安岡章太郎 良友・悪友  二代目たち 三浦朱門と石浜恒夫  柴田錬三郎についてのスコン的観察  「ウソ」の殉教者遠藤周作  吉行淳之介と自動車の関係  近藤啓太郎の風雅なる才能  三番センター庄野潤三君  金を想うごとく友を想う 邱永漢  練馬大王 梅崎春生の死  なるほど奇妙な小島信夫の「なるほど」  開口一番 開高健  昔の仲間   あとがき  二代目たち 三浦朱門と石浜|恒夫《つねお》  三浦朱門という名前は、たいそう珍しい。——この名前のおかげで、オレはどんなに迷惑したかわからないというが、私もこんな名前をつけられたら、自分の親父《おやじ》を恨みたくなっただろう。  しかし、この三浦の嘆きは多少とも裏返しになった誇りのようなものかもしれない。すくなくとも軍人の息子である私からみると、こういう凝《こ》りに凝った命名をする父親のいる家庭には、いろいろの意味で自由な空気が吹きぬけていただろうな、という気がするのである。——「自由な空気」とは一体どういうものか、と訊《き》かれてもこまる。ひとくちにいって、それは戦前から「戦後」の気風をもった家庭ということだろうか。つまり三浦は二代目の文化人なのだ。  戦前、「セルパン」という一種の文化総合誌があった。春山行夫氏や、亡《な》くなった十返肇《とがえりはじめ》氏が、編集に当っていた。型もページ数も、いまの「風景」ぐらいだが、本屋でオマケにくれるようなものではなく、堂々と定価十センで駅の売店などにもならんでいたから、内容は「風景」などとちがって、もっとドぎつく、活気もあって、いまの「週刊新潮」のタウン欄だけを集めたら、あんな雑誌になるのかもしれない。——三浦のお父さんは、その「セルパン」の初代の編集長だった。しかし、そういう具体的なことは、三浦の口からは一度もきいたことがないので、私は彼の結婚式によばれるまで、ちっとも知らなかった。私がはじめて高円寺《こうえんじ》にあった三浦の家へ遊びに行ったとき、廊下の隅《すみ》の本棚《ほんだな》に三浦のお父さんの名宛《なあて》の署名本が日にさらされたまま何十冊となく無造作に積み上げられてあるのを、めずらしそうに眺《なが》めていると、三浦はいくぶんイラ立たしげに、 「よかったら、そんなもの、どれでも持ってってくれよ。始末にこまるんだ」  と言った。私は早速《さつそく》、堀口大學訳のシュペルヴィエール短編集など、何冊かを貰《もら》って行くことにしたが、みんな紙質も装丁も立派な本ばかりなので、本当に貰ってもいいものかどうか、何度も訊《き》きかえさずにはいられなかった。すると三浦は、「かまわないったら、かまわないんだよ」と、どなるように言うのである。  要するに、息子にとって父親の職業というのは、一種の恥部なのかもしれない。私にしたって、もし家へ遊びにやってきた友達が、私の父の古い階級章だのサーベルだのに、もの欲しげな興味を示したりしたら、やはりこのときの三浦と同じ顔つきになっただろう。そういうふうに翻訳して考えると、三浦の気持もわからないことはない。 「ものを書いて売ってくらすやつも、それを買って商売するやつも、世の中で一番どうしようもない連中だぜ」  三浦がこんなことを言うのは、たぶん私に対するアテコスリもあったかもしれない。そのころ私は勤めをやめて、イチかバチか原稿料だけでくらしはじめようとしていたから。しかし、それと同時に浮草稼業《うきくさかぎよう》への嫌悪《けんお》とか不安とかいったものが、よほど深く身にこたえているのだろうかとも思った。それなら何で三浦はもっと他の職業を選ばないのだろう——、そう訊くと、三浦は簡単に言いかえした。 「それは、ものを書いてくらすのが一番ラクな商売だからさ」  どっちにしても三浦は、子供のときから文筆業者のウラおもてを見ながら育った。それだけ、彼は私たちのなかで誰よりも早くから文壇的生活意識を身につけていたはずだ。私が三浦とつきあい出したのは、ある日、突然、彼から会見を申しこまれてきたからだ。そのころ私は、まだ短篇小説を二つほど発表したばかりだったが、その一つは三浦と並んで文芸雑誌の新人特集号に出たものだったから、私も三浦のことは多少気にしていて、早速、申しこみに応じて、日比谷《ひびや》の喫茶店で落ち合うことにした。——といっても、顔も知らない同士が街で出会うためには、何かの目印が必要だ、それで私は「セビロの襟《えり》に赤い花、それが恥ずかしければ掌《てのひら》大の木の葉をつけて行くように」と提案した。こんなことを言い出したのは、私自身も未知の新人作家と会うことに、大いに好奇心をもやし、昂奮《こうふん》していたからである。  当時、私はレナウンという婦人向きのセーターなどをこしらえている会社でアメリカ、フランスなどの流行服飾雑誌の翻訳係りをやっており、発表した短篇小説も、そういう都会的フンイキを反映したハイカラがかったところがあったが、私自身の風采《ふうさい》はすこしも私の書くものに似ていなかった。第一、気取ろうにも金はなかったし、おまけに背骨のカリエスが治っていなかったのでシャツの下には、いつも甲羅《こうら》をしょったように固いセルロイドのコルセットをつけていたから、ちょっと身動きするたびに、垢《あか》じみた肌《はだ》とコルセットの間に溜《たま》った生温《なまあたた》かい空気が、シャツの襟もとや袖口《そでぐち》からフイゴのように吹き出して、そばにいる人の鼻先に汗と体臭のこもった風を送りつけることになっている。その日も私は、友達にもらった古いダブダブのセビロの下に破れたセーターを着こんでいた。——三浦の手紙には、「どうも�戦後�の文学というのは、みんなワザと汗臭い下着を見せ合ってよろこんでいるみたいですが、ボクは紳士ですから、そういうものとは断乎《だんこ》としてつきあいたくないのです」と書いてあり、こういう恰好《かつこう》で出掛けたら、さぞかし三浦という男は仰天するにちがいない——、と、いくらかイヤガラセの興味もあったのだ。  待ち合せの場所を、日比谷の「セ・シ・ボン」という喫茶店にしたのも、そのころはよく映画女優のアベックなどもやってきて、ハイカラな派手な感じがする店だったからだ。そこに私のような男がヌーッと現われたときの効果を計算したつもりだったのである。——ところで、この計算は半分ぐらいしか合わなかった。たしかに三浦は、私の姿をみとめると、机のコップを倒しそうになるほど驚いた様子だった。しかし、その三浦が半分腰を浮かせながら、胸につけた葉っぱをはずすと、くしゃくしゃに丸めて灰皿につっこみ、 「ボク、三浦シモンです」  と、舌のもつれるような声でいうなり、真っ赤な顔をして、ズボンの膝頭《ひざがしら》を合せるのをみると、どうしたことか私自身、突然、頭がクラクラするほど恥ずかしくなってきた。  ここにいるのは、おれの同類項だ。私は三浦をながめた瞬間そう思った。——本当をいえば、三浦は私よりもずっと身長も高いし、背筋も真直ぐで、着ているセビロも細目の襟のピンとしたスマートなやつだ。ワイシャツも真っ白だし、ネクタイもキチンとしたやつを締めている。おまけに顔の色も雪国の人の肌のように透きとおったピンクで、すこし赤味がかった柔らかそうな頭髪は、きれいに分けて撫《な》でつけてある。要するに、それは昼間の銀座通りなどでよく見掛ける、上から下までたったいま洋服の函《はこ》から出てきたような恰好をしている青年と、すこしも変らぬ身なりであった。そんな三浦が、どうして私の眼に自分の同類項のようにうつったのか? じつは三浦は、そのととのった服装にもかかわらず、いや、それだけに一層、彼の内側にある何かしら生グサイものが、眼や口もとや体全体に、妙にねっとりと漂っているからだ。  生グサイといったって別に三浦の体から実際に、そんな臭《にお》いが発散したというわけではない。ただ私は彼の体に、私と同じ体臭、同じ息づかい、同じジュクジュクした耳垢を感じたのだ。——一体そんな感じはどこからくるのか? これは私にもうまく説明がつかない。いってみれば、それは空想力や感受性をもてあました人間に特有の体質なのだ。にもかかわらず当人の三浦は一生懸命、自分とは正反対のタイプの、たとえば騎兵中尉の軍服でも似合いそうな人間になろうと、ノリで固めたカラーで首を絞め上げたりしてガンバっている。  私は、そんな三浦に落胆ともつかぬ狼狽《ろうばい》をおぼえ、おたがいに場違いのところに坐らされているような恥ずかしさも手伝って、しきりに大声で話しはじめた。すると三浦も、私が何か一と言いうたびに、大きな前歯を二本つき出して笑いながら、すぐ同じことを別の言葉でいいなおした。  そのときの私は、きっといくらか女性的な気分になっていたのかもしれない。すくなくとも、それは「見合い」のフンイキに、ひどく似ていた。初対面であることもそうだが、相手の体臭や体質を気にしたり、理解し合おうとつとめながら、こっそり相手を評価し合っている会話の内容などもそうだった。おまけに三浦のとなりに、顔の青白い男が一人、むっつりと押し黙ったまま、われわれの会話に耳を傾けるような、そのくせ何も聞いてはいないような、何か場馴《ばな》れした態度で坐っているのが、いわばナコウド役のようにも見える。 「ご紹介しておきます。これ、石浜恒夫くんです。『ギャング・ポウエット』……。しかし人柄はボクと同じで紳士ですから」  三浦は、ちょっと横をふりむいて、そう説明したまま、またもとにもどって、その男と関係のない話をつづけた。「ギャング・ポウエット」と馬鹿にスゴんだ題名のついた小説と、その青白い顔の男とは、最初なかなか私の頭の中ではつながらなかった。しかし、話の中途でふと憶《おも》い出して、 「たしか、あれは織田作《おださく》の未亡人といっしょになっているという……」  と何の気なしに、三浦に向かって問いかけると、その男は、突然、頭を掻《か》きむしりながら、けたたましい笑い声を発すると、 「そりゃ、それはボクのことや」  と、大声で言って、それから「ふーッ」と鼻毛のそよぐほど荒い息を一つもらすと、腕組みしたまま、また黙りこんだ。  石浜恒夫は、三浦とはちがったタイプの男だが、彼もまた二代目の文化人である点では共通していた。父親は京大の文学部の教授で、その教え子には作家や文学者がたくさんいるし、叔父《おじ》に当る藤沢|桓夫《たけお》氏も同じ家に住んでいた関係で、三浦の話では石浜の家そのものが関西文壇の一角になっているような印象をうけた。 「藤沢桓夫の『新雪』って小説、あれは石浜の家がモデルになっているんだぜ。あの中で、ほら、映画だと月丘夢路の弟になる旧制高校生が出てくるだろう。あれが、つまり石浜のことなんだよ」  三浦は文壇だの、売文業だののことは軽蔑《けいべつ》しきっているようなことをいうくせに、こういうことは、じつによく知っていた。……「新雪」は戦時中に出たほとんど唯一の明るい家庭小説として評判になったものだから、私も毎日の新聞で読んでいたし、映画もみていた。そういえば、あの小説に私と同じ年ごろの高校生が登場し、月丘夢路の姉と水島道太郎の小学教師の間を、いろいろと取り持ったりする役を演じたのも憶《おぼ》えている。いかにも明るく、健康で、秀才のように描かれていたあの「弟」が、いま眼の前で青白い顔をして坐っているこの男かと思うと、やはり奇妙な気持になった。  ところで私をとまどわせたのは、同じ二代目でも石浜は、こういう話を自分の眼の前でされても、別に恥ずかしがったりもせず、ただニコニコと笑っていることだ。これがもし三浦だったら真っ赤になって、話を止《や》めさせようとするだろうし、私だったら怒り出すかもしれない。しかし石浜は、こちらが拍子ぬけするほど平然と笑い流してしまうのである。私は、これは余程の大人物かもしれないと思った。すくなくとも彼は、三浦や私とちがって、父親の職業に羞恥心《しゆうちしん》をおぼえるなどということはないし、したがって二代目の劣等感などとも無縁であるらしい。もっとも、これは東京人と大阪人のちがいでもあるかもしれない。他人の前で肉親のことを持ち出すのを、テレたり、恥じたりするのは、幾分個人主義思想の洗礼をうけている東京人の気質であって、大阪の人にはこのようなことはないのかもしれない。とくに石浜の家は代々|道修町《どしようまち》の薬問屋だというから、文学とか文壇とかいうものに余計な幻想など、はじめから全然持っていないのだろう。その点、三浦はいくら文壇や文壇人を軽蔑するといっても、そこにはやっぱり裏返しになったスター意識やスノビズムのようなものが隠されているはずである。三浦の一見、銀座紳士風の顔に、泥臭い、ねばねばした、妙なナマグサい表情が見られるのも、おそらくそういう裏返しになった生殺しの野心が、心の底に絶えずイブっているからだろう。  自分の名前が活字になって出はじめたばかりの私たちは、口先ではどう言おうとも、そのことで得意になっており、同輩たちには少しでも遅れをとるまいとアセったり、神経質になったりしていたことはまちがいない。——しかし、そういう内面の気持をさらけ出すことは勿論《もちろん》、他人にそんな気配を覗《のぞ》きこまれることにも、警戒心をはたらかせた。それで、なるべくなら文学や小説以外のことを話さなければならないと思うのだが、顔を合せたばかりでは、さてどんな話をすればいいか、見当がつかなくなるのであった。  やはり、そのころ三浦と知り合った吉行淳之介のはなしでは、初対面の三浦は、いきなり、 「ボクは文学や小説は余技で、専門は音楽なんです」  と言ったという。ところが私には三浦は、 「子供のころ中耳炎をやったおかげで、片耳が悪く、そのためボクは音痴なんだ」と言った。どちらにしても三浦が苦しまぎれのデタラメを言いたくなった気持は、私にもよく理解できる。ついでながら大江健三郎が芥川《あくたがわ》賞をもらったばかりのころも、同じ傾向があって、「ボクは、いま娼婦《しようふ》にかこわれて暮らしているジゴロなんだ。女のことなら何でもボクに訊《き》いてください」などと言ったかとおもうと、三時間ぐらいたってから急に「ボク本当は童貞なんです。何にも知らないんだ」とヒソヒソ声になって告白したりした。ひとごとではない、私自身だって一体あのころ何をシャベったやら知れたものではない。……とにかく、こういうときに出る言葉は、じつは言葉ではなくて、或《あ》る種の衝動にかられた叫び声であるにすぎない。つまり多少とも世間にみとめられかかっているときは誰でも、いくらかは酔っ払い気分になっている。名声は、たといどんなに小《ち》っぽけなものでも、それは当人にとっては、まるで自分の周囲がひっくりかえったほどの大変化が起ったようにおもえるものだ。  私たち三人は、その喫茶店で二時間ばかりも、とりとめのないことを話し合ったあげく、午後の銀座通りを東銀座の方へ歩きかけた。京橋《きようばし》寄りの路地裏に私の友人のやっている小さなバーがあり、そこなら昼間でも店をあけてくれるだろうと思ったからだ。しかし私たちは何も飲んでいなくても、すでに酔い心地だったから、通りがかりの婦人を、あれこれ大声で批評し合ったり、勝手なことをシャベっていた。すると三浦は突然、宣言するように言った。 「いや、いまボクは一人の女のひとのことしか考えられないのです。そのひとのことを思っただけでも、眼の中にパーッと光が射《さ》しこんだみたいで、まわりのものが何にも見えなくなるほどなんです」  あまりに唐突に、しかも悲愴《ひそう》なほど真剣な顔つきで、こんなことを言われると、私たちはしばらくドクケをぬかれたように唖然《あぜん》として、立ち止った。 「いったいそれは何なのだね。人妻かね」と訊くと、 「いや、お嬢さんです。まだ学生で、田園調布《でんえんちようふ》の家から聖心の英文科へかよっている」  これはあんまり月並みな話なので、私はかえって笑い出しも出来ないくらいだった。  すると三浦は、さらに重々しげな口調で、 「あの君たち、いま言った女のひとのことは、吉行淳之介には絶対に秘密にしてください。女のことになると、かれは何を仕出かすかわからない男ですから」  と、いよいよ奇怪なことを言いだした。第一、私は吉行も名前だけは知っていたが、顔もみたことはなく、そのウワサをたったいま三浦からきいたばかりだから、その恋人のことを秘密にするも何もない。それに吉行という男が、どれほど達者な色事師かはしらないが、吉行だけを警戒して私たちの前ではのんきにノロケてみせる三浦の態度も、あまり愉快ではなかった。  それから一と月ばかり後に、私は吉行淳之介と偶然、ある雑誌の合評会の席で顔を合せた。共通の知人として当然、三浦のことが話題に出たついでに、何くわぬ顔で、 「あいつ、何かフィアンセがいるらしいね」と訊《き》いてみると、 「ああ、曽野綾子《そのあやこ》さんだろう、『新思潮』の同人の……。三浦のやつ、彼女がいるばっかりに、あの雑誌を同人が自分一人になっても出しつづけると、ガンバっているそうだ」と吉行は、私よりもよほどくわしい事情につうじていた。 「なアんだ、じつは三浦から、これについては吉行にだけは絶対秘密にするように、とたのまれていたんだが」 「君にも、そんなことを言ったのか。それが三浦の口グセでね……。イヤガラセのつもりなんだろうが、こちらは一向にこたえないよ」  そういうと吉行は、広い額をツルリとなでると、うれしそうな笑い声を立てた。そうして、たちまち隣にいた女性の手をとって自分の膝にのせると、私の前でこれみよがしに、その手を愛撫《あいぶ》しはじめた。——三浦が、吉行のことを「何を仕出かすかわからない男」といったのは、こういうことを指すのだろうか。私は、三浦の洋服函《ようふくばこ》から出してきたような服装をおもいうかべながら、そう思った。つまり吉行のドン・ファンぶりにも、三浦のオシャレと、どこか似たところがありそうだった。その間にも吉行は、 「モモ、ヒザ三年、シリ八年、といいましてね。こういうところを、さりげなくさわるようになるまでの修行がたいへん……」  などと、しきりに手を女性の体にかけながら、ときどきチラリと私の方に眼を向ける。まるで自分が、いかに卓越した技巧家であるか見てくれ、といわんばかりだ。……そういえば吉行は新興芸術派の作家吉行エイスケの遺児で、これもまた二代目であることを憶《おも》い出し、父親の作品をどう思うか、と訊いてみた。すると吉行は、うっとうしげな顔つきで、 「親父《おやじ》が物を書いていたのは二十代の前半までで、いまのおれたちの年には、もう何も書いていなかったからね」  と、まるで父親が勘当にした息子のことでも訊かれたような口ぶりだった。おそらく吉行も三浦と同様、父親に好奇心をもたれるということ自体が迷惑なのであろう。しかし三浦に対して別段、同病|相憐《あいあわ》れむという気持にもなれないらしく、かえって「朱門とは、ひでえ名前をつけられやがったな」と、ふと小意地の悪げな微笑をうかべたりする。もっとも、いまになって考えると、これは吉行流の同情の示し方だったかもしれない。結局のところ、われわれの間で一番よく三浦を理解しているのは吉行で、二人はちょうど背中合せに立ったかたちで立っているようにも思えるからだ。 「新興芸術派」も「セルパン」も、昭和の初期のモダン文化を象徴したようなところがあるし、どちらも何かアダ花みたいに消えてしまったところも似ている。そして吉行も三浦も、父親のやったことには背を向けたようなことをいいながら、二人とも二代目の文筆業者になろうとしている。学生時代は二人とも、不良型の秀才だったらしい。……この点、私のように「二代目」でもなく、小学校から大学まで、一貫して劣等生だったのとは、非常な違いである。しかし私は私なりに、三浦にも吉行にも、別個の親近感をおぼえるところがあった。体質や骨格のうえでは三浦に、気質の傾向としては吉行に、それぞれ似かようように思った。  何にしても、私たち三人は一、二度、顔を合せただけで、ひどく打ちとけた気分になった。——それで、これからこの三人に石浜恒夫を加えて、毎月定期的に集合し、おたがいにセッサタクマしようではないかということになった。集って、いったい何をセッサタクマしようとするのかはわからなかったが、この言葉が何となくみんなの気に入ったからだ。しかし、この「セッサタクマの会」は、たしか第一回の会合を七月の或る日曜日、東銀座裏のバーでひらいたきりで、おわってしまった。そのころには何も月に一回、日をきめて会わなくとも、十日に一ぺんぐらいは顔を合せるようになり、やがて十日に一ぺんは一週間に一ぺん、三日に一ぺん、と日増しに会う度数がふえて、もはや連日、集会が行われているのと同じことになってしまったからだ。  そのころ私は、日本橋の友達の家に居候《いそうろう》のようなかたちで住まわせてもらっており、三浦は高円寺で部屋住みの身分だったから、集合するのは自然、市《いち》ヶ谷《や》駅前にあった吉行の独立家屋——といっても六畳、四畳半、二部屋の家で、おまけに四畳半には吉行の友人夫婦が住んでいたから、結局六畳一部屋ということになるのだが——が一番多くつかわれた。  吉行の家——というべきか部屋というべきか——には、いつも真っ黒い大きな猫を抱いた、痩《や》せ型の色の白い女性が坐っていた。吉行のことを「にいちゃん」と呼ぶので、はじめは吉行の妹かと思っていたが、そうでもないらしく、午前中に押しかけて行くと、その女性と吉行が一つのふとんで寝ており、私が玄関口から顔を突き出すと、「きゃっ」と叫んで跳《と》び起きたりする。このようにして、その女性が吉行の細君であることを了解するまでに、私はかなりの日数を要したが、これは必ずしも私がボンヤリしていたためではなく、吉行の家を訪問した人はほとんど皆、同じ困惑を経験したはずだ。……しかし、こういう一般家庭には見られぬ家庭だったために、吉行の家は一層みんなの溜《たま》り場《ば》になりやすかった。私と三浦は、ほとんど競争のように、この女性のまえで、わがままや不作法のことを言い合った。  私が吉行の家へ行くと、大抵、三浦がコタツ兼用のチャブ台の前にあぐらをかいており、私が一人で出掛けて吉行と話していると、ほとんど必ずあとから三浦がやってくる。三浦は真っ赤な顔をして、息をはずませながら、入ってくるといきなりバタリと倒れるように横になり、 「わーッ、きょうもバズーカにやられた」  と叫ぶのである。  バズーカとは千鶴《ちづ》子嬢、つまり曽野綾子さんのことだが、私たちが「なぜ彼女がバズーカなんだ」と訊くと、三浦は起きなおって、目をみひらき、 「なぜって? いきなり、ここんところへズドンとくるからさ」  と、胸をコブシで一つ叩《たた》くと、またバタンとひっくりかえってみせた。 「あれは一体、どういうことかね」と、あとで私が吉行に訊くと、 「要するに、昂奮《こうふん》してるんだろ。三浦のやつ、このごろは恋人に会うまえの食前酒か、会ったあとの食後酒のつもりで、おれんところへ来やがるんだ。……それぐらいなら、いっそここへ彼女を連れてこいと言うんだが、絶対にダメだそうだ。よっぽど、おれを信用していないらしい。バカな野郎だ。そのくせ作家のTさんの家なんかへは連れて行ったりするんだから。Tがおれの何層倍も悪いクソ坊主だということを知らないのかな」と、吉行は話しながら、次第に本気になって腹を立てはじめるのである。  柴田錬三郎についてのスコン的観察  私が「三田文学」に短篇小説を一つ二つ書きはじめたころ、事実上の編集長の役割を受け持っていたのは柴田錬三郎氏である。  柴田錬三郎の名前から「眠《ねむり》狂四郎」しか思い浮かばない人には、これは意外におもわれるかもしれない。しかし「狂四郎」のシバレンは、じつは柴田氏の才能の一部分であるにすぎない。「三田文学」の編集長格をつとめる何年かまえの柴田氏は「読書新聞」の編集長であり、そのまた前の昭和十六、七年ごろの柴田錬三郎は「三田文学」の目次の小説欄にもっともしばしば名前の出てくる人であった。私がはじめて三田の先輩として柴田氏の顔を遠くの方から眺《なが》めたのも、そのころだ。  あれは、たしか昭和十七年、秋であった。銀座のM製菓の二階で、「三田文学」が日吉《ひよし》の予科の生徒をよび集めて激励する会が行われた。戦争中、同人雑誌の発行は認められないばかりでなく、これまであったものまで統合されて、結局は文学など全面的に禁止されようという時代だったが、そんな時代だからこそ、こんな会をやる必要があったともいえるだろう。もともと三田は早稲田《わせだ》とちがって文学青年は極《きわ》めて僅《わず》かしかいないはずだが、それでも私たち予科生が五、六十人も集って先輩の話をきくことになった。  そのときの話が、どんなものだったか、正直のところ、ほとんど印象に残っていない。憶《おぼ》えているのは編集長和木清三郎氏の隣の席に、ミガキ鰊《にしん》のごとく痩《や》せて乾《かわ》いた顔つきの人が、じっと腕組みしたまま、口をへの字に結び、ときどきフチなし眼鏡の奥から細い三白眼をジロリと光らせていたことである。それが柴田錬三郎氏であったわけだが、錬さんの顔つきは、いまもそのころと、ほとんど変っていない。つまり、二六時中、眉根《まゆね》に刻《ほ》ったような縦ジワをよせ、頤《あご》にウメボシをつくって、「世の中のこと、すべて何とも苦々しいかぎり」という風貌《ふうぼう》である。そのかわり年恰好《としかつこう》も、そのころと、ちっとも変らない。昭和十七年ごろの錬さんは満年齢で二十三、四歳にすぎないはずだが、すくなくとも三十五歳以下には見えなかった。……柴田さんといえば、私より十年も年上の人のような気がして、いまも必要以上に敬老精神の念を起させられることがあるのは、こんな理由からだ。  当時の柴田氏は本当のところ、決してウマい小説を書く人ではなかった。予科生の私が読んでも、むしろ、おかしなぐらい無器用な作家であった。そのころの氏の作品で「割腹記《かつぷくき》」というのを憶えている。——ある日、銀座の画廊に、黒いセビロを美事に着こなした一人の青年があらわれ、冷ややかな眼つきであたりを見廻しただけで帰って行くが、その夜、この青年は西洋文明にもあきたらず、日本の将来にも絶望して、帝国ホテルの自分の部屋で、日本刀で切腹自殺をとげるといった話だ。  別に取りたてて、どうということもない短篇なのに、何でこんな話を忘れないかといえば、この小説が戦時下の文学青年気質といったものを妙に端的に反映したところがあるからだ。あのころの柴田氏が果して、この主人公の青年のように絶望していたかどうかはともかくとして、当時の私たちを取りまいていた現実は、まともに眼を上げて見ていられなかったくらい絶望的なものだったことはたしかである。  その「三田文学」も、予科生にハッパをかける会があってから間もなく休刊してしまった。以後、約十年間、戦後二度目の「三田文学」が酣燈社《かんとうしや》から復刊されるまで、柴田さんと顔を合せることもなかった。——戦後最初の「三田文学」は丸岡明氏の能楽書林から出ており、原|民喜《たみき》、加藤道夫、鈴木重雄、梅田晴夫といった人たちが活躍したわけだが、軍隊から引きつづいて脊椎《せきつい》カリエスで寝たっきりになっていた私は、そのころの「三田文学」について、ほとんど何も知らない。一度だけ二〇〇枚ばかりの小説を持ちこんで、丸岡さんと原さんに読んでもらい、断わられて帰ってきたことがあるが、当座しばらく落胆のあまり、三田文学という字を見る気にもなれないくらいだったから、当時の様子など知るわけがないのである。  だから佐藤春夫氏の小説「日照雨《そばえ》」のヒロインS女史をめぐっての、さながら「三田文学・プロヒューモ事件」ともいうべき奇々怪々、波瀾《はらん》万丈の物語も、あとになって聞いたことで、当時はちっとも知らなかった。  しかし「プロヒューモ事件」も、じつはそれだけ英国の政界人が私生活の情事にまでキビシい詮議立《せんぎだ》てを受けているから起ったことで、わがくにの政治家ならコール・ガールを一人買ったぐらいで、スキャンダルになるなど夢にも考えられないだろう。「日照雨」の事件についても、これと同じようなことが言えそうだ。S女史には私も何度か会う機会があったが、なるほど佐藤先生のいわれるとおり、頬骨《ほおぼね》と口先の尖《とが》った顔はキツネに似ており、「プロヒューモ事件」のクリスチン・キーラー嬢ほどの魅力があったとは、到底おもえない。ただS女史には女性としての稀少《きしよう》価値において、三田文学のキーラー嬢になり得る条件がととのっていたのだろう。つまり当時の「三田文学」内部の気風は、それだけ清浄潔白、女性の色彩に乏しかったといえるわけだ。  何にしても、柴田錬三郎氏もその「日照雨」では、ソ連のイワノフ大尉ぐらいに重要な役割を演じているのだが、柴田氏の場合はそのときの女性との交渉ぶりで、かえって人柄の誠実さを、佐藤春夫先生ほかの諸先輩にみとめられる結果となった。  私は自分の作品がはじめて「三田文学」にのるとき、編集委員の北原武夫氏にいろいろの教示をうけたが、話のはずみで柴田氏の名前が出ると、北原氏は、 「柴田君は信頼のおける人です。あの人が『三田文学』をやっているかぎり、絶対にだいじょぶです」  と、断乎《だんこ》とした口調で言われた。その調子があんまり断乎としているので、じつのところ私は少しマゴついたくらいだ。というのは、その少しまえに徳川夢声氏が「エロ作家を叱《しか》る」という文章で、柴田氏の小説をヤリ玉に上げて、さんざんに非難しており、それを読むと、まるで柴田氏イクォール「エロ」という印象で、さながら柴田氏は痴漢か色情狂の扱いを受けているように思われたからだ。しかし痴漢や色情狂が、こんなに信頼をおかれるものだろうか、このことから私は、作品と作家とを混同してはならないという素朴な事実をまなんだわけだが、まったくのところ作品にあらわれる作家の人柄は、その作家の人格の一部分にすぎないので、ワイセツなことがらを書く作家が、ワイセツな人間であるとはかぎらない。むしろワイセツなことばかり書く作家が、高潔な人間である場合もしばしばある。ワイ本は作家の署名も宣伝もなしに売れる唯一の書物であるし、それは売文業者として一番ウソもゴマ化しもない生き方だともいえるからだ。  夢声氏に叱られた柴田氏の小説は、そのころの所謂《いわゆる》カストリ雑誌に書きとばしたものだろうが、柴田氏がもしもっと世渡り上手《じようず》の、売り込みのウマい人であったら、あんなものは書かずにすんだかもしれない。義理固くて、キチョウメンで、しかも金銭が絶対に必要な境遇に陥ちこんだ柴田氏は、誰の助力がなくても売れるその種の小説を書きまくって、作家としては一番つらくてソンな立場から出発した。つまり市井人《しせいじん》としての自尊心をまもるために、作家の自尊心を犠牲にしたというわけだろう。  私が「三田文学」に出入りしはじめたのは、ちょうどそんな柴田氏がもう一度純文学の小説にもどって、再出発をはかっていた時期に当っている。しかし私はそのころ、三田文学の例会などで柴田氏と隣り合せに坐るのが、何となく苦手であった。十年まえ、戦時中にはじめて会ったときの印象もさることながら、とにかく柴田氏と並んで坐ると、私までひとりでに、口をへの字に結んで、頤にウメボシが出来るほど、力んだ顔つきになってしまうので閉口なのである。  皮膚は、まえに述べたとおり、鰊のヒモノさながらの色艶《いろつや》で、眼を冷たく光らせたまま、黙然と端座した柴田氏は、私がヘタな冗談口などきいても、氷のごとき表情をニコリともさせないのである。ときに、 「おほん、おほん」  と、低くウメくような咳《せき》ばらいをしたかと思うと、眉根の縦ジワを一層深く刻み、骨ばった手で胸のあたりを軽く掻《か》くように撫《な》でまわしながら、 「ううう、おめえさんは自殺ということを考えてみたこともないのか、おれにいま興味があるのは自殺だけだ」  と、短くウナるようなくぐもり声で、ぽつんと言っては、また黙りこむ。とりつく島がないという言葉が、そのまま当てはまる姿勢であった。 「いや、錬さん、アレはポーズだよ。人見知りが強くて、テレ屋だから、あんな恰好《かつこう》をしてみせるだけなんだよ」  ずっとあとになって、遠藤周作が私に言った。遠藤はまた、およそ人見知りなどしない男で、柴田氏とも以前から深い付き合いがある。その遠藤の言うことは、そのとおりにちがいないと私も思った。しかしポーズだろうと何だろうと、柴田氏が私にとって近寄り難い人物であることに変りはなかった。  たとえば、あの咳ばらいは多分、結核をわずらっているからであろうが、同じ結核キンでもクロマイその他の新薬で回復できる最近のものとちがって、柴田氏の胸をむしばんでいるのは、もっと悪性の、「労咳《ろうがい》」といった徳川時代の呼び名がふさわしい業病をおもわせるものがあるのである。私は、そんな柴田氏から多分に、宿命の十字架を背負った悲劇の人物を想像しがちであった。それに、いくらテレ屋だといっても、単なるテレ臭がり屋は、あのような重厚な雰囲気《ふんいき》を発散して無用にひとを脅かすことはないはずである。  しかし、何度かそういう付き合いを重ねるうちに、柴田氏が心根に優しさを持つ人物であることが、私にも少しずつわかってきた。別段、目立った親切はほどこされなくとも、それとは別にその人間本来の善し悪《あ》しは存外、容易に伝わってくるものがあるらしい。吉行淳之介の「谷間」を三田文学に採用したのは柴田氏だが、「谷間」はあとで芥川《あくたがわ》賞候補になったし、どこでも通用する作品だったから、採用されたのはむしろアタリマエだといえるにしても、吉行はやはりそのことで柴田氏に感謝していた。……吉行が柴田氏とどういう関係で知り合ったかは私はしらない。とにかく「原稿を世話してくれても、恩着せがましくもないし、かといってヘンにベタベタした感じにもならない。それでいて、ちゃんとおれのことなんか憶《おぼ》えていてはくれるんだからな」と、吉行は柴田氏の私心のない好意をよろこんでいた。  ところで吉行によれば、 「柴田さんは、構えることは構えるんだがね、あの人の構え方には、どこか滑稽《こつけい》なところがあっていいよ。……いつかT君の処女出版の本に柴田さんがオマージュを書いた。T君の颯爽《さつそう》とした文章をたたえる意味で、『シラノ』のセリフを引用して、『これはこれ、これガスコンの青年隊』と書いたつもりなんだろうが、それが印刷になってみると、どういうわけか、『これが、スコンの青年隊』になっちゃってねえ」 「なるほど『これがスコン』じゃ屁《へ》みたいだ」 「べつに、柴田さんが間違えて書くわけじゃないんだが、何となくスコンとなっちゃうところがねえ」  と言うのである。偶然のメグリ合せを一つの個性の宿命だと考えるのは、吉行らしい発想だが、言われてみればたしかに柴田さんにはスコン的なところがありそうな気はした。しかし気取るということには、元来あとでスコンと抜け落ちてしまう部分があって、したがって用心深い気取り屋は、すこし斜めにかまえたり、うしろを振り向いたりするのだが、柴田氏の場合は真正面から方式どおりに気取ってしまうところがある。そういう柴田氏の正直さは、遠藤周作にとっては絶好のイタズラの対象になるらしく、いつかも、 「ケッサク、ケッサク」  と、遠藤が大声にはしゃぎながら、やってきて言うには、 「錬さんが、こんど黒いソフトと銀の握りのついたステッキを買って得意になっているのを知ってるか? この間、おれが遊びに行ったら、あんまり得意になって見せびらかすんでシャクにさわってね、あとから女の子を使ってニセ電話を掛けさせたんだ。『先生のファンなんだけれど、ぜひ一度お目に掛らせていただきたい。新宿のK書店のロビーで待ってます』ってね。……約束の時間に、おれが何食わぬ顔してK書店へ行ってみたら、錬さんがちゃんと来てるんだよ、黒いソフトを目深《まぶか》にかぶって。おれは、そのまま外を一と廻りして、また行ったら、まだいるんだよ。ロビーの椅子に腰かけて、すこし待ちくたびれたように、股《また》にはさんだステッキの握りに頤をのっけて、あたりをキョロキョロ見廻してんだよ」  遠藤の言うことであるから、こんな話もどこまで信用してきいていいのかわからない。そして、もし本当とすれば、イタズラにもルールがあると主張する遠藤としては、いささかルール違反のようである。しかし、黒のソフトに銀の握りのステッキをそろえるところは、いかにも柴田氏らしい好みといえる。  これらはみんな柴田氏が直木《なおき》賞をとる前か、とったあと暫《しばら》くの間のことである。いずれにしても週刊誌ブームのはじまる前の、まだノンビリした時代のことだ。そういえば柴田氏が「眠狂四郎」を書き出す直前の緊張した顔つきも忘れられない。そのころ私たちは、ときどき、まったく何の用もないのに柏木《かしわぎ》の柴田氏の家に出掛けて話しこんだり、外へ誘い出してバアをおごってもらったりした。そのときも、たしか私と吉行と庄野潤三の三人が中野のあたりで飲んだあと、何となく「しばらくぶりで錬さんの顔がみたくなった」などと出掛けたものだ。すると、いつになく張りつめた顔の柴田氏が、玄関|脇《わき》の横長い応接間のソファーで、額にかかる髪を掻《か》き上げながら、「おれも、いよいよ大衆小説を本腰でやってみる」と、低い声で、宣言するように言った。そのころでもすでに柴田氏は中間小説作家と世間ではみなされていたはずだが、私たちの間では柴田氏は銀の握りのステッキをついて歩く一個の文学青年だった。それに私は柴田氏を、頭から無器用な小説を書く人ときめてかかっていたので、週刊誌に毎号、読切りの悪漢小説を書くなどといわれても、ひとごとながら聞いただけでもアブラ汗が流れるようで、それが大成功を博して何年間もつづくなどとは、まったく夢にも思わなかった。むしろ当の柴田氏が、自信ありげに、 「なアに、おれがやったら時代小説に新しい行き方をみせて、かならず湧《わ》かせてみせるよ」  と言うのが何だか不思議で、アイヅチを打つにも力があんまり入らなかった。 「だいじょぶかな錬さん、また体でもこわさなきゃ、いいんだがな」など、ささやきながら、まだどこか焼跡の臭《にお》いのする、雑然とした家並の暗い小径《こみち》を、つたい歩いて帰った。  それから半年間あまり、出版記念会などあっても、柴田氏の顔が見えず、勿論《もちろん》こっちから訪問したりもしなかった。そして伝わってくるうわさは、柴田氏の悪戦苦闘ぶりばかりで、吉行は沈痛な顔つきで、「もう錬さんは女をみても、ぜんぜん昂奮《こうふん》しなくなったそうだ。怖《おそ》ろしいことだなア」と、恐怖と同情をいっしょにした声で言った。  あれは、たしか近藤啓太郎が芥川賞をとったパーティーのときだろうか、ひょっくりやってきた柴田氏の顔をみて、まるで野戦がえりの兵隊でも見るような気持がした。 「いいんですか、こんなところで時間をツブして」 「もうだいじょぶだ。みんな軌道に乗ってきたからね。つらかったのは最初の三月だ」  無表情にこたえる柴田氏の顔つきをみても、まだ本当に大丈夫なのか、自分で気休めに、そう言っているだけではないかという気もした。そのころの柴田氏の執筆量がどれぐらいか私は知らない。たぶん週刊誌が一本に、新聞小説が一本か二本ではなかっただろうか。しかし、そう言っているうちにも、その量はアキレるばかりに増大し、そうなってはじめて柴田氏が「もう大丈夫」であることを納得したが、私にはもはやそれは人間が机の前に坐ってする作業であるとはおもえず、机に据えつけられた真黒な動力機械が、うなりながら無数の原稿用紙を天井高く舞い上げては、部屋一面にまき散らす場景が想像されるばかりだった。スーパー・マン、眠狂四郎は、そのまま作家柴田錬三郎のイメージに重なり合って来そうであった。  実際、ゴルフをやりはじめた柴田氏が家の中でクラブを振りまわしているところを見ると、どうしたってゴルフというより円月殺法とやらいうものに見えるのである。私は、ゴルフ人口が激増したのは、サラリー・マンも部課長以上になると、町奴《まちやつこ》がサムライにあこがれて剣術の稽古《けいこ》にいそしみ出したのと同じだということを、理屈としてではなく実感として受けとめた。