塀の中の懲りない面々 〈底 本〉文春文庫 平成元年六月十日刊  (C) Jouji Abe 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次    木工場のベテランたち    赤軍派兵士の脱獄    大泥棒とトップ・スター    「メエ」と呼ばれる男    ああ、ソフトボール開幕    ニセ医者日本一の腕前    結婚行進曲は仕事のメロディー    外人懲役、|韋駄天《いだてん》カルボ    散髪屋パピヨンの憂鬱    相撲は寄切りに限るわけ    密告爺さんに謎の一言    寡黙な男の二度目の殺し    老エゴイストのスゴイ理屈    熱中式錯乱予防術    五人に曳かせたゴムボート    モノクロパンダで二年|六月《ろくげつ》    サムライ工場への|出役《しゆつえき》    プロフェッショナル・トゥール    ダックスフント、その名はケンジ    学士さまは駅伝ランナー    かくしだまの健チャン    泣きバイ脱腹巻次第    面会ぎらいの仕合せ    あ と が き      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    |塀《へい》の中の|懲《こ》りない|面々《めんめん》

  木工場のベテランたち  府中刑務所、北部第五工場というのが、木工場の正式な名前で、普通ホクゴと呼ばれています。  常時二千二百人以上の懲役を捕まえてある巨大刑務所、府中刑務所の塀の中には、懲役を働かせるための工場が、大小、新旧とりまぜ二十以上もあるのです。  ただ閉じこめておけばよい禁固刑と違って、懲役刑は、懲らしめ働かせる刑罰なのですから、働かせる看守も大変ですが、不遜といわれようと、懲役も|ダイ大変《ヽヽヽヽ》なのです。  この頃のように巨悪が横行する時代では、まずほとんどの懲役が、犯した罪の重さに……なんてことはなく、夜中の幹線道路で鼠取りにかかったドライバーと同じ、 「チョッ。なんで俺だけ、運が悪い」  ぐらいにしか、正直な話、感じていないのは困ったことですが、それはさておき。  他の歴史の浅い新しい工場、たとえば写植専門工場などは、塗りたての白壁にシミひとつ付いていない赤チャンのお尻のような工場ですが、ホクゴは何十年も、懲役の汗や涙、それに鼻水のたっぷり染みこんだ工場なので、冬は隙間風がどの窓からでも自由に、担当看守にとがめられもせず、懲役の鴨のような青い首すじをなでに来ます。  このホクゴでは、毎日、出所やいろんな反則や事故による人員の減少と、そのための新入りの補充を繰り返しながら、|何時《いつ》でもほぼ八十人ほどの懲役が働かされています。  整理箪笥、ロッカー、本棚といった安物の家具類、碁盤と将棋盤、木製のドア、階段の手摺の支えに使う丸い棒、それに絵画のカンバス、こういった物が、外部の業者との契約で連日作り続けられている製品ですが、その他に、所内や外部からのスポットの注文に応じて、机、椅子、収納箱、食器棚と、何でも来い、で作ってしまうのです。  |娑婆《しやば》でシッカリ年季の入った本職が|落ちて《ヽヽヽ》来ると|官《ヽ》は大喜びで、工場の奥にその本職専門の仕事場がブロックされ、別誂えの材木が運びこまれて、それはそれは見事な家具が、注文に応じて一品物として作られます。  社会という海の最深部、最底辺に底曳網を入れて、ヘドロと一緒に引き揚げたようなのが懲役ですから、それはまあ、一般の方々には想像のつきかねるような、奇怪なのや変ったのが、随分たくさんまじっています。  整列して点呼を取られる時、自分の番になっても、ひと桁の数字がどうしても分らず、ただ目をパチパチさせるだけの大男。  タコは月夜の晩、陸に上って芋を食うのだとムキになって頑張り、ついには子供の頃、腹が空くと待ち伏せして取って食った、とまで言い出してしまう中年男。  話しかけられた途端、どんな言葉でも、自分に対する非難か攻撃に聴こえてしまうらしく、突然目をつりあげて襲いかかる男。  ホクゴには仕事の性質上、そこいらじゅうに刃物や玄翁があるのですから、|阿呆《ナイタリ》と呼ばれる頭の薄いのはまだよくても、|馬鹿《パープー》とか|厄種《ヤクネタ》とか呼ばれる、情緒不安定な懲役や凶暴なのは、これはマズイのです。  看守も含めて全員の生命にかかわることなので、ホクゴで働かせる懲役は、|官《ヽ》も新入りの中からとくに慎重に選ぶのは当然でしょう。  昭和五十年の五月中旬に逮捕された私が、控訴する気力も失くし、一審の判決が確定して、小菅の拘置所から府中刑務所に送られたのは、もう秋のことでした。  すぐ新入房に入れられ、柔順度をさぐるための駆け足や体操、それに適性検査や面接をミッチリ二週間やられて、ようやくホクゴへの|配役《はいえき》が言い渡されたのは、十一月の末でした。  ホクゴに|落ちた《ヽヽヽ》私に与えられた|役席《えきせき》は、リップソーという回転|鋸《のこぎり》の先取りで、リップソーから挽き割られて出て来た材木を、機械がつかえないように次々と素早く取って、横に据えてある手押車に積んでいく、気取らずにいえば助手の役です。  手押車がいっぱいになると、リップソーの反対側で、ドンドン材木を入れている先輩に声を掛けて機械を止めてもらい、それから手押車をエンヤエンヤと引っ張って、隣にある材木の厚さを整える自動|鉋《かんな》の所まで運ぶのです。慣れて身体の痛みがどうやらおさまった頃には、もうその年は暮になっていました。  鼾がひどい、ということで、雑居房には入れてもらえず、夜間独居という独居房に入れられてしまった私は、二十八日の御用納めが近づく頃になると、 「これはマズイことになったわい」  と天を仰ぐ気持でした。  刑務所は、そこにいること自体が“まずいこと”なのですから、ことさら、 「これはマズイことになったわい」  なんて言ったところで、巨人の江川が糖尿病になったようなものですから、流行のタッチで「ナーンセンス」と言われてしまえば、これはそれまでのことなのですが……。  刑務所を海の底にたとえるのが私の得意ですけれど、これは本当によく似ていて、塀の外の海面がどんなに変っても、底のところはまるで何時もと同じままなのです。  戦争が終ろうが民主主義の世になろうが、権力の檻は同じように必要とされ、閉じこめて逃さないことが看守の使命ですから、ノウハウだってそんなに時代の変化で大きく変るような、電子産業や自動車メーカーみたいなものではないのです。捕まえてあるのは人間で、捕まえているのは看守なのですから。  明治の昔からほとんど変らないやりようで、懲役を逃さないように捕まえてある刑務所には、もう塀の外では全く耳にしないような日本語が生きていて、使われているのです。  |物相《もつそう》・|喫食《きつしよく》・|願箋《がんせん》・|配役《はいえき》・|役席《えきせき》……。  思いつくまま、ちょっとあげてみたのですが、翻訳してみましょう。  物相は、よく講談なんかでモッソウメシなんて出て来ますが、あれです。今のはボコボコのアルミで出来た飯を入れる器のことです。  喫食は、物を食べることで、看守が「喫食はじめッ」なんて号令を叫ぶと、懲役は一斉にモゴモゴ食べはじめるわけです。  願箋は、小さな頼りない紙で、懲役は医者に掛かりたいときなど、なんでも|官《ヽ》に願い出るときは、このフォームを使うのです。公安で来ていた赤軍派の若い男は、この願箋を提出して|官《ヽ》を忙しがらせるのも闘争だと毎朝必ず書き、担当看守をうるさがらせていました。仇名をガンセンマンと言いましたっけ。  配役と役席は、職に就けられることと、職場で働かされる配置のことです。  煙草も吸わせず、あらかじめ届出をして認められた家族としか手紙のやりとりをさせず、しかもそのやり方で、暴動も起させず、逃亡もさせず、昔から|官《ヽ》はズーッとやっているわけです。  年末が近づいた頃になって、私が「これはマズイことに……」と慌てだしたのは、二十八日の御用納めから正月の三日いっぱいまで続く長い|免業《ヽヽ》の休みに、|私本《ヽヽ》の下付も購入も間に合いそうになかったからなのです。  自分で拘置所から持って来て、入所の時に預かられてしまった本を、手もとに下さいというのが下付で、新聞の広告や雑誌の書評を見て|領置金《りようちきん》(官に預けてある金)や作業賞与金で申し出るのが購入なのですが、いずれも願い出てからふた月はタップリかかり、私の場合、間に合いそうになかったのです。  雑居房にいればまだ良いのです。一人について三冊の|官本《ヽヽ》は貸与されますし、話相手も将棋の相手もいますから。独居房はまるで、冷蔵庫の中にひとりで閉じこめられたようなもの、せめて本でもなければ、これは|非道《ひど》いことなのです。  ホクゴの工場担当部長はKさんとおっしゃる、五十を少し越えたぐらいのベテランの看守でした。凶器がゴロゴロしている木工場を、若い|副担《ふくたん》(当)ともうひとりの応援、この三人だけで取りしきってグウも言わさないのですから、これは見事なプロというべきです。  居丈高で横柄な看守が多い中で、K部長は厳しいけれど、何時でも底にある温かさを懲役に感じさせるような人でした。  昼の休みに懲役が、二、三人顔を寄せて、恩赦がありそうだとか仮釈の面接がとか、なんて話しあっていると、横を通りかかったK部長が、 「出る算段より、もう来ない算段だよ」  とおっしゃったのには、何度も刑務所に入ったり出たりを繰り返している|懲役太郎《ベテラン》たちは、瞬間、真理を聴いたようにしびれたのでした。  二十八日で御用納め、二十九日は午前中が工場の大掃除。終って工場の食堂で汁粉が出て、これで全部終りという日。大掃除の途中で担当台に私を呼んだK部長は、 「工場にある図書だったら、願箋を出せばすぐ|特貸《とくたい》を許可してやろう。読む物なしじゃあ大変だろうし、まあ勉強にもなるだろう」  と、おっしゃって下さったのです。木工場に備えてある図書ですから専門書ばかりですが、私はその中から69年と70年の『家具全書』(「室内」臨時増刊)を拝借しました。 「ウン。これはいい。安部なあ。こういう良い家具に囲まれて過す人生を、正月休みの間によく考えなよ。拳銃とベッドと注射器だけの暮しじゃ仕様があるまい……」  その正月休みの間、私は素敵な家具の写真を睨んで過しました。 [#改ページ]

  
赤軍派兵士の脱獄  頼りは、中の綿が切れて寄ってしまっている布団と、自分自身の体温だけ。本を読んでいても目の玉が冷たさで痛み出し、時々目をつむって目玉を温めるという、冷蔵庫に閉じこめられてしまったような、正月休みが終り、朝ホクゴに|出役《しゆつえき》して、夕方までリップソーの先取りをする毎日がまた始りました。  朝、通路で看守の振る、キョウビはもう刑務所にしかない木の柄の付いた昔の小学校にあったような鐘で、ガランガランと起され、目蓋に染みるような冷たい水で顔を洗うと、食器孔というドアの下に開けられた小窓から押し込まれた朝飯をひとりでボソボソ食い、終ると通路に整列して工場に向います。  途中、舎房で着ている囚人服を、工場の作業衣に着替える更衣室があり、脱ぐ部屋と着る部屋との間に、看守が二人で目を金壺にしている関所があって、懲役は足型の白いペンキが描いてある板の上で|真裸《まつぱだか》で足踏みをしながら、両手を上に揚げて拡げ、そして大声で名前を叫ぶのです。  これがいわゆるカンカン踊り、正式には|裸検身《はだかけんしん》という奴で、どんな寒い日でも風邪気味の日でも、容赦してくれるような|官《ヽ》ではないのです。  裸の懲役を前後から二人がかりで、足踏みする足の裏まで睨んでいても、シンナーのような液体から虎の子の煙草まで、持ち込んだり運び出したりするのですから、懲役はテールコートの代りに、グレイの囚人服を身にまとったマジシャンなのです。  これも、本当にシンナーや煙草がやりたい吸いたいのは半分、看守の鼻をあかして、ザマアミロみたいなのが半分というところでしょう。  裸検身が終って作業衣を着ると工場に行き、整列して点呼を受け、担当部長からその日の注意があると、寒中は作業の前に身体を温めるための体操があります。これはそれぞれの|役席《えきせき》でやるので、私はリップソーの横に立ち、天突き体操なんて面白くもなんともない体操を、ただ温かくなるためにやるわけです。  寒中の朝、これをやるたびに囚われの身が、なんとも悲しくなるのです。  肥らないために、ただトコトコ走るジョギングとやらも同じで、ちっとも面白くないことをしなければならないというのは、誰がなんと言おうと、悲しいことなのです。  私のように|娑婆《しやば》でロクに身体を使っていない懲役だと、朝から夕方まで工場でコキ使われるだけでもうたくさん。休憩時間は寝そべるか、私物のシャボンを賭けて将棋をさすのがせいぜいだったのです。  休憩時間になると工場の中央を貫通している通路を、下着姿で端から端まで飽きもせず、パタパタペタペタ走っている、締まった身体に眼鏡をかけた、まんまるな顔の青年がいました。 「誰だ、あの馬鹿は……」  私は呆れて他の懲役に訊き、そして|憑《つ》かれたように、丸い顔に丸い汗の粒を浮べ通路を走りに走るその青年が、赤軍派の戦闘部隊で鉄砲を握って資金作りに大活躍をした、城崎勉だということを知ったのです。  娑婆にも塀の中にも、ウンザリするほどいる健康馬鹿と違って、城崎勉は来たるべき闘争の日に備えていたのですから、これは|矢張《やは》り大したものです。  リップソーで挽き割られた材は、次の自動鉋で厚さを整えられ、それからボーリング・マシンに運ばれて、木の|楔《くさび》を打ち込む穴を、何カ所か一度に、グリグリガーッと開けられるのです。  城崎勉はそのボーリング・マシンが仕事で、足でスイッチを踏むと穴を開ける|錐《きり》が何本も、一斉にジャーッとまわり出す機械にしがみつくようにして、毎日仕事をしていました。とにかくまだ五年近くも刑期が残っているのだそうです。  ヤクザや泥棒、それに詐欺師や痴漢ばかりの工場で、赤軍派兵士城崎勉は異質の懲役でした。  国立の徳島大学中退と聴いただけで、懲役たちはすっかり驚いて、工場の文化部員という、その時々で一番のインテリがつとめる役を、たちまち城崎勉に任命したのです。  この府中刑務所では、毎月工場ごとに懲役の作品を文化部員が集め、印刷工場で四十頁ほどの「富士見」という雑誌にするのです。  ある日、 「安部さんも何か書いてみませんか」  と、城崎勉が私に声を掛け、それからツキアイが始ったのです。約一年後、六百万ドル(十六億二千万円・当時)入りのトランクを提げて、悠々とアラビアに脱獄して行った、あの城崎勉です。  毎月の締切日になると、集められた刑務所中の投稿は、部門ごとに|官《ヽ》が依頼した選者の先生によって入選作が決められ、印刷工場の東部第三工場に送られ、四十頁ほどの「富士見」が出来上るのです。  発行日は、印刷工場の忙しさ次第で毎月まちまちなのですが、月末頃になると、この「富士見」が刑務所中の舎房に一冊ずつ配られます。なぜか、もっとも刑務所の規則は全部がといってよいほど“なぜか”なのですけれど、この雑誌は持出しが禁じられていて、府中の記念には絶好なのに、出所の時持って出られないのは残念なことです。  短歌・俳句・川柳・詩・随筆・創作と部門があって、懲役の投稿が一番多いのは、その中では割合簡単に作れる、俳句と川柳です。  規模の大きな府中刑務所ですから、懲役同士顔の合うのは、自分の働かされている工場と、せいぜいが隣接する工場の連中ぐらいですから、同じ府中刑務所に|落ちて《ヽヽヽ》いる仲間でも滅多に顔を合わすこともなく、誰が|何処《どこ》にいるかさえ分らないことも多いのです。  だからこの「富士見」に投稿して入選すると、作品と一緒に自分の名前と所属工場とが刑務所中に配られるので、 「何野ナニガシ、何処何処工場にいるぜ」  と仲間に知らせるのに格好というわけで、毎月嫌というほどたくさんの俳句や川柳を、木工場の連中に頼まれて作らされていた私なのです。選に落ちたのでは目的が果せないので、頼む懲役も入選率の高い代作を選ぶわけですから、私はかなりなゴースト・ライターだったのです。  随筆と創作は書く枚数が多く、投稿する懲役があまり木工場にはいなかったので、困った文化部員の城崎は、俳句の代作で人気のある私に声をかけたのでしょう。  独居房で過す夜は、冊数をごく少なく制限された本を読むぐらいで、読んでしまえばもう狭い房の中には話相手もおらず、時間だけがただ|矢鱈《やたら》と豊かにあるのです。  そんな時、塀の中からではどうすることも出来ないまま、ふだんはつとめて思い出さないようにしているような心配事が、よく頭に浮んで来てしまうもので、そうなれば独居房は、そのまま|コンクリ《ヽヽヽヽ》造りの地獄です。  何かに集中していれば、この手の心配事はなかなか顔を出し難い、言ってみれば“猛犬御注意”の札と、新聞の勧誘や押売のような関係です。城崎の勧めを受け、私は随筆と創作とを書くことに熱中して夜を過すことにしました。  そしてこの辺りが、|無頼《ぶらい》な人生で身に付けてしまった小器用なところで、自分自身ウンザリするのですけれど、たちまち両方の選者先生の好みに応じた物を書けるようになり、ほとんど毎月、作品が「富士見」に載るようになって城崎を驚かせたのです。 「なあに、こんなの喧嘩と一緒さ。入選するのが“勝”なら、相手は他の投稿と選者の先生だろ。とりあえず古い富士見を何冊か集めて、選者先生の好みを呑み込んじゃったら、もうこっちのもんさ。たとえばの話、喧嘩の相手がドラキュラと分ったら、こっちの用意するのは十字架とニンニクさ。それを間違えて他の得物をいくら振りまわしても、たちまち首に噛みつかれて血を吸われ、丸干みたいにされて負けちまうぜ」  城崎は、私の得意になって喚きたてる言葉を、意外に、とても真剣な表情で聴いていました。城崎勉は見事にまんまるな顔に眼鏡をかけ、その眼鏡の下に、顔の形に合わせたに違いないと誰でもが思うような、大きな丸い目を光らせている青年なのです。  眼鏡をかけている男の目は、たいていが細くて小さいのですが、城崎の大きな目は、黒い瞳の中に一本ずつ、小さな蝋燭がともっているような、|羨《うらや》ましい目でした。 「これは塀の中でやる、懲役の入選ゲームだから内容なんて二の次さ。|官《ヽ》の頼んだ選者の程度に合わせるのが、ゲームに勝つための|絵図《ヽヽ》では急所のとこだよ」 「なんですか、絵図って……」  絵図とか絵図面というのは、作戦とか計画のこと、その専門家が絵図師だけれど、|絵図描き《ヽヽヽヽ》というと悪い意味になり、陰謀をめぐらす奴ということだから気を付けろ、と私は|何時《いつ》ものことですが、細かく教えてやりました。  まだ満期までタップリ四年もある城崎なのに、一所懸命通路を走り続けて体調を整える様子や、私から習っているボクシングの基礎も、何やら随分と生徒の城崎が先を急ぎたがるので、まだ満期までだいぶあるんだから、そんなに今から忙しがらなくても……のようなことを私が言うと、城崎は丸い顔を引き締めて、ジッと私の目を見詰め、 「そんなに遠くの話ではなさそうなのです」  大泥棒の忠さんが、ふだんは眠そうな目をそんな時だけはキラキラと輝かせて、 「城崎勉は、なんと童貞だってよ」  と教えてくれたので、本人に確かめると、下卑たその手の質問に今までさんざん悩まされていたのでしょう。お前さんもかみたいな顔でしたが、無造作にエエと答えたのには、こちらが少し拍子抜けしてしまったのです。 「だって赤軍派には、若い女の兵士もたくさんいて、ほとんど乱交部隊のようだった、って聴いているのに。君はまあ割とハンサムな方だっただろうに、どうしてさ」  私が中年男の嫌らしさと、あらわな好奇心をむきだしにして尋ねると、 「他の人は、まあ|可成《かなり》自由にやっていたようですけど、僕はそのなんというか、仲間に入りそびれた、とでも言うんでしょうかねえ、闘うばかりで、そんなこと忙しくてあまり考えなかったんですね」  照れ臭そうに微笑む城崎勉に、他の連中が乱れたことをやっていたのに自分は違う、といったところなんかまるでなかったのが、とてもすがすがしく感じられたのは、同じ工場で働かされている同士の身びいきばかりとは思えません。  その童貞のまま獄中で二十九歳になった城崎勉は、ボーリング・マシンで材木に穴を開ける作業の合間に、私から喧嘩術、そして矢張り木工場で働かされていた拳法の達人から拳法の基礎を習い、更にテコテコパタパタ、可成なスピードで走りまわって、グウタラな他の懲役を驚かせたのです。  まだ随分と刑期が残っていたその頃、城崎勉は、もう一年もすれば出獄出来るということに自信を持っていて、それで身体を鍛えていたのですから、これは実に驚くべきことでした。  ただでさえ満期なんて、まるであてにならないのが刑務所です。叩けばいくらでも埃の出るのが普通の懲役ですから、服役中に余罪が発覚し、裁判所に囚人服のまま引き出され、新たに刑を追加されてしまうのもしょっちゅうのことです。  極端に自由を制限され、屈辱にまみれて明け暮れる毎日では、相手が看守であれ懲役同士であれ、感情が爆発してしまうこともよくあることで、勝てば追加の刑、負ければ病舎か霊安室という、満期なんて本当に一応の|目処《めど》ぐらいのこととされているのが刑務所なのに、どうやって知ったのか、城崎勉は満期のはるか前に出獄することに自信を持っていたのです。  手紙も面会も厳しく検閲されていたのに、どうやって外部の仲間たちとこんなに正確に連絡がとれていたのか、これだけは今もって不思議です。  仲間がアラビアから、カーペットに乗って夜中にでも、城崎勉の独居の窓の所まで飛んで来ていたのでしょうか……。  少し具合の悪い|痔《じ》を、急いで手術して直してしまいたい、と城崎勉が言うので、順番待ちで大変な|医務《ヽヽ》なのですが、|懲役太郎《ベテラン》たちが救け舟を出して見事な|絵図《ヽヽ》を描き、城崎勉はたちまち順番を飛び越してすぐ手術を受け、入院していた病舎から、少し痩せた青い顔で木工場に帰って来たのは七月の末でした。 「皆さんのおかげですっかり良くなりました。それも敵の費用で直しちゃったんですから。時間的にも間に合いましたし全て|上手《うま》くいきました。本当に絵図って奴がいちばん大切ですね」  私たちのような普通の懲役にとって、城崎勉のような政治犯は、何を目的にしてなぜ闘ったのか、そして捕まってしまった罪状が|本当に悪いこと《ヽヽヽヽヽヽヽ》なのかどうか、はっきり分りかねたのですが、さわやかに刑期をつとめる城崎勉の様子を見ると、どうやら権力と闘って負けただけのこと、のように感じられたのです。事実、城崎勉はとても良い人間でした。 「安部さん。出られることになったら御一緒しませんか。今の腐敗した権力を倒さなければ、日本も世界も駄目になってしまいます」  城崎勉はこう言ってくれたのですが、行先がほぼアラビアの何処かだろうと聴いて、 「この|年齢《とし》になって、日なたの泥水に首までつかってる身では、ツトムちゃん、俺は駄目だよ」  断りながらも、もう十歳ほど若く、年寄りの面倒を見なくてよい身の上なら、この瞳の中に火のともっているような男と一緒に、何処へでも行ってやるのに……。なんて思ったりしたのは、私がオッチョコチョイだったからでしょうか。  ダッカで日航機を乗っ取った仲間が、日本政府を鮮やかに恐喝し、城崎勉が超法規出獄ということで悠々と塀の外に出て行ったのは、その年の九月の末でした。 [#改ページ]

  
大泥棒とトップ・スター  まんまるな顔にまるい眼鏡の好青年、城崎勉が、常識を超えた牢破りをやってのけてからしばらくの間、私たちは塀の中でショックに浸っていました。  私たちの牢破りの常識は、敷布や毛布で縄をなって、嵐の晩に風の音に紛れ、差入れの字引の背表紙に仕込んであった糸鋸の歯で鉄格子をキコキコと切り、四メートル以上もある塀を越え、外にピョンとか、工場から製品を運び出すトラックの荷台の下に、ピタッと貼りつくようにぶら下ってとか、ハンフリー・ボガートやジェイムス・キャグニーのモノクロの小さな画面の映画そのままの、ごく原始的というか、古典的なものだったのです。  テレビや映画では懲役が、健さんもサソリもしょっちゅう逃げるので、塀の外の方々は、|何時《いつ》でも全国にたくさんある刑務所から、あんなふうに坊主刈の金壺まなこや、目のつりあがった必死の|姐《ねえ》ちゃんたちが、ワラワラ逃げ出しているように思ってしまいそうなのですけれど、実際のところ脱獄騒ぎがあるのは、全国で年に一度がせいぜいなのです。  日本の刑務所と看守たちは、懲役を捕まえて逃さないということに限っては、間違いなく世界一なのです。私自身、それまで話にはいろいろ聴いたことがあっても、自分の周りで脱獄のあったのは、この城崎勉が初めてでした。  そしてその脱獄も、私たちの頭の中にあったようなカビ臭い奴ではなく、白昼あの看守たちに正門を開けさせ、十何億円というオトシマエの詰ったトランクを持ち、鶴のマークのジェット旅客機を空港に待たせて……。  もうこれは私たちにとって洋画か劇画の世界で、現実に起ったとなると、虚脱してしまうようなことだったのです。 「塀の外はとうの昔にコンピューター時代なんだぜ。俺たちも驚いているばかりじゃ駄目だよ。大切なのは技術の革新だ」  そう言ったのは、もう五十歳をだいぶ越えた忠さんでした。この大泥棒は何時でも老眼鏡を掛けて本を読んでいるので、難しい言葉を連発する癖があるのです。  警察に捕まった時、カツ丼が食べたい一心で、あらいざらいやったことを白状してしまう、そこらの盗っ人とは違って、忠さんは運悪く捕まってしまった時でも、動かぬ証拠のある時か現行犯以外は、頑張り通してしまうしぶとい泥棒だったのです。  そんなわけですから大泥棒にしては、バレてしまった|事件《ヤマ》が少ないので、判決もそんなに|高く《ヽヽ》はなかったのです。髪に白いものが目立つ小柄な忠さんですが、何時でもいなせで陽気で生き生きとしていました。 「俺は盗って良い所でしか仕事をしないから、チイとも|心住まい《ヽヽヽヽ》が悪くねえ。つまり心理的な負担がないんだな」  そんなことを言い放って意気軒昂といった忠さんでしたが、彼の仕事場はお役所だったのです。都庁・県立病院・税務署・国公立大学と、お上のやっている所専門なのですが、|流石《さすが》に警察と法務省は万一パクられた時、情を憎まれて量刑がきつくなりそうなので、ここだけでは敬遠していたそうです。 「役所はお宝の扱いがまるで雑なんだ。どうせ他人の金って気なんだろうよ。仕事は楽でいいけど、これじゃ国鉄もつぶれるわけさ」  額に汗して働いた人や、お婆さんのおやつ代をくすねるのが悪い盗っ人で、忠さんのように、税金のほんの一部を盗むのは、放っておけばもう滅茶苦茶に使われてしまうのだから、何も問題はないのだそうです。  そしてとくに、職員の旅行の積立なんて封筒が、幹事の机の抽出しから見付かると、その嬉しさは、中の金額とは無関係なのだ、と忠さんは話しながら鼻に|縦皺《たてじわ》を寄せたのです。 「なぜか昭和四十年になると、途端に役人の質が悪くなったのには、ますます呆れた」  ポツリと言うので、それなんのことだ、と私が訊くと、 「新聞に俺の仕事が出るとするだろう、“区役所の金庫を破った泥棒は、中にあった現金百万円を……”なんてさ。盗んだのはこの俺だから、いくら入っていたか知ってるんだ」  自分の使い込んだ分まで、これ幸いと被害金額に加えてしまうのが当り前になって、ほとんどの場合、“盗った忠さん苦笑い”なのだそうです。  教師・法律家・医者にお役人なんて人たちは、俺たちや芸人と違って嘘をつかない|本当の堅気《ヽヽヽヽヽ》にやってもらわないと、所帯を持って子供なんか育てられるものか、というのが忠さんの意見でした。事実忠さんは盗っ人を止めても、チャンと所帯の持てるほどの、|娑婆《しやば》でも立派に通用する腕の家具職人だったのです。正確には“|指物師《さしものし》”というのだ、と忠さんは言いました。  大泥棒の忠さんのようなピカピカの腕をした職人の懲役は、グレイの作業帽に斜めに鉛筆を差し込み、量産家具の材料とは別の、|欅《けやき》や黒檀、それにローズ・ウッドなんかを使って、一品物の洋服箪笥やサイド・ボード、それにテーブルなどを作っていました。  刑務所の塀の中は公平が原則ですから、私のようにスーパーの二階で、赤札が付いて売られているような安物を作る懲役も、忠さんのように特注の一品物を手造りで作る懲役も、食べる物は同じ麦飯ですし、着る物も同じ洗いざらしのグレイの囚人服でしたが、作業賞与金と呼ばれる毎月のお給金は、|矢張《やは》りだいぶ違っていたようです。  毎月の作業賞与金は、懲役の作業成績や熟練度にしたがって|等工《ヽヽ》というグレードが定められていて、それによって金額がきまるのですが、私がリップソーの助手をやっていた頃は六等工か七等工で、月に千円足らずだったのですけれど、忠さんは|一等工《ヽヽヽ》ですから三千円以上はもらっていたに違いありません。  懲役も、この府中のような再犯のベテランばかり専門に収容している刑務所に来るようなのになると、ウブな初犯の懲役と違って、いろいろと要領が良くなります。  私も自分の仕事に飽き果てると、担当看守の目を盗んで、しょっちゅう忠さんの仕事場に遊びに行っては、見学したり|ペラをまわし《ヽヽヽヽヽヽ》(雑談をかわし)たりしていました。|年齢《とし》の差はあっても同じ東京育ちということもあって、とても気が合っていたのです。 「忠さんや。一日のうちの半分ほどは道具を研いでるんだね。まるでお茶を呑んでは煙草ばかりのんでいる植木屋の仕事を見てるみたいで、セッカチには面白くねえや。先に全部研いでおいて、俺が見に来たら、一気にやって見せなよ」  若い私が生意気を言うと忠さんは、 「セッカチだと思ったら、自分で直すといいよ。戦争ではセッカチな兵隊から先に死んでいって、俺の分隊では野戦病院に入院していた奴の他は、俺と植木屋だったのだけが生き残ったんだ」  目尻で笑った忠さんは、そんなことを呟くのでした。 「ウソだ。植木屋と忠さんだけだなんて、話が面白過ぎる。盗っ人は講釈師じゃないんだから与太を言っちゃいけないや」  忠さんはケロケロ笑うばかりでした。 「今は塀の中に押し込められた時だけの芸だが、戦争に負けて、復員船で植木屋と一緒に日本に帰ってきた俺は、腹は空いてたけど、腕は今とは比べ物にならないほど良かったんだ。そしてすぐ仕事を始めたんだが」  だがね、と言った忠さんは顔をしかめて見せ、しょっぱい顔をしました。  その頃の東京は、まだ見渡す限り空襲の焼跡だらけで、六本木の坂の上に立つと、ズッと溜池まで見えてしまったのだそうです。  まだ東京の|堅気《まつとう》な人たちは、芋でもなんでも食べるのに大変で、家具にまではとても手がまわらず、忠さんの受ける注文主のほとんどが、飢えた東京の人の足もとを見て滅茶苦茶な値段で食べ物を売った近郊の百姓か、ヤミで儲けた新興成金、それに進駐軍の高級士官だったというのです。 「戦争から帰ってみたら、おふくろの晴れ着から柱時計まで、そっくり僅かな食いもんと交換に、百姓共にまきあげられてた」  そして再起に苦しむ堅気な人たちを尻目に、怪しげな納得のいかぬ立ちまわりで儲けまくる新興成金。それに植木屋と忠さん以外は全部殺してしまった進駐軍。  役所専門になったのは|此処《ここ》二十五年ほどで、最初は腹立ちとしかえしから、注文の品を昼間納めて見当を付け、夜になると忍び込んでいたのだそうです。  自分の満期日はいっこうに近付かないのに、他人の、それも仲良くしていた懲役の満期出所の日は見る間に迫って来て、「そいじゃあ大事にな」と出て行ってしまい、俺の出て行ける日なんて本当に来るんだろうかと嫌になってしまうのが、刑務所なのです。  この時も、大泥棒の忠さんは一品物の素晴しい家具を、いくつか私の見ている前で作りあげると、そろそろ出所ということになったのですが、その頃まだ満期まで二年以上も刑期の残っていた私は、参ってしまうような問題を抱えていました。それというのは……。  何から何まで徹底的に制限するのが|官《ヽ》の方針ですから、懲役が塀の外とやりとりする手紙も、回数からレター・ペーパーの枚数まで決められているのはもちろん、その相手も入所の時記入させられ、|官《ヽ》の審査をパスした、親族表に載っている者に限られるのです。  なぜ親族でなければ手紙をやりとりしてはいけないのか、なぜ同じ義理の弟でも、妹の亭主はヤクザでも審査をパスし、女房の妹の旦那だと堅気でも駄目なのか、訊いたところで納得のいく答なんてあるわけもないので、誰も諦めて訊きもしないのです。  そんな事情なので、実刑判決と勘をつけたら、未決の拘置所にいる間は面会も手紙のやりとりも自由なので、その間に親類でもなんでもない相手とはチャンと打合せをしておいて、兄弟分なら実の兄弟、色女なら妹か姪ということにするわけです。  こうしておけば、刑務所に|落ちて《ヽヽヽ》からでも面会も出来るし、本の差入れや手紙のやりとりも出来るのですが、ついウカウカと、それぞれの立場や役どころを間違えたり忘れたりして、|官《ヽ》に嘘がバレたりしたら、これは大変で、すぐ薄暗い懲罰房に叩き込まれて|非道《ひど》い目に会わされてしまうのです。仮釈放の可能性もはかない夢になり、懲罰の期間が終っても、まず以前いた工場には戻れません。  日本の律儀な看守のやることですから、面会にも立会いの看守が付いて、なにやらメモをとりながら耳を澄ませていますし、手紙も専門の係がいていちいち丹念に読んで、来る手紙も出す手紙も、細かい検閲をして一枚ずつ小さな桜の判を押すのです。  ことに木工場で働かされている懲役については、凶器にすぐ変る道具が豊富にあることから、精神状態が穏やかに安定していることが求められるので、他の工場で働かされている懲役より、手紙の検閲等は綿密に行なわれていたようなのです。  読んで嬉しい手紙が来れば、懲役はたちまち幸せになり、心配な手紙を読むと、塀の中に閉じこめられ、決定的に情報が不足しているだけに、どうしても懲役はイラだちます。ましてや別れ話だ愛想尽かしだとなればもう大変、そんな手紙を読んで目の釣り上っている懲役のそばへなど、近寄るわけにはいきません、虫歯の痛いライオンみたいなものですから……。  私にも叔母と称する素晴しい年増がいて、せめて目を楽しませるようにと、毎度記念切手を貼った手紙をくれ、月に三冊、本の差入れをしてくれていたのですが、いくら心遣いのある素敵な人でも堅気ですから、長い間にはだんだんと手紙の内容が、叔母が懲役の甥に書くようなものではなくなってしまうのです。  検閲する看守が芋なので見逃されていたのですが、どこの叔母さんと甥っ子がモンマルトルやヴィア・ベネトを二人で散歩なんかするものですか……。  昔の楽しかった日々を書いて、|叔母《ヽヽ》が私を励まそうとしてくれるたびに、私はそれこそ熱いトタン屋根の上の猫のように跳ねあがり、|閉口垂《へこた》れて青い顔で目をつむったのです。  昼休みで電動工具や集塵機が止って、静かになった木工場で、明日が満期の|工場あがり《ヽヽヽヽヽ》という忠さんに、私は|鳩《ヽ》を頼んだのです。出所する懲役にことづてを頼むことです。  悪い奴ばかり閉じこめてある刑務所ですから、|鳩《ヽ》なんて誰にでも頼めるものではなく、むしろどんなに仲良くしていた懲役にでも、頼まない、頼めないというのが常識です。  娑婆に塀の中から黒い|鳩《ヽ》を飛ばしたために、金を取られた、女を盗られたなんて、ザラにある嫌な話なのです。ましてや私が|鳩《ヽ》に飛んで行ってもらう先は、そんなふうにすれていない堅気なのですから、|騙《だま》す気になられたらひとたまりもない相手なのです。  スリというのは、捕まってしまえば、ほとんど刑が同じなので、空財布をスラないのが腕なのだといいますが、私もそれまでの長い年月、人を睨んで見極めることで生きて来たのですから、人間を見る目には自信があったのです。  仕事中の木工場は、私の扱う縦挽きのリップソーから、中でもとりわけケタタマしい音を立てる自動鉋まで、研磨機、回転鋸、集塵機、運搬車、それに看守の怒声と、あらゆる音が入り混ざって、それはやかましいのですが、昼休みはそんな音が全て止ってとても静かになるのです。 「|物相飯《もつそうめし》もあと五つだね、忠さん」  積みあげてある合板の上に、私と忠さんは寝そべっていたのですが、私がそう言うと、 「四つだ。釈放の日の朝食なんて、食ってたまるもんか」  と忠さんは喚きました。私たちの働かされていた府中刑務所では、忠さんのように満期で出所する懲役の場合、二日前の昼過ぎになると、働かされている工場に保安課の若い看守が迎えに来ると決っているのです。  そして釈放までの二晩は、「釈前房」と称する独居房に寝かされ、その間は作業を免除されて、床屋で髪を刈ってくれたり、独りで風呂に入れてくれたりするのです。  釈放になるのは朝と決っています。ヤクザ、ゴロツキの類ですと、出迎えに異様なのが外車に乗っていっぱいやって来るので、近所の迷惑になってはとの配慮から、早朝の六時頃なのですが、忠さんのような|泥棒や堅気《ヽヽヽヽヽ》の懲役だと朝の九時頃なのです。 「その日の夜には、必ず叔母さんのとこ行ってやるから、大舟に乗った気でいなよ」  私に冷や汗を流させるような手紙を書いて来る叔母は、赤坂のTBSの前で小さなバーをやっています。堅気のお客さんの御|贔屓《ひいき》を得て、もう二十年近く商売を続けているのです。  私に|鳩《ヽ》を頼まれた忠さんは、出所したその日の夜、そのバーに出掛けて、私の伝言を伝えてくれるというのです。 「やあ、大舟じゃなくて大泥棒舟だな」  と私が悪い冗談を言って笑うと、 「もう俺も|年齢《とし》だよ。幸いというか、|かかり《ヽヽヽ》もそんなにかからなくなったから、今回の懲役で俺も引退だよ。リタイアだな」  懲役同士の場合、どんなに親しくなっても、自分の内緒事はまず他人に打ち明けたりはしないものなのです。  私がまず先に、懲役の常識では他人に頼めない、頼まないような、堅気の叔母への伝言を、人間を睨みぬいた|揚句《あげく》、忠さんに頼んだわけで、忠さんもそこいら辺りを当然のことながら敏感に察して、私の信頼と期待に応えようとしたのと同時に、私を自分自身の話も聴かせられる相手と睨んだのでしょう。  どんなにすれっからしの懲役でも、話して大丈夫な相手、話をまともに聴いてくれる相手だったら、他人に聴いてもらいたい話のひとつやふたつ、誰でも持っているものです。 「かかりがかかんなくなったって、お子さんの学校でも|了《おわ》ったの」  と私が訊くと、 「|嬶《かか》あも子供もいやしねえさ。何を言っても、懲役のホラ話じゃなく、まともに聴いてくれるよな」  と忠さんは真顔で私に念を押し、私は、「聴くとも忠さん」と誠意を籠めて答えました。いつの間にか二人は身体を起して、合板の上にあぐらで向き合っていたのです。 「俺……、ついこのあいだまで、女優の……、あれの面倒を見ていたんだ」  小柄で初老の、しかも贔屓目に見てもだいぶ干からびた印象の忠さんが、ついこのあいだまで面倒を見ていた、と出した名前は、驚くべきトップ・スターの名前でした。  自慢話でも手柄話でも、忠さんの年代の日本人の男は、政治屋かテレビの芸人でもない限り、たいていその時の忠さんのように、下を向きながらボソボソやるのに決ってます。  今はトップ・スターになっている女優さんが、下町の中学校を出てすぐ浅草のレビューに入り、素質の良さから芽を伸ばしかけた二十五年ほど前のこと。  それが芸能界の昔から変らないカラクリということで、たちまちレッスン代とか|かかり《ヽヽヽ》が、お給金ではとても間に合わなくなってしまい、若い芸能人のヒナが誰でもそうするように、その娘さんも堅気のヒヒをパトロンにとほぼ決めかけ、|不貞《ふて》た顔で地下鉄に乗っていた時、同じ町内の顔馴染み、指物師の忠さんに久し振りでバッタリ、めぐり合ったというのです。  今はトップ・スターのその娘が、若くて美しかったことももちろんだけれど、同じ町内の娘が堅気のヒヒのオヤツになるなんて、そんなこと耳にしちゃえば、知らん顔なんて出来るものか、と忠さんは顔を赤くして言いました。そしてそれからついこのあいだまで、忠さんは|心住まい《ヽヽヽヽ》の良い現場を選んでイソイソ、セッセと仕事に励み、稼ぎのあらかたをその娘さんに注ぎ込んだというのです。 「これからの女優は踊れなきゃ駄目だってわけで、本場のアメリカまで習いに行ったよ。そして、もうあれも一丁前どころか、押しも押されもしなくなった。これ以上周りをウロウロしてちゃ、|未練《みれん》たらしくていけねえ」  漫画やエロ本ぐらいしか見ない他の懲役と違って、前にも書いたように忠さんは、老眼鏡をかけ、字ばっかりの本を読んでいたので、決り文句ばかりの他の連中と違い、面白い表現をしたのです。忠さんはその時合板の上でこんなふうに言いました。  泥棒、博奕打ち、娼婦、芸者、相撲取り、ボクサー、役者、それに芸人なんてのは、言ってみれば皆スラムの兄弟姉妹みたいなもんで、皆それぞれ自分の身体を刻んで食っている。  だからその時の俺は、芸人の卵のその娘が堅気の餌になるのを、どうにも指をくわえてるわけにはいかなかった。  この年齢になって今の場面で考えると、こんな理屈は全て自分がやってのけた助平の、言い訳のようにも思えるんだが……。まあとにかく長くやった泥棒稼業で、スターをひとり生み出したのだけは、とにもかくにも間違いがねえ。  助平だろうと、行きがかりだろうと、自分の考えでやってのけたことなら、それで往生じゃないか、というようなことを私が言うと、忠さんは無言で|頷《うなず》いていました。 「どうであれ忠さん、出所して稼業を|洗う《ヽヽ》にあたって、あの輝くような記念塔が舞台やテレビに立っているってのは、これは忠さん羨ましいぜ。この工場いっぱい、刑務所いっぱいの、忠さんの言葉でいえば兄弟連中の何人が、足を洗う場面でそんなもの持ってると思う?」  と私が言うと、忠さんはちょっとうるんだ瞳でジッと私を見て、 「助平心でやってのけたことか、|恋心《タレ》でやったことか、それとも理屈かなんて、たいていの者は考えもしねえのに、なまじっか物を考える癖なんて付くと、ヤヤこしくていけねえ」  言った途端に、工場中を見渡すように高く作られた担当台の上から、担当部長が、 「作業始めーッ」  と大声で叫んだので昼休みは終り、たちまち電動工具や集塵機が一斉に鳴り始めて、午後の仕事になったのです。 「伝言は明後日の晩に必ず伝える。大事にやって早く出なよ。じゃあな」  私は今でも、まだあの時の握手の感触を思い出せます。  すぐ次の週、待ちに待った|叔母《ヽヽ》からの、いつものように|綺麗《きれい》な記念切手を貼った手紙が、無事に検閲をパスして届き、明らかに私の注意をふんまえた調子の文面の最後に、 「お店に昨晩ネズミが出ましたが、何もかじらない素敵なチューさんでした」  とありました。七年前の思い出に感謝しながら、忠さんの話はこれで終りです。 [#改ページ]

