安岡章太郎 夕陽の河岸  伯父の墓地  虫の声  朝の散歩  犬  春のホタル  夕陽《ゆうひ》の河岸  小品集  あとがき  伯父の墓地  この頃《ごろ》アメリカでは、何かと日本がヤリ玉に上げられることが多くて、まるで真珠湾だと言う人もいる。先日も或《あ》るアメリカの雑誌で「戦後日本では政府の指令で土葬が禁じられて火葬に換えられたが、かかる個人の重大事が一片の法律や命令で画一的に強制されるのは、われわれには考えられぬことだ」と日本人の異質さを強調していた由《よし》、わざわざこちらの新聞が取り上げていた。  たしかに、欧米では死体を焼くことは宗教上、大変な問題らしいから、もしアメリカで政府が火葬を強制したりしたら恐ろしい騒ぎになるだろう。あれは朝鮮戦争の頃、アメリカ軍のどこかの基地では、戦線から送られてくる戦死者の遺体を処置して納棺する作業がおこなわれており、それをやるアルバイト学生の日当が何千円だとかいう話をきいた。当時失業中だった私は、そんなクチがあれば自分もやってみたい気もしたが、それと同時に、一人一人の戦死者がそんなに丁寧に葬《ほうむ》られているということに、羨望《せんぼう》ともつかぬ驚きを禁じ得なかった。日本軍の場合、戦死者は遺骨になって家族のもとに還《かえ》されてきても、じつはそれはタダの石ころであったり、土くれが一と掴《つか》み入っているだけだったりしたという。もっとも、これは日本が敗戦国だったということもあるだろうが。  それにしても、仏教では死体を焼いて徹底的にこれを消滅させようとするのに、欧米では復活をはかって遺体をなるだけ元の姿のままに残そうとする、これは私には不思議である。勿論《もちろん》、私だって死を怖《おそ》れているし、復活をねがう心持もある。しかし昔、モスコーを旅行したときクレムリン宮の前に長い行列が出来ていて、ぞろぞろと後に並んでついていったら、レーニンの遺体が黒いだぶだぶの服をきせられてガラス箱の中で眠っていたのには驚いた。——いったい何のために、こんなことをするのか、私にはよく分らない。いずれにしても、それはイデオロギーや宗教上の対立なんかよりも、遥《はる》かに深いところから来ているものに違いない。  ところで、日本で戦後——おそらく昭和二十三、四年の頃から——土葬が禁じられたというのは、アメリカの雑誌の言うとおりらしい。但《ただし》、それは一片の法律で土葬から火葬に切り換えられたということではない。  何でも、日本で火葬がはじまったのは六、七世紀、仏教伝来と殆《ほとん》ど同じ頃で、当初は貴族や僧侶《そうりよ》たちの間だけでおこなわれていたが、平安時代になると庶民の間にもひろまった。とくに疫病《えきびよう》や飢餓のときには、河原や荒れ地に遺棄された死体を集めて、念仏僧がそれに火を掛けて成仏《じようぶつ》させたりしたことから、火葬は都会から農山村にまで浸透して行ったようだ。しかるに徳川時代に入ると、儒教の影響で将軍や大名たちは土葬でとむらわれるようになり、藩によっては百姓町人まで火葬を禁じるところもあった。そして明治維新後、政府は太政官《だじようかん》布告によって火葬をいったん禁止したが、翌々年にはまたこの布告を撤回した、という。  そんなわけで、わがくにでは何度も為政者の意向や命令で、土葬や火葬が禁じられたり勧められたりしている。しかし、これは千年以上もの歴史を溯《さかのぼ》った上のはなしで、敗戦直後の頃の何年間かをみて、民族性だの何だのと論じられてはかなわない。それに火葬といったって、その形式や方法は千差万別で、いまの都会地の近代的な施設でおこなわれているような、まるで機関車の発車を駅のホームで見送っているような、そんなものばかりとは限らない。   影法《カゲボウ》のあかつきさむく火を焼《たい》て 芭蕉  これは貞享《じようきよう》元年(一六八四)、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出た帰途名古屋で土地の俳人たちと歌仙《かせん》『冬の日』をまいた、そのなかの一句である。この句が、あけがたの火葬場の光景をよんだものであることは、   消えぬ卒塔婆《そとば》にすごすごと泣く 荷兮《かけい》  という前の句に照らし合せてみれば明らかである。幸田露伴は『評釈「冬の日」』の中で、この芭蕉の≪影法のあかつきさむく≫の句について、次のように述べている。  影法は今の語の影法師なり、略語にはあらず。すべて何々坊といふは人に擬して言ふ辞なり、しわきをしわん坊、けちなるをけちん坊、(中略)貞享|元禄《げんろく》の頃は、影法とも云《い》ひ影法師とも云ひしなり、今を以《もつ》て古《いにしへ》を疑ふ勿《なか》れ。一句は喪屋に籠《こも》れる人の悲嘆に身も細る暁の、衣手寒く胸凍る夜明のおもむきをあらはして、上無くすさまじう哀れなるさまを能《よ》く云ひ得たり。……  なるほど、そのようなものでもあろう。ただ私は、≪身も細る暁の、衣手寒く胸凍る≫という露伴の評語に讃同《さんどう》しながら、一方で≪あかつきさむく火を焼《たい》て≫というあたりに、チョロチョロと燃える火に吸いよせられて行くような仄《ほの》あたたかいものを覚えるのである。  ところで、言い遅れたが、私がこの句を知ったのは、坂口謹一郎氏の随想集『愛酒楽酔』のなかにこれについて述べた文章があったからだ。なかでも注目させられたのは、露伴がこの句の評釈で、≪影法は今の語の影法師なり≫と断定していることに、坂口氏が真っ向から反対して、≪私はこれは、籠り人の影のことではなく火葬の火を焚《た》く人の姿なのではないか、と解したい≫と主張していることだ。  無論、私には、この解釈のどちらが正しいかを判断できるほどの知識はない。ただ、≪影法≫を単なる人の影というより、火葬の火を焚く人と考えた方が、ドラマチックな想像がわき、句として面白いことはたしかである。火葬の火を焚くのは、これを専業とする人のやる場合もあれば、近隣などの人が寄り合っておこなう場合もあって、ひとくちには言えないが、従来とかくそこに差別意識の持ち込まれることが多かった。露伴の解釈も、或いはそれを警戒してのことかもしれない。この項の末尾を、≪詩は解すべからず、味はふ可《べ》し味はふべし≫と繰り返し強調して結んでいることからも、そんな気がする。その点、坂口氏は、もっと直截《ちよくせつ》に自身の経験から、この≪影法≫を火を焚く人と見做《みな》している。  坂口氏は≪私の家は新潟県の没落地主である≫としるしておられるが、旧《ふる》い土地の名家であろう、そこには坂口家名儀の専用の焼場がいまもなお在るよし。農村の旧家は、しばしば小高い台地に石垣《いしがき》などをめぐらせて、周囲の田地を遥かまで見晴るかす位置に立っている。坂口家の焼場は、そんな広びろとした田ンぼの中で、約二十坪ほどの土壇の上に設けられているという。それなら坂口家の屋敷とは、かなり隔ったところにあるにしても、焼場の様子は座敷の縁先きからでも望見することが可能なはずである。坂口氏は、戦時下、たまたま生家に疎開《そかい》中、家族の一人が亡《な》くなった。そのときの葬式や荼毘《だび》の模様がスケッチ風に書き遺《のこ》されているのだが、簡単ながら現在の都会では全く見られなくなった風習が活写されていて、一種言いがたい雅趣がある。  まず葬式だが、これは村の人たちが坂口家に集って、夕方から家の中でおこなわれる。坊さんの供養《くよう》がすむ頃には、とうに田は暮れきって夜である。大勢の村人たちに担《かつ》ぎ上げられた棺が、静かに門を出て、畦道《あぜみち》を固めるようにふんばりながら、焼場に向かう。めいめいに提灯《ちようちん》を手にした会葬の人たちが、列をつくってその後を追う。もし畦道に沿って小川がながれていれば、その水は一列につらなった提灯の明りをうつしたことであろう。焼場では、すでに青竹を四方に立てて、縄《なわ》を張りめぐらせてあり、その中に稲藁《いねわら》や割り木がうずたかく積み上げられて、用意万端ととのっている。担ぎ入れられた棺が、その稲藁や割り木の山の上に置かれると、会衆の一人一人が火をかけて、仏を拝んでは帰って行く。燃え上った炎は、いったんは赤あかと夜空を照らし出すであろう。しかし会葬者がひとりふたりと立ち去るうちに、火勢はひとりでに衰えてくる。最後に二人ばかりの人数が居残って、交代で焚き木をつぎたしながら、ひと晩中、火を消さぬ番をつとめるのである。  坂口氏は、芭蕉の句の≪影法≫はこの焼場で徹宵《てつしよう》、火をまもる人たちを指すものだとして、この一文を次のような言葉でしめくくっている。  家から見ていると初秋とはいえ、冷えまさる朝寒の暁近く、細々とした火がくべられているのが遠く田圃《たんぼ》の中に見える。夜が明けると家人が田の畔《くろ》の朝露を踏んでお骨上げに出かけるのである。  私は『冬の日』の句を詠《よ》んだとたん、「アーあの景色のことだな」と直観してしまったのである。私もあのような野辺の送りをしてもらいたいものだなと齢九十歳の病身の今は、目に残っている景色である。  さきに私は、芭蕉の『冬の日』に仄かなあたたかみを覚える旨《むね》を述べたが、それは芭蕉の句自体よりも右の坂口氏の文章からの影響かと思う。あれを読むと、火葬というものが単なる葬法の一種ではなく、私たち日本人のたましいに深く沁《し》み込み、固有の美意識ないしは人生観を形成していることを想《おも》わずにはいられない。——我やさき、人やさき、今日ともしらず、明日ともしらず、そんな文句とともに、私の眼《め》の中にひとりでに霜枯れた朝の田ンぼの景色がひろがり、その向うに人の影らしい黒いものが覗《のぞ》いて、傍《そば》から細い煙がひとすじ空に上って行くのが見えてくるのである。  いや私は、≪新潟県の没落地主≫といわれる坂口家がどんなお宅か見たこともなく、話に伺ったこともない。じつをいえば私は、坂口氏の文章から、高知県山北村にある父の生家と周辺の風景を勝手に想像しているに過ぎないのだ。勿論、越後《えちご》と土佐とでは、風土も気候も甚《はなは》だかけはなれているし、坂口家とちがって父の家には専用の焼場なんかもない。ただ、≪没落地主≫といえば父の家もそんなものだし、父の家名儀というわけではないが、切り通し一つ隔てた栗の木ばやしの奥に、同族の者の墓ばかりあつめた墓地がある。  この墓地自体は、父の家から見通せるわけではないが、その手前の栗の木ばやしは、屋敷からでも居ながらに田畑を隔てて視野の中に収めることができる。そんなことから私は、坂口氏の≪家から見ていると初秋とはいえ、冷えまさる朝寒の暁近く、細々とした火がくべられているのが遠く田圃の中に見える≫といった描写を読むと、つい父の家の表座敷から南側にひらけた田ンぼの彼方《かなた》を眺《なが》めているような心持になっているのだ。座敷や家の構えだけではない、田の畦道や畔にしげった下草の様子までが、父の家の近くにあるものとそっくりであるような気に、知らず識《し》らずになっている。  たしかに、越後と土佐は、北と南の正反対の方角にはなれているといっても、狭い日本のことだから、そんなに喰《く》い違っているはずもなく、夜の暗さも、軒先きから射《さ》しこむ日の光も、田の面《も》をわたる風の涼しさも、それぞれ似たようなものだろう。しかし、そういいながら私は、ふと不安にもなってくる。子供の頃から私は、軍人だった父親に連れられて、その任地先きを転々としながら育ってきた。したがって、父の生家や母の実家のある高知県に帰省するのも何年に一ぺんといった割合で、土佐の風土や歴史地理などについても殆ど知らず、たまたま知っていることでも、結局それは極く抽象的な知識にすぎない。そんな具合だから、自分が坂口氏の文章を、父の生家やまわりの風景に当て嵌《は》めて読んでいるといっても、少し詳しく見直せば、ずいぶん好《い》い加減なところや、辻褄《つじつま》の合わないところがあるにちがいない。  はやい話が先刻私は、父の家には自家専用の焼場なんかはないと言ったが、自家専用どころか、父の村には公共の焼場もあるかどうか。もしそういうものが現在あるにしても、それは比較的近年になってつくられたものかと思われる。少くとも、あの栗の林の奥の墓地に眠っている同族の人たちは皆、土葬であって、火葬の習慣はなかったように聞いている。  若い頃には、そんなことは考えてもみなかったが、五十代に入った頃から私は、この同族の人たちの眠る墓地に、或る親しみを覚えるようになった。  いま栗の木が植わっているところは、藩政期、この家が郷士であった頃には馬場であって、一族の男は皆、ここで馬乗りの稽古《けいこ》をしたという。その馬場に隣接して墓地があるのは奇妙だが、要するにそのあたりは田畑になりにくい荒地だったのであろう。栗林の傍の小径《こみち》から四、五段、雑草を掻《か》き分けるようにして土の段々を上ると、そこに雑木林と竹藪《たけやぶ》に囲まれた墓地がある。子供の頃、祖母などに連れられて来たときには結構、広びろとしているように思ったが、いま見るとせいぜい四、五十坪もあるだろうか。しかし、こぼれ日の射すその平地に新旧とりまぜて、恰好《かつこう》も大きさもまちまちの墓石が四十基ばかり、何列か不揃《ふぞろ》いな列になって並んでいるのを眺めると、ふと私は言いようのない安堵《あんど》の念を覚えるのだ。  この安らぎは何だろう。最前列の真中に、榊《さかき》の植込みを背にして、大きな、といっても人の胸の高さほどの自然石が立っており、それが三百年ばかりまえに東の方からやってきて、この場所に移り住んだ最初の人の墓である。そして、その両側や後に何列にもなって、子々孫々の墓がデコボコになったり、ゆがんだりしながら立っている。長生きしたり、家を大きくしたりした人たちの墓は大きく、子供や赤ん坊のときに死んだものの墓は小さく、その不揃いな様子が、不断着をきた人のようで自然な表情が感じられ、見ているうちに幽冥界《ゆうめいかい》の人たちが白昼、ここに静かに息づいているような、そんな穏やかな気分になってくる。  それはまた私に、子供の頃、この山北村の家で大勢のいとこたちと夕食の膳《ぜん》を囲んだときの賑《にぎや》かさを憶《おも》い出させるものでもある。前にも述べたように、私が山北村の家を訪ねるのは、父の転任の旅の途中に立ち寄るぐらいで、平素は全くのご無沙汰《ぶさた》である。しかし不思議なもので、何年ぶりかで顔を合せても、ここの家の子供たちとは私は、すぐに気心が溶け合うのを感じた。一つには、この家の主人である伯父は父の兄であり、伯母は母の姉というわけで、普通の親戚《しんせき》同士よりはずっと血の濃い間柄《あいだがら》だからでもあろう。それに、この家の子供たちは九人兄妹で、一人っ子の私にとっては、かえって取りつきやすくもあった。つまり、二人か三人の兄妹が相手だと結束が固くて、突然出掛けて行くと当方はしばらく孤立させられる惧《おそ》れもあるが、九人兄妹の大家族ともなると、そんなことは心配しなくてもいい。なかに一人や二人は話のわかる子がいて、たとい言葉が分らなかったりして戸惑わされる場合があっても、それで置いてきぼりにされることはない、誰か必ず助けてくれる……。いや、別段そんな打算を働かせるまでもない。ふだん一人っきりの私は、山北の家で大勢の子供に囲まれると、その熱気で昂奮《こうふん》させられてしまう。  昂奮しているのは、向うの子供たちも同じだったろう。そうでなくとも毎年、お歳暮の季節になると母は、山北の子供たちに何を贈るかで悩んだ。「何しろ九人だからね。上は中学上級生から下は赤ん坊まで、一人一人に何をやったらいいか、思案の仕様がないよ……」しかし苦労もするが、山北の子供たちに物を贈ると喜ばれることはたしかだった。まして、私たち親子三人が帰省するのは時たまのことだから、向うは待ち構えている。到着早々、まだ母が土産物の包みもひらかないうちから、はしゃぐ子供たちの中には、歌いながら跳びまわるのもいる。   途中のたのし   みやげのし   もやげに貰《もろ》うた玉手箱   ……  それは本当は、   帰る途中の   たのしみは   みやげに貰《もら》った玉手箱  という『浦島太郎』の歌なので、私が正しい歌詞を何べんも教えるのだが、相手は熱狂していて、こちらの言うことなど聞き入れない。めんど臭くなって、このワケのわからない歌を私も一緒になってでたらめに歌うことになる。  しかし、本当のところ私は、この山北の家で何がおもしろかったのか、あとになって考えてみても、よくわからない。従姉《いとこ》が田ンぼでレンゲの花をたくさん摘んできて、それで大きな花輪をつくってくれたことや、また門前に寝そべった恰好で生えている松の老木に皆で上って遊んだこと、それに倉の中から誰かが鎧《よろい》や兜《かぶと》を持ち出して、子供たちが代るがわる手を延ばして触っているうちに、年嵩《としかさ》の従兄《いとこ》が兜をかぶって重さによろけながら、「どうじゃ、猪首《いくび》に似合う兜姿よ」と威張って見せるがおかしくて笑ったことなど、そんなことが断片的に憶い出されるのだが、一つ一つを考えると、とり立ててどう面白かったというほどのことでもない。ただ、全体として田舎の古い家の暮らしは、何でもないようなことでも、ふだん自分の家で見たり聞いたりしていることと違って、ふと誘い込まれるような不思議な魅力がどこかにあった。  もっとも、善いことの裏側には、必ず余り有り難くもないようなことがある。古い部分は、建ててから三百年以上もたっているというこの家の暮らしは、住んでいる人にとっては何かと不便で、厄介《やつかい》なところが多かったであろう。とくに母の姉である伯母は、実家は高知市内にあるが、子供の頃《ころ》に祖父の務めの関係で東京や大阪の街中で育ってきて、田舎の生活は知らないのである。それが山北村の古い家に嫁にきて、朝から晩まで「後室さま」と称する姑《しゆうとめ》の下で、大勢の小作人や九人もの子供の面倒をみて暮らすのは、並大抵の苦労ではなかったろう。  おまけに伯母の夫——つまり私の父の長兄だが——は、気難しいことで親戚中で有名だった。といっても伯父がどういう風に気難しかったのか、これは私などには余り分らないことだ。どうやら伯父は内面《うちづら》の悪い性だったらしく、外の子供である私には本当に怖《おそ》ろしいところは見せなかったからだ。私の知っている伯父は、天井から梁《はり》まで何百年もの煤《すす》で真っ黒になった居間の、分銅つきの柱時計の下で、黙って俯向《うつむ》いて土地|台帖《だいちよう》か何か分厚い和紙の綴《つづ》り込みを読んでいる。そして、ほんの時たま、家じゅうに響く割れ鐘のような声で、「おい」とか「ほーおい」とか呼ぶ。すると伯母をはじめ子供たちまでが、はッと顔を上げて、おたがいに眼を見合わせるのだが、傍眼《はため》にもそれは電流が一瞬とおり抜けて行くような感じだった。但《ただし》、その電流は私には何か絶縁体があって、あまりビリビリとは伝ってこなかったけれども。  ただ、これはずっと後になってだが、私も一度だけ、ちょっとしたことで伯父の頑固《がんこ》さに接して閉口させられたことがある。あれは昭和十八年秋、戦況がきびしくなって文科系の学生は徴兵|猶予《ゆうよ》の恩典が取り消しになるとか言われ出した頃だ。私は学徒出陣に引っかかるまでもなく、入営の日が近づいてきたので、親戚に挨拶《あいさつ》にまわるという名目で一人で土佐へ遊びに行った。  その頃になると、山北村の伯父のところでも、あれほど大勢いたいとこたちは皆、他府県の企業に就職したり、嫁に行ったり、軍隊にとられたり、士官学校に入ったりして、家には一人も残っていなかった。伯父と伯母の二人きりになったこの家の中で、私は初めて所在ない想《おも》いをしたが、夕方になると伯父は私を近くの手結《てい》の浜というところへ、蝦《えび》料理を食いにつれて行ってくれた。そこは入江の漁村だが、伯父の案内してくれた料理屋は、座敷が海に突き出したようになっていて、夕陽《ゆうひ》が沈んで潮が満ちてくると、床の下で波の音がする。そんなところで、いきのいい伊勢蝦のつくりや鬼殻《おにがら》焼きや、もう都会では絶対にありつけない、そんなものが次から次に出てくるのは、見た眼にも愉《たの》しく、味もうまかったが、そのうち突然、伯父は酩酊《めいてい》しはじめた。これは年のせいだろうか、以前は相当酒の強かったはずの伯父が、銚子《ちようし》を三本もあけた頃、急に呂律《ろれつ》が怪しくなってきたかと思ううちに、たちまち腰が抜けたように立てなくなった。  さいわい、それは伯父の行きつけの家であったし、旅館も兼ねて寐泊《ねとま》りが出来る。女中が、「お床をとりましょうか」と言ってきたので、私はそうしてくれるように頼んだ。すると、そのときまで全身を膳の下にうずくまらせていた伯父が、不意に頭をもたげて、 「帰る」  と言い出した。冗談ではない、と私は思った。帰るといったって、自動車のよべる時代ではない。来るときは伯父と私は、自転車を二台つらねてきたのだが、山北村からここまで一時間半ばかりもかかったであろう。そんな道のりを、伯父を自転車の荷台につんで帰る気力も体力も私にはない。いや仮りに体力気力があったとしても、ここから山北の家へどうやって帰るか、私には途《みち》がわからないのである。しかし、いくらそんなことを私が言っても、伯父は頑として、ただ「帰る」としか言わないのだ。それならせめて、もう少し酔いがさめるまで、この家で休ませて貰おうと思うのだが、伯父はすでに意地になったように、よろよろと立ち上り、女中に抱きかかえられるようにして玄関で靴《くつ》をはきおわると、自転車を持ってこさせた。私は殆《ほとん》ど絶望して、心の中でつぶやいた。——自転車にでも何でも乗るがいい、乗ればすぐに転ぶだろう、転んで怪我《けが》をしたら、この家に戻って寝かせてもらえばいい。  しかし、私のもくろみは外れた。ろくに歩けもしなかった伯父が、意外にも自転車には乗れるのである。むしろ私よりもウマいぐらいに、伯父は私の前をすいすいと走って行く。だが、それは海辺の道を通っているときのことで、いったん山路にかかると、伯父の自転車は大きく揺れてしばしば倒れそうになる。もし倒れたら、どうやって助けを呼ぼう。いや、山路を通っているときは、まだよかった。自転車が倒れそうになると足を地につけて休めばいい。本当にゾッとしたのは、途が田ンぼの畦道《あぜみち》にかかってからだ。なまじ道が平坦《へいたん》なだけに速度が出る。そのくせ伯父の自転車は左右に揺れ、そのたびにランプが大きく動いて、稲の葉や穂の波が浮かび上ったかと思うと、たちまち反対側の小川の溝《みぞ》に吸い込まれそうになる。そして、そのランプの光りの届かないところは、すべて漆黒の闇《やみ》である。ハンドルを少しでも切りそこなえば、自転車ごと水田の中に転落するだろう。おまけにランプは伯父の自転車にしか着いておらず、私のは無灯火だから私は伯父のあとをピッタリついて走るほかない……。私は、なろうことならこのまま伯父を置き去りに逃げ出したかった。しかし、手結の浜から二時間近くも走ってきたいまでは、逃げ出そうにも私は文字通り五里霧中なのだ。  そのとき私は、いったいどのようにして山北村の家まで帰りつくことが出来たか、まったく覚えがない。帰り着いた時刻も夜中の十二時過ぎであったようにも思うし、意外に早く、十一時前だったようでもある。どっちにしても私は、そのとき初めて伯父の中に或《あ》る執念のようなものを見た。たしかに伯父は、めったなことでは家を明けることのない人であった。しかし、それは祖母や伯母に対する遠慮などのせいではない。もっと本能的な、いわば土に対する執念のようなものから、家を明けて他で寝泊りする気にはなれなかったようだ。  一体いつ頃から、そんな風になったものか? 若い頃の伯父は、決して自分の家に貼《は》りついていたわけでもなく、高知の中学校を卒業したあと、三高、五高、などあちこちの旧制高校の受験を失敗したあげく、岩手の盛岡高等農林を卒業している。土佐からわざわざ東北の学校へ行ったのは、入学試験がやさしかったからでもあろうが、山北村の古い家から離れたいという気があったからでもあろう。