柴田氏にしても、銀の握りのステッキは、結局どこまで行っても、ハイカラ気取りか、異国趣味のものであり、つまり「これがスコン」ということになり勝ちだが、ゴルフのクラブだと、そうはならない。現代日本の風俗にピッタリ合って、柴田氏はその中で自由に動くことが出来る。  週刊誌ブームにわいた皇太子御成婚の年、もう柴田氏は鬱然《うつぜん》たる剣豪作家であったが、私たちには依然として昔のままの「錬さん」であった。ただ以前とちがって私も、柴田氏のくぐもり声には驚かなくなったし、重圧感もおぼえなくなった。そしてその夏、私は軽井沢の柴田氏別荘に二|箇《か》月ほども、ほとんど居候《いそうろう》のように入りびたることになってしまった。  別に最初から居候を志願したわけではなく、柴田別荘の裏山を上ったところに講談社の寮があり、私はそこにこもって三百枚ぐらいの小説を一つ書き上げるつもりであった。寮では食事の世話もしてくれるから、外を出歩く必要はないのだが、一日に一度はやはり町へ下りてみたくなる。だらだら坂を下ると左手に、美しい苔《こけ》に覆《おお》われた柴田家の前庭が眼にうつる。最初はちょっと挨拶《あいさつ》によってみるぐらいのつもりだったが、何となく腰を落ちつけて昼飯と晩飯を御馳走《ごちそう》になると、あくる日からも毎日出掛けて、たちまちまったくの入りびたりになってしまった。——これは私の子供のころからの悪いくせで、よその家に行って居心地がよくなると、まるで全身がタコの吸盤みたいな作用を起し、その場に吸いついたまま、動けなくなってしまう。  とはいえ私も、そのとき三十代のおわりを目近《まぢか》にひかえ、不惑の年に達しようとしていたのだから、自分がタコであることも自覚していたし、自制心も少しは働くようになって、よその家に根が生《は》えて動けなくなるようなことは、もはやあるまいと思っていた。それが間違いのモトだったかもしれない。二た月、毎日、休みなしに出掛けて厄介になったのは、さすがの私にも記録破りの居坐りようだった。何でそういうことになったのか? はじめは飯が魅力だと思っていた。柴田家には優秀なコックが住込みで雇われており、毎日、目先のかわったものが出る。朝のベーコン・エッグにコーヒーはともかく、昼はアユの塩焼にナメコ汁といったあっさりしたものなら、晩はコンソメ、小エビのコキール、シャトーブリアンのステーキという具合で、和食あり、中華料理あり、まことに多彩をきわめたそのメニューは、講談社の寮のオバさんのこしらえてくれるカツ丼《どん》とは無論比較にならず、軽井沢にあるホテルのグリル、レストランにも少しもひけをとらぬものと思われた。それも家庭の食堂の椅子に坐って食う気楽さは、絶対に他では得られぬものだ。  しかし、それだけのことなら、いくら私が病的なズウズウしさを発揮したとしても、あんなにべんべんとは居坐れない。やはり家そのものの居心地がよかったのである。飯のあと、暖炉の前で薪《まき》をくべはじめると、「アア困ったことだ、こんなことをしていると、いまに身動き出来なくなるゾ」と思いながら、ついそのまま、出されたコニャックか何かを飲みはじめてしまう。そして心ならずも、それが毎日つづいてしまった。  そんなことで二箇月、その間、二百枚は書くつもりだった原稿は、ついに十八枚で東京へ帰らざるを得なくなった。同じ時期に、その家で柴田氏はおそらく千八百枚は書いていたであろう。しかし柴田氏が机の上に据えつけられたモーターのようになって執筆するさまを想像したことは、私の誤りであった。私が暖炉の前に坐りこんでいると、柴田氏も十時ちかくまでソファーに体をのばして、まことに悠然《ゆうぜん》としている。しかも昼間は毎日、ゴルフに出掛けるのだから、あの大量の原稿がいつ書けるのかは、ナゾというより仕方がない。  ところでナゾといえば、その軽井沢滞在中、私は柴田氏に関することで、もう一つ不思議なことをきいた。それは柴田氏の、あの労咳《ろうがい》めいたセキばらいが、じつはまったくのポーズのためのポーズであったということだ。あるとき柴田氏の留守に何気なく柴田夫人に、 「錬さんも、本当に元気になりましたネ」  と話していると、夫人は、 「ええ、あの人は、ああ見えて、とても丈夫で、戦後は一ぺんも医者にかかったことはありません」と意外なことをいう。 「へえ、じゃ、胸の方は医者にも診《み》てもらわずに……」  と、重ねて訊くと、夫人は顔を真っ赤にして吹き出した。 「あんた、あの人、胸なんか一度も患《わずら》ったことないのよ。主人は外へ出るとムツかしい顔をして、人をみると『血を吐いた』とか何とかカツぐくせがあるので、みんな一度ぐらいはダマされるんだけれど、あんた、まだ気がつかなかったの」  気がつくも何もない。私は一度だって、あの咳ばらいを疑《うたぐ》ろうとしたことさえなかった。だから私は、昭和十七年にはじめて顔を見て以来、かれこれ二十年間もダマされつづけていたことになる。そして、「これがスコン」だの何だのと、かげで好い気なことを言っていた。——ひどいよ、錬さん!  肺病といえば、大正期ごろの文学青年は、胸が悪くならないと善い文学は書けないと考え、梶井基次郎《かじいもとじろう》なども冬の夜ふけの三条大橋の上でワザと胸をひろげて自分でぶん殴《なぐ》ったりしているうちに、本当に肺病になってしまったという話をきいたが、まさか柴田氏が戦後になっても、悪くもない胸を「労咳」ぶって見せていたとは……。銀の握りのステッキをついたりする柴田氏はやっぱり、おそるべき古典的文学青年の残党として、まことに貴重な存在というべきかもしれない。  「ウソ」の殉教者遠藤周作 「このごろ三田の仏文に遠藤周作という若手の秀才があらわれたそうだ。最近フランスへ留学に出掛けたんだがね……」  昭和二十五年、脊椎《せきつい》カリエスで寝こんでいた私の家へ見舞いにやってきた友人から、そんなウワサを聞かされたとき、正直にいって私は嫉妬《しつと》ともつかぬ小さな衝動を受けた。私の憶《おぼ》えている終戦直後の三田の山は、階級章のとれた陸軍、海軍の軍服に、帽子だけ学生帽をかぶったり、それもない連中は戦闘帽にペンの塾章を貼《は》りつけたり、かと思うとオヤジゆずりのセビロを着こんだり、油でテカテカに撫《な》でつけた無帽の頭に皮のジャンパーを羽織ってイキがったり、まことに雑多な服装の連中がウヨウヨしていて、その大半は復員学生なのだが、じつのところ上野の地下道あたりにヤミ屋や浮浪者がむらがった光景と、ほとんど変りなかった。私など単に見かけが浮浪者的ヤミ屋であったばかりでなく、実質的にもそれに近い暮らしをしており、学校へは何とない心細さをマギらわせるために、ときどき顔を出しただけのことだったが、当時のアルバイト学生といえば大抵はこんな私と大同小異だったのではなかろうか。要するに、そこは大学というより敗残兵の吹き溜《だま》りであって、ここから将来有望な新進評論家が巣立つなどとは到底かんがえられなかったのである。第一、遠藤周作なんて、名前からして鋭利なカミソリのような感じのする学生は、人数の少ない仏文科のクラスでも見掛けたことがない。  そういえば一人、私も遠藤という男を知っているが、その男はいつも背中にバンドのついた時代遅れのモダン・ボーイを想わせるケバケバしい柄の外套《がいとう》を着て、近眼鏡のおかげでいよいよ動物的にみえる真っ黒な顔に、馬のように大きな前歯をむき出しながら、 「オレなア、自分のスケにパンパンやらしとるんやが、このごろはアメ公も景気悪うて、ちょっとも商売にならへんのや。誰かオレのスケ買《こ》うて、抱く奴《やつ》おらんかいな。君らやったら学割で安うしとくでえ」  と、教室中にひびきわたるガラガラ声でドナったりばかりしており、これがジードや堀|辰雄《たつお》の文学を論じて嘱目されているという遠藤周作とは、全然別個の人物であることはあまりにも明らかだった。たぶんその秀才の遠藤周作は学校などへは出席せず、焼けのこった屋敷町の書斎の奥のデスクに、どっしりしたラルースの辞書などそなえて、世間の混濁した空気とは没交渉にコツコツと読書にふける、恵まれた環境のエゴイストなのであろう。何にしても結核性カリエスで寝こんだまま、栄養をとるどころか、食いものらしい食い物さえロクに口にすることの出来ない自分とくらべて、フランス留学中だという遠藤君のことは、話にきくだけでも、まるで夢の王子のように晴れがましく、羨《うらや》む気にさえなれなかった。  だから、そんな遠藤周作のことは、それっきり、忘れるともなく忘れていた。彼の名前を、もう一度きいたのは、それから四年たった夏である。  その日、私は丸岡明氏と何か面談する要件があったのだが、丸岡氏の方から、「丸の内の某グリルで行われる遠藤周作の出版記念会に出席するので、そこで会いたい」という知らせが来た。  へえ、あの秀才がフランスから帰朝して本を出したのか——。たまたま近々、はじめて短篇集を一冊出すことになっていた私は、或《あ》る感慨とともに、そう思った。  それにしても招かれてもいない会合に出掛けて行くのは、肩身も狭く、気分も重かったが、要件とあれば出て行かざるを得ない……。重々しいビルの地下の会場へ、足をひきずりながら下りて行くと、入口でバッタリ、珍しい男にぶっつかった。糊《のり》のききすぎた白麻のセビロで、ひょろ長い体をヤッコ凧《だこ》みたいに突っぱらせたところは、一目|瞭然《りようぜん》、いかにも山出しの男がたったいま借り着をしてきたにちがいなかったが、そんなことより私は、終戦直後の三田の山でパンパンのポン引をやっていた男に、意外な場所でめぐり合ったナツカシサに思わず駆けよった。向うも、そんな私に一瞬、眼を剥《む》いたが、 「おお、安岡……」  と、寝ぼけたような声を出した。たしかに、あいつだ。あれから、もう十年近くになるというのに、頭髪が少々|禿《は》げ上って、長い馬面がいよいよ長くはなったけれど、日本人ばなれのした色の黒さも、どこかトボケた眼や口もとの表情も、あのころとちっとも変らない。 「達者かい」 「うん、何とか……」  ところで、おまえみたいなガラの悪い奴が、どうしてこんなインテリ臭い連中ばかり集る出版記念会なんぞへやって来た——? と、あやうく訊《き》きかけて私は口を閉じた。驚いたことに、その男は傍のテーブルに積み上げられた本を取ると、いきなり白い表紙のページをあけて、そそくさと万年筆を走らせた。   謹呈、安岡章太郎兄 遠藤周作  乱暴に書きなぐられるペンの字を目で追いながら、私はまだそこに立っている男と、夢の王子の遠藤周作とを、どうやって合致させるべきかに戸惑っていた。……家へ帰って、貰《もら》った本のページをひろげて読みながら、依然として何かにダマされつづけているような困惑は私の頭からは去らなかったのである。  その「フランスの大学生」というエッセイ集は、いまでも遠藤の本の中でも最良のものの一つだと思っているが、その字ヅラの底から浮かんでくるのは、森閑とした書斎のデスクの向う側で、長い前髪など二三本たらした額を俯向《うつむ》けている白皙《はくせき》の青年像なのであって、渋紙色の顔でトンキョウな胴間声《どうまごえ》を上げる遠藤ではない。  遠藤の中には、「ジキルとハイド」が棲《す》んでいると言っても、実際の遠藤を知っている人なら、たいした誇張だとも思うまい。  小田|実《まこと》にもらった「日本の知識人」という甚《はなは》だ知識に富んだ本によれば、日本のインテリは観念と生活とがバラバラであって、頭で考えることと、実際の生活で言ったり、したりしていることとが、まるきり関連がないという。それでも若いうちは、まだ観念の場と生活の場が一致している人もいるが、或る年齢からは必ず分裂して、たとえばレコードできく音楽はベートーヴェンとかバルトークとかでなければ承知しない人が、自分では「お座敷小唄」以外のものは絶対に歌わなくなるというのである。……こんなことを書いてある本を読みながら、私は遠藤の顔が眼に浮かんで仕方がなかった。つまり「観念の場」と「生活の場」が一人の人間の中で完全に食い違っているというのは、遠藤の文章と遠藤の顔つきとの印象が、いちじるしくカケはなれているということと同じではないか。  日本のインテリが中年すぎると、みんな揃《そろ》って「お座敷小唄」を歌い出すというのも、遠藤が胴間声でホラを吹いたり、ウンチやオシッコの話に熱中している顔を彷彿《ほうふつ》とさせる。——なぜ、こういうことになるのか? 一と口でいえば、日本のインテリはインテリであるということがテレ臭くてたまらないからである。これは小田の言うとおり、日本では知識人とかインテリとかいっても具体的に誰という人間を指しているわけでなく、それ自身が観念的な存在にすぎないからであろう。つまりレコードできくベートーヴェンは、音楽というより音楽のマボロシであるに過ぎないし、レコードはどこまでも忠実に原音を収録することができるにしたって、所詮《しよせん》それはナマ音とは別物である。こういうマボロシに取りかこまれて暮らしていると、どうしてもどこかでナマの自分をたしかめてみたくなり、お座敷小唄をドナったり、遠藤のようにまったく架空のホラを大声で吹いてみたりしたくなるわけだ。  おまけに遠藤は普通の「日本の知識人」とちがって、もう一つ余分に西洋のカラを背負わされている。カトリックがそれだ。遠藤は、まだものごころもつかない三つか、四つの子供のころに、お母さんに手をひかれてカトリックの洗礼を受けた。——こんなことはナンデモナイといえば何でもない。いまの日本には宗教らしい宗教はないのだから、カトリックだろうとヤソだろうと、別段それで迫害されたり、イジメられたりする心配はない。けれども街角で、黒い神父さんの服を着た日本人に出会うと、何となく異様な感じで、化けそこなったバテレンの妖術《ようじゆつ》使いというほどでもないけれど、ふとウサン臭いというか、異質の体臭のようなものを嗅《か》ぎつけた気持にはなる。遠藤が、このハッキリしないウサン臭さを、どれだけ自分の中に意識したか、しなかったか、或いはそれで悩んだか、悩まなかったか、そんなことについて私は何も知らない。ただ、前記の「フランスの大学生」という本を読むと、遠藤が向うの大学で、学生たちから、 「おい、改宗者」とか、 「何でジャポネのおまえが、ご苦労さんにもカトリック信者になんかなったんだ?」  とか、意地悪い眼つきでカラカワれたということが書いてある。そして、そんなとき遠藤はヨーロッパ人とはちがう自分の肉体や皮膚の色を、きっと痛いほどに感じさせられたはずである。  一九五〇年、まだ第二次大戦の戦禍の臭《にお》いがナマナマしいほどに残っていたフランスへ渡った遠藤の留学生生活は、私が病床で想像したほど華《はな》やかなものでも、晴れがましいものでもなかったらしい。「フランスの大学生」には、そのことがよく書いてあるのだが、じつはそれを読んでも私は、彼の苦労や悩みがピンとはわからなかった。それが身にしみてわかるようになったのは、それから十年たった一九六〇年に私自身がアメリカの田舎《いなか》の大学街で半年ほど暮らしてみてからのことだ。  フランスもアメリカも日本から見ると、たしかに先進国ではあるし、生活水準も平均してわれわれよりは高い。だから、そんな国で暮らすのは快適だろうと考えるのは、勿論《もちろん》あたりまえのことである。たしかにパリとかニューヨークとかの大都会で金も充分につかって生活するぶんには、そのとおりだといえる。大都会にはどこの国の都会とも共通した無国籍的な性格があって、東京にいるのと大差ない気持ですごせる。ところが、いったん田舎へ入ると、それが地方の中都市程度の町であろうと、事情はまったく違ってくる。私が住んだのは人種差別の行われているアメリカ南部の町だったが、そこで私は別段、黒人と同様に差別されたというわけではないのだけれど、自分の皮膚の色の違いは二六時中、意識させられた。こんな事情は或る程度、戦後間もないフランスの地方都市でフトコロの淋《さび》しい留学生活を送った遠藤にも共通しているといえるだろう。……「フランスの大学生」には、フランス人の有色人種に対する人種偏見のことが一見さりげなく、じつはなかなか執拗《しつよう》に描かれている。たとえば遠藤はフランスで戦争中の日本軍の残虐行為について、何度も問いつめられたというが、抽象的な議論としての戦争批判ならばともかく、遠藤の皮膚の色や、目玉と頭髪の黒さを見ての連想から、蒙古《もうこ》襲来以来の潜在的な恐怖心になっている黄色人の残忍さを戦争のそれに結びつけて論じられては、たまったものではなかったろう、しかも遠藤は教会でミサをうけて帰ってくると、そんな連中から、 「おい改宗者」  と意地悪な眼つきでカラカワれるのである。改宗者というのは、つまり本来なら異教徒ということだし、そんな人間が礼拝堂で一生懸命祈ったり、怪しげな発音のフランス語で早口に自分の罪を告白したりしている恰好《かつこう》は、その態度が熱心であればあるほど、モットモラシゲにも、ウサン臭《くさ》げにも見られたであろう。  しかし遠藤は、ともかくそんな生活を結核で倒れて寝込むまで、三年間あまりも辛抱しつづけた。これは遠藤にそれだけの順応力があり、苦しみの裏には愉《たの》しみもあったからにちがいないが、やはり彼にカトリックの信仰があったことが大きな支《ささ》えになっていたとも考えられる。……キリスト教徒でもない私がこんなことを言うのはヘンかもしれないが、宗教が現実上の利益や便利をあたえてくれるものだということは、アメリカの田舎町へ行ってみて、よくわかった。すくなくとも、それは言葉とか、地図とかいったものと同じように、実生活の役に立つ何かなのだ。遠藤が、どんなにカラカワれようが、イジメられようが、カトリックを棄《す》てずに帰ってきたのは、何よりもそれが実際に彼を助けてくれたからにちがいない。  ところで、同じ宗教のためにイジメられたり、助けられたりしたのは、徳川時代のキリシタンも同様だろうが、日本へ帰ってきた遠藤は「ハリツケ」になったり、「逆吊《さかさづ》り」になったりという肉体上の刑罰のかわりに、いわばメタフィジカルな拷問を意識の内部で受けることになった。といって遠藤が心の中でどんな苦しみを舐《な》めているか、私にはちっともわからないのだが、ただ彼と付き合ってみて、その言動の脈絡のなさ——大ボラ吹いて人をかついだり笑わせたりしたあとで、突然ションボリと淋しげな眼つきで人の顔をジッと見つめたり、かと思うとイキナリまじめ腐った顔になって、高遠なる思想の説教をブチはじめるといった具合——を眺《なが》めていると、この男は、よほど心の中で七転八倒しているにちがいないと推察されるのである。  もっとも、こんなふうに考えるのは、遠藤を少し買いかぶっているので、もともと彼はソコツで落着きのないアワテ者であるに過ぎないのかもしれない。よく代議士が秘書にかかせた演説の原稿を読みちがえて「矛盾」を「ホコトン」といったり、「瀕死《ひんし》の白鳥」を「トン死の白鳥」にしてしまったりするという話をきくが、遠藤はこれに類したことを、しょっ中、原稿に書く。 「梅一輪、一輪ほどの暖さという四月半ば」だとか、 「一天にわかに晴れ上り」だとか、 「このごろの若い女は態度も言葉もツッツケドンで」だとか、 「赤穂《あこう》の浪人、大石倉之助」だとか、その種の誤文を、たとえば新聞連載小説なら、毎日欠かさず書く。この間は某スポーツ紙にオリンピックの水泳の観戦記を書かされて、 「背泳の選手たちはスタート台に立ち並ぶと、ピストルの号音で、いっせいにザンブと水に跳《と》びこんだ」  とやって担当の記者を狼狽《ろうばい》させた。ところで、その遠藤が或る雑誌で懸賞小説の選者になっているのを読むと、 「最近の傾向として若い作家が、みんな平気で誤字、アテ字、意味をなさぬ章句をつらねるのは、こまったことだ。どうか諸君は小説を書く以上、こんなクダラヌ誤りは絶対に犯さないでもらいたい」  と、選後評で堂々と述べている。これは、遠藤の自戒の言葉であるのかもしれないが、読みながら私はやはり吹き出さざるを得なかった。いくら生活と観念の場がバラバラであるのが�日本の知識人�の特徴であるといっても、こんなに理論と実践が分裂している例も稀《ま》れである。  小説家にとって言語や文章は大工のノミやカンナに劣らぬ表道具だから大事に扱うのはアタリマエであり、遠藤もカンネン的には充分そのことは承知しているはずだし、事実、彼の述べた文体論には聴くべきものがすくなくない。ところで言語は文筆家の道具である以前に、人間の意識と最も強く結びついたものであり、この使い分けが混乱してしまっているのは、あながち遠藤が作家として怠慢だからというより、彼の内部が収拾のつかぬ状態になっているのかもしれない。 「嘘吐《うそつ》きエンドー」の名は、ひとも言い、彼自身も認め、ゴシップ欄をつうじて世間に知れ渡っているとおりだが、果して彼はその嘘をユーモアや冗談や自己ギマンや韜晦《とうかい》のためにだけ使っているのだろうか? 勿論それもあるにはちがいないが、どうも彼の嘘の半分以上は無意識に口から、ひょいひょい、と飛び出したものであり、それについては彼自身もなすスベを知らぬほどのもののように思われる……。どっちにしろ、周囲にいる私たちとしては、そんな遠藤の言うことには相当以上の警戒心をはらわぬわけには行かない。  これは、もう数年前のことだが、遠藤のところから、 「映画スターの有牛麦子(仮名)がオレと食事をしたいと言っとるんだが、君もいっしょにどうかねえ」  と電話が掛ってきた。有牛といえば第一級の人気女優だが、遠藤はまた有牛にかぎらず芸能人全般に対して病的なほど強烈な好奇心と憧憬《どうけい》の念をもっている男だから、これは彼の願望から出た典型的なウソにきまっている。ただウソにしては仕掛けが素朴すぎ、彼の声が妙に落着いているとは思ったが、私は好いかげんに、 「それはスバラシイじゃないか。有牛嬢はインテリの文学少女で、ことにフランス文学ときては、それこそ猫にマタタビみたいに夢中だそうだから、きっとおまえの小説にフランスの匂《にお》いを嗅いでシビレちゃったんだぜ。何もオレたちが行って邪魔することはない。君一人で行って御馳走《ごちそう》になってこいよ」  すると遠藤は意外に真剣な声で、 「なア、たのむよ。そんなことを言わないで、いっしょに行ってくれよ。おまえと吉行と二人くらい応援に来てくれなくちゃ、とてもオレ一人じゃ彼女と太刀打《たちう》ち出来ねえよ。何しろ彼女、オレに向かって『セックスピアの芝居を翻案して、あたしのためのシナリオを書いてくれ』って言うんだからな」  と、泣きつくように言う。どうやら、まんざらデタラメばかり並べているのでもないらしい。とくに「セックスピア」うんぬんには或る種の実感があって、私もドキリとさせられた。もし自分が有牛みたいに華麗な美人から面と向かって、そんなことを言われたら、たしかに尻《しり》コソバユさで一目散に逃げ出したくなるだろう。遠藤の困惑がもし本当なら、同情にあたいすると思ったので、吉行が行くのならオレもつき合ってもいい、とこたえた。 「そうか、じゃ引き受けてくれるんだな。ありがとう、早速《さつそく》、吉行にも電話しよう」  遠藤は可憐《かれん》なほどイソイソとした声で電話を切った。——それから一週間ばかり、遠藤は連日、電話を掛けてきた。要件はみんな有牛麦子との会合についてのことと、彼女にまつわる各種の情報、伝聞のたぐいで、その内容は彼女の身体各部に関する微細な点にまで及んでおり、無論どこまでが真相であるかはアテにならないにしろ、遠藤のその方面に関する知識欲の旺盛《おうせい》さと熱情には、あらためて感心せざるを得なかった。  この熱情と知識欲は一体、何にもとづくのか? 「おれは自分のミーハー精神を大切にしたいのだよ」と遠藤は言う。つまり日本のインテリらしく、「お座敷小唄」を大いに歌おうというわけだ。たしかに、そういう逆説的スノビズムとしての女優崇拝論は、インテリの更年期的症状として容易に納得できる。遠藤が有牛嬢にシェークスピアを持ち出されて狼狽したのは、その逆説としてのスノビズムを相手にマトモに受け取られてしまったからだろう。つまり「お座敷小唄」がもっと芸術的になるつもりで中途でイキナリ、ベートーヴェンか何かの節廻しに変ってしまったというわけだ。……しかし、それにしては遠藤の有牛嬢について語るときの口ぶりが、いつになく潤いをおびて、ふだんのガラガラ声とは別のものに聞えるのである。彼女についての情報は相変らず露悪趣味のものが多かったが、それを伝える遠藤の声には何とない哀切さがあって、無理にワルがって見せるのが精一杯という感じが、日に日に濃くなってきた。吉行にそのことを話すと、彼も同感だという。 「何しろ、あいつは自分では有牛のオヘソは出ベソだぜ、なんて言うくせに、こちらがそれに似たことを話すと、顔色を変えやがるからなア」 「そういえば、そうだ。彼女と飯を食うことだって、最初のうちこそ、おれたちに『たのむから、つきあってくれ』なんて言ってたけれど、このごろは『畏《おそ》れ多くも御陪食を』という感じになってきたぜ……。本当は自分一人で行きたいんじゃないかな」 「まったくだ。しかし、そいつをおれたちの方から言い出すわけには行かねえだろう。そんなことを承知すれば、あいつの言う『ミーハー精神』は逆説じゃなくて、本物だということを自分で認めたことになるからな」  そんなことから、私は、だんだん有牛麦子の招待の食事に出席することが、億劫《おつくう》になってきた。どんな料理が並ぶかは知らないが、おたがいに余計に神経をつかい合って、いたずらに気骨の折れるばかりの、ひどく稀薄《きはく》な会食になることは、行って見ないうちから眼に見えるからだ。……おまけに、その日は曇天で、朝から何となく鬱《うつ》とうしい気分だった。できたら口実をつくって出掛けるのは止《や》めにしようか、と考えているところへ、まるで霊感でそんな気持を察知したかのように遠藤から電話が掛ってきた。 「そろそろ出掛ける支度《したく》をしてくれよ。あんまり遅れんようにな、彼女の方は猛烈に忙しい人なんだから」  緊張した遠藤の声は、私に、道傍《みちばた》に並んで天皇陛下のお通りを待った小学生のころの気分を憶《おも》い出させた。これでは、どんな理由があっても、いまから欠席するわけには行かない。察するところ遠藤は、もはやこれまでのように、逆説だの、テレ隠しだの、偽悪趣味だの、さまざまの偽態に、その屈折した心理を託す余裕はなく、また彼女と二人きりの食事を愉《たの》しみたいなどという甘い気分さえもなく、いまはただ有牛麦子の機嫌《きげん》を損じることだけをひたすら怖《おそ》れるという、歓喜のあまりの恐慌状態に陥っている模様だった。  待ち合せた地下鉄新橋駅の構内で、胸に赤いネクタイを覗《のぞ》かせた遠藤は、不安げに眼をキョロキョロさせながら立っていたが、私を見るなり、 「遅いじゃないか」  と、どなりつけた。遅いどころか、まだ約束の時間の五分前なのである。それを言うと、 「いや、お前じゃない。吉行たちさ」  と、遠藤は仏頂面で言って、柱のまわりを檻《おり》の中のクマのように歩き出す。やがて、その吉行と近藤啓太郎が連れ立って現われた。遠藤は一瞬、暗然とした眼つきになり、俯向《うつむ》いて口ごもった。すると近藤は、日灼《ひや》けした顔をほころばせながら、 「やア遠藤、おれも仲間へ入れてくらっせえよウ。たったいま鴨川《かもがわ》から着いたばっかりだっけが、ばったり地下鉄で吉行に出会ってよう、うめえところへぶっつかったってわけさ……。なア、おれも一緒でかまわねえんだろう」  と喉《のど》の奥まで潮風のしみこんだような声で言った。 「もちろん、かまわないとも。さア行こう」  遠藤は顔を上げると、ヤケになったような大声で言った。じつのところ彼は、或る理由で近藤の出現をひどく怖れていたのだ。吉行が私の顔を覗いて、ニヤリと笑う。——ひとの悪いやつだ、と私は思った。 「行こうぜ」  もう一度、遠藤は言った。しかし暗闇《くらやみ》の外は、いつか沛然《はいぜん》たる雨になっていた。目指す田村町の中国料理店までは、かなりの距離だ。タクシーを拾おうにも空車は一台も通らない。傘《かさ》を用意していたのは吉行一人だったが、勇敢にも真っ先に飛び出した遠藤を見ると、ぐずぐずしてもいられなかった。四人とも頭のテッペンから、ずぶ濡《ぬ》れになって、ようやくたどり着くと、中国人らしいボーイが、そんなわれわれの姿をアキレたような顔で眺《なが》めていたが、やがて、ゆっくりと口をひらいて、 「エンドーサンイマスカ。アア、アンタ、エンドーサン? サッキ、アリウシサンノイエカラ、デンワカカッテキテ、アリウシサン、キョウハアメフッテ、ジドーシャオヤスミダカラ、イケナイ、ソノコトアンタニ、ツタエナサイ、イッテタヨ」 「…………」  あまりのことに一同、しばらく茫然《ぼうぜん》となったが、やがて誰かが、 「おい、遠藤、ダマしたのか」  と訊《き》くと、濡れネズミの遠藤は、頭髪から滴《したた》り落ちる雨のシズクが鼻先を伝ってポタリポタリと垂《た》れるのを払いさえせず、無言のまま、殉教者さながらの顔つきで立ちつくした。 「狼《おおかみ》少年」の物語は周知のごとく、自分のウソから、ついに自分自身が狼に食べられるハメに陥った少年の悲劇で、このタトエばなしはウソの報いは結局、その当人にかえってくるという教訓であろうが、同時にウソというものは、いったんそれが広まると誰がダマしたダマされたの問題をはなれて、それ自体一個の魔物のごとき猛威をふるいはじめることを教えている。  雨の中をヌレ鼠《ねずみ》になって、やっとたどりついた田村町の中国料理店のクロークで、「アリウシサン、アメフルカラ、コナイヨ」と中国人らしいボーイに言われたときのわれわれがそうだった。  有牛麦子がおれたちを晩飯に招待するという話は、やっぱり遠藤周作のホラだったにちがいない——。私は、傍《そば》の吉行淳之介や近藤啓太郎と顔を見合せながら、そう思った。  しかし、水滴のたまった眼鏡のおくからジッと暗い瞳《ひとみ》をこらして立ちつくす遠藤の悲しげな表情をうかがうと、彼がウソを吐《つ》いたにしては念が入りすぎているような気もする。とすると、遠藤自身も有牛嬢にダマされていたのであろうか。これはありそうな話だった。遠藤は人をよくダマすけれども、人からもツマらぬウソでよくダマされる傾向がある。いつか遠藤は未知の有吉佐和子女史に声色《こわいろ》をつかって、「自分はテキサス州の大牧場主だが、貴女《あなた》をぜひ合衆国へご招待したい」とニセ電話を掛けてよろこんでいたが、しばらくたつと遠藤自身、身許《みもと》不明の男から、 「おたくの家の前に清掃車がひっくりかえって、あたりいちめんオワイだらけになっていますヨ」  と奇怪な電話を掛けられて、きれいにダマされたりしていた。そのでんで、こんども最初は遠藤の方から有牛嬢にイタズラ電話を掛けたのを、有牛嬢に逆手を取られてダマされてしまったのかもしれない。  どっちにしても馬鹿な目に会ったのは、遠藤に義理立てして豪雨の中を、新橋から田村町くんだりまで傘もなしに歩かされたりした私たちだった。 「こんなところで、ポカンと立っていたって仕方がない。帰ろうや」  吉行が、そう言ってわれわれを引き立てながら、また雨の降る外へ出かかったときだった。クロークの電話のベルが鳴って、応答に出ていたさきほどのボーイが、 「チョット、マッテ」  と、われわれを呼びとめた。「アリウシサン、クルマノグアイ、ナオッタカラ、スグコッチヘクル、イウトッタヨ」  こういうのをキツネにつままれた気持というのであろうか、ウソから出たマコトというより、何がウソで何がマコトかわからなくなったのである。……いや、客観的にみるならば、これは別に複雑怪奇な事件ではない。要するに、遠藤をふくめてわれわれ四人は、映画スターの有牛麦子に、はなはだ軽く見くびられていたというだけのことにすぎない。つまり有牛嬢は遠藤をつうじて、私たち四人を招集したのであるが、雨が降り出したので急に出掛けるのが億劫になった。しかるに三十分ぐらいたつうちに、また彼女の気が変って、出掛けてもいいと思いはじめたにちがいない。自動車が故障したの、なおったのということは、遅刻の理由にはなっても、招待主が招待客を断わる口実にはなり得ないはずだからである。 「おい、帰ろう、帰ろう」  先刻から、しきりに引き上げることを主張していた吉行が、また言った。たしかに、これは常識的にいって正当な意見であるにちがいなかった。しかし、すでにズブ濡れになっているとはいえ、この雨の中を外へ歩き出すのは、私としては気がすすまなかった。それに映画女優にバカにされたからといって、大して自尊心にかかわる問題でもなさそうだった。 「いいじゃないか。こうなったらおしまいまで居残って、どんなことになるか見届けることにしようよ」  私が言うと、近藤も賛成した。遠藤は無論、最も熱心に吉行をひきとめた。  こうして、われわれは有牛嬢のやってくるのを一時間ばかりも待った。その間、われわれが格別の空腹もおぼえず、腹も立たなかったのは、いま考えるとむしろ不思議のようだが、この忍耐心は、われわれの人柄のヨサを示していると同時に、遠藤に対する友情の厚さを物語っているといえよう。いま、われわれが遠藤一人を残して帰ってしまったりすれば、彼のメンボクが丸つぶれになることは明らかだったのである。——もっとも私は、待っている間、或る種の意地悪な期待を持ちつづけた。つまり有牛の到着が遅れれば遅れるほど、遠藤のわれわれに対する立場は悪くなるわけで、そういう事態を私は心ひそかに望んでいなかったとはいえない。どっちにしても映画女優がヤブから棒に、われわれを食事に招待してくれるというのは、妙に架空で、遠藤のツクリゴトにふさわしい話だったからだ。  結局のところ有牛嬢は約束の時間を総計二時間ほども遅れてやって来た。こんなとき、私は腹立たしくなるよりも、自分自身の方がテレ臭く、相手の顔がマトモに見られなくなってしまったりするのだが、有牛嬢は始終こういうことをやりつけているせいだろうか、まことに態度も堂々としていたから、おかげでこちらも余計な神経をつかう必要はなく、極くアタリマエのような顔で挨拶《あいさつ》することが出来た。しかし、この種の社交術は顔を合せた者同士を、いきなり十年の知己に変えてしまうわけには行かなかった。つまり会話がスムーズに、滑《すべ》るがごとくに行われたのは最初の十分間ぐらいで、それを過ぎるとたちまちギクシャクと、いまにも脱線転覆しそうになった。  最初の脱線は、予想されたとおり「セックスピアー」の映画化の一件から起った。吉行と私は大学で英文学を専攻したことになっているのだが、二人ともシェークスピアにも、セックスピアーにも、てんで無知|蒙昧《もうまい》である点では有牛嬢と大差なかった。しかるに有牛麦子女史は、われわれのどこを見込んだものか、 「あたくしって、とてもジャジャ馬なのよ。つまりシェックスピアー先生の『ジャジャ馬ならし』ね、あれをみなさんで、あたくしのためにシナリオにしていただきたいの」  と、一同の顔をながめまわして、ほほえむのである。一座は一瞬シンとなったが、 「ほほう、麦子さんが『ジャジャ馬ならし』をねえ」  と近藤啓太郎が途方にくれたような声で言いかけたとたん、 「げっ」  と、俯向いてクラゲの前菜を頬張《ほおば》りかけていた遠藤が、喉のおくから笑いとも悲鳴ともつかぬ奇妙な音声を発した。おそらく、それは彼の中にある羞恥心《しゆうちしん》と恐怖心のプラグが、鴨川の潮風にさらされた近藤のシオカラ声で急激な点火作用を起したものに相違なかった。——もともと遠藤は有牛嬢の招宴に近藤が一枚加わることを、ひどく怖れていた。遠藤によれば近藤は人間というより野獣であって、いかなるときに何を仕出かすかワカランと言う。これは「おれはミーハー精神を尊重するが故《ゆえ》に、映画スターを崇拝する」と称している遠藤としては自らの主張と矛盾した意見であって、もし遠藤のスター崇拝熱が意識的なミーハー精神の涵養《かんよう》から発しているものならば、野獣が出てきて会食の雰囲気《ふんいき》をこわされることなど惧《おそ》れる理由はまったくないはずだからである。これからみても遠藤のスター信仰、女優崇拝の熱意は、なまなかの逆説的スノビズムによるものなどではなく、シン底からのアコガレであることが察しられるのであるが、それはさておき、いまの場合、近藤以上に有牛嬢の方が野獣の率直さを見せているのは誰の目にも明らかなことで、さればこそ遠藤はまるで身内の恥でもサラケ出したような狼狽をおぼえたのであろう——。何にしても、真っ赤になって身のおきどころもない遠藤の姿は、そのナイーヴさで私たちの友情を喚起させるのに充分だった。そのときまで不機嫌《ふきげん》な顔つきで黙りこくっていた吉行が、身を乗り出すようにして、 「シェークスピアといっても、これは落語みたいなものでね、つまり一人のシェークスピア先生がこれを書きましたというアレがないもんだから、翻案するにしても、いろいろ解釈が出来すぎちゃって、かえってヤヤコしいことになって、あれこれと、ウーン、こまったことになりましたネ、これは」  と、一席、文学論のようなことをやり出したのも、友誼心《ゆうぎしん》の発露であるにちがいなかった。ただ本当にこまったことに、吉行の議論はいつも中途から、「それが、こうなって」とか、「あれが、こんな具合で」とか、抽象的なことがらを、もっぱら唖《おし》のように手振りと仕グサだけで説明しはじめるクセがあり、それが相手につうじないとなると、ジレッタげに口を二、三度、ぱくぱくと動かして、それからニヤリと笑いながら話しやめてしまうのである。  ふだん付き合いなれている私にさえ、このときの吉行が何を言おうとしているのか、まるきり要領を得なかったぐらいであるから、有牛嬢にとっては何とも不可解きわまるものだったにちがいない。もっとも有牛嬢の耳は、叩《たた》き上げた実業家などにもよくあるように、他人の言葉などはじめから一切受けつけぬ構造であったとも考えられる。私も、喜劇にするなら、喜劇として出来上っているものを翻案するより、「ハムレット」か、「ロミオとジュリエット」を喜劇にしてはどうだろう、などと発言したが、何を言おうと彼女は「ジャジャ馬」一点ばりで、 「あたしは、このとおりジャジャ馬でしょう。だからみなさんで、あたしを馴《な》らすつもりで一生懸命になってくれれば、それで『有牛麦子のジャジャ馬ならし』が出来上るってわけよ。そうじゃない……? さ、みんな、もっとドシドシ、好い意見を出してちょうだい。あたしだって折角自腹を切って、こんなに御馳走して、何も聞かしてもらえないんじゃ、つまンないわ」  と言い出すしまつだ。  そう言われると、眼の前の料理もブランデー・グラスに注がれる酒も、アイディア料の前払いであると念を押されたようで、飲むたびに、食うたびに、胃の腑《ふ》は義務感のために重く垂れ下り、有牛嬢の顔も美しさよりも、権力者の威厳によって光りかがやくかに見えて、遠藤も吉行も私も、そろって一層無口になってしまった。一人、気を吐いたのは近藤で、 「よゥ、有牛さんよ、またコップが空になってるんだよゥ」  と、しきりにブランデーのお代りを所望したりして、奇妙なハッスルぶりを発揮していた。——こうなることを遠藤はかねて警戒して近藤の出現を怖れていたのだが、すでに食卓をとりまく雰囲気は期待したロマンチックなものとは、はなはだしくカケちがっている以上、いまさら近藤の挙動にハラハラしたり、神経をとがらせたりする気にもなれぬのか、くたびれはてた修学旅行の生徒のような顔で、すこぶる無感動にナプキンの端をまるめたり、のばしたりしていた。  出だしから、こんなにツマズキやら、手違いやらのつづいた会食もめずらしいが、その責任を一人でしょいこんだかたちの遠藤は、数日来、緊張に緊張をかさねた心のハリが、いまやダラリとのびきってしまったとしてもムリはない。