」  これからは精神教育よりもスポーツ性に段々重点が移って行くだろうが、それが文明とは言っても、専門家としては、いささか淋しいと小泉誠太は言った。  クレイは頷きながら玉城に向かって、フランスはどうだった、どんな印象を持ったかと訊く。 「他の国と明らかに違うところは、フランス語でないとコーヒー一杯呑めないことですね。英語やスペイン語は知ってても話してくれません」  玉城はそんなことも、決して不快には思っていないようで、楽しそうに声をたてて笑った。 「きっと自分達の言葉に深い誇りを持っているからだと思うと、多少不便ではあっても不愉快ではありません。むしろ私にもそんなところがあるので、我が意を得たり……というところがあります」  それに例の、周囲を板や瓦を持った男達に取り囲ませておいたのを、舞うように拳や肘で打ち、足の裏の指の付け根で蹴って割る演武では、他の国と同じ盛んな拍手を受けたから、お世辞ではなくフランスには好意を持っていると、玉城は言う。 「私は四年に一度は必ず仏領インドシナに行くのだが、近くのシャムにはムエタイという唐手と似た技がありますよ」  クレイが言うと玉城は頷いて、あれはなかなか蹴り技と肘打ちが鋭いと答えたが、その時、見張りが叫んだのを聞くと、話を途中でやめて息を呑んだ。 「右舷船尾四時の方角に潜望鏡ッ。二百メートルッ」  小泉誠太はデッキ・チェアから跳ね起きると、反対側の甲板に走って行った。 「見張りは何と叫んだのですか、ムッシュ玉城」  クレイが訊くと、一緒に甲板の反対側に走りながら玉城が、右舷の船尾に潜望鏡が見えたと言ったのだと教える。  クレイと玉城が反対側の右舷に急ぐ間に、八坂丸はグンと加速した。  船尾の居住区から船匠の加藤が、道具箱を担いで一所懸命船首に走る。  Uボート一九号の司令塔にぶつけた船首の傷が、全速力でも持つかどうかは、走ってみなければ答えは出ない。  自信はあったが、もし修理したところが破れたら、全速力どころか停船しなければならなくなる。これは最悪の事態だった。  その時、当直で船橋にいたのは、三等運転士の大河原だった。  船橋には山脇船長もいたのだが、原則として全ての判断は当直士官がする。  この瞬間、八坂丸と総員二百八十二人の命は、あと半年で三十歳という若い大河原に委《ゆだ》ねられていた。 「前進全速」 「船匠と要員は船首に……」 「船尾の見張りは、潜望鏡の動きと位置に変化あれば、逐一船橋に伝達せよ」  大河原は次々と適切な号令をだす。  八坂丸は追い風を受けていたし潮の流れも良かったから、プロペラ・シャフトの回転を一杯にあげて、全速力を出して船首の裂けたところがもてば、逃げ切れると大河原は判断した。  八坂丸はたちまち、グイグイと加速する。  あの位置からでは、Uボートは魚形水雷は放てまい。  他に軍艦の護衛がないことを確認したら、浮上して五インチ砲を撃つのに違いないと大河原は思った。  波やうねりで揺れるUボートから、はるか彼方の、海の上ではほんの胡麻《ごま》粒ほどでしかない八坂丸に砲弾を命中させようとしても、そんな不運な確率なんて数字にもなりかねるほどのことだ。  八坂丸だって止まって浮かんでいるわけではない。  必死の全速力で走っているのだから、そんな砲弾なんて当たって堪るものか……と大河原は思った。 「Uボートの司令塔が僅かに海面に出ました。浮上します」  船尾の見張りに続いて、船首から、修理した部分は今のところ大丈夫だと言って来る。 「大河原、コースはまかせておけ、キミはUボートに集中しろ」  山脇船長が双眼鏡を覗いたままそう言うと、大河原は落ち着いた声で礼を言う。  若い士官が、Uボートが砲撃するために浮上して来るこんな場面で、落ち着き払っているのが船長には嬉しかった。 「コース前方、正午の方角、百五十メートルに浮遊物。流木のように見えます」  船首の見張りからの伝達が、風に乗って船橋に届く。  近づいて来る浮遊物を、山脇船長はジッと見詰めている。  このままのコースで行っても、ギリギリで浮遊物は右舷側に外れそうだが、海面に見えている黒い流木の他に、何か海面下にひそんでいることはないかと、船長は懸命に見詰めていたのだ。  緊迫した状態に気がつかないのか、悠々とカモメが一羽、白くふくらんだ腹を見せながら、船橋をかすめて船尾に向かって飛んで行く。  本船の進行方向は山脇船長に見てもらって、当直の大河原三等運転士は、船橋から船尾の向こうに浮上して来るUボートを、双眼鏡で見詰めていた。  Uボートの積んでいる大砲の射程距離が、どれほどあるかは知らなかったが、大河原はとにかく針路《コース》は真っ直ぐアレキサンドリアに向けたまま、逃げ切ると決めたのだ。 「右舷側の乗客を左舷側に移せ。乗組も見張り以外は、出来る限り左舷側に寄せろ」  大河原の号令が八坂丸の船内に響き渡る。  海から湧きあがったように、八坂丸を追いながらUボートは見る見る浮上して、司令塔の先が海面に出ると、待ちかねたように水兵が跳び出して来た。  そしてまだ海水が流れている甲板を、大砲まで急ぐと、発射準備にかかる。  草刈がやっつけたUボート第一九号より、余程今回の奴の方が、全てにスピードがあった。  海面に浮上するのも早かったし、水兵が司令塔から跳び出して、大砲にとりつくのも早かったから、Uボートが完全に水平になるのと同時に、大砲の筒先から白い煙があがる。  煙が見えるとすぐ続けて、 「ズドーンッ」  と、砲声が聞こえた。 「船長、無線を解除してよろしいですか……」  初めて大河原が針路《コース》の前方を睨み続けていた山脇船長に、そう叫んだ。 「止むをえんだろう。もう二百浬《かいり》たらずでアレキサンドリアだ」 「局長ッ、宛先イギリス海軍司令室、アレキサンドリア……」  大河原が伝声管に向かって叫び始めた時に、 「バッズーン」  砲弾が海で炸裂したと、聞いた誰もが分かる物凄い音がした。 「現在位置××××、エイトは浮上せるUボートの砲撃を受けつつあり。乗客百二十名」  返信は最優先で報告が欲しいと言って、大河原は伝声管に蓋をする。  全速力でどのくらい船首の修理した部分が、もってくれるかが勝負だった。  Uボートとの差を充分開いたら、回転を落として、そこにかける水圧を少しでも軽くしたい。 「どうだ船匠《カーペンター》……」  Uボート第一九号に船首をぶつけて沈めた時に、八坂丸も外板に亀裂を生じたのだが、船匠の加藤が全速力でも暫くは大丈夫なぐらいの応急修理をした。  大河原がどうだ……と、伝声管で訊いたのはその修理個所の具合だった。 「更に補強しました。今のところは僅かな浸水しかありませんが、縦揺れ《ピツチング》の圧力によっては、いつ吹っ飛んでも不思議はありません」  船首からそう返事が戻っても、だからといって速力を加減するわけには行かない。  たとえ舳先が破れようと、それは八坂神社に祈るだけで、Uボートの五インチ砲の射程距離から脱するまでは、何が何でも全速力で突っ走るだけだ。  八坂丸の舳先は速力があがると弾みがついて上に昇り、藍色の波のうねりを上から叩きつけ、押し潰す。  その度に、バシッ、ズンッと音と振動が船尾にまで響き渡る。  舳先の裂け目を知っている乗組は、その度に首をすくめた。  舳先がうねりに叩きつけられる強さは、いつでも同じではない。  弱いうねりの時も、次に強いのが来るのではないかと、三等運転士の大河原は、船橋で血の気の失せた顔で、双眼鏡を握りしめていた。  Uボートの撃った砲弾は、二発目、三発目と次第に八坂丸の船尾の後ろに遠ざかる。  浮上したUボートも、全速力で追っていたが、八坂丸との間隔はどんどん開いて行く。 「ようし回転数を七十回転に落とせ。舳先の様子を報告せよ」 「無線局長、Uボートよりの発信を最優先に翻訳して、船橋に届けろ」 「乗客はもう暫く現在のまま。掌握に困難な時はすぐ報告せよ」  大河原は次々に命令を下す。  プロペラ・シャフトの回転を落として、速度を下げた八坂丸だが、それでも十五ノットは出ていたので、Uボートとの間は僅かずつ開いて行く。  追走しているUボートは、次第に小さくなって、すぐに肉眼ではうねりの間で見付け難くなる。  もう五インチ砲は撃って来ない。 「回転を六十五回転に……。乗客を自由に……」 「助かったらしいぜ……」  船底の釜場で、熊五郎が額から汗の玉を飛ばしながら、仲間の八十八《やそはち》に叫んだ。 「あ、また速力が落ちた。もうすぐアレキサンドリアだぞ」  調理場では、真ん中に立った白いコック服に高いコック帽の生田磯吉が、雄鶏のときの声のように叫んでいた。 「あと百六十六浬《かいり》でアレキサンドリアだ。十時間ほどで安全圏だぞ」  山脇船長は海図室から、今では船尾のUボートから針路前方に、双眼鏡の方向を変えた大河原にそう怒鳴った。 「そうですか……」  八坂丸はエジプトのマトルーフの沖合を、東南東に船首を向けて、十四ノットの巡航速度で走り続けている。  船尾の水平線に向かって、濃いオレンジ色の太陽が傾き始めた。  夕飯を喰べれば、夜中にはアレキサンドリアに着く。  同じテーブルのトンプソン夫妻が、イギリス風の極く薄く切ったロースト・ビーフを頼むと、アメリカ青年のロジャー・ケインは、陽気な声を張りあげた。 「シェフ、僕は一インチもある厚い奴を頼むよ」  生田磯吉は微笑んで頷くと、ワゴンの上に載せてあるロースト・ビーフの固まりを、まず紙のように薄く切って、それを二枚ずつ皿につける。 「ケイン様のは、厚くなければなりませんから、調理場で作って参ります。ほんの少しの間お待ち下さい」  トンプソン夫妻のロースト・ビーフを切り了えると、生田磯吉はそう言って、ワゴンを押して去った。 「しかしあのシェフは、実に見事な切り方をする。イギリスでもなかなかこれほどの腕の料理人は珍しい」  デイヴィスは目を細めて言う。 「悪いことは言いませんから、一度厚切りのプライム・リブを召しあがってみませんか。美味いですよ。噛むと口一杯に牛肉の美味さが広がります」  若いロジャーはアメリカ青年特有の無邪気な声で勧めたのだが、中年のイギリス人夫婦は、ちょっと口元をほころばせただけで、黙って薄く切ったロースト・ビーフを喰べ続けた。 「もう十時間たらずでアレキサンドリアです。御朝食は陸のホテルで召しあがることになります」  事務長の河田が、一等船客食堂のテーブルをまわって、そう言うと皆嬉しそうな声を出す。 「今晩は寝ない。寝るものか。パーサー、バーはずっと開けておいてくれるのだろうね」  誰かが大声でそう言うと、皆どっと笑った。 「開けておきますとも、順調に行けば十時間ほどでアレキサンドリアです」  河田が言うと、誰かがおどけた声で、「バンザーイ」と叫んだ。 「パーサー、貴君も私達と入港までバーで一緒に飲まないか……」  誰かが言うと、「そうだ、そうだ」と皆口々に叫んだので、河田は両手を拡げてそれを制した。 「まだ喜ぶのは早いです。バーでお飲みになる時も、貴重品のバッグと救命胴衣は必ずお持ち下さい」  アレキサンドリアのバーで、皆様がもうやめたら……とおっしゃるまで飲みますからと河田が言うと、一等船客食堂には久し振りで爆笑が沸いた。  久し振りではなくて、マルセイユを出港以来、乗客がこんな笑い方をしたのは、初めてだったと河田は思った。 「アレキサンドリアへ着いたら、僕はサン・フランシスコにいる母と婚約者に、ピラミッドやスフィンクスの絵葉書を出す」  そして八坂丸とその乗組達の、信じられないほどの勇敢さと、それにホスピタリティーを書くと言ったのは、アメリカ訛の青年だった。 「僕はアメリカで偉大な男達を見た。ヨーロッパで自由を守って闘う男達を知った。そしてこの八坂丸に乗って、肝ッ玉の据わった日本人達に守られている」  アメリカの青年が立ちあがってそう言うと、一等船客食堂で夕食を摂《と》っていた乗客達から、拍手が起こって鳴りやまない。  こんなことは初めてだと河田は思った。  さああと十数時間、この乗客達を全員無事に向こう岸のアラビアまで届けることが出来る。  今日は夕食の後、ラウンジで映画をやる。  アラビアからシンガポールを経て日本までの、要所要所を映す実写だから、乗客のほとんどが見に来る筈だ。  芸者も映る……と、男の乗客には既に囁《ささや》いてある。  まだ明るいからもう少し遅くなってからにしようと思っていたら、食後のデザートを食べていた乗客が、すぐ見たいと言い出したので、ラウンジに暗幕を張るように、河田はボーイに言いつけた。  乗客にはいつでも救命胴衣と貴重品を入れた袋を、持って歩かせている。  映画会でも何でも、一ヵ所に乗客を集めておけば、万一の時でも掌握し易い。  もう十数時間で勝負がつく。  浮上して八坂丸を砲撃したのは、Uボート第〇八号で、取り逃しはしたものの無電は何本も打っていた。 「オクトは時速十八ノット強で、針路を東南東に向けて逃走中、〇八号」 「オクトは本艇の射程を脱して、最短距離を採ってアレキサンドリアに向かう。途中で捕捉出来る僚艇はいないか……」 「オクトは緊急事態では巡航速度より五ノット程度、増速すると承知されたい」  Uボート第〇八号は、八坂丸を追尾しながら、僚艇に向かってこんな無線を発信し続けていると、無線局長の足立は電文を持って船橋に来て、説明する。 「これが第〇二号の発信です」  足立は山脇船長に、これが一番重要だと電文を指で突ついた。 「アレキサンドリア港周辺は、防潜網・機雷、それに駆潜艇の警戒が厳重で、オクトを捕捉するにも待ち伏せが困難。本艇は針路の途中で捕捉出来るよう急行中。〇二号」 「こん畜生、この辺りにウロウロしている奴が一隻いる」と、山脇船長は珍しく口汚い言葉を口走った。 「いやあ、あと半日が勝負って場面なら、自分は釜んところに詰めてますよ」  熊五郎が当直の一等機関士にそう言うと、八十八《やそはち》も、「自分もです……」と短く言う。  熊五郎はマルセイユの女と惚れ合っている同僚を心配して目をむいたのだが、八十八の短い言葉には、有無を言わさない迫力があったので何も言わなかった。  魚形水雷を喰らうと、船底で働いている機関員は、他の部署の乗組に比べて死亡率が高い。  熊五郎は、シマッタ、八十八が居ないところで、言うのだったと思ったが、もう遅かった。  蒸気圧を最高に保つのには、釜焚きの腕が良くなければならない。  カロリーの高いカーディフ炭を、平底のスコップで、釜の奥まで均等にバラ撒く。  こうして蒸気圧を最高にしておかないと、雷撃された時にすぐプロペラ・シャフトの回転を、マキシマムまで上げられない。  腕っこきの熊五郎と八十八が、アレキサンドリアに着くまで、当直時間ではなくても釜前に詰めると、そう申し出たのは、一等機関士にしてみればこんな有難いことはない。  ふたりがそう決めて釜を焚き続けているのを見て、他の自他ともに許す腕っこき達も同じことを当直士官に申し出たので、間もなくどの釜の前にも、ベテランがスコップを振るい続ける姿が見られることになった。  釜焚きオールスターの大競演だ。 「余計なことを言っちまって、皆に迷惑をかけたな」  熊五郎と八十八が仲間に詫びを言うと、言われた釜焚き連中は、大騒音の中で笑って白い歯を見せる。  こうして歳のいったベテラン達が勤務に就くと、若い機関員が比較的安全な船首の居住区に、居られるということもあった。  石炭庫から石炭を一杯車に積んで、釜場まで運んで来るコロッパス達も、長くやっている連中ばかり揃っていたから、暗い石炭庫の中で上質な石炭だけを選んで持って来る。  八坂丸の機関室は、まるでレースでもやっているような雰囲気だった。  伝声管から山脇船長の野太い声が聞こえて来る。 「アレキサンドリアまで百浬《かいり》のポイントを通過した。イギリス海軍の司令室には、護衛艦の要請を打電している。もう七時間ほどで入港だ。機関部員の一層の働きを期待している」  聞いた見習士官が、機関室をまわって船長の言葉を伝えた。  調理場から若い料理人達が夕食を運んで来た。  機関長も、機関室の中央で仁王立ちになっている。  ロンドンを出港する時に、イギリス海軍の連絡将校から、どんな場合でも航行出来る状態であれば、護衛艦は期待しないで欲しいと、山脇船長は念を押されていた。  期待はしなかったが、アレキサンドリアまで百浬のところまで来て、山脇船長はイギリス海軍の司令室に、護衛艦の派遣を要請したのだが返電はまだ来ない。  針路の右舷前方に陸地が見えて来た。  最初は水平線に煙った薄紫色に見えていたアフリカは、段々近づくに従って色が濃くなって行く。  乗客の食堂で配膳係《パントリー》をしている見習の竹下も、飯時が終わると調理場に戻って来て下ごしらえを手伝う。  明日の朝食は乗組だけで、乗客はアレキサンドリアのホテルで喰べるから、竹下の配属されている外人乗客用の調理場では、準備することは何もなかった。  竹下は夕食に使った皿を洗い、ソースパンやフライパンを磨いて、調理台の汚れを落とすと、床を束子《たわし》でこすり排水溝の掃除をする。 「やれやれ、もうアレキサンドリアまで、泳いでも行けるほど近寄ったぞ」  日本の港に八坂丸が着いたら、暫く八坂丸を降りて修業をし直すように、師匠の生田磯吉から命じられた山崎が、竹下に近づいてそう言った。 「ええ、調理場に戻る前に甲板から見たら、アフリカの海岸が見えました」  それでも随分遠く見えたし……と言って、まだ数え歳で十五歳の竹下は、なぜか顔を赤くしてしまう。 「分かったッ、竹下、お前さん泳げないな」  山崎が嬉しそうに叫ぶと、竹下は首すじまで真っ赤にした。  どうやら図星だったらしい。 「それだ山崎、その察しをつける力を、料理にも発揮することを考えるんだ」  調理場の隅から生田磯吉の声がしたので、コック達は朗らかな笑い声をたてる。 「竹下よ、もうここの掃除は充分だから、乗客食堂の仕事場を念入りにやって来い」  山崎がそう言って、生田磯吉にいいですかと訊く。 「そうしろ、配膳係の仕事場だけではなく、ウェイター連中のやっていることを手伝って来い。それも仕事の急所なのだ」  生田磯吉がそう言うと、若い竹下は、「ハイ」と弾んだ声で返事をして、調理場の隅にあるタラップを駆けあがって行った。  生田磯吉と山崎は、顔を合すと微笑んだ。  まだ幼い竹下を、少しでも安全な場所に居させてやりたいと、一緒に仕事をしていた者は、誰でもそう思っていた。いくら戦争でも、あんな若い者の命を失わせるわけにはいかない。  灯火管制さえ確実に励行していれば、かなりな月明かりでも日没後に雷撃されることは、日中に比べて断然少なかった。  衝突を避けるための最小限の灯火では、いかに夜目の利くUボートの見張りでも、本船の針路や速力までは読みとれない。  あと一時間十五分で日没だ。  日が暮れてさえしまえば、雲も厚くなって来たので、今夜は闇夜だろうから、朝までにはアレキサンドリアに逃げ込める。 「フランス海軍海防艦《フリゲート》ラボリュー号が、二時間後に出港して出迎える。エイトは針路を維持し、ラボリュー号よりの送信には、その都度位置を通報のこと……」  イギリス海軍司令室からの電文を見て、草刈は舌打ちした。 「なんで出港するのに二時間もかかるんだ。こんなことでよく戦争が出来るもんだ。日本海軍やイギリス海軍なら十五分で出港するよ」  草刈がそう言ったのに、操舵手の竹内が頷いた時、船橋に山脇船長が登って来た。  西の水平線に巨きな橙色の太陽が近づいて行く。  普段は藍に見える地中海が、夕陽を受けて金色と黒の縞に見える。  うねりの頂上が金色に輝いていた。  海面を睨みつけていた八坂丸の見張りも、夕陽を受けて刻々と変化しきらめいている波の間に、何秒かずつ顔を出した潜望鏡は、ついに発見出来なかった。 「オクトだ。水雷長代わってくれ、夕陽で目をやられた」  艇長が目を押さえて潜望鏡から離れると、鬚の砲術長がすぐ代わった。海面下のUボート第〇二号だ。  地中海じゅうのUボートが探し求めていた八坂丸を、発見した途端に潜望鏡の視野の中に、橙色の巨きな夕陽を捕らえてしまったUボート第〇二号の艇長は、残念だった。  夕陽に輝く地中海を、アレキサンドリアに向かって十六ノットに増速して走っている八坂丸は、今雷撃しなければチャンスを失う。  いくら残念でも夕陽にやられた眼を、直している時間はなかった。  これは戦争で、フットボールの試合ではない。  鬚の砲術長は潜望鏡を上げると、ジッと八坂丸を睨みつける。  固唾《かたず》を呑むような数秒間が過ぎた。  砲術長の号令でUボートの艇首が調整されると、 「第一発射管、撃て……」  二秒間隔で艇首にある四門の発射管から、次々と魚形水雷が発射される。  砲術長は潜望鏡を降ろすと、手早く胸に十字を切った。  四本の魚形水雷は八坂丸目がけて、金色と黒の地中海を走って行く。 14 魚形水雷命中  八坂丸の左舷を睨《にら》んでいた見張りが、次々と三人、絶叫した。 「左舷九時の方角より魚形水雷ッ。約五十メートルッ」 「左舷九時三十分ッ、雷跡ッ約五十メートルッ」 「魚形水雷接近しますッ。左舷九時辺りに四本ッ」  窓から入って来た見張りの声に、操舵手の竹内は草刈の命令を待たずに独断で、舵輪を一杯にまわす。 「前進全速ッ」  草刈は機関室に叫んだ。  船橋にいた山脇船長は左舷に飛んで行って、本船目掛けて白い泡を曳きながら走って来る四本の魚形水雷を見詰めた。  舵が利き始めた八坂丸は、船首を左にまわし始める。  ぐいぐいと間合いを詰めて来る四本の雷跡は、扇形に開いていて、一杯に転舵しても、そのうちの一本は、八坂丸を捕えそうに見えた。  魚形水雷に詰まっている爆薬の量は、十二インチ砲弾二発に相当すると聞いている。  装甲のしてない商船の、しかも吃水《きつすい》線下で、その爆薬が炸裂したら、これは助かりようがない。  おそらく直径二メートル以上の大穴が開いてしまうから、排水ポンプでもとても処理しきれないし、Uボートの司令塔で傷つけた舳先《へさき》の時のように、応急修理も出来ないだろう。  厚い装甲のほとんど鉄の固まりのような戦艦でも、この魚形水雷が一本命中すれば、まず沈没は免れないのだ。  いくら一万トンもある八坂丸でも、命中すれば助かりようがない。  散弾銃の銃弾か投網《とあみ》のように、四本の魚形水雷は少しずつ角度を変えて、八坂丸に迫って来る。  蒸気圧を一杯に高めていたエンジンは、草刈の号令と同時に、プロペラ・シャフトの回転を上げて、すぐ八十回転に達したから、八坂丸は舳先で白い飛沫《しぶき》を飛ばすと加速して行く。 「どうですか船長ッ」  草刈が大声を出す。 「駄目だ草刈、どうしても一本は当たってしまう」  船長は叫び返した。 「乗客を左舷端艇甲板に……」  草刈がそう号令したのは、魚形水雷が左舷に命中すると、八坂丸は沈没する前に右舷が上がって左舷が下がる。  右舷の救命ボートは海面から遠くなって、使えなくなることがあるからだ。 「救命胴衣の着用を確認しろ」 「無線局長は現在位置をイギリス海軍司令室に打電せよ」  魚形水雷がまだ命中する前に、草刈は次々と号令を下した。  八坂丸では当直士官《デユーテイー・オフイサー》と操舵手《クオーター・マスター》をペアにして同じ勤務に就かせている。  このふたりの呼吸が合わないと、とっさの時に臨機応変の処置が出来ないから、普段からこうして、出来るだけ一緒にいる時間を長くするように、しておくわけだ。  草刈と竹内は、八坂丸に乗務する以前から、これでもう十年近く、ずっと組んで仕事をして来ている。  だから見張りの声が聞こえた時、草刈の号令を待たずに竹内は、握っていた舵輪を一杯に左に切った。  見張りは五十メートルと言ったのだから、魚形水雷の速力を三十ノットほどと考えれば三〜四秒で命中する。  それほどの速力ではないとしても、命中するまでに五秒しかないだろう。  命令なんて待っているわけにはいかなかった。  チラッと後ろを振り向いた草刈も、竹内が舵輪をまわし始めたのを見ると、何も言わずに、他の部署に矢つぎ早やの命令を下す。  竹内も見張りが魚形水雷との間隔を、五十メートルと叫んだ時から、どう転舵しても、ほぼ魚形水雷が命中するのは、避けられないと思っていた。  夕陽で光る海面なので、見張りの連中も波間の潜望鏡はおろか、白い泡を海面にたてて進んで来る魚形水雷だって、余程近くに迫らないと発見出来なかったようだ。  全て海神様のおぼしめしだと、竹内は思っている。  舵輪をまわしながら竹内は、なぜか故郷で弟夫婦と一緒に住んでいる老母を想っていた。  その頃、無線室では、局長の足立が発信機の打電キーを叩き始めて、すぐ額から湧いた汗が、目の中に流れ込む。  現在位置とUボートに雷撃されたことを、打電し了えた途端に、坐っていた椅子がズッとずれた。  ケイトは自分の船室でシャワーを浴びていたのだが、これがあの河田の指だと思いながら、降りそそぐ湯の下で自分の身体を撫でていると、誰かしきりとドアを叩いて、何か叫んでいる。  バス・ローブを羽織ってドアのところまで行こうとしたら、床が揺れて足をとられて、船室の壁に腰をぶつけてしまう。 「バゴオーン」  鈍いが強烈な衝撃が、八坂丸を見舞った。 「Uボートだ」 「魚形水雷《トーピード》が命中した」 「おお神様、お救け下さい」  船室から飛び出し、ラウンジの椅子から跳びあがって喚く乗客に、事務長の河田が叫んだ。 「落ち着きなさい。後は神様じゃなく自分で自分の命を助けるのです」  大音響が響き渡ってから、船体が一度大きく揺れると、細い震動が気味悪く続くなかで、見張りが叫んだ。 