また盛岡高農を卒業後、家の隣りの蜜柑《みかん》畑を全部つぶして林檎《りんご》畑にしたものの結局、林檎は一つもならずに終ったこともあるが、このような失敗も南国の郷土に縛りつけられていたくないという欲求のあらわれだったかとも思われる。大正の初め頃に、知人の紹介で満鉄に入ることになり、正式に入社の辞令も受けとったあと、突然意志をひるがえして就職を辞退した。満鉄の条件はよかったのに何で入社しなかったのか、その理由はわからないが、要するにそれ以後、伯父は二度と山北村をはなれて暮らすなどとは言わなくなった。  仮に、この満鉄入社取り止《や》めが伯父の人生の最初の挫折《ざせつ》であったとすれば、最後のそれは戦後の農地解放であったろう。いや、農地解放そのものは別段、個人的な挫折でも何でもありはしまいが、伯父にしてみれば先祖伝来の土地を手放すことは、やはり思い掛けもない失意の事態ではあったろう。私自身はその頃、軍隊でわずらった病気がもとで東京の自宅で身動きもならず寐ていたから、当時の伯父がどんな様子であったか、まったく知らない。私が山北村の家を訪ねるようになったのは、昭和二十年代も末になってからだ。  それは、もう「戦後は終った」などと言われはじめた時期であり、勿論《もちろん》、農村の気風も戦前とはすっかり様変りしていたはずであるが、それでも私などが訪ねて行くと、伯父の家の門の前の田ンぼで働いていた人が、丁寧に頬《ほお》かむりの手拭《てぬぐ》いをとって挨拶したりして、そんなところは昔の山北村と少しも変りなさそうだった。しかし伯父は、もはや明らかに年をとっており、「ほーおい」と時たま大声で伯母を呼ぶことはあっても、その声で電気に打たれたような顔つきになる者は誰もいなかった。そして伯父が、いつも常席にしていた居間のうしろの壁の上の分銅つきの柱時計は、いつの間にか見えなくなって、代りに古ぼけた棚《たな》に、新しいだけに安手に見える電池式の置時計が乗っていた。  それから数年たって、昭和三十年代半ばの春先きに、伯父は死んだ。その報《しら》せを、私は留学先きのアメリカ南部の田舎町で受けとった。無論、これといって驚くわけもなかったが、当時のアメリカ南部では町を出ると、まだ農耕馬が泥《どろ》をはね上げながら犂《すき》を引っ張っていたりして、日本の農村を想わせた。そんなところでは三世代か四世代の大家族が同じ家で暮らしており、食卓では年寄りがフォークを取り上げるのを合図に皆が食べはじめる。そして私は、そんな家の食事に招《よ》ばれると、何となく山北の家の伯父が死んだことを憶《おも》い出したものだ。  私が、山北の家を訪ねたのは、伯父の死をきいた翌々年であったろうか。用事があって高知市にかえったとき、新聞記者をやっている従兄《いとこ》から山北村の墓地に伯父の墓石が立ったと聞き、墓参を兼ねて一緒に山北の家に久し振りに行ってみた。  松食い虫にやられたとかで、昔、皆で上って遊んだ門前の大きな老松が切り倒されていたほか、檜《ひのき》や椎《しい》の木など何本か古い樹木が無くなって、日当りや風通しが良くなっていたが、そのぶん以前の何か誘い込まれるような不思議な雰囲気《ふんいき》は減っていた。墓地へ行くと、一番奥まった最後列の中央に、なるほど新しい伯父の墓石が立っている。 「立派なものじゃないか、なかなか」  私が言うと、従兄はそれにこたえるかわりに、妙なことを言った。 「そのへん、歩くとき気をつけんといかんよ。足で踏むと土が崩れるかもしれん、何せ土葬だから……」  私は、暫《しばら》くその意味を解《げ》し兼ねた。 「土葬?」 「うん。親父《おやじ》がどうしても焼かれるのはイヤじゃと、まえから言いよったもんだからね」と、従兄は言った。そして、こんなことをつけ加えた。「土葬の棺が土の中で潰《つぶ》れると、墓のまわり一帯の地面が沈むからね、完全に土地が固まるまで踏まんようにせんと……」  伯父が火葬にされるのをそんなに怖れていたとは、それまで私は知らなかった。しかも滑稽《こつけい》なことに伯父は、土葬を禁じて火葬を命じたのは進駐軍の指令だと信じていたという。そういえば占領期間中は、よくアメリカ兵が駅の出入口などで日本人を掴《つかま》えては襟首《えりくび》からDDTの白い粉を振りかけたりしていたが、その連想から伯父は、進駐軍が公共衛生上、土葬は害があるとして火葬を命じたものと考えたらしい。 「何ぼマッカーサーの命令でも、わしは焼かれることはイヤかねや……」  私は、手結の浜で蝦料理をご馳走《ちそう》になったとき、どうしても家へ帰ると言い張った伯父の顔を憶い出して笑った。 「しかし、そう言ったって、土葬は止められているんだろう。ヤミの埋葬かね」 「まァ、そんなもんじゃね」  何でも伯父は、そのとき高知市へ出てきて、この従兄の家で酒を飲んでいるうちに倒れた。しかし市内では土葬の許可はとれないので、従兄が伯父の遺体を抱いてタクシーに乗せ、山北村に運んで役場に話をつけ、土葬にさせて貰《もら》ったというのである。当時、高知市から山北村まで、自動車で小一時間もかかった。その間、従兄はずっと伯父の遺体を抱きつづけていたため、次第に腕が重くなり、やがて半身がシビれっぱなしになるような重量を感じた、という。従兄のそんな話をきいているうちに、彼が腕に感じたその重さは、土に対する伯父の執念のせいではないかという気がして、私はだんだん自分自身の腕も重くなってくるようだった。  虫の声 「この十年ほどの間に、東京もですが、日本全体がすっかり様変りしてしまったんじゃないでしょうかね、犬を診ていると、どうもそう思いますね」  そういうことを言ったのは、獣医のOさんである。Oさんには、先年十五歳で死去した私のところの紀州の牡犬《おすいぬ》コンタをずっと診て貰《もら》っていたし、その後に飼った牝《めす》の紀州犬ハナも診て貰った。しかるにハナは、いくら牝であるにしろ、コンタと較《くら》べて根性が甚《はなはだ》しく甘い。たとえば散歩の途中、よその犬に出会ったりすると、相手が遠くの方にいても尻尾《しつぽ》を下げて立ち止ってしまう。それはいいとしても、猫《ねこ》が塀《へい》の上に乗っているのを見掛けただけでも、道路の反対側に飛び退《の》いて、急ぎ足に半分腰の抜けたような恰好《かつこう》になって走りぬける。こういうことは、コンタの場合にはまったく考えられもしなかった。コンタは仔犬《こいぬ》の頃《ころ》から、どんな大きな犬にでも突っかかって行ったし、生後四、五箇月の頃には、猫を私の目の前でアッという間に噛《か》み殺してしまったことがある。そのとき私が強く叱《しか》ったせいか、その後は猫のことなど相手にもせず、何処《どこ》かで出会うことがあっても、そっぽを向いて、そ知らぬ顔で通り過ぎた……。私は無論、喧嘩《けんか》をさせるために犬を飼っているわけではないのだし、ハナがどんなに弱腰であっても、むしろその和平愛好的な態度をよしとしたのであったが、Oさんによれば、それはハナに限らず、最近の日本犬全般に見られる傾向であって、そのようなことになったのは、犬のせいというよりも、日本の社会や日本人の生活自体が急激に変ったせいだろうというのである。  言われてみれば、そういうこともあるかもしれない。たしかにコンタを飼いはじめた頃と現在とでは、私自身のまわりを見まわしても、ずいぶんの変り方だ。列島改造、高度成長、ニクソン・ショック、オイル・ショック、そんなことはふだん週刊誌の見出しぐらいにしか考えていなかったが、この十年ばかりの間に起ったことは、知らぬ間に私たちの生活の意識や人生観まで変えるぐらいの影響力があるのではないか。何にしても「犬は飼い主に似る」という。犬の行動には人間の内面が反映して見えることはたしかなのだ。してみれば、ここで日本犬の根性が甘くなり和平愛好的になったことは、われわれの内部意識がそのように崩れて変化しつつある予兆であると考えられないものでもない。  別段、そこまで深刻に考えこんだわけではないが、二代目の紀州犬ハナがパルボとかいうアメリカ渡来の伝染病で、生後七箇月あまりであっけなく死んでしまったあと、私は犬を飼う気も失《な》くして、そのへんを歩いている日本犬の顔を見るのもウトましいような心持だった。それが、「紀州へ犬を見に行かないか」と、Kの誘いをうけると、ついふらふらと出掛ける気になったのは、一体どういう心算があったのか、われながら良くわからない。一つには、白内障でここ数年、眼《め》の不自由だったKが、最近手術が成功して旅行も出来るようになった、友人としてそれを祝福したい気持もあった。Kと私は、同じ大正九年生れで、小学校、中学校と同窓でもあって、紀州犬を飼いはじめたのも元来はKに熱心にすすめられたからだ。それだけではない、紀州には新宮生れの若い作家N君がいて、土地の案内は引き受けるから遊びに来ないか、と以前から言われてもいた。  N君は、作家になるまえに土方もやったことがあり、怪力無双で、酔余暴力を振うときには、小型の電気冷蔵庫を頭上に持ち上げて庭の敷石に打《ぶ》っつけるといった武勇伝がかずかずある。しかし平生、私たちと附き合っているぶんには性情すこぶる温良であって、粗暴な要素はミジンもない。つまり、イノシシ狩の猟犬紀州犬の特質をそのまま人間に移しかえたようなところがある。そのN君によれば、紀伊半島というのは、人体にたとえていえば本州の下股、陸地や平地の恥部のような存在であって、有史以来、有間皇子《ありまのみこ》、南朝朝廷、天誅組《てんちゆうぐみ》、それに大逆事件の紀州グループなど、数多くの謀叛人《むほんにん》や皇位継承の敗者などがかくれ棲《す》み、地理的にも突兀峨峨《とつこつがが》たる山岳と昼なお暗い密林とに覆《おお》われた隠国《こもりく》、すなわち太古からつづいた闇《やみ》の国であるという。  なるほど、そういう土地なら、そこにはいまも昔と変らぬ本物の紀州犬がいるかもしれない。とくに私は、≪闇の国≫という言葉が気に入った。というのも私の心に残っているコンタの基本的なイメージは≪闇の中の魂《アニマ》≫といったものであるからだ。それは、コンタが生後二箇月あまりで私のところに連れてこられた最初の晩からの印象なのだ。どんな犬でも、連れてこられて二晩や三晩は母親を慕って夜鳴きするものなのに、この犬はその夜、八時頃になって、一と声、二た声、「うおーん」と、仔犬のものとも思われぬ、まるで山犬の遠吼《とおぼ》えのような声を上げたきり、ぴたりと鳴き止《や》んで、あとは物音一つ立てなかった。——こんなことがあるだろうか? 私はかえって心配になり、懐中電灯を手に犬小舎《いぬごや》へ様子を見に行った。するとどうだろう、暗闇の中でかれは、仔犬なりに神社の狛犬《こまいぬ》のように両|前肢《まえあし》を揃《そろ》え、顔を正面に向けたまま、身動きもせずに坐《すわ》っているではないか。そのときのこの犬の風貌《ふうぼう》が、闇の深さと一緒になって、いまも私の胸底に染着《しみつ》いたように残っているのである。  この思い切りの良さは何だろう——? じつをいえば私は、自分自身を含めて、日本人の諦念《ていねん》というか、何事も水に流してすませようというネバリ気のなさについて、甚だ飽き足りぬ想《おも》いを持っていた。いや、それは飽き足りぬなどというより、私のなかに潜む敗北感そのものであるといってもいい。たとえば敗戦のときの一億|総懺悔《そうざんげ》、一夜にして全国民が敵国の軍隊を平和の使徒の如《ごと》くにあがめ、その前にひれ伏して何の抵抗もおこなわなかったことについて私は、自分も平和な生活が戻ってきたのを無上に喜びながら、同時にそのことに言いようのないイラ立たしさを覚えざるを得なかった。  その想いは、いまも私は変らない。ただ、母犬から引き離されて連れてこられたその晩に、一、二度、山犬のような声で吼えたきりで、全然夜鳴きをしなかったコンタを飼いはじめてから、私の考えに或《あ》る変化が生じた。つまり、一見無抵抗な従順さのなかに、不屈の従順とでもいうべきものがあることを、私は悟りはじめたのである。  コンタは、飼い主である私や、私の家族に対して徹底的に従順であった。しかし、かれはまた自分自身みずからの主人でもありつづけたのだ。このことは、コンタが成長するにつれて一層はっきりしてきた。コンタは頗《すこぶ》る頑健《がんけん》な体質であったが、犬である以上、フィラリアにはかなわない。フィラリアは、どんなに駆除につとめても一度血管に入ると、死んでもその残骸《ざんがい》が体内にのこるので、それが犬の体力を弱めるのだといわれている。コンタも七、八歳の頃から体内に溜《たま》ったフィラリアで、ときどきセキ込むようになり、このまま戸外に置いておくと、あと一、二年の寿命しかないだろうと獣医のOさんに言われたので、家へ上げて飼うことになったのだが、そうなってからもコンタは自分と私たちの間に一線を引いて、そこから内へは絶対に踏みこむまいとした。  私たちが食事していると、コンタもそばによってきて一緒に同じものを食べたがりはする。しかし、かれは私たちの眼を盗んで、食卓に前肢をかけたり、皿のものをかっ攫《さら》って食うような真似《まね》は、一度としてしたことがない。また、家の中は何処《どこ》でも自由に歩かせておいたのだが、床の上に新聞紙なり包装紙なり紙類が散らかっていると、コンタは必ずそれは避けて通り、紙を踏みつけることも跨《また》ぐこともしなかった。そんなだから、私が仕事に飽きて書斎にコンタを呼び入れて遊ぼうとしても、かれは戸口の前まできて立ち止まり、決して中へは這入《はい》ろうとしない。私の書斎は、いつも書き損じの原稿用紙や読みさしの本や雑誌などがいっぱいに拡《ひろ》がっていて、文字通り足の踏み場もないからである。 「コンタ、来い。いいから、こっちへ来い」  と、いくら呼んでやっても、コンタは困ったように戸口の敷居で足踏みするばかりで、私がひと通り足許《あしもと》に散らばったものを片附けて通り路《みち》をつけてやるまで、一歩も踏みこもうとはしなかった。  こういうと、いかにもこの犬が利発で行儀よく仕込まれていたように聞えるかもしれない。しかし、本当のところコンタは、喧嘩が強いだけで他にはこれといって何の能力もない、むしろ鈍で、ぶきっちょな方だった。訓練だのシツケだのというものも、べつに何一つ受けていない。それでいて、家の中で私たちと一緒に八年間近くも暮らして何の不都合もなかったのは、もっぱらかれが犬であるという自己の領域を踏みはずさなかったためである。これが生来の謙虚さによるものか、それとも本能的な警戒心から人間に対してつねに一定の距離を置こうとしていたためか、私にはどちらとも良くわからない。  いずれにしても、かれには犬としての確固たるアイデンティティーがあり、その自己確認の強さは、言わず語らず、われわれ人間にもはっきりと伝ってきた。何か欲しいものや、して貰いたいことがあるとき、コンタは私たちのそばへ来て、前肢で軽く膝《ひざ》を叩《たた》き、眼顔でそれを知らせる。しかし、それ以上に余計な愛情を求めて、跳びついてこちらの顔を舐《な》めたりすることはしなかったし、また子供に抱きつかれたりすることは非常にイヤがった……。おそらくこの点が、西洋犬と日本犬の一番大きな違いだろう。ローレンツの本によると、ジャッカル系の洋犬は家畜化して五万年からの歴史があるのに、オオカミ系の日本犬は人に飼われてせいぜい五千年、どうかすると五百年程度にしかなっていないという、つまり、それだけ日本犬には野性があり、人に狎《な》れていない気性があるというわけだろう。  その野性的な日本犬に、紀州へ行けば会えるかもしれない、それが私の最大の願いであった。  トラックやライト・バンや軽自動車を三、四台もつらねて、新宮の町から三十分あまり山道を辿《たど》ったところに、   「市営 紀州犬訓練用イノシシ飼育場」  と、棒杙《ぼうくい》に打ちつけた看板が立っていた。Kと私とはN君の運転するライト・バンに乗っており、その前に犬を満載した囚人|檻送車《かんそうしや》を想わせるトラックが止まっていた。犬はトラックの上からさかんに吼え立てていたが、われわれは先きにライト・バンを下りて、イノシシ飼育場の構内に入った。  N君が門柱(ただの棒杙である)のそばの蜜柑《みかん》の木から、青い蜜柑を三つ四つ勝手にもいで、私とKとに手渡した。皮を剥《む》くとたちまち柑橘《かんきつ》の匂《にお》いがツンと鼻先きに漂い、手に油っぽい汁が粘りつく。果肉はまだひどく酸《す》っぱいが、渇いた喉《のど》にはうまかった。  構内には直径百メートルぐらいの円型の広場があり、周囲に金網のフェンスをめぐらせてある。最初は、この広場に仔イノシシを放って、これに四、五頭の犬を向わせる。いわば初級訓練といったところであろう。しかし、仔イノシシといっても、体重は三、四十キロもあるだろうか。これが檻《おり》から放たれて目の前を駆け出すと、砂埃《すなぼこり》と風圧を巻き起こし、結構かなりの迫力がある。 「おい、安岡。おれたちは、あぶねえから、その小舎の中に入っていようじゃないか」  と、Kは私を振り向いて言うと、先きに立って空いている小さな柵《さく》の中に入った。枯枝を杖《つえ》についたKは、足もとを少しふらつかせている。私もそれにならって木の枝を手に、あとから柵に入った。 「おたがいに、年をとったな」 「あたりめえよ、もう還暦過ぎだもの」  二人とも前年に還暦を迎えていたが、われわれにその実感はなかった。たしか、つい十年ぐらい前までは、先輩が還暦になると、私たちは金を集めて赤いチャンチャンコの代りに、赤の毛糸のチョッキやベレー帽などを贈ったりしたものだが、そんな習慣もいつの間にか失くなって、誰もがふだん年をとることを忘れている。しかし、こういうところへくると、やはり年齢のことは憶《おも》い出さざるを得なかった。昨日、私たちは新宮に着き、那智《なち》の滝へ案内されたのだが、鎌倉積《かまくらづ》みというのかデコボコだらけの長い石段を下りるとき、ふとKが滝の方は見ずに眼を足もとに向けて一歩一歩、けんめいに足を踏みしめているのが痛いたしく目についた。 「おい、だいじょぶか、眼は見えるか。手を貸そう、おれの肩につかまれよ」 「ありがとう。眼は見えるんだがね、やっぱり爪先《つまさ》きに何か突っかかると転びそうになるんだ……」  傍目《はため》には、白髪頭《しらがあたま》の老人二人のこういう道行は、いささか見るに忍びざるものがあったかもしれない。しかし他人の目なんかどうでもいい。つまらぬ見栄《みえ》を張って怪我《けが》などするより、安全第一だ……。広場では、トラックから下された犬どもが仔イノシシを追って駆けまわっていた。紀州犬らしいのもいれば、雑種の犬もいる。どちらがヨリ勇敢であるかは、私などには判定がつかない。一頭が跳びかかって仔イノシシの耳か首筋かに食いつくと、たちまち四、五頭がよってたかって、脇腹《わきばら》や尻《しり》などに食い下がる。金切り声を上げながら逃げまわっている仔イノシシを見ていると、軍隊で満州にいた頃、部隊で飼っているブタ殺しの使役をやらされたことを憶い出した。中隊の初年兵三十人ばかりが輪になってブタを囲み、丸太棒《まるたんぼう》で叩き殺すのだから残酷なものだが、それよりも私は必死で突進してくるブタの方が怖《おそ》ろしく、どうかブタがこっちへ来ないようにと丸太棒をやたらに振りまわしていたものだ。  三十分ほどで仔イノシシを追う訓練がおわると、次はいよいよ親イノシシにかかる訓練がはじまる。これは構内の広場ではなく、柵外の谷や窪地《くぼち》のある雑木林に二頭の親ジシを放って十頭あまりの犬にかからせる。 「こっちへいらっしゃい。危いことはないですよ」  飼育場の係員が、私たちにも柵の外へ出て見学するようにとすすめるので、N君と地元の青年S君はそちらへ行ったが、私たちは断った。柵の外はすべて斜面だから、それだけでも体がよろけそうになる。おまけにイノシシ二頭である。仔ジシでさえかなりの迫力だが、親ジシとなるとこれはもう眼の前に坐っているだけでも威圧感がある。体重はおそらく二〇〇キロ前後はあるだろう。それが太くて長い鼻面《はなづら》を地面に向けて、ふっと息を吐くと、とたんにあたりに小さな土煙りが立つ。放たれた犬どもが周りを取り囲んでさかんに吼え立てるが、イノシシはまるきり問題にしない。木陰に寝そべったまま、鼻面で土を掘り返しては木の根か草の根を噛んでいる様子だったが、やがて巨体をゆさぶりながら悠然《ゆうぜん》と立ち上った。と、周りで吼えていた犬が、いっせいに尻込みする。なかには腰を下げて後退《あとず》さりしながら、後肢をピクピクひきつらせたかと思うと、その場で糞をたらすものもいる。また、小便は大半の犬がちびらせる。強い日射《ひざ》しのなかで、そのシズクがあっちこっちで光るのは一種の壮観だった。犬もそれで元気が出るのか、遠巻きに連携動作をとりながら、ふたたびイノシシに向って突進する。威勢のいいのは、自分の十数倍もの体重のあるイノシシに体当りをくらわせる。そういうのが二頭、三頭と体ごとぶっつかってくると、イノシシはうるさそうに体をかわしていたが、とうとう逃げ出すことになる。一見緩慢な動作だが、雑木林の木の葉が揺れ、葉擦《はず》れの音が夕立ちのように響くところをみると、相当の速さに違いない。  ところでイノシシは、猪突《ちよとつ》猛進などといって真直《まつす》ぐにしか進まないように聞いていたが、これは誤りらしい。下草を蹴散《けち》らしながら斜面を駆け下りて行ったシシが突然、あらぬ方角からまた駆け上ってきたりする。木の幹に体を片よせながらシシをよけていたN君は、二、三度、シシがそばを通ると怕《こわ》くなったのか、木立ちの上に攀《よ》じ登った。また、望遠レンズつきのカメラを構えた青年もいたが、機敏なイノシシの動きは到底とらえることは出来なかった……。私とKとは、金網ごしにそんな光景を見ていたのだが、動物同士の争いというのは傍《そば》で眺《なが》めているだけでも、何か体のシンからくたびれてきて、N君をうながすと、一時間ばかりで訓練所を引き上げることにした。  それにしても、猟犬の訓練にイノシシを咬《か》ませるための施設を市で経営しているというのは、何となく滑稽《こつけい》で、度外れな土地柄《とちがら》をおもわせる。やはりここは太古からつづいた闇《やみ》の国なのだろうか。N君に、そのことを言うと、「いや、あそこで一軒だけ、犬の訓練を市から断られている家があるんですよ」とN君は言った。「そこの犬は獰猛《どうもう》すぎて、イノシシが皆やられてしまうので、イノシシの保険料を払わない限り入場禁止というわけです」  私たちは、そのMさんという家へ案内して貰《もら》うことにした。  犬も犬だが、そんな犬を飼っているMさんという人物そのものにも、私は興味を持った。きっと奥深い山の中に、一人で犬にかこまれて暮らしているのではないか。途中そんな風にも考えたが、車は山を下って、南と北を山にふさがれているものの、案外にものどかな盆地の一画に、その家はあった。造りは古い農家だが、それほど鬱然《うつぜん》たるおもむきもない。しかし出てきた主人は、いかにも一と癖ありげであった。犬を見せて貰いたいのだが、と言うと、 「イヌなら、なんぼでもそこにおるけんどなあ、関東のひとにはイヌは、よう見分けんさかいなァ」  と、にべもないことを言う。しかし犬舎は大きく、百坪ぐらいの土地を金網で小さく仕切って、現在、仔犬《こいぬ》を合せて三、四十頭ばかりもいるという。私は、こんなに沢山の犬を一度に見たのは初めてだった。おまけに犬舎の隣りに五十坪ばかりの区画があり、何とそこでは専用の咬ませイノシシが二頭、ふてくされたように寐《ね》ていた。私は市営の訓練所で見たイノシシのことを話した。すると、M氏は言った。 「ふん、あれか。あれ、イノシシやないわ。あれはイノブタや、しかもちんばでなア、後肢《うしろあし》が一本、やられとるさかい……」  それは、おたくの犬が咬んだのでしょう、と言おうかと思ったが、私はやめた。詰屈《きつくつ》なる人柄とは、こういうのを言うのであろう。さかんに「関東のひとは犬のこともイノシシのことも知らん」と、そればかり言う。