  
「メエ」と呼ばれる男  もうその頃は助手から親方に昇格していた私は、|回転鋸《リツプソー》で材の幅を挽き揃える仕事に飽きると、作業時間中に、空の手押車を押しながら、広い木工場の中をゴロリゴロリと散歩に出ることにしていました。  こうしていると、材を他のセクションに届けた帰りか、受け取りに行くところのように、看守の目を|誤魔化《ごまか》せるわけです。この日もその手を使い空の手押車を押しながら、クリ棒の研磨台のところを通りかかると、通路に背を向けて坐っていたキナ粉まぶしのような懲役の一人が、ちょうど一本磨きあげたところで、私の姿を認めると目で笑ってみせました。  |娑婆《しやば》でもよく知っていた山崎明です。傷害罪で喰らった二年の刑をほぼ終りかけており、当時三十二歳の関西弁の男でした。  クリ棒というのは、階段の手摺の支えやテーブルの脚に使う木の棒のことで、自動機械で荒く凸凹をつけた材を、一本ずつ研磨台で回転させながら、懲役がサンドペーパーで磨きあげるのです。  回転するクリ棒にサンドペーパーを当てると、途端にザーッという音と同時に木の粉が舞いあがります。マスクの上にタオルで覆面をし、作業帽を目深にかぶった懲役でも、作業開始後の最初の一本で、目と睫毛がすっかり細かい木の粉にまみれ、まるでキナ粉まぶしのようになってしまいます。誰もやりたがらない仕事なのですが、山崎明は最初に|配役《はいえき》されたまま不平を言うでもなく、満期まで黙々とクリ棒を磨き続けたのですから、これも見事な懲役です。 「おい|メエ《ヽヽ》よ、忠さんの次はお前だな。あといくんちで|娑婆人《しやばじん》になるんだ」  山崎明は、土葬にして二百年後、その時代の学者がウッカリ掘り出してしまったりすると、考古学が大混乱してしまいそうなほどの大変な出ッ歯なのです。マスクとタオルで二重におおった口のところが、鼻と同じ高さまで盛りあがっていました。  そして、そこらあたりがモゴモゴすると、何か割れた音が聴こえたようだったので、「エエ?」と私が首を捻って耳を近付けようとした時……。 「休憩ッー」と担当台から号令が掛かり、午前中に一度ある十五分の休憩時間になりました。娑婆の工場ならここで一服という場面なのでしょうが、刑務所の工場ではただ手を停めて、「アーア」と伸びをするぐらいのことです。  タオルとマスクをもどかしそうにはずした山崎明は、木工場の懲役特有の癖で、機械の音がとまっている休憩時間ですから、そんな必要はないのですけれど、片手を丸めてメガホンのように口に当てて、 「あと十一回だけ寝ると、塀の外でんな」  と嬉しそうに答えました。この山崎明は私の親しい友人の|仕事若い衆《ヽヽヽヽヽ》で、|内輪《うちわ》の|高目《ヽヽ》の者はアキラと呼ばずに、メエと呼ぶのです。  |仕事若い衆《ヽヽヽヽヽ》というのは、トラブルの起きた時、その処理をゴロツキに頼む約束の下に寄生している怪しげな仕事の男たちのことで、|高目《ヽヽ》というのは目上のことです。 「そうか、それじゃそろそろ、新聞千切ったりしてトレーニングを始めなきゃあな」 「それなんですが伯父貴(メエは|高目《ヽヽ》の私をこんなふうに呼んだのです)、面会に来た家の奴とも相談したのやけど、ここらで足を洗うてウドン屋など始めたいのですわ」  山崎明、警察では「紙食い山崎」、内輪では紙を食う山羊と名前の明にひっかけて、「メエ」などと呼ばれるこの男は、ついに堅気になって念願のウドン屋になるというのです。  山崎明は、関西は山科の男です。大阪を中心に駐車違反のところに停めてある車を、レッカー車で近くの交番まで大騒ぎで釣って行き、唖然として口を開けたままのお巡りに、「落し物だから、受取りをくれろ」と談判を始め、騒ぎに驚いて駆けつけて来た車の持主を小突きまわして、「駐車違反なんてするわけないわな、そやろ、落しちゃったのやろ」と念を押し、違反の罰金を怖れた相手が、「そうだす、失くしましてん」なんて言おうものなら、「そいなら五分から二割の謝礼やけど、一割に勉強しといたる」と漫画のような稼ぎをしていたらしいのです。  が、ある日、署長がゲーム屋を突っついて(たかって)娘に買わせた真紅のアウディを、金目鯛でも釣ったように高々とぶら下げ、最寄りの交番にドサリと降ろしたのがこれが大変なドジで……。  レッカー車も交番の前に置いたまま、上りの汽車に飛び乗り、新橋までたどり着き、そのまま身を寄せたのが、私のごく親しくしていた友人のところだったのです。  この天才的な発想は、ほぼ永遠に暗黒街の語り部たちによって語り伝えられるに違いありません。居候山崎明の顔面の、盛りあがった下半分をしばらく見つめていた親方である私の友人は、いぶかる当人には狙いを伏せたまま、最初は切手ぐらいのから始めて、次はキャラメルの包紙ぐらいというふうに、だんだんと大きな紙を飲物なしで食う稽古を、日課として厳命したというのです。 「車漁師の今浦島と、|やすし《ヽヽヽ》の奴までテレビで言うたほどのこのわいが、こんなん山羊か紙食虫の真似なんでせんのならんのや、パルプにならんうちに帰れるやろかと、西の空を見つめるうちに、もうなんともいえず、悲しゅうなってもうて……」  とその頃のことを私に話したメエでしたが、それでもヤケクソになって食い続けて半年も経つと、開いた新聞をベリッと真中から破いて、そのまま水も飲まずになんとか喉を通してしまえるようになった、というのですから、まるでゴミ集めのトラックのようです。 「こんなこと、なんになりますのや」  と訊いても、稽古の途中では何も教えてはくれません。新聞の片側一面を口に押し込んでから三秒で飲み下せるようになって、やっと狙いを教えてもらったのだそうです。  親方が最初に取って来た仕事はこんな具合のものでした。金貸しの事務所に借りた人間に一緒について行き、まず返却すべき札束をテーブルの上に並べます。金貸しが金庫から借用証を出して同じテーブルの端の方に置くや、メエはそれを摘みあげるなりムシャリゴクンと食ってしまうのです。仰天した金貸しが何やら叫ぶ間に、借主は札束をまた素早く鞄の中に戻して知らん顔というのですから、前代未聞の手口です。  こんな借用証に限らず、番頭がまんまとパクリ屋にやられてしまった堅くて厚い手形とか、ソープランド嬢が、貢がせられた貯金の代償に、人ごとに見せびらかす急に売れ始めたテレビ俳優の以前に書いた下手糞なラブレター等々。  ヨロズ紙類消化仕ります、という日本一軒の珍稼業は、|目論見《もくろみ》どおりの旺盛な需要に支えられ大繁盛し、けど、|矢張《やは》り胃には|可成《かなり》こたえるらしく、その頃のメエは粉の胃薬を麦こがしのように口の周りにくっつけたまま、忙しく飛びまわっていました。  メエに約二年遅れて娑婆に戻った私の耳に、つい先日メエの立食ウドン屋が東銀座に開店した、という話が聴こえて来ました。長い|無頼《ぶらい》な|渡世《とせい》を清算するのに、メエには二年の月日が必要だったのでしょう。そしてその時の私は、そんなめでたい話を耳にしても、特級酒を二本買って昔風に縛らせるのが精一杯という、|くすぶり《ヽヽヽヽ》の底だったのです。  仕方がないので奉書を一枚手に入れ、  一、清酒、弐升、一、祝儀、金拾万円也  と目録を町内の年寄りに書いてもらうと、酒に添えて持って行ったというわけです。 「聖徳一家の|着到《ちやくとう》は三日ほど先だ。こりゃあ時間稼ぎの奥の手よ」  それを聴くと、お琴の爪のような前歯を見せて、嬉しそうに笑った山崎明は、 「伯父貴も大変やと聴いてますのに、気に掛けてもろて、そや、この目録食っときますさかい、気にせんといておくんなはれ」  さりげなく言ってくれたメエでした。 [#改ページ]

  
ああ、ソフトボール開幕  毎週木曜日の正味四十五分間の運動時間に、木工場の懲役たちが、熱中なんて穏やかな言葉をはるかに通り越し、狂奔とでもいった様子で試合をするソフトボールは、例年三月初旬頃までは、霜柱でグラウンドが使えなくなってしまい、シーズン・オフなのです。  その間の運動時間は、風のないお天気の良い日だとグラウンドの枯芝のスタンドで、懲役たちは日向ぼっこをしながら、春の開幕に備えて、出所したメンバーの欠員補充とか、オーダーの工夫を、あれこれと恐ろしく真剣に話しあうのです。  アメリカの監視偵察衛星の精度は、シベリアの仔狐の雌雄を見分けてしまうほどだそうですから、この木工場の曲者たちの様子をカメラでとらえて本部に送れば、アメリカのことですから、必ず脱獄の相談と思うに違いないと思うと、これはおかしいのです。 「どうだろう、来週はまだ駄目かなあ」  と、黒い霜でしっけたグラウンドの土に目をやった、私の所属しているチームの監督で、日本一の偽医者として、全国の刑務所に名前のとどろいている、ドク・西畑がつぶやいた頃でしたから、あれは二月の末のことでした。  府中刑務所は、二千二百人以上の懲役が押しこめられている、日本最大の再犯刑務所です。七年以内の刑期が専門なので、他の単純作業をさせている工場に比べると、木工場には刑の長い懲役が多いわけです。とはいっても、八十人ほどのうちほぼ四分の三は、二年|六月《ろくげつ》までの短い刑期の懲役ですから、毎月必ず数人は満期で嬉しそうに出所して行きますし、それに応じて、これから始る苦役を思ってウンザリとした表情の新入りも送られて来るという、出入りの賑やかな工場なのです。  木工場に三つあるソフトボール・チームのうち、私たちのドク・西畑のチームは、運の悪いことに腕の良いのばかりなんと四人も、このシーズン・オフの間に出所してしまい、その頃の私たちは、他の二つのチームの連中の、してやったりといいたげな視線に耐え、しらじらしい励ましや、空しいいたわりの言葉をひっぱずしながら、補充する新入りの品定めに全力をあげていました。  ふだんは横着が|苔《こけ》を生やしたような、まるで人間の形をした提灯|鮟鱇《あんこう》みたいな懲役なのに、ことソフトボールとなると、塀の外で、誰かから金を巻きあげる|絵図を描いた《ヽヽヽヽヽヽ》時のように、まるでそれまでとは別人のようになって意欲を燃やし、骨惜しみどころか目の光まで変って来るのには、実はこれもチャンとわけがあるのです。  塀の中の「通貨」は、運動靴、化粧石鹸、塵紙、それにタオルなどといった、それぞれ月に購入出来る数量がきめられている、私物の日用品です。これはもう塀の外のお金とまるで同じで、これで煙草も手に入るし、|綺麗《きれい》に磨きあげた歯ブラシの柄で作った玉を|ここぞというところ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に埋めこんでしまう、ドク・西畑のプラスティック・サージェリーだって、運動靴一足で執刀してもらえるのです。  日用品をたくさん持てば塀の外の金持と同じですし、逆にスッテンテンだと、辛い懲役が一層惨めになってしまうのです。日用品を増やそうとして、大相撲、春の選抜、プロ野球、夏の甲子園、正月の駅伝から工場の将棋大会まで、懲役たちはなんでも博奕の対象にし、しのぎをけずるのですが、|矢張《やは》り自分の目の前で行なわれるソフトボールの人気が一番高く、そして賭金も多いのです。  三つあるチームが勝残りで試合をし、試合のないチームの監督が審判をつとめ、この審判だけは絶対に賭けてはいけない、というのが規則になっているのですが、他の懲役は、出場する選手はもちろんのこと、見物の爺サマまで、総入歯をフガフガさせながら、目一杯張りつけて、|拳骨《げんこつ》を振りまわすのです。  新入りの腕前は、試合をさせてみるまではまず分りようもありません。話が大きくてハッタリのすごいこと、唖然とするほどの懲役たちです。「アア、牛島のフォークね。あれは俺が名古屋のゴルフ場で会った時、教えてやったんだ」なんていうのが現れても、とてもとても素直に感心なんかしていられません。そして、静かで無口なのがいて、頼もしく思っちゃったりすると、これが本当のグズだったりするのですからたまりません。  月曜に|落ちて《ヽヽヽ》来た宇都宮出身の若いゴロツキは、塀の外で見たことのある顔でしたが、私を見付けるとやって来て、最近では誰もやらないような、|渡世《とせい》の先達にする昔風の御挨拶をやってみせたのです。  まるでもう富士山に捨てられた空缶のように、ゴロゴロいる若いゴロツキですが、たくさんの中には稀にこの手の、堅気の世界ですと、お茶や書道を習ったり、古典に取組んだり、年寄には親切を心掛けたりといった若者のような、珍しいのも混ざっているのです。  このたぐいの若い衆は、つとめて古式の作法を覚えたり、私たちの言う|スジっぽい《ヽヽヽヽヽ》|昔《むかし》|気質《かたぎ》の侠客を目指している、今では東京の鬼ヤンマほどにも少なくなってしまった、しゃっちょこばった少数派です。  この宇都宮に担当部長が命じたのは、運搬夫という、材木置場から材木を担いで来たり、組立てられた製品を塗装に運んだり、業者のトラックに完成品を積み込んだりと、塀の外では重い物なぞ、ゴルフ・クラブがせいぜいの手合には大変な仕事で、まずたいていなら|不貞腐《ふてくさ》ってケツを割るような|配置《ヽヽ》でした。  男っぽいつとめかた、なんてことにももちろんのこと精一杯だった宇都宮でしたから、他の|生ま狡い《ヽヽヽヽ》チンピラ共のあざ笑いを、全身に|漲《みなぎ》らせた|気取り《ヽヽヽ》ではじき返し、爪先がチリチリと痛むほどの寒さというのに、太い眉の上に汗の玉を浮べて、黙々とつとめていました。  私の|役席《えきせき》のそばを通った宇都宮に、 「いい気合だぜ、宇都宮の」  と声を掛けてやると、僅かに目尻をほころばせました。これはきっと、侠客たるものは嬉しい場面でも、子供みたいに顔中で喜んだりなんかしないもの、と決めているのに違いありません。そこにドク・西畑も来合わせた時、ちょうど十五分の休憩時間になったのでした。  腕まくりした作業衣から出ている、太くて頑丈な宇都宮の二の腕を、|流石《さすが》というかなんというのか、|医師の目《ヽヽヽヽ》で睨んだドク・西畑が、野球はやるのかというようなことを尋ねると、宇都宮は堅気相手のくだけた口調で、 「高校生の頃は、甲子園を目指して夢中にやったけど、五年ほど前、考えるところがあって縁を切り、今ではナイターのテレビも見やぁしねえ」  と、随分変った返事をしたのです。 「五年ほど前に何を考えたんだ」  甲子園と聴いて、声の上ずった私でした。 「お尋ねなので申し上げます。若輩者のたわごとがお気に障られましたら、どうか御容赦を願いあげます」  ドク・西畑のロイド眼鏡が、思わず下にずれてしまうような大時代な口上に続いて、野球は恥知らずのまかり通る、任侠道を修業中の身では、目にもしたくない浅ましくて|下種《げす》なしろものと、その頃やっと気が付いたのだ、と宇都宮は言ったのでした。  そして、擦ってもいないのにデッド・ボールだとアピールするバッターや、グラブを掲げダイレクトのように見せかける野手など、草野球でもよくあるプレイをあげて、 「これはフェイントや作戦ではなく、ただのいやしい嘘ですから、堅気衆の道にだってはずれてます。それを、巨人軍は紳士たれだなんて、紳士は|バレモト《ヽヽヽヽ》の嘘なんざ、遊びでだって口になさらぬ旦那方でしょうに……」  私の頭の中では、正々堂々とかフェアプレーなんて単語が、フラッシュしながら揺れていました。  木工場は、まさに変り者の巣だったのです。 [#改ページ]

  
ニセ医者日本一の腕前  堅いハード・ボードを切ったのを箱型に組み、周囲と天板にごく薄い|柾目《まさめ》の通った経木のような板を貼り、底にはちゃんと真中にくぼみをつけた底板を貼って、短い脚を四本つけ、上の天板に黒いエナメルのような塗料で升目をひくと、一枚板で作った高級品と同じように見える、碁盤や将棋盤の出来上りです。ごく薄い柾目板を接着剤で貼って、ムクの一枚板に見せかけるのですから、継目の所の処理を上手にやるのがこの仕事の急所らしいのです。  他人の仕事を見物するのが大好きな私が見ていると、この|役席《えきせき》についている懲役たちは、この肝心カナメのところが思ったとおりピタッといくと、その仕事にとりかかっていた三人が揃って、毎度そのたびに顔がほころんで嬉しそうな、してやったりみたいな顔をするのですから、懲役でも日本人は仕事に律儀な素晴しい民族だと思うのです。  接着剤の乾いた柾目の一枚板風の箱に、使いこんだ木の定規を当て、細い面相筆に黒いエナメルのような塗料をつけ、スーッスーッと黒い線をひき、要所に点を打つのがドク・西畑の仕事、役席なのです。懲役の中には、有名で伝説的なのも随分いますが、ドク・西畑はその中でも間違いなく飛び切りの、「有名|懲役太郎《ベテラン》」なのです。  大先輩で有名なのは、脱獄の時、釘を踏んづけ、そのまま|断郊競走《クロスカントリー》のように走り続けた、と伝えられる「五寸釘の寅吉」ですが、この頃のスーパー・スターには、一回服役するごとに警官や看守、さらには検察事務官でもなんでも、相手を役人と限って必ず最低五人は告訴してしまうという「筆殺しの金」とか、垂直な|コンクリ《ヽヽヽヽ》の塀や舎房の壁を、ぬれ手拭一本の粘着力だけを頼りに、自在によじ登るという「イモリ松」。  入浴の時、パンツだけの裸足姿で、裏門からスルリと外に走り出し、横浜から愛人の住む横須賀の在まで、手拭を鉢巻にしてマラソンのふりをして走り続け、途中で子供や年寄りから応援までされたという真鶴出身の「真鶴アベベ」。などという連中がすぐ頭に浮ぶのですが、その手合に比べてドク・西畑は、尊敬され歓迎されるビッグ・ネームでした。  ドク・西畑はもう六十歳に近い、細身ですが骨太で背の高い、仏国|暗黒街映画《フイルム・ノワール》の脇役に出て来そうな、修羅場の煙が毛穴に染みたマスクの男で、しかも上腕と両胸に桜の花吹雪、背中から両尻には見事な昇り竜といった、まるでドラゴンズの花見のような彫物を背負っているのですが、塀の外ではゴロツキなんかじゃなくて「腕前日本一」と、免状持ちたちの眉をしかめさせる偽医者です。  刑務所の医務室に|蟠踞《ばんきよ》している医者に比べて、素人目にもはっきり桁違いと分る、技術と熟練のドク・西畑でしたが、誰が尋ねても今までの人生については答えませんでした。  けれど無言なのは、自分の過去と家族のことぐらいで、こと野球と碁に関しては熱中の余り、随分と過激なことを大声で喚きたてるし、それに禁制の煙草にも目のないといった、ごくくだけた人柄のドク・西畑でしたからとても仲良くしていて、毎週木曜日のソフトボールでは、私は、ドク・西畑が監督をしているチームの、キャッチャーで五番打者をつとめていたのです。  今回のドク・西畑の二年|六月《ろくげつ》は、またもや偽医者がバレて喰らったのですが、このたびも新聞には、「腕が良く親切と患者には評判の……」とか「同僚の医師や看護婦も、腕の冴えから今でも全く……」などと、ドク・西畑の捕まった時には必ず書かれる記事が載ったのです。 「それまでにどんな良い仕事してても、俺に免許のないのが分ると途端に問答無用さ。好物の|生雲丹《なまうに》が食えなくても、野蛮国だろうとロシアだろうと|何処《どこ》だって、腕と心で医者をやらせてくれる国があれば、俺はこの|年齢《とし》でも移民に行くぜ。最新の知識も怠らず身に付けるようにしているし、東洋のハリも修めているピッカピッカの外科医なんだ、俺は……」  そんなことをボヤきながらも、魚の目で苦しむ同囚にはガラスのカケラで手術をし、下痢がとまらずに頬のこけてしまった懲役には、竹箒の柄を黒く焼いた薬を呑ませ、痛みにはハリを打って、という具合にたいていの病気はなんとかしてしまったのですから、たいしたものです。  府中刑務所内には専属の役人医者と、立派な診察室から手術室、それに入院病棟まで完備しているのですが、懲役が普通に診察を願い出ても、ちょっとやそっとでは順番がまわって来ません。気が狂うほど痛んでいた虫歯でも、診察の頃には全部腐ってしまって、崩れてなくなっていたりするのです。  やっと忘れた頃に順番がまわって来て、足の指の間が刃物ででも切られたように口を開け、激痛と淋巴腺が腫れたのとでヨチヨチ歩きしている水虫の懲役も、医者の前の丸椅子に坐らされ、ああこれで長く待たされたけれど、やっと手当がしてもらえると思った途端、 「水虫ぃ? 馬鹿野郎、そんなもんが病気なら、懲役だって人間ってことにならあ。甘ったれて身のほどを忘れるな、っていうんだ」  なんて、これが本当に医者かと思うような|台詞《せりふ》を平気で口にして、助手をさせている衛生夫と呼ばれる懲役に顎をしゃくると、しゃくられた衛生夫は、ピンセットの先の綿球にヨード・チンキをつけ、ペタッと塗ってそれで終り。また次は、|願箋《がんせん》を書いて願い出て同じプロセスで三カ月から半年という、気の遠くなるような、知っている者なら腹が立つだけ損だと、最初から願い出ないような医療体制なのです。  風邪でも下痢でも、水虫でさえ、とりつかれたら最後、塀の外に出るまで生命のほうがもつか、といった心細さに、どんな熊か|大うつぼ《ヽヽヽヽ》のような懲役でも、人間のはかなさにすくみあがるような所が刑務所なのです。  風邪をひいたり、下痢が止らずに寝ていて、天井がユラユラしだす時など、 「アア、ついにこんなところでくたばるのか」  と、それはもう私でさえ涙がにじみ出すほど、惨めで悲しく、そして恐ろしい場所なのです。  そんな塀の中でドク・西畑は、地獄で仏なんてありふれたものではなく、それこそ溺れかけた金槌に投げられた浮袋か、インディアンの伸ばした左手が髪にかかった時にちょうど響いて来た騎兵隊のラッパとひづめの音、まさにそんな存在であったのです。  まだ二十七歳になったばかりの松沢英司が、磨きあげた歯ブラシの柄でこしらえた玉を持って、ドク・西畑の役席に行き、急所に埋込むプラスティック・サージェリーの予約を申し込んだ時、たまたま私も看守の目を盗んで遊びに来ていました。ちょうどその時、隣の北部第四工場に続く仕切りのドアを開けて、保安課のゴツイ看守たちにガードされた見学の一団が二十人ほどでしたが木工場に案内されて来ました。  入って来てすぐが「塗装」なのですが、この日は仕事がなかったので、見学者の列はそのままドク・西畑の役席に来ました。そして鮮やかに黒い線をひき続けるドク・西畑の作業を、私と松沢英司とをとり囲むようにして見ていたのですが、その中の一人が突然……。 「ア、|貴方《あなた》はもしや西畑先生……。大学の外科の医局におられた」  と叫ぶように言ったのです。ドク・西畑先生は手を止めて、ちょっと老眼鏡をずらすと、 「ああ、それは兄でしょう。先日下手な内科にかかって死にました」  ウムを言わさぬ慣れた台詞でした。 [#改ページ]

  
結婚行進曲は仕事のメロディー  作業時間中の木工場は大変な騒音で、もうそれこそ両耳から侵入した音が、前頭葉もなにもかも揉みしだいてしまう勢いですから、初めてホクゴに|落ちた《ヽヽヽ》新入りなど、慣れるまでのしばらくの間は、舎房に帰って眠ってもよいことになっても、警視庁のブラスバンドにつかまった夢を見たり、脳味噌の中にクマ蝉が入り込んだりする夢を見て、うなされたりするのです。  この大騒音の木工場の隅に、五坪ほどの小部屋が合板の壁で作ってあって、これが「研磨室」で、木工場で使っているいろいろな刃物は、|此処《ここ》でみんな研いでくれるのです。  研磨室で働かされている懲役の腕が悪かったり、いい加減な性格の奴だったりすると、頼んで研いでもらった刃も切れ味が冴えないわけで、使う懲役のイライラは激しくなるし、能率にも大きく響いて来ますから、|官《ヽ》もこの|役席《えきせき》に|配役《はいえき》する懲役は、中でも綿密で真面目な性格の男を選ぶのです。  それまで研磨室で働かされていたトッツァンが、六月になるといよいよ満期で出所ということになって、後任に選ばれ、仕事を覚えるために四月から研磨室に配役されたのが、見学の団体が来た時、ドク・西畑のところに来ていた松沢英司だったのです。  まだ二十七歳と若いこの男は、穏やかで品のいい銀色のメタル・フレームの眼鏡を、凶悪でキツイ顔ばかりの懲役の中では珍しい、平和な、いつでも目もとに微笑の用意がしてある、高級フランス料理屋のギャルソンのような顔にかけていました。ハッタリの賑やかな塀の中では、おとなしくて目立たないタイプでしたが、それでも隠し味のようなお洒落は、チャンとやっていたのです。  歯医者さんのCMのように牙をむき出した唐獅子や、中国の大陸間ミサイルのように、入道雲を抜けて飛びあがった昇り竜、新潟三区に向って背中の滝を跳ねる朱鯉、とこんなのが群れているのが府中彫物動植物園なのです。その中ではとても珍しく、タトゥー(刺青)と看板を出し、サンプル写真を表に貼り出して、外国の港町に店開きしている刺青屋ででもやってもらったような、大きな赤い薔薇が一輪、緑の葉まで二枚付けて、胸毛のない白い左胸に鮮やかに彫ってあったのです。  この赤い薔薇が仕事の縁起だという松沢英司は、同じ東京の出身なので話の合うこともあって、私とはとても仲良くしていました。 「検事の奴、事件の|情が悪い《ヽヽヽヽ》とまとめてくれずに、バレただけ別々に起訴したので、裁判官も喜んで二度仕事をして、二年と一年|六月《ろくげつ》、合計三年六月ですから、まとめてくれたらせいぜいが二年六月まででしょう。|情を憎まれる《ヽヽヽヽヽヽ》とたまったもんじゃありません」  窃盗という罪名から、|ウカンムリ《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれる泥棒連中の中で、松沢英司は自分の罪名を隠したりせず、ケロリとしていました。  健康保険をくすねる医者や、助成金を懐に入れる私学の理事長なんか、代議士先生と同じで、お上の金を盗るから無事なので、民間の街の金を盗ると、それがどうでもいいような種類の金でも、検事や裁判官は途端にエンジンがかかって、驚くほどマメで気前のいい仕事をするのだそうです。  退屈をもて余している男ばかりの塀の中で、|官《ヽ》がいくら取締って罰を喰らわせても、いつでも一番人気のある暇潰しは、|タマイレ《ヽヽヽヽ》なのです。このタマは歯ブラシの柄のプラスティックを切って、時間をかけて丹念に磨きあげ、普通、パチンコの球よりふたまわりほど小さい、梅干仁丹ぐらいの透き通った、美しいまんまるな球にするのですが、松沢英司の配役された研磨室には、グラインダーや砥石が揃っているので、このタマを磨くのにはこれ以上の役席はないのです。  この時も松沢英司は、美しく磨きあげたピンク色の透き通ったタマを持って、タマイレ手術の達人ドク・西畑のところに手術の予約をとりに来ていたわけなのです。  この手術は、指で表皮をつまみあげておいて、中国人の使うような四角で太い箸の先を鋭く尖らせて作った四角錐で、海綿体との間を思い切ってズブリッと突き刺し、引き抜いた時にボコッと出来た穴の中に、血がにじみあがって来る前に、用意のタマを押し込み、傷口の穴から外に転がり出ないように押える。と、これだけのことなのですが、滅多な奴が見よう見真似で執刀すると、化膿して腫れあがり、熟れ過ぎたアケビのように大変なことになって、裸検身の時にパクられたり、そうでなくても傷口がふさがらず、折角のタマがポロリと転がり出てしまったりするのです。  看守に護衛された見学の団体が去ってしまったドク・西畑の役席で、松沢英司がソッと出して見せたタマは、表面に付いたザラメをなめとってしまった後のアメ玉か、色の淡いルビーのように、透き通って見事に美しいピンクの小豆ほどの奴でした。  たまたまその場に来合わせていた、西アフリカ、シエラ・レオネ国の黒人ジョン・カルボが、外が黒、内側はピンクのツウ・トーンの指でそっとつまみあげ、 「ゴッシュ、アンビリーバブル……」  と呟いたほどの素敵なタマでした。府中刑務所には外人懲役も服役していて、この黒人は英国風の英語を話す奴だったのです。  そのジョン・カルボのツウ・トーンの指先から、無言でひったくるようにタマを奪い返した松沢英司の、いつになく荒々しく余裕のない振舞に、眉をしかめた私が、 「英司どうした。この頃どうも気が立ってるようだぞ」  と叱ると、 「やあどうもすみません。けどこの季節にパクられていると、どうしてもカリカリしちまうんです。たとえて言えば、鯛や鮪が沖に群れているのに、陸で漁船の舟底に開いちまった穴を直してる、可哀そうな漁師の……」 「なんだ、そりゃあ」  私とドク・西畑、それに少し遅れてジョン・カルボが呆れ声を出したのですが、最近|落ちて《ヽヽヽ》来たばかりのジョン・カルボはもちろん英語でした。この季節といっても、今はまさに春爛漫、懲役にとってこれ以上の季節はない、といった時候なのです。 「僕はウカンムリっていっても、お婆さんのオヤツ代まで手当り次第って連中とは違って、専門のある特殊技能者なんです」  と松沢英司は語り出し、一区切ごとに私を覗き込んでうながすジョン・カルボに、私は同時通訳をやらされる破目になりました。私の英語は主義や思想を述べるのには不足の半端英語なのですが、この程度のことならお茶の子さいさいなのです。  塀の外にいる時の松沢英司は、仏滅の日を除く毎日、黒の礼服とエナメルの靴に身を固め、白のタイをプレーンに結んで、一流ホテルの宴会場に出掛けて行くのだそうです。  そして結婚式の披露宴の会場を巡って、ピンと来た所があると、「ヤ、ドウモ」とか呟きながら、スルリと受付を代り、招待客に丁重にこやかな様子で記帳をお願いし、|熨斗《のし》袋を受け取ると、ショッピング・バッグにどんどんと詰め、宴会場の中からメンデルスゾーンの聴こえて来る頃には、ごく自然な物腰で重くなった紙袋を提げ、お祝儀を口の中で呟きながら立ち去るのだそうです。  ついこの間まで赤の他人同士だった新郎新婦の、しかも周囲の連中ですから、見とがめる者もまずいない楽な仕事だし、何百万円もかけて、下手糞な学芸会みたいなことをやっている恥知らずの金持、と知っていれば、アガリを|かっちゃめる《ヽヽヽヽヽヽ》のも気がとがめません。と、松沢英司は鼻を上に向けて胸を張り、シーズンたけなわの今、塀の外の華やかな漁場を思うと、ついつい不機嫌になってしまって……、と言って頭をかいて見せたのです。 [#改ページ]

  
外人懲役、|韋駄天《いだてん》カルボ  余り一般には知られていないことですが、実刑判決を言い渡された外国人は、民間人の場合、みんな府中刑務所に集められて、日本人の懲役と一緒に刑をつとめるのです。  いろんなのがいます。  香港から覚醒剤を運んで来て捕まった英国籍の中国人。背が低くて色の浅黒い、スペイン語をしゃべる連中は、警戒心に欠ける人たちが驚くほど豊かに暮している夢のような日本に、はるばる遠征して来た、泥棒と釣銭詐欺の中南米人たち。  栗色の髪で瞳がラムネ玉のように緑のフランス青年は、日本の物価が滅茶苦茶にアンバランスで、ステーキが八桁の電卓より高いのだと聴いて、カラテを習う間の滞在費にチョビチョビ売ろうと、途中の国でマリワナとハシシをしこたま仕入れて来たのですが、入門して僅かふた月で、もう逮捕されてしまったというのです。  百人前後の外国人懲役ですが、なんとネパール人からシエラ・レオネ人まで、博覧会か国連総会のように揃っていました。  私の働かされていた木工場に、そんな外国人懲役が|配役《はいえき》されて来ると、高い担当台で部長が諸注意を申し渡す時には、必ず私が通訳をすることになっていました。これは私が日常の用は足せる程度の英語を、知っていたからなのです。  若い看守に木工場まで連れてこられた西アフリカの小国シエラ・レオネのジョン・カルボは、いろいろと黒さに種類のある黒人の中でも、これ以上はないというほどの、輝く漆黒の肌でしたが、一八〇センチ位の背で、全身にしっかりとした筋肉をつけ、鼻筋も立派に通って、瞳の大きく美しい、アフリカの美丈夫だったのです。  英国船籍の貨物船の乗組員として横浜に寄港し、港の酒場で喧嘩になって相手のナイフを奪って刺してしまい、法廷で五年の実刑判決を言い渡されるとすぐ刑務所に送られてしまったというのですから、勝手の分らない異国の日本で、この西アフリカ人のジョン・カルボが、どんなに心細い思いだっただろうかは、想像がつきます。  ましてや連れてこられた木工場が年代物のガタピシで、大騒音に加えて初夏の頃ですから、坊主刈の懲役が、極彩色の奇怪な彫物を見せびらかしながら下着姿で群れているのです。これはとても異様で恐ろしげな情景だったに違いありません。  ジョン・カルボの与えられた|役席《えきせき》は、絵画のカンバスに木枠を打ちつける作業で、連れてこられたその日から、細身の金槌で小さな釘を、トントントンと終日打ち続ける単純作業でした。周囲が皆日本人懲役なので、黙々とやるより仕方なかったのでしょうが、あきらめきった様子でやっていたのがどうにも哀れに見え、私は空の手押車を押して近づき、 「飯はどうだ。充分寝てるかい。外国人は俺たちに比べて断然たくさん仮釈放がもらえるから、三年も我慢すれば出て行けるさ。困ったことや分んないことは、なんでも俺に言いなよ」  と声を掛けてやると、嬉しそうに目尻に深い皺を刻んで、 「有難う。飯は充分だし夜もよく寝られる」  しかし、シエラ・レオネは日本に大使館がないので、イギリス大使館が代って面倒を見てくれるのだが、実刑が言い渡されてからというもの、面会どころか手紙もくれない。  もらわずに貯めていた給料が二カ月分ほどあるのを、船会社に連絡して故郷の女房に送ってくれるように頼みたいのですが……。  俺は三十二歳、女房はひとつ若くて、|ここのつ《ヽヽヽヽ》と十歳の年子の娘がいるのだけど、突然のことなので、さぞ困っているのに違いなく、それを思うと、耳の中に蜂の入った牡ライオンのようになってしまうのだなどと、肩を落して工場の床を力のぬけた目で見詰めて、ゴオと音のするような深い溜息をもらしたのでした。  しゃべれるけれど読み書きは出来ない英語なので、代筆を同房のアメリカン・ニグロに頼んで手紙を出そうと思ったら、手紙は自筆に限る、などというわけの分らない刑務所の規則があったのは、これはきっと、先祖の誰かが赤ん坊の鹿を殺して食ったむくいに違いない……。  ジョン・カルボは、私に相槌もつかせず一息に、法螺貝に似た野太い、喉のあたりで共鳴しているような、黒人独特の声を響かせて、悲しみと悩みをぶちまけたのです。 「自筆でなきゃ駄目なんて、そんなことぐらいで参ってしまうような、そんな人間ばかりだったら、まだ空に飛行機も飛んでいないだろうし、アメリカ大陸だってまだ見つかってなんかいないだろうぜ。頭は帽子と眼鏡と爪楊子を使うためについているんじゃねえぜ、馬鹿な規則をなんとかするためについてるんだ。知ってるかい」  ゆっくり話している時は、割と品のいい英語だと自分では思っているのですが、まくしたてた時はもうそれこそ、世界中の英語圏スラムの|訛《なま》りが混然となるので、これにはジョン・カルボも、目立つ白目を大きく見張って、びっくりしたようでした。  |官《ヽ》の奴、代筆が駄目だなんて、馬鹿な九官鳥みたいなことを言っているのなら、そんなら俺が大きくハッキリ書いてあげるから、それを手本にして|免業《ヽヽ》の日曜日にでも、舎房でゆっくり写したらいいんだ。と、私が言うと、ジョン・カルボは子供のような顔になって弾むように立ちあがり、上体を前後に倒しながら両足で床を踏み鳴らしました。  お手本を丹念に写しとった|自筆《ヽヽ》の手紙を船会社に送ると、すぐ返事が来て、残りの給料はすぐミセス・カルボに責任を持って送る、と担当のイギリス人でしょう、凄い達筆のサインまでチャンとしてありました。  遠い日本で懲役をつとめることになってしまったジョン・カルボを心配している様子が、その返事の文面から感じとれたのには、他人事ながら胸のふくらむ思いでした。塀の中にいると、誰かに気にかけられているというのは、それが他人事でも嬉しいものなのです。  運動時間になると、ジョン・カルボは両肩を揚げた変ったフォームで、運動場をゆっくりと飽きずに走りまわっていました。 「話すのが悲しかったから、警察でも、日本は初めてだと言っておいたのだけど、実は以前にも来たことがあるんだ」  手紙の件以来すっかり私に打ちとけていたジョン・カルボは、突然そんなことを言い、驚く私に、十年前シエラ・レオネのナショナル・チームの一員として、日本に遠征し四試合のサッカー試合を闘った栄光の思い出を、遠くを見るような瞳で語ったのでした。 「捕まえられた猿のような今の自分の姿と、朝の露のように輝く思い出との間に、気が狂いそうになるほどの違いがあって、だから話したくもなかったんだ」  そして十年前のその頃、一〇〇メートルを十一秒台で走ったというジョン・カルボは、親切にしてくれる私のためにと、懲役が日用品の私物を賭けて必死にやるソフトボールに、私たちのチームで出場してくれたのです。  それは黒い突風が刑務所のグラウンドを吹き抜けたようでした。ジョン・カルボは外野への犠牲フライで二塁からホーム・インし、守っては外野の真中のセンターから、ファールフライまで捕ってしまったのです。 「こんなこと|娑婆《しやば》で話したら、途端に嘘つきにされちまわあ、しかしまあ、なんと早い」  刑務所にはもう十回も来ていて、たいていのことには眉もあげない、|新橋のパピヨン《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、だいぶ薄くなった胡麻塩頭を振りながら、いつまでもうなっていました。 [#改ページ]