「左舷三番船倉に魚形水雷命中ッ」  魚形水雷を喰らった左舷には、余程の穴が開いたらしい。  八坂丸は大きく左舷に傾いた。  魚形水雷を発射したUボート第〇三号は、波の下でジッと息をひそめていたのだが、 「ガオーン」  という爆発音が聞こえて来た途端に、狭い艇内は乗組の歓声が沸きあがって、一杯になった。  もう夕陽にやられた目はすっかり直っていた艇長は、潜望鏡を上げて覗き込む。 「よしッ、砲術長やったぞ。いいところにぶち当たった。黄色い猿どもは皆殺しだ」  言いながら艇長は、慎重に潜望鏡をゆっくりまわして、辺りを確かめる。  ちょっとした小火器の小銃や機関銃でも、海面下に潜って水圧を受ける潜水艇は、致命的な損傷を受けてしまう。  浮上して八坂丸の乗組や乗客を、皆殺しにするのは、慎重の上にも慎重を期さなければならない。  ましてやアレキサンドリアから、ほんの七十浬《かいり》なのだ。 「魚形水雷により吃水線下の外板が巨きく破損しました。応急処置も不可能です。浸水が激しく排水ポンプの能力をはるかに越えています」  二等運転士から船橋に報告が届いて、山脇船長は厳しい顔で顎を引いた。 「草刈君、本船を停止させて、総員下船だ」  草刈はまず機関室に、 「後進全速の後、停船、機関停止……」  と叫んでから、 「停船後、総員下船ッ」  もうベテランと言われるほどの草刈でも、この号令をかけるのは、これが初めてだった。 「草刈君、キミは船橋で総指揮に当たれ、俺は端艇甲板で乗客と乗組の離船を指揮する」  言いおいて山脇船長は、左舷に傾いたタラップを踏みしめて、降りて行く。  八坂丸は夕陽に輝く地中海で、傾きながら停船する。  カモメが二羽、動きを止めた八坂丸の上を、羽根を拡げて悠々と翔《と》ぶ。  山脇船長は船庫番《ストーキー》の小俣と通路で擦れ違ったので、武器を救命艇の責任者に分配しろと命じた。  停船した八坂丸は、浸水した海水の動きで細かく震え続けながら、少しずつ船体を沈めて行く。  海水の動きで、時々下がっていた左舷が持ちあがって、右舷が下がるのだが、不定期な動きだった。  端艇甲板に急ぎながら山脇船長は、自分がUボートの艇長だったら、八坂丸を撃沈してからどうするだろうと、そればかり考えていた。  まだ沈められてはいないが、先手先手を考えていかないと、万にひとつも全員が救かる可能性はなくなってしまう。  八坂丸が沈没して、乗客と乗組が救命艇で脱出したら、Uボートはすぐ浮上して射殺するだろうか。  自分ならそうはしないと、山脇船長は思った。  沈没する前に必ずアレキサンドリアのイギリス海軍に、現在位置と救助要請を打電しているはずだから、その軍艦のやって来るのを、救命艇のそばの波の下で、ジッと待っている。  駆逐艦か海防艦か、いずれにしても三百人近い乗客と乗組員を救助しようというのだから、そんなに小さな軍艦ではないだろう。  それも撃沈してから、ゆっくりと皆殺しにすればいいのだ。  闇夜でも救助しようとすれば、必ず照明を点《つ》けるから、狙いをつけるのには困らない。  救助に来た軍艦を撃沈してしまえば、もう暫くは怖いものなしだ。  浮上して機関銃で撃ちまくって、八坂丸に沈められたらしい僚艇の仇を、思うさま打てばいい。  Uボートの艇長達が、一番狙っていた十万ポンドのソヴリン金貨は、八坂丸と一緒に地中海の底に沈んでしまっているのだから、恨みがふたつ重なるわけだ。  僚艇をやっつけられた恨みと、それにソヴリン金貨を獲りそこねた恨みだから、Uボートはきっと徹底的に残酷になる。  傾いた通路を端艇甲板に向かって急ぎながら、これからの展開を想像した山脇船長は、厳しい顔を曇らせた。  いい予想なんて、ひとつもない。  もしかすると自分の考えとは違って、Uボートの艇長はすぐ浮上して来るかもしれない。 「最善を尽くすよりない……」  山脇船長は、奥歯を噛みしめた。  端艇甲板の左舷側には、乗客が何度も繰り返した避難訓練の成果で、青白い顔ではあったが、整然と自分の乗る救命艇の前に集まっている。 「誰か、誰かわたしの船室にいるロミオを連れて来て、ロミオ、ロミオなの……」  中年のイギリス女が、若い水夫にとりすがってそう言っているのに、近づいた山脇船長は、「ロミオ……」と呟いた。 「御主人ですか、奥様」  船長が訊くと、僅かにのぞいている首の下の肌にも、斑点のような染点《しみ》が沢山あるイギリス女は、カナリヤだと言った。  魚形水雷が命中したので、八坂丸はいったん浸水した海水で左舷を下げると、船体を震わせながら、時々海水のまわりようで右舷が下がったりする。  その度に少しずつ船体が沈んで行く。  途中から沈むスピードは急になるに違いないが、それでもギリギリで後五分はもちそうだと、山脇船長は思った。  それまでに、とにかく乗客を全部救命艇に乗せて、本船から離さなければならない。  一万一千トン近くある鋼鉄の八坂丸が海に沈んで行くのだから、その瞬間は救命艇でも本船からかなり離れていなければ、危ないだろう。  どんな渦が出来るのか、こんな経験はなかったから知らないが、まず救命艇は五十メートルは離れていなければ、安全とは言えないと山脇船長は思った。  Uボートが浮上するかどうかはともかくとして、今は沈んで行く本船から乗客を脱出させることだ。  カナリヤの籠を……と叫ぶイギリス女から、部屋番号を訊くと鍵を受け取った水夫の大橋捨吉は、揺れる床を踏みしめて、船内にとって返す。  事務長の河田は船長を見ると、 「乗客の皆様には、脱出訓練と同じように、ボートの順に集まっていただいております」  髪こそ救命胴衣をかむったので、少し乱れてはいたが、落ち着いた声で報告する。  書記《クラーク》の栗原が河田に、制帽を持って来て手渡した。 「よし、事務長、御苦労さま」  船長はねぎらって、顔を乗客に向ける。 「皆さん。  不幸にも本船に魚形水雷が命中してしまいました。  修理も不可能な状態で、沈没は避けられません。これから皆様に、訓練の手順に従って救命艇に移っていただきます。  十分に時間がございますので、どうぞ御心配なく」  山脇船長が英語でそう叫ぶと、すぐ河田が早口のフランス語で繰り返した。 「船長ッ、どうやら本船の沈むのは止まったようです」  乗客が英語で叫んだ。 「イエ、そうではありません。  船内の海水が平均した水位になっただけです。  さあ皆さん、救命艇にお乗り下さい」  山脇船長の号令とともに、端艇甲板のレベルまで下げられていた救命艇に、乗客と乗組が整然と乗り込んで行く。  乗り込み終わった救命艇では点呼がとられて、それが終わると海面に向かって降りて行った。  船橋から草刈が伝声管を通して機関長《チーフ・エンジニア》の福西と話していた。 「いや、臨検の威嚇射撃なんかじゃありません。本当に三番船倉の吃水線下に、魚形水雷を一発喰っちまいました。  もう船足は止まりましたから、総員端艇甲板に出て下さい。総員離船です」 「分かった一等運転士《チオツサー》。明け番の火夫を先に出したけど、すぐ総員急いで上に出る。お蔭さんで機関室は皆無事だ」  福西は伝声管を離すと、 「おしまい……」  と叫んだ。  当時の日本郵船会社では、船が港に着いて、機関を完全に停止させる時の号令が、「おしまい」だった。 「おしまい……」  声に出して言う者もいたし、ただ怪訝《けげん》な顔を福西に向けた者もいる。 「さっきの衝撃は、やっぱり魚形水雷が当たってしまったんだ。機関を止めてから急いで端艇甲板《ボート・デツキ》に出て、訓練どおりに救命艇に乗れ」  山野熊五郎も木島八十八も、機関長の福西がそう言ったのを聞くと、シャベルの先で炎の覗《のぞ》いている釜の口を、音を発《た》てて閉めた。  持ち場ごとにコックを閉めたり道具を納ったりして、一同手早く「おしまい」にする。  誰も慌てていい加減にする者はいなかったのが、福西には嬉しかった。  終わった者から順に、タラップを昇って行くのを見上げてから、福西はもう一度機関室をひとまわりして点検する。  これがふた航海目という新造船だから、いくら石炭を焚いているといっても、八坂丸の機関室は新しい。  大事に使えば、三十年でも使えるこんな立派な船が、海の底に沈められてしまうのだから、戦争というものは、何という非道い無茶なものだろうと、福西機関長はつくづく思った。  伝声管で船橋にいる草刈に報告してから、福西は一番最後にタラップを昇って行く。  一度大きく身震いするように、八坂丸は船体を揺らせたので、タラップがギシギシと音をたてた。 「無線局長、アレキサンドリアのイギリス海軍から返電はあったか……」  船長が無線室の開け放ってあったドアのところに立って、無線局長の足立に話しかける。  無線機を前にして、耳にレシーバーを当てたのを掌で押えた足立は、黙って頭を振った。 「ラボリューという本船を迎えに来るフランスの海防艦が、爆雷を積んでいなかったので、急いで積み込んでいるという無電があったのが二時間前です」  悪い連中ではないのだが、どうにもカッタルイと、足立はフランス人のことを罵《ののし》って苦笑する。  山脇船長は無線局長の足立と先任通信士の桜木を激励すると、また端艇甲板に戻った。  船橋から出す号令は、全て出し了えたので、当直だった草刈と竹内もすぐ降りて来る筈だ。  タラップを弾けるように、船底から昇って来た機関員達が端艇甲板に姿を現す。  最後に機関長の福西が山脇船長に敬礼すると、 「機関室は全員脱出しました」  報告すると少し声を小さくして、沈み切るまで思ったより時間があって助かったと言う。  八坂丸の船内でまだ持ち場を離れずに、頑張っているのは、無線室のふたりだけだ。  定員が四十八名の救命艇は、人員の揃ったものから次々と海面に降ろされて行く。  海面に着くと、オールが何本か突き出されて、八坂丸の舷側から救命艇を押し離す。  そして救命艇の両側から百足《むかで》のようにオールが出ると、掛け声を合わせて漕いで本船から離れて行く。  幸いなことに海は穏やかだった。  今までのところ乗客にも乗組にも、事故はひとりもいない。  Uボートの潜《ひそ》んでいる地中海で、これからどんな危機にさらされることになるのか分からないが、海面に降りた救命艇は、威勢のいい掛け声をあげながら、夕陽の海を元気良く走った。  山脇船長の見ている前で、機関長の福西が艇長をつとめる救命艇が、海面に降り切る前に、宙吊りになって動かなくなってしまう。  それよりどうしてもロープが延びない。  水夫《セーラー》が訓練の時と同じように、電動ウインチを点検しているのに船長は、 「電気は、もう機関を“おしまい”にしたから来ていない。あと三、四尺のことだから、両方一度にロープをナイフで切り落とせ」  と、叫ぶ。  水夫は救命艇を吊っている左右一本ずつの太いロープを、掛け声を掛けると巨きなシーマンナイフで、同時に切って落とした。 「ズッバーンッ」  飛沫をあげて救命艇は海面に落ちて、婦人乗客の叫び声が聞こえて来る。  幸いなことに声ほどのことはなかったらしい。  すぐグイグイと力強くオールが引かれて、救命艇は本船から離れて行く。  魚形水雷が命中してしまってから、ちょうど十分経った。  乗客は全員、六隻の救命艇に乗り移っている。  段々吃水を深くして、やや船首をあげ気味に波の中に沈んで行く八坂丸から、五十メートルほど離れたところに、そのうちの五隻が集まっていた。  幸いなことに、Uボートはまだ浮上して来ない。  八坂丸から離れた五隻の救命艇では、士官が水夫を指揮して、ロープで連結していた。  八坂丸の左舷にはちょうど船体の中央近くに、救命艇が一隻舷側に貼りついていて、山脇船長と草刈一等運転士、それに無線室のふたりを待っている。  水夫がふたり、少しずつ低くなって行く八坂丸の上甲板の手摺を押えて、首を伸ばして無線室の方を見上げていた。  波はなく、藍色の地中海は静かに八坂丸を呑みこもうとしていた。  小走りに甲板を駆けて、山脇船長は無線室に行くと、ドアの外から声をかける。 「足立君、私は船長室から八坂神社の御神体を取って来る。キミは返電が入り次第、左舷で待っている救命艇に乗ってくれ」 「分かりました船長。もうすぐ待っている返電が入ります。  現在位置とSOSの確認は、既に済んでいるので、今待っているのは、何時頃助けに来られるか……という、とても楽しみな奴です」  足立はこんな場面でも、あくまで陽気な男で、朗らかな声を張りあげて言う。  山脇船長は船長室に入ると、神棚を正面にして立ち、柏手を打って頭を下げる。 「御加護をいただいて此処まで参りましたが、遂にやられてしまいました。  しかし、乗客と乗組に怪我人ひとりなかったことを、厚く御礼申しあげます。  どうかこの上も、全員無事にアフリカに着かせて下さるよう、慎んで願いあげます」  頭を深く垂れて船長は祈ってから、椅子の上に乗って神棚から御神体を降ろした。  海水が船体の中で動いたらしい。  八坂丸は、また大きく震えて、船長は御神体を右手に握ったまま、たたらを踏んで船長室の舷窓に背中をぶつけてしまった。  舷窓から見えた海面は、満船の時より更に高くなっていた。もう下甲板とほとんど同じレベルになっている。  一等運転士の草刈が船長室に飛び込んで来た。 「船長、もういよいよ最後です。お急ぎになって下さい。足立局長も桜木君も、返電を受けて救命艇に移りました」 「そうか」  船長は一度ぐるりとまわって、船長室を見渡すと通路に出る。  最後迄残って船長達を待っていた救命艇には、乗客も乗っていたが、その中でもリゲット船長の白い顎鬚《あごひげ》が目立った。  船長と一等運転士が救命艇に乗り込むと、また八坂丸は大きく揺れて、船尾の方が持ちあがる。  ドラム缶でも船尾楼の中で転げたのか、鉄の当たり合う音がドラムスの連打のように聞こえて来た。 「しまった、日章旗を降ろすのを忘れていた」  山脇船長が日本語で呟いたのを、救命艇の中ですぐ隣にいたリゲット船長は、どうしたのか……と、真剣な表情で訊いた。  言葉は分からないが、様子で何か重大なことだと、察しがついたからだ。  もう下甲板の鉄板の上には、海水がひたひたと流れている。  手摺を握っていたふたりの水夫は、「放せ」という号令を待っていたし、その救命艇の指揮を取る一等運転士の草刈も、また八坂丸に戻ろうという船長の様子を見て、何を忘れたのかと、緊張した。 「あの旗を取って来る。まだ大丈夫だろう」  英語でそう叫びながら、山脇船長は弾みをつけて、救命艇からまた沈みかけている本船に移った。  夕陽に金色の産毛が光る長い腕が伸びて、手摺の間から船長のズボンの裾を掴んだ。 「おやめなさい山脇船長……」  リゲット船長が叫ぶと、草刈も、 「船長、おやめ下さい」  と、鋭く言った。  リゲット船長の腕が、山脇船長のズボンを掴んでいる間に、通信士の桜木が救命艇から波の洗っている下甲板に飛び移ると、前にまわって抱き止める。 「もう危ないです船長」  急いで船尾まで走って、旗を降ろして戻って来ても、本船が沈むまでに救命艇が安全なところまで、離れられると船長は思っていたのだが、確かに、こんなことで乗客を危険にさらすわけにはいかなかった。  一万トンを超える八坂丸が、海の底に沈んで行く時に、どんな渦が巻くのか、見た者はいない。  それにおそらく、沈んで行く八坂丸からは、船倉の木製の蓋や浮力のある物がはずれると、物凄い勢いで海面に飛び出して来て、辺りに降りそそぐだろう。  確かに今は船尾の日章旗にはかまわず、救命艇を本船から遠ざける場面だった。  山脇船長が救命艇に戻ると、草刈が水夫に、手摺から手を放せ……と号令する。  すぐオールが勢いよく動いて、救命艇は本船を離れて行く。  八坂丸のうねりの間に見えている船橋が、苦しそうにブルブルと揺れている。  山脇船長は、そんな自分の船の断末魔を、振り返って見ると悲しそうに眉をひそめた。  リゲット船長が後ろから腕を伸ばして、山脇船長の制服の袖を優しく掴む。 「山脇船長。あの太陽をデザインした美しい旗は、海の底で貴方の八坂丸を守り続けるでしょう」  リゲット船長がそう囁《ささや》いたのを聞いた通信士の桜木は、外国人は男にでも、女を口説く時のようなことを言う……と思った。  本船の舷側を離れた救命艇は百メートルほど離れた海面に集まって、ひとかたまりになっている。  そこに山脇船長と無線局長の足立を乗せた救命艇が、エイヤエイヤと漕ぎつけて来て、全部で六隻になった。  これからフランス海軍のラボリュー号が来るまで、何時間かかるか分からないが、海面下に潜むUボートと闘って、生き延びなければならない。  六隻の救命艇が一団になると、一番艇から順に点呼が取られる。 「ムッシュ、クレイ」 「ウィッ」 「ミスタ、アンド、ミセス、トンプソン」 「イエス、ヒア、ウイ、アー」  各救命艇の乗客、乗組とも異状ナシ、総員二百八十二名……と、草刈一等運転士が気合の入った声で叫ぶと、誰か女の声が、 「それと、おかげさまで、わたしのカナリヤが一羽……」  と叫んだので、それまで静まりかえっていた八坂丸の乗客と乗組は、楽しそうな声を久し振りに出して笑った。  自分のカナリヤも無事だったと叫んだのが、イギリスの女だったので、まだ英語の分からない十五歳の少年、見習コックの竹下は皆の笑うのを、キョトンとした顔で見ている。  一緒に太いオールを握っていた火夫の熊五郎が、その女の乗客が何と叫んだのか教えてやると、夕陽にはち切れそうな赤い頬を震わせて、竹下は白い歯を見せて笑った。 「ワハハハハハ、アハハハハハ……」  皆がもう笑い止んでいたので、竹下の嬉しそうな笑い声が、辺りに響きわたる。  気がついた少年は、突然笑い止むと、夕陽より赤い顔になって、オールに顔を伏せた。 「コラ竹下、海の底のドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》に、聞こえちゃうじゃないか……」  余り上手い発音ではなかったが、英語で足立がそう言うと、またひとしきり爆笑が弾ける。  熊五郎が巨きな掌で、白いコック服の竹下の背中を叩く。  熊五郎は釜の前で働いていたままの姿だから、坐っているからまだ良いのだが、背中と肩一面の見事な彫物を見せて、六尺褌《ふんどし》だけという凄い姿だ。 「アーッ」  日本人の乗客が、指を伸ばすと腰を浮かした。  それまでうねりの間から出ている船首と船尾、それに船橋を震わせながら、少しずつ沈んで行った八坂丸は、突然船首を波の中に突っ込んで、船尾を跳ねあげた。  スクリューが夕陽を受けて光る。  煙突から凄い勢いで水蒸気が噴き出して、それと同時に轟音が聞こえた。  八坂丸は沈んで行く。 「アーッ、本船が……」  竹下が腰を浮かせて首を伸ばすと、哀しそうな声を張りあげた。  夕陽に照らされて、船尾を空に突きあげた八坂丸は、蒸気と黒い煙を吹き出して沈んで行く。  海面は穏やかで、救命艇は安定している。  山脇船長が立ちあがると、それに釣られたように他の乗組も立ちあがって、沈んで行く八坂丸を見詰めていた。  噴き出る蒸気が悲鳴のように響きわたる。 「八坂丸ッ、バンザーイッ」  船長は叫ぶと、両手を突きあげた。  乗組もそれにならって三唱が終わった時、八坂丸は船尾の日章旗をはためかせて、うねりの間に消えて行った。  見送って腰を降した山脇船長の頬には、涙の線が光っている。  後ろから顔を寄せて、リゲット船長が、 「お察しします、山脇船長……」  と、囁いた。 「有難うリゲット船長。  初めて自分の船を失ったので、お恥ずかしいことに、ついとり乱してしまいました」  八坂丸の消えて行った海面に浮いた白い泡を見詰めながら、山脇船長はそう呟いた。  板が一枚海の中から飛び出して、宙に浮くと一回クルリとまわって海面に落ちる。  Uボートが沈んだ時とは、比べものにならないほど沢山の木切れや箱が、海面に浮かびあがって来た。 「ムッシュ」  うつろな瞳でオールに腕をあずけて、海を見詰めていた山野熊五郎は、逞しい背中に彫ってある児雷也《じらいや》の右頬の辺りを、フランス人のクレイに指で突つかれた。 「貴方にふたつお尋ねしたいのだが……」  フランス語は、港で酒を呑み女を買うのに足りるほどしか喋らない熊五郎だから、白髪のお殿様にそう言われると、困って真っ赤になってしまう。自分だけが六尺褌だけの裸だというのも、恥ずかしかったのに違いない。 「針路東南東、総員漕ぎ方始め」  縦に一列になった六隻の救命艇は、草刈の号令と同時に、一斉にオールが動き始めて、徐々に速力がつく。  フランス海軍の海防艦《フリゲート》ラボリュー号も、同じコースをやって来る筈だった。  暗くなりかかった針路を睨んだ草刈は、信号弾の籠められたピストルを、右手にしっかり握っている。ラボリュー号が来るのが見えたら、空に向かって打ち上げるのだ。 「このフランスのクレイ男爵が、お前にふたつほど尋ねたいことがある……と言っておられる。私が通訳するからお答えしなさい」  同じ救命艇に乗っていた事務長の河田が、熊五郎に言う。 「ヘエ、わっちのようなもんに、お偉い毛唐……イエ、外国のお方が何を……」  熊五郎は、普段は生まれついてのような大阪弁を話しているのだが、緊張したり慌てたりすると、途端に東京の下町言葉になってしまう。  怪訝な顔で熊五郎は、クレイと河田の顔を交互に見ていたが、腕は休めずにオールを引いている。  六隻、縦にロープで艇尾と艇首を繋いだ救命艇は、暮れかかった地中海をゆっくりと、アレキサンドリアに向かって、進んで行った。  クレイがひとしきり河田に向かって、フランス語で喋ると、頷いた事務長は熊五郎に日本語で訊いた。 「バンザイというのは、勝った時とか嬉しい時に、日本人が集まって叫ぶ言葉だと思っていたのに、どうして自分達の八坂丸がUボートに撃沈された一番悲しい場面で、乗組の貴方達は叫んだのですか……」  さ、お答えしろ……と河田が言ったので、 「すんなこと言ったって……」  と、熊五郎は迷惑そうに眉をひそめて、暫くは黙ってオールを引き続ける。 「そうですね、沈んで行く八坂丸に、親爺さんと一緒に皆で、“どうもこれまで御苦労さん。お世話になりました。そいじゃサイナラ”って、すんな気持ちだったと思います」  自分達にとって乗組んでいる本船は、鋼鉄の船じゃなくて、心と肉のある人なのだと熊五郎は、暗い海の上なのに眩しそうな顔で、言ったのだった。  風のない穏やかな海だったが、それでも横から来るうねりで救命艇は、時々大きく横揺れ《ローリング》する。  日が暮れたので、草刈は各艇の舳先にランプを点けさせた。  こうしておかないと、月が雲の間に隠れでもしていたら、ラボリュー号に見落とされてしまう。  それでなくてもフランス人はイギリス人やドイツ人に比べて、とても暢気でそそっかしい人達なのだ。  河田が熊五郎の言ったことをクレイに伝えると、フランスの男爵は何度も白毛頭を振って合点する。  殿様の目の前には、オールを引く熊五郎の逞しい背中があって、月明かりでも圧倒的な彫物が鮮やかだった。  熊五郎がオールを前に押し後ろに引くたびに、背中の児雷也《じらいや》の表情もかわる。 「なるほど、やはりそうでしたか。私の感じたことと全く同じ答えでした。バンザイは、いずれにしても日本人が感動した時の叫びなのですね」  クレイは前かがみになって、暗がりの中で一所懸命に熊五郎の背中を見ていたのは、その彫物に興味を持ったからに違いなかった。 15 ラボリュー号はまだか…… 「私のもうひとつのぶしつけな質問は、背中の彫物の人物は誰なのか、蛙の上に立っているのはどうしてなのか、貴方は以前、食用蛙を獲る仕事の達人だったのかと思ったのですが……」  そう河田が通訳したのを聞いて、熊五郎は仰天した。 「カエル……。これは蟇《がま》で、児雷也《じらいや》小僧で、わっちは生まれついての釜焚きで、食用蛙なんて、大嫌いだ」  熊五郎は顔をしかめて、叫ぶことも、あまり慌てて要領を得ない。  河田から説明を聞いたクレイも、その蟇の上に立っている怪盗が、熊五郎自身でも父親でもないと知ると、赤の他人の泥棒を、なぜ背中一面に彫ったのか、どうにも理解出来なかったようだ。  外国人の刺青は、本人に関係のあることばかりで、ロビン・フッドを彫っているイギリス人もいなければ、ジャンヌ・ダルクを背負っているフランス人もいない。  なぜ縁もゆかりもない大泥棒を、一生消しようもないのに、背中一面に彫り込んだのか、河田がいくら一所懸命に説明しても、クレイは首をかしげるばかりで、分からなかった。  どうせ何の関係もないものを彫るのなら、もっと美しい……たとえば芸者か富士山にしないのかと訊かれても、熊五郎は目をむくばかりで、何も答えられない。 「あーッ、潜望鏡ですッ」  誰か乗組が叫んだので、指差している海面を見たら、ほんの三十メートルほどのところに、海面から黒い棒が出ているのが、月明かりで見えた。  腰を浮かせた乗客を、それぞれの救命艇に乗っていた八坂丸の士官達が、席につかせる。  方々から外人女の悲鳴が聞こえて来た。  すぐ月は雲の中に入って、海面は真っ暗になって、うねりの間の潜望鏡も見えなくなる。  Uボートの中では、潜望鏡を降ろした艇長が、そばに立っていた砲術長に片目をつむって見せていた。 「十万ポンドのソヴリン金貨は地中海の底だ。いまいましいから浮上して、機関銃で皆殺しにしてやろうと思ったのだが、急ぐことはない」  そう言って艇長がニヤリと笑うと、砲術長も頷いて、喉の奥から嫌な笑い声を漏らす。 