そのうちKが、一頭の牡犬に目をつけて、「Mさんよ、これは大した犬だね」と声をかけると、M氏は、おや、という顔つきになって、 「あんた、ちっとはわかるらしいね、関東のひとには珍しい」と、ようやく声をやわらげた。  Kは苦笑した。Kは紀州犬なら、ちっとどころではない、戦前から伝説的に知られた名犬も何頭か見ているのである。そのKが目をつけたのは、頭の鉢《はち》が大きくひらいて頬骨《ほおぼね》の張った犬だった。 「こういう古雅な、気骨のある顔の犬は、いまどきめったにない、久しぶりで見た」とKが言うと、 「わしも、それは気に入っとるんや」と、M氏は完全に打ちとけた。  Kとちがって私には、犬のことは良くわからない。しかし、このM氏の犬舎の犬ならば、在来の日本犬の特質は間違いなくそなえているものと思われた。ここなら空気もいいし、環境もいい、そのうえ自家専用の咬ませイノシシまで飼っているのだから、根性も必ずや鍛え抜かれているはずである。Kも、これには同意見だった。そして、もし自分に十年前の体力があったら、あの頭の鉢のひらいた牡犬《おすいぬ》を、無理矢理にでもゆずり受けて帰るんだが、もう自分には力の強い牡犬を引っ張って散歩させるだけの体力も気力もない、と残念がった。紀州の牡犬は、秋田犬やシェパードと闘っても敗《ま》けないだけの力があり、とくに瞬発力は強力なので、私も何度か散歩の途中でコンタに引きずり倒されたことがある。したがって、コンタのあとは牝犬《めすいぬ》しか飼わないことにしていた。  私はM氏に、牝の仔犬のいいのがとれたら一頭わけて貰う約束をして別れた。N君はもっと紀州の奥深く、闇の国のさらに暗黒の部分までくわしく案内してくれるつもりでいたらしいのだが、現金な私は犬を貰う約束が出来ると、もはや帰心矢の如《ごと》くになっていた。  それから四箇月あまり、十月の半ば頃《ごろ》にM氏から、八月にとれた仔犬が恰好《かつこう》の大きさになったから譲ってもいいという知らせがきた。輸送箱で送ってもらってもいいのだが、ちょうど十月下旬に大阪へ出向く用があったので、その帰りに紀州にまわって、自分で連れてくることにした。  私はひさびさに胸の躍る心地がした。Mさんのところで元気に跳ねまわっていた仔犬を、用意したバスケットに入れてもらい、紀勢線から新幹線の最終便に乗りついで帰ってくる間、私は列車の中でも何度も、籠《かご》をあけて中を覗《のぞ》きこんだ。仔犬は乗り物には強いタチらしく、鳴き声も立てずに静かに眠っている。バスケットの底に手を当ててみたが、嘔吐《おうと》はしていないし、ヨダレもあまりたらしていない。コンタも乗り物には強く、自動車が大好きだったが、根性も甘い二代目のハナは、乗り物に弱くて一時間ほど自動車にのせただけで、大きなバス・タオルが完全に濡《ぬ》れてしまうほど多量のツバを吐いた。それから見ると、こんどの仔犬は根性もシッカリしているにちがいない。私はバスケットの中に、仔犬を入れているというだけでなく、日本の魂《アニマ》、闇の国のポータブルを仕舞いこんでいるような気分になって、東京駅の改札口を出た。  タクシーに乗せたが、仔犬は相変らずおとなしい。列車と違って揺れが激しく変則的なためか、ときどき籠の中でゴソゴソと動きまわっている様子であったが、べつに吐きもしないし、鳴き声も立てない。いや、一度だけ鋪装《ほそう》の割れ目に乗り上げたのか、車が大きく揺れたとき、「くん」と小さな声を上げたが、運転手も気がつかないほどのものだった。帰り着いて、庭に放してやると、そのへんを二、三度まわって早速、糞をしたが固い良さそうな便だった。夜目にも白いむくむくした体で、地べたの匂《にお》いを嗅《か》ぎながら動きまわっているところを見ていると、私はコンタが家へやってきた頃のことを自然に憶い出した。 「名前は何にするの」と女房が訊《き》いた。 「秋だから、アキでいいだろう」 「そう。アキ、いい子になってね、コンタみたいに」女房も言った。 「だいじょぶさ、こいつは太古の魂《アニマ》を承《う》けついでいる」  ひと休みしたところで、小舎《こや》へ入れてやり、扉《とびら》をしめた。しかし、私の希望もじつはそのへんまでで終っていた……。それから、どれほどの時間がたったろう。私が旅の疲れで、とろとろと寐入りかけているときだった。突然、窓の外で、 「キーヨ」と、犬の鳴き声とも、鳥の声ともつかぬカン高い声を上げるのが聞えた。私はぎくりとした。まさか、こいつもハナのように鳴き出すのではあるまいな。私は、ハナとハナの前にちょっとだけ飼った牝犬が、幾晩も夜通し鳴きつづけたことを憶い出し、どうかあんなにならないでくれ、と祈る気持になった。一瞬、狛犬《こまいぬ》みたいに闇の中に坐《すわ》っていたコンタの姿が眼《め》に浮かんだ。と、たちまち私の夢は破れて、 「キーヨ……」  と、またカン高い声がひびく。そして、それからは連続的に「キーヨ、キヨ、キヨ、キヨ、キーヨ」と鳴きつづける。やっぱり、ダメか! 私は起き出して、雨戸をあけた。少しぐらい鳴いたって、放《ほう》っておけば慣れて鳴き止《や》むものさ、と昔の犬好きの人たちはよくいう。そのとおりかもしれない。しかし、いまの世の中はそうは行かない。犬の夜鳴きで訴えられて、何十万とかの罰金をとられる時代である。いや、罰金はともかく、立て混《こ》んだ東京の住宅地で、このような金属的な声でワメき立てられては、実際にご近所の方々に相済まない。庭下駄《にわげた》をつっかけるのももどかしく、犬小舎に駆けつけて、扉をあける。と、鳴いていた白いかたまりが、私の体にむしゃぶりつく。それは可愛《かわい》らしいといえば可愛らしい、哀れといえば哀れである。しかし私は、同時にガッカリさせられる。せっかく、あの紀州の闇の国まで二度も出掛けたのに、やっぱり日本犬らしい根性を持った犬はもういないのか……。私は犬を抱きながら、いつまでも死んだ犬のことなんか考えていたって仕方がないじゃないか、あいつは死ぬまで不屈の諦念《ていねん》を持ちつづけていたんだ、おれもここらで諦《あきら》めるとしようか……。そうつぶやきかけて、ふっと気がつくと、仔犬の鳴き止んだあとの静まりかえった夜気を通して、りーん、りーん、と虫の声が四方八方からわき上るように聞えてきた。  朝の散歩  なつかしいという情緒の底には、諦念《ていねん》ないしは断念がある。つまり、過ぎ去った時間や歳月は二度とかえってくることはない、そういうところから、なつかしさが生れる——。そんなことを考えたのは、原宿から渋谷大和田通りへ出ようとして、速度を落した自動車の窓から、ふと道傍《みちばた》の棒杙《ぼうくい》に「国木田独歩住居跡」とあるのを見たときである。  道路の片側は代々木公園で、棒杙はその向い側の工事現場か何かのトタン塀《べい》の外にポツンと立っていた。ふだんならそんなものは、眼《め》についたとしても気にもとめないはずなのだが、たまたまその頃《ころ》、私は独歩の『武蔵野《むさしの》』を読みかけていたときだったので、ほう、と思った。独歩の家はこんなところにあったのか。私は念のために自動車を下りて、棒杙の道標を見直した。杙の片側には、こんなふうに書いてあった。 国木田独歩は明治二十九年九月から翌年四月まで、この場所に住んでおり、名作『武蔵野』の構想を立てました。  この書き方は、あまりうまくない。独歩はここで『武蔵野』の構想を立てたというより、当時はこの場所がまさに武蔵野の一画であり、楢《なら》や櫟《くぬぎ》の林にかこまれた陋屋《ろうおく》の中で、『山林に自由存す』と謳《うた》い上げたわけだ。近くにはNHKの放送会館や超高層のマンションなど、さまざまなビルが立ち並び、自動車の排気ガスやら騒音やらの渦巻《うずま》くなかで、   山林に自由存す   われ此《この》句を吟じて血のわくを覚ゆ   嗚呼《ああ》山林に自由存す   いかなればわれ山林をみすてし   ……   なつかしきわが故郷《ふるさと》は何処《いづこ》ぞや   彼処《かしこ》にわれは山林の児《こ》なりき   顧みれば千里江山   自由の郷《さと》は雲底に没せんとす  そういう文句を憶《おも》い出すと、独歩の住んでいた頃と現在とのあまりの違いように、寐覚《ねざ》めの悪い夢でもみせられているような茫莫《ぼうばく》とした気分になる。  明治二十九年九月といえば、独歩が熱愛していた妻佐々城信子に逃げられてから半年になるかならない頃である。信子の行方を探して、独歩は一時、半狂乱になっていたといわれるが、この渋谷村の家で弟と二人で暮らしはじめた時分は、すでに一応の落ち着きを取り戻していたらしい。もっとも私は、信子と独歩の関係について多くのことを知らないし、知ろうとも思わない。ただ私は、これによって当時の独歩の心境を多少とも推察し、そこに独歩と自然の結びつきの契機になるものを探ってみたいだけである。おそらく独歩は、信子との結婚生活の破綻《はたん》から単に愛人を失ったという以上に、人生そのものに対して何か断念しなければならぬものを悟らされていたにちがいない。そこから彼の眼は、ひとりでに�自然�に向けられることになる。たとえば、 「なつかしきわが故郷は何処ぞや/彼処にわれは山林の児なりき」  というあたりに、そのへんの彼の心情のうごきが窺《うかが》われるのである。ただし独歩自身に、実際にそのような「故郷」があったかどうか、裁判所の下役人の息子で居所を転々とさせられていたという生い立ちから考えて、これはかなり疑わしい。おそらく彼は「なつかしき」という情緒にひかされて、自分を「山林の児」になぞらえてみただけなのではないか。  ところで、私が『武蔵野』を読み出したのは極く最近のことだ。じつは去年の暮から、私はしばしば目舞いの発作に悩まされてきた。最初、脳溢血《のういつけつ》にでも見舞われたものかと思い、最悪の事態も覚悟したが、病院で検査をうけると、これはメニュエル氏病といって内耳の奥の三半規管の異状によるものだ、といわれた。医者は、 「べつに生命にかかわるような病気じゃありませんが、なかなか厄介《やつかい》なものでして、難病の一つとされています。ま、気長に静養して下さい」  という。要するに、医者にもハッキリしたことのわからない病気のようであった。発作は周期的に起るということだったが、私の場合、一週間おき、十日おき、あるいは三日おき、二日おき、といった具合で、むしろ甚《はなは》だ不規則に何の予徴もなしに起った。それも食事中に起ることもあれば、また夜半過ぎ眠っている最中に起ることもある。目舞いの発作で目を覚ますというのは初めての経験だが、一種不気味なものだ。灰色の目蓋《まぶた》の中で眼がまわっている。畳に敷いた蒲団《ふとん》が波の上の戸板のように揺れて、いまにも体ごと蒲団から放《ほう》り出されそうになる。なぜか時間のことが気になり、枕《まくら》もとの電灯をつけて時計を見ようとするが、眼の前の時計が急速度で左右に流れて、文字盤の針がどうしても読めない……。いくら生命に別条はないといわれても、こういうときに生きるか死ぬかなど考えているヒマはない。生死をこえて端的な不安に体ごと引っつかまれて好きなように弄《もてあそ》ばれている、それはまったくやり切れないと言うしかない。発作は短くて三、四時間、長びくと十時間以上もつづくのだが、その間、部屋を暗くして枕をかかえたままジッと横になっていなければならない。  最初のうちは、何の因果でこんな妙な病気につかまったのかと腹立たしかったが、発作がたびかさなるうちに腹を立てる気力も失《う》せてアキラメを生じた。つまり、こうやって不安なものに耐えているのが生きるということなのだ、とそんなふうに思うようになった。朝、目が覚める。ああ昨夜も発作は起らなかったな、おれは充分眠ったわけだ、そう思うとそれだけで感謝したい心持になる。生命にかかわるものではない、と医者が保証するだけあって、発作が起っていないときは健康体と変りはない。熱もなければ、脈拍も血圧もまったく正常なのだ。これも初めはイヤだった。病人なら二六時中どこかに病人らしい症状があっていいはずだが、それがなくてイキナリ発作がやってくるのだから、用心のしようもなく、ただ漠然《ばくぜん》とした不安を常住不断に抱えていなければならない。しかし、ものは考えようで、血圧だの血糖値だのを年じゅう気にしながら暮らすのもラクなことではないだろう。発作の起る合い間だけでも健康でいられるというのは、それだけで有り難いことではないか。  それに発作の予徴はないとはいっても、ひと月ふた月とたつうちに或《あ》る種のカンが少しずつ働くようになった。たとえば低気圧が発達して天候が崩れかかるとき、耳の中に何となく重苦しいものが垂れこめたようになる。そういうとき、頭を下げたり、寐ていて枕がはずれたりすると、目舞いがはじまる。逆にカラリとして湿気のない日は、まず絶対に発作は起らない。それで私は、そういう天気の好《い》い日には、つとめて散歩に出掛けるようにした。その頃から、私はハリ医にかかっていたが、そのハリ医者も散歩は新陳代謝をよくして体のために良いと言うし、もともと私は歩きまわるのは嫌《きら》いでない。さいわい季節もようやく春めいて、葉の落ちた樹木にも新芽が吹き出し、空や地べたの色にさえ何となく生気が感じられるようになってきた。  無論、最初はいくらかの不安はあった。私の友人Iは、やはりメニュエル氏病にかかっていたが、初めての発作は街頭で横断歩道の信号を待っているときに起ったという。万一そんなことが起った場合を考えて、私はポケットに名刺と十円銅貨をいくつか入れていた。銅貨は危急の際に赤電話をかけるときの用意である。しかし二度目か三度目からは、もうそんな心配はしなくなった。明らかに私の体調は、家でじっとしているよりも、外を歩いている方がいいのである。それにつれて散歩の距離が長く、速度もはやくなり、だいたい六キロを一時間ぐらいで歩くのだが、歩きはじめて三十分もたつと下着が汗に濡《ぬ》れ、そうなると内耳の奥まで風が吹きとおってくるような、爽快《そうかい》な心持がした。  尾山台の私の家から、多摩川までは近いが、多摩川台公園(通称カメノコ山)から丸子橋の方へ下り、そこから河原を歩いて帰ってくると、およそ六キロ。また逆に多摩川を上流の第三京浜国道のあたりまで行って、そこから等々力渓谷《とどろきけいこく》をまわって帰ってくるのも、ほぼ同じ距離である。私は、そんなコースを歩いているうちに、ふと『武蔵野』を読んでみたくなったというわけだ。 「武蔵野の俤《おもかげ》は今|纔《わづか》に入間《いるま》郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。  独歩は『武蔵野』を、まずこのように書き起している。つまり、文政年間に於《おい》てすでに江戸には武蔵野のおもかげは無かったというのだ。しかし独歩自身は、そうは考えていない。武蔵野は、いまも渋谷、世田谷、又は小金井の奥などに残っていて、その美しいことは決して昔の武蔵野に劣るものではない、と言っている。  ……昔の武蔵野は実地見てどんなに美であつたことやら、それは想像にも及ばんほどであつたに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさは斯《かか》る誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かして居るのである。自分は武蔵野の美と言つた、美といはんより寧《むし》ろ詩趣《しゝゆ》といひたい、其方《そのはう》が適切と思はれる。  まさに、これは「誇張的」というべき力説振りであるが、その裏には佐々城信子との生活を断念した孤独な心情が働いていたにちがいない。私自身は、もはや恋愛を断念するなどといって悲愴《ひそう》がる年齢ではない。そんな時代はとっくの昔に過ぎて、いまやメニュエル氏病で目を廻《まわ》しながら、自分の生涯《しようがい》の終りが確実に射程内に入ってきたことを感じているところだ。けれども私は、この独歩の『武蔵野』のなかに、芥川龍之介や川端康成が言っている「末期《まつご》の眼」を感じるのである。芥川の『或旧友へ送る手記』の終りに次のような文句がある。  しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯《ただ》自然はかう云《い》ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。  これを受けて、川端康成の『末期の眼』は次のように述べている。  修行僧の「氷のやうに透み渡つた」世界には、線香の燃える音が家の焼けるやうに聞え、その灰の落ちる音が落雷のやうに聞えたところで、それはまことであらう。あらゆる芸術の極意は、この「末期の眼」であらう。  私は無論、自殺しようなどとは考えてもいないし、また「芸術の極意」である「末期の眼」が自分にあるとも思わない。しかし、自然を見て、これまでと違って「一層美しい」ものに感じていることはたしかである。いま私の歩く散歩道には、文政年間の人の見た武蔵野も、独歩の見た武蔵野も、何処《どこ》にも見ることは出来ない。道路の大部分はアスファルトやコンクリートで舗装され、その両側はプレハブなどの住宅に埋めつくされている。だが、そんな道の途中にさえ、時折、生《い》け垣《がき》ごしに見える庭の植込みの草花や木立ちの緑の美しさにハッとさせられることがある。またあるとき、竹藪《たけやぶ》のそばで、俄《にわ》か雨が降りかかって、雨滴が竹の葉を鳴らす音が聞えたことがあった。一瞬、私は耳を疑って立ちどまった。メニュエル氏病になる少し前から、私の右の耳はほとんど聞えなくなっていた。それがいま、絶えずつづく耳鳴りのジーンという音にさまたげられながらも、雨や風の音をハッキリと両耳に伝えているのだ。私は、まるで�自然�が直接、自分に何ごとかを囁《ささや》きかけてくるのを聞いたおもいで感動し、自分の周囲に細ぼそとながら武蔵野の断片が残っているのを認めた。  しかし、私の散歩区域で武蔵野のおもかげを最も良く伝えているものは、多摩川の河面《かわも》であろう。  前にも言ったように、私は日を追って散歩の距離を延ばしたが、同時に出掛ける時刻も早くなった。これは一つは犬のせいである。言い遅れたが、私の散歩は飼犬の運動も兼ねている。この犬が、夏が近づき夜明けが早くなるにつれて、朝早くから鳴きはじめる。それで私も、日が昇るとオチオチと寐てはいられず、夜明けとともに起き出して、散歩に出掛けることになった。  初めは不承不承だったが、やってみると早朝の散歩は気持が好い。とくに新聞配達のバイクが走り出すより前の五時頃がいい。その時刻だと、まるで町はふだんとは別の生きもののようだ。つまり、家や、塀《へい》や、道路の舗装や、人工の�街�はまだ眠っていて、風や、空気や、地べたの匂《にお》いなど、自然のものだけが目を覚まして活動している。そして、犬を連れた私は、そういう自然と足並みをそろえ、呼吸をともにしながら、リズミカルに左右の脚をのばして歩いて行く。いや、自然とともに起きて活躍しているのは、私と犬だけではない。ときどきジョギングの人と出会う。原色のトレーニング・ウェアをまとって、鼻息荒く駆けてくるこの連中は、人間というよりファッションそのものが走っている感じで、彼等と出会うのは苦手だった。とくに等々力の渓流沿いの小径《こみち》は、人一人通るのがやっとの幅しかないから、まともに顔を合さざるを得ない。と、このファッションの権化《ごんげ》は急に人間らしくなって、 「おはようございます」  と声をかけて行くのだ。私は、そのたびに自然を損われたように脅《おび》え、口をもぐもぐさせながら、 「……ございます」  と、やっとそれだけ言って、すれちがうのだ。また、渓谷の崖《がけ》から落ちる滝の傍《そば》では、祠《ほこら》にローソクを灯《とも》して、経文をとなえながら滝に打たれている人がある。犬はびっくりして、首を傾《かし》げて眺《なが》めるが、私はおどろかない。ジョッガーと違って修行者は、何か自然の一部であるように思われるからだ。  だが、私を本当にドキリとさせるのは、こういった人たちではない。公園のベンチや草むらなどで、長ながと寐そべっているような人たちだ。私は、そのたびに死体を連想し、しかもそれが生きているということに、圧迫を覚えるのだ。一度は、多摩川の草むらで、背中を向けてうずくまっている人がいた。その男は、私が通りかかると不意にこちらを振りかえった。そして、手にしたビールの鑵《かん》を差し上げると、にやりと笑いかけてきたものだ。しかし、その瞬間、なぜか私はこの男に親しみを感じた。何だ、こいつ、朝っぱらから酔っ払ってやがって……。おそらく彼は、前の晩から飲んだくれて、終電車を乗りそこなうかして、そのままこんなところで飲みつづけているにちがいない。そういう男を見ると、むしろ私は安心するのである。  そんなふうに様ざまな人間がいるにしろ、そういう連中に出っくわすことはめったにない。とくに家を出て、多摩川台公園へ行くまでの間は、まず誰にも会うことはない。広場の時計は五時半|頃《ごろ》を指しているが、あたりの空気はまだ眠ったままだ。この台地が公園になったのは、たしか戦後数年たってからで、それ以前は単にカメノコ山と呼ぶ空地であったと思う。現在は多少手を加えられて、谷間に朱塗りの陸橋がかかったり、ところどころにベンチや四阿《あずまや》のようなものが出来ているが、多摩川べりに向って急角度で下りている斜面のあたりは、ほとんど昔のままのようだ。といっても私は、もう五十年も前の少年の頃、親戚《しんせき》の子供たちと一、二度、ここへ遊びに来たことがあるだけだから、あたりの様子がどんなだったか記憶もさだかではないのだが……。何はともあれ、両側を熊笹《くまざさ》と雑木林に覆《おお》われた斜面の小径を、犬に引っぱられるようにして歩いていると、文政期や独歩の頃とは違っていても、ここにはまだあきらかに武蔵野のなごりと言えそうなものが残っている。昇りかけた透明な日の光が、木の葉をもれて射《さ》しこんでくるのを浴びながら、私は「武蔵野の美今も昔に劣らず」と、独歩の文句をつぶやきかえす。しかし、何気なくあたりを振りかえって次の瞬間、その声をのんだ。生い繁《しげ》った樹木の切れ目に、底光りのする多摩川の河面が大きく見下せたからだ。朝の光に包まれた川は、中州をはさんでY字型に合流しながら、すぐ眼《め》の下の丸子の方へ向って流れてくる。それは今も昔もない、江戸期以前から変らぬ武蔵野そのものの光景ではないか。  無論、いまは、水は汚染され、河川敷は野球場その他の運動場につくりかえられて、河原と呼ぶのもためらわれるくらいだ。しかし、梢《こずえ》ごしに覗《のぞ》く河面と水の流れは、どう変えようにも変りようのない姿で、昔のままに流れつづける。漠然《ばくぜん》とそんなことを考えながら、私は自然の生命力が自分自身につながってくるような昂奮《こうふん》をおぼえる。  斜面を下って、河川敷へ出る。台地の上から見下すと運動場ばかりが眼につくが、川の傍までくると、そこにはやはり河原の風景も残っている。分厚くしげったススキが白い穂をなびかせ、雑草に混って生い立った月見草が夜明けの名残りをみせて花をまだ咲かせている。私は、ふと大正時代の末期、自分の幼年時代にもどった気になっている。当時、私は千葉と東京にはさまれた江戸川べりに住んでおり、棒杙《ぼうくい》を打ちこんだ川岸で近所の子と遊んだ覚えがある。 「ストトン、ストトンと、かよわせて……」  というのが、その子の得意な歌であった。私は、その声がまだ耳もとに聞え、眼の前を白帆を上げた和船がゆっくり通り過ぎて行くような心持になる。そんな気分に誘われるのは、川べりで釣糸《つりいと》を垂れている人の姿が眼につくせいだろう。早朝、まだ六時前だというのに、もう何組もの釣人が川の両岸に陣取って、リールの糸を投げたり、釣竿《つりざお》を立てたりしている。  いったい何が釣れるのか? 見ていると、直径二、三センチもありそうな、まるでピンポン玉のような団子の餌《えさ》を、一本の糸に二つも三つもつけている。