  
散髪屋パピヨンの憂鬱  新橋のパピヨンは|ガリ屋《ヽヽヽ》でした。  ガリ屋というのは工場の散髪屋のことで、正式には衛生夫というのです。  それまで丸坊主にされていた懲役も、満期出所まで後三月というところまで漕ぎつけると、|官《ヽ》に「蓄髪願」というのを提出して、もう考えただけで心が躍りだしてしまうような、塀の外に跳び出せるその日に備えて髪を伸ばし始めるのです。  その他に、運良く仮釈放の審査の対象になった懲役も、決定までに普通二回は委員の面接があるのですが、その第一回目にこの蓄髪願が出せる|きまり《ヽヽヽ》なので、醜く異様な坊主刈頭の群れの中に、ネギボーズか法界坊のような頭が混ざっていれば、それは間もなく、この惨めな塀の中から出て行けるという羨ましい懲役なのです。  木工場の|北部《ホ》|第五《ク》|工場《ゴ》にも他の工場と同じように、工場内を見渡せるように高く作ってある担当台の下、計算夫や貸与係の事務室の隣に、黒い割れ目が走って四隅に曇りの拡がった小さな鏡と椅子がひとつ、それに小学校の一年坊主ほどの背丈しかない小さなパピヨンのために踏台がひとつ置いてある、簡単な床屋が設けてありました。  この|役席《えきせき》でパピヨンは毎日、それが機嫌のよい時の癖で鼻歌をフンフン、フンフンとハミングしながら、踏台に乗って、バリカンを使って丸刈にしたり、嬉しそうに膝で弾みをつけるような足どりでやって来た|蓄髪《ヽヽ》の連中の頭を、裾刈にしたり鋏で整えたりしてやっていたのです。  たまに塀の外で本職だった男が|落ちて《ヽヽヽ》来ると、|官《ヽ》がすぐシメタとばかりに、自分たちの髪をタダで刈らせるために構内に設けてある「官床」に|配役《はいえき》してしまうので、各工場のガリ屋はほとんどが素人なのです。  懲役には手前勝手の権化のような奴が多いし、|下種《げす》で凶悪無惨な見てくれの、まず自分の母親と自分の女ぐらいにしか愛されそうにもないような奴に限って、蓄髪が許され|娑婆《しやば》っ気がついた頃になると、ガリ屋の些細な|失敗《チヨンボ》に|文句《イチヤモン》をつけたりするので、大喧嘩も時にはある、といった役席がこのガリ屋でした。  ですから担当部長がこのガリ屋を配役するに際しては、トラに刈ろうが眉を半分剃り落そうが、相手にキャンとも吠えさせない飛び切りの大物を選ぶか、そうでなければいっそ徹底して無力な懲役がいいらしく、だから木工場のガリ屋は老いぼれて極端に小造りで口数の少ない、パピヨンだったわけです。  このパピヨンのように、鼻歌と独りごとの他は、ウンとウウンしか口にしないでダンマリを決め込むのも、穏やかで争いを好まない懲役には割合と多い、ひとつのタイプでした。何かで腹を立てて頭に血が昇った懲役でも、そんなパピヨンをひっぱたいたりすれば、自分の器量を落しかねないので、どんなことでもせいぜい|怒鳴《ウナ》りとばされるぐらいですんでいたのは、これは|矢張《やは》り担当部長の長年の経験で得た配役の妙というべきでしょう。  パピヨンという垢抜けのした仇名の由来は、胸一杯にクネクネと細かく念入りに彫りつけていた、大きな蝶々の|刺青《いれずみ》でした。  その青く奇怪な蝶々は、なんと身体中隙間なくミッシリ彫ってある、花札にサイコロ、ピストルと青竜刀、三味線、徳利と盃、鎌首をもたげふたつに割れた舌を出してる蛇、へのへのもへじ、桜とモミジにキャベツのような岩牡丹、漢字を並べたスローガン、ただの渦巻と市松文様、失敗したらしく塗り潰したらしい四角形といった、夢の島の鳥瞰図かスラムのボヤ騒ぎとでもいったような、稚拙で雑多な小さい刺青の中で、羽と触角を伸ばし拡げていたのです。  前刑も一緒の工場でつとめ、塀の外でもパピヨンと顔見知りだったという、ブロマイド販売業の島田良夫は、切り揃えられてダボ穴の開いた材を組立てる「組立」が役席でしたが、そんなパピヨンに呆れかえる同囚に、とぼけた語りくちで、 「好きこそ物のなんとかで、パピヨンは左の手でも右と同じように彫れるのですが、前刑の二年でついにとうとう、両手の届くところは全部彫ってしまいましたから、今回はもう彫ろうにも空いたところがなくて、だから手もち無沙汰で少し御機嫌が悪いんでさあ」  と説明してくれたのには、一同ますます唖然としたのです。とにかく首から上と顔面、それに手の届かない背中を除いた肌一面が、略画の手本を子供が片端から書いた、とでもいったような、下手糞な刺青で埋め尽されていたのですから……。  習字と簿記の通信教育を受講して手に入れた墨汁と赤インクを使って、退屈しのぎと看守の目を盗んで鼻をあかす快感から、懲役はいろんな刺青を自分の肌に彫りつけます。  正面からでは見えない顎の裏に、|虻《あぶ》を一匹とまらせた奴。  ひと刺しごとに歯を食いしばり踵で床を踏みねじるようにして、|非道《ひど》い痛みを懸命に耐えながら、ふだんは縮んでいるところの先端を選んで、金棒を握り角と牙を生やした小さな赤鬼を、黴菌除けのお守りにと、彫り込んでしまった驚くべき男。  金壺まなこで三角頭の|阿呆《ナイタリ》や|馬鹿《パープー》は、顔にホクロをつけたり、手首に一日二回は時間の合う腕時計をしたりと、それはいろんなのがいましたが、パピヨンの刺青は、見た者が必ず呆れかえるほどのガラクタ大会でした。  しかし、その身体中のガラクタの中でも、パピヨンに詳しい組立の島田良夫の話では、左腕にある日の丸の旗と天皇陛下万歳、それに砲身から赤い火を噴いている戦車は、他の|出鱈目《でたらめ》彫りとは違って、パピヨンの若かりし頃の思いのたけがこめられたものなのだそうです。  子供の頃から並みはずれて小さく、兵隊検査ではねられる惨めな自分の姿を思っては、苦しみ悩む当時のパピヨン坊やに、 「心配ない、タンクは中が狭くて窮屈だから、戦車兵は|こまい《ヽヽヽ》順に採ってくれるのだ」  と与太を飛ばした大人がいて、それをすっかり真に受け夢をふくらませ続けたパピヨンは、それから随分経った検査の場面で、当然のことながら余りにも小さな体格のために不合格となって、もう家や故郷にはとても帰れないほどの大恥を、皆の前でかいてしまったというのです。 「以前塀の外で一緒に酒を飲んだ時、ポロポロ涙をこぼしながら、それが裏街道の始りだったと、パピヨンはそう言ったんでさあ。本当に、余計な罪名はたくさんあるのに、どうして|嘘つき罪《ヽヽヽヽ》がねえんでしょうね」  聴いた懲役は無言で深く頷いたのですが、 「それは昔から|お上《ヽヽ》がいちばん嘘つきだからよ」  と言い放った奴もいたのです。 「新橋の……と|ふたつ名《ヽヽヽヽ》だけんど、パピヨンは新橋で何して|稼《シノ》いでいるんだい」  と訊いた奴には、なにやら見当はずれの答を呟いて、とぼけてみせた島田でした。  そして懲役が暑さにあえぐ七月のなかば、パピヨンはもひとつ浮かない顔で鼻歌も跡切れたまま、七三にわけられるほど立派に伸びていた白髪頭で、なぜか当人はまるで気に入らない様子で、出所して行ったのです。  そんな様子がどうにも腑に落ちなかった私は、空の手押車を押して組立に出掛けて行き、玄翁を片手にトントンやっていた島田良夫を|掴《つか》まえて、わけを訊ねてみたのです。 「からかわれたりいじめられたりしちゃ可哀そうなんで、いる間は黙ってたんすが……。それはパピヨンのやってんのが、|おこもさん《ヽヽヽヽヽ》だからでさあ。髪もひげも、もっとボウボウでなきゃサマにならねえんでしょうよ。昔っから『禿に乞食なし』って言うでしょう。もう|年齢《とし》なんだからいっそのこと全部抜いちまって、足を洗えばいいんでさあ」  この頃、月に一度は新橋に近い出版社に伺う私なので、そのたびに探すのですが、パピヨンは白髪を抜いてしまって足を洗ったのでしょうか、小さな姿が見えないのです。 [#改ページ]

  
相撲は寄切りに限るわけ  私はよく刑務所の塀の中や|無頼《ぶらい》な暮しを、深い海の底にたとえるのです。  深い海の底は薄暗く、魚も|棘皮《きよくひ》動物も、生きているものは大きいのも小さいのもみんな、どことなく気味の悪いのばかり。  そんなところに子供の頃から落ちこんで、三十年も過してしまった私ですが、山本夏彦先生をはじめ、周囲にいてくださる方々のおかげで、もうこれで五年ほど、警察にも追いかけられず危ない目にも会わないという、幸せな毎日が続いています。  今の私は、海の底から拾いあげられて、水族館の水槽に移された鬼ヒトデのようなもの、懐かしくもおぞましい昔の|棲処《すみか》を思い出すのです。  以前は刑務所でも軟式野球や相撲も、運動時間にやらせたのですが、次々と禁止になって、今ではせいぜいのところがソフトボールとバレーボールぐらいなのです。  東京の街では、ほんの裏通りの四つ角にまで立派な信号機がついていて、誰も通らないのに終日赤になったり緑になったり無駄なことをやっています。それは、長い間には馬鹿な小母さんが、道往く者はわれ独り、とばかりに自転車で走って来て、運悪くも当り前にも、酒屋の軽トラックかなにかにひかれてしまい、その途端に、そんな場所にも信号機がつけられてしまうからなのです。  一度ついたら最後、まず取りはずされることなんてありませんから、東京の裏通りは、今のように信号機だらけになってしまったのです。  小役人のやることは、どこでも似たようなものですから、刑務所でもなにか起ると、根本的なことは考えずに、枝葉末節の現象的なことだけが問題にされて、なんでも端から禁止されてしまうわけです。  軟式野球は十五年ほど前に、法務省のお偉いのが視察にやって来た東北の刑務所で、この機会に|官《ヽ》の威力を思い知らせてくれるべえと、ろくに練習もしていない懲役の選抜チームを相手に、懲役が工場で働いている時間にたっぷり練習を積んだ看守のチームが、その刑務所のある街の市長まで来賓によんで試合をしたのです。  しかしこの時の懲役選抜の中には、プロ野球の二軍に四年いただの、一回戦で負けちゃったけれど夏の甲子園で完投しただの、刑務所流のトリック・プレーをやらせたら、日本懲役一の異名をとった塩野のトッツァンなんて、その時の顔ぶれが今でも語り草になるほどの連中が揃っていたのですからたまりません。  看守のチームは、中央から視察に来た偉い役人とそこの市長、それに懲役全員が見ている前で、初夏の陽が西に沈みかけるまでたっぷりと、こてんぱんのラグビー・スコアどころか、ピンボール・ゲームの得点のように、ガラガラと毎回三十分以上もやっつけられたのです。気味のいいことは最高だったのですけれど、その後すぐ全国の刑務所に、 「軟式野球は、やらせておくと|官《ヽ》の威信に傷のつく場面もあるから……」  と通達がまわって禁止になってしまいました。  相撲はそれより少し前に関東のある刑務所で、他の看守が嫌がる死刑の執行を、少しばかりの特別手当が欲しいばかりに、替ってまでやりたがるという、見てくれがうすでかい豚そのものですから「エース・コック」と呼ばれていた若い看守を、小粒だけど横浜港で一番の力持ちといわれた沖仲仕くずれが、櫓投げで思い切り脳天から地べたへめり込むほど叩きつけ、気味のよいことに入院した豚野郎はそれ以後、ふくれた顔の金壺まなこをパチパチさせるだけで、あまり口が利けなくなってしまったという事件があって、これもまた禁止になってしまったのです。  大相撲の場所が始ると、相撲をとるのを禁じられた懲役の中では、必ず誰か胴元になる男が木工場でも名乗りをあげ、毎日昼休みの前頃に、胴元の選んだその日の好取組五番の書いてある小さな紙が、各|役席《えきせき》に届けられます。客の懲役はどちらか三番以上勝つと思った方にしるしをつけて、私物の日用品を賭けるのです。 「相撲の華は寄切りでさあ。上手投げも喉輪ハズ押しもいいけんど、|矢張《やは》り相撲は、なんといっても寄切りでさあ」  私の以前の役席「木採り」が材の長さを揃え、私のリップソーで幅をきめ、次の「自動鉋」が厚さを整えて、その次のボーリング・マシンがダボ穴を開け、そして「組立」で整理箪笥や本棚がやっとその形になるのですが、この組立をやっていた島田良夫は、とても相撲の好きな男で、いつでも力をこめてそう言っていました。  泥棒は窃盗罪、ゴロツキは傷害罪とか覚醒剤取締法違反、仕事師は詐欺罪か横領罪、博奕打ちは常習賭博罪に|賭博開張図利《とばくかいちようとり》罪(刑法ではなぜか開|張《ヽ》なのです)、そしてごく稀には詐欺賭博罪といったように、懲役はだいたい、その塀の外でやっている|稼業《シノギ》をとがめられて、塀の中に押し込められるのですが、この三十四歳になる島田良夫は、これまで喰らった三回の刑はいずれも、シノギのブロマイド販売業とは関係のない罪名だったという、珍しい懲役だったのです。  罪名は|矢鱈《やたら》とたくさん、それも似たようなのがあって、けれどそれぞれ刑の重さが違うので、似たような罪名でもどれで起訴されるかが、当人にとっては大問題なのです。  例を博奕打ちにとると常習賭博罪というのは、|お上《ヽヽ》にテラ銭を払わない博奕を毎度やってケシカランという、それでも一番軽い罪。  賭博開張図利罪となると、これは|お上《ヽヽ》以外の者が客を集めてテラ銭をとったのは、縄張り荒しである、というこれはまあ|可成《かなり》な罪。  そして詐欺賭博罪となると、イカサマを仕組んだり、べら棒なテラ銭を巻きあげたりして、客や相手にほとんど勝つ可能性のなかった博奕をやったのは許し難いと、自分たちのやっている競輪・競馬・宝くじは棚にあげての、これは重い罪なのです。  そんなわけで、他の懲役はそれぞれ税金代りのような刑をつとめているのに、この昭和三十五年に十九歳で、大相撲の街頭ブロマイド・セールスの道に入ったという、若くて陽気な島田良夫だけ、いわば趣味の懲役をつとめていたというのです。 「根岸の小料理屋で、王貞治のホームランは、本場のアメリカの球場なら半分ほどはただの外野フライだ。それがなんで世界記録なもんか、と言ったら、それを聴いた|半ぐれ《ヽヽヽ》の総会屋がむかって来たんで、『正義は勝つ』と懲らしめてやったんです。ふだんナアナアの嘘喧嘩しかやってない|やわ《ヽヽ》な野郎だったので、目をまわして骨まで折れちまいやがって」  けど、昭和四十年を少し過ぎた頃から、急に世の中全体が、呆れるうちにドンドンと色餓鬼地獄のようになってしまい、そのおかげでそれまでの稼業も、ついにまるで駄目になってしまった時だったので、今回の二年|六月《ろくげつ》の刑は、次のシノギを考えるのにはちょうどいい|塩梅《あんばい》ではあったのだ、と島田良夫は言いました。  国技大相撲のブロマイド販売といっても、島田良夫のは盛り場で、鼻の下の長いのを掴まえて「鏡里寄切り吉葉山」なんて写真を、それが肝心の技術で上手にチラリと客に見せ、なにやら白い豊かな身体がもつれあう様子に、まだ現在のようには街にポルノが氾濫する前の時代の堅気衆ですから、いろめきたって欲しがると、何枚か一組にして封筒に入れたのを、結構な値段で分けてやるのです。  客が勝手に勘違いして欲しがったのですから、たくさんある罪名だって、なんの役にもたたなかったのです。 「それでもね、突き出しや蹴たぐりなんて場面の写真じゃあ、あっしの腕でも、なかなかアノようには見せられねえんでさあ」  相撲は寄切りと力が入るわけでした。 [#改ページ]

  
密告爺さんに謎の一言  木工場の一隅にプレスという|役席《えきせき》があって、黒い鉄の固まりのような機械が、ズッシリと据えつけてあります。  ここでは、木工場の各セクションからの注文に応じて、合板のプレス成型をやっていて、合板に接着剤を塗って重ね、圧力をかけてしばらくそのままにしておくと、チャンと好みの|曲線《アール》が付くというわけです。  なにしろ|ただ《ヽヽ》に近い労働力だけが頼みの綱という刑務所の工場ですから、設備や機械なんかは、もうまるで旧式なのだそうで、得意になって私たちがぶんまわしていた電動工具も、そしてこの大変いかめしいプレスの機械も、車でいえば、いずれも昭和三十年代までは威勢のいい音をたてて街を走っていたオート三輪のようなもので、塀の外の工場だと、今ではよくよくさがさないと実動しているのを見つけ難いようなしろものなのだそうです。  このプレスでは、親方と助手の二人が冬でも汗まみれになって、機械に差し込んだ鉄棒で「エッサ、ホレ、ホイサッ」と掛声をかけながら締めつけるのですが、それでも接着剤の乾く間は、一息入れられるようです。  昨日の大相撲でシャボンを三個負けたのを払いに、刃物を研ぐ専門の「研磨」に出掛けた帰り、例によって私が空の手押車を押してプレスの横を通りかかると、最近|落ちて《ヽヽヽ》来たばかりの若い助手と、積み上げた合板の上で一息入れていた親方の中島健が、 「相撲でやられたんだってえ……」  と声をかけ、ちょうどその時、高い担当台の上から|副担《ヽヽ》の「休憩ッ」という号令が聴こえて、午後の休憩時間になりました。 「相撲でやられても、ソフトボールで取返せるから、どうってことないやね」  と、この中島健は「|人相違反《ヽヽヽヽ》」と仇名されるほどの、それはものすごい、バナナと女房を一緒に盗まれた時の乱杭歯のゴリラ、のような|顔相《がんそう》のヤクザで、けどしかし、顔よりは断然性根の方が上等な中年男でしたが、笑いながら言ったのです。  笑うと途端に、その凶悪な顔がごく無邪気な可愛らしい顔になったのは妙でした。  その頃私の所属していたソフトボールのチームは、破竹の連勝を続けていて、私と仲良しの中島健も、随分儲けていたのです。 「ソフトボールじゃランナーがリードをとらないから、塩野のトッツァンの例の術を使えないのが残念だなあ」  と中島健が言いましたが、これは野球と違ってソフトボールは、投手の指から投球が離れるまでは、走者は塁から離れてはいけないルールになっているのを歎いたのです。  それから私と中島健は、休憩時間の間、それぞれ別な刑務所と年代でですが、同じ刑務所で過したことのある塩野のトッツァンの話に夢中になったのでした。  塩野のトッツァンは、あの、東北の刑務所で懲役のチームが看守チームをキャンといわせた試合で、栄光の懲役選抜をひきいて闘った監督として、永久に語り伝えられる男です。  いったい塀の外にいる時があるのか、と思うほど、誰に聴いてもいつでも|何処《どこ》かの刑務所に入れられているトッツァンで、しかし野球の虫のような男でした。 「野球ってのは戦争と同じで、汚かろうがペテンだろうが、勝てば官軍、ばれてもともとって遊びだから、これは堅気衆が昼日なかになんぞ、なさるようなもんじゃなく、自分たちのために|下種《げす》なメリケンが作ってくれた素晴しい遊びなんだな、これが……」  というのが、塩野のトッツァンがいつでも口にする|台詞《せりふ》で、御健在ならもう七十過ぎですから、私の知り合った二十年ほど前でも、もう現役の選手ではなく、そのかわり毎日毎晩野球のことしか考えずに、次々と奇想天外なプレーを編み出し続けたのでした。  二塁に出た相手方の走者を殺そうとする時、まず監督の塩野のトッツァンからシグナルが出ます。そうすると二塁手とショートは、知らん顔で一塁と三塁に気持寄った感じで守備位置につきます。それを見た走者は当然ながら、塁を大きく離れてリードをとります。  投手は「打たせるぞう」なんて外野に声を掛けたり、捕手のサインに首を振ったりしながら、少しずつマウンドから後ずさりを続け、そしてある瞬間、ボールを握ったまま、自ら二塁ベースに向って突進するのです。  走者は、まさか投手が走って来るなんて、そんなことはこの世のこととも思われず、棒立ちのままタッチされ、まんまと殺されてしまうのです。  中島健の言ったのは、このプレーのことだったのですが、他にも塩野のトッツァンはいろいろな戦術を編み出しました。  軟式野球が禁じられてから、ソフトボールのために案出されたものには、打者が構えたままの姿勢から、バットの尻のグリップエンドでやるセフティーバントなんて、鮮やかに決ると魔術のようなのもありましたっけ。 「あの知恵と努力を塀の外でやったら、今頃あのトッツァンも楽隠居だろうのに、ねえ」  と私が言うと、中島健も、 「それがどうやら、知恵の出るのは決って塀の中、それも野球だけってんだから、偉いけど悲しい人なんだねえ、弟子としては……」  私たちの思い出話を聴いて、なぜか例の若い新入りの助手も誇らしげでした。  それから話は少し小声になって、|塗装《ヽヽ》の岩崎爺さんの問題に移りました。とにかくその頃、この爺さんの|密告《チツクリ》には、工場中が眉をしかめて困り果てていたのです。  |官《ヽ》が上手に尻を叩くこともあって、どうしてもチックリと呼ばれる密告者が、刑務所の中でははびこるのですけれど、この塗装の岩崎爺さんも、何をいい|年齢《とし》をして血迷ったのか、とにかく何から何まで、目にしたこと、耳にしたこと、端から担当部長に密告してしまうのですからたまりません。 「あんなんを切手虫、言いますのや」 「菱形で緑のだろ、なるほど切手虫ねえ、|家《うち》の方ではヘップリ虫って言うよ」 「なんだ|非道《ひど》い|訛《なまり》だ。ヘッピリ虫だろう」 「イヤ、俺んちの方はガメ虫と言うぜ」  なんて口々に言っていたのですが、こんなチックリ虫が現れては、大人しくて穏やかなのが集められている木工場でも、誰かが怒りと不快を爆発させるのはもう時間の問題と、皆、ウンザリしていました。  他の工場だと、とっくに若い鉄火なのが、喧嘩を売って両成敗とやらで、懲罰房に|抱き落し《ヽヽヽヽ》、自分が犠牲になって皆を救け、「男を売る稼業だい」と胸を張っていたでしょう。  しかしこの事態も全て、ベテランの岩崎爺さんの読みのうちだったのでしょう。  |落ちて《ヽヽヽ》来たばかりのプレスの助手は、まだ三十前の若い男で、二年の刑の|覚醒剤《シヤブ》屋でしたが、私と中島健の話を横にいて耳にすると、ひとりで頷いてトコトコと塗装に出掛けて行き、そこで何事か岩崎爺さんに耳うちしました。すると途端に、爺さんの血走った目が大きく見開かれ、唇が遠目にも震えだし、膝頭も小刻みに揺らぎ、顔もふだん酒焼けが染みついているような赤味まで消えて、青くなりました。  嘘のようにそれから以後は、木工場に平和が戻り、切手虫の害はあとを断ったのです。  それまでは、ぶん殴るわけにもいかず、脅かせばすぐチックられるばかりとあって、さすがの|懲役太郎《ベテラン》たちも始末に困っていた岩崎爺さんなのに、新入りの一言で、おびえたようになったきり、ピタリと密告をやめたのです。  謎の一言を訊く私と中島健に、 「なあに、『寝てる間に両目を針で刺されれば、誰がやったとチックるわけにもいかないだろ、気をつけなよ』とそれだけでさあ。自分だって前刑の新潟で、塩野のトッツァンに二年もソフトボールを教わった弟子ですから、いろんな手を使うんですよ」  若い虫封じは、胸を張って見せたのです。 [#改ページ]

  
寡黙な男の二度目の殺し  木工場の道具係をしていた岩館清蔵は、これが二度目の殺人罪で、今回は五年の刑をつとめている懲役でした。  短歌を詠むだけが楽しみといった寡黙な男だったのですが、それは|配役《はいえき》された|役席《えきせき》が道具係ということもあったのです。 「口はわざわいのもと」という格言は、塀の中の格言に違いないと思えるほど、懲役の始める喧嘩や、また起す事件のほとんどは、会話や言葉のもつれからだったのでした。  私が久し振りで懲役に|落ちる《ヽヽヽ》と決った時など、私の生れついての陽気な口数の多さを心配した当時の|児分《こぶん》が、小菅の拘置所まで面会にやって来て、 「心得ておられるでしょうが、|寄せ場《ヽヽヽ》ではくれぐれも口には気を付けて」  と言いました。  暖かい春の日に工場の前庭で日向ぼっこをしていた懲役たちが、地面にうずくまっていた虫を、最初に口を切った懲役は、右の方からやって来たのだと言い、次の男は左からだと決めつけ、更にもう一人が上から落ちて来たんだ、「俺はこの目で見ていたんだ」とまで言い出して、ついに大乱闘になったそうです。虫一匹どこから来たかで、その中の一人は、追加の刑を二年も喰らってしまうほどの大変なことになってしまったという話を、拘置所の面会室の細い丸穴のたくさん開いている、アクリルの板越しに話してくれたほどです。  自分より強い奴はいないから、何を言っても大丈夫と思っている懲役と、言葉のあやから|身体のかかる《ヽヽヽヽヽヽ》(懲罰や新たな刑を追加されたりするようなこと)のは、塀の外の地震やパンクと同じで、その時勝負で仕様がないと往生している懲役は別にして、余計な危険は出来るだけ避けようと、この岩館清蔵のように口数が少なくなってしまうか、話相手を限ってしまうというのも、ひとつの懲役の生活技術というか型なのでした。  岩館清蔵は四十歳を過ぎた小柄な男で、坊主刈にされた頭の真中が谷のようにくぼみ、両側は盛りあがった二つの丘のようになっていて、その頭の下に付いている顔はすぼまって小さく、ちょうど葡萄の種のような形でしたが、これは仇名の「ブドウパン」と直接の関係はなかったようです。  小さくすぼまった顔に付いている一重の目は、とても穏やかそうでしたし、その目尻には深い皺が用意してあって、たまにですが、笑うとその目尻の深い皺のおかげで、とてもスムーズに笑顔が出来たのですが、これはきっと、以前には微笑む習慣のあった男なのでしょう。  近くに寄ってよく見ると、岩館清蔵の顔には、大小とりまぜたくさんのホクロが散らばっていて、胡麻塩のおむすびのようでした。それはそうと、この塀の中ではおむすびを作ると、逃走準備という反則でパクられ懲役を喰らってしまうのは、その昔、逃亡を企てた懲役がせっせと麦飯をおむすびにした名残りなのでしょう。  ただでさえ不自由な塀の中で、懲罰なんか喰らったのではたまりませんから、おむすびには縁遠い懲役たちですが、ブドウパンなら月に二度ほど夕食に食わされ、僅かな甘味でも、懲役は甘い物に飢えているので大喜びでしたし、なるほどブドウパンの葡萄の散らばりようが、なんともいえず岩館清蔵の顔のホクロに似ていました。  木工場の隅が金網で仕切ってあって、金網のドアまで付けてあり、ここが道具係の倉庫を兼ねた役席です。  ここには木工場で使うありとあらゆる道具類とパーツが、棚一杯、床一面、そして工場の高い天井ですから、床が中二階のようにしてあって、その天井から物が吊してあるといった、ちょっとした荒物屋という雰囲気です。その金網で囲まれた役席で助手もなしのたった一人、作業帽にセクションの親方であるシルシの赤線を巻き、岩館清蔵はいつでも、在庫の数量の書いてある帳面を持って、棚の間で数を数えていました。  いくら断ち落しの立派な材木を、惜しげもなくかたっぱしから燃してしまうような刑務所の木工場でも、放っておけばとめどがなくなってしまうので、道具やパーツをくれとやって来る懲役に、時には首を横にも振らねばならないという、|官《ヽ》と懲役との板挟みといったこともよくある、難儀な役席であったのです。  気前よくポンポン渡してやれば、担当部長が怒るでしょうし、担当部長を怒らせると仮釈放にも大きく響くのですから、あちら立てればこちらが立たず、道具係岩館清蔵の苦労は、察するに余りあり、口数が極端に少なくなったのも、この役席の故もあったに違いありません。  岩館清蔵は、ある時は担当台に呼ばれて担当部長に小言を言われ、そしてたいていの時は仲間の懲役に、融通が利かず話の分らぬ奴とさんざん陰口を言われながら、それでも短歌を詠み続けて、五年の刑をつとめていました。 「ああまで|官《ヽ》の|機嫌《ヅケ》をとって、仮釈がもらいたいかねえ、本当に……」  などと、欲しい道具をもらえなかった懲役たちに、それは糞味噌に言われ、 「あんな奴だから、最初は女の相手のゴロツキを殺して七年、こんどはその女を殺しちまって五年と、そんな|銭《ぜに》にもならねえ殺しばかりで寄せ場に来ちまうんだ」  と、どこで聴いて来るのか|出鱈目《でたらめ》なのか、そんなことまで口にする奴がいました。  以前から、塀の外では真面目な建設労務者だという岩館清蔵の、物静かなつとめようを見て、どうして二度も人を殺してしまったのか、私はとても不思議に思っていましたから、いつものように塗装の役席まで、空の手押車を押して出掛けて行ったのです。  塗装の岩崎老人は、シンナーを管理させられているという、同じ困難な立場の役席同士でもあったし、もう下手糞でどうにもならない短歌も詠んだので、岩館清蔵とは会話のある数少ない懲役の一人でした。  それにこの爺いは、訊かれないことまで、なんでもよく喋る奴なのです。  その頃の私を思うと顔が|流石《さすが》に赤らみます。もちろんまだその頃は、文章を書いて暮しをまっとうに立てようなんて大望は、夢にも思ってはいないのですから、こんなふうに訊きまわるのも、取材なんて|他人聴《ひとぎ》きのいいもんではなく、ただの|下種《げす》な好奇心と退屈しのぎで、これはなんとも浅ましいことでした。 「そうさ、そのとおり、最初は女房の|間男《まおとこ》で彫物だらけのゴロツキを|滅多矢鱈《めつたやたら》に刺しちゃって七年、もっともこの時殺しは初めてでも前科はもうあったから仕様がない。こんどのは、間男は逃げちゃったのかどうか、とにかく尻の軽い女房をブスリと、ひと刺しでやっちまって五年さ……」  岩崎老人は、どうせ聴いた話なのでしょうけれど、そんな話をする時、お喋りの懲役が誰でもするように、まるでその場に居合わせでもしたかのごとく、こと細かく話したのです。  最初の時の判事は、相手を十数カ所も刺して殺したのは残虐な犯行だと決めつけて、その手の殺人では|可成《かなり》|高い《ヽヽ》七年の刑を言い渡したというのですが、もしそうだったならそれは多分違うと思うのです。  初めて人を刺す岩館清蔵は、もう無我夢中で何度も何度も……と、きっとそんな様子だったのに違いありません。喧嘩が仕事のゴロツキだって最初はたいていそうなのです。  どちらが残虐かと強いていうなら、弱い女を狙い澄ましてひと刺しにした、今回の方ではないでしょうか。  その時々の法と過去の判例ばかり覚えて資格を得た判事に、裁かれる身の不幸と恐ろしさは、喧嘩の相手よりずっと恐いものだと、私たちには思えたのでした。 [#改ページ]

  
老エゴイストのスゴイ理屈  前にも書いたことですけれど、木工場にはすぐ得物になるような道具が、そこいらじゅうにあるので、|此処《ここ》で働かせる懲役を選ぶ時には、|官《ヽ》はとても慎重に、穏やかで情緒の安定している者を選んだのです。  これは懲役同士の事故を防ぐというより、むしろ仲間の、工場担当の看守たちの安全を考えてのことでしょうが、そういうわけで木工場には、他の工場に比べて断然程度のいい懲役が揃っていました。  それにこの府中刑務所が、既に一度以上服役したことのある、刑期が七年以内の短期刑の懲役ばかり専門に集めてある刑務所でしたから、八十人ほどの木工場でも、五年以上の刑の懲役は数人で、ジッとしてさえいれば、間もなく満期の日が来てくれると、皆充分承知していたのです。  こんな短期刑をつとめている|懲役太郎《ベテラン》たちにとって、なにより恐ろしいのは、これまでに発覚しないでいたことが、なんたることかバレてしまい、警察に逆送され起訴されてしまう「余罪」と、所内の懲罰ではすまないような事件を起してしまうことです。  どちらもよくあることでしたけれど、いざ、そんなことが我が身に起れば、法廷に引き出されて追加の刑を喰らい、塀の外に出て行ける満期の日が、その途端、はるか彼方に遠ざかってしまうという、これはもう気の狂うような、最悪の事態です。  映画や芝居だと、拳銃の台尻や刀の峰、それに棒や拳骨なら、気を失うほどひっぱたいても、生命を失わないというのが約束ごとで、しばらくすると頭を振って起き上るのですが、実際だと、看守でも懲役でも、木工場の手近にあった玄翁か角材でスコンとやってしまえば、三度に一度はそのままになってしまうのを、懲役たちは知っていました。  そして、もしそのまま起きて来なければ、これは|安くて《ヽヽヽ》三年、|高け《ヽヽ》れば七年ほども、満期の日が遠ざかってしまいます。  とくにこの木工場で、怒りを爆発させてしまうと、糊と紙、それに刷毛しかないショッピング・バッグを貼ってる紙工場あたりと違って、とても|安く《ヽヽ》なんかすむわけがないのを、木工場の懲役たちはよく心得ていました。  |塗装《ヽヽ》の岩崎老人も年季の入った懲役でしたから、他の工場だと危なくて出来ない|密告《チツクリ》でも、この木工場なら|可成《かなり》のとこまでは大丈夫だと、その辺はしっかり読んだうえだったのでしょう。  詳しいことは前に書いたように、若い衆の脅しにしびれた岩崎老人は密告をピタリと止めましたが、皆の冷たい視線や|あたり《ヽヽヽ》(接し方)にも、少しも|閉口垂《へこた》れる様子もなく、それまでと同じように、相手がいれば大声で喋りまくるし、シンナーをねだる懲役には、変らぬケンツクを喰らわせていたのです。 「組立」でダボや釘が打たれ、形になった製品は、次の「仕上げ」で研磨機がかけられると、「塗装」に運ばれます。  黒いゴム・ホースがコンプレッサーにつないである吹付ガンを両手で構えた爺さんは、どこを風がといった様子で、香ぐわしい塗料を丹念に吹付けていました。  いろんな変てこなのが集められているので、「寄せ場」なんて呼ばれる刑務所でも、こんなに図々しく白ばっくれたのは、そうそういるものではありません。  これにはいくら木工場の連中でも呆れてしまって、口を利く懲役も少なくなり、爺さんは孤独に見えましたから、こんな珍しいのは、こんな機会によっく見てやろうと、私は暇を見ては接近戦を試みたのです。  近寄って来た私が、どうやらシンナーを狙っているのではなく、単純な好奇心と大袈裟にいえば、自分の哲学を聴こうとしてのことらしい、と見極めを付けると、それまで所在なくしていた岩崎老人は、偉そうに構えて、いろいろとまくしたてたのです。  いつの時代にもこの手の、聴きかじり程度のことを、いつの間にか信念や確信に変えてしまって他人に説くという、無責任な手合はよくいるのです。  こんな奴はエゴイストの権化と決っていて、塀の外にだってウヨウヨといるのですから、化物と悪者の巣のような塀の中にいないわけがなく、この爺さんもその一人でした。  私がまだ小菅の東京拘置所の雑居房で、長い裁判をしていた頃、その房に大学出と称する、中国地方の四十男がいました。  親分だと言っていましたが、親分にだってザリガニのようなのから、伊勢海老のようなのまで、いろいろなので、驚いたりしてなんかいられるものですか。  私の他は若い衆が数人と盗っ人だけだったので、その男は得意になって、いい加減な話をしていましたが、こんなことも言ったのです。 「相手が拳銃を構えていても、座布団をこうして突っこんで行けば平気なんだ。拳銃の弾は座布団を通さないんだ」  と、座布団をかざしての仕方話です。  こんな|出鱈目《でたらめ》が、耳の底に知識として残ってしまった若い衆は、これは肝炎か梅毒でも移されたのと同じというほどの災難でしたけれど、目を輝かせて聴いているのが全部|よその《ヽヽヽ》若い衆でしたから、私は知らん顔で本を読み続けたのでした。  こんなところが、ゴロツキ稼業の本当に嫌なところで、いつ喧嘩の相手になるか分らない者には、間違った知識を持っていてもらった方が得なのです。そんなことやったら座布団ごと後ろに吹っ飛ばされて、たいていハンバーグのようになっちまう、なんて本当のことを教えてなんかやらないのです。  岩崎老人も、まさにこの手の奴でした。 「あんな馬鹿に、もし寝てる間に両眼を潰されたら、これは間尺に合わないから止めたのだが、中学生の合宿でもあるまいし、いい|年齢《とし》した再犯の懲役なら、|密告《チツクリ》されて困るような反則なら|内輪《シンネコ》でやるもんだ。甘えんだよ」  他の連中は、刑さえ追加を喰らって増えなければ、満期で結構ということらしいが、老先の短い自分は、|官《ヽ》の|機嫌《ヅケ》をとってでも、仮釈放をもらって一日も早く出たいので、事情と立場が違うのだ、と言い、 「皆で楽しく懲役ホテル」  なんてのは甘ったれた考えで、|此処《ここ》は個人の事情がぶつかり合う、押しくらまんじゅうか、プロレスのバトル・ロイヤルのようなものだ。とこのあたりの理屈は、|流石《さすが》に長く寄せ場で揉まれて来た爺様だけに、他のつけ焼刃や聴きかじりとは違っていました。  木工場のガタピシの窓から吹き込む風が、首をすくめるほど冷たくなったこの頃になると、懲役たちの顔は固く、平べったくなってしまうのです。  そこまで迫ってきた辛い冬を、今年も自分の体温だけを頼りに乗り切るのだと思うと、誰もが憂鬱になる季節でした。  布団の中の爪先が冷たくしびれ、どうにも眠りにつけないような晩に、二包も飲むと身体が熱くなってくれるアスピリンを、これまでの間に衛生夫からセッセともらって、誰もが充分に蓄え|了《おわ》った晩秋の頃だったのです。  根拠のない、決めつけばかりの理屈を、偉そうにされてウンザリしてしまった物好きな私に、爺さんは最後にこんな、なんともいえないようなことを言ったのです。 「あのな、親孝行なんてことも、しないだっていいということさえ、誰も知らんのだ」  ヤヤッと、それが常日頃私の気を重くしていることだったにしても、思わず首を突き出してしまったのは、どうにも情けないことでした。 「親孝行なんて、誰でもとっくに一生の分が充分すんでいるのに、誰も知りもしない。誰でも、生れた時から五つの年齢までの、あの可愛らしさで、たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ、五つまでの可愛さでな」  スゴイ、と私は一瞬思ったのです。 [#改ページ]