「最後に救命艇に乗り込んだのは、間違いなく通信士で、アレキサンドリアへ救助を打電して、ギリギリまで返電を待っていたのだ。  イギリス海軍も、乗組だけならともかく、あんなに乗客が乗っているのだから、必ず救助にやって来る」  そいつも沈めてから、ゆっくり機関銃で撃ちまくってやる……と、艇長は髭の中の赤い唇をペロリと舐めて言った。  Uボートは救命艇のそばに、ジッと身を潜めている。 「事務長《パーサー》、この素晴らしい彫物を背負った生まれついての釜焚きに、もしよかったら、パリ郊外にある私の城で、ボイラーを焚いてはくれないか……と訊いて欲しい」  クレイは、自分より十五歳も歳上で、もう三十年以上も城のボイラーを焚き続けて来た男が、隠居したがっているのだと言う。  どうだろう、給料も今よりはずむし、妻子の渡航費も支給する。毎日働いてもらうけど、夏にまとめて六週間の有給休暇を、あげることになっているが、考えてみないか……とクレイは熱心に言った。  裸でオールを引き続ける熊五郎の、背中の彫物に興味を持ったからではなく、救命艇に乗り込んでからの僅かな時間で、クレイ男爵はこの釜焚きの人柄を見抜いていた。  一見、とても獰猛《どうもう》に見える男だが、誠実でしかも果敢なのだ。  これは、この彫物の釜焚きが際立っているが、八坂丸の乗組が皆持っている素晴らしい特質だとクレイは思っている。  百六十二人と聞いている乗組のうち、マルセイユを出港してから、この十二月二十一日の夜までの間に自分と接したのは、ボーイから船長まで全部入れて五十人ほどだが、皆誠実で勇気のある男達と、クレイは見た。  しかも驚くほど律儀で清潔なのだから、こんな東洋人……、いや東洋人と限らず、民族は珍しいとクレイは思う。  ロシヤは、こんな日本人を認識していなかったから、日本に満州から追い払われて、バルチック艦隊を全滅させられてしまった。  同じ東洋人の清国も、僅か人口が四千万人ほどの、粟粒のような島国と日本を侮って、戦争を仕掛けて敗れたのだが、ロシヤはこれを見ても何も学ばずに、帝政まで倒されてしまう。  他に東へ行く客船がなくて、止むを得ず乗った八坂丸だったが、短い間に日本人の世界でも稀な特質を知ったのは、たとえUボートに沈められても、収穫だったとクレイは思っている。  いずれドイツは力尽きて負けるが、今後の世界は、日本を除いては語ることも論ずることも出来ないと、クレイは思った。  雲が切れて、大きな月が地中海を照らしている。  うねりが時々、六隻縦に繋がってゆっくり漕いでいる救命艇を、横にゆさぶった。  河田が通訳したことを聞いた熊五郎は、考えもせずに言い返す。 「冗談は勘弁しておくんなさいまし、御前様。  自分は郵船会社の熊五郎でござんすから、会社が、もう来なくていい……って言うまでは、本船の釜を焚き続けまさあ。  お声を掛けていただいたのは、有難く存じやすが、お断りを申しあげます」  勘定をいくらいただいても、郵船会社をやめたら、女房が頭痛薬をこめかみに貼って、ふたりの子供を連れて実家に帰ってしまうと、熊五郎は呟いた。  事務長の河田は苦笑すると、女房が頭痛薬をこめかみに貼るくだりで、ちょっと困りながら、フランス語に訳してクレイに伝える。 「そうですか、この見事な彫物の立派な釜焚きは、家族ぐるみで、この汽船会社で働くことに誇りを持っているのですな。軍人や政治家が国家に対するような気持ちを、釜焚きが持っているなんて、日本という国は本当に驚くべき国民を持っている」  驚くクレイ男爵の目の前で、熊五郎の背中の児雷也《じらいや》が躍っていた。 「この汽船会社の株は、パリかロンドンで買えますか。こんな乗組達が揃っている会社なら、必ず大発展するし株だって何倍にもなると思うわ……」  弾んだ声でそう言ったフランス女がいて、救命艇の中でフランス語の分かる者が、ドッと笑い声をあげる。 「皆様……  最後に離船した無線局長の報告によれば、フランス海軍の海防艦《フリゲート》ラボリュー号が、潜水艇攻撃用の爆雷を用意して、アレキサンドリアより私達を救助するために、出港して急行しております。  間もなく姿を現すでしょう」  草刈に命じられて河田は、英語とフランス語で紙に書くと、救命艇から救命艇へ、手渡しで回覧させた。  先頭の救命艇に乗っている山脇船長から、一等運転士の草刈と無線局長の足立、それに事務長の河田に、書類や暗号・略文の一覧、それに積荷目録と乗客名簿を焼却せよと、メモがまわって来た。  すぐ救命艇では、バケツや缶の中で書類が燃やされる。  Uボートが浮上せずに、救命艇の下に潜ったままでいるのは、八坂丸が沈む前に打電したSOSを受信して、アレキサンドリアかポートサイドから、救助に駆けつけて来る軍艦を、待ち伏せしているのに違いなかった。  山脇船長はラボリュー号の灯火が見えたら、ランプを使った発光信号で、Uボートが救命艇の下に潜んでいることを、知らせようと思っている。  知らせてラボリュー号の艦長が、どう判断するかは分からなかった。  救命艇もろとも、爆雷で吹き飛ばそうとするかもしれない。  フランス人は日本人の思っているように、リラの花とシャンソンを愛する優しい文化的な人間ばかりではなく、おそろしく野蛮な面も合わせ持っていることを、船長は知っていた。  突然、美しい合唱が夜の海に流れ出す。  三隻目の救命艇に乗っていたトンプソン夫人がリーダーで、皆の知っている各国の民謡を、次々と合唱している。  乗組の中には日本語の歌詞で唱っている男もいた。  澄んだ女の声と、海の男の太い声が混じり合った美しいハーモニーが、書類を燃やす煙と一緒に、月の出た地中海を流れて行く。 「あれがアレキサンドリア港の灯台だ」  リゲット船長がそう言って指差した方角に、点滅を続ける緑色の小さな光が見える。 「いくらドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》でも、まさか浮上して非戦闘員の私達を殺しはすまい。奴等だって同じキリスト教徒だ」  久し振りでイタリア人のマルコの訛の強い英語が聞こえた。 「あの悪魔の私生児どもは、汚いドブ鼠のように隠れて、救助にやって来るラボリュー号を沈めるつもりだ」  同じキリスト教徒と言っても、いろんな手合いがいるのだと、リゲット船長がイギリス人独特の皮肉な口調で言ったが、マルコはそのニュアンスが分からなかったらしい。  すぐ脇に坐っていた乗客に、Uボートは救助に来たフランスの軍艦を撃沈したら、それで満足して、浮上して漂流者を皆殺しにするなんてことは、しないだろうなとマルコは訊いた。 「分からない」  不愛想な返事が戻った。どうやらマルコの隣に坐っているのは、イギリス人の乗客らしい。 「お前さんだけアレキサンドリアまで、蛙のように泳いで行ったらどうなんだ。誰も止めないぜ。ホラ、アレキサンドリアの街の灯が見える……」  それともお前さん、泳げないのか……と笑ったのは、アメリカ人の若い男だ。  オールを引きながら、これも褌だけの丸裸だった火夫の八十八は、首を捻《ねじ》ってアレキサンドリアの街の灯を見る。  どんなことをしてでも、八十八は、あの灯りまで着きたかった。  夜の洋上では、灯火が実際よりずっと近く見える。  まだ五十浬《かいり》はあるだろうと八十八は思った。  あそこまで、なんとか生きてたどり着けば、可愛いフランソワーズの待っているマルセイユに戻れる。  必ず着くぞ、殺されるものか……と、八十八は目を光らせてオールを引いた。  玉城勇民が良い声で、微妙な節まわしの沖縄の歌を独唱している。  小泉誠太が大真面目で、大きな声を出して口三味線を入れていた。  唱い終わると大きな拍手が沸き起こる。  Uボートの恐怖に、乗客達は歌で耐えていた。 「軍艦が救助に来たら、あの黄色の小人はどうするでしょう。信号弾を打ちあげるでしょうか……」  潜望鏡で、六隻の救命艇を監視していたUボートの砲術長が、接眼レンズから目を離さずに、艇長に訊いた。 「そうだな、とにかく軍艦の灯火が見えたら、その途端に、海底のうつぼが目を醒ますほどの大騒ぎが始まって、信号弾を打ちあげたり松明《たいまつ》を燃やしたりし始めるだろう」  そして救助に来るのは、イギリスかフランス海軍の軍艦だろうから、自国民の乗客を早く救けたい一心で、すぐ船脚を止めるに違いない。  それも俺達の潜水艇の艇首にどてっ腹を見せてだと、艇長は呪いをかけているような、陰に籠った低い不気味な声でそう言った。 「そして四発の魚形水雷をいっぺんに喰らって、愚かな艦長の軍艦は、ほとんど瞬間的に轟沈してしまう」  サーチライトでうねりの間に漂っている軍艦の乗組と、それに八坂丸の乗客と乗組を、ひとりずつ照らしてはライフルで撃ち殺すのも、ちょっとした狩猟気分で面白い。  機関銃でいちどきに殺してしまうのより、その方がずっとやられる方は怖ろしいだろうと、砲術長は悪魔の生まれかわりのようなことを言う。  艇長もニヤリと笑うと、それは面白そうだと呟いて、いくらノロマな連中でも、もうそろそろやって来る頃だと言いながら、懐中時計を出して時間を確かめた。  もう八坂丸を地中海の底に葬ってから、五時間近く経っている。 「まず救命艇を救けようと、ノコノコやって来た軍艦に、魚形水雷を喰らわせて撃沈する。そしてそれからゆっくり、ライフルと拳銃で一匹ずつドブ鼠のように射殺してやる」  中年の砲術長は、Uボートの士官達がほとんどそうしているように、ほとんど極地の住民の防寒具のような髯を顔じゅうに密生させていたのだが、その中で濡れて光っている唇を歪めて、そう呻いた。 「どうだ救命艇にピッタリついているか」  艇長が尋ねると、砲術長は黙って頷《うなず》いて潜望鏡を譲った。  かわって艇長が接眼レンズに目を当てると、うねりが去った途端に、ほとんど目の前に先頭の救命艇がいて、オールが潜望鏡のすぐ前の海面に差し込まれたように感じられる。  おそらく救命艇と潜望鏡の間は、せいぜい二十メートルほどしかないだろうと、その時艇長は思った。  潜水艇の中で身体をぐるりと回して、艇長は潜望鏡の向きを変えた。  遠くにアレキサンドリアの灯が見えたが、救助に来る軍艦はまだ見えない。  地中海は月明かりで明るかった。 「二等運転士《セカンド・メイト》、自分に拳銃を貸してもらえませんか」  ボーイの皆川は細身の中年男で、散髪が上手い。  無線局長の足立は頭を角刈に刈っているのだが、乗組の中でこれを見事に刈れるのは、皆川だけだった。  足立は、神戸の大正筋にある中国人の床屋が行きつけだったが、そこの親爺より上手いと褒めたら、皆川は普段から表情のない顔のままで、「あ、王《ワン》の店……」と呟いたのだ。  皆川の生れて育ったのは広島の在だから、神戸の中心から少し西にはずれた大正筋の奥にある、小さな床屋を知るわけがない。  その時、足立が「おや、あの床屋をどうして知っているんだ」と言ったら、皆川は極く曖昧《あいまい》に、何か要領を得ないことを口にした。 「皆川、お前の散髪の腕は本職が裸足《はだし》で逃げるほどだと、誰にも分からなくても、俺には分かる。随分な年季を入れた職人だろうのに、どうしていい日当の取れる男が本船でボーイをしているんだ……」  ふたりきりの場面だったので、遠慮なく足立が訊くと、皆川は苦笑して、四十近くまで生きていると話したくないことの方が、自慢したいことの三倍以上もある……と答えたのだ。  その皆川が乗っている救命艇の指揮を取っていた二等運転士に、拳銃を貸してくれと言ったのだから、やぶから棒にそう言われた二等運転士は呆《あき》れて、何に使うのか、と尋ねた。 「あれを撃って、壊してやります。糞いまいましくて堪りません」  皆川の指差した黒い海には、月明かりに照らされて、黒い潜望鏡が突き出ている。  救命艇から二十メートルほどのところだ。  それは確かに八坂丸に魚形水雷を見舞って、撃沈してしまったいまいましいUボートの潜望鏡に違いない。  すぐ浮上して来て乗客と乗組を殺さないのは、救助に来るフランス海軍の海防艦《フリゲート》、ラボリュー号も撃沈してやろうと、手ぐすねをひいているのだということが、今では誰にも分かっていた。  潜望鏡に拳銃弾を当てて壊してやるのは、出来れば、これほど気味のいい話はない。  地中海の那須の与一だ。  遅かれ早かれ殺されるのだから、まさかそれでUボートが閉口垂《へこた》れるとは思わないが、果たして揺れる救命艇の上から拳銃を撃って、あの小さな的に当たるものだろうか。 「あんな小さい的に、この暗くて揺れるところで、お前当てられるか……」  二等運転士が訊くと、皆川はニヤリと笑って、 「六発撃って当たらなければ、自分は飛び込んで泳いで行って、ヘシ折ってやりまさあ。どうぞ撃たせておくんなさい。後生です」  と、言った。  いくら後生だからと言われても、本当なら独断で乗組に拳銃を渡して、敵を撃たせるわけにはいかない。  先任士官の草刈と、船長の許可を求めなければいけないのだが、二等運転士はちょっと考えて、そうしなかった。  どうせ殺されるのだ……という気持ちが、なかったと言えば嘘になる。  射撃訓練で、本船に積んである銃器を、一応全部、試射してみた二等運転士だったが、拳銃はまるで標的に当たらなかった。  ましてや今は洋上のうねりに揺られている、足場の悪い救命艇の中から撃って、十間(約十八メートル)も離れたところにある、細い棒の先の直径五寸(約十五センチ)ほどの潜望鏡の硝子を撃って壊せるとも思えない。  むしろ拳銃ではなくて散弾銃なら、あの憎らしい潜望鏡を壊せるかもしれないと、二等運転士は思った。 「六発籠めてあるけど、予備の弾丸は、草刈さんが持っている」  と言いながら二等運転士は、腹の前に差してあった大型の拳銃を、抜き出して皆川に渡す。  撃たせてやろう。もし当たればいくらかでも溜飲が下がる……と思った。 「六発あれば、大丈夫でしょう」  普段は地味で目立たない皆川だったが、拳銃を慣れた所作で扱って、弾丸の入った輪胴を横に振り出して確かめていたりすると、何か権威に満ちて大きく見えた。 「大丈夫って、お前、ここから撃って、あの小さな的に弾丸を当てるって言うのか」  隣でオールを引いていた火夫の木島八十八が訊くと、皆川は黙って頷いて二等運転士に、ペコリと頭をひとつ下げて見せる。  我儘《わがまま》を聞いてくれたことを感謝して、頭を下げたのに違いなかった。  見事に命中させても外しても、二等運転士は先任士官の草刈や船長に、叱られることはあっても褒められることは、まず絶対に考えられない。  もし生き残っても、船乗りとして出世の止まるようなことだったし、上司の虫の居所が悪ければ、職を失っても不思議はないようなことだった。  二等運転士は、ラボリュー号がやって来るまでは、Uボートの奴、ずっとああしているのだから、慌てずに良く狙って当てろと呟く。  皆川はオールを八十八に預けると、頷きながら立ちあがって、肘を曲げて脇腹に軽く当てると大型の回転式拳銃の銃身を暗い海に向けた。  肘を伸して片目をつぶって狙うものとばかり思っていた二等運転士が、「あッ」と低い声をあげたのに、安心しろ……と言うように皆川は、軽く頷いて見せたのだ。  どうしたのだろう。俺はなぜ皆川に拳銃を渡したのだろうと、その時あらためて二等運転士は思った。  本船に魚雷を喰らわせたUボートが、憎らしくて堪えられなかったこともあるが、それなら皆川に撃たせずに、自分でやれば、多分当たらずに草刈に怒られるだけだろうが、その方がいっそ始末がいい。  それにしても、あの皆川の構えはなんだ、腰の辺りに拳銃があったのでは、狙いがつくわけがない……と、二等運転士は頭の中が熱くなった。  新開地の映画館で見た西部劇でも、遠くを狙う時は腕を真っ直ぐ伸して、片目をつむって狙うのだから、皆川も気を落ちつけているところで、これからそうするのに違いない。  随分、慣れた手つきだったし、それに余程の自信がなければ、いくら皆殺しにされるのがほぼ予測されているといっても、こんなUボートを怒らせて他人に迷惑が確実にかかることを、言い出せるものではないと、二等運転士は思った。  このボーイをしている皆川が、誰よりも散髪の腕がよくて、半端な床屋より断然上手だということは、自分は刈ってもらったことはなくても、噂で二等運転士は良く知っていた。  しかし拳銃のことは、何も聞いていない。  多分当たらないだろう。当たるわけがないと二等運転士は思った。  その時、皆川はいきなり左の掌を手刀にして、右手に握って腰のところに構えていた拳銃に、続けて何度も振り降ろす。 「ダンッ、ダッダッダッ。ダダンッ」  ものの三秒もかからずに、皆川は六発の拳銃弾を撃ち尽くした。  連続発射した黒煙は、一瞬、皆川の細い身体を包み込んで、すぐ東風が吹き飛ばしてくれる。 「カンッ、カンッ」  六発続けざまに撃ったうち、終わりの二発が見事に潜望鏡に命中して、「カシャン」という硝子が割れる音まで、確かに聞こえて来た。  皆川はうねりに持ちあげられて、横揺れしている救命艇が、停止した瞬間を選んで拳銃を腰だめにしたまま、一気に六発、続けて発射して、そのうち最後の二発を、憎いUボートの潜望鏡に見事に当てたのだ。  まだ銃口から黒い煙の出ている大型拳銃を撃ち終わったそのままのところで、皆川はクルクルとまわして見せる。 「出過ぎたことしちまって、本当に御迷惑をかけました。二等運転士《セカンド・メイト》……」  と言って、皆川は頭を下げた。 「ヤッタッ」 「凄げえ」 「ザマーミヤガレ、Uボートめ……」  救命艇からは、歓声と拍手が沸きあがる。 「あれはファニングって撃ち方で、話には聞いていたけど、アメリカ人の僕でも初めて見たというのだから、驚いたぜ」  同じ救命艇に乗っていたアメリカ青年が、大きな声で叫んだ。  シングル・アクションという回転式拳銃だと、一発撃つ毎に撃鉄を起こさなければならない。  普通は拳銃を握っている手の親指で、撃鉄を起こすのだが、何とかもっと早く連発したいと思って、考え出されたのがこのファニングという手なのだとアメリカ青年は大声で説明した。  左の掌を手刀のように、右手に握った拳銃の撃鉄に叩きつけて起こし、それに合わせて引き鉄《がね》を絞って速射する。  ワイアット・アープ……と言って、アメリカ青年は周囲の乗客に、知っているかと訊いたが、目の合った者は皆、かぶりを振って知らないと答えた。 「まあいいや、けど、このファニングって手は、このアープ兄弟が有名なんだ」  青年は興奮して、アメリカ南部であった、この曲撃ちの名手アープ兄弟とクラントン一家が、馬囲いの中でやった血闘の話を始めたけれど、相槌を打って聞いていたのは、イギリス人の老婆だけだった。  他の五隻の救命艇に乗っていた者は、乗客も乗組もほとんどが、潜望鏡を壊されたUボートの怒りを怖れて、顔を青ざめさせている。  西部の荒くれの喧嘩どころの話ではなかった。 「お前、どこで、こんなことを覚えたんだ」  真逆《まさか》と思った皆川が、六発撃って二発まで見事に潜望鏡に当てて見せた妙技に、二等運転士はびっくりして訊いた。 「自分は丸五年間、大東京曲馬団《サーカス》で拳銃の曲撃ちをしていました」  答えながら皆川は、銀色のタキシードに身を固めた自分が、楽師達の演奏するジャズと太鼓の音に合わせて、舞台の端に脚立を置き、その上に並べたビール瓶を、撃ち落としてお客の拍手を浴びていた頃のことを想い出していた。  どんな拳銃でも、得意の扇撃ち《フアニング》の最初の一発の飛び具合で、癖を見極めると、すぐ狙いを修正して二発目では、的に撃ち当てたものだ。  それが月夜とは言っても、足もとの揺れる救命艇の上で、標的は暗い海のうねりの間にある。  皆川は良く睨み据えて、潜望鏡のキラリと光る硝子が、こちらを向いた時に扇撃ちを始めたのだ。  一発目は闇の中に消え、二発、三発、四発と探るように放ったが、いずれもどこへ飛んで行ったものか分からない。  五発目が当たって、カシャンと音がした時は、嬉しくて頭の中が熱くなった。  もうこれで、怒って浮上して来たUボートに、撃ち殺されても、往生してくたばれると皆川は思った。  他の乗組や乗客も、遅かれ早かれ殺されると決まっていて、逃れようもまずないのだから、この上は浮上して来たUボートの、司令塔や甲板に出て来たドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》を、ひとりでも多く道連れにしてやりたい。  予備の弾丸をたっぷり欲しいと、皆川は目を光らせた。  先についていたレンズを、拳銃弾で割られた潜望鏡は、いつの間にかうねりの中に消えている。  覗いていたドイツ野郎は、さぞかし驚いて慌てただろうと思ったら、気味が良くて堪らない。  それにしても怒って浮上して来るだろうから、その前にたっぷり拳銃弾が欲しいと、皆川は思った。 「二等運転士《セカンド・メイト》、弾丸を下さい。浮上して来たのを撃ちまくってやります」  救命艇の乗客と乗組を皆殺しにしようとすれば、Uボートの使うのは、司令塔の上に装着する機関銃だ。  五インチ砲で撃つほどの大きさではないし、真逆《まさか》救命艇に魚形水雷は使うまい。  司令塔の中から上半身を出すだけのドイツ水兵だから、木製の救命艇の中で全身を曝しているこちらは武器も小銃や拳銃だし、相手は機関銃なので、圧倒的に分が悪いが、やりようでどうにかなるかもしれないと、喧嘩慣れした藤本大吉は思った。  藤本大吉は神戸港の沖仲仕で、ロンドン港の荷役を学びに行っていた男だ。  こんな大がかりな機関銃を相手の喧嘩は初めてだが、修羅場の場数は数え切れないほど踏んでいる。  六隻の救命艇の艇長に分けて持たせている散弾銃やライフル、それに拳銃で、司令塔の上に装着しようとする機関銃に、狙いを定めて撃てば、Uボートは手子摺《てこず》るに違いない。  それにUボートが、救命艇に体当たりして沈めようと思って近づいてくれば、散弾やライフル弾ならUボートの艇体にかなりな穴を開ける。  潜水艇の艇体は全体にかかる水圧には耐えても、弾丸には弱いのだ。  皆の撃つ弾丸を司令塔に集めれば、そうむざむざと機関銃で皆殺しになるわけはない。  それにこの、以前は曲馬団で曲撃ちをしていたという中年のボーイは、射撃の名人であることを、たった今、Uボートの潜望鏡のレンズを見事に撃ち抜いて見せて証明した。  藤本大吉は立ちあがると、口に両手をメガホンのように当てて、先頭の救命艇の艇首に立っている草刈に向かって叫んだ。 「浮上して来たUボートの、司令塔につけようとする機関銃に、砲火を集中しましょう」  草刈の考えていたことと同じだった。  潜望鏡を覗いていた艇長は、皆川の撃った拳銃弾がレンズを割ったのに驚いて、目を押さえて後ろに弾け飛んだ。 「急速潜行ッ」  何でも異変があると、森に居る栗鼠《りす》は木の巣穴に飛び込むのだが、Uボートの乗組も臆病な小動物に似ていて、何か危険を感じると取りあえず海の底に潜る。  レンズを割られた潜望鏡から海水がしたたるのを、砲術長と水兵が布を詰めた上を革ベルトで縛って止めた。 「畜生、黄色い猿はライフルで撃ちやがった」  悪賢い狐のように夜目が利くと、艇長は髭を震わせて罵る。 「どのくらい救命艇から離れていたんです」  と訊きながら、砲術長は潜望鏡の中から取り出した銃弾を、掌の上で転がしていた。 「二十メートルぐらいあったし、なんと言っても夜だし揺れる小舟の中にいる猿だ。潜望鏡を狙って撃つなんて、そんなことやってみるのは、矢張り猿だ、人間じゃない」  潜望鏡を壊された艇長は、怒り狂って叫ぶと、右の拳骨を固めて左の掌に叩きつける。 「艇長、こりゃあ驚いた。誰が撃ったのか……。この銃弾はライフルじゃありません。なんと拳銃のですよ」  拳銃で潜望鏡を壊した猿は、もしかすると五インチ砲を撃たしたら、自分より上手いかも知れないと言って、砲術長はカラカラと笑った。 「浮上ッ、司令塔の上部だけ海面に出せ。機関銃の装着準備。浮上したらただちに銃手と見張りは配置につけ」  艇長は笑い続ける砲術長に構わず、命令を叫びたてる。  狭い艇内に艇長の怒声が響き渡って、水兵達は耳を押さえることもならずに、眉の間に皺を寄せて耐えた。 「見張りは四方に目を配れ。救命艇の方にばかり気を取られて、アレキサンドリアかポートサイドからやって来る軍艦を見逃すな」  艇長は、その軍艦も撃沈してやるのだと喚きたてる。いったん海面下深く潜ったUボートは、艇長の号令と共に、舳先から先に浮上して、司令塔の先端だけ出した。  すぐハッチが開けられて、水兵がラッタルを駆け昇って機関銃を装着し始める。  一方、六隻の救命艇では、Uボートの浮上するのに備えて、それまで各艇の艇長が持っていた銃器を、腕に覚えのある者を選んで渡していた。  草刈の救命艇では、元イギリス陸軍の歩兵曹長だったというトンプソンが、ライフルを持って舳先に立っている。 「ドイツ野郎が顔を出したわ。皆さん撃つのよ」  月明かりの海面を指差して、イギリス女が絶叫した。  二番目の救命艇では、日露戦争で旅順を攻めた部隊の生き残りだという、船庫番《ストーキー》の小俣兵介が、散弾銃を抱いて立っている。  三番目の救命艇には、渡された弾丸を籠めた拳銃を握った皆川が、四番目の救命艇はカリフォルニアの牧場で、二年間カウ・ボーイをしたというアメリカ青年。五番目の救命艇では、父親に連れられて鴨撃ちによく行ったという三等運転士の大河原が、散弾銃の台尻を肩に当てていた。  