その団子の中に針がいっぱい埋まっていて、魚がちょっとでも食いつくと、すぐ引っ掛かるようになっているというのだが、私の見たところ、誰一人、魚を釣り上げる者はいない。この川には、魚は何もいないのだろうか。いや、そんなはずはない。ときどき、ばしゃり、と水音がして、振り向くと川の真ン中あたりに大きな波紋が拡《ひろ》がっている。きっと魚は、用心して、岸辺には近よらないのだろう……。  私は、朝日を背に受けて上流に向って歩く。釣人たちの群れから五、六百メートルもはなれたあたりだろうか、支流の丸子川につながる暗渠《あんきよ》の取水溝《しゆすいこう》がある。私はその手前で立ちどまり、何の気なしに岸辺を眺めていると、一メートルとはなれていないところで、川底で何かがグラリと動くのが見えた。と、その黒い影のようなものが水面近くまで上ってきた。  鯉《こい》だ! 私は思わず声を上げる。と、長さ七、八十センチもありそうな魚は、たちまち身を翻《ひるがえ》して暗い水中に消えた。  それ以来、私は散歩のたびに、その取水溝の近くで立ちどまって、魚を眺めるのがクセになった。べつに魚は、その場所にしかいないわけではない。もっと下流の、やはり釣人のいないところでは、ときどき岸辺に近よってくる魚を見掛ける。しかし、取水溝の近くのその場所では、必ず何|疋《びき》かの鯉や、もっと小さな魚が、これは隊列を組んで泳ぐ姿が見られるのだ。私には、どうしてここに釣人が来ないのか、その理由はわからなかった。あるいは禁漁区にでもなっているのだろうか。いずれにしても私は、そこで何疋かの魚の游弋《ゆうよく》しているのを確認することが、何か散歩の目的のようになった。それをしないと、その日一日の自分の業務を懈《おこた》ったような、あるいは髭《ひげ》でも剃《そ》り忘れたような、そんな具合の悪さを感じた。  あれは、そんなことが習慣になって、一月ばかりもたった頃だろうか……。いや、たしかなことは、月見草の花がだんだん少くなって、あまり見られなくなった頃だから、夏から秋へ、季節の変る頃だったろう。雨降りがつづくか何かで、私はしばらく川べりの散歩をやめたあとであった。何日ぶりかで、その場所へ行ってみて、私は当惑させられた。取水溝のすぐわきのコンクリートの護岸を打った平らなところに、女が一人、茣蓙《ござ》を敷いて坐《すわ》っているのだ。  いったい彼女は、何をしに来たのか。釣りのためではないことは、竿の用意のないことを見るまでもなくわかった。年は三十歳を少し出たぐらいだろうか。顔は白粉《おしろい》けもないが、尋常である。髪は長く、三つ編みにして、それをグルリと頭の鉢《はち》に巻いて止めてある。  私は、彼女から二、三メートルはなれたところに立って、魚を見つけようと思ったが、気が散って落ち着かないまま、中止してその場を立ち去った。  翌日、私は少し散歩の時間を遅らせて出掛けた。あの場所に、またあの女に居られてはこまると思ったからだ。しかし、結果は一層まずかった。きょうは、あの女一人ではなく、もう一人の仲間らしいのが、並んで坐っているのだ。これは、最初の女より年上で、かれこれ五十歳ぐらいだろう。木綿の服の上に、黒っぽいカーディガンを羽織っている。私は当惑するという以上に迷惑な気がした。 (あんた方、いったい、何をやってるんです。そこは僕が魚を見る場所なんだ、遠慮してもらえないか——)  出来れば、そんなふうに言ってやりたい気もしたが、無論実際にはそんなわけには行かなかった。茣蓙の上に正坐《せいざ》した二人は、じっと眼を真直《まつす》ぐ前に向けたまま、身じろぎ一つしない。ちょうど二人の正面には、中州の他に浮州のような小さな州があって、中州との間が浅瀬になっているらしく、そこを流れる水は小波《さざなみ》を立てており、それが日を受けて光るのがじつに美しい。 (いちばん眺めの好い場所を占領していやがる、おれが先きに見つけたところなのに——)  私は心の中で舌打ちしたが、勿論《もちろん》それも口に出しては言えなかった。彼女たちは、公園のベンチで死体のように横たわって寐《ね》ている男より、もっと強い無言の圧迫を私に加えた。私は魚を見るどころではなく、そそくさと立ち去るより仕方がなかった。そして次の日からは、もう私は取水溝のところで立ちどまることも諦《あきら》めた。岸辺によってくる魚のことも、気がかりでないことはなかったが、彼女たちに傍で坐りこんでいられたのでは、どうせ私は魚を見ても�自然�と対峙《たいじ》した気分にはなれっこないからだ。それでも、しばらくの間、私は取水溝のそばを通ることは通った。しかし、枯れかけたススキの葉かげに、彼女たちの後姿を見ただけで、何か屈託した気分になり、ひとりでに足は遠避《とおざか》った。  二人連れだった女は、ときには一人しかいないこともあるが、またときには三人連れになっていることさえあった。いったい彼女が何をやっているのか、依然としてそれはわからなかったが、もうこうなってはあの場所も彼女たちに占拠されたことは、既成事実として認めざるを得なくなった。  私は、多摩川の散歩コースをかえて、もっと上流の方へ行ってみることにした。そこには乗馬クラブがあり、犬に馬を見せてやると、初めてみる巨大な動物の姿に、犬は唖然《あぜん》とした顔つきになって眼をみはるのであった。これは私自身が、川底から浮かび上ってくる魚を見つけたときの気持に、通じ合うものがありそうに思われた。  半月ばかりたって、私はまた何となくカメノコ山からの眺望《ちようぼう》がなつかしくなり、再びコースをかえて多摩川の下流の方へ足を向けた。秋の気は深まり、川の対岸の遥《はる》か彼方《かなた》に大山や三ノ塔が眺められ、さらにその向うに真白な富士山もハッキリと見えた。川の岸辺のススキはまったく枯れ、月見草は茶色い茎だけになっていた。私は、いくぶん鬱陶《うつとう》しい気分で取水溝の傍を通りかかった。別段、こちらが悪いわけでもないのに、なぜか遠慮がちに歩度が速くなるのである。しかし途中で、知らず識《し》らず足をゆるめた。きょうも枯れたススキや雑草の繁みの合い間から、二人の女の後姿が見えたのだが、同時に叫ぶような女の泣き声が聞えたからだ。泣いているのは、若い方の女だった。 「ああ、あ……、ああ、あ……」  声は大きいのに、何を言っているのか言葉は聞きとれない。しかし、激しく身もだえしている様子から、何か懺悔《ざんげ》のようなことをやっているに違いなかった。傍の黒いカーディガン姿の年輩の女は、そ知らぬ顔で正面を向いたきりだ。 「ああ、……かァ、……かァ」  私は、よほど近くへよって、彼女に声をかけるか、せめて何を叫んでいるのかを聴いてみたかった。もはや、彼女たちが沈黙していたときの不可解な圧迫感は、私には感じられなかった。それに代って、同情心とも好奇心ともつかぬ奇妙なものに私は引かれた。しかし、傍へ行こうとすると、或《あ》るうしろめたいものを覚えて、立ちどまってしまうのだ。いったい何がうしろめたいのか、他人の不幸を覗き見することが気が咎《とが》めるのか、私にはそれはわからなかった。何にしても、「ああ、ああ……」という女の高い声が、澄み切った秋の空に響くと、私はふと母親の声を聞きつけたような、心の底に断念していたものが蘇《よみがえ》ってくるような、そんな気がして何か恐怖に憑《つ》かれたように、その場を足早やに遠避った。  犬  昭和十八年十二月中旬の某日、時刻は午前二時前後、私は宮益坂を渋谷に向って、甚《はなは》だおもしろくない気分に駆られながら下りて行った。  道路の真ン中には、この夏「都電」と呼び名のかわったばかりの旧市電のレールがとおっているが、この時刻では電車は動いているわけはない。自動車も、木炭車と称してガソリンの代りに七輪のようなもので木炭ガスを発生させ、それを動力に伝えてノロノロとうごく車が、昼間から宵《よい》の口にかけては時たま通るのだが、いまは無論一台も走ってはいない。要するに、私の前後左右には乗物はおろか、人の気配のするものは何一つない。両側の家並みは、灯火管制のせいもあってシーンとした闇《やみ》の中に黒い獣が折り重って眠っているようだ。坂を下り切った窪地《くぼち》の一帯は渋谷の盛り場だが、いまは街全体が谷底に沈んだように暗い。ついこの間まで連日、駅のまわりで太鼓を叩《たた》くやら、校歌や軍歌や応援歌をうたうやら、出陣学徒の見送りでごった返して騒いでいたのが嘘《うそ》みたいだ。このように、地上のものがすべて死に絶えたように真ッ暗なら、せめて夜空ぐらいは冴《さ》え渡って、正面に彗星《すいせい》が白く光る尾を引いて流れてくれてもよさそうなものだが、空も曇っているのか何も見えない。いや、仮に見えたとしても、私の眼《め》にはそれは映らなかったろう。  実際、そのときの私は腹が立って、星を眺《なが》めるどころではなかった。じつは私は、たったいままで青山六丁目のO君の家にいた。O君自身はすでに十二月一日、学徒兵として故郷の部隊に入営していたが、O君の弟が「兄貴の出征のときお世話になった方々にお礼をしたいから」と、SやHや私などを招《よ》んで晩飯をご馳走《ちそう》してくれた。勿論《もちろん》、私たちはO君の遊び仲間であって、出征するときにも連日一緒に遊び呆《ほう》けていただけのことだ。ただ学徒出陣というのは、その年の秋、突然、文科系学徒の徴兵|猶予《ゆうよ》が廃止になり、二箇月後には丙種合格の者まで全員、陸海軍のいずれかへ入隊となったのだから、征《ゆ》く方も送る方もアタフタせざるを得なかった。学生で半狂乱になる者もいたし、また身内の母親などで気がヘンになったというような例も聞いた。その点、O君は入営前に一人で考えこんだり、孤独に悩んだりするヒマが全くなかったことはたしかだ。もっとも、 「うちの兄の場合、最後まで学生生活を愉《たの》しみ、元気で入営できました。これもひとえに皆さんのおかげです」  O君の弟G君に、そんな風にいわれて、私たちは大いに尻《しり》こそばゆい想《おも》いをした。O君の家は北陸の素封家で、O君も学生の身分ながら弟と二人で青山にかなりの家を構え、婆《ば》ァやと女中を置いて暮らしていた。こういう恵まれた境遇は、われわれ友人にとってもまことに好都合なものであり、いきおいその青山の家には何かといえば寄り集ることになった。そんなわけで、O君の出征祝いとか歓送会とかいっても、不断からしょっ中やってきたことを、いつもより頻繁《ひんぱん》に繰り返したにすぎない。  晩飯に何が出たか、たしか郷里から届いた天然の鮎《あゆ》だの鮭《さけ》だのが盛大に出てきたが、他にどんなものがあったか、要するに料理もお酒も、当時には珍しくマトモな本物ばかりであったというだけで、詳しいことは覚えがない。食事がおわって、それでおひらきになれば問題はなかったが、何となく物足りなかったのか、G君が、 「どうです、麻雀《マージヤン》でもやりますか」  と持ちかけると、一同は一も二もなく賛成した。ただ私は、ふだんから麻雀がそれほど好きというわけでもなかった。いや、そのとき集ったなかでは、Hがいくらか本格的な麻雀を打つぐらいで、あとはG君もSも私も同じ程度のヘタさ加減であった。ところが、その晩はどうしたことか、一番ウマいはずのHが一人でかなり大きく負け、あとの三人が平均して僅《わず》かずつプラスになるという妙なことになった。こういうのは、平生つきあいの薄い者同士が相手の出方を警戒しながらのときに、よくあることだ。しかし、われわれはおたがいに、そんな間柄《あいだがら》ではない。考えてみると、やはりO君がその場にいないということで、誰もが無意識のうちに遠慮を感じており、それがこんな結果になったのだろうか。どっちにしろ、もう十一時近くになっていたので、そろそろ解散にしようということで点数の精算などはじめたのだが、G君が、 「これではHさんの一人|敗《ま》けということになりますが、どうでしょう、もうハンチャンだけやることにしては」  と、こころ配りの細かいところを示すと、皆もこれに同意して、また坐《すわ》り直した。するとこれで風向きが変ったのか、Hが調子を取り戻してそれまでの敗けを挽回《ばんかい》しはじめた。そうなると全員、眼が覚めたように昂奮《こうふん》し、勝負に力がこもってきた。これでは半戦《ハンチヤン》で切り上げるわけにはいかない。あと半戦、あと一戦《イーチヤン》、と長くなる。私は、頭の中でチーンと鐘がなったような気分になり、時間がどれくらいたったかも忘れた。  ふと気がつくと、階下で何やら言い合うような声がする。どうやら、O家の婆ァやが応対しているらしい。 「いや、何でもないですよ。きっと通りで警防団が夜廻《よまわ》りかなにかやってるんじゃないですか……」  G君がそんなことをいいかけたが、その言葉も終らぬうちに、入り乱れた足音が階段を駆け上るのが聞え、廊下をこちらに近づいてくる。イキナリ襖《ふすま》がひらき、坊主頭《ぼうずあたま》にセビロ服の男が無言で闖入《ちんにゆう》してきた。つづいて二人ばかり、詰襟《つめえり》の国民服をきたのが入って、部屋の出入口をかためるように立ちはだかる。セビロの男が、私たちを頭ごなしにドナりつけた。 「貴様ら、何をやっとる、この夜ふけに」  彼等は私服の刑事だった。それは何一つ、問いも問われもしないうちに、直観的にわかることだった。すでにこの戦争の始まる前から、一年に何度か�学生狩り�と称するものが行われ、そのたびに都内各所の警察署の留置場が学生たちで満員になる。捕まるのは、大体、映画館、喫茶店、撞球場《どうきゆうじよう》などに昼間から学生服で入っていた連中で、それを新聞各紙は、 学生たちに熱いお灸《きう》   ——時局をわきまへて真剣に学べ  といった見出しで大きく取り上げ、署長の�英断�を誉《ほ》め上げている。この�学生狩り�は最初は年々の恒例行事のようであったが、そのうち戦争が激しくなるにつれて日常的なものになった。さいわい私は捕まって留置場に入れられたことはないが、ただ漫然と街を歩いているだけでも見咎《みとが》められて、駐在所でポケットの中身を調べられたり、長ながと説教されたりしたことは何度もある。そうなると私たちはしょっ中、警察を意識して、人混《ひとご》みの中でも警官を嗅《か》ぎ分ける嗅覚《きゆうかく》が身についてしまった。——それにしても刑事が深夜、人の家に踏み込んでくるとは何事だろう?  私は、テーブルの上に散らばった麻雀|牌《パイ》が気になって片附けようとした。 「手を引っこめろ、こちらが言うまで触るんじゃない!」  刑事は鋭い声で、私をニラみつける。傍《そば》からHが弁解した。 「でも、賭《か》け麻雀じゃないんです、ただの遊びですから」 「何、賭けてない? そんなわけはないだろう、お前らは一体何だ」 「学生です」 「学生? 嘘をつけ。学生なら十二月一日づけで、みんな入隊したばかりじゃないか、何でお前たちはシャバに残ってるんだ……」 「嘘じゃありません。僕らもこれから軍隊に行きます。ただ順番を待ってるだけです、げんにこの人なんか」と、Hは私を指さし「年が明けると早々、東部第○部隊に入隊がきまってます」  Hの言ったのは本当のことだ。浪人やら何やらで年を食っていた私は、学徒出陣の発令前に徴兵猶予期限が切れており、本来なら今年の秋に一般現役兵として入営するはずのところ、急遽《きゆうきよ》大勢の学徒兵を入れることになったため、一般兵の入営は三箇月ほど繰下げになったわけだ。そんなことを私が説明するのを、刑事は聞く耳もたぬという気配で、私やHやSやG君の顔を代るがわる見較《みくら》べたり、卓子の下を覗《のぞ》きこんだりしていたが、不意に興醒《きようざ》めた不機嫌《ふきげん》な様子になりながら吐き出すように言った。 「よし、今夜のところはこれで帰してやる。二度とやったら今度は許さんから、そのつもりでいろ。じゃ、直《す》ぐに家へ帰れ」  私たちは一瞬、呆然《ぼうぜん》となった。Hが思い切ったように言った。 「わたしのところは少し遠いんですが」 「何処《どこ》だ」 「荻窪《おぎくぼ》です」 「そんなところが何で遠いんだ。歩けないと言うのか……。それとも、しょっぴかれたいと言うのなら、そうしてやるが、それがイヤならさっさと帰れ」  そんな風にして私たちは、刑事に追い立てられてO君の家を出た。しばらくの間は、刑事たちに後をつけられているようで不気味だったが、表の電車通りに出た頃《ころ》から、だんだん腹が立ってきた。たしかに自分たちのやっていることを考えると、感心できるものとは思わない。しかし「しょっぴかれたくないなら、さっさと帰れ」とは、人を馬鹿《ばか》にしているではないか。イガクリ頭の刑事が、こちらの顔を額ごしに睨《ね》めまわすようにしながら、そんなことを言ったときの口許《くちもと》や声音が憶《おも》い浮ぶと、それだけで私は、頭の中がカッとなって、胃の腑《ふ》が焦《こ》げつきそうなイラ立たしさをおぼえた。  ——おれたちが一体、何をしたって言うんだ、それをしょっぴくの何のと言われて、どうして黙って聞いてなけりゃならなかったんだ? そう考えると私は、いかにも自分の腑甲斐《ふがい》なさが情無く、こうなったら何とかSやHやG君に連絡をとり、世田谷代田のわが家で意地にでも今夜の続きの麻雀大会をやらなくてはならない、などと思った。  あれは山手線のガードをくぐって、しばらく行き、大和田に抜ける分れ道にかかった頃であったか、私はふっと背後になにか、けだものの気配を感じ、振り返ると夜目にも真っ黒い大きなシェパード犬が一頭、鼻先きを擦りつけそうなほど私の直ぐ後ろに迫ってくるではないか。その瞬間、私は恐怖心でいっぱいになり、他の事は何も考えられなくなった。思わず駆け出したくなるのだが、そんなことをすればシェパードは反射的に跳びかかって、一挙に私の喉笛《のどぶえ》にくらいついてくるだろう。私は辛《かろ》うじて自分を抑さえながら、もっぱら祈る心持で左右の脚を交互に動かしつづけた。  O小学校の少し手前のあたりで、駒場につうじる横丁に入る。そこは道巾《みちはば》が狭くて昼間でも薄暗く陰気なところだ。いや以前には「太平楽」という珈琲《コーヒー》屋があって私もよくかよったが、大東亜戦争がまだ勝ちいくさの頃、一家|眷族《けんぞく》を上げてボルネオとかへ引き移ってしまった。いま頃、あの一家はどうやって暮らしているだろう? 私は、軒の低い家並みの間を通りぬけながら、そんなことを考えたが、じつはそれだけ心に余裕を生じたのだろう。シェパードは、いまは私の右側によりそうようにして歩調を合わせてついてくる。勿論、油断は少しも出来ないが、頭を少し下げるようにしながら歩度を速めも遅くもせずに、余念なくついてくるところを見れば、これは余程訓練の出来た犬だろうか。しかし、それならどうしてこんなに立派な犬を野放しにしておくのだろう? 考えると私は、また不気味になってきた。まさか、さっきの刑事が私を追跡させるためにシェパードを放したわけでもないだろうが、この犬が何処からついてきたか、なぜ主人のところを逃げ出してきたかと思うと、どうにも判断がつき兼ねた。或《ある》いは、この犬を飼っていた男が召集されて入隊し、留守家族は食糧難の折りから犬の餌《えさ》の面倒までは見切れず、つい野良犬《のらいぬ》のようになってしまったのだろうか?  私は、いつかこの犬に道連れの親しみを感じていた。ポケットの中にビスケットのようなものでもあったら食わしてやりたいところだが、無論そんなものは持ち歩いているはずがない。せめて頭だけでも撫《な》でてやりたい気がするが、いざとなると恐ろしくて手を出し兼ねた。とにかく大きいのである、ガブリとやられたら指先きなど食い千切られそうだ。それから間もなくのことだ、この犬が狂暴な野性の一端をあらわすときがきた。  あれは池の上から下北沢にかかるあたりだ。昔、M公園とかいっていた湿地帯が住宅街に変り、その隅《すみ》の方が荒れた空地になっている。見るとそこに、まさしく野良犬が三匹、五匹と集って、こちらを怕《こわ》い眼つきで睨《にら》んでいる。私は、引き返したいと思った。このシェパードを連れて、あの野犬どもの群れの間を無事に通りぬけられるものではない。しかし、そう考えて後ろを振り向いたとたん、私は心臓が凍りつきそうになった。日本犬らしい耳のピンと立ったのが二、三頭、薄闇《うすやみ》の中からこちらを狙《ねら》って立っている。私の前後を囲んだ七、八頭の野犬のうちの一頭でも、こちらに向って突進してきたら、もう最後だ。彼等は餓《う》えている。シェパードが私をまもってくれるとは限らない。一緒になって私を襲うことだって無いとはいえない。文字通り進退きわまったとき、私は十メートルほど先きの道傍《みちばた》に公衆電話のボックスが一つ立っているのが眼についた。  私がその電話ボックスに駆けこむのと、シェパードが野犬の群れに向って突っこんだのは同時だった。地響きと共に犬どもの吠《ほ》え声が騒然とボックスを取り巻いた。私は必死で扉《とびら》を内側に引っぱってボックスの中に立ちすくんだ。シェパードが先頭を切って駆け出すと、黒い竜巻《たつま》きのような野犬の集団はこれを追った。その吠え声が遠ざかってから、どれぐらいたったろうか。私は、おそるおそるボックスの扉を押し明けた。犬の姿はない。何処へ行ったろう、あのシェパードは。可哀想《かわいそう》に野犬どもに、やっつけられてしまったのだろうか……。だが、そう思ってふと見ると、彼は扉のかげにいた。前肢《まえあし》をきちんと揃《そろ》えて正坐《せいざ》したまま、私の顔を見上げている。 「おお、お前、無事でいてくれたか」  私は感動し、思わず首を抱いた。犬はよろこんで私の頬《ほお》を舐《な》めた。まったく戦地から友人が戻ってきたときのようであった。  ここからは、もう代田の家は遠くはない。犬も私も多少は浮かれ気味であった。犬は先刻のように私の右側につきっきりではなく、私の前になり後になり、そのへんの垣根《かきね》の下に小便をひっかけては、急いでこちらに戻ってくる。もう、こいつは私の仲間だ。そう思いながら井の頭線の踏み切りを渡った。ここからは、あと十分たらずで家に着く。——帰ったらこいつに何か食わせてやらなくちゃいかんな。しかし、そんなことを思う頃から、次第に私は心が重くなってきた。この犬を自分が飼うとしたら餌が必要だが、いくら食糧事情が逼迫《ひつぱく》してきたといっても、こいつの食い料ぐらいは何とかなるだろう。いや、私が憂鬱《ゆううつ》になってきたのは、そのようなことのためではなく、自分自身の中にすでに諦《あきら》めていた平穏な生活への欲求が芽生えてくることだ。いくら、どうもがいたって、私はあと三箇月足らずしかシャバにはいられない。入隊すれば直ぐに北満の国境地帯の部隊に行かされることになっている。そうなったら、この犬はまた飼い主を失うことになるだろう。 「もう、このへんで帰ってくれよ。情が深みに填《は》まれば、別れがつらくなるだけだ」  私は、そんなことを口に出してツブやくように言っていた。次の角をまがると、ヒバの生垣ごしにわが家の二階の庇《ひさし》が見えてくるはずだ。と、私はシェパードがいなくなっていることに気がついた。何処へ行ったろう? 私は、しばらく曲り角で立ちどまって待っていた。犬の姿は見えない。犬が多少は人語を解することは、私も知らないではない。しかし、さっき私が「もう、このへんで帰ってくれよ」といったのを犬が、言葉どおりに受けとって帰って行ったとは、まさか思えなかった。ただ、私がいくら待っていても、あの犬が再び姿をあらわさなかったことは、たしかだ。  あれからすでに四十五年、かれこれ半世紀の歳月がたっている。光陰矢の如《ごと》しというが、その言葉を私はようやく実感をもって受けとめるようになった。ところで、それから二十年以上たった昭和四十年代のはじめに私は、中型の日本犬を飼い出した。戦中戦後の混乱期には犬を飼うどころではなく、やっとその頃になって物心ともに余裕を生じたのであろう。私ばかりではなく、日本中に犬だの猫《ねこ》だのを飼う人が多くなり、ペット・ブームとか言われるようになった。それからさらに二十年、私は同じ種類の日本犬ばかり何頭か飼ってみた。そのことは、すでに何度か話したり書いたりしたから、もう繰り返さない。