……しかし会食は、脱線をくりかえしてはいても、まだ決定的な転覆事故を起したわけではなかった。第一、近藤をふくめてわれわれ四人、決してそんなに酔っぱらったりはしていなかったのである。近藤が有牛嬢に酒のお代りを望んだのも、むしろサーヴィス精神からで、彼は彼なりに、かたくなに沈みがちな空気を何とか柔らげて、浮き立たせようとしていたにちがいない。  美術学校出身の近藤は酔うといっとき、絵画、彫刻について論じはじめるならわしがあるが、いまもいくらかアルコールがまわりはじめたのか、有牛嬢の顔を絵の先生が石膏《せつこう》のモデルでもながめるような目つきで見つめたかと思うと、 「有牛さん、あんたの顔は額に特長があるね。額のところがインドぞうに似ているね」  と言った。そういえば、なるほど彼女の頭髪の生《は》え際《ぎわ》から鼻筋へかけての線が、そういう感じがしないものでもない。しかし、それにしても近藤は大胆なことを言ったものだ。いくら何でも有牛嬢も気を悪くするのではないかと心配したが、意外にも彼女は平静な顔つきで、 「あら、あたしインドぞうに似ているなんて言われたのは初めてだわ。どちらかっていうと、あたしはギリシャぞうに似ているって言われているのよ」  とこたえた。こんどはビックリするのは近藤の番だった。 「え、ギリシャ象? ギリシャにも象がいるのかねえ、有牛さん、そりゃアフリカ象のまちがいじゃないのかい」 「アフリカぞうですって? あたしの顔がニグロにでも似てるっておっしゃるの」 「ニグロ? そりゃ一体、何のことかね。ニグロ象って象がいるのかなア」 「ちがうよ、ちがうよ」  私たちは見かねて声をかけた。要するに、近藤が象のつもりで話したことを、有牛嬢は仏像、彫像などの像と解釈していたわけだ。 「そうかい、どうりでヘンだと思ったよ」  と、まったく平然とこたえる近藤に、有牛嬢もドクケをぬかれたものか、いっしょになって笑いころげたのは、彼女の人間の善さを示していると同時に、近藤の人徳のしからしむるところと言ってよいだろう。  有牛麦子嬢は、その後、もう一度、自宅でわれわれに御馳走してくれた。一本気な彼女は自分を「ジャジャ馬」に仕立てることに、よほどの熱意をもやしていたのであろう。しかし、その熱意のほどはわかっても、何が彼女をそのような情熱にカリ立てているのかは、われわれには一向にのみこめず、盛大な御馳走になったという心の負担だけが残った。要するに、彼女とわれわれとは別々の世界に住む人間だったと思う他はない。——といっても遠藤も果して私たちと同意見であったかどうか、これは少しく疑問である。じつのところ遠藤の芸能スターに対する憧憬の念の熾烈《しれつ》さは、どうやら有牛麦子のシェークスピアに対するそれと匹敵するのではないかとも思われるフシがある。  こんなことを言ったら、遠藤はさぞかし迷惑がり、はなはだしく立腹するかもしれない。しかし、どんなに賢い人間にだって、かならずいくつかの盲点はある。ある人は犬を溺愛《できあい》し、ある人は小鳥の飼育に熱中する。こうした偏愛は、単なる動物愛護の精神などからは、まったく説明のつかぬ事象であって、傍《はた》の者にとっては到底不可解と考える他はないのだが、同じことが遠藤におけるスター憧憬についても言えるのかもしれぬ。  無論、スターは万人を魅《ひ》きつけるからスターなのであって、遠藤がスターにあこがれるのも、そのこと自体は何の不思議も異常もない。まさに「ミーハー精神」は人間のこころの健全さを示すバロメーターであって、ともすれば空疎な観念のトリコになりがちな知識人の一人として遠藤が、つねにミーハー精神の保存と涵養につとめることは、むしろ見上げた心掛けと言うべきだろう。それに遠藤は見掛けはともかく実際は非常に勤勉な努力家である。彼の語学力や神学の造詣《ぞうけい》は、私などにはどれほどのものかうかがい知ることも不可能だが、才能のうえに相当の刻苦勉励の持ち主でなければ成し得られぬほどのものであることはたしかである。したがって遠藤が自己の観念過剰をミーハー精神によってバランスをとっているのだとしたら、彼のスター渇仰の度合いは、その勉学と知的向上心の大きさに比例しているわけであり、われわれは彼が「平凡」、「明星」、その他の参考書類によって、その方面の厖大《ぼうだい》にして清新な知識の研鑽《けんさん》にはげみつつあることを、尊敬こそすれ、軽蔑《けいべつ》するわけには行かぬのである。  それにしても「好きこそ、ものの上手《じようず》」というコトワザもある。いくらミーハー精神を大切にするといっても、嫌《きら》いなものには決してあれほど熱中できるわけがない。いつか遠藤は転宅に際して、とんでもないボロ家を某新進女優の家の隣だからという理由だけで、数百万も出して買おうとした。私も、その無謀さにアキれて、思い止まるよう忠告したが、遠藤は、 「だって、おまえ、Y嬢のとなりに住めるなんてチャンスは、そうザラにはないんだぜ」  と、さも幸運を私のせいで取り逃がしたかのような口調で、未練がましく訴えた。……それほどYの隣のボロ家に魅力があるのなら、友人が何と言おうと、自分で勝手に買って住んだらよさそうなものだが、その点になると彼の行動は、かならずしも自主独往とは言いがたい。同じころ私は遠藤、吉行と三人で日劇ミュージック・ホールへ行った。半裸の女が縄《なわ》ヌケの手品をやっており、司会者が見物人に「誰か有志の方、ここへ来て彼女の体を縄で縛って下さい」と呼びかけたのに応じて、遠藤が早速《さつそく》舞台へ駆け上ったのはよかったが、一人では心細くなったのか、舞台の上から大声で、 「おーい、安岡、おまえも来いよ」  と呼びかけられたのには閉口した。黙っていると、いつまでも呼びつづけるので、やむを得ず舞台に上って、遠藤の手伝いをし、司会者から、 「あんたたち、なかなか縛るのがウマいねえ、おつとめはマル通ですか」  などとヒヤかされたりした。……こんどの有牛麦子との会食にしたって、同じようなことが言えるので、もともと彼女から招かれたのは遠藤だけであり、われわれは彼に求められて、かり出された恰好《かつこう》だった。それなら、なぜ遠藤は一人で出掛けて行かなかったのか? 一つには、これは遠藤のわれわれに対する友情であろう。つまり美人女優と食卓をかこむ愉しみを、友人たちにも分ちたいという心持である。もう一つは、遠藤の有牛麦子への思慕、ないしは憧憬が「ミーハー精神」の高揚から発しているとして、それにはどうしても類は友を呼ぶというが、多少とも群集心理のウシロ楯《だて》をたのまずにはいられないものがあったからだろう。たしかに独立独行、唯我独尊《ゆいがどくそん》のミーハー族などというのは聞いたこともないし、それ自体が矛盾してしまっている。しかし、こんどの場合、遠藤は自分のミーハーイズムに、あまりに忠実でありすぎたことを後悔したのではなかったろうか。つまり、ことによると遠藤は彼のいう「ミーハー精神」以外の部分でも、有牛麦子を敬愛していたのではなかっただろうか。  だいたい本当のミーハーは、自分がミーハー精神の持ち主だなどと主張するはずはないし、もしそんなことを言い出したら、その瞬間から、その人はミーハーではなくなるはずで、遠藤はそういう心理上のメカニズムを逆用していたのかもしれない。すなわち遠藤は「ミーハー精神」を称揚することで、彼自身はミーハーでないということを、われひと共に納得させようとしていたのだとも考えられる。そうなると「ミーハー精神」の称揚はタマネギの皮剥《かわは》ぎみたいな自己批判であって、ミーハーの皮は剥《む》いても剥いても、剥ききれないことになるだろう。そして、こんどの有牛麦子招待の会食がトンデモない滑稽劇《こつけいげき》におわったのも、この遠藤のタマネギの皮剥ぎ的な自己批判がわざわいしたはずである。だが、もし遠藤がわれわれなどを誘わず、一人で出掛けて行ったとすれば、このような自己批判は多分起らなかったろうし、彼自身は有牛嬢と仲良くすることが出来たということは考えられる。——遠藤は、そのことを後悔してはいなかっただろうか。  それから数週間たった或《あ》る日のこと、遠藤は息づかいも荒く、つぎのようなことを私に報告して来た——。 「おい、おれは有牛を大江健三郎に盗《と》られてしまったぞ」  別に遠藤の恋人でもない有牛嬢を「盗られた」とは穏当でない表現だが、彼の無念ぶりはそのようなサクランした言葉づかいに、すでにあらわれているといってよかった。 「大江ってやつは、じつにインチキだ。あんな食わせ者はいない。あれこそは大嘘吐《おおうそつ》きだ——」  遠藤が他人を嘘吐きとののしったのは、これが最初で、おそらくはまた最後であろう。しかし大江が一体遠藤をどうダマクラかしたのかは、遠藤の言葉からはサッパリわからなかった。わかったのは要するに最近にいたって大江健三郎が有牛麦子といちじるしく親密だということと、それが遠藤に大衝撃をあたえているということだけだ。 「大江がこんどの芥川《あくたがわ》賞受賞のしらせを、どこできいたと思う? 有牛の家のリヴィング・ルームのソファーの上だというんだぜ。ああ畜生! このごろの若いやつは恐ろしいよ。だいたい大江は有牛から田園調布のジャーマン・ベーカリーという菓子屋で待ち合せをしようという申し出を受けたのに、わざわざ田園でない、ただの調布の町のドイツ屋というパン屋へ行って三時間も待っていたというんだ。勿論《もちろん》、有牛は有牛で田園調布のジャーマンで三時間、大江の来るのを待っていた。……これがキミ、ぽっと出の田舎《いなか》青年のやらかした単なる間違いだと思うかね。当然、有牛は待ちボウケを食わされたと思ってイライラして怒るだろう。そこが大江のツケ目なんだ。『ボク何しろ、東京のことは、よくわからないんで』なんてオドオドした顔つきで言ってみろ、有牛はたちまち姉さん気取りで、待たされたという心のイライラは、いっぺんに愛情に変化したにきまっている。……ああ、有牛の馬鹿め。大江みたいなチンピラの卑劣な作戦にひっかかるとは、何たることだ」  遠藤の憤慨の言葉はこのようにして、えんえんとつきるところをしらぬ有様だった。勿論、この憤慨や嘆声には遠藤得意の誇張がふくまれてはいるだろう。しかし、それにもかかわらず、彼のシン底からのくやしげな気持は、いかにもハッキリと汲《く》みとれた。  といっても、そのクヤシサは何にもとづくもので、いかなる程度のものかといったことは、まえに述べたごとく一向にわからないのである。しかし、それから数日たって、或る晩おそく吉行から電話がかかってきた。 「おい、どうもエラいことになった、というか、傑作なことが起っちゃったよ。いま新宿のバーで、遠藤が大江健三郎と大乱闘をやらかした」  吉行の声は、ふざけているようにも聞えるが、彼がこれまで無用なニセ電話をかけてきたことは一度もない。のみならず、彼の声音のどこかには、友の苦境をうれえるような真摯《しんし》な響きがあって、私は話としては少し出来すぎているこの話のシンピョウ性を、まったく疑わなかった。 「で、どうした、遠藤は病院へでもかつぎこまれたか。見舞いに行こうか」 「いや、それほど大したもんじゃないんだがね、ちょっと面倒なことになるとイカンから、報告までに——」  暗闇からきこえてくる吉行の電話の声をききながら、私はだんだんと深刻な気持になってきた。ウソから出たマコトというが、遠藤は自分の吐いたウソに飲まれかかっており、大江は大江で一種のノイローゼ現象を起している。そして、この二人が酒場の中で西部劇よろしくの大乱闘を演じたというのだから、これはまさに�日本の知識人�の奇妙不可思議さを表徴する悲劇ではないか。 「それにしても、これは出来すぎてるなア」  私は電話口のまえで、ひとり茫然《ぼうぜん》として同じことを繰りかえしツブやいた。  吉行淳之介と自動車の関係  戦後はじめて自動車を所有したのは舟橋聖一氏だそうである。しかし、これは文士の生活水準が向上したという例話であって、自動車がわれわれの生活の中に入ってきたという話は、また別である。  あれは、たしか昭和二十八年か九年ごろのことだ。何かの会のくずれで、新橋《しんばし》の路地裏の屋台店のような飲み屋で、おたがいに清貧に甘んじなければ善い小説は書けないというようなことを話し合っていると突然、三浦朱門が頬《ほお》を赤らめるようにして、 「しかし諸君、諸君もあと四、五年もたつと、『ルノーの出モノで程度のいいのがあったら教えてくれ』なんて言い出すようになるぜ、きっと」  と、妙に意地悪げな眼つきで、われわれを見廻して言った。三浦は大正十五年、つまり昭和元年生れというわけで、われわれ大正生れの連中ばかりの�戦中派�のなかでは、ちょっとばかり�戦後派�のハシリみたいなところがあって、しばしばワザとのように、こういう異分子めいた発言を行って、人をケムに巻いたり、老人あつかいにしたりする趣味がある。私は、また三浦の末っ子的シニシズムがはじまったな、と思ったから、 「馬鹿なことを言っちゃいけないよ。オレたちが万一、あぶくぜにが入るようなことがあったってルノーなんぞ買うものか。それぐらいなら車引きを雇って、人力車を乗りまわすね」  と言ってやった。三浦がこれに何と答えたかはおぼえていない。たぶん「いや、オレはそういう意味で言ったんじゃない」とか何とか、もそもそと口の中で言っていたようにも思う。要するに、いまになってみると三浦の予言はイヤになるほど見事に適中しており、私はまことに阿呆《あほう》げたことを言ってイキまいたことになる。  それから五年どころか、一年たつかたたないうちに、ある朝、田園調布の私の下宿していた家に三浦が、白いトックリ・ジャケツか何かの軽装でやってきた。三浦はオシャレな男であるが、彼の好みはいつも若干女性的で、真の伊達男《だておとこ》の境地には達していない。ちょうど好い機会だから、私はそのことを指摘して忠告をあたえるつもりで、 「ま、上れよ」  と玄関さきに突っ立ったままの三浦に言った。だが三浦は、 「いや、ちょっと」  などと、腰のあたりを揺りうごかしながら、ピカピカに磨《みが》いた焦茶《こげちや》のコードバンの靴を脱ごうともしない。何をタクらんでいるのか、思わせぶりな野郎だ、とイライラしかけたときだった。三浦はゆっくりと首をまわして門の方を振りかえった。 「あ、お前……」  私は思わず、驚きの声を上げた。門の外には濃緑色のフォルクスワーゲンが一台、何か極度に実用的なものが優雅さに通じるといった硬質な美しさを無言で誇示するかのごとくに、ひっそりとうずくまっているではないか。私は一瞬、息をのみ、シンとなって、まるで田舎《いなか》出の少年がデパートの売り場で高価な玩具《おもちや》の前に立ったように、われ知らず車のそばへ寄ると、瞳《ひとみ》をこらして眺《なが》め入った。しばらくたって、やっと口をきくことを憶《おも》い出したように、私は訊《き》いた。 「これを君が運転するのか?」 「ああ」  きまりきったことだと言わんばかりに、三浦はこたえた。 「乗せてくれ。そのへんをグルッと一と廻りしてみてくれ。とにかく車をうごかしてみせてくれ。あ、これはラジオか、このボタンをこう押すと、音楽が鳴り出すってわけか」 「いいよ。乗せてやるよ。だけど、あんまりそのへんのものをいじらないでくれよ。吉行が言ってたぞ。『安岡ってやつは、ひとのものを見ると、すぐ手を出して、つつきまわして壊《こわ》さなければ気のすまないやつだから、用心しろ』って……」  私は、吉行のこの私に対する観察や評価に関しては異論があったが、この際は三浦がこの文明の利器をどうあやつるかに心を奪われ、何も言わずに、ブルルル、と作動を開始したエンジンの音に聴き惚《ほ》れた。そして、そんな私の眼に、ステアリング・ウィールとチェンジ・レバーに軽く手をかけ、前方をキッと見つめた三浦の横顔はあたかも、塵《ちり》よけ眼鏡も勇ましくオートバイにまたがったハリケン・ハッチのそれの如《ごと》くであった。  私はキカイ音痴であるうえに、生来ものぐさで根気がなく、手先はこのうえなく無器用であったから、少年時代から模型飛行機だの電気機関車だのの組み立てなどには、一切、怖《おそ》れをなして近づかなかった。しかし私の不幸は、そういう機械的な事物やメカニズムの工作に無関心だったというのではなく、関心はありながら、とてもボクにはあんなコミ入った複雑なものには手がつけられないというアキラメがあり、その関心とアキラメとが同時に同じ強さで自分の中に存在していることが劣等感を育て上げてしまったことだ。  昭和十年代のはじめ、私が中学四年、五年のころには、国産の小型自動車の生産が軌道に乗りはじめて、すでにちょっとした自動車ブームが起りかけていた。�流線型�が流行語になり、箱型だった自動車は年式があらたまる度《たび》に競争で前後をノッペリさせ、「こんどのフォードはヘッド・ランプをボディーにめりこませた型になる」とか、「新しいシヴォレーは屋根を打ち抜きの鋼板にしてある」といった情報は、いちはやく中学生の間にも広まって、何となく私たちの胸をワクワクさせた。そのうち自動車のことを話題にするだけでなく、練習場へかよって運転免許をとることがはやりはじめた。だが、こうなると私は完全にお手上げだった。運動神経も反射神経も人一倍ニブい私は、自転車もスピードのつく坂路《さかみち》では下りて歩く方だから、自動車をうごかすことなど、考えただけでも背筋が冷たくなるのである。こうなると私は自動車の型や名前やマークなど、どうでもいいようなことばかりやたらと憶《おぼ》えこんでしまったことが負担になった。——友達から、自動車の練習に行ってみないかと誘われたら、一体どうやって断わろうか? それを思うと、心配で夜も眠られなくなるほどだった。  幸いにも戦争は民需の自動車産業を中断させ、私を運転恐怖症に陥らせることはなかった。自動車にかわって若者の関心をひいたのは飛行将校になることだったが、その年ごろにはもう私はキカイ音痴や運神のなさを恥じる必要もなく、反動的にスポーツやスポーツ選手を軽蔑《けいべつ》するようになった。戦争がおわり、講和条約がむすばれても、自動車はわれわれの生活とは無縁のものであり、そんなものを乗りまわすのは会社の重役か、映画スターぐらいのものだった。だから私は安心して自動車の知識を振りまわすことができた。  そのころ知り合った友人のなかで、阿川|弘之《ひろゆき》は乗り物全般について驚くべき博識家であり、熱心家であって、その博覧強記のほどは、たとえば家に対座しているときでも、ときどき腕時計をパッと覗《のぞ》きこんでは、「ああ、いまは東海道線、上り急行の何とか号が、何とか駅を通過したころだ」などと言い当てたりすることが出来るぐらいであった。しかし、そんな阿川と話し合いながら私は内心、自動車のことならオレの方がよく知っているぞ、とひそかにホクソ笑んだりした。ただ私はそんな阿川から実際的な知識を学んだ。 「タクシーに乗るときは大型のアメリカ車や、小型の国産車でなく、中型の欧州車を選べば、料金が割安で乗りごこちが好い」という。つまり、そのころにはようやく国産の自動車工業も復活してタクシーなどに出廻りはじめていたが、木炭車よりはいくらかマシな程度の自動車ともいえないような粗悪な車が多かったし、アメリカの大型のタクシーは息つくひまもない早さでメーターが上って行くので、よほどの大金を用意しなければ私たちには乗れなかった。それにくらべて欧州車はたしかに値段も国産の小型と大して違わず、乗り心地は国産よりずっといい。私は早速《さつそく》、そのことを吉行淳之介にもつたえた。  もっとも、こんなことを言うと、そのじぶんから私たちはいつもタクシーにばかり乗っていたように聞えるかもしれないが、そうではなく、たまにゼイタクな気分を味わうための乗り物だったから、こんな詮議《せんぎ》だても必要だったわけである。だから私は吉行に教えるといっても、一緒に欧州車のタクシーを止めて乗ったわけではなく、通りがかりのオースチンを指さして、 「あれがそうさ」と言っただけだ。  しかし吉行は、ふかくウナずいて、 「うん、そうか。よし、こんどM子をランデヴーに誘うときには、あいつに乗ろう。このごろの女の子は、車でクドくのが一番ラクだというからな」  と、何やら深謀遠慮にふけるらしい顔つきだった。  ところで、それから半月ばかりもたったころ、吉行は私にイキナリ言った。 「おい、またおまえのおかげで、ひどい目に会ったぞ。おまえは一体、何のウラミで、おれとM子の仲を裂くようなことばかりするんだ」 「何だい、それは?」私は全然、身におぼえのないことを言われたのに、むしろギクリとして訊きかえした。 「オースチンだよ。おまえが言うから、わざわざ探して、M子と二人で乗ったら、とたんにエンコじゃないか。オレはちょうど、そのときM子の肩を抱いて、うまく行く感じだったのに調子をすっかり崩《くず》されて、車がなおって動き出したときには、また最初からクドきなおしさ。ところが、こんどはエンジンがガラガラ、ぶるぶる、大きな音を出して話も何も出来やしない。おまけに揺れるの揺れないの。せめてこんなときは女の子の体を抑《おさ》えてやろうと、手を廻しかけたらガックンと特別大きく揺れて、オレは前の座席に頭からツンのめった。それだけですめばまだよかったのだが、『プスーッ』と屁《へ》みたいな音をたてたかと思うと、こんどはパンクだ。M子はゲラゲラ笑い出すし、何も彼《か》もメチャクチャさ……。これもみんな、おまえのおかげだぞ。おまえは悪意で、あんなヘンな車をすすめやがったろう。せめてタクシーでつかった五百円ぐらいベンショウしたらどうだ」  冗談ではない。仮に私が吉行の艶福《えんぷく》に嫉妬《しつと》していたとしても、そうウマく故障の多い車に乗せられるわけがない。要するに、それは吉行個人の不運であって、弁償を払えとは言いがかりもはなはだしい……。しかし吉行は、たしかに半分以上本気で私に恨みを抱《いだ》いているらしく、不機嫌《ふきげん》そうに横を向いていたが、ふと、 「あ、あれだ。見ろよ、おまえの好きなオースチンが通る」  と、にくにくしげに指さす方をみたが、それらしいものはない。 「どれどこに……」 「あれだよ」  と、吉行はイラ立たしげに言って、われわれの眼の前をヨタヨタといまにも車体ごと転《ころ》がりそうに走って行く車を指さした。見ればそれはオオタという、当時の国産車のなかでも評判のかんばしくない、間もなく倒産した会社の車ではないか。吉行は AUSTIN のオーをO……と早合点《はやがてん》していた。  いま考えると、つい十年まえのこんなことが夢のようだ。三浦の買ったフォルクスワーゲンはタクシー上りの中古で、それほど程度のいいものではなかっただろうが、タクシー代にもこと欠く私たちの仲間から自家用車族があらわれたのは、たとえどんな車だろうと驚嘆にあたいする大事件だった。要するに、その時期をもって私たちの�戦後�はおわったのかもしれない。……それから、さらに一年ばかりたったころ私は、その三浦のワーゲンに乗せてもらって、二宮《にのみや》の阿川の家へ遊びに行った。阿川はそのころアメリカ留学から帰ったばかりのところだったが、日本では自動車がめずらしいらしく、早速、三浦と同乗して家のまわりを一周したりした。  その阿川も、それから一年後にはセコハンのルノーを手に入れ、またその翌年には吉行が、とうとう因縁深いオースチンを自分で買って運転することになった。三浦や阿川のときとは違った意味で、これはまた画期的な事件であった。  当時の吉行は、その風貌《ふうぼう》からして大抵の人から「御家人《ごけにん》くずれ」と呼称された。脂気《あぶらけ》のない直毛の前髪を、細面の額にパラリと垂らし、片側の横髪だけが普通の人とは逆に前向きに削《そ》いだように生えている。よれよれのユカタの胸もとから肋骨《ろつこつ》の目立つ胸を大きく覗《のぞ》かせ、市ヶ谷の二た間の家の薄暗い茶の間で、いつ行っても一人二人は来ている客と、大声で色事や猥談《わいだん》をゼンソク持ちらしい咳《せき》ばらいをまぜながら語っているところは、いかにも直侍《なおざむらい》が入谷《いりや》の寮にかくまわれているうちに女にも退屈して、手当り次第に客を呼び集めては、わざと女のイヤがる話をやってウサ晴らしをしているという感じであった。……そんな歌舞伎の世話物の路地裏ムードにあふれていた吉行が運転をはじめたのだから、彼の身近な友人ほど驚きは大きかった。とにかくオースチンをオオタとまちがえて乗っても少しもヘンだと気がつかない男だから、自動車そのものにはほとんど関心がないといっていい。おまけに麹町《こうじまち》五番町の彼の家からは銀座へも新宿へも、タクシーで百五十円見当で、経済的には車を買ったって少しもトクにならない。誰彼に理由を訊かれると、吉行自身も説明にこまるらしく、当惑げに「このごろの女の子は、クルマがないと全然不便でね」とこたえるのだが、自動車がなければ女がクドけないなどとは、およそ従来の吉行からは想像も出来ぬセリフだった。こと情事に関するかぎり、吉行の精神力は堅忍不抜であって、ゼンソクの発作の最中にも女をクドいてクドきやめなかったという、木口《きぐち》ラッパ兵の生れ変りみたいな男が、何でいまさらそんなことを言うのか。——いったい本当のところ、どういうことなのか。 「それは八千子さ、八千子のおかげで、こういうハメになっちゃったんだ」  あたりに人けがなくなると、吉行は溜息《ためいき》まじりに言った。 「何だって、八千子さん、そんなに自動車マニヤなのか」 「そうじゃないよ、わからないやつだな」吉行は、じれったげにこたえた。「宮木八千子ぐらいになると、ちょっとしたハイヤーやタクシーの運転手には、みんな顔を知られているからねえ。いや向うが気がつかなくても、こっちが落着かない気分になるから、結局こまることは同じなんだ」  宮木八千子(仮名)は著名なミュージカル女優であり、彼女と吉行との間柄が、だいぶ前からかなり親密になっていることは私も聞いていた。どういうキッカケで、そういうことになったかは知らない。とにかく、或る晩、吉行が仕事場のホテルから、ひどくトリトメのない電話を、私の家へ掛けてよこした。 「きみ、『いとはん』というスシ屋のチラシを食ったことがあるか。何、まだ食ったことがない? これがうまいスシなんだよ、おまえ。桃色のグの上に玉子焼の細く切ったやつが掛っていて、みるからに『いとはん』なんだよなア……。いま、それを食いながら窓の外に星空をながめていると、何とも言えない気分になってきたんで、ちょっと電話してみたんだ。いや、うまいスシですよ。こんどキミにもおごってやるよ」  そのころ私や遠藤周作は、しょっ中、無用な電話で話し合っていたが、或る意味ではひどく律義《りちぎ》な良識家である吉行は、かつて電話をそのようなムダな長話に使用したことはない。その吉行が、その晩にかぎって、こんなことを長ながと話しつづけるのである。考えてみれば、その晩の吉行は恋愛の初期の発熱症状を典型的にあらわしていたわけだが、こうもヌケヌケと典型的にノロケられてしまうと、架空にして純粋なる愛のタマシイというか、一種の音楽でもきかされているような気分で、必ずしも私は迷惑にも思わなかった。むしろ、スター渇仰家の遠藤にこうした事態が起らず、吉行ばかりがこうした運に恵まれるというのが、なんだか「嘘《うそ》から出たマコト」の実例を見せられるようで愉快であった。……こともあろうに吉行のような男が、三十半ばにしてスシを食い食い、星空の窓をながめて想いをこめるという�星菫派《せいきんは》�の鑑《かがみ》みたいな状態に達するとは、まことに現代の奇跡といって過言でない。しかし、この奇跡がいったい何時《いつ》までつづくか、奇跡が奇跡でなく、日常|茶飯事《さはんじ》になったら、いかなる煩瑣《はんさ》な状況になるか、これは第三者の私には、当初から気がかりなことであった。 「とにかく、これはよっぽどの覚悟が必要だぞ。行くところまで行く、向うはそのツモリが充分にあると思わなくちゃいけないぞ」  私は、そんなことを、わけしり顔に言ったりしたが、吉行の方はまるで憑《つ》きものでもしたように、 「なアに、そうなればなったで、こちらも行くところまでは行くさ。いずれ一生面倒は見てやる気持だよ」  と平然たる顔つきだった。私は吹き出さざるを得なかった。面倒をみるといったって、当時の吉行と宮木八千子を較《くら》べると、正直のところどうしたって面倒を見られるのは吉行の方だと思われたからだ。  ともかく吉行が自動車の運転を習いはじめた時は、そんな状態に入って六箇月目ぐらいになっていた。  察するに、彼等の恋愛もようやく星菫《ほしすみれ》から地上のものに変りつつあった模様である。そういえば吉行は自動車を買う少しまえごろから、しきりに「テレビがほしい、テレビがほしい」と、まるで団地夫人のようなことを言っていた。彼の収入でテレビが買えないわけはなく、買わないのは主義としてテレビに反対しているからだろうが、主義にこだわるのは馬鹿げたことだから、 「買ったらいいじゃないか」  と言ってやると、吉行は急にやや憤然たる口調で言いかえした。 「無責任なことを言うなよ。もし、いまのオレがテレビを買って、茶の間へどかっとそれを置いたら、どういうことになる?」  私は咄嗟《とつさ》には何のことかわからず、 「やって来た編集者が、テレビとおまえの顔を見くらべて、『吉行さん、このごろすっかりダラクしました』と言うわけか」 「馬鹿、オレが困っているのは、そんなこっちゃないよ。困るのは女房をどう扱うかっていうことだよ。ウッカリすると女房のやつ、半狂乱になってテレビをメチャクチャに叩《たた》きこわしかねないんだぞ」  つまり吉行がテレビを欲したのは、そのなかにうつる宮木八千子の映像がみたいからだった。そして、そのテレビが買えないのは、吉行の細君が、すでに吉行と八千子の間に何かがあることを、かなり強く疑っており、吉行はそれを負担に感じているというわけだった。  それにしても自動車といいテレビといい、スターを恋人にすると思わぬことが支障になるものだ。勿論《もちろん》、障害の多いことは、それだけ情念をつのらせることにもなる。おまけに、その障害は世間の眼を意識するという怖《おそ》れであると同時に、結局それは晴れがましさを意識させられることでもあるわけで、吉行たちの場合も障害で掣肘《せいちゆう》をうけるより、燃え上る率の方がはるかに高かった。  とはいうものの、元来、律義で陽性な吉行は、これまで浮気をしても細君に報告し、報告した上で納得させるという、放胆さと実直さを混合させた一種特異の方法で家庭を治めてきたのだが、こんどは八千子嬢の立場を傷つけぬために、秘密をまもりぬく義務を生じたのだから、負担は重かったにちがいない。吉行としては眼に見えぬ苦痛に相当イラ立ったり、悩まされたりしたはずだ。とにかく、これまでの�放胆・実直�から�小心・不正直�に家庭内の政策の変更を余儀なくされた吉行は、いままでと逆に傍目《はため》にも滑稽《こつけい》なほど細君を怖れはじめた。すると、それは八千子嬢の自尊心を傷つけることにもなり、「そんなにビクビク奥さんのことを怕《こわ》がるのは、あたしに対する誠意がないからだ」といった責められ方をするらしく、それやこれやで吉行は病気にならぬのが不思議なほど、疲労|困憊《こんぱい》していた。  そんな吉行にとって、唯一の息ヌキは自動車だったかもしれない。これもはじめは人目をはばかる八千子嬢との逢《あ》いびきに使うことが目的で、免許をどれだけ早く取れるかが彼女への誠意と愛情のバロメーターだ、とセキ立てられ、教習所では指導員にミソクソにどなられ、 「とにかく、こんなことは、おまえには絶対にすすめないよ。よっぽどのことがなけりゃ我慢しきれるものじゃない」  と、私などにも、めったにこぼさぬグチをこぼしていたが、そんな吉行の憔悴《しようすい》した顔つきをみると、家庭の苦労、女の苦労、運転の苦労、どれも彼が自ら好んで求めた苦労であるだけに、私は、一生無事|是《これ》平安、といった言葉が憶いうかんでならなかった。しかし三つの苦労のうち、教習所がよいの苦労だけは、やがて報いられる日が来た。つまり、すんでしまえば何ということもないという点では、運転免許をとる苦労は歯医者で歯を抜くようなものかもしれない。とにかく免許が下りて三日目に、もう八千子嬢をつれて箱根へ行ってきたという吉行には、教習所は苦手でも、運転そのものには自信があったのかもしれない。  もっとも、吉行の運転の手つきは、われわれシロウトの眼にも、いかにも初心者ふうの危なっかしげなものに見えた。たとえばサイド・ブレーキを引っぱるといった単純な動作でも、どういうわけか吉行がやると、「まるで百姓が畑から大根を引きぬいているみたいな恰好だな」と或《あ》る雑誌の編集長が批評したごとくであり、実際ふだんはあれほど都会的な吉行の風貌《ふうぼう》がハンドルを握ると、とたんにドロ臭げにさえ見えて、せっかくのオースチンも、ゴトゴト、がりがり、奇妙な音を発しては、しばしば馬車馬が跳《は》ねたような感じでストップし、ムードも安全度も、まるきり古物のオオタに乗っているのと同じものに思われた。このような運転で箱根の難所を上り下りして、よくぞ無事に帰還できたものと感心したが、同乗者の八千子嬢はぜんぜん不安も恐怖も覚えなかったというから、女の愛というのはよくよく強靱《きようじん》なものにちがいない。  しかし、一と月もたたないうちに吉行の運転術は長足の進歩をとげた。サイド・ブレーキを引くさまだけは依然として大根ヌキであり、そのたびにギョッとさせられたが、ふだんはそれを忘れていられるほどウマくなって、阿川や三浦の技術と大差ない程度と思われた。もっとも、それだけの向上を示したうらには相応の苦労もあったはずで、吉行自身に聞くところでは、その間、連日、タクシー並みに走りまくったという。  毎日、どこを、そんなに走りまわる必要があったのかはしらないが、とにかくそのころの吉行は、家庭と、仕事場と、隠れ家と、八千子嬢の家と、子供の病院と、そんなところを五箇所か六箇所、一日に一度は見廻らないと、たちまちどこかが噴火し、爆発し、生活全部が破壊されるという危険な状態にあったことはたしかだ。そんなメンド臭いことがよくも続けられるものだと、私は傍で見ながら感心したり、アキれたり、また人ごとながらウンザリもさせられたりしていたが、吉行としては息をぬいたら立ち上れないという倒産寸前の事業家の心境だったのだろう。いずれにしても、そんなときには自動車に乗ると、自分専用の鉄のトーチカか何かにもぐりこんだ気分で、いわば兵隊が便所でしゃがんだような解放感と気休めの孤独にひたることが出来るのかもしれない。そのころ吉行が週刊誌に連載していた好色探検小説「すれすれ」には、屯営《とんえい》の便所の溜息めいたペーソスが、いたるところに充ち溢《あふ》れており、多少とも似た経験を持つ男の胸を打つのは、吉行自身が主人公の白タク運転手と一心同体の心境にあったためである。  とにかく、そんな具合に三十日間ばかりでメッキリ運転の上達した吉行は、私と近藤啓太郎に、「どこか、一、二泊の自動車旅行に出てみないか」と誘いかけてきた。  近藤にも、私にも、異論のありようはなかった。二六時中、交代で攻めつける女たちとの論戦、舌戦、肉弾戦の相手役をつとめるのは、さすがの吉行も疲れ果て、ここらで一と息いれたくなったというわけだが、こちらはそういう吉行の宿なし犬的心境に同調して、かりそめの放浪感にひたるのも悪くはないという気持だった。行き先は、吉行にまかせた。 「では、佐原《さわら》あたりはどうかね。あのへんも夏場と春のアヤメの咲くころは、けっこう人が混むらしいけれど、六月のいまじぶんなら閑散としてるはずなんだが」  佐原は昭和二十八年、夏から冬へかけて吉行が胸の療養に滞在した土地で、私も一、二度、見舞いに出掛けたことがある。たしか病院とは庭つづきのガランとした二階家を吉行が一人で占領していた。吉行はそこの赤茶けた畳の上にゴロンと寝ころんだまま、縁側ごしに殺風景な庭でサカリのついた犬の取っ組み合うのを眺《なが》めているといった毎日らしく、そんな心境をつづった小説もある。私が見舞いに行ったのは夏で、往きは三浦と二人づれだったが、三浦は先にかえり、私はその二階家で一泊し、翌朝、吉行から、 「おまえのイビキと歯ぎしりで一晩中眠れなかった。まるでムソルグスキーの『禿山《はげやま》の一夜』だ」  と、うらみごとを言われた。無論、私は自分のイビキも歯ぎしりも自分で聞いたことはないから、どんなにウルサくても責任の持ちようがない。ただ、そのときの吉行の口ぶりからは、当時の彼の荒涼たる心裡《しんり》が汲みとれる気はした。しかし、その荒涼たる想い出の土地が、いまの吉行にはむしろ快適な乾《かわ》いたサワヤカさを感じさせるのかもしれない。懐旧といった情緒的な心でそう考えるのではなく、あのころといまと、どっちが善いか、など比較してみるのでもなく、いついかなる時期にも自分の心底にあって動かぬ或る「荒涼たるもの」、それを当時の風景の中に当てハメて、もう一度たしかめてみよう、そんな気持が少なくとも私自身の中にはあった。——生活の外見は変っても、その生活の内容は、あのころもいまも、そうそうは変るまい。倒産寸前の事業主というのは、いまの吉行なり私たちなりの生活の外見に、「事業主」といった言葉を連想させるバウンドがあるからで、「倒産寸前」であることには、いまも、これから先も、変りないはずだ。  ひるの十二時過ぎに、近藤の泊っていた上野の旅館を出発した自動車は、途中で一、二度、道に迷ったりしながら、それでも夕方、まだ日のあるうちに、佐原へはあと一歩という利根川《とねがわ》の土堤《どて》まで到達した。とにかく、ここまでくれば、晩飯は佐原の宿屋で食えることはもう確実だというところで、ひと休みすることになった。  車を降りると、土のにおい、水のにおいで、車の中の空気の濁っていたことがわかる。風はなく、あたりに広がった平坦《へいたん》な眺めは嘘みたいに動かなかったが、地べたに尻《しり》を下ろして、汗ばんだ肌を自然のぬくもりのこもった夕暮れ時の空気にさらしているのは気持がよかった。 「のどが渇《かわ》いたな」 「うん、しかしいまは我慢して、宿屋へ着くまで保《も》たせようや。……」 「待てよ、この中に何か這入《はい》っていそうだな」  吉行が車のトランクから、黒いビニール貼《ば》りの四角い箱を取り出した。出がけに八千子嬢が用意したものだという。チャックをあけると溶けかかった氷の中にメロンが二個、沈んでいた。そばにナイフと、三本のサジと、ブランデーの小瓶《こびん》がそえてある。 「こいつはいい、いまここで食おうや」  吉行は早速、メロンを割って、三人にそれぞれ半個と六分の一に切ったやつを割り当てた。まず六分の一の方を平らげてから、半分割りにしたメロンにサジを突き立てる。 「うまいな」  三人は、声をそろえて言った。冷えたメロンは実際、いつどこで食ったものよりもウマかった。 「これをかけてみないか。匂《にお》いがもっとよくなるぞ」  吉行から手渡されたブランデーの小瓶を手にしながら、 「なるほどね」  と、近藤は一と息つき、それから急に感に耐えたように、「女ってやつは、男に惚《ほ》れると、よく気がついて、つくすものだなア」  と、腹の底から出したような声で言った。たしかに、それはそのとおりに違いないのである。私は何気なく、黙々とメロンを食っている吉行の横顔をうかがい、そのメロンの食いっぷりに、どういうわけか感動した。黒い影ばかりになった吉行の顔のうしろで、真っ赤になった夕日が線香花火の火玉のような色にかがやいて落ちて行くのが、ちょうどわれわれの立っている土堤の真正面にみえた。  近藤啓太郎の風雅なる才能  利根川の堤で、メロンの立ち食いがおわると同時に、日は暮れた。