そして最後の救命艇では、「何も訊かないで欲しい。けど若い頃から撃ち慣れている……」と言ったイタリア系のアメリカ人、ジェノヴェーゼが、自前の回転式拳銃を握って火の消えた短い葉巻を銜《くわ》えて舳先に立っている。 「お前ヤクザなのか……」  と訊いた小泉誠太に、ジェノヴェーゼはなめし革のような顔の表情を動かさずに、黙って頷いて、暫く経ってから、 「ほんの三年前までは……」  と呟いたのだった。  目をこらして月明かりの海面に、先だけ出しているUボートの司令塔を見たら、水兵が忙しく機関銃を装着して、今まさに弾倉を取り付けようとしている。 「撃てーッ」  草刈は最後尾の救命艇まで聞こえるような大声で、そう命令した。  二番目の救命艇に立っていた船庫番《ストーキー》の小俣と、五番目の救命艇にいた三等運転士の大河原は、もっと近づくのを待って散弾銃を撃たなかったが、一挺のライフルと三挺の拳銃が草刈の号令と同時に、一斉に火を噴いた。  こんどは皆川も腕を真っ直ぐに伸ばして、一発ずつ右の親指で撃鉄を起こしながら撃っている。  イギリス陸軍中尉の若妻ケイト・マスタスンは、救命艇の中で頭を下げて祈っていた。 「神様、貴方様は、お創りになった人間に、どうしてこんな殺し合いをおさせになるのでしょう。愛を、愛をお恵み下さい。  御自分のお創りになった者へ、ほんの少しの愛をお与え下さい。罰ばかりではなく……」  草刈の号令で救命艇のオールは止まっていたが、惰性でゆっくりとUボートの司令塔は近づいて来る。 「ズドッ、ズドッ」  それまで胸に抱えていた散弾銃を、船庫番の小俣は台尻を肩に当てると、続けて二発、撃った。  弾倉をつけ終わって銃口を救命艇に向けたUボートの機関銃手は、ふたりとも手を離すと、ひとりは両手を顔に当て、もうひとりは月を掴もうとでもするように、上に伸ばすと背をそらせた。  そしてゆっくり司令塔の中に崩れ落ちる。  小俣が散弾銃を折って手早く弾丸を籠め直していると、またふたり水兵が司令塔の中に現れて、機関銃にとりつく。  そこを、大河原の散弾銃と、皆川の拳銃とトンプソンのライフルがとらえた。  銃弾を顔面に喰ったドイツ水兵の絶叫が、暗い海面を伝って聞こえて来る。  この世の終わりか、生を与えた神への呪いのように、事務長の河田には聞こえた。 「ね貴方、いっしょに祈って……」  ケイト・マスタスンが白くて細い指を、河田の膝にかける。 「俺の分も祈っておくれケイト。俺には任務がある」  そう答えた河田の言葉を、すぐ斜め前に坐っていたイギリス人の老婆が、 「ケイト……」  と、名前で呼んだことを咎める口調で呟いた。  事務長と乗客の間柄だと、ミセス・マスタスンと呼ばなければいけない。 「構やしませんよ河田さん。その若奥さんにキスしておやんなさい。今のところはなんとか喰い止めてるけど、いずれ皆、撃ち殺されちまうんでさ……」  山野熊五郎がそう言うと、フランス人のクレイが、何と言ったのかと河田に尋ねた。  すぐには答えようがなくて、目を白黒させた河田の膝を、ケイトはためらわずに掌を開いて、しっかりと掴む。イギリス人の老婆は、顔を近づけてそれを見ると、 「フヘエーッ」  と息を漏らし、クレイは穏やかな笑顔で、ケイトに片目をつむって見せる。 「ズドッ、ズドッ」  船庫番の小俣が、また散弾銃を撃つと、 「この距離なら自分と三等運転士《サード・メイト》にまかせなさい。弾丸を大事にしなきゃいけない。フランス野郎はなかなか来ないから長丁場になる」  と叫んだのが草刈に聞こえた。 「ライフルと拳銃は、撃ち方やめ。散弾銃の射程が届かなくなったら、また撃つように」  散弾銃は、ただでさえ射程が短いのに、小俣の持っていたのは、銃身を短くしてある暴徒鎮圧に使う奴だ。  散弾銃《ショツト・ガン》と言うよりむしろ暴徒鎮圧銃《リオツト・ガン》という銃で、近距離だと凄まじい威力を発揮して、一発で数人を撃ち倒す。  西部劇で保安官が暴徒を相手にする時、使う銃だ。  そんな特殊な銃だから、小俣は救命艇とUボートの司令塔まで離れている間は、撃たずにいたのだが、接近したら絶大な威力を見せた。  小俣が撃つ度にUボートの司令塔は、カンカンと音を発《た》て、ドイツ水兵の泣き喚く声が聞こえて来る。  顔をあげたケイトに、アレキサンドリアの街の灯が見えた。  飛び込んだらすぐ泳ぎつけそうに思えたので、河田の膝を掴んでいた指に力を籠めて、ケイトは訊いた。 「貴方、あそこまで泳げないかしら……」 16 フランス海軍万歳  必死に撃つ救命艇の銃弾に、Uボートの司令塔では、ハッキリは分からないが五、六人の水夫が、胸から上を撃たれた。 「畜生ッ、黄色くて薄汚ない猿め。見失わない程度に救命艇から離れるんだ」  小俣の撃った散弾で、耳たぶを千切られた艇長に代わって、砲術長がハッチの中に向かって叫んだ。  司令塔のまわりに、胸の高さまで張ってある鉄板は、この距離なら銃弾を通さない。  砲術長は制帽を散弾銃の弾丸で、暗い海に飛ばされてしまって、栗色の髪の毛が焦げ臭くなったのを押えながら、大声で叫んだ。 「機関銃手の交代は、充分距離を取るまで登って来るな。針路東南東、最微速前進」  Uボートの司令塔は月明かりの海面を、少しずつ救命艇から離れて行く。  遂に一発も発射出来なかった機関銃は、銃身を司令塔の外に、ダラリと下げて台尻を突きあげている。  砲術長は月明かりに目立つ明るい栗色の毛と、それに目だけを司令塔から出していた。 「おい、船庫番《ストーキー》、もうその鉄砲じゃあ、あの赤毛を仕留めるのは無理だろう。  オーイ皆川、十円賭けてあいつを六発で仏さんにしてみないか……」  山野熊五郎が、だんだん遠ざかって行く司令塔を見ながら叫んだ。 「十円が五十円でも、釜焚きの小遣いは俺のもんだぜ……」  頬で笑って言いながら、細身の皆川はそれまで下げていた腕を曲げて、スッと拳銃を腰に当てると、薄い胸に息を吸い込む。 「合点だ。その十円受けた……」  と叫びざま、また左手を手刀にして、右手に握っていた拳銃の撃鉄を叩こうとした時、二等運転士が鋭い声で叫んだ。 「皆川ッ、やめろ」  逃げて行く相手を撃つな……、無用の殺生をすると、後生が悪いと怒鳴られて、皆川は銃口を下げて起こしてあった撃鉄を静かに戻した。 「右舷一時三十分、灯火が近づきます」  二番目の救命艇に乗っていた水夫の倉田英輔の声が、最後尾の救命艇にまで響く。  六隻の救命艇から、乗客と乗組の漏らした声が、どよめきになって沸きあがる。 「フランスのグズめ、やっと来た」 「間違いないわ、ラボリュー号よ」 「あの航海灯は軍艦だ」  山脇船長はツァイス社製の双眼鏡で、遠くの暗い海に見えた灯火を、ジッと見詰めた。  水夫の倉田が言ったとおり、並んでふたつ光っている、小さくて頼りにならないか細い灯火は、見詰めているうちに少しずつ近づいて来る。  皆が待ち受けているフランス海軍の海防艦《フリゲート》ラボリュー号であってくれと、思わず山脇船長は両目をつむった。 「船長、灯火はどんどん近づきます」  草刈の弾んだ声が聞こえて来た。  真っ直ぐこちらに向かってやって来るのが、もう肉眼でもハッキリ分かったので、乗客は腰を浮かせて歓声をあげる。  クレイが立ち上がって顎を引くと、胸を張って「ラ・マルセイエーズ」を細身に似合わぬ太い声で、朗々と唱い出した。  フランス人の乗客は全員立ち上がって、誇らかにフランス国歌を唱い始める。  他の乗客も近づいて来るラボリュー号に喜んで、大声をあげてひとりが手を叩くと、皆一斉に拍手をした。  月明かりの下で、どの顔も喜びに輝いている。  インド人の少女は、坐ったまま背を伸して近づいて来る灯火を見ているうちに、涙が溢れ出して、両方の頬を流れ落ちて止まらない。  夜の海に、舳先が月明かりに白い飛沫をあげているのが見えるようになって、乗客達は口々に叫び、隣に坐った同士は肩を抱き合ったり、手を握り合ったりしている。  Uボートはうねりの中を射程の外に遠ざかって、双眼鏡で見ると時々司令塔の先だけ出しているのが見えたが、肉眼ではまず余程注意しないと無理だろう。  乗客達は銃声がやんだこともあって、Uボートのことは気にもかけず、今は近づいて来るラボリュー号しか見ていない。  救助に駆けつけて来たフランス海軍の海防艦を見た途端に、乗客のほとんどが、今迄の恐怖が歓びに変わって、救かったと思い込んでしまったのは、それまでの絶望的な事態の反動だろう。  しかし数は少なかったが経験の深い男達は、喜んではいたものの、まだUボートの脅威が去ったとは少しも思っていなかった。  救助に来る軍艦も撃沈しようとして、救命艇のすぐそばの海面下に潜んでいたUボートが、突然、潜望鏡を壊されたので逆上して、すぐ浮上したのが軽率で、小火器の射程内だったから痛い目に遭わされたのだ。  潜望鏡が壊された時、そのまま浮上せずに、充分距離をとっていれば、司令塔に装着した機関銃で簡単に皆殺しに出来ただろう。  辛うじてライフルは届いただろうが、散弾銃と拳銃は、五十メートルも離れれば何の役にも立たない。  ラボリュー号は素晴らしいスピードで、やって来てくれたけれど、Uボートの危険は去ってなんかいないのだ。  思いがけず痛い目に遭わされただけ、闘志と復讐心に燃えているに違いない。  潜望鏡の使えないUボートは、司令塔を海面から出して、真っ直ぐやって来るラボリュー号に艇首を向ける位置を取ると、八坂丸にやったように、四本の魚形水雷をいちどきに発射するつもりだ。  喜ぶ乗客の中で、山脇船長は腕組みをして近づいて来るラボリュー号の灯火を見詰めていた。 「無線局長、発光信号、“貴艦の左舷前方にUボート待ち伏せす。危険、Uボートあり”……。局長、“危険、Uボートあり”を繰り返せ」  足立は手提げランプを水夫に持たせて、遮光板を開閉させて信号を送る。  暗い海をやって来るラボリュー号を、息を詰めて必死の想いで見詰めるうちに、段々大きくなって明るさを増した航海灯の間から、チカチカチカと信号して来るのが見えた。 「気がついた」  山脇船長は肩の力が抜けて、大きく息を吸い込んだ。  ラボリュー号は発光信号を続けながら、それまでのコースを変えずに、威勢よく、まっしぐらにやって来る。  今では舳先の飛ばす白い波の他に、うっすらと艦橋やマストも見えるほど、近づいて来ていた。  おそらく全速力を出しているのだろう。  目をこらすと、激しく縦揺れ《ピツチング》しているのが分かる。 「安心しろ、フランス海軍のラボリュー号が救けに来たぞ。もうほんのちょっとで、淹《い》れたてのコーヒーか、温めたコニャックを御馳走してあげる。もう大丈夫だ、安心しろ」  足立がラボリュー号の信号を読み取って、アルファベットを叫ぶと、 「なんだ、フランス語かと思ったら、英語だ」  そう言って苦笑した河田が、すぐ日本語に直して、草刈と山脇船長に大声で怒鳴った。 「なんてことだ。俺達の信号をまるで分かってはいないぞ」  山脇船長は呆れて足立に、「Uボートあり、危険」と、発信を続けろと言おうとしたのだが、足立は命令されるまでもなく、ずっと船長の命令どおり繰り返し続けていた。 「総員二百八十二人のうち、生存者は何名か。重傷者を励ましてやれ。もう大丈夫だ。キミ達は神とフランス海軍が救けたぞ」  河田の声が段々と語尾が小さくなってしまう。 「チョッ。何を太平楽なことを……」  足立の額から汗の玉が弾け飛ぶ。  ラボリュー号は、救命艇からの発光信号を認めたことは確かだが、どうやら内容は読み取ろうとしないようだ。  Uボートに撃沈された八坂丸の生き残りが、救命艇で漂流しているのを知ったら、それだけで充分で、誰も繰り返されている信号を解読しようとは思いもしないで、勇み立って、全速力で威勢よくやって来る。 「オッチョコチョイの酔っ払い共め」  事態を察したイギリス人のマカラが、救命艇の底を踏み鳴らして罵った。 「本当にあの連中は、昼間からワインを呑んで頭の中は女の尻だけなんだ」  味方にしたのが間違いだ……と、トンプソンが舌打ちする。 「お黙んなさいイギリスの蛙ども。ラボリュー号の艦長は、あの憎らしいUボートに、たっぷり爆弾を投げつけるわ。真っしぐらに兎に襲いかかる鷹のようにやって来て、ドイツの野蛮人を挽き肉のようにするんだわ……」  商売女だということを、マルセイユで乗り込んでから隠しもしなかった年増のフランス女が、訛の強い英語でまくしたてた。 「蛙だと、この淫売め、口を慎め」  わしのものを牝犬のように舐めたくせに、何を言うのだとイギリス人の缶詰屋がわめく。 「御飯の時にワインを呑まずに水を呑むのは、蛙とイギリス人だけよ。わしのものをなんて一人前なことを言いなさんな。仔猫の尻尾の先ほどで耳たぶより軟らかいんだから。小学生の時に神様の罰を受けたのに違いないわ。フランスなら村祭りの見世物だよ」  マダム、少年の前だから気を静めて言葉を慎みなさいと、クレイが笑いながら言う。  ただでさえ歳より若く見える日本人だから、数えで十五歳の見習調理人の竹下は、ヨーロッパ人からは少年としか見えない。 「安心しろ、大丈夫だ。フランス海軍のラボリュー号が救けに来たぞ」  と、そればかり繰り返しながら、海防艦《フリゲート》は月明かりの下を全速力で、颯爽《さつそう》と無邪気にやって来る。  航海灯の他に明るい探照灯をふたつも点けて、真っしぐらに波を蹴り立ててラボリュー号は近づいて来る。 「船長ッ、こっちの信号をまるで読んでくれません。照明弾を打ちあげて手旗信号をやりましょう」  足立が遮光板を開閉して、「危険、Uボートあり」と発光信号を繰り返しながら叫んだ。 「届かなくてもいいから、Uボートに向かって銃を撃ったらどうでしょう。フランス人も気がつくかもしれない」  小泉誠太の野太い声がした。  救命艇から百メートル以上も離れたところで、Uボートの司令塔がうねりの間で見えがくれしている。  艇首はうねりの下で、近づいて来るラボリュー号に向けている筈だ。  漂流している八坂丸の生存者を発見した途端に、勇み立って他のことは全て念頭になくなってしまったのは、フランス人のラテンの血がさせたことだろうが、これではナポレオン亡きあと、一度も戦争に勝てないのも当たり前だと、山脇船長は呆れ果てて苦笑してしまう。このままでは、もう何分もしないうちに、Uボートの魚形水雷を喰らって、撃沈させられるに決まっている。  何とかして、この無邪気で警戒心の欠如している陽気な連中に、復讐心を煮えたぎらせてうねりの下に潜んでいるUボートのことを、知らせなければならない。  なんでもやってみようと、山脇船長は思った。 「ああ、美しいフランスの軍艦が、私達と罰当たりの蛙共まで助けようと、凄い勢いでやって来る。ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》の四角い頭に爆弾を喰らわせて地獄にやるわ……」  年増女が恍惚として唱うように叫んだ。 「マダム、爆弾ではなく爆雷です」  アメリカ人の青年が、大声で言うと、イギリス人の男達は、ここぞとばかりにあざ笑う。 「そんな詰らないことばかり言っているから、あんたは十ドルも払って、六十秒も楽しめないのさ。嫁に逃げられて泣くことになるよ」  金髪の青年は淡い月明かりの下でも分かるほど顔を赤くすると、すぐ負けずに怒鳴り返した。 「あの若い男は何か汚いことを言ったらしいが、私には少し聞きとれなかった。事務長、何と言ったのですか」  クレイが河田に顔を寄せて、小さな声で言って片目をつむって見せる。  いくら小さな声でも、八坂丸の事務長たる者が「汚れた尻の穴め」とか「牝犬の私生児め」なんて、言えたものではなかった。  真っ赤な顔をして怒ったアメリカ青年は、「尻を舐める淫売犬」とも喚いたのだが、いずれにしてもフランスの男爵閣下に、申しあげるようなことではない。 「さ、自分にも聞きとれませんでした」  日本郵船の誇る優秀な事務長は、ちょっと肩をすくめてそう答えた。 「何を下種《げ す》なことを喚き合っているんだ。今しなければいけないことは、近づいて来るフランス軍艦に、Uボートが潜んでいることを気づかせることだ。たわけもん」  王城勇民が英語とフランス語で叱りつけると、 「Uボートが……潜んでいる……」  呻いたイギリスの老婦人が、坐ったまま背を後ろに倒して失神する。  反射的に手を伸して支えた火夫の木島八十八は、どうしてよいか分からず、目をまん丸にすると口をパクパクさせたのが、こんな事態だというのに、堪らなくおかしかったので、周囲にいた者が声をたてて笑い出した。 「ヨシ足立君、照明弾を打ちあげろ」  船長が言うと、足立は照明弾を発射する拳銃を両手で握って月に向かって伸す。 「ズドッ」  白い煙を曳いた照明弾は暗い空に駆け昇って行くと、はるか上空で破裂して、まばゆい光を発した。  空は霞がかかったように明るくなり、海面まで届いた光は、うねりを鈍い色で浮きあがらせる。  Uボートの司令塔がうねりの間に見えた。  落下傘の開いた照明弾は、揺れながら燃え続けて上空を漂っていた。  花火のような光の粒が、海面に降りそそぐ。 「ラボリュー号ッ、あっちに、ホラ、Uボートが隠れてるわよーッ」  まだとても叫んで聞こえる距離ではなかったが、それまでイギリス人の男とアメリカ青年を毒づいていたフランスの年増女は、立ちあがって叫んだ。  足立も照明弾が辺りを明るくすると、すぐ両手に握った信号旗を振って、手旗信号を送っている。 「Uボートあり、危険、注意、Uボートあり……」  照明弾の照らし出した海面に、Uボートの司令塔が覗いていたのを、ラボリュー号は遂に気がついたらしい。  それまで救命艇に向かって、まっしぐらにやって来ていたのが、左舷に転舵した。  舳先と艦橋しか見えなかったのが、転舵したので段々と艦尾まで見えるようになった。 「やった。フランス人はUボートに気がついた」 「あんな勇ましいフランス人は、パリで見た芝居だけだった。頑張れ」  イギリス人の乗客は拳骨を突きあげて、口々に叫んだ。 「凄い、あの軍艦は、Uボートをやっつけるつもりだ」  アメリカ青年が叫ぶと、玉城勇民が、 「当たり前だろう、軍艦に軍人が乗ってるんだから……」  と、醒めた声で呟いたので、周囲に居た日本人の乗客が、控え目な笑い声を漏らした。  転舵したラボリュー号が、自分の方に向かって来るのを見たUボートは、司令塔の上に居た者が中に姿を消すと、すぐ潜水したらしい。  目をこらしても、司令塔の見えていた辺りには何も見えなかった。 「潜望鏡が壊れていれば、魚形水雷も撃てないだろう」  草刈が呟く。 「浮上して砲撃するのは、海防艦相手ではとても勝ち目がないから、離れたところに司令塔だけ出して、わし達を救助する時に停船したところを狙うしかないだろう」  リゲット船長が、そう話しかけると、山脇船長も、そこが最後の急所だろうと頷いた。  救命艇に向かって艦橋から発光信号を送りながら、ラボリュー号はUボートの司令塔の見えていた海面に向かって、全速力で突っ込んで行く。 「Uボートを攻撃してから、救けに行くぞ。ゆっくり見物していろ、いくら払っても見られないショウだ……」  足立がアルファベットで読みとったのを、河田が日本語に直して伝達する。  こんどはフランス語で送信して来たのがおかしかった。  こんな急な時には、どうしても自国語になってしまうのだろう。 「了解、以後はフランス語で指示されるのも“可”と、送信してくれ」  草刈が足立に叫ぶと、すぐ手旗が忙しく振られる。  ラボリュー号はすぐ発光信号を始めて、艦橋からチカチカさせながら、艦尾から白い煙を出したのが見えた。 「あの煙は、爆雷を発射したんだ」  イギリス海軍の演習を参観した時に見たと、イギリスの缶詰商人が大声で叫んだ。  白い煙を続けて艦尾からあげると、ラボリュー号は発光信号を続けながら、Uボートの司令塔が消えた海面を通り過ぎる。  海面が突然盛りあがると、鈍い爆発音と一緒に白い塔が直立して弾けた。  ラボリュー号が通過した後に、続けて同じ爆発が三回起こって、白い波の塔が照明弾の明かりの下で破裂した、快い衝撃が救命艇に伝わって来る。 「バンザーイ、ラボリュー号ッ、バンザーイ」  日本人の乗客に乗組も混って、万歳の声が響き渡った。  行き過ぎたラボリュー号は急転舵して、また同じコースを突進すると、艦橋の逆側を救命艇に向けたが、発光信号は続けられている。 「爆雷で制圧すると、すぐ救命艇に接近して救助する。救命艇は縦に連結して待て。本艦の右舷に網《ネツト》を垂らす。先頭から二艇ずつ接舷して乗船せよ。微速前進のまま救出するので、老人、負傷者は背中に背負うこと。  乗船の順番を争わず敏速に行動せよ」  発光信号を読み取ったのが伝達されて、草刈はすぐ、集まっていた救命艇を、縦一列に直した。  ラボリュー号は、もう一度四発の爆雷を投じると転舵して、救命艇に舳先を向ける。  潜航したUボートは、繰り返された爆雷攻撃で、撃沈されないまでも制圧されて、深く潜ってしまったに違いなかった。  爆雷攻撃を喰わなければ、少し距離をとって司令塔だけ海面に出して、艇首を救命艇の方に向けて雷撃のチャンスを待っただろうが、今は攻撃どころか、自分が助かるのに必死の筈だ。  艇体が水圧できしむまで深く潜ると、息をひそめて、脅えた目で見えない海面を睨みあげているだろう。  あの爆雷を喰らえば、海の中にいるUボートの乗組は、いくら命知らずでも、生きた心地もしないだろうと山脇船長は思った。  救命艇に向かって全速力でやって来たラボリュー号は、どんどん舳先が大きくなったのだが、なんとそのままでは右舷ではなくて、左舷を救命艇に向けてしまうと草刈は首を捻る。  舳先に立っていたフランス士官が、何か叫んでいるらしくて、大きく口が開いていた。 「あれ、発光信号で右舷を救命艇に接舷すると言って来たのに、これじゃ左舷だ……」  草刈は六隻の救命艇に、既にラボリュー号が右舷を縦列になっている救命艇に接舷する……と伝達してあったから、混乱を怖れて顔をしかめた。  指示されたとおり草刈は、乗組にオールを引かせて、ラボリュー号のやって来るコースに、救命艇の最後尾を向けている。 「フランス人が右も左も分からないのは当たり前さ。だいたいが綺麗も汚いもない人達なんだから……」  誰かイギリス人の乗客が呟くと、その辺りで笑い声がした。  救命艇の左舷側に迫って来たラボリュー号は、舳先に立って艦橋に指示を送っていた八坂丸の士官が、しきりと顔を歪めて叫んだのに、そのままのコースで近づいて来た。  救命艇の列に並びかけた時、あおらないように大分前から減速している。  ラボリュー号は左舷を救命艇に見せて、すぐそばをゆっくり通り過ぎながら、艦橋から上半身を乗り出した士官が、メガホンで叫んだ。 「間違えたんじゃない。予定どおりだ。  一度まわって、本艦の右舷を救命艇の左舷側につける。ロープを四本投げるから、先頭の二艇が二本ずつ取れ。いいな」  分かった、分かったと救命艇の乗組は頷いて見せる。  行き過ぎたラボリュー号は、グルリとまわって右舷を見せながら、救命艇の列の後ろに戻って来る。  ラボリュー号の右舷では水兵が忙しく働いて、舷側に垂らしたネットを固定していた。  舳先からまず一本、ロープが投げられたのを、真ん中の救命艇の乗組が受け取って、先頭の救命艇に手渡しで渡した。  ラボリュー号は最微速で並びかけながら、次々とロープを投げる。 「さ、Uボートが海の底で震えてる間に、どんどん昇っておいで、濡れ鼠ちゃん……」  高い舷側の上から救命艇を見降ろしたフランス水兵は、陽気な声で叫んだ。 「今行くよ、色男ちゃん。あたしの可愛いタネ馬ちゃん」  水商売の年増女が、イギリス人と罵り合う時のおぼつかない英語ではなく、フランス語で嬉しそうに叫ぶ。  艦橋から見降ろしていたラボリュー号の艦長は、作業灯に照らされた救命艇を見て、すぐ隣にいた副長にいぶかしそうな声で言った。 「オッ、随分いるぞ。全部で二百八十二人と聞いていたけど、確かそのうち乗組の方が乗客より多かった……」  Uボートに雷撃されて、無電を打電して来た時間から想像すると、すぐ撃沈されてしまったようだから、まず生存者は半分ほどだと思っていたのに、六隻の救命艇には目勘定でも、もっと大勢乗っている。 「漂流中に繁殖して増えたんですかねえ」  副長はニコリともせずに冗談を言った。 「コーヒーを大釜で作りました」  コック長の声が伝声管から聞こえて来たのに、副長は、自分達のを取っておくのだぞ……と、もし忘れたら軍法会議にかけるような極く厳粛な声で言う。  投げられたロープを、先頭と次の救命艇に乗っていた乗組が、背をそらせて引っ張ったので、最微速で走り続けるラボリュー号の右舷に、救命艇は張りついた。 「前の二隻が乗り移ったら、ロープを後に渡して、二隻目と三隻目の間のロープをほどくんだ。いいな」  ラボリュー号の甲板の上から、覗き込んだ士官が叫ぶと、河田が大声で、 「了解」  と怒鳴り返して、フランス語で復唱する。  フランス士官はそれを聞いて、満足そうな顔で大きく頷いた。  フランス人は例外なく、外国人がフランス語を話すと、それだけで特別な好意を持つ。  たいていどこの国の者でも、他の国の人が自国語を話すと、喜ぶものだが、フランス人はそれがはなはだしい。  ナポレオンが負けて以来、ずっといいところがなく、やっつけられるばかりなので、ひがんでいるのだとイギリス人は簡単に片づけるのだが、どうもそれだけのことではないようだと河田は思う。  