  
熱中式錯乱予防術  塀の中に閉じこめられている懲役たちは、とくに再犯の連中だと、それぞれ何か、それに熱中し集中して時間の過せる、趣味というより術のようなものを、身につけています。  |免業《ヽヽ》の日曜でも一日中、夏はおでこに汗の玉を浮べたまま、どんな時でも拡げた本から目を放さない、読書の虫というよりむしろ偏執狂のような男も、これはよくいるタイプでしたが、似たようなもので……。  本を一頁ずつ丹念に時間をかけて眺め、右手の人差指で、しきりと床や左の掌になにか書いている懲役は、漢字の書取りをやっているのですが、そればかり毎日やっているのですから、漢字を知っていることといったら大変なもので、雑居房にこの手の懲役がいてくれると、まず字引きは要らないほどです。  歌謡曲の歌詞ばかりが書いてある本を、舎房にいる時は飯どき以外は手から離さず、いつでもフンフンと歌っていて、どうもメロディーがもひとつうろ覚えだと、まず同房の者にひとりずつ訊いてまわり、確かな者がいない時は、木工場に出て来ると仕事中、看守の目を盗んで機械の間を縫うようにアチコチ出没し、その驚くべき執念に皆を呆れさす奴。  歌を歌うのは反則で、懲罰まで喰らうこともある塀の中の暮しですが、木工場は機械の騒音がひどくて、こんな歌謡曲狂のような懲役にとっては、声を出して歌っても平気という、ここしかないといった工場なのです。  だからそんな奴は、いつ見ても口を開けたりすぼめたり、悲しい歌だと眉を寄せ、力のない瞳で床を見たりして、一日中飽きもせずやっているのに感心してしまうのですが、これは本当に不思議というもので、こういうのに限って人並みはずれた超音痴なのです。  暮の二十九日には、大掃除が終ると工場の食堂で汁粉が出るのですが、その日だけは、おとがめなしで歌ってもよいと決っていて、喉自慢の懲役たちは前に出ると、食卓に坐っている仲間たちの拍手を浴びながら、嬉しそうに得意の曲を歌うのです。  この場面で、ふだんの異常な情熱を知っている仲間たちに、「さあ、思う存分やんなよ」と励まされると、この手の奴はちょっと頬と目のふちを、懲役らしくもなく赤くしたりして前に出て来て、眉の間に縦皺を寄せると顎を引いて歌い出すのはいいのですけれど……。  御当人は目を細め、前にかがんだり首を後ろにそらしたり大熱唱するのですが、前に坐っている木工場の懲役たちは、アラビアかインドの歌でも始ったのかと、しばらくの間は目をパチパチさせ、そのうちに顔を見合わせ頬や喉をピクピクさせて、おかしさではじけそうになる笑いをこらえはじめるのです。  中には行儀の悪い、思いやりのない田舎者もいるので、「ゲゲゲ、ゲゲゲ」なんて笑い声が聴こえ出し、そうなれば行儀のいい連中だってどうにもたまらず、結局皆で涙をこぼしてしまいます。それほどのスゴさですから、「好きこそものの……」という格言は、木工場にいつでもいるこんな歌謡曲狂に限って、あてはまらないのがほとんどなのです。  囲碁と将棋に熱中するのは、割合多数派なのですが、意外に多いのは|五目十《ごもくじゆう》という変則五目並べにこっている連中で、これは三三といった禁手がなく、どちらかが五目になっても、そのままどんどん打ち続け、そしてどちらか先に五目を十作った方が勝ちという、塀の中独特のマラソン五目です。  スポーツ新聞を睨んで、私物のノートに細かい数字を真剣に書き込んでいるのは、これは馬券や車券の必勝法を編み出して、この何年かの懲役のモトを取るどころか、ピンクのキャデラックに乗って女優を妾にしようと、密かな努力を続けている懲役なのです。  これはほんの僅かな例で、懲役の没頭することには、呆れてしまうようなのから、なかなか結構なのまで、いろいろとありました。  私は木工場に|落ちて《ヽヽヽ》まず最初、トラックの荷台に家を載せ、デンデン虫のように住まいごと、どこにでも行ってしまおう、という出所後の計画に浸り切り、指物師の忠さんや知識のある懲役におそわりながら、いわゆるキャンピング・カーのようなものばかりではなく、破目板に格子窓で屋根は銅板葺きといった和風のや、塗り壁に両開きの洋窓、屋根にはチムニーの出ているカテジ風のをと、頭の中で素敵に作りあげていました。  そしてそんなある時、木工場の文化部員だった赤軍派兵士城崎勉にすすめられ、所内誌の「富士見」に、随筆や創作を投稿するようになると、こんどはそれがとても面白くなって、工場でリップソーをまわしている時でも、筋や構成を、いつでもあれこれと考えるようになったのです。 「富士見」は四十頁ほどの月刊誌で、創作・随筆・詩・短歌・俳句、それに川柳と部門があって、毎号巻頭に必ず所長や教育部長の、なんとも空しい、|綺麗《きれい》ごとや自己満足で飾られた、誰も読まないような文章が載っている雑誌でした。  だからどの部門でも入選しようとすれば、|官《ヽ》の喜ぶような、更生を誓ったり、犯した罪の恐ろしさにおののいたり、前科まみれの自分の悲しさや哀れな姿を歎いたりといったのを書けば、これはチョロいのですが、それでは目の利く同囚に人間を見られてしまうので、ヒステリックな|官《ヽ》の検閲をギリギリで通るか、検閲する教育課の看守には、なんのことやらシカとは分らないような、けど懲役が読めば膝を叩くといった文章を工夫する、それはとても熱中出来るゲームだったのです。  短歌を詠んでは投稿するのに熱中している懲役の一人が、|プレス《ヽヽヽ》の親方をしているヤクザで、|人相違反《ヽヽヽヽ》と異名を持つ中島健でした。  機嫌よく遊んでいた子供が、通りかかった中島健の顔をチラと見た途端、泣き出して家に向って必死に駆け出した、とか、寄席では、最初に出て来た若い噺家が、お辞儀をして頭をあげ、一番前の席に坐っていた中島健を見たっきり、顔と身体をひきつらせ震わすばかりで、ついに何も喋らずに楽屋に逃げこんでしまい、客たちは中島健の背中しか見えないから、わけが分らないまま大騒ぎになってしまったという話。  まだありますけれどきりがありません。スサマじいのが揃っているこの世界でも、それほど桁違いの|顔相《がんそう》で知られる中島健でしたが、詠む短歌はとても顔からは想像も出来ないようなものばかりだったのです。   手相本 出して我が手を見つつおり 欠点ばかりが集りてあり   夕暮れに一番星を探した日 おさげの君とイガグリの僕  入選した中島健の、こんな短歌を見て、 「人相の本だけは、やめといたがいいや」  と言って笑ったのは、中島健とは仲の良い、短歌仲間の道具係、岩館清蔵でした。   我が父は誰かと問えば犯されて 知らずと母は 哭きつつ云いたり  というスゴイのを詠んだ、過去に二回の殺人前科を持つ懲役です。  どう悩み苦しみもだえたところで、塀の外のことは、まずどうにもならない懲役たちですから、塀の外の心配ごとや、疑いや不安が、頭の中に夕立雲のように湧きあがってしまえば、これはもう脱け出しようもない心配地獄で、苦しみ悩んでもどうにもならないまま狂ったのも、ヤケになって自滅したのも、今までに何人も見ている再犯の懲役たちなのです。  ですから、ほとんどがそんな心配のタネを抱えている懲役たちは、なんとかいつでも、頭の中に夕立雲が湧きあがらないように、他のことでいっぱいにしておこうと、それぞれいろんな哀しい努力を、懸命に続けるわけなのです。 [#改ページ]

  
五人に曳かせたゴムボート 「うちのはね、一八〇センチ七四キロもあったの」  隣の房から聴こえて来た声が、そんな呆れたことを言いました。  話は少しもどりますが、この時私の押し込められていたのは、まだ府中刑務所に送られる前の、葛飾区小菅にある東京拘置所で、ちぢめて東拘と呼ばれている、裁判の間被告が収容される未決監です。  ここでも刑務所と同じように、初めて入れられた初犯者とベテランの再犯者とは棟も舎房も別なのです。再犯の雑居房で私は|年齢《とし》甲斐もなく、ホストをしていたという若い男が、他の恐ろしげな連中の機嫌をとろうと際限もなくやるえげつない話に胸を悪くしてぶん撲ってしまい、懲罰のための取調べということになり、独居房に放り込まれてしまっていたのです。  独居房の通路に面した外の壁に、|取調べ中《ヽヽヽヽ》という木札がかけられ、毎日ほんの二十分ほど、金網で囲った運動場にひとりで入れられて陽に当てられるほかは、一日中独居房でボケッとしているのですが、この看守の暇潰しのような取調べは二週間ほどもかかり、たぶんそのあとから十五日間ほどの|軽塀禁《けいへいきん》という懲罰を喰らうはずでした。  独居房に入れられて、外から看守がガチャリと錠を掛けると、途端に、なんてことをしてしまったのだろう、これから実刑判決を喰らって刑務所に行く身で、その前の拘置所の段階でムカッ腹をたててしまうようではどうなることか、と強烈な自己嫌悪に襲われてしまった私でした。  独居房は幅が私の身長より少し狭く、だから一七〇センチぐらいでしょうか、奥行は三メートルほどの細長い|コンクリ《ヽヽヽヽ》の小箱で、通路側には、上の方に郵便受けぐらいの監視孔、下の方には大きな弁当箱が通るぐらいの、それぞれ蓋のある窓のような切れこみがついています。内側はノブのない、木の上に分厚い鉄板を貼ったドアでした。  両側の壁と高い天井は、コンクリに白いペンキを塗ってあり、床は鈍い茶色の木、突き当りの壁にはガラス窓が腰から上に細長く開いていて、その外側には少し錆びているけれど、しっかりとした鉄格子、窓際には木製の蓋を倒すと机になる洗面台と、腰掛けになる便器が作りつけになっています。  窓際に立った私が中庭をボンヤリ見ていると、右隣の房から、|可成《かなり》年齢のいった声が話しかけて来ました。  退屈はお互いさまなので、相手が塀の中の不文律を守って、神経に障らないような話を続ける限り、これは大歓迎でしたから、一審で五年の求刑があって判決待ちというその声の主に、私も再犯の雑居房でバッチイ若い男に腹を立てさせられてしまったいきさつを、話してやったのです。 「ホストねえ、そんな|生ま狡く《ヽヽヽヽ》てバッチイのが、今の街にはたくさん群れてるけど、再犯房にいるのは皆ある程度年齢のいった人たちだから、そんなのがきっと珍しかったんでしょうね」  と隣の男は上手に相槌を打ったのですが、並んだ独居房の窓越しに相手の顔も見ないで交す会話を、これだけ巧みにやれるのは、それだけで|物相飯《もつそうめし》を数喰らった奴と分るのです。  だいたいこうやっておしゃべりをするだけで、それ自体が|通声《つうせい》という立派な反則なのですから、おぼこい奴だと十日ぐらいの懲罰は、喰らってしまうのでした。  徹底的に、なんでもかでも禁止して自由を奪っておいて、反抗しないのには褒美にほんの少しずつ自由を返してやり、自由自在に懲役をコントロールしようというのです。ふだん、残りの御飯におみおつけをかけたぐらいの飯で飼っておいた犬に、病気になった時、生卵をひとつやると元気になる、そういったのが大昔からの|官《ヽ》のやり口なのです。  煙草なんかもちろんのこと、余った|不味《まず》いパンのかけらを窓から中庭の小鳥たちに投げてやることも、小声で歌を歌うことも、そっと口笛を吹くことも、とにかく端からみんな禁止です。  ですから、刑務所で月に一度かふた月に一度ある映画会で、映画の中で俳優が口笛を吹くシーンがあると、それに合わせて講堂の闇の中から、「ヒューッ、ピーッ、ピーピピピー」と方々で口笛が鳴ります。  ある時、私の隣に坐って唇を尖らせ、短いそのシーンの間、俳優の吹く口笛にまぎれて熱心にやっていた男が、看守に見とがめられなかったかと、暗い中でキョロキョロッとして、見詰めていた隣の私に気がつくと、 「こんな時に試してみないと、吹けなくなっちゃってるかも知れないでしょう」  とちょっと照れ臭そうに、言ったりしたことがありました。  隣の声がどうも妙に甘ったるいと思ったら、どうせいずれ分ることだからと向うから、これが四度目の刑の「上州河童」だと名乗ったのです。  これは、塀の中で語り継がれている伝説的なビッグ・ネームの一人でしたから、私も、 「エエ、ホント。あんたが有名な上州河童」  と声に尊敬を三分と驚きを七分籠めて叫ぶと、隣の上州河童は、とても気分をよくして機嫌のいい声になりました。  五十四歳だか五歳ということなので、いくら構わないからと言われても、とても年長者をそんな風には呼べないから、「上州の……」と呼ぶようにすると私が言うと、 「あら、『上州の……』、粋ねえ、あたいそんな風に呼ばれるの初めてだわあ。あたい、お兄さんのこと、ジョーさんってお呼びしてもかまいませんこと」  と、もうすっかりその道の甘い言葉を、しゃがれた野太い声で喋った上州河童でしたが、この手のホモ、ましてや塀の中で名前の轟きわたっている上州河童ですから、拘置所でもこれから送られる刑務所でも、最初から最後まで独居房に閉じこめられっ放しなのです。  懲役は嘘つきというか、それとも創作力に満ち溢れているとでもいうのか、とにかくなんでも見て来たように、その場に居合わせたように話しまくるので、この上州河童にしたところで、私は漠然とですけれど自分の頭の中で、歌舞伎の女形かそうでもなければ、細身の姿のいいのを思い浮べていました。  それが、運動時間の入替えの時に、隣の房に入って行く初老の男を見ると、粋なんて言葉が目をまわして、ひきつけてしまいそうです。それも仇名の由来でしょう、頭のてっぺんが河童の皿のように禿げ、小柄で太く、縦横がまるでない臼か蚊取線香の豚みたいな体型で、|脛《すね》か|腿《もも》のどちらかをはしょってるんじゃないか、と思われるほどのごく短い足の男だったのには、唖然としてしまいました。  退屈しのぎに無駄話をする時でも、話題や言葉に気を遣うというのが、雑居房や工場での礼儀か心得のようなものでしたから、私と上州河童も、自分の年齢や住んでいるところ、それに前科や今回の刑の予想といった話がひととおりすむと、当り障りのない、今回パクられる前までつきあっていた相手の話になり、私が先に、 「俺のはハタチで、一六五センチもあって、けどスラリと五〇キロ足らずのいい女だったぜえ、ああコン畜生」  と言うと、上州河童は二十四歳だったという相手を、一八〇センチ七四キロもあったのだと言って、私の口をまるく、喉チンコが見えるほど開けさせたのでした。その仰天した私の様子を、当の上州河童は見ることが出来ないというところが、独居房同士の会話の面白いところです。  それから上州河童は、その早稲田で野球の選手をしていたという大男の話をポツリポツリと話しだしたのですが、やはり思い出すのは辛いことなのでしょう、どうにも切なげに聴こえたので話題を変えようとすると、誰か親身になって聴いてくれる者がいたらそっくり話してしまいたかった、聴いて欲しい、暇だったらと言いました。  暇には違いありませんし、話を聴いていれば少なくともその間は、これから拘置所の懲罰を喰らい、法廷で|可成《かなり》長い実刑判決を言い渡されそうで、しかも塀の外の女には愛想をつかされてしまったという、どうしようもなく絶望的な私自身の事態を、忘れていられるというのですから、これは断る手なんかありません。  上州河童はこれまでずっと、地方から東京の大学に入った、わりと裕福な家の若い男を専門に、ひっかけ手なずけ、その道を教え込んでいたと言うのです。  昨今の大学生は男も女も、遊ぶためには恥も外聞もなく、食う寝るがタダになって小遣にもありつけるとなると、自分の下宿を引き払って上州河童の下落合の小ぢんまりした借家に越して来るのもザラで、いつでもそんなのが周囲に十人ほどは、群れていたのだそうです。  趣味と実益を兼ねた、日本中にはまずそう他にはないような|美味《うま》いことをやっていたのだ、と上州河童はその時だけ、それまでの沈み切った様子が、誇らし気になりました。  忙しいのは春先で、この頃になると、それまで上州河童のお相手をしていれば、そこそこ面白おかしく花の東京で遊んでいられた若い男も、めでたくかどうか卒業の運びになって、故郷の親があたりを走り回った結果、信用組合とかトロッコのような電車会社、そうでもなければ自動車販売会社の中古車部あたりといった、一応の格好のつくところへ就職をする、と決っているのだそうです。  上州河童にしても、お相手にするのにはちょうどとうの立ちかけた頃で、昔の殿様なら御寵愛のお小姓を御役御免で元服させてしまうような場面が、自然に始末がついて、しかも|稼業《シノギ》になるのですから、なんとも美味い仕事なのでした。  就職が決ったとなれば、下落合の家に住み込んでいたのも、そうでないのも、いつの間にか下手な忍術つかいのように姿を消してしまうのは、それまでそんな風にしてはいたものの、芯からその道になっていたのではないからで、 「浅ましいというより、むしろ気味の悪さに胸が悪くなって、こんなもん退治しなくちゃ、日本中が、中で卵の腐った冷蔵庫みたいになっちまうって、尚更のことシノギの|脅迫《ハイダシ》にエンジンがかかるんだから、やっぱ、いろいろ|塩梅《あんばい》よく出来てる稼業なのよね」  上州河童がその|生ま狡い《ヽヽヽヽ》小僧たちの故郷の街に、あの身体つきに訪問着や毛皮のコートで、金髪の|鬘《かつら》をかぶって乗り込み、さんざんに親共を恐喝する話は、もうそれだけで、他人事ですから腹のよじれるほどおかしいのですが、別の機会に譲って先を急ぎましょう。  とにかく昭和三十五年頃、日本がメキメキと豊かになった頃から今日まで、他にこれといった仕事はせず、この手口一本でシノイで来たというのですから、当人が自分で言うとおり、たしかにこんな美味い、いい塩梅の稼業なんて、そうそうあるもんではありません。  それでも時には、なりふりも世間体もわきまえない、息子よりは銭の方がずっと大事という冷たいけだもののような親もいるので、上州河童はそんな時、素早くそれを見抜くと深追いせずに、経費損と諦めるというのですが、場合によってはこじれたり失敗することも仕事ですから仕方なく、今回のようにパクられてしまうのだそうです。 「堅気の方たちの税金と、『上州の……』や俺の懲役は同じようなもんだから、求刑の五年はちょっと|高い《ヽヽ》けど、判決で四年にはまかるだろうし、沈んでないで気を取り直せよ」  と私が励ますと、隣の上州河童は驚いたことに、突然声をあげて泣き出しました。  しゃくりあげ、鼻水をすすりあげながら、通路を巡回する看守なんか知らぬ顔で泣きに泣く上州河童に参ってしまった私は、ただ自分の房の中をウロウロとするだけでした。 「ジョーさん、あたい、あたい、シノギにしようとしたけど、あの男のこと、こうなって分るんだけど、本当に愛してしまっていたの、だからドジをやったのよ」  鼻水と涙の中から私がようやく聴き出したのは、そのベスト・ナインにまで選ばれた野球選手も、恩知らずというのか就職が決ると逃げだした一人で、早速上州河童は仕事にかかったのですが、愛が微妙に邪魔になってドジを踏み、五年の求刑という破目になってしまい、そうなってみて初めて、愛の深さと苦しさを、骨身に染みて思い知ったというのです。 「無事に満期で出所したとしても、あたい、その頃はもう赤いチャンチャンコの六十よ」  いつまでも、上州河童の鼻水をすすりあげる音や、聴かされる私までがなんとも悲しくなるような溜息が、隣の房から聴こえ続けたのには参りました。  それから一年とちょっとの月日が流れ、それまで働いていた府中刑務所の木工場でシンナーを吸ったのをとがめられ、懲罰の|揚句《あげく》入れられた独居房でまた隣同士になりました。私と上州河童は、鉄格子に頬を押し付けるようにして再会を喜びあったのですが、すっかり陽気の良くなっていた頃で、頬に当った鉄格子がとても冷たく心地良かったのです。  あれだけ東拘の独居房で、打ちひしがれた様子だった上州河童の、すっかり気を取り直して元気な様子に、けど、一所懸命思い出さないようにしているのではなかろうかと気を遣った私ですが、上州河童の方から、 「心の優しいジョーさん、|貴方《あーた》この道でも、もてるわよお、思い出させちゃ可哀そうだって、あの大男のこと、あたいに訊きもしないんだから……。もう大丈夫よ、もう平気」  図書夫という、刑務所の中で懲役に|官本《ヽヽ》を回覧させる係の懲役がいて、そいつが週に一度、運搬車でゴロゴロと通路をやって来て、独居房の官本を交換してくれるのですが、ある時、上州河童の房に入れてくれた官本の雑誌の中に、中学生の競技会かなんかのグラビアがあったというのです。 「|貴方《あーた》、ジョーさん、あたい、それを見た途端にね、とにかく運動場いっぱいに、脚が長くて素晴しい少年が、見渡すかぎりなのよ。それを見た途端にね、『あー、あたいは知らなかったけど、こんなに次々と、すごいのがたくさん……』って、電気にしびれたようになってしまったの」  女が連れて去ってしまった私の長男も、その頃ちょうど中学に入った頃だったので、再会を喜んでいた私も、それを聴いて大いに慌てました。 「そしてね、薄情だと言われようとなんだろうと、そのグラビアいっぱいの、スクスクとした中学生を見ているうちに、あの|生ま狡い《ヽヽヽヽ》大男のことなんて、煙のようにつむじから脱けちゃったのよ」  嘘つけ、つむじなんかなくて、光ってんじゃないか、と喉のとこまで出かかった半畳を、私は呑み込んだのです。うっかりこんなのを怒らせると、アフリカの草原で黒サイを怒らせてしまったのと同じです。  下に広いグラウンドの見える、府中刑務所の二階の独居房には、昼間は陽がよく当って、まだ春先だというのに、支給された衣類を全部着ていると、日中は汗ばむほどでした。 「ジョーさん聴いて、あたい毎年夏になると、逗子か葉山に大きなゴムボート浮べてね、網に缶ビールを入れて海ん中に吊して、あたいはサンタン・ローション塗って中に寝そべると、連れてった若い男五人ほどに、曳かせたり押されたりして遊んだのよ。出たらやるわよ、もう一度」  葉山なら鈴木のイッちゃんという、素もぐりの名人と仲良しだから、頼んでゴムボートに穴を開けてやれば、これはおかしいなと思って、 「ところで『上州の……』。お前さん泳ぎはどうなんだい」  と、私が聴くと、 「|貴方《あーた》、河童と名が付いて泳げないわけもないでしょうに。なにを寝呆けたこと訊くのよ」  なんにしろ、仲良くしている懲役が元気一杯なのは、結構なことでした。 [#改ページ]

  
モノクロパンダで二年|六月《ろくげつ》  私と隣の房の「上州河童」は、府中刑務所の独居房の窓の鉄格子の間から、すぐ下のグラウンドで懲役たちがやっている、ソフトボールの試合を見ていました。  昭和五十年代も半ばを迎えた年の、自分の体温だけが頼みの綱、目の玉があまりの冷たさに痛み出すというほどの、独居房の厳しい冬がやっと過ぎ、そこだけ土を盛りあげてあるスタンドの芝生が茶色から薄緑に変る頃のことです。  私たちの閉じこめられていた独居房は、二階建ての獄舎のほぼ中程の二階でしたから、野球場でいうと、ライトの守備位置のすぐ後ろの外野席といった感じだったのです。  独居房の中で、毎日糊で指をベタベタニチャニチャ、気持悪くさせながら、商店やデパートの紙袋ばかり貼らされている私と上州河童のような懲役は、毎日こま切れで二十分ほどある運動時間も、一人ずつ別々に、金網で囲った動物園の狭い狸の檻のようなところに移されて、陽に当てられるだけなのですが、雑居房に寝起きして、工場で仕事をしている懲役だと、運動時間には大きなグラウンドで、ソフトボールがやれるのです。  けれど、ソフトボールのやれる広いグラウンドは交替で使うきまりですから、どの工場も週に一度、きっちり一時間ずつしか使えません。  この時、その週に一度の運動時間にソフトボールの試合をやっていたのは、ヤクザやゴロツキばかりを集めた、自動車の電装部品を加工している工場の懲役たちでした。彼等の彫物が妙な柄物のアンダーシャツでも着込んでいるように見えるので、すぐ遠目でも分るのです。  ゴロツキは、他の|堅気の懲役《ヽヽヽヽヽ》と混ぜておくと、たちまち弱い懲役に仕事を押し付けて横着をきめこんだり、たまに夕飯のおかずに出る甘煮豆を巻きあげたり、と悪い性根を発揮してロクなことをしないので、どうせなら皆まとめてしまえ、ということになって同じ工場に押し込めてあるのです。  そんなゴロツキばかりの工場を、なぜか|サムライ工場《ヽヽヽヽヽヽ》なんて呼ぶのですが、いないからいいようなものの、本物のお侍がそばにいたら気を悪くなさるに決っています。  グラウンドの熱戦は投手戦で両軍得点のないまま、三十分ほど過ぎていました。その回は一塁と二塁にランナーが出ていましたが、次のバッターは、高いレフト・フライを打ちあげてしまいました。ツー・ダウンだったのでしょう、定位置にあがったイージー・フライを見た二人のランナーはがっかりした様子でしたけれど、ポロリなんてこともよくある懲役の試合ですから、気を取り直して走り出したのです。  そうしたら、レフトを守っていた渋茶色で細身のオッサンは、滞空時間の長い、高くあがったフライだったからでしょうか、なんとグラブの土手にボールを当てて落してしまったのです。さらに悪いことに運動靴の爪先で蹴とばしてしまったので、ボールはポーンポンポンと、ファール・ラインの方まで転がって行ってしまいました。  どの工場の懲役たちも、懲役とくれば、高校野球にプロ野球、大相撲から正月駅伝まで、賭けられるものにはなんにでも、塀の中の通貨で私物の日用品を賭けるのですが、やはり一番熱と力の入るのは、目の前で仲間の懲役がプレーする、工場のソフトボール試合なのです。もちろん両チームの出場選手自身も目一杯、|張りつけて《ヽヽヽヽヽ》います。  二人のランナーは、オッサンがフライを落したところで、「ヨオーッ」か「ウオーッ」みたいな喚き声をほとばしらせ、三塁のランナーズ・コーチが、極彩色の右腕をグルリグルリとまわすまま、三塁をまわってホーム・ベースを駆けぬけ、一方、打ったバッターは二塁ベースの手前でガクッとスピードは落ちたものの、巡査に追われた時のように、気力をふりしぼって走り続け、三塁ベースに歯から飛びこみました。 「彫物なんか見ないでも、そのプレーを見れば、サムライ工場のゴロツキだってこと、すぐに分るんだわ。ふだん塀の外で何もしていないからのろいのよ、スピードがないのよ、今のなんか他の工場だったらってより、泥棒だったら楽々ランニング・ホームランだわあ」  右隣の窓から、野球が好きで、なぜか|可成《かなり》専門的な観察をする上州河童が、いつものホモ言葉で言いました。  芝生のスタンドでは、見物していた懲役の半分ほどが、きっと攻撃側に私物の日用品を|張りつけて《ヽヽヽヽヽ》いた連中でしょう、ピョンピョン跳ねながら手を叩くやら、万歳をするやらの大喜び、残りの半分ほどはいつもの険悪な顔を一層しかめて、|矢鱈《やたら》と唾をペッペとやっていました。どうしてゴロツキは塀の中でも外でも、あんなに唾を吐くのでしょう。噛み煙草なんかやってもいないのに……。 「あらいやだ、やっぱりそうよ、あの人よお。若い頃はとても威勢がよくて、反則で押し込められた懲罰房でだって|閉口垂《へこた》れずに、壁やドアを蹴とばしてたんだわ、お互いさまでしょうけんど、随分お|年齢《とし》を召したわねえ」  隣の窓から、上州河童の華やいだ声が聴こえました。  あのフライを落して蹴とばしてしまったオッサンと、昭和四十年頃にこの府中刑務所で、現在の私たちのように独居房の隣同士で、一年ほど一緒につとめて、とても仲良くしていたというのです。 「あの人、テキ屋さんだったのね、今では|一家名乗り《ヽヽヽヽヽ》をして親分になったと聴いたけども、まだその頃は喧嘩早いばかりで、太い眉毛がいつでもビクンビクンしているような、そんな若い衆だったのよ、素敵だったわよお。その時二年|六月《ろくげつ》喰らって来ていたのも、その頃|流行《はや》りかけていた、カラー・テレビに喰らわせられちゃったようなもんだったのね」  と、上州河童は話し出し、退屈しきっていた私は、なにやら面白そうな話なので、窓越しに気の入った相槌を打ちました。独居房で紙袋貼りをさせられていると、なにより歓迎だったのは面白い本か、この手の話だったのです。  それに、上州河童の話は、これまでに三回も独居房で懲役をつとめていて、これが四度目の刑だ、というだけあってなかなか要領がよく、表現も適切で分りやすく、あまり訊き返す必要がなかったのはなによりでした。  通路をゴム底の運動靴で音もなくやって来て、いきなり監視孔から房の中を覗きこむ看守を気にしながら、窓越しにやる話ですから、いちいち訊き返すようでは、それこそ話にもなりません。  窓越しに懲役同士が話すのは、|通声《つうせい》という立派な反則で、パクられれば懲罰房に十日ほども放りこまれてしまうのです。  上州河童に言われて思い出したのですが、日本中が東京オリンピックで大騒ぎしていた頃は、それまでの黒白のテレビを、懐の楽な人から順に、カラー・テレビに取りかえていた時分でした。 「兄弟分のとこも、カラー・テレビにしたと聴いたし、こりゃあ、俺んとこもカラーにしなけりゃ、|安目《ヽヽ》だし威勢がワリイ」  とどうもその辺のところは、堅気の方たちには発想の根拠が、余りシカとはお分りにならないか、とも思うのですけれど、とにかくその時、木造アパートの六畳間の長であるテキ屋の兄イはそう思ったというのです  これが|詐話師《ヽヽヽ》と呼ばれる|千三ツ屋《ヽヽヽヽ》、これは昔からの職業分類で、千もする話のうち|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》は三つほど、という連中のことですけれど、そいつらなら月賦の初回だけ払って後はとぼけるとかの|術《て》を使うのでしょうが、テキ屋はそれでもレッキとした露天商という名のゴロツキです。|縁日《タカマチ》の客が兄イの染料で真ッ黄きいに染めたヒヨコをチャンと現金で買ってくれるように、兄イも当然ながらまともにカラー・テレビを買おうとしたらしいのです。これは若いゴロツキとしては偉いことで、そんな性根の兄イだったから親分にもなれたのでしょう。 「俺はその頃、アパートの隣の部屋にいたキャバレーの黒服が買ったカラー・テレビを、『なにか、男を売る稼業の俺に、テーブル乞食の分際で差をつけようって根性か、この野郎』と|文句《イチヤモン》をつけて、部屋にいられねえようにしてやったら、部屋は二間になっちゃうし、カラー・テレビにキャバレーねえちゃんまで付いてきてしまったっけ」  と私が言うと、上州河童の奴、 「そんなこんだから、|貴方《あーた》、親分になれなかったんじゃないの、あの人はフライをとるのも、カラー・テレビを手に入れるのも|下手糞《へたくそ》だったけど、どうやらチャンと親分にはなったわあ」  と腹の立つことを言ってくれたのです。とにかく独居房なので、私と上州河童との間には、法務省の誇る昭和十年製の壁と鉄格子があるのですから、上州河童は平気の平左でした。  ソフトボールでフライを落して蹴とばしてしまったオッサンも、その当時はタカマチで、オス四十円メス六十円の鶏のヒヨコを、 「ハイ、メスは二十円がほど高くても、可愛がるうちすぐ大きくなるのは、娘さん方のおなかと同じ……。そうなれば父ちゃん大好きの生卵を、毎朝、『コケコッコオ』と生むんだよ。英語なら、『コッカドゥルドゥ』、フランスのメン鶏だと『コカドイーユ、ボンジュール』と鳴くんだよ。なんと坊や勉強になりましたよね、父ちゃん朝から元気に生卵で母さんもニッコリとますます美人。家庭円満はお国の宝というヒヨコだよ」  なんて、どうやって染めるかまでは、なんでも聴いて知っている隣の上州河童も言いませんでしたが、ふだんからいくらか黄色のヒヨコを、可愛げに見せようと少し濃く染め、実は全部、選別の時はじかれたオスのヒヨコをタダでもらって来るのですけれど、六十円のメスと称するヒヨコがいくら売れても、その頃のカラー・テレビは大変な値段でしたから、これは高嶺のテレビというわけだったのだそうです。  それに売れただけ全部そっくり、兄イの懐に入るわけではありません。タダでもらって来るのは兄イの親分ですから、その親分に|仕入《トモ》を払い、それに場所代だっているのです。  兄イが言ったか女が申し出たか、どちらが先に口を切ったかまでは上州河童にもさだかではなく、それに女に口を切らせるように仕向けるなんてことも、ゴロツキの芸のうちです。いや、こんなことはどうでもいいのですが、とにかく威勢に悩む兄イのため、カラー・テレビのために、一緒に住んでいた|女《バシタ》は前借かバンスか知りませんけれど、身を沈めたというのです。  そうなれば、現金の臭いを嗅ぐまでは電気耳ほじりだって、たとえあったとしても持って来そうになかった町内の電気屋でも、しめたとばかり……。これは後から法廷で明白になった事実なのだ、と上州河童は傍聴でもしていたように言ったのです。  その町内の電気屋はそれまでさんざん店のウィンドウで|店《たな》ざらしにしてあった、堅気の方に売るのなら、|可成《かなり》値を引かなければならないようなカラー・テレビを、どうせ分るもんか若いゴロツキだと、磨きあげると箱に入れて担いでいったということです。この町内の電気屋のやったことも、事件の隠れた大きな原因なのだと上州河童は、まるで事実審理の時の判事みたいな声で言いました。  いくら男のために場面次第で身を沈めるのが、ゴロツキの女といったところで、たかがカラー・テレビ、されど威勢という名の|見栄《みえ》のために、わが女を沈めてしまったのですから、町内の電気屋が大きなダンボール箱を担いで、アパートの階段を昇って来るのを見た時の、兄イの心の内は想像出来るのです。  堅気の方だったらきっと、|忸怩《じくじ》なんて、クロスワードパズルみたいな思いをなさったところでしょう。  この町内の電気屋にしたところで、これは自動車屋でも家具屋でも皆同じなのですが、無造作にバサリバサリと高価な買物をするゴロツキは、それはそれで結構な客なのですけれど、パリのエルメスやロンドンのダンヒルが、団体旅行の日本の医者や農協とお寺さんを、内心では馬鹿にしているのと同じで、商品に対する知識の欠如や趣味の悪さ、それにそもそもの購入資金の手に入れ方を軽蔑しきっていたのです。  それでも|此度《このたび》の買手は、いくらか色調整が狂っている|塩梅《あんばい》の、青味がいやに勝ったような彫物を、胸もとや二の腕からこれ見よがしにして、|雪駄《せつた》で町内をスタリスタリとしているゴロツキの兄イですから、川越の百姓爺いが町内に囲っているネエちゃんのところに持って行くのとは違います。店ざらしを担ぎ込んで新品の値段を頂くのには、やはりだいぶ緊張していたというのも、これも本当に違いありません。  テキ屋の兄イが、二年六月も喰らってしまった事件の、当事者たちの心理的な背景は、まさにこういった様子であったのだと、上州河童はそれが懲役噺の特徴ですが、その場に居合わせたように、 「前科もんて悲しいのよね、こんなことで三回も刑務所の冬を越さなきゃならなかったのよ。ある冬なんか、可哀そうに風邪から肺炎になって、もうちょっとで名前の変っちまうとこだったんですって」  なんて言ったものです。 「バシタが沈んだか、兄イが浮いたかしらねえけど、とにかく|銭《ぜに》は出来たんだし、店ざらしだろうと、それまではチャンと写っていたテレビなんだから、なかなか二年六月の事件になんかなるまいて。オスのヒヨコを売ってるテキ屋が、その店ざらしをポアロのように見抜いたというんじゃ面白くもなんともねえし、それじゃ第一、お|天道《てんとう》様に申しわけが立たねえ」  私がお天道様なんてアンティックっぽいのを出してクチュクチュ言いたてると、上州河童も、 「それが、なかなか……」  と、まるで時代劇のような返事をしたのが、たまらなくおかしかったのを、今でもまだはっきり覚えています。 「いくら手の早い向う見ずが売物だったあの人だって、ゴロツキのそんなこと、プロレスと同じなんだから……、ククク、あらごめんなさいね」  私が、いいんだ先を続けろと言うと、 「そんな、手柄になって上の人に褒められたり、男のあがるようなことでもないし、当時いくら高かったからっていっても、カラー・テレビを巻きあげたところで、二年六月も喰らっちゃったんじゃあ、とても理屈にならないわよねえ、ククククク」  思い出し笑いをしながら上州河童は、とにかく兄イにとっても電気屋にとっても、運が悪いというのか、|間《マン》が悪いというのか、笑ったりなんかしちゃ気の毒で悪いのだけれど、懲役の話に賞があれば、法務大臣賞でもなんでも、まとめて全部あげてしまいたいほどの話だから、目の前でその当人が、フライを落して蹴とばしちゃったので思い出したからといって|貴方《あーた》、聴いておいた方がいい、というのです。  電気屋がいくら太い奴だったといっても、所詮は堅気の小商人で、担ぎ込んだカラー・テレビを、ダンボール箱から出して六畳間の隅に据えたり、コードをつないだりしながら、やはりいくらかいつもと様子が違ってしまったのだそうです。  ゴロツキは宿屋の番頭と同じで、他人の様子を睨むのも大事な芸ですから、兄イも、なにやらシカとは分らないまま、それでもとにかくこの電気屋の奴、ウロンで怪しいと気付いて、角刈の頭を傾け眉を寄せ、襦袢姿で彫物を見せつけ、電気屋の後ろで腕を組んで仁王立ちだったということで、これでは電気屋はもう、生きた心地もありません。  兄イの様子に震えあがった電気屋ですが、それでも早く据えつけようと焦ってしまったのがまた悪く、その様子を睨んだ兄イのはっきりとしない疑惑は、はっきりしないまま確信に変ったのです。  その頃、昭和三十九年当時は、今と違ってそんな昼時はとくに、たいていの局はモノクロで放送をしていて、カラーでやっている局はNTVぐらいだったのです。  テレビの前にしゃがんだ電気屋は、後ろで仁王立ちしている兄イの、恐ろしげで険悪な様子に、もともとやましいのですから、もうすっかり気も動転してしまって、それでも震える指でアンテナと電源コードをセットし、カタカタカタリとダイヤルを合わせるとスイッチを入れました。  子供に説教する時の牧師のような、気味悪く優しく朗らかなアナウンサーの声が、まずスピーカーから流れ、続いてブラウン管にだんだんと絵が写り始めました。けどなんとそれは、どこか外国の動物園らしいところで、パンダが一匹、檻の中を歩く場面だったのです。  可愛らしい中国産の熊が、グレイの|コンクリ《ヽヽヽヽ》の檻の中を、黒い鉄格子越しにモックリモックリと……。それは可愛らしいパンダだったのですけれど、画面のどこにも赤も黄色もありはしません。  テレビのアナウンサーとはまるで逆の、いがらっぽくすさまじい声が後ろから、 「なんだあ、この野郎、こんなもん……」  と、電気屋の恐怖中枢を直撃したので、電気屋はもう必死でチャンネルをガタガタとまわしたのですけれど、他は全部、黒と白のグレイの画面。  もう場面の変った頃と思って、ダイヤルをひとまわしして逆手になった右手で、だからしゃがんだ身体が傾いてしまった電気屋が、チャンネルをNTVに戻すと、なんとまだパンダ、それが夫婦か兄弟か二匹になっただけ。グレイの檻と黒い鉄格子、そして二匹の愛くるしい黒と白のパンダが、モックリコロコロ、モックリコロコロ。 「この野郎ッ、どうも様子がおかしいと思ったらこの野郎ッ、どうせチンピラだ、何を持ってったって同じだと、電気屋|風情《ふぜい》になめられたんじゃ、こちとらとてもこの道で飯を食ってなんか行けねえやいッ」  声も出ないどころか、歯がガチガチ鳴るだけの電気屋は、傾いたまましゃがんでいた腰を、兄イに一発、後ろから蹴っとばされ、いざって逃げようとするはずみに、テレビの台に尻をぶつけ、あおりを喰ったテレビはパンダと一緒にドジャッと、畳に突っ伏している電気屋の上に横倒しになり、電気屋は尻から下と片手を出したまま下敷きになってしまったのだそうです。  間の悪い時はそんなもんで、ちょうどその時、入口の脇の部屋に住んでいた家主の爺さまが、豪勢なテレビが届いたようだと、ベニヤのドアを開けたのです。すると、当時の重くて立派なテレビの下敷きになって、それでも必死に顔を横に向け、泣き叫ぶ電気屋の顔から、どこにぶつけたのか鼻血が派手に吹き出しているのを、爺さまに見られてしまったのですからたまりません。  堅気の方ならともかく、ゴロツキで前科のある兄イでは、もうこれだけで、所轄の暴力団係の刑事たちに、何を言っても通るわけもなかったのです。 「テレビ局も悪いのよね、その時、色のチャンと付いたのを写していればねえ、よかったのよねえ。大家の口の多い|爺様《サマジイ》に見られちゃって、頭に来てヤケっぱちになったあの人が、それから電気屋の急所を蹴っとばしたの、そしたらその内出血で二カ月の診断書だって」  下のグラウンドでは、そのオッサンが一塁ランナーになっていて、次のバッターの内野ゴロゲッツーを喰らいそうになり、大失敗の後ですから、必死になったオッサンは作業帽を飛ばして懸命に走ると、猛然と二塁ベースにスライディングし、二塁手のグラブを蹴っとばしたのです。  ボールはグラブから跳ね出すと、三遊間が転がって、その果敢なラフ・プレーに、グラウンドとスタンドは喚声と怒号に包まれました。 「あれあの人ったら、何年経っても、いつでもなんか蹴とばしておいでのようよ」 [#改ページ]