夕闇《ゆうやみ》の空にメロンの皮を、めいめいに抛《ほう》り投げたのは多少とも、われわれ三人が旅の感傷を意識していたからであろう。 「じゃ、行こうぜ」  ビニール製の携帯冷蔵庫(?)を自動車のトランクに放りこんで、吉行淳之介は私と近藤啓太郎をうながすと、ふたたびハンドルをにぎって目的地の佐原の旅館に向かった。メロンが都会への郷愁であり、女やジャーナリズムや日常生活の煩瑣《はんさ》なものへの愛着であったかどうかは知らない。とにかく高価で美味で若干虚栄心のにおいもする果物を、まるで野営地で瓜《うり》でも食うように無造作に平げてしまうと、いかにも住みなれた都をはなれて旅に出ているという気持がしたことはたしかだ。  ところで、その晩の宿は近藤啓太郎の義弟が手配してくれたもので、佐原では第一等の旅館であり、近藤のはなしでは「いまの天皇陛下が皇太子の時代に、泊るはずになっていた家だ」という。ということは、つまり天皇すなわち当時の皇太子は結局その旅館には宿泊されなかったわけであるが、近藤の口ぶりでは、まるでわれわれがこの町で戦前の皇族並みの待遇を受けようとしているかの如《ごと》くであった。  由来近藤啓太郎は一種不思議な才能というか人徳の持ち主であって、彼にかかるとたいていが、みな天下第一等のものであり、たとえば、誰かが病気したときくと、 「それなら鴨川《かもがわ》へ来てくらっせえ。オレの家のまんまえのカメダ病院つウ病院でみてもらや、なおらねえ病気はねえからよウ」  というし、景色の好いところはどこかというと、それも、 「鴨川のすぐそばの海岸によウ、日本中の画かきが一度は写生にくる好いところがあってよウ」  といった具合だ。おまけに、彼の奥さんは「ミス千葉」の栄冠を獲得した健康な肉体美の美人だというし、風景も、美人も、食物も、病院も、よいものはすべて鴨川に集中しており、鴨川にしかないようなふうに聞える。……今日では私たちは彼の言うことは決して無闇《むやみ》な誇張やデタラメでないことを承知しているが、最初のうちは、近藤を鴨川の漁師くずれの地廻りか何ぞのように思い、それがヤッキとなって地もとの威勢を示しているのだと考えた。吉行などは彼と出会った最初の晩、私の袖《そで》をひいて、 「おいおい、おまえ、あの男とだけは付き合わない方がいいぞ。どうもおまえはフラフラしていて、誰とでも見境なしにフラつき歩くクセがあるが、あの男とだけは付き合っても、深味《ふかみ》にはまらぬようにしろよ」  と、こんこんと真情あふれる忠告をしてくれたくらいだ。いま考えると、当時の私は吉行の眼にそれほどにも純粋な人柄にうつっていたのかと、かえりみて忸怩《じくじ》たるおもいであるが、一方、近藤はそれほどにもガラの悪げな様子をしていたというわけだ。もっとも私自身は吉行の言うほど近藤をワルい奴《やつ》とは思わなかった。話してみると偶然にも彼と私は小学校、中学校をつうじての同窓生であり、そういえば九段の市立一中で一年上のクラスに、麦ワラ帽をあみだにかぶった背のひょろ長い男がいて、それが近藤だとわかってみると、なつかしいような、がっかりしたような気持であった。要するに近藤のガラの悪さは、遠藤周作のミーハー精神と同様、インテリの羞恥心《しゆうちしん》、裏返しのスノビズムというものにちがいなかったが、悪ぶっているうちにガラの悪さがイタにつきすぎてしまったように見えないこともなかった。  しかし、そんな近藤の評価が、ある時期から突然、われわれの間で急上昇することになった。あれは付き合いはじめて半年あまりたったころだろうか。おたがいに原稿料が入るとワリカンでバアへ行ったりしていたが、ここらでもう少しユトリのある遊興もこころみようではないか、ということになった。新橋柳橋のような所ではなくとも、どこか気のきいた座敷で美妓《びぎ》をはべらせながら、一こん、という心境がどんなものかためしたくなった。  ところで、バアやキャバレーとちがって、花柳界となると、どんな小さな家でも一限《いちげん》の客には何か近寄りがたい雰囲気《ふんいき》がある。私は戦争中、学生時代に「江戸趣味修行」と称して仲間と築地《つきじ》、浅草橋あたりの裏通りに下宿の部屋を借りて、毎日何ということもなく、そのへんをウロつきまわって暮らしたことがあるが、亀清《かめせい》や柳光亭《りゆうこうてい》や深川などの前を通る芸者をいくら眺《なが》めても、ああいう家の中でどんな遊びが行われているものやら一向に想像もつかず、ヒッソリした門の構えが神秘的にさえおもわれた。……バアでこそ、ホステスの愛撫《あいぶ》に「モモ、ヒザ三年、シリ八年」の技巧を誇る吉行も、茶屋遊びの経験は一度もなく、待合や料亭の座敷では、どんな顔つきをして坐っていいかさえ見当がつかぬという。 「実際、おれたちの世代には親の財産を遊びでツブしたという奴が一人もいないな」  と、これは吉行がその時、思いつめた顔つきでもらした言葉であるが、ようよう大人の年齢に達したとたんに戦争を迎えた私たちは、親の財産をツブすまえに国そのものがツブれてしまったのだから、遊ぶ金は自分でカセがなければならず、したがって本当の意味での遊蕩児《ゆうとうじ》は出てくるはずがなかった。つまり戦後の遊び人は、親よりも会社や勤め先の名義を利用できる社用族が大半で、私たちのようにロクな就職口もなかったような者には、仮にたまたま遊べるだけの金を手にすることがあっても、出掛ける場所はバアか飲み屋か赤線、青線の他《ほか》にはないわけだ。  こんなことを私たちが、語り合っていると、いきなり近藤が、 「おまえたち、本気でそんなこと言ってんのか。可哀想《かわいそう》な奴らだなア……。そんなに芸者遊びがしたけりゃ、待合へ行って芸者を呼べばいいじゃないか」 「それはそうさ。だが、そういったっておまえ……」  吉行は言いかけたが、痩《や》せた頬《ほお》にふと老人めいた苦笑をうかべて、口を閉じた。近藤の言うのは多分、鴨川のダルマ芸者か何かのことにちがいないが、ウカツにそんなことを口に出せば、また鴨川芸者の優秀性についてブチまくられる惧《おそ》れがある。それで一同が沈黙していると、近藤は何を思ったのか、 「おまえたち案外遊びを知らねえんだな。もっとも、このごろじゃ好い芸者はほとんどいねえから、遊び方を知らないのもムリはないが……。ま、これならというスジのとおった芸者らしい芸者は、東京じゅう探して一人か二人かな」  と、ひどく気宇壮大なことを言い出した。そして、 「なんなら、こんどおれの知っている家へ連れてってやろうか。おれがむかし遊んだ芸者で好いのがいるから呼んでやるよ。そのかわり勘定はおまえたち自分で出せよ。おれは金はねえんだから……。なに、勘定ったって大したことはねえよ。おれがたのんで『安くしてオクレ』って言えば、何とかしてくれるさ」  私たちは別に近藤の話を真に受けたわけではなかったが、勘定を負けてくれると言われると、急に実感がわいて、それならこんど一度、案内をたのもうということになった。……それから何日かたって、私たちは下谷《したや》の待合へ連れ立って出掛けたわけだが、おどろいたことに本当に清方《きよかた》の絵からヌケ出したような美人の芸者がやって来た。スジのとおった芸者とは、どういうものか、日本髪のかたちやら、着物のきつけ、柄、模様など、私は一向に心得ないが、Nというその芸者が、「東京じゅう探して一人か二人」というのもマンザラの誇張とは思えなかった。しずしずと裾《すそ》をひきずって近づいて来た彼女が、そばへ寄って酌をしようとした瞬間、 「うヘッ、おそれ多い」  と、奇妙な叫び声を発したのは吉行だったが、たしかに私たち一同は、彼女が部屋にあらわれたときから、そのあまりの名妓ぶりに圧倒されて、シンと静まりかえっていたのである。彼女と近藤の顔を見較《みくら》べると「ひとは見掛けによらぬ」という言葉が憶《おも》い出され、二人が幼なじみのような口をききはじめると、鴨川の潮風にさらされてスルメのヘソみたいに陽焼《ひや》けした近藤の顔つきまでが、いつの間にかオットリと上品に見えてきたのは不思議であった。……吉行の奇声をキッカケに、ようやく緊張がほどけたころ、近藤は、「そうだ、Cちゃんを呼ぼう。この子はシロウトで芸者じゃないんだが、Nちゃんが妹分に可愛《かわい》がっている子でね、じつは安岡の嫁さんに世話しようかと思って、おまえの下宿へ連れて行ったことがあるんだよ。あいにくおまえは留守だったがね」  と、またまた意外なことを言い出した。近藤がそんな心配をしてくれていたとは私は少しも知らなかったが、こんな席で「見合い」をやるのはウットウしい気がして、シロウトの娘さんまで呼んでくれなくてもいい、と断わった。 「まあ、いいじゃねえか。顔だけでも見ておけよ。もう呼んじまったよ」  近藤がそう言いおわるか、おわらないうちに、その娘さんはやって来た。私は、たちまち自分の意見を撤回した。ナルホド世ノ中ニハ、コウイウ美女モイルモノカ、と感心するより仕方のないほど奇麗な娘さんだった。  あいにく私は、その娘さんとはその後、一、二度あったきりで結婚することにはならなかったし、おもえばまことに無邪気な歓楽の一夕を過したわけだが、その晩の近藤はこういう美人の知り合いを持っているというだけでも、背後に何やら厖大《ぼうだい》な実力を秘めた大人物であるかのような印象を抱《いだ》かせた。無論これは一時の錯覚であって、その晩の美女と近藤の実力とは別段のかかわりはないはずだし、同じ調子で次から次へ新しい美女をわれわれに紹介してくれるということもなかったが、ただこの男には何か特別な嗅覚《きゆうかく》があって、意外なところで意外なものを発見する、そんな器量の持ち主であるような気はした。ことによると近藤の自慢するとおり、鴨川は風光食物ともにすぐれた土地であるかもしれず、カメダ病院も難病奇病のことごとくを治癒《ちゆ》してくれる病院であるかもしれない。カメダ病院はさておき、鴨川へはゼンソク持ちの吉行や、気難《きむずか》し屋《や》の高見順さんまでが、しばしば仕事を持って出掛けて行くようになったところをみると、きっと何処《どこ》かに取り柄のある土地なのだろう。  こんど佐原の旅館の選択を近藤にまかせたのは、別に彼のそんな嗅覚を信頼したからではなかったが、やはり心の底には何らかの期待がはたらいていたかもしれない。  運河にかこまれた佐原の町は、観光課の宣伝文句によれば「日本のヴェニス」だというが、もしそれが本当ならヴェニスはきっと余程陰気なドブ臭いところにちがいない。とにかく私の眼に夕闇に閉ざされた佐原は、町全体が泥沼のような水田の中に半分埋もれたまま、徐々に沈みつつある木造の廃船のごとくにうつった。目指す旅館は、狭い道路に低い軒をつらねた家並のなかでも見過されてしまいそうな家だった。間口もそれほど広くはないし、外側からみたところは旅館というより駄菓子屋《だがしや》が店をたたんでシモタヤになったという感じだ。なかに入ると奥行が深く、二階には宴会場にでもなりそうな広間などあって、やはり昔は相当立派にやっていた家らしくもあった。三階は私たちの部屋だけで、ちょうど二階の屋根の上にヤグラのように乗っているのであろう。部屋の広さは十畳か十二畳ぐらいのものだが、見上げると天井全体は金色に塗り上げられている。すると、ここは皇太子時代の天皇を迎えるために、特別につくられたものにちがいない。  それにしても、もしこの部屋に天皇が泊られたとしたら、ずいぶん御不便であったろう、なにしろ三階には便所がなく、いちいち階段を下りて、二階の広間ぞいの長い廊下をわたらなくてはならない。それに金ピカの天井も、いまは煤《すす》けて、ところどころ剥《は》げ落ちたりしているからいいようなものの、これが塗り立てのころにはマブシくて、仰向けに寝ることも出来なかったろう。  とにかく最上等の部屋をあたえられたのだから、文句を言うべき筋合はなかったが、私はだんだん薄気味悪くなってきた。便所からかえると、近藤も吉行も風呂場《ふろば》へでも行ったのか部屋はガランとしていたが、一人きりで坐っていると何だかオミコシかイナリのホコラの中にでも押し込められた気分になる。落ちつかぬままに、もう一度部屋のぐるりを見廻すと、となりに次の間ともつかず、壁に区切られた細長い部屋があり、戸口に掛ったドンチョウのような幕の内側を覗《のぞ》くと、ぷんとカビのにおいがして、奥に腕木の曲った古めかしい椅子が一脚、正面に向けて据えられてあった。この椅子も陛下がお坐りになるためのものだろうか。窓もない、こんな押入のような部屋の奥に、ひとりでポツンと坐らせられる人のことを想像すると、ふと背筋が寒くなる気がした。  もっとも、こんなことを怕《こわ》がったりするのは私だけだったかもしれない。風呂場へ行って、そのことを吉行と近藤とに話してみたが、二人とも、 「ハハア、そういうもんかね」  などと言っただけで、屈託なげに湯につかっていた。吉行の背中には肺を手術したあとが大きな袈裟掛《けさが》けになっており、私の背筋にはカリエスをわずらった背骨がコブになって残っている。近藤はこれといった大きな病気をしたことがないかわり、痔《じ》だの赤痢だの、妙に大腸から下の器官がよく故障するらしい。そのせいかバイキンを恐れること、滑稽《こつけい》なほどである。それも怕いとなったら、突発的に怕くなるらしく、何かの雑誌で戦後にも梅毒がはやり出したという記事を読むと、たちまち自分もスピロヘータに冒されていると信じこみ、一時はひとの顔さえ見れば「有田ドラッグ」もどきに微細にその病毒の害を説いて、まわりの者にも自分の恐怖心がうつるまで止《や》めなかった。近藤の科学知識がどの程度のものかはさておき、彼の口からきくとバイキンがみんな青鬼赤鬼のごとくに感じられ、はじめは滑稽に思うのだが、いつか奇妙な迫力をおびてくる。 「そうだ、おまえたち、晩飯に魚が出たら気をつけろよ。ここでとれる魚にはジストマって菌があってな。そいつをちょっとでも食うと、体の中でたちまち何万びき、何十万びきという数にふえちゃって、どうしようもなくなるんだ。そのへんの水をしらべると同じ菌がウジャウジャいるっていうから、きっと風呂桶《ふろおけ》の中にもいるぞ」  先に湯から上った近藤は越中《えつちゆう》のヒモをしめながら、ふと憶い出したように、そんなことを言った。私は、もともと鯉《こい》だのフナだのウナギだのといった淡水魚は好きではなかったが、言われてみると何だかあたり一面にジストマとやらが密集してヌルヌルと体中を這《は》いまわっているような気がしはじめた。 「そいつはイケない。さっそく女中に淡水魚の料理は出さないように言いつけようじゃないか」  女中は、われわれの言うことを、極《きわ》めてイブかしげに聞いていた。そのはずだ。このあたりで食うものといったら、鯉のアライに白魚《しらうお》のオドリといった淡水魚を、それもナマで食うものばかりだ。鯉こくだの、ヤナガワだの、よく煮たり焼いたりしたものなら大丈夫かとも思ったが、近藤はそれさえ危険だと言う。 「何しろ肝臓ジストマってやつは、ちょっと食っても、いつの間にか腹の中で何万びき、何十万びきって数に増《ふ》えちゃうんだからな。よっぽど徹底的に火を通したものじゃなきゃ危ないんだ」 「そうでしょうかねえ。あたしたちは何を食べても平気なんですがねえ」  と女中は不満げな口ぶりだったが、近藤がすかさず、 「いや、そういうノンキなことを土地の人間は言うから心配なんだ。こんどベンの検査をしてもらいなさい。きっと十万びきぐらいはジストマが出てくるかもしれない」  と言うのをきくと、 「わかりました。板前さんに、よく話しておきますから」と、引き下った。  女中が私たちのことを、どう思ったのかは知らない。衛生思想にひどくウルサイところから、県庁の役人か、警察官か、と思ったのかもしれない。とにかく料理を運んできたときは、おそろしく神妙な顔つきになっていた。しかも、おどろいたことに馬鹿でかいハマグリのすまし汁を、何としたことか古めかしい洋食のスープ皿に入れて、これまた明治時代のものとおぼしい錆《さび》あとだらけの大きなスプーンをそえてある。ことによると、こうした食器類も、いまの天皇が皇太子のころにこの旅館にお出《い》でになるというので買いととのえられたものだろうか。私は剥げかけた金塗りの格天井《ごうてんじよう》を見上げながら考えた。いずれにしても、これは旅館側としては大いに工夫《くふう》をこらしてサービスにつとめたつもりなのだろうが、そのサービスが工夫をこらせばこらすほど、ちぐはぐになってくる感じだった。 「ひとつ芸者でも呼んで『枯れススキ』の合唱でもやってみるか」  まずそうに箸《はし》の先でコチコチに固いトンカツをつつきながら吉行が言った。 「女から逃げ出すために東京をはなれたんじゃなかったのか」  と、まぜかえすと、吉行は、 「それはそれ、これはこれさ。このまま寝るんじゃ、いくらなんでも芸がなさすぎるよ。潮来《いたこ》芸者の『枯れススキ』をきいてみようじゃないか」 「そうだな、このへんに案外、好い妓《こ》がいるかもしれない」  そういう近藤の顔つきから、私もいつかの下谷のように、思い掛けぬ美人が現われないものでもない、とふと想った。それに、こういうときは別段どうという女でなくとも、こっちがその気で美点だけ拾い上げるようにすれば、たいていは奇麗に見えてくるものだ。……しかし、どうやら今日は近藤の美女を寄せ集める神通力もツキが落ちて、うら目うら目と出るらしく、やって来た三人の芸者は、私たちの想像をはるかに下廻って、何とも幻想の持ちようのない連中だった。三人の中でタヨリさんという、なるほどタヨリになりそうな、どっしりと肥って顔にも体にも肉の付いた妓が、まだしも皮膚がタルんでいないだけに、いくらかマシというほどに、ほかの二人はひどかった。あまりのことに近藤も吉行も毒気をぬかれて呆然《ぼうぜん》としているので、私が言った。 「きみたち『枯れススキ』って歌を知ってるだろう。あれ、うたってくれよ」  すると三人は俯向《うつむ》いてクスクス笑いながら、膝《ひざ》をつつき合っていたが、やがてタヨリさんが顔を上げて、 「だって、三味線《しやみせん》もねえス……」  とこたえた。その言葉づかいから私は昔の吉原を憶い出し、なるほど彼女たちは最初から寝るのが目的で来ていたのかと、 「じゃ、きみたちはレンアイ専門かね」  ときくと、一瞬きょとんとした顔つきだったが、不意に生マジメになって、 「いいえ、それは堅く止められております」という。 「だって、ここは赤線じゃないんだから、売春防止法とは関係ないんだろう。第一おれたちは、そんなおっかないオジサンじゃないんだから安心しな」  と、吉行は見るからに物わかりのよさそうな小父さんのように微笑してみせたが、タヨリさんはじめ一同、ますます神妙になって、いっかな首をタテには振ろうとしなかった。 「歌もうたわず、寝もしないんじゃ、いったい何をやるのかなア。按摩《あんま》はどうかね」 「アンマは出来ねえス、やったことないス」  意地になって反抗の気勢を示しているのかとも思ったが、申し訳なさそうに俯向いたところを見ると、そうでもないらしい。私はふとおもいついて、タヨリに足の裏を踏んでくれないかとたのんだら、これは意外に素直にひきうけた。 「こうスカ、これでいいスカ」  最初はおそるおそる、俯伏せになった私の足の裏にまるまると肥った体重をかけては、心配そうに訊いていたが、やがて要領をのみこむと調子づいたように、いちにっ、いちにっ、と足踏みしはじめた。すると近藤と吉行も、他の二人に同じことをやらせたので、座敷の中はまるでミソの仕込み工場か何かのような様相をていすることになった。  歓楽きわまって哀愁多しというが、阿呆らしさもまた哀愁に似たおかし味を誘うことにもなる。タヨリたちが、せっせと鼻のあたまに汗をかきながら足踏みしているさまをみると、彼女らのせいいっぱいの奉仕に何か酬《むく》いがあってもいいだろうという気がしはじめた。すると吉行が、 「どうだ、これから彼女たちを送りかたがた、潮来あたりへ氷アズキでも食いに行こうじゃないか」  と提案した。自動車というのは、こういうときには、ひどく便利だ。思いつくと同時にその場所へ気軽に出向くことが出来る。芸者たちは遠足の小学生のようにハシャギ出した。ダンナと遠出をする気分を憶い出していたのかもしれない。それともモーパッサンの「メーゾン・テリエ」の娼婦《しようふ》たちのように、客の相手を強要される座敷から解放されて、故郷の野良を想わせる広びろとしたところへ出掛けることが、端的にうれしかったのだろうか。とにかく中型車としては、あんまり大きくないオースチンは、総勢六人が乗りこむとギュウ詰めの満員になり、昂奮《こうふん》した芸者たちが歓声を上げると、車内は破《わ》れかえりそうになった。——こういうとき事故でも起ったら、新聞記事には、どんなふうに出るだろうか。 「中年男の三人組、芸者をつれ出しドライブ中、ハメをはずして田ンぼへドンブリ」  あるいは、 「カミナリ族を気取った中年男、調子に乗り過ぎ芸者と成仏」  どっちにしても客観的にみると、われわれは得意げに、情欲につかれてヤケ糞《くそ》に田舎《いなか》大尽《だいじん》式のランチキ騒ぎをやらかしていると思われるにちがいない。  町を通りぬけると、たちまち利根川の堤へ出た。先刻、車を止めてメロンを食ったのはどのあたりか、闇にまぎれて皆目見当もつかない、開け放った窓から、夜気をはらんだ風が吹きこみ、足もとに灯火をうつした水の面が素速く流れた。長い橋をわたりきって、両側に茶店やミヤゲモノ屋らしいものの並ぶ細い道路に入ると、そこが潮来の町だった。観光地の町並は全国どこも変りない。ここもまた箱根や熱海や北海道のあちこちにある湖畔と同様、ケバケバしい看板をかかげた掃き溜《だ》めのような家が連なっていた。ただ、ここは規模が小さいし、店の灯もマバラで、どこかうら枯れた様子が、他の観光地にくらべて安手のケバケバしさを相殺《そうさい》して、それほどイヤ味が目立たない。氷アズキを食うには、かえってふさわしい雰囲気《ふんいき》だった。  茶店に入ると芸者たちは、またおとなしくなり、氷アズキの器に向かって一心に忙しげにサジをうごかしていたが、食べおわると気取った手つきでタバコを吸いながら、いくらか高慢げにあたりを眺めまわしたりした。……そんな彼女らの様子を見るにつけて、私は何とはなしに狼狽《ろうばい》をおぼえた。無論、私には彼女らの胸中を、ありのままに見透《みとお》すことなどは出来はしない。ただ、氷を食いおわって小さな満足を得た彼女らが、ついさっき座敷で足踏みしていたときとは、うって変って悠然《ゆうぜん》とまわりのものを見廻す姿勢が、ふと私の内部に反映して、自分自身のことのように思えてきたからである。  おれのいまやっていることは、うらぶれた観光地の田舎芸者が、こうやって一と息ついていることと、どれだけの違いがあるだろう。——  夜の霞《かすみ》ヶ浦《うら》をわたる風は次第に冷たく、すぐ眼の下によせてくる波の、ひたひたと静かな物音が、かえって黒ぐろとした沼の茫漠《ぼうばく》たる広さをおもわせて、何か無気味だった。  三番センター庄野潤三君  庄野潤三も、このごろはすっかり大家の風をおびてきた。  こういう言い方は、無論イヤ味である。けれども、これは一〇〇パーセントのイヤ味ではなくて、じつは少々の本音も入っている。嘘《うそ》から出たマコトというか、庄野は大家だ大家だといっているうちに、だんだんそれらしくなってきたのである。  閑話休題。  庄野はもともと大家たらんと欲してやまぬ気概を持っていた。ずっと以前、まだ小説を書き出して間もないころ、私と庄野と吉行淳之介の三人で、仲間うちの誰彼についてのウワサをしながら、その文学的評価を野球選手になぞらえて話し合った。 「オレはさしずめ南海の木塚みたいに、ショートで九番バッターといったところだ」  こういうことを言ったのは吉行淳之介で、自分の才能をマイナー・ポエットと規定し、馬力はそれほどないけれど、駿足《しゆんそく》、強肩、華麗な守備力をほこる作家でありたいと思ったわけであろう。私は別に誰という名宛《なあて》の選手はいなかったが、やはり吉行と同じような動機から、自分の文学的資質を二番バッターの二塁手ぐらいのところだろうと思っていた。しかるに庄野は、 「オレは三番バッターだよ。『三番、センター庄野クン』、どうだピッタリくるだろう」  と一人で勝手にきめてしまった。そして吉行に、 「キミがラスト・バッターというのは良くないな。ラストは三浦朱門で、キミはトップを打たにゃイカん。一番ショート吉行、二番セカンド安岡、三番センター庄野……、これ、いいじゃないか、ちょっと」 「四番は?」 「四番は、サード島尾だ」  吉行が即座に言った。島尾敏雄を仲間のなかの中心バッターにきめることについては、われわれ三人とも異存はなかった。 「五番は?」 「五番キャッチャー小島」  と、また吉行がすかさず言った。たしかに小島信夫は、その肩のもり上った体格からして捕手型であるうえ、何を言っても「なるほど、なるほど。そうですか、そうですか」と、こちらの言うことを、心の底ではともかく、表面はひどく素直に受けとってくれるところが、いかにもキャッチャー的人物におもわれた。このようにしてきめられた�第三の新人�軍のバッティング・オーダーは次のようなものになった。 (一)遊撃 吉行淳之介 (二)二塁 安岡章太郎 (三)中堅 庄野潤三 (四)三塁 島尾敏雄 (五)捕手 小島信夫 (六)一塁 五味康祐 (七)右翼 近藤啓太郎 (八)投手 奥野健男 (九)左翼 三浦朱門  当時、私たちは月に一度、定期的に集合して語り合うことになっていたので、次の会でこのオーダーを公開した。五味は欠席だし、奥野は評論家ということでピッチャーになっていたから文句は言わなかったが、近藤は大いに不服で、「オレが七番、ライトとは、どういうことだ」と詰めよった。 「それはだなア、おまえの将来性を買ったのだよ。実力があっても試合になると打てない、そういう選手を七番あたりにおくと、急にポンポン打ち出すものだ」  と、これも吉行がウマイことを言って説得した。  まことにタワケた遊びであるが、こういうことをやっていると、あとで頭がグラグラするほど疲労した。それに、こんなかたちで仲間の者の力量を批評したとすれば、これは遊びとしても悪趣味のものだったにちがいない。しかし当時の私たちは、おたがいに自信家であり、また小説を書くことにまだそれほどの職業意識はなく、いくらか下町のシンキ臭い若い衆が寄り合って句会のマネ事でもやっているような気味であったから、こういうことも出来たのであろう。だから庄野は雑誌社へ送った原稿が採用にならず、送り返されたりすると、 「三番センター庄野は、またもや三振。小首をかしげながらダッグ・アウトへ引き上げました」  などとしたためたハガキを大阪から送ってよこしたりして、悲運に会っても余裕のある態度を示した。  何にしても、そのころの私たちは、よほどヒマであり、よほど金がなかった。月に一度集るといっても、会費は一人二〇〇円が相場で、その範囲で酒のほかに湯ドウフだの白菜ナベだのといったものを、どれだけ付けるかが幹事のウデの見せどころだった。そして話すことがなくなると、スモウをとったり、腕押しをやったりした。いつか吉行の家で、庄野、島尾、私のほかに、「三田文学」で小説を書いていた野田開作というのが集ったとき、洗面器に水をはって顔をつけ、どれだけイキをとめていられるかの競争をした。野田は学生時代に水泳の選手であり、五〇メートルは水面から顔を上げずに泳げるぐらいだから、無論一等になるだろうと思ったら、果して一分何十秒かの好タイムだった。すると吉行が、 「オレはもっと行けるぜ」  と、にやりと笑いながら、細い曲った鼻のさきを指でつまむと、洗面器に顔をつっこんだ。はじめは単なる強がりだろうと思っていたが、驚いたことに一分たっても顔を上げない。そのうち、とうとう野田の記録を破り、やがてストップ・ウォッチをにぎっていた庄野が、 「こりゃ大変だ、二分をこえてしもうた。死んでるんじゃないのか」  と、さけび声を上げた。そういえば、さっきから洗面器の中につかりっぱなしになっている吉行の頭は微動だにしない。心配になって、くちぐちに、 「おい、大丈夫か。しっかりしろ」  などと声をかけると、急に洗面器の水に泡《あわ》がボコボコわいて、ゲラゲラ笑いながら吉行が顔を上げた。 「二分五秒フラット」  庄野が記録を呼び上げたが、われわれは驚くよりもアキレてしまった。 「いや、もっとモグっていられたんだが、おまえたちが傍《そば》で騒いで笑わせるもんだから」  吉行は、まるでマラソンにおけるアベベのような口をきいた。しかも、そのとき吉行は結核で肺を冒されていたのだから、彼の内臓器官はカエルかサンショウ魚みたいになっているものとしか思えなかった。  庄野がストップ・ウォッチを胸から下げていたのは、そのころ彼が大阪の朝日放送でラジオのプロデューサーをやっていたからである。しかし彼が「ヨーイ、どん」と号令を掛けてタイムをとっている顔つきは、あくまで水泳部のコーチかOBのそれであった。粗《あら》く縮れた、真っ黒な頭髪が前額部から後頭部までを密生して覆《おお》いつくしており、クマの仔《こ》のような丸顔をほころばせると、キレイにそろった真っ白な歯が覗《のぞ》いて、みるからに健康そのものであり、そばにいるとそれだけでスポーティーな気分がわいてくる。そんな庄野の頭髪がみるみるうちに薄くなり、はるか頭のテッペンをこえて後退してしまったのは、一体いつごろからのことであろう。どっちにしても、それは当時の庄野の若々しく、坊っちゃん坊っちゃんした風貌《ふうぼう》からは想像もつかぬことであった。  もっとも庄野が単なる人の好い坊っちゃんでないことは、私も一、二度、顔を合わすうちに、すぐわかった。ほんの些細《ささい》なことから、彼は突然無口になり、いったんそうなると傍《はた》からどんなに取りなしても、石のように黙りこんでしまう。なぜ彼がそうなるのかという理由は、まわりにいるわれわれにも解《げ》しかねることが多かった。要するに彼は、ダメなものはダメ、キライなものはキライで、そういうものに出会うと、それまでどんなに陽気にハシャいでいるときでも、ソッポを向いたまま金輪際《こんりんざい》、振りかえろうとしない。そんなところから彼は「ガンコフ」と呼ばれるようになったが、このアダ名を彼自身でも気に入っているらしかった。  一方、庄野とは九州大学の学生時代からの同窓で、いっしょに同人雑誌などもやっていた島尾敏雄は「インキジノフ」と呼ばれて、まことにいつみても陰々滅々たる顔つきをしており、庄野とは対照的な人柄だったが、ガンコフとインキジノフと二人の顔を見較《みくら》べると、この両者はわれわれの眼につかぬところで背中をくっつけ合ったシャム兄弟のような不思議な間柄に見えないものでもない。すくなくともこの二人は、東京そだちの吉行や三浦や私などの持っていない一種の家族主義的粘着力を、その生活の背後に持っており、それは後年、彼等がそろって「死の棘《とげ》」、「静物」といった夫と妻の葛藤《かつとう》を描いた名作をものしていることからも察せられる。もっと簡単に言って、彼等はわれわれよりも大人であり、家庭にかえると二人とも二児の父親であった。ただ当時、島尾にとって家庭はイバラの冠であったのに、庄野にとってそれは天使の光輪のごとくにかがやかしく、そのため私たちは、この二人を真ッさかさまの人間のように誤解していたともいえる。  そうでなくとも福々しい顔つきの庄野は、実際にわれわれにとってしばしば貴重な金ヅルであった。そのころ朝日放送では「掌《てのひら》小説」という番組で、若い作家の書き下ろし短篇の朗読をやっており、私たちは四〇〇字詰原稿用紙で七、八枚のコントを庄野のところへ持って行きさえすれば、即座にかなりの原稿料を支払ってくれた。ただ庄野は放送局編成部員としても、そのガンコフぶりを遺憾なく発揮した。私たちが持ちこんだ原稿を、彼はただちに眼のまえで読みはじめるのであるが、その間われわれは世の中で最もキビシい批評家の前に立って、愛のムチの振り下ろされるのを、いまかいまかと待たされる。まるまるとした庄野の両|膝《ひざ》の上にひろげられた自分の原稿の文字の、なんと拙《つたな》く、貧弱げに見えることか——。  すらすらとヨドミなく読みながしてくれて、破顔一笑、真っ白な歯を見せながらホホ笑みかけてくれれば、無条件の合格だが、そんなことはめったにない。まず大抵は、はじめの一枚を読むか読まないうちに、庄野の眉毛《まゆげ》はピクリと上り、額に横ジワが五本ばかり刻まれる。これが危険の予備信号。次に、そのシワのよった額に、肉の分厚い掌を押し当てる。その掌が額から頤《あご》へシゴクように撫《な》で下ろされると、危険信号は本格的なものとなる。 「うう、これはチョット、……」  と、うめくようなひとりごとがもれるようになると、もう庄野のその原稿に対する評価は決定的である。十点満点で七点を合格点とすれば、六・五かそこいらということだ。 「ま、この次はもっとガンバって、やってくれよ」  などと、低い声で言いながら、のっそり立ち上って、経理課のデスクに首を振り振り歩いて行く。そのヒグマがセビロを着たような重厚な後ろ姿をながめていると、「しようのない野郎だ、こんなブザマな原稿を持ちこみやがって……。金だけは友達|甲斐《がい》に払ってやるから、二度とこんなみっともないものを書いてくるなよ」と、そんな言葉が無言のうちに、こちらに伝わってくる。  無論、もっと明瞭《めいりよう》に不出来な場合は、庄野は具体的にその個所個所を指摘して、ハッキリとした指示をあたえてくれたが、それはおおむね肯綮《こうけい》にあたいする有益なものだったから、われわれはその指示にしたがって原稿を書きなおした。……おもえば、こんなに親切で、友情にあふれた編集者にめぐり合えたのは、めったにはない幸運だったかもしれない。とにかく私は、このようにして月に一、二度、小遣《こづか》いをかせがせてもらいながら、短篇らしいものを職業的に書く手続を少しずつおぼえこんで行ったからである。勿論《もちろん》、これまでに私もいくつかの短篇は書いて発表もしていたけれども、三十枚ぐらいのものを一つ仕上げるにも半年ちかくかかったりして、到底それを職業にして食って行く自信を持てなかった。その自信——とはいわないまでも実質的な意味での手掛り——を私にあたえてくれたのは、庄野のガンコフである。  まえにも述べたとおり、庄野を手ヅルに原稿料をかせいでいたのは私だけではなく、われわれ全部が多少とも彼の世話になっていた。十二月はじめのある朝、吉行淳之介が私の下宿へ、ひどく気負い立って跳《と》びこんでくるなり、さけぶように言った。 「おれは、こんどラジオ王になったぞ。飲み屋の払いは当分おれが全部持つから、安心してタカってくれ」  寝起きの私はしばらくの間、彼の言うことがまったくのみこめなかった。何しろ吉行は、その少しまえに集団検診で医者から、肺に十円銅貨大の穴がいくつかあいていると宣告され、おかげでそれまで勤めていたSという泡沫《ほうまつ》出版社も退職して、飲み屋の払いどころか、彷徨《ほうこう》しつつある飢餓線上でいまにも尻餅《しりもち》をつきそうな状態のはずだったからである。 「一体どういうことなんだ、それは」 「ゆうべ遅く、庄野が大阪から電話で知らせてきたんだ。来月からオレに半年間、週一回の連続エッセーを書けっていうんだよ。一回の稿料がどれぐらいか、とにかく月に五、六万、それが半年つづくんだ」  吉行の昂奮《こうふん》した口調にひきこまれて、私も腹の中に火の燃えるような熱さをおぼえ、 「それじゃ、おまえ、別荘をたてて、おれたち全部を招待しろ」  と、あらぬことを口走った。 「別荘? それはムリだが、まあキャバレーぐらい……」 「だって、おまえ月に五十万だろ」 「五十万じゃない、五万だよ」  月に五万の収入で「ラジオ王」になったつもりの吉行も大仰だが、私にしても五万円という金は、金としての実感のつかめぬ点で五十万と大差ないタカラクジ的大金におもわれた。 「連続エッセーって、いったい何をやらされるんだ」 「それが恋愛講座だっていうんだ。伊藤さんの『女性に関する十二章』、あれが一応向うのアタマにあるらしいんだが、なるべくオレはオレらしく、体験に即したものでやれって言うことなんだ、へへえ」  と、吉行はようやくふだんの吉行らしいテレかくしともつかぬ得意げな微笑を、小鼻のわきにシワをよせて漂わせた。しかし私は、そうきくと、吉行にそんな大それたことが出来るかどうか危ぶんだ。ことに引き合いに出された伊藤整氏の名は、それだけで私を威圧した。吉行はどうやら自分の恋愛体験に自信をもっているらしいのだが、それが私には最も危険におもわれた。何といったって吉行は三十歳にはまだ二三年も間のある二十代の小僧っ子ではないか。ことによると、中途で疲れて動きのとれなくなった吉行に、おれが加勢をもとめられたりするのではないか。しかし、とても自分にはそれはオボつかない、等々。  いま考えれば、これらはすべて馬鹿げた杞憂《きゆう》にすぎない。しかし婦人服の仕立直しともつかぬ奇妙なジャンパーの襟《えり》もとに、ウブ毛のような無精ヒゲの生えかけた細い頤をうずめて笑う吉行の顔つきは、おそろしくヒネこびた少年めいているばかりで、恋愛講座の講師がつとまるガラとは誰だって到底かんがえられなかったのではないか。……このプランの立案者が誰であるか、正確なことは私は聞いていない。しかし当時の朝日放送で吉行の名前を知っていたのは庄野ぐらいのものだろうし、そうだとすれば庄野はプラン・メーカーとしても、じつに卓抜なカンと見透しのきく判断力の持ち主だといわざるを得ない。  恋愛講座の仕事は、はじめ吉行のかんがえたよりは、ずっと苦労の多いものだったらしい。しかし地元の大阪では毎回好評のようで、吉行の名前も「ラジオ王」のヒ孫ぐらいの知名度は得た模様であった。吉行を「ニイちゃん」と呼んで、みずから妹のような、情婦のような顔つきをしていた吉行夫人は、コタツの板の上にキントンだか、ゴマメだかを、いっぱいに並べて、 「あたしたちケッコンして、はじめてのお正月らしいお正月よ」  と、急に家庭婦人らしく、おさまりのいい口調で語っており、吉行は吉行で私に予約した何層倍もの頻度《ひんど》で、銀座のバアなどでわれわれを饗応《きようおう》した。それまで私は勿論、吉行にとっても銀座裏にひしめくバアは、どれも開《あ》かずの扉《とびら》同然であったから、いまその扉を自分の肩で押して入るということだけでも、すでに私たちは自分で考えている以上に有頂天になっていたにちがいない。——あのころ、おれはあんな場所で、いったいどんなことをシャベったり、やったりしていたんだろう。おもっただけでも一瞬、背筋が冷たくなり、固く眼をつぶって無念無想のお経でもとなえたくなる。吉行は得意の「モモ、ヒザ三年、シリ八年」を相手かまわず実行し、私がそれに吊《つ》られてホステスにむしゃぶりついたり、とにかく、まわりの人の顰蹙《ひんしゆく》をかうことばかりを選んでやっていたはずだ。そんな中で、ふと一つだけ奇妙に印象にのこった場面がある——。 「おい、見ろよ。庄野のやつ、やっちょる、やっちょる」  たったいままでホステスのスカートを乱暴に引っぱったりしていた吉行の声が、突然、耳もとでヒソヒソと聞えて、そっちの方を振り向くと、ポツンとそこだけが妙に周囲とは離れた席に、膝を正した庄野が、和服姿のおとなしそうなホステスと並んで坐り、その月に出たばかりの文芸雑誌のページをひらいて、しきりに何やら説明してやっていた。ただそれだけのことであり、別に庄野が野心的な新戦法をくわだてていたというのでもない。それなのに、その光景は吉行の言うとおり、いかにも「やっちょる、やっちょる」なのである。——そこには強引なものは何一つなかった。たとえば「三番バッターはおれだ」と言い張ってきかないような明けっぴろげなワガママを押し通す強さは、むしろこの薄暗いバアの中では庄野のよりも吉行のものだった。