日本人やオランダ人は、自国語を流暢に話す外国人を見ると、一応は驚いて賞讃するものの、内心では怪しんで警戒するのだから、国民性の違いというものは複雑でデリケートなのだ。  客船の事務長は、どんな国の乗客が乗船して来るか分からないのだから、同じ外国人に接する職業でも、外交官とは比較にならないほど難しい。  下から見上げると、ラボリュー号の舷側は黒い断崖のように、そそり立っていた。  甲板にとりつけられたライトが、ラボリュー号の舷側を照らしている。  救命艇の舳先と艇尾に立った乗組が、投げられたロープを一本ずつ握って、背をそらせて引っ張っていた。  救命艇のへりに立ったふたりの乗組が、垂れているネットを掴んでいる。 「御婦人と御老人は、恥ずかしがらずに乗組の背に背負われて下さい。緊急時です」  草刈が大声で言ったのを、河田がフランス語で叫んだ。  普段から軽く足を引き摺って歩くクレイは何かしきりにねぎらいながら、裸の熊五郎の児雷也《じらいや》が彫ってある背中に、そっとおおいかぶさった。  しゃがんでいた熊五郎は、無雑作に立ちあがると、しっかり掴まっておいでなさいと声をかけて、救命艇のへりまで行ってネットを掴んだ。  腕に力瘤が盛りあがると、熊五郎は、足は爪先をネットにかけるだけで、両腕の力を使って、休まずにグイグイ昇って行く。  クレイは熊五郎の首にしがみついて、身体を伸ばすと足も揃えて垂らしている。  甲板に近づくと上から水兵の腕が伸びて、何も掴むものを着ていないのに、一瞬とまどったものの、すぐ熊五郎の腕を握ると、抜きあげるように引き揚げた。 「おねがいね、あなた……」  ケイトが喉の詰まったような声で、しゃがんで背を向けている河田に言う。  ケイトは腕を伸ばして河田の首にまわしたのだが、足はそのままで救命艇の底についていた。  子供をおんぶする習慣がないから、ケイトもクレイと同じように、足は伸ばしたままで、男の首にぶら下がるつもりでいる。 「足を私の胴に巻くんです」  立ちあがりながら河田が言うと、ケイトは何か恥ずかしそうに呟きながら足をあげると両側に開いて、男の腰を腿《もも》で挟むと下腹を踵で押さえた。  立ちあがった河田は、揺れる救命艇の中を慎重に、足を踏みしめて歩くと、上体を倒してネットを掴んだ。  足をネットに踏んばって、河田は一歩ずつよじ登って行く。  ケイトは自分の身体が伸びて、ずり下がってしまったのを、河田の首に巻いていた腕に力を入れると、開いて男の腰を挟んでいた脚を、腰をゆすって上にあげようとした。 17 助かった 全員無事だ  幅が二十メートルほどもあるネットを、何人もよじ登っている。  誰も背負っていない身軽な男が、河田の後から登り出して、すぐ横に並ぶと英語で声をかけた。 「ミセス・マスタスン、貴女だけは楽しんでいるように見えますよ。夜でよかった。うるさい連中の目にとまらないから……」  素敵なお尻を押そうか……と、皮肉な声で言ったのに、ケイトは目をつむって河田の首筋に頬を押しつけたまま、何も答えない。  男は何か呟きながら、どんどんネットを手繰って登っていってしまった。  このネットを登り切って、ラボリュー号の甲板に着けば、もうこの男と愛し合うことは勿論、触れ合うこともないだろうと思うと、ケイトは胸が潰れる想いでつむった目から涙が溢れそうになる。  この男をこんなに愛してしまったのは、危険な航海だったからだろうか、とケイトは考えていた。  仕方なく乗った日本船が、いつUボートに雷撃されて、地中海の底に沈んでしまうか分からないが、その時にはきっと噂で聞いているように、乗組達は乗客に構わずに逃げてしまうに違いない。  そんな場面で、乗組の士官といい仲になっていれば、他の乗客のように見捨てられずに、一緒に逃げてくれるだろうという考えが、自分の心の底にあったのではないかと、河田の背に身体を預けたケイトは、そんなことを考えていた。  女が自分の身体を男に与えて、安全を得ようとしたことは、数え切れないほど例がある。  あからさまではなく、そんな時、女は自然に愛を隠れミノにするのも、大昔からのことだと思ったのだが、自分がそうだったかなんて、考えて分かるようなことではないと、ケイトは思った。  男前で姿がよく、振る舞いの水際だって鮮やかだった河田に、魅せられたことも確かだったし、愛し合ってみたら心が飛んでしまったほど素晴らしくて、夫も想い出の残る数人の男も、比べようもないほど色褪《あ》せてしまったのだ。  それもUボートに脅えた自分が、男と愛し合うことに没頭して、怖ろしさを忘れようとしたからなのか……とケイトは思って、傾けていた頭を思わず振ってしまう。 「どうしたの、あと半分で登り切るよ。もう少しで軍艦の上だ」  河田はそう言うと、ネットから離した片手をケイトのお尻の下に当てて、ずれ下がった身体を上に押しあげた。  温かい掌と指が下着を通して感じられて、ケイトは堪らず腕と脚に力を籠めて河田を抱きしめたのだが、背中の方からというのが恨めしかった。  華奢な身体を弾ませて、草刈は競技に出場した選手のようにネットを登ると、水兵達が腕を伸ばす間もなく、甲板によじ登ってしまう。そして、甲板に居た士官に向かって叫んだ。 「八坂丸一等運転士、草刈一郎、艦長に申告したいことがあるから、艦橋に行く」  英語だったので士官はちょっと間を置いて、鼻の下の髭も一緒に軽く頷いて見せる。  フランス語だったら嬉しそうに、先に立って案内したに違いない。  フランス人は自分達の言葉に、誇りと強い愛着を持っていて、それが時として漫画的に見える。  草刈は見当をつけて艦橋の下に駆け込むと、タラップを休まずに全速力で登って行った。  艦橋に入って来た細身の東洋人が、いきなり自分の前に立って敬礼したので、ラボリュー号の艦長は驚いて、栗色の睫毛をしばたたくと、目を丸くする。  草刈は構わず名乗ると、英語でよいかと尋ねたので、艦長も頷いて見せた。  草刈は、自分達の射撃で、Uボートの潜望鏡は壊れたと思われると言って、Uボートは司令塔を海面に出して見張りを立てなければ、魚形水雷は発射出来ないだろうと言うと、艦長も大きく頷く。  それで俺達が来るのを、司令塔を出して待っていやがったな……と、艦長がフランス語で横に立っていた副長に言う。  聞くだけなら、このくらいのフランス語なら草刈にも分かる。 「射撃って言っても、せいぜいがライフルだろう。揺れる救命艇の中から撃って、海の中の細い棒に当てられたのかな。壊れているというのを信じて雷撃されたら堪らない……」  副長は難しい顔で言ったのだが、艦長は草刈にその時の様子を、もどかしそうに言葉を探しながら、詳しく訊いた。  そして艦長は、爆雷を喰らわせたUボートが、潜望鏡を壊されているのを確信したらしい。  草刈の手を握って振りまわすと、しきりに賛嘆の言葉を連発して、ブラボーを繰り返したのだ。  爆雷で沈んだのなら、陽が昇れば、浮かんだ重油や浮遊物で分かる。  そうでなかったら徹底的にやっつけると、艦長は吠えた。  その頃、河田は、甲板から伸びた水兵の腕が、もう少しで自分の襟を掴んでくれるところまで、登って来ていて、上を見上げてひと息ついた。 「いくら美人でも背負うと重い」  甲板の水兵は、女を背負って登って来た日本人が、いきなり訛のないフランス語を叫んだので、驚いてから顔をほころばす。  目をつむったケイトは、離れたくない、甲板に着きたくないと思っていた。  先頭の二隻が全員ネットに移って空になると、三番目と結んであったロープが解かれて、ラボリュー号から投げられたロープも手渡されたので、次の二隻がネットに接舷する。  空の二隻は連結していたロープを解かれて、三番目の救命艇に押しのけられると、すぐ離れて暗い海の中に消えて行く。  すぐ次々と救命艇から乗組や乗客がネットにとりついて、ライトの照らす中を甲板に向かってよじ登っていったのだが、早いのもいれば遅いのもいる。  とりついたばかりの乗組の背から、大声をあげながら外国人の老婆が、両手を離してずり落ちた。  ネットの裾を乗組が掴んで引っ張っていたから、救命艇とラボリュー号の間には落ちないで済んだ。  もし落ちていたら、うねりで救命艇はラボリュー号に、寄ったり離れたりを繰り返していたので、助からなかっただろうと思えた。  山脇船長は肝を冷やして、救命艇の中を跳んで行くと、救命艇のへりに腰を降ろして両手を拡げた女の乗客に、しっかりしがみついていられるかと訊く。  もし駄目ならロープを降ろしてもらって、それに縛って引き揚げると言うと、その髪の毛が白いイギリス女は、ちょっと考えてから、もう一度しがみついてみると呟いた。  ロープに縛られて引き揚げられる自分の姿を、想像したからに違いなかったのだが、もう一度背中を向けた乗組に、その女がおおいかぶさったところで、三等機関士が短く切ったロープで縛ってしまう。  くびれているどころか、逆に贅肉《ぜいにく》の盛りあがっている胴だったが、こうしておけばずれても腋《わき》の下で止まる筈だ。  缶詰商人の秘書と称していたイギリスの中年女は、最初から甲板に引き揚げられるまで、木島八十八の背中で喚き続けたので、最後は擦《かす》れ声になっていた。  先に甲板に着いていた缶詰商人の顔を、日本人の乗客達はわざわざ覗き込んで嘲笑したが、ロンドンの貧民窟育ちの初老の男は、どこ吹く風か……といった顔をしている。  唐手遣いの玉城勇民が大声で、 「あんな女を妾にするんじゃ、ロンドンの下町にはロクな女がいないんだな」  と、英語で浴びせた時だけは、貧相な顔を凶悪にして両拳を握りしめた。  ネットに鈴なりになっていたから、前にいる者がとまると、後から登っていた者もとまらなければならない。 「何を一服してるんだ。サッサと登らないか……」  英語で罵ったカルカッタ郵便局次長の毛の薄い頭を、上から黒い足が弾みをつけて踏みつける。  インド人のメイドが、金切声で、足が滑ったので許して下さいと叫んでいた。  少女の横に並んでいた無線局長の足立は、脳天を踵でしたたか打たれたイギリス人が、ネットから手を離して脳天を押えることも出来ずに、顔を歪めて悲鳴をあげると、しきりと粗相を詫びていた少女の頬に、笑いが浮かんだのを見てしまった。  ライトに照らされていた少女は、横で登るのを止めた足立に視線を向けた。  目の合った足立が片目をつむって頷いて見せると、少女はそれまでの蔑みの笑いを、嬉しそうな笑いに変えて、まだ悲鳴を漏らしている禿頭に、馬鹿丁寧な口調で詫びを言う。  足立に向かって、ぎごちなく片目をつむって微笑むと、少女は長い手足を活発に動かして、スルスルと登って行ってしまった。  なんと美しい目をしていたことか……と、足立は止まったまま登って行く少女を魂を抜かれたような顔で、仰ぎ見ていたら、すぐ足もとに迫った水夫長に、それよりサッサと登りなされ……と言われてしまった。  甲板に着いた乗客と乗組は、尻を降ろして坐り込んでいる者もいたし、元気に立ったまま話し合っている者もいた。  若い乗組はラボリュー号の水兵と一緒に、登って来る者を甲板に引き揚げている。  その間を盆に巨きなカップを積みあげたのを持った者と、銀色の縦長の鍋を提げた水兵が忙しそうに歩きまわって、コーヒーを振る舞っていた。  カップを受け取ると、把手《とつて》のついた鍋を提げていた水兵が、柄杓《ひしやく》でミルク・コーヒーを注いでくれる。  裸でうずくまっていた木島八十八が、一杯に満たされたカップを額まであげると、「メルシ、ボクウ」と言ったのを聞いて、水兵は目を見張ってのけぞった。  六尺褌《ふんどし》だけの丸裸で、近づいた時に暫くはカップを渡すのも、コーヒーを注ぐのも忘れて、まじまじと見詰めたほど、圧倒的なデザインの絵を身体に画いてある日本人が、いきなりフランス語で礼を言ったのだから、水兵は仰天した。  絵ではなく刺青だと、丸裸の日本人が訊き返さなくてもいいフランス語で言ったので、水兵はふたりで指で突ついて確かめて、顔を見合わせてしまった。  この男は何でこんな凄い刺青を、全身にしているのだろう。乗客なのか乗組なのか、仕事は何なのかと、訊きたいことは沢山ある。  男は、仕事は釜焚きで、フランス語をいくらか喋るのは、マルセイユに女がいるからだと答えた。  気がつくと、全身に刺青をした裸の男は、この男だけではなく、何人もいるのに水兵は気がついた。  驚いた水兵は柄杓とミルク・コーヒーの入った鍋を提げたまま、フランス語を喋る裸の八十八《やそはち》に頼んで、そばの甲板の隅にひと塊になっていた刺青の男達のところに、一緒に行ってもらった。  気軽に腰をあげた八十八は、ふたりの水兵がコーヒーを釜焚き仲間に振る舞いながら、目を丸くしていろいろ訊くのを、横に立って通訳する。 「このデザインは何だ。ダンサーなのか、この男の彼女は……」 「これは吉祥天女って、つまりそのなんだな、お前さん達の、マグダラのマリアみたいなもんだ」 「なんで釜焚きは、他の水夫《セーラー》と違って、こんな凄い刺青をしているんだ」 「それは……」  と、言って言葉に詰まった八十八は、コーヒーをすすっている仲間に、水兵の質問を日本語で言うと、釜焚き達はそれまでの固い顔をほころばせて笑った。  口々に笑いながら、いろいろ言ったのを聴いた八十八は、 「釜の蓋を開くと、中の炎で照り返って、自分の彫物が釜の前で一瞬、輝くのさ。誰も見てはいなくても、それが心の錦で、俺達はスコップで石炭を釜の中に抛《ほう》り込む」  と、言葉を探しながらフランス語で言う。  水兵はふたり共、頷いたが、そんな日本の釜焚きの心意気が分かったとも思えなかった。  チョコチョコッと彫ったのが刺青で、自分達のように同じひとつの図柄で大きく彫ったのは、彫物と言うのだと言ったら、水兵は大きく……と言ったのだけハッキリと分かったらしい。 「オリモノ……」  と、呟いて釜焚き達を指差した。  皆、機嫌良く暗い甲板の隅で、白い歯を見せて笑ったのに、別な水兵がやって来て、この裸の日本人達が撃沈された日本船の釜焚き達だと聞くと、良くこんなに助かったものだと叫んで、目を丸くする。 「俺達も石炭運び《コロツパス》も、機関部は全員無事なんだろう……」  裸のひとりが仲間に向かってそう言うと、皆口々に、そうだ、全員助かったと答えたのを、八十八がその水兵にフランス語で教えてあげた。 「機関室にいたもんが、皆助かったなんて、積み荷はふくらませた風船だったのか……」  水兵が額に手を当てて叫んだので、甲板にうずくまってコーヒーを飲んでいた乗客が、声をたてて笑った。 「イヤ、水兵さん、風船は積んでいなかったけど、ふくらんだ御婦人が多かったので、なかなか沈まなかった」  男の声でそう言った乗客がいたので、ウエストのくびれが逆に出っ張っている女の乗客も、腹を立てずに大声で笑い出す。  ロープを握って引っ張っていた四人の乗組が、最後にネットを昇って、元気に甲板に姿を見せたので、妻の肩を抱いていたリゲット船長は、腕をほどいて手を叩く。  他の乗客も、それが最後まで救命艇に残っていた乗組への、ねぎらいと感謝を籠めたものだと気付くと、一斉に拍手する。  ライトに照らされた若い水夫が、拍手を浴びて頬を赤く染めたが、乗客達をどよめかせたのは、その初々しさに感動したからだった。 「日本人て、知らなかったけど凄い人達ね、貴方」  喉を詰まらせて言う妻に、リゲット船長は何度も大きく頭を振って頷く。 「そうだ凄い連中だ。今度の航海でも怖れずマルセイユを出港すると、縦横に知恵を使ってUボートの裏をかいて、切羽詰まると降参するどころか、勇敢に少ないチャンスを掴んで逆襲し、Uボートを返り討ちにした」  リゲット船長はまた妻の肩を優しく抱くと、今までのことで思い知らされた日本人のことを、静かな声で話していた。 「そして目的地のアレキサンドリアまで、もう少しというところまで来たのに、Uボートの雷撃を喰らってしまうと、それまでの訓練どおりに乗客の私達を優先に、慌てず騒がず船底の機関部員まで、全員脱出した」  カナリヤまで、あの人達は助けた……と、リゲット船長夫人は呟く。 「私達の乗った救命艇のそばに潜んでいたUボートは、助けに来る軍艦を待っていたのだが、日本人達は怖れもせずに闘いを挑んで、なんと潜望鏡を暗い夜だというのに、壊してしまった」  こうして思い出しても、信じられないことを、八坂丸の乗組だった日本人は、終始やり続けたとリゲット船長は言うと、ひとつ大きく溜息を漏らした。  妻が怪訝な顔をして、暗い中で自分を見あげたのに、 「考えてごらん、こんなに頭が良くて勇敢で、それに忠実に任務を果たす日本人と、大英帝国が闘う日のことを……」  と、リゲット船長は夜の海の底から聞こえて来たような声で言った。  三等運転士が甲板の高いところに立つと、手に持っていた紙を横に並んでいたフランス士官に、懐中電灯で照らしてもらって、点呼を取る。 「ミス・アブドゥラ」 「ヒア、サー」  アラビア人の少女が答えた。  三等運転士は百二十人の乗客を、アルファベット順に呼んで行く。  次は百六十二人の乗組だが、私語もせずに聞いていた乗客は、三等運転士が自分の名前を呼んで、小さな声で答えると楽しそうに笑った。  点呼を取り終わった三等運転士の大河原は、ラボリュー号の下士官に案内されて、士官食堂に居た山脇船長のところに報告に来た。  乗客と乗組は、全員無事だと弾んだ声で言う。  大きく頷いた船長は、潤んだ目を舷窓に向けて、 「皆、本当によくやってくれた」  と、静かな声で言った。  若い三等運転士はその言葉を聞くと、思わず靴の踵を合わせて敬礼してしまう。  顔は真っ赤になると見る間に歪んで、泣き出しそうになっている。  船長は軽く指先を額に当てて答礼すると、三等運転士に向かって、乗組一同に、乗客全員がアレキサンドリアで下艦するまで、気をゆるめないように伝えろ……と命じた。  大声で復唱した三等運転士の大河原は、船長が頷いたのを見て、士官食堂を出て行くと、入れ替わりに長身のフランス士官が入って来る。  山脇船長に緊張した表情を向けると、背を伸ばして顎をあげ敬礼した。 「艦長がお目にかかりたいので、艦橋までお運びいただきたく存じます」  丁重な言葉を真剣な声で言ったのに、自分を尊敬してくれているのが感じられて、船長は眩しそうな目になる。  これも外国人がほとんどだった乗客を、全員助けたからだと思うと、誇らしく思うより、幸運に改めて感謝した山脇船長だった。  それにしても、よく全員無事だったと思う。 「分かりました。うかがいます」  山脇船長が、言葉を探しながらフランス語でそう言ったのを聞くと、背の高い士官は喜んで弾んだ声で言った。 「御案内いたします。船長」  ラボリュー号の艦長は、頑丈な身体つきのいかめしくて気難しそうな顔をした男だと、ひと目見て山脇船長は思ったが、近づいて握手すると笑顔になって、その途端に印象がまるで変わってしまった。  笑顔の艦長は、人の良いのを隠しようのない顔になる。  陽気な大声で、もう安心してもらって大丈夫だと言って、顔を近づけると小さな声で、フランス語は分かるか……と尋ねた。  聞くのは分かっても、喋ろうとすると言葉が出て来ないと、ゆっくり答えた山脇船長は、艦長の目を見詰めると姿勢を正す。 「只今、乗客と乗員が全員無事に、貴艦に救助されたと報告を受けました。  全員に代わって、心より厚く御礼を申し上げる」  船長は言葉を撰びながら、丁重なフランス語で心を籠めて礼を言った。  艦長はもう一度手を握ると、全員助かったのか、それは凄いことだと叫んだ。  今までに地中海でUボートに撃沈された商船で、全員救助されたなんて例は、聞いたことがない……と、艦長は目を見張って言う。  いろいろ撃沈される前後の事情を艦長は聞きながら、その合間に操舵手に命令を下す。  ラボリュー号は月明かりの下で、大きく弧を描いて旋回を続けていた。  淡い月明かりが黒い海面に、ラボリュー号の航跡《ウエーキ》を白く照らし出している。 「船長、貴方は、間違いなくフランス大統領から勲章を授与される。イギリス国王も、きっとデザインの悪いイギリス製のを、くれると思う」  これは、とにかく間違いなく初めてのことだと、陽気なラボリュー号の艦長は、両手を拡げて叫ぶ。  脇に立っていた副長に早口のフランス語で、キミ、全員が救助されたなんて、聞いたことがあるか……と、繰り返した。  副長は静かに首を横に振って、こんなことは初めてですと答えると、早口で艦長に何か言う。  艦長も猛烈にまくしたてたが、聞いていた山脇船長には、それが海面下にいるUボートのことだと分かった。  副長は山脇船長に向かって、一等運転士から聞いたのだが、Uボートの潜望鏡は使えないのだろう……と訊く。 「ほぼ使えないと思われます」  船長が答えると、副長はちょっと勢い込んで、それなら明るくなっても司令塔を出さなければ、Uボートはまるで何も見えないわけだ……と言う。  海の中では海流もあるし、僅かな舵の狂いでも調整出来なければ、そのままグルグルと回ってしまうことになるから、Uボートは爆雷を喰らっても、ほんの数十メートルほど動くだけで、海面下でジッとしているに違いないと副長は言った。  どうやら、この金髪のフランス海軍大尉は、八坂丸を撃沈したUボートを、やっつけたいらしい。  先刻ラボリュー号が到着して反覆した爆雷攻撃で、Uボートが撃沈されたかどうかは、夜明けになって海面を捜査しなければ分からない。  それまでは現場を今のように旋回し続けるか、それともエンジンを停めて夜明けを待つかだと、副長は主張した。  山脇船長は、自分達を救助に来たラボリュー号なのだから、全員無事に救助すれば、さっさとアレキサンドリアへ戻って欲しいと思う。  Uボートを先刻の爆雷攻撃で、やっつけたかどうか、夜明けまでこの辺りで待って確認しようと主張する副長は、もし海面に重油や浮遊物がなければ、どうするのだろう。  Uボートが針路を見定めるために、司令塔を海面に出すまで、根比べをするというのだろうか。  副長が激して話すのを、艦長はなだめるような表情で、時々短く口を挟みながら聞いていた。  どうやら艦長は、副長の主張していることには消極的のようだったので、山脇船長はホッとしたものだ。  副長は遂に両手を振りまわして、大声を出したのだが、艦長は何か厳しい声で短く言うと、艦橋から淡い月明かりの海を見渡す。  白い月が黒い雲の間から覗いていたが、もう朝は近い。  東の水平線が、木綿糸を横に一本置いたように、白く見えている。  これから木綿糸が細長いリボンになって、次に水平線が白く滲み赤く輝き始めると、朝日が顔を出して地中海は朝になる。  大きく旋回を続けているラボリュー号の左舷に、アレキサンドリアの街の灯が見えて来た。  艦長は左に見えて来た街の灯を見詰めていたが、副長に、アレキサンドリアに向かう……と言い渡すと、操舵手に針路を告げた。  副長は艦長のそのひと言を聞くと、軽く頷いて、それきりもう何も言わない。  ラボリュー号は艦首をアレキサンドリアに向けると、白みかけた空に向かって進み始めた。  礼を言ってもう一度艦長と握手すると、山脇船長は黙ってしまった副長とも握手をして、艦橋から降りて行く。  それにしても西洋人の闘志は、日本人とは根本的に違うようだと、イギリスの商船学校に三年も留学して、ヨーロッパやイギリスの人達をよく承知していた山脇船長なのに、改めてそう思った。  副長は、八坂丸を雷撃して撃沈したUボートが、潜望鏡が使えずに、この辺りの海面下に潜んでいると知ったら、救助した乗客や乗組をアレキサンドリアへ連れて行くことより、浮上して司令塔を出すに違いない潜水艇をやっつけようと言う。  艦橋で副長と艦長が話し合っているのを見ていたところでは、直ぐアレキサンドリアに戻らずに、この海域に留まって、Uボートに復讐するのが、西洋人の常識らしく山脇船長には感じられた。  これが救助に来たのが日本帝国海軍の軍艦だったら、撃沈された八坂丸の乗客と乗組が漂流しているのを、全員無事に救助したら真っ直ぐアレキサンドリアに引き返す。  Uボートに恨みを晴らすなどということは、全員が救助されれば、尚のこと誰も考えたりはしないだろうと、この時、艦橋からタラップを降りながら、山脇船長は思った。  艦長は最初から、Uボートを攻撃するのに消極的のように見えたが、今は決断して艦首をアレキサンドリアに向けている。  ラボリュー号は二千トンほどの海防艦《フリゲート》だが、新造艦だから小型だ。  海防艦という艦種は、領海を警備したり商船を護衛するのが本来の任務だったが、第一次世界大戦に入ってドイツ海軍が潜水艇を実戦に参加させると、駆逐艦と共に、この海防艦が爆雷の投下装置を装備して、敵のUボートに対することになった。  このラボリュー号も、最初は軽巡洋艦として設計されたのだが、竣工の間際になって、Uボートの活躍に対抗するために、爆雷を発射出来るように改装されると、海防艦《フリゲート》に分類された。  一分間に六十発撃てる二インチ(五センチ)速射砲が、二門、甲板の上部に備えられている。  浮上したUボートには、この速射砲が断然威力を発揮する筈だった。  だった……というのは、地中海の東端に位置するアレキサンドリア港に配備されて、もう丸一年が過ぎたというのに、ラボリュー号はまだUボートを撃沈したことがない。  いくら海面から爆雷を投下しても、そうそう海面下に潜んでいるUボートに、当たるものではなかった。  計算によれば、深度二十メートルの海中にあるUボートだと、爆雷が十メートル離れて爆発しても、外殻に致命的な損傷を負うという。  