  
サムライ工場への|出役《しゆつえき》  木工場でシンナーを吸った罪での懲罰が終ってもそのまま、ずっと「上州河童」の隣の独居房で、ショッピング・バッグを貼らされて、|むされていた《ヽヽヽヽヽヽ》(独居房に入れっぱなしにされること)私ですが、初夏のある日、看守の事務室と溜り場を兼ねている「管区」に引き出されて、 「北部第四工場に|出役《しゆつえき》を命ずる」  と言われたのです。  これは、あのパンダのカラー・テレビ事件で捕まってしまったというテキ屋のオッサンのいる工場でした。  懲らしめられて働かされるのが懲役刑ですから、いいことなんてあるわけもありませんが、刑務所なんて本当に、こうやって書いていても、思い出すだけで気持の悪くなるところで、この北部第四工場に変えられた時のことだって、詳しく書けばこんなことだったのです。  ある日、管区の使い走りをやっているので、「管区ボーイ」なんて懲役に呼ばれている若い看守に連れられて管区に出頭すると、いちばん奥の机に坐っている区長の前に連れて行かれました。看守の奴、雑種のポチが遠吠えするみたいな顔と声で、 「気を付けッ」  なんて、偉いのの前ですから、それが木ッ端役人の牢番がよくやるようなことで、鼻に皺を寄せると天井を睨んで吠えました。  なんとか仮釈放がもらいたいと、内心では思っている私が仕方なく、それまでクタッとした様子だったのを、背を伸ばし両手の先も伸ばして腿に付け、顎を引いて、映画で見た外人部隊のようにしてみせると、 「礼ッ」  なんて調子に乗ってぬかすので、またまた仕方なく、私は頭を下げたのですが、これが常識だとそのあと、間を置かずに「直れ」となるはずなのに、それが刑務所では、そうなかなか塀の外のようにはいかないのです。  下げた頭の、床からの距離が気に入らなかったり、看守に憎まれて狙いをつけられたりしていると、「礼ッ」と言って頭を下げさせたきり、いつまで経っても「直れ」なんて言いません。  頭をいつまでも懲役に下げさせたままなのです。  これはやられてみると分るのですが、頭を下げさせられたままでいる間に、そんな惨めな自分の姿が胸にひしひしと迫って来るのと、血が下って頭に充満して熱くなるのとの相乗作用で、たまらなくなってしまいます。  看守が懲役をやっつけようと思えば、これはもう簡単なことで、管区と限らず塀の中のどこででも、この手を使えば、その懲役を懲罰房にも叩き込めましたし、決りかけた仮釈放を吹っ飛ばすのも自由自在でした。いつまで経っても「直れ」と言わないだけでいいのですから。  どんな我慢でもして、看守や同囚の挑発に乗らず、懲罰も喰らわずに早く塀の外に戻ろう、と心に決めている懲役でも、これをまず三分我慢出来たら、その懲役は足でも耳の裏でも洗えるというような大した懲役です。  三分という時間は、塀の外だとなんてこともない時間ですが、塀やリングや、それになにの中なんかだと、これは大変な長さです。たいていの競馬なら結着の付くほどの時間なのですから……。  お辞儀ひとつにしても、こんな具合なのですから、他にも牢番には有史以来のノウハウが嫌になるほどいろいろとあって、どんな頑張る反抗的な懲役でも、すぐに、輪姦されっ放しの家出娘みたいに、降参させられてしまうというところが、塀の中なのです。  この原稿を書いている私でも、上州河童のことでも書いている間はいいのですが、看守たちのやった、この手の|非道《ひど》いことなどを思い出すと、その途端に脳圧が昇り、一休みしてカセット・デッキにサンバかサルサでも入れなければ、もうどうにもやりきれなくなってしまいます。  こんなふうに、刑期の間中ずっとやられていれば、単細胞の懲役でも、恨みの残らないわけはありません。  街や電車の駅で、陽焼けが沈澱してしまったような色をした、顔の表面がストライキでもやっているように表情の乏しいイカツイ男が、命がけといった大変な勢いで逃げるのを、目付きの異様な、狼かブチハイエナのようなのが追いかけているのを目撃したら、それは、手提金庫を持ち逃げした土方と、飯場側の追手なんてことでは、まずありません。  たまにある、ごく気味の良いことですが、これは、|悪い《ヽヽ》牢番を塀の外でたまたま見付けた前科者の狩猟なのです。  一年ほど前に下高井戸で、府中刑務所の本当に悪い医者が、以前の私の|児分《こぶん》に追いかけられ、オリンピックに出したいほどの速さで、もうそれこそ、なり振り構わず必死に逃げるのを見ました。  こんなことに限って、手を貸してやりたかったのですけれど、悲しいことに、それには私の体重と|年齢《とし》の数字がどちらも、二十ほど超していたのです。  独居房に私物を取りに戻って、窓際の洗面台の、閉じると机になる木の蓋を、歯ブラシやなんかを片付ける振りしてバタバタやったのは、ドアのところに管区ボーイの奴がいたので、大きな声が出せなかったから、隣の上州河童に“窓際に来い”というシグナルだったのですが、隣の上州河童は独居房の主のような懲役ですから、すぐに分って小さな声で、 「工場なの、それともなにか……」  と囁くような声で言って来たのですが、この「工場なの」と言ったのは、“工場に|配役《はいえき》されることになったのか”と訊いたので、「それとも……」と続けたのは、どの懲役でもその悪夢におびえる、塀の外でしでかしてまだばれていないことが、なんとしたことか発覚して「余罪」でも出てしまったのか、という言葉を呑み込んだわけです。  もしそうだったら、慰めようもないことと、口に出すのもためらわれて、言葉の終りを呑み込んでしまった上州河童でしたが、ほとんどが生れ放しのような、粗野な心の懲役の中で過していると、こんなちょっとした気の遣い方でも、それを感じると、この時のようにしびれてしまうのですから、塀の中が非道いのは、飯と牢番のせいばかりでもありません。  検事と判事、それに警察官や刑務官のことばかり、親の仇のように言いたてる私ですけれど、これは天皇陛下の勲章や恩給までもらえる役人と、それに対する前科者という比較の問題で、正直なところは、懲役だってそのほとんどは、人間の言葉を辛うじて喋るだけが、ケダモノとの違いというほどの連中でした。  深い海の底には、珊瑚も天然真珠も見当らず、鬼ヒトデや、紫色の毒液を噴出する|磯巾着《いそぎんちやく》か海ウシのようなのばかりだったのです。  窓越しに聴こえて来た、上州河童の小声に、 「ホクヨン……」  と短く答えた私でしたが、これは北部第四工場というのを縮めた、塀の外ならサンチカ・タウンみたいなもので、だから東部第三工場なら、トーサンといった具合なのです。 「そう、よかったわね」  私が舎房に置くのを許されている僅かばかりの私物を片付けるのを、それがすんだらすぐ配役を命じられたホクヨンに連れて行こうと、ドアのところで待っていたのは、スピッツの|おまじり《ヽヽヽヽ》のような管区ボーイでした。そんな私たちのやりとりが耳に入ったのでしょう、ドアの入口から姿を消すと隣の房の監視孔に飛んで行き、 「コラアッ、何を喋ってんだ、このオカマ爺い」  と怒鳴りつけました。  これで腹を立てた上州河童が、何か言い返したりすれば「担当抗弁」とか「暴言」、それに「指示違反」なんて、塀の外だと交通巡査が得意になってつけるのと同じような、納得のいきかねる罪名で、懲罰房に|吸い込まれ《ヽヽヽヽヽ》てしまいます。  この吸い込まれるというのは|落ちる《ヽヽヽ》よりも新しい言葉ですが、抵抗のしようもないまま、巨大な真空掃除機か大渦巻にでも吸われてしまう懲役の哀しい感じが、なんともいえぬほど出ている言葉なのです。  上州河童の、なにやらボソボソと弁解する声を聴いたのが、上州河童と私との別れの場面になりました。  それから後は、ホクヨンに|落ちた《ヽヽヽ》私が、週に一度の広いグラウンドでの運動時間に、それも晴れの週だけ、独居房の鉄格子の間から、頭のてっぺんを光らせ胸の前で小さく右手を振ってみせる上州河童に向って、看守に見咎められないようソフトボールの進行に合わせ、テキ屋のオッサンと二人で、手を振ってやるだけになったのです。  上州河童が、いつまでも手を振り続けるのには、テキ屋のオッサンも私も、仔犬がいつまでもついて来る時のような、切ない気持にさせられて参ったのですが、いかに心配りの細やかなホモの上州河童にしたところで、独居房はそんなにも孤独だったのでしょう。  北部第四工場のホクヨンは、府中刑務所の構内に二十以上もある工場の中でもホクゴと同規模で、収容している八十人ほどの懲役の、ほとんど全部が、ヤクザやゴロツキの類という特殊な工場でした。  初夏の頃のことですから、自動車の電装部品を加工するこの工場では、電線を巻いたり、コイルの薄い金属板を束ねたりする力仕事の|役席《えきせき》だと、皆丸首姿で自慢の彫物をうごめかせて、作業をしていました。  ヤクザやゴロツキを、他の|堅気の懲役《ヽヽヽヽヽ》と混ぜておくと、ろくなことはないので、|官《ヽ》では何カ所かこのホクヨンのような工場を作って、出来るだけまとめてそこに押し込めてしまうのです。  工場担当はM部長という、看守の古手としては珍しく目の大きな陽性の男で、工場を見渡せるように高く作ってある担当台に、私を呼ぶと、 「見てのとおりだから、顔見知りも多いだろうが、真面目にやって早く出るようにしなさい」  と言ってくれました。看守としてはごく上等な、滅多にはいないタイプで、人生の他の場面で知り合ったら、いい仲で過せたに違いありませんが、これも御縁のものなのでしょう。  この工場に移って、寝起きするところも今までの独居房から、十人一緒の賑やかな雑居房に入れられた私は、工場では毎日スターターのコアにワイヤをはめこむ役席につけられましたが、この役席の「課定」と呼ばれる標準の作業量は、一日に七個と決っていたのです。  長くこの役席で働く慣れた懲役だと、作業量を軽くこなしてしまって、ふたつやみっつは余計に作って貯めておき、たまには息を抜く日も出来るということでしたが、最初は指の先が熱を持って痛くなるばかりで、一日に三個も出来ませんでした。  これは独居房でやらされていた紙袋貼りでも同じことで、最初は方々糊でニチャニチャさせるばかりだったのが、慣れると無器用な私でも、課定はたしか百五十枚ぐらいだったと思いますけれど、そんなものは簡単に出来るようになるのです。  刑務所の工場には、役席と呼ばれるセクションごとに、正式には「指導補助」という、世話をやく班長のような懲役がいて、作業帽に赤い線を一本巻いていたので、普通はアカセンと呼ばれていました。  このアカセンは、工場の中に十人以上もいたのですが、黒い線を作業帽に巻いている懲役は、これはたった一人で、この男は「ブンタイ」と呼ばれる、工場の懲役頭だったのです。  私が配役されたスターターには、六人ほどの懲役が同じ仕事をさせられていて、アカセンをやっていたのは|石さん《ヽヽヽ》という、私と同じ|年齢《とし》頃の山梨県は|鰍沢《かじかざわ》のヤクザでしたが、この男は懲役に来るたびに、運動時間になると、なぜかとても一所懸命バレーボールに精を出すので、皆にいぶかられていました。  それが、これは鰍沢に戻ってから、ママさんバレーの監督をやるためなのだと、ちょっとためらってから、照れ臭そうに口もとを少しすぼめるようにして、そのあまりに真剣なプレーぶりの秘密を打ち明けたのには、さしもの前科者たちも、呆れかえってしまいました。  アメリカの懲役だと、メジャー・リーグのスターになったのも、プロ・ボクサーの大物になったのもいるのですが、日本の場合、スポーツ・ジャーナリズムが発育不全なので、またファンにしたところで似たようなものですから、懲役はやむを得ず自分がスターになるのを断念して、せいぜいこんなところを狙うわけです。  というのは、テレビのニュース解説に似た、いかにももっともらしいうわっつらを撫でたような説明で、|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》は、私と二人きりになった時に石さんの言った、 「皆知らないけどね、臼みたいな小母さんばかりじゃなくて、ピチピチした若奥さんも随分いるんだぜえ」  と言った言葉に集約されていました。  |本当の本当《ヽヽヽヽヽ》というのも塀の中の言葉で、しょっちゅう口から出まかせや、ハッタリばかり言っている懲役ですから、相手にまともに聴いてもらいたい時とか、信じてもらいたいような場面になると、 「これは、|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》なんだ」  なんて真顔で言うわけです。  懲役は、盗っ人でも詐話師でも、懲役をつとめている間に、いろいろと仕事の構想を練ると決っていますが、これはヤクザやゴロツキにしても同じで、堅気を食って生きているのですから、漁場や狙う獲物については、石さんのような奇想天外なのも含めて、あれやこれやと工夫をこらしていたのです。 [#改ページ]

  
プロフェッショナル・トゥール  なんともいえないような、嫌な緑色の制服と戦闘帽、それに自分の顔と同じような兵隊靴を履いた看守が守っている高い塀の刑務所は、どれを見ても同じに見えるのですが、それぞれに専門がありました。  水戸にあるのは、二十六歳以下ばかりの少年刑務所で、栃木のはネエちゃんやオバさんと、それに婆さんも少し混ざった婦人刑務所です。  千葉の市原にあるのは交通刑務所で、車で人を|轢《ひ》いた堅気の方たちばかり。毎日味噌を作らされているのですが、ヤクザや前科者だと、たとえ交通事犯でも、この刑務所には入れてもらえずに、他の普通の刑務所でつとめさせられるのです。  これは、そんな連中を混ぜると、堅気の方たちに悪い知恵を付けたり、近付きになっておいて、出所してから懐を狙ったりと、ろくなことがなかったからでした。  この交通刑務所と同じ考えで、おぼこい初犯だけの刑務所も用意してあって、黒羽刑務所などが、その初犯刑務所でしたし、逆に千葉刑務所は、懲役八年以上の長期刑が専門の、昔風に言えば重罪刑務所ですから、恐ろしそうな無期懲役がゴロゴロしています。  八王子にあるのは、年寄りや重い病気の懲役のための医療刑務所で、死刑囚は絞首台のある小菅の拘置所か、そうでもなければ東北の宮城刑務所です。  この本の舞台の、東京近郊にある府中刑務所は、有名な網走刑務所と同じ、再犯の短期刑務所で、刑期が七年までの懲役慣れしたのばかりが集められていました。  ちなみに、初犯の再犯率は、ほぼ五〇パーセントほどと聴いていますから、一度で懲りてしまうのか、二度と捕まらないように腕をあげるのか、それは分りませんが、ともかく初めて懲役をつとめて出所して行った者の、ほぼ半分ほどは二度と塀の中に戻って来ない、ということなのです。  それにくらべて、なんともお話にもならないほど絶望的なのが、再犯の再犯率で、これは八〇パーセントを超えるというのですから、それまでに寿命の来るのもいるでしょうが、ほぼ必ず、また塀の中に舞い戻るということです。  そんな再犯の懲役を集めてある府中刑務所ですから、|物相飯《もつそうめし》をしっかり喰らいこみ、塀の中を知り尽しているしたたかな懲役が、ほとんどだったのです。  この手の懲役ともなると、冗談なんかではなくて本当に、刑務所のことを別荘かリハビリ・センターと思っていて、それまで塀の外で無理をさせた身体を、規則正しい生活と充分な睡眠時間、それに粗食でゆっくりと整え、そしてその間にこのアカセンの石さんみたいな、出てからの段取りや絵図面まで、やったり描いたりしてしまうのでした。  ゴロツキというのは、暴力や脅しに限らず、場面次第で、堅気の方たちにはとても出来かねる種類の、反社会的というか、いわゆるトッポイことをやってのけられる連中の総称ですから、ヤクザや暴力団ばかりではありません。  北部第四工場のホクヨンには、|官《ヽ》の認定したそんなゴロツキたちが、上野動物園の爬虫類館か、サンシャイン水族館の深海魚たちのように、それはありとあらゆる種類の懲役が群れていて、私ももちろん、そのうちの一匹か一尾でした。  私の|落ちた《ヽヽヽ》、そんなホクヨンで、これは奇怪なことに、|矢鱈《やたら》と英語が|流行《はや》っていたのです。  これは刑務所の懲役に限らず、塀の外の事業所や、あるいは野球のチームといった集団でもよく起る、関東弁の仲間に関西弁が一人混ざると、間もなく皆が、なんとも耳障りで怪しげな関西弁を嬉しそうに喋り出す、というようなことと同じだったのです。  英語なんていうと、聴こえが良すぎるのです。  このホクヨンの懲役たちが、好んで喚いたり呟いたりしていたのは、ほとんどがまともな辞書には載っていないような、随分と汚いスラングでした。  着古し洗いざらして、ヨレッとした丸首シャツの袖やゆるんだ胸もと辺りに、どぎつい色の彫物をむき出しにし、坊主刈のデコボコ頭で、顔にくっきり刃物傷のあるのや指の本数の足りない、目付きの異様な懲役たちが、 「ブーシェッ」「キスマイアス」「サナバビッチ」「ガッデム」「ファッキン」  なんて、蹴つまずいたり、若い看守に|怒鳴《ウナ》りとばされたりすると、ことあるごとに、どこか鼻をうごめかすような、嬉しそうな様子で、呟いたり叫んだりしていました。  それに仮釈放というのも、もうすっかりパロールという英語が定着していたのです。  それにしてもこれは、どう|贔屓《ひいき》目に見ても、|可成《かなり》グロテスクな光景で、アングラ暗黒舞踊団の稽古か、米軍の捕虜になった日本兵の悪夢とでもいった、|傍目《はため》にはこの世のものとも思われない様子でした。  罪を懲らしめるこれまでの応報刑から、法を守ることの大切さを教える教育刑に変ったとかいうことなので、ホクヨンのゴロツキ懲役たちも、なにやら英語のようなものでもついでに教わったのかというと、そうではなかったのです。  前にも述べたように、府中刑務所には百人ほどの色とりどりの肌の色をした外国人懲役がつとめていて、ホクヨンにもいつでも二、三人、日本人のゴロツキ懲役たちと一緒に自動車の電装部品を作っていました。  刑務所のことを|寄せ場《ヽヽヽ》なんていいますけど、これこそまさに本当の寄せ場ということで、世界中からいろんなのが集められていたのです。  珍しいのでは、南アメリカのコロンビアから来た、インディオのチビのチョビ髭とか、西アフリカはシエラ・レオネのマンディンゴ族の男、これは例のジョン・カルボです。それに、どうやって府中刑務所まで来てしまったのか、山奥から来たネパール青年まで、チャンといました。  日本の法に触れて実刑判決を喰らってしまった外国人は、民間人だと皆府中刑務所に集められ、刑をつとめさせられていたのです。  そんな外国人懲役も、日本人懲役とは働かされる工場と灰色の囚人服が同じなだけで、あとは舎房も違えば寝具もスプリングの利いたマットレスですし、食べる物だって断然コストのかかった動物性蛋白質の豊富な外人食でした。  あの屈辱的な、朝夕二度も丸裸にされる裸検身も免除され、髪も日本人懲役のように、問答無用と丸坊主に刈られてしまわなかったのも、もしそんなことをすれば、すぐ大使館に言い付けられて、うっかりすると看守たちや法務省の役人共がいちばん恐れている、恩給や退職金が危うくなるようなことだったからでしょう。  仏教徒で農耕民族がほとんどだからなのでしょうか、塀の中では、去勢でもされたように、|官《ヽ》に対して柔順というより、むしろなぜか仲間のような感情を持って、協力的にさえなってしまうという、ほとんど異常な日本人懲役と比べると、外国もとくに先進国の、外国人懲役のとる態度は、それが世界的にはごく当り前でも、|官《ヽ》には随分と反抗的に感じられたようでした。  外国人懲役は、徒党を組むと厄介だということらしく、|官《ヽ》は苦心して、同国人や同じ言葉を話す者同士が集らないように組合わせ、方々の工場に二、三人ずつ分散して|配役《はいえき》したのです。  その頃ホクヨンに配役されていた外国人懲役のひとりが、マリワナの運び屋をやっていて三年喰らった、ニュージーランド人のチンピラでした。  看守たちが英語をまるで話せないのをいいことに、この白人チンピラはムシャクシャするたびに、なにやら呟いていたのですが、それがどうやら、とてつもなく汚い罵り言葉らしいと知って、日本人のゴロツキ懲役たちは矢鱈と気に入ってしまい、今のような英語ブームになったということでした。  勉強をしなかったから、非常識で何も知らないだけで、懲役も頭の程度は堅気の方たち並みだったのです。  白人チンピラを突ついては、精力的に次々と新しい言葉を、片仮名で書いてはすぐに端から覚えてしまったというのです。  工場の中はもう「牛のウンチ」や「お女郎の息子」どころの騒ぎではなく、「母親とあれをしたケダモン」とか「裏門専門のおしゃぶり野郎」などといった、日本語だったらたちまち血の雨が降るような言葉が、そちこちで盛んに飛び交っていました。  白人チンピラから、言葉の意味を教わるのも、手振り身振りでしたから、|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》は分っていないということもあって、日本人のゴロツキ連中たちは、そんな|非道《ひど》く汚いスラングを嬉しそうに、ケロリとした様子で喚き散らしていたのです。  密かにマスターした、どうやら飛び切りのばっちい奴らしいのを、試しに、いきなり他のアメリカ黒人に言ってみると、案のじょう、眉をしかめて閉口したりするので、そんな時には、それこそ鬼の首どころか、所長の娘を押え込みでもしたみたいに、大喜びしていました。  そんな奇怪な流行の真っ只中の、このホクヨンで働かされている日本人の懲役は、|官《ヽ》認定のゴロツキたちでしたから、新入りが|落ちて《ヽヽヽ》来ても、狭い世界の住人なので、たいてい誰かが見知っていたのです。  それでも時々、誰も見たこともないような新入りも、配役されて来ることがありました。  そんな誰も知らない新入りが|落ちて《ヽヽヽ》来て、あまり自分の素性や|稼業《シノギ》を喋らずに黙っていると、その内にしびれを切らしたのが、一同を代表して人定尋問をやり始め、あれこれとしつこく無遠慮に立入ったことまで訊くと決っていたのです。  黙ってのっそりしている新入りが、どこで何をしているゴロツキなのか知らないということは、これはどうにも落着かないことなのでした。  これまでにさんざん、刑事・検事に同じ目に合わされて来た再犯の懲役ですから、誰がこの尋問役をやっても、それは見事なものでした。  道を誤らずに、法の番をする側に仕事を得ていたとしたら、これは少々面倒だったわいと思うほど、曖昧なところやつじつまの合わないところがあると、鋭く追及して、たちまち|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》を吐き出させてしまうのです。  工場にいた懲役の誰もが何者かを知らず、本人も口数が少なくて自分の殻にこもるようなタイプの懲役は、たいていが仲間を持たずに独りで渡世する、格好よく言えば、一匹狼のような奴だったのです。  私がようやく仕事に慣れ、課定の七個を作れるようになったのは、ホクヨンに|落ちて《ヽヽヽ》から、ひと月ほど経った頃のことでした。  街の荒物屋か本屋の店員とでもいった様子の、なんとも地味な印象の三十男が、新入りで|落ちて《ヽヽヽ》来て、ちょうど空いていた私の隣の|役席《えきせき》に配役されたのです。  この新入りは目付きだって、看守よりずっとまともだったし、これが三度目の刑で、|此度《このたび》は三年だと、私の問いに答える声も、巻舌でもなければ、ハッタリを利かせようなんて気も少しもない、ボソボソした普通の声でした。  彫物もしていなければ、指も全部、先にはちゃんと爪まで全部付いて揃っていたのですから、ホクヨンにはいない種類に見えたのです。 「おかしいな、あんな威勢の悪いもんでは、ゴロツキやってても、子供の十円玉だって、しゃくえもしねえだろうに……。おい、もしかして、|官《ヽ》の忍び込ませたシークレット・サービスじゃねえの。ああ、知らねえのか、英語でスパイのことをそう言うんだな」  なんて聴こえよがしに言うのもいましたが、私のすぐ隣の役席に坐ったその冴えない新入りは、気にもかけない様子で、黙々とスターターを作っていました。  |矢張《やは》り見掛けのまともさは|上辺《うわべ》だけのようで、工場中に群れているゴロツキ懲役に臆した様子もないのは、無神経で気がつかないなんてことではなく、自分もその類であるという証拠でした。  その三十男は無口な奴で、自分からは何も喋らず、隣の私が訊ねるのに、三度の刑はいずれも詐欺だということと、ふけて見えてもまだ二十八歳ということ、それに住んでいたのは東京の北のはずれだということを、ボソボソ答えただけだったのです。  ママさんバレーの監督になって、若奥さんを選り取り見取りという、驚いた大絵図面を描き、気の長い努力を続けていた石さんでしたが、他人のこととなると、矢張りゴロツキも暴力型のヤクザでしたから、そんなやりとりを聴いている間にイライラとしてしまい、 「かったるいっていうんだな、お前さんの話しようは。詐欺っていったって、いろいろあるだろうよ、釣銭詐欺とか結婚詐欺とか手形詐欺とかよ、しみったれた話し方しないで、サッサとサッパり言っちまいなよ。お前さん何がシノギの寄せ場暮しだい。ホクヨンに|落ちる《ヽヽヽ》んならゴロツキだろうぜ。俺は甲州連合、鰍沢一家の若いもんだ」  眉をピクつかせて言ったので、その新入りは、丸いつぶらな小さい目玉を、シバシバッとさせると、 「自分は、自分は竿師……。竿師がシノギの駆け出しもんです」  その返事を聴いた、スターターを作っていた五人ほどが、あまりのことに仰天して、喉チンコを風に当てっ放しにするほど、アングリ口を開けたまま、言葉もすぐには出て来なかったのです。  塀の中で「竿師」というと、物干竿のセールスや釣竿の職人なんかではありません。  自分の松の根っこのようなものを使って、女をメロメロのとりこにすると、貯金から何からそっくり巻きあげ、不動産や貴金属も、あればシメタと売り飛ばしてしまい、けど、それが小僧のスケこましとは違うところで、どんな目に会わせたところで被害者の女の奴、もうしびれっ放しという、ゴロツキの夢かあこがれか、といった稼業人のことでした。  ならず者を|渡世人《とせいにん》というと、聴こえがいいのと同じようなことで、似た稼業でもスケこましというと、どうにも浅ましい印象があるのですが、それが竿師となると大違いなのです。  人並みはずれて立派なダンビラをしごいては、足もとにひれふし、すがりつく女共を片端から、魔法のような腕の冴えと、水際だった男ぶりで……。といったのが、皆の思っている竿師の姿でした。  そもそも竿師というタイトルが、他人の話をしている場面で、いささかの敬意を籠めて、 「あいつはね、なんと竿師なんだぜ」  というふうに使われる言葉で、自分の稼業を問われて、竿師と答えるというのも、これは尊大というか傲慢な、余程その道で聴こえた大物でなければ、まず自分ではしないようなことだったのです。  それにこの新入りには、竿師の男っぽさも溢れる迫力も、まるでどこにも、カケラも名残りも臭いさえなく、男ぶりだって、テレビのお笑いタレントより|非道《ひど》かったのですから、開きっ放しだった口が閉る頃になると、自分たちの抱いていた竿師のイメージを傷つけられた不快さに、皆機嫌を悪くしました。  それが本当は、目くそ鼻くそを笑う、というようなことだとしても、とにかく軽蔑するスケこましなんかとは違って、自分たちのまず遠くおよびそうにもない、暗黒街のスーパー・スターとでもいうのが、竿師だったのです。 「あれえこいつ、見てくれが|堅気《ネス》っぽくて、そこらのポチみてえに見えるのがヤバいとこで、こりゃあとんでもねえとぼけたタマだぜ」  うめくように言った奴に続いて、石さんも、坊主刈の頭の地肌まで赤くして、 「竿師だとお、ふざけんなっていうんだ。おととい風呂ん時に見ちまったけど、あんな、|衣被《きぬかつ》ぎより小さいようなもんで……。なにが竿師だ、ヌケヌケと」  と叫びました。 「呆れた人を食ったゴロツキだぜ。返事を聴くと気が狂っちまうから、もうなんにも訊いてやらねえや」  と床を踏み鳴らして怒ったのだっていましたから、たちまち飛んで来た若い副担に、 「コラア、どこにいるつもりだ、この馬鹿もん。懲役のくせに仕事しねえで|ペラまわし《ヽヽヽヽヽ》やがって、このモタ公」  と怒鳴られてしまったのです。ペラをまわすというのはお喋りをするということです。 「チッ、あんな小芋みたいな道具で、竿師がつとまるんなら、俺なんか電柱師か基礎工事の杭打師だぜ」  と工場中が呆れてしまい、あんな白ばくれたのと口なんか利いてたら、頭がおかしくなって胃袋が壊れちまう、そんな暇があったら、英語だ英語だということになって、それ以来、自称竿師のその懲役は、ただでさえ口数の少ない奴だったので、隣の私以外に話しかけるのもいなくなり、ただ黙々とスターターを作るだけの毎日になりました。  呆れ返って気を悪くしたホクヨンの懲役たちは、そのまま|尋問《ヽヽ》もしなかったのですが、それ以来というもの、誰もが名前を呼ぶ代りに、あざけりを籠めて、 「ヨオ、竿師」  とか、 「竿師の兄貴」  なんて呼んだのですが、呼ばれた方は平ちゃらで、そのたびに、 「なんですかあ」  なんて、少し間延びした返事をするので、呼んだ懲役は尚更、とぼけられ、おちょくられているのではないかと勘ぐって、カリカリしていました。  その年の末には停年という、老平看守がいて、ホクヨンの懲役たちに「鉄つぁん」と呼ばれていました。  この看守も、以前は懲役たちに「鬼鉄」と呼ばれて、怖れられ憎まれた情け容赦のない看守でしたが、その頃はもうすっかり毒気が脱け、穏やかになっていたのです。  たいていの看守が、この鉄つぁんと同じで、停年が近づく頃になると、工場の通路を巡回するような時でも、それまでは目を吊りあげて周囲を睨み据えていたのが、視線がだんだんと自然に下を向き、床を見詰める角度になり、少々の反則は見て見ぬ振りをしてくれるようになるのです。  作業台に据えた金属の枠に、ワイヤをはめ込んでいる私の椅子の後ろに近寄って来た鉄つぁんが、すぐ背中の後ろに立つと、 「オイ安部、こんどのダービーはどの馬とどの馬を買えばいいんだ。競馬がシノギだったんだから、だいたい分るだろ」  と言ったのは、冬の悲しくなるような寒さにくらべれば、それでも生命が危なくないだけましなようなものの、扇風機はおろか冷たい水もない焼けた|コンクリ《ヽヽヽヽ》の塀の中で、考えただけでゲンナリしてしまうただ汗まみれになって耐えるだけの夏が、そばまで来かかっている頃でした。  甲州街道と電車の線路を越したすぐ先に府中競馬場があるので、看守にも競馬をやるのが随分いたようです。  まだ枠順も決っていない頃でしたから、連勝馬券の目は教えられなかったので、私の狙いをつけた馬を一頭だけ教えて、その馬の単勝を二〇パーセントに、複勝を八〇パーセント買うようにすすめてやりました。  出走頭数の多いダービーだし、人気のかぶる馬ではないので、単勝で五百円、複勝で百六十円は必ず配当がつくし、二万円と八万円に分けて張れば、勝てない時でもまず三着ははずさないから、堅く小遣になるのでやってみな、と言ったらその通りになって、配当もそれよりずっとついたのです。  月曜日の朝、鉄つぁんは私の後ろに立つと、 「俺の最後のダービーは、なぜかお前の言う通りに買おうと、そんな考えを起したのが、今から思うと不思議なんだが大成功だった。けど矢張り商売人というのは大したもんだな、塀の中にいて分るんだからなあ。いや、しかし、どうも有難う」  と呟くような小声で言ったのです。  八十人ほどの懲役が働く広い工場には、担当部長と若い副担、それに応援で来ている鉄つぁんの、たった三人しか看守はおりません。  スターターの役席は、作業台が、担当部長の坐っている、高い担当台の正面に向いていたので、距離はだいぶあっても、こういうふうに|ペラをまわす《ヽヽヽヽヽ》となると、それなりの技術は要ったのです。  鉄つぁんも年功を積んだ看守ですから、競馬で儲けたからといって、もちろんはしゃいだりなんかせず、私の背後にたたずんでいるといった自然な様子のまま、表情も唇も動かさずに囁いたのですし、私も鮒か鯉か阪神の二塁手のように、口を丸く開け放し、真剣に作業を続ける懲役といった姿のまま、唇は動かさずに返事を囁き返していたのです。 「礼をしたいから、なんでも言ってみろよ」  と鉄つぁんは言ってくれました。  看守が懲役の予想で馬券を買うなんて、とても信じられないかもしれませんが、私とこの鉄つぁんの仲は、昭和三十二年からの長い歴史があり、この程度の信頼感はあったのです。  礼をしたいと言われたのには、何から何まで禁じられて、原始人のような暮しの懲役の身ですから、これは嬉しかったのですが、さてとなると、チョコレートのカケラも食べたいし、検閲を通さない手紙も出したいし、あれこれ迷うようなことでした。  それに、そんなことを言ってもらった嬉しさに舞いあがりそうな時でも、もし万一の場合、鉄つぁんの退職金や楽しみにしている恩給なんかが、吹っ飛んでしまうようなことは、これは言い出さないのが心得でしたし、そんなことだと、鉄つぁんだって断ったでしょう。長い仲を損じるような場面は嫌なので、なんでもと言われても、おのずから頼めることにも限りがあったのです。 「ウワー、少し時間をくれ」  そう囁いてから、五分ほどしてからでしょうか、あれこれしきりと考えた私は、鉄つぁんに水虫の薬を頼んだのです。  工場でゴム底のズック靴を履かせられるからでしょうか、季節に関係なく年中、非道くなるばかりの水虫に苦しめられる懲役が多かったのです。  非道くなるばかりというのも、薬は差入れも購入も一切出来ない決りになっているからで、私も足の指の間が切られでもしたようにパックリ割れ、痛いも痛いし、足の付け根にある淋巴腺が腫れあがってしまって、ビッコをひくほどでした。  薬がなければ水虫だって、これは大変な病気だったわけで、今思い出しても水虫に限らず、刑務所で病気をした時の、あの切なさと悲しさは、私の筆ではとても書けないようなものでした。  懲役刑という罰には、ただ閉じこめられて働かされ懲らしめられる年月の他に、こんな非道い惨めな付録が付いているのです。  看守も兵隊靴を履きっぱなしの毎日でしたから、水虫は職業病のようなものらしく、それぞれ水虫の薬を持っていたのですが、仲のいい看守がたまたまいたりして、その薬を一度でも振りかけたり付けたりしてもらうと、本当に手品のように、懲役の水虫はしばらくの間|綺麗《きれい》になるのです。  これはふだん薬っけがまるでないから、きっとこんなに利くのでしょう。ジャングルの奥地に住む、病気になってもおまじないが専門の現地人に仁丹を呑ませると、コレラが治ってしまうそうですけれど、塀の中で薬を手に入れることを禁じられている懲役も、この人たちと同じだったのです。  私が、水虫の薬を頼みたいのだがと言うと、鉄つぁんも上機嫌で、 「明日の終業の時に持って来てやるから、他のスターターの奴にも付けさせてやれば、お前もいい顔が出来るだろ。ヨシヨシ」  と言ってくれました。  翌日の夕方、高い担当台の上から担当部長が、 「作業ッ止めいッ」  と叫ぶとそれが終業で、懲役の長い一日が終ったわけです。ホクヨンの懲役たちはそれぞれ自分の役席を片付けたり、工場の隅にある洗い場に行って手足を洗ったりするのでした。  汗の染みたズック靴も、そのままずっと放っておくと、大変な臭いが一日中下からモヤモヤ昇って来るようになって参ってしまいますから、時々は石鹸をつけた|束子《たわし》でこすって洗わなければなりません。  点呼までの二十分ほどの時間を、工場の懲役たちは、そんなことをしたり役席に車座のようになって、雑談をしたりして過すのです。  この時、約束どおり鉄つぁんは、スターターの役席を通りかかって、私の掌の中に、小さな薬の容器を押し込むようにしてくれました。  塀の外の、薬屋で売っている水虫の薬です。 「付け終ったら、また俺に寄こせ。明日また持って来てやるから」  鉄つぁんがそう言ってくれたのは、その水虫の薬を、工場のどこかに隠しておいたりすると、時々不意打のように行なわれる、特別警備隊の工場捜検があったりして、万一見付けられたりすれば、煙草やマッチと同じ禁制品ですから、大騒ぎになる危険も考えられたからでした。  スターターの懲役は、皆水虫でしたから、次々と手早く薬の容器を手渡して、自分の水虫にたっぷり塗り付け、ザマ見やがれと、足の指の間でのたうちまわる水虫を思って、一同とても豊かで満ちたりた表情になったのです。  竿師のアンチャンも、私とは仲良くしていましたから、もちろんその時も薬をまわしてやったのですが、なぜか片足だけ薬をつけると、左足は一瞬考えたようでしたけど、そのまま薬をつけずに、次の懲役にまわしてしまいました。 「今は軽くても、なんかの拍子ですぐ非道くなるから、この機会に左足も薬をつければいいんだぜ」  と私が言ってやると、竿師の奴、とても丁寧に礼を言ってから、何か、左足のはとっておかないと、みたいなことを呟いたようでしたが、ちょうどその時、ひとまわりした薬が私の掌の中に戻って来ました。  少し離れたところに、木彫りのインディアンのように立っていた鉄つぁんの横を通り抜けながら、私は、後ろに組んでいる鉄つぁんの掌の中へ、水虫の薬をそっと落し込むように握らせたのです。 「皆でつけても、三、四日分はあるだろう」  と鉄つぁんは、鉄仮面のように表情を動かさずに、懲役に何か注意を与えている看守のような、そんな様子をしながら言ったのです。  仕事が終って、担当台の前に四列に並んで受ける点呼前のホクヨンでは、方々で、 「お疲れさんでござんした」  なんて言い合う声がしていました。  スターターの役席のあたりには、もう私と竿師しかいなくて、他の連中は薬の礼を私に言うと、それぞれどこかに行ってしまったようでした。 「さっき、なんか、左足のはとっとかないと、みたいなことを言ったようだったけど、なんのことだい」  と私が訊くと竿師は、それを待っていたというように、 「いえね、左足の軽い水虫は、私の……、いってみれば商売道具なんでさあ」  と続きを話したい、訊いてくれと言いたげだったのです。  私はその様子を察したものの、なんだか奇妙な話にとまどっていると、 「この工場の流行ですから、英語で言うと、左足の水虫はプロフェッショナル・トゥールでさあね」  プロフェッショナルというのは、いわゆるプロのってことで、トゥールというのは、 「ホラ、ブリキで出来た両開きの、職工の持つ道具箱のようなのを、ツール・ボックスっていうでしょう。ツールはトゥールで、道具って意味ですから、『商売道具』ってことなんです」  ふだんは無口な竿師なのに、この時に限って、嬉しそうに目尻に皺を寄せて、よく喋ったのです。 「他の人たちと違って、|貴方《あなた》は人の話をまともに聴いてくれるから話すんですけど、聴いてくれますか」  なんでも他人の話はよく聴く、好奇心の|固形《ヽヽ》のような私ですから、そう言った竿師にも快く承知したというわけでした。  二十八歳にしては、どこか精気に乏しいような、稼業は竿師と言った途端に、工場中の懲役に呆れられてしまった、この懲役でしたが、それから点呼で整列するまでの間、驚くような話をいろいろと、とても要領よく私に話して聴かせてくれました。  訊かれたから答えた自分の稼業を、見てくれとか入浴の時に盗み見たモノから、ホクヨンのゴロツキともあろう連中が、まるで信じないどころか、せせら笑って相手にもしてくれない様子なのに、この男は余程、腹の虫が押えかねるような思いでいたらしく、 「再犯のいい|年齢《とし》をしたゴロツキなんですから、なにをなさっているにしろ、それぞれ自分の稼業では、それなりの年季を入れた人たちでしょうのに」  堅気の旦那衆を専門に狙う博奕打ちだって、皆ポッチャリとした丸顔で、花札や麻雀パイをいじる手付にしても、ぎごちないような人ばかりで、東映の映画に出て来るような博奕打ちみたいなのは、一人だっていないでしょう、と言い、それはそのとおりでしたから、私が頷くと、 「泣きバイのテキ屋さんにしろ、年寄り相手の金塊屋にしても、竿師にしたって同じことで、絵に描いたような|それもん《ヽヽヽヽ》だったら、仕事にもなんにもならないでしょうに……」  どんな稼業にしたところで、警戒している相手を油断させてから、とりかかるような仕事をしている人間は、それらしく見せないところが最初の急所だと言って、 「狼だって羊の皮をかぶってなきゃ、いくら|頓馬《とんま》な豚だって、素っ飛んで逃げちまうに決ってまさあ。竿師にしたって、そこらの素人娘や、せいぜいがミニ・クラブのホステスを|コマ《ヽヽ》してるような、学生に毛の生えたようなスケこましじゃなく、タンマリ貯めてるけど、知恵もついてれば苦労だって人並みはずれたほどに重ねて来た、目の肥えてガードの固くなった女たちを扱ってるんですから、絵に描いたみたいなもんじゃ、仕事にかかるきっかけだって無理でさあ」  たしかにそれはそうだろうと頷ける話でした。  |生ま狡い《ヽヽヽヽ》ばっかりのスケこましがコマしているような、ズベ公みたいなホステス姐チャンや女子大生、それにOLとかいう女事務員あたりの懐と、みっちり水商売の年季を積んだ年増とかソープランド連中の貯め込んだ金とでは、たいていの場合、桁がひと桁違うものだそうなのです。  私は、そんな手ごわいのを相手に、毎年、プロ野球の三割打者が稼ぐ位は稼ぎあげている本物の竿師だ、と言って、 「貴方は、|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》だと言ったら、私の言うことを、そっくり聴いてくれる人だけど、他の連中ときたら、まるで団地の小母さんみたいな、なんでも思いこんだらそのままという人たちなのには、こっちの方が呆れちまいまさあ」  と口惜しそうでした。  この男の話によると、その男が狙いを付けるその手の女たちは、再犯の懲役と同じで、知恵もたっぷり付いていれば、苦労した金だからガードだって固くて、そこらの女たらしや芸人なんか、歯も竿もたちもしないのだそうです。  この竿師は、このところソープランド専門にシノイでいたということで、大金を貯めている割に、年齢の若いのが結構なのだ、と言いました。 「本当に誰に聴いたのか、なんで読んだのか、馬鹿なことを思い込んでいる人たちばかりでさ。こういう女を思いどおりにする仕事では、なにの大きさなんて、猫の尻尾の長さと同じことで、なんの役にも立たないのに、それも縮んでいるところを見て大真面目なんですから、もう話をする気にもなりませんや」  私も、それはそうだろうと思ったので、大きく同意の合点をしてやると、竿師の話はますます弾みがついたようでした。  最初は、まず客としてソープランドに行くのが、サラリーマンが家を出て電車に乗るのと同じで、竿師の仕事の第一歩なのだそうです。  個室に入ると、竿師の客が仕事を始めたなんてことは知るよしもないソープランド嬢が、自分の仕事を始めるわけで、|此処《ここ》からがボクシングでいえば、ゴングの鳴ったようなものだということでした。  とにかく、いろんなたとえが豊富に出て来る竿師の話だったのです。  女はシャボンの泡をたてると、自分の身体をスポンジ代りにしたボディー洗いというのを、客の足の爪先からツルツルジョリジョリ始めるのだそうで、この瞬間がボクシングでいうと、機先を制して相手の鼻先をキナ臭くなるほど、ひっぱたいてしまう、左ジャブを打ちこむチャンスなのだ、と言いました。  この一撃がうまく決ると、そのまま一気に、ただの客から惚れた大事な男になってしまうことだってあるそうで、水虫というプロフェッショナル・トゥールとかの出番ということです。 「女が左足を抱えて始めようとした時に、ちょっとうろたえたような声で、『ア、そっちの足はやらないでいいよ。悪いから……』と言いながら、女が持ちあげて抱えている左足を、振りほどくようにしてみせるのです」  けげんな顔で女が、どうしたのかなんて言うに決っていて、その時すかさず、 「ボッとしてて忘れてたんだ、そっちの足は水虫があるんだよ」  とすまなさそうに、眉をしかめて言ってみせると、毎日毎日、金を払った男共に商売とはいえ、さんざんな思いをさせられている女ですから、まず五人に一人ほどは、そんな言葉が|真芯《モロメ》に利いてしまうのだそうです。  ハッタリや嘘っぱちは、たちまち見抜いてしまって、おなかの中でせせら笑うような目の肥えた女たちでも、この水虫を道具に使った、自然な優しい思いやりの左ジャブだと、まず五人に一人は|躱《かわ》し切れずに、それを皮切りに次々と強いパンチを連打され、メロメロになってしまうというのです。  見てくれにしても、真面目にやるけれど不運続きで芽が出ない、といったような、優しい心の持主だけれど、くすぶった様子が堅気の娘さんには気に入ってもらえず、恋人も出来ない独り者だから、月に二度ほど遊びに来るというような役柄がいちばんいい、ということでした。  気前よくチップなんて、やってはいけないことのひとつだそうで、ごく地味な青年で遊び慣れてもいなければ、他に女の影もないというのが、肝心なところらしいのです。  それにしても、最初の水虫パンチの当るのは五人に一人ぐらいのことで、しかも途中で失敗したり邪魔が入ったりせずに、そのまま思いどおりに仕事を進め、そこは話せば一週間もかかってしまうほどのいろんな技術を使って、まんまと根こそぎしぼり取ってしまえるのは、水虫パンチのヒットした中の、そのまた三人に一人ほどの率だそうです。  なんだか分の悪いように思えても、そのくらいのKO率なら充分過ぎるほどだそうで、三年もソープランドの泡にまみれた娘だと、まず三千万円ほどはあるそうですから、年に一人ほどのペースでやっていれば、優雅に暮していけるし、この稼業に限って税金とか上納金なんてどこにも払わないでいいのが気にいっているところです、と言いました。  そんな稼業の大事な道具ですから、うっかり治してしまったりしたら|ダイ大変《ヽヽヽヽ》、自衛隊の戦車から大砲をはずしてしまったようなもので、そうなれば、ただ野原を|矢鱈《やたら》と走りまわるだけになってしまいます。五人に一人どころか、ただただ遊び代を払うだけの客になってしまうということなのだ、と力が入るのを聴きながら、 「どうせシャボンの泡だらけで良く見えないだろうし、見せなくたってすむだろうから、水虫なんて治しちまったって同じだろうじゃないか」  と言うと、聴いた途端に目尻の皺が失くなって、平べったい残忍な地顔を見せてしまった竿師でしたが、 「患ってもいない水虫で、そんな……。それじゃあまるでペテンでしょうに。そんなにコスくて|生ま狡い《ヽヽヽヽ》こと、私は考えたことだってありませんや」  本当に水虫があろうとなかろうと、私には同じこととしか思えないのに、この男にしては珍しく熱くなって、理屈にもならない馬鹿たれたことをむきになって主張し続けたのには、ゴロツキ懲役たちの思い込みと決めつけを、愚かなことと歎き憤った同じ男とも思えず、呆れてしまった私でした。 「いいってことよ、お前さんの稼業なんだから、どうでも好きにおやんなさいな。それにしても、お前さんの左足の水虫連中は、とんだ命拾いってことで、信心か御先祖さまのおかげだろうて。阿呆臭え」  と言ってやると、なぜ、みたいな顔をした竿師が、まだ何か言いかけた時、 「整列ッ」  と副担の叫ぶ声が、ホクヨンの中に響き渡ったのでした。 [#改ページ]