ただ吉行には文芸雑誌のページをひらいて、となりの女に読んでやるといったことは絶対に出来ない。その素朴な、濃密な、牧歌的|雰囲気《ふんいき》に、吉行は耐えられないのである。  つかぬことだが、私はそれから一年ばかりたって、いまの女房と結婚式を上げることになった。私としては、結婚式などで時間や金のムダづかいはしたくなかったが、そんな形式的なことは止《や》めるべきだと、女房を説得するにはそれなりのエネルギーがいるわけで、それならいっそ世間並みの流儀にしたがおうという気になった。 「金は会費制にすればいい」  と、その半年ほどまえに曽野綾子嬢と結婚式をやった三浦朱門が、チエをつけてくれた。たまたま、そのころ私たちは同人雑誌『構想』の発行を計画しており、何度か会合をひらいたものの、原稿の集り具合が悪くて、立ち消えになりかかっていたのを、この際中止し、同人費として集めた金を私の結婚式の会費に廻してくれることになった。 「しかし結婚式の挨拶《あいさつ》には気をつけてもらった方がいいぜ。オレのところなんか、チヅ子の母親が石浜の言ったことを気にして、いまだに人が来ると、それを言って、フンガイしたり、嘆いたりするんだから」  三浦の結婚式は無論、会費制などというケチなものではなく、Sホテルのホールで堂々たる披露《ひろう》が行われたのであるが、われわれだけが出版記念会で、わざと主人公のタナ下ろしをやるようなスピーチをやって、そのため三浦があとでいかに迷惑したかというわけだった。なかでも石浜恒夫が「曽野さんは今後、小説を書くことをやめて、三浦君の奥さんとしてリッパにつとめてください」と言ったのが、いたく曽野さんの母君を刺戟《しげき》したというのである。もっとも当時は、三浦をふくめてわれわれは誰も、それから一年たたぬうちに曽野綾子が女流作家として大活躍をはじめようとは想像もしていなかったし、石浜も他意なく、むしろ最も当りさわりのない話をしたつもりであったろう。  どっちにしても私の結婚式では、あとでこのような悶着《もんちやく》の起る心配は、ほとんどなかった。ただ式のはじまる一週間まえになって、仲人を誰にするかと女房の母親に訊《き》かれ、これもナシではすまされぬことに気付いて狼狽《ろうばい》させられた。普通、世間ではこういう役は先輩や、父親の知人のなかから、なるべく高名な人格者をえらんで依頼する習慣であることは知っていたが、いざとなると誰にたのんでいいのか見当がつかない。それに第一、こういうことを、あまりに堂々たる目上の人にやってもらうのは、晴れがまし過ぎておもはゆいし、かといって堂々としていない目上の人に目星をつけるのは、そのこと自体失礼千万である。いっそ吉行淳之介にたのんでみたい気もしたが、あいにく彼はいよいよ悪化した肺の手術で清瀬《きよせ》の病院に入院中だった。 「吉行がダメなら、庄野潤三か……」  私は漠然《ばくぜん》とそうつぶやいて、突然、天啓のひらめくおもいがした。何だって、いままで庄野の名前を忘れていたのだろう。仲人なら庄野が最適任じゃないか。私は早速、庄野にそのことを電話で申し入れた。 「よっしゃ、ひきうけた」  予想どおり、打てばひびくこたえだった。  じつのところ庄野は大正十年生れで、私より一つ年下だが、私や女房の身内や親戚《しんせき》の誰もが、かっぷくのいい庄野を私よりはるかに先輩の人物とアタマから信じきっており、式の当日、私が彼を「庄野、庄野」と呼びつけにするのを、だいじょうぶなの、とひそかに心配しはじめる始末だった。 「だいじょぶだよ、彼はそんなことは気にしない。それより彼は夫婦和合、家庭統御の要諦《ようたい》を心得ているから、夫婦|喧嘩《げんか》をしたときには、あいつに来てもらえば、たいていは何とかマルくおさめてくれるはずなんだ」  私は、思いつくままに、そんなことを母親に言ってきかせたが、話しながらだんだん庄野が実際にタヨリ甲斐《がい》のある人物に見えてきた。仲人をたのむときには別段、あとあとの夫婦喧嘩の仲裁役になってもらうことなど考えてもみなかったのだが、式場で細君と肩を並べた庄野が悠然《ゆうぜん》たる歩調で、そのへんを歩いたり、誰彼に挨拶《あいさつ》したりするのを眺《なが》めていると、自分はとてもあのようにドッシリした態度で女房をひきまわすことは出来ないだろうという予感がわき、ツマらぬことで言い争っているわれわれのところへ庄野夫妻が消防ポンプのような勢いで跳《と》びこんでくることなど、ラチもない想像が次から次へ浮かんできた。  庄野が、雪をかぶった火山のように、内側に危機をはらんだ夫婦の葛藤を静かな口調で微細に語りつづけているのは、かならずしも現実の庄野の家庭をひきうつしにしたものではないだろうが、あの小説から庄野や庄野夫人の人格を除き去っては何物も残らぬはずだし、われわれも結婚するからには、そういう庄野の生活態度に少しはアヤかりたい気がするのである。  神式の結婚式場は、誰もが知っているとおり、正面の祭壇をはさんで、新郎新婦の両家が向かい合って二列に坐るわけだが、その真ん中に立って庄野が、 「こちら、安岡家、こちら、平岡家」  と、手振りで指図するさまは、バレー・ボールの審判が、これからはじまる試合の挨拶をさせるのに似て、はなはだスポーティーだった。一つには、これは庄野が着ていた紺色のブレザー・コートのせいでもあるだろう。じつは、そのブレザーは、たったいままで私の着ていたものであり、私は庄野の紺のダブルの上衣《うわぎ》を着用していた。当時、私はセビロといえばそのブレザー一着しか持っていなかったし、貸衣裳屋《かしいしようや》へ出かけるのも億劫《おつくう》で、ついそのままの恰好《かつこう》で来てしまったのだが、庄野のダブルと見較べると、その方が、やっぱり見映《みば》えがするので、式の直前に交換してもらったのだ。庄野の上衣は私には、いくぶん大きかったが、それでも一見、借着には見えない程度に身についた。 「うん、好いよ。なかなか似合うよ。君もそろそろ落着いた服を一着つくれよ」  庄野は、そんなことを言いながら、介添人らしく私のスタイルを四方八方から注意深い目つきで点検した。すると私は、庄野の体温のこもった上衣がポカポカと自分の上半身を包みこんでいるのを、ふとくすぐったい感じで受けとめた。この上衣の温《ぬく》もりは、庄野の生活の背後にある家族主義的粘着力の温《あたた》か味《み》であろうか。  神主がノリトを上げはじめると、あちこちからクスクスと押しころした笑い声が起った。私自身、子供のころから神主の声をきくと横隔膜を刺戟され、笑いをこらえきれなくなる性分だから、あらかじめ笑い出したくなることを予想していたのだが、どうしたことか、いま、 「オータク、デンエンチョーフニスメル、ヤスオカノショータロー……」  と、勿体《もつたい》ぶった抑揚で自分の名前が呼び上げられてもすこしもおかしくも何ともない。かえって、ある平凡な人間が、平凡な生活に、いま一と区切りつけているのだな、という実感がわいてきた。  ノリトがおわって、私の両親と、女房の家の両親が、それぞれ神棚《かみだな》の前へ進み出て手を合せる。年とった父母がカシワ手を打つ音は、秋の木の葉が風にゆられるように、乾《かわ》いて、バラバラとなった。女房の親たちの叩《たた》く手もやはり、これに似たひびきがあって、私はふと自分と女房の両親が同じタイプの人間である気がして、何か運命的な感じがした。それがおわると、こんどは庄野夫妻の番だ。祭壇の前に肩を並べた二人が、そろって同じ角度で頭を下げると、つづいて、 「パン、パン」  と、まるで四本の手が呼吸を合せて一つのものになったように、寸分のズレもなしに鳴った。それはジャスト・ミートのバットの快音に似て、  やっぱりなあ——。  私は、おもわず心の中でツブやいた。すると、あたりからも声にならぬ声のようなものが、ほっとタメ息でもつくように伝わった。他人同士の夫婦の呼吸が、こんなにピッタリ一致するのを見ると、きっと誰もが同じ思いに駆られるのであろう。  金を想うごとく友を想う 邱永漢《きゆうえいかん》  ヒトリゴトというのは、無意識につぶやいてしまうものらしいから、大体は無意味な口グセのようなものだ。私のヒトリゴトを大別すれば、おおむね次の三つにまとめられる。 「ああ、結婚したいな」 「ああ、日本はこまった国だな」 「ああ、金がほしいな」  既婚者の私は、またあらためて結婚しなおしたいなどとはユメにも思っていないし、他の二つも大して意味はない。仮に、口を突いて出てくるこれらの言葉が、みんな一応は潜在的な欲望をあらわしているものだとしても、私の場合はそれが自分の考えていることと一直線につながらないことはたしかだ。たとえば、情欲に不如意をおぼえて倦怠《けんたい》を感じているようなときに、 「ああ、日本はこまった国だな」  などと言ってしまうのである。また、税金の督促状がやってきてクサクサしているようなときに、 「ああ、結婚したいな」  などと口走ってしまうのである。しかし、 「ああ、金がほしいな」  とツブヤくときの私は、反射的に邱永漢の顔を憶《おも》いうかべていることが多く、どうもこれだけはヒトリゴトと潜在意識が直結しているように思われる。  邱永漢が我が家へあらわれるようになったのは、昭和三十年の二月か三月、「濁水渓」という戦中、戦後の台湾人の苦悩を訴えた小説を送ってくれてからで、私はその小説に台湾人というより自分と同世代の人間に共通の或《あ》る性格を感じ、家も近くだからヒマなときに傍《そば》を通りかかったら声を掛けてくれと、礼にかえてハガキを出した。すると、それから何日もたたないうちに、派手な薄茶の格子縞《こうしじま》か何かの外套《がいとう》をきた男が、 「わたし、邱ですが」  と、通りに面した窓の向うに、馬鹿にツヤツヤと血色のいい顔を覗《のぞ》かした。私は、しばし戸惑った……。「濁水渓」は戦争中、日本軍部に弾圧され、憲兵に追いまわされながら生きてきた台湾の青年が、戦後になると大陸から渡ってきた蒋《しよう》政権の役人に反国民政府的革命分子であると戦争中にまさる圧迫をうけ、ついに国籍を放棄してユダヤ人のごとく国外を放浪せざるを得なくなるというものだが、私はその主人公の青年から、背が高く、頬《ほお》がこけて、黒い頭髪のモシャモシャした、何となく堀田善衞《ほつたよしえ》氏に似た風貌《ふうぼう》の人物を想像していた。しかるに眼のまえに立っているのは、いかにも栄養のよさそうな、広い額のピカピカした、ソロバンのうまそうな青年だった。  なるほど亡命生活者というのは、こういうふうに頑健《がんけん》な身体と、ヌケメない頭脳のはたらきを持たなくては、やって行けないものかと、私は「亡命」という言葉のヒロイズムにまどわされていた自分を反省した。  とにかく部屋へ上ってもらい、それからどんな話をしたか、もう覚えていない。たぶん文学や小説の話をしたんだろうが、記憶に何も残っていない。おぼえているのは紅茶を出すと、この亡命青年が、 「紅茶はリプトンがいいとはかぎらない。日本の紅茶は自然の風味とコクがあって、なかなかいい」  といったことから、やがて日本の産業全般が、いかに将来有望かという話を、ながながとやりはじめたことだ。そして自分は文学をやるかたわら、チューインガムの会社を経営して、その社長か重役かであるようなこともいう。私は文学青年が食うために、いろいろの職業についている例を充分に知っていたが、チューインガムの行商を三日やって止《や》めたというのならばともかく、それを製造しながら小説を書くという話ははじめてだった。  私も、清貧に甘んじるのでなければ善い文学は生れないとは必ずしも考えてはいないが、文学と貧乏とは必然的なつきものだと思っていた。そのことを言うと、邱は、 「いや、貧乏なら、わたしも誰にも負けないぐらいいろいろの貧乏生活を知っているけれど、わたし自身はいくら貧乏しても、すぐにそこからヌケ出して金持になってしまうのでね」  と、暗にその生活体験のゆたかさを示すように言った。たしかに彼の眼からは、私の考えている貧乏ぐらしなど、はなはだ甘っちょろいものにちがいない。私は、そういう彼から真の貧乏とはいかなるものか、その実体を聞かせてもらいたいと思った。しかるに彼は、貧乏よりも、金持がいかにして大金持になったかという話ばかりを、とめどもなく繰り出すのである。そして、あまり浮かぬ顔をしている私をハゲますように、 「それは誰だって、はじめのうちは貧乏よ。……いま話した大金持のXさんだって、つい三、四年まえまでは、とっても貧乏でね、家の中には、なーんにもなくて、まア言ってみれば、こんなもんだったのよ」  と、眼をクルリとうごかして部屋の様子をながめまわし、指先でテーブルをコツンとはじきながら言った。  私は驚いて、笑い出した。当時、私は女房と二人で多摩川ベリの家に、板敷の洋間と三畳のタタミの部屋とがつながった奇妙な一室を借りて、三畳には私の万年床と小机、板敷の間には女房の持ってきた洋服ダンス、整理ダンス、寝台、鏡台などがあって、客が来れば板敷の床に座ブトンをしいて、タンスによりかかったりしながら応対することになっていたが、これでも一年まえまで大森の下宿の四畳半の部屋にくらしていたころと較《くら》べると、飛躍的な大進歩をとげており、夢にも「とっても貧乏」などと言われるとは思ってはいなかったのである。  もっとも、そのころは邱永漢も、あんまり大きな家に住んでいなかった。ダイニング・キッチンの他に二部屋ほどの小住宅だった。彼はそこに奥さんと子供二人、お手伝いさんなどもいて、じつにゴチャゴチャと大勢で住んでいたのであるが、どういうわけかあまり狭苦しいという感じはしなかった。のみならず彼は、そこに十人ほども客を呼んで、しばしば御馳走《ごちそう》した。 「日本人は食いしん坊だから、メシで釣って文壇に乗り出す」  というのが、そのころの彼の持論であったが、もし本気でそう考えていたのなら、これは彼の計算ちがいである。いくら日本の文壇の諸先生が食いしん坊のお人好しばかりだとしても、御馳走のお礼に邱を直木賞作家に売り出したり、原稿をドシドシ書かせたりするわけがない。彼が文壇で活躍したのは御馳走の才よりも文筆の才によることは明白である。おもうに彼は異境にあって、日本人の社会で暮らすことに、有形無形の負担を感じており、御馳走政策はそうした心の負担やらサビシサやらをまぎらわす手段の一つであったにちがいない。  もっとも日本人が好奇心|旺盛《おうせい》な食いしん坊であることは、彼の言うとおりであって、何度か招かれた邱家の会食で、私は佐藤春夫先生御夫妻や檀《だん》一雄氏、井上|靖《やすし》氏など、まえから存じ上げている方々とも同席したが、はじめての人にもたくさん紹介された。なかには一とクセも二たクセもあって人付き合いの決して好くはなさそうな人たちもいて、こういう人たちを邱は一体どうやって知り合い、どうやって自分の家へ招《よ》びよせたのかと異様な気がしたくらいであった。しかし、どんなに知らない人同士とでも一つの食卓をかこんでメシを食ううちに、やがてイヤオウなしに親近感を生じてくるのは、われわれの胃の腑《ふ》の一種機械的な反射作用であろう。このメカニズムを邱は充分に心得て操作しているのであれば、彼の御馳走作戦はやはり成功であったといえるだろう。  ところで、その御馳走の内容だが、少ないときで十二、三種類、たいていは二十種類ぐらい出る。それも一回ごとに、ほとんど別のメニューがつくられるのだから、ノベにしてその料理のレパートリーはどれぐらいになるのか、少なくとも百種類以上であることは、たしかだろう。しかも、その料理を邱の細君が全部一人で、テンピもない台所のすみのガス台でつくるのである。一度、同行した愚妻がその台所を覗かせてもらい、料理道具が御飯蒸し一つに、シナ鍋《なべ》一つであったと驚いていたが、たったそれだけの道具で、あれだけの品数がつくれるのは、まるで魔法としか思えない。  しかし二十種類もの料理となると、じつは平らげる方も一と仕事だ。御馳走のあるときは何日もまえに予告があるのに、前日になると邱がわざわざやって来たり、電話を掛けて来たりして、 「あしたは、うちのメシだからね。そのつもりでね」  と念を押すのであるが、これを恩着せがましいこととカン違いしてはならない。朝から食をひかえて、なるべく腹をへらしておくようにという警告なのである。おかげで私は、その日は病院で内臓の手術を受ける患者のような気分になる。夜になるのを待ちかねて出掛けて行くと、まず当日のメニューが示されるが、漢字がたくさん並んでいるだけだから何のことやらわからない。メニューの下に参会者の氏名を書きこむのは、次回に同じ料理を出さぬための心づかいであるが、演出としてもなかなか手がこんでいる。  さて、いよいよ食事がはじまると、眼のまえの皿はいかにも小さく、それにちょっぴりずつ盛られる料理は、腹ペコの胃袋にはまるで小鳥のスリ餌《え》みたいにタヨリない。三品目か四品目までは、その状態がつづく。やがてスープが出る。これがなかなかウマイので、たいていの人が二杯か三杯お代りをする。ところで、ここまではその日の前菜で、本格的な御馳走はこのあとからはじまる。十品目あたりで、そろそろ腹はいっぱいになり、もうあと幾つ食えばおしまいになるかと、料理の名をきいてメニューを終りの方から数え出す。十二品目あたりで、もう何が出ても食えないという気になるが、ここらへんで邱家とっておきの街の料理屋では絶対に食えないもの、たとえば薄く切った大和芋《やまといも》にブタのアブラ身をはさんで、特殊の香料と何種類かのソースをとりかえながら何十時間も煮こんだというような手数のかかる料理が出る。ブタは完全に溶けてクリーム・チーズ状になった芋に滲《し》みこみ、口にふくむと軽い歯ごたえがあって、香りがいっぱいに広がり、舌全体を包むように柔らかく溶けて行くときのウマさは、何ともたとえようがない。このへんで、またスープ。これは口の中を淡泊にさせて、次にカキ油のソースで煮こんだ牛のヒレか何かを食わせるコンタンである。それからあとは、もはや苛酷《かこく》なる胃と腸と食道とのワンダーフォーゲルになる。エビを粉にして固めたソバやら、何とかの香料と何とかのアブラでいためた焼飯やら、骨まで柔らかく煮た魚やら、シナ風のお汁粉やらが、次々に押しよせ、「胸突き八丁」という言葉の語源はこのような状態をいうのではないかと思われるほど、腹から胸から、体の中じゅうが食い物で充満し、ついに全身の皮膚がゴム風船と化してハリ裂けそうになる一歩手前に、ようやく全コースを終るのである。  それにしても、こんなに苦しいおもいをしながら、結局は最後まで食いつづけることが出来るのは、邱のすすめ上手《じようず》、奥さんのコックの腕前によるものであることは無論だが、そればかりではない気がする。  邱に言わせれば「日本人は食いしん坊」でも、私たちにはこんなに徹底して食いぬける食事は中国式のものに思われる。そして結論は、日本人も中国人も食うことにおいて変りはないということになる。実際、こんなふうに食ったうえに、なお詰めこむという食い方をしていると、人間は食うことの他に余計なことは考えなくなるようだ。「呉越同舟《ごえつどうしゆう》」という言葉も、もしかしたらここから生じたのかもわからない。私は中国は満州しか知らないから、その全体の広さも地図を見ただけでは実感がわかないが、あのように広大なところに、あのように大勢の雑多な人間が住んでいると、いつどこで言葉も習慣もちがう者同士が一個所に集る必要を生じないともかぎらず、そんなときに唯一の相互理解の方便として、無我夢中で食いまくる風習が自然に出来上ったのではないだろうか。酒をのんでも人は意気投合するとはかぎらない。逆に物を食わないで酒だけのんでいると、感情が昂《たか》ぶって喧嘩《けんか》や乱闘におよぶこともある。やはり他人同士が自我を殺して付き合うには、トコトンまで食いつづけ、おたがいに腹の中が一つの鍋のものを別け合った食物でミッシリと充満させるべきで、そうなってこそはじめて私たちはおたがいに、食うという単純無比の目的にそって生きていることを体得できるのではないか。その意味で、邱の御馳走政策は大局をまちがってはいなかったと思う。  邱の奥さんは背のスラリとした広東《カントン》生れの美人だが、最初のころは日本語がほとんど出来なかった。さんざん御馳走になって、みんなが口々に謝意をのべると、台所の奥の方から、 「ナンニモナイヨー」  と恥ずかしそうに言うのが聞えた。何時間も台所に立ちっぱなしで二十種類もの料理をつくって、ナンニモナイどころではないのだが、「行きとどきませんで」とか、「何もおもてなし出来なくて」とかいう意味に受けとれた。無論、中国語の教養は深かったから、佐藤春夫先生が漢詩を読まれたときなど、邱夫人が平仄《ひようそく》か語法かの誤りを指摘して、先生がうなずいておられるのを見た。  私は、ずっと以前に「どんなことがあっても中国の女性とだけは結婚するものではない。きっとワガママで、カカア天下で、手がつけられなくなる」という話をきかされ、何となくそれを頭から信じていたが、邱の奥さんを見ていると、その評定《ひようてい》はむしろ我が家の女房にこそ当てはまりそうに思われた。……もっとも、これは私が中国語を知らないからで、邱夫妻が中国語で話し合っているのを聞き分けられたら、案外意見が変るかもしれない。いつかも、邱がぬけ上った額に汗の玉をうかせて、 「いま、出掛けに女房とやり合ってきたところだ」  と言う。君のところでも、たまにはそんなことがあるのかと訊《き》くと、 「いや、タマどころじゃないよ。今日は、あんたは嘘《うそ》つきだ、というから、なぜだと訊きかえしたら、結婚するときあんたはわたしに、二日に一ぴきずつニワトリを買って食べさせると約束したのに、日本へ来てからは十日に一ぴきか、二週間に一ぴきしか食べさせないじゃないか、というんだ。かなわんよ、食い物のことを執念ぶかく言われると……」  あの細い体つきの邱夫人が、二日に一羽のニワトリを平らげるのかと驚いたが、 「ま、いいじゃないか、ニワトリで文句を言われるぐらい……。それよりも君は、雑誌や何かに女と浮気した話を書いても、あとで奥さんに読まれてトッチメられる心配がないのは羨《うらや》ましいよ」 「ところがそうでもない。日本語の文章でも、漢字を拾い読みしただけで何が書いてあるかカンでわかるらしい。おまけにこのごろは中国の易学の本を読んで、おれのことを四十歳までに必ず外に女を囲うようになる、人相にも手相にもそれが出ているとヌカして、やたらに警戒しやがるんだ」  そんなことを嘆いたあとで、邱はまた想い出したように、「最近めっきり頭も薄くなったので、こまっていたが、千葉に優秀な医者がいることがわかったので、そこへ植毛術をうけにかよっている」と、妙に色気のあることを話し出したりした。  言われてみるまで気がつかなかったが、邱の頭髪はこの二、三年ですっかり薄くなり、もともとピカピカしていた広い額が、いつの間にか頭の地肌《じはだ》に接続して、ラッキョウ型の頭部全体に光沢をおびている。もっとも、これは苦労のためというよりは、エネルギーの充実を物語っているように思われた。その間に彼は小さかった家を総二階に建てなおし、やがて目黒の柿《かき》ノ木坂《きざか》に鉄筋コンクリート三階建の家を買って引っ越した。 「こんどの家は広すぎて、電気代だけでも一万円以上かかるので、ウッカリ出来ない。このごろは女房も子供も一日中、家のなかの余計な電灯を消して歩くのにかかりきりだ」  邱がそんなことを言うのは、ふだんの彼に似つかわしくなかったが、シマリ屋になるのは金の出来た証拠かもしれない。事実そのころから彼の金モウケの話には一段と熱がこもり、実感が出てきた。邱の話題が金モウケに集中しているのは、吉行淳之介の関心が情事に向いているのと同じで、この二人の志はまるで磁石の針のようにピタリと金と女の両極を指して動かない。とはいえ以前の吉行は口ほどには女にモテず、三十の半ばを過ぎてようやく風姿に嫋々《じようじよう》たるムードがそなわってきたように、邱の金モウケもそのころから軌道に乗ってきたことが、顔つきにも現われていた。  鉄筋三階建の家に引っ越して半年ばかりもたつと、その堂々たるトーチカを積み重ねたような住居は邱の顔にもっともふさわしく見えた。もはや邱は電灯代の心配を口にするどころか、こんどは渋谷に土地を買ってビルを建てると言い出した。 「まだ設計も何も具体的なことは全然きめてないんだがね、いい名前をおもいついたんで早く建てたいよ。マネー・ビルっていうんだ。屋上にネオンサインで、大きく�マネー・ビル�と書く。ちょっといいね」  たまたま株式市場は戦後で何度目かの好況期をむかえており、邱は週刊誌などに投資作戦の記事をかきながら、自分でも記事に書いたとおりの株を買ったり売ったりしはじめた。邱の書いた記事はよく当るというので、その週刊誌は店頭にならぶまえに、ゲラ刷が出るのを狙《ねら》って印刷所へ駆けつける愛読者もあらわれる騒ぎだという。邱の投資判断がどの程度に的確であったかどうか、シロウトの私にはわからない。しかし彼が週刊誌に書く記事が一般投資家を動かしたとすれば、そのぶんだけでも彼の記事は適中率が増すわけで、そうなればますます彼の信奉者は多くなり、またそれだけ適中率もよくなる道理だ。それにしても一年まえまでの邱からは、株の話など聞いたこともないのに、いつの間にそんなに株のことにクワしくなったのだろう。これは邱が東大出の経済学士だというだけでは、納得の行かないはなしだ。 「そうよ。ボクが自分で考えても不思議な気がするくらいだもの。しかし一般に株屋さんのアタマは、どうにもならんほど古いんでね、わかりきったことが実行できないもんだから……」  と邱自身も笑いながら何か憂鬱《ゆううつ》な顔つきでこたえた。人は渦中に立つと、ときどきこんな顔つきになるらしい。  景気には上り下りの波があるのは当然で、株もいつかはドカンと下るときがくるだろう。株の好景気が二年ばかりもつづいたころ、私は女房づれでアメリカへ出掛け、山奥のテネシーの町に半年ほど滞在してかえってきた。もうそろそろ景気も悪くなって、邱も商売がえを考えているころだろうと思ったのに、景気は一向おとろえず、かえってイギリスの経済誌が「おどろくべき日本」という特集号で、日本の経済力の発展をほめちぎっていると聞かされたりすると、本当に日本は奇跡の国なのだろうかと、わけもなしに驚いた。  邱はおそろしく忙しいらしく、ときたま電話ではなすほかは、ユックリと顔をみて話す機会もめったになくなったが、電話口でも彼は用件以外は金のもうかる話ばかりした。 「こんなことを言ったって、あんたはどうせ買わんだろうけれど……」  と前置きしながら、三月から半年で倍になる株のこと、誰某が何を買っていくらいくらモウけ、誰某が売った株は翌日からまた急上昇しはじめた、等々。株がモウかるというのは、もはや常識であり、誰がどれほどトクをしようと、話自体にはすこしも新鮮味がなかったが、邱の口からきくとそんな話が何となく愉快になり、邱の大きな笑い声につられて、こちらも「ワッハハハ」と笑ってしまうから奇妙だ。  笑いは伝染するものだし、邱が景気よく笑えば、こちらも同化して笑い出すということもあるだろうが、邸の話で愉快になれるのは、もっと他にも原因があるらしい。つまり邱がいかにも熱心に情熱をこめて金の話をしはじめると、私はそれに反比例して金銭が抽象的な、滑稽《こつけい》なものに感じられ、やがては自分がまったく無欲テンタンな男であるような錯覚をさえおぼえてくる。この妙にズレた脱落感のようなものが、なぜか私には愉快で、おかしくてたまらないのである。無論、私は実際に無欲テンタンどころか、人一倍ケチで意地汚《いじきた》ない性分であるが、邱に「これはモウかる株だから買え」といくら熱心にすすめられても、金がなければ株も買えないのだから仕方がない。それが邱には歯痒《はがゆ》いらしく、 「ダメだなア、あんたは。こんどから原稿料が入ったら、すこしずつでも天引にしてこちらへまわしなさい。ボクがふやして上げる」  などとも言ってくれるのだが、それを実行するのは不可能である。アメリカへ行くとき私はある出版社の文学賞をもらえることになり、留守宅にその賞金がとどけられるという知らせをうけたので、そのことを邱に話すと、 「じゃ、その賞金はボクがかわりに受けとって、一年たってあんたが帰ってくるまでには倍にしておいて上げよう。どうせドルにかえてアメリカへ送ったって、あんたはツマラなくつかってしまうだけだから」  ということで、私は彼のすすめに従った。あいにく私は留学を予定の半分で打ち切って帰ったので、彼に運用をまかせた金も倍額にはならなかったが、それでも三割ばかりふえていた。「もうちょっと辛抱していれば、すぐに倍近くにはなるのに」と言われたが、そんな忍耐は私にはなかったから、その場で売ってもらい、たちまちつかってしまった。それ以来、邱は二度と私に株を買えとはすすめない。  それから二年ばかりたっても株の好景気はまだつづいていたが、邱は株の話をしなくなった。なぜだと訊くと、「どの株も上りすぎてしまって、もうウマ味のあるものはなくなった」という。そんな話をきいて間もなく彼のところから移転通知が来た。まさかとは思ったが、彼が目黒の家を売ったのは株の失敗ではないかと心配になったので、新しい住所に電話した。 「いやア、もう株も、金モウケも、さっぱりイヤになっちゃってね」  電話口に出た邱の声は、いつになくハリがない。やっぱりそうか、私は悪い予感が当った気がして、わざと冗談めかして言った。 「それで目黒の家は夜逃げかい」 「夜逃げ? まアそんなもんかな。でも、こんどの家は大きいよ。ちょっとした小学校の講堂ぐらいある。一度、遊びに来てよ。静かだから仕事をするにはいいかもしれない」 「しかし講堂みたいなところじゃ、いくら静かだって落ちつかないだろう。まさか倉庫じゃないんだろうな」  私は、あくまでも彼が零落したものと思いこんでいた。おもいなしか彼の声はウツロに反響して、ガランとしたガレージか格納庫のような建物の内部を想像させるのである。 「倉庫? いま部屋の冷房をなおしに職人が大勢入っているから、倉庫みたいな感じもするかな。こんどの家はルーム・クーラーじゃなくて、家全体の冷房なんだが、どうも具合が悪くてね。それに金がかかって、電気代だけで三万円以上になるので、かなわないよ」  そこまで聞いて、私はホッとしたような、ガッカリしたような気分になった。彼は零落したのではなかった。ウマいときに株から手をひいて、何となく拍子ぬけしているというだけのことだった。そして、引っ越した家もトーチカのような目黒の家にくらべて、さらに格段に豪華な、壮大なものであるらしかった。彼は、さらに私をがっかりさせるような話をつづけた。 「金モウケも、あくせくはたらいて幾らかずつ入ってくるうちは愉《たの》しみだが、こう何もしないのに、ひとりで勝手に入ってくるようになっちゃツマらんもんだね。いや、借金もウンとこしらえたから、何がどれだけモウかっているか、自分でもちょっとわからないんだが、要するにツマらんよ。……ひとに働かせて、自分は社長室の椅子で何もせずに、下の人間がゴマ化してるんじゃないかなんて、くよくよ考えたりするのは、もっとツマらんことだし」  邱がどういうことでツマらなくなっているのか具体的にはわからなかった。おおかた金利か何かで暮らして行けるようになったのだろうが、そんな大家の御隠居さんみたいなくらしは彼には向かないのだろう。その空虚さをツマらながる気持は、私にもよくわかったが、わかったところでたしかにそれはツマらないものだろうと思うだけだ。  それにしても、あれほど金モウケの好きだった男が、金にも飽きるということがあるのは、やっぱり不思議といえば不思議であった。こういうときに西洋人なら、その金をポンと養老院だの孤児院だのへ寄付してしまうのかもしれないが、邱の倦怠はまだそれほどのものではなく、一生かかって使いきれないほどの金を背負いこんだというわけでもないのだろう。ただ彼は金モウケの目的を見失い、やたらにかせぎまくることにはクタビれてしまったのであろう。  私は、せっかく誘われたのに彼の新居にも行かず、彼のことをしばらく、忘れるともなく忘れていた。ことによったら、また小説を書き出しているのかもしれず、それなら処女作の「濁水渓」の材料をもう一度、考えなおして書いてもいいだろうと思った。  あれは去年の、もう十二月ごろだっただろうか。玄関にブザーが鳴って、出てみると邱が手に薄手の黒いカバンを下げて立っていた。 「めずらしいじゃないか、上れよ」  彼は、なぜかちょっと躊躇《ちゆうちよ》したようにニヤニヤ笑いながら上ってきた。目つきが、ひところにくらべて柔らかく落ちついた感じで、血色は以前よりももっと良くなっている。このぶんなら、どうやらもうツマラン、ツマランを連発する状態ではなさそうだ。何となく心にハリが出来てきたらしい——。しばらく話しているうちに私は、彼の抱《かか》えてきたカバンが気になって、何だと訊いた。 「これ?」  彼は、またニヤリと笑い、カバンのフタをとった。それはカバンではなくて携帯用のテープ・レコーダーだった。 「こんどは流行歌をつくってみようと思ってね」 「流行歌?」 「そう、日本中で大ヒットするようなやつ」  彼は早速《さつそく》テープを巻く、大学ノートを一冊とり出して見せた。驚いたことに、それにはこの半年ほどに彼のつくった流行歌の歌詞がギッシリ書きとめてあり、それに作曲したものがテープに吹きこんであるのであった。 「歌謡調、民謡調、カンツォーネ、何でもあるから、お好み次第だ」 「へーえ」  私は、その熱心さに感心し、それにしてもどういうところから流行歌の作詞など思い立ったのか、とんと合点《がてん》が行きかねた。どうやらヒマつぶしにテレビばかりみているうち、ただみていても時間の空費だからというので、はじめたらしい。しかも、そのうちのいくつかは、はやくもレコード会社に売りこんであるというのには、いよいよもって驚いた。 「まア、馬鹿みたいな安い金だがね。でも、この中からヒットするやつが二つ、三つ出て来たら、これは相当の金が入る」 「ふーん」  私は、その商魂のたくましさに、うなるより仕方がなかった。  ところで先日、私はタクシーの中でラジオが、ふとききおぼえのある歌をやっているのに耳をとめた。リフレーンの部分に特色があって、それが邱のつくった歌詞の一つであることはすぐにわかった。「今週のヒット曲、第何番」とかアナウンサーの言っているところをみると、すでに私の知らないうちに、その歌はかなりヒットしているのかもしれない。私は雑踏する道を他の車に割りこんで走るタクシーの中に、詠嘆調の歌声のながれるのを聞きながら、やがてこの歌詞つくりにも飽きたら邱永漢は、何をはじめるつもりだろうと思った。 「どっちへ行こうか、曲ろうか、それとも、このまま戻ろうか、ここが思案のしどころよ」  というのが、そのリフレーンなのである。  練馬大王 梅崎|春生《はるお》の死  いつごろからか、私は自分の使っている辞書の小さな活字が読みにくくなっていた。その辞書を出している出版社に知っている人がいたので、 「どうも君のところの字引は読みにくいね。印刷屋を値切って、活字の安いのを使っているんじゃないのかね」  と訊《き》いてみた。すると、その人は即座に、 「そりゃ、あなたの眼のせいです。ウチがいくらケチな会社でも、活字を値切って安いのを使うなんてバカなことはない。それより、あなたは老眼なんじゃないかな」  それは、もう二、三年も前のことだが、そのとき私は、まったく不当な侮辱を受けた気がして、早速《さつそく》、他の社から出ている辞書に買いかえたが、それでもモヤモヤと眼の前がカスんで読めないことは同じであった。——やはり、おれは老眼になっているのだろうか? 私は狼狽《ろうばい》したが、それでも何となくタカをくくって、見えない字面を眼の前に押しつけるようにしたり、電気スタンドに近よせたり、さらにライターの火で照らしたりしていた。  とうとう、それでも読めないものは読めないとわかったのは、今年になってからである。私は、吉行淳之介がテレビで岸田今日子と話し合っている場面で、ライトの加減か、吉行の前頭部がハゲ頭のようにうつっているのを発見し、そのことを電話で報告したついでに、自分も老眼鏡をつくらなくてはならなくなったことを告白した。すると吉行は、 「ははア、おまえもついに眼にきたか。じつは、おれもこのごろ怪しくなった。親戚《しんせき》に眼鏡屋がいてワリビキにしてくれるから、こんど一緒に行こうじゃないか」  と言うのである。私は友達のありがたさを久しぶりで感じたように思った。これは中学生時代、陰毛の生えかけたころに味わう友情に似かよった気分である。子供から大人になりかかっているときの不安と、大人が老人になりつつあることを自覚するときの心細さとは、案外それほど変らぬものだ。  どうせ老眼鏡をつくるとなったら、すこしハリこんで、いいやつをつくるにかぎる、とこれは吉行も私も同じ意見であった——。 「眼鏡のフチの色をちょっと派手にしてな、若い女の子をつれてレストランへ出掛けたときなんか、そいつを胸のポケットからひらりと出して鼻の先にひっかけながらメニューを見る。そしてフランス語で書いてある方を読んで、ブドウ酒の銘柄をボーイに訊き返したりするんだな」  老眼鏡を、こういう演出の小道具につかうのは、外国映画などでしばしば見掛けるところのものである。老眼鏡のカケゾメに、一度は試みてもいいことかもしれない——。  とにかく、そんなことを相談し合って二週間ばかり後に、たまたま私と吉行は檀一雄氏と三人で或《あ》るビール会社の宣伝写真のモデルになることがあって、その帰り途《みち》に新宿の眼鏡屋で検眼してもらった。  三人のうちで最年長者は檀さんだが、おどろいたことに一番若々しいのは檀さんであり、三人並んでうつした写真は、どうやら檀さんが三十代、吉行が四十代、私が五十代に見えそうであった。檀さんは老眼鏡の必要さえもないらしく、眼鏡屋まで同行され、われわれの検眼ぶりを見物しておられたが、眼鏡屋氏は何をおもったか私に「あなたのように良く勉強する人は、どうしても早く眼に来ます」と言った。  その眼鏡が出来上って自宅へ届けられた日に、夕方まで何となく落着かず、私は鏡の前を往ったり来たりしながら、眼鏡を掛けたり、はずしたり、胸のポケットからサッと取り出す要領などを、繰りかえし練習した。……実際にやってみると、これは口でいうほど簡単にウマくは行かず、こんなことではせっかく女の子をレストランへ連れて行っても、メニューをひろげて眼鏡を顔へ持って行ったとたん、あわててツルを鼻の穴へつっこんでしまったりすることになりかねない。  日が暮れて私は妙に空虚な心持になっていた。すると電話のベルが鳴って、遠藤周作の何かセキこんだ声が聞えた。 「梅崎(春生)さんが吐血して入院している。もう意識もほとんどないみたいだ。こんどは、どうもイケないらしい」  私は、しばらく返辞のしようがなかった。遠藤の電話魔はすでに有名である。そして梅崎さんもひとをカツぐのが好きであった。しかし、じつはイタズラ電話の掛けっこをしたのは、もう何年も前のことで、最近はそんなことをやっていない。だから私は遠藤の言うことを疑ったわけでは毛頭ない。ただ私は、どういうわけか口をきくのも億劫《おつくう》なほどの疲労を感じ、自分自身をふくめて、まわり中の人間がみんな突然、老人になって行くのが、いやにハッキリ眼に浮かんだ。  ことしの三月、山川|方夫《まさお》が死んだ報告をうけたときにも驚いた。しかし、これは横断歩道で暴走トラックにはねられるという事故死であった。同じ不運はいつ誰の上にやってこないものでもないとしても、やはりこれは特殊な不幸であるにちがいなかった。梅崎さんの場合は、たったいままで自分の前を歩いていた人が、いきなり現われた黒いホラ穴の中へ吸い取られてしまった感じである。