しかし外洋で半径十メートルと言えば、それは針の先のようなものだった。  だから、これまでに百個以上の爆雷を、ラボリュー号は地中海で炸裂させていたが、Uボートの撃沈を確認したことはない。  先に立って案内してくれた士官が、そう山脇船長に話してくれて、振り返ると片目をつむって見せる。  副長が焦るのも無理はなかった。  自分が軍人だったら、今この海防艦の陽気な艦長が決断したように、漂流者を救助したら直ぐにアレキサンドリアへ、引き返すだろうか。  それとも副長が主張したように、潜望鏡の壊れたUボートが浮上して来るのを待って、得意の速射砲で撃って仕留めるかと、山脇船長は考えた。 「いや、いくら軍人でも、俺なら助けられて喜んでいる乗客や乗組を乗せて、アレキサンドリアに向かうだろう」  そうするに違いないと、山脇船長は思った。  小さな海防艦だから、二百八十二人の漂流者全員を、船室に収容することは出来ない。  乗客を船室に入れると、乗組は通路にうずくまっていた。  そこへ大きな木箱に入れたサンドイッチが配られる。  巨きなフランス・パンから、ハムやレタスがはみ出していた。  それまで大きく弧を描いて旋回していたラボリュー号が、艦首を真っ直ぐアレキサンドリアに向けると、船室の中にいたリゲット船長が立ちあがる。  ちょっと眉をひそめて怪訝な顔をした船長に、ジェイムス・マカラが訊いた。 「船長、なんですか……」 「いや、今まで左にまわり続けていた本艦が、まわるのをやめて、直進し始めた」 「潜水艇が浮上したのを、見つけたのに違いない」  マカラは叫ぶと、船室から走り出て行った。  その後に外人乗客が、サンドイッチやコーヒー・カップを持ったまま、何か口々に叫びながら続いて出て行く。 「どうするお前……」  リゲット船長が老妻に尋ねると、微笑んだ夫人は、僅かに顔を横に振って見せた。 「もう殺し合いは沢山よ。美しい景色か温いマントル・ピースの方が、私にはUボートよりずっと欲しいの」 「地中海の夜明けは、それは美しい景色だよ、お前《デイア》……」  リゲット船長がそう言うと、白髪の妻は声を発《た》てて笑う。 「さあ甲板に出ましょう。貴方は私達の命を狙ったUボートが、散々な目に遭わされるところが御覧になりたいのですもの」  永年連れ添った妻が言ってくれた言葉に、すっかり照れたリゲット船長は、 「いや、自分の乗っている軍艦が、敵の潜水艇をやっつけるところなんて、軍人でもなければ、まず絶対に見られない場面だと思ったからだが、お前が船室にいたいのなら、私も無論、お前と一緒にいる」  と言った。 「いいのよ貴方、さ、甲板に出てフランス海軍が、私達を殺そうとしたUボートに、速射砲を喰らわすのを、見物して応援しましょう」  一分間に六十発も撃てる二インチ速射砲だと、妻が言ったのに、笑い出してしまったリゲット船長だ。  ラボリュー号に助けられてから、リゲット夫人は男達の話し合っているのを聞いて、速射砲の性能まで覚えてしまったらしい。  リゲット船長夫妻が甲板に出てみると、東の空が白んでいて、ラボリュー号は真っ直ぐアレキサンドリアを目指していた。  舷側の手摺から上半身を乗り出すようにして、男の乗客が数人、声高に話し合っている。  その中のひとりが、腕を艦首の方に突き出して喚いた。 「なんだ、このフランス軍艦は、浮上したUボートを懲らしめようとしてるんじゃないぞ」  イタリア訛りの英語には聞き覚えがあったので、暗い甲板でリゲット夫人は眉をひそめてしまった。 「何だUボートを見付けたんじゃないのか……」  マルコの声に続いて、誰かイギリス人が叫んだ。 「俺達の命を取ろうとしたドイツ野郎を、この軍艦の艦長はやっつけようともしないのは、どうしてなんだ」 「おまけにUボートの潜望鏡は、壊れてるんだから、潜ったまま遠くには行けないだろう」  なんでやっつけないのだと、甲板に出て来た外人乗客は、男ばかりではなく女まで、口々に喚き始めた。  フランス人の乗客は、近くにいた水兵を掴まえて、両手を振りまわしながらまくしたてている。  水兵や下士官も、最初は腕組みをして頷いているだけだったが、すぐ同じように腕を振りまわして猛然と喋り出す。  そうしている間に朝日が顔を出すと、地中海は朝になる。  今日も穏やかな海面で、うねりはあるけれど見渡す限り白波はひとつも見えない。  美しく澄んだ青い空には、生クリームを絞り出したような雲が、かたまりになって浮かんでいる。  風のない日にしてはガスがなかったので、北アフリカの海岸線も、クッキリと見えていた。  ラボリュー号は十五ノットほどの速力で、アレキサンドリアを目指している。 「艦長ッ、アレキサンドリアよりドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》だ……」  イギリス人のトンプソンが、艦橋に向けて腕を伸ばして叫ぶと、まわりにいた者も腕を突きあげて同じことを叫んだ。 「呆れたな、あいつらには……」  若い唐手遣いの玉城勇民は、命が助かった途端に、海面下に潜んでいるUボートを、撃沈しろと叫ぶ乗客達に呆れてしまった。 「いくら自分達の命が狙われたと言っても、今はアレキサンドリアに着くのが先だと思うのに、どうやら私達とは常識が違うようだ」  パリ領事館の二等書記官だった石田堅之介がそう言うと、柔道師範の小泉誠太が眉をひそめる。 「外交官がそんな認識では困りますな。  西洋人はただ戦闘的なのではなくて、日本人のように簡単に何でも、水に流したりはしないし恨みは忘れない」  こんな自分の命を狙われた場面だと、反撃出来る立場になれば、まず恨みを晴らすことが、第一なのだと小泉誠太は呟いた。  今ではすっかり有名になって、ロンドンのヴィクトリア駅の近くに、柔道場「武道館」を建てた小泉誠太だが、そうなるまでにはヨーロッパとイギリスで、散々な苦労を重ねて来たから、西洋人の心の内はよく分かっている。 「艦長、乗客がなぜUボートをやっつけずに、アレキサンドリアへ向かうのだと、怒っています」  タラップを駆け昇ってきた若い少尉が、そう艦橋に入って来て叫んだのを、ラボリュー号の艦長は、顎をひいた獰猛《どうもう》な顔で睨みつける。 「馬鹿なことを手柄顔で言って来るようだと、中尉になんかなれないで、万年少尉で女に愛想をつかされるぞ」  そんなことは教えてくれないでも、艦橋から針路を見ていれば、すぐ目の下で騒いでいるのだから分かると、不機嫌な声で艦長が言ったので、若い少尉は縮みあがった。  このラボリュー号の艦長を命じられてからは、地味な任務ばかりで戦果は芳《かんば》しくなかったが、それでも歴戦の海軍軍人だから、貫禄は充分だ。  若い少尉はその剣幕の怖ろしさに震えあがって、青くなってから赤くなる。  ドギマギするだけで何も言えなかったのだが、替わって副長が甲板を見降しながら呟く。 「乗客だけではなくて、本艦の水兵達も一緒になって怒鳴っています」  日本人の乗客と、それにメイドの女達だけは、その仲間に加わっていないと聞いた艦長は眉を動かす。 「日本人やメイドの女達は、仏教徒だから平和なのだ。俺はこの戦争が終わったら、躊躇《ためら》わずに東洋へ行って仏教徒になる」  艦長が呟いたのに、副長と若い少尉は同時に返事をした。 「艦長、まだこの戦争は続きます。水兵の戦意を挫《くじ》くのはいかがかと思いますが」と、意見具申したのは副長だ。 「パリで同じ町内に住んでいた日本人は、猫を殺して、その毛皮でチョッキを作ってました。そんなに平和な仏教徒ではありませんでしたよ」  そう小さな声で言ったのは、若い少尉だった。  艦長は、人殺し共め……と呟いてから、副長に向かって、仕方がないから日没まで漂泊《ヒーブトウー》するかと、苦笑して言う。 「日没までには、Uボートも間違いなく針路を見定めに、司令塔を海面から出しますよ」  そんなにドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》は、我慢の利く連中ではないと副長は嬉しそうに答えた。  八坂丸の漂流者を助けた海域まで戻ろうかと、副長が瞳を輝かせて言うのに、艦長は黙って頷く。  副長が号令すると、操舵手が復唱してクルクルと舵輪をまわした。  艦首が右にまわり始めると、艦橋の下にいた乗客達は大喜びで、拳骨を空に突きあげる。 「ところで少尉、仏教徒が猫をどうしたって……」  艦長は不気味な声で訊いた。 「ヤヤヤッ、本艦はコースを変えたぞ」  港湾荷役の近代技術を学びに、ロンドン港で二年間働いていた沖仲仕の藤本大吉が、艦首がそれまで向けていたアレキサンドリアから、大きく右にまわされたのを見て叫んだ。 「なんと、このフランス軍艦は、救助された八坂丸の外人乗客にあおられて、Uボートと闘う気になったらしい……」  軍靴の技術を習いに、イギリスへ留学していた靴職人の留吉が呆れて呟いたのを、外交官の石田堅之介が聞き咎める。  まだ三十歳そこそこなのに、お役人だから立派なカイゼル髭をたくわえていて、潮風に先を震わせていた。 「軍艦は敵と闘うため、軍人は敵を倒すために全力を尽くす。貴様そんなことも心得ずに、何というタワケたことを吐《ぬ》かすか。日本語の分かる外国人に、もし聞かれたら、お前のような下郎は大和民族の恥さらしだ」  若いお役人の石田堅之介に叱りつけられて、ただでさえ小柄な中年男は首を縮めてしまう。  玉城勇民の瞳が鋭く光った。 「何を吐かしやがる、偉そうに何様のつもりだ。この木ッ端役人め。留吉さんの納める税金で、お前のようなもんでも飯が喰えるんだぞ」  それとも何か、Uボートに返り討ちを喰らったと思えば、諦めもつくだろうから、地中海に抛り込んでくれようか……と、同年輩の玉城勇民は一歩外交官に詰め寄った。  ヨーロッパを股にかけて、身体を張って勝負を続けて来た若い唐手遣いだから、役所で威張り散らして生きて来た外交官とは気合が違う。  石田堅之介は青ざめて後ずさりすると、周囲に脅えた目を走らせて、誰か自分を助けてくれる者がいないか探した。 「そんな顔をしたって、ここは海の上で役所の中じゃねえ。誰もお前なんかに腕は貸さねえよ」  邪魔が入れば、このドングリほどもある弾丸を耳から耳へぶち抜くぞと、藤本大吉が上衣のポケットに手を入れて凄んだので、石田堅之介はのけぞって震え出す。  この鉄火な沖仲仕が上下二連の小型拳銃を持っているのは、イタリア人のマルコの騒ぎの時に、皆知ったことだった。  青い顔をしてのけぞった外交官を、覗き込むように見詰めながら、玉城勇民は両方の拳骨をグリグリと揉む。  石田堅之介の血の気の失せた額に、汗の玉が朝日を受けて輝いている。  それまで縮んだようになっていた留吉も、目を輝かせて首を伸ばすと、気味良さそうに覗き込む。  社会の底辺に生きる者は、誰でもお役人が嫌いだった。  沖仲仕の藤本大吉も、靴職人の留吉も、それに唐手遣いの玉城勇民にしたところで、それぞれの道では腕っこきで名人・達人と呼ばれる男達だが、いずれもマイナーな世界に住んでいる。  だから洋行して、新しい技術を身につけようとしたり、修業に励んだりしたのだが、所詮、藤本大吉は波止場人足だし、留吉は靴作りが仕事だ。  玉城勇民にしても、武術家とは言っても唐手だから、剣道・弓道それに柔術や居合とは違って、世間様の評価は低い。  何と言っても南の島の、相手を素手で殴る唐手は、西洋人のやるボクシングと似たようなものだと考えられていて、柔道よりもずっと軽く見られていた。  おまけに日本人は、昔から島の者を見下すところがある。  救けられた日本人乗客は、アレキサンドリアを目指していたラボリュー号が、外人乗客と水兵達にアッピールされると、Uボートを攻撃しようとして、回頭したのを見て顔を曇らせた。  誰だって、この海防艦《フリゲート》に真っ直ぐアレキサンドリアに向かってもらいたいと、そう願っていた筈だ。  雷撃されて乗っていた八坂丸が撃沈されて、浮上したUボートに命を脅かされていたのが、全員無事にこのラボリュー号に救けられたのだから、引き返して恨みを晴らすような場面ではない。  一刻も早くアレキサンドリア港に入港して、地面を踏みたいと、日本人乗客は皆そう思っていた。  いくら豪気な男達でも、軍人や船乗りではないので、海の上というのはどうにも落ち着かない。  そんな時に、普段から極く目立たないように振舞っていた留吉が呟いたことを、外交官の石田堅之介が聞き咎めて、日本人の恥さらしだとまで言ったから、鉄火な沖仲仕と唐手遣いは、頭に血が昇った。  何が日本人だ……、いつもは自分達を下目《しため》に見ていやがるくせに……という気がある。 「玉城君、やめたまえ」  柔道師範の小泉誠太が、日本人乗客の輪の中に躍り込んで来ると、腕を左右に開く。 「今、御国は戦争の真っ最中なのだ。日本人同士が闘ってなんかいられないぞ」  同じ武術家で年長の小泉誠太が、そう言って止めれば、玉城勇民も、従うしかなかった。 「マダム、日本人達は喧嘩をやめたようですね」  インド人少女のメイドが、ケイト・マスタスンに寄り添って、そう呟く。  ニコッと笑った顔が、黒い天使のようだと、イギリス陸軍中尉の若妻は思った。 「わたしは最初から、ずっと日本人達を見ていたんです。なぜって、他の国の人達は引き返してUボートをやっつけろって怒っていたのに、あの東洋の小柄な男達は、メイドのわたし達と同じで、それには賛成しないように見えたからです」  インドの少女は、こんな話は御迷惑か……と訊いたので、ケイト・マスタスンは優しい声で答えた。 「いいわよ。何でもおっしゃいな」  インド人の少女が、白人の婦人と話しているのを見て、他のアラビア人や中国人のメイドも、いつの間にかふたりのそばに集まって来ている。  他の乗客達は、回頭してもとの海域に引き返しているラボリュー号に興奮して、皆朝日に輝いている海面を、何か叫びながら見詰めていた。  誰もケイトに話しかけているインド人の少女や、そのまわりに集まっているメイド達の方に、目をやる者はいない。 「中でも一番小柄な男に向かって、髭の紳士が怒ると、あの素敵な人が小さな男の肩を持ったんです。紳士はそれが意外なことだったらしくて、たじろぎ怖れました。きっと身分のある男なのでしょう」  話し続ける美しくて黒い少女を見て、ケイトは、恋をしているのに気がついた。 「素敵な人って、あの若いカラテをやる日本人ね」  ケイトが目で示すと、インド人の少女は黒く輝く顔を赤くしたので、イギリス陸軍中尉の若妻はそれを見て目を見張る。  美しい漆黒の肌は、確かに羞《はじ》らいで赤く染まっていた。 「貴女、あの日本人が好きになったのね」  どうして分かったのかと、少女が脅えた顔で呟いたのが、それまでの短いが虐《しいた》げられた人生を物語っていたので、ケイトは気の毒に思ったのだ。  ケイトも貧しい少女時代を経て来たので、陸軍中尉夫人になった今でも、メイドなんて贅沢なものとは縁がない。 「貴女、私には安心して、何を言ってもいいのよ。女が男を好きになるのは、誰も止めようがないし、神様が罰を与えられるようなことでもないわ」  ケイトは自分に寄り添っている少女にだけ聞こえる小声で、そう言ったら、少女の黒い瞳が澄んだ白目の中でゆらめいて、透明な涙の粒が溢れ、頬を転がって甲板に落ちた。 「わたし九歳の時に、前の御主人に買われました」  インド人の少女は、続けて転がり落ちる涙を拭いもせずに、顎をあげてケイトを見詰めると、そう呟いた。  少女はニューデリーの貧民窟で生まれたのだと言う。  ひと目見ただけで、他人に虐げられて生きて来た者かそうでないかが分かる……とインド人の少女は言った。  人間には大きく分けて、三通りしかないと言う。  他人を虐げる人と、そんな奴に虐げられて生きている自分のような人間、それにマダムのようなどちらでもない人の三種類だと言って、黒い肌と澄んだ美しい瞳の少女は、水平線を見詰めていた。 「Uボートを屑鉄に……ドイツ野郎を魚の餌に……」  白人の乗客達が拳骨を突きあげて叫んでいたのに、フランス海軍の士官が近づいて、 「Uボートの司令塔がうねりの間に見えたら、本艦はすぐ全速力で接近して戦闘になります。  危険ですから皆さんはここなら結構ですが、他へは行かないで下さい」  恨みを晴らしてくれるところは、是非見たいが、ラボリュー号が存分に闘うのに、邪魔になってはいけないと、英語で言った男がいた。 「Uボートは五インチ砲や機関銃を、撃って来る暇はあるまい。本艦の速射砲は二千ヤードは有効射程があるだろう」  英語で訊いた乗客にラボリュー号の士官は目をむいて、もっと遠くまで届く、一分間で六十発撃てるから、司令塔を海面から出した途端に、Uボートはドイツ製の棺桶になる、と力が入った。 「どうして男達は殺し合うんでしょう」  自分では生まれた年が分からないので、歳がいくつだか知らないという中国人の少女が、そう呟く。  まだ十歳をいくつも越えていないツルリとした血の気のない顔の少女だ。 「抱く時と殺す時は、旦那さん達は違う人間のようだわ」  そんな年端もいかない少女を、雇い主の同国人の男達は、抱くのだと気がついたケイトは身体を震わせ、額を押さえてしまう。 「わたしはこの娘より小さい九歳の時だったわ。股が裂けたかと思った……」  インド人の少女が呟いたのを聴いて、ケイト・マスタスンは、額を押さえていた手を離すと、両手で耳を押さえた。 「神様、この少女達を犯した男達を……」  許せと神様に頼むのなら、そんなことは無駄だからおやめになった方がいい……と、インド人の少女が抑揚のない声で、口を挟んだ。 「男達が自分達にあんなことをするのを、見逃した神様なんて、ロクな神様じゃないわ」  両手で耳を押さえて甲板を見詰めていたケイトは、少女の訛の強い英語が、耳の穴から脳の中に染みたように思った。 「本当だ。なぜ神様は、おとめにならなかったのだろう」  貴女の気持ちは自分にも分かったほどだが、あのカラテには伝わっているのか……とケイトが訊いた。 「あの方はファースト・ネームがユーミンで、これは勇敢な市民という意味なのです。  そして姓のタマシロは、そうですね、サファイヤや珊瑚《さんご》で作ったお城ですから、マダム、素晴らしいお名前でしょう」  インド人の少女は、愛する男の名前を説明して瞳をきらめかせる。  名前とその意味は、事務長に教えてもらったけど、一度救難訓練の時に御挨拶をしただけだと言って、せつなそうに息を吸い込んだ。  それに、もし万一あの方が、自分が想っているのと同じ気持ちでいて下さったとしても、どうなろうかと少女は呟いた。  自分はイギリス人の旦那様に買われた身で、神様からも見捨てられた汚れた身体だから、たとえ愛して愛されても、どうなるものでもない……と、少女は墓穴の底から聞こえて来たような声で言う。  ケイトは胸が詰まって、目の中が熱くなった。  わたしが呼んでいると言って、あの宝石のお城という名前の日本人に、ひとりで来ていただきなさい。  自分があの若い男の気持ちを、訊いてあげようとケイトが言うと、インド人の少女は、それでどうなるのかと眉をひそめる。 「気持ちを確かめて、相手も貴女を愛していたら、それから先は、ふたりで手を考えるのよ。旦那様と交渉するのもいいし、逃げることだって闘うことだってあるかもしれない。  とにかく確かめることよ。それもしないで諦めていたのでは、貴女、決して倖せになんてなれないわよ。さ、行ってあの勇敢な市民を呼んでおいでなさい」  ケイトに励まされた少女は、下唇を噛んでちょっと考えていたが、膝を折って礼の言葉を呟くと、他の日本人達と一緒に舷側から伸びあがって、海面を見詰めている玉城勇民の方に歩き出した。  意を決した足どりで、愛する男の方に歩いて行くインド人の少女の後ろ姿を、じっと見詰めていたケイトは、自分も同じことをしようと思いついた。  少女には、愛し合ったふたりの可能性を説いた自分が、何をしているのだろうと思う。  少女が唐手遣いの眉毛の濃い青年を連れて来たら、どんな答えが戻るか分からないが、少女に代わって心の内を訊いてあげて、それから自分は河田に会おうとケイトは決めた。  ふたりが同じように愛し合っていたら、どんな困難な事態でも、何とか方法が見付けられるかもしれない。  失敗して破滅しても、試みないで別れるよりずっとましだとケイトは思った。  集まっていた他のメイドの少女に、ケイトは、話の済むまで、はずしてくれと頼んだ。  少女達は目を伏せて会釈すると離れて行ったのが、ケイトには気の毒でならない。  インド人の少女の後から、怪訝《けげん》な顔をした玉城勇民がやって来て、 「マダム、何の御用でしょう」  と言う。  ケイトは近づいて来た玉城勇民に一歩近づくと、黒い瞳を見詰めながら熱意を籠めて話した。  聞いていた玉城勇民の浅黒い顔にボッと朱がさして、何か言葉少なく答えている。  ケイトが、少し離れたところで、両手を胸の前でしっかり組み合わせて、顎を引いて見詰めていた少女を手招きした。  花がほころびたような表情になった少女は、朝日に顔を輝かせながら走って来る。  ケイトが耳打ちすると、玉城勇民とインド人の少女は、甲板から小走りに居住区の中に姿を消した。  ドアを開けて、中に入る前に、ふたり揃って会釈したのを見ると、ケイトは鼻の奥がツンとなってしまう。  自分にはイギリス陸軍中尉の夫がいるし、河田には妻と三人の娘がいると聞いている。  あの若いふたり以上に問題は多く、壁は厚い。だからと言ってこのまま想いを残して別れたら、これからの一生、もしあの時話し合って愛を確かめていたらどうなったか……と、そればかり考えて生きることになってしまう。 「わたしも勇気を出そう……」  ケイトは思わず両方の手を握っていた。  その頃、事務長の河田欣也は山脇武夫船長と一緒に、ラボリュー号の艦橋で艦長と話していた。  さっきのような儀礼的な会話ならともかく、大事な用件を話す時には、乗組の中で一番フランス語の確かな男に、通訳をさせなければならないと、山脇船長が思ったからだ。 「艦長、Uボートを攻撃なさるおつもりなのでしょうか」 「左様、貴方の乗組が勇敢にもUボートの潜望鏡を破壊したと聞けば、逃がすわけにはいきません。浮上するまで待って、罰を与えてやるのです」 「お言葉ですが艦長、どうか、あのアレキサンドリアに、今すぐ私達をお届け下さい」  山脇船長が艦長の遥か向こうを指差して、そう日本語で言うと、すぐ事務長の河田が鮮やかなフランス語に直した。  双眼鏡を目に当てたまま副長が、 「おや、貴君はフランスで教育を受けた方か、それともインドシナ人なのかな、私達よりずっと素敵なフランス語だ」  と言ったのに、河田は返事もしない。 「奴等は、そんなにいつまでも潜ってはいられないし、危険なので、海の中を突っ走るわけにもいかないから、必ず浮上して来る。間もなくだ」  副長は、間もなくだ……を繰り返した。  潜望鏡を壊されているUボートは、ラボリュー号を雷撃しようとしても、司令塔の先でも海面から出さなければ、スクリューの音だけではとても狙いがつかないに違いない。 「Uボートには予備の潜望鏡はないんだろうな……。もしあったら大変だぞ」  艦長も双眼鏡を目から離さずに、そう呟いたのだが、副長は、そんなものは付いていないでしょう……と、にべもなく言い放つ。  艦長は最初から、Uボートを攻撃するのには消極的で、さっさとアレキサンドリアへ帰りたがっていた。  ラボリュー号は見張りを増やして、ゆっくりと大きな円を描いてまわり続ける。  その海面下では傷ついたUボートが、スクリューを止めて漂っている。  潮の流れにまかせていた潜水艇の中では乗組が全員、天井を見上げて必死の形相だった。  一度は遠ざかって行ったフランス海軍の海防艦《フリゲート》が、何としたことか戻って来て、頭の上で大きな円を描いてまわり始めたのだから堪らない。 「あの蛙共め、俺達を殺そうとしていやがる……」  鬚の砲術長が呻いた。  壊された潜望鏡から浸水はないが、潜水艇の中の空気は、どんどん悪くなっている。  用意してあった圧縮空気のボンベは、こんな展開になるとは思ってもいなかったので、ほんの数時間分しかなかった。  一度遠ざかったスクリュー音が、また近づいて来たので、艦長は圧縮空気を噴出させる量をギリギリに絞ったのだが、それでももう残りは僅かだ。  頭の上から聞こえて来るスクリュー音を、血の気の失せた顔で聞きながら、Uボートの乗組は、それこそ酸素の少なくなった金魚鉢の中の金魚のように、大きく口を開けて荒い息をしていた。  ドイツ人がフランス人を馬鹿にして“蛙”と言うのは、フランス人が蛙を喰べるからだが、今や潜望鏡を壊されたUボートの乗組は、蛙になりかけている。  予備電池でモーターをまわしても、とても長く真っ直ぐには走れない。  針路を見定めることが出来なければ、潮流や僅かな舵の狂いで、どこへ行ってしまうか、グルグルまわってしまうか分からないのだ。  空気はどんどん汚れるばかりで、頭上から聞こえて来るスクリュー音は、遠ざかってくれない。  Uボートには最後の時が迫っていた。 「砲術長、十分後に浮上する。砲雷撃戦の準備だ」  すぐ艇首を海防艦に向けるから、とりあえず雷撃して牽制して欲しいと艇長が言うと、鬚の砲術長は大きく頷いた。 「前部魚雷発射管、連続発射、用意ッ。主砲要員と機関銃手は配置に着け」  砲術長の号令と同時に狭いUボートの汚れた空気の中で、鉄の触れ合う音と船内靴の足音が、忙しく聞こえ始める。  