そして一昨年の暮、心筋|梗塞《こうそく》をわずらって以来、犬を飼うことをやめた。飼っても散歩につれ出すだけの体力が、私自身にないことが明らかだからである。よほど小型の狆《ちん》だのチワワだのといったものなら、飼えないことはなかろうが、それは私には犬のような気がせず、いっそ諦めた方がマシだった。  しかし、なぜだろう、犬を飼わなくなってから、あの戦時中、軍隊にとられる直前に出会ったシェパードのことを懐《なつか》しく想《おも》い出すようになった。いまも私は、散歩にだけは毎日のように出掛けるが、犬のいない散歩は間の抜けたものだ。最初のうちは裸で歩いているような心持になった。現在はそれにも慣れて、一人で歩くのもいいものだと思ったりもする。ただ、どうかすると私は無意識のうちに立ちどまり、後ろを振りかえる。勿論《もちろん》、そこには何もいない。しかし私は、ことさら口の中で呼びかけてみる。 (おーい、何処へ行った、早くこいよ……)  すると、あの黒いシェパードのついそこまで追いかけてくる姿が一瞬、影のようによぎって見える。それは無言のまま半世紀の歳月をこえて私のあとをついてくるのである。  春のホタル  私は、生れつき落ち着きのない性分だが、これには胎教の影響が多分にあるものと思われる——。もっとも、性格とか気質とかは、いろいろの要素から出来上っているわけだし、胎教それ自体も決して単一のものではないのだから、いったい胎教のどういう点が私のタヨリない性癖にかかわっているのかと訊《き》かれても、答えようがない。ただ私は、そのことを信じているのである。  これはすでに以前にも話したことがあるのだが、私の大正九年五月三十日生れという生年月日は戸籍上のもので、実際は同年四月二十日、或《ある》いは十七日、又は十八日、などという説があって、確固としたことは分らない。無論こんなことは大したことではない。本人の私自身が全く気にもしていなかったのだから、本人以外の第三者にとっては尚更《なおさら》のことだ。ただ一度、従兄《いとこ》のなかに一人、四柱推命というのに凝っているのがいて、なかなか良く当るという評判なので、私も見て貰《もら》おうとしたところ、 「お前さんのは、生年月日がハッキリしておらんからダメだよ」  と断られたことがあり、そのときはなぜか不意に自分が孤独の身であると知らされたような心持になった。勿論《もちろん》、私は四柱推命占いなぞ信じるつもりはなく、従兄に占いをたのんだのもタダのたわむれからである。ただ「お前さんのはダメだ」と言われた瞬間、私は自分の過去に対して或る心許《こころもと》なさを感じたものだ。  ところで、私の出生届がどうして一箇月あまりも遅れてしまったのか。いまと違って当時は役場に出す届の日附など、一般にあまりウルさく考えなかったからでもあろう。しかし、私の届が遅れたのは、それだけではなかったようだ。父は陸軍の獣医であったが、私が四月中旬の生れだと、任官前に結婚していたことがわかり、それでは具合が悪いというような問題があったようだ。  もっとも、父と母が結婚したとき父がまだ学生であったことは、べつに隠し立てするような事柄《ことがら》ではなかった。先年、高知県|香美《かみ》郡山北村の父の生家の倉で見つけた古い日記や手紙などの束の中に、母から友人にあてた絵ハガキが一通混じっていたが、自分の住所氏名は、   東京青山南町五ノ七八高桑方 安岡つね  となっている。そういえば父と母は私の生れる前年、大正八年に結婚し、しばらく青山の高桑という家の二階に間借りしていたという話を、私は何度か聞かされた覚えがある。  只今《ただいま》は御はがき有りがたう存じました。 其後《そのご》はご機げんよく、赤ちやんもお丈夫とのことにて御目出度うございます。私も近々のうちにはかへります。途中、出来たら貴女《あなた》にも是非御目もじ致したく、おしかけるかもしれません。  とあって、格別何ということもない内容だが、発信の日づけが「六月四日」とあるのが多少、不思議なものに想《おも》われた。父母の結婚は、この年の初夏だというから、それを五月の初旬と仮定しても、六月四日はまだ一と月たつかたたない頃である。それなのに、「私も近々のうちにはかへります」というのは、どうしたことだろう。いまと違って大正半ばのその頃は、飛行機も新幹線もありはしない。東京から高知へ帰るには、汽車で十何時間もかかって大阪か神戸まで行き、そこから汽船に乗り換えて、太平洋の外海をやはり十時間以上揺られながらやっと高知港に着くのである。現在ならさしずめニューギニアか濠州《ごうしゆう》あたりに渡るぐらいの覚悟がいることなのだ。念のために消し印を調べてみたいと思ったが、かんじんの切手が貼《は》ってない。そのはずで、母はこの絵ハガキは出さずに手許に置いてあった。だからこそ、こうして六十何年もたって息子の私が、ためつすがめつ眺《なが》めてみたりすることになるわけだ。それにしても母は、どうしてこれを投函《とうかん》しなかったのか。宛名《あてな》は、   岡崎市籠田町 千頭とし子様  となっているが番地がない。おそらく母は、失念した番地を後で探して書き入れてから出すつもりで、ついそのままになってしまったのだろうか。しかし昔は、ちょっとした町や村なら番地など書かなくとも郵便は大抵届いたものだ。そう考えると、やはり母は、これを書き上げてはみたものの、読み返してみて出す気がしなくなったようにも思われる。絵ハガキのおもては、細かいタッチの銅版の印刷画で、二人の婦人が海に臨んだ二階の縁側の欄干に寄りそって、雨にけむる沖の島を眺めている図が描いてあり、水平線の彼方《かなた》、くもり空の部分に、   舟はゆくゆく、とほり矢の鼻を   ぬれて帆あげた主の船  とあって、これはその頃流行した『城が島の雨』という歌の文句に相違ない。  いや、この絵ハガキの図柄や歌の文句は別段、何の意味もないものだろう。それに結婚後わずか一と月そこそこで、「近々のうちにはかへります」というのも、当時、駒場にあった東大農学部にかよっていた父が、七月には卒業するということを考えれば、夫婦で帰省するのは不思議でも何でもない。ただ私は、自分自身の新婚当時、何かにつけて不安定だったことを振り返ると、母のなかにも同じように様々の不安や動揺があったのではないかと、あらぬ想像が働いてしまうのだ。  母は元来、父との結婚はあまり気がすすまなかったようなことを、私がまだ少年であった時分から何度となく言って聞かせた。母にすれば、それは他に愚痴をこぼす相手がいなかったまでのことかもしれないが、息子の私としては母親からそんなことを言われても、何と言って慰めようもなく、ひたすら困惑させられるばかりであった。それに、母がどこまで本気で父を嫌《きら》っていたか、そんなことは誰にも実際のところ分りっこない問題なのだから、一層こまるのだ。  それはそうとして、母が実家で厄介者《やつかいもの》扱いされていたことは確からしい。何でも母は女学校を卒業する頃《ころ》に生母と死に別れ、実家の父は後添の人(母にとっては義母)を貰ったが、母はその人と折合いが悪かったため、一時は京都の親戚《しんせき》の家にあずけられたりした。——絵ハガキの宛名の千頭とし子というのは、その京都の縁戚筋か何かの人のようだ——。そんなだから、母の実家ではなるべく早く母を片附けてしまいたかったのであろう。それで母は、すぐ上の姉の嫁ぎ先きである安岡の家の弟のところへ嫁入りすることになった。こういう例は、当時はそれほど珍しいものでもなかったらしいが、母としては厄介払いに自分の行きたくもないところへ無理矢理、嫁に行かされたという想いがあって、それも不満のタネだったようだ。  ところで私は、父の古い日記を見ているうちに、この母の言っていたことに疑念を覚えはじめた。明治四十五年、母は高知市築屋敷の実家から香美郡山北村の安岡の家に泊りがけで来ており、父の日記|帖《ちよう》には次のようにしるされている。 Mon. Aug. 21 入交《いりまじり》のおツネさんが、夜、寐《ね》しなに笑ふた。 Tue. Aug. 22 夜、おツネさん等と歌留多をして遊ぶ。 Wed. Aug. 23 晴天。 入交のおツネさんが帰つた。  等々。このとき母は、姉の初めての出産があったために、その手伝いに何日か前から安岡の家に来ていたものと思われる。しかし、手伝いといっても、皆と歌留多をしたり、笑ったり、姉を慰めかたがた遊びに来ていたようなものであったろう。そして、そのときの母の姿が父の眼に印象深く映ったようだ。日記の記述はかんたんなものだが、かえっておツネさんに対する父の親愛の情は行間に滲《にじ》み出ているように見える。  繰り返していえば、これは明治四十五年八月のことであり、父と母の結婚したのは大正八年五月頃である。その間、ずいぶん年月が空いているが、これは母が父との結婚をすすめられても、なかなかその気になれなかったためだろう、と私は最初そのように推察していた。しかし考えてみれば、明治四十五年といえば、父は岡山の第六高等学校に入学したばかりの年であり、母は高知の女学校三年か四年の頃である。その後、父は高等学校で落第を重ねたりして、やっと大正八年七月に大学を卒業するわけだが、母はそれを待ち兼ねたように、父の卒業の何ヶ月か前に結婚することになる。とすると、これは私が少年時代から母親に繰り返し聞かされてきたこととは、話が逆になるのではないか。  昔、明治末期から大正にかけての頃、女学校を卒業したらいつでも嫁に行けるようになっているのが、一般家庭の女子の常識であった。数えの年齢なら十八、九の頃から、もう嫁入り支度がはじまる。しかるに母は、五年制の女学校を卒業した後、補習科へ行ったり、小学教員の検定をとったり、結婚の準備は一向にしなかった。母ツネがこんな我《わ》が儘《まま》を許されたのは、生母の死んだあと後妻にきた継母がツネに対しては当らず触らずの態度をとってきたためのようだ。しかし、その間、これといって母の縁談が持ちこまれたという話もきかない。それは母の結婚相手としては、岡山の高校や東京の大学で落第ばかりしている安岡の三男坊ということに、周囲でも早くから決めてかかっていたからでもあろう。  そして、そのことが母にしてみれば、多少不満でもあると同時に、いつまでたっても学校を卒業できず、したがって結婚もなかなか出来ない父に対してはイラ立ちを覚えるといったことになったのであろう。しかし、その頃の母が抱いていた最大の不満は、父がぐずぐずと落第を重ねるとか、身なりや容貌《ようぼう》も気がきかないとかいったことより、先祖代々田舎の地主だった安岡の家の家風やシキタリ、或いは生活の形態そのものについてであったろう。同じ高知県でも市内に家があって金利生活をいとなんでいる入交の家からみると、安岡のそれは藩政期の郷士の暮らしが、そのままつづいているようなものだ。  村の一番奥まったあたりに、樹齢何百年だか知れない二抱えも三抱えもある松の古木や、檜《ひのき》、欅《けやき》、楓《かえで》など、鬱蒼《うつそう》たる木々の生い繁《しげ》った屋敷があり、土塀《どべい》めぐらせた構えは堂々たるものだが、門をくぐると中には、馬屋、牛屋、番屋、鳥屋、それに作男や奉公人たちの住居などが、主屋の他にゴタゴタと建て混《こ》んでいて、泥《どろ》にまみれて働く人たちの暮らしが如何《いか》に大変なものかを、無言のうちに語りかけてくる。この家には私も子供の頃、何度か泊りがけで遊びに行ったことがあり、ただ遊んでくるぶんには都会にはない珍しいものや古い道具類がたくさんあって面白かったが、もしここで、一生くらすとなったら、どんなにか厄介な苦しい事が多いだろう、と母親の心持もわかる気もした。  父と母の結婚の祝いも、この屋敷で行われたが、三日三晩、村中の人たちが入替り立替りやってきて、飲み明かし歌いつづけるのを、新婚の二人は晴着姿で応対しなければならないのだから、たしかになかなか大変なことではあったろう。 「ああ、いやだいやだ。憶《おも》い出してもゾッとする」  と、母は息子の私に、そのときの様子を何度となく繰り返しては、そう言った。しかし母の場合、それが終れば父と二人で東京へ行って、間借りにせよ二人だけの生活が出来るのだから、まだよかった。母の姉のように、生涯《しようがい》この家で夫と姑《しゆうとめ》とに仕えながら暮らすことに較《くら》べれば、それは苦労のうちに入らないくらいであろう。  しかし、結婚式のとき以外には、母に苦労がまったく無かったかといえば、そうは言えない。安岡の家は男ばかり三人兄弟で、跡とりの長兄のほかに次兄もいたが、これは早く死んだ。そのせいか三男の父は、いつまでも分家せず部屋住みのままであった。勿論、分家してもしなくても、それは名目だけのことで、職業軍人の父はどうせ一年じゅう内地外地を問わずあっちこっちを転々としながら送らなければならない。ただ何か、ことが起ると、やはり部屋住みの身分というものに縛られることがないとは言えない。さしあたり母が、私を出産する場合がそうであった。  話が飛ぶが、私は自分の出生地を訊《き》かれると、いまだに戸惑いともつかぬ一種の抵抗を覚えさせられる。高知県でいいのか、それとも高知市といわなくてはならないのか、他人から見れば全くどうでもいいようなことであるだけに、私は一層困惑するのだ。つまり私の場合、高知県といえば具体的には山北村の父の生家を指し、高知市というと築屋敷の母の実家を言うのである。ところで、私はどっちで生れたのか?  父は、すでに任官して陸軍|中尉《ちゆうい》になるかならないかというところだったが、勤務地に近い国府台《こうのだい》でまだ一戸を構えるにはいたっていなかった。それで母は実家で出産するつもりで、臨月の体で高知にかえると築屋敷に戻った。すると実家の父(私の祖父)は、 「おまえは、すでに安岡の嫁になったのだから、子供は安岡で生め」  と、きびしく言って、追い立てるように母を山北村へ行かせた。いまなら、高知市から山北までは自動車なら一時間もあればユックリ行けるが、当時は国鉄の汽車やら私鉄の軽便鉄道やら人力車やらをいくつも乗り次いで行かなければならないから、何時間もかかり、まず半日仕事である。その日の日の暮れ方になって、母はようやく山北村の安岡の家にたどり着いた。西座敷と呼ばれている一と間に父の長兄がいたが、「上れ」とも言われないので、真っ黒な蚊柱の立ちこめる縁先きに立っていると、後室さまと称《とな》えられる父の母(私の祖母)が出てきて、 「この家では、産をすると言うても部屋がふさがってロクに場所もないし、産婆《さんば》も医者も呼んでもなかなか来てくれぬから、築屋敷で生んだ方がええ」  と、遠まわしにこの家での出産を断られた。この家には、主屋だけでも部屋は十余りもあって産をする場所が無いわけではないのだが、後室さまの虫の居どころが余程わるかったのであろう、あるいは母が安岡へ来るまえに実家の入交へ行ったことが不届きな嫁ということになったのかもしれない。いずれにしても、母はまた高知市へ戻り、築屋敷にかえった。無論、実家でも好《い》い顔をするわけがない。とくに母は、以前から継母とは折合いが良くないのである。とにかく、その晩は実家で泊ったが、母にしてみれば無念でもあり情無くもあって、よく睡《ねむ》れなかった。そして、その翌日であったか、翌々日であったか、急に腹が痛み出し、市内帯屋町のMという個人病院に出掛けると、診察した院長から、 「これはいかん、これは逆児じゃきに家庭で産をすることは無理じゃ」  といわれ、そのままM病院に入院することになった。このようにして、それから半月ばかりもたって私は、M病院で生れた。当時、病院での出産は珍しかったが、逆児にしては母の産は軽かったようで、私は元気な産声を上げたということだ。ところで私の誕生日であるが、当時築屋敷にいた母の妹、H叔母に訊《き》くと、叔母は言下に、 「それは四月の十九日よ。わたしは女学校から帰ると、父から、『いつ赤ん坊が生れるか訊いてこい』と言われて毎日、M病院まで訊きに行かされた。ところが姉からは、『そんなに毎日、せっつかれたって自分の思うように赤ん坊が生めるものか』とどづかれて、あたしゃ板挟《いたばさ》みになってほとほと困ったから、よく憶《おぼ》えている」  とこたえた。しかし、人間の記憶にはいずれ疑わしいところがあり、ハッキリと四月十九日生れと断定はできない。もしM病院にカルテでも残っていればと思うのだが、カルテどころかM病院自体が戦前に廃業してしまったし、H叔母も数年前に亡《な》くなった。父や母は勿論《もちろん》とうの昔に死んでいるから、私の正確な出生月日は調べようがないのである。念のために当時、山北村にいた従兄《いとこ》たちにも訊いてみたが、彼等の大半はまだ幼くて、私の生れた月日など憶えているわけもなかった。ただ、一番年長の従兄は、 「おツネ叔母さんが、生れたばかりの赤ん坊(つまり私)を抱いて山北へ帰ってきたときのことは憶えておる」  といった。何でもその時、母は高知から自動車で帰ってきたが、山北村には自動車というものがやってきたことはなかったので、村の子供たちが大勢、自動車のまわりを囲んで見物した、というのである。 「あの時は夜になって、小雨が降り出した。わしは子供心に憶えちゅうが、ヘッドライトの中で雨の粒が光るのが不思議でねえ、最初それはホタルじゃろうかと思うたが、ホタルにしちゃ時期が早いし……」  私は、こんな話は、これまで母からも誰からも聞かされたことはない。母は高知からハイヤーで帰って来たとすれば、若干は得意な気持もあったろうし、忘れるはずもないのだが、そんなことを私に話してくれたことは、一度もない。ただ、従兄の話は、それなりに実感があり、とくにへッドライトの光芒《こうぼう》の中で細かな雨の舞っているのがホタルのように見えたというのは、いかにも当時の農村の豊かな自然の環境が伝わってくる話だ。そして私自身、赤ん坊の頃にこの不思議な春のホタルを見たような気分に、ふっと引き込まれそうになるのである。  夕陽《ゆうひ》の河岸  孤独とは、つまり年とって周囲に自分と同じ年頃《としごろ》の者が少くなり、話し相手もいなくなるといったことだろう。しかしもっと端的にいうと、それは自分自身が内面から痩《や》せて稀薄《きはく》になってくるのを自覚させられることではないか——。そんなことを私は、秋の日の傾きかけた河原を歩きながら何げなくつぶやいた。すると、とたんにGの姿がマボロシのごとく眼《め》の前にあらわれた。  Gは短い騎兵銃を背にかけ、馬に乗り、長剣の鞘《さや》を鞍《くら》の右側に吊《つ》るして、こちら向きに立っている。馬の脚のへんはススキの穂や茅《ちがや》の葉に隠れて見えないが、白い鼻筋がとおり鼻穴のふくらんだ顔は鮮明に見えた。小首をちょっとかしげた恰好《かつこう》は、こちらから眺《なが》められていることを意識したような、一種の媚態《びたい》が感じられる。昭和の初め頃までは東京でも荷馬車が多かったから、あっちこっちの空地によく馬がつながれており、子供たちのなかには、そういう馬の腹の下をくぐり抜けて見せる連中もいた。馬の下をくぐり抜けてきた子供はまるで温い空気に包まれたトンネルのようであった、と言う。また、馬の鼻に触って、何ともいえず柔いことを言う子もいる。ふたつの大きな穴、その穴のふちが、ほんとにやわらかいのだという……。これはしかし、ある詩人が生い立ちを語った文章中で述べていたことで、私自身は馬の下をくぐったこともなければ、鼻に触ったこともない。ただ、眼の前の馬はその鼻先きに触ったらどんなに柔かいかと思うほどハッキリとわかるのに、かんじんのG自身はピンぼけの写真のように顔から全身にかけてがぼんやりとして、なんだか往《ゆ》き暮れたような感じがする。 「おいG、おれだよ、Yだよ」  私は、そう呼びかけようとしたが、Gはそれを待っていたかのように後向きになって、馬とともに姿を消した。あとには一面、黄ばんだ日を受けたススキの穂が波打って、その向うに砂利石だらけの川床が拡《ひろ》がっているばかりである。それにしても、おれもまた何でいま頃、Gのことなんか憶《おも》い出すのだろう?  Gは早生れだから、遅生れの私より一つ年下だが、学齢に達したのは同じ昭和二年である。もっとも、私たちは同じ小学校に上ったわけではない。私は朝鮮京城のN小学校というのに入り、その後あっちこっちと地方の小学校を転々としたが、Gは東京のT師範附属小学校に入ると、そのまま一度も転校せず、成績も毎年優等をつづけたらしい。そんな私たちが、どうして子供の頃に知り合っていたかというと、二人とも両親が土佐人で、父親は軍人、そして母親は同じ女学校の同級生という間柄《あいだがら》だったからだ。  私の父親は転任が多かったが、Gの父は体を弱くしたとかで、ずっと東京で旧制高校などの配属将校をやっていた。私の父が東京へ転任になったのは昭和五年で、それから一時、前任地の弘前《ひろさき》へ戻り、翌年にまた東京へ出てきた。私が母に連れられて最初にGの家に遊びに行ったのはいつ頃のことか、記憶はさだかでない。当時、Gの一家は新井薬師というところに住んでおり、私は山手線の目白か池袋で下りたように思う。その頃、山手線の電車にドア・エンジンがついていたかどうか、これもはっきりとは覚えていない。但《ただし》、東京で初めて東横電車に乗ったとき、電車が駅に着くと扉《とびら》が自動的にひらき、またひとりでに閉って、電車が勝手に走り出したのには、じつに驚いた。もし電車が目的の駅についたとき、扉があかなかったり、あいても自分が下りる前に閉ってしまったらどうなるか? 考えると私は、非常に恐ろしくなり、隣にいる母の袂《たもと》を思わずシッカリと握りしめた。  Gの家へ行ったときの山手線の電車では、べつにこんなことで驚いたり脅《おび》えたりした記憶はない。ただ、何となく暗く陰気な感じはした。もっとも、その頃の東京は私にとって何処《どこ》も大抵は暗かった。麻布《あざぶ》、青山、玉電通りの大橋、三宿、三軒茶屋、いまは明るくシャレた店などが並んでいる町々が、その当時はみんなジメジメと煎《せん》じ薬の漂うような、陰気臭いところに思われた。だから、Gの住んでいた新井薬師のまわりだけがとくに暗かったわけではない。それにしても、Gの家族は男ばかりの三人兄弟で、女の子が一人もいない。それで子供心にも、家全体が黒っぽく燻《くす》んだように思われたのかもしれない。  しかし、一人ッ子の私から見るとGの家は燻んでいる半面、賑《にぎ》やかなところもあった。とくにGはそうだ。Gがいるときと、いないときとでは、家の中の空気がまるでちがう。あれは初めてGの家へ行ったときであったろうか、夕方ちかくにGは学校から帰ってくると、いきなりきょう学校で『進め、龍騎兵』のレコードをきいて感激したという話をはじめた。それはじつはズッペの『軽騎兵』序曲のことなのだが、そのレコードなら私の家にもあった。 「そうか、君は知ってるのか。いいな、あれは」そう言ってGは、そのメロディーを口ずさんだ。「チャンガ、チャンガ、チャンガ、チャン……」  しかし、それは明らかにリズムも音程も違っていたので、私は訂正した。 「チャンチャカ、チャンチャカ、チャンチャカ、チャンカチャン……だろう」 「そうか、わかった」と、Gは素直に応じた。「チャンガラ、チャンガラ、チャンガラ、チャン……」 「そうじゃないよ、チャンカチャンカ、チャンカチャンカ、だよ」  だが、いくら言っても効果はなかった。Gは、一層大きな声をはり上げて、「チャンガラ、チャンガラ」と歌いながら、そのへんを跳ねて踊りはじめた。 「ショウちゃん、やめなさい」  Gの母が叱《しか》った。Gの名前は正三郎で、その呼び名は私も同じ「ショウちゃん」なのだ。私は一瞬、自分が咎《とが》められたのかとドキリとしたが、Gは一向に平気で、「チャンガラ、チャンガラ」と、ますます大きな声で歌い出す。そうなると私は、『軽騎兵』とは似ても似つかぬヘンな節廻《ふしまわ》しのその歌がおもしろくなって、Gと一緒に「チャンガラ、チャンガラ」と歌いながら、畳のへりを踏んで部屋の中を踊りまわった。  Gは、三人兄弟の真中に生れた。それでどうして名前が正三郎なのか、考えたこともなかったが、おそらくそれはもう一人いた兄が赤ん坊の頃にでも亡《な》くなったためだろうか。