——遅かれ早かれ、自分もそのホラ穴の中へ這入《はい》って行かなければならなくなる、とイヤでも考えざるを得なかった。  本当のことをいうと私はいままで、死にそうでいてなかなか死なないのが人間だ、と思っていた。  じつのところ私は、二十歳のころには二十五歳までに死ぬものだと決めてかかっていた。当時は戦争中だったから大抵の連中がそう考えていたはずだ。兵隊から帰って、脊椎《せきつい》カリエスで寝ていたころは、やはり「戦争」の延長戦をやっている感じだった。敵に一発ホーム・ランが出ればサヨナラ・ゲームになるように、明日のことはどうなるかわからぬ気持で暮らしてきた。これなら、どうやら四十までは生きられそうだ、と思うようになったのは、三十過ぎて、自分の書いたものがポツポツ売れはじめてからである。  まったく、二十歳のころは誰が死んでも驚かなかったし、人が死ぬたびにいちいち驚いてはいられないほど、よく死んだ。私の中学の同級生のうち、三分の一は終戦までに死んでいる。学業中途で兵役にとられ、戦後、大学へ復学したのはクラスの半分もいなかった。学生時代、五人でやった同人雑誌の仲間は、一人が戦時中に病死し、一人はフィリッピンで戦死した。そのまえに回覧雑誌を一緒にやった他の五人の仲間は、二人が戦死し、一人は戦犯で仏印のカンゴクに抑留という具合で、二十代前半までの友達のおよそ半数は、戦争を境目にどこかへ消えてしまったのである。  しかるに三十過ぎて、そろそろ「戦後」はもう終った、などと言われるようになってからは、自分だけではなく、まわりの誰もが死にそうでいて、なかなか死ななくなった。吉行にしても、遠藤にしても、肺に穴がいっぱいあいたり、片肺全然なくなったりして、戦前の医学では到底、助かりっこないはずである。藤原|審爾《しんじ》などは戦前なら、夭折《ようせつ》作家のなかに入っていたであろう。  要するに、誰も彼もが、とんでもない長生きをしてしまったわけで、このごろではその案外な長命の状態にも狎《な》れてしまい、これは意外でもなんでもないアタリマエのことなのだと考えるようになっていた。そして、どうやら誰それが死にそうだ、などという噂《うわさ》を聞いても、一応は驚くものの、あとで「ところが奇跡的に助かった」ということになりそうに思われた。  先年、十返肇《とがえりはじめ》氏が亡《な》くなったときでさえ、そうだった。十返さんが舌ガンで入院したとき、「あれは毒舌ガンだから、評論|稼業《かぎよう》をやめてオトなしくなりさえしたら、すぐ癒《なお》る」などというゴシップが出たのも、世間一般の人たちが十返さんと死を結びつけて考えることが出来にくかったせいだろう。  十返氏の亡くなる前後から、私たちの周囲にも「ガン・ノイローゼ」というのがはやり出した。遠藤や阿川弘之は、たしか専門医で検査を何度か受けたはずだ。遠藤はともかく、健康優良児がそのまま成長したような感じの阿川が、つい昨日までバアへ行けば「煙も見えず、雲もなく」の長篇軍歌を最後まで歌わなければ気のすまなかったくせに、突然、口をきかなくなり、誰に会っても手真似《てまね》か筆談で、 「コエヲタテルト、コートーガンガ、ナオラナイ」  と、片手で口を抑《おさ》えながら、指先で虚空《こくう》に書いたりしはじめたのには驚いた。しかも阿川の顔がガン患者とはおよそ反対に、いかにも健康そうなピンク色にかがやいているだけに滑稽《こつけい》だった。しかし彼の心配ぶりは相当真剣なもので、この無言の行も、たしか一週間ぐらいは続いたはずである。  勿論《もちろん》、ガンは怖《おそ》ろしい病気だし、ほとんど何の前ぶれもなしに襲いかかってくるところは、まるで透明人間にイキナリ跳《と》び掛かられて頸《くび》でもしめられる感じで、薄気味悪いものにはちがいない。それにガンにかかると医者が本人にそのことを隠して、本当の病名を教えないという風説があるのも、病気と医学と両方からナブリモノにされているようでイヤな気がする。  ところで、そのころ、 「いま文壇でガンをわずらっているのは、某さんと、某さんの他に三人いますが、その人たちは自分がガンだということに気がついていません。こんど、ぼくのところにガンを発見する機械をそなえつけたから、これで検《しら》べれば自分がガンかガンでないかがすぐわかる。心当りの人はうちへ来れば見て上げます」  こういう物騒なことを言い出したのは梅崎春生氏である。まえまえからガンを心配していた遠藤が早速、出掛けて行くと、梅崎氏は四角い箱をとり出し、その上に手を置いて何ともなければ、その人は健康であり、もしその手が赤くなれば細胞に異常があるから気をつけなければいけない、そう言って梅崎氏は、まず自分の手を箱の上におき、 「ほれ、このとおり、何ともない。ぼくは健康です」という。  次に遠藤が、同じ箱の上に手をのせると、その手がたちまち真っ赤になった。遠藤はギョッとして、もう一度、同じことを試みたが、やはり自分の手だけが赤くなる。何度もくりかえすうちに、手を近づけただけでパッと箱が光り出したので、よくよく調べたら、箱の中に電球が仕込んであり、梅崎氏は座ぶとんの下のスイッチを、自分の足で押して、点《つ》けたり消したりしていた。そのあまりのバカバカしさに、さすがの遠藤もドクケをぬかれて帰ってきた、というのである。 「いったい梅崎さんという人は、頭のどこであんなことを考えるのか、奇妙な人だなア」  という遠藤の述懐には実感がこもって、私も同感だった。たしかに、一人前の大人でこんな電球の箱なんぞにダマされるような男もめったにいないが、それ以上にこんな幼稚なトリックを手間ヒマかけて、わざわざ作ったりする大人は、めずらしい。——たぶん梅崎さんはガンを、よほど怖れており、その内心の恐怖心を何とか他人にスリ換えようと、あのような器具を発明したのだろうが、それにしては仕掛けが少しチャチであった。  梅崎氏に関するこの種の奇行珍談は、数え上げればキリもない。その大半は、ふだんの梅崎氏の顔つきなり話しぶりなりを多少とも知っている人でなければ、面白くもオカシくもないのであるが、冗談とも本気とも判別のつかぬユーモアには、噛《か》んでも噛んでも噛み切れないナゾめいた後味がのこる。  四月一日、エプリル・フールが近づくと、妙に甲斐甲斐《かいがい》しい声で電話が掛ってくる。 「ことしは遠藤のやつをダマす手を、もう何か考えてあるかネ」  じつは梅崎氏と遠藤の嘘《うそ》のつき合いは二六時中のことで、四月一日ぐらいは神妙にマトモな一日を送ったらいいと思うのだが、そうは行かないらしい。ふだんとは趣向を変えてグッと新鮮なアイディアを出そうと、凝りに凝るのである。 「あのネー、こういうのはどうだろう。遠藤のところへイキナリ、モリソバか何かをウンとたくさん、四十人前か五十人前、届けさせるんだ。ファンからだとか何とか、余計なことは言わないで、ただ黙って遠藤の近所のソバ屋から届けさせる——。いくら遠藤が食いしん坊でも、部屋中ソバだらけになるほどのソバを担《かつ》ぎこまれたら、ギョッとすると思うんだ。何、金もたいしてかからないよ。なんならソバ屋に『勘定は遠藤サンのところで貰《もら》うように』と言っておけばいいんだから……。遠藤の家の取りつけのソバ屋の電話番号がわかれば、あとはカンタンだ。君、遠藤の家の近所のソバ屋の屋号を、ちょっとしらべておいてくれないかネ」  遠藤の嘘が、おおむね糞尿《ふんによう》と映画スターに関することであるのにくらべて、梅崎さんの考えつくことは、このように渋味があって、どこか無気味なオカシサを持っている。  いつか私が、金融公庫でたてたばかりの家の庭にモグラがさかんに出没してこまっていたとき、梅崎さんはどこでこの話をききつけたのか、モグラ退治の方法を知らせてきてくれた。 「モグラは土の中を真直ぐに進む性質があることは、君も知っているでしょう。ヒレのような、水掻《みずか》きのようなものが胸のところについていて、それで土を掘りながら前進するわけだが、後退はできない。だからモグラの穴を二つ見つけたら、モグラはその二つの穴の延長上に進むことがわかる。そこへ安全カミソリの刃を縦にして埋めておくんです。そうすると前進して来たモグラは鼻の先から真二つに切れて死んでしまう。夕方、カミソリの刃を植えておくと、あくる朝は、あっちこっちにモグラの死骸《しがい》が面白いようにたくさん転《ころ》がっているよ。ぼくも昔、モグラにはずいぶん悩まされて、やっとこの方法で退治することが出来たんだが——」  まだ梅崎さんがどんな人かも知らなかった当時、こんなことをマジメくさった声で、へんにシンミリと言われると、一時は本当にカミソリの刃を買いに行こうかと思ったぐらいであった。梅崎さんの口調が、それほど真に迫っていたというより、土の中でモグラがカラタケ割りになっているというイメージに一種独創的な残酷美が感じられ、その美学に私は動かされてしまったからである。  盲滅法、まっしぐらに進んで行くモグラモチの鼻先に、鋭いカミソリの刃が待っている——。たしかにこれは、遠藤のクミトリ美学とは対照的に、梅崎さんの悲哀に満ちた運命論のようなものを感じさせるところがある。  そういえば梅崎さんは一時期、あまり似合わない恰好《かつこう》のベレー帽を常住不断かぶっていたことがあった。コーヒーよりは紅茶、パイプよりはキセル、スパゲッティよりはソバを好む梅崎さんが、どうしてそんなものをかぶっているのかと訊いたら、 「これがあれば、頭の上に何かが落ちてきても、すこしは安全だからね」  と、上目で天井をチラリと眺《なが》めながら、こたえた。——どこまで本気で、こんなことを心配しているのかはわからない。けれども、そのときの梅崎さんの不安げな目つきは、心に貼《は》りついてくるような感じで印象に残っている。  鼻のさきにカミソリを突きつけられてもわからない、いついかなるときに頭の上にどんな怖ろしいものが降ってくるかも予知できない、かと思えば突然、厖大《ぼうだい》な量のモリソバが洪水のごとくに自分のまわりになだれこんで来る——、こうした梅崎さんのフィクションの裏側にも、ふと真っ暗闇《くらやみ》の中で、せい一ぱい見ひらかれた不安な目つきを感じるようになった。  梅崎さんの恐怖症をアルコール中毒のせいだという説もある。中毒かどうかはしらず、梅崎さんはお酒が好きで、われわれにフザケたことを話し掛けてくるのは、いつも多少は酔っぱらっているときだった。しかし私などの知らないところに、もう一人のマトモな梅崎さんがいたことは充分に考えられる。いや酔っぱらっているときの梅崎さんにさえ、その中にはもう一人、どうしようもないほどハッキリと目醒《めざ》めた人間がいて、それがシラフの人間でも忘れているような不安を呼び掛けてくる。けだし梅崎さんの不安の根本にあるものは、どこか私たち全部のものに共通したところがあるのではないか。  われわれが生きものである以上、生きている間はいつも何かしらの不安に脅《おびや》かされている、これはきまりきったアタリマエの話で「門松や冥途《めいど》の旅の一里塚」というのは、どの時代の、どんな人間でも、納得しないわけには行かない道理である。梅崎さんの話や文章のユーモアの底には、それに似た逆説的な不安の道理が備わっている。  戦後の数年間、私は人が死んでも何とも思わず、自殺もしないで生きていることが、かえって不思議なことのような気持でくらしてきた。それは前にも述べたように「戦争」の延長戦みたいな日々だった。そして、いまの私たちは、もうそういう「戦後」とは遠く離れたところへ来てしまっている。しかし「戦後」には、また戦後の延長戦があるのではないか。それは0対0のまま果てしなく0が並び、敵も味方も居眠りが出るほど退屈な試合が、まだどこかで行われているのではないか。  亡くなる半年まえごろから、梅崎さんは医者に禁酒の忠告をうけていた。しかるに梅崎さんは書棚《しよだな》ウラだの、本の函《はこ》の中だの、あちらこちらにポケット瓶《びん》のウイスキーを隠トクして、奥さんの眼をかすめては飲んでいたという。——そんな話は、何か梅崎さんが自作自演の滑稽劇をやっているというふうに聞えてきた。だいたい「禁酒」というもの自体に、どこか滑稽なひびきがあり、私たちはそれを梅崎さんのユーモアとカン違いしていたのかもしれない。いや梅崎さん自身でさえ、家の中でのカクレンボしながら飲む酒に、0対0で進行する試合の退屈さをまぎらわせようという心算《つもり》があったのかもしれない。  しかし禁酒が滑稽感を誘うのは、それが人ごとだからであって、当人にとっては笑いごとではない、真剣な問題である。私には医学の知識はまるきりないが、カンコウヘンの患者がウイスキーを飲むことは、まるでモグラがカミソリの刃の埋まっている方角へ、まっしぐらに進むのと同じぐらい危険なことであるらしい。しかし梅崎さんが禁酒を言いわたされたのも、モグラが体を動かすことを禁じられて、土の中の一個所でじっと眠っていろと命令されるのと同じくらい苦痛だっただろう。……それにしてもモグラに後退の機能がそなわっていないというのは何という悲劇だろう。土の中で、体がムズムズして、ちょっとでも手を動かすと、それだけ自分の体はカミソリの刃に近づくことになる。彼は当然イライラし、一度でもいいから思いっきり体を前に進めたいとおもう。そして、ついにヤケになって胸ビレのような前肢《まえあし》をはげしく動かす。一歩、三歩、五歩、八歩……。大丈夫だ、まだ無事に生きている。しかしホッとして、緊張感がゆるむと同時に、また体のあちこちが痒《かゆ》くなる。そして、また前肢をバタバタやる。まだ大丈夫……。こんなことが何度も繰り返されるうちに、薄く鋭いカミソリの刃が自分の真正面の方角に、冷たい臭《にお》いをさせて立っているという事実が、ふと嘘のように思われてくる。 (なるほど刃物の臭いはする。しかし、こいつは何かの間違いなんじゃないか)  モグラの眼は盲目だ。いや、たとい眼が見えたとしても、それは真っ暗な土の中では役には立たない。そのかわりに嗅覚《きゆうかく》があるが、たといどんなに鋭敏なハナでも、同じ臭いばかり嗅《か》いでいると、ついにはその臭いになれて、自分で自分のハナが疑わしくなってくる。そのときである、ザクリと鋭い一撃が生温《なまあたた》かい血の臭いといっしょに自分の鼻の中いっぱいに広がるのは……。  そして永遠に続くかとおもわれた0対0の試合は、ここで突然、終りを告げる。  遠藤から、梅崎さんの容体の報《しら》せをうけたあと、私はまだ誰かにダマされているような、それでいて誰が自分をダマしているのかわからぬような、妙なイラ立たしさで立ったり坐ったりしていた。それに遠藤の声は、すぐにでも駆けつけて何とかしてやってくれ、とセキ立てるような切迫感があるが、私のような者がノコノコ出掛けて行ったところで、勿論《もちろん》何一つ役に立つことが出来るわけではなく、かえって邪魔になるばかりだ。しかし遠藤が誰彼かまわず、四方八方に救援を求めたがる気持、じっとしてはいられない気持は、それなりに私にもわかり、どうせ家の中でウロウロしているくらいなら、病院の庭か、廊下の外でウロウロしているのも同じだろう、とすっかり暗くなってから本郷の東大病院へ出掛けて行った。  東大の病院へは私も一度、カリエスの具合をみてもらいに行ったことがある。あれは昭和二十五年の夏のことだったから、もう十五年も昔のことだ。けれども、そんなに長い年月がいつの間にたったかわからない。つい、一、二年まえのことだといえば、そんな気もするくらいである。あのときは日盛りの太陽がカンカン照りつけており、いまは暗闇の中で古い桜の並木がボッテリと葉を繁《しげ》らせながら蒸し暑い夜の空気を吸っているという違いはあるが、大学の構内の陰気な重苦しさには変りなかった。くろぐろとした建物にも見憶《みおぼ》えがあり、様子の変ったところは、またそれでヘンに昔の状態がハッキリと眼に浮かんだ。以前は赤土のグラウンドだった場所に、いまは大きな四角い建物がたっている。……あれは周囲を赤煉瓦《あかれんが》の回廊でかこまれた、旧式の砲台か要塞《ようさい》をおもわせる、一種不可思議なつくりの運動場だった。私は医者から、自分の背骨がコブになったまま一生なおらず、だんだん曲って背がちぢんで行くだろうという診断を受けたあと、高い窓からその四角い奇妙なかたちの古めかしいグラウンドを眺め下ろして、そこに人影が全然なく、真四角な空地が周囲から切り取られたようにガランとしていたことを、なぜか明瞭《めいりよう》に憶えている。  建物の内部は、ながいこと大勢の人間の汗や体臭や血液や、いろんなものがのこって、それがコンクリートの柱や階段のシンにまで、消毒薬のにおいといっしょに滲みこんでいるみたいだった。……階段を上ると廊下の椅子に、遠藤が一人、腰かけていた。その顔を見ると私は、やはり来てよかったという気がした。さっきまで三浦朱門がいたんだが、という遠藤に、 「もう、だめかね」  ときくと、遠藤は黙ってウナずいたまま、うつ向いた。しばらくたって顔を上げると、 「だけどなア、人間は誰でも死ぬもんだぜ」  と自分自身に言いきかせるように話し掛けてきた。 「おれたちも、やがてはみんな死ぬ。誰が一番まっさきに死ぬかということより、おれはひとり欠け、ふたり欠けして、とうとう最後に仲間のなかで、二人だけ生き残ったときのことを考えていたんだよ……。『おい、ついにオレとお前と二人だけになってしまったんだな』と言いながら、おたがいに今度は、どっちが先に死ぬんだろう、と顔を見合せる。そんなことになったら、さぞヤリ切れん気持だろうなア。……しかも、いつかはそういうことになる日が来るにきまっているんだからな」  たしかに誰と誰とが最後まで生き残るかというようなことは、ここでは問題ではない。要するに他人が死ねばやがては自分も死ぬということを、いやでもたしかに認めざるを得なくなってくるだけだ。死んで行く人間には死ぬことがわからなくても、傍《そば》の者にはそれがわかる。そうして他人の死目に数多く立ち会うほど、死ぬということが怕《こわ》くなる……。そんなことをトリトメもなく考えながら、何気なく腕組みしかけると、胸のあたりで手が何か固いものにゴツンとぶっつかって、気がつくとそれは出掛けにポケットにつっこんできた老眼鏡だった。  梅崎さんは、その翌日の午後に亡くなった。エンマ大王ならぬ「練馬大王」というのが梅崎さんの生前の自称であったが、練馬のお宅で行われた通夜《つや》も葬式も、その称号にふさわしく盛大で、しめやかな中にも或るにぎにぎしい和気が漂うものであった。  なるほど奇妙な小島信夫の「なるほど」  先年「芥川《あくたがわ》賞、直木賞作家展」というのが催されたとき、本や手紙や文房具類の他に、何かちょっとしたものがあったら出品してくれ、といわれて閉口した。ひとに自慢してみせるようなもの、面白がってもらえるようなものが、わが家には何一つないのである。  私の所持品で、他の作家が、あまり持っていなそうなものといえば、カリエスをわずらっていたころ使っていたギプス・コルセットぐらいのものであるが、こんなものは珍しいにしても、見物に供して決して人を愉快にさせるシロモノではないし、賞にもらった時計は私のときまでが懐中時計で、次の吉行淳之介からは腕時計に変ったから、多少はその意味での稀少《きしよう》価値があったかもわからないが、これも八年ばかりまえに泥棒に盗まれてしまって、いまはない。展覧会の係のH君は、いや何かあるでしょう、と家までやって来てくれたが、家じゅう見廻して本当に何もないのに驚き、かつ落胆して、 「まったく、どうして、こう何も持ってないんですか」  と、あたかも私の無芸大食ぶりを憐《あわ》れむかのごとくにツブやいた。そう言われると私も、自分の生活内容の貧困さを指摘されたようで、いささかメンボクなく、 「これで祖先伝来の金の茶ガマでもあれば、ぼくも苦労しないですんだのですが」  と弁解にもならぬ弁解をこころみながら、せめて子供のときに乗って遊んだ三輪車、出征のときにタスキに掛けた日の丸の旗、復員のときかぶって帰った戦闘帽、等々のガラクタ類でもあってくれればと思ったが、そうでなくとも二十坪たらずの手狭な家には、そんなものを保存しておく余地は全然ない。あげくの果てに、やっと一つ、食器棚《しよつきだな》の上に乗っていた古いコーヒー挽《ひ》きを見つけて、H君に手渡した。  一辺が十センチぐらいの正立方体に近い木の函《はこ》の上に、鉄製のハンドルのついたそのコーヒー挽きは、よく学生町などの渋くハイカラがったような喫茶店が店の装飾においてあったりするやつで、実物をみれば大抵の人が、ああアレか、と思うにちがいない。手垢《てあか》で木の部分は真っ黒に汚《よご》れており、いかにも年代ものらしく見えるが、それは木の質がもともと汚れやすいからであり、細工をみれば機械で大量生産されたものであることはすぐにわかる。いわば類似品の多い西洋ゲテモノの典型みたいなものである。正面は楕円形《だえんけい》のシンチュウの札が貼《は》ってあって、よくみると、PEGEAU FRANCE とカスれた字で書いてあるところが、まア泣かせどころということになるだろう。  私もH君に、その点を強調して、 「このプジョーというのは、フランスの自動車会社のプジョーで、ほら、二、三年まえに社長の娘か奥さんかが誘拐《ゆうかい》されて日本の新聞にも出たことのある、あのプジョーだよ。プジョーも自動車が発明されるまでは、こんなものを作っていたんだよ、ねえ」  などと、すこしでも興味ありげなものに思い込ませるよう努力したが、H君は一向に気のりのせぬ顔つきで、 「へへエ、つまりアチラのカツブシ削りみたいなもんですかね」  と、世にも人をゲンナリさせるようなアイヅチをうった。そういえば、たしかにこれは恰好《かつこう》も機能も、カツブシ削りにそっくりだ。われわれが朝、カツブシの入った味噌汁《みそしる》をのむように、向うの人間はこれを台所の隅《すみ》でがらがら廻して挽いたコーヒーを飲む、そういうヌカ味噌くさい道具であるにちがいない。私はH君の炯眼《けいがん》に、 「そうだなア。これは、せっかく小島信夫がパリのノミの市で買ってきてくれたものだから、僕には大切なものだけれど、他人にはツマらねえだろうなア」  と、そのままもとへ引っこめかけた。  すると、 「え、小島さん……?」と、H君は突然、身を乗り出すようにして、コーヒー挽きに手をのばした。「小島さんが、これをあなたのオミヤゲに買ってこられたというんですか」 「そうだよ、彼がロックフェラーの留学生でアメリカへ行ったかえりにヨーロッパへ廻って……。あれは昭和三十二年かな」 「ほう、そいつはいい。じゃこれを貸してください」  と、H君はにわかに顔をかがやかせると、その西洋カツブシ削りを小脇《こわき》に抱《かか》えて帰って行った。私も、どうやらそれでホッとした気分になることが出来た。  それにしても、同じコーヒー挽きが、小島信夫のくれたものだといっただけで、どうしてこんなにH君の興味をそそることになったのか——、これにはいささかアッケにとられる心持だった。しかし、そういうH君の気持はぜんぜん理解できないというわけでもない。  おそらくH君には、小島とパリとコーヒー挽きと、この三つの結びつきが三題噺《さんだいばなし》のように、唐突で、奇妙で、ユーモラスなものに思われたのだろう。いや、これはH君のことではなく、私自身の気持である。小島が外国から帰ってきたと聞いて、一体どんな顔つきになっただろうと、早速《さつそく》、彼の家へ出掛けてみると、顔つきも、言葉つきも、一年まえの小島とまったく何の変りもなく、その点では拍子ヌケするほどだったが、ただ、このコーヒー挽きを旅行カバンの傍《そば》に見出《みいだ》したことだけは、じつに意外な感じであった。  他のひと——たとえば私自身が外国へ行って、こういうものを買い込んできても、べつだん不思議がられはしないであろう。しかし小島にかぎって、これはじつに意想外のことなのだ。つまり小島は、こういうハイカラな喫茶店趣味というか、英語でいう Fancy Goods に対してはテンから興味を示さない、実用価値のあるものでなくては見向きもしない男なのである。  勿論《もちろん》、ハイカラ趣味は、趣味として通俗なものであるから、これに反対する男はめずらしくはない。しかし小島の場合は反対するも何もない、およそ物質に対する好奇心が生れつき欠如しているかのごとく、買ったり、身につけたりするのは、すべて必要|止《や》むを得ざるもの、茶碗《ちやわん》とかハシとか、雨傘《あまがさ》とかシャツとか、用途も存在理由も明確この上ないものに限られるのである。私たちが初めて顔を合せたころ——というと、いまから十二三年もまえのことになるが——私と吉行とが、小島を前に、しきりに美食についての論議をたたかわせていると、そばからときどきウナずいたり、 「なるほど、なるほど」  などと、思い入れたっぷりのアイヅチを打つほか、一時間あまりも黙って私たちの言うことを聞いていた小島が、いきなり、 「ところで、君たち、よかったら、これ食べませんか。きょう学校で生徒会のときに出たのの食いのこしなんだが」  と、汗臭い書類|鞄《かばん》の底から、ぺしゃんとつぶれたアンパンがやぶれかかった紙袋とくっつき合って、べとべとになっているのを掴《つか》み出して、ぐっとわれわれの鼻先に突き出すように置いたのには、おどろかされた。  当時、私たちはまだ戦後の窮乏状態から脱け切ってはおらず、慢性的な空腹感もなおってはいない有りさまだったが、それでもこの黒い、ひしゃげたアンパンには、ちょっと手が出ず、閉口していると小島は、むっと怒ったように、そいつを一人でむしゃむしゃ平らげてしまった。その勢いに私たちは文字どおり�無言の威圧�をうけた。それはまるで黒い牡牛《おうし》が突如として、頭を低く下げ、肩の肉をもり上らせながら、塀《へい》に向かって突進して行くありさまを想わせたのである。  このアンパンの話は、のちにしばしば小島を論ずるにあたって、吉行と私の間で論議のマトになった。要するに、小島があのときアンパンを食ったのは、空腹だったせいではなくて、われわれに対する示威行為だったであろうという点で、吉行と私の意見は一致したが、では一体、何のための示威、何のための怒りであったのか、ということになると、混沌《こんとん》としていまだに明快な答を得ない。——あのとき何か、おれたちは小島の気に触《さわ》るようなことを言ったのかなア、と大分たってから小島自身に訊《き》いてみたこともあるが、小島は、 「いや、何も気に触ったり、腹が立ったりしたわけじゃないよ。あのときボクが腹が空いておったか、おらなかったかも、もう忘れてしまった。ただ、あのとき君たちの話をきいているうちに、頭痛がして何かせずにはおれない気持になったことだけは憶《おぼ》えてるがね」  と、やはりむっとして答えただけだ。おもうに当時のわれわれは小島の眼からは、きいたふうな口をチョコマカときいて、何とも手に負えぬ小生意気な連中に見えたのだろう。しかし、それならアンパンなど食って見せたりせずに、さっさと私たちチンピラのことなど無視して帰ってしまえばよさそうなものだが、じつはそれをしないところが小島の不可思議なところである。  ともかく以上述べたことから、小島がフランスでコーヒー挽きを買ってきたということが、いかに破天荒な出来事かという理由は、おわかり願えるかと思う。小島がまるまるとした膝《ひざ》の上に、この西洋カツブシ削りを置いて、エール・フランスの旅客機に揺られている図は、それだけですでに一編のユーモアである。しかし私は、そんなことを考える余裕もなく、このコーヒー挽きに手を掛けて、 「おい、こいつをボクにくれよ」  と、自分の手許《てもと》に引きよせた。私は、かねてこの手のコーヒー挽きを一つ欲しいものだと思っていた。そして、それがこんなふうに眼の前に現われると、発作的に無理矢理、貰《もら》いたくなるくせがあり、善くない性分だと後になって反省するが、その場になると自制心をまったく喪失してしまって、どうにもならない。しかし、もしこれが小島の持ってきたものでなかったら、私もこういう強引なネダリ方は出来なかっただろう。そして小島は至極あっさりと、まるでアンパンをすすめてくれたときと同じ口調で言った。 「ああ、どうぞ。キミが欲しいのなら上げるよ」  私は無論、小島のおうようさに感激し、コーヒー挽きを抱きかかえて、何度も礼を言ったが、めずらしくも中途から、ふと自分の貰い根性を反省する気になった。といっても、せっかく貰ったものを返す気はぜんぜんなかったから、すこぶる迫力に欠ける反省のしかたで、 「いいのかい、本当に。すまないなア」  などと、われながら偽善的な挨拶《あいさつ》をくりかえしただけであったが、小島はそのたびに、 「いや、いいんだよ、ぼくはどうせ誰かにやろうと思って買ってきただけなんだから……。ただキミが、そんなものをそれほど熱心にほしがるとは思ってもみなかったけれどもね」  と、いよいよ優しい兄貴のような顔つきになって言うのである。そうなると私は一瞬、自分がたとい犬コロになってもかまわないから、この男に甘えられるだけ甘えてみたいという奇怪な心理状態に陥り、その一方でまた小島の言うことも、じつによくわかる気もしてきた。つまり小島がパリのノミの市で、こんなものを買うときの当惑しきった顔つきや、宿へかえって買物包みのなかからこれを取り出したときの絶望感、そして飛行機の中で金髪のスチュワーデスや白人の乗客の顔色を気にしながら、古物のカツブシ削りを後生大事にかかえていなければならない自分自身へのイラ立たしさ等々が眼に浮かび、いまの小島は、そういうヘンテコなものを早く誰かにやってしまいたい気持で、いっぱいなのかもしれない、などと。  だいたい小島がこんなものを買ってしまったのは、彼がノミの市などというところを散歩したせいであろうし、ノミの市へ出掛けたのはパリへ来て他に行くところもなかったからであろう。したがって小島がパリへ行ったのは、このコーヒー挽きを買うためであったということになるが、そんな馬鹿なことになったのも、もとはといえばニューヨークのロックフェラー財団の会計課の秘書の小生意気な女のせいであろう。つまり彼女が、もし、もっとアメリカ人らしいホスピタリティーを発揮して、やさしく愛嬌《あいきよう》のある顔つきで接してくれさえしたら、小島は何も帰りのキップをヨーロッパ廻りにしてくれなどとは申し込まなかっただろうし、パリで道草をくって、ユダヤ人だかアラビア人だかの中年女から、こんなコーヒー挽きなど押しつけられることもなかったはずである——。  別段、私は小島自身の口から、こんな話をきかされたわけではない。ただ、ふだんの彼の言動から、こんな推理をしてみるだけだ。——こんな傾向は小島のみならず、私たち全般に或る程度、共通して言えることなのだが——、つまり自分の犯した愚行や過《あやま》ちの原因をたどって行くと、必ずそこに何らかの他人の誤解や悪意や不親切が介在しており、自分には責任のとりようがないという結論につねに達する。 「おい、コズマというのは、じつに老獪《ろうかい》な男だぞ」  吉行の家へ、はじめて小島を案内して遊びに行って、一月ばかりもたったころ、吉行が大発見でもしたように、大声で言った。 「だいたい、あいつは、おれたちのまえでアンパンなんか食ってみせやがって、どんなに貧乏しているのかと思ったのに、あいつの家へ行ってみたら、あの野郎、まるでお城の天守閣みたいな家に住んでるんだ」  吉行は、れいのアンパンが余程のショックであったとみえ、それ以後、彼は、小島には一種|畏敬《いけい》の念をもって接しており、私にまで、「おい、小島さんと付き合うときは、あの人に絶対に金を払わしちゃいかんぞ。おまえはうかつな男だから注意しておくが、金をこちらが払うときにも、あの人を傷つけないように、ちゃんとよく考えてやるんだぞ」と、格式のある家のお祖母《ばあ》さんが孫に訓戒をあたえるような口ぶりで言っていた。……その吉行が、このように態度を豹変《ひようへん》したのは、たずねて行った小島の家が予想に反して立派なものだったからだが、じつのところ私には吉行の口惜《くや》しがる気持はあまりピンと来なかった。  吉行が小島を畏敬したり、老獪だと考えたりするのは、要するに、都会育ちの吉行が地方人の生活様式なり性格なりを理解していなかったというまでのことだろう。……あのとき小島が、わざわざツブれたアンパンを引っぱり出して食べてみせたのは、芝居っ気もたしかにあったけれど、それは自分が食い物に対して無頓着《むとんじやく》であることを示しただけで、貧窮をさらけ出して見せるなどという気持は小島の方にはぜんぜんなかったはずである。第一、当時、都立の有名高校の教師であった小島のふところ具合を、カストリまがいの雑誌記者であった吉行が心配する方が、どうかしている。  しかし小島の風貌《ふうぼう》はいかにも、たったいま焼け跡の防空壕《ぼうくうごう》の中から這《は》い出したばかりといったふうに見えないことはない。それは当時から現在まで、一貫してそういう顔つきである。——なぜか、という理由はハッキリとはわからない。おそらくドストエフスキー流にいえば�気弱な男の傲慢《ごうまん》�というのだろうか。とにかくそれは何かに固執している男の表情である。何に固執しているのか? 自分の貧窮に対してか、生い立ちの暗さに対してか、それもわからない。もし彼に、 「そんなツマらぬことに、いつまでもこだわるのはよせよ」  と言えば、その男は一層暗い目つきになって、 「ツマらぬことだから、こだわりもするさ」  とこたえるだけだろう——。そういうナゾめいたところが小島にはある。いつか、これももう七、八年も前のことだが、十返肇氏がまだ元気なころ、十返氏の司会で小島、吉行、私などがラジオの座談会に出たとき、 「君たち�第三の新人�は、みな坊っちゃん育ちで」  と、十返氏が言いかけたところ、突然、小島が低く「うおー」というようなウナリ声を上げたかとおもうと、 「ほかの人たちのことは知らないが、わたしの親じはクズ拾いもやったし、姉は女郎に売られたこともある、そういうことは誰も知らないし、知らなくてもいいことだが、ひとを坊っちゃん育ちと言うなら、そういうことを全部知ったうえでのことか、どうか」  と、はやくちに言った。私たちも小島の生い立ちなど聞いたことがないし、彼の言ったことが事実かどうかも知らない。ただ、そのときはマイクロフォンのまわりに、いきなり黒いツムジ風が舞い上った感じで、一座はシンとなり、さすがの十返氏も小型のガマ蛙《がえる》みたいな顔をテーブルの前に突き出して、パクと口を開いたまま、しばらくは声も出ないくらいであった。  こういうときの小島を老獪と呼ぶべきか、何と呼ぶべきかは知らない。ただ私たちは彼の奥底にひめられた怒りのエネルギーの強大さに、仰天させられただけである。  まえに庄野潤三や吉行と、われわれの仲間の文学的資質を、野球選手にたとえたとき、小島は五番バッターの捕手ということになった。小島の体つきはガッシリして据わりがいいし、ピッチャーがどんなにムツかしい変化球をノー・サインで投げても、かまわずポンポンと受け取ってくれるからである。  しかし、文学は勿論、野球ではない。完全な個人の作業である。つまり投手と捕手が味方同士のコンビを組むなどというルールが、文学にはアテはまらない。投手と捕手とは、おたがいに変化球や剛速球を投げ合うし、おたがいにバッターとなって、そのタマを打ち返そうとする。だから小島は名捕手というよりは、どんな球でもみんなファウルにしてしまう、いわゆる�イヤなバッター�というべきかもしれない。それも小島のファウルはしばしば場外に飛び出して、ファウルかホームランかわからなくなることがあるので、投手にとってはますます難儀な打者である。  とにかく小島と付き合って一年ばかりの間は、何を話しても、 「なるほど、なるほど」  とか、 「そうです、そうです、その通りです」  としか言わないので、こちらは拍子ヌケのすることおびただしく、そうかと思うと突然、アンパンが出てきたり、黒いツムジ風を吹かしたりするので、気をぬくことがまったく出来ない。これに対応するには、こちらも小島のやるとおりにするしか仕方がないので、彼との対話は「ナルホド、ナルホド」の応酬で大半がついやされることになった。  しかし、小島は「ナルホド」の元祖である。われわれがいくらアンチ・ナルホド・ナルホドを発射しても、彼のナルホドには、われわれのついに及び難い吸引力がある。こちらがどんなに警戒していても、いつかは彼の思うつぼに、こちらからスポリと跳《と》びこんだかたちで捉《つか》まえられてしまう。  私は先年、モスクワで博物館になって保存されているトルストイの住居を覗《のぞ》いてみて、�聖人�といっしょにくらす家族の苦労も並大抵ではなかろう、とト翁の一族に同情した。廊下のすみに、みるからに重そうな木のバケツがおいてあって、トルストイは八十歳過ぎても、日課として大家族の一家がつかう水を全部自分がそのバケツで遠くの井戸から運んでいたという。朝、暗いうちに白い頤《あご》ヒゲの爺《じい》さんがヨロヨロと息を切らせて運んでくる水で、一家の人たちが顔を洗ったり、ウガイしたりするのは、ずいぶんヘンな気持であろうし、トルストイ夫人が強度のヒステリーにかかったのも、むしろ当然かもしれない。  近来、最も世評の高い小島の長編小説「抱擁家族」を読みながら、私はトルストイの家のバケツを憶《おも》い出し、この小説の主人公とくらす一家も大変だな、と思った。——要約すれば、これは或る中年男の家庭を描いたもので、主婦はウワキし、息子も娘も家政婦も勝手放題なことを言ったり、したりして、あげくの果ては妻の姦通《かんつう》の相手の男までが家の中に這入《はい》り込んで、何とも収拾のつかなくなるという、まるで現代日本の世相そのものみたいな話であるが、私はこれを読んでいる間、何度となく小島の、 「なるほど、なるほど」  という声が、耳もとで聞える気がした。妻の姦通もナルホド、息子や娘の言い分もナルホド、家政婦や自分の家へ這入りこんでくる男たちのすること、なすこと、みなナルホドなのである。つまり、この放埒《ほうらつ》な一家とそれを取りまく人たちは、一家の主人でもある主人公の発する「ナルホド」の毒素に当って荒廃させられてしまった、と言えなくもない。 「自分はなるべく風波が立たぬように、なるべく人間を尊重しようとして、なるべく人も自分も傷つけないように、と心がけているのに、どうして、こういう思いがけないことになってしまうのだろうか、なぜ人間はこうなのだろうか、というようなことを思うとき、そういうことをもとにして小説を書こうとするようである」  これは小島が毎日新聞の『私の小説作法』で述べている言葉だが、いかにも小島の面目躍如として、そのナルホド精神の横溢《おういつ》した文章である。彼は、なるべく風波が立たぬよう、なるべく人間を尊重しようとして、相手の言うことは、みんな「なるほど」と聞き入れてしまう。それはたぶん、人も自分も傷つけない方法だからである。  しかし本当を言えば、人も自分も傷つけず、他人の言い分やら欲求やらを尊重するということは、一家の使う水を全部、自分一人で汲《く》んでくるなどということよりも余程むつかしい。たぶんそれは神様でもなければ出来っこないことである。そして神様でもないタダの人間が、ひとの言うことを全部、「なるほど」とのみこんでしまうことは、人間を尊重するどころか、その反対の結果を生むにきまっている。  何を言っても「なるほど」としかこたえてくれない父親を持った息子や娘たちは、父親に反抗する手掛りをすべて奪われてしまったと同じであり、つまりは父親に見棄てられてしまったようなものである。だから強《し》いて反抗しようとすれば、その「なるほど」がどの程度にナルホドであるのか、その真意のほどをたしかめるために、まえよりも更に過大な要求を持ち掛けてみるより仕方がない。