司令塔のハッチの下には、弾薬帯がセットされた七・七ミリの機関銃が運びあげられた。 「旋回している海防艦が、一番遠ざかったところで浮上するのがいいだろう」  スクリュー音から判断して、一番離れた時でも、千五百メートルほどで、二千メートルまでは距離がないだろうと、艇長は言った。 「どうだ砲術長、モーターをまわして、もう少し離れて浮上した方が有利か……」  砲術長はイエス・キリストのような鬚面を寄せると、千メートル以上の距離があれば充分だと答えた。 「司令塔が海面に出たら、主砲の砲手が位置に着くまでの間は、ジグザグで走って下さい」  海防艦は、うねりの間に司令塔が見えたら、恐らく五インチ砲と速射砲で撃って来るだろうが、問題は一秒間に一発撃って来る二インチ砲だと、砲術長は酸素の薄くなった艇内なので、あえぎながら言う。 「一秒間に一発なら、一分で六十発か……」  艇長は呟いて顔をしかめる。  水圧には耐えられる潜水艇だが、砲弾には装甲がないので全く弱い。  二インチ砲と言っても直径五センチの砲弾だから、一発命中すれば潜水艇には致命傷になる。  浮上して機関銃を司令塔に装着して、五インチの主砲が発射出来るようになるまでに、どうしても三分はかかるだろう。  一分経ってから撃たれるとしても、二分で百二十発の二インチ砲弾が降り注ぐのだから、これは堪まらないと艇長は思った。 「砲術長、二インチ速射砲の有効射程はどのくらいだ。せめてそれだけ離れれば、海防艦の撃てるのは五インチ砲だけだろう」  死に急ぐまいぞ……と艇長は言って、蓄電池でまわすモーターで、潜航することに決めると、 「微速前進」  と命じた。  ズ、ズズズズズと音を発して、Uボートはゆっくり動き始める。  その頃、海防艦ラボリュー号では、届いた緊急電報を握った水兵が、艦橋に跳び込んで来て艦長に手渡す。  急いで目を通した艦長は、ニヤリと笑うと、 「イギリスの阿呆共も、たまには人並みだ」  と呟いた。 「乗客を全員救助した貴艦は、全世界の賞賛するところである。  この上は可及的速やかに、アレキサンドリアへ帰港のこと。  尚、イギリス海軍駆逐艦が、貴艦護衛のため、只今出港した。  繰り返す。アレキサンドリア帰港が最優先である。返電を待つ。  大英帝国海軍司令室……か。いい電報だ」  艦長は大声で電文を読みあげると、操舵手に転舵を命じて、副長に、 「命令だ。アレキサンドリアに帰るぞ」  と叫んで、カラカラと笑った。  ラボリュー号はゆっくり艦首をアレキサンドリアに向けると、徐々に速力をあげて行く。 「前進全速」  艦長が叫ぶと、ラボリュー号は一度艦体をゆすってから、グイグイと全速力に達したので、甲板に居た八坂丸の乗客達は驚いて艦橋を見上げた。  軍艦の加速は、商船の八坂丸とはまるで違う。  艦長が艦橋の窓から顔を出すと、メガホンを口に当てて大声で叫んだ。 「海軍司令室よりの命令で、本艦は急ぎアレキサンドリアに帰港することになりました。  昼過ぎには、皆さんに陸地を踏んでいただけるでしょう」  フランス語の分かる者が、すぐ訳して聞かせたので、ひと固まりになっていた日本人が一斉に拍手した。  それに釣られたように、ケイト・マスタスンと、そのまわりにいたメイド達が、パチパチと手を叩く。 「副長、アレキサンドリアからやって来るイギリスの駆逐艦に、俺達は大丈夫だから、潜望鏡の壊れているUボートを、やっつけてくれと、おおよその位置を打電してやれ」  誰がやっつけても同じだろうと、ラボリュー号の艦長は、陽を浴びて輝いている北アフリカの陸地を見詰めながら言ったのだった。  まだ艦橋に山脇船長と河田が居たのに気が付くと、艦長はいかつい顔をほころばす。 「全員無事だと聞いて、今頃は世界中が沸きかえっていますよ。  貴方は本当に凄い船長だ」  何かといえば、自分達こそ海の男だ……みたいなことを言うイギリス野郎も、今までUボートに撃沈された時は、乗客を抛り出して逃げたのに、貴方達は皆助けたのだから、銅像が立つに違いないと艦長は言う。  打電し終わった副長も、戻って来ると山脇船長の手を握って、訛の強いフランス語で何かしきりと言ったのだが、褒めたたえていることだけは、緑色の瞳の輝き方でよく分かった。 「本当に運が良かった。それに貴方達のおかげです。有難う」 「なんだ、目の見えなくなったUボートが、海の底で閉口垂《へこた》れているのに、やっつけもしないでアレキサンドリアに帰るのか……」  デイヴィス・トンプソンが、艦橋に向かって怒鳴ると、妻のバーバラも叫んだ。 「フランス海軍って、いつでもこうなの……いずれ浮かんで来るUボートは、私達を殺そうとした奴なのよ。やっつけなさい、貴方達は軍人でしょう」  艦長はメガホンを握ったまま、両手を一杯に広げて見せる。 「駄目だ、こんな連中が味方じゃあ……」  誰かが大声でそう言ったのが聞こえたので、艦長は目をむいてメガホンを口に当てた。 「何てことを言う人達を、助けてしまったんだ、まったく。  直ぐアレキサンドリアに帰港しろという命令を出したのは、頭が四角で女にまるでもてないイギリス海軍の司令官ですよ」  もうラボリュー号は、時速二十一ノットの全速力で、舳先で藍色の海を白い水しぶきに変えて、左右に撒き散らしながら真っしぐらに、アレキサンドリアに向かっている。  茶色に見える陸地が、どんどん近づいていた。 「私達を闘わせないのは、貴方達のお国の軍人達ですから、言葉をお慎みなさい。  神の言葉を話す私達でも、烏の啼き声も分かるのです」  フランス人は英語のことを、海賊の浅ましい言葉とか、ロマンも詩情も感じられない烏の啼き声だと言う。  そして美しいフランス語は、神の言葉だと言うのには恐れ入る。  山脇船長と河田は、機嫌のいい声でもう一度礼を言って、艦橋から降りて行った。 「撃沈されたあの連中の船は、驚いたことに日本製だったんだそうだ」  竹と紙で出来ていたのかなと艦長は言って、それならUボートも魚形水雷なんか撃たずに、鋏《はさみ》でチョキチョキやれば、安あがりだったのにと呟いたので、副長と操舵手も声を発《た》てて笑い出す。  陽が昇って、アレキサンドリアの街の白い壁が輝いて見える。 「あーッ、海防艦は旋回をやめた……」  Uボートの天井を見詰めていた水兵が、そう言ったのが、モーターを蓄電池でまわしている艇内なので、周囲に良く聞こえた。  酸素が足りなくなって切羽詰まったUボートは、海面に頑張っている海防艦の速射砲の射程から逃れようとして、まるで手探りでもしているように、海面下をそろそろ進んでいたのだ。 「間違いないです艇長。海防艦のスクリュー音は、真っ直ぐ遠ざかっています」  航海長の大尉が弾んだ声で叫ぶと、それを聞いて艇内がどよめく。 「モーター停止」  艇長が命令すると、すぐモーターがとめられて、艇内に僅かにヒュルヒュルという回転音が残ったが、それも直ぐにやんだ。  艇長は天井を見上げて耳を澄ます。  一度は立ち去ったと思った海防艦が、何を考えたのか、しつこく戻って来て居坐ってしまったのには、参ってしまったUボートだった。  潜望鏡さえ無事だったら、いまいましい海防艦に魚形水雷を喰らわせてやるのに、見えなければ、スクリューの音だけではどんな名人でも狙いが付けられない。  司令塔だけ海面に出して、狙おうとすれば、相手だって軍艦だから、こちらが魚形水雷の照準を付けるまでに、必ず発見して速射砲を撃って来る筈だ。  Uボートは海面下に居れば、怖ろしいものは爆雷だけで、これだって滅多には当たらない。  この戦争で初めて実用になった潜水艇だが、特にドイツ海軍の開発したUボートは性能が良く、遠く北海の根拠地を出発して、英仏海峡とジブラルタル海峡を抜けると、地中海を横断してアドリア海の最奥にあるトリエステまで回航する。  そしてこの軍港を補給基地にして、地中海で猛威をふるった。  大口径の魚形水雷が吃水線下に命中すると、戦艦でも一発で撃沈されてしまうので、それより小さな軍艦や商船では、とても堪ったものではない。  海面下に居れば潜水艇は無敵だった。  見当を付けて駆逐艦や海防艦が海中に抛《ほう》る爆雷なんて、魚は沢山殺すけど余程運が悪くなければ、Uボートには当たらない。  しかし浮上して撃ち合えば、装甲のないUボートは、二インチ砲弾はおろか〇・五インチの機銃弾にも、艇体が耐ええないのだ。  戻って来た海防艦に、頭の上に居坐られて酸素が苦しくなったUボートは、仕方なく浮上して、五インチ砲の射程で撃ち合おうとしたのだが、勝算なんて全く無かった。  そんなことは艇長だけではなく、乗組は皆承知して死を覚悟していたのだ。  Uボートには、五インチ砲が一門しか付いていない。  それにこの五インチ砲は、商船に停船を命じたり、逃げようとすれば脅して諦めさせるのが目的で軍艦と砲戦するためのものではなかった。  海防艦には少なくとも五インチ砲が、三門はあるだろうし、見張りを総動員して、Uボートが浮上するのを待ち構えている。  ハッチが海面に出たところで、砲手達が甲板に出ても、砲門の蓋を取って砲弾を籠め、狙いを定めて発射するまでに、海防艦は少なくとも三回発射するに違いなかった。  Uボートの五インチ砲が火を噴くまでに、最低九発の五インチ砲弾が飛んで来るし、それからだって三対一の砲戦が続くのだから、まずどうしても潜水艇に勝ち目はない。  それでもじっと海面下に潜んで、酸素が切れて喉を押さえて死ぬのは嫌だった。  せめて闘って……闘えなくても魚形水雷を放って相手の海防艦をたじろがせ、夢中になって何かしているうちに、殺されたかったのだ。  それが、海防艦は増速して去って行く。  助かったのだ。 「司令塔深度まで浮上ッ」  司令塔のハッチを押し開けて外に出た艇長は、鼻から甘い汐風を胸一杯に吸い込みながら、アレキサンドリアに向けて艦尾を見せて去って行く、フランス海軍の海防艦を見詰めていた。 「諸君、私達は蛙の餌にならずに済んだらしい……」  その頃玉城勇民とインド人の少女は、ラボリュー号の艦尾で、目を見詰め合って話していた。  玉城勇民も少女も、マルセイユで八坂丸に乗船しようと、突堤に集まっていた時から、ひと目見て愛してしまったことを語り合って、高鳴った胸を押しつけ合う。 「難しく考えることはない。いくらかのお金はあるし、貴女の雇主と話も出来る。愛し合っていると分かったら、このまま別れることなんてない」  玉城勇民がそう言ったのを聞いて、インド人の少女は美しい目をつむってしまう。  つむった目から溢れた涙が、黒く輝く肌をつたって胸のふくらみに落ちた。 「こんなこと……、こんなこと夢だわ」  少女は思って、頬を思い切り強く日本の青年の堅い胸に押しつけてみる。  シャツのボタンが鼻に当たって、痛かったから夢ではない。 「アレキサンドリアに着いたら、日本領事館に行って、貴女を妻にする」  いいだろう、と恋しい男が言ってくれたので、少女は頷きながら押し当てていた顔に力を入れて、両腕に力を入れるとしがみついた。  ケイトは艦尾で寄りそっている玉城勇民と少女に手を振ると、まず唐手を使う青年が気付いて、右手をあげて耳の横で左右に振る。  少女は両手をあげると、声は出さなかったが大きく口を開けて、跳びあがって見せた。  日本風のバンザイをして見せたつもりらしい。  ケイトが手を振り返すと、また若いふたりは、ヒタと寄り添ってしまった。  こうしてはいられない、もうアレキサンドリアの家並みが一軒ずつ見えるところまで、ラボリュー号は近づいている。  河田と会って、せめてアレキサンドリアに上陸してから、ゆっくり話し合う約束をしなければ、このまま別れてしまったりすると、悔いを一生残すことになるとケイトは思った。  見渡しても、甲板には河田の姿はない。  ケイトは通路で往き合った八坂丸の見習士官《アプレンテイス》に、河田事務長はどこかと訊くと、若い見習士官が答えの英語を探しているのに、差しつかえがなければ、ここで待っているので、呼んで来てもらえないか……と頼んだ。  見習士官は微笑むと、直ぐ呼んで参ります、お待ち下さい……と言って、やって来た方に引き返して行く。  間もなく薄暗い通路の角を曲がって、恋しい人がこちらに向かって来る。  逆光なので顔も見えないシルエットだったが、ケイトは通路を近づいて来る男が河田だと、声を聞かないでも分かっていた。  思わず爪先立ってしまう。 「どうなさいました……」  河田がそばまで近寄ってそう言うと、ほのかに恋しい男の体臭が感じられたので、ケイトは全身が小刻みに震え出してしまった。 「貴方、わたし貴方を愛してしまいました」  ケイトは上ずった声で呟くと、そのまま顔を横に向けて頬を河田の胸に当ててしまう。  このままお別れしてしまうと、悔いを一生残すことになるので、アレキサンドリアに上陸したら、ちょっとの間でもお目にかかって、想いのたけをお話したいとケイトは河田の胸に、両の掌を当てて言った。 「私も、貴女を心の底から愛しています」  河田は顎の先をケイトの髪に、そっと当てて呟く。  ケイトは胸の奥からせり上がって来たものが、鼻の奥と目の奥で熱くなった。 「ケイト……、しかし私達は、もう会うべきではない。同じ時を過ごすべきではない」  説明しなくても聡明な貴女は、なぜ……ということはお分かりだと思う……と、河田は喉の奥から呻くような低い声を、ケイトの髪の毛に染み込ませる。  短かったけど激しく愛し合った想い出だけを大事にして、私達は残りの命を生きて行くのだと、河田は言った。 「ケイト、貴女と愛し合ったことを、私は一生忘れない」  そうしなければいけない……、いけないのだと、河田は呟きながらケイトをそっと抱きしめる。  水兵と八坂丸の水夫が、ひとりずつ横をすりぬけて行った。  河田とケイトの想いに気押されたのか、目を伏せて通り過ぎて行く。 「もうお目に掛かれないのね……」  ケイトは河田の胸に押し当てていた頬を離すと、潤んだ目で見上げてそう言った。 「愛し合う者同士としては、そうだ」  河田の返事を聞いたケイトは、涙の溢れそうな目で見詰めながら、両手をあげて男の首に巻いて力を籠める。  河田もケイトの背にまわしていた両手に力を入れて抱きしめると、ふたりの身体は、きしむように、ひとつになって揉み合った。  唇が吸いついてひとつになる。  通路をやって来たふたり連れのイギリス人の老婆は、河田とケイトが激しくキスをしている脇まで来ると、ひとりが口に手を当てて呻くと膝から床に崩れてしまう。  もうひとりの老婆は金切声をあげると、通路にへたり込んだ友人の手首を掌で叩いたりしている。  河田もケイトも見向きもしなかった。 「サヨナラ河田……」 「さようなら、ケイト・マスタスン」  ケイトは背を伸ばして、通路を歩み去って行く。 「Uボートと闘って、無事に全員救助された貴君達を、アレキサンドリア市民と駐屯している連合国将兵は、最大の敬意を持って歓迎するそうです」  電文を握った若い士官が、大声で艦内をふれて歩く。  下士官が水兵に作業衣の上下を持たせてやって来て、褌ひとつの火夫達に配ったが、それについてやって来たフランスのクレイ男爵は、洒落たアルパカの上着を熊五郎に渡した。 「貴君はこれを着給え、私はコートを着て来たから心配は要らない」 「こんな上等なのを……」と、熊五郎が恐縮するのに、これは英雄へのささやかなプレゼントだと言いながら、クレイ男爵は後ろにまわって着せかける。  隣にいた仲間の八十八に、熊五郎は、 「この殿様に、上等なフランス語で、それ以上はないお礼を言ってくんない。頼むぜ兄弟……」  と言ったので、周囲に居た火夫達がドッと笑った。  クレイ男爵は、獰猛な火夫達が嬉しそうな顔で、邪気のない笑い声をあげたのに満足して微笑んでいる。  アレキサンドリアから先は、まずUボートの心配はないので、火夫の勤務もこれまでとは段違いに楽になると思っていたから、八十八は此処で八坂丸を降りるつもりでいた。  相談に乗ってくれた相棒の熊五郎は、一番危険でしんどいマルセイユからアレキサンドリアまで、黙って乗ったことを偉い人達も汲んでくれるだろうと、言ってはいたのだが、それでも永く勤めた仕事を、途中でやめるということは、誰だって言い出し難い。  事情を話せば山脇船長も機関長も、許してくれると思っていたのだが、本船が撃沈されたので、言い出し易くなったことはある。 「マルセイユまでの船賃はあるのか……」  兄弟分同様の熊五郎が、褌ひとつで財布も持たずに脱出したので、そんな心配をしてくれたのが嬉しかった。 「なあに、帰ろうと思えば泳いでだって帰るさ」  と八十八が言ったら、熊五郎が、それなら背泳ぎでないと、あそこが海の底にひっかかると、ニコリともしないで呟いたのがおかしくて、ふたりは声をたてて笑い出す。 「火夫連中も皆無事だったから、機嫌がいいわけだな」  草刈が楽しそうに笑っている熊五郎と八十八を見て、操舵手の竹内に言った。 「船底で働いていた者も、残らず全員助かったのですから、八坂神社さんの御加護でしょう」  竹内は感じ入った声で言う。 「ところで一等運転士《チオツサー》。自分のお願いをしておいたものですが……」  蚊の鳴くような声で竹内が言うと、草刈はちょっと跳びあがるようにすると腹をへこませて、右手を腹の前に差し込んで探りはじめた。  爪先立って、遂には左手もズボンの中に差し込んで、真っ赤な顔になったのは、どうやら腹巻きがグルリとまわってしまったらしい。  草刈は竹内から預かった封書を、腹巻に入れて肌身離さず、大事に持っていたのだ。  それが雷撃されて離船し、Uボートと闘いラボリュー号に救けられるうちに、前に挟んでいたものが後ろにまわってしまったらしい。  人目のある甲板だからズボンを降ろして探すわけにもいかないので、散々苦心した揚句、やっと腹巻を少しずつまわして、封書を取り出すと、温まったのを竹内に渡した。 「やあ一等運転士、大事に預かって下さって、有難う存じました」  竹内は年下の草刈に丁寧に礼を言うと、受け取った封書を四つに破いて、そのまま海に投げる。 「やあ草刈さん、遺書なんて要らなくなったのは、嬉しいことですね」  男には誰でも事情があるものだと、この時草刈は思った。 18 アレキサンドリア  アレキサンドリア港を背に、ラボリュー号へ向かって真っしぐらにやって来た軍艦は、小型だったが、素晴しいスピードでぐんぐん近付いて来る。  迎えにやって来たイギリス海軍の駆逐艦だ。 「イギリス野郎の早いのは、不味《まず》い家畜の餌のような飯を喰う時だけだ。泳いだって帰れるところまで来た時に、手柄顔でやって来るんだ。あのグズ共め……」  ラボリュー号の水兵が、もぐもぐとそんな悪態をいつまでも言っている。  今日は、昨日の雲はすっかりなくなった快晴だ。  ラボリュー号の左舷五十メートルほどのところで擦れ違った駆逐艦は、スクリューを逆転させて白い泡を藍色の海に撒き散らす。  ラボリュー号の下士官が、「エンリー号」だ……と言ったのはHを発音しないフランス人だからで、テームズ川の上流にあるヘンリーは、ヘンリー・レガッタで有名な町だ。  毎年一度の漕艇大会には、大変な人が英国全土から集まって来る。 「ヘンリー、よく来てくれた」  イギリス人の乗客達は、目を輝かせて叫んでいた。  速力を落としてラボリュー号と擦れ違った駆逐艦は、クルリと小回りに旋回して、すぐ速力をあげて追いかけて来る。 「海防艦に駆逐艦と、こうして軍艦を見ていると、勇ましくて羨ましいですね」  自分達のような商船の乗組は、戦争になると耐えるばかりだけど、軍人は闘えるから、いっそ楽だと操舵手の竹内が草刈に話しかけた。  命を失うのは同じなのだから、耐えるより闘った方がずっと過ごし易いと竹内は言う。  頷きながら草刈は、 「戦争をしなければいいんだよ。戦争がなければ、軍人より商船の乗組の方が、同じ船乗りでもずっと鯔背《いなせ》さ」  と言って微笑んだ。  そばで駆逐艦を見詰めていた柔道師範の小泉誠太は、ギョロリと目を光らせて睨むと、 「何を軟弱なことを言っているのか、いい若いものが……」  と呟いたのだが、草刈も竹内も聞こえない振りをしていた。  自分達は柔道の世界は知らないから、何も言わない。  しかし船乗りだから、船のことに関しては誰にも何も言わせないという想いがあった。  事情も知らず経験もないのに、こんな無責任な発破《はつぱ》をかける手合いが多過ぎると、草刈も竹内も思っていたが、相手が乗客だから何も言わずに黙っている。  旋回してラボリュー号を追って来たイギリス駆逐艦ヘンリー号は、左舷に並びかけて来た。  駆逐艦は早い。  ヘンリー号は全速力でラボリュー号に並びかけると、速力を落として併走する。  艦橋に立った水兵が、叫べば届くかという距離なのに、手旗信号を送り始めた。 「八坂丸の乗客・乗員の無事と、敢闘精神に心より感服し、護衛の任に当たることを光栄に存じている……か、そんなことより、今頃ヨタヨタとトリエステに向かっているUボートを、追っかけてやっつけたらどうなんだ」  ラボリュー号の下士官たちは嘲り声で喚く。 「駆逐艦や海防艦が見当をつけて爆雷を落とすより、空から見付ける方がずっとはかが行くそうだ」  目の前の駆逐艦を見ながら、リゲット船長が妻にそう言うと、聞いていたマカラが口を挟んだ。 「空からって、飛行機ですかな」  いや違う、飛行機は潜水艇を探して海の上を、そんなに長くは飛んでいられないから、飛行船を使うのだそうだとリゲット船長は答えた。 「空から見ると、うねりの下に潜っている潜水艇が、黒くハッキリと見えるのだそうだ」  そこを狙って爆雷を投げれば、ひとたまりもないだろうと言ったら、マカラは首を捻って、それなら直ぐかかって、全部やっつけてしまえばいいのにと言う。 「残念なことに、飛行船を持っているのはドイツ軍で、連合軍側には実際に地中海でUボート狩りをやるほどは、飛行船がないのだ」  老船長は、下らん缶詰を高い値段で買わないで、飛行船をどんどん作ればいいのだと、いかつい身体つきの中年女の秘書と、今では人目も構わずに寄り添っている、下卑た缶詰屋の同国人に向かって、聞こえよがしにそう言った。 「船長、日本総領事館から入電です」  足立が電文を持って部屋に入って来て、山脇船長に手渡す。 「ナニ……、フムフム」  ラボリュー号の下士官から借りている老眼鏡をかけて、山脇船長は英文の電報を読むと、そばに居た船長付ボーイの若林に、草刈一等運転士を呼んで来てくれと言いつける。  若林と入れ替わりに入って来たラボリュー号の士官は、後一時間半でアレキサンドリア港の中央突堤に、接舷する予定だと嬉しそうな声で報告した。 「参ったぞ草刈君。アレキサンドリアでは入港している各国の軍艦が、ラボリュー号に礼砲を撃つらしい」  それに応えて乗組を右舷に整列させて、応答したいのだが、自分も含めて非道い身なりだと、山脇船長はヨレヨレになった制服の袖を引っ張って苦笑する。 「撃沈された商船の乗組ですから当り前ですよ。胸を張って整列しましょう、船長」  草刈が言うと、山脇船長はニッコリ笑った。 「八坂丸乗組は、甲板に集合……」  船庫番《ストーキー》の小俣兵介がふれてまわると、不精髭を伸した八坂丸の乗組が、甲板に立っていた山脇船長のところに集まって来る。  皆、撃沈されて以来、風呂にも入っていないので、山賊のように見えたのだが、本当に頼りになる頼もしい連中なのだ。  そう思ったら山脇船長は、胸に熱いものがこみあげて来る。自分はこの男達に恵まれたので、この一大事をなんとか乗り切れたのだと、山脇船長はつくづく思ったのだ。 「船長、本艦はアレキサンドリア港の中央突堤に接岸します。乗組を整列させるのは両舷の方がよろしいかと存じますが……」  草刈が意見を具申すると、山脇船長は頷いて、右舷と左舷の両方にしてくれと言う。 「私は右舷に、キミは左舷に別れよう。これが、この航海の仕上げだよ」  相棒の熊五郎と別れて左舷に整列した八十八は、近づいて来るアレキサンドリア港を見ていたら、急に目の奥が熱くなって来て、涙が溢れそうになったので、ゴミでも入ったような振りをして、借り衣の袖で拭った。  爪先立って自分の左右を見渡すと、まだ子供のような見習調理人の竹下は勿論、鬼のような顔をした水夫の大橋捨吉も、床屋の上手な皆川も同じようなことをしている。 「俺だけじゃない。皆、嬉しくて涙が出てしまうのだ」  と、八十八は思った。  乗客達は艦首と、一段高い艦橋の下に集まっている。  入港して来るラボリュー号とすれ違った内航の小さな石炭船は、数人の乗組が甲板に出て来て、大声で何か叫びながら手を振りまわす。  操舵室で自ら舵輪を握っていた白い髯の船長が、窓から上半身を乗り出すと、赤い口の中を見せて何か頻りに怒鳴っている。  小さな石炭船は、全員が興奮し切っていた。  白い蒸気が断続して空に昇って、汽笛が鳴り続ける。  市役所か何かだろう、巨きな建物のそばから花火が打ちあげられて、高い空で白い煙が弾けると、ポンポン音が聞こえて来た。  ラボリュー号はアレキサンドリア港の外側にある防波堤を越えると、速力を落として港の中央を通って、誇らしげに入港して行く。  双眼鏡を借りた山脇船長は、港を眺めた。  港に続く道を少年が走って行く後から、黒い犬が追いかけて行って、追い抜くとそのまま先に立って走り続ける。  中央突堤を中心に、港には大勢の人達が集まっているのが見えた。 「ああ、全員無事に救助されてよかった」  と、山脇船長は思った。 「ドンッ」  と、港内に碇泊していたイギリスの巡洋艦が、最初の一発を撃って、それから何秒間かの間隔で、続けて二十一発の礼砲を撃つ。  