どうでもいいような話だが、Gにとってこれはどうでもいいとは言い兼ねることだったかもしれない。「如何《いか》なる星の下に生れけむ、われや世にも心よわき者なるかな。暗にこがるるわが胸は、風にも雨にも心して、果敢《はか》なき思ひをこらすなり……」高山|樗牛《ちよぎゆう》のこんなうたを、Gは無論、読んだことも聞いたこともなかったろう。だが私は、その後のGのことを考えると、この文句を何となく想《おも》い浮べてみたくなる。いや、Gが三人兄弟の次男に生れたこと自体は、何も「如何なる星の下に生れけむ」というようなものではない。ただGは、謹厳実直そのもののような兄や、一般に甘やかされがちな末っ子の間に挟《はさ》まれて、何かと叱言《こごと》ばかりいわれる損な立場にあったことはたしかだろう。  そんなことをGが直接、私たちに訴えたりしたことは勿論《もちろん》一度もなかった。ただ、Gの家と親しく附き合っているI夫人は、私の家へ遊びにくると、よくGの母がGのことを叱ってばかりいるという話をした。 「なぜあんなに怒るのかしらねえ、ショウちゃんのこととなるとあの人は、本気で箒《ほうき》を持って家じゅう追いまわしたりするんだから。ショウちゃんは、勉強だってあんなに良く出来るのに、こんども組で一番、学年で二番ですってよ……」  金縁眼鏡をかけて、冬などキツネの毛皮の襟巻《えりま》きを掛けたりしてくるI夫人が、母と二人でそんなふうに話しているのを、私は何度となく耳にした。しかし私は、そういう話には興味がもてない、という以上に自分にとって何やら不吉な、不気味な心持のするものであったから、近くの原っぱへ遊びに行ったりして、なるべく傍《そば》を離れるようにしていた。私はその年の春に弘前から出てきて、青山のS小学校というのにかよっていた。その学校ではまだ五年生だというのに、もう六年生の課業をやっており、宿題も山ほど出るので、私は学校へ行く気がせず、毎朝ランドセルをしょって家を出ると、青山墓地をぶらぶらして、一人で弁当を食って帰ってくるという具合だった……。そういう私から見れば、T師範の附属で毎年、一、二番の成績をとっているというGは、それだけで眩《まばゆ》いばかりの存在であり、そんなに学校が良く出来るのなら、家で母親にうるさく叱言をいわれるぐらい、べつにIの小母《おば》さんが同情したり心配したりすることないじゃないか、という気がしてくるのだ。  それにしても、家に遊びに行くと、「チャンガチャンガ」と騒ぎながら私などと一緒に座敷じゅうを駆けまわったりするGが、学校へ行くと成績優等とはどういうことか? 私は、学校で秀才といわれるような連中には裏表を巧みに使い分ける手合いがいることを、子供ながらに承知していた。しかし、Gがその手の猫《ねこ》っかぶりでないことは、あきらかだった。むしろGは、学校では出来の悪い劣等生とばかり遊んで、優等生仲間には入ろうとしない、そんなたぐいの秀才なのではないか。そして多分、そういうことでもGは、母親から気に入られなかったのかもしれない。  かんがえてみると、学校で良く出来過ぎるということは、Gにとって不幸のタネだったのかという気もする。実際、Gの兄や弟も、やはり相当の秀才ではあったが、Gほど抜群の成績ではなく、むしろコツコツと勉強する並みの優等生タイプで、それだと却《かえ》って家で母親から年じゅう叱られるということはない。  といっても私は、Gの家庭の内情をそんなにくわしく知っていたわけではない。大体、六年生に進級する頃から受験準備が本格的にはじまって、私も家庭と学校の双方からキビしい監視下におかれると、ズル休みをすることも殆《ほとん》ど不可能になった。当時から進学競争は激烈で、毎週日曜日には外苑《がいえん》の日本青年館や青山通りの青山会館、その他あっちこっちで模擬試験というのをやっており、東京じゅうの小学生が集ってそれを受ける、その成績があとで氏名や学校名とともに発表されるから、学校も家庭も夢中になって子供の尻《しり》を叩《たた》き、良い点を取らせようとする。その頃、学校の先生が口癖のようにいっていた言葉を、私はまだ覚えている。「来年三月、お前たちの一生を左右する運命の日がやってくる。その日までは他のことは忘れて一所懸命勉強しろ」  そういわれると、子供たちも真剣にならざるを得ない。そうか、一生を左右する運命の日か、と。無論、人の一生は中学校の入学試験ぐらいで左右されるわけはない。そんなことは、小学校の先生にだってわかってはいただろう。ただ、彼等も周囲から煽《あお》られると、競争の渦《うず》の圏外に立ってはいられず、いったん渦の中に巻き込まれると、知らず識《し》らず入学試験こそ人生競争の最初で最大の関門だと、本気で信じこむようになるのかもしれない。  私自身は、それほど熱心に勉強したという覚えはない。その年の夏はロスアンゼルスのオリンピックがあり、日本が四百メートル自由型を除く水泳の全種目で優勝したこともあって刺戟《しげき》されたわけでもないのだが、近所の子供たちと二子玉川園のプールに毎日泳ぎに通ったりして、夏休みの宿題も八月末日に徹夜で母親に手伝って貰《もら》ってやっと片づけるといった具合だった。そんなわけで、私は少しも勤勉ではなかったのだが、G家とわが家は母親同士、息子の入試がすむまではという取極めでもあったのか、以前のように往き来することはなくなり、Gのことを私は忘れるともなく忘れていた。  しかるに翌年三月、試験の季節も終り、私は某公立中学に入れて貰えることになってホッとしていると、I夫人がやってきて、「お宅はよかったわね、Gさんのところは大変よ」と言った。  その頃、秀才連中は大抵、官立のT高校か私立のM高校、どちらかの七年制高校尋常科へ行くことになっていた。それをGは、両方受けて両方とも受からなかった。それだけでも意想外の事態だったが、もっと驚いたことに、滑り止めのつもりで受けた公立のI中まで落ちたという。私立中学には何処へも願書を出しておらず、A中、K中などの有名校をはじめ、殆どが受附けをシメ切っていたが、ようやくW中学だけが受け入れてくれたので、そちらへ行くことになったというのである。  一体、どうしてこんなことになったのだろう? これは私などが、いくら考えたってわかることではなかった。誰よりもG自身にとって、それは不可解というしかない出来事であったろう。ただ私は、このGの受験の失敗をきいて、学校で耳にタコのできるほど聞かされてきた「一生を左右する運命の日」という言葉を初めて実感でうけとめ、恐ろしい気がした。  そんなことがあって以来、私はGから遠ざかった。無論、私はGに同情したが、Gのところへ出掛けてどんな話をすればいいのか、慰めの言葉も想いつかなかった。大体、私がGを慰めるというようなことは、それ自体、何やら架空に思われるほどヘンなはなしなのだ。しかし、その頃、本当に動転し、気を滅入《めい》らせていたのは、GよりもGの母親の方であったのかもしれない。Gは生れつき暢気《のんき》なところがあって、落ちるはずのない試験をたてつづけに三つも落ちて、当座は気落ちがしていたとしても、同じことをいつまでも苦に病む気性ではない。せいぜい一週間もすれば、案外ケロッとして何ごともない顔つきになっていたのではないか。だが、ふだんから余り明るいとはいえないGの母は、ますます暗い眼を落ち込ませて、一日じゅう溜《た》め息《いき》ばかり吐《つ》いていたかと思われる。  いずれにしても、こういう陰鬱《いんうつ》な状態はそう長くは続かなかった。その年の秋、Gは陸軍幼年学校の試験を受けて、これは一ぺんで合格し、翌年四月から東京戸山ヶ原にあった同校の寮に入ってしまったからである。そのとき私の中学の同級生が一人、幼年学校を受験して落ちた。幼年学校は、以前は全国に三つも五つもあったというが、当時は東京に一校しかなくなり、定員百二十人のところへ全国から六千何百人の志願者が詰めかけたと、その頃《ころ》「少年|倶楽部《クラブ》」に連載されていた山中|峯太郎《みねたろう》の小説『星の生徒』に出ている。つまり、五十何人に一人の倍率になる。応募者の年齢制限は満十三歳から十四歳、中学の一、二年生までだ。Gは中学一年で、おまけに早生れだから、同期生のなかで最年少であった。またW中から幼年校に合格したのは何十年ぶりとかのことであったという。  一方、私は某公立中にせっかく入れて貰ったものの、そこでの成績は忽《たちま》ちビリであり、素行も良くないとあって、三学期の初めからA町J寺の住職で中学では国漢を教えていたH先生の家に預けられることになった。そんなわけで、本来ならすぐにGのお祝いに行きたいところだったが、なかなかその暇がなかった。幼年学校は生徒全員、兵舎と同じ寮で寝泊りして、日曜日だけは外出を許されるが、夕刻五時までには帰校して点呼を受けなければならない。ところが私の方は、平日はお寺から学校へかよい、日曜日には朝から寺の境内や墓地の落葉を掃除したり、何や彼《か》や忙しい。おまけにその頃、私の父はまた地方に転任になり、母もそちらに同行して、私は夏冬の休みの他には自分の家に帰ることさえ出来なくなり、Gを訪ねることは一層むつかしくなった。  私がようやくGを新井薬師の家に訪ねたのは、昭和十年の夏の終りか秋の初め——もはやGが幼年学校に入学して一年半近くもたってからだ。私がこの前Gに会ったのは小学校五年のときで、いまは中学三年生なのだから、じつに四年振りで顔を合わせたことになる。そうでなくとも、子供から大人に移り変る年頃で、声がわりがしたり、精神的にも肉体的にもいろいろ変化のある時期だ。しかし、それにしては、Gは四年前の小学生の頃と変りなかった。勿論、背は伸びていたし、毬栗坊主《いがくりぼうず》に頭を刈った顔も少しはゴツゴツした感じにはなっていたが、全体から受ける印象は、子供のときのGがそのまま続いているようだった。  母はGの母と茶の間で話しており、Gと私は窓際《まどぎわ》の籐椅子《とういす》に坐《すわ》っていた。Gはカーキイ色のラシャ地のズボンをはき、それをバンドでなくズボンと共色の紐《ひも》で括《くく》っているのが、軍隊式のやり方らしかった。ところで、私たちはどんな話をしたか、覚えているのは、山中峯太郎の『星の生徒』は本当のことが書いてあるのか、と訊《き》くと、「まァあんなもんだよ」と、Gが前歯を二本、覗《のぞ》かせて笑ったことと、これから士官学校へ行ったら、兵科は何を選ぶつもりだ、やっぱり騎兵かい、と昔『軽騎兵』序曲をうたって騒ぎまわったことを憶《おも》い出しながら訊いたら、 「おれは馬が好きだから騎兵はいいんだが、これからはやっぱり航空の時代じゃないのかなァ」とこたえたあとで、「でも、わからないよ。兵科をきめるなんて、ずいぶん先きの話なんだから」  と、ぽつりと言ったGの顔が急に大人びて見えたことだ。あとになって考えると、それが何やら淋《さび》しげなものに感じられたような気もするが、そのときの印象では何よりもGは家をはなれて幼年学校で暮らすことに満足している様子であり、そのことが私には羨《うらや》ましいような、ほっとしたような心持であった。  もっとも、幼年学校の生活がそんなに楽しいばかりの所であるはずはない。ただ、当時の私には、他人の暮らしは何であろうと愉快げなものに思われたものだ。軍関係の学校では全校生徒に日記を書かせたものらしく、Gの日記も残っているので、その一部を左に引用してみる。   昭和九年 四月一日  今日は、我々の幼年校の入学式が行はれたり。ごた/″\してゐる間に昼になり、昼食におもむく。お赤飯で非常にうまかつた。夜七時よりM大尉《たいゐ》殿から色々の話がありたり。   四月三日  神武天皇祭によつて休日、入校後始めての外出に喜び勇みて外出す。俺《おれ》は土佐県人会に出席す、外出は校内より出《い》で新鮮な空気を吸ひ、又は父母及び親類の者に会ひ安心させるものなれば、僕も父母に会ふために家に帰りたり。一週に一度の外出は一つは自ら浩然《かうぜん》の気を養ふに足るものなり、私は外出を最も好む。   四月八日  外出だ。嬉《うれ》しさ一通りでなし。Iさんの家に行きたり。午後の飯は非常にうまかつた。自習の時、大声で話してどやされたので、ふるへ上りたり。外になし。   四月二十一日  初めて取締生徒になる。あまりの忙しさに目が廻るやうなり。この忙しい間に自分の事をすることによつて、軍人精神が養はれると云《い》ふことを知りたり。午後二時より清潔検査を行ひたり。   四月二十二日  外出なり。直ちに自宅に帰る。日夕点呼後、指導生徒より大いにどなられる。第一、誠心がないことだ。これによつて私は大いに恥ぢ、心を改めた。   四月二十三日  軍歌あり。軍歌後、上級生を嘲《あざけ》つた者があるとのことで暫《しばら》くの間、立たされたり。これによつて大いに改めんと決心したり、上級生上官の命を守ることを。   四月二十四日  日夕点呼後、又も注意せられたり。自分は十分注意して居るつもりでありますが、致し方ありません。  このようにGの日記は——とくに入校当初の部分は——もっぱら外出の愉《たの》しみと、あとは宿舎で、怒られたり、どやされたり、どなられたり、立たされたり、注意されたり、とそんなことばかりが書いてある。つまりGは、家にあっては母親から、幼年校内にあっては上級生や上官から、日常不断、箸《はし》の上げ下ろしに叱《しか》られていたようだ。これで見ると、彼は何も三人兄弟の真中に生れてこなくとも、性分として目上の人たちから怒られ叱られるような宿命を負わされていたかの如《ごと》くである。  入校後、最初の日曜日、神武天皇祭につぐ二度目の外出の日に、GはIさんの家に行って、昼飯ご馳走《ちそう》になり、非常にうまかった、とあるがこの「Iさん」は、金縁眼鏡のI夫人のことである。I夫人がかねてからGに対して同情的であったことは前にも述べたとおりだ。また日記には出ていないが、I家には年頃の娘さんが二人いて、姉妹そろってなかなかの美人であった。そこへ新しい『星の生徒』の制服をまとって遊びに行くGの心中を想《おも》えば、「嬉しさ一通りでなし」というのも当然であろう。  軍隊内では、書簡や日記は普通、教官なり生徒監なり監督者の検閲を受けることになっており、この日記も当然、訓育班の誰かが眼《め》を通したものにちがいない。しかし、それにしては素直に思ったままのことが書けているようだ。長年、一高で教官をやっていた竹山道雄氏は、幼年学校を視察して、「まるで学校というより監獄のようだ」と述べている由《よし》。たしかに徹底的な自治制を敷いている一高などの寮からみれば、幼年学校はその対極のようなところだから、まさに格子《こうし》なき牢獄《ろうごく》とも見えたであろう。ただ、私たち一兵卒が中隊内務班で受けた扱いから見ると、Gたち幼年学校生徒が監獄の囚人のような待遇であったとは到底思えない。無論、彼等も二六時中規律にしばられて、きびしい管理下におかれてはいただろうが、それは将来国軍の中枢《ちゆうすう》を担《にな》う幹部としての教育をほどこされていたもので、赤紙で召集された一般の初年兵とは当然のことながらワケがちがう。Gが、しょっちゅう叱られてばかりいたと言いながら、そのことをこれほど率直に書けるのは、逆に気分的にはそれだけ解放されていた証拠で、要するに彼等はエリートの卵として民間庶民の青少年の遥《はる》かに及ばぬ保護を受けて育てられていたわけだ。  Gは、幼年学校入校の翌年から毎年、夏休みには殆ど八月一杯、一と月ちかくも土佐に帰省している。日記にも第一回目の外出日に「土佐県人会」なるものに出席したことが出ているが、これは私には意外であった。大体、Gは両親とも高知県出身だが、G自身は生れも育ちも東京だった。幼年学校でも、隣に熊本出身の生徒がいて肥後ナマリで話しかけると、それをGが歯切れのいい東京弁で冷やかすのを口惜《くや》しがり、「喧《やか》ましいが、あっちさん行け」といったら、Gは「うん行くよ、熊襲《くまそ》なんかまっぴらだい」と切り返して、二人は取っ組み合いの喧嘩《けんか》になったという話もある。そんなGが土佐県人会に出席したり、何かというと「おれは土佐人だ」と言っていたというようなことを聞くと、これはやはり幼年学校の教育のせいだろうかという気もする。つまり、愛郷心はパトリオティズムの基盤だからだ。  しかし、Gが土佐へ帰って父母の生家の人たちとハイキングに行き、飯盒《はんごう》めしの炊《た》き方を皆に教えたりしていたということを聞くと、その頃がGの最も幸福な時期ではなかったかと思われる。  無論、当時はすでに非常時と呼ばれる時代だった。満州事変や上海《シヤンハイ》事変など、宣戦布告のない戦争がつづき、日本は国際|聯盟《れんめい》を脱退して軍備拡張をすすめていたから、情勢は甚《はなは》だ不穏であった。にも拘《かかわ》らず、私たち個人個人の生活には、まだその不穏なものは直接暗い影を落してはおらず、かえって事変前より景気がいいだけ空気はノンビリしていたかもしれない。Gが幼年学校二年生を了《お》えようとする頃、二月末の大雪の朝、二・二六事件が起った。  遺《のこ》されているGの日記は、その年、一月五日(日曜日)からイキナリ三月十七日(火曜日)にとんでいるので、二・二六についてのG自身の感想や校内全般の反応など、いっさいわからない。ただ、事件後、二週間ぐらいたって校内の講堂で、教官から事件についての訓話があった模様で、その際、今回の不祥事は「私《わたくし》に兵を動かしたもので統帥《とうすい》権の干犯であり、その罪は極めて大きい」と述べたらしく、そのことを簡単に伝えた記事が他のところに見えるだけだ。何にしても、「統帥権の干犯」という言葉を使って二・二六事件をこんな風に批判しているところを見れば、当時の幼年学校が決してそれほど非常識なことを教えるところではなかったことがわかる。  当時、私たちの中学校でも柔道や体操の教師が生徒を叱るのに、やたらに「それはトースイケンのカンパンじゃ」という言い方をしたが、私たちには単に不吉な感じがするだけで何のことやら少しもわからなかった。せめて幼年学校の教官のように、部下の兵隊を自分の都合で勝手に動かすのは統帥権をみだすものだとでも言ってくれれば、もっと簡単にわかっただろうに……。その後、軍部はことあるごとに「統帥権の干犯」を持ち出し、それを言われると、どの首相も元老も金縛りにあったように動けなくなって、内閣を投げ出すか軍部の言いなりになる他、失《な》くなった。こうして「統帥権」は一般国民には不可解なままに、もっぱら軍部の護符に使われ出した。  ところで、この頃からGの日記は、空白のページが多くなる。二・二六の前後の頃の空白は、検閲で見咎《みとが》められることを惧《おそ》れたものかとも考えられるのだが、それ以降も、幼年学校在学中は春、夏、冬の休暇中を除いて、やたらに空白の部分や、お座なりの文句が多く、何か書いてあるところも、いやいやながらインキをなすりつけただけになる。これはなぜだろう。別段、二・二六で軍人という職業に疑問を生じたわけでもあるまいが、彼自身の内心に隙間風《すきまかぜ》の吹いてくるようなパサパサした気分のうつろいが感じられる。入校当初や一年生の頃には、毎日のように上級生や上官から、どやされたり注意されたり、あるときは枕元《まくらもと》の棚《たな》の整頓が悪いというので箱の中のものを全部引っ張り出されて、寝台の上に見せ物のようにひろげられたりもする。しかし、そんなことを述べたところも文章は快活で、充実した生活振りが感じられるのだ。それが二年生から三年生にかけて、日記の空白な部分が増えるにつれて、朝起きてから夜寝るまでの判で押したような生活の繰り返しが、ヤリ切れないほど鼻についてくる、そんな有様が無言のうちに日を追って強く感じられるようになるのだ。  私が新井薬師の家にGを訪ねたのは、二・二六事件の前年の夏の終りか秋の初めだったが、あの頃のGはまだ家を離れた生活に解放感を覚えているようだった。しかし、あのあと次第に家庭の空気が恋しくなってきたもののようだ。そして二・二六のとしの年末の日記では、こんなことを述べている。   十二月二十五日 金曜日  大正天皇祭、午前七時三十分、服装検査あり。暫時《ざんじ》の後、帰宅せり。年末なれば家中騒然たり。学校より家の好きな事は言ふ迄《まで》もないが、家には父あり母あり兄あり弟ありて、一家|団欒《だんらん》の快楽あり。人の情の最も強く働くは、骨肉の関係に於《おい》て然《しか》り。されば人は、故郷を愛し、家庭を愛し、父母を敬ひ兄弟を愛す。されば、家に帰りし時の気は又格別なり。先《ま》づ一家の健康を祝す。  Gが日記でこんなに率直に家庭を讃美《さんび》し、父母兄弟への情愛を語ったものはこれまでにない。  想うにGは、年少の頃から無意識のうちにも家庭内でつねに疎外《そがい》感を抱いていた。私が初めてGの家に連れて行かれた日に、「チャンガチャンガ」と狂躁《きようそう》的にさわぎまくったのも——私自身もつられて一緒に騒いだのだが——考えてみれば愛情に飢えていたせいかもしれない。前にも述べたようにGの兄も弟も秀才で、その頃、兄は東大に、弟はI中に進んでいたが、自分だけは入試に失敗したため幼年学校に入れられた、と或《ある》いはそんなふうに考えることもあったのではないか。事実、Gの家は父が軍人であったにも拘らず、兄も弟も軍関係の学校には行かず、G自身ももし、七年制高校に合格していれば当然、幼年学校などへ入るはずはない……。それが、「学校より家の好きな事は言ふ迄もないが、家には父あり母あり兄あり弟ありて、一家団欒の快楽あり。人の情の最も強く働くは、骨肉の関係に於て然り」と書くようになったのは、その頃《ころ》からGが、家庭での疎外感やヒガミから抜け出すとともに、職業軍人の道を選んだことについても迷いや悩みがなくなって、だんだん覚悟がきまったことを示すものではないか。  僅《わず》か満十五歳の少年が、親許《おやもと》をはなれて暮らすうちに、こんなふうに我執を棄《す》て、自分自身を見詰め直して、父母兄弟、骨肉の情に思いをいたすようになるというのは、その健気《けなげ》さに心を打たれると同時に、ふと可哀《かわい》そうな気もしてくる。実際、Gはこの頃から勤勉になり、日記も殆ど毎日シッカリとつけるようになるのだが、こうした変化は単に精神的に落ち着きが出来たという以上に、何か�死�の予感といったものが心の何処《どこ》かで働いていたのではないか——。この予感は、Gよりも先ずGの父に当る。翌年四月、Gは幼年校から陸士の予科に進学するのだが、その直前、Gの父は、突然吐血して発病、その年の秋に亡《な》くなるのである。  しかし、じつはG自身も陸士進学の際、身体検査で胸部に多少|危惧《きぐ》されるところがあったらしく、「軍医正殿よりボロクソに言はれたるは残念なり」としるしている。さらに三日後におこなわれた体力テストでも、投擲《とうてき》、懸垂、巾跳《はばとび》、早駈《はやが》け等、すべてにおいて幼年校二年生のときより成績が悪く、「然も疲労も甚《はなはだ》し、長き休暇の後なれば体力消耗せるならん」と、本人は簡単にかたづけているが、これはやはり休暇で体がナマっていたというようなことではなかったようだ。だが、この年七月には蘆溝橋《ろこうきよう》で日中両軍が衝突してシナ事変がはじまっており、それにともなって士官学校も生徒の大増員に踏み切って、八月に八百名、十一月には二千二百名という大人数が入校してきた。ふだんは毎年四月に四、五百人程度、Gの入ったこの四月には倍増して千人余りを入れたばかりである。教育年限も、これまでは予科が二年間であったのを、Gのときは一年二ヶ月、八月入校者の場合は僅か十ヶ月に短縮された。そんなだから、Gが身体検査で若干疑わしいところがあったとしても、軍医も詳細な追跡調査をおこなうまでは手が廻《まわ》りかねたのであろう。  何にしてもGは、翌昭和十三年六月、陸士予科の課程を了え、いったん士官候補生として三ヶ月ほど部隊勤務についたあと、士官学校本科に進む頃、急死をとげた。  私が、Gの死をきいたのは多分、二、三ヶ月たってからである。