  
ダックスフント、その名はケンジ  刑務所の冬は地獄です。  これまでの長い|無頼《ぶらい》な暮しで、それはさんざんな目に会い続けた私ですが、冬の刑務所ほど|非道《ひど》い辛さは、覚えがないのです。  府中刑務所の舎房には、暖房はおろか火の気もないので、工場で働かされる日はともかく、|免業《ヽヽ》の日曜日や祝日だと一日中閉じ込められたままですから、お陽様まで免業なんてことになれば、懲役たちはもう冷蔵庫の中に入れられてしまったのと同じでした。  舎房の中の熱源は、懲役たちの体温だけという、これは原始の世界だったのです。  三度の飯にしたところで、脂肪や動物性蛋白質の全く乏しいものでしたから、体力も、寒さや風邪に対する抵抗力も、自分自身で感じるほどどんどんと落ちてしまいます。  都心部より摂氏で四度は気温の低い府中で、ホクヨンの懲役たちは長くて辛い冬を、綿がゴロゴロに切れた薄ペラな布団と、日本中を探しても、これよりお粗末なのはまずどこにもないという囚人服、後は自分の体温と生命力を頼りに、しのぎ切ろうというのです。  冬になると、懲役たちの顔は脂っ気が失せ、艶のない青黒い色になり、唇も乾いて黒ずんだ紫色になってしまいます。  鼻水を絶えずすすりあげ、目をシバシバさせ、手の先を伸ばした袖口にしまい、背中を丸めて尖った肩を釣りあげ首筋を風から守るという、女や子供にはとても見せられないのが、冬の懲役たちの惨めな姿でした。  これが塀の外で、なんでも値段の高い物を競い合って身に付け着込んでいた、あの見栄っ張りのゴロツキたちとは、どう見てもとても思えないような、|おこも《ヽヽヽ》さんと変りない哀れな坊主刈姿だったのです。  身から出た錆だ、ザマミロ、と言われても、腹を立ててなんかいられません。  涙が寒さでシャーベットになりそうな冬を、今は必死にしのぎ切ろうとしている懲役たちなので、なりふりや他人の目なんか気にしていられないという、ギリギリの場面でした。  何人か一緒の雑居房は、それでも人いきれで、独りきりの独居房よりはずっと暖かいのですが、これは暖かいというより、いくらか冷たさが違う、というのが正しかったようです。  ああ、食べ物には、確かにカロリーがあるんだな、と体験的に知るのが、こんな独居房に閉じ込められた懲役で、三度の飯を食べ|了《お》えた小一時間ほどは、身体がポワーとぬくもるのです。  免業日には、独居房の中では他に何も出来ませんから、仕方なく本を読むのですが、読み始めてしばらくすると、目の玉が冷えきってしまうのです。  最初は片目ずつつむって温めながら、丹下左膳か伊達政宗の書見のように、片目で膝の上に拡げてある本を睨んで、貧乏ゆすりをしているのですが、そのうち両目共冷たくなり過ぎ、痛くなってしまって、仕方なく両目をつむってしまいます。  監視孔からたまに看守が覗くだけで、誰も見ている人もない塀の中の独居房ですが、もし万一見学かなにかで、その懲役が膝の上に本を拡げたまま頁もめくらず、ジッと両目をつむっている姿を、その本の著者が御覧になったとしたら、これはさぞお喜びになると思います。  極悪非道な、国家と民衆の敵に、こんな感銘を与えているのですから、これは並大抵のことではありません。  けど残念ですが本当のところは、目が片目ずつでも開けてはいられないほど冷え切ってしまったからと、手を袖から出して頁をめくるのが、どうにも冷たくて嫌だったからなのです。  こんな季節になると、独居房では朝起きた時、窓の内側の結露が、氷結していたりします。  昭和十年代までの生れだと、戦後の混乱期の育ちですから、東京以南の出身で子供の頃からぐれてしまったようなゴロツキだと、スキーだって履いたこともないというようなのが多いので、こんな刑務所の寒さは、慣れてなどいるわけもなく、無給で貧乏国の南極探検隊の用心棒にでも、されてしまったようなことだったのです。  塀の外の暮しでは、そんなことまるで気が付かないのですが、アスピリンを呑むとしばらくの間身体が暖かになります。  だから府中刑務所の懲役たちは、夏の頃から、週に一度簡単な薬品をワゴンに載せて、構内を巡回してやって来る衛生夫に、 「風邪気味だあ」  なんて言っては、アスピリンを二包ずつもらって貯め込み、冬に備えるのでした。  足の爪先や背中が、チンチンジリジリとして、どうにも寝つかれないような寒い夜は、懲役たちは、この貯めておいたアスピリンを呑むのです。  胃が荒れる、なんて品のいいことは言ってなんかいられません。とりあえずのピンチは、寒さなのですから……。  その年の、極寒の頃、私の入れられていた雑居房には、随分長い間、私も含めてたった四人しかおりませんでした。  定員は十二名で、ふだんなら十名ほどは入れられている広い雑居房でしたが、ちょうどその頃、出所や反則事故、それに転房する者や、病気になって病舎送りになる奴が続いてしまい、免業日になると、とても寒くガランとしていたのです。  一緒にその雑居房に入れられていた他の三人は、いちばん年輩が、酒を呑んでは大暴れしてしまう酒乱の漁師で、これが四度目の服役という東北生れ、五十歳とはいってもとても頑丈な爺いでした。  酒さえ呑まなければ、今は真面目で稼ぎもいい漁師なのだということですが、若い頃ぐれて組織に入っていたことがあって、それで今もって塀の中に|落ちる《ヽヽヽ》と、ゴロツキの扱いをされてしまうのです。  これは、刑務所に保管してある「身分帳」という前科者の経歴書が、なんでも記入されたら最後、塀の外での変化とか時の移り変りなどと全く無関係に、いつまでも訂正されることなどないという、なんとも恐ろしくも奇怪な記録だからなのでした。  管理する側にとって、塀の中から出て行った時から再び舞い戻って来るまでの間は、存在などしないわけで、公党の領袖になろうが、漁師、財界人に更生をとげようと、無関係なのです。  法を犯して罰を受けるような人間は、何年経とうが変りなんぞするものか、という経験の生んだ確信もあるのでしょう。  四人の中でいちばん若かったのが、まだ二十六歳の半ばだという静岡のテキ屋青年で、子供の頃から施設を転々として、塀の中の暮しをその若さで心得切っている、苦労のほどがしのばれ痛々しく思える時のある若い衆でした。  そしてもう一人は、山チャンという先日四十歳になって、 「アーッ。偉くなった人たちは皆、四十でもう、大したもんになっていたというのによお」  と頭を抱え込んでしまって、テキ屋青年と私に、二日二晩ほども慰められ励まされ、やっと気力を取り戻したという、気はいいけれど出世はあまり順調とはいいかねる、北関東のヤクザ者でした。  減るばかりで、ゴロツキの新入りがなかなか|落ちて《ヽヽヽ》来なかったので、この四人だけの状態が三週間ほど続いたのです。  |胡麻塩《ごましお》頭の赤ら顔で強そうな酒乱の漁師は、|官《ヽ》がどう決めようと堅気でしたから、私も含めた他の三人に対して、立場と身分の違いはあったのですが、私たちが、威張り散らしたり堅気をいじめたりするタイプのゴロツキではなかったので、この酒乱爺いも随分のびのび、|のっそり《ヽヽヽヽ》とやっていました。 「こんな寒い免業日は、シャツの下に敷布でも毛布でも、なんでも当てたり巻いたりしちゃうと過しやすいんだけど、今日の看守は若くて|悪い《ヽヽ》から、そんなことで|摘まれて《ヽヽヽヽ》、この寒さに懲罰房に|吸いこまれ《ヽヽヽヽヽ》たんじゃたまらないでしょう。だから自分は、今日は朝から日刊スポーツを着てるんです。暖かいですよ」  とテキ屋青年が、塀の中の生活技術を話すと、 「紙子っていってね、私の子供の頃は貧乏人が着てましたよ」  この爺いは、よくいる懲役の一つの典型で、ちょっとした物言いにも考えのないところがあって、|角《かど》の立ちかねないことが口から簡単に飛び出して来るのは、無神経なのと、これも自分では気が付いていないでしょうけれど、生れつきの人並み以上の体力に、知らず知らずのうちに頼っていたからなのです。  漁師になったから良かったので、このタイプがゴロツキを続けていると、拳銃を構えて震えているチンピラの前に、 「撃ってみろってんだ、この小僧」  なんて、威勢で脅しあげようとして撃たれてしまったり、無神経な言動を咎められ、再起不能なまでにやっつけられたりしてしまうことがほとんどなのです。  ごく稀に生き残るのがいて、そんな運のいいゴロツキは必ず親分になったのですが、それも昭和三十年代までのことで、この頃ではこの手の生き残りが出世する時代ではなくなったようです。  皆といっても他の三人は、差入れの許されているスポーツ新聞を、いろいろと工夫して、シャツの下に着込んでみました。  一時の冷たさを我慢して、テキ屋青年のすすめたように、スポーツ新聞を着てみると、なるほどだいぶ暖かくなるのは確かでしたが、その日は氷雨まで降って来たので、しばらく経つと|矢張《やは》り嫌になるほどシンシンと冷えて来たのです。  この日のような極寒の免業日には、夕方の六時になると、|仮就寝《ヽヽヽ》といって、布団を敷いて中に入ることが許されるので、昼の頃からそれだけを楽しみに、なかなか経ってくれない時間を耐えていた私たちでした。  広い雑居房の真中に、|膳板《ヽヽ》と称する細長い|卓袱台《ちやぶだい》を出し、あぐらより正座の方がいくらか寒くないので、四人その周りに|お行儀をして《ヽヽヽヽヽヽ》坐り、膳板の上に拡げた本をぼんやり眺めていたのです。  表は氷雨が止み、黒く厚い雲の下を強い風が吹いていました。  四人の中では、ふだん北の海で魚を採っている酒乱が、|年齢《とし》は食っていても、矢張り寒さにはいちばん強いようで、他の三人が鼻水をすすりあげ、目をシバシバさせ、両手も袖の中に引っこめたまま、膳板の上に開いてある本の頁も滅多にはめくらないでいるというのに、この爺いは、時々正座を、 「ヨッコラショ」  なんて言いながら無造作に、あぐらに坐り直してみたり、大判の映画雑誌のグラビア頁を見ていて、 「ホホ、ホウ」  なんていい女がめくれるたびに、|梟《ふくろう》みたいな声をもらしたりしていたのです。 「おいトッツァン。大きな本を威勢よくめくんなさんなよ。風が動いて、風下の俺はたまんねえぜ」  山チャンが顔をしかめて見せると、 「そいじゃあ、こっちへ……」  東北の漁民は、ツイと立つと、テキ屋青年の隣に移りました。  これだとグラビア頁をめくるたびに巻き起す雑居房のブリザードは、ドアの方に吹きつけるだけだったのです。 「静かにめくってくれればね、どうってこたあねえんだよ。わざわざ立たねえでも良かったのに」  そう言いながら、山チャンの瞳が尖った光りようをしているのを見て、この場面でいつものような無神経な口の利きようをこの爺さんがすると、これはヤバイとテキ屋青年は瞬間、場面を読んだのでしょう。 「あれ、これはいい女だ。ジャクリーン・ビセット……。先輩知っとられますかあ」  首を伸ばして爺いの見ているグラビアを覗き込むと、私と山チャンにそう話しかけ、巧みに場面を変えたテキ屋青年でした。  懲役の起す喧嘩や事件は、そのほとんどがほんの些細な、塀の外なら問題にもならないような、言葉の|綾《あや》からだったのです。  それを、 「川向うの火事と、他人の喧嘩は、大きい方が面白い」  とかたずを呑むように、止めもしないどころか、ジャッキを巻いたり、|空気を入れ《ヽヽヽヽヽ》たりする懲役がほとんどでした。  そんな連中に比べて、こうやって未然に防ごうと気をまわすこのテキ屋青年は、もうそれだけで、珍しくいい心根のゴロツキだったのです。 「ああ、オキャンないい女だ。知ってるどころか、銭で願えるとなりゃ、どんな無理でもしてえような女優だな。珍しく毛唐女の大味でけものじみたところがないんだな」  私がテキ屋青年の心遣いに応えて、とりあえずそう言って水を向けると、 「ドレドレ、そんなに言われるほどの玉か」  と山チャンも首を伸ばしたのですが、グラビアを見るなり顔をしかめたので、 「アレ、この手の女は駄目ですか」  テキ屋青年が言うと、 「女はともかくとしてだ、この抱いてる犬っころが大変な|厄《やく》なんだ」  と山チャンは、この時ばかりは寒さを忘れてしまったかのように、力がいやに入ったのですが、その時、 「なんで、このイルカに長い耳の付いたような、可愛い犬が……」  また酒乱の漁師爺いが余計なことを言い出したので、テキ屋青年は|閉口垂《へこた》れたような顔を私に向けて見せ、 「これ胴が長くて足の短い、チョコチョコ走る、たしか、なんとかフンドオっていいましたよねえ」  私の返事を待たないで、 「なんとか分銅だか、竿ばかりだか知らねえけど、俺の出喰わしたこの検事は、とにかく厄なんだ。ヤバいんだ」  山チャンは|可成《かなり》ムキになって、なにやらチンプンカンプンなことを喚くように言ったのには、なんで検事がダックスフントで、厄でヤバいのか、合点のいかない私でしたが、 「いや分銅じゃなくてね山チャン、落着いてくんない、これはダックスフントって種類なんだな。検事とか言ったようだが、何か、猿の惑星みたいに、犬の威張るような、そんなアニメか漫画でもあったのか」  と言って、寒かったけれど右手を袖から出し、山チャンの肩を優しく叩いてやりました。  テキ屋青年も漁師爺いも、ジャクリーン・ビセットの胸に抱かれて、犬っころのくせにいい思いをしている黒い鼻の犬と、同房の仲間、ヤクザの山チャンの|思い出し怒り《ヽヽヽヽヽヽ》で赤黒くなった凶暴な顔とを、けげんな表情で交互に見ていました。 「違う、検事・判事の検事じゃねえんだ。ウーン、話せば長いんだが、かいつまんで言うと、俺が今回パクられた時、一緒だった女の飼ってた犬がこの手の奴で、ケンジって名前だったわけだ」  頷いて見せながら私が、 「それで」  とうながしたので、これだけでは訳の分るわけもないと、山チャンも思ったのでしょう。 「女には、質屋の二代目だったパトロンがいたけど、とにかく親の代からケチな利息を取り続けた禿だから、世話になってはいたものの、腹の底では大嫌いだったわけよ」  と話し出したのです。 「その質屋のデブい身体付きや、なんにでも御大層で嫌味な様子、それに厚ぼったい顔と眼鏡まで、ホラあの、アナウンサーに|くりそ《ヽヽヽ》だったんだが、自分の家で生れて売りそびれた犬を、いきなり恩着せがましく持って来たんで、女の奴、その仔犬にケンジって名前を付け、悪たれを言っては腹いせにしてたというわけだ」  だいぶ屈折した、すっきりしない女のようだと思ったのですが、仮就寝の鐘が鳴るまでのしのぎにはなりそうですし、テキ屋青年も爺さんも、私と同じ思いだったのでしょう。  三人共、コックリをして頷いたり、気の入った相槌を打ったりしたのですから、山チャンだって、そういうふうに聴き手に熱が入ったとなれば、もう途中で半端に止めるわけにはいきません。 「女は二十四で、|覚醒剤《シヤブ》がゴルフや焼肉より好きだった」  と語り出したのです。  山チャンは、この二十四歳で、東京の短大に通っている間に、シャブを覚えたというホステス姐ちゃんと、自分の縄張りの中にある酒場で知り合って、 「それが愛好者同士の、あい呼ぶ魂、とでもいうのかねえ」  山チャンは、そう言って鼻をピクンピクンさせたのですが、言った|台詞《せりふ》が得意でそうなったのか、クシャミが出かかっていたからなのか、はっきりしませんでした。  アナウンサーに|くりそ《ヽヽヽ》のパトロン禿が風邪をこじらせて隣町にある県立病院に入院して、しばらく出て来られないと聴いた山チャンは、それまではヤクザの筋目を通した行儀のよさとかで、いつもモテルで二人きりの|愛好者集会《ヽヽヽヽヽ》をやっていたのに、つい姿勢が崩れ、その女の三階建ての三階にあるマンションの部屋に、たっぷり一グラムほど入った|袋《パケ》を持って、泊り込んでしまったというのです。 「けんどもね、マンションとアパートの違いはエレベーターがあるかないかなんだって、不動産屋に聴いたことがあるから、三階建てならアパートだべえよ」 「うるせえんだよ。黙って聴いてろてんだ。そのうち怪我すんぞ、このボテフリッ」  いくら薄でかい爺いでも、喧嘩になれば負けるわけもないという自信のあった、その頃の私ですから、|怒鳴《ウナ》り飛ばしてやったのです。  私の剣幕に驚いたらしく、すぐ爺いは詫びを言いました。 「そうしたらだ、注射して起きっぱなしだったから、後で警察で聴いたんだけど、三日目の朝だったんだな。誰の|密告《チツクリ》だか知りたくもねえけど、所轄のガサを喰らっちまったっていうんだ」  所轄の刑事は、合鍵を家主に出させると、ドア・チェーンを、ドアの隙間から差し込んだカッターで「ガリッ」と音をさせて切り、 「そのままッ」  と口々に叫びながら、土足で飛び込んで来たのだそうです。  ホステス姐ちゃんで|愛好者《ヽヽヽ》だとはいっても、堅気だからこんなことになったわけで、これがゴロツキだと何がシノギでも、こんな場面に備えて、ドアの鍵は家主には知らせず、さっさと替えておくのが常識です。  それから、先ほど|くりそ《ヽヽヽ》と書いたのは、ゴロツキの隠語でそっくりということです。とかく殺伐でえげつないのが多いゴロツキの隠語ですが、この|くりそ《ヽヽヽ》というのと、臭いや臭みのことを|オイニ《ヽヽヽ》というのとは、なんともいえずユーモラスな響きがありました。 「そりゃあ、チックリを入れたのは、質屋の禿で|鉄板《ヽヽ》でしょうよ」  またまたご説明しますと、鉄板というのはそれほど固く狂いがないということです。  テキ屋青年の呟きを、 「ゴロツキは裁判ごっこはやらねえもんだし、この手のことでは予想も批評もしねえものよ」  私が二十六歳と半分の若さをたしなめると、 「漁師だって、刺身で食うか、それとも猫の缶詰にするかなんて、漁の時には考えもしねえだ」  この巨大なゴカイのような爺いは、いつでも変なところで一言多く、この時もテキ屋青年に向って、意味不明なもっともらしいことを、言ったのでした。  どうもこの爺いは、漁を獲るのにはこれでよくても、酒を呑むのと、それに懲役とには向いていないようでした。  全部で六人の|刑事《デコスケ》が、土足で飛び込んで来た時、山チャンは自慢の彫物だけ、ホステス姐ちゃんは髪にタオルを巻いただけの姿で、掛布団や毛布はベッドの下に落したまま、中にケンジを挟んだ川の字になってウダウダしていたというのです。 「ヤクザはデコスケのドタ靴の音に目をさます、ってな、何やら二人以上の忍び足が聴こえたような気がして、少し前からなんとなく気配を察していた俺だから、カッターが差し込まれた時には、もうベッドの横のテーブルに置いてあった|注射器《カイキ》を、二本まとめて右手に掴むと、左手でサッシの窓を開け、思い切り表にほん投げたよ」  ベランダから横丁を越え、その向うの鉄屑屋まで飛んで行けば、積みあげてある鉄屑の中で粉々になるから、使ったままのカイキでもまず証拠になんかならない、我ながら|流石《さすが》といった場面だったのだ、と言いました。 「それによう、一緒に置いてあったシャブのパケも、そこに持って来る時に、職務質問でも喰らったらつまんねえから、バンソコで腕の力こぶのところに貼って来たんだけど、パケの端を鋏で切って|食ってた《ヽヽヽヽ》んで、まだバンソコがそのまま付いていたのよ。そのままペタンと隠しちまったんだから、|伊達《だて》に二十年もゴロツキやってたわけでもねえさ」  最初の一人が飛び込んで来た時には、話せば長いそんなことを、十秒もかからず全部すませてしまい、煙草をくわえる間まであったんだと、山チャンは得意そうでした。  四十面の係長が|家宅捜査《ガサイレ》の総指揮官で、他は若いのが二人と、三十過ぎのが二人。それにもう一人は、山チャンとは古い顔馴染みの、間もなく停年という万年巡査部長の総勢六人が所轄の丸暴チームだったのだそうです。  羽根の入った大きな枕を身体の凸凹の多い方に押しつけ、身体を前かがみにしている女の鼻先に、係長が令状を拡げて見せたのは、このマンション……。  山チャンは、「このマンション」と言う時、ことさら力を入れて言い、爺いの赤黒い大きな顔を、怖い顔でギーッと睨んだのでした。  このマンションの名義人が、ホステス姐ちゃんだったからです。  係長は寝室の六畳とダイニング・キッチンの間に立つと、早速白い手袋をはめ、忠義のここ掘れワンワンを始めた刑事たちに指示を与え、年寄りの巡査部長は、床に落ちてたごまっている毛布を念入りに探ってから、ベッドの上で|不貞腐《ふてくさ》れている昔馴染みの山チャンに投げてくれたのだそうです。  それからその年寄りの巡査部長は、他の四人を手伝いながら、あちこち位置を変え、そのたびにベッドの上のホステス姐ちゃんの、目の行くところを、|チラテン《ヽヽヽヽ》を切っていたのでした。  チラテンというのは、昔から見張るとか、見張りをするという意味に使われていた、|テン《ヽヽ》を切る、あるいは|シキテン《ヽヽヽヽ》という言葉から、割合と最近出来た派生語で、チラチラと様子をうかがう、という意味です。  ベッドの上で難しい顔をしているのは同じだとしても、山チャンは年季の入ったゴロツキですから、若い刑事に水を汲んで来させたりして慣れたものだったのですが、ホステス姐ちゃんは、おそらくこれが初めてのことなのでしょう。  視線が、刑事の動きによってあちこち動いたり、険しさが変ったりするものですから、年寄りの巡査部長にとっては、釣の|浮子《うき》のようなものだったのです。  二人の間で、自分だけ黒と茶の毛皮を着たまま寝そべっていたケンジは、土足で喚きながら乱入して来た|獰猛《どうもう》な人類に肝を潰したらしく、長い耳をはためかせてベッドの下に逃げ込み、しばらくすると黒い鼻の先だけのぞかせていたのだそうです。 「まだほんの仔犬だったよ」  と山チャンは、話を始めた時の大変な剣幕も、いつのまにかさめたのか、こう言った時には鼻に皺を寄せていたのです。  その当時は、こうやってガサイレをやっても、|証《ブ》拠|品《ツ》が発見出来ないと、まずたいていは警察の空振りということで、そのまま逮捕せずに引き揚げたのですから、今とは随分違いました。  ですから、現場からブツが出るか出ないかが、勝負の分れ目、地獄に落されるか助かるかの境い目だったのです。  本棚の本も、並べてあるだけで読まなかったらしく、頁の上がくっ付いてしまっていて、刑事が頁をめくるたびに、パリ、ピリ、と音がしたそうですが、一冊ずつ丹念に調べられました。  整理箪司の抽出しいっぱいに詰っていた色とりどりの丸くなったショーツも、一枚ずつ拡げられ、二重になっているところは、手袋をはずした指で、押えられたのです。  冷蔵庫も、中に入っていた物は全部、床に拡げた新聞紙の上に取り出され、バターにはナイフが何回も差し込まれたそうですし、製氷皿の中の氷までも、陽に透かされたのだそうです。  山チャンは、 「電話とカセット・デッキなんか、ほとんど分解しちまったし、|襖《ふすま》の金具は取っちゃって中に細い棒を入れて探ってさ、風呂の洗い場の流しの栓まではずして、パイプの中にパケを吊していないか覗いてたぜ」  その徹底した家宅捜査の一部始終を、その場にいた全員の心理描写まで加えながら、延々と続けました。  こんな喋り方をされれば、聴かされている方が参ってしまうものなのですが、この時の三人は、いつまでも熱心に耳をかたむけ、適切な相槌を打ち、目を合わせて頷き、時には感嘆詞を放ちながら、聴き続けたのです。  話が終って、また絶望的なほど、無限に思える時間の中に戻らなければならないのを、話す山チャンも、聴く三人も怖れていたのかもしれません。  時間と寒さだけは、泣き出したくなるほど豊富だったのです。  三時間も経つと、二間に風呂だけの部屋は、もう調べるところもなくなったようでしたが、ついにシャブは出て来ません。 「やってねえわけねえだろう、このシャブ中の色気違い共め」  係長は時間と共に、だんだんと難しい顔になって、何度かこんなことを、そのたびにイライラの度を増しながら、手下の刑事たちに言ったのだそうです。  しかし、刑事たちも床を見詰めながら、白い手袋を引っ張ってはずす奴も出始めるという場面になって、所轄丸暴対愛好者ペアの宝探し試合は、どうやら、珍しくも愛好者ペアの勝と|出そう《ヽヽヽ》になっていました。  丸暴というのは、丸囲いに漢字の暴を書いたところから始った、むしろゴロツキより警察の符丁だったのですが、余りとポピュラーになったからでしょうか、この頃では|丸B《マルビー》なんていっているようです。暴力団・ゴロツキを専門にしている捜査課の刑事集団のことです。  その頃にはバス・ローブを許されていたホステス姐ちゃんでしたが、どうやら周りの様子を見るうちに、初めての試合が勝となったらしいのに気が付いたようで、 「ちょいとッ。あんたとアンタッ。そうよッ、冷蔵庫とお風呂をひっかきまわした、あんたとアンタよッ。さんざん汚い指でいじくりまわしてた物を、また冷蔵庫ん中に突っこんだでしょう。そんなもん汚くて、口に入れられるわけないでしょうに……。どうしてくれんのよッ」  ダイニング・キッチンに突っ立ったままの若い二人の刑事は、女の居丈高な様子を見ると、床に目を落したまま上目遣いに、助けて下さいとでもいうような、被告席の被告とびっくりするほど似た表情で、係長の方をチラチラと見たのだそうです。 「俺、そん時思ったんだが、俺たちゴロツキもデコスケも、似たようなもんだぜえ」  と山チャンが言うと、 「そうですよ、それに兵隊とスポーツ選手なんて、皆チョボチョボの似たようなもんですよ。その証拠に、下手糞な新米役者でも、この四種類なら、まずまずどうにか出来るでしょう。テレビドラマを見るたびに、自分は以前からそう思ってました」  テキ屋青年は、鼻をグズグズいわせながら、目を輝かせて、そんな説を唱えたのです。 「それを言うなら、駆け出しの小娘みたいな女優は、女子大生とパンスケ、それにホステスと女事務員、堅気の娘と女優や芸人と、若い娘の役ならなんだって出来るんだから、全部皆、薄汚ねえ同じ穴のムジナってことだべよ」  酒乱の漁師爺いも、唇の端に唾を溜めて、憎しみの籠った顔を赤黒くして、まくしたてたのです。 「嫌な時代になったぜ、俺たち前科者がくたばっても、世の中悪くなるばかりのような気がすんぜ」  私が柄にもないことを呟くと、山チャンは重苦しくなった舎房の空気を、吹き飛ばそうとするように、突然女の|声色《こわいろ》になって、 「アンタッ、そうよアンタよ。他にいないでしょッ。アンタ、お風呂場の桶に入れてあった、わたしのショーツ、拡げて嗅いだりしてたわねッ。チャンと見てたのよ。あんなことしていいもんなの本当に……。失礼だわよ、なにさホステスだと思って。さ、名前をおっしゃいな、あんたたち。姉の主人の会社の、社長さんの伯父さんて方は、衆議院議員なんですからねッ。これは絶対、問題にしてもらいますからね。なにさッ。ちゃんと皆もと通りにしなさいッ」  山チャンは、そんな場面の女の声色が、間といいイントネーションといい、なんとも絶妙に上手だったので、爺いもテキ屋青年も私も、その時ばかりは寒さも忘れて、 「ゲハハハハハ」 「グググッキャキャキーッ」 「アハハ、アハハ」  と知らぬ間に手を袖から出して、腹を抱えたり、膳板を撫でまわすようにしたり、涙をふいたりしたのでした。  山チャンの語る、ガサイレの場面に戻ります。そろそろフィナーレです。  ベッドの上に膝で立ち、キンキンギリギリウナりまくる女に|閉口垂《へこた》れている若い刑事と係長を見た年寄りの巡査部長は、ベッドのそばまで近寄ると、 「ね、|貴方《あんた》、これも仕事でやったことだから、分ってちょうだいよ。機嫌直してくれれば、こっちから係に口を添えて、貴女の仕事だってやりよくなることもあるだろうし……」  となだめるように言ってから、隣で毛布を腰に巻き、彫物をそびやかすようにしながら目を細め、|矢鱈《やたら》と煙草の煙を天井目掛けて吹きあげている、煙吹き鯨のような山チャンに、 「な、山チャン。堅気じゃない古い|渡世人《とせいにん》なんだから、後で二人きりになったら、この娘さんによっく話して事情を分ってもらってね。それで円くね、なんでも全て円くしておけば、光りも輝きもするものなんだから……。な、分るよな、な」  なにやら、それらしく聴こえるものの意味不明の、なだめるような言葉を、ごく真剣に囁いたのだそうです。これは警察に限らず日本のどの世界でも、年寄りが歳下に向ってよくやる、外国語の同時通訳が頭を抱えるような、昔からの手なのです。 「肝心のシャブのパケは、先輩どこに貼っつけたんです。ベッドだって二人の身体だって、あたられたってじゃないですか」  テキ屋青年が、首を捻りながら訊くのを、手で制しながら、千両役者といった様子の山チャンでした。  三時間も、ベッドの下に独りでいたのですから、心細くなってしまったのでしょう。 「キュー、キュー、キュン」  とごく小さな声で鳴いたケンジですが、その黒い鼻を見た年寄りの巡査部長は、しゃがむと頭を低くして、手を伸ばしたというのです。  犬でも猫でも、人間が顔を低くすると警戒心がとけるようです。  尻尾を一所懸命に振り、耳をはためかせながらベッドの下から出て来たケンジは、覗き込むようにしている、年寄りの巡査部長の顔を目掛けて、長い胴をしならせるようにして近寄ると、頭を優しく何度も撫でてもらったのでした。 「おうおう、可愛いねえ。なんて名前なの、このお嬢ちゃん」  と、まだ険しい顔でいまにもまた喚きたてそうなホステス姐ちゃんの機嫌をとろうと、年寄りの巡査部長は、そんなことを訊いたりしたのですが、 「どこ見てるんだか、男の子ですよこの子は、そんなことだから、こんな見当違いして納税者に大変な迷惑を掛けるんですよ。それにウチの子は|ケンジ《ヽヽヽ》って名前ですから、刑事なんかより偉いんですよッ」  と思いついた悪たれまですぐ口に出して、機嫌なんかちっともよくならなかったのだそうです。  仕方がないので年寄りの巡査部長は、 「そうか、立派な名前なんだねえ。ケンジ、ケンジや」  と頭を撫でながら、二度ケンジと呼んだその途端。  ケンジは、犬が甘えるとよくやるように、クルッとひっくり返ると、桃色のお腹を出して見せたのだ、と山チャンは沈痛な表情で言いました。  小さなオチンチンの先の、まだ毛の生えていない桃色のお腹に、山チャンが咄嗟にギューッと貼り付けた、シャブのパケが……。 「ヤッ、ヤヤヤヤーッ」  係長も年寄りの巡査部長も、そして他の四人も、ニューギニア高地人のコーラスのように、ハモッてしまったというのです。 「参ったね、あの誰にでも甘えちまう、ロクでもない犬っころには」  と山チャンは語り|了《お》えて眉をしかめたのですが、私たちはただもうおかしくてたまらず、涙で顔を光らせながら、苦しくなるまで笑ったのでした。  山チャンも、その愛に飢えていた仔犬を、今では哀れとさえ思っている様子で、そんな私たちを見ても、苦笑いするばかりだったのです。 「そのケンジ、俺たちみたいなことにならないで、どこか暖かいところで可愛がられてるといいな、先輩、|貴方《あなた》もそう思っておいででしょう」  テキ屋青年が言うと、山チャンは照れ臭いのでしょう、顔をあげないまま、コックリコックリして見せたのです。  |炊場《すいじよう》から夕飯を運んで来るトロッコの音が聴こえて来ました。 [#改ページ]