ところが、この父親は人の意見を尊重するという自分の主義に忠実になろうとして、これにも「なるほど、なるほど」と、こたえてしまう。  結局のところ、小島の考えている彼自身の理想像というのは、トルストイの禁欲主義をはるかにテッテイさせて、自分が周囲のあらゆる人間から完全無欠に否定されつくされてしまうことであろう。そして彼の周囲にいる人間は、彼の願う方向へ知らず識《し》らずに吸いよせられて行かずにはいられなくなるであろう。  ところで吉行から「お城の天守閣みたいだ」と予備知識をあたえられていた小島の家は、あとで私が訪問してみると、たしかに吉行の家よりはマトモな二階家であったけれど、決して豪壮とまでは言えないものであった。ただ地盛りをした敷地が、道路から見ると高く打ち上って、城の石垣《いしがき》に似ていないこともないという程度だ。  しかし間もなく、この家よりももう少し立派な家に引っ越したはずである。そしてまた、引っ越していくらもたたないうちに、その家を改造して建て増しをし、それがおわったと思ったら、またさらに小島が仕事するための大きな部屋をつぎたしたというような話であった。したがって小島と顔を合せると、いつも彼の家は引っ越し中であったり、増築中であったり、部屋の向きや窓の大きさが変りつつあったりして、そのたびに彼は大いに迷惑するらしく、眉根《まゆね》にシワをよせて苦悶《くもん》の表情を見せた。  勿論、私は千変万化する小島の家を、その都度たずねて、変化のあとをたしかめたわけではない。ただ小島をつうじて聞くと、増改築をかさねるごとに、彼の家の住み心地は悪くなるばかりの模様であった。そして、それらの移転や工事は、すべて彼の奥さんの要望によって行われ、彼自身はひたすら奥さんの意見を尊重し、その指示のままに動いているだけで、 「ぼくは、家なんか、まったくどうだっていいんだがねえ」  と、さびしげにツブやくのであった。ただし小島の住居についての関心や知識の深さは相当なもので、大阪から引っ越した庄野潤三の練馬の家に水道がなく、井戸の水を電動ポンプで吸い上げて使っているという話をきくと、 「それはイケない。なるべく早く水道をひいた方がいい」と忠告した。  庄野は小島と反対に、何ごとも自分の意見をガンコに押し通す方であるから、 「だって井戸の水も電気で上げれば、蛇口《じやぐち》からジャーッと出てくることは水道の水と同じじゃないか。それに井戸水は冬|温《あたた》かく、夏は冷たいから、水道なんかよりよっぽどいいし、おれの住んでいるあたりには大腸菌なんて下品なバイキンも繁殖してないからねエ」  と、井戸水の良さを力説した。すると小島は、すこし顔をシカめながら、静かな声で言い返した。 「しかしキミ、井戸の水は皮膚に悪いんだよ……。井戸水で毎朝、顔を洗っていると、だんだん肌《はだ》がカサカサに荒れちまうんだ」  庄野は、おもわず自分の頬《ほお》に手を当てて、小島の顔を見やったが、なるほど小島の皮膚の色艶《いろつや》は、まるまるとした頬っぺたといい、額といい、見事にツヤツヤと柔らかそうにかがやいている。これには庄野も井戸水の美点を主張しつづける気力を失った。……それにしても井戸水の皮膚にあたえる影響など、やはり小島は細かいところに気のつく男で、家の改造や増築の主導者も表面上は奥さんであっても、裏面では小島の意見はかなり大きくはたらいていたのではないかと思われる。  実際、小島は建築そのものにも、なかなかくわしい知識を持っており、日常生活の細部にわたって、すくなくとも人並み以上のガンチクがありそうだ。だから小島が次から次へ、自分の住居の改良をくわだてて止《や》まないこと自体は、それほど不可思議なことではない。そして、いざ工事がはじまると、いらいらと迷惑げな顔つきになるのも、わかる気はする。ただ奇妙なのは、そういうときの小島の心境が完全に受難者のそれになり、世のため、人のため、あらゆる苦労を一身に背負って、「わたしはガマンしていますよ、キミたちのために——」と、彼の建築に関係のない人間に向かってまでも、無言のうちに語りかけてくることだ。  それを見ていると、小島はそういう彼自身の不満な顔つきを愉《たの》しむために工事をやっているのではないかと、疑いたくなるほどだ。そして、たしかに彼は「不満」そのものに対しても、つねに欲求不満の状態にいるらしく、不満のタネがなくなることを惧《おそ》れるかのごとくに、出来上ったかとおもう間もなく、また新たな建築にとりかかる。こうして、ついに小島の家は吉行が言ったとおり「お城」のようなかたちに聳《そび》え立ってきた。……しかし鉄筋コンクリート建て、エア・コンディション完備のその邸宅は、小島の不満の保持を永久保障することになった。つまり、その家が完成してからの彼は、何とかしてそれをブチこわそうと試みるものの、容易なことではこわれそうにないという不満に、絶えず取り憑《つ》かれているかのごとくである。  そんな小島は家の外で仕事することが多く、私もまた家にいてはナマケ勝ちであるという理由で、外へ仕事に出掛けるので、しばしば私たちは同じ場所でハチ合せする。K社の別館とか、S社のクラブとか……。  ある朝、私がそんな場所で徹夜の仕事をつづけていると、管理人の小母さんが朝刊と朝飯を運んできてくれて、しばらく物言いたげに立ちどまっていたが、ふと堪《たま》りかねたように、 「センセ、小島先生は昨夜はウワキなすったんでございますよ」  と盆を腹にあてて、体をかがめこむように笑いながら言った。その婦人は大体、私と同年輩であるが、シロウトばなれのした垢《あか》ぬけたところがあり、若かったころの美貌《びぼう》がハク製になったように、そのまま現在の彼女の顔の上に残っている。 「へーえ、小島さんも、ここに泊っているの? ちっとも知らなかった……。しかし小島さんがウワキするとは意外だな」  私は実際にそんなことは知らなかったので、そのとおりにこたえた。すると彼女は、 「そうなんでございますよ。でも、殿方はみなさん、なさることは同じでございますわ……。小島先生も立派なお家がお出来になって、次になにをなさりたいか、もうそれはちゃーんと、きまってるんでございますもの。ホホホホ……」  と、笑い声を立てながら、階段を駆け下りて行った。  じつのところ私には、小島のウワキよりも、彼女のそういう態度の方が意外であった。日頃、あらゆる点につつましく、ひかえ目で、むしろ無用に警戒心の強すぎるようなその婦人が、どうして小島に対してだけは、あのような関心を示すのだろう? あるいは小島のれいの「なるほど、なるほど」は、こういうカタブツの婦人にまで、どこか気を許させてしまう作用があるのだろうか。  どっちにしても、これは興味のある事実だから、その日の午後に姿をあらわした小島に、私は早速、このことを訊いてみた。 「おばさんが心配していたぜ、小島先生はゆうべウワキをなすったって」 「ウワキ? ああ、ゆうべは友達のところで話しこんで遅くなっちゃったからね」  それは、そのとおりにちがいない。小島はあちらこちらに、話しこんでは泊って行くような友人を持っているらしい。 「なるほど……」  と、こんどは私がウナずく番だった。じつは私にも、そういう放浪癖がないわけではない。しかし三十半ばで結婚して以来、そういう癖を発揮することは許されなくなってしまった。家庭の事情も、年齢も、ひとりでにそういうことを許さなくなるのが当然だと思っていた。だが、私よりも数年年長の小島にはそれが許されているのである。なぜだろうか? それは彼の持っている一種不可思議な優しさのせいではないだろうか。  私は、自分が小島と付き合いはじめたばかりのことを考えてみて、そう思った。あのころ小島は吉行に佐原の病院を紹介したり、私には彼の知人の北軽井沢の別荘を、一と月あまりもタダで貸してくれるように世話してくれたり、そういう点での面倒をじつによく見てくれた。そして私は、いままでのところ小島に、これといった返礼は何一つしていないのに、そのことをほとんど忘れてしまっている。憶えているのはむしろ、その北軽井沢の家で原稿が一行も書けずに七転八倒させられた苦しさだけである。……そんなふうに小島には誰でもが、気安くものがたのめるし、たのんだことを気安く引き受けてくれた場合にも、こちらはひどく安心していられる。そして、そういう安心感が、彼の奥さんや、友人から、この宿舎の管理人の婦人にいたるまで、何とはなしに滲《し》みとおっている。だからこそ、彼はいくつになっても、どこの家へもコロガリこんで行けるし、友達までも人の別荘へコロガリこませることさえ出来る。  そういう小島には「立派なお家もお出来になって、次は……」という管理人の婦人の推測は、ぜんぜん当てはまらない。小島にとって家は、彼の日常の餌《えさ》である�不満�の供給源にすぎず、彼の心は最初から家の内外を問わず、人間そのものに向かっている。そして芝居の「どん底」に出てくる巡礼ルカのように、行きずりの人間を誰彼となく捉《つか》まえては、「なるほど、なるほど」と、その人間を自分の内側へ引っぱりこんでは、「老獪なやつ」だとか、「ウワキしてらっしゃる」だとか、気安さと一緒にウサン臭げな印象を振りまいて歩いている。 「安岡くん、やってる……?」  これはまた他の宿で、薄暗い破れ障子の向うから、そう呼び掛ける心細げな小島の声を私は、何度となく聞いた。外の仕事場で、こういう声を掛け合うときの気持は、おたがいに何とも知れず陰鬱《いんうつ》な、しかしそれ故《ゆえ》にノメリ込んで行くような親愛の情に満ち満ちたものである。 「やってないよう」  私は、溜息《ためいき》まじりにこたえ、原稿用紙を片よせ、渋茶をわかす電気コンロにスイッチを入れたりしながら、これからまたナルホドのやり合いがはじまるのかと、うんざりするような、それでいて奇妙な解放感への期待に胸をおどらせるのである。  開口一番 開高健 「開口一番」というのが、開高健のアダ名である。開高に一度でも出会ったことのある人には、このアダ名の由来はまったく説明する必要はあるまい。つまり、やって来たかと思うと、いきなりヴォリュームいっぱいにひらいたラウド・スピーカーが鳴り出したら、そこに開高のまるで将棋の「角行」みたいな顔が、黒い眉《まゆ》を吊《つ》り上げ、かど張ったアゴを突き出して、がんばっていると考えて間違いないのである。  こんなによく出来たアダ名が、じつはそれほど人口に膾炙《かいしや》するにいたっていないのは不思議だが、一つには「カイコーイチバン」では長すぎて呼びにくいからでもあろう。また、アダ名というのは、あまりにピッタリしすぎていると、かえって面白味がないというようなこともあるのかもしれない。聞いたとたんに、あまりに簡単にシャレだとわかってしまうと、それがシャレになりにくいといった事情と同様に……。  まったくのところ、開高と出会って、そのワレ鐘のような話し声やら笑い声やらを聞いていると、私たちはアダ名もへったくれもあったものではなく、ただただその音量の大きさに、どう対処すべきかと、物理的に思い悩まざるを得なくなるのである。  それが、どれほど大きな声かという実例を上げれば、何年かまえに私は堀田善衞夫妻や開高夫妻と、志賀高原へスキーに出掛けたのであるが、私たちよりもずっと若い世代の青年男女によって占められていた夜行のスキー列車のなかでも、開高の声はひときわ大きく、列車がトンネルの中を走っても、それに負けないくらいに轟然《ごうぜん》たる声で語りつづけ、笑いつづけるために、ついに車内の客から「安眠妨害」の文句が出たほどである。  そんな開高と、私がハリ合うことが出来るのは、酔ってシャンソンを歌いはじめるときだけだ。 「かっぱらいの一夜」「パリの屋根の下」からはじまって、「自由を我|等《ら》に」「人の気も知らないで」「小さな港町で」「マルセイユのジャヴァ」等々、戦前の映画の主題歌を、次から次へ、知っているかぎり競争で歌う、というよりドナリまくる。フランス映画の主題歌が一とあたりすむと、こんどはドイツ、ウーファー映画全盛時代の「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」「三文オペラ」そして戦時中、小便臭い映画館の片隅《かたすみ》できいたツアラ・レアンダーの「南の誘惑」のメロディーをいっしょになって口ずさみながら、ふと開高の顔を眺《なが》めて、 (こいつはヘンだぞ)  と、思いはじめる。  さっき私は開高たちとスキーに行ったとき、列車で「私たちよりもずっと若い世代の連中にかこまれた」と言ったけれども、じつは開高自身が私や堀田氏よりもずっと若い、大江健三郎や江藤淳や石原慎太郎なんかと同じ世代の�純・戦後派�であることは、大方の読者がご存じのとおりだ。  しかし江藤の文章が、しばしば明治生れの人の書いたもののように誤解したくなるように、開高と話していると、まるで昭和初期の左翼くずれの青年の気焔《きえん》を上げるのを聞いているのかと思いたくなる。それほどに開高は、あの時代のことを良く知っており、それも単に知識として知っているだけでなく、第一次大戦後の戦後派的情緒なり、趣味なり、思想なりを、雰囲気《ふんいき》として身につけているのである。そういえば彼の文章は梶井基次郎《かじいもとじろう》の語調をマネしたところがあるし、彼の小説の場面はレマルクの「西部戦線異状なし」を愛読したあとが見られるし、そして「日本三文オペラ」の題名は、武田|麟太郎《りんたろう》がそうであったように、ブレヒトの芝居やパプストの映画から借りてきたものである。  それだけのことなら、別にヘンなことでも何でもない。前の時代の人間の考えやら文章やらを受け嗣《つ》いで行くのは、むしろあたりまえのことだ。しかし私が驚くのは、開高がそういう時代のものを、あまりに身につけすぎていることだ。赤いトックリ・ジャケツを着こんだ開高が、ウイスキーのコップを片手に、バアのとまり木の椅子から転落しそうなほどのけ反《ぞ》りかえって、メッキー・メッサーの歌などドナっているのを聞いていると、私は自分が小学生のころに旧制高校へかよっていた従兄の顔が眼の前の開高と重なり合い、その従兄がゴールデン・バットの煙を吐き散らしながら、私に向かっていろいろな小ムズかしいことを話しかけでもしているような錯覚にとらわれてしまうのである。一瞬後に、ハッと気がつき、 「なんだ、おまえは開高じゃないか、おどかすなよ、この野郎」  と思うのだが、考えてみれば開高は別に私をオドかす意志などはなく、ただ彼なりの�過去�に陶酔しているだけのことであるから、怒ったって仕方がない。  それにしても不思議なのは、開高がなぜこのような�過去�に愛着を示すのかということだ。私は、前記の年上の従兄や母親につれられて、浅草の電気館で「モロッコ」を、新宿の武蔵野《むさしの》館で「かっぱらいの一夜」を見た記憶があるが、それは私が小学四、五年生のころのことであって、そのころには開高健などという赤ン坊は、まだこの世に生れてくるかどうかもわからなかったはずなのである。  私にしても、小学生のころから、そんなに毎週、映画館がよいが出来たわけではなく、前にのべたような古いシャンソンのたぐいは、むしろ戦争中、何の娯楽もなくなって、古レコード屋で買いあさってきたレコードを、家の中でひそかに鳴らしているうちに、なんとなく憶《おぼ》えこんでしまっただけのものである。したがって私にとって、それらの歌は昭和の初期を想い出させるものではなく、すさまじいレコードの針音とともに、抑圧された戦時中の青春|挽歌《ばんか》をかなでる物悲しいメロディーなのである。しかるに開高には、そういう記憶や経験もあるはずがない。そのころの開高は、かならずやランドセルをしょって、「昭和の子供」だの、「兵隊さんよアリガトウ」だのを無邪気に歌い散らしながら、隊列を組んでコクミン学校へかよっていたにちがいない。  してみると開高は、一体どこで、いつの間にこのような歌を憶えたのであろう? いや何が動機で、このような、彼には見も知らぬはずの昭和初期を、なつかしき、古き、よき時代のような顔をして、想い出そうとするのであろうか。  私は元来、世代論といったものには、あまり興味がなく、自分自身、二十五歳を過ぎてからは一向に進歩したという自覚がもてないので、二十五歳以上になれば誰でも人間は一人前であり、年齢の違いでモノの考え方が違うなどということは有り得ぬことと思いこんでいた。それが、この二、三年来、妙なところで急に世代の違いというものが実際に存在しているように感じられて来た。  一つには開高、大江といった連中の経験してきた�戦後�と、私たちのそれとの違いの甚《はなは》だしさが、ようやくハッキリと見えてきたからでもあろう。私たち兵隊がえりの学生にとって�戦後�は、命拾いをしたという解放感の他には、混乱と貧窮の想い出しかない空白な一時期にすぎなかったが、大江や開高にとっては、同じこの時期が単に焼け跡のドサクサの混乱期ではなくて、夢と希望と可能性とにみちた豊富な創世紀の混沌《こんとん》状態にうつったらしい。……そういえば、私よりも少し年上の、つまり昭和の初期に学生生活を送ったような人たちも、戦後のあの当時を�第二の青春�などと呼んでいたけれど、私にはそういう幻想はまるでなかった。徳田|球一《きゆういち》や志賀義雄といった人たちが、十何年ぶりかで牢屋《ろうや》から出されて来たといっても、そういう人たちの名前は戦争がすむまで聞いたこともなかったし、したがって彼等の釈放が私自身の解放感をもたらしたりするということもなかった。要するに、 「戦争に敗《ま》けると、おれたちの知らないことが、いろいろ出て来るものだなア」  と思っただけである。そして、こんな時代を�第二の青春�などと、たわむれにしろ言ったりすることは、自分にはとても出来ないと思った。しかし、そういう違和感を自分より上の年代の人たちには感じたものの、この変革期を自分よりも年下の連中が、どう受けとっているかなどとは、考えてみたこともなかった。せいぜい彼等はアメリカ兵のよこすチューインガムを珍しがったり、生れてはじめて食ったバナナの味に目をまわしたりしている未開の土人みたいなものにしか見えなかった。  だが、そういう土人の子供たちにとって�戦後�はやはりバナナやチューインガムだけのものではなく、彼等なりに掛けがえのない何かであったにちがいない——、彼等が何を考え何を感じたかは、私にはわからない。もはや�戦後ではない�いまとなっては、彼等にもあの時期は空白な混乱期であるかもしれない。しかし、それは私たちの感じた空白とは、また違った何かであるにちがいない——。そういう空白のアナを彼等は何によって埋めているのか?  これは私などが、こんなところで、お粗末な考えをあわてて言ってみたって仕方のないことだろう。ただ、江藤がいやに年寄りぶった漢語調をやたらに使いたがることも、大江がいつまでたっても「ぼく、遅れて生れてきちゃって、戦争に間に合わなかったんです」と子供っぽい口調で言いたがるのも、彼等のよって立つべき精神の土台の空白を、何とか埋めようとしていることと関係があるにちがいない。そして開高が昭和の初期のデカダン趣味を、あれほど熱心に模倣して、なつかしがってみせたりすることも、戦後の空白期を跳《と》びこえてフィクティヴな心のふるさとを、あの時代に求めようとしているからであろう。  もっとも、そんなことをあれこれ詮索《せんさく》するよりは、開高はめちゃくちゃにオマセの少年だったから、何でも知っていると言った方がたしかであるかもしれない。  彼が「開口一番」であるのは、その声が大きいばかりではない。もしかすれば生れると同時に、「コンニチハ、ヨロシュウタノンマッセ」と母親に向かって挨拶《あいさつ》したのではないかと思われるほど、口が達者だからであるが、彼が達者なのは口だけではなく、手の方もずいぶん早くて、たしか新制高校を出たか出ないかという年ごろに、もう父親になっている。このことは彼が、すでに自伝的な小説のなかに書いているから、私が余計な説明をする必要はないが、とにかく産室から赤ん坊を抱いて出てきた看護婦は、戸口の前のベンチに待っていた詰襟服《つめえりふく》の少年がその子の新しい父親であるとは認められず、廊下をウロウロ歩きながら、 「開高さーん、開高さんのおとうさん、いやはりませんか」  と探しまわったあげく、その黒い学生服の少年が、 「ぼくが開高ですが」  と名乗り出たのだが、この若すぎる父親の顔を見つめたまま、しばらくは口もきかず、やっと五分ほどたってゲラゲラ笑い出したというのである。  スキーのときに開高は、小学校一年生の女の子を連れて来ていたが、まだ二十代の半分ぐらいの開高をつかまえて、その子が、 「おとうちゃん」  と呼ぶのをきいても、私ははなはだ奇妙な感じがしたから、産院の看護婦はさぞかし仰天したにちがいない。しかし、そのことを開高に言うと、彼はめずらしく声を低めて、 「いやー、ぼくのコンプレックスになってることに、触れんといて欲しいです」  と、ひどく神妙な顔つきになってこたえたのは、かえって滑稽《こつけい》であった。コンプレックスか何かは知らないが、このときほど開高の顔が真率な善良さに溢《あふ》れて見えたことはないのである。  何にしてもティーン・エージで父親になったということは、その後の開高の思想や性格に或《あ》る程度の影響をおよぼしたにはちがいない。ことによると、彼がやたらにたくさん昭和初期の映画や流行歌を知っているのも、子供の手前すこしでも余計に年とってみられるようにというのが、最大の動機だったとも考えられる。いや、それともやっぱり早熟なのは開高の生れついての性分で、早く父親になったのはオマセの少年がやりそこなったというまでのことなのだろうか。しかし、もし彼にそういう軽率な喜劇的な経歴がなかったら、開高はたぶん鼻持ちならぬイヤ味な男になっていたかもしれない。  たしかに開高には一見、いかにもヌケ目のないズルそうなところがあり、その大声と相まってアクの強い印象をあたえがちだ。ベトナムから帰ったとき、飛行機のタラップの上でサングラスをかけた開高が、それこそ開口一番、出迎えの人たちに、 「ユーレイやないでえ」  と挨拶したというのは、いかにもガメつくて、小生意気な感じがよく出ている。しかしこれは本当は彼が正直に、まるで凱旋《がいせん》将軍のように意気揚々と帰還するという演出を、期待どおりに演じているというまでである。そして、そういう見掛けによらぬ奇妙な忠実さが、おそらくこの男の身上にちがいない。要するに彼のヌケ目のなさも、ずうずうしさも、じつはこのヘンな忠実さと、小心な気の弱さから出ているはずである。  開高がベトナムへ従軍に出掛けたのは、彼自身も希望して新聞社の要請にこたえたわけだが、おどろいたことに彼は出発のその日になっても、奥さんの牧羊子女史にそのことを隠していたという。……開高は私たちには出掛ける数カ月まえからベトナム行きのことを話していたが、夫人にだけはただ、 「南方をちょっと一と廻りしてくる、ことによったら少しぐらいベトナムにも寄ってみるかもしれない」  などと言っていたらしい。そして、いよいよ出発の当日、羽田へ出掛ける自動車のなかで、ふと夫の顔つきに疑惑をおぼえた奥さんが、 「まさか、あんた、ベトナムの戦場へ出て行くつもりじゃないんでしょうね」  と問いつめると、開高は顔色を青くして、 「しらん、しらん、あとのことは新聞社のOさんに聞いてくれ」  とだけ言い残すと、あたふたと飛行機に駆けこんで、そのまま飛び立って行ったよし、あとで夫人から私とO氏とは、さんざんに不平をきかされた。勿論《もちろん》、私もO氏も開高が家庭において、そんな工作をもちいているとは知らなかったのである。これで、もし開高が名誉の戦死でもとげていようものなら、私はともかく、O氏はどんなにかひどく夫人に恨まれたことであろう。  しかし私自身、もし開高と同じ立場にあったら、やはりこれと似たような嘘《うそ》を吐《つ》くことになりそうだ。これが正真正銘の新聞記者で、社から従軍特派員を命じられたなら、女房一人を説得するぐらい、それほどムツかしいことでもない。だがなまじっか自由業であるだけに、「どうして、そんな生命の危険のあるところへ、小説家のあなたが出向いて行く必要があるのか、作家なら作家らしく、ちゃんと家の中にいて、芸術の意欲を原稿用紙に向かってそそぐのが本当ではないか」などと、朝な夕なにシツこく掻《か》きくどかれたら、それだけで面倒臭くなり、ベトナムへも何処《どこ》へも出掛けるのがイヤになるだろう。だが、いまさら新聞社に、「女房がこわいので従軍は取り止《や》める」とも言えたものではない。それで止むなく、女房に言いにくいことを言うのは一日のばしに延ばすことになる。そのうち、だんだん出発の日は迫り、ますます本当のことを女房に打ち明けるのは困難になるし、新聞社にも断わりにくくなる。こうして、ついに出発の日が来てしまうが、もうそのときにはベトナムだろうと、どこだろうと、女房にせめたてられる危険のないところなら、どこへでも逃げ出したい気になって、あとは野となれ、山となれ、みたいなセリフを残して出掛けるということになるわけだろう。  こうして、小心な人間ほど、ずうずうしい嘘やら不義理やらを仕出かす結果になる。まことに弱気と優柔不断とは、男としては最悪の性格であり、いつも不徳義を犯す危険をはらむことになる。しかも、そういう男は必ずやナマケモノであるから、ますます以てこの傾向を助長するばかりだ。  開高少年が少年のままに父親になる日を迎えつつあったときの心事も、おそらくはこのようなものではなかったろうか? 私はひそかに、それを推察しただけでも、その悲惨さに暗澹《あんたん》とさせられる。勿論、悲惨なのは子供が生れるということ自体ではなくて、自分の意志では手のほどこしようもない深みにはまりこんで行きつつあるという少年の自意識のことである。実際、こういうときには男の決断力なんか、何の役にも立ちはしない。しかしそれにもかかわらず少年はやはり、心のうちに自分の不決断のとがめだけは受けつづけるだろう。そして結局は、まったく救いのない気持で、 「なるようにしかならないものは、ほうっておくより仕方がない」  と、つぶやきかえすだけだろう。勿論、なるようにしてなった結果は必ずしも悪いものばかりとはかぎらない。ただ、そこへ行きつくまでの不安がやり切れないのである。  開高の「南ベトナム戦記」はなかなか面白く、私は毎号雑誌の出るたびに真っ先に読んだ。無論、私には書かれてあることについて、どの程度に正しいのか、まちがっているかなどはわからないし、開高にしたって戦局全般を正確に見透せるはずもない。だから、この手記のリアリズムはそういうものよりも、もっぱら開高の性格そのものの上に立っている。つまりジャングルの中でベトコンに取り囲まれたとあっても、本当にそれがベトコンかどうかもわからないようなものだが、飛びこんでくる弾丸の中で彼が身動き出来なくなったことだけは事実であろうし、地ベタに散らばった木の葉が弾丸に巻き上げられてクルクル舞ったり、川にまたがって脱糞《だつぷん》していると下から魚が食いにくるといった描写が面白かったのである。  ことに一番実感があったのは、やはりジャングル戦に連れて行ってくれと米軍にたのみこんだ開高が、日がたつにつれてだんだん怖《こわ》くなり、いつ断わろうかと思いながら、とうとうジャングルの中へ引っぱって行かれ、 「一体おれは何のために、こんなところへやって来てしまったんだろう」  と、つぶやきかえすくだりである。  南ベトナム戦争によせる開高の関心なり興味なりと、戦線そのものへ入って危険にさらされてみたいということとは、じつは全然別個のものであるはずだが、戦場へやって来た以上、戦線へ出てみなければイミがない、と開高は義理固くかんがえたのであろう。  そうでなくとも彼の声は大きく、英語など外国語をしゃべるときには力が入って、ますます大声になったであろうから、そんなに大きな声で、 「ぜひともジャングル戦の現場へつれて行ってくれ」  とたのんだ以上、のっぴきならなくなったはずである。そうして彼は地ベタの上に這いつくばったまま、身のまわりに落ちた木の葉が小銃弾や機銃弾に舞い上るのを横目で眺めながら、いまにも死にそうな恐怖とともに、自分の愚行を反省する。  これだけの文章を書くことに、生命の危険をかけるだけの価値があるかどうかは別の問題で、それは当の開高だけにしかわからないことだが、一度はこういう目にも合ってみなければ気のすまないというところが、おそらく彼にはあったにちがいない。「西部戦線異状なし」の愛読者は結局、一度は戦争がみてみたくなるはずである。  この間妙にかぼそい、女だか男だか、わけのわからぬ声で電話が掛ってきて、誰かと思ったら開高が鼻をツマんで、つくり声を出しているところだった。  こういう愚にもつかないことは、私たちはもうやらないことにしているのだが、つれづれなるままに電話をかけるときは、開高はやはりテレ臭くて普通の声は出せないのであろう。何となしに電話をかけてはみたものの、いざとなると話すことは何にもなくなったらしく、やたらに、 「ふう……、ふう……」  と、馬の鼻息みたいなタメ息ばかりついている。こちらもタメ息だけ聞いて電話を切るのも、便所で用を足さずに帰ってくるような気がするから、れいのニューヨーク・タイムズにベトナム戦争反対の広告を出す件はどうなったのか、と訊いてみた。 「ああ、あれは半ページ分の広告を出すだけの金があつまったきり、あとはサッパリですわ」  と元気がない。 「じゃ、おれも千円ばかり送ってやろうか」 「ああ、それは有難いですなア」 「ニューヨーク・タイムズの方じゃ、一体どう言ってるんだい」 「それは向うは双手《もろて》を上げて大賛成だと言っておるんですがなア」  依然として声にハリがないのは、よくよくヘコたれているのであろうか。 「愛をこめて東京の友より」  という見出しでニューヨーク・タイムズに一ページ大の広告を出すという計画を半年ばかりまえに語ったときの開高は、こんなじゃなかった。そんな広告を出してみて、はたしてどれだけの効果があるものか、ないものか、私は知らない。けれどもそういう広告を扱う新聞があるということはアメリカという国の面白いところだし、広告料が一ページで二百四十万円というのは、アメリカの物価を考えると案外、安い。だから開高としても効果のあるなしよりも、アメリカに向かって開口一番やってみることが、一つの愉《たの》しみだったのだろう。しかし、いまやその開高がこんなに情けない声しか出さないのは、金をあつめるということが、ものを書いたり、しゃべったりすることにくらべて、よほどクタビレる仕事なのであろう。  昔の仲間  私には、同人雑誌をやった経験が、ほとんどない。何しろ学生時代の大半は戦争中だったから、まともに文学の同人雑誌など出すことは出来なかったし、戦後は病気と貧乏で雑誌の同人になる金もなかった。しかし、まともでない同人雑誌なら慶応予科にいたころ二度出した。  一度目は太平洋戦争のはじまった日に、教室で仲間が四、五人あつまって雑誌をつくろうと言うことになった。別に戦争がはじまったから、そんなことを考えたというのではなく、前の日に小堀と石山というのが二人で計画したことを、あくる日になって私たちに話したというまでであった。しかし、そうは言っても開戦のニュースに私たちが昂奮《こうふん》させられていなかったとはいえない。  たしか、あの日は朝の第一時間目の授業から、私も学校へ出て行ったように思う。そしてフランス語の時間に、二宮という若い先生が、 「こういう騒がしい時代には、諸君はふだんより一層落ちついて、まわりのものに惑わされず、勉強してください」  と、当時としては傾聴すべき訓示をあたえてくれた。二宮先生はフランス留学から帰ったばかりで、放送局で海外向けのアナウンスをやっており、その朝もフランス語で開戦のニュースを読み上げてきたばかりだと言われたように憶《おぼ》えている。私たちが同人雑誌の計画にすぐ賛成したのも、つまり「こういうときだから文学をやろう」という暗示にかかったのだろう。  私は予科へ入るまえに何年も浪人して年をくっていたが、小堀や石山は中学から真直ぐ入ってきたから、いまなら新制高校の二年か三年のころだろう。昂奮するなと言われると、それが逆の意味での昂奮剤になってしまうのも止《や》むを得なかった。私はその日、学校のかえりに柳橋の喫茶店へ闇《やみ》のコーヒーを飲みに行った。そこには学校へ通うのを止めてしまった別の仲間が集っていた。高山、古山、倉田、佐藤、これは一年ばかりまえまで一緒に回覧雑誌をやっていた連中だった。……本当をいうと、この連中とは私は気まずい関係になっていた。彼等は申し合せたように、学校を退学になったり、自分から放棄したりしているのに、私一人はいつまでも丸型のケイオー帽をかぶって、さぼりながらも学校へかよっているのは、つまり怯懦《きようだ》のせいだった。彼等は別に、口に出しては言わなかったが、心の中でそう思っているにちがいなかった。  この喫茶店「紅ばら」は常連だけの店だったが、集ってくるのは場所がらだけに下町の旦那《だんな》、若旦那、番頭、町工場の主人などで、私はこういう人たちにも、何とない気後《きおく》れを感じ、馬鹿にされまいとして一生懸命、学生らしくなく振舞うことにつとめていた。  隅田川《すみだがわ》の川べりから、三輪石鹸《みつわせつけん》のビルを斜めに入った路地に面して、間口二間ばかりの細長い木造の三階建の家がある。そこの一階の薄汚《うすぎた》ない土間が「紅ばら」の店である。最初にこの店を見つけてきたのは古山で、店の主人は客の顔をみて本物のコーヒーを出したり、ニセの大豆コーヒーを飲ませたりするということだった。 「ニセモノを出された時には、ぱっと横を向いて見せなければダメなんだぜ。そうしないと甘く見られて代用コーヒーばかり飲ませやがるからな、金だけはちゃんと闇コーヒー並みに取るくせに……」  古山は、そう言うと、私の顔を見ながらにやりと笑った。すると私は、はやくも自分がダマされかかっているような不安を感じたものだ。そして、一刻も早くその傲慢《ごうまん》な店へ出掛けて本物のコーヒーを飲んでみないことには、この不安を打ち消す方法がない気がした……。しかし私は、その十二月八日の午後には別段、コーヒーなど飲みたくなって、わざわざ東横線《とうよこせん》の日吉《ひよし》から柳橋まで出向いたのではない。同人雑誌をはじめるについて、まえに古山たちとやっていた回覧雑誌の原稿がそのままになっているのを憶《おも》い出し、それを返してもらおうと憶っただけだ。だが、行ってみると、「紅ばら」は、いつもより客が詰めかけて、八畳間ほどしかない土間はタバコの煙とひといきれでいっぱいになっていたが、仲間の顔だけは一人も見えなかった。  どうしたのだろう、まさか高山や倉田に召集が来てしまったのではないだろうな——。そう思うと私はギクリとした。  すでに学校に籍のない彼等は、この春、徴兵検査をうけていた。じつはそのとき、私も倉田と誘い合せて、区役所に徴兵延期の取消し願いを出しに行こうと約束しながら、どたん場になって気が変り、つづけて学校へかようことになったのだ。そのことについても仲間は誰も私に、何も言ったりはしなかった。それは、もう弁解の余地もないことだったからだ。しかも、あのとき「兵隊に行こう」と誘いかけたのは、むしろ私の方だった。「いつまでも、こんなことをしていたって仕方がない、いっそ兵隊にでも行ってみたら、きっぱりとカタがついて、これからさき自分たちが何をやればいいかがハッキリするだろう」  私が、そう考えたのは嘘《うそ》ではなかった。実際、当時の私たちは誰かが自分に何とかしてくれることを待ちつづけている状態だった。自分たちが何かに身動きならないほど抑《おさ》えつけられていることはたしかなのに、その正体が何なのかは、わかったような、わからないようなものだった。軍隊勤務のツラサはわかっている。しかし、いまの何か得体の知れないものの前に立たされたまま漠然《ばくぜん》と、ある怖《おそ》ろしいことが起るのを待たされているよりは、かえって兵隊になった方がマシではないか。兵隊へ行って帰ってくれば、すくなくとも何かが一つ片付いた気持にはなれるだろう……。  こういう考えは、自分一人で考えるぶんには、別に間違ったことでもなかったろう。しかし、それを友達に話したこと、まして説得するような、勧誘するような口調で話したことは、絶対に間違いだった。……私は、いまさらのように自分のしたことを考えて、怖ろしくなった。 「何にしますか?……」と、店の主人の福さんが訊《き》いた。「きょうは、お好きなものを何でも出しますぜ、モカでも、ブルーマウンテンでも……。どうか、何なりとおっしゃって下さい。きょうばかりはケチなことは言いませんから」  まわり中の客が笑った。福さんのケチは有名で、人の顔さえ見れば「買い溜《た》めたコーヒー豆のストックが少なくなった」と、いままでそれで、さんざんもうけてきたことは忘れて、文句ばかり言うクセがあった。 「そのかわり、やがてはモカ一杯で五円いただかなければならない時がくるでしょう、いや冗談でなく……。とにかく、いまやまったくの非常時ですから」 「おどかすなよ」 「そうなったら、おれはもう一杯十センの番茶コーヒーに転向するぜ」  まわりから上った声は、かならずしもヒヤカシばかりではなかった。いくら闇の危険を犯しているとはいえ、いまだって「紅ばら」のコーヒーは充分高すぎる値段だった。もっとも、そういう人たちの大半も、それぞれ闇でもうけており、戦争が大きくなればなるほど金もうけの機会も多くなるので、きょうの対米英の開戦に一段と活気づいているわけだった。 「まアまア、皆さん、きょうのところは私も商売ヌキのサービスをさせていただきますからコーヒーをどんどん召し上って下さい……まず手はじめに、ハワイアン・コナあたりからやっつけてみちゃ、どうです」  すると、そこへ垢《あか》じみたペラペラの和服の袖《そで》を合せながら、寒そうに鼻の頭を真っ赤にした古山がとびこんできた。彼は、この店で人気者になっており、皆が挨拶《あいさつ》の声を掛けた。 「やア、お早う……。いま、お目覚め?」 「そう昼ごろ一度起きたんだけれど、あんまり寒いんで、また布団《ふとん》にもぐっていたら、いつの間にか夕方になっちゃった」 「いいねえ、古さんはいつ見てもノンキにしていられて」  福さんが、古山の寝脹《ねば》れした顔をしげしげと眺《なが》めながら言うのをききながら、私もまた彼の生活態度を羨《うらや》まずにはいられなかった。古山はこの春、京都の三高を退学になると、郷里にもかえらず東京へやって来て、私たちの仲間に加わったが、他の連中とちがって学校をやめても悲愴《ひそう》がるようなところが全然なく、浅草橋の路地裏の煤《すす》けたアパートで浅草の軽演劇の台本を書いたりしながら、それを心から愉《たの》しんでいるふうだった。それにしても、その日、古山が皆を本当におどろかせたのは、ひとあたり挨拶がすんで、誰かがまた号外だの新聞だのをひろげてハワイ沖の大戦果のことを話しかけたときだった。古山はキョトンとした顔つきで、 「へーえ、このぶんじゃ、いよいよアメリカと戦争がはじまりますかな」  とこたえたものだ。皆は一瞬、アッ気にとられ、しばらくたってどっと笑った。  いま想いかえしても、そのときの古山がワザと傍観者の態度を気取っていたのか、それとも本当に何も知らなかったのか私にはわからない。どっちにしても、その日の古山の無感動な顔つきは私を圧倒した。じつのところ彼に会うまで私は、こんな日に文芸同人誌の発行をきめたということに、すくなからず気負うところがあり、出来たら彼を同人に誘おうかなどとも考えないでもなかったが、もはやそんなことを言い出す気にもなれなかった。  