その年八月、私の父も出征、中支に派遣されることになって、私はその父を見送りかたがた土佐へかえり、父母の生家を訪ねていた。東京の家に戻ったのは九月の半ば頃ではなかったろうか。当時、私は中学を出て浪人一年目の受験生で、予備校にかよっていたが、受験勉強には身が入らず映画館がよいの方が忙しかった。そんな私にとって、じつのところ現役の士官候補生Gは、遥かに遠く隔った世界の存在になっていた……。あの日は地方から来た予備校仲間の友人のアパートで、へたな麻雀《マージヤン》をつき合って徹夜になり、翌日昼頃、呆然《ぼうぜん》と家に帰ってくると、あの金縁眼鏡のI夫人が来ていた。私は、ズル休みばかりしていた小学生の頃から、この夫人と顔を合せると、なぜか自分の悪事が露見しそうな枉《まが》まがしさを覚えさせられる。その日も、玄関の土間にエナメル革の草履が脱いであるのを見た瞬間、あ、Iさんだ、と私は胸に重いものを感じ、そそくさと階段を上って二階の自分の部屋に入ろうとしたが、母に呼びとめられて、I夫人に挨拶《あいさつ》だけでもしておきなさいと言われ、座敷に顔を出した。そこで私はI夫人からGの死を知らされた。 「騎兵の突撃演習で、突っ込んだときに、うしろからきた同期生の馬が蹴躓《けつまず》くか何かして、その拍子《ひようし》に、その人の剣がショウちゃんの背中から胸まで突き刺さったんですと……」  騎兵は全員が長剣を帯びており、突撃のときは、その刀を右手で腰にシッカリと構え、左手に手綱をとって馬を全速力で駆けさせる。映画などで見ると、それは最も勇壮な場面だが、騎馬の集団の中の一騎が躓けば、その前列にいる者には非常に危険なことになる。しかし私は、そのときはI夫人の話を半分うわの空で聞いていた。それに、Gの家の人達も、このことにはあまり触れられたくない様子だった。Gの死んだ翌年、私はまだ浪人していて、東大生で高文の試験を了えてヒマの出来たGの兄に、しばらく勉強を見て貰《もら》うことになったが、そのときも母がGのおくやみを言うと、 「いや、正三郎もあんなことになりまして……」  と、Gの兄は、アッサリと受け流すように言っただけだった。それでこちらも、これについてはあまり立ち入って訊《き》くことが憚《はば》かられるような気がした。つまり、それほどこれは痛ましい事柄《ことがら》だったにちがいなかった。  去るものは日々にうとしという。しかし私は、Gのことを寧《むし》ろいま頃になって、しばしば憶《おも》い返すようになった。人は晩年になると運不運の羈絆《きはん》から逃れようもない存在であることを、誰しも認めざるを得なくなるからでもあろうか。  Gの死は、一種の交通事故と考えれば、いつの時代、どんな世の中でも、似たようなことは起り得るものかもしれない。それにこんどの戦争では、Gの陸士同期生は殆《ほとん》ど半数近くが死んでいるし、職業軍人でない私の中学の同級生でさえ戦争が済んでみると、病死を含めて、三分の一ほどが亡くなっていた。ただ、Gの場合、私は子供の頃からよく知っているだけに、彼の非業《ひごう》の死を単なる偶然ではすまされない何かを感じずにはいられない。そんなこともあって私は、もう十数年も前に出た『陸軍士官学校』という写真集を、この頃になって、また何ということもなしに繰り返して見るようになった。彼の死んだのが相模原《さがみはら》近くの練兵場であるとすれば、いま私が朝夕散歩に出掛ける多摩川河川敷の草叢《くさむら》と何処か似通ったところがあるのではなかろうか、などと……。そんなふうに私は、写真のページは何べんも引っくりかえして眺《なが》めていたのに、そのうしろに着いていた明治元年以来の年表の方は、シラミのように小さな活字で組んであるのが面倒で、つい眼《め》を向ける気にもなれなかった。それを先日、ふと読んでみて愕然《がくぜん》とさせられた。   昭和十三年(一九三八)  第五一期歩兵生徒O、七月六日、相模川における歩工連合演習中、事故死。第五三期騎兵生徒S、九月八日午前六時、相模原演習場において襲撃演習中負傷、午前八時五分死亡。  私は、老眼鏡の上に天眼鏡を重ねて、微細な文字の文章を何度も読み直した。この「騎兵生徒S」とあるのは、Gの間違いではないか。しかし、どう見直しても、それはSであってGではない。私は念のために、この写真集の編集協力をしている偕行社にゆき、このことを問い合せた。すると相手は、事故死した騎兵生徒はSであってGではない、と明快にこたえ、そもそもGは野戦重砲であって騎兵ではない、というのである。私が落胆しているのを見てとって、相手のF氏は言った。 「しかし、あなたもよくGを覚えていてくれましたね。大体、皆よく間違えるんですよ、じつはSもGも私も、幼年学校から同期でロシヤ語班の二十五人しかいない同じ組でした、そのGがSより十日ほど前の八月二十六日、世田谷の第二陸軍病院で死んでいるんです。これは事故ではなくて病死ですが、やはり演習直後の急死でしたから、あなたがGとSの死因を混同されたのも止《や》むを得ないと思いますよ」  F氏は、同期生が昭和十四年につくったというSとGそれぞれの追悼集を見せてくれた。まだシナ事変の初期は物資も豊富だったからでもあろう、両者とも菊判布装表紙の立派なものだ。私は、巻頭に出ているGの幼年校制服姿の肖像を見た瞬間、胸を突かれるおもいがした。パッチリした眼やふくらんだ頬《ほお》、多少寸づまりの鼻に引き緊《しま》った口許、少年時代のGを眼の前に見るようだ。しかし意外なことに、その可愛《かわい》らしい顔はよく見るとGの母親にそっくりなのである。あの陰鬱《いんうつ》だったGの母と明るいGとの間に、どんな共通点があるのかわからないが、とにかくこの二人はよく似ているのだ。  Gは、近衛《このえ》騎兵になりたいと言ったり、航空将校を熱望したり、志望兵科はいろいろと変るのだが、父親が亡くなってからは結局砲兵を志願して、それが入れられた模様だ。昭和十三年六月、士官候補生として野重八|聯隊《れんたい》に入隊。富士や千葉県各地で観測演習その他に連日激しい訓練を受けていたが、三ヶ月の隊附きを修了後、相模原の陸士本科に進むに当って、八月二十一日から二十三日まで、在隊候補生一同で三浦半島一周の行軍に出た。行軍といっても途中で半日、海水浴などやったりして、骨休めのピクニック気分であったらしい。しかし、このとき実際はGの体力は限界にきていたようだ。帰隊すると高熱を発して、翌二十四日に入院。最初は肺炎の診断であったが、臀部《でんぶ》の傷から敗血症を起こし、二十六日一杯、危篤《きとく》状態をつづけて、二十七日午前一時に死亡、とある。  幼年校や陸士での教官や友人は沢山いたが、その殆どは訓練や帰省などで東京をはなれており、病院で三日間、枕許《まくらもと》にずっと附き添ってくれたのは母親だけであったらしい。見舞いに行った一人が病室を出しなに振りかえると「母堂がG君を覆《おほ》ふやうにして、何か話しかけてゐた」と、追悼集のなかで述べている。  このところ、めっきり日は短くなった。私はF氏から借り受けてきたGの追悼集を翌日も読みふけって、ふと気がつくと夕方になっている。一日に二度の散歩は欠かせないので、本を閉じるとそのまま外へ出た。日の暮れ切らないうちにと、急ぎ脚に多摩川まできた。土堤《どて》の上から眺めると、夕焼けの雲が川面《かわも》にうつって、古い木版画でも見るような美しさだ。河原では、まだ子供が走りまわったり、若い男女が連れ立って歩いたりしていたが、日はみるみる真赤になって、黒いススキの穂の影の間に落ちて行く。私は歩度を速めて河原をあるく。 「進め、進め、速射砲、前へ!」と、Gは譫妄《せんもう》状態のまま二、三度つづけて叫ぶように言ったという。  かと思うと、見舞いにきてくれた陸士の中隊長N少佐の顔を見上げながら突然、きっとした面持《おもも》ちに変って、挙手の礼をしたともいう。また、体をもがいて立ち上ろうとするのを母親と看護婦が二人がかりで懸命に取り押える場面もあった由《よし》。  それにしても私は、Gが騎兵の突撃演習中に胸を刺されて死んだなどと、いつ頃からそんなことを考えたのだろう。或いはI夫人が、「そういう死に方をする人もいる、それに較《くら》べればGのショウちゃんは病院でお母さんに看取《みと》られて死んだだけでも仕合せよ」とでも言ったのを、私は勝手に聞き違えていたのだろうか。夕闇《ゆうやみ》の河原を歩きながら、私は、自分が過去の中に生きていることを実際に感ずる。�過去�は薄暗い空気のように幾重にも積み重なって分厚い層になり、私をまわりから支えてくれる。しかしいま、こんなにも明らかな自分の記憶違いを知らされると、自分を取り囲んでいると思った過去が一瞬のうちに毀《こわ》れてコナゴナに雲散霧消してしまうようでもある……。黒いススキの穂先きだけが赤く焼けた空を背景に見えていた河原の景色が、急にひらけて川面が広く見えてきた。と、川から二人、黒い人影がやってくる。二人は四斗|樽《だる》ほどもありそうな、大きな白いビニールか何かのバケツのようなものを、ユックリとひどく重そうに運んできた。やがて私の少し手前で、そのバケツを暗い草原の上に置いた。 「水を持ってこい、水を……」  一人がそんなふうに言うと、もう一人は川の方へ走って行った。残った男は、バケツのふたを大切そうに布で拭《ふ》いたりしながら、それをそっとあけて見ている。私も誘い込まれるように、なかを覗《のぞ》いた。白い内縁に黒いギザギザのものが濡《ぬ》れてべたりと貼《は》りついていて、棕櫚《しゆろ》の葉か何かのようだった。だが、それは棕櫚ではなかった。鯉《こい》の背鰭《せびれ》だった。バケツの中には一|疋《びき》の大きな黒い鯉が「の」の字になって、ぎゅう詰めに詰めこんであり、その背鰭が先ず覗いて見えたのだ。私はドキリとした。鯉は生きており、じっと躯《からだ》を曲げたまま、大きな頭部から突き出した眼玉をギョロっとこちらに向けたように見えたからだ。  私は怖《おそ》ろしかった。なぜ、怖ろしいのか、その理由はわからない。しかし、まるまると肥《ふと》った鯉がその胴腹を無理矢理まげて、バケツの中につっこまれているということは、それだけでも充分に怖ろしいことではないか。私は、急ぎ脚にその場を立ち去りながら、せめてあの男に、この鯉を食うことだけはやめてくれ、と言っておくべきではなかったかと思った。どうせこのへんで獲《と》れる魚は臭くて食えたものではないということだし……。しかし、あのバケツの中にうずくまったままジッと身動きひとつしない鯉の黒い体と眼玉を憶い出すと、いまさら何を言おうと無駄《むだ》だというような、そんな絶対的な孤独と諦念《ていねん》とを全身で示された気がして、すでに暮れ切って闇に沈んだ土堤の方へ、そのまま歩いて行った。  小品集    土佐案内記 『堺《さかい》港|攘夷《じようい》始末』が十六回で中断になったのは全く残念なことに違いない。しかし、こういう仕事を生涯《しようがい》の最後の時まで続けていられたことは、大岡さんは作家として幸福であったと思う。正直のところ私は、大岡さんからこの作品の抱負を聞かされたとき、これほどのスケールのものになるとは思わなかった。せいぜい鴎外の『堺事件』を批判訂正する程度のものかと考えていた。ただ、それにしては取材は随分大掛りなもので、土佐にもたしか二度か三度は行かれたはずである。  あれは昭和五十年、私は父の家系のことを作品にまとめるつもりで、高知市内の民宿に滞留していたが、その宿のそばの川沿いの道で大岡さんにバッタリ出会った。そのときの大岡さんにどの程度、『堺港攘夷始末』の構想があったものか、私は承知しない。但《ただ》し当面、大岡さんの主要な目的は『天誅組《てんちゆうぐみ》』続篇のための取材であって、版元である講談社のK君が随行していた。  晩飯を食いたいのだが何処《どこ》か適当な店は知らないか、とのことなので、私は播磨屋《はりまや》橋のTという入れ込みの店を案内した。といってもそれは文字通りの案内役で、勘定は全部、大岡さんが持って下さった。鯨の尾の身のタタキや、ドロメと称する生の小魚に辛子酢《からしず》をかけたもの、あとは何であったか如何《いか》にも土佐の田舎料理ばかりだったが、大岡さんはご機嫌《きげん》よく、どれもウマいと平らげられた。大岡さんは、すでに十年以上前に産経新聞に『天誅組』の初稿を連載されたときにも土佐で、高岡郡|檮原《ゆすはら》村に吉村|寅太郎《とらたろう》の生家を訪ねたり、当時はめったに人の行かないようなところへも足を運んでおられたから、私などより土佐のことに良く通じているともいえた。ただ高知市内の飲屋や小料理屋のことは、やはり私の方が知っているのである。Tを出たあと、近くのHという飲屋へ入った。中年のおかみが一人でやっている小さな店だが、客は高知大学その他の学校の先生やら新聞記者やらが多く、新宿ゴールデン街あたりの店と変りない感じである。  ところで、そこで大岡さんは客の一人から、堺事件の直後、その場に居合せた誰かが描いたとか言われるスケッチを借りるとか、見せて貰《もら》うとかいう話になった。——いや、こういう場所で居合せた客との間で、この種の話が持ち上っても余りアテには出来ないことが多いので、この話もその後どうなったか、詳しいことは私は知らない。何にしても、こんな話を私が持ち出したのは、当時の大岡さんが高知の街を闊歩《かつぽ》しながら、天誅組だの堺事件だの土佐維新史にまつわる事柄《ことがら》を熱心に語りつづけていた姿が、いかにも彷彿《ほうふつ》と思い浮かんできたからである。  その翌日、私は父の生家に行くことになっていたが、大岡さんは「おれも行く」と言われるので、香美郡山北村のその家にお連れすることになった。高知市から東へ約二〇キロ、自動車なら小一時間の距離だ。ガランとした古い家が立っているだけで、別段お目にかけるものもないところへご案内するのは気が引けたが、大岡さんは、 「おれはどうせヒマだからね」  とおっしゃるのである。  山北村の家には、その頃《ころ》、従兄《いとこ》夫婦と伯母とが住んでいたが、われわれを門のところで出迎えてくれたのは、伯母であった。私は一瞬、これはこまったな、と思った。じつは、その伯母は八十歳を過ぎる頃から急にボケはじめて、その頃では誰の顔を見ても、若い頃に出会った親戚《しんせき》の誰かと間違えるらしく、「おや、兄さん」と、親しげに呼んで、長ながと話しかけるのである。伯母は、まず私の顔を見ると、 「兄さん」  と呼びかけてきたが、つづいて大岡さんを見つけると、すぐそちらの方に寄って、 「おや、兄さん、お久しうございました」  と、ていねいに頭をさげると、しげしげと大岡さんの顔を眺《なが》めて、 「ああ、おまさんは、昔とちっとも変らん……」  と、懐《なつか》しげに話しかけるのである。私はどうしていいか判《わか》らなかった。従兄たちが早く出てきてくれればと思うのだが、彼等は家の中にいて、まだ私たちには気がつかない。しかし、大岡さんは、 「いやあ、どうも、どうも、あなたもちっともお変りない……」  と、落ち着いた様子でにこにこ笑いながら、こちらも旧知のごとくに挨拶《あいさつ》を交されるのである。傍《そば》で眺めながら私は、大岡さんの人柄の好《よ》さというものを改めて感じた。元来、大岡さんはコリアン・クーパーを自称されるほどのハンサムであるが、性格もクーパー的に人の好いところがある。このときも大岡さんは、長身の背をかがめて、まるで自分自身の伯母に向って話しかけるような優しい態度だった。  それから十年ばかりたって、大岡さんは堺事件に本格的に取りかかるために土佐に行き、切腹を許された後、流罪《るざい》となった九人の者が送られた幡多《はた》郡入田村の配所跡など見てまわられた。このときは私の従兄の息子が案内役になったが、大岡さんはすでにかなり体力を失って、かつてのように夜の街を闊歩するわけには行かなかったようだ。しかし昨年、亡《な》くなる半年ばかり前にも、大岡さんは「ぜひもう一度、土佐に取材に行ってこなければ」と言っておられ、それなら私も同行したいと思った。そんなことを憶《おも》うと、『堺港攘夷始末』が完成一歩手前の状態でおわったのは、やはり何とも心残りのすることだ。    瓦解《がかい》  色川武大の死を伝えるジャーナリズムは、�最後の無頼派�と呼んだが、私はむしろ彼の中に�瓦解�をみる。勿論《もちろん》、無頼派は無頼漢ではないし、ゴロツキでもない。それはわかっているのだが、彼の作品を振り返ると、やはりなによりも内心の瓦解の大きさを感じるのである。それは第一作『黒い布』のときからそうだ。戦前の帝国海軍を述べた作品は多いが、海戦の模様をこんなに溌剌《はつらつ》と小気味よく描いたものはめったにない。敵ドイツの通商破壊船を探して日本の駆逐艦が台湾沖から南洋群島の近くまで追って行くのだが、そのとき、≪マストのてっぺんまで黒旗があがる。黒五といって全速の指令だ≫とある。  この一と言で小型艦の速度感がわかるし、先進国ドイツの船を向うにまわして一戦まじえようという乗組全員の戦闘意識が伝わってくるのである。「軍艦マーチ」のシンバルの音が行間に鳴り響くようだ。しかし、そのようにして勇み立った駆逐艦が敵船を発見する前に、休戦の報が伝わって命令一下、全艦は舳先《へさき》を故国の港に向けると、また全速力で帰って行く。≪It's a long way to Tipperary, It's a long way to go, It's a long way to Tipperary where my girl……≫  元退役海軍の老士官は、眼《め》をつむり、誰もいない部屋で、低くゆっくりと最後まで歌う。この老人は色川武大の父親だが、老人にとっての瓦解は必ずしも第二次大戦の敗北によるものではない。退役したのは大正末年の頃《ころ》で、上官と意見が衝突したからだが、瓦解はそのとき彼の内部で起ったとも言えるし、それ以前のことだとも言える。何にしても息子の武大は、そういう父親の心の瓦解をそっくり引き継いでいる。敗戦のまえに中学校を無期停学になり、戦後は学校からの呼び出しもなく、そのまま退学になっている。そこから彼の�無頼�な生活がはじまるわけだが、これを果して無頼と呼ぶべきかどうか。  元来、瓦解は、御一新で幕府が倒れたことを言ったらしい。その後、日本は昭和二十年の敗戦で再び瓦解するのだが、その間わずか七十七年しかたっていないことを案外、人は忘れているのではないか。さらに敗戦の瓦解で私たちが具体的に何を失ったか、いまの人たちには想像もつくまいし、私たちにも伝えようがない。色川氏の自編年譜を見ても、その頃のことは、≪家出同然で各地を徘徊《はいかい》、この間、いつどこで何をしていたか、本人の記憶も混沌《こんとん》、年譜の形に成し得ず≫とあって、皆目わからない。ただ、その間の暮らしの実態が例えば『麻雀《マージヤン》放浪記』に描かれたようなものではなかったことは確かだろう。  無論、『麻雀放浪記』には色川氏の体験がふんだんに盛り込まれているに違いない。しかし、この愉快な小説に登場するアナーキーな人物の性格は、大根は色川氏自身のものであるにしろ、他から借りてきたものもある。例えば親指のほかに指のない李億春のような人物を見れば、誰だってダールの『あなたに似た人』を連想するだろう。これは何も誰かを模倣しているとかいうようなことではない。むしろ無意識のうちに何となく聞きおぼえたフシが鼻歌になって出てくるような自然なものだ。大体、麻雀というもの自体が個人の想像と風俗をかけ合せたような、一種架空な約束事であって、それを主題に小説を書いても作家個人のフィクションといえるものには仲々ならないだろう。  いや私は、別段、色川氏が阿佐田哲也の変名で麻雀小説を書いたり、何年間かそれがつづくと不意に空《むな》しくなって、また色川武大に戻って書き始めたりする理由について、あれこれ言うつもりはない。私が知りたいのは、『怪しい来客簿』などに描かれた戦中戦後の挿話《そうわ》や断片についてであって、そこにこそ彼の抱えこんだ�瓦解�がポッカリと口をあけているように思われる。≪来客というものはおかしなもので、不意の来客はそれほど驚かないが、きまりきった客が何か約束があって私の家を訪れてくるというような場合、なんとなくこちらも身構えるような気分になる。怖いというほどではないが、先方が、電車の吊皮《つりかわ》にぶらさがったり車の中にうずくまったりしながら、一路、私のところをめざしてきている。その姿を思うと、やはり、なんだか怖い。≫  この≪来客≫とは何だろう。客自体は友人であったり、仕事を持ってきてくれたり、要するに優しい人物であるが、そうだとしても彼が真直《まつす》ぐこちらへ向ってくるということのなかに何とも言えぬ恐ろしさがあるという。この薄気味悪い、恐怖とも言えぬ恐怖の感覚は『麻雀放浪記』の人物にはないものだ。いや、先方が電車に乗ったり吊皮にぶら下ったりしながらやってくるのを待つ気持、それは麻雀|牌《パイ》をツモるときの緊張に似ているかもしれない。しかし遊戯の緊張感は、やはり現実の恐怖とは似て非なるものであろう。遊戯は所詮《しよせん》、われわれが好きで自発的におこなうものだが、現実は一路こちらに驀進《ばくしん》してくる何者かである。この≪来客≫という優しい現実を迎える怖さは、何からくるか? 一言でいえば、それは自分の中身の何処《どこ》かが瓦解していることを薄々|乍《なが》らでも感づかされているということだろう。 『怪しい来客簿』は『黒い布』のあと十数年振りに純文学にかえって書いたものだが、その後の色川武大は、殆《ほとん》どみずからを過去の中に埋没させたように、自分と家族、とくに父親との間柄《あいだがら》を粘着力のある筆で書きつづけた。或《ある》いは色川氏は、瓦解を修復するには現実に向い合うほかなく、現実は過去の中にしかないと見定めたのであろうか。そして父親の死を描いた『復活』では、ついに先祖のことが出てくる。ことここにいたるか——、これは色川氏のことではなく、私がみずからを振り返っての思いである。 「この家のご先祖は桓武《かんむ》平氏。よしそうでなくたって、どこの家もそうのように、一代一代さかのぼって遠くどこかの山の猿《さる》まで続いているのだ。お前のような馬鹿《ばか》にもいってきかせてやる」 (略)父は経文を読むように詠《うた》いあげた。 「第十六代、小文治内匠晴元、内匠大膳晴継、内蔵介内匠大膳晴近——」  父の言葉は延々とつづく。十六代まで逆上り、その前が百年ほどあいて、そこから前の名前がぞくぞくと上げられる。これを書く少し前に、色川氏は土佐の山北村の私の父の生家を訪ね、家の墓地も見て来てくれた由《よし》である。そのことを私は比較的最近に知り、どういうことなのかと思ったが、いま彼の作品を読み返してみて、疑問は疑問とも思えぬほどひとりでにとけた。  彼の中の瓦解について語るなら、その最後の長編小説『狂人日記』こそ中心に置いて考えるべきだが、いまはそれについて触れるいとまもない。ただ、一つだけいっておけば、『狂人日記』は決して自滅する作家の作業ではないということだ。    「あめふり」の歌  中野重治は、自伝的小説『梨《なし》の花』のあとがきのなかで、自分はこれを子供のために書いたわけではないが、もし子供が或《あ》る年齢に達したときに読んでくれれば、心からそれを喜びたい、としながら次のようなことを述べている。 ……私は、ある種の童謡などで育つた子供たちとはちがつた環境で育つてきた。たとえば、「あめ、あめ、ふれ、ふれ、かあさんが、蛇《じや》の目《め》でお迎え、うれしいな。ぴち、ぴち、ちやぷ、ちやぷ、らん、らん、らん……」といつたものは私たちのところにはなかつた。かりにそういうものに出くわしたとすれば、私たち子供自身はおかしくなつて弱つただろうと思う。私が、こういう歌と言葉とを非難するのではない。日本の子供の歌は、こういう童謡の創作と音楽とをとおしても大きく発展した。それを私は大切なことに見るけれども、しかも私は、そんな風でない子供の育ち方にも目をむけたく、また人びとにも、子供たち自身にも目を向けてほしいように思つている。……  読みながら私は、この国の近代化がいかに遮二無二《しやにむに》、大急ぎで進められてきたものかといったことを考えた。