  
学士さまは駅伝ランナー 「なにを勘違いしやがったのか、俺を|ベロン《ヽヽヽ》にしやがって、この小僧ッ。言ってみろ、どういうことなんだ。これは、エエー」  |ベロン《ヽヽヽ》というのは、舐めるとか、馬鹿にしてかかる、といった意味のゴロツキ言葉です。 「どう思ってやがるか知らねえが、何を読ませても同じようなもん、と思われたのか、コケにして|嘲笑《あざわら》ってやるべえ、とでも思いやがったのか。さ、性根を据えて返事しろい」  ドアの上の方に付いている監視孔から、怯えたふたつの目だけのぞかせ、しきりとなにやらボソボソと謝っていたのは図書夫で、雑居房の真中で腕を組み、目を細めて恐ろしげな低い声を出して、さんざんに脅していたのは私でした。  ドアの外の通路を自由にやって来て、雑居房に閉じこめられている懲役たちを、監視孔から覗いているといっても、私に脅しあげられているのですから、もちろんのこと、この図書夫も同じ懲役なのです。  懲役が塀の中でさせられる仕事には、私たちのように工場でこき使われる類のものだけではありません。羨ましくてたまらないようなのから、|配役《はいえき》されなかったのを、前科者の神様に心からお礼を申しあげたくなるほど|非道《ひど》過ぎるものまで、それはいろいろとありました。  奴隷のような……、と言うより、そのものといったほどの暮しでも、とにかく二千人以上の懲役たちが生きている府中刑務所ですから、塀の外の社会と同じように、ありとあらゆる仕事があったわけなのです。 「その仕事は嫌だ」  なんて言ったら最後、その懲役はたちまち「作業拒否」という重い反則で、|軽塀禁《けいへいきん》という罰を言い渡されて、懲罰房に叩き込まれて減食まで喰らい、仮釈放の淡い夢だって消えてしまうのですから、よほどのことでもなければ、懲役たちは逆らわずに、|官《ヽ》の命ずるまま、どんな仕事でもやったのです。  中には随分変った仕事をさせられていた懲役もいました。  腕のいいのが|官《ヽ》に知られてしまった散髪職人くずれの懲役は、構内に設けられている理髪室で、毎日毎日、看守たちの髪ばかり刈らされていました。  残飯を集めて豚を飼わされていた懲役なんかは、嫌な臭いが毛穴を通して、身体は筋肉の裏あたりまで、頭は頭蓋骨の合せ目を抜けて脳味噌の中まで、染み込んでしまったというのですから、これはたまりません。  私に|怒鳴《ウナ》られ、いじめられても逃げるわけにもいかないらしく、ただ困り果てて、|閉口垂《へこた》れていたドン臭い図書夫は、塀の中の本屋兼貸本屋のような仕事をさせられていたのです。  懲役の読める本は、差入れや自費で買う|私本《ヽヽ》と、刑務所が貸してくれる|官本《ヽヽ》との二種類があります。自分の金で本を買いたい懲役は、私本購入を願い出るのですが、この注文をまとめるのも、図書夫の仕事でした。  官本は月に二回、一人三冊までと決められていて、懲役たちが工場で働かされている間に、図書夫がそっくり交換してくれますが、この官本は全ておまかせで、懲役たちが選んだり好みを言ったりすることは出来ないのです。  その他に、|三月《みつき》に一度ほどでしたが、官本の分厚い目録が回って来て、読みたい本がある懲役が願い出ると、一人一冊に限って「|特貸《とくたい》」が許されるのでした。  懲役が特貸を願い出た本が、たまたま貸出中だったりした時は、著者とか本の内容から考えて、出来るだけ似た本を図書夫が選んで、貸出中と書いた伝票を添え、代りの本を舎房に入れておくのです。  ある時、同じ房の懲役が「熱帯魚の飼い方」というのを願い出たのですが、これが貸出中ということで、代りに「川釣り入門」というのが入っていたことがあって、雑居房の懲役は、その脈絡に首を捻ったのですけれど、多分これは口細やタナゴを、自分で釣って飼ってみてはどうだ、ということなのだろうと、その時ばかりは図書夫のセンスを盛んに褒めたのでした。  特貸の代りを探すのも、こんな具合になかなか頭を使うのですけれど、おまかせで定期に交換する官本にしたところで、雑居房だと三十冊ほどですから、本の組合せもいろいろ考えないと、文句も出るし、 「これは、学問のある懲役にさせなくては駄目だ」  と|官《ヽ》は考えたらしく、図書夫は皆、といっても五、六人でしたが、大学出の懲役ばかり選ばれていました。  府中刑務所に|吸い込まれ《ヽヽヽヽヽ》てしまった新入りの懲役は、まず新入り房という雑居房に入れられ、ここでそれからの二週間というもの、テストや体操に駆け足を繰り返しやられて、仕事の適性と|官《ヽ》に対する反抗心の程度を、確かめられ探られるのでした。  十日ほど経った頃、新入りはそれぞれ就きたい仕事を、第一志望、第二志望とふたつまで、|官《ヽ》の配った用紙に書かされます。  これが初犯刑務所の新入りだと、聴き|囓《かじ》りの知識を総動員して、少しでも身体が楽でしかも大きな|物相飯《もつそうめし》の食えるような仕事を、あれこれと一所懸命書くのでしょうが、府中刑務所に|落ちる《ヽヽヽ》ような|懲役太郎《ベテラン》は、こんなのどう書いても|官《ヽ》の都合次第で、まずほとんど無駄と知っていますから、適当に書き、その代りなにも期待なんかしないのです。  それでも、いろいろとたくさんある塀の中の仕事ですから、新入り房の二週間が過ぎ、それぞれに配役が言い渡されると、いい仕事に当った懲役は朗らかになり、逆の立場の懲役はむずかしい顔でムスッとしてしまうほど、仕事によっては、はっきりとした差もあったのです。  配役されるのが、懲役にはごく稀な大学出に限られていた図書夫は、私たちには御縁のない仕事でしたから、いいとか悪いとかいうようなことも、話題にものぼらなかったのですが、これは考えるまでもなく、まず飛び切りいい仕事でした。  冬の冷たい風や外気にさらされることもなく、工場の|往《い》きと|復《かえ》りに毎日二度、そのたびに屈辱にまぶされ直す思いの、裸検身もなかったし、|非道《ひど》い飯を食わされて、毎日重労働を強いられている運搬夫あたりと比べたら、身体なんてきつくないどころか、まるで遊んでいるようなものだったのです。  この時、工場の仕事を|了《お》えて舎房に戻った私のところへ、わざわざ図書夫がやって来たのは、私の願い出た特貸の本があいにく貸出中だったので、代りの本に貸出中と書いた伝票を添えて舎房に入れておいたものの、ゴロツキばかりの工場のことでもあるし、これはお愛想のひとつも言っておいた方が、無難だと思ったからに違いありません。  どんなことにでもイチャモンをつけるのがゴロツキというものだと、日頃から骨身に染みている|堅気の懲役《ヽヽヽヽヽ》ですから、舎房の前まで行って、 「代りの本ですみませんが、面白そうなのを入れておきましたから……」  とそんなことでも言えば、わざわざ図書夫が来て、断りを言うのだから、これは他のゴロツキの手前も、随分と大物風でいい格好だし、見栄っ張りのゴロツキはまず御機嫌のはずだ、|臍《へそ》を曲げられでもしたら、ゴロツキはしつこくてウルサイし、僅かな手間を惜しまずに、まあやっておくのに越したことはないだろうさ、とそんな考えだったのでしょう。  監視孔からゴロツキの巣のような雑居房を覗いて、 「図書夫ですが、安部さんはどなたですかあ」  その声を聴いた途端に、中でもゴツく太く大きな、鼻のひしゃげた中年男が、坐っていたゴロツキたちの中から、のっそり立ちあがって二、三歩ドアに近寄ると、図書夫が用意して来たお愛想を言う間も与えず、低い声だけれど年季の入ったなんとも不気味な脅しを、いきなりぶちまかして来たというのですから、これは図書夫にはなんとも意外な展開だったに違いありません。  一日の仕事を了えて舎房に戻った私が、配られてあった特貸の代りの本を二、三頁ほどめくると、珍しく腹を立て、そんなこととはつゆ知らずにやって来た図書夫を|掴《つか》まえ、さてこれからどう非道い目にあわせるか、というこんな場面でも、誰ひとり止めもなだめもしなかったのです。  ヤクザだ、男|伊達《だて》だ、といくら言ったところで、懲役なんてこんな場面でもおおむね、見物を決めこむような手合がほとんどでした。  思い出しただけで目尻が熱くなり、胸の奥から温かいものが溢れて来るような、男同士の侠気や思いやりなんて、映画や小説の中のようにあるわけはないのです。  とばっちりがかからなければ、喧嘩やスッタモンダはなんでも派手で大きな方が面白く、他人の幸運や幸せはなんとも|妬《ねた》ましいばかりで、余罪の発覚や仮釈放の不調という不運は、顔だけ人並みに曇らせたりしても、心の中では決して悲しんだりなんかしていないというのが、誰がどう言おうと、僅かな例外はいるものの、塀の中の懲役たちのほとんどの本当の姿でした。  |綺麗《きれい》ごとなんて、そんなものいくらでも言えます。  恥ずかしいけれど、私も、その浅ましいほとんどの一人だったのです。  特貸が貸出中で、代りの本を入れておいた図書夫が、わざわざ舎房まで出掛けて来て、お愛想の一言でも言うとなれば、これはあまり聴いたこともないほど丁寧なことでしたから、まず、図書夫の思っていたような場面になるのは、見えていたようなものです。  立ちあがって歩み寄ったゴロツキは、 「安部は俺だが、なんだい」  みたいなことを言うのも、これはまずほとんど|スイチ《ヽヽヽ》でしたし、それを言わせておいて、用意して来たお愛想の一つも言えば、 「ああなんだ、特貸のことか。面白ければなんでもいいんだ。気を遣わせちまったらしいが、有難うさんよ」  ぐらいの話は続いて出るはずでした。  それがそうはならずに、なんとも悪夢のようなわけの分らないことになって、いくら腹を立てて見せるのもゴロツキの芸のうちと知ってはいても、随分本気のように図書夫には思えたのですから、もうただただ目をしばたたかせ、首をすくめるだけだったのです。  |スイチ《ヽヽヽ》というのは、博奕打ちの言葉で、間違いないとか、一点張りで大丈夫といった意味です。  あてがはずれた図書夫には、常識を超えた滅茶苦茶な災難に突然見舞われた困惑と、恐怖の圧迫に、そのわけも訊くことが出来ない不快さとがあったのは察します。  私としても、手前味噌ではなく、ゴロツキとしては並はずれて穏やかな方でしたから、たとえ短い間でも堅気の図書夫を相手に腹を立てるのには、充分と思えるわけがあったのです。  そもそも図書夫には、|官《ヽ》が選んだ懲役のエリートということだけで、政治家や役人と一緒に勲章をもらって嬉しそうにしている芸術家や学究を見た時のような、たまらないほどのおぞましさがありました。  それに加えて、塀の外でまっとうな堅気の方たちと接している時には、そんなことなどまるで感じもしないことですが、ゴロツキや懲役といった、いわば|内輪《うちわ》同士に、大学をチャンと卒業したのがいたりすると、私は自分でも苦笑するほどこだわり、意識し、時には対抗心をあからさまにしてしまうのです。  これは二十二歳で夜学の高校を辛うじて了えた私の、相手には迷惑な、劣等感に基づく八つ当りかヒステリーのようなものと、自分では分っていました。  幸いなことに、ここしばらくは、周囲にこういうアレルギー源のようなのがいないのでいいようなものの、まだこのお話の頃は私も若かったし、ゴロツキでしたし、図書夫は大学出だったのです。  その時、私の願い出た特貸は、T・ウィリアムズの『ガラスの動物園』だったのですが、貸出中のメモと一緒に、代りに舎房に入っていたのはなんと、『猛禽類』というイラストや写真のたくさん入った厚い本でした。  鷹や鷲、|のすり《ヽヽヽ》に|ちょうげんぼう《ヽヽヽヽヽヽヽ》。それに|みみずく《ヽヽヽヽ》と|ふくろう《ヽヽヽヽ》という、険しく余裕のない目をして、鋭い|嘴《くちばし》と脚の爪を持った、肉を食らう鳥たちがいっぱいに、詰っている本だったのです。  これが教育に限らず、なんでも持たない者に潜在する、憧れかひがみのもたらす幻想でしょうか。私は大学出の図書夫たちが単純な知識の欠如で、動物園の代りなら水族館か爬虫類館、どちらもなければなんでも、鳥だろうと魚だろうと、そんな発想から代りの『猛禽類』を選んだということを、図書夫の最後の言葉を聴くまでは、なぜか思い当らなかったのです。  だから図書夫に腹を立てたのも、懲役たちの程度の低さにかまけて、手当り次第のチャランポランな仕事をやっているのだと、思い込んだからでした。  舎房のドアの、上の方に開いている監視孔から、目をのぞかせたきり逃げも出来ず、しきりとヘドモドする図書夫を、私はやっかみと劣等感を一方的に叩きつけ、カナブンを捕まえた猫のようにいびり、いじめまくったのです。 「大学出た学士さまが、似た本を選んだら、どうしてこの鳥づくしになるんでえ」 「それじゃ『フランダースの犬』が貸出中なら、犬づくしか。返事しろ、コラ」 「お前さんたちは、前科者のくせして、|官《ヽ》にくすぐられて楽な配置についたとなりゃあ、すぐその気になって、他の懲役をコケにした半端仕事かい。皆並べてぶちのめしてくれらあ」  この|生ま狡い《ヽヽヽヽ》大学出の前科者が、泣きだすまで痛めあげてやろう、とやっていた私ですが、夕飯を載せた手押車や、食器の音が聴こえ出し、空き腹に煮魚の臭いも染みて来たので、すぐには泣きそうもなさそうだから、今日のところは釈放してやろうかと思い、最後に、 「そんで手前は、どこの大学のなんて科を出たっていうんだ。アン、言ってみろ」  と言ってやったんですが、それを聴くと、監視孔からのぞいていた、それまではシバシバと|閉口垂《へこた》れ切った様子だった図書夫の両目が、驚いたことに輝きをとり戻し、よく訊いて下さったとでも言いたげに、目尻に皺まで刻むと、今までのボソボソと呟くようだった声ではなく、朗らかな張りのある声で、 「ハイッ。自分は体育大学で四年間、駅伝を専門にしておりましたッ」  と答えたのには、私としたことが完全に意表を突かれてしまって、唖然として喉が固まってしまったようになりました。すぐには声帯も働かず、手振りで、もう行け、去ってもいい、とやって見せるのがせいいっぱいだったのです。 「こりゃあなんと、安部チャンの逆転負けだなあ。しかしまあ驚いたぜ、四年間駅伝を専門にしたんだと」  同じ房の、私より三つ歳上のテキ屋が言うと、皆腹を抱えて笑いました。  私は図書夫の返事を聴いた途端、声も出なくなってしまったのは、手抜きやチャランポランで、適当な本を代りに選んだわけではなく、四年間駅伝を専門にやっていたこの図書夫に、私の思い込んでいたような知識なんて、なかったに違いないと知ったからでした。 「まあしかし、呆れたな、俺としたことが、二の句がつげなかったっていうんだから……」  夕飯の準備に、膳板と称する|卓袱台《ちやぶだい》を舎房の中央に並べながら、またひとしきりホクヨンのゴロツキ懲役たちは、笑い合ったのです。 「駅伝だろうと、兎跳びだろうと、とにかく大学を出たんだから、体操の教師か、そうでもなければ、お巡りにでもなれば良かっただろうに、なんでこんな再犯刑務所にまで来るようなことになっちまうのかねえ」 「それも堅気なんだから、俺っちとは違うよなあ。俺なら今頃県警の警部ぐれえにはなってらあ、大学出てれば早いんだ、出世がよ」 「なまじっか走るのが早かったんで、それに溺れちまったんじゃあねえの」 「県警で僅かな給料をもらうより、最高学府で鍛えた足で盗っ人をやれば、一年分が半月で稼げるだろうぜ」 「けんどもさ、いくら他人より断然早い駅伝の足でもよう、盗っ人に自慢の足を使うようじゃ、もうこれは多分駄目だよな。パトカーはエンジン付きだし、刑事は足が遅くっても、インディアンのように待伏せるから」  図書夫をすっかり盗っ人にしてしまったゴロツキ懲役たちは、それぞれいろんなことを口にしては笑うという、賑やかな夕飯になりました。  こうやって他人の話をしていれば、その間は自分のことを考えずにすむのです。  駅伝が専門だったという図書夫も、そいつをいじめて憂さ晴しをしようとして、まんまと失敗した私も、見物兼評論家を決め込んでいた同房のゴロツキ懲役たちも、皆、無惨な身の上は一緒のようでした。 [#改ページ]

  
かくしだまの健チャン 「休憩ッ」  頭が斜めに、右肩の方に倒れたきりになっているので、「ハテナ」という仇名の看守が叫ぶと、それまで切れ目なく響いていた巻線機やハンマーの音が、だんだんに止み、代って工場のそこかしこから、懲役たちの話し声が聴こえ始めました。  それまでの作業時間中は、私語が禁じられ、それに|役席《えきせき》と呼ばれる自分の仕事場からも、看守の許しを得てからでなければ、離れることさえ出来なかった、ホクヨンの懲役たちです。  この午前中に一度ある、十五分の休憩時間は、工場の中なら、どこへ行こうが誰と喋ろうが自由でしたので、ホクヨンのゴロツキ懲役たちは皆、灰色で羽根の抜けた七面鳥のように見えましたが、口々に何か喋りながら、|矢鱈《やたら》と忙しそうに歩きまわったものでした。  作業台の陰で、手から手へ、素早くシャボンやタオルが渡されているのは、マラソンとかアイス・ホッケーの賭金を清算しているのでしょう。  コイル整型の役席に群れている連中が、難しい顔で唾を飛ばしながら、しきりと話し合っているのは、ある一家の跡目相続の予想のようでした。  工場の隅で、二人でおでこを突き合わせるようにして小声で話しているのは、間もなく出所して行く奴に、何か頼みごとをしているのでしょう。  塀の外の工場なら、きっとこんな時は香ばしいお茶が入って一服するのでしょうが、刑務所の工場の休憩時間には、役席を離れられる自由と、喋る自由ぐらいしかなかったのです。  まだ桜の|蕾《つぼみ》も小さく、固く枝に貼り付いている頃でした。季節がじかに身体の上を通り過ぎていくような、塀の中の暮しでしたから、相変らず痛いような冬の風の中に、ほんのたまに角の取れた円い風の混じるのを、懲役たちは感じとって、長かった冬がやっと過ぎて行こうとし、春がもう来かかっているらしいと……目を細める頃だったのです。  その日はいい天気で、中庭の霜柱も黒く崩れ、茶色の枯芝も陽に光っていました。  私は独りで、鉄格子のはまった窓ぎわまで歩いて行き、まだうららとはいえないものの、冬の終りかけている中庭をボケッと眺めていました。  工場の角をまわって、|すずめ《ヽヽヽ》が姿を現し、窓越しに私を、目をこらすようにして認めると、目尻に皺を寄せて微笑んでみせました。  冬なのに麦わら帽をかむり、作業ズボンにゲートルを巻き地下足袋を履いた、土方のようなのが|すずめ《ヽヽヽ》で、少し遅れて|くるみ《ヽヽヽ》と|金魚《ヽヽ》も同じ格好で、その姿には似つかわしくない内股でやって来たのです。  清掃や片付けをさせられている懲役には、塀の外側が専門の「外掃」と、構内を受持たされている「内掃」とがあって、外掃には逃げ出しそうもないのが選ばれていましたし、内掃には「第一内掃」と「第二内掃」の二種類がありました。  その時、工場の角をまわって、私の目の前の中庭に現れたのは、第二内掃の懲役たちだったのです。  第一内掃も第二内掃も、させられる作業は同じで、夏は構内の草むしりばかりさせられていましたから、ひと夏越した懲役だと、顔の色が茶渋で染めたようになって、そのまま冬になっても|褪《あ》せもせず、さらにもうひと夏を過すと、もうこれは|身欠《みがき》にしんか着古した皮ジャンパーみたいな、日本人離れのした様子になってしまいます。 「ウヘ、|金魚《ヽヽ》ちゃん。エキゾティックだぜ」  隣の窓から、若いテキ屋が、自分の頬をつまんで引っ張り、近付いて来た細身で背の高い|金魚《ヽヽ》をからかうと、 「そうでしょ、エキゾティックでしょ。|金魚《ヽヽ》ね、ファウンデーションを思い切って濃いのにしてみたのよ」  まだ夏を越していない懲役は、どうやらまともな顔の色でしたが、この連中はスコップや熊手、それに大きなふるいといった道具を積んだ、リヤカーのような車を曳いたり押したりしながら、古株連中の後からやって来ました。 「|先生《せんせ》ッ、今日のお仕事は、ここの花壇でしたわねッ」  縦横がなく、首がなくて肩にじかに顔の載っているような|くるみ《ヽヽヽ》が、|非道《ひど》いだみ声で叫びました。  このどうにもきてれつな、塀の中でもとりわけ奇怪な懲役たちはそれもそのはずで、この第二内掃には|おねえ《ヽヽヽ》と呼ばれる、女役専門のホモばかりが集められていたのです。  このおねえたちは、他の懲役と混ぜておくと、とかく騒ぎの種でしたから、どうせなら同じのばかりまとめてしまえという、ヤクザ・ゴロツキの類をホクヨンに集めたのと似た発想なのでしょう。  中庭にやって来た第二内掃の小母さんたちを見ると、休憩時間だったホクヨンのゴロツキ連中は、「退屈しのぎござんなれ」とばかりに、大喜びで窓ぎわに集り、 「ヨオッ、|すずめ《ヽヽヽ》ちゃん。|綺麗《きれい》だねえ」  なんて小声で言ったのですが、後五分ほどで休憩時間も終るし、控え目なホクヨンの懲役たちの様子を見て、工場に三人いた看守も知らぬ顔をしていてくれました。  先頭を切ってやって来た、私と顔見知りの|すずめ《ヽヽヽ》は、浅草・上野で|稼《シノ》いでいる五十歳にはとうになっているはずの、夏みかんのような分厚い顔に、タラコのような唇と福笑いのような鼻をつけ、それとはアンバランスな、ハムスターのような小さく黒い目を光らせ、しかも火事場の海坊主のように眉がないという、とりわけスサマジイ婆さまでした。  しかし、人は見掛けによらぬものというのか、神様の御配慮を讃えるべきなのか、この|すずめ《ヽヽヽ》ちゃん、びっくりするほど歌が|上手《うま》くて、目を固くつむって声だけ聴いていれば、これはもう間違いなくプロも随分上等な方ほどのことはあったのです。  年に一度の懲役の喉自慢大会で、第二内掃の代表でこの|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんが、のっしのっしと内股で会場の講堂に現れると、他の工場の代表たちは顔を露骨にしかめて、 「チョッ、今年も|すずめ《ヽヽヽ》の奴いやがったぜ」  と不運を嘆き、そして|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんの方は、審査委員の本職の歌手に褒められ驚かれて、顔を赤黒くして嬉しそうやら恥ずかしそうやら、この時ばかりは血を昇らせた顔がとても可愛らしかったのですけれど、問題なく優勝してしまって、他の代表たちをゲンナリさせたのでした。  |すずめ《ヽヽヽ》ちゃんは、ラジオ時代なら、日本で五本の指に入るほどの歌い手になって、必ずピンクのキャデラックに乗っていたに違いありません。  その|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんが、ホクヨンの窓に向って、 「ヤン、ヤン、ヤーン、ホクヨンのお兄さま、見ないでちょうだいな、後生だから、|すずめ《ヽヽヽ》のこんな、こんな惨めで可哀そうな姿を……」  折りようも、捻りようもないような身体を、それでも芋虫が直立したようにすると、グネグネグネッとさせたのですが、付いて来た第二内掃の担当看守は、こんなことは毎度のことなのでしょう、 「コラ、|すずめ《ヽヽヽ》、仕事をしろ」  と尻をパンと叩くぐらいのことでした。  毎日退屈をもて余している懲役ですから、こんなグロな寸劇でも、ホクヨンの連中は窓にひしめくように集って、大喜びだったのです。  独居房に閉じこめられ放しの、有名なあの上州河童は、だいぶ以前この第二内掃に|配役《はいえき》されたのだそうですが、なんとも器用なことに、突如として男に戻ってしまって、府中刑務所がひっくりかえるほどの騒ぎを起してしまったことがあったそうです。それがしっかり身分帳という、前科者の経歴書のようなファイルに記載されていますから、もう二度と金輪際、いくら「今ではすっかり女です」と言っても駄目なのだそうです。  それはさておき——。  その時、中庭にやって来たおねえの中には、新宿の古い|街娼《たちんぼ》で、女じゃないのに気がついて|仰天《ぎようてん》し、ガタガタバタバタした私立大学空手部の大男を、逆に一発のロー・ブローで鮮やかにナック・アウトしたので有名なプラチナ・ブロンドのビッキーとか、商売仇の意地の悪いのに、「忙しい?」と訊かれ、 「エ、おかげさまで、おならする暇もないほどよ」  と答えたので、伝統のおねえになった土橋のべべなんて有名なのも混ざっていました。  とにかく、|睫毛《まつげ》のとれた素顔の、しかも麦わら帽に地下足袋の姿から、塀の外の|艶《あ》で姿を識別するのですから、これはもうジグソー・パズルよりずっと難しかったのです。  私は、車を曳かされていた新米の中に、思い出せないけれど、とにかく思い掛けない意外な顔を見たように思って、 「誰だっけ、どこで知ってるんだっけ」  と懸命に記憶を逆にたどりながら、目をこらしたのです。  刑務所では、よく似たようなことがあって、どうにも思い出せない禿頭から親しそうに会釈をされて、どこかに面影を見た気がして考えると、二十五年も前に、鑑別所で一緒の房にいた少年の、くすぶり果てた姿だったりするのです。これは塀の外では付けていた鬘が許されず、取りあげられてしまうことや、生やしていたひげも剃られてしまうということもあるからでしょう。  長年一緒に暮している家の猫でも、ひげを抜かれて毛を剃られたのでは、どれも同じで、なかなか見分けがつかないだろうと思うのですが、どうもそれと同じことのようです。  私は、遠視で右の目は二・〇という、遠目の|利《き》く自慢の目で、その車を曳かされていた懲役の顔をよっく睨むと、唇の斜め下の顎に、一円玉ほどの、シミのように薄く色の変ったところがありました。  いくら記憶を逆にたどっても、なかなか思い出せなかったのも道理で、その懲役は、なんと小学校の五年と六年の二年間同級だった健チャンだったのです。  工場の中にいる私たちと、陽の当った明るい中庭にいる彼とですから、余程しっかり、|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんのように見詰めなければ、チラッとではなかなか見分けがつきません。もちろん健チャンは、私には少しも気付いた様子もなく、車からスコップや道具を降ろしたりしていました。  小学校は飯倉片町の、今は首都高速の下にうずくまっているような麻布小学校でしたが、私と同級生だった頃の健チャンは、少しか細かったけど普通の子で、というよりむしろ近所にある、本村・南山・|笄《こうがい》・城南といった他の小学校にも、名前の轟いていた有名な奴だったのです。  敗戦直後の芋ばかり食べていたその頃は、今のようにサッカーやカンフーではなく、小学生が熱中していたのは野球でした。  これが人並み以上でなければ、いくら勉強が出来ても級長にはなれなかったというほど、野球に明け、野球に暮れた時代だったのです。  放課後は狭い校庭で暗くなるまでやり、学校が休みだったり日曜日には、竹の棒に巻いたバック・ネットを担いで、六本木から歩いて神宮外苑に行き、当時のことですからロクにお昼も食べずに、一日中野球をしていました。  ギッチョの子の憧れは、慶応の|平古場《ひらこば》か、赤バットの川上、それに青バットの大下で、右利きの私の憧れは、ゴルフ・スイングの小鶴と物干竿といわれた長いバットを振り抜く藤村でした。  健チャンは、先生の配る調査の紙の、父親の欄がいつでもブランクになっていた子でしたが、卒業の頃になって私にだけ、 「父ちゃんは、チャンと家の二階にいるんだけど、戦争中に特高ってのをやってたんで、仕返しをされるといけないから、籍もぬいて隠れてるんだ。徳球に知られるとアウトだから絶対内緒にしておいてね。俺、テテなし子じゃないんだ」  と囁いたのですから、昭和二十三、四年のその頃が、今では大昔のように思えます。  その頃は、岡晴夫の大ヒット「憧れのハワイ航路」だって、プロペラの飛行機どころか、汽船だったのですから……。  戦争中からずっと手も入れてない、はげちょろけのアスファルトの狭い校庭で、私たちは大人と同じサイズの軟式の健康ボールを小さな手で握って、折ってしまったら替りのない一本だけのバットの焼印を慎重に上向きに合わせ、毎日毎日、試合をしていました。  まだテレビのない時代ですから、後楽園や神宮に行っては、どんな大差のゲームでも、便所にも行かない勢いで、試合の前の練習からゲーム・セットまで見詰め続け、目蓋に刻むように覚えて来たフォームを、 「青田はね、こう引っ張ると右手を離してね」  と青田昇の、イン・コースの球を巻き込むように振り飛ばすバッティング・フォームをやって見せたり、セット・ポジションで、ボールを握った右手を高くあげる、若林忠志の真似をしたりしていたのです。  五年六年と組替えのなかった一組で、球威はあっても崩れ出すと大変な私は、ピッチャーをなかなかやらせてもらえず、栄養が足りずにガリガリな、背が高いから痩せたのが一層目立つだけのサードでした。アスファルトのかけらと一緒に飛んで来るゴロを身体で止め、膝や肘を擦りむくのを恐れず、ライナーにダイヴしていました。  健チャンは、華奢な身体の青い顔でセカンドを守り、そしてこれが、近所の小学校にまでその名が鳴り響いたほどの、|かくしだま《ヽヽヽヽヽ》の名手だったのです。  健チャンは、ここぞというところで一発をたくらむと、外野から戻って来たボールや、他の内野手からまわって来たボールを、グラブに深く納めたり、上手に脇のしたに挟みこんだりするのでしたが、そんな時にはピッチャーもショートも、呼吸を見事に合わせて知らんぷりを決め込みました。  まともにやっても随分強かった私たちの一組チームですから、|此処《ここ》一番というピンチでやる、この必殺技を使えば、これはもう宮本武蔵がマシンガンを持ったように、無敵だったのです。  殺された二塁ランナーは、しゃがみ込んで泣き出してしまうのまでいたのですから、当時の小学生は今の大人びたのより、随分子供らしかったのではないか、なんて思ってしまいます。  この|かくしだま《ヽヽヽヽヽ》を決めると、殺されたランナーと相手チーム全員は、まず唖然とし、それから半狂乱になりました。  あまり私たちのトボケ方が堂に入っていたので、ランナーズ・コーチはもちろんですが、アンパイアも、なにが起ったのか分らずにポカンとしていた、ということも、しょっちゅうだったのです。 「キッタネエノッ」  やられた相手は、半狂乱がやや治まると、唇をひん曲げて憤然とし、帽子を地面に叩きつけたりしたのです。  私が思うのには、どうもその頃の子供たちには今と違って、野球というものはたかがそんなスポーツだと承知しているところが、あったように思えるのです。  これは改めて申し上げるまでもなく、野球というスポーツでは、キャッチャーは少しはずれたボールが来ると、すぐミットを巧妙に動かして、アンパイアの目を|誤魔化《ごまか》そうとします。  ランナーは隙をうかがって次の塁を盗もうとし、バッターは当ってもいないのに、デッド・ボールだと、まことしやかにアピールしたりします。  相手やアンパイアを騙しペテンにかけるのが咎められないし、嘘がばれても騙しそこなっても、罰もないという、これは他に例がないというより、極端に言えば、最初からスポーツとは呼ばない方がいいようなものなのです。  これを|野球道《ヽヽヽ》とか、「巨人軍は紳士たれ」なんて言ったり、正々堂々、スポーツマンシップ、という言葉を使ったりするのは、無神経というより、むしろ本当でないことを口にしても、ちっとも気にならない鉄面皮というべきでしょう。  紳士というのは、嘘をついたり騙したり、バレてもともとというようなことは、決してなさらない堅気の旦那衆だと、私は信じているのです。 「野球という遊びは、まっとうな堅気の方や、前途有為な青少年のやるようなもんじゃなく、ゴロツキ、詐欺師、政治屋、金貸し、それに不動産屋が人目のないところに集ってやるような、ごく|下種《げす》で下卑た遊びなのだ」  と言い切ってはばからない懲役がいたほどです。  と、これもさておき……。  あれは、第二内掃で車を曳いていた麦わら帽に地下足袋姿の、哀れな健チャンを見てしまった時より、さらに十年ほど|溯《さかのぼ》った頃のことでした。  私の|後援者《ダンベ》に連れて行かれた有名なゲイ・バーで、振袖から逞しい腕を出し、アップ・ライトのピアノを弾きながら、ゲイ特有のかすれ声だけれど、抜群のフィーリングで「ズィーズ・フーリッシュ・スィングス」を歌っていたのが、後から言われるまで分らなかったのですが、なんと小学校の卒業式以来の健チャンだったのです。  少年の頃の別れから、二十年近くの年月が過ぎ、しかも厚いお化粧と長い雪の積もりそうな付け睫毛で、島田の鬘でお振袖、おまけに「銀座カンカン娘」じゃなくて、英語の歌を歌っていた健チャンでしたから、これはどうしたって分るわけもありませんでした。 「口紅の付いた煙草の吸殻。  隣から聴こえる、ポロンポロン弾きのピアノ。  つまらないそんなことが、けど、皆|貴女《あなた》を思い出させてしまう……」  と歌うその歌が、とても好きだった私でしたから、実に上手に、誰の真似でもなく歌っているのを聴くと、売り出しの生意気盛りのヤクザだった私なので、ちょっと気張った祝儀を、振袖のたもとに落し込んで、 「見事だぜ、驚いたな、好きな曲だから随分いろんな歌い手のを聴いたけど、今聴かせてもらったのは間違いなく貴女のオリジナルのようだぜ」  と「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」だったか、「ザ・マン・アイ・ラブ」だったか、なんでもそんな次の曲を弾き歌う白塗りの首筋に、頬を付けるようにして、鬘の中の大きな耳に、囁いてやったのでした。  まだ東京にその手の酒場が、数えるほどしかなかった昭和四十年までは、私も都会派のチンピラでしたから、あぶく銭に恵まれて遊べるような時だと、まだマスコミに乗らず一般には余り知られていなかった、「柳」「青江」「ボンヌール」、それに「ふくわ」なんて店に出掛けて行って、洗練された軽妙な会話に浸っていたのです。  それが昭和四十年を過ぎた頃になると、ゲイ・バーがまるでファッションのようになってしまって、はとバスのコースに入ってしまうほどになり、そうなると、 「参ったぜ、部長さんや局長さんに、北関東の地主のドラと来たもんだ。一緒に遊んでたら、訛っちまわあ」  とすっかり白けてしまった私は、そっちの趣味や欲望はまるでなかったこともあって、すっかり遠ざかってしまっていたのでした。 「どうも……。お気に入っていただけたようで、嬉しいわ。あんなにたくさんどうも有難う。アレエッ」  かすれ声を響かせながら、私とダンベのボックスにやって来た大年増は、ニッコリしながら私の顔を見ると、その途端に地声を出して驚いたので、私も、なにか|不味《まず》いことでも思い出されたのではないか、と思って緊張したのです。  十四歳でぐれ、十六歳で家を出て、渋谷の安藤昇の|児分《こぶん》の|舎弟《しやてい》になった私ですから、自分では毎度のことで忘れていても、よくこんなふうに、やっつけたり|非道《ひど》い目に会わせたりした奴に出喰わしてしまうのでした。 「参ったな、ゲイ者になにもした覚えはないけど、この歌の上手な姐ちゃんの、兄弟か親でも|仕上げちゃったり《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》したのかな……」  よくあることでしたから、アレエッ、なんて言われて、何か思いだした様子でも、それほど慌てもしませんでした。  そのゲイ者は、私の顔を息を詰めて、まじまじと三秒ほども見詰めると、声を|跡切《とぎ》らせながら、 「チョット、こちら譲ちゃんじゃなくて……。あら失礼、ごめんなさいませね、立派なその道のお兄さんに、『譲ちゃん』なんて。けど、譲二さんでいらっしゃいましょ」  声の感じから、これはどうやら不味いことではなさそうだと、勘は付いたからいいようなものの、そう言われても、まさにそうだけれど、相手に全く覚えのない私が、首を縦に振って、そうだ、そうだ、というようにして、声もなく驚いていると、 「お分りになるわけないわ、こんな姿ですもの。あたし健です。ホラ、五年六年と麻布小学校の一組で御一緒した。貴方がサードで、あたしがセカンド……」  ボックスについていた二人の若いゲイ者が、それを聴くと、キャッと笑って、 「いやあよ、そんな頃からの|たま《ヽヽ》遊びなの」  なんてはやしたてました。昨日今日こんなところに来始めたダンベには分らなくても、私にはその声の中に、ひときわ光る芸を持った、けど器量はそんなでもない|年齢《とし》のいった同輩に対する、微妙ないたぶりのひそんでいるのが感じられたのです。  健チャンの言うのを聴いて、私は、 「ウワア、なんと、あんまり綺麗になったんで、これじゃ分るわけもないぜ。健チャン。覚えてるとも」  と叫び、それから健チャンと私は、 「懐かしい」「嬉しい」「あれからもう何年だい」「どうしていたの」「どうしてたんだ」「お元気」「元気そうだな」「野球やってらっしゃる」「いいや賭けるだけだ」  お互いの肩に手をかけ合って、ひとしきりそんな言葉を浴びせ合ったのですが、その夢中の短い時が過ぎ、どこから見てもゴロツキという私の様子に、健チャンは目を伏せるようにして、 「身体が大きくて上手だった貴方も、野球では御膳がいただけなかったようね。キャッチャーの吉田君ね、あの方早稲田を出て新聞社に行ったんだけど、今では大出世のエリートちゃんなのよ。半年ほど前に、このお店に見えたんだけど、そん時は、あたし恥ずかしくて黙っていたのよ。それが今日は譲ちゃんだと……」 「分るよ、健チャン。俺みたいなゴロツキだと、|内輪《うちわ》みたいな気になるんだろ」  健チャンの瞳が、急にうるんだのを見て慌てた私は、 「健チャンよ。お世辞抜きで上手い聴かせる歌だぜ。|そのけ《ヽヽヽ》のまるでないゴロツキが、身銭で祝儀をあげたくなったというんだから、これは大したもんだよ。あれなら歌で充分やっていけるんじゃない。野球にしたって今のどれでも同じようなプロ選手じゃなくて、年に二度でいいから、健チャンのやったような、あの絶妙な|かくしだま《ヽヽヽヽヽ》をやるセカンドがいたら、俺はそれだけを楽しみに野球場に通うと思うぜ。個性だよ、オリジナルだよ、大切なのは」  私のしどろもどろの励ましでも、言いたいことは分ってくれたらしく、健チャンの瞳は、暗い酒場で、黒目の中に豆電球でもともったように、キラキラ輝いたのです。 「有難う、譲ちゃん。そんなふうに言って下さって……」  と言った健チャンは、湿っぽくなった雰囲気を吹き払うように、明るいかすれ声で、 「けどね譲ちゃん、三十を過ぎてしまったゲイ者の身では、昔とった|杵《きね》づかかしらん、今では夜ごと夜ごとの、|かくしだま《ヽヽヽヽヽ》よん」  麦わら帽子に地下足袋で、首にはタオルを巻いた素顔の、睫毛も自前の健チャンは、もう四十歳を超えたのでしょうが、十年ほど前の白塗りの時より、当り前かも知れませんけれど、ずっと子供の頃の面影がありました。  いかにも用事ありげに、地面を調べるような振りをしながら、ホクヨンの窓ぎわまで寄って来た頭株の|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんが、何か言いたそうな顔で、私の目を見詰めるようにしました。  きっと|煙草《ネツコ》でも手に入ったのを、分けてくれるぐらいの話でしょうが、私は何か思い出したというような所作で、気を悪くしないように、|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんに向って片目をつむってウインクして見せてから、クルリと背中を向け、工場の奥へ歩き去ったのです。  その時、近寄って来た|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんに、 「あの、顎んとこにシミのあるあの新入りな、俺のガキん時からの友達だから、姐さん頼むよ」  とでも言えば、第二内掃では古手のいちばんウルサイ|すずめ《ヽヽヽ》ちゃんだし、私とは塀の外からの顔見知りですから、いろいろ悪いようにはしなかったのでしょうが、私はそうしませんでした。  ここでつとめているのが、恥ずかしくもなんともないゴロツキの私と違って、健チャンは、いわば出来心を咎められたような初犯刑務所ならともかく、この再犯刑務所に|落ちて《ヽヽヽ》いるのを、同級生の私に知られてしまったとなれば、これはきっと、随分と恥ずかしく気の滅入るようなことに違いなかったのです。  健チャンが、工場の中にいた私に気が付かなかったのを幸いに、私はホクヨンの奥深く引っ込んでしまいました。  自分の役席にボタッと坐った私は、また|何処《どこ》かで晴れて健チャンに会え、あの胸に染みて来て心に香りを残してくれるような、「ズィーズ・フーリッシュ・スィングス」を、聴くことがあるだろうか、などと思うと、なんともせつなくなって、しきりに頭を振ったのです。 「春がもうそこまで来ている」  頭の中を、急いでそんな思いでいっぱいにして、私はとりあえずその場をしのいだのです。 [#改ページ]