要するに、私たちはそのころ反時代的な態度をとろうとつとめてはいたのだが、同じ反時代的といっても大学予科生の石山や小堀たちと、「紅ばら」でとぐろを巻いている古山や倉田や高山たちとでは、年齢の差もあって両者を一緒にして一つの同人雑誌をつくることは不可能だった。それに現実の問題として高山と倉田は、それから二カ月後に現役兵に編入されて入営がきまったが、これまでのシナ事変とちがって、入営はそのまま戦場につながり、いったん兵営の門をくぐれば、いつそこを出てこられるかといった希望は、誰にも持てなくなってしまった。  そうなると、私が気持をぐらつかせて、徴兵延期取消しの手続きを取らなかったことは完全に、倉田や高山に対する裏切り行為になるわけであり、顔を上げて彼等と会うことは出来なくなった。それでも一と足さきに入営の通知が来た高山の送別会には、私も出席したが、その席に倉田がついに顔を見せなかったのは、そこに私がいたためであると聞かされ、それ以来、倉田の入営も、古山の召集されたことも、人づてに何となく耳にすることはあっても、彼等を見送りに出掛ける勇気は起らず、「紅ばら」へもひとりでに足が遠のいた。  私にとって、これはかなり深刻な事件であり、このようなことになるまでの二、三年間は、ほとんど毎日、顔を合せ、会うとそのまま家へ帰ることも忘れて、おたがいに相手の家に何日間も泊りこんだりした間柄であったことを想うと、もう二度と友人だの仲間だのをつくる気にはなれなかった。……おもうに自分は手前勝手なエゴイストであり、臆病で何一つ仕出かすことも出来ないくせに、その場の空気に酔わされると、つい強がりを言って人をケシかけ、いざとなるとコソコソ逃げ出してしまう。そういう性分では、これからさきも、人と付き合えば必ずその人を裏切ることになるだろう……。  そんなふうに私は、友達にアイソづかしをされたことで、自分で自身にアイソづかしをしたつもりになっていたから、石山や小堀と雑誌のことで話し合う機会がたび重なっても、彼等との付き合いはなるべく深味《ふかみ》にはまらぬように用心した。それに当時の彼等は、古山たちに較《くら》べるとあらゆる点でいかにも中学生じみて感じられ、調子を合せて一緒に遊ぶ気にもなれなかった。……それが、いつの間にかずるずると、この年下の連中の仲間にひき入れられるようになり、雑誌が出て半年もたたないうちに私は、彼等とも以前の古山や倉田と同じような間柄になってしまった。  創刊号に私は、まだ何も書く気になれなかったので、まえの回覧雑誌に書いた短篇の時代小説「首切り話」というのをのせた。したがって、もし最初に活字になったものを処女作とするなら、私の処女作は時代小説だということになる。映画監督志望の小堀はシナリオ形式の小説「�悪魔�とひとびとは呼ぶ」を書き、中学生時代から詩の雑誌に投稿していた石山は、きわめて高度にストイックな詩を二篇だけのせた。その他、石山の友人で詩を書く疋田《ひきた》と田中が同人に加わったが、田中とは路上で一度顔を合せたきりで、それから間もなく死亡した。  田中の病気は精神科系のものだったというが、私たちのなかで一番|明瞭《めいりよう》に才能の豊かさをしめしたのは、この田中だった。雑誌の第二号には追悼《ついとう》の意味で彼の詩を二十篇ばかりまとめてのせたところ、保田與重郎《やすだよじゆうろう》、矢崎|弾《だん》、西条|八十《やそ》、恩地孝四郎、といった人たちから讃辞のハガキが編集兼発行人だった私のところへ何通も舞いこんだ。  同人雑誌といっても、六十ページばかりの薄っぺらなもので、それも正規の雑誌は統合されて発行を許されなかったから、「印刷を以て謄写に代う」と断わり書きをつけた非売品のパンフレットだった。発行部数二百で、うち百部は出版社や先輩作家に寄贈した。そんな雑誌ともいえないような貧弱なものに発表した詩が、これだけの反響を呼んだというだけでも、田中の才能の華麗さは察しられるだろう。  ところで、この第二号は一学期のおわる直前に出したのだが、夏休みに入ってしばらくすると情報局から呼び出しのハガキが来た。たまたま、そのころ私は遊所で学生らしからぬ病気に感染しており、情報局の出頭命令を受けたことが、まるでその非倫理的な病気のせいであるような気がして、はなはだ憂鬱《ゆううつ》であった。いかに検閲のきびしかった当時でも、情報局が身体検査をやることなど有り得なかったが、当時の学生は、遊廓《ゆうかく》は勿論、カフェー、酒場、喫茶店、等々への出入りは一切禁止になっており、学生服を着ていたのでは必要以上の詮議《せんぎ》立てを受けそうにも思えて、私は白ガスリのユカタを着て出掛けた。  そのころの情報局は三宅坂《みやけざか》の陸軍参謀本部跡にあり、私は夏の日盛りの堀端の電車通りを、ひどくササクレ立った心持でのろのろと下駄《げた》の歯をひきずりながら歩いて行ったことを憶えている。まだ衛門を剣付鉄砲の兵隊がかためていた参謀本部のものものしさが残っていた建物に入って行くと、私の前に先客が一人あって、これは本物の雑誌記者らしい中年の婦人が、キツネのような尖《とが》った頬骨《ほおぼね》の顔に脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませて出て来たのと入れ換りに、検閲官の部屋に案内された。……ガランとした二十畳ほどの広さの部屋の真中に、ピンポン台ほどの大きさのテーブルが置いてあり、その上にページをひらいた雑誌の山が、天井に届きそうなほどたくさん積み上げられているのが眼についた。  検閲官は、その奥の別の小さなデスクの前に、腕まくりしたワイシャツ姿で坐っていた——。その人がどんな顔立ちであったかは忘れてしまったが、後年、平野謙氏が情報局につとめておられたことがあるときき、もしかしたらあの人が平野さんであったのかもしれないと、そのことを平野さんに直接うかがってみたが、平野さんは言下に「そんなはずはない」と、時期的な食い違いを指摘して否定された。しかし私はいまだに、あれがもし平野さんであってくれたら面白いのだが、という気持を捨て切れないでいる——。それというのも要するに、情報局検閲官という人が思いの他に話のしやすい人で、学校の塾監局だの教務課だのにいる学生取締りの教師にくらべても、よほど紳士的な扱いをしてくれたような印象があるからだ。  検閲といえば、雑誌の内容が時局に適さぬことを指摘されるものと思い、そのための返答をあれこれといろいろ用意して来たのだが、意外にも内容についての訊問《じんもん》はほとんどなく、訊《き》かれたのはこの雑誌をつくるについて、用紙をどこで手に入れたか、印刷はどこでやったかといった経済警察の訊きそうなことばかりだったのには、かえって拍子ヌケしたほどだった。もっとも検閲官の方でも、丸坊主にユカタを着た、ヒネすぎた子供のような男がやって来たのでは、拍子ヌケがして、文句を言う気にもなれなかったのかもしれない。しばらくたって検閲官は、 「あんたたちは一体どういう人なの?」  と、開いた雑誌のページの上に手を乗せながら訊いた。たまたま、そのページには私の書いた「洋袴祭」という小説がのっていたので、そのテーマやら筋書について訊かれるものかと思いながら、 「学生です」とこたえた。  すると検閲官は、ぽんと指先でページの中ほどを軽く叩《たた》きながら、 「ふーん、学生さんねえ……。学生さんが、こんな幼稚なものを書いていたって仕方がないような気もするんだけど……」  と半分ひとりごとをツブやくように言ってから、 「こういうものは、まア、なるべく今後は出す回数をへらして、一年に一度ぐらいにしてくれませんか」  と言うことで終りだった。  検閲官に不審を持たれたのは、この雑誌が内容の幼稚さに似あわず、用紙も印刷も本格的な立派なものだったからかもしれない。印刷を引受けてくれたのは級友のK君の兄さんのやっている一流の美術印刷会社で、紙もその会社で印刷したときに出る切落しの余りものだが、紙質は上質だった。費用は六十二ページ、二百部で、百円か百十円かだった。  この程度の金額なら、当時の学生でも大した負担ではなく、印刷所に入金する当日、私と小堀、石山、疋田の四人は、渋谷の質屋でそれぞれ身につけたものを一つか二つずつ、カバンだの、時計だの、レインコートだのをあずけただけで間に合った。  寄贈した残りの雑誌は学校へ持って行って、一部一円かで級友たちに押しつけて買わせてしまったので、じつに微々たる費用で雑誌が出せたことになる。ただ、売れた雑誌の代金は、そのまま同人の祝宴費にしてしまったから、あとで質物を受け出すのに少し手間が掛っただけだ。  私は酒はほとんど飲めなかったが、石山と小堀は未成年者であるにもかかわらず、飲み出すと一升ぐらいずつは飲んだ。石山と疋田は、家が日本橋にあって二人は子供のころからの友達だったが、私の眼からみると二人とも一風変った下町育ちらしいところがあり、たとえば疋田が石山の家へ暑中見舞の使いにやってくると、麻の着物に絽《ろ》の夏羽織を重ね、扇子をパチリパチリといわせながら挨拶しているところは、まるで寄席《よせ》の芸人みたいで、とても十八、九の少年とは思えない顔つきだった。  石山はもう少しハイカラだったから、学生服を脱いで、外へ酒をのみに出るときなどには、白麻のセビロにカンカン帽をかぶるのだが、それはなんとなく藪入《やぶい》りのデッチが着飾って故郷へかえる姿を想わせた。  まえに付き合っていた古山、高山、倉田、佐藤たちは、みんな地方から出てきたり、東京に家があっても、親たちは地方から出てきた連中ばかりで、だからこそ私たちは江戸趣味を研究しようなどと、高山や古山ばかりか、東京に自宅のある倉田や私までが、わざわざ浅草や築地《つきじ》に部屋を借りて下宿したりしたのだが、石山や疋田にはこのような好奇心やら情熱やらは、まったく不可解千万なものだったにちがいない。  石山の家へ遊びに行くと、部屋の隅《すみ》に赤い袋を掛けた三味線《しやみせん》が立て掛けてあり、その周囲になまめかしい雰囲気《ふんいき》をただよわせているので、 「あれは一体どういうことだね」  と訊くと、石山はひどく無造作に、 「ああ、あれか……。妹のやつが置き忘れていきやがったんだろう。しようのない奴《やつ》だ、勝手におれの部屋に入るな、と言ってあるのに」とこたえた。  私は一瞬、期待とも羨望《せんぼう》ともつかぬ思いに胸が緊《し》めつけられるようだった。——石山の家は通りに面して、門も玄関もなく、格子戸《こうしど》をひらくと、そこに上りガマチがあるが、その奥の細い桟をうった障子のかげに、髪をモモワレに結った娘さんが、黒繻子《くろじゆす》のかかった襟《えり》もとから白いほっそりした頸《くび》すじをのぞかせて、ものしずかに坐っていたのが、奥まった石山の部屋へ案内されてくる途中で眼についた。それは、まるで絵にかいたような美しさであり、私たちが苦心|惨憺《さんたん》、築地だの浅草橋だのの路地裏に部屋借りまでして、日夜、研究探究をかさねたころには決して見当らなかったものである。——石山が「妹」というのをきいて私は、ただちにあの�江戸情緒�の真ズイみたいな美人を連想したが、それにしては石山の口ぶりは無造作すぎるようであり、自分の友人にあんな美人の妹がいるということ自体、あり得べからざることのようでもあった。  いっときたって部屋の外に女の声がし、襖《ふすま》があいて、さっきの美人が入ってきた。私は眼を上げるのもマブシい気がして、よくも眺められなかったが、そういえば色の白い細面の顔立ちは石山に似ていないでもない。スシだのお茶だのを置いて彼女が出て行こうとすると、石山がいきなり、 「だめじゃないかK子、自分のものぐらい始末して行けよ」  とドナリ声を上げた。彼女は振り向いて顔を赤らめると、すみに片寄せてあった三味線を手に、逃げるように部屋を出た。私は、しばらく唖然《あぜん》とし、兄の権威の偉大さにおどろかされたが、同時に自分自身がドナリつけられでもしたような具合の悪さをおぼえた。  私は、それ以後しばしば石山の家に行き、泊りこんだりもするようになったが、別にこれは彼の妹にひかされたわけではない。あのドナリ声をきいてからは、むしろ私は彼の家族に関心を示すのは遠慮しなければならないと悟った。それに私は江戸趣味にもアキラメをつけなければならなかった。下町の商家の行儀やシツケは、はなはだきびしく、私のお辞儀のしかたは、まるでなってないという評価を石山から受けていたし、石山と二人で清元《きよもと》の師匠のところへ弟子入《でしい》りしようと出掛けて行くと、石山だけが合格して、私の方は落第させられて気を腐らせたりするうちに、だんだん情熱が冷《さ》めてしまったのである。  もう一人の友人、小堀の家は巣鴨《すがも》にあって、彼には美人の妹も江戸情緒もなかったが、ここでも私たちはしばしば会合して、遅くなれば泊って行くのが常例になった。そして彼等もまた私の家へくると、同じことをした。こうして私と小堀と石山は、三人で三軒の家をグルグル泊り歩いて日を送るような状態になった。  どうしてこんなことになったのかは、自分でもわからない。ただ、こんどは自分もこの連中を裏切ったりするようなハメにはなるまいという気はした。まえの仲間は、いつも仲間うちでおたがいに何かを競い合い、争い合って、その刺戟《しげき》でおたがいが結びついていたのだが、こんどの仲間は逆に、おたがいに何でもかでも許し合い、慰め合っていることで結合しているようだった。つまり、それだけ世情は切迫しており、仲間同士で傷つけ合ったりする余裕はなくなっていたのかもしれない。  戦争の三年目、昭和十八年になると、仮に情報局で文句を言われる心配がなくても、私はもう雑誌を出す気にはなれなくなった。第一、原稿用紙をひろげて何かを書くなどということもしなくなったし、無論学校の課業を勉強する気はなおさらなかった。そして、こんなことをしているよりは兵隊へ行った方がマシだ、などと思ったりしたことがユメみたいにおもわれた。……考えてみれば、あのころは、まだ自分に何かしなければならないものがあると思っていた。学校をやめて兵隊へ行こうと考えたのも、学校にそれだけの権威があり、その権威に反抗することが何かしらの意味をもっていたからだ。ところが、いまは学校にはそんな権威はなくなったし、予備学生だの、予科練だのと、学校を中途でやめて兵隊になることを教師の方がすすめたりするようになった。  やがて夏にかかるころから、実際に学業中途で兵役を志願する学生が目立って多くなってきた。私は、駅や街角で、そういう学生を送り出す風景にぶっつかり、大仰な応援歌や太鼓の音をきくたびにイライラさせられた。そして暗い路地裏の下宿を、ひっそりと出て行った高山の後ろ姿を、突然なつかしいもののように憶い出したりした。 「高山も倉田も外地へ行った。高山はシナ、倉田はフィリッピンらしい……。古山も入営はしたんだけれど、これはどこにいるかわからない。出て行くときに『紅ばら』の借金を踏み倒して行ったと、福さんが怒っていたから、きっと誰も知らないんだろう」  街でひょっくり出会った佐藤から、そんな話を聞いたのも、そのころだった。すると、あのころの仲間でシャバに残っているのは、佐藤と私だけになったわけだ。そう聞くと私は、佐藤に対しても或るヤマシサは感じていたのだが、その後一、二度、付き合ううちに気の咎《とが》めることもなくなり、何となく石山や小堀の仲間のなかに佐藤も入ってきた。  秋になった。そして突然、大部分の学生に対して徴集延期の恩典が廃止になったと発表された。私と佐藤は、どうせその年にはもう延期がきかなくなっていたから、これで別段の影響はうけなかったし、石山もまだ未成年だったからすぐにどうこうということはなかった。ただ石山より数カ月年長の小堀は、ちょうどその年適齢に達したばかりで、いきなり徴集をうけることになった。  小堀は身長六尺ちかく、体力も腕力もズバぬけて強く、少々ぶっそうな盛り場の裏通りを歩いても彼と一緒なら、めったなヨタ者に喧嘩《けんか》を吹きかけられる心配はなかった。眼がくぼみ、鼻筋のとおった容貌《ようぼう》は、その体格とあいまって、日本人ばなれがして見えるが、内面はそれと反対に、ひどく古風で純朴なところがある。それは彼の家の習慣でもあろう。外出するときは必ず母親か誰かが、カチンカチンと切り火をたいてくれた。ふだんはともかく小堀を誘って女郎屋へ出掛けようとするときに、そうやって送り出されるのは何だかヘンな心持がするのだが、小堀はいかにも当りまえの顔つきだった。そのはずで、彼は登楼すると、ふとんに入るまえに、きっと部屋の四方に向かってお辞儀するのを忘れなかった。  遊廓《ゆうかく》で客に出すツンツルテンのねまきから、長い手脚を突き出した小堀は、まるで試合まえの拳闘家みたいにウロウロと部屋の中を歩きながら、相方《あいかた》の女郎が仕度《したく》に行くと、その間に彼は畳にキチンと坐り、壁に向かって手を合せながら頭を下げるのである。何を祈っているのか、東西南北、ひとあたり拝むまで、口をきかない。……なぜ、そんなことをするのか、私には無論不可解だったし、滑稽《こつけい》な気がするばかりだった。と同時に、こうした小堀の信仰心には、ふと何か悲劇的なものが感じられるようでもあった。もっとも、それは大男の弱気というものなのかもしれない。小堀でなくとも並はずれた大きな体は、ただそれだけで何となく不運なものを感じさせるということはある。  どっちにしても小堀は、突然兵隊にとられることになったことを、すくなくとも私たちのまえで嘆いてみせたりはしなかった。無論これは小堀にかぎったことではなく、大多数の学生が遅かれ早かれ兵隊にとられるということがハッキリしているだけに、大抵の連中がむしろ陽気な顔つきで、街へ繰り出してノシ歩いたり、学生の立入り禁止の札を堂々と無視したりして、ハシャギ立っていた。要するに、不幸も大勢の人間を一度に襲いかかると、それなりのにぎわいを呈するわけだろう。  しかし小堀は、そういった連中の騒ぎのなかには入っては行かなかった。家へ遊びに行くと、彼は原稿用紙をひろげた机の前で、長い肱《ひじ》をついて、屈託なさそうな顔を私の方へ向けながら言った。 「兵隊へ行くまえに、一つだけ長篇を書き上げることにしたんだ。ずいぶんなまけて何もしなかったからな……」 「ほう、そいつはすごいな」  私たちは、たしかにずいぶん長い間なまけてきたし、小堀の言うことは、そのまま自分にもつうじることだった。 「しかし、そいつは何枚ぐらいになるんだ」  と私は、机の横に積み上げた新しい原稿用紙の包みを見ながら、何の気なしに訊いた。 「そう、千枚か二千枚……」  小堀は、ひどく簡単にこたえて指を折りながら、 「だって一日に三十枚かけば、一と月に九百枚……。あと二た月あるから、二千枚はいけるだろう」  私は、それをきくと不意に薄寒いシラジラしさに襲われた。小堀の計画が到底実現不可能なものだから、というよりそんな架空な数字をかぞえ上げることで、入営まであと二カ月しかない日数を、なんとかして最大限のものに見積りたがっている小堀の心情が、いたいたしい程はっきりとわかったからである。  小堀は十二月一日、東部六部隊に入営した。無論、千枚の小説は予定の十分の一にもみたぬ枚数しか書けなかったが、とにかく入営の前日まで、ほんの少しのヒマでも机に向かって何かしら書き続けようとしていた。記念写真をとるために学生服に日の丸の旗をタスキ掛けの恰好《かつこう》にした小堀が、写真屋がくるまでの間、その服装のままで机に向かっていたのは、いくらか芝居がかったポーズがあったとしても悲痛な感じであった。小堀につづいて私も同じ部隊に入営し、やがて佐藤も石山も、それぞれに召集されて軍務に服した。  私は、満州の部隊へ送られたが、終戦の年の三月、病気で内地に送りかえされ、戦争のおわる一と月まえに現役免除で東京へかえって来た。空襲で家を焼かれ、あちこちをブラブラしているうちに敗戦を迎えたが、しばらくは誰の消息も聞かなかった。十月になって、まず石山と会うことができた。日本橋にあった彼の家は、当然、跡かたなく焼け落ちたものとおもったのに、出掛けてみるとその一画だけが運良く残っており、学生ズボンの上に軍服のシャツをつけた石山は、私の顔をみるなりアメリカ軍のタバコをくれた。 「こういうものを、どこで買うんだ」 「なに、そのへんで、いくらでも売ってるよ。専売局の闇タバコより安いんだ」  石山は、いくつかの意匠のちがったタバコを示しながら言った。私は飢えており、印刷の色あざやかなタバコの袋を見せられると、それだけで眼のクラむ心持がした。それは、ほとんど二年ぶりで再会した友人の印象と同じぐらいの強さで、私の心に訴えた。——石山の口から、小堀が予備士官学校を卒業すると、そのままフィリッピン戦線へ送られたという話をきかされたのは、その時だったのか、もう少しあとになってからのことだったのか、いずれにしても関心は遠くにある友人のことについては薄く、眼前の口腹の欲だけが切実であった。  間もなく佐藤や疋田とも顔が合い、おたがいの無事を認め合うと、軍隊で別れ別れになっていた時間を跳《と》びこえて、もとの仲間がそのままイキナリ戦後につづいているような気になった。そして十二月に入ると、みんなで原稿を持ちよって回覧雑誌をこしらえたりして、つい昨日までの戦争や兵営生活は、どこか別の世界での出来事だったのかと思ったりするほどだった。……本当をいえば、これは記憶が近すぎて、かえって忘れられただけのことなのだが、おたがいに憶い出して語り合うにはナマナマしすぎる経験を豊富に持ちすぎると、こういうことになるのである。  仲間のなかに、小堀の顔だけが欠けているのも、おたがいに忘れてはいなかったが、どこか隣の部屋からでもヒョックリ帰って来そうな気がして、誰もが本気で心配はしなかった。第一、彼の体格と腕力を考えれば、彼が病気したりヘタばったりするとは思えないし、軍隊も戦争も嫌《きら》っていた彼が好んで死地にとびこむようなことは想像もできなかったからだ。それに何よりも、外地からの復員兵の帰還は、まだ始まったばかりで、思い掛けない遠くの島や大陸から、思い掛けない連中が後から後から、引き揚げて来るのをみると、小堀だけが取り残されて帰れないなどとは信じられなかった。  年が変って、いつの間にか復員兵の数がへり、かえって戦犯で抑留された人や、シベリヤで強制労働させられている人たちのことが話題になりはじめるころから、私たちは小堀の安否が気掛りになってきた。しかし戦死の公報が留守宅にも届かないところから、もしや南方の旧植民地で独立軍にでも加わっていはしまいかというロマンチックな想像が、小堀にはかえって一番ふさわしく、それならいつか現地人の女房でもつれて帰って来そうに思われた。  あれは、いつごろだったろう、Kという小堀の中学時代の友人で、いくらか気がヘンになっているといううわさのあった男が、「小堀は自殺した」と奇妙なデマを振りまいているという話がつたわった……。Kとは終戦前に私も何度か会ったことがあり、悪気のない嘘《うそ》やデマカセで人をかつぐくせのあることは知っていたが、小堀が自殺したなどというのは、きっとそのKの嘘言癖《きよげんへき》を逆用して、誰かが流したデマだとしか考えられなかった。ただ、それにしても薄気味悪く、悪趣味なデマだとは思ったが。  一方、私はそのころ、軍隊で治癒《ちゆ》しないままに退院させられた胸膜炎からカリエスをわずらい、家に寝たまま身動きも出来なかったから、小堀のことはデマだとしても、その真偽をたしかめに出歩くわけには行かず、忘れるともなく忘れてしまった。そして、ときどき見舞いに来てくれる石山や佐藤の口からも、もう小堀のことは出なくなり、いつとはなしに彼の生死はともかくとして、もう私たちのところへ帰ってくることはあるまいと思いはじめていた。  小堀より二年もまえに入営した倉田や高山のこととなると、もう私はまったく忘れてしまったといっていいぐらいだった。無論、彼等の消息はあれ以来、全然聞いていないし、その手掛りもなかった。一度だけ、佐藤が戦後、間もなく千葉県かどこかで、「紅ばら」の福さんに偶然出会ったということを聞いた。福さんは三月の空襲で「紅ばら」の店を焼け出されたが、それといっしょに営々と買い溜めて店の三階にストックしてあったコーヒー豆を二トン半、灰にしてしまったということだった。二トン半のコーヒーが焼け焦げるときに、どんなにおいがしたかは聞きもらしたが、入った金を全部はたいてコーヒー豆を買っていた福さんは、これで全財産を失い、いまは紙芝居屋になっているという。 「それでも古山のことを、しきりになつかしがっていたよ、『古山さんには勘定をすっかり倒されちゃって、一時は腹も立ちましたが、いまになってみると、あの人のことが店のお客で一番なつかしいですね』」  古山のことは、私たちも忘れられなかった。太平洋戦争のはじまったことも知らなかった古山は、どんなことも無抵抗に受け入れるかわり、どんな権威にも屈服せず、戦争中の生き方として或る意味で私たちの模範であった。古山の消息も無論、何一つきかないが、ことによると彼こそは南方のどこかで現地の女性と結婚して、子供の三、四人も産ませ、バナナでも食いながらノンキに暮らしていそうな気がした。そういえば小堀が入営前日まで書きつづけていた小説は、浅草の観音さまの下に住む乞食《こじき》の夫婦が主人公で、小堀は自分をその夫婦と息子とに託したらしい様子だったが、あのころの古山の生活はその小説を地で行ったようなところがある。  戦争中、浅草寺《せんそうじ》の境内にどんな乞食がいたのか、私は知らない。あるいは、それは小堀の空想にすぎなかったものかもしれない。しかし、あの時代に、あんな場所で、乞食として勝手気ままに暮らせたとしたら、それは私たちにとっての理想とは言えないまでも、ほとんど唯一の無害無事平穏の生き方だったのではないか。  私がコルセットを着けてなら、どうやら街中も歩けるようになったのは、戦後七年目あたりからだった。そのころ小堀の弟から、石山と私に、家を新築したから一度遊びに来てくれと伝言があった。「兄たちの葬式の模様をとった映画もありますから、それもお目にかけたいと思います」という。  兄たちというのは、小堀とそのすぐ上の長兄のことで、その人がラバウルで戦死したという公報はすでにかなり前にあり、それと一緒に小堀の葬式もすませたというのは、何か根拠になる理由でもあったのだろうか。  たずねて行った小堀の家で私たちは、一瞬どきりとした。小堀がいる、——玄関に出迎えた男をみて私は、それが小堀の弟だと気がつくまでに、しばらくかかった。肩も背筋も両頬の削《そ》げたような輪郭も、それは学生時代の小堀の顔をいくらか柔らかく小柄にしただけで、ほとんどソックリなのである。ただ、眼の光り方はやはり小堀にしては、どこか他人行儀のヨソヨソしさがあって、じっと見ているうちに、それが十三、四歳の子供の顔になり、同時に小堀と別れてからの年月が眼の前に現われるのを感じた。  弟の小堀は、別段私たちをみても戸惑わなかったらしく、いかにも待ちもうけていたように新しい家の客間へ招じ入れた。仏壇が眼についたが、そこに小堀の位牌《いはい》のあるのを見て、思わず視線をそらせた。初年兵になりたてのころの、身につかない軍服を着せられた小堀の顔は、あまりにイタイタしげで正視に耐えられないものがあった。 「映画をやってみましょう」  対座して、間もなく話題をさがすのに気骨の折れる空気を察して、弟の小堀は十六ミリの映写機を運びこんできた。雨戸を閉め、部屋が暗くなると私は、なぜかほっとした。葬式を映画でみせられても、どうということはなかったが、暗い部屋の隅《すみ》にチラチラと光がまたたくのを眺めていると、それだけで何か心のシコリが溶けてくるようだった。遺骨の箱を抱《かか》えた人を先頭に行列が画面の隅から消えて行くと、映画はおわりだった。……私たちは、また手持ち無沙汰《ぶさた》になるのを感じた。すると弟の小堀は、 「もう少し、何か観てみますか。いま、うちにお産の実写と、脳外科の手術の記録映画があるんです」  と、奇妙なフィルムのことを話し出した。つまり彼は私たちを退屈させてはいけないと思ったのであろう。こういう気のつかい方まで小堀にそっくりだ——、そうは思ったものの、お産だの、脳の手術だの、グロテスクなものは見る気が起らない。 「ブルー・フィルムは何かないの?」  私は無遠慮に訊いた。こういうことが何かの話題になれば、と思ったからである。 「ああ、エロ映画ですか、残念だなア……。ないんですよ。何かあればよかったんだがなア。すみません、どうも」  と、小堀の弟は、まるでそれがないことが自分の落度であるかのように、残念がってみせた。 「いや、いいんですよ、別に……。きょうは小堀君の仏壇にお線香を上げに来たんだから」  と、石山がまことに正当なことを言って、仏壇の方へ向きなおった。すると小堀の弟は、ふと想いついたように、 「ご存じでしょうか、兄が死んだときのことを……。兄は戦死じゃなくて、自殺だったんです」 「自殺した……?」 「ええ、結局、自殺だけれど、自分が自殺したんじゃなくて、させられたって言うんです……。この話、まだお聞きになっていませんか」  それは初めてきくことだ、と私たちは声をそろえた。そして、ではKの言ったことは、やっぱり本当だったのか、と思った。 「兄は予備士官学校を出て、見習士官に任官すると、すぐにフィリッピンへ行きました。そこでまた見習士官の教育をうける予定だったのですが、前線で将校が足りないというので、兄ともう一人のMという見習士官が、ルソン島の奥にある部隊の小隊長を命じられて、二人だけで直ちにそこへ赴任することになりました。海岸から山奥の陣地までは、何百キロか離れているのにロクな乗物もなく、ほとんど徒歩でけわしい山道を三日か四日かかって行ったそうです。毎日ひどい雨で、全身ずぶ濡《ぬ》れになりながら、泥んこの山道を歩くのは大変なことで、Mさんは兄に助けられながら、ようやく陣地へたどりつけた、一人ではとても行けなかったかもしれない、と言っていました……。これは、そのMさんが二年ばかりまえに、うちへたずねて来られたとき、話してくれたことなのです。 「陣地へ着くまでは元気だった兄は、大隊本部で着任の申告をすませ、本部からまた奥の方へ入った峡谷の斜面に二台の重機関銃を据えた重機小隊があって、兄はそこへ隊長として出掛けたところ、着くと同時に高熱を発して倒れました。海岸から山を登ってくる途中でマラリヤにやられていたのです。なにしろ大変な高熱にうなされて、大隊本部まで戻るに戻れず、重機関銃座のある斜面の横穴に担《かつ》ぎこまれたまま動くことも出来なくなりました。雨の吹きこむ穴の中は泥水だらけで、兄はその中に寝かされていたのですが、兵隊もどうすることも出来なかったそうです。到底、小隊長としての指揮はとれないので、Yという先任|軍曹《ぐんそう》が代理の隊長になりました。 「このY軍曹は商大出の頭のいい人で、人間もじつに好かったそうです。しかし古い兵隊のなかには、やはり幹候上りのY軍曹を馬鹿にする連中もいくらかはいたのでしょう。陣地は尾根づたいに上ってくる谷間の両側に一台ずつ重機を据えて、下からやってくる敵方を挾《はさ》み撃ちにする態勢をととのえました。その次の日かに、『敵が来る』という報告がありました。 「ところが現われた敵軍は予想をはるかに上廻る人数で、おまけに敵の放った擲弾筒《てきだんとう》か何かの最初の一発が、偶然みたいに片方の重機にモロに当って炸裂《さくれつ》しました。こうなると使える兵器は重機一台で、とても優勢な敵にはかないっこありません。Y軍曹は機敏な処置で小隊に退却を命じて、犠牲を最小限にくいとめました。穴の中に寝こんだきりの兄も、戦闘の間ずっと熱にうなされながら、無事に助かりました。……しかし、これが大隊長の耳に入ると兄は戦闘中、穴にもぐって寝ており、部下が勝手に陣地を棄てて退却したのも知らずにいたということになりました。 「その場の状況は誰も見ていないし、弁解も許されません。Y軍曹は自分が指揮をとって退却させたと報告しました。すると大隊長は命令にそむいたという理由で、まずY軍曹を銃殺にし、兄は部下にそのような勝手なことをさせた責任をとって自決せよということになりました。  軍曹の銃殺刑がおわると、大隊本部の建物の前の荒ムシロの上に坐らされました。本来は切腹すべきだが、病気中だからということでピストルの使用を許されたのですが、兄は銃口をコメカミに当てて引き金をひいたとたんに、マラリヤの熱のせいか手許《てもと》がふるえて、弾は額をかすれただけにおわりました。 「『卑怯者《ひきようもの》、まだこのうえに未練たらしい振舞いをするか』と、兄は大隊長に叱《しか》られ、銃口を口の中につっこまされて引き金をひきました。……これは『見せしめ』に全隊員と一緒に一部始終を見させられていたM見習士官の話です。Mさんは、その話をするためにわざわざ田舎《いなか》から出てきて、家をたずねてくれたのです。兄が自決させられて五日目に、終戦になったそうです」  私は、その晩、家へかえってからも、しばらくは寝つけなかった。誰に怒り、誰に同情するといったことより、小堀の弟の話をきいている途中から、私は体の中が熱くなり、何も考えられないほど頭が重くなってきて、小堀の家を出てからも、石山と二人、口をきくのも面倒なほど疲れはてて、そのまま別れた。そのくせ家で寝床に入っても一向に寝つけないのである。  いったい小堀のような男が、なぜそんな目に合わなければならなかったのか、これはいくら考えたってわかることではない。小堀でなくても、誰でもが、こんなときにはこんな目に合うことになるだろう。これは要するに小堀が不運だったというだけのことなのだろうか。しかし単なる偶然の不幸、たとえば道を歩いていて自動車にハネられるのと同じであるとも思えない。私は、その大隊長が無事に復員したと聞き、その男を小堀と同じ目に合わせてやったらとも思ったが、やはりそれを実行する気にもなれなかった。いまになって、敵討《かたきう》ちのつもりで、そんな男を一人だけ殺してみたって仕方がないと思うからだ。それに考えてみれば私自身、たとえばその大隊長のようなことはやらなかったにしろ、他の点で何かこれに似たようなことをやっていなかったとは言えない。  それから一と月ばかりもたってからだろうか、ある朝、私が寝ている枕《まくら》もとに、母が昂奮した面持でやってきて、一通のハガキを差し出した。どこかで見覚えのある字は古山のものだった。 「『三田文学』に君が小説を書いているのを知り、編集部で住所をおしえてもらったので、このハガキを出してみる。  あれから十年、高山も死んだ。倉田も死んだ。僕は仏印で戦後しばらく戦犯に指名されてカンゴク生活を送らされたが、どうやら死刑にもならずに、日本へ帰ってきた。昔は昔のこととして、よかったら一度会って話がしたい」 「どうする?」  と、はたから母親が私の顔を覗きこんで訊いた。彼女は私が青少年のころ、マトモな道をふみはずしてロクでもない所業におよんだのは、悪い友人の感化をうけたせいであると信じており、なかでも古山の影響がもっともいちじるしかったと、いまだに信じていた。そして息子が三十半ば近くになっても、その恐るべき悪友の誘いに応じて、またダラクさせられはしないかと気をもんでいるのである。 「どうするも、こうするも、ないじゃないか」  私は不機嫌《ふきげん》に母親をドナリつけ、「こちらも一度ぜひ会いたい」とハガキに書いて古山に送った。……それから一週間ばかりたって、古山は本当にやって来た。背の低い彼が鳥打ち帽をかぶっているのを見たとき、やはりずいぶん年とったな、と思った。しかし、 「やア」  と、帽子をとった古山が屈託のない笑い顔を見せた瞬間、これはまったくもとどおりだと思った。そして、ふと——これで、どうやらおれの�戦後�はおわったらしい、と考えた。  あとがき    ——歳月について——  早いものだ。私が、雑誌『小説新潮』にこの『良友・悪友』を連載していたのは、もう七、八年も前のことだ。七、八年間といえば、シナ事変がはじまってから太平洋戦争が終るまでに匹敵する長さである。二十代の頃の私には、それは自分の半生かと思うほどの長さであった。しかし、いまの私には、七年前のことも、つい昨年か一昨年のことのように思われるのである。  三浦朱門、石浜|恒夫《つねお》、柴田錬三郎、遠藤周作、吉行淳之介、近藤啓太郎、庄野潤三、邱永漢《きゆうえいかん》、梅崎|春生《はるお》、小島信夫、開高健、古山|高麗雄《こまお》、石山皓一……。この交友録に登場してもらった先輩、友人のなかに、梅崎春生氏を除いて、さいわいにも物故した人はひとりもなく、皆、元気である。しかし、これらの名前を一人一人、振りかえって現在と想《おも》い較《くら》べると、やはりそこに七、八年間のへだたりがあることを、いやでも納得せざるをえない。  はやい話が「練馬大王 梅崎春生の死」のなかで私は、吉行淳之介と二人で初めて老眼鏡をつくったことを述べたが、そのときつくった老眼鏡はとっくの昔に役に立たなくなり、いまは三代目のやつを使っている。もっとも吉行は私よりも四年ばかり年下のせいもあって、最初の老眼鏡は私と附き合いでつくっただけで、実際にはほとんど使用しないうちに何処《どこ》かへ失《な》くなしてしまったらしい。しかし、その吉行もつい二年ほど前から本格的に用いはじめた老眼鏡が、最近にいたって急激に度がすすんで、役に立たなくなったということだ。……そういえば私が二代目の老眼鏡をつくりに行った日に、奥野信太郎先生が亡《な》くなられた。奥野先生には、『良友・悪友』に登場していただくことは、不逞《ふてい》の弟子《でし》である私にも、さすがに何となくはばかられたか、単に母校の先生とか『三田文学』の先輩であるとかいう以上に、一種の「悪友」的な親近感をもって接しられる方だっただけに、その突然の死は、私に言いようのない空白感をおぼえさせた。 「おれたちも、やがてはみんな死ぬ。誰が一番まっさきに死ぬかということより、おれはひとり欠け、ふたり欠けして、とうとう最後に仲間のなかで、二人だけ生き残ったときのことを考えていたんだよ……」  梅崎さんの病床を見舞いに行ったかえり途《みち》、遠藤は私にこんなことを言った。そうだ、その梅崎さんのお通夜《つや》の晩には、丸岡明氏や三島由紀夫氏、椎名麟三《しいなりんぞう》氏なども見えられた。椎名さんは先年おこなわれた梅崎さんの七回忌のときにも、片手で心臓を押さえながら、まだ元気にウイスキーを飲んでおられたし、同じ席にたしか池島信平氏も姿を見せておられた。  どうも話がシメっぽくなってきた。失われた歳月のことなど、持ち出すべきではなかったのかも知れない。しかし、先輩知友を語ろうとすれば、いきおい歳月のことは欠かせないのである。われわれはすべて、奇縁、逆縁、その他、もろもろの相縁機縁によって結ばれ、また離れても行くのであるが、われわれの交友は結局、年月によって磨《みが》きをかけられ、その間に摩耗すべきものは摩耗し、抜け落ちるべきものは落ちて行く。われわれの前から失われ、立ち去って行く友人を語っても、必ずしもそれは悲しむべきことではない。  それどころか歳月とともに変化するなかには、よろこぶべきことだってあるのだ。たとえば七年前、私がこの文章を書いていた頃には、古山高麗雄は、回覧雑誌を一緒にやった「昔の仲間」であったのだが、それから七年たったいま、古山は二十数年の長い休止期間を置いて再び噴火した火山のごとく、猛然と小説を書き出すや否や芥川《あくたがわ》賞をとり、つぎつぎに長年あたためられた素材を作品にしはじめた。「人生は四十二から」というのは、戦前の流行語であるが、古山の場合はそれを十年近くも上廻ってから、別の「人生」をスタートしたともいえるわけだ。古山に限らず、われわれは、まだ若いのである。この先き何が起るか、わかったものではない。   昭和四十八年八月                    安岡章太郎 昭和四十一年四月新潮社より刊行 昭和四十八年九月新潮文庫版が刊行