≪ある種の童謡などで育つた子供≫というのは、要するに大急ぎの近代化の先達をつとめる家庭の子供といった意味であろう。≪こういう歌と言葉とを非難するのではない≫と中野氏は言うが、たしかに歌そのもの、童謡そのものには非難される理由はないし、大急ぎの近代化というものも歴史の過程では避けようのない事柄《ことがら》であったであろう。しかし、そういう童謡をきくと恥ずかしくなってしまうような子供たちも、一方にはたしかにいたに違いないし、彼等にとってはこんな唱歌や童謡を押しつけられることは、何とも不幸な迷惑なことであったにちがいない。  しかし正直なところ私は、これを読むまで、「あめ、あめ、ふれ、ふれ」の歌にそんなに違和感を覚える子供がいるとは知らなかった。中野氏は明治三十五年生れで、私は大正九年生れだから十八歳年下ということになる。その程度の年齢差で、育った環境がどれほど違ってくるものか、これは時代によっても地域によっても、いろいろの較差があって、一言ではなんとも言い兼ねる。ただ、昭和四、五年|頃《ごろ》、青森県|弘前《ひろさき》市の小学校にかよっていた私は、下級生たちが、   ソソラ、ソラ、ソラ   うさぎのダンス……  という歌を合唱していたのを記憶している。当時の弘前は市内の学校でも農家からかよってくる子供が結構多かったことを考えると、すでに全国津々浦々の子供たちが、この手の童謡を恥ずかしがらずに歌っていたといっていいだろう。それは時代からいうと、中野氏が初めて治安維持法で逮捕された頃であるが、おそらくその頃には北陸の村の子供たちも、「うさぎのダンス」を平気で歌っており、もはや『梨の花』の世界もあらかた消えようとしていたのではなかろうか。  ただ、その頃でも地方と東京その他の大都市とが、いまのように平均にならされて、住民の生活程度も同じようになっていたというわけではない。農民の暮らしは別人種のごとく貧しく、都会地でも町方の商家と山の手の官吏や会社員の家とでは、日常の作法や言葉使いがちがっていた。  昭和六年の春、小学五年生になったとき、私は弘前から出てきて東京青山の小学校にかわった。当時の青山は軍人や勤め人の家族が多く住んでいたが、学校へ行くと土地の商店の子供もたくさん来ていた。しかし、その一、二代前は、農家の子供が多かったようだ。大正中頃の校内の会報を見ると、児童の指導要項に、自分のことを「おら」とか「あたい」とか呼んではイケない、また「だんべえ」や「だっぺ」言葉を使ってはならない、といっている。関東大震災の頃までは宮益坂下の川に水車が廻《まわ》っていたというから、青山から渋谷一帯にかけては、まだ農村の風景が残っていたのであろう。無論、私が引っ越してきた頃の青山は、完全に都会の住宅地であって、田園のおもかげは何処《どこ》にもなかった。  小学校の校舎は、明治時代に立ったペンキ塗りの木造で、これがあたりで一番古い建築だったのかもしれない。学校の向い側には、日露戦争のときの軍司令官O大将の屋敷があったが、路傍から見えるのは門柱と塀《へい》ばかりで、奥にどんな家があって、どんな人が住んでいるのか、なかの様子はまったくわからなかった。学校のまわりには、そういう大きな屋敷が、まだいくつもあったように思う。しかし、そんな大きな屋敷にはさまれた塀と塀の合い間には、薄暗い路地があり、そこには道端に接して格子《こうし》の窓辺に万年青《おもと》の鉢《はち》の並んでいるような小さな家が、折り重なるように並んでいた。私の家も、そんな路地奥の二階家だったが、不思議なのは隣近所がくっつき合って立っているのに、よその家が何をやっているのか全然わからなかったことだ。  一度だけ、茶の間の窓をあけると、手の届きそうなところに隣りの家の窓があいていて、黒い僧衣のようなものをきた小母《おば》さんが二人、何かお呪《まじな》いのようなものを唱えながら踊るような恰好《かつこう》をしているのが簾《すだれ》ごしに見えたことがあるが、こちらから子供の私が覗《のぞ》き込んでいると、小母さんが手荒く窓を閉めた。それっきり、二度とその窓が明いているのを見たことがない。  あれは青山五丁目か四丁目か、岡本かの子の『金魚|撩乱《りようらん》』という小説に出てくる養魚池のあったあたりだ、そのへんは土地が谷間のように窪《くぼ》んで、いくらか草深い田舎の感じが残っているようだった。その傍《そば》に銭湯が一軒あって、私は自分の家の近くにも銭湯があったにもかかわらず、ときどきその金魚屋の傍の銭湯にも出掛けた。その頃、東京で一番|好《い》いものは銭湯だといわれており、たしかに弘前の風呂《ふろ》屋と違って、東京のは何処も明るく清潔で、カランを押すと上り湯が迸《ほとばし》るように出てきて、気持がよかった。  弘前と東京では、風呂屋の客の作法もずいぶんちがうようだ。弘前では町の銭湯でも客はまるで温泉場の気分で、体はロクに洗いもせずに何度も湯に浸ったり出たりしたあげく、風呂から上ると今度は着換え場の囲炉裏ばたで相客と鉄瓶《てつびん》の白湯《さゆ》を飲みながら、何時間でも話し込んでいる。それに引きかえ、東京の人は湯に入るのも一生懸命だ。肌《はだ》のチリチリするような熱い湯に好んで入るのが江戸っ子だということは前からよく聞いていたが、私が東京にきて驚いたのは何よりも、全身が真白くなるほど石鹸《せつけん》の泡《あわ》を立てることだ。どうすればあんなに沢山の泡が立つのか、私は子供心に感心し、自分も精一杯、手拭《てぬぐい》に石鹸をなすりつけてみるのだが、なぜか周囲の人のようにウマく泡を立てることが出来なかった……。ところで私は、その日も金魚屋の近くの銭湯で体を洗っていると、眼《め》の前の若い父親らしい人が、じつに巧みに赤ん坊の髪を洗ってやっていた。ぐにゃぐにゃする赤ん坊の首を片手で支え、もう一方の手で湯加減を見ながら、その湯をそろそろと赤ん坊の頭にかける。赤ん坊は泣きもせず、声も立てずに、気持よさそうに眼をつむっている。  その子の父親らしい色白の男の、指のすらりと長い手つきや、あざやかな手捌《てさば》きを私は、呆《あ》っ気《け》にとられる想《おも》いで眺《なが》めていたが、やがて男が赤ん坊の体を洗い終ったとき、さらに驚かされることになった。男は、赤ん坊の体に手桶《ておけ》の湯を何杯か掛けてやったが、それが終ると、 「ほい」  というような声を軽く上げた。すると間髪を入れず、男の細君らしい若い女の人が着物のままで洗い場に入ってくると、さっと赤ん坊を手にしたタオルの中に抱き上げて、 「まア、よかったこと。……ちゃん、奇麗々々にして頂いて」そんなことを言ったかと思うと、着物の裾《すそ》をたくし上げもせず、タイルの床の濡《ぬ》れていないところを拾いながら、器用な足どりで出て行った。  その間、私は殆《ほとん》ど現実の場にいることを忘れて、夢のようにキラビヤカなものが眼の前を通り過ぎていったような心持だった。——ああ、あれはぼくらとは違って仕合せな別世界に住む人たちだ。  そんな想いが、私の胸の中をよぎった。まえにも言ったように、まわりには小学校よりも大きな家も珍しくはなく、塀の中に鬱蒼《うつそう》と樹木をしげらせたような屋敷がたくさんあった。しかし、そんな家に住む人たちが羨《うらや》ましいとは少しも思わない。大体そこに人がいるかどうかさえ、外を通っただけではわからないのだ。いま、私の前にいた若い夫婦は、そんな大きな家に住んでいる人ではない。そのくせ何と私たちとは、大きな隔たりのある人たちなのだろう。彼等の顔立ちは美しく、着ているものも小奇麗だ。しかし、私との隔たりはそんなところにあるのではない。決定的なものは、彼等の一挙一動には生活苦の匂《にお》いのカケラも見えないことなのだ。すなわち、赤ん坊に湯をつかわせても泣かさず、細君は糊《のり》のきいたエプロンに着物のまま風呂場に入ってきても水で濡らしたり汚したりすることはない。——あの人たちは、これから晩ご飯だろう。いったい何を食べるのか? 別段、大したご馳走《ちそう》が並んでいるわけではなくとも、食卓には汚れ目がなく、茶の間の電灯は明るくかがやいているに違いない。私は、それを想像するだけで、羨望《せんぼう》ともつかぬ或る悩ましさに胸が重くなるようだった。  そんなことがあって後、私は何となく金魚の養魚池の傍の銭湯には行かなくなった。初夏が過ぎ、夏になり、秋が深まった。私は、東京での生活にかなり慣れてきたはずだ。しかし青山南町の青南小学校には、一向になじめなかった。教室内の様子が、弘前の学校やそのまえの朝鮮京城の小学校とも違って、何となく冷たくヨソヨソしく、勉強をする気にはさらになれず、ついに二学期がはじまって間もなくの頃から、私はズル休みばかりするようになった。  最近は、新聞などにも登校拒否児童のことが出て、心理学者か精神科医、文化人などが社会問題として論じたりしているが、私の頃にはそんな子は単に不良少年とか不良の卵とか呼ばれて、罪はもっぱらその子供自身の不良性にあると言われていたようだ。いや現在でも私は、自分に関してはズル休みを社会のせいだと考えるよりも自身の性格の弱さだと考えている。ただ、その頃でもズル休みの常習児童は案外多く、それを思うと必ずしも個々の子供の責任とばかりは言えない気もする。それに一と口にズル休みといっても、その休み方は千差万別で、例えば鶴見俊輔氏は学校へ行くフリをして家を出ると、親に隠れて見知らぬ町々を歩きまわった、それで東京の旧市内なら殆ど知らないところはないほどになったという。また色川武大氏にいたっては、小学生の分際で学校を抜け出しては、浅草六区をうろつきまわり、レビュー館の楽屋にもぐりこんで、踊り子たちに可愛《かわい》がられていた由《よし》である。私には、この両氏のような豪放なサボリかたはできなかった。  学校がイヤというより、宿題をやるのがイヤで、また宿題をやらずに学校へ行っても、教室で立たされるだけで勉強には何の役にも立たない。それでついに学校を休むことになる、しかも一度休むと学校へはますます行きにくくなるので結局、毎日学校へ出掛けるフリをしては、青山墓地で弁当を食って帰るといった仕儀になった。ムレからはなれた放れザルは、いつも一定の距離を置いてグループから見え隠れしながら、絶えずもといたムレに戻り得るごとく行動するというが、私の場合、まさにそのサルにそっくりの心境で、サボるといってもあまり遠くへは行けないのである。むしろ発覚する危険があるのを知りながら、わざと学校のそばまで近づいては、またこそこそと逃げてくるといった、いかにも無意味な姑息《こそく》なことを繰り返していた。  あれは、すでに晩秋であったかと思うが、どんよりと曇ったツユどきのような日であった。その日も私は、家から真直《まつす》ぐ青山墓地へ行ったのに、わざわざ学校の方へ引き返して、校門の前の通りを高樹《たかぎ》町の方へ歩き、そこからまた右へ廻って、人通りのない横丁に折れた。すると、か細い声で、あの「あめふり」の歌がきこえてくるのだ。   あらあら、あの子はずぶぬれだ   柳の根方で泣いている……  私は、思わず足をとめた。そして歌声が、すぐ傍のマサキの垣根《かきね》ごしにきこえてくるのを聴きつけて、はっとした。若いお嫁さん風の人が、物干しに洗濯物《せんたくもの》を干している。ただ、それだけのことだ。そのお嫁さんは、いつか金魚屋の近くの銭湯で、若い主人が洗い上げた赤ん坊を受けとりに入ってきたあの人とはまた別人だ。しかし、この二人には何かしら共通のものが流れていそうだった。何だろう、それは……。   きみ、きみ、この傘《かさ》、さし給《たま》え   ぼくならいいんだ、母さんの   大きな蛇の目に入ってく…… 『梨の花』について中野氏は≪ある地方の農村の、ある階層に生まれた一人の男の子供がどんなふうに人となつて行くか、それを、小学校一年生あたりから中学校一年生あたりへかけて描いたものである≫として≪時代でいえば、それは明治の終りから大正の初めへかけてのそれである。日露戦役のあと、韓国合併を経て、やがて第一次世界大戦へかかつて行く時期である≫と述べている。もっと言えば、それは右の地方の右の時代に育った一人の少年の感受性の生成を語ったものということになるだろう。ところで私が、昭和六年(満州事変の起った年だ)の晩秋、青山の裏通りで見掛けた若妻らしい人の年齢を推測すると、だいたい明治の終りか大正の初めの頃に生れた、つまり『梨の花』の主人公より十歳ばかり年下の人かと思われる。その女性が「あめふり」の歌を何の抵抗もなしに、口をついて呟《つぶや》くように唱《うた》っていたことを考えると、私はこの十歳という年齢差のなかに、この国の激しい時の流れといったものが、今更ながらまざまざと想い浮かんでくるのだ。  私自身は勿論《もちろん》「ぴち、ぴち、ちゃぷ、ちゃぷ、らん、らん、らん」といった歌をきいても恥ずかしいとも何とも思わない、そういう感受性に育っている。しかし、秋も深い曇り日に、若い人妻がこの歌を口ずさみながら、濡れた洗濯物を物干し竿《ざお》にかけている姿を見ると、私は子供なりに或る新しい世代を感じたにちがいない。と同時に、小学校五年生の自分がズル休みばかりしていて、将来はどうなるだろうと考えると、何ともつかぬ不安と空恐ろしさに襲われて足早やにその場を立ち去った。    地鳴り  選挙の翌々日であった。  私は、雑誌の原稿を書き上げて、階下の電話のある部屋へ行き、受話器を取ろうとしかけて、ふと見ると食卓の上にカステラの切ったのが庖丁《ほうちよう》も添えたまま置いてある。私は、それを見ると食欲とは無関係に、食わなくてはならぬという心持が条件反射的に起って、手を出そうとする瞬間、縦に切ったカステラがゆらりと揺れた。ガラス戸の外を見ると、庭の植木も揺れている。  いやだな、と私は思った。きょうは朝から雨もよいで、二月だというのに、季節はずれに蒸し暑い。こういう日は、えてして耳が詰って目舞いがしてくるのである。もう、目の前で揺れているカステラなんか食う気にはなれない。黄色い卵のいろが無気味であった。とにかく原稿は出来ているのだから、そのことだけでも出版社に知らせておこうと、ダイヤルを廻《まわ》した。すると、いつもなら泰然自若と職業的な声で、「○△書店でございます」とこたえるはずの受附の女の人が、 「アア、揺れています。そちらは、アノ、おたくさまは大丈夫でございますか」  という。その声で、私は初めていま地震がしていることを知った。そして、地震なら安心だ、メニュエル氏病の目舞いでなけりゃ結構だと思った。私の年代の者は、子供の頃《ころ》から関東大震災の話をさんざん聞かされてきたせいもあって、地震はそれほど怖《おそ》れない傾向がある。私の先輩の一人は、震災のとき、神田のミルクホールで好物のライスカレーを食っていた。すると、そのライスカレーの皿がイキナリ眼《め》の前で宙に浮いた。どうしたんだろう、と思う暇もなく気がついたときには、自分は片手にライスカレーのスプーンを握りしめたまま、店の前の道路に放《ほう》り出されていたという。しかも、彼が立ち上って先《ま》ず考えたのは、これから友達の家へ行ってレコードを聞かせて貰《もら》おうということであった由《よし》。つまり、関東大震災ぐらいの規模の地震になると、グラグラと壁や天井が揺れてきて、逃げ出そう、などと言っている余裕はないのだろう。藤田東湖は安政二年の地震のとき、落ちてきた梁《はり》に頭を打《ぶ》つけて死んだといわれるが、これだって一瞬のうちの出来事だったにちがいない。  そう考えると、地震が来たからといって脅《おび》えたってはじまらない。無論、棚《たな》の上のものが落ちてくるようなら、用心しなければならないが、揺れてくるのがわかっていても、立っていられるようなら、まア大抵は大丈夫なのだろう。将来、地震の予知というものも、現在の天気予報の程度には可能になるかもしれないが、それでも震度六とか七とかの地震が、何年何月何日の何時頃、関東地方の何処《どこ》そこへくるというほどの正確な予報が可能になるとは思われない。おそらくは、来るぞ来るぞ、といわれては何度も肩すかしをくわされるうち、或《あ》る日、突然ドカンと本物の地震に襲われるといった仕儀になるのではないか。  つまり、地殻《ちかく》変動とかいわれるものは、気象状況などと違って、地の底で起ることだから、それだけでも予知はムツカしいだろうが、場所や日時の限定ができず、単にいつかは何処かで必ず起るというだけでは、いたずらに人心を不安に陥《おとしい》れるだけで何の意味もない。むしろ予知などしてくれない方がいいのである。にもかかわらず、私たちのなかには地震を何とか予知したいという気持は抑え難くある。危険を避けたいということもだが、怕《こわ》いもの見たさというような想《おも》いもある。  実際、地震が何で怕いのか? 自分の立っている地面の揺れてくることの不安や不快さは、端的にわれわれの生存の根源にかかわる事柄《ことがら》なのであって、いくら理論や理屈で説明してもらっても解決のつく問題とは思われない。世の中にはカミナリを無闇《むやみ》に怖れる人がいるが、これも同じようなことなのだろう。「命が惜しいのと雷さまがこはいのとは必ずしも一つには云《い》はれない」と内田|百※[#「門がまえ」+「月」]《ひやつけん》は言っている。空襲の恐しいのは命が惜しいからだが、雷さまが怕いのは「何千年だか何万年だかの先祖からずつと代々恐れて来た恐怖感が続いてゐる」ためだというのである。  百※[#「門がまえ」+「月」]はカミナリの音がどろどろと腹の底に響くように鳴りはじめると、必ず上厠《じようし》したくなり、何べんでも厠《かわや》に飛び込んだというが、地震のときに一般の木造家屋で一番安全な場所は便所の中だ、と地震学者が言っていた。そういうことから考えると、地震とカミナリとは科学的にもどこか関連があるのかもしれない。  その日の地震はかなり長く続いたが、一と通り揺れの納ったところで、私は散歩に出た。午前中いっぱい降ったり止《や》んだりしていた雨は、どうやら上ったらしく、西の空は曇り日ながら、やや明るみが射《さ》している。れいによって足は多摩の堤に向う。  堤の上から、河川敷の内側を眺《なが》めたが人ッ子ひとりいない。生温い風が、重く、しめっぽく吹きつけてくる。ふだんは老人の男女が入り乱れてゲート・ボールをやっている広場にも、人影は見えない。川の傍《そば》まで行くと、葦《あし》やススキや笹《ささ》などが繁《しげ》っている。笹だけは青いが、他はみんな茶色く枯れている。私は、その枯れた茎をポキポキと折りながら歩く。ススキの繁みの隙《す》き間《ま》から、川の水が光って見える。ススキを分けて進むうち、足許《あしもと》の崖《がけ》の下の川のなかに毀《こわ》れたスクーターが一台、突き落してあった。別段、珍しくもないことだが、こんなところまでスクーターでやってきて、乗り捨てて行く人間の気が知れない。  このへんまでくると川は突然、幅が広くなり、川というより沼のように見える。向う岸には、ドロヤナギの木が痩《や》せた枝を垂らしており、一見、中国の風景を想《おも》わせる。しかし今日は、その眺めに妙に険がある。ふだんは茫洋《ぼうよう》として平らな水面に、なぜかチカチカと三角波のようなものが光っている。空は曇って重くたれこめているのに、何処からか日がこぼれているのだろうか。それとも、この小さな険のある波は地震の余波のようなものだろうか。私は、なぜか不意に社会党委員長のD女史の顔を憶《おも》い浮かべた。選挙のあいだ、「山が動きます」と彼女は言いつづけてきたが、終ってみるとこんども、自民党のバカ勝ちであった。  私は、べつにそのことで失望も安心もしていない。ただ、すべてのカラクリはわかっているのに、誰もが黙って何も言わないのがヘンな気がするだけだ。テレビをつけると、早口にいろいろまくし立てる人もいる。しかし、それも結局は芝居なのだろう。私は口の中で何やらブツブツ言いながら歩いた。「山が動きます」などと、そんな文句をいまの世の中で一体、誰がおもいつくのだろうと思った。与野党の政権交代ぐらいのことで、いちいち山が動いてはたまらない。そんな大袈裟《おおげさ》なことは言わなくても、野党がちゃんとシッカリしていれば、いつでもヤマは崩れるだろうに……。  気がつくと私は、家のそばまで帰っていた。ふと見ると目の前に、耳の長い、脚の短い犬が一匹、前脚《まえあし》を揃《そろ》えてしゃがみこんで、私の顔をジッと見上げている。犬は、何ごとか思い悩むかの如《ごと》く頭のてっぺんに縦ジワを三、四本よせている。私は余程大きな声でひとりごとをしゃべりながら歩いていたのだろうか? それとも、さっきの地震で脅えるあまり、この犬は頭にこんなシワをよせたまま坐《すわ》りこんでいたのだろうか。犬の顔を見ているうちに、不意に地鳴りが耳の中で響いてくるようで、私は急いでその場をはなれた。  翌日の新聞によると、この日の地震は震度四、何でも芝浦岸壁のあたりでは地震後、海上にこの季節には珍しく美しい虹《にじ》が見えたとある。  あとがき  ここに収めたのは、六編の短編小説と四編の随筆(小品文)である。しかし、これらの文章の中でも、どれを小説に、どれを随筆に分けていいか、私自身、判断をつけかねている。小説として読めば読めないこともないが、作者個人の思い出、ないしは雑感として読んで貰《もら》っても結構である。  勿論《もちろん》、こういう結果になったのは主として私の物臭のためである。しかし文学を、いちいち小説とか随筆とかに分類することにどれほどの意義があるか、そういう疑念が私の中で年毎《としごと》に強くなっていることも、またたしかである。 ……自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまゝ材料にしたものや、さうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない。(略)ちよつと最初の五六行へ眼《め》を通して見て、「ハハア自分の身辺のことを書いてゐるな」と気が付くと、もうそれつきり直《す》ぐイヤになる。個人的|乃至《ないし》は楽屋的興味の為《た》めに見ることはあるが、さうでなく、身辺雑事や作家の経験をもとにしたもので、イヤ気《き》にならずに、どん/″\引き摺《ず》つて行かれるやうな作品はめつたにない。……  谷崎潤一郎は『饒舌《じようぜつ》録』の中でこんなことを言っている。私も五、六十年の昔、学生時代にこれを読んで、その説に大いに共鳴した覚えがある。当時は戦時下で、生活物資も乏しく、言論思想の統制もきびしかったから、せめて小説ぐらいは豊かな夢を見せて貰って愉《たの》しく読めるものが欲しいと思っていた。いや、いまだって現実のウサを忘れさせてくれるような、架空の面白い小説があれば読みたい気は大いにある。しかし、じつのところ架空を描いて飽きさせず、食いつきやすい要素を持った小説は、そうめったにはないのである。実際、谷崎氏の書いたものでも虚構の面白さを縦横に発揮したといえるのは『武州公秘話』その他、それ程多くはないのではないか。もっとも私は、つい二、三十年前まで谷崎氏の例えば『吉野葛《よしのくず》』のような小説を、かなり私小説的な物語として読んでいたことを告白しなくてはならない。  たしかに、よく考えてみれば『吉野葛』は、骨の髄まで架空な虚構小説であるにちがいない。それでもなお私は、あの小説の紀行文や随筆の要素で支えられたところが多いことを否定する気にはなれないのである。敗《ま》け惜しみで言うのではないが、私はあの小説で吉野の奥の旧家にまつわる様々の珍しい話は殆《ほとん》ど忘れているのに、そこで振る舞われたずくし(熟柿《じゆくし》)の「日に透かすと|琅※[#「王」+「干」]《らうかん》の珠《たま》のやうに美しい」ことは、一度読んだら頭からはなれないし、今後もけして忘れようとは思わない。結局、私にとって文学とは、小説であれ随筆であれ、いかなる奇想天外の構想よりも、文章のうま味に在るものと思われる。 一九九一年七月一日                    安岡章太郎 平成六年十月新潮文庫版が刊行