  
泣きバイ脱腹巻次第  工場の洗面所で、熱心に顔を洗っていたところを、 「そんな面、そんなに洗ってどうするんだ」  と言われて、派手な殴り合いになり、喧嘩両成敗で相手と一緒に懲罰を喰らっていた飯野三郎は、|免罰《ヽヽ》になると、少し頬のこけた顔になりはしたものの、元気にまた工場に戻って来ました。  相手の懲役は、そのまま満期で出所してしまったので、うまく元の工場に戻れたのだと、どこの工場で働かされても同じことでしょうのに、嬉しそうだったのは、|矢張《やは》り顔馴染みが多かったからでしょうか。  飯野三郎自身、三年の刑を二年ほどつとめて、あと一年ほどで満期になるというところでしたから、派手な殴り合いが内出血程度ですんで、事件にならなかったのを喜んでいました。  それというのも、これがほんの僅かな違いで、顔の皮でも破けると、すぐ傷害罪ということで「事件送致」になってしまったりするからなのです。  飯野三郎は、四十歳を少し越えたテキ屋で、少年の頃から|商品《バ》|販売《イ》一筋にやって来た男です。陽焼けの染みた鋭い顔と細身の体をしていましたが、稼業柄でしょうか、どこともいえず身のこなしや話し方に、人をひきつけるところがあって、笑うと、それはそれは人なつっこい顔になりました。 「安部さん、懲罰房の中で、いろいろとよく考えたんですがね。どうやら女も逃げちまったようで、かかりのかからない身になったし、思い切って、ここらで|稼業《シノギ》を変えようと思いましてね」  飯野三郎は「腹巻サブ」と異名の通った、|泣きバイ《ヽヽヽヽ》の名手でしたから、何にシノギを変えようと思ったのにしろ、これは堅気の方たちの脱サラとはまるで違うことなので、聴かされた私は驚いてしまったのです。  他の世界ではともかく、私たちゴロツキの世界では、四十歳というのが大きなひとつの境目で、誰に限らずこの|年齢《とし》を過ぎると、稼業を変えることも、足を洗って堅気になることも、まず無理なこととされていました。  なんでも他人のことなら、|矢鱈《やたら》と噂のタネにしたがる懲役たちだから、他の連中に聴かれたくないと飯野三郎は言って、私だけを相手に、懲罰の間に考えた稼業変更の計画を熱心にいろいろと語ったのでした。  たかがテキ屋のオッサンの、稼業替えの相談というのに、“失われていく伝統芸能”なんて大義名分みたいなのが、もっともらしく出て来たりするのも、これは飯野三郎が少年の頃から叩きあげた純血種のテキ屋だったからです。ごろつくだけの暴力団まがいのとは違って、|縁日《タカマチ》や大道で年季をしっかり入れた稼業人ですから、ふだんの話でも|啖呵《たんか》がとても|上等《ヽヽ》なのです。  縁日や往来で客に|商品《ネタ》を売るのが、正統派テキ屋の稼業で、だからテキ屋は稼業人で博奕打ちは渡世人なのです。  泣きバイというのは、それはいろいろとあるテキ屋の稼業のうちで、なんでも悲しくて、聴いている人たちが、可哀そうになったり、気の毒になったりしてしまう話や芝居をだしに、商品を売りまくってしまうのが手口です。  私は、まだ愚連隊のほんのチンピラだった頃から、好奇心の強い少年で、テキ屋の若い衆の稽古するところを、よく覗いたりしていました。だからテキ屋の稼業には、随分と詳しいのです。  ゴロツキなんていうのは、堅気の方たちのように、就職する時に会社を選んだり、役人になろうか銀行にしようかとか、検事になろうか弁護士になろうかとか、なんて器用なわけにはいかず、持った御縁が身の定め、というようなことで、博徒になったりテキ屋で飯を食ったり、愚連隊になってしまったりするのです。それにしても、|他家《よそ》の花は赤く見えるのでしょうか、テキ屋はとても面白そうなことをやって暮していました。  テキ屋の稼業は無数に近い種類があって、縁日の夜店に限らず道路や野天でやっている商いは、ほとんど全部がテキ屋の稼業なのです。|顎鬚《あごひげ》に天眼鏡の|易者《ロクマ》も、駅前のタコ焼きも、場外馬券の予想屋も、皆テキ屋の領分です。  飯野三郎は、府中のゴロツキ工場で顔を合わすまで私とは面識がなかったのですが、話をするうちに、そこは同じ東京のゴロツキですから、共通の知り合いもいましたし、お互いの噂は聴いていましたから、 「あんたさんが安部さんで」 「いやあ、あんたが『腹巻サブ』」  というようなことでしたし、それに話すうちに、すぐ相手が性根の悪いゴロツキではないことが、お互いに分りましたから、とても仲良くなりました。  飯野三郎はその異名のとおり、腹巻の泣きバイが得意で、関東一と謳われた鮮やかな芸を持っていたのですが、いったいこれまでに何千本の腹巻を、堅気の方たちに買っていただいたことか。ざっとその芸をご説明申し上げないと、話が先に進みません。  もう今ではすっかりすたれてしまった、と当人が言うのですから、堅気の方たちに|此処《ここ》でネタをばらしてしまってもいいでしょう。  どこでもいいのですが、商店街を、背中に大きな風呂敷包みを背負い、少し薄汚れてひげは伸びているものの、真面目そうに見える男が一人歩いて来て、いきなり膝から崩れるように、道の真中にへたりこんでしまいます。  さあこれからが、泣きバイの始りです。  しばらくは商店街を通る堅気の方たちも眉をひそめて、背中の風呂敷包みを震わせながら、哀れにへたりこんだ男の横を通り過ぎて行くだけなのですが、中で一人、 「あんた、そんなところで、どうかしたの」  と声を掛けるのが出て来ると、皆すぐ立ち停って、たちまち人垣が出来るのです。  店の前で変な男がへたりこんだ様子に、奥で眉をひそめていた金物屋か床屋の夫婦も、前掛けをいじりながら出て来るのですが、そんな頃合いを計って、へたりこんでいる男は、声をかけてくれた親切な通行人に向うと、 「あの……、あの、広島はどっちに行けばいいのですか」  なんて訊くのです。  もちろん、この親切な通行人も泣きバイチームのメンバーで、訊かれて首を捻ると、広島町なんてこの辺にあったかと、囲りの人垣にたずねるのですが、これもまず現実にありっこない町名なのです。  もっとも足立区には島根町なんていうのがあるので、こんなのにはよく気を付けなければいけない、と言っていました。  首を捻りっぱなしの親切な男は、しゃがみ込んでいる男と向き合うと、 「この辺りには広島町なんてないから、どっちと訊かれたって」  ちょっと間を置き、 「まさか、神戸の先の、原子爆弾の……」  と大きな声を張りあげると、へたりこんでいた男は大きく頷いて見せます。それを見た周りの堅気の方たちは、ガヤガヤ呆れるのです。  それからは、親切な男が大きな声でいろいろ訊ね、男がボソボソと答えるのを、いちいち周りに聴こえるように、大きな声で繰り返すのです。  十二年も真面目に勤めた、輸出用の腹巻工場が倒産し、退職金代りに風呂敷いっぱいの腹巻をもらったこの男が、故郷の広島を目指して桐生だか伊勢崎だかから、三日二晩ほとんど飲まず食わずで此処まで歩いて来て、ついにへたりこんでしまったという、いきさつの全てがこれで周囲の皆に分るわけです。  真面目に勤めた十二年とか、故郷の年寄った婆様なんて言葉が、肝心なところに惜しみなくちりばめてあるので、もう周りの人垣の中では、涙ぐんでしまったりする女の人も出るというのですから、いいお国柄というのか阿呆なのか……。  それにしても、輸出用の腹巻というのが、そもそも随分と奇怪で、いったい日本以外に腹巻をしている国なんてあるのでしょうか。  それでも親切な男は、背中の風呂敷包みから僅かに覗いていた白い腹巻を引っ張り出すと、手にとって見て、 「これかい、輸出用の腹巻っていうのは」  と感じいった様子で、セーターをたくしあげると、自分の、どうってこともない少し伸びたような冴えない薄茶の腹巻を見せ、 「こんなんだって、そこの洋品屋で千四百円もしたんだが、|流石《さすが》に輸出用だなあこれは、品物がまるで違うな。二千円以上もするんだろうか」  と言うと、へたりこんでいたのが、この時だけはいやにはっきりした声で、 「高島屋の特選品売場では、正札が三千八百円だそうです」  なんて言ったりするのですが、昔から|嘘のサンパチ《ヽヽヽヽヽヽ》なんていって、|出鱈目《でたらめ》を言う時は、不思議と数字に三や八が混ざると決っています。 「とりあえず、これでカツ丼でも……」  その親切な男が千円札を一枚あげるとへたりこんでいた男は、どうぞ、この腹巻を一枚持っていってくれとか、一枚で千円になれば大喜びで、いや、そんなつもりじゃあ、なんて問答が続きます。そのうちに、親切な男は膝を叩くと大きな声で、 「そうか、千円でいいんなら、俺に五枚ほど売っておくれ、俺と弟と、女房の兄貴とそれに息子の分だ。それでどうにか広島まで、各駅停車なら帰れるだろう」  へたりこんでいた男は、嬉しそうに目をうるませて、中腰に起き直ると、背中から降ろした風呂敷包みの中から、腹巻を出そうとするとその途端、人垣の中から、 「ヤイヤイヤイッ。黙っていれば俺っちの|縄張《シ》|り内《マ》で、この野郎共ッ」  と恐ろしげなヤクザが出て来て、親切な男の手から白い腹巻をもぎ取ると、目をむいて怒鳴るのです。 「馬鹿野郎ッ。御町内の洋品屋さんで何千円もするような腹巻を、千円やそこらで売られたんじゃあ、旦那衆の御迷惑だあッ。なにをしやぁがるこの外道ッ」  親切な男と、中腰になって風呂敷包みをほどいていた男を、そのヤクザが蹴っ飛ばそうとすると、人垣の中から、これは見るからに、怒ったヤクザより格下の、けどヤクザがもう一人飛び出して来て、 「兄貴ッ、止めて下さいッ」  と抱きとめるのですが、もうこの頃になると黒山の人です。 「そんな馬鹿な値段で売られたんじゃ、カスリを落してくれている洋品屋の旦那に、申し訳が立たねえ、コラ、放せ」  盛んに目を釣りあげ、牙のような歯をむき出して吠える兄貴を、若い衆と親切な男が必死に押えて、もう一度、広島目指して三日二晩、飲まず食わずで、十二年勤続の輸出用の腹巻という話をかいつまんでやると、騒ぎを聴きつけて後から黒山の一人になった人たちにも、ほぼ今までのいきさつが分るわけです。 「兄貴ッ、そんな気の毒なわけですから、ここ一番だけ、目をつむって、情けをかけてやっておくんなせえ」 「親分さん、このとおりです。ほんの汽車賃と弁当代、それに|目の見えない《ヽヽヽヽヽヽ》母さんへのお土産ぐらいは、買えるように」  親切な男は、なんとヤクザの前で土下座までしてしまうのですから、周りの黒山は同じ堅気の義侠心にしびれてしまいます。 「フム」  ヤクザは、往来が舞台の旅役者のように、唇をゆがめて結び、|決り《ヽヽ》ます。  間を計って、黒山がザワッとし始めると、 「そんじゃあ、ひとまわりだぞ。俺が御町内をひとまわりして来て、それでまだグズグズしてやがったら……」 「分りました兄貴ッ。有難うござんす」  皆まで言わせず、弾んだ声で若い衆が鼻を詰らせた声を出すと、偉いヤクザは、 「ひとまわりだぞ」  と、もう一度念を押してから、肩で風を切って、男でございと人垣の外へ消えるのですが、それを見ると若い衆と親切な男は急に忙しくなって、 「兄貴がああ言ってくれたんだ、急いで出してみな、一枚千円でいいって言ったって、俺だって男を売る稼業だ。堅気さんと一緒ってわけにも行かねえ。五千円で三枚もらうぜ」 「さ、あんた、この際他の方にも一枚千円で分けてあげれば、|原爆で目をやられちまった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》母さんの土産代には充分だろう。さ、分けておあげなさい」  とこれは親切な男の|台詞《せりふ》で、腹巻には目の肥えているはずのヤクザが、三枚を五千円で買ったのですから、周囲の黒山はあさましいことに、争って千円札を突きつけるようにするのです。  五分も経たないうちに風呂敷包みは空になり、そのドサクサの間に、親切な男の買った五枚も若い衆の三枚も、いつの間にか風呂敷包みの中のと混ざってしまって、端から全部売れてしまうのでした。  これが腹巻の泣きバイで、|仕入値《ト  モ》はただ同然の品物なのですが、別に悪いことをやった気なんか、チームの四人の誰にもないのは、これは堅気の中の堅気のような銀行員が「金貸し」をやっているつもりなんか、まるでないのと同じなのです。  これをやらせたら箱根の山から東では一番といわれるのが、他の懲役たちに聴かれまいとして、低い声でしきりと稼業を変える相談を私にする、懲罰房帰りの飯野三郎なのでした。  この頃の都会では、本当にみるみる腹巻人口が減って、今ではいくら輸出用の上等だろうと、ひとまわりの間の僅かな時間でも、もう腹巻は堅気の方たちが、争って千円札を突き出すような物ではなくなってしまったらしいのです。 「それで安部さん。顔の広いところで、誰か|山雀《やまがら》のおみくじを知らないすか、この|年齢《とし》だけんど、|気合《メツコ》を入れて修業をすれば、なんとかなるでしょうて。|きょうび《ヽヽヽヽ》は理屈にならないんで、やる人間がいないんだそうですよ」  確かに飯野三郎の言うとおり、だいぶ以前にはタカマチでもよく見た、山雀がお金を|咥《くわ》えて小さなお社にチョンチョンチョンと行って賽銭箱にチャリンと落すと、下っている布を嘴で引いて鈴を鳴らしお社の戸を開け、中からおみくじを咥えて出て来て、戸を元のように閉めて戻って来るというのが、山雀のおみくじですが、そういえば、この頃はまるで見なくなりました。  一回ごとに百円玉を一個ずつ、山雀が咥えて行ったのでは、一日やっても、なかなか一万円にはなりません。テキ屋の若い衆はありきたりの綿飴とか金魚掬いなんて、すぐ儲かるのばかりやりたがって、山雀のおみくじなんてまどろこしくて年季のいる稼業になんか、なり手がないのだそうです。  伝統芸能の危機だ、と飯野三郎はごく真面目な顔で言いました。ひと通りの道楽はしたし、女もいなくなって、かかりのなくなったこの機会に、若い衆に戻って修業がしたいという飯野三郎に、私は、自分にはなかなか出来ないことと、感心してしまったのです。  小さな脳味噌の小鳥に、随分と混みいった芸を教えこんで、人だかりでやって見せるというのですから、これはきっと難しいし、根気のいる修業に違いありません。 「修業して術を身に付けたら、山雀なんて小さいのじゃなくて、|椋鳥《むくどり》にでも教え込んで、五百円玉を咥えさせるようにしたら、はかが行くぜ、きっと」  と私が目を輝かせて言うと、なぜかうろたえて、 「|矢張《やは》り、昔から山雀だから……」  なんてヘドモドした飯野三郎でしたが、その訳は後で白状しました。  それからの私は、いろいろと方々訊いてまわり、ついに秩父の山の中に住んでいる、関東周辺では最後の人と思われる山雀師の爺様に、飯野三郎を内弟子にしてくれる約束を取り付けることに成功したのです。  とにかく自由の利かない懲役の身ですから、たっぷり一年はかかってしまって、飯野三郎の満期出所ギリギリでした。  喜んだ飯野三郎は、私の手をとって礼を言い、私も、自分自身のことで同じような問題を抱えていましたから、それが私の抜けたところでしょうけれど、四十歳を過ぎて、修業をやり直そうとする姿に、単純に感動してしまったのです。  飯野三郎も、その辺りがすれっからしの中年ゴロツキとしては、なんとも甘いところなのですが、そんな私の様子を見ると、どうにも|心住まい《ヽヽヽヽ》が悪くなってしまったらしく、出所する直前に、しばらくモゾモゾしてから、|本当の本当《ヽヽヽヽヽ》を打ち明けました。  誰にも決して言わないでくれ、と何度も念を押してから、 「安部さんに、椋鳥に五百円玉をと言われた時、あ、これは、|お見通し《ガ ラ ス》かな、と肝を冷やしたんですがね」  と話し出したのです。  矢張りゴロツキのやることですから、伝統芸能の、なんてことではありませんでした。  飯野三郎は、山雀のおみくじの技術を身に付けて、それで銀行を襲ってやろうという絵図を描いていたのです。  山雀よりはるかに大きく、鳥の中でも利口だと言われているカラスを、しっかりと調教するのだそうで、その二百羽の真黒なカラスをワゴン車に積んで出かけて行き、銀行からちょっと離れたところに停めるのだと言いました。  ワゴン車から飛び立った、まるまると肥った真黒な二百羽のカラスは、アルバイトの学生が踏んづけている銀行の自動ドアから、バサバサと銀行の中に飛び込んで行って、泣き喚く女子行員を嘴で突つきのけ、おみくじの代りにそれぞれ帯封の百万円の束を咥えて、支店長や警備の者には白い物を浴びせ、ワゴン車で南京豆を持って待っている飯野三郎のところまで、可愛く飛んで帰って来るのだそうです。  |流石《さすが》はテキ屋というもので、その情景が目に浮ぶように、飯野三郎は語りました。  今まで黙っていて、段取りだけさせて本当に申し訳なく思っていた、とも言いました。 「これはスゴイ」  私が|唸《うな》ると、五軒もやれば、もう|おなかいっぱい《ヽヽヽヽヽヽヽ》だから、カラスは山に帰してやって、熱海か湯河原で楽隠居だと、飯野三郎は真底嬉しそうな顔をしたのです。  半分とは言わないけど、一軒分は必ず私に届けるから、楽しみにしていてくれと言ったのです。五年経って届かなければ俺がやるぞと言ってやると、黙ってニヤリと笑って、右手の指で丸を作り、 「仕上げはごろうじろ」  みたいな顔をして、頷きながら出所して行った飯野三郎ですが、あれからもう五年はとっくに過ぎてしまいました。  カラスが銀行を襲った話どころか、出所すると間もなく破門になったと聴いたきり、飯野三郎の噂さえまるで耳にしません。  矢張り、あの年齢からの稼業替えは、無理だったらしいのです。  今頃どこで何をしているのでしょうか。 [#改ページ]

  
面会ぎらいの仕合せ  背中の方から、入口の鍵の開けられる音が聴こえて来ました。  私の真正面にある、高い担当台の上にいる担当部長も、その音を聴きつけて、入口のドアの方をジロリと睨んだのです。  |北部《ホ》|第《ク》|四《ヨ》|工場《ン》は、発電機とかスターターといった自動車の電装部品を専門に加工していた工場ですから、いろんな金属音がそこかしこから聴こえていました。  そのいろいろな音の中から、随分離れている入口のドアの、鍵のまわる音を聴きわけるというのですから、これは|矢張《やは》り大変な熟練というべきでしょう。  日本の刑務所は、大昔からの完成されたノウハウと、看守たちの熟練で運営されていて、この工場でも、前科者のしかもゴロツキという最悪の八十人を、担当部長と若い副担、それに応援の看守という丸腰のたった三人で、グウも言わせずに掌握しているというのですから、見学の外国人など例外なく驚いてしまうのです。  担当台と、広い通路を中に挟んで向きあっていた私の|役席《えきせき》は、五メートルほど斜め後ろが工場の入口でしたから、耳を澄ませていれば、工場の外の通路を歩いて来る、看守の兵隊靴の音だって聴きとれました。  背中の後ろで、入口のドアの鍵がまわる音や開く音が聴こえて来ると、そこは悲しい懲役の身ですから、振り向いて自分の目で何事か確かめたいのですが、それも私の役席に限って毎度は出来かねたのです。  というのも、これが、私の作業台のある役席が、担当部長の真正面でなければ、こんなに気を遣うこともなかったのですけれど、この役席で、音のするたびに、仕事の手を止めて振り返っていたら、これは担当部長に、 「なめやがって、この野郎」  と、あてつけにやっているように思われてしまうことも、これは充分にありそうな危険だったからです。  ゴロツキ、刑事、運動選手、兵隊、それに看守といった手合は、共通するところが無数にあります。異様なほど、つまらない|面子《メンツ》にこだわるところも同じでしたから、うっかり、そのたびにドアの方を振り向いたりすると、変にカッとされて、見せしめにされてしまう恐れも充分にあったのでした。  その場で血祭りにあげられないまでも、担当部長や看守に根にもたれて、パクろうと狙いをつけられでもしたら、塀の外で所轄警察の丸暴あたりに睨まれたのとはまるで違う、大変なことになってしまうのです。懲役は、看守に対して、まず全く抵抗する手段も、守る手もありません。  懲役を痛めてやろう、と看守が決めたら、これにも長年のノウハウが無数に、懲役のタイプや刑務所の場所、それに年齢や刑期に応じて、相撲の手ほどもたくさんあるのです。  たとえば、これは一番単純な手口ですが、工場で働く懲役が右手をあげて、 「先生ッ」  とか、 「用便願います」  なんて役席で叫ぶのを、ただ知らん顔をする、なんていうのがあります。  二度ほど同じことを叫ぶうちに、便所に行きたくなったその懲役は、恐ろしい看守の企みを知るのですが、さてそこでどうするかといっても、一方通行の道に逆から入ってしまったのを、だいぶ入ってから気がついたドライバーと同じで、どうすることもならずに、目の前が暗くなる思いでウンザリしてしまうだけでした。  そのまま、看守の「ヨシ」という声を聴かずに、 「こん畜生、クソでも喰らいやがれ、牢番メ」  と、役席から便所に向って歩き出せば、それまでそっぽを向いていた看守は、たちまち、動き出したカナブンを見た仔猫のように走ってきて、 「おいッ、許可も得ないで、どこへ行くんだ」  シメタとばかりにパクって、「指示違反」なんて罪名をつけると、懲罰房に放りこんでしまうのです。  青くなってモジモジする間に、休憩時間にでもなってくれればいいのですが、そうでもなければ、まさか役席でやってしまうわけにもいきませんから、これはどうにも絶望的な事態です。  こんな時、たいていの懲役は腹をくくって、黙って便所に向って歩き出すか、そうでもなければ、 「ツンボかてめえ、このクソったれ牢番ッ」  なんて爆発してしまって、そうなると仕掛けたおとし穴を覗き込んで、ほくそ笑むような看守に、|暴言《ヽヽ》とか|抗弁《ヽヽ》なんて罪名をつけられてしまうのです。 「直れ」と、|何時《いつ》までも言ってくれない、頭を下げさせっぱなしのお辞儀とか、こんな陰険な手を、看守たちは信じられないほどたくさん用意しているのですから、懲役は、睨まれたり憎まれたりすれば、もう最後で、たまったものではありません。  それも懲罰ですめば、それでもまだ運がいいと喜ぶようなもんで、悪く運ぶと、看守をひっぱたいたのが暴行罪で起訴されて、追加の刑を喰らってしまったり、ヤワな看守が殉職でもすれば、七年以上は覚悟しなければならないのです。  刑期が、あと一年というところまで漕ぎつけると、懲役も強気になって腹もくくれるのですが、残りの刑期が長い間は、看守の機嫌を損ねないように、睨まれたり憎まれたりしないように、気を遣い首をすくめて、上目遣いに過さなければなりませんでした。  そんなふうに、ただ我慢を続けるだけの、惨めに屈辱にまみれて過すだけの毎日ですから、とてもそんな自分の姿を、他人になんか見られたくもなければ、正直なところは、こうして思い出すのも随分苦痛です。  入口のドアが閉まる音と同時に、兵隊靴の底に打ってある|金《かね》の音が聴こえて、その音だけであとは、サンダルのペタペタという音はしませんでしたから、工場に入って来たのが、看守が一人と分ったのです。  作業時間中に工場のドアが開いて、誰か入って来るのには、いろんな場合がありました。看守の交替とか、看守に連れられた新入りが|落ちて《ヽヽヽ》来るとか、見学の|娑婆人《しやばじん》が団体でやって来ることもありました。そんな中でも、看守が一人で入って来ると、工場の懲役たちは、入って来た看守の顔を早く見ようとあせるのです。  というのも、入って来たのが交替の看守だったり、係長の巡察だったり、それに面会所の看守だったりすれば、一同やれやれと顔をゆるめるのですが、これが保安課の看守だったりすると最悪でした。おびえた声のざわめきが工場の中に拡がって、懲役たちの顔が作業衣と同じ灰色になるように思えます。  刑務所の中の警察のようなのが保安課ですから、何か隠していた罪がばれたのか、余罪が出て、塀の外から刑事が、身柄を警察に連れて行くためにやって来たのか、いずれにせよ、ろくなことではありませんでした。  その時は、後ろから聴こえて来たのが、看守一人の音でしたから、その瞬間緊張した私でしたけれど、すぐ入口を見渡せる役席の懲役が、 「面会、面会だよ」  と言ってくれたので、その声と同時に、工場の中がいっぺんに華やいだのです。  私のような面会嫌いの懲役はまず珍しく、たいていの懲役にとって、面会はとても嬉しいことのようで、これは塀の外に、その懲役を心配して気に掛けている者がいる、という証拠だったからでしょう。  不安におびえる懲役の中には、毎週、女を面会に呼び寄せる奴もざらでしたが、私にはそんなことも、なんとも無意味で、御苦労なだけのことのように思われたのです。  工場に入って来た面会所の|年齢《とし》のいった平看守は、書類の入ったファイルを持って、通路を担当台に向って行きました。  刑務所まで足を運べば、誰でも懲役に面会出来るものではありません。  懲役に面会出来るのは、これも前に触れましたが、普通の場合、新入りで|落ちた《ヽヽヽ》時に記入させられた、親族表に載っている者と、それに保護司だけだったのですが、再犯の|懲役太郎《ベテラン》ともなれば、この親族表を書く時に最初から、兄弟分は義兄、児分は甥、色女は年齢に応じて妹とか姪なんて書いておき、前もって拘置所にいる時から、チャンと打合わせておくのです。  私も一応、兄弟分を一人、それに以前私の妻で、離婚してからも仲良くしてくれていた女の人を、それぞれ弟と叔母として載せておき、それに年齢をとった両親も加えておいたのですが、これは面会はともかくとして、こうしておかないと、手紙や本の差入れも駄目だったからでした。  私は今回の刑を喰らう三月ほど前に、小学生の男の子が二人いる、入籍してから十年余にもなる妻と離婚していましたし、まだほんの未成年だった愛人には、 「長い刑だし、これを機会に学校にでも行って、まともな道に戻んなさい」  なんて大変キザで、正直なところは、刑をつとめる間に何度も、 「|失敗《しま》ったな、どうも格好が良すぎたなあ」  と思うような別れ方を、拘置所でやっていたので、普通は十人以上も書いてあるはずの親族表が、私の場合はたった四人と、さっぱりしたものだったのです。  長く|無頼《ぶらい》に過して、|揚句《あげく》の果てに裏目と出てしまった私は、我ながら、なんとも淋しい、秋の深まったキリギリスという|塩梅《あんばい》でした。  この辺で、ざっと私自身のことを申しあげておかなければなりません。  私は、昭和十二年の東京生れですから、戦争の終ったのが、当時国民学校なんていった小学校の二年の夏でした。  疎開先の熱海で、ひたすら芋を食ううちに、父が復員し、特効薬もないまま下の姉を結核で失い、五年生になると、「銀座カンカン娘」の東京に戻ったのです。  一人失くして三人兄弟の末っ子になった私でしたが、とびきり勉強の出来る兄にくらべて、随分と出来の落ちる私でしたけれど、それでもどうにか麻布中学に入ったのでした。  日比谷高校に通う兄と、麻布中学に入った私を見て、父は満足のようでしたが、それも束の間、私は中学二年生で、呆れたことに、早ばやとぐれにぐれてしまったのです。  父は呆れ果て、母はただ歎き悲しみ、姉は無言で気味の悪い虫でも見るように私を見詰め、兄は軽蔑をあらわにして私を無視しました。私は十六歳になると家に寄り付かなくなり、丸にAの字の、通称安藤組のバッジをもらって長い|渡世《とせい》のスタートを切ったのです。  そしてそれから二十五年経ち、一時はそれでも、ヤクザとして|可成《かなり》なところまで行った私でしたが、持って生れた性格の甘さを咎められ、この刑を受ける直前には、親分から破門を受けるという最悪のところに追い込まれていました。  もうまるで戦争に負けた国か、倒産した会社のように、ほとんど全てを失ってしまった私でしたが、それでもこの親族表に載せた四人は、私にとって「溺れる者の藁」のような人たちでした。  他の女に心を移した私が、後ろ足で砂をかけるようにしてしまった前妻の|叔母《ヽヽ》は、毎週くれる励ましの手紙に、少しでも私の目を楽しませようと、いつも|綺麗《きれい》な記念切手を貼ってくれたのです。  長く船会社で働いた父は、その頃はもう引退していたのですが、家族でたった一人、あろうことか道からはずれてしまった私を、初めは腐ったチンピラ|林檎《りんご》のように扱い、後になると、私の消息を訊ねる人に、 「ああ、二男は死にました」  と言い放ち、身を持ち崩した息子と、その父親であることを恥じていた剛毅な明治人でしたけれど、年老いたこともあったのでしょうが、くすぶり果てた私の様子を知ると、哀れを感じたようで、 「信心が薄いのでなぜか分らないが、とにかくこのお経を唱えると、いらだちや不安がおさまって、とても穏やかな心になるのだ。今のお前は、まず平静な心を得るのが肝心のようだ」  というような意味の手紙と、観音経の手引書を送ってくれたりしました。  父は神戸の産ですが、母は東京育ちで、七十歳に近い婆様としては、随分と毛色の変った人でした。  逸話は書き始めるときりがないほどですから、ここでは|端折《はしよ》りますけれど、とにかく無類に陽性の、誰にでも心遣いの厚い、思いやりのある人だったのです。どうして、そんな母親がいるのに、ぐれたりヤクザになったかとなると、これは、別な長い話です。  弟と称した兄弟分は、長い経歴のあるヤクザでしたが、その頃は既に足を洗って、女房と一緒に呉服の商売をしていたのですけれど、人並みはずれて上手なゴルフを、 「指が先まで全部ついていたら、プロでもトップ・クラスのはずだぜ」  と詰めた爪のない小指をかざして、笑っているような男でした。  面会所の看守が渡した紙を見た担当部長が、高い担当台の上から、 「安部ッ」  と呼んだので、|固唾《かたず》を呑んで静まりかえっていた工場は、面会が私だと分ると再び音をたて始めたのですが、|怪訝《けげん》な顔で役席から立ち上った私に、|頭《かしら》の鰍沢がニコニコと近寄って来て、 「珍しいな、面会なんて、|叔母《ヽヽ》さんかな」  この男は、ヤクザとしてはごく人柄の良い男でしたから、自分のことのように喜んでくれていたのです。 「ハテ、誰にしたところで、断ってあるから来ないはずだし、まだ保護司のわけもないだろうし……」  と私は、首を捻りながら担当台に行ったのでした。  他の面会好きな懲役たちに、 「いろいろと噂は聴いていたけど、本当に、あいつは変ってらあ」  とか、 「面会を断ってる、なんて言ってるけど、本当のところは、もう誰も、来てくれるのなんかいないんじゃないの」  なんて陰で囁かれていた私ですから、これが、府中刑務所に|落ちて《ヽヽヽ》以来初めての面会だったのです。  グリグリの醜い坊主刈にされ、しおたれた灰色の獄衣を着せられて、看守に邪険に扱われるままという|非道《ひど》い姿なんか、誰にだって見てもらいたくもなかったし、それに、塀の外のことを聴かされても、悪い話だと、悩み苦しんで胸が焦げるだけで、まず懲役の身では手も足も出せません。  いい話ばかりのわけもない身ですから、なまじ面会しても、嬉しいことより断然せつないことの方が多そうでした。  手紙さえもらえれば、それで充分で、誰にしろ、わざわざ府中まで面会に来てくれるのは、私の場合、むしろ苦痛だったのです。  担当台に私を呼びつけた担当部長は、待っていた面会所の看守に私を渡すと、改めて面会だとも言いませんでした。  はっきり、どこでいつ頃とは、すぐには思い出せなかったのですが、面会所の老看守は見知っている顔で、向うも私を見ると、 「おや、こんなところにいたのか」  みたいな顔をしたのですが、黙って私を連れると、入口のドアの鍵を開けてまた閉め、外の通路に出ました。  その時、私が、 「面会は誰ですか」  と少し強い声で言うと、|気色《けしき》ばんだ声が意外だったのでしょう。立ち停って書類を見ると、 「父、他一名とあるのは、これは、母親だな」  再犯刑務所では割合と少ない両親の面会なので、幸せな奴だなというように、看守としては穏やかな顔をほころばせて見せたのですが、それを聴いた私が、 「やあ参ったな、来ないでくれと言ってあったのに。勝手ですが先生、会いたくないんで、面会拒否ってことに願います」  と言うと、眉を寄せてしばらくの間立ったままで書類を見ていたのですが、目をあげて私を見据えるようにすると、 「年寄りが心配して、はるばる府中まで、ゴロツキ息子に会いにきたんだ。事情もあるだろうが、会ったらどうなんだ」  と言ったのです。  これが若い看守だったりすれば、勝手にしろ、と何も言わずに私を工場に戻したのでしょうが、私と顔馴染みの、この年齢のいった看守は、そんな親身なことを言ったのでした。 「いえね先生、見れば分りますけど、とにかくまるでまっとうな年寄りですから、父はともかく……。こんな姿を見て、母に泣かれでもしたら、どうにもたまりませんよ」  私が暗い顔で言って肩を落すと、 「そんなごくまっとうな母親なら、そりゃあ泣きもしようさ。けんども、それも刑のうちと往生しなさいよ。会わないで追い返したんじゃ、男が泣くぜ」  私は黙って目をつむると、頷いて見せました。出来る限りの空元気で、十五分ほどの針の|蓆《むしろ》をしのぎ切ろうと、覚悟を決めたのです。  それから長い廊下を歩き、二度ほど鉄のドアの鍵を開けて通ると、面会所に続く薄暗い廊下の、|ビックリ箱《ヽヽヽヽヽ》が五つほど並べてあるところに着き、看守は私をその中でいちばん端のに入れると、廊下に兵隊靴を響かせて、面会所の方に去って行きました。  暗くて狭いビックリ箱の中には、いつも懲役たちの汗や体臭が染みこんでいて、なんともいえない臭いがこもっています。  私は腰掛板に腰を降ろすと、間もなく始るせつない場面を思って、何度も大きな溜息をつきました。  このビックリ箱というのは、縦横が六〇センチ、高さが二メートルほどの、板で出来たロッカーのような箱で、前には戸がついていて、中には腰掛の板が一枚渡してあります。  看守の事務室の管区とか、この面会所のようなところには、これがズラリと並べてあって、取調べに呼び出されたり、面会の懲役はこの中に入れられて順番を待つのですが、夏は汗にまみれて蒸し殺されてしまいそうになりますし、逆に冬は、身震いがとまらなくなる冷たさでした。  この中に入れておけば、入れられた懲役には外の様子が分らないので、お喋りも出来ませんから、看守には都合がいいのでしょうが、なんとも陰惨なこの木箱は、日本の刑務所の象徴のようなものなのです。  その暗いビックリ箱の中で、溜息ばかりついていた私ですが、しばらくすると廊下に、連れて来た看守の靴音がして、というのも、こんな環境に置かれると、そんな感覚は動物に近くなるので、ビックリ箱の置いてある廊下を通る靴音だって、自然に聴き分けてしまうのです。  ビックリ箱から面会所に入れられると、私はガラスの仕切りのところにある丸椅子に坐らされ、看守は脇の席につくと、メモを採るノートを拡げたのですが、間もなく、ガラスの向う側のドアが開き、こわばった顔の目もとを無理にほころばせようとして、困ったような表情になってしまった父が、顔から先に入って来ました。  そして、大柄な父の背中から、顔だけ横に出した母は、顔を皺だらけにして、一所懸命ほほえんでいたのです。  ガラスの仕切りの向う側の椅子に並んで坐った二人に向って、私は頭を下げると、 「どうも、すみません」  なんて、小さな声で言ったのでした。  いくら|面《つら》の皮が馬のおけつのようになってしまっている私でも、これはどうにもやりきれない場面で、いっそアラビア辺りの、鞭でぶちのめされる刑の方が、ずっとましなように思えたほどです。  そのまま首をすくめていた私に、 「ちょっと……」  と、これは母が話しだす時のくせで、それに続けて、 「最後に|貴方《あなた》を生まなければ、本当に、こんな、刑務所とか看守さんとか、それに貴方のようなのは、映画の世界のことだったわよ」  笑いを含んだ明るい母の声がしたので、私はもちろん、立会いの看守までがすっかり驚いてしまいました。私は首を伸ばすと笑い出してしまい、看守も天井を見上げると、大きな口を開けて金歯を見せたのです。  悲しいしめっぽい場面を避けようと、私と会って最初に言う言葉を、母はきっと三田の隠居所から府中までの間、あれこれ考えながら来たのに違いありませんでした。  母は、そういう優しい人だったのです。  それからは、ただ黙って見詰め合うだけで、ビックリ箱の中で考えていたように、元気な声で陽気に話すことも出来ず、私は胸が詰ったようになってしまって、ずっと無言のままの時間だけが過ぎました。 「元気そうなので、まず安心した。また来るが、今日はこのくらいで帰る」  と父が言って椅子から腰をあげると、母は急にべそをかいたような顔になって、 「貴方、どうぞ、わたしの生きている間に、戻って来てちょうだい。もう七十になるのよ」  涙が頬を流れ始めた母を、父は抱くようにして出て行きましたが、私は何か言おうとしても、声が喉まで上って来ないようになってしまって、ただ立ちつくすだけでした。ドアを閉めようとした母と目が合うと、私はしきりと頭を上下させ、頷いて見せたのです。  工場に戻る途中で、看守は私に、 「長いこと面会所をやってるけど、あんな楽しいことを言った母親はいなかったな。なんだお前は、それにしても随分とまともな、呆れるほど上等な親御さんを持ってたんだな」 「なんてことでしょうね」  私がうめくと、 「まともならまともなほど、さんざ肩身の狭い思いをさせられてるから、再犯の府中には、もう来てくれないのが普通だよ。|此度《このたび》は追加の刑なんて喰らわずに、せめて満期でキチンと出て、間に合うようにしてやんなきゃ、義理が悪いだろうよ。この野郎」  今頃は、もうとっくに停年で、どっかで|日向《ひなた》ぼっこをしたり、仕事で絞め殺した死刑囚の供養でもしているのでしょうが、珍しくいい看守でした。  工場の役席に戻ると、頭の鰍沢がやって来て、 「オッ、湯あがりみてえな、ボッとした面になって戻ったな、叔母さんにのぼせたのか」  と言ったのですが、 「いや、七十になる母親で、涙をこぼされて、これには参っちまった」  と私が言うと、鰍沢も思ったとおり分ってくれて、 「そうか、母さんか」  と呟くと、遠くを見るような目になってしまったのでした。  くすぶり果てて懲役をつとめる私は、その頃はもうなんの意欲もなく、ぼんやり刑期を過すだけという有様でしたが、長く遠ざかったままだった母が、面会の終りに、 「どうぞ、生きている間に戻って……」  と言って涙を流したのを見ると、その時から私の心に、驚くほど強烈な母への思いが湧きあがって来たのでした。  くたびれた自分の心に、まだこんなに鮮やかで、目のくらむほどの物が残っていたのを、私は嬉しく思ったのです。  出来る我慢と努力は、なんでもやって、出来るだけ早く出所しよう、間に合うように戻らなければ、と心に決めました。  これは今でも思い出すたびに瞼が熱くなるのですが、親しかった鰍沢と他に数人、事情を打明けた懲役たちの損得を考えない親身な助力に救けられた私は、ついに七カ月という仮釈放をもらって……。  間に合ったのです。  父は昨年亡くなりましたが、母はぼけもせずますます元気で、私は隔週の木曜日になると、小さな車を運転して隠居所に行き、病院へ連れて行ってあげるのです。  こんなことでも、してあげられるようになるのには、出所してから三年以上もかかってしまいましたが、四十歳もだいぶ過ぎて堅気になろうとしたのですから、覚悟の上とはいえ、ただあがき続けるうちに月日が過ぎていくのには、いっそ自由なだけ、塀の中より辛いこともあって、気も狂わんばかりでした。  そして、いつ|閉口垂《へこた》れるか、という時に、突然、驚くほどの幸運と、厚意に満ちた方たちに恵まれたのですから、これはもう、滅多に|何処《どこ》ででも起るようなことではありません。私は、本当に子供のように、自分の頬を捻りあげたのです。  そして私は、小説やエッセイを書き始め、その頃には初めてのこの単行本も、出していただけることになっていました。  母は、その日を楽しみにしてくれていて、助手席に坐るなりすぐ、会わない間に、あれこれといろいろ考えたことを、嬉しそうに話し出すのでした。 「ちょいと。貴方が作家になって御本が出るなんて、それはもう本当に、夢のようよ。けどね、最初の御本は、悪者の前科者たちの話なんでしょう。わたしは母親だから、これはいくら嬉しくても、ちょっと人様や親類には、御覧にいれるわけにもいかないのよ」  そう言った母は、ちょっとの間考えていたのですが、運転している私の横顔に向うと、 「そうよ貴方、次にはせめて、ルパンかラッフルス、それともエドモン・ダンテスのようなのを、お書きなさいな。こういうのなら、余りなまなましくもないし、貴方が書いても、そうすぐには貴方のことと結びつかないと思うのよ。それに、そんなに悪い人たちでもないわ」  母は、自分の提案に満足したようで、とても機嫌よくしていました。 「母さんね、ぐれた揚句に、さんざん新聞だねになって、前科も嫌になるほどあるし、母さんや亡くなった父さん、それに姉や兄には、随分肩身の狭い思いをさせちゃった俺だから……。懲役や刑務所の話を書いて本にしても、そりゃあ親類なんかには見せにくいでしょうね。すぐ次ってわけにもいかないけど、いずれ冒険小説や海洋小説も書きますよ」  と言ってやると、 「そうよ、それに貴方、悪者の話ばかり書いていると、ヤクザをやめても、目つきがなかなかもとのようになんか、ならなくてよ」  五十近くになった男の、目つきまで心配してくれるのです。 「母さんね、そう言うけど、懲役なんかより桁違いに悪い奴が、捕まりもせずに、塀の外にはウジャウジャしてるんです。目つきを、母さんが生んでくれた頃のようにしようとすれば、テレビや新聞も見られませんや」  母は、ちょっと怪訝な顔をしただけで、どうも分ってはくれなかったようですが、けど、もしこの人が面会に来てくれなければ、私は多分堅気にも、ましてやこうして本を出すようなチャンスもつかめなかったでしょうから……。  あれは、大変な面会でした。 [#改ページ]

  
あ と が き  警察の留置場は小学校、未決の拘置所が中学校、そして初犯刑務所は高等学校で、再犯刑務所は大学だ、というのは、昔からよく耳にした暗黒街のざれ言です。  長く語り伝えられた言葉には、ざれ言にも、それなりの真理が秘められていました。  懲役も、この大学にまで進めば、もうそれからは、その専門分野でズーッと生きて行くことになります。  というのは、法務省自慢の教育刑も、初犯はともかく再犯の「懲りない面々」には、まるで効き目がないようでした。  再犯刑務所を出所した受刑者が、またなにかしでかして塀の中に舞い戻る再犯率は、聞くところによると、なんと八十パーセントもの高率だということです。  中には、捕まる前に寿命の来てしまうのもいるでしょうから、これは「懲りない面々」のほとんどが、おいぼれ果てるまで、出たり入ったりを繰り返すということでした。  法を犯すからだ、と言われてしまえばそれまでですが、泥棒にだって三分の理はあるのですから、これはもうどうにも堪らないほどの、懲役大学の深情けです。  そんな救いのない「懲りない面々」は、正直なところそのほとんどが、なんとも恐ろしげで不気味な男たちでした。おまけに、凶暴で執念深く、そして大嘘つきのなまけものでした。  テレビの俳優たちでは真似ようのない、本物の悪党なのですが、私にとっては長い仲の連中ですし、中には極く稀で僅かではあったにしても、キラメくような素晴しいものを持った男もいたのです。  周囲にいてくださった方々の御尽力で、私はこうして、懲役大学との縁を切るチャンスに恵まれました。  自分がそうなると、親しかった他の「懲りない面々」にも、それぞれチャンスを掴んでもらいたいと願うのは、人情というものでしょう。  塀の外でズッと暮し続けられるというのは、そうできれば最高のことですから……。  大泥棒の忠さんが本屋の親爺になって、子供に漫画を万引されて参っていたり、あの図書夫の奴が、得意の脚を生かして郵便屋になっていたりしたら、どんなに嬉しいことでしょう。  再会したその晩は、きっと堪らずグデングデンになってしまうに違いありません。  こうしてはじめての単行本を、出すところまで漕ぎつけるには、文藝春秋の新井信さんをはじめ、此処にはとても書き切れないほどの、大勢の方々から、ひとかたならぬ御厚情をいただきました。  茲に厚くお礼を申し上げます。 「木工場のベテランたち」から「熱中式錯乱予防術」までは、月刊誌「室内」に『府中木工場の面々』という題で、昭和五十九年五月号から昭和六十年十二月号までの間、連載したものですが、この連載は昭和六十一年八月現在、まだ続けさせていただいております。  それ以後の章は、この機会に書き下ろしました。尚、文中、山本夏彦先生とあるのは、「室内」を発行しておられる工作社の社主で、押し掛け弟子の私が、師と仰ぐ方です。  御買上げの皆様、御助力をいただきました皆様、どうも本当に有難う存じました。 [#地付き]著 者    単行本   昭和六十一年八月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     |塀《へい》の中の|懲《こ》りない面々     二〇〇一年八月二十日 第一版     著 者 安部譲二     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Jouji Abe 2001     bb010801