アレキサンドリア港内に居た連合国の軍艦が、それぞれ入港して来るラボリュー号に、二十一発ずつ大砲を撃ったのだ。  港は砲声に包まれてしまう。 「ヒョーッ、凄い大歓迎だぞ、驚いたな」  総料理長《シ エ フ》の生田磯吉が隣に並んでいた無線局長の足立に言う。 「けどさ、Uボートに撃沈されて、しかしよく皆こうして無事に、アレキサンドリアまで着いたよな」  京都の八坂神社さんが守って下さったのだと、足立は職種に似合わない古風なことを言った。 「気をつけえッ、背をそらし顎を引いて胸を張れえッ」  草刈の号令が最微速で港の最奥にある中央突堤に向かうラボリュー号の、艦首から艦尾に抜けて行く。  雲ひとつない上天気で、北アフリカの強い陽差しが、アレキサンドリア港を輝かせていた。  艦橋から艦長が大声で叫ぶ号令が、甲板にまで響いて来る。  礼砲の音が停まると、碇泊している軍艦の脇をラボリュー号が通り過ぎる度に、凄い歓声と拍手が沸き起こった。 「ブラボー」  と、叫んでいたのはフランス艦で、「ヒップ・ヒップ・フレー」と怒鳴っていたのは、イギリス艦だ。  中央突堤に近づいたラボリュー号は、スクリューを逆転して船脚を止める。  タグボートが二隻待っていて、ラボリュー号の艦首と艦尾に一隻ずつ付く。  ラボリュー号の水兵が、整列している八坂丸の乗組の前で忙しく働いて、右舷の舷側に防舷材を吊した。  こうしないと舷側が突堤に当たって凹んでしまったりする。  幅の広い中央突堤は、真ん中が上屋《うわや》になっていて、その屋上にはアレキサンドリア市民が集まっていた。  上屋というのは倉庫のことだ。  貨物船の運んで来た積荷は、いったんこの上屋に納められる。  その上屋の平坦な屋上には、大勢の市民がハンカチや急造の日章旗を振って、八坂丸の乗組と乗客を迎えていた。  ラボリュー号の右舷には中央突堤が、左舷には隣の突堤に入っていたフランス巡洋艦が見える。  どことなくイギリス艦に比べて、華奢《きやしや》で洒落《しやれ》ているフランス艦は、後甲板に白い天幕を張っていたが、その下には軍楽隊がいて先ほどから演奏を続けていた。  命が助かったと思ったら、スティーヴは嬉しくて温かい港の風が妙に目にしみて、涙が滲み出て来た。  スティーヴは明日で六十歳になる。 「おいスティーヴ、今日は何日だ。もうクリスマスだろう……」  主人のジェイムス・マカラがそう言ったので、スティーヴは、今晩はもうクリスマス・イヴだと答えて、溜息を漏らした。  カルカッタ郵便局の次長になった主人が、任地に執事を連れて行くことになって、月二ポンドの約束で雇われたスティーヴも、最初の給料をもらう前に、もうすっかりウンザリしている。  ケチで横柄で、小役人を絵に描いたような主人だった。 「イギリス海軍が居るから、もう大丈夫だ」  イギリス軍に牛と羊の缶詰を納めているクーパーが、そんなことをジェイムス・マカラに話しかける。  この評判の悪い缶詰屋は、自分と同じぐらいの歳だろうと、スティーヴは思った。  主人のマカラも、この缶詰屋も、この歳までラグビーもレガッタもやったことがないから、フランス海軍の海防艦に助けられたのに、こんなことを言っている。  エースのイギリス軍だけでは戦争には勝てないのに、この愚かな同国人の男は、いつまでもこんなことを言っていると、スティーヴは嫌になってしまう。  現実の問題として、もしこのフランス海軍のラボリュー号が、真っしぐらにやって来て爆雷を抛《ほう》り込んでくれなければ、浮上したUボートは、間違いなく救命艇で漂流していた自分達を射殺したに違いないと、スティーヴは思った。  少し動きの鈍いフルバックだって、大事な味方なのだ。  毎月三十日に給料をもらうことになっていて、この十二月の三十日には、二ポンドの他に、ロンドンでくれなかった支度金を十五ポンド、主人のマカラはくれることになっている。  やめてロンドンに帰ろう、と、この時スティーヴは決めた。  いくら雇われ執事でも、どこか少しでも主人を尊敬するところがなければ、とても仕《つか》えられるものではない。  ラボリュー号の艦首と艦尾に一隻ずつとりついたタグボートは、引っ張ったり押したりして、中央突堤に平行にさせた。  ラボリュー号の艦首と艦尾には、ひとりずつ屈強な水夫が立って、輪にしたロープを肩にかけている。  間もなくロープの先端についた重りが、力一杯桟橋に抛られるだろう。  隣の桟橋に居たフランス海軍の巡洋艦の軍楽隊が、突然妙な音楽を奏し始めた。  指揮者は躍りあがり、それまでより一層熱が入った演奏を始めたのだが、これがなんとも妙なメロディーなのだ。  桟橋の間を飛んでいた鴎も、その音を聞くと驚いて反転してしまう。 「これはアラビアのマーチだ」  デイヴィス・トンプソンが叫ぶと、玉城勇民が自分もこのメロディーは、タンジールかカサブランカで聞いたことがあると言った。  切れ目のない現代の西洋音楽ではないメロディーが、高く低く、怪しげに流れ続ける。 「船長ッ」  アルパカの上着を着ている山野熊五郎が、頓狂な声で叫んだ。 「あれは……、あれは君が代でありますッ」  何を馬鹿な……という顔で、左舷側の指揮をとっていた草刈が耳を澄ますと、熊五郎の大音声を聞きつけて、山脇船長も煙突の間から顔を出す。 「本当だ。これはなんと君が代であります」  若い三等運転士が声を震わせてそう言うと、陽焼けした頬をツルツルと涙が転げ落ちて行く。 「演奏中のフランス海軍軍楽隊に、敬礼ッ」  草刈が叫ぶと、商船の乗組は滅多にしないことだが、左舷側に整列していた八坂丸の乗組は、一斉に挙手の礼をする。  今まで一度も日本の国歌なんて演奏したことがなかったのに違いない。  トランペットもオーボエも、懸命に譜面を見詰めて、頬をふくらませて顔を真っ赤にすると、君が代を演奏しているのだが、時々それらしいメロディーが混る程度だった。  それでも、長い危険な航海をおえて、アレキサンドリアに入港して来た八坂丸の乗組にとっては、聞き分けられるメロディーの度に、涙が溢れ出て来て止めようがない。 「フランス海軍ッ、万歳ッ」  挙手の礼に「直レ」がかかった途端に、列の中ほどにいた熊五郎は、思わずそう叫んで両手を挙げてしまった。  皆それに和して、八坂丸の乗組と十七人の日本人乗客は、涙をこぼしながら万歳を三唱した。 「苔の、むうすうまあああで……」  と、最後まで妙な音を出しながら、君が代を演奏し終わった巡洋艦の軍楽隊は、全員坐っていた椅子から立って、こちらに向かって手を振った。  白い制服の指揮者だけ、片手を背後にまわして、片手は腹に当てるとお辞儀をしてみせる。  万歳の三唱を了えた八坂丸の日本人は、一斉に拍手をし、「ブラボー」と叫んだ。 「や、出過ぎたことをしちまって……」  熊五郎が先任士官の草刈に頭を下げると、構わないというように一等運転士はニコリとした。  おそらく譜面をたった今渡されて、練習もロクにしないで、ぶっつけの君が代だったのに違いない。 「俺は、家に帰ると毎日銭湯に行って、二時間は入っているから、いろんな男の端唄や浪花節を聞いてるんで、少々の調子はずれには驚かないんだ」  と、得意そうに叫んだ熊五郎がいなかったら、それとは分からなかったほどの演奏だったが、君が代だと言われてみれば、確かにところどころが日本の国歌だった。  アラビアの港で聞く君が代は、それがところどころでも、耳から胸に染み込んで来る。  巡洋艦の乗組を選抜した軍楽隊だから、ほとんどが素人に違いない。  それが一所懸命演奏したから、日本人の胸を打った。 「見ろ、聞け山崎、これが料理にもつながる心だ」  生田磯吉は三人置いたところに並んでいる山崎省一に叫んだ。 「ハイ、よく分かりました」  涙を拭きながら、この航海を了えたら、ひとまわりを師匠の生田磯吉から命じられている山崎は、大きな声で答えた。 「本当に分かったか、どう分かったんだ、言ってみろ」  珍しく生田磯吉はしつこく追及する。 「よく分かりました。私達を歓迎しようとしてあのムッシュ達が、一所懸命に……。感じ入りました」  山崎省一がそうつっかえながら言うと、生田磯吉は何度も頷いて、どこで勉強が出来るか分からないと呟いた。 「山崎、神戸へ着いても、もうどこにも行かんでいい」  エッと山崎は右の耳を師匠の方に寄せてみせる。 「総料理長、今なんとおっしゃいました」  生田磯吉はそう訊かれると、フランス巡洋艦を見詰めながら、もう一度少し低い声で答えた。 「分かったらもうええわ、ひとまわりせんでもいい。しっかり料理を作ればええ」  古手の山崎がまだ十五歳の見習の竹下をいたぶるのを見て、師匠の生田磯吉はひとまわりを命じたのだったが、それを今取り消してくれたというわけだ。  ラボリュー号は桟橋に接舷して、タラップを降ろす。  桟橋で足踏みをして待っていたイギリス海軍士官が、長い脚でタラップを二段ずつ跳びあがって来る。  ラボリュー号はアレキサンドリアに着いた。  イギリス海軍の士官に続いて、税関と入国管理、それに検疫の係官が、ラボリュー号のタラップを急ぎ足で昇って来る。  いずれも極く形式的な検査しかしなかったのだが、係官達は任務よりも、むしろ奇蹟的に全員無事に救けられた八坂丸の、乗客と乗組を、自分の目で確かめたかったようだ。  簡単な検査を了えた乗客と乗組は、ラボリュー号のタラップを桟橋に向かって降りて行く。  余程嬉しかったのだろう。  桟橋に降りたった途端に、ヒシと抱き合う夫婦が何組もいた。  ケイト・マスタスンは、桟橋から首だけ捻って、一度チラリとラボリュー号を見ると、すぐ視線を戻して歩き去る。 「代理店の者が、皆様をホテルに御案内します。どうぞあそこに見える税関の建物の前でお待ち下さい」  まだラボリュー号に居るものだとばかり思っていたケイトは、河田が自分より先に降りていて、桟橋から陸地にのぼったところに立っていたので、驚いて立ちどまってしまった。 「ミセス・マスタスン、イギリス陸軍のカーター少尉が、貴女の御面倒を見るために、税関の建物の前に来ておられます」  河田が歩み寄って来て、そう言ったので、ケイトは見詰めたまま顎を引いて頷く。  それにしても、なんと自分はこの日本人の男を愛したことだろうと、ケイトは思った。 「事務長、貴方達のおかげで、生きて陸地が踏めました。心からお礼を申します」  ケイトが言って右手を伸すと、河田も右手を伸してしっかりと握る。  河田の頬にその瞬間、朱が差した。  なんと少年の美しさが、この日本人の男には残っている……と、ケイトは思って、胸に一本熱い針金を差し込まれたような気がする。  目の前の河田の顔が、ボッと滲んだ。  一度少し力を入れた河田が、握っていた手をほどくと、 「またどこかでお目に掛かるのを楽しみに……」  ケイトは頷いて、税関の建物を目掛けて歩いていく。  近づいて来た缶詰屋のクーパーと、これも下種《げ す》な顔をした中年の秘書に、河田は気を取り直して、税関の建物を指差すと同じことを言った。 「あたし、毛皮のコートもドレスも、皆失くしちまったんですよ。どうしてくれるのさ」  喰ってかかる秘書に河田は、無表情に言い放ったのだ。 「そんなもん、生きてるから着られるんですよ。マダム」  最後にボーイの若林をひとりだけ連れた山脇船長がやって来たのを、舷門で待っていたラボリュー号の艦長が、両手を拡げて迎えると、そのまま抱きついてしまう。 「船長、今晩はゆっくり動かないベッドで寝て、明日か明後日の晩は、お誘いしますから一緒に一杯やりましょう」  貴方をアレキサンドリアにお連れしたことを自分は一生自慢するし誇りに思うだろうと、ラボリュー号の艦長は心を籠めて言った。 「有難う存じました。私もフランス海軍の勇敢な貴方達に助けられたことを、いつまでも語り続けることでしょう。乗客と乗組に替わって、御親切に厚くお礼を申します」  山脇船長は舷門に居た他の士官達とも握手をし、ゆっくりとしたフランス語で礼を言うと、ボーイの若林を従えてタラップを降りて行く。 「髭が剃れるほどよく切れる刀で敵を切り、負ければその刀で自分の腹を切り裂いて自殺する野蛮人だと聞いていたのに……」  あの日本人の船長と、それに乗組達は何とも言いようのない……と言うより、ケチのつけようもないほどの海の男だったと副長が呟いた。 「貴君のように口の悪い海軍士官がそう言うのだから、それ以上のお墨付きはないだろうな」  艦長が両掌を打ち合わせて、笑ってそう言ったので、舷門に居たラボリュー号の乗組は声をたてて笑った。 「俺達はまだ一隻もやっつけていないけど、大砲も爆雷も持っていなかったあの八坂丸の連中は、Uボートを一隻、舳先で突き壊して地中海の底に沈め、もう一隻は拳銃で潜望鏡を壊して、メロメロにしてしまったんだから、凄いもんだ」  砲術長の大尉が、茶色の髭を震わせてそう叫んだ。 「艦長、すぐ爆雷を補充して出港しましょう。日本人が潜望鏡を壊したUボートが、今頃は浮上して、トリエステに逃げ込もうとしているのを、追いかけて撃沈してやりましょう」  浮上しても十二ノットぐらいがせいぜいのUボートだから、全速力で追いかければ、アドリア海で捕まえられるし、潜行しても魚雷は撃てず逃げられもしないと、砲術長は猛り狂ったように叫ぶ。  手柄を立てれば昇進の望みも叶うから、若い職業軍人としては必死なのだ。 「全員救助したことで、俺達はフランス海軍……いや全軍で一番の大手柄だ。欲張るとロクなことがないぞ砲術長」  当分ドイツ野郎《ク ラ ウ ツ》は手を挙げないから、戦争は続く。Uボートを撃沈するチャンスは、まだ何十回もあると艦長は言った。  桟橋で待っていたイギリス海軍の高級士官は、タラップから降り立った山脇船長に歩み寄る。  倉庫の屋上に群がっていたアレキサンドリア市民は、最後にラボリュー号のタラップから降りて来たのが、八坂丸の船長だと知って、大歓声と拍手で迎えた。  顔をあげた山脇船長は、倉庫の屋上に向かって、両足の踵をつけて深い会釈をする。  それを見て屋上の市民は熱狂した。  小さな花束を投げた少女がいて、離れたところに舞い落ちたのを、ボーイの若林が拾って船長に渡す。  山脇船長がその花束を持った手を高くかざして見せると、屋上の手摺に両手をついていた少女は、目を輝かせて跳ねあがる。  横に立っていた男は、少女の父親だろうか、手をまわすと落ちないように、コートの背中をしっかりと掴んだ。 「天主様のクリスマス・プレゼントよ」  そう呟いて、しきりとハンカチで目を拭っている母親に、金髪のまだ幼い男の子が訊いた。 「あの花束を持っている黒くて四角な男が、天使だって言うのママ。頭のところに後光もないし、背中に羽もついてないよ」  天使はいろんな姿に身をやつすのだと母親が言うと、すぐ隣に居た若い栗毛の女が、弾けるように笑い出す。  山脇船長に近寄ったイギリス海軍士官は、疲れておいでのところを真《まこと》に恐縮なのだが、記憶の新しいうちに、海軍司令室でマルセイユからの航海の話を、聞かせていただきたいと言う。 「ようございますとも、マルセイユからの私の八坂丸の航海は、残念にもアレキサンドリアの七十浬《かいり》ほど手前で終わってしまいましたがね」  山脇船長はそう言って、白い歯を見せて笑った。 「それでは乗客と乗組のことは、事務長と代理店の者にまかせて、私は一等運転士と機関長を連れて、すぐ御一緒に参りましょう」  そう答えた船長に、イギリス士官は、重ねてお疲れのところを……と、礼を言う。  税関の建物の前まで、少女の花束を持って歩いた山脇船長は、集まっていた乗客と乗組の前で河田を呼ぶと、 「お客さんと乗組の面倒を頼む。俺は福西君と草刈君と一緒に、イギリス海軍の司令室に行って報告をしなければならない」  と言った。  全員の部屋割りをして、温かい喰べ物と着替えの手配を了えたら、船長達の帰りを待っていると答えた河田に、それならホテルのバーで待っていろと言って、山脇船長は愉快そうに笑った。 「事務長、今船長は“ホテルのバー”って、そう言ったんだろう。つまりキミに、ホテルのバーで一杯やろうって、そう言ったんだよな」  俺も一緒に呑む。こんな素晴らしい日本の船乗りと酒を呑むのは、願ってもない機会だ……と、イタリア人のマルコが言う。  そう言われた事務長の河田は、一瞬たじろいでしまったのだが、横からリゲット船長が助け舟を出してくれた。 「いやマルコ君、今晩だけは乗客抜きで、船乗りだけで呑ませてあげるがいい。  八坂丸の乗組達はマルセイユを出港してから今まで、乗客の私達のことを心配し続けて、ロクに酒だって呑んではいないと、私にはお見通しなのだ。  放っておいておあげなさい」  異教徒の私達は、それぞれのクリスマス・イヴを楽しむことにしようと、リゲット船長が老妻の肩を抱いて、覗き込みながら言う。 「アレキサンドリアにもイタリア人の集まっている一画があって、いつでもマカロニを茹《ゆ》でる匂いと、それにニンニクとトマトの匂いをさせているぜ」  と、アメリカ人の若い男が怒鳴って、真赤な顔をして振り返ったマルコに、 「怒るなローマ人、実は俺の祖母もローマ生まれで、三つの時計通り《ヴイア・デ・トレオロロジオ》だと聞いているよ。俺も四分の一イタリアだ」  陽気な声でそう怒鳴ったので、税関の建物の前に集まっていた八坂丸の乗客達は、どっと笑った。  港の外から黒塗りのリムジンが、泥除けに立てた旗竿に、小さなイギリス国旗をはためかせて走って来る。荷馬車を曳いていた馬がエンジンの音に驚いて暴れるのを、轡《くつわ》をとっていた馬方が慌ててなだめた。  ヨタヨタと道の中央に出て来た年寄りの沖仲仕に、リムジンの運転士がクラクションを鳴らすと、おさまりかけていた馬が脅えて、立ちあがってしまう。  馬方は馬の口についたまま、足が地面から離れると、必死になって馬をなだめる。馬車が躍り出して、荷台の樽が揺れて今にも落ちそうになった。  山脇船長の脇に立っていたイギリス海軍士官が、右手に掴んでいた白手袋を上にあげて振ると、それを認めた運転士は、リムジンを山脇船長の前にピタリと停める。 「お迎えに参りました、山脇船長」  イギリス海軍の白い水兵服に身を固めたリムジンの運転手は、運転席から降りて船長の前に立つと、靴の踵を音を発《た》てて打ち合わせると敬礼して、髭を震わせてそう言った。  開けたドアから山脇船長が乗り込むと、続いて機関長の福西と一等運転士の草刈が、リムジンに乗り込む。  乗客の中からイギリス人の商社員デイヴィス・トンプソンが飛び出して来て、自動車の開いた窓から右手を差し入れると、山脇船長の手を握る。 「船長、私は此処からすぐ便船を見付けて、アデンに行かなければなりません。もうお目に掛かることがないかもしれませんが、船長、貴方と乗組のことは終生忘れません。  偉大な船乗りの話を語り継ぎます。  どうかお元気で、サヨウナラ……」  最後だけトンプソンは日本語でサヨウナラと言った。  運転手のイギリス海軍水兵は、運転席につくと客席を振り返って、出発しますと言うとギヤを入れる。  リムジンはゆっくりと動き始めた。  木島八十八はポロポロ涙をこぼしながら、隣に立って船長を見送っていた仲間の山野熊五郎に話しかけた。 「これで船長や他の乗組とも、お別れだと思うと、この俺が切なくて切なくて堪らねえ」  八十八は、このアレキサンドリアから、中立国の小さな船を見付けて、フランソワーズの待つマルセイユに帰る。  機関長には許しをもらっていたし、事務長の河田は、代理店から現金をもらって、給料の清算分を払ってくれると言った。  船長を見送ったら、郵便局に行ってフランソワーズに、アレキサンドリアに無事に着いた、すぐマルセイユに引き返す……と、電報を打つつもりでいる。  世の中の酸《す》いも甘いも知り尽くしている八十八だが、永年一緒に仕事をして来て、生死を共にした仲間と別れるのは、いざそうなってみると、切なくて哀しいことだった。  そんな木島八十八の様子を見た熊五郎は、背中をひとつドンと叩いて、 「おい兄弟、フランス女の飛び切り器量のいいのと惚れ合ったんだから豪気《ごうぎ》なもんだぜ。さ、船長さんを見送ったら、さっさと飛んで行きな」  生きていれば、また出喰わすこともあるだろう、たまには絵葉書でもくれと、熊五郎は腕を伸して仲間の肩を抱く。  動き出したリムジンに、横に広がって並んだ八坂丸の乗客が、一斉に拍手する。  デイヴィス・トンプソンが拍手していた両手を高く挙げると、爪先立って叫んだ。 「キャプテン・ヤマワキ、バンザーイ」  玉城勇民に寄り添っていたインド人の少女も、ロンドンの缶詰屋の女秘書も両手を挙げて、生まれて初めての万歳を三唱した。  ケイト・マスタスンもトンプソンの妻バーバラも、目を潤ませている。  山脇船長を乗せたイギリス海軍のリムジンは、港にいた全員の拍手を浴びながら、倉庫の角を曲がって、港の外に出て行った。  大正四年十二月二十四日のことだ。 あとがき  八坂丸の遭難事件は事実である。  戦争のニュースは、いくら大勝利でも血腥《ちなまぐさ》い。  大勝利でも相手の兵士は大勢命を落とすし、味方だってそうだ。  そんな傷ついたり亡くなったりする兵士達や、とばっちりを喰う市民のことを少しでも考えたら大喜びも提灯行列も、本当は出来たものではない。  日清・日露と戦争が続いた揚句の第一次世界大戦だから、「勝った、勝った、連戦連勝……」と、愚かなマスコミに踊らされた男達は大喜びだったが、市民の中には顔をしかめ放しの者も多かった。  その時、世界中に伝えられたのが、八坂丸の遭難だった。  積荷の十万ポンドのソヴリン金貨(今のお金に換算すると、約二〜三百億円になるのだろうか?)は、地中海の底に沈んでしまったが、なんと乗客と乗組は全員無事に救助されて、しかもカナリヤまで元気でアレキサンドリアに着いたのだから、これは凄い。  それまで知る者も少なかった日本の海運業が、この八坂丸の事件で一気に世界に知られるようになった。  日本製の船だと聞けば、木と竹と、それに紙で造った家に住んでいる人達だという先入観があるので、丸木舟に毛の生えたような舟しか、この頃の西洋人は想像しない。  マルセイユの港に八坂丸が姿を現した時、集まっていた乗客達は、それを見て歓声をあげたのだが、それは思っていたのよりずっと立派で本格的な船だったからだ。  そして、その日本製の船が、日本人の乗組で運航されていると聞いても、すぐ鵜呑《うの》みにする者はいなかった。  船長とか士官は、イギリス人だろうと思った者がほとんどで、日本人といえば、毎朝それで髭が剃れるほど鋭利な刀を、いつでも二振り腰に差していて、怒らせるとそれを腹に刺して自殺してしまうと思っていた。  八坂丸とその乗組達は、Uボートに雷撃されたことで、日本人に対する世界のイメージを変えさせたと言える。  この事件で評価を一新した日本の海運業界は、第一次世界大戦後の船景気で、世界有数の規模に発展したのだ。  それまで、海運先進国のそれに比して、全く問題にもされていなかった日本の海運が、この八坂丸事件を契機として高い評価を受け、ロイド保険会社の保険料率も引き下げられたと聞いている。  これは余談だが、海の底に沈んだ十万ポンドのソヴリン金貨は、第一次大戦後、大正十四年八月に、日本人山岡弓八がサルベージに成功して、ふたたび全世界を驚倒させた。  私、安部譲二は、昭和三十年に少年院の図書館で、第一次大戦の歴史の本を読んでいて、この八坂丸事件を知り、暇にまかせてデータを集めると四百字詰原稿用紙に二百枚のシノプシス(あらすじ)を書いた。その最後には昭和三十六年十月二十三日脱稿……と書いてある。  山脇武夫船長の御子息、山脇繁夫さんからも貴重な資料の提供を受け、面白い当時のエピソードも沢山うかがった。  その当時の私は、全く違った職業に就いていたし、資料を集めシノプシスを書いても、自分で小説にしようという気持はまるでなかった。  ただ、「今誰かが調べておかないと、資料が滅失してしまう。こんな男らしい物語が……」と思っただけだ。  二十代の私が調べて書きあげた物語のシノプシスは、これだけではない。数多くあった。  しかしそのほとんどは、無頼な暮しを永く過す間に、どこかへいってしまった。  この仮題を「八坂丸遭難」と付けていた本篇のシノプシスだけは、前々々妻の田宮光代が、押入の奥深く納っておいてくれたのだから、本当に筆でも言葉でも表せないほど、感謝している。  また、海事の考証を綿密にやってくれた兄博也にも心から感謝している。  永く眠り続けていたこのシノプシスをもとに、多年の宿願を果たしてこの長篇小説を書き上げることが出来た。本篇をこうして発表出来ることは、私自身嬉しくて堪らない。  おわりに、編集部、印刷所の方がた、そして素敵な本に仕上げて下さった装幀の菊地信義さんに心から御礼申し上げる。  そして、文庫本化に際し、私を救けて下さった、カバーデザインの荒川じんぺいさん、講談社文庫出版部の内藤裕之さんに厚く御礼を申し上げたい。  読者の皆様、御買上げ有難うございます。 この作品は、一九九二年一月小社より単行本として刊行され、一九九五年一月に講談社文庫に収録されたものです。 時速十四《じそくじゆうよん》ノット、東《ひがし》へ 講談社電子文庫版PC  安部譲二《あべじようじ》 著 Joji Abe 1992 二〇〇二年四月一二日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000187-0